[#表紙(表紙.jpg)] 刺客(せっかく) 五味康祐 目 次  男色・宮本武蔵  験術チャット始未  小次郎と義仙  山 吹 の 槍  小 鳥 の 餌  切腹する話  通り魔は女を  朱 鞘 坊 主  密  書  刺《せっ》  客《かく》  自日没(にちぼつより) [#改ページ]  男色・宮本武蔵  かようなことを申上げて、信じて頂けねばそれ迄《まで》でございます。別にわたくしは、たけぞう様の御勇名を損《そこな》いたくはございません。むかしを恨んでもおりません。それどころか、あのように御立派な兵法者《へいほうしや》にお成り遊ばしましたこと、ほんとうにうれしく存じます。  この生涯にお慕《した》い申した最初の方でございました。むすこ伊織の、今は「父」と呼ぶ方でございます。何でお恨みに存じましょう。わたくしはただ、ありの儘《まま》を申上げたいのでございます。修業のため妻を娶《めと》らなかったの、武蔵におんなはいなかったのと、あられもない絵空事《えそらごと》を申される世間の方にほんとうのことを知って頂きたくて、これは申す事でございます。それ以外にけっして他意はございませぬ事、予《あらかじ》め、是非々々お含み戴《いただ》きとう存じます。  わたくしは、天正十一年八月播磨国|印南《いんなみ》郡|米堕《こめおち》村に、地ざむらい横山利兵衛の女《むすめ》として生れました。父はもと、三木城主、別所小三郎|長治《ながはる》様の御家中でございました。天正庚辰の歳正月に三木城は陥《おちい》り、長治様が御自害遊ばしましたので、この印南郡へ、父は落ちのびて参ったのでございます。  此処《ここ》には弁之助様──武蔵さまとお呼びするより、この方が、矢張りわたくしには懐《なつか》しゅうございます──の御実父岡本新左衛門様がいらしたからでございます。父と、新左衛門様とは義兄弟でございました。わたくしはそれゆえ、たけぞう様の従姉《いとこ》に当るわけでございます。このことは是非申しておきます。と申しますのも、御存知かとは存じますが、むすこ伊織に、次のような、|らち《ヽヽ》もない噂《うわさ》や渾名《あだな》の附いているのを雪《そそ》ぎたいからでございます。  ──『宮本伊織は、武蔵が武者修業の途次、出羽国|正法《しようほう》ヶ原へさし掛ると、路の傍らで泥鰌《どじよう》を採っていた童子である。武蔵がそれをひと目見て、その泥鰌を購《か》いたいと乞うと、童子は、桶の儘持ってお行きなさいと言いすて、サッサと立去ってしまった。翌日薄暮、道に迷った武蔵がとある山麓の草屋《くさや》に灯を見つけて宿を求めたところ、それが童子の家だったから、奇遇《きぐう》をよろこんで一泊した。その夜中、刃《やいば》を研《と》ぐ音がする。尋常でない研ぎ様なので、耳を欹《そばだ》てた武蔵は起出し、理由を尋ねた。童子は、「昨日、父が亡くなったので、うしろの山へ葬ろうと思うが、わし一人では持てぬから、死体を切って、運ぶつもりじゃ」と応《こた》えた。武蔵は大いに感じ入った。それより手伝って死体を運んだが、童子は孤児ゆえ、爾来《じらい》、連れ歩いて養子とした。──即ち伊織であり、泥鰌武蔵の渾名の由縁《ゆかり》である』──。  これが、真っ赤な偽《いつわ》りであることはもう、お分り頂けると存じます。わたくしどもは出羽国に棲《す》んだおぼえはございません。慶長七年|廿《はたち》の春、わたくしは当家──米堕村の郷士岡本甚兵衛方へ嫁《とつ》いだのでございます。旦那様は、伊織が八歳の折、急病でお亡くなりなさいました。けれども、それ以前からも度々、たけぞう様は当家へお立寄りになって、旦那様とも昵懇《じつこん》の間柄でございました。又別に、わたくしと旦那様との仲には一男一女が生れております。けっして、孤児の伊織とたけぞう様が初会《しよかい》なされた等というわけのものではございません。ましてや胆の太さを賞して下さるにもしろ、亡父の死骸《しがい》を切るなどと、そんな恐ろしい子ではございませんでした。  では、何故かような噌《うわさ》がひろまったのか、どうして伊織は武蔵様の宮本姓を名乗るようになりましたか、そのわけを、申上げましょう。が、その前に先ず、たけぞう様と、わたくしとの幼な話を聞いて戴きます。  ──わたくし共は、武蔵様がお生れになった頃、岡本の屋敷から分家して米堕村字米田と申す所に移り住んでおりました。其所《そこ》で、父は書学など講じておりました。たけぞう様の生年は、たしか、天正十二年四月だったと存じます。申歳《さるどし》でございます。わたくしは未《ひつじ》でございます。ひつじ女は後家になる──そう邑人《むらびと》に申されまして、大へん恥ずかしいおもいを致したことを憶《おぼ》えております。  武蔵様の方は、幼《ちい》さな比《ころ》から大へん物真似《ものまね》がお上手、何を遊ばしても手際のあざやかなことでございましたが、とりわけ、京流をお使いなさる御実父新左衛門様の、朝夕の御武練を御覧《ごらん》になっていたためか、木太刀の構えようなど、修業を積まぬ童《わらべ》の真似事《まねごと》とも見えぬほど、それはもうお見事な手すじだったそうでございます。これはわたくしのほんの想像に過ぎませぬが、後に、と申しましても武蔵様九歳の頃、十手の達人新免無二斎様にのぞまれて作州英田郡へお移りになったのも、そんな、手すじの見事さを無二斎どのに見込まれなされたからではございますまいか。  無二斎どのと申せば、何でも父祖《ちちおや》の代にこの播磨にお住居だったと伺っておりますし、わたくしの父と同じく、別所長治様の御家中だったそうでございます。とすれば多分、兵術の上から、岡本新左衛門様とも御昵懇《ごじつこん》でございましたのでしょう。が、それはさて措《お》き、猿真似と申せばおかしい咄《はなし》がございます。──あれは、まだ、弁之助時代の腕白《わんぱく》ざかりで、岡本の二男と申せば村人も手をやいた年頃でございました。この米堕村の近くに大字東|神吉《かんき》と申すところがございます。其所に、愚安さまとて大そう奇矯《ききよう》なご坊さまがいらしたのでございます。  わたくしどもはよく、その、愚安さまの棲《す》んでおられる庵《いおり》の近くへ遊びに参ったものでございますが、良寛さまの生れかわりと村人達が申すほど、それはそれはよくわたくしどもを可愛《かあい》がって下さいました。その愚安さまが、或る日、弁之助さまの腕白《わんぱく》があまり過ぎるとお思いになったのか、それとも他にお考えあってのことか、庵の前で、その日も村の子供達を相手に大立廻《おおだちまわ》りしていた弁之助さまへ、 「これ、弁之助や、一遍、猿と勝負してみる気はないか」  と申されたのでございます。はじめは、何のことかと存じましたら、ほんとうに、裏山から猿を連れて参られたのでございます。小さな猿でございました。 「わしも武士の子じゃ。如何《いか》なご坊さまのお言葉でも猿の相手は致さぬ」  と、まあ大そう殊勝《しゆしよう》に見得《みえ》を切っていらっした弁之助さまも、その猿が手ごろの小枝を拾って、キャッ、キャッと奇声をあげながら、それでも身構える様子を致しますのに、つい、持前の腕白ごころを誘われなすったのでございましょう「よし」とばかり、立向ってゆかれたものでございます。ところが、相手は猿でございますから、弁之助さまが掛《かか》ろうとなさるとヒョイと梢《こずえ》に逃げ、そうしておいて、飛び降りざまにピシリと擣《う》ちます。 「おのれ」  と弁之助さまが力むころには素早く又、梢へかけ登っております。そうして、同じように枝から枝へ移っては、身近な所でひらりと飛び降り、発止《はつし》と、弁之助さまの肩など擣つのでございます。幾度しても、同じでございました。  とうとう、口惜しさのあまり、泣き声で、 「ご坊さま、猿めは卑怯《ひきよう》じゃ、卑怯じゃ」  と顔一杯|皺《しわ》にして、目を瞑《つむ》り、矢鱈《やたら》と、虚空《こくう》に小太刀を振り廻していらっしゃる様子。いい気味でございました(いつもは弄《いじ》められ通しなので御座いますもの)。わたくしどもは手を拍《う》ってよろこびました。  すると「ワッ」と大口開けて泣き出される始末に、ご坊さまは、梢の猿を手招きなさると、猿は、その儘、小枝を捨て裏山へ駈け去ってしまいましたが。──このことは、子供の頃からあんなに負けず嫌いの方でございましたゆえ、余程、口惜しかったと存じます。後々も、ご坊さまの袖《そで》を捉《とら》えては、 「わしは修業したぜ。ご坊さま、も一度猿を連れて来てくれいや」  と申して居られるのを見掛けましたから。そして、生来|一徹《いつてつ》な方とは申せ、到頭《とうとう》、本当に猿を負かすほど上達あそばしたのでございました。  その時の様子は、実はわたしは目にしてはおりません。何でも併《しか》し、慥《たし》かに猿をうち負かす業前《わざまえ》になり了《おお》せたと、これは、ご坊さま御自身が常にない厳しいお顔で申されたそうでございます。又、その折居あわせた村人の言葉を子供ごころにわたくし憶えております。  それによりますれば、弁之助さまはあれ以来、仲間の子供達に見られるのが恥ずかしかったのでもございましょう、毎朝起きぬけに、一人、庵へ参られて修練をなされたとか。そうして、遂には、その身構えを見ただけで、猿は小枝を捨て、一散に逃げ去ったというのでございます。──兵法のことはわたくしどもには分り兼ねます。何を手段にどの様な御修業を遊ばそうと、左程、関心もございませぬ。けれど、あの烈《はげ》しい、不逞《ふてい》なまでな青年期のたけぞう様の生き方を今、ふり返って、ああお猿の逃げたのはその為だったかと、何か、思い当るような気は致します。わたくしも一時、たしかに、そのような武蔵さまを避けたからでございます。それから、序《つい》でにこれも申しておきます。愚安さまは、又、わたくしどもに随分おかしいお伽咄《とぎばなし》を聞かせて下さいました。それはもう固唾《かたず》をのむ間も惜しい物語でございました。例えば、こんな風に愚安さまは話されるのでございました。 「この印南野のあたりには、昔、法道という|ど《ヽ》えらい仙人が棲んで居った。法道仙人は、供養《くよう》を受けるのに何日《いつ》も鉢を飛ばして用を足し、自分は居睡《いねむ》りして居ったそうな。それでも日々、鉢は供養のものを受けて飛び戻って来る。或る日のこと、お上にお取立の米を積んだ船が海を渡って居ったので、鉢を飛ばしてみたところ、船長《ふなおさ》は、これは私物ではないので、と断った。すると千石あった船の俵がひとりでに全部山へ飛んでしまった。驚いて、船長は庵へ行き、頼んでみると忽《たちま》ちに又、飛び戻ったが、途中で一俵だけ墜《お》ちたのが即ちこの米堕村じゃ。ところでな、不思議なことに、それ程|霊験《れいげん》のあった鉢が、急に、日々空鉢の儘で戻るようになった。あまり不思議じゃから仙人は居睡りせず、山に登って御覧になった。すると、自分の鉢が空から飛んで来るのを狙《ねら》って、今一つ、別の鉢が北の方からやって来て、空中で米を移し取っては悠々《ゆうゆう》と飛び去ってゆくのじゃ。吃驚《びつくり》なさったった法道仙人は、早速、自分で鉢を追うて飛んで行かれた。するとな、先の鉢は吉野の金峯山《きんぷせん》という処へ戻った。そこにも草庵《そうあん》がある、見ると一人の老人が経文を誦《とな》えて居られる、こりゃもう|わし《ヽヽ》より通力が上じゃ、と思うたから法道仙人は、庵へ入って、お弟子にしてくれと云うと、老人は、いや、私はそんなことは致さぬ、が、心当りがござる──そう申されて、裏庭を掃《は》いていた童子を呼ばれた。矢張り、その童子の悪戯《いたずら》だったというのじゃが。──本当かな。  このような愚安さまのお咄《はなし》から、わたくしどもは識《し》らず識らず夢幻《むげん》の世界を、己れの胸に持つことを覚えたのでございます。弁之助さまもそうだったと、わたくし断言はよう致しませぬ。ただわたくしは、そういう夢幻を追う性質のつよい女でございましたと、申上げているのでございます。  そのようなわたくしを、意外なくらい激越《げきえつ》な語調でお叱りになった一時期のあの方が、御自身もそうでなかったとは断言出来ないからでございます。若《も》しかすれば、わたくし以上に大きな夢を、むしろ痛ましいほど一途《いちず》に、持ちつづけていらしたのではございますまいか。  文禄元年秋、たけぞう様が新免家にお移りなされてから、十七歳で関ヶ原合戦に御出陣遊ばすまで、この八年余の期間のことは、わたくし、よく覚えてはおりません。新免家では、あまり居心地がようございませんようで、半年に一度、三月に一度と、折《おり》を捉えては抜け出すように作州から当地へ戻って来られました。御実父の岡本新左衛門さまはその頃もう御他界なされて居りましたゆえ、お母様の御様子が心にお掛りだったのでしょう。しかしそれも、確かあれはわたくしの十六歳の頃と覚えておりますが、そのお母様──ちち利兵衛の実妹でございます──もお亡くなり遊ばしてからは、謂《い》わば理由のない帰郷でございましたし、新免家の無二斎さまは無二斎さまで、夙《はや》く御他界と聞いた覚えがございます。  申してみれば孤児の境涯だったわけでございますし、当地へ参られる理由も別になかったわけでございます。当地へ来られております間は、わたくし宅へ足をお留めになることが多うございました。  わたくしが今少し、たけぞう様への関心をその頃持っておりましたら、或いは、御両親への墓参《ぼさん》にしても度の過ぎる御帰郷の真意、わたくしへの懐《おも》いが実は匿《かく》れていたのを見破ったでございましょう。でも当時、武蔵さまは成人なさるにつれて醜い風貌《ふうぼう》におなりでございました。わたくしは、美しいものだけが大切な年頃だったのでございます。無関心は仕方のないことでございました。と申しますより、むしろその頃、武蔵さまを嫌っておりました。  わたくしも武士の娘でございますゆえ、剣の道がどれ程大切かは存じて居ります。心得も一応|躾《しつ》けられております。たけぞう様が十三歳で新当流の有馬喜兵衛にお勝ちなされたことや、十七歳のおり、但馬《たじま》へ出向いて見事さる剣客をお打ちなされたときは、たしかに、およろこびは申上げました。でもそれがわたくし自身にどれ程関りあることでございましょう。お慕いするなら、兵法のお上手より、眉《まゆ》涼しいお方の方がどんなに嬉しゅうございましょう。  尚《なお》これは、もう後年《こうねん》になって、はじめて知ったことでございますが、そんなわたくしに引き代え、たけぞう様の方は、当時の、何気ないわたくしの所作《しよさ》や素振《そぶ》り、手折《たお》りました庭木の花の散り様《よう》迄、鮮かに憶《おぼ》えていらっしゃるのに驚いたことがございます。 「妙どのとは違う。わしは、一度こうと見たものは忘れはせぬ」  と、その時|仰有《おつしや》って、くるしそうに後は嗤《わら》いに紛《まぎ》らしておいででしたが、その、巨《おお》きな額に一すじ脈が浮き上り、歯を齧《か》み合していらっしゃるのか、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》にヒクヒク動きが見えたりしておりました。情の強《こわ》いお方……と、その時わたくしは思いました。それでこう申しました。 「私だって、心にとめているものはございます」 「どんなことじゃ」 「いろいろございます」  とわたくしは申しました。それから一つ一つ、訊かれて、数えあげました。ほんとうに、それは、数えねばならないほど、僅《わず》かな、何でもないことばかりでございました。それでも武蔵さまは私の顔も御覧になれないで(私どもはその時|縁側《えんがわ》に並んで坐っておりましたが)子供のように足をぶらんぶらんさせ、心もち猫背《ねこぜ》になって、凝乎《じつ》と土を御覧になって聞いていらっしゃいました。お嬉《うれ》しかったのでございましょうか。──分りませぬ。  ただ、今になって想いますと、ようやく生命《いのち》を賭《か》けた剣の闘争にお入りになる寸前の、それは何か一生のうちで、陽溜りのように長閑《のどか》なひと時ではなかったかと存じます。それ程、この頃から際立って、武蔵様は慷慨《こうがい》と流転《るてん》の人になってゆかれたからでございます。  剣の上で、どのような試合ぶりを遊ばしたのか、このことに就《つ》いてはわたくし、あまり存じません。二刀を使われるのは見た事ございません。それで、わたくしは見た儘《まま》、知っているだけを申上げます。  男色──なんしょく、とお読み下さいまし──とは如何なるものか、それこそ女の身で存じ上げるわけもございませんが、剣の道をお究めなされる旁《かたわ》ら、そういう気分の機会《おり》がございましたのでしょう。このことも、試合の場合と同様、むすこ伊織に聞いたことから想像致しますばかりでございます。  わたくしが初めて武蔵さまの太刀すじを心にとめて拝見致しましたのは、武者修業の竹内勝三郎|久克《ひさかつ》と申されるお方との試合の折でございました。場所は、あの愚安さまの草庵前でございました。そのような場面へ私が立会えましたのは、昔ながらに、お話などふと聞いてみたくて訪ねたからでございました。  と申しますのも、わたくしはこの比《ころ》もう、旦那様の許《もと》へ嫁《とつ》ぐ気になっていたのでございます。十九の時でございます。武蔵様も庵に来ていらっしゃろうとは、夢にも存じておりませんでした。  恰度《ちようど》お二人とも、木太刀を抜放たれたところへ私は参りました。愚安さまが少し離れて、もう曲りかけた腰に両手を廻し、眠そうな目で、それでも仕方なさそうに見ていらっしゃいました。後に知ったのでございますが、ご坊さまは、実は自源流とか申す流派の祖で、十九歳のおり人を害して陸奥国へお走りになり、其処で、曹洞《そうとう》宗に一時入門された方だそうでございます。  また竹内久克どのは直心影《じきしんかげ》流の使い手だそうでございます。武蔵様は、この時十八歳、関ヶ原の合戦から一年後でございました。試合は、一本勝負でございました。どちらも黙って睨《にら》み合っておいでになり、それはもう大へん長い間、そうして対合《むかいあ》っていらっしゃったように私どもには思えました。  そのうち、周りの樹が一斉にすうーと沈んだような気が致しました。殆《ほとん》どお二人同時に、地を蹴《け》って躍《おど》り上られたからでございました。どちらも相手へ仕掛けはなさらなかったのでございます。が、そう見えましたのはわたくしの未熟のゆえでございます。間合《まあい》は一間余も距《へだ》っておりましたのに、飛び降りなさった武蔵さまはその儘、竹内どのは、脾腹《ひばら》を地に叩《たた》きつける恰好《かつこう》でどうと、落ちられたのでございます。耳孔から血の糸が流れますのを、その直《す》ぐ後、わたくしは見ました。  次は、これは試合ではございません。何でも或る恥辱《ちじよく》を蒙《こうむ》られたお武家がございましたそうで、御年配の風采《ふうさい》も整った方だった由でございますが、その方の切腹の場に武蔵さまは行き会われたのでございます。介錯《かいしやく》でございます。早う、と短刀を突き立てて苦しげなそのお方に促され、一太刀に武蔵さまは刎《は》ねられました。併しあざやかな斬口でなかったそうでございました。首は、顋骨《あごほね》を削《けず》られていたからでございます。未熟の証拠でございましょう。誰も知らぬ、己れ一人だけが悟る「敗北」でございましょう。  次にこんなことがございました。武蔵様二十一歳の頃でございました。今核《いまざね》流とかを使われる、これは未だお若い方との真剣勝負の折でございます。岸川佐仲良直(何とお読み致すのでございましょう)と申されるその相手の方に、武蔵さまは先ず一太刀、左肩口へ斬りかけられたそうでございます。佐仲良直様は、思わず、太刀を左手上段に持ち構《かま》え、右手《めて》で肩の傷口を抑えられました。そう上段に致しませぬと血が伝って刀の柄《つか》が濡《ぬ》れるからでございます。  ところが、武蔵さまは、そんな相手に飛び込みざま、再び同じ左肩を斬ろうとなすったのでございます。むろん、左仲良直さまも真向《まつこう》から打下ろされました。併し、武蔵さまの太刀の方が捷《はや》かったのでございます。肩の傷口を抑えた左仲良直さまの右手は、その儘、パサリと斬落されてしまい、肩を掴《つか》んだ手首だけが残ったのでございます。血を噴く腕の方の傷口を慌《あわ》てて脾腹に当て、肩に残った手首から滴《したた》る血でみるみる左半身を真赤に染めた左仲良直さまが、それでも猶|左手《ゆんで》の太刀で斬り掛ろうとなさると、 「待て」  武蔵さまは跳《と》び退《の》いて叫ばれました。「勝敗は見えたぞ。早や、その傷の手当をなされい」 「ぬ」  はじめて、心底から奔《ふ》き上る憤怒《ふんぬ》に左仲良直さまの顔面は蒼白になったそうでございます。そうでございましょう。勝負あったと申される位なら、既に、あの肩の斬られた折、決って居た筈《はず》でございます。そこを、更に斬込んで、無慙《むざん》に手首を落してから、「待て」なのでございます。  わたくし、どういう経緯《けいい》でお二人が真剣試合を遊ばしたかは存じません。左仲良直様が何でも津山藩士とか申されたと、後でこれは伺いましたが、何にもせよ、武士が右手を斬落されては廃人《はいじん》も同然でございましょう。  左仲良直様は併し直ぐ傷のお手当をなすったそうでございます。さぞかし御無念だったと存じます。と申しますのもそうして肩の着物を掴んだ手首は、とうとう腐《くさ》りきる迄その儘打ちすてておかれたからでございます。当然着物も何カ月か脱がれなかったのでございます。そうして、日中、町をお歩きなさる折も肩に、干乾《ひから》びた御自分の手首をぶらさげて居られたと申すことでございます。  ところで、こういう残忍な性質を、武蔵さまは先天的に持っていらしたようでございました。その端的なあらわれが、吉岡一門との果し合いであり、佐々木小次郎との舟島の決闘であり、若しかすれば、男色などいう倒錯《とうさく》した快楽《けらく》のかたちであらわれたのではなかろうかと、わたくしには思われるのでございます。わけて、舟島での小次郎さまとの一戦は、左仲良直様の場合以上に、その残忍さをお見せになった一場ではございますまいか。  舟島での試合は、世に有名でございますゆえ詳しい説明は致しません。ただ、わたくしに怖しくて我慢のならない点がございますのでそれを申上げます。  武蔵さまが、決戦の場へ二刻半《ふたときはん》も遅れてお行きになれたというそのことでございます。昵懇《じつこん》な検使の長岡佐渡さまを不安がらせても、行方を晦《くら》ますことの出来た方だということでございます。また試合の当日、日が高くなる迄寝床に入っていることの出来た方でございました。「小次郎は渡船した」と報じられても、それから洗面し、食事し、櫂《かい》を以て、木太刀を削《けず》ってみることの出来た方でございます。飛脚が来て早く来いと催促され、尚櫂を削りつづける事の出来たお人でございます。お分りになりましょうか、私どもなら、何気ない用で人を待たせてさえ、相手が待っている──そう思ってもう凝乎《じつ》としてはいられぬものでございます。「待たせる身のつらさ」に焦《じ》れ、くるしむ筈でございます。それが人情のなりゆきでございましょう。武蔵さまとて同様でございます。ただあの方は「待たせるつらさ」に打ち克つことが出来たのでございます。戦いの勝敗はですから、凡《すべ》て最早その時に決しております。つらさに耐えぬくことが出来たというその時に。即ち試合は、櫂を削っている間にすんでいたのでございます。小次郎さまとて同様でございましょう。焦らせるのが相手の策略とは分りすぎておりましょう。そんな相手の魂胆《こんたん》とのたたかいを、二刻半《ふたときはん》もつづけたわけでございます。「武蔵何故遅れしか」と怒っては既に負けでございます。それが、小次郎さまにも分りすぎるほど分っていての、「待つ」自身とのたたかいだったのでございます。──それにくらべれば、あの、鞘《さや》を投げて「小次郎早や敗れたり」など、笑止の沙汰《さた》でございました。又、二の太刀を打ち、口鼻から血を流す小次郎さまの傍らへ跼《かがま》って、相手の口に手をあて、死活を窺《うかが》う武蔵さまの容子などは、いっそ、大見得を切っている図ではございますまいか。勝ったそのよろこびがかくしきれず、つい、あのような見えすいた「思い入れ」をしてみたかったに違いございませぬ。  わたくしは、それが怖しいのでございます。佐々木小次郎を打負かす程の技にそぐわぬあの方のそんな人柄が怖しいのでございます。何故と申せ、剣心|一如《いちによ》など申される痴言《たわごと》が真実《まこと》なら、「強い武蔵」は、同時に立派なお人柄の筈でございます。あんな子供だましの見得などきられるわけがございません。櫂を削って一度勝ち、「むさし何故遅れしか」と小次郎さまが怒った折二度勝ち、太刀の上で三度迄勝ち乍《なが》ら、何のための「死活の検《しら》べ」でございましょう。──さり気なく立去ってお行きになるべきでございます。「慎重」などと申すこととは、あれは別の性質の行いでございます。  あの折の櫂は水を含んだ大そうな重さだったと申すそうでございます。その重い太刀で一撃した相手の生死が、分らぬ筈がございましょうか。わたくしは、くどいあの勝ちざまに、武蔵さまの、趣虐《しゆぎやく》を見るような気が致すのでございます。それに、あのように迄兵法の上手におなり遊ばして、尚、残忍のお人柄が矯《た》められておりませんなら、 「剣のために」──  そう聞かされて一切を諦《あきら》めたわたくしはどうすればよろしいのでございましょう。はじめは憎み、人妻となってから、ようよう愛慕を覚えはじめたこのわたくしは。──而《しか》も、舟島でそんな勝ちざまをなさっている恰度《ちようど》その頃、わたくしは伊織を分娩《ぶんべん》していたのでございます。  ここで、伊織のことに触れます前に一寸《ちよつと》、申しておきたいことがございます。  舟島決戦の恰度一年前でございました。四月の或る日、二年ぶりかにひょいとわたくし宅へ武蔵さまが訪ねていらしたことがございました。当時の武蔵さまは近頃とは反対に、大そう派手な衣装などお召しになって、兵法者としてもそろそろ名をお挙げの頃でもございましたから、眉宇《びう》など何か颯爽《さつそう》としていたと云えば申せる御容姿でございました。琥珀《こはく》色に耀《かがや》く眼に強く瞶《みつ》められたり致しますと、ふと眩《まぶ》しい程の精気が、こちらに迄移ってくると思えるようでございました。  わたくしの主人利兵衛は武蔵さまとは違い何事にも和を好む穏かな気質《きしつ》のお人でございました故|却《かえ》ってウマがあうと申すのでございましょう、いつも、武蔵さまが御越しの間は武芸や諸国の噂ばなしなどに打興じ、手をとらんばかりに歓待しておりました。が、この時は、病臥しておりました為に、武蔵さまの御相手はついわたくしが致すような折が多うございました。とは申しましても幼な馴染の事でございますから別に、固苦しい応対だったわけではございません。  或る日九つ半頃でございましたでしょう、武蔵さまが椽《えん》で、 「妙どの。明日、愚安さまを一緒に訪ねてみよう」  と申されました。愚安さまはこの頃昔の草庵を払って、上荘《うえのしよう》と申す一里あまり奥まった所の小さな寺に住んでいらしたのでございます。  わたくしは、何と云うこともなく、 「お訪ねするなら、今日、これから参りましょう」と申しました。 「利兵衛殿の薬餌《やくじ》は?」 「夕刻には戻れるでございましょう。一度、はれやかな気分で野道を歩いてみとうございます」わたくしは微笑して申しました。  事実、そんな気持にふとなっていたのでございます。それで、旦那様の枕許《まくらもと》へ参り、おゆるし頂いてから、武蔵様と御一緒に上荘へ参りました。  愚安さまは大そう武蔵さまの訪問をおよろこびなさいました。わたくしにも清一郎(伊織の兄でございます──まだ伊織は産れてはおりませなんだけれども)や旦那様の病いのことを尋ねて下さいましたが、もう真っ白のお髯《ひげ》で、目もかなり御不自由のようでございましたのに、あの、物語めく仙人のことどもを昔かわらず巧者になさいました時には、わたくしも年を忘れて聴き惚《ほ》れたことでございます。そうして、一刻あまりもお邪魔しておりましたでしょうか。辞去しますとき、愚安さまは、ふと思いつかれた御様子で、武蔵さまへ、短冊《たんざく》をお書きになったのでございます。  どのようなそれが意味のお歌でしたか、わたくし覚えておりませんが、それを、武蔵さまにお上げなされるとき、こう申されました。──たけぞう、お前はまだ腑を抜く修業をせねばならんぞな。柳生流は、ありゃ、あばら三寸が極意じゃ。お前の方が碁《ご》で申せば、柳生但馬より井目《せいもく》は強いな。それが困る──。  武蔵さまがこれを聞いてどうお答えなされたかも憶えておりません。今、あの時を偲《しの》んで眼裏《めのうち》に鮮かなのは、武蔵さまが、その短冊を襟《えり》から背へ挿《さ》されたことでございます。袴《はかま》姿で短冊を背に差すのは何でもない、当り前の所作《しよさ》なのでございますのに、武蔵さまがそうなさると、妙に都めいて、お洒落《しやれ》な仕ぐさに見えたのでございます。  二人して、それから野道を帰るころ黄昏《たそがれ》ておりました。わたくしは常に一歩ほど後を歩いておりました。わたくしはこの時二十九、武蔵さまは二十八歳でございました。五尺八寸はある偉丈夫の、巌《いわお》のようなその肩には旦那様に覚えたことのない、精気が感じられました。うしろ姿は容貌が見えませぬゆえ便利なのでございましょう。わたくしには淫婦の血が多うございますのでしょうか。それとも、そういう生理に偶然なっていたのでございましょうか。わたくしは、歩き難くなりました。何も用意して出て来てはおりません。其処が道であることに後悔しました。  すると、ああ武芸者は怖しゅうございます。サッと、武蔵さまは振返られたのでございます。 「…………」  あたりは薄闇《うすやみ》でございました。そうでなくとも、わたくし、お顔を見る勇気はございません。本当の衝撃《しようげき》が体内に襲ったのは寧《むし》ろこの時からでございます。その場に蹲《うずくま》りとうございました。そのように自分の赧《あか》くなっていますのが分りました。──とその時、 「どうなされた、妙どの」  しずかに武蔵さまは訊《き》かれました。いつもこの人はこうなのです……そう思うと、わたくし、どうしてあのような狂暴な勇気が湧いたか分りません。棒を嚥《の》んだように立って、顔を真直ぐあげ目を瞑《つむ》って、 「……抱き上げて下さい……」  と、申したのでございました。  武蔵様が若し、本当にわたくしを愛して下すっていたのでしたら、これは残酷な言葉でございました。愛して下すってはいらっしゃらないなら、あの薄闇の野道で武蔵さまの申されたこと、なされたのは悪魔の所業《しよぎよう》でございましょう。  武蔵さまは、わたくしを、お抱きになったのでございます。ふるえていらっしたようにも思います。がこれは、わたくしがそうでしたし、気も転倒《てんとう》致しておりましたから、判然《はつきり》とは申せません。 「……こうか? 妙どの」  そう申されて、はじめは緩《ゆる》く、次第に力を籠《こ》め、お抱きになったのでございました。むんと噎《む》せるような体臭がもうそれだけで、不貞の匂いのように思われました。全身のしびれるような感じが致しました。旦那様には遂ぞ覚えたこともございません。その裡《うち》、武蔵さまは、 「妙どの。……お身もわしを、抱かねば可笑《おか》しい」  と申されたのです。  不気味なほど、低い、乾いたお声でございました。もしわたくしがそれで目を開いておりましたら、武蔵さまの異様な形相《ぎようそう》を目の前に見て、ものの化《け》とでも思いましたでしょうか。それとも醜さの底から神々しいほどの純潔を見ておりましたか。わたくしは、ただ、催眠《さいみん》に懸ったように武蔵様の背へ手を廻していたのでございました。  けれど、抱けは致しませんでした。  指に、挿された背の短冊が触ったからでございます。力を籠めれば短冊は損われます。武芸は憎うございましても、贈られた愚安さまは大切のお方だと思われます。  ところが武蔵さまは、急に、 「妙どの。……わしを抱け。力一杯、抱け。抱け」  烈しい語気で申されました。 「御無理でございます」  わたくしは、そう、辛《かろ》うじて意味の通じる言葉が吐けるだけでございました。 「抱かぬ? 何故じゃ、うまれて、……わしはうまれて」  はじめて女を抱いたのだと、申されるおつもりだったのでございましょうか。それを、併し充分|仰有《おつしや》れないもどかしさが、一そう武蔵さまを昂《こう》じさせていた為かとも存じられますが、今度は、 「行こう、妙どの」  と、わたくしの手を取って傍《かたわ》らの松林へ引張ろうとなさるのでございました。  わたくしにどうしてそれが出来ましたでしょう。夢中で拒みました。とうとう、たけぞう様はわたくしを其の場に突き倒して、駈け出されました。倒されたときお羞《は》ずかしゅうございます、わたくしの足袋は血に染っておりました。  ──翌日、武蔵さまは、佐々木小次郎との果し合いに九州へ走られたのでございます。  伊織は、母のわたくしにこの様な羞《は》ずかしい一日があったとは知る由もございません。前に申上げましたように、翌年、無事にうまれまして、至極|健《すこや》かに育ってくれました。ふっくら、女のように色の白い子でございました。常々《つねづね》旦那様は、次に生むなら女がよい、と申されておりましたので、はじめは、落胆《らくたん》なすっていたようでございますが、歯が出揃《でそろ》いますころには、「よい子じゃ」母のわたくしに顔立までそのままだと、却《かえ》って大へんなお悦びでございました。  顔立の似ていることは、これは、わたくしも思いました。  ところで、たまゆらにせよ、不貞な気持を持ちましたあのたそがれを、爾来《じらい》、大へんわたくしは恥ずかしく思っていたのでございますが、伊織がこうして生れましたので、旦那様に対しても言い訳の立ったような、胸の安堵《あんど》を覚えたのでございます。その安堵が今度は逆に、身のしびれるようだったあの抱擁《ほうよう》を想い出すことにも安心感を与えてくれたと、こう申しますのは、わたくし、大そういやらしい女と思われそうで嫌《いや》なのでございますが、事実、この通りで、致し方ございませんでしょう。  よくよく、女とは、罪深いものなのでございましょう。あの抱擁の思い出を繰返しております裡《うち》に、その|繰返し《ヽヽヽ》が、愛慕を育ててしまったのでございますから。  武蔵さまがそのようなわたくしの前に再び現われなさった時、──たしか大坂の陣が了《おわ》った年のように憶えておりますが、──わたくしは、矢張り憤《いきどお》りを覚えました。わたくしの愛慕は、二度とこの地へいらっしゃることはないだろう、という安心に支えられていたからでございます。いくら武蔵さまでも、そこ迄|破廉恥《はれんち》なことはなさらないだろうと。  ──今考えますと、でも、この時二重にわたくしは裏切られていたようでございます。  武蔵さまは、まるで何事もなかったように、旦那様の前でも、真直ぐ私を御覧になったのでございます。久闊《きゆうかつ》の御挨拶《ごあいさつ》を述べます間、むしろ常よりつよく、あの琥珀《こはく》の瞳が光っておりました(後日、これは易者に聞いて知ったのでございますが、瞳孔《どうこう》が琥珀の燐光を放つ方は、人相学の上では山師の相なのだそうでございますね)。旦那様は、持ち前の|人のいい《ヽヽヽヽ》のを丸出しになさって、挨拶が済むと早速、大坂陣のいくさの模様などをお尋《たず》ね遊ばし、武蔵さまがそれにこたえて、自分の出陣は、大和口の東軍先陣、水野|勝茂《かつしげ》さまの麾下《きか》に属してだった、等と申されている間に、匆々《そうそう》にわたくし座敷を抜け出して参りましたが、まさか、この日から半歳ちかくも逗留《とうりゆう》なさろうとは思いもよらぬことでございました。  尤《もつと》も、これは武蔵さまの図々しさとばかりは申し兼ねますことで、この頃は、わたくし方に武蔵さまがいらっしゃると聞き、一手御教授ねがいたいとか、入門したいとか申されるお方が頻々《ひんぴん》とお越しになり、そうでなくとも武芸には目のない旦那様に、一層、武蔵さまを引き留める気を起させたからでもございましょう。──が、わたくしの困るのに、渝《かわ》りございません。次第に、わたくしは家におりますのが苦痛でございました。  武蔵さまの方は、でも、二度とあの日のような取乱したところをお見せになったわけではございません。頭から、わたくしなど無視して掛っていらっしゃる御様子でした。むしろ、狼狽《うろた》えた様な紊《みだ》れ方をなすったのは、一度きりでございますが、はじめて伊織を御覧になった時でございます。  当時、伊織は四歳でございます。まだ八五郎と申しておりました。可愛い盛りでございますし、人見知りも致しませぬ子で、直ぐ武蔵さまにも馴《な》れ、手真似《てまね》に太刀の構えようなどして見せる如才《じよさい》ない子でございますから、最初のあの狼狽のあとでは、もともと子供好きらしい武蔵さまがそんな八五郎を可愛がって下さいますのも、あながち、わたくしども夫婦への世辞ばかりとも見えませんでした。けれども、暇があれば直ぐ八五郎を膝《ひざ》にお載《の》せになったり、|威かつい《ヽヽヽヽ》あの肩で肩ぐるまなどしてあやして下さる御様子を次第に見ておりますから、わたくしは、いやな感じがして参ったのでございます。尋常でない可愛がりようと見えたからでございます。それに今一つ、伊織がわたくしに瓜《うり》二つ、と誰かが申しますと、武蔵さまはその時に限って、抱いていた伊織を急に手放したりなさるのが、気にかかることでございました。  ──でも、霜が降るのと一緒にやっていらしたこの時期の武蔵さまの逗留は、年明けて梅に青い実のつきます頃、一旦、うち切られたと覚えております。そしてそれは恰度《ちようど》、次の女《むすめ》の|うめ《ヽヽ》が、わたくしのお腹《なか》でもう人目につく頃でございました。  つぎにいらっしゃいました時は、門弟を二人ばかり供に従え、御自分は駕《かご》で、わたくし宅の門の内へ乗入れられたのを憶えております。さては御仕官なされたのかと私どもは存じました。しかし、姫路藩主の厚遇《こうぐう》を得ているだけと、これは後で武蔵さま御自身から伺いました。  二度目の、この御来訪の折のことでは、目敏《めざと》く駕を見つけた八五郎が珍しさに庭からとんで行きますと、晴ればれしたお顔で駕をお出になり、ほんとうに莞爾《かんじ》と、八五郎に笑いかけられたのが、一番印象に残っております。八五郎の歓心をかうための駕ではなかったかしら、と思われる程、そのお顔には、「小さな成功」の感じがあったからでございます。旦那さまのお亡くなりなさる前年ぐらいでございました。元和四年かとも思いますが、よく覚えてはおりません。  その次は、元和八年でございました。多分、泥鰌伊織と間違えられておりますのは、この折のことでございましょう。何でも、この頃の武蔵さまは、尼ヶ崎で、馬子の少年を養子になされたと聞きましたから。──後年、播州姫路の城主、本多|中務大輔《なかつかさたいふ》様の御家隷《ごかれい》になられた宮本|造酒之助《みきのすけ》さまが、それでございます。──これは大切のことなので申上げるのでございますが、この造酒之助さまも、凛々《りり》しい、それでいて女性《によしよう》のような紅顔の美青年だったそうでございます。伊織と同じでございます。男色漢なぞと、女の身で存じ上げも致しませぬことを申上げますのも、造酒之助さまに就いて、こんな事を知っているからでございます。  ──造酒之助様は、遉《さすが》に武蔵殿の見込まれたお方だと、御家中の賞讃をお享《う》けなされたほど、腕もお出来になり、御立派なお勤めぶりだった由でございました。そのため、御主君の御覚えも芽出度く、殿様自らのお声がかりで、妻をお迎え遊ばしたそうでございます。  ところが、御二人の仲は円満ではございませんでした。そのわけが、何《ど》うしても御家中の皆さまにはお分りにならなかったと申します。造酒之助さまは新妻との同衾《どうきん》をお避けになったのです。それも、色を慎むとか、潔癖とか、さような意味でなく……。到頭、我慢ならなくなった花嫁さまは、嫁《とつ》がれますとき、供に連れてゆかれた乳母だけを里へお帰しになって、一夜、御自害なされたのでございました。御主君がそれを聞かれて不快に思召《おぼしめ》したのは当然でございましょう。造酒之助さまは、これがためにお暇《ひま》を賜《たまわ》っております。  ところで武蔵さまはこのことを知って何うお考えになったのか。──日頃「身はすてても節義はすてず」等と独吟《どくぎん》なされていたお方に似ず、別に、そんな造酒之助さまをお責めになってもいらっしゃらないのです。それどころか、暇を賜った直後、造酒之助さまは、恰度わたくし宅で武蔵さまにお会いになったのでございますが、お二人とも、むしろ楽しそうに、枕を並べてお寝《やす》みでございました。夜分おそくまで、久々の語らいでもなすっているようなお声が、客間から洩《も》れておりました。  ──後年この造酒之助様に纏《まつ》わる次のような挿話が「美談」という形で伝わっております。果して、単純な美談なのでございましょうか。わたくしにはまだ、納得が参りません。  挿話は、こんな風なものでございます。──後年造酒之助さまが江戸表へ出ておられます間に、本多中務大輔様は急逝《きゆうせい》遊ばしたのでございますが、大坂にいて、この訃《ふ》をきかれた武蔵さまは、即座に、 「近々、造酒之助が来るであろう。来れば馳走《ちそう》してやらねば」  とお弟子に申されたそうでございます。  果して、間もなく造酒之助様が訪ねていらっしゃいますと、盃を交して、 「よく参った。必ずくると、わしは信じていた」  と、武蔵さまが申されますのへ、 「これが、お訣《わか》れでございます」  造酒之助さまは笑って返盃なさったとか。──間もなく、姫路へ発たれた造酒之助さまの、追い腹切って殉死《じゆんし》なさった報《しら》せが大坂へ届いたというのでございます。──  ──話が前後致しました。もう、でもわたくしの申上げたいことは、お分りでございましょう。  武蔵さまは、その後も、旦那様が亡くなられましてから、二度あまり、武者修業の途次と申され、この米堕村へ立寄っておられます。その頃には、ようやく、お若い時代のあの客気や剽悍《ひようかん》さに代って、求道者の霊気のようなものが、時には、わたくしにさえ感じられるようなこともございました。  伊織は、武蔵さまが、実の子にめぐりあうように都の土産物など携《たずさ》えていらっしゃいますので、 「こんどは、いつ、来て下さるじゃろ」  と、心まちする様子を見せるようになっておりました。わたくしは女ひとり、三人の子を抱えて、ともすれば心細い気分に沈みがちの頃でございました。そんな伊織を眺めますと、それゆえ、つい|ほだされ《ヽヽヽヽ》てしまい到頭武蔵様の仰有るとおりに致してしまったのでございます。  武蔵さまが常々おっしゃった言葉とは、こんな意味でございました。──「伊織を自分の養子にして、立派な武芸者に育て上げ、将来、何処かの藩に推挙《すいきよ》しよう、伊織にはその見込がある、何なら、その上で再びお手許に返してもよいのじゃ」  伊織はこの時十四歳でございました。  わたくし、このあとを詳しく申上げる勇気はございません。  伊織は、こうして武蔵さまの養子《ヽヽ》となり、たしかに、腕の立つ兵法者《へいほうしや》に今はなってくれました。小倉の小笠原藩に新知三百石で召抱えられました。昨年五月、吹山御殿での荒木又右衛門様との試合には、一本一本の合打ちだそうでございました。又、小笠原家中で伊織と立合える程のお方は、ただ一人|拇指《おやゆび》斬りの名手、──太刀を握っている相手の右手《めて》拇指を必ず狙い斬る、とか申される程の早川典膳さまだけとも、聞きました。──武蔵さまは、お約束なさった通りを、果されたわけでございましょう。  けれど、わたくし、少しも嬉しい気持は起らないのでございます。伊織のためにも、そうでございます。  露骨《あらわ》には申上げられることではございませんし、もともと女の身で、想像の叶《かな》うことでないと申されればそれ迄でございますが、──又ひとかどの武将のうちにも、間々、お小姓衆にそういう淫らな愛撫《あいぶ》をなさる方がおありの由伺ってはおりましたが、かりそめにも養子に迎えた子を、そんな行為の対象になさる──天下の宮本武蔵とも申されるお方が、それをなさった、ということに、わたくし我慢がならないのでございます。十四年間も伊織を狙いつづけた、とそう人さまにとがめられても仕方のないような、あの方のなされようが我慢ならないのでございます。櫂《かい》を削《けず》られて勝たれたのと似ておりましょう。  伊織が、そんな方の剣を修めているのかと思いますと、堪えがたい気が致します。  ──ただ、どこまで、わたくしとは情ない女でございますことか。この今になりましても未だ、一縷《いちる》ののぞみをつないでおきたい気が、心のどこかに残っているのを匿《かく》せないのでございます。  それは、伊織を養子にと申されます時、こう仰有ったからでございます。 「……妙殿、わしを、伊織の父と呼ばせて下さらぬか」  あの琥珀《こはく》の眼でなく、この時は伏眼がちに、むしろ潤《うる》みさえ湛えて精一杯の語調だったのでございます。  わたくしは、それを養子の意味とばかり思っておりました。でも殿方が、未亡人の子の父となる関係は、別にもあったわけでございましょう。もし、そういう意味で申されたのなら。亦《また》、わたくしに似ているので伊織を鍾愛《しようあい》なさるのなら。  ──むろん、そうだったとしても、おそろしゅうはございます。 [#改ページ]  験術《げんじゆつ》チャット始末《しまつ》     一  宗茂《むねしげ》が入国の暇《いとま》をたまわり、佐賀の城に帰ったのは享保十六年春である。十六年ぶりに踏む旧里《ふるさと》の土で、兼ねてこの日を待ちわびた家来らは境野あたりまで街道に出迎え、乗物を待ちもうけた。身分に差別のある時代ながら、家老|鍋嶋因幡《なべしまいなば》も見て見ぬふりでいた。やがて白総《しろふさ》の槍《やり》を先頭に行装が近づいた。因幡は路傍《ろぼう》の牀几《しようぎ》に居た。その前を二、三の家士は走り抜け、居堪《いたたま》れず他の家士も乗物のお側へ走った。通常の大名の帰国では例のないことである。  参覲《さんきん》交替の行列には、先ず道具(槍)が往き、次に打物(長刀《なぎなた》)が往き、後に挟箱《はさみばこ》、長柄|傘《がさ》、牽《ひき》馬がつづき、それから先供の家士の列のあとに、乗物が来る。その後《うしろ》に供侍、騎馬供、徒《かち》、押えの足軽、茶弁当、供槍(供侍の槍)と続く。信濃守《しなののかみ》宗茂は鍋嶋三十五万七千石の当主なので、武家|法度《はつと》の定めによってこれら行列の総数は馬上十五騎、足軽百二十人、中間《ちゆうげん》人足二百五十人、合せて四百人ちかい行列である。でもそんなのに目もくれず家士らは列の左右を駆《か》けって乗物に近寄った。駕籠《かご》脇を陣笠姿の林治左衛門が固めていて、つと身を屈《かが》め、乗物内の宗茂に何事かを告げた。中《うち》から抽戸《ひきど》が開き宗茂が顔を出した。時に宗茂四十六である。  宗茂は目でわらいながら「駕籠を停めよ」と言った。行列がとまった。駆け寄ったのは都合七名である。いずれも中年を過ぎ、なかには既に隠居して家督を忰《せがれ》に譲った老体もいる。  武士は、ふつう、行列に土下座する要はない。因幡のように牀几に腰を据《す》えていて構わない。しかし七名は駕籠わきに居並ぶや斉《ひと》しく、袴《はかま》の膝《ひざ》を屈して跪坐《きざ》し、感無量の面持《おももち》で宗茂を仰ぎ見た。それから、宗茂が白い歯を見せると皆も滾《こぼ》れるような喜色を満面に溢《あふ》らせ、 「お久しゅうござりまする、殿」  皆を代表して森利兵衛が言上《ごんじよう》した。利兵衛は後《うしろ》に一子弁之助を随《つ》れていた。まだ致仕《ちし》はしていない。すでに隠居の坂井弥兵衛とはちがって、頭髪もまだ黒く月代《さかやき》の剃《そ》り跡は青々としている。 「そちの忰か」  宗茂が詞《ことば》をかけると、 「季《すえ》の忰にござりまする」 「幾つじゃ」 「七歳に相成りまする」  前髪も道理である。 「いつに変らず旺《さか》んじゃの」  宗茂は嗤《わら》って、隣りに跪坐する坂井弥兵衛へ、「そちは連れて参らんのか?」 「新左衛門|奴《め》なれば殿、お供に加わっておりまするぞ」  江戸からの伴《とも》連れの人数にいると言ったのである。 「存じておる。|※[#「((屮/師のへん)+辛)/子」、unicode5b7c]子《げつし》じゃ」 「?……」 「わからぬか。まァよい」  わらってフト、「蔵人はいかが致した」 「これに控えておりまする」  駕籠の反対側で北村蔵人は応《いら》えた。彼はちょうど宗茂の背《うしろ》にいた。宗茂は頭をめぐらし、ふり返って昔のままに頑健そうで、ちっとも老いていない家来の赤痣《あかあざ》に目をとめ、 「息災《そくさい》じゃナ蔵人」  抽戸は開けずに言った。 「はっ」  感激家の蔵人はお詞《ことば》を賜って早《は》や目をうるませている。「ようこそ、との、御帰国を……」  こうして七名の一人一人に、その名をおぼえていて宗茂は声をかけた。城内でなら、お直《じき》に目通りの機会も少ない皆は軽輩である。それでご帰国の道中を扼《やく》して対面した。陣笠の林治左衛門はこの間、わざと駕籠脇をさがって他処見《よそみ》をしていた。  信濃守宗茂は、従《じゆ》四位下侍従丹後守吉茂の嗣として、一年前の享保十五年五月に封を継いだ。丹後守が歳六十五で卒《しゆつ》したからだが、実は宗茂は先代の弟で、三十一で兄の嗣子《しし》となるまでは部屋住みでいた。それも父光茂の十五男であったから寔《まこと》に暢気《のんき》な明け暮れで、家士と釣り竿を肩に付近の川へ魚釣りに出向くような、気儘《きまま》な、言い代えれば居ても居なくても良い如き存在であった。なにさま、十五男なのである。それのみではない、父鍋嶋光茂には実に四十五人の子がいた。徳川二百数十年に就封《しゆうほう》した諸大名の全《すべ》てを含めても、かかる子沢山な藩主は他に例を見ない。因《ちなみ》に鍋嶋光茂は享年六十九である。宗茂の生母執行氏は、宗茂の他に男女十九人もの子を次々と孕《はら》み、そして産んだのである。これ亦《また》異数の出産であるが、それでもまだ二十余人の異母兄妹が宗茂にはいたのである。 『寛政重修諸家譜』よりその概要を写せば左の如くである──  光茂──女子 母は某氏。     ─女子 母は上杉弾正|少弼《しようひつ》定勝の女《むすめ》(つまり正夫人)、土井|大炊頭《おおいのかみ》利重が室となる。     ─綱茂 信濃守 母は上におなじ。     ─女子 母は上におなじ。小野|隼人正《はやとのしよう》忠直が室。     ─女子 母は上におなじ。伊東大和守祐実が室。     ─女子 母は某氏。家臣鍋島|主水《もんど》武興が養女。     ─女子 母は某氏。家臣鍋島主水直朗が妻。     ─吉茂 丹後守 母は中院家の女。     ─某  母は上におなじ。    ○─女子 母は執行氏、家臣鍋島弥平右衛門が養女。     ─茂文 母は某氏。家臣多久長門が養子となる。    ○─女子 母は七女におなじ。     ─女子 母は某氏。家臣|諌早豊前《いさはやぶぜん》が妻となる。     ─某  彦法師 母は某氏。     ─政盛 母は真木氏。家臣村田宮内が養子となる。    ○─女子 母は七女におなじ。兄綱茂が養女。     ─女子 母は村山氏。家臣鍋島十左衛門が妻。    ○─某  三平 母は七女におなじ。    ○─某  左内 母は上におなじ。     ─長行 弾右衛門 母は政盛におなじ。鍋島|帯刀《たてわき》が養子。     ─某  母は斎藤氏。    ○─女子 母は七女におなじ。     ─某  百助 母は某氏。    ○─某  亀千代 母は七女におなじ。     ─女子 母は岡本氏。兄吉茂が養女。    ○─某  伊平太 母は七女におなじ。    ○─時茂 伊予 母は上におなじ。    ○─女子 母は上におなじ。家臣鍋島山城守が妻となる。    ○─女子 母は上におなじ。     ─女子 母は鳥巣氏。    ○─女子 母は七女におなじ。    ○─宗茂      ─女子 母は戸田氏。     ─女子 母は須古氏。    ○─女子 母は七女におなじ。    ○─茂之 母は上におなじ。家臣鍋島縫殿が養子。    ○─徳寛 城之助 母は上におなじ。    ○─直方 母は上におなじ。家臣神代左京が家を相続す。     ─某  松太郎 母は某氏。    ○─女子 母は七女におなじ。兄吉茂が養女となる。    ○─女子 母は上におなじ。    ○─女子 母は上におなじ。  右の○印を付したのが執行氏の腹で、単に「某」とあるもの、名はあっても歴《りやく》の記されてないのはすべて早世で、これは女子もかわらない。  宗茂には、これで見ると異母兄をふくめて綱茂、吉茂、茂文、政盛、長行、時茂、と六人の兄がいた。うち綱茂だけが正嫡《せいちやく》で、執行氏の腹は時茂が早世だから、宗茂は長兄になる。それで、二十人もの子を産んだのをねぎらって、その息宗茂を三十五万石の当主にしたと浮説をなす者があるが、これは理に合わない。何故なら十五男宗茂が兄の嗣となった享保元年には、既に父光茂は世にないからである。生母執行氏また然《しか》りである。  他の兄弟から抜きん出て宗茂が宗家《そうけ》の封を襲《つ》いだのは器量人なるを家中で嘱望《しよくぼう》されたからに他ならない。  光茂は、妻妾に四十五人もの子を孕ませるほどゆえ絶倫の士であったには相違ないが、気性また激越で、曾《かつ》て大村領内|耶蘇《ヤソ》の徒八十人を召し預けられた時、これを禁獄し、自ら就封の暇を賜って領内に入るや、これら公儀より預けられし邪宗の徒を悉《ことごと》く城下において断罪し、梟首《さらしくび》に処した。まだ宗茂の生れる以前である。  いかに邪宗門の徒とて、余りに残虐な致されようゆえ、今に祟《たた》りに遇《あ》いなされようと、却《かえ》って大村領の人士は恐怖し私語したが、何の、それから光茂は三十六人の子女を儲《もう》けた。光茂には修験道への帰依《きえ》があった。 「天主教は異教であるにとどまらぬ、あれは神州の敵じゃ」  と言っていた。天主の字は、「一大主」の教えの意味を有《も》つ、しかも主の字は彼等邪宗門の標《しるし》たる十字架を秘匿《ひとく》した文字である。邦国の主は、京におわします御一人のみであり、天主教はその神州を滅ぼすものであるというのが、光茂の耶蘇の徒を悪《にく》んだ理由だったという。どこかに修験《しゆげん》教義の臭《にお》いがする。  光茂の嫡男綱茂は、五十五で佐賀に卒するまで九人の子をつくった。うち男子は一人で、他はことごとく女子だったので弟吉茂を嗣とした(綱茂の男子は庶腹で、家臣の養子になった)。吉茂も亦、年六十五で佐賀に卒するまでに儲けた子は全て女子だったので、宗茂を嗣としたわけである。  ついでながら、宗茂の生母執行氏の姓は、元来、寺社の職名より起ったという。寺社の上首《じようしゆ》が諸務を執行し、大いに権勢を得てこの姓を有《も》った。金剛峯寺《こんごうぶじ》の出身者に多いが、金剛峯寺といえば、密教(真言宗)の総本山である。且《か》つは修験道の総山・熊野の大台ヶ原とも不即不離の間柄にある。徳川中期には、この執行姓を名乗るものは大隅、土佐、肥前の三地方に限られたというが、宗茂の生母は、その肥前藤津庄の長《おさ》の女《むすめ》で、光茂が帰国のおりその容色を愛《め》でて侍妾とした。かねがね光茂は、 「おれは母者《ははじや》の腹の中でチャッとうまれた」  と口癖にうそぶいたそうである。 「チョン、チョンではござりませぬか」  と家臣がからかうと、 「たわけ。チャッとよ」  チョンチョンとは肥前地方で女陰を意味する。しかし光茂は、女陰から生れたとは言わない、チャッと出来たという。今様に解釈すれば射精《ヽヽ》をチャッ、チャッと表現したので、これは但馬守《たじまのかみ》の嫡子柳生十兵衛も「われはチャッと生れしぞ」と『月之抄』に記しているが、他の武士が当時から雅致《がち》ある表現をしたのを知らない。ちなみに光茂は寛永九年の生れである。父鍋嶋勝茂は柳生|宗矩《むねのり》の剣術の門下となった。してみれば光茂も年少のころ十兵衛には昵近《じつきん》したであろうし、「チャッと出来た」は十兵衛の口癖を摸したとも考えられる。  宗茂は、貞享三年、佐賀に生れた。佐賀地方では──佐賀にかぎるまいが──夜這《よば》いの習俗があり、夏ともなると村の若者ら密議して、みめ美《うるわ》しい乙女の寝所を襲う。中には、遠く他村に出向く豪の者がある。百姓とて地侍の忰どもであってみれば、親も無下《むげ》にこれを却《しりぞ》け得ない。かえって夜這いもされぬようでは娘の誇りをいたく傷つけるので、見て見ぬふりをするが、きわめて容色すぐれた場合、今で言う彼女を守る会の如きものを青年らで結成する。この場合は、娘自身に選択をゆだねしめる。仍《すなわ》ち娘のメガネにかなった者が、通い夫《づま》となるわけである。  しかるにここに、彼女の器量よしなのを知って他村より強奪に来る者あり、夜陰に隣村を発し夜道を駆けて来るのである。  そうと知れば、村の青年ら挙《こぞ》って畦道《あぜみち》に待伏せこれを邀撃《ようげき》するが、来る方もあらかじめこの事あるを察知し、単身では乗り込まない。時に村道を囮《おとり》に歩ましめる。身代りである。身代りは待伏せた屈強の者らに殴打され、甚《はなは》だしきに至っては満身|創痍《そうい》で退散するが、その隙に本人は間道を駆けって娘の家に到り、その寝室に闖入《ちんにゆう》する。朋輩を犠牲にしての侵入であれば手籠《てごめ》にしてでも意を遂《と》げる。而《しこう》して夜陰に紛《まぎ》れて引揚げる。  この囮のほかに見張りというのもある。概《おおむ》ね少年で、本人の舎弟が事《つか》われる。彼はさり気なく家(もしくは寝所)の周辺を逍遥《しようよう》し、若《も》し青年団のこれに気づいて襲うものあれば、兄が素懐《そかい》を遂げるまで防戦の任にあたる。少年なのは怪しまれぬ為であるが、防戦するには怯懦《きようだ》の子では|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》わない。  宗茂は、父が母とどのように媾合《まぐわ》ったかは誰いうとなく人の話すのを聞いて、知っていた。父丹後守光茂が佐賀に在城の時だったという。ふつう、大名が奥女中に手をつけるには、それなりの手順がある。しきたりがある。宗茂の母執行氏は十三歳で城の奥に奉公に上ったというが、十六の妙齢《としごろ》にはソレはソレは綺麗《きれい》で、色白で、目鼻立ちの水際立った美貌だったそうな。宗茂の乳母《めのと》を勤めた老女の言葉では斯《こ》うである── 「あまり水際立って、柄も大きくお綺麗なので大殿様のお目にとまったのでございますが、ふつう、お目に留《とま》ると、名をお聴きあそばします。それが合図で、御寝所へあがるのが順序でございます。でも於静《おしず》の方さまの時は大殿様ご自身でお出ましになりました。と申しても下々《しもじも》の夜這いと訳がちがいます。まず於静さまは、その時はただの奥女中で、殿方で申そうなら御側をつとめる小姓でございますから、局《つぼね》には部屋子を置き、ちょうどその晩は手習いなさいますとかで部屋子を早く寝《やす》ませ、たった独りで習字をなされたあと、思わず夜も更《ふ》けてそろそろ寝に就《つ》こうとなされておいでの時に、廊下に人の跫音《あしおと》がしずしず忍んで参ったそうでございます。てっきり曲者《くせもの》かと思い、そこは女でも於静さまはあのご気性、加えるに武芸ごとは常の女一倍たしなんでおいででございますから、油断なく薙刀《なぎなた》を引寄せ、こちらもしずかに立って唐紙を細目に、御廊下の方を透見《すきみ》なさいましたら、灯影に人影が映りましたゆえ、唐紙を開けて誰じゃと咎《とが》められますと、誰あろうそれが大殿様。お附《つき》も随《つ》れずお一人だったそうでございます。ハッと思って慌《あわ》てて其処《そこ》に平伏し、畏《おそ》れ入っておいでになりますと、 『そちの室《へや》はここか』  とお入り遊ばしたとか。  いよいよ於静さまが恐縮して顔をふせておいでの所、手習いの机の前にお坐りになり、筆をお手ずから把《と》られて紙にスラスラ何やらお認《したた》めになり、それを於静さまの鼻|前《さき》にお示しなされたら、今宵《こよい》はここに泊るぞ、と書いてありましたそうで、以来、お手つき中臈《ちゆうろう》におなりなのでございました」  大名の奥向けでは、斯《か》く男女の理《ことわり》は容易《たやす》く運ぶ。また鷹揚《おうよう》である。しかるに領民にあっては、闘争の果てに美花を摘《つ》むのであると聞いて、大いに宗茂は好奇心を刺戟《しげき》された。まだ主膳といって元服|間《ま》なしのころである。前《さき》にも述べたように子沢山で、躾《しつけ》もそう厳しくはなく、奥勤めの老臣などもどちらを向いても若君、姫君のおわすことで、主膳どのにばかり構うてはいられない。老女とて同様である。そこで自由の利くのをよいことに、一夜、老臣の忰森虎之介に諮《はか》ってワシを仲間に入れよと言った。 「なり申さん」  言下に虎之介は卻《しりぞ》けた。夜這いには長幼の序というものがあり、自分でさえ未《いま》だ寝所を襲う果報を体験しない。せいぜいが囮である。囮の難役をなし遂げて初めて寝所へ入る番が回るのである。若殿ごとき昨日までの洟垂《はなた》れでは、なり申さん、それは、はじめから鍋嶋主膳とお名乗りあれば地侍の忰共ら恐懼《きようく》し、美花を偸《ぬす》み摘む役をお譲り申すであろう、でもそれでは夜這いの快哉《かいさい》は叫び難く、お城にて奥女中に手をおつけなさるのと何程の差違がござろう、憚《はばか》りながら、若殿ごときご身分にてはこの儀はかない申すまじくと虎之介は首をふったのである。 「そうか。そちは囮か」  主膳は愉《たの》しそうに嗤《わら》って、 「じゃがの、ワシはあきらめんぞ。洟垂れ小僧といわれては引き退《さが》れん、一たん口に出したことじゃ、意地がある、仲間に入れい」  囮でも何でもする、身分は秘匿《ひとく》して仲間に入れよと強談《ごうだん》した。時に宗茂十五歳であった。  森虎之介は若殿よりは三歳の年長である。背はあまり高くないが、眉黒々と太く、精悍《せいかん》な風貌で且つは負けん気がつよい。 「さまでに仰せあるんなら、いかにも仲間にお加え申す、ただしご身分は断じて明かし参らせんが、ご承知か」と念を押した。 「武士に二言はないぞ」  宗茂はもう期待に胸をはずませて言い放った。     二  当時、佐賀領内で容色|絶佳《ぜつか》と謳《うた》われた女性が三人いたという。うち一人は神野村の庄屋八郎右衛門の娘キヌで、庄屋ともなると家格もあり、地侍の忰でも手出しはならない。村中がキヌを讃《たた》え且つ護《まも》る状態にあった。  このキヌを、隣邑《りんゆう》藤木村の五郎なる者が兼ねて夜這いせんと窺《うかが》っていた。五郎は“里山伏”黒賢坊の長男で森虎之介とは乳《ち》兄弟である。つまり虎之介の乳母が五郎には母親である。  虎之介は若殿宗茂を百姓の忰と詐《いつわ》り五郎の許《もと》に伴った。五郎は純真一徹の若者で、すえは父に劣らない山伏になると常々言っていた。父に従い既に峰入り百日の難行にも耐えて、歳はこの比《ころ》十九。弁慶も斯くやと思える巨魁《きよかい》であった。  早熟ではあるがお城育ちの、色が生《なま》白くて元服したばかりな宗茂には、五郎は一顧《いつこ》だにくれなかった。「おぬしが来てくれれば鬼に金棒じゃ」早や昂奮にギラギラ眼を底光らせ、声だけは隣室の母に気取られぬよう抑えて五郎は言った。「今夜、決行する」 「オレもそのつもりで来た」  虎之介が言った。「見張りはこの若……若之助にさしょう。囮はオレが、なる」  季節は今が田植|時《どき》の、百姓のいちばん熟睡するときで、小作人の出入りの多い庄屋屋敷に侵入するには今を措《お》いて、ない。倖《さいわ》い昨日あたりから降りみ降らずみの梅雨《つゆ》も霽《は》れている。今が絶好の機会である、虎之介と五郎の意見は一致した。念のため加勢を集《つど》おうかと虎之介は言ったが、野良働きに草臥《くたび》れた奴らを起しては可哀そうじゃ、おぬしと此の小忰で事は足りる、と初めて五郎は宗茂に目をやった。嬉《うれ》しそうに宗茂は「うム、そうじゃ」力んで合点したそうである。三人は出立《しゆつたつ》した。  処々|泥濘《ぬかる》んではいたが勝手知った道である。とりわけ五郎は背振《せぶり》山で鍛えた健脚とて、意馬心猿《いばしんえん》の折ではあり夜道も厭《いと》わずずんずん駆けった。歯をくいしばって宗茂は後《おく》れなんだ。途中、道が二つに岐《わか》れる地点に来た。 「万一のことも含め、待合わせは此処《ここ》じゃぞ」  五郎が言った。 「心得た」  虎之介は故意に宗茂を無視し、単身、左の道へ駆け往った。  こうして其の夜、庄屋屋敷に五郎は闖入《ちんにゆう》した。長屋門の外で十五歳の宗茂は見張りをした。 かなり宏壮な家構えで、土塀《どべい》をぐるりと二巡したという。そこへ、バタバタと数人が夜道を駆けて来て、 「やっぱりじゃ。居った居った」 「おのれ」  手に手に棒など提《さ》げたのが無二無三に宗茂に襲い懸った。誰何《すいか》の遑《いとま》も与えなんだ。数人は二手にわかれ、一手《ひとて》は頑丈な門を敲《たた》いて、 「開けい開けい。キヌさんがおそわれとンなさるぞ」  梅雨空は声が響きやすいというが、この大音声《だいおんじよう》は四辺に谺《こだま》したのである。宗茂は臆《おく》せず抗《あらが》ったが、目から火のとび出るような鉄拳《てつけん》を二つ喰《くら》った。夜目にも鉄拳を揮《ふる》った者の片頬に痣《あざ》があった。宗茂とはいくらも齢《とし》の違わぬこれが少年だった。  どれ程かして、門が開けられた。邸内から躍り出たのは五郎である。五郎は全裸で、見張り役の少年を庇《かば》い立ち、 「夜這いしたはオレぞ。弱者を苛《いじ》めっか」  義憤に燃えて猛《たけ》り狂い一歩も退《ひ》かなかった。そこへ邸内から松明《たいまつ》を翳《かざ》して助《すけ》っ人《と》が馳《は》せ集まった。偶々跛《たまたまびつこ》を曳《ひ》きひきこのとき夜道を駆け来たのは虎之介で、虎之介は声をほとばしらせ、見張り役の誰人たるかを告げたのである、其の場にある者、水を打ったように静まり返った。  このことがあって、藩士たると領民たるを問わず、十五男鍋嶋主膳の名を口にするとき人は口辺に一種おかしい笑《えみ》を泛《うか》べるようになった。  ご粋狂な若殿じゃ、それにしても夜這いの見張りを遊ばすとはのう、酸《す》いも甘いもご承知じゃ、と囃《はや》した。  だが当初、生きた心地のなかったのは神野村の青年団である。ついで修験者《しゆげんじや》黒賢坊と当の五郎である。森虎之介は、父に厳しく折檻《せつかん》された上で、そちもわし共々腹切ってお詫《わ》びせいでは相成らん、臍《ほぞ》を固めておけと父に言い渡され、その覚悟でいた。しかし何のお咎《とが》めもなかった。御国御前《おくにごぜん》於静の方は、このころ又々|身孕《みごも》っておいでで、 「血はあらそえんのじゃなあ」  鉄漿《かね》の歯で笑われただけだそうである。庄屋の娘キヌは、庄屋八郎右衛門から願い出て江戸表の藩邸で奉公することになった。後に家臣神代兵庫の養子となった鍋嶋千太郎(宗茂の子)を生んだのはこのキヌである。  五郎は感泣《かんきゆう》した。ひたすら以来彼は修験道に励んだ。享保元年十一月二十八日、主膳は兄吉茂の嗣としてはじめて有徳《うとく》院殿(八代将軍吉宗)にまみえたてまつり、御前において元服し、御諱《おんいみな》の字および称号をたまわって宗茂とあらためたが、御諱の一字はともかく、三十一歳にもなって将軍の御前で正式な加冠の儀式(元服)を更《あらた》めて行なうなど正に異例のことであった。吉宗も紀伊家で部屋住みを喞《かこ》った身で、似た境涯から宗茂へは格別な近親感をおぼえたらしいが、一説には、数ある異母兄を差し措《お》き彼が嗣と定められたのは将軍家の御意に副《そ》った為ともいわれる。そういえば享保元年は吉宗の将軍職を襲ったのと同年で、宗茂の器量秀抜なるによることにせよ、かかる吉報を一番に乳兄弟に報《し》らさんと関東から九州肥前まで山野を疾駆《しつく》したのは五郎改め修験者・俊光坊だった。九日間で走破したそうである(普通江戸より佐賀|迄《まで》は、まず大坂への陸路百三十三里、大坂より舟で豊前内浦まで海路百二十八里。内浦より佐賀へ二十九里である。宗茂は帰国に際し三十五日間を数えている)。俊光坊の欣喜雀躍《きんきじやくやく》ぶりが分る。なお街道筋へ末子《ばつし》を連れて乗物を出迎えた森利兵衛は仍《すなわ》ち虎之介で、目から火の出る鉄拳を喰わせたのが北村蔵人なのは言うを俟《ま》たない。     三  宗茂が佐賀城に入って十数日が過ぎた。  この間、父祖の菩提寺《ぼだいじ》高伝寺へ詣《もう》でたり、国許《くにもと》の重老らと十六年ぶりの対面の時をもったり、宗茂は多忙であった。  それは分るがご帰国以来、とンと御詞を賜る気配すらないのが森利兵衛らには次第に不満になって来た。とりわけ坂井弥兵衛は、すでに隠居の身ではあり、道中をお供した忰新左衛門より凡《およ》その江戸邸における主君の御行状を聞いているので、そろそろ微行《びこう》のお供にお誘いがあってもよいにと、一日として落着かない。  主君宗茂には、既に正室(久世《くぜ》大納言通夏の息女)との間に今年十四歳におわします嫡男教茂《ちやくなんのりしげ》君がある、このご嫡男には早や中院右大臣の息女を正室に迎えられている。まことに手廻しのよいことで、我が意を得たりと弥兵衛は膝を打ったことであったが、聞けば、正室のほかに主君には早や愛妾《あいしよう》五人が侍《はべ》り居るそうで、でもすべて五人は江戸表にて手をつけられたものである。未だ御国御前《おくにごぜん》が無い。そこでかねて家中の女で器量よしを、森利兵衛らと物色してある。夫々《それぞれ》に好みはあるが、議するところ御納戸《おなんど》役西岡甚左衛門の娘チサが、家中ずい一の美形《びけい》と意見の一致をみた。西岡甚左衛門は知行五十石の微禄の士ながら、その儀なら弥兵衛らとて大差ない。軽輩の娘をよも疎《うと》まれる殿でもあるまい。そう思い実は御帰国を手ぐすねひいてお待ち申していたのである。 「新左衛門」  宗茂帰国後二十日余りが空しく過ぎて、とうとう堪りかね弥兵衛は一書をしたためた。 「その方非番は今日まで、明日はお城に登るであろう。これを、何としてでも殿に差上げてくれよ」  新左衛門は困憊《こんぱい》した。父の肚《はら》の中は読めている。 「父上」  殿は未だ遠路の疲れが除《と》れておいでではござらんと言った。 「何ぬかす」  弥兵衛は眉を吊りあげた。そうでなくとも数年江戸に詰めて、すっかり新左衛門は懦弱《だじやく》になっている。江戸のあれは旨《うま》いこれは美味で舌に溶けるようであったなどとほざく。佐賀武士は葉隠れなのである。「よいか」弥兵衛は語気を荒らげ、「われらは|※[#「((屮/師のへん)+辛)/子」、unicode5b7c]子《げつし》とやら殿の申されし意義を解さぬ、それでお尋ね申すが何故、遠路のご疲労に関わりある?」 「※[#「((屮/師のへん)+辛)/子」、unicode5b7c]子なれば」  新左衛門は躊躇《ちゆうちよ》して後、めかけ腹の子が義でござる、と言った。 「何と?」  弥兵衛は狼狽《ろうばい》し、それから忽《たちま》ち満面に朱を注いで忿怒《ふんぬ》して、おのれ、父にむかって嘲弄《ちようろう》の言を吐くか。言いざま傍《かたわら》にあった湯呑|茶碗《ぢやわん》を忰の面に抛《なげう》った。新左衛門は胸を反らして躱《かわ》したが茶碗の底に残った白湯《さゆ》が顔面を濡《ぬ》らした。 「父上」  新左衛門は面色が変った。「家中《かちゆう》の蔭口をご存じなきか、拙者今は殿に奉公いたす身でござるぞ。この身は殿のものじゃ、それへ白湯を引っ掛けるとは父上とて慮外でござろう。許しませんぞ」言って、昂奮に青ざめた唇をワナワナ顫《ふる》わせていた。 「きぇっ」  弥兵衛は喚《わめ》いた。「おのれがおのれが。顫えおってよう殿のものじゃとほざきくさる。腰抜けめ。さようなことで殿のお役に立つかい」  武士には言ってはならぬ言葉がある。それを親子の心やすだてに弥兵衛は口にした。この時弥兵衛が胸中には日頃の憤懣《ふんまん》が一挙に爆発していた。いまだ五体壮健であるのに隠居させられたこと、長《なが》のご奉公中、上役に疎《うと》んぜられ続けたこと、微禄であること。就中《なかんずく》、主従のあいだには蜜の如き親愛の情がかよい合っている筈《はず》であるのに、封をお襲《つ》ぎなされて十余年、一度として江戸へお呼びがないばかりかそれとなく忰に出仕をゆずり致仕せよとのご沙汰があったらしいこと。こればかりは心外と当時おもいしが上司の口実であろうと、我慢をして来た。然《しか》るに御入城以来二十日、今|以《もつ》て何のお声もかからぬのはやっぱり、殿は、われらを遠ざけなされたいが本心か。そう思うと口惜しさに腸《はらわた》は煮えくりかえるのである。  一方、新左衛門は堪忍《かんにん》の緒《お》を切った。腰抜けとは主君に対し、不忠であると言挙げされたにひとしい。聞き捨ててはそれこそ主君への面目が立たぬ。 「父上」  新左衛門は腰の脇差を抜き放った。弥兵衛は丸腰であった。御免、一声《ひとこえ》言って父の胸《むな》ぐらを執《と》り、あわや刺し違えんとした時に唐紙が開いて、弥兵衛の老妻と新左衛門のよめが転ぶようにかけ入り、「お鎮まりなさりませ」それぞれの夫に抱きついた。しかしもはや新左衛門の手は抜身を把《と》っていた。いかなる事由にもせよ、泰平の世に、武士が刀を抜けば啻《ただ》では済まされぬ。斬る斬らぬは別の事である。大小をたばさむ者のそれは掟《おきて》であり、抜刀すれば自裁あるのみと武士なら知っている。 「父上。父上はたしかに昔の殿に昵近《じつきん》めされた、併《しか》しいま殿は部屋住みにはあらず、三十五万石の国守でござるぞ。それすら弁《わきま》えずいたずらに往昔の逸楽にのみ想い耽《ふけ》り、微行を促し申すなんぞが忠義者の仕《つかまつ》ることか。狎々《なれなれ》しく致すのみが君臣の情にあらず、ちっとは殿のご身分をお考え下されい」  言って、われらのご奉公もはやこれ迄と、身を翻《ひるがえ》して我が腹を突き刺した。     四  宗茂は新左衛門の死を聴いて、 「子はおるのか」  一言きいたそうである。城内萩の間に休息していた時という。用人の相良求馬が五歳になる一児があると答えると、 「それに跡目を継がせよ」 「後見はいかが仕りまする」 「捨ておけ」  言い捨ててぷいと座を起《た》ってしまった。父が隠居して子があとを継ぐのを『家督相続』といい、父の死亡による場合は跡目を継ぐと言った。これには予《あらかじ》め相続人が定められていなければならない。さなくしては変死で、家禄は召上げられる。概《おおむ》ねその家は断絶である。新左衛門の場合は、乱心の果ての死ということになるのを、宗茂の一言で穏便に片付けられた。併し弥兵衛に後見で「再出仕」の計らいは終《つい》になかった。  かねて宗茂はこう言っていた。若いうちは、放埒《ほうらつ》も若気の至りで愉快に感じるものである。自分などは多数兄弟もあり、いっそ気儘《きまま》に日々を過ごせるなら部屋住みも亦人生|哉《かな》と暢気《のんき》に構えていた。ずいぶん埒をふみはずした遊びもした。夜這いなどもその一つで、左様然らば一点張り、万事に|しゃちこ《ヽヽヽヽ》張って固苦しい重臣らと事かわり、軽輩のやからは、いろいろ本能のおもむく儘、まことにくつろいだ暮し向きをして居った、それがいっそ羨《うらや》ましくも楽しくも思えて、自《みずか》ら仲間入りをしたが、彼等が自分を歓迎したのは畢竟《ひつきよう》、この身が鍋嶋の子息だったからである。人間として歓待してくれたのではない、もしそうであるなら自分が藩主になったからとて、あんな|したり《ヽヽヽ》顔をすることはあるまい、むしろ藩主となられお気の毒と申すべきである、それでこそ、真に人間味ある自分への扱いである。おもんみるに、彼等はひっきょう下賤《げせん》の輩《やから》、下賤ゆえ気は楽であろうが、それがまことの人らしい生き方と思ったは誤りであった。予は間違っておった、人の上に立つ者には、己れを律すること人一倍きびしい軌範が牢固として守られねばならぬ。「君と寝ようか五千石取ろか、ままよ五千石、君と寝よ」と戯《ざ》れ唄にあると聞いて、以前は頬笑《ほほえ》ましくも思ったが、何の、五千石すら守れぬ弱者のたわごとに過ぎぬ。  ──又こんなことも近親に洩《も》らした。  亡父丹後守はたしかに類《たぐい》まれな強壮で、母上も信じ難い程の婦人である。それを父母は修験道《しゆげんどう》に参じた賜物と人が言うのは間違っている。山伏の修法と験術はまことに想像を絶するものではあろう、しかし父が験術を領内に奨励したのは背振山が肥前における修験道の一大根拠地を形成していたからで、人の喧伝するごとき補陰補陽──精力増強にそれが効をもたらしたからではない。淫情に由《よ》ることではない。由来、山伏は使僧の働きを為《な》した。広範囲な地理、山嶽の形勢にも通じまことに使者としても、情報提供者としても有能であった、それを証拠に全国で戦《いく》さのあるところ必ず陰で山伏は暗躍している。好い例が鉄砲である。種子島《たねがしま》に伝来したそれを肥前へ最初にもたらしたのは山伏阿舎坊であった。驚くべき短日月にそれは肥前の豪族のもとに来ていた。蝋燭《ろうそく》とて同様である。はじめ人は灯芯を油に浸《つ》けて灯《とも》すことしか知らなかった。為にキリシタン大名大友宗麟がこれを用いたとき、さても大友勢は伴天連《バテレン》と聞えしが寔《まこと》魔法を遣《つか》うにや、大根に火を点《つ》けて候ぞと瞠目《どうもく》した。そんな蝋燭を流布《るふ》せしめたのも山伏の働きである。山伏はむろん、人里離れた深山にその修行の場を定め、壇(道場)を設け験術の修得に励む。その秘奥《ひおう》を究《きわ》めた者はしばしば人知ではかり知れぬ術力を発揮する、時に呪術も為すであろう、併し父丹後守の真意は、一旦緩急ある秋《とき》かれらを伝令となしその験術を軍事力に糾合《きゆうごう》せんが為であって、陰を補い陽を補う為などでは断じてなかった。つまり父母の頗《すこぶ》る多産であったのは天賦の性によるものである。──今にして、それが自分には分った、と。  新左衛門の屠腹《とふく》は、森利兵衛らに大きな衝撃を与えた。弥兵衛は人が変ったようにげっそり老いこみ、屠腹にお咎《とが》めなく一子弥太郎に知行つつがなく下しおかれるとの内達を承《うけたまわ》っても一向喜ぶ様子がない。後見まかりならずと聞いても動じない。 「われらは主を誤りしか、ご奉公を誤りしか」そう言って、項垂《うなだ》れ、考え込むばかりであった。  森利兵衛らは違った。第一まだ現役である。堀場角右衛門、北村蔵人、関半平太の三人を居宅に呼んで協議して、利兵衛はこう言った。 「弥兵衛めは耄碌《もうろく》いたしおるゆえ黙《もだ》しも致そうがわれらは違う。聞けば藩中にてはわれら微禄の身分もわきまえず、殿に甘え、横着の振舞い目に余ると蔭口いたしおるそうな。いつ吾らが横着をした? いかさま美女|漁《あさ》りをしたは事実である、峰入りの隙に里山伏が女房と|つるみ《ヽヽヽ》もした。殿が昔日これをお欣《よろこ》びあったを忘れねばこそじゃ、殿がお悦《よろこ》びある振舞いを家来がしてなんで横着といわれる。殿とて部屋住みのご時分には、山伏が女房の寝所に通いなされたは確かじゃ、わしがこの目で見て知っている。チャッとなるあの気持は、よいものよのう、そう申されたをこの耳でわしは聞いておるぞ。なんでそれが今になってご重役連の顰蹙《ひんしゆく》を沽《か》わいでは相成らんのか。だいたい、ご領主におなり遊ばしたとて仰々しゅう殿を持ちあげる佞臣《ねいしん》どもが多すぎるわ。殿とて心底迷惑なされておるに相違ない、われらと昔のように城下を微行《おしのび》なされたいであろうに、勿体《もつたい》つけて妨《さまた》げる重役連がおるのじゃ。殿こそ手梏足枷《てかせあしかせ》に縛られ辟易《へきえき》なされておろう、よいか、それをお救い申せるのはわれらじゃぞ、われらを措《お》いて殿のご不自由を察し奉る者はおらん、よってわしは決心をした、ご用人相良求馬を血祭りにあげる。気の毒ではあるが容赦《ようしや》はしておれん、殿の御為じゃ。万一、わしが失敗《しくじ》ったらば後はおぬしらでやってくれい。一人でよい、佞臣どもへの見せしめじゃ、一人を血祭りにすれば胆《きも》も冷やそう、心を入れかえ、殿を以後束縛などはせぬであろう」  言って昂然《こうぜん》とうなじをあげて三人を見渡した。眉の濃い、目鼻立ちの人並みすぐれて大きい、昔は若殿と男前を競った風貌《ふうぼう》は頬の光沢《つや》もよく未だいささかも衰えていない。 「成程、おぬしが申すところ道理じゃが」  堀場角右衛門が苦しげに眉を顰《しか》め、 「相良求馬どのは殿のお気に入りじゃ、求馬を斬っては殿がお嘆き遊ばそう、それでは折角のおぬしの行為が、裏目になる」 「そうじゃ」  関半平太が和した。 「では誰を血祭りにする」森利兵衛は恨めしそうに白眼を据えた。三人は言葉に窮した。重役で勿体ぶる人物は何人も思い当る。だが全てそれらは乗輪院さまの御胤《おんたね》か、その係累《けいるい》である。主君宗茂公には連枝《れんし》になる。 「拙者」  稍《やや》あって、重い口をひらいたのは末席の北村蔵人であった。他の三人は微禄とても知行取りであるが、蔵人は御船作事所詰で、扶持《ふち》米の俸禄である。こう言った。「拙者によい思案がござり申す。なれど、一両日、猶予をお願い致さんと……今夜のところは決議を、お待ち願えませんか」 「よい思案とは?」  堀場角右衛門が向き返った。 「俊光坊の験術に、ま、待ち申すので」  言いづらそうであったが、そう言われてみれば成程、妙案には違いない。 「そうじゃ」関半平太が膝をうった。「俊光坊が呪術に恃《たの》むなればご重役らの目がさめるわ」 「そうじゃの」角右衛門が首肯《しゆこう》した。三人の中では勘定役を勤め身分は上である。いつももっともらしく振舞うのが角右衛門の取柄である。  俊光坊は鍛錬の甲斐あって、今では祈祷《きとう》の霊験《れいげん》あらたかなこと肥前で右に出る者はない。  もともと修験道は、山嶽仏教が貴賤の信仰と帰依を厚くしたところから興った。その根底にあるのは“末法思想”だと識者は言う。碩学《せきがく》黒木俊弘(佐賀大学教授)氏の説く所によれば、平安時代の“末法思想”は人心の不安定を生んだが、この不安からの脱出や解決手段として山嶽信仰は全国的なものになり、当時権勢を誇った藤原一門も、平清盛さえも“熊野詣で”を繰返した史実は、当時のこの信仰から来る人生観を別にしては理解できない。これが権力者や上層の者の、自らは入峰せずして山伏を以て祈願代行させることが慣行めいてくるのは、鎌倉時代末期からで、修験道が名実ともに充実したといわれる室町時代にかけ、山嶽信仰はいっこう衰えず入峰の代行は恒常化し、修験の山伏らはまことに溌溂《はつらつ》と行動していた。  藩政時代になると、既にそれ以前より萌芽《ほうが》していた経済事情の変化のために、山伏の大部分は“里山伏”として郷村に定着し、檀徒《だんと》の庇護《ひご》のもとにしだいに活力を失うに至った。そんな趨勢《すうせい》の中で、比較的佐賀の山伏は修験の本道を守り、わけて俊光坊は己れにも他にもコト修行に関しては峻厳《しゆんげん》であった。肥前の国峰は二十一日を原則とするが、百日入峰というのもある。後者は身命を賭《と》した難行という。そういう入峰のあいだ、里山伏の家族は行《ぎよう》の明くのを待っていて、さて行が明けると山伏らは奇声を挙げ驀地《まつしぐら》に里へ下って来るそうな。久しく飢《かつ》えた女房と相擁《あいよう》さんが為である。そんな時、俊光坊だけはまだ峰に居て、祈祷の念力で、山伏何某の女房は既に姦せりと掌《たなごころ》を指すように悟っていたという。  そんな通力の保持者だから、重臣らの石頭をほぐすは造作あるまいと関半平太は言うのである。皆は同意した。しかし森利兵衛だけは何やら恨めしそうに言い出し兵衛の蔵人を上眼づかいにじっと睨《にら》んでいた。     五  北村蔵人は皆と別れて帰宅すると、その夜のうちに自害した。なにも用人を血祭りにあげることはない、自ら死して諫《かん》するのが士の道と、はじめから蔵人は心に決めていた。俊光坊のことを言ったのは弥兵衛の決行を後らせる口実である。先ず腹を切って、彼は血書をしたためた。宛名は縫どのとあった。通常の手順では微賤の身で、主君の手許に届かないのを危《あやぶ》んだのである。縫というのは、往昔、蔵人が手引きし見張り役となって、若殿が再三通われた陶工の娘で、縫の父親の焼いた土器は幕府への献上物となった。今は縫は使方《つかいかた》支配(諸方へ御用便をなすものの頭)近藤|某《なにがし》の妻女である。むかしの殿の睦言《むつごと》を戸外に居て聴いたのは蔵人くらいであろう。北村蔵人には子はなかった。自室に籠《こも》っていつまでも夫が姿を見せぬので、更闌《こうた》けて嫁は様子を窺《うかが》いに行き、動顛《どうてん》した。しかし彼女は気丈な女であった。封に血のにじむそれを、深夜もいとわず近藤家へ届けたのである。偶々《たまたま》近藤は役目柄他国に赴《おもむ》いて不在だった。長男万之助が門戸を敲《たた》く激しさに中間《ちゆうげん》より夙《はや》く目覚めて自身で戸を開けに出た。万之助は書状を手にした。その足で彼は母の臥所《ふしど》を音《おとの》うた。 「母上、これじゃ」  縫はすでに物音で夜具を起き出ていた。披《ひら》き見て彼女は蔵人のよめ以上に驚倒した。用人暗殺の委細がそこには書き留められ、併《あわ》せて俊光坊が呪術をわずらわせ申すやも計り難くと書かれてある。 「万之助」  良《やや》あって縫は屹乎《きつ》と坐り直った。万之助は早や十九歳を過ぎた。その面貌は色白で気品あり、若かりし誰方《どなた》かに瓜《うり》二つである。これまで彼女はこのことを胸ひとつに秘め、夫にも我が子にも、誰にも明かさなかった。 「一大事が出来《しゆつたい》したのです」彼女はつとめて落着いていった。「お城へすぐ登っておくれ。ご用人のおいのちに関わる事態が起きたと、そう申すのです。それで御開門がかなわねば、殿様のお側へからたちの花の子が参上すると、そう申しておくれ。必ずお目通りがかなうはずです。お目通りの上で、この書状を、お見せするのです」  それから一息ついて「よいか、お前さまが披いてはなりませぬ。お殿様のほかの誰にも見せずに、差上げるのです」  万之助は母のかおを見入って、無言でうなずいた。それから身支度をして、家を出た。  血書は朝、宗茂の目に触れた。開門はかなわず、徹宵《てつしよう》、万之助は辰ノ門外に彳《たたず》んで待った。番卒に誰何《すいか》されると使方支配近藤なにがしの忰とだけ名乗ったそうである。しかし母の吩《い》いつけは守って、お目通りかなう迄は書状は差出せないと言った。偶々、あの駕籠脇をつとめた林治左衛門が登城の途次に、これを知って、 「われらは徒士《かち》頭林治左衛門である。誓って披見はせぬ、殿へお直《じき》に上げ参らせる」と言った。それで万之助は件《くだん》の血書を託《たく》したのである(ついでながら、この後も万之助に目通りはなかった)。  宗茂は一読、ありありと顔を曇らせた。周章する様子は少しもなかったという。読み返そうとすらせず、血の赤黝《あかぐろ》く滲《にじ》んで巻紙の強《こわ》ばったそれを、少時、だらりと膝におろして黙思していた。宗茂の前には林治左衛門が平伏していた。治左衛門はお人払いを願い出て、しかる後、どんな内容とも知れぬそれを差出したのである。 「困ったものじゃな」  ひと言、宗茂はつぶやいた。 「若気の過ちは、後にこそしだいに真の過ちとなると賢者は申したそうなが、今更そうとわかってものう」 「…………」 「その方、読んでみるか」 「いえ」  治左衛門は、小忰なればとて武士が一たん口約いたしたことでござればと、跪坐《きざ》しつづけて面をあげなかった。 「その律義さが難を招いておるわ」  言って宗茂は失笑したが幾分この時は機嫌が直っていた。 「求馬を喚《よ》べ」  と稍《やや》あって言った。治左衛門は退出した。  相良求馬が御前に出たときすでに血書は見当らなかった。 「そちを斬ると申すのがおるぞ」  血祭りじゃそうな、と言った。この一言で求馬は概略《あらまし》を察した。求馬は少しも愕《おどろ》かなかった。 「この素っ首ひとつで相済みまするなれば」と苦笑した。この時すでに求馬は六十である。 「そちも予に恥を掻《か》かせおる」  言って、宗茂は、それきり、黙りこんだ。求馬も黙りこんだ。広縁の向うに中庭が展《ひら》け、初夏の明るさが庭いっぱいに広がっていた。紋白蝶《もんしろちよう》が二羽ユラユラと羽根をひるがえして舞い戯《たわむ》れていた。 「為様《せんよう》があるまい」  宗茂が言った。「不憫《ふびん》じゃが、予に代って愚行の始末をつけると思えば、忠義の死と考えられる」 「切腹仰せつけられまするか」 「ほかに手はあるまい。そちの白髪首ではの、かえって禍根《かこん》を残す」 「誰に切腹を仰せつけられまするので?」 「そうか、そちは読んでおらんのじゃな」  宗茂はくるしそうに、 「聞きたいか?」 「滅相な」  求馬は天狗の団扇《うちわ》のような五指をひろげて手をふり、 「お苦しみあるは殿ご一人にて」  それがしなんぞは、生来、よい想いをいたした覚えとてもなし、身から錆《さび》の出ようはござらぬわ。そんな悪《にく》まれ口を叩いて、 「御免」  退出しようとするのを、 「待て求馬」  あわてて宗茂は呼びとめた。「よいか、そちの割腹はならんぞ。そちが死んで済むことではない。これは仕置じゃ。予への仕置じゃ」  北村蔵人の自刃は森利兵衛たちを仰天させた。蔵人のよめの報らせで、何やら書置きが使方支配の妻女を経てお城に訴え出されたことも判明した。 「何とする利兵衛」  てっきり、訴人されたと思惟《しい》したのは堀場角右衛門であった。 「おぬしの言い出したことじゃ。この始末、な、何とつけるぞ」  利兵衛はもう肚《はら》をくくっている。 「やむを得ぬ、刺し違える」「──誰と?」 「きまっておろう、おぬしとじゃ」  角右衛門は目をむいた。「気でも狂うたか利兵衛」 「いいや」  利兵衛は首をふって、こうなっては、佞臣求馬も身辺を警戒しよう、血祭りに挙げることは最早《もはや》かなうまい。おぬしは蔵人が寝返ったというが、われらはそうは思わぬ、寝返る者が何で腹を切る、蔵人の為人《ひととなり》をわしは知っている、あれは無口じゃが殿の御為にはいつでも死ぬる気でおった男じゃ。してみれば求馬を屠《ほふ》るにしのびず、我から腹を切ったのである、佞臣の目をさまし殿にむかしのご自由をお与え申すのがわれらの念願である、佞臣の一人や二人|屠《ほふ》るよりこれが大事である。この期《ご》に及んでは、われら全員、この場にて刺し違え、微衷《びちゆう》を殿にお汲《く》み取りねがうほかはないであろう、そう言った。 「わしはさようには思わんぞ」  角右衛門が駁《ばく》した。利兵衛の言うが如くなれば微衷はすでに蔵人一個の死で、殿にお分りのはずである。あのご明晰の殿である、必ずや何らかの御沙汰が下ろう、それを待ってから、死ぬなら死ぬでよいではないか、いたずらに死に急ぐが忠義ではないぞ、と。 「拙者も堀場どのに同意じゃ」  関半平太が言った。自分もさように思うと、前の会合に列席しなかったが帰国の乗物を出迎えた他の一人も口を副《そ》えた。 「そうか。ならばお主らはご沙汰を待て」  利兵衛は高声に言い放つと同座は無用と座を蹴立った。この朝も利兵衛の居宅に一同は集合していた。  あるじがいなくなった直後の沈黙を破って、一人がふと呟《つぶや》いた。 「それに致しても、なんで蔵人は使方支配が許《もと》へなんぞ訴状を託したのかのう」  このころ俊光坊は、ハッキリ利兵衛の死相を視《み》たという。護摩《ごま》を焚《た》いた焔《ほのお》の中に面が浮んで来たそうである。  森利兵衛には六人の子があった。上二人は女で、すでに縁づいていた。残る四人のうち長男は藩費で長崎へ医学の勉強に赴《おもむ》き、三男は遠縁に貰《もら》い子になった。一緒に家にいたのは次男と季《すえ》の弁之助である。角右衛門らが引揚げて行くと、利兵衛は次男を居間に呼んだ。 「武士には切腹の作法があるが存じておるか」  と言った。この時森利兵衛四十九歳である。次男は十七である。朝からの遽《あわただ》しい人の出入りに次男は大凡《おおよそ》を察していた。父に似て眉の黒く太く口もとの引きしまった若者である。それが一そう口を引き結んで、黙って膝に手を揃《そろ》えて父を見た。 「そうか」利兵衛は満足そうに、「よう察してくれた。思えば初めて殿が女子《おなご》に通いめされたもお主が年頃であった。われらは外にて凍《こご》えながら見張りをしたものよ。殿には言上いたさなんだが、その砌《みぎり》、おなごに情を通わす者が槍を小脇に出て来よった、そ奴《やつ》を撃退いたそうにも声は立てられん、相手に声もあげさせられん、ずいぶんと難渋《なんじゆう》いたして受けたのが脛《すね》の創《きず》よ、いまでも時々こころよう疼《うず》く。人心ものんびりして、あれは好い時代であったわ、懐《なつか》しいわ」と呵々哄笑《かかこうしよう》してから湯をわかしてくれい、と言った。切腹の前に武士は沐浴《もくよく》する。たらいへ先に水を入れ、上へ湯を入れてあんばいする。髪を洗うときは逆に湯を緩《ゆる》めるのである。  沐浴を済ますと利兵衛は死装束をまとった。左前に合わせるのでそれと次男にはわかる。次男は慌《あわ》て、弟を呼びに走った。利兵衛にはとうに妻はなかった。継妻も四男を生んでみまかった。弁之助は庶子である。兄弟がやってくると既に利兵衛はいちばんいい座敷に端坐《たんざ》して、小脇差の切先七八分ほどを出し、白刃へ布を逆に巻きつけていた。そうしながら「大根の香物《こうのもの》を出して来い」と次男に吩《い》いつけ、巻き了《おわ》ったのを左手《ゆんで》に切先を下に向けて傍《そば》へ措《お》いた。七歳の童子は黒眼がちのつぶらな目で凝乎《じつ》と父親のすることを|※[#「目+爭」、unicode775c]《みつ》めていた。無心なその目へふと利兵衛は、わらいかけて、こう言った。「父はこれから腹を切る、お許しも無《の》う死ぬのであればいずれその方らにもお咎めが来よう、その時はの、父がこれからする通りにして、死ね。よいな」と言った。ウン、と子供はコックリをした。 「愛《う》い奴よ」  心から可愛そうに見遣《みや》って、さて新香を小皿に切って次男が戻ってくると、「かようの時は、逆箸《さかさばし》にして添えるものよ。まあよいわ、したが、おぬしが死ぬる時は、心得ておけいよ」それから腹を掻きひろげ、見事に割腹して、さいごに自分で首筋を左から右へ刺し通して、果てた。  堀場角右衛門は居宅で謹慎していたら、用人暗殺に一味せし科《とが》軽からず、依って切腹を申しつけるとの上使を迎えた。角右衛門も観念の臍《ほぞ》を固めていた。ただ、何のためかかることを企んだかを言葉に尽し縷々《るる》上使に愬《うつた》えた。確《しか》と上聞に達するであろうと使者は応じた。「かたじけない、それを承って安堵仕った」  角右衛門は漸《ようや》く切腹の場に臨んだ。これは庭前《にわさき》で切った。罪による切腹なので松田弥五郎という介錯人《かいしやくにん》が首を落した。  関半平太の死に様がもっとも花々しい。半平太は上使を拝《おが》み討ちに斬って捨てた。それから介錯人とも刃を交え、数合に及んでこれにも動けぬ程の手傷を負わせた。「殿はひっきょう将軍家の御意に叶《かな》いとうて行ないすましておられる。茶坊主も同じじゃ、ふン、何が三十五万石じゃ」大音に喚《おめ》きまわり、屋敷に火を放って炎の只中に飛込んだ。半平太は母ひとり子ひとりで、母は罪を謝して下僕らを督励《とくれい》して火を消し止めてから、舌を噛《か》んだ。  その頃、宗茂は城の櫓《やぐら》にのぼって空の遠くを見上げていた。からたちの花か……ふとそう独語されるのを近習は耳にした。弥平衛ら他の者にはお咎めは一向になかった。 [#改ページ]  小次郎と義仙     一  佐々木小次郎が舟島で宮本武蔵と仕合をしたのは、一般には二十歳前後の美青年時代のように云われているが、実は六十九歳の老人である。仕合の期日は『二天記』によれば慶長十七年四月二十一日だったという。小次郎は、越前国|足羽《あすわ》郡宇坂の庄、浄教寺村の生れで、中条流の宗家・富田五郎右衛門勢源の家人であった。幼少から勢源に就いて修業をして、高弟中誰一人及ぶ者はなかった勢源の弟治部左衛門にも勝ったのが、十六歳の頃である。勢源は永禄三年に眼を疾《わずら》って、家督を弟に譲り、小次郎を供に岐阜へ赴いた。そうして斎藤義龍の抱え兵法者梅津某と仕合をした。小次郎が師の他流仕合を見たのはこれが初めてだが(中条流は他流仕合を禁じて居った)、かりに当時の小次郎を十七歳としても、この永禄三年から慶長十七年まで、五十三年余を経過している。即ち武蔵との仕合は七十歳が道理である。  中村守和という人の話によると、いよいよ小次郎と武蔵との仕合当日になって、貴賤見物のため舟島に渡る者が夥《おびただ》しい。小次郎もしのびやかに船場に来て船に乗り込んだ。そうして渡守に、何気なく、「きょうは大へんに人が海を渡るようであるが、何事があるのじゃ」と訪ねた。  渡守は答えて云った。「お武家さまは御存知ないようでございますが、今日は佐々木巌流と申す兵法使いが、宮本武蔵と舟島にて仕合をなされます。それを見物しようとして、まだ夜の明けぬうちから、この有様でございます」  小次郎は、「実はわしがその巌流じゃ」  と言うと、渡守は大いに驚き、さて小声で云うのに、 「もし貴方さまが巌流様でいらっしゃるなら、この船をあちらの方へ着けましょう故、早く、このまま他国へお立去りになる方がよろしゅうござります。あなた様が、よし、神様のような使い手でいらっしゃろうとも、宮本様の味方は人数が多いそうでございますから、どちらにしても、お命を保つことは出来ますまい」と云った。  巌流はそれを聞いて、 「その方の申す通り、きょうの仕合、さもありそうな事であるが、拙者はかならずしも勝とうとは思っておらぬ。且堅く約束したことであるから、たとい死すとも約束をたがえる事は出来ぬ。恐らく、舟島で拙者は敗れるであろう。さ様な折は、我が魂を祭って水なと手向けてくれい」  そう云って懐中から鼻紙袋を取り出して、渡守に与えた。  渡守は涙を流して小次郎の豪勇に感じ、やがて船を舟島に着けた。  小次郎は船から飛下りて武蔵を待った。武蔵も又此処に来て勝負に及んだ。小次郎は精力を励まし、電光のごとく稲妻の如く術をふるうといえども、不幸にして命を舟島にとどめたという話である。  この物語をした中村守和というのは十郎右衛門といって侍従松平忠栄に仕え、刀術及び和術《やわら》に達した人だが、「巌流宮本武蔵と仕相《しあい》の事、昔日老翁の物語るを聞けば」と云って右の話をはじめたのである。  別に『撃剣叢談巻之四』に拠ると、仕合の模様は少し違っていて──いよいよ武蔵と小次郎が仕合をする事にきまると、双方の弟子どもは大そう恐れ危んだが、武蔵の弟子山田|某《なにがし》という者が小次郎の弟子市川との話の序手《ついで》に、「岸柳は物干ざおと称ぶ大太刀を好むよしだから、これに勝つため宮本先生は木太刀を拵《こしら》えておられる」と語った。すると市川が云うのに、 「岸柳先生には虎切りと申して大事の太刀がある。大方、この太刀で勝負をなさろう」  山田は帰ってこの由をつぶさに武蔵に告げると、武蔵は、 「虎切りは聞き及びたる太刀である、さもあろうか」  とわらった。さて勝負の日になって、『武蔵ハ軽捷無双ノ男ナレバ岸柳ニ十分ニ虎切ヲサセテ飛上リ、革袴ノスソヲキラレナガラ、岸柳ガ眉間ヲ打砕テ勝タリ』という。 『二天記』になると、この仕合の模様はかなり詳細な、即ち我々にも馴染の深いものになってくる。小次郎は師の勢源の小太刀に打太刀をつとめて、遂には師のために物干ざおと称する三尺余の大太刀を使うような奇矯の剣士となったが、勢源が田村丸なる小束の名手に討たれたので、一刀に田村丸を打ちすえ、諸国を修業して豊前小倉に来たとき、時の城主羽柴(後の細川)越中守忠興に認められて藩士の師範役となった。認められた機縁というのは、忠興には似我《じが》与左衛門という太鼓の師匠があって、忠興自身は蘊奥《うんのう》をきわめたつもりでいたが、似我は、 「残る所なき御拍子なれども、撥《ばち》が未だ切れ申さず。是某に劣り給う所なり」  と云って肯かない。そこで色々と工夫をしている頃、恰度小次郎が城下に立寄って異様な大太刀を使う兵法者との評判が高かった。忠興は試みに小次郎を招いて、右の太鼓の話をすると、少時考えていた小次郎が、 「弓をお引きなされては如何」  という。太鼓の修業に弓とは不審なことを申すと、忠興も其の場では訝《いぶか》ったが、或時、云われるままに弓を射ていて、ふと絃《つる》が切れた。はっとした忠興は、弓を地に投げ、 「太鼓の撥の切れるというを今こそ合点致した。匆々似我を呼べい」  そう言って太鼓を取出し、試み打っている所へ似我が伺侯して来たが、遠くより音をきいて、「さてもさても太鼓の撥が初めて切れ申したり」と言い言い忠興の前へ出仕したという。  ──これが機縁である。小次郎は爾後小倉にとどまって藩士の指南をする身になった。  武蔵の方は京都から小倉へ来て、家老長岡佐渡を訪ね、小次郎との試合を申込んで忠興の許可を得た。長岡は武蔵の養父無二斎の門人だった人である。仕合の場所は舟島、時刻は辰の上刻と定められた。小次郎は忠興の舟。武蔵は長岡佐渡の舟で渡ることになった。  併し、長岡の舟では武蔵一流の懸引が出来ぬ。武蔵は無断で前日下関に渡って、舟宿小林太郎左衛門方に泊る。而して当日、日が既に高く昇って漸く起出で、亭主に乞うて櫓を求めて木刀を削った。その間小倉からは両三度渡船せよとの急使が来る。武蔵のこの日の服装は絹の袷《あわせ》を着て、手拭を帯に挟み、その上に綿入を着て小船に乗った。召しつれたのは宿の僕一人であった。さて船中で紙捻《こより》をして襷《たすき》にかけ、右の綿入を被って伏した。これは気を散らさぬためである。  島では厳重な警固が施されていた。武蔵の船が着いたのは巳の刻に近い。船を洲崎にとどめ、被っていた綿入を除けて刀を船に置き、短刀を差して裳を高くからげ、彼の木刀を提げて素足で船から降り、浅汀を渡ること数十歩、行く行く帯に挟んだ手拭を以て一重の鉢巻をした。  小次郎の方は猩々緋《しようじようひ》の袖無し羽織に、染革の立附袴《たつつけばかま》を着し、草鞋《わらじ》を履き、備前長光の三尺余の太刀を帯びて待ち疲れた様子であったが、武蔵の来るのを見て、進み出、水際に立って、 「我は約束通りに来た、お手前の遅れたは臆したるか」  と叫んだ。  武蔵は聞えぬ体をよそおう。小次郎は怒り、刀を抜いて鞘を海中に投じて水際に進むと、武蔵の口をついて、例の「惜しや小次郎、早や敗れたり」の白《せりふ》が出る。  それからの勝負は「虎切り」の条《くだ》りで述べた通りで、小次郎は先ず武蔵の鉢巻の結目を切って落し、かえす刃で、伏し乍ら武蔵の袷の膝あたりを三寸ばかり切り払った。同時に武蔵の木太刀は小次郎の脇腹の骨を打折った。小次郎は口鼻から血を吹いて気絶して息が絶えた。繰返すが小次郎は七十歳前後、武蔵は二十九歳の元気旺りである。     二  ところで、佐々木小次郎に勝った武蔵の武名は大いに揚って、後、この勝利により武蔵は細川家の兵法指南となったが、それ程、武蔵の名を高からしめるにふさわしかった小次郎の前歴が、富田勢源の門人ということ以外に殆ど知られていないのである。細川家に小次郎の仕えたのをかりに五十歳としても、ほぼ二十年間は細川家にいたわけになる。何らかの、その間の挿話や武芸談が伝わってもよい筈だのに、それが無い。とすると小次郎は殆ど、人の噂にのぼるような仕合はしなかった為と見なければならぬ。武辺立てや剣技に一生を托する戦国末期の兵法者として、これは稀有にちかく、小次郎の器量が余程良く出来ていた証拠である。云うなら、佐々木小次郎は一般に考えられているような派手な人物ではなくて、実質は素朴な、且つ誠実な男だった。他流仕合を禁じた中条流の流れをまもった人なのである。  鞘を捨てた一件にしても、武蔵は早速揚足を取ったが、普通に考えて、物干ざおの如き長いものを帯していたのでは身の動きに不便でもあろうから、大切の仕合に望んで鞘を捨てるのが当然で、そういう物を思慮なく身につけて仕合をする方がおかしい。捨てるなら海へ捨てる。砂浜だと鞘口から砂利が入り、のちに刀身をいためるからである。又、足許に長いものが転っていてはお互いの技《わざ》に支障をきたさぬとも限らないし、第一、敵に無残に踏まれる惧《おそ》れがある。  これらの点を考えると、小賢《こざか》しく揚足など取った武蔵は、如何にも血気盛りの青年兵法者で、却って人物の上で小次郎に一|籌《ちゆう》を輸している。然もその武蔵が勝って小次郎は負けた。別に不思議はなく、小賢しく立廻る者が誠実の人を措いて出世をするのは、現今我々の周囲にもよく見かけることである。人生で誠実者の無惨に敗北するそういう仕組や比率は、いつの世にもさして変りないわけだろう。  ただ、生き方の上でなら敗者にも一応の理《ことわり》や同情がゆるされようが、勝負の世界には絶対にそれがない。負けた者は悪いし、勝つ者は常に正しい。これは重要な事なので云っておくのだが、一体、兵法者が負けるを覚悟で仕合に臨むことは断じてない。藩士なら「忠義のため」に或いはそうする場合もあるかも知れないが、剣術者には、ない。同様に勝つと分って仕合にのぞむことも、ない。彼が真の兵法者なら、彼らは勝つとも負けるとも予測しがたい或る不可知なものを相互の剣理に感じとった時、はじめて、その不可知に生命をかけて仕合をするのである。未知へのこの貪婪《どんらん》ないのちがけの探求心が、他者の目に、まことしやかな様々の理由づけで受取られるのは、受取る方の勝手なのである。まして勝利が齎《もたら》すであろう名声や利益を以て、仕合そのものの動機と見るのは大へん次元の低い精神の操作に属する。仕合する彼ら自身は、仕合そのものに対しては驚くほど用意周到で、計算高くて、時に狡猾だが、あくまでそれは勝たんがためであり勝利の利益のためではない。そういう利益に対しては寧《むし》ろ愕《おどろ》くほど彼らは無欲で、恬淡《てんたん》としている。不可知の一瞬を生命がけで生きとおった精神の喜悦にくらべれば、世俗の名声のよろこびなどは精神の喜悦の消えゆく時に初めて必要となる性質のものだろう。  武蔵はだから九州一円に聞えた佐々木小次郎に打勝って、直ちに船に帰り、自ら棹して急ぎ舟島を去った。渠《かれ》が細川家に客分として大組頭格で遇されたのは、寛永十七年──舟島での試合より既に二十数年を経た後のことである。一方小次郎は、むろん敗けると承知で舟島に臨んだとは考えられない。七十歳の老剣術者の胸中にも何らかの精神の昂揚と不可知への追求があったと見なければならない。はじめに書いたように、中村守和の聞き書を除いては仕合前の小次郎の心懐をうかがう資料は皆無なので、この点、想像にたよる他はないが、多分、小次郎の昂揚の中には、「虎切り」の太刀へのこころみがひそんでいたのではなかろうか。  天保年間に版行された、岡山藩士で兵法師範役の家に生れた確斎|源《みなもと》徳修の武芸書に依ると「虎切り」に就いてこう書かれている。   一、岸流(一に佐々木岸流と云)   岸流は宮本武蔵と仕合ひせる岸流が流也、岸流流と云べきを略して呼びならはせるなるべし、今以て西国に此流多し、諸国にも往々其名を聞けり、此流に一心一刀「虎切り」と云ふ事有り、是は大太刀を真向におがみ打ちする様に構て、つか/\と進み、敵の鼻先を目付にして矢庭に平地まで打込む也、打なりにかゞみ居て、上より打処をかつぎ上げて勝つ也、因州鳥取に小谷新右衛といふ者も此流の師たり、云々。  右によれば舟島で小次郎が武蔵の裾を払ったのは紛れもない「虎切り」の太刀である(俗間に有名な「燕返し」なる太刀すじは、似たものが各家の奥伝に見られるが、信頼すべき兵法書で、特に小次郎独自の燕返しの太刀を振ったと誌されたものはない)。「虎切り」が燕返しの別称かどうかも明らかでないが、柳生新陰の目録書に「つばめの逆羽にかへして、襲ひくる猛鳥をやりすごす如く頓にかるく早く巡る太刀を燕廻といふ」とあり、心形刀流の目録では虎が尻尾を以て己が背を叩くように、身を返す勢いで敵を打つのを虎尾の太刀と称しているから、剣理の上で「虎切り」と燕返しは似たようなものであろう歟《か》。  何にしても、小次郎はこの虎切りの太刀を使って武蔵に敗れた。七十歳の老齢の所為《せい》という弁明は一切成り立たない。口碑の上で、小次郎は慢心の男と見做《みな》され、非情の妖剣使いにされ、武蔵を引立てるに相応《ふさわ》しい年齢に引戻され、遂には倨傲《きよごう》の人物に仕立てられる。敗者の運命である。  併し、小次郎にも颯爽として武蔵と同じく勝機を掴《つか》んだ時期があった。初めて「虎切り」を会得した頃で、恰度、諸国修業の途次に大和の柳生の庄に遊んだ頃のはなしである。     三  或るうららかな春の一日、奈良|嫩草山《わかくさやま》の麓から東里を越えて、忍辱山の峠道へかかる旅姿の武士があった。忍辱山を越せば道は一すじに大柳生の里に入る。峠に茶店とてもないが、武士は春霞む山里の村落をはるかに見下して、道のかたえに憩《やす》み、汗を拭った。三十歳前の逞《たくま》しい筋骨が、陽に焼けて色褪《いろあ》せた木綿袴やそら色小袖の上からもうかがえる。武士は屈託のない顔で、鷽《うそ》の琴を掻き鳴らすに似た啼声《なきごえ》を聞き入ったり、棠梨《やまなし》の花を眺め上げたりする。空を仰ぐと、木洩れ陽が青く顔に染まるが、屈託ない容子に見えて表情に一抹の憂いの翳るのは、青葉の所為ばかりではなさそうである。  武士は充分の休息をとって、やおら腰をあげた。  その時、一歩々々を踏み緊《し》めるように、落着いた足どりで武士の後ろへ同じく峠を登って来た今一人の牢人があった。  前《さき》の武士は振向いて、何故か眼を鋭くしたが、直ぐ歩き出す。あとの牢人は、これは休まずに歩みつづける。両人の間には一定の間隔を保って下り坂の歩行がつづいた。  後から来たのが小次郎であった。  暫くは何事もなかった。  恰度、道が勾配をとって急に曲る処に来たとき、小次郎の歩みがふっと緩んで、立停った。前の武士が岩角を曲った途端に急遽駈け出す足音を聞いたからである。  人情の自然で、角を曲った先きに何事があるかと、後の者の気が誘われる。普通なら、だから思わず足が早くなる。流石《さすが》に小次郎は誑《たぶら》かされずに歩み停った。前の武士は変身の音を使ったのである。忍び者がこの術を心得ている。跫音《あしおと》と見せかけたのは石を蹴ったのである。 「早まるでない。わしは斬れんぞ」小次郎はじっと立停って岩影の向うへ声をかけた。それから暫くして、岩を曲った。  武士は以前と同じ距離を置いて、歩き出している。  小次郎の歩度も従前とかわらない。あたりに人影はない。 「お主は誰じゃ」  しばらく行って、前の武士が歩き乍ら声をかけて来た。小次郎の方へは見向かぬ儘である。 「姓を聞いて何とするぞい」  小次郎は軽やかな相手の歩行に目をそらさない。 「お主をわしは、柳生の者かと思うたのじゃ。どうやら、当て違いじゃ。お主は他国者じゃな」 「わしは越前宇坂の庄で、佐々木小次郎というわい。柳生の者に、何ぞ恨みでもあってか?」 「ある。わしが父上は女首の恥をさらされ、切腹なされた。これは詮方ない。しかし、柳生の仕打ちもあんまりじゃと思うたから、わしは修業をしてきたのじゃ。かならず、打勝ってみせる」  前の武士はそう言って、つと立停って小次郎を振り向いた。青い顔色は、矢張り葉洩れの陽の所為ばかりではなさそうである。  戦場では敵の首《しるし》を上げても持ち歩くわけにはゆかぬので、鼻を削いで鎧《よろい》の胸板へ入れて持つのを正法とする。これには一定の方式があって眉間から下層へ削りさげるが、その法を知らず濫《みだり》に削り取ったのを女首と称するのである。  身分賤しい足軽などが、怪我の功名で折々この恥をさらすというから、武士の父も戦場の物笑いとなって自殺したものであろう。且つ死の直前に一きわ柳生家の者の面罵を受けたに違いない。  武士は更に己が姓名を中川新兵衛と名乗ったが、小次郎は相手が立停ると、己れも停って用心深く近寄らなかった。足軽の子で中川と名乗るのは、多分近在の中ノ川の出身だからであろうが、どういう修業をして来たにせよ、忍び者では迂闊に近寄れないのである。  武士は瞭らかに失望したらしかった。新兵衛と名乗る渠《かれ》にも、小次郎の容姿を見れば、その凡その身分は判然する。謂わば似た境涯の親しみを示そうとしたのである。 「お主も兵法者なら、」武士は白眼で冷やかに小次郎を見据えて、言った。「わしが柳生に挑んで斃《たお》れたあかつきは、野辺の花なと供えてくれいや。わしも、何処ぞでお主の消息聞いたら、きっと回向をしてやるわい」そう言い捨てて、パッと身を飜して、一気に坂を駈け下った。     四  武士が斬られたのはこの翌日である。柳生の二男、源二郎典厳に仕合を挑んで、一太刀で斃れた。屍骸は野辺に捨てられ、首は鼻を削いで落首を附して街道すじの枯木に吊下げられたのである。全て源二郎の処置である。  そもそも柳生家は、往古は春日神社の神職を務めた藤原氏の一族で源平の比《ころ》菅原姓に改め、宗厳の時代に筒井順昭につき、松永久秀に属し、織田信長に招かれて将軍義昭に仕え、大友宗麟にも属して金子で二千石を領した。その間隠し田のことで両三度領地を失っていたのを、徳川家康に招かれて鷹ヶ峰の仮屋に到って、兵法師範として旧領に復するのは後年の話である。慶長五年、石田三成が旗上げに先立って家康を刺そうとした時に、兵法の奥儀を得るためと称して家康が宗厳を伏見城に招き、七日間引籠って難を遁れたという話も遺っている。  宗厳のこの武芸は、はじめ新当流の神取新十郎に学んだ。そうして畿内一二の達人であったが、のち上泉信綱に就いて新陰流を修めた事は周《あまね》く知られている。宗厳には五人の男子があった。いずれも武芸に秀でたが、中で最も卓抜だったのが源二郎典厳なのである。  長男の新次郎厳勝は、有名な尾張の柳生兵庫の父である。新次郎もよく使ったが、十六歳の初陣に鉄砲で腰を撃たれて不具となった。二男が源二郎で、四男の五郎右衛門も伯耆《ほうき》の飯山城に客となっていた時、城主を援けて中村伯耆守の多勢を引受け、大いに武名を轟かしたが、慶長八年城陥るに及んで城中より打って出、新陰流の古勢「逆風の太刀」を以て甲冑武者十八人を斬り伏せて戦死をした。五男の又右衛門(例の但馬守宗矩)は小次郎が柳生に来たこの頃はまだ生れていない。  さて源二郎典厳は、はじめ父に倣《なら》って新当流を修めたが、宗厳が新陰流に代っても渠は新当流をまもって譲らなかった。「兵法は敵を倒せばよろしく、流派は武略の如何に関りますまいぞ」というのが父への抗言であったという。事実腕もズバ抜けて出来たのである。それで宗厳も親の情と技倆に魅かれて源二郎の粗暴の振舞いをはじめは宥《ゆる》した。併し、遂に堪えきれず剃髪させて桑門に入れ、名を義仙と改めた。寺は柳生の法勝寺であった。  だが義仙の奔放は歇《や》まない。折を見ては寺を抜け出し、生家の道場へ遣って来る。故意に法衣を纏っている。義仙は身長六尺余の偉躯だから、どう見ても破戒僧か荒法師である。偶々道場で他流試合を希む者と出会すと、自ら相手をかって出て、豪力を以て打ちすえる。その試合ぶりは、相手と抜合うや、するするとしかけ、 「おいとしほや」  というより早く眉間を打つ。この「おいとしほや」の懸声が義仙のくせだったそうである。打つ力がつよいから相手はのけ反って気を失うのが殆どであった。  こういう義仙が中川新兵衛を斃したのである。     五  小次郎は、当初は法衣を纏う相手と仕合をするつもりはなかったろう。師の勢源の小太刀に打太刀を命ぜられ、云わば師の偏執の犠牲となって物干ざおの奇剣を使う事にも甘んじたほどの、小次郎の実直な気質では、素朴単純に仏道への崇拝心を懐いていたろうとは容易に想像出来ることだからである。従って、この頃の小次郎を無類の達人だったとはまだ云いえない。  小次郎を、一世を風靡する名手に仕上げたのは、だから勢源を除いては他ならぬ柳生義仙だったという見方は正しい。何故なら、源二郎典厳義仙は小次郎に剣の道──すなわち覇道の何たるかを教え、併せては「虎切り」の太刀を工夫させた当人だからである。  ──恰度、小次郎が街道の吊し首の前で、「むごい仕打をするものじゃ。柳生兵法の正体は、これかい」  と呟いていると、傍らに風貌|魁偉《かいい》の僧が来て立った。 「何じゃ、お主も武芸を心得ておるか。それならわしが引導を渡してやろう。死ねば仏じゃナ。なまなかに兵法者面をいたしておるより、|まつと《ヽヽヽ》ましじゃろ」  と言う。  小次郎は驚いて顔を見直した。僧は更にこう云った。己れの真の姿を知らぬ者ほど世に見苦しいものはない。とりわけ兵法などを使う者がそうである。己れの拙さを知らず、愚かな仕合など挑んで人を傷つけ、人を泣かす。そういう奴は容赦なく武芸を諦めさせるに限る。なま兵法を生かしておくより、いっそ成仏させた方が世も無事であり人も治ろう。わしはそれで仮借なく打据える。片端にしても悟りきらぬ奴は斬る。わしのこの武芸が邪道なら、そんなわしに斬られる手合の兵法はよくよく愚かに出来ておる、所詮物の用にも立つまい、と云うのである。 「仏の御慈悲は無辺際じゃ。わしも赦《ゆる》される、わしに斬られる者もゆるされる。のう、剣に仁などありはせんぞ」  そう言って、カラカラと打笑って、立去って行く。  小次郎は呆れ顔で見送ったが、その目を吊し首に戻し、再び義仙の背姿を眺め遣って、次第に青ざめた。義仙の言は兎も角その背姿には、微塵の隙もなかったのである。たしかに僧が邪道に堕ちているなら、何故、邪道がしかく強いか?     六  佐々木小次郎が法勝寺に義仙を訪ねて、己が疑問を糺しはじめたのは『柳生剣談落穂集』によれば天正八年庚辰歳五月で、時に小次郎は三十七、義仙は二十七歳である。「小次郎言をつくして問ふといへども義仙禅機に遁れて応へず、遂に問答十有数日をつひやして仕合に及ぶ」とあるから、小次郎が太刀の上で正邪の謎を解こうとしたのは、もう盛夏に入ってからであろう。仕合は小次郎が真剣で、義仙は、木刀を把り、場所は柳生の道場だった。  尤《もつと》もこの仕合をはじめる前に、両三度小次郎は道場に赴いて義仙の仕合ぶりを目撃したが、中に宝蔵院胤栄の添書を携え来た者で、神道流の米田《こめだ》某という者との仕合があった。宝蔵院胤栄と宗厳は偕《とも》に上泉信綱から教えを受けた眤懇の間柄で、従って胤栄の紹介する程の米田は腕も充分に立ったらしい。  併し義仙の「おいとしほや」を蒙ることにかわりなく、米田は体をひらいて二の太刀を仕懸けたが、眉間をかすった義仙の返す太刀に股から下腹部を搏《う》たれて喪心した。柳生流燕廻を義仙は使ったのである。  小次郎は、つぶさにこの試合を見て、二日あまり考えた。それから試合を申込んだと『落穂集』は云っている。  仕合の当日、小次郎は道場に臨んで正坐し、義仙の前で悠々と物干ざおを抜き放った。この時小次郎は坐った位置から、太刀と鞘でそれとなく天井までの高さを測って居った。常の太刀とは違う、どんなことで振りかぶった切先が天井に閊《つか》えぬとも限らぬからである。義仙は眼を光らして、微笑を含んでその様子を眺めた。  道場正面には長兄新次郎厳勝が着座したとも云い、着かぬともいう。宗厳はいなかった。  両人は互いに一礼をして相対した。見ていた柳生の家人は、「おいとしほや」が今出るか、今出るかと待っている。  しかし義仙はらんらんと眼を瞋《いか》らし、その儘動かなかった。次第に青ざめた。小次郎の面にも血の気はひき、眉に汗が溜って、滴り落ちた。  武者窓から夏の湯気が白炎のように射込んでいる。義仙の袗《すずし》の衣《きぬ》の襟《えり》がひらいて胸毛が見え、胸は息を詰めたような呼吸づかいを見せた。その口辺は併し皮肉な笑みを消さなかった。笑みのある限り、「おいとしほや」がいつかは衝《つ》いて出るのである。義仙は浮舟に構え小次郎は青眼である。  やがて、小次郎の面上に蔽い難い絶望の色があらわれた。それが狂暴な怒りに変じてゆくを見た者ありと『落穂集』の作者は書く。遂に小次郎の復讐される時が来たのである。自分の誠実さが剣の上で復讐されたのである。小次郎は十七歳の秋まで師の小太刀を相手に修業した。師の勢源の小太刀を試みるため次第に小次郎の太刀は長くなった。何処までも師のお役にたてばと小次郎の醇朴《じゆんぼく》さは考え、ぶざまな物干ざおを背にする己が姿にも我慢をしたが、今、義仙と対して己れが我慢をしてきたものは実は何であったかを知らされたのである。  即ち、太刀の長さは一般には技倆を補う。互角の勝負なら、長い太刀を使う者の切先が、より早く相手に届く道理である。勢源はそれ故上達すればする程小次郎の打太刀を長くして試す必要があった。併し、もし勢源と互角の者があって、小太刀でない並の太刀を使えば、必ず小次郎は負けるわけだ。即ち今、抜き合った義仙がそうなのである。少なくとも小次郎にはそう見えたのである。  富田勢源がよも自分以上の者は天下に二人とないとは考えなかったろう。従って、己れと同等の者と小次郎が仕合をする時、必ず小次郎の負ける事も了知していたに違いない。知っていて、弟子をためしに使ったのである。何という非情であるか、師の勢源はわしのいのちを嬲《なぶ》っておられたも同然じゃ。そう考えて、小次郎は絶望し、憤った。  この心理の推移は、むろん一瞬の閃きであったろう。義仙がそんな動揺を併し見のがす筈はなかった。  するすると義仙の方から仕懸けた。義仙の口が皓《しろ》い歯をのぞかした。瞬間に、小次郎は身をなげつける如くに躍り込んだ。悲憤の泪《なみだ》に目が光っておった。白刃《しらは》と枇杷《びわ》の木刀は同時に打ち下された。道場で見る者は斉《ひと》しく「あっ」と叫んだ。  斬られたのは義仙である。小次郎の太刀が一瞬早く左袈裟に義仙の肩を斬り落した。然るに義仙は、皮一枚残ったブラブラの右腕を振りあげ、 「おのれ」  と絶叫して、悪鬼の形相で小次郎の面体《めんてい》めがけ木刀を叩きつけた。小次郎は身をしずめ払い上げに二の太刀を振った。切尖は義仙の顎《あご》から鼻すじへ抜けた。巻きあがった義仙の舌の先きがパッと二つに割れ、 「おいとしほや……」  呻《うめ》いたその声が「ぼびどじおや」と濁って二つに聞こえたという。義仙の体は大木の如く道場の踏板に倒れた。  小次郎は「お師匠さま」と一声して、勢源に勝る武芸者のないことを覚り、しずかに其の場で哭《な》いた。 [#改ページ]  山 吹 の 槍  江戸を発して東海道を京へ上ると、四日目に島田の宿へ着く。前の河原が大井川である。参覲交替の制も漸く定まった寛永十九年六月に、この島田の宿の定宿へ先触れもなしに辿《たど》りついた蜂須賀の家来があった。木村三左衛門といって、君侯が江戸から阿波へ帰国される宿割りの為に先へ此処へ来たのである。  ところが、定宿横田屋甚兵衛方には既に高取藩の岡本勘右衛門なる侍が先きに来て宿を取っていた。大名の参覲交替の往来には、各|宿《しゆく》とも本陣へ泊る。重役以下の家来が脇本陣へ泊る。どこの宿でも本陣、脇本陣と二つある。もっとも小さい宿場には本陣しかないところもあるが、大きい宿といっても本陣の二つあるところはない。従って一つ宿場へ大名が同時に二頭《ふたかしら》以上泊ることは出来ないので、そういう時は一方が他へ行越すか、手前で泊らねばならない。それがこの時は家来同士さきへ来たのが、かち合ったのである。  蜂須賀は二十五万六千石、高取藩の植村出羽守は二万五千石である。それに横田屋は蜂須賀家には定宿に当る。主《あるじ》の甚兵衛はこの次第を言って、恐る恐る岡本勘右衛門に何処か他の宿所へお移りを願えまいかと頼んだ。  勘右衛門は高取藩で御供番を勤め禄百十石の平士である。この時二十七歳で、色が黒く、顴骨《かんこつ》の出張った見るからに一徹者らしい顔をしている。 「先程からの其方の申し条、ちと常識をはずれておりはせぬか。身共とて私に当宿へ参ったものではない。あらかじめ先触れも通し、主君出羽守さま御宿割りの役目を以て投宿致しておる。それが、今に及んで先触れもなき蜂須賀家が家来のため転宿致せとは、チト言葉が過ぎはせぬか」  言って、ぐいと顔を外向けた。それきり一言《ひとこと》も言わない。島田の宿は旅籠《はたご》屋が提灯を松明の如く掲げて河原に面している。西風のはげしい晩で、河面《かわも》の光る大井川の渡しを人足が松明を打振り、ヨイさヨイさと懸声をかけ渡って行くのが座敷の窓から見える。主の甚兵衛は、いつまでたっても勘右衛門が相手にしないので、あきらめて座敷を出た。  上り框《かまち》の脇に手代を相手に茶を呑んで待っていた木村三左衛門へこの由を告げると、 「たわけた事を申せ、先方はたかが二万五千石、我らは阿波二十五万石の雄藩じゃ。そもそも植村出羽守さまが家中の者は未だ参覲交替に馴れぬによって、定宿も之なく、左様の無知を申すのであろう。何としても君侯が宿所を変えるわけには参らぬ。後刻、供の者など参れば、それ迄に先方へ談じて手筈は整えておくがよい」  そう言い捨てて横田屋から半丁余り引返した茶店で、話の決着を見る迄待つからと土間を立っていった。  甚兵衛は大いに困惑をして、再び勘右衛門の座敷にあらわれると、三拝九拝して今一度お考えを願いまするようにと頼み込んだが、頑として応じない。それのみか、供の者に湯を遣ってくるがよかろう等と指図する。 「何としても御転宿がなりませぬか」甚兵衛は言って、すごすご帳場へ引下った。  そこで家人もよりより相談する。無論よい考えの浮ぶわけもない。その裡にも茶店の木村三左衛門の方からは「まだ話がつかぬか」と供の者が尋ねに来る。刻々と時刻が移る。遂に蜂須賀方ではしびれを切らして、当藩が植村家のため本陣の定宿におさまれぬとあっては、一藩の面目にも関わることであるから、横田屋甚兵衛以下その儘にはせぬぞと言い出した。  甚兵衛は色を失って、三度び勘右衛門の前へ跪坐して、 「当横田屋は蜂須賀様には御先代蓬庵様の比《ころ》より定宿と定められております。どうしてもお宿をお替え下さらねば当宿のもの全体が大いに迷惑を致します。何卒、枉《ま》げて御承引頂きまするように」  泣かんばかりに手代家人ともどもに頼み込んだ。言外にあるのは、何といっても禄高二十五万石と二万石への天秤である。  勘右衛門もそれが分るから猶更、意地になって肯《がえ》んじなかったが、もともと植村出羽守家政が大和高取城を賜ったのは一年|前《ぜん》の寛永十八年で、岡本勘右衛門自身、参覲交替の宿割りに東海道を上るのはこれが初めてである。何かと、その為余人に新米とうしろ指をさされたくない身分の張りがあり、一そう楯をついている。自分でも反省されていたから、 「成程、当家がただ蜂須賀侯の定宿であるから他所へ移れと申すのでは、あらかじめ先触れを致して投宿した手前、動くわけには参らぬが、宿方が迷惑いたすというも不愍《ふびん》であるから、如何にも転宿いたしてくれる。但《ただ》し、断じて我が藩が蜂須賀侯より小身の故ではないぞ。この点は確めおけ」  そう言って、内心は面白くないが、一たんそうと決めた上はぐずぐずしていても仕方がないので、横田屋を引払って別宿《べつやど》に移った。待ちかねた如く蜂須賀家の家来は島田宿の本陣へ入り込んで宿を取った。  岡本勘右衛門の移ったのは同じく川に面して、いまいましい横田屋からは出来るだけ隔った伊藤屋なる宿である。同じように河原をのぞむ部屋に通されて一息ついていると、槍持の弥五平という者が恐れ入って敷居際に手をついた。 「滅相なことを致しました。御転宿をいそぎましたので御持槍を本陣へ置き忘れて参りました」と言う。  当時きまったことであるが、本陣に宿が定まると、そこへ幔幕《まんまく》を張り槍などを飾っておくしきたりがある。弥五平も主人同様、宿割りの旅には馴染んでいなかったので、いそいでの転宿でもあり、つい忘れて来たというのである。  勘右衛門は立腹したが、中間弥五平に対してよりも、そういう粗忽《そこつ》の起ったのも元は蜂須賀藩の無理な申出が為である、という気持がある。それで、 「然らば早速本陣へ参り、左様申して取ってくるがよい」  と目を河原に逸《そ》らして吩《い》いつけた。弥五平は匆々に退出した。  姑《しばら》く待っていたが、却々《なかなか》戻って来ない。ようやく打凋《うちしお》れて勘右衛門の前へ来て、話すところを聞けばこうである──  蜂須賀家の木村三左衛門にすれば、二十五万石と二万五千石、いずれは本陣を譲らねばならぬにきまっていることを「つまらぬ意地を張りおって」と、勘右衛門に対し不快の念をこそ抱け、些《いささ》かも宿を移らせて済まぬという気持はなかったらしい。弥五平が本陣の前へ立つと既に幔幕を張り代え、武器を飾って構えてあったが、弥五平が取次に槍を忘れて取りに来た旨を申述べると、三左衛門が云うには、「それは渡せぬ。槍が武士の表道具であることぐらいは知っておろう。左様の大切の品を、ただ忘れましたと取りに参ったからとて、迂闊に渡せると思うか」そう言って相手にならなかったという。先程の悶着を根にもった意趣返しなのは瞭《あきら》かである。  勘右衛門は聞いて額に青筋を浮上らせた。 「我が藩を嘲弄いたすか」そう口走った。  たしかに植村家は小大名である。併し、武門の面目に於て些かも蜂須賀家に劣るものではない、むしろ将軍家への忠勤に於ては、譜代旗本として植村家は蜂須賀に勝る、という気持が一徹な岡本勘右衛門の胸中に煮え沸《たぎ》ったのである。  当主植村出羽守家政の曾祖父は、新六郎といって、生年十六歳で徳川家康の高祖・清康公に従って尾張へ出陣した時に、一侍安部弥七郎なる者が突然太刀を揮《ふる》って清康を刺したことがある。兼々《かねがね》弥七郎の父は叛心をいだいているとの流言あり、この夜|偶々《たまたま》軍中で馬の暴れたことから、すわ父が誅せられたと早合点して清康に斬りつけたのである。村正が徳川家に祟《たた》ると懼《おそ》れられたのはこの夜の弥七郎の太刀が妖刀村正だったことに始まるが、其時、かたわらにあった植村新六郎は「おのれ逆賊」と叫ぶや弥七郎を一刀に斬りさげた。そうして血刀を下げ、弥七郎の首を片手に握って茫然と突立っていたという。十六歳で人を斬ったのでは無理からぬことである。次いで天文十四年三月、御家人蜂屋某が乱心して広忠公に斬りつけて及ばず、逃げのびようとした時にも新六郎は夢中ながら蜂屋に組打って堀に落ち、その首をあげた。その他、高名数を知らず、天文二十一年三十三歳で沓掛城で討死した。  その子が同じく新六郎栄政で、九歳のとき徳川家康に従って駿河国に渡り、家康の軍《いくさ》始めに自らも初陣して以来屡々功名を樹てて出羽守と称し、寄騎の侍三十騎を附けられた。家康が織田信長と和睦した時、栄政は太刀持ちの役で側にあったが、信長はひと目見て「これが栄政か」と盃を与え、引出物に短刀を下したという。又武田信玄が天下武勇の士を評した中に出羽守を挙げて、大剛の兵と褒称している。元亀年間、上杉謙信は家康へ使者を遣わすのに植村出羽守へも書を送った。栄政は後に家政と改めたが天正五年、三十七歳で卒した。其の子が新六郎家次、家次の子が高取城主家政である。  家次は長湫《ながくて》の役に手柄をたてて父祖の名を落さなかったが、主君信康(家康の子で二代将軍秀忠の兄)の罪に連なって勘気を蒙り籠居《ろうきよ》した。榊原康政は、家次ほどの忠臣を不遇におわらせるは武士の恥と歎いて、自ら所領館林の城近く大島という所に、五百石の地を与えて之を労《ねぎら》った。家次は三十三歳を以てこの地で生涯をとじた。  家政は父の死んだ時は十一歳で、秀忠に召出され、慶長十三年叙爵して志摩守となった。大坂の陣には御徒頭として秀忠の麾下にあり、茶臼山の合戦で、突如前方に兵多く馳せ来るのを見て秀忠が「あれは味方か」と問うた所、供のうち誰一人その旗を見知った者がない。その時家政は進み出て、「某見て参るべし」と一声を残し、相役の主膳に何事か告げると馬を馳せた。主膳は秀忠に向って、「あれは味方に候」と言上した。「汝何ゆえ敵にあらざる事知ったるか」と秀忠が問うと、「さん候、家政それがしに向い、間|無下《むげ》に近ければ、若し御敵ならんには、馳帰り申さん事急にして、御謀をめぐらされん程あるまじ。御方ならんには我、馬をめぐらして帰りなん。敵ならんには駈け入って討死すべし、我が振舞いを見て速かにその由を申せと告げ候ゆえ、さてこそ味方とは存じて候」と答えたので、家政の智略に人は感じたという。  寛永二年、家政は大番頭となった。ついで出羽守に任ぜられ、寛永十八年大和高取城二万五千石を給わったが、大番頭になったのは家政三十七歳の時で、四十未満で番頭を勤めたのは家政を初めてとする。  そういう植村出羽守であることを思うと、もと織田信長に仕え、次に豊臣秀吉の恩顧を受け、今徳川の大名となっている蜂須賀如き何するものぞという憤りが岡本勘右衛門にはこみ上るのである。  併し、戦時なれば兎も角、泰平の今となっては世間はその大名の禄高によってしか評価しない。そういう無念は、これ迄も幾度となく感じているので、勘右衛門は気持を鎮めると、 「弥五平──」  先方の申し条は一応尤もである、何をいっても大事の道具を忘れたのが落度であるから、もう一度出向いて、拙者が請取証をしたためるゆえそれを持参して参るがよかろう、ただ忘れたから渡してくれと申しても、迂闊に渡して間違いのあった節は先方も云いわけが立つまいから渡さなかったやも知れぬ──そう言って、筆を取ると書状をしたため弥五平に手渡した。 「空腹でもあろうが武士の表道具じゃ。戻ってから食事をせい」  と言った。  弥五平は再び本陣へ走った。 「先刻は無証拠で槍をお返し願い度いと申したのは手前の心得違いでございました。今度は主人の請取証を持参いたしました故、何卒、これでお返しを願いまする」  取次の者にそういって弥五平が書附を差出すと、少時して本陣の玄関へあらわれたのは木村三左衛門自身である。槍持弥五平は二十四歳。三左衛門は蜂須賀家にあって二百石を禄する三十前後の痩《や》せぎすな眼の大きい武士である。じろりと弥五平を見据えて、 「此の書状持参いたしたは其方か」 「はい」 「まこと主人の書いたものか?」 「左様でございます」 「黙れ。かりにも高取藩にあって、槍一筋を立てて歩く身分なれば、相当なる家来もいる筈である。然るに中間人足如きを以て槍を貰いに寄越すとは、もし事実なればぞんざい千万であろう。たとえ自分は出て参らぬ迄も、今少し丁寧に、両刀を帯する然るべき者を使いに寄越すが武士の心得。高取藩では、君侯の宿割りを致すに左程心得の無い者を遣わされるか。恐らく左様ではあるまい、其方、独断にて偽りの請取書など携え参ったのであろう。さすれば、誰の書いたやも分らぬ書状に武士の面目に関わる表道具、渡せると思いおるか。帰って主人にそう申せ、汝如き身分も何もない奴、主人より一応の挨拶もなく、ただ当人が粗相を致しました、申訳がございませぬで、大事の槍を渡すような粗略の武士、蜂須賀家にはおらぬとな」  言い捨てて其の場を立ち去りかけたが、ふと立停ると、 「そうじゃ、今一つ申しおく、倖い槍が当方にあるからよいようなものの、万一返さずば、無くなった以上に面倒な事態のおこる位の事主人とて存じておろう。もともとが、其方の粗忽より起ったなれど、云えば左様の|うつけ《ヽヽヽ》者に槍を持たす主人の不覚じゃ。又、槍持の身で、槍も持たずヒョイヒョイ動くがような者、後来の見せしめに首でも打って参るがよい、そう致せば槍は返す。さもなくば、武士の大事の品、滅多なことで引渡さん、と左様帰って主人に申せ」  聞くうち弥五平の顔は真青になった。本陣の玄関である。顔をそむけているが他の誰もが聞いている。自分の粗忽を笑われるだけであれば堪えもしよう、主人に恥をかかされ仮令《たとえ》身分の無い中間とて我慢がならぬ。そう思って色を失ったのである。  木村三左衛門は併し言うだけ言うと、とっとと後も見返らず奥へ立っていった。すごすご弥五平は本陣の玄関を出た。主人の槍は、鞘に山吹の紋のある岡本家代々自慢の一筋である。事がここに至っては死んでお詫びをするより致し方がない。自分は十八の年から岡本家に奉公して随分恩を受けて来た。賤しい身分の生れではあるが、恩を仇にしては犬畜生にも劣る。弥五平は死を覚悟した。  中間は武士の様に脇差などは差していない。西風の強い晩で、いつか小雨さえぱらつき、宿場の軒並に掲げられた提灯が風に激しく揺れていた。丁度主人の待つ宿の手前あたりへ来て、いよいよ足が重くなる、如何に死んだものかと項垂《うなだ》れ歩き乍ら、ふと見ると、とある一軒の軒下に鎌が落ちているのが目についた。弥五平は鎌を拾い上げると、姑《しばら》く刃を見下していて、それを脇腹へ突立てた。  血を滴らせて蹌踉《そろろう》と辿り帰った中間に勘右衛門は目をむいた。斬られて来たと思ったのである。弥五平は、喘《あえ》ぎあえぎ事情を話すと、「先《さき》様の申されまするには、わたくしの首を持参致せば槍を返すとのことでございます。どうぞ、お詫びのこの首を刎《は》ねて、お家の槍をお取返し下さいまするように」言う裡にもう気を失っている。 「しっかり致せ」  勘右衛門は声を励まして抱え起し疵口をあらためた。中間の事とて当人は悲壮に腹を切ったつもりであろうが、腹の皮一枚わずかに掻いているだけである。併し弥五平が胸中を思うと、勘右衛門も漸く肚をきめた。 「──そうか、わしが迂闊であったばかりに其方にまで死ぬる思いを致させたが、いかにも相手の申す通り悉《ことごと》く当方が手落ちであった。好《よ》い、拙者が今から無事に槍を取戻して参るによって、気を確かにして待っておれい」  そう言って、家来の中島|某《なにがし》に弥五平の介抱を命ずると、 「心配致すでない、軽率に諍《あらそ》ったりはせぬぞ。弥五平に代って槍を受取りに参る迄じゃ」  衣服を改めて本陣へ出向いた。  高取藩岡本勘右衛門みずから槍を受取りに罷《まか》り越した、と聞いて三左衛門は意外の表情を浮べた。次いで迷惑そうな顔をしたが、直々《じきじき》に出向いて来たのであれば会わぬというわけにもゆかない。そこで袴を着直して念のため大小を携え応対に出ると、顴骨の張った色の浅黒い武士がこちらを睨み上げて土間に突立っている。人には虫の好かぬ顔というのがある。相手の面構えが先ず三左衛門に不快の念を懐かせた。すると先刻、すっきり定宿を明渡してくれなかった事が癇にさわって来る。 「拙者阿波藩御使役を勤める木村三左衛門。何用にて参られた」上り框から居丈高に相手を睨み下した。  勘右衛門は言った。「当方中間粗忽致したる槍をお預かり願ったこと千万|忝《かたじけな》い。かく受取りに参ったれば何卒お渡し願いたい」 「お手前御家中はいずれじゃ」 「それは申上げ兼ねる」 「身分も明さず武士が表道具たる槍置き忘れて、受取り度いと申されるか」 「槍を忘れたるは何とも面目次第もない。さればかく願い申す、武士たる身がかかる場合主君の名を明かし兼ねるはお手前とてお察しあろう。当方槍持が重々粗略の儀は平にお詫び致す。何卒、槍をお渡し下されよ」  それでも一時《いつとき》三左衛門は上から見下した。勘右衛門は威儀を正し、小刻みに拳を顫《ふる》わして其の場に叩頭《こうとう》して「何卒」と言った。  三左衛門はふと鼻で笑った。「作法も知らぬ槍持を持ったばかりに、武士たるものがよい態《ざま》じゃ、槍なればあれにある。勝手に持帰られたが宜しかろう」頤《あご》で示した。土間の仄暗《ほのぐら》い片隅になるほど、問題の槍が無造作に立てかけてある。 「忝い──」  勘右衛門は一礼して、つと土間の隅へ寄って槍を取上げたが、 「これは」  忽《たちま》ちに顔色を変えた。土間の隅のことで、煤《すす》けた柱に蜘《くも》のいが掛っていたのが槍の鞘に纏い附いていたのである。 「槍は確かに受取った。いかに当方が手落とは申せ、武士の表道具をかかる場所に捨ておかれた返礼は、いずれ、当事者の中間を仕置致した上改めて罷り越す。それ迄待っておれよ」  勘右衛門は言い放つと小雨を突いて宿所へ返した。弥五平は既に正気を取戻していた。その眼前に槍を見せて、 「かく無事に我が手に戻ったゆえ安心を致せ。さり乍ら、其方が粗忽のためあたら家重代の槍を物干竿かなんぞの様に扱われた。不憫ではあるが、今となっては落度あるそちが首刎ねた上、武士の一分|相《あい》立てねばならぬ。鎌で切った腹の儘では死難かろう、只今より某《それがし》が家来として、士分の扱いして仕わすぞ。されば其方も今より一かどの武士じゃ。武士なれば表道具のため一命を捨てるは本望。──よいか、武士らしく身共が介錯を致せば、立派に切腹をして死ね」そう言って、家来に命じて挟箱の中から着替を出させ、大小を取出し、裃《かみしも》を用意させてこれを弥五平に着せた。  本来なれば手討ちになっても仕方のないところを武士として死なせてやる、と言われ、 「忝うございます、それならば切腹の為様お教えを願います」  弥五平は潔くその座に坐り直した。 「此処なれば宿に迷惑をかける。庭へ出よ」勘右衛門は自ら襷をかけると、腹の痛む弥五平を雨の庭に連出して、地面に荒筵《あらむしろ》二枚を敷かせ、宿の主人に命じて新しい畳二枚を裏返しに敷かせた上に、これも真新《まつさら》な白木綿を覆わせ、毛氈《もうせん》一枚を襲《かさ》ねて弥五平を著坐させた。それから腹の切り様を吩《い》い聞かせた。云われる儘に弥五平が脇差を把って腹に突立てると、 「武士なれば胸を反るのじゃ」  一喝した。はッと弥五平が項《うなじ》を反らす処を一刀に首を打落した。余程手練者でないと、相手の気の臆しているときは顎などを削り落して見苦しい首になる。それで声を掛けたのである。 「その方ばかりを死なせはせんぞ。よいか」  勘右衛門は落した首の髻《もとどり》を引掴むと、家来の中村を呼び、 「其方遂一次第を知っておる通り、木村三左衛門というも却々《なかなか》の武士じゃ。万一、それがしの敗れることあらば、今日一日を以てお役目の果せざる次第を重役に申上げてお詫びを致してくれい。倖い勝たばその時のこと。──ただ、この果し合いおれは私事とは思わぬぞ」  そう言って首を引掴んで三左衛門との対決に出掛けたのである。  三左衛門の方では、槍を家来に立てかけさせたのが煤《すす》けた場所であったと知って、勘右衛門が必ず引返して来ることは予想した。そこで事の顛末を箇条書に書き遺《のこ》すと支度をととのえて岡本の来るのを待った。家来の一人が助太刀を申出た時、三左衛門は満面朱を注いで叱った。  軈《やが》て岡本勘右衛門は血の滴る首を携えて現われた。 「好《よ》うわせた。参れ」  三左衛門は本陣を躍り出すと、河原に降立って太刀を構えた。 「世が世であらば上様お旗下に陣する我らが殿じゃ。小身とて植村が家来には骨のあること見せてくれる。覚悟せい」  勘右衛門は磧に弥五平の首を据置くと、それより太刀を揮《ふる》って死力を尽して闘った。数合斬結ぶうち、刀術は稍《やや》勘右衛門が勝って三左衛門の眉間《みけん》をしたたかに割った。三左衛門は片手で顔を蔽い、よろめく所を踏込んで袈裟に斬下げようとすると、 「待て、故意に槍を立てさせたのじゃ」  手を上げて叫んだから、勘右衛門の打太刀に腕ごと飛ばされ血煙りをあげて倒れた。 「見たか」  躍り込んで岡本は三太刀で三左衛門の息の根を絶った。そうして、気のゆるみからどうと河原に尻餅をついた。  木村三左衛門は弥五平を逐《お》い帰したあとで、今度また頼みに参ったら、槍の置いてある場所をそれとなく教えて、蜂須賀家の者の知らぬうちに持帰るようにさせてやれ、それなら角《かど》も立つまいぞ、正面きって参られては軽々《かるがる》に渡しかねる。そう言って家来に吩いつけ、屋敷の床の間から土間へ持って行かせたのである。蜘のいの掛っていたのが双方の不幸である。  岡本勘右衛門は、この事を聞き知った時は|へ《ヽ》の字に口を結んで一言も発しなかった。その|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》が歯を食いしばった徴《しるし》にピクピク動いていた。  主君出羽守家政の命で二日後に勘右衛門は金谷の宿で切腹した。 [#改ページ]  小 鳥 の 餌  麗々《うらうら》小春日和の陽差の注ぐ縁側に、番《つがい》のうその籠が据えられてある。羽搏《はばた》きしたり水を啄《ついば》んでは、二羽は籠の内を交互に飛び交い、こころよげに囀《さえず》っている。  毎朝、うその世話をするのが栢木《かえき》六郎左衛門の日課であった。しかし此の日は午《ひる》前に漸く平常通りに、籠の傍《きわ》へ寄ることが出来た。切腹の時刻が小半刻後にせまっていた。  うそは、琴弾鳥ともいい、鳴声琴の如く、また嘯《うそ》の笛を吹くように妙なのでこの名がある。嘴《くちばし》も尾部も黒いが、両頸から頬にかけて麗わしい紅色を呈し、その囀声愛すべく、色彩また美なので鷽《うそ》姫の一名もあった。俗称、雄の囀声は晴を呼び、雌のは雨を誘うとて(照《テリ》うそ)(雨《アマ》うそ)の別名もある。雀《すずめ》より稍《やや》大きな鳥である。 「志乃」  六郎左衛門は座敷の妻をかえり見た。 「すり代えようのない鳥どもじゃ。たとえ、一日とて姫君様をお慰め申したのであれば猶更。後々、面倒を見てやってくれい」  よめの志乃は、剃|迹《あと》の綺麗な眉をあげて 「はい」  ふくらかな頤《おとがい》でうなずく。 「それからの。念をおすこともあるまいが玄庵どのへは、冥府までも六郎左衛門、感謝の念を忘却は仕らぬとな」  あとはもう鳥籠へ向き返り、目を細めて、口を尖らせ「ろ、ろ、ろ……」と独自な啼《な》き真似をした。上機嫌のときの癖であった。  栢木《かえき》六郎左衛門は阿波徳島藩で奥番を勤めた。定府で、百五十石取り。当年六十八歳になる。もっぱら姫君附きで傅《ふ》役も兼ねていた。よめの志乃は六十二歳。翁媼《おうおん》とも譬えつべきが、二人は未《いま》だ新婚である。  六郎左衛門は二十一の時に十五歳の志乃と婚《えんぐみ》する筈であった。それが急に主君阿波守治昭のお供の列に加えられ江戸入りをした。爾来四十余年、帰国の暇を賜らず、志乃は国許阿波で六郎左衛門の音ないを待った。そうして偕《とも》に老い、白髪の老齢で漸く挙式を済ませたのである。  六郎左衛門が江戸を離れ得なんだのには、主君阿波守に公儀より関東川々の普請《ふしん》、ならびに伊豆国《いずのくに》川|普請《ぶしん》の工役など相|尋《つ》いで課せられたこともあったが、先君丹波守|重喜《しげよし》の私行あらたまらず、いつ幕府より咎めを蒙るやも知れぬ不安があった為もあった。  もともと丹波守重喜は養子である。羽州秋田の佐竹壱岐守の四男である。それが縁組ととのって阿波徳島二十五万七千石の遺封を継いだが、行跡はなはだ斂《おさま》らず、実に十六男十四女を侍妾に産ませた。世俗に謂う精力絶倫であった。さいわい阿波守は嫡子で、父丹波守が 「政事よろしからず、家中および農民等これに堪ざるのよし聞しめされ、養子の身としてことに不慎なり」  とて致仕せしめられ、出仕をとどめられた後も恙《つつが》なく封を襲ったが、致仕後も重喜の乱行はあらたまらない。関東ならびに伊豆の河川工事を殊更、公儀へ願い出て引受けたのも、一つには、隠居のこうした不謹慎を上《かみ》へはばかる配慮があったからである。  ──先年、ようやく重喜は往生をとげた。家臣一同、ひそかに胸を撫でおろした。阿波守は父と異り謹厳実直で、お世継ぎ斉昌|君《ぎみ》もおわします。蜂須賀二十五万石、先ずは安泰と六郎左衛門も嫗《おうな》となった志乃と晴れて夫婦の盃を交し、傍ら、姫君の傍役に専念した。  六郎左衛門らが勤めた奥番というのは、大名家奥向きの取締りで、いずれも女中に関係する役柄ゆえ五十以上の老人がつとめる。冬向きなどは俗にいうアンカ(置炬燵《おきごたつ》)を座側に置き、御用の暇には太閤記、尼子十勇士などを黙読するのが常である。  数多い女中共も夫々《それぞれ》に気をつけて、皿もしくは盆へ煎餅または萩の餅など入れて持って行き、耳のはたに口を寄せて 「あのね、これをね、おいしくはございませんけれど、お茶うけにおあがり下さいまし」  と言う。小声ながらよく聞えてうなずき、眼鏡越しに見て 「これはこれは」  と挨拶する。読書に倦《う》めば居睡りもするが、何分春の日あしの長い頃は、随分退屈して例の餅など菓子に、番茶の入ればなに目をさます。いうなれば終日、あくびをしながら禄を食《は》んでおれば家は治まるので、それが泰平というものである。  こうした老人も、若い時は剣術槍術その他の武芸に出精して、相応の御役に立っていた。老いぼれての已《や》むない奥番であるが、六郎左衛門はそうはゆかなんだ。何分にも、姫君には三十人を越える伯叔がある。斉昌君おわしますとは言え、由来、蜂須賀家は女すじで、先代もそうであったが、先々代、更にはその上と孰《いず》れも当主は他家よりの養子がつづいた。どんなことで斉昌君早世の嘆きを見ぬとも限らない。仍《すなわ》ち姫君は藩主夫人となられぬとも限らぬのである。瞬時も心をゆるがせにせず、誠心こめて六郎左衛門は傅役の任にあたった。  三月余り前のことである。  十五歳の姫君の、六郎左衛門は御爪を剪《き》っていた。大名の息女の爪は小刀で切る。鋏《はさみ》などは使わず、左右の手足に夫々|対《つい》の小刀を老臣が執って切るのである。そういう小刀が、常に、三対、綺麗な金|蒔絵《まきえ》の御爪切箱に納めてある。奥医が御脈を診る時さえ、手を触れるのを憚って糸脈を使う。そういう高貴な姫君の小さく肌白くて可愛らしい足を、六郎左衛門はおのが掌に戴き、丹念に切っていた。姫君は脇息《きようそく》に凭《もた》れ、傍らの老女と何やら冗談口を言っていた。  御ちご姿のいとけない比《ころ》から、双眸美しく、御|髪《ぐし》ふさやかにさぞお美しゅうおなりなされようと、奥女中などしきりに噂してきた姫君で、今や芳紀まさに十五歳、近く松平家より聟《むこ》君を迎え、明年冬には御婚礼の手筈になっている。毎々のことながら、手ずからおみ足を把《と》って爪をお切り申すのが、六郎左衛門には一入《ひとしお》の感慨であった。六十余齢にして妻を娶《めと》ったので子は望むべくもない。桜貝を彷彿する綺麗な爪は、それで剪ったあと、掻き集めて小函におさめて「何年何月。姫君様御歳何歳」と書いた紙片を貼り付け、持ち帰るのを常としていた。  さてこの時、手の爪を剪っている最中に、どうしてか脇息が動いた。はずみで、白い薬指に切先が外《はず》れた。 「これは」  愕然《がくぜん》とした時には、一滴、血が指先に珠《たま》になり、六郎左衛門の袴へ雫《しずく》した。 「許してたも」  菊姫は言った。「わらわの粗忽《そこつ》です。少しも痛うはありませぬ、気にせずに居やれや」 「姫」  六郎左衛門は目をむいて、手を引こうとする菊姫の腕を捉《とら》えて離さず 「力の限り、拳《こぶし》をおつくりなさりませい」 「……こうかえ?」 言われる儘に素直に五指をむすんだり開いたりした。その度に血がにじんだが、見て、ホッと六郎左衛門は安堵の色を泛《うか》べ、忽ち、小刀を傍《わき》に置くと、数尺、後にすべって平伏して 「申訳ござりませぬ」  畳に額をすりつけた。この時、脇差の柄《つか》が畳に触れてガタガタ鍔《つば》の音を立てていたという。あとで、何故即座に刀を離し、お手当て申さなんだかと家老に訊かれ 「不具にならせ給うようなれば、刺し違えて死ぬる覚悟でござった」  菊姫には妹姫が二人ある。しかし血すじなれば、斉昌君に万一のことあれば菊姫君が藩公夫人である。「されば未来の禍根を今に断つ存念であった」と答えた。 「おそろしい男よ」  江戸家老は舌をまいたが、六郎左衛門に言わせればこれが武士なのである。  菊姫の怪我は、帰宅しても六郎左衛門は妻には話さなかった。しかし老女や家老の口を通じて忽ちに家中にひろまった。誰もが 「栢木殿は今に腹を切るぞ」  と言った。原因は如何あれ、姫君に刀で怪我させたのは六郎左衛門である。お詫びに切腹は当然である。併し一向にその様子はなく、暇あれば小鳥の世話をし、出仕の態度も従前に変らなかった。 「あの六郎左どのが到頭|耄碌《もうろく》したか」と人々は陰口した。いちど、志乃は改まった様子で夫の前に出て 「わたくしへの不憫で、覚悟をおきめなさらぬのであれば、あなた様に申訳なく存じます」  と言った。 「何を申すかい」  六郎左衛門は一笑に附し「今さら皺腹《しわばら》を掻いたとて武士道が立つか。武士は事を見届けた上でなくば、死なん」  言ってこんな咄をした。先年、伊予松山藩の江戸詰の士で松田某と児島某とが刃傷《にんじよう》に及んだ。その原因を尋ねてみると深い遺恨があったでもなく、一夕、朋輩五六人と神明前の料亭で飲んだ。その際松田の戯言が頗《すこぶ》る児島の気に障って之を啣《ふく》んで居った。この場はそれで済んだが三田の藩邸への帰途、一同打連れて新馬場まで来た時に、児島が忽ち声をかけて、先刻の無礼堪忍ならず、勝負せい、と白刃を抜いた。松田もさる者で、直ちに「応《おう》」と抜き合せたから朋友が大いに驚き、双方に割って入って組止めたが、松田の肩に血の流れているのを見て、既にここに至っては如何ともすべからずと、手を引き傍観し始めた。これが武士の作法であって、仲裁は双方無疵の間に限るのである。  さて両人暫く斬り結ぶうちに、松田は右手に深手を負い、児島は急所に手を負うて倒れた。松田は直ちに乗り掛って止《とど》めを刺した所、骨につかえて意の如くならぬので、一たん引き抜いて再び刺した。これで勝負は果てたので朋輩一両人が松田を護送して三田へ還《かえ》り、ひと足後れて他の一両人が駕《かご》を雇って児島を載せようとすると、児島は再び息を吹き返し 「卑怯ではないか何故十分に止めを刺さん」  一言喚いて、絶え入った。この事を松田は朋輩に聞いて、少時、沈思してから 「よし、ならば児島に切腹させて呉れい」  と言った。そこで児島の兄の家で切腹させた。実はすでに絶命の後で、兄が手をもって切ったのである。併し切腹であれば児島家は断絶せず、遺子は跡目相続が出来る。松田はなまじ生きている為、刃傷沙汰の罪を蒙《こうむ》って、切腹しても家は断絶である。それでも止めを刺し誤った児島への詫びは立つ。 「武士の切腹とは、そういうものじゃ」  志乃へ六郎左衛門は言った。  六郎左衛門の危念は不幸にして的中した。  菊姫の傷は、軽傷であったのが却って油断をさそい、化膿して|※[#「やまいだれ<票」、unicode762d]疽《ひようそ》の症状を呈し出した。そうと知った六郎左衛門の痛哭《つうこく》ぶりは見るも傷《いた》ましかった。菊姫は発明な少女で、六郎左衛門の前では何でもない態度を示したが、※[#「やまいだれ<票」、unicode762d]疽が激痛をともなわぬ道理はない。外科手術を受ければ、治癒しても指先の裂けた迹《あと》は残る。不具者となる。  今こそお詫びに腹を切るか、今切るかと家中の士は残忍な好奇と期待の目で、六郎左衛門を見戌《みまも》った。次第にその眼は憤りの色をおびてきた。屠腹するどころか、六郎左衛門は右往左往して、江戸市中に名ある外科医を尋ね廻っていたからである。かたわら、神仏の加護を乞い、亀戸天満宮に祈願などこめ出した。  うそ替えの神事というのがあった。毎年一月七日筑前天満宮で、参詣人は木の枝で作ったうその鳥を袖の中にかくし、神前で遇《あ》う人々と互いに交換する。そのうそは天満宮より出るが、中に黄金製のもの数個あり、これを得るものは最上の幸運にめぐまれると言われた。亀戸天満宮では一月二十五日昼中に行なわれ、社前に柳の木で作って彩色したのを売っている。  このうそを参詣人求めて持参すれば、神官これを受けて他のうそを替え渡す。やはり開運の効ありとて参詣人の取分け多い神事である。  六郎左衛門はあまり迷信は信じぬが、うそを飼い愛《いと》しんでいる身でもあって、一度、神事の日に詣でた。その折偶然に知り合った村上玄庵という者がいた。番のうそを飼っている話を六郎左衛門がすると 「餌は何をおやりなされておるのです」と訊く。  尋常の餌であると答えたら、稗《ひえ》は二月に蒔いた種のをお選びなされ、黍《きび》は五月のを。そのほか色々六郎左衛門にも初耳な知識を親切に語ってくれた。多分それで儒者か、農事学者でもあろうかと漠然と六郎左衛門は思い込んだ。まだ二十代の青年ながら挙措に落着きがあり、然もそれは一種威厳をともなっていたからである。  天満宮に一心に姫君の平癒を念じた帰途、偶然、町角でこの村上玄庵と再会した。いちべつ以来の挨拶を交したが、直ぐ玄庵は 「お顔の色がすぐれませんな」と言った。 「少々思案にあまることがござって」  六郎左衛門が答えると 「さようではない。それがしの見るところ失礼ながら、御老体は病んでおられる」  自分は専門外の外科医であるが、診察《みたて》の確かな知合いを何ならお引会せ申すゆえ、いちど、みておもらいになればと言う。 「外科医じゃとお手前?」  六郎左衛門の目の色が変った。玄庵は、困ったように嗤《わら》い 「いかさま、門外漢が差出た事を申し」 「いやいや」  皆まで言わせず、「そうか。お手前外科医でござったか」  実は、斯様《かよう》しかじかである、六郎左衛門はつつまず有りの儘を打明け 「お手前に治せようか?」  老いの眼が三角に尖り、しかも縋《すが》るようであったという。蜂須賀藩にも奥医、匙医、婦人科、本草外科、それぞれお抱えの医者はいる。夫《それ》等はいずれも六郎左衛門の詰問に会いて、創《きず》あと残さず切開することは|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》わぬと言ったのである。 「爪を切っての傷ですな。切ったあとでござるな?」  玄庵は委細を聞き了って、一時、思案をしたが 「引受けましょう。必ず痕は残さずに癒して進ぜます」  平常と変らぬ、落着いた声で言いきった。 「──あなた。松岡武兵衛どのがお出でなされました」  兼て介錯を頼んであった松岡が到着したというのである。 「うん」  六郎左衛門はそれでも少時、籠に口を寄せ、る、る、る、と囀りを真似た。およそ鷽鳥らしくない鳴き様である。うそは無関心に止り木で向きを変えている。陽差は漸く傾いている。 「あれ程家中の罵言を浴びた折には死なず、姫君さまの御平癒を見た今になって、何で死ぬるのじゃ。面《つら》あてかい?」  武兵衛の待つ座敷に対坐したとき武兵衛が、念のため所存を聞こうと言ったのだ。 「何の」  六郎左衛門は答えた。「元通りにおなりなされようと、我らが粗相のため姫君の御手に傷を負わせ申した罪は罪じゃ。それで死ぬるのじゃ」  白状すれば、更に自分は元来武辺未熟である。たとえ咄嗟《とつさ》のはずみにもせよ、武辺上手なればよも姫のか弱い御手に傷を残すようなことはなかったであろう。武士たるものが武芸未熟のため、姫君に傷を負わせるとは大不忠である。死は当然であると。  そう言って、静かに切腹の座に着いたが、武芸未熟と自ら評したにしては実に見事な割腹であったと、後に松岡武兵衛は主君阿波守に言上した。 [#改ページ]  切腹する話  ──秀頼生存説由来──  豊臣秀頼の生存に就いては、古来いろいろと浮説《ふせつ》があって、『備前老人物語』によると、大坂夏の陣に豊臣方が敗れたとき、城内芦田邸に匿《かく》れていた秀頼を、大野治長等が説得して、丸裸にし、太閤秘蔵の吉光の短刀を持たせ、薦《こも》に包んで城の水門から濠へ流し落した。それを、兼て内通のあった織田|有楽《うらく》の舟が、助け揚《あ》げて、川口まで漕ぐ。其処で加藤家の船に移したが、この船は底を二重に作ってあったから秀頼を忍ばせ、無事、肥後国へ伴い還《かえ》ったという。  又『落穂雑談一言集』に依ると、右のように大坂城を落ちのびた秀頼は、島津家の船に移り、恙《つつが》なく薩摩《さつま》に辿り着いたが、土地の谷山というところに閑居して余生を安楽に送った。そうして延宝年間に齢《よわい》八十余歳で没したが、或年、島津家から、具足師《ぐそくし》・岩井与左衛門という者に具足の修繕《しゆうぜん》を申しつけたところ、其の結構が美麗で、却々《なかなか》世の常の具足とも思えぬ。金物は総|金《きん》、紋は桐の|とう《ヽヽ》である。ところがこれは、秀頼の具足初《ぐそくはじめ》の時に、太閤《たいこう》の仰せで先代の与左衛門が縅《おど》したという具足と寸分違わない。不審に思った当主が、大小をいれたと見える箱を開くと、中に又箱があり、それには豊臣右大臣と書かれていた、という。  この他、当時在留の耶蘇教師が著した『日本西教史』第十四章には、大坂落城の事情を述べたあとに、矢張り、秀頼が死なずに西国の一諸侯の許に遁《のが》れたとあり、『明史《みんし》日本伝』にも「秀頼実ハ不《し》[#レ]死《せず》、遁《のが》レテ|至[#二]大和《やまとにいたり》[#一]、遂ニ終ル所ヲ知ラズ」と書かれている。  これらの諸説は、現在、史家の間では考証の余地のない程、採るに足らぬ俗説と一般にされている。──理由は、大坂城を実際に見た人なら容易に肯ける事だが、あれだけ高い城の、水門から堀まで落ちて無事であるとは鳥渡《ちよつと》考えられない。薦に包んであったというが(一説には蒲団ともいう)秀頼は当時二十三歳で、『実録』に拠《よ》れば肥満の大兵《たいひよう》だった。それが水門を通り抜けるさえ容易でないのに、あらかじめ謀《しめ》しあわせていたにしろ、戦闘の|さ《ヽ》中、水を含んで重くなった薦では見つけ出される前に沈んでしまう。  具足の説にしても同じで、紋に桐の|とう《ヽヽ》があったとて別に怪《あや》しむに足らない。島津家でも桐の|とう《ヽヽ》、即ち五三の桐の紋を用いていた。当時の甲冑《かつちゆう》は、武士の死装束《しにしようぞく》、『死後の花』とも称されて、及ぶだけの心を用いて作るのが常だった、島津家ほどの大名なら尋常に秀でた美麗な結構は当然のことである。第一、豊臣右大臣とも書くわけがない。書くなら『羽柴』となっている筈だ、と史家は言う。  ──何にしても、秀頼が大坂の役《えき》で生きのびたというのは、事実無根である点は間違いないらしい。それが、では何故根強く人々に信じられたか?  一般には、徳川を憎み豊家《ほうけ》の治世を懐しむ者が、人情の自然でえがき上げた伝説だろうと云われている。義経ジンギスカン説と軌《き》を一にするわけだ。しかし、単純なその程度の理由で、これほど多くの諸本が書き遺されたというのは、考えれば鳥渡《ちよつと》おかしい。今と違って当時(戦国末)に筆の立つ男はそうザラにいなかった。ザラにいない男達が書く以上、事実秀頼は生存したか、さもなくば、ウソを敢て書くだけの何か事情があったと見なければならない。  古人の言行はしばしば考証家の常識を裏切る。秀頼生存説が流布《るふ》するには、それだけの理由があった。  この物語は、そういう理由を見破って割腹《かつぷく》する武人の話である。  慶長十五年の夏に、宮津六右衛門は肥後の国許《くにもと》を発《た》って尾張に向った。主君・清正は名護屋城の天守閣を構築している。その手勢《てぜい》に二十人あまりの病人が出来た。斉《ひと》しく暴瀉《ぼうしや》で、一同、度重なる使役《しえき》に疲労の甚だしい折だから、至急、増員を差向けよとの命令である。六右衛門は旗奉行でこの比《ころ》四十一歳、主の清正より七歳|少《わか》かった。  此の度のお役目は、六右衛門以下あまり嬉しくない。殆《ほとん》どの者は、一再ならず既に城普請《しろぶしん》の労苦を体験している。而もそれらが悉《ことごと》く無駄骨であったような気がする──  慶長五年九月に関ヶ原の役がおわってから、政局は全く、徳川家康の一人舞台となった。家康は諸大名領地の配置を自由に料理して、先ず己が立脚の地を鞏固《きようこ》にしようと考えたらしく、親臣の第一である井伊直政に近江を与えて(近江は京大坂の咽喉《いんこう》を扼し、豊家の動静を察するに便である)清洲城の福島正則を安芸へ移したほか、池田輝政、堀尾吉晴など豊臣|恩顧《おんこ》の大名を西国に逐いやった。迹《あと》に親藩を配した。江戸と大坂の間に堅固な堡塁が出来たわけで、豊臣氏の一挙一動は置郵《ちゆう》して手にとる如く江戸に知れる。而も、これら転封の措置を、家康は大坂城西の丸に於て沙汰したから、表向きは豊臣家の大老(家康は亡き秀吉より「律儀にして頼母敷《たのもし》き者」と後事を託されている)が、遺児秀頼の命を奉行した如くに見え各武将も抗《こう》する余地がない。むしろ、なまじ事を構えては石田|三成《かずしげ》の二の舞で却って秀頼の身に不利が及ぶ。それに、西国に逐われたとはいうが、禄高に於て各々数倍の増封を受けたに等しかったから、可愛い臣下に潤《うるお》いが及ぶこととて、各将とも表向きは「内府(家康)公|莫大《ばくだい》の御恩」と称して紛らしていた。  が、家康如きが与えきりで済ますわけがなかった。与えたものは必ずそれ以上にして奪い返す。どうして奪ったかと云えば、課役《かえき》である。大封を与えると同時に、伏見城、二条城、大津城、膳所《ぜぜ》城の修築工事を起して各武将に其の手伝い(実は普請ことごとく)の課役をかけた。工事|町場《ちようば》は封禄の高に応じたもので、大体百石について十人、即ち戦場の軍役より重い。而も、右の諸城は関ヶ原役に毀損《きそん》した箇所ゆえ工事手伝いも当然と云えるが、慶長八年に将軍|宣下《せんげ》を蒙《こうむ》ってから、家康はいよいよこの実力減殺の方略を用いて、井伊直政の佐和山の居城(現今の彦根城)ほか、近江の長浜、丹波の亀山等、いずれも家康の家臣の城に豊臣以来の驍将《ぎようしよう》を使役《しえき》したのである。ついで二年に渉《わた》る江戸城の改築、ようやくそれが成就すると今度は隠居するための駿府城を改築させられる。これには一年半かかっている。済むと更に江戸城の天守閣を築くと同時に外郭《がいかく》を拡張させられ、それが了って息《やす》む間もなく、名護屋の築城である。  諸大名も、はじめは、我先きに骨を折り、あっぱれ家康の御感《ぎよかん》に与《あず》からんと主人も家来も奮励して、予期の如く竣成し、是れ見よと大いに誇った。併し、いつの間にか、それが自己を疲労させる大毒薬となっている。と云って、前に甲の普請に衆に抽《ぬき》んでて骨折ったものが、今日、乙の普請に人後に落ちるは武士の意地としてしのびないから人に鼻あかさんと骨をくだく。──一体、太平の世の城|普請《ぶしん》と云えば財を費すのみで、さしたる辛苦もないと見えるが、実の処は、主人家来とも土方人足の如く、雨降るも夜に入るも、股引、半纏《はんてん》、草鞋《わらじ》に脇差を帯するのみで、一国一城の主、又は何千何百石取りの立派な武士が土を荷《にな》い、天秤棒《てんびんぼう》を肩にして、車を挽《ひ》き、あとを押す。食事といえば黒米飯に塩少々。味噌汁などは|たまさか《ヽヽヽヽ》の馳走である。而して、竣工の上は賞与もなく、せいぜい銀何枚で我慢しなければならない。馬や太刀、時服《じふく》を賞賜《しようし》されるのは上層の一、二人に限られている。なまじ、戦場なら、命がけゆえ艱難《かんなん》は覚悟の上であるが、それさえ雨天や夜中の嫌いなく|のべつ《ヽヽヽ》に働くものではない。云えば戦闘以上に苛酷な労働である。諸大名とも内情の疲弊《ひへい》は甚しいが、六右衛門以下の人数が足の重いのも当然だった。  六右衛門は配下の廿六人を率いて、それでも六月十八日夕景、肥後藩の工事町場に著《つ》いた。ほぼ構えの成った五層楼の天守閣が茜空《あかねぞら》に聳《そび》え立っている。  築城の名手と謂《い》われた清正の造営だけに、結構、気宇ともに壮大、大坂に亜《つ》ぐ名城となりそうである。六右衛門は旅の疲れも忘れて、思わず歎声《たんせい》を発する。この城は家康の愛子|義直《よしなお》の居城となる。豊家に弓引くやも知れず、心底に於てはけっして警戒を解いたことのない家康のために、戦場以上の労苦をかけても、敢てこれだけの城を築いてやる武人の肝《きも》の太さというものが、六右衛門にはいっそ清々《すがすが》しい。──而も、築城の名手は、兵法に於ても深謀を備えて居るのだ。こんな話がある。後年、加藤家が亡びて清正の築いた熊本城が細川氏の治城となったとき、城墻《しろかき》風雨のため壊れ、柱を替えようとすると、その柱に隠々《いんいん》の文字があって曰く──「かゝる良材は得易すからざるものゆゑ、城外、某所の沢に沈めて在る。後世之を易《かえ》る者は取つて用ふべし」と。早速人を走らせて沢を探ったところ、果して材木が山積して沈めてあったという。  六右衛門が目通りを願い出ると、清正は雪隠《せつちん》にいたが、直ぐ来いという。清正の長雪隠は有名である。小半刻《こはんどき》かかるのは屡々のことだから、 「──御免」  六右衛門は手水場《ちようずば》のわきまで歩み行って、膝を屈した。  急拵《きゆうごしら》えの雪隠とて板の隙間から清正の足駄《あしだ》が見える。殿中でも歯の高い足駄をはいて清正は用を足すが、小半刻の間には、しきりにトントンと踏み鳴らす。痔疾なのである。その鳴り方で外に待つ小姓達には殿の御機嫌《ごきげん》が分る。  今日はひときわよい御気色《みけしき》じゃ、と小姓二人が囁《ささや》き合うた。六右衛門は、二十六人|恙《つつが》なく参上の旨を言った。  すると、 「見たか」  と内から声があった。 「──御意」 「何と見た?」 「先ず、十万の手勢《てぜい》を動かして、三月でござりましょうな」  六右衛門は兵法者柳生|兵庫介利厳《ひようごのすけとしよし》から至極の技ありと称されたことがある。その兵庫介は、清正に二年足らず仕えただけで致仕してしまったが。 「三月は長い。儂《わし》なら一月じゃ」  清正は愉快そうに笑って、又足駄を踏みならした。それから急に、小姓に命じて引きとらせた。人払いである。  六右衛門が何事かと待っていると、一粒落したらしい気配のあと、 「存じ居るか? 玉緒とか申したな、御胤《おんたね》を宿したぞ」 「何と申されます」 「秀頼公の御寵愛を蒙《こうむ》り居ったワ。ハッハ……」  厠《かわや》が破れ響くかと思われる哄笑が聞えた。六右衛門の顔色は少年の如く赤面した。  宮津六右衛門正兼は、丹後国|与謝郡《よさのこおり》宮津の生れである。代々|一色《いつしき》氏に仕え、天正十年、一色氏が細川藤孝に滅ぼされてから、禄を離れて宮津の姓を名乗った。加藤家に召抱えられたのは十九歳の比《ころ》である。一説に宮地(宮主)六右衛門とも云われるが、ミヤジなら宮中の神事を掌《つかさど》る名門だったわけだ。──が、この点は瞭《あき》らかでない。  六右衛門には於松という妻があった。夫婦の間に子はなかった。然るに於松の兄南郷右衛門に一男一女があり、郷右衛門は征韓の軍に討死したので、猶子《ゆうし》として右の二子を引取った。一男弁之助は痘瘡で夭逝《ようせい》したが、女《むすめ》は容色整って成人した。これが玉緒である。清正の正室は家康の養女で、これに五条局という老女が附添っていた。詳しい経緯は略すが、五条局の口添えで玉緒は大坂城の奥向きへ勤めたのである。その玉緒に、秀頼は胤《たね》を孕《はら》ませたという。  周知のように、秀頼には慶長八年に入輿《にゆうよ》した家康の孫女千姫がある。尤も入輿の当時秀頼は十一歳で、千姫に至っては七歳の童女だった。城普請の課役で漸く諸大名の間に不信の念が起りつつあると見ると、家康は大坂方へ俄《にわ》かに懇親《こんしん》を示し、諸大名の機鋒を緩めんため千姫を嫁がせたのである。人質の意味より、野望を糊塗して陰に上方の情況偵察の便を計るのが真意であった。秀頼の生母淀君はこれを見抜かず、大いに悦んで家康への猜疑心《さいぎしん》を解いている。  ところが慶長十年になって、将軍職を子の秀忠に譲った家康が、秀頼自身上洛して将軍への慶賀を述ぶべしと大坂へ申入れた。驚いたのは大坂方で、昨日名代であった家康が今日、己が膝下《ひざもと》へ秀頼を呼寄せるとは何事ぞと大いに怒り、淀君などは「強ヒテ秀頼ニ上洛セヨトナラバ自ラ秀頼ヲ害シテ自害スベシ」と絶叫した。次第によっては一戦もいとわぬという此の勢いに、家康は忽ち手を反《かえ》すが如く気勢をゆるめ、逆に自身の名代として上総介忠輝(家康の第八子)を大坂へ遣《つか》わし、秀頼を慰問させた。それで紛議は一応|熄《や》んだが、この時玉緒は大坂城に入ったのである。  秀頼は世に噂されるほど愚物ではなく、彼は妻よりも玉緒を愛したらしい。胤を懐胎《かいたい》した玉緒は二十一歳で、秀頼は十八、千姫は十四歳であった。  さて用を済ませ清正が厠を出ると、六右衛門は小姓に代って手洗水を灑《そそ》いだ。この時両人の顔が合った。莞爾《かんじ》として清正は鬚面《ひげづら》を綻《ほころ》ばせ、それから何喰わぬ顔で手をまわしてトントン腰を叩き乍ら「遠路大儀であったな。酒など熱うして、休息致せ」と言った。  清正の妻は、家康の女《むすめ》として嫁いだことは前に書いたが、この腹に一男虎菊(後の忠広)と一女が生れた。しかし、奥に入った時は常に用心し、少しの間も刀を手放さない。或る時五条局が、 「表にいらっしゃる折なら、御腰の物も御入用でございましょう。奥へ御入りになって、何の御要慎《ごようじん》がいりましょう」  と冷笑したことがある。すると清正は、──女の知るべきことではない。表なら身に代って命を捨てる家来ども多く、昼夜の守護を怠りなく勤番するゆえ、裸でいても、よも恥を掻くことはあるまいが、奥は女ばかりじゃ。万一のことがある。そう言って笑い捨てたという。  夫婦生活がこういう時代だから、玉緒が懐胎したことを徳川家に気を兼ねるすじは、毛頭《もうとう》ない。生れる子が若し男子なら究竟で、大いに家康の鼻をあかさん、という肚が清正にはあるのだろう。又、六右衛門にとっては、私情ながらこれは云いしれぬ欣びである。玉緒という名は、玉の緒の短いいのちを愛《お》しんだ意味だが、「われらに男子が出生致さば、かようの名をつけたいものじゃ」と生前の郷右衛門に六右衛門は話した。戦国の世に如何にも凛々《りり》しい若武者の散り様を想像したのである。それを、郷右衛門は娘につけた。附けられてみると如何にも女にふさわしい。もともと気性の柔和な娘で、叶うなら三国一の婿《むこ》どのを迎えたいと、滅多に冗談口など利いたことのない六右衛門が、妻との茶|咄《ばなし》に洩らしたことがある。婿どのは希《のぞ》めなかったが、太閤殿下の遺児と結ばれた。郷右衛門も、さぞ満足であろうと六右衛門は思っている。  六右衛門には、玉緒の懐妊によって己が地位を有利に発展させようとする|てい《ヽヽ》の野心は毛頭なかった。彼は清正に心服している。清正も亦常に剛の者を得んと欲して自らは倹約を旨とし、家来には惜しみなく扶持を与えた。有能の士を得るため、目利《めきき》に心を尽して人相学を稽古したこともある。六右衛門が清正以外に仕えようなどとは夢にも考えなかったのは当然のことだ。  名護屋城の築工は、加藤家のほかにも、前田、細川、黒田、鍋島の各藩から封禄に応じた役夫《えきふ》が出され、六右衛門が尾張に来て二月余り後、殆ど完成を見た。「次は何処の土方を致すでござろう乎《か》」と、皮肉混りに嘆く武士もあったが、さて完成してみれば、日夜のあの労苦も忘れて見惚《みと》れるのが人情である。課役を了えて各々国許へ引揚げる途次、彼等は幾度か振り返って雄大な城郭を眺めた。  六右衛門は熊本へ帰って間もなく、玉緒が男子を出産した報に接した。  この子は、国松丸と名づけられている。六歳で哀れな死を遂げる運命の児である。云ってみれば、国松丸の生誕《せいたん》を境に漸く豊臣家には悲運が音ずれたのである。  家康は、過重な課役によって諸将の疲労を謀ったが、まだ安心出来ない。豊臣家には巨万の財がある。この財力が開放されれば諸大名の疲弊は忽ちに甦《よみが》える。──そこで、この巨万の財を散佚《さんいつ》させる手段に出た。太閤の造営せる名社や寺院の修造を以て、太閤への孝養を尽す旁《かたわ》ら秀頼の名を万世に伝うべし、と進言したのである。──後年、大坂の役の理由となった有名な京都大仏殿の再建も、この奸計に発していた。即ち、仏殿が成就して大仏|鋳造《ちゆうぞう》の前日、冶工《やこう》に火を放たせ、凡《すべ》て灰燼《かいじん》に帰させてから、改めて万財を投じて仏殿、仏像等を竣工させたものである。  淀君は女の身で、こういう家康の奸計をさとらなかったのは迂闊《うかつ》だが、無理ならぬ点もあった。何と云っても家康は「秀頼様ノ御為メニ忠勤ヲ励ム可《べく》」と、秀吉の薨去《こうきよ》に先立って血判の起請文《きしようもん》まで出している。関ヶ原役の折にしても同じである。実際に家康|隷下《れいか》の武将が動いたのは下野守忠吉以下、二、三の侍将で、大部分は福島正則、池田、蜂須賀、黒田長政など豊臣恩顧の武将の活躍に由ったものだったが、彼らが、では何故豊臣家に不利な家康のため死力を尽したかというと、むろん石田三成との日頃の不和にも拠《よ》るが、実は、上方の変報に接した日、一同は家康に向って、 「このたびの事、三成一人の策略にて、秀頼公は幼年のことなれば、存ぜざるは申すまでもなし。内府どのに於て、向後《こうご》とも秀頼公に対し御疎意《ごそい》なしとならば、我ら罷り向いて切崩すべし」  と『誓詞』を交したからである。家康という人物を疑う事は血判の起請文を取って誓った秀吉その人を疑うことに他ならない。『誓詞』の神への背信に他ならない。人間の最後のそういう拠り所を疑って迄、身の安逸を諸大名ははかりたくなかったし、況《ま》して淀君にすれば、夫が後事を託した相手なのである。神仏への信仰心も本能的に有《も》っている。だから、年を逐《お》うて逆境に向う家運を嘆いていた際だから、神社仏閣修造の功徳により再び花咲く日を見ようと、家康の言を容れて、畿内《きない》はいうに及ばず、凡《およ》そ秀吉に由緒ある社寺は殆ど修造させて、実に莫大な費用を之に費したのだ。  北叟笑《ほくそえ》んだ家康は二度目の瀬踏みをした。秀頼の上洛を再び促したのである。慶長十六年三月、国松丸が生れた翌年である。  この時はもう、彼我の勢いは抗すべくもない。淀君は婦人の常で秀頼の身に異変のあることを懸念《けねん》し、却々承諾しなかったのを、福島正則と清正が勧告して、遂に三月二十八日、秀頼は二条城に於て家康に謁見《えつけん》した。  清正は家臣五百余名を率いて、この日、伏見から徒歩《かち》で秀頼に陪従《ばいじゆう》したが、三百名を伏見に隠し、其の余は六右衛門に采配《さいはい》させ、急事の符を合せた上、京中《けいちゆう》に徘徊させた。そうして二条城に入った。従ったのは悉《ことごと》く武士で、卒隷《そつれい》は一人もない。一同足軽|仲間《ちゆうげん》を装ったのである。六右衛門の計らいである。  清正にすれば、若し家康に含むところあって促す謁見なら、猶更に、秀頼がこれに応じないのは怯弱《きようじやく》の君と世に見られ、豊家の威光を損ずるだろうと考えて上洛を勧告したのだが、一命にかえても秀頼の身を護ろうと意図していた様子を、古書はこう伝えている。 「秀頼、二条城にて大御所(家康)に御対面の時、供の人々にも御目見《おめみえ》仰せ付られ、夫々に御詞《おんことば》をかけられ、中にも加藤清正、浅野|幸長《ゆきなが》等には御刀を下されけるが、清正はその時する/\と御上段の際へはひより、御刀を賜ると、暫し眼を閉ぢて空を仰ぎ、さて頂戴して退きける。各々退出ありし後、大御所仰せられしは、先刻清正が空を仰ぎし方《かた》を考ふるに、愛宕山の方に当れり、急ぎ人を遣はして見よと御諚《ごじよう》に付、愛宕山別当へ人を遣はし、近日の祈願者を尋ねられしに、果して清正より、秀頼上洛の事異儀なく相済む様にと、七日間|護摩《ごま》修業の願文《がんもん》あり、これよりして、とかく清正には御心を置かせられしとなり」(落穂集)  序《つい》でに正則の行動を見ると、 「秀頼、二条城に於て、大御所へ御対顔の筈にて上洛の時、福島正則は兼て秀頼|供奉《ぐぶ》の筈なりしに其日に至り、俄に病気と披露して供せざりしを、人々評して、大夫に似合はぬ仕方なり、但しは御当家を憚りて遠慮せられしかなど申しゝを、後に大御所様聞召されて、それは其方共の不案内なる評判なり、あの時正則が供せざりしは深き了簡《りようけん》の有りし事にて、若しも上洛したる秀頼の身上《みのうえ》に何事ぞある時は、正則は淀殿を介錯《かいしやく》して、城に火をかけ、その身も供す(自刃)べき下心にて、態《わざ》と病気と披露して、跡に残りたるなりと仰せられ、云々」(慶長聞書)  尚、当日の秀頼の行装は極めて簡略であって、六右衛門は京の町でそれとなく警固し乍ら世が世であればと胸を痛めたが、世間もそう見たか、『聞見集』という古書によると── 「秀頼、二条城へ登城の時、途中の行列は七組衆の内|御供《ぐぶ》にて、漸く百人程に見えたり、秀頼自身は鎗二本、対《つい》の箱に打物と申す程にて、駕籠《かご》に乗られしが、平大名の如くなる様子なりしかば、其行列を見んとて、態々《わざわざ》出られたる老若男女、太閤繁昌の昔を想出し、変れば変る浮世かなと、皆々涙を流したり」  又、 「家康公、秀頼公と御対顔ありて後、密《ひそ》かに本多正信を召して仰せられる様は、われ今日秀頼の生立《おいたち》をつく/″\見しに、さすが故秀吉の子程あり、中々|制《せい》を人に受くべきものにあらず、行末こそ心掛りなれ、とありしに、本多正信|御請《みうけ》に、某も左様に見受申して候、さり乍ら某きつと存じ付きたる事候へば、必ず尊慮《そんりよ》を労し給ふべからずと申して、程なく姫君(千姫)付の役人を呼びよせて、急度《きつと》申渡しける様は、秀頼公は太閤の一人子にておはせば、大御所様には、其御子孫の繁昌をと思召すなれば、仮令《たとえ》いかなる者にてもあれ、秀頼の御意に叶ひたる女子は、幾人にても御側《おそば》へ差上げ候へ、と厳しく申されしかば、これより自然と秀頼公を女の中にのみ置きまゐらす」  右によっても、秀頼が世に言われるような愚物でなかったことは明らかである。家康は、それと知って、漸く焦慮《しようりよ》の色を見せたが、清正の生存中はまだその野望を露《あら》わさなかった。  清正が歿したのは、秀頼上洛より三月後の六月二十四日である。徳川方の毒殺によるもの也との口碑《こうひ》があるが、ここでは採らない。が、清正が死去する半月ほど前、六右衛門は乞われて本多正信の客分となっている。正信は当時将軍秀忠の執政で、徳川に過ぎたものの一に数えられたほどの智慧者である。正信がまだ弥八郎と云って御鷹匠《おたかじよう》だった頃、江戸で、家康の上洛した留守中に、夜々、辻斬があって、どうしても制しきれぬ事件の起った事がある。その時家康は、これは旗本の若士《わかざむらい》のしわざに違いないが、何うして止めさせるかと思案していると、弥八郎が進み出、この使いは是非|某《それがし》に仰せつけ下されい、かならず相止めさせて御覧に入れますると言った。家康は許した。そこで弥八郎は急いで江戸に下り、上方から急の使者で参ったと披露《ひろう》してから登城して、旗本衆は至急総登城あるようにと触れさせた。すわ何事と一同|踵《きびす》を接して集合すると、弥八郎はこう言ったのである。「殿が申されるには、長々の江戸不在で、旗本ども──わけて若者らは昼寝ばかり致しておるか、但しは腰が抜けたるか。近頃城下に於て辻斬が横行致すというに、一人として搦《から》め取り得ぬとは言語道断の仕儀である」──あッと旗本衆は言葉を失った。忽ち、その夜のうちに辻斬の沙汰は歇《や》んだという。  正信は、徳川|譜代《ふだい》の臣の中では比較的清正と親しかった。秀頼妾腹の子・国松丸を正信はけっして等閑視《とうかんし》していない。奇才縦横の彼が清正に乞うて六右衛門を客分に迎えた魂胆《こんたん》は、奈辺《なへん》にあったか窺《うかが》うべくもないが、乞いを容れた清正の肝《きも》にも毛が生えていたというべきだろうか。清正は、一日、枕許に六右衛門を呼びつけて、 「先頃、佐渡(正信)よりその方を懇望《こんもう》致して参った。わしが病みつづけでは、如何なその方の器量も腐ろう。気晴しに、行って参れ」 「何と仰せられます、殿。某《それがし》この年に相成って」 「たわけ者」  常になく狼狽する六右衛門を清正は一喝《いつかつ》した。己が身に万一のことがあれば、虎菊は幼少である、何時加藤家に家康の無理難題が押しつけられるか測り難い。尚《なお》又、清正が逝《ゆ》けば六右衛門は殉死するにきまっている。加藤家に人がないわけではないが、六右衛門の兵法・器量を失うのは惜しい。かと云って清正以外に、六右衛門を使いきれる人物は肥後藩になさそうである。家老の加藤|美作《みまさか》では荷がかちすぎて却って六右衛門の器量を腐らすかと思われる。それならばいっそ、智慧者本多正信の許に置かせて正信の出方を見るのも究竟、と清正は考えたものらしい。  何にしても、六右衛門は主君を病床に置いて正信の客分となるよう命じられた。 「との」六右衛門が膝を進めると、 「くどいわ」  清正は熱病に赤くなった眼で六右衛門を睨《にら》みすえ、 「何事もそちの方寸にあることじゃ。佐渡も人を見る眼はある、よも騙《だま》し討ちには致すまい」  それから目をとじると、 「虎菊を頼むぞ」  と言った。六右衛門は形見に賜《たまわ》った清正愛用の鎗の熊毛鞘《くまげざや》をおし戴いて、枕頭をすべり下《さが》り、畳に額をすりつけた。  この六右衛門の兵法は疋田文五郎に受け継いでいる。肥前の山田浮月斎とは相弟子、柳生兵庫介(後に名護屋城主義直の兵法指南となった)には先輩に当ったわけだ。兵庫介が清正に仕えた時の表高は五百石(実高三千石の客分)だが、六右衛門はこの時旗奉行の役高二百石であった。  本多正信は、六右衛門が到着すると、早速、大御所さまより影扶持《かげぶち》と称して三百石待遇を与え下野国小山に住せた。小山は正信の息子正純の禄地で、六右衛門を客分として招いたのは正純の兵法指南としてだが(正信正純ともに智慧者ではあるが兵事には無知だった)、無論それは名目だけで、飼殺しの捨扶持である。六右衛門の方も兵法者として振舞うつもりはない。ただ一度、何かの折、 「大名の供廻りに、足を揃《そろ》えて歩かせるのは、立派ばかりにあらず、変事に備えて仔細《しさい》あることなり」  と正純に教えたのが、大名行列のあの整然たる歩行を習慣づけたと謂《い》われる。  六右衛門は小山に屋敷を与えられ、於松との徒然たる日々を消しながら、漸く正信の招致《しようち》の真意を悟ったようである。そうして来るべきものへの覚悟をそれとなく於松に吩《い》い含めていた。  来るべきものとは、徳川側の大坂攻略である。  家康は、課役、大仏殿修造などによって豊臣主従の勢力を弱めたと見抜くと、豪将清正の死を見送って宿年《しゆくねん》の野望を露顕しにかかった。野望は無論豊臣家の根絶である。この野望を果すため家康の採った手段は例によって狡猾《こうかつ》きわまりなく、片桐且元を欺いて大坂城を逐わせたり、大坂方の募兵した浪人中に小畑勘兵衛|景憲《かげのり》を潜《ひそ》ませ、古田織部を磔《はりつけ》にしたり、其の他、冬の陣での内堀|埋却《まいきやく》など有名だが、ここでは夏の陣で秀頼を瞞着《まんちやく》した最後の仔細《しさい》を書いてみると──  元和《げんな》元年五月六日。外郭、二の郭《くるわ》、堀溝までを偽りの和議で埋められ、僅《わず》かに本丸を留めるのみの裸城《はだかじろ》となった大坂城を守るよりは、いっそ、潔《いさぎ》よく切って出て武勇を示そうとする武将の必死の活躍で、一時は両軍の勢力も拮抗《きつこう》したが、所詮は大勢の赴くところ、後藤基次、薄田《すすきだ》隼人等も相継いで討死し、七日にはほぼ豊臣家の滅亡は決定的となった。  が、家康の胸中に一つ、窃《ひそ》かに怖れていたことがある。それは秀頼の出馬である。何故なら、豊臣恩顧の諸大名は家康に籠絡《ろうらく》されて福島正則は江戸に封じ込められ、加藤忠広──清正が卒去《しゆつきよ》して虎菊は忠広と改めた──の肥後藩には九州の治安を頼むとの甘言を以て、一兵も出兵させず、島津にも同様ことばを操って出陣させなかった。が、若し秀頼自身が最後の一戦をのぞんで城外に打って出たとすると、何と云っても太閤の跡目たる秀頼である。家康が先手《せんて》と頼む伊達正宗、藤堂勢など、戈《ほこ》を倒して、家康の本陣へ打ちかからないにしても、路を開いて、秀頼の一軍をして易々《やすやす》家康軍へ攻め入らせるに相違ない。そうすれば、必死の覚悟の、死物狂いの相手だから、戦い疲れた徳川の旗本勢が之を迎えて万一敗色にでもなれば、どんな処で裏切りがあるかも図《はか》られないのである。  家康は、そこで、一計を案じた。一年前人質として大坂城の大野治長の子、治安《はるやす》を手許に預っている。その治安に命じ、父治長へ一書を送らせたのである。それには、「真田幸村、明石|掃部《かもん》らの諸将が遠く城外へ打って出て、秀頼の出馬を待つのは、実は城方《しろかた》に結局勝利のないのを見定め、先ず秀頼を城より誘出《おびきだ》して関東方へ引渡し、それを功に己れ等が助命を乞おうとする企てであるとの内通があった。そうなっては大御所も、秀頼を助けたくとも助けられぬ。それ故、秀頼はいつまでも城中にあって此等諸将の言を容れず穏便《おんびん》の計らいをなさるように。畢竟《ひつきよう》この度の戦《いく》さは、諸浪人が煽動《せんどう》したことで秀頼の本意でないのは、大御所も元より存知の上であるし、太閤の筋目を思えば、何うして秀頼に自害を命じたりなさろうや。よくよくこの事情を判断し、誤った処置を取らぬように」と偽言《ぎげん》した書を、使いを以て城中へ遣わした。  城中では、今まさに秀頼出馬とひしめいている矢先きである。この急使に接して、治長は惑《まど》った。真田、明石などよりは「機を失うべからず、疾《と》く疾く出馬あれ」と矢の如く城中へ催促が来る。治長はひたすら秀頼母子の助命に心を奪われる、そこで、兎や角と秀頼の出馬を延ばしているうち、流石《さすが》は真田幸村、兼ての約束をたがいて秀頼公の出馬なきは某《それがし》を疑うと見えたり、と一子大助を城中へ人質として遣わし、猶も出馬を促《うなが》して来た。併し、城中の決議は結局出馬取止めと聞いて、憤然幸村は家康の旗本に切りかかり、乱軍の中に討死した。各武将もこれに倣《なら》ったから、城中方は遂に総敗軍となった。  この様子を見て、城中にも野心の者が出、城に火をかける。秀頼も今は釜中《ふちゆう》の魚にひとしい。が、治長らはあくまで家康の偽言を信じて、秀頼母子助命の事を使者に申含《もうしふく》め、家康の本陣へ遣わした。  家康は、勝利を|ゆるぎない《ヽヽヽヽヽ》ものと見きわめると、始めて仮面を脱し、「さらば早々秀頼母子は出城ありて高野山に赴《おもむ》くべし」と申送った。之に対して治長から「城中既に焼亡《しようぼう》して乗物なし。いかに敗軍の上とは申せ、秀頼母子、諸軍勢の中を、面を曝《さら》して通り難ければ、御芳志に乗物|二挺《にちよう》賜りたし」と言うと、家康は、 「乗物は一挺もなし、但し何某《なにがし》が許に一挺あり、それに淀殿乗るべし、秀頼は歩いて出城すべし」と、所謂《いわゆる》出来ざる相談をおしつける。そうして秀頼助命の儀は、何分将軍(秀忠)に於て承引《しよういん》し難いから是非に及ばぬ、と申し遣わし、先手の井伊直孝に内命して、城へ向けて、鉄砲を一斉につるべかけて放させた。ここに秀頼母子主従二十余人は屍《しかばね》を重ねて自害した。  ──こういう大坂落城の顛末《てんまつ》を六右衛門は小山に留まった儘で知った。清正亡き後の肥後藩が九州で動かぬ以上、無念の心はあっても、六右衛門に術《すべ》はない。この間本多家の待遇も以前と異らない。却って、心なしか万事に六右衛門への阿諛《あゆ》のきざしさえ見える。  六右衛門は、そういう日常を一見さりげなく過しながら、心底では、本多家の応対に変化の現われるのを、薄氷をふむ思いで、怖れた。身の安全を欲するからでない。今こそ六右衛門は知ったつもりだった。即ち、大坂落城の際に城主秀頼は自刃《じじん》しても、兵家の常で若し遺児国松丸が城を落ちのびた場合は、かならず、何らかの諜報《ちようほう》が六右衛門に入るのを正信は予期しているのだ。敵将の遺児は、草の根わけても、見つけ出さねばならないからである。  ──それゆえ、本多家の応対に変化があれば、国松丸は大坂城|陥落前《かんらくぜん》に無事のがれたことを意味する。その場合は多分、六右衛門より、女《むすめ》の、玉緒の叔母於松を責め立てて国松丸の匿れ場を追求するつもりなのであろう。その折は武士の妻らしく、爾前《じぜん》に夫の刃で死なせてやろうと六右衛門は考えていた。  ──ところが、大坂落城の報を得て、旬日後、次の如き国松丸の死が風聞《ふうぶん》されたのである。国松丸は大坂城落城の際、雑人輩《ぞうにんばら》に紛れて城を脱出し、伏見の農家に忍び込んでいた。家康は人数を駆り出して捜索《そうさく》させた上、遂にこれを搦《から》め捕り、三条河原で首を刎《は》ねさせた──。  尚玉緒は、伏見で搦め捕られた其の場で、乳房を三鎗《みやり》突刺されて即死した。二十歳余の短い花のいのちである。  正信が六右衛門を客分に抱えたのが、六右衛門の推察どおり国松丸|追捕《ついぶ》の用意だったとすれば、もはやその必要はなくなったわけである。  併し、別に六右衛門を忌避《きひ》する様子はなく、従前通りに扶持して、小山に置いた。これは、正信父子が帷幕《いばく》の謀臣として大いに権勢は得ていたが、兵馬の軍功による参枢でなかったのを、兎角、武功ある老臣達から蔑視《べつし》されていたので、六右衛門によって、多少なりとも兵事を知ろうという私情《しじよう》があったからである。  併し六右衛門の方は、呆《ほう》けたように日を送っていた。夏の陣に参加した本多家の侍の戦功談によって、秀頼や国松丸の死が風説どおりと知らされては尚更《なおさら》であったろう。もともと口数の少い六右衛門が、終日、妻と言葉も交さず、書院の一間に閉じこもっている日が幾日もつづいた。  ところが、元和二年の春に入った或日、本多家の家来高山新四郎という者が、何かの折、顔をあわせた六右衛門に、声を低めて、 「宮津殿、近頃の噂《うわさ》は、まことでござるか」と訊いた。  六右衛門には、何のことか分らぬから、相手の探るような眼を見返して、「一向に」と言った。 「肥後藩にあった御手前が、噂を御存知ないとは」 「何の事でござる」 「まことに、御存知ないか?」  新四郎は却って意外の面持でそう言って、じっと六右衛門を見戌《みまも》っていたが、やがて、声を抑えて噂の仔細《しさい》を語ったのである。 「ほう」  六右衛門は破顔一笑《はがんいつしよう》した。「秀頼公が肥後藩に御生存とは、ハッハ……」 「────」 「いや、我らは最早当地に軟禁《なんきん》致されて五年に相成る。思いも寄らぬ仔細じゃ。が、──噂は風に乗り申すか、成程のう」  はじめて聞く、まったく思いもよらぬ噂なのである。六右衛門は心が騒いだが、新四郎へは、さあらぬ態《てい》で言葉を紛らした。  併し、聞き捨てにならぬ噂である。清正は生前、万一の用意にと密《ひそ》かに秀頼を迎える大厦《たいか》を構えていたのを、六右衛門は了知している。まさかとは思うが、万に一ということがある。……  ようやく六右衛門の身辺は多事となった。六右衛門は屡々《しばしば》屋敷を出、凡そ、彼に許された交友と行動の限りを利して、この噂の真偽を糺《ただ》しにかかった。  その結果、風説《ふうせつ》ではあるが、板倉|重昌《しげまさ》ら譜代の臣は色をなして噂の真偽《しんぎ》を追求している事を知った。一方、当の肥後藩の江戸家老加藤美作は豊家に心を寄せる諸大名から声を殺してそれとなく真偽を問われると、 「ハテ……」  と思わせぶりに呆《とぼ》けてみたり、 「これは慮外なことを承る」  と、逆に穴の明くほど相手を見て、ニヤリと笑い捨てたりしていることが分った。又、その美作自身が、某日江戸城にて猿楽《さるがく》の催しに陪席したあと、将軍秀忠の目通りを受け、秀忠|直々《じきじき》に、「秀頼の生死は戦場に在った我らが熟知のことじゃ。大御所に於かれても同様、むしろ、取るに足らぬ噂などに肥後藩が気を病んではと案じて居られる。以て、以後この事は心にかけるではないぞ」と却《かえ》って慰めの言葉を受けたという事も分った。かと思うと、反対に、駿府城では、家康が或る日江戸より正信を呼びつけて、 「近頃不穏の事を耳に致す。心なき者の偽《いつわ》り言《ごと》か、或いは我らを謀《たばか》って事実秀頼は生存致して居るか。世の動揺もある、匆々《そうそう》真偽を明らめい」  と居並ぶ家臣の前で、声荒らげて叱責したことも分った。  ──が、当初はこれらの仔細《しさい》を知って、手の舞い足の踏むところを知らざる感のあった六右衛門が、或る日、駿府はずれの街道筋に赴いて、偶然、役向きで江戸へ向う熊本藩士と出会った時、噂を問いただしたところ、 「何の事でござろう。吾等は先頃、国許を発足《ほつそく》致して参った許《ばか》りでござる。左様のことは、つゆ存じ申さぬ」  と云う。  六右衛門は狼狽《ろうばい》を見せ、 「しかと左様か」  噂すら知らぬのか、と訊ねた。 「一向に」  懐《なつか》しい九州|訛《なまり》の武士の眼に、一点の曇りもなかった。  六右衛門は漸く青ざめた。  この時から六右衛門は出歩くのを止めた。書院に閉じこもって、じっと腕を組み、一心に何かを考えつめている様子であった。そして、兼ねて言い含められていた宮津家の小者が、次のような風聞《ふうぶん》を齎《もたら》した時、六右衛門は「南無三。謀られたり」と叫んでいた。  小者がもたらした風聞というのは、些細《ささい》なもので、例によって福島正則が秀頼生存の事を加藤美作に糺《ただ》すと、美作が 「左様……如何な大夫《たいふ》(正則)どのにもこればかりは。……お察し下さい」  と暗に事実であるかの様な言辞を弄したというのである。  宮津六右衛門が江戸へ向ったのは三月十六日である。身のまわりを悉《ことごと》く整理し、下僕《げぼく》、婢《はしため》に至る迄十二分の手当を与えてそれぞれの家郷に引き取らせた。その時、面白い事には、清正から賜った鎗の鞘《さや》の熊毛を抜いて、奉書につつんで、各人に与え、「畏《かしこ》くも御主君より形見に賜ったものじゃ。今後とも大切に致す様。──癪《しやく》の折など、その毛を一筋《ひとすじ》抜いて呑めば、立所《たちどころ》に快癒《かいゆ》いたすぞ」と云っている。  妻の於松には別に説明を与えなかったが、於松は六右衛門を玄関に送り出すとき、 「充分のお手柄を遊ばしませ」  と言った。  六右衛門は既に覚悟の上なので、江戸へ出ることを本多方へは断らなかった。  江戸に着いて、六右衛門が訪ねたのは江戸在家老加藤美作の屋敷である。  本多家に客分となった六右衛門の突然の訪問に美作は怪訝《けげん》そうな顔をした。美作は、六右衛門が本多家へ入った真相を知らない。主君への殉死《じゆんし》を避け、巧みに言葉を操って徳川の執政に取入ったものと、兼々考えて居たから、好感は懐《いだ》いて居らなかった。  その美作へ、火急の所用にて罷《まか》り越したと、人払いを命じてから、六右衛門はいきなり、「あの噂を口になされる事は、爾後《じご》お慎み下されたい」  と切り出したのである。  美作は、むしろ呆れ顔に、六右衛門の面を見直した。美作は江戸在家老──言ってみれば熊本五十三万石加藤忠広にかわって政務をとる身である。六右衛門は元はせいぜい二百石扶持の旗奉行にすぎぬ。 「噂を云うなとは、何故じゃ」態度に於て寛容《かんよう》を見せながら、それでも皮肉な口辺の笑みとともに言った。  六右衛門は言った。「されば、万一という事が御座る」 「万一?……秀頼公御存命ならば、とでも申されるか」  美作は上座からギロリと睨《ね》めつけた。  静かに六右衛門は首を振って、 「しからば承る。件《くだん》の噂は、当江戸表にて蝶々《ちようちよう》され、肥後にては一向存じよらざる事、御承知か?」 「知って居れば、何んじゃと言われる? 我らが騙《かた》り言《ごと》を申すとでも、お叱りなさるかの?」 「これは御家老の言葉とも思えぬ」六右衛門は悲痛の色をうかべた。そして、こういうことを言った。一体、国許にいる者が露知らぬ事を当江戸表で蝶々《ちようちよう》されているというのは、考えれば訝《いぶか》しい。即ち、この事は噂が国許や、若しくは上方から風に乗って伝えられて来たのでなく、もともと当江戸表で興《おこ》っていた証拠である。とすると事実秀頼が肥後にて存命なら知らぬこと、さもなくば、江戸の何者かが噂を故意に撒《ま》いたと見なければならぬ。然るに江戸は幕府の本拠であり、幕府にとって決して気持の良からぬかかる噂を、旗本どもが故意に撒くとは考えられぬ。若し、敢てそれを為す程の人物を求むれば、一人、家康その人を措《お》いてない── 「たわけた事を申せ」  語気荒く美作は六右衛門の言葉を遮った。 「幕府にとってよからぬと、ただ今お手前も申したばかりではないか。如何に大御所が深謀家とて、身の不利になる噂を何故に好んで撒《ま》いたりするぞ」 「身の不利と申されるか?」 「左様じゃ。お手前は存じあるまい。過日、大御所はひそかに佐渡守殿を面叱《めんしつ》なされ、噂の真偽をただされたほどじゃ」 「然らば、それほどの徳川家が何故《なにゆえ》、御家老に、噂のこと気に病むなと申された?」 「存じて居るか」美作は小鼻をふくらませた。美作とて加藤家の一族である。表面《うわべ》は兎もあれ、徳川家へ好感情は持って居ない。従って、秀頼生存の噂は噂として楽しむ気持がある。  将軍の秀忠に「戦場に於て秀頼自害のことは熟知《じゆくち》じゃ」と云わせながら、陰で正信を叱責しているのは、取りも直さず、幕府が噂に周章《しゆうしよう》している証拠だと見、内心、快哉《かいさい》を叫んでいる。  まことしやかに噂を流布《るふ》して、一そう幕府を困らせてやれい、という気もある。こういう心底《しんてい》は、実は噂の真偽を問う諸大名の側にもあろう。いわば、諸大名の肥後藩との共同演出で心理的に家康への溜飲《りゆういん》を下げているのだ。──それを、事もあろうに噂《うわさ》を流布《るふ》したのが当の家康とは。 「──宮津どの」  美作は冷やかに、かたわらの脇息《きようそく》を引き寄せると、反身《そりみ》になって、 「秀頼公御存命と噂するは、我らに方寸あっての事じゃ。お手前如きの考え及ぶところではない。云えば、この美作とて噂を撒《ま》いた一人やも知れぬに、それを、……ハッハ」 「何と言われる?」  六右衛門の顔色が変った。「お手前が噂をまかれた当人?──しかと左様か?」 「────」 「申されい。まこと、お手前の口から出た噂なら、この六右衛門、肥後藩一同に代って秀頼公の霊前に謝罪《しやざい》致せば済む事じゃ。併し」 「待て。……聞き捨てならぬ一言。──謝罪、と申したな?」 「如何にも。大坂落城の砌《みぎり》、天守閣|燃上《ねんじよう》とあらば、秀頼公御自害は当然。それを、幕府の策とも知らず、御生存と触れまわるが罪でなくて何でござる? そもそも天守閣とは、城の尊厳の在る所。由来、城攻めに当って、鏑矢《かぶらや》を先ず天守に放つは戦国のならいでござる。  また如何なる戦いにもあれ、敵方より天守を焼討《やきうち》致した例《ためし》は未だござらぬ。されば、天守に火の手のあがるを見て、城将の自害を知り、それより手勢を退陣さすが武士の情とされしもの。  ──同様、天守閣が燃上して猶生きのびる武将あらば、心ある者の物笑いになるは必定。──家康が、この事を|よも《ヽヽ》知らぬとお考えか?」 「…………」 「御家老、家康の含むところは二つござる。先ず、秀頼公御存命と噂を撒《ま》いて、大坂方に未《いま》だ心を寄せる諸大名への失望を与えること。次に、恐るべきは当加藤家の」 「言うな!」  美作がパッと脇息《きようそく》を跳ねのけ、 「かりにも加藤家の江戸家老を勤めるこの美作、それしきの事知らぬと思うか。天守に火を点《つ》けたは、城中に忍び居った徳川の廻し者じゃ。さればこそ、助命の約に背いて一斉に種ヶ島を」 「違う。お分り召さぬか、家康の本心……」 「黙れ黙れ」美作は言いながら矢庭に、扇子を取って六右衛門の面体《めんてい》に叩きつけた。  六右衛門はヒラリと身を移し、右手に扇子を掠《つか》み取って、畳に突立て、肩をふるわしたが、「……情けない」その儘ハラハラと落涙した。  宮津六右衛門が一旦肥後の熊本へ送還され目付役阿部四郎五郎の取調べを受けたのはこの後である。目付は、幕府が各大名の政情監視に遣わした者だが、六右衛門取調べの表向きは、加藤美作より、不穏《ふおん》の疑いある由訴え出られたからであった。駿府にいた家康は、六右衛門が噂の出所を当の家康だと言ったと聞くなり、 「して、美作も左様に思い居る様子か?」とせわしく正信に訊《き》いた。その顔は常になく引緊っていた。正信が皮肉な笑いで首をふると、 「然らば至急処分せい」  言い捨てて、荒々しく奥へ立ったという。が直ぐ、本多家の客分として招いた手前、これは肥後藩に於て処罰《しよばつ》させた方がよい、但し、かならず加藤家の重臣には会わすでないぞ、──そんな言葉が奥から伝えられて来た。  肥後にあった阿部四郎五郎は、この内意の通り処置したのである。  六右衛門は熊本の城下に入った其の場で、待ちかまえていた役人に捕えられ、囚獄に引き据えられた。仮初《かりそめ》にも旗奉行を勤めた武士を賤吏《せんり》が引き立てたというのは不審にも思えるが、国松丸同様で、如何にも家康の手口らしい。  六右衛門は従容《しようよう》と縛《ばく》に就《つ》いている。死を以て言わねばならぬ一言《ひとこと》である。加藤家を家康の謀略から守るためには、今となっては他に方策はない。  縄目を受けた其の儘で、六右衛門は白洲《しらす》に曳き出されると、突如丸裸にされた。そうして『石抱《いしだき》』の拷問《ごうもん》を受けることになった。三角に尖った真木《まき》の台に褌《まわし》一つで坐り、背《うし》ろ手《で》に縛られた儘、膝の上へ四枚の重石《おもし》を置かれたのである。  石は、恰度《ちようど》六右衛門の顎の高さまで来る。非人が二人左右から寄って来た。係り役人らしい者は、上段にあって白洲の六右衛門を見下している。二人である。こういう席に無論阿部四郎五郎はいない。  六右衛門はぎろりと上段の下っ端役人を睨みつけたが、黙って、目をとじた。その口から泡が吹き出、洟水《はなみず》が垂れて来る。附添いの非人が石の上に藁《わら》を載せ、洟水を受けとめた。石は崩れ落ちぬよう太縄で縛って、背後の柱に結びつけてある。  無気味な沈黙が白洲を占める。六右衛門の総身《そうみ》は真赤になり冷汗が流れ出て、口鼻より吹く泡が血になった。それを見ると上座の役人から、 「宮津六右衛門、罪状仔細に白状せい」  と叱声が来た。何の罪状か? 幕府へ謀叛《むほん》の疑い有りというのである。  六右衛門は頑固《がんこ》に口を緘《かん》している。  六右衛門が動じないので、役人は更に石を重ねよと命じた。鼻梁を削るように、左右から一枚、重石が積まれた。  全身真赤だった六右衛門の体は、次第に紫色に変じて来た。それから青味を帯びて来た。「白状致さぬか」と又、役人が叱った。六右衛門は答えない、と見ると、非人が左と右から力を極めて石を動かした。脛《すね》の肉が真木にくい込んで、骨と木が軋《きし》んだ。ようやく六右衛門の面に苦痛の色が漾《ただよ》う。体の色は青味から蒼白を呈している。白に変ずるのは死の近づいた証拠である。六右衛門は失心する前にいっそ舌を噛むつもりか、口をもぐもぐさせた。何としても併し、痴呆の如く涎《よだれ》を垂らすばかりで、歯と歯が噛み合わなかった。六右衛門は失心した。  何ら必然の伴わない、こういう拷問《ごうもん》が再三度繰返されたのである。失心すると、石を卸し、冷水を浴びせて一度牢内に担ぎ入れられた。もう、六右衛門の躰は別人の如く全身に亘って紫と白の斑点《はんてん》にくまどられている。  三度目の失心から甦ったとき、駿府より熊本まで六右衛門を監視して来た大川某という士が裃《かみしも》姿で白洲場へ表われ、 「宮津六右衛門、本多佐渡守殿願い出られ、切腹を仰せつけられる旨、只今、急使を以て江戸表より達しがあったぞ。有難くお受け致せ」  と言った。残酷《ざんこく》な策略である。これだけの拷問の後で、切腹する余力が残されている筈はない。所詮《しよせん》は物笑いになる死に様《ざま》しか出来ぬにきまっている。従って、六右衛門が死に際《ぎわ》に何を云おうと、尋常の武士の言としては誰も受取らぬわけである。  六右衛門は息も絶えだえな身に、改めて衣服を着よと命じられた。左の眼球《がんきゆう》から糸のように血の流れ出るのを役人が二度あまり拭い取った。  切腹の場は白洲とは別に庭に荒筵《あらむしろ》二枚を敷き、それに白木綿を覆って用意された。介錯人《かいしやくにん》は肥後藩士の由井久四郎という者だった。  六右衛門は、蹌踉《そうろう》と切腹の場まで辛うじて辿り着いたが、着座して、白木の四方《しほう》を引寄せると、凡そ拷問を知る者には信じられぬほど、ぴたりと体を究《きわ》め、短刀を握って、先ず両足の拇指を捩《よじ》った。首を刎《は》ねられた折、こうしておけば後ろに倒れないですむ。そうして、短刀を逆手《さかて》に脇腹へ突立てるや忽ち、 「うつけ者! 家康は我が藩を取潰《とりつぶ》さんと致して居るのが、分らぬか」  と加藤家の役人輩《やくにんばら》へ一喝して、絶命した。  六右衛門四十七歳の一|期《ご》であった。  忠広が流罪《るざい》され、加藤家が滅びたのは寛永八年だが、流罪の理由は「肥後藩が秀頼を匿《かく》まったから」というのだった。── [#改ページ]  通り魔は女を     一  丹波守《たんばのかみ》の朝の日課はきまっていた。  褥《しとね》を起き出ると、御刀《ぎよけい》持ちの児小姓をしたがえ、中庭へ降りる。  土中に三人の武士が、首だけ出して埋められている。  生埋めである。首には桶《おけ》をかぶせてある。 「具合はどうじゃ、犬」  寝所を起きぬけだから九鬼丹波守は羽二重《はぶたえ》の寝衣に、琥珀《こはく》の帯を締めた着流しで、どうかすると愛妾《あいしよう》の白い腕をはなしてきたばかりだから裾《すそ》前が乱れ、庭に跼《かが》むと犢鼻褌《したおび》の露呈することがある。  そんな姿で、先ず左端の桶をあげ、生埋めのひとり隼人正《はやとのしよう》に朝の挨拶であった。  隼人正──三十二、三歳。何物か正体はわからない。  眉太く、鋭い眼つき。  埋められて既に五日になるので剛《こわ》い不精|髯《ひげ》が口辺を蔽《おお》っている。隼人正とは、みずから名乗ったが姓名は口を緘《かん》して明かさぬので、あるいは公儀|隠密《おんみつ》──幕府の密偵《いぬ》かと丹波守は見ていた。隆《たか》い咽喉仏《のどぼとけ》の上が、土のそとに出ている。 「だいぶ目脂《めやに》がたまっておるぞ。どうじゃ、居心地は?」  丹波守は小姓に吩《い》いつけて付近に落ちている雑木《ぞうき》の枝を拾わせた。それを手ずからバシッと二つに折って、裂《さ》け尖《とが》った方を隼人正の鼻さきに突きつけ、 「手の自由がきかぬというは不便であろう。……どれ、予《よ》が目クソを取ってつかわす」  これも日課である。隼人正は後ろ手に縛られて立った姿勢で土中に埋められた。丹波守は尖った枝のさきを震《ふる》わせ隼人正の目のふちをなずる。時々、突く。  炯《くわつ》、と両眼を見開き、まじろぎもせず隼人正は丹波守を睨《にら》みつけていた。しかし目の縁《ふち》を小突かれればおのずと泪《なみだ》が湧《わ》き出る。それが眦《めじり》から頬につたう……。 「弱虫めが。ふ、ふ、又泣いたの。舌を齧《か》むすべはあろうに、それすら出来ぬとはの。犬め」  どうかすれば起《た》ちあがりざまに草履《ぞうり》でパッと面《かお》へ土を蹴《け》かけて、次へ。  次の桶には若衆|髷《まげ》の、色の白い二十前後の歌舞伎者《かぶきもの》ふうな青年が埋められていた。変装かも分らない。国許《くにもと》三田の領内を傀儡師《くぐつし》の扮身《いでたち》で徘徊《はいかい》していたのを、挙動不審と見て役人が召し捕え、そのまま江戸邸へ護送してきたのである。能役者のなれの果てで、梅若右近《うめわかうこん》と自らは名乗った。 「どうじゃ」  丹波守は背をかがめて桶をとると、 「よう寝たか?」  梅若右近はいっさい無抵抗である。すでに唇が変色し、かおも土色にどす黒く蒼《あお》味がかってきている。 「お赦《ゆる》し下さいまし……どうぞ、ここから出して頂きとう存じます。手前は何もわるいことは」 「ふ、ふ、ふ……泣きごとも芸のうちかの。──数馬《かずま》」  丹波守は背後《うしろ》に控える小姓へ、 「手水鉢《ちようずばち》の水を汲んで参れ」  御刀持ちでない今一人の側《そば》小姓は「ハッ」と応《いら》え、中腰でスルスルと後退して、縁前《えんさき》を迂《う》回し廊下はずれの厠《かわや》の傍《かたわ》らに岩の頂《いただき》を窪《くぼ》めて溜められた水を、柄杓《ひしやく》に汲んで片手にそろそろと保って戻って来る。  主君丹波守へは両手を捧げる。  むぞうさにそれを掴《つか》み取ると、 「河原《かわら》者へ、予が手ずからの手向《たむ》けじゃ」  ひたいから鼻すじにタラタラと水を流しかけた。右近は細い眉をしかめて必死に、顔を仰向け一滴でも水をすい取ろうと口を開ける。渇した病人の表情だった。  惨忍な笑《えみ》でそれを見おろしながら、 「今ひとつ進ぜようかの。じゃがの、その水には孑孑《ぼうふら》がわいておるワ……今に、汝の鼻孔から蚊《か》がとび出すぞ、ワハ、ハ、ハ……」  三人目は身許がハッキリしていた。  細川藩士|疋田清四郎《ひきたせいしろう》。  |もと《ヽヽ》細川藩士と言いなおすべきかもしれない。単身、この九鬼邸に忍び込んで「御命《おいのち》頂戴」と丹波守へ斬《き》りつけた。庭前《にわさき》からだった。丹波守は奥へ入ろうと廊下を来たところで、そばには少年の小姓しかいなかった。その小姓の一人が、逸早《いちはや》く刺客の疋田を見つけ、 「それがしが代ります」  自《みずか》ら刃《やいば》の下に身を躍《おど》らせて斬られた。斬られながら刺客の鍔元《つばもと》にしがみ付いたので、いかな疋田清四郎も為《な》す術《すべ》なく、今一人の小姓が、 「曲者。曲者にござりまするぞ」  大声に喚《よ》ばわって馳《は》せつける宿直《とのい》の家士に包囲され、いさぎよく武器を捨てたのである。  本来は即座に斬られるべきところを、丹波守は氏《うじ》素姓を糺《ただ》した上で、土中に埋めた。 「もと肥後《ひご》の浪人疋田」  と、清四郎は名乗ったが、いっこう浪人|髷《まげ》にはあらず、念のため細川家へ問い合わせたら、 「疋田なる者、たしかに以前当家に奉公つかまつり侍《はべ》れど、一両年前すでに国外追放の仕置|仕《つかまつ》り候ものなれば、昨今、その消息は存じいたさず」  との返答だった。うそにきまっているが、ならば丹波守は土に埋めたのである。  細川家士が何故、摂州三田三万六千石の領主九鬼丹波のいのちを狙《ねら》うか? そのわけを詮議するためではあったが、疋田が口を割らない。そこで生殺《なまごろ》しの憂き目を見せることを思いついた。  三人の中で、したがって最初にうめられたのは疋田清四郎である。  すでに疋田の首の周辺からは、異臭が臭《にお》っている。埋められて半月になる。  丹波守は、清四郎の桶を取るとここでやおら前をからげて放尿した。  丹波守の睾丸《ふぐり》は異様に大きかった。 「どうじゃ」  |さお《ヽヽ》を手でもち、清四郎の月代《さかやき》のあたり目懸《めが》けて放出する。 「予が肥《こえ》を享《う》くるとは汝も果報者よ。そう言えば少しは背丈《せたけ》がのびたか。ウハ、ハ、ハ……」  清四郎が埋められた当座は、まだ、桶で蓋《ふた》をされることがなかった。残暑の季節とて太陽に直射され、顔面、日焼けして真っ赤になって、夕景はおびただしい蚊と蚋《ぶと》の襲来である。両手は土中にあれば追い払うことかなわず、刺されるがままで一時は異様に脹《は》れあがったが、近頃はおさまった。  かお全体に尿を浴びて月代《さかやき》や眉毛から、余滴を雫《しずく》させても清四郎は目を瞑《と》じ、成仏《じようぶつ》したごとく無表情でいる。三人の中では穴の掘り方が浅かったので着物のうしろ衿《えり》が土から出ていた。それが尿を吸い込んで湿って異臭を放つのである。 「清四郎」  小用をたしおわると、土足で清四郎の髷の天辺《てつぺん》を踏んでぐいと頭をのけ反《ぞ》らせ、「自白いたさばいさぎよくこの首|刎《は》ねてつかわすぞ。それともまだ、武士が肥料にて育つを見せたいか。どうじゃ」 「────」 「誰にたのまれて予を狙った? 越中守が下知《げじ》か。それとも家老か?………言え」  何と言われても成仏《じようぶつ》さながらに、瞑目《めいもく》して口をきかない。 「ちっ」  舌打ちで丹波守はその鼻柱を蹴《け》る。瞼《まぶた》をしたたかに蹴とばすこともあった。鼻血を垂らし、目の出血を見ても終始清四郎は黙《もだ》して語らない。 「数馬、ふたをせい」  小桶を、三人もと通りに被《かぶ》せさせると丹波守はもう、後も見返らず椽《えん》にあがる。  朝のこれが日課である。     二  そんな一日、富商の摂津《せつつ》屋|五兵衛《ごへえ》が丹波守を訪ねて来た。  摂津屋は、たばこで巨万の財をなした白木屋の裔《すえ》である。  元和の比《ころ》、二代将軍秀忠が煙草ぎらいで、天下一統を機に喫煙禁止の触《ふれ》を出した。その頃、白木屋某なる者が江戸の柳原土手を通っていた時に、飢《う》え労《つか》れた乞食が菰《こも》の下で忍んで、煙草をのむのを見て、かく厳しき御禁制あるにかかわらず糧《かて》にも尽きたる者が、これを捨て得ざるは余程、たばこはやめられぬものならん。されば普《あまね》く世の人の好むところ、いずれは多葉粉《たばこ》は御免にならんと思いたって、ただちに江戸は言うに及ばず、京大坂にいたるまで、煙管《きせる》その他、たばこの具の当時|廃《すた》れたものをことごとく買い入れて蔵にしまい、煙草もまた捨て値で買い占めて貯《たくわ》えたら、案のごとく幾許《いくばく》もなく禁制はゆるんだので、これによって大利を得、以後、商道に励んで富裕の身となって京洛《きようらく》ずい一の貨殖家の名をほしいままにした。  摂津屋五兵衛はその白木屋の直孫である。  千代田城に儀式の場所なる白木書院があり、名の似ているのは憚《はばか》り多いと今は摂津屋に改めている。その五兵衛が丹波守の御機嫌をうかがったあとで、 「お殿様、あの者らはまだ白状をいたしませんか」意味あり気にわらいかけた。 「さよう、強情者はその方ばかりとは限らぬようでの」 「これはご冗談を」  丹波守の、摂津屋は商人にはめずらしく、お気に入りである。以前、よい刀を一腰おわけ願いたいと、摂津屋がねがい出たことがあった。 「よい刀とは銘か。──それとも、切れ味かの?」 「いかほど銘が良うございましても、切れねば致し方はございません」 「さようか」  丹波守はうなずくと、早速、小姓に申しつけて一刀を納戸《なんど》から持ち出させた。恭《うやうや》しく児小姓が両手にこの刀を捧げて主君に献上すると、 「摂津屋、よう見ておれ」  丹波守は刀を抜くなり、即座に小姓を手討ちにした。コロリと首が落ちた。児小姓はまだ鞘《さや》を持っていたそうである。  ところが眼前に小姓一人が手討ちになるのを見て、摂津屋は顔色を変えるどころか、 「お見事なものでござります。そのお刀よろこんでお譲りを頂きましょう」  と言った。まことに平然たる、その胆《きも》の太さがいたく丹波守の気に入って、以来、商人の身で彼だけはお直《じき》にお目通りをゆるされるようになった。  摂津屋五兵衛がやって来たのは、久々に京の商用を済ませて戻ったからと、極上《ごくじよう》の多葉粉を手みやげに、いわば丹波守へのご機嫌伺いで、上方《かみがた》の近頃の様子など取りとめもなく雑談して、すぐ帰っていったが、その帰りぎわに、 「お殿様、近々、都合で大きな商談を持参いたすかも知れませぬがその節は何卒《なにとぞ》」 「商談?……いかような話じゃな」 「それは、用件を持参いたしましたおりに。……では、本日はこれにて──」     三  土中の三人には、日に食事がわりの握り飯と、梅干一つが出された。  与えるのは中間《ちゆうげん》の役であった。  死なれては楽しみがない。中間は百姓の忰《せがれ》が武家奉公にのぼった者で、多く、大名家の中間・草履取りがそうであるように三田領内の出身である。地面に片膝をついて、先ず疋田清四郎から、竹の皮につつんだ握り飯を箸《はし》で小分けしては、梅干と交互に口へ運んでやる。 「かたじけない」  この時だけ清四郎は薄目をあけ、中間に礼を言った。その目は意外にやさしかった。もう五十をすぎている実直そうな中間で、主君に目通りのかなう身分ではないから、丹波守がどんな残忍な性格かをこの中間は知らぬ。なぜ武士三人がこういう非道な目に逢うているかも知らぬ。 「たべなされ。たべてさえおいでになれば、今にご赦免《しやめん》がありまするだ……なあ」  いずれは主君の忿《いか》りに触れてこうなった三人とは察しているが、人のうまれながらにもつ惻隠《そくいん》の情から、痛ましいと私《ひそか》な同情を寄せるのはこの老中間ばかりではなかったろう。  しかし、咎《とが》人をかばうことは許されないので、そっと、小声で励ますのである。  握り飯は、さんにん別々の竹の皮につつんであった。  頑《かたくな》に初めは隼人正が喰うのを拒んだ。 「渇しても盗泉の水はのまずと申すたとえもある。その方の思い遣《や》り過分であるが、要らん。それこそ犬にでも呉れてやれい」  と言った。 「隼人正……と申されましたな」  となりの地面に首だけ出した梅若右近が、その首を斜めにねじって、 「お食べなさりませ。天の与えるところとお思いにはなれませぬか。……死ぬるのは、いつでも死ねるではございませんか」と囁《ささや》く。  ジロッと、眼だけその方に眄《なが》しくれて、 「中間」  眼前に腰をかがめる老僕へ隼人正がこう言ったのは二日目であった。 「頼みがある。武士が末期《いまわ》の頼みじゃ。きき届けてはくれぬか」 「?……」 「当屋敷を出れば、角地はたしか酒井侍従どのが邸。その角をまがったあたりに松の木が生えておる。路傍にな。その枝へ、白い手拭いを結びつけてはくれぬか」 「………」 「他言はいたさぬ。断じてその方に累《るい》の及ぶことはないぞ。ただ、結んで参ればよい。武士の最期のたのみじゃ……。聞き届けてくれんのであれば、その飯、食わぬ」  妙な脅迫だが、食を摂《と》らずに隼人正が餓死しては給食すべき中間が咎《とが》めをこうむる。中間は、ふるえる箸に飯をはさんで隼人正の口もとへ差し出した。  じっとその面《かお》をにらんでいて、 「どの枝にてもよいぞ」  はじめて隼人正は口をあけた。  翌日。  昨日同様、三人目の隼人正の前に老僕が竹の皮を持ってかがんだ。終始まじろぎもせずその表情を凝視しつづけて、 「どうじゃ? 結んだか?」  老僕は俯《ふ》し目に視線を合わすのを避ける態で、握り飯をくだく。箸はやはりふるえていた。不敵な笑《えみ》をたたえながら隼人正は口を開けた。  三日目── 「くわぬ」  中間が、前へうずくまるなり大喝した。 「おのれ武士の末期がねがいもきき届けてはくれぬか。──下郎、さがれ」  老僕は愕然と目をあげて口走った。 「む、むすびましたゾ……」  泣き出しそうな声である。 「いつ?」 「ゆ、ゆんべにござりまする」  それでもまだ射る如く、するどい眼で老僕をにらんで、 「まことか」 「うそは申しませぬわい」 「──さようか」  がらりと語調をかえ、 「かたじけない。たとえこの隼人正が死すとも、その方が情誼《じようぎ》は未来|永劫《えいごう》忘れぬぞ」  その日の晩である。  まだ蚊が出るので夜中、桶ははずされているが、 「……右近」  口を尖《とが》らせ、顔面へ襲う蚊を吹きのけながら、 「おきておるか」  寝しずまった、庭の暗がりの底でひくく隼人正が呼びかけた。 「いかにも起きており申す」  地からわき出る声とはまさにこのことだろう。昼間のあの優男《やさおとこ》ぶりとは別人のごとき武士口調である。  隼人正が言った。 「あの老僕、どうやら申しつけた通りをいたしてくれたらしい」 「…………」 「見たか、おぬし」 「何を?」 「宵《よい》がた、女が一人、奥へのぼりおった。あの新参女中、たしかに我らへ合図を送ったように見えたが」 「────」 「おぬしには?」 「べつに何も」 「見えぬと? いや、たしかにあれは唯《ただ》の奉公人ではない……この眼に狂いなくば、大目付どのが内命を蒙《こうむ》って参った女──」 「…………」 「万が一にも生還を期せる我らではないが、これでどうやらお役目の一端は果たせたと申せるもの……右近、おぬしはの、いかような屈辱にも耐えて機会を待つのじゃ。よいか、死んではならんぞ」  こんな対話は、いかに声を微《しの》んでも疋田清四郎にきこえぬわけはないが、暗闇の片隅で疋田が耳を欹《そばだ》てる気配はなかった。  これまでにもどうかすれば、 「其処《そこ》な肥後のお人──」  邸内の寝しずまったのを見すまして隼人正が話しかけたことがあった。 「貴公のおかげで、我らまでが結句《けつく》かかる不様《ぶざま》な生き恥さらす事態と相成ったが、袖すり合うも何とやら……これも宿世《すくせ》の縁であろう。ただ、貴公ほどの仁じゃ、われらが公儀目付なることすでに察しておられようとおもう。いずれは死ぬる身、役目柄きいておきたい。何ゆえおぬし当屋敷へ侵入めされた? まこと、丹波守がいのち狙わんとてか? それともほかに──?」 「…………」 「念をおす迄もござあるまい、われらは、重ねて申すが公儀目付、当九鬼邸に不審のすじあり、詮議のため潜入いたしたがこの始末。その不審も、つづまるところは貴公が生埋めになぞなっておったが為と──こう申しても、まだ、ことの仔細《しさい》を明かしてはもらえんのか?」 「────」 「チッ。……口のかたいものよ」  何をきかれても清四郎の目をつむった成仏《じようぶつ》顔はかわらなかった。  彼が心底に懐《おも》いつづけたのは、ただ、主君越中守重賢公の安泰である。     四  細川越中守重賢──  疋田清四郎には師にもひとしい英君だった。  まだ隆徳院殿(重賢の兄宗孝公)が封を襲《つ》がれて重賢|君《ぎみ》は部屋住みの頃に、網《あみ》ひとつほしいものよと懇望《こんもう》されたことがあり、当時清四郎の父九郎右衛門は用人だったので、それとなく清四郎が、父に御意をつたえたら、 「うぬは不忠者かな。かかる御倹約の折ふし、部屋住みの御身に左様の贅沢《ぜいたく》ゆるさるべきや。なぜ、お諫《いさ》めをせん。汝《うぬ》もうぬなれど若も若なり」  大声に九郎右衛門は喚《わめ》き散らした。これを別室で重賢公が聴いておられて、あとで、 「清四郎、大きな雷であったの。ゆるせ、おれがわるかった」  そう却《かえ》って詫びを入れられた。  また同じ時分、清四郎は重賢公より二歳の年少で、幼少より若君附きとして勤仕してきたが、つくづく御意あそばされるのに、 「汝は久しく精勤いたしくれるゆえ、何がな取らせたく思い心をくばれど、意にまかせず。ここに袴《はかま》一具はあれど、これを遣《つか》わせばおれは白衣にて暮らすほかなし」  との仰せに、清四郎は涙を流し、 「勿体《もつたい》のう存じまする。御品を頂戴仕ったるよりも只今の御|詞《ことば》、肝《きも》に銘じ、忝《かたじけの》う存じ上げ奉《たてまつ》りまする」  と感泣《かんきゆう》した。  夏の一日、水泳に当り、重賢公は濡《ぬ》れ褌《べこ》を日に干して乾くのを待って、帰邸されたこともある。蚊帳が綻《ほころ》びていて、蚊に食われて困るとて自身に糸で其処《そこ》、彼処《かしこ》と繕《つくろ》われたこともあった。  他出にあたって、鼻紙のお持合せなく、御当惑の態なのを見て、自分持合せの紙を清四郎が差上げたこともある。肥後五十四万石、諸大名のうちでも雄藩と目される細川家にして、内実の暮し向きはこの有様だったのである。  重賢公は兄隆徳院殿ご逝去のあと、二十七歳で細川藩主となられたが、かりにも従四位越中守たる御身が、ひそかに質札《しちふだ》を所持なされていたのを世人は知らない。  或る時、これを見て、かえって老臣達が其《そ》の何たるかを知らずに訝《いぶか》ったら、 「これは質ふだと称するものにて、予が昔年、用帑《ようど》不自由の折しばしば衣類を典せしことあれば、当時の苦しみ忘れぬため仕舞いおる」と。  老臣は知らずとも清四郎は、部屋住みの若君に代ってそれらの衣類を質屋に運んだ。御紋付もあることなれば、万一、流れて世に知れてはと利息がわりにおのが衣類を父の目をかすめて、持込んだこともある。  口には出さぬが、越中守は知っていたろう。さればこそ、そちの精勤に酬《むく》いたいが袴一具の他なしと歎《なげ》かれたのであろう。  五十四万石の大名とは、つまりは領内より五十四万石の米の収穫がある領主という意味である。むろんそのすべてを藩主の所有に帰せるわけはない。米をつくる百姓自身の取り分がある。家臣の知行高に応じた禄米が要る。  五十四万石の領主で、その約五割二十数万石は領内すべての百姓町民が生活する分にあてられると見てよかった。したがって残り三十万石余が実質の収入となるが、これとて知行三万石の家老が一人おれば、すなわち三万石の収穫分の土地を彼は所有するわけであり、そうした知行取りの家臣の総高は三十万石から天引きされる。  さらに蔵《くら》米取りとて、土地はもたぬが米で何俵何人|扶持《ぶち》などと頂戴する家士がある。それらを差引けば、藩の私有とも目すべきものは実質五万石にも満たなかった。  米一石を金一両と換算して、五万両の年収のわけになるが、この五万両で、参覲《さんきん》交替時における国許《くにもと》より江戸への──細川藩にあっては肥後熊本より江戸まで、海陸にて往復五百七十六里──の大名行列の寝泊費、道中費、江戸藩邸ならびに中屋敷、下屋敷、熊本城における諸経費。さらには息女の化粧料(嫁入りの際の持参金)、嫡子教育費のほかに、幕府に江戸城修築のことあれば工費を分担せねばならぬ。江戸に大火あれば類焼した藩邸を再建せねばならず、領内に旱魃《かんばつ》・風水害あればこれ又、救恤金《きゆうじゆつきん》を出さねばならぬ。  要するに表高《おもてだか》五十万石の大名は五十万石のその家格を、実質五万石で維持せねばならぬわけだった。お大名の子息ともあろう人が、ふんどしの代りさえない程に内向きを節約しても、経費の不足分は何かで補わねばならない。  諸大名が、そこで先ずしたことは家臣の知行の借りあげである。『歩一』『歩二』『歩三』などと称し、家来の禄の一割から三割をぴんはねする。中には『半知』と称して知行の半分をハネた大名もいた。それでも、ひとたび凶作・洪水がおこれば忽《たちま》ち藩財政は窮乏する。ひっきょう、領民を生かす為に──つまり国を治めるために領主の採《と》るべき道はひとつ──『大名貸し』の富商より金を借りることであろう。細川藩に限らない、九鬼丹波守とてこの点はかわるまい──  疋田清四郎は、国務に直接たずさわるお役目にはいなかったので、藩財政が内実どのような状態かは知らなんだ。しかし主君の日常に近侍して、今は藩主となられた重賢公が藩財政たてなおしに、日夜どれほど腐心されているかは目に痛いほどに知っていた。『大名貸し』が、うわべは慇懃《いんぎん》に、内実は金の威光をかさにどれ程の無礼・横車を押して来ても、怒りを怺《こら》え、懐柔策に出ねばならぬ藩重役らの苦衷《くちゆう》を父にまざまざと見て知っていた。  大名の中には、商人|風情《ふぜい》の増長慢に堪忍なりかねて、刀を揮《ふる》う者もあったが、ひとたび、そういう殺意を感知した富商の復讐心は老獪《ろうかい》かつ非情なものである。富商は武器をもたぬ。しかし武技鍛錬に寧日《ねいじつ》ない別の武家を、文字通り金縛りにすることができる。甲なる大名の家士が自分を狙ったと知れば、乙の大名に示唆《しさ》して、みずからは懐《ふとこ》ろ手で復讐を遂げるくらいは、易々たることだ。  金を貸そう、あるいは返済期限を延長しましょう。そのかわりと申しては何でございますが……明らかに斬ってくれとは商人は言わぬ。言外に巧みに言葉をあやつって、乙の大名の家士をして甲の者を斬らせる──血で血を洗う殺戮《さつりく》を武士同士がする、富商は北叟笑《ほくそえ》んでのんびり見物しておけばよい。旁々《かたがた》、米を買占め、相場をつりあげて次の機会にそなえればよいのである。  疋田清四郎は、一日、藩の重臣米田|監物《けんもつ》に密《ひそか》に召された。 「おぬしに頼みがある。何も申さずと死んではくれぬか」  監物は言った。父九郎右衛門亡きあと、親がわりとなって嫁の世話までしてくれた老臣であった。  清四郎は黙って穴の明くほど老臣を見た。 「何も申すな」監物は又言った。 「何事もお家のためじゃ。理不尽は承知で申しておるぞ。さればすぐにも江戸へ発ってくれよ」 「ただ死ねと仰せられましても」  清四郎はむしろ、おだやかな笑顔になって、 「江戸へ参ってどこで、死に申すので?」 「わからぬか。水軍じゃ、水軍……マルに九の字の船のな」 「は?」 「肥後米を積んでおろう。米商人に兼ねてかかずろうておった──」  パッと清四郎は畳に手をつき、 「委細《いさい》承知つかまつってござる。が、ただ一つ──」 「?」 「お詞《ことば》を返すようながら、此の儀、殿にはご承引あそばされてござりまするか」 「たわけ。今も言うたであろう。何もきくなと」 「────」 「よいか、この儀はわれらが一存にて謀《はか》りしなれど、その方ひとりが才覚にて致すことじゃぞ。そうであろう。む? その方ひとりが浅慮にて九の字どのを」 「ご家老」清四郎は真っ赤に顔を紅潮させて、ガバと平伏し、 「委細は最早《もはや》……。疋田、身命にかえましても」  その夜のうちに、清四郎は熊本城下から姿を消した。  ──以来、半歳になる。 「……との」  暗夜の土に埋もって清四郎は心の中で言う。 「いつまでも御健勝にわたらせられませよ。……との」     五  摂津屋が訪ねたころから更に数日が過ぎた。  この間、二度の大雨があり、首のまわりには埋める際に掘られた穴の円《まる》みで窪《くぼ》みが生じ、そこに水溜りができた。  あたかも首は水中に浮び出ている観がある。丹波守は、この奇観をはじめは愛《め》でたが、清四郎の顔への放尿をやめないので、水溜りは汚穢《おわい》の臭いを放った。これには丹波守も閉口したか、翌日すぐ、砂利で水溜りは埋められた。さすがにこの時分には、三人の頬は削《そ》げ、憔悴《しようすい》して、生気なく、まるで曝《さら》し首に見えたという。  しかし、生きるものである。  相変らず隼人正は血走った眼で丹波守をにらみつけ、梅若右近は白面の落ちくぼんだ目つきで、とろんと恨めしげに丹波守を見るようになった。清四郎の成仏《じようぶつ》面にも、ようやく陰翳《いんえい》と黝《くろ》い隈《くま》が目のふちに生じていた。  そんな或る日のことである。  越後屋甚兵衛が九鬼邸を訪ねてきた。家老の天岡|内蔵允《くらのすけ》が引見した。  甚兵衛は今が男盛りの四十過ぎ。摂津屋ほど古い暖簾《のれん》ではないが、むしろ摂津屋をしのぐ巨万の富を一代で築いたといわれ、小肥《こぶと》りで、瞼が脹《は》れぼったく目のほそい、何をいつも考えているか、底の知れぬ大|商人《あきんど》である。  ずいぶんと家老内蔵允も越後屋にはこれまで、主君に内密の無理を言ってきた。いちどとして嫌な顔を見せたことがない。応ずるにせよ断わるにせよ、九鬼家の家柄を称《たた》え、当主丹波守の豪毅の気性を褒《ほ》めそやす。いつもこの前置きはかわらず、なかなか諾否の核心にふれぬのに堪まりかねて、 「承知いたしてくれるのか、断わるつもりか。どうじゃ」  内蔵允が膝を詰めると、細い目を一そう細くして、 「ご家老さまお直《じき》にこの越後屋を見込んでのお話……おことわり申しては罰があたりましょう」 「すりゃ、きき届けてくるるのじゃな」 「その代り、当方にもお願いがございます。お聞き届けねがえますかな」 「な、何じゃ。申してみよ」  ここで又、越後屋は巧みに即答をさけ他の話題を口にする。いつのまにか、ことわられる場合も、承知してもらうにせよ、彼の申し出だけは引受けさせられているのが常だった。  油断ならぬ男である。はらの底で、そう内蔵允は見ているが、そんなことは百も越後屋は承知だろう。 「久しく姿を見せなんだが、何ぞ所用でもあって罷《まか》り越したか?」  表座敷の一室に内蔵允が上座に着き、ことさら、いかめしい威厳をつくろって対《む》き合うと、 「いつに変らずご家老さまお直にご対面をたまわり、まことにかたじけのう存じます」  ていねいに手をついて挨拶して、やおら身をおこすと、例のほそい目で、 「だいぶ、朝晩しのぎやすうなって参りましたな」 「さようであるな」 「お殿様にはお変りはございませんか」 「いかにも。いたって御健勝であらせられるぞ」 「それはそれは……ところでご家老さま、きょうは折入ってひとつ、お願いのすじがあって参上いたしましたので」 「何じゃな」 「じつは妙な噂を耳にいたしましてな。何でも、ご当家お庭前《にわさき》には至極めずらしいものが埋められておりますとか」 「何」内蔵允の面《かお》が渋くなった。 「誰に聴いて参った」 「────」 「越後屋、誰に聞いて参ったかと申しておる」 「これは大きなお声を」越後屋甚兵衛は、ほそい目を一そう、糸にしてわらうと、 「やはり本当らしゅうございますな。では是非とも、手前に拝見させて頂きたいもので、……念のために申し添えておきますが、手前とて大名貸しと言われるほどの者、ご当家のみならず、いずれ様へもお出入りはさせて頂いております……さすれば世間向きに秘められたことどもも、いろいろと」 「待て越後屋。当屋敷が庭に埋めてあるもののこと、つまりそちは細川家にて聞いて参ったと申すか」 「細川?……ハテ、手前細川さまには近頃、お出入りをさせて頂いてはおりませんが」 「まことか?」 「ご家老さま」  甚兵衛がわらった。「思い違えをなされては困ります。手前は商人、お武家すじの理《ことわり》に口をさしはさむ気持も、又その必要もございません……有体《ありてい》に申そうなら、あきんどは儲《もう》かればよいので。珍重の品があるとうけたまわれば、いちど拝見させて頂いた上、もし、算盤《そろばん》が合いますようならお譲りを頂き、更に高値で別のお人にお分けをする」 「ぬ?」 「ハ、ハ、ハ……これはご家老さまを相手にとんだ商法の初歩を。はっ、は、は……」  小肥りの腹をゆすって嗤《わら》うと、言葉を嚥《の》んで凝視する内蔵允の眼をじっと見返して、 「いかがでございます。せめて、拝見だけでもさせていただくわけには参りませんか?」     六  内蔵允は先きに立って廊下へ出た。首は、中庭とて、俗に中奥《ちゆうおく》と呼ばれる藩主休息の座所に面した庭にある。  ふつう、大名屋敷(藩邸)は表、中奥、奥向きとわかれ、表がいわば政庁、奥は夫人側妾らの住居で、中奥が藩主の私室になる。側近の士を除いては、重役以外は中奥には通れない。そこへ内蔵允は越後屋を案内した。  すでに桶三つは伏せられてある。そろそろ初秋の紅葉を見せる築山を背景に柚《ゆず》がまだ、青味がかった実を葉かげにつけ、鳳仙花《ほうせんか》が彼方《かなた》此方の地面に爽かに簇生《そうせい》して淡紅の花を咲かせている。赤とんぼが二羽、空中に交互に翅《はね》をひろげて停止し、ツト移動しては又停まった。  長閑《のどか》な、昼さがりの大名屋敷の中庭風景である。  廻り廊下をやって来た内蔵允は広椽《ひろえん》の中ほどに佇立《ちよりつ》すると、庭づたいに随《したが》った家来へ、目配せで、桶を取れと合図した。家来が裃《かみしも》の背紋をこちらに見せ、かがみ込んで順次、三つの桶をはずしていった。  遽《にわか》に桶の底から明るい外界にさらされて一瞬、眩《まぶ》しさに各自が顔をしかめる。 「見るがよい」  内蔵允は言った。 「あれが埋めおる品じゃ」 「なるほど……」  越後屋はかくべつ驚いた様子はなく、 「ずいぶんと粋狂なお品で……大分でも、日はたっておりまするな」 「?」 「いかほどのお値段でお譲りをねがえますかな」 「ぬ?……すりゃその方、買うつもりか?」 「あきんどは値が合えばお取引をいたします……一応、出どころを聞かせてはいただきますが」 「なに、出所と?」  内蔵允の顔が強《こわ》ばった。 「その方、出所は存知の上で出向いて参ったのではないのか」 「これはご無体な……」  越後屋はわらっている。 「もっとも、お値段にもよりまするが」 「?……」 「とくしんの参る値段であれば、あきんどは出所を問わず買い取ることもございますので」 「ならば、いかほどの値であれば得心いたす?」 「さよう……三つくるめて、先ず二千両……ひとつなれば、二百両でございましょうかな」 「────」 「いかがでございます?」 「ひ、ひとつより譲れぬと申したら、あの三つのどれを所望いたす?」  越後屋は、ここではじめてキラッと底光る眼で、内蔵允を見返したが、 「さようでございますな……」  再び庭の首へ視線をうつす。  土中では聞き馴れぬ来訪者の声に、三人が斉《ひと》しく気だるげな目をあげていた。そのうち急に、らんらんと眼《まなこ》を見開いたのは清四郎だった。  ついぞ無いことである。  老臣監物は何もきくなと言い、清四郎また言葉に出しては問わなかったが、丹波守のいのちを望んだのが越後屋甚兵衛だったことは老臣の口ぶりから充分察しはついていたのである。  ここで、 「九鬼どのがお命のぞみしはその者にござるぞ」  清四郎が叫べば只で済むまい。  眉をつりあげ、死相のただよう面貌で、だから清四郎は息を詰めて椽の越後屋を凝視したのである。  どこ吹く風だった。越後屋は、 「ご家老さま」  もう目を細めて、 「思いちがいをなされては困ります。手前は、ひとつ一つを二百両で買い取るのではございません。お殿様のお慰みを|〆《しめ》て、二千両で頂戴しようと申すので」 「?………」 「おわかりになりませんかな。あの首ひとつを残しておきましてもお殿様は慰みなされる……と致しますと、これは、二百両でも高うございますかな。まあ、一つ百両がよいところで」 「何と申す?」 「おことわりをしておきますが、手前のほうでは、あの首ひとつでも随分と高う買い取って頂ける相手はもう見つけてございます。この越後屋、引取り手のない品をおねだりには参りません……ありていに申し上げますなら、先ずあの首ひとつで、さよう、千両から二千両には相成ろうかと──」 「だ、誰がさほどの値で引取るかを、申してみよ」 「ご冗談を。お直《じき》にお取引いたされては商人、利ざやを稼げません、はッは、は……まあそのことより、こう申し上げますれば、ご納得が参りますかな。あの首、いずれはいのちのないもの。このままご当家で打ち捨てなされては、もう一文の得にもなりますまい。それをでございます、二千両で引取りなされたお方は、即刻、打首になさる。……申さばご当家のお手をよごさず、すっぱり、代りに首を打って、二千両差上げようと申すのでございます、いかがなもので?」 「?……」 「ご当家のご損には相成るまいと存じますが。……」     七  越後屋の帰ったあと、内蔵允は一時《いつとき》、むつかしい顔で腕を拱《こまね》いたが、やがて意を決し主君丹波守の座所に出向いた。  九鬼家は、もともと紀州熊野より出て兵船を率《ひき》い、遠く唐《から》の山東省より福建に至るまで倭寇《わこう》の名で猛威をふるった海賊の一族である。秀吉の時代、征韓の役《えき》には水軍の長《おさ》として玄海灘を渡ったが、泰平の世となって、今は幕府の水軍とも称すべき船手頭にかろうじて往昔の面目をとどめている。領地も又、志摩半島一円から摂津の三田に移された。  それでも、幕府の船手番所は江戸霊岸島と永代橋にある。全国津々浦々より米は船で浅草御米蔵へ運ばれる。その監視を船手番所でする。米を運ぶのは実質的には札差(米商人)で、大名貸しの世俗にいう|借金のかた《ヽヽヽヽヽ》になるのは、すべて米である。そんなところから各藩の米の生産高におのずと九鬼家は通じていた。  知行取りにせよ、蔵米の俸禄者にせよ、米そのもので商品は購《あがな》えない。百石、二百石と大量の米を一時に入手しても第一、置く所がない。そこで米を札差に渡して金に替える。いわば札差は一種の仲買い人であったが、俸禄者は、その米を全部金で貰《もら》うことは出来ない、なぜなら札差は蔵米どりの武士から、食う米がないと言って来られれば、米を与えぬわけにゆかぬからである。そこで札差の方も心得て、どの屋敷は何人、どの藩邸は何人と、各屋敷の人数と一年に食べる米の量を知っていて、その分だけは金に替えなかった。つまりどの藩では常時どれほどの人間が生きているか、札差は掌《たなごころ》をさすごとく知っていたのである。  一方、船手頭は世襲ゆえ九鬼家は各藩の米の事情に明るい。  ところが、肥後細川藩で、越中守重賢が藩主となった頃からにわかに米の動きに異常が見られた。肥後で産する米は肥後米とて江戸では上等の米である。同じ蔵米どりでも、羽振りのいい旗本は札差に働きかけてこの肥後米を所望する。小普請らの御家人は不味《まず》いポンポチ米を食わされる。一俵は一俵である。そんなことで肥後米には所望者が多かった。そこで、細川家は米の年収高のうち、何程かをさいて直接他の大名に密輸することをはじめた。少しでもこれによって藩財政を補おうという、藩公の英断に出たことである。尤《もつと》も、四国の徳島藩や信州山間の領主など、水田が尠《すく》なくて領内で食する米の絶対量に不足する大名家では、これまでにも肥後米の供給をあおいでいたので、いわばこうした密輸は公然の秘密として幕府も見て見ぬふりをしていた。  ところが重賢公は、家中に節倹を奨励して粗食に甘んぜしめて、少しでも多量の米を密輸分にあてさせた。更には江戸に送らせた。  怪《あや》しんだのは九鬼であった。  家士みずからが節約した分ゆえ、米を貯えること自体は公儀に憚《はばか》ることはない。併しそれを密輸するのは別である。従来は見て見ぬふりをしているがおのずから限度がある。  といって、事々しい詮議をおこなっては、絶対量に不足する徳島藩らで、向後、米の入手はかなわなくなる。従来は看過《みす》ごした幕府自身の職務怠慢も問われる。  幕府としては、穏便に、細川藩の重役をよびつけて訓戒を与える程度でとどめる他はなかった。その辺をあらかじめ見通しておればこそ、重賢も多量を密輸の手段に出られたのであろう。  九鬼丹波守は違う。かねて船手番所を司る職権を利して、米の仲買い人たる札差に睨《にら》みをきかせ、肥後米の配分に何ほどかの便宜を他の旗本らへはかり得たのが、細川藩の肥後米直送で、江戸におけるその入手は丹波守の便宜にあずからずとも容易となった。丹波守は甚しく面目をきずつけられた。  といって、既に公儀で訓戒にとどめられたものを荒立てるわけにはゆかない。そこで、腹癒《はらい》せに、肥後米直送を請負った回漕問屋をいじめにかかった。回漕問屋は雇用主たる細川家に愬《うつた》えた。こういう場合、細川家は表面には立たない。そもそれ肥後米直送に当っても、あいだに一枚かんでいるのが札差である。ちゃっかり密送を請負って利ざやを稼いでいる。すなわち越後屋甚兵衛だったが、じつは回漕問屋の陰の経営者も又、ほかならぬ越後屋だった。  越後屋は、一方では九鬼家へも大名貸しとして出入りして、世間話にかこつけて肥後米直送のことをしらせ、みずからは回漕問屋の側にまわって丹波守にいじめられて、この尻《ヽ》を細川家へ持込んだわけである。  その結果、いっそ丹波守様さえ無きものならばと、肥後米の跡始末に苦慮する米田監物をけしかけた。  ──こういう事情は、米田監物は無論ながら、天岡内蔵允も知るわけはない。ただ内蔵允は越後屋のいわくあり気な、しかも勿体ぶった首への執着ぶりにふと、疑念をいだいたのである。 「──との」  丹波守の座所に入ると、人払いを願ったあとで内蔵允はおもむろにこう言った。 「卒爾《そつじ》ながらお庭さきの者どもこの内蔵允にお払い下げを願いとう存じまする」 「あの者らを呉《く》れよと? どういたす」 「…………」 「その方、首を打つつもりか」 「──御意」 「なぜじゃ。わけを言え」  丹波守はてらてら皮膚が脂《あぶら》ぎって、意にそまぬことがあると額《ひたい》に青い血脈をうかした。 「との、さればお尋ねを申上げまするが、あの疋田清四郎、まこと腕前未熟にて殿を打ち損じ、召捕えられたとお思いなされまするか」 「なに?」 「われらもはじめは左様存じおりましたれど、以来あの者の様子を見るに胆《きも》のすわりようと言い、寡黙《かもく》の面構《つらがま》えといい、却々《なかなか》の人物。かよう申してはいかがながら、もしその気なれば必ずやあのおり殿を殺《あや》めたてまつったに相違ござらぬ。それを、敢て縛《いまし》めを受け、生き恥をさらしおるは何ぞ深き魂胆あっての上にてはなきかと。……現にあの者を生理めせしため公儀目付とおぼしき隼人正なる者、早や網にかかり申してござりまするぞ。隼人正が当屋敷へ潜入つかまつったこと、果して清四郎が懸けた網でないとお判じになれましょうや?」 「…………」 「じつは先程、越後屋甚兵衛まかり越し、あの三名が身柄、金二千両にて引取りたしと申し出てござりまするが」 「なに越後屋が?……い、いつじゃ」 「つい前にござる。そのおりの口吻《くちぶり》で察するに、どうもただの商人が粋狂とは思え申さず、細川が糸を引いておるのなれば清四郎一人にてこと足りるはず、それを三名まで申し出たるは、殿、もしやすれば公儀あたりで」  丹波守の額の血管が見る見る膨脹して、ヒク、ヒク動いた。  公儀隠密はどの藩でも見つけ次第殺すのが不文律である。  それだけに、越後屋を動かして大目付あたりが引取ろうと謀《はか》ることは考えられる。当時、大名の勝手向きに二千両の現金のたくわえある藩は皆無といってよかった。殆《ほとん》どの藩が大名貸しの前借に追われていた。さればこそ五十四万石の細川越中守のせがれで、ふんどしのかわりがなかったのである。  その細川藩が、二千両もの金を出せる道理がない。 「なるほど……いつぞや摂津屋が申しおったは、これじゃな」  丹波守は口中でカリカリ歯を噛み鳴らした。 「よし、内蔵允、予が浅慮であったわ。委細《いさい》はまかす。存分に処分せい」  と言って、 「いや待て。予が、そうじゃ、予《よ》が直《じき》に斬ってくれる」  言いざま座を蹴|起《た》とうとするのを内蔵允が制した。 「との、人目がござり申すぞ。ご成敗あそばすなれば夜に入ってから」  言いかけて、「だ、誰じゃ?」  狼狽して屹乎《きつ》と庭に両した障子の方を見遣《みや》った。人払いなれば書院の障子は閉め立ててある。その障子の外の広椽に人の気配がしたのである。  ふつう人払いの折は、児小姓が家臣の来る内廊下に控えている。しかし広椽は奥向きへ渡る廊《ほそどの》につながっているので小姓はいなかった。周章《あわ》てて内蔵允が走り寄って颯《さつ》と障子を開けた。 「御免《おゆる》し下さいまし……わたくしでございます」  其処《そこ》には、白い幻のように新参女中の千鳥が佇《た》っていた。     八  その晩であった。  夜八時《いつつ》すぎに丹波守は女中の千鳥を後ろ手に縛《いまし》め、白刃《しらは》を提《ひつさ》げて奥から出て来た。千鳥は廿《はたち》をすぎたばかりの、色の白い大柄な女である。このとき丹波守のお手がついた直後で、なかば凌辱にひとしい手荒い扱いをうけ鴾《とき》色のしごきを胴に巻いただけの、しどけない寝乱れ姿だった。  丹波守も寝巻ひとつで、縛めの紐の端を持ち、老女に手燭を掲《かか》げさせて自身庭へ降り立ったのである。大名は、一たん奥へ入れば男子禁制で身のまわりに家士はいない。 「密偵《いぬ》。うぬの道づれを呉れてやる。死ぬるに女が一緒とは果報者よ、予が手をつけた女を道連れとはの。うハ、ハ、ハ……」  丹波守の鬢《びん》は狂乱者のごとく乱れているが、千鳥のは更に高島田が髷《まげ》もろともがっくり崩れ、衿《えり》もとははだけて夜目にも白い双のふくらみを見せていた。丹波守は老女を叱りつけた。 「何をいたしておる。もそっと近う寄って灯を上げい。犬めらが末期の面《つら》、見届けてくれるわ」  ようやくこの場で何が始まるかを、土中の三人は知った。しかし実はすでに丹波守は後《おく》れを取っていた。先ず水溜りに砂利を敷いたことである。もとの土であれば、表面を掘れば跡は歴然としよう。小石である為にそれがカムフラージュされた。千鳥は夙《つと》に夜中にこの中庭に微行して、梅若右近の衿すじから胸に、おびただしい油を注入していたのである。憔悴のため身体が痩《や》せていたのも役立った。右近は土中で弛《ゆる》んだ縄目から手を抜いていたのである。痩せた為に縛めのゆるんだのは他の二人も同様だった。  次に隼人正は、ひそかに頤《あご》の下辺に適当の小石を鳥の嘴《くちばし》のごとくにつまんで並べおいていた。丹波守が千鳥を小突いて庭に降り立った時、いち早くその礫《つぶて》を隼人正は口中に含んだ。 「どうじゃ犬、うぬから素っ首掻かれたいか。それとも、この女を血祭りにあげて見しょうか」  片手に白刃をかざし、故意に千鳥のうしろから切先を白い項《うなじ》に突きつけて、こんどは彼方の清四郎へ、 「疋田とか申したの、おのれをな、肥後は手をまわして引取りに来おったわ。いかにも明夕刻に引渡しつかわすと、家老は言うたそうな。う、フ、フ、フ……一日違いでのう、おのれの亡骸《なきがら》を引取らしてくれる」  言って、うしろをかえり見、 「何をいたしておる。……早う明りを持て」  うながした一瞬、闇をつらぬいて礫《つぶて》は丹波守の顔面へ飛んだ。 「たはっ。……うぬ」  豪気の丹波守は、したたかに眉間へ一撃をくらい、目眩《めくるめ》きながらも、手をひるがえして背後《うしろ》から一刀に千鳥を斬った。悲鳴をあげ、千鳥はよろめいて、必死に梅若右近に近寄ろうと、数歩手前に、どうと倒れた。それからの彼女の死力をふりしぼった努力は哀れであった。 「逃げて下さいまし。……又之丞さま。……にげて」  彼女は地を這《は》って、右近の首に近寄り、我が血で、右近の皮膚をぬめらせその脱出を佑《たす》けんと願ったのである。  おびただしい血が地面に首だけ出した若衆髷の横顔へみずからの身を寄せ、抱き伏す千鳥の肩口から、滾々《こんこん》と右近の項《うなじ》をつたい背すじに流れ入った。  隼人正は啄木鳥《きつつき》が木をついばむごとく繰返し石を咥《くわ》えては丹波守めがけて吹いた。次に老女へ飛ばした。この業は神技にちかく、丹波守は鼻ばしらに当った一撃に「うっ」と呻《うめ》いて思わず前かがみに鼻血の流れるのを抑えた。老女は千鳥が斬られたのを見てすでに動顛《どうてん》していたので、礫《つぶて》が|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に当った時もう恐怖に失神し、手燭を落とした。手燭は横に転がってメラメラ炎を燃え立たせた。その明るさに、亡霊のごとく地面から裸身で這い出る右近の身体が映《うつ》っていた。     九  右近は、着物を蝉《せみ》の殼のように土中に残して、脱け出たことが後で分った。  その傍らに千鳥が冷たく横たわっていた。彼女は右近こと公儀隠密藤原又之丞の許婚者だったのである。  隼人正は、漸く鼻血の痛みを怺《こら》え、怒髪天を衝《つ》く丹波守が刀を取り直して拝み討ちに斬り下げた時、数個の小石を口中に含み、我から面を仰《の》け反《ぞ》らして白刃を浴びた。戞《かつ》、と刀が鳴って、折れた。口中の石に当って折れたのである。むろん隼人正自身、額から鼻唇までを真二つに切られて死んだ。死ぬる時隼人正は絶叫した。 「筑後さまに……た、頼むぞ」  筑後とは彼の上司たる大目付、池田筑後守のことである。  疋田清四郎は、この紛争のあいだ、化石のごとく瞑目を保っていた。遂に彼は遁《のが》れる術《すべ》をえらばなかった。  折れた刀に愈々《いよいよ》激昂して丹波守は大音に宿直《とのい》の家士を喚《よ》び集め、家士数人に周囲より頸を刺し貫かれて清四郎は死んでいる。息を引取るまで、彼は一言も声を出さなかった。後に、穴を掘り起こしたら、清四郎だけは、埋められた姿勢のまま、縄目を解こうとした形跡はなかったそうである。  生埋め事件はこうして終った。  藩邸内のことで、公儀より詮議すべき事由はない。強いて挙げれば丹波守乱心であるが、いち早く九鬼家では丹波守を隠居させ、封をその子長門守に襲《つ》がしめた。この措置はまことに機敏で、大目付池田筑後守も如何《いかん》とも為すすべはなかった。  半歳余りが事もなく過ぎた。ところがこの頃から、江戸に不思議な通り魔が出没しはじめたのである。  通り魔は、はじめは二本|榎《えのき》周辺にあらわれた。九鬼家の中屋敷が二本榎にあって、丹波守は隠居後はこの中屋敷に住んでいたが、一月、そろそろ節分が近づいたのでお屋敷へ商人が豆を届けに行って、帰路、供の手代ともども一刀に斬られていた。死骸の周辺には無数に豆がこぼれ散っていた。  九鬼家は、他家とちがって節分には、 「福は内、鬼は内」  と豆を撒《ま》く。福も鬼も共に門より駆《か》り出さず、金屏《きんびよう》に豆の|あられ《ヽヽヽ》を降らすのが九鬼家の恒例である。豆も常のよりは大粒なのを尚《たつと》ぶ。  死体の周囲に散乱した豆の大きさで、商人が九鬼家に出入りの者であることは瞭然だった。この時は、だが、辻斬りとは怖ろしやと世人は噂するにとどまった。  しかるにそれから月余をへて、三月五日の|出入り《ヽヽヽ》の夜に、本所三ツ目で摂津屋の手代が一太刀で斬られて死んでいた。さらに五日後、こんどは芝金杉で札差相模屋の番頭治兵衛なる者が斬られた。  いずれも左|袈裟《げさ》に、水もたまらぬ一刀である。本所三ツ目には九鬼の連枝で綾部二万石の領主九鬼大隅守の下屋敷があった。芝金杉には同じく九鬼家中屋敷がある。しかも斬られたのは、豆商以外は、すべて大名貸しの手のもので、ようやく世間はこの辻斬りを九鬼家に結びつけて私語するようになった。  総じて辻斬りは、夜陰、人通り少なきあたりに待伏せて斬る。じつは刀の切れ味を様《ため》すのが本旨である。物盗りのためには斬らぬ。しかるに兇行現場の模様で察するに、下手人《げしゆにん》は歩いている。散策でもする態で行き違いざまに斬ったらしい。斬られた者はいずれも、即死なので、聞きただしようはないが、死体の横たわった附近に、物蔭、ひそむような場所はなかった。歩行して斬り捨てたに相違ないので、辻斬りとは言わず人は通り魔と称《よ》んだ。  五月に入って、又々四人が路上に夜露《よつゆ》に濡《ぬ》れて死んでいた。六月には更に三人が斬られた。七月には六人になった。いずれも大名貸しに関係の者である。うち二人は武士である。人々は通り魔に、恐怖と、ようやく疑惑の念をいだきはじめた。  疑惑したのは、斬り口が袈裟懸《けさが》けばかりではなくなったからである。恐怖したのは乳呑《ちの》み児を抱いた婦人が斬られたのである。秋九月になって、路上に虫のすだく頃に通り魔の狂刃《きようじん》に斃《たお》れた者は、都合二十数人をかぞえる迄になった。さまざまな風聞がこの頃から江戸市中にひろまり出した。  通り魔にまつわる種々の寓話が生れたのもこの頃である。たとえばこうである──  誰も、通り魔を見た者はない。見たのは被害者ばかりであろう。しかも悉《ことごと》く死んでいる。よほど居合い切りの達人に相違ないと想像されるばかりである。すれ違いざまに、歩いていて人を即死させるのは至難の業だからである。  ところが、ここに唯一人、通り魔を見たという者があらわれた。もと九鬼家の中間をつとめ、老齢のためお暇《いとま》をたまわって牛込辺に住居する多助というもので、これが何かの所用で旧主人のお屋敷へ出向いての帰路、市ヶ谷田町を通りがかったら通り魔に出会ったというのである。  どうして、通り魔に会ったとお前に分るのかと人が問うと、 「今少しでそちを斬るところであった、危いものよ……今日のところは見逃がしてつかわす、さ、早う行け」  通り魔自身が言ったというのである。では通り魔はどんな男であったかと重ねて問えば、急に口を閉じ、 「暗くてよう分らぬ」  何度たずねてもそれだけしか答えない、そして以後、噂を聞きつたえた人々の質問を浴びると、 「知らん。わしは逢うたこともござらぬ」  しきりに首をふって、力《つと》めて否定しようとしたという。  こんな寓話もある。上野の塔頭《たつちゆう》に格禄の賤《いや》しからぬさる僧があって、寵愛の美童が段々成人して二十三になったので、相応の武家へ養子につかわすことにし、ねんごろな支度をととのえて大小一通りも立派に拵《こしら》えたが、切れ味のほどが分らない。そこで当時任侠の小野寺|某《なにがし》という者に、自分は釈門の身なれば刀剣には皆目うとく、この大小が相応の武士の帯びるにふさわしいかどうかも分らぬ、ご鑑定をねがい度いと言った。そこで小野寺が取上げてみるに、なかなか見事な作物である。しかし刀は様《ため》してみねば確かなことは断言できないので、我に預け給えとこの大小をあずかって小野寺は帰った。  当時、通り魔はいよいよ出没の頻度を加えていたので、我は通り魔になりすまし、この刀の切れ味を試《ため》さんと小野寺は謀《はか》ったのである。そこで夜更けて吉原堤に行って、人の来るのを待伏せていたら彼方から若者が一杯機嫌でやって来た。これに、 「われは、今、世を騒がす通り魔なるぞ」  と声をかけて抜討ちに斬ったら、さすがに見事な作物、水も溜《た》まらず相手は二つになった。そこで心静かに血を拭い洗って、その後かの寺へ持参し、ためしみたるに却々《なかなか》の切れ味に候えば、相応の武士が差料に恥ずかしからずと差し出すと、僧は涙を流して、この刀を遣わす筈の者が、両三日前、吉原へ行っての帰途、堤上で何物かに切り殺され、懐中物の紛失もなければサテこそ噂の通り魔に相違これあるまじくと、愬《うつた》える。  小野寺は内心アッと想ったが、体裁を繕《つくろ》い匆々《そうそう》に辞去したという咄《はなし》である。  ──この小野寺のように、通り魔になりすました兇行もあるに違いない。斬り口の違うのがよい証拠である。様《ため》し斬りにせよ、物盗りの仕業にせよ、人は通り魔のしわざと思う、いや思いたがる。  かくて江戸は百鬼夜行の有様を呈するに至った──     十  じつは、当の通り魔は、江戸市中がこうした擾乱《じようらん》におちいるのを寧《むし》ろのぞんでいたと見られるふしがある。  先ずその袈裟切りである。  以前は、斬れば必ず一太刀で死に至らしめた。ところが、偽《にせ》の通り魔が所々に出没するようになって、彼の切り方が変った。同じ袈裟を一太刀に斬り下げるが紙一重《かみひとえ》で死命を制すのを歇《や》めているのである。  このころは、もう相手は武士であった。日頃武辺自慢の者が、我こそ通り魔を成敗《せいばい》せんと自ら覓《もと》めてその出没しそうな辺りを徘徊し、斬り倒される、その断末魔の息の下で、上番所の者などに助け起こされ、 「通り魔は、お、……お、おんな」  言い遺して息を引取るのが一再でなかった。中には 「通り魔は女、女を装いおるぞ」  はっきり言って、永眠する者もいた。これまでは男だけが、夜中に独り歩きをすれば怪しみ見られた。これ以後は女人が道を歩いてさえ、人は猜疑《さいぎ》と穿鑿《せんさく》の眼で窺《うかが》い見るようになった。恐怖の領分は女性の深層心理にも及んだのである。  ここに至って、大目付池田筑後は英断を下さざるを得なくなった。  筑後守が私《ひそか》に柳生飛騨守俊平を邸に招いたのは宝暦二年の暮なりという。  飛騨守はすでに六十六歳で、家督および新陰流の道統を養子の備前守俊峰にゆずり、当時は麻布の中屋敷に隠居をしていた。大へん温厚な人柄で、暇があると釣竿を担ぎ川岸に糸を垂れて、太公望《たいこうぼう》をきめ込んだ。  それゆえ、当代の柳生は釣竿兵法かと陰口されたが飛騨守じつは松平定重の十一男、その武技を見込まれて御流儀を継いだ。池田筑後守には通り魔の始末はこの飛騨守を措《お》いて他に考えられなかったのである。 「夜陰に、わざわざ足労を相掛ける。ほかでもないが飛州、例の通り魔の一件じゃ」  筑後はここですべての経緯《いきさつ》を明かし、 「不憫《ふびん》ではあるが御公儀御師範役が手にかかるのであれば藤原も本望であろう。其許《そこもと》一存にまかせる。どうじゃ、始末をつけてはくれまいか」  あらかじめ、予期したことだったかも知れない、併しそれを顔に出す飛騨守ではない。終始、黙って筑後の語るところを聞き了《おわ》ると、 「不憫と仰せられてござるが、藤原又之丞なる者なにゆえ公儀隠密たる役目を放棄し、通り魔なぞに相成ったと、御老中はおぼしめすか、此の儀につき、後日のため御存念のほど承っておきとうござる」と言った。 「越後屋じゃ」  筑後守は言った。「又之丞は隠密なれば、たとえ細川が家中の者とて、気はゆるさなんだであろう。それが却って、つくづく虚《むな》しゅう思えたのではあるまいかな。疋田清四郎なるものと首をならべし夜陰に、ふと、土中で縛《いまし》めを解いた又之丞が様子を疋田は察知いたしたか知れん、おのれは逃れ得ずとも又之丞に脱出の見込みあらば、主君たる越中へ真相を伝えくれよと頼むも家来たる身の当然な願いであろう」 「真相とは?」 「されば今も申した通り、越後屋じゃ。二千両にて三人が身柄引取りたしと赴いたは既に申した通り。じゃがな、誰も二千両出すと申し出た者はおらぬ。大名にも、幕府にも。さすればつまりは、丹波をして速かに疋田が首打たせんための越後屋が芝居じゃ。まんまと内蔵允はそれに乗りおった」  筑後守は言うのである。又之丞のみが脱出して、隼人正と疋田の殺された翌日、越後屋は何喰わぬ顔で千両箱二つを手代に運ばせ九鬼邸を訪れたそうである。千両箱にはれいれいしく錦の袱紗《ふくさ》を覆い、いかにも九鬼邸に献上する体裁をなしてあった。越後屋はすでに疋田の刺殺されたのを聞かされて大仰に驚いて見せ、ついで落胆した。 「お約束いたしたお大名に、これでは手前、顔向けが出来なくなってしまいました」  と嘆いたそうな。  そのくせ実は、千両箱を運ばせる後方に刺客の浪人者の一行が踉《つ》いて来ていた。もし奇略が効を奏さず、まこと二千両で三人が引渡されるようなら九鬼邸を出たその場で、浪人者にこれを斬らせる手筈だったのである。  それほどに、じつは、疋田の口外をおそれたのであろうが、偶々《たまたま》こんな越後屋の老獪《ろうかい》とも卑劣ともいうべき手口を又之丞は知った。この時はじめて、又之丞の胸中には武士の哀れさ、富裕の商人への悲憤がこみあげたのではあるまいか。武士は、主家のために命を捨てる。隠密は公儀の御為に死をかえり見ずに働く。時には主家安泰をねがう忠節の士を仆《たお》す。そんな武士と武士の死闘が、主家のためなればとて最後に笑う者は商人だった。これを知ったときの又之丞の胸内《むぬち》を吹き抜けた虚しさは想像に余りあろう。  士農工商の序列は、武家社会の為ではない。封建の為にあるのでもない。この序列こそはじつは人間そのものの序列にほかならぬ。最も人を卑しめるのは商《あきない》なのである。経済なのである。経済が権力をたくわえ政権と結びつく世に『仁』はあり得ない。経済観念が重きをなす世は、ただ人をして利《り》を漁《あさ》る方向に走らせるのみ。  又之丞は、商人階級の勃興がいかに人の行く末を堕落せしめるかに思い到ったのではなかろうか。武士は相身互い、この一言にこめられた士分の者の悲しみが分ったのではあるまいか。そうとでも思わねば、世を拗《す》ねたごとく武士を捨て、役目を捨て、町人のみを斬り捨ててゆく彼の昨今の虚無的心境は納得が参らぬ──そう筑後は言って、 「さりながら政《まつりごと》を執る我らじゃ、正道に立戻れぬのであれば、世を紊《みだ》す乱心者を生かしおくわけには参らぬ。其許《そこもと》に始末をゆだねるほかはないのじゃ」 「わかり申した」飛騨守は低くこたえた。 「この役いかにも引受け申す──」  飛騨守は、その夜、隠居所に戻ると家令を呼んで、そうとは告げずに越後屋甚兵衛なる大名貸しに我らは借銭があるかとたずねた。 「越後屋にはござりませぬが」  家令が怪訝《けげん》そうに答えたら、 「かたじけなや。無いか」嬉《うれ》しそうに肯《うなず》いて 「よいわ。退《さが》ってやすめ」  翌朝、別の家来を呼ぶと、これに越後屋の動静のこる所なく調べ呉れよと命じた。通り魔はいずれは越後屋を斬るにきまっている。越後屋につかず離れず様子を見ていれば、いつかは通り魔に出会う機会があろうと見たのである。  両三日を経て、家来の報告がもたらされた。越後屋は用心棒らしき浪人を片時も身辺よりはなさず、他出の折は無論、厠に入るときも外に立たせていることが分った。 「それなればよい」  飛騨守は更に目をはなすなと言いつけて、その日から再び釣竿を肩に出歩くようになった。兎角するうち、再び家来から報らせが来た。深川八幡の横手に近く越後屋の妾宅が構えられるというのである。 「さようか」この時もあっさり飛騨守はうなずいた。併しすでに、この時飛騨守は通り魔との出会いの近いのを覚《さと》っていた。その日から夜に入ると供も随えず出歩きはじめた。  通り魔又之丞と飛騨守が遂に出会ったのは、除夜の鐘を数日後には聴こうという遽《あわただ》しい年の瀬であった。通り魔は噂どおり若衆髷に紫の頬被《ほおかむ》りをし、派手模様の小袖に細身の大小を帯びていたという。飛騨守は見るからに楽隠居の風采で脇差のみ差していた。  飛騨守の方から、寄って行くと通り魔は月影のごとくに佇立して動かない。すでに妖しい殺気がその彳《たたず》む影に罩《こも》っていた。  飛騨守はずんずん往くと数歩手前で、おもむろに佇立し、 「待て」手をあげた。それから草履を脱いで、たたき合せて土をはらい、腰にさし込み扇子を抜持って、 「イザ、おいで」と言ったそうである。  通り魔の影はこの手招きに動揺したが忽ち、すり足で近寄ると抜く手も見せず斬り懸った。キーンと白刃が鯉口を滑り抜ける音がした。いつの間にか老人は体をかわしていて、扇子で、又之丞の刀の柄《つか》もとをホトホト敲《たた》き、「それにては参らず」と笑い乍《なが》ら、再び通り魔が打ち懸ろうとするのを又押えて、 「少し足らぬ。夜遊びは手の熟さぬうちは危きものよ。今少し鍛錬して出直すがよい。のう、又之丞」  と言った。又之丞が驚いて目を瞠《みは》った。 「早う行け」  老人は耳もとに囁いて、同時に柄も通れと又之丞の脇腹を刺し抜いていた。又之丞は抱擁するように老人に抱かれて死んでいった。 [#改ページ]  朱 鞘 坊 主     一 「心頭滅却すれば火も涼しい」の偈《げ》で知られる快川《かいせん》和尚が焼き殺されたのは、天正十年の春である。  いまの山梨県に、塩山市という小都市がある。近くに温泉がある。この塩山市の北方──笛吹川をさかのぼって雁坂《かりのざか》峠に向う道沿いに、寺が建っている。慧林寺という。  武田信玄が、みずから菩提寺と定めたこの妙心寺派の禅寺に快川和尚を迎えたのは、永禄七年で、それから九年して信玄は亡くなった。併し快川和尚は寺にとどまっていた。  快川紹喜は、もと土岐氏の出としか今ではわからないが、正親町《おおぎまち》天皇がその偉望を聞き給うて『大通智勝国師』の号を賜った程だから、傑僧のほまれは夙《つと》に高かったろう。が何をいっても、史上にその驍名《ぎようめい》をとどめたのは山門楼上の焼死であろう。  信玄が亡くなって、甲斐は勝頼の治下にあったが織田信長は隙を見て甲斐に攻め入り、勝頼を滅ぼした。そうして武田氏の保護した、又ゆかりある寺は手当り次第に破壊したので、各寺の僧らは怖れて慧林寺に逃避していた。  信長は、すみやかに僧らを引渡せと、快川和尚に強談《ごうだん》したが快川はことわった。偶々《たまたま》、前《さき》に信長に追われた近江の領主佐々木義弼が、慧林寺に逃げ込んだのを快川はひそかに匿《かく》まって、北国に遁《のが》したので、激怒した信長は将兵数百人を差し向け、寺中にいた僧衆のすべてを山門楼上に集めて下に薪木《たきぎ》を積み重ね、これに火を放った。周囲には士卒が戟を持って環列し「露刃林立ス」と『快川和尚火定碑』には表現されている。山門は見る間に炎《ほのお》に燃えあがり、火は僧衆たちの衣に飛火した。だが一人として狼狽する者なく、泰然自若として死を待ったが、快川はこの時、僧衆に向って、各人、死にのぞむ今こそ仏法の教えを句とせよと言い、みずから『碧巌録』中の、 「安禅かならずしも山水を須《もち》いず、心頭を滅却すれば火も自《おのずか》ら涼し」  の遺偈《ゆいげ》を誦し、火焔の中に端坐して死んだ。「安禅云々」の意は、暑い日の修行に、冷水があればなぞとおもわず心頭を滅却すれば火も亦《また》、の意味である。ところで山門の焔《ほのお》が天を焦がしたのは夜だったが、もえ旺《さか》る炎を境内の樹影に潜《ひそ》んで目にいっぱい涙をためて、見まもっていた少年がいた。  孤児であった。  彼は名を志摩太郎といい、快川和尚に拾われて走り使いをしていたが、織田方の剣戟が慧林寺を包囲したとき、 「おぬしはまだ小忰《こせがれ》じゃ。頭を丸めておればとて、死ぬることはない。逃げよ。悪事さえ為《な》さねば此の世は長生きした者が勝ちじゃ。偉うなりたかったら、長生きをせいよ」  そう言ってなにがしかの金子《きんす》を与え、裏山へ逃がしてくれた。他にも小坊主で、火死をまぬかれた者がいたかも知れないが志摩太郎は単独《ひとり》でにげた。しかし夜空を焦がす火焔をふり返ると、居たたまれなくて、 「和尚さま」  裏山を駆け戻って来たのである。  八歳の少年にどうなるものでもない。火の粉を奔《ふ》いて楼門はまさに燃え落ちんとしていた。おぼろに幾人かの僧侶の影が焔の余映に泛《う》きあがっていた。  遠目にも、その影のひとつは和尚さまのように少年には思えた。  暗涙にむせんで、瞳《ひとみ》を凝《こ》らし志摩太郎はその遺影を脳裏に焼きつけた。  それから、十年余の歳月が過ぎた。  洛中五条の橋のたもとで、路傍に蓆《むしろ》を拡げ、おもに朱鞘《しゆざや》の大小を売っている乞食坊主がいた。  垢《あか》によごれた手甲|脚絆《きやはん》、素足に草鞋《わらじ》ばきの足を胡坐《あぐら》して、托鉢僧めいた頭陀《ずだ》袋まで胸にかけている。傍らには雲水さながらに大きな網代《あじろ》笠が、椀《わん》のように伏せて置いてある。  そんな扮身《いでたち》で、僧形とはおよそ縁のない刀を売っているのは、何処ぞの戦場で骸《むくろ》から掠《かす》め取って来たものに違いないが、ことさら、非難の眼で見る往来人もなかった。  一応世は、豊臣秀吉の天下とはなったものの、血腥《ちなまぐさ》い戦国の遺風はこの京洛の巷《ちまた》にもまだ漾《ただよ》うていたし、誰も、戦さはこれで了《おわ》ってしまうと思っている者はいない。ましてや、彼は遊行《ゆぎよう》僧の風体であり、泰平の世なら知らず、いつ又戦災にあわぬとも知れぬ時勢では、庶民はおのが食糧を確保するのに精一杯で、喜捨など為せる道理もない。僧侶とても、お布施を獲るには何らかの代償をさし出さねばならなんだ。それが、蓆に束ねた大小であった。 「さあ、買いなさらぬか。一腰《ひとこし》わずかの銭百文。ただの刀ではないぞ。見なされ、朱鞘じゃ。琉球《りゆうきゆう》わたりの朱じゃぞ」  往来人で、とりわけ士卒と見れば声を大に呼び掛ける。一顧もくれず具足を踏み鳴らして去る者もあり、ジロリとにらみつけて立去るのもあり、時折は、立ちどまって、しげしげ朱鞘の色に眼を凝らす武士もある。  朱鞘は、たしかに琉球の朱を最上とし、これを漆《うるし》に混《こん》じて塗るが、塗った直後はすこぶる色がわるい。ほぼ十年の歳月を経なくては美しい朱の色は出ぬものである。当然、古い鞘が心ある士に珍重される。朱鞘の新しい拵《こしら》えをなせばとて、戦場を往来する士に朱の色の映《は》える十年間を生きのびる幸運は誰にも予測されぬからだ。  もう一つ、当時の武士は、夏時の道中に際し、炎天の道を歩いて涼を取るために、河川と見れば必ず衣服を脱ぎ、大小を置いて水に飛び込み涼を楽しんだ。併《あわ》せて沐浴《もくよく》にかえ、水練の稽古ともした。さて水からあがると、着物をきたあと彼らは必ず一度は大小を抜いて見る。炎天下にさらされた大小は、その中身が強度の熱のために必ず汗をかいている。それを拭《ぬぐ》って手入れせぬと錆《さ》びるからである。  ところが朱鞘に入った刀は、この汗をかくことがなかった。琉球産の良質の朱を混じたもの程そうで、刀に細心の注意をはらう武士は、斯《か》くて朱鞘を珍重する。それが、桃山文化の花やぎに似通うところから、一そう、朱の色の美しい古鞘は心ある士に鍾愛《しようあい》された。言う迄もなく、鞘のみでは用をなさない。中身の刀もろとも購《あがな》うわけであるが、十年|若《も》しくはそれ以前でもよい、心して良質の朱鞘をこしらえる程の武士なら、おのずから刀剣にも吟味はこらしている。鞘ごと購って間違いはない道理である。  ──が、これを知って殊更《ことさら》、朱鞘を路傍にひさぐとはただの乞食坊主ではあるまい。  そう気づいて、一日、ツカツカと五条大橋のたもとで騎馬より降り、彼に近寄った武士がいた。素襖《すおう》小袴の身なりは、後方に従者を随《したが》えているのを見るまでもなく、かなりな武人と知れる。 「異なものをひさいでおるが、その方、喝食《かつしき》あがりか? 名は何と申す?」  おだやかな目もとで、武士はチラと朱鞘の束に視線をやった。  喝食とは僧にもあらず俗にもあらぬ者が、禅寺に入り、仏道を修行して斎《とき》、非時《ひじ》に食事を呼びついだ児《ちご》のことだが、たしかに埃《ほこり》にまみれた墨染の衣は纏《まと》っていても、頭は毬栗《いがぐり》ほどに毛がのび、身近で見ると歳はまだ廿《はたち》に満たぬ若者である。 「名など聞いてどうなされるんじゃ?」  彼は、物怯《ものお》じせぬ眸差《まなざし》で、ヒタと武人を見上げ、「買うて下さるのか?……な、何を、お笑いなさる?」 「不思議の若僧よ。どこで修行いたしておったな?」 「?」 「その眼つきは矢玉の下を走り廻る向う見ずな性《さが》の所為《せい》ばかりとも思えず……年に似ず、胆《きも》をすえておるわ。──その方、孤児か?」  武人は終始口辺の微笑を消さない。 「お前さまは」  ゴクン、と空唾《からつば》を嚥《の》んで彼は白眼になり、 「わしをどうしようと言われる?」 「ハテ。どうも致さぬ。──ただの、次第によってはその朱鞘、ことごとく買いあげてもよいぞ」 「…………」 「答えてみよ。何を修行して参った?……有体《ありてい》に申すなら、買い取らすぞ」  彼はまた、ゴクンと咽喉をならし武人を仰ぎ見た。よほど空腹なのに相違ない。が、少時してツト顔を外向《そむ》けると、 「要らん」  吐き出すように言った。 「お前さまには売らん。往ってくれ」     二  武人は、中江式部大輔|景継《かげつぐ》といって、豊家の列臣のうちでも風雅の士で知られた人物である。  何か心に残ったのか、翌日、家来を五条大橋にさし向けたが朱鞘を売る僧の姿はもうなかった。次の日も、騎馬に随った過日の従者に、それとなく都大路の人の往反頻多な付近を尋ねさせたが、見当らぬという。 「何故そうまで乞食僧ごときを気におかけなされます?」  恠《あや》しんだ老臣が問うと、 「似ておるわ、眼がの」  景継はそれだけ言って、あいまいにわらった。  老臣が色を変えて、 「や。若君にでござりまするか」  膝を進めたが景継は黙して応《いら》えない。若君というのは、美少年のほまれ高かった景継自慢の嫡子だったが、先年の九州征定に初陣して、華々しい討死を遂げた。今年はちょうど七回忌にあたる。  景継には、あと女《むすめ》は二人あるが男子はない。 「そう申せば」  ふと従者がつぶやいた。「穢《よご》れた僧衣を身につけ、還俗《げんぞく》の体ゆえ気にとめは致しませんでしたが、なるほど、あれで鎧《よろい》を着用致させればなかなかの若武者ぶりでござりましょう」  そんな僧形のまま、朱鞘の大小を巻いた蓆を肩に担《かつ》ぎ、海月《くらげ》さながらな網代笠の雲水姿で道を行く彼を、再び家来が目にしたのは約半月後、京洛中の群衆が三条河原にあつまって大騒ぎの日であった。  河原で人が騒いだのは、関白秀次の夫人(藤原氏)とその子三人が、寵妾三十余人ともども首を刎《は》ねられたからである。  秀次は、殺生関白と噂され、北野詣での瞽者《ごぜ》を殺したり、城楼より行路の者を弓|鉄炮《てつぽう》で射弾し、罪人を自ら処刑したりした。──が因《もと》は、正親町天皇が文禄二年正月に崩じ給うたとき、天下は諒闇《りようあん》、当然、関白たる人は精進潔斎して深く慎むべきであるのに、肉食し郊外に野遊びを試みた。また比叡山は殺生禁断の霊地であるのも省みず平然と秀次は狩猟《かり》をしたから、     院の御所|手向《たむけ》のためのかりなれば     これを殺生関白といふ  の落首が京洛の辻に貼《は》られ、これが異称の初めになった。殺生は摂政と音通したものである。  太閤秀吉は、五十七歳で秀頼の生誕を見ているが、それ以前にすでに秀次を養子とし、関白職を譲っていたので、ずいぶん秀次へは気をつかった。秀頼がまだ二歳にならぬのに早くも秀次のむすめと婚約を取りきめ、日本全国を五分して四分を秀次に与える、あとの一分を秀頼に授けるべしと迄言っている。  しかし、秀次にすれば秀頼の生誕は行く末不安を感じるものだったためか、次第に自暴自棄となって、乱心の振舞いのみ多く、かたわら、毛利輝元、徳川秀忠、伊達政宗、細川|忠興《ただおき》らに昵《なじ》んで盟約の誓紙を取交わさんとした。これを輝元が秀吉に訴えたので、謀叛《むほん》の企てありと見られ、ついに高野山に追われて秀次は自害したのである。平素親しかった伊達政宗らは叱譴《しつけん》を蒙《こうむ》る程度で済んだが、嫡子をはじめ妻妾三十余人は、八月二日、車で洛中を引廻された上、三条河原で、ことごとく斬罪に処せられた。そうして秀次の首もろとも、河原に埋められ畜生塚と蔑称されたので観《み》る者なみだを流してその酷刑を厭《いと》い、関白主従をあわれんだ。数珠《じゆず》を手に、思わずお題目を唱える老婆もいた。  朱鞘の若僧は、そんな群衆から何故か遁《のが》れるように河原と反対の方向へいそぎ去ったので、家来の目に、とまったのである。  この時の家来は、出口新兵衛といって思慮のある侍だったから、ひそかに供の者に僧を尾行させた。百万遍に近い洛北の農家の納屋に侘《わ》び住居していることが分った。  数日後、使者を立て、強引に景継は引見した。 「その方にたずねること二つある。素直に答えてくれよ。悪いようにはせぬ」  館《やかた》の中庭で、相変らずの手甲脚絆に草鞋《わらじ》ばきで、彼はあぐらを組み、両拳を膝に胸をそらして広廂《ひろびさし》の景継を見上げた。頭髪は、以前より幾分伸びている。墨染の衣は処々|繕《つくろ》いの跡があって穢れているが、何か、昂然と胆を据えた不敵の面《つら》魂は物乞いに大小をひさぐ困窮者とは見えない。 「歳はいくつに相成る?」 「十九じゃ」 「名は?」 「…………」 「琉球の朱が上質とどうして存じておった? 坊主に刀は無用であろう」 「────」 「何が不足じゃの?」 「わしは孤児《みなしご》じゃ、戦場で死人の携帯|餉《かれい》を漁《あさ》って生きのびた。朱鞘が炎天に珍重されるぐらいは、野戦に出た者なら知っている」 「成程な。ならば何ゆえこの景継に売らぬと言うた?」 「…………」 「わしに朱鞘は、向かぬか?」  穏《おだや》かで、景継の口辺にはあの微笑が泛《うか》んでいる。  凝乎《じつ》と、ひたむきにその表情を瞶《みつ》めあげ、 「わしに恩をかけてくれるお人は、死ぬる。──それで」  情におぼれまいと眉をつりあげ、にらみつける眼つきで、 「人の情けは、受けとうないんじゃ」 「つまりこの景継が為をおもうて、ことわった──そう申すのか」 「────」 「おもしろい。何故じゃな。なぜおぬしに情をかけた者は死ぬる?」 「…………」 「運命《さだめ》でもあってか?」 「快川和尚さまがそうじゃ。今また関白どのが──」 「む?」  景継の目もとからふと、笑《えみ》が消える。 「関白どのをそちは、存じ寄りの身か?」  事と次第では縁故の者なら容赦なく首を打たねばならぬ。豊太閤の臣として、京都奉行の職席にある景継としては已むを得ぬ措置《そち》である。  いち早く若僧は、景継の意中を察したらしい、ごくんと隆《たか》い咽喉仏を鳴らした。 「縁故はない。でも、斬られるなら、構わん。死んでやるぞ」     三  志摩半島の漁村に生れたそうな。それで志摩太郎と名づけられた。  膝下《しつか》において、やさしく目をかけて下された快川和尚はあの有様である。雁坂峠に遁《のが》れ、戦禍の跡を徘徊《はいかい》してどうにか食にありつき、遺品を剥奪《はくだつ》することで生きるすべをおぼえたが、心にかかるのは末期《いまわ》のきわに、悪事はするなと和尚の申されたことばである。  戦死者の遺品を奪うのは悪事であろうか? 幾度となく自問したが、そのうち、遊行僧の在り様に想い到った。従軍僧として戦場に入り、戦うものの最期を見届けて、これをその生国の人に伝えるのが遊行僧であるが、遺品など形見に届けるのは慈悲であろう。  そんな遺品のうち、不要の品があれば喜捨してもらう。これなら悪事を為すことになるまい。朱鞘の大小を、したがってことさら奪ったわけではないが、朱鞘なれば働きある士に、望外の代価で買い取られるのを知らぬわけではなかったから、やはり、自らに省みてやましさがないとは言えぬが──彼は先ずそう言って、更にこんなことを話した。  ひもじいため夢中で戦場を駆け廻った少年時代は別として、長ずるにつれて、戦火の中を駆けるのは矢張り怖ろしかった。この恐怖は当然、火焔の中に従容《しようよう》と死を待った僧衆たちの偉さを想起せしめた。快川和尚ばかりでなく、あとで聞けば、法泉寺、東光寺、長禅寺など信濃で名刹《めいさつ》と言われる禅寺の住職らも一緒に焼死なされたという。そんな偉い和尚さま達ゆえ、泰然自若と死ねたのかも知れぬが、それにしても焔の熱さと、死の恐怖に耐えられるとは尋常の覚悟で為せることではあるまい。  一体、どうすれば、そのような心境になれるのか。  思春期の志摩太郎に、これは大きな謎であり、課題ともなった。そうしてふと思い出したのが、慧林寺で修行中の或る若い僧が、声を低めて囁《ささや》いた次の一言である。 「志摩太郎、おぬしはまだ小忰ゆえ気がつくまいがの、われらに女犯《によぼん》の禁制あるわけを言うたろか。われらは坐禅を組むじゃろ、法悦の境地に入るわけじゃ。とてものことに、天にも昇るがようなまるで涅槃《ねはん》に入る心地じゃ。むろん、修行せんでただ坐禅組んだとてあかん。きびしい修行を経てはじめて、この境地に入るわけやな。そしたらば、たとえ頭上に白刃をかざされたとてパッと、法悦の恍惚境に没入するゆえ、こわさを知らん。斬られようがどうしようが、もううっとりしておれるんやでのう。──ところがじゃ、この世には、法悦と同じほどに恍惚となれる手だてがある。女子《おなご》や。女子と交わればそうなるんじゃ。修行せいでものう。──それゆえ、女人と近づいておると手っ取り早いそっちの方の悦楽に走り、修行を怠《なま》ける。よって女犯を戒《いまし》められた。わかるか。何? そんなら法悦と女の味は同じか、じゃと?………ま、まあそら似ておるかも知れんが、併しじゃぞ、おぬし、たとえば殺されそうになったとき、そばに女がいてくれるか? 女は弱いもんじゃ、臆病での、逃げ出すわ。どうする? おなごが無《の》うては、最早《もはや》、陸にあがった河童じゃろが? でも修行を積んで法悦を会得しておったらば、そんな折でもパッと恍惚の境に入れる。大違いじゃ。おなごは当てにならんが、法悦は無敵じゃ、こわいものを知らん」  快川和尚らが従容と焔の中に坐していられたのも、つまりはその所為《せい》であったろうかと、志摩太郎はおもったのである。  目に一丁字《いつていじ》なく、学問とて無い彼は、そこで、真似ごとに坐禅を組み、ひたすら、何も考えまいと暇《ひま》にあかせて修行をしてみた。併しあの僧が言ったような、天にも昇る恍惚の境などには至らなかった。脳裏を去来するのは、食い物や、火焔の幻に似た快川和尚の面影ばかりだったという。  ちょうど十七の夏に、近江のある寡婦《かふ》のもとに居候して、畑仕事を手伝っていた。寡婦は一児の母親で、乞食同然の彼に芋粥《いもがゆ》をめぐんでくれたのが寄食する縁になったという。彼女は二歳になる児を背負っての野良働きであったが、或る晩、蚊《か》に悩まされ、寝就《ねつ》かれずに困っていたら、いつのまにか寡婦が彼の側《そば》に身を横たえていた。  おどろいて起き直ろうとしたら、白い腕がそっと志摩太郎の手首をおさえ、おのが肌のあいだに誘った。しっとり、汗ばんで其所《そこ》は濡《ぬ》れていた。いよいよ彼が驚倒すると、含み笑い、 「可愛いお坊さまじゃえ……」  熱い息で耳をくすぐるように囁きかけて、裾《すそ》へ手をまわし、固い部分をもてあそびながら巧みに脚を絡《から》み合わせてきた。それからの次第は男女の戯画に見る通りで、まさに天にも昇る心地というものを、彼は知った。  その後は、夜毎、寡婦は空閨の淋しさを彼で癒《いや》した。彼女は当時二十八歳のやもめであった。  ところで、寡婦の情愛は日を経て濃《こまや》かとなり、早朝、そっと縁《ふち》の欠けた鏡台を前に髪など梳《す》いていることがある。しかし、志摩太郎の胸には、快楽《けらく》のあとに言い知れぬ空虚感──自己嫌悪の情とも言うべきむなしさが澱《よど》むようになった。次第にこの嫌悪感は寡婦へのそれにすり替わる。こればかりは、あの修行僧が明かしてくれなんだことである。  彼はおもった。女犯の悦楽と法悦の差は、この空虚感・嫌悪感の有無に拠るかと。法悦は未だ知らぬが似通う涅槃は、すでにうかがうを得た。この上は、寡婦の肉体で味おうた悦楽を坐禅の修行で得てみたいと。  そこで、一夜寡婦のもとを脱け出し再び浮浪の身となって、貯《たくわ》えの大小を売る余暇に私《ひそか》に坐禅黙想をかさねている。でもまだ法悦の境地は知らずにいるが、これは、平時のためかも知れないし、いっそ首の座に据えられれば法悦に至れようかとも思うので、斬られるのも今は厭《いと》わぬ、白刃の下で坐禅を組んでみようぞ──そう言うのである。 「本気で、おぬし」  景継は一時《いつとき》、あっ気にとられ、まじまじ若僧を見据えて、 「男女《なんによ》が悦楽、禅を組んだら味到できると思うておるか」 「なぜじゃい」志摩太郎の眼にはいささかの疑念もなかった。 「わしは」  彼は言った。「自分だけかも知れんが、寝ておって夢のうちに悦楽を味おうたことがあった。女人と交わりはせんに。夢でそれが出来て、何で禅で出来んと言うんじゃ」  景継は二の句がつげず、しばらく、穴のあくほど志摩太郎を見ていたが、 「なるほど、ものは考えようよの。夢精コレ亦《また》禅|歟《か》──」  この時である。景継と志摩太郎の問答を、さいぜんから別棟の書院の窓より覗《のぞ》き見ていた若い娘が、ツト座を起つと縁|前《さき》に降り立って、庭の籬《まがき》づたいに中庭へと入って来た。景継の次女|振《ふり》である。問答中、志摩太郎は気負っているのでその語気ははげしく、高声だったから、一部始終、書院の振の耳に入ったに相違なかった。  気の所為《せい》か、柴折戸《しおりど》を押し入ってくる彼女の頬は赧《あか》らんでいた。振は十五歳の思春期にあった。景継自慢の、目鼻立ちの愛くるしい健気《けなげ》な娘であったが、美貌という点でならいっそ、乞食坊主の志摩太郎のほうが生れつき、端麗であるのを、遠目に彼女は見初《みそ》めたに相違ない。 「──お父さま」  悪びれず志摩太郎の胡坐した傍らに来て立つと、振は、シワシワ睫毛《まつげ》をまばたいて、 「このお坊さまを、わたくしに預けて下さいましね」  透《す》きとおった声で言った。志摩太郎が斬罪の刑に逢うと、彼女は早呑み込みしたのである。     四  ぜったい、なさけを受けとうはないのじゃ、頑固にそう言い張る志摩太郎が、景継の館《やかた》に寄食するようになった。 「情をかけるのではない、朱鞘を購《もと》めるのよ」  事実、志摩太郎の所持する大小を、景継は一腰《ひとこし》をのぞいて悉《ことごと》く買い取った。一腰をのこしたのは志摩太郎の護身のためである。坊主なればと脇差を残させた。あとは全部を買い取り、 「ただし、手許に今そちへ支払う銭がない。どうじゃ、古米でよいなら払うてつかわす。それとも暫時、屋形《やかた》にとどまって調達を待つか?」  どちらでも志摩太郎にはよかったろう。要は情誼《じようぎ》さえ受けねばよい、後顧のうれいなく坐禅が組めればよいのである。  鹿谷《ししがたに》の裏さびれた古刹に、余暇をみては坐禅に通ってきた廃堂があった。百万遍の納屋を引き払うと、彼は景継の館からその堂へかよい始めた。  二、三日もどって来ないことがある。どうかするとそれが数日におよぶ。 「好きなようにさせてやれ」  景継は家人に報告されても嗤《わら》って取り合わなかった。身なりだけは襤褸《ぼろ》のままではなく、振のこれは調《ととの》えて呉れた墨染をまとい、沐浴などもして身綺麗になると、いっそ、観音の化身かと目を瞠《みは》るほどに志摩太郎は美僧であったが、そんなことより、いよいよ初陣にて戦歿した嫡男に面影の似ていたのが、景継にはいとしかったのであろう。でも口では、 「あれはただの乞食坊主で果てる男ではない。あの眼の中《うち》の光……異様じゃ、行末を見届けてみたいわ」  家来へは言っていた。  振となると、おのずから志摩太郎への接し方はちがう。甲斐々々しく、まるで雛祭《ひなまつ》りの内裏《だいり》人形のように、館ではいつも彼と居並んで、身のまわりの世話をやいた。 振は本来なら河野|某《なにがし》に嫁いでいる身である。それが朝鮮の役《えき》で、婚約のまま河野は出陣し、慶尚とやらの合戦に討死の報せがきた。四年前だった。未来の夫を喪《うしな》ったとはいえ、十一歳の少女にどれほどの傷手《いたで》をそれは残せようか。それでも幼い手に、一周忌のうちは数珠を彼女はにぎっていた。そうすることで、飯事《ままごと》あそびに似た喪に服し、同時に心持の立て直しをしていたのである。今では、命日に仏壇へ合掌する程度で、傷痕は綺麗に乙女心から消えている。  ただ、せめて朝鮮の役がおわるまで、新たな婚姻はつつしむべしとの景継の思慮から、嫁ぎ先は定めぬ身で気儘な明け暮れを父の膝下《しつか》にすごしている。  景継とちがって、何日も志摩太郎がもどらぬと振は何やら鬱《ふさ》ぎ込み、きげんが悪かった。乳母がそんな彼女に或る日、何事かを囁《ささや》いた。 「そうね」  振は急に双眸を耀《かがや》かせ、「お前も来てくれる?」 「仰せがのうてもお供いたしますわいなあ、……ホ、ホ、ホ」  乳母もけっして志摩太郎へ関心がないわけではないことを、その淫《みだ》らな嬌笑は物語っていたが、乙女に察しのつくわけはない。両人は相|伴《ともの》うて被衣《かずき》に杖を曳き、さわやかな秋の道を鹿谷へと訪《おと》のうた。  紅葉の美しい樹々の影に、その堂宇はあった。古刹とても廃寺にかわりはないから、境内には落葉が散りつもって人の往来する様子もない。時折、風がサラサラ落葉を鳴らすかと思うと、意外な枝のあたりを栗鼠《りす》の駆けるのが見られた。  四囲は森閑として、木立の梢の頂きに秋の空が碧《あお》い。  朽《く》ちた蔀《しとみ》の隙から、先ず、乳母の山岡が内をのぞき見た。  しばらくして戻ってくると、 「ほ、ほ、ほ……」  声を微《しの》んでわらい、「ほんにどのような苦行をなされていやるかと思うたら……居眠りを。ホ、ホ、ホ」  被衣を持ちあげ、卑猥な顔を見せて、 「さ、あれなら修行の邪魔になぞなりはしませぬ……早う、傍《そば》へいって」 「でも山岡」 「何のなんの」  乳母は確信ありげにかぶりをふった。 「わらわの目にくるいがおじゃりましょうかいなあ、修行の扶《たす》けをなされますのじゃえ……さ、勇気を出して、早う」  振はそれでも少時、目を俯せて思案をしていたが、 「うん」  自らをはげますようにコックリをすると、 「やってみるわ。……よく、見ていてね」  一歩、一歩、厳《おごそ》かな儀式の場へでものぞむように、爪先から内輪に歩を踏んで御堂へ近寄った。  それから、観音開きの朽ちた蔀戸をひらき入った。     五  中で何が行われたかは、想像にまつほかはない。  誘惑したのは、本当は四十女の厚かましい助平ごころだったか知れぬ。青年は負けたのではなくて、法悦への探究心に自ら埋没したのかも分らない。何にせよ、十九歳の若者と乙女がすることである。自然なそれは欲心が求め合い咲かせた淫美な花ともいえよう。  ──この日から、志摩太郎が鹿谷へ出向くときは、前後して振と乳母も館を脱け出すようになった。蔀戸の外に乳母一人が残って、はじめそうしたように隙間から乳母は好奇の目で中を覗き見、ひめやかな情緒を自己満足させた。  扉を出てくるおりの振は、火照《ほて》った頬に後《おく》れ毛など掻きあげる。そんなしぐさで乳母を見て嗤《わら》う。何ら疚《やま》しさのない、それは明朗な笑顔で却って乳母の口辺が卑《いや》しい歪み方で、乙女のうしろから被衣を著せ掛けたりする。  志摩太郎は堂内からは出て来なかった。いつも独り残って、修行を続行した。彼が帰るのは日が暮れてからである。幾分、青ざめたその面《かお》に、あわてて網代《あじろ》笠をかぶり、紐を、つよく頤《あご》に結ぶと両手を前に合わせて、 「おーお、お……」  雲水の吟《ぎん》をくちずさみそろそろ風の冷たい、落葉の舞う黄昏《たそがれ》道を活発な足どりで戻って来た。  そんなしのび逢いが一月ばかりつづいた。  十一月になった。  この月七日、太閤秀吉は京都に来て、まさに参内《さんだい》せんとして突如、病いに倒れた。前方《まえかた》より風咳を患ってはいたが、伏見城大玄関より乗物に移らんとして突然、卒倒したのである。  側近の驚きは非常なもので、慌てて左右より抱き起した。間もなく秀吉は一たん生気を取戻し、すると、予《かね》ての約束ゆえ何としても参内せんと言う。そこで緩歩で乗物をはこんだが御所のあたりで再び激痛をうったえ、気を失った。参内は中止された。  上下大いに驚き、神社仏閣に平癒を祈る使者が趁《はし》る。その遽《あわただ》しさは景継の館にも及んだ。偶々《たまたま》、修行より戻った志摩太郎を見て、 「や、怪僧。おのれ」  顔色を変え馳せ寄りざま志摩太郎の襟《えり》首をつかんだのは、家士の出口である。出口は叫んだ。「汝《うぬ》がような売僧《まいす》、もはや一歩も館に入れること罷《まか》りならぬ。うせい」  志摩太郎にはわけが分らない。持ち前の利《き》かん気で抵抗しつつ、 「なぜじゃ。おれが何をした?」  出口は言った。あの朱鞘の大小、じつは殿より太閤殿下に献上された。よき朱色なりと褒詞を賜ったら何ぞ、今日の卒倒を見たりという。  聞いて、みるみる志摩太郎は青ざめ、不意に、悲鳴に似た雄叫《おたけ》びをあげて門の外へ驀地《まつしぐら》に駆け去った。  それきり二度と彼は景継の邸へ帰らなかった。  秀吉が薨《こう》じたのは慶長三年八月である。つまり一度倒れて、なお三年余を存命したことになる。  病名は今なら明らかに癌《がん》であった。 『食膳毫も進まず、日に皮乾き、肉|晤《す》き痩骨見る影もなく、わずかに褥裡《じよくり》に呻吟せり。病魔威を恣《ほしいまま》にし枯痩病床にあるのみ』  と古書に記されているから、前《さき》の激痛も癌によるものだったろう。  ──が、癌を祈願で癒《なお》そうとした往昔の武人を嗤《わら》えぬと同様、その卒倒を志摩太郎に情をかけた祟《たた》りと、志摩太郎自身思惟したのを吾人はわらい得ない。  それに、志摩太郎を追放した出口がこの旨を口外したとき、秀吉の耳にこれが入って、景継は叱責をこうむるのみか、 「おのれ悪《にく》いやつ。そちは左程に祟りあると知りながらこれを献上いたしたのか」  手許の一振《ひとふり》を、鞘ごと秀吉はつかんで景継の面体に突きつけ、 「返答せい」  と迫った。もともと、正宗の銘刀などを由緒ありげに秀吉は領地がわりぞと諸侯へ授与していた。それを知っているから、朱色の殊更美事なのを景継は献上したのである。  しかし、奇怪な祟りをもたらす件を切り出されては、景継に弁解の余地はない。現に、志摩太郎を追放するや秀吉は小康を得ている。 「殿下。御免」景継は一声して、矢庭に朱鞘を奪い取り屠腹せんとした。秀吉は狼狽した。もともと、そこまでの責任を取らせるつもりはなかったし、元来が秀吉は心根のやさしい英雄である(生涯、秀吉が家来を手討ちにした験《ためし》はない)。  景継は死をまぬかれた。──しかし、小康は得ても癌は完治しない。時に激痛をよみがえらせる。そんな主君の懊悩《おうのう》を見るたびに、景継は奇怪な志摩太郎の祟りをおもわぬわけにはいかなかったのである。一夜ついに自室で、景継は割腹して死んでいた。秀吉の薨《こう》ずる半年前であった。  志摩太郎は何処に流浪して、この悲報を聴いたろうか。  あたかも妖刀村正が徳川氏へ祟ったように、誰言うとなく、朱鞘坊主を見たら殺せと、亡き太閤の近侍らが囁き合ったのはこの頃という。倖い併し、真に猛々《たけだけ》しい武将は秀吉薨去に前後して朝鮮より帰国し、身辺あわただしい中にいたので、妄説に耳を藉《か》す暇はなかった。朱鞘坊主はつつがない旅をつづけ得た。  光陰は矢の如くすぎた。  慶長四年春になった。仍《すなわ》ち関ヶ原合戦の一年前である。  春なお寒い伏見街道を、夜陰にまぎれ、伏見の石田三成の館へ騎馬を駆る将兵の一隊があった。三成を殺さんと謀《はか》る家康|麾下《きか》の部将達である。これより一月前、三成はその党と夜に乗じて家康を襲わんとして事ならず、むなしく引揚げたので、いわば復讐戦である。騎馬の先頭には、長尾|隼人《はやと》という屈強の武士がいた。歴史は時として、吾人の判断を超絶する。というのは、この長尾隼人こそ実は三成と同じ、豊臣恩顧の大名福島正則の家臣なのである。その為かどうか、この夜(閏《うるう》三月四日)の奇襲はついに不成功におわり三成は難を免れた。しかし家康は機嫌がよかった。  それというのも、かねて密《ひそか》に手分けして尋ねさせていた景継の女振《むすめふり》の所在を、この時、騎馬隊が帰途に偶然見つけ出したからである。  振は落魄《らくはく》していた。もう十九になっていた。いかに落ちぶれても、式部大輔の息女で芳紀まさに十九歳の顔《かんばせ》は、以前より却って美しさを加えていたという。  元来、家康は古手の人の女房を好むかたむきがある。それが十九の娘ざかりを見出して上機嫌なので、 「殿は気が多きか」  老臣がうそぶいたら、 「さようではない」  家康は言ったそうである。「めざすは朱鞘坊主よ。振さえ手もとにあらば、あの坊主、かならず姿を見せよう。さすれば捉《とら》えて治部《じぶ》へ遣《つか》わす。ふ、ふ、ふ、万事それにて、事は済むわ」  家康のこの見込みは違わなかった。あまつさえ、腹芸というのであろうか、家康は嫡男結城秀康をわざわざ三成のもとにつかわし、あの夜襲の六日後──三月十日に、三成を佐和山城まで護送させている。善価を沽《う》ったのである。  そうして半歳後、予言どおり托鉢僧の身なりで志摩太郎が京洛を徘徊しているところを捕え、館に拉致《らち》した。当時家康は参内して正二位に任ぜられて、伏見の館にいたのである。  志摩太郎と振は、おもいもかけぬ策謀の中で、再会をもった。  振は見違えるばかりに成長し、臈《ろう》たけて美しい婦人になっていた。志摩太郎は髯《ひげ》もじゃらの、一見、誰とも見分けのつかぬ|むさい《ヽヽヽ》雲水だったという。  だが、眸《め》と眼を見合うなり、どちらともなく走り寄り、振は広廂《ひろびさし》から、志摩太郎は庭前から互いに、相手の目を見入って、棒を呑んだように突居《ついい》た。 「そもじか」  声を発したのは志摩太郎の方であった。同時に振は、ニッと明るく咲《わら》ったそうだ。昔ながらのそれは明朗で、邪心ない笑顔であった。でもその細められた双眸から、る、る、る、と泪《なみだ》がこぼれ落ちた。 「わしは」  志摩太郎は傍に人無きがごとくに言った。 「修行をつみましたぞ。もう、こわいものはない、それゆえそもじを尋ねて京へ舞い戻って参ったのですぞ」 「うれしゅうございます」  振は瞬《まばた》きに笑《えみ》を湛《たた》えて応《こた》えた。湛えきれぬものが更に頬にあふれていた。徳川の家士がこの時、両者の間に割って入らねば二人はいつまでも眸と眼で無限の語らいを持ったであろう。 「何もかも分っている」  家康の前に引き出された時、達磨《だるま》さながらなその髯面で、臆する色なく志摩太郎は言ったそうである。「拙僧をあてになされておるなら、無駄ですぞ。もはやこの身に、祟りは起り申さぬ。嘘《うそ》と思召《おぼしめ》すなら、内府殿|直々《じきじき》に拙僧へ情をおかけなされては如何」  家康は、眼をむいてそんな志摩太郎の面構えを凝視した。ずいぶん長い間、にらんでいたそうだ。  ──やがて、 「増長ものめが。いかにも情をかけてくれるわ」  言って、 「神後、神後伊豆はおらぬか」  兵法者神後伊豆が御前に伺候すると、 「したたか者よ、予の手にはおえぬ。その方、斬れ。今すぐじゃ」  と言い放った。情をかけるとは、斬り捨てることだったのである。  上意である、身支度すると伊豆は志摩太郎の背後に立ち、刀を上段にふりかざした。志摩太郎は端坐してじっと家康の方を見て、まばたきひとつしなかった。その様子をにらみ据《す》えて兵法者神後伊豆の面《かお》は、何故か次第に蒼白となり、いつまで待っても刀をふりおろそうとしなかった。 [#改ページ]  密  書  琴はそのとき、隣村の忠七が来たことを報《しら》せに次郎太の居室へ這入《はい》っていった。そこで、初めて次郎太が男|哭《な》きしているのを見た。  いつもの通りいったん廊下の、敷居ぎわに正坐し、声をかけてから、障子を開けたつもりである。  応《いら》えはなかったかも知れないが、兄妹のように一つ屋根の下に暮す気易《きやす》さで、かるく障子を開けたら、次郎太は灯《ともしび》の下《もと》に眉を蹙《ひそ》め、両手で面《かお》を蔽《おお》って泣いていた。  ふだんは万事に油断のない、用心ぶかい人が、琴の現われたのも気づかぬのだから余程、大きな衝撃に心を奪《と》られていたのだろうか?  琴は一時《いつとき》、声をのんで、敷居ぎわに突いた手を得《え》あげずにいた。次郎太の前の小案《こづくえ》には何やら古めかしい冊子が展《ひろ》げてあった。別に封書が一つ。ちょうど巻紙を読み開いて、長い帯のように案を蔽った端が、片側に垂れている。達筆な墨跡と娘心に判じ得たのは、偶々《たまたま》琴が習字のお稽古をはじめていたからであろう。でも内容を読み取るまでには、注意が至らない。彼女はいつまでもそんな次郎太の男哭きするのを、見るにしのびず、そっと元どおりに障子を閉ざして、その場を離れた。 「どげんしたン?」  囲炉裏ばたに戻ると、いち早く琴の面色《かおいろ》のふさぎ込んでいるのを見て、 「次郎さんは?……部屋に居《お》ってじゃないンけ?」  嫂《あによめ》が訝《いぶか》る。その視線をたどって忠七もふり向き、 「どげんしなはったぞ?」  琴はあわてて目をふせ、嫂のそばに坐るとただ、 「忠さん……私《うち》じゃおえん。お前《ま》はんが呼んで来なして」  と言った。  いよいよ怪訝そうに忠七は嫂と目を見合わしたが、 「──そうか」  刀を提げると、「居間じゃな?」  廊下へ去っていった。 「ほんまにどげンしたん?………」 「次郎さん、泣いとってやったワ」 「泣いて?……ほんま?」 「うん」  うなずくだけが琴に為《な》せた説明である。  忠七が隣村からやって来たのは、近く江戸より次郎太の武技吟味の使者が来るのを報せる為であった。次郎太は、ここ播州佐用郡|平谷《ひらたに》の庄屋治兵衛の忰ということになっているが、本当は孤児である。門前に捨てられていたのを先代があわれんで育てた。二十八年前であった。正確にはだから、誰の子かも分らない。──啻《ただ》、産衣《うぶぎ》に包んで捨てられた側《そば》に、孟宗の竹筒ひとつ、切り口にハラヤ(白粉)を詰め何やら密封したものが置いてあって、 「よしなき事情にて此児を捨て申候。成人のあかつきは竹筒の中身、何卒披見致させ下さるべく候|伏而《ふして》此の儀懇願仕り候」  と書付が添えられていた。女文字とも見えたというが、先代は律義な人とて、約束を守りこの竹筒を密封のまま、屋根の梁《はり》に結びつけておいた。どういう事情にもせよ、白粉《ハラヤ》で封をするなど土民の考え及ばぬことゆえ、由緒ある人の遺児に相違ないとおもったという。この事情は併し、秘して人に明かさなかったので村人らは、ただの「縁者よりの預り児」と思っていた。  次郎太が六歳になった年の初夏に、偶然、一人の普化僧《ふけそう》が庄屋の門《かど》に立った。折から少年次郎太は兄ともども桑|いちご《ヽヽヽ》をいっぱい籠に摘《つ》んだのを抱えて、門を駆け入って来た。子供二人はすでにそれを食《は》んでいたので口唇が紫色に変っていた(桑いちごは熟すと紫色になり、大変美味な果実である)。  普化僧は子供の口唇を見て、 「うまそうじゃな。われらにも恵んでくれよ」  と言った。子供二人は、ちょっと惜しそうに顔を見合ったが、 「うん。やる。食べなして」  籠をかかえた次郎太が両手に籠ごと差し出し、 「存分に食べなして」  と又言った。普化僧は少時、次郎太の面を瞶《みつ》めた。それから、 「幾つじゃ?」  と歳をたずねた。次郎太は自分の歳を答え、籠を普化僧の足もとに置くと、 「再《また》摘めばええんじゃ……なあ」  兄をうながすと再び内庭へ走り入った。そのあと、感謝をあらわすようにいつまでも僧は尺八を奏して門前を去らなかったという。  これが信心|篤《あつ》い庄屋の耳にとまった。よほど飢《かつ》えておいでなさるのであろうと家に招じて食事を給した。僧は名を鉄閑と言った。鉄閑は平谷から二里ばかり奥まった、同じ佐用郷の平福村という所に、沢庵和尚の住んでいた一寺あり、其処へ訪ねる途中だと明かしたあとで、次郎太のことを不審そうに尋ねた。次郎太が兄と呼んだもう一人の子は、見掛けは次郎太より小柄で、幼かったからである。でも確かに兄の与一の方が先に生れていた。次郎太が捨てられていたとき、三月早く庄屋の家では与一がうまれていた。おそらくそれで、何者かは、乳呑児の乳を次郎太にも頒《わ》けてもらえようかと門前に捨てたに違いない。庄屋はそうも察したから、次郎太を拾って嫁に育てさせた。いわば与一と次郎太は、乳兄弟である。たしかに僅《わず》かだが与一の方が年長である。でも同じ母乳で育ちながら、血すじが違うか、ぐんぐん次郎太は大きくなり、与一は|ひ《ヽ》弱であった。誰が見ても次郎太が年嵩《としかさ》と見える。しかし与一が年長なのは事実なのである。  庄屋治兵衛は温厚な人だから、実の子と拾い児にそんな体格の差の生じたのも意とせず、むしろ次郎太の成長を楽しみにしていた。ただ他人の鉄閑に、くわしいこうした事情は明かさず、知合いの預り子であるとだけ言った。鉄閑は更《あらた》めてしげしげ次郎太の体つきを眺めて、すえ頼もしい子をお育てに相成るものよと言い、給食の厚誼《こうぎ》を謝してこの日は平福へ発っていった。  数日して、過日の礼のしるしまでにと某《なにがし》かの手土産を携え来て、鉄閑はこういうことを言った。  自分はじつは些《いささ》かながら武芸をたしなんでいる。流派の後継者を育てたいと念っているが、もし許されるなら次郎太を鍛えてみたいが差し構いないかと。  治兵衛は、そういうことにはとんと自分は無知であるが、本人が好むようならご存分にと答えた。そこで次郎太を喚《よ》んでどうじゃと訊くと、 「きょうとい(怖《こわ》い)」  と言う。かえって与一が、 「わしは習うてみたい」  と言う。そこで初めは与一が稽古をうけるようになった。次郎太はそばでただ凝乎《じつ》と兄の稽古ぶりを眺めていたそうだ。稽古といっても六歳の童子のすることで、他愛のないものであったろう。でもすじがいいというか、メキメキ与一は上達した。何よりもひ弱だった子が元気になってゆくのが庄屋夫婦には嬉《うれ》しかったに違いない。いつとはなく、平福から指導に通っていた鉄閑が庄屋屋敷に一室を与えられて住むようになった。そうなると見よう見真似で村の子たちは言うに及ばず、若者までが撓刀《しない》を揮《ふる》うがそんな中に次郎太も混っていた。かくて佐用郡平谷村は全村こぞって尚武の趣《おもむき》をなしたが、武芸僧鉄閑はその生涯を了《お》えるまで十有余年、遂にこの地にとどまったのである。そして彼が前歴未詳のままで永眠するころには、次郎太の技は儕輩《せいはい》を抜《ぬ》きん出、その勇名は遠く姫路城下にまで知られるようになっていた。  忠七が現われたとき、次郎太は灯に対《むか》って油を挿《さ》していた。もう泪は拭っていた。琴が見たという冊子や巻紙はすでに案《つくえ》から消えていた。 「どげんしたんじゃ? 琴はんが怪体な顔しよってじゃったが」  忠七は竹馬の友の気やすさで、ツカツカと居間にふみ入ると身近に来て、立ったまま、顔を覗き込んだ。  ちょうど灯|芯《しん》に次郎太は鼻を近づけているので、顔半面は逆影となり表情はよく見えない。ただ口もとが、つよい意志をあらわして|へ《ヽ》の字に結ばれている。子供時代の予想とは違い、体つきはそう大きくならなかったが、その筋肉がどれほど強靭で、撓《しな》やかに緊《しま》っているかを忠七はもう知っていた。  次郎太は灯油を注ぎ了えた。その挙措はふだんの通り穏やかで、落着いている。 「変じゃな、お琴はんの……」  言いかけたが今はそれどころではない。提げた刀を傍らに着坐すると、 「いよいよ江戸から次郎やん、おまはんの腕を見に人が来なはるそうじゃゾ。強けりゃ仕官がかなうげな。なあに、おまはん位なら、滅多に江戸でも負けやへん……いつぞやのソレ、姫路のお城下の指南番、あれかてわしらの習うた手筋の打ちじゃ、あげなもンはおまはんなら一撃じゃ。のう、わしらの先生は、今想うと|どえらい《ヽヽヽヽ》お人じゃった……あげな指南番は束になって来よっても、おまはんとわしで、負かしてみせるワ。|そ《ヽ》じゃろ?」  次郎太は黙して答えない。口辺にはあいまいな笑《え》みが泛《うか》んでいた。忠七は目をむいた。何やら亡師鉄閑を賛美するのを、あざ笑っていると思えたからである。  こんなことは、ついぞないことであった。 「どげんしたんじゃ?」  忠七は眉を顰《しか》め、 「次郎やん、わしはな、お代官所でハッキり聞いて来たんじゃ。江戸からは、どえらいお武家が来なはるそうじゃが、もしかして、そのお武家がわしらの手すじを見よってなら、先生の身許が分るか知れんと……な、何を嗤《わら》う?」 「べつに笑うてはおらん……」 「いいや、嗤うたぞ。一体、どげんしたんじゃ」 「────」 「え? 先生の前身を、次郎やんは知りとうないんか? 勝てば仕官がかなうんじゃぞ。先生の武術を、世に出すことにもなるんじゃ。そうじゃろが。え? おまはんはそれを願うておったじゃろが?」  何と言われても次郎太は石仏のように黙して答えない。その口辺から笑いはもう消えていた。  ようやく忠七は不審の念で目を据えると、 「忠さん」  重々しい口調で、 「仕官は無理じゃ、わしには、出来ん」次郎太は言ったのである。「──江戸の人がおいでたら、おまはんが代って、立合うてくれ」 「どげんしてじゃ?」 「わけは言えん。訊いてくれるな……わしは、近々に、村を出る」 「?」 「薩摩へ行こうと思う……わけはきかんでくれ。わしの口からは言えん」  本当に、その翌日から何やら次郎太は身の廻りの整理を始めていた。もともと成人後は寡黙《かもく》な男ではあったが、いまは二代目庄屋治兵衛となっている与一が、わけをたずねても口を喊《かん》して明かそうとしない。お琴の話から、原因は梁《はり》に括《くく》り付けられたあの竹筒の内容らしいと見当がつくだけである。何が書いてあったかと、あらためて与一が糺《ただ》しても黙っている。  そこで、 「しょうことあるまい。ほかに手段《てだて》は、ないんじゃ」  卑劣なようだが次郎太の他出している隙に、くだんの書き物を盗み出して読むほかはあるまいと与一はきめた。琴が偸《ぬす》む役を吩《い》いつけられた。琴はじつは次郎太と夫婦になり、もし兄に子がなければ庄屋の跡目を継ぐように先代に遺言されている。琴自身もその気になって、次郎太が村を出そうなのを一番嘆いていたのである。  それに、かんじんの書き物を琴だけが見ているので、琴なら見つけ易《やす》かろうと与一は言った。殊更な口実をかまえ、与一は隣村へ次郎太を連れ出した。その隙に、次郎太の纏めた行李《こうり》などを琴は嫂と一緒にしらべた。そして終《つい》に件《くだん》の冊子と封書を発見した。  しかし、冊子は何と漢文で記されていてまるで意味が分らない。巻紙も大変な達筆の草書とて、琴に読むのは覚束なかった。 「どがいしよ、お嫂さん……」  せっかく発見したものをと、琴はオロオロしていたら、 「しっかりしんさい。大事な大事な、お琴はんの婿どののことじゃえ」  嫂は落着いた口調で言ったのである。 「お寺の住職《おじゆつ》さんがええワ。あのお方は学問がおありじゃで、きっと、読んでつかわさるわ。……早う行きんしゃい。次郎さんが戻っておいでたら、えらいことじゃ」  そこで村はずれの寺に琴は走った。和尚にそして冊子と手紙を見せたのである。 「どれどれ」  はじめは、気さくに手に取った老僧は声をあげて読んでいたが、そのうち、目だけを忙《せわ》しく走らせ、次第に真剣な顔つきになった。 「何と書いてござりますのじゃ」  途中、幾度か琴が問うたが応えるすべも和尚は知らない。  ──やがて、読み了えて、 「えらいことじゃ。次郎太の親御がわかったぞ」 「誰方《どなた》でござりますのじゃ」 「読んで聞かせる。……よいか、かようなことが書いてある……よっく、聴きなされよ」  老僧は冊子の一部を声に出して読みあげた。 「倭奴の、我が兵に勝つは、専《もつぱ》ら術を以てである。故にその術を以て逆にその人《てき》を治《ふせ》げば、必ずしも古の兵法を用いずとも、勝たずということなし。故にこれを志す。  倭は胡蝶の陣を為すに慣れ、陣に臨んでは扇を揮《ふる》って以て号《あいず》となす。一人扇を揮霍《なげあ》げ、我が兵の蒼皇として首を仰向ける時、下よりそれに斫《き》りかかる。又長蛇の陣を為す。その行くには必ず単列《いちれつ》をなして、長く、緩やかに、整然と歩む。故に数千里を占めて近まることなく、又数十日を馳せて労《つか》れることなし。その前《せんとう》は旗を耀かせ、順次に魚貫《じゆうたい》を組み、最も強き者を先鋒とす、又もっとも強き者を殿《しんがり》とし、中ほどに勇なる者怯なる者を相|参《まじ》えておく。  そもそも賊は、毎日鶏鳴に起き、地に蟠《うずくま》って会食し、食おわれば夷酋《たいちよう》は小高きところに拠りて座をしめ、衆ら皆命令を聴くのである。一隊はおよそ三十人を過ぎず、毎隊相去ること一二里。ほらがいを吹きて号《あいず》となし、相聞けば仍《すなわ》ち合して救援をなす。時に一たび重囲に陥るや、隊長の偽|馘《くび》を餌《おとり》としてこれを逸れる。  その刀は大小長短同じくなく、名をつけること亦ことなる。人毎に一長刀を有し、之《これ》を佩刀《はいとう》という。 その刀上に又一小刀を挿み『脇差』という。更に一刺刀あり、これを『急抜《こづか》』といい此の三者は常に身につけて必ず用いるものである……  読んでおれば、ま、きりがないが、もう分ったであろう。つまりわが神州の兵術、隊伍、武器を誌し、倭奴《ヽヽ》や賊《ヽ》と記しておるゆえ、明《みん》国にわが国情を諜報せんとて、書かれてある、つまり唐人の手になったものじゃ、つまり次郎太の実の親は、唐人じゃ」 「!……」 「それを証拠に、こんなことも書いてある──  日本は六十余州あり、即ち我が国六十六府に擬したり。その鎗刀は我が国の鎗刀と同じく、其の用法は我が国鎗刀の万一に及ばず。惟《これ》精製して尚《なお》磨せるのみ。我が国人|能《よ》く惧《おそ》るること勿《なか》れ、万に一失なきなり。  そもそも倭奴に知無く、井に坐して天を算《かぞ》う、良《まこと》に笑う可《べ》し。ただその築城及び征戦の士は、一刻も少停し、一芥も拾取するを許さず。たとい黄金あるとも之を視るを許さず。戦《いくさ》に臨みては山に遇えば則ち山をゆき、水に遇えば則ち水をゆき、陥穽に遇えば則ち陥穽に落ち、口を開き足を停むるを許さず。前へ進み、死者のみ其の後に留る。後に退く者は士侯将軍に論なく首を斬って衆に示し、尽《ことごと》く其の族を斥《しりぞ》く。法令の厳なること此の如き有り、しかれども夫《そ》れ倭奴は、些かも才能無し。只一の猛勇暴虎|馮河《ひようが》の類を恃《たの》むのみ。我が大国、能くその弊を知って惧るる勿れ。而《しこ》うして我が忠勇の士に命じ、多く精兵を率いて先ず高麗《こま》に至り、邀《むか》えて之を撃つなれば、倭奴百戦皆敗れことごとく殺す可く、一兵とても還る者なからん。関白といえども亦|生擒《いけどり》すべし、俯して乞う、芻蕘《すうじよう》の言を納《い》れ、心を用い意を加うるあらば万幸なり……  ──要するにじゃ、関白というのは太閤秀吉公のことであろうが、これで見ると次郎太の親というのは、秀吉公が在韓軍を進められたゆえ明国から、我が国情を探索に派遣された密偵であったらしい。ほかの個所を読むとの、関白どのが列侯に命じて城を肥前、壱岐、対馬《つしま》の三処に築き以て渡唐の館駅と為すとも書いている。おそらくもう征韓の軍《いくさ》が始まってから、派遣されて来たのであろうが、もう一つ。  えらいことが書いてある。  支那《しな》の暦《こよみ》で万暦五年五月というから、いつごろであろうかの、朱均旺なる男が、同行の応一官ら六人と共に日本の薩摩へ拉致《らち》され、朱は、文字あるところから福昌寺なる寺へ売られて写経などしておった。一方、これより先、同じく拉致されて薩摩に在って、島津義久公に医を以て仕えておった江西省|吉安《きつあん》出身の許《きよ》という男が、万暦六年、たまたま福昌寺へ参詣して朱を見、その言葉より同郷人であることを知り、義久公に願うて朱を救い出し己が家に置いて、薬書など書かせておった。それが万暦十八年になって──天正十八年ごろかの──関白秀吉公に明征伐の計画あるを知って大いに驚き、本国へ密報せんと肝胆をくだいたすえ、朱に諜報を携え帰国せしめんとしたが果さなんだ。しかるに今、われ、──我というのは次郎太の父御《ててご》じゃな、福建省の出にて名は林紹恩と書いてある──われ再び、この朱が憾《うら》みを繰返さんこと無念至極……つまり次郎太が成人したら、かわりに、この密書を本国へ持参し我が任務を果してくれよと、巻紙に書きつけてあるのじゃ。冊子の方がその、日本の国状を諜報する密書じゃ。漢文は当然じゃな。  もう一つ。  これもどえらいことじゃが、次郎太に剣術を教えたあの普化僧、なんと、次郎太が親の弟らしいぞ。やはり唐人じゃ。これはな、小笠原源信斎という武芸者が支那に渡って、剣術を修行して帰国のときに伴い帰った者じゃと書いてある。してみれば次郎太に剣を教え、成人後に明へ帰る護身用にと、初めは思うていたのであろう。あるいは自分が次郎太への密書を入手して、代りに帰国するつもりで先代に言い寄ったのかも知れん。でも先代治兵衛どのの厚情にほだされ、その気が挫《くじ》けてとうとう村の者として死んだのであろう。  何にしても、どえらいことじゃ。これを読んでは次郎太が居たたまれんも無理はない。痛ましい話じゃ」  小笠原源信斎というのは、『日本剣道史』によれば、名は長治。もと三河高天神の城主小笠原与八郎長忠の弟で、長忠は初め家康に属したが後、武田に降り、武田が滅びて北条に従った。長治も兄と共に在って、天正十八年、北条が亡びてから浪人したが、これより以前に奥山休賀斎に就き、新陰流を学んだという。  浪人後はたしかに支那に渡って剣法を修めたが、帰国後は江戸に住み、渡支時代に学んだ矛《ほこ》の術を流儀に応用して『八寸の延矩《のべがね》』(註・のべがねは鍛えて薄くした金属──刀剣のこと)なる一法を編み出し、これで門戸を張って弟子が多かったという。  源信斎長治は又、従来、新陰流法定の型五本を改めて四本とし、撓刀《しない》の型十四本をも工夫したそうだ。而して流名を、  真新陰流と称したと云われている。  ところで。  次郎太が面を蔽うて哭《な》いた夜の約一月程前のことである。江戸の、柳生又右衛門の居宅で、あるじ又右衛門宗矩が松下小源太と密談していた。 「おぬしも知っての通り、此度、上様は将軍職とおなりなされた」  宗矩は言った。 「就いてはわれらの兵法はみだりに之を須《もち》いるを許されず、申そうなら、新陰流は御流儀じゃ。そこで、おぬしに始末をまかせたい者がおる。おぬしでのうては|※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、unicode611c]《かな》わぬ相手じゃ」 「誰でござりまするか?」 「名は、知らぬ。小笠原源信斎が筋の者らしいが、姫路城下におる。尋常の手にては敵《かな》わぬ相手じゃそうな。源信斎が仕込みの者なら、さもあろう。十兵衛をつかわしたいが、あれはいま上様御側を勤めおる。そこでおぬしに始末をたのむ」 「消せばよろしいので?」 「先方の出かた次第であろう。──但《ただ》し、斬るなら業《わざ》を盗んだ上にて、斬れよ」 「?」 「おぬしも承知であろうが源信斎は八寸の延矩を称《とな》えた。すでに渠《かれ》は亡《な》いが、尋常の使い手で手におえぬ程なれば、その者、源信斎が工夫の奥儀を会得いたしおるか知れん。くわしいことは分らぬが、奥儀書をひそかに屋根裏にかくしおるとも人の噂を耳にいたす。もし、さようなれば、先ず立合うて業をぬすめ。篤《とく》とぬすんだ上にて、斬れ。その上、隙があれば屋根裏を探すもよし。……何にせよ、ただ消せば済む役ではないぞ。よいな」  宗矩は念のために一両名の弟子を随えて行くがよいとも言った。この師の言いつけの通り、数日後、二名の門弟をしたがえて小源太は江戸を発った。  松下小源太は後年、松山藩(松平家)の武術係役となった同苗源太夫の父で、柳生門下の高足の一人である。その実技は宗矩の父石舟斎に学んだともいう。  寛永元年七月二十五日に、宗矩の兄徳斎が奈良龍蔵院の住持の身で卒した。享年五十であった。その回向《えこう》に宗矩の代理で大和へ赴くというのが、小源太の江戸を発った理由である。しかし奈良へは立寄らず一路、播州に小源太は直行した。  ついでながら、宗矩は天正元年に生れた。源信斎の浪人して支那へ渡った時分は、まだ十代ということになる。豊臣秀吉に入明の計画あるを知って唐人・朱均旺が愕《おどろ》き、本国へ密報せんと苦慮した天正十八年も、宗矩の十八歳ごろに当る。柳生ノ庄に隠田のあったことから領地を没収され、石舟斎ともども諸州を流浪した時代で、入明の計画、これに対して明よりも密偵潜入の事情があったことなど、宗矩のあずかり知ることではなかった。父ともども、ひたすら家名再興に腐心していた頃である。  ついでに今ひとつ。  唐十官なる異人の兵法者が伊藤一刀斎と凄まじい死闘を展開したという記録が、一刀流の家伝書にあるそうだ。薩摩に拉致された応一官というのは、この十官と同一人かも知れない。それなら唐人の武術も慥《たし》かに怖るべき技と看做《みな》していいのであろう。  庄屋治兵衛は、妹の琴が、日が暮れても寺から戻ってこないと聞いて、たまりかね、小作人をわずらわさず自身で寺へ迎えに往った。  夕景に次郎太を隣村から伴い帰っていたから、もう、行李などお琴が開けたのを次郎太は気づいている。それで一そう居たたまれなんだのである。  住職は、提灯をかざして庄屋自身が庫裡《くり》に入って来るのを一時、声をのんで見戌《みまも》った。老僧は小坊主と二人、囲炉裏のそばで夕餉《ゆうげ》を食しているところだった。 「やっぱり、おいでなされたか……無理はない。待って下されよ、すぐ、此処を片付けるで」  老僧は冊子の内容をすでに治兵衛は知って来たと思っている。それが、 「お琴はどげんしましたかな?」  まだ家に戻らぬと聞いて、 「何」  ショボくれた睫《まつげ》をまばたいていたが、 「それはえらいこっちゃ、もどらんのなら、こりゃ、どえらいことじゃぞ」  周章して起ちあがるはずみに、御膳に足をとられ蹣跚《よろよろ》と上体を倒した。 「どげんしなはった和尚さん……し、しっかりしんさい」  治兵衛が小坊主と左右から扶《たす》けあげたが、それどころではなかったろう。 「与一つぁん、おまはん言うことがある。ちょっと、来とくれ」  奥の居間に誘い入って、そこで一切を明かしたのである。 「げっ」  さすがに治兵衛の面色は紙のように青ざめた。 「ほんまですけ和尚さん」 「ほんまも何も、この愚僧が今もって信じられん」 「いつです、お琴がお暇《いとま》しよったんは」 「そうじゃ、どえらいこっちゃぞ。もう一|刻《とき》にもなろうかいの……えろう痛手をうけたで、まだ戻、戻らんのであれば……」  悲嘆のあまり途中の池に入水でもしたのではあるまいかと老僧は言った。件《くだん》の冊子と巻紙は琴が持ち帰ったという。いっそ次郎太の生い立ちの正体を世に知られぬため、自身にそれを握って、投身したとも考えられるというのである。  この悲しい予感は、半《なか》ば的中したことが後でわかった。寺から庄屋屋敷への山麓に長谷の池という古い大きな池がある。それに琴は身を投げていたのである。芳紀十八の哀れな一生であった。でも冊子は捨ててなかった。きちんと脱いだ履物の上に、風呂敷に包んだままで置かれていたという。発見されたのは翌日早朝であった。前晩から村民総出で、松明《たいまつ》をかざし、くまなく池のめぐりを探したつもりが、見落すような草叢《くさむら》にひっそりと履物と揃えて置かれていたのである。やっぱり、他人には見せたくなかったのであろうと、ひとしおに事情を知る者の涙をさそった。  でも、こうなってはもう、いよいよ次郎太は村にとどまるわけにはゆかなんだ。彼の実父の秘密は、極力、治兵衛が余人に知られぬようつとめたが、かんじんの次郎太が一切を忠七に明かしてしまった。住持も亦、老齢に似ず口の軽い御仁で、 「ここだけの話じゃがな」  逢う人ごとに概略を喋《しやべ》ったのである。  もう誰も次郎太を引留める者はない。 「わしからの頼みじゃ。せめて二《ふた》七日が明けるくらい迄、一緒に、家にいてやってくれんかいの」  治兵衛だけが野辺送りのあと、位牌を仏壇に納めながら言った。「おまはんに女《おなご》の命をかけよったんじゃ」とも言った。それで初七日が明けるまで、次郎太は仏間にこもりきって線香を絶やさなかった。  旅支度で、次郎太が平谷を出立したのは寛永元年の晩秋である。郷《ごう》境まで徳久《とくさ》村の郷士忠七だけは送りに来た。道沿いの農家に柿の実が、朱《あか》く、秋の朝空に活《い》きたように色づいていた。 「もうよい、いんでくれ」  千種川の畔に出たとき次郎太が言ったが、何やら忠七は思いつめた表情で、聞えぬか黙って一緒について来た。  しばらくして、 「言うてくれ次郎やん」  おもいを決したように忠七が顔を向けた。 「和尚や村のもんの話ではわからん。本当に読んだのはおまはんだけじゃろう? 支那から隠密が来よったというのは本当《ほんま》か?………ほんまに次郎やんの父親《てておや》は唐人やったンか?」 「────」 「なぜ黙ってる? わしは、自分が士官しとうて言うんやないぞ。誰が何ちゅおうと先生はわしらの恩師じゃ。先生がおいでたから、城下のお武家らにもわしらは負けん程に」 「唐人というのは本当じゃ」  次郎太が遮った。その声には格別な何の感情もこもっていなかった。それだけに何か突き放されたように忠七は其処に、立ち停ってしまった。次郎太はかまわずに歩いた。忠七はもう追わなかった。  徳久から久崎に出ると、道は、千種川沿いに山陽道へ一すじである。途中に白旗山腹の『大酒』という峠を越える。そこへきかかった時である。道の行く手に三人の旅の武士が、立ちはだかってきた。  武士は、いずれも藺笠《いがさ》に面をかくしているので表情はわからないが、次郎太の来るのを扼《やく》していたらしいのは気配であきらかである。しかも不思議な殺気がある。  ゆっくり、次郎太は間合いをへだてて停止した。早わが生い立ちの正体を知って、行方をはばむかと次郎太には見えたのであろう。でも次郎太はうろたえなかった。林紹恩の誌した冊子には、日本人として育った自分が見ればずいぶん、思い違いや誤解も目についたが一方、驚くほど、丹念正確に、日本の国状、将軍の気性、諸大名の勢力分布から一般市民の習俗、土地の訛《なま》りに至るまで明密に調べてあり、その調査範囲の広さはまことに驚嘆に足るものだった。今さらに、実父という明のその策士が、いかに任務に忠実であったかを知り次郎太は男哭きしたのであったが、そんな林紹恩の冊子の中に、倭《にほん》の武術に対抗するには、すべからく斯くすべしと詳細した箇所があった。驚くべきことに、それは又あの鉄閑の遣《つか》った八寸の延矩《のべがね》の妙所を説いた上で、これを撃退する刀法までを記してあり、実に鉄閑すら教え得なんだ妙諦《みようたい》を悟ることが出来たのである。  加えるに、路上にて倭人と遭遇すれば斯くすべし、相手|雙《ふたり》なれば斯くすべし等とも記されてあった。次郎太はちっともだから、行く手に武士三人を邀《むか》えてくじけなかった。 「その方、平谷村より参った者か?」  三人の中央の一人が、言った。 「そうじゃ」 「庄屋治兵衛が家よりか?」 「うん」 「ならば何ゆえ、代官所に出頭して武辺が程を披露いたさぬ?」 「代りがしますのじゃ、わしではない」 「何と? 別人?」 「そうですわい」 「その方|確《しか》と、庄屋治兵衛が弟か?」  こんどはもう答えなかった。黙って次郎太は歩き出した。かるさんに腰弁当。次郎太も菅笠をかぶり刀を差しているが、その歩《あし》運びを武士はじっと視ていて、 「なるほど……」  いくらか失笑気味に、 「相《あい》分ったぞ。──よし、通れ」と言った。  この声で左右の武士が道をあけた。はじめはゆっくりと、次第に歩を早めて次郎太は通過した。その時である。 「喝」  声にならぬ気魄が藺笠の中《うち》で洩れ、抜討ちに武士は次郎太に斬り付けていた。菅笠が、裂けた。間一髪、鞠《まり》のごとく地に転《まろ》んで次郎太の横に払った刀で、武士は両肢を切断された。 「これは」  と左右の侍が次郎太へ挑んでいった。一人は屈強の武士だった。次郎太は肘《ひじ》を切られた。併し白刃を左手《ゆんで》に持ち替え、怯《ひる》まず応戦したので遂に三人ながらを仕止めることが出来た。  この間、頭上で梢《こずえ》の山鳥が白い膜の眼でまばたきする間の出来事であった。次郎太は右肘に血をほとばしらせ、向う脛《ずね》にも二個所ばかり傷を受けた。しかし歩行をさまたげる程ではなかった。四辺《あたり》に人影は倖《さいわ》いなかった。大酒峠は目の前に望見できる。  次郎太は、止《とど》めを刺すことなど思いも寄らなかったのである。彼は士分ではない。人を斬ったのは無論この時がはじめてで、世の常の人間ならそれだけでもう、動天したであろう。その点、次郎太には冷酷残忍で大胆な、異民族の血が流れていたのかも知れぬ。肩で激しい呼吸《いき》づかいはしていたが、衂《ちぬ》られた刀を拭って鞘におさめると、手拭を齧《か》み裂いて肘を結《ゆわ》え、路上の馬糞を拾って脛の傷口にも塗りつけた。それから更《あらた》めて四辺を見回し、びっこを曳きながら急いでその場を立ち去った。大地に伏した三人がコト切れているかどうかなど、彼は確かめてみる気にもならなかったのである。  どれ程か時が過ぎた。  一人の百姓がこの場に通りがかった。百姓はお武家三人が白刃を握り、血を流して突っ伏しているのに驚倒し、腰を抜かした。  出血に喘《あえ》ぎながら、中の一人が、 「や、柳生……やぎ……う」  意味のわからぬ囈言《うわごと》を言っている。別の一人は気息|奄々《えんえん》たる中で、 「……その方、土地の者か……あ奴《やつ》、どの方へ、行った?」  生死を見分けようと近よった百姓の膝に、突如、掴《つか》みかかって断末魔から起ち上ろうとしたからである。その気魄に怖《おじ》けて腰を抜かしたのである。  恰度その頃であろう。次郎太は漸くに峠の茶店近くに辿り来た。途中、路傍で拾った枝を杖にしていた。ふと見ると茶屋からこの時、一人の男が現われた。彼は旅装に大小を差し、大きな編笠をかぶっていた。とっさに警戒の眼を次郎太は注いだが、相手も、一瞬、佇立したのは次郎太の怪我をいぶかる様子に見えたので、にわかに顔をそむけ次郎太は跛《びつこ》をひきながら、坂を登った。相手も編笠を翳《かざ》すように、ちょっと持ち上げ、不審の様子で、降りて来た。  二人は互いに接近し、すれ違った。刹那、編笠を持つ武士の手が居合抜きに次郎太の背へ一太刀浴びせた。吁《あつ》という間もなかった。次郎太は後頭部を切られて即死した。  斬ったのは柳生十兵衛である。宗矩が何故そこまで手段を尽して次郎太の一命を奪ったかは、わからない。 [#改ページ]  刺《せっ》 客《かく》     一  ながらく京都一中の剣道師範を勤めて、晩年は京都市柳馬場綾小路下ル永原町に道場を構え、後進の武芸指導を老後の楽しみとして暮している老人があった。名を渡辺篤といった。  京都一中の剣道師範の頃すでに七十で、腰はややまがっていたが、小柄で、よく肥《ふと》り、頭は綺麗に禿《は》げていて、顔色の艶《つや》のいい温和な好々爺《こうこうや》と人には見えた。流派は一刀流で、はじめは宮本武蔵の円明流を学び、のち西岡是心流から一刀流の精妙をきわめたという。  この老剣客が、七十三歳の春を迎えた大正四年正月六日、臨終の間際に、免許皆伝の内弟子、飯田常太郎ならびに実弟渡辺安平の只二人を枕もとに呼びよせて、断末魔の息《いき》の下から、 「今までかくしておったが、坂本龍馬を斬殺したのは実はこの儂《わし》であった」  と告白した。日頃から、嘘をつく老人ではなかったが、余りにも唐突で意外な言葉に枕頭の両人、こたえかねていると、 「恠《あや》しむのは尤《もつと》もであるが」  苦しい呼吸で言って、土佐藩士坂本龍馬を殺したのは今も言う通り、この自分である。それを世間では誤り伝えて近藤勇や配下の者の仕業にしてしまったが、当時、仔細あって深く秘したものゆえ色々と間違いを起した。その後、折を見て、潔《いさぎ》よく名乗り出た上で、世間の誤りをも正そうと考えたが、ともすれば気が怯《おく》れて遂に果すことが出来なかった。  今、ここで目を瞑《つむ》ったのでは、永久にこの事実は葬られ、不明のまま後世を惑わす種となるに違いない。それを案じて、事の次第を記録にとどめておいたゆえ、我が亡きのち、記録を公表してもらいたい──そう言い果てると、隆《たか》い咽喉仏をゴクリと落して、事キレた。  遺族は悲嘆にくれながらも早速に手記を探すと、文箱《ふばこ》におさめ、封印をして床の間に置いてあった。それを取出すまで半信半疑だったそうな。龍馬暗殺の下手人は、官憲の取り調べで名乗り出た者だけでも十二人いるが、ほぼ今井信郎というのが通説になっていたからである。  さて手記は、几帳面な細字《さいじ》で次のように書かれてあった。  徳川幕府を覆《くつが》えさんと土佐藩士坂本龍馬、中岡慎太郎の両人は京都に上ってしきりに同志と往来し、種々、謀《はかりごと》を運《めぐら》していたが、幕府方の見廻組では龍馬が下京・河原町三条下ル、土佐屋敷前の西側の醤油屋・近江屋新助方の二階に、才谷梅太郎と偽名して潜伏の様子を諜知したので、篤は組頭佐々木唯三郎、今井信郎ほか三名と共に夕景から龍馬の宿に乗込んだ。慶応三年十一月十五日のことである。  先ず篤の方でも偽名の名刺を差出し、案内を乞うと、背の高い、かなり肥満した屈強の従僕が二階から取次ぎに降りて来た。  篤らは従僕に来意を告げ、この男に随《つ》いて二階に上ると、正面には目指す坂本龍馬が儼《げん》然と坐っていた。渡辺は先ず一刀流の早業で突如斬りつけたが、些《すこ》しの油断もない龍馬は、後方の床の間に掛けてある刀を追執《おつと》り立上ろうとする隙に、肩口深く斬下げ、横様に倒れた処を佐々木唯三郎が仕留めて終った。続いて龍馬の左右に居た若侍、従僕をも咄嗟《とつさ》の間に討果したが、十三、四の少年が、ドサクサ紛れに机の下に頭を突込んでいたのだけは見逃した。此の時討たれた若侍が中岡慎太郎で、慎太郎が二日後の十七日に死去したことは後日に聞いた。  右の騒ぎの最中に行灯《あんどん》が消え、かねて手筈は決めてあったものの一時は、同志討ちの怖れもあって一同大いに案じたが、無事に使命を果し得てほっとした。この時|遣《つか》ったのは家伝来の銘刀で、出羽|大掾《だいじよう》藤原国路の業物である。維新前、慶応元年頃から京都に諸方の浪士が入り込み、渡辺は京都見廻組に見出されて取締方に勤務中、浪士の輩と折々真剣勝負をしたが、常にこの名刀を使用してきた。刃の切味は、神様が宿っている様によかった。龍馬を斬った時なども誠に快心の切味を示し、その感覚が今でも掌に残っているようである。依ってこの刀は渡辺家の重宝として子々孫々に至る迄大切に保存してほしい。たとえ如何なる困難に陥っても決して、他へ売却するようなことがあっては相ならぬ。≪註。この条《くだ》りは明治四十四年八月二十三日の日附で手記の上段に附記されていた≫  さて龍馬を討果した一行は、すぐ目と鼻の土州屋敷に多数の藩士が詰めていることであるから、物音を聞きつけて駈け来るかも知れぬと用心して、醤油屋の入口の戸締りを厳重に固めたが、併し思った程の事もなく、外部で人の立騒ぐ様子が一向にない。  そこで仕合せよしと、一同は忍び忍び同家を立ち出で、河原町通りを四条通りへ出たが、同志中の世良敏郎《せらとしお》が少々取|逆上《のぼ》せ気味で、刀の鞘《さや》を現場に置き忘れてきた(この鞘が後に、龍馬下手人の吟味に色々、問題を提出した)。渡辺は見兼ねて世良の腕を肩へまわし掛け、刀の抜身を袴の中へ竪《たて》に差し入れて保護をしながら、四条通りへ出ると、未だ宵の口のことで、人の往来織るが如き賑わいであった。ここで人に恠《あや》しまれては一大事と、泥酔漢を介抱する態に見せて「よいやないか、よいやないか」と高らかに放吟しつつ、通行人に悟られぬようにして四条通りを千本へ、千本を下立売《しもたちうり》に出て、智光院通りを北へ、西側の一寺へ引揚げた。この寺は佐々木唯三郎の宿である。そこで終夜、一同は成功の祝盃を挙げ、夜の明け方をまって各々帰宅したが、素より秘密のことゆえ、父の渡辺|均《ひとし》に告げた外は誰にもかくして話さなかった。  そもそも龍馬を討つには、先ず爾前に龍馬の動静を偵察しておく必要があった。これには一と方ならぬ苦心を払った。幸い、諜吏・増次郎なる者は多年この方面に使い馴らされていて、少しは分別もある男ゆえ、何とかこの大役を仕遂げるであろうというに一決して、増次郎を龍馬の宿の附近に差し向けた。同人は荒菰《あらこも》を冠《かぶ》り、乞食の態たらくで、幾日も幾日も龍馬の宿の醤油屋の軒下に臥していた。時なる哉、龍馬はそんなこととは少しも知らず、その日の夕方に、外から帰った様子(これは中岡慎太郎が来訪したのを龍馬と見誤ったので、龍馬は風邪をひいて終日家にいたのである。増次郎にとっては怪我の功名であった)。  かくと見届けた増次郎は韋駄天《いだてん》走りに駈けてこの趣を注進した。一同は忽ち申し合せて、先斗町《ぽんとちよう》の妓楼に出かけて、其の家の二階で、日の暮れるのを待ち受けた。且《か》つは充分な手配りなど協議の末、踏み込んだのである。  坂本、中岡の両人を討取ってから一両日たつと、この事が洛中洛外に大評判となった。寄ると触ると新選組の浪士の仕業と取りどりの噂が立ったから、一味の者は漸《ようや》く枕を高くして眠ることが出来た。又、この事件後間もなく、此の功によって十五人扶持宛月々頂戴する身となったが、それにつけても自身が下手人であるにかかわらず、いつ迄も新選組に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せて置く事は相済まぬし、また心外でもあるという考えが胸一杯になった。そうして日夜只々良心の呵責を感じたが、後、間もなく新遊撃隊に加えられ大坂に出陣したので、遂に名乗る折もなくなって今日に至った。  この事件で迷惑をかけた近藤勇は、つとに知られる通り京都で新選組を組織し、徳川幕府に拮抗《きつこう》する者を片っ端から斬り殺し、或いは討払い、洛中の大道狭しと闊歩して、ずいぶんと狼藉《ろうぜき》を働いた。壬生《みぶ》等に屯所を構えて、後には本願寺や稲荷の旅所近くへ転じたが、見廻組とは常に親しく往来していた。その近藤が下坂の砌《みぎ》り、伏見藤の森を通行した際、薩摩の士に狙撃されて、強《したた》か肩先を撃たれて落馬しかけたが、鞍《くら》に掴《つか》まり辛うじて落馬を怺《こら》え、総身|血塗《ちまみ》れとなったまま大坂まで乗切った豪傑ぶりは、今では一つ咄《ばなし》となっているが、のち、甲府で捕われて斬罪に処せられ、命を落してしまった。その際自若として処刑についた立派さは並居る一同に舌を捲かせたそうである。首級は京都三条の橋上にさらされた。前《さき》に龍馬を討った翌日、佐々木唯三郎が近藤と出会った時に、「昨夜はお手柄であった」と近藤が微笑を洩らしたということである。  自分はその後、幕府方に身随して、大坂や江戸表を転々とする身になったが、コッソリ仕官を思い止まって京都に帰った。しかるに、明治三年になって、贔屓《ひいき》になった海江田《かえだ》信義子が奈良県知事になった時、県の准権少属を拝命し、尋《つい》で権少属小監察に進んだ。しかし海江田子が去った後は、職を辞して京都に帰って、今日にいたったのである。     二  手記は以上で了っていた。  渡辺篤には子はなかった。孤独な剣客で生涯をとじたのである。実弟安平と門弟の両人は手記を一読してその真実なのを悟ったが、さてこれを如何にすべきかを知らない。故人の遺体をねんごろに葬ってのち、結局、手記を新聞社に托した。これが大朝京都版の大正四年九月一、二日附で載った。  ところが、これを読んで、師の亡い柳馬場綾小路下ルの道場に遽《あわただ》しく駈けつけた二人の弔客があった。一人は老爺で、鞘を現場に忘れた世良敏郎。今ひとりは四十前後の臈《ろう》たけた婦人である。この両人の交々《こもごも》語る思い出|咄《ばなし》によって孤独の剣客の、若かりし日の意外な一面が明るみに出た。  はじめに老人世良敏郎の述懐をのべてみよう── 「旧幕の頃の武士というものの内情を御ぞんじないお手前がたは、かような話をしてもまさかと思われるであろうが──」  昔の武士は目に余る不埒《ふらち》の放蕩をしたもので、いずれの諸藩も若年の者は勤番と称えて江戸に入る。多くは馬鹿を尽して遊女屋に通い、一カ年もするとスッテンテンになる。現今の学生が上京して放蕩博士になるに似ているが、斯く申す自分もその一人であった。  自分はもと宮津藩士の家すじで、当時、大名行列のお供には勤番と立返りというのがあり、自分は宮津へ殿様のお供で参った。立返りと申すのは往って帰って来るので丹後の宮津まで百何十里を三十日の道中であった。帰路には伊勢参宮を願ったり……三日間程の保養をする。伊勢参宮とか江の島、鎌倉なんぞはこうしたお供の時でなくば行けなかったのである。  お供の節はなかなかに収入《みいり》があった。一度お供をすると半歳の暮しが立つと申した位で、心得て少々|狡《ずる》いこともした。五人なら五人の頭にから尻一匹といって馬が一頭渡る。所でこの馬一匹を帰りには殺してしまって、お互いに荷を別の組のほうへ一緒にする。コロスといっても馬を斬るわけではない。金を取って馬を傭わないで、その馬代を懐中にするので、馬代が一両ゆえ、一両は儲《もう》かると、額銀《がくぎん》四つ、どうして安い儲けではなかった。  お供は半日交替で、非番の日はゆっくり馬にでも乗って道中が出来る。お供に立つ時は、マメを踏みつぶす、草鞋にくわれる、ビッコひきひき歩行するのが、日暮れても道は遠く泣かされたものである。お供廻りも大名によって、多いのと少ないのがある。南部様などはまことに多かった。加賀は百万石で大層なお供かと申すに案外そうでない。これは加賀の出発は自費で道中をするので人ベラシをしたものであろうと吾々は言っておった。  道中は夜が楽しみである。殿様のお供であるから気楽なもので、自分の懐ろぐあいに影響がない。朋輩は若輩同士であるから面白い。なれどもまだ息子ばかりは手放さないで、一方のお供廻りには親父の禿《はげ》あたまが光っている、ということもあった。その頃の旅籠《はたご》は、今となっては嘘のようであるが、上等の旅籠で天保銭二枚二百。三百はずめば二の膳つきの徳利が一本立った。膳部は三品四品は附いておった。  さて道中で殿様のお供と知りながら、若いうちは意馬心猿で、ちょっと渋皮のむけた飯盛《めしもり》がいると、ツイ翌あさ寝すごしてしまう。殿様はとうにお発ちになった後で、大いに面喰ってアトを追うが、三日位は追いつけぬこともある。道中は別にお咎《とが》めがない。国表に着くと、早速「差控え」を申し渡される。三日なり四日なり差控えておれといわれる。これは、お供頭というのが始終お供の人数を調べて「誰其《だれそれ》は見えぬがいかが致した」と吟味に及ぶから忽ち露顕するのである。自分は御徒士組で参ったが、ツイ寝こかしを喰って大いに狼狽した。お供には家老も参るので、不都合は見通しで睨《ね》められたら最後である。国表へ到着しても御殿へ上がることもならず、差控え三日間で、謹慎ということになった。当今から見ると寛大な処置であったが、中にはこれを五たび、六たび喰うた者もある。偽りのない、これが旧幕時代の武士の一面である。  前置きが長くなったが、そういう次第で、ちょうど東海道赤坂の遊女屋に寝すごした時であった。この日は非番で、さいわい昼前にはお供の行列に追いついたが、その遊女屋を慌てて飛び出した時、表で出合いがしらに旅装の武士と衝突した、と思ったらヒラリと体を躱《かわ》され、我が身は空《くう》を泳いで路傍に横転した。 「おのれ」  まだ二十一の血気盛りである。送り出た女どもの手前もある。忽ち刀に反《そり》をうたせて罵言を以て相手に迫った。  件《くだん》の武士は編笠を冠《かぶ》っていたが、静かにその編笠を脱ぎ、容《かたち》を正して、 「率爾《そつじ》のこととは申せ、武士たる者が行会いの作法も弁《わきま》えず非礼の儀、重々お忿《いか》りは御尤もと存じ申す。が、何卒御容赦を願いたい」  見ればまだ自分とあまり歳の違わぬ若々しい青年である。小柄で、至って柔和な目もとが、わらうと人柄の温かさがにじみ出るようで、とても悪《にく》む気にはなれない。もともと慌てていたのは当方である。まして殿様のお供を勤める身である。喧嘩沙汰になって損をするのは自分にきまっている。そんな反省もあったから、袴の泥をはらいながら、 「以後、つつしみ召されいよ」  睨みつけて、別れた。後で分明したがこれが渡辺篤であった。むろん、その時身を躱《かわ》した篤の機敏さから、武芸の立つ人物とは知ったが、本当に底知れぬ実力を見せられたのは芹沢鴨《せりざわかも》襲撃の日である。     三  芹沢鴨は本名を木村継次といい、水戸系の尊攘論者で、常に烈公に私淑し、その意志を継承すると自ら称していた。剣は戸ヶ崎熊太郎に就いて神道無念流を能《よ》くし、性|頗《すこぶ》る豪毅、部下に対しても常に暴力をもちいて威権をほしいままにし、新選組首領として京洛に大いに蛮勇を轟かせたことは誰でも知っているが、たまたま文久三年七月二十四日、仏光寺高倉の油商八幡屋卯兵衛という者が、外国貿易の廉《かど》で尊攘党の浪士の為に天誅を加えられ、その罰文に、 「布屋彦太郎、丁字屋吟三郎、及び大和屋庄兵衛らが私慾を以て暴富を積むを憎む。今にして改悟を示さざれば、追付け八幡屋同様、天誅を加うべし」  と認《したた》めていた。仍《よ》って大和屋らは恐怖の余り醍醐家の臣・板倉筑前介に頼って、天誅組の軍資金として金壱万両を献納したとの風説あり、これを耳にした芹沢は奇貨|居《お》くべしと直ちに大和屋を訪ねて金を無心したところ、口実をもうけて拒絶された。  鴨は大いに怒り、八月十二日夜、浪士数人を指揮して大和屋宅を襲い、土蔵を毀《こぼ》ち貯蔵の絹糸を街頭に焼き棄て、或いは水に投じて狼藉……。たまたま消火に努めんとする者あれば部下に命じて銃を擬して威嚇した。その勢い制すべからず。町奉行の与力同心も手を束《つか》ねてむなしく傍観するのみだった。  これらの横暴の度《たび》重なるに従って部下民衆の憎怨の的となり、九月十六日夜、つい何者とも知れぬものの兇刃に斃《たお》れた。一般には近藤勇が手を下したと巷間に言う。しかし断じて初太刀を入れたのは、渡辺篤だったと世良敏郎老は言うのである。 「いかに近藤や土方歳三が出来ればとて、芹沢をまだ斬れは致せなんだ。民衆の迷惑を救うために力をかしてくれと、智慧者の土方が渡辺にそれとなく頼んでいたのを、同席して、儂《わし》はこの眼で見ておりまするぞ」  宮津から江戸に還ったあと、又々『差控え・謹慎』で、何かと面白くなく、ついに家を出て見廻組に加わった。そうして京に上った直後のことであったから、忘れようはないと言うのである。 「それに、おぬし方はどう思うておられるか知らんが、坂本龍馬は、あの大物勝海舟を暗殺の刺客に自ら立とうとした程の人物じゃ。腕は立ち申した。当時さる者ありと知られた長州の桂小五郎と、道場試合ながら互角に渡り合うたこともある。いや、桂小五郎が龍馬の諸手突きに面を突き抜かれ、 『参った』  と反身《そりみ》になった程でな。小五郎は鍔競《つばぜ》り合いになると強かった、いかな近藤勇も桂の寄身を避けたと申す。それほどの桂に、互角であった龍馬を一刀に仆《たお》した渡辺じゃ。人は近藤勇や佐々木唯三郎を強剛のように申し、渡辺がことは知らぬ。それが浮世のならいとは申し条《じよう》、当人もヒッソリ世間にかくれ、ささやかな道場の師範など致しておろうとは、今朝《けさ》の大朝を読む迄愚老も知らなんだは不覚でござる。何とも早や不覚でござる……」  今一人の臈たけた婦人の述懐になると、これは又話が一変する。  北辰一刀流で聞こえた千葉周作の道場に、或る日、旅の武士が訪ねて来た。 「手合せを願い度い」  と言う。姓名を問えば「渡辺篤」と答えた。当時千葉道場で四天王の一に数えられた塚[#底本ではつくりが「冢」。以下すべて]田孔平が、偶々《たまたま》表からはいって来て、篤を一目見て、 「骨のある男が今訪ねて来ておったが、何という者かな」  と奥へあがって問うと、取次の門弟が渡辺篤と答えた。 「渡辺?……知らんが」  試合を申し込んできたと聞くと、孔平はちょっと思案をして、 「よし、拙者が立合ってみよう。拙者なれば先生のお咎めもあるまい」  当時孔平は、芝の西久保に自分の道場を構えていたので、万一、失敗《しくじ》っても千葉道場に疵《きず》はつくまいと考えたのである。渡辺は道場に通された。二十前後の、小肥りで短身ながら色が白く、にこやかな福相の青年だった。  さて孔平と篤は竹刀《しない》を構えて相対した。大勢の門弟は、孔平ほどの高足が見も知らぬ若侍と尋常に立合うのを見て、奇異の感にうたれ、左右に居並んで見戍《みまも》っている。そのうち、すーと斜め上段に篤の剣尖が振りかざされるのを見て、 「おっ」  孔平は嘆声を発した。 「貴公、人を斬ったな」  と言った。この一語で勝負は尽きたのである。  双方、竹刀を引いた。門弟にはわけが分らなかった。道場主たる千葉栄次郎(周作の次男)は他出して不在だった。ところが、この立合いを杉戸の奥から覗き見ていて、 「お見事。……」  嘆賞したのは周作の女《むすめ》サナ子である。やや瓜実《うりざね》顔に、鼻すじが通って、口もとの小さく緊《しま》った見るからに悧発そうな妙齢の婦人だった。双眸が異様に輝いていた。  彼女は父周作の膝下《しつか》に育つうち、少女の頃から武術をたしなんだ。世間並みの乙女らしく、成長すると周作は他家に嫁がせようとしたが、時あたかも天下紛乱、四方英傑の士は剣を把って起ち、東遊西説、事あれば則ち其頸血を以て社稷《しやしよく》に濺《そそ》がん、といった時代で、彼女も男|勝《まさ》りに国に尽すなどと言い出し、父周作が百説千諭しても肯《き》かなかった。ついに周作は匙《さじ》を投げ、 「そちは気狂いか」  と歎いたという。  ところが、千葉道場に剣を学んでいた坂本龍馬が彼女と親しんで、或る日、 「それがしの妻に娶《めと》らせて頂けませんか」  師たる周作へ直《じか》談判で申し出た。龍馬時に二十二歳、サナ子二十歳であった。 「あれは化物じゃぞ。それでもよいかナ」  周作が問うと、 「結構です」  娘を呼んで意嚮《いこう》をただすと、少時《しばし》考えていて、 「お父上が嫁《ゆ》けと仰せなさいますなら」  意外にも同意した。そこで千葉家からは、聘礼《へいれい》として短刀一口を龍馬に贈り、龍馬は江戸に遊学の身で然るべきものなしと、藩公より拝領の着古した袷衣《あわせ》(桔梗《ききよう》の紋付)一領を聘礼に代えた。かたちばかりの婚礼はととのったわけで、龍馬は勇躍故郷土佐に帰った。  それきり、江戸には現われない。サナ子は許婚者《いいなずけ》の儘である。     四  塚田孔平ほどの猛者《もさ》が、惚れ込んだというので門弟の関心は渡辺に集注した。当時周作は既に亡かった(六十二歳で安政二年に死んだ)。それで次男栄次郎が道場をまもっていたのである。  おかげで男勝りのサナ子に或る程度の我が儘もきいたのであろう。孔平が芝の己《おの》が道場で世話しようというのを引留め、篤を千葉道場で預ると彼女は言った。女ながら諸侯の奥向きに出稽古をして、奥女中に薙刀《なぎなた》などを彼女は教えている。二十五の大年増になっている。歳よりは併しずいぶん若く見えたそうである。  無名の剣客渡辺篤は、こうして千葉道場の客分として、一部の人に名を知られ、半年ばかり江戸に暮した。根が温和で無口な性質ゆえ、客分でいても目立たない。どの師に就いて修行いたされた? などと|くど《ヽヽ》く問う門弟もいたが、黙笑して答えなかった。だから篤の前歴を知った者はなかった。年齢だけは、 「二十一です」  と言った。  サナ女が土佐藩士坂本龍馬の許婚者であるのを聞かされたのは、文久元年というから千葉道場を辞去した年である。当時は左程まだ、龍馬の驍名《ぎようめい》は知られていなかった。しかし龍馬は道場に修行中、天下の志士と交友して夙《つと》に頭角はあらわしていた。或る時、門弟の一人がこんなことを言った。 「尊王攘夷の連中などは頼山陽を詩聖のように尊敬しておるが、身共は山陽は大嫌いじゃ。癪《しやく》にさわってならん。山陽め、美濃の江馬細香という医者の娘と出来ておきながら『情婦《いろ》にはよいが女房にはいやだ』とぬかして逃げ出したそうじゃ。あたら処女を台無しにしおった。細香はその後、独り詩などを作って暮らしておったという。女弟子に手をつけるとは言語道断の沙汰である。それに、広島藩の金を使い込んだり、下女を孕《はら》ませたり、誠に素行のおさまらぬ人物であったという。『情婦にはよいが』などという言葉を聞いただけでも、彼の心底は見えておろう」 「…………」 「それにじゃ、水戸烈公の手前、大きな声では申せんが、あの本居宣長にしてからが夜這いをしたので有名ではないか。朝、下女が泣いて居る。塾生がどうして泣いて居るかと尋ねたところ、妾《わたし》は家の先生を塾生の方が神様だと申しておいでなさるのを聞いておりますが、実は昨夜、妾のところに先生が御出になりましたのを、蹴《け》とばしたのです。でも後で気がついて、神様を蹴とばしては罰が当りはせぬかと……そう申したという。知能の程が疑われる婢《はしため》じゃが、左様な下女に夜這いするとは。これを見ても尊王党の正体が分ろう。だいたい身共、尊王党の物欲しげなのが好《す》かん。坂本龍馬にいたしたところで、キレ者ではあろうが今一つ信用する気にはなれん。サナ女がことに致しても……」  篤は、何とも答えなかったが憂い顔に眉を曇らせていたという。それから間もなく千葉道場を去ったのである。  サナ女は篤より四歳の年長である。男勝りである。弟のように篤をいつくしんだのかも分らない。温厚で控え目な篤のことで、優しくされても或る線は断じて越えなかったろう。だから、両者がどの程度に昵近《じつきん》したかは誰にも分らないが、ただ、いよいよ道場を去ろうという十日前であった。  めずらしく、サナ女が誘って二人で庭を散歩した。 「どうして、急にお発ちなさるのですか」  サナ女はわらいながら篤をふり返って訊くと、 「人に申せぬ理由で、人間、行動いたすこともござるでしょう」  篤は前方の築山の頂《いただ》き辺を真直ぐに見て、表情だけはわらって、答えた。築山のそのあたりには沙羅《さら》の白い花が咲いていた。サナ女は額《ひたい》の生え際がせまい顔立で、薄幸の運命を想像させたが、肌理《きめ》は艶々《つやつや》として色が抜けるほど白く、いつも五つは若く見えた。この時は髷《まげ》をコトジ結びというのに束ね、白地の淡白な夏物に黒繻子《くろじゆす》の幅狭い帯を緊めていた。胸の隆起はたかかった。  築山に、どちらからともなく登った。其処に亭《ちん》があり、ふたりは腰掛けて、他所目《よそめ》には大そう睦《むつま》じそうに語らっていたそうである。時折、サナ女の嬌笑がきこえ、渡辺をひやかすようにも見えたと、築山の下の小池のわきを通りかかった門人が述懐していた。  尚、いよいよ道場を去るにあたって、もう一度サナ女は引留めたそうな。その時、奥さんにどうかと、サナ女の女弟子で金春《こんぱる》の歌妓君子という女性をすすめた。何でもこの歌妓は会津藩の某氏の落胤《らくいん》だからとサナ女は言った。篤は温厚な性格に似ず、屹乎《きつ》と彼女をにらんで、 「ひどいお人だ……」  と言った。それから傍らの差料を掴《つか》んでサッと彼女の部屋を出た。それきり千葉道場を去った。     五  サナ女がすすめた歌妓君子は、日々道場に来て薙刀を学び、その伎《わざ》すこぶる上達せりとサナ女の回顧談に述べられてある。当然篤もその容貌には接していた。十人が十人「遉《さすが》は歌妓なり、美人なり」と称したという。  後日彼女は京紳某に落籍《ひか》されて夫人となって洛外北野に住み、琴瑟《きんしつ》相和したが、見廻組の佐々木唯三郎に乞われて組下に入った篤と、偶然、四条縄手通りで邂逅《かいこう》したのが縁となり、その後、かなり親しく君子方に出入りするようになった。主に江戸でのサナ女の思い出咄に耽るのが何よりも篤は愉しそうだったという。篤の位牌に弔客として現われた婦人は、この君子の末妹である。 「渡辺さまが妾を拒絶下さいましたお蔭で」  或る日君子は嗤《わら》いながら言った。「こんな幸せな日々を過ごせるようになりました。でも世の中が遽《あわただ》しゅうございますから」  篤は赤面して目の遣り場に困《こう》じていると、君子は一そう秘めやかにわらい、 「アヤ子を、どうお思いでございますか」  アヤ子とは末妹のことである。当時まだ十歳にも満たぬ少女である。 「どうとは?……」 「目鼻立ちが似ているとお思いなさいませんか。サナ子様に」  篤は瞬時にして狼狽忽ちその極に達し、 「失礼致す」  北《に》げるように辞去した。それきり暫くは訪ねて来なかった。  坂本竜馬を中心とする薩長|聯合《れんごう》の動きが、漸く活溌となり出したのはこの頃からである。龍馬は最早《もはや》一藩の志士にとどまらず、天下の形勢を見、新学の知識を得て薩長二藩の和解に努めて、木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛を会見させ、長州藩が長崎で薩藩名義で武器を購入する周旋をし、聯合成立に全力を傾注した。一方、郷里土佐で海援隊を組織して、長崎表にて帆走船「いろは丸」を獲て配下の士とともに巡航の途上、備後|鞆津《ともつ》沖にさしかかった時、行き合った紀州藩の明光丸と衝突して遂に「いろは丸」を沈没せしめた。  この「いろは丸」沈没は龍馬が深く謀る処あって敢てしたもので、「いろは丸」は余りにも貧弱な老朽船だったから賠償金を得る目的で、好機とばかり自ら乗りかけて沈没させたのである。後に、紀州家より談判のすえ賠償金八万五千両を得た。  もっとも、この談判から、いよいよ龍馬は幕吏に狙《ねら》われるようになった。その一例が寺田屋騒動である。  慶応二年正月二十二日、龍馬は薩長志士の間を周旋して遂に京都小松邸に於て、木戸孝允、西郷らと会合し、薩長攻守同盟六カ条を約させた。その翌日、同志三吉慎蔵、大黒某らと共に寺田屋に投じた夜半、かねて龍馬の足跡を尋ね知った新選組に寺田屋を包囲され、襲われたのである。  幸い龍馬は難を免れて伏見の薩摩屋敷に入った。その直後であった。見廻組では寺田屋襲撃の話でもちきりだったが、誰かが、 「龍馬を逃がしたのはお良《りよう》じゃ。近藤さんがえろう口惜しがっておられた」  と言った。 「何、お良? ……あの龍馬の妻か?」と誰かが言った。  聞いて篤の面色《かおいろ》が変った。  お良というのは京都の勤皇医、楢崎将策の長女で、天保十二年京都に生れた。彼女の父が勤皇の志士と交るうちに、龍馬とも相知って親交を重ね、お良を龍馬に妻《めあわ》せたのである。  ところが、此の頃、幕府の嫌疑が楢崎一家にかかり、龍馬とお良はお良の叔父に当る粟田青蓮院の別当・知足院のもとに隠れた。そして叔父の許で祝言の式をあげた。此の時龍馬は三十、良子は二十四歳であった。サナ女は何も知らない。江戸の千葉道場で許婚者の龍馬を待っていた。  龍馬は勤王倒幕の運動のためと、幕府の追捕の手を脱れるため良子に春と変名させて伏見の船宿寺田屋の女中に入り込ませておいた。新選組が襲った時、彼女は入浴中であったが、家中の騒々しいのに変事の起ったのを知り、機を窺《うかが》って湯殿を出て、女将トセと共に同志を導いて難を避けさせてから、彼女も裏口より脱走したという。  一方、避難した龍馬らは伏見街道で新選組の後備えと衝突、剣戟数合に及び、龍馬は手を負いながらも漸く近傍の材木置場に潜み匿《かく》れた。そこから伏見屋敷に遁《のが》れ、待ちうけた良子と相擁してその無事を喜んだ。西郷隆盛や薩藩の家老小松帯刀から、良子が龍馬の妻として遇されたのもこの薩摩屋敷に潜伏のときである。  後程なく、龍馬は良子を携《たずさ》えて薩摩に落ちのびたが、やがて鹿児島を発って上京の途に就き、なぜか長崎で良子と別れて単身、博多町の質商に身を寄せた。それから屡々《しばしば》長州、長崎、京、馬関を往反して国事に奔走した。「いろは丸」沈没はこの頃の出来事である。良子は長崎で久しく空閨の日を送るうち、長州より招かれて同地に赴き伊藤助太夫方に滞留したが、ついに一両度しか、龍馬には逢えなかった。念のため言っておくと、彼女は明治三十九年、六十六歳で横須賀に死去するまで、夫は新選組隊士の兇刃にかかったものと思っていた。又龍馬の死後、彼女は素行が修まらず変な男にひっかかって、大変零落して流転のすえ裏長屋で死んだと言われた。  一方、千葉サナ女は終生、許婚者のまま独身を通し、晩年は自由党の老将小田切謙明の家に引きとられて、絨毯《じゆうたん》ののべられた小田切家の奥座敷に、烟草盆《たばこぼん》などを置いて静かに暮していた。明治二十六年九月号の女学雑誌に、 「サナ女史の年齢五十六なれども女子の肉は肥えたり肉色は沢々たり、額上いまだ一波の皺《しわ》を生ぜず、鬢辺また一茎の白を留めず。加ふるに挙止明快にして之を以て一見すれば女史の齢は、其齢より十五乃至二十以下に在るものの如し」  と書かれている。彼女も亦《また》、龍馬の死は渡辺篤の刃によるとは知らなかった。     六  寺田屋騒動より一年余りすぎて慶応三年四月に、土佐藩はそれ迄、脱藩の士であった龍馬の罪を赦すという情報が入った。それに前後して再び龍馬が西国より京に潜入した様子が見えた。新選組は緊張した。そんな一日、佐々木唯三郎が居室に篤を呼んでこういうことを言った。 「お手前は龍馬だけは斬らんと申しておるそうなが、まだ、その気持は変らぬか」 「なぜですか」 「実は近藤さんから、今度ばかりはおぬしの手を藉《か》りたいと改まっての申し入れがあった?」 「?……」 「おぬしも知っておろう、寺田屋の砌《みぎ》りには折角、袋のねずみに包囲しながら取逃がした。つまり、腕が存外に立つ。我らとて後《おく》れはとらぬつもりで居るが、こればかりは立合うて見ねば分らん。──そこで、どうであろう、おぬしの手を藉してはくれんか。この唯三郎よりの頼み入れじゃ」  篤は黙って俯《うつむ》いた。唯三郎は又言った。 「おぬしに一度、話そうと思っておったが、芹沢亡きあと、なるほど、新選組にも横暴の振舞いは見えんではない。しかし、それが近藤さんの意図と思うておったら、取返しがつくまいぞ」 「どういう意味ですか?」 「ただ佐幕派ではないと申しておる。……あれは、久邇宮家より召抱えの意嚮の洩れておる人物じゃぞ」  唯三郎は言った。これは本当で、勤王、佐幕が両立せずと見るのは、後世の人々の誤った解釈である。長州薩摩の謀略といえる。  近藤勇は、芹沢の跡を継いで新選組の長となった文久三年十五日の、政治観の上書に、   全体我等共ニ尽忠報国ノ志士、今般命ニ依ツテ御召ニ相応ジ遥々《はるばる》、上京仕リ、皇命尊戴、攘夷之御英断承知仕リタキ存志ニテ滞京罷り在候  と述べ、また幕府親藩の会合には、近藤の意見として、公武合体、即ち挙国一致内閣を建つべしと具申した。勤王の桂や西郷と同じことを言っているのである。一死報国の念に燃え、新選組が単に秘密警察の職務のみに専念するのは不満とした。それかあらぬか、宮廷第一の豪傑であらせられた朝彦親王(久邇宮)の御日記に、  慶応三年九月十三日、   秋月悌次郎、招ニ依ツテ参ル、予ガ勘考ニハ原市之進ノカハリ致ス可《べ》キ者近藤勇シカル可キ哉。又、同人(近藤)予ノ方へ借用之儀、肥後守へ内談、暫時、幕ヘヤトヒ、其上、予、新家ユヱ家格モ立兼ネ候故、幕へ兼テ頼ミ置候辺ヲ以テ、幕へ雇ヒ従へ、予へ借候カタ然ルベク、極秘ニ心添へ候也  と記されてある。宮の御考えでは、自分に出来るなら何とか近藤を召抱えたいと仰せられたのである。  近藤が長州の志士を討つのも不穏の徒だからで、長州征伐の大命を奉じたからである。私情ではない。長州が大義名分に名を藉りて私慾の言動に及ぶと見た、然も彼らは脱藩の不逞《ふてい》浪人と見做《みな》される。上意によって、それを討つのは武士の当然の道である。  又、土佐藩の大立者後藤象次郎に近藤は会ったことがあるが、後藤が勇に会うや否や、拙者は、その腰の物が大嫌いでと言ったら近藤は笑って刀を遠ざけたという。また嵯峨実愛卿の『続愚林記』慶応三年十月十四日の条に、   大久保一蔵、近藤勇ら来面談   大政奉還ノ申渡アリ   四月十九日   近藤勇来有面談  とあり、復古の大元勲大久保一蔵(利通)等と同格に、公卿間に出入して居ることが知れる。江戸では松本良順(後の軍医総監)にも会っている。  坂本龍馬は風雲児である、麒麟児《きりんじ》である。しかし天下平安のために、薩長二藩の私慾による盲動を糾合した、その奸は斬らねばならぬ。近藤はそう見たのである。見解の相違ということはあろう、併し私憤による行為ではない。それでも、兎角、誤解を蒙りがちな新選組の手でやるよりはと、見廻組に依頼した。真の秘密警察組織は、実は新選組より見廻組の役目だったからである。 「これでもおぬし、近藤さんを誤解しておらんと言えるかな?」  そう言って、言葉を尽くした説明のあとで唯三郎は、じっと篤を凝視し、おわりに、ひと言《こと》、いった。「おぬし、見廻組の人間であるのを忘れては、困る」  篤は、この対談の間、ついに一言も口をひらかなかったそうだ。黙礼して、唯三郎の前を出た。  その足で、久しぶりに北野に君子の居宅を訪ねた。めずらしく、末妹の少女の頭髪を撫《な》でて、 「そもじ、大きゅうなっても、剣術|遣《つかい》に嫁ぐなよ」  と、言ったそうだ。それから約半歳後、十月十四日、将軍慶喜は大政を奉還した。それでも龍馬の暗躍は歇《や》まなかった。ついに何者かに殺された。 [#改ページ]  自日没(にちぼつより)  阿波《あわ》の徳島城下で、奥医師(匙医)永井宗意なる者が家老の忰を斬って逐電した。忿《いか》った藩公の命で上意討ちに家士六人が選び出された。宗意は巧みに追手を遁《のが》れ、四国山脈を縦断して浮穴郡《うけなごおり》の柳井川村に辿《たど》り来たときに時疫の流行あり、村民の苦しむ様を見て施療を為した。これは宗意にとって自殺行為を意味した。医師である身分を秘匿すべき禁を破ったわけである。忽《たちま》ちに、噂を聞きつたえて武士六人は柳井川村に到着した。はじめて事情を知った村民は、挙《こぞ》って、恩人宗意を護り武士に反抗して起《た》った。乱闘数刻、ことごとく武士は斃《たお》れ宗意は余命を全うした。  武術に、農民の鋤鍬《すきくわ》の攻撃が勝ったのである。此の真相を語りたいと思う。  斬られたのは家老津田監物の次男で又之丞といい、才気煥発、時に大言壮語する弊はあったが、朋輩への思い遣《や》り厚く、腕はかなりに出来た。果し合いの理由は喧嘩《けんか》口論の末としか分らない。その場に立会った者はいない。が何分にも、宗意は匙医である。尋常に斬結んで又之丞に勝てる道理はないので、騙《だま》し討ちではないかと言い出す者がいた。おもに故人の朋友である。  ところがこれを否定してこんな咄《はなし》をした者がいる──  いつ頃からか、他国より流浪し来たって、お城下新町に寓居する浪人者の父娘があり、近在の児童に手習いを教えていた。一日、宗意が商家の患者を診察に往《い》った時に、偶々《たまたま》其家のせがれが習字紙を病人の枕許に来て見せた。これを宗意が目にとめた。児童の字ではなく、朱筆で訂正してある墨跡に目をとめたのである。新町の浪人宅を宗意が訪ねたのはその帰途であったらしい。四十年配の、いかにも落魄《らくはく》の素浪人ながら元は由緒ある大名家の家臣だったらしいのが、一目で分った。宗意は早速に要件を話した。こんなことを話した。  ──自分は、医学を専修の身であるが、恥を明かすようながら今迄に幾人もの人を早死せしめている。本草《ほんぞう》学というのが元来は薬用植物や、虫魚・玉石を配合する漢方医術であるが、調合を過《あやま》てば患者を頓死せしめるほどの劇薬ほど、治癒の効も多い。しかも薬の配合は秘伝であって余人に教えられるものにあらず、自らの経験にて会得せねばならぬ。為に世に名医と称される人は実は配合を誤って数多《あまた》を死に至らしめた失敗者である。失敗を医者だけが知っている。臨床的な、そういう過失の体験を経てはじめて、この病人にはこれ程と適量の劇薬を調合し得る。医が仁術となるのは謂《いわ》ばそんな体験よりの懺悔《ざんげ》をともなう故であろう。自分は、これ迄にもそうは思いながら万一を怖れて今一匙の薬を盛る勇気なく、却って病人を激痛に喘《あえ》がしめ、死に至らしめた。或る時は過量を投じて急死せしめた。そこで思ったことは、これは処方の技術ではなく医家たる身の精神の問題である。つよい心が病人を平癒せしめる。その勁《つよ》さが自分には欠けているように思われる。──そこで、先ず自らの|ひ《ヽ》弱い心に克たねばならぬと常々思っていた。たまたま先程、往診先で貴台の筆跡を目にし、大そう強気のお人柄のようにお見受けした。どういう修行でいまのその心境に立ち到られたものか、もし差構いないならお明かしを願いたい。できれば自分も貴台に就いて、その修行をしてみたい──そう言ったのである。  浪人者は、元備前藩で名を知られた剣術者とあとで分ったが、宗意の語るのを聞き了《おわ》ると、身づくろいを正して、 「まこと手跡にてそれをお感じなされたか」  と訊いたそうだ。それから半ば詠嘆の口調で、身共は少々刀術の心得がある。強《た》って申すなら、精神の鍛えられたは剣術に没頭した賜物であろうが、筆跡にそれがあらわれるようでは、我が修行もまだ至らぬ証拠。お恥ずかしい次第である、と言い、指導などとは思いも寄らぬが、修行をしてみるおつもりがあるなら武辺稽古のお相手はいつでも仕ろうと言った。それで宗意は以後浪宅に出向き、浪人者の教授をうけることになった。  これが奥医に登用される前で、浪人者の歿したのは二年前という。この間、四年は閲《けみ》している。もし怠らず修行したのなら、腕前のほどは兎も角、匙医とて剣を遣《つか》って不思議はない、騙し討ちとは限らないと言うのである。これを言ったのは前藩主(治昭公)の裏判役を勤めた老人で、なる程そう聞けば、又之丞の遺体に背創《うしろきず》はなく、向う疵ばかりであった。  宗意の父永井氏は、先祖代々神職の家系の出で、幼少より宗意は京師《けいし》に出て、医学を修め、父の死後に阿波に還った。おもに京では本草の大家小野蘭山の門に遊んだ。兄が一人いたが宗意の帰郷に前後してみまかったので、他に身寄はなく、事件当時は独り身である。又之丞を斬ったあと自宅に帰った形跡はなかった。宗意も手傷を負うていたかどうか、だから分らない。少々傷を受けても医者ならお手のもので手当はしたにきまっている、と嗤《わら》ったのは小原春逸である。春逸は藩医の長老で、君公より安宅村に学問所を賜い、百般の医書及び本草綱目の諸書を講ずる傍ら、校内に薬圃を作り数百種の薬草を栽培して、試用と称し無料で庶民に施療した。蚤虱蚊《のみしらみか》は身体の悪血を吸うの効ありと言い、夏の夜は裸体となって蚊に血を吸わせた人である。宗意の力倆を見込み奥医に推挙したのもこの人だった。  上意討ちを仰せつかった六人の中で、最年長は稲垣内蔵允四十二歳、年少者は田部数馬といった。数馬は江戸邸で中小姓を勤め、癆咳《ろうがい》のため国詰となって父母のもとに療養中、何かと又之丞に劬《いた》わられた。色の白い、朱唇は女のようで顔に赧味《あかみ》のさした恰《あたか》も内裏雛《だいりびな》を彷彿させる美少年である。彼だけは自ら志望して討手に加えられた。  関金十郎は徒士《かち》組の軽輩ながら資性剛毅、常に倹素を旨として木履を穿《うが》ち、行歩殆ど疾走するが如く、人其音を聞けば馬の駈るが如しと言われた。六人のうちでは、内蔵允についで寡黙だった武士である。  徳善《とくぜん》中弥太が討手に加わったのは内蔵允の進言によった。阿波領は南西で土佐に界《さかい》し、真西《まにし》は伊予に接し、西北は讃岐に連なるが、領地の大半は山岳重畳として行路|夷《たいら》ならぬ山地である。他国との通路は概ね天嶮《てんけん》にゆだね、唯一の公道たる阿讃街道にしても阿波の吹田村から、讃岐の坂元村に至る間は、塁々《るいるい》たる渓路の尽きる所は崎嶇《きく》たる嶝道《さかみち》となり、一歩一喘、行旅すこぶる艱難《かんなん》をきわめた。藩公より上意討ちの命の下ったのは又之丞の斬られて実は半月後である。その間、鳴門(土佐泊)、吉野川流域、小松島の船宿に係り役人が出張して旅人あらためをしたが宗意の脱走した形跡はなかった。となると逐電は陸路であろうが阿波は八十八カ所詣りの所謂《いわゆる》、お遍路の往反する土地柄ゆえ宗意が街道すじを落ちるならその風体は旅人の目にとまる。遍路に糺《ただ》せば何辺《どのあたり》で行き交うたか一目瞭然である。遁走もこれでは実をともなわない。嶮岨《けんそ》の山径に紛れ入って越境すると見なければならない。  徳善中弥太は俗に言う平家部落(祖谷渓《いやだに》)の出で、藩祖・峰須賀蓬庵が阿波に封ぜられた時に、祖谷の士は反抗して従わなかった。そこで徳善禎之助ら八人の士に謀《はか》り、謀叛者の首魁を欺いて京師に訴訟を企てさせ、丸亀の海中で生捕りして摺伏《しようふく》させた。その功で、禎之助は祖谷の大政所となり、家士に取立てられて田禄五十石を代々給されるようになった。ふつう、阿州では他領同様に大庄屋、小庄屋と唱えるが祖谷のみは大政所という。これ安徳帝の行幸おわしませし故なりという。つまり部落の大庄屋で祖谷一円の取締を兼ねた。中弥太はその裔《すえ》である。いずれ宗意は人跡まれな山地を逃走するにきまっている。土地の案内に精《くわ》しい中弥太をそれで内蔵允は要《もと》めたのである。  今一人を篠原|主水正《もんどのしよう》といった。大方の見るところ、篠原が六人中では武技の働き第一と言われた。伯耆流を能《よ》く遣《つか》い、齢《とし》も内蔵允に尋《つ》ぐ年長で、まさに男盛りである。その所為《せい》か内蔵允の指揮を仰ぐのを内心、面白からず思うふしがあったという。内蔵允は温厚の人物で、最年長でもあるところから六人の統率者に推されたが、地味な人柄だけに武術の程は家中で余り話題になっていない。これは後の咄になるが、六人が徳島城下を出立《しゆつたつ》してから、松山領柳井川村で宗意を見つける迄に四年かかっている。四年間、その行方を探し索《もと》めたのである。この間、四国全土を隈《くま》なく六人は歩いたが、そもそも上意討ちは、めざす相手を斬るのが役目であり、それを最も能く為し得る者が統率者たるべしという考えが、篠原にはあったらしい。何国のどの街道を宗意が趨《はし》るか、あやまたずこれを思惟し追跡するのは兵法である。年の功ではあるまい。宗意の所在が明らかなら、はじめから六人掛りで出向くことはなく、討手は一両人で足りたというのが篠原の本心であった。内蔵允はうすうすこれを察知していたに違いないが何も言わなかった。  いちど、大森山中の岐路で一行の立迷ったことがある。右すれば蝉谷、左は土佐街道で行者山の界を経て、高知に至る。孰《いず》れの道をとるべきか迷っていた時に、蝉谷の方角から樵夫が薪を背に負うて遣って来た。篠原主水正は男を呼び止めて、 「斯様《かよう》しかじかの風体の旅人を見かけなかったか」と問うた。男はかかる辺地で武士六人に取巻かれ、愕《おどろ》いて無言で頭《かぶり》をふった。凝乎《じつ》とその表情を見届け、 「間違いない。土佐じゃ」  篠原は朋友を語らい足早やに土佐への道をとった。一同のあとから、ゆっくり内蔵允も進みかけたがふと、樵夫を振り見て、停止すると、ツカツカと取って返し、 「許せよ」  突如、男の胸もとをおし開け、手を差し延べて腹を触った。それから一同を呼び止め、 「違う、宗意は蝉谷へ向って居る」と言った。徳善中弥太が理由を糺《ただ》した。  内蔵允は「篠原、おぬしの自儘《わがまま》は許さぬぞ。戻れ」とだけ言い、自身で蝉谷へ向った。樵夫の肌をさわったら冷汗を流していた。偽りを申し立てた証拠である。用意周到の宗意なれば追手を慮《おもんぱか》り土民にそれぐらいな意は含めてあろう、取りも直さずこの近在を宗意は通過している。蝉谷の野宿で、焚き火にあたりながら内蔵允はそう話したのである。この挿話は、徳島を出て何年目のものかは分らない。  宗意を典医に推挙した春逸翁は、阿波藩医術の磨礪《まれい》に功のあったのを藩公に賞され、屡々《しばしば》本草学取調べのため四国一円は言うに及ばず、紀伊熊野、大和などにも派遣された。どの薬草は、何国産のものが最も効多いかを調べるわけで、これはと思うのがあれば山野に自生の雑草とて、採取して持帰り、校内の薬圃に栽培する。  総じて典医は、どの藩でも一町歩(三千坪)ぐらいな薬圃を占有して、薬草を植え、同種の草の中で最も育ちの芳しい、良質のものだけを藩公病患の折に使用した。他は悉《ことごと》く遺棄したものである。お上のお薬を下々が口にするのは畏《おそ》れ多いというわけである。且つ同種の薬草でも、たとえば|どくだみ《ヽヽヽヽ》は鍋島産、杜蘭《とらん》は相模産が品質第一の名草といわれ、将軍家病臥の時には、競って自国産の薬草を献上はするが他へは秘して出さない。それで密《ひそ》かに採取して、栽培せねばならなかった。前述の杜蘭など「コレハ陰ヲ強メ、精ヲ益シ、胃中ノ虚熱ヲ治シ筋骨ヲ壮ニス」  いわば、強精剤に過ぎないが門外不出の妙薬と看做《みな》された。念のために言うと、|どくだみ《ヽヽヽヽ》は煎用して梅毒・淋病の治癒予防に奇効がある。春逸翁はそういう諸草の採集に努め、殊に阿淡両国産物志編纂の業も為したが、老いて後は、採取の事は殆ど若い宗意らに委《ゆだ》ねた。宗意が四国山地の地形に明るかったのはこの賜物である。  二十代の半ばも過ぎて宗意は徳島を逐電している。柳井川村(今の愛媛県上浮穴郡|柳谷《やなだに》)に潜んだ所を討手に発見されたのは三十二の時である。この事件の当日まで宗意は妻帯していない。しかし『大窪の岩洞』に潜み匿れていた時に、灯を点じて微《しの》び入った女人が宗意の愛を乞うたことがあった。 『大窪の岩洞』というのは大野ヶ原(現在は国有林)の西北二里ばかり、巌の立重なる山腹にあって、脚下を渓水が繞《めぐ》り、洞の入口は狭隘《きようあい》だが佝僂《くる》して進み入れば、はじめは一歩、石を踏み、一歩水中に浸るが頓《やが》て洞内|豁然《かつぜん》、あたかも数十間の堂宇の如く、高き処は馬にも騎《の》りつべく、広い処には家をも建つべしと言われた。所々水滴落ちて穴の内には蝙蝠《こうもり》が棲んでいた。土民らは此窟に入れば必ず大風が吹くと畏れて立入らなかった場所で、其処に宗意が潜伏していたら娘が立ち現われたのである。  彼女は灯を手にしていたが宗意を見つけると驚倒した。宗意も愕いた。大窪のこの辺り、悪戯な猿が人を蔓で縛って山小屋に押籠めたりするので、白昼でもめったに人は通らない。彼女は此処から五里|許《ばか》り奥まった伽《とぎ》ノ森という聚落《しゆうらく》の者だった。俚諺《りげん》ではここも平家部落といわれている。丈なす黒髪を背に束ねた娘は、何をしているのかと恐る怖る宗意にたずねた。宗意は食い物を持っているかと先ず尋ねた。そんな対話の後に、双方に他意のないのを感じたのだろう、次第に気をゆるして互いを観察した。娘は若かった。宗意は気づかなかったが、この洞窟には彼の憩《やす》む空洞の奥に、更に『胎内くぐり』と呼ばれる跼岩《こごまりいわ》の隘路《あいろ》を経て、一段と高く広い空地があり、五百羅漢にも似た幾百とない石が千躰仏のように並んでいる(土俗にそれで此洞を後世では羅漢窟とよぶ)。ここから更に四、五十間往けば鳥居岩という鍾乳石の柱があり、又さらに四十間ばかり奥に往くと中川という深水の溜った所があって、この水が姉の|つわり《ヽヽヽ》に効くので、汲みに来たと娘は話した。 「つわりに効く? 水がか?」  宗意のうちで医師の本能が頭を擡《もた》げたのである。慌てて、 「この洞が、そんなに奥行きがあるとはの」  話をそらしたが、 「案内《あない》してくれるか」 「はい」  娘はうなずいて灯を翳《かざ》し、先きに立って、水の溜った場所の更にまだ奥がある、などと話した。やがて水溜りの場に来た。宗意は片膝つくと、背を屈め、件《くだん》の水を片手に掬《すく》って、口に含んだ。 「──ふム」  と頷《うなず》いた。それが娘の好奇心を唆《そそ》ったのであろう。宗意の頭上で片袖《かたそで》を抑えて灯をかざし、 「深うございましょう?」  自分も上体をのり出すようにして、 「おさむらい様は|くすし《ヽヽヽ》(医師)なのでございますか」 「さようではない」  宗意が手を拭いて起つと娘は一歩|退《しざ》って、ク、ク、と含み声を立て、「殿御が飲むものではございませんのに」と笑った。宗意も苦笑した。それから娘の下げてきた手桶《ておけ》に水を汲み取るのを灯を受け持って背後で眺めた。  伽ノ森は言えば落人《おちうど》部落である。里人との交りも殆どなく疎外されて暮している。宗意も人目を怖れている。そんな共通が、おのずと、二人を親しませたのも人の情の自然な移り行きであったかも知れない。  洞内へ両三日、娘は食事を運んだ。その間に身内に宗意のことを相談したらしく、人里絶えた場所でも、毎々食事を運ぶのでは見咎《みとが》められる惧《おそ》れもあり、もし構わぬなら一緒に伽ノ森へお出でなさいませぬかとすすめた。女心よりは、あく迄温い人情がそれを言わせているのが柔和な微笑に感じ取れた。宗意は彼女の好意を享《う》けた。  伽ノ森は人家わずか三軒の部落であったが、茅葺き合掌造りのどっしりした家屋で、中に数世帯が雑居していた。おもに椎茸の栽培と朱砂を掘って暮している。人情いたって純朴、珍しい神代さながらな白い衣に、白袴を着て、髪は唐輪に結び、頸に瓔珞《ようらく》を飾る婦人もあった。その雅《みや》びた風情は王朝の女官よりも優美と思えた。ただ哀しいかな、落人部落の常で近親相姦は避け得ない。それだけに他国者の宗意への持てなしは真心を尽し、かゆい所に手のとどくようであった。『愛媛面影抄』の作者は此地を訪ねて「ここの婦女子淫欲甚し」と、言っているが淫欲ではあるまい。氏族保存本能のなせる業であったろう。夜になると、数人の乙女が夜々交替で、粧《よそお》いをこらし宗意の寝所へ夜伽にやって来た。それはもう正《まさ》に貴人に仕える侍女のおもむきがあった。宗意も木石ではない。従順な彼女らの何人かとは契ったであろう。その中には洞窟で彼を発見した娘もいたろう。  ほぼ三月間、宗意は伽ノ森で平安を楽しんだ。彼が此地を立去るとき、村民こぞって餉《かれい》がわりの花粉餅や深山|山葵《わさび》を餞別にし、家々の門口で彼を見送った。娘の一団だけは、数丁の山径を宗意に随《したが》って、峠で訣《わか》れた。  伽ノ森ではどうだったか不明だが久万山《くまやま》の庄屋船田次郎左衛門方へ厄介になった時に、あるじの次郎左衛門が、宗意にあらためて前歴をただしたことがある。差し出た申し様ながら、あなた様は人目を避け、世を憚《はばか》っておられる様にお見受けする、一体、何をなされての故かお明かしを願えまいかと言ったのである。  宗意はこれに答えて、「何事も問わずにおいて貰《もら》いたい」と言った。 「でもまさか、悪事をお働きなされたのではございますまい」  さようなお人柄とも見えません、と庄屋が破顔《わら》うと、 「ゆえあって人を斬った」  宗意はそう言い、稍《やや》あって、「自分はもとめて斬ろうと致したわけではない。むしろ思いもかけぬ殺戮《さつりく》である。併《しか》しそれはもう言えぬ。心なくも人を殺《あや》めた者がどれ程の責苦を自らに課し懊悩するか、お手前のように平和な日を生きるお人には分るまい。実に我が身をさいなむおもいがする。幾度、自刃して此の責苦をのがれようとしたか知れなんだ。併し自害したとて他を殺めた過失は償えまい。我を生かし、相手を死に至らしめたのは、天が何事かを此の身に為《な》さしめん意《こころ》からであろう。何を天は為せというのか、それをさとるまでは迂闊に死んではならぬとおのれに吩《い》いきかせている。人間は浅間しいものである。これも寔《まこと》は生きのびたい為の自己弁護であるかも知れぬ。本当は討手が怖くて逃げているのも否定はしない。併し、逃げまわるだけならこれも亦《また》苦痛である。自分は死を遁れたいのではない、死場所をさがしている。天の為《なさ》しめんとする所は何か、それを見届けた上で死にたいのである」そう宗意は言った。それから「これ以上は何も問わないで頂き度《た》い」と言った。 「成程、よく分りました」  久万山というのは地誌によると、荏原《えばら》(温泉郡)の東南|御坂《みさか》峠の嶮路を三里ばかり往った山中にあり、上浮穴《かみうけな》の首邑で、人家|数多《あまた》たて並んで衣食に乏しからず、田畑の開けた豊饒の地なりという。茶を産し、材木硝石(久万焔硝)など産物も多く一区の仙境といわれた。土民の性すこぶる純朴で、松山藩主久松定静の治世下──享保の比《ころ》──大飢饉に遭ったのに鑑《かんが》みて、以来、藩侯の下賜米を中心に凶荒に対する村民共有の予備米を積立てたが、明治維新廃藩の際に、調べたら米壱千六百石、当時の金で千七百円余がまだ組合には蓄えられていたそうな。いかに豊饒の地とて、所詮は山中の村聚である。享保飢饉には多くの餓死者を出し、おびただしい蝗《いなご》の害を蒙ったこともある。そんな土地で、とうもろこしを常食として米を囲うのは容易なことではないが、子々孫々のためにと、村民は協力を惜しまず、維新まで綿々百八十年余、これをなした。そういう純朴の土地柄だから明治四年、松山藩を廃し松山県を置かれた時に、久万山の民は蜂起して藩侯を慕ったという。船田次郎左衛門はそんな久万山郷(熊ノ庄)の庄屋である。  宗意が、どういう縁故でここに足をとめたのか今では分らない。ただ元和元年、大坂の陣の折に、当時久万山郷の領主であった加藤嘉明は豊臣家をはばかり、中立の立場をとって、徳川氏への言い分けに名代として佃十成《つくだかずしげ》なる者を出陣させた。この十成が大坂勢に追撃され危うかった時に、急を救ったのは熊ノ庄から従軍していた庄屋だったという。そもそも此郷の村々の庄屋は、豪族河野氏の湯築城敗退と運命をともにした家臣の血すじらしいので、野に下っても、どこやらに古武士の風格はとどめていたろう。純朴と後世でいうのが、つまりは古い武士の気骨を継いだものとも思われる。  庄屋次郎左衛門には三人の娘があった。姉をミツといった。宗意がここに逗留《とうりゆう》したのは討手に発見される一年前で、三十一である。宗意の風貌は眉太く、頬が削《そ》げ、口もと緊《しま》って背は低いが痩躯《そうく》で、髪は医者風な茶筅に結わずに儒者様に結っていたので、一見、軍学者かと見られた。元来が口の重い性格ゆえ、話しかけねば何時迄も黙っている。ただこの人には酒好きの所があって、程よく酔った時は、庄屋の家族に京の想い出咄をした。 「大そう賑やかでございましょうなあ」  次郎左衛門の老母が言えば 「さよう、何と申しても天子様のおすまいなされておる都ゆえ、季節々々の花の眺め、加茂の水、山|霞《かす》む空に聳《そび》えた塔や寺社の甍《いらか》、すべて美しいものです」  この老母はもと松山城の奥に奉公し、二十七の時お暇を戴いて、次郎左衛門の父のもとへ御殿下りのままの服装《みなり》で嫁入って来た。その時の殿様からの拝領物だけで長持に何杯とかあったという。  ミツは姉妹三人のうちでは、背がすらりと高く、勝ち気で、おのずと宗意の身辺の世話をやく任に当った。宗意に人目を避ける事情のあるらしいのは薄々彼女も感づいていたが、一家のあるじたる父が面倒を見ているお人なので、心をこめて身の廻りの世話をした。久万郷の庄屋ともなれば、屋敷は四囲を石垣を積んで囲い、白壁の塀をめぐらし小城廓の観がある。その気になれば三月や半歳、邸外に一歩を出ずとも不自由はしない。いわばミツはそんな小城廓の長女で、女ひと通りの躾《しつ》けはうけている。客人の宗意が庭を散歩するときには、馴れぬ築山や裏庭の径は先きに案内に立つが、あとは二、三歩後方を跟《つ》いて歩いた。或る時宗意がミツに琴を所望した。自身で言い出すとは珍しいことなので、 「わたくしのでようございますか」  ミツはことわって、それでも晴ればれとした嬉《うれ》しそうな笑顔で、妹に手伝わせて琴を宗意の居室に運び、覆いを除《と》って一つ一つ爪を嵌《は》め乍《なが》ら、 「貴女も居て頂戴」  出て行こうとする妹を呼止めた。琴は二つ違いのこの妹の方が巧者なので調子を合せるのを聴かせたのである。恰度《ちようど》、雛《ひな》の節句の季節で、宗意の居室にあてられた廻り廊下の外の庭に、桃の白い花が蕾《つぼみ》を咲かせていた。早咲きのは地面に花を散らしていた。薄曇りの日で、樹木の多い庭の彼方には筒城山の峯が蕭条と雨に煙っている。姉が琴を弾き出すと妹は一旦出て往って、ギヤマンのコップに白酒を注いだのを運び来、黙って宗意の前へ差出した。それから姉の後で手を膝において聴いた。ミツは次第に顔を紅潮させて、熱心に弾いた。時折、何やら独り言を発した。弾き違えたのかも知れない。その度に一層顔が赤くなったが宗意は項《うなじ》をめぐらして庭の向うを眺めている。弾き了ると、少時《しばらく》言い様もない沈黙がつづいた。ミツは二|言《こと》三|言《こと》、小さな声で妹と囁《ささや》きを交した。妹は黙って、宗意に会釈をして部屋を出て行った。はじめて宗意はギヤマンのコップに手を出した。 「ありがとう」  と言った。まだミツへは背を向け、庭の静けさを眺めてコップを口に運んだ。 「いつ、お発ちなされるのでございますか」ミツは言った。宗意が答えずにいると、 「この久万山へ再《また》、帰って来て下さいますね」 「そうなる身であればよいが」 「あとのことは私ひとりで取りしきってみせます」 「何のことだ」 「お分りにならねばようございます」ミツは殊勝な笑顔をうかべ、「ありがとうございました」  宗意が訝《いぶか》って振向くと、 「つたない琴を聞いて頂きまして」と言った。ミツはこの時宗意の子を身孕《みごも》っていた。後にこれが次郎左衛門の激怒をかい、八カ月の身重で彼女は家出をした。久万山郷二十数カ村のうち、久万の隣村野尻村だけは二分されて一は松山藩、一は大洲藩に属している。父次郎左衛門の立場もあり、それで野尻村の庄屋弥次右衛門に語らって彼女は大洲城下に出て子を産み落すつもりだったらしい。しかし八カ月の身重で馴れぬ嶮路を越えようとしたのと、心労の為か下坂場《しもさかばの》峠に差しかかった附近で足をとられて転び、これがもとで流産をしてその日のうちに死んだ。息を引き取るとき、ミツは一言「鎮馬《しずま》さま」と叫んだ。男の変名を本名と思い込んでいたのである。  四国には、徳島藩のほかに讃岐高松藩、伊予松山藩、宇和島藩(伊達家)、土佐藩、丸亀、大洲、今治、西条、吉田らの諸藩があり、このうち蜂須賀家の二十五万七千九百石が筆頭で、土佐がこれに尋《つ》ぐ。尠《すくな》い所では多度津、小松の各一万石というのもあるが、いずれの藩にも、相互に逃亡人引渡しに関する黙契の如きものがあって、逃亡者が他国で女房を持てば「女房儀ハ御|留置《とめおき》、世忰コレ有ラバ男子ハ父ニ付ケテ御戻シ、女子ハ母ニ付ケテ御留置」になった。引戻されれば士分の者なら切腹、あらかたは死罪である。宗意が従っておめおめ各藩の城下町に出没するわけはないというのが、国許を出る時からの内蔵允の見込みであった。宗意が四国を脱出しないなら、必ず山中の僻陬《へきすう》に潜むに相違ないと見た。併し万事に入念な人なので、徳島城下を出立すると、先ず吉野川の流域に添って美馬郡に入り、脇《わき》という所から大滝山を踰《こ》えて高松に向った。脇には阿波藩の代官所がある。ここでそれらしい人物の通過したのを聞いて、旅支度の軽装であった様子から、他領の城下へ出ると見たのである。四国山脈の奥地にでも踏み入るつもりなら、当然、十日分の糧秣《りようまつ》ぐらいは支度していなければならない。  高松近在で尋ねたが宗意らしい足跡は杳《よう》として分らない。そこで再び、美馬郡へ引き返すと内蔵允は言った。一同は呆れた。美少年数馬がわけを訊いた。「出すぎた様ながら拙者は高松では無く、丸亀へ向ったと思いまするぞ」と言った。脇から山越えするにも、高松よりは丸亀への道が平坦だった、と言うのである。 「さようではあろうが、万一と申すことがある」  大滝山の途中で、傍《わき》へそれた宗意を追越していたかも知れぬという。 「お手前の慎重さでは落ちのびさせてやるばかりでござるな」  篠原主水正が鼻を顰《しか》めて揶揄《やゆ》した。 「いかに落ちのびようと、生きておってくれるなら、見付けて斬ればよい」昂然と内蔵允は言い放った。  この時の一行はまだ五人であった。徳善中弥太だけは祖谷で待機していたのである。 「篠原どの」  磊落《らいらく》な尾関兵庫が取りなし顔に、かたわらの円座川を指さして「兵法達者のおぬしじゃ。あの川幅、人の歩行で何歩あるけば渡れると見られるな」と問うた。 「造作もない」立所に主水正は言った。「数馬、おぬし往ってみよ」 「水の上をですか」 「そうではない。この道を先きへ行けばよい。我らが止れと合図いたすまでじゃ」  数馬は怪しみながらも、言われる儘に一同に先立って、川添いの道を真直ぐに進んだ。主水正は兵庫と佇立してそれを見送ったが、やがて、「止れ」と合図した。川には橋はなく、向う堤の上を町人が往来している。それを対岸に眺めて、人影と、道の行く手に彳《たたず》む数馬の姿がほぼ同じ大きさで見える距離が、即ち川幅である。数馬の位置まで歩けば川を渡る歩数が測れる。「なる程、おそれ入った。噂にたがわずおぬしの兵法、見事なものよ」尾関兵庫は幾度もうなずいた。  この尾関は性すこぶる闊達、任侠に豊み、上意討ちの命が内蔵允に下ったのを知った時に、即刻、内蔵允を訪ねて、 「同行は何人じゃ」  と尋ねた。内蔵允と兵庫だけは兼ねてから親交があった。 「御家老よりのお詞《ことば》では、人選のほどは某《それがし》にまかせよと殿より御諚《ごじよう》があったそうなが」 「それなれば異存はあるまいの」 「おぬしがことか」 「身共なれば申さずとも人数に加わっておる。篠原じゃ。腕は立つが、目ざすは匙医、武辺のみで片《かた》の附く相手ではないぞ。二手に分れて尋ねまわることもあろう。さような時、篠原の自儘にさせては、抜け駈けを致しかねん。二手に分れるときには身共は篠原に附く。それでよいな」  尾関はこの時はまだ討手に加えられていなかった。役目柄を好便に、内蔵允方を出たその足で国家老蜂須賀信濃の許に行き、同行を申し出たのである。 「そちが附いて行くか」信濃はチラと会心の笑を浮べたが、「気随者《きずいもの》め、好きなようにせい」と言った。  尾関兵庫は蔵奉行下役である。逼塞《ひつそく》扶持係と自らは称している。それというのが、阿波藩は畑地多く、海岸で製塩は盛んであるが、水田が少いので米穀の需要を充たすことがかなわない。そこで米の密輸入をして不足を補っている。主に肥後米の密輸である。しかるに之が公儀に知れ、細川家より憚りありとて裁判役(検査取締方)を阿波藩に申し入れて来た。米は密輸するが、取締りはそちらで厳重にしてくれというのである。この取締りが、兵庫の役目である。内実は見て見ぬふりをする。  肥後米は一俵が三斗七升二合、阿波では三斗四升|建《だて》で、米が着くと俵装を変じて藩の倉庫に納めねばならないが、一俵で三升二合の差が生じる。之を漏米と称して船頭の所得とし、船賃その他の雑費にあてる慣例ゆえ、おのずと兵庫の顔は船役人より船頭らに知れていた。俗に曰《い》う顔がきいた。万一、宗意が港を他領へ脱出すれば逸早く兵庫なら情報を取得できるので、信濃は彼の参加をば許したのである。藩主阿波守へは、討手の人数の一員と信濃は報告した。  脇へ引戻してから、その足で一行は祖谷へ赴いた。  四国第一の長流吉野川は、阿波の山奥、四国山地のふところにあたる瓶ケ森より、多くの支流を集め蜿蜒《えんえん》と流れるが、上流部の南北に亙る部分は深い横谷である。ここで四国山地が両断されている為に、流れは数十間から数百間の切りたつような峡谷をうがち、目もくらむ岩壁の深みをあるいは早瀬となり、あるいはしんしんとした淵となって流れている。地相険怪、到る所に奇観を呈している。これが大冒危《おおぼけ》・小冒危《こぼけ》の景勝で、日本三秘境の一といわれ、祖谷部落はこの渓峡の南北六里、東西十五、六里に跨《また》がり、うち四里四方に人家はない。それで東祖谷、西祖谷と後に別称されるようになった。地勢いずれも幽邃《ゆうすい》にして仙境の如く、隣郡と隔って外界文化と感化の縁がないので、さながら桃源郷の趣がある。谷の絶壁には、処々に蔓《つる》を編んだ釣橋が架けられ、祖谷八人衆はいずれも正平中の綸旨《りんじ》執達状を伝えるほどの土豪で、平家の赤旗、系図をとどめた庄屋もある。徳善屋敷は西祖谷に在った。ここらはもう土佐との国境ゆえ、通い馴れぬ嶮岨《けんそ》を幾曲りして辿り来たので、さすが平常は朴歯《ほおば》を穿って馬の駈ける如き関金十郎も顔面蒼白、持病のある数馬にいたっては終《つい》に一行に遅れ、しばしば尾関兵庫の介抱を受けねばならなかった。内蔵允と主水正だけが一足さきに西祖谷に着いた。  徳善中弥太は、親しく内蔵允と言葉を交すのは此時が初めてである。既に日の没する頃で、晩夏ながら幽邃の森閑たる気配は停止すれば忽ちに汗を退《ひ》かしめ、肌を刺す寒気があった。郎党を督励して先ず中弥太は両人に濯《すす》ぎを遣わせると、太柱を連ねた廊《ほそどの》を前《さき》に立って奥に入り、祖父豪右衛門に先ず内蔵允を引会わせた。それからあらためて双方挨拶あり、直ちに協議に入った。  祖谷に宗意らしい者の出没した気配はないと中弥太は言った。祖谷の近郷には重嶺の中に他に数部落あり、いずれも豆麦を以て食と為し、時に舟筏を浮べて吉野川を下る。祖谷に限らずとも近在にそれらしい者の潜む形跡があれば、大政所の威を以てすれば仔細を究めるのは造作もないのに、その形跡がない。これは土佐へ越境していない証左ではあるまいかと中弥太は言った。唯ひとつ、気になることを耳にしている。祖谷の更に奥間《おくあい》に山城谷という処がある。その渓流で土民は砂金を収拾する。伽ノ森部落の女が朱砂と砂金を交換にやって来て言うのに、土佐郡と宇摩(伊予)の界《さかい》笹ヶ峰という所の岨道《そばみち》で野糞《のぐそ》を垂れてあったのを見たが、どうも山|棲《ずま》いのものにしては消化が悪く、それにしても玄米とは贅沢な食を採るものよ、そう言ったという。 「伽ノ森部落とは?」  主水正が目を光らせた。 「山を駆ること平地のごときこの中弥太も、いまだ確とした所在は知り申さん」  すると傍から豪右衛門老が「あれはいかん。伽ノ森は止しなされ」と言った。 「何故でござる」 「精気を吸い取られますぞ。淫蛇の化身と土地の者は申しておりますがの。余っ程の、妙薬でもあるなら兎も角、伽ノ森へ行って腎虚にならず長生きした男はおらん」 「宗意は薬師《くすし》でござるぞ」  内蔵允が言ったら、老人は一笑に附した。「くす師とて、せいぜいが祖谷で岩根の草むしりじゃ。薬師の調合する程がもの、われらなんぞは常食にいたしておる」  なる程そう聞けば齢八十を越えたというのに、白髪ながら、頬は艶々《つやつや》と赭味《あかみ》をおび、矍鑠《かくしやく》たる元気がある。 「しかし野糞の一件は看過いたし兼ねる」  内蔵允が、「せめて道すじをお教え願えまいか」と乞うと、この時だけは気の所為か翁の語る道順を内蔵允以上に、主水正が好奇の眼を耀かせて聞き入った。とりあえず笹ヶ峰まで出向くことを軈《やが》て到着した兵庫らに内蔵允は告げた。 「いつ出発じゃ」兵庫は問うた。 「この近辺に見えぬとなれば永居は無用。明朝にも出立いたす」 「ヤレヤレ」  兵庫はげんなりした面持で、それにしても、四国に生れ、四国に住んで三十有余年になるが、これほど山地の多い故国とは知らなんだ、すえが思いやられる、「あの藪《やぶ》医者め」と言った。この時ばかりは、一座はどっと笑った。  西祖谷の大政所の名で、四国山地の重嶺のうちに散在する数十部落へ、人を遣わして宗意の消息を知る手だては、初めに内蔵允らが思ったほど容易ではなかった。これは同じ平家部落と唱えられるものにも、士地々々に異なった口碑と習俗があり、一つには如何に僻陬《へきすう》の村落としても、所詮はいずれかの藩領に属している。公儀(幕府)の御威光の隈なきこと、この点、驚くばかりである。且つ平家部落などと呼ばれるのが、畢竟《ひつきよう》は仙境・桃源境なので一個の別天地であり、祖谷大政所の威信も届かない。早い話が久万山郷にしても、大庄屋船田は徳善家へ対等の家格を称える。彼らが仰せを承るのは藩主久松侯の下知のみである。結局脚にまかせ、自らの努力で宗意を見付け出さねばならなんだ。時に落合う場所を予め謀《しめ》し合せ、左右|二道《ふたみち》に分れて探したこともある。武士六人の足で、宗意一人の消息を尋ねるのに四年かかったわけである。  それにしても、前の樵夫の冷汗を皮膚にさぐった例といい、名犬の嗅覚にも似て、よくぞ常に宗意の身辺を追跡したとつくづく思う。兵法とは、慥《たし》かに篠原の言うごとく人を討つ手段《てだて》のみではないのか知れぬ。川あれば徒歩《かち》で渡れるか否かを測り、山を降りれば交叉する道に逃げた者の心底を按じる。それが肯綮《こうけい》に当っておればこそ宗意は常に、居臥の暖まる心地なく逃げ廻ったとも思える。  それと今一つ、人里離れた山奥は別として、普通の田舎で他所者《よそもの》の質問には、百姓は口の重いものである。知らぬ存ぜぬが彼等の一つ返事で、それが間接的に宗意の失跡には役立ったようであった。  宗意が発見された柳井川村は、松山から四国を縦断して高知へ抜ける土佐街道の中間にある。街道は面河《おもごう》川(土地では柳井川)に添うている。面河川は源を久万郷(久万川)に発し、下るにつれて川幅を大にして高知の仁淀《によど》川となる。この川添いを一度、六人は土佐から溯行して松山城下へ出た。半歳以上、宗意が柳井川村に潜んでいたのなら、これを見過したのは不思議なようであるが、実はこの道は面河の渓流に添うているので当然、低い。しかるに附近の村落はあらかた山腹にある。これはと思うような山頂に民家が建っている。これは谷添いの街道では、其処が山襞《やまひだ》で、一日、太陽は射さぬので日射を求めて山頂附近に集まったのである。街道に面しているのは行旅相手の茶店ぐらいなものである。まして柳井川村は、この土佐街道からわきへそれているので、確《しか》とした聞き込みでもないなら、幾度往反しても旅人に知れるわけがない。奇妙なことに、内蔵允らが柳井川村に宗意の居るのを知ったのは宇和島城下に於《おい》てだった。  久万郷一円に、チフスの蔓延した記録が天保年間にある。この時は死人|夥《おびただ》しく、死亡を免れた者も生計の道を失って住居を捨て、他国に離散した。宗意が柳井川村にとどまった時はチフスではなかったが、暴瀉《ぼうしや》ハナハダシとあるから赤痢であったらしい。併し赤痢菌というのは、医学的には明治になって、志賀潔によって初めて人の糞便から発見された。これが世界各国に認められて赤痢の名が起っている。宗意の当時は、ただの時疫としか言い様がないわけである。  柳井川村の西方二里のところに、西谷という部落があった。小田深山を越して菅行《すぎよう》の方角から此処へ宗意のさしかかった時に、とうもろこしの赤々とした稲城《いなぎ》の並んだ軒端に小児が独り、下向きに蹲《うずくま》って腹を抱え苦しんでいた。宗意は見過しに通過しかけたが襤褸《ぼろ》をまとって、貧しげな村童である。見るからに痛そうである。 「どうした」  宗意は杖をとめて、おもむろに村童の傍《わき》へ寄った。この頃の宗意は白脚絆に手甲、墨染の衣に網代笠で托鉢僧に変装していた。後年述懐しているが、彼は、四年間、四国をぐるぐる扮装のみ変えて周環していたのである。子供は辛そうに顔をあげたが眼が痩せくぼみ、かなり高熱のようであった。頤《おとがい》に手をかけ、仰向けに口を開けさせると舌は白く苔《こけ》を帯びている。 「これはいかん」  宗意は早口に言った。「うちは何処じゃ。早ういんで親に手当してもらえ。寝るのじゃ。排便しきりで寝てはおれまいがの」  併し既に子の病状はかなり悪化していた。意識|溷濁《こんだく》して時折|痙攣《けいれん》するのがその証拠である。  宗意は玉蜀黍《とうもろこし》の夕陽に赤らむ稲城の下を、農家の窓へ寄り、中《うち》の人を呼んだ。二度声をかけた。返事がない。農家は路傍の一戸建で、家の裏は崖になって面河川支流の渓谷に臨んでおり、表は、道を距て山の傾斜を耕しただんだら畑になっている。農家の四囲は森閑として人影もない。宗意はツト意を決して土間より中に入った。と、仄暗い厨《くりや》の竈《かまど》の前に、これは十五、六になる娘が薪束に身を投げるようにして呻《うめ》いている。あきらかに時疫の犠牲者である。部落全体が疫病の跳梁にゆだねられているらしい。  常の者なら、時疫の感染を怖れて逃げ出すのが人情であろう。医者なら踏みとどまって手当に尽瘁《じんすい》するであろう。それが天の命であろう。宗意は、かぶり馴れぬ大網代を後方に脱ぎはねると、墨染の袖をたくり上げて突伏せの娘を抱え起して、 「しっかりせい。親は奈辺《どこ》じゃ。庄屋の家は何処じゃ」  ゆさぶった。娘はとろんと充血した目を細めて、 「助けておくれ。痛い痛い。お坊さま、痛い」 「おお分っておる。すぐ手当をしてやるぞ。気をしっかり持てい。庄屋屋敷はどこじゃ」  西谷村の庄屋は尾形清右衛門といった。宗意が尾形を訪ねるとここも|よめ《ヽヽ》と忰が時疫で、小作人らが遽《あわただ》しく出入りしていた。宗意は清右衛門に来意を告げた。 「お坊さまが、もとは医者じゃと申されますんか」 「さよう。仔細あって出家はいたしたが、京にて本草外科道を修めたる身、今申す通り事は一刻をあらそう。おぬしの家族のみでは済まぬのじゃ。捨ておいてはこの村ばかりか、近郷にも罹病者が続出いたす」 「じゃと申して、今どき、左様な大枚の金を」 「金子がなくば鍋金《なべがね》(粗悪銭)、藷《いも》、何でもよいであろう、人命には代えられん」 「仰せの品を買いにやらせたらば、本当に治るのでございますか」 「治る」  宗意は言い放った。言葉づかいは終始、宗意は低声であったが口もとに只ならぬ決意の色が見えた。  蒼朮《おけら》、|※[#「くさかんむり/台/木」、unicode8448]耳《おなもみ》、道灌草、馬《うま》鞭草《つづら》の諸薬草がこの僻地で覓《もと》められるわけがない。現《げん》の証拠、葎草《かなむぐら》さえ陰《かげ》干した茎・葉となれば入手は容易であるまい。とっさの間に合いそうなのは蝸牛《かたつむり》ぐらいである。まして蓮肉、人参、白朮、|※[#「くさかんむり/霍」、unicode85FF]香《かおりぐさ》の秘薬ともなると、雄藩の城下町の薬舗に出向かねば入手の方法はない。宇和島藩は伊達仙台侯の支藩で、兼ねてより梅津屋というのが薬草の在庫豊富なので知られている。早急に使いを其処へ走らせるよう宗意は促したのである。  尾形清右衛門は容易《たやす》くは肯じなかった。日も暮れようという今時分からでは、と言った。その様子を窺《うかが》い見るに、真意はどうやら医術への疑念より吝嗇に根差しているようである。 「やむを得ぬ」  頭陀《ずだ》袋をまさぐると、宗意は紙を掴《つか》み取って清右衛門の前に置いた。黄や青の色目もあざやかな藩札《はんさつ》である。 「これ全部で今申した品々、早速買いにやらせて頂きたい」  乞食坊主が望外な大金を所持しているのに清右衛門は一驚した。ついで怪しんだ。しかも御領内松山藩のものではなく、阿波徳島の藩札なのである。 「一刻をあらそうと申したが分らぬか」面《かお》に朱を注いで宗意が言った。その気勢に押され、清右衛門はしげしげ見入ろうとした銀札の手を、思わず下《おろ》した。  百姓忠次郎という若い男が庄屋の門を飛び出した。すでに夕焼雲は墨を流したように昏れ、わずかに西空に落日の残映が縞の目で残っている。忠次郎は一刻《いつとき》に五里は往く駆足の達者である。夕闇の迫る隘路を西へ目指して黒い影の塊となって走った。翌朝、白々明けに、そうして宇和島城下に着いた(この一夜のうちに西谷村では三人が、柳井川村では五人が罹病していた)。  清右衛門を怪しませた同じ疑念を薬舗梅津屋の番頭もいだいたのは当然であろう。ただ全身汗によごれた忠次郎の必死の面持に搏《う》たれるものがあって、番頭はこれを主《あるじ》嘉兵衛に取次いだ。  藩札には各藩とも百目、五十目の大札から十匁、一匁、二分、一分の小額までさまざまな形状紙質、色刷りの銀札がある。裏面に木版刷が施してあり、表は全部手書きで、透《すかし》が入っている。裏面にも印刷でなく太透しで『あやにたふとし』『あなめてた』と神代文字の入ったのもある。 「旅のお坊さまが、これで品々を求めるように言わっしゃったのか」  亭主嘉兵衛は透しを確かめてから、自身に店さきへ現われて忠次郎に質《ただ》した。 「そうですじゃ。|わい《ヽヽ》一人では持ち帰れんほどの嵩《かさ》じゃでお店で頼んで馬を雇うて戻れと言わっしゃった」 「どのような坊さまじゃな」  藩札は通常は他藩で通用しない。しかし商取引の都合上、他国と正金での売買は運搬に手間もかかり盗難の惧れもあるので、利ざやを取って、両替を引受ける商人がいた。むろんこれには、発行元たる藩への信用が附帯する。領主の国替りでもあれば忽ち反故《ほご》同然になる。しかし良くしたもので、各藩とも古くから藩へ出入りの富豪がおり、これが藩の個人の資格で、いつでも正金との交換に応じてくれた。いわば藩の力というよりその個人の名前如何で、信用に大へんな差違があった。梅津屋は、宇和島で聞えた老舗《しにせ》である。阿波徳島藩は藍《あい》を製し、徳川創成以来いちども国替えのない四国一の雄藩である。 「疫病を救おうと、その坊さまは申されたのか」  書き出された薬草の名を見れば見るほど、ただの托鉢僧ではなかった。藩札の高《たか》も巨額である。銀一匁は六十文(孔あき銭六十個)であるが、八文あれば道後温泉あたりで湯豆腐で一杯やれる。常時肌身はなさず所持していたらしく、汗と脂が沁み込んでいるとは言え、五十目、十匁の銀札となれば慥かに薬を購《あがな》って、往復の駄馬賃は出るであろう。  梅津屋嘉兵衛はそれからも二、三忠次郎を問いただしてから、藩札を持って何も言わず奥へ消えた。 「どうなりますんじゃ。薬は売って下さらんのか」  忠次郎が気色ばんでいたら奥から、女中が、湯桶《ゆおけ》を下げてやって来た。体でもお拭きなされましと言う。それから別室に、食膳を用意してあるゆえ腹ごしらえをして下され、その間に薬を調達しておきますと言った。  荷駄に振分けに、馬三頭へ薬草がカマスで積込まれた。西谷への帰路は登り坂になる。忠次郎は先頭の駄馬の手綱を曳いて梅津屋の番頭小僧に見送られ、宇和島の町を跡にした。  その夜おそく荷駄の薬草は西谷村に届いた。罹病者は全村で三十二人出ていることがこの時判明していたが、夜を徹して、病人を庄屋屋敷に集め、治療にあたった永井宗意の献身ぶりは長く土地の語り草になっている。奥の十畳の間へ渋紙を敷きつめ、薬を山の如く調合して、不眠不休で治療にあたったそうである。  三日余がまたたくまに過ぎた。当初は、半信半疑であった清右衛門も、宗意の献身ぶりと、薬の卓効のあらわれるのに刮目《かつもく》して、自分から襷《たすき》掛けで手伝をするようになった。盥《たらい》の湯を汲み込んだり、病人の排便のあと始末までした。そんな清右衛門と宗意の働きぶりを患者の親兄弟や娘は、眼《まなこ》に感謝の涙をうかべてふし拝んだ。中には、宗意の治療を受ける度に合掌する老婆もいた。  時疫の流行は一箇村に限られることはない。西谷で三十余人の罹病者の出ているとき、当然、隣村の柳井川村でも痢病《りびよう》に苦しむ者は続出していた。宗意の噂を聞いて、二日目に柳井川村から庄屋半蔵が清右衛門を訪ねて来た。どうぞ儂《わし》の村にもお坊様を寄越して呉れと頼んだ。話の模様では西谷村より病人の数が多い。談じている半蔵自身が嘔気を催し、微熱で体がだるいと言う。瞭《あきら》かに、罹病の前徴である。  宗意は西谷村で一応の手当を了えてから、壮者の背に負われて、二里の山道を柳井川村へ急患の診察に往復するようになった。背負われたのは、この間に眠る為だったという。往復の回数の増すにつれて柳井川では患者の嘔吐や下痢はおさまり、少しずつ恢復者を出していった。十日目には、こんどは西谷、柳井川両村共同で四頭の馬をつらね、宇和島から宗意の指示する薬を運び寄せたのが、両村民の、罹病者もそうでない者をも一層元気づけた。時疫は峠を越した。  ふた月が過ぎた。  晩秋は悪夢のごとく去り、冬の訪れとともに村には平和が再びきた。しかしこれは表向きで、正月の芽出度さを間近に控え、両村より会合を持寄る毎に険悪の空気が漂うようになった。  宗意の存在が原因である。  今や宗意は生神様の如く両村民に崇《あが》められ、誰ひとり、もう托鉢のお坊さまと思う者はない。命の恩人としてばかりでなく、その医術に於て一世の名医と信じ疑わなかった。技能の点で崇敬したのである。百姓のずるさが或意味でここにある。 「わしらの御恩人じゃから」  と彼等は言ったが、恩人をこの儘寒気の次第に厳しい遍路へお出し申すわけにはいかん、せめて儂らの村で正月を、と言ったが、本心は宗意に村にとどまってほしいのである。後疫は又、いつ流行するかも知れぬ。文明の発達した昭和の現今でさえ、無医村は多い。ましてや当時、宗意ほどの医者が永住してくれるならこれ程心強いことはない。「ご恩人じゃ」を好便に、彼らが宗意の逗留《とうりゆう》を望んだのは強《あなが》ち、狡さとのみは言えないわけであろう。  ──ただ、その願望の満たし方が如何にも百姓らしかった。他村でなく、自分の村へ住んで貰いたい。「ご恩をうけたは儂の方が先きじゃ」「いや儂らの村こそ、多勢の病人を助けて頂いた。正月をわしらでお世話せいでは天罰が当る」双方の村民口々に争って、自分の村に引き留めようとする。宗意が村に居ついてくれるかどうかで、水争いや猪狩りの勢子《せこ》の人数まで今後、相手の村へどんな強い要求も主張できるのである。つまり宗意を擁することで村の格があがる。  旧来の、さまざまな遺恨や不満までが斯くて蒸し返され、双方幾度か喧嘩別れをした。次第に険悪な空気が両村の間に漂い出した。  正月元日を、どちらの村で祝うかは、都会風に考えれば大したことではない。しかし年の初めを村人らは重視する。行きがかりで宗意はこの頃西谷村の清右衛門方にとどまっていた。村民の人口は従来、柳井川村の方が多かった。当然、田畑も広い。寛保前後の記録(将軍吉宗の晩期)に照らすと、柳井川村で田畑あわせて三十三町四反七畝(高二百七十石五斗余)西谷村で三十一町二反七畝(高二百五十九石二斗)である。西谷には美代という十七になる美しい娘がいた。家は貧農であったが母と弟との三人暮しで、清右衛門らが口説く迄もなく、彼女の母親は治療を受けた一人とて、心から喜んで、順慶坊さまのお世話ができるならと、娘美代を庄屋屋敷へ上げた。遠慮深く、心の素直な美代は清右衛門のいい附けで宗意の側《そば》へ寝床を敷こうとした。宗意は失笑してこれを却《しりぞ》けた。  柳井川村には、美代に勝る容色の娘は見当らない。これも柳井川の村民を口惜しがらせ、次第に輿論《よろん》を険悪化する理由になったか知れない。  師走二十二日になった。柳井川の村人は密《ひそか》に集会して、この上は忍従にも限りがある。西谷の者らに大きな面《つら》をさせては先祖代々、柳井川の保ってきた近郷一円の面目に疵がつく。こうなればもう腕ずくで順慶坊さまを拉致して来るより手はないと決議した。時は師走二十四日、日没より各人に鋤鍬《すきくわ》を用意して西谷を襲うべしと一決した。  不穏の気配は直ちに西谷村に伝えられた。清右衛門は村の衆を呼集め、こうなれば順慶坊さまをお護り申す迄じゃと言い、いっそ当方から押し掛けようかと言ったら、応《おう》と鬨《とき》の声があがった。これ迄、両村で諍《あらそ》ってきたが肝腎の宗意に騒ぎを知られ、どちらの村にもとどまらぬと言われては元も子もないので、紛争は、あくまで気づかれぬよう力《つと》めてきた。この点は柳井川の村民らも渝《かわ》りがない。三日にあげず彼らは餡《あん》ころなど重箱に詰め、二里の山道を遣って来て宗意に対面し、くどくどしく時疫の折の礼を述べた。この時には油断なく清右衛門ら西谷の者も同席した。互いにニコニコ顔で雑談して宗意の前を取り繕《つくろ》ったのである。忍従にも限りがある、と柳井川村の者らが憤激したのはこの事情を言っている。清右衛門にしても、相成るべくは宗意に今度の騒ぎは知られたくない。併しこうなれば已むを得ない。 「血は見とうないが、柳井川へ見せしめの好い機会じゃ。怪我しても儂らには順慶坊さまが附いておられる。手当は充分してもらえる。怖がらずと、思う存分やっつけるんじゃ」清右衛門は声を大にして喚《おめ》き、「相手が自日没《にちぼつより》というなら、儂らは日が没む前に襲うてやろじゃないか」 「そうじゃそうじゃ。庄屋どのの申される通りにしようぞ」  若者らは諸手《もろて》を挙げて賛成し、ある者は逸早く武器を取りに我が家へ駈け込んだ。二十四日といえば、今日だからである。  ──恰度この時、西谷部落を俯瞰《ふかん》する笠取山の頂上附近に、六人の武士の姿が立ち現われた。  清右衛門らが反撃を協議したのは庄屋屋敷から、柳井川へ五丁ばかり往った窪地である。ここは見晴しのよい畠になっている。柳井川へ逆撃の密議を宗意にさとられぬ配慮からだが、いかにうわべはニコニコ顔をよそおっても、兼ねて両村の不和は宗意には分っていたろう。まして今日にも柳井川の村民が押しかけて来る様子を、宗意だけがさとらずに済むわけがない。あらましの仔細は実は美代も宗意に告げていたのである。  宗意は、美代の話を聞いた時に、何やら思い決した様子で、「筆と墨を持参してほしい」と言った。言われる儘に美代が運んでくると、南面の窓辺に倚《よ》ってさらさらと筆を走らせた。病人を手当てした時に穢物が沁み着いて、墨染は焼却したので、今は清右衛門の借着である。丸剃りの頭髪は大分延びて還俗の趣きがあった。美代はひっそり、そんな宗意の聡明そうな頭のかっこうを背後《うしろ》で眺めていた。この時、玄関に人の騒ぐ気配がし、遽しく廊下を清右衛門が駈け込んで来た。 「順慶さま」  清右衛門は言った。来よりました。えらい事じゃ。ここはわしらにまかせ早う姿を匿して下され。柳井川から気の強い者らが、日没よりの手筈を待ちきれず、十数人で一足先きに押し掛けて来たというのである。 「恰度よい。庄屋どの」  宗意は筆を措《お》いて、向きなおり、「おぬしへ書状をしたためていたが、此の機会に打明けておきたい。われらは到底当地にとどまること叶わず、今明日にも実は立去らねばならぬ身の上であった」 「何ですと?」  清右衛門は目をむいた。「わけを聞かせて下され」 「わけは後で話す」  宗意にすれば外の騒ぎの方が気になったろう。怪我人を出しては、折角のおもんぱかりが無駄になる。第一、隣村同士喧嘩するなど馬鹿げ切っている。「人並みに正月らしい数日をと、甘い気分になったのが浅はかであった。わたしが悪かった」そう言って、先ずはあの騒ぎを鎮《しず》めねばならんぞ、話はそれからじゃ。清右衛門を促すと宗意は座を蹴起った。先きに押し掛けた者があると知って、続々、後方から柳井川の連中が寄せてくるらしく、これを邀《むか》え撃つのに西谷村の百姓らも狂奔するのが、手にとるように室内にいても分った。美代はぶるぶる顫《ふる》え出し清右衛門の女房に抱き付いて、ふり離され、其の場に尻居た。 「鎮まれ、鎮まれ」  叫びながら門の石段を半ば迄駆け降り、 「喧嘩はしてくれるな。皆々の厚意は忝《かたじけな》いが私は人に追われる身じゃ。見つけ次第に斬られる。所詮この村に、とじこもってはおれん。無駄な諍《いさか》いは止めて、家に戻ってくれ」  宗意も昂奮していた。老若男女入り混って騒然たる只中へ走り入り、誰彼を捉えては叫んだ。そんな宗意の日頃にない昂奮の様《さま》に、村人らは驚愕し、呆れ、瞠目し、やがて水を打ったように謐《しず》まり返った。宗意は我に返った。再び石段を駈け昇ると、手ン手に鋤鍬を林立させた連中に、 「よいか、何度も申すがおぬしらの好意は嬉しい。しかし私は狙われて居る、斬られる身じゃ。ここを篤《とく》と考えてくれ。音無しく家に戻ってくれ」 「誰があなた様を狙いますのじゃ」  一人が声をかけた。  阿波藩の侍である、と宗意は言った。自分はまことは僧侶ではない。名も順慶ではなく、医者で、阿波藩の奥医であった。  異様などよめきと、溜め息が湧いた。再び彼らはざわつき始めた。庄屋屋敷の前の道は北側が高く、南へ下るにつれて勾配をなしている。低い方が柳井川から来る道である。屋敷の石垣のはずれあたりで緩かな彎曲をなして、道は再び登り坂になり、宗意が気がつくと、その道一杯に殺気立つ百姓共が押し寄せて、手に手に武器を執って犇《ひしめ》いていた。実は併しもう彼等に西谷村民への闘志はなくなっていた。宗意の告白を聞いたのである。ただわけの分らぬ昂奮をしずめ得ず、それが殺気立つ形相を呈さしめている。あたかも百姓一揆で、直訴を終えて昂ぶりの斂《おさ》まらぬ状態に似ていたのである。  稲垣内蔵允ら六人が、宗意に接近しようとしたのはこんな時であった。六人は北方の西谷部落の道を降って来た。内蔵允を押しのけ、篠原主水正が先頭で、斉《ひと》しく深編笠に野袴、ぶっさき羽織、刀の反《そり》を返し、白襷の甲斐々々しい扮身《いでたち》になった者もいる。 「退け退け」  群る西谷の百姓共を後方から、篠原は叱声した。道をあけようにも溢れ出んばかりに村民は庄屋屋敷の前に蝟集《いしゆう》している。それに夥《おびただ》しい鋤鍬の林立である。 「退けと申すが分らぬか」  怒気して篠原は女子の横面を殴《なぐ》った。アッと悲鳴をあげ女はそばの男の肩に身を寄せた。この弾みで、岩に濤《なみ》のうち砕けるように一同ド、ドッと石段に押上げられた。 「永井宗意、上意じゃ」  篠原と宗意は親しく面識がない。蝟集する農民どもは後退しても未だ道路を埋め、進み得ない。「早まるな篠原」後方で内蔵允が制止したが篠原は宗意を狙ってパッと手裏剣を投げた。  門の柱に刺さった。  この刹那まで、百姓らは武士六人の出現を寧《むし》ろ意外とし、毫《ごう》も敵愾心《てきがいしん》はいだかなかったと思える。百姓一揆にも似た興奮状態でなくば、眼前に肉親を斬られても、反抗は得《え》為さなんだであろう。それが百姓である。武士は斬捨て御免なのである。 「この永井、今に及んでは逃げもかくれもせん。イザ討て」  宗意は眼を吊上げ、両の拳をふるわせて叫んだ。「よい覚悟じゃ」篠原は冷然と言い放って、更に二、三歩進んだ。その手前で老婆が悲鳴をあげた。凩《こがらし》の吹く冬空に、この大仰な叫びは今迄の誰の声よりもよく通った。 「順慶坊さまを見殺しにするのけ」  誰かが喚いた。 「そうじゃ。御恩人を討たせてよいものか。罰が当るぞ」  あとはもう阿鼻叫喚である。鍬を振りかざす者、「順慶坊さまを死なせるな」叫ぶ者。「おっ父《とう》」親を求める者。  まさに日は没せんとしていた。この二月余、互いに啀《いが》み合った憎しみのエネルギーだけが無目的に爆発したのである。村の誰かが武士の刀に斬られ、自暴自棄になって反抗すれば、ただ一人がそうすれば足りた。爆発するエネルギーは目的を得、集団と化して殺到する。  最初に嬲《なぶ》り殺しにあったのは田部数馬である。もっとも騒擾《そうじよう》が起きて半刻ほど後である。日はもう暮れている。やみくもに農具を振りかざし、薄闇に光る白刃《しらは》をめがけて滅多矢鱈に撃ち下したというべきであろう。「騒ぐでない。その方らに他意はないのじゃ。強《た》って反抗致すなら、その分にはせんぞ」  逃げ回ってそう言ったのは兵庫であった。柳井川から来た者に多助という男がいた。兼々歌留多と博奕《ばくち》には負けたことがないと吹聴していた。この多助が家を出る時に、「平吉めのいのちを救うて下された順慶さまの為じゃ。おい、前をあげいや」と女房に言った。平吉とは忰の事である。女房が意味を解し兼ね、「何でじゃえ?」と問い返したら、「早うせい」言う間ももどかしげに、自身で女房の湯文字を捲《まく》って股に手を差しのべた。あっ、と女房は愕いた。彼は茸々《じようじよう》たるところを|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》ったのである。往昔の武将は出陣に際し、吾妹子のそれを肌身にしのばせれば、華々しい手柄を立て、然も傷つくことがなかったと町で古老の講釈に聞いたのを思い出した。それで呪《まじな》いにしたのである。この多助は研ぎ澄ました鎌を把《と》って、背の高い武士のうしろから振り下げた。もうすっかり闇になっていた。武士は体をひらいた。多助は前へ泳いで我が脛《すね》をしたたかに斬りつけた。  同じく柳井川村の孫作という者は、西谷の忠次郎に対抗して『腕の忠次郎』と呼ばれている男であった。少々脳の働きが鈍《どん》で、いつもニコニコ笑っている。童児にからかわれて石を投付けられても笑っている。西谷の忠次郎は猿に勝る早駆けであるが孫作の怪力は牛一頭を、大八車ごと軽々片手で持上げた。きょう、柳井川の襲撃を邀《むか》え撃つときまった時から、孫作は庄屋清右衛門に「汝《うぬ》はよいか、順慶さまのそばを離れるんじゃないぞ。しっかりお守りせい」と言いつけられていた。それで叫喚と激闘に身の置き所ない最中にも、ニコニコして常に宗意の身辺にいた。一人の武士が大太刀を振りかざし、当るをさいわい、左右に百姓共を斬り払い宗意に迫らんとした時、ツト武士の後方に廻りスキを見て羽交締《はがいじ》めにした。 「離せ」必死にふりほどこうとしたが孫作の怪力は数段勝った。「おのれ」目前に、めざす宗意を見ながら如何ともなし得ない。上意討ちは主君の意志を代行するのである。武士は歯噛みして口惜しがった。関金十郎であった。眦《まなじり》を決して金十郎は宗意を睨み、太刀を取り直すと我が胸もろ共うしろの孫作を芋刺しにした。  徳善中弥太は杖代りに槍を用意していた。どちらかというと槍術は不得意である。併し戦場さながらなこの場合、槍は突くべきものでない。殴りつける。百姓と見ればただ上から撃ちおろしては、進んだ。そのうち疲労の極に達し、得《え》ふり挙げぬのを見すまして、誰かに脾腹《ひばら》を竹槍で突かれた。西谷村甚兵衛という者は、時疫の折り、宗意の手当が後れて母親を死なせている。柳井川へ往診に行かず、西谷にあの時とどまって呉れたらばという気持がある。しかし宗意へは秘に畏敬していた。忠次郎とともに、柳井川へ反撃の急先鋒たらんと、それで決意していた一人である。主水正が奮迅の活躍をするのを見て、甚兵衛は必死の勇をふるって主水正の背に体当りをした。そうして相擁したまま谷へ墜ちた。  稲垣内蔵允がどうして殺されたのかは分らない。彼の死骸は庄屋屋敷裏手の竹藪の中にあった。松山藩郡奉行の手で、検死のあったのはこの内蔵允ひとりである。刀には数多《あまた》血のりが附き、刃こぼれ夥しかったという。百姓らが総攻撃をかけて来た時内蔵允は真っ先に急場をのがれた。  その足で農家の馬小屋を見付け、片端から馬の手綱を解き放った。騒擾に紛れて宗意の騎馬で逃げるのを防いだのである。日が暮れ、闇が深まるにつれて農家の一軒に火を放ったのもこの人である。煌々《こうこう》たる炎に照し出された内蔵允の鬼神の如き勇戦ぶりを、思い出してゾッとする農民は後に何人もいた。  尾関兵庫は畑の中に死んでいた。  乱闘は日没より、四つ過ぎ迄の三時間余りに及んだ。路上に斃《たお》れていた武士は一人もない。草叢や山腹の窪地、竹藪など、散在するその遺体の在り場所で、いかに乱闘が西谷全村の広範囲に亙ったかが分る。百姓らは死者五名、負傷者二十三名であった。このうち重傷の二人は後になって死んだ。  騒ぎは翌朝、尾形清右衛門、柳井川村庄屋半蔵の連名で代官宮島助太夫の許に届けられ、直ちに役人が派遣された。宗意はつつみかくさず一切を申し立てた。松山藩ではこの旨を早速阿波藩に申し送った。しかるに蜂須賀家では、左様な上意討ちの命を下した覚えはないという返辞である。それで松山藩でも、両村の百姓共一切お構いなしとなった。無理もないので、これが内蔵允らが松山藩士なら、そもそも気の立っている百姓らとて、騒擾はすまい。他藩の武士なればこそ立ち向ったのである。つまり百姓共に敢無《あえな》く打負かされるような愚物を、蜂須賀家では家士などとは称し得ない。六人の侍は、けっきょく盗賊で、部落に略奪に来たのを防戦したことになった。大名家の体面ではそうせざるを得ないのである。  日が経つにつれて、わりきれぬ思いは寧ろ百姓の方に残った。一夜の悪夢が醒めてみれば、恨みも何もないお武家を六人も殺している。あの両村の争いさえ無くば起らなかった事件である。順慶どのは村の者の恩人に違いない。併し四年間無事に逃げていなさったのなら、あの争いが無ければ、その後も御無事であったか知れない。それに内蔵允らを斃したことで、百姓にお咎めはなかったが宗意どのへは別である。いよいよ阿波藩では永井宗意を悪《にく》み、蜂須賀の名にかけて仕留めようとなさるであろう。そう思うと、いよいよ居堪たまらぬ思いがわくのである。  ──結局、百姓らに出来たことは、六人の遺体を弔うこと、向後両村で諍いはせぬこと、宗意の無事を祈ることであった。  村人らは笠取山の麓に六人の亡骸を埋め、まんじゅう塚を盛って末長く葬った。又五人の死体の在った場所は、≪入らずの森≫と称え以後は忌諱《きい》して近寄らなかった。それから二度と争いを起さぬよう、両村合併し、二字を撰んで柳谷村と称することにきめた。  永井宗意に直接、咎めのなかったことは村民らと渝《かわ》らない。村にとどまっていなさる限りは、阿波藩も手は出さぬのではないかと申し出る者もあって、両三年、宗意は村にとどまった。併し間もなく何処へともなく去って行った。  その後の消息は杳として不明である。天のなさしめる所を悟ったかどうか誰にも分らない。 〈底 本〉文春文庫 平成元年三月十日