[#表紙(表紙2.jpg)] ノモンハン(下) 五味川純平 [#改ページ]     48  八月二十一日(ソ軍攻勢第二日目)  フイ高地(721)では、敵の砲弾落下は毎分百二十発、陣地の平米当り一発の割合であった。  砲弾の絶え間のない炸裂による震動で、壕内の散兵の体は突き上げられるようであった。遂には立射散兵壕が崩れて、平地同様となり、遮蔽していた散兵は吹き飛ばされた。  繃帯所は負傷者で充満し、昼過ぎには繃帯所付近に砲弾が炸裂して、負傷者を収容できなくなり、担架が破壊されて代用資材もないので、負傷者を何処へ運ぶこともできない。  砲撃のなかを戦車二輛が火焔を放射しながら陣内深く突入して来る。やがて十数輛の戦車が側方から陣地へ侵入する。敵の歩兵も来る。  負傷者も員数の内である。戦わなければ守備に間隙を生ずる。負傷者後送が禁じられる。  人も馬も空中に飛散する。陣地の前後左右みな敵である。やがて陣地はズタズタになる。彼我入り乱れる。日本兵が生きて戦っているところが陣地である。  戦車に支援された敵の歩兵が突撃して来る。手榴弾の最終弾に膚接して敵陣に突入する動作、というのが日本軍の歩兵操典にあるが、敵もまたその通りに突入して来る。  陣地の一角は遂に奪われ、井置部隊本部と中隊陣地との連絡が切断された。  フイ高地は、しかし、まだ陥ちなかった。  先にも述べたが、砲爆煙に包まれたフイ高地を、遠くバルシャガル高地から望見した友軍将兵は、 「ああ、フイ高地がやられている」  と、溢れる涙をこらえ得なかったということである。  このとき、第六軍と第二十三師団との作戦案は「一日激論し一致せず」という状態であった。  八月二十一日夕刻、畑砲兵団長は小松原師団長に呼ばれた。攻勢に転ずるについて、師団長案と第六軍参謀長案が一致しないので、砲兵的見地からの意見具申を求められたのである。師団長案は小林歩兵団長指揮する歩七二をもってノロ高地付近から敵を衝く方針であり、第六軍参謀長案は各部隊から七個大隊を抽出して敵の右翼(したがって日本軍陣地の最左翼の外側)をさらに外側から包囲しようとする方針であった。  畑少将は、師団長案に賛成し、神速果敢な実行が成功の唯一絶対の要件であると強調した。  師団長が畑少将を呼んだのは、第六軍案に対して、砲兵指揮官を師団長案の支持者としたかったからであるにちがいない。畑少将は、前日、現有予備兵力をもって敵の一点突破を師団長に意見具申しているから、師団案と第六軍案の二者択一を求めれば、師団案に加担するにちがいなかったのである。  師団長は、予測通りの結果を見て、満足したらしい。直ちに師団長案によって実行に移る決意を示し、それに基づく砲兵準備を畑少将に求めた。  事実は、しかし、直ちに実行という工合には進まなかったのである。  戦場の最高司令部がもたついている間に、戦況は深刻の度を加えていた。  この日、日本軍陣地右翼のフイ高地での戦況が激烈をきわめたことは、前に述べた。  師団長は右翼に危険を感じて、須見部隊主力を752高地—ウズル水の間にフイ高地に面して布陣させると同時に、独立野砲兵第一連隊にこれに協力することを命じた。  この砲兵連隊は既に所在の敵と交戦中であったが、命令によって陣地変換を強行し、昼間は一中隊の抽出に成功しただけで、他は日没後にようやく陣地変換を完了した。  このあたりから、目まぐるしい戦況の変化のために、師団命令もまた目まぐるしく変転することになるのである。  同じく八月二十一日、午後、ホルステン左岸では、歩七一(森田部隊)の正面に有力な戦車群が殺到したが、野砲兵第十三連隊第一大隊が奮戦して、大事に至らなかった、と砲兵団長は誌している。  しかし、同大隊第十中隊は、主力から孤立して連隊最左翼の防衛に当っているときに、敵戦車群が迂回潜入し、隠蔽地域から一挙に襲いかかったために、全員火砲と運命を共にした。  この中隊の火砲は、満洲事変の際に張学良軍の兵工廠から押収した三八式野砲であった。押収野砲一〇門のうち二門をもって第十中隊を、四門で第十一中隊(第二大隊)、四門で第十二中隊(第三大隊)を編成したのである。  この日(二十一日)の小松原師団長の日記に表われる戦況は、かなり悲観的である。 「防禦に立つ程心苦しきはなし。曰く、戦車陣地間隙を進入して砲兵段列を襲ふ、糧秣支庫を焼尽す、戦車橋梁を扼《やく》して、交通連絡絶え保線伝令共に通ぜず。曰く、兵力集結ならずして、兵力分散。曰く、包囲攻撃弾薬欠乏等悲観すべき事のみ現はれ、精神を悩まし、命を縮むること之より大なるはなし」  戦場の最高指揮官である小松原中将が、この時点で、彼我の戦力の著しい差と、戦闘を組織する技術の質的な差を、どれだけ認識したか疑問である。「防禦戦」はこれまでの戦闘経過の余儀ない結果であるから、苦しいのは当然だが、日記の数行に現われる限りでは、「防禦戦」そのものがきわめて平板に捉えられている観がある。防禦には、弾撥力を充分に蓄積して、決戦的な反撃に転ずるまでの忍耐の持続という側面がある。それがなければ、既に負け戦なのである。八月二十一日の時点では、消耗した戦力の充分な恢復と補給と兵力・火力の増強もなしに、攻勢移転が考えられている。防禦は苦しいから攻勢に立とうというのである。攻むるは守る也ということがあるが、下手の将棋のように徒らに王手をかけ急いで、勝てるものではないであろう。  小松原中将や畑少将のように有り合せの兵力で一点突破を考えたり、第六軍のように寡小な兵力しかないのに過大な包囲作戦を考えたりするのが、日本軍の兵術思想の類型であったように思われる。  おそくも八月四日の第六軍編成の時点で、全軍を将軍廟以遠の線まで後退させて、戦備の充実を急いだとしたら、ソ軍は彼らの謂う国境線までは進出して来たであろうが、それから先どうしたであろうか、という疑問が残る。仮定は、しかし、詮ないことである。それが証明されないからではなく、関東軍司令部には在り来りの戦術眼に根本的な検討を加えようとする真摯《しんし》な態度がなかったからである。  この日、右翼隊の731高地付近に在った生田大隊(歩二六)は大打撃を蒙った。  敵歩兵約二個大隊、戦車二輛、野砲四門、迫撃砲四が正面に接近して来たとき、大隊長は逆襲を企てた。攻撃精神旺盛であったのはよかったが、昼間であったので、濃密な火網に捉えられて、中隊長以下死傷続出し、連隊砲、大隊砲、速射砲の大部を破壊された。  一個中隊の増援を受けて、夜襲によって失地の奪回を図ったが、敵は機関銃三十挺を並べて、白兵の突入を許さなかった。  大隊は、余儀なく、後退して予備陣地に拠ることとなった。  ホルステン左岸、ノロ高地左第一線の梶川大隊(歩二八)は、二十一日午前八時ごろから敵の砲撃にさらされ、敵歩兵部隊も肉薄して来た。  前日来弾薬の補充ができないために、近距離に有効な擲弾筒を存分に使うことができず、友軍砲兵の協力もこの正面には皆無であった。  敵砲兵は威力を増すばかりである。約二時間の砲撃で、第一線陣地はほとんど崩壊した。このままで推移すれば、陣地の維持は困難である。  この日の敵の戦闘方法は、梶川大隊の位置から見ると、いままでと異って、砲兵は先ず日本軍第一線全般に猛撃を加え、その間に敵砲兵が逐次前進して砲兵陣地を占めた。つづいて、敵砲兵は日本軍陣地の要点に射撃を集中し、その間に砲撃部位の間隙を浸透するように敵の歩兵が進入して来た。このため、敵砲兵の射程が延伸したことに気を取られている間に、敵の奇襲的な突撃を受ける場合を生じた。その都度、梶川大隊は白兵によって敵の突入部隊を潰滅させはしたが、戒心を要することであった。  長谷部支隊本部からの通報によって、梶川大隊は、第二十三師団主力が、この二十一日朝、752高地付近から攻撃に転ずる、と聞かされ、それに伴う攻勢計画を考案していたが、事実は首脳部間に前記の作戦不一致があって、行われなかった。     49  八月二十一日、ホルステン左岸南東部に在る森田徹部隊(歩七一)は憂慮すべき戦況に陥った。  終日全線にわたって戦闘激烈であった。  午前九時三十分、敵重砲四—五門が、757高地東南約千五百メートルから砲撃を開始した。  午前十時以後、敵戦車の縦横の活動がはじまった。  午前十時三十分、戦車約八輛が歩兵約二百と協力して、ニゲーソリモト付近に出ていた捜索小隊を襲い、これを突破し、続行した牽引砲が733高地付近に陣地進入し、森田部隊の側背を猛撃した。  つづいて、九十五輛を算する強力な戦車群が一挙にニゲーソリモト付近に進入を図り、そのうち約三十輛が、午後二時ごろ、旧支隊本部位置に在った糧秣集積所へ砂塵を捲いて殺到、忽ちこれを蹂躙した。  戦車群の一部はホルステン河工兵橋方向へ向い、他の一部は森田部隊主力と旧支隊本部間の連絡を遮断した。  森田部隊の左側後方は既に敵地の観がある。  敵戦車群主力はニゲーソリモト付近に集結したものと判断された。  敵は、なお、引きつづいて森田部隊の左翼(南東方)に兵力を増強し、第二大隊正面に強圧を加えて来た。  敵戦車群は直接歩兵を伴わず、十数輛ずつの波状攻撃をかけ、その後、数十輛の群となって第二・第三大隊の周囲を旋回しながら射ちまくった。敵戦車は既に火焔瓶では燃えない型に変っていたのと、日本軍には充分な対戦車火器がないことを見越しての行動と見えた。  森田部隊と長谷部支隊(ノロ高地)との間にも敵は続々と進入していた。  第一大隊の正面、特に747高地付近の戦況は時間の経過とともに悪化し、所在の守備兵力は全滅した。  午後八時三十分、部隊は師団命令を受領した。その要旨は、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、師団は戦線の一部を整理し、爾後の攻勢を準備せんとす。 二、森田(徹)部隊は本日没後行動を開始し、758高地南東三キロ砂丘付近から、ニゲーソリモト南方砂丘を経て、ニゲーソリモト付近にわたる線を占領し、同線を確保すべし。 [#ここで字下げ終わり]  というのである。  当時森田部隊は各方面で接戦中であり、殊に第一大隊は敵と三十メートルに近接している部分もあった。とても敵を振り切って離脱行動をとれる状況ではない。やむを得ず、明二十二日いっぱい準備して、夜暗を利して一挙に配備転換をすることにした。  この戦況を、師団長は次のように観察している。 「師団長は戦線を整理し、爾後の攻撃を準備する為、森田支隊に後退、兵力の集結を命ぜしも、支隊長は攻撃の拠点たらしむる目的を以て、意見具申し、此の夜部隊の集結をなさず。此の責は要旨命令意図を尽さず、且遅れ、作戦命令は遂に敵戦車の進入により、未着の結果となり、一方、死傷者を捨てて撤退し得ざる処の苦痛ありしならん。  電話通ぜず、将校伝令を派せんとせしも、戦車侵入の為果さず、然れども、聯隊長の兵力分散の弊により此の結果を招きしことも亦一原因たるべし」  師団長はこう云っているが、744と747を一部兵力をもって占領し、主力をニゲーソリモト付近に退《さ》げよ、というのが前日の師団命令であったのである。両高地の占領に任じた兵力が過小であったので、連隊長はそれぞれ一個大隊を分散配置した。結果から見れば、相対的に劣勢な兵力で死守するか、全兵力を早期に退げるかしかなかったのである。 「聯隊長の兵力分散の弊」をいうのなら、南北全線に劣勢な兵力をばら撒いた「弊」の責は誰に帰するべきなのであるか。  右の戦況は、一兵隊には次のように体験された。前掲の歩七一・三木隊の小田大治はこう書いている。 「二十一日、例によって砲撃があります。その日の挨拶みたいなものです。御存知のように弾は無茶苦茶です。大砲が連続どれだけ撃てるか知りませんが、よくまあ、あれだけ続けて撃てるし、弾もあれだけよくも運べたものです。(中略)漸く、途絶えたと思った時戦車が数台、陣地内へ突入して来ました。いつもの様な狙撃兵はついて来ず、戦車ばかりです。小人数と見てなめたのかも知れません。私達三木隊は(中略)この時は四十名ちょっとだったと思います。私は青野伍長と戦車の尻に乗って、蓋に手をかけましたが、ビクともしません。どこを攻めたら破壊出来ましょうか? 兵隊の手持ちは小銃と手榴弾二、三発です。装甲が一番うすかろう腹の下に、二発一緒に手榴弾を投げ込みます。戦車はゴトッともしません」  余談だが、私も六年後に全く同じ経験をしている。手榴弾を二発結束して戦車の腹へ叩き込んだが、牛の腹に小石を投げたほどのこともなかった。戦争末期、ソ軍が進攻して来て、私の所属中隊は呆気なく全滅したが、関東軍の参謀たちは、当時の関東軍を弱兵だと云った。弱兵であったことを私は必ずしも否定はしないが、九九式短小銃一挺、実砲三十発、手榴弾二発で、押し寄せる戦車群に対して兵隊がどう戦えば参謀たちの気に入るのか、知りたいと思ったものである。  閑話休題。小田大治の手記をもう少しつづける。 「その中あたり一面物凄い火です。皆が�やった、やった�と歓声を揚げましたが、実は敵の火焔放射を浴びていたのです。まさか、あんなに、遠くまで多量に火を噴くとは、誰も知りませんでした。敵ながら天晴れな武者ぶりです。丁度ホースで水の代りに火を懸ける様なものです。驚くやら、呆れるやらです。兵隊とは気楽な面のあるものです。余りな戦車の猛威に、中隊長は壕の縁に座った儘指揮して居られました。(後略)」  酒井部隊(歩七二)は、七月八日の旧陣地線ヘバルシャガル高地線から後退して待機していたが、二十一日払暁、敵重砲の砲撃を見舞われた。  正午ごろ、ホルステン左岸地区の敵の攻撃活溌で、敵戦車数台が新旧工兵橋を渡り、右岸(北岸)地区に侵入し、酒井部隊の背後にまわるという情報が入った。  つづいて、酒井部隊は一部をもって侵入した敵戦車を攻撃せよ、という電話命令に接し、第二大隊長に命じて第八中隊を派遣することとしたが、輸送のトラックが来ないために、出発がおくれた。  敵戦車侵入の情報が事実だとすれば、こんなことでは間に合わず、蹂躙にまかせることになる。  事実は、午後一時ごろの状況では、敵戦車はホルステン河の対岸まで進出して来ていたらしい。  部隊は、午後九時、歩兵団命令を受けた。  要旨は、酒井部隊は日没後現陣地を出発して、ホルステン河の新旧工兵橋に向い前進せよ、但し、歩兵一中隊、機関銃一小隊、速射砲一小隊を新旧工兵橋に先遣し、同橋梁を確保せよ、というのである。  午後十一時、連隊は転進のために集結した。このころになって、漸く、トラックと輓馬《ばんば》が到着した。  戦局は、日本軍が事ごとに後手にまわっていることは否定できない。  バルシャガル高地線から酒井部隊が抜けたあとの過広な正面を担任する山県部隊(歩六四)は、前夜(八月二十日)敵の攻撃下に第一線の交代が困難な部分もあったが、二十一日未明までに各大隊とも新配備についた。  これによって、第一大隊はホルステン右岸(北側)台上の、前日まで酒井部隊(歩七二)が担任していた約四キロメ—トル正面を、第二大隊は従来山県部隊が担任していた733高地南側から731高地南側までの約五キロメートル正面を守備するのである。  第三大隊は、二十三日に右翼の生田大隊(歩二六)との連繋を命ぜられるまでは、予備陣地の構築に従事した。  この日天明とともに敵機の対地射撃が激しかったが、他の戦線に比べればこの中央部の戦勢は緩徐であった。  前夜、師団の右側背を掩護するためにキルデゲイ水東方三キロの752高地とウズル水の間をフイ高地に面して占領することを命ぜられた須見部隊(第七師団・歩二六)は、二十一日払暁752を偵察、午前八時占領。ウズル水へは機関統一小隊を出した。  最前線中央部からフイ高地寄りに出されている生田大隊は、既述のようにこの日大打撃を蒙ったが、須見連隊主力の正面にはまだ強力な敵は現出していない。  野重一では、午後一時ごろ、敵戦車五十輛がホルステン河対岸まで来襲という情報によって、陣地左翼の警戒を厳にし、山砲が来援して対戦車戦の位置についた。  十五榴のような重砲放列は、手許に戦車に入り込まれたら自衛力が乏しいのである。重砲放列は当然歩兵部隊の後方に在る。それが直接戦車に備えなければならぬというのは、戦線が既に入り乱れ、後方が後方でなくなっていたり、側方がガラ空きになったりしているのである。  ソ軍の進出は充分に組織的であり、かつ、かなりの程度に大胆であった。  ソ軍攻勢二日目にして日本軍の陣容には混乱が見られるが、八月二十一日はこれだけでは終らなかった。     50  関東軍飛行部隊が六月二十七日タムスク、マタット、サンべースを越境爆撃し、それが因で大本営と関東軍との間がこじれはじめ、七月十六日満洲内陸部のフラルキが爆撃されたことをめぐって(私はこの件に関してはある種の疑惑を抱いているが、証明する手段がないので、通説に従うほかはないが——)、隠忍スヘク且隠忍シ得ルモノ云々という電文から大本営と関東軍との関係が決定的に悪化したことは、既に述べた通りである。  その後、日を追って、戦場上空のソ軍機の行動は活溌になり、反面、日本軍航空部隊には疲労の色が目立ちはじめた。人機の損害が補充や生産力を脅かすようになったのである。  七月末、大本営から谷川中佐と島村少佐が来て、その実情報告の結果、大本営が関東軍に対して、タムスク以東のソ蒙軍航空基地への進攻を認可したことも、既に述べた。  認可(電文)は八月七日であったが、進攻実施は八月二十一日、ソ軍の大攻勢がはじまった第二日目であった。準備にそれだけの日時を要したということは、関東軍作戦課が大本営に対して歯ぎしりして強がりを云っていたほど、飛行集団は力をもてあましていたわけではなかったのである。  いよいよ進攻実施の段となると、二十日ごろのソ軍機の優勢な活動状況を見た作戦参謀たちのなかには、航空進攻によって制空権を奪回し得るか否かを危ぶむ者もいた。  その云うことは、地上兵力はともかくとして、航空が「敵に一籌《いつちゆう》を輸することありては国軍として由々しきこと」であるから、進攻部隊をなお数日休養させた方がよい、というのであった。  地上兵力はともかくとして、ということは、地上兵力は損害を蒙っても補充ができるということである。航空部隊の場合は、人機ともに補充はそう簡単ではない、ということなのである。読者は想起されたい。先に安岡戦車団は、七月二日・三日の右岸攻撃(戦車団は左岸より一日早く攻撃を開始した——)で戦力半減すると、関東軍は早々に戦車団を原駐地へ帰還させたのである。生産力の乏しい、したがって物質的戦力の乏しい国の、兵術思想の不可避的な貧困である。  航空主任三好参謀は、地上兵力が決戦を行っているときに、航空が休養をとることはできない、どれだけの損害があろうとも進攻を実施しなければならない、と主張して、決行に踏み切った。  進攻爆撃は、八月二十一日、第一波は午前六時、軽爆隊がサッパ貝子府に対して、第二波は午前十一時、軽爆・重爆連合でタムスクに、第三波は午後四時、軽爆隊がフイ高地付近のソ蒙軍戦車及びトラックに、第四波は軽爆一中隊でハルハ河左岸のハラ台にある敵飛行場(仮設)に対して行った。  翌二十二日にも、第一波が午前九時半、再びサッパヘ、第二波はボイル湖東側の敵飛行場を襲ったが、それ以後は、ソ軍の地上攻勢が激化するのを見て、儀峨集団長(中将)は地上作戦に協力することに方針を変更した。その表われは、八月二十二日午後、バルシャガル高地の右側背を自在に行動する敵戦車群への攻撃である。  関東軍作戦課が大本営と犬猿の間柄となることを辞さなかった進攻爆撃は、八月二十二日午後に終った。発表された戦果は、ソ軍に与えた損害九七機という。日本機は十数機を失ったという。  敵には、しかし、痛打を蒙った気配がない。強いていえば、二十二日以後の敵機の活動は、それまでと多少方法が異って、少数機の編隊で頻繁に侵入し、対地協力を主としたことであって、それが一日半の日本軍機の爆撃行から蒙った損害の結果と断ずることはできなかった。  ソ連側資料によれば、日本軍が越境爆撃を実施した八月二十一日、ソ軍爆撃機がノモンハンブルト・オボーはじめ戦場各所、甘珠爾《カンジユル》、アルシャン等へ出撃した延回数は二五六回、投下爆弾は八六、〇〇〇キログラム以上であったということである。  日本軍飛行部隊の作戦は、八月二十二日午後からは、地上戦闘に協力する方針に切り替えられたが、具体的に大きな変更があったとは見られない。来攻する敵機の邀撃《ようげき》、敵砲兵・戦車、後方の補給縦列に対する爆撃等が任務内容である。日本軍戦闘機は、ソ軍のそれのように、対地銃撃や戦場偵察には任じなかった。  敵がそれを実施して、相当の効果がある(日本軍地上部隊が敵機の対地銃撃に悩まされたことは事実なのである)とわかっていても、我はそれを実施しないのは、機数の乏しさにも因ることであろうが、戦闘機は空中戦に任ずるという固定観念のせいでもあろう。  敵はハルハ河左岸台上の各所に仮設飛行場を設け、少数の駆逐機を配置して、日本軍偵察機の飛行の都度、これを急襲するという臨機の処置を活溌に行っていたという。  ノモンハン戦場上空もまた敵航空兵力の優勢は否定できない事実であった。  八月二十一日、夜、十時三十分、日本軍陣地最左翼に位置する石蘭支隊(満軍)の中地区隊壕内で、突然、数百発の銃声が轟いた。  銃撃は敵に対してではなく彼らが生死を共にするはずであった日系軍官四名に対してであった。  石蘭支隊・歩兵第十四団・第一営(長・西貞久——満系)の叛乱である。  営長以下二百三十四名は暗夜の草原に姿を没した。  ソ連側資料シースキン『ハルハ河』の南方兵団の部分に、一行だけ、こう出ている。 「二十一日には、満軍K(騎兵)及歩兵が武器を携えたまま二五〇名が投降して来た」  石蘭支隊(長・少将石蘭斌)というのは、チチハル駐屯の独立混成第一旅のことで、満軍のなかでは最精鋭といってもよかった。  支隊は八月六日ハロン・アルシャン—ハンダガヤを経て戦場に進出した。  守地は、日本軍陣地の最左翼、ソ連側からいえば右翼の南方兵団が大きく南東側から巻き込んで来る主攻正面の一部に当っていた。  陣地について、日が経つと、水と食糧の補給が切れはじめた。水や食糧を争奪して刃傷沙汰がはじまったというから、深刻である。  日本軍諸隊も不自由したことは事実だが、満軍が日本軍並みに扱われたとは考えられない節がある。  補給の不充分は、いつでも、何処の戦場でも、日本軍にはつきものであった。補給を戦闘そのものと同等に考えない、表現を変えれば、補給そのものが戦闘であるという配慮が不充分なのであった。 「三日二夜を食もなく」と歌われるのは、銃後に悲壮感を醸して愛国熱を煽るには若干の有効性があるが、そういう状態で戦争指導をする者の責任は、一向に問われなかったのである。  兵隊は戦士であるから、戦って死ぬのは仕方がない。だが、連日にわたって飢渇に苦しむ義務など些かもないのである。  日本軍が惹起した戦闘に駆り出された満軍が、敵の砲弾だけはふんだんに貰い、糧食・飲料水に事欠いては、不穏な心が兆《きざ》すのは当然であった。  石蘭支隊が配備についた970高地地区で、第一営は中地区隊として前方へ突出していた。  八月十九日からの敵の砲撃は猛烈であった。中地区では一日二千発以上を撃ち込まれたという。  二十日にソ軍の総攻撃がはじまった。満軍には全般的な状況も敵情もまるでわからない。  砲撃は、二十一日になって、激しさを増すばかりであった。兵たちは壕内に貼りついていた。支隊司令部も他地区隊も、突出していて叩かれ放題に叩かれている第一営陣地を傍観するほかはなかった。  上官も幕僚も誰一人として中地区へ視察激励に行かなかった。これでは、一蓮托生の連帯意識は崩れてしまう。  兵隊の口から口へ伝わる「情報」は、時として、電波よりも早い。絶え間なく炸裂する砲弾の下に竦《すく》んでいた第一営の兵隊たちは、小松原師団の諸隊は相次いで潰滅、後退したと信じはじめた。この時点で、ホルステン南岸地区で後退行動に移った日本軍部隊はまだないはずである。二十日夕刻、ニゲーソリモト付近に集結を命ぜられた森田部隊(歩七一)は、まだ退っていない。ただ、同部隊の守備範囲である747高地は既に陥ちていたから、戦慄的な戦況下に在る満軍将兵にとって、それが悲観材料と映ったであろうことは想像に難くない。  二十一日午後、左翼隊から一軍官が馬を飛ばして中地区に来た。一個連(一個中隊)の増援が夜間に行われると伝えた。  一個連では焼石に水である。営長・西貞久はこのころ既に叛乱逃亡を考えていたと思われる。  戦って勝目のない戦況であることは既に明々白々である。争う必要も価値もない草原と砂漠に流血の大戦闘を惹起したのは日本軍である。満軍はいつも日本軍の下風に立たされている。その証拠に、水も来ない、食糧も来ない、戦うに足るだけの火力もない。その満軍が、何故、破局への道連れにされなければならないのであるか。  生きる途は、ただ一つ、部隊を挙げてソ軍に投降することである。  営長は、配属日系軍官に悟られないように幹部将校と合議し、兵隊の意志を纏めた。  この部隊の日系軍官は不運であったとしかいいようがない。大谷・佐藤両上尉、坂田・前田の両中尉は、「我們的連長」「我們的副官」と日ごろ士兵から敬愛されていた人物ばかりであったそうである。  状況極限に至れば、異民族間の個人的な敬愛の情などは、鬱積し沈潜せられていた反日感情、関東軍の尊大、独善に対する憎悪の爆発の前では、何の抑止力にもならなかった。それは一転して惨殺となったのである。  集団脱走の将兵としては、日系軍官を殺さずには、脱走の実現は不可能であったにちがいない。  石蘭支隊歩兵第十四団に日系軍官として配属されていた石井寛一は、次のように誌している。 「(前略)残余の部隊は叛乱部隊の攻撃を恐れ、日系将校の屍体を放棄し、九七〇の本部に後退、銃声の止んだ陣地は、糧秣、衣類、兵器が散乱、白砂の壕には蜂の巣の屍体が横たわり、一瞬にして、|鬼哭啾 々《きこくしゆうしゆう》草原の夜のしじまに戻っていた。  (中略)こうした苦況下の石蘭支隊だったが、八月二十日以降に於けるソ連軍の猛攻に耐え、九月十日、片山旅団に任務交代の日まで、支隊は九七〇を固守、汚名挽回に努めた。(後略)」  八月二十一日の夜はこうして更けていった。     51  八月二十二日(ソ軍攻勢第三日目)  未明、砲兵司令部は師団司令部から電話命令を受けた。ホルステン左岸(南岸)地区に進攻して来た敵戦車部隊を撃破するために、野砲一個大隊を至急増援せよというのである。  砲兵司令部は野砲兵第十三連隊から一個大隊の抽出を命じ、快速機動のためにトラックを配当した。  ところが、間もなく、師団司令部は前命令を取消して、別命を伝えて来た。敵の戦車群が日本軍右翼を迂回して師団主力の背後を脅かす状況となったから、先の野砲一個大隊をホルステン左岸にまわさず、ウズル水方面に急派せよ、というのであった。  抽出された野砲兵第三大隊主力は陣地移動の寸前にあった。一個中隊は既に出発してしまっていたのを、工兵橋に追及、掌握し、反転北進させた。  この結果、ホルステン左岸では、終日、対戦車戦が随所で行われ、野砲が増援したウズル水方面でも、一時撃退した戦車群は野砲を回避しつつ変幻自在に出没した。  客観的に見て、形勢は刻々に悪化している。  二十二日朝、畑砲兵団長はまた師団長から呼ばれた。昨夕以来二度目である。  攻勢移転に関して師団長と第六軍参謀長藤本少将との間に依然として意見の不一致があるので、砲兵的見地から藤本少将を説得してほしいというのである。  畑砲兵団長の所感では、なるべく多数の兵力を抽出して攻勢に移転しようとする第六軍参謀長の案は、第一線の実情を知らないことから来ているのに対して、師団長案は、第一線の状況にこだわって、刻々に変化している戦勢に対処する果断が不足している。  議論は果てず、十一時になった。両方譲らない。  畑少将は、巧遅は拙速に如かずとして、師団長に、第六軍案に同意することを勧めた。  すると、今度は、兵力を何処に展開するかで異論を生じ、双方先入主にこだわっているから、議論は責任問題と面子の問題になった。前線将兵は敵の砲弾を浴び、戦車群と悪戦苦闘しているときである。  妥協が成立して実行決定案が出来たのは二十二日正午に近かった。  第六軍司令部(在将軍廟南方地区)が立案した攻勢移転の計画は、次の要領である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、ホルステン河以北の右翼方面では、井置部隊、山県部隊、須見部隊をもって、師団砲兵、重砲の一部と共に現陣地を確保する。 2、ホルステン河以南においては、森田(徹)部隊をもって拠点を確保し、長谷部部隊(八国)をもって増強する。 3、第二十三師団長は左記の兵力を指揮して、陣地左翼方面に進攻した敵に対し攻勢をとり、これを撃破する。 [#ここから改行天付き、折り返して8字下げ]  右第一線兵力 小林少将指揮する歩七二  左第一線兵力 森田少将指揮する歩二六・歩二八  予備隊    四ッ谷大隊(独立守備隊)  砲兵隊    野砲五中、十五榴二中、十加二中 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 4、攻勢移転の時期 八月二十四日朝 [#ここで字下げ終わり]  畑砲兵団長は師団長と第六軍参謀長の意見対立を仲裁したことから、攻勢移転の計画を正式発令以前に承知していたので、二十一日午後には各砲兵隊長を集めて、攻勢移転の計画に伴う砲兵部隊の軍隊区分と任務を内示した。  砲兵の区分は、攻勢方面と守勢方面に分れる。 攻勢方面では、  独立野砲兵第一連隊 九〇式野砲八門  野戦重砲兵第一連隊第二大隊(連隊段列半部属)九六式十五榴六門  独立野戦重砲兵第七連隊第一大隊(連隊段列半部属)九二式十加八門  穆稜《ムーリン》重砲兵連隊第三中隊 八九式十五加二門  砲兵情報連隊、独立気球中隊、野戦重砲兵第三旅団輜重隊(一小隊欠)  野砲兵第十三連隊第三大隊 三八式野砲八、三八式十二榴四  野砲兵第七連隊第一大隊 三八式野砲十二門 守勢方面として、  野戦重砲兵第一連隊(第二大隊及連隊段列半部欠)九六式十五榴八門  独立野戦重砲兵第七連隊(第一大隊及連隊段列半部欠)九二式十加八門  穆稜重砲兵連隊(第三中隊欠)八九式十五加四門  野戦重砲兵第三旅団輜重隊一小隊  野砲兵第十三連隊(第三大隊欠)三八式野砲十六、三八式十二榴八門  右記のほか、野砲兵第十三連隊は戦利野砲(前述)の臨時編成二個中隊七門を持っていた(もう一個中隊あったが全滅したことは既に述べた)。  重砲各隊は七月末から八月初旬にかけて、自衛用として四一式山砲を装備していた。十五加部隊は十五加と同数を、十加と十五榴部隊は各中隊一門ずつを持った。  これらの砲兵諸隊は、奮戦して、力及ばず、指揮系統も乱れ、数日後にはそれぞれ敵機甲部隊の猛攻の前に潰えることになる。  第二十三師団の攻撃準備命令(八月二十二日午後五時三十分)の時点で、小林少将指揮する酒井部隊(歩七二)はホルステン上流屈曲点東側の通称「泉」付近にあり、森田徹部隊はノロ高地の長谷部支隊左翼から東方ニゲーソリモト付近にわたって布陣することになっていた(詳細後述)。  ソ軍の攻勢開始までは、大体ハルハ河に沿って南北に伸びていた日本軍の陣形が、二十二日から二十三日にかけて、ノロ高地付近で東へ曲り、ホルステン河に沿う形にまるくなっている。ソ軍の南東側からの激しいまくりが成功しているようである。     52  八月二十二日  第二十三師団長は次のような第六軍命令を受けた。 「軍は為し得る限りの兵力を集結したる後、ハルハ河の右岸地区に於て敵を捕捉殲滅せんとす。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、第二十三師団は其主力を挙げてホルステン河南方地区に在る敵に対し、重点を東方に保持し、敵を捕捉殲滅する如く準備すべし。  攻撃開始は二十四日払暁と予定す。 2、第十四旅団はモホレヒ付近に前進し、敵の右側背を求めて攻撃するの準備にあるべし。  独立守備第六大隊を其指揮に入らしむ」 [#ここで字下げ終わり]  この日の小松原師団長の手記には、彼我の戦備を比較する、はじめてといってもよい感想がある。 「敵攻勢開始に先立ち一夜に重架橋四を作る。我軍作戦に際し、架橋材料の配給を受けず、工兵自体の軽渡河材料、然も、一の掛換なき材料にて渡河し、頗る、際どき危険極る作戦をなせり(七月三日の左岸への渡河作戦——引用者)。安岡支隊方面の重渡河材料は、降雨の為ハンダガヤより来らず、爾後直ちに引揚げられ、請求するも交付せられず。攻勢を企図する敵の準備周到なる、我軍と比較にならず。人のみ作るが、戦の準備に非ず」  小松原中将の感想はもっともだが、渡河準備ぐらいは敵の強弱にかかわらず充分でなければならないはずのものである。中将自身もはじめは敵をなめていたきらいがあるから、再三にわたる敵からの実物教育で、後方の上級司令部の認識の甘さが、次第に腹立たしくなってきたものとみえる。  ソ軍は、このころ既に、火焔瓶攻撃に脆いBT戦車をひっこめて、ディーゼル機関の戦車を繰り出していた。小松原中将はこう書いている。 「然るに新に現出せる戦車は、ガソリン車に非ず、サイダー瓶を以て肉迫攻撃するも、効果なく、戦車に対する我歩兵をして失意せしめたり」 『関東軍機密作戦日誌』の「敵の八月攻勢の推移間に於ける関東軍司令部の受けたる感覚」(其二)では、二十五日ごろになって敵戦車の脅威を「感覚」している。こうである。 「ガソリン瓶を以てする肉迫攻撃が、従前の如く成功せざることは相当憂慮すべき戦況を招来しつつある事を思わしめたり」  この裏の意味は、敵に戦車が何百輛あろうとも、火焔瓶を持って突進する日本兵が、生命と引き換えに敵戦車を炎上させれば、恐るるに足りないと高をくくっていたことである。  火焔瓶などは、何もなくなったときに余儀なく使用する武器であって、はじめからそれを当てにして近代野戦を戦う武器ではない。そんなもので歩兵を戦車に立ち向わせて、敵を「捕捉殲滅」できると、参謀たちが真剣に考えていたとすれば、兵は参謀たちにとって人間ではなかったのである。  八月二十二日 フイ高地  午前六時ごろ、敵近迫。午前八時ごろから敵の十榴、十五榴の猛射がはじまり、硝煙濛々として咫尺《しせき》を弁じない。  午後、所在の野砲(13A所属)は全部破壊され、速射砲と連隊砲各二門を残すのみとなった。  敵の歩戦砲の協同攻撃はますます強烈となる。敵歩兵と戦車が陣内に入って来る。  塚脇好信上等兵の『遺書』には次のように記されている。 「昨朝二十一日より敵の総攻撃のすさまじさには、大いにおどろかされる。(中略)今朝は早々から敵が攻撃に前進し来る。夕刻から各所で味方陣地へ突撃の声。壕の付近は砲弾痕で、丁度蜂の巣の如し。もう明日までもてない。今まで命あるのは実に不思議である。しかしもう覚悟を決した。(後略)」  同二十二日 バルシャガル高地  歩六四(山県部隊)の正面でも朝来敵の砲撃は猛烈であったが、陣地配備は前日同様、第一大隊はホルステン河北台上、従来歩七二が担当した正面四キロを、第二大隊はその右翼、733高地から731高地付近までの山県部隊旧陣地を担当、第三大隊は速射砲を基幹とする陣地構築に従事した。第三大隊が右第一線へ出るのは翌二十三日のことである。  同二十二日 ウズル水方面  歩二六(須見部隊)正面に敵戦車十四、五輛が来た。フイ高地の側背を迂回したものと思われる。ウズル水付近には速射砲が一門しかなかった。敵は一線に展開して殺到した。歩兵は火焔瓶と重機関銃で応戦するほかはなかった。  午後、フイ高地の友軍は弾薬が切れたという情報が伝わった。  師団命令で弾薬補充に一個中隊を出す。  夜、部隊は739高地を夜襲して占領した。  この部隊の正面はまだ危機的状況ではない。  同二十二日 酒井部隊(歩七二)  戦線中央部を山県部隊(歩六四)に委ねてホルステン左岸への移動を命ぜられた酒井部隊は、小林歩兵団長指揮下に右翼隊(右翼隊だの左翼隊だのと再々呼称が変更して煩わしいが、今回は森田範正少将指揮する左翼隊と小林恒一少将の右翼隊が並列して攻撃前進する作戦命令であった)となって、午前一時主力の集合を終り、ホルステン河旧工兵橋に向って前進した。  旧工兵橋付近は既に敵戦車が占領しているとの情報であったが、歩七二通過のときには敵影を見なかった。  旧工兵橋に在った重砲の連絡将校が云うには、753高地南方二キロの凹地には敵戦車約四十輛があって、重砲陣地を包囲し脅威を与えているということであった。  歩兵団長は酒井部隊長に救援を命じ、酒井部隊では第二大隊長指揮する歩兵二個中隊(第六・七中)と速射砲四門、重機主力をもって攻撃を命じた(命令は午前三時)。  連隊主力は所命地点の泉(ホルステン河屈曲点)南方に前進した。到着は午前六時である。  空地からする敵の攻撃は、時間の経過とともに烈しくなった。午後五時、歩兵団に配属された野砲兵第七連隊と合流した。  重砲部隊を包囲の態勢にある敵戦車の撃退を命ぜられた第二大隊は、払暁前に攻撃し、戦車四輛を擱坐炎上させ、目的を達して午後六時ごろ帰還した。  午後六時半、新旧工兵橋の掩護部隊は長谷部支隊(主力ノロ高地)と交代して復帰した。ニゲーソリモト方向へ前進するための準備措置である。  攻勢移転はニゲーソリモト付近から発進する予定であった。  同二十二日 歩二八  戦場新来の歩兵第二十八連隊(第七師団)は、第十四旅団長・森田範正少将の指揮下に入って、採塩所から将軍廟へ移動集結。午後八時の旅団命令によって、午後八時三十分将軍廟を出発、夜行軍をもってモホレヒ湖付近へ機動中であった。  同二十二日 野重一  山県部隊の後方、755高地付近にある十五榴陣地の戦況も刻々切迫した。その模様は、前掲榊原『陣中日誌』を借用する。 「昨夜は無事に明けた。しかし情況は急迫してゐる。聯隊段列の後方一粁の地点へ戦車来襲し、段列は全部何処かへ撤退とのこと。  放列陣地では、第三基点より右八五〇の脚大移動で骨を折る。ところが一発も撃たぬうちに鎌田准尉が�榊原分隊は敵戦車に備へて火砲を掩体より出し、右後方へ方向を向けよ�と言ふ。  又々掩体の後方を崩して火砲を出すことにする。此の頃より敵砲弾激しく放列陣地に落下したが、工事は進められた。(中略)  やがて掩体もないところへ吾火砲は据付けられた。 �戦車来襲の時は、一、二分隊全員第四分隊援護、指揮官は榊原軍曹�と小隊長の命令。砲手はこのムキ出しの大きな目標となる火砲と、戦車砲とのことを想像して悲壮な覚悟を決めた様だつた。連続の疲労で腰を下せば目が塞がる。(中略)  段列へ来て見ると、こゝでは装具、兵器其の他が全部纏められ、或は身に着けられて何時でも撤退出来る用意が出来てゐた。  皆の顔色が変つて見えた。情報によると野重七(鷹司部隊)は殆んど全滅とのこと(鷹司部隊の事実上の潰滅は二十六日夕刻のことであった——引用者)。友軍のトラック十七、牽引車数台もやられた由。ウズル水まで戦車が来てゐる様だ。左前方正面には友軍が一名も残つてゐないとのこと(酒井部隊の抽出後は、山県部隊の左端に当るホルステン河右岸台上は、配兵してあったとしても、きわめて稀薄であったと思われる——引用者)。  敵、我を完全に包囲せるものゝ如し。  兵には芳しくない情報をナルベク話さぬ様注意してゐるが、兵の方が早く情報を知つて了ふ。  空には友軍機一機として姿を見せず。E16、SBが絶間なく此の草原に爆音を轟かせてゐる。(中略)  聞えるものは炸裂する砲弾の音のみ。昨日はハイラル飛行場で友軍機五〇機がやられた由。手紙が十九日に来てゐるさうだが、此の状況では駄目だナ。通路は完全に遮断されてゐる」  この野戦重砲兵第一連隊が破断界に達するのは、これから五日後、二十七日のことである。     53  八月二十二日 ノロ高地  長谷部支隊の陣地を砲爆煙が蔽って、他隊の状況は全く見えなくなった。無線機は真空管を破壊されて、使用できない。左隣接の森田部隊との間、約四キロ、連絡がとれない。  左中隊の前方に敵の歩兵約一個中隊と戦車約二十輛が機を窺っている。  前日来襲した大戦車団は、長谷部支隊の後方を攪乱して、一部はホルステン方面から西へ、主力は南方へと反転した。  ノロ高地は既に敵中に残された観がある。  この日、第一線から上等兵が一分隊を連れて支隊本部に来て云うには、幹部が全滅して中隊の戦闘指揮が行われないから後方に退がる、という。支隊本部は陣地固守を伝えるよう上等兵を追い帰した。陣地固守は師団からの厳命である。  午後二時三十分から三時三十分の間、最左翼の中隊後方から敵戦車十八輛が第一線陣地内に侵入した。肉攻班が七台を焼き、速射砲三門が五台を破壊したが、速射砲二、重機二を破壊され、戦死一、負傷十の損害を受けた。  状況から判断すると、敵戦車は陣地後方から前方へ貫通しただけで、陣内を蹂躙したのではなかったらしく思われる。  同二十二日 梶川大隊(歩二八)  ノロ高地左翼の梶川大隊正面では、戦闘は夜に入っても継続した。  大隊陣地左翼から隣接友軍(森田徹部隊の一部)が敵戦車に伴う歩兵と戦闘しているのが遥かに望見された。  戦況は、友軍が次第に後退しているようであった。そのため、梶川大隊の左翼方面では、敵戦車の活動がますます活溌になった。  森田部隊が退るということは、梶川大隊の左翼が直接に敵の強圧を受けることであり、梶川大隊が危殆に瀕することは、ノロ高地の主力長谷部支隊に危機が迫ることを意味した。  同二十三日 森田部隊(歩七一)  敵の主攻正面に当るこの部隊には、敵の攻撃愈々急であった。師団命令による第一線の離脱は困難である。そればかりでなく、一度敵手に委ねた地域を奪回することは至難であるから、この際はむしろ後退せずに744高地を軸として師団主力をもって敵を南方に撃攘する方針に拠ることを妥当と認め、部隊から師団司令部に意見具申し、師団の撤退命令の下達を差控えた。  後述することだが、攻勢移転(二十四日)の際、森田部隊主力は展開位置につくのがおくれるのである。おくれた理由は、交戦中に離脱が困難であったことと、後退せずに森田部隊陣地を|支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点《しとうてん》たらしめようと独自の判断を下したことである。攻勢移転も守勢方面もすべて失敗に帰した結果からみれば、戦術的な可否を問い直すことは不可能である。残った事実は、二個師団に満たない兵力の統一的な運用が、ソ軍の攻撃開始から日本軍の攻勢移転まで四日間を費やして、なお斉々とは行えなかったことであった。  森田部隊に配属されている捜索小隊(騎兵)は、敵戦車群を突破して、旧工兵橋付近に在ると思われる酒井部隊(歩七二)に連絡し、工兵橋以東の敵状捜索に出かけたが、そのまま連絡が絶えた。  第二大隊正面では、早朝から、通称二子山方向より歩兵約三百、ニゲーソリモト方向から戦車二十輛の挾撃を受け、苦戦の後これを撃退した。  第三大隊正面は険悪であった。747高地方面からの敵の攻撃が激烈の度を加えたのに反して、第三大隊では前日来対戦車火器がなく、戦況は全く苦境に陥った。  十二時ごろ、大隊本部は連隊本部に対して電話報告した。 「態勢を整理して新に作戦されてはどうでしょうか。当大隊の状況は申上げられません」  これに対して、連隊本部は、 「貴隊の苦戦は承知しているが、各隊とも同様である。もう一日奮励されたい」  と答えてから、次のように電話命令した。 「本夜戦場を離脱し、七五八東方二粁の砂丘(三角山)付近を占領し、第一大隊の転進を収容したる後、該地を確保すべし」  第三大隊は、この結果、翌二十三日には、三角山が平たくなるほど叩かれて、戦闘惨烈の極所に立つことになる。  第一大隊では、予備の第七中隊を増加されたが、747高地方面からの敵の攻撃は熾烈をきわめた。  午後四時ごろ、大隊副官が連隊本部から撤退命令を受け、大隊は交戦しつつ撤退の準備にとりかかった。  夕刻、第一大隊の守備する741高地に敵が肉薄、「ウラー」の喊声が宵闇に聞える。敵が投擲する手榴弾が炸裂する火光のなかに、第一大隊生存者が敵に白兵を挑む姿が望見される。  これに先立つ午後三時ごろ、師団から伊藤参謀が連隊本部に来て、師団長の企図を伝えた。師団主力は将来東渡(ハルハ河)方向に攻勢をとる予定であるから、森田部隊も主力方面に転進するため、現第一線を所命の地点に撤退せしめよ、というのである。  森田部隊が後退して新に占領すべく命ぜられた地域は、758高地東方三キロ付近(三角山付近)からニゲーソリモト西方の旧連隊本部の位置にわたる間であった。  これに基づいてとられた部署は、第一大隊は本夜なるべく速かに後退して、旧連隊本部西側を西南面して占領すること、第二大隊は本夜なるべく遅く後退して、旧連隊本部東南側を占領すること、第三大隊は三角山を別命あるまで確保することであった。  第三大隊主力は三角山へ移動した。その掩護下に、第一大隊は死傷者を収容して、深夜十二時、744高地付近から撤退した。  第二大隊も所命地点へ移動を開始した。どの方面にも、幸いなことに、敵の追尾がなかった。  この日、ニゲーソリモト付近から森田部隊の第二大隊後方を浸透した敵戦車十数輛が、小島砲兵隊の放列を襲撃した。自衛力に乏しい放列に対する奇襲であった。火砲は至近距離での対戦車射撃に適しない。中隊は最後の一門が破壊されるまで奮戦したが、戦車の蹂躙に屈するほかはなかった。  攻勢移転に関する師団の攻撃準備命令が出されたのは八月二十二日午後五時三十分だが、師団の具体的な計画が示達されたのは翌二十三日午後二時であった。この間に、たとえば森田部隊(歩七一)の第三大隊は、後述するように三角山で悲運に陥っている。  攻勢移転に関しては、最高首脳部の構想の段階から、各級指揮官の指揮実務に至るまで、迅速、緻密、確実性に欠けていた感を蔽えない。     54  八月二十三日午後二時に示達された第二十三師団攻撃計画では、歩兵の展開線はノモンハンの東方、ホルステン河の東側、モホレヒ湖から南方へ約七キロの752高地東西の線であった。つまり、日本軍がハルハ河に沿ってほぼ西面しつつ南北に陣地を連ねていた線に対しては、ほぼ直角に折れ曲って南面する方位関係にある。  別の表現をすれば、ソ軍が南から押し上げて来たから、日本軍の左翼はノロ高地付近から東へ折れ曲り、攻撃に転ずるにしても、凹んだ部位から敵に対して南面する形である。  砲兵は、当然、歩兵の後方、つまり北方に陣地を占めることになる。  攻撃部隊は、概ね、二十三日夜から行動を起こした。歩兵約八個大隊、砲兵(野砲と重砲)約十二個中隊が、それぞれの所在位置から展開線へ一夜のうちに勢揃いし、払暁攻撃を準備するのである。  暗夜の、識別しにくい草原や砂丘地帯での移動と展開には、予想外の時間がかかる。攻撃計画では、その所要時間の予測に違算があった。  日本軍には、概して、攻撃開始地点に諸隊が到達するまでの所要時間を、過小に見積る傾向があったように見受けられる。三年後のガダルカナルでは、地形はノモンハンとはまるで異る密林地帯だが、密林を啓開しつつ進むのに要する日時を過小に見積って、重大な失敗を犯している。  ノモンハンでは、これまでに、諸隊の移動の際、地点の識別を誤った経験が再々あったにもかかわらず、二十四日払暁にはじまる攻勢移転という重大なときに、展開線に諸隊をつけるための綿密な思慮が払われたとは云い難いのである。  この攻撃計画には、方針として次のように示されている。 「ソ軍を深くわが左翼に誘致するとともに、攻勢部隊は|あらかじめ充分準備を整え《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、歩砲の火力を発揮しつつ一挙敵の側背に向って攻撃前進し捕捉殲滅する」(傍点引用者)  作文はいつも立派なのである。できもしないことに限って入念に書かれているかのような観さえある。先に述べたが、準備命令が出されたのが、前日二十二日午後五時三十分であり、攻撃命令によって具体的な計画が示されたのが二十三日の午後二時である。「あらかじめ充分準備を整え」よと示しながら、それだけの時間を与えていない。時間がなかったのではない。少なくとも、二十一日終日と二十二日午前十一時までは、将官たちの面子にかけての議論に費やされたのである。  この作戦の指導要領は次のようであった。  フイ高地、バルシャガル高地、ノロ高地は従来の配置部隊をもって確保する。攻勢部隊は八月二十三日夜モホレヒ湖南方の予定線に展開する。二十四日払暁、重点を左翼隊正面に保持して攻撃前進を開始、744高地線へ進出する。左側支隊は主力(左翼隊)の外側を迂回、ソ軍の退路を遮断するとともに 、ハルハ河渡河点の確保に努める。  その軍隊区分。  守備部隊 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、フイ高地  捜索隊(乗馬、重装甲一各一中隊)、歩兵第二十六連隊(須見部隊第六・第九中隊)、歩兵第二十五連隊速射砲、歩兵第二十七連隊連隊砲各一中隊、野砲兵第十三連隊第四中隊、工兵第二十三連隊第二中隊。 2、バルシャガル高地  山県支隊(歩六四)主力、歩兵第二十六連隊第一大隊主力、歩兵第二十六連隊の一中隊。 3、ノロ高地  長谷部支隊(第八国境守備隊の二個大隊)、歩兵第二十八連隊第二大隊(梶川大隊)。 4、砲兵 バルシャガルとノロ高地  攻勢参加砲兵部隊を除く(既述)。  攻撃部隊 1、右翼隊 第二十三歩兵団長小林少将指揮。  歩兵第七十一連隊・森田徹部隊(第一大隊及二中隊欠)、歩兵第七十二連隊・酒井部隊(第三大隊と速射砲半部欠)、野砲兵第十三連隊の一中隊、工兵第二十三連隊の一小隊、速射砲三門。 2、左翼隊 歩兵第十四旅団長・森田範正少将指揮。  歩兵第二十六連隊(第一大隊、歩兵二中隊、速射砲主力欠)、歩兵第二十八連隊(第二大隊欠)、速射砲三中隊、野砲兵第七連隊第一大隊(一中隊欠)、工兵第七連隊の一小隊、伊東支隊(第八国境守備隊からの歩砲各一大隊基幹)。  右のうち、須見部隊(歩二六)主力は、師団予備として、フイ高地方向に面して752—ウズル水の間に位置していたものを、攻撃部隊として森田少将の指揮下に入れられたものである。この部隊くらい兵力を各地へ抽出分派されている部隊は類がない。  伊東支隊は攻撃部隊に区分されたが、モホレヒ湖付近にソ軍戦車が出没しはじめると、第六軍直轄としてその方面の警備に配置変更された。 3、左側支隊  独立守備歩兵第六大隊(四ッ谷大隊)、速射砲二門、野砲兵第七連隊の一中隊、八国の工兵一中隊。 4、砲兵  砲兵区分は先に詳述してある通り。 5、工兵隊主力 6、予備隊  歩七二の第一大隊、機関銃四。 7、その他の部隊  迫撃第二連隊、野戦高射砲隊、配属飛行隊、師団通信隊。 [#ここで字下げ終わり]  関東軍では、敵の兵力が大規模である場合を予想して、次の処置をとった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、第七師団をハイラルに推進する。 二、第三軍、第四軍の速射砲各四個中隊をハイラルで第七師団長の指揮下に入らせる。 三、ハロン・アルシャンにある独立守備歩兵第二十九大隊を、ハンダガヤで第六軍司令官の指揮下に入らせる。  これらの命令下達を終ったときに、第六軍司令官から次の電報が入った。 一、敵は重点なく、両翼包囲を企図せるも迫力微弱なり。其砲撃も本二十三日午後を以て峠を越えたり。  軍は、其左翼方面を爾後の企図の為自主的に後退せる外、各方面共陣地を堅持しあり、御安心を乞う。 二、明二十四日予定の如く一撃を加う。 三、敵の後方|擾乱《じようらん》は、実質的には軽微にして全く問題とするに足らず。 四、敵の砲撃による我損害稍々多きが如きも将兵の士気頗る旺盛なり。 五、予は二十日以降戦場に在りて戦闘指導の任務に就きあり。 [#ここで字下げ終わり]  関東軍司令官は、この電報を受取ると、矢野参謀副長の他に辻参謀を戦場に派遣し、第七師団をハイラル到着と同時に第六軍司令官の指揮下に入らせた(二十四日)。  ところで、第六軍司令官からの電文中、敵の「迫力微弱なり」とか、「砲撃も本二十三日を以て峠を越えたり」とか、「敵の後方擾乱は……全く問題とするに足らず」とかいうのは、各部隊の戦闘経過に照らせば全くの虚勢としかいいようがないが、冒頭に「敵は重点なく」とあるのは、事実そのように観察されたのである。ソ軍は、中央兵団で日本軍陣地正面を牽制し、南方兵団と北方兵団で日本軍を両翼から包囲する作戦であったが、中央も単に牽制する程度の兵力ではなくて、単独に中央部へ重圧をかけてくるだけの戦力を持っていたから、攻められる側から見れば、敵は兵力を均等に分配しているように見えた。ソ軍の戦闘準備はそれだけ重厚だったのである。  関東軍司令部が前記のように二十三日になって漸く第七師団増加の処置をとったことは、用兵としては避けるべき兵力の逐次投入であったという誹《そし》りを免れない。司令部では、敵の攻勢は、補給線が長遠であるから、遠からず弾薬の欠乏を来すものと、希望的観測をしていたのである。二十日、二十一日、二十二日と三日間攻められてみて、敵の火力は衰えるどころか、熾烈になるばかりであった。そこで第七師団の増加が決定されたが、これは、遅かっただけでなく、増加兵力としても不足であり、戦闘が継続されれば、さらにまた逐次投入を必要とする規模でしかなかったのである。     55  八月二十三日 酒井部隊(歩七二)  小林少将の指揮する右翼隊として攻撃に参加することになっている酒井部隊では、朝から、森田徹部隊(歩七一)の正面を北方に移動した約三十輛の敵戦車に左翼側を狙われ、正面からは狙撃兵を伴った戦車四、五十輛の、数群に分れた執拗な攻撃を受けた。  敵砲兵はホルステン右岸地区に対して、後方遮断射撃を行っている。  午後七時二十分、歩兵団命令第六五号が来る。いよいよ、当夜、モホレヒ湖南方約八キロの752高地付近に前進して、攻勢開始位置につくのである。  連隊長は直轄隊長を本部に招致して師団の攻撃計画を示し、攻撃前夜に下給された日本酒で別れの杯を挙げた。  深夜零時、陣地を出発、752高地に向って前進。  このころから濃霧がたちこめ、二十四日払暁には咫尺を弁じない状態となった。  同二十三日 蘆塚部隊(歩二八)  森田範正少将指揮する左翼隊の右第一線として攻撃に参加する歩二八は、前夜来、将軍廟から夜行軍をもって機動し、二十三日午前五時、モホレヒ湖南側に集結した。  そのころ既にソ軍戦車部隊が付近に出現していて、これと交戦しつつ攻撃準備地点へ前進しなければならなかった。  ソ軍が日本軍の攻撃計画をどの程度に察知していたかは疑問である。ただソ連側が主張する国境線への進出を急いだだけであるかもしれない。結果的には、しかし、日本軍が攻撃準備位置につくまでに、既にその側背を脅かされる態勢になっていた。  歩二八は、二十三日夜半集結地を出発、二十四日天明までに752高地北東方の線に展開した。野砲兵大隊(1/7A)もその後方に陣地を占領した。予定時刻に間に合いはしたが、夜行軍、戦闘、また夜行軍でようやく展開線に達したのである。とても攻撃計画に示されたように「あらかじめ充分準備を整え」というわけにはいかない。計画が杜撰《ずさん》なのである。  左翼隊左第一線に予定されていた須見部隊(歩二六)の場合は、計画と実際状況との食い違いはもっとひどかった。  須見部隊は、二十三日夜半までウズル水付近に在って、移動する部隊の掩護に任じたのち、二十四日午前二時、自動車輸送によって新戦場へ進出することに部署が決っていた。その自動車隊の到着が遅れたのである。  部隊がウズル水付近を出発できたのは二十四日午前三時半ごろ、先頭部隊が新戦場に顔を出しはじめたのが十二時ごろであったというから、予定通り午前二時にウズル水を出発したとしても、払暁攻撃には間に合わなかった勘定になる。  左翼隊のさらに左外側を前進して敵の退路を断ち、ハルハ河渡河点を確保する任務を課せられている左側支隊(四ッ谷大隊)の場合も、移動開始が遅れ、したがって攻撃準備も遅れた。  攻撃は態勢の綻びたままに進められたのである。  同二十三日 砲兵団  攻勢移転の実施に関する師団命令は、正午になっても下達の時刻さえ不明であった。砲兵団長は、午後一時、師団司令部に出向き、師団命令の受領を求めたが、目下印刷中で発令までには若干時間を要するというので、師団参謀長から命令要旨の口達を受け、次級砲兵部員を残して帰った。  午後五時過ぎ、次級部員が持ち帰った命令を見ると、先の口達要旨とは異っている。  守勢地区を担当する砲兵部隊の正面は、第一線歩兵部隊の大量抽出転用のために、敵に対して全く開放された状態におかれることになっていた。  砲兵団長が師団司令部に理由を追及すると、師団参謀部は過失を認め、師団長は攻勢移転を一日延期して歩兵配備を変更しようとした。第六軍参謀長が強硬にこれに反対したため、命令はこれを変更することなく、バルシャガル高地線の歩六四に特別命令を追加発令して、歩兵の一部をもって重砲兵を掩護する処置をとった。  乾坤一擲ともいうべき攻勢移転が、行動開始直前の段階で渋滞や不注意が多過ぎたようである。  午後九時、転進開始。夜暗のため方位の錯誤を生じ、野砲重砲の陣地進入が予定通り進捗せず、砲兵もまた逐次戦闘加入を余儀なくされた。それでなくても火砲数において劣勢にある日本軍砲兵が、一斉に砲門をひらいて最大火力を発揮することもできなかったのである。  同二十三日 森田徹部隊(歩七一)  第一・第二大隊は、二十二日夜、最前線陣地を撤して旧連隊本部西側に達し、第一大隊は東南面し、第二大隊はその左翼に連繋、西南面して陣地を占領した。  第三大隊は糧秣も水もない状態で、黎明、三角山(758高地南東砂丘)を占拠した。補給は既に切れていた。その状況を、前掲歩七一・三木隊の小田大治はこう誌している。 「薄明と共に、御承知の如く日課の露集めです。草原に手拭を引きずり廻して、飯盒《はんごう》の蓋に絞ります。盃に約三、四杯位の雑巾の水より黒い露が一日分です。之れに乾パンの金米糖をとかしてのみます。乾パンは捨てます。あってものどは通りません。噛めば、苦しむばかりです。ノモンハン桜はすでに枯れて、茎を噛んでも汁は出ません。(中略)八月末とはいってもホロンバイルの草原です。日中の炎熱は日本の比ではありません」  当時、将兵の疲労はその極に達していた。重火器、特に対戦車火器はほとんど破壊し、速射砲は三角山に一門、第二大隊に一門あるだけとなり、弾薬も乏しかった。  ソ軍は、第一・第二大隊が後退したことに乗じて、午前八時ごろから三角山へ猛攻を開始した。  十一時ごろには、連隊本部への三角山からの連絡が絶えた。  連隊長は、午後三時ごろ、第一大隊に三角山救援を命じようとした。これに対して、第一大隊長は意見具申した。 「戦況は見らるる通り、敵は戦車を主体と為しあり此際対戦車火器無き僅かの兵力を増援し全滅を賭するは、部隊現在地を確保し任務達成に努むるに如かず」  道理ではある。連隊長は熟慮数分、これに同意した。三角山は捨てられたのである。  このころ、攻勢移転に関する師団命令が無線によって伝えられたが、電文の崩れがあったため、再電を要求した。師団司令部は、しかし、既に移動を開始していたため、応答がなかった。前日、歩七一が師団の伊藤参謀から伝えられた攻勢要領では、連隊は主力をもって参加することになっていたが、電文の崩れには要旨の変更かと思わせる節もあり、それよりも連隊長としては悲運の第三大隊を三角山に残したまま転進するに忍びず、取りあえず第一大隊主力(歩兵二個中隊、MG一小隊、大隊砲一小隊)だけを抽出して攻勢移転に参加させることにした。  陽の落ちるころ、三角山の銃砲声は鎮まった。  連隊長は、午後九時、第九中隊長・小野塚大尉に見習士官以下六名を指揮して第三大隊との連絡を命じた。  三角山は彼我の死屍累々としていた。頂上には赤旗が立ち、歩哨と戦車四輛があって、完全に敵の占領するところとなっていた。  大隊長出射少佐の生死は不明、友軍の生存者は陣地に見えなかった。  第三大隊の数少ない生存者は、右隣接の長谷部支隊に収容されていたのである。  この日の戦闘を、前掲三木隊の小田大治は次のように回想している。 「……十時過ぎ頃でしょうか。日課の敵の砲撃が始まります。弾は頭上を越えて、右後方の三角山へ集中します。砲煙と砂煙で見えなくなります。風が吹き払います。上部がありません。 �おい、三角山が崩れて行くぞ� �大隊本部がやられているぞ�  と、ロスケの弾を惜しまぬ砲撃に馴れてはいる兵隊達も、始めて身近によその事として眺めた時、余りな砲撃の烈しさに度肝を抜かれて、呆然として見ております。十五榴は益々集中します。  三角山は愈々崩れて上部は平たくなりました。  これは第三大隊の生き残りなら必ず見ている筈です。幾ら小さくても山は山です。砲弾で山が吹き飛ぶなぞ、ありそうもない事が、現実に目の前でありました」  このころ三角山の第三大隊将兵は、大隊長出射少佐以下大部分が戦死したものと思われる。  三木隊・小田大治の手記は、熾烈な砲撃と殺到する戦車群と戦う適当な手段を失った歩兵の惨澹たる戦闘を典型的に表わしている。ノモンハンがそうであったし、敗戦時のソ満国境もそうであったし、太平洋戦域の各地、荒れ狂う戦車の前に立たされた歩兵はみなそうであった。  手記はこうつづいている。 「そのうちに私達にも火が付きました。弾着は三木隊へと近づきます。砲撃と機銃が烈しくなります。勿論頭も出せません。生きて居るのは自分一人の様な気がします。気も狂いそうです。どれだけたちましたか、漸く小やみになります。息つく間もありません。きまりの様なものです。次に来るのは戦車です。敵の戦車が数台突進してきます。  二台は左後方へ迂回するのが見えます。  三木隊を包囲するつもりでしょうか。  例の如く、シュッパンパンと壕へまで撃ち込みます。この的確さは御存知の通りです。近距離のため発射音のドンは聞えません。一発と一発の間隔も驚く程に短時間で、シュッパンパンと撃ちかけます。機銃は勿論雨の様です。正面の戦車は傍若無人に突き込んで来ます。(中略)  真っ先きの戦車と、約三、四十米、中隊長の突っ込めが最後です。私の少し横に来て居た援護の重機の兵隊が、どんな手際か、アッという間に銃身だけヒッ抱えて、号叫一声、私と一緒に戦車へ飛びかかりました。(中略)この兵隊をハイラル帰還の日(粉雪の舞う日でした)尋ねましたが帰って来てはいませんでした。  兵隊達はこの日すでに一人二—三発しか手榴弾を持って居りません。その一発は使えません。負傷した場合後送出来ない時は、�自分で自分を始末する様に�と云われて居ります。(中略)  アンパン地雷も、ガソリン瓶も忘れる位とうの昔にありません。  手榴弾と小銃と円匙《えんぴ》でベーテーを破壊するのは、青江三奈の�どうすりゃいいのさ�ではありませんが、今に至るも思い当りません。停止の一瞬、手榴弾をキャタピラにはさむ戦友は居ります。然し決して切れません。  後年、手榴弾数個をキャタピラに、とか、プリズムを銃剣でとか、云々されるのも耳にした事がありますが、現実には、神技的にそうは参りません。(中略)  戦友はバッタバッタ斃れて行きます。裏も表もあるものかと、どんなに歯ぎしりしても、大鵬と子供の角力の様なものです。  火を吹いて動く鉄の塊に素手で取り組むようなものです。  こうして書いていても、残念で、血が煮えくり返る様です。激戦と呼ぶべきではなく、乱戦と云うのか、死戦と云うのか、悽惨苛烈目を覆うと云う言葉に血をふりかけ、息を吹き込んだら表現出来ましょうか。  生き残れたのが不思議です。(後略)」     56  八月二十三日 フイ高地  全員壕に拠って必死の防戦に終始する。戦況好転の兆は全くない。  午後三時、工兵陣地と野砲陣地は蹂躙された。  午後四時、敵の十五榴、十榴、野砲、戦車砲の集中砲火を浴びる。陣地はすべて砲爆煙に蔽われ、通視は利かず、連絡も絶える。  野砲は直接に戦車の攻撃を受ける。  午後八時、速射砲全部破壊。  八百の兵力が既に半数を割っている。糧秣既に乏しく、水の補給は絶え、弾薬欠乏し、火砲なし。陣地はもはや全滅寸前である。  同二十三日 バルシャガル高地  早朝来砲撃が激しい。一向に衰えない。飛行機も反復飛来して対地攻撃する。  歩六四(山県部隊)は、小銃、軽機関銃、重機関銃、山砲あらゆる火器を以て射撃する。  午後八時、第三大隊は山県支隊命令を受けた。山県部隊の右翼、731高地付近にある生田大隊(歩二六・須見部隊)に連繋してその東方「ろ」陣地(752高地南方約三キロの砂丘付近に至る陣地)を占領し、フイ高地方面の敵に対して支隊の側背を掩護せよ、というのであった。兵力は、第九・十中隊と機関銃一個小隊を欠き、代りに速射砲一個中隊と明石部隊迫撃砲隊主力を配属された。  これで、山県支隊は歩兵四個大隊(うち一個大隊は歩二六)を基幹とする兵力で、ホルステン北岸台上から733高地、731高地を経て北東ヘキルデゲイ水付近に至る約八キロ正面のバルシャガル高地全体を担当する陣形になった。  金井塚第三大隊長は、午後九時、大隊命令を下達して、連隊長に別れに行った。  山県連隊長は、銘酒白鷹をついで、 「これが最期だね」  と云った。 「部下の将校を連れて来なさい」  大隊長は将校たちを連れて行った。  別杯を挙げる。生きて再び互に相見ることはないであろう。感慨迫って、胸がつまる。  午後十一時三十分、第三大隊集合。連隊長が訓示した。 「おそらく補給もなく孤立した戦闘になると思うが、師団主力の攻撃が成功するまで三、四日間頑張ってもらいたい」  午後十一時五十分出発。バルシャガル高地を北上していると、夜闇を通して東の方から多勢の掛声が聞えた。攻勢移転のため大量の歩兵を抽出転用した結果まる裸となった重砲が、なるべく歩兵陣地に近づくための陣地変換を行っている最中であった。  前進の途中、花の匂いが異常に強い地帯を通過した。毒ガスかと懸念する者がいたほどであった。除虫菊が群がり咲いていたのである。  黎明、既に八月二十四日である。大隊は日本軍陣地とおぼしい砂丘を横切った。人影は見当らず、至るところ夥しい弾痕に覆われている。弾痕でない地表が見えないほどであった。この砂丘が731高地で、歩二六(須見部隊)から分派された生田大隊の守備陣地である。  午前四時、突如として濃霧に覆われ、連日の砲撃がはじまる時刻であったが、霧に紛れて発見されず、目的の「ろ」陣地に到着した。 「ろ」陣地というからには、当然、いろは順につけられた陣地記号だが、陣地構築中にいろはのどこまでつけられたか、それらが正確にどの陣地をさすかは、明らかでない。  同二十三日 ノロ高地  主力の長谷部支隊(八国)が八月六日この高地に進出したときの兵力は、歩兵二個大隊と一個中隊、速射砲七、連隊砲・迫撃砲各四、機関銃三五であった。ノロ高地進出と同時に、梶川大隊(歩二八の第二大隊—歩三中、機関銃・速射砲・連隊砲各四)を指揮下に入れたことは既述の通りである。  陣地正面は約六キロ。ここを攻めたソ軍は、狙撃師団一個と少なくとも三分の一、戦車一旅団程度であったらしい。兵力差も兵力差だが、その火力の差は、兵力差をはるかに上廻っていた。  荻洲第六軍は、攻勢移転のために、長谷部支隊の左翼、南東方に在った森田徹部隊(歩七一)を後方へ抽出した。この抽出は、森田部隊主力の予定であったが、森田大佐独自の判断によって、第一大隊の派遣だけにとどめた経緯は既述の通りである。  それでも、一個大隊の抽出は、長谷部支隊の左側背を急速に脅かす結果を招いた。  二十三日には、ソ軍の戦車と歩兵部隊はノロ高地の側背に迫り、ホルステン河谷を自由に横行する形勢になった。  森田大佐は、戦況視察に来た師団参謀に危険な状況を指摘したが、参謀の答は、二十四日の攻勢移転の際、師団主力はノロ高地東側に進出するから、それまでの辛抱であるというのであった。敵の横行を許す空隙部位に対する補強の策は講じられなかった。  全線にわたって兵力・火力の著しい劣勢は既に明らかであったであろうに、二十四日からの攻勢移転ですべてが解決するかのような感覚は、最前線で連日連夜猛撃を浴び、戦車の肉薄に脅かされなければ訂正できないもののようである。  この二十三日から、ノロ高地では患者の後送ができなくなり、支隊本部には重傷者が二百名を超えた。  この夜、左翼中隊が崩れて、敵戦車が後方に入った。陣地は否応なくまるくなる。  ノロ高地長谷部支隊の戦力が尽きるのは二十六日のことである。  同二十三日 梶川大隊(歩二八)  ノロ高地長谷部支隊の左翼に位置する梶川大隊は、連日苦戦に次ぐ苦戦で、かろうじて陣地を保っていた。  敵砲兵の射撃は激烈になるばかり。友軍砲兵の射撃はほとんどない。  補給路は散の戦車と歩兵が迂回して完全に遮断している。弾薬糧秣の補給なし。給水も絶えた。弾雨を冒して支隊本部から運搬したドラム罐一本が大隊の命をつなぐ水のすべてであった。  将兵は疲労困憊の極に達し、遅鈍になった。第一線の歩兵は散の砲撃激烈をきわめるなかで、ややもすれば眠り込んだ。  豪勇と重厚な性格で部下の信頼を集めている大隊長が第一線に来て激励に努めても、兵には容易に徹底せず、大隊長は熱涙をふるって幹部将校に叱咤激励を要求したという。  この日夕刻、梶川大隊の左翼端に隣接する大友小隊が敵歩戦の猛攻を支えきれず、支隊本部東南の砲兵陣地付近へ後退したため、梶川大隊後方へ敵が迂回するようになった。  十数輛とおぼしい敵戦車が行動する音が轟々として聞える。いつ突入して来るやも測り難い。  支隊本部との間の連絡は、伝令の行動も不如意である。砲撃のため、電話線はいくら保線に努めても、直ぐ切れる。  危機は刻々に迫っている。     57  八月二十四日  攻勢移転の日である。  日本軍第六軍の攻勢案は敵の右翼(南方兵団)の側背を衝いて、包囲的に捕捉しようとするものであったが、歩兵の攻撃準備位置への夜間の推進も、砲兵による攻撃準備射撃も、既にみてきたように、行う時間の余裕がなかった。時間はあったが、空費されたのである。  準備位置についた歩兵の兵力は予定に満たなかった。右翼隊(長・小林少将)では森田徹部隊(歩七一)が到着しなかった。左翼隊(長・森田範正少将)では須見部隊(歩二六)のウズル水方面からの転用に遅滞を生じて、未着であった。  ソ軍の第一線までニキロ半乃至三キロ、主陣地と推定される780高地線まで四キロ半乃至五キロである。  右翼隊は、二十四日午前五時、攻撃命令を下し、左第一線の森田部隊未着のまま、右第一線の酒井部隊(歩七二)だけで、午前九時三十分、攻撃前進を開始した。  左翼隊では須見部隊(歩二六)を欠いたまま、午前十時、攻撃前進を開始した。  砲兵は前夜の機動が遅れたため、逐次戦闘加入の形となり、一斉に砲門をひらくことができなかった経過は、既に述べた。  砲兵諸隊の任務を簡単に述べれば、十五榴大隊と九〇式野砲(各二中隊—八門)は左右両翼隊の戦闘に直協、十加大隊(二中八門)は対砲兵戦、十五加中隊(二門)は戦況の進展に応じ得るように待機、であった。  右翼隊に配属を予定されていた野砲兵第十三連隊第三大隊は、ウズル水付近での敵戦車来襲に備えるため、攻勢移転に参加することができなくなった。  日本軍全砲兵を通じての初弾がソ軍陣地に炸裂したのは午前十時三十分ごろであったというから、歩砲の協同ははじめから期待できない状況にあったのである。  これに反し、日本軍の左翼側を求めて進入したソ軍は、二十二日には早くも780高地線を占領し、縦深配備を布き、火砲の分散秘匿に努め、二十四日には既に鉄条網まで設けていた。  また、ソ軍の別の部隊は、既述の通り、森田徹部隊(歩七一)の守備範囲から744、747、757高地とニゲーソリモト付近の要点を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]取《もぎと》って、南面する日本軍攻勢部隊には右側方から強圧を加える態勢を整えていた。  ソ軍は歩・戦・砲・飛の協同が緊密に出来ており、日本軍を瞰制下に置く地形上の要域への進出が早く、優勢な火力と兵力を擁して、なお、陣地構築にきわめて熱心であった。  それを捕捉殲滅すると豪語した日本軍は、敵の側背を包囲的に衝くには兵力も著しく不足であったし、火力も寡弱であった。したがって、当然、兵力・弾薬資材の縦深配備ができなかった。何よりもいけないのは、劣勢は劣勢なりに充分な準備がなければならないのに、攻勢移転全般にわたって甚だしく準備不充分であったことである。高等司令部の重大な失策というべきであろう。その根抵には、何度実物教育をくらったら懲りるのか常識では理解しかねる軽薄な思い上りがある。運命を賭する決戦としての攻勢移転に際しても、なお、ソ軍の戦力を下算していたことである。潰滅的現象が表われるまで、日本軍指導者と作戦家たちは、自軍の戦略戦術に誤りはなく、用意は充分であり、自軍にはソ軍を撃破する戦力ありと信じていたようである。  たとえば、八月二十四日午前九時四十五分発の関東軍参謀長宛て、辻参謀からの電報には、次の字句が見える。 「……師団目下の態勢は敵右側背を急襲し得る公算大なり」  戦場を幾度も往来し、なおかつ、敵を知らず己れを知らないのである。その理由は、個人の性癖に帰するよりも、陸軍の教育に帰するところが大であろうと思われる。非合理、独善、尊大と並べてみて、勇敢の同義語たり得るものは一つもないにもかかわらず、軍隊が何よりも重要視した勇敢の内容は、あまりに屡々非合理であり、独善であり、尊大であったのである。  まず、攻勢移転の経過を、関東軍司令部の服部参謀がどのように総括しているかを見ることにする。次いで、当面の師団長・小松原中将が戦況の推移をどう捉えたかを見た上で、各部隊、各拠点の苦闘の経過を辿ってみたい。  服部資料によれば、八月二十四日朝にはじまった攻勢移転の経過の概略は、次のようである。  第二十三師団長は二十三日夜機動を開始し、概ね二十四日朝までに752高地の線に展開した(23D長は右翼隊後方にあって、主として本属部隊の攻撃を督励した——筆者)。  第六軍参謀長藤本少将と、関東軍参謀辻少佐も師団長と同行した。  兵力展開のときに突然深い濃霧が戦場に立ちこめ、砲兵の射撃を妨げたが、同時にまた味方歩兵も敵の砲火に対して暴露することなく前進を開始し得た。霧は約一時間後に晴れた。  正午ごろ、日本軍第一線は敵第一線直前に膠着《こうちやく》状態となる。ホルステン河に近く、日本軍右翼側に対して、敵戦車群の逆襲があった。  日本軍砲兵は敵陣を猛射したが、敵の砲撃は弾量においてはるかに優越している。  午後二時ごろ、右第一線は敵陣に突入したらしく、連絡が絶えた。  左翼隊森田(範)旅団方面からの連絡も絶え、戦況に不安の影がさしはじめる。  午後二時過ぎ(八月二十四日)、敵戦車数輛が日本軍第一線を浸透して師団司令部付近に現われた。野砲一中隊が辛うじてこれを撃退した(味方が何処まで敵に肉薄し得ているか皆目わからないときに、敵の鉾先は既に味方の本陣に達していたのである)。  間もなく、約三十機からなる敵の三個編隊が超低空で飛来、師団司令部を掃射した。このときは若干程度の損害で済んだが、午後四時ごろに、もっと悪い事態が生じた。友軍爆撃機が現われて、師団司令部の大行李を誤爆したのである。トラック十数輛、将兵多数を殺傷した(師団司令部大行李は当然後方だから、友軍飛行隊はほとんど戦況を把握していなかったことになる、せいぜいよく解釈して、敵機甲部隊が師団司令部付近を襲撃していると判断したものか。なんとしても空地の連繋不良は蔽うべくもない。誤爆はこのときだけではない。既に述べたことだが、八月二日、対陣持久の状態にあったときに、日本軍飛行隊は友軍である満軍興安師を誤爆して戦意を喪失させ、兵力の散逸の小さからぬ原因を作っている)。  日没ごろ、右翼隊小林兵団本部からようやく師団司令部に電話連絡が入った。「右翼隊は十二時頃敵陣地に突入したが、敵戦車の逆襲を受け、兵団長(小林少将)は行方不明(後刻、重傷と判明)、連隊長(酒井大佐)は重傷、大・中隊長は殆ど死傷した」というのであった。  相次いで森田少将(左翼隊)からも連絡があり、左第一線はこの日の攻勢移転の重点正面であったにもかかわらず、水がないのと、敵火が激しいのを理由として、まだ突撃を敢行せず、敵前約五百メートルで停止した、という。 「師団長の面上には憂色が深く漂い、第六軍参謀長亦途方に暮れるという状態」と服部参謀は誌している。小松原師団長の面上憂色濃かったであろうことは容易に想像される。彼は小林少将を頼みの綱としていたし、信頼する酒井部隊を小林少将の指揮下に入れての攻撃に、戦果を期待していたのである。小林少将も酒井大佐も重傷を負ったとあっては、小松原中将はいちどきに両腕を※[#「てへん+宛」、unicode6365]がれた心地がしたであろう。  日没直後、突然、右第一線方向から歩兵の一団が雪崩を打って退却して来た。酒井部隊の潰走であった。  ここで辻参謀の出番となる。彼自身に語らせる前に、小松原師団長が記しているこのくだりを見てみよう。 「小林部隊長、酒井部隊長及両大隊長負傷、軍旗を護送するや、部隊の士気沮喪し、健全者も続々後退、随意退却の状況を呈す。軍の辻参謀大喝一声�酒井部隊長を其儘にして帰るとは何事ぞや、速に兵団長部隊長を収容し来れ�と命令す。退却兵此の一声にて正気に返り、部隊の秩序を整ふるに至れり」  師団長や師団参謀がいる前でのことである。新京の関東軍司令部から来ている辻参謀が飛び出して行って、混乱を見事に処理するのだから、武者ぶりが水際立って見えたにちがいない。彼は作戦参謀として自信過剰のために重大なミスを幾つも軽率に犯したが、実兵指揮官として終始した方が彼のためにも兵隊のためにもよかったであろう。  この場合の彼自身の記述はこうである。 「壕から飛び出して退却して来た一群を捉えた。某中尉以下約四十名。将兵の眼は瞳孔が拡大しているようである。�参謀殿。右第一線は全滅しましたッ��何ッ。お前達がこんなに生きてるじゃないか。何が全滅かッ。旅団長や連隊長や軍旗を放ったらかして、それでも日本の軍人かッ�火の出る激しさで怒鳴った」  辻参謀得意の場面である。彼は、三年二カ月後、正確には昭和十七年十月九日夜、第十七軍司令官・百武中将に大本営派遣参謀として同行して苦戦相次ぐガダルカナル島のタサファロングに上陸した際も、同じようなことを云っている。上陸海岸に軍司令官を出迎えた第二師団の平間参謀が、 「第二師団の第一線は敵の攻撃を受け、マタニカウ川西方に後退し、歩兵第四連隊は全滅しました」  と報告したとき、軍司令官以下愕然として声もなかったなかで、独り辻参謀だけが、 「全滅とは何事か」  と、激しく詰問している。ノモンハンの場合と同じ心理の型である。ノモンハンの場合もガダルカナルの場合も、作戦の基本的な部分において最も深いかかわりを持った人物は辻参謀なのである。  辻が潰走した歩七二の一部隊を叱咤した場面をつづけよう。 「将兵はしばらく無言のままうなだれている。慚愧の気持が動いているようである。 �はい。悪うございました� �よし。今から俺が旅団長、連隊長を救いにゆく。背嚢《はいのう》を下せ。手榴弾をポケットに入れてついて来い。俺を中心に間隔二歩。散開。目標は燃え上る敵の戦車。前ヘ!� (中略)戦車が到るところに燃え上って、戦場一帯は篝火《かがりび》をたいたような明るさであった。(後略)」  軍隊には「ポケット」という用語と、歩兵に対して直接に「散開」という号令はないから気になるが、小松原師団長の眼に辻参謀の一喝が酒井部隊を正気づけたと映っているところを見ると、このときの辻少佐は確かに気合がかかっていたのである。  次は、師団の攻勢を実際に指揮した小松原師団長の戦況観察の概要である。  八月二十四日朝は濃霧立ちこめ、師団の機動は敵に企図を察知せられることなく実施された。  だが、左翼隊(森田範部隊)に対する命令の下達が遅延(二十三日十一時)したため、モホレヒ湖以南の機動が遅れ、集結と攻撃準備が予定通りに捗らず、ようやく二十四日午前九時ごろ完了したのと、森田徹部隊(歩七一)が命令通りに機動せず、左翼陣地の守備についたままであったため、攻勢に転用した兵力が予定より減り、師団予備隊を取ることができず、攻勢に重大な影響を及ぼした。  師団長は780高地南端に進出した時点で一旦各部隊を統制し、砲兵陣地を推進する予定を立て、小林部隊(歩兵二個大隊、砲兵一個中隊)には780高地西方台端、森田範部隊(歩兵三個大隊、砲兵二個中隊)に780西南方台端、四ッ谷部隊(左側支隊)に780南方台端に進出を命じ、砲兵団に協力を命じた。  諸隊は敵戦車と遭遇したが、砂丘地帯に入るまでは、攻撃前進が順調であった。  だが、使用兵力に対して正面過広の弊害は直ぐに表われた。兵力が分散し、砂丘林縁から南方への攻撃が一向に進捗しないのである。  小林部隊と四ッ谷部隊は正午ごろ、林縁に達したが、敵の狙撃兵と戦車の反復攻撃が激しく、友軍砲兵の協力は不充分で、日没ごろには小林部隊は約半数の損害を蒙った。  頼む小林少将、酒井大佐負傷。戦力急速に低下した。遂に夜間、やむなく酒井部隊を後退整理させなければならなくなった。  この酒井部隊の後退整理は師団長の処置ではなくて、小林少将と酒井大佐の救出に赴いた辻参謀の適宜独断の処置であった。再び辻の記録を挿入する。 「師団長は左第一線の攻撃が一向に進まず、右第一線方面(小林部隊方面——引用者)から明朝攻撃を再興することを考えておられた。或は既に電話で要旨が伝えられているかも知れない。しかし現実は余りにも甚しいちがいだ。(中略)  戦線をどうして収拾しようかと考えを纏めた。こうなったら夜の中に退げねばならぬ。弾丸もなく水もない戦場で、明朝攻撃を続行することは思いもよらない。しかし師団長の命令は攻撃続行である。否、この方面から戦果の拡張さえ考えられていた。それを万承知の上で、独断責任を負い、 �今から師団命令をお伝えします。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、師団は明二十五日払暁、森田部隊(左翼)方面から攻撃を続行す。 二、小林部隊(右第一線)は師団予備隊とす。 [#ここで字下げ終わり] [#この行1字下げ]本夜先ず全部の死傷者を一名残らず後送した後、兵力を纏めて明払暁までに、師団司令部の位置に集結すべし。�  全く師団命令と正反対の命令である。しかし師団参謀でない者が、敢てこういう命令を下さねばならないことは現実の必要からである。これ以外に手はない。全責任を一身に引受けよう、と覚悟した。(後略)」  この参謀の作戦案はまことに独善的で粗雑だが、この場面では確かに勇気|凜々《りんりん》としている。今様の言葉でいう「カッコいい」のである。  左翼隊(森田範部隊)では、敵線の一部を突破しただけで、大部は林縁さえも占領するに至らなかった。  師団通信隊は第一線に混入して、司令部は連絡手段を失い、そこへもってきて前記の友軍爆撃機による司令部誤爆があり、司令部員は分散し、機能停止の状態となった。  小松原師団長は、二十四日の攻撃が頓挫した理由を、次のように挙げている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、命令不徹底。準備不充分。   攻勢移転の作戦命令は八月二十三日午前二時各隊の命令受領者に伝達したが、遠隔地にある部隊、たとえば森田範(左翼隊)、森田徹(歩七一)、長谷部(ノロ高地)、井置部隊(フイ高地)には命令が届かなかった。無線で要旨命令を伝えはしたが不諒解の点を生じ、各隊は準備の暇がなかった。 2、森田徹部隊(歩七一)命令不実行。   森田部隊には二十三日伊藤参謀を派遣して師団の意図(歩七一主力をもって攻撃に参加すること)を伝え、二十四日には無線で命令を発したが、結果的には命令通りに行われず、師団攻撃に誤算を来した。特に、兵力不足のため工兵橋を放棄したことは、師団とホルステン右岸(北岸)部隊との交通連絡を困難ならしめた。 3、攻撃方向を砂丘と森林の錯雑地帯にとったこと。   砂丘地帯縁端の森林は各隊の連絡を妨げた。また、砲兵の協力支援が充分でなかった。森林兵を呑むの原則通りだったのである。平坦開闊地ならば日本軍の夜間攻撃が容易だが(果してそうか。平坦漠々とした地形のため夜間行動が方位を失して錯誤を犯した事例は、この戦場では少なくなかったはずである)、錯雑地は行動に不便を来した。780高地は戦術上制高地点として重要であるために主力をこれに投入したが、右の理由によって主力を780に指向したことは誤りであった。 4、各隊縦深区分ができなかったこと。   横に広く展開し、しかも正面過広のため兵力分散して、戦力密度が小さくなった。したがって、突破しても戦果拡張ができず、連絡が取りにくく、協力関係が疎らで、敵戦車に各個撃破された。これが攻撃頓挫の最も大きな原因であった。 5、概ね南面した攻撃方向は、水源地から遠くなるため、攻撃方向を西に振る必要を生じた。 6、砲兵は全部展開せしめるべきであった。遭遇戦的に一時砲兵を控置したのはよくなかった。 [#ここで字下げ終わり]  以上が小松原師団長の攻撃失敗に関する所見だが、師団は780高地に向って攻撃を続行した。  森田範正少将(左翼隊)は、780高地を確実に占領する決意を師団長に報告したので、師団では砲兵団に有効な協力を命じ、森田部隊に攻撃を続行させた(既述酒井部隊救出の際の辻参謀の独断による「師団命令」と同じ線である。辻参謀の師団長に対する献策ではなかろうか)。翌二十五日、砲兵団は集中射撃をもって有効な協力を行ったが、森田左翼隊は砲撃に膚接して前進する迫力を欠き、ようやく敵陣地を一皮むいた程度にとどまった。  もう一つの森田部隊(歩七一)から攻撃方面に抽出派遣された杉立大隊(第一大隊)は、二十四日夜になってようやく師団長の掌握下に入った。師団長は何故歩七一の全力をもって来会しないのか理由を質したが、明確な回答がなかった。  これは、既にふれた通り、森田徹大佐は三角山の第三大隊を救援はできなかったが、さりとて見捨てて後退するに忍びなかったのが本音と思われるが、師団からの無電による命令要旨に不明箇所があったので、二十三日夜、確認の再電を要求したとき、師団は既に移動を開始していたため、無線は不通であった。  森田大佐は、杉立大隊だけを派遣した理由として、連隊主力を攻勢準備位置まで後退することは、右に隣接するノロ高地の長谷部支隊を孤立させることになり、陣地維持が困難になるという判断をしていたようである。  攻勢正面へ派遣された杉立大隊は、移動の途中、敵戦車軍に前進を妨げられ、師団の攻撃には間に合わなかった。  以上が二十四日の戦闘を観察する立場からの概況である。  以下は実戦した諸隊の状況である。     58  八月二十四日 攻勢右翼隊・酒井部隊  午前九時三十分、攻撃前進開始。このころから濃霧が晴れはじめ、通視可能となった。  前進を開始すると、正面からの敵機関銃の猛射と、右側方から二十数輛の敵戦車の射撃を受け、応戦しつつ前進。  午前十時半ごろ、一旦後退したかに見えた二十数輛の戦車が再び現われ、正面の機関銃と呼応して十字火を浴びせ、連隊副官国本少佐以下死傷続出、第一線の攻撃は頓挫した。  酒井部隊(歩七二)は、敵の猛射のなかを、砲兵(7A)と連隊砲の協力を得て力攻を継続し、午前十一時三十分ごろ、まず、左翼第一大隊が敵第一線に突入、つづいて第二大隊も突入した。  しかし、午後三時ごろ、狙撃兵を伴った敵戦車五、六輛が右側から巧みに地形を利用して占領陣地内に進入し、酒井部隊の損害が俄かに甚大となった。危機迫り、軍旗を砂に埋めること数回に及んだ。  小林兵団長、このころ重傷に倒れる。幹部将校の戦死続出した。  酒井連隊長は軍旗を後退させた。その後も死傷続出、酒井大佐も負傷、連隊の攻撃力は激減した。  午後八時ごろ、軍参謀辻少佐が来て、前述の次第となる。  このころ、連隊長代理は大尉が、第一大隊は中尉が、第二大隊は少尉が指揮をとり、後退も容易でないほど戦場は混乱していた。  この日の戦闘による損害は、参加総員一二九五(七九)のうち、戦死三二四(三一)、戦傷三七七(二一)であった(括弧内は将校数)。損耗火器は、重擲弾筒一八、重機関銃五、軽機関統一四、速射砲一一、連隊砲一四。  敵に与えた損害の推定は、擱坐戦車二〇、破壊機関銃三〇、歩兵死傷三〇〇—三五〇という。  仮りにこれが実数だとしても、敵はなお酒井部隊を混乱潰走させるだけの兵員・戦車・火器を残していたわけである。  同二十四日 野重一  戦況の急迫は重砲部隊にも見られる。榊原『陣中日誌』は次のように誌している。 「昨夜弾丸が又二七七発到着する。霧の深い払暁、段列へ連絡に行く。午前中段列が放列陣地へ逃げて来た。他の部隊もトラック、乗用車で続々引揚げて来る。炊事場のすぐ後方迄敵の戦車が来てゐるとのこと。青い顔をして来た。俺の分隊もいよいよ戦車射撃かと思つて準備する。左側方へ十五加部隊が来た。手に手にガソリン瓶を持つた兵が抵抗線に着いてゐた。誰も命は無いものと諦めて、酒を少しづゝ汲み交し食物を全部平げて覚悟を決める。  俺も珍しく上衣を着て軍刀を提げた。前方から友軍砲兵がコチラを向いて砲撃してゐる。後方へ廻つた敵戦車を撃つてゐるのだ。  午後から後方四、〇〇〇米の戦車に対し射撃開始。ノモンハン——将軍廟間の道路は完全に敵に遮断されて了つた由。一度壕へ入れた火砲を再び外に出して後方の戦車に備へる。十五加染谷部隊長の情報では、右側方へ約三〇〇の敵歩兵現はる、と。火砲の射向を右側方へ向ける。戦車は真後ろらしい。全員壕を出たまま夕闇を迎へる。五〇米前方へ抵抗線を作り、個人用の壕も掘る。(中略)  二十時頃から射撃開始。拳銃、鉄帽、軍刀といふ始めての武装射撃。  砲兵団司令部の命令にて、後方丘陵一、二〇〇米の地点を伊勢部隊と共に射撃してゐたが、間もなく目標は友軍であることが判り、息セキ切つて走つて来た伝令兵に驚いて射撃中止。夜露を被つて弾丸の上に暫しまどろむ」  攻勢移転第一日のこの日、敵は既に深く後方へ廻り、戦線錯綜している状況がよくわかる。  八月二十四日  砲兵団の攻勢部署については前に記した。  畑少将は午前四時ごろまでに砲兵各部隊(守勢方面を除く)を掌握しようとしたが、諸隊の機動がおくれて、午前六時を過ぎてからようやく十五榴、十加、十五加の一部を掌握したので、九〇式野砲はまだ到着しなかったが、展開命令を与えた。少将自身は先行して、梯形砂丘付近で師団長と会ったときには、歩兵部隊もまだ展開の最中であった。  午前十時半、歩兵支援射撃を開始。敵砲兵の遮蔽は巧妙をきわめていた。敵は退却中であるか、ほとんど配備していないかのように見えた。  第六軍参謀長は前進促進の指導をした。敵情偵察などろくにしていないのである。既述のように攻撃準備位置につくのがおくれて時間がなかったからだが、時間の不足は何の理由にもならない。所要時間を充分に測定しない計画が軽率なのである。  軍参謀長の指導に基づいて、師団長は第一線部隊に一挙に砂丘を超越するよう指揮した。  第一線は砂丘高地の縁端へ前進した。それに跟随《こんずい》して師団長以下も徒歩前進をはじめた。  突如として、右側方からの敵の砲撃が集中し、前方高地の第二稜線に潜伏していた敵の火砲も猛射を浴びせてきて、前進は全く停頓した。  午後三時ごろまで砲兵団長は師団司令部といっしょに凹地を匍匐《ほふく》していたが、敵の射撃は一向に衰えない。  畑少将は観測所位置に帰り、待機していた気球隊の地上観測を用いて、ニゲーソリモト付近に遮蔽している敵砲兵に対して射撃を開始した。  夕刻になっても、第一線歩兵部隊は前進しない。できないのである。直協砲兵が後方に退り過ぎているから協力不充分である、という非難の声があった。  どうやって攻撃を成功させるかについて、高級砲兵部員金岡大佐が師団司令部に呼ばれた。歩砲の協同、砲兵観測所と放列の推進に関して師団の要望があり、第七師団・第二十二師団配属野砲をも畑少将が一元的に統一指揮することになり、砲兵の軍隊区分を改めて左右両翼隊直協に重点を置く方針をとった。  ところが、その直後、畑少将以下砲兵は予備隊となり、左翼隊(森田範部隊)だけで攻撃する、という参謀長からの通牒を受けた。  作戦方針一貫せず、指揮が動揺した。攻勢作戦は二十四日日没の時点で、成功の可能性はなくなっていたのである。  この日午前九時四十五分の関車軍参謀長宛て電報では、「師団目下の態勢は敵右側背を急襲し得る公算大なり」と云っていた辻参謀も、二十五日午前一時四十分の電報では、「㈰第二十三師団は本二十四日夕に至るも七八〇高地を奪取するに至らず。㈪戦場に於ける敵の抵抗は従前に似ざる執拗頑強さを示しあり、戦車も性能優秀なるもの多数出現しあるの情況に鑑み、速に第二師団、第四師団の速射砲を戦場に急派せしむるの要あるものと判断す」と訴えている。先の電報から約十時間後の戦況認識の変化である。電文中「敵の抵抗は従前に似ざる執拗頑強さを示しあり」というのは、弁解がましく見える。日本軍将兵が勇戦敢闘したこと、していることは、紛れもない事実だが、同時にまた敵がそんなに脆かったことはなかったのも事実であった。  辻の電報を受けてのことと想像されるが、二十四日の戦況に関して、服部主任参謀起案による、八月二十五日発、関東軍参謀長から大本営参謀次長・陸軍次官宛ての電報は、期せずして準備の立ち遅れを暴露している。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] 「1、ノモンハン方面に渡河攻撃し来りたる敵に対し徹底的打撃を与うる目的を以て、軍は第七師団主力及第三、第四軍より各速射砲四中隊をハイラルに派遣し、第六軍司令官の指揮下に入らしむ。  2、前項の部隊中、第七師団は二十五日夕迄、第三軍速射砲は二十六日夕迄、第四軍速射砲は二十七日夕迄に、ハイラルに到着する予定なり。  (一刻を争うときに一日、二日、三日の遅れは致命的である。敵には戦車数個旅団があり、味方には一輛もなく、火力の比較においても劣勢が明白であり、敵戦車の猛威は攻勢移転の日までわからなかったわけではないにもかかわらず、対戦車戦の準備不足のまま攻勢に移転したということは、既は度々記してきたように、敵の戦力を希望的に下算したのと、火焔瓶をもってする肉薄攻撃という日本軍自慢の前近代的な白兵主義を過信していたのである)  3、右部隊到着に先立ち、第六軍は集結し得たる歩兵約五大隊を基幹とする部隊を以てホルステン河左岸モホレヒ湖方面より七八〇高地(ノモンハン東南十粁)に向い二十四日朝来攻撃を執れるも未だ七八〇高地を奪取するに至らず。  4、第二十三師団は、各陣地共戦車を伴う優勢なる敵歩兵の攻撃を受けつつあるも、克く陣地を堅持しつつあり。 [#ここで字下げ終わり]  敵は従来よりも優秀なる戦車を加えたるものの如く、第一線の報告に依れば、ガソリン瓶の肉薄攻撃の効果なきものあるが如く一層速射砲の必要を感ぜしむるものあり」  速射砲のハイラル到着から戦場までは、さらにもう一日かかる。したがって、第三・四軍の全速射砲がノモンハン戦場に投入されるとしても、それまで敵が待ってくれる保障は何もなかったのである。  八月二十四日 四ッ谷大隊(左側支隊)  日本軍攻勢部隊の最左端に位置する四ッ谷大隊の攻撃開始はやや遅れた。  開始早々に十七—八輛の敵戦車の左側からの攻撃に悩まされ、午後二時から三時へかけて、大隊の前進方向が右に偏倚し、左翼隊(森田少将指揮)の歩二八(蘆塚部隊)の左大隊に混入してしまった。攻撃の重点を左翼隊方向に保持するためにその左側を掩護し、かつ、渡河点を確保する任務を課せられていた左側支隊が、その外側からの圧力によって、攻撃主力に混入するという形勢では、前途が思いやられる。  四ッ谷大隊を濾過した敵戦車が歩二八の軍旗間近まで迫る場面があった。肉薄攻撃(携帯地雷)と速射砲と九〇式野砲で七—八輛を潰し、火焔瓶で一輛を焼き、機関銃の徹甲弾をもって十メートルの距離で一輛を擱坐させた。  夜十二時、師団は四ッ谷大隊を森田旅団に併せ指揮させる処置をとり、旅団はこれを歩二八の指揮に属したが、間もなく、四ッ谷大隊は師団予備にとられた。  同二十四日 歩二八(左翼隊)  連隊の左大隊へ四ッ谷大隊が混入して来た歩二八は、右戦線では右翼隊の歩七二(酒井部隊——既述)と重なり合う状況となった。  モホレヒ湖南方約七キロの砂丘付近で攻撃準備をしたのが、この日午前六時ごろであった。はじめは濃霧で通視困難。  八時三十分ごろ敵戦車数輛を認めたほかは敵情を知り得ず、午前九時過ぎ、南方三キロの砂丘(770高地)方向から敵砲弾が頻りに第一線に落達した。  霧が晴れて、砂丘上に敵戦車と狙撃兵を見る。  午前十時稍々前、旅団の攻撃命令。前進開始。彼我の砲爆煙が濛々と地表を蔽う。  第一線は熾烈な敵火のなかを鋭意前進、死傷続出を冒して770稜線突角台上に進出したが、左隣接の歩二六(須見部隊)は当時攻撃準備位置から前進を開始したばかり(前述の機動遅延のため)であったので、蘆塚部隊は左側背に不安を感じていた。  果して、正午過ぎ、敵戦車十五輛が現われて左の第三大隊左側背を攻撃して来た。速射砲と軍旗中隊の肉薄攻撃で撃退したというから、敵戦車は至近距離に切迫していたのである。この戦車群が、前項の四ッ谷大隊を濾過したものであろう。歩二六が在るべき位置へ、左側支隊の四ッ谷大隊が圧迫されて右へ偏倚し、歩二八の左翼第三大隊と接触したのである。  右第一大隊方面では、右翼隊の歩七二が、その右側背を衝いた敵戦車群に蹂躙され、その衝撃は第一大隊に波及、その上に敵砲兵の猛射を浴びて損耗甚大となった。  夜に入って、錯綜した戦線を整理しようにも掌握困難な状況が翌二十五日払暁までつづいた。  同二十四日 歩二六(左翼隊)  連隊主力は午前十時過ぎアブダラ湖付近に集結、正午過ぎモホレヒ湖南方七キロに展開して、791高地に向って攻撃を開始した。連隊主力といっても、この部隊は他部隊への兵力の抽出派遣が多いので、実力は歩兵約四中隊、機関銃二中隊、歩兵砲一小隊、連隊砲三、速射砲一という程度であった。  791高地北方約二キロに細長い砂丘があり、その北端の第一線を突破したのが午後五時である。  前述のように四ッ谷大隊が右に寄って、歩二八の左翼と重複の形となっていたので、歩二八の左へ進出する予定の歩二六は、この夜、歩二八と攻撃区域の協定を行った。  攻撃の重点を置かれた左翼隊の戦況も捗々しくなかった。夜襲による戦果の拡大が当然考えられたが、歩二八は前述の次第で戦線整理も困難な状態にあり、歩二六だけが夜襲可能であったので、「之のみ夜襲せしむ」とある。ただし、その結果は明らかでない。  同二十四日 歩七一(森田徹部隊)  前日第三大隊を三角山に失った歩七一は、二十四日午前八時半、師団司令部との間の無電連絡を恢復して、現在の守備位置を報告し、連隊主力をもって転進(攻勢参加)すべきか否かを確かめようとしたが、応答がなかった。  午前九時三十分、遥か東北方に銃砲声が聞えた。師団主力が攻撃を開始したのである。  連隊は、師団がニゲーソリモト南方に進出するのを待って、敵を744高地方向に追撃する方針をとった。当時の連隊の兵力は、実力で歩兵三個中隊半、重火器として連隊砲二、速射砲一、重機関銃十二。連隊砲弾薬はかなり集積してあり、食糧はこの日朝ノモンハンから隊付主計以下が決死的補給を行って六日分を確保し、水もホルステン河から給水してあったので、兵力の少ないこと以外に支障はなかった。  午後になっても師団主力方向の銃声は南下して来ない。  ノロ高地の長谷部支隊方面では敵戦車の攻撃が激烈である。  師団主力へ派遣した第一大隊は、払暁、旧工兵橋南方の753高地付近を占領、所在の敵戦車と交戦しつつ、夜になって、捜索小隊(二十二日に部隊主力から工兵橋方面に出されていた)を合流して、752高地付近の師団司令部に到着、師団予備となった(二十四日午後九時)。  敵情偵察あまりに不充分なままに作戦が立てられ、それに基づいて諸隊の機動が行われたから、機動に予想外の時間を食われ、機動を必要とした作戦目的には添わない結果を生じた。歩七一第一大隊はその適例といってよい。  森田部隊主力は終夜対戦車壕を構築した。  午後十一時ごろ、八月上旬以来泉付近(ホルステン屈曲点付近)にあって、ソ軍の攻撃以後よく耐えていた馬匹班(一〇二頭)が、主力に合流して来た。これは、この日夕刻、第一大隊長からノモンハン付近に後退することを勧められたが、部隊主力と運命を共にするために前進して来たものである。連隊長は永田獣医少尉以下の行動を激賞しつつも、ノモンハン付近での待機を命じ、後退させたという。     59  八月二十四日 フイ高地(井置支隊)  前日対戦車火器を全部破壊され、敵戦車は侵入して来て残存火器を狙い撃ちし、狙撃兵も入って来て各所に赤旗を立てられたフイ高地は、既に断末魔であった。  二十四日、敵は砲撃せず、悠々と狙撃兵・戦車の協同部隊が押し寄せた。  午前五時、夜の明けるころ、敵の一部は早くも部隊本部幕舎付近に進入して来た。  午前七時、状況急迫。重傷者を収容してある工兵壕に手榴弾が投げ込まれ、機関銃を乱射された。負傷者は拳銃をもって応戦したが、全滅。  午前十一時以後、敵は何故か積極的に攻撃せず、戦車群が包囲していて、一人でも動くと、直ちに射撃を加えてきた。日本軍が最後の白兵戦を挑むのを避ける意図であったのかもしれない。  陣地内、糧食は欠乏し、水の補給は絶え、将兵は連日不眠不休の戦闘に疲労困憊の極にあった。  騎兵中隊は長以下全部死傷。生存者僅かに四—五名。工兵隊は前夜敵を夜襲して、そのまま離脱したようであった。  フイ高地の命数は尽きていた。守備部隊の任務も既に終っていたといってよい。敵の大部は既にフイ高地を超越して、深く背後に進入していたのである。  小沼メモに次のような記載がある。 「十四時井置(中佐、支隊長——引用者)拳銃自殺せんとし中止せしめられしことあり」  その井置中佐は、午後四時、次の命令を出した。 「捜索隊は圧縮せられたる現況を打破し師団の戦闘を有利ならしめんとす。  之が為只今より隠密に準備し二十二時を期し、敵を求めて攻撃しつつ、旧捜索隊本部——マンズテ湖道(給水路)を経て敵の側背を求めて攻撃しノモンハンに向い前進せんとす」  井置支隊生存者がフイ高地を離脱したのは翌二十五日午前二時ごろである。尽すべきは尽し、フイ高地にはもはや戦略的意味はなくなったと井置中佐が判断してのことであった。  ここを攻めあぐねて予定以上の兵力を投入したソ軍は、フイ高地の日本軍将兵を英雄と讃えた。日本軍上級機関は、しかし、それとは全く反対の態度をとった。  服部資料には、右翼支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点正面の戦況として、「右翼側フイ高地は、二十三日夕刻より優勢なる敵の攻撃を受け、陣地の要部を破壊され、二十四日夜部隊長井置中佐は、命令なく、陣地を放棄して後退した」と誌している。 「命令なく」は事実である。師団命令が「死守」であったことも事実である。俗にいう刀折れ矢尽きた状態であったことも、また事実である。師団との連絡方法が失われていたことも事実である。井置中佐が拳銃自決を図り、配属歩兵中隊長辻大尉に制《と》められ、撤退命令を出すよう意見具申されたことも事実である。フイ高地を「死守」して全滅しても、この時点ではもはや戦略戦術上何の効果もないことも、最も重大な事実であった。  フイ高地放棄に関して、『関東軍機密作戦日誌』には次の記述がある。 「二十六日夕辻参謀戦場より帰還して情況を報告す。今日迄、新京に於て最も苦慮しつつありたるは、フイ高地の保持可能なりや否やの問題とホルステン河南側の陣地確保の如何なりしが、本報告により、フイ高地は八百の兵力中、三百の死傷を生ぜしのみにして、陣地を撤し、然も、捜索隊長井置中佐の師団長宛の報告には其の守地を棄てたるに対して謝罪の字句なきを知り、且、我左翼方面の攻撃不成功の報に依り暗然たるものあり」  これは二十六日夕刻新京に帰還した辻参謀の報告に基づいている。同じ二十六日午後十一時、師団参謀長から関東軍参謀長宛ての電報には、 「フイ高地の部隊は連日の包囲攻撃を受け、蓄積し置きたる弾薬も尽き補給も報告も遂に至難となり、小銃以外の火器は悉く破壊せられ、陣地は保持困難に陥りたるものの如く其後消息不明なり。(以下略)」  とある。  辻参謀がフイ高地の死闘についてどれだけの認識を持っていたかは、かなり疑問がある。前掲機密日誌で、新京が苦慮していた二つの問題の一つが、フイ高地の保持可能なりや否やということであった。というにしては、戦場での辻参謀の指導の手がフイ高地にさし伸べられた形跡がないのである。  辻の報告が、フイ高地の八百の兵力中、三百の死傷を生ぜしのみにして、陣地を撤し、というのも、正確でないだけでなく、悪意さえ感じられる。  フイ高地での八月二十日から二十五日までの兵力損耗は、総員七五九、死者一八二、傷者一八三、生死不明二一、損耗率五一%で、脱出人員は二六九である。井置中佐本属の騎兵第二十三連隊は、総員二五四、死者一〇一、傷者七四、生死不明一〇で、損耗率は実に七三%に達し、脱出人員は六八に過ぎない。  火砲は悉く破壊され、小銃のみとなり、しかも本来の歩兵は一五〇しか残っておらず、糧食なく、水なく、敵が砲撃の必要さえも認めなくなった陣地を、辻参謀ならどのように保持し、守兵をどのようにみな殺しにしたというのであるか。  八月二十四日 バルシャガル高地  この日の歩六四を中核とするバルシャガル高地一帯の配置は、次のようであった。  ホルステン北岸733高地付近に歩六四の主力、その北方約四キロ731高地に歩二六第一大隊(生田大隊)、さらにその北方約二・五キロ(ろ号陣地)に歩六四第三大隊が位置し、733高地東北約一・八キロに野砲兵第十三連隊(13A)第二大隊が、生田大隊正面と歩六四主力正面に火力を準備していた。野砲陣地は、当然、歩兵陣地の後方である。733に対して東北一・八キロというのは、ハルハ河の線を敵正面とみれば、733の後方に当るが、このころにはソ軍のかなりの兵力が日本軍陣地を迂回あるいは浸透して、戦線が錯綜しているから、「後方」という表現は意味をなさない場合が多い。  バルシャガル守備陣地としては北端にある第三大隊ろ号陣地から、さらに北へ約十キロ隔って、この日戦力が尽きたフイ高地がある。  朝来、約一個師団とおぼしい敵がフイ高地方向から疎開前進して来た。フイ高地には前述のように砲撃の必要も認めなくなった敵は、一部をもってフイ高地を包囲し、大部は日本軍主力の側背にまわろうとしていたのである。  午前十時、戦車・装甲車各百輛と二十門を下らぬ野砲を伴った歩兵の疎開大縦隊が、ろ号陣地の東北約四キロの地点を南進した。この敵部隊はろ号陣地(第三大隊)を無視して、師団の右側背に向って前進していたのである。  バルシャガル高地守備陣地は正面過広で、敵の大縦列の通過を易々と許した。逆にいえば、それだから、歩六四は他部隊に較べればずっと長く兵力を温存できたともいえるであろう。  運が悪かったのは、731高地に位置した歩二六第一大隊(生田大隊)である。この陣地は、霧が晴れるのと同時に激烈な砲撃を受け、砂塵と爆煙が高地全体を蔽った。敵は731正面に明らかに兵力を増加していた。生田大隊の陣前五百に押し寄せ、その野砲と戦車は悠々と右翼へ迂回していた。生田大隊が潰滅するのは翌二十五日夜のことである。  バルシャガル最北端ろ号陣地(歩六四・第三大隊)は、もし敵が731高地生田大隊に対すると同様に兵力火力を集中したら、やはり生田大隊と同じ運命を辿ったであろう。  この第三大隊は陣地占拠後、工事を急いだが、鉄条網は資材がなくて構築できなかったという。資材がなかったというのは、上級司令部にその着意がなかったことと解せられる。昭和十四年の日本には、まだ有刺鉄線ぐらいなくはなかったのである。  ろ号陣地では、対戦車地雷は中隊当十個内外しか携行しなかったから、埋設する余裕はなく、肉薄攻撃に用いるにも充分ではなかった。肉攻に用いても、砂地のために爆発力を吸収されて、効果がなかったということである。  この陣地の取柄は、中央凹地を約一メールも掘ると白濁した水が滲出したことであった。この水のおかげで、陣地が完全に包囲されて補給を断たれても、将兵は渇をしのぎながら抗戦できたという。  午後六時ごろ、ろ号陣地西南方、激しく砲爆煙が立つなかをトラック一輛がジグザグに驀進して来るのが見えた。  第三大隊全員が固唾を呑んで見守るうちに、トラックは陣地の丘の蔭に到着した。山県連隊長が遠くへ手放した第三大隊を巡視に来たのである。連隊長は、前日、これが最後、といって第三大隊長以下の将校と白鷹を酌み交している。彼は陣地を端から端まで巡視して、兵の一人一人の労をねぎらい、帰って行った。第三大隊将兵が山県部隊長を見るこれが最後となった。  バルシャガル正面のソ軍は、夜、戦場に静寂が戻ると、マイクを使って日本語による降伏勧誘の宣伝を行い、つづいて日本軍将兵の胸にしみ入るような音楽を放送した。日本軍の頑強さをもてあましたと解するか、大勢既に決したと解するかは、読者次第である。     60  八月二十四日 ノロ高地  長谷部支隊(八国)を主力とするノロ高地の守備力は、左隣接の森田部隊(歩七一)の戦力如何に深くかかわっていた。既述の通り、森田部隊では、攻勢移転のために第一大隊を抽出して右翼隊へ派遣したが、この抽出によってノロ高地の左側背が急速に薄くなったことは否めない。  ノロ高地は側背へ敵に易々とまわられたことによって完全に孤立し、防禦力の限界に速する時期が早まったと考えられる。もしそうなら、師団の攻勢移転に際して、師団の予定通りに森田部隊主力の抽出後退が行われたとしたら、ノロ高地の終焉はもっと早かったといえるかもしれない。  師団攻撃計画では、森田部隊主力がニゲーソリモト付近に後退して敵の攻撃力を吸収している間に、師団攻勢主力は敵の側背を衝いてノロ高地東側地区に進出するというのであった。  攻撃計画は画餠に帰しつつあった。敵は大兵力を用意して、日本軍全正面を圧迫し、迂回し、分断し、包囲する態勢を整えつつあった。日本軍は、攻撃兵力は予定通りに揃わず、それだけ守勢兵力が強靭の度を保持し得たかといえば、そうではなく、過重負担の影響は直ぐに現われていた。  要するに、圧倒的な歩兵戦力、圧倒的な砲兵火力、圧倒的な空軍力を集中して、その綜合戦力を組織的に一挙に発揮する以外には、ホルステン南北両岸で軍事的成功を収めることは望み得なかったのである。現実には、日本軍は、どれ一つをとってみても劣勢にあった。  日本軍陣地北端のフイ高地は既述の通りこの日潰え、南端のノロ高地は二十六日に断末魔を迎えることになる。  同二十四日 梶川大隊(歩二八第二大隊)  長谷部支隊の左翼に位置する梶川大隊では、左隣接友軍部隊の後退の影響が最も顕著に現われた。敵の攻撃はいよいよ猛威を振い、俗称蒙古山には敵の野砲と十五榴が陣地を占め、梶川大隊を左側背から砲撃した。  大隊主力陣地正面には敵戦車が増加し、右翼から陣内へ突進して来たが、これは砲兵の射撃観測と偵察を目的としていたものらしく、敵の砲撃は熾烈の度を加えるばかりでなく、弾着が正確となった。それに反して、大隊では、火器も不足なら弾薬も不足で、射ちたいときに射てない。  正午ごろから約二時間、敵砲兵の猛射、つづいて陣地稜線に対して重火器で掃射を行い、これに膚接して歩兵が近迫し手榴弾を投擲して来た。  激闘数刻、第一線は一進一退を繰り返した。大隊長以下銃をとり、手榴弾を投げ、戦死傷者をかまっている暇がない。敵は突入可能な至近距離にある。  左翼では、蒙古山方向からの敵の攻撃がいよいよ急で、陣地一角が敵の手中に陥ちた。左翼小隊が全滅したのである。  長谷部支隊長は梶川大隊に対して、増淵隊の残存者軍曹以下約四十を増加したが、左翼小隊の一角失陥によって、敵はますます大隊陣地後方に迂回、攻撃陣地を構築しはじめた。  夜になって、梶川少佐は長谷部支隊長に電話で状況報告を兼ねて、今後の戦闘指導の意図を質した。陣地はもはや壊滅寸前にある。  支隊長の応答は、なるべく長く陣地を確保せよ、ということであった。長谷部大佐としても他に云いようはなかったであろう。云うとすれば、守って死ねというか、後に決行したように撤退を指示するかだが、どちらも時間的にはまだ少し早過ぎたであろう。  大隊長は部下の隊長を集め、死守に関する注意と重要書類の始末を指示した。  梶川少佐がこのとき示した大隊長としての方針は、全滅を覚悟してなるべく長く現陣地を確保するが、無意味に現在地で全滅するだけが能ではない、という根本的な考え方に立っていた。そのために、  第一案としては、第七中隊主力の健在する限り、陣地をその左翼に連接するように後退させて、最後まで長谷部支隊の左翼を守る。  第二案としては、第七中隊が全滅したら、大隊主力は正面から突破行動に出て、スンプルオボー台上で最期を決する。  第三案としては、大隊主力の全滅前に師団の攻撃が功を奏したら、大隊はこれに連繋する目的をもって大隊陣地の左翼から攻勢に転ずる。  部下の各隊長の意見は、損耗あまりに激しい現状から判断して、明二十五日正午まで陣地を保持することは困難である、また、第七中隊の左翼に大隊陣地を連繋して後退させることは実施不可能である、したがって、本二十四日夜暗を衝いて大隊正面から突破し、スンプルオボー台上に 最期を飾ろう、というのであった。  大隊長はこの意見具申を抑えた。過早の突撃は長谷部支隊に不利を招き、師団攻撃にも影響が少なくない。もし大隊長の三案いずれも実行不可能の状況に陥ったなら、潔く現在地にあって死のうではないか。  こうして、生存者は大隊長のもとに集り、死屍累々のなかに朗々と詩を吟じた。詩は『城山』であった。 「孤軍奮闘囲を破って還る  一百の里程塁壁の間  吾剣は已に摧《お》れ吾馬斃る  秋風骨を埋む故郷の山」  互に誓う処ありたり、之により、大隊長以下各幹部胸中何等の不安なし、と戦闘詳報に誌されている。  満身創痍の梶川大隊は、梶川少佐の思慮によって絶望的な突撃に移ることなく、翌々二十六日夜九時半、長谷部支隊長からの撤収に関する筆記命令(後述)を受けるのである。     61  八月二十五日  関東軍司令部では、先に、八月二十三日、第七師団をハイラルに進め、これを第六軍の指揮下に入れたが、その後二十五日までの情況から、寺田高級参謀は第二・第四師団を戦場に急派する必要のあることを盛んに主張した。  これまで辿ってきた経過をみても、もし戦闘が続行されなければならないものとすれば、兵力の不足は明らかである。  だが、新京では、服部、島貫両参謀が寺田の意見に反対であった。その云い分は、第二・第四師団をノモンハンに派遣することは全満の作戦構想を根本的に変更することになるのと、ノモンハンに関しては軍の統帥が若干神経過敏の傾向があるから、情況がもう少し詳しく判明するまで師団増派を待った方がよい、というのであった。  この日未明、戦場の辻参謀から関東軍参謀長宛てに打った電報には、先に見た通り、第二・第四師団の速射砲を戦場に急派する要請はあったが、右二個師団の実兵力を送れという要請はまだなかった。これは、辻の計測が甘いのであって、二十四日夜までの各戦線、各陣地の苦境はこれまでに詳しく見てきた通りである。  関東軍司令部では、前記の参謀たちの合議によって、取敢えず戦場に在る辻参謀に師団一個(予定は第二師団である。何故第二・第四の二個師団の一挙投入を考えないのか、不審でならない。またしても逐次投入が考えられている)の増派の必要の有無を問い合せる電報を発した。電文中該当部分を摘むと、こうである。 「……更に師団等を増加するの必要の有無に関し貴見至急承り度」  この電報は、辻参謀が第一線に出ているときに第六軍司令部に届いたので、第六軍参謀長が返電した。その要旨は、敵の兵力と日本軍第一線兵団の戦闘力から考えて、第七師団主力のほかにさらに新鋭の一個師団を加えることは、敵に徹底的打撃を与える企図を達成するには肝要であると信ずる、ということであった。  第六軍の意図は、第二師団が増派される場合には、先遣の第七師団は第二十三師団の陣地確保に充当し、増派がない場合には、第七師団を攻撃の重点方面に投入するものと判断された。  寺田課長以下は、さすがに、第二十三師団の防禦戦闘は困難に直面しており、したがって先遣第七師団は陣地保持に充当する必要があり、したがってまた、一刻も早く第二師団を増加する必要がある、との判断に達した。  第二師団、野戦重砲兵連隊、速射砲部隊、自動車部隊等の増派に要する処置が終ったのは八月二十六日午前二時であった。  これによって実兵力が戦場に到着するのは、早くても数日後のことになる。それでは遅過ぎたのである。戦場では二十五・六・七日と加速度をつけて破局的段階に陥ることを避けられなかった。  この二十五日午後、東京の参謀次長から関東軍参謀長宛てに次の電報が入っている。 「ノモンハン方面戦況に鑑み兵力増派に関し研究中なるも、貴軍将来の企図、第七師団使用の景況等承り度」  なんとも悠長の感を禁じ得ない。  これに対して、同日服部参謀起案による、参謀次長宛て関東軍参謀長からの次の要旨の返電が打たれた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、第七師団主力(歩兵二個連隊基幹)は本二十五日夜半から逐次戦場に到着する予定。現在までの第六軍現有兵力をもってする攻勢移転は進捗していない模様である。 2、軍のノモンハン処理に関する根本企図には変化はないが、彼我の現態勢とヨーロッパ情勢の変化に応じて如何なる方策が採られる場合でも、ハルハ河付近の敵に対して局地的に打撃を加えることは絶対的に必要と確信している。 3、右のため、本二十五日、第十一師団以外の関東軍の保有する全速射砲、重砲を第六軍司令官の指揮下に入れるよう処置をし、別途、戦略兵団の増加に関しては研究中である。 4、兵力を関東軍に対して増派されるのならば、飛行第五九戦隊とこれに伴う飛行場部隊、自動車部隊、速射砲部隊の至急有力な増加を希望|する《(註四)》。(以下略) [#ここで字下げ終わり]  先の次長電が悠長なら、この関東軍の電報は甚だ率直でない。関東軍としては戦略兵団の増派は喉から手が出るほど欲しかったのである。けれども、それを要求するのは「如何にも不快」であったという。東京—新京間の積り積ったこじれがある。出先から要求しなくても、大所高所から判断して必要を充足するのが中央ではないか、という肚がある。兵力増派をしてくれるのなら喜んで使うが、不足とわかっていて、しかも現有兵力のままでやれと継子扱いするのなら、やってみせようという依怙地《いこじ》がある(苦戦を強いられるのは前線将兵であって、彼ら司令部のエリートたちではないのである)。  第三項末尾の「戦略兵団の増加」というのは第二師団のことだが、「研究中」という字句によって、中央が先に関東軍に対して増加を予定していて、そのまま沙汰やみの状態になっている第五師団の増加を期待していた、というのである。日本語は含みや拡大解釈の余地を残していて、屡々不正確であることを言語的特徴としているが、その文章のなかに一字も表出されていないモノを意味するほど都合よくは出来ていないのである。  戦場では鉄火の試練が刻々に深刻の度を増し、悲惨な運命の終末が近づいてくるときに、後方の高級機関ではこんなくだらない字句の応酬をやっている暇があったとは、怖るべきことであった。  この八月二十五日、ソ軍第一軍兵団司令官の決戦思想は、主力部隊の行動をその外側からさらに一部の兵力をもって掩護しつつ緊密な鉄環を形成して、まず日本軍のホルステン南部の部隊を、次いでホルステン北部の部隊を殲滅することにあったということである。 [#ここから1字下げ] (註四)本文で省略した電文の部分は次の通りである。 「五、尚敵ハノモンハンニ集結シ得ル所有兵力ヲ集中シ彼亦局地的必勝ヲ企図シアルモノニシテ之ヲ以テ戦面ヲ他ニ拡大スルモノトハ信シアラス」  状況の変化が然らしめたにはちがいないが、第七師団推進の必要が議せられたときには、他正面でソ軍が行動を起こす懸念があるから、唯一の戦略予備兵団としての第七師団をノモンハン戦に備えて推進するのは不適当であると作戦参謀たちは主張して、ノモンハンを第二十三師団だけで処理しようとしたことを想起されたい。用兵の構想がいつも姑息で、しかも独善的なのである。 [#ここで字下げ終わり]     62  第六軍司令官荻洲中将は、二十四日の攻勢失敗にもかかわらず、その夜、攻撃続行を決意した。攻撃精神の旺盛は軍人の本領だが、攻撃の失敗には理由があるはずであり、その理由の克服なしに、減少した兵力をもって攻撃を続行することには、はじめから成功の希望はないといってよかった。  敵の戦力は少しも衰弱してはいなかった。砲兵は無尽蔵とさえ思える弾薬を惜し気もなく使用して、濃密な火網を構成していた。戦車群は謂わば突進する砲兵陣地として猛威を逞しくしていた。爆撃隊は巨弾を降らせる空の砲兵の観があった。ソ軍爆撃隊は二十四日から二十五日へかけて、延二一八回出撃して、九六、〇〇〇キログラムの爆弾を投じている。  ソ軍は戦場に絣《かすり》のように疎開していた。その陣地は巧妙に遮蔽され、偽装され、日本軍は正確に射撃目標、突撃目標を捉えることが困難であった。それでいて、周囲の至るところから猛打を浴びせてくる火力組織によって犠牲を強制されたのである。  荻洲中将の攻撃続行には兵力増加の措置はなかった。二十四日の戦闘で右翼隊(酒井部隊)と左側支隊(左翼隊の左外側にある四ッ谷大隊)とが、部隊を整頓しなければならぬほどの損害を蒙ったことは既述の通りである。したがって、二十五日の攻撃続行では、右の二つの部隊は予備隊として後方に退り、攻撃兵力は森田範正少将指揮する左翼隊だけとなった。  これでは勝算が立つ道理がない。退くに退けず、兵力の増加を待つのは軍司令官として面子が立たないというのであろうか。  関東軍司令部の服部参謀は、二十五日の戦況を簡単にこう概括している。 「二十五日、森田部隊方面より攻撃を再興したが、指揮官に積極的戦意がなく、且、戦力も亦不足して遂に奏功するに至らなかった」  第六軍司令官や参謀たちが何を考えていたのか、正直なところ、判断できない。仕方なしに攻撃を続行したとしか思えない。何を信じたのか、何を頼みにしたのか。戦闘は錯誤の連続といわれるが、それを貫いているものはあくまで科学的法則である。理外の理などというものはないのである。  森田少将は、第六軍—第二十三師団の命令を受けて、二十四日午後十一時、二十五日の攻撃のための命令を下した。その要領は、砲兵の突撃準備射撃につづいて、右第一線の蘆塚部隊(歩二八)をもって780高地を、左第一線須見部隊(歩二六)をもって780東側の要地を攻略するというのである。  八月二十五日午後一時三十分、第一線両連隊は攻撃前進を開始した。例によって、日本軍が動き出すと同時に、ソ軍は猛烈な火力を発揮した。日本軍は前進を阻止され、戦線は混乱して、またもや夜となった。「指揮官に積極的戦意がなく」と服部参謀は誌しているが、戦意があれば敵の火力を突破できた、と服部自身が保証することはできないであろう。もしそうなら、明らかな戦備の不足を戦意の不足にすり替えた、参謀としての責任回避というべきである。  この日の戦闘で歩兵の前進を支援した砲兵団の立場から戦況がどのように観察されたかを見た上で、攻勢・守勢諸隊の戦闘経過を辿ることにする。もはや指揮は混乱し、統一的作戦などありはしなかったのである。  八月二十五日 砲兵団  畑砲兵団長は師団の部署変更に伴って砲兵の軍隊区分は従来のままとして、旧左翼隊の右左各第一線に区分協同を命じた。  歩兵の突撃のための支援射撃は、第一線歩兵部隊の全正面に対して、野砲六中隊(旧左右両翼隊配属の四個中隊と九〇式野砲二個中隊)、十五榴二中隊の火力を集中し、友軍の突撃を阻止するであろう敵の側防火器と戦車に対しては、十加大隊の火力を指向する計画であった。  二十五日午前八時、第一線歩兵部隊の突撃準備完了の報告があった。砲兵は、突撃部隊直前の敵陣地に濃密な弾幕を展張した。  歩兵部隊から突撃実施の合図があった。砲兵は射程を伸ばし、歩兵は突撃に移った。  突撃は成功するかに見えたが撃退され(おそらく、支援射撃は巧妙に分散遮蔽した敵火砲に対して、見た目ほどの有効打を与え得なかったのであろう)、歩兵部隊は発進位置に戻ることを余儀なくされた。  突撃支援射撃は第二次、第三次と反復された。飛行隊からは敵兵退却中という報告がもたらされた。今度こそは突撃成功間違いなしと思われた(飛行隊が敵退却中という誤報を行ったことは今回がはじめてではない。地上部隊が空中からの誤報に基づいて前進を急ぎ、失敗した例は七月以来の戦闘で既に見てきた通りである。誤報の理由は明らかでない。単なる移動を退却と誤報したり欺騙されたりする場合もあろうが、この場合、敵が欺騙手段を用いる必要はなかったであろうから、誤認とみるのが妥当であろう、既述の友軍誤爆とも考え合せると、空地の協同と連絡は甚だ不充分であったと判断される)。  歩兵の突撃は僅かに敵陣地の一角を奪取しただけで、突撃反復の都度撃退され、死傷続出して攻撃は挫折した。砲兵渾身の支援射撃は三基数の弾薬を使用して、虚しく夜を迎えたのである。  二日間の攻撃によって敵を包囲殲滅しようとした企図は、もはや砕けようとしている。ホルステン北岸地区に残した部隊の安危が気遣われた。  畑砲兵団長は次のように誌している。 「……歩兵にして尚一段の推進力ありたりとせんか、敵陣地の突破敢て難しとせざりしなるべし。宜しく更に歩砲の協定を周密補綴して一挙に成果を獲得するを要し、且、其実施は神速を期せざれば、右岸部隊(ホルステン北岸の守勢部隊——引用者)につき危機を孕ましむるに至るべし。実に重大時機なるを痛感する」  歩兵にもう一段の推進力があったらというのは、この場合、無理である。前日の攻撃で蘆塚部隊は立て直しを必要とするほどの状態に陥ったあげくの、引きつづいての攻撃であるし、須見部隊は既述の通り兵力を分派して、連隊とは名のみの程度の兵力しかなかったのである。この程度の兵力で敵の主攻正面に対する突撃が成功すると、指揮官や参謀が考えたとするならば、その根拠がせめて『機密作戦日誌』ぐらいには明示されていなければならない。そんな根拠はどこにもなかった。  畑砲兵団長の危機の予感は中《あた》っていた。砲兵諸隊を含む各部隊の潰滅的危機は、次の日に迫っていたのである。  同二十五日 酒井部隊(歩七二・右翼隊)  前日の攻撃戦闘で大打撃を蒙った歩七二は、連隊長は大尉が、第一大隊は中尉が、第二大隊は少尉がそれぞれ長を代行する状態にあり、師団戦闘司令所付近に後退して予備となった。両大隊は各二個中隊、一中隊は二個小隊という縮小編成である。  前日の戦闘で、部隊は、右側から襲いかかった戦車群に蹂躙され、恐慌を来したのである。部隊が崩れるまで、敵は陣前二—三百メートルから銃砲撃を加え、酒井部隊の対戦車射撃が衰えると、徐々に接近し、歩兵は手榴弾を投げては喊声をあげるだけに見えたが、各所に赤旗を立て、砲兵、戦車に対して位置を示し、相撃を避ける配慮をしていた。その正面の敵と応接している間に、右側に迂回した戦車群が突入して来たらしいのである。  この一撃で、小松原師団長が最も信頼した小林少将(重傷)直率の歩七二は、翌二十五日には攻勢に参加することもできないほどに打ちのめされたのであった。  同二十五日 蘆塚部隊(歩二八・左翼隊)  午前二時、森田少将(左翼隊長)から、払暁以後791高地の敵を攻撃せよという命令を受け、前夜来の混乱を整頓することを求められた(791を攻撃、と戦闘詳報にあるが、筆者には納得がゆかない。その後の戦闘経過では、歩二八は780に向い、歩二六が791西方高地を攻撃している。部署変更があったとも方位誤認の結果とも思えない。不審である)。  午前八時三十分、支援砲兵には十五榴が加わり、午前九時には九〇式野砲も到着して、彼我の砲戦は激烈をきわめた。  畑砲兵団長は一方的に日本軍砲兵の弾幕構成を讃えているが、事実の経過が示すところでは、濃密な弾幕構成と敵に与える有効打とは別事であるようである。  歩二八は、午後一時三十分、砲兵の突撃支援射に膚接して攻撃前進を開始した(旅団命令には払暁以後とあって、それが午後一時三十分になった理由も明らかでない。戦線整理に手間どったものか)。  攻撃前進に移ると、沈黙していた敵の重火器が俄然猛射を開始し、野砲も一斉に砲撃してきた。特に側防火は熾烈で、かつ、命中精度が高かった。左第一線の第三大隊が損害が多く、大隊長以下死傷続出した。  想像するに、友軍砲兵は見えない敵を、特に前進正面を射って、側防火器を捕捉し得なかったのであろう。  第一線は前進を阻止され、またもや戦場混沌とするうちに夜となった。  攻撃第二日も失敗したのである。ホルステン以南の限定戦場で、前日の歩兵力でも足りなかったのに、さらに突撃兵力の減少したこの日、攻撃が挫折したのは、なるべくしてなったとしかいいようがない。前日は遭遇戦的に砲兵の一部を控置して悔いを残し、この日は砲兵は三基数を撃ったが、歩兵力寡弱で、必然的な結果を見たのである。  同二十五日 須見部隊(歩二六・左翼隊)  砲兵の突撃支援射撃は広い正面の一部に集中していた。したがって、部隊が前進を開始すると、左右からの戦の重機が猛威を振って、損害甚大となり、前進困難に陥った。  敵火を避けるには夜襲しかなく、攻撃続行の旅団命令を受けて、連隊長は夜襲計画を示したが、このころ連隊の銃は二百挺以下に減少していた。  旅団長の懸念は、左右の戦の火力が強烈なので、これを潰す方法がないとすれば、第一線歩兵は進出すれば全滅的打撃を受けるにちがいないということであった。  森田旅団長と岡本師団参謀長との間に次のような電話が交されている。  森田「全滅しても取る必要があるか」  岡本「攻撃とは一寸でも二寸でも出ればいい。この上損害を増されては困る」  この辺が先の服部参謀の概況記述に「指揮官に積極的戦意なく」と、森田左翼隊の攻撃失敗の一因として挙げているところかもしれない。  しかし、敵の側防火器に前進を阻止され、それを冒せば全滅の惧れがあるのは、旅団長や連隊長の責任には属さない。須見部隊を例にとれば、二百挺未満の小銃しかない歩兵部隊が、歩・砲・戦の協同組織の出来た敵線を突破貫通できるかできないかは、積極的戦意の問題ではなくて、むしろ数学にかかわる事柄であった。  同二十五日 森田徹部隊(歩七一)  朝来、敵は兵力を増強しているらしく見えた。十二榴と戦車砲の猛撃は、付近の砂丘の形が変ってしまうほどであった。  師団主力方面の状況が全く不明で、主力の進出をじりじりしながら待っているが、一向にそれらしい気配がない。  連隊本部と工兵橋(ホルステン河)の間も、ノモンハン南方一帯も、いまは敵戦車が自在に行動していて、患者の後送や弾薬、糧秣の補給は僥倖以外に望めない状態である。  連隊は、師団主力の進出を待って、747高地方面へ攻撃前進をする予定であったが、師団主力が進出して来ないので、午前十一時、「若《もし》本夕刻迄に師団の進出を見ざる時は、直接小林少将の指揮下に入り攻撃を共にせんとす」と打電した。小林少将が前日重傷を負い、軍医の決死的な活動によって救出されたことを、この部隊はまだ知らないのである。  師団からの返電は「別命ある迄現陣地を確保すべし」というのである。  先には、師団命令の不徹底と照会確認のための無電の不通のため連隊主力は攻撃に参加せず、今度は攻撃に参加しようとすれば、現在地確保の命令である。歩七一からの発電の時刻には、左翼隊の歩二八と歩二六はまだ攻撃前進を開始していないが、師団としては森田部隊を敵の側面に機動させる必要はないと考えたか、その余裕はないと計算したものか。  森田部隊は現陣地確保の命令によって、陣地の補強に従事した。     63  八月二十五日 フイ高地  フイ高地守備の諸隊が陣地を離脱したのは二十五日午前二時過ぎのことである。井置支隊長以下三百余名、二つの梯団に分れて北東に進み、午前三時半ごろ敵歩哨線に衝き当ったが、そのまま通過した。その後約十五キロ前進したころ夜が明けた。カンジュル街道付近であったらしい。  午前五時半ごろ、敵の捜索戦車が来たので、疎開隊形をとって前進、午前十時半、満軍の歩哨線に達した。  満軍の好意でトラック三輛の出迎えを受け、負傷者をこれに乗せ、部隊は徒歩行軍で午後二時、オボネー山(将軍廟西北約五キロ)西方約十五キロの満軍司令部に到着、この日はここで宿営した。  井置部隊長は満軍を通じて第六軍司令部に連絡をとり、オボネー山占領を命ぜられ、その際、部下が散乱しているので、部下を集める時間的余裕を考慮されたい、と懇請している。これが、早くても二十五日の午後もかなりおそいころと推測される。二十六日に新京に帰還した辻参謀の報告によって、関東軍は井置中佐以下の無断撤退を知るわけだが、辻参謀が井置支隊の状況を承知していたとは想像し難いのである。  井置中佐が東に進路をとってノモンハン方面をめざさなかった理由は、判然しない。「方向を誤り北に行き(満軍位置)」と、井置支隊配属の歩二六の中隊の者が述べているが、方向を誤ったのか、敵の抵抗の少ないところを選んだ結果がそうなったのか、いずれとも判然しない。前夜の井置中佐の決意は「マンズテ湖(フイ高地からはほぼ真東に当る)に転進、爾後、師団主力の戦闘に参加する」ということであった。ノモンハン付近に敵の有力部隊が既に出没していることは、敵が一部をもってフイ高地を包囲し、大部が迂回もしくは浸透して後方へ進出したことから、推定し得ていたかもしれない。  井置支隊生存者が合流した満軍は、二十日(ソ軍の攻勢開始日)までホンジンガンガ(フイ高地北方)とフイ高地の南方に一部あったものが、北方へ退却したのである。  井置中佐はその辺の動向も把握していたかもしれない。  いずれにしても、フイ高地にはもはや戦略的価値はなくなったと判断して、撤退を決意した井置中佐が、とりあえず残存兵力の保全を第一義と考えたであろうことは想像に難くないし、理性的であったといえるであろう。  第六軍は、無断撤退した井置支隊を任地に追い返しもせず、攻撃作戦に連繋する要点への推進を督励することもなく、将軍廟に近いオボネー山の守備につけた。敵の迂回・包囲・分断の危機が第六軍司令部や後方兵站に迫っていたから、|支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点《しとうてん》としての意味もなくなった最前線陣地からの、予期せぬ兵力の後退出現は、側背に憂いを抱く司令部としては、皮肉な云い方をすれば、願ってもないことだったのである。  井置中佐は、しかし、命令なくして守地を放棄した廉《かど》で自決を強要され、ホロンバイルの草原にみずからの命を断つことになる。九月十六日深更のことである。  作戦要務令第二部第十五号に「戦闘ノ経過遂ニ不利ナルニ方《あた》リ退却ヲ実行スルハ上級指揮官ノ命令ニ依ルヲ本則トス」とある。本則は本則であって、すべての場合に妥当しない。  フイ高地は、二日後のノロ高地もそうだが、絶望的な戦況にあって上級司令部との連絡の手段を断たれていた。上級司令部は攻撃作戦に腐心して、守勢陣地を放置していた。したがって、状況判断は守地の指揮官の独断によるほかはなかったのである。上級指揮官の命令指示を期待する手段もなく、待つ時間もないほどに戦況が切迫したら、どうするのか。フイ高地は先の「本則」が妥当しない適例であった。陸軍の狷介固陋《けんかいころう》な精神主義は破壊的である。守地に死ねば忠勇義烈とし、百方手段を尽して、なお生きて後図を策すれば怯懦《きようだ》とみなされる。自決を強要する者は、概ね、後方の安全圏に在って、生死のはざまを闘魂をもって生き抜く何百時間かを持たなかった者である。  フイ高地の運命はノロ高地の運命を予告し、ノロ高地のそれはまたバルシャガル高地の終焉を予報するものであった。  八月二十五日 バルシャガル高地  日本軍陣地の南翼(ノロ高地)北翼(フイ高地)に較べて敵の攻撃が幾分緩徐であった中央のバルシャガル高地一帯にも、この日から敵の猛攻が加えられた。フイ高地の運命は前述の通りであり、ノロ高地にも後述するように断末魔が迫っており、山県部隊(歩六四)を主力とする中央陣地バルシャガル高地は敵が後方にまわって離島の状態を呈しつつあった。  この夜、歩二六の第一大隊(生田大隊)が守備する731高地が陥落したため、その北東方キルデゲイ水南西に在る歩六四の第三大隊と、ホルステン北岸733高地の歩六四主力の右翼との間隙は五キロにもひろがった。敵の進出通過は自在である。  ホルステン河谷の敵の行動も頓《とみ》に積極的になる。  この日から翌二十六日へかけて、歩六四の各大隊は、兵力各五百内外が一挙に百五十名内外に激減した。  第三大隊が位置するろ号陣地からは、早朝来敵の大部隊が陸続として南下、師団の右側背方向へ進出するのが望見されたが、どうにも打つ手がない。  敵の戦車・装甲車数十輛と歩兵約二千が、陣前約四キロから疎開前進して来た。  午後三時、激烈な支援砲火の下に、戦車十八輛と歩兵約三百が生田大隊との間隙から直接ろ号陣地へ攻撃前進を開始。敵砲火があまりに猛烈で、味方の火力を発揮できないうちに、敵は陣前二百乃至二百五十に迫った。  速射砲が戦車めがけて射ちだしたが、近距離であるにもかかわらず、命中しない。見ると、砂地の上で砲が傾いている。揺架が砂地にめり込んでいるのである。火急の場合にあわてたものか。訓練精到でなかったらしい。堅い草地に砲を出し、車輪位置や駐鋤《ちゆうじよ》位置を固定して、陣前百メートルに迫った戦車群に今度は次々に命中弾を浴びせ、大隊砲は敵歩兵を射って、辛うじて撃退した。  左隣接の生田大隊(歩二六)も早朝から前日までにない熾烈な砲撃を受け、終日砲煙砂塵に蔽われていた。  午後三時ごろから、歩戦協同の敵部隊が生田大隊を包囲しているのが望見された。敵戦車は生田陣地を左廻りに旋回し、ときどき停止して集中射を浴びせ、また砂塵を巻き上げて走りまわっていた。戦車が停止して陣地を射つのは、その陣地に対戦車火器がない証拠である(私事で恐縮だが、六年後、筆者も東部ソ満国境に近い陣地で、停止した戦車群から山が震憾するような集中射をくらって、所属中隊が全滅した経験がある。そういうときの戦車の猛威は、傍若無人というか、戦慄的というか、対戦車火器のない歩兵は手も足も出ず、むざむざと死んでゆくのである。生田陣地も、おそらく、それと同じ状態であったろうと思われる)。友軍砲兵の支援射撃もほとんど行われていなかった。  夕刻になって、戦場は静かになった。敵の歩兵と戦車群は第三大隊ろ号陣地から約千メートル離れて包囲態勢をとっていた。生田陣地のように突入蹂躙するには時期尚早とみたのであろう。  昼間の砲撃によって、連隊本部や生田大隊との間の電話線は断線していた。保線兵が月明りを頼りに保線に出かけたが、断線箇所が多くて、なかなか通じない。  生田大隊に下士官を連絡に出したが、その報告によると、連絡下士官は切れた電話線を探して辿りながら、生田陣地と思われるあたりに達すると、数名の人影を発見した。どうもロシア語で話しているらしい、体も日本兵より大きいようである。さらに近づいて暫く偵察をつづけたが、ロシア兵に間違いなく、生田陣地は既に占領されていた、というのであった。  午後八時、第三大隊から連隊本部に五号無線で状況を報告すると、返電は「奮闘を謝し、御健闘を祈る」と云って来た。  補給は既に杜絶している。この日から、食糧一日分として乾麺麭一袋。弾薬も節約。敵はふんだんに射ち、味方は惜しみながら射つ。戦勢既に定まっているのである。  バルシャガル733高地東北一千八百にある野砲兵十三連隊でも、夕刻、状況が切迫した。前方歩兵陣地の間隙からと、後方へ迂回した敵からの攻撃が急だったのである。  第二大隊は、各中隊が重要書類の処置をした。  ここも、食糧は乾麺麭しかなくなった。輓馬はもっと可哀相であった。第六中隊を例にとると、高梁一俵を残すだけとなって、七五頭に等分に分けた。あとは餓死させるだけである。  第三大隊は、フイ高地方面から敵戦車・装甲車約百輛と歩兵少なくとも一千が東南方に前進するのを目撃し、白銀査干オボー台上には散の大縦隊を望見、フジルブルーム南方凹地には敵重砲数門が陣地占領しているらしい砲煙を見た。  友軍機数機が散砲兵を爆撃したが、その後は一回も飛来しなかった。  ウズル水方向からの敵の歩戦協同部隊が南下前進するのを見て、野砲は野重一と協力して射撃したが、ハルハ台上からとフジルブルーム南方の敵重砲と、イリンギン査干西方の敵砲兵からの砲火を浴びて、友軍重砲は多大の損害を蒙ったようであった。  敵歩戦は徐々に近迫する。敵砲火と銃弾によって砲側の死傷続出する。  薄暮、敵は陣前約百メートル。全員突撃の覚悟を固める。  側背に迂回した敵戦車群は九中隊段列付近に出現、さらに重砲陣を襲撃したらしく、その方向喧騒である。731高地生田大隊陣地は余命いくばくもない。  この日払暁、大隊長が野砲兵連隊本部に切迫した状況を報告すると、歩兵一中隊を増援するという回答に接したが、夜になっても増援部隊は遂に到着しなかった。  バルシャガル高地一帯の後方(東方)に布陣していた重砲兵諸隊(守勢支援)は、二十三日夜までウズル水付近に在って右側背を掩護していた須見部隊(歩二六)主力が、同夜半攻撃方面に抽出されて移動すると、右側背はガラ空き同然となった。畑砲兵団長の記録によれば、先に述べたことだが、砲兵掩護の歩兵部隊を移動させた部署について師団司令部に注意を促すと、部署の変更はできないが、歩六四の一部をもって砲兵を掩護する処置をとるということで、砲兵団長も諒解したことになっている。  事実の経過は、師団は出来ない約束をしたのであり、砲兵団長は不渡の約手を信用したことを示している。歩七二と歩六四の二個連隊でハルハ河に面して敵に対陣していた正面を、歩七二(酒井部隊)が攻撃右翼隊として抜けた正面まで負担しなければならなくなった歩六四に、とても砲兵陣地の側背まで護るだけの余力があるはずがなかった。  第六軍や第二十三師団司令部の攻撃作戦に科学的・兵学的に成功の確算がなかったことは既に見てきた通りだが、司令官も師団長も参謀も攻勢にかかりきって、守勢方面はなおざりにされたのである。  その結果としての端的な被害を、守勢支援の砲兵諸隊が蒙ることになった。砲兵は巨大な火砲を操作してこその砲兵である。敵に懐ろへ入られたら、砲を撃つこともできず、自衛火器さえろくにない。轟々と砂塵を巻いて陣地進入し展開する砲兵の豪壮な姿は歩兵には垂涎《すいぜん》ものだが火砲が破壊され手もとに敵に飛び込まれたときの砲兵隊の悲劇は、想像するだけでも慄然とする。  ソ軍機甲部隊は、歩二六がホルステン南岸へ移動すると、背後から日本軍砲兵陣地へ襲いかかったのである。  穆稜《ムーリン》重砲兵連隊(十五加)について、小沼メモに簡単な摘録がある。 「二五日夜、連隊長各中隊長を集め相談す。  陣地移動に関し相談。分散不能。  近接戦闘する為西北に移動。  二六日早朝より四周より来る。(中略)  火砲故障、射撃し得ざるに至る。左右300より射てず。一分一発。(中略)  敵三〇米に接近。分隊長にて直接戦車に向いしもあり。  対戦車地雷連隊七〇〇、ガソリン瓶各人に準備。燃えず(敵戦車が燃えない——引用者)。(後略)」  十五加、十加部隊の玉砕は八月二十六日である。  守勢の歩兵も砲兵も、ホルステン南岸での師団主力の攻勢に期待をかけて、兵力・火力ともに明らかに劣勢な苦戦に耐えていた。戦況は全然好転しなかった。戦理は数学の外にはなかった。砲兵諸隊も歩兵各陣地も急速に戦力を失った。後述するように八月二十六日夜半にはノロ高地長谷部支隊が、二十七日には十五榴大隊(野重一第一大隊)が破断界に達するのである。     64  八月二十五日 野重一(第一大隊)  バルシャガル733高地後方(東方)にあった守勢支援の十五榴大隊に刻々迫る危機の様相は、榊原『陣中日誌』に次のように書かれている。 「(前略)東が白む。状況はいよいよ切迫する。火砲二門は前方を、二門は後方へ向けて射撃準備する。  七時�前方凹地に戦車一〇台現はる�の情報に接す。応急観測所も放列に出来た。大隊の観測所が前進した。  荒井軍曹がガソリン瓶一ツぶら下げて�これさへあれば戦車など平気だよ�と元気で笑つた。(中略)  今日から二食だ。昨日から今日にかけて盛んに砲弾落下、昨夕はあと二寸位のところで左拇指を切り落されるところだつた。(中略)  十五時頃より戦車来襲。続いて戦車砲、山砲級の弾が猛烈に飛んで来る。十五加部隊の火薬炎上する中を吾分隊は戦車に対して射撃敢行。間もなく吾分隊の薬筒にも命中、背中を焼かれてゐたたまれず、遂に交通壕へ一時退避させる。物凄い集中射だ。今弾雨の中で之を綴つてゐる。(中略)  暫くすると今度は十五加級の大集中射を浴びる。息が苦しい。吸つたまま息を吐く間もない。ツバを吐くとツバと砂が半分半分だ。  再び戦車現はる。勇敢に之を射撃撃退する。  重機関銃がすぐ前で鳴り出した。刀の止め金を脱してツカを握り、突撃を待つ。死の数時間、十五糎級の集中射益々激し。  夕暮、第一分隊の方へ行く交通壕を辿ると、破れた鉄帽の下に二人の兵が半裸で焦げて転つてゐる。何ともたとへ様のない肉と血と硝煙と土の匂ひが激しく鼻を突く。誰か見分けるヒマもない。(中略)  集中射益々激烈。夢見る心地の何時か。  吾火砲は左車輪に敵弾を受け、車輪は卵型になつて見る影もなき迄に変り果ててゐる。噫《ああ》十五榴今や声なし。  死体の収容を始める。夕闇濃し。(中略)  石井は手首が無い。同じ班で教育した兵隊だつたので特に気に懸り、何度も様子を見に行つたが、出血多量で刻々顔の色が変つて来る。背負つてこちらの壕まで連れて来る。(中略)  夜を徹して陣地変換することになる。第三、第四分隊の火砲は仕方なく緊要部を解体破壊して土中深く埋め、本体は置いて行くこととした。吾火砲の防楯に�露助奴、すぐ取返しに来るからな!!�と白墨で走り書く。須見部隊の歩兵四名貰ふ」  末行の須見部隊の歩兵というのは、おそらく、生田大隊の生き残りが合流して来たものであろう。生田陣地は、前段で記述した歩六四第三大隊の下士官の報告に照らしても、このころ既に敵手に陥ちていたのである。  十五榴大隊の最期はあと二日に迫っていた。  同二十五日 ノロ高地  この朝、無線機破壊される。連絡は残る鳩通信と、配属野砲兵第十三連隊第一大隊の砲兵無線だけとなったが、それも全く不確実となる。  各中隊の兵力は既に三十名内外に滅少している。  長谷部支隊がノロ高地を支えきれなくなるのは二十六日の夜だが、二十五日の陣地の状況は、潰滅した歩七一の三木隊からこの陣地に合流していた小田大治が、その末期的様相を誌している。 「(前略)この日の敵の砲撃はすざまじく、眼前数十米のところは弾幕に閉ざされます。馴れては居ますが、矢張り何とも云えぬ嫌な瞬間が流れます。日暮れが待ち遠しくて、夜を引っ張り寄せたい程です。夕陽の輝く頃には、砲煙と砂煙りが中空に厚く漂って、これに光の反射か、オーロラの如き光彩のある煙幕がかかり、一種異様な美しさを描いた程です。(中略)  夕月の下、歩哨を頼まれて、交替に行き、驚きました。三木隊の戦友宮崎良治が立哨中、砲弾の大きな長い破片を背中から胸まで突き立てた儘伏せた姿勢で戦死をして居ります。(中略)  戦死した兵隊の指を戦友がとります。それに姓名と日時と場所を記して、尚念の為に、認識票で縛ります。(中略)ほんの二、三日分ですが、二十二日タ方には伊東(小田の戦友——引用者)の雑ノウは戦友の指で一杯になって居りました。(中略)  扨《さ》て、とっぷりと日は暮れました。戦野を吹く風は肌身を透して心に沁みます。この時なつかしのメロデーが聞えて参りました。はじめは、戦争呆けで幻覚を起したかとびっくりしました。  間違いありません。ソ軍陣地から、長谷部支隊へ向けた放送です。スピーカ—は間近くに感じられました。先ず佐渡おけさ風な日本民謡調の哀切なメロデーが流れます。それはまことに胸を緊めつけるように、心にしみるものでした。明日をもわからぬ夜の戦場という異常さの中で耳にする哀切なメロデーだけに感情にひとしおのものがありました。それが又敵の狙いでもあったでしょう。メロデーが途絶えます。次に聞えて来るものは、�日本の兵隊さん、あなた達はだまされています……�の呼びかけに始まる長谷部支隊への降伏の勧めです。この降伏勧告の放送がメロデーと交互に繰り返します。(中略)  遠く敵の陣地には、日本軍への警戒でしょうか、点々とサーチライトが点けられ、陣前をなぎ払うように照らしております。(中略)  降伏の呼びかけは、何の効果もないようですが、哀切なメロデーには弱りました。(中略)あたりには、私語する兵もおりません。夜風はいよいよ身に沁みます。夜空は高い筈なのに、手を伸せば払い落せそうなほど、星がこぼれるばかりです。月はいよいよ天心に冴え渡ります。  まだ二十五日のうちと思います。或はすでに二十六日だったでしょうか。まだ西に月が残っていた様にも思います。何時頃かは覚えません。 �歩兵は集れ�との命令が伝えられます。(中略)  扨て、歩兵は集まって来ました。ほんの僅かで数十人に見えましたが、先の方はおぼろで小人数に見えたのかも知れません。(中略)  星月夜の下で見る将校の方はスラリとした幾分年配の方に見えました。(中略)この方が長谷部大佐だったかはわかりません。淡々とした口ぶりで話されます。然し、その内容は決して淡々としたものではありません。  只今より敵陣地へ夜襲をかけるとのお話です。少しも激されず、ついそこいらまでピクニックにでも連れて行かれるような口調でした。おわりに、この夜がお互いに最後の袂別《べいべつ》ともなるであろうとのお言葉があって、水盃をする事になりました。(中略)  将校水筒の蓋を私が持ちます。その将校の方が注がれます。無論水は入っておりません。注がれる真似です。私はこれを飲みます。勿論口をつけますが只飲む真似です。この時ふれ合ったこの方の手指のぬくもりは未だに忘れる事が出来ません。(中略)初めて死に対する悲愴感が身体中を充たしました。(中略)  黒々と連なった兵隊の中を黙々と水盃の行事は進みます。(中略)  送ってくれるものは夜風ばかりでした。(後略)」  先の榊原日誌といい、この小田手記といい、命数まさに尽きようとする日本軍陣地の情景を、その場にいた者だけが持つ確かさで表わしている。  八月二十五日 梶川大隊(ノロ高地)  早朝から敵砲兵の十字砲火と背後からの戦車の攻撃が激しかった。大隊はこのときはじめて支隊本部(長谷部)に砲兵の掩護射撃を要求したが、砲兵は既に弾薬がなくなっていた。  敵の砲撃約二時間。つづいて歩兵が重機・軽機で第一線を掃射しながら陣前に近迫して、稜線に赤旗を立てた。陣地攻略直前のソ軍歩兵の常套手段である。火砲に目標を与えて、砲撃の合間に赤旗が前進して来るのである。  梶川大隊の将兵は赤旗を倒すべく死力を尽したが、陣地の前方と左右は敵歩兵の火力で封鎖され、後方は戦車によって制圧されている。まさに袋の中の鼠である。陣内砲爆煙濛々として、通視がきかず、呼吸も困難となる。  第一線は手榴弾の投擲合戦である。僅かに残った擲弾筒二筒が大隊火力の骨幹となっていたが、それさえも弾丸を射ち果し、重機の一部と小銃だけになってしまった。  既に戦運は定まっている。午後三時、敵迫撃砲の集中射。午後四時、戦車による砲撃熾烈をきわめ、死傷続出。無傷の者僅かに十数名を算えるだけとなり、軍衣袴は鮮血に染まり、全員手榴弾による接戦。敵が戦車をもって殺到すれば蹂躙にまかせるほかはない状態であった。  弾薬も糧秣も全く尽きた。  暗くなって、大隊本部から七中隊に連絡を出し、まだ陥ちていないことがわかると、前日の大隊長指示の三つの案の第一案(第七中隊の左翼に連繋するように陣地を後退して、最後まで長谷部支隊の左翼を守る)に移ることとなり、陣地の右から敵の包囲を突破することに決した。  午後十時、移動開始。  第五中隊は敵と衝突して、右へ移動、敵の背後に出る。  第五中隊からの連絡が切れたので、大隊本部は他の大隊主力をもって第五中隊方向へ続行を命じたが、主力は大隊本部が第五中隊と行動を共にしていると判断して、移動を開始したものか、相互に位置不明となった。  大隊長は下士官以下僅かに六名を率いて、辛うじて敵の間隙から脱出して第七中隊の左翼に出た。  大隊主力は午前零時ごろ到着。  第五中隊は迂回して、零時ごろ、長谷部支隊本部付近に達した。  このころ長谷部支隊長から受けた命令要旨は、敵は既に支隊の左側背に深く進入していて、砲兵・迫撃砲陣地は危険であるから、梶川大隊は第七中隊を現位置にとどめ、他は現在の砲兵陣地前方に陣をとれ、ということであった。  この命令に基づいて配備を完了したのは、二十六日午前五時である。  突破移動時の兵力は、大隊本部長以下一二、第五中隊一五、第六中隊六、第七中隊三、機関銃中隊六、大隊砲一三名。計五五、うち無傷一六。  火器は、小銃は下士官兵全員、軽機関銃二、擲弾筒一、重機関銃一、であった。  もはや兵力火器ともに大隊は一個小隊程度でしかない(移動終了後、支隊から大友小隊の復帰を受けたから、兵力は後述するように若干増えているが、それでも大隊全部で正常な一個中隊に満たない兵力である)。     65  八月二十六日  関東軍司令官以下の在新京首脳部は、服部参謀の記述によれば、この二十六日夕刻に戦場から帰還した辻参謀の報告によって、はじめて、敵の兵力が関東軍の判断に較べて格段の差があることを発見した、というのである。  驚くべき遅鈍というほかはない。  戦場では日本軍は航空隊も地上部隊もろくに偵察もせずに戦い(敵飛行機の執拗かつ正確な反復偵察に比較して日本軍の偵察が甚だしく不充分かつ不正確であったことは、既に再三ふれてきた通りである)、敵の圧倒的な火力と戦車の大群の圧力に屈してきた経過を、関東軍司令部が真剣に検討しなかったことを告白しているようなものである。平凡に、だが真面目に物事を考える人間には、とても信じられないことであった。  辻が戦場から引き揚げるときに、敵将校の屍体から獲得して携行したと称する地図によると、敵兵力は、第一線兵力として、狙撃三個師団、戦車五個旅団、軍団砲兵数個、第二線兵力として、狙撃二個師団、戦車一乃至二旅団と判断された。  戦車は、既述の通り、火焔瓶では炎上しない戦車に替っており、その戦車砲の威力は侮り難いことも判明した。  綜合判断すると、敵兵力は日本軍の三倍以上である。この数値は、参謀部第二課の判断の二倍であった。実兵力において三倍が、判断して承知していた兵力の二倍であったというから、関東軍は、判断においては、敵の六割六分の兵力で勝てると考えていたことになる。七月初頭以来の戦闘はそのような根拠を提供していたであろうか。  火力が敵にまさったことは一度もない。空軍力の優位もしくは均衡は戦い半ばにして破綻した。戦車による破壊力と突破力は問題にならなかった。一戦して我は半減したのである。補給力は比較を絶した。近代戦に不可欠の縦深配備の条件に彼は忠実であり、我は無視した。陣地構築に敵は熱心であり、我は疎略であった。火砲の分散、遮蔽に敵は徹底し、我はその余裕さえなかった。火砲の数量の不足、性能上の劣勢も既述の通りである。僅かに突撃による衝力において日本軍はまさっていたといえようが、それも圧倒的な火力、堅固な陣地、火網と兵力の縦深配備に対しては、虚しく攻撃開始位置に引き返さざるを得ず、その都度損耗を累積した経過も、既に何回となく見てきたところである。  兵は強かったが、物量にはかなわない、というのは冷厳な事実であって、負け惜しみの材料としては何の意味もない。ノモンハンは、日本陸軍がはじめて経験した(厳密には前年の張鼓峰事件もそうであったが)その適例であった。日本軍はその戦訓に学ばず、日本軍全体を侵蝕していた思考上の痼疾に気づこうともせず、やがて大戦にみずからを投じて、数百万の壮丁と夥しい銃後の国民を殺すことになるのである。  関東軍では、第四師団と全満の速射砲、野戦重砲兵連隊の全部を第六軍に配属する命令を発し(既述)、つづいて辻報告によって、第二師団を急派することに決した。  服部参謀は「関東軍は断じて敵を撃攘すべき決意に燃えて全関東軍の火砲と戦略予備兵団の全部を此の戦場に投入すべく決したのである」と書いている。威勢はいいが、字句の威勢のよさでは悲劇的事態は救えない。司令部は事態を予見して先手に策を施す明敏さを全く欠いていた。この日、二十六日、戦場では、後述するように、十五加・十加部隊は全滅し、ノロ高地は放棄せざるを得なくなるのである。  ソ軍が、八月二十日の攻勢開始までに、驚くばかりの(実はそれが当然なのだが)細心の注意をもって兵力の増強、弾薬資材の集積、陣地の構築を行ってから、一挙に大攻勢に出てきたことも既に記した通りである。  歩・砲・戦・飛の綜合戦力を組織的に発揮するのが近代戦であるとするなら、それは端的に綜合国力に直結することである。綜合国力から見れば、日本はソ連より遥かな低位にあった。ソ連は、しかし、日本を弱敵と侮ったりはしなかった。六割六分の兵力で勝てるなどと自惚れたりはしなかったのである。  東京中央部も、関東軍から要請がないからという理由で、遅鈍であることを反省しなかった。八月二十五日になって、ようやく、第五師団を支那戦線から抽出転用することを決め、同時に左記の電報(既述)を関東軍に打っている。念のために再録する。 「ノモンハン方面の戦況に鑑み、兵力増派に関し研究中なるも、貴軍将来の企図、第七師団使用の景況等承り度」  上級機関は後手ばかり打っていた。前線将兵は敢闘して、虚しく死んでいった。  八月二十六日午後十一時第一線発、関東軍参謀長宛ての電報を、これも一部繰り返しになるが、事態認識の程度を知るために引用する。   報告 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、フイ高地の部隊は連日の包囲攻撃を受け、蓄積し置きたる弾薬も尽き補給も報告も遂に至難となり、小銃以外の火器は悉く破壊せられ、陣地は保持困難に陥りたるものの如く、其後消息不明なり。 2、長谷部部隊は敵の機甲部隊の為左翼を、森田徹部隊は両翼を包囲せられ、弾薬糧秣及水の補給困難なり。 3、山県部隊は西・北・東の三方より攻撃を受けつつあるも、此の方面に対する敵の攻撃は他方面に比し稍々緩なるものの如く、確実に陣地を保持しあり、又、弾薬糧秣も相当に蓄積しあり。 4、攻勢前面の戦況は意の如く進展せず、狙撃砲、連隊砲等の火砲は破壊せられたるもの多く、幹部以下相当多数の損耗を受けたり。  これが二十六日の夜十一時第一線司令部発の電報である。状況は、二十五日夜まででさえ、こんなに生ぬるくなかったことは、これまでに詳しく見てきた通りである。 [#ここで字下げ終わり]  同二十六日  左翼隊(森田範正少将指揮)のみをもってした二十五日の攻撃が失敗に帰すると、小松原第二十三師団長は同日夕刻、森田少将に攻撃続行を命じた(作命甲第二〇〇号)。小松原中将の作戦意図は、二十五日夜間に戦闘部隊を整頓して、二十六日払暁から砲兵の攻撃準備射撃ののちに歩兵部隊の攻撃を再興することであった。図式としては従来通りである。  森田少将は、しかし、師団長に対して、夜襲攻撃の採用を要請した。払暁以後の攻撃では、敵の猛火による損害に耐えられないと考えてのことであろう。師団長はこの要請を容れた。  畑砲兵団長の記録によると、この変更は砲兵団には通報されなかったらしい。支援砲兵に対して「何等の命令なきに一驚せり」とあるが、このころになると指揮も命令も混乱して、尽すべき処置が尽されていない観が深い。  森田左翼隊の夜襲は、結局、二十六日夜も行われなかった。「準備の関係などの理由によって実施されないことになり」と、戦史叢書『関東軍』〈1〉には記されているが、これでは何も説明していないにひとしい。おそらく、二十五日の夜襲が二十六日に延期されたその理由が、二十六日の夜襲を中止させたのであろう。その理由は、森田左翼隊の損傷が既に三分の一に達していたことである。  こうして八月二十四日にはじまった日本軍の攻勢移転は、兵力不足・準備不足・作戦構想の貧困と独善性を露呈して中止のやむなきに至った。  第六軍司令官荻洲中将は、二十六日未明、六軍作命第二六号を下達した。第七師団主力と第二師団の戦場到着を待って、攻撃を再興するというのである。  攻撃を再興するとすれば、支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点保持の必要は絶対的のものとなる。北翼のフイ高地は既に陥ちたが、ホルステン南北両岸のノロ高地とバルシャガル高地を敵手に委ねることはできない。  ノロ高地は、しかし、いまや風前の灯といってよかった。バルシャガル高地に対する敵の強圧の度も加わりつつある。  小松原師団長は、守勢部隊の状況が危険であると判断して、作戦主任の村田参謀を第六軍司令部に派遣し、状況報告と意見具申をさせた。  村田参謀の第六軍到着は二十六日午前十一時である。その時刻までの師団長の状況把握では、森田部隊は健在、山県部隊(バルシャガル)は二十五日までは陣地確保の報告あり、この二十六日には通信なく、長谷部支隊(ノロ高地)とは無線不通であり、砲兵団長からの報告によると十五加部隊(穆稜重砲兵)は迂回した敵歩戦の背後からの攻撃で危機に瀕している、という。  右の状況から第六軍司令部に対する意見具申は、「師団主力は本夜出発、夜襲を予期し、之等各隊を救援に赴くを可とする」というのであった。村田参謀と第六軍幕僚との間では意見が一致したが、軍司令官は認可しなかった。  この日、二十六日、歩七一連隊長森田徹大佐戦死の報告が師団司令部に入った。連隊長に代るべき先任将校の東中佐は、ハイラルから戦場へ帰還の途中、師団司令部の位置にあり、歩七一は中枢を欠損した状態で小一日敵中に在ることになる。  この日、午後四時、師団長はノロ高地救援のための夜襲に関する師団命令(作命甲第二〇二号)を下達した。おそらく、前記村田参謀と第六軍参謀との合意を知り、司令官の認可あるものと考えてのことであろうと思われる。師団長直率の兵力は、杉立大隊(歩七一)、酒井部隊(歩七二)、四ッ谷大隊(独立守備隊)、野砲兵第七連隊、工兵第二十三連隊、通信隊等、この時点で集め得る限りの兵力である。  第六軍司令官荻洲中将は認可しなかった。その理由は、第六軍では、翌二十七日朝に戦場到着を予想される第七師団に森田範正部隊を復帰させて、第七師団を攻撃に、第二十三師団を守勢に転用する意図があったからと考えられる。  この意図は、関東軍司令部の意図でもあった。関東軍では、新鋭の第七師団によって攻勢を展開し、つづいて第二・第四師団を投入してソ軍の撃滅を期していたのである。  第七師団は予定通りに到着したが、事態は関東軍や第六軍の胸算用のようには進展しなかった。それは、しかし、八月二十七日以後のことである。戦場はまだ二十六日、悲境のさなかにある。     66  八月二十六日 森田徹部隊(歩七一)  早朝から敵は射ちまくっていた。747高地の十二榴三門が特に猛威を振っていたが、そうとわかっていても応酬する方法がなかった。  午前八時三十分、十数輛の戦車に狙撃兵を満載して、火砲の支援を恃《たの》んで突進して来た。長谷部支隊(ノロ高地)に連絡兵を出してみると、支隊左翼は断末魔の死闘の最中であった。  十二時過ぎ、敵いよいよ接近。戦車五輛に護られた歩兵五—六十が中央正面に肉薄した。  第一線は果敢に抵抗。森田大佐は陣頭指揮に奮闘していたが、十二時四十分、マキシム機関銃弾が命中して戦死。東中佐不在なので、第二大隊長遠井少佐が連隊長代理となる。  敵は日本軍の弾撥力衰弱せずと見てか、手榴弾投擲距離内に入らず、砲兵と戦車が終日破壊力を逞《たくま》しくしていた。  午後五時、敵は陣地を包囲したまま、新に戦車二十輛、歩兵約百をもって、歩七一と長谷部支隊の中間に、また、ニゲーソリモト方向から新軍橋方向に進入して来た。これによって西方(ノロ高地)とホルステン河方向(北方)との連絡が遮断される形になった。  午後三時、師団無線によって、司令部位置まで帰還した東中佐から「東以下三十名、二十五日以来749に追及進出に努力しあり、現位置と状況知らせ」と連絡をとってきた。  敵は、このころ、東イミ高地(753)東西の線を占領しており、歩七一も包囲環内にあって、折りあしく月明のために夜間でも陣地への潜入帰還は困難な状況であった。  師団司令部では、岡本参謀長(元七一連隊長)が東中佐に、「本夜是非潜入し、部隊を指揮し、明二十七日夜、工兵橋付近に転進、一部を以て同橋梁北方台地を、主力を以て同南方753付近を確保し、師団主力の進出を掩護すべし、師団主力は明二十七日夜、旧工兵橋付近に進出す」と命令を伝達した。  東中佐は原隊追及者を第一大隊に預け、河添中尉にはホルステン北岸から部隊へ至ることを命じ、自身は西村大尉と二人でホルステン南岸地区を潜行、二十七日払暁、歩七一陣地に達し、小野塚大尉(第九中隊長)と劇的な握手を交して、部隊の指揮をとるに至った。  この人には、しかし、あと四日足らずの時間しか残されていなかったのである。  八月二十六日 酒井部隊(歩七二)  この連隊は、先に述べた師団長直率の夜襲に関する命令(二十三師作命甲第二〇二号)を、午後二時三十分、受領した。行動を共にする部隊は、前記の通り、杉立大隊(歩七一)、四ッ谷大隊(独立守備隊)、野砲兵第七連隊、工兵第二十三連隊、師団通信隊である。  午後三時弾薬補充。午後七時、752高地を撤収して、薄暮を利して集合地点749高地北側凹地に集結した。  午後七時四十分、前記の経過で、作戦中止命令に接し、その地点にとどまることになった。  小松原師団長が残兵を指揮して守備陣地救援(バルシャガル高地)に前進を開始するのは、翌二十七日夜のことである。  同二十六日 バルシャガル高地(歩六四)  ホルステン北岸の733高地にある歩六四第一大隊陣地では、払暁から圧倒的な砲撃を受け、陣地全体に硝煙が高く立ちのぼるのがノロ高地方向から望見された。数日前、フイ高地が砲爆煙に蔽われるのを望見して、溢れる涙をこらえ得なかったバルシャガル守備部隊が、今度は滅多打ちに打たれる番であった。  本部付近も蜂の巣のようである。  敵機群が陣地全線を対地攻撃する。友軍機は飛ばない。  ホルステン河谷から敵戦車十四、五輛と歩兵約二百が進出して来て、陣地左翼を包囲した。  十二時ごろと午後三時ごろ、敵の歩戦協同部隊が本部後方に侵入、たった一門残っていた速射砲が破壊された。  ソ軍は攻撃の焦点をバルシャガルに絞りはじめていた。  キルデゲイ水付近にある歩六四第三大隊では、天明のころ、敵戦車・装甲車四—五十輛、歩兵約一千の大部隊が、陣地北方四キロを悠々と迂回南進するのを認めたが、前日同様どうすることもできない。  午前八時、十二中隊の東方約三百メ—トルで敵のパン焼車が煙を上げており、十数名のソ軍兵が寝転っているのが見えた。暢気なことである。日本軍の火力はもはや問題とするに足らぬと考えてのことか。  北島見習士官が五名の兵とともに肉薄して敵兵九名を刺殺し、パン・罐詰等多数を奪取した。陣地では一日の定量は乾麺麭一袋に制限していたときであるから、この収穫は守兵を狂喜させたという。  だが、生田大隊(歩二六)陣地の方を見ると、赤旗が林立している。前夜連絡に潜入した下士官の報告の通り、生田陣地は前夜のうちに潰滅したのである。  十二時から、敵重砲野砲の集中火。午後五時ごろから、戦車十、装甲車四、歩兵四百が包囲環を圧縮して来て、南側陣地が危機に瀕した。  第三大隊は連隊主力から遠く離れて、孤立している。  連隊長から、無線で、第三大隊は連隊主力位置に後退せよ、と命令して来た、第三大隊は、夜半まで敵と近接して交戦する戦況なので離脱は困難であり、この状況下に後退することは大隊が支離滅裂となって全滅する惧れがある、と後退を断わり、死守の決意を示した。この部隊は、しかし、三十日未明、友軍が既にいなくなった最前線から、曲りなりにも大隊としての組織的戦闘力を保持しつつ撤退することになる。     67  八月二十六日 砲兵諸隊(守勢方面)  穆稜重砲兵連隊(八九式十五加、二中隊四門)は、バルシャガル高地東側地区に放列を布いていたが、二十五日からの敵戦車群の後方からの攻撃がきびしくて、連隊長染谷中佐は明日が最期と覚悟したようである。二十五日夜半、連隊全員を放列中央に集め、激励の訓辞と袂別の辞を与えた。  二十六日早朝から、戦車群が大挙近迫した。連隊は自衛山砲で奮戦、戦車の侵入を阻止すること半日余、山砲は逐次損壊した。  巨大な十五加は架尾移動が困難である。それを強行して応戦をつづけ、砲手以外の肉薄攻撃も反復したが、時間が経過するにしたがって、戦況は絶望的となった。  畑砲兵団長は次のように記録している。 「逐次に主砲は損壊し、次第に将兵の大部を喪失するに至った」  攻勢方面の十五加まで合せて、十五加の戦闘参加総数は六門で、そのうち八月三十一日までの損傷数は、自ら破壊したもの四、敵による損壊一、計五門である。したがって、「逐次に主砲は損壊し」という表現は妥当でないように思われる。  そうはいっても、戦況惨烈の極所にあったことを否定するものではない。自壊四という数字は、おそらく、守勢方面の戦況が全く絶望的となってからの処置を示すものであろう。  染谷連隊長は、あらかじめ用意しておいた絶筆に日時を記入し、下士官伝令に託して砲兵団長に報告、観測所で割腹自決した。  連隊将兵は、夕刻まで、敵戦車の火焔放射を被りながら抵抗をつづけ、大部分が砲側に戦死した。  小沼メモは美文調が微塵もなくて、きびしいが、リアルである。 「二六日全滅。連隊七、八名生残る。穴に入りあり、夜中に帰還す。  3長(第三中隊長——攻勢方面)  3観測小隊長         兵全滅 せし故7SA(野重第七連隊)に合し敵を倒さんとす。  連隊副官、連隊長命令にて歩兵団司令部に報告に行く。(従って助かったの意か?)  2観測小隊長(召集少尉)掩壕中に入りあり助かる。  個《(ママ)》有の穆稜重砲自動車も入れ四—五十名、突撃に行きしに敵四—五名につかまへられ、手足を縛り穴に落さる。  銃剣にてさしちがへしもの  銃口を喉にし自殺せしものあり。  2中隊長抜刀敵中に突入戦死。  3(第三中隊)は三十名内外7SAに合す。 (中略)  連隊編制  初年兵主力(三月入隊のもの、一期終りしのみ)  二年兵は一部(よそより貰ひしもの)  中隊段列なし  十二名の砲手が逐次減る。  砲手の不足と砲重き為、翌日の射撃準備に一晩かかる。  戦車壕も掘れず。  1SA 7SAが内地より来る間、戦場にて教育す。  二門編制は対砲兵戦の為に不可(本動員なら四門となる筈なりしも)  応急動員は二門編制、段列なし。……応急派兵右に同じ。計画なかりき。十二時間以内、之にて行けり。 (中略)  協力飛行機速度おそし(94偵)射撃目標捕捉し得ず、点検用には可」  小沼メモを私流に読めば、訓練未熟な十五加部隊が、不充分な編制で、杜撰な動員計画に従って戦場に駈けつけ、死闘を強いられて果敢に散ったらしいのである。  独立野戦重砲兵第七連隊第二大隊(九二式十加二中隊八門)は、ホルステン河右岸に近く陣地を占めていたが、二十六日には、ホルステン河の両岸地区から敵戦車部隊の挾撃を受ける状況となった。  大隊長近藤虎之助少佐は広正面に火砲を分散配置して、巧妙かつ頑強に抗戦の指揮をとったが、逐次に火砲が損壊し、砲側に斃れる将兵も次第に増えた。  夕刻、大隊長が敵の全弾(直撃弾)を受けて戦死すると、大隊将兵の死傷も俄かに多くなり、戦力激減した。  日没ごろには戦車群が殺到して来て、陣地は一部の火砲と弾薬を残したまま蹂躙されるに至った。  十五加といい、十加といい、のちに述べる十五榴も無論そうだが、砲兵陣地は自衛力に乏しい。歩兵の堅確な抵抗線なしには、砲兵陣地の安全は期し難い。歩兵はまた、砲兵の強烈な支援火力なしには、敵陣突破の衝力を失うのである。  日本軍の作戦構想は、ほとんどいつも、歩砲の協力が不充分であった。日本軍自体では充分と判断したかもしれない数値が、近代戦の要求を満たすには甚だ遠かったのである。  特に、二十四日にはじまった攻勢作戦に際しての、守勢方面に対する配慮と用意の不足は甚だしかった。先に述べたことだが、砲兵諸隊はまる裸同然の状態に置かれた。ホルステン以北では、過広正面を担当した山県支隊(歩六四基幹)の守備力では、砲兵掩護に関してはほとんど何もできなかった。ホルステン以南のノロ高地付近では、長谷部支隊と森田徹部隊では、敵の主攻正面を支えるだけにも著しく戦力が不足していた。こういう状況下で、守勢のための放列を布いた砲兵諸隊を待っていたものは、潰滅の悲運だけであったといってよい。高級司令部が攻勢方面に苦慮していて、守勢方面の苦境に思いを致したときには、既におそかったのである。  バルシャガル高地の東方、イリンギンブルド・オボー付近、755高地東南約四キロの地点にあった野戦重砲兵第一連隊第一大隊(九六式十五榴二中隊八門)の戦力が尽きるのは二十七日のことである。いまは二十六日。戦況は、例によって榊原『陣中日誌』と日誌の筆者の戦記『ノモンハン桜』の部分的引用による。 「ホルステン河を間近に控へた陣地。元第四中隊(矢田部隊)が散々にやられた陣地だ。全滅は勿論覚悟の上。まだ一発も撃たぬのに敵弾激しく(中略)低空で来る敵機が�日本軍完全包囲なる�のビラを撒く。(中略)  昨日の昼頃乾パン一ツ齧《かじ》つただけ。今日も又草加センベイ位の固パン一ツを三人で分け合つた。全然ねむらずに続けて来た土工作業、腰を下ろせば雨と降る弾の中でも居眠が出る。無理もないと思ひ、兵も自分も叱る気になれぬ。  昨日死ぬべきところを一日生き伸びたんだ。生きのびついでにあと三日程頑張つて、師団主力の展開する迄死闘を続けよう。  田中軍曹の火砲故障、山崎(第二中隊——引用者)で残るは只俺の火砲のみ。  対戦車射撃で一〇〇発近く撃つ。軍刀で箸を削り、何処にあつたのか冷い飯盒の飯を三人で少しづつ食ふ。  夜第一中隊(元殿下中隊)の三門、吾放列陣地に来る。力強い。(中略)  吾分隊の射線は東へ向いてゐる(ハルハ河方向を正面とすれば、後方へ向いていることになる——引用者)。各分隊毎に異った方向へ向け、戦車に歩兵に砲兵に、凡ゆる敵に対戦すべき態勢を整ふ。  夕暮迫る頃、山崎大尉殿始め窪田少尉芦浦少尉袂別の辞あり。(中略)やがてうるんだ声を一段と張り上げた窪田少尉は、 �もう今夜限り生きては皆とは会へないが、明日の戦ひには確信をもつて当れ、必ず奴等を叩き漬すと。要は戦車一台を一人が食ひ止める決心で、一人一人が肉弾となるのだ(後略)�」  この思想は日本陸軍に最も多く存在したタイプである。戦闘必須の諸条件を精神主義のなかに解消しようとする。日本の膨脹政策は薄弱な生産力の基盤の上で強行されたから、生産力に見合った戦力しか持たない軍隊が国家の野望を負担するには、信じかねることを信じ込ませる精神教育が必要だったのである。無理は、しかし、所詮、無理でしかなかったのだ。 「次いで芦浦少尉が円陣の中央に進む。(中略) �最後迄希望を捨てるな。二—三日の頑張だ。力闘せよ。必ず勝てるぞ�  砲手達はこの言葉を、自分によくもう一度自分から言ひ聞かせてゐるかの様だつた。  大隊長代理山崎大尉殿は、戦闘間の労を謝し、 �愈々明日午前中、おそくも明後日には全滅するであらうが、師団の主力は非常に有利に展開しつつある。しかし主力の到着迄とても持ちこたへられぬ。吾々は最後の散り際を美しく咲かせよう�と訓辞。  全員寂として声なし。血戦の覚悟いよいよ固し。(中略)  だが、俺は決して全滅などしないと、何故か固い信念に燃えてゐる。  機関銃弾が盛に頭上をかすめる。  今夜も一晩国境の土を掘つて明かす。  とに角、山崎隊といつても榊原分隊が一門残つたきりだ。(後略)」  この部隊は、翌二十七日、予想された通りの最期を迎えるのである。  野砲兵第十三連隊は、作戦間の発射弾数、砲弾四五、七四七発、小銃弾(含拳銃)四一、四九六発で、人馬兵器の損害が人員戦死六四四(将校以下)、戦傷五五五、火砲破壊四四門(内押収火砲一〇門)、輓馬戦死一、〇四〇と、文字通りの全滅状態だが、その最期に関して、畑砲兵団長の記録に「二十六日夕には火砲ことごとく損廃し、弾薬全く尽きたので、連隊長伊勢高秀大佐は、二十六日夜連隊の残兵を率いて戦場を離脱し、東南方に向って師団主力方面に移動中、二十七日朝ホルステン河河谷において、敵戦車隊の奇襲に遭って、近接戦闘を交えたが、戦力尽きて連隊長および第二大隊長森川信夫少佐以下の将兵の大部は同戦場で散華昇天した」とあるのは、何かの間違いであろう。伊勢大佐以下の戦場離脱は、八月二十九日未明、山県大佐以下の歩六四(第二大隊)と行動を共にしてのことであり、伊勢大佐は同日午後四時半ごろ、ホルステン河軍橋付近で自決したはずである。  野砲兵第十三連隊第三大隊に関しても、畑記録では、大隊は二十六日戦力枯渇して、戦場を離脱し、二十七日ホルステン河畔の近接戦闘で大隊長関武思少佐は重傷を負って人事不省となり、兵によって救出されて野戦病院に収容されたことになっているが、関大隊が独力で戦場を撤したのは八月二十九日午前二時ごろであり、同日ノモンハン付近に集結したはずである。  同連隊第一大隊はホルステン南岸のノロ高地に配属されていて、二十六日には、火砲のほとんどを失い、歩兵部隊とも分断されて、孤立に陥った。大隊長松友少佐は独断で戦場離脱、北方に向けて後退し、二十八日単独で砲兵団長のもとに到着した。第六軍司令部では厳重な査問の上、後日、同少佐を停職処分に付した。  守勢方面の重砲兵諸隊の先任指揮官として諸隊の区署権を与えられていた男爵・鷹司大佐(野戦重砲兵第七連隊長)は、畑砲兵団長によれば、区署下の諸隊の苦戦敢闘中に、八月二十六日夕刻、部下将校二名を伴って戦場を離脱し、荏苒二日余を経過して、二十九日砲兵司令部に到着、戦況の惨烈を訴えて、新な再起を哀願したという。  二十六日夕刻といえば、野重七第二大隊では近藤虎之助大隊長が敵の全弾を受けて戦死し、中核を失って戦力|頓《とみ》に衰えた大隊陣地を敵戦車群が蹂躙したころと前後していたであろう。  砲兵団長は鷹司連隊長の懇願を容れなかった。「砲兵の本領を汚辱すること至大であると叱責の上」後方に謹慎を命じた。同大佐は九月三十日停職処分に付され、男爵礼遇を停止された。  畑砲兵団長は、鷹司大佐本属の旅団長としての職責上、直ちに進退伺を軍司令官に提出し、戦闘続行と戦後処理を完了して三カ月後、内地に帰還して、依願予備役となった。  鷹司大佐の戦場離脱の心境を忖度《そんたく》するに足る資料的根拠を、私は持合せない。あれこれと想像してみるだけである。絶望的な戦況下で直接に意見具申をする必要があったにしては、司令部出頭がおそ過ぎる。区署下にあった他隊への移動中(仮りにその必要があったとしてだが)に方位を失して弱気になったと想像するのも当らないようである。その場合なら、砲声へ向って走ることはできたはずだからである。戦況を絶望と見て、部隊を率いて独断撤退したのなら、それが軍律違反であっても、弁護の余地はある。その行動を是認するかしないかは、本質的には兵術思想の問題だからである。部下の将兵が死闘している最中に、あるいは全滅しつつあるときに、それを置き去りにして単独離脱したことが事実であるとすれば、それは軍律の問題であるよりも先に人間の質の問題である。砲兵諸隊の将兵はそれを許すことはできなかったであろう。     68  八月二十六日 ノロ高地  朝からソ軍は長谷部支隊第一大隊の左翼に殺到して来た。  戦闘正面はいまや後方である。長谷部支隊は残存火砲を後ろに向けて射撃した。  夕刻前第三中隊はほとんど潰滅した。  敵の十五榴は連隊砲位置に正確に集中した。  午後六時、敵は津浪のように寄せて来る。  いよいよ最期である。  長谷部大佐は各隊に訓示を与え、戦死するまでの敢闘を徹底させ、水盃を交した(形だけの水盃の情景は、前掲の小田大治の戦記に詳しい)。所持品を全部焼いた。行李は穴に埋めた。  支隊の左側から後退した森田部隊(歩七一)の状況は皆目わからなかった。  長谷部支隊は、この二十六日、弾薬を射ち尽した。糧秣は三日前から切れている。水は二日前になくなった。  もう戦える状態にはなかったといってよい。  参考までに、ノロ高地終末までの彼我の兵力と火力を比較してみよう。   兵力  ソ軍 狙撃約一個師団      戦車約一個旅団  日本軍 長谷部支隊(八国歩兵二個大隊と一個中隊、工兵小隊)      梶川大隊(歩二八)   火力   ソ軍   日本軍  自動小銃  五二二 対  〇  軽機関銃  五三一 〃 四四  擲弾筒   五二二 〃 四四  重機関銃  二一一 〃 三九  高射機関銃  七二 〃  〇  速射砲   一五五 〃 一一  連隊砲    一八 〃  八  迫撃砲    一八 〃  四  各種軽砲   九六 〃  八  高射砲     六 〃  〇  十五榴    一六 〃  〇 (火砲に関しては、この数字の他に対岸の敵砲兵の主火力がノロ高地に加えられたのである)  桁違いであった。ノロ高地にせよフイ高地にせよ、これで数日間の激闘が可能であったことが不思議なくらいである。  二十六日、夜九時、長谷部支隊長は重大な決心をした。  部隊は明半日で全滅である。全滅しては任務達成も何もない。よって、本夜零時を期し、ノロ高地より撤退して新工兵橋方向に前進、森田部隊(歩七一)との連繋を恢復する。今より直ちに出発準備をせよ。  実は、長谷部支隊長が撤退を考慮するについては、それ以前に、師団参謀が後退を示唆するような作戦指導を行ったらしいのである。戦況非勢に陥ってやむを得ないときには、ノロ高地北東約四キロの749高地まで後退して、ニゲーソリモト付近にある森田部隊(歩七一)の右翼に連繋する抵抗線を構成する作戦が考えられる、ということであったらしい。らしいというのは、残念なことに、後退が示唆された日時も、示唆した参謀名も判然しないのである。  ただ、ソ軍大攻勢がはじまった八月二十日の第二十三師団の作戦命令要旨に、「森田部隊は依然其一部を以て744 747を確保し、主力はニゲーソリモト南方三キロ砂丘付近に集結し、爾後の攻撃を準備すべし」とあり、同日、師団長と第六軍参謀長との間で軍の作戦方針に関して、意見の不一致があって「一日激論し一致せず」という状態であったことは既に述べた。繰り返しになるが、師団としては、敵をひっぱり込んで叩くという方針では第六軍と同じ考え方だが、第六軍がいうように左翼(森田徹部隊)を著しく後退させることには不安を感じていたのである。つまり、森田部隊が長谷部支隊(ノロ高地)の左翼にあれば、長谷部支隊はノロ高地を固守できるが、森田部隊が深く退れば長谷部支隊は危くなる。攻勢移転にはノロ高地が|支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点《しとうてん》として健在であることが必要条件であって、ノロ高地が潰れれば、攻勢作戦は成立しない、という見解であった。  したがって、師団参謀が長谷部大佐に、やむを得ない場合には749高地付近まで退って森田部隊の右翼に連繋することを示唆したとすれば、二十日からあまり時間のたっていないころと推測されるし、師団の右のような見解からすれば、あり得たことと考えられるのである。  八月二十六日には、師団の攻撃は功を奏せずして中止のやむなきに至っている。長谷部支隊長は、連絡|杜絶《とぜつ》のなかにあって、師団の攻撃は失敗したものと判断した。支隊も全く絶望的な状況に陥っている。徒らに死守に固執して全滅を待つより、師団参謀の示唆にあった749高地付近まで後退してニゲーソリモト付近にあると推定される森田部隊と連繋することが、師団の意図に添う方途である、というのが長谷部大佐の決心であった。  八月二十六日午後九時、長谷部大佐はノロ高地撤退に関する命令を下達した。要旨は次の通りである。 [#この行1字下げ]支隊長の企図 749高地から758高地北東側砂丘付近にわたる線を占領してソ蒙軍の攻撃を拒止する。 [#この行1字下げ]各大隊の行動要領 八月二十七日午前一時行動開始。第八国境守備隊第二大隊は749高地を、同第一大隊は同高地南東砂丘を、梶川大隊(歩二八第二大隊、八国の一中隊、野砲一大隊その他)は758高地北東砂丘を占領する。  ノロ高地陣地から後退予定線までの距離は約四キロ。距離は短いが、四周みな敵のなかを行く夜間行動であり、負傷者をできる限り伴ってする退却である。途中で夜が明けたら、たいへんなことになる。  ノロ高地撤収までの戦況は、前掲小田大治の手記を引用する。 「扨《さて》二十六日になりました。余り大きくないが、稍々《やや》深い凹地に陣取ります。この陣地が私共三木隊(歩七一——引用者)の属する長谷部支隊最後の陣地となりました。  毎日陣地を移動しますが、恐らく敵の重砲の砲撃を暫くでもさける意味もあったのでしょう。この日の砲撃は、はじめは前日程の激しさはありませんでしたが、変った点が現われました。砲弾の落下に対して死角が狭められた事です。前面からだけでなく、丁度半円形に近い角度で打ち込まれ始めた事です。(中略)  ひる過ぎ頃でした。すぐそばに支隊の兵隊が腕の付け根近くをやられて横たわっていました。 �おい、そこの戦友、痛くてたまらぬ、頼むから落して呉れ�  と、草のように蒼い顔に不敵な笑いを浮べ乍ら呼びかけます。頼まれたからといって、おい来たとばかり落す訳には参りません。(中略)この傷ついた戦友の近くに、不思議な遺体がありました。  戦車砲の直撃弾を喰ったものでしょう。胸像のように見える上半身の遺体です。そっと置かれてありました。(中略)これから十数時間の後の転進にこの遺体を背負う勇士が見られました。(中略)  そのうち死角など考えられない猛烈な砲撃です。雨の降る様に落下します。もうどうにもならない砲撃の烈しさです。幾分緩慢になった時でした。夕方近くです。戦友伊東と二人で話し合いました。 �どうせ生きていても一日二日の命だろう。この儘でも或は間もなく死ぬか傷つくことだろう。あの兵隊のように後送の見込みのないのに苦しむのはいやな事だ。どうだろう、いっそ稜線にのぼって全弾命中(直撃弾の事)とゆこうじゃないか� �それがよかろう�  と、伊東もすぐさま賛成しました。  実のところどこにいても同じです。又注文通り一発でゆくとは限りません。而し稜線に出れば一発でゆくような気がしたものです。  親とも頼む岡本部隊(歩七一。この時点では森田徹部隊——引用者)をなくして、いわば戦場の孤児のような心境でいた為に、一層切実な気持ちも働いたものでしょう。(中略)  二人はノコノコ稜線にのぼって腰を下します。支隊の兵隊も今更二人を止めはしませんでした。ここにのぼると左右と後方は遥かな地平線まで丸見えでした。  エライものが見えます。  後方に向って殆ど真左に一ヶ所猛烈なそして大きい砂煙と砲煙が混り合って揚っているのが見えます。 �オイ伊東、あそこはバルシャガル高地の方と違うか�と言えば、 �どうもそうらしい。山県部隊が撃たれているなあ。どうだまあ、あの砂煙は�と答えます。(中略)  この頃或は向うからもノロ高地の方を見て、 �長谷部支隊が恐ろしく猛烈にやられているわい�  と、話していた兵隊がいたかもわかりません。  そのうち、戦車が十数台右手の稜線の蔭から現われます。歩くソ連兵も居れば、戦車の尻に乗ったのも居ります。(中略)砲塔から乗り出したソ連兵が四角の赤い手旗を左右又は上下に振って、お互に連絡しているようです。まるでソ連軍の演習を見ているようでした。(中略)  後方の日本軍と向い合う敵の前線が長谷部支隊の後方にある事を翌払暁には知りました。 �これじゃ、敵の方も後ろの方も無くなって了ったぞ、まわりが全部敵だなあ�  と、二人で話し合ったものでした。(中略)  たそがれます。大砲らしいのを(連隊砲かも知れません)分解して地中に埋めている様子です。(中略)いつかは弾の補給があるものと信じていたものでしょうか。友軍の飛行機さえこの頃はただの一機も見た事がありません。(中略)  長谷部支隊はこの頃すでに小銃弾にもこと欠く程になっていたものでしょう。(中略)  白兵の届かぬところから、敵は支隊に損害を強います。乱戦ともなれば恐らく三角山の二の舞でしょう。(中略)全滅してそれで陣地が確保出来るでしょうか。三角山がよき例です。  そして、その前に或は増援部隊が来て陣地確保が出来るでしょうか。事実師団長が漸く出た軍命令により自力で引き揚げられるまで増援部隊は到着して居りません。(中略)  この時の長谷部支隊の引き揚げを決意された指揮官の方の心中はどんなでしょうか。二三日にみすみす五百の生命を失って、尚陣地をも失うよりは、可能な限り生還して有効な戦力にとも考えられたかも知れません。或は五百の生命に代って死をも覚悟されたかも知れません。(中略)  あの陸軍最強の時に戦場の捨て子の如き有様に置かれた二十三師団のあの実情を知って尚、責め得る人があるでしょうか。ぬくぬく生きて、後からの批判は誰にも容易の事です。(中略)全滅もまた悲愴にして又美しい軍人の華でしょう。しかしあの時、あの状況下に、即ち後方の日本軍大部隊に対するソ連軍の防禦の線が出来ていたあの時点で、引き揚げを決意され断行された指揮官があらわれたとしても、それも亦勇気ある武人と信じます。(中略)  若し万一、長谷部支隊を違法とするならば、あの大部隊を抱えて二十三師団の実情を知りながら救援出来なかった(或はしなかった)第六軍は果して責なきものでありましょうか。あの二十三日の三角山の現実を知って後、同じ頃井置支隊(フイ高地——引用者)も悲惨な戦闘をしたのではないでしょうか。  そしてその後につづく毎日の悲惨な死闘(武器なき闘いを戦闘と呼ぶべきでしょうか)に対して関東軍は違法以前の責はないのでしょうか。  増援が或は救援が不可能と知ったとき、或はしないと決めたとき、二十三師団に命令を下せる立場の第六軍或は関東軍司令官が今数日早く引き揚げを命令する事は出来なかったものでしょうか。(中略)随分の生命が救えましたでしょうにと、私は三十三年来、今尚、兵隊の身勝手か、これが離れません。(中略)  もうすでに二十七日の午前でしょう。文字も読めそうな明るさになりました。支隊が少しずつ動きます。隊列が流れます。  引き揚げです。(後略)」  引用が長くなったが、拙劣な統帥故に食なく水なく弾丸もなく死闘を余儀なくされて生き残った兵隊の感懐を、小田大治はよく表わしている。引用文中「あの大部隊を抱えて、云々」とあるのは、第七師団主力、第二師団、第四師団と兵力の逐次投入が行われたが、それらの兵力は潰滅してゆく第二十三師団にとっては何の救いにもならなかったことをさしている。戦い敗れてボロボロになった兵隊が後方に辿りついたときに、草原を埋め尽すばかりの新鋭大部隊を見たとしたら、これだけの兵力があるのなら何故もっと早く来てくれなかったのかと思うのは、当然である。  同二十六日 梶川大隊(歩二八。ノロ高地)  この日払暁、大隊が長谷部支隊の最左翼陣地へ移動して来たときには、敵は既に左側背に深く進入していた。夜まで苦戦の連続であった。  夜、大隊長は次のように戦闘指導の指示をした。  弾薬糧食は既に欠乏している。よって、今後の戦闘は白兵を主体とする。陣地の強化を計って、敵を陣内に引き入れて殲滅すること。大隊陣内の全正面は約二キロである。それを守備する兵力、火力はきわめて僅少である。よって、相互の協力援助は期待せず、各隊独力をもって戦闘を遂行すること。  戦傷者と雖も後送不能であるから、最後まで戦闘を継続すること。  以上の指示は、全滅覚悟で現在地にとどまるということである。  長谷部支隊長の撤退決意は、ちょうどこの直前に固まったものらしい。梶川大隊長は支隊長から電話で後退に関する要旨命令を受け、午後九時半、筆記命令が送付された(八月二十六日午後九時付) [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、敵情諸官の知る通りにして支隊は已に弾薬尽き現状の儘にては全滅を免れず。 二、支隊は本夜半敵を突破して後退し、七四九高地より其東南方一〇〇〇米無名砂丘及七五八東北方一五〇〇米無名砂丘(俗称コブ山)付近を占領し敵を拒止し師団の右側を掩護せんとす。 三、(以下略) [#ここで字下げ終わり]  敵の猛攻は左側から特に烈しかったから、もし長谷部支隊長が撤退の決意をしなければ、梶川大隊がまず全滅することになったであろう。長谷部大佐は撤退の責を負わされ、自決を強要されるのである。  梶川大隊は、二十四時、支隊本部位置に集合して、園田中隊(八国)、連隊砲中隊、迫撃小隊、工兵中隊、野砲兵を梶川少佐が併せ指揮して、俗称コブ山へ向って背進行することになった。  衛生隊は徒歩可能の患者を護衛して梶川大隊について行く。  野砲兵は繋駕により、連隊砲は人力によって牽引する。  各隊は最小限の所要人員を第一線に残置し、企図を秘匿して後退する。残存器材は埋没する。焼却を厳禁する。携行し得ない兵器もまた同じ。  梶川大隊長は筆記命令を受けると、時間の余裕もないので、直ちに地図を按じて、将校斥候を目的地に先行させた。  撤退に移るときの梶川大隊の兵力は、前夜半、支隊から大友小隊の復帰を受けているので若干増えているが、それでも大隊と呼ぶには惨めなほどである。大隊本部(長以下一八)、第五中隊(長以下三二)、第六中隊(〇)、第七中隊(長以下六三)、重機関銃(曹長以下一一)、大隊砲(兵一二)、計一三六。火器は、小銃(下士官以下全部)、軽機関銃(二)、重機関銃(二)、擲弾筒(一)である。  困難が予想される夜間敵中の背進行であり側敵行であるノロ高地からの撤退は、二十七日午前一時に開始された。  八月二十七日  長谷部支隊(含梶川大隊)の後退は順調ではなかった。  敵は察知したらしく、戦車が来て砲撃した。その上、図上で予定した後退線の749高地が、敵をかわしながらの暗夜の行動では目標確認ができず、諸隊間の連絡もとれず、途中、尖兵も患者部隊も行方不明となった。  天明後、方向に迷っているときに敵の砲火を集中され、苦心して運搬中の砲を全部破壊された。  この夜、分散した兵を纏めて、再び後退をつづけ、八月二十八日朝、かろうじて749高地(ホルステン河屈曲点付近の泉東方にある砂丘)の西側に布陣していた第七師団の戦線に辿りつき、梶川大隊その他第七師団本属の部隊は元に復し、長谷部支隊(八国)はモホレヒ湖東側の警護に充当された。  小沼メモに、次のような記録がある。 「両大隊/八国 両大隊は支隊長と離れ、所命の陣地に赴きしも支隊長なし。二十七日、一日、所命の線にあり、敵の攻撃を受けて苦しくなり、|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》に於て後退。  長谷部支隊の最左翼中隊、一中隊二十名となる迄大奮闘せり。  中隊長居なくなり戦死として通知せり。然るに捕虜となり帰り来れり。  八国の強度  八国の一中隊長、二十八日の昼、新工兵橋に下り来れり、団結強固ならず」  メモだから、小沼中佐自身の備忘のための摘録であって、簡単に過ぎるので、読む者には意を尽さない箇所が多いが、たとえば八国の強度が「団結強固ならず」というのは、先に記した彼我の兵力・火力の大差にもかかわらず二十六日深夜までノロ高地を支えていた長谷部支隊に対する評価としては、当を得ていないと考えられる。想像するに、結果的には無断撤退した部隊を、精強であったとも、よく戦ったとも評価しにくかったのであろう。  小沼メモは長谷部支隊に関して点数が辛い。次のような摘録もある。 「長谷部部隊の築城  棲息設備を先にし、射撃設備を後にす。  P(工兵)二小(隊)の一中隊二週間の作業なり。掩蔽設備は性能保有する程度に出来あり。集中射を受けしが案外破壊せられあらず」  先の引用箇所に「(八国の)両大隊は支隊長と離れ、所命の陣地に赴きしも支隊長なし」とあるのは、梶川大隊が撤退開始時に支隊本部に集合したときに、支隊長は梶川少佐に連隊砲中隊・迫撃小隊・工兵中隊・衛生隊を併せ指揮することを命じ、支隊長自身と支隊本部も梶川大隊と同行したから、八国の両大隊とは行動が別になったのである。八国の大佐が何故歩二八の大隊と行を共にしたかは、明らかでない。梶川少佐は、多種類の部隊が混淆《こんこう》しているので、支隊長自身が指揮するのが至当であると意見具申したが、長谷部大佐は容れなかった。これも理由が判然しない。  梶川大隊は八月二十七日午前六時、後退予定線のコブ山に到達している。  長谷部支隊撤退の一つの局面を、小田大治の手記がなまなましく記録している。 「三木隊は最後尾につきました。矢張り他部隊の者と云う遠慮見たいなものがありました。夕方二人の居たところから稜線を超えて、戦車と大砲が長谷部支隊を目標に実弾射撃をしていた方へ進みます。  さらばノロ高地よ、さようなら。感慨が心の中を吹き抜けます。どれだけ進みましたか、ある間隔を置いて昼間の戦車が、黒々と寝ています。ふり返れば稜線が明暗を見せて居ります。  この時一頭の馬がもとの飼い主か、すぐそばの兵隊のところへ駈け寄って首をこすりつけます。次に高々といななきます。歓びの声でしょう。ビックリして追い払うように云いますが、間に合いません。  戦車が一台走って来て砲塔をあけ、こともあろうに、敵のソ連兵が身を乗り出してペラペラと声をかけます。ロシア語のわかるものが居りません。黙々と隊列は聞こえぬ振りして進みます。戦車も少しついて来てピタリと止り蓋も閉じます。やれやれと思ったのも束の間です。右手の方の戦車までがカタカタと動き始めます。御存知のあの不気味な響きを立ててです。  同時です。  先の戦車が猛烈な勢で突っ込んで来ます。月明りとは申せ、よくもまあ夜でも見える事です。隊列は崩れて数人は右手の稜線へ駈け上ります。戦車は止りましたが、支隊とは離れて終いました。この出来事は最後尾の僅かしか知らなかった事でしょう」  手記の筆者はここで長谷部支隊とはぐれてしまうのである。つづけよう。 「さて、稜線に駈け上った私達は最後尾の都合四名でした。長谷部支隊の見習士官と三木隊の白石某と伊東と私です。駈け上って驚きました。戦車が停ったのも道理です。足許にはソ連兵がいやと云う程タコツボに眠って居ります。足の踏み場もない程です。少し歩くと大きな凹地へ出ました。ビックリです。十数門の野砲が整然と並んで砲口が後方即ち昼間の長谷部支隊とは反対の方向に向って、上部には大きな網を被り草を撒き散らしてあるのが判ります。(中略)  足許には驚く程のソ連兵です。  中には目を開けて見るソ連兵も居りますが、ノンキなもので騒ぐ風も見えません。  三木隊の三人はすでにゴボウ剣を抜き身にして帯革に差して居りました。(中略)  ここで進路を話し合った末私に一任となりました。正に責任重大です。北斗七星が地平線に引っ懸るように見えます。一瞬この方向と決めました。(中略)  ソ連の陣地を抜けた途端です。即ち稜線の反対側です。私達は凄い異臭に愕然となります。足許の散兵壕は目をそむけ度くなる程無残にやられた友軍の陣地です。明さが増してきました。夜明けが近いのでしょう。急がねばなりません。  この陣地を通過して暫く後のしらじら明けの頃日本軍の通信兵二名に遭遇しました。  笑わないで下さい。この二名を追いかけて日本兵と知った時、四人が四人共に腰が抜けた事を今もおかしく思い出します。観測所と呼ぶ少尉以下十名前後で観測している所へ連行され、水と乾パンにありつきます。(中略)教えられた後方へと歩きます。同じ草原が別なところの様にすがすがしく見えます。  助かったのです」  これが二十七日の朝である。小田たちは意外な情景にめぐり会うことになる。 「いや驚いたのなんの、草原を埋めるばかりの大部隊がいました。  この時私の胸には燃えるばかりの憤懣が湧きました。  何と云う事か、これだけの大部隊があり乍ら救援にも来てくれなかったのかという思いです。なんとこの部隊には九五式天幕さえ数多く設けてあります。ここで原隊を追及する見習士官と別れます。(中略)  残る三木隊の三名は天幕の中で米の飯を御馳走になりました。  岡本部隊(歩七一——引用者)を尋ねますが判りません。その筈です。岡本部隊は三代目の部隊長(岡本、長野、森田——引用者)森田大佐も戦死され、残る将兵が死闘の真最中でしたから。(中略)  この九五式天幕から間もなく気の毒だがと我々は追い出されます。伊東の説明した前線の模様が士気に関するとの理由です。軍曹の気持は判ります。  而し、 �真実に耳をふさいでも、真実は変って呉れるものではないぞ�  胸に湧く思いでした。  三人の放浪が始まります。三木隊の名にかけても食物を乞う事が出来ませんでした。(中略)  前線から運ばれる負傷兵は驚くばかりです。聞けば夜襲でやられたとの事でした。  可哀相でもありますが、 �水を飲み、米の飯を食って居り乍ら前線まで来れなかったとは�  割り切れぬ気持も胸に湧きました。すぐ傍に大きな天幕を張った野戦病院らしいところへ辿り着きました。小さな飛行機がしきりに草原へ発着します。負傷兵を運ぶものでしょうか。この横に近く、物資集積所があります。夜になるのを待って三人はドロボーに早変りします。背に腹は代えられません。御蔭でどうにか露の命をつなぎます。夜は拾った梱包の切れ端の板切れを被ってゴロ寝です。結構夜露は凌げます。  こうしている時�岡本部隊の生き残りはノモンハンに集結せよ�の声が伝わりました。ノロ高地や三角山を総称してノモンハンと思って居りました三人は、※[#「玄+玄」、unicode7386]で始めてノモンハンなる一地点が別にある事を知りました。(後略)」  こうして、小田たちは、ノモンハンに辿りついて歩七一第九中隊長小野塚大尉の指揮下に入り、第三大隊が僅かに四十六名になっていることを知るのである。  同二十七日 バルシャガル高地  前夜半からこの日未明にかけて長谷部支隊がノロ高地を撤退したから、既に北翼のフイ高地なく、ホルステン南岸のノロ高地なく、いまやホルステン北岸バルシャガル高地一帯の陣地が残るだけである。  この陣地の正面は、北はキルデゲイ水から731高地—733高地—ホルステン北岸までの約八キロ。歩兵部隊としては山県部隊(歩六四)と歩二六からの生田大隊(既述。全滅)の四個大隊。砲兵として後方に野砲兵第十三連隊(既述。第一大隊、第四・第七中隊欠)、野戦重砲兵第一連隊(第二大隊欠。この日全滅。後述)、独立野戦重砲兵第七連隊(第一大隊欠。既述)、穆稜重砲兵連隊(一中隊欠。全滅。既述)があった。  山県部隊の守備正面が過広であったことについては、先に何回となくふれた。この正面に対して、ソ軍は、機械化狙撃師団一個、狙撃機関銃旅団一個を当て、さらに戦車一大隊、装甲自動車一旅団を増加した。その上、二十四日夜半フイ高地が陥ちてからは、その方面の攻略に充当されていた北方兵団(狙撃一個連隊、戦車一個旅団、装甲自動車二個旅団、空挺一個旅団)がバルシャガルの右側背に迫り、ホルステン河谷からは南方兵団の一部が左側背に打撃を加えてきたのである。  兵力量も火力も桁違いであった。最終的には、山県部隊の損耗率は六九%、バルシャガル方面の守勢充当の砲兵諸隊のそれは七〇—七五%に達した。  バルシャガル高地一帯は、二十七日早朝から砲爆煙に包まれた。山県部隊主力から北へ遠く離れている第三大隊(ろ号陣地)は孤立無援であった。弾薬糧食も残り少なくなっていた。  第十二中隊第一小隊の陣地に連なる丘には敵の野砲級の火砲が四—五門据えられ、半裸のソ連兵が喫煙しているのが眼鏡で明瞭に観察された。この砲列から射ち下ろす砲弾が正確に集中するが、応酬する火砲がなくて、撃たれ放題である。  午後三時、戦車十輛、歩兵約五百が砲撃に膚接して接近する。戦車は約八百メートル前方から、地形に遮蔽して、砲塔だけを出して支援射撃をし、歩兵はじりじりと近迫する。  陣地一帯は爆煙と砂塵が濛々として息苦しい。砲撃で壕が崩れて兵隊が生埋めになる。  敵兵陣前約八十メートルに迫る。手榴弾の投擲がはじまる。  十一中隊中央へ戦車四輛が展開して殺到する。「ウラー」の喊声をあげて歩兵が突進して来る。  十二中隊正面も同様の戦況である。  軍医が十一中隊長の壕のなかで、近辺に炸裂する重砲・軽砲・迫撃砲・戦車砲の弾数を算えてみると、五分間に約四百発であったという。  夜になると敵は後退した。いつものことである。日本軍の夜襲に備えてのことであろう。  大隊長は各中隊陣地の端から端まで見舞って歩き、過早に陣前突撃をしないように諭してまわった。戦況が著しく不利になると、若い将兵はややもすると絶望的な勇に逸って突撃しようとするからである。  この大隊長は、敵の砲撃間にも、よく各中隊・小隊を励まして歩いた。戦闘惨烈の極所にあるときの将兵の心理状態をよく心得ていたようである。  潰滅的な打撃を受けているときには、生き残っている者は、自分だけが取り残されて、味方は全部やられてしまったような、絶望的な孤独感に虜《とら》われることがある。戦友の名を呼んでも、誰も返事をしない。味方の銃声はパチンともしない。敵の砲撃に地殻は震動し、砂塵が濛々として何も見えない。そういうときに、耐え難い孤独感が襲って来る。それが昂じると、自暴自棄の突撃に出たり、発狂したり、自殺したり、逃げ出したくなって無意味に姿を暴露し、落さないでも済んだかもしれない命を落すことになったりするのである。  そういうときに指揮官が来てくれると、戦況の好転はもはや望めないとわかっていても、なんとなく気強くなって、孤独感から救われる。死なばもろともという気になる。現実的には何の気休めにもならないことだが、僅かながらでも希望を掻き立てようとする気力が湧いてくる。あるいは、平静な諦観の境地にさして無理なく入り得る。  第三大隊長はすぐれた指揮官であったと思われる。  月が中天に昇る。戦場に静寂が訪れる。気温が下っている。夏衣袴の上に外套を重ね、毛布一枚を巻いても寒気が身にしみる。無理もない。激動して、一日乾麺麭一袋では、体が暖まりようもないのである。  そうしたときに、敵の方角から心にしみ入るような音楽が流れて来る。  ひとしきり音楽がつづいて、日本軍向けの放送がはじまる。 「日本の兵隊たち、君たちは欺されている。直ちに白旗を掲げて降伏しなさい。命は保証する。お互に戦争は止めようではありませんか。小松原師団は完全に包囲されて、後方を遮断されています。戦ってもあと二、三日の生命です……」  同二十七日 第七師団  戦場に増加された第七師団主力は、八月二十七日朝までに集中を概ね完了した。その時点で、780高地線を攻撃していた森田少将指揮下の諸隊(歩二八、歩二六等)は、ソ軍陣地に阻まれて戦線膠着状態にあった。  第六軍は、新来の第七師団主力を森田部隊の戦線右翼に投入せず、その二キロ後方の749—752高地線に展開させた。  手ひどい打撃を受けて苦戦を強いられていた前線将兵にとっては、なんとももどかしいことであったにちがいないが、新来の第七師団主力は、主力といっても、実戦兵力としては、歩兵四個大隊(歩二十五、歩二十七の一大隊〈歩二七主力は第六軍予備〉)、野砲兵六個中隊(野砲兵第七連隊—四個大隊編成、各大隊二個中隊。一個大隊は既に在戦場)、速射砲四個中隊(すべて第三・第四軍からの抽出)に過ぎなかった。この程度の増加兵力で780高地線の敵陣地を突破できるとは考えられないことであった。兵力逐次投入の欠陥は、増援部隊がせっかく到着しながら有効に使用できないことにも現われたのである。  この日未明、既述の通り長谷部支隊はノロ高地を撤退している。また、この日、夜、小松原師団長は残兵を率いてバルシャガル高地救援に出撃する(後述)。  戦線は錯綜し、作戦指揮も混乱している。そういう状況下に戦場に到着した第七師団主力は、二十九日朝まで攻撃を開始しないのである。第六軍も攻撃開始を督促しなかった。  日時は明確でないが、第七師団到着のころ、第六軍司令部では、戦場に来ていた関東軍参謀副長矢野少将をも含めて、従来の戦場を放棄して、新な作戦構想に依ろうとする意見が固まりつつあった。つまり、新来の第七師団の展開線を最前線として、後続予定の第二・第四師団の集結を待って巻き返しを図ろうというのである。  大兵使用の着意は、関東軍作戦参謀の頭脳の浅薄と傲慢のために、遅きに失した。第二十三師団将兵は捨て子同然であった。     69  八月二十七日  この日、午後一時、第二十三師団長・小松原中将はバルシャガル高地救援に向うための作命甲第二〇四号を下達し、諸隊に訓示を与えた。その末尾を、 「……予モ死ヲ覚悟ス、諸子モ予ト同心トナリ崇高ナル犠牲的精神ニ依リ此任務ヲ完ウスヘシ」と結んでいる。  前線に残っている陣地はバルシャガル高地だけである。それもいまや風前の灯である。第二十三師団は既に戦敗れたのである。小松原中将としては死出の旅を覚悟しなければならなかったであろう。  行動開始は二十七日午後九時。師団の戦闘組織は破壊され尽し、本格的な戦闘を交える余力はほとんど消滅しているから、行動の可能性は夜間しかなく、目的地到達までは敵との接触を回避しなければならない。  その率いる兵力は悉く残兵である。歩七一(森田部隊。この時点での指揮官は東中佐)約五〇〇、歩七二(酒井部隊。連隊長・大隊長悉く傷つき、指揮官は広渡大尉)約三四〇、四ッ谷大隊(独立守備第六大隊)約二五〇、工兵第二十三連隊約三〇〇、師団通信隊約五〇、計約一四四〇であった。  第六軍司令官・荻洲中将は、既述のように、前日二十六日には、小松原師団長の救緩行を抑えている。理由は、おそらく、二十七日朝と予想される第七師団主力の到着までは、第二十三師団の残兵を司令部周辺から手放したくなかったのであろうと想像される。  二十六日夜に下達した第六軍命令(作命第二九号)によれば、第七師団到着とともに、第二十三師団をもってホルステン両岸陣地(命令下達時点では、北岸のバルシャガルのほかに、南岸のノロ高地はまだ残っていた)を確保し、第七師団をもって攻撃を続行させることになっていた。  第七師団は二十七日に到着したが二十九日まで動かなかったことは前にふれたし、二十七日ごろには、第七師団を後方に展開させ、そこを最前線として、後続予定の第二・第四師団をもって捲き返しを図ろうとする意見が固まりつつあったことも既に述べた。これらは、作命第二九号とは矛盾するのである。  第六軍には確固たる構想も方針もなかったらしく見受けられる。  二十六日には師団残兵による前線救援行を抑制しながら、第七師団が到着した二十七日には第二十三師団の前進を禁止していない。  作命第二九号を取消し、または訂正する命令は出ていないから、第二十三師団はホルステン両岸陣地を確保する任務を解かれていないわけである。  そのくせ、第六軍司令官は、小松原中将以下の出撃に内心当惑し、師団長が自発的にその決行を中止することを望んだ、というのである。望んだのなら、前日同様、出撃を認可しなければいい。作命第二九号に代る命令を下達すれば済むことである。  第六軍参謀長藤本少将は、ホルステン河まで途々小松原中将の自殺にひとしい前進を中止するように説得に努めたというが、そんな手間をかける必要はなかったのである。第六軍の作戦的見地から、やらせるならやらせる、抑制するならすればいいのである。進むにしても退くにしても、事態はいまや火急を要する。情誼だの意地だの面子だのが介在する余地はない。  この時点で前線付近にあった日本軍は、バルシャガル高地の山県部隊(歩六四)、その後方の伊勢部隊(野砲)と、前線へ向った小松原救援部隊だけであった。  第六軍には統帥の見識も能力もなかったと論評しても不当ではない。八月下旬後半の時点で、第六軍司令部では、襤褸《らんる》のように千切れてゆく第二十三師団諸隊に対して、撤退させる必要を感じながら、師団に対して戦場放棄を命ずることが憚られた、というのである。誰も撤退意見を出す者がなく、戦場に来ていた矢野関東軍参謀副長も最後まで黙然としていたという。この戦場で進退を決し得るのは第六軍司令部である。もし、撤退の必要を認めていながら、撤退命令を出すことを面子のために憚ったのなら、悲劇の責任はすべて第六軍司令部にある。そういう戦況下で、幾つかの部隊が独断撤退したとしても、その指揮官が責任を負って自決しなければならぬ性質のものとは考えられない。事実は、数名の指揮官が引責自決(後述)しているのである。より正確には、自決せざるを得ない立場に追い込まれたのである。第六軍が撤退の必要を認めながら撤退させなかったとすれば、第六軍首脳部も責任を連帯しなければならぬはずであった。  第六軍は、諸隊の戦力が破断界に達する前に後退させて策を講ずる明知に甚だしく欠けていた。想像するに、関東軍の手前、それができなかったのであろう。関東軍が、しかし、その種の指導をしてくれるはずがなかった。元はといえば、関東軍が敵を甘く見ていたからである。敵を甘く見て、反省を怠っていた関東軍が、甘いはずの敵から手痛い敗北をくらうことを、決定的な瞬間の到来まで容認しなかったのだ。  第六軍が戦力消尽しつつある諸隊の撤退の必要を感じ、小松原救援隊の前進も中止させる必要を感じていたというのには、疑問がなくはない。第一に、ほんとうに必要があれば、思惑や面子を抜きにして然るべく命令を出せるはずであること、第二に、第六軍の面子が優先するなら、第二十三師団の一つ潰すくらいのことは何でもないという非情さが軍という組織にはあるということ、第三に、ノモンハン戦の拙劣な作戦の主務者であった辻政信が第六軍司令官荻洲中将に関して次のように書いていることである。  まず、八月二十五日、第六軍への兵力増加が決ったときの、将軍廟の第六軍司令部でのこと。 「そのとき軍司令官から一通の電報を示された。(中略) �辻君。僕ほど武運に恵まれたものはないよ。支那で徐州会戦にさんざん働いて、今またこの晴れの舞台に四個師団(第二十三・第七・第二・第四師団——引用者)も貰って、思う存分働けるとは。俺ほど幸運なものはなかろう�  この一言は不快な響が含まれていた。何だか金鵄勲章か感状のことでも考えているのではなかろうか。この軍司令官は果して師団長の苦労が判っているのだろうか。机の上にウイスキーの瓶があったのも不快を増した原因であろう。(以下略)」  次は、辻が五度戦場へ出向いた八月三十日夕刻である。 「天幕内の幕僚室は誰一人一語も発するものがなく、陰惨な空気にとざされている。  軍司令官室に申告にいった。ウイスキーで大分酔が廻っているらしい。心の苦しさを酒でまぎらわさねばならなかったのだろう。申告が終ったとき、 �辻君。僕は小松原が死んでくれることを希望しているが、どうかねえ君ッ�  その瞬間唖然とした。次いで憤然とした。  この事件が発生してからこんなに癪に障ったことは未だなかった」  辻は、ここで、軍司令官を怒鳴りつけるのである。 「軍の統帥は師団長を見殺しにすることですかッ。小松原閣下としては数千の部下を失った罪を死を以て償おうとしておられる心は当然であり、御胸中は十分判ります。それだけに軍司令官としては何とでもして、この師団長を救い出すべきではないですかッ。これが閣下の部下に対する道ではありませんかッ」  胸のすくような快啖呵《かいたんか》といいたいところである。「数千の部下を失った罪」が問題なら、敵の戦力を幾度も誤判して惨澹たる悲運を招いた罪の少なからぬ部分は、彼辻政信に帰せらるべきだが、彼がここではそのことをすっかり棚上げして一方的に荻洲立兵を非難している身勝手さを除けば、そしてまた、辻の書いている荻洲の暴言が事実であったとすれば、辻の非難は当然というべきである。     70  小松原中将は前記の残存兵力を率いて、二十七日夜、前進を開始したが、間もなく敵の歩兵と機甲部隊の攻撃を受け、前衛の歩七一は第一大隊長杉立少佐以下多数の死傷者を出した。  伊勢部隊(野砲)では第七中隊(残存火砲二門)に小松原救援部隊のホルステン北岸前進を掩護させたが、この部隊も敵の猛攻に遭って損害続出し、救援部隊に追及できなくなった。  小松原部隊がホルステン北岸を新旧工兵橋の中間地点までどうにか進出できたのは、二十八日天明前である。このとき師団長の側近には、師団参謀長岡本徳三大佐と情報参謀鈴木善康少佐だけであった。後方参謀の伊藤少佐は二十四日に、作戦参謀村田中佐は二十七日に負傷して戦列を離れていた。  小松原部隊と第六軍の無線連絡は不通となった。弾薬・糧秣補給のトラックは敵の攻撃のために追及できなかった。  小松原部隊が、今度は歩七二を前衛として前進を開始したのは、二十八日夜半のことである。  一日先走るが、後述する部隊との関係があるので、この日の小松原中将の日記を摘録する。 「……一—二時頃敵ハ陣地ニラジオヲ装置シ音楽ヲ奏ス、恰モ戦勝ヲ誇り楽シムモノノ如シ。十五榴(後述)、十加(後述)陣地ノ傍ヲ過ク、残骸見ルモ惨ナリ、苦闘察スルニ余リアリ。小林司令部(攻撃移転時の右翼隊。小林歩兵団司令部——引用者)付近ハ敵占領シ銃声各所ニ起ル之ヲ突破シテ遂ニ占領」  同二十七日 伊勢部隊(野砲)  歩六四のバルシャガル高地後方にあって、残存火砲九門(第五中隊一門、第六中隊二門、第八中隊三門、第九中隊二門、第十一中隊押収火砲一門)をもって、バルシャガルの背後へ迂回した敵の機甲部隊と終日激闘を交えたが、火砲は次第に損壊し、死傷も増え、終焉は刻々に近づいていた。  同二十七日 野重一(第一大隊)  前掲の小松原日記にある十五榴陣地は、この日が最期となった。野重一の戦況を再現するために頻繁に引用した榊原『陣中日誌』の筆者も、この日、重傷を負うのである。  二十七日の戦況は、右の『陣中日誌』と同人著『ノモンハン桜』の併用に依る。 「七時二〇分、敵戦車装甲車現はる。直ちに之に対して射撃開始。精度良好の様子。第一中隊の三門と合せて四門、全く力強い。それに、まだ伊勢部隊だつてもいくらか残つてゐるだらう。  十五加(染谷部隊)は兵一名残つたのみで全滅した模様。  天候は、雨雲低く下り、敵機からの観測困難、之正に天佑なり。  何が!! 畜生!! 露助奴等の弾で全滅してたまるものか。  何としても友軍主力の来る迄頑張るんだ」  連日死闘を演じている守勢部隊は、友軍主力の進出を唯一の恃みとしているが、森田(範)部隊の戦況は780高地線で膠着し、新来の第七師団主力はその後方二キロに展開したまま動かず、第二十三師団長の手兵は諸隊の残兵に過ぎなくなっていることを知らないのである。 『陣中日誌』は次のようにつづいている。 「来る来る、頭をスレスレに掠《かす》めて砲弾が飛んで来る。平気だ。�後方へ戦車が廻つた�との情報。死ぬ覚悟の今は別に新たな感情も湧かぬ。弾雨の中ペン止めず。九時�友軍主力が優勢に転じ敵を包囲してゐる。奴等は既に袋のネズミ�といふ情報に接し嬉し涙が出る(士気を上げるための虚報だった)。  九時四〇分、通信新小隊長掩体へ重砲弾落下、俺の個室当番だった内田が戦死した。鎌田少尉も相当の深傷らしい。あと一人之も重傷。畜生、畜生!!  何とか早くこの砲兵を制圧したい。内田仇をとるぞ、長い間御苦労様。  空は尚曇つてゐる。雨気あり。  十時四〇分、負傷。  十五時十分戦車襲撃、対戦。  幸ひかなこの負傷(まだ働ける)。  拳銃と軍刀を握り締む。  拳銃は鎌田准尉の奴だ。  十六時、いよいよ最後だ。  二、三〇分の命だ。  山崎大尉殿(第二中隊長・大隊長代理——引用者)やられる。鈴木曹長同じ。  敵二、三百メートルに近寄る。  天皇陛下万歳」  榊原軍曹の『陣中日誌』はここで終っているが、同人著『ノモンハン桜』にはこのあとが克明に書かれている。  それによると、副鼻から口腔へかけて砲弾の破片による重傷を受けた山崎中隊長は、拳銃を部下の少尉に渡して、撃つことを命じた。部隊の最期は迫っている。いつ意識不明になるやも知れず、そのまま敵手に落ちることを避けようとしたものと考えられる。 「�中隊長殿、では御免下さい�  少尉は隊長の後から静かにそのコメカミに拳銃を向けた。しかしすぐ右手を下ろした。苦肉の一策、咄嵯の気転ならん。 �中隊長殿、拳銃が故障です� �よし、一寸待て、まだ息ができる。それでは、息の続く限りもう一度射撃の指揮をする�」  これから、朱に染まった山崎大尉が硝煙のなかに仁王立ちになっての奮戦がつづくのである。だが、 「やがて、遂に来るべき時が来た。 �これで終りです! 中隊長殿�  何とも云えぬ無念の声、ここに吾全弾を撃ち尽す。自爆する弾丸すらも残さずに。  万感こめて深く火砲に最敬礼をした全員は山崎隊長の命に従って火砲に最後の処置を施す」  このあと、山崎大尉以下、最後の突撃の機をうかがう。 「ああ、なるほど、矢張りこれで死ぬんだなと思う。みんなとっくに死んだんだから当り前なことだとも思う。(中略)  ひと思いに死にたい、矢張り人間としての弱さであった。  人が驚く程の立派な死に方でありたいとも希う。戦闘開始以来これは常に自分の心を支配していた。(中略)  万が一にも生き残っていた時、たとえ一人でも、�榊原は敵弾を怖がっていた�などと言う人があるとしたら、それを思っただけでも本能とは異なる筋肉が動いていた。  人間は死ぬまで芝居気があるのだろうか? 見栄が捨て切れぬのだろうか? そんな悲しい反問も頭に浮ぶ。いや違う。これが恥を知るということだろう。恥を恐れるが故に強くなるのだ。(中略)  何でもいい、遮二無二突込んで早く片付けたいと焦る。三十分程前に中隊長は、誰から借りたか或いは自分のものか小さなポケット鏡でヂッと自分の顔を見ていた。(中略)  今はもう、生への執着も死の恐怖もない。只、凡人の悲しさ、この世に生を享けて二十二年、苦楽の想い出が拭っても拭っても心の中を去来する。  耳に突撃号令を待ち、目に敵戦車を見つめながら、 �苦労して覚えた射撃教範もこれ迄のものか� �苦手の英語も、三角もこれで用無しか�(中略) �今、何時だ�  突然訊かれて右を見ると中隊長は覘窓を閉じて生き残った部下の待機姿勢をヂッと見ていた。 �十七時十五分です� �ああ、そうか�(以下略)」  この直後に、山崎大尉を狙撃兵の銃弾が前額部から後頭部へ大きく貫通するのである。  戦死した山崎大尉は、全軍中ただ一人の個人感状を受けることになる。 「砲声はおとろえ、もはや友軍の叫び声も無く、この草原に生きている日本人は吾々のみかという感じがする。(中略) �壕に人って姿を見せるな。全滅と見せかけて、戦車がこの壕を踏みにじる時、後から跳び乗ってやっつけよう�  飯田少尉の結論であった。(中略)」  夕暮れと共に何処へともなく撤退して集結する敵戦車は今日のこの圧倒的優勢な時でも例外ではなかった。  吾々は突込む時期を失し、はぐらかされて了った様だ。  月が昇った。寒さが増した。砲声も疎らになった。しかし戦車はこの壕に近寄らずカタカタカタという無限軌道のキシミも遠ざかりつつあった。(以下略)」  野戦重砲兵第一連隊では、連隊長三島大佐が七月下旬に負傷して後送されてから、第一大隊長梅田恭三少佐が連隊長代理を勤めていた。(したがって、前記の山崎中隊長が第一大隊長代理となっていた)。  梅田少佐は、八月二十七日、戦況いよいよ最期とみて、次の遺書を残して、夕刻、連隊本部観測所の掩体上で自決した。 「遺書  アラユル手段ヲ尽シ最後マテ奮闘シヨク皇軍砲兵ノ面目ヲ発揮シタルモノト信シ愉快ニ堪エス  アト未タ二時間位ノ余裕アルヤモシレヌ  全弾ヲ撃チ尽セハ敵|線《ヽ》ニ突入シ最後ノ忠節ヲ完ウセントス  三|島《ヽ》聯隊長ニ呉々モヨロシク部下全員勇敢ニシテ余ストコロナク奮闘セルヲ伝ヘヨ  染谷部隊ハ昨日全滅ス伊勢部隊ハ本日十時頃全滅  鷹司部隊モ我レト同シ運命ニアリ  椎名曹長高崎上等兵伊原通訳ヲ連絡ノタメニ本隊ニ派遣セルコトヲ証ス   三|島《ヽ》部隊   聯隊長代理 [#地付き]梅田少佐  八月二十七日一五、〇〇 [#地付き]」 (傍点箇所中、敵|線《ヽ》は、敵陣となっている資料が多いが、遺書の写真を見る限り「線」としか読めない。次に、三|島《ヽ》連隊長の島は「嶋」が正しいらしいが、同じく写真で、梅田少佐は「島」と書いているので、そのままとした)  こうして、十五榴大隊が潰《つい》えたあとは、バルシャガル高地線付近に残った日本軍は、山県支隊と伊勢部隊(野砲)主力、それにバルシャガルヘ向う小松原師団長直率の救援部隊だけであった。  梅田遺書に「伊勢部隊ハ本日十時頃全滅」とあるのは、誤報か誤認に因るものではなかろうか。伊勢部隊は翌二十八日朝までは残存火砲五門を有し、同日午後六時火砲弾薬のすべてを失い、二十九日未明、山県支隊とともに後退するのである。  梅田遺書は日本の軍人の潔さを典型的に表わしている。一読粛然とするものがある。だが、こうして一線部隊のすぐれた指揮官が泰然として自決し、あるいは自決を迫られて逝ったことが、統帥の拙劣、作戦の粗雑、指導部の独善に対する徹底的な批判を後景に押しやってしまったと思われる。ノモンハン後、指導部は中央も出先も人事の更迭が行われる(後述)が、たとえばノモンハン戦発起と指導の中枢神経であった服部・辻の両参謀は、日ならずして大本営作戦部に返り咲き、ノモンハンの悲劇的経験などまるでなかったかのような作戦指導をするのである。  たとえば辻少佐を、戦場に遺書を残して逝った梅田少佐の立場に立たせたらどうであったか、と考えるのは徒事ではない。後方司令部から戦場に出張して、戦線をとび歩いて「勇敢」の評判をとり、あれこれと督戦して、決定的瞬間には後方に引き揚げてしまっている(彼はノモンハンでもそうであったし、ガダルカナルのような南海の島においてさえそうであった)人物と、劣勢明白な兵力をもって潰滅まで第一線にとどまる人物とは、職分の相違とはいっても、その必要とする勇気と責任感と義務意識には雲泥の差がある。梅田少佐のことはほとんど誰も知らない。彼は統帥の拙劣と先見性の欠如を批判する代りに、従容として死を選んだからである。辻は「有能な参謀」としてノモンハンの失敗をガダルカナルとニューギニアで増幅するのである。不思議なことに、有能な参謀は概して戦闘惨烈の極所を担当しない。惨烈の極所から身をかわす可能性を持った者が、前線将兵に惨烈の極所を与える如く作戦する。しかも名声を傷つけない。想像するに、彼は、その上級者としてよほど凡庸な将軍たちに恵まれたのである。     71  東京中央は、八月二十七日、支那派遣軍から関東軍に対して兵力転用することについて、中央と在支各軍と関東軍の各参謀が九月一日福岡に会同することを決め、参謀派遣を各軍に要求した。  関東軍は服部参謀を派遣することにしたが、このころ作戦参謀の間には戦況を重視して戦略兵団の増加を中央に要求すべきではないかという意見が出はじめ、参謀次長宛ての関東軍参謀長電を起案までしたが、関東軍の面子意識から発電を一時保留したことは、先にふれたところである。保留の理由は、不仲になっている中央に対して増加要求をすることが「如何にも不快」だというのであった。もう暫く待てば中央の方から兵力を増加して来るはずだから、過早に要求電を打つことをやめて、八月三十日中に中央から増加に関する電報が来ない場合には、関東軍から打電をするという打合せのもとに、服部参謀は二十九日夕汽車で(朝鮮経由)福岡へ向った。戦場では刻々に諸隊の断末魔が近づいていたときに、後方司令部は呑気なものであった。  二十九日といえば、戦場では、この日未明、最後の第一線陣地であるバルシャガル高地から山県支隊(除第一・第三大隊)と伊勢部隊(野砲)が撤退し、服部参謀が車中にあるころには第一大隊も第三大隊もそれぞれ陣地を撤したのである。  当初関東軍があれほど国境として固執したハルハ河の線に近い陣地は、これで全部失われたのだ(小松原救援隊は山県支隊と入れ違いに前線へ進出することになる)。  少し先走るが、ついでに記しておこう。関東軍が必要なことを急がず、不必要な面子にこだわって三十日いっぱい待つことにした兵力増加に関する電報は、二十九日午後九時二十分に届いた(発電は午前五時五分。どうしてこんなに時間がかかったか、不審である)。  内定した増加兵力は、  師団二(但し一は大本営直轄)  十五榴連隊二(但し一は大本営直轄)  臨時編成速射砲中隊(六門)九  高射砲兵隊約一七  飛行第五九戦隊  飛行場大隊の一部  電信中隊三  無線電信小隊八  兵站自動車中隊二五(内三は北支、他は動員)  陸上輸卒隊四  野戦予備病院四  患者輸送班三  八月二十八日  参謀本部は、この日、関東軍の新作戦企図に応ずるノモンハン事件の処理について、上奏した。 「……関東軍司令官が冒進し来れる敵に対し一撃を与ふるに決心したることは爾後如何なる処理方法を取る場合に於ても必要とすることは同軍司令官と判断を一にする次第であります。  斯の如く三個師団(第七・第二・第二十三師団——引用者)を以てノモンハン付近の敵を攻撃致します場合に於ては其成果如何に拘らず特に速かに事件の処理に当ることが肝要であります。特に外交交渉に依る停戦を策しますことは最も努力を致すべきでありまして曩《さき》に上奏致しました外交交渉の要領に基き|作戦の推移を看て交渉を開始するを可とする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》考へであります。  又万一外交交渉成立することなく冬季に入る場合に於ては兵力の主力を現地より撤去致しますことは関東軍に於ても考慮致して居ります次第にて事件を明年に持越さざる為には啻《ただ》に作戦軍の主力のみならず其全力をも撤去を行はざるべからざる状況をも考慮し関東軍作戦の指導を適切ならしむる考へであります……」(傍点引用者)  この時点での中央の方針は、関東軍にその企図する作戦を遂行させつつ厳冬の候までに事件を終結するに勉める、このため所要の兵力を満洲に送る、というのである。  右の「上奏」を見れば明らかなように停戦が緊要な課題として大きく前面に出はじめている。だがそれは兵力を増強して「作戦の推移を看て交渉を開始するを可とする」というのである。  日本の軍人の思考の型は、いつもこうであるらしい。停戦は必要だが、その前に痛打を加えたい。痛打を加える必要があり、またその力があるのなら、はじめからそうすればいいのである。前線すべてが陥ちてから力むのは、負け惜しみであり、停戦へ自発的に導く潔さが欠如しているのである。  重複する部分があるが、八月二十七日の関東軍司令官植田大将から中央への意見具申は、負け惜しみと強がりの標本のようなものである。  「意見具申  判決 [#この行1字下げ]一、対ソ軍備を一層急速に充実すると同時にノモンハン方面のソ軍に対し徹底的に打撃を与へつつ、他面、独乙、伊太利を利用してソ聯より休戦を提議せしむると共に、速やかに日ソ不可侵条約を締結し、更に進んで日独伊ソの対英同盟を結成し、東洋に於ける英国勢力を根本的に芟除《せんじよ》して支那事変の処理を促進完成するを要す。  二、(以下略)」  省略部分の要点は、ソ軍に痛撃を与えるために第二・第七・第二十三師団を戦場に使用し、要すればさらに一兵団をハイラル、満洲里《マンチユリー》に推進することと、国境をハルハ河の線とするという条件でソ連から休戦を提議させるということである。  時は八月二十七日、フイ高地、ノロ高地は既に陥ち、攻勢部署の森田兵団はハルハ河の線より遥か後方780高地線の手前で攻勢を持続できなくなっており、恃む火力の十加、十五加部隊は玉砕し、十五榴大隊も潰え(以上何れも守勢砲兵)、小松原第二十三師団長は残兵僅かに千余を率いて、万死は期しても一の生還を望み得ないバルシャガル救援に向おうというときである。意見具申の作文に見られる虚勢に満ちたしらじらしさと現実の悲惨との隔りは、測り知れない。概して、陸軍のエリートたちは、国力の正確な認識とそれに応じた作戦の考案は杜撰《ずさん》で、美文調の作文には練達していた。それを虚飾と弁えてなお作文している間はまだよかったが、作文に酔って現実を無視し、作文の幻想のなかに傲《おご》りを最大限に膨らませた傾向があった。国内では武力集団の威力をもって通用させ得ても、世界にそれが通用するはずがなかったのである。  辻参謀が戦場から帰って軍司令官以下に戦況報告をしたのが八月二十六日の夕刻であり、しかもなお二十七日に前記のような意見具申がなされたことに注意する必要がある。  前掲の上奏(八月二十八日)は、次の駐ソ大使館付武官からの参謀次長宛ての電報を予備知識としていたものと考えられる。  電報は八月二十二日(ソ軍攻勢第三日目)発、二十三日着のものである。解読文が拙いのか、悪文の標本みたいな文章だが、要するに、外交交渉はソ連の出方を待て、ということである。 「東郷大使のロゾフスキ—に両国国交の正常化を欲するならば国境事件(ノモンハン事件——引用者)の如きも考へよと言ひたるに対し、彼は相当の水を向け来り日本政府の訓令に依るならば何時たりとも話合ひを図ると言ひ之彼の一存にあらずして事前にモロトフ等と話合ひの上の答にして蘇軍も外交交渉を欲するを感知せりと云ふも(東郷大使が——引用者)小官は結局水を向けたるを以て大使にして又彼として日本政府よりの申出ならば何時たりとも話合ひをなすと云ふ内容に触れざる答ならば為し得る所にして之を以て直に蘇邦政府の意向なりと判断し得ず。  故に今回の単なる話合ひに跳びつき我より申出を為すが如きは不可にして宜しく彼の出方を待つべきなり。殊に軍としては外交交渉に期待を掛け或は早晩撤退防禦判断の資料を与へることなく一意現地確保の施設を行ひ彼をして妥協せしむる様仕向けざるべからず」  遠く離れている駐ソ武官の認識不足は仕方がないとしても、参謀本部第五課の『敵八月攻勢の推移に関する判断』は、判断という名に全く値しない。 「ソ蒙軍の八月攻勢は我現有兵力を以て之を破摧し得るならん」  というのである。敵の戦力を甚だしく下算したのは関東軍だけではなかったのだ。「判断」はこうつづいている。 「然れども事件地付近我軍の持久駐留の為には今後旧態恢復(ハルハ河右岸奪回の意であろう——引用者)の逆攻勢を要するに至るべく彼我の活溌なる戦闘は尚当分継続すると共に逆攻勢の為|一部新兵力の増加を要することあるべし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)  東京も新京も無責任なまでに遅鈍であった。戦闘の早期終結が必要なら虚勢を張るのは有害無益であり、敵を「破摧」するのが大目的であるなら、大兵の一挙投入以外のあれこれの思案や駈引は有害無益であった。     72  八月二十八日 歩七一  前夜小松原救援部隊の前衛として前進間に多大の損害を出した歩七一(森田部隊。森田連隊長戦死のため、連隊長代理は東中佐)は、この夜、前衛を歩七二と代って工兵橋南方から前進を開始した。  前進開始前に、負傷者をトラックでノモンハンヘ後退させたが、これが敵の戦車に捕捉され、負傷者多数の力闘も及ばず全滅した。  敵中を前進する本隊では、東中佐以下肩章(階級章)をはずし、秘密文書等を焼いて、ひたすらに企図の秘匿を図りつつバルシャガル高地線めざして前進。このころの状況は、前後左右みな敵である。生還は期し難かった。だとすれば、救援隊は救援隊ではなくて、死場所を求めたにひとしい小松原中将の死出の旅の道連れであった。  同二十八日 伊勢部隊(野砲)  この日、朝、残存火砲五門(第六中隊二門、第八中隊三門)。  午後六時、弾薬尽き、火砲悉く破壊。  生存将兵は小銃と火焔瓶をもって反復殺到する戦車と格闘する。だが、最期はもはや時間の問題である。  同二十八日 歩六四(バルシャガル高地)  歩六四の古川常深によれば、「二十八日大隊本部要員を解散、各中隊に分属させ、敵はすでに五〇〇米の地点から交叉砲撃をはじめ、ほとんどの壕も崩壊、生埋めを救出する作業員も姿を消し、そこに火焔戦車の侵入がはじまり、生埋めの兵隊が各大隊とも火だるまになってしまった」とある。  第三大隊(キルデゲイ水付近)では前々日の二十六日から、山県連隊長から連隊主力位置への後退を命ぜられていたが、夜半まで敵と近接戦闘を交えている状況では離脱は困難であり、敢て冒せば支離滅裂となるといって後退を断わっていた。二十七日にも同じ命令があり、一度は後退の準備をしかけたが、戦況がそれを許さなかった。  二十八日、「日を経るに従いますます不利となるをもって、旧兵団本部方向より主力位置に復帰すべし」と重ねて命令が来た。  午後八時、大隊長は各隊長・大隊副官・軍医を招集して意見を聞いた。  意見は二つに割れた。一つは、このままでは犬死になる、強行突破して連隊主力と合するべきである、という。もう一つは、脱出は犠牲が多い。この陣地で全滅するまで抵抗して敵を牽引する方が、全局的見地から得策である、というのである。  大隊長は、ただひとこと「ありがとう」と云っただけで解散し、やがて連隊長宛てに返電を打った。要旨は、第三大隊の脱出は困難である、現在の負傷者と途中発生を予想される負傷者を残置して復帰することは忍び得ない、陣地を死守して、日本軍の精神的真価を敵に認識させることを希望する、連隊正面の敵情と師団主力の状況を承りたい、というのであった。  連隊本部から回答は来なかった。代りに、八月二十九日午前三時三十分、次のような電報が来た。     73  八月二十九日 バルシャガル高地  電文は、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ア、〇三〇〇(午前三時)連隊本部はノモンハンに向かい移動中(山県支隊本部は後述するように、撤退を開始していたのである)。 イ、連隊は現陣地を固守せんとす。 ウ、貴隊の御健闘を祈る。 [#ここで字下げ終わり]  というのであった。  アとイは矛盾する。第三大隊は無線で照会したが、要領を得ないうちに砲弾が無線機を破壊した。もはや連絡不能である。  天明ごろから砲撃が激しくなった。陣前に迫っている戦車群からは十字砲火が集中した。  陣地は次第に崩れる。埋没死が続出する。速射砲は一門もない。大隊砲もない。重機関銃は僅かに二挺。擲弾筒弾薬も残り少ない。  敵は火焔戦車を先に立て、突撃ラッパを吹き鳴らしながら突入して来る。  将兵は壕に潜って火焔放射を避け、突入して来る敵兵とは白兵を交え、辛うじて陣地をもちこたえていた。  敵の攻撃と砲撃は夜に入っても反復されたが、午後十一時以後ようやくおさまった。  二十六日から連日後退命令を受けていた大隊長は、この日未明の電報と考え合せて、次の判断に達した。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、連隊主力は苦戦中であるらしい。 2、師団主力の戦況が有利に展開しているというのは錯覚に過ぎないであろう。師団もまた苦戦に陥っていると考えられる。もしそうであるとすれば、第三大隊だけが孤立するのは無意味である。 3、弾薬・糧秣の欠乏は限度に達している。 4、明日も今日と同様の戦闘をするとすれば、全滅は必至である。 5、銃砲声から全局を推測するに、戦場はもはや第一線陣地から東方(後方)へ遠ざかっている。 [#ここで字下げ終わり]  判決 よって、大隊は現陣地を撤して敵の重囲を突破し、軍旗の所在位置に結集するを要する。  大隊長は決断した。 「大隊は本夜敵の重囲を突破し、旧連隊本部位置に至り連隊主力に合せんとす」  という命令を下した。  集合時間は八月三十日午前一時。  破損兵器は埋没する。  行動間は火力を用いない。  負傷者は全員同行する。  突撃を必要とする場合には、負傷者を一時その場に置き、再び収容する。  駈歩を禁ずる。  静粛に留意する。防音措置を講ずる。  友軍の方向を星によって一兵に至るまで徹底させる。  金井塚第三大隊長は思慮のきわめて周密な人物であったとみえる。だが敵の重囲下からの脱出は難事中の難事である。  破損火器は埋没した。各兵は銃剣に草を結びつけて、折りからの十五夜の月に映えるのを防いだ。弾薬を調査して再分配した。小銃実包は各人十発程度、手榴弾は三人に一個弱、対戦車地雷は各中隊二乃至三個であったという。  実包十発では戦にならない。装填二回で終りである。相手が攻める気なら、一時間とはとてももちこたえられない。手榴弾の三人に一個弱も想像以上のひどさである。これでは肉薄する敵を阻止することはできない。  負傷者のうち歩行できない者が十名ほどいたが、担架は二組しかなかった。担架の棒をはずして担棒とし、あり合せの棒や、小銃二挺を結び合せたもので担棒を代用し、筵《むしろ》、かます、草を編んだ物などで、モッコを作り、患者を載せて二人で担ぐことにした。  戦死者の遺体は焼くことができないので、小指を切り落して戦友が携行し、遺体は穴を掘って埋めた。二メートル平方、深さ三メートルくらいの穴を幾つか掘った。底の方は冷くて少し水気があったという。遺体を天幕や毛布で包み、底に五人ほど並べ、土を三十センチくらいかけ、その上にまた遺体を並べて土をかける。三段重ねて埋め、形ばかりの墓標を立てた。こうして埋葬した遺体は、停戦後日ソ両軍の協定によって戦場掃除を行ったとき収容されたが、ほとんど腐敗していなかったということである。  撤退予定の時刻(八月三十日午前一時)が近づくと、将兵は適宜の間合をとって各個に守備位置を離れ、定められた隊形に集合した。深夜、陣地全周の各所に赤吊星(信号弾)が上った。陣地は完全に包囲されているのである。  バルシャガル高地733にあった山県支隊本部では、八月二十八日午後四時以後、師団司令部との間の通信(有線・無線とも。有線は二十三日以後)が一切不通となった。  山県支隊長は二十四日にはじまった師団攻勢の失敗を知っていたし、小松原師団長直率の救援隊が二十八日には陣地付近に到着するであろうと計測していた。  夜まで待ったが、救援隊は来なかった。  陣地の戦力は尽きようとしている。敵の歩・戦は陣前三十メートルにある。おそらく、明二十九日いっぱい陣地を確保することはできないであろうと思われた。  山県大佐は野砲兵第十三連隊長伊勢大佐と相談して、師団主力に合流するためノモンハンに向って後退する決心をした。このときの二人の決断には、小松原救援隊が進出不能に陥っているにちがいないという判断があった。  八月二十九日午前二時、撤退命令を下達した。実は、これが若干時間遅過ぎたともいえるし、早過ぎたともいえるのである。  早過ぎたというのは、小松原救援隊と行き違いになったことである。遅過ぎたのは、天明までに時間がなく、明るくなると直ぐに敵に発見され、重大事態に陥ったことである。  撤退開始は二十九日午前三時であった。  行動を共にした部隊は、山県部隊(歩六四)本部、同第二大隊、同第九中隊、生田部隊(歩二六。生田大隊の生き残り)、伊勢部隊(13A)本部、同第二大隊(第四中隊欠)、同第八中隊、工兵二個小隊である。  山県部隊の第一・第三大隊にはそれぞれ大隊独自に後退するように命令したというが、先に誌したように第三大隊の場合には、矛盾項目を含む電報が届いている。第一大隊に関しては後述する。  小松原中将率いる部隊は、八月二十九日天明のころ、ようやくバルシャガル高地線に進出した。予定よりおくれたのは、昼間の敵中行動は不可能なので、前進は夜間に限られたからである。  到着したとき、山県大佐以下の前記の諸隊は既に陣地を撤していた。したがって、この時点で最前線にあった部隊は、山県部隊の第一大隊(バルシャガル高地南部)と第三大隊(キルデゲイ水付近)に、到着した小松原部隊だけになる。  同二十九日 13A第三大隊  野砲兵第十三連隊第三大隊(第七中隊は攻勢移転の際抽出)は、師団の側背を掩護していたが、連日の激闘で兵員・大砲ともに損害甚大となり、戦力ほとんど涸渇した。  二十八日夜には733高地南東(歩六四第二大隊本部付近)に移り、つづいて連隊本部に合流を図ったが、途中行動不如意に陥り、無線も故障し連絡がとれなくなった。  大隊長関少佐は、戦況から判断して、大隊の独力をもって後退し、小松原救援隊を求めて前線の急を救う必要ありと考えたようである。  同大隊は八月二十九日午前二時ごろ後退した。だが、これもまた小松原救援隊と行き違いになり、二十九日午後ノモンハン付近に達した。大隊が撤退を開始した直後に、撤退命令が伊勢大佐から出されているから、関少佐の独断行動は結果的には連隊長の意図に添っていたことになる。  同二十九日 山県支隊(支隊本部及諸隊)  山県支隊主力の撤退は、後に述べる第三大隊のそれのように、せめてもう二時間早ければ、成功したかもしれない。あるいは、もう二時間遅ければ、脱出の機を失った代りに小松原救援隊と会って、全く異った結果を生んだであろう。  支隊の行動開始後間もなく天明となった。小松原部隊の到着をひたすらに待った結果が行動開始の遅延となったにちがいないが、敵中を突破して後退する決心をしたにしては、行動開始の時刻が適当でなかった。  ソ軍は支隊を発見し、歩・戦・砲をもって襲いかかった。  支隊が撤退の進路をホルステン北岸河谷に沿ってとったことも、被害を大きくしたと考えられる。その辺はソ軍の中央兵団と南方兵団の両方から挾撃される地帯であった。  交戦は忽ち混戦となり、諸隊は支離滅裂となった。  山県、伊勢(野砲)両連隊長は、歩兵連隊副官、同連隊旗手代理、命令受領の工兵軍曹と兵一名とともに、新工兵橋に近い元日本軍の野砲陣地の掩体壕内に孤立し、敵歩・戦の包囲攻撃を受けた。  急襲されたにしても、連隊長が手兵もなしに孤立する状況は容易には理解できない。諸隊浮足立って、てんでんばらばらに逸走したらしいのである。指揮官を中心として円陣を作る余裕もなく、統制もとれなかったものか。前夜まで激戦を経験している将兵である。烏合の衆であるわけがない。砲撃によって諸隊が寸断され、戦車群の突入によってそれぞれ離隔されたとしか考えられないが、それにしても、連隊長二名を含む将校四、下士官一、兵一が孤立するという状況は想像の外である。  軍旗は焼かれ、両連隊長は自決した。八月二十九日午後四時半ごろであったらしい。他の二名の将校もこれに殉じた。下士官と兵は脱出して、両連隊長の自決を報告したという。後日、停戦協定後に実施された死体収容の際、焼ききれなかった旗竿、軍旗の房、布地の一部は山県連隊長の遺体の下から、軍旗の紋章と山県連隊長の遺書は旗手の軍衣から発見された。連隊長の遺体を誰が埋めたかさえ判然しない。脱出した下士官と兵がそれをしたのなら、そう報告したであろう。  第六軍司令官以下は、軍旗が果して完全に焼却されたかどうかを心配したという。  関東軍が、こののち、第七・第二・第四師団その他軍直轄部隊を集結して反攻を企図し、東京中央の統制に服しようとせず、大命の発動によってようやく中止する経緯は後述するが、この反攻企図の下地には、軍旗の運命についての懸念が大きく蟠《わだかま》っていたのであるという説がある。  もしそうだとすれば、馬鹿げている。七月初頭のハルハ河渡河作戦の際の、歩二六(須見部隊)の軍旗後送のくだりでも既に述べたことだが、軍旗は連隊の象徴であるとしても、たかが旗である。天皇から下賜されたというのは形式に過ぎない。戦は勝つべきものであって、軍旗の安否によって進退を拘束されるべきものでない。まして、軍旗の安否を気づかって大軍を発動しようなどとは愚の骨頂である。関東軍があくまで反攻を企図したかったのは、敗軍の汚名を挽回したかったからであって、軍旗の安否の一件は忠節の名分をもって軍の面子の衣としたに過ぎない。旗一|旒《りゆう》のために数万数千の兵を死地に投ずる将軍や参謀がいるとしたら、彼らは狂人以外の何者でもない。無用の神経を費やす暇があったら、敵をもっとよく研究する方が、はるかに国家に対して忠節を尽す所以であったろう。  同二十九日 歩六四第一大隊  大隊長赤井少佐は、この日天明ごろ、小松原救援隊と会った直後、午前四時三十分、撤退に関する連隊命令を受領した。つづいて、師団参謀の鈴木善康少佐から、口頭で、依然現陣地を確保すべしという師団命令を伝えられた。  赤井大隊長は、しかし、連隊主力の撤退状況を危惧し、師団長から特別の指示がない限り軍旗に追及するという意志を、師団司令部付の森永少佐に伝えた。その後、師団からは何も命令がなかったので、第一大隊は二十九日午後十一時、夜襲隊形をもって撤退行動を開始し、ソ軍を回避しながら、三十日朝、ノモンハン南方約四キロの742砂丘に到着したという。  歩六四の古川常深の記述に依れば、その辺のニュアンスが少し違っている。こうである。 「(前略)小林兵団の残存部隊を指揮していた歩六四の第一大隊長赤井|中佐《(ママ)》はこの時、鈴木参謀から今一度兵隊を貸してくれといわれたが、中佐はきっぱりとこれを断わり、赤井中佐は残兵の中に身を寄せてノモンハンヘ向った。  これが師団に対する歩六四の無言の抵抗であった。(以下略)」  鈴木参謀が伝えたという師団命令は、要旨は現陣地確保であっても、口頭であったから、「兵隊を貸してくれ」という表現に近かったかもしれないとも考えられる。  いずれにしても、現陣地確保が小松原師団長の確固とした方針であったとすれば、赤井大隊長の意思表示のあと、所要の指示が出されて然るべきである。それが出されていないのは、バルシャガル救援の目的は既に果したと看たものか、師団長としてはおそらく死場所を求めての突破行であったろうから、作戦としての明確な方針は既になかったのかもしれない。  こうして、八月二十九日、夜十一時以降、バルシャガル高地の一角には、小松原中将直率の千余の将兵だけが在ることになる。     74  八月二十九日 小松原部隊  この日未明バルシャガル高地の一角に達した小松原部隊に対して、ソ軍は歩・戦・砲の全火力を集中した。敵歩兵は早くも陣前に迫り、午後五時ごろには手榴弾戦となった。白兵戦を惹起している個所もある。  第六軍との通信は杜絶している。  小松原中将はこう誌している。 「二十九日朝来敵砲兵ノ射撃ヲ受ケ我カ連隊砲、自動砲破壊サレ、肉迫攻撃ニ依リ之ト対抗ス。(中略)兵ノ中敵弾ヲ受ケ全身血ニ染リ銃ヲ高ク上ケテ万歳ヲ高唱シテ斃ルルモノアリ。弾薬、衛生材料欠乏ス。砲弾ニ悩マサレ、日没ヲ恋フル心情切ナルモノアリ」  同二十九日 歩七一  小松原部隊の一部として出撃した歩七一の状況は、同部隊通信中隊長・上田忠則の記録によれば、次のようである。 「三時稍過ぎ、755高地南方約三|吉《キロ》の目的地に到着せるを以て直ちに陣地配備に努めたるが、諸隊混淆し混雑を極む。  壕の構築漸く終らんとする六時頃より、敵は三方面より重砲軽砲の各種砲火を間断なく集中、九時頃戦車の接近を見るに至れり。  各種重火器|就中《なかんずく》速射砲連隊砲等を以て敵戦車の撃退を図りしも、敵は次第に其数を増加し、戦況愈々熾烈を極む。十三時頃歩兵を伴ふ戦車群は四方より攻撃し来る。部隊及配属工兵中隊は鋭意肉迫攻撃を加へ其一台を炎上他を後退せしめたり。  十四時頃敵は再び砲兵の集中掩護射撃の下、戦車部隊の来攻を受け、戦闘愈々激烈となり、我が将兵の死傷続出するに至る。 (中略)  連隊長代理東中佐は戦況常態に非ず、刻々近迫しつつあるを予知し、軍旗奉護の万全を期する為、旗手雪吉少尉を招致し、之を解体せしめ、御旗は旗手直接之を体に巻き旗竿のみを保持せしめ、且万一の場合を考慮し、焼却し奉る手段方法を研究せしめたり。  暮色に包まれる頃、敵の攻撃稍緩となりしを以て中佐は軍旗安全の為、第一大隊方面に本部位置を移動することとし、二十三時頃、師団司令部を経由し、第二中隊後方の地点に移動す」  無線が不通であったので、師団長は、右記のような戦況報告を兼ねて、患者の後送と弾薬糧秣の補給を図る連絡のために、二名の中尉と一名の少尉を決死の伝令として第六軍司令部へ派遣した。  第六軍司令部への伝令に立った二名の中尉と一名の少尉は、二十九日夜、敵軍の充満する戦野を、それぞれに軍司令部を索めて後方へ脱出した。  中尉の一人、田中中尉は八月三十日払暁、軍司令部に到達し、戦況報告、患者の後送と弾薬糧秣の補給の希望、師団が携行している九四式三号(丙)無線機による交信方法を連絡した。この交信によって、師団長以下の脱出帰還の命令が第六軍から出されるのである。  つづいて村井少尉が到着したが、もう一人の将校伝令渡辺中尉は途中で発見されて戦死した。  師団が希望した患者の後送と弾薬糧秣の補充は、戦況がこれを許さなかった。  前記の田中中尉に関しては、辻政信が一場の挿話を書いている。一日先走ることになるが、あり得たことと思えるので、ここで誌しておこう。  辻参謀が五度目に戦場へ出向いた八月三十日夜のことである。場面としては、辻が第六軍司令官に対して啖呵を切ったところにつづくことになる。 「……話している最中に一人の若い青年将校が入って来た。弱々しいような美青年である。それは田中専属副官(特別志願の少尉《(ママ)》)であった。�師団長閣下は最後の決心をなさいまして、絶筆を軍司令官に托されました。御命令で私は夫れを持って参りました。�鉛筆で肉太に通信紙に書かれた筆跡は、まがう方なき師団長の遺書であった。多くの部下を失った罪を謝し、最後の一兵まで立派に戦って死ぬから御安心下さい、という意味のものであった」  このあと、師団に突破帰還の命令を発信することになり、さらに筆記命令を田中中尉に持たせてもう一度師団長の許へ帰らせることになる。 「(辻が)�おい君、今から軍の高級参謀が師団長を迎えに行かれるから案内せ。�と話したらこの少尉《(ママ)》は、 �いや、それには及びません。師団長は必要ならば師団の力で救出します。軍のお世話にはなりません。�  花も羞らうような優男のこの若い少尉が、何たる気魄であろう。(中略)このような戦況になると、出身や階級は物を言わない。私心なき一片|耿々《こうこう》の心だけが、勇怯を決するものである。平素威張って元気のよい軍参謀が、誰一人進んで危地に飛込もうとするものがないときに、少尉の落ちつき払った態度には見上げたものがある。しかも�軍のお世話にはなりません�の一語には千言万語の感情が秘められている。(以下略)」  この通りの応酬があったかどうかは別としても、後方でウイスキーを呑んでいる軍司令官と敵中に孤立している千余の将兵との対照を想像するには充分な挿話である。     75  八月二十九日、第六軍は第七師団主力(新兵力)をモホレヒ湖南側に展開させた。その掩護下に後続の第二・第四師団を集中させようというのである。  その位置は、いままでの戦場一帯の北縁ぎりぎりの線である。つまり、再挙を図るために第六軍は戦場から一歩後退したのである。後退はしたが、新規の大兵団を集結して再挙を図るに充分な距離をとらなかった。その理由は、ソ軍に勝利感を味わわせるだけの進出距離を与えないためと、日本軍には遠く後退して敗北感を抱かせないためであったという。だが、姑息な配慮であったし、危険な措置であった。ソ軍が、もし余勢を駆って殺到したら、歩兵四個大隊・野砲約六個中隊・速射砲四個中隊(師団本属ではない)程度の兵力しかない第七師団を一挙に瓦解させることは困難ではなかったのである。  ソ軍は、しかし、彼の主張する国境線の内側で進出を停止した。第七師団の占拠陣地は、その国境線ぎりぎりの外側にあった。  第六軍が再興しようと企図していた作戦の構想は、概要次の通りである。  方針  作戦準備を可及的速やかに促進して、当面のソ蒙軍の撃滅を企図する。越冬準備を完成する余裕がないから、作戦終了後兵力を後方に引き揚げ、状況によっては明年解氷期以降の作戦継続も辞さない。  作戦指導の大綱と攻撃要領  有力な一兵団をもってハンダガヤ方面から攻勢をとり、主力はホルステン河以北の地区においてハルハ河右岸に進出しているソ蒙軍に対して攻勢をとる。  攻撃要領は、右から第二、第四、第二十三、第七師団を並列して、三乃至四夜をもって攻撃陣地を逐次推進し、最終的に主陣地に対して夜襲をもって一挙に突破蹂躙する。ホルステン左岸(南岸地区)に対しては、最外翼に位置する第二師団が、第四師団の一部の協力を得て作戦し、ソ軍の退路を遮断するに努める。  右の攻勢構想の八月末攻勢との相違は、使用兵力の大小を別として、ホルステン南岸重点が北岸重点に変っていることである。  数夜を費やして攻撃陣地を逐次前進し、最終夜に一挙に突破するという案は、図式的には可能だが、兵力・火力の配備を縦深に構えている敵陣を、味方の展開全正面の幅員において突破貫通するにはどうするかという肝腎なことを、この図式的作戦要領はなんら説明し得ていないのである。縦深陣地の一点突破が却って敵の餌食となることは、七月戦闘の部分で既に述べた通りである。  そうはいっても、日本軍としては、数夜を費やして極力接近し、最後の一夜の夜襲によって敵陣を突破するという方法以外には、打つ手がなかった。関東軍が捲土重来を期しても、火力の格段の差を縮めることはできなかったからである。  関東軍は、第六軍の攻勢移転が失敗し、ホルステン河南北両岸の支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点、南から北へ、ノロ高地、バルシャガル高地、フイ高地いずれも失陥または保持困難の状況が明らかになってから、ようやく可能な限りの大兵力を集中する決心をした。二十六日夕刻、辻参謀が戦場から新京へ帰還してから以後のことである。  関東軍が投入を予定した増加兵力は、第二・第四師団の主力、第一師団の有力部隊、第八師団の一部、戦車一個連隊、速射砲十二個中隊(四八門)、独立山砲一個連隊(六個中隊二四門)と十七個小隊(歩兵配属の三四門)、十五榴二個連隊、高射砲九個中隊、独立工兵三個小隊(含火焔放射器三六)、自動車二十一個中隊と満洲国鉄路総局自動車隊(計約一、五〇〇輛)などであった。  これで歩兵の員数は大幅に増えることになるが、火力においては依然として否定しようもない歴然とした差がある。関東軍としては、しかし、これが集中し得る力の限界であるといってよかった。  したがって、作戦は正攻法に依らず、夜襲方式が前面に出て来ざるを得ないのである。  だが、八月末日本軍が全面的に後退した時点でのソ遠の陣地正面は約四八キロ、縦深は前線陣地の前端から予備陣地の後端のハルハ河まで、浅い部分で八キロ、深い部分で十一キロであった。これだけの縦深の随所に用意されている銃砲火のなかを、夜襲部隊が天明までにどうして突破できるか。天明以後、夜襲部隊が敵火によって打ちのめされることは経験ずみなのである。  この反攻企図は、幸いなことに、後述する経過によって地獄の饗宴を見ずに済むことになる。  大本営首脳部(次長・作戦部長・課長ら)がソ軍の二十日大攻勢以後の戦況を楽観していた、少なくとも憂慮はしていなかったという悠長さは、驚くほかはない。前年、張鼓峰で尾高《すえたか》師団が全滅に瀕した経験など全く教訓となっていなかったのである。  関東軍が率直に戦勢非であることを報告しなかったせいもある。八月二十六、七日ごろまでは戦局が有利に展開しつつあるものと考えていたという。この機会に一大打撃を加えて、勝勢裡に戦局を収束に導こうと意図していたという。二十六、七日といえば、フイ高地は既に陥ち、ノロ高地も撤収し、攻勢移転は早くも作戦中止の余儀なきに至っていたのである。  事態は急転直下した。相当量の兵力を増強する以外に、戦場にある部隊の危急を救えないことが明らかとなった。  関東軍が戦略単位の兵団の増強を欲しながら、面子に絡んで要求せず、大本営の方から師団二個(第五・第十四師団)、十五榴連隊二個(野重第五・第十連隊)、速射砲中隊九個、高射砲隊一六、飛行戦隊一、兵站自動車中隊二二、その他の増派を関東軍に通達したのは、八月二十九日のことである,戦場では、最後の第一線部隊である山県部隊(除第一・第三大隊)がバルシャガル高地から撤退し、入れ替りに小松原中将直率部隊が全滅覚悟で前線へ出ているときである。  大本営では、右記の兵力を増加するには、在支日本軍から抽出しなければならないので、後述するように、九月一日福岡で各軍の参謀会同をひらくことにする傍ら、同じく八月二十九日からノモンハン事件の終結を真剣に考えはじめた。  そのころ、満洲では、関東軍—第六軍が前記のような作戦構想で、大兵を集中して反攻を企図し、状況によっては翌春の解氷期以後にまで作戦を延長再興しようと意図していたのである。  ここから、事件終結をめぐって、大本営と関東軍との間にまたもや悶着が起きることになる。だが、これは八月三十日以後のことである。  戦場では、八月三十日、戦闘が終末段階を迎える。     76  八月三十日 小松原部隊  朝から敵の猛攻がつづいた。砲爆煙濛々として至近距離にある友軍の各拠点が相互に状況を視認できなかった。  包囲網は濃密であった。伝令、斥候の往来も意のままにならない。  小松原師団長は手兵は僅少だが、バルシャガルの一角を保持している限り、ホルステン南岸地区から第七師団が攻撃を再興して、戦況が好転することを期待していた。この師団長は、第六軍司令部が第七師団に後続兵団の集結のための掩護陣地を占拠させているに過ぎないことを、知らなかったのである。まして兵隊が知るわけがなかった。  昼前、杜絶していた第六軍司令部との間の無線通信が恢復した。先の将校伝令田中中尉の連絡が功を奏したものらしかった。  十二時三十分、第六軍から脱出帰還せよという命令が伝えられた。  脱出は至難の業と思えたが、午後三時四十五分、師団長はノモンハンに向って撤退する命令を下し、負傷者の処置など撤退に必要な準備を示達した。  だが夕刻、戦況が急迫して、撤退など到底できそうにもなくなった。いよいよ最期と見えた。師団長は撤退不可能を第六軍司令官に電報し、各級幹部は階級章をはずして討死の用意をした。敵は近迫している。手榴弾戦である。  小松原中将はこう誌している。 「……敵迫撃砲ヲ以テ射撃スルニ及ヒ隠ルル処ナク損害益々加ハル、敵砲兵跳梁スルモ之ヲ攻撃スル力ナシ。傷者ノ呻キヲ聞キ惨状ヲ目撃手ノツケ様ナシ、恰モ活地獄ノ如シ。  十一時頃軍ト無線通シ蘇生ノ思アリ。(中略)暫クシテ軍ヨリ�今夜帰レ�ノ無電アリ、撤退ノ部署ヲ定メ、且重傷患者輸送ノ為ノ自動車ヲ要求ス。(中略)  十五時頃敵ノ攻撃熾ナリ、肉迫攻撃ノ為ノ弾薬モ欠乏スルニ至ル。十六時半頃軍ヨリ。�如何ナル状況ナリトモ万難ヲ排シ敵線ヲ突破シテ速カニノモンハン東南方地区ニ集結スヘシ�トノ命令ヲ受領ス。(中略)軍司令官ニ、�敵ノ肉迫攻撃猛烈ニシテ本夜ノ離脱至難トナル将兵一同士気旺盛奮戦中ナリ最後ノ一兵迄喜ンテ陣地ヲ死守セントス�ト決意ヲ告ケ重要書類等悉ク焼カシム。(中略)  十七時頃東部隊(歩七一——引用者)方面銃砲声盛ナリ。(中略)軍旗奉焼ノ遑《いとま》ナキ時ハ師団ニ於テ軍旗ノ位置ヲ求メテ之ヲ奉焼スヘキ手配ヲ行フ。十八時敵戦車及狙撃兵突撃シ来ル。歩兵上等兵曾根辻清市来リ軍旗(歩七一——引用者)奉焼ヲ見届ケタル旨、東中佐(歩七一連隊長代理——引用者)等ノ戦死ノ旨ヲ報ス。(中略)敵ハ手榴弾ヲ投擲攻撃シ、各隊長負傷ス、日没頃戦車及狙撃兵我ヲ包囲ス。(以下略)」  師団参謀長岡本大佐(元歩七一連隊長)は、激戦のさなか、火戦を鼓舞してまわっているときに、至近距離からの手榴弾によって右膝を爆砕された。  折りよく、師団長の身辺につき添って生還の望みのない出撃に参加していた軍医部長村上大佐が、土砂の降りしきる壕内で、懐中電灯を頼りに岡本大佐の右脚切断の大手術を行って一命をとりとめた。  岡本大佐は、しかし、のちに、東京牛込若松町の第一陸軍病院で、同病院に精神錯乱で入院中の陸士同期生の兇刃によって、せっかくとりとめた命を落すことになる。  先にもふれたことだが、ノモンハン戦中の歩兵第七十一連隊の連隊長は不運な人ばかりである。最初の岡本連隊長は右の通り、次の長野大佐も負傷、その次の森田大佐も着任間もなく戦死、最後の連隊長代理東中佐は、後述するように、この八月三十日戦死を遂げる。  同三十日 歩七一  歩七一の戦闘も実質的にはこの日が最期である。前掲の歩七一通信中隊長上田忠則の『従軍手帳抜萃』は戦闘詳報と酷似している部分があるので、両者を照合しながら平行的に引用して戦闘状況を再現することにする。 「天明より敵は猛烈なる砲撃を開始、間断なく我陣地を猛射す。狙撃部隊の行動も昨日に比し活溌となり、第二大隊西側にありし山県部隊の一部(歩六四第一大隊のこと——引用者)は何れにか移動せるため敵戦車は其の間隙より侵入、為めに我陣地包囲の態勢となるに至れり。  我方の対戦車火器破壊し弾薬欠乏す。至近の師団司令部に至る伝令も皆倒れ連絡杜絶す。各隊果敢なる肉迫攻撃を加へたるも悉く壮烈なる戦死を遂げ、僅に重傷の山下准尉が単身�之が最後の御奉公だ�と許り匍匐し司令部に連絡せしが成功せるのみなり。  十二時過より敵戦車約三〇我陣地の四周に出没し、狙撃兵亦装甲自動車五台に手榴弾を満載し我陣前に接近し盛に投ず。敢て突入し来らざるも手榴弾投擲は活溌を極め、十五時頃対戦車火器悉く破壊され、逆襲を決行するも死傷続出するに至る。  第二大隊方面遠井少佐負傷し、高田大尉大隊を指揮す。  十五時過ぎ、敵戦車部隊の一部は我陣地内に進入、島田中尉以下鋭意逆襲反撃を加へたるも十六時過ぎ壮烈な戦死を遂げたり。  東中佐(連隊長代理——引用者)は最後の決心をなさんとせしが、本夜師団は転進するとの要旨命令を受伝せるを以て、第一大隊長代理花田大尉を招致して伝達、互に最期の奮闘を誓ふ。  師団司令部方面を観察せしが、火焔戦車の近迫の状況、第二大隊との連絡は遂に全く絶え、悲壮な状況となる。時に十七時二十分。  東中佐は全般の状況を観察し、敵の猛攻に対し、軍旗の下、連隊全員死を以て反撃せんと決心す。之がため、軍旗を敵手に委する事を慮り、奉焼の決意の下、雪吉少尉を招き軍旗焼却を命ず。  少尉は旗竿を四ッに折り、曾根辻上等兵(東中佐の当番兵——引用者)の携帯する携帯燃料三個に高品中尉マッチにて御旗に点火、時に十七時三十分、先づ御旗を次いで旗竿を焼却し奉る時に十八時十五分なりき。  雪吉少尉は残し置きたる煙草に其の残火を戴き、附近の者一同と共に喫す。東中佐は焼却を確認したる後、一同に向ひ�皆よく戦つた、能くやつてくれた、然れ共我々は敵の重囲の中にある、人間は死ぬ時が大切だ、自分と共に皆死んでくれ。動ける者はついて来い。重傷者は敵が肉迫して来たら潔く自決してくれ�と涙乍らに諭し、負傷兵曾根辻上等兵に本状況を師団長に報舎すべく命ず。  次いで壕中に在りし将兵と共に軍人勅諭を斉唱す」  銃砲声、戦車の轟音のうちに死期が迫っていた。軍人勅諭が「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」にはじまり、「国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生|挙《こぞ》りて之を悦ひなん朕|一人《いちにん》の懌《よろこび》のみならんや」に終るとき、バルシャガル高地の一角で数百の将兵は死の突撃に移るのである。 「(承前)各人の心中既に己なく、父母なく、妻子なし。有るは唯七生報国の赤誠のみ。奉読終るや天皇陛下万歳を三唱す。肺腑を衝きて迸る声銃砲声の間に天に届けよと許りなり。折柄敵の攻撃は愈々熾烈にして陣前三十米に近迫す。東中佐は決然突撃を命ずると共に�東中佐本年四十九歳�と言ひつつ壕を躍り出て、右手に軍刀を振りかざし、軍旗小隊、本部通信隊を指揮し�突撃に進め�と号令す。副官代理高品中尉及前日の戦闘に足を負傷せる雪吉少尉は躄《いざ》りつつ之に続き、他の将兵も敵中に突入す。  [#「玄+玄」、unicode7386]に連隊は突撃命令の伝わらざりし一部を除き、殆んど全員壮烈なる戦死を遂げたり。時に八月三十日十八時四十分頃なりき。  奇蹟的に存命しありし花田大尉は残余者を指揮し、第二回の突撃を準備す。  日漸く没する頃、師団司令部より伝令来り、全員師団司令部に集結すべき命を受く。花田大尉は生存者を区処し、夜に乗じ司令部に集結す。  第二大隊方面も終日苦闘を重ねて、陣地を確保したるも損害甚大、重火器の殆んどを失ひ死傷続出せり。これ又夜に乗じ、高田大尉の指揮により司令部に転進したるも既に出発後なりしを以て、一路所命の地点に追及す」  こうして、歩七一は、この夜、兵力二五〇内外となり、戦闘に堪え得る者はさらにその半数に減っていた。  兵力の損耗は、歩七二(酒井部隊)も七一とほぼ同様であった。両連隊とも、大隊長以上は全部死傷、中隊長級も将校はきわめて少なく、ほとんど見習士官以下で、兵が中隊を指揮しているのもあった。  大体、小松原中将が、既に戦い敗れて疲れ果てている諸隊の残兵を掻き集めて最前線へ進出したことが、そもそも無謀であった。バルシャガル高地救援という名分があったにせよ、兵力は激減し、火砲はなく、歩兵重火器さえも乏しい僅か一千余の部隊が、敵軍の充満する戦場へわざわざ孤立するために出て行ったにひとしいのである。そのくらいの兵力火力で陣地の確保ができるという確算が立つ道理がなかったであろう。とすれば、意地と面子に絡んだ自殺行為でしかなく、戦略単位の兵団を指揮する将官のとるべき手段とは評価できない。死出の旅を決意してのことなら、部下を道連れにする必要も正当性もなかったのである。  第六軍がまた、軍司令官以下悉くおかしい。二十六日には、ノロ高地とバルシャガル高地の救援を名分とする小松原部隊の前進を禁止している。既述の通り、この時点では、まだ第七師団主力が戦場後方に到着していなかったから、軍司令部としては、780高地線に膠着している森田(範)部隊以外には、司令部周辺の警備兵力として小松原師団諸隊の残兵しかいなかったからであろうと思われる。  二十六日夜、ノロ高地の長谷部支隊は撤退し、残るはバルシャガルのみとなった。二十七日朝、第七師団主力の後方集結は概了した。二十七日夜、小松原残兵部隊はバルシャガル救援を名分として前進に移った。第六軍はこれを禁止しなかった。第六軍の作戦の重点は、既に、第七師団が占拠する掩護陣地に後続の第二・第四師団の到着を待って、反攻を企図することに移っており、襤褸の状態になった第二十三師団諸隊の残兵の命運は、どうでもよくなったかの観がある。第六軍として真剣に再挙を考慮し、健闘した第二十三師団諸隊の将兵を惜しむ心があれば、小松原中将の意地や面子がどうであれ、無謀な出撃は抑止すべきなのである。事実は、用済み廃棄にひとしかった。中将の一人も死んでくれれば、苦戦した第六軍の面目がどうにか保たれるとでも考えたものか。  戦闘中と戦後に連隊長級の多くが自決したことからみれば、中将の一人や二人死んでもどうということはない(事実は一人も死んでいない)。弾丸なく、食なく、水もなく、血闘を前線将兵に強要した責任は、誰が、どのようにして負うのか、という問題は、遂に不問に付せられるのである(事件後の人事異動など形式的な問責に過ぎない。この件に関しては後述する)。  八月三十日 歩六四第三大隊  敵の完全包囲下を、第三大隊は、八月三十日午前一時、撤退を開始した。  動きはじめると、先頭で砲弾が炸裂した。一発だけである。全員は暗夜に伏せて敵の砲撃を避けようとした。砲弾は、しかし、飛んで来なかった。  点検してみると、誰かが不注意に不発弾を蹴って爆発を起こしたのであるという。このために三名が死んだ。  大隊は東北へ進んだ。その方角が敵の包囲網が最も薄いと判断されたからである。だが、進行方向に赤吊星が上った。  大隊は今度は南に向きを変えた。するとまた信号弾が上る。ソ連が日本軍の撤退部隊を確認してのことかどうかは判然しない。終夜随所に上るのである。大隊は信号弾のたびにその方向を避け、方位としては南を維持した。  午前二時四十分ごろ、敵戦車二—三輛が右前方に現われた。部隊は闇に伏せる。肉攻班が戦車に向って匍匐前進する。  戦車は停止し、戦車兵が天蓋から姿を現わして四周を窺ったが、間もなく去って行った。  大隊は敵陣地を避けて前進、旧歩兵団本部位置に達し、斥候を出して連隊主力を索めたが発見できず、天明のころホルステン河畔に達した。  前日午前三時三十分に受けた電報には、連隊本部はノモンハンに向って移動中とあったから、大隊はホルステン河に沿ってノモンハンに向った。  途中、死屍累々とした戦場を通過した。酸鼻をきわめている。これは、既述の山県支隊主力(含野砲兵第十三連隊主力、生田大隊等)が前日、後退途中を敵戦車群に襲われた所であった。  山県支隊主力は、既述の通り、撤退開始時刻がおそくて、天明までの時間がなく、敵に直ぐ発見されたのと、ホルステン河谷に進路をとったことが悲運を招いたと想像されるが、そうであるとすれば、一日後に、時刻としては二時間早く撤退を開始した第三大隊が、やはり天明後に同じ地点に達して同じ悲運に陥らなかったのは、僥倖というべきかもしれない。あるいは、北に南に、右に左に、赤吊星を避けて行動した時間だけ、ホルステン河谷での行動時間が短くなって、その分だけ危険が少なくなっていたと考えるべきものか。  第三大隊もホルステン河谷を前進中に左岸(対岸)から銃砲撃を受けている。大隊は台上に出て疎開前進し、対岸を追尾して来る敵戦車をかろうじて振り切った。  午前七時、ホルステン河屈曲点の楊柳の陰で休憩している一群の日本兵に遭遇した。これは歩六四(山県部隊)第一大隊の将兵であった。  前掲歩六四の古川常深記録によれば、この撤退行動の途中、「連隊本部を求めたが、すでに跡かたなく、そこには二〇〇人に余る重傷者が砂山の窪みに救出を待ち、発狂した兵隊が大声を挙げていた。第一大隊、二大隊の残兵と合流した地点は、ホルステン河畔のしげみの中であった。連隊本部の玉砕を知ったのはこのときである」とある。  第三大隊は第一大隊につづいて、三十日午前十時、ノモンハン兵站地に到着し、ようやく死の顎を脱したのである。  八月二十四日攻勢移転の日(つまり、高等司令部の関心が攻勢に集中して、守勢部隊には統一指揮官も置かれず、謂わば等閑視された日)から、八月三十日撤退完了の日までの七日間の第三大隊の損耗率は、約三三%であって、同じ期間の第一大隊の約五九%に較べても、また、遠くキルデゲイ水付近に孤立していた状況から考えても、意外に少ない。金井塚大隊長の沈着冷静な指揮に負うところが多いであろうが、やはり幸運な部隊の一つであったというべきであろう。  これで、最前線に残っている日本軍は、小松原中将直率の部隊だけとなった。     77  如何なる状況なりとも万難を排して帰還せよという第六軍命令を、小松原中将がバルシャガル高地線で受けたのが、八月三十日午後四時半ごろである。  そのころから戦況が急に悪化して、夕刻には脱出はほとんど絶望と見えたが、夜になると戦況は一時的におさまった。  小松原中将は鈴木参謀に諸隊の脱出準備を命じた。  だが、この脱出帰還は容易ではない。諸隊は二十七日夜の前進開始以来僅かに三日で三〇%乃至五〇%の損耗を出している。戦闘に耐える者も約半数は負傷者である。四周みな敵である。接戦の連続と思わなければならない。  歩行に堪える者は戦友に縋って歩き、重傷者は急造担架によって運ぶが、とても運びきれない。時間の余裕もない。  結局、不運な者は置き去られることになった。  先にもふれたが、無謀で無意味な出撃だったのである。第七師団をはじめ後続新鋭師団の反撃が小松原出撃につづいて行われる方針であれば、支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点の一角を保持することに意味がなくはないが、これはそうではなかった。小松原師団長は感情的になっており、荻洲第六軍司令官は重大な局面を担当する識見に欠けていた。小松原残兵部隊は絶望的な出撃を試みて、損害を大きくし、戻ることになっただけである。後方に新鋭兵団を集結するために敵を牽制することにすらならなかった。  脱出は八月三十一日午前零時に、大体二群に分れて開始された。一つは、師団司令部、通信隊、歩七一の一部、工兵中隊。他の一つは、歩七一の残部、歩七二である。司令部群は行動開始とほとんど同時に敵戦車群の猛撃を受けた。  師団では、岡本参謀長が重傷を負ってからは、参謀は鈴木参謀一人である。鈴木参謀は自ら尖兵長となって部隊の先頭に立ち、常に白兵突撃を用意しつつ、極力敵を回避して背進行を指導した。  天明近く、ようやくホルステン河屈曲点付近に達し、患者収容のための軍直轄自動車に遭遇した。師団長や片脚を失った岡本参謀長をこの車で将軍廟に送り、鈴木参謀は留って諸隊の後退を区処した。  他の一群は司令部群より少しおくれて撤退に移り、師団司令部位置を通ったころには、そこは敵兵が充満し、喫煙してくつろいでいたという。この歩七二と歩七一の一部も敵の追撃を受け、諸隊は分散したが、各個に敵の間隙を縫って後退した。  こうして、第二十三師団がハルハ河に沿って占拠していた陣地は悉く失われたのである。  第二十三師団諸隊の六月二十日以降の、戦死・戦傷・生死不明、戦病をひっくるめた損耗の、出動人員に対する比率は次のようになる。  歩六四 出動四六一五 損耗三一七八 69%  歩七一 〃 四五五一 〃 四二五四 94%  歩七二 〃 三〇一四 〃 二三六七 79%  捜索隊 〃  三八〇 〃  二五一 66%  野砲13 〃 一七四七 〃 一三二八 76%  工兵23 〃  三三八 〃  二八八 85%  輜重23 〃  二九九 〃  一〇二 34%  通信隊 〃  一八〇 〃  一二一 67%  衛生隊 〃  三三四 〃  一八二 55%  野戦病院〃  二二一 〃   三四 15%  病馬廠 〃   四二 〃    五 12% 総計 出動一五九七五 損耗一二二三〇 76%  右表は師団軍医部作成のもので、後に記すであろう第六軍軍医部作成の各師団別損耗表とは員数も百分率も若干の相違があるが、潰滅的打撃を受けたことを物語る点では、変りはない。  この大きな損害は、一言でいえば、火力の差が生んだものである。砲兵戦の項で詳しく述べたが、火砲の数量と性能に差があったばかりか、一門当りの射耗弾数に桁違いの差があった。大差があるとわかっていても、日本軍は歩兵の突撃による衝力を過信して、拙戦を繰り返した。  事件後、陸軍部内に設けられた『ノモンハン事件研究委員会』の研究報告中の該当部分を、先に七月戦闘の記述に際して引用したが、ハルハ河畔の戦闘が事実上終ったこの時点で、再度引用する。『報告』には、こう出ている。 「……縦ヒ敵線ニ入ルモ縦深ノ突破ハ陣内火網ヲ制圧スルニアラザレバ遂行ヲ期シ難シ換言スレバ組織的火力ノ発揮ニ依リ敵ヲ制圧スルノ処置ヲ行フコトナク猪突冒進シ又ハ点在スル火点ニ必要以上ノ白兵ヲ蝟集突撃セシムル如キ戦法ハ徒ラニ損害ヲ招クニ過ギザルナリ  我ガ軍ニ於テ疎開戦法ヲ訓練ノ方式トシ又諸兵ノ戦力統合ヲ高唱スルコト既ニ久シキモ|火力価値ノ認識未ダ十分ナラザルニ基因シテ我ガ火力ノ準備ヲ怠リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》国民性ノ性急ナルト相侯チ|誤リタル訓練ニ依ル遮二無ニノ突進ニ慣レ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》為ニ組織アル火網ニヨリ甚大ナル損害ヲ招クニ至ルベキハ深憂ニ堪ヘザル所ナリ(中略)如何ニ鞏固ナル精神力ヲ有スルモ適切ナル対抗策ヲ講ズルニ非ザレバ物資力ニ対抗シ得ザルコトアルヲ認識スルノ要アリ」(傍点引用者) 『研究報告』は核心を衝いていた。『報告』はさらに所要砲兵力について、こう述べている。 「準備セラレタルソ軍陣地ニ対シ正面攻撃ヲ行フ処ニハ一師団当リ少クトモ約三十中隊ノ砲兵力ヲ必要ト認ム  歩兵直接支援ニハ主攻撃正面毎百米ニ砲兵一中隊ヲ要シ全師団正面ニ於テ二十五、六中隊ヲ希望ス (中略)  弾薬ガ砲兵ノ主要戦力ナルヲ認識シ其ノ準備弾薬量ニ関シ速カニ研究スルヲ要ス」 『報告』は流石《さすが》に経験から教訓を抽き出すことに努めているが、ノモンハン事件後から帝国陸軍消滅までの六年間、軍の歩みは教訓に忠実ではなかった。軍上層部の認識がどうであったにせよ、兵の末端にまで浸透した教育は右の引用文中にある「誤リタル訓練」に終始したのである。突撃の偏重は狂信の域に達していた。  事の次第はこうであろうと思われる。これも七月総攻撃の部分で既にふれたことだが、白兵主義の偏重は、因はといえば、戦略物資の常続的な不足と生産力の貧弱からである。それが、しかし、徹底的な訓練によって、比較的に火力に乏しい、たとえば張学良軍(満洲事変)や蒋介石軍(日中戦争)に対しては、屡々偉効を発揮した。それは濃密かつ組織的な火網を構成する敵に対しては通用することではなかったにもかかわらず、日本軍が自らを精強と信ずる理由となった。  瞬発力は精神主義的訓練によって発揮することも可能だが、戦力は所詮、生産力・国力に見合った程度を超えることはできない。それにもかかわらず、軍は上下を通じて、白兵万能を信じようとしたのである。その典型的な例が、昭和十七年八月、ガダルカナル奪回作戦の先陣を承った一木支隊第一梯団の突撃と全滅である。精強をもって自他共に許し、精兵中の精兵として大本営が信頼した一木支隊は、敵情把握の甚だしい不足もあって、我れに十倍する敵が強靭濃密な火網を配備している陣地へ、我れの突撃によって突破できない堅塁はないと信じきっているかのように、遮二無二突撃して、半日足らずで全滅したのである。ノモンハンから三年後のことであった。ノモンハン戦を指導した服部・辻の両参謀は、そのとき大本営にあって作戦課長であり主任であった。時は『大東亜戦争』開始後まだ八カ月しかたっていなかった。  せっかくのノモンハン事件研究報告も反故《ほご》にひとしかった。  砲兵火力と並んで、ノモンハンで日本軍将兵が徹頭徹尾悩まされたのは、やはり戦車である。安岡戦車隊が一戦して半減し、あとは温存のために原駐地へ引き揚げてしまった経過は既に詳述した。  戦車は、謂わば快速をもって動く砲兵であり、陣地を蹂躙するローラーである。それに向って、軍指導部は、兵に火焔瓶を持たせて足れりとした。燃えないディーゼル戦車が出現して、あわてる始末であった。 『ノロ高地』の著書で有名な草場大尉は書いている。「我が方に戦車に対抗し得る火器等の所要装備があるなら、対戦車戦闘は絶対に恐ろしいものではない。たとえ一門の火砲でも敵戦車の跳梁を制圧し、相当な兵力を撃滅し得ることは自分の親しく体験したところであった。  しかし、|一旦正当な対抗手段を欠いた場合《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》機械化兵力は確かに恐るべき相手に変り、そこに不測の悲惨な事態を惹起する」(傍点引用者)  草場大尉のいう戦車に対する「正当な対抗手段」とは、無論、速射砲等の対戦車火器であって、サイダー瓶変じた火焔瓶などではない。  火焔瓶などは窮余の一策に過ぎないのだ。正規軍が正攻法として最初から使用すべき武器ではないし、高等司令部の参謀たちがその効果を当てにするのがおかしいのである。よしんばそれが一時的に卓効を発揮したにしても、火焔瓶の投擲距離に戦車を入れて、生身の人間がこれに対抗することを反復していて、兵力の損耗を避けられるわけがない。いつまでも潰滅的打撃を受けずに済むはずがないのである。  これも白兵主義と源を一にしている。資材と金を節約するために、人間を消耗品として扱うのである。数百輛の戦車が縦横に疾駆し、数百門の火砲が何万発という砲弾を射ち込む戦場では、速射砲のような対戦車火器をこそ消耗品として扱うに足るだけ多量に準備しなければ、戦えないのである。  サイダー瓶を叩きつけても燃えない戦車が現われたといって、あわてて速射砲をかき集めるような司令部には、現代の戦闘を組織する能力は全くなかったといってよい。  無い袖は振れないというが、無い袖を振ろうとしたことにそもそもの問題があった。戦うに充分な火器がなければ、強がりは言わぬことである。仮想敵の実力も測定できずに、徒らに攻勢を誇示して、内容がこれに伴わないことに気のつかない軍司令官や参謀は、自ら職を汚すものである。  軍は、関東軍に限らず、精強無比という自己暗示にかかっていた。戦闘は、各種兵力・火力・機動力・補給力・地勢・気象その他諸元の綜合的優劣にかかっている。それらを統合組織するのが作戦なのである。精神の緊張は謂わば諸元の接着剤である。精神は敵にもある。どちらがより合理的かつ強靭に戦闘を組織するかが重大なのであって、暴虎|馮河《ひようが》の勇が重要なのではない。 『帝国陸軍』の兵は憐れなまでに勇敢を強要された。勇敢は兵の不可欠の要素ではあるが、勇敢だけでは砲弾の炸裂には耐えられないのである。  ノモンハン戦はそれを証明したが、帝国陸軍はその証明を認めようとしなかった。砲火に対しては夜襲による突撃を、戦車に対しては肉攻を、という基本方式を変えることなく、大戦へ突入することになるのである。  ノモンハンに関しては、しかし、現実的に終局段階が来ていた。     78  八月三十日の時点での局面を簡単に概括すれば、ハルハ河畔の紛争地はほとんどソ軍に占領されたが、ソ軍は自国が国境と主張する線より深くは入って来なかった。日本軍側では、第六軍が戦い疲れた戦場兵力をソ軍の進出線外へ後退させつつあった。但し、これは、関東軍及び第六軍としては、戦闘を終結するという意図からではなくて、陣営を建て直すためであったが、事件を収束へ導く必要を感じはじめていた大本営としては、作戦を終結するには適当な機会であり状況であった。  戦場では、小松原師団長が掌握している戦闘可能兵力は約五百に過ぎず、各所に離散してしまった兵力を集結しても、ようやく二千か三千(ほぼ一個連隊分)程度に過ぎないと換算された。  八月三十日の状況を、関東軍参謀長宛てに第六軍参謀長名で辻参謀が打った三通の電報が次のように物語っている。各電報頭記の時刻は何れも関東軍への着時である。 「八月三十日五時十分 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、第二三師団ハ目下将軍廟ニ逐次兵力ヲ集結スル如ク部署セラレアリ 二、軍ハモホレヒ湖ヲ中心トシ約八|吉《キロ》ノ円形陣地ヲ占領(第七師団による掩護陣地のこと——引用者)シテ敵ヲ拒止後続部隊ヲ併セ攻撃ヲ企図シアリ 三、第一戦車団ノ全力ヲ速ニ戦場ニ急派セラレ度」 [#ここで字下げ終わり] 「八月三十日十二時三十五分 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、長谷部部隊四ッ谷部隊ハノモンハン附近ニ集結ス山県部隊ハ後退中ナルモ未タ集結シ能ハス師団司令部、森田(歩七一——引用者)酒井部隊主力(合計五〇〇)ト共ニ今尚旧山県支隊ノ陣地附近ニ於テ最後ノ力戦中ナリ 二、軍ハ手段ヲ尽シテ之カ救出ニ努メツツアリ 三、第七師団ノ占領セル陣地ニ対スル敵ノ行動ハ未タ活溌ナラス」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 「八月三十日十七時二十分 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、第二三師団長ハ手兵約五〇〇指揮シ今尚旧陣地ヲ確保セラレアリ  本夜敵ヲ突破ノモンハンニ向ヒ後退ノ筈、飛行集団ハ空中戦闘ヲ交ヘツツ食糧ヲ投下セリ 二、満軍『ウル』部隊ノ主力ヲ以テアムクロ、一部ヲ以テノモトソーリン附近ヲ確保ス又『セキラン』部隊主力ヲ以テ依然九七高地ヲ確保シ片山部隊(第二師団——引用者)ノ進出ヲ掩護シアリ該方面ノ敵ハ戦車数輛ヲ有スル外蒙軍ナルモノノ如シ」 [#ここで字下げ終わり]  大本営が終結へ動きはじめたころ、関東軍は本格的反攻へ次のように動きはじめていた。  第七・第二・第四師団の順序に兵力が戦場に到着する。これに加えて、第一師団の約半部、第八師団の一部、全満の速射砲全部、独立山砲一連隊(自動車搭載)、独立守備隊から集成した山砲三六門(自動車搭載)、戦車第五連隊、野戦重砲兵第四・第九連隊、高射砲及飛行部隊の大部を派遣し、これらは九月八日から九日へかけて戦場集結を完了する行程にあった。  先に記したことだが、この動員によって、歩兵兵力はかなり大幅に増えることになるが、肝腎の火力に関しては、これでもまだソ軍に較べてはるかに劣勢なのである。  関東軍は、しかし、これでソ軍に徹底的打撃を与え得ると胸算していた。  これらの兵力を戦場へ送るには莫大な自動車を必要とする。そのため、陣地構築資材や冬営設備資材を送るだけの輸送力の余裕がないので、敵に大打撃を加えた上で一旦作戦を中止し、全兵力をハイラル、ハンダガヤ付近に撤収し、要すれば来春解氷後に再び作戦を開始しようというのである。  この作戦は、概ね九月末までに終了し、十月中旬までに兵力を撤収する予定であった。  実際には、後記の次第でこの作戦は実施されなかったから、悲劇の拡大深刻化を見ずに済んだが、作戦の構想がまたしても独善的なのである。第一に、火砲並びに戦車による破壊力の著しい懸隔が埋められていない。第二に、輸送力の制限からやむを得ないとはいえ、陣地構築をしないまる裸で戦おうというのである。ソ軍の猛烈な攻撃と、その慎重な陣地構築は経験済みのはずである。ソ軍は圧倒的攻勢を展開しながら、堅固な陣地防禦設備を逐次前進させている。日本軍は敵の縦深設備に難渋しているところを火力に叩かれて、前進開始線へ戻ることを余儀なくされる経験を反復している。またしてもそれを繰り返そうというのである。数夜を費やして前進し、最終夜に突入突破するというが、敵がそれを許す保証が何処にあるか。反撃されたら、陣地設備を持たない、火力に劣る、戦車は比較にならない日本軍に、再び惨澹たる運命が訪れるであろう。第三に、大打撃を加えてさっさと撤収するというが、敵が追尾反撃を開始しないという保証があるか。反撃されたら逃げるわけにもいくまい。対峙状態になったら、冬営設備もなくてどうするのか。ホロンバイルの冬は待ってはくれない。あわてて陣地資材・冬営資材を前送しても間に合わない。  関東軍・第六軍は、しかし、右の企図に基づいて攻勢再興の準備を進めていた。  そのとき、八月三十日夕刻、東京から参謀次長中島中将が高月中佐を帯同して、飛行機で新京に到着した。  中島次長は同夕刻関東軍司令部に至って、軍司令官植田大将に次の命令(大陸命第三四三号)を伝達した。これがノモンハン事件終結に関する最初の大命であった。  「命令    大陸命第三四三号 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、大本営ノ企図ハ支那事変処理ノ間満洲方面ニ於テ帝国軍ノ一部ヲ以テソ聯邦ニ備へ北辺ノ平静ヲ維持スルニ在リ  之カ為ノモンハン方面ニ於テハ勉メテ作戦ヲ拡大スルコトナク速ニ之カ終結ヲ策ス 二、関東軍司令官ハノモンハン方面ニ於テ勉メテ小ナル兵力ヲ以テ持久ヲ策スヘシ 三、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム [#ここで字下げ終わり]   昭和十四年八月三十日  奉勅伝宣 [#地付き]参謀総長 載仁親王   関東軍司令官 植田謙吉殿  この命令は、表現が明確厳正を欠いていて、後日に紛議を残すことになった。  関東軍司令官は中島次長に対して、右命令の第三項についての参謀総長の指示はないかと尋ねた(総長の指示とはいっても、皇族総長は謂わば名誉職に過ぎないから、参謀本部の実質的最高権威は次長にあったことは、既に述べた通りである)。  次長は無いと答えた。すると、磯谷参謀長が、では何故細項に関しては参謀総長をして指示せしむ、とあるのかと質した。質問も質問だが、答も答である。次長は、指示すべきことがあれば指示するという意味で、指示事項はないのだ、と答えている。  つづいて軍司令官室で、次長に対して状況と軍の企図についての説明が行われた。列席者は、参謀本部からは次長と高月中佐、関東軍からは軍司令官、磯谷参謀長、矢野参謀副長、寺田第一課高級参謀、第二課高級参謀代理加藤参謀、磯矢第三課高級参謀であった。  軍の企図についての説明の要旨は、短期間に大鉄鎚を下して、速かに全兵力を撤収する、ということである。  高月中佐が寺田参謀に、第四師団を使わずに作戦実施はできないか、と尋ねた。寺田は、第四師団を投入することは絶対必要であるばかりでなく、できればもっと大兵力を投入したい、このため大本営から増加を予定されている第五師団が早く到着すれば、これも投入したい希望さえ持っている、もし到着が遅れても、ハロン・アルシャン方面へ進出させる必要があると考えている、こうした大兵力を使用する理由は、短期間に最大限度の威力を集中発揮して敵に痛打を加え、速かに兵を撤するためである、兵力の逐次使用は絶対に避けなければならない、と答えた。  高月中佐は、なお再三にわたって、第四師団を使わずになんとかやれないものか、と質問を繰り返したが、軍側に反対されて、「そうですか」と口を噤んでしまった。この間、参謀次長は何も言わなかった。  第四師団の件は、実は、前記大陸命第三四三号に基づく大陸指第五百三十号というのがあって、それには「第四師団ノ戦場使用ハ中止スルモノトス」とあり、中島次長はその開示は関東軍側の説明を聞いてからにする肚であったらしいのである。  だから、高月中佐は第四師団にこだわったが、中島次長が何も言わないので、関東軍側は軍の企図が容認されたものと「思惟」したという。思惟したというのは、その場では両者とも、駄目も押さず、是認も否認もしなかった、ということである。  植田軍司令官は、流石に、命令第二項の「ノモンハン方面ニ於テ勉メテ小ナル兵力ヲ以テ持久ヲ策スヘシ」という条は、軍のこの時点での攻撃計画を容認するのか、しないのか、明確にしておく必要を感じて、磯谷参謀長にその点を次長に対して確かめることを命じている。  磯谷参謀長は、矢野副長、寺田高級参謀と共に、参謀長室で次長と高月中佐に対して、説明を求めた。  次長の答はミイラ取りがミイラになった観がある。「勉メテ小ナル兵力ヲ以テ持久ヲ策スヘシ」ということは、戦略的持久の意味であって、その範囲内で戦術的攻勢をとることを妨げない、と答えている。磯谷中将が、 「それでは軍が目下企図している第四師団をも加えて行う攻撃は宜しいのですな」  と質すと、中島次長は、 「宜しゅうございます」  と答えた。  次長は関東軍側の気勢にすっかり呑まれてしまったようであった。  これで、大陸命第三四三号は、先記の関東軍の反攻企図を封ずるものではないことになった。  それどころか、このとき中島次長は、これだけの大兵力を投じて攻勢に出るからには、ハルハ河を渡河して作戦することが必要であろう、と、地図の上に手をもって渡河方面を指しさえしたというのである。  関東軍側は軍司令官以下愉快な気分となり、その夜は軍司令官邸で中島次長の招宴を催し、みな打ちとけて談笑した。  宴が終って、次長は、寺田参謀を別室に呼び、胸襟をひらいた態度でこう言った。 「君のところと参謀本部第二課とは、ノモンハンに関して意志の疏通を欠いているが、今日のように諒解し合えた以上は両者協力一致してやらなくちゃいかん。君の方に何か中央に対して要望事項があったら、事の大小を問わずどんどん言って寄越したまえ。中央部としてできる限りの努力をする」  寺田参謀は感激して答えた。 「そう言って戴ければ当方としては最も感謝するところです。是非そのようにお願い致し度く存じます」 「相協力して大いにやろうじゃないかね」  と、次長は機嫌よく官邸を辞し去った。  中島次長は第四師団使用中止を指示した大陸指第五百三十号を、遂に開示しなかったのである。大本営では、この日、第二十三師団諸隊がほとんど戦場外へ後退したことを知って、それを機会に第四師団の使用中止だけでなく、作戦そのものを打ち切るべき時機と判断して、作戦課から中島次長へ直通電話で、大命伝達(大陸命第三四三号)には右を承知の上で当られたいと連絡した、という。それにもかかわらず、次長は関東軍に同調してしまったのである。  翌三十一日早朝、高月参謀が寺田参謀に電話で、昨日聞いたこと以外に中央部に対する要望事項がないか、増加を希望する部品・兵器・資材はないか、何でも承って帰京し、できるだけの努力をしたい、と言った。  寺田参謀は、できたら戦車の訓練を終った幹部と兵、大きい砲兵、対戦車肉薄攻撃資材を配慮されたい、と要望した。  中島次長と高月中佐は三十一日朝飛行機で新京を発ち、東京へ還った。  関東軍の意気は大いに揚った。  この八月三十一日の戦況は、第六軍司令官から関東軍参謀長宛ての電報によれば、  一、本三十一日軍当面ノ敵情大ナル変化ナシ敵地上及空中部隊ノ活動ハ活溌ナラスシテ戦場一般平穏ナリ  二、後続部隊ハ逐次予定ノ如ク到着シアリテ本三十一日第二師団先遣大隊ハ将軍廟へ、片山旅団ハ『ヨシマル』附近ニ集結セリ  三、軍ハ厳ニ当面ノ敵ヲ監視シツツ着々爾後ノ作戦ヲ準備シツツアリ  という状況であった。  関東軍司令官は全軍の士気をますます鞏《つよ》くするために、九月二日、次のような訓示を令達した。 「今次会戦ハ従来ノ国境紛争ト全ク其ノ趣ヲ異ニシ之カ勝敗ハ懸《かかつ》テ国運ノ盛衰ニ重大ナル関係ヲ有スルモノニシテ実ニ日蘇ノ一大決戦トモ謂フヘキナリ  皇国内外多事ナルノ秋将兵ハ益々滅私奉公ノ大義ニ徹シ愈々必勝ノ信念ヲ鞏クシ万難ヲ克服シ勇戦奮闘暴戻不遜ナル蘇蒙軍ヲ撃滅シ以テ皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期スヘシ」  関東軍は中島参謀次長を完全に同調せしめ得たと信じて意気盛んであったが、翌九月三日、事態は急変するのである。  その二日前、九月一日、福岡での大本営・支那派遣軍・関東軍の各派遣参謀による会同で、次のような談合が行われていた。     79  中支と南支の派遣軍参謀(北支からは事故のため不参加)は、それぞれ各軍参謀長の伝言であるとして、一部兵力の抽出に反対するものではないが、軍中央は支那事変処理が国策の第一であると言いながら、事実はノモンハン事件をめぐって兵力を逐次北方へ牽制されているのではないか、そのために支那事変に及ぼす影響に特に留意されたい、と参謀本部側に申し入れた。  参謀本部を代表して福岡に来ていた荒尾中佐が、関東軍の服部中佐に言ったことは、ノモンハンで日本軍がソ連の主張する国境線外へ後退すれば、ソ軍はそれ以上は前進して来ないと判断する、この際あっさり軍を後退させることが事件不拡大の最良の手段であると信ずる、ということであった。  服部参謀は、これに対して、関東軍は従来の経緯に拘泥せず新しい考え方をもって今後の方策を練るに吝《やぶさ》かでないが、ノモンハン事件の処理は第二十三師団が現在どのような状態に在るかによって、方策もおのずから異ってくる、小官はここ数日の戦況を知らないから、貴見に対して即座に同意することはできない、と答えた。  この日から二日後に、作戦中止の大命が下ることになるが、そのまた次の日、九月四日、大本営作戦課長の稲田大佐が関東軍の寺田大佐の電話による詰問に対して、福岡で服部が同意したのではないのかと答えたが、福岡での荒尾中佐と服部中佐の会話は、右のようであったらしい。  福岡会同では、結局、第五・第十四師団を満洲へ転用することに決定をみたが、荒尾中佐は、大本営の企図として、第五師団をノモンハンに投入しないように服部中佐に申し入れた。  服部中佐の答は、努めて投入を避けるが、戦況によっては使用することになるかもしれない、というのであった。  前日、八月三十一日、中島参謀次長と高月中佐が飛行機で新京からの帰途、福岡に着陸した際、福岡会同の参謀たちは飛行場に出迎えて短時間の連絡を交したが、このときも高月中佐が服部中佐に対して、第五師団をノモンハンに使用しないように求めている。  関東軍は、これで、第七・第二・第四師団の順序に増加し、さらに第五・第十四師団の増加を受けることになった。  高月、荒尾の大本営側両中佐が第五師団の戦場投入を避けるように強調したことは、関東軍側は第四師団までの戦場使用は大本営が認めていることと解釈した。つまり、増加三個師団規模の反攻作戦を大本営が抑止しはしない、と考えたのである。  戦闘継続か収束かという重大な問題が、表現のニュアンスの解釈に委ねられている観がある。簡単明瞭を旨とする軍人らしくない姑息な駈引である。  九月一日の福岡会同から僅かに二日後、九月三日午後四時四十分、突如として大陸命第三四九号(左記)に関する軍機親展電報が関東軍に飛び込んだ。  「軍機親展第二八七号  大陸命第三四九号発令セラル  命令ノ要旨 [#ここから1字下げ] 一、情勢ニ鑑ミ大本営ハ爾今ノモンハン方面国境事件ノ自主的終結ヲ企図ス 二、関東軍司令官ハノモンハン方面ニ於ケル攻勢作戦ヲ中止スヘシ 之カ為戦闘ノ発生ヲ防止シ得ル如ク先ツ兵力ヲ哈爾哈《ハルハ》河右岸地区繋争地域(ハンダガヤ附近以東ヲ除ク)外ニ適宜離隔位置セシムヘシ航空作戦ニ関シテハ情況已ムヲ得サレハ大陸命第三三六号ニ限ルヘシ [#ここで字下げ終わり] [#この行2字下げ]作戦軍主力ヲ原駐地ニ帰還セシムヘキ時機ハ追テ命ス」  大陸命第三三六号というのは、ソ蒙空軍基地への進攻の可否をめぐって関東軍と大本営との間に悶着が起きたあげくに、情況已むを得ない場合はタムスク付近及其以東付近の航空基地を攻撃することを許可した命令(八月七日)である。地上部隊が撤退してしまって航空部隊だけで決定的な戦闘ができるわけはないから、右の命令は作戦の全面的中止を意味する。  別電で、東京へ帰ったばかりの中島参謀次長が、再び飛行機で翌九月四日新京に来るという通知があった。  中島次長を完全に同調せしめ得たと思っていた関東軍にとって、作戦中止は青天の霹靂《へきれき》であった。軍の採るべき処置に関して寺田、村沢、辻(戦場から帰還)各参謀が研究し合った案を、参謀副長、参謀長が認め、最終的に軍司令官に上申して決裁を受けた。次の通りである。     80  「  判決  軍ハ大命ニ基キ作戦ヲ中止スル為先ツハルハ河右岸ニ於ケル戦場掃除ヲ行ヒ第二十三師団ノ死体兵器ヲ収容スルヲ要ス     理由 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、大命遵奉ハ絶対ニシテ今日迄軍カ企図シアリシ攻勢企図ハ全部之ヲ中止セサルヘカラス 二、(前段略)今第二十三師団奮戦ノ跡ヲ放置シテ戦場掃除ヲ行ハサルカ如キハ単ニ情ニ於テ忍ヒサルノミナラス関東軍ノ統率ヲ破壊スルニ至ルヘシ 三、|大命ノ《ヽヽヽ》『|攻勢作戦ヲ中止《ヽヽヽヽヽヽヽ》』|ノ字句ヲ謹ミテ按スルニ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》是レ従来軍カ企図セルカ如キ大規模ノ攻勢ヲ中止スルモノニシテ|短切ナル戦闘動作ニ依リ死体《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|兵器ヲ奪還スルコトヲモ中止スヘキ大御心ニハアラサルヘシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 四、ノモンハン附近ニ於ケル敵陣地ノ現況ハ多クノ問題ヲ有シ多クノ機械化部隊ヲ以テ之ヲ占領シアルヲ以テ|我ニシテ十分ナル準備ヲ整ヘ夜襲ニ依リ第二《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、第四《ヽヽ》、|第七師団ヲ以テ数夜ヲ費シテ行フ時ハ第二十三師団ノ旧戦場ヲ掃除スルコトハ確信ヲ有シ得《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》此ノ際集結シ得タル第二十三師団(兵力約三千)ハ之ヲ死体・兵器ノ収容後送ニ任セシム 五、|謹ミテ大命ヲ奉シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》而シテ関東軍ノ|統率ヲ全ウスルノ道ハ本判決ヲ実行スル以外ニ道ナシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  先に中島次長が新京に来て態度を軟化同調させた不見識が混乱を来した誘因だが、そもそもは表現の不徹底な大陸命第三四三号(八月三十日)を発した中央の態度に問題があった。  それにしても、右の「判決理由」には驚くほかはない。傍点部分に注目されたい。特に第四項の「夜襲ニ依リ云々」の方式は、第六軍が企図していた反攻方式そのものである。戦場掃除に名を藉りて、戦場到着順序第四師団までの兵力を全部注ぎ込んで、数夜を費やしてどうしても一泡吹かせようというのである。それが第五項「謹ミテ大命ヲ奉」ずる所以であり、「統率ヲ全ウスルノ道ハ本判決ヲ実行スル以外ニ道ナシ」というのである。軍人流の表現を用いれば、大命は尊重すべく、無視し得るもの、ということになる。このときだけではない、統帥大権は軍の恣意を実現するための虚構であった。  先に述べたように、関東軍としては、増加諸兵団の戦場到着は九月七、八日ごろには完了する行程にあり、その他にも第八師団の一部をハイラルに推進し、騎兵第三旅団をジャライノール(満洲里南東)に出してソ軍をその方面に牽制する佯動を行い、第二飛行団(飛行第九戦隊—戦闘機、第六戦隊—軽爆、第六五戦隊—重爆)を戦場に増加する準備を進めていたときである。参謀たちは「大命ノ攻勢作戦ヲ中止ノ字句ヲ謹ミテ按」じた結果、充分な準備を整え三個師団を併列して、数夜を費やして夜襲を継続して「戦場掃除」を行うことは、「大命ヲ奉」じた行為であるという牽強附会の説を「研究」したのである。  九月四日午後、辻参謀は左記関作命第一七八号を起案して、関東軍司令官以下の決裁を得た。  「関東軍命令 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、軍ハ大命ニ依リノモンハン方面に於ケル攻勢作戦ヲ中止スル為先ツ戦場ヲ整理セントス 二、第六軍司令官ハ哈爾哈河右岸ニ於ケル戦場整理ヲ完了シタル後適時概ネ集中末期ノ態勢ニ転移シ敵ヲ監視スヘシ  爾後ノ行動ニ関シテハ別命ス 三、航空兵団ハ第六軍ニ密ニ協力スヘシ」 [#ここで字下げ終わり]  関東軍は、戦場整理という名目の夜襲作戦を決行する肚で、中島参謀次長が来たら説得するつもりであった。     81  九月四日夕、中島参謀次長は再び高月中佐を伴って、飛行機で新京に到着した。  軍司令官室で大陸命第三四九号が軍司令官に伝達された。  植田軍司令官は戦場整理を実施する企図を説明したが、中島次長はそれが許されないのが大命の趣旨である、と軍の企図に同意を与えなかった。  軍司令官は、重ねて、戦場整理実行については戦闘持久に陥らないように軍司令官自ら戦場に出て戦闘指導に任ずるから、最小限度の戦場掃除を認可され度いと述べたが、参謀次長は大命の趣旨に反する、と同意しなかった。  軍司令官は、それでは職に止って軍の統帥をなすことはもはや出来ないから、自分を解任して、新司令官によって事態を処理するよう取計らわれ度いと申出た。  つづいて、関東軍参謀長と副長が参謀次長に会見し、参謀長から八月三十日の大陸命第三四三号と今日の第三四九号とは僅か数日の間に内容があまりにも違い過ぎる、特に次長の態度の変化について説明を求めたが、次長は単に大命であると繰り返すだけで、説明はしなかった。  想像するに、八月末日関東軍側と意気投合したかに見えた参謀次長は、東京に帰ってから、作戦部長や作戦課の面々から突き上げられたのであろう。大本営の作戦関係筋では勝算のないノモンハン事件を収束する意向が支配的であったことは、前記の福岡会同での荒尾中佐の見解からも充分に推測される。もう一つには、八月二十三日に独ソ不可侵条約が成立したことから、時の平沼内閣は欧州の情勢は複雑怪奇であるという声明を残し、世界情勢の急テンポの変転に対処しきれない政治的弱体をさらけ出して総辞職した。代り映えのしない阿部内閣が成立したのが八月三十日。九月一日には、ドイツがポーランドに侵入を開始。同日、イギリス、フランスは動員を開始して、ドイツがポーランドから撤退すれば交渉に応ずる用意があると声明した。ドイツはこれを無視した。九月三日、英仏は対独宣戦布告した。第二次世界大戦がはじまったのである。  ソ連は、独ソ不可侵条約を結びはしたが、油断はできなかった。その現われが、約半月後(九月十七日)の東部ポーランドヘのソ軍の進出である。ポーランドを分割することによって対独安全界域を拡げようとしたものと解せられる。そういう急テンポのヨーロッパ情勢下に置かれたソ連としては、ゴビの砂漠の東端、無人の原野でいつまでも日本軍と事を構えているのは得策ではなかったはずである。それが日ソ間の停戦交渉に応ずる態度となって現われた。そのことは、また、泥沼の様相を呈している日中戦争を抱えた日本にとってノモンハン事件の延引は不得策であるとする戦略思想に合致したのである。  だが、関東軍では、そうは考えなかった。ヨーロッパの動乱にソ連が直面したことは、ノモンハンで呻吟していた関東軍にとっては勿怪《もつけ》の幸であると考えた。断固討つべしである。そこには、国力・戦力・用兵の巧拙の差についての反省が全く見られなかった。  中島参謀次長が軍司令官、参謀長、副長と会談しているとき、一方では作戦室で寺田高級参謀以下作戦参謀たちが、高月中佐と談判していた。関東軍側は、八月三十日とこの日とでは中央の態度がまるで違ってしまっている事情を高月中佐に詰問したが、高月中佐の応答は要領を得なかった。関東軍の作戦参謀のなかには、中央と現地との間に意見の大きな隔りが生ずるのは中央が現地に関する認識が足りないことに基因するから、明日参謀次長が戦場に行って実情を見てもらいたいと主張する者もいたが、高月中佐は人事の処理をする必要があって次長は明日帰京しなければならないと答えて、関東軍側の要求に同意しなかった。  その夜、八時から軍司令官官邸で、磯谷参謀長、矢野副長、寺田高級参謀が、中島次長、高月中佐となおも談合したが、次長は頬杖をついて困った、困ったを連発するばかりであったという。  翌九月五日午前八時、中島次長らは飛行機で東京へ飛び立った。その出発前、軍司令官は次長に来邸を求めて、昨夜来熟慮の結果、戦場掃除をも行ってならないというのは「大御心」ではないと考える、戦場掃除の実行について再考を煩わし度い、と言ったが、次長は、大命はそれさえも禁じているのだと答えて、出発した。  大命とは何か。大命などは、実は存在しないのである。そのときどきの参謀本部の作文に過ぎない命令に「奉勅」と書けば、それで大命なのである。天皇は敢て異を唱えない仕組になっている。  中島次長の出発後(九月五日午前)、寺田高級参謀は磯谷参謀長から、軍司令官の意図として、軍司令官が参謀次長に申出た戦場整理(実は作戦)を中央に対して明確にしておくための方法の研究を命ぜられた。  寺田以下作戦参謀間では、次のように意見が統一された。  この時点での閉東軍の問題は、大命遵奉と軍の統率との、この際は一見矛盾する命題を、両つながら如何に全うするか、である。  軍司令官は|※[#「門<困」、unicode95ab]外《こんがい》の重責に任じている。その軍司令官が、ノモンハン戦場整理を実施することが(くどいようだが、数夜の夜襲をもってすることが)大命遵奉に伴う当然の措置であるという判断に立っているからには、参謀次長などに意見を述べる必要はないにもかかわらず、ひたすらに企図の説明をしたのは、中央と現地との不和の関係を反復しないためである。それにもかかわらず、次長はろくに意見の交換をせず、『大命』『大命』で片づけて帰ってしまった。次長は関東軍の苦衷苦悶を知っているのか。東京に帰って関東軍の衷情をどのように伝えるか、わかったものではない。こうなったからには、電報で意見具申をし、寺田参謀が上京して中央に説明する必要がある、という結論になった。  この結論に軍司令官は同意を与え、その結果、九月五日昼からタ刻へかけて四通の電報が立てつづけに打たれ、寺田高級参謀は九月六日朝の定期飛行機で東京へ向けて出発した。  各電報は激越な感情をもって起案され、それぞれ重複しているが、ノモンハン事件終末期の関東軍司令部の血走った形相が想像されるので、左に抄録する。 「九月五日十二時十分発  総長宛 [#地付き]軍司令官 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、大陸命第三四九号謹ンテ受領ス 二、軍ハ第二十三師団カ七旬ニ亘ル苦闘ニ依リ旧戦場ニハ今尚数千ノ屍ヲ収容シ能ハサル現状ニ在ルニ鑑ミ第六軍ヲシテ哈爾哈河右岸ノ戦場掃除ヲ為シ得ル限リ実施セシメタル後部隊ヲ大陸命ニ依ル紛争地外ニ撤収スルコトヲ企図シアリ右企図ニ関シ認可アリ度意見ヲ具申ス  万一認可セラレサルニ於テハ本職カ従来隷下ニ対シ強ク要求シ来レル道義ヲ本職自ラ破壊スルノミナラス忠死セル数千ノ英霊ヲ敵手ノ凌辱ニ委スルニ至リ将来到底軍ヲ統帥シ得サルニ依リ速ニ本職ヲ免セラルル如ク執奏ヲ乞フ」 [#ここで字下げ終わり] 「九月五日十六時〇分発  総長宛 [#地付き]軍司令官 (前段略)大陸命第三四九ノ実行ニ関シ本職ハ戦場ニ今尚残置セラレアル第二十三師団将兵数千ノ尊キ屍ヲ収容スルコトヲ以テ大命遵奉ノ当然ノ手段トナシ次長ノ諒解ヲ求メタルモ次長ハ大命ハ之ヲシモ認可セラレサル如ク言明セリ本職ハ臣子トシテ忠死セル部下ノ骨ヲ拾フコトハ 大元帥陛下ノ大御心ナリト確信シアリ皇軍無二ノ伝統ヲ永遠ニ保持シ 大元帥陛下ノ御高徳ヲ顕現セラルル為篤ト深慮セラレンコトヲ重ネテ具申ス」  右二通の電報の起案者は、いずれも辻参謀である。  もう一通の見逃せない電報は、服部参謀が起案して、関東軍参謀長名で参謀次長宛てに打たれている。 「九月五日十七時十分発 (前段略)幾千ノ屍ト多数ノ兵器トヲ敵手ニ委シ之ヲ放置スルカ如キコトカ単ニ皇軍ノ光輝アル伝統ニ拭フヘカラサル汚点ヲ印スノミナラス関東軍現実ノ統率ヲシテ収拾スヘカラサル情態ニ陥ラシムルニ至ルヘキ戦場ノ実相ヲ篤ト御考慮ノ上軍ノ企図ヲ認可セラルル如ク重ネテ配慮アリ度軍ハ大命ノ御主旨ハ飽ク迄奉戴シ万端ノ準備ヲ完成シテ現地ノ情況ニ則応シテ右企図ヲ至短期間ニ達成シ爾後迅速ニ敵ト離脱スル確信ヲ有ス而シテ後方補給及撤退ニ伴フ後方関係モ何等不安ナシ  以上ノ企図ヲモ認メラレサルニ於テハ関東軍主任幕僚トシテ其ノ職責ヲ全ウスルコト能ハサルニ依リ軍ノ全幕僚ハ其ノ職ヲ免セラレ度申出テタルモ差当リ本職ノ外左記ノ者ハ直ニ各其ノ職ヲ免セラレ追テ其ノ責任ヲ明ニセラルル如ク取計ラハレ度シ    左記  矢野少将  寺田大佐  服部中佐  村沢中佐  辻 少佐  島貫少佐 」  関東軍は俗にいう「ケツをまくった」のである。だが、ほんとうに戦場整理という名目で、数夜の夜襲の継続によって屍体と兵器の奪還作戦を実施して、「至短期間ニ達成シ」かつ「迅速ニ敵ト離脱スル確信」を持てるのか。関東軍は五月の事件勃発以来、いつでも「確信」をもって作戦を実施し、その都度不成功に終ったのではなかったか。あとになって、敵の兵力火力が意外に強大であったと弁解したのではなかったか。今度は歩兵兵力が増強されることは確かだが、それで充分であるという保証は何処にもない。依然として火力が著しく劣勢にあることも既に述べた通りである。どのような確信があるのか、その根拠は示されていない。戦場整理をすることによって軍の統帥を維持するなどというのは詭弁である。将兵を飲まず食わずで戦わせ、弾薬尽きてもなお戦わせ、しかもこれを救援する手段を持たないような拙劣な作戦指導によって、軍の統帥はとっくに損われていたのである。  九月六日午前十一時三十五分、参謀総長名をもって、関東軍司令官宛てに次の電報が入った。 「関参電第七三九及七四〇号ノ意見具申ノ企図ハ大命ノ趣旨ニ鑑ミ之ヲ採用セス然レトモ貴官ノ心情ハ明六日朝謹テ上聞ニ達スヘシ」  これで万事休したのである。     82  意見具申のために六日朝飛行機で新京を発った寺田大佐は、天候不良のため新義州に不時着したという報らせが同日午後に入った。東京から決定的な電報が来てしまった今となっては、寺田が上京しても無駄なので、直ぐに引き返すように発電された。  九月六日午後二時十分、参謀総長から軍司令官宛てに『参電三三〇号』が入った。 「参電三三〇号 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、貴官意見具申ノ企図並之ヲ採用セサル件ニ関シテハ本六日朝謹ミテ上奏セリ 二、貴官従来ノ企図ヲ一擲シ直ニ大陸命第三四三号ノ実行ニ移ラルヘキモノト確信ス 三、右ノ実行ニ関シ貴官ノ処置ヲ速ニ報告スルヲ要ス」 [#ここで字下げ終わり]  この電報の第三項を見た関東軍幕僚たちは「恰も冷氷に接するが如く冷酷なる統率を意識し悲痛其の極に達した」というのである。もしそうだとすれば随分甘ったれた話である。こんな程度を統帥の冷酷というのは、前線将兵がどれほど統帥の冷酷に耐えなければならないかを、考えたことも思いやったこともない証拠である。  関東軍司令部はすっかり感情的になって、参電第三三〇号に対する次のような返電を辻参謀が起案した。 「参電第三三〇号返 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、左ノ軍命令ヲ与へ幕僚ヲ派遣シ指導シアリ  ハンダガヤ東南方地方ニ於テハ昨日来優勢ナル敵ノ攻撃ヲ受ケアル現状ニ鑑ミ独立守備隊ニ兵力ヲ増加シ要点ヲ確保セシム 二、貴電ノ要求ハ本職ヲ信頼セラレサルモノト解ス即時罷免セラルルカ如ク執奏相成度」 [#ここで字下げ終わり]  この電文の第二項は、しかし、流石に削除されて、処置についてのみ返電が打たれた。  中島参謀次長の弱腰(八月三十日)のために、大本営と関東軍との間に無用の波瀾を生じたが、大本営が強硬に関東軍の企図を禁止する挙に出たのは、関東軍の企図を実施しても成功する確算が立たないばかりでなく、さらに損害を大きくする惧れがあり、かつ、一旦寒波に襲われれば、耐寒装備の整っていない軍団がどのような危険に陥るかも測り難かったのと、一方、ヨ—ロッパ動乱を機として停戦に関する外交折衝に思いがけない歩み寄りが見られたからであった。  大本営が関東軍の企図を最終的に斥けた経緯は上奏された。  関東軍としては、もはや大本営の命令に服するほかはなくなった。  関東軍司令部は、九月六日午後四時、第六軍に関作命第一七八号を発した。 「関東軍命令 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、大命ニ依リノモンハン方面ニ於ケル攻勢作戦ラ中止セシメラル 二、第六軍ハ概ネ既定計画集中末期ノ態勢ニ在リテ敵ヲ監視スヘシ  爾後ノ行動ニ関シテハ別命ス 三、航空兵団ハ依然前任務ヲ続行スヘシ」 [#ここで字下げ終わり]  これに対して、第六軍司令官から関東軍参謀長宛てに次の電報が来た(九月六日午後十時四十五分)。 「(前段略) [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 二、軍ハ幾多ノ英霊ニ対シ敵ニ一大鉄槌ヲ加へ之ヲハルハ河右岸地区ニ撃攘スルニアラスンハ黙止シ得サル状態ニ在リ事変処理ヲ外交折衝ニ委スヘキモ断シテ敵ヲシテハルハ河右岸地区ニ停止セシムヘカラス 三、荏苒《じんぜん》日時ヲ経過スルニ於テハ敵陣地ハ益々堅固トナリ酷寒時ニ入ルヲ以テ外交ノ末技ニ堕シテ攻勢ノ好機ヲ逸スルカ如キハ厳ニ戒心ヲ要スルモノト信ス」 [#ここで字下げ終わり]  第六軍司令部は、万事休して、なお死児の齢を算えるに似ていた。  九月三日の大陸命第三四九号によってノモンハンの本格的作戦は中止となったが、字句の表現から見て、厳密に作戦のすべてを禁止してはいなかった。  第二師団の片山支隊は八月末ハンダガヤ付近に集結していて、関東軍と中央との応酬の間は行動を開始しなかったが、九月八日と九日の二日間、正面の外蒙軍に対して夜襲を行い、所期の陣地を占拠した。片山支隊の兵力は、歩兵第十五旅団長片山少将指揮する歩第十六、同第三十連隊と野砲兵第三大隊である。  ハンダガヤ方面の小作戦は兵力撤収のための陣地占領であったと考えられる。  九月六日、夜、関東軍司令官、同参謀長、同参謀副長、寺田高級参謀は参謀本部付に、辻参謀は第十一軍(在漢口)司令部付に転補の内報があり、翌九月七日正式発令があった。  服部参謀に関しては、九月八日、陸軍歩兵学校研究部主事兼教官に転補発令された。  ノモンハン事件事後処理のための人事異動は九月七日にはじまって、十一月に及んだ。その範囲も左記のように大本営首脳部から関東軍司令部、第六軍、第二十三師団に及んだ。  参謀本部では、中島次長と橋本作戦部長は予備役に、稲田作戦課長は参本付から習志野校付、次いで阿城重砲兵連隊長に転出し、代りに、次長に沢田中将、作戦部長に富永少将が、作戦課長に岡田大佐が後任となった。  関東軍では、植田軍司令官、磯谷参謀長が予備役に入り、代りに梅津中将(一年後大将)が軍司令官、飯村中将が参謀長に、矢野副長の代りに遠藤少将が後任となった。関東軍の全作戦参謀の陣容が一新されたのは当然だが、問責が徹底していたとは言い難い。とりわけ、服部・辻の両参謀がやがて中央中枢に返り咲いて、辻の表現によれば「ノモンハンなど朝飯前」の作戦失敗を繰り返すのである。  第六軍司令官荻洲中将は、事件後、参本付から予備役に編入された(昭和十五年一月)。第二十三師団長小松原中将も関東軍司令部付から参本付、そして予備役にまわされた(十五年一月)。この二人は現役に残れると思っていたらしい。そして停戦祝宴の計画を立てていたという話がある。もし事実だとすれば気違い沙汰である。  荻洲中将は、のちに、昭和十七年春、靖国神社例大祭に軍服姿で現われ、遺族席をまわって「俺の部下だった者の遺族は手を上げい」と言った、と伝えられている。彼は、大挙して捲き返しを図ろうとした反攻作戦を中止させられたから、それを中止されさえしなければ敗けはしなかったのだと思いたかったのであろう。未だにそう思っているノモンハン関係者は多勢いるようである。  そういえば、服部参謀などもノモンハン戦の作戦を失敗であったとは、決して認めたがらなかった。     83  日ソ間の停戦交渉は、東郷駐ソ大使とモロトフ人民委員との間で、九月十五日、ようやく原則的事項に関する合意が成立、モスクワ時間九月十六日午後三時、共同発表が行われた。次の通りである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、日満軍及ソ蒙軍ハ九月十六日午前二時ヲ期シ一切ノ軍事行動ヲ停止ス 2、日満軍及ソ蒙軍ハ九月十五日午後一時其占メ居ル線ニ止マルモノトス 3、現地ニ於ケル双方軍代表者ハ直ニ本合意(1)及(2)ノ実行ニ着手ス 4、双方ノ捕虜及屍体ハ交換セラルヘク、右ニ付現地ニ於ケル双方軍代表者ハ直ニ相互ニ協定シ実行ニ着手ス [#ここで字下げ終わり]  この共同発表に基づいて、大本営は九月十六日午後一時十分、大陸命第三五七号を下達した。 「命令  関東軍司令官ハ自今ノモンハン方面(ハンダガヤ附近ヲ含ム)ニ於ケルソ蒙軍トノ戦闘行動ヲ停止スヘシ」  先の大陸命第三四九号とは異って、この第三五七号によって、一切の戦闘行動が停止させられたのである。  現地停戦協定は双方の軍使団の間で、九月十六、十七日、予備交渉を行い、十八日から二十三日まで本交渉を行った。  その結果、戦死者の捜索と死体収容は、九月二十四日から三十日までの間に行われた。  日本側の死体収容は四三八六体で、爾後は打切りとなった。ソ連側から、ハルハ河左岸に遺棄されてあった日本軍の死体五五と、その他の遺体四(捕虜となってから死亡したものではないかと思われる)を渡された。  停戦数日後、ホロンバイルの草原に寒波が訪れた。兵たちは草原を蔽った霜の上に長い黒い軍靴の跡を残して後退した。数十台のトラックが薪を満載して、撤退する部隊とは反対に戦場の方へ走った。死体を焼くのである。  死体火葬とその前後の情景を、前掲歩七一の小田大治は次のように誌している。 「当時の遺体の模様を略述します。衣服は黒く変質して、体は腐爛して顔の見分けの困難な遺体もあります。何故か赤銅色の異状に肥満した相好の変った遺体もあります。顔の骨に薄緑色の皮が貼りついたようになっている無言の戦士もあります。この時です、片方の足首に三、四十糎のロープの結び付いてあるのを見ましたのは。  戦友と無残な事を想像したものです。  火焔砲にやられたのか、黒く焦げたのもあれば、戦車に轢かれたような遺体もあります。 (中略)  愈々火葬を行います。  ホロンバイルの草原に深さ五、六十糎の幅約三米長さ約三米の穴を掘ります。この長さに或は私の記憶違いがあるかも知れませんが、幅は当時のトラックに積まれた松の割本より少し大きめでしたから。  この穴に割木を縦横段違いに、平地に立って胸の下あたりまで積み上げます。この上に遺体を仰向けに四体ずつ寝させ石油を注ぎます。三木隊の受け持ちは仮安置所に向って最前列の最左端二つでした。最前列と申すのは私達の後方及び右後方に幾列にも穴が掘られていたからです。十一時頃か、従軍僧の読経が始まります。幾らが進んだところで、従軍僧の合図があり、一斉に点火します。  幾十条もの煙が、そこまで来ている冬空に昇ります。収容班はぞくぞくと届けます。表示し得ない物悲しさと何かが心を占めます。戦友は誰も同じでしょうか、だんだんと無口になって頭を垂れます。 (中略)  焼ける遺体は私達に何かを囁くようにも聞えます。  啾《な》いているようにもきこえます。 (中略)  扨て、夕方近くになります。穴の底の燠《おき》も邪魔にならぬ程になりました。収骨です。点火後六時間位かかったように思います。黙々として柳の箸で拾います。他とまじりあうこともなく、若いせいでしょうか、ほんとうにきれいな御骨でした。 (中略)  衛兵所の横に並ばれた幾人かの婦人(将校の奥様だろうと話したものです)に見送られた三木寅之助中隊長率いる三ヶ小隊編成の約百二十名の三木隊も、その後に打ち続く戦闘に、或いは斃れ、或いは傷つき、今ここノモンハンの曠野に生き残るものは僅か四名となりました。 (中略)  長くて辛い行軍も終りです。伊敏河の畔りで初めて顔を洗いました。次に鬚も剃りました。これが四人に出来る精一杯の武者振りでした。  ネッカチーフを被った天女のように見える出迎えの婦人部隊の心づくしの汁粉もおいしく呑みました。さあ、なつかしの東山の兵舎へ胸を張って出発です。破れ軍衣袴に寒さがしとど身に沁みる粉雪の舞い狂う十月十日の午後もおそくの頃でした。(後略)」  捕虜交換についての現地協定は、全数交換か同数交換かで容易に合意が成立せず、九月二十七日、第一次交換として、日本側から八十七名を返し、ソ蒙側から八十八名(約半数は負傷者)を受領した。残余については、外交交渉の結果待ちとなった。  昭和十五年四月二十七日、ソ連側の捕虜二名と日本軍捕虜百十六名が交換されて、終了した。  日本兵の捕虜は、これで全部だったのではない。野重一最期の日、戦友と刺し違えて自決を図り、柏手の剣尖が喉から首の後ろへ貫けても死にきれず、気を失っているところをソ軍に収容された人物が、こう語っている。 「ウランバートルからチタヘ持っていかれる時、原田少佐(航空少佐、帰還後自決)が�これは大変な数だなあ�と憮然としたくらい多かった。還った者を差し引いて、まだ三、四千名は残っていましょうね」  数は明らかでない。戦闘参加総員数から、生還兵員・戦死・戦傷病・戦病死を差し引けば、捕虜となった者を含む生死不明の概数を得られる理屈だが、数字自体が資料によってまちまちであり、作為が施されたと推定される数字もあるので、真相は究め難い。  第六軍軍医部調製の統計表によれば、出動人員五八九二五、戦死七六九六、戦傷八六四七、生死不明一〇二一とある。  但し、この統計表では、たとえば第二十三師団の出動人員一五一四〇が、第二十三師団軍医部調製の表では一五九七五であって、前者は八三五名も少なく、生死不明も後者の六三九が前者では三四九となっている。  近似値を見出すことさえも困難である。負傷者を置き去りにして撤退した戦況から推測して、捕虜は少なくなかったであろうと考えられるが、その数の詮索には大して意味がない。意味があるのは、戦うだけ戦い、力尽きて捕虜となった将兵を、日本軍がどう扱ったかである。  日本軍将兵で捕虜となった者に対する日本軍の扱いは、苛酷をきわめた。悪名高い『戦陣訓』に「生きて虜囚の辱を受けず」と謳われるのは、昭和十六年一月八日からのことで、ノモンハンの時点では『戦陣訓』はまだなかったが、捕虜となることを極端に忌み嫌う教育が徹底していたことでは、『戦陣訓』の有無は問題ではなかった。  軍人の聖典とされていた『軍人勅諭』には、虜囚という言葉も捕虜という字句も出ていない。生きて虜囚の辱を受けるなということにまで拡大解釈しようと思えばできなくはない箇所は、『忠節』の項にある『義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」というところだけである。  陸軍刑法にも、戦闘中刀折れ矢尽きて捕虜となった場合とか、負傷して気絶しているところを敵に収容された場合を罰する項目はない。ただ、『辱職ノ罪』の項に、司令官が「其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ」敵に降るとか、隊兵を率いて逃避した場合(第四十条、第四十二条)に「死刑ニ処ス」とあり、また、「尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖」司令官が野戦の時にあって隊兵を率いて敵に降れば「六月以下ノ禁錮ニ処ス」(第四十一条)とある。「尽スヘキ所ヲ尽サスシテ」という解釈次第でどうにでもなる前提条件が曲者だが、部隊が潰滅状態に陥って指揮系統が実在しなくなった場合に兵隊が敵手に落ちる事態を、刑法は規定していないし、部隊が死地から離脱する際に置き去られた負傷兵が捕虜となる場合の規定もない。この場合、後退する指揮官が、残置する負傷者に対して、敵が来たら死んでくれ、と、手榴弾なり薬剤なりを渡すのが常だが、負傷者は自決する義務も、自決しなかったために罰せられる義務もないのである。一般的な規定として『逃亡ノ罪』の項に「敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮二処ス」(第七十七条)とあって、これがまた無限に拡大解釈される危険があった。どういう状態を「敵ニ奔リタル者」と規定するかである。極限まで戦ってのちに敵手に落ちても、その状況を目撃していない後方の高級将校や法務官が敵に奔った者と結論すれば、それで終りである。  勇戦奮闘してなお敵に敗れれば、潔く敵に降ってそれを恥としない、という感覚は日本軍にはなかった。なかったというより、厳禁されていたのである。それも刑法の条文によってではなしに、観念的な教育の強制によってであった。想像するに、もしそれを許せば、兵たちが「只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟」しなくなることを、天皇制の軍隊が怖れたのである。  既に何回となく触れてきたことだが、日本軍の戦法は、徹底した人命軽視の上にのみ成立し得ていた。人命を惜しんでは、非科学的な戦闘方式を組織し得ないのである。兵隊はまさに「一銭五厘」(郵便はがきの価格)なのであった。兵隊はその処遇を「将校商売、下士道楽、兵隊ばかりが馬鹿をみる」と歌ったのである。  ノモンハンでは、しかし、前線の将校下士官兵は概ね奮戦苦闘した。そして、八月二十四日のフイ高地をはじめとして、八月三十日までに前線陣地は悉く崩壊したのである。その経過を詳しく辿ってきた私たちには、砲爆煙がおさまって見ればいままで戦っていた友軍陣地に赤旗が林立しているというような戦況や、紛戦の末に負傷者を置き去りにして撤退しなければならないような状況下で、かなりの数の者が捕虜となったのは当然であったと判断することは困難でない。  軍は、しかし、捕虜となって生還した者を正当には扱わなかった。  捕虜交換の委員長として、昭和十五年四月二十七日、マツェフスカ駅前広場で日本軍捕虜を受領した藤本少将(事件当時第六軍参謀長)は、帰還者たちに、「諸子は万策尽きて敵手に落ちたもの、軍人としてまことに同情に堪えない。上司におかれては、特に諸子を�帰還傷病兵�待遇を以て今後を取扱うから、決して軽挙妄動してはならない。今夜からは枕を高々と、安心して、ゆっくり寝てくれ。長い間、さぞかし辛かったことだろう。ご苦労だった」  と、声涙ともに下る言葉で犒《ねぎら》ったが、帰還者たちを待っていたのはそんな温情に満ちた待遇ではなかった。  帰還者たちは吉林に近い新站《しんたん》陸軍病院に送られた。そこでの模様を北海タイムス社の『ノモンハンの死闘』は、元憲兵の話として次のように誌している。 「陸軍病院は駅から二キロくらい、付近に一般の建造物はなく、庭なども荒れて、あき家同然だった。病院勤務者はどこかへ移されたらしい。  収容者は下士官、兵が同室で一室に四、五十人いた。二、三人の将校は個室だった。階級章はなく、記名だけの白布をつけていた。憲兵が監視、とくに罪状が重いとみられるものには、急ごしらえの留置場式独房が七室ほどあった。ここの入監者は全員半死の状態で、投薬や看護も行き届いているとは思われなかった。余り病人が苦しむので衛生兵に�少し見てやったらどうか�といったがただ黙って首を横に振るだけだった。  大部屋の収容所は比較的元気な様子だが、おどおどして、このあとどうなるのだろうかと、みんな不安な面持ちだった。入り口には二人ずつの憲兵がつきっきり、私語一つさせなかった。  半月も過ぎたころ、関東軍司令部から将校を長とする特設軍法会議が乗り込んできて、非公開で、おもに将校が裁判に付された。午前十時から午後四時ごろまでで終った。その場にいあわせた憲兵の話では、裁判官は終了後、将校には拳銃を与え、何もいわずにさっさと引き揚げたという。その直後、憲兵といえども将校室に近寄ることを禁ずとの命令が出、間もなく拳銃の発射音がひびいた。自決だった。  任務を終えて帰着後、一年ほどたって東京から鈴木という名の一通の手紙が届いた。心当りがないので不審に思いながら開封してみると、捕虜だった人で、取り扱いにたいする懇切な謝礼とともに、いまは改名して花屋を営んでいるという内容。ほとんどは陸軍病院からソ満国境の陣地構築に送られたはずだが、帰国できた人もいたのだ」  帰還者に対する非人間的な扱いを否定する資料や体験談には接しない。軍はノモンハンでの敗北をひた隠しに隠したから、謂わばその生証人ともいうべき帰還者たちに圧力を加え自由を奪ったであろうことは、想像に難くない。     84  百方手段を尽して戦い、万策尽きて捕虜となった者を罪に問い、または問責する根拠を、陸軍刑法は誰にも与えていないのである。もしそれが懲罰、迫害、問責に値するのなら、これまでに詳述してきた戦闘経過の随所に見出される敵情の誤判、独善的な拙劣な作戦指導、非合理かつ無謀な統帥、経験から戦訓を抽き出さずに性懲りもなく同じ過失を繰り返した司令官や参謀の罪は死に値する。配置転換や予備役編入などで片づけられることではなかったのである。  事実は、責任の重いはずの者ほど処分が軽かった。司令官や軍参謀で、自ら自決を選んだ者や責を負わされて自決させられた者はいない。自決すべきだとか、自決が正しい処置であるとかいうのではない。前線指揮官に較べてのことである。  第一線の連隊長級の多くは、戦死をするか、戦闘の最期的段階で自決をするか、自決同様の戦死を遂げている。あるいは、後退した責を負わされて自決している。  たとえば、フイ高地に在った捜索第二十三連隊長の井置中佐である。彼の自決には先に触れておいたが、フイ高地からの無断撤退の責を負わされたのである。八月二十四日までのフイ高地の絶望的な戦況は既に詳しく見てきた通りであった。フイ高地の抵抗はソ軍北方兵団が手を焼いたことは、ソ軍戦史に照らしても明らかである。終末段階では、ソ軍の大部隊はフイ高地を迂回して内部へなだれ込み、一部をもってフイ高地を完全包囲していた。フイ高地には、もはや戦略的な意味はなくなっていたのである。  井置中佐は、自決を迫った師団長にその点で抗弁したが、師団長は理解しなかった。井置中佐の撤退は確かに独断だが、師団との交信は絶え、仮りに決死の伝令が敵の重囲を浸透し得たとしても、師団の命令を持ち帰って来る保証もなければ、それを待つ時間の余裕もなかった。また、八月二十四日攻勢に移転した第六軍—第二十三師団は、攻勢に関心のすべてを奪われて、守勢方面を等閑に付し、守勢諸隊の統一指揮官を置くことをしなかった。したがって、各拠点の指揮官は、師団との通信手段を失ってからは、独断をもって処置するほかはなかったのである。  フイ高地にあって全滅することが軍及び師団の作戦にとって唯一絶対であるのなら、二十二日の夜以降フイ高地に対する弾薬の補給も行っていない事実を、軍及び師団はどう説明するのか。また、後退して来た井置部隊を「絶対」の守地へ追い返しもせず、不安を感じていた北方からの脅威に備えて、将軍廟北西方約五キロのオボネー山に配置した便宜主義はどのように説明されるのか。  前掲の『ノモンハンの死闘』によれば師団長は軍医部長に「君は糖尿病があるから、どっちみち足の負傷は直らんぞ」と云わせたそうである。  井置中佐は九月十六日夜、自決した。  ノロ高地の長谷部大佐(第八国境守備隊)も撤退の責を負わされて、九月二十日に自決した。荻洲第六軍司令官と小松原師団長から迫られてのことだが、八国の兵隊たちは後任歩兵団長の佐藤幸徳少将から強要されたと噂していた。  長谷部大佐は後任の高橋中佐に、「撤退は当時の戦況から判断して、貴重な部下の生命を無駄にしないための処置であった。攻勢再興の暁には、戦死した部下たちのために弔合戦をする覚悟であったが、停戦となってはそれも虚しくなった」と述懐したという。  絶望的な戦況下で独断撤退した前線指揮官は、みなそう考えて撤退したにちがいないのである。高等司令部との連絡を断たれ、補給は絶え、あるいは進出して来るはずの師団主力が一向に進出して来る気配がなく、戦況は刻々最後に近づくような状況下で、部下を犬死にさせるか、後退して再起を図るかの、二者択一を迫られた場合、指揮官が独断をもって後者を採ることは全く合理的であり、正当である。  フイ高地の場合。師団は攻勢の重点をホルステン南岸に指向したから、フイ高地には支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点の意味は消失していた。攻勢に専念する師団にとっては、北面側防の配置は必要であろうから、師団は井置部隊を師団主力右側付近に退げるべきであったのである。  ノロ高地の場合。ノロ高地付近に進出するはずであった師団の攻勢は、八月二十五日には実質的に攻勢中止のやむなきに至っている。長谷部支隊の撤退は二十七日午前一時である。したがって、二十六日には、ノロ高地も師団攻勢のための支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点としての意義を失ったのである。ノロ高地の戦況は、まさにこの日決定的に絶望的となった。そのノロ高地からの撤退を咎めるということは、第六軍及び師団がその攻勢の失敗を棚に上げ、ノロ高地を見殺しにしたことを正当化しようとしたものである。  歩六四の山県大佐は、前述の通り、野砲十三の伊勢大佐と合議の上、八月二十九日バルシャガル高地から撤退に移り、途中で敵と遭遇、孤立して、自決した。前掲『ノモンハンの死闘』によれば、関東軍首脳部は山県大佐の進級を渋ったが、陸軍省から促されて、ようやく進級させたという。渋った理由があるとすれば、小松原中将が残兵を率いてバルシャガルヘ向ったのに、それと入れちがいに独断撤退して、途中で戦死同様の自決をしたということである。この時点で、敵中深く孤立しているバルシャガルに作戦的に何の意味があり得たか。  日本軍は、死なないですむものを死なせたがった。無駄に死なせておいて、悲壮とか壮烈とか、修飾語をやたらに多用して、作戦の欠陥を糊塗してしまったのである。  歩七二の酒井大佐は、攻勢移転開始の八月二十四日に負傷して後送され、野戦病院からハイラル病院へ、そこからまたチチハル病院へ送られたが、九月十五日の朝、自決した。彼は、九月五日、小松原中将に手紙を送っている。このときにはまだ自決を考えていない。自決のときには、同じく入院加療中の部下第一大隊長西川少佐に遺書を残している。軍人心理の一つの典型を表わしているようである。  「九月五日 [#地付き]酒井大佐  小松原中将閣下 (前段略)過般山県部隊御救援の御行動は特に悲壮極まる戦闘にて感激の至に御座候。小生不覚にも受傷後退仕り慚愧の次第、幸い軽度の受傷にて今回の掉尾の決戦には何とか参加させて頂き度く、腕部の骨折も応急処理を相願い、余は戦場にて何とか手当を致すこととし、六、七日頃には麾下に馳せ参じ度く、戦場の部下へも其旨通し置き候処、突如後任者発令の通知を受け驚き入候。小官としては時も時誠に残念の至に御座候。  此上は一意加療仕り、戦場勤務の御下命待詫び候。(以下略)」  これが、遺書でこうなっている。 「(前段略)小官ノ心境ハ其一端ヲ申上ケシ通リ其罪(多くの部下を失いながら、自分は後送されたこと——引用者)万死ニ値ス  海拉爾《ハイラル》入院中幾度カ自刃セントセシモ総攻撃準備ニ熱中中の部下部隊ニ対シ直接間接ノ影響ヲ慮リ(中略)自決セサレハ表面出ヌコトカ却テ自決ニヨリ表面化シテ部隊ノ汚名トナル虞大ナルコトヲ予期シ思ヒ止マリ居タリ然ルニ小官トシテハ此儘|恬《てん》タル能ハス今度チチハル転送ニ便乗シ海拉爾ニ比シ比較的波紋大ナラスト存シ自決申訳スルコトトセリ 誠ニ軍旗並ニ部隊ノ名誉ヲ汚損シ面目ナキ次第ナリ(後略)」  負傷のためとはいえ連隊長を更迭させられたことが、彼にとっては致命的だったのである。  ノモンハン戦の連隊長級は惨澹たるものである。以上の四名の他に、左に列記してみる。  師団参謀長岡本大佐(元歩七一連隊長)が入院中に斬殺されたことは、前述の通り。  森田徹大佐(歩七一)は、八月二十六日、741高地で戦死。  東中佐(歩七一連隊長代理)は、戦闘終末段階で小松原突進部隊にあって、八月三十日、738—691高地中間付近で戦死。  伊勢大佐(野砲13)は、八月二十九日、山県大佐とともに撤退途中、755高地付近で敵中に孤立して自決。  四ッ谷中佐(独守)は、所命の任務を達成できなかったことを理由に、一年後停職。  染谷中佐(穆稜重砲兵連隊長)、全滅戦死。  梅田少佐(野重一連隊長代理)、全滅自決。  鷹司大佐(野重七連隊長)は、畑砲兵団長によれば、部隊及火砲を無断放棄した廉により、九月三十日停職。男爵礼遇を停止された。  連隊長級で、七月初頭の総攻撃以来前線にあって戦い抜き、無傷で生き残ったのは須見大佐(歩二六)だけである。  軍は、しかし、須見大佐を予備役に編入した。理由は、彼が、師団長の用兵上の要求に応じなかったことがあったからである。須見部隊は兵力を多方面に抽出されて、連隊長の手兵は実兵力二個中隊に満たなかった。その須見大佐に、師団長は敵の後方への迂回を命じたのである。実行不可能な計画であり、兵力であったので、須見大佐は拒否した。これが祟ったらしい。  彼を予備役に退けたことで(十二月二十日)、軍は高価な体験をその後に生かす道を一つ失ったのである。  ノモンハン戦の後始末をみると、軍全体が建てつけの悪い建具のようである。どうにも納まりが悪い。中央にも関東軍にも、確固とした方針も信念も用意もなくて、小事を大事に至らしめた結果である。     85  第六軍軍医部調製のノモンハン事件損耗調査表によると、日本軍の戦死七六九六、戦傷八六四七、生死不明一〇二一、計一七三六四である。防衛庁戦史室の資料では、戦死八四四〇、戦傷八七六六になっている。後者の戦死は前者の戦死と生死不明の合計に近い。  停戦直後の十月三日陸軍当局が地方長官会議で発表した数字は、日本軍の戦死傷病合計約一万八千名であった。  ソ連側の資料によれば、日満軍の損耗は、七月—八月の戦闘だけで、戦死一八八六八、戦傷二五九〇〇になっている。  外国資料は別枠としても、数字は厳然たる事実を示すはずのものだが、それはまた作為を施されやすい。死者は黙して語らないからである。昭和四十一年十月十二日、靖国神社でノモンハン事件戦歿者の慰霊祭を行った。翌日の新聞は、その戦歿者を一万八千余人と報道した。  事件後の軍の数字からみると死者の数が一万人増えている。敗戦を国民の眼から隠蔽することに熱心だった軍には、数字を過小に発表する必要があり得たが、靖国神社が数字を過大に発表する必要はなかったであろう。  一万の差は大きいが、戦死が一万八千だから重大で、八千ならば問題とするに足りないということは、断じてない。軍が過小に発表して損害軽微を装ったとすれば、猿知恵というものである。  これらの壮丁は、界標もない国境の紛争に投入されて、空しく散ったのだ。紛争を意図的に拡大した参謀たちの愚劣な野心と、将軍たちの軽薄な功名心が、自分たちは死なずに、これらの壮丁を殺したのである。  ノモンハン事件まで、満洲と外蒙の境界、中国と外蒙の境界に関して、国際的な協定は成立していなかった。  外蒙は一九一一年に中国から独立した。一九一五年六月、『外蒙古ニ関スル支蒙露三国協定』で、「支那国及自治外蒙古間ノ境界ノ正式画定ハ支那国、露西亜国及自治外蒙古ノ各代表者ヨリ成ル特別委員会之ヲ行ウ。右委員会ハ本協定署名ノ日ヨリ二年ノ期間内ニ於テ画定事業ヲ開始スベシ」と明記されたが、この委員会が開かれたことはなかった。無人に近い茫漠とした草原と砂漠の境界は、急を要することではなかったのである。  しかし、洞富雄『戦史の謎』には次のように書かれている。 「では、中国と外蒙とのあいだに国境はなかったのかといえば、かならずしもそうとはいえない。黒竜江省にぞくして呼倫貝爾《ホロンバイル》と呼ばれていた、興安嶺以西の中国嶺(満洲国時代の興安北省)は、本来はやはり外蒙同様に、蒙古族の遊牧地であった。国境附近には、外蒙側に喀爾喀《ハルハ》蒙古族、ホロンバイル側ニ新|巴爾虎《バルガ》蒙古族がいて、おのおの多くの旗《き》にわかれ、それぞれ旗地をもっていた。遊牧地が次第に局限されて、各旗の境界ができていたのである。ハルハ族とバルガ族の境界が、外蒙独立後は、そのまま中国と外蒙との国境になったのであるが、それがまだ国際的に確定してはいなかったというわけである。  問題のハルハ河附近における旗地の境界であるが、その境界がきまっていたといっても、旗のあいだでは、しじゅう境界あらそいが起っていたようである。一望千里のノモンハン草原はすぐれた遊牧地で、ハルハ族のサッパ左翼前旗とバルガ族の新巴爾虎左翼旗(正藍旗・阿穆古朗《アムクロ》旗)の争奪の地であったらしい。清朝が中に立って、ときどき旗地のとりきめをやっており、一七三四年にも境界の設定がおこなわれたというが、一八五八年のとりきめが最終的なものであったようである。それによると、旗地の境界は、外蒙側が国境と主張していた線、すなわちハルハ河の東側、二〇キロないし一〇キロ辺を通る線であった」  境界の変遷を辿るのが本稿の目的ではない。要するに、慣習的な境界はあったが、国際的な協定に達してはいなかったと理解すれば充分である。  現代戦の大流血は、まさにその地に起きた。境界を明らかにする必要があれば、時間をかけて合議すれば、出来ないことではない。  それをしないで武力に訴えたのは、今様の表現を用いれば、諸悪の根源は『満ソ国境紛争処理要綱』に発したのである。『要綱』に関しては先に部分的に触れておいたから、重複を避けて、次の二点を摘録する。  第二項にこう記されている。 「|敵ノ不法行為ニ対シテハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》断乎徹底的ニ膺懲スルコトニ依リテノミ事件ノ頻発又ハ拡大ヲ防止シ得ルコトハ|ソ軍ノ特性ト過去ノ実績トニ徴シ極メテ明瞭ナル所以《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヲ部下ニ徹底シ特ニ第一線部隊ニ於テハ国境接壌ノ特性ヲ認識シ国境附近ニ生起スル小戦ノ要領ヲ教育シ苟クモ戦ヘハ兵力ノ多寡|理非ノ如何ニ拘ラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》必勝ヲ期ス」(傍点引用者)  国境は明確でなかったのである。彼我の主張は相互に食い違ったまま、合意に達していなかったのである。歴史的慣習上の境界が彼の主張する線に近かったと考えられる事実はある。そういう状況下で、越境を意味する「敵の不法行為」が如何にして断定され得るかに、まず問題があり、徹底的に膺懲することによってのみ事件の頻発又は拡大を防止し得ることが、何故、「ソ軍ノ特性ト過去ノ実績トニ徴シ極メテ明瞭」であるかが、まず明瞭にされなければならず、「苟クモ戦ヘハ……理非ノ如何ニ拘ラス必勝ヲ期ス」というのでは、逆にいえば、勝つ見込みをもって事を起こせば、「理非ノ如何ニ拘ラス」戦ってよいことになりかねない。  第七項では、こうなっている。 「……万一紛争ヲ惹起セハ任務ニ基キ断乎トシテ|積極果敢ニ行動シ其ノ結果派生スヘキ事態ノ収拾処理ニ関シテハ上級司令部ニ信倚シ意ヲ安ンシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》唯第一線現状ニ於ケル必勝ニ専念シ万全ヲ期ス」(傍点引用者)  派生すべき事態の処理に関して、上級司令部が「信倚」に値したかどうかは、ノモンハン戦の全経過が既に明らかにしているところである。 『満ソ国境紛争処理要綱』には、当時の気負った関東軍幕僚の野心的意図が脈々としている。関東軍司令部の幕僚たちは、既に再三触れてきたことだが、基本的な態度として、仮想敵としてのソ連の国力・戦力を知らず、知ろうとせず、日露戦争の勝利感を安易に持続した観がある。数理を無視して相手を過小評価し、自軍の戦力を過大評価していたのである。才気煥発で勇敢の誉れ高い軍人であるほどその傾向が強かったように見受けられる。そういう人物たちが、エリート・コースと目されていた関東軍に赴任して、中央軽視の実績のある伝統に乗れば、野心を膨らませて事を好みがちになる。彼らは俊秀と評価された人材だが、不思議なことに、自分たちが受けた教育に関して懐疑する視野もなければ、批判する視角もなかった。日清、日露両戦役の戦史と、満洲事変から日中戦争初期までの経験が、相手が変っても通用することかどうかを、疑ってみようとしないのである。  戦闘法についていえば、昭和八年五月に公布された『対ソ戦闘法要綱』がそのまま昭和十四年のノモンハンに適用されている。 『要綱』は、ソ軍の特性について、長所としてはソ軍将兵が運命に従順であり、堅忍持久力に富み、神経が強靭であるとしながら、短所として、消極的で、企図心に乏しい、頭脳が粗雑である、非科学的である、非組織的である、鈍重であって諸隊の協同が不良である、戦闘の際には正面過広となって戦力を分散する欠陥がある、などと指摘しているが、皮肉なことに、ノモンハンでは、『要綱』がソ軍の欠点として挙げたものの多くが、そのまま逆に日本軍に当て嵌っていたのであった。 『要綱』のなかの対ソ作戦上の要義は、二十四項にも及ぶ長大なもので、列記する煩に耐えないから、そのうちの二、三の項目に触れるにとどめよう。  第四、ソ軍ニ対スル戦闘指導ノ要ハ我得意トスル攻勢ト機動トニ由リ|敵ノ消極鈍重ニ乗シ機先ヲ制シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》一挙之ヲ潰滅ニ陥ラシムルニ在リ  第五、攻撃精神充溢シ志気旺盛ニシテ強烈ナル責任感ニ燃ユル国軍ハ|数倍ノソ軍ニ対スルモ統帥ノ卓越《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、訓練ノ精到ニ依リ愈々必勝ノ信念ヲ鞏クシ常ニ攻勢ニ出テテ克ク其任務ヲ解決シ得ルモノトス  第十一、ソ軍ノ火力装備ハ我ニ比シ概シテ有力ナルカ如シト雖|我適切ナル部署ト火力運用トニ依リ十分之ヲ圧倒シ得ルモノトス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》  第十三、|昼夜共ニ遺憾ナク戦闘力ヲ発揮シ得ルハ正ニ国軍特異ノ壇場《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ナリ故ニ指揮官ハ此長所ヲ利用シ|敵ノ能力低下ニ乗シ昼夜兼ネ進ミ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》以テ彼ヲシテ対策ナキニ至ラシムルヲ要ス之カ為軍隊ハ広漠タル戦場若ハ錯雑セル地形ニ於テ|夜間遠大ノ距離ヲ行動シ随所敵ヲ撃破シ得ルノ能力《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヲ保有スルコト肝要ナリ(傍点引用者)  右の項目は、何れも、日本軍が過信していて裏目に出たものばかりであることは、ノモンハン戦の全経過が実証している。  日本軍は機動力に富んでおらず、敵は消極鈍重ではなかった(第四項)。数倍のソ軍に敵対して制勝することを可能とするような「統帥ノ卓越」は実在しなかった(第五項)。劣勢な火力をもって優勢な火力を圧倒する奇蹟は実現しなかった(第十一項)。日本軍は昼夜兼ね進むことはもとより、「夜間遠大ノ距離ヲ行動シ随所敵ヲ撃破」することはできず、天明までに攻撃開始線へ戻ることを余儀なくされた(第十三項)。 『要綱』は観念過多で著しく精神偏重主義であり、ノモンハンの実戦でのその運用もまた観念過多と精神偏重主義を増幅していた。  日本軍の戦闘組織が歩兵戦主体の方式を採っていたことは、実戦の経過が示す通りである。歩兵戦闘くらい精神主義を強調し易い兵科はない。歩兵戦闘は最も安上りだから、生産力の乏しい、生命軽視の風潮へ国民が馴致された日本のような国の軍隊が、歩兵の突撃にすべてを託したのは、それなりに理論的必然性があった。だが、これがある程度の保証力を持っていたのは、日中戦争初期まででしかなかった。如何に訓練精到でも、如何に死を鴻毛の軽きに置いたとしても、兵の肉体は、所詮、鋼鉄や砲弾の敵ではなかったのである。  歩兵操典は、明治四十二年の改正から、昭和十二年の改正草案を経て、昭和十五年(ノモンハンの翌年)の改正に至るが、根本的な改正をみることはなかったといってよい。依然として、歩兵が戦闘の主体を構成し、徹底した精神主義(曰く、厳正な軍紀、旺盛な責任観念、不退転の忠誠心、不撓不屈の熱意、鉄石の如き意志、勇猛果敢の攻撃精神等)と白兵の絶対性を強調することに変りはなかった。むしろ、敗戦の時点まで、それらは神話的境地にまで拡大深化されたのである。  歩兵の歌に「最後の決は我が任務」という条りがあるが、現代戦闘の最後の決は、経験者ならば痛いほどに肌身に覚えがあるであろう、大地を震撼させる殲滅的な砲撃であり、圧倒的な戦車群の蹂躙である。日本軍は、しかし、白兵主義を捨てなかった。兵の肉体を殺到する鉄牛の群に激突させ、砲弾の炸裂に激突させ、なお白兵の優越を信じようとした。改正操典には、突撃効果発揚のために、たとえば敵の側防火器の処理法とか、歩戦砲の協同とか、白兵の瞬発力を最後の瞬間まで温存する方法とかを、字句としては謳っているが、優勢な敵の大戦車群の迫力や濃密な火網突破に要する歩戦砲の協同、白兵の温存が実現したためしはなかったのである。  俊秀の誉れ高かったエリート参謀たちは、こうした戦法に根本的な懐疑を示すことなく、打開策を按ずることもなく、徒らに敵の戦意と戦力を下算して、将兵を死地に投じたのである。  ついでに言うならば、日本軍は戦闘に際しては、確かに勇猛果敢であり得たが、戦闘を組織する作戦家たちは、戦闘組織の事務段階で粗雑であり、未熟であった。諸元の調整と準備と集中が不充分であり、齟齬《そご》を生じ、不足を来し、ために戦闘を不如意に陥らしめた。彼らは戦闘そのものを重視し、補給と準備を戦闘そのもの以上に重視する思慮に欠けていたのである。  端的に言って、戦争を科学的に構想し得る参謀が必要額だけ育っていなかったのだ。彼らは、野心を抱くことと、功をあせることでは人後に落ちなかったが、国の運命を先見する能力には全く欠けていた。  したがって、ホロンバイルの痛烈な教訓が、僅か二年三カ月後の『大東亜戦争』に対する切実な警告とはなり得なかったのである。  ノモンハン紛争の原因となった不明確な国境を画定することについて、東郷駐ソ大使とモロトフ外務人民委員との間に、委員会を設置する合意が九月十五日成立し、委員会の構成や事務処理についての協議が行われて、意見の一致が得られたのは昭和十四年十一月十三日であった。  日本側委員はハルビン総領事久保田貫一郎、満洲国側から外交部政務処長亀山一二の二人、補佐役として関東軍から三品隆以少佐と笹井博一少佐が出ることになった。  ソ達側は、ボグダーノフ兵団参謀長、外蒙側からはジャムサロン首相代理が代表となった。  日本側では、会議に備えて、満洲国内は勿論のこと、東京、北京、南京、広東にまで手を伸ばして資料を集めた。従来最も権威あるものと目されていた満鉄調査部の資料では、ハルハ河に関する部分が日本側に不利と認められて、これを差押えたり、散逸して流用されることを禁ずるために新しい法令を出しさえしたという。  委員会の第一回会合は、十一月二十九日、チタでひらかれた。その後会談を重ねて、昭和十五年一月七日以後は会議の場所をハルビンに移された。  会議は容易に合意に達しなかった。申合せが成立したのは、昭和十五年六月九日である。  結果として、国境線の大部分を占めるハルハ・ホルステン河流域付近の境界は、ノモンハン事件前からソ蒙側が主張していた線に決った。それはまた、その地域で、歴史的慣習的に境界とされていた線にほぼ符合していた。  日満側の要求は、ハンダガヤ付近で容れられた。主戦場であったハルハ・ホルステン流域の戦闘が事実上終熄してのち、九月八日、九日に片山旅団がハンダガヤ付近で外蒙騎兵師団に夜襲を加え、これを後退させたが、境界の設定は、その結果にも符合していた。  平和的意図をもって時間をかけて協議すれば合意に達しないはずはないものを、『満ソ国境紛争処理要綱』にあるように「国境線明確ナラサル地域ニ於テハ防衛司令官ニ於テ自主的ニ国境線ヲ認定」したり、「苟クモ戦ヘハ兵力ノ多寡理非ノ如何ニ拘ラス必勝ヲ期」したりした結果、一万八千の壮丁が空しくホロンバイルの草原に滅んだのである。 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]   あ と が き  本文中でも触れたことだが、ノモンハン戦失敗の図式は三年後のガダルカナル戦失敗の図式に酷似している。特に作戦指導部の考え方において、そうである。作戦指導の中枢神経となった参謀二名が両戦に共通しているからでもあろうが、当時の軍人一般、ひいては当時の日本人一般の思考方法が然らしめたものであろうか。先入主に支配されて、同じ過誤を何度でも繰り返す。認識と対応が現実的でなく、幻想的である。観測と判断が希望的であって、合理的でない。反証が現われてもなかなか容認しない。これらは、今日の時点からは、ほとんど理解困難である。  書き終って、依然として、何故そうであったのか、という疑問が残る。軍の教育に原因があるとか、建軍以来の制度的欠陥に由来するとか論評することは簡単だが、それでも、何故そうなのか、という疑問は解けないままに残るのである。  ノモンハン戦の経過を辿りながら、折りにふれてコメントを加える作業は、緊張の連続であった。多数のノモンハン戦参加者の鋭い眼を意識しなければならなかった。これがまた不思議なのである。勝利には終らなかった戦闘といえば、太平洋戦争は全部そうであるのに、何故ノモンハンだけが格別の緊張を必要とするのか。  本書は『週刊文春』に四十八回にわたって連載したものである。連載の期間中、多数のノモンハン関係の方々から、手紙や電話をいただいた。励まされればされるほど、緊張を必要とした。  緊張したからといって、よく書けるわけではないし、誤りなきを期したつもりでも、誤りは幾多あるであろう。補筆訂正の機会を得たい。  連載が進むにつれて、多勢の方々から資料の提供を頂いた。参考または引用した公刊資料のうち本文に出典を記載していないものとして、「ノモンハン会」機関誌『ノモンハン』と、防衛庁戦史室著『戦史叢書』がある。  これらの厖大な資料に助けられて、またときには混乱させられて、少なくとも自分自身には納得のゆく程度にノモンハン戦を再現するだけでも、手持ちの時間が足りなかった憾みがある。調べれば調べるほどわからなくなることが再々であった。理詰めで事実関係を追尾して行くと、諒解不能の短絡部分に屡々遭遇した。厳正な記録の不足ということもあるが、それだけではないらしい。戦争の発起そのものが信じられぬほどに軽率であり、戦闘継続の経過に周密な思慮の働いた形跡が見られないためである。戦争の是非は別問題としても、こんな作戦の仕方で軍事専門家が恥かしくないか、と憤りのあまりにペンがとまることも度々であった。こんな戦で死なされてはたまらないのである。戦闘終末段階になって、戦野に横たわる多数の屍を収容しなければ軍の統帥を維持できないということを理由に、関東軍は作戦継続を主張したが、この期に及んで軍の統帥とは何であるか。無謀な戦を発起して多数の将兵を虚しく死なせたことに軍の統帥はあったのであるか。統帥に名を藉りた恐るべき狂気と倨傲の意志の支配した時代であった。  資料・手記・日記の類を快よく利用させていただいた方々のうち、特に、野重一の榊原重勇氏、歩七一の小田大治氏、歩六四の古川常深氏、歩二六の須見新一郎氏、歩七一の小野塚吉平氏、八国の中村賢治氏からは有難い励ましと、示唆と、便宜を頂いた。この方々の厚意なくしてノモンハンを書くことはできなかったであろう。記して深甚な感謝を捧げる。 [#改ページ]   文庫版へのあとがき  私の「ノモンハン」が文春の文庫に入る。筆者としては望外のことである。  はじめ「ノモンハン」の執筆を文春の中井氏からすすめられたとき、多数の読者に読まれるようなものはとても書けない、と思った。固苦しい戦記・戦史の類を歴史にまで高める努力をいくら傾けても、読み物として不適当な固苦しさは少しも減らないからである。それにもかかわらず、私は、与えられた機会に取り組んでみたい情熱を覚えた。ノモンハン事件は太平洋戦争の縮刷版であったし、それは太平洋戦争の末路を紛うかたなく予告していたからである。ノモンハン事件をあるがままに正当に評価すれば、それから僅か二年三カ月後に大戦に突入する愚を日本は冒し得なかったはずである、と思えたからである。  単行本の「あとがき」にも書いたことだが、この仕事はひどく気骨が折れた。はじめは週刊文春に連載したのだが、連載がはじまると同時に、ノモンハン戦に生き残った人々の異常に熱心な鋭い眼から私の仕事が監視されているのを意識しなければならなかった。  それに、厖大な資料を突き合せてみると、吻合しないことが屡々であった。私自身が将軍や参謀になったり、兵隊になったりして、戦場くまなく戦史を跡づけると、時間空間の矛盾に屡々遭遇した。無意味に失われたますらおの命を想って、怒りに慄えることも屡々であった。  どうにか書き終えたとき、私の神経はすっかりささくれ立っていたようである。終ったのは年末であった。ときどき行くことのある花屋で見かけた洋蘭がショッキングに美しく見えた。花の美しさが神経にしみ透ってゆくようであった。これに似た経験が前にも一度ある。三十数年前、ソ満国境の部隊にいて、夜行軍で国境を移動したとき、夜が明けると私は見渡す限りの原生花園の直ぐきわを歩いていた。気が遠くなるような美しさであった。このときも私の神経はヤスリをかけたようになっていた。  ノモンハンの仕事で、私は洋蘭の虜になった。以来三年、私は各種洋蘭三百鉢を持つようになったが、折角私が咲かせても、人は私が咲かせたとは信用しないのである。殺伐な戦争物ばかり書いている私からは、あでやかな洋蘭のイメージなどは浮ばないらしい。  余談が長くなったが、このあとがきを書きながら、またしても心の底から激してくるものがある。あれだけの悲惨な戦訓がありながら、三年後に日本は、ガダルカナル攻防戦で全く同じ失敗の図式を繰り返しているのである。異るところは、ノモンハンが茫漠とした平原と砂漠、ガダルカナルは南溟に浮ぶジャングルの孤島であることだけで、日本の作戦指導は全く同じ愚を繰り返した。  あのころ、日本人とはいったい何であったのか。  あれから、日本人は変ったであろうか。  変った、と、私は確信をもって答える勇気を持たない。   昭和五十二年十一月二十八日 [#地付き]著  者  初出誌 週刊文春/昭和四十九年一月二十八日号〜           同年十二月二十三・三十日合併号連載 〈底 本〉文春文庫 昭和五十三年二月二十五日刊