[#表紙(表紙1.jpg)] ノモンハン(上) 五味川純平 [#改ページ]     1  かなり暑い陽ざしが教室にさし入っていたのを憶えているから、おそくとも九月の終りか十月のはじめごろであったろう。モスクワで東郷大使とモロトフ外相との間でノモンハン事件停戦協定が成立したのは、昭和十四年九月十六日のことである。したがって、教室の記憶はそれ以前ということはあり得ない。  その日、学校の配属将校が教練の時間を講話にかえて、私たち学生にこう云った。 「……わが軍は大兵力を集中した。優秀な対戦車火器も充分に用意した。今度は火焔瓶のようなケチなものではない。一挙にソ連軍を粉砕できるだけの兵力火力を展開して、さあこれから反撃開始というときになって、停戦になってしまった。千載一遇の機を逸した感がある。残念である。君たちは来年卒業したら、大部分の者が兵役に服することになるが、帝国陸軍の主敵はソ連である……」  ノモンハンで日本軍が苦戦したらしいことは、私たち学生の耳にも不気味な風の音のように聞えていた。どういう経路で伝わってきたのかは、はっきりしないが、いくら緘口令を布いても、八千万民衆の口を鎖すことはできなかったのであろう。戦場となった砂漠と草原は日本軍の死屍累々という印象が私たちにあった。  私たちの世代は素裸で戦争と向い合っていたようなものである。その年、昭和十四年、年初から春へかけて思想的な大量弾圧があり、私のような雑魚に過ぎない学生にまで検挙の手が及んだくらいだから、批判精神は根こそぎにされ、戦争国家としての地ならしはほぼ完了したといえるのであろう。  私たち兵役適齢期にある青年学生には一種の共通した心理があった。学生は徴集猶予があって、何年間か入営を先へのばしているが、卒業したらよほどの虚弱体質でない限り、その年のうちに軍隊に行かなければならない。行けば、戦時下であるから、戦場に出されるであろう。戦場に出たら、死ぬことを覚悟しなければならない、ということである。  これは、算術的にも現実的にも、正しくはない。青年は、しかし、そういう意識なしに戦争と対面することはできなかった。  私自身についていえば、自分の身に迫って来る戦争に関して運命の半ば絶望的な予断を抱くようになったのには、二つの出来事があった。一つはノモンハン事件だが、もう一つは、その二年前、蘆溝橋《ろこうきよう》事件が起きて、間もなく戦火が上海へ飛火し、日本軍が予想外に頑強な中国軍の抵抗に遭って死傷続出した上海事件であった。上海の本願寺は遺骨の山になったという噂が聞えた。それは私たちの前途を雄弁に物語っているように思えたものである。  ノモンハン事件に関しては、正確な戦況報道は行われなかった。ゴビの砂漠の東端、ホロンバイルの平原という無人地帯で戦われている戦闘であるために、はじめのうち、私たちの関心が薄かったことは事実である。だが、日が経つにつれて、何処からともなく聞えてきた。日本兵は肉弾をもって敵戦車に戦を挑んでいるという。その意味するところは、肉体の無残な死である。壮烈とか悲壮とかは、未来の兵隊は考えなかった。兵隊が支援砲火もなしに戦車と闘わされているということが、強烈に心に灼きついた。いつの日にか、私たちもそうなるであろう。事実、私自身は、六年後に、まさにその通りの運命を迎えたのだが。  ノモンハン事件に関する私の特殊な関心は、配属将校の講話のころから私のなかに徐々に着床し、肥厚しはじめた。といっても、正確な報道もなく、資料もないときのことであるから、もっぱら心情的なものでしかなかった。  私は満洲産の満洲育ちであり、卒業後は満洲へ戻るつもりであったから、兵隊要員としては、九分九厘、ソ連軍と対峙《たいじ》する関東軍に所属する日を迎えるにちがいなかった。つまり、第二のノモンハン事件が発生したときには、私はもはや傍観者ではあり得ないはずである。このことが一つ。  ソ連は、当時、革命を達成した唯一の国であり、スターリンが神の如き存在であろうがなかろうが、あるいはネロなど足許にも及ばぬほどの暴君であろうがなかろうが、ソ連は人民の国である。それを仮想敵とする日本は、神聖にして侵すべからざる天皇の前では人間は民草でしかないという国である。私はその国に属している。戦わねばならぬとしたら、私は何のために戦わねばならないか。このことが一つ。  ノモンハン事件は、戦闘の惨烈とは別個に、その意味を私に問いかけてくる事件なのであった。  卒業後、私は満洲へ戻って、巨大な製鉄会社に就職した。仕事を覚えるにつれて、さまざまな職業のさまざまな人物と識り合った。そのなかに、何名かのノモンハン戦の生き残りがいた。彼らの大部分が大戦末期には還らぬ人となったが、私は彼らからノモンハンの話を貪り聞いたものである。私は自分自身がその戦場に在ったかのような感想さえ抱くに至った。反面、私だったらとても生き残れなかったであろうという感想もあった。  ノモンハン事件に関する私の知識は、しかし、当時は、感想の程度を超えなかった。特別に調べたわけでもなし、調べる方法も余裕もなかったからである。  数年後に、私もまた小銃一挺と手榴弾二発をもって、殺到する戦車群に直面しなければならぬ戦場体験を持った。戦友のほとんどが死に、私は生き残った。もしできることなら、死者に代ってものをいうことが、私に遺された生き残ったことの意味であるように思えた。  長い年月が経過した。ノモンハンが歴史のドラマとしての質量をもって私の前に立ちはだかるようになった。  自分の戦争年間の体験を歴史の時間的順序に配列し直してみて気づいたことは、ノモンハンの時点に、その後数年間の日本の思い上りや、あがきが、集約的に表現されていたことである。ノモンハン事件は小型「太平洋戦争」であった。ノモンハン事件は太平洋戦争の末路を紛うかたなく予告していたのである。ノモンハン事件をあるがままに正当に評価すれば、それから僅か二年三カ月後に大戦に突入する愚を日本は冒し得なかったはずであった。  ノモンハン——みはるかす大平原に轟いた砲声は、日本にとっては、運命が扉を叩く音であった。日本の指導者たちはそれを聞き分ける耳を持たなかった。     2  ノモンハン事件は日本軍が経験した最初の本格的近代戦であった。  そのきっかけは、人間がほとんど住んでいない茫漠《ぼうばく》とした砂漠と草原地帯の小さな国境紛争である。人跡稀な僻地での国境紛争の場合、真相を明らかにすることはほとんど不可能に近い。不法越境をいずれが先に行ったか、確かめようもないからである。自分が先に行ったと認める当事者はいないのだ。  事件は、昭和十四年(一九三九年)五月十一日、満蒙国境ノモンハン付近での小部隊の越境に端を発したことになっている。ただ、それが、日満側か外蒙側か、いずれの部隊による越境であるかについては、両者の主張が全く相反している。  日満側では、五月十一日に外蒙軍が越境したので、所在の満軍警備隊が直ちにこれを撃退したが、翌十二日、外蒙軍は兵力を増加して、満軍の報告では約七百名が、実際には約六十名が再び国境を侵犯した、と主張する。  ソ蒙側では、五月十一日朝、重機・軽機・小銃・手榴弾で武装した日満騎兵約三百名が越境して、外蒙軍の哨所を攻撃し、さらに十四日、約六百名の日満軍がホルステン河右岸(外蒙領内)に侵入した、というのである。  双方の主張の真偽は暫く措こう。  五月十三日午後、たぶん三時ごろ、ハイラル駐屯第二十三師団長から新京(現在の長春)の関東軍司令官宛てに軍機電報が入った。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、昨十二日朝来、外蒙軍約七〇〇ハノモンハン南方地区ニ於テ哈爾哈《ハルハ》河ヲ渡河シ、不法越境シ来リ、十二日朝来、満軍ノ一部ト交戦中。   尚後方ヨリ増援アルモノノ如シ。  二、防衛司令官ハ師団ノ一部(捜索隊長ノ指揮スル捜索隊主力及歩兵大隊長ノ指揮スル二中隊ヲ基幹トスルモノ)及在ハイラル満軍ノ全力ヲ以テ此ノ敵ヲ撃滅セントス。(以下略) [#ここで字下げ終わり]  そのときのことを、当時少佐で、ノモンハン事件の主任参謀となった辻政信は、こう書いている。 「幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはない。眼を皿のようにし、拡大鏡を以て、ハイラル南方外蒙との境界付近で、漸くノモンハンの地名を探し出した。(中略)  ハルハ河畔の砂漠の一隅に、拡大鏡で探し出したこの地点が、世界を震撼《しんかん》させた戦場になろうとは誰が想像し得よう」  これがおかしいのである。幕僚が誰一人としてノモンハンの地名と所在を知らなかったというのは、その付近での越境紛争が関東軍の作為ではなかったと云いたいためであるかもしれないが、知らなかったとすれば、このときの関東軍幕僚たちはよほど迂闊《うかつ》な怠け者ばかりで、軍事的にも素人同然であったということになる。  何故なら、ノモンハン付近を含む西部満蒙国境での小紛争は、二月、三月、四月とたびたび日本内地の新聞にまで報道されており、殊に五月四日には、ノモンハン事件で激戦地となったバルシャガル高地付近で小規模ながら武力衝突が起きているのである。その間、幕僚たちは、紛争頻発する満蒙国境付近の地図を、誰も一度も見なかったことになる。  辻の上級者で、同じ時期に関東軍司令部に参謀として在職した服部卓四郎(事件当時中佐)は、東京裁判に提出した宣誓口供書に辻と同じことを述べているが、これは辻が、それを見るか聞くかして、のちに同じように書いたとも考えられる。服部と辻は、ノモンハン事件のときは関東軍司令部に、三年後のガダルカナル・ニューギニア作戦のときには参謀本部作戦課にともに在職した間柄であり、悲劇的な作戦を強行した中心人物である。  その服部と同じ日に東京裁判に宣誓口供書を提出した矢野光二元陸軍大佐の証言には、昭和十三年十月、満蒙境界調査のため、ハンダガヤよりハルハ河に沿いノモンハン分駐所を経てホルステンゴル合流点に至り云々とある。おそくとも事件前年には、既に、国境警備のためのノモンハン分駐所があったわけである。  辻がノモンハンを知らず、したがって、その付近で間歇的《かんけつてき》に発生した小紛争も知らなかったというとすれば、それは全く説得力がない。ほかならぬ彼、辻政信こそは、昭和十四年四月に関東軍で定められた『満ソ国境紛争処理要綱』の起案者であったからである。 『要綱』の基本姿勢が「軍は侵さず、侵さしめざるを満洲防衛の根本基調とす」となっているのは建前として当然だが、「国境線の明瞭なる地域に於ては、我より進んで彼を侵さざる如く自戒すると共に、彼の越境を認めたるときは、周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用ひ之を急襲|殲滅《せんめつ》す。|右目的を達成するため一時的にソ領に進入し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|又はソ兵を満領内に誘致滞留せしむることを得《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と、前年の張鼓峰事件当時の制約を超越したり、「|国境線明確ならざる地域に於ては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|防衛司令官に於て自主的に国境線を認定《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》して之を第一線部隊に明示し(中略)、苟《いやしく》も行動の要ある場合に於て、至厳なる警戒と周到なる部署とを以てし、|万一衝突せば兵力の多寡国境の如何に拘らず必勝を期す《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と、攻勢意図を露骨に示している。——(傍点引用者)  国境画定のための平和的手段などは『要綱』に関する限り全然念頭にない。  紛争地、ノモンハン付近では、国境は明確でなかった。昭和十年日満側は一方的にハルハ河を国境線とし、ソ蒙側ではハルハ河東方を国境として主張したまま、両者間の国境画定の交渉は中絶していたのである。  悽惨をきわめたノモンハン事件の発端となった小「越境」事件は、おそらく、『要綱』が示した自主的認定が禍したものであろう。  国境画定に関して合意に達していない地域のことであるから、小紛争は起こり得る。起きれば、それが相互に因果関係を生ずることもあり得る。昭和十四年一月ごろから日満側はこの地域に偵察の小部隊を行動させていたから、ソ蒙側も当然同様のことをしていたと考えられる。仮りにソ蒙側がハルハ河を越えたとする。ソ蒙側ではハルハ河の東方(満洲寄り)を国境と主張しつづけていたから、ソ蒙側にとっては越境行為ではないが、ハルハ河そのものを国境と自主的認定している日満側にとっては越境である。そこで紛争が起きる。  この状況は『要綱』によって悪化する可能性が与えられている。「彼の越境を認めた」ときは、実際はそれがソ蒙側の主張する国境の範囲内であったとしても、「之を急襲殲滅す」るために、「一時的にソ領に進入」することが許されているから、紛争拡大の惧《おそ》れは十分ある。  そればかりでなく、『要綱』には、第一線部隊の指揮者が好戦的であったり野心的であったりする場合には、拡大解釈あるいは事件を捏造《ねつぞう》する余地が残されている。「越境」があってもなくても、あったことにして、「一時的にソ領に進入」して紛争を惹起したり、「万一衝突せば兵力の多寡国境の如何に拘らず必勝を期」して無用の事件を拡大する危険性を孕《はら》んでいるのである。  関東軍ではこの『国境紛争処理要綱』を発令すると同時に、参謀本部にも報告したが、中央からは正式には何の意思表示もなかったので、容認されたものと自主的に判断した。黙っていた中央は不用意であり遠隔操作を怠ったという誹《そし》りを免れない。関東軍は満洲事変以来、中央無視に関しては謂わば前科者なのである。この時点での中央の態度が明確と峻厳を欠いたことが、事件発生後、中央と関東軍との間に確執を生み、統帥の乱れる因となった。  事件の発端は国境線が明確でない地域での国境紛争である。そこを両者が兵力をもって警備しているということは、いずれか一方または相互に事件を作為しやすい状態を、両者がことさらに維持し合っていたとみられなくもない。茫漠とした不毛の地のことであるから、実のところ、国境線が一キロやニキロどちらへ寄ろうと、平時ならどうでもよかったのである。逆にみれば、威力偵察か示威の目的をもっていずれか一方が事件を発起する意図があったとすれば、事を起こしやすかったし、事が重大化する惧れが比較的少ない地域であったともいえる。事実は、しかし、危険な程度にまで重大化した。国家の面目にかけて、不毛の地の寸土を争い、夥《おびただ》しい鮮血が砂漠に吸い込まれたのである。  争われた国境は、地図の上ではどうなっていたかというと、昭和九年以前の関東庁発行の地図では、ハルハ河東方が国境線になっていた。さらに、関東庁地図が昭和十年に国境線をハルハ河の線に改訂した後になっても、昭和十二年に関東軍参謀部が発行した地図では、依然としてハルハ河東方が国境線になっている。地図の上の変化から推論すれば、日本側がソ蒙側の主張線を認めていた時期があり、ある時点から認めなくなった、それは関東軍の対ソ戦略の推移に伴ってのことであろうと考えられる。  ハイラル駐屯第二十三師団長小松原中将は前記の緊急電を軍司令官宛てに発信して、捜索隊長東中佐を指揮官とする、捜索隊主力、歩兵第六十四連隊第一大隊主力、ハイラル駐屯の満軍の一部を現地に急派する処置をとった。  関東軍司令官植田大将は第二十三師団長の電報による要請を受けて、新に飛行部隊と自動車隊を第二十三師団長の指揮下に入れた。  ハイラル駐屯の満軍は五月十三日午後五時に、東支隊は同日午後九時に、トラック輸送でハイラルを出発し紛争地へ向った。ノモンハン事件が紛争から戦闘へ移行する、これが第一段階であった。  第二十三師団長小松原中将は、外蒙兵の如きは鎧袖《がいしゆう》一触、実力をもって事件を簡単に解決できると考えていた。     3  戦場となったノモンハン付近は、満洲の西北、興安北省(旧称)が外蒙古と境を接するあたりの砂漠と草原の大波状地帯である。大小の砂丘が無数に起伏している。雑草や低い灌木群が点在するほかは空々漠々としている。戦闘は、日を追って、砂丘地帯と草原と若干の湖沼地帯にわたって展開された。  気の遠くなるような広さである。見渡す限り平原がひろがっている。単調そのものである。徒歩行軍する部隊にとっては、この単調はやりきれない。早朝野営地を出発するときから、その日の夕刻に到着する地点が見えている。これが、歩いても歩いても距離が縮まらない。兵隊の俗語に「顎が出る」という表現がある。重い装具を背負い、太陽に灼かれ、汗の塩を吹き出しながら、いっこうに近づかない目標を怨めしげに見て歩くのは、確かに顎が出る仕事である。  後方基地であるハイラルから戦場までは約二〇〇乃至二五〇キロ、ソ連側は最も近い鉄道沿線のボルジヤまたはヴィルカから約七五〇キロ、外蒙内の補給基地サンベースからは約四五〇キロである。ソ蒙側に較べてこの補給距離の短いことが、関東軍が作戦を有利と誤判する一因であった。距離差など問題にならない補給力のいちじるしい差をやがて見せつけられることになる。  越境紛争の因となったハルハ河は、興安嶺に水源を発してボイル湖に注いでいる。ノモンハン付近で河幅は約五〇メートル、水深二メートル内外、流速約一メートル。両岸は一帯の草原である。河岸は、外蒙側で高く、満洲側で低い。この地形の高低は、砲戦を交える上で日満側に明らかな不利をもたらした。左岸(外蒙側)からは右岸(満洲側)を縦深数キロにわたって一望におさめることができるのに較べて、右岸からは左岸台地の縁端とそこから河へ至る斜面しか見えなかった。したがって、同等の砲兵火力があるとしても、その制圧効果には大きな較差があった。  ハルハ河とその支流のホルステン河は、人馬に必要な給水源として重要であった。砂漠の各所に散在する湖は塩分を含み、沼は黒い泥水で、飲料に適さない。戦場付近の地名で「湖」がつくのは鹹湖《かんこ》を、「水」がつくのは淡水湖を意味するが、淡水湖もほとんど水量に乏しく、水質も不良であった。  気温は、七・八月は昼間は三〇度以上四〇度にも及ぶ炎熱、夜間は十数度以下に下って冷気が身にしみ、眠りを妨げる。その上、虻・蚊・ブヨの大群が襲ってくる。夕方になると、幕舎外では、粉のようなブヨや蚊が人馬に群がって、防蚊具なしには息もつけぬほどであった。  ノモンハン北方の甘珠爾廟《カンジユルびよう》に進出した東中佐は、五月十五日正午ごろ、支隊と満軍を併せ指揮し、ノロ高地(ホルステン河南岸、ハルハ・ホルステン合流点に近い高地)にあった外蒙軍に対して攻撃を開始した。外蒙軍は東支隊が包囲するより早くハルハ河左岸へ退却したから、このときには戦闘らしい戦闘にはならなかった。  師団から東支隊の攻撃に協力するよう命令を受けた軽爆中隊は、外蒙軍の包《パオ》約二十に対し爆撃を加え、渡河退却中の外蒙兵三、四十名を粉砕した。戦場に飛行機が出動したのは、これが最初のことである。  東支隊は、小松原師団長の命令によって、満軍にノモンハン付近の警備を任せて、十六日夜ハイラルに帰還した。  事はこれで片づいた、と司令部は考えていた。大事件になろうとは考えていなかった。  外蒙軍は、しかし、東支隊が引き上げると直ぐに、今度はソ連軍の支援を得て再びハルハ河右岸(東岸)に進出し、ハルハ・ホルステンの合流点付近に架橋し、兵力の増強を図りはじめた。  ソ蒙側は国境線を彼らの主張するハルハ河東岸に確保しようとしたのである。  これに対して、小松原第二十三師団長は、五月二十一日、歩兵第六十四連隊長・山県武光大佐を長として、歩兵第六十四連隊(二大隊欠)、連隊砲中隊(山砲三門)、速射砲中隊(四門)、師団捜索隊(前の東支隊——乗馬一中隊 重装甲車一中隊)、師団自動車隊をもって山県支隊を編成し、満軍を併せ指揮してソ蒙軍の捕捉撃滅を命令した。  師団長のこの処置について報告を受けた関東軍司令部では、山県支隊を拙速主義で不用意に出撃させても充分な効果は期待できず、支隊が引き上げればまた敵が進出するというような同じことの反復が予想されるので、決定的打撃を加える機が熟するまで出動を見合せるように師団長に打電した。  小松原師団長は、出動命令を下したからには、これを中止することは統帥上不可能である、ということを理由として、決心を変えなかった。  彼にその権限を付与しているのも『紛争処理要綱』なのである。出動を中止しても平和的解決の意図があってのことではないから、その後のノモンハン戦の様相が一変したであろうと考える根拠は少しもないが、この時点での軍司令部には冷静な意思が働いていたといえる。  それに較べて、小松原師団長は興奮気味であったように見受けられる。彼が統帥を理由として出動中止を不可能としたのは、管区防衛の責任は師団長に在り、作戦指導、兵力運用の権限もまた師団長に在るのだから、出陣間際にとやかく云わずに任せておけ、という現地部隊最高指揮官としての面子《メンツ》意識である。  彼は云っている。 「其ノ実行ノ方法手段ニツキテハ、甲乙意見アルヘキハ勿論ナリ。|何レカ可ナルヤヤツテ見サレハ分ラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。出先ノ責任者ニ一任スヘキニ其手段ニ異議アリトシテ、既ニ命令発動シ出発ノ直前ニ反省ヲ求メントスルハ、軍統帥ノ道ニ非ルナリ」(傍点引用者)  やってみなければわからないにはちがいないが、やってみなければわからないからといって、逸る気持のままに戦ははじめられるべきものではないであろう。敵を知り己れを知って戦うのが戦理であり、常識でもある。山県支隊の出撃は、敵を知らず己れを知らずして戦った類に属する。  先の東捜索隊出動のときには、地上戦闘らしいものはなく、飛行隊だけが若干の戦果をあげて簡単に終った。師団長としては不本意であったにちがいない。新京の意向にさからってまで山県支隊を出動させたのには、師団の本科兵の戦力によって事件を早急に解決しようという自負と願望があったであろう。  支隊長山県大佐は五月二十二日午後、甘珠爾廟に進出した。先着していた満軍からそこで知り得た敵情では、ハルハ・ホルステン合流点(略称「川又」)の北東側バル西高地と南東側ノロ高地に、それぞれ約二百のソ蒙軍がおり、川又西側の台上には少なくとも砲二門、装甲自動車二乃至三輛がある。航空隊からの情報では、ソ連飛行機の行動が徐々に活溌化し、この日午前に十二機が満領内に侵入したという。  五月二十六日午後、小松原師団長が支隊本部に現われ、状況報告を聴取し、敵情を視察した結果、戦機到来と判断して、支隊長に二十八日払暁を期してソ蒙軍を攻撃、ハルハ河右岸地区(日本側のいう満領内)で捕捉撃滅することを命じて、ハイラルヘ引き上げた。  山県支隊長は五月二十七日午前九時、作戦命令を下達した。この攻撃計画は、煩を避けて要約すれば、こうである。  攻撃開始は、五月二十八日午前五時。  東捜索隊は敵の橋梁方面に突進して敵の退路を断つ。  歩兵大隊(支隊主力)は二十七日午後九時甘珠爾廟を発進して、正面攻撃。  連隊砲中隊は歩兵大隊に協力する。  満軍はホルステン河南岸に迂回して、敵の退路を遮断する如く行動する。  師団長も支隊長もこれで敵を撃破できると安易に考えていた。一つには、敵情の把握が充分でなく、敵の兵力と戦力を過小評価していた。もう一つには、日本軍のどの戦闘の場合もそうだが、味方の突破力を過大評価していたのである。この前の年、ソ連・満洲・朝鮮三者の国境が入り組んだ張鼓峰での戦闘で、朝鮮軍に属する第十九師団が手痛い損害を蒙り、潰滅の危機が訪れようとしていたときに、かろうじて、ソ連の国内的・国際的情勢判断によって停戦協定が成立した、というきわどい経験があるにもかかわらず、戦訓としては少しも活かされなかった。  山県支隊の作戦計画は、正面から力攻し、同時に敵の退路を断っておいて、捕捉殲滅するという、日本軍の常套的《じようとうてき》包囲作戦の構想である。その各部隊の部署を挟い図上で按ずれば、敵を包囲網のなかに捕捉することは難事ではない。敵正面は、しかし、二七キロ以上(川又から東渡まで)に及び、これの攻撃に投入された兵力は歩兵五個中隊(その火器は軽機三〇、重機一〇、歩兵砲二、連隊砲三、速射砲四)と、捜索隊二個中隊(軽機一三、重機二、十三ミリ機関砲五)、それに装備不完全な満軍約四百である。包囲網は疎大で、敵の浸透脱過を許し、敵を粉砕する砲兵火力は皆無であったから、計画が予定通りに進捗しても、敵を捕捉殲滅することは敵がよほど訓練未熟な弱兵でない限り、不可能であった。  日本軍の戦闘の悲劇的様相は、まず東捜索隊に表われた。  東捜索隊の任務は、川又方面に突進して、支隊主力に撃破されて敗走して来るはずの敵の退路を断つことである。  東捜索隊は五月二十七日夜行動を起こし、二十八日午前二時半、ノモンハン付近に兵力を集結して川又方面へ突進を開始した。途中、ソ蒙軍の抵抗はなかった。敵の左翼側から侵入して、五時半過ぎごろ、川又の東二キロ足らずの砂丘に達した。  そこで知り得た敵情は、捜索隊の進出地点から北東にあたるバル西高地(733高地)前方に、戦車(台数不明)を配属した有力なソ蒙軍が陣地を占領しており、ハルハ河左岸(外蒙側)の台上には優勢な戦車、砲兵があるということであった。  東捜索隊の行動は所命の通りであったが、敵中深く突入し過ぎたようである。  東中佐は、側面と背後を警戒しながらハルハ河方向に対して陣地を占領し、支隊主力の戦場進出を待つことにした。このときの支隊長に対する報告は、無線が通じなかったらしい。その理由は判然しないが、この時点から東捜索隊の潰滅まで、捜索隊から後述するように支隊へ再三連絡を出したが、支隊の捜索隊に対する掌握はきわめて不充分であった。  ソ蒙軍の退路を断つために進出した東捜索隊は、みずからの退路を既に失いつつあった。  二十八日午前八時ごろ、兵力を増加したソ蒙軍は、東捜索隊に対して戦車を伴った歩兵をもって執拗な攻撃を続行した。ハルハ河対岸の台上からは、砲兵が猛撃を加えはじめた。  さらに、山県支隊主力の圧迫によって後退して来たか、あるいは所定の戦術によって移動して来たかは不明だが、捜索隊の側背に有力な部隊が出現して、捜索隊正面のソ蒙軍と呼応して捜索隊を包囲しはじめた。  そのころ、遙か北方の砂丘に友軍が見え隠れした。それは支隊主力からはぐれてしまった尖兵であったが、捜索隊は支隊主力の歩兵が到着しつつあるものと希望を抱き、交戦を続行した。  糠喜びであった。午後になっても、主力からは一兵も来なかった。連隊砲、速射砲の支援射撃も一発もなかった。  東中佐は副官を支隊本部へ走らせた。一小隊でもいいから増援してほしいのである。  副官は所在不明の支隊主力を求めて急行する途中で、大隊長の指揮する一個中隊ほどの友軍に出会った。捜索隊の苦戦の状況を説明し、増援を請うたが、この部隊も支隊本部と離れてしまい、連絡をとっているところであるという理由で、動こうとしなかった。  人によっては、第二十三師団の歴史の浅さに各部隊間の協同団結を欠く弱点があったと評する向きがある。あるいはそうかもしれない。第二十三師団は、前年、昭和十三年七月に編成されたばかりであった。  友軍の増援があっても、しかし、それが小兵力であれば、同じ結果に陥ったであろうと思われる。東捜索隊の突進は、先にも述べたが、深過ぎた。逆にいえば、山県支隊主力の進出が遅過ぎたともいえる。東捜索隊の行動は、縦深の深い、機動力と火力に富んだ敵陣を、一点突破して敵中に孤立する結果を招いた。一点突破によっては敵陣は崩壊することなく、却って囲みのなかに封鎖されることになった。せめて、支隊主力の正面幅いっぱいに敵陣の全縦深を貫通すれば、作戦目的の達成はともかくとして、東捜索隊は帰還し得たであろうと思われる。  五月二十八日午後、東捜索隊の戦況は悪化する一方であった。午後七時ごろ、歩兵一個小隊が駈けつけて来た。これは支隊主力からの増援ではなかった。この浅田小隊は、ハルハ河北部渡河点の占領を任務としていたが、その付近に敵影はなかった。遙か南東方から戦況の急迫を告げる銃砲声がしきりにしていた。浅田小隊は砲声に向って走り、途中で友軍部隊に合流した。この部隊は、前記の東捜索隊副官から救援を求められても、理由を構えて難に赴こうとしなかった部隊である。浅田小隊は、ここで東捜索隊の危急を聞き、独断をもって救援のため急行したのである。  二十八日夜、十時過ぎ、ソ軍は探照灯で東捜索隊陣地を照射し、猛射を浴びせ、戦車と歩兵をもって圧迫してきた。  捜索隊は突撃によってこれを撃退したが、中隊長二名を含む多くの損害があり、前途は暗澹としていた。  東中佐は、五月二十九日未明、隊付少佐を支隊本部へ送った。捜索隊進出線への支隊兵力の前進を求めるためである。だが、兵力の進出はなかった。危機迫る東捜索隊には支隊主力の消息は杳《よう》として不明であった。見殺しにされた観がある。  五月二十九日、天明近く、ソ蒙軍の反復攻撃急である。  天明、あらゆる火砲の砲弾が達着爆発し、捜索隊陣地内の戦車地雷や爆薬が誘爆を起こし、部隊の自動車は濛々と黒煙をあげて燃えた。  敵歩兵部隊は、もはや弾撥力を失いつつある全陣地を包囲している。  五月二十九日午後二時半、東中佐は、浅田小隊に、囲みを破って脱出し、支隊主力に合流することを命じた。自発的に救援に来てくれた浅田小隊だけでも助けたかったのである。  浅田小隊は、しかし、肯《がえん》じなかった。  午後三時、敵戦車は後方に跳梁し、歩兵部隊も陣前に迫った。最期である。  東捜索隊長は支隊本部に下士官伝令を出して、最後の報告をさせた。 「部隊ハ支隊ノ攻撃前進ニ伴ヒ攻撃ニ転スル企図ナルモ目下兵力少ク独力如何トモ為シ難キ状況ナリ」  五月二十九日、午後六時過ぎ、敵との距離二〇メートル。援軍は遂に来なかった。東中佐以下二十数名、突撃して全滅。浅田小隊も捜索隊の運命に殉じた。  東捜索隊が孤立無援に陥っていたとき、山県支隊主力の各隊は、標定しにくい地形に加えて敵の強力な砲火に阻止されて、前進が停頓し、それぞれ分離していて、予定通り敵正面に強圧を加えることができなかった。  捜索隊からは支隊本部に対して二十八日午後に三回、二十九日払暁前、天明直後、正午前、夕刻と四回にわたり、都合七回戦況報告と支隊の進出要請、弾薬補充の依頼が行われたが、後述する弾薬補充の試み以外に支隊から捜索隊へ連絡が行った形跡はない。それどころか、支隊長は二十八日朝、当初の進出目標であった川又を733高地へ変更したにもかかわらず、これは捜索隊に伝わらなかった。不可解なのは、その日の午後捜索隊に対して無電で伝達された命令が、依然前任務続行となっていることである。想像するに、支隊では、捜索隊には機動力があるから川又方面の戦闘は独力で処理できると判断したのかもしれない。  弾薬補充については、支隊本部は二十八日午後八時ごろ補給班を出したが、捜索隊陣地へ到着直前にソ蒙軍に包囲され、全滅した。第二次補給班も同じ運命に陥ったから、捜索隊には支隊からさしのべた手が全然届かない結果に終った。捜索隊の生き残った負傷者たちは口を揃えて山県連隊を呪ったという。  東捜索隊将兵の死体は敵中に残されたままである。これを収容しなければならない。     4  小松原師団長は楽観していた。五月二十八日の山県支隊の攻撃でソ蒙軍を撃破できると信じていた。二十八日夕刻までは、苦戦の状況は報告されなかったとみえる。二十八日夜に、師団長は各隊に甘珠爾廟付近に集結の命令を出しているが、それは敗報を聞いて撤退を命じたのではない。その証拠に、山県支隊長から、二十九日夜に敵に一撃を加えてから戦場を離脱するという報告を受けた師団長は、二十九日夕刻、増加兵力を送るから敵の撃滅を期せよ、と電命しているのである。攻撃不成功を知って、力攻継続を決意したものと思われる。  このころ、東捜索隊は全滅に瀕していたのである。  皮肉なことに、この日、植田関東軍司令官から小松原師団長に宛てて、 「ノモンハンに於ける貴軍の赫々たる戦果を慶祝す」  と、電報が届いている。五月二十八日朝、攻撃前進開始後間もなく、支隊の一部がソ蒙軍の朝食中を急襲して潰走させた事実があるが、祝電はそれを含む若干の瞬間的勝利に対する賞詞であった。  山県支隊は師団長から敵撃滅の命令を受けたからには、増加部隊の到着を待って攻撃を再開しなければならない。  五月三十日夕、支隊長は増援されて来る部隊を合せて、敵に夜襲をかけ、相当の打撃を与えてから戦場を離脱する決心をしたらしいが、実際に増援隊(歩兵・機関銃・速射砲各一中隊、山砲二中隊)が到着してから出された支隊命令は、先の決心とはかなり趣きを異にしている。  命令では、「明三十一日重火器特ニ山砲ヲ以テ河岸及台上ノ敵ニ痛撃ヲ与フルト共ニ陣地近ク現出スル敵ヲ撃滅セントス」とある。  夜襲によって敵中を強行突破し、東捜索隊の残存者の救出乃至は死体収容を果す意図はこの命令には見られない。山砲で河岸の敵に痛撃を与えることが命令の骨子になっているが、支隊陣地からハルハ河左岸の敵砲兵までの距離は、六千メートル以上もあったのである。到底有効打は期待できない。  夜襲もせず、山砲射撃程度で事を済ませようとするのは、見ようでは、戦意に欠けていると見られるかもしれない。小松原師団長の眼にはそう映ったようである。師団長だけでなく、新京の関東軍司令部から戦場に来ていた辻政信参謀には、ことのほか、そう見えたらしい。彼は、みずから夜襲部隊を指揮して出撃し、捜索隊の死体収容に任ずる、と申出た。  結局、辻少佐の気魄に押されて、支隊長以下夜襲隊形で前進し、死体収容を実施することになるが、そのことにはあとで触れるとして、このときの山県支隊の態度の不徹底に照明をあてる資料が見当らない。僅かに、辻政信がこう説明している。 「新設師団の最大弱点は上下の団結と、左右の友情が足りないことである」  確かに団結も友情も足りなかったであろう。だが、それだけか。支隊は、師団長以下の満々たる自信と期待のもとに出撃した。敵は圧倒されるはずであった。敵の戦力は、しかし、予想を遙かに上廻っていた。圧迫され、前進を阻止されたのは支隊の方であった。快速を利して突入した東捜索隊に悲運が訪れたときには、支隊主力の戦力は限界に達していた。東捜索隊(連隊)は山県支隊(連隊)の一部に編入されたが、他人の連隊である、だから危険を冒してまで救いに行こうとしなかった、とみるのは下世話に過ぎると思われる。  先にも述べたが、山県支隊は砲兵も伴わずに出撃しているのである。僅かに歩兵砲(一小隊)と速射砲(半部欠)があったばかりである。敵の猛烈な砲撃によって前進を阻止されてからは、手の打ちようがない。戦意が衰えたとしても、当然なのである。そうだとすれば、山県支隊の編成そのものに問題があったことになるであろう。あとになって申訳程度の山砲ぐらいを追加しても、強襲を加える戦機は既に去っていたのである。せめてものことに山砲でハルハ河対岸台上を射撃しようとした、とみるのは贔屓目に過ぎようか。  もし、編成に問題があったとすれば、それは山県支隊のこの戦闘のときだけではない。ノモンハン戦全体を通じて、戦闘の組織に問題があり過ぎたのである。  山県支隊に関して疑問が残るとすれば、戦意の不足を訝《いぶか》るよりも、戦闘間に東捜索隊から七回にもわたる連絡及要請があったにもかかわらず、何故支隊主力の状況を捜索隊が承知しないままに放置しなければならなかったかということである。  だが、事実は修正を許さない。五月三十日夜、東捜索隊の将兵は敵中に屍となって既に一昼夜を経過している。     5  山県支隊は、五月三十日夜、関東軍参謀・辻少佐の主唱によって、夜襲隊形で前進して東捜索隊と浅田小隊の死体を収容することになった。  沼田(当時上等兵)の記憶によれば、その夜は銃砲声もおさまって、静かであったという。星屑は満天に散らばっていたが、暗さは前を歩く兵隊の影絵さえ闇に溶け込むほどであった。  起伏する砂丘を迂回するごとに、方角を失いがちである。闇の完全な静寂は、東捜索隊の絶望を意味するか、敵の潜伏を秘匿しているか、あるいは支隊の行動がまるで方角ちがいであるのかもしれなかった。  地下足袋の下で砂が動いて鳴る。随分歩いた。何もなかった。敵の砲撃も、戦車の轟音も、死体も、何もない。  午前三時(五月三十一日)ごろであったろう。部隊は停止した。指揮官たちは前方に集って何か話し合っていた。もうそろそろ東から夜明けが来るころである。ハルハ河の近くまで来ているはずだから、明るくなったら、対岸からの砲撃に支隊七百はひとたまりもない。  引き返すことになったらしい。部隊が方向転換したときに、誰かが異常に気づいたようであった。  叫び声が起こり、騒がしくなった。  散乱している死体がみつかったのだ。  将校が懐中電灯で照らす地面が闇から切り取られて、そこに縦横に戦車が荒れまわったらしい痕跡がある。もし月が照っていたら、|※[#「隹+鳥」、unicode9de6]肌《とりはだ》の立つような情景であったろう。 「三人で一人の死体を担いで行け」  辻参謀が叫んだ。 「手ぶらで帰ることは許さん」  沼田が参謀の名前を何と云ったか、実のところ、私は記憶していない。「参謀が」と聞いた記憶はある。辻政信の何たるかを、当時(昭和十六年上半期ころ)私は知らなかった。参謀などには関心もなかった。関心があるのは、戦わされて死んでゆく兵隊の運命であった。それと、「無敵皇軍」が果して無敵かどうか、その真相であった。のちに私自身も戦闘に投入され、生き残って、さらに何年も経ってから戦史を辿り、悲憤を覚えるようになることなど予想できることではなかった。ノモンハン戦を調べてみて、この夜の山県支隊には村田・伊藤の両参謀のほかに辻参謀がおり、辻参謀がこの夜襲兼死体収容の実質的指導者であったことを知ったのである。  したがって、沼田が聞いた声は辻の声であったにちがいないし、辻の著書にも該当するくだりがある。ただ、辻の著書では、この夜が五月二十八日夜半から二十九日早暁へかけてのことになっている。私の聞いた話は、出来事は鮮明に記憶しているが、日時は全然あてにならない。調べてみると、東捜索隊の全滅が五月二十九日夕刻以後であることは、動かない。したがって、この部分の辻の記述には錯誤があることになる。  死体の状況は酸鼻をきわめていた。 「どこが手やら足やら、わからない。暗いだろ、触ると、ぬるっとする。動かすと、むーっと臭ってね。そう、たった一日か二日だのに、もう腐っていた」  沼田(元上等兵)がそう云った。 「無理な戦じゃなかったかなァ。火力がまるでちがうんだから。それに、何処から撃って来るのか、わからんのだ。うまく偽装したり遮蔽してあってね。発見するころには、もうこっちがやられてしまってる。肉薄すれば、存外簡単に退《さが》るときもあったがね、そんなときには、必ず、退った先から猛烈に撃ってくるんだ。陣地が厚いというか、縦深がともかく深いから、一線を抜いても、二線にひっかかって潰されてしまうんだ」 「砲兵はなかったんですか、こっちには」 「五月のときには、なかったね。七月には重砲が来たが、やはり駄目だったね。射程がちがうし、弾薬の量がまるでちがうんだから。凄いよ、奴《やつこ》さんたちの砲撃ときたら。めっちゃくちゃだ。砂地だろ。壕を掘っても、吹き飛ばされて、直ぐに露出してしまうんだ、こっちが」 「戦車は」 「いたねえ。来るわ、来るわ。俺なんか向うの兵隊より戦車の方を沢山見た気がするよ」  これは、あながち誇張ではあるまい。一個人の正面に来る敵兵の数は知れたものである。戦車群は視野いっぱいにひろがって、それらがみんな自分の前へ殺到するような錯覚に戦場では襲われがちである。沼田の記憶のなかで、敵兵の姿が薄く、戦車が鮮烈に残っていたとしても、当然であった。 「はじめは火焔瓶で面白いように燃えた。しかし、あれは窮余の一策だね。まともな戦法じゃない。何十|瓲《トン》もある鉄の塊が走って来るんだろ、それへ人間がサイダー瓶を持って跳びかかって行くなんて、正気の沙汰じゃないよ、実際。こっちに速射砲があって、弾丸もあった間は、撃退するのもそうむずかしいことじゃなかったがね、向うはあとからあとからいくらでも来る。こっちは砲をやられる、弾丸もなくなる……」 「それで突撃、ですか」  沼田は、突撃の模様を、はじめのころは話したがらなかった。 「将校は直ぐ突撃をやらせようとするがね、そんなに簡単に突撃してたら、命が幾つあっても足りないよ、実際の話が」  沼田が属した部隊の終末段階は、東捜索隊の全滅からおよそ三カ月ほどのちのことである。  沼田たちは、東捜索隊将兵の死体を、頭と脚を持ったり、足を曳きずったりして、敵の追撃や包囲を気にしながら出発地点へ戻った。合図の灯火らしいものがときどき点滅していたから、敵には山県支隊の動静がわかっていたはずだが、幸い砲撃もなく、戦車の追撃もなかった。  帰り着いたのは午前五時ごろであった。血で洗ったような太陽が砂漠の地平線を突き破って昇っていた。  沼田は、収容した死体の数を知らなかった。算えるどころではなかったらしい。二日前までは自分と同じように生きていた者が、いまは汚れて、千切れて、焼け爛れて、砂丘の蔭に黒いかりんとうをばら撒いたように横たわっている。それは、いま生きている者の明日を予告しているようであった。 「厭だね。卑怯者と思われても生き残りたいと思ったね。実際には、逃げ隠れする卑怯者にはなかなかなれないんだが」  沼田は、そのとき、そう云った。彼は、その後三カ月間戦い抜いて生き残ったが、大戦末期には戦死した。どのように戦って死んだか、私は知らない。  辻政信は「屍体を数えて見ると、二百に近い数だ」と書いている。  歩兵第六十四連隊の戦闘詳報には、昭和十四年六月二日現在で、捜索隊の戦闘参加人員は将校一三、准士官以下二〇七、計二二〇、死亡は将校八、准士官以下九七、計一一五となっている。負傷者数まで加えれば東捜索隊の損耗率は六三%に達するから、事実上の全滅にはちがいないが、もし前掲の数字が正しいとすれば、残余数に相当する兵員の最後の局面での行動が判然しない。     6  五月三十一日午前九時四十分、小松原師団長は山県支隊長に命令を下した。 「完全ニ戦場掃除ヲ実施シタル後、三十一日夜半戦場ヲ出発シ甘珠爾《カンジユル》廟経由|海拉爾《ハイラル》ニ帰還スヘシ」  この時点で、有力なソ蒙軍は依然としてハルハ河右岸に陣地を占めていた。つまり、山県支隊の出動は目的を達しなかったのである。その上、戦死者の死体の収容も完全に終ってはいなかった。したがって「戦場掃除ヲ実施シタル後云々」という命令となったのだが、ハイラル帰還を命じたのは、攻撃は失敗したが、敵が追撃して来ないから、戦闘の切上げを決心したのである。山砲二中隊と速射砲一中隊ぐらいの増加では、敵に決定打を与え得ないことを、ようやく認めたのであろう。  山県支隊長は三十一日午後三時、前記の師団命令に基づいて作戦命令を下達した。  同日夕刻から山砲をもって敵陣に制圧射撃を行い、兵力の一部をもって攻撃をかけ、その間に残余兵力の全部で死体収容を実施する、というものである。  山砲は届かぬ距離を射った。  兵力の一部をもってする攻撃は行われなかった。午後四時、戦場離脱のための部署を支隊長がとったからである。戦闘収束の意図が明瞭となっては、戦意は沈滞するのが当然である。  五月三十一日夜、山県支隊は一部の死体収容人員と救護班を残して、戦場を離脱した。  関東軍参謀辻政信は、これを一勝一敗と強弁した。先に東捜索隊が外蒙軍の小部隊をハルハ河左岸に撃退し、飛行機をもって若干の包《パオ》と人員を爆撃したのが一勝で、東中佐以下捜索隊が潰滅し、山県支隊の攻撃が失敗したのが一敗だというのである。  この負け惜しみはノモンハン戦の最後まで尾を曳くことになる。  前掲の戦闘詳報が示す数字によれば、歩兵第六十四連隊(山県連隊)の戦闘参加人員は将校五三、准士官以下一〇〇五、小計一〇五八で、死亡は将校二、准士官以下四九、小計五一、負傷が将校四、准士官以下五一、生死不明が将校二、准士官以下一〇で、損耗率一一%になるが、捜索隊の六三%に較べれば著しく低い。支隊主力は敵の火力に阻止されて前進できず、敵もまた一定線を越えてまで攻撃しては来なかった結果と思われる。  戦史を跡づけてみる限りでは、山県支隊主力は優勢な敵に対して無理な戦をしなかったように見える。そのことを誹謗《ひぼう》するのではない。むしろ逆である。この段階では、師団司令部にも軍司令部にも、無理押しを強行させないだけの冷静な判断力があったらしいということである。  辻参謀は、しかし、そうではなかった。彼はこう誌している。 「僅に数日の緒戦であったが、それを通じて見られることは、第二十三師団の左右の団結が薄弱であること、対戦車戦闘の未熟な点であろう」  対戦車火器の充分な装備もなくて、未熟も何もあったものではない。敵に戦車がどれだけあるか、どれだけ正面に配置し得るかを、推定もせずにはじめた戦闘なのである。辻自身が述懐している。 「外蒙騎兵がこんなに多くの戦車を持っていようとは、誰しも考え及ばなかった」  参謀本部は、五月末、関東軍に対して、今後ソ蒙軍が増強して侵入を図った場合、それに対抗する関東軍として増加を必要とする兵力資材を請求するように申送った。これに対して関東軍は、第二十三師団と現有航空兵力とで充分であると判断し、渡河作戦用資材と航空機の移動処理班六個を希望したにとどまった。鉄道沿線の兵站基地から遠大な距離にある戦場にソ連は大兵力を使用し得ない、と関東軍では見積っていたのである。  この見積りは安過ぎた。  破局の開幕は、六月十九日朝、小松原第二十三師団長から関東軍司令官宛ての緊急電報であった。     7  緊急電の内容は、ノモンハン方面の敵は逐次兵力を増強し、有力な戦車を伴う敵は現地警備の満軍を攻撃、駆逐した、敵機約十五機はハロン・アルシャン(白温線の終端)方面を爆撃して人馬に相当の損傷を与えた、また約三十機の敵機は甘珠爾廟を攻撃して、集積してあったガソリン五百罐を焼却した、状況は以上の通りであるから、師団は防衛の責任上、決定的に敵を膺懲したい、というのである。  この電報に対する関東軍司令部第一課(作戦)の反応は、日本軍の幕僚会議がいつでも何処でもほとんどそうであったように、強硬論と慎重論に分れ、結局強硬論が大勢を制することになった。  寺田高級参謀は、はじめは慎重論の立場に立っていた。その云うところは、日中戦争から派生した天津《テンシン》英租界の封鎖問題をめぐって、折りから日英会談が紛糾している時期であるので、ソ連との間に大紛争を惹起することは、中央の国策処理の妨げとなる虞《おそ》れなしとしない、暫く国境の事態を静観するのが適当である、という自重論であった。  これに対して、辻参謀に代表される強硬論は、紛争の不拡大を欲するならば、初動において徹底的に殲滅することこそ必要である、日英会談を効果的ならしめる方法は、慎重を持することではなくて、不言実行の威力を示すことである、もしノモンハンで敵の挑戦を黙視すれば、必ず第二、第三のノモンハン事件が無人のホロンバイルにではなく、最も重要な東部正面、あるいは北正面においても続発して、遂には全面衝突となる虞れがある、いまこそ徹底膺懲すべきである、というにあった。  三好、服部両参謀以下が辻を支持した。寺田高級参謀はその年の二月に着任したばかりで、課長であるとはいうものの、他の幕僚たちに気がねしたらしい。初案を撤回して辻案に同調した。  のちに、敗戦後、寺田は、 「当初私の述べた慎重論は職を賭しても主張し抜くべきであった。(中略)結局初案を撤回するに至り、その結果起こった作戦のため多くの将兵を死傷させ云々」  と述懐している。  所論を貫けない人間は幾らでもいる。ほとんどそうであるといってもよい。殊に、かつての日本軍に関する限り、勇ましく聞える声が主導権を握った。それは亡国の声であったともいえるのだ。寺田の初案撤回は、のちになってふり返れば、いかにも惜しまれるが、性格の弱さを咎めても詮ないことである。  不思議なのは、軍事専門家の選りすぐりといってもよい関東軍一課の面々が、辻の云う「徹底的に殲滅すること」という点に疑問を抱かないことである。徹底的に殲滅できる、と辻が何故考えることができ、幕僚一同が何故同意することができたのか。山県支隊の出動は、戦闘は小規模であったとはいえ、失敗に終っているのである。敵戦力の下算を許される条件は少しもない。前年の張鼓峰事件(狭隘な山岳地帯の戦闘)でさえ、敵の用兵が本格的であることは、第十九師団の苦戦によって明らかであったはずである。第七十五連隊は五一%の、第七十六連隊は三一%の損耗を出したことなど、参謀たちは全然問題にもしていないようである。  何の根拠もなく、徒らに敵を甘く見て、殲滅するなどと壮語する。奇怪な神経である。孫子の兵法の人口に膾炙《かいしや》された部分くらい、軍事とは縁のない地方人にとってさえ常識である。外蒙騎兵がこんなに沢山の戦車を持っていようとは誰しも考え及ばなかった、と書かねばならぬような事実を、山県支隊の戦闘を通じて経験した辻参謀が、何故軽々しく殲滅できると考え、幕僚一同がそれに疑念をさしはさまなかったのか。  ノモンハン事件に限らず、私はこの種の疑問についてかなり多くの人の答を求めてみたが、芯から納得がいったことはない。それらの答に共通していたことは、日本人の固有の性格としてそういう傾向があるということと、軍人が受けた教育の特殊性に原因があるということであった。  もし前者なら、日本人は駄目な民族ということになるが、私は先天的に民族の優秀とか劣等の差があるということは全然信じない。もし後者なら、軍人教育を然らしめた者は誰であり、その目的と理由は何であるかが問題となる。  軍人の思考はあまりに屡々《しばしば》軽率であり、独善的であり、空疎な精神主義であり、したがって非科学的であって、ために、救い難い禍をもたらした。戦史を跡づけることは、屡々、増上慢に陥った野心家的軍人の無責任きわまる錯誤の軌跡を辿ることと一致する。     8  強硬論に統一した第一課は、司令部内各課の高級参謀(課長)の同意を取り付けて、辻参謀が作戦案を立案した。  軍は越境したソ蒙軍を急襲殲滅してその野望を徹底的に破壊する、というのである。  使用兵力は、  地上部隊は、チチハル駐屯の第七師団を基幹とする歩兵九個大隊、うち三個大隊は第二十三師団、火砲七六門(連隊砲、速射砲各二八門、野砲一二門、九〇式野砲八門)、戦車二個連隊約七〇輛、工兵三個中隊、高射砲一連隊、自動車約四〇〇輛。  航空部隊は第二飛行集団の約一八〇機(偵察一八、戦闘九六、軽爆一二、重爆五四)。  地上部隊の作戦要領は、第七師団と戦車部隊をもってハルハ河を渡河、川又西方台上の敵砲兵を撃滅し、反転して東岸に渡河した敵を背後から撃つ。第二十三師団の三個大隊は主力に呼応して、東岸の敵橋頭堡を攻撃、ソ蒙軍を一挙に殲滅する、というのである。  第七師団の起用案は、起案者の辻参謀が前回の経験から第二十三師団の組成と戦力に信頼がおけなかったから、伝統のある精鋭師団として名声の高い第七師団を主力としたかったものと思われる。  辻案がまとまってから、作戦課長の寺田大佐と作戦班長の服部中佐が軍参謀長の磯谷中将に用兵要領を説明すると、磯谷参謀長は戦略単位の用兵となればあらかじめ大本営と合意に達しておく必要があるとして、武力の即時発動に反対した。  寺田と服部が今度は磯谷に対して辻の立場に立った。越境ソ軍を排撃することは関東軍司令官の任務に属する。それを事前に中央と打合せては、中央の反対にあって任務の達成ができなくなるし、戦機も逸する虞れがある、と強硬に主張して譲らなかった。  ここで、磯谷中将がまた下僚に圧されて、良識が屈するのである。  服部は、のちに、磯谷中将の冷静な判断を尊重すべきであった、と云っているし、辻もまた、あの場合、初め寺田高級参謀の述べた意見に従って、しばらく武力行使を差控えていたならば、事件はその後の欧州情勢ともからみ合って、立ち消えとなったかも知れない、と云っている。  冷静な判断も緻密な情勢分析もできず、ただ見せかけの勇気と小ざかしさをひけらかす術を心得た中堅将校たちが、事実上において軍を動かし得たのである。  関東軍司令官・植田大将は対ソ武力行使については反対しなかったが、辻案の第七師団を主力とすることには不同意であった。  辻自身の回想によれば、そのとき植田関東軍司令官はこう云ったのである。 「ノモンハンは小松原師団長の担任正面である。その防衛地区に発生した事件を他の師団長に解決させることは小松原を信用しないことになる。自分が小松原だったら腹を切るよ」  作戦主任はなおも第七師団と第二十三師団との戦力を比較して、第二十三師団には大きな期待をかけられない、と意見を述べると、植田大将は、 「戦術的考察においては正にその通りである。しかし統帥の本旨ではない」  と、幕僚の見解を斥けた。  その結果、作戦案は修正されて次のようになった。 [#1字下げ]一、第二十三師団全力をもって将軍廟周辺に集結し、小松原師団長の全責任において事件を処理する。 [#1字下げ]二、第七師団に代えるに安岡支隊(安岡中将指揮する戦車二個連隊と第七師団の歩兵一個連隊)をハロン・アルシャン方面からハンダガヤ方面に集中し小松原師団長の指揮下に入らせる。  右の計画による戦力は次の通りであった。  歩兵    十三大隊 [#1字下げ]対戦車火器 一一二門(速射砲二八、山砲二四、野砲三六、九〇野砲二四)  飛行機   一八〇機  自動車   四〇〇輛  戦車    七〇輛  この戦力は、ソ満国境東部正面と北部正面の配置兵力をそのままにしておいて集中できる最大限であった。  この時点で関東軍が推定したソ蒙軍の兵力は、  歩兵    九大隊  戦車    一五〇輛  火砲    一二〇門  飛行機   一五〇機  自動車   一〇〇〇輛  この推定値は希望的に過ぎ、実戦ではこれより遙かに強大な戦力と激突することになる。  関東軍では、しかし、第一次事件の経過や第二次事件当初の敵兵力から推して、この程度の用兵計画で「事件ヲ終始シ得ルモノト考へ」ていたのである。  飛行集団には六月十九日午後九時四十分、展開命令が、地上部隊には六月二十日午後二時、応急派兵の命令が下達された。  関東軍の武力行使に関して、東京では、たかがゴビの砂漠の東端の国境紛争に大兵力を使用することに反対の陸軍省と、関東軍の立場を汲んで兵力使用を認めようとする参謀本部とが対立した。  陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄《いわくろひでお》大佐と同課高級課員・西浦進中佐は、六月二十一日の省部首脳の会同席上で強く反対した。その主旨は、 「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、大して意味のない紛争に大兵力を投じ貴重な犠牲を生ぜしめるごとき用兵には同意し難い。ことに今や厖大な軍備拡充を要求している統帥部がこのような無意味な消耗を認めるのは不可解である」というのであった。  省部の対立意見は、陸軍大臣・板垣征四郎中将の一言で関東軍の作戦案通りに決定した。板垣はこう云ったのである。 「一師団位、そう一々|喧《やかま》しく云わないで、関東軍にやらせたらいいじゃないか」  関東軍の武力行使を是認する見解をとった参謀本部作戦課長・稲田正純大佐は、 「結果的にみると、初めから中止を命ずべきであったという感じもあるが、そのころ関東軍の考え方はかなり明瞭に中央の意図に同調していたように見受けられたので、あえてその措置に委せた」  と云いながら、 「同意したものの、事後承諾を求めてきたそのやり方に、中央部を同等以下に見ようとする隠微な態度が、そこはかとなく窺《うかが》われ、決定の後味は必ずしもすっきりしたものでなく、胸中一抹の不安を押さえることができなかった」  とも云っている。なんとも煮えきらない話である。  先の岩畔らの現実的な考察を含む反対意見にもかかわらず、稲田らの「一抹の不安」を抱きながらの作戦容認が通ったのは、国境防衛を関東軍に委せてあるからには、ある程度までの武力行使は認めるべきであるとする現地軍尊重の慣習からであろうが、中央と現地との間の隙間風が洩れるような関係は、こののち、急速に悪化することになった。     9  関東軍は対ソ蒙軍の作戦を中央から認められたが、重要なことを秘匿して、事前に連絡しなかった。地上作戦の開始に先立って、外蒙内部にある空軍基地タムスク、マタット、サンベースを爆撃しようという計画である。好機を求めてこれらの基地を攻撃し敵機を撃滅せよという命令は、六月二十三日午前十時に出されている。  寺田高級参謀は、この命令が出されるときにも反対意見を述べたが、強硬意見に押し切られた。強硬派に代表される関東軍の見解は、ソ軍機が甘珠爾廟その他を爆撃したからには、敵基地に対して空襲することは、防衛の責任上、戦術的手段としては当然であって、その権限は軍司令官にある、ことさらに大命を仰ぐ必要はない、というのである。  関東軍では、中央の意図は事件不拡大にあり、航空進攻爆撃は許さない方針であることを幕僚連絡などで承知していた。だからこそ、拘束されては困るので、秘匿したのである。  この場合、中央の態度も不徹底であった。大本営作戦課では、五月末、有末|次《やどる》中佐の起案になる『ノモンハン国境事件処理要綱』というのを作成している。そのなかに、ハイラルを爆撃されても、その報復のために飛行部隊を越境進攻せしめないとか、多数の爆撃部隊を大興安嶺以西に使用せしめない、という項目がある。これが正式に関東軍に示達されてあれば、関東軍が抜け駈けすることはなかったであろう。これは、しかし、示達されず、参謀本部作戦課の腹案としてとどまっていた。関東軍を信頼してその善処に待つ、ということらしいが、事務として疎漏であったという誹りは免れない。詰めるべき駄目が詰まっていないのである。これは、このときに限ったことではなく、こうした間隙に策謀の余地を残したことは屡々である。  関東軍では進攻爆撃を六月二十六日に実施する予定で、その実施命令を、参謀本部から要務連絡のために呼ばれて上京する島貫参謀が携行した。六月二十三日夜新京発の列車である。島貫の東京着は二十六日になるから、明らかに事後承認を狙ったことになる。  ところが二十四日夕刻に参謀次長電が飛び込んで、爆撃中止の勧告と作戦上の連絡のため有末中佐を派遣する、と伝えてきた。匿したことが漏れている。関東軍作戦課は訝ったが、漏れた経路は次のようであった。  第四課の片倉高級参謀が島貫以前に業務連絡のために上京していて、出発前に関東軍の企図を寺田大佐から聞いた片倉が、東京で岩畔軍事課長に打ち明け、岩畔から大本営作戦課に伝えられたのである。  関東軍としては、中央からの使者が来てからでは、爆撃はできなくなる。急ぐ必要があった。ちょうど、満洲事変のときの柳条溝鉄道爆破の陰謀当日、建川第一部長が中央からの使者として渡満する場合と、似た状況であった。中央は、昭和六年のときと同じ手ぬるい誤りを犯した。制止する方針が堅持されているのなら、人物派遣とは別に、明確な参謀総長名の電令を下せばいいのである。そうしなかったのは、参謀本部にもひそかに戦果を期待する向きがなくはなかった、と看做《みな》されても仕方がない。  六月二十五日朝、関東軍では寺田高級参謀から第二飛行集団の主任参謀に、越境爆撃を「明二十六日可能ナラハ直ニ決行セラレ度」と電報した。  有末中佐の搭乗機は天候不良のためおくれて、六月二十七日新京に到着した。  空襲部隊も準備の都合で出撃は二十七日になった。  上京した島貫参謀は二十六日東京に着き、二十七日に筆記命令を参謀本部に提出した。  六月二十七日午前五時過ぎ、第二飛行集団諸隊一〇七機はタムスクめざして飛び立った。当時としては空前の大編隊であった。爆撃の命中率は低かったが、地上の飛行機を飛び立たせ、上空に待機していた戦闘機群に好餌を与えただけの効果はあった。撃墜は百機に近く、地上撃破は二十機を越える戦果報告が行われた。  その「大戦果」を関東軍から寺田参謀が東京に電話で報告すると、寺田と陸士同期の参謀本部作戦課長・稲田大佐は、電話口で、 「馬鹿ッ、戦果が何だ」  と怒号した。  寺田は憤激のあまり受話器を持つ手が慄え、顔面蒼白となった。  関東軍強硬派の随一、辻参謀は、「敵か味方か参謀本部」として、稲田のこの電話が中央と関東軍とを決定的に対立させる導火線になったとして、関東軍の中央無視の態度には反省の色がなかった。     10 「死を賭して敢行した大戦果に対し、しかも明らかに我は報復行為に出たのに対し、第一戦の心理を無視し、感情を蹂躙《じゆうりん》して何の参謀本部であろう」  これが、大戦果を東京から讃められなかった関東軍幕僚の、特に辻参謀の心境であった。  稲田・寺田の間に激越な電話のあった日の午後、参謀次長から関東軍参謀長宛ての電報が来た。しかつめらしい電文が双方の感情をよく表わしているので引用する。 「外蒙内部ニ対スル爆撃ノ件本日初メテ承知シ従来本当部ノ諒解シアル貴軍ノ処理方針ト根本ニ於テ其ノ主旨ヲ異ニシ事前二連絡ナカリシヲ甚タ遺憾ト感シアリ 本問題ニ対シテハ申ス迄モナク影響スル処極メテ重大ニシテ貴方限リニ於テ決定セラルヘキ性質ノモノニ非ス(以下略)」  これに対して、関東軍参謀長名による参謀次長宛ての返電はこうである。 「国境事件処理ノ根本方針トシテ当軍ノ堅持シアル処ハ彼ノ蠢動《しゆんどう》ヲ未然ニ封殺シ又ハソノ不法行為ヲ初動ニ於テ痛撃|破摧《はさい》シ彼ヲ慴伏《しようふく》セシメ北面ノ備ヘヲ強化シツツ今次支那事変ノ根本解決ニ貢献セントスルニアリ 唯現状ノ認識ト手段トニ於テハ貴部ト聊カ其ノ見解ヲ異ニシアルカ如キモ北辺ノ些事《さじ》ハ当軍ニ依頼シテ安心セラレ度《たし》 右依命」  末尾の「右依命」によってこの電文は、少なくとも形式上は植田軍司令官の容認のもとに発信されたことになる。そうなれば、軍司令官は関東軍を中央と対等の位置に置いていることになり、統帥を弁えないことになる。  事実は、この電文の起案者は辻参謀で、連帯者も決裁者もなく、辻参謀の独断で発信されたものらしい。  一参謀が、主として自分の態度如何にかかっている事件が国家の命運にかかわるかもしれないことまで見透せなかったのは、やむを得ないとしても、自分が立案した作戦計画ではソ満国境東部正面と北部正面の配備を除いて集中可能の最大限の兵力を投入しようとする事件を、「北辺の些事」とうそぶいているのである。こうした人物の独善を許している軍という組織は、常識的な判断からすればタガの弛んだ樽でしかない。でたらめである。軍司令官はロボットに過ぎない。  参謀本部は関東軍に対して、六月二十九日、大命と指示を示達して、主として航空機による国境外への攻撃に制限を加えた(大陸指第四百九十一号)。  このときの命令(大陸命第三百二十号)によって関東軍は越境したソ蒙軍を必ずしも撃破撃退しなくともよい(大局的な観点から全面戦争化を回避するため——)ことになったが、関東軍では当面の諸部隊は六月二十日の命令の下に既に行動を開始していて、大陸命第三二〇号によって矛をおさめる意志などは毛頭なかった。  結果からみると、この大陸命第三二〇号の「満洲国中其ノ所属ニ関シ隣国ト主張ヲ異ニスル地区及兵力ノ使用ニ不便ナル地区ノ兵力ヲ以テスル防衛ハ状況ニ依ツテ行ハサルコトヲ得」というくだりは、中央の態度の不徹底と国家意思の不鮮明を物語っている。防衛戦闘をしないでもよいと中央が考えている「隣国ト主張ヲ異ニスル地区」で数万の壮丁がこのときから九月まで死闘を演じ、夥しい鮮血がむなしく流れたのである。もし兵隊が大陸命第三二〇号を知っていたら、いくら四角四面の教育を施された兵隊でも戦闘惨烈の極所に耐えることに疑問を抱いたにちがいなかった。  関東軍では、中央に秘匿して行う航空進攻の戦果が薄れてしまわないうちに、また、ソ蒙軍地上部隊の増強が完了しないうちに攻撃を開始しようとして、六月二十五日、第二十三師団長に命令を下達した。この命令の特徴は、ハルハ河左岸(外蒙領内)に行動を展開することを認めた点にある。  同二十五日、安岡中将指揮する戦車第三・第四連隊、歩兵第六十四連隊(山県連隊)主力を含む安岡支隊は、小松原師団長の指揮下に入れられた。関東軍司令部としては、小松原中将の統一指揮の下に、安岡支隊をハルハ河左岸に使用するつもりであった。  小松原と安岡は陸士同期だから、一方が指揮し他方が服従する関係には心理的に微妙なものがあるとして、それを、この作戦ののちに安岡支隊が解編される理由の一つに結びつける向きがあるが、果してどうか。同じ中将でも小松原の方が先任だから、一つの局地戦に二つの指揮権の併立が不適当であるとすれば、先任者が指揮官となるのは当然である(小松原の中将昇進は昭和十二年十一月であり、安岡のそれは十三年三月である)。  ハロン・アルシャン付近に集結した安岡支隊は、六月下旬になって降りつづいた雨に崇られた。アルシャンから戦場への北西の道は雨によって泥濘《でいねい》と化し、ために燃料弾薬の補給が半定量にも満たず、その上、河川は増水していたから、渡河材料を交付されていない支隊は、もし軍司令部作戦課の予定通りにハルハ河左岸に渡河しなければならぬとしたら、右岸のいずれかの地点で立往生しなければならぬところであった。  小松原師団長は、六月三十日、安岡支隊の進路を変更してノモンハン付近に呼び寄せ、師団主力の左岸での作戦に右岸において呼応させることにした。  日時不詳なのが残念だが、六月二十九日以前のいずれかの日に、第二十三師団長は諸隊から水泳練達で豪胆な将校を選び、夜闇に乗じて対岸へ斥候として潜入させた。  その報告と飛行機による偵察写真とを検討した結果、ハルハ河両岸に跨る敵陣地は日ましに堅固になっていて、右岸陣地の要所には鉄条網を設けていること、左岸コマツ台からハラ台へかけて工事が施されており、白銀査干《パイインツアガン》には縦深陣地があるらしいこと、後方には多数の自動貨車が動いていて、兵員・軍需品の輸送が盛んらしいが、何処も分散と偽装が徹底していて実態を掴み得ないことなどが結論づけられた。  六月二十九日、状況視察と作戦指導を兼ねて、新京から矢野参謀副長・服部参謀・辻参謀が第二十三師団の集結している将軍廟に来た。師団の状況判断を聞いた辻参謀は、モス機に乗って偵察に飛んだ。二十七日のタムスク爆撃の直後なので、この低速小型機はソ軍機の攻撃を受けなかった。この辺が辻が勘がよくて、機敏で、大胆と評価されるところであろう。敵機の活動があるか、対空砲火があれば、よたよたと飛ぶモス機などひとたまりもないのである。  辻の所見は、白銀査干付近には配兵なし、縦深陣地と見られたのは戦車の掩壕《えんごう》が蜂の巣のように作られてあるに過ぎない、コマツ台からハラ台へかけて歩兵陣地らしいものは何処にもない、現時点でソ蒙軍の主陣地はハルハ河右岸(満洲側)にある、白銀査干付近は第二十三師団の渡河とその後の攻撃展開に最も適している、というのであった。  辻の所見は即判決となった観がある。第二十三師団主力が攻撃をとる方向は決定された。     11  小松原師団長が入手した飛行機偵察による情報には、ソ連軍が後退しているというのがあった。その情報をもたらした飛行機は、たまたま、ソ連軍の自動車輸送隊の縦列が前線から後方へ陸続と走行しているのを目撃したのかもしれない。大量の自動車輸送が行われるときには、当然そういう場面もあり得るのである。  聞く方にとっては、しかし、これは愉快な情報である。日本軍の作戦関係者には、この作戦は[#「隹+鳥」、unicode9de6]を割くに牛刀を用いるに似た用兵をしているという自負があったから、今度こそはソ連軍は戦わずに戦場から退却するかもしれない、という希望的観測と、あまり早く逃げられては困るという懸念があった。近代戦の深刻さを知らないことと、尚武の精神のはきちがえから敵を軽んずる習性が出来ていたこととの結果かもしれない。このときばかりではないのである。これからちょうど三年後、昭和十七年八月にガダルカナルに米軍が上陸して、その奪回作戦の先陣として一木支隊が乗り込むときも、米軍は撤退に苦慮しているという虚報を、大本営以下関係各部隊が半ば信じたのである。  ノモンハンの場合は虚報というより誤報というべきであろうが、状況の正確な認識なしに、退却の姿勢にある敵を急襲殲滅しようとして、周到な戦備をととのえた敵から痛打をくらうことになる。そのにがい経験も三年後のガダルカナルでは少しも顧みられていない。しかも、三年前に新京にあってノモンハンの作戦に任じた服部・辻の両参謀が、三年後には東京からガダルカナル戦を指導したのである。  小松原師団長は敵が離脱しないうちに捕捉殲滅しようと、六月三十日夕刻、攻撃準備の師団命令を下した。  その戦闘方針は、師団主力をもってフイ高地(721高地)付近からハルハ河を渡河し、左岸のソ蒙軍を撃破して、川又西方のコマツ台付近に進出、右岸にある敵陣地を背後から攻撃して捕捉殲滅する、というのである。  右の方針に基づく各隊の行動要領は、二日後の七月二日午後五時に下達された両岸攻撃のための師団命令に規定された諸隊の行動とは僅少ながら異同があって、後者の方が当然実際の行動に近いから、後者の概略を近迫している戦闘の設計として誌すと—— [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  1 左岸攻撃隊(歩第七十一・第七十二連隊、野砲第三大隊)   小林恒一少将の指揮によって、七月二日日没後、なるべく速かに主として漕渡《そうと》によって渡河、三日払暁までに白銀査干西方に進出し、コマツ台に向って攻撃。  2 乗車攻撃隊(第七師団所属歩兵第二十六連隊)   工兵隊の架橋後、野砲兵第三大隊に続いて渡河、小林部隊の外翼から突進しての敵の退路遮断。  3 安岡支隊・右岸攻撃隊(戦車第三、第四連隊、歩兵六十四連隊主力、野砲兵第二大隊)   三日払暁右岸の敵に対して攻撃開始、川又に向い突進する。——(この三日払暁の攻撃開始は、戦況誤判によって二日夕刻から行われた)  4 砲兵隊   主力をもって第二十三師団の渡河を掩護、架橋完成後は渡河の先頭として左岸に移り、左岸の戦闘に加入。  5 工兵隊(工兵第二十三連隊主力)   七月二日日没後、漕渡によって小林部隊を渡河させる。爾後、架橋を急ぎ、諸隊を渡河させ、渡河完了後は橋梁の確保。(以下略) [#ここで字下げ終わり]  小松原中将指揮下の諸隊は行動を開始したが、戦闘前の難事業は渡河準備であった。大量の渡河資材を、暗夜に無灯火で、これといった特徴のない茫漠とした波状地帯を走行して、確実に所定時刻に所定地点まで運搬しなければならないのである。  この輸送を担任したのは自動車第四連隊(長・田坂専一大佐)であった。この連隊は、七月二日早朝、須見部隊(第七師団所属歩兵第二十六連隊)を搭載して将軍廟を出発、予定戦場へ向って西進していたが、午前十一時過ぎ、オードン湖付近で大休止をとっているときに、師団司令部へ連絡に出してあった副官が帰って来て、師団命令を伝えた。  それによると、自動車第四連隊は現在地で歩兵部隊を下ろして、ホンジンガンガ付近に集積してある架橋材料を積載し、師団がその夜実施するハルハ河渡河のため、ハルハ河右岸のタギ湖付近まで運搬して、工兵第二十三連隊に交付せよ、というのである。  連隊のうち二個中隊(第一中隊は漕渡材料二四輛、第二中隊は架橋材料三七輛)は、二日の日没を待って行動を開始した。工兵隊から派遣された下士官が誘導する。  墨汁につかったような暗さである。車間距離を短縮して、僅かに点滅する尾灯によって前後の連絡を維持する。道路のない荒原を、磁石を頼りに方位を定めて走る。一見変化に乏しい波状地帯だが、無灯火で走る車輛は、わざわざそこを選んだかのように湿地にはまることが再々であった。車が埋まる。縦列が渋滞する。車が停まれば、運転手はハンドルを握ったまま眠ってしまう。応急派兵の下令以来、ほとんど不眠不休なのである。眼をさますと、前車の尾灯は闇のなかに消えてしまっている。  連隊長は車を降りて、鞭《むち》を持って縦列の居眠り運転手の頭を叩いて歩いた。 「こら、眠っちゃいかん。渡河部隊は払暁までに渡河を終って攻撃前進だ」  暗夜は、前進の困難を与えただけでなく、方向の錯誤をも与えた。誘導下士官が方位を失って、いつの間にか四十五度も西北に偏した方向に進路をとりはじめていた。  ちょうどそのころ、渡河地点方向へ向って前進中の第二十三師団司令部が来合せ、師団長自ら馬を飛ばして駈け寄り、方位の誤りを正した。  自動車縦列は、その後、師団参謀(情報主任)鈴木善康少佐の誘導によって架橋点へ向った。  ようやく到着した河岸は鵯越《ひよどりごえ》のような急坂であった。逆落しをかけて水際に下り、対岸台上には敵がいるはずなので、積荷の卸下《しやか》に音を立てぬようにすることが並大抵でない。七月三日午前二時半、架橋材料の交付を終った。  早速に退避しようとしているときに、対岸から雉子《きじ》の啼き声が聞えた。してみると、架橋点正面の対岸には、敵はいないらしい。渡河は成功するであろう。  自動車隊第二中隊は午前三時ごろ架橋点を離れ、引き返した。正午過ぎ、遙か西方、昨夜の架橋点方面から殷々《いんいん》とした砲声が聞えた。望見すれば白煙黄煙が一面に立ち昇っている。空には小さな機影が乱舞して、空中戦が展開されている。ハルハ河対岸で戦闘がはじまったのだ。  一方、河へ向う途中で分進して架橋点より上流へ漕渡材料を輸送した自動車第一中隊は、七月三日午前一時フイ高地付近に達して漕渡材料を交付した。この中隊はそのまま帰還するわけにいかなかった。湿地材料を架橋点に推進しなければならなかったし、後方主任参謀から戦闘間に速射砲を急速推進する必要が生ずる場合に備えて待機を命ぜられたりして、渡河点付近にとどまっていた。その間に対岸では戦闘がはじまり、自動車隊は戦闘機の攻撃と戦車群による包囲の危険に巻き込まれた。ハイラルヘの帰還を命ぜられて戦場付近を離脱したのは、三日午後五時ごろである。  この間の自動車隊の損害は軽微であったが、既定の部署に基づいて乗車部隊(須見連隊)を輸送中の自動車隊が、突然渡河材料の輸送に振り替えられるようなことは、作戦間にはありがちな予定変更といえばいえなくもないが、渡河という難事業を目前にひかえての準備としては周到を欠いていたことは否めない。  時間が前後するが、渡河材料を受領して渡河の先陣に立つ岡本部隊(歩兵第七十一連隊)第一大隊は、工兵小隊長の先導によって暗闇のなかをハルハ河へ急いだ。ようやく到達して、いよいよ泛水《へんすい》というときになって、指揮官たちは異状に気づいた。闇を透かして見るのに、河幅が広過ぎるようである。ハルハ河はその辺ではせいぜい五〇メートルのはずである。水面が全く動いていない。河なら、流れていなければならない。灯火を隠して地図と対照してみると、そこは、ハルハ河に近いタギ湖であった。ハルハ河はもっと西である。  夜闇にはひときわ標定しにくい地形のために方向を取りちがえたり、目的地を誤認したりして、予定としては七月三日零時に開始されるはずであった漕渡が、午前二時半になった。  日の出までにあまり時間がないので渡河は急を要したが、このときの対岸のソ蒙軍は二十三師団の企図を誤判したらしい。それには、三日払暁に右岸攻撃を予定していた安岡支隊が、ソ蒙軍が後退しつつあるというこれも戦況誤判によって、後に述べるように攻撃を二日夜に繰り上げたために、企まずしてソ蒙軍を牽制する結果になったと思われる節がある。  小林少将指揮する兵団の歩兵主力が渡河し終ったのは、七月三日午前五時半ごろであった。  戦機は切迫していた。兵たちは己れの運命の酷薄をまだ知らなかった。     12 「あれは七月三日だったね、ハルハ河左岸の戦闘は。六月二十日に応急派兵が下令されて」  元伍長の重高が記憶を確かめるように指を折ってみながら、そう云った。 「それ以来息つく暇もなかった気がするなア。ハイラルから二百何十キロかあるんだね、集結地まで。これを完全軍装で六日間の徒歩行軍だもんね。暑くてね、参った。道中、給水設備がないときている。朝水筒に詰めた水が昼には湯になっていたね。三キロか四キロ歩く間は我慢して、やっと一口飲む。しまいには軍衣の背なかが真っ白になってね、汗も出なくなった。着いたら直ぐ戦闘かもしれんのに、どうしてトラックで運ぶくらいの段取りをしないのかねえ。いくら歩兵といったって、ああ歩かされちゃ体力を消耗するばかりだ」 「各部隊そうでしたか」 「そうだと思うね。昼間はフライパンで焼かれるみたいだ。夜になると急に温度が下ってね、雨など降ろうものなら、寒くてやりきれん。二十六日だったかな、アムクロに着いたときには、もうくたくただった。それから野営、陣中勤務、敵情捜索でしょう。いよいよ攻撃準備、渡河点へ移動、そして渡河だ。直ちにパインツァガンに進出。休みなしですよ。渡河が予定よりおくれたせいだね。パインツァガンから展開して攻撃前進、コマツ台へ向ってね。うちの岡本連隊が左第一線、酒井連隊が右第一戦、並列していた」 「それから敵の戦車の大部隊とぶつかるわけですか」 「そう。不期遭遇戦という奴だね」 「七月三日の何時ごろでした」 「そうねえ、七時か、八時か、はっきりしないが、ともかく、前進を開始して間もないころだったね」 「無事に対岸へ渡ったのなら、態勢をととのえて、敵情を偵察すれば、だしぬけにぶつかるなんてことは避けられるだろうに」 「急いだんだね。渡河のときに敵の抵抗がなかったから、一気に踏み潰してしまえ、ということでしょう。いや、不期遭遇といってもね、はじめのうちは面白いように調子がよかった。形勢が悪くなりだしたのは、昼ごろからだった。なにしろ敵の戦車は、いくら擱坐炎上させても、あとからあとから群れをなして突っ込んで来るんだから。重砲の支援射撃も凄かった。こっちは弾薬の補給も全然ない。火焔瓶も残り少なくなった。後方とはたった一本の舟橋でつながってるだけだものね。われわれの後方へ迂回した敵が、その橋を攻撃するようになった。これが落ちたら、われわれは敵中に補給もなしに残ることになるわけだ」 「戦闘間の水や食料は」 「水はハルハ河まで行かなくちゃならない。戦況が忙しくなると、とてもそんな暇はないからね。食料は携帯口糧の乾麺麭《かんめんぼう》があるにはあるんだが、水がなくて、喉がかわいて干上ってるでしょう。唾も出やしない。乾麺麭なんかとても食えたもんじゃない。飲まず食わずだね。撤退命令が出て河岸まで戻ったときには、まるで牛飲だった。敵が追撃して来るか来ないか、問題じゃなかったな。水さえ飲めれば死んでもいいような気がした」 「渡河攻撃まではうまく行ったのに、また同じ橋を渡って退らなければならなくなったときに、戦闘でひどく敗けたと思いましたか」 「どうかなァ。あのときは、そんなにも思わなかった気がするね。八月二十日からの戦闘では敗けもいいとこ、やられ放題にやられたが、左岸の戦闘のときは、弾薬と水の補給さえふんだんにあれば、という気持の方が強かったんじゃないかな。殊に、俺たちは、撤退といっても、橋を渡ってすたこら逃げたんじゃなくて、パインツァガン付近に陣地を布いて、友軍の撤退援護をやったからね」 「いつごろまで」 「あれは、次の次の日、五日の午前一時か二時ごろだ、俺たちが橋を渡ったのは」  小林恒一少将指揮する左岸攻撃隊(歩兵第七十一・七十二連隊基幹)は、暗いうちに渡河を完了して、払暁とともに攻撃前進に移る予定であった。渡河作業が前述の経過でおくれたために、攻撃目標のコマツ台への進出を急ぎ、両連隊(岡本・酒井)を併立して前進した。両連隊とも正面と外側に戦車地雷や火焔瓶を持った肉薄攻撃班と連隊砲・速射砲を配置していた。いうまでもなく、敵戦車群の襲来に備えてのことである。  七月三日午前七時ごろから戦車群との間に戦闘がはじまった。敵戦車隊は不期遭遇に狼狽したのか、あるいはそれが戦法なのか、二、三十輛ずつの群に分れて、一見統制がないかのように、前方からも、側面からも、横隊で、縦隊で突入して来た。小林部隊の連隊砲・速射砲は近距離まで引きつけて猛撃を加え、短時間に多数の戦車を破壊炎上させて撃退した。  午前中は、小林少将にとって会心の進撃であった。途中、戦車との接戦を演じながら、十時ごろにはコマツ台北端の台上まで進出した。少将自身が視認した戦車の破壊数だけでも二十四輛に達した。  岡本・酒井両連隊第一線の攻撃前進は、小林少将の眼には全く理想的で、大演習を見るようであった。深入りし過ぎるのを制《と》めるのに苦心するほどの進撃ぶりが、痛快であったというから、対戦車火器があり、弾薬もあった間は、そしてそれらの火力が処理し得る程度の戦車・装甲車の数量が正面に投入されていた間は、日本軍は深入りし過ぎるほどに戦意旺盛で勇敢で、戦闘組織の欠陥を暴露せずに済んだのである。  辻参謀はこの不期遭遇のときに、「敵は全く奇襲せられたようで、数百輛の戦車が」「盲目滅法にぶつかって来」たと書いている。数百輛というのは、第七十一・七十二連隊の各戦闘詳報に照らしても、ソ連側の戦史書からみても、また、昭和二十年八月ソ連軍が全関東軍を分断包囲するために大兵力をもって侵入したとき、最も堅固に防衛されていると彼らが推定していた東部正面の進撃路で、突破正面一キロ当り戦車・自走砲の展開密度が四十輛であったことから推しても、誇張に過ぎると思われる。  七十一連隊詳報には、「午後二回ニ亘リ各約百台ノ戦車装甲自動車勇敢ニ突進シ来リ」とあり、七十二連隊のそれは、「七時敵ハ戦車十数台、(中略)八時頃敵戦車十一—二台攻撃シ来ル(中略)十時頃四十七台ノ敵戦車(中略)十三時頃ニハ重砲射撃ヲ開始シ約百台ノ戦車逆襲シ来レルモ(後略)」とある。私自身の戦闘経験から想像すれば、この程度の戦車・装甲車の来襲でも、火砲が損壊したり弾薬の補給がつづかなかったりすれば、充分過ぎる脅威であり、とても対抗しきれるものではない。事実、後述するような経過を辿《たど》って左岸攻撃隊は撤退することになるのである。  ソ連側の資料によれば、七月当初の両岸作戦でソ連軍が使用した戦車は一八六輛、装甲自動車は二六六輛とある。この日の左岸の戦闘でソ連軍戦車の強襲を受けたのは、七十一・七十二の両連隊の他に、小林部隊に後続して渡河した歩兵第二十六連隊(長・須見新一郎大佐)があるから、ソ連側の数字と先の戦闘詳報とを対照してみて、ほぼその辺が妥当であろうと考えられる。  七月三日の左岸攻撃の日本軍兵力は、歩兵七大隊半、連隊砲一二門、速射砲一八門、野砲八門、十二榴四門であった。これだけの火砲を仮りに同時一斉に対戦車攻撃に使用できたとしても、数百輛の戦車が砲門をひらきながら荒原に展開突入して来たとしたら、とても戦闘を午後までもちこたえることはできなかったであろう。  私は戦車の数にこだわるわけではない。日本軍兵士の奮戦を認めないのでもない。兵士たちは、私が今後どれだけの紙幅を費やしても表現しきれないであろうほどに勇戦奮闘したのである。ただ、私は、素人の戦記ならともかく、辻のような俊秀の誉れ高かった軍事専門家が、激戦を表現するためとしか思えない誇張を用いることにこだわるのである。この戦闘での惨烈な激戦の意味は、辻参謀を含む作戦指導者たちが敵の戦力を下算して作戦を立て、妥当でない用兵をしたにもかかわらず、実戦に投入された将兵が力戦死闘を重ねたことにあるのであって、敵の戦車の数を誇大に伝えることにあるのではない。     13  小松原師団長は小林歩兵団に追及しようとして車を走らせているうちに、対戦車戦闘の修羅場に巻き込まれた。師団長の乗用車は敵戦車の前に好餌をさらしたようなものである。運よく、野砲兵の草場中隊が追及して来て、戦車を直接照準で撃破したので、小松原は危地を脱した。  午後になると、反復される対戦車戦闘で次第に損害を増す歩兵部隊の戦況は、不利に傾いてきた。正面のコマツ台と、右岸の台上からとの重砲の挾撃で前進を阻止されるばかりでなく、背後を脅かされるようになった。殊に、右岸からの背射は、先ず前線に追及した師団司令部を狼狽させ、徐々に第一線部隊に有効打を及ぼしはじめた。  巨弾の飛来、戦車群の縦横の殺到に、小林部隊の前進は停頓した。大草原の至るところで混戦が展開された。戦車、歩兵、砲兵が入り乱れている。午前中に全線にわたって多数の戦車を撃破した砲兵部隊は、残弾が乏しくなり、後方からの補給がつづかない。弾薬節約のために戦車を至近距離まで引きつけて射たなければならない。勇敢頑強なのは日本軍だけではなかった。突入して来た戦車にのしかかられて潰れた砲もある。支援砲火の間隙を縫い、日本軍の熾烈《しれつ》な応戦にもたじろがず、面を冒して続々浸透して来る。  午後二時ごろ、日本軍各部隊は全く苦戦となった。  水の補給も絶えていた。水筒一本はとっくに飲み干した。大地が灼けている。兵は、敵弾からは遮蔽できても、太陽から身を匿すことはできなかった。誰も渇ききっていた。その上、緊張の連続と激動を強いられた。敵の浸透切迫は容赦がなかった。  重高は、破甲爆雷をもってする肉薄攻撃を兵隊には何回となく教えたが、咆哮《ほうこう》しつつ殺到する本物の戦車と格闘したことはなかった。 「そんなときが来なけりゃいいが、と内心ではいつも思っていたよ」  重高が私に云った。  そんなときは、しかし、来たのである。日本軍の防禦砲火を潜り抜けた戦車群が、重高たちの眼前に迫っていた。 「飛び出すときには、不思議に怖くはなかった。あがってしまっていたんだな。自分じゃ、号令をかけたりして落ちついているつもりだったがね。走って行くとき膝も足もまるで感覚がないみたいだった。宙をふわふわ走ってるようでね」  伏せたり、走ったり、戦車の間を転げまわったりした。戦車からの機銃弾を避けるための本能的な動作であった。  破甲爆雷は戦車の底部に付着させるのが最も効果的だが、かなりの速度で驀進《ばくしん》し不規則に方向を変える戦車の底に付着させることは、自分が轢き殺されるのと交換でなければできない。重高は、彼の間近に迫った戦車と並んで走って、爆雷を押しつけ、体を投げ出して転がった。爆発から逃れるためと、後続戦車の銃火とキャタピラを避けるためである。  亀の形をした破甲爆雷をつけた戦車は、そのまま急角度を切って隣小隊の方へ突進して行った。爆発しない。重高は、その成り行きを見守る暇はなかった。あたりは銃弾が空気を織っており、戦車の轟音が交錯している。いっしょに飛び出した部下たちがどうなったかも、重高の眼には入らない。彼が側方から突進して来る巨大な鉄の塊に気づくのと、火焔瓶を投げたのと同時であった。点火する余裕がなくてそのまま投げたが、これは灼熱した部分にあたったか、一呼吸ほどの間をおいて、俄かに燃え上った。  重高たちの防禦区域は四分五裂に陥っていた。死体や負傷者が散乱している。凹地へ這い込もうとしている負傷者が眼に入った。まるで血達磨である。眼が見えないらしかった。その負傷者を踏み潰すことを目的としているかのように突入して来た戦車が、そこへ走り寄ろうとした重高のそばで急に停って、砲塔をまわしはじめた。標的を選んでいるのかもしれなかった。  重高には手榴弾が一発残っているだけであった。彼は戦車に取りつき、よじ登った。手榴弾を天蓋から叩き込むつもりでいたらしい。戦車が急に動いた。長い砲身を振りまわした。しがみついていた重高は、天地が顛倒するような昏迷を覚えた。彼は振り飛ばされ、転げ落ちた。戦車がそのまま前進すれば、彼が圧死することは間違いなかった。彼は運がよかったとしかいいようがない。戦車は、投げ捨てた生き物には目もくれずに、向きを変えると、だしぬけに、凄まじい勢で発進した。  重高の視野のなかで、錯綜した全線にわたって戦車群は後退しはじめていた。草原は、各所で、遠く、近く、無数の黒煙を高く上げていた。被弾したり焼かれた戦車が炎上しているのである。  重高は敵の戦車群が退却した理由が腑に落ちなかった。少なくとも彼の意識に関する限り、戦車群は重高らの戦闘区域を蹂躙突破できたはずであった。敵は一点突破は避けて、全正面の貫通を企図していたのかもしれない。後退して、態勢をととのえ、損耗を補填して、また大攻撃に出て来るであろうと思われた。そのときが来たら、弾薬や火器や水や食糧の補給がないとしたら、重高たちに敵を阻止する力がどれだけ残っているか疑わしかった。 「来ませんでしたか」  私がきいた。 「撤退命令が出たんでね。午後四時を過ぎたころだったでしょう」 「助かりましたね」 「そう。しかし……」  撤退理由を重高たちは知らなかった。連隊が全滅に瀕したわけではないから、朝から敵戦車を大量に撃破した戦果を考えれば、一方的に敗けたという感じはしなかったらしい。それでも、正直なところ、撤退は嬉しかったという。よしんば明日また何処かで死闘を演じなければならぬとしてもである。  私は愚問を発した。 「戦車に肉攻をかけるの、慣れたらさほど怖くはありませんか」  いま思えば、こんな馬鹿な質問はない。そのころの私にとっては、しかし、馬鹿げた質問ではなかった。切実であった。遠からぬ日に私は軍隊に取られ、いつの日にか、重高が死闘を交えた戦車よりももっと巨大で、もっと強力な戦車と闘わねばならぬことになるであろうからである。  重高は私を軽蔑に近い眼で見た。 「死ぬことに慣れた奴って、俺、まだ見たことないよ」  と云った。 「やればやるほど、怖くなるもんじゃないかな。やられる率ってものがあるんだろうね。昨日死ななかった。今日もやられなかった。それじゃ明日は。死ぬ員数を神様の奴が決めているとしたらだね、生き残った奴ほど順番が近づいている、と厭でも考えんわけにいかんからね。爆弾抱えて戦車にとびかかって、それで生きていろってのが無理だよ。生きていたら、間違いってもんだ」  そのあとで重高はこう云った。 「ああやって撤退するんだったら、行かなくてもよかったんだと思うね。向うの砲兵陣地を潰すのが目的だったんだが、向うに戦車がいるとわかっていて、戦車を持って行かない。砲兵は頑張ってくれたが、弾薬がつづかない。あのときは夢中だったが、あとで考えると、何もかも不徹底で中途半端だったね。徹底していたのは兵隊の頑張りだけだ。いくら頑張っても、飲まず食わず、火力も足りないじゃ、どうにもならんよ。戦争ってものの考え方がまるで違うんだと思うね、向うとこっちでは。軍の上の方の考え方は、日露戦争のときと大して変っていないみたいだ」  私はそのとき、兵たちが何のために、何を信じて、戦ったのか、ききたかったが、きけなかった。迂闊にそういう質問のできない時勢であったし、重高とはそれほど深いつき合いでもなかったからである。  七月三日のハルハ河左岸の戦闘には、もう一つ見逃せない局面がある。チチハルの第七師団隷下から抽出された歩兵第二十六連隊(須見部隊)の遭遇戦である。     14  歩兵第二十六連隊は、当初の計画では、乗車部隊として、渡河後は小林部隊(岡本・酒井連隊)の外側をコマツ台へ向って攻撃前進することになっていた。渡河点へ向う途中で、乗っていた自動車隊が渡河材料の運搬に転用されたために、下車しなければならなくなったことは先に述べた通りである(但し、第一大隊だけは依然として乗車部隊であった)。  各部隊の渡河は、架橋作業がおくれたために順におくれて、須見部隊は予定より約五時間の遅延をみた。とっくに朝になっていた。渡河点で敵機三機の地上掃射を受けたが、損害はなく、先に渡った第一大隊(安達大隊)につづいて連隊主力も対岸へ進出した。  友軍機が翼を振って、通信筒を落して行った。それによると、前方約七キロの地点に多数の敵戦車が集結しているという。  敵戦車との最初の接触は、渡河点から約一キロのあたりであった。先発の安達大隊と連隊主力ははじめから離れたままで戦闘に入り、終日須見部隊は敵戦車・装甲車百数十輛と交戦しなければならなかったために、小林部隊主力の外側をコマツ台へ向って前進することはできなくなり、白銀査千台地の西方で架橋地点に襲いかかろうとする敵を阻止しなければならぬ状況に置かれた。  須見部隊の各隊が敵機甲部隊の最も激しい攻撃に対して死闘を展開したのは、三日午後二時前後からのようである。これを小林部隊(岡本・酒井連隊)の戦況と照合してみると、ソ連軍は大体その時刻までに配置兵力に加えて機動予備部隊を投入して、一斉に前線各地点の日本軍を強襲したと考えられる。  須見部隊の戦局では、安達大隊が前方に離れ過ぎていた。安達大隊の前進を追って進出した重火器各隊は、執拗な敵機甲部隊の襲撃に対して応戦を重ねるうちに、砲の損壊が続出し、残弾が少なくなり、歩兵部隊との間を分断され孤立した。  兵たちは、須見部隊に限らない、どの部隊でも、驚嘆に値する強靭性《きようじんせい》を発揮して戦った。戦況は、しかし、次第に不利に傾いていた。  左岸の戦闘に限っていえば、砲兵は勿論のこと、多数の戦車・装甲車を用意している敵に対して、山砲以下の歩兵用重火器を火力の主体とする歩兵部隊をもって攻撃を挑み、敵陣を蹂躙しようと企図したことが強引に過ぎたのである。  七月三日午後三時ごろ、日本軍の第一線は既に壕を掘って防勢に転ずることを余儀なくされていた。  戦場に進出した矢野関東軍参謀副長、服部参謀、辻参謀らは戦況を見て今後の戦闘指導を協議した。不利を冒して攻撃を続行するか、右岸へ撤退して右岸攻撃に重点を向けるか、いずれを取るかである。協議の結果は撤退に意見が一致した。その理由は次の通りであった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、日本軍の補給は舟橋一本に頼っているが、現在の戦況から判断するに、その橋を、明朝以後、敵の戦車と航空爆撃によって破壊される虞れがある。もし破壊された場合、新規に架橋または補修する材料は皆無である。  二、この日の戦闘で敵戦車及装甲車の約半数を撃破したが、残弾僅少となり、明日の戦果を期待できない(ということは、こちらが潰滅する危険性があるということである)。 [#ここで字下げ終わり]  矢野副長は小松原師団長に右岸への撤退を意見具申した。  辻の著書には「撤退」とは書かれていない。「軍は左岸の戦闘を中止し、右岸攻撃に師団の全力を結集使用するを全般の戦況上有利と判断します」とある。  表現はどうであれ、撤退なのである。  小松原師団長は軍参謀の意見具申を容れて、七月三日午後四時、撤退に関する命令を発した。  第二十三歩兵団長・小林少将にはこの撤退命令は心外であった。まだ所期の目的を達していないのに撤退するのは、作戦が首尾一貫していないではないか。尚一層攻撃を徹底続行すれば有利に展開したであろう。作戦指導に徹底を欠いたのは師団長が過早に第一線まで進出して、戦況の推移に対して過敏な反応を示したからである。もし師団長が渡河点付近に位置して、後方から大局を冷静に判断し指導したならば、このようなことにはならなかったであろう。左岸攻撃に任じた歩兵団長としては、遂に須見部隊も砲兵も使用しないままに撤退することになって、用兵はきわめて不徹底に終わり、甚だ遺憾である。  これが小林少将の心境であった。  左岸撤退に意見が一致した矢野副長たちとは別の角度からみる戦術的見解には、七月三日の時点でのソ連軍は相対的に歩兵力が少なかったし、めざす砲兵陣地は肉薄すれば自衛力は薄弱であるから、日没まで忍耐して夜行を決行すれば一挙に敵陣を奪取し得たであろう、というのがある。  果してそうか。夜襲による白兵突入は、いうまでもなく、夜闇を利用して敵の火力から蒙る損害を避け、接近して、一挙に陣内に躍り込み、銃剣刺突によって勝を制するのが定法だが、敵が陣地を縦深に構え、偽装を施し、鉄条網を設けるなどして、夜襲部隊が障碍物に衝突した際、照明弾を上げ、火力を集中すれば、どのように勇猛な夜襲部隊でも攻撃力は衰える。よしんば一線を抜いても二線で、二線を突破しても三線で阻止され、そのうちに天明を迎えて夜襲の企図は挫折する。事実、この後の戦闘経過が示すように、夜襲によって陣地を奪取しても、天明以後の敵の砲撃による損耗を避けるためには、天明までに発進地点へ戻らなければならないことが再々だったのである。  小林少将は実兵指揮に卓越した将校であると評価されていた人物だが、七月三日午後もし撤退命令が下りず、夜襲を決行したとしても、成功を保証するものは何もなかった。兵は極度の渇に苦しみ、飢え、疲れていた。弾薬も残り少なかった。敵情の把握は甚だしく不充分であった。もし決行していたら、三年後のガダルカナルでの一木支隊の悲劇が、この夜小林部隊によって演じられたかもしれないのである。  夜襲は日本軍の十八番とされていた。それは、しかし、客観的には既に過去の物語と化しつつあったのである。いつまでもそれを信じた、あるいは信じようとしたのは、帝国陸軍の各級指導者だけであった。白兵突入は、よしんばそれがときおり怖るべき威力を発揮し得るとしても、乏しい生産力が兵たちに強制した苦しまぎれの戦法であるに過ぎない。徹頭徹尾火力に依存する戦闘方式は、銃後の巨大な生産力なしには成立しない。したがって、乏しい武器に対する過度の尊重、ときとして人間以上の取扱い、たとえば天皇からの下給品としての虚構を必要とし、如何なる場合にも物質に対する精神の優越を説く過度の精神主義的教育を必要としたのである。  閑話休題。  小松原師団長は、七月三日午後四時、撤退の命令を発した。その命令による諸隊の行動要領のうち主なものは、岡本大佐は自分の歩兵第七十一連隊を主力とする岡本支隊を編成して、七月三日夜現位置を撤し、白銀査干西方の台地を確保、師団主力の撤退を掩護するということと、左岸からの撤退順序は須見部隊(第七師団歩兵第二十六連隊)、砲兵、酒井部隊、岡本部隊とするということである。  撤退の先頭部隊となるはずであった須見連隊は、左岸への渡河直後から優勢な敵機甲部隊との交戦状態に入ったことは既に述べた通りだが、戦況上各隊が分散していて、直ちに後退行動に移れなかった。特に第一大隊(安達大隊)は連隊主力から離れ、敵中にあって苦戦している状況であったので、連隊の撤退は遅延せざるを得なかった。その結果、師団主力の渡河撤退を掩護することになり、結果的には撤退の最後尾になるという皮肉な運命に置かれた。須見部隊の撤退完了までにはかなりの波瀾がある。     15  日本軍にとって、攻撃にも撤退にも補給にも、ただ一本の舟橋が頼りであった。これがもし破壊されたら、軍参謀たちの撤退協議にもあったように、もう架橋材料は皆無であったのである。  ソ連軍は三日午前中からこの架橋点方面へ攻撃をかけてきた。渡河のおくれた須見部隊が防戦して大部分を阻止したが、若干の敵戦車は間隙を浸透して軍橋に迫り、重砲や飛行機による砲爆撃も加わって、軍橋には幾度か危機が訪れた。橋梁掩護を任務とした捜索隊と歩兵第六十四連隊の一個中隊、工兵隊などが奮戦して、かろうじて軍橋を確保していた。  小林部隊(岡本・酒井両部隊)は七月三日午後十時から戦線を整理して、四日零時、撤退を開始した。  辻参謀はその状況を簡単に「日没を待って、部隊は行動を起した。(中略)なんらの混雑もなく一糸乱れず転進し、四日払暁迄には予定通り主力をフイ高地付近に集結することが出来た」と書いている。  どうもそうではなかったらしい。  小林部隊は四日午前四時半ごろ橋梁に達した。敵は当然日本軍の行動を察知していたはすだが、追尾して来なかった。  岡本部隊は命令の通り小林少将の指揮下を脱して岡本支隊(師団直轄)となり白銀査干付近で南西面に陣地を布き、主力の撤退掩護にあたった。西方からの重砲砲撃がはじまったのは四日午前六時ごろからである。この砲撃は終日に及んだ。この日、夜になって、敵戦車部隊と火砲を持った歩兵約二個大隊が岡本支隊正面に来襲して激戦を交え、これを撃退した支隊が撤退に移ったのは七月五日午前一時からであった。  時間が前後したが、岡本支隊陣地だけが砲撃を浴びたのではなくて、たぶん同じ時刻からであろう、撤退した各隊も巨弾を見舞われたのである。  小林少将の側近では、この砲撃に副官たちが狼狽したようである。少将は、これを矯正するために、七時ごろまで橋梁付近(右岸)に止まった。いかにも練達した指揮官らしいしごき方である。  そのうちに砲撃が激しくなったので台上へ後退したが、途中で部隊各副官が四散したために連絡が取れず、集結に困難を来した。砲撃下で各隊バラバラになったのである。一糸乱れずというわけにはいかなかった。  事態は師団司令部でも同様であった。小林少将が台上で小松原師団長と邂逅《かいこう》したときには、師団参謀長・大内孜大佐は既に戦死、司令部職員は四散していて、師団長の面上にも動揺の色が深かった。潰乱状態になるのを怖れてのことであったろう。  撤退の先頭に立った酒井部隊は、渡河直後の混雑を狙われ、地上攻撃と空襲を受けて支離滅裂となった。集結を終ったのは四日の日没ごろであった。  撤退行動が攻撃前進よりも困難であることは確かである。ハルハ河左岸からの撤退に混乱を来したのは正確な集結の位置を明示してなかったことに起因する。そのために撤退は後方への方向の定まらぬ流れとなり、そこへ砲撃を受けて小半日収拾し難い状態に陥ったのである。  ハルハ河左岸に残ったのは岡本支隊と須見部隊である。  岡本支隊は、七月四日午後三時、小松原師団長が下達した命令によって、五日午前一時から撤退行動を開始した。  師団長は、本来隷下部隊でない須見部隊を他に先んじて後退させる意図であったというが、このときも岡本支隊の方が先になった。  その理由は、右岸に撤退後、安岡支隊(後述)を主力とする攻撃再興にあたって、岡本支隊を遠くホルステン河左岸ノロ高地に進出させるために後退の急を要したことと、須見部隊は撤退後安岡支隊の歩兵力の増強に充当する予定であったが、酒井部隊の撤退完了によってこの目的は一応達せられ、須見部隊は依然として交戦中で、各隊が分散しており、迅速な撤退は望めなかったからである。  須見部隊は岡本支隊に続いて左岸を撤し、フイ高地南東約二キロのビルゲル湖付近に兵力を集結することを命ぜられていた。  そのころ、須見部隊は苦闘のさなかにあった。弾薬は欠乏を告げ、対戦車火器の損壊も多く、反復される戦車との格闘で火焔瓶も残り少なかった。  第一大隊(安達大隊)は前方に突出して、後方を遮断され、猛攻にさらされていた。  三日夜に入って、大隊は後方主力ヘの合流を強行しようとした。その矢先、煌々《こうこう》としたヘッドライトで闇を裂きながら敵の乗車部隊が来た。安達大隊をめざして来たものかどうかは明らかでない。大隊は後退するのだから、当然、全員伏せて、発砲を禁じられた。敵は去りつつあった。誰か一人が発砲した。暴発であろう。そのせいであったかどうか、確かめようがないが、一旦去った敵が今度は戦車群を伴って引き返して来た。  照明弾が上る。戦車が正面と右側面から近迫してくる。大隊は重火器の戦力はゼロに近い。あとは携帯地雷と火焔瓶と手榴弾である。  肉薄攻撃は敵の曳光弾が地表を薙《な》ぎつけてくるなかを反復敢行された。  七月四日午前一時、もはや施す術がなくなり、安達大隊長以下突撃に移った。一台の戦車に挑んだ大隊長を他の戦車からの曳光弾が斃《たお》した。  大隊の総員突撃に敵はたじろいだのかもしれない。退却して行った。  明けて四日、大隊は敵の完全な包囲下にあった。終日間断ない砲撃にさらされ、炎熱に灼かれ、水はなかった。狂う者も出た。  兵たちは水ほしさに敵の水冷式機関銃を奪おうとして、危険も辞さなかった。五リットルほどの冷却水にはスピンドル油が混っていて、飲めたものではない。それを争って飲んだ。  大隊長代理の近藤大尉は、夜半十二時まで待って援軍が来ない場合には、血路をひらいてボイル湖へ突進しよう、と決意していた。  ボイル湖は遙か西方に夜目にも白く水面が光っていた。何故ボイル湖への突破を考えたか、常態では判断に苦しむ。ボイル湖は友軍のいるハルハ河両岸とは正反対、遙かに遠いのである。どうせ死ぬなら、兵たちに腹いっぱい水を呑ませてやろう、ということだが、水ならハルハ河にもある。全滅覚悟の死出の旅を一見自暴自棄に似た敵中突破で飾ろうとしたのかもしれない。  この全滅に瀕した大隊を須見連隊の主力が夜襲隊形で突入して救出することになるが、ここでまた関東軍参謀辻政信少佐が登場する。  彼は師団司令部とともに一旦右岸へ引き上げていたが、七月四日夕、左岸に残って苦戦している須見部隊本部へ出向いた。  彼は著書にこう書いている。 「まだ陽も高いのに連隊長は夕食の最中であった。不思議にもビールを飲んでいる。(中略)不快の念は、やがて憤怒の情に変った」  部下が全滅しかけているときであるから、事実なら、辻でなくても激怒するのは当然だが、このビールの件は辻の誤解である。ビール瓶の中身はハルハ河の水であっ|た。《(註一)》  つづいて、辻によれば、須見大佐はこう云ったという。 「安達の奴、勝手に暴進して、こんなことになったよ。仕方がないねえ……」  食事を終った連隊長は、さすがに心に咎《とが》めたらしく、重火器だけをその陣地に残して、歩兵の全力で夜襲し、遂に安達大隊を重囲から救出した、と、以上が辻によって書かれたことの概略である。  辻が須見大佐に対して悪意的であることの理由は判然しない。ノモンハン戦終末までのいずれかの時点に、なんらかの事情があったのかもしれない。  ともあれ、須見大佐は夜襲隊形の先頭に立って第一大隊の救出に向い、生き残った将兵が戦死した戦友の遺品を身につけて絶望的な突撃に移ろうとしていたときに現地に突入して、犠牲を払いながらも救出に成功したのである。  こうして、須見部隊は左岸攻撃隊の殿軍となって、ようやくハルハ河を渡河撤退することになる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  (註一) ハルハ河の水の入ったビール瓶をビールと早合点した辻参謀の誤解については、戦闘中須見連隊長の当番兵であったという外崎善太郎氏から、元参議院議員(戦後)の辻政信氏宛ての抗議の手紙がある。私信なので引用は遠慮するが、趣旨は、ハルハ河の水をビール瓶に詰めて須見連隊長にすすめたのは外崎氏であること、したがって辻氏の誤解であるから、須見氏宛てに率直に謝罪されたい、というものである。    辻氏はこれに対して、ビールの誤解は認めているが、安達大隊救出に関して連隊長が乗気でないと他の大隊長が不満を洩らしていたことは事実である、と回答している。 [#ここで字下げ終わり]     16  須見部隊の兵たちは二昼夜の激闘の末、ようやく渡河点に辿りつくと、河の水を貪り呑んで橋を渡った。暗澹とした撤退であった。第一大隊救出のために、第二大隊長菊池少佐以下少なからぬ将兵が失われ、あるいは傷ついた。  乗車部隊であった須見部隊にその快速を利して小林部隊(岡本・酒井両連隊)の外側を突進させ、敵の側背を衝かせようという当初の計画が、第二・第三大隊は途中で徒歩部隊に変更されたことは既に述べた。第一大隊だけが乗車部隊のままであったということは、上級司令部では第一大隊(安達大隊)だけで当初に須見連隊に課せられた任務を遂行させようとしたものと考えられる。  もしそうであれば、渡河後、前進を開始した第一大隊が突出するのは当然である。実際には、前進開始後間もなく、ほとんど出会い頭に敵機甲部隊と遭遇して戦闘に入ったから、連隊主力と甚だしく離隔していたわけではないが、両者は分断され、連隊長は終始第一大隊を掌握することができなかった。連隊長としては不本意であったにちがいない。辻が著書で須見部隊長に云わせているように「安達の奴、勝手に暴進して、こんなことになったよ」というようなことではなかったであろう。安達大隊の悲運は、結果からみれば、当初の計画が変更されたことにある。  たった一本の舟橋は、左岸から撤退する全部隊の謂わば命綱である。その橋梁確保の任にあたった工兵隊長斎藤勇中佐は、敵が橋梁めざして殺到する懸念の濃厚な戦況下で、撤退の最後尾となった須見部隊が渡橋し終るまで、沈着に危機的時間の経過に耐えていた。  斎藤中佐は須見大佐とは同期で親交があったというから、師団の撤退命令による部署行動では撤退順位先頭の須見部隊を最後尾ならしめた経過の偶然は、最後の渡河点で劇的な場面を演出したことになる。七師団戦記『ノモンハンの死闘』には、須見部隊長の悴《やつ》れた顔を見た斎藤中佐がこう云ったとある。 「須見! だいぶ苦戦したそうだなあ。あわててはいかんぞ。落ちつけ。貴様の隊が一人でも残っている間は、オレはここを動かんから安心しろ」  七月五日午前五時過ぎ、須見部隊は渡り終った。優勢な戦車群が追尾して迫っていた。橋梁は爆破された。対岸の戦車が一斉に砲撃を開始した。  ハルハ河左岸攻撃、つまり日本軍の外蒙領への侵入作戦は二昼夜で挫折した。この後、日本軍が左岸へ進出したことはなかった。このときから停戦までの約二カ月半、戦闘は悉く右岸で行われたのである。  渡河撤退は斎藤中佐以下の勇気ある工兵隊に見守られて終了したが、架橋爆破後に若干の負傷者が対岸に残されることは避けられなかった。彼らはよろめきながら、三々五々、河岸に辿りつき、消耗し尽した体で泳ぎ渡ろうとした。負傷者には、しかし、速すぎる流速であった。右岸に渡った戦友たちがなす術もなく見守るなかを、水に呑まれて流された兵たちも少なくなかったという。  辻参謀は、左岸での戦闘末期、須見部隊の軍旗が右岸の後方へ退げてあったことを知って、こう書いている。 「軍旗は既に将軍廟に後退させていたのである。連隊と生死を共にせよとて、三千の将兵の魂として授けられた軍旗を、場合もあろうに、数里後方の将軍廟に後退してあるとは何事か。——」  須見部隊長は万一の場合を考慮して軍旗をあらかじめ後方に退げたのである。それは、彼が本来直属する第七師団長・園部和一郎中将が彼に与えた注意を尊重した結果である。園部中将は戦局の帰趨《きすう》を予見していた。須見部隊が出動して間もなく、中将は幕僚を使者として戦場へ送り、須見大佐にこまやかな配慮に満ちた注意事項を伝えさせ、左岸撤退後に同様の主旨の書簡を大佐に送っている。軍旗に関しては、要すれば渡河せしめられざるを希望する、というのである。  軍旗は連隊の象徴であるから、軍人がこれを身をもって護持しようとする気概を要求されることは当然といえば当然である。戦況急迫して、もはや全滅のほかなしというときには、これを焼いて、全滅しても敵には渡さないことが、軍人に必要な心構えとされていた。だが、そのことは、場合によっては、部隊の行動を心理的に拘束しかねなかった。戦は、勝たねばならない。勝とうがために、あらゆることがなされねばならない。玉砕だけが美徳ではないのである。軍旗を失う危険が予想されるときには、軍旗を安全圏に置いて心理的自由を保持することも、やはり戦法の一つである。要は、戦勢の帰趨を予見し得るか、し得ないかの違いである。  天皇の軍隊が天皇の象徴としての軍旗を尊崇するという形式主義も、天皇の軍隊であることを疑わなかった軍人にとっては、当然のことであった。軍旗は、しかし、所詮、旗である。指揮官は、必要とあれば部下を躊躇することなく死地に投じなければならないが、反面、指揮官は可能な限り部下の生命の保全を図る義務がある。この義務を怠った指揮官が如何に多かったことか。軍旗はためく下に如何に多くの兵が徒死しなければならなかったことか。  軍旗には、奇妙な側面がある。各連隊にはそれぞれの輝かしい戦歴を誇りたい気風があって、それを形で表わすのが軍旗である。新編成の連隊は別のこと、古い連隊の軍旗は、ほとんど例外なしに周りの房だけになっている。千軍万馬の間を往来した証拠としてである。どれだけ長く戦場に在り、どのような戦闘をすれば、ああも見事に房だけが残って、中の布地が綺麗になくなるのか。私は前後三回聞いたことがある。最初は、子供の時分に、日曜祭日などに陸軍用達をしていた私の家によく遊びに来ていた特務曹長に。この人は済南事件に出動して戦死したが、この人が笑顔で云ったのを憶えている。軍旗があまりサラに見えるのは、働きがなかったようでみっともないから、ということであった。二度目は、満洲事変のとき、そのころ私は中学四年になっていて軍事教練も必須科目として受けていたが、内地から動員で渡満してきた兵隊が上陸直後民家に分宿したことがあった。私の寄宿先にも兵隊が二人来た。その人たちに私が尋ねたときの答も、前回と同様であった。三度目は、私自身が既に二年兵になっていて、新編成部隊で砲兵から歩兵に「成り下った」と思っている五年兵たちと内務班を共にしたときである。新編成部隊の軍旗は当然真新しかったが、私が軍旗がぼろぼろになる理由を尋ねると、五年兵の一人が私を笑った。「上等兵よ、軍衣袴《ぐんいこ》は一装用のばりっとしたのがいかすがよ、軍旗は房だけがぼてっと垂れ下るようでなくちゃ、いかさんのだ」 「破れてないものを破るんですか」 「弾丸が飛んで来て、あんなに四角く中だけぶち抜いてくれると思うかよ」 「破ったり切り取ったりすること、できますか」 「いまに、この軍旗もそうなるよ。連隊がどんなに激戦をやってきたかってことの看板だ。いい看板を作ってくれりゃ、連隊長怒るわけがねえだろう」  私は軍旗に作為が施される現場を目撃したことはないが、部隊の先頭に立つ軍旗が房だけになっている理由をもはや疑わない。したがって、私は、軍旗にかかわる荘厳な儀式には茶番的要素が多分にあると思わずにはいられない。 「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」ということは歴史的に事実でないが、事実だと信じ、軍旗を天皇の化身だとして崇めることに些かの疑惑も抱かなかった軍人が、軍旗が房だけになってゆく過程に疑惑も怒りも覚えないのが不思議なのである。  軍旗の姿に関してはどうでもよいとしよう。軍旗は崇めるべきものだとしよう。それならば、来るべき戦闘に部隊の戦力が破断界に達するかもしれないことを予想して、軍旗を安全圏に後退させておくことは賢明な処置というべきである。私は辻政信の見解に反対しようがために須見新一郎の側に立つのではない。須見元大佐は、むしろ、軍旗をただの旗としか考えない私の見解には全く反対であろうと想像する。それはどうでもよい。私は、戦局の帰趨を予見して直属の部下である須見部隊長に軍旗の安全を図ることを勧めた園部師団長のような、形式に囚われない、冷静で合理的な判断が軍人のなかにあったことを珍重とするだけである。  本筋に戻ろう。  左岸攻撃隊の右岸への撤退は七月五日午前五時過ぎに完了したが、左岸攻撃に呼応して行われるはずであった安岡支隊の右岸攻撃については、まだ少しも触れていない。     17  安岡支隊長(中将安岡正臣)が右岸攻撃を開始するときに掌握していた兵力は、戦車第三連隊(長・吉丸清武大佐)の八九式中戦車二五輛、九四式軽装甲車七輛、戦車第四連隊(長・玉田美郎大佐)の八九式中戦車七輛、九五式軽戦車三五輛、九四式軽装甲車一〇輛、山県歩兵部隊主力、独立野砲兵第一連隊、工兵第二十四連隊等であった。  七月二日午後三時過ぎ、安岡支隊はマンズテ湖付近に兵力を集結し、先着していた山県部隊を指揮下に入れた。  師団後方参謀伊藤昇大尉が三日払暁攻撃開始の師団命令を持って来て、右岸にあるソ連軍に退却の兆候が見えるという情報を伝えた。これは、おそらく、飛行機偵察に基づく誤判に希望的観測が加味された結果であったろう。この誤報は小さくない作用を安岡支隊に及ぼした。敵が浮き足立って退却に移ろうとしているのなら、三日払暁からの攻撃では遅きに失する。速かに追撃する必要がある。  安岡中将の意図が追撃に傾きかけたときに、飛来した友軍機が投下して行った通信筒にも、伊藤大尉がもたらした情報を裏書きするような報告があった。右岸のソ連軍が後退している、というのである。  事実は退却などしてはいなかったのであるから、飛行機からの視認が錯覚でなかったとすれば、配置を交替した兵力が三々五々後方へ退りつつあったのかもしれず、佯動《ようどう》であったのかもしれない。  安岡支隊長は攻撃開始を三日払暁から二日夕刻に繰り上げた。追撃である。  その要領は、山県歩兵部隊がハルハ河右岸に沿って南下、川又へ向う。戦車第三連隊は歩兵戦闘に協力して敵を捕捉する如く行動する。戦車第四連隊は戦車第三連隊の左側後方を、第三連隊に協力する如く前進する。砲兵は敵砲兵を主敵とするが、歩・戦・砲の協力を企図する。  行動要領は字句の限りでは簡単だが、歩戦砲の連繋は前進開始早々に切れてしまった。理由の一は夜闇へ向っての攻撃前進であったこと、二は諸隊の進撃速度が不可避的に異ること、そして三に何よりも追撃の観念が連繋保持に優先したことである。午後七時四十分ごろ、再び飛行機からの通信筒の投下によって、「敵ハ続々川又渡河点ヲ経テ退却中ナリ速ニ追撃スルヲ要ス」と、連絡があったという。ソ連軍の佯動とすれば出来過ぎの感があるが、安岡支隊の追撃観念はいよいよ固まったのである。  吉丸戦車隊は前進開始とほとんど同時に正面(南方)から砲撃されたが、時速約一五キロで前進したために、歩戦協同すべき相手の山県部隊を後方に引き離してしまった。吉丸部隊は739高地のソ軍陣地東側を抜き、737高地、731高地付近を突破、午後八時ごろには733高地ソ軍陣地付近に達し、その間、敵戦車・装甲車・対戦車砲・野砲に損害を与えたが、吉丸隊も敵の速射砲・戦車・装甲車の備砲からの砲撃によって損害を蒙り、反転して午後九時半ごろ、先に通過した731高地付近に部隊を集結した。川又への突進は成らなかったのである。先のソ連退却の情報は全くの虚報であった。733高地付近のソ軍陣地を防護している火力は分厚い壁のようである。  吉丸戦車隊から引き離された山県部隊は、737高地に達し、七月三日零時半ごろ前進に移った。安岡支隊全体が退却している敵を追撃する意図であったから、敵情の把握はきわめて不充分なのである。それに加えて、きわ立った目印もない地形を夜間行動するために、方向の維持が容易でない。部隊は731高地付近に達して、爾後の行動のために偵察をし直す必要に迫られた。ここで先に反転集結していた吉丸戦車隊と合流し得たのは、行動予定にはない偶然のことである。  玉田戦車隊は吉丸戦車隊の後方左側を前進することになっていたが、退却中と報じられている敵を急追するには当初の行動要領は不適当と判断して、川又を直撃する企図の下に吉丸部隊進路の東側にある752高地を一応の目標として突進した。敵は、しかし、計画通りの前進を許しはしなかった。玉田部隊は、右前方左岸台上からであろうか、間断ない砲撃を蒙り、被弾を避けるために進路が東へ偏倚した。そのため、752高地より遙かに東へ寄った757高地に達した。友軍との連絡は絶えている。状況全く不明である。玉田部隊は午後十一時ごろ再び前進を開始し、幾度かソ軍陣地に衝き当り、交戦しつつ移動、敵に損害を与えた割りには蒙った損害は軽微であったが、友軍との連繋を恢復して攻撃態勢をととのえるために反転して、七月三日午前四時半ごろ、ウズル水付近に待機していた段列位置に集結した。玉田部隊の川又への突進も成功しなかったのである。  七月二日夜に繰り上げた安岡支隊による右岸攻撃は、諸隊いずれも予期に反した結果をみた。しかし、敵退却中という誤報がなかったとして、予定通り三日払暁の攻撃を行えば二日夜の攻撃にまさる戦果をあげ得たかといえば、それは疑わしいのである。翌三日に強行された攻撃の戦闘経緯が示すのと相似た戦況に陥ったであろうと思われる。  日本軍の戦車部隊は創設もおそく、地上戦闘の主戦力を構成するという認識にも欠けていた。したがって、当然、戦車の戦闘性能もソ連軍のそれに較べて劣っていた。火力も速度も装甲も通信設備においても。日本軍の八九式戦車の装甲板一七ミリはソ連軍の戦車砲で簡単に破壊されたが、八九式戦車の五七ミリ短身砲ではソ連戦車の装甲を破壊できなかった。日本軍機甲部隊は工業化のおくれていた中国の蒋介石軍と戦ってこそ威力を発揮し得たに過ぎないのである。  七月二日夜の安岡支隊による右岸攻撃は、以上のような経過で中断したが、私は記述する途中で判断を停止して回避した部分がある。それは、友軍相互間の交信装置も照明も不備、性能も不良な安岡支隊戦車群が、ろくに敵情捜索もせず、追撃をあせって急進し、夜間に敵の抵抗に遭ったのに、収拾し難い混乱を来すこともなく反転集結し得たのは何故であろうか、ということである。  ある戦史資料によれば、当夜は終夜大雷雨がつづいて、目も眩むばかりの稲妻がひっきりなしに閃いていたから、戦場が照し出されて、各隊は付近の地形や隣接部隊を視野におさめることができた、というのである。  これは情景を描写する上では願ってもない材料であった。夜間の機甲部隊交戦の凄まじさが目に見えるようである。けれども、右岸攻撃隊の戦車部隊が突入交戦した時刻には、左岸攻撃隊はタギ湖付近の渡河点に集結していたか集結すべく行動中であったはずである。左岸攻撃隊の当夜に関する資料(戦史・日記・手記の類)には、私が目を通した限りでは、雷雨を記した箇所は全くなかった。タギ湖付近から733高地付近までの距離は、縮尺二十万分の一の地図によってのことだが、計算すると約十キロ、多少の誤差を見込んで大きくとっても十五キロを越えないであろう。大平原で終夜の大雷雨が十キロや十五キロの隔りで、あったりなかったりすることが、私には納得がゆきかねた。雨は一方で降らないことがあり得ても、雷鳴やひっきりなしの稲妻が、聞えず、見えない、ということは想像できなかった。  当時の新聞を念のため調べると、左岸攻撃隊従軍記者の記事には、疎らながら星が輝いていたり、月が煌々としていたりする。右岸のそれは、車軸を流すような雷雨とあり、午後十時には空は晴れ渡って月が出たとある。午後十一時には玉田戦車部隊は雷雨に乗じて攻撃前進を再興しているはずなのである。  こうして私は、同じ時刻に豪雨でずぶ濡れになったりカラカラに乾いたりしなければならなかった。結局、私は描写上は効果的な雷雨を割愛した。雷雨を誌した戦史を疑うのでは決してない。私自身判断を停止しただけのことで|ある。《(註二)》  閑話休題。  明けて七月三日、戦闘は苛烈の度を加えることになる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  (註二) 左岸攻撃隊の七月二日夜の行動間は当然雷雨に見舞われたであろうと想像されたが、私が参照した限りの資料では、同夜川又へ向った安岡戦車部隊を包んだ大雷雨の形跡が、僅か十キロほど北方を渡河する左岸攻撃隊の行動間には不思議に記述されてなかった。不審に堪えなかったが判断を停止せざる得なかったところ、井置部隊の作間毅氏から次のような連絡をいただいた。  「(前段略)   当夜丁度小生の部隊も渡河点目指して進撃中で物凄い雷雨でありました。本当に目もあけられない程のドシャ降りで間断なく光る雷明で前後を確認しながら進んだものです。御参考迄(以下略)」   雷雨はやはり戦場一帯を蔽っていたのである。 [#ここで字下げ終わり]     18  前夜(七月二日夜)の安岡支隊の攻撃では、ソ軍陣地733高地(バルシャガル西高地)に打撃を与えることはできなかった。  その夜の経験から、攻撃再興には、まず敵情を綿密に捜索して、各種兵科各隊の戦力を統合して組織的に発揮する必要が当然認識されなければならなかった。これを実行するには、準備と時間が必要であった。  けれども、明けて七月三日は、フイ高地(721高地)付近からハルハ河左岸へ渡河した第二十三師団主力の攻撃が強行される日である。その戦闘経過は既に述べたが、右岸の安岡支隊には、左岸攻撃に呼応して川又方面へ敵を圧迫する任務が課せられている。右岸攻撃は、前夜の首尾如何にかかわらず、敢行されなければならない。  これが、七月三日朝の、安岡支隊長の決意であった。  前夜の夜闇を利して敵陣に殺到しようとする計画さえ敵の砲火によって阻止されたのであるから、三日天明以後の攻撃が前夜にまさる猛火にさらされることは必定であった。  その危険を冒す安岡支隊には、これという妙案もなかった。各隊指揮官が苦戦を予期していたときに、安岡支隊長が何に勝機を見出していたのか、理解の外である。敢行せねばならぬことだから、敢行する、というだけのことであったのか、無二無三に突進すれば勝機を掴むことができると考えていたのか。いずれにしても、破滅型の決戦主義や敵を甘く見ての独善主義、あるいは、やってみなければわからない、やればなんとかなるという非合理な楽天主義は、近代戦を戦う他の国々には見られない、日本軍に固有の軍事思想であった。  七月三日、戦車第三連隊(吉丸部隊)の任務は、前夜同様、歩兵部隊(山県部隊)に協力して、ソ連軍を川又方面へ追撃捕捉することである。退却などしていないと既に判明した敵を、追撃というのはおかしいが、日本軍らしい用語法である。字句によって表出される事態が現実に合致しようがすまいが、どうでもいい、威勢がよければいいのである。  吉丸大佐は戦車部隊の先頭に立って、正午過ぎ、前進を開始した。事前に歩兵部隊の山県大佐と協議した上での行動であったが協議の効果は表われなかった。この日も、戦車部隊と歩兵部隊の前進速度には著しいひらきがあって、吉丸部隊は山県部隊を遙かに引き離した。  その結果、吉丸戦車部隊はこの方面のソ連軍の全火力を浴びることになった。敵火力の主体は、多数の四十五ミリ対戦車砲と、同じく四十五ミリ速射砲を装備した戦車・装甲車であったらしい。  吉丸部隊は果敢であった。濃密な火網のなかを前進を続行した。  ソ軍陣地には日本軍戦車部隊の前進正面にピアノ線を直径二メートルほどのコイル状に巻いた障碍物を張りめぐらしてあった。このピアノ線鉄条網は、鋼線は細いが弾力があって、踏めば潰れる、放せば元に戻る。吉丸部隊の戦車がこの鉄条網に触れると、ピアノ線がキャタピラに絡みついて、動けば動くほどますます絡み、遂には進退の自由を奪われた。そこを対戦車火器に捕捉されて、この日、ピアノ線による損害だけでも少なくとも十輛にのぼったという。  それでもなお733高地の一角に突入した吉丸部隊は、予期していたとはいえ、激烈な砲火を浴びて戦力が一挙に半減し、吉丸連隊長を失った。連隊長級の戦死としては、先の東捜索隊長、翌四日の左岸から撤退直後の師団参謀長大内大佐である。  吉丸部隊の突進間にソ軍の戦車三二輛、装甲車三五輛を破壊したというが、吉丸部隊が数量的に遙かに劣勢であった戦車対戦車戦闘の戦果としては、あまりに見事過ぎるようである。  仮りに事実であるとしても、損耗補填の力量からみれば、ソ連軍にとっては損害軽微といってよく、関東軍にとっては戦車に限れば致命傷に近い損害といってよかった。  吉丸部隊と協同関係にある山県部隊(歩兵)は、前夜同様、吉丸部隊から引き離され、733高地へ向って前進の途中で、前方に激しい砲声を聞いた。吉丸部隊が交戦をはじめたにちがいなかった。山県部隊はその戦闘に参加するため前進を急いだが、間もなくこの部隊も敵の砲火に前進を阻まれた。  どうにか敵陣の一角に取りついたのは、兵たちが死力を尽した成果であるが、攻撃はそこまでであった。それ以上は少しも進展しなかった。兵たちは、出動以来、ほとんど連日の機動と戦闘で、疲れていた。攻撃はあらかじめ準備されたはずであるのに、この三日には給水が杜絶したというから、機械が戦闘するのではなく生身の人間が戦闘する歩兵部隊としては、やはり後方の準備が甚だしく不足していたのである。  山県部隊長は前夜とこの日の戦闘経験から、防備堅固な敵陣に対して徒らに暴虎馮河《ぼうこひょうが》の勇をふるうことの無意味を痛感したようであった。このことが、たぶん、一両日後に小林歩兵団長の指揮下に入ってから、小林少将との間に意思の疎通を欠く原因となったのであろうと思われる。  戦車第四連隊(玉田部隊)は、三日午前八時ごろ、ウズル水付近から川又へ向って行動を起こした。進路は、前夜反転後ウズル水に集結する途中で通過した経路を、今度は逆に前進した。755高地南西に進出したのは午前十時ごろであった。  右前方、733高地から南東へかけて、ソ連軍陣地が望見された。約一個大隊程度の歩兵が野砲と対戦車砲を充分に装備して陣地を固めているらしかった。突進すれば、玉田部隊も吉丸部隊と同様の苦戦を強いられたにちがいなかった。そのころ、敵砲弾は玉田部隊周辺に盛んに落下していた。正面と川又対岸の台上陣地からと、ホルステン河南方のノロ高地(742高地)からである。  敵は、日本軍の攻撃に先んじて、右岸の広域正面にわたって布陣をほぼ完了していたばかりでなく、折りをみて反攻に転じようとしていた。正午ごろ、玉田部隊の左翼に、つまり南側から、七乃至八輛の戦車群と一個小隊ほどの歩兵が砲兵支援の下に攻撃を仕掛けて来たのは、その試みと看てよいであろう。  玉田部隊はこれを撃退したが、部隊長玉田大佐は、先に述べた山県部隊長同様に、本格的準備もなしに敵の堅塁に攻撃を仕掛けることを無謀と判断して、部隊主力を後退させ、一部を捜索に当らせる処置をとった。攻撃を再興するには充分に準備をととのえた支隊全体の連繋が要求される状況であったのである。  敵退却中という虚報に乗じようとした安岡支隊の「追撃」は、これで二度とも敵の頑強な抵抗の前に屈したのだ。  先に東京中央に無断で行われたタムスク空襲以後、飛行機による越境攻撃を禁止されてから、第二飛行集団の仕事は専らソ軍機を邀撃《ようげき》することであった。  既述の七月三日の第二十三師団主力による地上攻撃に協力するため、飛行集団は同日払暁からの出撃を予定していたが、気象状況が悪くて出撃しなかった。その後の行動も概して天候次第であった。爆撃隊は敵砲兵や機甲部隊を襲撃したが、不備な条件下で敢闘を余儀なくされている地上部隊にとっては、溜飲を下げるほどの活躍とは見えず、また事実、地上戦闘を有利に導いたことはなかった。  これは、飛行部隊が怠慢なのでも、戦闘技術が未熟なのでもなかった。おそらく、兵術思想の問題であったであろう。飛行機は、当然ながら、空戦を重んずる。地上は地上、空は空である。空戦では「以寡撃衆」の技倆を発揮することを本懐とするが、地上協力は極端にいえば余技に属するのである。  七月三日の両岸戦闘は、第二十三師団としては決戦であった。飛行部隊の緊密な協力が要求され、実現するべきであった。実際には、相互の連絡は全くなかった。これも、地上は地上、空は空である。一方的に飛行集団側の手落ちとはいえない。双方に立体的作戦を遂行する配慮が欠けていたのである。  常識的には、決戦に臨んだ友軍相互間の連絡がないなどということは、連絡をとる手段が一切失われた断末魔の状況以外には、考えられない。戦況は、攻撃中止を余儀なくされるに至ったとはいっても、決して潰滅状態ではなかった。では、何故か。  想像するのに、各兵科、各戦術単位、各戦略単位の謂わばセクト主義である。各戦闘単位は自主独往の果敢さを要求されるが、それと全く同等の重要度が協力関係にあっても、協力はほとんどいつも次等以下とされたのである。それに加えて、戦闘部隊は実戦のみに重きをおいて、事務に類する連絡のような作業は、特に直属上下の関係を除いては、忽《ゆるが》せにしがちであったといっても過言ではなかろうと思う。  飛行団と師団との間に連絡がとれたのは、四日の午後になってからであったということである。戦況から判断して、余儀ない事情があったとは考えられないが、どのような事情があったにせよ、信じられないほどにおそいのである。  ソ軍機はタムスク爆撃以後戦場上空に姿を現わさなかったが、それもちょうど一週間のことでしかなかった。七月三日には再び活動を開始して、渡河点を襲撃したり、右岸の山県部隊に地上掃射を加えたりしはじめた。  四日には、早くも、日本軍の第二飛行集団に較べて対等以上の航空兵力を集結していたようである。  これ以後、日本軍飛行部隊の精鋭は出撃を反復するごとに疲労を増し、ソ軍航空勢力は量的にも質的にも優位に立ちはじめたのである。  小松原師団長は右岸へ撤収後、左岸から相次いで撤退して来る部隊を安岡支隊に増強して、バルシャガル西(733)高地線の敵陣を撃破、川又へ圧迫し、同時に前日玉田部隊にホルステン河南岸から砲火を浴びせたノロ(742)高地方面にも有力部隊を進出させようとして、七月四日午後三時、作戦命令を下した。左岸からの撤退部隊は、まだ、右岸に集結中か移動中であったり、左岸に残留(岡本・須見部隊)していたときである。  この命令によると、安岡支隊は四日にも攻撃続行の任務が課せられていた。  安岡支隊への増加部隊はまだ到着していないが、支隊長は前日までの兵力で攻撃再興を企てた。明らかに無理である。第一線部隊は攻撃発起の態勢になかった。支隊本部から最も遠く離れている玉田戦車部隊に対しては、この攻撃命令が三日夜のうちに達しなかったという。  結局、四日の攻撃は不発に終った。     19  事件の発端からハルハ河両岸攻撃の終末までを概括すると、関東軍は第二十三師団と安岡支隊の協同作戦で、ハルハ河を越えたソ蒙軍を一挙に壊滅させようと計画し、その用兵は[#「隹+鳥」、unicode9de6]を割くのに牛刀を用いる類であると考え、成功疑いなしとしていた時期があった。  事実は甚だしく案に相違したのである。 「その原因は、敵情の判断を誤ったことである」  と、紛争拡大の根拠となった『満ソ国境紛争処理要綱』の起案者であり、戦闘開始後はその作戦指導の主務者となった辻政信元参謀が誌している。 「我と略々《ほぼ》同等と判断した敵の兵力は、我に倍するものであり、特に量を誇る戦車と、威力の大きい重砲とは、遺憾ながら意外とするところであった」  判断の誤りであったといえば、それまでである。確かにその通りであった。それならば、七月中旬以降には、後述するように砲兵戦に切り換えることになるが、既に敵の力量を知った上での準備をしたはずであるから、敵情の判断に誤りはないことになるはずだが、事実の経過は戦力差により一層のひらきがあることを示すのである。  関東軍はソ連が一局地に集中し得る戦力の測定を誤った。再三にわたって誤ったといってよい。それならば、ソ連は何故誤らなかったのか。何故、関東軍が集中し得る戦力を過小評価せずに、充分な準備が整うのを待って大攻勢に出たか。何故ソ連は、日本軍の作戦や使用兵力などに関して「遺憾ながら意外とする」ような失態に陥ることから自らを救い得ていたのか。  問題は、関東軍の「判断」は判断ではなくて希望的あるいは独善的推定であるに過ぎず、ソ連のそれは綿密な捜索や情報の上に築かれた判断であったという質的な違いである。  関東軍は、謂わば、無い袖は振れないような戦闘をした。ソ連は振ろうと思えば振る袖を持っていたのである。  物量にはかなわない、ということがしきりに云われた。それは、軍隊は強かったのだが、という負け惜しみに屡々聞える。日本軍将兵は確かに勇敢であった。今後の経過が、ますます、悲愴なまでの勇敢さを示すはずである。だが、物量でかなうかかなわないかぐらいのことは、指導者たちにはあらかじめ明々白々でなければならなかった。明白であって、なおかつ冒したとすれば、その責任は誰に帰属するか、という問題が残る。  日本軍とソ連軍とでは、戦闘に対処する配慮の密度がまるでちがっていたようである。  ソ軍は、たとえば、戦車を火焔瓶で焼かれると、発火しにくいディーゼル・エンジンの戦車を直ぐに繰り出して来たという。物量あればこそだが、なければ強がりは云わないことである。  日本軍は、一度やって失敗したことを、同じ方法、同じ兵力で、二度三度やろうとした。他に手がないから仕方がないというのでは、近代的な戦闘を組織することはできないのである。準備が整わないうちに行動を起こすことが再々であった。行動を発起しなければ戦意不足とみられるからかもしれない。あるいは、増援が来ないうちに、自力で目的を達成しようとしたりする。功をあせった面子意識である。極論すれば、戦闘に必要な弾薬、火砲、水、糧秣《りょうまつ》は乏しく、面子だの郷土の誉れだの不惜身命《ふしやくしんみよう》だの不用のものが多過ぎた。  ソ軍は、陣地の火砲を疎開し、偽装し、日本軍が何処から射たれるか識別に苦しむほどであったし、重要正面にはピアノ線鉄条網のような障碍物をめぐらして、要所に狙撃兵力を配置してあった。  日本軍はせいぜい壕を掘った程度である。七月上旬までの戦闘経過が示すように、万全の備えを固めつつあった敵に捜索もせずに突入を試みて失敗したのである。  ソ連軍の指導者と日本軍の指導者とでは、戦闘についての考え方が根本的に異っていた。その最も顕著な現われは、一方は戦闘員の生命を惜しんで打撃効果を上げるように戦闘を組織していたのに対して、他方は戦闘員の生命を鴻毛《こうもう》の軽きに置くことに些かも疑いを抱かなかったことである。  ソ連軍がノモンハンで驚くべき強靭性を発揮したことについて、後年、私はノモンハン戦の生還者である友人に尋ねたことがある。  元軍曹の藤沢の答はこうであった。 「あのときはヨーロッパが微妙な状態だったよな。ソ連としては、ヒトラーを中心とするヨーロッパの動きに片ときも眼をはなせない。なんとかうまく処理しようということが最大の課題だっただろうね。それには、背なかの方を日本に突っつかれるのがうるさくてしようがない。ヨーロッパでソ連に危険がさし迫っているというのなら話は別だが、あの春ごろからドイツがソ連に接近しそうな外交的ジェスチャーを見せていたから、この際日本が喧嘩を売って来るんなら、一つ喧嘩をして、はっきりケリをつけておこうという決意があったんだと思うね。それから、もう一つは、あのころスターリンが云ってただろ、強気なことを……」 「……党大会か何かで」 「そう」 「……祖国の独立のために闘っている諸民族を支持する立場に立つとか、ソ連の国境の不可侵を犯そうとする戦争挑発者の打撃に対しては二倍の打撃をもって応ずるとか……」 「それだ。あのころは、ソ連以外の社会主義の国といえば、外蒙だけだったからな、スターリンとしては世界に宣言した手前、外蒙を見殺しにはできんよ」 「それはわかるが、日本の軍国主義を相手にしてだよ、どうして局地戦以上には拡大しないという見透しを立てられたかだ」 「だから物量にまかせて徹底的にやって来たんだとは考えられんか。このぐらいやれば日本は諦めるだろうと……」  私はまだ半信半疑であった。  ソ連が国境を堅持する決意は、歴史を繙けば明らかなことだが、ノモンハン戦の三年も前から表明されていた。つまり、一九三六年(昭和十一年)三月の『ソ蒙相互援助条約』締結のときである。そのときから、スターリンは、外蒙の領域保持を自国同様に考えていること、必要が生ずれば武力による防衛を辞さないことを、言明しているのである。  ノモンハン付近で衝突が起きたとき、日本側、殊に関東軍は、前年の張鼓峰事件、前々年のカンチャーズ事件でソ連が意外に簡単に鉾をおさめたことから、図に乗ったきらいがある。そのことが、辻参謀たちが「敵情の判断を誤ったこと」の下地にある。  ソ連側が、私の友人が云うように「このぐらいやれば日本は諦めるだろう」と計算していたかどうかは、私には依然として疑問だが、武力衝突が本格的戦闘の様相をおびても、ソ連としては、彼らの主張する「国境」の確保が保障されれば、それ以上に戦闘を拡大する必要もなければ、意図もなかったことは、当時のヨーロッパ情勢の推移とノモンハン戦の進展を照合すれば、納得のゆくことである。  残る問題は、ソ連の相手が暴走を意に介しない日本軍国主義である、ということである。昭和十一年の二・二六事件を最大の契機として完全に軍国化した日本が、特にその最も野心的な出先軍である関東軍が、対ソ全面戦争化を躊躇するか。既に折りにふれてみてきた通り、東京中央は暴走しがちな関東軍に対して、不手際ながら、制御手段をとっていた。それは、対ソ戦を忌避したのではなくて、『支那事変』というますます深刻化する難問を抱えていたからである。『支那事変』がなければ、中央は関東軍を制御したくはなかったであろうと思われる。  その間の事情を、ソ連は正確に測定していたようである。関東軍が満洲西部の満蒙国境付近にどれだけの兵力を使用し得るか、後方からの戦力補給事情はどうなっているかを判定できずに、ヨーロッパの「複雑怪奇」な情勢下にあるソ連が好戦的な関東軍と砲火を交えることは、甚だ危険な仕事であったはずである。  歴史には、時間をかけてようやく判読できる難解な古文書のようなところがある。ノモンハン事件が起きたのは一九三九年五月中旬のはじめである。五月末には、ソ連の外交方針が、のちに独ソ間の通商協定の締結となって現われるような独ソ接近の萌芽を匂わせたが、日本がその動向を確実に捉えた形跡はない。日本は、日独伊三国同盟案をもっぱらソ連を仮想敵とする防共協定強化の方向へ進めるか、ドイツが主張するように英仏をも『枢軸』三国の仮想敵に含めるかについて、八月下旬の平沼内閣総辞職まで蜿蜒《えんえん》と会議を重ねるのである。  七月二十一日には、独ソ間に通商協定に関する交渉開始の発表があった。独ソは、少なくとも外見上は、日を追って友好的になりつつあったのである。その時期は、ノモンハンでは、日ソ両軍の間に砲兵戦が交され、戦局激化の傾向が明らかであった。  この通商協定は八月十九日に正式調印をみるが、これは単発の外交措置ではなかった。直ぐ後ろに、だが極秘裡に、独ソ不可侵条約が準備されていたのである。  八月二十一日に独ソ不可侵条約の締結に関する公表があって、正式調印は八月二十三日に行われた。電撃的なショックであった。日本の平沼内閣は、八月二十八日、ヨーロッパの情勢は「複雑怪奇」であるとして、情勢の急変に対応する術を知らず、総辞職した。  ノモンハンでは、八月二十日から、ソ連軍の大攻勢が開始され、現地日本軍は実質的には八月二十六・七・八日に破断界に陥るのである。ソ連軍は、それ以後、組織的戦闘は終ったとして、敢て動かない。  九月一日、ドイツ軍はポーランドに怒濤の如く侵入する。  ソ連は、九月十七日、つまりモスクワで日ソ間のノモンハン事件に関する停戦協定が成立したその次の日、軍隊をポーランドヘ進撃させる。  独ソ不可侵条約は、ドイツとソ連とでポーランドを分割するという前提の下に締結されたと謂われている。私流に解釈すれば、ソ連は、ミュンヘン会議からチェコスロヴァキア解体に至る間の英仏の対独宥和政策・利己的平和政策に不信を抱き、自らもまた別個の利己的平和政策をとった。ドイツと不可侵条約を結び、小国ポーランドを犠牲としてドイツの欲望の祭壇に供え、自らも犠牲の分け前を取得することによって暫定的に安全界域をひろげ、一時の平和を設定したのである。  ドイツのポーランド侵入を見た英仏は、それまでの対独宥和政策に終止符を打ち、九月三日、対独宣戦布告に踏み切る。第二次大戦がはじまったのである。  ヨーロッパの激動する情勢に直面していて、ソ連は、極東ホロンバイルの草原でいつまでも日本軍と砲火を交えていることは、決して得策ではなかったであろう。  時間を戻そう。ノモンハンではまだ七月五日である。     20  第二十三師団長小松原中将は、右岸へ撤退(四日)後、右岸での攻撃再開を急ごうとしたが、左岸からの撤退諸部隊の移動集結に予想外の時間がかかって、諸隊の統一的な攻撃準備命令を下達できたのは七月六日午後五時であった。これに基づく諸隊の攻撃再開は、翌七日夕刻からのことになる。  小林少将指揮下の歩兵団は、七月五日朝七時、安岡支隊の指揮下に入った。このときの歩兵団は、在来の岡本部隊が支隊となって別途任務についたから、在来の酒井部隊(歩第七十二連隊)と、右岸にあった山県部隊(歩第六十四連隊)である。  山県部隊の位置は738高地付近と報告されていたが、飛行機偵察によると738高地にはまだ敵が存在していたというから、偵察が誤りでなければ、地上部隊の自己位置の認識が誤りであることになる。一つが狂うと、前後左右の配置関係がみんな狂うことになる。一騒動起きた。疑いだすと全般位置がみんな不確実である。茫漠とした地形で基準になるものがないから、自分が立っている位置がわからない。したがって、友軍相互の連絡がつかない珍現象を生じた。  酒井部隊も正午ごろ進出地点とおぼしい地点に到着したが、連絡がとれず、夜間には連絡者を出しても全然目的を達しなかった。電話もひけない。五里霧中のままこの日一日を終った。  七月六日、この日もまた、各隊は前後左右の連絡に狂奔したが、系統立った連絡がうまくいかない。電話も架設されない。敵の砲弾だけはふんだんに来た。  この日、師団長が前線を視察したが、各隊は前述のように自己の現在地の認識が不確実であって、戦術思想の統一を欠いていたので、師団長は小林少将に各部隊長を集めて飛行機で戦場偵察を命じた。上から地形を俯瞰《ふかん》して各部隊長に関係位置を把握させようというのである。  各部隊長同乗の飛行偵察は行われたが、なんら得るところはなかった。各|丘阜《きゆうふ》に標識や高地番号がついているわけではないから、よほど正確な検出を行わない限り、肉眼で俯瞰したぐらいでは茫漠とした難問に正解を出すことは困難な道理である。  山県部隊長は小林歩兵団長に対して、自隊の位置をかなり頑強に主張したとみえる。見解不統一のままでは、この日の薄暮攻撃は成功を期し難いので、攻撃は一日延期、よく準備の上で実施と決った。  酒井部隊は755高地に位置していた。酒井部隊と山県部隊との中間は広くあいていて、自衛力の乏しい砲兵が展開するには危険を予想されたので、小林少将は山県部隊第三大隊を中間に展開して掩護にあたらせた。  つづいて、山県部隊は、その夜、約一個大隊を現在地に残して、主力は翌七日払暁までに第三大隊の後方位置へ転進を命ぜられた。一個大隊残置の件について、また、小林少将と山県大佐との間に不諒解の点があったらしく見受けられる。  これは、単に位置の標定と認識にかかわる意見の不一致というような単純なことからではなかったであろうと推測される。  山県部隊長は五月末の戦闘(東捜索隊全滅のとき)と、今回の両岸攻撃に際しての右岸戦闘の経験から、慎重な本格的陣地攻撃の策を練る必要を痛感していたから、小松原師団長の、したがって安岡支隊長の、また当然に小林歩兵団長の、追撃的思想の抜けきれない攻撃方針に同調しかねたのではないかと想像されるのである。  この七月六日には、午前四時ごろから、755高地南西に在った玉田戦車部隊に対して、速射砲その他重火器を持ち、戦車六輛を伴った敵歩兵約二百と、装甲自動車を伴う歩兵約百が逆襲に転じて来た。  玉田部隊長は安岡支隊長に歩兵の増援を求め、増援部隊が到着するまで、戦車部隊独力で敵の歩戦協同部隊と交戦した。先に述べたが、日本軍戦車の戦闘性能は、ソ連軍戦車に較べて劣っていたから、対等に渡り合っては勝ち目はなく、技能を尽して勇戦しても苦戦は避けられなかった。玉田部隊各中隊は、丘阜の稜線の蔭で射撃準備を整え、急速に稜線を越えて砲撃を加えるという隠顕式砲塔射撃に似た巧妙な戦法で劣勢を補ったということである。  午前八時ごろから増援部隊(山県部隊第三大隊)が到着しはじめ、十一時ごろからは友軍砲兵も砲門をひらいたので、玉田部隊は危機を免れた。  この戦闘での敵捕虜の洩らしたところによれば、ソ軍はサンベース基地の機甲旅団戦車八〇と狙撃一個連隊が新にハルハ河岸に到着し、この日攻撃の予定である、ということであった。  来襲した敵は戦車五輛を破壊されて退却したが、玉田部隊も中戦車六輛、軽戦車五輛を失った。先の右岸攻撃開始の時点(七月二日)で、玉田部隊の中戦車は七輛、軽戦車は三五輛であったから、主戦力である中戦車の被害は甚大であった。  この日以前の戦闘では損害軽微であった玉田部隊も遂に傷つき、先の七月三日の戦闘で大打撃を蒙った吉丸部隊の損害と合せると、ハルハ河畔に進出した戦車二個連隊の戦力は一挙に半減したのである。     21  七月七日、左岸から撤退後諸隊がはじめて統一的に薄暮攻撃を行う日である。  雨が降ったりやんだり、曇天で涼しかった。風も敵に肉薄する日本軍にとって有利であった。  薄暮攻撃を戦法としてとったのは、日没ごろ前進発起して、まず733高地線を奪取し、つづいて夜襲によって一気に川又までの右岸の敵陣地を攻略してしまおうというのである。  本来なら、夜間に歩兵を極力前方へ推進し、その間に砲兵の準備を完了して、歩・砲・戦の協同行動を調整の上、払暁を期して力攻を開始する払暁戦の方式が順当であろうが、この場合は砲兵火力が充分でなく、戦車は既に主力を失ったにひとしい状態であったから、勢い歩兵を主体として近接戦闘を挑むほかはなく、殊に夜襲による白兵戦には迷信にまで嵩《こう》じたと思えるほどの信念を持っていたのである。  師団兵力の過半数を占める安岡支隊の任務は、当面の敵を川又方向に圧迫して撃滅する。  岡本支隊は左岸から撤退後、長駆ホルステン河南岸に至って、ノロ高地付近の敵を攻撃、同高地を占領する(この日支隊長岡本徳三大佐は、四日戦死した師団参謀長大内孜大佐のあとを受けて師団参謀長に転出、夕刻、新任の部隊長長野栄二大佐が第八国境守備隊第五地区隊長から転入して、岡本支隊は長野支隊となった)。  須見部隊はマンズテ湖(フイ高地東方)付近にあって、師団主力方面へ随時転進の準備にある。  須見部隊は、この日午前八時ごろ、ホルステン河右岸河谷747高地付近へ転進を命ぜられた。敵戦車五—六十輛、砲六門がホルステン右岸に進出して、ノモンハン方面に前進する気配であったので、これを撃退するためであった。須見部隊は夜十時ごろ747北方地区に集結した。  この時分には、師団主力による薄暮攻撃は一斉に前進を開始しているはずであった。予定は午後九時なのである。  主力の安岡支隊は、右翼隊として歩兵第二十八連隊第二大隊(長・梶川少佐。梶川大隊は七月三日夕刻戦場に到着、山県部隊の右翼に展開していた)、左翼隊は小林少将を長とする歩兵第六十四連隊(山県部隊)、歩兵第七十二連隊(酒井部隊)その他である。  両翼隊は午後九時発進、川又方向へ敵を圧迫撃滅する。  戦車部隊は歩兵戦闘に協力する。戦車第三連隊は山県部隊に、戦車第四連隊は酒井部隊に。  砲兵隊(長・伊勢大佐。野砲兵第十三連隊〈第一大隊欠〉、独立野砲兵第一連隊)は、午後九時から全火力をあげて約三十分間敵砲兵を制圧する。  大要は以上の通りであった。  左翼隊左第一線の酒井部隊は、攻撃開始前に敵砲兵の急射を浴びて、大損害を蒙った。師団長の所感によれば、その原因は、夜襲準備のため日没前に過早に集合し、そのとき稜線上を不注意に歩行して所在を暴露し、敵十五加の疾風射を受けたのである。戦死一〇一、戦傷一九一、将校各六、中隊長半減という被害であった。交戦中の被害よりも多いくらいだが、酒井部隊は定時に行動を開始し、随所で敵と交戦、撃破して、八日天明前、山県部隊の左翼に連繋した。  この部隊は、既述の通り、四日、左岸から右岸へ撤退した直後にも、混乱中を砲撃され、収拾にその日一日を費やしている。不運というべきか、不用意というべきか。  小林少将は午後九時三十分ごろ、兵団司令部を関砲兵第三大隊(関武思少佐)本部付近に推進するため、副官と通信班長を帯同して車で先行した。電話で前線部隊を指導しようとしたが、電話架設は方位を失して間に合わず、空しく翌朝を迎えた。本部員の追及も甚だしくおくれたから、少将は暫くの間手も足も声も出せないのと同じであった。  気を揉んでいると、八日午前一時三十分、山県部隊方向から、午前三時四十分ごろ、酒井部隊方向から信号弾が上った。敵陣地突入成功の合図である。  少将「漸く安心せり」とある。前線部隊は敵の警戒陣地を急襲、追尾して、第二線陣地に衝突したが、敵は逐次退却し、装甲車、戦車、自動車を炎上せしめた、というのだが、八日朝になっての主力の態勢は、ほとんど前夜の出発前と大差がなかった、ということであるから、各隊は天明以後の敵の砲撃による被害を避けるために、ほぼ旧位置に戻っていたのである。  安岡支隊長のこの作戦実施に当っての命令には、先に誌したように砲兵が三十分間の制圧射撃をすることになっていたし、小林少将も砲撃と爆撃を要求している。砲撃は、しかし、少将の観察では、雨のために効果が少なかった。爆撃は実施されなかった。  それに較べると、小林兵団司令部の推進位置に近い関砲兵第三大隊は猛烈な敵の集中砲火を受けて、砲二門が破壊され、輓馬《ばんば》多数が斃されている。砲兵威力の差は歴然としていた。  それだからこそ、日本軍は夜襲に依存せざるを得なかったのだが、これ以後連夜のように行われる夜襲は、瞬間的、局部的成功をもたらすことはあっても、全般的戦局を勝勢に導くことはできなかった。  縦深のない薄い一線陣地なら、日本軍の勇敢な突入戦法は完全に威力を発揮し得たであろうが、彼我の間の陣地思想は全く異っていた。彼は縦深に構えて火制地帯を構成し、前線が破れても動揺することがなかった。日本軍は突破に次ぐ突破を要求され、集中火を浴び、犠牲を強制され、遂には反転して後図を策することを余儀なくされた。後図を策するといっても、原理は単純であるから、打つ手はなかったのである。  七月八日朝、攻撃は続行されなければならない。この日は前日にひきかえ、晴れて、暑かった。     22  七月八日払暁、安岡支隊の主力を構造する左翼隊では、小林少将が兵団司令部を一キロ推進したが、第一線の両部隊(山県・酒井)とも連絡がとれず、状況不明で少将は困惑していた。  朝になって第一線部隊との連絡がようやくつきはしたものの、電話はまだ架設されず、指揮連絡は依然として思うに任せなかった。  午前八時半ごろであろうか、小林少将の許へ飛行隊から、右岸のソ連軍に退却の兆候が見える、という通報があった。またもやである。先に安岡支隊が、三日に左岸攻撃に呼応して川又方向へ敵を圧迫する如く攻撃を加える予定であったのを、二日に繰り上げて「追撃」を試み、退却などしていない敵の強力な抵抗に阻止されて反転したのも、敵が退却しているという飛行機からの連絡があったからである。  飛行機による偵察が未熟であったのか、偵察者に誤判させるような巧妙な手段がソ連にあったのか、なんとも合点がゆきかねることである。  前夜の夜襲にもかかわらず、朝になってみれば、夜襲部隊の位置が前夜の発進前と大差がなかったという事実を、飛行隊が確実に承知していれば、偵察の誤判は防げたかもしれなかった。  左翼隊長がまた、敵の退却を信ずるに足る判断材料を持たなかったにもかかわらず、やはり追撃を部署している。即ち、山県・酒井の両連隊に、有力な一部をもってハルハ河方向へ追撃、戦果を拡張することを命じたのである。誤報は、所詮、状況の好転をもたらしはしなかった。出撃部隊は熾烈な砲火を浴びて、前進不能に陥った。  小松原師団長は、この日午前十一時ごろ、安岡支隊に迅速な攻撃再開を命じ、ホルステン河南岸へ迂回行動中であるはずの長野支隊(前の岡本支隊)に、速かにノロ高地を奪取し、ハルハ・ホルステン合流点に向って攻撃することを命じた。  須見部隊の増加を受けた安岡支隊長は、須見部隊の一部を左翼隊に増加し、その主力を支隊予備にとって、諸隊の攻撃前進を督促したが、第一線の前進は開始されなかった。敵の火力が容易にこれを許さなかったのである。  師団長は午後三時、諸隊を督励したが、前線はやはり動けなかった。夜襲に俟《ま》つほかはない状況であった。師団長は、ハルハ河右岸に敵戦車自動車約三百輛が集結しているという報告に接していたらしい。これを攻撃すれば多数|鹵獲《ろかく》できると信じて、攻撃開始を急がせたのである。  八日の夜襲は成功しなかった。原因は、山県・酒井両部隊の行動に統一を欠いたことと、夜襲と同時に撤退命令を出したことにあったようである。  師団長は、右記の通り敵戦車自動車の集結を知り、さらに、敵の軍橋三箇所のうち、一つは全壊、一つは半壊の状態にあると信じていたから、迅速な攻撃をかければ鹵獲できると考えていた。  ところが、攻撃命令は出たが、出発時刻を統制してなかったというのである。そのため、行動不整を来した。山県部隊は部隊が分離していて、集結掌握に時間を要したという。山県部隊の出発は九日午前一時になった。これでは、いかにしても遅すぎるのである。  河までの距離は四乃至六キロ程度で、途中に敵の橋頭堡があった。その前面に達したのは午前三時ごろで、四時の日出には出発点に戻らなければ、天明後の敵の猛火にさらされることになる。したがって、撤退の時間を考慮して、ハルハ河東方一キロの砂丘まで進出して、攻撃を中止、旧位置に復帰した。  酒井部隊は零時出発、途中、微弱な敵を撃破して、ハルハ河に達し、午前三時反転した。  この間、工兵第二十三連隊の一部(川村部隊網屋隊)は、歩兵一個中隊(第七十二連隊)と戦車第四連隊第一中隊の協力を得て、午前三時四十分ごろ、ホルステン河橋梁爆破を行ったが、復旧に二乃至三日を要する程度の損害を与えたにとどまった。  左翼隊第一線両縦隊の戦果は、小林少将によれば、山県部隊が十五榴五門その他、酒井部隊はトラック二十輛その他とあるが、橋梁破壊は右記のホルステン河橋梁の損壊だけであった。  ノロ高地の攻撃を督促されていた長野支隊は、まだホルステン河南岸をノロ高地へ西に九キロのニゲーソリモト付近に達しかけていたころで、北岸の安岡支隊の攻撃と呼吸を合せることはできなかった。  七日、八日の攻撃をみると、諸隊が斉々と駒を進めるようにはいっていない。チグハグである。左岸撤退後の諸隊の機動距離は、長短まちまちだが、攻撃開始の決定が、歩兵部隊の移動所要時間の正確な測定の上になされたとは見られないのである。  七月九日、師団全力をもってする右岸攻撃再開三日目である。  日本軍第一線にはソ連の歩戦協同部隊が反撃を加えて来て、砲火もまた激烈であった。  安岡支隊長は、梶川大隊(歩二十八)を充当してあった右翼隊を須見部隊主力によって強化し、両翼隊に攻撃続行を命じた。  午後十時ごろ、第一線諸隊は攻撃前進を開始した。  左翼隊小林歩兵団にとっては第三回目の夜襲である。小林少将が受けた命令要旨は、一部兵力をもって河岸要地を占領し、橋梁を爆破し、主力は現位地を確保することであった。  山県部隊は各大隊を並列して前進、工兵の破壊班を伴った第一大隊は十日午前一時半過ぎ、河岸の砂丘に達したが、橋梁前方には鉄条網が設けられ、戦車約二十輛を持つ有力な歩兵部隊が警戒していたため、爆破を試みることができなかった。  これが山県部隊の七月九日夜の行動概略のようであるが、困ったことに小林少将の記録と全然一致していない。  それによると、山県部隊は方向を誤って河岸まで到達せず、途中の状況から判断して一部兵力を残置するのは危険であるので、残置せずに旧位置に復している。  酒井部隊は河岸に達したが、山県部隊方面に残置兵力がないので、孤立に陥る危険を考慮して、これもまた残置せずに帰還した、ということになっている。  ところが、酒井部隊の戦闘詳報によると、 「……我将兵ノ行動ニ漸ク疲労ノ色濃キモノアルヲ認ム、此ノ日(七月九日)モ連隊ハ夜襲ニヨリ川又地区ノ敵ヲ掃蕩シ且ツ、橋梁ノ破壊ヲ敢行シタル後旧位置ニ復帰ス」  とあって、川又河岸占領——東側二粁砂丘占領——葉山小隊/6となっている。  第六中隊の葉山小隊が敵中もしくは敵前に残留したのである。  同じ戦闘で直属上下の記録が何故こうも異るのか、不可解だが、やりもせぬことを実行したと偽ることはできないし、聞いた報告をことさらに曲げる理由も発見できないから、この食い違いは連絡不充分に因るとしか考えられない。  この日、安岡支隊長によって右翼隊長を命ぜられた須見部隊長は、第三大隊を支隊予備に残し、ホルステン河谷に進出している第二大隊には追及を命じ、第一大隊と連隊砲中隊その他を率いて731高地北西方に向った。その付近では、この時点まで右翼隊主力であった梶川大隊が戦闘中であったから、これを掌握するためである。  須見部隊は敵の砲撃下を急進、午後七時ごろ731高地北西に達し、十日朝までに付近の敵を撃退して占領した。  小松原師団長は須見部隊の迅速果敢な行動に対して賞詞を与えたというから、このころまでは小松原師団長と他師団から指揮下に入っている須見部隊長との間には、のちに生じたような意見の不一致とか感情的なこじれはなかったのである。     23  ノロ高地占領のためホルステン河南岸へ迂回した長野支隊(元岡本支隊)は、八日、ノロ高地東方九キロのニゲーソリモトにようやく達したことは、既に述べた。  同支隊は、八日夜十時二十分ごろ、ノロ高地(とおぼしい砂丘、実は758高地)東方約三〇〇に推進して、夜を徹した。  翌七月九日、午前八時、 「彼我ノ砲撃応射ヲ始ム、敵ハ越境セル牽引野砲ノ他、対岸ヨリノ十五榴アリ、我砲兵陣地ヲ射撃セント企画シアルガ如シ。  伊藤参謀来リ、全般ノ状況及師団長ノ意図ヲ伝達ス」とある。  伊藤後方参謀はこう云ったのである。 「近日中に優勢な重砲隊が到着する。ソ軍は已《すで》に空中戦及機甲部隊の戦闘には、日本軍に対して到底勝算がないことを自認している。地上戦闘に於ても速かに痛撃を加える必要がある。砲兵団は独自の立場から対砲兵戦に於て徹底的に殲滅を企図している。敵は如何なる方面に於ても到底我に抗し難いという結論に達して、撤退するであろう」  小松原師団長がそう考えていて、その通りに伝えよと伊藤参謀に命じたものか、伊藤参謀の所見が加味されているものかは明らかでない。いずれにしても、しかし、既往の経過に照らしてみるだけでも、独善的、希望的観測であることは否めない。  右のように戦況を楽観できる根拠は、どこにもなかったのである。参謀本部の眼にはどのように映っていたか。参謀本部作戦課参謀井本熊男少佐のメモがそれを語っている。  七月五日「ノモンハン」ノ状況ハアマリ有利ナラザルガ如キ印象濃厚ナリ。(後略)  七月六日「ノモンハン」ノ状況依然トシテ明確ナラズ、全部左岸(右岸の誤りであろう。筆者)ヨリ攻撃前進中ナルガ如キモ、有利ニ進展シアラザルガ如シ。(中略)  本事件、明快ナル戦果獲得ノ出来ザル理由敵ヲ軽侮シ過ギアリ(国境事件処理ノ態度不謹慎)   砲兵力不足(十五榴二、十榴一、十五加六門)   架橋能力不足(戦車通過可能一、野戦重砲通過可能一ノ増加必要) [#この行2字下げ]後方補給力不十分(ハロン・アルシャン—ハンダガヤ—将軍廟間ノ軍用鉄道敷設ノ必要)   二十三師団ニ力以上ノ任務ヲ課シアリ(七師団派遣)   通信能力不足(送ル)  七月七日「ノモンハン」ノ状況頗ル不明。万一攻撃不成功ニ終リシ場合ノ処理   方 針    飽迄攻撃奪取ス    奪取後ハ此地ヲ確保シ、時期ヲ見テ自主的ニ兵ヲ撤ス   処 理 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]    一、七師団、砲兵ノ主力、十分ナル後方部隊ヲ集メ、準備シタル後一挙ニ攻撃ス    二、攻撃ノ時期 七月下旬    三、二十三師団ハ助攻部隊トス [#ここで字下げ終わり] [#1字下げ]七月八日 第一部長(中将橋本群—筆者註)満洲ヨリ帰来「ハルハ」河左岸ノ戦況ハ結局退却ナリ [#1字下げ]七月六日ノ原因ニ掲ゲタル外、向フ意気ノ足ラザリシコトガ重大ナル原因ノ如ク考ヘラル、日本軍ハ地味ナル本格的訓練ヲ実施スルノ要大ナルモノアリ。(以下略)  須見部隊が安岡支隊の右翼隊として進出したあとを引き継いでマンズテ湖付近に位置した師団捜索隊(長・井置中佐。須見部隊第六中隊、歩第二十七連隊速射砲中隊配属)は、師団長の命令によって、十日、フイ721高地を占領し、以後八月下旬の戦闘終末段階までこの高地にとどまることになった。  ノロ高地(742)占領の任務を課せられてホルステン河南岸を遠く迂回した長野支隊(元岡本支隊)は、七月九日午後三時四十分ごろ、九四偵察機から通信筒を投下された。師団参謀長から長野支隊長宛てのもので、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、貴支隊ノ位置ハ七五八高地ナリ  二、安岡支隊ハ攻撃続行中、貴隊モ攻撃ヲ強行サレ度 [#ここで字下げ終わり]  とあった。旧支隊長から新支隊長への督励である。  長野支隊は夜十時十分、前進、十日午前一時五十五分、ノロ高地を占領した。  長野支隊のノロ高地進出はおくれて、七日夜からの安岡支隊の攻撃に呼応して川又方面を南から攻撃することはできなかったが、これは、長野支隊の機動距離が諸隊のうちで最も長かった(約四〇キロ)のと、途中で地点を誤認したこともあり、加えて支隊長の交替などがあったためである。  長野支隊長は、ノロ高地占領後、ハルハ河畔のクイ高地(691)に西村中隊(第五中隊)を派遣しようとした。  左岸台上の敵砲兵の瞰制下にあるクイ高地に西村中隊を出すのは、全滅の悲運に陥らせる虞れがあるという意見具申があって、長野支隊長は決心が動揺したらしい。早晩クイ及びノロ高地に対して敵の強圧が加わってくることは必至なのである。  けれども、支隊長としては、命令の遂行のためには、西村中隊全員を失ってもやむを得ないと考えなければならないことである。西村中隊単独でクイ高地の占領ができない場合には、支隊の全力でこれを占領する必要がある。川又方向を攻撃する師団主力に対して助攻の役割を果す上からも、敵がホルステン河南岸から師団主力の左翼側を脅かすのを阻止する上からも、691——742の線は確保しなければならない。  支隊長は、西村大尉以下に、「クイ高地ニ於テ死ネト極メテ冷酷ナル厳命ヲ与へ」て派遣した。  幸い、このころ、ノロ高地方面のソ連軍の兵力はあまり大きくはなかったようである。  十日午前八時十五分、西村大尉から、クイ高地には戦車二〇、歩兵一〇〇、トラック一〇あり、という無電報告があったが、出て来る気配はなかった。  このころから暫くの間、ソ連軍は八月下旬の大攻勢準備のための対陣持久の方針をとっていたらしく思われる。  長野支隊は、午前八時二十分、師団命令を受け取った。その作戦要旨は、右岸の敵は微弱となったが、左岸台上の敵砲兵は活動しているので、師団はこれを撲滅する。第一線各隊は、砲兵団の射撃準備を援助し、これを掩護せよ、というのである。  午前十一時ごろから、支隊左翼方向に銃声頻りとなった。  午後二時三十分、左第一線第九中隊長から「歩二中、機関銃二、自動車牽引砲六、逆襲ヲ企図スルモノノ如シ」という報告があった。  支隊では、野砲隊に通報し、第一線各中隊は至厳な警戒態勢をとった。  焼けるような炎熱のなかで、銃声は熾《さか》ん。快晴の空に敵機の跳梁を見るが、この日、砲撃はノロ高地方面にはなかった。全線小競合のうちに日没となった。  七日から十日まで、師団は夜襲を反復したが、決定的な戦果は上らなかった。前にも述べたことだが、夜襲によって部分的に功を奏しても、確実に敵陣を奪取することにはつながらなかった。天明までには発進位置付近へ引き揚げ、その夜また夜襲するということの繰り返しでは、攻勢に立っていることは事実だが、決定的打撃を及ぼすには至らなかった。  兵たちは疲れた。当然である。左岸撤退後、ほとんど息つく暇もなかったのである。  前線将兵は、しかし、この時点では、まだ、正面の敵を撃破して左岸台上へ進出できると思っていた。  関東軍司令部作戦課でも、師団が右岸の敵を撃滅するのは時間の問題と考えていた。何故そう考えることができたか、火力の差、機甲部隊戦力の差は歴然としているのに、不思議でならないが、作戦課は、七月七日以降の攻撃が成功することを見込んで、主力を将軍廟付近に集結することと、安岡支隊の編組を解いて、戦車部隊を原駐地に帰還させる命令を、七月十日付で九日に起案しているのである。  少し先走っていえば、この結果、戦車を増強したソ連軍に対して、戦車を持たない日本軍が血みどろの戦を展開することになる。     24  七月六日には寺田高級参謀が、七日には磯谷参謀長が戦場に出向いて、それまで戦場にあった矢野参謀副長、服部・辻両参謀と交代した。  安岡支隊の解組と戦車部隊の原駐地帰還に関する命令(関作命第五〇号)は、磯谷参謀長が戦場へ出たあとに起案され、軍司令官植田大将の決裁を得ている(決裁は七月九日、命令日付は七月十日である)。  その起案の理由は、第二十三師団主力をもってハルハ河右岸の敵陣地を真面目に攻撃することになった今日の段階では、戦車部隊を必ずしも必要としないと考えられる、これが第一点、第二点は、ひきつづき戦車部隊を第一線に使用するとすれば、貴重な機甲部隊が更に多大な損害を蒙る虞れがあること、第三点は、小松原師団長と同期同級の安岡中将をこのまま戦場に指揮官として置くことは、屋上屋を架することであり、師団主力を安岡中将の指揮下に置いては師団長の指揮運用を拘束する結果になる、ということである。  第一点の、右岸攻撃に戦車部隊を必ずしも必要としないということは、敵戦車部隊に較べて明らかに劣勢な第三・第四戦車連隊をもってする対戦車戦闘には勝算がないという消極的意味でなら、条件つきで理解できなくはない。条件とは、数量不充分な対戦車火器をもって歩兵を敵戦車に立ち向わせる際の犠牲は忍び得ると考えることが、戦術上正当である場合である。ノモンハンでそれが正当であったとは、私には考えられない。  第三点の、中将と中将の上下関係が屋上屋を架すに似ていることは確かだが、それは派兵の段階で当然考慮されるべきことで、実験してみなければわからないようなことではない。したがって、論理的には、実は第一点も第三点も、第二点の戦車部隊のこれ以上の損害を怖れるということのつけ足りでしかなかったと考えられるのである。  矢野参謀副長は、関作命第五〇号の決裁が下りたとき、服部参謀に、 「第一線の状況如何を確かめずして本命令を下達せらるることは無理を生ずべきを以て特に之が下達時期の選定に注意せよ」  と注意を与えた。  上級者としては当然の配慮だが、その日(七月九日)午後、辻参謀は、その発令時期を明十日午前六時にすべきであると、服部参謀に具申し、服部参謀は矢野副長から注意を受けていたにもかかわらず、辻の意見に同意した。辻は、その日午後二時十分、参謀長名をもって第二十三師団参謀長宛て電報を打った(関参電第三八一号)。  その要旨は、明七月十日午前六時をもって安岡支隊を解組し、第一戦車団はハイラル経由で原駐地(公主嶺)に帰還せしめ、他の部隊は第二十三師団長の指揮下に入らしめる、ということである。  服部参謀が辻案に同意したのは、服部・辻の両人がハルハ河左岸の戦闘に参加した経験から判断して、師団主力による右岸の攻撃は今明日(九日、十日)くらいの攻撃によって右岸の占領を終るであろう、むしろ安岡支隊解組の命令を速かに下達することが師団の攻撃を促進する結果を生むであろう、と「極めて軽易に」考え、参謀副長の注意にある時期を特に選定せよということについては、その時期を「極めて短期間に」考えた、つまり、約半日の余裕があれば足りるであろうと考えた、というのである。  独善的な恣意《しい》もここまでくると、手がつけられない。上級者は注意を与えても、その注意が守られるかどうか、いちいち眼をつけていなければ、何をされるかわからない。  服部と辻は、このとき、算年三十九歳と三十八歳であろう。分別がついてもいいころである。  ハルハ河左岸の戦闘の経験から、どうして、右岸に撤退した師団の攻撃再興が今明日中に右岸の占領をもって終るであろう、と推測し得たのか。右岸では、七月三日には吉丸戦車部隊が、六日には玉田戦車部隊が、それぞれ戦力半減の打撃を受けている。七日以降連夜の夜襲の強行で、服部・辻を楽観させるような報告が新京に届いているはずがない。東京では、先に誌した井本参謀のメモにあるように、戦況有利ならずという印象が濃厚であったときなのである。  この関作命第五〇号が下達されたのは、安岡支隊が師団の主攻撃正面にあって鋭意力攻を継続しようとしていたときであったから、安岡中将はひどく感情を害した。矢野参謀副長が服部参謀に与えた注意は無駄になってしまったのである。  小松原師団長が命令を受け取ってまっ先に安岡中将に見せたりしなければ、服部・辻両参謀の軽率はあるいは救われたかもしれなかった。軍参謀長磯谷中将と寺田高級参謀が現地にいたのであるから、師団長は磯谷中将に見せてから意見を質すくらいのゆとりを持つべきであったろう。  磯谷参謀長と寺田高級参謀は命令の時期が適当でないと判断して、師団長に対して命令は支隊解組だけにとどめるよう指示し磯谷参謀長は十日新京に帰った。下僚の不始末を繕わなければならないからである。  服部参謀は磯谷参謀長と矢野参謀副長から、命令下達の時期が不適当であったこと、軍参謀長が現地にいたのであるから、電報は軍参謀長宛てに打つべきであったことを指摘され、直ちに現地にいる寺田大佐宛てに、前記の命令のうち、安岡支隊の編組を解くこと以外に関しては別令する、という電報を打つ処置をとった。  怒らせてから、宥《なだ》める、最も拙劣な処置だが、思い上った中堅幕僚の失策の後始末だからやむを得ない。  安岡中将は、しかし、よほど腹に据えかねたらしい。植田関東軍司令官宛て、直接、戦闘最中に解任帰還を命ぜられたことは遺憾に堪えない、という主旨の電報を打った。  関東軍では、七月十三日、軍参謀長名で安岡中将宛てに返電した。軍は安岡支隊の奮闘に謝意を表することと、先の命令に関しては、軍は当面支隊の解組を行い、原駐地帰還は別命によることについて安岡中将の諒解を求めたのである。  小松原師団長によれば、十日午後三時、軍司令部から三好参謀が件《くだん》の命令を携帯して来ての話に、この命令は師団がハルハ河右岸を占領したときに交付するよう、矢野副長から言い聞かされた、という。電報には、しかし、日時が記入されてあるから、交付があまりおくれてもおかしなことになったであろう。このような電命を受領したときは、一応、軍司令官に師団長から意見具申をする必要があった、と、小松原中将もあとになって考えたようである。同時に、安岡中将がこの命令を受領したとき、部下の前を憚らずに不平を漏らしたのは将帥として人格上面白からず、と誌している。  安岡支隊は、七月十日その編成を解かれ、第一戦車団(戦車第三・第四連隊)は師団長の指揮下を離れ、ホルステイ湖、イリンギン湖付近に集結し、その他の安岡支隊隷下の部隊は旧軍隊区分のまま師団長の直轄となった。  辻参謀起案の関作命第五〇号のうち、第二十三師団主力の後方将軍廟付近集結は、このときは実行されなかった。服部・辻両参謀の今明日くらいの攻撃で右岸の占領を終るであろうという幻想的な観測が、現実の状況から甚だ遠いことが明らかとなったからである。  師団主力の後方集結は、この月下旬、砲兵戦主体の攻撃が不成功に終り、防禦陣地占領を必要とするようになってからのことである。  戦車団の原駐地帰還は前記のような経緯によって一時延期され、約半月後のことになるが、関東軍としては、虎の子の戦車部隊が戦力半減しては、これ以上の損耗には耐えられないのが本音であったろう。この戦車団は、近い将来に予定されている在満戦車部隊拡充のための基幹となるべきものであったから、感情を伴わない軍事的発想においては、兵隊は殺しても戦車を潰すわけにはゆかなかったのである。  兵隊がもしその事情を知ったとしたら、納得できたかどうか。兵隊はいつも「一銭五厘」なのである。戦車がなくても戦争をする、大砲が足りなくても戦争をする、すべて兵隊の血と肉で不足を補うことが「帝国陸軍」においては少しも問題とはされなかった。  安岡支隊の編組を解かれた第一戦車団は、ホルステイ湖付近で整備を行い、戦場に放置され いる損壊車輛の回収につとめる傍ら、師団右側方面の警戒に任じて、マンズテ湖付近へ集結地を推進した。  マンズテ湖西方のフイ高地(721)には捜索隊が進出して守備陣地を布いていたが、対岸から砲と戦車を伴った敵の有力部隊がフィ高地付近に出没することが屡々であった。  この状況を見た小松原師団長は、安岡中将にフイ高地の捜索隊とマンズテ湖付近に在る満軍とを合せ指揮して、右岸に進出した敵部隊の撃攘を命じた。戦果のほどは明らかでないが、一時的にはほぼ目的を達したとみられる。その代り、この方面に戦軍部隊の協力があったことが、敵を刺戟して、正面の敵を増強させる一因となった、と捜索隊では看做《みな》したようである。  戦車団は、関東軍命令によって、七月二十六日午後九時をもって小松原師団長の指揮下を離れ、ハイラルを経由して原駐地公主嶺に帰還した。  この後、ハルハ河畔の日本軍は、近代野戦に欠くことのできない戦車団戦力を欠いて、歩・砲・戦の綜合戦力を発揮する敵と血闘を交えなければならなくなるのである。     25  ハルハ河上空では、日本軍飛行隊の活動は、五月下旬から七月上旬まではソ連航空兵力に対して明らかに優位を保っていた。殊に六月二十七日のタムスク爆撃から一週間は、敵航空兵力の衰弱は顕著であった。  そうはいっても、空戦における優位が地上戦闘の優位を導き出すには至らなかったところに、問題がなくはない。敵味方の各種戦力を比較してみて、一時期にもせよ明らかに優勢であったのは、航空兵力だけといってよい。その優勢が華々しく見えたのは特に戦闘隊の空中戦であった。  敵の砲兵陣地や渡河点に対する地上爆撃は、敵が攻撃目標を巧みに分散し、徹底した偽装を施していた上に、対空火器が有力であったのに対して、日本軍の爆撃隊は機数も不充分であったから、爆撃効果に見るべきものがなかった。  地上戦闘に対する徹底した協力が必要であったと考えられる時期に、日本軍は空地協同の戦闘方式を立てていなかった。たとえば、対地攻撃用の九九式襲撃機はまだ第二飛行集団に配備されてなかったし、敵の地上部隊や火点や軍橋に対して、優勢かつ優秀な戦闘機群の攻撃力を使用するように戦闘を組織する参謀はいなかったのである。  戦闘指導に何か公式主義的な思考の硬化現象が見受けられる。見敵必殺の意気に燃えて敵機を撃墜する空の勇士があり、咆哮する戦車に肉弾を挺してこれを爆破する地上の勇士があり、しかも戦闘は有利に展開しない。物量の不足が大きな原因であることは確かだが、不足ならばなおさら、綜合的な、立体的な戦力の組織化が実現されるべきであったと考えられる。  優位に立っていた飛行隊も、しかし、七月上旬末ごろを境として、次第にその優位を失いはじめた。人も飛行機も出撃の反復で疲労が溜ったのである。これに反して、ソ軍は、タムスク被爆による一週間の雌伏ののち、新鋭航空兵力の増強を着々と行っていた。  日本軍飛行隊は空中戦での以寡撃衆の技倆を誇っていたし、戦史の類もその果敢な戦技を賞讃しているが、これはたとえてみれば、競技の記録保持者が一騎当干の能力を持っているからといって、朝に夕に、毎日毎日、記録の限界ぎりぎりの勝負をつづけていたら、どうなるか、ということを考えない、謂わばお国自慢に過ぎない。競技参加は日時が決っているからいいが、戦闘は不時である。長期連続も覚悟しなければならない。補給力の乏しい、交代要員の準備の少ない、少数精鋭主義には、一見華々しい時期があっても、必ず疲労と破綻《はたん》の時が来る。  日本は、この時期から約二年五カ月後に『大東亜戦争』を発起するが、その緒戦の期間を華々しく飾った海軍航空隊も少数精鋭主義であった。就中《なかんずく》、零戦は勇名を馳せた。これも、しかし、出撃に次ぐ出撃で、次第に疲労困憊した。一騎当千の優秀な搭乗員を相次いで失った。しまいにはズタズタに切り裂かれた襤褸《らんる》のような状態で末路を迎えたのである。国家の総力をあげて激突する近代戦では、少数精鋭主義は平均水準的大量主義には、所詮、対抗し得ないといっていい。  ノモンハン当時、日本軍飛行隊の搭乗員は訓練精到の名に恥じなかった。飛行機の格闘性能も優れていた。しかし、機体の防禦装備が薄弱であり、それなら攻撃力で優勢かといえば火力でも劣っており、空中戦の技術が単機格闘戦に重点を置きすぎていた、と云われている。  地上戦闘の経過を資料の上で辿っていると、敵機の跳梁盛んという字句には屡々遭遇するが、友軍機が敵陣に有効打を浴びせる光景にはほとんど接しない。味方の地上から敵の地上は見えない道理だが、上空から襲いかかる光景は、もしあれば、見えるはず。それがないのは、先に触れた通り、空地協同の戦闘方式が確立されていなかったことの一つの証たり得るかもしれない。人あるいは、国境外への適時の航空攻撃を大本営が禁止(大陸指第四百九十一号)しなかったら、日本軍飛行隊の戦果は拡大され、地上戦闘を有利に導き得たにちがいない、と云うであろう。大本営による禁止は、局地戦不拡大の方針から出たことである。禁止がなければ全面戦争化したとはいいきれないが、少なくとも、目には目の応酬はあったであろうし、日本軍飛行隊にきざしはじめていた人機の疲労は一層早く現われ、補給力において数段まさる敵側の航空兵力の集中も一層早く行われたであろう。血気に逸《はや》った関東軍参謀が、この点で大本営を怨むことはないのである。     26  七月初頭のハルハ河両岸作戦以来、第二十三師団に配属された砲兵力が、作戦目的達成のためには甚だ不足していることは、誰の眼にも明らかであった。日本軍指揮官の通弊というか、意地というか、上級司令部で決定した兵力以上の増加を要請することを潔しとしない傾向がある。作戦を立案する参謀がまた、敵兵力を過小評価する通弊があるから、戦線に立つ各科の実戦兵力はいつも不足気味になるのである。  植田軍司令官は砲兵力増強を必要と判断した。  その結果、新に砲兵団(長・関東軍砲兵司令官内山英太郎少将)を編成して、これを戦場へ増加することになった。その発令は七月六日である。小松原師団長には、八日寺田参謀から伝えられた。  砲兵団は、内地から六月下旬関東軍に配属されていた野戦重砲兵第一連隊(十五榴—十六門)、独立野戦重砲兵第七連隊(十加—十六門)に、在満の穆稜《ムーリン》重砲兵連隊(十五加—四門に、旅順重砲兵連隊から一中隊二門を配属)を加えた砲兵力である。  この砲兵増援の措置は、戦場ではこれまで述べてきたように第一線諸部隊が連夜夜襲を反復しているときに行われた。  夜襲に瞠目すべき効果がなかったことは見てきた通りだが、砲兵援軍来るの声が伝わると、師団長以下諸隊は、増加兵力の来着までに右岸の敵を撃滅しようと勇み立ったという。  兵隊は、しかし、正直なところ、これで助かったという実感を抱いたであろうと、私は私自身の兵隊経験から想像するのだが、ノモンハン生き残りだった友人たちに尋ねた時分には、戦闘経過の予備知識が私になかったから、ききそびれたことである。  七月十一日、小松原師団長の幕舎内で、砲兵戦実施について協議が行われた。協議者は、関東軍作戦課寺田高級参謀、小松原師団長、師団作戦主任村田昌夫参謀、砲兵団長内山英太郎少将である。  砲兵戦主体の考案に立つ砲兵団と、夜襲続行の価値を主張する師団と、意見は二つに割れた。  増加砲兵部隊の戦場展開は、七月十九日には終る予定であった。内山砲兵団長は、敵の砲兵が味方の火砲の射程外に後退して、敵を撃つ代りに味方の第一線歩兵を砲撃する虞れがあるので、歩兵の攻撃前進を控制することを要望した。  内山少将の意見から察せられることは、いままさに火蓋を切ろうとしている砲兵戦には、関東軍首脳以下が満々たる自信を持っていることである。先にも述べたように、ハルハ河両岸攻撃までの不成功の原因は、主任参謀の辻政信によれば、敵兵力の判断を誤っていたことであるというのだから、今度自信をもって展開する砲兵戦では、敵兵力の判断を誤ってはいないはずであった。  内山砲兵団長の意見に対して、小松原師団長と村田師団参謀の意見は、連夜の夜襲によって戦果は逐次増大している状況であるから——戦闘経過を辿って述べてきた限りでは、必ずしもそうとは思えないのだが——この際、夜襲は中絶することなく継続すべきで、砲兵は戦場来着に応じて逐次戦闘加入を適切な措置と認める、というのである。歩兵団長小林少将も、夜襲続行を強く主張していた。  軍司令部から来ていた寺田高級参謀は、砲兵団長内山少将の意見を支持した。その理由は、砲兵戦主体の攻撃への転換は軍司令官植田大将の意思であること、これまでの攻撃停滞の最大原因は左岸の敵砲兵にあるから、これを撲滅すれば右岸の敵陣奪取は困難ではないと考えられること、である。  師団側は結局折れた。軍司令官が砲兵戦主体の意向とあっては、仕方なかったと思われる。  師団長は、翌七月十二日午後三時、砲兵戦主体の攻撃準備を命令した。  その趣旨は、師団は全砲兵の展開完了を待って、一挙に川又付近の残敵と左岸の砲兵を撃滅する、両翼隊主力は現在地付近で攻撃準備、河岸近くへ進出している小部隊は一時主力の位置に後退させることである。  師団長が砲兵戦主体の攻撃に同意した理由は、次のようであった。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  1 右岸の敵を師団の力攻によって撃破し得る確信があるが、力攻継続を先にすると、砲兵戦はそのあととなり、敵砲兵は左岸台上を深く後退して、味方砲兵の威力を発揮できなくなる。敵が歩砲協同して戦闘するように仕向ける(つまり、敵を従来通りの態勢に置いて、一挙に撃攘する——筆者)には、左岸をあまり後退させない方が有利である。  2 河岸の占領と確保には、なお相当の損害を予期しなければならない。この際、あまり敵に近く位置していては、日々の敵砲火による損害を増大する不利がある。  3 河岸まで進出した部隊を後退させると、敵を増長させ、我に対する軽侮心を起こさせ、一方、陣地を強化させる不利があるけれども、砲兵戦展開後の決戦のときには、より大きな戦果をあげ得るであろう。 [#ここで字下げ終わり]  師団長があげている右の理由からも窺えるように、砲兵戦のために師団の攻撃前進を控制することに、師団長は決して心から賛同してはいないのである。自分を強いて納得させるために、理由をこじつけた観がある。  それを裏づけるかのように、師団と砲兵団との協議が行われた十一日の夜からの歩兵部隊の夜襲は、強靭をきわめた。  敵は、間もなく砲兵戦がはじまることを、この日の時点でどの程度に正確に予測していたかはわからないが、この日の敵の十五加の砲撃で、左翼隊小林部隊本部付近に位置していた十二榴の弾薬車が被弾して、十三名の砲手が吹き飛ばされた。  右翼隊の須見部隊には、戦車九輛を伴った敵歩兵約二個中隊が来攻したが、須見部隊はこれを撃退した。あとから考え合せれば、これは、この方面の威力偵察であったのかもしれない。  小林歩兵団司令部は敵砲兵から狙われていたかのようである。十二日にも、午前十時ごろ、少将不在のときに、十五加数発が司令部付近に落下して、一発が本部に命中、粉砕して、通信兵七名が空天に飛散した。  時間が前後するが、砲兵戦に関する協議が行われた十一日、左翼隊では、小林少将は主力をもって夜襲を行えば、川又橋梁の爆破と河岸の占領が可能と信じ、十一日夜十時からの行動開始を命じた。兵力は山県部隊の全力と酒井部隊の一部である。酒井部隊の大部は陣地を約一キロ半推進して、山県部隊と長野部隊に連繋するにとどまった。  十二日午前三時ごろ、山県部隊の前進方向とおぼしい方角に盛んな銃砲声が起こった。  山県部隊は道を少し取り違えたため、敵陣に達するのがおくれたらしい。川又北方約一キロ付近で敵の警戒陣地に突き当り、これを攻撃して川又に向った。  途中で天明を迎えた。方角を間違えておくれるようなことがなく、あるいは、前進開始がもっと早ければ、天明時の戦況はどうなっていたか、という疑問が残るが、いつもの夜襲なら砲撃による被害を避けるために、天明までに出発地点に復帰するところを、この日は昼間の力攻へ戦闘が継続された。  やはり、野戦重砲兵の来着までに、歩兵の戦力をもって決着をつけようとする気概からであろう。  川又橋頭付近の敵陣地は戦車をもってする警戒が厳重をきわめていた。その上、対岸からの十字砲火が熾烈で、山県部隊は敵の至近距離に迫ったが、橋梁を占領するところまでどうしても戦闘が有利に進捗せず、交綏《こうすい》状態に陥った。  小林左翼隊長は山県部隊の位置まで前進して戦況の打開を図ったが、夕刻になっても状況は依然として楽観を許さなかった。  先に述べた小林歩兵団司令部を敵の十五加が直撃したのは、少将がこうして前線にあったときのことである。  午後五時ごろ、師団の村田参謀が来て、師団命令を伝えた。本夜は、河岸警備隊(左翼隊が河岸近く残置してあった小部隊——筆者)をも含めて、全部旧陣地線に後退せよ、というのである。これは、師団長と砲兵団長との協議に基づく措置であった。  命令は早速山県部隊に伝えられたが、山県部隊の旧位置帰還は翌十三日午前六時ごろになった。その事情を、師団長は「敵ト至近距離ニアリシ為行動遅延シ」と解しているが、小林少将によれば、山県部隊は「命令せしも容易にきかず」とある。夜に入ってからもう一押し押して、戦果を拡張してから払暁までに旧位置に復帰したい、というのである。  約十日前、七月二、三、四日ごろ、安岡支隊の一翼として右岸攻撃を行った山県部隊長は、敵退却中という誤報に禍された支隊の追撃思想による攻撃に疑問を抱き、周到な用意を整えた陣地攻撃でなければ不可と考えるに至ったことは、既に述べた。その後数日間に、左岸からの撤退部隊が新に右岸攻撃の部署についたから、右岸の日本軍の兵力は師団全力となり、攻撃正面も拡大されたが、戦闘の方式と組織が質的に高度化したわけではなく、周到な用意というよりはむしろ、攻撃再興が急がれた経緯も、既に見てきた通りである。  それにもかかわらず、七月十二日の山県部隊が、前夜からの夜襲を昼間戦へ継続し、退れと命ぜられても、きかず、夜間にもう一押ししてから引き揚げるとまで強靭性を発揮したのは、砲兵に戦場の主役を譲らなければならなくなった歩兵部隊としての面目からか、もう一押しの戦闘を続行すれば所期の戦果は確実という見透しからであるのか。状況を按じてみるのに、十三日払暁までの戦闘続行によって川又軍橋奪取の可能性があったとは考えられないのである。  小沼中佐(当時陸大教官。のちの『ノモンハン事件研究委員会』の主要メムバーの一人)のメモに、 「右意図ツタハラヌ内ニ(砲兵戦のため歩兵の前進を控制する意図——筆者)小林部隊夜襲。酒井橋梁ノ一部ヲ爆破セリ、山県モ橋梁ニ着ケリ。此ノ順調ナル状況ハ当時後方ニ伝ハラズ。軍砲兵ノ為後退セシメタリ。山県憤慨セリ」とあり、また、 「七月十四日 関東軍参謀ガ参謀長ニ対シ師団ノ統帥ハ徹底シアラズ、アレ程ヤツテハイカヌト云ヒシニヤリアリ」とある。  砲兵戦開始直前の各級指揮官の思想不統一が、ここでは山県部隊の頑強な攻撃続行となって現われたのである。  戦況は、しかし、全般的には、もう一押しでどうにかなったようには思えない。小林少将は次のように誌している。 「此日㈵(第一大隊のこと。おそらく、山県連隊第一大隊であろう。——筆者)正面敵の逆襲を受け相当大なる損害を受け悲電頻りに入るを傍受す」  山県部隊は七月十三日午前六時ごろ、ようやく旧位置に復帰した。交戦した敵は、戦車一五〇、狙撃二個大隊であったという。     27  七月十四日、未明、右翼隊の須見部隊では、ふと目覚めた部隊長が正面の敵の退却したらしい気配を感じて、急遽、主力をもって猛烈果敢な追撃を敢行した。  師団長は、左翼隊正面の状況を小林少将に問合せると、敵情に変化はなく、退却していないものと判断されるという返事である。そこで、師団長は須見部隊の橋梁への突進を容易ならしめるために砲兵一中隊を配属しようと考え、山県部隊の一部をもって掩護に当らせ、砲兵観測所を推進させるために一部の前進を促した。  山県部隊からの回答は、須見部隊の現在位置までの進出は容易であるが、観測所推進のための一部前進は危険である、出すならば主力を出す方がよい、ということであった。  前述の砲兵戦のための協議で、師団の歩兵部隊の前進を控制することに決定しているので、師団としては山県部隊の主力をまた前進させるわけにもゆかず、須見部隊を旧位置に復帰させる処置をとった。  その師団長の処置がとられる前のことだが、須見部隊が橋梁付近まで近迫したとき、師団幕僚が、電話で須見部隊長に、山県部隊の邪魔になるから後退せよ、という意味のことを伝えた。云い方が穏当でなかったらしい。須見大佐は怒りを発した。好き好んで出撃したわけではない。部将として戦機を捉える必要があって、部下を指揮したのである。邪魔になるから退れとは何事か。  師団長は、「部隊長ノ云フ処、誠ニ尤モナリ、幕僚ハ戦場心理ヲ理解シ感情ヲ激発セシメザル様、言葉使ヒニ注意セザルベカラズ」と誌している。  この日、夜八時ごろ、ノロ高地方面にある長野支隊右翼に敵の来攻があり、支隊は深夜、敵を追撃してスンプルオボー(クイ高地西方)方面の橋梁に圧迫し、一部が前岸に進出、橋梁を占領した。明けて十五日、約一大隊の敵が逆襲に転じて来て、これと交戦した支隊は十五日夜、橋梁を爆破して旧位置に帰還|した。《(註三)》  皮肉なことに、戦場の主役が砲兵に割り振られてから、歩兵部隊の活動はひときわ活溌となったが、これは先の小沼メモにあったように、関東軍としての意図に逆行していた。  砲兵戦も後述する経過を辿って不首尾に終るから、結果からいえば、砲戦は期待はずれ、歩兵戦闘だけでも目的を達しないことになるが、軍としては砲戦開始までは満々たる自信を持っていたから、重砲出身の倉沢参謀を戦場に派遣して、第二十三師団長に戦線整理の実施を強く要求した。  第一線諸隊は、一律ではないが、大体七月十五日ごろ、夜襲開始以前の位置に復帰したようである。これから砲兵戦がはじまるまでの約一週間、今度は敵が攻勢に立った。僅かな期間に歩兵が著しく増強されていたし、砲撃は一層激しさを加えた。  日本軍が砲戦準備の展開に日時を費やしたのに較べて、敵は不断に増援と強化を図っていた。これも戦闘を組織する構想と技術の差とみるべきであろう。  七月十五日、小林少将は誌している。昨夜猛烈なる砲撃ありしも、朝来極めて静穏なり。  同じ七月十五日、小松原師団長が誌しているなかに、気になる一項がある。 「石井軍医大佐来訪  昨日敵ノ重爆撃機ハノモンハン付近ホルステン河水源地ニ向ヒ爆撃セリ、前日モ此地ニ爆撃セリ、爆撃跡ニ水溜アリ、実験ノ結果赤痢菌アリキ」  石井軍医大佐というのは、細菌謀略の大家、というよりも、日本における創始者として有名な石井四郎のことである。もっとも、彼がこの戦場に現われたのは、石井式無菌濾水機の発明者としてであろうから、その限りでは不思議はないが、防疫給水部は表向きには濾水・給水・防疫事務を任務としながら、裏面では大規模な細菌培養、細菌の人体(主として捕虜や反満抗日分子)実験、細菌兵器の開発、細菌の敵地への撒布を研究実施した第七三一部隊であり、石井はその部隊長であった。  石井の暗黒に包まれた業績を丹念に辿る紙幅もないし、本稿の目的でもないが、石井は、細菌兵器こそ関東軍が持っている最も威力ある兵器である、と信じていた人物である。  その人物が、ある日忽然と、ただ防疫給水の実施状況を視察するために、砲弾の飛び交う戦場に現われた、と無邪気に信じていいものかどうかである。  二日前の七月十三日午後一時半、石井軍医大佐はホルステン河南岸の長野支隊第一線に姿を見せている。曰く、 「河水は謀略に使用せられある虞《おそれ》あるを以て、使用を避けられ度《たし》」  そのまた二日前、七月十一日、石井軍医大佐は左翼隊長小林少将を訪れて、汁粉のみやげを贈っている。  字句に現われる限り、何の怪しい節もない。各種戦闘詳報でも日記でも。強いて神経に触れるところを求めれば、河水が敵の謀略によって汚染されるかもしれないから、使用するな、ということくらいである。  七月十六日、師団長はこう書いている。 「九日以来敵爆撃機九機ヲ以テノモンハン湖アブダラ湖、中間地区ニ爆弾ヲ投下セリ。夫《それ》ヨリ放射セル液ヲ含ム砂ヲ検査スルトF型及Y型赤痢菌アルヲ発見セリ。  咋十五日モ、本十六日モ、同所ニ大型爆弾ヲ投下セリ、目下調査中ナリ」  調査の結果はずっとのちのちまで誌されていない。たぶん無菌であったのであろう。  師団長は九日以来の爆弾投下現場を目撃しておらず、投下された爆弾から放射した液を含む砂に赤痢菌があったというのも、報告で知ったに過ぎない。報告者は誰か。石井か、石井の指揮下にある誰かであったはずである。  石井がこの七月中旬戦場に現われたとき、何をしたかを明らかにすることは、私にはできない。ただ私は、以下に述べる理由によって、彼が漫然と戦場を訪れたのではなかったであろうと、推測するだけである。  一九四九年十二月二十五日から三十日まで、ハバロフスク市で、細菌兵器の準備及び使用の廉《かど》で起訴された元日本軍軍人十二名の公判が行われた。その公判記録のなかに、元第七三一部隊教育部長・軍医中佐西俊英の供述がある。こうである。 「ハルハ河方面事件ノ際、石井部隊ガ細菌兵器ヲ実用シタコトヲ知ツテイマス。  一九四四年七月、私ハ孫呉ノ支部カラ第七三一部隊教育部長ニ転任セシメラレマシタ。私ハ前任者|サノ《(ママ)》ダ中佐カラ事務ヲ引継ギマシタ。同日、|サノ《(ママ)》ダ中佐ハ日本ニ向ケテ出発シマシタ。私ハ彼ノ書類箱ヲ開ケ、ノモンハン事件、即チ、ハルハ河畔ノ事件デ、細菌兵器ヲ使用シタコトニツイテノ書類ヲ発見シマシタ。  其処ニハ当時ノ写真ノ原版、此ノ作戦ニ参加シタ決死隊員ノ名簿、碇少佐ノ命令ガアリマシタ。決死隊ハ将校ガ二人、下士官、兵約二〇名カラ成ツテイマシタガ、此ノ名簿ノ下ニハ血デ認メタ署名ガアツタノヲ記憶シテイマス。(以下略)」  十二名の被告の筆頭人は、敗戦時の関東軍総司令官山田乙三大将である。右の供述文が根もない捏造であるとは考えられない。  細菌兵器をもって国家に奉仕することに些かも疑問を抱かず、情熱をそそいだ石井四郎が、対ソ戦用兵団ともいうべき関東軍にあって、満洲事変直後のころから細菌戦準備に励んでおり、研究は既に実用段階に達していたときに、ハルハ河畔で日ソ両軍の武力衝突が発生したのである。石井四郎が前線将兵に給水する石井式濾水器の性能を確認するために戦場に赴いたというのは、子供欺しに類するであろう。 [#ここから1字下げ] (註三) 七月十四日の長野支隊(歩七一)の戦闘に関して、歩七一の三木隊に所属していた小田大治氏から、本文中、前岸に進出した支隊の一部が十五日夜に橋梁を爆破して旧位置に帰還したとあるのは、間違いではないかという注意をいただいた。小田氏はまさにその戦闘を体験した人であり、十五日の朝にはノロ高地に戻って、戦死した戦友の指を焼いていたというのである。私はノモンハン会機関誌『ノモンハン』に掲載された小田氏の戦記は、数ある戦記のなかの最も優れたものの一つとして高く評価しているし、命がけの体験の記憶に錯誤があるとも思わない。小田氏の指摘する通りであったろうと考える。戦史叢書『関東軍』〈1〉の五五四頁—五五五頁にも、「十四日には待望のノロ高地を確実に占領するとともに、主力をもって758高地方面からスンプルオボー対岸河畔まで進出した。」とある。  小田氏の手紙にはこう誌されている。「この日七月十四日は総攻撃であり、朝から敵を攻撃して午前十一時か十二時前頃には三木隊は砂山高地(当時は兵隊には丘陵の特徴をとって命名され、或はクイ高地でしょうか)を占領し、ハルハ河の橋梁に到達しましたのは午後一時半頃でした。  途中弾薬補充しながら日没まで激戦を交え、引き揚げ寸前に工兵二名が来て爆破しました。  いよいよ引き揚げ始めた時は十五日になっていたかも知れません。」  私が本文に誌したこのくだりは、『第二十三師団の第二期攻勢』に編入されている小松原日記によった。該日記には、『長野支隊の不期遭遇戦及河岸迄の追撃』という項があって、「十四日二十時、長野支隊ノ右翼二大隊正面ニ敵約百五十攻撃シ来ル」にはじまり、「支隊長ハ一時三十分主カヲ以テ之ヲ攻撃」「スムプル方面橋梁ニ圧迫シ、一部ヲ以テ前岸ニ進出、橋梁ヲ占領ス」とある。二十時が十二時の誤植かとも考えたが、それならばつづく一時三十分までには間があり過ぎるようである。午後一時三十分を意味するのなら、十三時三十分と記録されなければならないであろう。敵は、やはり、二十時に来て、追撃は午前一時三十分であったと考えざるを得なかった。つづいて、日記には「スムプル方面約一大隊ノ敵逆襲シ来リ、支隊ハ之ニ大打撃ヲ与へ十五日夜橋梁ヲ爆破シテ旧位置ニ帰還ス」とある。諸隊の主要戦闘を摘要してある小松原日記のうち、七月十四日の長野支隊にかかわる部分はここだけだから、小田氏が記録している戦闘とは別正面であったとも考えられない。日記と雖も、戦闘詳報等に拠ってあとで書かれたものであろうから、必ずしも正確は保証され難い。が、これを否定する綜合的な事実関係が現時点では定着していないので、直観的には事実は小田氏の線に近いであろうと思われるが、本文を敢て訂正しなかった。 [#ここで字下げ終わり]     28  ハルハ河畔で日本軍が砲兵戦の準備をしているとき、七月十六日午前三時、チチハル南西、嫩江《ノンコウ》に架けられた富拉爾基《フラルキ》の鉄橋が爆撃された。  投弾は八発(一説には一機一弾ともいう)で、被害は大したことはなかったが、関東軍作戦課は色めき立った。極東ソ連軍の全面攻勢の前兆ではないか。  そのころ、関東軍の情報網は、極東ソ連軍に動員がかかったらしい気配に触れていた。東部正面(ノモンハンと正反対)のソ連軍が陣地配備についたらしいという情報にも接していた。  このころのソ連は、前にも述べたことだが、ヨーロッパで、ドイツとの間に、独ソ不可侵条約(八月二十三日調印)の予備段階と考えられる通商協定の交渉開始(七月二十一日発表、八月十九日調印)の目途がついたころである。したがって、最も危険な敵であるドイツとの間に暫定的な平和の設定が実現しつつあったこの時期は、極東での日本との紛争に精力を集中することが可能であった時期であり、軍事的解決を急ぐべき時期でもあったとみることができる。したがってまた、ノモンハン方面への日本軍の戦力集中を妨げ、他正面へ吸引し束縛するための戦略的展開が行われたとしても、不思議ではない時期であった。  それは関東軍の側からしても同じことである。全関東軍、特に当時最も重要視されていた東部正面の戦備を強化して、ソ連軍兵力をこの方面に吸引することは、ノモンハンのためには牽制策となるはずである。  そういう情勢下で突如行われたフラルキ爆撃は、実のところ、奇異な感じがしないでもない。投弾八発としても、被害は僅少。一機一弾とすれば、なおのことである。ソ連軍にとってどれだけの意味があり得たか。  関東軍を刺戟する効果はあるが、フラルキ爆撃では他正面へ関東軍を牽制する効果は地理的にみて皆無に近い。いまさら関東軍を刺戟してみても、ソ連軍として格別の意義を見出せない。仮りに刺戟することに意義があるとしても、ほとんど損害を与えない爆撃行は不可解である。単に夜間の爆撃技術の未熟と解すべきことなのかどうか。  反対に関東軍にとっては、穏やかならぬ意味のあることであった。六月二十七日のタムスク爆撃以来、関東軍は国境外への爆撃行を中央から禁止されている。ソ軍機は、その後、ハルハ河を越えて日本軍地上部隊を再々襲撃している。辻政信によれば「我はハルハ河を越えて爆撃することは、大命で固く禁ぜられている。脚を縛って走らされる苦痛に、飛行隊将兵はどんなにくやしかったであろう。ああ、東京が怨めしい。足枷《あしかせ》手枷を外してくれたらと、毎日天を仰いで嘆息する日が続いた」というのである。したがって、満領内深くフラルキあたりまでやられて黙っていられるか、ということになる。敵がフラルキまで飛んで来るのなら、関東軍としても国境背後にある敵空軍基地を襲撃する名分は立とうというものである。  少し捻って考えれば、フラルキ爆撃は大本営の禁止を解除させる理由としてのみ、意味がある。理由として役立つ限りは、投弾八発被害僅少でも一機一弾でも、意味に大差はない。  関東軍は、フラルキ爆撃のあった七月十六日午後五時、関東軍全般の戦備強化(国境付近要点への兵力推進、陣地の守備力増強)を命ずる関作命第六九号を示達し、同日午後五時三十五分、参謀総長と陸軍大臣に報告した。それにつづいて次の電文(署名・軍司令官、主任・辻)を打っている。 「敵機ハ最近数次ニ亘リ温泉(ハロン・アルシャン——筆者註)付近ノ爆撃ヲ反復セルノミナラス本十六日三時二十分其ノ爆撃機一ヲ以テ富拉爾基鉄橋付近ヲ爆撃セリ、  以上ノ情勢ニ鑑ミ敵機ノ跳梁ヲ看過スル時ハ必スヤ敵ノ軽侮ヲ招キ事態ヲ悪化セシムルノ傾向歴然タルニ鑑ミ軍ハ外蒙空軍ヲ其ノ根拠地(タムスク、サンベース、マタット)ニ急襲撃滅スルコト極メテ緊要ナリト信シ謹ミテ意見具申ス」  東京を怨めしいと思っている男が謹んで意見具申したのである。今度こそは通ると考えたであろう。  東京の回答は、辻を急先鋒とする関東軍を激怒させた。こうである。少し長いが、日本の実情を反映した中央の苦慮が表われているので、全文を引用する。  軍参謀長宛    参謀次長 一、満洲内ニ対スル敵ノ爆撃ハ大陸指第四九一号ノ発令ニ当リ考慮シタル所ニシテ本事件処理ノ方針タル局地解決ノ主義ニ照シ|隠忍スヘク且隠忍シ得ルモノ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ト考ヘアリ  即チ敵機ノ奥地攻撃企図ハ傍受電ニ依リ薄々察知セラレタル所ニシテ空軍敗戦ニ伴フ窮余ノ策ナリト判断セラルル筋アリ  今ヤ地上作戦ニ於テモ制空権ノ常時絶対的保持ヲ必要トセサル情況トナリ最早如何ニシテ|事件ノ自主的打切リヲ策スヘキヤヲ考慮スヘキ時ナリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》  此ノ際外蒙ザバイカル一帯ノ蘇空軍ニ対シタムスク等ノ攻撃ヲ行フモ必シモ貴軍ノ期待セラルルカ如キ膺懲ノ成果ヲ得ルノ見込絶対ニアリト称シ難ク敵ノ採リ得ル対抗策ニ鑑ミ|寧ロ事件ノ拡大スル虞モ尠カラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ト判断セラルルヲ以テ全般ノ情勢上此種対策ハ不適当ニシテ寧ロ満洲内ノ防衛力強化ニ努カスルヲ可トスル意見ナリ 二、大陸指ノ発令ニ当リテモタムスク攻撃ノ報復トシテ斯ル情況ノ発生ハ予期ノ上敵根拠地ニ対シ我カ空中攻撃ヲ行ハサルコトニ定メラレタリ  申ス迄モナク情況此ノ如ク進展セル場合蘇軍カ開戦ノ決心ナク満洲国ノ体面上忍ヒ難キ範囲マテ其ノ爆撃ヲ拡大スルコト絶無ナラス此ノ如キ場合国境紛争ニ引キツラレ|帝国カ対ソ開戦ノ決心ハ為シ得サルコト《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヲ篤ト御考慮ニナリ彼カ紛争ノ範囲ヲ拡大セハ我モ亦報復的ニ之ニ応スルノ観念ヲ是非三省セラレ|事件ノ収拾ニ努カヲ加ヘラレンコトヲ切望《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》シテ止マサルナリ(傍点引用者)  右の電文中の「隠忍スヘク且隠忍シ得ルモノ」が関東軍の作戦参謀たちを激怒させたのである。隠忍すべくとは誰が隠忍するのか。新京までも爆撃されて隠忍したら、満洲国はどうなるか。満洲国における帝国の地位はどうなるのか。これが大本営の打つ電報か。辻曰く、 「かくて中央部と出先、東京と新京とは、到底融和一致して事件を処理する曙光さえ見出し得なくなった」  出先軍としては、そのくらいのことは先刻考慮済みであるから隠忍しなければならぬことであるし、隠忍できることではないか、と云われれば、不愉快になるのはもっともだが、力み返ってばかりいないで、冷静詳細に国力を検討する理知と愛国心があれば、事態はとっくに収束すべき段階に来ていることを理解したはずであった。     29  陸軍中央部が正確にどの時点から作戦終結の必要を考えはじめたか、誰がその最初の人物であったかは、明らかでない。戦史を歴史にまで高める上では重要なことだが、戦史では人間の仕事が機関の仕事にすり替ってしまうので、人間の業績を追跡することが困難な場合が多い。したがって、作戦終結の必要を考えはじめていた中央部は、というような曖昧な書き方しかできない場合が多いのである。  その中央部は、関東軍との思想統一を図るために、七月十八日、参謀総長から関東軍司令官宛て、連絡のため軍参謀長を上京させる指示の電報を発した。  関東軍の作戦参謀たちはまたごねた。「隠忍すべく」の電報ですっかり感情的になっている。上級機関の指示を素直に聞けない。それもよくよくの事情があれば別だが、そうであったとは思えない。参謀長を上京させることに反対した理由は、㈰情況の変転測り難いときであるから、参謀長が数日間不在になることは適当でない、㈪支那方面の作戦においても、作戦間に参謀長を東京に招致するようなことは絶対にない、関東軍に限ってそれをするということは、関東軍に対して「酷なる態度」に出たものである、㈫必要とあれば、中央部の責任者が現地に来て、情況を認識し軍と連絡すべきである、という三点である。  ㈰はもっともらしいが、参謀長、副長がいて、特に注意を与えられていても、下僚がこれを無視して勝手に事を運ぶのは珍しくない。たとえば、既述の安岡支隊解組と帰還問題の場合がそうである。  ㈪はこじつけというものである。支那作戦の場合がどうであれ、ノモンハンはノモンハンである。関東軍に対して酷な態度に出たと看るのは、思い上っていた者のひがみとしか謂いようがない。  ㈫は出先を中央と対等または対等以上と自惚れていることである。内実は、参謀長一人を出して東京でやりこめられるのを避けて、中央の代表者を呼びつけて東京の机に坐っていて何がわかるかと云いたいのである。これには、七月三日の渡河作戦のとき、東京から第一部長・橋本群中将が来ていて、将軍廟あたりで戦況を遥かに望見しただけで帰ってしまったことを、辻参謀たちが不快に思った事実があるから、それも作用していたであろう。  辻は、その件に関しては、こう書いているのである。 「この部長が、事態の認識を誤り、悲観的な態度を取ったことは、他日大きな齟齬《そご》を来す原因となったのである」  関東軍の作戦課では右の理由から参謀長の上京には反対であるとして、第二・三・四課の各課長の同意を取りつけ、この際参謀長を上京させることは困難である、という軍司令官から参謀総長宛ての返電を起案して、寺田第一課長から軍参謀長、参謀副長に申し出た。  しかし、関東軍参謀長・磯谷中将は、この際上京して陸軍大臣や参謀次長(参謀総長名は形式的には用いられるが、総長は閑院宮であって空位を擁しているに似ていたから、参謀本部の実質的最高責任者は参謀次長なのであった。為念)と意見交換をした方がよいと考えており、軍司令官植田大将も同意したので、磯谷中将は、七月十九日、飛行機で上京した。  同日夕刻、東京に着いた磯谷中将に対して、参謀次長から明二十日の会談の連絡があったので、磯谷は次長との意見交換のために来たのであるから、余人を参加させないことを特に希望すると伝えた。  二十日の会談の席には、しかし、中島参謀次長の他に、山脇陸軍次官、橋本参謀本部第一部長、樋口第二部長、稲田作戦課長、山岡露西亜課長が会同していた。  関東軍参謀長からの説明要旨は大体次のようである。  ㈰支那事変の解決を第一義とすべきときであるから、対ソ戦を誘発しないように努めるべきであるという点で、関東軍は中央と見解が一致している。  ㈪ノモンハン事件に関しては、越境ソ連軍に徹底的打撃を与えることによってのみ、紛争不拡大を期待できるのであって、軟弱な態度をとれば戦面は必ず拡大するに至るであろう。  ㈫ハルハ河右岸地区(関東軍の謂う国境線内を指す——筆者)を確保することは絶対必要である。  ㈬ソ連は全面戦争を企図してはいないと判断する。したがって、この際徹底的打撃を与えることによって、将来の国境紛争を防止し得る。  ㈭ノモンハンの終局を前年の張鼓峰事件の轍を踏まないようにすることが肝要である(張鼓峰事件の終局は、停戦協定後、部隊によっては半数を超える損害に耐えながら、国境として主張してきた稜線を死守していた日本軍は、その線をソ連に譲り渡して撤退したのである)。  ㈮タムスクやサンベースに対する航空進攻は、カンジュルやアルシャンに対する敵の攻撃に答える当然の処置である。航空部隊の進攻に速かな認可を与える必要がある。  磯谷中将のこれらの意見に対して、中島参謀次長は『ノモンハン事件処理要綱』を手渡し、これは陸軍省と参謀本部との一致した見解であると説明した。  磯谷は『要綱』の方針「事件ヲ局地ニ限定スルノ方針ノ下ニ遅クモ本冬季迄ニ事件ヲ終結スルニ勉ム」ということには異存がなかったが、その指導要領に関しては、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、地上作戦ニ於テハハルハ河右岸地区ノ敵ヲ掃蕩スルニ勉ム  此間所望ノ戦果ヲ得ルカ外交商議成立スルカ否《(ママ)》ラサルモ|冬季ニ入レハ機ヲ看テ兵力ヲ事件地ヨリ撤去スルニ勉ム《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》  |爾後ソ軍カ係争地域ニ侵入スル場合ニ於テモ情勢之ヲ許スニ至ル迄ハ再ヒ地上膺懲作戦ヲ行ハス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 二、航空作戦ニ於テハ越境機ノ撃墜ヲ方針トシ且戦力ノ保持ニ勉ム  |敵機ノ満領爆撃ヲ行フ場合ニ於テモ其根拠地ニ対スル進攻作戦ヲ行ハス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 三、作戦ノ推移ニ応シ好機ヲ捉へ速カニ外交交渉ノ端緒ヲ把握シ(以下略——傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  右の諸事項のうちの傍点部分について不同意であった。  磯谷の云い分は、今後発生するかもしれない紛争の場合は別として、既に発生し、数千の将兵が血を流した地域を放棄することは、関東軍司令部の統帥上絶対にできない、中央が飽くまで撤退せよと云うのは、国境はハルハ河の線であると、これまで主張してきた中央の見解を変更するつもりなのか、ということである。  これに対して、橋本第一部長が、変更してもいいと答えた。  国境変更は重大事項である、磯谷中将は反対した、一部長の見解だけで軍司令官はそれに従って行動することはできない。国境変更は確かに重大問題なので、参謀次長も陸軍次官も問題を保留した。  すると、今度は稲田作戦課長が、張鼓峰事件は中央の希望通りに終局したものであって、理想的解決であったと考えているが、今度の事件は関東軍が中央の意図に反しているので、中央としては困惑している、と云った。  磯谷関東軍参謀長は怒気を発した。張鼓峰事件の解決が理想的であるとは何事か。関東軍はあの終局こそ最も不適当、屈辱的と考えている、と両者の論旨は食い違ったままになった。  張鼓峰事件の解決を理想的とするのは、作戦課長の我田引水のきらいがある。ソ連がどう出るか叩いてみよう、まかり間違えば一個師団フイになるかもしれないが、漢口作戦を行おうとしている日本としては、ソ連が出て来ないことを確かめる、という稲田構想からはじまったことである。結果は先の磯谷発言の㈭の部分で略記した通りであった。決して「理想的」ではなかった。さりとて、磯谷が云うように「不適当」であったから、もっと徹底的にやるべきであった、ということに正当性があるわけではない。意地を張れば第十九師団の壊滅は時間の問題であったのである。戦闘がさらに拡大すれば、漢口作戦などとても行えることではなかった。  こうして、東京での中央部と関東軍との意見交換は、一致を見ることができなかった。  磯谷中将は『要綱』を「研究」することにして、七月二十二日、新京に帰任した。  中央は、結局『要綱』によって明らかな事件処理の意図を、実行命題として関東軍に強要しなかった。優柔不断だったのである。関東軍幕僚たちがいきり立っているから冷却期間が必要であると無用の考慮をしたり、折りから国内で詮議の中心課題となっている三国同盟問題に関心を奪われている間に、手おくれになった。稲田作戦課長は、のちに、次のように回想している。 「(前略)此時コソ中央ノ意志ニ聴従セシムヘク絶対ニ強要スヘカリシナリ(中略)関東軍カ中央ト対等ナル如キ誤レル観念ヲ持シ、参謀総長ノ連絡ヲ無視セントスル傾向ハ、満洲事変以来ノ悪習ニシテ断乎トシテ改メサルヘカラス(中略)今回モ亦関東軍司令官ノ立場ヤ参謀長ノ面子等ヲ考慮スルコトナク、八月上旬迄ニ中央ノ意志ヲ強要シ、承諾セサルニ於テハ断乎首脳者ノ更迭ヲ実行スヘカリシナリ(後略)」  関東軍の頑冥ともいうべき洞察力の乏しさ、己れの虚勢を虚勢と認識し得ぬ愚昧と、中央の統帥の不徹底と不見識が、八月下旬の惨澹たる悲劇の幕をあけることになったのである。  時間をまた少し戻さなければならない。戦場では、日本軍が砲兵戦主体の総攻撃を開始しようとしている。     30  砲兵戦準備のために歩兵各部隊が積極的な夜襲を中止して戦線を大体整理したころ(七月十五日ごろ)から、砲兵戦開始までの約一週間、ソ連軍は各所で攻勢に立った。それまでの戦況では、戦果のほどはともかくとして、日本軍はハルハ河の線への近迫に努めていたのが、ここへ来て攻守所をかえたのである。  ソ連軍には明らかな兵力の増強、抵抗組織の強化、砲兵火力の激化が見られた。  七月二十三日砲兵戦開始まで、大戦闘があったわけではないから、ハルハ河に面し、ホルステン河両岸に跨《またが》る二つの部隊の防禦戦闘を素描するにとどめよう。  七月十六日 酒井部隊(歩七二)  午前十時二十分、前日撃退した敵(歩兵五百、戦車約三十)の一部が、不意に第六中隊正面に来攻、交戦二時間で後退したが、九日以来本隊から約五百メートル前方の砂丘に突出している葉山小隊はこの戦闘で長以下十九名に減少した。  午後四時ごろ、連隊砲は、ホルステン河左岸(南岸)の長野支隊(歩七一)に協力して、ノロ高地西北方から長野支隊右翼を包囲攻撃している敵戦車と歩兵に射撃を浴びせ、後退させた。  その返報か、午後七時二十分、第一線全般に砲撃を蒙ったが、損害はなかった。  暗くなると、敵は第一線の配兵を後方凹地に退《さ》げ、陣前に散乱した死体が放つ臭気に嘔吐をもよおすばかりである。  前方、銃眼高地では、敵兵六—七〇名が陣地工事を施している。  同十六日 長野支隊(歩七一)  対岸の十五榴や、川又付近から侵入した牽引野砲、戦車砲などから、終日砲撃を受けた。  戦車約十輛と歩兵約一個中隊が支隊の右側背から襲ったが、午後四時以後、野砲と前記酒井部隊連隊砲の射撃によって、敵は退却した。  午後八時半、敵の砲撃熾烈。第二大隊正面の戦況が切迫した。第二大隊の左第一線第八中隊が占領している三角山は、前に敵の観測所があった地点であるから敵はその奪回を企図しているらしく、猛烈な砲火が三角山を蔽い、戦車約十輛を伴った歩兵約一個大隊が攻撃して来た。  午後九時三十分、工兵一分隊を第二大隊に配属して肉薄攻撃を行わせ、隣の酒井部隊から砲兵二中隊と連隊砲が協力する通報があった。  夜に入って戦況はなお急迫したが、第一線はもちこたえ、敵は信号弾二星を上げて退却した。  七月十七日 酒井部隊  午前一時二十分 第六中隊正面に敵小部隊が夜襲をかけ、陣前五十メートルまで接近、手榴弾を投擲。交戦三十分で退却。  この日、第一大隊正面では敵の陣地補強が見られ、銃眼高地にはときどき砲兵戦車砲が出現して、射撃した。  午後七時ごろ、前記突出部の葉山小隊は敵戦車砲の集中火を受け、葉山小隊長以下九名負傷。大隊長は阿部小隊と交代を命じた。  同十七日 長野支隊  終日、対岸スンプルオボー付近の十五榴が猛威を逞《たくま》しくした。午前八時から十二時、午後七時から八時までは、砲煙|濛々《もうもう》戦場を覆った。  十二時半、鷹司部隊(砲兵)が到着して支隊本部の位置に観測所を置くため、本部は約八百メートル前進。  第二大隊正面には依然として頑強な敵があり、砲兵に射撃を要請したが、弾薬と火砲の性質から射撃できなかった。  午後四時二十分、日本軍飛行機九四偵三機がスンプルオボーの十五榴陣地に急降下爆撃を加えるのを望見し、将兵は快哉を叫ぶ。飛行機の果敢な対地攻撃は珍しい光景であった。  七月十八日 酒井部隊  銃眼高地から戦車砲、野砲、対岸から重砲の砲撃、終日に及んだ。その他変化はなく、敵の第一線陣地は着々増強されているらしかった。  同十八日 長野支隊  午前七時、敵は砲撃開始。射弾は支隊本部付近に集中した。その数は大体三十分間に百二十発。壕が崩れて若干の将兵が埋まったが、大事には至らなかった。砲撃を受けているときに壕の底に横たわっていると、砂地で崩れやすいので、そのまま生き埋めになる虞れがある。  第二大隊は終日戦車を伴った敵歩兵約三百の執拗な攻撃に応戦した。  午後七時四十分ごろから、部隊右正面に、熾んな砲撃とともに戦車二十輛、歩兵四—五百が進入し、陣前約四百メートルに止まって、陣地右側背から射撃と火焔放射をもって攻撃したが、午後九時半逐次退却、戦場は静穏となった。  敵の攻撃意図は、この日に限らず、明瞭でない。小出しで、執拗である。白兵戦を怖れてか、突入しては来ない。浸透する間隙を求めているかのようである。  この七月十八日には、別の出来事があった。東久邇宮盛厚が野戦重砲兵第一連隊(長・三嶋義一郎大佐)の中隊長として、連隊と共に戦場に到着したことである。これは、中隊長として戦場で戦うためであるよりも、戦線将兵の士気を鼓舞するためであった。  辻参謀起案(七月二十五日)、参謀本部庶務課長宛ての電報には、 「殿下ニハ七月十八日戦場御到着以来中隊長トシテ敵前至近距離ニ於テ敵砲弾及爆撃下ニ御機嫌麗シク不眠不休ノ御活動ヲ遊ハサレ二十三日ノ総攻撃ニハ川又橋梁ヲ砲撃ニヨリ破壊セラレ偉大ナル戦果ヲ収メラレ全軍ノ志気ヲ振作セラレツツアリ(以下略)」  とあるが、七月二十七日には早くも飛行機でハイラルヘ帰還してしまった。これは、二十四日に、随行して来た宮内省属官が敵機の爆撃で大腿部を負傷し、同日ハイラル陸軍病院で死亡したため、御附武官である砲兵中佐貫名人見が東久邇宮の身を案じて、帰還を連隊長に強く進言し、連隊長以上が同意したのである。  東久邇宮中隊長は八月の人事異動で阿城《あじよう》重砲兵連隊に転補される予定になっていたのを、その発令に先立ってハイラルに帰還したことを、軍司令部ではさすがに好感しなかった。  軍としては、軍司令官が七月二十九日に戦場を訪れ、三十日に新京に帰還する予定で、戦場での軍司令官と東久邇宮中隊長との対面の手筈を定めていたのである。戦塵にまみれた将兵を鼓舞激励する儀式は、軍人の好みそうなことである。  東久邇宮は、このため、ハイラルから飛行機でまた戦場へ飛び、師団司令部に赴いて軍司令官と対面し、同日再びハイラルヘ引き返した。歩兵部隊なら、ハイラルから戦場まで、軍装して六日の強行軍である 顎を出し、戦場到着までに体力を消耗してしまう。そして戦って死ぬのである。涙をそそいでくれるのは、将校としては、下から算えて中隊長までであろう。皇族中隊長は飛び去り、飛び来り、また飛び去った。  軍司令官に随行して来た寺田高級参謀は、師団参謀長岡本大佐に、東久邇宮を転補発令以前にハイラルヘ帰還させたことを強く窘《たしな》めた。  七月十九日 酒井部隊  この日は雨であった。  早朝から、右翼の山県部隊(歩六四)とホルステン左岸の長野支隊正面では激しい銃砲声がしていたが、酒井部隊第一線は概して平穏であった。  長野支隊の右翼は火焔放射によって攻撃する敵戦車群に対して、連隊砲の協力射を行ったこと、敵小部隊の来襲を撃退したこと以外に、取り立てていうほどのことはなかった。  同十九日 長野支隊  午前五時半、敵は早くも砲撃を開始した。同時に戦車十輛が第二中隊正面に来攻したほか、朝から各方面に活溌な行動を示した。いままでは、毎晩対岸に引き揚げていた敵戦車が、前夜からは此方側に止まって夜を徹したらしかった。日本軍が夜襲に出て来ないと見きわめたようである。  午前九時、戦車は火焔を放射して陣前に迫った。第一線の速射砲は破壊されたが、敵はそれ以上は突入して来なかった。  午後は豪雨が断続した。将兵のなかには水浴して戦塵を流す者もいた。  午後七時半ごろ、第二大隊左第一線の三角山に対する銃砲声のほかは、概して平穏。夜、雨足はひとしお繁くなった。  七月二十日 酒井部隊  敵情に顕著な変化はなかった。  午前一時二十分、第六中隊阿部小隊(本隊から前方へ突出していた葉山小隊と交代した部隊)正面に、敵小部隊来襲、二十メートル付近まで近接したが、撃退。  正午前、第六中隊正面に、歩戦協同の優勢な敵部隊が迫り、側方に迂回して手榴弾投擲距離に入った。中隊長吉次中尉は少数の兵をもって逆襲、敵は白兵を怖れたか、午後二時二十分ごろ退却した。  午後九時、明二十一日に予定されていた総攻撃(砲兵戦主体の攻撃を当時こう呼んだ——筆者)が、砲兵の都合で二十二日に延期されたことを、将兵ようやく知る。  友軍重砲は後方二四〇〇から陣地進入。敵の監視兵は対岸に撤退せず、警戒厳重で、斥候の潜入は困難であった。  同二十日 長野支隊  午後一時五十分、支隊本部と砲兵は敵機約四〇の対地攻撃と爆撃を蒙ったが、馬数頭が斃れたほかに損害はなかった。  午後二時五十分第三中隊が支隊に復帰して、本属各部隊全部が纏った。  午後七時四十分、左正面に戦車二輛、機関銃四を持った約八十名の敵が来襲したが、小野塚中隊(第九中隊)奮戦してこれを撃退した。  七月二十一日 酒井部隊  払暁からほぼ正午まで、敵の砲撃激烈をきわめた。  明日は総攻撃である。連隊長・大隊長と野砲兵第三大隊長は歩砲協同の合議。敵第一線は警戒厳重であったが、夜に入って、将校斥候、下士斥候は敵地に潜入偵察した。  同二十一日 長野支隊  午後四時過ぎ、総攻撃のための糧秣弾薬の集積を終了した。  夜半から暁へかけて、敵の砲撃は熄《や》まなかった。察するに、補給路の遮断を企図していたようであった。  七月二十二日 酒井部隊  砲兵団の砲撃開始は午前七時三十分と予定されていたから、各隊は前進準備をした。  ところが、天候不良のため空中観測ができず、攻撃開始はまた一日延期となった。  敵は天候にかかわりなく砲撃する。  午前五時半、第二大隊正面では、第六中隊がノロ高地方向と山県部隊(歩六四)方向とから野砲、戦車砲の集中砲火を浴び、ホルステン左岸からは機関銃、小銃の側射を受け、兵力逐次減耗した。楽観は許されなかった。  正午過ぎ、敵歩兵約二百が戦車七、迫撃砲数門、機関銃七—八をもって来攻。大隊長は機関銃主力を火線に増加、連隊長は連隊砲に射撃を命じた。この間、第六中隊は長以下三十余名に減少して、敵の包囲はいよいよ近接、火力を集中した。中隊は射撃と突撃を反復して、敵の接近する度にこれを撃退したが、敵の攻撃は執拗であった。  大隊長は予備隊の第五中隊を第六中隊の線に増加したが、午後四時半ごろ、敵の狙撃兵約二百が、重砲野砲の集中火を利して、戦車を伴って接近し、手榴弾の投擲距離に達した。このとき、葉山小隊の銃を執り得る者五—六名、阿部小隊のそれは十名ほどになっていたが、葉山小隊は右から、阿部小隊は左から、突撃を敢行、辛うじて敵を後退させた。  連隊長は第一線の戦況切迫を見て、対岸砲兵に対する友軍重砲の砲撃を要請したが、友軍重砲は目下企図を秘匿中であるから、射撃によって暴露することを嫌い、野砲のみの協力を応諾した。  午後七時、敵の砲撃はまだ熄まない。敵砲兵の活動はこれまでになく活溌である。  午後八時、敵機編隊陣地を爆撃する。  夜闇迫り、次第に深くなる。砲声はそれにつれて衰え、遂にやみ、そのあと銃声と機関銃の音がときおり夜を縫った。  やがて、銃砲声すべてが、夜の静寂に譲った戦場を上弦の月が青く照らした。  同二十二日 長野支隊  この部隊正面には、この日、異常はなかった。  友軍砲兵団が一斉に火蓋を切るのは明七月二十三日である。     31  戦場の日本軍将兵は、砲兵戦がもたらす大戦果を待望していた。砲兵戦準備のために歩兵部隊の進出を控制する件をめぐって、戦場の主役を砲兵に譲る歩兵部隊としては、不満がなくはなかったが、連日敵の熾烈な火力に叩かれてきた戦場心理としては、敵を味方の重砲火力で打ちのめしてもらいたいと念ずるのは自然であった。  友軍砲兵団が敵の左岸台上の砲兵を無力化しさえすれば、右岸の敵の掃蕩などはほんの一撃をもって足りると考えられていた。  今度は軍の作戦参謀たちは誤算してはいないであろうか。  辻参謀は、先の東捜索隊の全滅については、「外蒙騎兵がこんなに多くの戦車を持っていようとは、誰しも考え及ばなかった」と、誤算は自分の責任ではないかのように書いた。  次いで七月三日・四日のハルハ河両岸攻撃の失敗については、「この一戦で、一挙に越境外蒙軍を撃滅しようと期待したのに、実際に於ては目的を達し得ず更に態勢を整理して、敵の再犯に備えねばならなくなった。その原因は、敵情の判断を誤ったことである。我と略々《ほぼ》同等と判断した敵の兵力は、我に倍するものであり、特に量を誇る戦車と威力の大きい重砲とは、遺憾ながら意外とするところであった」と書いた。  それなら、内地から重砲を呼んで準備した七月二十三日からの砲兵戦には、よもや敵情についての判断の誤りはないであろう。  彼はこう書いている。 「砲兵の展開を終り、|弾薬も十分集積した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ので、七月二十二日(二十三日の誤植であろう——引用者)全火砲をあげて敵砲兵を制圧して歩兵主力はハルハ河右岸の敵の橋頭堡を攻撃した。このときばかりは戦場の我が砲声が、敵を圧倒しているかのようにさえ感じたが(中略)午後には却って敵が優勢にさえなった。(以下略——傍点引用者)」  砲兵戦の結果は後述するように挫折をもって終るのだが、それには明らかな敵情誤判があったにもかかわらず、彼はこのときの「判断」には触れていない。  結論を先走っていえば、砲兵戦不成功の理由は、一に、何よりも、火砲数の不充分、特に弾薬の乏しさである。辻は「弾薬も十分集積した」と思っていたらしいが、戦闘を構想する規模が彼と敵とでは桁違いであった。彼に限らず、日本軍はいつも、これだけ持って行けば[#「隹+鳥」、unicode9de6]を割くに牛刀を用いる類だ、と独善的な判断に陥りがちであった。二は、数において劣勢な火砲が、性能においても劣っていたことである。あとで比較数字を列記するが、同じ口径の火砲の射程が短かったということの、砲戦を交す上での不利は決定的といってもよいであろう。火砲の陣地進入・展開、必要を生じた場合の移動とか補給の機械的手段、技術組織も充分とはいえなかった。三に、前者と関連してのことだが、陣地の構築、敵情の捜索、敵砲兵の標定、味方火砲の疎開・偽装等の秘匿工事、通信網の構成、観測手段の確保等が、地形の不利や敵の砲爆撃下という悪条件があったからとはいうものの必要充分条件を満たすには甚だ遠かったことである。  それにもかかわらず、軍司令部以下満々たる自信を抱いていたという。敵戦力に関して、何度目かの救い難い下算を犯していたのである。  砲兵団長内山少将が七月十九日下した命令に示された方針は、「攻撃第一日全砲兵をもって一挙にソ軍の砲兵を撲滅し且つ橋梁を破壊するとともに、爾後主力をもって歩兵の攻撃に協力する」ことであった。  砲兵団は二群に編成されていた。第一砲兵群は畑少将を長として、野砲兵第十三連隊(伊勢部隊)の第一大隊、野戦重砲兵第三旅団司令部、野戦重砲兵第一連隊(三嶋部隊)、野戦重砲兵第三旅団輜重隊、独立野戦重砲兵第七連隊(鷹司部隊)、穆稜《ムーリン》重砲兵連隊(染谷部隊)。第二砲兵群は伊勢大佐を長として、野砲兵第十三連隊(伊勢部隊)、独立野砲兵第一連隊(宮尾部隊)。他に砲兵団長直轄として、砲兵情報第一連隊、臨時気球中隊があった。その数、五個連隊八十二門である。  砲戦第一日、七月二十三日は快晴であった。  午前六時三十分、砲戦はまず野砲による誘致射撃からはじまった。敵砲兵主力の射撃を誘発して、これまでの捜索と標定を再点検し、敵砲兵の出現を発見するためである。  誘致射撃は忽ち敵砲兵の応戦を誘発したが、敵の全砲兵が誘いに乗ったとは、その後の経過からみて考えられない。約一時間の誘致射撃ののち、午前七時三十分から約三十分間、全砲兵をもって効力射準備射撃、午前八時から攻撃準備射撃を開始した。  日本軍はこれまで砲撃らしい砲撃をしていないから、対岸斜面に自動車群などが暴露していたのが、砲撃をくらうと算を乱して稜線の彼方へ逃げ散って行くのが見えた。  攻撃前進待機の姿勢にある歩兵諸隊は快哉を叫んだ。歩兵は午前十時を期して一斉に攻撃前進と定められていた。実際には、内山砲兵団長が攻撃準備射撃を一時間延長したため、歩兵の前進は十一時からに変更されたが、この時間変更が伝わらなかった部隊が少なくない。たとえば七十二連隊の第一大隊がそうである。  この部隊は午前十時に前進を開始した。大隊副官野村春好によれば、前進開始後、連隊副官から電話で過早な出撃を怒鳴られたとある。連隊では十一時と承知し、第一線大隊は変更を知らない。連隊に命令変更が届いていて、電話で大隊本部と連絡がとれる状況にあって、変更が徹底していないのは不可解である。小林歩兵団長もこの連絡不達には困惑したらしい。 「之が徹底に苦心せり。将来之が伝達の方法並其決定の時期等につき研究を要す」とある。  歩七二第一大隊の場合は、前記大隊副官によれば、第一線は後方からの制止連絡も聞えないらしく、あるいは、聞えても砲撃下に停止はできないから、砲弾炸裂するなかを果敢に前進、午前十時半ごろ、銃眼高地に取りつき、敵を駆逐して占領したという。  この部隊は遮二無二突出したらしいが、全線にわたって歩兵の前進はそう順調には運ばなかった。敵の砲火が猛威をふるったからである。  この日、第一砲兵群は約二基数の弾薬を使用した。基数というのは弾薬数量を表わす算定単位で、火砲の種類によって基準数量が異っている。各砲一門についての一基数は、ノモンハン戦場に出動した砲種についていえば、野砲山砲が一〇〇発、十加六〇発、十五加三〇発、十二榴六〇発、十五榴五〇発である。したがって、第二群も同じく二基数を射ったとして単純計算をすれば、野砲(口径七・五センチ)三二門で六四〇〇発、十二榴一二門で一四四〇発、十五榴一六門で一六〇〇発、十加一六門で一九二〇発、十五加六門で三六〇発、各種合計一一、七二〇発を射ったことになる。短時間の砲撃としては日本軍空前の弾量であった。  それでも弾量は足りなかったのである。射撃効果としては、対岸台上にある敵砲兵二乃至三中隊を撃滅し、五乃至六中隊を一時制圧し得たものと観測されたが、歩兵部隊が前進を開始してみると、沈黙せしめられたかに見えた敵放列は俄然火を吹いた。歩兵の前進は困難をきわめた。敵の第一線陣地の一角を奪うのにさえも多くの犠牲を必要としたのである。  小林歩兵団長の戦況把握はこうである。 「然れども敵の攻撃相当激烈を極めたるため……大なる進展を見ずして遂に夕刻となる」  日本軍が砲兵戦準備に日時を費やしている間に、ソ連軍は急速に陣地設備を強化し、歩兵力と火力を著しく増大していたのである。  小松原師団長は、午後四時二十分、歩兵部隊は日没を利用してハルハ河の線に進出すべきことを命じ、砲兵団に対してはなるべく多くの火砲を前方に推進して、明払暁からの歩兵の攻撃を容易ならしめるように要求した。  この日、歩兵部隊の前進に関して、小林歩兵団長は山県部隊(歩六四)の行動に不満を抱いている。山県部隊が方向と自己位置の判断を誤って、その是正に難渋して「甚不快なり」とある。小林少将はよく「不快」になる人のようだが、次の日の山県部隊の位置が山県部隊の主張では733高地を奪取したことになっており、砲兵の標定では733は依然としてソ連軍の手中にあるという甚だしい食い違いを生じたことからみて、二十三日の山県部隊の位置の誤判も事実であったのかもしれない。  小林少将と山県大佐との間に位置の認識に関する見解の相違があったことは、前にも触れたが、何か感情をこじらせたものがあったらしく思われる。ただの位置の問題ぐらいではないであろう。想像するに、ハルハ河左岸撤退後の右岸攻撃開始以来、攻撃を強行しようとする小林少将と、攻撃を急がない山県大佐との、兵術思想の相異に根ざしているのであろう。そうでなければ、小林少将もこうまでは書くまい。 「前日来の経験に見るに極めてオク病なり 何日も己のみが前進して他が遅れある様に判断し且つ常に消極的にして何となく溌溂たる志気に乏し」  これに対抗する山県大佐側の資料が見当らないのが残念である。  この夜、十時十五分から伊勢部隊(砲兵)の威嚇射撃を行い、同二十分、赤三星を合図に歩兵部隊は薄暮攻撃を開始したが、師団長所望のハルハ河の線へは遠く及ばなかった。  この日、歩兵第七十二連隊(酒井部隊)の第六中隊から前方約五百メートルヘ突出していた勇敢な葉山小隊(前述)の葉山少尉が戦死した。  またこの日、石井大佐(前述石井四郎軍医大佐)が、何の用があってか、終日小林兵団司令部に来ていた。  小林少将は無邪気にこう誌している。 「敵飛行機益々活躍す 殊にSB機は三回に亘り細菌を雨下せる事確実なり」  細菌雨下をどのようにして目撃したか不明だが、石井大佐の「説明」なしには諒解困難なのではないかと考えられる。石井大佐は、何故、終日そこにいたのか。勘ぐれば、先の証言にあった「決死隊」の行動が、既に行われたか、あるいはまさに行われようとしていたかして、石井がそれを敵の細菌雨下と「説明」したものと、考えられなくはない。記録の類に石井が現われると、細菌の影がさす。奇怪である。  この日の空戦状況は、「日機|稍《やや》遜色あるを目撃せしめられたり 敵機高度約六千以上 高射砲の攻撃も何等手こたへなし」とある。  内山砲兵団長は小松原師団長から砲兵推進の要求を受けると、第一砲兵群長畑少将の意見を聞いた。畑少将の意見は移動推進に反対であった。理由は、地形上の制約と技術的制約の二つである。対砲兵戦の効果を増大するために重砲を推進して射程を短縮することは、一見有効だが、不利とするところが遥かに大きい。その一は、現在の砲兵観測地帯から前方は敵に向って降下する緩斜面になっており、重砲を推進して適切な放列陣地を求めることが困難であり、敢て困難を冒すとしても、現在の観測地帯を放棄して新に不利な観測地帯に移るか、現在の観測地帯をそのままにして放列を推進すれば、その離隔を著しく増大する不利を免れない。その二は、現在までに周到綿密に実施された射撃諸準備を放棄して、新に応急調整する射撃諸元をもってする射撃は、精密を本則とする対砲兵戦を粗笨《そほん》に導くことが明らかであって、射程短縮による効果の増大を期待することは、却ってより大なる不利を招くことになる。陣地を推進して効果的な対砲兵戦を行うには、補備手段として空中観測に依存するほかはないが、友軍空中兵力の実情、敵機の跳梁、味方の砲飛両者の連繋訓練の未熟から考えて、空中観測に依存することは不可能である。したがって、重砲推進には不同意である。歩兵直協のための砲兵推進は、その必要を認めるとしても、十五榴一大隊を限度とする。以上が、畑砲兵第一群長の意見の概要であった。  内山砲兵団長は小松原師団長から砲兵推進を要求されており、彼自身も日本軍重砲の射程の短小に起因する打撃効果の不充分を痛感していたから、両者の議論はなかなか決着せず、畑少将の記述によれば「時刻は早や〇七〇〇を告げ快晴の朝陽は論席の天幕内に射光」するに及んだ。午前七時三十分からは、砲戦第二日の砲撃開始である。  結論として、畑少将も若干の譲歩をして、歩兵直協のために十五榴一大隊の他に十加一大隊を加えて推進することになった。  決定をみたのが二十四日の朝であるから、推進する砲兵二個大隊は、その日は既定の対砲兵戦を続行しながら移動準備を行い、日没を待って陣地を推進する。歩兵直協の任務実行は二十五日早朝からである。この二つの大隊は、野戦重砲兵第一連隊第二大隊(十五榴)と独立野戦重砲兵第七連隊第一大隊(十加)であった。  日本軍は重砲の射程が短いことを砲戦を交す上で最大の悩みとした。射程の差が打撃力の差となって表われるのは当然である。日ソ両軍の各種火砲の射程を比較してみると、次のようである。口径が必ずしも同一ではないから、正確な比較とはいえないが、二種類を除いては、射程にかなり大きなひらきがある。 (図表省略)  右の表で明らかなように日本軍火砲の方が射程が長いのは、戦場に八門来ていた九〇式野砲と、十六門の九二式十加だけであった。     32  砲戦第二日目、七月二十四日、前日夕刻から砲兵推進問題があったため、射撃開始がおくれて午前八時からになった。  前日一日の実戦経験で砲兵諸隊は沈着冷静となり、射撃精度も良好であったが、敵砲兵も熾んに射ち返してきた。観測では、撃滅及び一時的制圧がそれぞれ約三中隊、相当程度の損害を与えたもの約四中隊であった。この日は約一・五基数の弾薬を消費した。  歩兵部隊の前進は依然として敵火力に阻まれて進捗《しんちよく》しない。  前夜来の薄暮攻撃では、小林部隊の酒井・山県両連隊とも大した戦果をあげなかった。酒井部隊は菊形高地南方付近にようやく達し、山県部隊は三ッボサ高地を奪れないうちに払暁となった。両部隊とも鉄条網のある陣地に衝突して射撃を浴び、混雑して態勢の整頓に時間を費やしてしまったのである。  山県部隊は、この二十四日には733高地(バルシャガル西高地)を奪取したつもりでいたようである。砲兵の標定によると、そこは依然としてソ軍の拠点として活動していた。  この日、敵の砲撃は、小林兵団司令部付近と酒井部隊に対して密度が高かった。  酒井・山県両部隊とも既に多数の損害を出し、両部隊の間隔は千二、三百メートルもひらいていた。両部隊の兵力が減って正面が狭くなったためである。酒井部隊では兵力が既に三十名乃至四十名となった中隊があり、大隊でも全員で二百名を出ないほどに兵力寡弱となった大隊もあった。  午後になって、敵機群が第一線部隊を狙って猛爆を加えた。望見すると、ほとんど全滅かと思われるほどであったのに、実害が若干の負傷にとどまったので、小林少将は「恐るるに足らず」と云っているが、おそらく爆発力が砂地に吸収されたものであろう。  前記の歩兵直協の砲兵部隊は、午後から移動準備にかかり、日没を待って移動を開始し、夜半に新陣地に展開した。  この日までの日本軍の火砲・火器の損害は、三八式野砲三、九〇式野砲一、十五榴一、十加八、高射砲二、速射砲一九、連隊砲四、重機一八、軽機四四に達したという。  小松原師団長は砲兵戦の所感を次のように述べている。 「(前略)砲兵戦ノ勝敗ハ一ニ今後ニ於ケル弾薬ノ如何ニアリ。攻撃再興前軍及砲兵ニ於テ期待セシ二—三時間若クハ一—二日ニシテ決シテ敵砲兵ハ撲滅シ得ヘキモノニアラス。敵砲兵ハ左岸頂界線ノ後方ニ後退セシモ、依然猛威ヲ揮ヒ、火力更ニ衰ヘス。|砲兵ノ成果ヲ待チテノ歩兵ノ発進ハ困難ナリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)  傍点部分は、小松原中将の内心の不満の表われと見ることができよう。彼は植田軍司令官の意を体して砲兵戦に同意したけれども、歩兵部隊の前進、敵陣への肉薄のためには、砲兵は当てにならない、夜襲方式に限る、と、前にも、いまも、思っているようである。  砲兵戦第三日目、七月二十五日、砲戦は午前七時から開始、第一砲兵群主力は敵砲兵を、他の砲兵諸隊は第一線歩兵部隊に直接協同して重要火点の破壊、機関銃の撲滅、橋梁の破壊に努めた。敵砲兵の射撃は時間の経過とともに熾烈となった。これまでの観測から推計すると敵火力は半減に近いはずであるのに、一向に衰えていない。この日、射弾数一・五基数。  前夜半、歩兵直協のために新に陣地を推進した十五榴、十加の両大隊は、天明とともに試射を開始した。ほぼ一時間を経過したころ、十五榴大隊(長・林忠明少佐)は正面と側面から敵の集中火を浴び、放列は濛々と爆煙に蔽われ視界はほとんどゼロとなった。推進陣地へは夜間進入したのと、敵に面して下り斜面となっているため、放列は半ば暴露状態にあり、発砲時の火光が敵砲兵から明瞭に標定されたためである。  両中隊の試射分隊は各一門の砲とともに全員被弾、以後、両中隊は残り各三門をもって戦闘を続行した。  前日午後戦場に到着した観測用の気球中隊は、この日|穆稜《ムーリン》重砲兵連隊(十五加)に協力のため、はじめて上空へ昇騰したが、敵機の低空急襲を受けて爆発した。友軍飛行機の掩護があったという記録に接しない。  この日、早朝、小林少将は、前夜来山県部隊が三ッボサ高地に取りつきはしたものの、そこにはまだ敵が健在であり、酒井部隊の第一線は菊形高地に進出していないことに驚いて、副官を両部隊に派遣した。歩兵部隊の前進が少将の意に満たない状況ばかりがつづいているのである。  午後、小林少将は山県部隊本部に行き、攻撃を督促した。約四十分経過しても、山県部隊本部の位置が少しも前進しない。少将は業を煮やした。  彼の見るところ、前日来の夜襲で山県部隊の前進が捗々《はかばか》しくないのは、山県部隊長の別命による統制が作用しているからであって、攻撃精神の乏しさは呆れるばかりである。たかが一つのボサ高地を三日がかりでまだ奪れないとは、なんたることか、というのである。  小林少将と山県大佐とは、よくよくソリが合わないとみえる。戦史叢書『関東軍』〈1〉には、この七月二十五日のくだりに、「歩兵また鋭意攻撃を続行し、この第三日目にようやくバル西高地(733高地)付近のソ軍陣地の第一線を手中に収めることができた」とある。  右の小林少将の所感とこの引用文とは、事実関係において必ずしも矛盾するわけではないが、戦闘状況の印象としては甚だしい異相を呈している。  日本軍第一線がバル西高地陣地第一線に達したとしても、そこは、めざすハルハ河の線からは三乃至四キロ隔っていたのである。  午後二時ごろ、小林少将は師団長に呼ばれ、以後は須見部隊をも隷下に入れて、陣地攻撃の要領で攻撃を続行することを命ぜられた。  小松原中将としては、ホルステン以南にある長野支隊を除く歩兵の全力(三個連隊)を彼が信頼する小林少将に託して、最後の総攻撃に望みをつないだのである。  小松原師団長は、歩砲の総力を結集するために、関東軍に対して一会戦分の弾薬集積を要求した。     33 「会戦分」という術語が耳にも眼にも慣れていない人が多いと想像される。 「会戦分」というのは軍需品の消費・補給の単位量を意味する術語だが、必ずしも確定数量を表わさない。一会戦は三乃至四カ月の作戦期間と概定していたようである。一個師団一会戦の軍需品は約一万瓲、弾薬についていえば、たとえば重機関統一挺当二三、〇〇〇発、野砲及山砲一門当二、〇〇〇発、十二榴一門当一、五〇〇発等である。これを弾薬基数に換算すれば、野砲及山砲で二〇基数、十二榴で二五基数となる。七月二十三・四・五日の三日間で使用した弾薬は約五基数であったから、一会戦分といえば、ざっとその四倍である。  この数量は、しかし、その時期の生産量とか戦況によって、必ずしも常に一定ではなかった。  余談になるが、このときから三年三カ月後、ガダルカナルで、八月の一木支隊、九月の川口支隊の攻撃失敗ののち、十月、第二師団を投入してガダルカナル奪回を企図したとき、第十七軍がガダルカナルに集積しようとしたのは、兵員二万五千名の二十日分の糧秣と、〇・八会戦分の弾薬であった。  いま、七月二十五日午後、小松原第二十三師団長が関東軍に集積を要求した弾薬一会戦分は、三日間の砲兵戦の経験から算出された必要最低限の数量であったであろう。  小松原師団長の弾薬集積要求は、同じ日、入れ違いに来た関東軍命令(七月二十四日一四〇〇付)によって立ち消えとなった。  命令は「当面ノ敵撃滅ノ完成ヲ待ツコトナク速ニ右岸地区ノ要線ヲ占領シ 築城ヲ実施スヘシ」というのである。  関東軍としては、一切の希望を託した砲兵戦主体の総攻撃が案に相違して、第一線がハルハ河に遠く及ばない実情と、砲兵戦の経過から判断して軍としての弾薬保有量が新規の大攻勢を展開するには不充分である事実と、短期決戦に勝算が立たないとなれば持久戦に持ち込むほかはなく、それには寒期の到来に備えて冬営の準備をする必要があることから、攻勢企図を断念して、守勢持久に方針を転換しなければならなかったのである。  七月二十六日、小松原中将は無念の文字を誌している。 「我誤テリ(中略)重砲来ルノ報ハ予ヲ喜ハセタリ。  然ルニ砲兵ノ効果ハ予想ニ反セリ |二—三時間乃至一日砲撃セハ敵砲兵ノ大部ハ破壊シ得ヘシト信セシニ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(中略)其威力ハ概シテ衰ヘス。寧ロ弾薬ノ豊富ナル関係上、第三日ハ敵ノ方優勢ナル感ヲ抱カシメラルルニ至ル。而テ十余日間ノ時日ノ遷延ハ、敵ニ準備ノ余裕ヲ与へ敵ヲシテ約二—三連隊ノ狙撃兵ヲ招致シ、又河岸ニ鉄条網及トーチカ陣地ヲ構築シ、夜間ノ攻撃モ十日前ノ戦車ニ対スルモノトハ比較スヘカラサル程靭鞏性ヲ有スルニ至レリ。  茲ニ於テ方面的或ハ拠点毎ニ歩砲飛ノ戦力ヲ統合シテ攻撃センコトヲ企図シ、為之《これがため》|砲兵ニ一会戦分ノ弾薬ヲ必要トスルコトニツキ意見具申セシニ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|弾薬準備ノ関係上残敵剿滅ノ完成ヲ待ツコトナク築城ヲ実施スヘク《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》命セラル。斯クノ如クシテハ何日ノ日ニカ敵ヲ剿滅シテ当初ノ任務ヲ果シ得ヘキヤ。  遺憾千万ナリ。河岸迄進出シ残敵剿滅ヲ目的トシテ夜襲力攻シ、為之生シタル多クノ犠牲者英霊ニ対シ慰ムルノ辞ナシ。何故|砲兵ノ助力等少シモ期待セスシテ攻撃続行《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》セサリシヤヲ悔ム。  我誤テリ」(傍点引用者)  小松原師団長は砲戦に失望した結果、歩砲・歩戦の協同がなくても歩兵単独で戦えると考えていたように見える。この二十六日は、その前日に関東軍が守勢持久に方針を転換したばかりだから、砲戦に期待などせずに歩兵の力攻を継続していたら、という死児の齢を算えるに似た心情が充満していたのであろう。  だが、彼が、二—三時間乃至一日の砲撃で敵砲兵の大部分を破壊できると信じていたというのには驚くほかはない。内山砲兵団来着まで、日本軍は随所をふんだんに射たれて、敵火砲の威力を知っていたはずである。地形の不利(河岸が敵に高く味方に低い)も明らかであったはずである。日本軍重砲の射程が短いことも、砲兵出身でなくとも師団長ともなれば知っていなければならなかったはずである。彼我の弾薬量の差も当然推測できたはずである。短時間の砲撃で敵に決定的打撃を与え得る保証が、どこにあり得たろうか。  三日間の砲戦の結果、事態の深刻さに気づいて一会戦分の弾薬集積を要求したことは当然だが、関東軍にはそれに応ずるだけの補給力がなかった。つまり、作戦参謀たちは何もわかっていなかったのである。敵を知らず、己れを知らなかった。敵が力を出せばどのくらい力を出せるかを知らなかったし、自分が力を出してもどのくらいしか出せないかということを知らなかった。作戦参謀たちの通弊は、幾度も触れたことだが、自軍に都合のよいようにしか計算しないことである。  もう一度『満ソ国境紛争処理要綱』に戻ってみよう。『要綱』その二に、「敵ノ不法行為ニ対シテハ 断乎徹底的ニ膺懲《ようちよう》スルコトニ依リテノミ事件ノ頻発又ハ拡大ヲ防止シ得ルコト(中略)苟《いやし》クモ戦ヘハ兵カノ多寡理非ノ如何ニ拘ラス必勝ヲ期ス」とある。字句は甚だ威勢がいいのである。これを起案した参謀、それに連帯した参謀たち、それを決裁した司令官は、ノモンハンに紛争が発生したとき、「理非ノ如何ニ拘ラス必勝ヲ期」して用兵を誤った。これも繰り返しになるが、五月下旬の山県支隊派遣のときには、外蒙兵が多数の戦車を擁しているとは知らずに、東捜索隊を失った。七月初頭のハルハ河両岸作戦では、敵の重砲と戦車の威力を誤算して失敗した。三度目が七月二十三日からの砲戦である。よもや今度は誤算はしないであろう。そのときの兵隊たちは、そういう希望を抱かなかったであろうか。軍司令官以下、満々たる自信を抱いていたという。結果は既に見た通りである。重砲の射程が短かった。砲弾が足りなかった。火砲の数も足りなかった。弾薬のおかわりもできなかった。歩六四の古川常深は座談会でこう云っている。 「我々歩兵部隊は前線にいて、今あそこを撃ってくれたらなあと思っても砲は撃ってくれない。あとで重砲の人にききますとね、今日は配給がすみました(以下略)」  勇敢に戦うことを要求される前線将兵は、その要求には充分応えたといえる。砲弾が足りない、砲が足りない、飲料水がない、戦車がない、飛行機が飛んでくれない。ないない尽しのなかで、兵たちは戦いつづけた。ノモンハンがそうであり、ガダルカナルもニューギニアもそうであった(ガダルカナルとニューギニアを引合いに出すのは、作戦の中枢神経となった主要な参謀二人——服部・辻の両参謀がこれら三つの戦場に深くかかわっているからである)。  作戦家たちは、敵を知らぬこと甚だしかった。敵を下算すること夥しかった。なんとかなるだろうぐらいの洞察力の貧しさを、威勢のいい、猛々しい、名文調の作文でごまかしたのである。  事実、前線将兵の忍耐力によって、なんとかなっている状態が、いままでつづいてきたし、これから約一カ月、八月二十日までつづくのである。     34  関東軍作戦課が参謀本部に対して、六月二十七日のタムスク爆撃をきっかけとして悪感情を抱くようになった経過は、前に述べた。その悪感情は、フラルキ爆撃をめぐって、七月十七日参謀次長から関東軍参謀長宛ての「隠忍スヘク且隠忍シ得ルモノト考ヘアリ」という電文によって一層険悪になったことも、既に見てきた。  この感情のしこりは、統帥にかかわる事務にまで尾を曳いたのである。関東軍作戦課は、中央に対して、戦場の具体的状況とか戦況に応ずる軍の対策とかを、適時報告しなくなったという。また、軍として中央に対する要望事項があってもそれを申送らなかった。俗にいう、すねたとか、ふてくされた、というに近い。関東軍の云い分はこうである。  累次の戦闘によって損耗が増加したので、関東軍としては内心では新に戦略兵団(師団)の増加を望んでいたが、支那事変収束の目途も立たないときであるから、関東軍から兵力増派の請求をすることは一切差控えていた(それほど殊勝な理由によって請求を差控えていたと信ずることは困難である。前に、タムスク爆撃直後、中央から越権を窘《たしな》められると、北辺ノ些事ハ当軍ニ依頼シテ安心セラレ度、などと大見得を切っている関東軍作戦課である。面子にかけて兵力請求をしたくない感情もあろうし、東京・新京間の雲行が悪くなってからはますます、意地でも助けは借りたくないという感情が理性に優先していたと想像される)。中央は、早くから第五師団を関東軍に増加する意思表示をしていたくせに、戦況が次第に重大化してきても、その後一向に第五師団増加の件には触れなくなったのはどうしたことか、と関東軍としては奇異の感を抱いている。ひょっとすると、中央は、関東軍に兵力を増加すると事件を拡大することになると怖れているのではないか。もしそうなら、事件拡大防止に日夜努力している軍の真意は、あまりにも曲解されていると云わなければならない。  これが、記録に残された関東軍作戦課の云い分の概要である。  これまでのところ、紛争発生以来、作戦課が拡大防止に日夜努力してきた事実の跡を、誰か発見し得たであろうか。  記録は、一幕の劇的場面を私たちに見せてくれる。七月下旬、大本営作戦課の島村参謀(辻参謀と陸士・陸大同期)が関東軍作戦課に出張したときのことである。 「七月三十日島村少佐新京ニ到着シ、関東軍第一課ニ来ル。此際同室ニ服部、辻両参謀アリ。辻参謀ハ島村少佐ニ対シ、累次ニ亘ル大本営ノ電報ノ適当ナラサルコトヲ指摘シ、特ニ最近迄関東軍ニ職ヲ奉セル貴官カ此クノ如キ電報ヲ起案スルトハ何事ソ、ト叱咤怒号追及甚タ急ニシテ島村少佐答フル能ハス。次イテ作戦室ニテ服部、島村談合ノ際、島村ヨリ特ニ連絡ヲ密ニセラレ度キ旨述ヘタルモ、服部ハ大本営、関東軍ノ関係今日ノ如クンハ、貴官ノ一言ニ依リ直ニ態度ヲ改ムルコト困難ニシテ、両者ノ陣容ヲ一変スルニ非ンハ関係ハ改善セラレサルヘシト答フ」  血気旺んな参謀エリートの気負い立った挙措言動を眼前に見る思いがする。軍人は権柄尽《けんぺいずく》で、融通がきかないが、軍紀だけは厳正である、と信じていた大多数の「地方人」は、まことに無邪気な錯覚に陥っていたのである。軍紀の厳正を要求され、それを守ったのは、陸軍刑法の隠然たる圧力の下で内務班の徹底したしごきによって「教育」された兵隊、実戦現場で最先端の責任を負わされる下士官、下士官兵を直接に指揮しなければならない下級将校の順である。上へ行くほど、人格高潔、軍紀厳正は珍しい現象となる。  ノモンハン戦が重大な局面を迎えていたとき、関東軍作戦課の俊秀たちは東京に対して瞋恚《しんい》の眦《まなじり》を決していたかに見える。右の記録に見る限り、作戦の重要度は次等以下なのである。  小松原師団長は、七月二十四日付の関東軍命令に基づいて、二十五日午後五時三十分、守勢持久のための築城準備の命令を下達した。築城は各正面とも概ねその日までの進出線を基礎とするというから、733高地(バルシャガル西高地)と742高地(ノロ高地)を結ぶ線が、北は721高地(フイ高地)、南はノロ高地の南東方の彼我の戦線が不確定な地域までが、一応の防禦線ということになる。  築城工事実施命令は八月三日午前十時に出されている。その構想は、右の拠点陣地を連ねた線に、機関銃二〇・速射砲二二・連隊砲一二を持った歩兵九中隊、野砲八中隊(うち二中隊は九〇式野砲八門、他は三八式野砲二四門)、十五加二中隊四門を配置して直接敵に備え、主力はノモンハン・将軍廟・甘珠爾廟付近に集結して越冬設備地点に待機である。  問題は、この構想通りに築城工事が進捗するかどうかである。築城拠点を連ねた線は、ハルハ河左岸台上にある敵の大砲兵群の火制下にある。敵重砲の射程外、少なくとも二万五千メートル以上後方に築城線を下げるのでなければ、いつでも熾烈な砲撃下にさらされなければならず、二十三日から三日間の歩砲の攻撃によっては右岸の敵にさえ決定打を加えることができなかったから、築城はこの敵との応接の間に実施しなければならない。  結果論だが、堅忍不抜の持久策としては、中途半端の憾《うら》みは免れない。八月に入ってから、各正面の敵の行動は活溌化し、日本軍は防戦に忙しくて、築城工事に手がまわりかねた。既に見てきたように攻勢も不徹底であった。方針を転換してからの持久の処置も不徹底であった。  そのうちに、八月二十日からの敵の大攻勢がはじまることになるのである。  八月四日に第二十三師団の上に第六軍が設置されることになるから、その前後のことを備忘の意味で整理してから、ソ軍大攻勢までの持久戦に入ろう。  小松原師団長は、二十五日、築城準備を下達したときに、捜索隊が守備しているフイ高地に、須見部隊から歩兵と速射砲各一中隊を抽出して増強した。  その前日、二十四日、フイ高地を戦線の北端とすれば、南端に近いノロ高地では、長野部隊の、長野大佐以下死傷が多く東宗治中佐が連隊長に代って指揮をとっていた。師団長は、二十八日、師団予備の梶川大隊(歩二八)をノロ高地へ増加した。  七月二十九日、砲兵団長内山英太郎少将は軍命令によって関東軍砲兵司令部とともに原駐地に帰還し、砲兵団長は畑勇三郎少将に代った。組織の簡素化を図ったのである。同一正面の同じ砲兵団のなかで、少将と少将の上下関係は不必要であったろう。七月二十四日の重砲推進問題をめぐって交された内山少将と畑少将の、夜を徹しての議論は既に述べた通りである。  同二十九日は、日本軍飛行部隊にとっては魔の日であった。この朝、飛行第二十四戦隊は朝の出動直前を、敵のイ—一六型約二十機に急襲された。なんの偽装もしないで地上に停止している飛行機は完全に無力である。ソ空軍将校ア・ベ・ボロジェイキンの表現によれば「あたかも陸に投げ出された魚のようなもの」である。数においても既に劣勢となっていたこの時期に、第二十四戦隊が蒙った損害は甚大であった。「地上で敵空軍を捕捉撃滅することは、制空権確保のもっとも確実な方法である」と、ボロジェイキンは書いている。「よく計画された作戦によるこのような行動は、ほとんど損失なしに成功する」  互にレーダーなどを持たないときのことであるから、寝ていて枕を蹴られたにひとしいこの打撃は、やはり警戒不充分だったのであろう。  さらにこの日、戦功輝かしかった可児才次中隊長が空中勤務から帰還して、着陸しようとするときに襲撃されて戦死した。  その上、夕刻には、飛行第一戦隊長の原田文雄少佐が、前任者加藤敏雄隊長負傷のあとを受けて着任早々に未帰還となったほか、人機の損害が多かった。  八月二日朝には、将軍廟飛行場がイ—一六型約五十機に襲撃され、ちょうど離陸中の飛行第十五戦隊が隊長安部克己大佐をはじめ飛行機多数の損害を蒙った。  さらに四日には第二十四戦隊の空戦中に隊長松村黄次郎中佐が負傷して不時着、敵機が上空に乱舞する下での部下の果敢な行動によって救出されたが、航空戦力の劣勢はもはや蔽い難かった。  この著しく不利に傾いた空の戦況は、国境外の敵基地への航空進攻を、当面の急務として前景へ押し出さずにはおかなかったのである。  こうした状況の渦中に大本営から連絡と視察に来た谷川中佐(航空主任)と前記の島村少佐(対ソ主任)は、進攻の必要を認めて、谷川中佐が服部参謀起案のタムスク以東地域への進攻に関する意見具申を携帯して帰国(七月三十一日)した。島村少佐は稲田作戦課長に宛てて、 「……進攻ヲ行フノ止ムヲ得サルニ当面セルモノト判断ス」と打電した。  これらを謂わば掩護射撃として、関東軍作戦課は、八月五日、軍参謀長名をもって参謀次長宛てに「……軍トシテ之レ以上忍ヒ得サル状態ニ立チ到レリ」と、先の服部起案の意見具申の認可を求める電報を打った。     35  大本営は関東軍からの意見具申(服部参謀起案による航空進攻の件)を容認した。八月七日に出された大陸命第三百三十六号がそれである。 「関東軍司令官ハノモンハン方面作戦ノ為状況已ムヲ得サレハ其航空部隊ヲ以テ概ネタムスク付近及其以東戦場付近ニ於ケル敵航空根拠地ヲ攻撃スルコトヲ得(以下略)」  これで、七月十六日のフラルキ爆撃をめぐっての「隠忍スヘク且隠忍シ得ルモノ」という大本営からの電報で、すっかりつむじを曲げてしまった関東軍の国境外への航空進攻の企図は、ようやく陽の目を見ることになったが、曲ってしまったつむじはなかなか直らない。先に関東軍参謀長磯谷中将が上京して、参謀次長以下に実情を説明して航空進攻の認可を求めたときには、大本営は簡単にこれを否定しておきながら、大本営から佐官級の参謀(谷川・島村両参謀)が出張して来て短時日の視察結果を報告すると、忽ち態度が一変して認可に踏み切ったとは何事だ、というのである。  ごねる方もごねる方だが、中央がまた優柔不断で統制意志が堅確でない。認可へ方針を転換した時の作戦課長稲田正純の見解はこうである。 「事件当初の機材並に技能に関する優越性は今や所を変え、航空戦力のバランスは著しく敵に傾いてくる。今更進攻してどれだけの効果が挙るかは疑問であるけれども、せめて行動の自由を与えなければ飛行集団の志気は沈滞してしまうであろう」  ここには越境進攻を不可欠と認める根拠は示されていない。  関東軍は、八月八日、タムスク方面への第二次進攻に関する命令を、第二飛行集団長儀峨中将に伝えた。企図を秘匿するために、この命令は、集団長、集団参謀長楠木延一大佐、作戦主任原田潔少佐以外には知らされなかったという。  命令は下りた。即時作戦実施はできなかった。飛行各部隊の疲労が蓄積し、器材の整備にも時間がかかったからである。軍司令部の幕僚は進攻を焦眉の急務としていきり立ち、実戦部隊はそれに即応する態勢になかった。認可した大本営は実情を知らず、実情に晦《くら》い大本営を呪咀せんばかりであった関東軍司令部もまた、実戦部隊の実情に晦かった。適時発令即時実施には甚だ遠かったのである。  第二次進攻実施は、発令から十三日目八月二十一日であり、その日は、ソ軍がノモンハン戦を一挙に終局へ導くための戦備を整えて大攻勢を開始した二日目であった。  地上の戦線に関しては、関東軍は、先に第二十三師団長が七月二十八日ノロ高地方面へ梶川大隊(歩二八)を増加したのにつづいて、七月三十日、第八国境守備隊(以下八国と略称する)の歩兵一個中隊を、八月四日に同じく八国から長谷部理叡大佐を長とする歩兵二個大隊(七個中隊、機関銃三五、迫撃砲四、速射砲七、山砲四)から成る長谷部支隊を増加した。さらに、満洲国軍から抽出編成した鈴木支隊をハンダガヤに、石蘭支隊をノロ高地南東方、日本軍の最外翼に配置した。  また、第七師団から歩兵二個大隊と砲兵一個大隊をハイラルヘ推進して待機の姿勢に置き、独立守備第六大隊(四ッ谷部隊)を第二十三師団長の指揮下に入れ、全満から速射砲を集めて戦場に送る処置をとった。  第七師団の一部兵力推進は用兵上問題のあるところであった。関東軍第二課(情報)では、七月半ごろから、ソ軍が八月には攻勢に出て来るであろうと判断していた。その攻勢を想定して、関東軍司令官の意見は、敵は日本軍の右翼フイ高地方面と左翼ノロ高地南東方から包囲の態勢をとる公算が大きい、敵が一挙に暴進して来る場合には、第二十三師団の既設|支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点《しとうてん》を中核として翼側に対する攻勢を打破することができるが、敵がもし一地区毎に逐次浸蝕的に攻略して来る場合、その正面にある日本軍は現有兵力で足りるか、第七師団を増加する必要はないか、せめてチチハルからハイラルまで第七師団を推進しておく必要はないか、というのであった。  参謀長も副長も司令官と同意見であったが、作戦課は第七師団を動かすことに反対であった。理由は、ノモンハン方面に限らず、全極東ソ連軍の動向に警戒すべき徴候があるときに、全関東軍最後の戦略予備である第七師団を一方面へ固定するのは適当でない、また、冬営準備を急がなければならないノモンハン方面に対して、限られた自動車輸送力を第七師団の移動によって一層窮屈にすることは避けるべきである、ということであった。  結果として、折衷案——それは常に不可避的に中途半端なものとなる案——が採られた。第七師団からは前記の一部兵力を推進し、第二十三師団の欠員はこれを補充することとしたのである。  参謀たちは性懲りもなく敵の兵力使用を低く見積っていた。戦って失敗すると、敵の兵力が意外に大きかったというのである。何度でも同じことを繰り返している。この思い上った愚かしさは、ほとんど理解の外である。  さすがにこの第七師団の件に関しては、植田大将の意見を軽視——重大な用兵に関する意見を若輩たちから軽視されて黙認した大将も大将だが——した結果が最悪であったので、辻政信はこう云っている。 「この心配(第七師団を起用しなくてよいかという植田大将の懸念——筆者)は事実に於て、全く的中したのである。幕僚の考えがこれに及ばないで、(中略)この処置を躊躇したことは、現実に於て、大きな失敗を重ねる原因となった。  老将が大局に立って、東部正面には拡大せず、現場の対策に最大限の兵力を集中するようにとの注意を、重視しなかった点は、何とも申訳ない次第である」  第七師団主力をこのときに起用したとしても、八月二十日以後のソ軍の凄まじい攻勢を撃退し得たとは考えられない。だが、ここでの問題は、戦うべき正当な理由があって断乎として戦うときは、圧倒的な兵力・火力をもって最大効果を発揮するように作戦することが戦理であるはずなのに、日本軍の作戦家たち、その案を採用した将軍たちは、彼らの兵書にも兵力の逐次投入はきびしく戒めてあるにもかかわらず、ほとんどいつまでも兵力の逐次投入しかしなかったことである。いつでも、寡兵をもって大敵を破ることを日本男子の本領と心得ていたかのようである。  既に見てきた戦線では、日本軍は寡小な兵力をもって敵の歩戦連合の部隊に突撃をかけ、これを撃退することを繰り返した。敵は決して突入しては来ない、と、日本軍は自己の白兵に迷信に近い信頼をおいた。彼らは確かに突入しては来なかった、彼らが敵を抹消すべき決定的瞬間が到来したと判断するまでは。そして、彼らは、のちに述べるように、ある日を境として、一挙に殺到、日本軍の不敗の自信を蹂躙したのである。  わかりきった道理が、日本軍においてはあまりに屡々無視された。所詮は、物心両面にわたる貧困のなせる業というべきであろうか。  先に述べた兵力の増加を受けた戦線の日本軍は、大攻勢を用意したソ軍に対して、兵数において三分の一程度に過ぎなかったという。もしそうなら、装備や火力の著しい差を加算すれば、両軍の戦力は比較を絶していたと考えられる。日本軍将兵は戦慄的な悪条件下に、よく耐え、よく戦ったのである。だが、園部第七師団長が部下の須見第二十六連隊長に寄せた書簡に徴するまでもなく、そこには必敗の条件だけがあった。勝敗は既に見えていた。     36  八月四日、大本営は大陸命第三百三十四号をもって第六軍の編成を発令した。軍司令官は荻洲立兵中将、その隷下に第二十三師団、第八国境守備隊、ハイラル第一・第二陸軍病院が属する。これまで、作戦間、小松原師団長の指揮下に臨時に入っていた諸隊は、軍隊区分上、当然第六軍の編組に入る。  第六軍の設置は大本営が満洲西北部の防衛を担当させる目的で(東部及北部正面に対しては既に第三・第四・第五軍が設置されていたのと同様に)、かねてから編組を予定していたのだが、ノモンハン事件の推移によってその時期を早めたものである。  形式としては軍の威容が成ったように見えるが、実際には、以下に見るように、師団長の上に第六軍司令官が坐っただけのことで、戦力の実質に変りはなかった。設置には一応の理窟がついているが、経過を見ると、何のための設置かわからないところがある。  第六軍参謀の内命を受けた浜田大佐は、平井・岩越両参謀(いずれも大尉)を従えて七月下旬戦場に赴き、砲兵戦主体の攻撃を視察した。第六軍参謀長藤本少将は八月四日に戦場到着、荻洲軍司令官は八月三日新京到着、編成事務はハイラルで行われ、十二日統帥発動、軍司令官以下は十三日戦場に進出し、小松原師団長以下と会った。  荻洲中将以下は翌十四日にはハイラルヘ引き上げてしまうが、この十三日、彼は第一線を巡視して、小林兵団司令部に立ち寄り、「休憩所にて酒を催促せられて一寸面喰へり」という情景がある。彼は豪傑なのか無神経なのか、あるいは酒気が切れたら何もできぬ男なのか、辻参謀がその場に居合せたらどのように判定したか、知りたいようなものである。  荻洲軍司令官の戦場視察に基づく作戦指導の方針は、防禦正面を極力収縮して、敵が外翼からか、または間隙から浸透する場合には、これを入れてから叩き漬す、陣地配備は出来る限り縦深を保つ、というのであった。  正面の収縮と縦深配備は防禦戦にとっての正着である。けれども、関東軍司令部が防禦戦に対して示した正面幅は、北のフイ高地から南のノロ高地南東地区まで、三十余キロに及んでいた。その上、兵力の増強は前述のように甚だ不充分であったから、過小な兵力で過大な正面に緊縮態勢をとることは矛盾であり、同様に過大正面で縦深配備をとることもまた矛盾であった。相互に矛盾することを、上下の司令部は要求したのである。  何故こういうことになるのか、解釈の仕様がない。現実には、できないことはできないから、そのままになった。それなら、軍新設の意味もなければ、司令官の作戦企図も意味がないことになる。  大本営が第六軍を新設したのは、戦場は第六軍に任せ、関東軍には大所高所から冷静に判断して事件を終結へ導かせようがためであったそうである。関東軍においても、第六軍が設置されたからには、第六軍司令官の宰領に任せて、関東軍司令部としては干渉がましい指導は避けることにしたのだそうである。  それにしては、しかし、はじめから、実戦に関する考案が統一的に纏っていない。指導はないにひとしかった。手足となる兵隊から見れば、頭に相当する偉い部分は沢山あったが、それらは手足が伸び伸びと働けるようなことは何も考えてくれなかったのである。  荻洲中将は意気揚々としていたが、第六軍がいきなり難局を担当するのは荷が重過ぎたきらいがある。幕僚中、浜田大佐と田中中佐以外は満洲の気象風土にも、関東軍そのものにも、対ソ事情にも疎遠であったというから、新司令部発足の事務処理に多忙をきわめながら作戦を適時適切に指導することは困難であった。もっとも、ソ連通と称する参謀がいたとしても、どれだけのことをなし得たかは全く疑わしい。たとえば、陸軍の「支那通」と称する人びとが陸軍の対中国問題の処理を甚だしく誤ったことは、周知の事実である。ノモンハンに限ってみても、小松原第二十三師団長その人は、三年余ソ連駐在武官としての経験があり、ハルビン特務機関長も二年余勤めた経歴もあり、所謂「ソ連通」の一人であった。その彼がどれだけソ連を知っていたかは、彼の戦闘指揮に照らしてみて疑問なのである。  関東軍司令部は、俄世帯ともいうべき第六軍に有能な幕僚数名を送って有効な援助をする措置をとらなかった。戦場の第二十三師団へは、これまで、各級参謀が入れ替り立ち替り出向いていた事実と較べると、少なからず奇異の感がある。すべてを第六軍に任せきって、干渉がましく指導しないことにしたといえば聞えはいいが、何か透明でない。  ハルハ河両岸攻撃は駄目であった。師団全力を挙げての右岸攻撃も成功しなかった。砲兵戦主体の総攻撃も竜頭蛇尾に終った。守勢持久に転換した。そこには、しかし、兵力と陣地配備に由々しい問題があった。その段階になって、関東軍司令部は新設の第六軍に任せて手を引いた。敵が八月攻勢に出るであろうという情報に接しているときにである。  第六軍は付託に耐え得るか。  第六軍司令官荻洲立兵中将は八月十三日戦場の簡単な視察を終って、十四日ハイラルに帰った。司令部は司令部としての整備の事務に時間を費やした。その間、敵は、能う限りの秘匿と欺騙《ぎへん》手段をもって大攻勢の準備を急速に進めていた。  第六軍司令部は、敵が八月二十日突如として圧倒的な攻勢を開始するまで、ただの一人の幕僚をも戦場に送らなかった。  第六軍が新設されたころの関東軍司令部の、特に作戦課の神経は、東京に対して過敏になっていた。東京・新京間の感情の激発は、繰り返しになるが、六月二十七日蒙領タムスク爆撃に端を発し、七月十六日満領フラルキ爆撃をめぐっての電報の応酬で頂点に達し、磯谷軍参謀長の上京と不首尾に終った首脳部会同、大本営からの谷川・島村両参謀の渡満を経て、越境爆撃の認可に辿りついたが、関東軍作戦課が中央に対して抱く悪感情は氷解してはいなかった。「関東軍は二正面作戦をなしつつあり」と云っていたのである。二正面とはノモンハンと東京である。  関東軍では、東京中央と意見の不一致が累積する理由は、参謀本部から然るべき者が来て、現地の実情に親しく接しないからであるとしていた。軽率に虎の尾を踏んだことの反省は微塵もない。事件勃発以来、橋本第一部長と谷川中佐・島村少佐の両参謀しか来ていないではないか。この際、参謀次長が現地を視察することが必要であるとして、参謀次長を至急現地に派遣してくれという主旨の電報を、服部参謀が起案して、軍司令官名で参謀総長宛てに打った。八月十八日のことである。  東京がまた忙しかった。天津英租界封鎖問題をめぐって有田外相と駐日英国大使クレーギーとの間に交されていた日英会談が決裂(八月二十一日)に近づいていた。日独防共協定強北問題をめぐっては、板垣陸相が三国同盟(日・独・伊)の無留保締結を強硬に主張して、五相会議が混乱していた。時の平沼内閣は三国同盟問題に関して七十回に及ぶ会議を重ね、独ソ不可侵条約の締結(八月二十三日)によって総辞職に追い込まれる寸前の難所に喘《あえ》いでいた。加えて、参謀本部としては、支那派遣軍総司令部設置の案件があって、中島参謀次長は東京を空けることができず、新京出張は実現しなかった。 「次長の代りに第一部長、作戦課長らが行くことは当時の関東軍の大本営作戦部に対する感情上、逆効果となる虞れが多分にあった。それだけに、一層次長がおもむいて調和を図る必要性があった」  と、次長自身が回想しているが、事件収束のための確固たる決意も方策もなく、次長と軍司令官の会議が実現したとしても、おそらく何の成果も生じなかったであろう。せいぜい落ちつくところの結論は、好機を捉えて敵に一撃を加え、それを機会に有利な条件をもって収束に導くという、独善的、かつ、希望的な策でしかなかったであろう。  それの直接の証拠となるわけではないが、独ソ不可侵条約の締結が明らかになったとき、関東軍では寺田参謀が、この際関東軍が対外政策に関して如何なる意見を抱懐しているかは、中央の態度決定に重大な影響があるから、速かに中央に対して意見具申の必要があると強調して、司令部上下一致の意見としてきわめて戦闘的な意見具申(後述)を中央に対して行っている。  その日は八月二十七日、ノモンハンの戦線では、日本軍諸隊の戦力は相次いで破断界に達していたのである。     37  寺田高級参謀の提唱になる関東軍から中央へ対しての意見具申は、次の通りであった。 「意見具申    判決 一、対ソ軍備ヲ一層急速ニ充実スルト同時ニ|ノモンハン方面ノソ軍ニ対シ徹底的打撃ヲ与ヘ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ツヽ他面独逸、伊太利ヲ利用シテソ連ヨリ休戦ヲ提議セシムルト共ニ速ニ日ソ不可侵条約ヲ締結シ更ニ進テ日独伊ソノ対英同盟ヲ結成シ東洋ニ於ケル英国勢力ヲ根本的ニ芟除《せんじよ》シテ支那事変ノ処理ヲ促進完成スルヲ要ス 二、自主独往ノ美名ニ隠レタル優柔不断ト親英政策トハ支那事変ヲ処理シ東亜新秩序ノ再建ヲ完成スル為絶対ニ排撃ス    要領 三、軍ハ|既定方針ニ基キ《ヽヽヽヽヽヽヽ》ノモンハン方面ニ於ケル|ソ軍ニ痛撃ヲ与フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》  為之二師団《ヽヽヽヽヽ》、七師団《ヽヽヽ》、|二十三師団ヲ戦場ニ使用シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》要スレハ更ニ一兵団ヲ海拉爾《ハイラル》、満洲里《マンチュリー》ニ推進シソ軍ノ野望ヲ完封ス 四、独逸《ヽヽ》、|伊太利ヲ利用シ左記条件ヲ以テソ連ヨリ休戦ヲ提議セシメ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》日ソ不可侵条約ヲ締結セシム  1、|国境ヲ《ヽヽヽ》哈爾哈《ハルハ》|河ノ線トス《ヽヽヽヽヽ》  2、爾後日ソ共ニ国境線方面ヨリ同時ニ概ネ原駐地ニ撤兵ス  3、哈爾哈河々畔ニ於テハ双方共ニ配兵並ニ施設ヲ実施セス  4、北樺太、漁業問題等一切ノ懸案を一挙ニ解決調整ス 五、|日独伊ソ対英軍事同盟ヲ締結シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》之ヲ基調トシテ極東ニ於ケル英国勢力ヲ根底ヨリ覆滅ス 六、支那問題処理ノ為|ソ連ヲシテ蒋政権ニ対スル援助ヲ実質的ニ中止セシメ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》外蒙並ニ新疆省方面ニ於ケルソ連ノ既成勢力又中央亜細亜方面ヨリ南方ニ向フソ連ノ進出ヲ黙認ス 七、|右交渉ノ成否如何ニ拘ラス対ソ戦争ノ本格的準備ヲ今後五ケ年間ニ完成スル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヲ目途トシツヽ速ニ支那問題ノ根本的処理ヲ促進完成ス 八、右根本方針ヲ採用セラレサル時ハ来春迄ニ在満兵力ヲ動員増強シ独力ソ連ノ極東政策ヲ早期ニ於テ破摧《はさい》ス」(傍点及ルビ引用者)  傍点部分とこの意見具申が八月二十七日であったことに留意されたい。八月二十七日には、後に述べるように、ノモンハン戦線では日本軍が完全に包囲され、分断され(ソ蒙軍司令官ジューコフによれば、包囲分断の完了は八月二十六日である)、諸隊は逐次潰滅しつつあった。そのときに起案され、決裁された意見具申が、「ソ軍ニ痛撃ヲ与フ」とか、「ソ連ヨリ休戦ヲ提議セシメ」と云っているのは、作文の上でならどのように強くも勇ましくもなれることの標本のようである。  痛撃を与えるために第二・第七・第二十三師団を戦場に投入するというが、それで勝てるという保障はどこにあったか。おそくも八月四日の第六軍設置の時点でそれらの兵力が投入されたのならともかく、戦線が断末魔の様相を呈しているときでは、出しおくれの証文みたいなものである。第六軍設置のときに第二師団と第七師団主力が投入されたとしても、火力と補給力に大差のあることからみて、勝算が立ったとは信じられないのである。  国境をハルハ河の線とするということは、国境不明確な地域での関東軍の自主的認定であって、それを名分として無人の曠野に鮮血を流してきたのであるから、勝たなければその主張は通らない。決定的な敗北(後述)を喫しつつあるときに、勝利を前提として立案するのは、勝利を確実に保障する根拠が示されなければ、幻想を語るに過ぎない。  ソ連の対蒋援助を実質的に中止させるということも、作文の上でしか実現しない儚《はかな》い願望である。自国にとって都合のよい見取図ばかり描くところは、ヘボ碁に似ている。既に盤上に存在している石が示す現実の状況とはかかわりなく、下手な碁打ちはロマンティックな構想に走って緩着、失着、敗着を打って一局を失うのである。  日独伊にソ連を加えた対英四カ国軍事同盟の妄想にしてもそうである。戦線では日本軍諸隊が全滅しつつある。それでも、あるいは、それだからこそ日本から休戦を申し入れようとはせず、確実に勝利を手中におさめつつあるソ連から休戦を提議させようという。その上で、対英軍事同盟に引き入れようという。どのような条件が満たされれば、それが可能となるのか、正常な神経をもってしては理解の外である。  関東軍首脳部は第二十三師団諸隊の攻勢企図のほとんどが所期の成果をおさめなかった事実から、戦況の不利は認識しているはずであったが、右記の意見具申に見る限り、事件収束へ向って自発的に動く意志のないことは明らかであった。  七月下旬から戦線の日本軍諸隊は守勢持久に移ることになったが、防禦陣地線はハルハ河左岸の敵砲兵群の火制下に北から南へ三十余キロに及んでいた。  正面過広であったことは、ソ軍の攻勢開始によって立証された。過広な正面を持って縦深配備をとり得ないことには、既に触れた。防禦のための陣地設備も甚だしく不充分であった。右岸に在る敵の妨害によって工事が捗らなかったことも事実だが、守勢に立つ陣地構築に関しては、攻勢に出るときのような熱意を発揮しないのが日本軍通有の兵術思想であった。  陣地には鉄条網さえ設けなかった。立射散兵壕のところどころに掩体《えんたい》を設けた程度に過ぎなかった。敵陣地のピアノ線に友軍戦車が苦渋を嘗めた経験など無視された。構築する意志があれば、資材の貧困な日本ではあっても、たとえばピアノ線がなかったわけではないのである。怖るべき怠慢と、傲慢に基づく不用意であった。  それらは、総じて、いっかな反省されることのない敵戦力に対する過小評価から来ていた。  敵の戦力を過小に評価する、敵の兵力を下算する、これらは既に何回となく触れてきたことである。事実が何回となく反復されているから、その都度触れざるを得ないのである。七月下旬以降の段階になっても、日本軍の頭脳は敵兵力を正当に判断しなかった。その理由は、情報の不足、捜索の不充分、判定の非科学性、希望的判断、いろいろあるだろうが、結局は日本軍の作戦家たちが自分の矮小《わいしよう》な規模でしか相手を測れなかったことに帰するであろう。  中枢神経の一人、服部参謀は次のように書き残している。 「関東軍参謀部第二課の敵情判断により、八月十四—五日頃敵の攻撃があるものとは十分予期されて居たのであるが、その兵力及規模に関しては、全く不明であったので、関東軍は、|陣地を固め《ヽヽヽヽヽ》、戦力を補充し、重砲と第七師団一部の増強により十分之を破摧《はさい》し得るものと信じて居た」(傍点引用者)  陣地は固められたか。立射散兵壕と軽量の掩体ぐらいでは、熾烈な砲爆撃と戦車群の殺到をもって主戦力を構成する戦闘では、防禦設備として恃むに足りないことは明らかである。  もう一人の中枢神経、辻参謀はこう述懐している。 「まさかあのような大兵力を、外蒙の草原に展開出来るものとは、夢にも思わなかった。第二十三師団の陣地を固め、戦力を補充し、重砲と第七師団の一連隊を増強すれば、十分対抗出来るものと信じていたのである。作戦参謀としての判断に誤りがあったことは、何としても不明の致す所、此の不明のために散った数千の英霊に対しては、何とも申訳はない」  彼は何度敵の用意が意外に強大であることに驚けば、驚かずに済むだけの処置をとるようになるのであろうか。  もし戦うべき正当な理由があって、敵が大軍であることを詳細に承知していて、なおかつ戦わねばならないとして、敵を邀撃《ようげき》するのに最大限その三分の一の兵力しかなくて、戦って敗れるのなら、その作戦参謀を誰も批判はできないであろう。ノモンハンはこの型には属さない。  古い思想が牢固としてあったように見受けられる。昔、農民と菜種は搾るほどいいと云われた。統帥と実兵との関係にも同様の考え方が作用していたようである。難局を負担させればさせるほど、実戦将兵はよく働いた。兵は砲弾の不足、戦車の欠如を補うために死闘した。だから参謀は、劣勢の兵力で戦えると自惚れた。答は、しかし、敵の科学的戦力が冷やかな算術のように出してきたのである。     38  関東軍首脳部が再三にわたって敵の兵力を下算したことは、七月中旬以来八月大攻撃の準備にかかったソ軍の企図に合致する条件を与えた。ソ軍は、その決戦兵力と企図を日本軍に対して秘匿し欺騙するために、細心の注意を払っていた。決戦を企図するソ軍にとって最も望ましいことは、日本軍陣地が射程内にあって、その防護施設が堅固にならないこと、戦場に展開する日本軍兵力がなるべく増強されないことであった。  日本軍の作戦指導は、ソ軍にとって望ましい条件を調整して与えたようなものである。  陣地は、概して、ソ軍の望み通りに堅固にならなかった。第六軍が出来て、組織は形式的に重厚になったが、増加兵力は作戦参謀の誤判によって微々たるものにとどまった。  ソ軍にとって情勢は順調に進展したのである。ソ軍は、しかし、大攻撃の準備に用意周到をきわめた。  ソ軍はノモンハンに決戦兵力を集中するために、関東軍の注意を他正面へ拡散させる佯動《ようどう》を行った。  ソ軍は八月攻撃の企図のあることを意識的に流し、日本軍に誤判の材料を提供することに努め、いつ、どの方面に、どれだけの規模で攻撃に出るかという決定的な事項は完全に秘匿した。関東軍第二課(情報)は八月中旬にはソ軍が攻勢に出るものと判断していたが、その根拠は、ハルビン特機の情報によれば、赤軍本部は現地司令部の再三の攻勢延期要求を斥けて、八月五日から十日までの間に攻撃を開始するように命じたこと、敵の現地指揮官は準備未了を訴えて攻撃延期を願い出たこと、補給困難を敵現地軍が訴えていること、等である。これらの全部が偽情報とは限るまいが、真に受ければ、敵は準備未了であり、補給難に悩んでいることになり、したがって、我に数倍する大軍が着々と集結しているとは考えないであろう。  ソ軍は日本軍の陣地工事を妨害するために頻繁に攻撃をかけた。後述するように、八月一・二日、七・八日には猛烈な攻撃を発起した。日本軍は第二十三師団も第六軍も関東軍もこれが八月攻勢かと半信半疑であった。ソ軍は意図的に攻撃をかけて、決戦を惹起するほどに深入りはしなかった。  ソ軍は防禦陣地の構築をひたすら急いでいるようにみせかける努力をした。このため、すべての部隊の移動、集結、再編成は日本軍の航空偵察や肉眼監視のきかない夜間にもっぱら行われた。夜間の行動はすべて飛行機の爆音や砲撃、機関銃・小銃の射撃音によって欺騙した。欺騙は関係部隊間の厳密な予定表に従って行われた。  ソ軍は日本軍が無電傍受、電話盗聴をすることを利用して、虚報の通信計画を立て、それに基づいて部隊間の虚報交信を流した。  ソ軍は八月上旬来とっていた攻勢の擬態を、攻撃開始期日が近づくと、防禦態勢に転換したようにみせかける努力をした。  ソ軍は、日本軍を両翼(南はノロ高地方面、北はフイ高地方面)から機甲兵団によって包囲する作戦企図を秘匿するために、中央へ大戦車団を集結しているかのように、消音器をはずした自動車群の轟音を立てた。  こうして、大攻勢を発起するのに充分な兵力と資材が、補給困難とみせかけて後方から前線へ集結された。輸送は、事実、容易な業ではなかったようである。  ジューコフによれば、補給駅ボルジヤからハルハ河まで六五〇キロの長遠な距離を、急造道路によって次のような資材が輸送された。  砲兵弾薬 一八、〇〇〇トン  空軍弾薬  六、五〇〇トン  各種燃料/潤滑剤  一五、〇〇〇トン  各種食料  四、〇〇〇トン  一般燃料  七、五〇〇トン  その他   四、〇〇〇トン     計 五五、〇〇〇トン  これらを輸送するにはトラック三五〇〇輛、油槽トラック一四〇〇輛を必要としたが、ジューコフ軍団にはトラック一七〇〇余、油槽トラック九〇〇余しかなかった。八月十四日になって新にトラック一二五〇、油槽トラック三七五輛が補充されたが、それでもまだ大量の車輛が不足であった。この不足は、戦闘部隊専用のトラックと大砲牽引車などの戦闘用自動機械によって捕われたという。  万全の準備を整えつつあったソ軍と対峙していた日本軍陣地は、フイ高地からノロ高地南東部まで三十余キロ、決して万全ではなかった。軍事の専門的見地から見ると、日本軍にとっては過広なこの正面は、日本軍の三倍内外の兵力を擁するソ軍の攻勢のためには、最も効率の高い正面であったということである。  これまでに戦の暦を追って既に見てきた砲兵戦主体の攻撃中止までの経過と、これから跡を辿る八月二十日までの対陣持久の経過と、八月二十日にはじまるソ軍の大攻勢によって破局へなだれ込む経過とを通じて、日ソ両軍の間には、火力、機械力、補給力に著しい差があっただけではなくて、戦闘を組織的に遂行するための配慮の密度に甚だしい差があり、戦闘の予備的段階で既に直接に勝敗を分つほどの懸隔があったように思われる。その一つの側面を俗な言葉で表現すれば、日本軍は計画からしてやっつけ仕事であり、ソ軍のそれは本腰を入れた仕事であったということである。  兵器は開発されても、人間の知恵は大して進まないと見える。二千数百年も前に孫子は次のように戒めている。日本の陸士陸大の俊英たちは当然熟知していたはずなのだが。 「将不能料敵、以少合衆、以弱撃強、兵無選鋒曰北」  棒読みすれば、将敵を料《はか》ること能わず、少をもって衆に合い、弱をもって強を撃ち、兵に選鋒《せんぽう》なきを北《ほく》という。  これを私流に解釈すると、将が(あるいは参謀が)敵の兵力戦力を正確に測定できないために、寡兵をもって大敵と渡り合い、劣勢な兵力で優勢な敵と戦い、自軍には中核として頼るべき精鋭もないとき、北という。「北」とは敗北の意であろう。孫子は、走、弛《し》、陥、崩、乱、北の六つを敗之道也といっている。  日本軍将兵はおそらく精鋭の名に恥じなかったであろうから、自軍に頼るべき精鋭もない、というくだりは、近代戦において頼るべき破壊力としての火砲、戦車、飛行機と考えてもよいであろう。  肝要な点は「将不能料敵」である。兵は、ために、戦ってむざむざと死んだのである。  孫子はまた次のようにも云っている。 「古之所謂善戦者、勝於易勝者也。(中略)故善戦者、立於不敗之地、而不失敵之敗也。是故勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝」  これも棒読みするとこうなろうか。古のいわゆる善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。(中略)故に善く戦う者は不敗の地に立ち、而して敵の敗を失わず。この故に勝兵はまず勝ちて後に戦を求め、敗兵はまず戦いて後に勝を求む。  私流の解釈では、この意味はこうであろうと思われる。善く戦う者といわれる軍人は、勝ち得る態勢を整えておいて、勝つべくして勝つ。(中略)したがって、善く戦う者は自軍を不敗の地歩に立たせ、適の敗因を、つまり味方の勝機を逸することをしない。戦に勝つ軍隊は、勝つべくして勝つだけの条件を整えた上で戦端をひらく。やってみなければわからないといって、戦闘を開始してから勝とうとする者は、これ敗軍である。  我流の読みだが、大した意味の取り違えはなかろうと思う。もし正解なら、ノモンハンの日本軍はこうは戦わなかったのである。  関東軍の指導者たちは、このくらいのことは知っていたはずである。孫子以上の兵法家を自負していたかもしれない。結果は、しかし、孫子の法《のり》を超えることはなかった。  関東軍から中央へ作文的に甚だ強硬な意見具申をした八月二十七日まで、記述時間が戦場の経過時間を超越したから、日時を戦場へ戻すことにする。     39  七月末から八月初頭にかけての日本軍各部隊(歩兵)の配置を簡単に整理しよう。詳細に区分すると、地名が不統一であったり、高地番号が図面によっては同一地点に同一番号でなかったりして、図面と首っ引でも混乱を免れない。簡単に、大体南北に流れるハルハ河、七月までの攻撃の目標であった川又をその中間部に置く。そこから大体東西に流れる支流がホルステン河である。戦場は、ハルハ河に沿って、ホルステン以北と以南に分れる。配置部隊は、北からフイ高地(721)に捜索隊(諸隊を含む)、バルシャガル高地北部(731)付近に右翼隊(須見・歩二六の一部その他)、バルシャガル西高地(733)に左翼隊(小林部隊)、ホルステンを南へ渡ってノロ高地(742)に長谷部支隊(八国その他)、754 744 747高地付近に長野支隊(のち森田徹部隊)の順である。  各部隊の陣地を連ねた線を扇をひらいた弧と見立て、その扇を著しく扁平にした要の部分をホルステン河の上に置く、そこを旧工兵橋という。その南側に西イミ高地(753)があり、師団は須見部隊の残余をその付近に師団予備として置いていた。  この陣形は、約三週間後に四分五裂となり、彼我入り乱れて右往左往することになる。  七月二十五日までとにもかくにも攻勢をとっていた日本軍は、以後は守勢に立ち、ソ軍は大攻勢の準備を完了するまでは決戦に至らぬ程度の攻勢を維持した。  ソ軍の攻撃の型は大体一定していた。それが近代戦闘の定石であったというべきであるかもしれない。  攻撃は、まず、砲撃か、空からの銃爆撃か、あるいは砲飛協同による破壊力をもって開始された。次いで、これらを支援火力として戦車群が前進して限定局面に強烈な圧力を及ぼし、それに膚接するようにして歩兵(狙撃)部隊の攻撃がつづくのを常とした。  ソ軍の砲撃は、射程が長く、弾量が日本軍に較べて遙かに豊富であったことは、既に記述した通りである。  七月二十三日から砲兵戦がはじまったころは、それまで射たれつづけて返報のしようもなかった日本軍の歩兵は、胸のすくような豪快な友軍の砲撃を喜んで、ただひたすらに撃ってくれることを望んだ。歩兵からみれば、砲戦は壮大で、美しくさえある。砲弾の飛翔音は、不吉であるよりも、戦場の詩のようである。だが、それも、程度により、状況によることである。砲撃を喜んだ歩兵たちは、やがて、砲兵は射たないでくれ、というようになった。日本軍が砲撃すると、忽ちその何倍もの答礼が飛んで来るからであった。  ハルハ河左岸台上のソ軍砲兵の主力陣地は南北二十数キロに及んでいたという。それだけの幅員に長射程砲を合理的に配置しておけば、前記の日本軍陣地南北三十余キロのどの部分に対しても、随時有効な射撃を加えることができるわけである。  日本軍部隊は敵の自在な選択によって集中射を蒙った。戦闘詳報や陣中日誌の類を辿ると、猛烈な射撃を受けたが損害は軽微である、という記述に触れることが屡々である。これは、敵の射撃技術を嗤《わら》う敵愾心《てきがいしん》のせいもあろうし、事実その日を限ってみれば軽微な損害は軽微な損害であるにちがいない。仮りに一日二〜三%の戦死傷が出たとする。その程度の損害なら激戦のうちにも入らない。誰も驚かないし、憂慮もしない。だが、それが連日となると、大隊なり中隊なりの戦力が、ある日突然に、激減していることが意識されるのである。気がついたら、あれも死に、これも傷ついて戦列を離れている。無論、諸隊への欠員補充は不時に行われたが、戦線の諸隊は概ねそういう状態で八月二十日のソ軍の総攻撃を迎えることになるのである。  ソ軍の歩兵は、戦車に跟随《こんずい》して前進する場合が多かった。歩戦の協同は日本軍より遙かに優れていたと思われる。七月二日・三日の日本軍の右岸攻撃のとき、日本の戦車部隊は直協歩兵部隊を置き去りにして前進してしまい、奮戦にもかかわらず綜合戦果をあげることができず、作戦を中途半端にとどめる結果に終った。  ソ軍の戦車は千メートルあたりから射撃をはじめ、地形にもよるが、六百か七百あたりで砲塔射撃を丘陵稜線の背後から行って、歩兵の前進に強力な支援を与えた。戦車群は優速をもって縦横に移動する野砲の放列の役割を存分に果していた。  日本軍の対戦車火器が乏しい場合には、戦車は陣前二百メートル以内に迫り、ときには五十メートル付近まで近迫して火焔放射を行ったり、防禦正面の間隙を浸透したりした。  歩兵は、近接しながら、多くは携帯防盾に遮蔽して、狙撃を行い、陣前三十メートル前後から手榴弾を投擲したが、日本軍の抵抗力が完全に潰えたとみるまでは、突入して来ることはなかった。  以下に八月二十日までの諸隊の戦闘状況を摘録してから、二十日以降の決戦段階に入ることにする。  八月一日  朝来ソ軍の砲撃は猛烈をきわめた。総攻撃が今日にもはじまるかと思われた。午後になっても砲撃は一向に衰えない。小林少将指揮の左翼隊(師団主力)本部付近にも砲弾が多数落下した。  敵機群が数回にわたって襲来して、対地攻撃をした。小林兵団長の休憩所が狙われているかのようである。少将「一寸気持悪し、然し最後まで無帽白シャツにて端坐せり」とある。部下の手前逃げ出すわけにもゆくまい。つらい痩せ我慢というところである。  日没前、熾烈な砲撃と同時に戦車群が攻撃して来た。山県部隊(歩六四、小林左翼隊の右連隊)の右第一線大隊正面に戦車八(内四は火焔放射)、狙撃兵百五十程度が来攻、戦車一を擱坐させ、左第一線では戦車五、六輛、狙撃兵約五百を撃退した。山県部隊の損害、戦死八、負傷二十六名であった。  酒井部隊(歩七二、小林左翼隊の左連隊)では、朝来の敵砲兵の集中火によって通信網が切断され、連絡不能となった。午前十時ごろ、敵爆撃機九機が飛来して猛爆し、午後五時ごろ、右第一線大隊に戦車十五、歩兵五百が、後方に予備隊を続行させて来攻、左第一線大隊には戦車五、六輛、歩兵約三百。同時に、右山県部隊との間隙から乗車狙撃部隊が侵入して、翼側から攻撃して来た。  各種銃砲火に切れ目がなく、陣地は砲煙と砂塵に蔽われ通視がきかない状態であった。空からは敵機群の銃爆撃があり、空陸呼応しての総攻撃がはじまった観があった。  午後七時ごろ、敵は射程を延伸し、歩兵は接近して手榴弾の投擲戦となった。その間に戦車は火焔を放射して殺到、三輛は陣内に侵入した。混戦、紛戦、反撃して撃退を繰り返し、敵戦車の擱坐炎上六、死者多数。酒井部隊の損害、戦死十、負傷二十一であった。  長野支隊(歩七一、ホルステン河以南)の正面では、敵兵力が逐次左翼方面に移動しているのが観察されたので、午後四時四十分ごろ、師団の意図に従って、兵力の一部(配属されていた歩二八の一個中隊)をもってノロ高地742東南約四キロの754高地を占領させた。その目的は、長野支隊の左翼側と砲兵を掩護し、754高地からさらに東南へ四キロ弱の744高地付近にある興安師(満軍)との連繋を保つためである。  敵は午後七時ごろから長野支隊正面に飛砲歩協同の攻撃を開始した。ここでもソ軍の全面攻撃の観があったが、決定的な突入に至らぬうちに撃退された。  午後十一時過ぎ、三輪中尉指揮する決死隊十数名が敵陣地に突入、白兵を揮って敵兵刺殺二十四名に及んだと記録されている。勇猛果敢だが、裏返せば、この段階で既に日本軍はこのような奇襲戦法以外に打つ手がなくなっていたともいえるであろう。  砲兵団長畑勇三郎少将は次のように誌している。 「八月一日夕刻、敵は俄然わが歩砲兵陣地に熾烈な砲撃を加えつつ大規模な逆襲を企てた。ここにおいて我が砲兵は直ちに一部を敵砲兵に強圧を加えてその活動を抑制し、大部の火力を逆襲する敵部隊に指向した結果、約一時間後に敵は数百の屍体を遺棄して、その陣地内に撤退した。使用した砲兵弾薬は約〇・五基数であった」  野戦重砲兵(以下野重と略称)第一連隊第二中隊・榊原重勇の陣中日誌には、この日、こう書かれている。 「夕方六一四砲兵を射撃する。一八時頃敵は大規模の空襲を行ひ、後方は爆煙で見えない。友軍の第一線にも相当の空爆と機銃掃射を浴びせてゐるのが、手に取る様に見えて残念で堪らぬ。 (中略)  今夕の吾射撃は。�効果絶大なり�と、友軍第一線より感謝を受く。(後略)」  この日の歩兵部隊の戦闘記録には、不思議なことに、友軍砲兵の支援砲火が出て来ない。近接戦闘の応接に手いっぱいであったと解釈すべきであろうか。僅かに小林歩兵団長の記録に、「敵砲兵は十二門反対くの字道(逆くの字の意であろう)の左に暴露陣地を占領しありしが我重砲により悉く制圧せり」とある。     40  八月二日  朝がた驟雨があり、あがると澄み渡った秋空となった。  敵は陣地の中央地区から両外翼へ向って車輛部隊が移動するのが望見されたが、砲兵は依然として中央部から射撃を継続していた。  酒井部隊正面では優勢な敵が終夜陣前に迫り、手榴弾戦を交えたが、払暁前、敵は五百メートル以上後退した。  午前九時ごろから、重砲の射撃とともに歩兵約三百、戦車・装甲車十輛が右正面に来攻、陣前五十メートルまで近接した。  午後四時ごろ、敵は酒井部隊と山県部隊との間隙から侵入し、午後五時半ごろには左第一線の側面から歩戦連繋して攻撃して来た。  午後十時ごろから凄まじい雷雨となり、対岸の重砲の猛射が発する火花と稲妻が交錯して暗夜を切り裂き凄絶をきわめた。  昨日来の敵の攻撃反復で第一線は全く余裕がなく、炊事や弾薬補充は予備隊が担当した。  損害は戦死十、負傷十九、速射砲破壊二。敵は戦車三輛擱坐、遺棄死体二百五十であったというが、これは報告が過大であるのか、戦果を過大に見積ったかしたのであろう。こういう敵損失を累積すると、敵は十倍の兵力を持っていても足りなかったことになる。  酒井部隊の正面で右のような激戦があったにしては、兵団長小林少将の記録は長閑である。 「……午後敵砲殆んど射撃せざるに至る」  これは、兵団司令部の付近には飛弾しなかったと解すべきことなのか。多種多様の記録によって戦闘経過を跡づけていると、このような相互矛盾に遭遇することは、困ったことに、珍しくないのである。  この日、砲兵の直協として前線へ推進した飛行中隊は、畑砲兵団長によれば、前進基地で敵戦闘機五十機に奇襲され、戦隊長安部克己大佐以下全機玉砕した。  なお、この日、小松原師団長は満軍興安師を兵力整頓のため後退させた。  この部隊は敵重砲の圧倒的な砲撃に加えて友軍飛行機による誤爆を蒙り、戦意を喪失して大部は散逸離脱し、残ったのは日系軍官とその腹心の満軍兵士だけとなったのである。  ノモンハン戦後、日系軍官は満軍兵士逃亡の責を負わされたが(必ずしもこのときのことだけではない。後述)、その処置は理不尽の極といってよい。  大体、装備も貧弱なら、給養も日本軍並みに扱ってもらえない満軍が、しかも日本軍が意地と面子で戦っている戦闘に、日本軍同様に戦わねばならぬ理由など全くない。日本軍を遥かに上廻る火力や戦車群の恐るべき破壊力を見せつけられたら、戦う名分を持たない兵士が戦える道理がないのである。  満軍の逃亡はこのとき既にあったことを見れば、のちに戦闘惨烈の極所に至ってから、戦場離脱のために石蘭支隊の叛乱(後述)があったのも異とするには当らないであろう。  この八月二日、情報では、前日一日で敵のトラック一千輛がタムスクに到着したということであった。  八月三日  夜来の豪雨が午前二時ごろやむと、敵は激しく射ちだした。  就寝中の小林少将は、敵が銃眼高地から左第一線の右大隊の右側背に廻り、予備隊が戦闘準備中であるという報告を受け、驚いて跳び起きたが、これは単に砲撃だけであって、敵に突破されたのではなかった。  午後四時ごろ、友軍爆撃機三機が歩兵部隊の視界内で敵戦闘機群に包囲され、一機が撃墜されたほかは、ほとんど異状がない。  この日、築城に関する師団命令が出された。  また、この日、長谷部支隊(第八国境守備隊からの二個大隊)が戦場に到着した。  長谷部支隊は八月四日日没以後、長野支隊(歩七一)と交代してノロ高地の守備に入る。先に七月末戦場に来ている八国の園田中隊、歩二八の梶川大隊、速射砲三中隊半、迫撃砲一中隊を新に長谷部支隊に配属する。  長野支隊はニゲーソリモト付近に主力を置き、ノロ高地南東要地754 744の配備につく。  この日、関東軍直轄の歩兵第十四旅団長森田範正少将は、歩兵第二十八連隊主力と野砲兵第七連隊第一大隊を指揮して、甘珠爾廟東方約二七キロの採塩所に進出した。  八月三日までに判明した日本軍の損害は、小松原師団長の記録によれば次の通りである。  戦死   一、八六〇(内将校 一一〇)  戦傷   四、二七五(内将校 一三三)  戦病   一、一二八(内将校   四)  生死不明    八七(内将校   八)    計 七、三五〇  八月四日  朝来戦場平穏、午後多少砲撃があった。  午後二時ごろ、敵トラック四、五十輛と戦車十数輛が川又橋梁を通過して、山県部隊の正面へまわった。  山県部隊(歩六四)第十二中隊長・田代正直大尉の陣中手帳はこう書かれている。 「八月四日払暁後ニ於ケル砲撃比較的僅少ナリ、愈々何物カ暗示スルモノノ如シ」  最前線の指揮官は嵐の前の静けさとでもいうべき不気味なものを予感していたようである。  この日、前掲野重一の榊原陣中日誌によると、「明五日は張鼓峰事件の一周年に当り、之を期して一大打撃を与へるべく総攻撃を開始する旨の伝達あり。気引締る」とある。  どのような系統からの「伝達」かは不明だが、翌五日には歩兵部隊にそのような動きはなく、飛行部隊に活溌な行動があり、畑砲兵団には第一次破摧射撃と称する全力を挙げての対砲兵戦がある。  八月五日  歩兵の戦線は平穏らしい。砲戦に眼を転じよう。榊原日誌には硝煙の匂いがする。 「総攻撃の火蓋は先づ空襲によつて切られた。五十四機の大空爆行、十五加、十加も撃ち出した。八時半頃より弾着激しくなる。何しろ尖鋭弾でなければ敵へ届かないので心細い。ソ聯軍の火砲もナカ/\精度が良い。掩体の中へ弾片が一ぱい飛び込んで来る。(中略)戦ひすんで夕食をしてゐると突然ビュウーと言ふ音と共に火砲の前方三米へ敵弾落下(撃ち残りの弾を処置したものらしい)風圧で外にゐた吾々は倒された。黒と灰色の爆煙で何も見えなくなつたが、奇跡的に一人の損害もない。火砲をよく見ると、昼間の戦闘で気圧補填装置のところに穴があき、その周辺には弾片痕が一ぱい着いてゐる。今日は三回命拾ひをする」  砲兵諸隊は砲兵団の予定の計画に基づいて、この日、全力を挙げて対砲兵戦を実施したのである。偏差交会法を利用する一時間二十分(予定の二倍時間)の効力射準備射撃の後、既知敵砲兵のなかでも重要目標を選択して大隊単位で集中射撃を行った。使用弾薬は各砲種とも一基数であった。  敵に与えた打撃は甚大と思われたが、希望的観測ほどの効果はなかったようである。敵の火力は衰弱しなかった。     41  八月六日  この日は張鼓峰事件一周年記念日だからというので、敵の激しい攻撃を予期したが、それらしい動きはなく、一般に静穏であった。  何かの記念日に行動を起こしたがるのは、日本軍の常である。日本軍が攻勢に立っていたら、当然何らかの挙に出たであろうと思われる。  ソ軍は午後四時ごろ若干機数をもって偵察飛行を行い、夜に入って散発的な砲撃と第一線での間歇的な重機の射撃を行った程度である。  この日は酷熱猛烈で、前線将兵は敵よりも暑気に苦しむこと、処置なしの状態であった。  八月七日  早暁からノロ高地の長谷部支隊に対する敵の砲撃が猛烈であった。ホルステン北岸にある小林左翼隊戦闘司令所あたりまで手榴弾の炸裂する音が聞え、一時は危険に瀕したのではないかと気づかわれた。これは、敵の歩兵約五、六百、戦車十数輛が来攻しての激戦であったが、午前六時過ぎ、撃退した。この方面の砲撃は夜になっても熄まなかった。  午前中は閑散であった左翼隊(ホルステン北岸)の第一線左右連隊(歩七二・歩六四)の正面にも、午後になると砲撃が集中した。  歩六四の全線に対する砲撃は午後六時十五分から午後九時ごろまで激甚をきわめ、一面砲煙に蔽われ通視がきかず、夜になると所々に突撃の喚声が聞えた。左第一線第九中隊の正面では、敵との距離数十メートルにまでなった。八月一日につづく二度目の本格的攻勢かと思わせるものがあった。  歩七二の正面では、午後五時半ごろから砲撃が激しくなり、ここも砲煙と土砂で目視困難となり、電話線もほとんど切断した。敵は砲撃とともに戦車を繰り出し、午後六時三十分ごろから砲撃に膚接して歩兵約二百が右正面に、約四百が左正面に近迫した。撃退しても敵は陣前五、六百メートル付近に停止して攻撃を反復したのは、日本軍砲兵から強打を見舞われなかったからである。  砲兵隊は、畑砲兵団長によれば、「予め我が歩砲の間に実施してあった協定により、敢て応戦することなく、専ら敵情を監視して夜半におよび歩兵は独力で逆襲した敵を撃退した」とある。協定内容は明らかでない。敵を叩きのめす協定よりいい協定があるはずがないから、協定によって敢て砲兵が応戦しなかったというのは、察するに、弾薬を節約する必要に迫られていたのであろう。  長谷部支隊より南東部に配置されている歩七一では、午後八時ごろ、約一個小隊の敵が744高地の右側背を脅かし、約三百の敵は長谷部支隊との間隙に深く侵入した。この戦法は、後日の事実から見て、本格的攻略作戦の雛型のようであった。  七月上旬末以来約一カ月ノロ高地にあった長野支隊(歩七一)が、新来の長谷部支隊(八国)とノロ高地守備を交代したのは、八月四日から六日早暁までの間のことだが、野戦部隊である歩七一は敵の予想進路であるノロ高地以南地区に充当され、一地固守的性格の国境守備隊である長谷部支隊がノロ高地を担当させられたのである。  戦運は、しかし、いずれにも微笑みはしなかった。  八月八日  前夜来砲声は終夜轟いていた。払暁後もなお熄まない。  午前三時ごろ、戦車を伴った歩兵四、五百が酒井部隊(左翼隊左連隊・歩七二)に、同じく四、五百が山県部隊(右連隊・歩六四)に来攻したが、撃退。午前九時ごろ、山県部隊正面には再び攻撃があった。  歩七一では、この日、先に七月二十四日負傷した長野大佐に代って、新連隊長森田徹大佐が第七国境守備隊(黒河)から着任した。長野大佐負傷以来この日まで、歩七一は東宗治中佐の指揮によって戦闘を続行していたのである。  先走ることになるが、歩兵第七十一連隊ほど連隊長に不運がつづいた部隊はない。はじめの岡本連隊長は師団参謀長に転出して、のち重傷を負う。次の長野連隊長も倒れ、後任の森田徹連隊長は八月下旬の激戦で戦死、連隊長代理となって指揮をとった東宗治中佐も戦死する。一人として武運を完《まっと》うした者はない。  砲兵団では、この日、午前一時三十分から、野重一(十五榴)と穆稜重砲(十五加)をもって既知の敵砲兵に対し各門十発以内の分散的射撃を行い、敵の反応を観察した。  敵砲兵は応戦しはじめ、未明ごろからその火力は旺盛となって敵砲兵の全容がほぼ明らかとなった。  砲兵団では、午前七時から、独立野重七(十加)、野重一(十五榴)、穆稜重砲(十五加)をもって、確認した敵砲兵中特に有利な限定目標に対し集中火を浴びせた。その結果、敵の威力砲兵二目標を完全に沈黙させたというが、夕刻以後、敵は再び旺盛な砲撃を開始した。日本軍第一線の前方には各所に敵の密集部隊を認めるという通報があったが、砲兵部隊は準備を整えただけで射撃を行うことなく夜を徹した。歩兵の密集部隊に砲弾を振舞ってやるほど弾薬の蓄積はなかったのである。  関東軍は、守勢持久に移行するに当って、十基数の弾薬集積を意図したが、実現しなかった。前線将兵は奮戦しても、後方に在る高級司令部の戦闘構想と戦力補給の関係は画餅に近いものがあった。国が貧しいといえば、すべてそこに起因するが、出来ることまで出来ていないのは、戦争そのものを組織する能力が乏しかったとしか考えられないことである。     42  八月九日  朝来静穏。飛行集団からの情報によれば、歩六四正面には午前十時ごろから敵攻勢の企図があるらしいとのことであったが、昼の間は何事もなかった。左翼隊長小林少将は、昼間は週刊朝日を読んで過ごし、夕方、久しぶりに石鹸を使って体を拭ったというから、戦場はよほど平穏であったらしい。  午後七時四十分ごろから敵は砲撃をはじめ、歩兵の第一線にも十五榴級の砲弾が盛んに落下した。  砲兵部隊では歩兵部隊ほど平穏ではなかった。午前中、畑砲兵団長が野重一連隊本部付近で、三嶋連隊長を伴って補助観測所の設置を指導中に敵砲兵の急襲狙撃射を蒙り、三嶋野重一連隊長は砲弾破片創を受け、第一大隊長梅田少佐が連隊長代理となり、第二中隊長山崎大尉が大隊長代理となった。この二人の代理指揮官の最期は、後述するが、きわめて印象的である。  この日夜半、敵は概ね全線にわたって攻勢を企図し、特にホルステン河左岸(南側)の長谷部支隊正面に重点を指向したが、砲兵隊は予め整えてあった射撃準備によって反撃を加え、第一線歩兵部隊と協同して敵を撃退した。  八月十日  歩兵の戦線は概ね異状がなかった。小林歩兵団長は連隊長の考課表を作成、戦線の兵隊は慰問品に興じたり、久々の洗濯をしたり、ロシア兵が遺棄した鉄帽で顔を洗ったりした。  暑さは砂を焼くようである。夜は、しかし、冷気が身にしみて眠りを脅かす。  砲兵隊は敵情捜索のために一部の砲によって若干の射撃を行い、敵の動きを観察した。午後、敵の主力砲兵は日本軍砲兵十五榴と十五加陣地に集中射を反復した。これを観察すると、確認できた敵砲兵は十目標、その射撃精度は著しく向上しているようであった。  ホルステン南岸に在る長谷部支隊が対面するハルハ河河谷には、巧妙に遮蔽した敵十五榴の縦深陣地があって、猛威を振るっている。これに対して、日本軍の野砲と十加は弾道の制限で効力少なく、十二榴では弾丸の威力不足で制圧できない。そこで、この日、ホルステン北岸地区に在る野重一(十五榴)の一部をもって遠隔観測射撃による打撃を加え、目標を一時的に沈黙せしめた。  八月十一日  歩兵戦線は平穏。部隊によっては井戸を掘り、塵捨場を作り、便所の改修、改築などをしている。  敵の爆撃機の九機編隊が飛来して、うち一機が友軍高射砲によって撃墜されるのを、歩兵たちは拍手して喜んでいたが、たぶんこの編隊の爆撃によってであろう、十五加陣地では十五加一門が使用不能となり、修埋のためにハイラルヘ後送しなければならなくなっている。  八月十二日  砲兵戦が行われたが、歩兵の戦線は概して平穏。午後三時ごろ、友軍機が敵の最前線に撒いたビラが若干友軍歩兵陣地に舞い下り、走って拾った兵隊がいる。ロシア語と蒙古語らしくて、まるでわけがわからない。歩兵は、このところ、連日開店休業である。  砲兵は、午前七時三十分から、敵砲兵の十加以上の目標を選定して、近いものから順次に射撃した。砲兵団長の射撃計画では、この日の使用弾薬は一基数となっているが、前掲野重一・榊原陣中日誌では、「中隊で僅か五〇発しか撃たなかった。(中略)敵弾いつもの半分位」とある。  敵砲兵は十陣地から応戦したが、火砲の配置がこれまでと異り、南北両側に偏在して中央地域には空隙を生じているようであった。畑砲兵団長はこれを「我が鋭鋒を避けて」と観察しているが、果してそうか。この後の経過からみて、日本軍の南北両翼へ重圧を加えるための配置転換であったと考えては誤りであろうか。  この日の射撃効果を、砲兵団長は、十目標中の三乃至四を完全に撲滅、四乃至五に強度の制圧を加えたと判定したが、敵砲兵は当然逐日増加しているはずであるから、味方の弾薬の乏しさを考えると、敵火力が衰弱している現時点に乗じて敵戦力を各個に破摧する必要がある、というのが畑少将の作戦眼であった。少将は後述するように師団長に意見具申をするが、時は既に遅く、敵の大攻勢に機先を制せられることになる。  八月十三日  久しぶりに曇天、寒いくらいである。早朝来敵機の活動盛ん。日本軍の頭上を飛んで偵察する。  午後二時、第六軍司令官荻洲立兵中将の初度巡視。前に触れたように、彼が小林左翼隊戦闘司令所に来て、休憩所で酒を催促したのはこのときのことである。  午後四時ごろから雨脚が繁くなった。  砲兵団はホルステン南岸地区で戦闘中の森田徹部隊(歩七一)の744高地奪取に協力するよう師団長の要請を受け、十二日夜、独立野砲兵第一連隊に野戦重砲兵第一連隊第一中隊を配属して、ホルステン南岸に移動させ、この十三日早暁から攻撃を開始した。  森田部隊は砲兵の支援を得て、正午ごろまでに所望の高地帯を完全に攻略した、というのが畑少将の記録である。この人の記録はいつでも概して威勢がよすぎるくらいで、主観的傾向が強いのが特徴だが、このときの744高地線の占領は、歩七一の戦闘詳報や前掲小沼メモによれば、部隊は進出地点を誤認して、八月十六日払暁まで所定線の占領を達成しなかったらしい。戦闘は錯誤の連続といわれるが、記録もまた錯誤の連続であることを免れないようである。  八月十四日  夜来の雨やまず。敵機三機編隊、偵察に来る。友軍機は飛ばず。  戦場は昼間は閑静だったが、夕刻から夜半にかけて敵砲兵はかなりの弾量を撃った。盲射ちに近いが、新な砲兵陣地が二つ増えたらしく観測された。  八月十五日  終日降ったりやんだり、雨季のようである。砲声少なく、戦場平穏。敵機三機偵察飛行。あとから考え合せれば、敵は偵察を反復して日本軍の配置状況を何回となく確認し、攻撃計画を練っていたのである。  午後四時、小林兵団長は来訪した師団の村田参謀に作戦に関する意見を述べている。それによると、思いきって対岸のスンプルオボー方面に進出して大規模の攻勢を展開し敵に決戦を強いるか、さもなければ、隠忍自重して小攻勢をとることなく、兵力を逐次後方へ抽出して主力の集結を図り、もし敵が攻勢に出れば徹底的な殲滅戦を行う、敵の来攻がなければ、後方に在って監視するのを有利とする、というのである。  八月十六日  敵の砲撃緩徐。砲撃による損害がほとんど記録されていないところをみると、ここ数日の砲声はソ軍が意図的に流した擬音による欺騙ではなかったかと考えられる。  数日来、各部隊に腸チフス患者発生。軍医部長の指示によって、消毒、新しい井戸の掘鑿《くつさく》、すべての古井戸の埋め戻しを行う。  捜索、偵察による敵情の把握はほとんど記録に表われない。僅かに砲兵団が敵砲兵の発砲によって砲兵陣地の確認に努めていたことが看取される。敵機はこの日も三機編隊で三回偵察飛行したのを、歩六四の第十二中隊長が日誌に記録している。  砲兵団は、友軍捜索第二十三連隊(井置部隊)が占拠する最右翼陣地フイ高地(721)の対岸に移動中の敵車輛部隊を発見し、野砲兵第十三連隊の一大隊の火力をもって擾乱射撃を加えた。同じく独立野砲兵第一連隊はホルステン左岸(南)から右岸の旧陣地へ復帰して、やはりフイ高地対岸に移動中の戦車団を認め、これに急襲射を加えた。  右の徴候は、機甲部隊を増加した敵が、日本軍の右側背へ迂回、包囲する企図があることを示しているようであった。  反面、敵砲兵はホルステン左岸(南)地区に対して積極的な企図を有するらしく判断されるので、先の独立野砲一が歩兵(歩七一)支援の任務を終ってホルステン右岸旧陣地へ帰還する際に、先に配属されていた野重一第一中隊(十五榴)をホルステン左岸に残し、独立野重七に転属して、長谷部支隊正面のハルハ河河谷に遮蔽している敵榴弾砲破壊の任務を与え、さらに、穆稜重砲兵連隊(十五加)の一中隊をホルステン左岸台上に陣地変換させた。  結果的には、敵企図に対する砲兵の判断に大きな誤差はなかったといえるが、如何せん火砲も弾薬も歩砲の協同も足りなかったのである。  八月十七日  敵の活動きわめて平静、砲撃も緩徐。敏感な将兵には敵が何事か企図しているらしく本能的に感じられたが、正確な情報には接しなかった。  午前八時、友軍飛行隊から爆撃の通報があったが、飛ばなかった。これに反し、敵の編隊は友軍の頭上を偵察して去った。  歩兵部隊は師団長から、第一線の兵力をなるべく節約して後方の冬営工事を急ぐことを要求されている。このことから判断すると、師団では敵情をほとんど把握していなかったのである。敵兵力の集結、移動の状況とその企図が、次に述べる畑砲兵団長の判断のように把握されていたとすれば、第一線の防禦設備もろくに出来ていないときに後方へ作業要員の抽出を督促することはないであろう。  八月十八日  小林歩兵団長はこう誌している。 「一、早朝より砲兵団第二次砲兵戦(砲兵団ではこれを第三次破摧射撃と呼んだ——筆者註)開始午前中砲声殷々たり おかげで敵砲撃歩兵第一線に来らず  一、散髪す 幕舎内若干整理アンペラを布く」  大異変が迫っている気配はどこにもない。呑気である。  砲兵団ではこの八月十八日に予定の第三次破摧射撃を行うことになっていた。この日までの観察によって、敵は日本軍の両翼に対して攻撃をとる企図であるらしく判断されたから、予定の破摧射撃を迅速に実施して敵砲兵戦力の漸減撲滅を図ることを急務として、師団長の認可を受けた。  この実施日は、元々、飛行集団の主唱によって定められたのだそうである。その意味は、ソ連の航空記念日に砲飛協同して敵に大鉄鎚を下そうというのであった。  ところが、飛行集団の攻撃機は全然飛ばなかった。天候は、小林兵団長の記録では晴、歩六四の田代中隊長の日誌では曇小雨、歩七二の山田由平一等兵の日誌では曇時々晴、となっている。同じ左翼隊で何故こうも違うのか不審だが、いずれにしても、敵機は三機、六機と編隊で偵察飛行しているから、飛べない日ではなかった。  砲兵隊は、十八日午前七時から、飛行集団の協力なしで、砲撃を開始した。  畑砲兵団長によれば、砲兵各連隊はそれぞれ一目標を完全に破壊したが、あらかじめ要求してあったもう一つずつの目標に対しては制圧の程度にとどまり、配当した一基数の弾薬は射ち尽すことなく、約六分の一を残して夜を迎えたのである。  砲兵団長はこの不徹底な戦いぶりを頗る不満とした。     43  砲兵団長畑少将の不満は、十八日の砲撃の不徹底を、各砲兵連隊長以下の戦況認識が甘くて、戦機を捉える熱意と着想に欠けるところがあったことに原因する、と判定したからである。この人は部下の仕事にかなり点数の辛い人であったように見受けられる。  少将は、いまこそ砲兵が独力で戦捷の途を拓《ひら》くべき千載一遇の戦機であるという抱負と信念に燃えていた、という。七月二十三・四・五日の砲兵団の全力を挙げての砲戦が必ずしも所期の戦果をおさめ得なかった事実から見て、この十八日にせいぜい一基数の弾薬を射ち尽したとしても、どれだけの有効打を浴びせ得たかには疑問があると思われるが、十八日夜、畑少将は各隊長を司令部に招集して、各隊の欠陥を指摘し、速かに第四次破摧射撃を強行する決意を示した。  この計画は、しかし、戦況の急迫によって実行されなかった。戦場は新な局面へと急転回するのである。  八月十九日  朝から平穏であった。彼我共に砲撃はほとんどなかった。  午後、敵機の編隊が三回飛んで来た。おそらく最後の偵察であったろう。  敵陣地内では砲兵の移動が夕刻になってもやまなかった。  友軍の陣地構築の状況は、概して、各部隊本部の位置付近ではある程度の進捗を見せていたが、第一線へ近づくほど不充分であった。守勢持久の意図が徹底していなかった。防禦戦闘が攻撃戦闘と全く同格に重要であることが認識されていないようであった。近代戦の陣地の概念が定着していないのである。高級司令部になるほど前線の陣地の強度に関する関心が薄かったと云っても過言でない。このことは、後でふれるが、敵の攻勢がはじまったときに馬脚を露わすのである。簡単に云えば、立射散兵壕ぐらいを掘らせて、そこに配兵しておけば、それが陣地だと思っていた。この考え方の安易さと粗末さは、これが軍事のプロかと呆れるばかりである。  この日、夜になると、戦場は敵機が跳梁する舞台となった。それが敵の大攻勢開始の序幕であった。  小林歩兵団長は「敵機来襲し来る 大なる損害なきものの如し」と、まだ重大視していない。  畑砲兵団長は「敵機の騒音は戦場夜暗の静寂を攪乱した」と誌して、敵が大規模な攻勢移転準備を促進しているものと判断し、直ちに師団長に意見を具申したという。その意見具申は、しかし、翌八月二十日の夜、高級部員を師団司令部に派遣して行っている。要旨は次の通りである。  師団は速かに少なくとも三乃至四大隊の歩兵を基幹とする部隊をもって、友軍左翼方面から神速果敢な攻勢に転ずることが緊急要務である。その際、砲兵隊は、独立野砲兵第一連隊に野重第一連隊と独立野重第七連隊から各一大隊を加えた機動砲兵隊を編成して、歩兵部隊に協同する、というのである。  派遣された高級部員の帰還報告では、師団長には畑案の即時断行の決意は窺えなかった。砲兵団長はその報告を聞いて、師団が敵の包囲に陥れば、恢復し難い結果を生むことを憂慮したというが、憂慮したとあるだけで、その後の処置や対策を講じた跡が窺えないから、経過を承知した上での記述ではないかと思われる。致命的な状況を予見しながら何もしないで済ませられるほど、砲兵団長は責任の軽い地位ではないはずだからである。  二人の団長(少将)に対して、二人の下士官と兵の眼に映ったこの八月十九日の状況は次のようである。  歩七二の山田由平一等兵の戦闘日誌。 「八月十九日  雨は時折り止めども、依然降り続き使役も亦激しく、我が機関銃の撃つ発《(ママ)》光弾は花火の如くホロンバイル草原の夜空に咲く。友軍機の飛来は見えず、空爆に行く爆撃機のためか自軍の位置を示すためであろう敵左翼陣地にあがる赤吊星、歩哨警戒を益々厳にして深更に至る」  野重一・前掲の榊原陣中日誌、同日の項。 「雨降りが続く、射撃なし、夜九時四〇分星明りの空へ敵機現はる。照明弾を投下しつつ猛烈な爆撃を繰返す。しかし遠い、吾陣地の遙か東方の陣地、地上より迎へ撃つ機関銃弾がまるで花火の火の玉の様に飛び上る、真赤な火の玉が線を曳いて敵機に迫る。機上からも青白い線が織る様に地上火器に向つて降つて来る」     44  曳光弾がホロンバイルの夜空を縫っていたこの夜、ソ軍の攻撃開始の態勢は整っていたのである。  ソ連側資料によれば、ソ軍は、八月二十日払暁までに、第六戦車旅団を除く全部隊がハルハ河東岸(右岸——日本軍側)に到着し、その配置正面は七四キロに達していたというから、日本軍陣地南北三十余キロを完全に両翼から包み込むだけの展開正面を持っていたことになる。  そこに投入された兵力は、ソ連側の見積りでは、日本軍に対して、歩兵が一・五倍、火砲数が二倍、戦車四九八輛は日本軍のゼロに対して絶対的優勢、飛行機は五八一対四五〇となっているが、日本側資料では日本軍飛行機は四五〇機も揃ってはいなかった。  八月中旬末の日本軍飛行機は、飛行第十五戦隊第一中隊(司偵一中—四機)、飛行第十戦隊(司偵一中五機、軽爆一中六機)、飛行第二十四戦隊(戦闘二中二二機)、飛行第十六戦隊(軽爆三中一八機)、飛行第六十一戦隊(重爆三中一〇機)、飛行第十一戦隊(戦闘四中三〇機)、飛行第六十四戦隊(戦闘三中一八機)、計一一三機である。彼我ともに各機種の合計数字であるから正確な兵力比とはならないが、それにしても五八一対一一三では五分の一以下である。  戦闘を組織するにあたって彼我の間にどの程度の構想規模の相違があるかを見るために、煩を厭わずに、地上兵力を比較してみる。  八月二十日攻勢開始時のソ軍の兵力。 戦場兵力  狙撃第三十六師団 特設第八十二師団  特設第五十七師団 狙撃第五十師団  第五狙撃機関銃旅団 第七戦車旅団  第八装甲旅団 第九装甲旅団  第十装甲旅団 第十一戦車旅団  第三十二戦車旅団  重砲兵第一八五連隊 チタ重砲兵連隊  高射砲八大隊(約一〇〇門) 後方兵力  特設第七十三師団をボルジヤに  狙撃第八十七師団をオロウヤンヌイに  狙撃第五十七師団をボルジヤに  狙撃第七十九師団をイルクーツクに  特設第七十九師団をオロウヤンヌイに  戦車旅団をボルジヤに  同   をダウリヤに  同   をチタに  同   をアクシヤに  その合計は、戦場兵力として狙撃師団四、戦車旅団三、装甲旅団三。後方兵力として狙撃師団五、戦車旅団四。総計、狙撃九師団、機甲一〇旅団であった。  これに対して、日本軍は、  第二十三師団(速射砲六中増)、第七師団(速射砲八中増)、独立野砲兵第一連隊、野戦重砲兵第三旅団(第十連隊欠)、独立野戦重砲兵第七連隊、穆稜(旅順)重砲兵連隊、工兵第二十四連隊、高射砲十八中隊(七二門)、自動車三十四中隊(一中約四〇輛)、第三独立守備隊の歩兵二大隊、他に満軍として石蘭支隊及鈴木部隊と北警備軍である。  部隊の単位呼称に慣れている人の眼には、兵力差は一目瞭然であろう。  彼我の火器を比較すると、重(軽)機関銃二二五五対一二八三、七五ミリ及それ以上の火砲二一六対一三五、対戦車砲・大隊砲二八六対一四二である。  これでは、日本軍の兵が如何に訓練精到、敢闘精神に燃えていたとしても、勝算の立つ道理がないであろう。  島貫参謀は次のように総括している。  敵の八月攻勢の企図は偵知していたが、八月上旬に敵が反復した攻撃で所謂八月攻勢は終ったであろうと観測していた。事実は、この間に敵は兵力の大増加を図って、真面目な攻勢を準備していた。その準備は、八月中旬約二週間の天候不順のため、日本軍の空中偵察が不充分であった間に急速に進捗し、敵の戦力は日本軍の二倍以上に充実した。作戦課は情報課との緊密な連繋を欠き、情報資料の深刻な検討を怠ったために、遂に拭うべからざる失敗を喫した、と。  偵察飛行は、既に見てきた通り、敵は連日飛んだのに、日本軍は飛ばなかった。八月十八日から十九日へかけては、敵は攻勢発起点への集結展開のための大移動を実施したのである。行動は主として夜間に行われたが、もし日本軍の偵察飛行が敵と同様に反復して行われたとしたら、敵の企図を全然知らずに過すなどということはあり得なかったはずである。島貫資料を額面通りに受取れば、天候不良で日本機は偵察飛行しなかった。そのとき、敵は再三再四偵察のために飛んでいたのである。この差は何か。技術未熟といえば、以寡撃衆を誇りとしていた日本軍飛行士は決して容認しないであろう。偵察飛行を完全に封ぜられるほどにまで制空権が敵に帰していたわけでもなかった。機数不充分とはいっても、八月二十一日にはタムスク爆撃を実施するだけの実力は残っていたのである。  結局、偵察飛行は行えなかったのではなくて、行わなかった、としか考えられない。その理由は、敵機の邀撃とか敵地の爆撃とか直接に戦果と結びつく行動には勇躍飛び立つが、偵察とか索敵とかの直接の戦果を期待できない飛行を重要視しなかった日本軍飛行部隊に共通の欠陥に帰するべきであろうと思われる。これは、このとき、この飛行集団だけの問題ではなかった。三年後、海軍航空部隊の精鋭も、太平洋上でこの欠陥を暴露したのである。  以上のことは、以下に述べることと共に、日本軍の性急な、粗笨な、戦功に逸りがちな、徒らに攻撃的な兵術思想のために反省されることがなかった。冷静で、常識的で、合理的な判断力によって戦史を理解しようとすると、はみ出てしまう現象を随所に散見するのは、そのためである。  ノモンハン戦場のソ軍兵力を、関東軍が再三にわたって下算した事実は、その都度指摘してきた。それは常識ではほとんど耐えられないほどの軽率さであり、傲慢であり、愚かしさであった。  けれども、その傾向に対して警告を発した軍人がいなかったわけではない。彼らはロシア情報関係者である。彼らの警告または意見具申は、しかし、いつも無視された。たとい若干の共感を得ても、それが作戦に反映されて実を結んだことはなかった。理由は組織上の軍事的官僚主義である。作戦と情報は併立、共存、協同を必要とするから職制として組織化されていたはずであるにもかかわらず、作戦部門が常に絶対優位に立って、情報の取捨選択は作戦の好みに依ったといっても、過言でない。作戦がこう考える。それに適合しない情報は、如何に真相に近くとも、捨てて顧みられない。  以下は、ノモンハンに関しての、その実例である。  関東軍第二課(情報)高級参謀磯村大佐は、七月初頭のハルハ河両岸攻撃(小林歩兵団の左岸への渡河攻撃と、安岡支隊による右岸での川又への攻撃)のとき、ソ軍兵力を正当に評価(約二個師団)して、これと戦うに充分な兵力を用意する必要のあることを作戦課に対して述べたという。作戦課は、しかし、根拠のない増上慢に陥っていた。その云うところは、ソ蒙軍に対しては三分の一程度の兵力で充分である、両岸作戦に使用する兵力はそれより多いから、ソ蒙軍に対して牛刀を用いるにひとしい作戦である、ということであった。結果は、既に見た通り、右岸の安岡支隊は一挙に戦力半減、渡河部隊も対戦車戦に忙殺され、渡河二日にして撤退を余儀なくされた。  この結果を予想したのは磯村高級参謀だけではなかった。園部第七師団長が部下の須見連隊長に送った手紙には痛烈な予見がある。 「(前略)  小生がハルハ河の渡河を非常に無|暴《(ママ)》と思つたのは [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] 第一、上司の此の作戦は行きあたりばつたり、寸毫も計画的らしき所なきの感を深くしたこと 第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全我は出鱈目なる様に思はれ 第三、敵は装備優良、我は全く裸体なり 第四、作戦地の関係上ノモンハンの敵は大敵なり [#ここで字下げ終わり]  然るに拘はらず上司は之を悔つて殆んど眼中に置かざるの態度なり  要するに敵を知らず己れを知らず決して軽悔すべからざる大敵を軽悔して居る様に思はれ、若し此の必敗の条件を以て渡河敵地に乗り込むか是こそ一大事なりと愚考致したる次第なり(後略)」  思い上った作戦家たちは予見能力がなかっただけでなく、反省能力もなかった。  七月末、日本軍が守勢持久に方針を転換してからのこと、磯村大佐は、日本軍陣地の両翼が敵に対して開放された危険な状態にあることを指摘したが、その返事は、これはソ軍を引き入れてから叩くために意図的に空けてあるのだ、ということであった。  そういう作戦も戦術的には確かにあり得るが、そのためには、第二線以下に敵を圧倒するに足るだけの兵力・火力の用意がなければならない。兵力は足らず、火力もまた劣ることは七月二十三日からの砲兵戦が証明していたのである。  ハルビン機関長秦彦三郎少将は、八月中旬、磯村大佐と同様の見地に立って、敵を軽視してはならないこと、多過ぎるくらいの兵力をもって敵に痛打を加え、速かに全兵力を後方に集結する必要のあることを、関東軍司令官以下関係幕僚参集の席上で意見具申したという。植田軍司令官は秦機関長の見解に共感を示し、幕僚に作戦指導と事件処理の方策を再検討することを要求したそうである。  もしそれが事実なら、ノモンハンは関東軍が当面する最優先の要務であるはずであるから、速かな再検討を確認しないままに荏苒《じんぜん》日を過した軍司令官以下の首脳部は何を考えていたのか。関係幕僚には、再検討を加える気など毛頭なかった。その証拠に、『関東軍機密作戦日誌』に「敵の八月攻勢の推移間に於ける関東軍司令部の受けたる感覚」という項があって、そのなかに、「二十日以後、逐次敵の攻勢に関する6A(第六軍)並23D(第二十三師団)の報告に接せり、此際作戦参謀の受けたる感覚は、我として最も好|期《(ママ)》に敵が攻勢に転じたるものにして、此の機会に於て、敵を捕捉し得んものと信じたり」とある。  彼らが「信じた」粗末きわまる根拠については後述するが、彼らは、敵から七月初頭以降少なくとも三回の実物教育(両岸作戦、右岸の師団総攻撃、砲兵戦主体の攻撃)を受けても、また具眼の士からの警告を受けても、反省しようとはしなかった。彼らは、彼ら以上の作戦能力の存在を信じなかったし、彼ら自身何者よりも秀でた具眼の士であると信じていたようである。  彼らが意に染まない警告や忠告を排斥する例をもう一つ挙げよう。六月下旬、駐ソ大使館附武官土居明夫大佐は帰朝の途中、関東軍司令部に立ち寄って、道中視認した事実を述べた。狙撃二個師団と重砲約八〇門が東送されていたというのである。ソ連は、土居の見るところ、周到迅速な作戦準備を進めており、戦意は決して侮るべからざるものがある。  これを聞いた作戦課は、「関東軍はいま一挙にソ蒙軍を捕捉撃滅せんものとの意気に溢れている。このときに、その意欲に少しでも水をさすような消極論は禁物である」と、土居の発言を封じたというのである。  彼らは周到な準備の代りに虚勢をもって立ち、勝つべくして勝つ作戦に依らずして、敵を過小評価することに依ったのである。  ソ軍にとっては、関東軍にこのような作戦家たちしかいなかったことは、勿怪《もつけ》の幸というべきであった。  八月十九日の夜、曳光弾の飛び交うホロバイルの夜空の下、ソ軍が大攻勢発動の寸前にあることを、日本軍将兵は知らなかった。     45  ソ蒙軍の決戦の構想は、日本軍を正面から拘束しながら、南北両翼に配置した強力な部隊によって、日本軍を国境線とハルハ河に包囲殲滅しようというのであった。国境線というのは、この場合、ソ連が主張してきたハルハ河より東、概略ノモンハンを通過する線である。  この構想に基づいて、三つの兵団が組織されていた。  一、南方兵団  この兵団の突破進路にあたる日本軍は、ノロ高地の長谷部支隊(含梶川大隊・歩二八)、ノロ高地南東要地の森田徹部隊(歩七一)、最左翼の満軍である。  その編成は、  第五七狙撃師団、蒙古革命第八騎兵師団、第八自動車装甲旅団、第六戦車旅団(二大隊欠)、第一一戦車旅団(二大隊欠)、第一八五砲兵連隊第一中隊、第三七対戦車砲連隊、T130戦車中隊。  二、北方兵団  この正面の日本軍は、フイ高地にある捜索隊を主力とする混成部隊である。  その編成は、  第八二師団の第六〇一狙撃連隊、第七自動車装甲旅団、第一一戦車旅団の二戦車大隊、第八二榴弾砲連隊、第八七対戦車砲大隊。  三、中央兵団  この正面の日本軍は、バルシャガル北部の右翼隊(須見・歩二六の一部その他)、バルシャガル西の左翼隊(小林部隊——山県、酒井両連隊)だが、右翼隊・左翼隊の編成と任務はソ軍の攻撃開始に対応して変化して、バルシャガル付近は山県部隊(歩六四)だけとなる。  砲兵配置は戦闘経過を追って後述するが、全線にわたって日本軍の量的劣勢は明らかである。  ソ連側資料によれば、ソ蒙軍は八月二十日午前五時四十五分、数百機に及ぶ編隊による爆撃をもって攻撃を開始した。爆撃目標は日本軍陣地の前線、予備線、砲兵であった。  ソ軍砲兵は、まず、日本軍AA中隊(高射砲)を制圧、飛行部隊の攻撃につづいて砲兵の猛烈な準備射撃が開始され、射撃時間は二時間四十五分、歩兵の攻撃開始十五分前に日本軍陣地前線に対して全砲兵の疾風射が行われた。  この日は、早朝、霧が深かった。ソ軍歩兵部隊は霧に紛れて攻撃発起点に達した。  午前九時、全正面一斉に攻撃を開始。  ソ軍側はこう書いている。 「攻撃準備、其の実施及諸兵の協同動作に関する総ての問題は、現地偵察が実施された際、先ず詳細に検討され、後、始めて特別な文書及表に記入されたのである。  軍事委員会は、攻撃前、指示の遂行状況を点検して、不備の点はその場で直に改訂した」と。  日本軍がほとんどいつも準備不整のまま攻撃を開始するのとは、雲泥の差であった。  関東軍司令部が現地から敵の全面攻勢開始の報告を受けたのは、八月二十一日朝であった。第二十三師団参謀長から関東軍参謀長宛ての電報である。 『一、本朝来敵の状況頓に活気を呈し、殆んど全正面に亘り攻勢に転移せり。  二、ホンジンガンガの北警備軍(満軍——筆者註)正面に於ては、敵は、歩騎兵約千、戦車五十、砲十数門の展開を終り、十二時攻撃前進を開始し、爾来、主力を以てガロートコ(将軍廟西方約四里)に於て渡河を実施せり』  この状況は、陣地配備最右翼の満軍騎兵部隊が鎧袖一触撃破され、敵は北翼から大きく将軍廟方向にまわり込んで来る企図と判断された。  つづいて、同二十一日、第六軍司令官からの電報が入った。 『二十日以来の戦況により判断するに、23D正面に現出せる敵第一線兵力は少くとも狙撃ニケ師団及機械化部隊にして目下に於ける重点はホルステン河南方地区に在るものの如し』  前電では北翼に、今度は南翼に敵の重点があるらしいという。つまり、これは全面攻勢と判断すべきである。その敵兵力は、第一線だけでも狙撃二個師団を下らないとすれば、第二線兵団を見積れば三乃至四個師団はあるであろう。したがって、戦車も四乃至五個旅団はあるであろう。第二課の推定では、歩兵二乃至三個師団、戦車二乃至三個旅団と見積っていたが、実際兵力はほぼその二倍に近いらしい。  これは驚きに値するはずであったが、作戦参謀が受けた感覚は、先に述べたように、「我として最も好|期《(ママ)》に敵が攻勢に転じたるものにして、此の機会に於て、敵を捕捉し得んものと信じたり」というのである。  その根拠は、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1、第二十三師団の陣地は既に強化されて、相当の強度に達している、と軍司令部では信じていた。  どうしてそう信じ得たか、不可解である。鉄条網もない、立射散兵壕程度の陣地が何が相当の強度であるか。たとえば、小林少将の八月十九日の記録には、「陣地構築状況は山県部隊は本部の位置付近は進捗良好なるも第一線に至るに従い不充分なり」とある。また、小沼メモには、「八月十九日頃三分の一進捗しあり。但、第二線は殆んど着手しあらず」とある。  軍司令部の参謀たちは、築城命令だけは出しておいて、現地の実情を見ていないのである。 2、第二十三師団主力とハンダガヤの中間地区にあった興安師は既述の通り潰滅したが、石蘭支隊が交代に入って陣地占領を終っているから、この部分の欠陥は補填し得た、と軍司令部では考えていた。  だが、この石蘭支隊の一部は、敵の攻勢第二日目の深夜、叛乱を起こして敵に投降するのである。異変を予想し得なかったとしても無理はないが、満軍にそのような不安感が潜在することを軍司令部は深く認識せず、員数の配置をもって足れりと考えていた。 3、第七師団の森田旅団は、先に軍直轄として採塩所に進出していたが、これが現在採塩所—将軍廟を南進中であって、これを直ちに戦闘に投入できるから、その戦力を大いに期待できる、と軍司令部は楽観していた。  だが、森田範正少将が指揮して進出して来た部隊は、歩兵第二十八連隊の二個大隊と野砲兵第七連隊の一大隊に過ぎない。精鋭だとしても、兵力の劣勢を補うにはまだ著しく不足であった。敵の兵力の三分の一で足りるなどと自惚れる作戦課の悪癖は、遂に矯正されることがなかったのである。 4、第六軍司令部が編成されたから、戦場の統帥が便利になった、と関東軍司令部では考えていた。 [#ここで字下げ終わり]  だが、新設の第六軍は状況に不慣れな点が多く、統帥が便利になったどころではなかった。軍司令部からの作戦参謀の来援を待ち望んだほどであった。第六軍と第二十三師団との間の、作戦に関する見解の不一致は、この直ぐあとに起きるのである。  先に、戦闘を組織するにあたっての配慮の密度に、彼我両軍の間では著しい懸隔があったことに触れたが、ソ軍攻勢開始の報告を受けた関東軍司令部の反応には、必要なものが欠けていた。緻密さである。不必要なものが多過ぎた。尊大である。この欠陥は、作戦間の随所に露われた。  昭和十四年十一月から翌十五年一月へかけて設置された『ノモンハン事件研究委員会』の『研究報告』には、当然のことながら、日本軍の各種欠陥にメスが入れられている。研究委員たちの真剣な努力の跡は報告の各項に明らかだが、研究の成果が軍中央、分けても作戦部門によって重用されたようには見受けられない。『大東亜戦争』で日本軍は、屡々、ノモンハンの欠陥と失敗を拡大再生産しているのである。 『ノモンハン事件研究報告』の一部分を摘録してみよう。それが八月二十日にはじまる惨烈な戦闘を総括しているからである。 「今次事件ノ経験ニ基ク我ガ戦法上ノ最大教訓ハ疎開並ニ築城ノ利用ニ於テ将《は》タ組織的、縦深的火力ノ発揚ニ於テ依然|旧套《きゆうとう》ヲ脱セズ且上下ヲ通ジテ戦法戦技ニ関スル識能ガ近代戦ノ要求スル技術的、組織的要求ニ対シ頗《すこぶ》ル低水準ニ在ルヲ痛感スルコトナリ」 「敵ノ意表ニ出デ敵ヲシテ対応ノ策ナカラシムベキハ希望スル所ナリト雖モ火力ト機動力トヲ準備シ且縦深ニ配備シアル敵ニ対シ急速ヲ尚ブノ余リ戦機ト称シテ戦力ノ統合使用ヲ怠リ火力準備ヲ忽《ゆるが》セニシテ白兵ト駈歩トヲ以テ功ヲ急グ時ハ縦《たと》ヒ戦闘ノ初動ニ於テ奇襲ノ効果ヲ収ムルトモ其ノ効果ハ直チニ敵ノ対応策ニ依リ消滅シ却ツテ我ノ不準備ニ基因シ攻勢挫折スルニ至ルベシ是今次事件ニ於ケル貴重ナル教訓ナリ」  三年後のガタルカナルでの一木支隊の全滅、川口支隊の攻撃失敗、第二師団の攻撃挫折は、みな、右の数行の教訓内に総括されることであった。 「組織的火力ノ発揮ニ依リ敵ヲ制圧スルノ処置ヲ行フコトナク猪突|冒《(ママ)》進シ又ハ点在スル火点ニ必要以上ノ白兵ヲ蝟集《いしゆう》突撃セシムル如キ戦法ハ徒ラニ損害ヲ招クニ過ギザルナリ  我ガ軍ニ於テ疎開戦法ヲ訓練ノ方式トシ又諸兵ノ戦力統合ヲ高唱スルコト既ニ久シキモ火力価値ノ認識未ダ十分ナラザルニ基因シテ我ガ火力ノ準備ヲ怠リ国民性ノ性急ナルト相俟チ誤リタル訓練ニ依ル遮二無ニノ突進ニ慣レ為ニ組織アル火網ニヨリ甚大ナル損害ヲ招クニ至ルベキハ深憂ニ堪ヘザル所ナリ宜シク靭強惨烈ナル戦闘ニ堪フル為従来ニ比シ更ニ鞏固ナル戦闘意志ノ鍛錬ヲ必要トスルト共ニ如何ニ鞏固ナル精神力ヲ有スルモ適切ナル対抗策ヲ講ズルニ非ザレバ物資力ニ対抗シ得ザルコトアルヲ認識スルノ要アリ」  この項は日本の軍隊教育、戦闘教練の最大欠陥に触れていると思われる。しかし、これから六年足らず、敗戦に至るまで、この傾向が改められたことを遂に聞かない。むしろ、国力の惨落するにつれて、この傾向は増幅されたのである。 「ソ軍ガ徹底的疎開ヲ為シ自動貨車ヲ一、二百米ニ一台ノ割ニ分散配置シ而モ戦車スラ工事ニ拠ラシムル真剣ナル対敵行為ト我ガ砂丘ニ蝟集セルトハ疎開ノ度ニ於テ霄壌《しようじよう》ノ差アリ又ソ軍ハ八月攻撃ノ進捗間忽チ鉄条網陣地ヲ構築シタルニ我ハ所要ノ築城ヲスラ為サズ甚大ナル打撃ヲ受ケタリ由来我ガ軍ニハ築城ヲ軽視シ且之ガ施設ヲ怠ル遺憾ナル慣習アリ(以下略)」  これらの欠陥を抱えた日本軍が、優勢な兵力と豊富な物資力とを緻密に組織したソ軍の猛攻にさらされることになる。  八月二十日、ホロンバイルの平原は深い朝霧のなかに終末段階を迎えた。     46  八月二十日(ソ軍攻勢第一日)  第二十三師団長の位置から概観した戦況は次のようであった。  早朝来、敵の戦爆三—四十機による爆撃六回、対地攻撃五回を算え、敵機群は完全に戦場上空を制空していた(師団位置からはこの程度に見えた敵機群は、この日、午前七時前後から、戦闘機約一五〇機、爆撃機も一〇〇機を越える勢力で、日本軍各陣地を猛攻したようである)。  つづいて、全線にわたって敵砲兵が全力を挙げて砲撃を継続した(射撃時間は既述の通り二時間四十五分)。十加三中隊が新に確認されている。  敵は、一夜のうちに、フイ高地方面に二個、東渡と南渡に二個、計四個の架橋をしてあった。  フイ高地方面の敵は、従来正面にあった機甲部隊の他に、新しく狙撃部隊、戦車五〇、装甲自動車一〇〇、砲八が現われ、忽ち四囲を包囲された。  フイ高地北方のホンジンガンガ(友軍陣地最北端)の満軍北警備軍は敵に撃破され、後退した(フイ高地のこの日の戦況は後述する)。  右翼隊、左翼隊、長谷部支隊、森田(徹)部隊、いずれの正面でも敵の行動は活溌である。全面攻撃の開始は疑う余地がない。  この情勢に対応して、師団は、諸隊の陣地工事を中止させ、次のような攻撃準備の命令を下した。  一、左翼隊長(小林少将)は、連隊長の指揮する歩兵三個大隊、迫撃砲、速射砲十門、工兵一中隊を基幹とする部隊を残置し、これを新に左翼隊とする(歩六四山県部隊がこれに充当された)。爾余は二十日日没後、工兵橋(ホルステン河)北方地区に集結して、爾後の行動を準備する。  二、森田(徹)部隊・歩七一は依然その一部をもって744 747高地を確保し、主力はニゲーソリモト南方約三キロの砂丘付近に集結して、爾後の攻撃を準備する。  三、予備隊は一部をもってウズル水西方稜線付近を占領、主力は752高地南東地区に集結して、師団主力の右側を掩護する。  以上が、小松原師団長がこの日にとった処置である。  この日の敵機群の跳梁ぶりは、前掲野重一・榊原陣中日誌に詳しい。観察が正確と思われるので、少し長いが引用する。 「六時三十五分、まだ朝霧深いバルシャガルの草原に敵機出現。高く低く舞い乱れてゐるうちに猛烈な爆撃が始まる。前面の視界一ぱい、半円形を画いて爆煙の屏風が出来る。七時二〇分迄約五〇分間に亘る空襲、戦闘機も多い、吾頭上五〇米位を敵二機がカスメ飛び機銃掃射を行ふ。  九時四〇分再び空襲、眼鏡で見ると来るわ来るわ、真白い機体にノーマーク双発の重爆が三〇機余り、その重爆の周辺をE16らしいのがグルグル廻り乍ら哨戒してゐる。見る見るうちに頭上に来て九機が爆弾投下を始める。  弾着を確認せんものと、壕外へ出た処を、近くへ落ちた奴の爆風で弾丸置場の中へのめり込まされる。出て見ると第一中隊(日誌の筆者は第二中隊——引用者)は煙に包まれて見えぬ。尚眼鏡をのぞいてゐると、嬉しい、〆た!! 友軍機が現はれた。一機二機、五機、八機、まだ来る。SBと言ふのかあの重爆はもう逃げてゐない。残るはE16のみ。友軍の一機がどこかやられたらしい。傾き乍ら低空で帰つて来た。丘のすぐ向側へ不時着の模様。これだけかゝつて敵の一機も落ちんとは、何と言ふ口惜しい事か。  この間にも敵砲兵は盛に活動、第一線の後方を全面に亘つて叩いてゐる。吾陣地の二〇米位の処へも弾着激し。  空襲は止んだが敵弾は午後に至るもますます盛なり。(後略)」  このころソ軍はイ15型から優速のイ16型に切り替え、イ16の要部には防盾を装着し、防弾油槽を装備していた。陣中日誌の筆者が口惜しがるほどソ軍機を撃墜しにくくなっていたのである。  井置部隊(捜索隊)を主力とするフイ高地は、この日、劫火の試練にさらされた。  フイ高地からホンジンガンガヘかけて、来攻した敵の兵力は、歩兵一千、戦車五〇、騎兵二〇〇、山砲十門といわれるが、フイ高地は敵後方の重砲によって滅多打ちにされた。  午前九時少し前、フイ高地は「百雷一時ニ落ツルカ如ク」黒煙濛々として通視が全くきかなくなった。一分間二百発の大小砲弾といえば、その凄まじさは想像に絶する。高地は震動し、掩体壕の土砂が崩壊した。命中弾は次第に壕を埋め、浅くなり、遂には匍匐前進しても暴露するところが多くなった。遮蔽できなくなれば、当然死傷者が続発する。衛生兵は繁忙をきわめた。交通壕が埋まって、負傷者の担送もできなくなった。衛生材料はこの日一日で消耗し尽しそうなので、第一線繃帯所では大出血かひどく汚染したものの外は繃帯をしなかった。  フイ高地を蔽った砲爆煙は、十二—三キロ離れたバルシャガル高地から望見できたほどであったという。  十二時ごろ、敵の砲撃が一時中絶した。将兵は安堵したが、敵は攻撃の手を緩めたのではなかった。攻撃の方法を変えただけである。歩兵陣地の方向に、突然、戦慄的な轟音が起こって、戦車四—五十輛が一挙に陣内に殺到して来た。 「急ヲ告クル伝令兵ノ顔色蒼白タリ」とある。  接戦、混戦の陣内戦数刻。日没となって戦車はようやく跳梁をやめ、砲撃もおさまり、歩兵も後退した。  こうして第一日目の危機は辛くも切り抜けた。  危機的状況は、ホルステン南岸の戦線でも同様であった。  ノロ高地の長谷部支隊(八国)正面の敵は、八月二十日午前七時半から猛烈な砲撃を開始した。  砲撃には切れ目がなく、通信線は全部切断され、保線に努力しても、五百メートルの間が一日に何十箇所も切れた。このため、各大隊間、支隊本部との間が通信不能となった。水の補給もなく、糧食、弾薬も来ない。  ノロ高地から左翼へかけては、敵の主攻正面に当っていたのである。敵の総攻撃第一日目から、戦況は深刻の度を増すばかりであった。  長谷部支隊の指揮下にあって、ノロ高地の左第一線となっている梶川大隊(歩二八の第二大隊)では、八月二十日朝来、敵機の大編隊の銃爆撃を見舞われ、戦車十数輛による砲撃、砲兵(野砲八、軽榴弾砲四、十五加二)による激烈な砲撃を蒙った。敵の歩兵は砲撃に膚接して来攻し、終日激闘がつづいた。  敵の戦意は旺盛であった。特に最左翼方面から来る敵機械化部隊の行動は積極果敢で、日本軍陣地の背後に深く迂回して、後方攪乱を意図しているようであった。  梶川大隊は、この日の敵の攻撃を夜になるまで局部的な攻撃と思っていたらしい。夜になって、各方面と連絡をとってみて、はじめて敵の全面攻勢を知ったのである。  梶川大隊よりさらに左翼、東渡の正面にあった歩七一(森田徹部隊)の主力がニゲーソリモト方向へ後退する途中で、敵の攻撃を受けている状況が、梶川大隊の位置から目撃できた。歩七一の後退は師団命令によって行われたが、このため、梶川大隊は左翼側を敵の攻撃に直接さらすことになった。  長谷部支隊長からその意味の注意が梶川大隊に与えられたが、さりとて梶川大隊に格別の名案があるわけでない。ただ全力を尽して陣地を死守する以外に方法はないのである。  同じく八月二十日、ノロ高地南東方に在った森田徹部隊(歩七一)では、敵は早朝から全線にわたって攻勢に転じ、東渡以東の地区では四箇所に架橋して、戦車・装甲車約二百、狙撃兵一千以上が第一線に殺到し、戦爆機の跳梁に対して友軍機は影をひそめていた。  午前九時ごろ、744—757高地正面の敵の攻撃が強烈となって、747に在る第一大隊主力と757に在る第十一中隊(第三大隊)の一部が苦戦に陥った。  連隊長は、第三大隊主力を747に、一部を757に増強するように部署したが、第三大隊は747後方約三キロに達し得たにとどまり、747は午後二時半ごろいよいよ苦境に陥った。同地点に第三大隊が増加し得たのは、午後六時である。  森田部隊では、師団が二十一日左翼から攻勢に転ずる意図のあることを承知していた部隊長が、第三大隊に対して、師団攻勢の|支※[#「てへん+堂の土に替えて牙」、unicode6490]点《しとうてん》として747高地を確保することを命じてあった。  午後八時過ぎ、師団の村田参謀から、「師団主力を本夜歩兵第七一連隊方面に転用する件は暫く見合せ、単に主力を後方に集結するに止めることになった。七一連隊は依然一部をもって744と747を確保し、連隊主力をニゲーソリモト南方三キロ砂丘付近に集結し、爾後の行動を準備されたい」と電話連絡があった。  師団は、この時点では、敵の攻撃の重点が何処にあるのか、判定に迷っていたのである。  歩七一の主力は、右の電話連絡によって、夜中、混乱のなかを再び瓢箪《ひようたん》砂丘へ前進した。  午後八時三十分ごろ、敵は第一・第二大隊正面を除いては、友軍十加の射撃によって後退した。  757高地の維持は、正面過広のため、自主的に放棄した。  歩七一・十一中隊の小田大治の戦記にはこう誌されている。 「(前略)先ず八月十九日頃増援の兵隊は来なくなりました。八月二十日には水の補給も絶えます。この日中隊長(何人目かの見習士官)の申された言葉は(中略)�もうそこまで旭川が来ておるぞ(第七師団来援の意——引用者)、もう少しだ、しっかり頑張って呉れよ�云々でした。  私達は云われずとも、頑張って居るのに、何を今更云われるのか、まして、よその部隊の事なぞ何事かと、少しもその申される理由がわかりませんでした。(後略)」  この人、「私は一兵隊の事で、眼前の敵で手一杯、私以外の事まで目は届きません」と書いているが、二十日以降の激闘と生き残った兵隊の体験を鮮かに描いている。二十日の時点では、敵の攻勢開始早々に全戦局が日本軍にとって一挙に非勢に傾いたことなど、兵隊の立場で把握できるはずもないし、考える余裕もなかったであろう。  敵の主攻正面に当る森田部隊と長谷部支隊の連繋に関して、小沼メモは八月二十日の項に次のように書いている。 「軍参謀長来たり(第六軍参謀長——引用者)、軍の作戦方針を示さる。敵をひっぱり込み、たたく方針は一致しあるも(第六軍と第二十三師団の間で——引用者)、師団長は左翼を著しく後退し、砲兵主力を左岸(ホルステン左岸の意)に移すは不適当」として、その理由を、㈰砲兵の威力発揮が困難(砲兵陣地の適地がない)。㈪森田部隊が退らずに前方にいれば、ノロ高地の長谷部支隊は頑張り得るが、森田部隊が退れば長谷部支隊は危険になる。長谷部が潰れれば攻勢転移は成立しない、と述べているが、軍参謀長が、「軍方針は決定的意見なり」というので、「二十一日、一日激論し一致せず」とある。  小松原師団長の攻勢案は、森田部隊(歩七一)をニゲーソリモト付近に後退させて、南東側から大きく迂回して来るらしい敵の攻撃力を牽制吸引させ、師団主力(酒井部隊・歩七二)をもってノロ高地付近から攻撃前進しようというのである。  このため、八月二十日夕刻の時点で、第二十三師団長は、小林少将の指揮する従来の左翼隊(歩六四と歩七二)を改編し、歩七二を小林少将指揮の下に後方に集結させ、バルシャガル高地一帯は歩六四(山県部隊)に担当させ、ホルステン以南(予想主戦場)では森田部隊の一部をもって744と747高地を確保し、主力をニゲーソリモト付近に後退させる部署をとった。  第六軍(荻洲中将)の作戦構想は、小松原案よりも遥かに遠く南東へ迂回して、日本軍陣地の左翼側を大きく抱き込む形に進攻して来るソ軍を、さらにその外側から包囲しようというのである。  小沼メモにある、第六軍参謀長と第二十三師団長とが「二十一日、一日激論し一致せず」というのは、この構想の違いからであった。  この経過は、日付を追ってふれることにする。いまはまだ、八月二十日である。  畑砲兵団長は、この日、こう書き誌している。 「(前略)諜報によれば敵は其の新鋭空軍力を以て我砲兵を襲撃し以て後退を強いんとの事なり(中略)。我飛行隊の活動は敵機の行動と一致せざるが如く、偶々一致するも敵機の行動及機種の優良度加わりし為我戦闘機は敵を捕捉し得ず。(中略)  此の日……砲兵用法の見地に基く砲兵団の意見を求められしが(師団司令部から——引用者)、吾人は此際現有の総予備隊程度を以て、寧ろ拙速を尊び一方面の突破に依り全局の打開を主張す。然れども遂に為す処なくして、荏苒《じんぜん》経過し此間逐次散漫|乍《なが》ら大規模なる敵の包囲に陥らんとしつつあり」  畑少将の謂う一方面の突破によって全局の打開が可能であったとは、考えられない。既に見てきたことだが、ソ軍の戦法は、防禦戦は勿論のこと、攻撃態勢にあっても縦深が重んじられていたから、少将の謂うように「現有の総予備隊程度」の兵力で突破を試みれば、若干距離の突破は実現し得ても、逆に包囲封鎖をくらうことになったであろう。突破作戦は、このころ既に、一点突破には逆効果しかなく、相当兵力に依る全幅員の蹂躙貫通以外に成功は望み得なくなっていたのである。     47  歩兵団長小林少将の記録は八月二十日で終っている。 「早朝より敵無数の飛行機飛来暴威を振舞ふ 我飛行隊の対戦思ふ様にならず悉く敵に制空せられし感あり  敵は新飛行旅団新来せるものゝ如く従来の飛行機とは全く異り機も極めて優秀なるものゝ如し(中略)  朝伊藤参謀来訪約二大隊抽出の件(小松原攻勢案——引用者)腹案を聴き 同意す 左翼隊正面を山県部隊にて担任せしむることとし意図を示す(中略)各部隊長を左第一線に派遣し昼間より準備をなさしむ(後略)」  少将は、八月二十四日の攻勢移転(後述)の際、払暁、敵戦車砲弾を膝蓋骨部に受け、同日日没後軍医の決死的救出によって九死に一生を得、二十八日に左脚切断して生命を取りとめたという。  酒井部隊(歩七二)でも、他部隊同様に八月二十日午前七時ごろから敵機の襲撃を、午前九時ごろから猛烈な砲撃を受け、これに膚接した戦車・歩兵と激しく交戦している。  ソ軍は日本軍陣地の南北両翼外側から包囲する作戦をとったとはいっても、中央正面に牽制程度の兵力しか配置しなかったわけではない。中央は中央で力攻するに足るだけの兵力・火力を持っていたのである。  酒井部隊長は小林歩兵団司令部からの電話による命令(午後四時)に基づいて、午後五時次の要旨の命令を下達した。  師団は左翼隊正面から師団左翼方面に兵力を転用して攻勢を企図する。よって、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、連隊は小林兵団長の指揮に入り右任務に就く。 二、第一線両大隊は薄暮以降山県部隊赤井大隊と守備を交替し、総攻撃開始前の連隊本部位置に集結する。 三、連隊砲中隊は第一大隊と行動を共にする。 四、通信隊は通信網を撤収して、ノモンハンに向い追及する。 五、中軽迫撃砲は現陣地にとどまる。 (以下略)  注意事項 1、毛布行李其他直接戦闘に必要なき諸品は監視者をつけて残置する。 2、火焔瓶及戦車地雷は努めて多く携行する。 3、企図の秘匿に留意。 [#ここで字下げ終わり]  陣地守備を交代する山県部隊からは、赤井大隊長以下が午後五時ごろ酒井部隊本部に来て、打合せを行った。  交代部隊は午後十一時三十分、第一線に到着、二十一日午前三時、交代を終った。  このときから全戦線の崩壊まで、戦線の中央部バルシャガル高地線は山県部隊(歩六四)が担当するのである。  山県部隊正面でも、八月二十日早朝から、敵重爆二十機が後方陣地を爆撃し、戦闘機群は対地射撃を反復した。対岸の散砲兵の射撃も逐次激しさを増し、当面の歩兵は約八百、波状的に来攻。南方から包囲しようとする敵大部隊との応接に忙しく、午後八時ごろには第一線陣地の交代は困難となった。  歩六四の古川常深は、歩七二が他へ転用されたあとの状況を次のように述べている。 「歩六四は小林少将の指揮する歩兵部隊が左岸地区(ホルステン南岸——引用者)に抜けた跡を一手に引継いだために戦線が伸び切ってしまった。  筆者の所属するキルデゲイ陣地(第三大隊本部、十一中隊、十二中隊、速射砲一門、第一師団MG小隊、工兵一小隊)と右隣接の日の丸陣地(歩二六第三大隊)の間隙は四キロメートル、左隣接陣地(歩六四第二大隊五中隊)とは六キロメートルという途方もない配備であった。従って敵部隊はこの間隙を自由自在に行動し(中略)、敵がもっとも恐れた中央突破が、かくも楽々前進出来るとは、敵も予想だにしなかったことであろう。(後略)」  古川常深の談話によれば、「敵は軍歌を歌いながら堂々と日本軍陣地の間隙を通過する」ことになるのである。  陣地間隙が四キロも六キロもあっては、もはや、陣地ではない。日を追って、南北両翼の包囲網は厚くなり、中央は「堂々と」浸透され、中央最前線の山県部隊は最後部に孤立することになる。  須見部隊(第七師団の歩二六)は、第一線の山県部隊の右翼に出ている生田大隊の他は、この日はまだ大きな戦闘には捲き込まれなかった。  午前十一時四十分ごろ、部隊長は第六軍参謀長と会って、攻撃計画を聞き、それに基づいて、第二・三大隊に集結を命じたが、そこへ師団からの要旨命令があった。  それによれば、第六軍司令部が歩二六をホルステン左岸(南岸)に充当しようと考えているのとは違って、ホルステン左岸へは行かず、キルデゲイ水東方三キロの752高地に進出し、一部をウズル水(752から南街道を越えてさらに東方)に出し、752—ウズル水の間を、フイ高地方向に対して、師団の右側背を掩護せよ、というのである。  須見部隊は深夜十二時出発、二十一日午前一時四十分ごろ752高地に到着した。  ソ軍攻勢第一日目の戦況は、ソ軍にとっては必ずしも満足のゆくものではなかったようである。それだけ、劣勢な日本軍の抵抗が頑強であったことになる。  ソ軍側資料によると、第一日目に最大の戦果を収めたのは南方兵団であった。日本軍最左翼の石蘭支隊(満軍——この部隊については二十一日の項でふれる)を撃破して、フラート・ウルイン・オボー正面に進出したが、越境を懸念してそれ以上前進しなかったという。  中央兵団の第一日目の前進は緩慢で、夕刻までに五〇〇乃至一五〇〇メートル前進したにとどまり、日本軍が占拠する高地の奪取という先決任務は達成できなかった。  北方兵団は北警備軍を蹂躙したが、フイ高地では終日激戦を展開しても日本軍拠点の奪取に成功しなかった。北方部隊の指揮官は、兵力の一部でフイ高地を遮断し、主力をもって南方に突進すべき任務を課せられていたにもかかわらず、日本軍の頑強な抵抗のために、二十一—二十二日の間、フイ高地の攻撃に終始した、というのである。 [#地付き]〈ノモンハン(上) 了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和五十三年二月二十五日刊