[#表紙(表紙.jpg)] 十二人の剣豪 五味康祐 目 次  曲 淵 主 従  赤褌の勘兵衛  剣術者佐々道休  籤の太郎左衛門  咽 仏 玄 蕃  腰抜け外記  山伏と彦丸  勘左衛門の切腹  さぁての勘解由  逆臣伊丹求馬  米 噛 十 内  縁切り久兵衛 [#改ページ]   曲《まがり》 淵《ぶち》 主 従     一  正徳三年二月廿二日タベ、七ツ時に、老中土屋相模守用人より切紙《きりかみ》を以《もつ》て、麻布かわらけ町青木甲斐守屋敷へ「即刻、助役|罷《まか》り出づべき旨」の通達があった。 「御預けの者|有之《これあり》候間|書附《かきつけ》之通り家来松野|壱岐守《いきのかみ》屋敷前へ之を出置き、評定所より案内次第|請取《うけと》らるべく候    (別紙書付)       ○ 覚  一、騎馬    二人  一、侍     十人  一、足軽    十四、五人  一、乗物    壱挺        但|網《あみ》懸け候事無用」  青木甲斐守屋敷では取りあえず右の切紙受取候|旨《むね》を、助役を以て老中へ持参させ、すぐさま預り人を置く座敷の見立て、用意の品々、掛り役人などを相定めてから、請取りの人数を揃えて町奉行松野壱岐守屋敷前に赴いた。既に四ツ時(夜十時頃)だった。  程なく、奉行所より差図があり、評定所に案内され、ここで、預り人を受取った。咎人《とがにん》は曲淵下野守《まがりぶちしもつけのかみ》であった。青木家の面々これにはあっと声をのんだが、公けの席上ゆえ動揺をあらわすわけにはゆかない。評定所より寺社奉行安藤右京|亮《すけ》、大目付横田備中守、勘定奉行平岩若狭守、目付平岡市右衛門らが出席している。「慥《たしか》にお預り仕り候」と星野門太夫が代表で挨拶して、預り人を乗物にのせ、夜道を一散に土器《かわらけ》町へ舁《か》き帰った。  このあと早速、青木甲斐守の名で、 「拙者え御預|被成《なされ》候曲淵下野守、評定所に於て請取り途中異儀無く居屋敷え引取申候  右御届けの為使者を以て申上候以上」と老中すじへ使者を遣わしてから、翌二十三日朝、同じく老中土屋相模守の登城前に口上を以て、 「私えお預けなされ候曲淵下野守儀昨夜居屋敷え引取申候。御用を仰せつけ下され有難く存じ奉り候。右御礼を申上ぐべくお伺い仕候」  と礼を述べ、併せて、 「私儀登城の節は出仕いかが仕るべく候|哉《や》」  と伺いを出した。これに対しては、 「出仕あるべく候」  との達しが来た。更に左の書面を箇条書きに差出したところ、同日、夕刻になって返事が届けられた。    箇条書 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一 御預人曲淵下野守え朝夕料理いかが仕るべき哉、并《ならび》に酒望み候わば出し申すべき哉    〔随分軽ク致サルベク候、酒ヲ給サレ候儀無用ニ候〕  一 多葉粉《たばこ》望み候わば出し申す可《べ》き哉    〔無用ニ候〕  一 病気の節他医師の薬用い申すべき哉  一 鍼治望み候わば如何仕るべき哉    〔手医師ノ薬用イ申サルベク候針治用イズテハ相成難キ節ハ手医師ノ療治致サルベク候〕  一 大事の節退場之事    〔見届ケ退キ申サルベク候〕  一 髪結い候節|鋏 用可申哉《はさみもちいもうすべきや》    〔鋏遣ニ候儀ハ無用ニ候家来エ髪結ワセラレ候儀ハ勝手次第〕  一 毛抜望候わば相渡可申哉    〔無用ニ候〕  一 扇子楊子出し申しべき哉    〔無用に候〕  一 行水入湯望み候わば如何はからい申すべき哉    〔望ミ候ワバ入湯ハ不苦《くるしからず》〕  一 爪取度き旨申し候わば如何仕るべき哉    〔無用ニ候〕 [#ここで字下げ終わり]  凡《およ》そしきたり通りの扱いである。青木家では(青木甲斐守は播州浅田一万石の領主であった)右の趣きを守り、麁相《そそう》のないように応接した。しかし相手が相手なので家中一統、ともすれば下野守の挙動に無関心では居られなかった。  下野守は将軍家御|扈従《こじゆう》衆を勤めて知行千三百五十石。記憶力のよいのと、早口なのを除けば、さして人目に立たぬ、どちらかといえば温厚な人物である。茶湯に多年心を寄せ、あるいは庭前に窯《かま》を築いて自ら工夫を凝らして陶器を焼き、画工に絵を命ずるにも自身に模本《もほん》を画き示すほどの、謂《い》わば風流の士である。それが新役といって先年、初めて江戸城の詰所へ出た時に先輩格の青木甲斐守から、ちょっとした不快の扱いを享《う》けたことがあった。  だいたい、初出仕をして詰所へ出た時は、三日の間は手を畳へ置き肱《ひじ》を突いたきりで猥《みだ》りに顔を上げることが出来ない。詰所には茶盆と火鉢があるが火鉢に火はなく、煙草をのむ時はカチカチと燧石《ひうち》でやる。新役はまた古参の弁当の給仕をしなければならず、自分の弁当は早く喰って跡片附けをするので、煙草も先輩格から許されねばのむことは出来ない。役目を勤めるといっても将軍出座の折に扈従すればよいので、格別むつかしい役目があるわけではないから古参の受けを良くさえ努めておればよかった。その新役の五日後に、偶々《たまたま》、甲斐守の面前を走り抜けたというので罵言《ばげん》を浴びたのである。  下野守は即座に平伏して、 「何とも申し訳がござらぬ」  一言詫びたきり、あとは何と面罵されようと巌《いわお》の如く跪坐《きざ》して面をあげなかった。余りにその沈黙は深く、且つ頑《かたくな》なので遺恨を含むかと惧《おそ》れた古参のひとり中根大隅守が仲裁に入り、その場は斂《おさ》まったが、何となく以来、甲斐守へ意趣を懐く様子なりと風評が立ち、老職土屋相模守の謀《はか》らいで甲斐守は職をゆるされ朝散太夫となった。以来四年経つ。  しかるに土屋相模守は将軍家より紅裏《べにうら》の服を着することを免《ゆる》された程の極老だが、兼ねて下野守|景衡《かげひら》には好意的との噂《うわさ》があり、そこで故意に預り役を主君青木甲斐守に仰せつけられたのであるまいかと、家中の面々は恠《あやし》んだのである。相変らず曲淵の家士の中にはとかく青木家の士に反目の色を示す気配があったからである。  もっとも、甲斐守が下野守に辛《つら》く当ったのには、それだけの理由があった。     二  青木邸に下野守が預けられて二日目、曲淵家の家来川窪北右衛門なる士が主君に対面を願い出て来た。口上を以て家士の対面差構いなき旨を、請取りの当日、大目付より申し渡されてある。拒否すべき筋はない。しかし川窪北右衛門と聞いて取次の侍は色めき立った。川窪の居合術は夙《つと》に知られていたからである。 「順序をふんでの対面願いとあれば、已《や》むをえまい。通せ」  重役関五太夫は渋面で言った。「但《ただ》し、預り人座敷以外には一歩も出してはならんぞ。よいな」  取次は「ハッ」と答え、玄関に引返して川窪を下野守の座敷に案内する。評判の朱鞘《しゆざや》を玄関わきの刀架に預けると、上下《かみしも》に脇差のみで北右衛門は従容《しようよう》と主君の座敷に通った。時に北右衛門三十二歳であった。常に三尺余の朱鞘の大刀を帯しているのが、ある時、有章公(将軍家継。当時五歳)の眼にとまり赤|蜻蛉《とんぼ》との上意あり。川窪の朱鞘といえば武辺好きの旗本の間で賞揚されていた。見かけは併《しか》し、主君同様に柔和で挙動の控え目な人物だった。 「お変りもなき御様子、北右衛門恐悦に存じまする」  座敷に入ると下野守の御前数尺のところに、ぴたりと正坐して川窪は意味深い眼差で、じっと主君を見上げた。 「家中の者変りはないか」  身柄預りといってもほんの些細《ささい》な科《とが》である。下野守は至って元気|溢《あふ》れる容子で、目に微笑《わらい》を含み、 「暇《ひま》にあかせて茶|杓《しやく》でも作ろうかと存じておったがな。小刀《こがたな》はおろか鋏《はさみ》も持たせてはくれん。矢張り窮屈なものよ。第一、退屈でいかん」 「——」 「時に、四谷へは参ってくれたか」  言って、急にツト視線をそらし「今年で、四年になるかな……」低くつぶやいた。 「との」  すかさず北右衛門は言った。 「御老中土屋相模守さま御内示では、後ひと月も致さばお赦《ゆる》しが下されようかと」 「それを申しに参ったのか」 「?……」 「よい。そのことなら身共は一向気にしてはおらん。当家では何かといらぬ肚《はら》をさぐっておるようじゃがな……退屈でさえなくば、のんびり致して此の境涯も悪くはないわ」  言うと、眼を戻し、 「四谷のことは気にいたすなよ」  と、わらった。四谷栄林寺には於千賀《おちか》の骸《なきがら》が葬《ほうむ》ってある。幼少の頃より実の兄弟の如く成人した主従である。下野守が一つ年下の三十一。言わずとも心から心へ一気に通い合うものがあった。  北右衛門は併し、眉ひとつ動かさず、 「何のことを仰せやら、拙者には、とんと」 「——そうか。分らねばそれもよいわ」  下野守は直ぐ話題をかえた。 「三番丁は変りはないか」 「此の度の仕置、いたく心を痛められておる様子にござりまするが、御躰《おからだ》は至って御健勝のように拝察いたしたと」 「爺《じい》が往《い》ったのか」 「は。当屋敷にお預けの次第、すぐさまお報《し》らせに罷《まか》り越したる由にござりまする」  三番丁には下野守の兄曲淵庄蔵|正房《まさふさ》が小普請(無役)で徒食している。廩米《りんまい》三百俵の小身である。しかも兄庄蔵は正嫡《せいちやく》で下野守は庶腹の子だった。それが、弟は千三百五十石、兄はわずかの三百俵取り。この不自然さが実は青木甲斐守をして、殊更に新役の下野守へ罵言を浴びさせる因ともなった。  庄蔵正房は兄弟の父・曲淵惣兵衛がその妻(阿部伊勢守家臣安藤大蔵定昌の女《むすめ》)に産ませた嫡男で、弟と同じく、はじめは桜田の館に於て文昭院殿(六代将軍|家宣《いえのぶ》)に仕え、宝永元年家宣が西の丸に入るに従って西城表火の番に列し、この時より廩米三百俵を賜った。下野守(当時杢之助)も当時は同じ西の丸小姓で廩米三百俵だった。それが翌年には、早くも杢之助は二百五十俵の加恩あり、のち廩米を采地《さいち》にあらためられ、常陸国|真壁《まかべ》郡に於て五百五十石を知行した。異数の出世である。  元来、兄弟の父惣兵衛は剛気の武士で、且つ飄逸《ひよういつ》味あり、ある時、さる町の店先で口論あり、相手は鳶《とび》の者の強気な男だったから却々《なかなか》諸人の手に合わず、人をはせて惣兵衛に告げた。惣兵衛すみやかにその処に来て見れば鳶の男は夜叉《やしや》の如き体《たい》である。惣兵衛は意ともせずオノレ憎き奴かな、早々立去るべし、と言いながら鳶の者の手首を掴んでねじつけたので、さしも強剛と見えた鳶、あいたあいたと言うままに地上にねじ伏せられた。惣兵衛はやがて懐中より煙草づつを出し(此の頃は裂《きれ》の長い煙草筒を縫い上を結ぶ習いだった)手を縛りつけて引きずって町役人に「此の野郎を町外に連れ行き縛を解いて追放すべし」と言って帰った。見る者皆|駭《おどろ》き入り、さすがは御|直参《じきさん》かな、年すでに六十に及ぶと見えるにかかる夜叉を自在に扱いなされる底力よ、と感嘆せぬ者なかったが、後、竊《ひそか》に聞くに口論の起りは僅か一分金を貸すか貸さぬかの出入りだったという。そこで惣兵衛は金二分を密《ひそか》に持ち往き鳶の手首を掴むときに持添えてねじ上げたので一言に及ばず男は自由にせられたと。 「何の。あような下種《げす》に武術の程見せるも大人気《おとなげ》ないわい」  そう嘯《うそぶ》いたという。  そんな惣兵衛の、庄蔵は長男だったが、粗暴の点のみ似て、機智を継がなかった。江戸城西丸の玄関前に、もと伏見城の焼余を引移した多門がある。曾《かつ》てこの多門の上で徳川の家臣鳥井彦右衛門元忠が生害した跡あり、正しく見た者の言では、その上の間の方は書院番頭の詰所で、これを|さわらず《ヽヽヽヽ》の柱と唱え、すなわち元忠自害のとき此の柱に倚《よ》りかかって腹を切ったので、今にその精爽のこり、人倚るときは変ありと伝える。庄蔵は一日、この伝説をあざけって自ら背を凭《もた》れさせ「変あらば出でよ」と喚《わめ》いた。  また弟下野守の嗜《たしな》みを蔑《さげす》んでか、自らも茶器を求めて客中の間に当てたが、その品粗悪をきわめ、なかんずく水さしの水を度々かえるは煩《わずらわ》しいと、僕《しもべ》に命じて大いなる水瓶《みずがめ》を銭三百文で買って来させ、これを炉辺に置いてその瓶に、不性《ぶしよう》者と銘題した。そんな武士である。  嫡男なら、それでも家督を継ぐ。子を知るは親に如《し》かずというか、惣兵衛は泰平の世に庄蔵の気骨は却って家を亡すのを憂え、庶腹の杢之助を養子扱いとして分家をさせた。  一方、不肖《ふしよう》の忰《せがれ》ほど可愛い譬《たと》えで、惣兵衛は死の寸前まで下野守にひそかに兄に落度あらば、つぐない呉れよと枕頭《ちんとう》で訓《さと》したという。     三  兄弟がまだ少年の頃に、揃《そろ》って凧《たこ》を揚げたことがあった。  当時は毎春、風鳶の戯れを楽しむのが武士の忰の何よりの遊びで、その頃の曲淵宅は鍛冶橋に在った。南は松平土佐守屋敷、北は松平越後守邸で、土佐守の嫡男、越後守の末弟などと鼎峙《ていじ》して夫々《それぞれ》に盛事を尽した。互いの凧が絡《から》み合った時などはお附きの小姓ばかりではなく家中の若侍までが集まり来て、力をあわせ必死の気勢で隣家の子息に奪われまいと争うので、迚《とて》も子供の遊びとは見えず、一春の間は人狂するが如くだった。  又その凧も、大なのは紙数百枚を貼り、糸の太さも拇指《おやゆび》ほどあって風に乗り上る時は、丈夫《じようふ》七、八人が手に革を纏《まと》い力を極めて、ようやく引留める程だった。さてある年、土佐邸では流石《さすが》に大家のことゆえ銀扇、朱扇|凡《およ》そ三百|許《ばか》りをつなぎ合せた美事なのを揚げた。越後邸ではこれに負けじと極彩色の閻魔《えんま》大王を風に乗せた。曲淵兄弟は口惜しくて堪らない。楼上より遠眺すれば四方満眼、天晴風和する日和《ひより》に大小さまざまの美事な凧の揚がっているのを見ては猶更《なおさら》である。  するとこの時、ひそかに土佐、越後両邸の模様を爾前《じぜん》に偸《ぬす》み見てきてあったらしいお附きの北右衛門(当時亀之助)が少年杢之助に向って、 「若殿、明日をお待ち下さりませい。明日なれば」  と言った。翌朝、亀之助の持出したのを見れば長さ頭より尾まで邸の半ばはあろうかという大|鯰《なまず》だった。奇巧を尽した之を揚げると|ひげ《ヽヽ》に用いた銅線はびょうびょうと風を截《き》って鳴り、その妙音、天に余韻《よいん》して四海を制覇するばかりだった。  兄弟は狂喜した。 「俺に藉《か》せ」  独占欲は少年の常だろう。庄蔵が弟の手から糸を独り占めに奪い取ろうとする。さなくても腕白な兄である。杢之助とて独占したい気に変りはないまだ幼年であった。 「いやじゃ」  と言った。 「何」  屹乎《きつ》と振向き、「おのれは兄に楯《たて》突くか。そうか。許さんぞ」言うなり手を離したのである。むろん屋根の下では家来が糸の元を抑えていた。併し庄蔵の体重で辛うじて保たれていたのが、忽《たちま》ち杢之助は中天に引き上げられそうになり長屋の屋上を滑った。  すかさず亀之助は、 「若殿、惜しくはござらぬぞ」一声して、跳び上り、脇差を抜くやパッと糸を截った。凧は空《むな》しく大空に飛び流れ、亀之助は跳躍の勢い余って屋根から転落した。 「おぬし末恐ろしい家来をもったぞ」庄蔵は青ざめて、後で弟に詰《なじ》ったという。  ——その頃からの、主従である。     四  川窪北右衛門が半刻あまり後、何事もなく下野守の座敷を辞去してから、関五太夫は私《ひそか》に前《さき》の取次を呼寄せ、 「いかような様子であったか」と問うた。 「別儀なく、至極おだやかに話し込んでおられたように見受けまする」 「何の話を致しておったな?」 「よくは判じ兼ねましたが、一両度、四谷栄林寺とやらが話題に」 「栄林寺?——」  忽ち五太夫の顔色があらたまり、「しかと栄林寺と申したのじゃな?」  念をおすと、蹌踉《そうろう》と座を立ち主君青木甲斐守に目通りを願い出た。五太夫の居宅は同じ邸内に在るが、物頭ともなれば一軒建てで玄関構えの家に住んでいる。  主君甲斐守は恰度《ちようど》昼餐《ちゆうさん》を採っていた。 「火急に耳に入れたき儀とは、何じゃ」  休息の間にあらわれて、着座すると言った。 「殿、とのは四年前の曲淵庄蔵が住居にて、千賀とか申す女の哀れな最期を御記憶なされておりましょうや」  五太夫は早速に切り出す。 「千賀?………よく覚えぬが」  五太夫の態度が余りせき込んでいるので、 「下野守このたびの不始末に関りある儀か」  誘い込まれ真顔になると、 「さようではござりませぬが、殿|御贔屓《ごひいき》の曲淵庄蔵が小普請役にて|ひっそく《ヽヽヽヽ》の仔細、どうやら理由が」 「五太夫、おれはもう庄蔵を特に贔屓になぞいたしておらぬぞ。今時、左様の申し方は迷惑。預り人を仰せつけられたる役目の手前もあろう。その儀は、申すな」 「御尤《ごもつと》もながら」  五太夫は真剣な眼で、一膝進んだ。     五  曲淵下野守が、子供のころ隣邸の子息と凧揚げを競った時分、隣邸の松平土佐守の留守居役に、生田権右衛門という人があった。  なかなかのキレ者で、役儀も出精して勤めたが、遊所にも度々遊び、江戸・大坂ともに人に知られた士《さむらい》で、土佐へ大坂より出立の時は、新町の傾城《けいせい》残らず船まで送り、酒宴に及んで別れをなすのが恒例になったという。しかる処、中年の後耳聞えずなって、首尾よく御暇をたまわり、国隠居をした。これは寔《まこと》の|つんぼ《ヽヽヽ》に非ず、つくり病なる由、退くべき時を知りて斯《か》く謀《はか》らいしならん、かしこきわざなりと人々は囁《ささや》き合った。  この生田権右衛門に、隠居の前年さる女中に孕《はら》ませた娘が一人あった。晩年に儲《もう》けたむすめだけに不愍《ふびん》もかかり、可愛くもあったろうが国隠居をするからは土佐へ連れ戻ることもならず、江戸表の、日頃|昵懇《じつこん》な士に預けた。  ちょうどその頃、下野守の杢之助は六歳で初めて桜田の館に於て将軍|家宣《いえのぶ》に拝謁したが、朝、家を出るときに乳母の与佐という者が、今日は上様へ御拝謁、わけて大切の御事ゆえお泣き遊ばされず温和《おとな》しく御挨拶なされませや、と言うのに「うん」と応え出仕した。ところが家宣がすでに表向きへ出座と、御錠口より触れのあった時、にわかに杢之助は駄々をこね、|わやく《ヽヽヽ》を言って泣き出した。この由が家宣の耳に入ると、家宣は、 「好きな物で、すかして宥《なだ》めるがよい」  と上意あり、老臣が杢之助のお附きへ「何が好きか」と問うと、兼々飼鳥を好む由をお附きの士は答えた。そこで、御座敷中へ鳥籠やら、あひる、小鳥などを放って慰めたので、ようやく杢之助は機嫌を直し、首尾よく拝謁を了えて退出したが、御前を退る間際に、 「兄庄蔵とは、同じ兄弟とて違うものよ」  老臣の蔑《さげす》むのを聞いた。杢之助は|※[#「口+喜」、unicode563b]《き》々として御下賜の鳥籠を抱えていたが、 「兄とどう違うのじゃ」  と言った。  曲淵庄蔵は同じように拝謁の時、七歳だったが、大小の刀を賜った。『しかし未《いま》だ幼少なれば危うく思召《おぼしめ》して、竹みつを進ぜられしに、庄蔵ぬきはなち|とく《ヽヽ》と見てその場へ捨てたり。御側衆右の段上聞に達しければ、上様《うえさま》お笑い遊ばされ真剣を又々進ぜられたり』という。それを言外に老臣は匂わせたのである。  しかし明らさまに然様《そう》とは、老臣は話さなかった。すると杢之助は老臣に名を尋ねた。成瀬恒三郎殿、とお附きの士が答えると、ツネとは如何《いかが》書くぞと問い、|ケ様《かよう》に候と答えるのを聞いて、あまねうす[#「あまねうす」に傍線]と申す字じゃナ、と言い捨て、再びニコニコ鳥籠を抱えてその場を去ったので如何《いか》な老臣も、あっと驚き入った。『君子恒其徳』の訓を少年杢之助は諳《そら》んじていたのである。さて鍛冶橋の屋敷に帰ると、迎え出た与佐に、「与佐泣いたよ」と打明けた。さすがの与佐も泣|べそ《ヽヽ》を掻き、失笑するしかなかったという。  また、与佐は毎夜、杢之助に添寝するのに、子守唄の代りに謡曲の文句を節づけて、子守唄の如く唱えるのを常とした。旗本は(大名の場合も同様だが)生れおちると、奥向きで乳母や女中共に育てられる。一定の年齢に達して始めて表《ヽ》に出され、丈夫の躾《しつ》けを受ける。成人する迄、大方は女の側に置かれるのである。まして杢之助は庶腹の子だったから、養子分として家に入れられた後も当座は与佐の手許で育った。表に出されたのは、初の拝謁の頃である。『以後、与佐をはじめ奥女中など、時々表の役人へ対面のおりは、杢之助殿ごようすはいかが、さぞ馴れさせ給わぬ男の中に御寝ありて、御さびしくあらんなど言いしに、いざとよ、昼はさりげなき御様子に見え候えど、夜はさすがに御さびしくあるにや、朝ごとにお枕を見れば、涙にぬれておわしますようす也《なり》と申せし、哀れなる事と女共いい合えり』という。  そういう杢之助に、凧を揚げる少年時代からお相手役で仕えたのが川窪北右衛門なのは前に述べたが、ところで隣邸の生田権右衛門の末娘を預かったのは、この与佐の親戚に当る者だった。  娘は名を千賀と言った。  或る時、千賀は当時鍛冶橋から一ツ橋外に移っていた曲淵邸へ、与佐を訪れて来た。与佐はこの頃はもう老婢《ろうひ》で、すでに立派な青年に成人した下野守に実母の如く大切にされ、猶曲淵家の奥で女中の総取締り格として暮していた。  千賀は色の白い、悧発《りはつ》げな乙女だった。  旗本屋敷は、二千石ぐらい迄は奥表の境を厳重にするほどの構造にはなっていないが、併しそれを越えることはない。襖《ふすま》でなしに簾《すだれ》を下げて、それを境に御膳の受け渡しなどをしたという。主人夫婦に上げる御膳は、外の台所でこしらえて運んで来るが(旗本にも表と奥と料理場が二箇所あった。実際は二箇所で別々に料理することは殆《ほと》んどなく、一切表の台所で準備したが、それを奥へ運び)簾のところで手渡しする。男女が出会うのは許されないので表方が引込むと、奥から女中が出て来て、受取って中に入る。ただ大名と違い奥様が家来に目見《めみえ》を許すことはあり、その時は奥方が表に出て家来衆に会った。——そういう点、幾分、大名に較べてゆるかったし、奥様の御門、奥様の御玄関というものも別になく、訪ねて来た千賀には直ちに表役人が応対した。千賀は与佐が風邪の気味と聞いて見舞いに来たと告げた。  与佐が風邪とは、役人は知らない。 「暫時《ざんじ》待っておられい」  ニコリともせず、千賀の美眸《びぼう》を睨《にら》みつけて中に入った。下野守は登城して不在だったので家令が奥の与佐に告げた。たしかに与佐は病臥《びようが》していたが欣《よろこ》んで千賀を招じ入れ、ずいぶん長い時間談じているところへ下野守がお城より退って来、千賀を見たのである。  下野守は未だ独身であった。  千賀は懼《おそ》れ入る様子で、しかしキチンと手を揃え、礼儀正しく挨拶をした。それから「ほんに長居《ながい》をいたしました。……どうぞ、呉々《くれぐれ》も御大切に」  与佐へ言って、程なく辞去した。与佐は別れるのを惜しんだが、後で、目を細めて千賀がいい乙女であるのを下野守に告げ、こんな話をした。  千賀の預けられたのは伊達家臣の許《もと》であるが、仙台藩の兵備の法は、如何にも大家と言うべきもので、古来、士卒は常に番付で組を分ち、その順番で出陣する。伊達家数度の合戦にも、大坂の陣にも法に定めた組が出陣し、人選も何もなく順ぐりで、大合戦に手の空《す》いた士は幾組もあったという。まことに驚き入った大家風の戦法である。——ただ、そういう次第だから出陣の鼻に当った組には、縁辺養子の相手が尠《すく》ない。蝦夷《えぞ》地の御用など事なく畢《おわ》って帰国した後は、縁組の申し込みが俄《にわか》にふえ、又その次の番組へ人々縁を結ぶもの少くなるという。けだし人情である。  泰平の世となった今も此の風習は革《あらたま》らない。しかるに千賀に対しては番組の順序に関りなく、多くの縁談があるとかで、彼女を預かる親許ではホトホト断るのに困却している—— 「殿様は、御覧になってどうでござりましたかいな」  語り了ると与佐は意味あり気に、しげしげと下野守を見上げて、わらった。下野守はまだ下城姿で裃《かみしも》を着ていたので、 「えり足が却々《なかなか》綺麗であった」  とだけ言うと表へ引返したが、悪《にく》からず思う様子は、与佐には一目で分った。  それからは折ある毎に、口実をもうけて与佐は千賀を屋敷にさそい、歌合せや鼓《つづみ》のお習《さら》え、雛《ひな》飾りなどして遊んだ。千賀は招かれると素直にやって来て、口数尠ないながら下野守とも打解けて挨拶するようになった。下野守が好んで梅の陶器を焼き出したのも此の頃からである。梅は六代(紅)、昭水梅(薄紅)、大白摩耶(濃紅)を佳《よ》しとするが、千賀が何かの折に自分の一番好きな花は、うす紅色で咲く豊後梅だと洩らした。爾後《じご》、下野守は全《すべ》て豊後梅をほどこした陶器を焼いたのである。そういう間は、男女はまだ綺麗な躰《からだ》でいる証拠である。     六  ある日。兄の庄蔵が下野守邸に訪ねて来た。ちょうど千賀が来あわせていた。  庄蔵は進物御番衆間宮|采女《うねめ》重澄の女《むすめ》との縁談をもって来たのである。 「おぬしももう二十二じゃ。茶湯や風流に心を寄せるもよいが、いつまでも独り身では、与佐は欣《よろこ》んでも世間|態《てい》がある。これまでに与佐には充分尽してある筈。そろそろもう、よめを娶《と》って与佐に厄介はかけんようにするが、分別ではないかい」  言っている時に、奥から千賀があらわれ、「お暇《いとま》をいたしまする」下野守へ挨拶して、帰っていった。  庄蔵は目を瞠《みは》った。 「あれは?」  むかしの松平土佐守屋敷にいた生田権右衛門の娘の由を話すと、 「そうか。俺らはまだ子供でようは覚えんが、あれが遊所で名を高めた生田の娘か」  庄蔵はいたく感慨をおぼえた様子で、 「よい娘じゃ」何度もうなずいては、呟《つぶや》いた。それから急に、 「今の話、御留守居年寄大嶋肥前守どの媒妁《ばいしやく》のことでもあれば、依存はあるまいがな、よく考えておいてくれい」  言って、ソワソワと席を起ち、家臣らの挨拶も其所々々《そこそこ》に出ていった。  曲淵庄蔵には御家人《ごけにん》中島某の家から来た嫁があったが、先年みまかって、以来、小普請(無役)の身でもあり後添えは貰ってなかった。  ふた月余りが過ぎた。その間に下野守の縁談は具体化して、公儀の沙汰がおりた。武士にとって婚姻は|私 事《わたくしごと》ではない。縁組の許可がなければ如何なる場合も結婚はしないが、一たん許可が下れば、すぐ挙式せずとも(何年後の挙式であろうとも)又、同棲はせずとも既に夫婦である。ただ婚儀を挙げない場合、決して当人同士の往来はなく、顔を合わすこともない。挙式は両家の都合でする。それでも妻は妻である。  後で分ったが、間宮采女の女《むすめ》はちんばで片目だった。しかし至って気立のいい、淑《しと》やかな女性で年は同年の二十二である。  下野守が婚儀をあげなかったのは、縁談のまとまるのと前後して与佐が急激に老衰し、病いの床に就ききりだったからで、妻になる相手がちんばの故ではなかった。そういうことはまだ下野守は知らなかった。おそらく与佐も知らなんだであろう。——と言って、与佐が健康だったとしても直ぐさま式を挙げたかどうかは、分らない。それ程、一時、下野守のうけた打撃は大きかった。  ちょうどある朝、下野守が川窪北右衛門に髪を結わせていたら奥から用人朴兵衛が遽《あわただ》しく駈け出て来て、 「殿、与佐が失神いたしてござりまするぞ」  と言った。北右衛門が駭《おどろ》いて髪を結う手を止めた。当時は男の髪は女が手を触れぬきまりになっていて、中小姓の中で巧みな者が主人の髪を結う。少年時代から北右衛門は下野守の髪を結ってきたので、宿直《とのい》の翌朝は、今でもどうかすると北右衛門から、 「髪を結わせて頂きましょうか」  と結うのである。 「わけは何じゃ」  下野守は髪を中途で起《た》つわけにゆかぬので、坐したまま訊いた。 「書状が届いたる由にござりまする」 「誰からじゃ」 「殿」北右衛門が言った。「左様申せば今朝ほど、竜土町より使いが参ったのを覚えておりまするが」  麻布竜土町には千賀を預かる某の住居——伊予宇和島十万石伊達伊織の上屋敷がある。  下野守は、それでもまだ怪訝《けげん》そうに用人の皺《しわ》の深い顔を見上げ、 「書状を披見いたして失神したか」 「左様に女中共は申し騒いでおりまするが」 「北右衛門」 「は」 「構わぬ。その方見て参れ。あの与佐のことじゃ、取乱したを予に見られたと、以後気にいたしてはならん。見て参るがよい」  北右衛門は即座に奥へ走った。戻って来た時、顔は強張《こわば》っていたが、一言もわけを告げず、剛気に、 「殿。髪を結いまする」  背後《うしろ》へ廻って再び櫛《くし》を掴んだ。千賀は庄蔵の挑むのを拒みきれず、ついに肌を許した、以後は庄蔵の自由となり竜土町の屋敷を出ることになった、そんな文意がしたためられていたのである。この歳月《としつき》、下野守の屋敷に遊んだのが自分には終生の楽しい思い出になった。「この上はただただお殿様の御健勝かげながらいつ迄もいつ迄も祈り上げ参らせそろ」そう結んであったという。  いかなる甘言で庄蔵は千賀に言い寄ったのか、誰にも分らない。千賀は何事も過ぎたこととして、一切その辺の経緯《いきさつ》は明かさなかった。当然な思慮である。ただひそかに下野守のお人柄は忘れかねたと、思慕の情は言外に匂う文面ではあった。  下野守は、北右衛門が沈黙しつづけるので後ろへ髪を梳《す》かれながら、じっと目をとじていたそうだ。髪は結い了った。北右衛門は主人の後方にガバと平伏して面《おもて》を上げない。 「与佐は恢復《かいふく》したのじやな」  とだけ問わず語りにつぶやくと、下野守は朴兵衛を随《したが》えて奥へ入った。千賀の書状を老婢は見せなかった。千賀が、このお屋敷にはもはや遊びに来ないとだけ明かした。下野守はそれで、いよいよ千賀も良縁を得てかたづいたと思い、 「うれしい話ではないか。せいぜいよい祝儀を遣わしてやるとよいぞ」  ニコニコ顔で言った。実は兄庄蔵に凌辱《りようじよく》されたと知ったのは後日である。さすがに下野守は真蒼《まつさお》になって、縁側に突立ち、こぶしを握り緊《し》め、茜《あかね》色に染まる夕空の彼方をいつ迄も見上げた。  ——以来、数年が経った。  その間、与佐はみまかり、千賀は男子を産んだ。庄蔵には先妻に子がなかったので喜びは非常である。しかし許可を得た再婚ではなく私《わたくし》の同棲なので、千賀は妾であり、武家の妾は家来として待遇された。庄蔵との関係は主従である。夫の親族外に置かれる。生れた男子は養子の届けを出さねばならぬ。  庄蔵は廩米《りんまい》三百俵の小普請。下野守は既に千三百五十石のお旗本であった。女の愚かさというより、母親の情であろうか、同じ養子にするなら実の父庄蔵よりは下野守の養子にして貰いたい。千賀はそう望んだのである。多少、曾て慕った御人への甘え心がなくはなかったろう、女は、そのように年ふれば厚かましくもなるのであろうが、未だ千賀を忘れかねていた下野守にとって、これは無惨な要求であった。無惨と感じる男のデリカシーを、まるで解さぬ程、無神経な女になっていること、一箇の母親の立場だけで物を言う千賀であることに、下野守は甚しい幻滅を感じた。 「北右衛門、女は変るものじゃな……」  淋しく下野守はつぶやいた。凌辱した者の子なのである。それが兄であったことに、二重に傷ついた下野守の心中はまるで察せず、ただ知行が多くなるというだけで下野守の養子にとのぞむ、あきれ果てた厚かましさである。 「わしは、何を恃《たの》んで此の数年独り身を通して参ったのかな……」下野守は言ってさびしそうにわらうと、「構わぬ。断れ」と用人に命じた。  朴兵衛はこの旨を自ら使者となって庄蔵に伝えた。  無役の身では、ある劣等感を兄の立場で当然いだいていたろう。それが、逆の形で出た。 「ふン。千三百石がそんなに威張りたいか。よいわ。曲淵の正嫡は身共じゃ、何処の馬の骨か知らん女子《おなご》の腹に生れた下野守なんぞに可愛い忰《せがれ》は遣《や》れんわ。帰れ」     七  庄蔵は以後、二度と養子の件を口にしなくなった。しかし千賀は諦《あきら》めかねてか自身で下野守屋敷に訪ねて来て、何とか考え直して頂き度い、と用人に迫った。下野守は在宅で奥にいたが会わなかった。千賀は一子甚之助を同道していて、 「こんなに聡《さと》い子でございますのに」  と言った。当の千賀は、曾ての美眸のあともとどめぬ、生計に|※[#「うかんむり/婁」、unicode5BE0]《やつ》れた御新造の哀れな姿だった。まだしも庄蔵には曲淵家の血をひく直参の叛骨《はんこつ》があるのに、と用人は後で嘆いている。 「何度申されてもお受け仕るわけには参らん」頑として朴兵衛は拒絶した。 「お殿様に会わせて下さいまし」 「ならん」 「甚之助はお殿様の甥《おい》でございます。わたくしはその母でございますよ」 「ならんならん」  当の甚之助が見兼ねて、 「母上、帰ろう。父上に知れたら又母上がお叱言《こごと》を頂戴するモノ。おれはいやじゃっ」健気に母の袂《たもと》を引いた。甚之助は五歳であった。  ついに諦めて千賀は帰った。しかし我が子のいじらしさが千賀を愚かな女にしたのである。  下野守の屋敷に土蔵があった。これを建てた時に、土蔵の瓦の際に草を生ぜぬようにするには、瓦を置く時屋根の土に|あらめ《ヽヽヽ》を切りまぜ、瓦の下に置けばよい、さすれば塩気で草を生ずる事なしと、教えたのは当時悧発な娘だった千賀であったが、今以て曲淵下野守の家の土蔵に草の生えないのは自分のおかげであるとか、又、虎の爪を根附にしたものが下野守の屋敷にある。むかし猿廻しが来た時、それを投げ与えたら、猿は手にとって嗅いで大いにおどろいて逃げ出したものでした、とか——要するに自分が下野守の奥へ如何に親しく出入りしたかを、人に吹聴して歩いたのである。  物事には限度がある。この上、何を言い触らされるか知れなかった。武家は格式を重んじねばならぬ。一日、偶々《たまたま》庄蔵父子の他出中、屋内で、何者とも知れぬ者の手にかかり千賀は殺されていた。前に述べたが彼女は家族でなく家来である。公儀へ庄蔵の訴え出るすじはない。下手人は遂に判然しなかった。  千賀の死を聞いたとき、下野守はチラと北右衛門を見たが、すぐ目をそらし、 「与佐にゆかりのある女じゃ。栄林寺へ偕《とも》に葬りたいと、三番丁へ申し伝えい」言って、「墓へ、これも一緒にな」奥の戸袋から梅を彩った陶器を取出した。もっともよく出来たと、乙女の千賀が何度も嬉しそうに手でなずった下野守の焼いた茶碗である。それがまだ主君の身辺に匿蔵《とくぞう》されているとは、如何な北右衛門もこの時まで知らなかった。「ハッ」と答え北右衛門は木箱を押し戴いて、 「必ず、胸へ抱かせて埋めまする」と言った。       ———————————————  下野守は生涯、間宮采女の女《むすめ》と同居しなかった。併し妻はこの人である。柴田三左衛門勝富なる士の三男を迎えて嗣子とし、これに家督を譲った。享保元年、有章院|薨御《こうぎよ》により務《つとめ》をゆるされ一時寄合衆となったが、のち甲府勤番支配を勤めて享保十八年、五十九歳で死んだ。法名日浄。四谷栄林寺に葬る。  川窪北右衛門も終生、妻を娶らなかった。曲淵家譜に曰《い》う「下野守殿死後の一日川窪一室を浄掃し、麻上下を着して自ら朱鞘の大小を供えその入口を閉じて人の来るを許さず、ある時誤って中小姓一人その間へ走り入りしに川窪、奠供《てんぐ》の前に平伏してありしが振返りてしいしいと言いて手にて制したる形状真に御前にある様子なりしとなり、家来程経てその間に入れば朱鞘を抜き放ちて殉死し既に事キレたりと」 [#改ページ]   赤褌の勘兵衛     一  福島正則が亡《ほろ》んだ時に、遺臣の一人で吉村又右衛門|宣光《のぶみつ》という武将があった。  大坂の役が起った時、宣光は潜行して芸州より江戸に到り、主君正則に謁して曰《い》うのに、 「曾て関ヶ原の軍功抜群なればとて、殿には芸備両国を賜りぬ。他の大名に比すれば御恩賜過分なれども之《これ》内府殿(徳川家康)の深慮ある故に候わずや。その砌《みぎ》り内府殿申されしは、福島は関ヶ原の戦功のみに非ず初めに清洲城を明渡し、十三頭の人数数万を引受け、兵糧|賄《まかな》い四十日に及べり、されば此の功に安芸一国は不足なるまま備後をもあてがいしは、大名一列の賞功として過分とは申し難し、と。殿ほどの猛将を斯く取鎮められたること、さすがは内府殿一代の名将なり、しかれども、静謐《せいひつ》の世に相成らば何かと当家へ御当りあるべきかと実は苦心致し候が、当年まで十余箇年間何の御気色も見えず。倩々《つらつら》考えるに、これ大坂落去なき以前は、諸大名の心を取り給わんの遠謀ならんと、大坂さえ落去いたさば御家にとっての大変とこそ存じ候らえ。これにより、大坂城陥落の後はスミヤカに|天下弓箭納め《ヽヽヽヽヽヽ》の御祝いとして備後の国を献上せられなば、行々《ゆくゆく》御家長久の基《もとい》たるべし。さなくては御家の一大事、何卒御深考たまわるよう」  と進言したが正則は聴かず、竟《つい》に禍《わざわい》に逢って福島家は滅んだ。  宣光は、主家が亡ぶと、家人下僕に至るまで金銀家財を与えて暇を遣わし、その身は伊勢の関に寓居したが、吉村又右衛門と大筆《たいひつ》に宿札《やどふだ》を掛けた。夫婦娘|彼是《かれこれ》と暮すうち段々貧窮に及び、朝夕の煙りも途絶えがちとなり、女房は丸裸、娘は泣き伏して飢に及んだ。ある時、古朋輩の大崎|鬼玄蕃長行《おにげんばながゆき》が尋ね来て、「それがし紀伊家へ召出さるるに付ては御辺が副状《そえじよう》なくては叶わずとの事なれば、副状をたまわりたし」と言う。宣光は則《すなわ》ち証拠の状をしたためて「路銀はあるか」と尋ねた所、「更になし」と答えた。そこで具足櫃《ぐそくびつ》より金三百両を取出し、五十両を分けて長行に与え、又|沓籠《くつかご》から銭《ぜに》を出して一貫文を遣《つかわ》した。長行は大いに喜び具足など調達して紀伊家へ赴いたが、女房これを見て怒り、 「さようの金子《きんす》御持参なされながら妻子の飢もお構い下さりませぬか」  と怨《うら》んで暇を乞うた。宣光は言った。 「武士は売賈《ばいか》の道を知らず。此金の尽きたる時は又今の如くなり。暫時の遅速なり。然らば我が武勇の名を落さじと、自然の用を心に掛くるを、汝知らぬは不敏《ふびん》なり」  と即座に離別した。  この落魄《らくはく》の頃、下僕も追々と暇を取らせ、子供は一族に託して馬一匹ばかりとなった時、馬喰《ばくろう》が来て売払い給えといったら、宣光は、只今まで用立ちたる馬なり、此の上に売払うは不憫《ふびん》なり、と野に放った。又その頃、いよいよ飢寒が迫ると、編笠を被り、関ヶ原の古戦録を少しずつ書いて読売りして生計の一助とし、又は傘《からかさ》を張って一日をしのいだ。世の人、これを吉村傘と言って望む者が多くなると懶《ものう》しとて止《や》め、辻番人となった。しかるに「あれは吉村又右衛門なり」と人の指さすを聞いて、又止めて人に交らず年月を送った。こういう時代に、松平越中守定綱より宣光を招いた。  宣光は招きに応ずる時、竿竹《さおだけ》の中に仕込んだ槍を取出し、棟に掛けた茶俵のような物を切落してその内より熨斗目鎧《のしめよろい》を取出し、浪人の風態《ふうてい》の儘ボウボウと道を往《ゆ》くので招きの使者が馬よ駕《かご》よと勧めたが一向用いず、ついに歩いて定綱の居城掛川城に入った。さて宣光が定綱に仕えて老職となったと聞えると、宣光の眷属《けんぞく》共は追々に集まり来たが、あるいは破れた具足櫃を背負う者あり、又は古《ふる》葛籠《つづら》に鎧を入れ、荒縄にからげて鑓《やり》を杖にして来る者あり、異形異類の者共日々に来り集まっては、 「吉村又右衛門殿が居宅は奈辺にござろうや」  掛川城下の道往く者に問うので、定綱家中の士は胆《きも》を潰《つぶ》したが、これらは皆縁家の者、あるいは譜第《ふだい》の家来共で、広島近在五里七里の村々に百姓|業《わざ》をさせ、事ある時の用に立てんと差置いた勇士たちだった。  枝見《えだみ》勘兵衛もその一人である。     二  宣光がまだ広島城に在った頃に、城修営のため虹梁《にじばり》の上にて勘兵衛の下知《げち》するのを下から宣光が見上げ、 「勘兵衛めは下帯をしておらぬぞ、あれ取らせよ」  と、納戸より紬茜染《つむぎあかねぞめ》の二つ割《わり》を二筋あたえた。余の者大いに羨《うらや》んだが、勘兵衛は畏れ多しと賜った茜染の代りに赤い下帯を緊めるようになり、以来、赤褌《あかふんどし》の勘兵衛の異名をとった。初陣は十六歳で、関ヶ原の役に正則の手に属し、戦さの一日、主人宣光の用を託されて、士《さむらい》某と使者に立ったが、某は竹束《たけつか》の外を通ろうと言う。勘兵衛は「矢玉雨の如くなれば我等は同道致すまじ」と竹束の内をえらんだ。  某は言った。 「竹束の外を通りたりとて何程のことあらんや」  と外を走り運よく無事目的地に着いたが、勘兵衛は内を往ったのでむろん無事に着き、両人出会って用を果して扨《さ》て、帰ろうとする時に、某は、 「汝はよき分別にて内を通りたるが竹束の外は矢玉烈しく、漸《ようよ》う命を拾いたり」  と、今度は内を戻るというのへ、勘兵衛は「先刻お手前さまと外を同道申すべけれど、大事の御使|蒙《こうむ》りながら先へ申し達せずして撃ち殺されなば、軍法に背くの科《とが》あり、早や調《ととの》いたれば、今は撃ち殺されても苦しからず」そう言って、某が内を帰るのに勘兵衛は外を帰った。人皆「末頼もしき小忰よ」とその智勇を称した。  福島正則がある日城を出る時、門外の石垣に槍の立掛けてあるのを見て、あれは誰の槍なるぞ、日当りに立置きては汗をかくものなれば、置き直せ、と言うのを徒士《かち》の者|狼狽《うろた》え、尚日当りに持ち行った。正則|腹立《はらだて》して、自身取って置き直さんと鞘を抜いて見ると赤く錆《さび》ている。 「士の一本道具を錆さす腰抜けは誰ぞ」  正則は罵《ののし》って鞘ごと投げ捨てた。槍は枝見勘兵衛のものだった。勘兵衛は憤怒し、「先を見給え」と言った。正則が又取り上げ先を見るに、槍先三寸程氷の如く研《とぎ》立ててある。  勘兵衛が「槍は先にて突くものにて候」と言うのに正則大いに驚き、そのまま鞘に納め、押し戴いて自身で立掛け置いたという。  主人宣光を慕って掛川城に来た時、勘兵衛既に三十二歳であった。     三  城主越中守定綱は松平定勝の子で、定勝は徳川家康には異母弟にあたる。従って時の将軍秀忠とは定綱は従兄弟である。  招いた宣光を慕い、続々と古|葛籠《つづら》や破れ具足櫃を背負い勇士達の集まるのを聞いて、定綱は頼もしく思い、一日、これらの士を城に登らせて目通りをした。  十四人いた。いずれも戦場の場数を踏むこと数知れずと見える不敵の面々だったが、一様に赤心は面《かお》に溢れる如くである。  宣光の郎党が登城というので、定綱の家臣らも続々城に詰めかけ、多分に好奇の目で見戌《みまも》っていたが、一応の挨拶のあと、 「いずれも一統武辺|能《よ》き者と見受けるが中で、重きをなすは誰か」  と十四人を等分に見渡して定綱が問うた。  誰も答えない。 「いや、誰を上手、誰を下手と申すのではない、己《おれ》の問い方が悪かった」直ぐ定綱は言い直すと、 「胆の太きを互いに、一番と推すは、誰じゃな」  と問い直した。十三人は口を揃えて、枝見勘兵衛なりと答えた。  列臣の目が一斉に勘兵衛に集注する。それから主人たる宣光を見る。  宣光はむしろ、迷惑な下問と困《こう》じる様子に見えたが、当の勘兵衛は平然としている。たしかに、胆に毛が生えたかと見える面構えである。  念のため、いかなる仔細にて枝見どのが胆太しと申されるや、と列臣の中より問う者があると、一同口を揃えて、猛将福島正則にさえ、槍のことで叱りつけたと明かした。  並いる面々、さてこそと駭《おどろ》いたが、定綱は如何にも頼もしげに、 「そうか。宣光はよい家来を持った」と言った。  ところが列座の中より、不服を唱えた者が現われたのである。定綱の家臣一斉にその方を見て、 「いかさま新左どのなれば」と無言に、眼でうなずき合った。  渠《かれ》は堀新左衛門である。  定綱家では、誰も堀新左衛門とは言わない。  三里新左殿と呼ぶ。定綱の一子(十八歳になる)豊後守定次の傅《もり》を勤め、他出には乗物で双槍先箱茶弁当に至る迄いつも本供《ほんとも》を許されたが、或る日外|郭《くるわ》で行逢った者の見たのには、駕《かご》の戸を左右共に開き両足をのばし自《みずか》ら三里に灸《きゆう》をすえて通り過ぎたという。  まだ若い頃は徒士《かち》なども大男をえらび召しつれて道の真中を通り人に譲らず、後に番頭を勤めたが、 「大猷院殿(三代将軍家光) 御多病により御運動の乱舞の為の御相手なるべき人を撰《えら》ばるとて参政より組の中に乱舞よくする人やあると尋ねしかば拙者組に左様の田分《たわ》け者は御座なく候と答えしとなり。又、組より進物番へ出役せしもの何の時にや席の畳目を違えし事ありて、とやかくむずかしかりしを新左一向に聞入れず、我等見ており候が畳目は違い申さずと言張ってその者の不調法にせず、扨《さ》てのちその者を呼びて先頃の事はいかにも畳目違いたり、然れども武士を畳目の違いたるなど言う事にて恥かかすことやあるべきと我等御役にかえても言張りたり、併しもし事に臨んだる時ひと足も引かば我は許しはいたさぬぞと戒めしとなり。  その風采《ふうさい》おのずから上《かみ》にも聞き及ぼせ給いしや、幼君が傅《もりやく》へ擢《ぬき》んでられしとき上意を蒙ると平伏して暫《しばら》く頭を上げずようように御次へ退きし跡に落涙の痕《あと》席に残りしを定綱御覧ありて御小姓衆に指さしたまいアレ見よ鬼の涙はこれぞと仰せありしとなり」  又、合戦に手柄のあること数知れず、味方が不利となって士卒ら浮足立つと、新左衛門は大音に「人間百歳までは生きぬぞ、いざ掛け掛れ」喚《おめ》いて閧《とき》の声を作り敵陣に斬って返すのが常だった。  要するに一徹なること無類、且つ戦場生残りの猛者《もさ》たる三里新左が、福島正則を叱りつけたぐらいで胆に毛の生えたりとは片腹痛し、と嘯《うそぶ》いたのである。  定綱だけは、ひそかに、眉をしかめたが、それが何故か、急にニコニコ作り笑顔になると、 「勘兵衛とやら」  わざと宣光は見ないで十四人の中の勘兵衛へ目をやり、 「新左があように申しておる。その方も侍なれば片腹痛しと言われては一分が相立つまい。家中一統、先ずは当座の挨拶代りに、一つ試し合ってはどうじゃな」  と言った。  すかさず、 「それは面白い。是非とも我らに胆試し見せてくれよ」  言ったのは定綱と並んで、上段別の茵《しとね》にいた豊後守定次である。 「なるほど、新左どのとなら究竟《くつきよう》の好取組。これは面白うござるぞ」口々に列臣共は囁いて、 「是非とも拝見仕り度し」と言う。 「どのように試し申すかい」  当座の挨拶代りにと言われては、勘兵衛も断りかねたか、チラと主人の後ろ姿を見て、定綱に問うた。 「造作のないこと。角力《すもう》がよい」  と定綱は言った。ただ、場所は平地では曲がない。  たまたま城内二の丸に三重|櫓《やぐら》を修築せんとして足台を高く架けてある。元来、ここは小高い陵《おか》の上ゆえ、一しお高く聳《そび》え、墜ちれば無事で済まぬ。その足台の両端より渡り寄ってムズと組むなら好個の胆試しともなろうというのである。  日頃温健な主君には珍しい申し出なので列臣共がざわめいた。たしかに、胆が余程すわらねば高所の足台の上で角力など組めるものではない。胆試しとしては一代の見ものである。 「承知仕ったぞ」  すかさず新左が合点すると、 「勘兵衛、その方お受け致すか」  宣光が正坐の儘、背後《うしろ》の勘兵衛へ問い掛けた。 「は」  畳に手をつき、少時主人宣光の後ろ姿をじっと凝視してから、 「お相手を致し申す」と答えた。  それより一同、大広間を出て、三重櫓の下に集まった。見上げれば成程、中空に聳える足台で、迚《とて》も角力の組める段ではない。一度は面白しと|※[#「口+喜」、unicode563b]《よろこ》んだ者共もその高さを目前にしては、我にもあらず恐怖の念をおぼえ、ひそかに主君の意中をはかり兼ねた。  一同ザワザワと私語して「もはや戯れ事では済み申すまじ、いずれが墜ちても必定、死ぬるばかりでござるぞ」など言い交す。  しかし定綱は後ろの小姓に太刀を捧げ持たせ、悠然と懐《ふとこ》ろ手《で》にて足台を仰ぎ見て、 「はじめるがよいぞ」と命じた。  それより早く、新左衛門は豊後守に向い、 「若殿、爺《じい》めが胆の程、御覧なさりませいよ」  嬉しそうに告げると大小を後ろに投げ捨て、軽装となって踏台に足をかけるや忽ちスルスルと猿《ましら》の如き身軽さで柱をのぼった。あまりなその素早さに一同アッと声をのんだ。 「勘兵衛、そちはのぼるか」  再び宣光が言った。 「ハッ……」  勘兵衛は新左衛門と違い松平家には陪臣《ばいしん》である。主人は宣光である。拒絶せんと思えば出来る。ただ、臆病者の誹《そし》りは死にまさる。  勘兵衛の顔が、ありありと苦悩の色で歪《ゆが》んだ。この時は宣光は真正面から勘兵衛を見据えていた。両者の目と目が、ヒタと見合わされた。  新左衛門はすでに梁《はり》の頂きに昇って、 「枝見勘兵衛、早や後《おく》れたか」  大音に喚き声を降らせる。仰ぎ見ていた一同の視線が、それで再び宣光主従に注がれた。  と、その時、ツカツカと主従の前に進み出たのは広島で同じ百姓|業《わざ》をしていた山本又兵衛|行政《ゆきまさ》という武士である。 「勘兵衛どの」  行政は急《せ》き込んで言った。「身共に考えがござる。この期《ご》に及んで逡巡《ためらい》なぞ却って思慮なきに似たり。後々、我らが面目にも関わる儀なれば、構い申さん。存分にお組みなされい」 「おのれはそう言うがな、勝てば、新左殿は死ぬるぞ」 「さればこそ身共に手段《てだて》はござる」 「何」  山本又兵衛は福島家の頃、しばしば勘兵衛に添うて脇槍をつとめ、両者の間は小主従の観があった。荒縄で古つづらをからげ最も貧窮の姿で参じたのもこの又兵衛である。 「さ、遅滞いたされては見苦しく候、登りなされよ」  行政は手であおらんばかりにせかした。 「おのれ、新左どの落命あっては割腹で事は済まんぞ」  言いつつ宣光を見詰め、無言に問いかけると宣光はフト視線を傍《わき》へ俯《ふ》せた。宣光は、禅を学び尋常の言挙《ことあ》げはせぬ武人である。 「殿。勘兵衛見参仕る」  ようやく決意して、足台の下へ走り寄ろうとするのを又、行政が呼びとめた。 「角力なれば衣服はお脱ぎなされよ。さなくては如何に我ら豪力なればとて、同時に二人はふせぎ難し」  と言った。勘兵衛はそこで、即座に着物を脱ぎ捨て下帯ひとつの裸身となって一方の柱を登った。その、目も鮮かな赤褌一丁にて、空高い足台の頂きに立った時には、見上げる面々|一時《いつとき》、恐怖を忘れ、どっと失笑した。  両者は頂上の両端に少時、睨《にら》み合って屹立《きつりつ》した。やがてスルスルと恰《あたか》も平地を往くが如く同時に板の中程に進み出てムズと組んだ。  仰ぎ見る者、さすがに呼吸をのむ。誰よりも真剣に見詰めたのは意外や定綱であった。次に豊後守定次が凝視した。傅《もりやく》の勝利を念ずる若殿の当然の念《おも》いであったろう。  宣光は、一の字に口を結び、目をあげて瞬《まばた》きもしない。 「……曳《えーい》。えーい」  空からは必死に揉み合う新左衛門の懸け声が、降る。三里新左衛門この時すでに六十ちかい老人である。尋常では勘兵衛に|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》うべくもないと思えたが鍛え上げた体躯で、渾身《こんしん》の勇を揮《ふる》って譲らなかった。足台の板は、為に撓《しな》って大きく左右に揺れる。 「行政。覚悟はよいか」  宣光が言った。 「お心を安んじられまするよう」屹乎《きつ》と動揺の具合を睨み上げて行政は大小を地に捨てた。  一揺れ、大きな揺れが中空であおった。 「あ。……あー……」  見上げる全《すべ》ての口が、一斉に、開《あ》く。  足許を踏みすべらし、すがり附いた勘兵衛の躰は全身汗を吹き出したため滑って掴み得ず、真逆様《まつさかさま》に高所から墜ちて来たのは新左衛門であった。と見るや、又兵衛行政は墜落地点に走った。そうして真下に待ちうけて新左衛門の地に墜ちる寸前、全精魂を注いで向うへ思い切り衝きのけた。然れば地上に横ざまに転げ倒れるのみで新左衛門の身は恙《つつが》なかった。  落下の衝撃を前方へ外《そ》らしたのである。  見る者余りの精妙にどっと歓声をあげた。あらためて宣光のよい家来を持ったのを称嘆した。  山本又兵衛が斯く迄に竹内流腰廻りの体術を会得していようとは、宣光もこの時までは知らなかった。赤褌勘兵衛とともに又兵衛行政の名は一時にあがった。  三里新左は、 「あきれ果てた豪傑どもなり。我は足をすべらせたるには非ず、思うに、勘兵衛めは下にも受けとめ能《よ》きよう我を抛《な》げとばしたるなり」  そう言って、潔く敗北を認め「ただし、我もう五歳若かりしたらんには」と年《とし》老いたのを口惜しがった。なかなかその御根性にては今以て我らを抜《ぬき》んで給うべし、と人々は慰め顔に笑った。しかし新左は最早《もはや》若殿を傅《ふ》する身にはあらず、と此の時以後、致仕《ちし》して熊ヶ谷に隠居をした。  松平定綱は、あとで、宣光に我は家来を見る眼いまだ足らず、実は忰、定次は新左の感化のみを蒙り、至って荒事《あらごと》を好む、戦国の世ならんにはそれも宜《よ》く、もはや泰平の世となったる上は、豊後の気性かえって国を亡ぼさんことを惧《おそ》れ、哀れとは思えど新左を失わしめんと謀《はか》りしなり、と告げた。宣光はこれには何も答えず黙っていた。  豊後守はその後大いに又兵衛を愛《め》でて、側に仕えしめようとしたが、このことを果さざるうち、年十九で寛永六年、父に先だって卒した。 [#改ページ]   剣術者佐々道休     一  慶長の頃、富田|蔵人《くらんど》高定という剣術の達人がいた。  蔵人は、もと関白秀次の家臣で、文禄四年秀次が高野山にて出家、自害の時に、京師《けいし》に赴いて蔵人も秀次の為に殉死しようと北野の千本松原で事々敷《ことごとし》く支度をした。このことが噂となって拡がったから当日、四方より集まり見る者|市《いち》をなしたが、蔵人が切腹のいでたちで、その場へ進み、座を見定めて松樹の下の荒蓆《あらむしろ》に、おもむろにいなおると噂を聞きつけた一族|知音《ちおん》の者共が続々と見舞いに馳《は》せつけ、 「何の何兵衛でござる」 「蔵人どの。何左衛門にござりまするぞ」  なつかしげに切腹の座の前に来ては、各自、用意の瓢《ひさご》を取出して永別の盃を取交した。  蔵人は、 「おお、汝《うぬ》も来たか」 「忰《せがれ》めは、息災《そくさい》かい」  腹|寛《くつろ》げた姿勢の儘で、快く盃を受け、うまそうに飲み乾すと次に又、 「蔵人さま。何助めにござりまする」  人垣を掻きよけ、がばと平伏するや躙《にじ》り寄って、懐しそうに面《かお》を見上げる老僕もある。  とうとう、蔵人は大いに沈酔し、別れの盃が全部了った時には、 「酔って手もと狂いなば我一生の不覚なり」と、蓆へごろりと横になるや、前後不覚に、大|鼾《いびき》で眠り込んでしまった。見物の貴賤手を拍《う》って笑い、罵《ののし》った。別れを惜しみに来た面々は既に蔵人から「武士が殉死の場は知人の見るべきものでなし。夙《と》く去れ」命じられたので姿を消している。  さて暫く経ったが一向に蔵人は起き上らなかった。ところがどれ程かして、遥《はる》か彼方より砂塵を巻いて、早馬一騎が駆けつけ、 「暫く。太閤殿下の御沙汰であるぞ。蔵人、先ずは待て」  叫びながら使者が来た。使者は人波を掻きわけて蓆の前へ来立ち、馬蹄《ひづめ》の響にハッと起き直る蔵人へ、 「此の度秀次殿の為殉死するとの儀、以ての外のことなり。若《も》し押して殉死せば一類兄弟まで罪に問わるべく、早々殉死を止《とど》むべし」と言った。それから声を低め、 「蔵人、死ぬるではないぞ」  と言う。  蔵人はしばらくじっと使者を見上げていたが稍《やや》あって謹《つつし》んで居直って、 「お役目ご苦労じゃ。いかにもお請《う》けを致す」  平坐すると寛《くつろ》いだ衣服をあらためながら傍らの大小を掴んで、奈辺《いずこ》へともなく立去ってしまった。見届けて、使者も伏見城へとって返した。見物の者共、皆々臆病者よと嘲《あざ》笑って四散したが、中に一人、目塞《めせき》笠で野袴《のばかま》、大小を落差《おとしざ》し、じっと蔵人の去ったあたりを見|遣《や》って彳《たたず》む旅の若武者があった。     *  それから年余が過ぎた。  蔵人が京の西山に蟄居《ちつきよ》していたのを、一万石の禄を以て招いたのが加賀の前田|利長《としなが》である。  蔵人は、御志はかたじけなく存じ候えども、某《それがし》こと殉死を仕損じ、諸人の物笑いと罷《まか》り成ったる者、その上存ずる仔細も候えば御免あるべしと徴《めし》に応じなかった。  しかし利長は再三使者を立て、 「一万石不足なりせば望みに任すべし」  と言い遣《や》ったが尚、納得しない。  そこで利長自身西山に出向いて、種々に詞《ことば》を尽し諭《さと》したので漸々《ようよう》蔵人の心も解け、「左程までに申し下されるなら」と、遂に召しに応じた。一万石である。  ところが加賀の家臣らは之を聞いて利長を諌《いさ》め、 「殉死を仕損じたる程の者に知行を与え、召抱え給うこと世の見聞も宜《よろ》しからず、却って誹《そし》りを受け給うべく候えば強《た》って御無用たるべし」  と言った。中には、 「殿には勘解由《かげゆ》をお信じなされ過ぎまするぞ」  苦《にが》りきる家臣もあった。勘解由左衛門というのは太閤秀吉の下命で駆けつけた使者である。  利長は家臣らの諌めに、「その方らの申し条|尤《もつと》もなれども、蔵人には見所あり。加えて渠《かれ》は刀槍の達人なれば必ず我が目鑑《めがね》にくるいなし」と取りあげず、越中の国に於て壱万石たしかに知行有るべき旨の印状を与えた。そうして一日、蔵人がお礼に参上すると、 「汝に今一つさずけたきものあり」言って、 「内膳。これへ参れ」  小姓の一人を手招いた。北野千本松原の有様を見届けていた若武者である。  佐々内膳は「はっ」と畏《おそ》れる色なく主君の御前に進み出、蔵人に向って丁寧に黙礼すると、しげしげ蔵人は、見て、 「率爾《そつじ》ながら其許《そこもと》、内に溢れる歓びのある仔細は?」  と問うた。 「いざとよ」利長が引取って答えた。 「汝に兼ねて心服いたし居る者なれば対面の叶《かな》いたるが満足ならん」と言い、 「この小忰、たしかに汝にあずけたるぞ」と言った。  富田蔵人はお請けをした。  佐々内膳は郡宰《ぐんさい》佐々五兵衛なる者の遺児で、某日、利長が放鷹の時、五兵衛が此の田は上田《じようでん》、これは中田《ちゆうでん》、これは下田と説明するのを利長が恠《あや》しんでわけを問うと、父に随っていた内膳が即座に、土を嘗《な》めて見候に、上田は甘く、中田は酸《す》く、下田は苦く候と申し上げた。又別の時は、主君の馬の足音で爰《ここ》は上田、ここは中田、これは下田と判じたのが少しも違わなかったので奇特なる事と、以来君側に召されたのである。  千本松原を通ったのは、ちょうど金沢本願寺に主用で赴いた戻りである。当時利長は伏見城二の丸の下に、父利家の館とは間に僅に榊原康政の館を挾んで住んでいた。利家自身は秀次の死後、その遺館を賜って之に移っており、しばしば太閤秀吉の臨来を迎えたが、秀吉も時折は内膳の様子を尋ねたという。  いつぞや利家邸に臨んだ時に、余興の余りに灸《きゆう》をすえられたしと秀吉が言い出し、御相伴衆十余人、一同に諸肌脱ぎとなって二列に並んで前田家の小姓に据《す》えられた。徳川家康やら浅野弾正、蒲生飛騨守も次の間で相伴したが、もぐさの盛り様、火の点じよう、心にくいばかりの慎重さだったのは小姓の中で内膳であったと、一統に称美したので秀吉も記憶に止めたのである。「かくの如くその時分は万事御軽々しくまします故、物事|はか《ヽヽ》の行く事限りなし。誠に太閤のお人だに加様《かよう》なれば、夫《それ》より下は推して知るべし。此の日太閤御機嫌|能《よ》く還御|有《あり》て、利長公も面目晴れやかに一入《ひとしお》満悦なされけり」と前田家記録『三壺記』にも曰《い》う。     二  蔵人が徴《め》されて二年が過ぎた。この間何事もなかった。加賀藩記録より当時前田父子の身辺の動向を抜萃《ばつすい》すると——     慶長元年  正月十三日。天晴。前田利家、徳川家康を訪い、茶会に列す。  三月廿一日。天晴。徳川家康、前田利長の邸を訪う。対顔には及ばれず候。  五月十三日。天候晴。前田利家、豊臣秀吉及び秀頼と同車にて参内す。  閏《うるう》七月十二日。伏見の地大いに震う。  前田利家小姓を遣わして豊太閤の安否を問わしめ、尋《つ》いで登城す。   此の月豊太閤大仏殿に詣る。前田利家疾に因《よ》り従わざるを以て、謀叛の用意これ有る由を人の為に讒《ざん》せらる。     慶長二年  正月十六日。前田利家さきに任ぜられし権大納言を辞す。  三月廿五日。雨。利家登営して豊太閤の茶会に陪す。  四月二日。豊太閤、前田利家の伏見邸に臨む。  四月十二日。徳川家康、前田利家の邸を訪い、村井勘十郎・奥野金左衛門を「いつ見てもよく奉公する」と賞す。又この比《ころ》利長に召抱えられし富田蔵人が事を問う。  十一月十三日。豊太閤、前田利家に富士|茄子《なす》の茶入を与う。     慶長三年  二月下旬。越前国主堀秀治の伏見邸|火《や》け、細川|忠興《ただおき》の邸|之《これ》と相対す。前田利家|乃《すなわ》ち忠興の家に至り消防に従う。  三月十五日。利家、豊太閤に陪して、醍醐に遊び桜花を見る。芳春院(利家夫人)亦|政所《まんどころ》に従う。  四月二十日。前田利家老を告げ、封を世子利長に譲る。ここに於て利長権中納言に昇る。   この月より五月に至る間、利家上州草津温泉に休を養う。  七月七日。豊太閤、病い癒えざるを測《し》り、遺物を利家の邸にて分与す。  八月五日。利家諸侯伯と共に、豊太閤の薨後《こうご》、秀頼に対して忠誠を尽すべき文書を上《たてまつ》る。  八月八日。利家再び登城して誓書を五奉行に交付す。  八月十八日。豊臣秀吉伏見城に薨ず。   この月、前田利長、秀頼の傅となる。  十月二十日。宇喜多秀家、大野|治長《はるなが》ら来りて前田利家を訪い、軍事を問う。  十二月廿九日。利家、秀頼に贈るため矮小《わいしよう》の馬(いかにもちいさき尺はずれの馬)を領内に求めしむ。   是歳《このとし》。前田利長、父利家の命を受けて前《さき》に家康に賞せられし奥野金左衛門らを放つ。     慶長四年  正月|朔日《ついたち》。豊臣秀頼初めて諸侯の賀正を受け、前田利家大いに警戒を厳にせしむ。  正月七日。前田利家、豊太閤の遺命に従いて秀頼を伏見より大坂に移らしむるの議を決す。  正月十日。秀頼大坂城に移り、利家之に随い蜂須賀氏の館に宿す。  正月廿一日。前田利家|使《つかい》を徳川家康に遣わして、その豊太閤の遺命を奉ぜざるを詰《なじ》る。   これは家康の行跡、天下を我物にせらるる体《てい》なるを思いの外の事とて数カ条に分ちて詰りし也。  二月十一日。前田利家既に病を発せしが、此夜諸臣を会す。   これは利家さきに乗物にて大坂に向う途次、のどより虫出で申し候。斎藤|刑部《ぎようぶ》、腰物を持ちそばに居候えば、虫を引出して是《これ》/\と渡しなされ候。白き細き虫にて候。虫は御持病に候由。  二月廿九日。利家、徳川家康と好《よしみ》を修めんが為病をおして大坂を発し伏見に向う。是より先、利長家康を訪い、意志互に疏通《そつう》したるを以てなり。   家康小船に乗じて是を迎う。利家謝して舟より陸地に上り、肩輿《けんよ》に乗じて家康の館に赴く。その途中、加藤清正、浅野幸長、細川忠興ら歩行して乗輿の傍らに在って、往く程に利家と話す。利家家康の営中に至る。丁寧の饗応善を尽し、徳川家士は皆長袴を着し短刀を帯す。     *  天下の情勢は漸く逼迫《ひつぱく》していた。『太閤薨後の冬、石田三成、小西行長示談には、徳川家康はや太閤の遺命を背けり。往々《ゆくゆく》秀頼公へ天下を渡さるべき躰《てい》にてはなし、勢いの微《かすか》なる内に家康に腹切らせんと談じ合いぬ。但し両人にては人々のおもう所も如何とて、大納言利家へ右の趣き内談す。内府(家康)伏見の向島に居給う、近日取巻き、堤を切って水攻めにし、さて和談を入れて家康に腹きらせ申すべしと一決す。  此時利家、細川忠興を呼んで密に右の趣意を談じ、事既に近きにあり、油断あるべからず。貴殿は久しく知音且つ縁者に付、大事をしらせ申すと有《あり》。忠興かたじけなき義身に余り候、今晩は蒲生飛騨守宅へ茶会に約束し候、明日又参り、いよ/\御示談申すべしと帰り、その足にて家康の許へ罷《まか》り出ぬ。折ふし先客あり。忠興云う、此頃茶を持きらし候、茶を下され度く伺い仕ると。家康いかが思い候や、茶は所持いたし候、我等こと無調法、且つ独り客は習いありと聞けば、幸い忠興を師匠にし、一人客の様子を稽古仕るべしとて、早速に先客を帰し忠興と数寄屋に入りぬ。  さて数寄屋にて忠興右の品々語り明かせば家康大いに驚き、忠興へは未来|永劫《えいごう》、粗略あるまじくとの事なり。忠興は、大納言へは和議なさるべくその御心得致さるべしとて帰りぬ。さて又利家方へ参り、さいぜんの様子家康へ委細申入れ候と申しければ、大納言驚倒し、貴殿は気が違い申すかと云う。忠興こたえて云う、石田・小西が為躰《したい》を見るに、貴公は近年の内に世を去り給うべし、その前に貴公を大将にし、家康を滅ぼし、その後貴公世を去り給わば、むつかしき両将を失い、天才を取り立んとの工《たく》みと存じ候、利長殿の世になって、家康にお随い候わんや、石田に御属しなさるべきか、此所を御考え然るべくと云う。利家暫く思案あり、家老を呼出し談合有って忠興の謀尤もなりとて、和議に一決しぬ。云々』  と藩史にあるが、利家と家康の間にこういう事情から不和の生じたのを、利長が仲に入り、伏見に家康を訪うて種々意見を述べ和を乞うた。そこで家康も利家と仲直りする旨を答えたので、病いを押して利家は伏見に出向いたのである。むろん本心からの和解であるべき筈もなかったから、それとなく加藤清正や忠興が利家の乗物を護った。両者は仲直りの後、無事利家は大坂に戻った。  三月八日になると、こんどは家康が大坂邸に利家を尋ねて前の訪問に応え、追而《おつて》十三日には書を以て病状を問うた。  三月廿一日。前田利家は病癒えざるをさとり夫人に命じて遺書を記さしむ。而《そう》して閏《うるう》三月三日、終《つい》に大坂に六十二歳で利家は薨じた。  ところでそれから程なく、未だ愁嘆に沈んでいる筈の利長より突如、蔵人にお召しの使いが来たのである。  内膳はこの頃は蔵人の近習とも、預り人ともつかずに同居していたが、 「拙者お供仕りましょうか」  決意をあらわして言った。蔵人はその眼を見詰め、稍《やや》あって「何、いちど殉死仕損じたる身なれば、程を見て年貢《ねんぐ》は納めいではならん」嗤《わら》いながら、 「滅多なことで、併し死にはせん。案じずともよいわい」  言い残すと利長の御前へ出向いた。  すでに石川左源太、松田四郎左衛門両人が出仕している。いずれも前田家で聞こえた豪の者である。利長は三人の揃ったところで、余人を人払いの上、 「片山伊賀守を成敗いたさねばならぬ。その方共三人にこの役を申しつける。覚悟を致すように」と言った。  石川松田の両名は、「はっ」と頭を下げたが、さすがに蔵人は表情があらたまった。それを見て利長は、 「蔵人。不満か」 「いえ、毛頭左様にてはござり申さぬが」 「ならば受けい。左源太四郎左の両人に|よも《ヽヽ》仕損じはあるまいと思うが、汝が附くなれば己《おれ》も心安い」  拒否すれば先ず蔵人が死なねばならない。他聞を惧《おそ》れる上意討ちだからである。蔵人は利長の黒々と太い眉の眼を凝乎《じつ》と見上げて、「いかにもお請けを仕る」と答えた。  片山伊賀守はすなわち勘解由左衛門忠孝である。去る三月八日、家康が和睦の徴《しるし》に大坂邸へ利家を見舞った時に、便宜を窺い、家康を討取る旨を利家は伊賀に暗示した。すると伊賀は、 「御請《おうけ》を申上げる事いとやすき事ながら、能々《よくよく》御思案あそばされ候え。内府を討ち奉り候ても君がお命《いのち》は百日を過しなされまじき御顔色にて御座候。内府殿は武将|数多《あまた》ましまし天下無双の御大名なり。肥前守様(利長)御座候ても御若輩。然れば天下は石田|治部《じぶ》か、秀忠公か、御両人の内と存じ奉り候えば、御子様方の御為にも、秀頼様の御為にも思し召し変えさせられ、以後の事内府どのへ御ねんごろにお頼み置きなされなば、御子様永久に目出度く御家の御為にも相成るべき儀と存じ奉り候」  と、強《た》って意見を言ったので利家もその儀ならばよしよしと話を打切った。併しこういう大事を今の時世に知る伊賀守では、何かの時、かえり忠をされ間敷《まじき》ものでもなしと思案のすえ、討取ることに利長は決めた。  左源太、四郎左衛門の両者を差向けたのでは伊賀守も用心する。そこで伊賀守が心を許す、蔵人の同行を促したのである。利家薨じて僅か七日後——閏三月十日タ景であった。蔵人、左源太、四郎左衛門の三人は大坂の邸に於て片山伊賀守を弑《しい》した。     *  蔵人が内膳に刀槍術の奥旨を教え始めたのはその頃からという。所詮は蔵人も死すべき身なのである。片山伊賀弑殺の討手のうちに蔵人の加わっていたことが、曾ての殉死未遂の事情を知る者に、一きわ、呆れ果てた卑怯無類の武士と嘲《あざけ》られた為ではない。  伊賀が何故弑せられたかは当然、世人の異常な関心と注意を惹起《じやつき》する。当然、理由は穿鑿《せんさく》され、しかれば伊賀の弑せられたその同じ事由によって、こんどは討手三人が口を緘《かん》せられる道理である。その為か、左源太は上意討ちの後に自ら刃《じん》した。それが武士である、と事情を知る程の者は左源太の心映えを賞し、為にいよいよ蔵人は罵りの的になった。  四郎左衛門は、一日、世評に耐えかねてか私《ひそか》に蔵人を訪ねその胸中を糾《ただ》したら、「今日あるは上意の討手仰せられたる時より見えておる。さればこそ利長殿も覚悟せよと申された、世間が何言おうと、ほっておくがよいわい」言って、庭前《にわさき》に出て、ひたすら剣術の稽古をやめなかった。教授されているのは内膳と、年齢もほぼ似通った拝郷次太夫の二人である。  四郎左衛門は、「そうか。御辺がその気なら、おれは己で為様《せんよう》がござるわ」昂然と言い放って辞去していった。内膳が案じ顔で、「大丈夫でござりまするか」問うと、 「あれも武士、我も武士、つづまるところ懐《おも》いは同じじゃ」  言って、ソレ拝み打ちはこうじゃ引き打ちはこうじゃ……額に汗し、一心に次太夫へ打太刀を教えていた。  家臣の中には見兼ねて利長に「熟々《つらつら》おもんみるに蔵人こそは心底、腰が抜け申したり」と忠言する者もあったが、 「捨て置け」  利長は嗤って取合わなかった。  その裡《うち》、慶長五年となった。  石田治部少輔三成兵を挙げ、戦雲|遽《にわか》に動き出した。蔵人はこの時あるを待っていたのである。  ところで、拝郷次太夫の父は丹羽|長重《ながしげ》に仕えて小松城に在り。次太夫は十六歳の頃から加賀に往《い》って利長の寵臣となったが、戦雲の動くにつれて、利長と長重は矛盾の仲になった。次太夫は、利長は主君であるが、父は未だ彼家《かのいえ》に在り、然らば現在父の主人と父とに向って弓を引かんこと如何《いかが》なり、武士の法とは言いながら不義の動作いたすまじく、と思案をして利長の御前に出、 「それがしこと此の度の御人数に加わり、御供申すべきが本意にござり申せど、小松に父の候えば是《これ》に気を副《そ》え、手を引いて父子共に、戦場に赴き度く存じまする。常々、御|扶持《ふち》をたまわったは斯様の時に御用にこそ立つべきを、面《ま》のあたり御敵と相成る罪万死に値いたしましょうが、長重は小身、殿には加越両国に及ばせられる御大身におわしませば、人数に事|闕《か》かせられる儀は之無《これな》く、しかれば拙者|偏《ひとえ》に父の先途《せんど》を見届け、旧主人の為に討死仕り度う存じまする。何卒お暇を賜りますよう」と言う。利長は大いに感じ、 「今度の合戦事済み、凱旋に及ばば、必ず帰参致せ。よし。では往《ゆ》け」  と暇を与えた。次太夫は悦謝して諸朋輩にも別れを告げ、その足で蔵人の許に到ると斯様しかじか也と打明けた。 「そうか。おぬしにその心掛けあるならば武術なぞは末端の業《わざ》|くれ《ヽヽ》じゃ。存分に働けい」  と送り出したので次太夫は小松に帰った。さて戦端ひらき、浅井縄手の一戦に、利長勢は小松を攻めたが、その時、一番に城門を開け、突撃して来たのは次太夫である。  攻め手の松平久兵衛が、先ず、馳せ合ったが日頃、次太夫と入魂《じつこん》の仲なので内冑《うちかぶと》より莞爾《かんじ》と笑って、身を避《よ》け、 「通れ」  と言う。次太夫は一礼して、更に利長の本陣へと突き進んだ。次に水越|縫殿介《ぬいのすけ》に渡り逢ったところ、これも右の通りである。「次太夫、存分に働けや」叫んですれ違う。大将首を獲《え》んと次太夫は更に旗下《はたもと》近くへ進んだ。ここで大手をひろげ、立ちはだかったのが不破忠左衛門とて知られた勇士である。両人槍を合わせ、必死に奮戦して、後に次太夫は不破を斃《たお》した。しかる所に岩田伝左衛門と名乗る大豪の士が立現われ、大身の槍を揮《ふる》って身に数カ所の手傷を蒙りながらも勇戦し、次太夫を仕止め、その首を討取った。  一方、富田蔵人は大聖寺の城攻めの追手に加えられていたので、本丸口まで斬込み敵を数度追い却《しりぞ》け比類ない活躍をしたが、その身も数力所手を負い、終に花々しい討死を遂げた。前田の諸臣、腰抜けと思える蔵人がその日随一の勇戦ぶりを見て目を驚かし、戦死の報に泪《なみだ》を流さぬ者はなかった。蔵人は剣術の奥旨ことごとくを内膳に授け、思い残すところなく死んだのである。内膳は敵将の首二級を挙げ微傷だに負わなかった。  内膳すなわち、佐々道休である。     *  関ヶ原の一戦で徳川の覇業は略《ほぼ》成り、あとは大坂城に在る、豊臣秀頼抹殺だけの問題となった。そこで家康は、いろいろと爾前《じぜん》工作を須《もち》いたが、その一つに加賀藩の当主更迭策がある。  すなわち藩主利長がいては何かと気重《きおも》なので、これを隠居させ、世子|利常《としつね》(当時十三歳)に跡を継がせた。  豊臣恩顧の実力者たる利長としては、多少の感懐はあったろうが、所詮は徳川の世となる時潮に眼の利かぬほど暗愚の君主ではなかったので、幕府の意嚮《いこう》に従って封を利常に譲り、身は隠居後、金沢より富山城に移った。時に利長四十四の男盛りであった。  利常は、実は利長の弟で、幼名を猿千代といい、藩臣前田長種に養われて越中守山城にいた。関ヶ原の役で利長が丹羽長重と和睦した時に、人質となって小松城に入り、その儘、利長の世子と定められて後も此所にとどまり、名を猿千代から犬千代に改めた。歴代、前田家の世主は犬千代を名乗るのが定めだからである。  幕府は、利長が|すんなり《ヽヽヽヽ》と封を利常に譲ったのが余程うれしかったらしく、徳川家康みずから犬千代に首服を加え、従四位下侍従に任じて松平氏を冒《おか》させた。将軍秀忠も親しく字名を進め、利光と改名させたりしている。  ところで、一国一郡を領する程の大名は、幼少たりとも「いか様《さま》その御器量無うてはかない申さず」とばかり、利常が金沢の城に入る時に家中の諸士は総登城して、白洲に列候して如何なるお人ぞと待ち受けた。中にも家老本多|安房守《あわのかみ》、横山山城守ら重臣は玄関の雨落《あまおち》へ迎えに罷り出ていた。そこへ利常は差しかかったが、 『御若年のことなれば年寄衆も心|易立《やすだ》てにや少し頭高に見えけるを、利常公推参と思召しけるか、御乗物より出でて、つるつると御通りの時分、列臣、目出度き御事などと御祝いの御会釈申されけれ共、御返事無く、左右を白眼なされて|つと《ヽヽ》御通り也《なり》。  列臣皆興ざめたるに、家老安房守のみは居直り、 「偖々《さてさて》目出度き御事に候。昨今まで微々なる御暮しにて、俄かに大国を領し給えば何かと御気兼もあらんかと、心許無く存ぜしに只今の御様子、年寄りたる我等共を物の数とも思し召さぬお有様、寔《まこと》にういういしく頼もしくも存じ候。御当家御武運の長久、荒《あら》目出度や」とて深く感じける』という。  そんな利常だったから、あるいは利長も心休んじて家督を譲ったのかも分らない。家臣共も、御弱年ながら古今の御名将となり給うべし、とて利長に対すと同様二なく忠勤を励むようになった。  佐々内膳もその一人である。     *  大坂夏の陣に豊臣氏の滅んだ元和元年、内膳は利常に従って金沢を出陣し、五月七日、真田丸にて敵側と鎗《やり》を合わせ抜群の偉功を樹《た》てた。為に亡き富田蔵人の遉《さすが》は衣鉢《いはつ》を継ぐ兵法名人よと勇名を謳われたが、同じ真田口で奮戦、無類の活躍をした者に不破左兵衛と言って、これ亦、加賀家で一、二と称される武辺者があった。内膳は歳三十に満たぬが左兵衛は当時既に四十。その所為か、武功の第一は左兵衛どの也と内膳が手柄を譲り、左兵衛は口不調法で黙って之を受けたので、そんなことから両者は心を寄せ合い互いに昵懇《じつこん》の交わりを結ぶようになった。どちらかと言えば、内膳が常々左兵衛を上座にすえた。  ある年——詳しくは元和六年五月のことだ。その頃領知六千石|伯耆《ほうき》守となっていた左兵衛が、居宅に於て何者かに刺殺されていた。曲者は間もなく三好左介と分明して一層人々を驚かせた。凶器は槍で、左介も聞こえた士《さむらい》ではあったが、武術に於て到底、左兵衛に|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》うべくもなかったからである。刺し貫かれたのは胸板で、従って騙《だま》し討ちではなかった。堂々と真向より槍を繰出したのである。それを躱《かわ》しきれずムザと左兵衛は刺されたのだ。——尤も、左兵衛は丸腰で、場所は不破邸の奥書院。家人も、近侍《きんじ》の者も折悪しくあたりにはいなかった。それにしても、武辺巧者の伯耆殿がと家中の者は噂を聞いて耳を疑った。中には、さては武士の情けで故意に刺されたものでは御座あるまいかと囁《ささや》く若侍もいた。  曲者が三好左介では、さもありなんとも一応思えたのである。併し内膳だけは頭からこの説を信じなかった。といって、左兵衛のむなしい死への疑惑が解けぬ点では、内膳も渝《かわ》りなかった。  三好左介が手を下したことに、若侍共の早合点をした事情は、こうである——。  曾《かつ》て加賀家に奥村摂津守という重臣がいた。同藩の奥村河内守(一万七千石)、奥村因幡守(九千石)の弟で、妻は寺西宗与の娘である。家老本多安房守の組に属して、兼々利常にも目をかけられ、もし大坂出陣などある時は、その方に三万石の軍役を申しつけるゆえ出精致せよ等と御意を蒙っていた。  然るところに大坂の陣が起り、摂津は安房守の手に付いて出陣したが日頃懇志のことゆえ、道中でも道の広い所は安房と馬を双《なら》べ乗って、物語したという。さて大坂城を攻めた時に、朝霧深く城辺の見分けがつかなかったので安房守は、笹山の此方《こなた》に陣を備えた。そこへ摂津が来て安房に言うには、城門に今少し近く備えを立てられるが宜《よろ》しからんと。安房は答えなかった。摂津は重ねて進言した。返答なし。そこで摂津ひとりが前進して手勢を備えた。やがて朝霧|霽《は》れてみれば、笹山を離れ、城際《しろぎわ》真田出丸へ近接しすぎて備えの立てられる場所にあらず。鉄炮《てつぽう》雨の如く撃ちたてられ忽ちに備えの旗は打ちひしがれ地にさした旗は片端より倒れる。いかな摂津も本陣へ戻って備えを立て直すよりなかったが、この後退の様子は、ひとえに加賀の先手敗軍と見えたので全軍に沙汰され、利常は大いに不興がり摂津は面目を失った。  さて大坂の陣おわり、翌年二月利常は金沢に帰城。その四月越中へ鷹狩りの時、いつも鷹野には摂津は御供にはずれる事なかったが此の度は供の仰せが出なかった。摂津は御供装束で城へ登ったが空しく引返した。その時に、橋爪御門の外で兄の河内守に行き会ったのである。河内守は城代を勤めていた。 「その方、今日のお供にてはなきか」と河内守はいぶかしんだ。 「されば召し連れられず」と摂津は応えたが、その顔色は真赤に紅潮していた。  さて利常帰城ののち、書付を以て摂津の訴えるには『以前より三万石の軍役相勤むる心得仕るべき御内意によって、旧冬より大勢|牢人《ろうにん》ども召抱え、その外武器など用意も仕り来り候。しかるに鷹野のお供とて仰せ下されざるに、何条軍役の御沙汰も候べき。さりとて召抱え候者ども今更、扶持放たん申し立ても御座無く候間、此の上は私に御暇たまわるべく此の儀願い奉り候』とあった。利常は之を見て、暫く思案の後に硯箱を引寄せ、書付の裏へ「何と成とも心次第」と、したためて返した。これが事件の起りになった。  前田家記録によれば——、 「ここに於て摂津、河内、因幡へも、此の通りに候間、他国仕るべき由を申す。両人聞いてその方左様の所存に於ては、我等とも御家を立退き申すべしとその用意あるを、舅寺西氏も同意なり。この事安房守聞いて、大坂にての摂津の不首尾は我ら備えの内の事なり。しかれば此の身に掛りたる義なれば、某《それがし》も一所に他国せんと申さる。さて各々その覚悟にて、兄弟三人、父奥村快心の隠居所へ参って此の段々を申す。快心聞いて尤も也、いと安く手間ひまは要らざる儀、すなわち我等が首を討ち、その足にて立退き申すべしと。三人愕然と色かわり、これに依って談合大いに覆《くつがえ》って摂津一人立退き、その外は何事もなし。結句、安房守才覚にて快心と謀《はか》り、申し留まる由なり。摂津の家来ども、安房、その外へ門衆配分にて抱えられ、今にその末々あり。御家中三好左介なども、初《はじめ》は摂津家来の由」と。  ところで金沢を立退いた奥村摂津は、江戸へ出、評定衆へ書付を以て一々利常を訴え、大坂の陣の事その他、国許の仕置について公儀より御咎めのあるべき事どもを直訴した。そこで幕府は、 「御家来奥村と申す者訴えの書付出し申候。弁疏《べんそ》のため匆々《そうそう》御家来を江戸表へ遣わさるべし」  と申し送った。  元来、摂津は能弁の士である。この相手には誰を遣わさんやと老臣ども鳩首《きゆうしゆ》談合して大いに憂慮した。「摂津名誉の弁舌にて、殊に理窟者に候えば如何なる難問申し掛くるやもはかり知れず。且つまた渠《かれ》は御仕置の事も手にかけ、飽《あく》迄知ったる者なり。若し答弁に粗忽《そこつ》あらば大事なり」と案じて上意をうかがうと、利常は、即座に、佐々内膳を呼べ、と命じたのである。  内膳が出仕すると利常は、「その方知っての通りじゃ。誰を遣わすべきか、智慧をかせ」と言った。  内膳はこのころ先手組頭を勤めていたが、主君直々に親しく事を問われたのは此の時が初めてであった。  少時黙考したが、「それがしか不破左兵衛どのなれば」と答えた。老臣共は驚いた。内膳はともかく、左兵衛は二人なき弁舌不調法である。しかし利常は、 「そうか。そちもそう思うか」  満足そうに頷いて左兵衛を指名した。やすやすと左兵衛もお請けをした。  こんどは左兵衛の忰、治部《じぶ》が愕いて、 「此の御使い殊に大切に候。御自分さま不弁にて、然も御仕置方も委しくは知り給わず、熟々《つくづく》御了簡のうえ御断りなさるべく」と進言したら、左兵衛は、 「その儀は合点いたしおる。併し我ら不弁舌をも御存知にて仰せつけられしは思召しあると見えたり。御進退の障《さわ》りになるようなる儀は申し侍《はべ》らず。その方申す如く彼|め《ヽ》は口上無類の者なれば、一二度は返答いたし、その上には只一討にすべし」  と事もなげに言った。そうして江戸表に発足したが、 『天罰にや摂津病気に成り、左兵衛江戸参着時分に大病にて死去す。依ってこの事|止《や》む』と。  一説には、江戸参着後、密かに先ず摂津を尋ねて有無なく一刀に斬り伏せたのを、病気と公表したという。それで旧主の怨をはらさんと左介は不破宅へ闖入《ちんにゆう》したというのである。後になって分ったが、左兵衛の刺殺される時、主君より拝領の絵一幅を恰度|披《ひら》き見ていたところで、絵を蔵《おさ》める利常自筆の上書のある箱が、当然傍らにあった筈だが、箱ともども左介に奪い去られていた。     *  左介は、素懐をとげると直ちに逐電したが、書置をしたためてあり、実はそれによって彼が下手人と分ったのである。それ程、不破家の者にとっては悪夢かと疑う一瞬の隙の不祥事である。左介は武士らしく不破邸を立退いて後、奥村家の菩提寺で割腹をした。かたわらには、奪い取って来た左兵衛拝領の絵が、箱に収めて少しの瑕《きず》もなく置かれてあった。為に一そう人々は疑義した。  いかに自宅に寛ぎ、丸腰とはいえ、左兵衛ほどの達人なら、手許に武器がなくとも箱を把《と》って、槍を丁と叩くぐらいは出来た筈である。それも能わずムザと胸を刺されたのは油断の至りか、矢張り、覚悟の上で討たれたのである。さもなくば実質左介は武辺に於て勝《まさ》ったわけになる。  戦場と屋内では自ずと槍の扱いも異なろうから、さては、左介は隠れたる上手なりしよと、次第に一部の者は噂するようになり、天晴れな割腹ぶりが之を信じさせた。大方は、だから内膳の意見を糺《ただ》した。 「それがしには納得なり申さぬ」  誰にきかれても、内膳はそう答える。真実、納得なり兼ねる暗い表情で答えるのである。  武士の情けで、故意に討たれたとの説をなす者が問うても、 「いいや。およそ士たる者が、主君に断りもなく私情で命を捨てる事のあるべきや。命は殿様のものなり。されば手許に武器はなくとも、何なりとも引っ掴んで曲者に投擲《とうてき》、召捕えるが武士なり。それも知らざる程の左兵衛殿は虚気《うつけ》にてはなし」  と言った。では武辺に劣ったのかと重ねて問えば、 「納得参らず」  とだけ答える。つまり謎なのである。せめて左介存生ならば、尋常に立合って優劣を確かめるすべもあろう、その場の模様を訊きただすことも出来ようにと、子息治部へは洩らしたが、如何とも仕様《しよう》がなかった。そうして数年が過ぎた。  この間、内膳は家督を一子春之丞に譲って自らは武芸掛り(武芸一般にわたる取締り)を仰せつけられ、名を道休と号した。又、左兵衛の跡目は、不慮の死ということで無事、治部に相続された。     *  佐々道休と称してからの彼には、その武辺の妙味を伝える幾つかの挿話がある。  そもそも前田家には、当時、柳生但馬と並んで名人越後と称された中条流の富田越後がいたが、(前述の富田蔵人とは無関係)家中一統にて武辺|頼母《たのも》しきは、佐々道休に指を屈する乎《か》と、越後自身も道休には注目した。寛永二年、六十二歳でその越後が病歿したので以来、加賀藩の剣術名人は佐々道休と世に称されるようになった。 『耳底記』なる記録によると、 「道休の処へ、他国者、鑓《やり》を少々心得え候とて太刀筋を望んで来る。道休|能《よく》ぞ来る物|哉《かな》、参会すべきとて、その朝料理を振舞い、その上にて秘蔵の家来よほど太刀をも能《よく》する者を呼出し、相手になれという。彼者《かのもの》|忝 ≪かたじけな≫き仕合せに候とて立合い、鑓すじ御覧下され候えとて、互いに詰寄りしが、道休が家人の胸板を思うさまに突《つく》。右の外《ほか》鑓筋もさえける故、さてさて見事なる仕形、今一度と所望しければ、又立合う。又道休家来負けになりける。道休|扨《さて》も扨も目を驚かしたる事かな、さらばと今一人の者|出《いで》けるに、是も二度して二度ながら鑓つかい勝候て、その時道休相手にならんとて、勝手へ立ちけるを、その座に居り合う横山某押し留め、先ず我ら罷り出候て負け候わばその上にお手前お出で然るべく、率爾の御出合い如何《いかが》にて候と申せば、道休さばかり御気遣いあるまじ、負け申す事にてはなし、貴殿達鑓を留め兼ね候上に我等出でては益なしとて、出でしにより、何《いずれ》も手に汗を握りて、気を詰め目をすまし見る処に、道休平生小袖を上に羽織る事|数寄《すき》にて有《あり》しが、此時上着の裾《すそ》を帯にはさみて、太刀を持て出る。見て彼者申すは、これは存じ寄らざる次第、先程重ねて御家来を出され、鑓すじ御覧なされ候ところに、御自分様お相手は恐ろしく候とて、平伏す。道休左様にてはこれなく、鑓筋さえて見え候故、少々試し度く罷り出たる事也。鑓を留め得ざる時は、その方の弟子になるべし。若し留めおおせば、此方に様子をも聞かせ被《ら》るべく、芸者にてはなし、侍《さむらい》道の事なれば、いざ立給えと云えども、彼者恐入り候、もはや辞去仕り度しとて、再三辞儀に及びけれど、道休ことば荒く、さてさて下手を申す物哉、早や立てと云えば、彼者さらば御相手になるべしとて、鑓を取って立つ、道休は太刀をさげて持ちながら、構《かまえ》ながら、構はそれ計《ばかり》かと言う。浪人は例の中段にかまえて寄合うに、それにてはあたらぬぞとて、太刀を鑓につくるとひとしく、鑓下をつとかいくぐりて浪人の身際に詰め、その時、推参なりと一声して眉をしたたかに打ければ血|活《かつ》と出づ。良《やや》あって堂《どう》と伏して倒る。鼻唇まで一刀に割られたる也とぞ。在り合いの面々驚き候えば道休、御家名誉の為には殺生も目を瞑《つぶ》らねば相成らずとて、家来を呼んでねんごろに彼者を葬らしける」  又、 「西田覚右衛門と云う浪士、金沢に来りて軍法の指南せり。利常これを聞き、佐々道休を召し、如何に思うぞと問われけり。道休答えて軍法を家中にて習う者ある由、人は暇《いとま》あれば悪《あ》しき遊び抔《など》もする者なれば、習い学ぶがよろしけれども、弓流の稽古には劣《おと》り申さん。信長、秀吉侯の代《よ》は手前家の軍法あれば、これを守るが第一なり、一陣も見ぬ浪人の糊口《ここう》のための軍法は畳の上の水練にて、何の益《やく》にもならず、結句害になり候と答えけり」  又、道休はつねづね、我は越後殿の如きすじ通りたる武芸の遣《つか》い手にあらず、天下の御流儀(柳生流)をも知らず、只々蔵人どの腹芸に鍛えられ漸く今の境地を究めたりと、口ぐせに弟子に語り、 「富田越後どの先師蔵人どの此の二人、われに勝《すぐ》れたる名人也」  と称讃した。  その道休を、越後の秘蔵弟子横山は「越後殿今におわさば、もはや道休どのと立合いはなさるまじ」と迄、精妙さには舌を巻いている。  道休殿が入神の早さは古今無双なり、とも私《ひそか》に朋輩に囁いたそうだ。  それほどの道休が、わが生涯に釈然たらざるは不破左兵衛が死因なりと人に語っていた。  ある時。  利常が道休を召して、 「そちは無刀取りをいかに扱うぞ」  と訊いた。  生前の名人越後が同じ問いを発せられて(この時の利常は「汝の家に無刀取りの術あらば是を取ってみよ」と剣を突きつけていたのを)越後は、いかにもお取り申しましょうが、お後《うしろ》の戸の透《すき》より人が覗き居りまする、無刀取りは秘伝の術なれば先ず彼者《かのもの》をお人払い願いますると請い、利常が背後を振向いた隙に、つと寄って刀の手を抑え、これが無刀取りにござると言ったのが、一つ咄《ばなし》になっているあの無刀取りである。  道休のほうは、 「左様のお慰みに披露仕るべき術にては之無く、但し、お望みとあらば何時にても我が隙へ斬付けて御覧なされませ」と言った。 「そうか。左迄にそちに自信があるなら、既に試す要なし」  利常は言って満足そうに笑ったそうである。  さて数日後、あたりに家来のない隙を見て、利常は矢庭に太刀を振りかざし、御前に伺候して平伏する道休の頭上目懸けて一刀に斬下げた。パッと身をひねって道休は数尺|傍《わき》へ飛び退いていたが、此の時、力あまって利常は自身でおのが脛《すね》を切った。  それほど真剣に斬りつけたのである。見るなり、道休は愕然と色を失った。突如、鞠躬如《きつきゆうじよ》として畳に額をすりつけて平伏し、 「ああ、我が術未だ至らず」肩を震わせて謝罪した。  利常は殿様芸の域を抜く武術を心得ていた人である。それが一瞬の隙ありと見て、我が身に切りつける真剣さで討ち込んだのを、飛鳥の如く躱《かわ》したのである。まこと鬼神も及ばぬ早業なりと人は称したが、 「いやいやさには非ず」  道休は暗然と面をくもらせて述懐した。 「殿様を傷つけるようなる武芸は、世にある筈なし、我はこの日まで、人に名人の如く言われ、気にもとめざりしが末代の恥辱なり。あの場合は、見事に殿の手に懸って斬られるが名人なり。我も日頃は左様の心掛けにてあれど、不意をつかれ咄嗟《とつさ》に身を躱したるは武芸未熟の証拠なり」  そう言って長大息し、 「今にして思わば、不破左兵衛は名人なり。彼は箱の蓋にても掴み取り、曲者の槍先はらうは造作もなけれども、主君拝領の絵に粗相あらばと恐れ、おのが胸板にて絵を守りしならん。我はこの年になって未《いま》だ左兵衛どのに劣りしぞ」  と、しみじみ語った。利常からは「気にいたさぬよう。当方が軽挙なり」と詫びを入れたが道休は勿体《もつたい》なしとて、職務を辞し、終生、再び剣は把らなかったという。  寛永九年、四十五歳で道休は金沢に歿した。 [#改ページ]   籤《くじ》の太郎左衛門     一  加賀藩の記録をみると、慶長十四年に、藩士の刈田彦五郎の妾《めかけ》等を火刑に処した記載がある。  彦五郎召使いの小女が妾に頼まれて、妻女に毒を与えたことが露顕し、毒薬を商った尾張町大坂屋丹斎とその妾、ならびに小女三人ともども泉野に於て火刑に処せられたという。 『藩士刈田彦五郎は千五百石の身上にて覚えの侍なり。此の妻の腰元に|せん《ヽヽ》という小女ありて、茶をはこび内儀へ参らせけるに、折ふし草紙を読みかかり、余りの面白さにその茶を取って、その儘側へ置き、草紙に心を入れ有りければ、虎毛の猫来りて、傍なる茶を二口三口のみければ、やれ此茶を取りかえ参れと出されたり。然るに猫は二足三足ふらふらとよろめき、そのまま倒れ伏し、血を吐きて死にたりけり。  これは不審なること也《なり》とて彼《か》の小女をとらえ、折檻ありければその儘白状に及べり。茶の間に容儀美々しき若女房あり、常に彦五郎と密通し、自然内方(妻女)むなしくならば、家をそちにまかせんと戯《ざれ》ごと言うを実と心得、御張町大坂屋丹斎といえる生薬店へ言い遣わし、|ひそう《ヽヽヽ》石を買取りて、粉にして茶の中へひねり入れたるよし、ありの儘に申しければ、かの丹斎坊を吟味ありしに、申しけるようは、その薬売り渡す時、みせの縁側へ出、毒薬を此女に売渡すと再三呼ばわりて遣わしけり。しかれば我等一味にこれ無き旨を申述べけれど、少し内談も有りしやらん、丹斎と彼の若女房と小女とを牛にのせ、金沢町下を引渡し、犀川泉野にて火罪に処せられたり。  丹斎つねに角頭巾をかぶりおりけるが、火罪に処せられし時、火炎の中にも頭巾をはなさず、そのまま死しけり。故に後々まで丹斎頭巾と申し伝えけり』  と。  ところでこの丹斎頭巾を、金沢城下一円で被る者は無くなったのに、ある日、藩士大平左馬丞の父で閑斎と自称する老人がことさら、これを頭上に戴き、往来を闊歩《かつぽ》するので人々の評判になった。  閑斎は先代・利長公の比《ころ》に郡奉行を勤め、前年隠居して城下はずれに小宅をかまえ、下僕のみと暮している。家督を継いだ左馬丞は実子ではなく、亡妻の縁者を養ったもので、屋敷も元来は惣構《そうがま》えの外|藪《やぶ》ぎわに立派なのがあり、然るにわざわざ城下はずれへ閑居するのを見て、義理の父子——その間柄の不和を云々する者も居た。そこへ、ことさら丹斎頭巾など被り出したから、いよいよ忰へ厭がらせでもあろうかと人は噂した。  左馬丞は父の家督そのままを継いで知行千石。何も父を不自由な所へ別居さす理由はないからである。  町の所用を済ますと閑斎は本宅には見向きもせず、いつもさっさと隠居所へ帰る。常は城下へ来れば必ず勝負を挑む碁敵の山下勘兵衛宅へも、此の日は立寄らず帰ったので、一そう、厭がらせであろうという評判が高くなった。  左馬丞の屋敷の隣りは、同じ小姓頭をつとめる藤田太郎左衛門の居宅である。閑斎老人が妙な頭巾をかぶり出したと評判のたった二、三日後。隣家同士の間柄でもあり、昵近《じつこん》の仲なので太郎左衛門は非番の日を俟《ま》って左馬丞をおとずれ、「一体どうしたというのじゃ」と訊いた。  太郎左衛門は白皙《はくせき》の左馬丞と違って、大男で大髭の鍾馗《しようき》大臣の如き容貌で、力も人に勝《すぐ》れ、籤《くじ》の太郎左衛門の異名で家中に知られている。  曾て先君・利長が西尾隼人という者を召抱えたが、隼人は目見《めみえ》の時に長袴に躓いて転んだのを、近習の輩が笑った。利長は以ての外に立腹し、「年寄ったる者は斯様のこと又もあるべきなり。以後の為なれば、笑いたる者|鬮《くじ》を取らせ、一人に切腹申しつける」とて、籤をひかせた。それに藤田太郎左衛門が当った。  さなくても人目に立つ風貌だったが、隼人は渠《かれ》を見て、 「眼光五燿ありてただ者ならず。彼程の士を|わけ《ヽヽ》もなく失わんは御家の御損なり」  と種々に詫言《わびごと》を申し出、余人が鬮引きたらんには某《それがし》もかほどに詫びは入れ申すまじく、と迄言ったので、漸く赦免あり、以来、籤の太郎左衛門の異名を獲《え》た。関ヶ原の役の頃ある時、太郎左衛門は主君のお側近くにいて、けしからぬ声を発したので、近臣共が驚き何事ぞやと問うと、嬉しそうに彼は笑って、 「我常に軍旅の事にのみ工夫を凝らす、今も図に当りたると思うことあり。思わず声を発したるなり。沙汰なし沙汰なし」と言った。あたかも全軍の総帥の如き言辞に、並いる部将どっと朗笑したが、そんな愛嬌もある男である。 「この目で見届けたわけでないゆえ、拙者にも事由が分らんが」  左馬丞は悒鬱《ゆううつ》そうに、弱く笑った。 「おぬしと父者が日頃不和というは、まさか真実ではあるまいの」太郎左衛門が訊いた。 「さような馬鹿なことはない。身共の口から言うも何だが、父上に悪《にく》まれる覚えはない」 「では嫁御か」  左馬丞の嫁は、左馬丞が閑斎の家に養子となる前から先方との間できめられていた。左馬丞の実家は八十石取りの軽輩である。よめもこれに相応した家の娘である。大平閑斎のよめには不足なりとの意見が重役の間にもおこった時に、左馬丞は、今更さような事で婚約を破棄するほどなれば拙者大平家へ養子には入り申さず、と主張した。八十石取りで充分だというのである。閑斎は終始この事には口出しをしなかった。結局、よめはその儘大平家に移ったが、そんなことで、何かと不満があるのだろうとは大平家にくわしい者らが私語している。閑斎は古武士らしく住居の明り障子は皆、諸方呈書の封紙を以て張り、因《よ》って所々に人名斜めに見えたりしていた。よめは、風趣を好んで、これらの襖《ふすま》を腰通り一枚別色の紙で張り、床の間の架《か》けなぞも松樹の俤《おもかげ》に造りかえて、とかく風流めかす。左馬丞もこれを愛《いと》しげに黙許する様子があったのを、一度、閑斎は叱ったことがあった。又よめは便所へ行って手水《ちようず》を使うのに、手水鉢の水を浚《さら》える位に何度も手を洗う。老人の短慮でこれも気に入らぬ様子と婢《はしため》は囁いていた。隣家の気|易《やす》さで、そんなことも太郎左衛門の耳に入っていたのである。 「拙者の口から言うも如何《いかが》じゃが」  左馬丞は口癖の片頬を、歪《ゆが》めて嗤《わら》った。 「父上ほどの仁がよめの不満ごときで人目に立つ頭巾をいただくなぞとは」 「では何じゃ」 「分らぬ」  ちょうど嫁が其所《そこ》へ這入《はい》って来たので男同士は口を噤《つぐ》んだ。 「いらっしゃいまし」  よめは眉の剃迹《そりあと》のまだ青々とした、小柄な夫人である。武家生活に於ける「表」「奥」のけじめの定まらぬ時代で、男客にも座敷に来て夫婦して歓待する。年は十九になるが小柄なので、一そう初々《ういうい》しく、新妻らしく見えた。夫の左馬丞は既に三十一である。 「あの猫はその後どうなされましてございますか」  よめは太郎左衛門の前に茶菓を進めると、次の間まで退って、敷居ぎわで目を細めた。  太郎左衛門には彼が十五の年から連添う病妻がいるが、永《なが》のわずらいの徒然《つれづれ》に好い猫を一|疋《ぴき》飼いたいと夫に請うた時、左馬丞のよめが病臥を見舞っていて、|またたび《ヽヽヽヽ》を火にお焚きなされたら、とすすめた。その通りにしたところ、香の至る所の猫ことごとく煙りをしたい来たり、火辺に輾転《てんてん》俯仰して狂気の如く涎《よだれ》を垂れ、正体を失う群猫、数十疋に及んだ。その中で目ぼしいのを飼ったのである。 「そもじのおかげで妻《さい》も|いこう《ヽヽヽ》慰められており申すわ」 「それはようございました」  ほんとうに心から嬉しそうに、よめは近日中また、お見舞いさせて頂きとう存じます、そんな挨拶を残して、 「どうぞ、ごゆっくり」  と引きあげていった。べつに舅殿へ無愛想のよめとも見えなかった。  太郎左衛門は言った。「おれが一度、閑斎どのに意中をただして参ろうかの」 「それほど、大|袈裟《げさ》に騒ぎ立てることでもござるまい」 「それはそうじゃ。しかし気に染まねば殿様とて御意見申す程の老人。はらに一物あっての振舞いなれば、後々また、何を仕出かされるか知れん。今の裡《うち》に肚《はら》を聞いておくが孝行というものであろう」  それでも左馬丞は気弱な、ためらいの表情で黙り込んでいた。姑《しばら》く、太郎左衛門はその面《かお》を、じっと見入ったが、 「そうか。気がすすまんのであれば、わしとて差し出ぐちはきかん。——が、おぬし、大体に気の弱いが老人に面白からんのではあるまいか喃《のう》」そう言い捨てて、この日は裏庭づたいに己《おの》が屋敷へ帰った。     二  当代の藩主利常は、時おり郊外の老臣の別邸を訪ね、往復の乗物の中で喫煙を楽しむ。ある時網戸をあけ、窓外の様子を眺めながら城近くまで戻って来たら、行人の中より、つかつかと歩み来て己が烟管《きせる》を差入れて、 「お火を拝借仕り度し」  申し出た武士があった。行装の供連《ともづれ》は傍若無人の振舞いに驚いたが、利常は苦笑を泛《うか》べ、 「爺《じい》か。又何ぞ異見いたす存念じゃな」  わざわざ乗り物を停《と》めさせ、莨盆《たばこぼん》を与えながら話を聞いた。爺というのは閑斎である。閑斎はそんな振舞いも許された老人なので、次には何をやり出すかと太郎左衛門も案じたのである。  しかし一二度、それからも丹斎頭巾を戴いて城下町に姿を見せたが、この時は碁敵を訪ね、一戦に及んでから、 「おぬし又なんでそんな頭巾をかぶるのじゃい」老人がジロリと睨《ね》めつけると、 「これか。丹斎とやら申す奴、商人ながら見上げた根性ゆえ、チト妙案を藉《か》りた迄じゃ」 「妙案?」 「さればよ。火の中にて頭の熱いを防ぎおった。この頃の日中が陽差、頭蓋を冷やすには良い思いつきじゃでの」  事もなく言ったそうで、どうやら厭がらせでもなかったから、気弱い者の常で左馬丞は独りの折ひそかに胸を撫でて安堵《あんど》した。  半月余り過ぎた。同じ城下に、宮村与兵衛という者があった。町人ながら易学に妙を得て、兼々われは八月十五夜に生れたれば何《いずれ》の年にか同日に死ぬべしと予言し、易観の妙手なので家人も毎年、十五夜が近づくと大いに恐怖した。与兵衛は又、鳥獣の類を常に馴染ませ、梁《はり》を走る鼠なども手を挙げて呼ぶ時は、やがて掌に握られる程である。身上は富裕だったが毎日つづれを着て錫《しやく》をふって歩き、昼七ツ時には帰宿し、即ち美服に着替えて万丈の楼上に坐し、易をのみ見て暮しているが、その楼居の美麗、言語道断なりきという。  友来たれば楼上に対坐して、睡気をもよおすと客と対しながら仮寝するばかりで、一生平臥せし事なく、他人の善悪を口にしたこともない。日本の地理は掌《たなごころ》をさすごとく談じ、鳥獣の声などで未然に事を卜《ぼく》して一も違うことがなかった。  この与兵衛の評判が、国守の聴に達したので目見得を許され、藩主利常より三千石賜るべき仰せがあったが固辞して受けず、武術は心得たるやと問われると、 「生来刀剣の術学びたることござらねども、人を恐れたる事も覚えはべらず」  と答え、家士の手裏剣をかりて庭中の鳥を命ぜられるままに刺した。そうして只城下にあらば足《た》り侍《はべ》るべしと、その席で、もとどりを切って退出した。妻はあったが一二度逢ったきりで寡夫《かふ》の如く暮したという。一子有り、男子で非常に之を愛していたが、その子七歳の時、庭に遊んでいて松の枝を取り、西方より来た狗《いぬ》を打擲《ちようちやく》するのを見て、忽ち刀を抜いて切殺した。いかなる仔細でか、わけは人に話さなかった。生来|施《ほどこし》を好み、乞児貧窮の者に至るまで金銭を与えずという事なく、かつて言うのに、 「我もし志の如くなるを得ば、郭注荘子の書は日本になきようにすべし。此書ほど今時の機に逢いて人をそこなうものはあらじ」  と嘆いたという。  その宮村与兵衛が、正《まさ》しく八月十五日の夜、盗賊に兇殺された。  単身忍び込んだ偸盗《ちゆうとう》で、身を縛られた下女の言うには与兵衛を刺殺して金品を略奪し、立去る時には再び縛《いまし》めを解いてくれたが、渠《かれ》は顔に墨を塗っており、武士の言動で、丹斎頭巾を被っていたと。  城下の者は、予言通りの死《ヽ》と、丹斎頭巾ということで一層騒ぎ立てた。当然ながら一応、疑いの目で閑斎は見られた。むろん千石取りの御隠居が夜盗の真似をするわけはない。しかし盗みは、人目を欺く手段かも知れず、武士の言動というのも奇怪である。何ぞ考えあって、与兵衛を斬殺すべしと、閑斎老人ならやりかねぬ事とも思える。当夜、与兵衛は例によって楼上で夜の星を卜している様子であったが、同家の間取りに詳しい者でなくば直ちに楼上へ闖入《ちんにゆう》するのはむつかしい。与兵衛とて如何に己が死を予知していたとは言え、声もあげずに斬られたのは曲者が顔見知りであったからではあるまいか。閑斎老人は日頃与兵衛とは交わりがあった。退去するに当って、わざわざ下女の縛めを解いたというのも武士らしい行為である。  それやこれやで、町方の者は次第に閑斎老人の仕業と思いだした。  むろん家中一統は誰も閑斎のしたこととは信じない。与兵衛は町人なので町奉行所から閑斎への吟味取調べもない。——ただ、これで如何な御老人も以後丹斎頭巾は遠慮めされよう等と話し合った。ところが事件の数日後に、やっぱり同じ扮身《いでたち》で閑斎は城下を通行して藪ぎわの自宅へ入った。たまたま下城して来た太郎左衛門が門前にてこれと行会い、 「御老体、めずらしい事でござるな」  呼びとめたら、 「さよう。御辺も息災で何より」  無愛想に言って見向きもせず邸内に消えた。 「ハテ変じゃぞ」  その後ろ姿を見送りながら初めて太郎左衛門は疑惑した。  その晩。閑斎の去《い》んだのを確かめてから左馬丞を訪ね、 「何で父者は来られたのじゃ」 「今日は亡母殿の祥月命日ゆえ、位牌を拝みにな」  左馬丞は一向疑う色もなく朗らに笑って「おぬし、噂を気にして来てくれたのかも知れん。実は身共も疑わぬではなかったが、今日、父上に会うて心が晴れた」と言った。 「何ぞ、その話が出たか」 「いいや。ふだんの通り、碌《ろく》に我らには物も申されず位牌に合掌のみして、帰ってゆかれた」 「それでおぬし、満足なのかい」  幾分、あきれ顔で左馬丞を見据えたが、左馬丞は含み笑って黙っている。 「まあよいわい。しかしおれは、まだ疑いを霽《は》らさんぞ」言うと茶に手もつけず立帰った。     三  与兵衛暗殺の下手人は分らなかった。そのうち凩《こがらし》の吹く季節となった。  前田家の名臣村井又兵衛が高岡(利常の兄利長の居城)から金沢へやって来たのはこんな時である。  又兵衛は『陳善録』に、 「殿様御機嫌ことの外よき時、又は御《お》しかり候時に、我ら(勘十郎)を小又兵衛と御意候。その時又兵衛はおれが名付けたぞと明かされ候。今程は天下しずまりなく候間、よき奉公仕り、年たけ二十に余りたらば又兵衛になり候え、その時は小又兵衛とは云うまじ、と御意候。かようの御|詞《ことば》身に余り忝く存じ奮起仕り候」  と勘十郎自身が述懐している。それほど村井又兵衛は前田家での名臣である。その又兵衛|長明《ながあき》が、金沢に来た。  すでに又兵衛は六十七歳の老齢であったが、利長よりの使者の役目を了《お》え、城内利常の御前で世間|咄《ばなし》となった時に、 「御老体にうけたまわる」  末座から、大音に呼びかけたのは太郎左衛門であった。 「御老体なれば、此の謎お解き下さらん。閑斎は何ゆえ与兵衛を暗殺つかまつったるか」  仔細を物語って、問うたのである。場内騒然となった。  又兵衛は太郎左衛門を熟視して、 「御辺、たしかに閑斎が仕業と思うか」  と問う。 「この眼に曇《くもり》は候わず」昂然と太郎左衛門は答える。 「それなればそれ迄にて宜《よ》し。武士に穿鑿《せんさく》は無用」  言ってあとは何と尋《ただ》しても答えなかった。場所が場所である。太郎左衛門もそれ以上は追及しかねたが、己が目に狂いのなかったのに内心満足した。但しこの事は、 「一切口外ならず」  と利常から後で列座の一統に申し渡しがあったので誰も疑義を蒸し返す者はなかった。  それから半歳近く過ぎて、翌年|閏《うるう》二月、利常は尾張名古屋城築造助役のために、駿府に参覲《さんきん》していた加藤清正らと尾州へ赴くことになった。前田家の請負場所は五千百二十一坪、ほぼ名古屋城二の曲輪《くるわ》の全域に亘っている。この普請の首尾は、家康が豊臣恩顧の諸侯に巨額の出費と、兵力消耗を企図して命じたといわれ、それなら猶更、贅美を尽くし、人数を繰り出して築城するのが武門の意地である。且つ加藤清正という一世の築城の名人もおることゆえ、それにおくれを取ってはならじと家中より屈強の士を人選して派遣することになった。各組頭には組下より才覚ある士をえらび出せとの沙汰が下った。  扈従《こじゆう》頭たる左馬丞には、約百人に及ぶ組下の士がある。しかるに左馬丞は扈従頭を仰せつかって日浅く、且つは養父の家督を継いだとはいえ、元来が軽輩の出身で、為に軽視する組下の者も多く、部下の人心を掌握しきっていなかった。そこで人選に苦悩した。  重労役に服する士を選ぶのではあるが、才覚ある士を選べとの沙汰である。即ち選に入るのは名誉で、逆に洩れた者は不服をとなえる。まして軽輩より上った左馬丞では、後々まで怨嗟《えんさ》を含むであろう。  気の弱い左馬丞でもあったが、結局、人選に迷い、養父閑斎に指示を乞う覚悟をきめた。閑斎の人選なら誰も不服は唱えない。そこで組下の全姓名を列記して、隠居所へ届けたのである。  ところが、日は迫っているのに閑斎からは何の沙汰もない。いよいよ明日人選決定という日、家来を遣わすと、列記状は元の儘で突返されて来たのである。  この時ばかりは、如何な左馬丞も青ざめた。養父の悪《にく》しみを見せられた心地がしたのである。ちょうど嫁もその席にいたが、 「いかがでござりましたか?」  問いかけて、ハッと息をのみ、ひとみを凝《こ》らして夫を凝視した。それから遽《にわか》に次の間へ走り去った。太郎左衛門が、ふらりと内庭から現われたのはこんな時であった。  非番の左馬丞とは違い、城から下ったばかりで、麻上下姿に庭下駄を突っかけ、ニコニコしていたのは人選もとどこおりなく了《お》えた安心感からであろう。 「どうした? おれが方はもはや一切の事済ませ、申し渡しをして来たわ。あとは尾張での骨折りばかりじゃ」  言いながら左馬丞が何やら、慌てて匿《かく》そうとするのに目をとめ、 「何じゃ。親父どのの書状かの?」と首をのばした。その眼は好奇心に光っていた。  左馬丞は暗然と項垂《うなだ》れて、 「お手前との間柄で、この期に及んで白状いたすも心苦しいが、何をかくそう実は斯様しかじかじゃ」  力なく有りの儘を打明けた。聞くなり太郎左衛門の面が閻魔《えんま》大王の如く、真赤になった。 「藉《か》せ」  太郎左衛門は喚《わめ》いた。「おぬしの弱気もはがゆいが余りといえば閑斎殿も専横じゃ。養子とて忰ではないかい。お家の忠義と思えばこそおぬしも縋《すが》ったのであろうに。よいわ。身共が代って直談にて人選をきき出して来てくれる」言うと、無理矢理に列記状を引っさらい、足袋はだしで己が屋敷へ走り戻った。  それから小半刻後。  城下はずれの隠居所に閑斎と対面し、畳を敲《たた》いて面罵して、 「それでも御老体は武士の情けというを心得おられるか。今じゃから申すが、あの与兵衛の下手人御老体と知っても我ら口外は致さなんだ。他人とて左馬丞が胸中を察すれば、蔭ながら指図を与えるが人情でござるぞ。少々我儘が許されればとて、いい気になるがような性根、只ではおかん。何故与兵衛めを手にかけられた。御所存を承ろう」ハッタと睨みつけたら、閑斎自若として、 「与兵衛のことなぞ知ったることでなし。身に覚えもなし。又、左馬丞は我等が忰なればその方如きの指図は受けぬわ」  と言った。それから小声で、「小忰めが。出過ぎおる」と独語した。その声の終らぬうちに、太郎左衛門の手に白刃が閃《ひらめ》いて閑斎の眉間を切った。切られながら閑斎は「左馬丞に家督譲りし上は、自分|目利《めきき》次第に致すべしとて返したるぞ」と叫び、傍らに落ちた姓名の書附を再び太郎左衛門に叩き返した。それから顔面血に染まって突伏した。書附に血が附かぬようにと、押し返したのである。  太郎左衛門はその老人の振舞いに不審をいだき、書附を拾い上げて熟視したが、少時して、愕然と尻居《しりい》た。  能く見れば、好もしき士の上には爪点《つめてん》が附けてある。  太郎左衛門は尾張築城の役夫を了えて剃髪《ていはつ》、遁世した。晩年を何処で過ごしたか誰も知らない。法号を戒光院乾岳天居士という。富山大法寺に葬られたという。 [#改ページ]   咽《のど》 仏《ぼとけ》 玄 蕃     一  ——宝暦七年六月十五日、江戸ずい一の祭祀《さいし》といわれる山王祭りの日のことである。  山王の祭りは、将軍上覧の例があるので、御用祭り、天下祭りとも称され、神輿《みこし》、山鉾《やまぼこ》のほかに各町内より美を競った騎射人形、静御前、竜神などの山車《だし》が出される。往古は近江の日吉《ひえ》神社の船祭りに倣って、竜《たつ》の口より神輿を船に乗せる祭礼だったが、元和年間から半蔵門に入ることになり、当日は往来を止めて猥《みだ》りに通行をゆるさず、脇《わき》小路には柵《やらい》を結《ゆ》い、桟敷は二階を禁じた。諸大名よりは長柄槍の士卒が出て警固にあたる。山車は全《すべ》て牛に曳かせた。 『この祭礼の練物《ねりもの》、諸人の衣服の華美なるは目を驚かすに足るべく、これは祭礼場所の年番に当りし町家は、御役となりて、過分の寄附を集め、また御用祭と称して練物の手段、屋台踊り、地走り踊りに至る迄衣類の美々しきを競えばなり。去る年、日本橋通り一丁目二丁目、年番にあたりてその結構なかなかに述べがたく、二箇所にて八千八百両かかりしと巷談《こうだん》す。これに負けじと今年の行装衣服すでに言語に絶えたり』という。  そんな山王祭りの日に、江戸城では半蔵門の内——吹上《ふきあげ》上覧所で将軍以下、陪席の諸侯が見物していたら、俄《にわか》にタ立が来て大雨になった。ちょうど麹町二丁目三丁目の山車が渡りかかっていた時で、町人共は装束ともどもずぶ濡れになり慌てて木蔭に退いた。  さいわい、程なく雨は霽《は》れ、青空がみえ出したので亦々《またまた》、後続の山車はつつがなく渡り始めたが、此の時、上賢所の前に、さいぜんの麹町三丁目の氏子たちの脱ぎ捨てた泥まみれの草履《ぞうり》が夥《おびただ》しく、はなはだ見苦しかったのでお上の目障りになってはと御目付役宮城越前守は気にして、町奉行依田和泉守に、 「町人共の草履はなはだ見苦しければ其許《そこもと》より組衆へ下知めされ匆々《そうそう》取片附けられるように」  と伝えた。ところが再三これを通達しても何故か和泉守は肯《がえん》ずる様子がない。  そこで越前はいよいよ目障りとなるのを恐れ、御小人を督促して件《くだん》の草履を一々片附けさせた。ところが、上覧所よりこれを見た大岡出雲守が、刀を引っ提げ、躍り出て殊の外怒りの顔色で、 「本日当番の御目付は宮城殿か」  と呼ばわりながら越前守の前に立ちはだかり、 「町人共が脱ぎ捨て候草履を、何とて、小身なればとて御直参の武士に片附けさせたるぞ。其許お差図にて致せしことか、但しは小人共の差略か」  と問うた。  越前守は、 「拙者下知にて片附けさせ申してござる」と答えると、 「何」  大岡出雲守は顔面真赤になって、 「匹夫町人の草履を公儀衆に申しつけ片附けさすとは格外無礼の振舞い、さぞかし御小人ども内心無念とは思えど、御目付支配の下知なれば違背もなり難く、その通り致したのでござろう。渠《かれ》等に於ては神妙の次第ながら其許下知とは以ての外。左様に組子の支配を土芥《つちあくた》の如く扱うようにては平生支配へのあたりも、さこそと思いやられるわ」と言った。  何と言われても越前守には返す詞《ことば》がなく、ただ項垂《うなだ》れ赤面していたら、更に傍らの町奉行依田和泉守へ向って、 「いかに和州」  と大岡は問う。和泉守は、 「されば宮城殿がつまらぬ下知にて在りしぞ」と挨拶した。 「さようであろう、いや誰が見ても左様でござろう」  吐き出すように言い捨てて大岡は上覧所へ戻った。  衆人環視の中である。よせばよかったが余りの無念さに、越前守は依田に向って、 「いかに和泉守。そのもと組にて片附け候えと最前《さいぜん》度々申せしが貴殿得心無し。あっぱれ其許は当代の御風儀に叶うものよ。我らに於ては、出雲守殿に叱られ候て武士の面目もはや今日限り、当日は山王の神輿渡る大祭礼日なるに此の越前が為には大凶日なり」  と大音に、上覧所の将軍家にも聞こえよとばかり言い放つと、その場は急病と称して匆々に退出し、翌十六日、病気の為「御奉公御断り」の旨を届け出た。更に月余を経て、老中すじへ書付を以て「病気全快これ無く候間、御役御免仰せつけ下され度」と願いを出した。事情は周知のことである。老中すじでも宮城の願い尤も也、さも有るべしとこれを受理した。一つには大岡出雲守の権勢に媚びたのである。出雲守は岩槻二万石の小大名ながら将軍|家重《いえしげ》の御側御用人であった。  御側御用人というのは君側第一の役で、老中の待遇を賜り、将軍の言われることでも、それがよろしくなければ「相成りません」と申上げる。この一言でおやめになるくらいのことはあった。つまり老中と将軍の間に在っていろいろな働きをする。老中に対しても、事と次第によっては「さようなことは言上いたしかねる」とか、「お取次いたしかね申すゆえお直きに言上なされい」というふうに拒絶することが出来た。殿中に於ても御三家御三卿は将軍家の親類で別であるが、老中・若年寄・御側衆だけは、御坊主が先に立って、シーシーという制止声をかけて通ったという。(武家事典より)  そんな出雲守に較べ、宮城越前守はたかだか千百石取りである。更に悪いことに、出雲守と越前守はもとは同輩であった。     二  宮城氏は、古くは豊臣秀吉の家臣の出で、関ヶ原の役以来徳川の麾下《きか》についた。  越前守の祖父を監物《けんもつ》といって、長崎奉行の時に数多の人を死刑に処した処置よろしからずと職を奪われ、出仕をとどめられた。五百石取りだった。のち赦《ゆる》されて小普請となったが猶、拝謁をはばかり、不遇のうちに死んだ。  父は大学といって、十三歳で将軍綱吉に仕え、書院番より進んで寄合に列したが、ある年殿中にて失心して自裁《じさい》した。  越前守は大学の一粒種である。はじめは前将軍吉宗の書院番に列し、のち御小姓にすすんで吉宗の寵を蒙った。 『ある時、吉宗公|葛西《かさい》の辺御|放鷹《ほうよう》のとき、農家に御立寄りありたり、その家の農はかねて人相を善く観るとて近郷に称されし者なり、吉宗公そのとき御鷹場にて御足泥に汚れ玉いし故洗わせられん為なりければ従い奉りし人、人やある水を参ずべしと言いければ農即ち出て御傍により、御足に水を濯ぎながら御顔を見奉り、おまえは扨々《さてさて》上なき御人相なりといいたり。公大いに笑わせ玉い出行ありて、彼は人相の上手かな褒めてやれと左右へ上意ありければ犬勝(越前守)乃《すなわ》ち賞美の物を取扱う、農|恠《あや》しみけるに犬勝|黙《もだ》し微笑するのみにて上様とは告げず。この事却って御感にかないたりと』 『また御鷹場先にては、すべて御手軽き御事なりしとなん、是も何方《いずかた》へか御放鷹のとき附き従える人両三人にてある農家の庭にいたらせられければ、米四、五俵積んで有しに御腰を掛られ、御休憩あらせられしにその家の勝手より老農出て目をいからし大音にて公方《くぼう》様へ御年貢に上《たてまつ》る米俵に尻を掛くるは何者ぞ勿体《もつたい》なきことよと、大に罵りければ速に立ち去らせ玉いける。後、右の老農は犬勝領内の者と分明しければ御感あり物を賜いたり』  こういう越前守にくらべて大岡出雲の方は、もとは同じ廩米《りんまい》三百俵だったが、小事にもよく気がつくので長福丸(嗣君家重)のお附小姓となって西丸に出勤し、廩米を采《さい》地にあらためられた。のち吉宗の薨御によって越前守は務めをゆるされたが出雲は家重将軍襲位と同時に、五百石の加増あって(すべて八百石)諸事を執啓《しつけい》することを見習うべき仰せをこうむり、ついで御小姓組番頭に准ぜられた。その後は、 『翌年御側にすすみ、千二百石を加えたまい諸事を執啓す。のち五千石の加恩あり、更に三千石を加えられすべて一万石を領す。  宝暦四年三月若年寄に転じ、直月《ちよくげつ》をゆるされ、なお奥のことも兼ぬ。同時に五千石加増せらる。のち五十《いその》宮(嗣君家治の御台所)御|入輿《じゆよ》のことを沙汰せしにより、五千石加恩、程なく御側御用人となり、のち更に千代姫君生誕の事を沙汰せしにより時服七領をかずけらる』  とんとん拍子の出世である。殊に大奥の事も兼ねていたのは絶大な権勢をもたらした。  越前守にすれば吉宗薨去のとき、既に奉公は了った。殉死が厳禁でなければ私《ひそか》に冥府に供したいとさえ思ったのである。それがいくばくもなく、当の出雲守から、 「そのもとほどの武人じゃ。この後《のち》ともにお上のため御奉公してくれい」  と再三すすめられ、寄合に列して徒士頭となったのが、思えば不覚である。事ある毎に出雲守は越前の存在などは無視し、というより、無視して当然な彼の栄達ぶりを見せられた。  諸臣はひたすら彼の歓心をかうに汲々たる有様である。醇朴《じゆんぼく》の士道は地をはらった観がある。  そこへ、今度の事件である。     三  大岡出雲守の家来に、咽仏《のどぼとけ》の玄蕃と綽名《あだな》される侍があった。もとは下野国|壬生《みぶ》の領主・鳥井伊賀守|忠弼《ただすけ》の家臣で、鳥井家を浪人して出雲守に召抱えられた。玄蕃が一日、この日は夜詰の番所を勤める躰だったので、休息の間に寝転んでいたら、伊賀守の召使う小坊主が鷹|鶉《うずら》を持参し、これは殿様御|愛《めで》の鳥なれば遣わされ候と御意を伝えた。玄蕃はこれを聞き、そのまま起上り、傍らに脱ぎ置いた袴を着して主君の座所の方へ向って押し戴き、御礼は只今|罷《まか》り上って申上げまする、と言ってから、さて己《おのれ》の如何に忰なればとて、大いなる空気《うつけ》もの哉、殿の御意ならば、先ず殿の御意あるぞと申し聞かせ俺が身支度したる上にて達すべきを、左《さ》はなくして寝ながら殿の御意をよくも聞かせたり。おのれ忰にてなくば仕様もあれど小僧の儀なればこの度は免《ゆる》す、と大喝したので小坊主は肝を潰したという。  そんな玄蕃が主家を浪人するにはわけがあった。  鳥井伊賀守は当時御奏者番・寺社奉行を勤役していたが、日本一の美男と評判だった殿様である。夫人は京極佐渡守の叔母にあたる人で、まことに恋聟というべく、夫婦仲の甘いこと蜜もかくやと思われるばかりだった。ところが新婚の翌年、いまだ同|衾《きん》の語らいも浅からざりしに、伊賀守は就封の暇をたまい帰国しなければならなくなった。  当時、大名の正室は江戸に置かれる。一歩も出ることは|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》わず、一年余を夫婦は別れて暮さねばならない。夫人は大そう悲しんで、「君に馴染参らせて新枕のちぎり何程も経ざるに、只今御在所へ御出足、暫く逢見んことも成まじければ、物思いは昔にまさり玉の緒も絶えなんばかりに存じられ候、妾《わらわ》をも、如何様ともして在所へ倶《とも》させ給え」と胸をこがしてかき口説いた。  伊賀守とて愛しい妻である。元来が内気な殿様だったが、それだけに新妻への恋情も激しかったのだろう、思案に余って、遂に病気と称し在江戸の願いを出した。  これを聞いて駭《おどろ》き、呆れたのが玄蕃である。「帰国は政道の御為にてはなきか」言って、如何に奥方なればとて女色に溺れ給うがようなる君なれば御当家も今日を限りなるべし、と追っ取り刀で内庭より奥へ進んだ。殿に諫言《かんげん》の上、かなわねば夫人を刺して死ぬつもりである。玄蕃はそういう武士である。恰度夕暮で、蝙蝠《こうもり》が翔《と》んでいた。その一つが玄蕃の頭上をかすめた。気のたっている時で玄蕃は空中にムズと一匹を掴むと地上にたたきつけた。その時青色に光るもの、蝙蝠の迹《あと》より尾を曳いて地に落ちたが、墜ちてなお青光消えず、玄蕃は進む足を以て踏みにじったら、豆腐の滓《かす》の如きものが地に散った。  奥方は偶々《たまたま》広縁からこの光景を眺めたのである。あっと叫んで失神した。同室の伊賀守が愕《おどろ》いてとび出して、仔細を知り、「玄蕃、そちは奥勤めか」と激怒した。  玄蕃の昂奮は、この主君を見て一度に萎《な》えたという。「お情けなや殿」言うと来た庭を一散にとって返し、即日、暇《いとま》を頂戴した。その高森玄蕃を出雲守は五百石で召抱えたのである。当時としては破格のことである。  山王祭礼の一件のあった翌々月、ある日、玄蕃が出雲守の御前へ呼ばれた。「その方|又候《またぞろ》、癖を出し始めたそうじゃの」  出雲守が静かに言った。出雲守この時四十九歳。玄蕃は三十歳である。 「いかにも仰せの通りにござる」玄蕃は白眼で主君を見上げる。隆《たか》い咽仏が何かをゴクンと嚥《の》みあげた。玄蕃の咽仏の突起は異常で、腹にすえかねることあると表情は変えぬが、しきりに咽喉の突起を上下させる。三度、それが嚥下《えんか》される間に、事態の進展が見られぬと傍らの差料を引寄せる。武士が刀に手をかければ何れにせよ無事で済まぬ。小坊主が鷹鶉を捧げて来て御意を伝えた時も、玄蕃の咽仏が二度動いたので肝をつぶしたのである。玄蕃は一度|様斬《ためしぎり》をしたことがある。  当時刀剣の利鈍を試みる為に、斬罪に処せられた屍を斬るのを様斬といって、士分の者、僧侶、婦女、混瘡をわずらいし者などは之を行わなかったが普通の断罪人は、将軍家の刀を試す場合は腰物奉行より町奉行へ談合あり、仕置の日限を定めて執行場で試みた。斬り手は歴代山田朝右衛門ときまっていたが、一日玄蕃は之に代ったのである。  将軍家の御刀で、当日、執行場には土壇を築いて検使場より砂を敷きつめ、斬手者が居所を設けてあった。定刻になると係り役一同が揃う所へ、死骸は首と共に運ばれて来た。腰物奉行、徒《かち》目付が来て着座する。それから牢屋見廻りが準備の出来たのを告げると、検使場へ腰物方が刀剣の箱を携え来て様場《ためしば》の横正面で立合う。更に牢屋奉行、小人目付、打役などが列席すると、玄蕃は熨斗目《のしめ》麻上下で、手下両人に差図して胴を土壇の上に横たえさせた。そうして刀を押し戴き、切り柄をかけ肩衣のまま両肌を脱ぎ、土壇に向って胴へ先ず剣の峯をあて、右手に柄をもち、身をひらきつつ両足一所に並べて立って、刀を背に負う程に振り上げ構え、気を満たして、声と共に打込み、二つ胴にした。手下は胴の手足を双方に引去る。腰物奉行が斬り口を検分する。玄蕃は斬所と斬れ味の善悪を書付にして腰物方へ差出したが、同席した朝右衛門が驚愕した。水ももらさぬ手練の様斬だったのである。それでも終始、ついに玄蕃の咽ぼとけは精魂を嚥下することがなかったので、以来、いよいよ玄蕃の咽仏の動くのを人々は畏《おそ》れた。  出雲守は玄蕃を召抱える時に、 「爾後めったに慍《おこ》るではないぞ。その方が意中は咽喉に出る。悪い癖じゃ」と戒めた。その癖が、出ているのである。 「何が不満じゃ」出雲守はことさら低く気のない問い方をし、煙草をきせるにつめながら、「原田を叱ったことかの?」 「御意にござる」玄蕃は瞬《まじろ》ぎもせず主君の指の動きを睨む。煙草を煙管に詰めるのは吸い了った証拠である。終って煙管筒に仕舞う時に、莨をついで筒へ入れると|やに《ヽヽ》が出て懐中を汚すことがない。 「あれは所存あって叱ったことじゃ」出雲守は言った。例の一件で越前守が御役御免を願い出てから、宮城家の家士の中には主君の怨をはらさんと出雲守の動静を窺う者がある、と噂の立った時に、出雲守の家来原田が邸の附近で挙動不審の武士を見掛け、誰何《すいか》したら果して越前守の家士であった。そこで憤激した原田が狼藉《ろうぜき》に及ぼうとしたのを出雲守は叱りつけ、己が非を他人に転嫁するような腑《ふ》抜けの家来を相手にするなと言い渡した。 「その所存とやら、お聞かせ願いとうござるが」玄蕃は言った。 「そちの肚は読めておるわ。主人に非があるにせよ、はずかしめを受けたる家来が復讐を意図するは腑抜けどころか当然の所業じゃと申すのであろう。しかし玄蕃、そちは日頃、越前を何と申しておったかの」 「殿」玄蕃は昂然と胸を張った。「某《それがし》異なる風聞を耳に致してござる。殿には松平縫殿頭殿を、よもお忘れではござるまい」「縫殿頭? ハテ何じゃ」 「これはしたり」のど仏が、ひとつ、ごくんと動いた。こんなことを切出した。  まだ出雲守も越前も御小姓勤めの頃、松平縫殿頭という美少年があり、その男色に先ず宮城がなずんで、密《ひそか》に念友の交りをしていた所、出雲守も縫殿頭に心を通わせた。しかし我は二張の弓は引かずと縫殿頭は得心しなかったので、出雲守は以来、宮城をねたましく思い、事毎に論争を仕懸けるのを見兼ねて一人を西の丸の嗣君附きに吉宗のしたのが栄達と然らざるとの別れになったというのである。 「その事か」出雲守は事もなげに言った。 「その方とて若年の砌《みぎ》りは、煩悩に苦しめられたる覚えがあろう。人は何と申そうともこの出雲守、今更私情で越前を難詰はせん。それどころか、通すべき筋目は立てよう為に敢て越前を責めた。然るを馬鹿めが、お役御免なぞ願いおって」 「殿」「又、癖を出す」「いいや殿」 「分っておる。通すべき筋とは何じゃと申すのであろう。玄蕃、この出雲はな、越前と町奉行依田泉州となら、孰《いず》れをお上に御奉公専一に致さすべきかは心得ておるぞ。さればその方もチト別の分別致して、癖を出すなら出せい。たわけ」  いつの間にやら出雲守は本気で怒気を面に溢れさせていた。よくその意味が玄蕃には分りかねた。それで、 「何と仰せられまするぞ」膝を乗出すと「たわけ。それぐらいの分別、そちには、つかぬか」叱りつけて出雲守は忽ち奥の間へ駈け入った。北《にげ》るようにも見えた。     四  玄蕃の熟慮はこの時に始まる。前《さき》の伊賀守と宮城越前守は親交があった。その関連で、頭から越前も惰弱な人物と考えたのである。しかし出雲守は、世間の評判はどうあろうと玄蕃の見る限り、通り一ペんの才走った小人ではない。吉宗ほどの英君がそれなら嗣君のお附きに彼を附けるわけがない。偉くなるべくして今日の栄達を獲た人物である。そう玄蕃には見える。亦、出雲守の権勢を以てすれば越前を失脚させる位のことは、山王祭りを俟《ま》つ迄もない。その出雲守が、筋を通すべく責めたと言った。 「ふーん。……わけがありそうじゃ」玄蕃は腕を拱《こまぬ》き沈思して、良《やや》あって大きく咽仏をうごかした。虚空を睨みつける眼が次第に澄んで来た。玄蕃には妻子がある。伊賀守の奥女中を勤めていて妻合《めあわ》された女房である。玄蕃は差料を掴んで、御前を出るとお供の家隷《けらい》に、 「咽ぼとけを鳴らす事態になるかも知れん。そう、戻って妻《さい》に伝えい」告げると単身、依田和泉守の邸に向った。  大岡出雲守屋敷は常盤橋内——大手より五丁。町奉行依田和泉守邸も同じ常盤橋内に在る。目と鼻である。  和泉守は後には名奉行とも称された人物で、ある年、小石川の水戸邸に失火あった時、出馬して町《まち》人足を集め指揮して門に入ろうとするのを、水戸藩士が出て「手勢にて消し候えば猶予をたまわるべし」と言う。そこで和泉守は色を正し、 「お手勢にて消し留められ候わば仔細なきも、若し左なき時は御定法通り人数をかけ候ぞ」と、一時は控えたが、火勢の衰える気配のないのを見るや馬上に屹立《きつりつ》して「水戸殿にもせよ火を出したがわるいぞ、かかれかかれ」と下知しながら馬に鞭打《むちう》って門内に躍り込んだ。どちらかと言えば、そういう硬骨の正義漢である。亦、町人を謀叛の疑いで捕えた時、拷問しても白状しないのでその背をさき、鉛を流し入れたが更に白状せず、あまりきびしい拷問で遂に死せんとすると、走り降りてその罪人を抱え起し、汝おとこ哉《かな》男哉と落涙したという。しかし概して罪ある者には苛酷であった。玄蕃は和泉守の私邸に乗込むと、高森玄蕃|糺《ただ》し度き存念あって罷り越したりと高声に呼ばわった。何事かと和泉守は座敷に通した。  硬骨同士の対決である。玄蕃は言った。 「去る山王祭礼の節、町人共はき捨てし草履お目障りになるべき処、御支配のもの故貴殿方にて取り捨てらるべく越前どの申されしを、合点なき故、御小人に申しつけたる由われら主人出雲守殿大きに怒り給うと承るが、貴殿いかが思われその節これを構われざるや」と問うたのである。  和泉守は答えた。「お尋ねながら武士を以て町人のはき捨て候草履を取片附け申さすこと、我ら腹切っても嫌なり」 「然らば相尋ねる、もし上覧所近辺にその日、禽獣《きんじゆう》の類、上様へ害をなさんと致さば、武士たる者が畜生に手を触るべきやとて、お手前|傍見《わきみ》して打捨てられ候か。又もし、むさき犬猫の屍体これあるとも武士なればとて、御目障りもおそれずその儘に打捨てられ候や、御所存あらば承り度し」と言った。  さすがの和泉守もこの返答に詰ったから、玄蕃は詞《ことば》をついで、「凡そ君の御目障りとなる物あらば、犬畜生は申すに及ばず惣じて取除き申すが警固の役なり。町人なればとて犬畜生には優りたり。貴殿、町奉行にてその日警固の役に非ずや。されば麹町三丁目の町人、上覧所附近にて草履ぬぎ捨て候こそ以ての外の無礼なるに、これを咎めずして町人のぬぎ捨て候草履などとは慮外も慮外。そも何の為の警固に候や。根元は祭り警固のお手前が落度ならずや」と言った。和泉守は一言も答えようがなかった。  玄蕃は俄然胸を張って、 「お分りめされたかい。然ればお手前、即刻越前守どのへ詫びを入れられるが順序でござろう。如何に」と迫る。和泉守はそれでも唇を噛んで答え得なかった。しかし抗《あらが》う態度は見えなかったので、ゆっくり、一つのどぼとけを動かしてから、 「いや、詞が過ぎ申したれば御容赦を賜り度し、されど筋目は筋目なり」言い放って、傍らの差料を無事に引寄せて、ゆっくりと起上った。  玄蕃にすれば、一世一代の弁舌をふるった心地で、内心甚だ愉快である。  これで以後、和泉守の施政に、ともすれば法を重んじすぎての苛酷さが無くなれば、つまりは出雲守の企図にも添う。越前守も改めて出勤することが出来る。先ずは万事めでたしであった。  それから数日がすぎた。 「玄蕃、そちの咽仏はよくよく慍《こわ》がられておるな」出雲守が諦め顔で苦笑した。  何のことはない、和泉守との対面中、二度ばかり、玄蕃は我知らず咽の突起を上下させていたのである。和泉守が抗わなかったのはその為であった。といって玄蕃の詞を無視したわけではなく、和泉守は町奉行らしい方法で事を処した。麹町三丁目の家主を早速呼出して、何れも不調法ゆえ御目付宮城越前どの災いとなりたり、屹度《きつと》慎むべしと厳しく叱りつけ、遠慮を申し渡した。むろん越前守に詫びなどは入れなかった。結局、気の弱い者が貧乏|籤《くじ》をひいた。 [#改ページ]   腰抜け外記     一  綾姫《あやひめ》が外記《げき》に育てられたのは三歳のころからである。  綾姫の父は多賀谷《たがや》修理大夫といって、戦国乱世の代《よ》に驍勇《ぎようゆう》を謳われた猛将だったが、時に利あらず、常陸下妻城に籠って血戦ののち華々しい最期を遂げた。将兵も多く主君と枕を並べて死に、家族も乱離した中に、綾姫のみは老臣外記に背負われて城を落ちのびて、常州豊田|郡《ごおり》の一村落に匿《かく》まわれ九死に一生を得た。  物心ついた頃は、綾姫は従って片田舎の名もない女童《めわらべ》であった。外記は世をしのんで百姓となり、下妻城陥落の時より供をした郎党数名は、何故か豊田郡に落着くと程なく主人外記に暇を出されて四散していった。郎党共が身辺に奉仕したのでは人目に立つというのが暇を出す理由であった。  綾姫が元は武州埼玉郡木西の荘・多賀谷の地頭をつとめた程の名門、多賀谷一族の忘れ形見であると外記に明かされたのは五歳の秋である。外記はこの時はじめて、薄穢《うすぎたな》い身扮《みなり》の綾姫を上座に据え、敷居際に平伏して、主従の規《のり》を超えたこれ迄の非礼を詫び、姫こそは多賀谷家再興の天命を負わせられる御身であると告げた。五歳の童女にはよく意味が分らない。 「爺《じい》はどうするの?」と訊く。 「今迄通りお側にて御奉公をつかまつりまする」 「そんなら、ええ」  綾姫は安心をし、これまで通り夜は外記の膝に抱かれて、子守唄を聞いて、一つ夜具に寝るのだと思ったら、「畏れ多き儀にござりまする」老人は破れ布団に綾姫だけを寝かせ、自身は不寝番《ねずのばん》と称し野太刀を抱いて手枕でゴロリと姫君の下座に横になった。荒屋《あばらや》同然の佗《わ》び住居である。毀《こわ》れた壁の隙間から月が洩れてくる。この時までは、そういう貧しさに何の疑いも幼な心はいだかなかったが、野太刀を抱いて、人里離れた山間の賤《しず》が家《や》に姫のため不寝《ねず》の番をする老臣のこちらへ向けた背すじを、綾姫は寝床の中から不審そうに|※[#「目+爭」、unicode775c]《みつ》めるようになった。  折をみては綾姫の父、多賀谷修理大夫|重経《しげつね》の如何に勇猛であったかを、ぽつりぽつり、外記が物語り出したのはその翌日からである。少しずつ、綾姫は自分が村里の百姓の子供等とは異なる星の下に生れたのを悟った。詞《ことば》づかいも以前とは違って、都風《みやこふう》につかった。 「でも爺や」  ある日綾姫は問うた。「どうして爺はわたくしだけを助け出してくれたのですか」  綾姫には、腹違いながら姉が二人、当時十歳になる兄がひとりあった。それらは皆、城炎上と運命を偕《とも》にしたという。多賀谷家再興の為なら、当然、女《むすめ》の綾姫よりは遺児たる兄を救い出す筈である。 「姫君さまが、分けてお美しゅうあらせられたからにござりまする」  外記は事もなく言って、「ま、今少し御成長あそばさば爺めが申すところ、御得心が参りましよう」 「爺は一体」  と、又綾姫は尋ねたことがあった。「お城でどのようなお役目をしていたのですか。家来は、爺のほかに何人ぐらい生きているのですか」  すると急に外記は狼狽の表情になり、 「およそ名ある勇士、ことごとく亡き殿のお供を仕り申した。爺めがお城にての役目は姫君さま傅《ふ》にござりまする」 「傅?……」 「ま、それも、いずれお分りに相成る時節が参り申そう」  性質聡明な綾姫はそれが追求してはならぬ問いであるのを幼な心にも感じた。しかしまさか、彼女を助け出したばかりに外記が埓外《らちがい》な腰抜け武士《ざむらい》と譏《そし》られているとは知らなかった。それほど実は、外記は世に聞こえた勇士であった。下妻城落城の時、敵方は、城主修理大夫以下、城を枕に自刃した見事な多賀谷勢の屍を一々実検した。部将の家族、その婦女子も悉《ことごと》く刺違えて死んでいた中に、渡辺外記の屍体のみは見当らなかった。主家滅亡の時に、当時の士風として逃走とよりは考えられぬ。一時は信じかねた敵側も呆れはてた眼違いかなと誹《そし》った。それほど、外記は忠義無二の士と思われていた。     二  多賀谷重経が常陸一円に猛威をふるっていた比《ころ》、外記の智謀を伝える数多の軍談がある。  ある合戦に、多賀谷の先手は山の端を廻ったが敵と出合わせて戦った。その鬨《とき》の声の揚るのを外記は聞いて、先手の軍《いくさ》味方うち負けたり、と言った。重経が、汝ここに在りながら味方の敗《まけ》しとは何を以て知るぞと尋ねると、 「味方の鬨の声次第に近く聞えるは一定《いちじよう》負けにて、勝軍ならば先へ進み遠く聞こえる道理なり」  と言いも果てず味方敗軍の兵、血にそまって追われ来たので外記の察する所|神《しん》の如しと称された。当時外記は未だ十八歳であった。  又この役《えき》に、敵陣の見えぬ所に陣を張った重経が、「遙か向うに馬煙り夥《おびただ》しく見ゆるは如何に? 我が軍、勝ちたるか敗けたるか」と尋ねると、外記は見て、 「敵打負け引取ると見え候。その故は、進む敵の武者|塵《ぼこり》は此方へかけて黒く見え、北《にげ》る敵の武者塵は向うへ掛けて遠き故に白く見ゆるものにて候。今は白みて見ゆるなれば敵方敗北なり」  と答えた。その詞《ことば》少しも違わず敵は敗走した。  又ある合戦に、山へ陣した手勢を見て、敵か味方かと詮議の時、外記が来たので、あれは敵なるや味方なるやと御詮議なり、御辺はいかが見らるるやと問えば、外記は望み見て、 「敵なり」  と言う。 「敵ならば誰ぞ」  重経が問えば、 「唯越《ゆいごし》入道なり」  と答えた。敵と見、唯越勢と何を以て見らるるやと別の一人が問うと外記は答えて、 「入道殿とは豊田城を攻めたる時一所にいて陣の取り様、具《つぶさ》に知ったり。山どりの高きを好むは入道殿が風なり。聊《いささ》かも違うべからず」と言った。果してその通りだった。  北条|氏政《うじまさ》が三万の兵を率いて下妻城に迫ったことがある。城兵はこの時|千波《せんば》を焼いた。外記は見て、北条勢必ず附き慕うべし、若き人は待伏せして功名あれ、と言ったから外記の詞にくるいがないので各自が待伏せる所に、敵兵来らず、外記殿が功名焦りなりと人々は嘲った。外記は、「積りも時には違うことあるものなり。必ず北条勢は附慕うならんと思いしにその儀無きは不審。さては花房満兵衛まだ生存《いきながら》えておるな」と言った。この時北条方では、月岡玄蕃をはじめ各将とも、烟《けむ》りに紛れ慕い攻めんと言ったが花房満兵衛は「城中に外記と曰《い》う巧者あり、必ず兵を伏せあるべし」と制した。烟消えて見れば果して兵が伏せられていたので智略家の見るところ鏡の如しと敵味方とも驚嘆したという。  壮者の頃は、それほどの智謀だった外記も年歯《ねんし》を加えるにつれ、次第に頭角を顕《あら》わさなくなった。黒糸|縅《おどし》の鎧《よろい》に星|冑《かぶと》をかぶり、常に黒駒に打乗って鎧の上に蓑《みの》を着、鈴を二三十ばかり附けていたので陣中を乗廻れば鈴鳴り響き、敵味方とも、「あれが外記だ」と怖れた程のその鈴も附けなくなった。外記の部下に知行三百石取る者と、四百石取る者と、仲の善いこと兄弟の如くなる者があり、ある時三百石取る者が不足を申して走ったので、四百石取る者を呼び、その方を頼むなり、彼者を討ってくれ候え、たとえ一年二年かかりても苦しからずと、友光の刀に金百両を与えると、その者は之を戴き退出する時に涙をばらばら流した。外記は見て、呼返し、汝が今の涙は心得ず、如何にと問うたところ、その者は「その儀にて御座候、彼者と某《それがし》は分けて懇《ねんご》ろに仕り候。某《それがし》ならで余人に仰せ付られなば却々《なかなか》討たれ申す間敷《まじき》が、某討手を蒙りしと承り候わば何方に罷《まか》り在り候とも、聞きあえず罷り出、切腹仕るべし。それが不憫《ふびん》に候えば不覚の涙を流し候」と答えた。外記は「必ず罷り出るか」と問うた。「定めて未だ遠くへは参るまじ、やがて参り候わん」と答えたが案の如く、二三日過ぎて彼者は自身で名乗り出て来た。外記は感動して、夫程《それほど》の者とも知らざること己《おれ》が誤りなり、と両人を赦し共に加増五百石ずつを与えたが、この仔細を見て、歴々は「外記どの早や老いられたり」とひそかに憂えた。——それから間もなくの下妻城落城であった。戦火の後、城郭は徳川の手によって破却せられた。多賀谷重経は前《さき》に織田信長に名馬を送って款《かん》を通じ、豊臣秀吉にも初雁を献じて好《よしみ》を通じたりしたが、慶長初年、徳川家康を小山の行営に襲わんとして、事の漏れたのが沒落の因となった。     三  綾姫七歳の春を迎えた年である。  それまで、人目を避け、村の童子達さえ近づけず賤が家の飾り物同然に、上座に綾姫を据え、奉仕していた外記が、何処に匿して在ったのか裏山から大きな葛籠《つづら》を担ぎ戻って来た。その中には金泥の枕|屏風《びようぶ》一双、燭台大小二対、碗膳一具、重箱、鏡台、毛氈《もうせん》三枚、縮緬《ちりめん》幕二張、上茶一壺その他、御殿の花やかなりし日を偲《しの》ばせる数々の豪奢な品がはいっていた。片田舎で、姫とは呼ばれても、身に襤褸《ぼろ》を纏《まと》った綾姫には夢物語に見るような景物で、 「爺や、これがお城の当時の品々なのですか」目を耀《かがや》かせたら、 「御意にござりまするが、姫君さまはこの中の何《どれ》をお好みなされましょうや」 「どれって?……」 「近日、当地を我ら立退きまする」 「?」 「就いては、これらのうち姫様御所望の品のみを携え参り、余は焼却仕る所存にござる」  綾姫にはとっさのことで、「何処へ行くのです?」訊くのが精一杯である。  外記は、此所より遙か東の『山ノ荘』に自分の育った土地があり、そこへ隠棲するについては無用の品を始末したいのであるとだけ言い、 「さ、どれに遊ばしまするか」  綾姫は気勢に押され、どれもこれも欲しい気持を抑えて、少女らしく鏡台と、碗膳一具と毛氈をえらんだ。そうして、 「爺と二人で行くのですか」  と尋ねた。 「むろんにござりまする」  元来が、あまり口数の多い老臣ではなかったが、此の時もそれ以上は説明しない。その日のうちに、諸品を焼き捨て、自らは鎧|櫃《びつ》と槍一筋を杖に、夜陰に紛れて姫を胸に抱き村落をあとにした。従者は誰もいなかった。  山ノ荘は土浦城の北二里余りの所にあった。豊田郡の時と同じく山間《やまあい》の見すぼらしい山家に外記は居を定めた。西方に筑波山が望見され、更に北には足尾山が霞んで見えた。外記ほどの武士が、出生地に還ったというのに別に暮し向きは変らず、山家の破損箇所を修復する時も手をかす一人の村人もなかった。というより、此処でも何故か外記は村民を近づけなかった。鎧櫃は何処かへかくしてしまい、前の通り野太刀だけを手許に置いて、半士半農の暮しをした。  前《さき》の頃は、人目を避けたといってもまだ、外記が柴刈《しばか》りなぞで出ている留守に、村の子供達が遊びに来て、一緒に樹蔭で飯事《ままごと》遊びなどしたことがある。時には男の児にいじめられ、泣かされた。しかし山ノ荘に移り棲んでからは、綾姫は全くの孤独だった。どうかして農夫が棲家に近寄って来ても、其処が外記の住居と知ると慌てて北《にげ》るように姿を消した。独りで、そんな農夫の立去るのを窓のこちらから、綾姫は怪訝《けげん》そうに眺めた。  といって、淋しかったわけではない。爺との二人暮しは物心ついて以来で、習慣になっている。 「姫さまに今日は奥方様のお話を致しまする」  暇があると外記は、そう言って亡き母や姉の、在りし日の面影を語ってくれる。それは美化されていたし、美化するのが朴訥《ぼくとつ》な老武士の口調だったから、一層、少女の好奇心を満たすに足り、綾姫は時に彼方《かなた》へ杳《とお》い視線を注いで、胸の中で一層母や姉を美化して聞き入った。父は天下に驍勇を轟かせた武将であった。母はたぐいなく美しいお方だった。少女にとって淋しいわけがなかった。  そんなある日のことである。 「姫。今ぞ姫さまにこの外記が意中お明かし申しまするぞ」  外記は容《かたち》を正し、膝に手を揃えて厳格な態度で、 「姫も多賀谷修理大夫殿が忘れ形見なれば、以後、いかようなる辛苦なりとも御家再興が為なればお耐え下さりましょうな」  と言う。らんらんと輝く眼光に射すくめられ、綾姫は、無言でうなずいた。 「しからば何事もこの外記が致すこと、御辛抱あそばしまするか?」 「うん。……します」 「かたじけなや。されば姫、即刻、それがしが申す通りに」  言って、矢庭に外記は綾姫を横抱きに毛氈へねじ伏せたのである。 「あ、何をしますのじゃ。爺、痛い」  あまり動作が荒々しいのに綾姫は驚愕し、 「爺。痛い。痛い」身をもんだが、 「暫しの御辛抱。わけは、後程言上つかまつる」  兼て用意の帛《きぬ》で、足先を、巻き出した。     四  外記が意図したのは纏足《てんそく》であった。  纏足といえばシナ特有の風俗で、むかし、|※[#「穴/目」、unicode7A85]娘《ようにやん》なる舞の上手な美人の足を、帛《きぬ》で纏《から》んで月状となし、珍玉宝石で装飾した高さ六尺の金蓮の上で舞わせたら、その優麗|楚々《そそ》たる舞姿は雲を凌ぐの魅力があり、以来、宮中の美人連はこれに倣《なら》って纏足するようになって、それが何時しか美人の必須条件となり、宋、元を通じ漢民族一般の風習となるに至ったと伝えられる。  ふつうは、女の児が四、五歳になった頃に母親がその発育を防ぐため長さ一丈八尺の帛を足へ横に巻き、成長するに従って縦に巻いて指を足裏に折込むようにして拳《こぶし》型に圧迫する。  その圧迫の仕方に、蓮の花弁に象《かたど》るもの、新月、三日月型に足裏を彎曲《わんきよく》したもの、筍形のもの等、五種類があるが、肥《ヽ》、軟《ヽ》、秀《ヽ》の「三貴」といって、彼《かの》国では、「痩《や》せたるは淋し、強いて矯《た》むれば俗遂に医《いや》すべきなし、故に肥えたるは|※[#「月+叟」、unicode8184]潤《しゆうじゆん》、軟かきは柔媚、秀なるものは都雅《とが》なり、而して肥えたるは肉にあらず、軟かきは纏にあらず、秀なるは履にあらず云々」  と鑑賞の標準を定めている。邦国人たる外記にはこれはどうでもよかった。外記の目的は別にあった。  そもそも纏足の発生した原因は種々流伝されているが、シナの伝統的女性圧迫——男子の独占感情から、女性の逃亡を防ぐ——自由を束縛する為の手段と一般に言われている。併し実は、纏足した女の可憐な姿態とその細工された足先の恰好に対する男子の一種変態的性欲魅惑によるもので、更に言えば、纏足された小さな足で、歩行困難な彼女らは自然と大腿部の肉|緊《しま》り、更には性器括約筋に異常な発達をともなう。それを堪能せん為であった。外記の悲願も又ここにあった。  外記は凡庸の武士ではない。天下の趨勢を読み、もはや到底徳川氏に諸侯の抗すべきでないのを悟った。今少し若かりせば外記にも別な翹望《ぎようぼう》が萌《きざ》したかも知れない。多賀谷一族には家を興すべき器量の嗣子がなかった。そこで三兄妹のうち、綾姫に、目をつけた。生れ落ちる前から綾姫の美貌は硬骨漢の外記にも想像出来たのである。それほど、綾姫の母は佳人であった。  彼女は、樫原《かたぎはら》中納言|雅春《まさはる》とて、何でも京で今業平《いまなりひら》と評判の公卿の女《むすめ》であったという。それがどういう事情でか都落ちをし、はるばる常陸に辿り来て城主重経の寵を享《う》け、綾姫を産んだ。他の侍妾と違って、この夫人と外記との間に、ひめやかな何かがあったとしても、また外記の戦場を駆けるあの鈴に夫人の贈った一|総《ふさ》が鳴っていたにせよ、ここで穿鑿《せんさく》すべき要はない。外記はあくまで主家再興の望みを綾姫に託し、自らの手塩にかけて育てた。綾姫の女体だけが下妻二十万石の再興を成し得ると知っていたからである。  最初の帛《きぬ》を巻きつけた時から、外記は人が変った如く苛《きび》しい人物となった。容赦なく綾姫の足を紲《しば》った。  纏足は、ようやく一人歩きの出来る四、五歳から始めるのが順当である。それを骨のかたまり出した七歳の少女に行なう。縛《いまし》めも一きわ緊《きび》しい。蓮弁、三日月形など種類のあるのを外記が知るわけはない。ただ発育をさまたげ、きつく紲《しば》ればいいと思い込んで、一丈八尺の帛で指の骨も折れよと緊めつけた。  綾姫は、苦痛に耐えた。それは彼女の体内に流れる高貴な血のさせた我慢としか思えない。眸《め》に涙をうかべ、歯をくいしばって、老臣のなす儘に両脚をゆだねた。歩くことは出来ない。足首から充血して一時は肢全体が鰤《ぶり》のように腫《むく》んだという。すると外記は梁《はり》に綱を垂らし、それに綾姫を掴まらせて一定の日数を経ると更に強く足を縛った。綾姫は身を弓なりにして激痛を怺《こら》えた。  まるで折檻である。しかし帛を巻き了ると外記は幼い姫君にかしずく老僕となり、 「姫、ご辛抱を願いまする……」  目に涙を湛えて平伏した。  昼間は人目があるので一歩も山家を出さない。彼女自身は歩行出来ないし、日が沈むと、老いの肩に両肢を繃帯した七歳の綾姫を背負い、月の澄んだ夜は夜空を、星のきらめく時は星空を、 「あの星のあたりが下妻城にござりまするぞ」  遙かな闇を指さして教え、   星が降るふる筑波の果《はて》や   あれが雨にて候や  老いの口に童謡を口ずさんだ。きびしく躾《しつ》けられても、外記に背負われると綾姫は安らかに眠った。  彼女が足の不自由なため老臣の手をわずらわすことに、下《しも》の始末がある。蹲《しやが》まねば女は用を足せない。綾姫は跼《かが》み得ない。  外記は尿意を愬《うつた》える少女に手製の御虎子《おまる》をあてがい、うしろから抱《かか》えてやった。済めば拭き取った。羞恥《しゆうち》する年頃ではなかったし、羞恥を知らぬ貴婦人の血を綾姫は享《う》け継いでいた。  外記が、痛わしい少女に思わず落涙したのは、今一つ、帛を巻き替える時である。  一丈八尺の帛で縦横に足を纏うので、全く空気に触れることがなく、足は自《おのず》から不潔となり異様な臭気を放つ。足指が萎え、いびつになってゆく形態よりもこの臭気が老臣の胸を衝《う》ったのである。外記は仰臥する姫君の両足をおのが膝にのせ、顔をうずめて慟哭《どうこく》した。 『妓鞋《ぎあい》行酒』とて、漢民族はこの臭気を性的に賞するそうである。宴会席上の座興として妓女の両|鞋《ぐつ》を脱がせ、その一方は客と距てて前面に置き、客人をして豆類若干をその鞋に向って投げ込ませる。外れた数だけを罰杯として他の一方の鞋の中に酒を満たして飲ませるという。実は鞋を脱いだ妓女の纏足を目に楽しみ、酒に溶ける臭気を賞味するのだろう。武士たる外記は、あくまで臭気に綾姫の悲運を嗅いだ。  歳月が流れた。綾姫は十六歳になった。終日室内にひそんで日光を浴びることなく、深窓の佳人の如く成人した綾姫は、透き通るばかりに色の白い、繊《ほそ》い、山の妖精のような乙女になった。  今は帛を巻くこともなかった。彼女自身が外記の与える錦の布《きれ》と針で、花の刺繍をした小さな鞜《くつ》を作ればよかった。髪は細い肩にこぼれんばかりに背すじから床《ゆか》に垂らしていた。着物は日本の乙女らしい筒袖のを着ていた。すばしっこく山林を疾《はし》ることさえ出来たら普通の山賤《やまがつ》の娘と変らなかったろう。ただ山賤の娘にしては妖しく、美しすぎた。  それに反して、外記は無惨に老いていった。     五  外記がまだ鈴を鳴らして戦場を往来した時分、ある合戦で鳥銃に右|腿《もも》を撃ち抜かれたことがある。外記は創口《きずぐち》を捫《ひね》って曰《いわ》く、「傷至って浅し、修理大夫殿の天命|未《いま》だ傾かず」と。人皆その豪放に驚いたが、年|経《ふ》るにつれて古創は季節のかわり目に痛み出し、一層それが外記の老衰を早めるように見えた。しかし外記はこの事は口外せず、ひたすら、綾姫の成長を待ち佗びた。  綾姫が初潮を見たのは常の乙女よりは後《おく》れて十七歳の夏という。  ちょうど、山家の裏地で、夕景の蝉《せみ》しぐれの中で行水を使っていた。盛夏でも山仕事をするわけではなく、終日、ひっそりと屋内に暮すので汗は殆んど掻かないが、水の不便なのも意に介さず、外記は毎日、糠袋で体を綺麗にするようにと促した。水は二丁余も離れた谷川から外記が汲んでくる。そうして大きな釜で、何度も沸かしては盥《たらい》に満たしてくれた。  色の白い、痩せぎすではあったが肌の綺麗な綾姫が常のように、そうして外記に背を流してもらいながら、 「里では盆踊りでもしていますのか」 「お耳に入りましたか」 「ええ。昨夕《ゆんべ》、夜通し太鼓やら笛が賑やかでした……あ、そこは、もう少し弛《ゆる》く洗うておくれ」 「こうでございまするかい」 「——うん」  乳首がわずかにふくらみかけた白い胸へ、自分で盥《たらい》の湯を何度となく注ぎかけ、 「——爺《じい》や」 「何でござります?」 「妾《わらわ》は、里へ往《い》ってはいけませぬか。夜分なら、妾の足の小さいのも誰も気がつかないと思うけど……」 「——」 「いけませぬか?」  それでも返事をしてくれず、背から脾腹《ひばら》のあたりへ痒《かゆ》い所にも手の届くよう、丹念に洗ってくれていた糠袋の動きが、急に止まったので、 「いけないなら?………」振り向こうとすると、 「姫」  外記が低く囁いた。「暫く、しばらくじっとして居て下されいよ」 「何故?」 「しっ」  口もとを制し、急いで屋内に駆け入ると野太刀を掴んで戻って来て、一きわ喧しく油蝉の啼く欅《けやき》の幹に身をひそめた。  それから、 「何者じゃ」  誰何《すいか》した。 「………」  答えはなかったが彼方の木叢《こむら》にざわめきが揺れた。——と見るや、 「おのれ下種《げす》」  一声して蝗《いなご》の如くパッと飛び出し、忽ちに駆け寄って白刃を振りかざした。  鈍い音がした。  少時して、人のばったり倒れる気配が聞こえ、思わず綾姫が盥《たらい》の縁《へり》を掴んで振返ると、潅木《かんぼく》の繁みの間から、逆様にこちらへ上体をのけ反らせて百姓が殺されていた。 「あっ」  綾姫は仰天し、怖ろしさに目が暈《くら》んだが、此の衝動で初潮を来した。  処女にとって、初めての経水はそれ自体がショックである。加えるに四散する血潮の中で外記の丈夫《もののふ》の正体を見た。綾姫は畸足《きそく》の跣《はだし》で、よろめいて盥をとび出しフラフラと数歩、家へ近寄ったが途中で失神して、地に倒れた。点々と跡に血が落ちていた。彼女は素裸《すはだか》であった。  気がついた時は、莚《むしろ》の臥所《ふしど》に寝かされ、恥ずかしい部分には土器《かわらけ》を当てがわれていた。其所は茸々《じようじよう》と毛が生えていた。  外記は、彼女が正気づくと枕もとで心配そうに坐っていたのが、 「おお気がおつきなされましたか」  眼を輝かせて叫び、矢庭に身をすべらせて数尺彼方に平伏して、 「姫……とうとう、とうとう時節が到来いたしましたるぞ」  床に面を伏せ、涙を流して狂喜した。彼女は軽く掛けられてあっただけの薄物を払いのけ、裸身の体を起して、 「あの、百姓は?……」 「不憫なれど姫のその御足《おみあし》を見たるからは生かし置くわけには参り申さず。あれは、弥助と申し、大根やら瓜《うり》を時折世話してくれたる里の者にござりまする」 「………」 「お案じなされるな。遺骸は、ねんごろに葬らせ申した。それより姫、いよいよ出立にござりまするぞ」 「……どこへ?」  綾姫は何故か外記と目を合わしているのが怖くて、小さな己れの足へ視線をそらした。  肉づきの細く、すらりと延びた両脚のその先だけに、花模様の鞜《くつ》が外記の手で穿《は》かされていた。     六  出立する、と外記は言ったが、五日余り過ぎても一向に準備にかかる様子がない。もっとも、月のもののおわるのを外記はまったのだろうが、初めての綾姫には、それがそう長いものとは分らなかった。 「女におなりなされたのでござりまする。いよいよ姫も一人前の女子《おなご》に。気におやみなされることはござらん。今こそ、多賀谷修理大夫殿の御息女におわしますぞ」  そう言って外記は骨ばった皺の多い指をふるわせ、前かがみになって、御虎子《おまる》に跨《また》がった綾姫の処置を施してくれた。戦場を縦横無尽に駆け廻った老武士にその方の知識があるわけはない。  綾姫は、 「妾《わらわ》がします……。もう、よい」  本能で、前へ手をまわして、外記に紙を取ってもらい始末をした。たしかに衝撃《シヨツク》ではあったが羞恥の性質の感情は未だ無かったのである。あの死相の怖ろしさも日が経つにつれ記憶からうすれた。  外記は内心、ひそかにそんな綾姫が女らしさを身につけるのを冀《こいねが》っていたようである。初潮だけでは、生来の美貌と併《あわ》せても十全ではない。外記の目的とする相手は駿府の徳川家康か、その忰秀忠であった。家康は『一盗二婢』の譬《たとえ》で言う婢を好み、分けて人妻に興を感じるという。成熟した婦人でなくば物足らぬ証拠である。将軍秀忠の方は性温厚で、とりわけ荒淫の噂は聞かないが、美女を枕席に侍《はべ》らすのを嫌う英雄はあるまい。ましてや、纏足により閨房に無類の妙味を発揮する乙女である。ただ万全を期する為に、今少し綾姫の身に女らしさのあらわれるのを待ったので、外記は逸《はや》る己れを抑え、情操を養う一端にもと里より横笛を購《あがな》い来て姫に与えた。鳴物は、それまで何一つそういう物のなかった女心に余程嬉しかったのだろう。 「どう、吹くのかしら……爺は知っていますか」  吹口に口をあて、舌で唇を舐《な》めては穴を指でおさえ開いて、吹いた。何の知識もなかったが不思議に妙《たえ》な音がひびき出た。ほしがふるふる筑波の果てやあれが雨にて候や……小半刻もすると綾姫はつまりながらも調べを奏でた。外記は座敷のはずれで感慨深げに、項垂《うなだ》れて聴き入った。母なる人の素質を、紛れもなく綾姫は継いでいたのである。  或る日。  夕立のあとで、一きわ爽やかな空が夕焼け雲を棚曳かせていた。樹々は雨に洗われて一そう鮮かな深緑を窓外に見せていた。綾姫は、竃《かまど》で夕餉《ゆうげ》の支度にかかり出した外記の炎に映える横顔を座敷から、何となく見詰めて、 「爺は他に歌は知りませんのか?」 「勝軍《かちいくさ》の帰陣の折に唄うのであれば、少々、得意もござり申したがの」 「どんなの?」 「いや迚《とて》も姫さまのお笛にはおえませぬテ。……それより、さよう、奥方さまがお好みなされた京唄なれば」 「——どんな?」 「節《ふし》は、ようは覚えませぬがの」  爽やかな夕立のあととて外記も気分がよかったのだろう。竃へ、榾《ほだ》を焚《く》べながら低い皺嗄《しわが》れ声で、懐《おも》いをこめ、折々首をふって一節《ひとふし》唄った。意外に雅《みや》びた唄いぶりだった。 「おどろいたこと。……そんなにいい歌をどうして今迄教えてくれなかったのでしょう。それに、爺はお上手よ」 「御耳をけがしお恥ずかしゅう存じまする」 「ううん、ほんと。お上手——ね、も一度唄ってくれませぬか」綾姫は傍らの笛を把った。  その時、ヒタヒタと、濡れそぼつ山|径《みち》を踏んで近づく人の気配がした。この前の農夫のことがあるだけに綾姫は、ハッと笛を握りしめた。  外記は、早や土間をとび出していた。  ——が、 「汝《うぬ》は?」 「おお、渡辺外記どのにござるや」 「うぬは?」 「田村五郎左衛門が忰六郎太にござり申す」 「何」 「お懐しや、との。お覚えござりましょう、五郎左衛門が忰、六郎太めにござりまする」  ……トン、と戸に物の当る音がしたのは、余りの思いがけなさによろよろと外記が後退した為だろう。 「——まこと、うぬがあの六郎太か?」  少時して喘《あえ》ぐような、そんな外記の声が聞こえ、心なしか気抜けして、一度に気力の衰えた声であった。綾姫は笛を我知らず胸へ抱き、瞳を凝らして、外の気配を窺った。     七 「お懐しゅうござる。まことにも嘘にも、六郎太にござりまするぞ。豊田郡より当地へ住み変えられたる由うけたまわり、ようやく尋ねあぐねて参上仕ってござる。……それにしても、先ずは御息災にて——」 「五郎左は、五郎左はいかが致した?」  外記は漸く気を取り直した。元来が偉丈夫の外記だが、それにも優《まさ》って身丈《みたけ》六尺有余、髭面《ひげづら》ながらまだ眼の若々しい青年が具足|櫃《びつ》を背負い、槍を突いて立っている。獅子鼻のあたりに確かに五郎左衛門の面影がある。  田村五郎左衛門は曾て四百石取りの朋友に上意討ちの内命のあったのを聞き、自ら名乗り出たあの勇士で、以来、外記に無二の忠誠を尽したが、城落城の後、綾姫を救出する外記に従って豊田郡まで落ちのびた。そこで外記に暇を出され、猿沢在に百姓暮しの傍ら、再度の召のあるのを待ちつづけて歿したのである。父の遺言で、既に成人した六郎太は、せめて旧主の消息なりと確かめたいと遣《や》って来たという。  五郎左衛門は外記の郎党の一人なれば、多賀谷修理大夫には又家来《ヽヽヽ》にあたる。旧主とは、あく迄外記のことである。  相手が家来の忰と分ればむげに押しかえしもならない。「……そうか、五郎左めも相果ておったか」  つぶやいて、 「それで汝《うぬ》に何ぞほかの遺言は致さなんだか」 「ほかと申されますると?」 「ないのじゃな」 「ござらん。ただとのの御様子を見て参れと。若し又、拙者如きものにても御役に立つようならば父に代って御奉公申し上げいと、左様申し遺してござる」  まんざら嘘のようでもない。夕立も厭《いと》わず所在をつきとめたい一心で駆けて来た証拠には全身が濡れている。憩《やす》ませぬわけにはゆかなかった。それに、腹も空《す》いている時刻である。 「はいれ」  外記はぶっきら棒に言い捨てて土間へ戻った。 「お詞《ことば》に甘えまする。御免」  六郎太は槍の穂先をねかせ、具足櫃のまま旧主の後《あと》より土間に入る。  其処で、思いがけぬ蓆《むしろ》座敷の乙女に気づいてハッと立停った。  綾姫も自ずと赧《あか》らんで六郎太を見たが、怪訝《けげん》そうな彼の眼は、それが綾姫であるのを夢知らぬ様子だった。五郎左は何も明かさずに死んだに相違ない。外記は安堵《あんど》した。 「との、あれに居る小娘は?」 「黙れ」  気を詰めて一喝して、「櫃を卸さば裏手で着物でも脱いで参れ。風邪をひくわ」外記は竃へ寄った。 「拙、拙者が致しまする」六郎太は慌てて具足櫃を卸すと、駆け寄りざまに外記の柴を奪い取り、 「毎々かようの事まであそばされまするのか。父が知らばあの世で落涙いたしまするぞ」  早呑込みで、ムキになる気性なぞも親父その儘のようである。外記は素直に六郎太に後をまかせて上《あが》り框《がまち》に戻ったが、何となく面映《おもはゆ》くて綾姫からは目をそらして坐った。  綾姫は、幾分の好奇心をまだ瞳にこめて、老臣とその家来を交互に眺めている。次第にその眸差《まなざし》は六郎太にばかり注がれる。  赫々《あかあか》と燃える竃口に顔を近づけ、獅子鼻の横顔を火照《ほて》らせて、 「父が気にいたしており申したが、菅谷新左どのはその後いかが仕りおりましょうや」 「——知らん」 「帰参はかない申さんので?」 「——」 「畑三太夫どのは」 「知らんぞ、六郎太。さような旧臣共のこと最早この外記、きれいに忘れておる」 「は?」  六郎太は駭《おどろ》いて振向く。その面《かお》へ一すじに注がれてくる乙女の眸差に気づいて、しげしげと見返して、 「それなる小娘は、殿……」 「たわけ」  老いの気短さで大喝した。説明するのも煩《わずら》わしい。 「姫、なにとぞ下種が雑言《ぞうごん》、お気になされませぬよう」向き返って恭《うやうや》しく低頭したので、六郎太は、呆気にとられ改めてしげしげと綾姫を見直した。それから、 「あっ」  と声をのんだ。そんな彼の袖や胸もとから、加熱して湯気の立昇るのが何となく可笑《おか》しかったので綾姫は、「く、く……」と面を俯せて微《しの》びわらった。     八  外記がいかに腰抜け武士と世に誹《そし》られたか、どんなに、それを郎党たちは口惜しんできたかを、綾姫が知ったのはこの時である。  自分を救い出すためにしたことが、腰抜けと人に見られるのは、取りも直さず綾姫の存在を世間が知らなかったからだろう。  生き恥をさらすのは併し武士として、どんなに無念だったろうかと思うと、外記が気の毒でならない。 「そなたもそう思いませぬか?………何ぞ、爺やの恥を雪《すす》ぐ方法はないのかしら。六郎太、そなたにいい智慧は浮びませぬか」  やむなく外記が同居を許し、以来、下男同様に立働いてくれる六郎太へ綾姫が小首をかしげると、 「姫の、御決心ひとつにござる」  六郎太は何となく「姫」とは呼びにくいらしく、吃《ども》り気味に応える。 「何を決心するのです?」 「——」 「六郎太、そなた妾を嫌うていますのね」 「そ、そのようなこと殿の耳に入らば某《それがし》お手討ちに成り兼ね申さん。馬鹿を申されては、困る」  若者が、乙女に殊更ぞんざいな口をきくのは尋常以上の関心を抱く場合に多い。それを見抜くほど啻《ただ》綾姫が|ませ《ヽヽ》ていないだけである。  男女心理の機微を、観察する外記は性質の武士ではない。もっと大きなことを大きな気宇で思念し、翹望《ぎようぼう》する老人である。  相変らず、六郎太の前もかまわずに外記は恐懼《きようく》頓首して綾姫に仕えた。その外記に六郎太は無二の忠節を尽くす。そんな青年を綾姫はひそかに怖れ、憧《あこが》れつつ外記には「爺や」と心から甘える。  人里離れた山奥に、そういう主従三人の暮しが暫く続いた。  外記は六郎太が同居するようになっても不寝《ねず》の番はさせなかった。若い者同士の過ちを惧れたからでなく、そういうことは露考えず、飽く迄古武士の律儀さで奉仕したのである。  六郎太は大きな鼾《いびき》をかいた。頑健そのもので、しかし布団のすそに不寝の番をしてくれる老臣との静かな夜に馴れた綾姫には、耳障りで寝つかれないのか、そっと、衾《よぎ》の中から眼を出して六郎太の健康な寝顔をいつまでも見ていた。けっして不快そうな眼ではなかった。  行水の水は六郎太が桶《おけ》に担いで来る。湯を沸かすのは外記の持役である。ある日、綾姫の足が纏足なのを発見した時の六郎太の驚愕ぶりは、綾姫に、はじめて羞恥の感情を覚えさせたが、同時に彼が瞭《あき》らかに不快の色を現わすのを見て、一そう悲しいと思った。  悲しみの感情を、生れてはじめて綾姫は知ったのである。  行水を使っている間、だから彼が近づいて来ない方が嬉しい。裸は少しも羞《は》ずかしくない、足さえ見られなかったら平気なのである。  外記は、糠袋で、彼女の柔肌に少しずつ白い肉の盛ってくるのを歓喜して、真心こめて洗った。 「亡き奥方さまに、いよいよ似ておいでなされまするなあ」  背後《うしろ》からお臍《へそ》のあたりまで手をまわして拭いたりしながら言った。 「そうかしら。……でも母上様のほうがお綺麗だったのでしょう」 「何を申されますかい」 「ううん、爺はそう言ったわ、母上様を見て心惹かれぬ者はいなかった、そうなのでしょう?……」  向うの納屋の蔭では黙々と六郎太が薪《まき》を割っている。  外記はそれには答えず、 「今暫し致さば、左様、来春《らいはる》にも相成らばいよいよ姫は御出立にござりまするぞ——のう」  新たな湯を玉の肌へすすぎ掛け、本心からそう言った。  事実、その後、間もなく六郎太を召して、外記は、駿府と江戸に在《あ》る家康父子の状況をさぐりにやらせたのだ。 「よいかい、余のことはたださずともよい。近く軍《いくさ》があるかどうか、それ以外はな、内府どの父子に如何ようの侍妾が侍《はべ》りおるかを、しらべて来い」  奇異な面持だったが命ぜられる儘に、六郎太は出立した。その直後の綾姫の言い知れぬ淋しさを慰めたのは横笛である。六郎太が同居するようになって、久しく手に把らなかった笛である。彼女は、目を半眼にして、蓆座敷の窓ぎわに倚《よ》って嫋々《じようじよう》と吹いた。自作の奏《しら》べであった。  家康には関口刑部少輔の女《むすめ》で、のちに遠州小藪村に於て家康の命により家臣の手で殺害された最初の妻の他に、何人もの侍妾がある。  簾《れん》中は豊臣秀吉の妹で朝日姫といったが、天正の末年に四十八で逝去した。  次が秀忠を産んだ西郷|局《つぼね》。  名を於愛《おあい》といった。はじめ西郷右京進に嫁したが夫の戦死後、家康の目にとまり浜松城に召されて寵をうけたのである。同じ天正末年に廿八で死んでいる。  次が池鯉鮒《ちりふ》明神の神職の女だった於万。一説に熱田神宮の禰宜《ねぎ》の娘ともいうが、父はのちに大坂に出て町医となった。彼女はやはり浜松で奥勤めをしていて懐妊し、小督《こごう》局と称された。  次が武田家の浪人だった秋山平右衛門の妹於津摩。これもはじめは武田家臣穴山梅雪の妻となって一児を儲けて後、家康に召され万千代君を産んだ。  次が越後少将忠輝の母となる茶阿局である。生い立ち未詳だが亭主は駿州金谷の百姓で八《はち》といった。ある時島田の郷の者と八は水掛り場で口論して、棒で打ち殺された。よって妻女は娘おはちを連れて三州吉良へ移り住んだが、家康が鷹野の時、母子して亡夫の敵《かたき》を御詮議下さるようにと訴え出たのを、駕籠の中より一|瞥《べつ》した家康は母子を岡崎城に連れ帰り、寡婦なる母に手をつけて男子二人を産ませた。双子《ふたご》であった。一人は早世し、残ったのが辰千代。すなわち二十五万石を後に領した忠輝である。なお、おはちは家康の命によって花井遠江守に再嫁したが、外記の知っているのは、この茶阿局までである。     九  六人目の愛妾は、尾張藩祖義直の生母|於亀《おかめ》の方。これが矢張り未亡人で、竹腰定右衛門なる者の妻だったが、夫に死別してから家康に召使われ、枕席に侍るうち、懐妊して義直を産んだ。因《ちなみ》に尾州藩歴代の国家老竹腰山城守は、この於亀の方が先夫との間に産んだ忰(義直とは義兄弟)の家すじになる。  七人目は紀伊の頼宣《よりのぶ》と水戸の頼房を産んだ於万の方で、彼女の母は「遊女にて、名を桐と云《いう》」と『玉輿記』にあるから、於万の方も尋常の女ではなかったろう。家康の愛妾の中で、処女にして枕席に侍ったのは彼女を最初とするというが、遊女の娘では、身のこなし一つにも妙《たえ》な色香があったのかも知れぬ。外記は、六郎太よりこの報告を獲て、 「そうかい。そうかい」  大きく頷いた。八人目は家康の殊寵を蒙ると評判の於はちの方であるが、彼女が枕席に召されたのは十三歳の冬なりという。於万の方で生娘《きむすめ》の味も捨て難いのを知った証拠と、外記には思えたのだろう。  次が督姫を産んだ於西の方。次が振姫を産んだ於竹の方。次が茶阿局の女中を勤めていて、家康の目にとまり、長鍬の合戦のとき戦場で流産した一位局(これは未亡人だった)。次が於奈津の方。次が於六の方。次が—— 「もうよい」  外記は余りの多さに辟易《へきえき》して、 「右大将どのはどうなんじゃ」  将軍秀忠の場合を訊くと、 「御ひとりにござる」  慍《おこ》るような口吻《くちぶり》で六郎太は答える。秀忠の御台所は於江与《おえよ》の方といって、近江小谷城主・浅井備前守の息女。曾て羽柴秀勝に嫁し一女を産んだが、秀勝が卒去したので文禄四年に伏見城で秀忠と婚姻した。秀忠十六歳、於江与の方は二十四歳であった。八つ年上の女房である。それでも侍妾は一人しかいないという。  名を於静といって武州板橋の百姓の娘だったが、「故あって此娘お目通りへ出る事有り、右大将どの懇命にて大奥に勤仕致すうち、お手がついたり」という。  ところで。  田村六郎太がこれらのことを聞き糺《ただ》して山ノ荘に戻って来たのは、出立して約|二《ふた》月ばかり後だったが、ちょうど外記は狩猟に出ていて家にいなかった。そろそろ紅葉しはじめた樹々の梢に、落日の朱《あか》く映える申《さる》ノ下刻頃である。  綾姫は、すっかり時候が涼しくなったため行水を遣うことはなく、そのかわり、外記の吩《い》いつけで壁添いに屋内でそろそろ小走りに歩行する練習を始めていたのが、人の気配が、ノッシノッシと表に近づいてくるので慌てて窓のこちら側へ身をかくした。晴着の着こなしも稽古あそばさねばなりませぬぞ、外記がそう言って何処から手に入れたか、花やかなお姫様らしい衣裳ひと揃えを与えてくれた、それを、恰度身につけて、裾を曳きながら歩行の練習をしていたのである。人目にふれてはならぬ身と外記に兼々いましめられていたから、綾姫は息をこらして、窓の外を盗み見ようともしなかったら、のっそりと土間へ六郎太がはいって来た。  それが六郎太と知って綾姫はどんなに嬉しかったか。 「六郎太!………そなたは帰ってくれたのですね。本当に、帰って来たのね」  夢中で、纏足の足で、小刻みに上り框へかけ寄った。彼が外記に命ぜられ家康父子の侍妾の事を調べる為に出立したとは、綾姫は知らない。六郎太はどこへ往ったのですか、と綾姫が尋ねたとき、外記は、 「チト所用にて旅立たせてござりまする」  とだけ答えた。それが素っ気ない口調だったので、屹度《きつと》自分の纏足が嫌になって出て行ったのだろうと思い込んでいたのである。  六郎太は、しばらく呆気にとられ、花やいだ綾姫の姿を見|戌《まも》った。それは、江戸から駿府の賑わいにかけ、多勢の婦人を見なれてきた眼にも、絶佳と思えるほど、気高く美しい容姿であった。 「——殿は、いずれにおられまする?」  ようやく我にかえり、六郎太は眩《まぶ》しい目をそらすと背の具足|櫃《びつ》を、綾姫にうしろを向ける姿勢で上り框に卸した。綾姫のほうはまだ紅潮していて、 「ほんとうによく帰って来てくれました、嬉しいわ……」  後ろから手を添えんばかりにし、 「まアひどい汗。体を拭いたら直ぐ着替えをするといい。爺やのが、丁度あります」 「勿体《もつたい》のうござる。それより殿は?」 「知らない、程なく帰って来ますでしょう」  綾姫は転《まろ》ぶように蓆《むしろ》座敷の隅の長持へ走り寄って、着替えを取出しながら「爺やも喜ぶでしょう、そなたが、戻ってくれて、どんなに」     十  綾姫の興奮《たかぶり》は着替えを用意するだけではおさまらなかった。さぞ空腹だろうと、窓の外の、軒下に吊下げてある渋柿の皮の干したのまで下して来て、鞜《くつ》を穿《は》き、竃《かまど》へおりると白湯《さゆ》を沸かそうとする。柴は土間の隅に堆《うずたか》く積んである。繊《ほそ》い指で小束を把《つか》んでは火に焚《く》べるので、竃と土間の隅を何度も往復した。裾を曳く打掛《うちかけ》が、為に湿った土に穢《よご》れるのも気がつかなかった。綾姫は浮き浮きしていた。 「六郎太。……まだですか?」  裏手で水桶を持出し体を拭いている筈の男へ呼びかける。  六郎太は答えるかわりに、桶にまだ半分残った水を提げ戻って来た。それから目をむいて、 「せっかくの、姫、お着物が穢れまするぞ」  足許へ馳せ寄り、裾をからげ上げた。叱りつける口調であった。瞬間綾姫は自分に返った。 「よいのです」  慌てて上から抑えると身を退《しざ》る弾みに竃の端で、肢をとられ、横ざまに転んだ。 「あっ」  六郎太はとび附いたが、 「放っておいて」  纏足は足の甲が盛上っていて醜い。見られたくないので周章《あわて》て隠したが、綾姫は急に、目に涙をうかべていた。よろこびが大きかっただけに醜い足を見られたくはなかった。六郎太には、併し迷惑な話である。一体なぜこう急に泣き出したのかも分らない。褌《したおび》ひとつの、彼は裸であった。問答無用とばかり倒れた彼女を抱え起した。 「嫌!………いやじゃ」  綾姫は烈しく頭《かぶり》をふり、彼の胸板を敲《たた》いて反抗して、かなわぬと知ると、突如、腕の附け根に齧《か》みついた。額と鼻が男の皮膚に触れた。汗を洗いきらぬ酸っぱい体臭が無性《むしよう》に一そう綾姫を悲しくした。彼女は男の肌に顔をおしつけて、涕《な》いた。  外記が帰って来たのは此の時である。     十一  外記は武士である。常におのれにふさわしい死場所を求め六十有星霜を閲《けみ》した。  惜しむらくは、少々老い過ぎたと悟って、せめてもの願望を綾姫の女体に託し下妻城を落ち延びた。主家を再興するのは老残の武士の誠実である。他に何もない。 「——いつ、戻ったのじゃ」  外記が、土間に這入って来たのを知って六郎太が慌てて姫を突き離すのへ、低く、外記は尋ねた。 「暫時お待ち下されい」  六郎太は言って、急いで衣服を纏おうとする。綾姫を突き離したのはあくまで、主人に裸で対する無礼を畏れたのである。 「その儘でよいわ」  言ってから、爺やが帰って来たので俄然、声をあげ、立った儘で、顔を蔽って泣き出す綾姫に、 「——姫、いかがなされましたぞ」  ショボショボと目を瞬《しばたた》いた。老人らしい、余りに老いた表情だった。 「六郎太が」  綾姫は泣きじゃくりながら言った。本当に彼女は悲しそうに泣いていた。「……妾を嫌うていますのじゃ。六郎太は、妾を」 「何を申されまするぞ」 「いいえ、爺は知らないのです、六郎太は妾が」  当の六郎太はまるで相手にせず、戸外へ出て着物を着だした。  その背後《うしろ》へ、ぬっと外記は立つと、 「命じおいたること調べたか」 「は。あらまし聞きただしてござりまする」 「——そうか。着了ったら跟《つ》いて来い」  先に立って、裏手づたいに家を離れた。六郎太は随った。そうして調べあげた儘を報告したのである。  聞き了ってから、 「六郎太。うぬに聞かせおくことがある」  岩に腰をすえ端然と坐して外記は言った。 「姫さまお年頃なれば明春を俟っていよいよ我ら主従、駿府に上《のぼ》るが、如何ようなる御境涯に姫さまお入りなされようと、以後うぬの主筋は姫さま御一人じゃぞ。この外記を主人と思うではない。主人は、姫君さまじゃ。されば臣たる者が道を踏み外すではないぞ。よいか?」 「は?……」 「姫さまがあの御足《おみあし》、所存あってこの外記が縛《いまし》め申した。駿府に入らば先ず佐竹侍従どのを訪い、侍従どのを経て駿府城大奥へ御入り遊ばさるる手筈じゃ。その時の、姫さまが御姿を目にいたす内府父子の、目尻の下るを見てやりたいわ」  聞いているうちに六郎太の髭面が、わずかに蒼ざめた。外記は暮れなずむ山間《やまあい》の彼方に目を注いでいたので気づかなかった。細い煙りが一条、六郎太の為に焚《く》べた白湯の竃から、黄昏の空へ立昇っていた。     十二  佐竹侍従というのは一時は常陸一円から陸奥、下野《しもつけ》に及んで五十余万石を領した佐竹義宣のことで、妻は多賀谷修理大夫の妹だったから綾姫には叔父に当る。  秀吉の歿後、石田三成会津の上杉と結んで上方に兵を挙げるや、義宣は旧誼《きゆうぎ》によってこれに与《くみ》し、家康が出陣を促してもその命に従わず、兵三百を分ったに過ぎなかった。それで関ヶ原合戦ののち、所領を没収せられ、替地として僅かに秋田、仙北の二郡を与えられている。 「との」  良《やや》あって六郎太は大地に平伏している顔をあげ、 「駿府に姫さまをお入れなされる御所存にござりますかい?」 「そうよ。なぜじゃ」  何をいっても、佐竹は源平以来の豪族である。義宣を介して綾姫を差出せばよも家康父子も不快とは思うまい。義宣とて拒みはすまい。外記はそう考えている。そんな外記を、六郎太はじっと見上げたが、それ以上は何も言わなかった。  六郎太の腕に齧みついた綾姫であるが、再び、主従二人と山家での明け暮れがはじまり出すと、すっかり機嫌をなおして、むしろ嬉々として六郎太に親密の情を示し、何事にも彼の扶《たす》けを乞うようになった。綾姫は、今や六郎太にとって主人である、と外記に訓《さと》されたので、以前のようにぞんざいな態度を見せない。少々の無理を吩《い》いつけられても唯々《いい》として服従する。それが単純に綾姫には嬉しかったらしい。 「六郎太、そなたは自分の鼾《いびき》がどんなに高いか知っていますか」 「は?……」 「ホホ、でも此頃は却って淋しくってよ」  綾姫に仕えるからは夜の不寝番も、外記と交代で勤めるようになった。はじめは馴れないので、六郎太が裾のほうでモソモソしているのを、綾姫は頤《あご》まで引っ担《かつ》いだ衾《ふすま》の内から、薄目に忍び見て、 「……六郎太」となりに睡っている爺やにさとられぬよう、 「寝《やす》んでくれても構いませぬ……。ほんとうよ」  囁きかけることがあったり、 「妾の笛をどう思いますか。——じょうず? 下手?」  他愛のない質問を次々発することもあった。深夜に、外記の睡っている隣りで、六郎太と私語出来るのが、分けて愉しそうであった。  六郎太は外記に命ぜられて、裏手の廂《ひさし》わきに深さ数尺の穴を掘り下げ、厠《かわや》を建てた。穴に板を渡しただけの粗末なものだったが、凡そ高貴な婦人の用便は一切汲み取らぬのが当時の風習である。どうかすると夜分、綾姫は尿意を愬える。真っ暗な屋外へ、六郎太は綾姫の手を引いて片手に灯をかざして、連れ入る。大名の息女は紙を人に使わせて羞恥せぬものである。しかしそれは同性の奥女中か、老臣に限る。いかに綾姫とて、意識して男性にそこを弄《いじ》らせて無心であるわけがない。 「六郎太」  ある夜、綾姫は横木に跨がっていて、姿勢を反らして言った。 「灯を消して。……」  消せばどこを触るか分らぬのである。綾姫が纏足の、盛り上って醜い甲を灯に映し出されたくない気持は分った。彼女にはシナ娘がそうするような靴下の知識はない。足袋は身分ある女性の穿くものではない。 「早く、消してくれませぬか」  寝起きなので衿もとがひらいて、丈《たけ》なす黒髪は床につかえるので、六郎太が背すじで束ねて持上げている。灯は粗木《あらき》を打ち付けた棚にのせてある。黒い影を動かし、髪をつかみながら、六郎太は言われる儘に上体を起した。着物の前をひらいて、跨がった白い両脚の肌に海坊主のように黒い影が覆いかかると、灯が消えた。手さぐりで六郎太は蹲《うずくま》り、前へ、手をいれた。厠《かわや》は狭い。うしろから抱く恰好をせねばならない。綾姫は彼のその胸へ上体を凭《もた》れさせた。うまい具合には紙が当らなかった。その度に綾姫は、何も言わなかった。 「ひめ……」 「………」 「……すみ申した……早くお立ち下され。外記殿が、起きて来ましたぞ」     十三  六郎太は実は以前の如き素朴な若者ではもうなかった。亡父の遺志を継ぎ、主人外記に無類の忠節を励む素懐に変りはない。だが江戸の賑わいや駿府城下を往反する多勢の婦女子を見ることで、田舎育ちの六郎太にも漸く青春の息吹きが自覚された。謂《いわ》ば戦国時代に一世を風靡する英雄への、憧憬を知って戻って来たのである。外記はすでに戦さは終焉《しゆうえん》したという。さればこそお家再興のため姫の御足《おみあし》を畸型にしたといい、 「天下の制しよう幾通りもあるわけなし、されど武辺に勝るもの、この渡辺外記、見せてくれる」  巌に坐した時夕空の彼方を見て外記は言った。「それがし然様《しかよう》には存じ申さず」六郎太がそう駁《ばく》さなかったのは、家来の分を弁《わきま》えた迄である。ただ一度、 「お詞を返すようながら、駿府城大奥にて枕席に仕えめさること、姫さまは御承知にござるか」尋ねたことがあった。 「あの御足が御決心のあらわれじゃ」  毛頭、疑いの無い面《かお》で外記は答えた。六郎太は辞《ことば》を失った。  しかし実は、駿府城下では、大坂の豊臣秀頼との間に、一合戦あるのは、もはや時機の問題と諸大名もひそかに軍備を進めている。いかに大坂方敵するとも徳川の天下は覆《くつがえ》し得ず、外記はそう達観するが、十年余、山奥に隠棲して時の動きに疎《うと》い老武士には見込み違いも生ずると六郎太には疑われたのである。もし然りとせば、家康の寵を受ける綾姫は悲劇である。豊臣恩顧の武将のうち、一代の驍将加藤清正はまだ生きている。福島正則もいる。加藤嘉明もいる。島津がいる。細川がいる。曾て主人渡辺外記しか六郎太は知らなかったが、駿府へ出て、これら諸侯の騎馬の往来を目《ま》のあたり見た。果して家康父子はあれ等の猛将連に勝つであろうか。左程に偉大なる傑物であるか?  六郎太は、綾姫が将軍家康の枕席に侍らされる筈とは、この時まだ知らなかったので、諸大名の器量を試したい青年らしい客気にかられ、一日、徳川譜代の臣|平岩主計頭親吉《ひらいわかずえのかみちかよし》なる大名の館《やかた》に、新規の奉公仕りたしと乗込んだ。親吉は十七歳で初めて軍《いくさ》に臨みしより、常に家康に従うて向う所破らずということなく、勇材武略の逞《たくま》しきのみならずその心、仁愛深く寛厚の長者たりしとは知るわけもない。行き当りばったりに乗込んだのである。  ちょうど親吉は駿府城より下《さが》って来たところらしかった。 「いずれの生国にて旧主は誰じゃ」  玄関口で、見るからに在所の地侍めいた青年が、髭面で所々の欠けた具足櫃を後生大事に背に負い、粗末な槍を突立てて立っているので親吉が辞《ことば》をかけた。  六郎太は少時真赤になり、親吉を睨んでいたが、 「田村五郎左衛門が忰、六郎太じゃ」  吃《ども》りがちに答えると、 「知らんの」笑《えみ》をふくんで聞き捨てに内へ入ろうとする。思わず六郎太は試す気になり、 「渡辺外記どのの郎党じゃ」と叫んだ。 「なに?」  親吉は、ゆっくり後《あと》返った。「腰抜け外記のか? あの糞《ふん》の外記が手の者かの?」  真顔で訊いた。知ってくれていたのである。剰《あまつさ》え、外記は或る合戦のおり修理大夫に随って進んでいたが、急に立停って、是より先へは御無用に候、只今人糞を拙者踏み申したるが、如何にもその臭気甚し、如何様《いかさま》敵近所にありと修理大夫を制した為に、待伏せていた徳川勢は長蛇を逸した。以来、徳川では外記のことを糞外記と呼んでいると迄、語ってくれたのである。六郎太は嬉しかった。主人の偉さを教えられたように思い感動したら、更に親吉は、「外記が郎党とあらば面白し。よいわ、来い」  館の広間へ通してくれた。     十四  六郎太は大名の屋形というものに入った験《ためし》がない。平岩親吉が徳川氏の中《うち》で如何なる権勢ある人物かも知らぬ。ただ気臆《きおく》れしたと見られまいと、片肘張って、力みかえって広座敷に坐り込んだ。  金泥の、目もくらむばかりな極彩色の桃山風な六曲二双の屏風が、親吉の茵《しとね》の左右に据えられてある。側臣がずらりとその傍《わき》に居並んでいる。いずれも千軍万馬の間を往来した一|くせ《ヽヽ》ありげな面構えの面々で、髭をたくわえ、あるは面頬《めんきよう》に刀創のあとなどとどめて鼻毛をほじったり、顎を撫でたり、揶揄《やゆ》気味に六郎太を横眼で見詰めた。山賊の棲家も斯くやと思える程荒々しい気風の充溢した広間であった。ひとかどの勇士と私《ひそか》に六郎太は自負していたが、これらの猛者《もさ》連を見て、天下は広いと、しみじみ思わざるを得なかった。そんな六郎太と知ってか知らずか、親吉は、少時、六郎太を招じ入れたのを忘れたように至極穏やかな口調で列臣共とこんな咄《はなし》をし出した。——今日、駿府城に鼓《つづみ》の名手とて観世新九郎なる者が、神君(家康)の御前に伺候したが、その修行の打明け話に観世の言うには、 「蚊は小虫なれども怜悧《れいり》なるものにて、夏の夜に鼓を打つとき、調べを握ったる方の手にとまらず打手の方にとまって血を吸う。握ったる手にとまらば、打手にて、うたるる畏《おそ》れあるを知りたるかと思われ、年来経験するに此の事変らず」  と。されば敵を攻めるにも安きにつくは蚊に劣る思慮なるべし、家康公は後でそう申されたことであった——そんな咄を親吉はしたのである。 「なるほど。あの蚊めにも左様な思慮がござるかい」  聞き了ると列臣は口々に感嘆の声をもらしたが、「あの小虫にものう」と、殊更「小虫」に力をこめるのが、暗に六郎太を揶揄《やゆ》しているようで、ますます|へ《ヽ》の字に口を結んでいたら、 「六郎太とか申したな」  親吉は、ようやく上座から目を注いだ。相変らず微笑を含んだおだやかな目もとだった。 「この親吉に仕官を望みおると申すが、渡辺外記ほどの丈夫《もののふ》に抱えられて何が不足じゃ? 腰抜け外記とて、愛想でも尽きたか」 「さ、さようではござらん!」 「そうであろう。下妻城の陥落に、主従ことごとく枕を並べ討死したるに殉死もせざる腰抜け武士と、人は非難したそうなが、この平岩親吉には然様には見えなんだ。あれだけの武士、死所を弁えざる道理なし。——今、どこに居るの?」 「——」 「言わんか。まぁよい。うぬが駿府に来たは、どうせ外記が差金であろう。何をさぐりに参ったにもせよ、外記が息のかかる者とあれば無下に帰しもならん。遠慮は要らん。役目を果たす迄、何なら当屋形に滞留いたせ」  そう言って、あとは列臣どもと過《すぐ》る合戦の思い出話などに打興じた。ついに六郎太への穿鑿はしなかった。無視されたようでもあり、劬《いたわ》られたようにも受取れて六郎太はいよいよ身を固くして坐りつづけたが、反面、親吉の器量の大いさを感じざるを得ず、これだけの武臣|数多《あまた》を麾下《きか》に擁する徳川氏の将来に、たしかに一|縷《る》の光明を見出した。  しかし、翌日、言葉に甘えて親吉の館に一泊して、朝、すすめられる儘に駿府城へ親吉の従者として登城した時に、家康を遙かな位置より望見したが、一|瞥《べつ》して六郎太にはそれが天下を掌握する英雄とは見えなんだ。顔に皺のみ多く、目のふちには黒い暈《くま》があって、小狡《こずる》げな老人とのみ思えたのである。それに引き較べ、陪席している福島左衛門大夫正則の方は、如何さま万軍を叱咤するにふさわしい威厳と、逞しさと然も素朴の人間味があった。加えるに家康の正則に対する応対ぶりは、事毎に懐柔的で、猫撫で声で、卑屈である。豈《あに》正則のみならんや。豊臣方には、正則程度の武将は五指に余る。それを思うと、近い将来の徳川・豊臣の軍《いくさ》の帰趨は自から明らかと六郎太には思えたのである。あの一癖ありげな親吉の家臣共さえ、正則の前では、猛虎を怖れる猫の如き態《てい》であった。  更に、ある時、ひそかに正則が家康を評して、 「家康殿は野合の一戦は上手なれども城攻めのことは左程にあらず。大坂の城は無双の要害なり。若し関東と合戦あらば大坂の城を頼み申すべし。天下|悉《ことごと》く関東に味方する道理なし、恐るるに当らず」  と語ったと聞いたのである。  又こんな評判も耳にした——。 「堀尾|忠氏《ただうじ》の老臣に松田|左近《さこん》という者あり、武功名誉の士にて、忠氏駿府へ参覲《さんきん》し登城せし時、正則|殿中《でんちゆう》にて忠氏に挨拶ありて、松田左近は今度《このたび》召連れられず候やと尋ねける。召連れ候と答えければ正則、退出より直ちに左近が旅宿を見舞う。左近|請《しよう》じて、さてさて忝き仕合せと申す。正則、久々逢わぬゆえ懐しく存ずる所へ、供にて参られしと聞き直ぐに参りたりと申す。それより緩々《ゆるゆる》物語ありけるに、左近何かな御馳走申上げたく存ずれども、上ぐべき物も之なし、酒一つ上げ申さんとて、小姓を呼寄せ、腰より銭を出し、御前へ一杯、我等一杯、又御前へ一杯、と盃の往来を算《かぞ》えて酒買いに申し付くるを、正則扇を使いおりけるが左近が手を抑え、某《それがし》も多くはたべぬなり、二つにて善き程なり、多く買い候は平《ひら》に無用なりと言われける」  と。  大酒豪と聞く正則にこうした咄のあるのは益々六郎太の心をとらえた。駿府に滞在中、終《つい》に親吉《ちかよし》の館に寄食し、親吉の寛容さにも親しみは覚えたが、正則の豪放の魅力には抗し難く、実は正則の江戸帰府の後《あと》を慕って駿府を去り、山ノ荘に戻って来たのである。  いわば六郎太の胸中には家康は野合の一戦は上手なれども、城攻めは左程に非ずと、正則の評した一語が、神の啓示の如く印象づけられて消えない。大坂と関東方に一合戦あれば徳川の運命はだから予測し難いと思う。そんな家康父子へ、如何になんでも綾姫を犠牲《いけにえ》に供する気にはなれなかった。ただ、それを、家来たる身を弁えて六郎太は口外しなかったのである。一つには、それが綾姫への秘めやかな懐いの故ととられはすまいかと怖れたのである。  併し、今は違う——。     十五 「……姫、お灯が消えてござりまするのか?」  厠《かわや》の闇の底で、いつまでも六郎太の胸に上体を凭れさせて動かず、呼吸《いき》をのむ綾姫へ外から外記が声をかけた。闇の気配を窺うようで、その癖、低い、落着いた声だった。 「………」綾姫は答えない。黙って前にまわしている六郎太の手首を抑えた。慌てて六郎太は引こうとしたら更に両手を重ねて来た。 「——いかがめされましたぞ。姫」  も一度、外記は呼んだ。何もかも実は見通しに相違ないのだ。 「爺やですか……すぐ、戻ります……先に帰っていておくれ」  それでも外記は動く様子はない。  六郎太は、闇の中から背を射るような鋭い外記の眼を感じて、 「拙者が、附いて居申す、御、御安心下され……」  思わず上ずった声を出した。それでも外記は突居《ついい》て動こうとしない。 「姫、もうお済みでござろう」  それで、抱え上げようとすると、 「嫌《いや》……」  身をゆすって全身で抵抗して、 「六郎太、そなたは何をそんなに怖れるのです?……」  外記へ聞かれまいと、耳もとにささやいて来た。綾姫はハアハア喘《あえ》いでいた。 「何もおそれており申さんぞ」 「では妾《わらわ》の言う通りして。……今は、動きとうありませぬ」 「——」 「六郎太、はやく爺やにそう言って下さい……妾は後で、そなたと帰る……」  手が、しっとりと六郎太の手を握って離さなかった。六郎太はその手をたぐり寄せ、無言に、腋の下へ首を突込んで彼女を肩に担いだ。鈍い音で、壁板に強《したた》かに肘《ひじ》を搏《う》った。小さく彼女は何か叫び、足をバタバタさせて必死に抗《あらが》った。  ……のっそりと六郎太は厠を出た。 「お済みなされておるのじゃな?」外記は黝《くろ》い巌の如く立ちはだかって動かぬ。 「いかにも済まされ申した」 「うそじゃ、嘘。……わらわは未だ済みませぬ。爺や、六郎太を叱っておくれ。六郎太は妾の言うことをきいてくれませぬ……なぜ妾の気持を、そなたは叶えてくれませぬのじゃ。卑怯者。六郎太の卑怯者」 「姫を早う家へお入れ申せ」  外記は黒い翅《はね》のように足をバタつかせる綾姫の、裾の翻《ひるがえ》りから目をそらした。闇に目が馴れるにつれて、地に流れる黒髪の|うねり《ヽヽヽ》と白い脚の躍動は妖精の羽撃《はばた》きのように外記には見えたろう。  六郎太は、 「外記どの」  面《かお》や胸を綾姫が平手でヒタヒタ叩くのに構わず「拙者過ちは犯しは致さん」 「何でもよい。早う姫をおつれ申したら、汝《うぬ》だけ、これへ戻って来い」 「?——」 「早うせぬか。お風邪をめさるるわ」  六郎太は大きく胸を張った。それから、 「心得申した」  何やら頷《うなず》くと、のっしのっしと綾姫を担ぎ入って藁《わら》むしろに横たえさせ、 「六郎太」さすがに予感して、顔色の変る綾姫の縋《すが》り附く手を、 「御心配は要り申さん、我らも武士なれば、外記どのとて武士にござる」  気やすめに軽く握り返すと、闇の外へ戻った。外記は先程と同じ位置に立っていた。六郎太が背後《うしろ》へ迫る恰好になった、一、二歩手前に、 「汝《うぬ》に一度問いただそうと存じておったが、ちかごろ、うぬは何ぞこの外記に異見をはさみおるのか?」 「——」 「かくさずともよい。異見は、何じゃ」 「姫さまがことにござる」 「——おみ足か」 「いえ、駿府城にお入り申される儀、チト天下の動きに疎《うと》い外記どのが思慮違いと、拙者思えてなり申さんのでござる。御意見申上ぐる意図にては無けれど、万一、豊臣方に挙兵あらば」 「うぬは何歳になる」 「?……」 「軍《いくさ》を何度いたした」 「………」 「武士の死場所は一つじゃ。うぬも五郎左が忰なれば野垂れ死さするは不憫。明朝、よいか、出陣のいでたち致してこれへ出い。以前なれば手討ちに致すところ、今はうぬも家来、この外記も家来。されば華々しき勝負して、姫が命運を決しよう」 「殿、な、何と?」 「何をうろたえる? 天下を分つもの豊臣にあらずば徳川じゃ。されど如何な我らとて、徳川が未来の禍いまで予知出来ん。うぬは大坂方に諸侯は味方するがように申す。そうであろう? 我らは徳川と思う。然れば徳川が勝つか、豊臣が勝つか、我ら二人しての勝負じゃ。勝ったる者が姫さまをお抱き申し、己が信ずる方へ合力いたす」 「殿」やにわに六郎太がガバと大地に平伏した。 「お赦し下され。拙者、とてもの事に、殿に太刀打ちなどは致し兼ね申す。拙者が浅慮にござる。まこと勝負の上にて御決心あそばそうとならば、何卒、この場にて拙者が首を」 「何をほざく」 「いえ、それがしは殿、田村五郎左が忰にござり申す。とのが旧臣田村の」 「姫さまに、それでよいかの」 「………」 「うぬは昂《たか》ぶっておる。何も我らして私憤の争い致そうというのではない。つまる所は多賀谷のお家再興じゃ。姫さまの御為《おんため》じゃ」 「——」 「年来、老いたればとて姫さまが為とあらば、我ら死力を尽くして挑むわ。さればうぬも、決死の覚悟して相手せい。いずれが勝つも、負くるも姫が御運命につながるぞ。決死の覚悟で槍合せ致さいでは神の啓示も獲《え》られはせん。よいかい、我らして姫が御運勢を卜《ぼく》するのじゃ」 「………」 「分ればよい。武士は申《さる》ノ刻過ぎて軍《いくさ》はせぬもの。不寝の番は今より、この身が代ってやる。うぬは、もう寝い」  言い残すと、六郎太へ背を向けた儘、ゆっくり、何処へともなく闇に姿を没して往った。その夜、黎明《れいめい》まで、終に外記は戻って来なかった。     十六  しらじらと夜が明けた。  古武士の一徹な気持で外記が本気で六郎太との勝負に、綾姫の未来を賭けようとしているのが彼女には分ったから綾姫は、まんじりともしないで夜を明かした。  外記は冗談を言える老人ではない。如何に老いても戦場に鍛えた体が若さだけの六郎太に未だ劣るとは思えない。まして六郎太は真剣勝負には未経験だった。外記は戦場の場数をふむこと数知れず、幾度か生死の間に組討ちして敵将の首級を挙げている。更に悪いことに六郎太には外記への本心からの闘志がない。  綾姫は六郎太の側《そば》に横たわって寝て、 「六郎太、……妾は爺やに育てられました、爺やが大好きです。でもそなたの方が、六郎太、そなたの方が、好きよ」 「——」 「妾は、そなたを失うては生き甲斐はありませぬ。家を再興したいとも思わないわ。こんな恥ずかしい足で、世に出ようと思いませぬ。そなたさえ、許してくれるなら、いつまでも此所で、そなたと二人……」  背を向けて眠ったふりをしている六郎太の背すじへ綾姫は顔をおしつけて、愬えた。爺やは物のあわれを知る武士だから、最後の一夜を六郎太と明かさせてくれる為に、わざと戻って来ないと綾姫は思っている。それなら、ほんとうに六郎太の腕に抱かれていたい。そうすることが、やがて彼の闘志を掻き立ててくれるかも知れない……。  六郎太は併し、ついに一語も応えなかった。背をゆすられても、さめざめと綾姫が涕《な》き出しても、肘枕で刀を抱え込んで、じっと眠ったふりをしていた。——そのうち、本当にウツラウツラと眠ってしまった。その背《うしろ》で、いつか綾姫も仮眠していた。ハッと物音に目覚めたのは綾姫の方であった。  しらじらと夜が明けていた。窓に区切られた屋外の透明な空の色に思わず上体を起して、土間を見ると、いつの間に帰っていたのだろう、外記が意外や具足を身に著け、竃の炎に身を跼《かが》めて朝餉の支度を始めていた。 「お目覚めになりましたるか、今朝は姫、いよいよ晴れの御出立にござりまするぞ」 「出立?……何処へ往くのです」  それには答えない。綾姫が板の間に目をやると、いつも食事をする其処に日頃は見馴れない膳部が三つ、その各々に柏の葉と、栗と干鮑《ほしあわび》に、昆布が載せられてあった。六郎太はまだ目覚めなかった。綾姫は裾の乱れを手であわせて、そっと坐り直って、 「爺や。昨夕《ゆうべ》の話は本当なのですか」 「——」 「本気で六郎太と勝負を」  外記は、延ばした腰をトントン後《うしろ》で敲きながら「晴れの御出立にござり申す。古《いにしえ》は寅ノ刻に陣所を罷|り発《た》ち申したもの……さ、早うお顔をお洗いめされ」  介添えに手を差し出す。綾姫は、黒眸《くろめ》で少時、爺やを凝視《みつ》めたが、素直に起ち上って、手をとられた。姫と老臣は黙って、顔を洗う為に裏手へ出た。  六郎太が起床したのはいい具合に、二人の出掛けたあとである。彼も又、ハッとして竃の炎に目をとめ、板の間の膳に見入った。六郎太だけは口を漱《すす》がなかった。具足も身に著けなかった。外記は、これには黙っていた。黙って、主従三人、外記のととのえ了った『出陣の膳』に対坐した。綾姫が上座。それに対面して外記が右、六郎太が左。 「先ず|三献の祝《ヽヽヽヽ》を致しまするぞ、姫。六郎太、うぬもこれが今生《こんじよう》の見おさめであろうやも知れん、又の日に役立とうやも知れんが、武士が出陣の作法じゃ。先ず将たる者は、盃を取って酒を酌むこと三度。次に打鮑《うちあわび》を取って細き身を喰《くら》い、残りをば左より右へ角違いに置いて又一献。次に左の手にて勝栗を取って喰い、その手を拳《こぶし》につくって左の腰に当て、又一献——これぞ三々九度と申す」  外記は言葉の通りを先ずして見せた。それから、瓶子《へいじ》で大将に酒を注ぐ給仕の作法を示した。出陣に当り、酒を進ずる者は左の膝をつきて参らす、膝行《しつこう》するとも常に、足は一歩も後へひかぬものなり。又始終、左の手は剣のある意味にて腰にあて、右の手ばかりを用うべく、この手を地に突くことならず、と。  綾姫は時々、奇異の想いでそんな外記の顔を見なおした。何か、愛弟子に師が懇々と教え込む慈愛の所作と見えたからである。六郎太は緊張して、無心に、固唾《かたず》をのんで見|戌《まも》っている。 「よいか、序手《ついで》に出陣の身拵《みごしら》えじゃ。これに結《ゆわ》えておるが糧嚢《りようのう》。戦闘の場に不便を感じぬよう作ってあるテ。これには胡椒《こしよう》を容れるぞ。胡椒はその利多く、暑天の時に服すれば暑気にあたらず、寒気の時、水を渉《わた》り河を越ゆる前に胡椒を服すれば凍死の恐れなし。又これは鰹節《かつおぶし》じゃ。鰹節は薬剤にあらねども飢に及ぶ時是を噛まば性気を助け気を増す。飢をしのぐのみならず功ある物なれば武士は必ず携行いたすぞ。——それから」  塩|嚢《ぶくろ》を見せた。渋紙に鉄の輪を入れて折たたみ式になった水呑みを示した。一つ一つに昔の功名手柄が秘められているような古びて色さめた品々であった。それでも一々丁寧に外記は元に蔵《しま》った。それから改めて、主従三人、酒をくみ交し、永遠の訣別をした。 「六郎太」外記は上り框へ最初に降りて、草鞋《わらじ》の緒を男結びに緊め、槍を手に土間へ立つと、 「うぬは具足も著けおらんが、呆れ果てた虚気《うつけ》者よ。五郎左が忰なればとてこの外記が容赦すると思いおるか。たかが三月《みつき》駿府城下をうろついて若僧《わかぞう》に何が分る。天下の帰趨、うぬがいのちに思い知らせてやるわ。来い」  言って、パッと戸口から外へとび出した。綾姫は愕然と我に返った。 「六郎太。爺は、爺は本気でそなたに対《むか》います」 「心得ており申す」 「わらわの気持が分ってくれないのですか。昨夕《ゆうべ》のことを嘘と思うているのですか」 「——」 「六郎太……」  併し六郎太は壁に懸けた手槍を掴み取ると、具足を著けぬ、昨夜の不寝《ねず》の番の身扮《みな》りの儘で、土間へ降り、 「姫、さらばでござる」  つと、外へ出た。  六郎太の槍は紙縒《こより》で作った鞘をかぶせてあった。外記の穂先は熊の皮の鞘で包まれていた。外記は数間向うの山|楓《かえで》を背にして髪を散らし鉢巻をし太刀を帯びて、らんらんたる眼《まなこ》で槍を小脇に抱え立つと、 「小忰めが。……出過ぎたことを」  と言った。その眼は嘲侮とも敵意ともつかぬ、異様な底光を湛えていた。  六郎太は顔面蒼白であった。 「殿。それがし父より訓《さと》されてござるぞ。主君に過ちあらば死すとも諌言《かんげん》仕れと」 「黙れ。うぬにこの外記が討てるなれば天晴れ手柄じゃ。我に代り姫さまを守るに不足はない。さ、来い」  朝の太陽が、露にまだぬれた樹々の林立する枯れた梢の上に、爽やかに山の斜面を溢れて、射して来た。地面の朽葉が烈しい両者の足運びに踏み躙《にじ》られ、水滴を四散させた。必死に両者は槍を合わせ、とび違って争った。そのうち六郎太が濡れ草に足を滑らせ、後ろに尻居《しりい》た。すかさず戦場に手練《てだ》れの鋭い槍先が突き出されようとした時、 「待って。爺や」  綾姫は小さな足で走り出て倒れた六郎太を、我が身で庇《かば》い、 「妾が悪かったのです。爺やの言う通り、駿府へでも江戸へでも行く。どのようにでも、爺やの言う通りにします、だからだから六郎太を刺さないでおくれ……」 「姫、ど、退きなされ」 「嫌《いや》、……爺やは、爺やまでが妾の言うことをきいてはくれませぬのか。こんなに頼んでいるのに。……こんなに」  綾姫の双眸からは涙が滝のように溢れた。 「嘆かわしや、姫」外記は絶叫した。 「それでも姫は奥方の息女におわしまするか。奥方は、家来を愛さなんだと思い召されるか。武士なれば、武、武士の妻なれば——」  血涙をしぼって叫び、ヨロヨロと後退すると、外記は、天を仰ぎ「間違うておったのか……この外記が間違うたか」目を瞑《と》じて、長大息した。  外記はこの日に割腹して死んだ。  その後、足の異常に小さな乙女を背負うて襤褸《らんる》をまとい、山|窩《か》同然に山から山を移り棲む一組の男女があった。誰もその正体を見届けた者はなかった。綾姫は大坂へも徳川へも出なかった。六郎太と一生、清らかに生き、いつか飛騨の山奥に二人はその足跡を絶った。 [#改ページ]   山伏と彦丸     一  春の、うららかに日差の霞《かす》む午下りのことである。  ゆるく鳶《とび》が弧をえがいて空に舞うその下の、柳原の土手に黒山の人だかりがしていた。修験者と、旅装の侍が口論のすえ、次第に言い募って語気荒く、今にも喧嘩に及ぼうとしたが、修験者が、 「汝《なんじ》、武士といえども我には加持《かじ》の念力あり、これを用いる時は、如何なる者とて刀を抜くことも出来ぬわ」と言った。四十前後の人相険しく、眼に光のある、荒法師めいた山伏である。法螺貝《ほらがい》を腰に下げ、兜巾《ときん》を戴いて、強そうな金剛杖を左手《ゆんで》に大地へ突立てている。  士《さむらい》の方は、これも陽焼けして逞しい浪人者である。「御事《おこと》が申す通りなれば我を祈れ。即座に汝を斬ってみせん」と言った。 「おもしろい。では、さ、斬れ」  修験者は素早く杖を小脇に抱き直して、印を結び、呪文《じゆもん》を唱えた。武士は柄《つか》に手をかけ、刀を抜こうとしたら、真赤に顔を赧《あか》らめて力んでも抜けない。  修験者は目を半眼に、いよいよ低く呪文を唱える。わなわな侍の肘《ひじ》が顫《ふる》えたが何としても抜刀することは|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》わなかった。年比《としごろ》二十七八、眉の迫って黒い、武芸者らしくも見える武士である。  見物の面々は、これを眺めて奇異の感にうたれ、話を伝え聞いた近在の者が弥々《いよいよ》囲みをなし、土手に軒を比《なら》べる肆店《みせみせ》の商人《あきんど》から家族までが総出で家を出て、囲みに加わった。そのうち、 「お、おのれ」  と叫び、渾身の力を尽くして武士は半身に構え直って嚇怒《かくど》すると、漸く少し刀は鞘をすべり出た。が、忽ち修験者が声を高め呪文すれば復《また》鞘中に躍り入った。何としても、竟《つい》に刀は抜けなかったのである。 「どうじゃ」  良《やや》あって修験者は、印を結んだ儘で呪文を中止し、「ちっとはおのれが未熟を恥じおったか」 「ぬぬ……」 「非を悟らば、大地に諸手をついて謝罪せい」  浪人は冷汗をうかべ蒼ざめて猶《なお》も相手を睨《にら》んだが、既に闘志は沮喪《そそう》している。刀へ手をかけたまま、タジタジ後退すると、矢庭に、踵《きびす》を返し、脱兎の如く群衆を掻き分けて逃げ出した。  見物はその後ろ姿を嘲《あざ》笑うことも忘れて只々山伏の念力に感嘆したが、渠《かれ》は、何事もなかった態で、悠容せまらず、金剛杖を取り直すと群衆の思わず道をひらく前を静かに歩みはじめた。その口辺には満足の笑《えみ》があった。人々はいつまでもその場を去りやらず、修験者の後ろ姿を見送り、 「おそろしいお人ではないか」 「そうじゃ、生き神様じゃ。あれほどの術力をそなえていなさるなら、どんな難病も癒してお呉れであろう」  などと口々に私語し、土手道を早や遠ざかる姿に、中には、合掌する老婆さえいた。  群衆は四散しておのが家に帰った。そこで、 「あっ」  と驚いた。店に置いた高価な品や屋内の金銀、あらかた失せていた。さきの口論は盗《ぬすみ》の奸計《かんけい》だったのである。山伏と浪人の対決する隙に、謀《しめ》し合せた一味が空巣を働いたのである。     二 「どうじゃ彦丸」  ここは板橋の道はずれ。森の小さな祠堂《しどう》の前で、山伏が縁《えん》に腰を据え、盗品を山分けしながら、地面へじかに坐っている男に話しかけた。「おぬしも少しは味をしめたと見えて、ぐンと盗《と》るのが上手になった……。のう勘左衛門、おぬしも、そう思わぬか」 「そうだの」 「いやに気のない返事をしくさる。もともと、おのしの考え出した奇略じゃぞ」 「——」 「ま、よいわ。これがおぬしの分け前。これが彦丸——おぬしの分じゃ」  山分けした盗品の一方を更に二つに割って、手前を自分、一つを地面に坐った男の分にと祠堂の上で振分けた。あらかた鐚銭《びたせん》だが、中には一朱金も混っている。  勘左衛門と呼ばれた侍は、浪人|髷《まげ》の月代《さかやき》を風に弄《なぶ》らせ、さして興味もなさそうに盗品へは目もくれず、何か、気怠《けだる》そうな視線を遠く菜種《なたね》畠に注いで、黙っている。大小は腰に差した儘、色|褪《あ》せた野袴に括《くく》り布を背負い山伏の傍《わき》に腰掛けていたが、日頃無口で憂鬱げなのはこの男の持前のようである。 「ふン、又病気が出くさったか」山伏はチラと一瞥して呟《つぶや》いたが、「ささ、おぬしの方に餅菓子を分けたぞ。喰《くら》え」彦丸へ促した。険悪な面相のわりに、思いやりをこめた慈愛ある語調である。  彦丸は、乞食か何ぞのように敝衣《へいい》一枚、すねを露出《むきだ》しで松の根方に胡坐《あぐら》を組んでいる。丸腰でもあり、百姓か小作男《こさくおとこ》然と見えるが、はだけた胸もとに隆々たる筋骨が覗いて、眼底にきらめきのあるのは凡庸の育ちとも思えなかった。年歯は十七八、歳の割には坐高のたかい偉丈夫である。  盗品には土産物《みやげもの》店に鬻《ひさ》いでいた乾菓子もある。山伏が先ず、反っ歯で齧《か》み頬張って、 「どうした、早う喰え。昨夕《ゆんべ》からおぬし何も喰っておるまいぞ」 「要らん」 「——いらん?………」 「彦丸は御事《おこと》がようなさもしい生れではないわ」勘左衛門が顔をそむけて言った。 「なに」  山伏は頬張った口をとめ、凄い眼付で睨んだが、 「盗人をはたらくに大名の忰も、百姓あがりもあるかい。愚僧はの、人をたぶらかしはしても、物盗りはせん」 「——」 「彦丸、おぬしに言うておるのではない、気にせんでおけ。ここな勘左衛門めが手前に盗みをすすめながら何ぞと言えば」 「武士の胸中おこと如きに分りはせぬ」 「ま、又ほざきくさる。それ程おのれ」  かんにんなり兼ねた面持でヌッと縁から起《たち》上り、口中のものを呑んだ。勘左衛門は無視しきって顔をそむけたまま、樹々の空に翔ぶ鳥を無表情に眺めあげる。 「今日は、二十六日であったな彦丸」 「……そうじゃ」 「どこぞ寺院にでも喜捨《きしや》を致すか」  勘左衛門が、ゆっくり空から目を戻すと、 「いらん」  彦丸は地面の砂を掴み、ぽい、と目前へ投げ捨てた。暗い表情だった。 「盗んでおいて喜捨する?………ふン、よい智慧じゃ。さぞ仏の利益があろうテ」  山伏が、いまいましげに再び腰をおろしたが二人はどちらも応えなかった。  彦丸は上方のさる雄藩の一子で、父を重倫《しげのり》といい豪邁不羈《ごうまいふき》の人物だったが、為に暴虐と失政も有り公儀の内沙汰で早く隠退せられた。現藩主は彦丸の兄である。彦丸同様寵妾の腹に生れ、「重倫公もと正夫人の出ならで側出なりしことを思い出でられ、とかく生母は無《なき》がよきものなり、成長の後に弊ありとて、鵜葺屋の中に彦丸兄弟を産みし婦人を手刃《しゆじん》せられしとなり。残忍なることにはあれども豪傑の所為にして凡人のなし得ざる所」だったと曰《い》う。  大名の妾腹に男子出生すれば、母へ金子をつかわし暇をくれ、出入を禁ずるのは、他の諸侯にも見られたことで、「井伊|掃部頭《かもんのかみ》どのは金百両を遣わし暇を出されける」「亀井殿も妾腹に出生あれば五十両やりて暇出すよしに候」と巷間の筆立つ者の著書にまで記されている。又、大名の子が幼少のうちは父母の膝下に置かれず、母の乳房も知らず、奥向きの局《つぼね》や乳母の手に育てられ、十歳で今度は、女の手を離れて表に寝かされるのは常のことで、およそ母の愛なぞとは無縁の境遇に成人する。それが武士の生立ちである。  しかし中には何としても母を慕う柔弱の忰もあり、成人して後に、却って母を敬慕するのがそういう時の人情だろう。  彦丸もそんな一人であった。生母が父に手刃されただけに一そう生母への思慕の念はつのった。といって、惰弱の少年だったのではなく、兄鍋松の温和なのと違って、性格至って狂暴、且つ早熟で、前髪時代(十一歳の頃に)藩邸の屋根に登り、奥部屋の女中共へ向って、「お、め、こ、させろー」と大声に喚いた。老臣共の狼狽は一通りならず、 「杏《きよう》太郎|君《ぎみ》。な、何たることを仰せられまするぞ」  お附家老の原田老人などは自身も屋根に縋《すが》り登らんとして足を滑らせ大怪我をした。  ある意味では、父重倫の資性を受け継いだと、末頼もしく思う家臣も一部にはあったらしい。併し天下泰平の時代、重倫に公儀より隠退の内沙汰もあったことを思えば、お家にとって将来危険人物と大方は危惧した。何よりも悪いことに、彦丸は長ずるにつれて母を手刃した父を憎み、明らさまに反抗する。堂々と暴言も吐く。まだ壮にして隠居させられた重倫には却ってそれも面白いと見えたろうが、重臣共の意見には抗し難く、ついに彦丸を一家老の養子分に下した。彦丸十二歳で、名も杏太郎から数馬と改め、臣籍に下りたわけである。ところが僅か半歳を経ぬうちに、老臣は病死し、一夜|忽焉《こつえん》と彦丸は邸を出奔して消息を絶った。家督を家老の実子に継がさん為の思い遣りであろうと原田老人は落涙したが、以来数年、杳《よう》として行方は知れない。その彦丸が、修験者東嶽坊と浪人稲川勘左衛門に一味して偸盗《ちゆうとう》を働いている。  二十六日は、生母の命日に当るのである。     三  呪文のからくりで一働きすると当分、山伏と浪人は、別々に行動する必要がある。その為の山分けでもあるが、東嶽坊は常に彦丸へは己れの分け前を更に二分して与え、三等分はしなかった。丸々半分はだから勘左衛門のみが受取る。その配分方法を口実に、東嶽坊は常に彦丸と同道する。実はそうしたい為にわざと三等分せぬのである。呪文の盗みをはじめて間もなくに、東嶽坊がこの不公平な山分けをしたら、勘左衛門が、 「強欲者にも似ぬ。御事《おこと》さては野心があるな」ジロリと見た。 「なに? おぬしこそ語るに落ちるぞ。もともと、彦丸を先に識っておったは愚僧じゃ。その愚僧が同伴して、何が悪い」と言った。たしかに彦丸と道づれになったのは東嶽坊が先で、それも彦丸の方から近づいたのである。  まだ彦丸が江戸の屋敷をとび出して西国へ足を向け、山城国《やましろのくに》にさしかかった時である。西国へ向ったのは生母が備前の産と聞いて、何となく懐しさから流浪して行ったのだが、とある山道にかかった所で、異常なものを見た。『牛焚き』である。 『関西いずれの頃よりにや、牛を焚ところあり、その民里の人家にて、年来遣い尽して用たたざる老牛を買とり、深山中に率《ひき》ゆき牛を入るべきほどに大きな穴を掘り、穴の中に大きなるはしらをあまたたて置《おき》、さて牛を穴の中へ駆《かり》入れ、此はしらに牛の動かざる様によくくくりつけ、牛のはらのあたる所にて堅炭《かたずみ》をおこし、牛の腹をあぶる。火の盛んなるに従って牛の口中より津液《しんえき》を吐出すを、箸にてとり尽しとり尽しすれば、果《はて》は津液とともに肉ながれ尽《つき》て、牛は皮と骨ばかりに成て死ぬる也。牛の吼号する声山谷に振い、悲痛|聞《きく》にたえがたき事とぞ、その骨をば婦人のくし、かんざし、髪なで等の用に、小なるは算盤《そろばん》の目盛板、小細工などに用い、粉に成《なる》をば婦人のおしろいにまぜ用いる事、少しも残る物なく用に立事《たつこと》なりとぞ』  という、その牛焚きに村民を指図していたのが修験者の東嶽坊だった。  いかな豪気の彦丸も見るに堪えかねたが、村民の一人をとらえて、 「かの修験坊は?」  と問えば、 「霊験|篤《あつ》き御坊なり」と答える。 「何が霊験あつきぞ」  と更に問えば、こんな話を聞かせてくれた。何でも村で狐に取憑《とりつ》かれた娘がいて、庄屋の父親はいたく心痛していた。そこへ通りあわせた東嶽坊が噂を聞き、 「愚僧にまかせなば狐を落すこと造作もなし」  と言う。そこで依頼すると、祈祷すると思いきや人を走らせて鮪《まぐろ》の肉を夥《おびただ》しく買い来させ、それを摺り身にして娘の総身に塗り附け、柱に縛りつけた。それから呪文を唱えつつ畜犬を連れ来させると犬は喜んで満身を舐《な》める。裸の娘は大いに恐怖し震い叫んだが軈《やが》てケロリと狐は落ちたというのである。  不思議な山伏である。  彦丸は牛焚きを済ませて村人にねぎらわれている修験者に、何となく近づいた。東嶽坊は岩に腰かけ、汗を拭いていたが彦丸をしげしげと見て、 「めずらしい乞食を見るものかな。おのれ、生れは?」  と問うた。彦丸が黙っていると、 「愚僧は本山派にて東嶽坊と申す。——ま、これへ来て、憩《やす》め」  おのが隣りに座をあけ、それ以後は何かと親しげに話しかけて来た。村人がいぶかると、ますます得意然と、くだけた態度を示してくる。やむなく彦丸も受け答えをしたが、そんなことから以後、道中を偕《とも》にするようになった。  当初は秘して明かさなかったが当人は常の乞食なみに振舞ったつもりでも、大名の家に育った身である。言葉づかいから立居振舞い、一目瞭然、鷹揚の育ちなのは分る。 「そうか。おぬし、大名が忰か。道理で眼にただならぬ光ありと見えたわ」  身分をきき出すと東嶽坊はますますいたわりを誇示するようになった。牛焚き村を出たときは庄屋より充分の礼金を受取ってあったので、何不自由ない旅をつづけた。夜は旅籠《はたご》に投宿した。東嶽坊の弟子と見せかけるべく、彦丸にも修験者の扮装をすすめたこともある。 「いやじゃ」  おれはこの儘でよい、頑《かたく》なに彦丸が拒絶したので相変らずの敝衣であったが、修験者と同道ではそれも人は怪しまぬ。ただ東嶽坊と道中するうち、次第に彦丸は寡黙になった。ひとりの折は左迄に自覚せなんだが、おのれの物言いが、大名の子息然たることに気づいたのである。——ついでに、「なぜおぬし備前へ行くの?」東嶽坊に問われたとき、 「べつにわけはない」  とより告げなかった。 「すりゃ引返さぬかの。路銀も心許なし……又あの村へ立寄らば庄屋めが、なにがしかは支度してくれようでの」  と言われ、素直に踵を返した。しかし村へ寄ることには反対した。それで道中、東獄坊の祈祷で喜捨を乞う旅となり、そんな道すがら勘左衛門を知ったのである。そうして彼の入れ智慧で呪文の詐術を用いるようになった。ただ、はじめはこれで呪術を信用させ、以て東嶽坊に信者を獲させて寄進をまった。巧みに姿を匿す勘左衛門が次の宿駅まで彦丸を同伴することになる。それを東嶽坊は猜疑《さいぎ》しはじめ、 「勘左、おのし本心は別にあっての入れ智慧だったの?」と言い出した。 「何のことかの」 「いいや。もうその手には乗らぬ。以後この方法は、愚僧が方で払い下げる」  東嶽坊が白眼視したのには確かに理由もある。ある裕福の信者を獲た時に、たまたまその家に重病人あり、医師の薬餌《やくじ》を受けていたが主《あるじ》は東嶽坊の霊力を信じて祈祷を請うた。元来が東嶽坊とて無経験の修験者ではない。請われる儘に祈念したところ病人は快方に向った。あるじの喜びは非常で、生き神様の如くに崇める。これを見て、医師は「嫉《そね》むのではないが狂信の徒を世に多くするは天下の為にならず。病人の平癒したは霊験にてはなし、薬の効なり」と言い、渠《かれ》が忿怒《ふんぬ》すると、「我は薬にて人を救う。貴辺は呪術にてまこと人を救い給うなら、我いま貴辺に毒薬を投ぜん、祈祷力にて自ら癒して御覧めさるか」と迫った。東嶽坊は青ざめ、ほうほうの態で遁《に》げ出してきた。  それがあるので、以後信者を獲るこの方法は御免じゃと拒んだ。勘左衛門は、 「ではこうすればどうじゃの。彦丸にも悪事に加担させては」  仔細を聞かされると愕然と東嶽坊は色を変え、「さ、さようなこと彦丸にさせられるかっ」 「何故させられん?」  冷然と勘左衛門は言い返し、険しい目で、無言に両者が睨み合うのを傍でつまらなさそうに見ていた彦丸が、 「やればよいのか」  同じ、つまらぬ顔つきで「やってみよう」とつぶやいた。東嶽坊が駭いて制したが相手にしなかった。  かくて三人、一味となって、江戸へ入ったのである。     四  次の落合う場所を謀《しめ》し合わすと、早速、東嶽坊は彦丸の手をとらんばかりに祠堂の前を去り、勘左衛門と別れた。森を出るとき、ひそかに振向けば勘左衛門はまだ祠堂に腰掛けて、ぼんやり、あらぬ方を見ていた。 「彦丸、気をつけたがよいぞ」  東嶽坊は耳もとで囁いた。「勘左めは何やら企んでおる。さものうてあのように悠然と構えくさるわけがないテ。もしやすれば、おぬしが兄の屋敷へでも」 「放してくれよ」うるさそうに彦丸は手を払いのけた。脂づく太い指がしっかりと掴んで離さなかったのである。 「勘左の意中じゃがの」  気はつかぬふりで手だけは離したが、身をすり寄せると言った。「おぬし、どう考えておるの? 次の内藤新宿に来ると思うかい。愚僧の見込みじゃが、来ても、一人ではあるまい。おぬしが屋敷の家来どもを連れて参るか……」 「——」 「どうも、愚僧、おぬしを悪事に誘うたときよりあれが心底、臭いと睨んでおった。おぬしの父上太真公は聞けばまだ息災にて、それとのうおぬしが行方を探しておらるるそうな。いや、確かな筋より耳にいたした噂なれば嘘ではない。さすれば、おぬしがことを報らせ、功にあずからん心底ではないかの。ふだんは何かと次の場所に文句をつけるに、今日に限って至極あっさり新宿を合点いたしたも、他意のうてはかなうまい。きっと、そうじゃ」  板橋の村道の両わきで畠仕事に出精する農夫の姿が点々と散っている。雲雀《ひばり》が、高く低く囀《さえず》って空を駆っている。夕景にはまだ間のある春の田舎風景である。祠堂の在った森が、雑木林の曲り道で遮《さえぎ》られ、彼方にかくれた。  彦丸は道端の草を毟《むし》り取り、黙って咥《くわ》え、歩度を変えずに西へ歩む。 「彦丸」何度目かに振返って森の遠ざかったのにやや安心したか、山伏はわきへ身を離れ、金剛杖を把り直して悠然たる歩行ぶりに変った。 「いっそ愚僧おもうのじゃがな、我らより一足さきにおぬしが屋敷へ入ってはどうであろうの。悪事は、いずれは知れる。役吏の吟味ものがれ得まい。さすれば愚僧ら罪に問われ、おぬしとて同罪じゃ。今のうちなればおぬしが父上の権力を以ていたさば、公儀へ内分の処置も懇願出来よう。盗んだと申したところで高の知れた金品、被害人へ償いのてだてもある。——どんな事情で、そもそもおぬし家を抜け出られたか知らんが、親不孝は母殿の命日を忘れぬおぬしらしくもない行状であろう。違うかの?」「——」 「ま、無理にとは言わんが、勘左めにこの儘出し抜かれるは無念でならんで」 「さような小人物とはおれは見てない」 「?」 「いちど、勘左衛門がおれにそれとなしに尋ねおったわ」 「な、何じゃと?………」 「兄上がこの世を去ったら、家督はおれが継ぐものかどうか——」 「や。すりゃ、勘左めは?……」 「まあ、そのほうの呪術に、あれで、ひそかに期待はかけているとおれには見ゆる。呪詛《じゆそ》かどうかは、分らぬがなあ……ふふふ」  ひとり、含み笑って、口中の草をベッと吐き捨てた。東嶽坊は愕然とその横顔を見、歩み停った。ついぞこんな怖ろしい彦丸を見たことがなかったのである。 [#改ページ]   勘左衛門の切腹     一  稲川勘左衛門は眼球が突出していたので異名を木綿実《わたざね》と言われた。もとは備前藩士である。  藩主池田侯は風流の英主で、京地巡見に祇園《ぎおん》町通行のとき、左右の茶店で紅粉を粧った少女が世にいう祇園豆腐を拍子して切るのを、駕籠を駐《と》めてゆるゆる観られたりという。雄藩の殿様でかかることせられたのは珍しいが、『その地の名物といえばかくあるもなかなかのお人なりと庶民申しけり。又常に浄瑠璃を好み、間暇の時は奥女中に三線《さんせん》ひかせて聞く計《ばか》りにて遂に三線を手にとりたることもなく』戯れにその文句など謡われしことはなかったという。書画|骨董《こつとう》にも趣味深く、佳き画を購入すれば画工に毫髪《ごうはつ》も違わぬよう模写させて江戸は火変が多いといって真物は国許へ送り、模本を留め置いて日々に引替え、取替え掛けては詠《なが》めた。もし此の軸を賞する客があると封地の真物を惜しみなく贈与して直ちに模本は焼却させたともいう。  勘左衛門はこの主君のもとで大小姓組を勤めた。ある年、徳川三家の一へ使者として赴いた時に、田舎|訛《なま》りで、出目金《でめきん》の見るからに野鄙《やひ》な面貌だったから、三家の取次はこれを侮り、口上を聞いた上で、「御口上うけたまわり候、さりながら少し承り遺《のこ》し候ゆえ今一応承り度し」  と言った。勘左衛門は謹んで再び申し述べたところ、取次は尚困らせんとしてか、 「とかく承り兼ね候、今一応」と促す。  謹んで勘左衛門は三度び同じ口上を申し述べた。ようやく取次は奥に入り、良《やや》あって出て来て藩公の返答を伝えた。聞いて勘左衛門は言った。「御返答|慥《たしか》に承り候、さりながら田舎者、承り違いも計り難く候条、今一応御申し重ね下され度く」と。  取次は、さてはと思ったが前の事もあれば再び申し述べると、勘左衛門|復《また》言うのに「田舎者不調法にてとかくうけたまわりかね候ふしも之有るかと存じ候、もし違い候ときは尊貴の御口上主人の手前恐れ入り候あいだ念の為一応承り度し」と終《つい》に三度び迄言わせて退出した。  又ある年。これは三家のうちの紀州家——彦丸の父|重倫《しげのり》公に使者として赴いた時だったが、重倫公に直の対面を許され主君よりの口上を述べた。暫くするうち、物を言うのを止め、手を突いて俯《うつぶ》したから、重倫が、眩暈《めまい》か腹痛で物を言わぬのかと思っていた所、勘左衛門の言うには、「口上一くさり忘却仕りたり、恐れ多けれども御次の間へ下り思案仕り改めて言上仕り度し」と。  重倫は、「さあらば緩々《ゆるゆる》と思案いたせ」と座を立った。勘左衛門は暫く退いて案じるうちに思い出したので、再び対面を請い使者の首尾を果した。後で重倫は、「士《さむらい》多しというとも勘左が如き使者はあらじ、当座の首尾合いたるを専《もつぱ》らとし忘れたることをも押隠《おしか》くすものなり、有体《ありてい》なるもの哉」と甚だ感じ入って池田侯へも称美して物語った。又この使いで稲川勘左衛門の名も人に知られたという。  勘左衛門が池田家を浪人したと聞いて、既に重倫は隠退していたが、早速に人を遣わし、それとなく彦丸の保護を依頼したのも勘左衛門の人物なのを見込んだからである。養家を出奔した杏《きよう》太郎(彦丸)が、生母の故里を憬《あこが》れて備前へ趨《はし》るだろうとは重倫は察していた。     二  勘左衛門の下僕で嘉七という者があり、何の故もなく暇を願い出た。勘左衛門が止めると備前に在る自分の田地が荒れたので罷《まか》り帰って耕したいという。  尤《もつとも》ながら是までつとめ、暇つかわすもいかがなれば米一俵与うべし、それにてとどまらぬかと再度|窘《なだ》めると同心したので、約の通り米一俵を与え、家に置いた。ところがこの事が老職の耳に入り、下僕が申し条甚だ以てゆわれなし、田地荒れたる者が一俵の米にて留るべき理なし。ひとえにこれは偽って利をむさぼる謀言なり、小事のようなれども爾来のいましめなれば鼻|削《そ》いで国に帰せと命じたので、勘左衛門も不届者なればと、家隷《けらい》の長三郎を呼んで、下僕を庭に呼出し討捨てよと刀を与えた。やがて嘉七は庭に出た。長三郎は科《とが》を申し聞かせて切りつけると、この嘉七、こころえたりと応《こた》え、大脇差を抜いて立向った。双方しばらく切結び、ついに嘉七を討止め、刀を鞘に斂《おさ》めて本座に帰ったが、この間、勘左衛門は碁を囲んでいて始終一度も長三郎が切合う方を顧みもしなかったという。  しかるに、このことが家中に知れた時に、一部のあいだで勘左どのは炮《ほう》術は発明なれど武辺には未熟ゆえサゾ臆して目をそらしたるならん、と蔭口する若侍があった。曾て家臣菅沼庄四郎の切腹の時に、勘左衛門は介錯《かいしやく》を仕損じた。——というより、庄四郎は作法の如く潔く腹かき切って勘左衛門その首を打ち、うつと同時に相手はうつぶして血|夥《おびただ》しく流れ、側よりは手際よく切って皮かかりたる程なりと見えたので死骸を取収めたが、その後、棺の中よりひそかに人を呼ぶ声あり、疵《きず》浅きゆえ甦ったるぞ、刺殺せと。人々驚いて即座に刺し通したが、今更に死人の勇傑を感じ惜しみあう一方、勘左衛門介錯の不手際を嘲ったのである。  武士にとって介錯の仕損じは死にまさる恥である。勘左衛門はおのが未熟を理由に切腹を願い出たが、 「汝の所為に非ず、庄四郎が異常の豪傑故なれば、気に致さずともよい」君公より慰められたので死を思止まった。それが又血気にはやる面々には怯懦《きようだ》ともみえたらしい。  そこへ、今度の風評である。勘左衛門は、 「心ある藩公には我が心底に臆《おく》したるもの無きは照覧あるに、同じ奉公しながら左《さ》までにこの勘左をみくびるとは」  憮然とつぶやいて、心なき徒輩へは腹も立たぬが、この上ともに悪罵を蒙っては武士の意地、いらざる刃傷《にんじよう》沙汰にも及びかねぬ、それでは世間に君公の御名を出すことにもなり、恐れ多き次第であるからと、永の暇を願い出た。そうして許しの出ぬうちに屋敷を畳み、備中浅口郡西大島に蟄居《ちつきよ》したから、自儘な振舞ということで藩を逐《お》われた。紀州家から彦丸保護の依頼が来たのは、浪人して約二年後であった。勘左衛門の池田藩士だった頃の知行四百石。それが扶持をはなれた、わずかな期間で、無収入の武士のみじめさをどう痛感したものか、人柄はがらりと一変し、口数の尠なかった人物が一そう無口に、鬱《ふさ》ぎ込む武士となった。これには浅口郡に引籠って半歳後に急病で夭逝した愛児への痛哭《つうこく》もあったかもしれぬ。妻《さい》は夙《はや》くにみまかっていて、父ひとり子ひとり、その子が辺鄙《へんぴ》のため医者を呼べず手遅れになったのである。  紀伊家の使者が訪ね来た折に、 「杏太郎君とやらは何歳になられる?」  歳を尋ねたのが、使者との応対中、勘左衛門の質問した只一語だった。一年余りはそれでも有耶無耶《うやむや》に蟄居して過したが、一日、屋上に雌雄の猫の鳴き合うのを耳にして飄然、旅に出た。猫は春は牡《おす》が牝《めす》を呼び、秋は牝が牡に挑むというから、屋上で奥女中を求めた杏太郎の話を思い出したのなら、多分、出立したのは春だろう。     三  板橋の村はずれにかかっていた。同じ歩度で、顔色ひとつ変えず歩みつづける彦丸を少時、東嶽坊は立って見送ったが慌てて追いつくと、 「それでおぬしも、愚僧が呪詛にて兄上を呪い殺すを内心のぞんでおるのか」と言った。彦丸はわらって応えない。路傍の草を再《また》、毟り取ると、 「今夜は何所へ泊るのじゃ」  煩《うる》さそうに訊いた。 「泊ると?………今は、それどころではあるまい、おぬしの心底じゃ。彦丸。ほんとうのこと愚僧に聞かせぬか。勘左なんぞを相手のたぶらかしが愚僧の術ではないぞ。事と次第によっては」 「呪い殺してみせるか」 「お、おぬしが本気で望むなら!」  チラ、と彦丸は修験者を眄《なが》し見た。山伏の面《かお》は緊張に蒼ざめきっていた。 「今日が日まで」  彦丸は草を指へ巻きつけると、 「貴僧の世話をいろいろ受けた恩は忘れはせんが、その小心の面色《かおいろ》では、迚《とて》も人は呪えまい」 「小心?……愚、愚僧が小心じゃと?」 「まあよい。何処に泊るのじゃ? ことわっておくがわしは江戸に入ればとて、屋敷へ帰る意は毛頭ないぞ」 「な、なれど勘左めが」 「あれは捨て置け。あれはあれ、わしはわしじゃ」それでも東嶽坊が得心し兼ねていたら、 「わしはかようの乞食《こつじき》同然でもな、兄上は仮初《かりそめ》にも葵章《きしよう》の貴族。公儀とて他藩がように冷淡な扱いは致さん。いかに父上は隠退いたされておっても、万一のことあらば兄の亡きあとわしで無うて父上が再度の政務を執られるにきまっておろう。勘左に、それが見えぬわけは無い」 「——」 「まだ分らぬか。おのれの呪詛に頼むなれば、ひとりでは済まぬと申すのよ」 「ぬ」  彦丸はもう、東嶽坊には相手にならず、のろのろ歩くうち、畠仕事を了えて急ぎ足に来る百姓娘と行会った。何となく娘は彦丸の風態に怖れ、傍を避けてすり抜けようとする。娘は小わきに籠をかかえ、十六、七で、姐《あね》さまかぶりに手拭いを髪へ掛け、鄙《ひな》にはめずらしい容色と見えた。愕然と、東嶽坊は我に返り、 「彦丸。何をするぞい」  思わず雄叫《おたけ》びして走り寄ったが既に彦丸の手で、籠は路上に敲《たた》き墜されている。 「アレ、何をなされます」娘は必死にのがれようと抵抗するが彦丸の膂力《りよりよく》は乙女を羽交締《はがいじ》めにして着物の八ツ口から胸の内へ手を入れていた。「彦丸」  東嶽坊は夢中で、金剛杖を振り上げしたたかに若者の背を搏《う》った。 「わハハハ」彦丸は屈するどころか狂気の如くに哄笑《こうしよう》して、 「東嶽坊、そ、そちが呪術にて我が手をとめてみよ。さすればそちの思わく通りにこの杏太郎屋敷に戻るわ」 「う。……」 「何をいたしておる。ぐずぐずしておると」 「アレー」娘は捲《まく》り上げられる裾を驚いて抑えた。山伏は眼から火を奔《ふ》くばかりに忿激し、 「彦丸。おぬし気でも狂うたかい。戯れも時による。柳原土手で、最前、衆人が目にさらされたばかりではないか」  言いながら再び、三度、渾身の力で杖を揮《ふる》った。ビシッ、と鈍い音がして杖が折れた。  辺鄙《へんぴ》の田舎道でも人目はある。彼方《かなた》此方《こなた》で跼《しやが》んでいた畠の百姓が体をあげ、唖然として路上を見|戌《まも》った。若い男女二人で修験者に乱打されると見えたのである。そのうち金剛杖が折れ飛ぶと、若者は気違いめいて一きわ高らかに笑い、修験者を突きとばすと乙女を横抱きに藁小屋へ走り出した。ようやく、事の真相を察して百姓共は一斉に、手々《てんで》に鍬や鎌を握った。     四  修験者と彦丸が村名主の注進で郡奉行所に捕えられたのは日もとっぷり暮れた頃である。翌日、あらためて郡役人に縛められ、江戸町奉行所に送られた。途々、 「この御方を誰人《どなた》と心得おるかい? 恐れ多くも紀伊|亜相《あしよう》どのが御舎弟にあたらせられるのじゃぞ。今に、お咎めを受けるはおのし共じゃ」  東嶽坊は昨夜来繰返しつづけた同じ台詞《せりふ》を、大音に喚いた。当の彦丸は百姓共に打擲されて水|腫《ぶく》れの所々に浮いた面《かお》に不敵な笑《えみ》をうかべて一言も発しない。あまり東嶽坊の雑言が過ぎると、 「不埓者《ふらちもの》ひかえ居れ」役人が鞭打った。 「彦、彦丸、おぬし何故黙っておる……おぬしも大名が忰なら」 「無礼者。まだ白痴言《たわごと》をほざきおるか」  役人の鞭が唸ると、はずみで、彦丸の身に尖端《せんたん》が当っても彦丸は従容《しようよう》と姿勢を崩さず、縛められた後ろ手で一歩一歩大地をふみしめて歩いた。役吏が訝《いぶか》ったのはその歩き様である。天網恢々疎《てんもうかいかいそ》にして漏らさずの譬《たとえ》どおり、江戸の市中に入るにつれて通行人の中から、 「や。ありゃ昨日の柳原土手の騙《かた》りじゃねえか」絶叫する町民があったが、こんな時は遽《にわか》に東嶽坊は胸を張り、さいぜんの狼狽叫喚はうその如き悠々たる態度に変って、通過した。  東嶽坊の罪科がつぶさに奉行所で調べ上げられた。実は海道すじに山伏一味の盗難の届け出は道中奉行より通達されてあったので、ひそかに足どりを町奉行所では辿っていたのである。  東嶽坊は、「この期《ご》に及んで愚僧悪事の隠し立ては仕らず。さりながら、これには相棒あることなり」と備前浪人稲川勘左衛門の名を挙げ、「勘左めも匆々《そうそう》お召捕りなされい」と言った。  役人は「吟味は当方にて致す」とのみ言って訴言は卻《しりぞ》け、入牢《じゆろう》数日ののち、「不届至極なる罪状の数々、罪軽からず」磔刑《たつけい》と定め、直ちに東嶽坊を処刑した。  その当日、入牢後は別々に投獄された彦丸の様子を東嶽坊が問うと、役吏は「追而《おつて》の御沙汰がある筈」とのみ答え多くを語らない。 「勘左めは?」 「たわけ者。おのれ元は百姓が分際で武士にむかい名を呼捨てに致すとは不届千万」役吏は大喝した。 「さては」  東嶽坊は白眼を剥《む》いて「彦丸の身分におもねり一切をこの東嶽坊の罪にしおったな」歯ぎしりして悪《にく》んだが、さて、刑場にひかれると、観念して罰に服した。その死に際を記録にこう誌《しる》してある。 「この修験者もとは素性|賤《いや》しからぬ者にやありけん、殊の外能書なりける。己が罪状をしるしたる制札を見て、『字の下手者よ』と大に笑いける。さて刑所に至り、人夫ども柱に結び付け少し立て、その柱根迄かためけるが、鍬の柄にて東嶽坊が足につよく当てければ、山伏大いに怒り、何とてかくはあてるぞ、痛《いたみ》に堪ずという。奉行の士、今少しの間なり、我慢せよという。東嶽坊いよいよ怒って、物の義を弁えぬ侍かな、死は死、痛きは痛きなり。今死すべしとて鍬にて足に当てるは人夫どもが粗相、それ叱らず怺《こら》えよとは道理無し、天下の政をかかる武士どもが執るかという。奉行の士答語なくて止ぬ。扨《さて》東嶽坊まさに刺されんとするに当りて天を睨み呪文して何やら絶叫す。効むなしく即死す」と。  彦丸には何の咎めもなく、間もなく奉行所より紀伊邸に帰された。これには理由もある。盗を働いた都度、ひそかに償いをしていたからである。償いをしたのは勘左衛門である。その勘左衛門が、切腹させられた。罪状は、ほぼ東嶽坊と同じで、紀伊亜相の生命を密《ひそか》に呪い、且つは偸盗《ちゆうとう》を働いたる所業「武士にあるまじき」罪という。勘左衛門は、 「それが紀州殿の本心であったのか」  無気味に笑殺したが、罪は一言も否定せず切腹した。——但し、いよいよ腹を切る時に、白木の三方《さんぼう》に載せられた切腹用の脇差を右手《めて》に取って、切先《きつさき》を少時見入った後、 「これが、それがしより願出たる藤四郎吉光にござるか」と訊いた。 「さようじや」  介錯人が答えた。勘左衛門は特に紀伊藩士の扱いを以て、武士らしく切腹を許されたのだが、その沙汰のあった時に、「それがしも武士なれば今生の思い出に御当家秘蔵の粟田口《あわたぐち》吉光を拝借仕りたい」と願い出た。吉光は粟田口の中でも最上の品、短刀ばかりあるものにて、値《あたい》も比類無きものと言われる。特別にそれを貸与されたのである。 「さようか、これか」  うなずくと勘左衛門は、やおら手に取直し、膝を捲《まく》っておのが太腿へ静かに一すじ、二すじ切味を試した。それから元の三方へ還し、手を膝に揃えて、 「介錯、頼む」と言った。  狼狽気味の介錯人が慌てて首を打った。       ———————————————  彦丸の余生が紀州邸で完《まつと》うされたかどうかは判らない。後に彦丸の寵を受けた一婦人には、よく、 「あの男の心底だけは見とどけ得なんだ。恐しい武士じゃ。家来に申しつけて偽の吉光を遣わせたはわしじゃがな、何も言わず、膝なんぞ斬って死ぬ程のやつ、まこと、東嶽坊に兄上を呪わせる肚でいたのかのう」憮然と述懐したという。 [#改ページ]   さぁての勘解由     一  公儀への御問合せ——   懐妊之妻離縁之後出産候得ばその出生之子|如何《いかが》取計らうが宜敷く御座候|也《や》    但《ただし》男女にて差別も御座候儀に御座候|也《や》  何度目かに、清書して公儀への問合せを書了ると、 「さぁて、と」  勘解由《かげゆ》は硯《すずり》箱に丁寧に筆を戻し、今一度読み直して後、あらためて上書《うわがき》をしたためて、燭台の燈芯《とうしん》を掻き立てた。  すでに更闌《こうた》け、隣室では何も知らずによめが睡っている。連添って四年。太田勘解由左衛門は晩婚で三十一の歳に丹《たん》を娶《めと》ったが、当時彼女はまだ十二であった。——一年前、ようやく肉体的に閨《ねや》を偕《とも》に出来るようになって、早速に姙《みごも》ったのである。不足のあるよめではないが離別しなければならない。  燈芯が明るさを燃え立たせると、やおら刀架の差料を引寄せて来て、丹念に打粉を打って拭いた。屋外は寒気が厳しい。数日前より咽喉を痛め、思わず咳が出そうになる。腹に力をこめて怺《こら》える。この寒夜に、家中の士卒が二百人余も駆出され謀叛人共の住居を包囲しているのを想えば、自宅に引籠って、御召のあるまで、身辺整理の出来る我が身は結構といわねばならぬ。刀剣の手入を済ますと更に習慣の日誌を書いた。  翌朝、家隷《けらい》を以て公儀へ問合せた件に附札が下った。   『出生之男女之差別無く父に附き候筋に御座候』 「……そうか。身共が方にお附け下さるかい」  それなら猶更、出生する者の為にも何としても大役は果さねばならない。後日の徴《しるし》にこの附札を未だ日差は高かったが日誌に書き込み、ついでに、いささかの感慨をもよおして前の部分をバラバラと繰って読み返した。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一自分事寛永九(壬申)年二月十二日に出生 一十三より内の事は父親に相尋ね候て書き記し候それ以後は自分見聞之事色々書出候 一寛永九年  此年自分生る字を鍋松と云 此年の六月加藤肥後守忠広様出羽之国へ御流罪に御逢い遊ばされ候而十一月細川越中守光利様御当国御拝領遊ばされ豊前之国より御当国へ御入国遊ばされ候 一同十三ひのえねの年  此年大ききん銀百目に米八斗大麦三石粟二石八斗 一同十四ひのとうしの年  此年より鍋松六つになり候十一月十五日より手習はじむる三月にいろは筆立覚え候師匠は上村玄情と云仁 此年ほうそうはやる鍋松も此年|疱瘡《ほうそう》いたし候此年の十一月より肥前国島原に切支丹謀叛を起す 一同十六つちのとうの年  此年天下一同にうしことごとく死す 一同十七年  此年さねもりと云ならわし候むしでき候て田をくいからす従って 公儀むしおい踊り仰せつけられ御領内いろいろのしたくにて道を其処こことおどりまわり太鼓かねをうち拍子をそろえおどりありき申候見物事 一同十八かのとみの年  此年 越中守光利様|被遊御逝去候《ごせいきよあそばされそうろう》 肥後守光尚様前々の如く御国御拝領あそばされ候 一同十九年  此年ほうそうはやる当所中に四十余人の小児共ほうそう致し候にその内廿人死す 此年春秋当所向い川原之道をよなよな女の声にて上り下り哭《な》きさけぶ然る処にその秋より疱瘡はやり冬にかけて右之通に廿人死す凶事と後々さたいたし候 一同廿年みずのとひつじの年  此年田畑耕作よいようにとて立願仕り候えと公儀より仰せ出され思い思いに産神々々ヘ立願当所も踊狂言致候いずれの村々も神楽あやつり舞踊|有之《これあり》候  右之通に候故か此年田畠能作なり 一正保改元きのえさるの年  此年六月大雨大洪水小川町ことごとく流れ死人多し申《さる》の洪水と当分まで申伝え候は此年の大洪水の事にて候 一同二年  此年大日でり雨乞おどり領民色々のしたくして向うの大道を上下いたし見物事 此年雨乞より以後田畑豊作立願の踊まいあやつり相撲そこここの村に有之候 一同四年  此年之夏父吉政入道致され(号・休斎)  社役は拙者相勤め候 此年六月肥前国長崎へなんばんぶね着船申候とて御当国よりも御陣立御座候  右なんばん船に異人弐百人余も乗込み居候に付《つき》悪事を企み仕候えば黒田筑前守殿一番に御かけなさる筈にて御当国よりも中村左馬進殿(その砌《みぎり》は伊織殿と申し候)も御出陣なされ候手筈 一慶安改元 一同二年  此年休斎参宮 京都に怪事多く候を出家衆書付け候とて見せられ候書面の写し—— 一だいごのちゃゑん無風にうごく事 一ひゑい山のさる十ほど近江の水海に身をなぐる事 一二条之御城より提燈ほどの火毎夜に出る事 一二条筆屋庄左衛門と云者之娘一夜の内に白髪老女となる事 一やわた八まんの石の燈籠毎夜ころぶ事 一京中のにわ鳥毎日よい鳴きする事  此年の九月中旬より翌四月迄一日間毎に雨降り大小麦あしく銀百目に大麦四石小麦二石 此年之十二月二十六日に細川肥後守光尚様江戸にて被遊御逝去候御追腹之御衆には  知行取宗像庄右衛門殿同富田庄左衛門殿他五名御中間山中又兵衛どのは御国にてじせい [#ここで字下げ終わり]   山中にふりつむゆきのき江《え》はてゝ    なかれのすゑは細川につく  残る御衆江戸仙覚寺前松原にて極月二十八日に右之通に候 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一同三かのえとらの年  此年 六丸様御当国御改易無く 御拝領 一同四年  此年の春ききん五こくたかし 此年之四月廿日に家光将軍様被遊御他界候  此年之八月十九日にたみ死去いたし候 一承応改元みずのえたつの年  此年之二月廿二日に休斎死去 此年より在々町に酒造候事御法度併そこ爰《ここ》御吟味あそばされ御免之村々も有之候  此年より在々ヘ御横目衆御出 此年之九月八日いぬの下刻に西より東へ火の円盤飛ぶ 一同二年  此年あその御けむりあらし 此年 内裏《だいり》御炎上 此年之八月五日|未《ひつじ》の刻より大風吹出し寅の時に吹止む古今無双の大風大木ことごとく吹倒れはばひろき大石飛び [#ここで字下げ終わり] 「……あなた。恩地様がお越しなされてございます」 「お。見えられたか」  不意をつかれた懐《おも》いで、さすがの勘解由も一瞬うろたえたが、 「待ち兼ねた。すぐ支度をして参るで客間へお通し申してくれい」  よめは臨月にちかい腹だから、上体が反って、畳へ手をつくのも充分でない。客の応対にも出られない。来訪者の取次を家隷から聞いて夫に伝えるだけである。きちょう面なお人柄の所為《せい》か、夫の勘解由左衛門は私信やら日記をつけている時は、たった一人の家隷の権右衛門はむろん、よめの丹にも側へは寄らせなかった。周章《あわ》てて日記を伏せるのは、だからその所為だとよめは思っている。 「御精が出まするなあ」口もとにやさしみのある白い頤《おとがい》でわらって、よめは素直に出ていった。 「さぁて」日記を片寄せると、衿もとを掻合せて起ち、さすがに時節到来かと緊張をした。よい時に公儀への問合せを済ませたものである。まだ、上使の到着とはよめは告げなかったし、相手が恩地孫兵衛では早急の出立とも思えぬが、渠《かれ》がわざわざ来てくれるからは、今日明日のことになろう。  着流しに、とりあえず羽織を重ねて座敷に出ると、四角張って坐っていた恩地が、 「や。おぬし未だ支度もいたしおらんのか」激しい目をあげた。 「支度?……御下命があったのかい」 「あったどころではない。今直ぐにも討取りに罷り出よとの御家老よりの仰せじゃ。何をボヤボヤしておる」 「君命は?」 「これはおぬしの言葉とも思えん。我らを差向け下さるなればと願い出たは、おぬしじゃぞ。御家老よりの仰せなれば君命も同じではないか」  それはその通りである。併し、上使を以ての命令でなく、昵懇《じつこん》の孫兵衛を通じ、出立を促されるのは、いわば内々の御沙汰とも思われ、この点、いささか勘解由には心許なかった。それに、君命でないとあればチト段取りも狂う——が、今となってはそれも己《や》むを得まい。 「引受け申した」  家隷の権右衛門が、これは事情を知っているだけに、自身に熱い茶を運んで来て案じ顔で孫兵衛の前へ据え、 「お許しが出たのでござりまするか」  等分に主人を見遣った。 「おお出た。御家老よりも出格《しゆつかく》の働きをせいとのお内意があったぞ。それにしても勘解由、おぬし、寔《まこと》に、勝算があるのか?」 「無《の》うてどうするかい」     二  主君越中守利綱は剣客新免武蔵を厚遇した父祖と異なって、ある年、兵法の達人と自称して熊本に来た者あり、家中の老若を論ぜず、皆その武技を称揚して、師範役にお抱えなされ御自身にも稽古あそばしてはと側近が勧めた時に、利綱は、 「その要なし。兵法と申すは小事にして、下輩《げはい》の習うもの。家士多数を支配せん我らに左様の志は以ての外なり。兵法にて人を斬りたるとも一人か二人より余は成間敷《なるまじく》、我らの兵法は一度に千も二千も、亦五千も斬るべく常々心掛くるぞ」  と言った。そんな利綱だったから、新免の衣鉢《いはつ》を継ぐ多くの熟練した家臣共に余り目はかけなかった。  それを不満としたわけでもあるまいが、同じ武蔵の流れをくむ臣下に、罪あって誅《ちゅう》さるべき者六人あり、彼らは一つ屋敷に立籠って四、五百人に取巻かれながら勇敢にも反抗し、なかなか討果せなかった。一つには、曾ては道場に武芸を励んだ朋輩が多く討手に加えられ、日頃友情に篤《あつ》い手前もあって、本気で踏込み得なんだのである。加えるに、誅さるべき罪というのが、元来他愛のない、いわば武辺者の気骨を示した迄で、主君利綱が英邁《えいまい》の豪勇なら笑って済ませることだった。 『六歌仙』と称するこんな歌が誰からともなく城下に流布された。   物音の絶えてしなくばなかなかに役をも身をも恨みざらまし   今はただ金を取なんとばっかりを空《から》使者ならで来るよしもがな   恨詫《うらみわ》び取ぬ人だにあるものを慾にしれなん名こそ惜けれ   諸共に哀れと思え諸役人|定《さだめ》の外に取ものもなし   役人の泣つる顔を詠《なが》むれば只目録の紙ぞ残れる   わびぬれば今より淋し涙なる取過したる報いとぞ思う  後の三首は明らかに税吏を諷刺《ふうし》したものだけに、町民の中にも、ひそかに快哉して口ずさむ者あり、それが一そう若き君主の逆鱗《げきりん》にふれたのかも知れなかったが、厳しい吟味ののちに高鳥偖左衛門ほか五名の仕業と判明し、「以ての外の心掛」と厳譴《げんけん》を蒙った。さなくても日頃、吏才に長《た》けた者のみ重んぜられて鬱憤やる方ない面々のことゆえ、藩の士風を鼓舞せんとばかり、誅せられるは覚悟で立籠った。討手の側にも今一つ、積極的行動の躇《ためら》われたのもこの辺に理由がある。  それを察して、討手の役を自分にと申出たのが「さぁて」の勘解由であった。  勘解由は幸い新免武蔵の刀術を継いでいない。亡父休斎が地方庄司役ながら却々《なかなか》の豪士で、勘解由もただこの父の荒稽古に叩き上げられた。母は、右手の中指がまがっている。不具《かたわ》である。勘解由がまだ弱冠の比《ころ》、母者はかたわじゃな、父上はかたわを嫁に召されたかと一笑したら、母は笑語して、「此のまがり指軍兵衛殿(父休斎)秘蔵にて、そなたが母に成ったわいなあ」と言った。わけを問えば、彼女の六つか七つの頃、父が他人の庭園の柚《ゆず》一つ取って来いと吩《い》いつけたので、忍び入って柚子《ゆず》の木を揺すったら、木の下の古塚の石の間に実が墜ちた。そこで右手を差入れ、拾い取ろうとしたところ蝮《ひらくち》がゆびに喰付いたので、その石を左の手で取りのけ蝮の首をむずと握っておめき叫ぶ声に、父軍兵衛が馳せ来、蛇を殺して彼女を横抱きにして「今々日死ぬべく候」と狼狽しながらともかくも医師の家へ駆けつけた。これが良医で、おかげで漸く快気したが、 「毒蛇の首を握りたること軍兵衛どの御感《ぎよかん》候て、わらわを娶《よめ》に召されてじゃわいなあ」この母は隣家に火事のあった時、道具などは段々と外へ出して少しも驚動せず、軍兵衛をはじめ、群衆が舌を巻いた。火を出した隣屋敷では厩《うまや》に繋《つな》いだ馬は焼け死に、定めて狼狽した為であろう、武門にあるまじき所業と人々の憫笑《びんしよう》をかったのに較べ、類焼した軍兵衛宅では沈着なよめが指図して馬を放ってあった。——そんな両親の下に、勘解由は育ったのである。  事にあたって呟く口癖もこの生母の気質を享《う》けたものであろうと人々は私語した。前《さき》に日誌に死亡を誌された|たみ《ヽヽ》が母の名である。ついでに言えば勘解由は庶子であった。  六人の謀叛人が速かに成敗かなわずと聞いて利綱は激怒したが、神経質な殿様の性格か、豪を制するに豪を以てするのは好まず、勘解由が討手を願い出たと聞いた時も「その者、武芸を自慢の輩《やから》か」 「自慢とまでは申しませぬが、六人の暴れ者を相手に討って出ようと致すからは多少の心得あっての上かと。それに、彼めはあの軍兵衛が忰にござりますれば」  六丸様と呼ばれた時代から、殆んど江戸表に起居した利綱には、軍兵衛といわれても一向心当りはない。そこで側近が、一代の剣術者武蔵にさえ師事しようとせなんだ軍兵衛の自慢ぶりを説明したら、 「聞きとうないぞ」  中途で激しく遮り、応諾を与えなかった。しかし誰かが誅さねばならぬ六人である。その裡には御許可が出ようと上司にさとされ、ひそかに準備をすすめてきた。それが、藩家老有吉内膳の名に於てながら、いよいよ許可を賜った。     三 「勝算無うてどうすると申したとて、勘解由。相手は豪の者六人じゃぞ。今迄に既に数人が重傷を負うておる。一体、どうするつもりじゃ」 「それは今は言えん」 「おぬしの耳に入れとうはないが、併し」  孫兵衛は力んで凝乎《じつ》と勘解由の面体を見詰め、 「六人が中には、おぬしの嫁御が叔父たる能勢兵右衛門殿も加わっておる。聞けばおぬし、六人が事よめの耳には入れぬようきつく吩《い》いつけておるそうな、世間ではな、それ故よめの情にほだされた腑抜けと噂しておるぞ。おぬしが腑抜けとは我ら断じて思わん。併しじゃ、おぬしが武辺上手なればとて、六人を相手に、勝てるとは正直この孫兵衛は考えられん。能勢どのはともかく、猿木新左衛門は一かどの達人じゃ。どうする?」 「——」「まことはおぬし、義理にせがまれ死ぬる気ではないか」  何と詰寄られても勘解由は、「さぁての」失笑して答えず、「ま、支度を致す。そうときまれば一刻も早いが御奉公じゃ」  別室に退ると、ふだんの分の袴を着け、手入れの行届いた分の大小を帯びた。よめに怪しまれぬ為に何気なく家を出る必要があったのである。離縁状は、出立と同時に丹の実家へ権右衛門に届けさせる手筈にきめてある。武士の妻なれば、叔父を討たれても苦情を吐くすじはない。併し六人のうち一人も討てずに死ねば、蔭では未熟者がと笑いものになり、太田家一族からは謀叛人の身内と冷たい目で見られよう。いずれにしても離別しておく方が生れる子供の為と考えた。両親のない孤児なら親戚も不憫をかけてくれようと弱い気になったのである。  表に出ると、木枯しが面《かお》に吹きつけて来た。むしょうに寒い冬である。孫兵衛は草履取り、若党を従えて何度か強風に面をしかめながら、 「ど、どこへ行く? 猿木らが籠っておるは道が違うぞ、勘解由、どこへ行く」  袖を掴まんばかりに、途中で立停った。 「拙者に考えがある。必ず討ちには往く。心配せずと先に行っておってくれい」  恩地孫兵衛は諸共に哀れと思えと諷刺された税吏の一人で、武芸の腕は立たず、さなくても謀叛人宅を取巻く面々は円明二天流の使い手が多く、単身、上意討ちに其処へ乗込もうという勘解由へ好意的でないのは分っているから、先にと言われても足が進まぬらしかった。勘解由は併し、それに構わずどんどん歩いた。籠入《こみい》る前にしておかねばならぬ事がある。  勘解由が訪ねたのは家老有吉内膳の許であった。今朝ほど、存分に立働くべしと孫兵衛をして激励させたのに、即時に討手に出向かず立寄るとは何事かと、単身、対面を願い出た勘解由に人払いの上伺候させると、 「早速ながらお許しを賜り忝う存じまする。就いては、今生に、今一つお願いのすじあって参上仕ってござる」  勘解由は意外に落着いた口調で言った。 「何事じゃ」 「誅すべき六人のうち、一人は助ける者ありとの御沙汰を賜りとうござる」 「何。助ける?」内膳は勘解由とほぼ同年のまだ若い家老職だが、人物はキレた。 「その方、離縁の妻が胎児はいかが計らうべきやと尋ねおったが、さては義理の叔父を助けようとて」 「いや、断じて左様ではござらん」  どちらかといえば、勘解由は小柄ながらでっぷりとして色の白いほうである。きりつめた語気も長閑《のどか》に聞こえる。 「然れば何ゆえ一人を助けよと申す。誰じゃそれは?」 「——」 「勘解由、本心はいかにもあれ、かりにもお上に叛いた罪人じゃぞ。斉《ひと》しく厳譴を蒙ったれば、一人だけを助けるわけには参らぬくらい、その方、重々承知であろう、真意は何じゃ」 「申せば、お赦《ゆる》しが得られまするか」 「事と次第による」  勘解由は少時沈黙した。稍《やや》あって微かに笑って、「お助け頂くもの能勢兵右衛門に非ずと確約いたさば、お許しが得られましょうか」と訊いた。 「誰じゃ」 「有体《ありてい》に申さば、誰にてもよろしゅうござる」 「?」 「それがしに討手を仰せつけられますること、殿お直《じき》の御沙汰なれば、この儀あらためて願い出ようと存じおり申したが……彼らとて二心あっての楯籠《たてこも》りにあらず、それだけに六人を相手と致さば、我ら勝目はござらん。が、一人助ける者ありとの御沙汰なれば」 「五人には勝ってみせると申すか。誰でもよいと申しおったがその一人、誰じゃ。猿木か」 「名指して誰とは申し兼ねまする」 「む?………」 「ま、これも謀叛人を仕止めんが為の策で。……なにとぞ、枉《ま》げてお許しを願い度う存じまする」  内膳は瞳を凝らし熟々《つくづく》と勘解由の表情を見入ったが、至ってのんびりと勘解由は身構えて姿勢を崩さない。 「その方が手の内、未《いま》だとくと見聞いたしたわけではないが、一人さえ助けると沙汰いたせば必ず彼らを討止めて見せると申すのじゃな。よし。殿へはこの内膳が言上いたす。思う儘に出向いて力戦せい」と言った。 「有難きお言葉」  勘解由は両手をつき満足そうに一礼すると、「では早速ながら、取囲みおる者共へも念のため御沙汰をお達し下さりまするように」言って、やおら身を起こし、 「——さぁて」       ———————————————  謀叛人六人が勘解由左衛門唯一人に討止められたのは、其の後二刻(四時間)あまりのことである。  楯籠った屋敷のあるじ猿木新左衛門をはじめ、能勢兵右衛門以下いずれ劣らず覚悟の上で籠居したくらいで、技も儕輩《せいはい》に抜ん出、利綱の命により取巻いた総勢三百数十人が容易に、邸内にも踏込み得なんだのを、単身、見事に大役を果したと聞かされた時は、家中一統、誰も信じなかった。しかし、微傷だに負わず、堅く閉ざされてあった表門を内より開け出て、「あとは、各々の御役目にござるぞ」  平然と告げると、何事もなげに立去って行く勘解由の後ろ姿に、半信半疑で一同邸内になだれ入った。そこで六人、悉くが刺殺されているのを確認し、あっと驚嘆したという。  勘解由が最初に手にかけたのは叔父兵右衛門である。これが先ず立籠る他の五人の気勢を挫き、疑念をいだかせた。尋《つい》で安易の心を生ぜしめた。すべては計画通りであったと当の勘解由が内膳の前で申述べている。 「しからば当初より兵右衛門を扶け出す意はなかったのか」 「いかにも。上意討ちとあらば私情はゆるされ申さん」 「では何ゆえわざわざよめを離別いたしおった?」  これには、「事がこう旨く運ぼうとは存じ申さんので」とのみ答え、あとは何を訊かれても、 「さぁて」  曖昧に呟くばかりであったという。  六人のうち一人を助けるとの沙汰が、内膳のもとから屋敷を取巻く者共へ使者を以て触れ出された。使者の口上に「当屋敷に籠りおる中の一人助ける者あり、一同その心得せよ」と高声に言い触らさせたのである。  その口上が、屋敷内の六人に聞こえたと思う時分、勘解由は塀の屋根より跳び入って邸内ヘ一散に斬り込み、先ず一刀に叔父を斃した。もともとが、些細な罪である。楯籠って叛心は見せても、主君の赦しがあると聞けば、助かるは我か我かと、五人して勘解由に対《むか》いながらも疑い生じて打太刀も控える。その隙に、六人ひとり残らず討果した。これこそが兵法である。勘解由はそう信じていたのだろう。  のちに、利綱からは格別の褒賞とてなく、従前どおり地方庄司役で一生を終ったが、武士の一言、一たん離別したよめは最後まで家に戻さなかった。 [#改ページ]   逆臣伊丹求馬     一  死刑の執行法として射撃を用いるのを人は銃殺《ヽヽ》という。文明国の死刑に銃殺を見ること今は殆んどないが、軍律による場合はこれを用いることありという。  我が国曾ての陸軍刑法ならびに海軍刑法による銃殺第一号が誰人《たれびと》かは知らない。現今のような、雷管発火装置の小銃が所謂《いわゆる》火縄銃にかわって多量に我が国に輸入されたのは維新前だが、雷管装置の中でも最新式の、スプリングフィールド銃を購入した藩の一つに、出羽庄内藩がある。そこの家士黒川久兵衛なる者が藩主の命で銃殺された。明治元年八月のことという。  庄内藩は徳川譜代の酒井氏が歴代の藩主で、徳川氏との所縁浅からぬ為もあって、明治|戊辰《ぼしん》の戦さの時は最も強力に働いた藩である。殆んど疆域《きよういき》に官軍を納《い》れなかった。それが周囲の大勢如何ともし難く、遂に降伏したが、降伏は尤もとして何故かくも強兵であったかといえば、洋式精鋭の武器を有《も》っていたからである。士卒の中にも日夜調練を受け、洋式兵器の操作に熟達した者が多かった。銃殺という、我が国では珍しい刑の執行法が採用されたのもこの辺に事由があったのかも分らない。  黒川久兵衛は徒士《かち》隊にあって鳥羽伏見の役に敗戦ながら却々の働きをした。それが主君酒井左衛門尉忠篤の逆鱗に触れたのは、もとは些細なことからで、毛虫を去る法の為である。宮中では禁庭の毛虫を去るのに、毎年、除夜に|するめ《ヽヽヽ》の足を一、二寸程ずつに切り、竹の筒に入れて枝毎にさげる、すると、毛むし翌年は生ずることなしという。久兵衛は江戸邸に帰って何かの折にこれを家中《かちゆう》に言い触らした。佐幕を藩是《はんぜ》とする家老石原平右衛門にはこれが面白くなかったのだろう、忠篤の虫の居所も悪かったのかも分らない、不届至極の心底ということで新式のアメリカ銃による銃殺ときまった。  スプリングフィールド銃(アメリカ製)が和蘭《オランダ》商人スネルから庄内藩に購入されたのはこの年五月で、藩では三百挺を獲た。それ迄の弾丸を筒先から込めるゲベール銃などに較べ、スプリングフィールド銃は元込めで、ゲベール銃一発を撃つ間にスプリングフィールドでは十発をうち得たそうである。そういう新式銃を一つには銃殺の上で試す意図もあったかも知れぬ。  久兵衛は武士らしい切腹を仰せつかるならと、一時はひどく痛憤した。当時久兵衛三十一歳である。家族は両親とも健在、それに妻との間に一男二女がある。罪を蒙《こうむ》って然も死刑にあうと知って、老父は執行の前日に潔く老妻を刺して割腹した。よめは同じく忰と刺し違えて死んだ。女の子は残された。久兵衛は身柄を預けられていた上役宅でこの悲報を獲て、一時激昂したが、まもなく、虚無的な感慨から刑に服する覚悟を決めたらしい。  銃殺執行の場所は、本所四ツ目、浅草向柳原の庄内藩下屋敷の裏庭であった。銃を執るもの家士二十五名。介錯《かいしやく》人同然の扱いで、さすがに射撃するものには軽輩ながら士分の者を揃えたのである。時は朝である。発砲の号令は徒士《かち》組頭の月田与左衛門が下した。「撃て」と言った。二十五挺の小銃は一斉に火を噴いた。  久兵衛は藩邸の塀を背に突《つい》居た。西洋式に目隠しを、と検使が一両度促したが、 「武士が目隠しして切腹つかまつりましょうや。死罪の者が打首なれば知らず、何卒、この儀ばかりは枉《ま》げて御許容が願い度うござる」  久兵衛はそう言って両の拳を握り締め、胸を張って所定の位置に平然と佇立《ちよりつ》したので、銃殺に馴れぬことでもあり、検使は目をそむけて見のがす態《てい》をよそおった。すかさず月田が「撃て」と号令した。  撃つ方も銃殺は初めてである。偕《とも》に昨日まで奉公を励んだ朋輩だ。切腹なら作法もあれ、いかに何でも武士として同輩を撃つにしのびない。それに、一人だけが撃つのではない。二十五人一斉に狙撃するのである。我は撃たずとも誰かの弾が命中すれば足りる。我のみは敢て的中を欲せず、そう念《おも》った。狙いをつけるとみせてその実、久兵衛の姿より逸《そ》れたあたりを照準した。  西洋では銃殺に当って、狙撃する銃の一つだけは空砲を装填《そうてん》する。どれが空砲か狙撃兵は知らずに、撃つ。銃殺刑に処せられた者は斃れるが、撃った方は、自分の銃は空砲だったと信じ込み、それで良心の呵責《かしやく》を癒やす方便である。庄内藩士はそういうこと迄は知らなかった。むろん上意とあればたとえ肉親でも撃たねばならぬ、それが武士ではあるが、ただ一対一でない。二十五名の中の誰かが忠義を完うすればよいと思うから、死刑人への友情もあって照準をそらした。二十五挺の新式銃は轟然と火をふき、余韻は暫く静寂な邸内の朝気にこだました。やがて、余韻と、煙硝の漾《ただよ》いが去った。  ばったり黒川久兵衛は倒れた。  即死であった。     二 「誰が撃ったのであろう、今じゃから申すが、我らは狙うにしのびず、的をそらしたぞ」 「身共とて同様じゃ。紅毛人が致し様で久兵衛を死なするは余りゆえ、そらした」  口々に彼等は私語し、且《かつ》ひそかに懊悩《おうのう》した。まさかとは思うが、自分の狙いが手もと狂って久兵衛の胸板を撃ち貫いたのではないかと危惧したのである。 「弓矢八幡に誓って」ある者は眼に涙すらうかべ、自分ははるかに久兵衛の位置より外したと誓言する。俺もそうじゃと別の者は項垂《うなだ》れる。  彼等の言葉に、嘘のないのが間もなく判明した。久兵衛の胸を貫いていた銃創は只一発。久兵衛の佇立した位置の周辺に、それもかなりの隔りをおいて土塀に二十四の弾痕が発見された。すなわち命中していた一弾は、久兵衛に狙いを定めて発射されている。はじめから射殺する意図なのである。  この事が分った時、前以上に二十五名は騒然と動揺した。 「誰であろう、武士の風上にもおけぬ奴じゃ」 「誰であろう?」  数発が命中していたのなら未だよい。只一発。暗黙裡にそれは仲間を裏切ったことを物語る。刑執行の指揮をとった月田与左衛門は、当然ながら久兵衛の屍骸を検《あらた》めた時に、 「首実検を致されずとも宜敷うござるや」  検使に対《むか》って地に右膝をついた。介錯人の作法をまだ遵守《じゆんしゆ》する武士だったのである。 「それには及ばぬ。大儀であった」  検使とて馴れぬことであり、切腹よりはるかに凄惨な処刑と思えてか、匆々に牀几《しようぎ》を起った。久兵衛は絹服の下に白無垢の死装束を着けていたが、襟に胸からの血がにじみ出ていた。普通、切腹の死体は、刎《は》ねた首を胴にのせて毛氈《もうせん》に包み、願い出があれば家族に引渡される。久兵衛の家族はすでに自刃しているので藩の下役人によって処置された。土塀に二十四の弾痕の発見されたのは、その処置の後である。弾痕を数えてから、実は只一発が命中したと分ったのである。  藩主忠篤は、国家存亡の時機ではあり、一家士に銃殺という新様式を採用させたことなど実は、どの程度気にかけていたか疑わしい。鳥羽伏見の戦さのあと、旧幕地は収納され、二月には東征大総督が京都を出発。三月将軍慶喜謝罪し、四月には江戸城を収められた。七月江戸を東京と改め、八月即位大礼。——そんな遽《あわただ》しい世相の一方で会津藩をはじめ東北諸藩は『打倒偽官軍』の抗戦意識に燃えて叛旗をひるがえそうとしている。庄内藩もその最右翼である。微禄の士が本邦初の銃殺刑に処せられたことなど、藩の記録にも残らぬ小事件だったのが真実だろう。  ただ、使用した銃は最新式のスプリングフィールド銃である。それが二十五発のうち只一発しか命中しなかった点は、銃の性能上、重大視された。事は吟味された。武器こそ異なれ上意討ちに変りはなく、敢て命中を狙わなかったのであれば大不忠である。しかし一同つつみ隠さず白状した。しかるに二十五名とも、斉《ひと》しく、命中を避けたと言った。  吟味にあたったのは藩重役松平|造酒助《みきのすけ》で、この人は同じ松平姓を名乗る庄内藩家老松平権十郎の甥に当る。情理かね備えた温厚の人物である。一同の自白するのを聞いてハタと困却した。敢て撃つにしのびなんだ一同の心緒《しんしよ》も分る。いっそ皆が皆狙いを外したのであれば、更《あらた》めて久兵衛に切腹仰せつけることで事態の仕置の仕様もある。唯一人が本気で狙った。自分がそうしたとは、この期に及んでは当人に名乗り出る勇気のないのも無理がない。他の二十四名に敵視されるからではなく、狙撃するのが臣たる者の義務だった、我のみは義務を果したと、おこがましく申し出るのを躇《ためら》うのも亦武士の心緒だからである。——但し、嘘を申し立てるのは宜しくない。二十四名は勤めを怠ったが、虚言を吐くは武士としてそれ以上の重罪である。 「よいか、今一度申し渡すぞ」造酒助は二十五名を一室に召集し、見渡して、おもむろに口を切った。 「その方どもが此の度の致し様、情誼に於ては已むを得ざる仕儀ながら、上意に添いたてまつらぬ怠慢の為態《したい》、言語道断の不届きである。それに較べ、情誼をころし君命に添い奉ったる者が所存こそ天晴れ。いささかも恥ずるには及ばぬ。却って、この期に及び白状いたさぬは卑怯者の誹《そし》りを受くるぞ。強《た》って申し立てぬとあれば、一人一人、的を外しどの辺りを狙い撃ったか弾痕にて吟味いたさいではならぬ。左様の手数を、国事多端のかかる時節に致させるは重ね重ねの不忠であろう。どうじゃ、有体に申し述べぬか」と言った。  一同水をうった様に謐《しず》まる。誰もが項《うなじ》を反らし、顔をあげて真直ぐに重役を見返して、面伏《おもぶ》せる者は一人もなかった。 「どうあっても言わぬのじゃな」  と造酒助は最後に言った。ようやくその面上に焦立《いらだ》ちの気色があらわれた。  ——と、その時、 「畏れながら某《それがし》に御座り申す」  申し出た者がある。一斉に二十四の頭がその方に動いた。徒士組小頭伊丹求馬という者だった。  求馬は同苗《どうみよう》作左衛門の嫡男で、作左衛門は物頭を勤めて二百五十石。無類の男だったが大の放蕩《ほうとう》で、ある時、野郎の手を引き、上野辺へ徘徊《はいかい》するのを左衛門尉忠篤が上野参拝の時に見て、駕籠脇の黒川久兵衛に、不届者見て参れと命じたことがある。久兵衛は行向い、聢《しか》と言ったら、作左衛門は「覚悟したり首を討て」と答えた。久兵衛は聞いて、その首を大事にして何ぞの時の用に立てよと言い捨て、主君の前に戻り、「見候えば他所《よそ》者にて候」と言上すると忠篤は「作左衛門にては之なきか、我を盲人《めくら》に為《な》すや」と言った。久兵衛は「何と御意にても作左衛門にては御座なく候」と答えたので、忠篤は頷き、そうかと言って事済んだが、翌日、久兵衛を呼出し、用に立つべき者なりと新知二十石を加増して徒士組に取立てた。まだ久兵衛がお側小姓の頃である。  作左衛門の方はこの事あって以来、私《ひそか》に久兵衛が為にいのち拾いしたり、弱輩ながら頼みになる男なりと広言して憚《はばか》らなかった。ある年の正月、妻に語って言うのに、昨夜大黒天にあたまを槌《つち》にて打たれる夢を見たり、今年は瑞相《ずいそう》なるぞと喜んだが、間もなく卒中で逝《い》った。跡目は求馬が相続した。  それから年余を経て、命日に久兵衛が求馬宅へ来|会《あわ》せたことがある。年は久兵衛が年長だが知行は求馬が高い。しかし亡父の放蕩を救われた一件があるので鄭重に応対し、偶々《たまたま》父の書き遺した一書が手許にあったので披露した。こんなことが記されてあった。 『魚は都《すべ》て水上にむかってさかのぼる也、水にさからうによって、鱗順になりていたまず。又駒も左のごとし、牧に生《おい》たるは方角に馴れていつも風をうくる事なし、従って病馬なし、他所より来る駒は方角をしらず、風をうしろにしておるゆえ毛の穴より風をうけて病馬となるなり』 「なるほど。我らも馬術には心得がござるが、さすがは作左どのじゃ。よいことを記しておられるな。かかる人物なればこそ殿も軽々《かるがる》に御成敗は遊ばさなんだのでござろう」  と言った。求馬はフト不快そうに眉を顰《しか》めたが黙っていた。久兵衛は次を繰《めく》った。 『紅毛《オランダ》人髪|ひげ《ヽヽ》をそるには薬つけて剃る、しゃぼんという薬なり、髭にぬりてそるときは、髭やわらかに成《なり》て茎までさっぱりとそらるる也。但このくすりたびたび付れば、髭のいろいつとなく赤くなりちぢれる事也、それゆえ邦国の人はもちい難し。和蘭にては髭髪あかくちぢれたるものを貴族とす、黒きものはジャガタラの種類とて賤しみおとす、それゆえ赤く成る薬を製し、そる時に兼て用る事とぞ。先年、和蘭人多く長崎に来ていた事|有《あり》、その後ことごとく本国に御帰しありけるに、女子一人とり残し置けり、長崎の者哀れみ養育し、伽羅《きやら》の油など付て髪をゆうてやりける、壱年ほどの内に黒髪に成たり、その後父おらんだより来り、娘の髪黒く成たるを見て甚だ悲しみ、その国にては赤髪を尊む事を物語しと也、さて、梳《す》き油も付ずうちすてて置ければ、もとの赤髪に成たるを見て、始て悦び本国へつれ帰りしとぞ』  読み了えて久兵衛は吹出した。「これはひどい。余りと申せば無智なる仁かな」と笑った。求馬は顔色が変った。威儀を正し、 「お手前、亡父が新時代に疎かりしこと、拙者知らずして之を披露いたしたと思われるか。その上での只今が一言なれば、聞捨てには致さぬぞ」  久兵衛も態度があらたまった。「これは言いがかりも甚しい。身共は無智なる文ゆえ無智と申したが何故悪い。それとも、当家にては父者の急場を救いし者に、左様の暴言で挨拶いたされるが家風か」言って、呆れ果てたる恩知らず……つぶやくように吐き捨てると荒々しく座を蹴立った。  語るにおちたわけである。偶然この日来|会《あわ》せたと見えたのが実はそうでなかったのに、求馬は気づいた。亡父は久兵衛を頼みになる男と評したが、この一語で充分その労に酬いたと父作左衛門は思い込んだ。武士なれば当然の解釈である。しかるに久兵衛は、金品によらずとも尠くとも態度の上に、今少し鄭重な物腰を期待したに違いない。 「弱輩ながら」の一語に片附けられたのが不満だったに違いない。せめて、求馬にその扱いを望んでいたのであろう。そう気づくと、恩は感じながら未だ態度に足らぬもののあったのを求馬は自省した。それで玄関まで久兵衛を追って出て 「それがしが粗略なる扱い、何卒御海容下されよ」  と詫びた。  ジロリと久兵衛は振向いて睨みつけ、無言で立去った。  それから二年余り経った。ちょうど忠篤が入府の年で、一日、小金原に鹿狩りに出、堀切りした場所へ来た時に、誰ぞこの堀越せと上意あるのを承って、黒川久兵衛は言下に馬を乗戻し引返して一さんに堀を越した体《たい》の花やかなのには居合す者、我知らず賞讃の声をあげたが、今一人は無きか、との重ねての上意に、菅《すが》秀三郎が立った馬をその儘、鞭あてて堀を越させた。 「菅が馬はよく仕込んでおるの」と忠篤よりお褒めあり、その実は馬術は菅の方が余程優っていた。しかし久兵衛の騎法は目ざましく大いに映《はえ》たので人々は前者を称揚した。求馬だけは静かに微笑を含んで言わず、後に、菅秀三郎に向い、 「天晴れなる手綱|捌《さば》き、ほとほと感服仕りました」  と低頭した。  これが久兵衛の面前だったので、如何にも久兵衛へ|つら《ヽヽ》当てするように人には見えたのである。  以来、一そう両者が不仲であるのを人は察するようになった。そんな両人である。まことに久兵衛を狙撃したと聞いて、一同、宜《むべ》なるかなと頷き合った。     三  ところで、そうと分れば伊丹求馬は憎しみで射殺したことになる。いわば銃殺の名を藉《か》りて私憤をはらした。 「怖ろしい男ではござらぬか」  人々は憤然と言った。「あれなら上意に添い奉ったより猶悪い。卑劣きわまりない致し様じゃ」 「いかにも。亡き作左衛門殿には、まだ何処やら飄逸味がござったが。あの父にしてあの子ありとは。——さぞ、草葉の蔭で歎いておられ申そう」  今にして思えば私憤をはらした為に、当初は秘して名乗り出られなかったのである。まったく犬畜生にも劣る卑怯者である。  そんな噂が、いつとはなく筆頭家老石原平右衛門の耳に入ったのも無理がない。  紅毛人の仕方で死なせるはしのびぬと見せかけただけに、一そう、家中一統の求馬に対する憎悪が募ったのも当然と言わねばならない。 「我ら求馬殿がような仁の組下にて勤務いたすは御免じゃ」 「我らとて同感。いっそ、重役どのへ我ら一同にて組替りの儀を願い申そうではござらぬか」  悪評は悪評を呼び、ついには収拾つかぬまでに家中は騒擾《そうじよう》する。そうなっては重役連も看過すわけにはゆかない。さなくても物情騒然たる世の中である。 「困ったことに相成った」  平右衛門は腕を拱《こまぬ》いて憂慮した。最新式の精巧を信じて和蘭商人スネルよりスプリングフィールド銃、シャープス騎銃などを購求したのは庄内藩のみではない。先ず長岡藩、会津藩、米沢藩なども求めた。最初に武器取引をしたのは長岡藩の河井継之助なる者で、彼は横浜でスネルから武器を買入れ、明治元年三月十日頃新潟に向け出航させた。ついで会津藩が、オランダ製ライフル銃、附属弾薬とも価格七千二拾|弗《ドル》分を購求し、米沢藩また閏《うるう》四月下旬にスネルの周旋で雷管火薬など五万六千余弗分を買いうけた。スネルは汽船カガノカミ号へ小銃の弾薬その他多量を積んで五月六日横浜を出航し、同月十二日新潟に着港したのである。以来七月までのあいだに諸藩の購入した武器は厖大《ぼうだい》なる金額に及んでいる。そのうちでも最精鋭銃がスプリングフィールドである。真実はともあれ、その二十五発中、命中は一発だけと、あらぬ風評がひろまれば他藩の士気にも影響する。偽官軍を打倒すべき今は緊急の時である。とかく噂は、歪められた形でひろまりかねない。今のうちに何とか手をうたねばならない。  家老石原平右衛門は長大息した。所詮《しよせん》、解決策は一つよりない。ただ渠《かれ》は求馬が私憤でそれをしたとは思わない。あくまで上意にこたえたのであろうと見ている。それだけに、不憫である。しかし事|爰《ここ》に至っては、非常手段に出るよりないと考えた。  幸か不幸か、求馬は藩中悪罵の的である。最も忠実に主君の命にそいながら誰よりも卑怯な裏切者と見られるのは、所詮は天運のつきるところ、求馬の不運であるが、かかる非常時に藩の士気を紊《みだ》すこと悪逆非道の仕業なり、その罪万死に値する、と断を下した。余りにも一方的と誰ひとり反対する重役のなかったのは、かえすがえす求馬の悲運であった。久兵衛の撃たれた同じ八月末、場所も同じ向柳原の下屋敷で求馬は銃殺刑ときまった。  ことさら銃殺を言い出したのは、新式銃の命中率を誇示する必要ありと慮《おもんぱか》ったからであろう。撃ち手は前回と同人の二十四名。 「よいか。いかなる事あろうと今度《このたび》は的をそらしてはならん。逆臣の処罰じゃ。斟酌《しんしやく》は無用にせい」青ざめた表情で一同に言い渡した。  伊丹求馬は、逆臣の汚名をうけて銃殺刑と沙汰を蒙った時、さほど驚かなかったという。まだ二十四の青年である。一年前にもらったばかりの嫁はさすがに失神せんばかりに驚いて、 「あなた」  いよいよ処刑の朝、特に許されて求馬が自宅の居間で寂《しず》かに香《こう》を焚き、死装束の白|無垢《むく》で正坐する背後から、 「これだけはお明かし下さいまし……本当に私心《わたくしごころ》でお撃ちなされたのではないのでございましたか。それだけを聞かせて頂きとうございます」よめは双眸に泪《なみだ》を溢れさせて言った。  求馬は無言で刀剣の手入に心をこめ、応えなかった。父より譲られた愛用の備前物である。鍔《つば》は更に父が自慢の信家を嵌め込んである。 「あなた」 「わしを左様な武士と思うか」 「では、殿様の御上意ゆえお撃ち遊ばしたのでございますね」 「——」 「わたくしも武士の妻でございます。貴男様が逆臣の汚名をおうけなされるのを見て、生きていようとは存じませぬ。お跡を慕いまする。ただひとこと、意趣の上で為《し》たのではないと明かして頂きとう存じます」 「わしは、撃ってはおらん」 「?……」 「狙撃したはわしではない。——わしは、逸《そ》らした」 「え!? で、では誰人《どなた》様が?」 「知らぬことよ」  冷ややかに言って、鞘に刀を斂《おさ》めた。それから、起ち、 「着物を着る。手伝え」  と言った。  よめはまだ呆然と夫を見上げている。求馬はもう構わずに自ら衣服を纏い、袴をつけた。 「本、本当に……あなたがお撃ちなされたのでないなら」 「もうよいであろう。そもじもあとを追う身なら私心で撃ったのではないと分れば、充分ではないか。——そうであろう? わしは、私心で撃ちなどはせん」  求馬が下屋敷の処刑場に着いたのは定めの辰ノ刻(午前八時)である。すでに検使をはじめ、目付、脇目付以下すべての人数が到着していた。射撃の指揮官は前回同様月田与左衛門であった。 「お役目大儀に存ずる」  求馬は臆する色なく、丁寧に検使以下の面々に会釈をし、促される儘に所定の位置に立った。 「目隠しを致せ」  前回と同様、検使が言った。瞬間、求馬は目前に既に整列した二十四名を見渡した。意外に、これに時間をかけた。 「いかが致した」  検使が促すと、 「目かくしを致した方が撃ちよいのでござれば」  言って、下役人より白布を受取り、手ずから目を蔽って後ろに結んだ。すかさず月田が「用意」と言った。一同銃を構えた。 「撃て」  号令一下、轟然二十四挺の銃口は火を吐いた。思い知れという気がなかったとは言えぬ。もとは求馬只一人が狙撃した為におこったことである。樹々にまだ陽差の洩る爽やかな朝の庭に、全身血に染まって伊丹求馬は仆《たお》れた。逆臣ながら天晴れな最期と見えた。  後に、前回のことがあるので死体はつぶさに検《あらた》められた。蜂の巣のように総身に弾が貫通していた。その数二十三あった。  ただ、一発、求馬の立った数尺右手の塀に弾痕があった。誰がそうしたかは分らなかった。 [#改ページ]   米《こめ》 噛《かみ》 十 内     一  むかし、鉄炮《てつぽう》の名手で大谷篠右衛門という武士がいた。北陸のさる雄藩の侍《さむらい》で知行二百石。『稲葉流の師と仰がれ一貫目頬付を免じたる鉄炮の達人也』と藩史にいう。  ある時、藩で二百目の新筒の試製品が出来上り、則ち篠右衛門に仰せつけられて試す様にとの事で、諸役人共鉄炮場へ罷り出、篠右衛門も数人の門弟を同道して試し場に出仕して、右の二百目筒を頬付でぶっ放したところ、如何なる欠点ありしや筒は爆発し、その辺雷火の落ちたが如く、『手の指々は申すに及ばず、身体、煙硝の火にて焼爛《やけただ》れ、黒煙の中に篠右衛門少しも威儀を乱さず、不動明王の火烟の中に顕われたる如く、筒の損じ破れたる残りを抱え、悠然としておりたる気色、まことに鉄炮の達人と見』えた。役人をはじめ門弟の人々は驚きあわてて駈け寄ったが、 『篠右衛門眼を怒らし、我が武運尽きたると見えたり、されども家業にて身体損ずる事本望なりと猶も立たんとする、夫程《それほど》の事中々身体動かざれども心は少しもひるまず、門弟|駕《かご》に乗せんとすれども勇気烈々として敢て駕に乗らじとす。然れども身を動すべき様なく、戸板に載せて引《ひき》まとうて帰りぬ。いかなる剛気にて有りけるや、人並の者ならば気を失い即死にも及ぶべきに、家業にてかくなる事大望とは言いたり、且つ新筒を打ち得ざること無念なりと泪を流し、為に病眼となって日を経ず死にけるとなり』  この大谷篠右衛門に源之丞という子があった。篠右衛門殉職のときはまだ幼年で、門弟の主たる者を後見させ、流儀の跡目を藩は継がせようとしたが、未熟を理由に源之丞は辞退をした。時に十歳。そこで道場は高弟某が受け継ぎ、源之丞はあらためて幼君万千代君のお附き小姓となった。  万千代君は藩主の嫡男で、福松という庶腹の弟がある。歳は四つ違い。父なる藩主は性|不羈《ふき》なのを患《うれ》えて、一日、万千代を招いて言うのに、 「古《いにしえ》より智ある者は偽り多し、偽る者は禍いに逢わざる者|希《まれ》なり、故に人は正直素直にあらざればならず、譬《たと》えば障子の如く、直《なおき》なれば立ち、曲れる時は立たざるものなり」  と教えたところ、万千代はツト座を立って屏風を持ち来《きた》って、「之は直ければ立たず曲れば立ち候、如何《いかが》にや」と言った。藩公は詞《ことば》なく奥へ入った。  又、相撲は総じて東西より立合って組むものだが、貴人の御前では東西ともに上面に向って並び立ち、行司|団扇《うちわ》を揚げると同時に横ざまに取組む。それで馴れぬ間は取|難《にく》いものとされるが、ある時、藩公の御前で、当時評判の角士甲、乙が上覧の相撲を取った。孰《いず》れも大関を免《ゆる》される無双の関取だったから勝負いかにと、諸人眼をこらしていたら、立合うとき、甲はヤッと言って立つと乙まったと言って立たず、すかさず上覧の席から、「勝負あった。甲の勝ちじゃ」と万千代が言った。その気勢、余りに烈しかったので行事は西方に団扇を揚げ、思わず甲は面目をほどこしたが、諸人皆不審に思い万千代にただすと、 「全体相撲はその気の勇を尚《とうと》ぶ、ヤッと言うにまったと受けるは気に勇なし、是を気の負と謂う。常の勧進場などは雑人の観る処なり、我らが面前にて斯くの如き所作、組むを見る迄もなし」  と言った。大関乙もこれには一言もなく閉口赤面したという。後に、名行司家の吉田某(吉田は頼朝時代より行司の故実相伝の家筋で、代々細川侯の家士。将軍上覧の相撲のときはわざわざ国より出て行司を勤めた)が万千代のさばきを聞いて「真に行司の詞と言うべし、格別のことなり」と褒称した。  そんな万千代である。長じて、父藩主が逝ったので封を継ぎ越前守となったが、近侍する源之丞の苦心も一通りではなかった。併し常に、影の形に添う如く側にあって無二の忠勤を怠らなかったので、良きにつけ悪しきにつけ「越前殿には米噛《こめかみ》十内がおるぞ」と諸侯の間に噂される程であった。  まだ万千代君の時分、霊岸島の江戸屋敷から船を出し、遊山《ゆさん》のお供を源之丞はしたことがある。しばらく船を浮べていたら狼藉者大勢が船に障《さわ》り、慮外に及んだので、松平万千代君の御船に候ぞ、と家士の一人が窘《たしな》めたが聞き入れず、何じゃ、まんじゅうじゃと? なぞと戯れいよいよ慮外に及ぶのを見て、源之丞は言葉を和らげ、「万千代船と御覧あって御出でと拝察仕り候、万千代君も大慶に存じられ随分御馳走を御振舞い申せとの御意に候えば色々馳走仕り度く、先ずは之へ」と皆々を招じ、酒をすすめつつ酔いにまぎれて次第に船を霊岸島屋敷下へ漕ぎ寄せさせ、首尾よく先ず万千代を下船させて後、主従して、狼藉者をひとり残らず斬り捨てた。その働きは鬼神の如く、万千代より日頃おとなしい源之丞の太刀の方が凄まじかったので以来、万千代も源之丞には一目おくようになった。主従が人を手にかけたのはこれが最初である。  大谷と姓があるのに、米噛十内と人の称したいわれは、よくは分らない。  越前守は水練をよくしたが、十内も負けず習練して主君以上の達者になった。水あびにはそれで必ず相手を仰せつかった。深い処は立泳ぎで越前守は湯漬を喰べる。十内も同じ立泳ぎで配膳をする。主君の召上り物なれば、一滴とて川の汚水をかけるは許されないが、十内は巧みに、スイスイと泳ぎ寄って配膳をし、満腹なりと食後、越前守が背泳にてその辺に浮ぶ間に御膳を岸へ戻し、また泳ぎ戻ったそうである。  ある時、越前守が湯漬を求める代りに、 「十内、その方、今日は配膳のみならずこれにてオレにめしを炊いて見せるか?」  と立|游《およ》ぎで言ったら、 「御毒味仕って宜しくば」と答え、生米を泳ぎながら噛《かじ》り出した、それで米噛十内の異名を主君からたまわったともいう。  そういう主従に破綻を齎《もたら》したのが水練だったのも思えば皮肉であった。     二  越前守には従兄妹の間柄になる姫君が、正室に迎えられた。有名な越前忠直卿の息女で、母は高田殿といって将軍秀忠の女《むすめ》である。従って越前守は、将軍家の息女を姑《しゆうとめ》にもつことになった。  高田殿は、夫君忠直が狂乱して豊後へ配流されたのち、自身は江戸高田馬場に住んだので高田殿と称されたが、父なる将軍より度々対面の申し出があっても夫君配流の仕打を恨んで同心せず、結句《けつく》、対面なきままに秀忠の薨去を見送った。そういう向う意気の強い婦人で、いかな越前守もこの姑には頭のあがらぬふしがあった。何をいっても高田殿は現将軍の姉であり、幕府の権勢を背負ってもいたからである。  ところで越前守と正室との間には、一女を儲けたが嫡子が生れない。——一方、国許の郷士の娘に手をつけて権蔵なる子が出来ていた。『権蔵|君《ぎみ》は御国御泉水に而《て》御誕生、御母松原治平娘於三、老臣永見志摩へ御養育仰せ付けらる』という。正夫人は常に江戸邸にいるから、権蔵のことは知らない。家臣も何とはなく高田殿を畏《おそ》れて一切権蔵君の件は口外しなかった。  それが、豪気の越前守にはいまいましくもあり、権蔵が不憫でもあったのだろう、一日、鬱々と面白からぬ気分を晴らす為、例によって水泳をしたが『志比境《しひさかい》の深淵へ、御入ありけるに、如何したりけん御沈みなされ、久しく御浮びなかりける。折ふし十内もおらざりければすべき様もなく御供の面々ただあわてる斗《ばかり》なり。十内は此よしを聞き、駈け来り底へ沈みて見れば、越前公は底の波にまかれて、岩の窪みたる処へひたと押付けられておわしましける』  救助の手段はなかった。咄嗟《とつさ》に、十内は決意して己が足で、主君の頭を游泳しながら蹴ったのである。辛うじてその足に縋《すが》り越前守は岩の窪みを脱したが、かりにも臣たる者が、主君の頭《ず》に足をかけるは言語道断。他にすべき様なかったとは弁解にならぬ。権蔵のことが水泳の動機になっただけに越前守も虫の居所が悪かったのだろう。  岸へ泳ぎ着いて、家来共の安堵するのには目もくれずに、 「十内、覚悟があろうな」と言った。 「はっ」  十内は岸に裸身で土下座をして平伏するばかりである。家来共には主君の危急を救った天晴れの働きと見えるのに、主君の激怒するわけが分らない。常々又とないお気に入りの十内であれば猶更である。 「覚悟とは如何なる覚悟じゃ、申せ」と又越前守は言った。 「——」十内は只低頭した。 「そちのこれ迄度々諌言いたしたこと、予は守って参ったつもりじゃ。しかしそちの申す人道の正体がかかるものとは今まで知らずに参ったが予の不覚。十内、よう忠言など致してくれおった。うぬの面《つら》など見とうはないわ。退れ」  大喝し、閉門|蟄居《ちつきよ》を命じた。この閉門が終に十年の長きにわたった。     三  越前守が度々の諌言といったのは、不羈《ふき》の気に自ら甘んじて過激の言動に及ぶのをしばしば十内はいさめ、大藩を領し給う君ならば矯激《きようげき》にわたらせられるは好もしからずと忠告した。それで、次第に越前守も温和となり、 『此の君の御代は、末々の家来に迄お詞をかけられ、甚だ身近かの殿様に御座候て、江戸御発駕、御帰国御迎えなどの時は物頭一同西の馬場へ罷り出候に、老人には態《わざ》と側へ御立寄にて手を御取り成され候て、息災におり候えよ、然れば来春|再《また》などと御意あり。あるいは侍中のうち行跡悪しき者|之《これ》有る折にも、必ず内々に御意見あそばされ、御手打ち御叱りの事などはついぞ之無く、その上番頭を以て御異見なされ候』  と讃えられる迄になった。——が、高田殿の激昂をおもんぱかって権蔵の存在を秘めるのも、いわば家庭内に摩擦を起こすまいという穏便のはからいに由ることではあるが、それが高田殿の我儘をつのらせる仕儀ともなった。家臣までが、必要以上に高田殿に遠慮するのも思えば十内の意見を容れて越前みずからが温和に振舞ったからである。——そう思うと、根が覇気に豊《と》む性《さが》だけに我ながら不甲斐なしとも見え、権蔵への不憫さも手伝って一度に十内へ当ったわけである。  十内とて、主君のそうした鬱憤は痛いほど分るから、さからわずに勘気のとけるのを待った。江戸を逐われて国許越前の領内丸岡村で家族と離れて暮した。それが十年に及んだのである。  十内に再出仕の沙汰の下ったのは、実は越前守直々の意からではなかった。正夫人との間の息女布与姫が、九州鍋島の松平信濃守綱茂に輿入れすることになって、家中は内々、勝手向不如意のためこの縁談の早急に調うのを私《ひそか》におそれていたが、纏ったものは仕方がない。何とか、支度金調達の手段を講ずることになった。その借金の調達投を、老臣太田安房守がひそかに十内に依頼した。  記録によれば、 『御姫君松平信濃守綱茂公へ御|入輿《じゆよ》の節、高田殿孫娘の嫁入に候間いずれも取持ち給わり候様にと御老中へ御頼み故、御老中、若年寄、町奉行衆、一人ずつ何《いずれ》も歩行にて御供なされ候。之に依って路次の御馳走御城よりもきびしく、町々盛砂、水桶|箒《ほうき》家々に飾り、各戸毎に亭主は上下《かみしも》にて罷り出候由』  と、大へんな扱いぶりだったのが分るが、それほど高田殿の気を入れた輿入れでは、勝手向き不如意とて地味な支度は出来ない。  十内の妻は、越前守の母慶寿院(広橋大納言兼賢卿の姫君)に仕えた者の姪で、京育ちの女である。縁故に京の富商がいる。その関係で、十内に支度金調達をと安房守は頼んだ。ひとつには、その功を以て勘気をとかせようとの思い遣りもなくはなかったろう。  十内は丸岡村の仮寓に思いがけぬ家老の使者を迎えて、はじめは意外の面持だったが、口上を聞き了ると、 「それがしに左様の大役仰せつけ下さるは」と言いかけて、ふと口をとじた。 「いかにもこの役目、お手前ならでは勤め得ますまい」使者はせき込むと、「いかがでござる。お引受けを願え申すか」  十内は少時、端坐の膝に手を置いて沈思して、 「つつしんでお引受け仕る」と言った。心なしか顔色は青ざめ、憂色が濃かった。 「忝い。しからば此の儀御家老に返答仕るぞ」  使者は雀躍して帰っていった。  数日後、十内は京へ発足した。やがて金子を調え、これを城中に届けた。家中一統の喜びは非常で、早速に江戸に届け無事布与姫は入輿したが、実はこれが京で調達したものではなかったのである。 『十内京へ罷り越し候処、金談不調にて、御用御為の存念とは申しながら、右金子御国元に於て才覚に及び、京より出金の体《てい》に取成し、上を欺き候始末不届至極に付、侍を御削りなされ御城下立退きを仰せつけられ、御領分に罷り在り他国へは罷り出でざる様仰せつけらる』  国元で調達するなら何も蟄居中の十内をわずらわすことはなかった。十内への信望が国元商人に金を出させたにしろ、京で調達したものと思い込んだ感謝と喜びが大きかっただけに、裏切られた懐いもあったのだろう。——但し、もともと越前守には内々に運んだことであったのが十内には倖いした。侍を削るというのは知行を剥奪され、浪人することだが(蟄居中も知行の方は変りなく下される)領分に罷り在り他国へ出るべからずというのも、国許の重臣らに一抹の遠慮があったからだろう。いずれ、越前守が帰国の上で、詳しい経緯を言上して安房守は裁可を仰ぐつもりだったに相違ない。  が、いずれにせよ、禄を離れた浪人暮しには変りない。十内は蟄居をつづけた同じ丸岡村にこんどは無収入の浪人として(その代りある程度行動の自由を得て)村の子供らに手習いなど教えて暮した。時々、生米をつまんでは、感慨深げに噛んで無聊《ぶりよう》をすごすのを村人は見掛けたという。  十内に、第二の役目が下ったのは意外に早かった。     四 『越前公夜話』に曰《い》う—— 『ある時、越前公江戸に御在候とき、高田殿越前公へ御座所において尋ね給う様は、御実子妾腹に出生成され候事かと問給う。実子は持申さぬ由返答成されければ、左様にては有るまじく、御隠し之有りと覚え候と申されるによって隠し申す事にてこれ無き由申し遣れば、左候えば神文を認め御見せ候様にとの高田殿の御意によって、神文御認め成されて高田殿へ進められる。高田殿は隠れなき嫉妬深き上臈《じようろう》にて、御娘の御腹に御子なきに依て妾腹の御子を尋ね給うも、御相続の儀を存じ候ためにてはなし。嫉妬心より問い給うに依って越前公にもこれ無き由を宣《のたも》うなり。権蔵君を以て相続にはせまじきと思い給う故も有りしとなり。さて御帰城後つくづく思い給うに、妾腹で有りながら神文に及び天の照覧もいかがとふと無聊の御心出来たる故、御参府後御簾中へ宣うは、高田殿へかようの如く申したるによって神文を望《のぞま》れ一通の神文を致し候。何卒足下の働きを以て是れを取返し給わり候えと、御頼み有れば委細に御簾中より高田殿へ御申越し候えども中々返し給わず。よって御簾中より越前公へその段仰せられければ、何卒此上にも働き給わり候様にと御願有し故、御簾中高田殿へ重ねて仰せ遣られとにかく御返しこれなく候えば、我等がためにも迷惑致し候由呉々も申し給えば高田殿尚もって憤り、さては越前公我を欺き給う段遺恨なりとて返し給わず。去る程に寛文十一亥の三月廿八日御簾中越前公へ御目に懸り度き由、奥より御申出有ければ越前公奥へ入り給う時御簾中の御申し有るは、内々御頼みの神文取返し進め申度しと様々に申越し候え共、親ながら得心なく神文返し申されず候、我等|女《むすめ》の事にて候えば嫉妬心も有って、申し様も疎略成る故返し申されざるかと思召しの程も迷惑いたし候、我等心底は斯くの如くに候、是にて御胸を晴され候え、我身心底毛頭も私なしとて上着を披《ひ》らき胸を明け給えば、合口の脇差を胸へ突返し給う、越前公是れはと驚き立ち寄り給え共叶わず事切れ給う』  又曰う—— 『北之庄の西田之谷という山奥に一宇の牢屋|形《かたち》結構にさせられたり、権蔵君永見志摩が許より荒谷村にて年月を送り今は十八歳になり給う。  永見が中間頭に、糠田武右衛門という士あり、彼是七八人若侍共を語らい権蔵|君《ぎみ》に申しけるは、田之谷に牢屋|出来《しゆつたい》いたす事只事に非ず、御実子これ無という御神文を成されたるに依って、ひっきょう君を押込め申さんとの儀と察し申し候。御嫡子に間違いなくして闇々と打果て給わんこと言い甲斐なく候。先ず御立退きにて大野城主松平但馬守殿は大叔父様にて殊に頼母敷き御方なれば、幸い江戸こそ願う処、我々お供仕るべし、一旦御実子なき御神文をなされたり共もともと親子の事なればいかで御見捨て成さるべきや、早々御急ぎ候様にと勧めける故、取る物も取敢えず密《ひそか》に忍び出て関東へ夜を日についで急ぎ給う。  志摩守聞き付《つけ》て驚き越前公へ斯《かく》と告げければ、急ぎ討手を向《むけ》よとて堀十兵衛を始め、夫々に仰せ付られ追懸けさせられ程無く追付きければ、何《いずれ》も覚悟の前なれば刀に手をかけ、思召しの仔細あって但馬守様を御頼み成さらんとて江府へ下向仕り給う也、眼前の御子討って御意にかなう共、まこと忠は御心の底にあるべきぞ、返答せよとて討手の面々ヘ向い申しければ、いかでか御嫡子を討ち奉らん哉、御用捨こそたまわれ、我ら尋ね逢い申さぬ由にて罷り帰らんとて引揚げ、堀十兵衛は今庄に而《て》切腹す。  されども更なる討手の追い迫らん事もあらんかと権蔵君ら主従胸を冷やして急ぎ給うに、堀十兵衛逢い申さずして切腹の由を聞き、さてこそ一大事と志摩守次なる討手に、前《さき》に牢人せし大谷十内を遣さんとしける。  十内我ら永の浪々にて士気うすれ、武辺事は成るまじくと固辞す。  志摩守は御辺を除いて此の役果せる者なし、上意なり、権蔵君に随う武右衛門ほか両名は屈強の手練《てだ》れなれば、と詞を尽して促す。  ついに十内起つ』  と。  十内が一行に追いついたのは中仙道も江戸へ半ばにさしかかった辺りである。十内が討手と知って、バラバラと七人は権蔵を背後に衛《まも》って立ちはだかり、いずれも刀に手をかけて前回の堀十兵衛に言い放ったと同様の言を吐いた。十内はおだやかに言った。 「もとより我らとて眼前に御嫡子を討ち奉らん存念は毛頭なし。さりながら権蔵君が正しく御嫡子にておわしますなれば知らず、討てと御上意あるからは、御嫡子にては之無き意と拝察仕る」  そう言って、 「いざ、我らお供仕り候えば国許に御立戻り下されませい」  と権蔵をヒタと睨んだ。 「若君に無礼きわまる雑言、おのれ、浪人が身で僭越《せんえつ》と思わぬか」  一人が言って、やにわに斬り懸けた。  十内は体をかわし、「無体を致すな」叫んで同時に斬った。腕は格段に十内が優れていたので、相手は血潮をあげて倒れた。  一同動揺した。 「待て」  武右衛門が眼を血走らせて半歩進み出、 「お手前昔は知らず、今は侍を削られた身でござろう。此の度の討手が功にて再度御奉公の念願なれば、この儘、我らに合力いたし、権蔵君が御為に尽力をねがえぬか。お手前ほどの侍、知行は誓って」  言わせも果てず、 「情無き心底の者共かな。かかる者にそそのかされる若君なれば、所詮御嫡子は覚束なく候」  言って忽ち武右衛門を斬った。残る面々はこの気勢に怖気《おじけ》づいて、一人ふたりと北《に》げ出したので権蔵は顔面蒼白となり、 「おれが軽はずみじゃ。許せ」  叫びながら、ヘタヘタとその場に崩折《くずお》れた。  十内はすると刀を背に、ツカツカと進み出て、 「武士がこうと思い込まれたるなれば、何とて、この場に臨み挫折なされまするぞ、イザ、江戸へお発ち候え」  目配せで急《せ》かせたという。  それが親子のいつわらぬ心底と主君に代り想像したからだと後に、十内は人に洩らしたが、『北越雑話』に言う。 『大谷十内この功にて再度召され足軽五十人を預る。常に威愛を以て真《よく》使い皆能く帰伏す。時に越前公逝去し、庶子ましませば必ず権蔵君相続たらんという。或る時朋友に語って曰く、もし昌親公(越前守の末弟)相続し玉わば我仕えじ、是は前に昌親家を疑う事|有《ある》が故なり。しかるに昌親君相続し玉う。十内一言金鉄、暇を乞う。  昌親公その人柄を惜しみて免《ゆる》し玉わず。種々辞を尽して止め玉えども聞かざる故に、直賢公(権蔵のこと。備中守となり封を分けられていた)に御頼みなされける、直賢公福井へ入り玉うの砌《みぎ》り態々《わざわざ》十内が門前を通り玉いて、人をして十内を召さる、十内言う、藩公の不興を蒙り居る身として、何の貴人に見《まみ》ゆべしと、使再三に及べども出でず。既に直賢公|駕《かご》より下り玉い自ら門内に入《いり》玉いて、十内辞する事能わず、上下を着し出て見《まみ》ゆ、直賢公言を尽されて宥《なだ》め玉う、十内答えて言う、当家相続の君止め玉うさえ固辞す、況《いわ》んや同苗といえども他の君止め玉うに敢て順《したが》いがたし、謝免を蒙らんと云てその心決せり。直賢公詮方なく此旨を昌親公に告玉う。  爰《ここ》において暇を玉わる。然れども尚も惜み玉うは甚し、十内屋内を清め床に掛物をかけ花を生けて奉行に渡し、妻子皆駕に乗せ馬を引かせ、鎗具足櫃弓立美々しくして旅立す。組の足軽別れを惜みて遠く送る、十内再三辞すれども既に鯖江の代山に至り十内が云、汝等が厚誼謝するに処なし、さり乍《なが》ら何国迄送り来るとも別るる機なからん、必ず此所より皈《かえ》るべし、若し皈らざれば我も又去らじ、爰に於いて皆皈らんとす、十内歓び酒肴を取り出し宴をなして別れを惜む。時に十内序を正して諸人を誡《いまし》めていわく、汝等能く君に忠を尽せよ、不忠をなしてすわこそ十内が仕立の足軽共と云わるる事なかれ、若し左様の事ならば我冥府に赴くとも深く恨みとせんと云いて、涙数行、諸人皆泣く。斯《かく》て時刻うつり陽|未《ひつじ》に至しかば、互に後を顧みて南北へわかれさるとぞ。  十内がその後の行方知る者なし』 [#改ページ]   縁切り久兵衛     一  むかし相模のある里に蕪子姫《かぶらこひめ》と呼ばれる乙女がいた。  都から東国に下る一人の旅人があって、この村里を通っていると、急に、気も狂わしく、思わず路傍の垣の内を見ると其処に蕪が沢山出来ている。その一つを引き抜き、女の白い腿の恰好に似ているので、あいだに孔《あな》をつくり、いたずらして後、再び垣の内に投げ捨てて道をいそいだ。  その後、畑の持主たる長者は、蕪を穫入《とりい》れようと大勢の婢を雇い、頻《しき》りに蕪を引抜かせた。すると長者の娘の、十五になる少女が、皆と一緒に面白そうに手伝っていたのが、前《さき》の旅人の投げ捨てた蕪を拾い取り、余りにおかしいので、しばらく翫《もてあそ》んで、 「誰かのとそっくりね」と言った。  あたりの雇い女共は一斉に声を立てて笑ったら、蕪は縮んで乾上ったので何気なく娘は其処に捨て、尿《いばり》をたしに物蔭へ入った。  ところがそれから間もなく、娘の体は変調をきたし、だんだん月を経るにつれて腹が大きくなり、懐妊と分ったのである。  両親の驚きは非常であった。いろいろ娘を責めたが、もとより覚えのないことで娘はただ泣崩れるばかりである。とかくするうち、月満ち、玉のような肌の白い女児を産み落した。近所の手前もおかしいが棄てるも可哀想と、ともかく手許に大切に育てることにした。  五年が経った。  ある日、前の旅人が偶々《たまたま》二三人の供を連れ、畑の辺を通りかかり、フト先年のことを思い起して、従者に、 「われらも恥を申すようであるが、若気の至りで」  と蕪の一件を苦笑まじりに打明けた。これを、娘の母が垣の内で聞いたのである。  さてはと驚いて、男を呼び止めた。そうして娘の身の上を話した。男は容易に信じかねたが、さればと彼を伴い入れて家の女児を見せられると、なるほど目もとから眉のあたり、自分と瓜二つである。いかな男も我があやまちの子と認めざるを得なかった。  さて如何して下されると娘の両親から迫られ、幸い自分には都にも親類縁者のないことゆえ、之を縁に、婿にして頂こう、但し、今は関東に所用の身である、半年待って頂きたいと言った。男は納銭一衆の下吏で秀政と名乗った。都鄙の土倉《つちくら》役銭その他の役銭を収納して、府庫の出納及び市店質物を掌《つかさど》り、大名諸家の貢銭を掌るのを納銭一衆(御倉納銭方《おくらのうせんかた》)という。その下役人である。  両親に異存のあるわけはなく、娘も既に廿《はたち》となり婚期を逸している上に、愛児の父と分れば望む所と、早速に話は纏って、ここに目出度く夫婦の縁を結び、半年後、男は約束通り里に戻ったので一家は無事に納った。以来、女児は、誰いうとなく蕪子姫と呼ばれるようになった。     二  蕪子姫十四歳の夏のことである。  長者の土地に、腰かけ松と称される老松がある。むかし、さる帝《みかど》の御代にいた浅衣《あさぎぬ》という官女はこの土地の生れで、幼い時から内裏に宮仕えしていたが、年頃になって、故郷に残した父母を恋しく想い、帝よりお暇をいただいて故里へ帰った。  しかるに両親は夫《それ》より前に世を去ってしまっていた。浅衣は大そう果敢《はか》なく思い、我が家の古井戸に身を投げて両親の後を追うた。一方、帝は、さりとは知ろしめさず、浅衣のことを恋しく思召して、わざわざ彼女の故郷へ訪ねてお出になった。  やがて目ざす彼女の家へ着かれ、浅衣が身の果てを聞こしめして今更に御落胆のあまり、暫く、松の根元にお休みになったから、里人はそれより『腰かけ松』と名附けたものである。また彼女が身を投げた古井戸を御覧《ごろう》じて、   浅香山影さへ見えぬ山の井の   浅くも人を思ふものかな  と、御製あそばしたとも言う。  その腰かけ松に、蕪子姫は下女を伴って幹下に涼んでいたが、 「もっと涼しい処はないのかしら」  そう言って、ふと頭上を見上げ、枝ぶりの垂れた一つをみとめると、悪戯《いたずら》心でそれに攀《のぼ》った。あまり高くはないが、下女が愕いて制しても肯《き》かない。姫は年の割に未だそんなあどけなさを失わぬ少女だったのである。 「危うございますよ、姫《ひい》さま」 「いいわ」  蕪子姫は、ぶらんぶらん巨松の枝をゆすって愉しんだ。ところが、少時して、下女は「あっ」と驚愕した。いつ何処から出たのか、一疋の蛇が、松の根方に蟠《わだかま》っている。叱《しつ》しても、小石を投げても動かぬどころか、鎌首を擡《もた》げ、幹に巻きついて登ろうとする。二尺には余ろうかという蛇だった。  姫はようやく樹上でこれに気がつき、悲鳴をあげた。この叫びで傍らを通りかかった旅装の武士が、歩み停った。 「お武家さま、ひいさまをお助け下さいまし」  武士が近寄るのを見て下女は叫んだ。その目は恐怖におののいていた。 「たかが蛇か」  武士は失笑したが、樹上で、蕪子姫は夢中で幹にしがみ附いている。小さな白い脚が着物のひるがえる裾から、腓《ふくらはぎ》のうえ迄覗けて見える。  ふと、武士が真顔になった。武士は大身の槍をたばさんでいたが、是を把《と》りなおし、りゅうとしごいて蛇の鎌首をめがけ、軽く突出した。蛇は樹に巻きつけた身をねじって白い腹を返し、忽ち槍の穂先に、ぐるぐると巻きついた。 「もうよい。降りて来い」  と武士は言った。武士は何事もなかったように槍先を空中にかざし、一振りしたらバラバラになって蛇体が四散した。  蕪子姫は、それでも少時まだ、恐怖して、得降りない。下女も青ざめて思わず目をすえている。武士は、それを見ると、黙って歩み去った。 「待って」  慌てて姫が叫んだ。その勢いで、枝を跳び降りると武士を追い、 「お名前を告げておくれ」と言った。 「拙者か?」 「助けて頂いてお名前も聞かなんだら、あとで母に叱られます。妾《わたし》は土地の長者の娘で蕪子というものじゃ」 「蕪子……妙な名じゃな」  武士は長途の旅の故か、日焼けして色の褪《あ》せた衣服を纏っている。野袴も所々綻びている。赤銅色の逞しい風貌で、三十五六と見えた。 「わしの名は石巻久兵衛と申す」 「どちらへお出でなされますのじゃ」 「何処へと?——ふ、ふ、あては別にない」 「それなら」  姫が気おって何か言いかけるのを、慌てて下女が止めた。助けてもらった恩は恩であるが、大変な場面を救われたわけでもない。それに、蛇を寸断して(下女にはそう見えた)眉ひとつ動かさぬ武士の底気味わるさが、何か危険な人物と思えたのである。  蕪子姫は併し人を疑ることを知らなかった。 「どうぞ家に来て父や母にも会うて下され。よかったら、何日逗留しなすってもよいのじゃ」  武士はおかしそうに嗤《わら》った。 「そもじ、幾つじゃ」 「十四じゃ」 「なれば嫁にもらわれる年頃、木になんぞ以後はのぼらぬことじゃぞ」  言い捨てて京への道を去っていった。 「そなたが悪いのです」見送った眸を戻すと、蕪子は真剣に下女を叱った。そこへ折よく小作人の若者が通りかかったので、「あのお武家を連れ戻しておくれ」姫は言った。「うまく連れ戻してくれたらお前に妾の櫛筥《くしばこ》をあげよう」     三  武士は、北条家の家臣で聞こえた勇士だったが、ある日、城下の町に出た帰途、さまざまな子供の玩具を売る店あり、ふと忰に購《もと》めなばと、駕籠脇の士に命じて買いにやらせた。その者走り往って、やがて|ひょっとこ《ヽヽヽヽヽ》面を買い戻り、羽織のすそに掩いつつ|そ《ヽ》と駕籠の中に入れた。久兵衛は思うのに、この儘で忰に与えても直ちに被ることならずと。駕籠の簾を卸し、脇差の小束《こづか》を抜いて懐中の鼻紙を出し、紙縒《こより》をつくってその面に縒《より》の通る穴を穿《うが》ち、結び附けてわが顔に押しあて、忰なればこれ位の長さか等《など》と長短をはかって髪のうしろで結ぶうち思わず|こま《ヽヽ》結びにした。  折ふし、道の向うより騎馬で城家老が通り来た。当時のならわしで双方の家来は互いに何の誰様と告げ合い、駕籠脇は|しきたり《ヽヽヽヽ》通りに簾戸を一度に引いた。久兵衛は慌てて面を取ろうとしたがこま結びなれば遽《にわか》には解けず、やむなく面を着けたまま会釈をした。  故意にひょっとこ面で揶揄すると家老には見えたのである。家老は激怒した。吹き出していた一同思わずハッとなったが既におそい。 「おのれ久兵衛、我をいたぶりおるか」  言って、家老は騎馬に一鞭あて一気に駆け去った。 「早う閉めい」  同時に久兵衛も叫んだが、この時すでに久兵衛は覚悟を決めた。屋敷に戻ると、郎党を招集し、門を閉ざして立籠るかたわら妻子を呼んで、妻には直ちに鎌倉松ヶ岡の縁切り寺へ駆け込むよう、忰は、我と生死を偕《とも》にせよと命じた。  鎌倉松岡山東慶寺は尼寺で、俗に縁切寺、駆込寺という。北条時宗の夫人覚山尼の開山になる寺で、当時の婦女は、封建社会下にあって、一たん嫁いだからは夫に如何に非道に扱われ虐待されても耐えねばならない。それでは余りに不憫というので、そういう女子を救う為に寺法を設けて、当寺に駆込む女子は之を三箇年間寺にとどめ、以て離別の望みをかなえさせようと、覚山尼は子の貞時に請うて奏上し、遂に勅許せられた。縁切寺と称される所以である。ここに駆込んだからは、如何なる横暴の夫も、官権とて女を引出すことは|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》わない。女は、大概は仏堂の掃除やら香華供物の手伝い、来客の応対、飯炊きなど雑役に日を過し、中には発心して尼になる者もある。何にしても女の身の無事は保証される。  久兵衛のよめは、この期に及んでは夫と死を偕にしたいと願い出たが久兵衛は許さず、ついに縁切寺へ駆込んだ。彼女の胎内には三カ月の胎児が宿っていたのである。  妻女を落ちのびさせると程なく家老の手勢が押寄せて来た。久兵衛主従は邀《むか》え撃って勇敢に闘ったので、一度は寄せ手は退いたが、やがて前に倍する手兵で攻め懸った。まだ武家法度など定まらぬ時で、武士と武士の意地をかけた喧嘩である。むろん上意討ちとは性質が違ったから、久兵衛の郎党悉くが果敢な討死をとげ、あるいは深手を負うて、久兵衛只一人となった時に、 「さすがは石巻久兵衛。見事な働きじゃ」  家老は手勢を制して攻撃を斂《おさ》めさせて「もはや意趣無し。退け。退け」包囲を解き、その場から引揚げた。そうして城主北条氏直に願い出て久兵衛の加増を請うた。  しかし、かりにも主家の家老を相手の私闘である。潔く久兵衛は屋敷に火をかけ小田原を立去ったが、あとで、妻を東慶寺へ駆込ませたと分り、誰言うとなく縁切り久兵衛と異称されるようになった。忰は六歳の少年ながら花々しく戦って即死をした。  一方、縁切寺に駆込んだよめは吟味所で寺侍の調べを受けているうちに激痛を愬《うつた》えて、流産した。吟味所というのは、不幸な女が夫の家から逃げて来たのを受け附けて、その事情を聞き糺《ただ》す所である。吟味の時は寺侍総掛りで、尼僧が立会いの上でする。もし国の法を犯した女であれば預るわけにゆかぬからである。よめは包まず夫の身分を明かした。早速、寺からは小田原城下へ調べの役僧が派遣された。久兵衛は主家を逐《お》われ、郎党悉くを討死させて奈辺《いずれ》にともなく消息を絶ったと分明して、さように非情な武士の妻なればと、願いの通り寺に住むことを許された。久兵衛の無事を知って密に安堵したよめとは知る由もなかった。     四  小作人に必死に頼まれて長者屋敷に厄介を受けるようになった久兵衛への、家族のもてなしは大変なものである。当の蕪子姫がそうするよう両親に請《せが》んだ為もあるが、むろん父や母としても、愛娘の危いところを救われて嫌なわけはない。頗《すこぶ》る鄭重に久兵衛を接待した。久兵衛の日を経るにつれて意外に、挙措の礼儀正しいことも両親には有難かったろう。  蕪子の、久兵衛が住むようになってからの喜びは非常で、久兵衛さま、久兵衛さまと慕い寄る。恰《あたか》も頼もしい長兄を獲た如くである。相手が少女のことでもあり、彼女の父親と同年配の故もあって、久兵衛も我が娘の如く接したのも亦自然である。 「いつ迄厄介を受け申すわけにも参らず」  久兵衛がそう言って身仕度をはじめようものなら、取縋らんばかりにして、いて下されと蕪子は懇願した。戦火|燼《おさ》まらぬ戦国の世だったから、野盗の一団が襲来することも多い。そういう時は、村人全体が久兵衛の存在を心頼みとした。事実、一両度野武士に田畑の収穫を掠奪されそうになり、久兵衛の活躍を目《ま》のあたりにして、一そう、村民らは久兵衛の逗留を請うた。「蕪子さま、いっそお前さまが久兵衛さまの嫁御に、おなりなされると、よいにの」  中にはそう言ってショボショボ目をしばたたく老婆もあった。とうとう二年余を、長者屋敷に久兵衛は過した。  蕪子姫は十六になった。  その頃から一段と顔の容《かたち》も髪の色も世に稀れな美人となり、朝は鏡に向って容を飾り、夕には帳《とばり》を垂れて衣を薫じて、久兵衛の前にも何故かあまり出ぬようになった。  そんなある日のことである。 「お手前さまに折入って御相談がござりまするのじゃ」  今は長者屋敷のあるじとなった蕪子の父親秀政が、客間に這入って来て、真顔で膝を進めた。 「何の御相談かな」久兵衛が読みさした軍書を見台《けんだい》に伏せると、 「他でもござらぬ。蕪子のことで」  秀政は、自分がもとは宮廷に仕える下吏であった以前の身もとを先ず明かし、奇妙な縁で蕪子の母と結ばれた経緯《いきさつ》を告げて、そういうわけなれば尋常に恵まれた子宝とも思えず、これ迄、玉のように大切に育ててきたが、娘も年頃、この際、お手前さまに当家へ婿入りして頂くわけには参るまいか、と言うのである。 「娘御の生い立ちの由来なれば」  久兵衛はふと寛《くつろ》いだ笑《えみ》を浮べた。 「我ら村人より聞き知っており申したが」 「では、御承諾を願えまするか」 「待って頂こう——」  久兵衛は嗤《わら》い止むと、「それがしには妻《さい》がござるのじゃ」 「存じておりまするぞ」意外にも秀政は真顔を変えない。「縁切り久兵衛どのと、異名なされておられることも存じておりまする。その上の、御相談で」 「?——」 「今は何をかくしましょう、蕪子は、お手前さまをお慕い申してしまいましたのじゃ」  久兵衛は怪訝の表情をうかべた。  はじめて、今度は淋しそうに秀政は笑って言った。 「御妻女が東慶寺に駆込みなされて、今で丸二年半、あと半年いたせば自由の身。お手前さまが当屋敷を出ておゆきなされても、止め立ては|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》いませぬが」 「そこまで存じておられての、御懇望か」 「親の身になれば、娘の心中が不憫でござりましてな」  縁切寺では、三年の間に夫が前非を悔いて詫びを入れるとか、親もと縁者から申し出があって再び元の鞘に——いわば事の円満に落着するのを先ず期待する。逆に、夫側から強情な苦情が持込まれれば寺侍を差し遣わして、キッパリ離縁の出来るように話もつける。いずれにせよ三年の歳月を藉《か》すわけで、むろん、二度と夫を持ちたくないという女もあれば、次第に別れてみて夫に未練をおぼえる女、前夫とは離縁しても次の男をさがす場合もあろう。すべて当人の自由である。尼僧になるか、あくまで男に女の幸せを求めて生きるか、その判断に三年の歳月は長すぎることもあるまい。 「縁切り申したことも、承知の上で、娘御は我らを?」 「いえ、その儀は何もまだ知らせておりませぬ」 「それなら」ようやく久兵衛の面に年配者の気軽さが甦《よみがえ》った。「今直ぐと申されても返答に困る——。しばらく、思案をさせて頂きたいが」 「尤もでございまする」  それから数日経った。  相変らず蕪子はおのが居間に閉じ籠って久兵衛の前へ姿を見せなかった。久兵衛は秀政を自室に招いて、 「それがし都合で、中田の方へ移らせて頂きとうござる」と言った。  中田というのは、先代の長者が隠居所として建てた山際の別宅で、今では空家同然に打捨ててある。  秀政の顔色があらたまった。 「あの話を御迷惑と」 「いや、左様ではない。迷惑なれば黙って当屋敷を出申す。まして、この村を立去ろう企みにてもなし」 「では何故でござります?」 「それは、我らも武士——口に出せぬ詞もござる」  秀政は猶も眼を凝らして表情を読み取ろうとした。久兵衛もまた秀政を熟視した。少時、両者は睨み合った。 「よろしゅうござります。お住み願いましょう」     五  村人は長者屋敷を出る久兵衛を一時は不安の眼で見|戌《まも》ったが、村を去る人でないと知ると大そう喜んで移転のこまごまとした手伝いをし、日々の竃《かまど》の世話や食事の菜なぞを競って中田の別宅に運んだ。下働きも村人交替で心を協《あわ》せ、実意をこめて務めた。長者屋敷の手を離れ、今や村全体であずかる居候の概すらあった。少しずつ、長者屋敷の僕婢は遠慮深くなり、逆に、小作の貧農などは久兵衛に親しみ近づいた。  以前は長者屋敷のお客人だったのが、「儂《わし》らの先生」に変ったわけである。  蕪子姫は、久兵衛が屋敷を出て後も中田の隠居所を訪ねようとしなかった。がある晩、突如、夜陰に紛れて単身、久兵衛の書見する灯の窓の下に立って、 「久兵衛さま、蕪子でございます……戸を開けておくれ、妾をお側へ寝させておくれ……」ホトホト板戸を敲き、涙声で愬えた。久兵衛は灯を吹消した。何か秀政の淫ら心に生を享けた宿命の淫邪な血が感じられたのだろう。  その夜は、人目を怖れて蕪子はむなしく引揚げた。が数日して再《また》、月のない暗夜に、窓下に忍び寄って、声をひそめて思慕の狂おしさを告げた。そういうことが三晩つづいた。四日目の晩、久兵衛は言った。 「それまでに慕うてくれる熱情、我らとて木石に非ず。いかにもそもじと契りを交そう。が、今宵は父祖の忌日なれば慎まねばならぬ。五日後に、来てくれぬか。その時は、必ずそもじと同衾《どうきん》しよう」 「屹度《きつと》、五日後でござりまするなあ」 「武士に二言はない」 「では五日後……」  久兵衛が五日のちと言ったのは、蕪子の思慕が些《いささ》か度がすぎるので、哀れでもあり、煩わしくも思い、ひそかに村人を遣わして三河の徳川家臣|某《なにがし》に仕官の斡旋を乞うた。その返事が、おそくとも後《あと》両三日のうちには届く。それを俟《ま》って出奔する肚でいたのである。  三日が過ぎた。吉報は齎されなかった。  四日目もむなしく過ぎた。ついに五日の半ばを過ぎた。  その晩。  この日は凩《こがらし》の吹く厳寒の夜だったので、早くから久兵衛は灯を消して屋内に潜んでいた。果して、吹きすさぶ風に紛れ、ホト、ホト、かぼそく戸を敲く音がした。 「久兵衛さま……何故灯を消しているのです。約束通り来ましたのじゃ。開けて。開けて」  久兵衛が声をころしていると更に戸を力を籠めて敲き、 「大事なものを持って来てあげました、本当に大事なものよ。……開けて下さい。妾を可哀そうと思って、開けて下さい。……」  久兵衛は詐術にはのるまいと心を決めた。蕪子は根《こん》限りの力で、雨戸を敲き、去ろうとはしなかったが、終に、力盡き、寒さはいよいよきびしく、とうとう凍え死に、その身は狼に食われてしまった。  朝起きて、久兵衛がその有様を見ると、無惨にも長い髪の毛と、血に塗《まみ》れて赤くなった頭と、新粧の紅の袴のきれぎれになったのが凍《い》てついた地面に散乱していた。そんな中に、見なれぬ封書が落ちていた。見ると、東慶寺にいる妻から、間もなく御地に向うと記《しる》された長者屋敷|主《あるじ》宛の手紙であった。  久兵衛の晩年は、老妻と二人で、遠州の片田舎に住んでいた。常に貧乏しているので、少しの貯えもなく、唯書が上手な所から人々の需《もと》めるに応じて、日に二枚宛出して、二升の米に替え、それで生計を立てたが、決して多くは書かなかった。  やがて渠《かれ》の死ぬ時を見ると行儀よく坐って目を閉じているので、傍らに侍った法師が、何か辞世はないかと尋ねると、久兵衛は急に目を開いてその法師を叱り附け、「此の一大事の時」と言って、とうとう瞑天してしまった、という。 [#地付き]〈了〉 初出誌  週刊新潮/昭和三六年四月一七日号より八月一四日号まで連載 〈「十二人の武士」を改題〉 単行本  昭和六十一年八月文藝春秋刊