土井徹先生の診療事件簿 五十嵐貴久 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)佐久間《さくま》署長 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)立花|令子《れいこ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)彼[#「彼」に傍点]を ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/01_000.jpg)入る] [#挿絵(img/01_001.jpg)入る] [#改ページ] 土井徹先生の診療事件簿 五十嵐貴久 幻冬舎  土井徹先生の診療事件簿   目 次  老人と犬  奇妙な痕跡  かえるのうたが、きこえてくるよ  笑う猫  おそるべき子供たち  トゥルーカラー  警官殺し [#ここから5字下げ] 装画:中村佑介 装幀:モリサキデザイン [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  老人と犬        1 「あなたのお父さんは、立派な人でした」  佐久間《さくま》署長の熱意のこもった言葉が、うつむいたままのわたしの頭の上を通り過ぎていった。 「警察官の鑑《かがみ》というのは、ああいう方のことを言うのだと、私たちはよく噂《うわさ》したものです」  はあ、とわたしは小さく答えた。 「その立花《たちばな》警視正の娘さんが、私たちの署に配属になった。こんなに嬉《うれ》しいことはありません。私たちは、署を挙げて歓迎しますよ。立花|令子《れいこ》警部補、我が南武蔵野《みなみむさしの》署へようこそ」  顔を上げないまま、ありがとうございます、とわたしはつぶやいた。いちばん怖《おそ》れていたことが起きてしまった。        2  わたしの父親は警察官だった。  階級は警部、その世界では有名だったらしい。ノンキャリアであるにもかかわらず多くの難事件を解決した現場担当者として、何度か新聞に載ったこともある。簡単に言うが、単なる一介の警部がそういう扱いを受けるのは極めて異例なことだそうだ。  もっとも、そんなふうになるために、父は多くのものを犠牲にしていた。その最たるものがわたしと母だ。  母の話では、新婚旅行も二泊三日で、しかも手がけていた事件が新しい展開を見せたために、父は母を旅行先に置き去りにしたまま、一人で東京へ戻ってしまったという。それからも、映画のひとつも二人で見ることはなかったというから、父も筋金入りだ。  わたしにとってもそれは同じで、わたしが生まれたその日も、父はある誘拐殺人事件の犯人を追いかけたまま連絡もなかったそうだ。父に遊びに連れていってもらった記憶もない。  アルバムに貼《は》られた子供の頃のわたしの写真は、すべて母親と写っているか、わたしが一人で写っているかのどちらかだ。  にもかかわらず、父親を嫌いになったり、反抗したりということはなかった。別に父のことが誇りでとか、好きで、とかそういう理由ではなく、もともとの生まれつきが、のんびりした性格だったためだろう。加えて言えば、父が家にいないのはわたしにとっては当たり前のことだったので、淋《さび》しいと思ったこともない。  そんなふうにわたしは育ち、たまたま勉強がよくできたために東大に入り、昨年の春に卒業した。  そうだ、父が犠牲にしたものがもうひとつある。自分の命だ。五年前、父はある殺人事件の捜査中に何者かに襲われ、殺された。犯人は不明なままだ。  つまり、父は殉職警官ということになる。従って、生前の階級は警部だったが、死後は二階級特進のため警視正となっていた。佐久間署長が父のことを警視正と呼んだのはそのためだ。  父親に対する嫌悪感こそなかったものの、警察官という仕事に対しての忌避感はもちろんあった。あんなに忙しくて大変で、時には命を賭《か》けて事に当たらなければならないような職業はご免だ、と本当に思っていた。今でも思っている。それが、どうしてこんなことになってしまったかというと、すべては不況のせいだった。  新卒女子大生の六割が就職難にあえいでいるというその年の不況の波を、わたしはもろにかぶってしまったのだ。  確かに、わたしは他の学生と比較して、就職戦線に参加するのが遅れてしまったことは否めない。これもまた、わたしの持って生まれたのんびりした性格に起因するところが大きい。なんとかなるだろう、と思っていたのが、まったくなんともならなかったのだ。  どうするべきか困っていたわたしに、母が「公務員になりなさい」と言いだした。  母はどこから持ってきたのか既に願書を手に入れており、わたしとしても公務員というのはある種|憧《あこが》れの職業だった。わたしの願いは毎日を平穏無事の内に過ごすことであり、決まった時間で仕事が終わる公務員というのは、理想的とさえ言えた。  どうしてそれに気がつかなかったのか、とわたしは母の勧めに従い、公務員試験を受けることにした。あっさりと試験に受かったわたしは、送られてきた書類を見て青くなった。  わたしが受けた試験は国家公務員㈵種試験だったのだ。そんな馬鹿な、と言われそうだが、事実なのだから仕方がない。どういうわけかわたしはいわゆる成績はいいのだ。  外務省、文部科学省、国土交通省と面接を受けに行ったが、感触は良くなかった。後で知ったことだが、試験に受かった段階で、警察庁がわたしを入庁させることを決めていたという。 「立花警視正の娘は、他の省庁に渡せない」ということだったらしい。否応《いやおう》なくわたしは警察庁の面接を受け、自分の意志とは無関係に警察庁に入庁してしまったのだった。  それからわたしは、警察大学校で三カ月初任幹部課程教育を受けた後、現場での実務を九カ月経験した。だがわたしに限っては、実務の研修というのは経理や総務関係の仕事だった。  従ってわたしにはいわゆる捜査官としての経験はまったくない。これもまた、立花警視正の娘を危険な目に遭《あ》わせるわけにはいかないという配慮からの処置だった。  その後、キャリア組として警察庁に戻り、ひと月ほど警察大学校で再研修をした後に、いきなり三多摩と二十三区の境にあるこの南武蔵野署の副署長という肩書をもらうことになった。  これはわたしに限った話ではなく、国家公務員㈵種試験に受かって警察に奉職した者は、ほとんどの場合、まずは小さな所轄署の署長もしくは地方県警本部の課長クラスとなるそうだ。  信じがたい話だったが、世の中というものはそうなっているらしい。ただ、通常は二年ほど警察庁で勤務した後、警視として赴任するようだが、わたしの場合はあくまでも例外ということで、身分も警部補のままだったが。  現場に行く必要はない、という署長からの説明を受けてわたしはほっとしたが、ところがいざ副署長室に落ち着くと(この部屋も、わたしが赴任することが決まってから急遽《きゅうきょ》改造したのだという)何の仕事もないことに気づいた。これは決して嫌味や皮肉ではなく、全国でも珍しい女性副署長に対するマニュアルがなかったことが理由だった。  一週間、わたしは何をするわけでもなく南武蔵野署に出勤し、何もしないまま帰途についた。  したことといえば、大学時代の友人にメールを送ったことと、支給されたパソコンに入っていたゲームソフトで遊んだこと、そして際限なく用意されるお茶を飲むことだけだった。おかげで胃がもたれて食欲がなくなり、五日間で二キロ体重が落ちた。  個人的な話をすれば、わたしは身長百五十八センチで体重五十二キロと、決して痩《や》せているわけではない。従って体重が落ちたのはありがたいことだったが、署長をはじめとした総務部の人たちが心配して、その次の一週間というもの、毎日昼食を摂《と》る時にそばで監視されるようになった。体重はすぐにリバウンドし、結果的には一キロ増えてしまうこととなった。        3  一カ月|経《た》っても、相変わらず仕事はなかった。よくテレビで見るように、偉い人たちが自分の部屋でゴルフのパッティング練習をする理由がよくわかった。署長がわたしの部屋をノックしたのはそんな時だった。 「実は、お願いしたいことがあるんですよ」  佐久間署長はわたしに対していつも丁寧語を使う。 「何でしょう」  ソファに向かい合って座りながらわたしは尋ねた。 「うちの署の管内に、サクラ興産という会社があるのですが、知ってますか」  わたしは首を振った。 「要するにパチンコ屋に景品を卸す会社なんです。二十年ほど前に当時の警察OBと吉祥寺《きちじょうじ》周辺の商店主が資本金を出して作った会社なんですが、早い話が我々警察官の退職後の天下り先です」  なるほど、とわたしはうなずいた。週刊誌の記事を読むまでもなく、こういうことは現実にある話なのだ。 「今そこの会長職に就いているのは、小山田伝一郎《おやまだでんいちろう》という七十近い老人です。最後は第八方面本部長だったかな。実は私の同郷の先輩でもあります」  署長が複雑な笑みを漏らしながら、胸ポケットから煙草《たばこ》を取り出した。わたしが小さく咳払《せきばら》いすると、灰皿がないことに気がついて煙草を元に戻した。 「その小山田氏が、ひと月前から体調を崩しておりまして、それも微妙に関係しているのだとは思いますが、このところ本人から私の方に『自分を殺そうとしている人間がいる』という訴えが何度もあったんですよ」 「殺される?」  おだやかな口調で恐ろしいことを言う人だ。 「二週間ほど前には、小山田氏が病院に行く途中、一台の黒塗りの車が赤信号を無視して氏をめがけて突っ込んできたことがあったそうです。その他にも、駅の階段から突き落とされそうになったこともあったといいます。いや、老人も最近はすっかりノイローゼ気味で塞《ふさ》ぎ込んでいましてね。もっとも、すべては本人が言っているだけのことで、証拠も何もないんですが」 「本当に、誰かに殺されるような理由があるんですか?」  まさか、と署長が笑いながら手を振った。 「七十になろうとする老人ですよ。確かに、ここ数年、関西の組織暴力団がこの辺りへの進出を図っていまして、サクラ興産が連中にとって邪魔な存在であることは間違いないのですが、それにしても今時そんなことが理由で動く組があるとは考えられませんね」  確かに署長の言う通りだ。 「もっとも本人は至って大《おお》真面目《まじめ》ですが。昔、小山田氏は現役時代に暴力団担当の警視庁捜査四課にいたことがありましてね。その時のことを恨みに思っている連中が自分を狙《ねら》っているのだと言っていますが、小山田氏が四課に籍を置いていたのは三カ月ほどのことです。暴力団員に氏の名前を知っている者がいるかどうかも怪しいところです」  事務方の警察官を狙う暴力団もいないだろう。 「そんなに不安があるのであれば、本来ならこちらに来て正式に被害届を出してもらうべきかもしれませんが、現実に危険があるとも思えませんので、今のところは話を聞くだけに留《とど》めてあります。ですがねえ」  署長が深いため息をついた。よほど辛《つら》いことがあるようだ。 「小山田氏は私の先輩でもあり、警察組織は上下関係ですから、いつまでもこのままというわけにもいきません。とはいえ、何といいますか、その、氏は非常に面倒な人でして」  そこまで言って署長は部屋の左右を見回した。声が小さくなった。 「つまり、そのですね、短気というか、何でも自分の意のままにならないと怒りだすというか、まあ要するにそういう人でして」  何となくその小山田氏と佐久間署長の関係がわかって、わたしはうなずいた。 「平《ひら》の刑事を行かせるわけにもいきませんし、かといってねえ」署長の声がますます小さくなった。「それで思い出したのですが、副署長は大学の時に高齢者相手のボランティアをされていたことがあるそうですね」  言われてみれば、わたしは大学二年と三年の時老人介護をしていた。実際にはボランティアではなくアルバイトだったのだが。 「私たちも、さすがは立花警視正の娘さんだけのことはある、と話していたんですよ。やはり警察官の鑑たる……」  長くなりそうだったのでわたしは話を元に戻した。 「それで署長、わたしはいったい何をすればいいんですか」  そう、それです、と署長が膝《ひざ》を叩《たた》いた。 「要するに、あなたなら老人の扱いもうまいのではないかということなんです。経験もあるわけだし、しかも副署長でもある。もうひとつ言えば、孫に近い年齢のあなたに行っていただく方が、氏のご機嫌もよろしかろう、というのが我々の結論なのですが」  つまり、ノイローゼ気味の老人の相手は誰《だれ》もが避けたい。だが先輩でもあり無視はできない。しかも本人は殺されるかもしれないと言っているのだから、なおさらだ。とはいえ、実際には誰かに殺されることなどあり得るはずもなく、事件性もない。  というわけで、署内一、暇を持て余していて、何もする仕事のない副署長を老人の元へ行かせればいい、ということになったのだろう。早い話が、わたしは老人の世話係を押し付けられたということらしい。 「形式的なことに過ぎませんから。家に行って話を聞いてあげてですね、まあもし可能ならば、何の心配もいらないんですよ、と本人を納得させてもらえれば、それはもう願ったりかなったりといいますか」 「行きます」  立ち上がってわたしは答えた。もちろん署長が言うほどに簡単なことではない。ノイローゼの老人の世話が面倒なのは経験上よくわかっていた。  だが、それでもわたしがうなずいたのは、ひとえにテトリスとバーチャファイターに飽きていたからだった。とにかく、わたしはこの部屋に閉じ込められていることに飽き飽きしていたのだ。        4  さすがに副署長を一人で行かせるわけにもいかないということで、刑事部の鳥井《とりい》という捜査官が運転手を兼ねて一緒に行ってくれることになった。  鳥井刑事は三十歳で独身、署内の女性たちの憧れの的だったが、わたしはあまり好きなタイプではなかった。百八十センチ、七十五キロという巨体にもかかわらず、どういうわけか言葉の語尾が女の子っぽいのだ。 「じゃ、行きますね」  鳥井刑事がそう言って、アクセルを踏んだ。 「サクラ興産は井《い》の頭《かしら》公園の方なんですけど、小山田会長のご自宅は五日市《いつかいち》街道沿いにあるんです」 「そうなんですか」  後部席でわたしはうなずいた。ええ、そうなんです、と鳥井刑事が無意味に同じ言葉を繰り返した。こういうところも女性的だ。  パトカーは署から十分ほど走り、住宅街に入っていった。付近の土地は吉祥寺という地名が示す通り、寺が所有している。  寺は土地を売る必要もなく、そしてまた武蔵野市は全国でもトップクラスの財政状態を誇っているので、バブル崩壊後も土地の値段はそれほど下がっていない。にもかかわらずこの辺りに家を持っている以上、小山田氏は相当な金持ちであるということになるのだろう。 「ここなんです」  鳥井刑事が慎重に車を停《と》めた。さすがに豪邸とまでは言えないが、それでも百坪ほどはあるだろう立派な邸宅が目の前にあった。  二階建てのその家はまだ新しかった。パトカーを駐車場の空きスペースに停めて、わたしたちは玄関に向かった。  事前に連絡をしておいたので、すぐに扉が開いた。落ち着いた品のいい女性がわたしたちを出迎えた。着物がよく似合っていた。 「小山田の家内でございます」  微笑《ほほえ》んで頭を下げた夫人の若さにわたしは驚いてしまった。七十年配の老人の妻だというのだから、いいところ六十歳ぐらいの女性を想像していたが、どう見ても五十代前半にしか見えない。  実際、後で確かめたら五十一歳だという。結婚して二十五年になるそうだ。 「申し訳ございませんね、お忙しいのに」 「とんでもありません」  恐縮した鳥井刑事がしきりに首を振っている。わたしたちはそのまま邸内に入った。 「桐子《きりこ》、桐子」  いきなり、奥の方から濁った叫び声が聞こえた。声の調子からいって、かなり怒っているようだ。 「はい、ただいま」  桐子夫人がわたしたちに軽く頭を下げてから、ため息をついて声の主の元へと向かった。 「桐子、誰が来た。佐久間か」  大声がしてドアが開くと、茶色のガウンを着た男が立っていた。百五十八センチのわたしより十センチほど身長は高いが、体重はもしかしたらわたしの方が重いかもしれない。干からびたような老人だ。  鼻の脇《わき》に大きな疣《いぼ》がある。すっかり薄くなった髪の毛、土のような顔色、確かに体調は良くないようだった。その上、口を開くたびにひどい口臭がした。 「来たらすぐに通せと言っておいたじゃないか」  体調が悪いというわりには意気|軒昂《けんこう》に小山田老が怒鳴った。すみません、と桐子夫人が頭を下げてわたしたちを紹介した。 「なんだ、君か」小山田老が、下げたわたしの頭越しに鳥井刑事に声をかけた。「ええと、鳥山《とりやま》くんだったかな」 「鳥井でございます」  これ以上はできないだろうと思われるほどに深々と頭を下げた鳥井刑事が、こちらが南武蔵野署に着任いたしました立花警部補でございます、とわたしを前に押しやった。 「なんだって」  小山田老があんぐりと口を開けた。 「あの立花警視正のお嬢さんが警察庁に入庁したとは聞いていたが、まさかこんな」  小娘が、と言いかけた言葉を呑《の》み込んだ小山田老がわたしをまじまじと見た。 「とりあえず居間の方へ、ね、あなた」  その場をとり繕うように桐子夫人が言った。うなずいた小山田老が、痩せているにもかかわらず大きな足音をたてて歩きだし、わたしたちはその後に従った。        5  通されたのは広いリビングルームだった。庭に面した大きな窓からは暖かい太陽の光が差し込んでいる。  ガウン姿の小山田老がソファにゆったりと腰を下ろし、わたしたちはテーブルについた。 「お茶は」  小山田老が甲高い声で叫んだ。すぐに桐子夫人が現れて、高価そうな湯呑みを夫の前に置いた。 「熱い」  つぶやいて顔をしかめた。あら、と微笑んだ桐子夫人がわたしたちに向き直って、コーヒーの方がよろしいでしょうかと尋ねた。 「いえ、とんでもございません」鳥井刑事が裏返った声で言った。「お構いなく」 「早く。コーヒーでいいから」  また小山田老が叫んだ。確かに佐久間署長の言う通り、相当な短気であることだけは間違いないようだ。 「副署長の立花です」  わたしは改めて挨拶《あいさつ》をした。こういうタイプの年寄りは最初が肝心なのだ。それをわたしは経験として知っていた。 「わかってる、さっき聞いた」うるさいとは言わなかったが、要するにそういうことだった。 「どうして佐久間が来ないんだ」 「すみません、署長は会議がありまして」 「会議だと。偉くなったものだな。いったい誰のおかげで署長になれたと思っているんだ」色艶《いろつや》の悪い顔に怒気を漲《みなぎ》らせて吐き捨てた。「後輩だと思っていればこそ引き立ててやったのだが、これでは考えねばならんな」 「申し訳ありません」  わたしが頭を下げた時、桐子夫人が盆にコーヒーカップを載せて居間に戻ってきた。 「遅い」  小山田老の叱責《しっせき》を受け流して、夫人がわたしたちの前にカップを置いた。いい香りが部屋に広がった。  実はね、君、と前置きもなしにいきなり小山田老が鳥井刑事に向かって話し始めた。もうわたしのことは眼中にないらしい。 「これは間違いのない話なのだが、私は狙われているんだ」  まさか、とは言わずに鳥井刑事が表情をことさらに硬くした。 「いったい誰がそんな……」  おそらく、と眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた小山田老が関西の広域暴力団の名称を口にした。 「奴《やつ》らの東京進出の話は鳥越《とりごえ》くんも知っているだろう」  訂正することなく、鳥井刑事がうなずいた。 「二十年以上前から連中は機会を窺《うかが》っていた。私も現場にいた当時は、毎日非常な危機感を感じながら捜査に当たっていたものだよ。わかるだろう、あの連中ときたら常識の通用する相手ではない」 「まったくです」 「あいつらの恐ろしさは口では言えん。いや、警察官がこんなこと言ってはいかんのだがね。しかしそれほどまでに恐ろしい連中だということだ。奴らは目的のためなら刑事の一人や二人、平気で殺すだろう」  そう言って小山田老が豪快に笑った。合わせるように鳥井刑事も頬《ほお》に微笑を浮かべた。 「ですが、なぜ会長を狙うのでしょうか」 「それはわかりきっておる。いいかね、東京を仕切っているのは」小山田老がもうひとつの武闘派組織の名前を挙げた。「それに加えて最近では外国人も入ってきている。歌舞伎町を見ればすぐにわかる。日本の暴力団、中国マフィア、ロシアのギャング、それに東南アジアの連中がからんで、どうにもならん。いったい日本はどうなってしまうのかね」  世にも情けない表情で鳥井刑事がわたしを見た。 「まったく会長のおっしゃる通りです」 「つまり、今やこの武蔵野地区は第二の副都心になっている。住んでいる人間の数だって百万を下らん。関西の連中が東京進出の足掛かりにするには、もってこいの場所だとは思わんかね」 「なるほど」  鳥井刑事が落語家のように自分の額を叩いた。これ以上ないタイミングだった。 「そしてこの辺りはどこの組も手をつけていない。空白地帯になっているんだな。それはつまり、私をはじめとする警察の指導が行き届いているからなのだが」  立ち上がって拍手しそうになった鳥井刑事のスーツの裾《すそ》を掴《つか》んで、わたしは彼を席につかせた。 「だが逆に言えば、我々の存在は奴らにとって邪魔物以外の何物でもない。である以上、その代表として狙われるのはこの私しかいないのは言うまでもないことだ」  わたしの手を振り払った鳥井刑事が立ち上がって激しくうなずいた。 「まったくです、会長。会長の身に危険が及ぶのは当然の話です」  そうだろう、と満足そうに小山田老が微笑んだ。 「ここだけの話だが、実は何度も殺されかかっているのだ。私も自分の命を無駄に捨てたくはないから、最近は外出も控えているのだが、医者がうるさいので病院には行かねばならん。ところが、その行き帰りを誰かに尾行されているようでな」 「まさか、そんな」 「いや、間違いない」小山田老がテーブルを叩いた。「それだけではないぞ。この前、奴らは実力行使に出た。駅の階段から突き落とされたのだ」 「危ない」鳥井刑事が泣きそうな声を上げた。「ご無事だったのですか?」 「もちろんだよ、君」得意気に小山田老が笑いながら鼻の脇の疣を指で掻《か》いた。「今時の若い者とは鍛え方が違うからね。君も無論知っていると思うが、十五年前に日比谷の銀行が白昼襲われた時のことは、今思い出しても身の毛がよだつね。確か私は第一方面本部の総務課長だったが」  ちょっと失礼します、と言ってわたしは立ち上がった。十五年前の話に興味はない。小山田老はお構いなしに、鳥井刑事に向かって過去の栄光を語り始めていた。        6  洗面所まで行って、わたしは手を洗いながら考えた。  署長の言う通り、自分が狙われているという小山田老の訴えはとても本当のこととは思えなかった。もし仮に暴力組織がこの武蔵野地区への進出を考えていたとしても、小山田老がその障害になることは考えられないし、ましてや殺そうなどと思うはずがないだろう。  むしろわたしは小山田老の精神状態の方が心配だった。確かに小山田老は体調がすぐれないようで、顔色も悪く、手が震えていたり、年齢のわりには話している際に掻く汗の量も多すぎる。  そのためかもしれないし、年齢のせいかもしれなかったが、どちらにしても小山田老が被害妄想気味であることは間違いなかった。このまま症状が進めば完全なノイローゼになるか、老人性の鬱病《うつびょう》になってしまうように思われた。  となれば、後は医者の仕事だろう。わたしにできることはない。署長が言ったように、本人を納得させることなどできるはずもなかった。  そう思うと、もうするべきことは残っていなかった。思い出話を拝聴してから、署に戻るだけだ。  居間に戻るために廊下を歩いていると、右手に和室があった。襖《ふすま》が開いている。何の気もなしに覗《のぞ》くと、縁側に犬がうずくまっていた。ダックスフントだ。その様子のあまりの可愛《かわい》さに、わたしは部屋に入っていった。  六畳ほどの和室に、家財道具はほとんどない。タンスが二|棹《さお》と押し入れがあるだけだった。縁側で横になっている犬に、わたしは静かに近寄った。 「こんにちは」  呼びかけると、犬が垂れた耳をぴくりと動かしたが、反応はそれだけだった。 「寝てるの? 今日はあったかいね」  よほど歳《とし》を取っているのだろう。ダックスフントの体毛はところどころ白くなっている。後ろ脚の辺りにはいくつか禿《は》げているところもあった。 「わたしは立花令子っていうの。あなた、お名前は?」  答えるはずもなかったが、わたしはお構いなしに話しかけた。もともと動物好きで、特に犬は大好きだ。  片方の目を上げたダックスフントがわたしの方をちらりと見て、興味ないね、と言わんばかりにまた目を閉じた。 「だらしない子ね」  まさにぐうたらを絵に描《か》いたようなあり様だったが、ダックスフントに活発さを求めても仕方がない。先祖は猟犬だったかもしれないが、今はお座敷犬なのだ。  縁側に出て正面に回り、わたしはそっと頭を撫《な》でた。犬が細く喉《のど》を鳴らした。 「気持ちいいんだ。もっと撫でてあげるね」  わたしがもう片方の手を伸ばした時、子供の叫び声が聞こえて、わたしは振り向いた。 「だめ! さわっちゃ! トムくんはびょうきなんだぞ」  目を上げると、小学校一年生くらいに見える女の子が立っていた。真っ赤なスカート、淡いピンクのブラウス。少女が顔面を紅潮させて腰に手を当てたまま、もう一度叫んだ。 「だめだってば!」 「この子、トムっていうんだ」  わたしは立ち上がった。女の子が監視するようにわたしの手を見ている。ごめんね、もう触ったりしないよ、とわたしは手を後ろに回した。 「そうか、この子病気なんだね」  歳を取って反応が鈍くなっているのかと思っていたが、それだけではないらしい。確かに言われてみれば何となく全身の艶も悪く、鼻の頭も乾いている。どことなく不健康な匂《にお》いもした。 「だから元気ないんだね」  言いながらわたしは少女の顔を見た。どういうわけか、体中に力が入っていた。  目鼻立ちははっきりしていて、美少女といってもいいほどに可愛らしい女の子だったが、その力の入り具合がわたしの微笑みを誘った。小山田老の孫なのだろうか。 「さわっちゃだめだからね」  念を押すように繰り返してから、少女が振り向いた。 「おじいちゃん、おじいちゃん」  叫ぶのとほぼ同時に、初老の男の人が和室に入ってきた。わたしより少しだけ背が高い。かなりの痩せ型だ。紺のブレザーに明るい茶のチノパン、ボタンダウンの薄いブルーのシャツを着て、ネクタイはしていない。  その代わり首もとにスカーフを巻いている。年齢のわりにはかなりおしゃれな人だ。  南武蔵野署の刑事たちもこうであってほしい、とわたしは思った。気持ちのいい笑顔が印象的だった。 「このお家《うち》は広いねえ、桃子《ももこ》」  おじいちゃん迷っちゃったよ、と言いながら男が少女の手を握った。少女が空いた手でわたしを指さした。 「このおねえちゃんがねえ、トムくんのことさわってたんだよ」 「きっと、おねえちゃんも心配してくれてたんだよ」  男が少女の頭に手を乗せたままわたしを見た。淡い微笑のまま軽く頭を下げる。つられてわたしも同じように礼を返した。 「獣医の土井《どい》といいます」  獣医。わたしが子供の時、何よりもなりたかった職業だ。 「二カ月ほど前から、この子の調子が悪いので」土井先生がトムに目をやった。「奥さんに呼ばれましてね。時々様子を見に来ているんです」  先生が名刺を出した。土井動物病院院長、土井|徹《とおる》と記されていた。 「南武蔵野署の立花と申します」  これでも警部補なんです、とわたしはつけ加えた。ああそうですか、と先生がうなずいた。微笑は消えなかった。 「ということは、こちらのご主人に会いに来られたわけですね」 「はい」 「私はまだお目にかかったことはありませんが、小山田さんは警察にお勤めだったそうですね」  ええ、とわたしはうなずいて、おそらく老人性の被害妄想だと思うのですが、殺されるかもしれないという訴えがあったので事情を伺いに来たのです、とこの家に来た理由を説明した。 「いや、それはわかりませんよ」真面目な顔で土井先生が言った。「警察官なら、どんなことで恨みを買っているかわかりませんからね」  そんなことはないと思いますが、と言いかけた時、少女が口を挟んだ。 「おじいちゃんはすごいんだよ。びょうきはなんでもなおしちゃうんだから」 「そうなんだ、すごいね」わたしは腰を屈《かが》めて少女の目線に合わせた。「素敵なおじいちゃんなんだね」 「やめなさい、桃子」土井先生が少女の髪の毛に指を当てて掻き乱した。「おじいちゃんは桃子のこと大好きだけど、あんまりお喋りだと嫌いになっちゃうよ」  すみませんね、孫がうるさくて、と先生がわたしに笑いかけた。 「だってほんとだもん」不満げに少女が口を尖《とが》らせた。「おじいちゃんはどうぶつと話せるんだよ」 「桃子」  土井先生が唇を曲げた。少女が黙ってうつむいた。 「まあ、子供の言うことですから」  先生が微笑んだ。わたしも合わせて笑った。 「きっと、先生は動物の心がわかるんでしょうね」  そんなところでしょうか、と先生がトムに近づいた。しばらく黙ったままトムの様子を見守っていた土井先生が、体のあちこちを触りながら首をひねった。 「ね、ほら、お話ししてるでしょ」  いつの間にか近づいてきていた少女がわたしの手を握りながら言った。案外|人懐《ひとなつ》こい子だ。 「うん、そうだね」  そうは見えなかった。先生はただ時々畳を叩いたり舌を鳴らしたりしているだけだ。  確かに診察にしては不可解な仕草ではあったが、話しているようには見えない。だが、わたしには少女の夢を壊すことはできなかった。 「あら、こちらでしたか」  声がして、わたしたちは襖の方を振り向いた。立っていたのは桐子夫人だった。 「すみません先生、たまたまお客様が重なってしまったものですから」  こちらは、とわたしのことを紹介しようとした桐子夫人に、立ち上がった土井先生が首を振ってにっこりと笑った。 「南武蔵野署の立花令子さん。もう私たちは十分にお互いのことを知っていますよ。そうですよね」  先生の言葉に、わたしはうなずいた。ほとんど話してはいないのに、どういうわけかわたしは先生のことを昔から知っているような気がしていたのだ。 「いかがでしょう、トムの具合は」桐子夫人が心配そうに尋ねた。「なんだか、ここのところあんまり良くないみたいで」 「そのようですね。このままだと、一度病院に入院してもらった方がいいかもしれませんな」  先生がそう言ってトムの前で指を振った。犬がか細い鳴き声を上げた。 「原因は何でしょう。病名とか」 「わかりません。食あたりのような感じもしますが、どうもそれだけではないかもしれませんな」  桐子、桐子、と夫人を呼ぶ小山田老の怒鳴り声が聞こえた。 「ご主人のようですが」  ええ、と答えた夫人がわたしを見た。そろそろ戻った方がいいだろう。 「ご主人もあまり体調が良くないそうですな」  心配なことです、と土井先生がつぶやいた。 「なんだかもう、いろんなことが重なってしまって」桐子夫人が白い顔に不安の色を浮かべた。「人間も動物も同じですわね。歳を取るとどうしても病気がちになるみたい」  あなたはまだお若いから気にならないでしょうけど、と桐子夫人がわたしに冗談めかして言ったが、うまく笑いにはつながらなかった。 「せっかくですから、ご主人に挨拶されてはいかがですか」  その場の空気を変えるために、わたしは思いつきで土井先生にそう言った。先生もすぐに察して、そうしますかな、と答えた。 「そんな、ご迷惑ですよ」桐子夫人が慌てて手を振った。「体調が悪いせいもあるんですけれど、主人はあんまり機嫌が良くなくて」 「桃子、ジュース飲みたい」  いきなり少女が声を上げた。土井先生とわたしは同時に吹き出した。 「あなたは気を遣いすぎですな」  このままではトムやご主人より先にあなたの方がまいってしまう、と心配そうに先生が桐子夫人の顔を覗き込んだ。 「とにかく、ご挨拶だけさせてもらいましょう。私も一度お会いしたいと思っていたんですよ」  桐子、とまた怒鳴る声がして、わたしたちは慌てて和室を出た。桐子夫人の後を追うようにして廊下を歩く私の背後で、少女の声がした。 「トムくん、だいじょうぶ?」 「そうだね。あんまり良くないみたいだ」  先生が答えた。 「ねえ、トムくんはなんて言ってたの?」 「今日はご飯はいらないってさ」 「だからやせちゃうんだね」 「そう。桃子はいっぱいご飯食べないとだめだよ」  うん、わかってる、と少女が言った。二人の会話にわたしは思わず微笑んでいた。        7  居間に戻ると、いらだたしげに煙草をふかしている小山田老と、わずかな間に額を汗だらけにしている鳥井刑事の姿があった。 「いったい何をしていた。お茶がないぞ」  はい、すぐに、と桐子夫人が台所に立った。残されたわたしは土井先生を紹介した。 「いつもご苦労をおかけしますな」  小山田老が鷹揚《おうよう》に言った。 「いえいえ、とんでもありません」  先生が答えて椅子《いす》に腰掛けた。わたしと少女もその隣のソファに並んで座った。 「犬の様子はどうですかな」 「あまり良い状態とは言えませんね」  難しい顔で土井先生が答えた。小山田老も表情を暗くした。 「なんとか先生、治してやってはいただけませんか。あれもずいぶん長くこの家にいるものですから、もう家族も同然でして」  ええ、とうなずいた先生が小山田老の顔をじっと見つめた。 「ご主人も、あまり調子がよろしくないとか」 「まあこの年齢ですからな。そりゃあ体のあちこちにガタがくるというもんです」  たいしたことはないのですがね、と小山田老が豪快な笑い声を上げた。 「そうですね。あまりご無理なさらない方がよろしいかと思います。医者は何と言っているのですか」  腸の調子が良くないようです、と小山田老が腹部を押さえた。 「下痢《げり》が続いたり、逆に便秘気味だったり。長年の不摂生がたたったのかと思っているのですがね」  警察官というのは激務ですからな、とまた笑った。 「いや、まったく同感ですね」  土井先生が愛想笑いを浮かべたところで、桐子夫人がお茶とジュースを運んできた。少女がお礼を言うのと同時に、いきなり先生が立ち上がり、戻っていく桐子夫人の後を追うように台所へ向かった。 「どうしたのでしょうね」  鳥井刑事がジュースを勢いよくストローで吸い込みながら首を傾《かし》げた。 「変わった人だな」  小山田老が湯呑みに手を伸ばした時、台所の方で何かが割れる大きな音がした。 「どうした、桐子」  小山田老が叫んだ。すぐに土井先生が現れて、申し訳ありません、と謝った。 「ちょっと奥様にお話ししておきたいことがあったのですが、どうも驚かせてしまったようで」 「話というと」 「いえ、犬のことです」  先生がジュースを飲んでいた少女に、帰ろうか、と声をかけた。少女が聞き分けよく椅子から降りた。 「お帰りですか。送らせましょう。桐子、おい、桐子」  大声を上げた小山田老に、大丈夫です、と土井先生が首を振った。そうですか、と小山田老がうなずいた。 「申し訳ありませんな。それではここで失礼いたします。今後とも犬のことをよろしくお願いしますよ」  ソファに腰を下ろしたまま、小山田老が小さく頭を下げた。戸口に向かっていた土井先生が振り返った。 「そうですね、今後回復に向かうと思いますが」  わたしは驚いて先生の顔に目をやった。さっきまで、あまり良い状態とは言えませんね、と答えていたはずなのに。 「そうですか」  小山田老がそれだけ言って、また鳥井刑事に向かって話を始めた。少女が振り向いて、バイバイ、と手を振った。いつの間にかわたしは立ち上がって、二人の後を追っていた。        8 「待ってください」  玄関で黒の革靴を履いていた土井先生が顔を上げた。 「はい」  何でしょうか、と言いながら少女に小さなスニーカーを履かせた。 「あの」  言いかけたわたしは、何を聞きたいのかわからないまま後を追いかけてしまったことに気づいた。興味深そうにわたしを見つめていた先生が、ちょっと出ませんか、とわたしを誘った。  表は相変わらずの上天気だった。スキップしながら先を行く少女を見守るようにしながら、わたしと先生は肩を並べて歩き始めた。 「いい陽気ですな」土井先生が顔をほころばせた。「私はこれぐらいの、暑くもなく寒くもない、ぽかぽかした感じがとても好きでしてね」  わたしもです、と答えて先生の横顔を盗み見た。ゆったりとした微笑が口元に広がっていた。 「さて、警部補。いったいどうしたんです、そんな顔をして」 「あの、犬は……だいじょうぶなんでしょうか」  土井先生がゆっくりとうなずいた。 「もうだいじょうぶですよ。さっきも言いましたが、これからは間違いなく回復します」 「なぜそんなことが言いきれるのですか?」 「病気の原因を取り除いたからです」  わたしは足を止めた。先生も立ち止まる。 「いったいどういう意味ですか」  悪戯《いたずら》を見つかった子供のように、土井先生が指先をこすり合わせてうつむいた。 「警部補……誰にも言わないと約束してくれますか?」 「もちろんです」 「それがたとえ殺人未遂だとしても?」  わたしは土井先生の顔を見つめた。おだやかな表情はそのままだ。 「それは……約束できませんけど」 「立派です。警察官はそうでなければいけません。あなたはきっと優れた警察官になるのでしょうね」 「そうでしょうか」  今度はわたしがうつむく番だった。しばらく黙っていた先生が口を開いた。 「つまり、こういうことです。あのトムという犬はこう言いました。『今日はご飯はいらない』と」 「トムが、言った?」  わたしの問いに、先生は横を向いたまま答えなかった。代わりにそのまま話を続けた。 「一般論ですが、犬は病気の場合でも、基本的に最後まで食欲はあるものです。にもかかわらず彼は食事を摂りたくないと言った。本来ならばあり得ないことです。そこで私は気づくべきでした」 「何にですか」  先生が頭を軽く自分の手で叩いた。 「もともと、私はあの犬の症状がどのような病気を指しているのかわかっていたのです。ただ、あり得ないことなので、その可能性に目をつぶっていた。それがすべてだったのですがね」 「症状、というのは?」 「脱毛、皮膚の色素沈着、体重の減少、食欲不振。これらが指し示すのは明らかに中毒症状です」 「何の中毒でしょう」 「砒素《ひそ》中毒です」  桃子、と先生が先を行く少女に声をかけた。 「車に気をつけるんだよ」 「……砒素中毒?」 「そうです。典型的な症状ですね。しかし、あの犬は室内犬で、外に出ることはほとんどありません。普通の家の場合、身近に砒素化合物があることは考えられない。だから私もその可能性を排除していたのですが、まあ食事に殺虫剤を混ぜることは可能ですからね」 「待ってください」わたしは先生の話を遮った。「つまり、自然な状態では摂取することが考えられない、従って誰かが人為的に砒素化合物を餌《えさ》に混ぜたという意味ですか」  そういうことです、と先生がうなずいた。 「いったい誰が」  言いかけてわたしは気づいた。土井先生が小さく手を叩いた。 「そういうことです。そんなことあり得るはずがないと私も思います。ですが、あの家のご主人にお会いしたら、彼の体にも砒素中毒の症状が現れていたのでね。逆にいえばそれで犬の病名もわかったわけですが」  頭髪が抜けていること、異常な痩せ方、下痢と便秘、そして鼻の横にできていた疣。これらはすべて砒素中毒の典型的な例です、と土井先生が説明した。 「もうひとつ、犬もそうでしたが、小山田さんも息がニンニク臭かったでしょう。あれも症状のひとつなんですよ」 「いったいどういうことなんですか」 「簡単なことです。小山田氏を殺そうとした犯人は、その前に砒素の効果を試そうとしてまず犬に与えた。それだけのことです。ただ、本当に効き目があることを知るとかわいそうになって獣医を呼んだわけですが」  ひどい、とわたしはつぶやいた。 「いや、人間はそんなものですよ」静かに先生が言った。「動物は話せないと思っていますからね。決してそんなことはないのですが」  わたしたちはしばらく黙ったまま、互いに見つめ合った。 「犬に対して効果があるとわかり、小山田氏の食事にも微量の砒素が盛られるようになった。当然体調を崩します。もちろん本人は気づいてはいなかったでしょうが、潜在意識が危険を察知したのでしょうね。殺されるかもしれない、と小山田氏が警察に訴えたのにはそういう理由があったのです」  なるほど、と思ったがわたしは反論を試みた。 「でも、あの人はもっと具体的に身の危険を感じたと言っていました。車が突っ込んできたとか、駅の階段から突き落とされたとか」  さあ、それはどうでしょうか、と先生が笑った。 「それこそ、あなたがおっしゃっていたように被害妄想じゃないですかね。このご時世です、赤信号を無視する車はいくらでもいますよ。階段の件は、おそらく自分で足をもつれさせたんじゃないでしょうか。少し話しただけですが、小山田氏はずいぶんとプライドが高い人物のようです。老いを認めたくないという思いがあってもおかしくない」  実際、最近は私もそう思う時があるのですよ、と先生がもう一度笑った。 「そんな。先生はまだお若いです」  とんでもない、と土井先生が首を振った。 「でも、いったいどうしてそんなことを」  わたしは最大の疑問を口にした。 「動機ですか」先生が腕を組んだ。「それはわかりません。一緒に暮らしていなければわからないことはたくさんあります。どんな理由で殺意を抱くかは、他人にはわからないものです」 「でも、もう結婚されて二十五年経っているって」  あなたは若い、と先生が苦笑した。 「長く一緒にいたからこそ、醸成される殺意というものもあります。そうは思いませんか」  わかりません、とわたしは言った。そうは考えたくなかった。 「そうですね。あなたの方が正しいかもしれない」  そう言って、先生は小さくうなずいた。わたしはもうひとつ質問をした。 「先生は、さっきそのことを話すために台所に行ったのですね」 「そうです」 「何とおっしゃったんですか」 「人間が殺されるのには理由があるのでしょう。でも、犬には何の罪もありませんよね。そう言いました」  ずいぶん脅かしてしまったようです、と先生が反省の表情を浮かべた。 「あの時割れたグラスはバカラでした。悪いことをしてしまいました」  わたしは土井先生の腕を取った。 「戻りましょう、先生。これは明らかに殺人未遂です」  先生が小さく首を振ってわたしの腕を外した。 「本人も反省しています。二度としないと私に約束しました。それでいいじゃないですか。確かに犬はかわいそうでしたが、本人もそれについては本当に後悔していましたよ」 「そういう問題ではありません」  わたしは叫んだが、先生はうなずかなかった。 「いいですか、今のところ何も証拠はないんですよ」 「ですが」 「私はあなたとの話の中で、誰か特定の人物の固有名詞を挙げましたか? 言っていません。つまりこれは、あくまでもただの想像に過ぎないのです」  でも、とわたしは言いかけて気づいた。もしこの話が事実だとしたら、わたしはこの人が犬と会話を交したことを証明しなければならなくなる。それは殺人未遂を立証することよりよほど困難なことだった。 「おわかりですね。すべての始まりは、私が犬から聞いた『今日はご飯はいらない』という言葉からです。でも、そんなことはあり得ません。動物の言葉がわかる人間など、この世にはいないのですから」  桃子、と土井先生が孫を招き寄せた。すぐに少女が走ってきた。 「では、またどこかでお会いしましょう。楽しかったですよ」  飛びついた少女を抱き寄せて、先生がわたしに軽く、さよなら、と手を振った。 「おねえちゃん、バイバイ」  何も考えられないまま、わたしは機械的に手を振り返した。振り向くと、小山田邸からはずいぶんと離れたところまで来てしまっていた。わたしは重い足を引きずりながら歩きだした。  あの人は本当に犯人なのだろうか。もしそうだとしても、わたしはそれを証明できるのだろうか。いや、そんなことより、その必要があるのだろうか。  警察官は犯罪を摘発することより、犯罪を未然に防ぐことの方が重要なのだ、と父が言っていたことを思い出した。もし父が正しいのだとすれば、何も起こらなかった以上、そして犯人が絶対にこれ以上罪を犯さないと誓っている以上、土井先生の言う通りに手を引くというのも正しいことなのかもしれない。  それに、とわたしは思った。あんな口うるさい老人は、少しぐらい痛い目に遭った方がいいのではないか。  その時、不意にわたしの中でひとつの疑問が弾《はじ》けた。どうして、土井先生はわたしの下の名前を知っていたのだろう。  初めて会ったにもかかわらず、確かにあの時先生はこう言ったのだ。 『南武蔵野署の立花令子さん。もう私たちは十分にお互いのことを知っていますよ。そうですよね』  だが、わたしは先生には自分の名前を絶対に言っていない。わたしがあの家で下の名前を名乗ったのは、トムというあの犬にだけなのだ。待って。落ち着いて考えよう。  わたしはトムに自分の名前を言った。その時少女が聞いていたのかもしれない。それを祖父に話したとは考えられないだろうか。  いや駄目だ。その後わたしたちはずっと一緒にいた。少女が話せるはずがない。  もしかしたら、あの先生は、本当に。  いやいや、そんなことがあるはずがない。あり得ないことだ。  わたしは振り向いた。先生と少女がゆっくりと通りを歩いていた。動物と話ができる人など、いるはずがない。  だが、そう思いながらもわたしは小さな確信を抱いていた。もしかしたら、あの人なら。 [#改ページ]  奇妙な痕跡        1  廊下を歩いていると、立ち話をしていた数人の婦人警官がわたしを見て遠慮するように端に寄った。  年はほとんど変わらない。むしろ彼女たちの方が上だろう。その中の一人が敬礼した。わたしも慌てて答礼した。  南武蔵野署の副署長に赴任してから半年経ったが、どうしても慣れることができない。何しろわたしは二十四歳で、大学を出てからまだ一年半しか経っていないのだ。  彼女たちだけではなく、南武蔵野署の全職員が、わたしの顔を見ると心からの尊敬を込めて敬礼する。もちろんわたしが副署長だからだが、もうひとつは伝説の名刑事、立花|直人《なおと》の娘ということもあるのだろう。  父は五年半ほど前、ある殺人事件の捜査中に何者かに襲われ、殺されていた。今日まで犯人は捕まっていない。 「立花令子警部補は、父上の敵《かたき》討ちのために警察庁に入庁したのであります」  佐久間署長は目に涙を浮かべながらわたしを南武蔵野署の全職員にそう紹介したが、残念ながらそんな殊勝な心掛けがあったわけではない。警察庁に勤務するようになったのは、就職先がなくて困っていたからだ。  たまたま国家公務員㈵種試験に受かってしまい、いわゆるキャリア組という立場になってしまった。周囲も驚いたが、本人がいちばんびっくりしている。  どうしたらいいのか途方に暮れていると、殉職した父を慕う昔の関係者が動いてくれた。父の上司だった現副総監が上層部と強引な交渉をした結果、何しろあの立花警視正の娘なのだから、ということでわたしはめでたく南武蔵野署の副署長に収まった。だいたい、ここの署長である佐久間警視も昔は父の部下だったのだ。  佐久間署長のことはわたしも子供の頃から知っている。面倒見のよかった父は、後輩たちを家に連れてきては食事を共にすることがあった。署長もその一人で、そういう時はよく遊んでもらったものだ。  だからなのか、それともキャリア組の経歴に傷がつかないようにという配慮なのか、署長のわたしへの態度は、まるで年の離れた妹に対するようだった。  現場に出ることは禁じられ、副署長というポジションだけは与えられたが、実質的には何の仕事もないというのが今のわたしの現状だった。  だいたいわたしには警察官としての適性などない。だからそれはそれでいいのだが、二十四歳の女子が毎日やることもなく下にも置かぬ扱いをされるというのも、精神衛生上あまりよろしくない。  ストレスで体重が減り、リバウンドし、誰にも言っていないが円形脱毛症になった。別に犯人を逮捕したり銃撃戦に参加したいとは思わないが、あまりにもやることがなかった。  ストレスの原因は他にもある。つまらない話と言われるかもしれないが、署内に話し相手がいないのだ。  もっとも、警察という職場では階級がすべてだから、これは仕方のないことなのかもしれない。さっきすれ違った婦警たちもそうだが、階級が違うだけならともかく、副署長をランチに誘う勇気のある平の警察官はなかなかいないだろう。 (でも)  もっとわたしは普通の暮らしを送りたいのだ。職場に友達がいて、仕事帰りにお茶を飲んだり、食事に行ったり、ステキな先輩にドキドキしたり、もちろんデートしたり。やっぱり警察官は向いていない、と思う。  ため息をついてから、副署長室の扉を開けた。もともとさほど大きくはない南武蔵野署には、副署長という職級がなかった。わたしのために無理に作ったポジションだ。副署長室も急造で、署長室の三分の一をパーティションで区切っただけの粗雑な造りだった。  これもまたわたしの悩みの種で、パーティションの中央には隣の署長室に直接つながるドアがある。困ったことや相談があったらすぐ来てください、と佐久間署長は胸を張ったが、実際のところ今わたしが最も困っているのはこのドアなのだ。  建て付けが悪いので勝手に開いてしまう。素材が薄いからお互いの声もよく聞こえる。これではプライバシーも何もあったものではない。  最初からオープンな造りならともかく、中途半端に個室状態が保たれているので、やりにくいことこの上なかった。  だがそれももうしばらくの辛抱だ。デスクに座って、わたしは椅子の上に載せておいた転職情報誌を開いた。きっとわたしにはもっと適した職場がある。ここではないどこかに。  頁《ページ》をめくる手が勝手に止まった。隣の署長室からかすかな声が聞こえてきたのだ。 「いや、アダルトはまずい」  署長だった。困るよ、という弱々しい声音が続いた。 「宅配? 駄目だって、女房に見つかったら……。子供? 待ってくれ、それなら話が違う。それは……」  興奮した様子で署長が言った。そのまま声が小さくなる。受話器口を手で押さえたのだろうか。  わたしは開いたままの雑誌を置いてパーティションに近づいた。携帯電話で話しているらしい。相手が誰なのかまではわからなかった。 (やっぱり噂は本当なのだろうか)  佐久間署長にはロリコンの気がある、というのは署内でも有名な話だった。署長がわたしを大事に扱うのは立花警視正の娘だからではなく、わたしのルックスが好みだからという話もあるぐらいだ。自慢ではないがわたしは童顔で、今でも休みに私服で街を歩くと補導員に呼び止められることがある。  噂が事実かどうかはわからない。勘弁してほしいという気はあるが、個人の性癖についてはプライバシーの問題だから、それを責めるつもりはなかった。実際、わたしとしては今日までセクハラをされた覚えはない。  とはいえ、アダルトビデオを買うのは、警察官としての倫理規程に照らしあわせるといかがなものか。そしてチャイルドポルノの購買となると更に話は別だ。それは犯罪行為ではないだろうか。  ひそひそと声が続いている。聞き耳を立てながら、背筋に悪寒が走るのを感じた。  ビデオならまだいい。もし彼がバーチャルな世界を超えて、現実にその欲求を満足させたいと考え始めていたとしたら。  もしかしたら、わたしは今すごく危険な立場にいるのかもしれない。この十日間ほどずっと胸の中でわだかまっていた疑惑が、わたしの中で大きくなり始めていた。        2  十日前の月曜日、わたしは朝の定例会議に出席していた。南武蔵野署の全部署の課長が集まる連絡会議だ。  わたしなど、いてもいなくてもどちらでも構わないのだが、その日に限ってはどうしても出なければならなかった。  親戚《しんせき》に不幸があり土曜日から郷里の茨城に帰っていた署長が、東京に戻る途中交通事故に巻き込まれ、怪我《けが》をした奥さんが都内の病院に入院した、という連絡が日曜日の夜中に入っていたのだ。  幸い、怪我の具合は重いものではなく、運転していた署長も無事だったが、それでも会議に出られるかどうかわからないために、副署長であるわたしが出席しなければならない、というのが総務課長の指示だった。  もちろん出ます、とわたしは答えた。たまには会議ぐらい出てみたい、と思っていたところだったのだ。  だが会議が始まる直前になって、佐久間署長が姿を現した。一度家に帰ってから、奥さんが入院した病院に着替えなどを届けて、そのまま直行してきたのだという。職務の遂行に熱心なのはいかにも署長らしい。  とはいえ疲れきった顔の署長を見かねて、今日のところは家に戻ってはどうかと誰もが勧めた。定例会議の進行は総務課の担当だし、署長に報告事項はない。  座っているのが仕事みたいなものだから、いなくてもそれほど不都合はなかった。聞けば、昨日の午後から事故に遭ったり病院に行ったりで、一睡もしていないという。  とにかく休んでください、と皆で担ぐようにして署長室に連れていった。署長は責任感が強く、だからこそ会議に出てきたのだが、拒みはしなかった。拒否することもできないぐらい、疲れていたのかもしれない。  気分が良くなりました、と署長が会議室に戻ってきたのは、それから一時間ほどしてからだった。確かに顔色は少し良くなっていた。人間、無理は禁物だと思う。特に歳を取ってからはなおさらだ。  長いばかりで意味のない会議は午後まで続き、結局終わったのは一時過ぎだった。わたしは署長と一緒に三階まで戻った。  エレベーターの中で、署長はいつになく無口だった。ふだんはわたしに気を遣い、あれこれと話題を振ってきてうるさいぐらいなのだが、やっぱり疲れているのだろう。  お休みになればよかったのに、と言うと、まあそうですね、と視線を合わせないままうなずいた。署長はいつでもわたしに丁寧語を使う。 「しかし、公私の私ですから」  それはそうかもしれないけど。 「奥様の具合はいかがですか」  他に話題もなく、わたしはそう尋ねた。たいしたことはないようです、と署長が首の横に手を当てた。 「頸椎《けいつい》をちょっとね」  ドアが開いた。それ以上何も言わず、わたしは署長の後についてエレベーターを降りた。署長室と副署長室は廊下の一番奥に並んでいる。  どうやって午後の退屈な時間を過ごすべきか考えながら、ドアの鍵《かぎ》を開けた。部屋に一歩入ったところで、違和感を覚えたわたしの足が止まった。  副署長室は簡素な造りで、デスクと応接セット、ロッカー、あとはテレビしかない。つまりわたしにとってはデスクだけが唯一の独立した領土だった。領地で何が起きたかぐらいはすぐにわかる。  デスクには置き時計とペン立て、それから自分で家から持ってきたCDデッキと本や雑誌、十数枚のお気に入りのCDがある。書類などはすべて引き出しに収めていた。だいたい、仕事がないのだからほとんど資料の必要もないのだ。  CDデッキの位置は変わっていない。だが、それ以外のすべてが微妙に記憶と違っていた。  CDの順番。ボールペンや万年筆の配置。雑誌の場所も少しだけずれている。誰かがわたしのデスクを漁《あさ》ったとしか考えられなかった。 (だけど、誰が)  わたしは所轄管内で発生したいかなる事件の捜査にも係わっていない。だから捜査機密についても一切知らなかった。  そしてそれは署内にいるすべての関係者が了解していることだ。わたしのデスクを捜したところで、重要なものは何も出てこない。  では外部の人間だろうか。考えられなかった。南武蔵野署は決して大きいと言えないが、警視庁第八方面本部に属する警察署だ。交番とは違う。受付もあれば刑事課や生活安全課など各部署もある。  見知らぬ人間が入ってくれば、見とがめられないはずがない。建物の三階にある副署長室まで入れるはずがなかった。  それに、わたしは会議に出る前、確かに部屋の鍵をかけていた。防犯や機密保持も含め、施錠についてはふだんから注意されている。手のひらを開くと、そこには使ったばかりの鍵があった。  だとすると、考えられることはひとつしかなかった。署長だ。  会議の間に署長は部屋に戻っているから、わたしの部屋に入ることも十分に可能だっただろう。仕切っているパーティションの扉には鍵もない。署長室と副署長室の出入りは自由なのだ。  わたしは会議に出ていたし、しばらく続くこともわかっていたから、いきなり戻ってくる心配もない。でも署長が、どうして。  噂通り、わたしに対して個人的な興味を抱いているのだろうか。本当にストーキングをしているのだろうか。  まさか、と首を振った。わたしにとって署長はあくまでも�佐久間のおじさん�だ。今でも何くれとなく面倒を見てもらっている。  もし署長がいなければ、いったいどんなことになっていただろう。少なくとも南武蔵野署での毎日が、今よりもっと暮らしにくくなっただろうことは間違いない。  百歩譲って、署長がわたしのデスクで何かしていたとしよう。だが、理由はいくらでも考えられる。  例えばだけれども、署長がハサミか何かを捜していて、そのためにわたしの机を引っ掻き回したのかもしれない。  あるいは体調が悪いのだから、薬がないかと捜しているうちにデスクの物を落としてしまい、慌てて元に戻した。そういうことも十分にあり得るだろう。  もちろん、決していいこととは言えない。勝手に他人のデスクを漁るなんて、普通の会社なら通用しない話だ。でも、ちょっとしたことならわたしだって、誰かの机からホチキスやボールペンを借りたりするかもしれない。  これはそういうことなのだ、とわたしは自分に言い聞かせた。それが証拠に、とデスクの引き出しを開けた。署長から譲り受けた品のいいマホガニー製のデスクには、長引き出しと、右|袖机《そでづくえ》の三つの引き出ししかない。  長引き出しには文房具一式、そして右袖机の一番上と二番目の引き出しにはほとんど目を通したこともない事件資料がファイルされたままになっている。一番下の引き出しはわたしの私物だが、予備のストッキング、折り畳みの置き傘や細々した物が入っているだけだ。荒らされた形跡はなかった。  ロッカーの中も見てみたが、出勤時に着てきたグレーのウールコートとロングブーツ、それにレインコートがあるだけだ。世の中には変態と呼ばれる種類の人がいることぐらい知っている。ブーツの臭《にお》いに興奮する人もいるだろう。  だがどう見ても、何も変わったところはなかった。わたしが今朝ハンガーにかけたままの位置に、コートもブーツも置かれている。  何かの間違いだ、ともう一度首を振った。この部屋には清掃業者も入ってくることがある。もしかしたら、彼らが誤ってCDや他の物を倒してしまったのかもしれない。可能性はある。 (でも)  本当に署長だったら。  わたしはかなりの潔癖症で、他人が自分の私物に触れたりするのはなるべくなら避けたい方だ。しかもちょっと男性恐怖症気味のところがあり、いくら昔からの知り合いとはいえ、考えたくない事態だった。  何かの間違いでありますように、と祈りながらデスクの整理を始めた。だが片付け終えるだけの時間はなかった。隣の署長室とわたしのデスクで、同時に電話が鳴ったのだ。 「はい、立花です」 「管内で変死体が発見されました」  聞き覚えのある声が言った。鳥井という三十歳ぐらいの刑事だった。南武蔵野署に置いておくのがもったいないほどに整った容姿だが、性格がおとなしくいつも先輩刑事たちに顎《あご》で使われている。 「会議を招集するということですが」  すぐに行く、という低い声が聞こえた。佐久間署長だった。すぐに行きます、とわたしも言って受話器を置いた。        3  管内で重大事件が起きれば、所轄の警察署には捜査本部が置かれることとなる。本庁から来る捜査官のためにその準備を整えるのが、わたしたちの重要な任務だった。 「面倒なことになりそうだ」 「まったく」  会議室の窓際で立ち話をしていた二人の刑事がうなずきあっていた。周りでは総務課が総出で、スチールの長いデスクやパイプ椅子を並べ始めていた。  鳥井刑事の話によると、事件自体は単純なものだった。駅から車で二十分ほど行ったところにある吉藤寺《きつとうじ》という寺の駐車場に停まっていた車から、四人の男女の死体が発見された。  車の中には練炭と焜炉《こんろ》があり、いわゆるネット心中ではないかと推察された。事実、車内からは女性の名前で書かれた遺書も見つかっていた。  とはいえ、変死体である以上、捜査をしなければならない。そして最近同じような事件がマスコミをにぎわせていることから、取材が殺到すると予想された。面倒なことになりそうだ、と刑事たちが言っているのはそういう意味だった。  担当する刑事課はもちろん、上は署長から下は今年入ったばかりの新人警察官に至るまで、数日は帰ることさえできなくなるだろう。わたしだけは例外だが。 「記者会見は本庁の仕切りです」  総務課長が説明していた。署長はうなずいてはいるが、心ここにあらずといった感じだった。生返事を繰り返している。  今日は厄日だ、とでも思っているのだろう。交通事故、妻の怪我と入院、そして重大事件の発生。  だいたい南武蔵野署は、駅前の繁華街を除けばその管轄内はほとんど住宅街で、めったなことでは殺人どころか傷害事件も起きない。何で今日なのか、と言いたい気持ちはよくわかった。 「副署長、本庁との打ち合わせに同席していただきたいのですが」  遠慮しながら総務課長が言った。本来ならお呼びではないはずだが、今の署長ならまだわたしの方がまともだと考えたのだろう。確かにそうかもしれない。  幸い、本庁の捜査一課長も父の元同僚で、何度か会ったことがあった。こんな時にこそ、人間関係をうまく役立てるべきだろう。  それからしばらくの間、わたしは連絡係として文字通り署内を駆け回った。年に一、二度しか起きない重大事件の発生に、不慣れな捜査官たちは対応が利かなくなっていた。各部署で情報が錯綜《さくそう》していた。  すべての情報の一元化を図らなければならないのに、中枢である署長室が機能していないためだ。猫の手も借りたいというのは、まさにこういう状況を指すのだろう。暇を持て余していたわたしが使われるのは当然だった。  二時間後、ようやく記者会見の準備が終わった。ほぼ同時に、本庁捜査一課の捜査官たちの受け入れ態勢が整いました、と総務課長がわたしに報告した。 「ところで、署長はどちらに」  さあ、とわたしは首を傾げた。 「署長室に戻られたと思いましたが」 「それが、電話をしても出ないんですよ」 「居眠りでもしてるんじゃないですか」  横に立っていた鳥井刑事が小さく笑った。それならそれで構わないが、と渋面を作った課長が小脇に抱えていた分厚いファイルを差し出した。動員計画書、と表紙に記されている。 「一応目を通していただいた方が、よろしいのではないかと思いまして」  総責任者は署長なのだから、当然のことだろう。 「もう一度電話をしてみてはどうですか」  提案してみたが、あっさり黙殺された。無理もない。公務員だってサラリーマンなのだ。何度もしつこく連絡を入れて怒られたりするのは嫌だろう。どうやら出番のようだった。 「わたしが行きましょうか」 「助かります」  その答えを待っていたかのように、課長が持っていたファイルをわたしに渡した。紙は意外に重い。ずっしりした手ごたえがあった。 「申し訳ありませんが、本庁の第一機動捜査隊と犯罪捜査支援室からの応援部隊が来ることも伝えていただけますか」 「わかりました。到着予定時刻は」 「約三十分後というところでしょうか」  課長がそう言った。さっきから携帯に何本も連絡が入ってきている。おそらく本庁からの入電だろう。  了解しました、と答えて、わたしはエレベーターで署長室に向かった。すれ違う誰もが緊張した表情を浮かべている。事件の重大さに改めて気づいて、わたしも速足になっていた。  署長室の前でネームプレートを確認した。在室の場合は黒のプレート、不在なら赤のプレートが下がっているが、今は黒の方がかかっていた。署長は部屋にいるのだ。  ノックしたが応答はない。わたしはドアを開いた。署長の姿が目に入った。机に向かって屈み込んだまま、しきりに手を動かしている。 「佐久間署長、本庁から連絡です。約三十分後に」  署長が素早く机の上のものを引き出しにしまった。 「立花副署長、ノックぐらいしていただけませんか」  しました、と言いかけてわたしは口を閉じた。当惑しきった佐久間署長の表情が目の前にあった。 「三十分後に、どうしたんですか」  冷たい口調で尋ねた署長に、申し訳ありません、と頭を下げてからもう一度報告を繰り返した。 「本庁から第一機動捜査隊が三十分後に到着します。また犯罪捜査支援室からも人員の派遣があるということです」  そうですか、と言いながら署長が居心地《いごこち》の悪そうな顔になった。それから、とわたしは預かっていた動員計画書を机に載せた。 「総務課から、今回の動員計画資料ということです」  わかりました、と小さく答えた署長がファイルをめくった。眉間に皺が寄る。検討しましょう、と短く答えてから、デスクのインターフォンに指を当てた。すぐに応答する声がした。 「総務課? 佐久間だが、私の車を正面に回しておいてほしい」  了解しました、という返事を確認しようともせずにインターフォンのスイッチを切った。上目遣いにわたしを見ていた署長が、しばらく忙しくなりそうですから、と言い訳するようにつぶやいた。 「その前に一度家に戻ります。ご存じの通り、家内の事故があったので着替えもしていないのでね」  大きくため息をついた署長が、がっしりとした体で隠すようにして引き出しを開けた。何かを取り出して、鞄《かばん》に突っ込んだ。 「わかりました」  伝えます、とうなずいたわたしの横を擦り抜けるようにして署長が部屋を出ていった。だいじょうぶですか、とその背中にもう一度尋ねた。 「本庁からの増援は三十分後に来るそうです。それまでにはお戻りいただけるのでしょうか」  署長の家は署から車で七、八分ほどだ。行ったことはないが、それぐらいはわたしも把握していた。確かに着替えや身の回りのものを持ってくるだけなら十分に間に合うが、もし戻ってきてくれないと、わたしが本庁の捜査官の相手をしなければならなくなる。なるべくなら避けたい事態だった。わたしには無理だ。 「すぐ戻ります」  署長がそう言い捨てて、足早に廊下を歩いていった。いつもと違う、と思った。  公私でいえば公を優先する署長が、自分の着替えのような小さなことを言い立てるのも珍しかったが、それ以上にどこかいらついた様子が気になった。  表情にも余裕がないし、わたしへの物言いもいつになく厳しかった。それに。 (あれは何だったのだろう)  鞄の中に入れた黒っぽい包み。わたしの目に間違いがなければ、あれは女性用のストッキングだった。いったいなぜ、署長はそんなものを持っていたのか。  奥さんの私物だろうか。そんなはずがない。いや、私物を持っていてもおかしくはないが、ストッキングだけというのは変だろう。  そしてもっと問題なのは、そのストッキングがわたしのものに似ていたことだった。わたしは何かあった時のために、自分のデスクに何足かのストッキングを用意していたが、それと同じメーカーのものに見えた。だからこそ、署長が鞄の中に入れた黒い包みがストッキングだと気づいたのだ。  署長の姿が見えなくなってから、わたしは自分の部屋に入り、引き出しを開けた。さっき確かめた通り、封をされたままのストッキングが二足あった。ただ、入れておいたのが二足だったか三足だったか、そこまでは覚えていない。  もしかしたら、署長がこの引き出しを開けて、わたしのストッキングを盗んだのだろうか。もしそうだとしたら、何のために。 (気持ち悪い)  そんなこと、あるはずがない。湧《わ》き上がってくる疑念を無理やり抑え込みながら、わたしは思わず自分の両肩を抱きしめていた。        4  それが十日前のことだ。  幸い、ネット心中事件は、テレビのワイドショーや新聞種にはなったものの、いつものように一週間もしないうちに話題は次のニュースに切り替わっていた。  実際、会ったことのない他人同士が心中するというのは異常な事件だと思うが、それは決して犯罪とはいえない。警察にもどうにもできないことだ。  署長の奥さんも、五日後に退院したという。経過も順調で、全治二カ月というのが医師の診断でした、と署長が月曜日の定例会議で集まった課長たちに報告した。後遺症も残らないだろうという話だった。  本庁から来ていた捜査官たちも、数人を残して帰っていき、南武蔵野署にはいつもの平和な日常が戻っていた。署長のわたしに対する態度も前と変わらず柔らかいものになり、何事もなかったことになるはずだった。 (でも)  わたしはパーティションの扉からそっと体を離した。それでは、今の署長の電話は何だったのだろうか。 『いや、アダルトはまずい』 『宅配? 駄目だって、女房に見つかったら……。子供? 待ってくれ、それなら話が違う。それは……』  そこまでしか聞こえなかったが、確かに署長はそう言ったのだ。明らかにアダルトビデオの売買に関する交渉だった。  そしてチャイルドポルノは都の青少年健全育成条例違反であり、非合法行為だ。一般人はもちろん、警察官の立場にある者なら絶対に許されることではない。  加えて、署長はわたしのデスクを漁ったり、わたしのストッキングを盗んだりしている。この際、用途は問わない。  だがそれもまたストーカー法に違反する行為といえるだろう。笑い話では済まされないことだった。 (どうしよう)  おぼつかない足取りでデスクに戻った。どうすればいいのだろう。  もちろん、署長に恨みがあるわけではない。わたしがこの南武蔵野署に赴任するにあたって佐久間署長がどれだけ尽力してきたか、よくわかっているつもりだ。  だから話を表ざたにしたいわけではない。むしろなかったことにしたいぐらいだった。  今後アダルトビデオを買ったり、チャイルドポルノに手を出したり、わたしの私物を変な目的のために使わないようにしてもらえるならそれでいい。ロリコンなのは生まれつきなのだろうから、それには目をつぶろう。  人間が頭の中で何を考えているかなんて、誰にもわからない。そして想像だけなら自由だ。本当に子供に手を出したりしなければ、警察官として問題はあるにしても、それはそれで仕方のないことなのだ。  だけど、とわたしは立ち上がってデスクの周りを熊《くま》のようにぐるぐると歩き回った。どうすればいいのかわからない。まさか本人に面と向かって、やめてください、とは言えないだろう。  仮に言ったとしても、否定されてしまえばそれで終わりだ。いや、むしろ職場環境的にいえば最悪だ。どれほど過ごしにくくなることか。  別にわたしは社会正義に燃えているわけではない。上司を告発する気などさらさらないのだ。わたしが望んでいるのは、ただ平和で安らかな日々に過ぎない。  どうすればいいのだろう。しばらく考えてから、わたしは携帯電話を取り上げた。こんな時に相談できる人を、一人だけ知っている。呼び出し音が二回鳴ったところで相手が出た。 「もしもし」  女の子の声がした。 「こんにちは、桃子ちゃん」  わたしの呼びかけに、しばらく沈黙が続いた。 「立花のおねえちゃんよ。わかる?」  うん! と大きな声がした。 「土井先生に替わってもらえますか」  扱いの難しい子で、丁寧に頼まないと言うことを聞いてもらえない。だが今日は機嫌がいいのか、すぐに先生を呼んでくれた。 「おじいちゃん、電話。立花のおばちゃんから」  携帯電話を額に当てたまま、わたしは唇を尖らせた。それは、あなたにとってはおばちゃんかもしれないけど。 「こんにちは、令子さん」  先生の声がした。いつ聞いても、懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。わたしは携帯電話を強く握りしめたまま、相談があるんです、と言った。        5  土井先生は獣医だ。正確にいえば、土井動物病院の院長先生ということになる。  しばらく前、わたしはある事件をきっかけに先生と知り合った。おそらく六十歳ぐらいだろう。きれいな白髪がチャームポイントの素敵な人だ。  先生はずいぶんと痩せていて小柄だが、若い頃はさぞかし女性に人気があっただろうと思う。整った顔立ちをしているし、何よりもおしゃれだ。いつも微笑を浮かべているその様子は、先生の周りだけ春風が吹いているようだった。  先生の病院はいつも患畜でいっぱいだ。名医としても有名で、どんなペットであれ病院は嫌がるものだが、先生にかかると、どういうわけか犬でも猫でもおとなしく言うことを聞く。  孫の桃子ちゃんに言わせると、 「だって……おじいちゃんはどうぶつと話せるんだよ」  ということになるのだが、さすがにそんなことはないだろう。それは子供の夢物語に過ぎない。  ただ、先生が動物とある種のコミュニケーションを取ることができるのは事実のようだ。わたしが家で飼っているラブラドールの�まる�を連れていって予防接種の注射をした時も、他の病院ではあれほど大騒ぎした�まる�が、黙って先生に従っているのを見たから間違いない。  わたしと先生とでは年齢差が四十近くあるはずだが、どういうわけかわたしたちはすぐに親しくなった。もともとわたしが獣医になりたかったほどの動物好きだったこともあるが、とにかく話が合うのだ。年齢が離れているために、あまり男性を感じさせないところも話しやすい理由だった。  午後六時、待ち合わせた駅近くの古い喫茶店に行くと、オープンテラスの席に先生はもう座っていた。きちんと背筋を伸ばして、カプチーノのカップをスプーンで上品に掻き混ぜている。 「遅れてすみません」  カフェオレを頼んで、わたしも席についた。今来たところですから、と先生が答えた。  まだ成犬になっていない柴《しば》犬がおとなしく足元に座っていた。この店はペットを連れてきても外の席なら構わないことになっている。 「この子のお母さんが入院していましてね」先生が柴犬の頭を撫でながら言った。「あんまりさびしそうなので連れてきたのですが、迷惑ではありませんでしたか」  とんでもない、とわたしも手を伸ばした。柔らかい感触が残る。面倒くさそうに上を向いた犬が、後ろ足で耳の裏を掻いた。  電話ではしょっちゅう話しているが、会うのは一カ月ぶりだった。わたしたちはお互いに近況を報告しあった。あっという間に一時間が過ぎていた。 「ところで令子さん、相談事というのは何でしょう」  話が一段落したところで、先生が微笑を浮かべた。その笑みにつられるように、わたしはこの十日間に起きたすべてを話した。  デスクが荒らされていたこと、誰も入ってこられない以上、署長がしたとしか考えられないこと、わたしのストッキングを署長が持っていたこと、そしてアダルトビデオ、それもチャイルドポルノの商品を買っていること。  隠し事をする必要はなかった。だいたい、隠したところですぐにわかってしまうだろう。先生は不思議な能力を持っているのだ。 「それは大変ですね」  真剣な表情で言った先生が、顎に手をかけた。どういうわけか足元の犬も同じポーズを取っていた。 「でも、騒ぎにはしたくないんです」  わたしの口からため息が漏れた。すべてを穏便に済ませたい。真剣にそう願っていた。 「確かに令子さんの不安はよくわかります。とはいえ、署長があなたに個人的な興味を抱いたとしても、それは無理もない。何しろあなたは、チャーミングですからね」  普通の人が言ったら歯が浮くようなセリフだが、先生の口から出ると悪くない気がした。 「ただ、こういう考え方はできないでしょうか。ねえ令子さん、警察には独特な用語がありますよね」 「用語?」  何でしたっけ、と先生が犬の脇腹に触れた。くすぐったそうに犬が体をよじる。そうだ、とうなずいた。 「ほら、コロシとかタタキとか。あるいは赤犬なんて言葉もありますよね」  コロシはもちろん殺人だし、タタキは強盗のことだ。赤犬というのは放火を意味する。語源はいったいどこから来たのだろう。 「ええ、ありますけど」 「どんな職種でも、業界用語というものがあります」先生がカプチーノをひと口飲んだ。「私たち獣医にもです。犬や猫についてはあまりそういう使い方をしませんが、ある種の動物についてはアダルトという言葉を使うことがあるんです」  そうなんですか、とわたしもカップを持ち上げた。先生はいったい何を言いたいのだろうか。        6 「アダルトというのは、つまり大人です。誰でもわかりますね。もちろん令子さんの言う通り、アダルトビデオのことかもしれませんが、私にはそうは思えません。佐久間署長については噂で聞いているだけですが、高潔な人格者という評判です。とてもアダルトビデオの売買に手を出すような人ではないでしょう」  高潔な人格者かどうかはわからないが、確かに佐久間署長は真面目だし、責任感も強い方だ。職務にも熱心といえるだろう。令子さん、と先生が優しく微笑みながら言った。 「こう考えてみてはどうでしょう。今日あなたが聞いたというその電話は、ペット商からの連絡だったのではありませんか。珍しいタイプの動物が手に入るので、それをマニアである署長に知らせてきたのだと」  そうなのだろうか。何を飼っているのかわからないが、マニアというほど熱心に動物の飼育をしているとは思えないのだが。 「誰にでも秘密はありますよ」  先生が笑った。柴犬が機嫌よくひと声|吠《ほ》えた。 「でも先生、今日の電話はそうだったかもしれませんけど、十日前のことは」  それも簡単に説明できるんです、と先生が肩をすくめた。 「十日前、ですか」目をつぶったまま口を動かした。「いろいろな意味でタイミングが悪かったということはいえるでしょう。親戚のご不幸はもちろんですが、交通事故に巻き込まれたのはその最たるものです。そのために、署長には時間がなかった。入院した奥さんのためにいろいろ用意もしなければならなかったし、会議にも出なければならない。だから署長は彼[#「彼」に傍点]を署に連れてこなければならなくなった」 「彼?」  失礼、と先生がきれいな白髪を指で梳《す》いた。 「つまり署長が飼っていたペットのことです。なぜかといえば、餌の問題ですね。土日の二日間留守にしていた署長は、おそらくその間の餌は用意していたでしょう。しかし日曜日の夜には戻るはずだったわけですから、月曜以降のことまでは考えていなかった。もちろん、一日や二日餌を与えないぐらいで死ぬようなことはないでしょう。ですが署長には彼[#「彼」に傍点]を飢えさせておくことなど考えられなかった」  令子さんだってそうでしょう、と首を傾げた。確かに、わたしも�まる�に餌をやらずに一日放っておくようなことはできない。 「とりあえず家から運んできた彼[#「彼」に傍点]を、署長は自室に入れた。餌は与えたでしょうけれどね。そのまま会議に出席した。問題は彼[#「彼」に傍点]の住《す》み処《か》である籠《かご》の鍵をかけ忘れたことです。もっとも、仕方がなかったのかもしれません。会議の時間が迫っていた。気が急《せ》いていたでしょうからね」 「籠の鍵?」  つまり、と先生がテーブルのシュガーポットの蓋《ふた》を開いた。 「このように、蓋が開いていた。見慣れない場所に連れてこられて、彼[#「彼」に傍点]も興奮していたのかもしれません。あるいは冒険心に富んだ性格なのか」おかしそうに笑った。「とにかく、彼[#「彼」に傍点]は籠の外に出てしまった。散歩の時間の始まりです。うろうろしているうちに、扉の前に出た。署長室とあなたの部屋の境にある扉です。彼[#「彼」に傍点]はそこを踏み越えた」 「あの扉は建て付けが悪いんです」  閉まってはいるが、すぐに開いてしまう。わたしの悩みの種だった。 「どうしてそんな気になったのかはわかりませんが、とにかくあなたのデスクに登った。木登りは彼らの天性ですから当然かもしれませんが、あなたのデスクは木製でしょう?」  ええ、とわたしはうなずいた。マホガニー製の重厚なデスクは、署長から譲られたものだった。 「そしてデスクの上で遊んだというわけです。CDや文庫本のような軽いものは、彼[#「彼」に傍点]が移動するときにぶつかって落ちたのでしょう。ペン立ても同じです。CDデッキだけがそのままだったのは、彼[#「彼」に傍点]の体重で動かすには重すぎたからです」 「それは先生の想像ですよね」  確かめたわたしに、もちろん、と先生がうなずいた。 「しかし、当たらずといえども遠からずというところでしょう。その後の署長の行動を見ても、間違いないと思いますよ。署長は会議室には来たものの、すぐに自分の部屋に戻ったとあなたは言った。そうですよね」 「ええ」  あまりに疲れきった様子を見かねて、皆で担ぐようにして署長室に連れていったのだ。それがどう関係があるというのだろうか。 「いくら周りが勧めたとはいえ、大事な会議の最中にそんなことをするのは署長らしからぬことだとは思いませんか」  かもしれません、とわたしは小さな声で答えた。一瞬そう思ったのも事実だった。 「署長には理由があったんです。不安を抱えていたのですね」 「不安?」 「籠に鍵をかけたかどうか、ということです」先生が落ち着いた口調で先を続けた。「皆さんが心配してくれたのは、署長にとって幸いでした。彼[#「彼」に傍点]が籠を抜け出していないか、確かめるために署長室に戻る口実ができたからです。不幸にも署長の予感は当たり、彼[#「彼」に傍点]は大暴れしていたというわけですが、とにかく彼[#「彼」に傍点]を籠に戻し、それから事態の収拾を図った。彼[#「彼」に傍点]が歩いた跡をたどり、落ちていたものは元に戻した」 「現場《げんじょう》の復元」  わたしはつぶやいていた。警察大学校時代に授業で教わったことがある。そうです、と先生がうなずいた。 「警察官ですから、勝手はわかっていたでしょう。ただ、あなたの注意力は署長にとっても予想外だったでしょうね。CDの順番や本の位置を覚えているとは、思ってもいなかったはずです。本来なら署長は正直にすべてをあなたに話すべきだったのです。ですが、無理なかったのかもしれません。あなたが不快に感じるかもしれないと思うと、私だって話すことはできなかったかもしれません」 「いったい署長は何を飼っているのですか。ああ、待ってください」わたしはかぶりを振った。「もうひとつあります。ではどうして署長はわたしのストッキングを盗んだりしたのですか」 「署長が持っていたのが、あなたのストッキングかどうかは私にもわかりません。おそらくは、もともと署長が用意していたものだと思いますよ。同じ製品だったのは偶然でしょう」  わたしが使っているストッキングは別にブランド品というわけではない。コンビニでも売っているような、ありふれたものだ。でも、だとしたらなぜ署長がそんなものを持っていたのだろうか。 「ある種の動物は」先生が犬の頭を撫でながら口を開いた。「ある条件の下でなければ、水を飲むことができないんです」 「条件?」  ええ、と先生が先を続けた。 「犬でも猫でも、あるいは鳥やハムスターなど小動物でも、水を飲むのは本能です。だから適当な容器に入れておけば、彼らは勝手に水を飲みます。しかし、今言ったように、ある条件を満たしていないと飲めない動物もいる。水を水として認知させないと、彼らはそれが水であるとわからないんですね」  行っていいよ、と土井先生がつぶやいた。あまり遠くに行かないように、とつけ加えた。  座っていた犬がひと声吠えて、そのまま歩きだした。意味がよくわかりません、と口を曲げたわたしに、説明しますよ、と先生が言った。 「彼にとって重要なのは、水が動いていなければならないということです。流れているとか、あるいは光っているとか、音がするとか、形はどうであれ、そうでなければ彼らにはそれが水だとわからない。生物学者なら、行動様式が遺伝子に組み込まれているとか言うところでしょうが、要するにそういう習慣を持つ動物なのですね」 「それが、ストッキングとどういう関係があるんですか?」  優しい微笑を浮かべながら、先生がカプチーノのカップに口をつけた。 「彼のような動物を家庭で飼う場合には、ある種の装置が必要になります。動物園なら環境装置を備え付けたりするのですが、個人ではとても手配できない。よく使われるのは水筒ですね」 「水筒?」  ええ、と先生が手で形を示した。 「簡単に言えば、水筒を引っ繰り返して先にチューブをつけただけのものです。例えばペットボトルでも代用できます。もちろん、ペットショップでも売っているものですよ。チューブを締めるボルトをわずかに緩めてあるので、先から水滴が垂れる。それを認識して、彼らは水を飲むというわけです」  ただ、これには欠点がないわけではありません、と座り直した。 「欠点?」 「水筒の大きさには限界がありますからね。ある時間を超えると、中が空になってしまう。わかりますか」  ええ、とわたしは答えた。一滴ずつ垂れていくにしても、もともとの水筒の容量が決まっている以上、どこかですべてなくなってしまうのはよく理解できた。 「個人飼育の場合、一日一回水を取り替えるのが普通でしょう。水筒もそれに見合った大きさです。旅行とかなら、ペットホテルに預けるなり専門業者にケアを頼んだりすればいいのですが、問題は突発的な事態があった場合です。何日も帰れないようなことが起きると大変な問題になります。餌はともかくとして、水は動物にとって文字通り死活問題ですから」  突発的な事態。 「例えば、ネット心中のような、ですか?」 「そういうことです」  だんだんわかってきた。 「そういう時のために、ストッキングを使って水を与えることがあります」先生が小さく咳をした。「飼っている籠の天井にストッキングを張って、そこに水を吹きかけておくんですね。目の細かい繊維で作られているので、水の移動が非常にゆっくりとしています。結果として、水筒よりもよほど長い時間彼らに水を与えることができる。かなり専門的な店でなら売っていますし、自分で作ることも可能です。今回のようなことが起きてもいいように、署長はストッキングを準備していたのではないでしょうか。警察官というのは、どんな突発事態が起きるかわからない職業でしょう?」  十日前に起きたネット心中事件のために、署は大騒ぎだった。事件の概要を聞いた署長は、今後の展開を察したのだろう。経験の長さは伊達《だて》ではない。  しばらく家に帰れないと悟った署長は、そんな場合のために用意していた買い置きのストッキングで、その装置を作っていた。  わたしが署長室に入った時、慌ててそれを隠した気持ちもわかる。説明するのも時間がかかるし、不謹慎と言われても仕方がないからだ。 「不謹慎というのは、ちょっとかわいそうです」先生が唇を舌で湿らせた。「彼らが水を飲めなかったら、その方がかわいそうですから。むしろ署長は優しい人といえるでしょうね」 「だからあの時、署長は着替えを口実に家に帰ると言ったんですね」  令子さんは察しがよくて助かります、と先生が顔をほころばせた。 「その前に人目を避けて、籠は自分の車に積んでいたのでしょう。大事件が起きているのにペットの世話とは何事だ、と言うような頭の固い人もいるかもしれませんからね」  署長がストッキングを持っていた理由はわかった。何に使っていたかもだ。だがまだ疑問は残っている。 「もうひとついいですか。今日の電話で署長は『子供』と言っていました。あれはどういう意味だったのでしょう」  子供、という単語を口にした署長の声には抑えきれない興奮が感じられた。だからこそ、わたしは不思議に感じたのだ。 「この種の動物は、決して繁殖力が強いとはいえません。基本的に高温多湿の日本は彼らに合っていないのです。環境が違いますから、抵抗力も弱い。おそらく署長は前に子供を飼って、死なせてしまったことがあるのではないでしょうか。しかし、成長過程を見たいというのはマニアに共通する心理です。どうしても手に入れたいと思ったでしょう」 「そういうものなんですか」  困ったものです、と先生が顔をしかめた。 「気持ちはよくわかります。そして奥さんがいい顔をしないこともね」  両手をこすりあわせながら嬉しそうに笑った。たぶん先生も過去に同じような経験があるのだろう。 「先生、最後にお伺いします。彼[#「彼」に傍点]とはいったい何なんですか」  土井先生がかすかに顔を背けた。 「本当にねえ。私には署長の気持ちが痛いほどわかるんですよ。あなたのようなお嬢さんが、決して良くは思わない生き物ですから」 「つまり、それは」強く手を握りしめたまま尋ねた。「先生、彼は」  小さくため息をついた先生が、内緒ですよ、と言った。 「カメレオンです」  カメレオン。目眩《めまい》がした。つまりトカゲだ。確かにわたしは動物好きだが、その対象は哺乳類《ほにゅうるい》に限られる。 「署長の行動から想定されるのは、カメレオンでしょう。イグアナのような大型のトカゲ類の可能性もありますが、だとしたらCDデッキも動かせる。カメレオンでないにしても、小型の爬虫類《はちゅうるい》であることはまず間違いありません。いずれにしても共通するのは、動いていない、あるいは流れていない水を水として認知できないという行動様式です」  カメレオンが、わたしのデスクを、這《は》い回ったんですか。立ち上がったわたしの背中を先生が手で支えた。 「そんなに怯《おび》える必要はありません。カメレオンはおとなしい動物ですし、とても可愛い。馴《な》れれば人にも懐きますし、決して……」  先生、とわたしは小さな声で最後の質問をした。 「消毒液は、どこで買えばいいんですか?」 [#改ページ]  かえるのうたが、きこえてくるよ        1  梅雨《つゆ》がなければ、六月がいちばん好きだ。  細かく限定していくと、五月の中旬からしとしとと篠《しの》つく雨が降りだす前あたりまでが、わたしのいちばん好きな季節ということになる。高校の時までは春が大好きだったのだが、ご多分に漏れずわたしもまた二十一の時に花粉症になってしまったので、それ以来三月の声を聞くと鼻水とくしゃみの気配に怯えるようになっていた。今年は特に花粉の飛散量が例年になく多かったとかで、本当に辛かったものだ。  だが時間は誰の上にも平等で、仕事以外はひたすらに家から出るのを我慢し、野暮ったいマスクを常につけ、きちんと病院に通って薬をもらい、食生活にも気を遣い、ありとあらゆる民間療法を試しているうち、いつの間にか五月の半ばを越えた。  そしてそれと同時に、あれほどひどかったくしゃみと鼻水といくらかの頭痛と倦怠《けんたい》感はどこかへ消え去り、ようやくにして辛いシーズンが終わったのだった。  念のためにもう一週間だけ我慢してから、六月最初の日曜日にわたしは家の近くにある井の頭公園へ散歩に出かけた。二カ月あまりも休日のたびに家に籠《こ》もっていたため、体が外に出たがってうずうずしていたのだ。  もう桜の季節はとっくに過ぎ、見るべきものは何もなかったけれど、陽《ひ》ざしはあたたかく風は爽《さわ》やかで、散歩をするにはいちばんいい時期だった。公園は親子連れや大学生の集団、そして恋人同士なのだろう、男女の二人連れで溢《あふ》れかえっていた。おそらくは彼らもまた、花粉症の呪縛《じゅばく》から逃れた祝祭を過ごしているのではないか。少なくとも何割かはそのはずだ。  井の頭池ではボートを漕《こ》ぎ出しているカップルが何組もいた。カップルでボートに乗るとその二人は別れる、という昔ながらの言い伝えは、彼らにはあまり関係ないようだった。ちなみに、なぜ別れるかというと、池の主である女神の弁天様が嫉妬《しっと》するからだそうで、わたしも嫉妬されてみたいものだ、と肩を落としながらため息をついた。  考えてみれば、何が悲しくて六月のよく晴れた日曜日の午後、一人きりで公園を散歩しなければならないのだろうか。これでもわたしは大学の頃はそこそこ男子学生から人気があった。  ずば抜けてスタイルがいいわけでも、見栄えのするルックスを持っているわけでもないが、それでも幸いなことに声をかけてくれる男の子は少なからず存在した。 「令子って、放っておけない感じがする」  例えば同級生の吉野《よしの》くんはそう言ってくれた。ちょっと童顔だし、風情は頼りないし、だけどその分|護《まも》ってあげたくなるんだよね、と。  実はわたしは外見はともかく、意外とてきぱきしているしお金の計算は速いし頑固だし強情だし意志も強い方なのだが、少なくともぱっと見た感じだけで言えば、吉野くんの言葉通りなのだろう。  そのためなのか、けっこうわたしのナイト役を買って出てくれる男の子は少なくなかった。確かにわたしが通っていた大学はちょっと特殊で、つまり東京大学だったのだが、だから女子学生の絶対数が少なかったという理由はあるかもしれないが……ええとわたしは何を言っているのだろう。  それがなぜ、どうして、日曜日の公園を一人きりで散歩などしているのだろうか。実をいえば、大学を卒業する寸前まで交際していた山脇《やまわき》先輩とたいした理由もなくケンカ別れしてから約三年、つまり今の仕事に就いてからというもの、わたしは誰ともつきあっていなかった。  わたしのどこがいけないのだろう。姿形でも性格でもない。それは学生時代の友人たちが証言してくれるはずだ。証拠だってある。  ……いや、そうでもないかもしれない。証言だの証拠だのという単語が、ボキャブラリーからすらすらと出てくる二十五歳間近の女はそう多くないだろう。むしろかなり特殊なはずだ。そうか、やっぱりそうなのか。選んだ仕事がいけなかったのか。 「こんにちは」  いきなり足元で声がした。堂々と腰に両手を当てたまま、わたしを見上げている女の子がいた。白のブラウス、赤いオーバーオール。スニーカーも赤だった。 「桃子ちゃん。こんにちは」  わたしは慌ててお辞儀をした。幼稚園の年長組である彼女は、最近ものすごく礼儀に目覚め始めており、挨拶の励行を盛んにしていた。 「びっくりした。おねえちゃんと、まさかこんなところで会うなんて思ってなかったから」  ブラウスとオーバーオールは桃子にとって正装だった。それに引き換えわたしときたら、ろくにメイクもしていないし髪の毛は逆立っているし、トレーナーにジーンズという浪人生のような格好だった。病後だからしょうがない、という言い訳はあったものの、いかに子供とはいえ知っている顔に会うと、やはり気まずいものがあった。 「見てないからこそのおしゃれだよね」  どこで覚えるのか、桃子ちゃんは妙に古い言い回しを使うことがある。失礼しました、とせめてもの慰めに、トレーナーの下に着ていたダンガリーのシャツの襟《えり》をきちんと表に出した。 「でも、どうしてここにいるの?」  尋ねたわたしの前でいきなり桃子ちゃんが、おじいちゃん、おじいちゃん、と二回叫んだ。どこにいたのかさっぱりわからなかったが、突然土井先生が姿を現した。まるでその辺りに立っている樹木の精が、人間に姿を変えたようだった。 「こんにちは」  上質な濃い茶の背広をきちんと着こなした先生が微笑みながらわたしに言った。先生はとてもおしゃれで、今日着ているのもバーバリーだ。上に一枚、春物の柔らかそうなベージュのコートを羽織っている。 「予期していない出会いは驚きであり喜びでもあります」  先生が落ち着き払った口調で言った。その通りかもしれないが、わたしにとって喜びばかりとは言えなかった。いや、先生に会えたのは嬉しいけれど、今のこの格好はどうだろうか。 「それもまた令子さんですから」  わたしの想いを読み取ったかのように先生がうなずいた。先生のこの能力にはいつも感心してしまう。  不思議なほど、わたしの胸の内に浮かぶ考えを言い当てることがよくあった。人間、六十年も生きていると洞察力が身につくのだろうか。  わたしは先生の横に並んで遊歩道を歩きだした。桃子ちゃんがその前をどんどん一人勝手に進んでいく。お散歩ですか、と先生が尋ねた。はい、とトレーナーの袖をまくりながらうなずいた。 「そうです。天気がよかったので、なんとなく」 「今年の花粉はひどかったですからね」  同情するように言った。先生は獣医なので、わたしの顔を見ればどれだけ症状がひどかったかぐらいは、すぐにわかったようだった。 「ところで、何か食べましたか」  先生が言ったとたん、わたしのお腹《なか》が小さな音をたてた。そういえば、もう一時間ほどぶらぶらと歩き続けていた。家を出る時にトーストを一枚食べただけだったのだ。 「ランチをご一緒していただけますか」  先生が六月の空と同じくらい晴れやかな表情で言った。もちろんです、と答えた。年は倍以上も離れているが、わたしは先生と話すのが大好きだった。桃子、と先生が声をかけた。 「立花警部と一緒にお昼を食べることにしましょう」  改まった口調でそう言うと、ふん、と桃子ちゃんが鼻から息を吐き出した。わたしはけっこう子供から人気がある方なのだが、どうもこの子とは相性がよくない。  というより、先生が自分以外の人間と話すのが嫌らしい。それでもどこかで気持ちに折り合いをつけたのか、先に立って駆け出した。  そうだ、忘れていた。わたしの境遇についてだ。なぜわたしの周りに男性の影がないのかといえば、先生が今言った通り、わたしが警察官だからだ。立花令子、二十四歳。南武蔵野警察署副署長。階級は警部補。  この肩書を見て、それでも、と言ってくれる男の人が少ないのは、仕方がないことなのかもしれなかった。        2 「こっちこっち」  足を止めた桃子ちゃんが手招きした。ここは意外と美味《おい》しいのです、と先生が真面目な顔でのれんをくぐった。公園の池近くにあるおでん屋さんだった。 「令子さんは、おでんはお好きですか」  はい、とわたしは答えた。それはよかった、と先生が奥の席を勧めてくれた。先生は昔イギリスに留学していたことがあったそうで、常に女性を尊重してくれる。  わたしが座ると向かいの席に桃子ちゃんが腰掛け、先生は右斜め前の椅子に腰を落ち着けた。桃子ちゃんは今時珍しいほどのおじいちゃん子で、いつでもいちばん近くにいたがる。  初めて会った頃、どうしてそんなにおじいちゃんが好きなのと尋ねると、うちのおじいちゃんはすごいから、という答えが返ってきた。 「だってどうぶつとお話ができるんだよ」  先生は獣医として近所でも評判の名医だった。先生の病院を訪れる動物たちは、先生が指で合図をするだけでおとなしくなり、注射の時でも吠えたり騒いだりしないそうだ。  ただ、それは獣医としての資質の問題であって、治療の技術に長《た》けているというだけの話だろう。別に会話を交せるわけではないと思うのだが、それを桃子ちゃんに言うつもりはなかった。わたしも大人だ。子供の夢を壊すつもりはない。 「チクワ、大根、つみれ、ハンペン。令子さん、何か食べたいものはありますか」  注文をしていた先生がわたしの方を向いた。気の良さそうなおばさんが満面に笑みを浮かべながら見ている。卵とタコをください、と頼んだ。  わたしもこの公園にはしょっちゅう来ている。この店のおでんが美味しいこともよく知っていた。特にだし汁のよく染みた卵と、柔らかく煮たタコは最高なのだ。  先生はウーロン茶、桃子ちゃんはサイダー、わたしはビールを頼んだ。アルコールがそれほど好きなわけではないが、よく晴れた日曜日の昼に飲むビールはさすがに美味しい。  店のおばさんが素早く手を動かし、あっという間にテーブルにコップとお皿が並んだ。何しろこの店は何でも手早い。注文すれば何でも三十秒以内に出てくる。それでは乾杯しましょう、と先生がグラスを掲げた。 「今日の佳《よ》き日に。そして花粉症の終わりに」  サイダーを半分ほど一気に飲み干した桃子ちゃんが、チクワを細かく刻み始めた。礼儀作法に目覚めた彼女は、一度に口に入る大きさのものしか食べない。 「よくここには来るのですか」  大根にお箸《はし》で芥子《からし》を丁寧に塗っていた先生が尋ねた。わりとよく来ます、とわたしもハンペンを二つに切り分けながら答えた。湯気が目の前に立ちのぼった。 「天気がいいと、なぜか足が向いてしまいます。先生こそ、よく来られるのですか」  はい、と礼儀正しくうなずいた先生が箸を置いて公園の奥を指した。桃子ちゃんはさっきからチクワをどこまで細かく刻めるのかという孤独な作業に没頭していた。 「向こうに小さな動物園があるのはご存じですよね。そこの園長先生に時々呼ばれるのです。仕事半分、この子とのおつきあい半分といったところでしょうか」  孫の頭を撫でた。なるほど、井の頭公園の隣には自然文化園がある。最近はわたしも行っていないのでよくわからないが、象もいるぐらいで、かなり本格的な動物園だ。ただし、それほど有名ではない。 「今日は九官鳥の様子がおかしいというのでね、ちょっと見に行ってきました」  すごいんだよ、と切り刻んだチクワを一気に口の中に流し込んだ桃子ちゃんが言った。物を口に入れたまま喋るのはあまり礼儀にかなっているとはいえないが、まだそこまでは教わっていないらしい。 「おじいちゃんはねえ、診察もしてないのに、キューちゃんの羽根が折れてるのわかったんだよ。ぱっぱって包帯巻いて、もうそれで治しちゃったの」 「まだ治ってないよ」先生が微笑んだ。「添え木を当てて、固定しただけです。まあしかし、動物の自然|治癒《ちゆ》能力は高いですから、二、三週間で治るでしょう」  わたしが先生と出会ったのは、もう一年ほど前のことだ。事件とも言えないような小さなトラブルを調べるために訪れた家で、顔を合わせたのが最初だった。  ただ、あくまで調査のつもりだったが、事はそれだけに留まらず、実は殺人にも発展しかねない大問題だった。その事実を先生が指摘し、そして事件の発生を未然に防いだ。わたしたちが時々会うようになったのはそれがきっかけだった。  もっとも、会うといっても、先生にとってはいい迷惑だったかもしれない。わたしは警察署で何も仕事がないと愚痴をこぼすだけで、先生はただ聞いてくれるだけだった。  だがわたしにとっては重要な時間だった。会っているとそれだけで気持ちが癒《いや》されていくのがわかった。  確かに先生は名医だと思う。おとなしくなる動物たちの気持ちがよくわかる。  わたしたちはそれからしばらく、熱いおでんを食べることに専念した。先生とわたしの気が合うのは、食べることが大好きという共通点があったからかもしれない。  お腹が落ち着いたところで先生は温かいお茶を、桃子ちゃんはサイダーを、そしてわたしはビールをやめてコーラを頼んだ。 「美味しいですね」  先生が言った。うん、と桃子ちゃんがジャガイモを箸で崩しながらうなずいた。本当に、とわたしもグラスにコーラを注《つ》いだ。 「日曜日のお昼から、こんなに幸せでいいのでしょうか」  風は心地よく、陽の光は柔らかく降り注ぎ、おでんは美味しい。これ以上、人生に何が必要だろうか。明日のことを思い煩《わずら》うことはない。今日を楽しく過ごせれば、それ以上望むものなどなかった。 「お代わりはどうしますか」  目の前の皿には、半分になったつみれがひとつ載っているだけだった。どうしようか。練り物は太るとも言う。でもでも、我慢できない。夜を控えればそれでいいのではないか。帳尻《ちょうじり》は合うはずだ。 「いただきます」  がんもとさつま揚げ、それからコンニャク、と手を上げた時、世にも無粋な音が聞こえてきた。しかもわたしのジーンズのポケットから。 「電話ですよ」  先生がのんきな顔で言った。ええ、わかっています。ただ、この着信音の時は出たくないんです。  今日は日曜日だし、天気はいいし、せっかく先生にも会えたし、こうしている時間がいちばん大切だし。  電話です、と先生がもう一度言った。桃子ちゃんが箸を止めてじっと見つめている。仕方なくわたしは尻ポケットからインフォバーを引っ張り出した。着信表示には、南武蔵野署総務部とあった。 「立花です」 「副署長!」  耳元で爆弾が爆発したような大声がした。わたしは慌てて携帯電話を耳から遠ざけた。 「休日のところ、申し訳ありません」  電話をかけてきたのは佐久間署長だった。署長は常にわたしに対して丁寧語を使う。 「いえ」  言葉少なに答えた。どれだけ迷惑しているか、常識のある人間ならわかるように答えたつもりだったが、署長には通じなかった。というより、わたしの声など耳に届いていなかったのかもしれない。 「殺人事件です」  一転して低い声で言った。耳慣れない単語に、そうですか、とわたしは無感動に答えていた。  テレビや映画では、日本の至るところでしょっちゅう殺人が起きているようだが、実は全国でも年間で千四百件ほどだ。一日平均四件、しかも場所は繁華街などの都市部が圧倒的に多い。  わたしが南武蔵野署に配属されてから一年あまりが経つが、その間一度も起きていなかった。何かの間違いではないだろうか。 「いや、間違いありません。先ほど通報があり、確認も済んでいます」  署長の声が高くなった。都下ではめったに起きない殺人事件が、自分の勤務する署の管轄内で発生したという事態に、ある意味興奮しているようだった。 「現在、本町交番から警官が二名派遣されております。刑事課にも緊急出動を命じました。本庁にも応援を要請、おそらく捜査本部が南武蔵野署に設置されるかと」 「今日ですか?」  人が殺されたという時に、こんな不謹慎な発言をしてはいけないのだろうが、率直に言って、面倒くさい、と思った。ご存じの通り、殺人事件のような大きな犯罪が発生した場合、本庁から捜査官が招集され、捜査本部が設置される。  本庁は事件捜査に協力するというのが建前だが、もちろん実際は逆で、所轄署の刑事課が本庁捜査官のお手伝いをするというのが実態だ。  協力どころか、道案内だったり会議室の設営であったりの雑用に追われるだけの話だし、そればかりか捜査本部の設置費用はすべて所轄署が持つことになっている。  事件解決の場合、手柄はすべて本庁が持っていくのだから、丸損といえば丸損なのだ。だが興奮した署長は、そんなことなど気にも留めていないようだった。 「というわけでして、誠に申し訳ないのですが、副署長は至急現場に行っていただいて、現場保全《げんじょうほぜん》の措置を取っていただきたいのです。三時間後には機動捜査隊が到着すると思われますので、それまでに形を整えていただければと」  わたしの父は警視庁に勤務していた。そのため、未《いま》だに父の知己は多い。早い話が、現副総監の神尾《かみお》のおじさんは今でも時々わたしの家に遊びに来るぐらいだ。  そういうわけで、わたしは確かに顔が利いた。佐久間署長が本庁対応をわたしに任せようとする気持ちはよくわかった。 「副署長、今どちらですか」 「事件の現場はどこなんですか」  互いの質問が重なった。佐久間署長が早口で住所を言った。吉祥寺駅の南口にあるマンションが現場ということだった。  タイミングが悪すぎる。井の頭公園からは目と鼻の先だ。徒歩五分もかからないだろう。これでは行かないわけにいかない。 「そこの901号室で死体が発見されたのです。今から私は署で捜査本部設置の指揮を執ります」  それではよろしくお願いします、と最後に言って署長が電話を切った。お忙しいようですね、と先生がわたしを見た。 「どうして日曜日に事件が起きるのでしょう」  ため息をついて、注文したばかりのおでんをキャンセルした。犯罪者の皆さんにぜひお願いしたいのだが、何かするのなら平日、しかも午前九時から午後五時までにしていただきたい。絶対に。  何があったのです、と半分ほど残っていたコーラをわたしのグラスに注ぎながら先生が尋ねた。 「よくわからないのですが、殺人と署長は言ってました」 「殺人?」  ハンペンをくわえた桃子ちゃんが顔を上げた。お行儀が悪いよ、とたしなめた先生の前で、口からハンペンをお皿に吐き出した。 「殺人って、人殺し? ドラマでやってるやつ? 家政婦さんはいるの?」  残念ながら市原悦子さんはいない。 「世情は物騒ですね」  先生が小さく唇を歪《ゆが》めた。わたしは公園の出口の方を指さした。 「公園のすぐ近くに、最近できたばかりのマンションがありますよね。現場はそこだそうです。署長が張りきっていて、わたしもそこに行くようにと」  あの人は気ぜわしいところがありますからな、と先生が言った。署長とは昔からつきあいがあるそうで、飼っているペットの相談なども受けているらしい。 「せっかくお会いできたのに、残念です」  とんでもない、と先生がもっともらしい顔で言った。 「お仕事ですから、仕方がありません。私だって、急患があればディナーの最中でも行きますよ」  本当にごめんなさい、と席を立った。後ろ髪を引かれる思いだったが、わたしは現場に向かうことにした。令子さん、と先生が声をかけた。 「何というマンションとおっしゃってましたっけ」  ローレルスクエア・タワーです、と答えた。おや、と先生が顔をしかめた。 「困ったな。私もそこに行かなければならないのですが、入れるでしょうか」  七階にワニを飼っている老婦人がいて、最近調子が悪いために何度か往診に行っていたのだが、今日も飼い主から連絡があり、行くことになっているのだという。マンションでワニが飼えるのだろうか、というわたしの思いをよそに、どうでしょうか、と先生が重ねて聞いた。 「難しいかもしれませんね」  わたしは口ごもった。確かに、マンションは封鎖されている可能性があるだろう。殺人事件のあった建物に一般人が出入りすることは、おそらく許可されないのではないか。それでは大変申し訳ないのですが、と行儀よく先生が頭を下げた。 「よろしかったら、マンションまでご一緒していただけないでしょうか」  もちろんです、とわたしは答えた。どうせそのマンションに行くのだし、先生が殺人現場に足を踏み入れるわけでもなし、建物内に入る便宜を図ってあげるぐらい、何ということはなかった。  それより何より、わたしも署長ではないが少し緊張していた。何しろ初めての殺人現場立ち会いなのだ。  では、と先生が自分と桃子ちゃんの分の料金を支払い、わたしも自分の勘定を済ませた。わたしたちはいつも割り勘だった。まだ卵が残ってるのに、とぶつぶつ言う桃子ちゃんの手を引いて、先生とわたしは公園を後にした。        3  マンションは井の頭公園から吉祥寺駅に向かってすぐのところにあった。五分も歩かなかっただろう。  九階建ての豪華な億ションで、確か半年ほど前にできたばかりのはずだ。二年ぐらい前からわたしの家や署にも分譲お勧めの電話がしょっちゅう来ていた。買えるわけもないのに。  もっとも、一年ほど前の段階でそういうセールスの電話は鳴らなくなっていた。聞いた話では、眺望もよく環境も最高、吉祥寺の街も近いこのマンションは、不動産屋や銀行などの不安をよそに、あっさりと売れてしまったのだという。不況、不景気と新聞は書き立てているが、もしかしたらそれは嘘《うそ》なのではないか。  マンション前の通りには二台のパトカーが停まっていた。制服警官が二名、厳《いか》めしい顔で立っている。まだロープこそ張られてはいないが、いかにも物々しい雰囲気だった。近所の住民だろう、見物人たちが既に群れをなしていた。 「いいですか」  わたしが声をかけると、背筋をまっすぐに伸ばした制服警官が敬礼した。一応わたしは副署長で、階級でいえば彼らより三つ偉い立場なのだ。とはいえいつも思うことだが、わたしより二十歳近く上の警官がそんなふうにするのを見ると、どうにも落ち着かなくなった。 「どうぞ」  もう一人の警官が案内してくれた。土井先生に対して誰何《すいか》するようなことはなかった。  このマンションの住人については、出入りの規制をしていないということだったが、先生も住んでいると思われたようだ。先生はいつでもどこでも、最初からそこにいるという風情を作るのが天才的にうまかった。  エレベーターに乗り込んで、七階と九階のボタンを押した。桃子ちゃんがちょっと不安な顔で先生を見つめている。だいじょうぶだよ、と先生が言うと、可愛らしい顔ではにかんだ。  先生たちは七階で降りた。扉が閉まり、もう一度開くとそこが九階だった。降りるとすぐに制服警官が飛んできたが、わたしの顔を見て立ち止まった。 「副署長、失礼いたしました」  硬直したまま敬礼する彼に、担当者は、と尋ねた。鳥井警部補です、という答えが返ってきた。わたしより五、六歳上で、気の弱さというか柔順さが取り柄のような人だった。制服警官が通路を走って鳥井を呼んできた。 「副署長」  気の小ささに反比例して体だけは大きい。百八十センチ、七十五キロの体格だ。ただそれほど威圧感はない。 「署長の命令で来ました」  聞いております、と鳥井が敬礼した。お休みのところ誠に申し訳ございません、と泣きそうな顔になったので、そんなことないですから、とまず慰めなければならなくなった。 「現場はそこです」  ようやく気を取り直した鳥井が、声をひそめて通路を指さした。ローレルスクエア・タワーはワンフロアに部屋は二つだけという豪勢な造りだ。エレベーターは二基あり、部屋のオーナーはそれぞれ自分の側のエレベーターを使うことになっているという。  言われるままにわたしは短い通路を進んだ。左側は透明なガラスの壁になっている。景色が見えやすいように、そういう造りになっているのだろう。わたしの肩までぐらいの高さだったから、一・三メートルほどあるだろうか。 「どうぞ」  わたしたちの前に重厚そうな鉄の扉があった。ドアノブに手をかけた鳥井が扉を開いた時、中から濃い黒のデニム製の制服を着た三十歳ぐらいの男が出てきた。かぶっている帽子に、キャット宅配便、というロゴマークが貼られていた。 「犯人を捕まえてくれた……ええと、大森さんです」 「大林《おおばやし》です」  男が訂正した。鳥井ほどではないが、大柄な男だった。がっちりといかつい肩が印象的だ。 「大林さんが犯人を捕らえ、警察に通報してくれたのです」  満面に笑みを浮かべながら鳥井が男の肩を叩いた。後ろから出てきた若い制服警官が、連絡しておきました、ときびきびした口調で報告した。 「南武蔵野署を代表して、犯人逮捕のご協力に感謝します」と鳥井が敬礼した。「ただ、申し訳ありませんが、書類提出の関係がありまして、先ほどもお話ししました通り、署の方へ行っていただければと」 「仕事の途中なんですけど」男は苦笑した。「でも、仕方がないですよね。これも市民の義務でしょうから」 「金一封と表彰状が出ますよ」  慰めるように鳥井が男の肩に手を置いた。本当にお一人で大丈夫ですか、と制服警官が尋ねた。ええ、と男が答えた。 「道もわかりますしね。何しろバイク便ですから」  どうしますか、と警官が目で尋ねた。身元も確認しているし、問題ないだろうと鳥井がうなずいた。 「では、後ほど署で……ご苦労さまでした」  二人がエレベーターに乗り込む大林に向かって頭を下げた。どういうことなんですか、と質問したわたしに、ラッキーでしたよ、と鳥井が説明を始めた。 「犯人は逮捕しました。窃盗の常習犯でしてね。この部屋にも、金を盗むつもりで押し入ったようです。ただ、奴にとって不運だったのは、出社しているはずの家主が、風邪《かぜ》をひいて午後出社にしていたということですね。もちろん、殺された佳山《かやま》氏にとっても不運だったのですが」  鳥井が扉を開けてわたしを中に入れた。さすがは高級マンションだけのことはあって、玄関脇にウェイティングルームがあった。  そして、その部屋に似つかわしくない貧相な中年男が壁際にいた。椅子に座らされたまま、手錠をかけられている。グレーの薄いセーターとジーンズの前が赤黒く染まっていた。 「どういうことですか」  おそるおそる尋ねると、犯人です、と鳥井が少し得意気に鼻をこすった。こんな姿を見るのは初めてだった。        4  オレじゃねえよ、と手錠の男が怒鳴った。黙りなさい、と制服警官が命じた。靴を脱いだ鳥井が、現場は奥です、と案内した。黙って後に従った。  玄関から見ると、数字の9のような構造になっていた。9の右の棒が廊下で、上部分がリビングなのだ。  広いリビングだった。三十畳、四十畳、いやもっとあるのだろうか。初夏の光が窓から惜しみなく降り注いでいる。廊下から見ると手前側にカウンター式のキッチンが併設されていた。 「キッチンまでは入ってもだいじょうぶです」  鳥井が言った。廊下からキッチンに入り、そこからリビングを見た。  金持ちというのはそれが贅沢《ぜいたく》なのか、目立つ調度品はそれほどなかった。巨大な液晶プロジェクターとホームシアターセットが置かれていたが、他にはマガジンラックと、窓際にいくつもの観葉植物の鉢、そして小さな水槽が床に直接置かれているだけだった。  中には巻き貝の貝殻がいくつか転がっていたが、その他は砂以外何もなかった。水さえも入っていない。キッチンにはもちろん食器棚と三面冷蔵庫があったが、全体にさっぱりとした印象だった。  リビングの奥には左右にドアがあった。書斎と寝室です、と鳥井が教えてくれた。管理人に聞いたのだという。鍵がかかっています、と囁《ささや》いた。鳥井はリビングの中まで入ったということだった。 「被害者は佳山|義則《よしのり》、武蔵野地区一帯でサラリーローンを展開しているカヤマローンの社長です」  カヤマローンは駅ビルにも入っているからわたしも知っていた。個人的にはローン会社の世話になったことがないのでよくわからないが、言われてみればわたしの家から駅までの電柱にもたくさん広告が出ていた。郵便受けにもしょっちゅうチラシが入っていたのを思い出した。 「さっきの男は野々村貞三《ののむらていぞう》といって」親指でウェイティングルームを指し示した。「申し上げましたように窃盗の常習犯です。元は故買《こばい》屋でしたが、最近は外国人窃盗団と組んでピッキング専門の窃盗を続けていました」  何らかの道具を使って鍵を開け、家の中のものを盗むピッキング犯は、最近すごい勢いで増えている。野々村という手錠をかけられていた男も、その一人ということなのだろう。人を外見で判断してはいけないが、いかにもそんな感じの男だった。 「野々村がこのマンションに入ったところは、監視カメラで撮影されていました。管理人室のビデオで確認済みです。宅配便業者を装って適当に他の部屋のボタンを押し、マンション内に入ったようですね。そして佳山氏の部屋を目指した。彼がカヤマローンの社長であること、金持ちなのも調べていたんでしょう。そしてピッキングによって錠を開け、室内に入った。ところが間の悪いことに、体調を崩して休んでいた佳山氏が部屋の中にいたというわけです」 「日曜日ですよ」わたしは首を傾げた。「サラ金会社の社長って、そんなに忙しいんですか」 「佳山氏はワーカホリック気味で、元旦から大みそかまで、毎日会社に顔を出していたそうです。野々村もそれを調べていたんでしょう。サラ金業界も規制や法改正で大変ですからね。トップが誰よりも頑張らなければ潰《つぶ》れてしまうんでしょう。どこかのIT企業もそうじゃないですか」  金で買えないものはない、と豪語した小太りの男を思い出した。最近あまり噂を聞かないけど、いったいどうしていることやら。 「つまり犯人と佳山社長は、このリビングで出くわしてしまったわけですね」  そうです、と鳥井がうなずいた。 「争いになり、揉《も》み合った。殺意があったかどうかは不明です。野々村は窃盗が専門で、過去に暴力事件を起こした記録はありません。逮捕歴は二度ありますが、いずれも微罪です。ただ、おそらくは護身用だと思われますが、野々村はナイフを所持しており、それで佳山氏の喉を刺してしまったというわけです」  胸が悪くなった。よくまあそんな恐ろしいことを淡々と話せるものだ。  そちらを、と言って鳥井が床を指さした。入ってきた時は気がつかなかったが、靴下を履いた足先だけが見えた。それが佳山氏なのだろう。そしてフローリングは飛び散った血で汚れていた。 「死体をご覧になりますか」  キッチンからリビングへ回り込もうとした鳥井を慌てて止めた。わたしが見る必要はないと思う。見たくもないし。 「犯人は自白したのですか」  まだですが、と鳥井が首を振った。 「ついてない男ですよ。佳山氏を殺してしまい、どうしたものかと考えていたのでしょうね。そこに佳山氏が呼んだバイク便が来たというわけです。さっきの大林さんですが」  それで、と話を促すと、得意気に先を続けた。 「彼の話によりますと、チャイムを鳴らしたが返事がなかったそうです。中で人が動いている気配があったので、ドアに手をかけたところ開いた。荷物があるかと思って玄関に入ってみた。呼びかけても返事がないので、キッチンの近くまで入ったところで、倒れている足先が見えた。荷物どころか死体があったというわけです。どうなってるのかと辺りを見回すと」  そこです、と冷蔵庫と壁の間のわずかな隙間《すきま》を指した。冷蔵庫の白い扉にはっきりと血の跡が残っていた。 「そこに野々村が体を押し込むようにして隠れていたわけです。野々村はナイフを持っていましたが、大林さんは元は暴走族だったそうで」  バイク便で働く人には、そういう方面出身の方も少なくないらしい。ちなみに、交通機動隊にもけっこういる。 「ケンカは手慣れたものだったのでしょうね。さっさと押さえ付けて捕まえた。それから警察に通報し、そして我々がここにいる、というわけです」  つまり鳥井や南武蔵野署の警察官が活躍したわけではないのだ。うちの捜査官たちより、よほどさっきの大林という男の方が役に立ちそうだった。 「現行犯ですからね。野々村も認めざるを得ないでしょう」  キッチンの食器洗い機の前に、釣りに行く時に着る黄色いフィッシングベストが置かれていた。鳥井がそれを開くと、中にはさまざまな形のドライバーのようなものが収納されていた。これがピッキング・ツールです、と言った。 「このような道具で鍵を開けるわけです。野々村が持っていたものを押収しました。最初は友人の部屋を訪ねてきた、とか嘘ばかり言っていましたが、これが見つかってからはさすがに盗み目的で来たことは認めています。というわけで、現場の状況から見て、今申し上げたような経緯だったと考えられますが」  そうですか、とわたしはうなずいた。だとすれば、これで事件は終わりだ。逆に困った。  わたしは殺人事件について慣れていない。犯人は逮捕されたわけだが、それでも本庁に応援を要請するべきなのか。捜査本部を設置する必要があるのだろうか。  どうしましょう、と聞いてみたが、鳥井も首を振るだけだった。南武蔵野署管内で殺人事件が起きたのは四年ぶりだという。どうしていいのかわからないのは、わたしだけではないようだった。 「とりあえず、署に戻られてはどうでしょうか」  鳥井が提案した。そうするしかなさそうだった。現場から連絡するのもどうかと思ったので、外に出てから署長には電話することにした。敬礼してキッチンを出ると、怒鳴り声が聞こえた。 「だから、オレじゃねえんだって!」  やめなさい、と気弱な声がした。本当にさっきのバイク便の男をスカウトした方がいいのではないか。わたしたちはウェイティングルームに向かった。        5 「わかった、話は後で聞くから」  制服の警官がなだめていた。オレじゃねえんだってば、と万引きを見つかった中学生のように野々村が喚《わめ》いていた。 「泥棒に入ったのは認めるって。だけど、オレは殺してなんかいないんだってば」  後ろ手錠をしているので、立ち上がることはできない。ただあんまり暴れると、椅子のまま倒れてしまうだろう。怪我をさせるな、と鳥井が警官に目配せした。 「オレが入った時には、もう死んでたんだって」 「じゃあ、お前が入る前に誰か別の奴が殺《や》ったっていうのか」  前に出た鳥井が言った。知らねえよ、そんなのよ、とますます野々村の口調が中学生っぽくなっていた。 「わかるわけないだろうがよ」 「知ってたんだろ、ここがカヤマローンの社長の家だって」  知らねえってば、と野々村が繰り返した。 「どこだってよかったんだよ。ここの億ションなら、どこ入ったって金持ちしかいねえだろうからな」  確かにそれはそうだった。ここを買うほどの財力のある人間なら、どの家だって富裕層ということになる。 「だったら何でこのフロアに来たんだ」 「一番上だからだよ、決まってるだろうが」  犯行を目撃されないように、なるべく高層階を狙うのがセオリーだそうだ。生きてると勉強になることがいっぱいある。 「お前はこの部屋の鍵を開けた。ピッキング・ツールを使ってな。そして中に入った」 「開いてたんだよ」野々村が口を尖らせた。「バカバカしい。必死こいて鍵開けてみたつもりが、閉めちまってたんだよ。だからもう一回開けたんだ」 「それから?」 「開けてから、おかしいなって思ったよ。ここの社長は日曜日でも会社行くはずなのに、何で鍵が開いてるんだって」  語るに落ちるとはまさにこのことだ。やはり野々村はこのマンションに佳山氏が住んでいることを知っていた。  日曜日でも会社に行っていることを事前に調べた上で、留守だと思って忍び込んだ。ところが、風邪をひいていた佳山氏は部屋にいたのだ。 「それで?」  同じことを鳥井も考えていたようだ。聞き方でそれがわかった。 「逃げようって思った。嫌な予感がしたんだ。ちくしょう、何であの時逃げなかったかなあ」失敗した、と悔しそうに叫んだ。「だけど、中から変な声がして、それで何だろうって思って上がり込んじまった」  変な声って何だ、と尋ねた鳥井に、ええと、と野々村が首を傾げた。 「カエルだ。カエルが鳴いてたんだ」  カエル? この部屋に? 全身に鳥肌が立った。わたしは爬虫類とか両生類が苦手で、とにかく生理的に駄目なのだ。 「ど、どこにいるんですか」  かすれた声が勝手にわたしの口から漏れた。顔を見合わせた刑事と制服警官が交互に首を振った。 「見てませんね」 「じゃ、逃げたんだよ」  野々村が嫌なことを言った。同じ部屋にいるのなら、せめてどこにいるのかだけは把握しておきたい。 「けっこうでかい声だったから、あれって食用ガエルとかそういうのじゃねえのか」  水槽の中ですよね、とわたしは呻《うめ》いた。さっき見たリビングでカエルがいるとすれば、そこしかないだろう。  どうでしょうか、と言いながら鳥井がリビングに入った。戻った時には両手で水槽を抱えていたので、わたしは意識を失いそうになった。 「何もいませんね」水槽の中に直接手を突っ込んだ鳥井が言った。「砂とか土とか、あと、巻き貝の貝殻、それだけですよ」  廊下に水槽を置いた。お願いですから、元の場所に戻していただけないでしょうか。  それで、と鳥井が野々村に向き直った。 「それからどうしたって言うんだ」 「声をかけてみたんだけど返事がねえから、まあいいかって。何か盗むものはねえかなって、あっちの奥に入ったら」  苦しそうにえずきだした。洗面器を持ってこい、と鳥井が命じた。 「そしたら、社長が倒れててよ。抱き起こしたら首からまだ血が垂れてて、ナイフが落ちててよ」  絶対もう死んでるって思ったよ、と言いながら、警官が持ってきた洗面器を受け取った。 「それで?」 「警察呼ぼうって思ったんだ。ホントなんだよ! だけど、こっちもヤバいし、どうしようかって思ってたら、いきなりドアがガチャガチャって鳴ってよ。とにかく逃げなきゃって思ったんだけど、奥のドアは鍵がかかってて入れないし、もうどうにもならなくなっちまって、キッチンの冷蔵庫のとこに隠れたんだ」  冷蔵庫の扉に残っていた血の跡は、その時についたのだろう。パニクってたんだよ、と泣き言のように言った。 「あまりいい隠れ場所じゃなかったな」  そう言った鳥井に、しぶしぶながら野々村が首を縦に振った。 「まったくだ。入ってきたガタイのいい兄ちゃんにすぐ見つかっちまって、このザマだよ」  殴られた頬の辺りを見せた。赤く腫《は》れていた。 「床に押さえ付けられて、その場で警察に電話してたよ、その兄ちゃん。あんたらが来るまで、そのまんまだった。それでこんなことになっちまった」情けない顔で辺りを見回した。「だけど、オレじゃねえんだって。殺しなんかしてないって」  わかったわかった、と鳥井がなだめるように言った。体は大きいが気が弱い。上司だろうと犯人だろうと、正面から怒鳴られればすぐ撤退してしまうのはいつものことだった。        6  嘘ばかりついて、まったく馬鹿な男です、という鳥井に見送られてわたしはマンションを出ることにした。ここにいても仕方がない。署長に報告して、今後どうするか指示を仰がなければならないだろう。  エレベーターを一階で降りると、表の道路に桃子ちゃんがしゃがみ込んでいた。一心不乱に何か絵を描いている。 「おじいちゃん、今降りてくるよ」  一瞬だけ顔を上げた桃子ちゃんが、ドラえもんの顔に青のチョークで色を塗り始めた。妙にうまい絵だった。アスファルトに絵を描いたりする子供は今時ちょっと珍しいのではないか。さすがにおじいちゃん子を自称するだけのことはある。チョークをいつも持ち歩いているのは、わたしも知っていた。 「おや、令子さん」マンションから出てきた先生が驚いたようにわたしを見た。「偶然ですね」  忘れ物をしたので、例の老婦人のところへ取りに戻ってきたところだと言う。ワニの具合はいかがでしたか、と尋ねた。描きかけのドラえもんをそのままに、桃子ちゃんが跳《は》ねるように飛び上がって先生の腕にぶら下がった。 「いや、たいしたことはありませんでした。ご存じの通り、ワニは孤独を愛する動物です。もともとペットには向いていない。それをあの老婦人がかまいすぎるものだから、それで神経症になってしまっただけです。食事の時以外は放っておいてほしいのに、と言って」いや、と先生が言い直した。「放っておいてあげればそれでいいのです」  令子さんの方こそ、初めての殺人現場はいかがでしたか、と肩をすくめた。桃子ちゃんが先生の手を握ったまま大きく振った。  わたしは事件のあらましを語った。偶発的な殺人。不運だった犯人。下手《へた》な言い訳。 「なるほど」  歩きだした先生に桃子ちゃんがぴったりと寄り添った。わたしは半歩遅れてその後に従った。 「ずいぶんと間の抜けた犯人ですね。それで、その男がローン会社の社長を殺したわけですか」 「他には考えられませんから。盗みのためにマンションに侵入したことは間違いないですし、解錠のための道具も持っていました。供述は嘘ばかりだし、言っているのはでたらめばかりです。確かに、殺意があったわけではないと思いますが」 「令子さんもすっかり立派な警察官になられた。実に専門的です」  感心したように先生が首を振った。そうだ、警察官で思い出した。署長に連絡するのを忘れていた。連絡をしなければならない。残念だが、先生とはここでお別れということになるだろう。 「すみません、すぐに署に連絡をしないといけないので」  先生がまばたきした。 「令子さん、佐久間署長にどう話すおつもりですか」  どう話すと言われても、あったことをあったままに話すだけだ。脚色しても仕方がないし、だいたい誰のために話を作る必要があるのだろう。なるほど、と先生がうなずいた。 「令子さんはわかりやすい話がお好きなようですね」  もちろん、とわたしは眉毛《まゆげ》の辺りを掻いた。小難しい芸術映画より、単純明快なハリウッド映画の方が好きだ。小説よりマンガが好きだし、流行《はや》りものにも弱い。だけど、それがどうしたというのか。 「いや、そういう意味ではなく」先生がちょっと困ったような表情を浮かべた。「つまりあなたはその野々村という男が嘘をついていると思っている。だから彼が犯人だ、そういうことですね」  わたしの考えはもっと簡単だった。殺害時の返り血を浴びて隠れていた野々村。バイク便の男に見つかり、そのまま警察に通報された。そして逮捕された。ただそれだけの事件だろう。 「先入観というのは厄介なものです」うつむいた先生が頭を振った。「確かにその男は嘘をついています。窃盗目的でマンションに侵入したことを隠そうとして、下手な嘘をついたばかりに、その嘘を隠そうとして余計におかしなことを言い、あなた方に疑われる結果を招いた。ですが、その男は本当のことも言っていますよ」  何だと思いますか、と聞かれた。わかりません、とわたしは答えた。わたしが得意なのは正解がひとつしかないタイプの問題だ。ではもう少しわかりやすく、と先生が小さく咳をした。 「水槽は何のためにあの部屋にあったのでしょうか」  よけいわからなくなった。先生、はっきり言ってください、とわたしは少しいらいらしながら尋ねた。つまり、と先生が言った。 「野々村という男が言った通り、あの部屋にはカエルがいたのです」        7  カエル。それがいったいどうしたというのか。 「野々村はカエルの鳴き声がしたので、いったい何かと思って部屋に入ったと言っています。つまりその部分は嘘ではなかったのですね。入口が嘘だから、話していることすべてが嘘だとあなた方は判断した。いや、無理もない。先入観というのはそういうものです。そしてその野々村という男も悪い。最初からすべてを正直に話していれば、もう少し状況も変わっていたはずなのですが」 「カエルがあの部屋にいたはずがありません」わたしは反論した。「わたしの説明不足かもしれませんが、現場には通報直後に警察官が直行しています。そしてその間、誰も九階フロアから下に降りた人間はいないのです。そしてカエルを見た者もいません。野々村本人も見てはいないと自分で言っています」  どこにカエルは消えてしまったというのか。ちょっとした隙に開いたドアから逃げたかもしれない。だが、通路のガラス製の壁は一・三メートルほどあった。いくらジャンプ力がすごい動物とはいえ、壁の向こうまでは飛べないだろう。  マンションのリビングの続き部屋へのドアは鍵がかかっていた。もちろん、広い部屋だから、どこかに隠れている可能性はある。カーテンの陰《かげ》、椅子の裏、キッチンのどこか。  確かに鳥井以外はリビングの奥に入っていないし、捜してもいないからカエルはいるのかもしれないのだが。いいえ、と先生が首を振った。 「あなた方はカエルを見ています」  先生はいつからこんなに人の話を聞かなくなったのだろう。これではその辺にいる頑固一徹な老人と変わらない。 「いや、正確にいえばカエルの残骸《ざんがい》というべきでしょうね」  残骸? ますます意味がわからない。脱皮したということなのか。いや待て。そもそもカエルって脱皮する動物なのだろうか。 「それでは令子さん、もうひとつ質問します」先生がクイズ番組の司会者のように厳粛な表情になった。「水槽の水はどこへ消えたのでしょうか」 「水槽の水?」 「ねえ、令子さん、おかしいとは思いませんか。水の入っていない水槽なんて、何の役に立つというのでしょう。佳山氏はなぜそんなものをリビングに置いていたのでしょうね」  水槽とは何をもって水槽というのか、と哲学的な表情を浮かべながら先生が顎に指をかけた。そうですね、とわたしも同じポーズを取った。足元で桃子ちゃんも同じように首を傾げていた。なるほど、先生の言いたいことが少しわかってきた。 「確かに、水が入っているからこそ水槽ですよね……でも、水はありませんでした。確かに」  わたしが見た時もそうだったし、鳥井が運んできた水槽に水が入っていなかったのは間違いなかった。だとすると、と少し迷いながら答えた。 「熱帯魚とかを飼っていたわけではないんですよね。だとしたら、例えばヘビとかトカゲとか……あるいは、先生がおっしゃる通りカエルを飼っていたのかもしれませんね」  カエルがどこに消えたのかはともかく、論理的にはそう考えることも可能だった。だがわたしの答えに、いいえ、と先生が首を振った。  何を言っているのか本格的にわからなくなってきた。ついさっき、あなた方はカエルを見ています、と自信たっぷりに言っていたではないか。 「水がない以上、当然魚はいなかった。それはわかりますよね。しかしヘビにしてもカエルにしても、彼らにとって水は絶対必要なものです。にもかかわらず、水槽の中に水はなかった。いったい何を意味しているのか」  先生、とわたしは低い声で言った。答えを今すぐ言っていただけないのなら、何をするかわかりませんよ。 「すぐ言います」先生が少し怯えたような表情を浮かべた。「あなたはもうひとつ、こう言った。水槽の中に巻き貝の貝殻があったと。それがさっき申し上げたカエルの残骸です。もっとはっきり言えば、ヤドカリの家です」 「ヤドカリ?」  ご存じないのも当然です、と先生がつぶやいた。 「沖縄に生息するナキオカヤドカリという種類の個体がいます。本来天然記念物ですから、飼っていること自体違法なのですが、まあそれはおいておくことにしましょう。これは驚くべき習性を持っていましてね。ヤドカリなのに鳴くのです。しかも、カエルのような声で」  ヤドカリが鳴く? 「自分の脚と貝殻をこすり合わせて音をたてると言われています。ですから鳴くというのが正しいかどうかはわかりません。むしろ、カエルの鳴き声のような音をたてる、という方が正確でしょう。私も実際にこの耳で聞いたことはまだありませんが、壁を通しても聞こえるほどの音といいますから、かなり大きな音なのでしょう。その野々村という男は、ナキオカヤドカリの声をカエルの鳴き声と思って、部屋に入っていったのです」  さて、そうやって考えてみると、と先生が両手を開いた。 「野々村の供述は嘘ではなかったことがわかります。確かに、彼は窃盗のために佳山氏の部屋に押し入ったのでしょう。ドアを開いた時、カエルの鳴き声が聞こえてきた。妙な気配を感じて、リビングに入っていった。そして死体を発見した。まだ首から血を垂らしている死体をね。そして後から入ってきたバイク便の男に捕まった」 「カエルはどっちでもいいと思うのですが」  問題は、野々村が佳山氏を殺したかどうかだ。だがその時わたしも気づいた。今まで見逃していたことがひとつあった。バイク便の男は、どこから現れたのだろうか。さすがは令子さんです、と先生が言った。 「野々村が宅配便業者を装ったように、バイク便を装った男がいてもおかしくはないでしょう。もし、入ってきた順番が逆だったとしたら。つまりバイク便の男が部屋に押し入り、佳山氏を殺した時、ドアの外で鍵の開く音がしたとしたら。そして、玄関脇のウェイティングルームに入り、息を殺して何が起きるのかを見つめていたとしたら」  情景を思い浮かべてみた。玄関の鍵がピッキング・ツールで開かれる音。とっさにウェイティングルームに隠れた男。入ってきた野々村。死体を見つけて、どうしていいのかわからず途方に暮れている。  もちろん、その後ろから忍び寄って、野々村を殺してしまうこともできただろう。だが男はもっといい考えを思いついた。殺すのではなく、犯人に仕立て上げてしまえばいい。ピッキングで入ってくるような男だ、叩けば埃《ほこり》が出るに決まっている。  そこで男は一度ドアの外に出てから、わざと音をたててドアを開いた。野々村も同じようにどこかに隠れるに決まっていた。  慌てたのか、野々村はナイフを拾い上げて冷蔵庫の陰に隠れた。そして善意の第三者を装い、男は野々村を捕まえて警察に通報した。  もしかしたら、わたしたちは最初から事件に対して予断を抱いていたのかもしれない。先生の言う通り、先入観があったのではないか。  窃盗しかやったことがなく、死体さえ見たことのない男が他殺体を前にしてどれだけ混乱したか、それを考えていなかったのではないか。 「これは仮にですが」先生が補足するように言った。「その大林という男は本当にバイク便のドライバーなのでしょう。身元も確認したわけですから。だとしたら、以前にも佳山氏の部屋に荷物を届けに行ったことがあるかもしれませんね。そしてそこで金目のものがありそうだとふんだ。それ以来、盗む機会を狙っていたとは考えられませんか。つまり、大林が言っていた証言は、野々村ではなくすべて自分のしていた行動だったかもしれませんよね」 「すぐ確認します」わたしは携帯電話を取り上げた。「バイク便の男が野々村より先にマンションに入っていたとしたら……」  その前に南武蔵野署に電話をしてみたらどうですか、と先生が言った。 「そのバイク便の男は状況を説明するために署に行くと鳥井刑事に言ったそうですね。本当に彼は署に向かったのでしょうか。もしまだ着いていないようなら」腕にはめていた旧式の時計に目をやった。「おかしな話になると思いませんか。瞬時にして野々村を罠《わな》にはめるほど頭の廻《まわ》る男です。もしかしたら、もうとっくに逃げているかもしれませんね」  わたしは忠告に従って刑事課に連絡を入れた。電話に出た刑事に事情を話すと、すぐに答えが出た。 「誰も来ていないそうです」  それはよかった、と先生がうなずいた。 「これで令子さんも迷わなくて済みます。本庁の応援を至急要請した方がよろしい。こういう時、警察ではそんなふうに言うのですよね」  その通りだった。わたしはつながったままの電話に向かって、すぐ署長と話したいのですが、と言った。 [#改ページ]  笑う猫        1  吉祥寺には二つの名物屋敷がある。  ひとつは駅の南口から井ノ頭通りを数百メートル行った右側にあるゴミ屋敷だ。テレビでも何度か特集されたことがあるし、わたしも何度かゴミ回収に立ち会ったことがある。まあ、とんでもない家だ。  どうしてそうなったのかわからないが、ゴミ屋敷の主である老婆は、数十年の長きにわたり、自分が出すゴミだけでは飽き足らず、毎日毎日雨の日も風の日も朝から近所を回って、落ちている紙くずや煙草の吸殻、ジュースや飲み物の缶やペットボトル、運ぶことができる場合は不法投棄の粗大ゴミに至るまで、何でも自宅に持ち帰るようになっていた。  彼女は集めたゴミで、庭の塀に沿ってバリケードを作った。遠くからだと、ガウディの建造物のように見えるほどだ。それはバベルの塔のようにどこまでも高く積みあがり、老婆の家の近くを通る時は頭上に注意しなければ危険なほどだった。  市役所も対処に苦慮していたのだが、市民からの訴えが相次ぎ、とうとう重い腰を上げた。わたしたち南武蔵野署に、市条例違反の疑いで取り締まってほしいと言ってきたのだ。  担当することになったのはわたしだった。何しろ相手が高齢者ですので、副署長に出ていただかないといろいろマズいでしょう、と署の広報課長は説明したが、たぶん誰もやりたがらなかっただけの話だと思う。  何しろわたしは南武蔵野署の副署長という重い肩書こそあるものの、実際の仕事は何もない。キャリアであるわたしに重要な職務を与えた場合、何か問題があった時、署長はもちろん、方面本部長クラスまでが責任を取らざるを得ないことになるため、各関係者合議の結果そういう結論になったのだという。  だからわたしのところに来る仕事は、どうでもいいようなことばかりだった。わたし自身、警察官になりたかったわけでもなく、犯罪捜査など興味もなかったから、それはそれでよかったのだけれど、時々こういう損な役回りを押し付けられることもある。  四トンのゴミ回収車五台でゴミ屋敷に乗りつけ、庭及び室内のゴミすべてを回収した。老婆は泣き叫ぶし、誰もなだめることはできないし、この一年で最も厳しく辛い仕事だったといえるだろう。  その結果、ゴミ屋敷はすっかりきれいになった。老婆は相変わらず毎朝ゴミの収集に余念がないという話も聞いているが、いいかげん高齢だし、それほど不安はない。それよりも問題なのは、今わたしが直面している猫屋敷事件についてだった。        2  猫屋敷はゴミ屋敷と駅を挟んで完全な逆方向の、住宅地にある。  やはりこちらも家主は老婆だ。大伴美佐江《おおともみさえ》といって今年八十五歳になるという。  もともとその辺りの土地持ちの一人娘だった彼女は、十八歳の時に結婚した。ずいぶん早い嫁入りに聞こえるかもしれないが、要するに戦争のせいだ。いいところのお嬢様だった彼女には降るように縁談があり、最も良い話というのが陸軍大佐の息子だったという。  今のわたしたちにはわからないが、当時の価値観というのは、そういうものだったのだろう。だが悲しいことに夫はすぐ出征し、中国大陸で戦死した。唯一の救いは、その前に彼女が身ごもっていたことだ。  十九歳で生まれた男の子はすくすくと育ち、大伴家の跡取りとなった。生きていれば六十六歳ぐらいのはずだが、二十七歳の時妻と一緒に乗っていた飛行機の事故で亡くなったという。  父親が戦死したのも二十七の時だったそうだから、それも何かの因縁なのか。その息子も死ぬ直前に子供をもうけていたから、本当にそうなのかもしれない。  息子を亡くした大伴美佐江は、ひどく落ち込んだ。夫を早く亡くしていた彼女にとって、息子だけが生きる支えだったのだ。失った息子への愛情を埋めるため、心を込めて孫の正人《まさと》を育てた。  だがその想いが報われることはなかった。孫息子は今年で四十一歳だというが、中学までは家庭内暴力、高校からは今で言う引きこもりになり、今日に至るまで部屋に閉じこもっているという。カウンセラーの判断では、社会復帰の見込みはほとんどないらしい。  もちろんすべては私が生まれる前の話で、これは佐久間署長から聞いた話だ。署長は武蔵野市に住んで長く、市史についても詳しかった。 「かわいそうな人なんです、美佐江さんは」 「そうですね」  よく陽の当たる署長室で紅茶を飲みながらわたしはうなずいた。  昔の地主だから、所有している土地は広かった。家族の縁に恵まれなかった美佐江お婆《ばあ》ちゃんは、口も利いてくれない孫との二人暮らしに耐えかねたのか、捨て猫を拾っては育てるようになったのです、と署長が言った。 「まあ、彼女は寂しかったんでしょうね」  一匹だけならよかった。二匹でも、何の問題もないだろう。だがこの十年ほどで、猫たちは倍々ゲームのように家族を増やし、今では五、六十匹近い数が美佐江お婆ちゃんの家に住んでいるという。  正確な数は誰も把握していない。お婆ちゃん自身もわかっていないのではないか。 「近隣住民から、さすがにちょっと抗議が来ていまして」  佐久間署長がティーカップを置いた。話の流れがやっとわたしにも理解できるようになっていた。朝、署に着くといきなり呼ばれたので、おかしいと思っていたのだ。 「特にこの一週間ほど、猫たちの夜鳴きというんでしょうか、声がうるさいと。まだ春とはいえ、いわゆるさかりの季節は終わっていると思うのですが……失礼」  署長が顔をしかめた。いえ、とわたしはちょっとだけ下に顔を向けた。 「それから、臭いですね。何しろその数ですから、飼い猫というより野良猫に近い。手入れも行き届かないでしょう。実は私も先日近所まで行ってみたのですが、獣臭いというか腐敗臭というか、とにかくひどいものです」  近隣住民の話では、洗濯物に臭いがうつるほどだそうです、と署長が鼻に皺を寄せた。 「そうなんですか」 「ともあれ、いくら広い家とはいえ、五、六十匹の猫というのは常識的といえないでしょう。美佐江さんはまだ元気ですが、何しろ八十五です。いつ何があってもおかしくない。先ほども言った通り、騒音、悪臭について近隣住民からも強い抗議があります。市の条例でも、明らかに迷惑行為ということになりますので、誰かが美佐江さんを説得しなければならないわけですが」  要するに、その役目をやってくれないか、ということだった。前にもこんなことがあった。南武蔵野署では、老人関係の問題はわたしに押し付ければいい、と考えているのではないか。 「わかりました」  わたしは立ち上がった。ひとつは、警察では上の命令が絶対であるためだが、もうひとつはわたしがものすごく暇だったからだ。  更に言えばわたしは動物が大好きで、犬の方が好きだが猫も嫌いではない。それが五、六十匹もいるというのなら、見ないわけにはいかないではないか。 「申し訳ありませんね」佐久間署長が深々と頭を下げた。「美佐江さんの家には親戚の娘さんで、何と言ったかな……そうだ松前佳美《まつまえよしみ》さんだ。その人が時々、通っているそうです。美佐江さんは親戚の縁も薄い人で、彼女ぐらいしか親しい人はいません。今日の午後から彼女は大伴の屋敷にいるはずです。連絡はしておきますので」  実は、この件は彼女からの依頼なのです、と署長が囁いた。つまり、親類縁者も持て余しているということなのだろう。わかりました、ともう一度答えてわたしは署長室を出た。        3  署を出る前に、わたしは一本電話を入れた。相手は駅の近くで動物病院を開いている土井先生だ。  有名な猫屋敷について、前にも先生と話したことがあった。六十を過ぎてなお子供のような好奇心に溢れている先生が、一度五、六十匹の猫を見てみたいものです、と言っていたのを思い出して電話をかけてみたのだ。  飼い主の美佐江さんが病気の猫を連れてきて治療したことはあったが、まだ家に行ったことがないんですよ、と先生は残念そうに言っていた。  折りよく在院していた先生は、わたしの誘いにすぐ乗ってきた。今日は水曜日で、午後は週に一度の半休日だという。患畜もいないことですし、せっかくの令子さんからのお誘いですから、と言うが、実際には先生も興味津々だったのだろう。  昼食の後、覆面パトカーで動物病院に乗り付けると、玄関先でオリーブグリーンの春らしいシャツと茶色のジャケット、シャツの首の周りに柄の入ったスカーフを巻いた先生が待っていた。 「いや、こんな嬉しい話はありません。五十匹の猫!」パトカーの後部座席に乗り込んできた先生が勢いよくドアを閉めた。「アニメか映画の世界でしかあり得ないと思っていましたが。百一匹猫ちゃん大行進ですね」  いつものように鳥井刑事が運転手を務めてくれている。行きますか、と相変わらず覇気のない声で言った。  車が五日市街道を走り始めた。わたしはさっき署長から聞いたばかりの話を先生にも伝えた。 「聞いています」先生がちょっと難しい顔で答えた。「実は、令子さんですから率直に言いますが、彼女はガンを患っているようです」  友人の主治医から聞いたのだという。先生は、生まれてこのかた吉祥寺|界隈《かいわい》から出たことがないという筋金入りの武蔵野っ子だ。  市内の重要人物については、何でも知っているといっていい。医者で同業ということもあるのだろうが、大伴美佐江さんの病状などについても詳しかった。 「本人にも告知は済んでいるそうですが、あまりよくないようですね。余命は半年ほど、何度も検査をした結果なので間違いはないとか。全身に転移しているし、高齢ということもあって、手の施しようがないと聞きました。美佐江さんのことは昔から知っていますけど、どうも私などから見ると、大伴の家はお金持ちで有名でしたが、あんまり幸せではないような気がしますね。余計なお世話ですが」  そういう話というのは、どこからか漏れ伝わるもので、いきなり親戚を名乗る人が増えたらしい。だがお婆ちゃんはそんな人たちを相手にせず、孫と甥《おい》夫婦に財産を分ける、と宣言した。  今は甥夫婦の娘が時々様子を見に通っているという。それが署長の言っていた佳美さんという人のことなのだろう。 「娘といっても、三十近いはずです。令子副署長より少し上でしょうか。いつだったかな、美佐江さんのガンの告知を受けて、彼女が相談しに来たこともあります。お婆ちゃんが亡くなったら、猫をどうすればいいだろうか、と」 「どうするんですか」 「常識的に考えれば、保健所で処分するということになるでしょうね」  先生が暗い顔になった。先生の嫌いなものは、一にペットショップ、二に保健所だ。 「佳美さんという人は、どうしてそんな相談を」  財産相続の問題です、と先生が言った。 「大伴の家は三十年ほど前に建て直したと思いますが、そこそこ古い屋敷です。美佐江さんが猫を飼い始めたのはその頃からですが、五、六十匹もの猫が住み着くようになってもう十年は経っているはずです。正直なところ、家屋にも臭いがうつっているでしょうから、価値はほとんどないかもしれません。ただ、あの広さですからね」  わたしも話には聞いていたし、車で通りかかったこともある。美佐江お婆ちゃんが住んでいるのは武蔵野市の中でもかなり高級な住宅街といっていいだろう。  そこに二百坪もの土地を持っている美佐江お婆ちゃんの遺産を巡って、周囲の親類縁者の中にいろいろな思惑があるのも、わかるような気がした。 「佳美さんは、肉親の少ない大伴の家でも数少ない美佐江さん直系の親類です。孫の正人さんが、未だに引きこもりを続けている以上、甥夫婦が財産の管理を任されることになるはずです。正人さんにはその能力がありませんから。これはもう弁護士さんとも相談が済んでいるそうです」  先生はずいぶんと事情に通じていた。そうなんですか、とわたしはうなずくしかなかった。 「正人さんを施設に預けることの方が簡単だそうですね」先生が話を続けた。「猫の方がよほど難しい。昔から言いますが、犬は人につき、猫は家につく。佳美さんとしては、猫を保健所に送るのも寝覚めが悪いので、何とか穏便に処分できないだろうか、と私に相談してきたのですが、いったいどうしたものやら」  見えてきました、と鳥井刑事が右側を指さした。大きな平屋建ての建物がそこにあった。        4  佐久間署長が連絡をしてくれていたおかげで、佳美さんが玄関に出迎えてくれた。ちょっと痩せ気味で顔色が暗かったが、感じの悪い人ではなかった。 「すみません、わざわざ」  まあ、先生! と佳美さんが大声を上げた。にこにこと微笑んでいた先生が軽く頭を下げた。 「無理を言って、連れてきていただきました」  わたしと鳥井刑事の紹介は先生がしてくれた。とりあえずお上がりください、と用心深く周囲を見渡していた佳美さんが玄関のドアを開けた。  いきなり、十匹ほどの猫がもつれあうようにして飛び出してきた。リアルなアニメのような光景だった。そのまま庭の方に走り去っていく。 「ごめんなさいね。びっくりしたでしょう」  佳美さんが言った。確かに驚いた。猫も十匹いるとちょっと怖い、と教えられたような気がした。 「あの、廊下とか、なるべく真ん中を歩いてくださいね」申し訳なさそうな顔で佳美さんが言った。「たまになんですけど、猫がおしっことかしてることがあるんです。もう、お婆ちゃんは全然お掃除とかするつもりがないみたいで。あたしは気がついた時に拭《ふ》き掃除したりしてるんですけど、毎日来ているわけでもないですし、何しろ広い家なので行き届かなくて」  言われるまでもなく、家に入った時から妙な臭いが漂ってきていた。正確に言えば、パトカーを降りた瞬間から何ともいえない複雑な臭いがしていたのだが、家に近づけば近づくほどその臭気は激しくなる一方だった。これが問題の悪臭なのだろう。  どこまでも果てしなく続くように見える廊下を、佳美さんの後に続いて歩いた。どこからかうるさく猫の鳴き声が聞こえてくるし、臭いはどんどんすごくなってくるし、確かに近所に住んでいる人は大変だろう。  通されたのは突き当たりにある六畳ほどの小部屋だった。裏庭に面したその部屋には大きなガラスのサッシがあって、外が見える。四匹の子猫がじゃれあっていた。  庭は手入れされているわけではないが、自然な形で春の草花が咲き乱れ、それはとても素敵な光景だった。  佳美さんがつけっぱなしになっていたエアコンにリモコンを向けた。風力が大きくなったのが音でわかった。 「ごめんなさいね」小さなテーブルにわたしたちを座らせた。「でも、この部屋はまだましな方なんです。狭いから、空調を利かせれば臭いも薄くなりますし。他の部屋はもう全然、お客様をお通しできないぐらい臭いがきつくて……まあ、お婆ちゃんは平気みたいなんですけど」  テーブルの上に用意してあった急須にポットからお湯を注いだ。確かに廊下と比べればまだましだが、それでもやっぱり臭いは残っている。  佳美さんが戸棚から湯呑みを取り出して、わたしたちの前に三つ並べた。難しいところだ。好意には感謝したいが、臭いが染み付いているような気がして手を出しにくい。 「あの、これはきれいですから」  さっき台所で洗ってきたばかりですからと盛んに勧めるので、わたしたちはそれぞれおっかなびっくりにお茶を飲んだ。土井先生でさえも、どうしたものか、という表情を浮かべていた。 「美佐江さんには、話していただけているのでしょうか」  先生が言った。ええ、まあ、と要領を得ない答えが返ってきた。 「ご近所さんからも迷惑がられているというのは伝えているんですけど、お婆ちゃんも猫のことになると頑固っていうか……」  高齢ではあるが、別に認知症というわけではない。もともと頭のいい人だったが、歳を取ってもそれは変わっていないそうだ。ガンに蝕《むしば》まれてはいるが、肉体的にはまだ元気だという。 「ただ、猫のことだけは譲らなくて」こぼすように言った。「自分が生きている限り、猫は誰にも渡さないって」  弱りました、とつぶやいた。廊下を何匹か、あるいは何十匹かの猫が走っていく凄まじい音が聞こえてきた。 「確かに、難しい問題ではありますが」先生がわたしを見た。「こうして、事を荒立てないために、わざわざ副署長がお見えになっているわけですから」 「はい。お婆ちゃんのことを考えると、強引なことはしたくありませんし。お婆ちゃんにとって、猫たちはたぶん息子さんの生まれ変わりのように思えているはずですから」  わたしと先生は互いを見つめた。気持ちはわからなくもない。  二十七歳という若さで死んだ息子夫婦のことを思えば、やりきれない思いもあっただろう。その鬱屈《うっくつ》を、猫をかわいがることで晴らそうとしていたのだ。 「典型的な代償行為です」診断を下すような声で先生が言った。「世間でもよくあることです。佳美さん、あなたに責任はありません」 「もうちょっと、あたしたち親類がしっかりしてたら、こんなふうにはならなかったと思うんです。正人さんもあんなだし、あたしたちが……」  うつむいた佳美さんの目から涙がひと粒こぼれた。その時、わたしの隣から別の泣き声が聞こえてきた。 「どうしましたか」  尋ねたわたしを世にも情けない顔で見ていた鳥井刑事が、ゆっくり腰を上げた。お尻の下に鼠《ねずみ》の死骸があった。        5  どうして座る時に気がつかなかったのだろうか。  ボクはついていないんです、と鳥井刑事が中腰のまま泣き言を言った。 「いつでもそうなんです。ボクの座る椅子が壊れてたり、ボクの買ったハンバーガーだけ腐ってたり、もらったばかりのお年玉をなくしたり」  いきなりそんな告白をされても困るが、確かに鳥井刑事はそういう人だった。だいたい、事件性のないこんな役目を押し付けられること自体が、彼の気の弱さと運のなさを表している。  そんなことはいいから、とにかくズボンをきれいにした方がよいでしょう、と先生が言った。いつものことながら、先生の指示は冷静であり的確だ。  佳美さんが着替え用のジャージを持ってきてくれた。わたしたちは着替え始めた彼一人を残して廊下に出た。かなり強い臭いが鼻を刺激した。  幸い、思っていたより早く、ズボンをはき替えた鳥井刑事が出てきた。わたしたちは揃《そろ》ってお風呂場に向かった。お婆ちゃんが猫を飼い始めた頃に改装したという風呂場は、意外ときれいだった。  その中だけは臭いも薄いようだ。ボタンを押すだけでお湯も出るはずです、と佳美さんが教えてくれた。 「はず?」  ズボンを持ったままの鳥井刑事が聞いた。たぶん、と佳美さんが答えた。 「あたしも、ここでお風呂に入ったことはないんです」  彼女がこの家に通うようになったのは、それほど前の話ではない。時々、何かあったらいけないということで様子を見に来るだけなので、泊まったりするわけではないという。入浴もしていないそうだ。  蛇口をひねっていた鳥井刑事が、ああ、お湯が出た、と嬉しそうに言った。ズボンを広げて、汚れた部分を手でこすり始めた。 「あの、すみません、石鹸《せっけん》とかないですか」  言われてみれば、風呂場に石鹸はなかった。シャンプーの類《たぐい》はあるが、備え付けられている金属製の棚に石鹸は載っていない。 「あるはずですけど」  佳美さんが台所に向かった。流しの下の棚を開いている。 「前、見たんです。お婆ちゃんは古い人だから、頂き物は何でもちゃんと整理して、取っておくんです。石鹸とか日用品はこの棚に……」  老人にありがちな話だ。贈答品の包み紙から紐《ひも》まで取っておく。わたしの祖母もそうだった。何十年にもわたって溜《た》め込んでいるうちに、とんでもない量になったものだ。  奥まで手を伸ばして、あちこち探っていた佳美さんが、おかしいですね、と首をひねった。 「前は確かにここにあったんですけど。すごい数の石鹸があったのに、どこか別の場所に移したのかしら」  いいです、と風呂場から鳥井刑事の声がした。 「シャンプー使いますから。使っていいですよね」 「シャンプーで汚れは落ちるんでしょうか」  囁いたわたしに、どうでしょう、と懐疑的な眼差《まなざ》しで先生が肩をすくめた。 「本来、そういう使い方を想定したものではないと思いますが」  どうしたんだい、というしわがれた声が聞こえてきて、リビングの奥にあった障子が開いた。  入ってきたのは上品な老婆だった。もちろん、この猫屋敷の主人である大伴美佐江さんだろう。 「お婆ちゃん、どちらに」 「庭だよ」  佳美さんの問いにそう答えた。高価そうではないが、こざっぱりした和服の膝のところが土で汚れていた。  最近の八十五歳は元気だな、と思った。腰が曲がったりしているわけではないし、かくしゃくとした、という表現がそのまま当てはまりそうな人だ。 「それで、こちらは」  わたしたちを見た。昨日、電話で話したじゃありませんか、と佳美さんが説明してくれた。申し訳ないけどね、といきなり顔をこわばらせた。 「あんたたち役所の人はそう言うけどね」  どこで話がずれたのかわからないが、わたしたちは市役所から来たことになっているらしい。確かに役人なのは間違いないので、そのままにしておいた。 「何とかならないかね。あの子たちは、他に行くところもないかわいそうな子なんだよ」  迷うことなく、猫たちのことを�あの子たち�と言った。自分の子供も同然なのだろう。気持ちはわかるが、苦情が出ているのは事実なのだ。 「あんたたちお役所はいっつもそうだ」  すごい勢いでまくしたて始めた。年のわりになのか、それとも年のせいなのか、パワフルなお婆ちゃんだ。やっとの思いでわたしは口を挟んだ。 「南武蔵野署副署長の立花と申します」  ああそう、とぶっきらぼうにお婆ちゃんが答えた。 「先生からも伺ってますけどね」  土井先生とは昔からの知り合いだそうだ。猫が病気になるたび、土井動物病院に連れていっていたという話は、先生からも前に聞いていた。 「率直に申し上げますが」わたしは話を始めた。「お婆ちゃんが家で飼っている猫の数は、やはり非常識かと思います。五十匹ぐらいいると聞いていますが」 「まさか」いったい誰がそんなことを言ったんだい、と首を傾げた。「そんな、五十匹なんて」 「では、何匹ぐらいいるんでしょうか」  先生が横から聞いてくれた。お婆ちゃんが立ったまま膝を叩いた。 「昨日で八十八匹になったよ」  二匹の母猫が子供を産み、その数になったという。まだまだこれからも増やすつもりだよ、と嬉しそうに続けた。 「お婆ちゃんが猫を飼っていることについて、抗議をしに来たわけではないんです」  そんな顔をされても困る。わたしは説得に努めた。 「ペットを飼うことはもちろん自由です。ただ、八十八匹もの猫がいれば、周囲に住んでいる人たちの環境を損なうおそれがあります。現に、住民の皆さんからは、猫の声がうるさくて眠れない、あるいは猫の体臭もしくは糞便《ふんべん》などの悪臭がひどいという訴えもあります。特にこの一週間ほど、ますますひどくなる一方だとか」  猫の数が増えるに従って、騒音や悪臭はひどくなっていくだろう。数の論理というものだ。 「知らないよ、そんなこと」虚勢を張るように声を荒らげた。「じゃあ、うちの子を始末しろと言うのかい?」 「ですから、それを相談しに来たんですよ」  先生が優しく言った。お婆ちゃんが本当の猫みたいに毛を逆立てた。何だか、とんでもなく不人情なことをしているような気がしてきた。 「まあ、いいだろ。とにかく、こんなところで立ち話というのもなんだから、あたしの部屋にでも来るかい」  そう言ったお婆ちゃんが、ところであの人は何をしてるのかね、と不思議そうに風呂場の鳥井刑事を見た。佳美さんが小声で説明した。それなら、と洗面所の下にあった戸棚から洗濯用の洗剤を取り出した。 「これを使えばよろしい」  ありがとうございます、と嬉しそうに鳥井刑事がうなずいた。        6  ズボンを洗っている鳥井刑事を残したまま、わたしたちはまた長い廊下を歩いて、玄関の横にあるというお婆ちゃんの部屋に向かった。途中で佳美さんが、ここが正人さんの部屋です、と囁いた。  重そうな木製のドアがあった。もちろん、ドアは閉まっていた。 「申し訳ないね、迷惑ばかりかけて」お婆ちゃんが首を振った。「放っておいてやってくれないかね。どうせ、出てきやしないんだから」  引きこもりだという孫の部屋だった。ずいぶんと時代を先取りした人だ。  こそりとも物音のしないその部屋の前を通り過ぎ、お婆ちゃんが玄関脇にある引き戸に手をかけた。 「令子さん」先生が両手を体の前に上げた。「気をつけて」  そうだった。わたしは飛び出してくる猫の大群に備えて身構えた。だいじょうぶだよ、とお婆ちゃんが苦笑しながら引き戸を開けた。  広い和室だった。もう暖かくなっているのだが、部屋の中央にコタツが置かれていた。便利なものでね、と言い訳して、お婆ちゃんが中に入っていった。  いきなり部屋の中で何かが動いた。もちろん、猫だ。白、黒、茶、三毛。十五、六匹はいるだろうか。  一斉に動きだした猫たちが、お婆ちゃんに近づいてくる。まあまあ、とお婆ちゃんがそれこそ猫撫で声で言った。 「あんたたち、寂しかったのかい。ちょっとお婆ちゃんがいないだけで、そんな顔して」  近寄ってきた先頭の三毛猫がお婆ちゃんの手をなめた。嬉しそうな顔をしている。  明らかに、猫は笑っていた。 「猫も笑うんですね」 「当たり前だよ」振り向いたお婆ちゃんが言った。「猫だって嬉しい時や楽しい時は笑うさ。この子たちは頭がいいからね。自分をかわいがってくれる人のことは、わかるんだよ」  後から後から、猫たちがお婆ちゃんのところへ挨拶しにやってくる。しゃがみ込んだお婆ちゃんがいちいち声をかけていた。  ジロー、ごめんね、寂しかったかい。ハロルド、相変わらず男前だね。涼子、ムサシとはうまくいってるのかい。  猫たちもまた、お婆ちゃんによく懐いているようだった。差し出された手をなめるたび、それぞれが笑みを浮かべていた。  わたしも真似《まね》して手を出してみたが、近づいてはくるものの、あまり相手にはしてもらえなかった。  少なくとも、笑いかけてくれはしない。無言のまま手のひらをなめて、そのまま去っていくだけだ。 「さあ、ちょっと話があるからね。大事な話だから、邪魔しないでちょうだい。お部屋から出て、お外で遊んでおいで」  鶏を追うように、お婆ちゃんが猫たちを部屋から出した。数えてみたら十五、六匹どころではない。三十匹以上の猫たちが鳴き声を上げながら廊下に出ていった。  座りなさいよ、とお婆ちゃんがコタツを指さした。座布団の周りにたくさんの猫の毛が落ちている。猫アレルギーだったら、一秒だってこの家にはいられないだろう。  お茶でも淹《い》れるかね、とお婆ちゃんが言ったが、さすがにこの部屋で飲む気にはなれない。丁重にお断りした。 「とにかく、何と言われても、あの子たちをこの家から追い出すつもりはないよ。それともあれかね、警察はどこかかわいがって飼ってくれる家とかを捜してくれるのかい?」  一匹二匹ならなんとかなるでしょうけど、とわたしは腕を組んだ。 「お婆ちゃんが猫たちをかわいがっている気持ちはよくわかります。わたしも動物は大好きですから。ただ、八十匹というのはあまりにも」 「八十八匹だよ」  お婆ちゃんが訂正した。すみません、と頭を下げた。 「どちらにしても、あまりに多すぎます。個人で管理できる数ではありません。先ほどうちの署の刑事が鼠の死骸の上に座ってしまいましたが、鼠ではなく近所の赤ちゃんを襲ったりするかもしれないでしょう。その責任はどう取るおつもりなんですか」  極端な例だが、ないとはいえない。猫は肉食動物なのだ。 「うちの子は赤ちゃんを食べたりなんかしないよ」  お婆ちゃんが真面目な顔で言った。 「もちろん、わたしもそう思いますが、万が一のことを申し上げているつもりです。それに、もっと現実的な問題が既に起きているんです。気づいてますか、猫たちの鳴き声に」 「生きているから、鳴くんだよ」仕方のないことだろ、とお婆ちゃんが答えた。「それなら、お向かいの佐伯《さえき》さんのところでこの前生まれたばかりの赤ん坊なんだけどね、朝から夜中までずっと泣いてて、もううるさくて困るんだよ。だけどね、あたしは文句なんか言うつもりはないよ。赤ちゃんは生き物だからね。泣くのは当然だろう。うちの子も同じだよ」 「赤ちゃんと猫は違います。それに、もし佐伯さんのところに八十八人の赤ん坊がいて、一斉に泣きだしたとしたら、たぶんお婆ちゃんも違うことをおっしゃると思いますよ」  そんな子沢山の家は聞いたことがない、とお婆ちゃんがつぶやいた。 「お婆ちゃん、そんな意固地にならないで」佳美さんが言った。「とにかく、話だけでも聞いてちょうだい」 「佳美さんは黙ってなさい」お婆ちゃんがコタツを叩いた。「確かに、前にも言った通り、この家はあんたたちに譲ると決めてるよ。でも、条件がある。あたしが生きているうちは、子供たちはここで一緒に暮らすんだ。後のことはあんたたちがこの家をもらってから決めればいい。どうせ半年の命なんだ、年寄りの生きがいを奪う権利は誰にもないはずだよ。悪い話じゃないのは、あんたにだってわかってるだろう。ここは二百坪以上あるんだから、捨て値で売ってもまとまったお金になるだろうさ。猫のことぐらい我慢してほしいもんだね」 「またそんなことを」佳美さんが泣き顔になった。「あたしも、あたしの両親も、お金のことなんて言ってないじゃないですか。そうじゃなくて、ご近所に迷惑だから、ちょっと猫ちゃんたちのことを考えておいた方がいいですよって」  コタツに突っ伏して泣きだした。とんだ愁嘆場だ。 「それに、何よりも問題なのはこの臭いです」わたしが後を引き継いだ。「動物臭なのか、糞便なのかわかりませんが、ものすごいことになっていますよ。ここで暮らしていらっしゃるお婆ちゃんは、もしかしたら慣れてしまっているのかもしれませんが、あまりにもひどすぎます。風向きによっては隣町まで臭うそうじゃないですか。近所の人の話では、何匹か猫が死んでいるんじゃないか、そしてそのまま放置しているんじゃないか、という声もあるほどです」 「まさか」お婆ちゃんがライオンのように吼《ほ》えた。「うちの子が死んだら、あたしは必ず庭に埋めるよ。お墓を作って、きちんと葬って、弔ってるよ」 「でも、そういう訴えがあることも事実なんです」 「ほったらかしになんかしてないよ。そんな罰当たりなこと、するもんか」今度は虎《とら》のように唸《うな》った。「その辺の無責任な飼い主とは違うんだ。きちんと飼ってるし、世話もしてる。餌だってちゃんとやってるし、トイレだって場所も決まってる。猫っていうのは、きれい好きだからね、そのへんのことはわきまえてるんだよ」  そうですよね、先生、とお婆ちゃんが顔を横に向けた。 「確かに、一般的にはそう言われております」先生がおとなしくうなずいた。「犬と比べても、清潔と言われていますね」 「そうですよ。先生のおっしゃる通りだ。ご近所は迷惑かもしれないけど、そんなに先の長い話じゃないんだから。もうそこまでお迎えが来ているんだよ。ちょっとの我慢だと、あんたたちの方からもご近所に伝えてもらえないかね。あたしだって、ずっと我慢してきたんだ。戦争で主人は殺されたし、息子も飛行機事故で死んだ。だけど、国のせいだとか誰かのせいだとか、そんなことは一度だって言ったことはないよ。最近の人は、我慢が足りないんじゃないのかね」  話がものすごく大きくなって、わたしでは対処できなくなってきた。どうしようと迷っていた時、部屋のドアがノックされた。顔を覗かせたのは鳥井刑事だった。 「あの、とりあえず洗ったんですが……乾かしたいんですけど、ドライヤーかなんかないでしょうか」  緊迫した場の状況にまったくそぐわない声音だった。ドライヤーですか、と佳美さんが周りを見渡した。 「悪いけど、この家にそんなものはないね」  お婆ちゃんが不機嫌にそっぽを向いた。下半身ジャージ姿の鳥井刑事が恐縮してドアの陰に隠れる。何か代わりになるものを捜してみましょう、と土井先生が突然立ち上がった。 「先生、捜すって」  家主がないと言っているのに、この人は何を言っているのだろう。ドライヤーの代わりになるものなど、あるはずもない。  だが先生がそう言ったのは口実だった。一緒に来てください、と先生がわたしの耳元で囁いた。  何が何だかわからなかったが、お手伝いします、と言ってわたしは立ち上がった。        7 「いや、確かに臭いがひどい。ひどすぎます。佳美さんの言った通り、さっきの部屋の方がまだましです」  先に立った先生が廊下を進んでいく。鳥井刑事の姿は見えなくなっていた。いったいどこへ行ったのか。 「先生、どこへ」  さっきまでいた突き当たりの部屋に戻った。先生が細くドアを開けて中に入り込んだ。わたしもその後に続いた。 「やれやれ、さっきはそう思わなかったが、この部屋は天国ですね」  先生の言う通り、空調の利いたこの部屋は臭いがほとんど気にならなかった。もしかしたら、それはわたしたちの鼻が慣れてしまったということなのかもしれないが。 「令子さん、ご存じですか。猫も笑うということを」  唐突に先生がつぶやいた。ご存じですかも何も、さっきも猫たちは笑っていた。この目で見ている。 「実際には、猿を除いて笑う動物はおりません」学会で自説を発表する大学教授のような顔で言った。「犬や猫が笑っているように見えるのは、人間がそう感じているだけのことです。嬉しい、あるいは楽しい状況だから笑っているように見える、ただそれだけのことなのです」 「先生、戻った方が」こんなところでいつもの雑学を披露されても困る。「わたし、仕事で来ているんです。お婆ちゃんを説得しないと」 「ですが、猫は笑います」  わたしの訴えは却下された。話を聞いてくれるつもりはないようだった。 「猫の口の中、上顎の門歯の後ろ辺りですが、そこにヤコブソン器官という穴があります。実は人間にもあるのですが、退化しておりほとんど機能していません」 「ヤコブソン器官」  聞いたこともない。フェロモンなどの匂いに反応する器官なのです、と先生が説明した。 「フェロモンは知ってますね。ここでいうフェロモンは性フェロモンを指します。ヤコブソン器官を使ってフェロモンを嗅《か》ぐと、猫は口を半開きにして上の歯を剥《む》き出します。�フレーメン反応�と呼ばれるものですが、それが人間の目から見ると笑っているように見えるのですね」  さっきのように、と先生がうなずいた。なるほど、お婆ちゃんに会えて喜んでいるのかと思っていたが、どうもそういうことではないらしい。 「すると先生、それではあのお婆ちゃんに猫の性フェロモンがあるということですか」  違います、と先生が首を振った。 「猫のフェロモンと人のフェロモンはまったく違うものです」 「では、どうして猫たちは笑ったのでしょう」  それが問題です、と先生が暗い表情になった。 「ヤコブソン器官はそれほど厳密なものではありません。性フェロモンに限らず、近い匂いには反応してしまいます。有名なのはマタタビですね。猫の大好きなあれです」ただし、それだけではありません、と指を折った。「猫の種類によって少し違うはずですが、例えばキウイ、センブリなどにも反応します。また、ガムや軟膏《なんこう》、うがい薬、塩素系洗剤なども同じ効果を与えます。そして石鹸も」  時々、先生と話していると、何を言いたいのかわからなくなることがある。この時もそうだった。 「何をおっしゃりたいんですか」 「正人さんですか、あの老人のお孫さんの部屋を確認した方がいい、ということです」厳かな声で先生が言った。「おそらく、もう死んでいると思いますが」 「先生」 「自然死か、それとも他の可能性があるのか、それはわかりません。ですが、私はおそらく後者だと考えています。美佐江さんが殺したのでしょう」  痛ましいことです、と目を伏せた。言っていることの意味がまったくわからない。 「動機はガン宣告です。美佐江さんは余命半年と告知されました。心残りは、引きこもっているお孫さんのことだったでしょう。四十一歳ですか、その年齢まで引きこもりを続けていた場合、社会復帰は難しいと言わざるを得ません。施設で一生を送らせるぐらいなら、自分と一緒にあの世に行った方がましだ、そう考えたのではないでしょうか。他人に迷惑をかけるぐらいなら、その方がいい、と。間違った考え方ですが、気持ちはわからなくもありませんね」 「先生、無理です。彼女は八十五歳ですよ。確かにお元気そうでしたが、四十一歳の男性を殺せるはずがありません」 「相手は何十年も部屋から出ていないんですよ」先生が首を振った。「足腰も弱っていたでしょう。昔からある方法ですが、濡《ぬ》れた紙を寝ている顔の上に置くだけでも、呼吸困難で死ぬことはあり得るのです」 「かもしれませんけど」  それと石鹸との間に、どういう関連性があるのだろうか。 「殺害したのがいつなのか、それは死体が発見されてからでなければ正確には言えませんが、近隣住人から悪臭についての訴えが多くなったのはこの一週間ほどということですから、おそらくはその頃だったのでしょう。この家の庭は広い。埋める場所はいくらでもあったはずです。今まで何匹もの猫を葬ってきたのと同じように、正人さんの死体も庭に埋めようとした。ただ、土を深く掘るだけの体力はなかった。猫のように小さい動物ならともかく、相手は人間です。浅い穴を掘るだけで精一杯だったと思われます。いや、むしろ土をかけただけと考える方が自然かもしれませんね」  庭。  わたしはガラスのサッシ越しに外を見た。何十匹かの猫が走り回っている。先生が話を続けた。 「そこまではよかった。ですが、ご存じの通り、死体からは強烈な腐臭が発生します。いくら猫の臭いで慣れているからといって、耐えられるものではありません。何とかごまかそうと考えて、美佐江さんは溜め込んでいた石鹸のことを思い出した。どれぐらいあったのか知りませんが、包装してある石鹸の紙を剥《は》いで、死体の上にばらまいた。その時、石鹸の匂いが手に染み付いたのではないでしょうか。そして猫たちはその匂いに引き寄せられ、フレーメン反応が起きた。だからあの猫たちは笑ったのです」  まさか。そんなはずがない。あんなお婆ちゃんが、孫を殺せるはずなどない。 「百歩譲って、先生のおっしゃる通り、正人さんが殺されていたとして」私は反論した。「例えばですが、佳美さんが犯人ということは考えられませんか?」  わたしには、どうしてもあのお婆ちゃんが自分の孫を殺すような人には見えなかったのだ。八十八匹もの猫をかわいがって育てている人が、孫を殺すなんて。  あり得ません、と先生が小さな声で言った。 「美佐江さんも自分で言っていましたが、この家は佳美さんたちに譲られると決まっているということです。正人さんは施設に収容されることが決まっていました。相続人に管理能力がない場合、他の近親者に財産が渡るのは特別なことではありません。つまり、佳美さんには正人さんを殺害する理由がないんです」 「でも」  八十五歳の老婆が誰かを殺すことなど考えられない。 「私も自分の考えが間違っていればいいと思います」先生がため息をついた。「ですが、どうやら間違っていないような気もします。いずれにしても、それを確かめるのは簡単なことです。あの部屋のドアを開けてみればいい。誰もいなかったとしたら」 「それはできません。プライバシーの侵害です」  その通りです、と先生がうなずいた。 「ですが、いずれわかることです。少なくとも、美佐江さんが死ねばね。どうしますか、令子さん。あの部屋のドアを開けることができるのは、警察官であるあなただけです。私にはその権限がありません」 「わたしにだってありません。令状もないのに、そんな」  まったくです、と先生が言った。 「では、戻りましょう。あなたにはもうひとつ仕事があります。この家の猫たちをどうするのか。それもまた警察の仕事ですから」  立ち上がった先生がドアを開けた。突き刺すような臭気が全身を包んだ。先に立った先生が廊下を進んでいく。  途中で、ちらりと顔を右に向けた。正人さんの部屋だ。何も言わずに通り過ぎた。足の運びは変わらない。  なぜだろう。わたしは立ち止まっていた。先生は間違っている。そんなはずはない。そんなこと、あるわけがないのだ。  ドアを見つめた。物音ひとつしない。顔を上げると、廊下の端に立っていた先生が見つめているのがわかった。  わたしはドアを軽くノックした。返事はない。もう一度、今度は少し強く叩いてみた。同じだった。何も音はしない。  足音がした。猫ではない。人だ。先生がその腕を掴んだ。お婆ちゃん。  わたしは細くそのドアを開けた。部屋の中に目をやってから、そのまま閉めた。 「大伴美佐江さん、ひとつだけ教えてください」わたしの口が、勝手に動いた。「お孫さんは、正人さんはどこにいるんですか?」  不意に、お婆ちゃんの顔が歪んで、そのまま床に頽《くずお》れた。何があったのか、というように佳美さんと鳥井刑事が見つめている。先生は何も言わず、痛ましそうに顔を背けるだけだった。 「署まで、ご同行願います」  わたしはそれだけ言った。 [#改ページ]  おそるべき子供たち        1  警察に奉職するようになってから、令子副署長はお父さんと似ていますね、と言われることがよくあった。  父はノンキャリアだったが、その優れた捜査能力を買われ、本庁の捜査一課で働いていた。有能さは有名だったようで、例えば佐久間署長などは、わたしの顔を見るたびに父の話をしてくる。  遺された写真を見る限り、確かにわたしは父とよく似ていた。やや垂れた目、福耳といっていいほど大きな耳、鼻から口元にかけてのラインなど、似ている点を挙げていけばきりがない。そして佐久間署長に限らず、古手の刑事たちによれば、性格もよく似ているらしい。  父は寡黙で、粘り強い性格だったという。仕事熱心ではあったが、周囲への気配りを忘れたことはなく、時間が空いていれば本ばかり読んでいたそうだ。  仕事熱心かどうかは別として、わたしにもそういうところがある。派手なことが嫌いで、どちらかといえば地味なタイプだ。  もうすぐ二十六歳なのだから、もうちょっとファッションとかにも気を遣った方がいいのではないか、と友人たちから時々注意されるほどだったが、正直なところそんなことに気を遣うのは面倒だと思っている。  それぐらいなら、本を読んだり、映画を見たりしていた方がよほど楽しい。父を知る多くの人がそう言うように、わたしは父とよく似ているのだろう。  それに対して母はといえば、はっきり派手好きといってよかった。今年五十歳になる母はわたしなど足元にも及ばないほど若々しく、またその若さを保つための努力を惜しんだことはない。そして好奇心に溢れ、行動半径も広いし友人も多い。  例えば着ている服は基本的にブランドものだし、メイクにもわたしの三倍以上の時間をかける。最近はアンチエイジングと称して、風呂上がりに奇妙な体操をしたり、週に二度のジム通いを欠かしていなかった。  おそらく、四十代前半といっても世間的には通用するだろう。若く見られるのは彼女の自慢で、たまに年寄り扱いされると、凄まじく不機嫌になる。  時々わたしを連れてデパートへ買い物に行くことがあったが、それは自分の若さを誇示するための行為でもあった。デパートの店員などから、お姉様にはこちらの方がお似合いですよ、などと言われようものなら、お姉様ですって、と誇らしげにわたしの方を見る。  それは社交辞令というものよ、と言いたかったが、本人が喜んでいるのだからそれに水を差す必要もないだろう。親孝行だと思って、よかったね、と言うのはいつものことだった。  ただ、母について本当に感心するのはそのバイタリティだ。東京に新しい名所ができれば、必ず一週間以内に彼女はそこへ行く。  覚えているだけでも、六本木ヒルズ、汐留《しおどめ》、表参道ヒルズ、東京ミッドタウン、とにかくそういうところへ誰よりも早く行くのが生きがいといってもいいほど好きだった。  特にホテル関係が母は大好きで、リッツ・カールトンとかマンダリンとかペニンシュラとか、有名なホテルにはオープンとほぼ同時に行くほどだ。  今後、アメリカやヨーロッパの有名なホテルが続々日本でオープンしていくらしいが、わたしとしては今から戦々恐々としている。一泊七万とか八万の部屋に連泊でもされたら、我が家の家計はすぐにでも破綻してしまうだろう。  そして、異常に社交的なのも母の特徴だった。母はお茶とお花の師範の資格を持っていて、週に一度ずつ友人を自宅に招いて教えている。  食い道楽でもあり、その辺のグルメ雑誌の記者など足元にも及ばないほどいろいろなレストランに足を運んでいるし、ボランティアの環境保護グループ、社交ダンスサークル、句会、トランプのカードゲームのサークルにも参加している。特に句会では、始めて二年も経たないうちに、副主宰という要職に就くほどだった。  忙しくて困るわ、というのが母の口癖だが、それは自分自身の問題だと思う。というより、母は鮫《さめ》のようなものなのかもしれない。動いていないとたぶん死んでしまうのだろう。  たまにだが、もういい年なんだから、と注意することもあったが、あんたはお父さんと同じことしか言わない、と不機嫌になってしまうのが常だった。 「つまらない子だよ」  それはどうもすみませんでした。じゃあ、そんなつまらないお父さんとどうして結婚したのかと聞くと、それこそ少女のように顔を赤らめて、そりゃあ素敵だったからよ、と十代のジャニーズファンのようなことを言う。わたしにはよくわからないが、それが夫婦というものなのかもしれない。  そんな母が、ちょっと相談があるのよ、とわたしの部屋のドアをノックしたのは、七月も終わりに近づいた土曜日の午後のことだった。        2  母には友人が多い。それは彼女の社交的な性格からくるものだが、もうひとつ言えば無類の世話好きという気質にもよる。頼まれると断れないところがあり、自分の母親ではあるが、なかなかあっぱれだとさえ思う。  面倒くさい町内会の幹事もきちんとこなし、わたしの中高時代はPTAの役員も務めていた。そのために利用されるようなこともあったが、母は気にしなかった。わたしなどから見ると信じ難い話だったが、そういうこともあるよね、といつも笑っていた。  わたしは今年で二十六歳になるが、彼女の口から愚痴を聞いたことがない。それも含めて、なかなか立派な人かもしれない、と最近では思うようになっていた。 「相談って?」  二階の自分の部屋からリビングへ降りていくと、ソファに知らない女の人が座っていた。 「何なの、もう」わたしは母に文句を言った。「お客様だったらそう言ってよ」  わたしがその時着ていたのは、袖がだるだるになった着古したトレーナーとジーンズという、気の利かない中学生のような服だった。そんなのはいいから、と母がわたしをソファに引っ張り込んだ。 「さっき話したでしょ。娘の令子。南武蔵野警察署の副署長様だから、何でも解決してくれるわよ」  確かに、わたしは母が言った通り、南武蔵野署の副署長だった。なぜこの若さでそんな要職に就いているかといえば、わたしがいわゆるキャリア組だからだ。 「こちらね、川越《かわごえ》さんっておっしゃるの。お料理教室で知り合ったお友達」  母がわたしとその川越さんという女性のティーカップに紅茶を注いだ。 「お料理教室?」  いつの間にそんなところへ出入りするようになったのか。この調子でいくと、ホストクラブに通い詰める日も近いかもしれない。 「そんな、お友達なんて……」  遠慮するように川越さんが言った。上品なピンクのカットソー、白のフレアースカート。どう見ても母と同年配とは言い難い。四十歳ぐらいではないか。  友達というより後輩という方が正しいだろう。川越さんとしてもそう考えているようだが、母はお友達というスタンスを崩すつもりはないようだった。 「それでね、ご主人が銀行に勤めてらして」 「あの……証券会社です」  川越さんが小さな声で訂正した。証券会社に勤めてらっしゃるの、と澄ました顔で母が言った。 「それで、転勤があったのよね? それまではどちらにお住まいでしたっけ?」 「さいたま市の浦和です」 「六月に辞令が出て、そのままこっちに引っ越してきたんだって。それでね、お子さんが二人いて、上がお兄ちゃんよね? 小学生だっけ?」 「中一です」  どうも母の持っている情報はかなり曖昧《あいまい》なもののようだ。お嬢さんは、と尋ねた母に、まだ五歳です、と川越さんが答えた。 「会社っていうのも、困るわよね。川越さんやご主人はともかく、子供たちの学校とか幼稚園のことなんか、何も考えてないんだから。六月なんて中途半端な時期に転勤なんて言われたって、大変なだけなのにねえ」  母と川越さんの話をまとめると、良雄《よしお》くんという中一の息子さんは六月下旬、夏休みの少し前に転校する公立校が見つかった。転校して一カ月ほどで夏休みというのは厳しいものがあると思うが、本人は納得しているらしい。  だが、お嬢さんである友香《ともか》ちゃんの幼稚園はなかなか決まらなかった。これは見つからなかったというより時期の問題で、夏休み直前の今編入するよりも、秋になってからの方がいいのではないかというのが、相談したいくつかの幼稚園から返ってきた答えだったそうだ。九月になってから行く幼稚園はもう決まっているという。 「それでね、令子、相談事っていうのは息子さんの良雄くんのことなの」  母が声をひそめた。はあ、とわたしは訳もわからないままうなずいた。川越さんが目を伏せながら口を開いた。 「ちょっと……その、困ったことがありまして……ただ、私たちも引っ越してきたばかりで、相談する人もいなくて、どうしようかって悩んでいたら、立花さんに話してみたら、とお料理教室の皆さんに勧められて……」  いつものパターンだ。もうわたしもすっかり慣れているので、別に驚くこともなかった。  母がいつからそのお料理教室に行きだしたのか知らないが、例によって例のごとく奇妙な影響力を発揮し、いつの間にかそこのリーダー格となっていたのだろう。  周囲は川越さんに母に相談することを勧め、よく訳のわからないまま川越さんは母に相談し、母は親身になってその相談に乗り、そして自分では解決できないという判断の下、わたしのところに連れてきた。そういうことのようだった。 「お力になれるかどうかはわかりませんが」わたしは大きくうなずいた。「何かお困りのことがおありでしたら、話してみていただけますか。一応わたしも警察の人間ですから、お役に立てることがあるかもしれません」 「警察ざたは、困るんです」すがるような目で川越さんが言った。「そんなことになる前に、何とか解決できればと思って……」  それはそうだろう。何があったか知らないが、警察が介入するような事件に巻き込まれるのは、誰だって嫌なはずだ。 「では、個人として」わたしは言った。「個人として、何かできることがあるとお思いでしたら、何でもお話しください。もちろん、ここだけの話ということにしますから」  川越さんが最終的に口を開くまで、それから三十分ほどかかった。わたしと母は黙ったまま辛抱強く、彼女の方から彼女の抱えている問題について話しだすのを待ち続けた。  普段はお喋りな母だが、さすがに刑事の妻だっただけのことはあり、本人が話す気にならなければ、説得などしても意味はないということをよく理解していた。 「息子の……良雄のことなんです」  うつむいていた川越さんが静かに顔を上げた。その両目にはうっすらと涙が溜まっていた。        3  息子さんが、どうかされたんでしょうか、とわたしは尋ねた。川越さんがその視線を母に向けた。どう話していいのかわからない、そんな表情をしていた。 「だいじょうぶよ、川越さん。令子はね、確かに警察官だけど、そんなに法律だとか規則だとか、堅苦しいことを言うような子じゃないから。穏便に処置してくれるはずよ」  話しなさい、と母が首を強く振った。このあたりが母の持つ不思議な力なのだろう。うなずいた川越さんが、実は、と語りだした。 「お恥ずかしい話なんですけど……良雄が万引きをしているようなんです」 「万引き、ですか……」  決してお恥ずかしい話などではない。万引きという行為自体がそもそも犯罪だが、それ以上に重要なのは、少年非行の大半が万引きのような軽犯罪から始まるという明確な事実だ。  最初は軽い気持ちで万引きをし、あるいは自転車を盗んだりするなど、いわゆる魔が差した状態での犯罪行為だが、それがだんだんとエスカレートしていき、最終的には暴力事件などへとつながっていく。たかが万引きとはいえ、決して軽視できるものではない。 「何を万引きしているんでしょう」 「……本とか、雑誌とか……そういうもののようです」  典型的な話だった。書店やCDショップなどにおける万引きの被害は深刻なものがあり、その多くは中学生など少年、あるいは少女によるものだという。監視カメラの設置や警備員の増員など、店舗側も対策は講じているが、被害額は年々増大する一方だと聞いていた。  わたしはこれでも副署長という立場なので、各課から上がってくる報告書などに目を通さなければならないのだが、先日少年係から提出された資料にも、そんなことが書いてあった。放置しておけば次はコンビニやスーパーマーケット、あるいはデパートやアパレルショップなどで更に高額な商品を盗むようになる。  そしてもっと恐ろしいのは、そういう子供たちがいつの間にかグループと化し、大規模な窃盗団のようになっていくことだった。そうなってしまえば、例えば故買屋などを通じ、暴力団の下部構成員的な存在となるのも時間の問題だ。そして、それを食い止める力は家族にも警察にもない。 「間違いないんでしょうか……その、良雄くんが万引きをしているというのは……」  わたしの問いに、間違いないと思います、と震える声で川越さんが答えた。 「本人に確認は?」 「いえ……それは……」  仕方のない話だ。間違いないと思います、と川越さんは言っているが、もし万が一にでも間違いだった場合、良雄くんの心の傷は深いものになるだろう。実の母親から万引き犯として疑われたとすれば、それが理由で非行に走る可能性すらあった。 「ご主人に相談はされましたか?」 「いえ……それも……とにかく、誰にも話せなくて……」川越さんの目から大粒の涙がこぼれた。「どうしたらいいのか、本当に困っていて……」 「川越さん、もちろん今日のご相談は、わたしとしてはあくまでも個人的な立場でお伺いしているつもりです。警察官としてではなく、知人として、という意味です。ですから、息子さんを逮捕するとか、説諭するとか、そういうつもりはありません。それについてはご安心ください」  ありがとうございます、と川越さんが何度も頭を下げた。気にすることないって、と母が笑った。ですが、とわたしは釘《くぎ》を一本刺した。 「悪質であれば、これはやはり少年係の担当者などに相談をすることもあり得るかと思います。その点だけはご了解ください」 「悪質かどうかはわからないんですけど……ただ、その、ちょっと問題が……あることは確かなんです」  川越さんが言いづらそうに口を開いた。問題って何なの、と母が聞いた。それは、と言ったきり川越さんが口をつぐんだ。 「……ちょっと言いにくいというか……直接見ていただいた方がわかりやすいかもしれません」  いきなり母が立ち上がった。どうするのかと思っていたら、車のキーを取って戻ってきた。 「令子、あんたも支度しなさい。見た方が早いっていうんなら、見に行った方がいいでしょ。川越さんの家まで行くから、さっさと着替えて」 「はあ?」  いいから行くのよ、と母が命じた。いつから母はわたしの上司になったのか。とはいえ、川越さんも直接見た方がわかりやすいと言っている以上、それもありかもしれない。  ちょっと待っててください、と言って、着替えるためにわたしは二階の自分の部屋に戻った。        4  川越さんの家は、御殿山にあった。隣は井の頭公園と言ってもいい。わたしの家からだと車で十分ほどの距離だ。  川越さんの家そのものは一戸建てだったが、すぐ近くに公団住宅があったので、そこに車を停めた。違法駐車だが、まあ仕方がないだろう。 「本当にすみません」  恐縮したように川越さんが何度も頭を下げた。困った時はお互い様でしょ、と母が言った。何もかもが母のペースで進んでいる。わたしとしても、流れに従うしかなかった。  川越さんが鍵を開けて家の中に入った。まだ夕方前で、外が明るかったために、家の様子がよくわかった。かなり広い家だ。椅子やテーブルなどの家具も高級そうで、さすがは証券マンの家だと思った。 「良雄? 友香? いるの?」  川越さんが少し大きな声で言った。二階でドアが開く音がして、階段を小さな女の子がとことこと降りてきた。 「ママ、おかえりなさい……あれ?」  友香ちゃんがわたしと母を見て小首を傾げた。白いブラウスとデニム地のスカート。とても可愛らしい子供だった。 「友香ちゃん、お客様にご挨拶は?」 「こんにちは」  友香ちゃんが人懐こい笑みを浮かべながら頭を下げた。こんにちは、とわたしも母もうなずいた。 「ママのお友達なの」川越さんが言った。「友香は何してたの? 今日はお外には行かなかったの?」 「行ったよ」  いつもの動物園、と友香ちゃんが得意そうに言った。川越さんの家のすぐ近くに井の頭公園がある。そこに隣接して自然文化園という名称の小さな動物園があった。友香ちゃんは昼過ぎになると、毎日のようにそこへ行くそうだ。 「そうなの。動物が好きなんだね、友香ちゃんは」  母が言った。大好き! と友香ちゃんが答えた。昔からそうだが、母は小さな子供の扱いがうまい。五分もしないうちに、母は友香ちゃんと仲良くお喋りを始めていた。 「お兄ちゃんは?」  川越さんの問いに、わかんない、と友香ちゃんが首を振った。 「お友達のおうちに行くって言ってた。でも、そろそろ帰ってくると思う。テレビ見るって言ってたから」  人気アニメの再放送があり、良雄くんは一度もそれを見逃したことがないのが自慢だそうだ。今時の中学一年生らしいといえば、らしい話だろう。 「じゃあ、それまで友香ちゃんは、おばちゃんと一緒にテレビ見ようか」  そう言いながら母がわたしに目配せをした。二階へ行け、という意味らしい。  うん! と大きな声で返事をした友香ちゃんが、テレビ、テレビと言いながらリモコンを手にした。 「お茶も出しませんで……本当にすみません」  いいから、と母が手を振った。テレビをつけた友香ちゃんが、何を見る? と母に聞いている。  川越さんがそっと階段を指さした。わたしは彼女の後に続いて二階へと上がっていった。 「右手が私たち夫婦の寝室で」階段を上がりきったところで川越さんが説明した。「左側が良雄と友香の部屋です。もうひとつ奥に部屋があるんですけど、今は主人が書斎代わりに使っています。もう少し友香が大きくなったら、良雄と部屋を分けなければと思ってるんですけど……」  川越さんが白木の扉を開いた。十畳ほどの部屋だ。部屋の一番奥に二段ベッドがある。兄妹はそこで寝ているのだろう。  そして勉強机が二つ置かれていた。どちらが良雄くんの机なのかはすぐにわかった。目の前の壁にサッカーのベッカムのポスターが貼ってあることもあるし、だいたい机の上に中学生用の教科書が載っていた。  友香ちゃんの机はそれより一回り小さかった。至るところに花や動物のシールが貼られている。小さな熊のぬいぐるみも置かれていた。 「ベッドの奥はクローゼットになっていて、二人の着替えとかが入っています」  川越さんが手短に説明した。良雄くんの机の横にミニコンポがあり、その上に小さなヘッドホンが置かれていた。  そして机の上にはノートパソコンがあった。機種を確認したが、最新式のものだ。これでテレビも見ることができる。兄妹が共用することもあるのだろう。  だが、他に目立つものはなかった。はっきり言って、何の変哲もない普通の兄妹の部屋といっていいのではないか。 「あの……本当に……お恥ずかしい話なんですけど……」  川越さんが文字通り顔を赤らめた。あまり時間がありません、とわたしは言った。 「良雄くんもそろそろ戻ってくる時間でしょう。彼が万引きしたという雑誌の類は、どこにあるんですか?」  川越さんが二段ベッドの上の方を指さした。ベッドの頭の側がクローゼットなのだが、その上の部分に小さな襖があった。天袋、と呼ばれているものだ。わたしの家にもこういう小さな押し入れのようなものがある。 「あそこに……」  わたしは無言のまま梯子《はしご》を使って二段ベッドの上にあがった。小さな枕に花柄のカバーがかけてあった。 「……友香ちゃんが使っているのは、こっちのベッドですね?」 「はい。友香が上で、良雄が下です」  それを確かめてから、わたしは棚の小さな襖を開いた。いきなり雑誌の類が頭の上から降ってきた。 「きゃあ!」  わたしが悲鳴を上げたのは、雑誌のひとつが頭に当たって痛かったためもあるのだが、もうひとつ理由があった。それらの雑誌のほとんどが、扇情的なビキニ姿の女の子や、もっと言えば全裸の女性が表紙になっている、いわゆるエロ本の類だったからだ。  別にカマトトぶるわけではないが、突然メロンのようなオッパイを目《ま》の当たりにすれば、誰でも驚くと思う。  下を見ると、川越さんが恥ずかしそうにうつむいていた。気持ちはわかる。  わたしは手元に転がっていた雑誌の頁をばらばらとめくってから、すぐに閉じた。わたしの方こそ恥ずかしいというものだ。 「あの……川越さん、その……」どう言っていいのかわからないまま、わたしは声をかけた。「つまり、これを良雄くんが万引きしてきたということでしょうか……」  小さく川越さんがうなずいた。まあその、男の子ですから、とわたしは言った。 「あの、ある程度は仕方がないというか……」  悄然《しょうぜん》とした姿の川越さんに慰めの声をかけた。それ以外に言うべき言葉はなかった。        5  雑誌は全部で三十冊ほどあった。わたしはあまりこの手の雑誌に詳しくない。というか、女ならみんなそうだろう。  巨乳がどうした人妻がどうしたと言われても、まったく興味が湧かない。当たり前だ。  とはいえ、男の子がこういうものに興味を持つ気持ちは、何となくわかる。良雄くんは中学一年生ということだが、わたしが中学生だったのはもう十年も昔のことだ。今の子供はわたしたちの頃よりませているだろうから、手近にあればこういう雑誌が欲しくなるのも仕方がない気がした。  それにしても、とわたしは落ちていた雑誌の頁をめくりながら思った。まあとにかく、裸のオンパレードというか、どこを開いても裸の写真しか載っていなかった。特にカラー頁の写真は、ほとんど全裸ばかりといってもいい。  最初こそ焦ったものの、よく考えてみると、大きさとかの違いこそあれ、女であるわたしにとっては見慣れたものばかりだ。慣れてしまえば、こんなものかなあ、という感慨しか浮かんでこなかった。 「もう一度確認しますが……これを良雄くんが万引きしてきたわけですね?」  わたしの問いに、情けないです、と川越さんが涙交じりの声で答えた。 「ですが、万引きかどうかはわかりませんよね。もしかしたら買ったのかもしれませんし、拾ってきた可能性も……」  いえ、と川越さんが首を振った。同時にため息がその口から漏れた。 「あの……私もよく知らないんですけど、その中にはテープみたいなもので留められている雑誌もあるんです。それって、コンビニとかで若い子に読ませないためにそうしてるって聞いたことがあるんですけど……」  なるほど、言われてみると三十冊のうち十冊ほどは、青いビニールテープのようなもので雑誌の表紙と裏表紙が貼り付けられていた。十八歳未満が立ち読みできないようにするために、コンビニや本屋さんがこういう処置をしていることはわたしも知っていた。  そして、天袋の更に奥を探すと、DVD付き、というシールの貼ってある雑誌が何冊か出てきた。その手の雑誌は全体をビニールでパックしてある。川越さんの言う通り、買ったものでもなく、拾ってきたものでもなさそうだった。 「こっちの、DVD付きの雑誌は開けてもいないようですね」 「私も……そこまでは確かめてませんので、何とも……」  本当にお恥ずかしい限りで、と川越さんが言った。本や雑誌に貴賤《きせん》があるわけではないが、これだけのエロ雑誌の山ともなれば、親としてはちょっと恥ずかしいだろう。 「とりあえず、元に戻しておきます」わたしは雑誌を天袋に放り込んでいった。「それにしても、ちょっと困りましたね」  万引きという行為自体も問題だが、もっと普通のものなら注意の仕方もあるだろうし、必要なら、わたし自身が警察官という立場から個人的に説諭することもできる。  だが、良雄くんが万引きしてきたものがものだけに、どうしていいのかわからなかった。下手なことを言えば、最悪の場合、恥ずかしさのあまり良雄くんが自殺してしまうような事態もないとはいえないだろう。 「どうしたらいいんでしょうか……」  川越さんが途方に暮れたように言った。天袋の襖を閉めてから、わたしは二段ベッドを降りた。 「あの、先ほども申し上げましたけど、男の子ですから、ああいう女性の裸とかに興味を持つのは仕方がないところもあると思うんです。ですから、決してお母さんの責任ではありません。ただ、このまま放っておくわけにいかないのも事実だと思います。月曜日、わたしは署に出ますので、少年係の担当者に相談してみようと思っています。彼らはこういうことについて慣れていますから、それなりに対処の方法というか、ノウハウを持っていると思うんですね。そういうわけで、何日か待ってもらえませんか」 「申し訳ありません……よろしくお願いします。ただ、あの……警察ざたになるようなことは、どうしても避けたいといいますか……虫のいい話だとわかってはいますが……」  それはそうだろう。わたしだって、事を荒立てたいわけではない。とにかく本人が万引き行為をやめてくれれば、それですべては丸く収まるのだ。 「穏便に処置します。それはお約束します」  ママ、という声が階段の下から聞こえた。 「お兄ちゃん、帰ってきたよ」  大変、と両目を手でこすりながら川越さんがわたしを促して一階へと降りていった。 「お帰り、良雄……どこで遊んでたの?」  玄関先でスニーカーを脱いでいた詰襟の学生服を着た少年に川越さんが声をかけた。安井《やすい》くんの家、と良雄くんが顔を上げた。まだ幼さの残る顔立ちだった。 「安井くん、新しいゲームソフト買ったっていうから、遊びに行ってたんだ。けっこうはまっちゃって……ちょっと遅くなっちゃった」  ごめんね、と素直に小さく頭を下げた。細面で手足が長いのは、今時の男の子ならではのことだろう。  優しそうな顔をしていたが、上辺はそう見えても心の中はエッチな妄想で一杯なのだろうと思うと、ちょっと幻滅せざるを得なかった。 「あの……」  良雄くんがわたしと母を交互に見た。ママのお友達なの、と慌てたように川越さんが説明した。こんにちは、と良雄くんが礼儀正しく頭を下げた。騙《だま》されてはいけない、と思いながら、じゃあそろそろ失礼しましょう、とわたしは母に言った。 「えー、帰っちゃうの?」友香ちゃんがわたしの母の服を引っ張りながら言った。「一緒にテレビ見るって言ったじゃん」  母がわたしを見た。ダメ、ゼッタイ、と首を振ると、ごめんね友香ちゃん、と母が手を振った。 「あたしたちも、帰らないといけないの。また今度、ゆっくり遊ぼうね」 「はーい」  不満そうに口を尖らせた友香ちゃんが、バイバイ、と小さな手を振った。母子三人に見送られるようにして、わたしたちは外に出た。どうもすみません、と川越さんが謝った。 「友香はまだ引っ越してきたばかりで、あんまり友達とかいないので……一緒に遊んでくれる人が欲しいみたいなんです」  それはそうだろう。五歳といえば遊びたい盛りだ。せっかくの夏なのに、一人で過ごす時間が長いというのは、本人にとってもあまりいいことではないだろう。  車に乗り込んだ母が、それでどうだったのよ、と好奇心を剥き出しにして言った。捜査上の機密なのでお答えできません、と言うと、あんたは本当にお父さんにそっくりだねえ、と母がつまらなそうな顔になった。        6  日曜日、毎週わたしはデートをしている。デートといっても、相手は土井先生だ。  どういうわけか先生とわたしは年齢差にもかかわらず気が合った。先生と一緒にいると、本当に落ち着く。  先生は先生で、わたしのことを娘のようにかわいがってくれた。いつの頃からか、毎週日曜日の午後は、先生と待ち合わせて喫茶店で時間を過ごしたり、散歩を一緒にするような関係になっていた。  先生はもういいお年だけれど、とてもおしゃれだ。今日は夏らしい白の麻のジャケットを着ていた。いつものように、孫の桃子ちゃんも一緒だった。  最初の頃、彼女はあまりわたしに対していい印象を持っていなかったようだが、さすがに最近は慣れたのか、普通に接してくれるようになっていた。  暑いせいもあって、わたしたちはお気に入りの喫茶店、グレープドロップという店に入り、紅茶を飲みながらこの一週間の出来事をお互いに話し合った。そういえば、と昨日のことを先生に話したのは、店に入ってから一時間ほど経った頃だった。 「なるほど……それは、お母さんもお困りでしょうね」 「ええ、そうなんです。先生だったら、その良雄くんという男の子に何と言いますか?」 「難しい問題です」先生が顔をしかめた。「いや、その男の子の気持ちはわかりますよ。私にも一応中学時代があったわけですから。あの頃はねえ、今のような時代ではありませんでしたから、水着を着ている女性の写真が載っている雑誌を見つけただけで、もう大騒ぎになったものです。ましてや裸ともなると、いやはや、何と言ったらいいのか」  先生にもそんな時期があったのか。当たり前のことだけど、わたしにとってはちょっと意外だった。 「ただね、令子さん。ちょっと気になることがあるんですよ」先生がおもむろに口を開いた。「なぜ彼は二段ベッドの上の天袋にその雑誌とかを隠していたのでしょうね。良雄くんというその少年は、下のベッドを使っていたわけでしょう?」 「おそらく、他に隠す場所がなかったからだと思います。それほど広い部屋ではありませんでしたし、他に物入れのようなものはなかったんです。だからだと思いますけど」  ふむ、と先生が顎の先を掻いた。 「私たちの頃には、そういうものは布団の下に隠すと相場が決まっていたものですがね……それともうひとつ、DVDが付録として付いていた雑誌は、未開封のままになっていたということですが、確かですか?」 「ええ。間違いありません」 「なぜでしょう」  なぜ、と言われても困る。意味がわからない。どうして先生はそんなことにこだわるのだろう。 「あなたはこうも言われましたね」先生がティーカップに指をかけた。「良雄くんの机の上にはパソコンがあったと。私も一応現役の獣医ですから、ある程度パソコンについての知識はあるつもりです。最近のパソコンなら、当然ですがDVDを見る機能も付いています。もちろん、写真もいいでしょう。ですが、動いたり声が聞こえるDVDの方が、もっといいとは思いませんか」 「……それは……わたしにはよくわかりませんけど、男の子だったら、やっぱりそうなんでしょうね」 「だが、良雄くんはDVDを見ようとしなかった……妙だとは思いませんか」  でも先生、とわたしは首を振った。 「子供部屋は妹の友香ちゃんと共同で使っています。良雄くんは、わたしの見た限り、普通の少年でした。まさか五歳の妹がいる部屋で、DVDを見るわけにはいかないと考えていたのではないでしょうか」 「令子さんは男の子のことがよくわかっていないようですね」先生が小さく笑った。「その妹さん……友香ちゃんですか? その子だって外出したり、テレビを見たり、お風呂に入ることもあるでしょう。令子さん、男の子というものはね、それがどんなに小さなチャンスだとしても、決して見逃したりはしませんよ。機会があればどんな手段を使ってでもDVDを見たでしょう。それが男の子というものです」 「でも、音が」わたしはもう一度首を振った。「DVDということは、音声も出ますよね。となると、友香ちゃんだけではなく、ご両親に気づかれる恐れもあるじゃないですか」 「ヘッドホンで聴けば、音は外に漏れませんよ」  言われてみれば、ミニコンポの上に小さなヘッドホンが置かれていた。 「中学一年生なら、パソコンもある程度使いこなせるでしょう」先生が話を続けた。「授業でパソコンの使い方を教えている小学校もあるぐらいですからね。良雄くんの学校がそうかどうかは別にして、DVDの再生が可能なのは、取扱説明書を読めばわかることです。にもかかわらず、彼はDVDを見ようともしていません。なぜでしょうね」  言われてみると、確かに不思議だった。でも、良雄くんがあのエロ雑誌の山を万引きしたことは間違いない。  後で確かめたのだが、良雄くんのお小遣いは毎月千円ということだった。買うにしても、千円では数冊がいいところだろう。  となれば、万引き以外に彼があの雑誌を手に入れる方法はないはずだ。友達と貸し借りをしたりするようなこともあるのかもしれないけれど、彼が今の学校に転校してきたのはひと月ほど前のことだという。ひと月やそこらで、そこまで親しい友人を作ることができるだろうか。 「令子さん、それでは違う方向から考えてみましょう。あなたなら、そういう雑誌を何に使いますか?」  何に使う、と言われても困る。男の子にとって、その使い道ははっきりいってひとつだけしかないだろうけど、先生が言っているのは他の意味での使い方、ということだ。さて、雑誌の山を何に使うだろう。 「……トイレットペーパーと交換する、とか?」 「ああ、昔はよくありましたね。古新聞、古雑誌をちり紙と交換する、とスピーカーで流しながら、軽トラックが町中を走り回っていたものです。とはいえ、最近はあまり見ませんが」  あっさり却下されてしまった。先生の言う通りで、仮にちり紙交換の車が来たとしても、あのエロ雑誌の束を渡すのはちょっと恥ずかしいだろう。 「何かの重しにするとか……台にするとか……」 「なるほど。もちろん、そういうことに使えるかもしれませんね」 「……じゃあ、何かを燃やす時の焚《た》き付け替わりにするとか……先生、これから本格的な夏ですよね。キャンプファイアーとか花火大会とか、そういう時に使うために、良雄くんはあの雑誌の山を保管していたということですか?」  いえ、と先生が首を振った。 「それこそ、古新聞の方がよほど燃えやすいでしょう」  そうだろう。わたしの見たエロ雑誌の類は、どれもいわゆるグラビア雑誌で、あまり燃やすのに適しているとは思えなかった。 「あの、先生……あまり考えたくはなかったんですけど、ある種のいじめということはあり得ませんか? 良雄くんは転校してきたばかりで、それほど友達が多いとは思えません。中途半端な時期の転校生ですから、いじめのターゲットになる可能性は高いのではないでしょうか」  周囲の者から強要されて、エロ雑誌を万引きする。最初は一冊だけだったのかもしれない。だが、いじめというものは往々にしてエスカレートしていくものだ。二冊、三冊と増えていくうちに、あれほどの数になってしまったのではないか。 「ないとは言えないでしょうね。どうですか、令子さん。あなたの見たところ、良雄くんという子はいじめの対象になりそうな子でしたか?」  どうだろう。優しそうな顔をしていたことは確かだ。逆にいえば、気が弱いということになるのかもしれない。  だが、服装などに乱れたところはなく、態度にもおかしなところはなかった。どちらにしても、ほんの数分会話を聞いただけの印象だ。わかりません、とわたしは肩をすくめた。 「もう一度話を戻しましょう。令子さん、そういう雑誌には他にも使い道があると思いませんか?」 「どういうことでしょう。先生、教えてください」  もうわたしには何がなんだかわからなくなっていた。救いを求めるように見つめると、先生がゆっくりと口を開いた。 「食べ物として、です」        7  はあ、とわたしは不得要領にうなずいた。先生が相手でなければ、笑っていたかもしれない。雑誌を食べて生きていける人間など、いるはずもないだろう。 「もちろん、人間ではありません」先生が言った。「動物です。動物の中には、紙を食料にできるものがいますね。令子さんもご存じのはずです。例えば山羊などはその好例といえるでしょう」  白山羊さんからお手紙着いた、黒山羊さんたら読まずに食べた、という歌を思い出した。なるほど、確かに山羊は紙を食べるだろう。わたし自身、子供の頃、どこかの動物園で山羊に紙を食べさせたことがあった。 「ご存じかどうか、紙を食べ、消化できる能力を持っている動物は、山羊だけではありません。あまり好んでは食べないと言われますが、羊も紙を食べることができます。また、牛、鹿、キリン、ラクダなどの反芻《はんすう》動物は、山羊と同じく反芻胃というものがあり、そこに存在する微生物の働きによって、紙の主要な成分であるセルロースを分解する消化酵素を出すことができます。私たちが考えているより、意外と紙を食べることのできる動物は多いんですよ」 「まさか、そのために? 動物に食べさせるために、良雄くんはあの雑誌類を万引きしたとおっしゃるんですか?」  先生が微笑んだ。そんな、と私は異議を唱えた。 「おかしいですよ、先生。動物に食べさせるため、というのはわからなくもありません。でも、だったらそれこそ古新聞や古雑誌、マンガとかそういう類の雑誌でいいじゃありませんか。何も、あんな……その、エッチな雑誌を……」 「桃子」  おとなしくアイスココアを飲みながら絵本を読んでいた孫の桃子ちゃんに、先生が声をかけた。なあに? と桃子ちゃんが顔を上げた。 「ケーキはどうだい?」  食べたーい、と桃子ちゃんがうなずいた。 「さて、どれにしようか」  先生がケーキのメニューを差し出した。六種類のケーキが写真付きで載っている。マロンのモンブラン、カボチャプリン、ザッハトルテ、季節の果実のタルト、レアチーズケーキ、そして苺《いちご》のショートケーキ。  真剣にメニューを見つめていた桃子ちゃんが最終的に選んだのは、季節の果実のタルトだった。生地の上にマンゴーやキウイ、メロンと生クリームがたっぷりのった、美味しそうなケーキだ。 「それでいいのかい? こっちのザッハトルテはどう? 桃子の大好きなチョコレートのケーキだよ」  先生が写真を指した。ううん、と桃子ちゃんが首を振った。 「どうして? チョコだよ?」 「真っ黒だもん。あんまり美味しそうじゃない」 「本当に? このお店ではいちばん人気があるって、ここに書いてあるよ」  こっちがいいの、とタルトを指さした。どうしてですか、と尋ねた先生に、だってきれいだから、と桃子ちゃんが答えた。 「令子さんもケーキはいかがですか。いや、私はけっこうです。甘いものは控えめにするようにと、最近医者から注意されたばかりでして」  いえ、とわたしも首を振った。ケーキより、先生の話の続きを聞きたかった。先生が手を挙げて、まだ若いウエイトレスにタルトをオーダーした。先生、とわたしは尋ねた。 「だから……グラビア雑誌を万引きしたということですか? カラー写真が多くて、きれいに見えるから、それで……」  おそらくは、と先生がうなずいた。 「間違いないと思います。もうひとつ言えば、友香ちゃんには草食動物と肉食動物の区別がつかなかったのでしょうな。仕方のないことです。何といっても、彼女はまだ幼稚園児なのですから」 「友香ちゃん?」  わたしは思わず叫んでしまった。まだ五歳、幼稚園児である友香ちゃんと、あのエロ雑誌のイメージが、わたしの中で結び付かなかった。先生は何か勘違いしているのではないか。いえ、と先生が微笑んだ。 「万引きをしたのは、友香ちゃんです。友香ちゃんとしては、あくまでも山羊などに対して、なるべく美味しいものを食べさせてあげようという気持ちがあったのでしょうね。裸や、それに近い肉体の女性が載っている雑誌ばかりを選んだのは、要するに肉の方がいいだろうと考えたためでしょう。例えば、車雑誌とか家具の雑誌とか、洋服の雑誌などは駄目だ、という判断が彼女の中にあったのだと思います。車も家具も洋服も、食べるものではないことぐらい、いくら五歳児でもわかったでしょうからね」  先生、とわたしは思わず叫んでいた。 「先生のおっしゃる通り、あの子はまだ五歳です。五歳の子供が、そんな、万引きなんて……」 「五歳だからできた。私はそう考えています。本屋さんも、そんな小さな女の子がエロ雑誌を盗んでいくとは考えもしなかったでしょう。それが常識というものです。だからこそ盲点になった。監視さえしていなかったと思いますね。そして、その判断は決して間違ってはおりません。友香ちゃんはそれこそ堂々と、その手の雑誌を盗むことができたのでしょう」  果実のタルトがテーブルに届いた。桃子ちゃんが嬉しそうにフォークを突き立てて、それを食べ始めた。 「なぜ友香ちゃんがそんなことをするようになったのか。それも私はわかっているつもりです。とても簡単なことですが、川越さん一家はこの六月に、お父さんの仕事の関係で、この吉祥寺に引っ越してきた。そうですね?」  はい、と私はうなずいた。先生が話を続けた。 「長男の良雄くんは、中学生ということもあって、すぐに編入の手続きが取られたわけですが、友香ちゃんはまだ五歳です。すぐに夏休みに入るわけですから、むしろ秋になってから幼稚園に行かせた方がいい、というのがご両親の判断だった。もちろん、間違ってはいません。ただ、友香ちゃんにとってはまったく知らない土地ですから、友達がいなかった。それこそ一人もです。彼女は長い夏を一人で過ごさなければならなかった。本人が意識しているかどうかは別として、寂しかったでしょう。ですが、こればかりはどうしようもない。そして五歳児の行動半径は狭いものです。そんな女の子が行く場所といえば……」  動物園ですね、とわたしは言った。先生がうなずいた。有名な井の頭公園の隣には、小さいけれど自然文化園があり、それなりに多くの動物が飼われている。毎日のようにそこへ行く、と友香ちゃん本人が言っていたのをわたし自身も聞いていた。 「動物園は小さな子供にとって比較的安全な場所です。しかも自宅からも近い。そこに通っているうちに、友香ちゃんは誰かが山羊、もしくは他の動物に雑誌なり新聞紙なりを餌として与えているのを見たのでしょう。最初の頃は、それこそ古新聞でも持っていったのかもしれません。ですが、モノクロの新聞紙は、友香ちゃんにとって美味しそうには見えなかった。だからこそ、カラー印刷がきれいで、肌の露出が多く、美味しそうに見える雑誌を万引きしたというわけです。DVDが封入されていた雑誌について、封さえ切っていなかったのも、そう考えると納得がいきます。友香ちゃんも、動物がDVDを食べるとは考えなかったのでしょう。万引きをしていた時は、悪いことをしているという意識や焦りもあったでしょうから、手当たり次第だったのでしょうし、その中にDVDが入っているのがわからなかった場合もあったと思われます」  要するに、寂しかった友香ちゃんは、動物と友達になろうとした。そういうことなのです、と先生が話を終えた。 「同情すべき点はもちろん数多くあります。とはいえ、放っておくわけにもいかないでしょう。令子さん、川越さんのお宅に電話を入れてみてくれませんか? 今日はとても天気がいい。友香ちゃんが動物園に行っていても、おかしくはないと思いませんか?」        8  確認してみると、友香ちゃんはちょっとタンケンしてくると言って、家を出ているということだった。いつものように、動物園へ行っているのだと思います、と川越さんが言った。  わたしと先生は桃子ちゃんを連れて、自然文化園へと向かった。いるでしょうか、と尋ねたわたしに、五分五分でしょうな、と先生が言った。 「動物園へ行ったのは間違いないでしょう。ただ、私たちが彼女を見つけられるかどうかは、タイミングの問題です。とはいえ、行ってみる価値はあると思いますよ」  十分ほど歩くと、自然文化園に着いた。決して大きな施設というわけではない。中をうろうろしているうちに、わたしは友香ちゃんの姿を見つけていた。  彼女は山羊の畜舎の前で、肩から下げたトートバッグから何かを破ってはそれを山羊たちに与えていた。ちょっと見ただけでわかったのだが、それは明らかに女性のヌードが写っている雑誌の一頁だった。 「……どうしましょう、先生。まさか、友香ちゃんが本当にこんなことを……」 「大人が言い聞かせても、理解してはくれないでしょうな。そして、やめさせたとしてもまだ問題は残ります。根本的な原因は、友香ちゃんの中にある寂しさですから、それを解消しない限りどうにもなりません。しかし幸いなことに、私たちには強い味方がおります。桃子」先生が桃子ちゃんの頭に手を置いた。「あの子のところに行って、話しかけておいで。山羊に紙を食べさせちゃ駄目だよ、と教えてあげるんだ。それから、桃子さえよかったら、お友達になってあげるともっといいのだけれど、どうかな」  うん、とうなずいた桃子ちゃんが友香ちゃんのそばに寄っていった。物おじすることなく、何か話しかけている。桃子ちゃんが積極的な性格であることはわたしも知っていた。 「……あとは桃子に任せておけばいいでしょう。あの子は友香ちゃんのようなタイプの女の子の扱いが上手ですからね。それに、友達が増えるのは桃子にとってもいいことです」 「先生……わたし、本当に驚きました。まさか、あんな小さな子が……」 「先入観を取り除いてみれば、それほど難しい問題ではありませんよ。人間は、特に子供は、寂しさに耐えられるほど強くはないのです。そこから考えていけば、答えは自ずからひとつでした」  桃子ちゃんと友香ちゃんが、その場に座り込んだまま笑い合っていた。見ているだけで心が和むような光景だった。それにしてもよかった、と先生がつぶやいた。 「本当に……これで川越さんのお母さんも安心できますね。彼女には、わたしの方からうまく話しておきます」  そうではありません、と先生が首を振った。 「山羊のためによかった、という意味です。確かに、山羊は紙を食べ、消化する能力がありますが、あのようなカラー印刷のグラビア用紙は決して無害とはいえません。それに、食べすぎると腸閉塞《ちょうへいそく》になる可能性もあります。その意味で、よかったと私は考えております」  なるほど、そういう見方もあるのか。先生とわたしは、笑いながら話している二人の小さな女の子を見ながら、それぞれの感慨に浸っていた。 [#改ページ]  トゥルーカラー        1  署に出るために着替えていたら、母がわたしの部屋に入ってきた。 「何よ、いきなり」ノックもしないで、とわたしは言った。「失礼じゃないの」  あら、ごめんなさいね、と母が答えた。口先だけだというのはすぐにわかったが、もともと母はそういう人なので、別に気にはならなかった。 「失礼はわかってるんだけどね……ちょっと、あれ見てよ」  母が窓際に近づきながら手で呼んだ。わたしの部屋は二階にある。南側に面した窓から、外の様子が見えた。 「何なの、朝っぱらから。あたし、忙しいんだからね、こう見えても」  いいから、ほら、と母が下を指さした。わたしの家も含めたこの辺りは住宅地になっているのだが、その一角にゴミ捨て場が設置されている。  そこに薄汚れた身なりの、枯れ木のように痩せた初老の男が立っていた。ああ、とわたしはうなずいた。いわゆるホームレスの人だ。  このところ、わたしの住む吉祥寺の町でもホームレスの人たちを見かけることが増えていた。都心、例えば新宿、渋谷、池袋などで大掛かりな追い出し運動が始まっているが、そのために居場所を失った彼らは、都心を離れて都下に向かっているという話を聞くこともよくあった。その中には、吉祥寺に居《きょ》を定める者も少なくない。  おそらく、あの初老の男もその一人なのだろう。ゴミ袋を開いては、その中を覗き、食べ物があれば横に出していく。男は規則正しく、順番にその作業を進めていた。 「困るのよ」母が市民を代表するような声で言った。「ああいう人が増えると、何だかやっぱり怖いし。不気味じゃないの、だいたい。しかも、あんなふうにゴミを漁って人の家の食べ残しとかを持っていって、後は放ったらかしで。迷惑ったらありゃしない」  そうねえ、とわたしは中途半端にうなずいた。母の言うことにも、一理あるだろう。  ホームレスの人たちが、一般市民に対して直接危害を加えた、というような例はほとんどといっていいほどないが、彼らの存在が町の美観を損ねることは確かだった。  しかも、その数はどんどん増えつつある。駅周辺のような、ある部分でわかりやすい場所ならともかく、今わたしたちが見ている男のように、住宅地にまでホームレスが出没しているというのは、多少問題があるだろう。 「取り締まってよ、令子。あんた、副署長なんでしょ。それぐらいの権限はあるでしょうに」  母がわたしの背中を叩いた。いや、それは管轄外で、とわたしは役人的な答えを返した。 「ああいうホームレスに関しては、市役所とか保健所が対応しなければならないわけで……」 「嫌だ嫌だ」母がうんざりしたような顔で言った。「あんたもすっかり官僚主義者になったわね」 「だって、別にあの人たちは違法行為をしているわけじゃないんだし」 「存在自体が違法に近いじゃないの」  まあ、そうかもしれないけど、とわたしは渋々うなずいた。わたしにホームレスの人たちを擁護する義理はない。  正直なところ、印象のいい人たちでないことは確かだ。不潔だし、薄汚いし、できれば町から出ていってほしいと思うことさえある。  せめて見えないところで暮らしていただければ、とわたしも常々考えていたから、母の意見に反対というわけではなかった。はっきり言えば、それなりに正しいとすら思っている。  だいたい、どうして彼らは働こうとしないのか。これが例えば健康に問題があるとか、そういうことならわかる。だが、見ている限りそういうことではなさそうだ。  つまるところ、やる気がなくなっているということになるのだろうか。それにしても、もうちょっと努力をしてもいいのではないかと思う。 「いけない」わたしは窓から離れた。「遅れちゃう」  ホームレスどころではなかった。署に向かわなければならない。今日は週に一度の早朝会議のある日なのだ。 「行ってらっしゃい、副署長」  母がわたしの肩を軽く叩いた。        2  母が言った通り、南武蔵野署における私の立場は副署長ということになっている。これは要するに署内で署長の次に偉いということだ。  ただし、それがわたしにとっていいことなのかどうかはかなり怪しい。わたしの判断では、決していいことではないと思っている。  というのも、二十五歳の女副署長に対して、周囲の人々はどう扱っていいのかわからないまま、わたしを放置するようになっていたからだ。そのため、わたしは署内に友人を作ることができなくなっていた。  南武蔵野署は所轄の警察署だから、さまざまな課がある。単純に言えば、刑事課、交通課、生活安全課、もちろん総務や経理などもある。  三多摩で最も大きいと言われる南武蔵野署は、当然その人数も多く、婦人警官の数も他の署と比較して明らかに多い。彼女たちの中には、わたしと年齢的に近い人たちも大勢いたけれど、今日に至るまで友人になってくれる人はいなかった。  もちろん、仕方がない部分もある。副署長と交通係のミニパトに乗っている婦警が一緒にランチを摂ることをはばかる空気は確かにあった。  何だかわたしが貴族階級の出のように聞こえるかもしれないが、事実そうなのだから仕方がないだろう。わたしの方から声をかけなければ、彼女たちはわたしと話すことさえできないのだ。インドのカースト制度でも、ここまで厳しくないのではないかと思う今日この頃だ。  しかも、声をかけようにも、例えばわたしが廊下を歩いていれば、それだけで婦警たちは廊下の隅に寄って、ただ黙って頭を下げるだけなのだから、どうにもならない。とにかく気軽に話しかけたりすることはできないし、向こうもそれをあまり望んでいないのが現実だった。  その中で、唯一、と言っていいが、友人と呼べる女性がいた。今年三十歳になる竹内冬子《たけうちふゆこ》さんという婦人警官だ。  ただし彼女は、一般に言われる婦人警官ではない。簡単に言えば、警察犬の訓練士だ。所属も鑑識係となっている。  一般の人たちは、警察犬といえば、テレビのニュースなどで、山奥に埋められた遺体を捜したり、あるいは犯人の残した臭跡を追う犬を思い浮かべるが、実は警察犬には二つの種類がある。  ひとつは、各都道府県警が飼育管理し、訓練をしている警察犬だ。これは直轄警察犬という。そしてもうひとつは、一般人や認められた組織などが訓練を行う嘱託警察犬だ。  もちろん、嘱託警察犬はどんな犬でもいいというものではない。各都道府県警が毎年審議会を行い、厳しい試験に合格した犬だけが、嘱託警察犬として認められる。  何らかの事件があった際、警察の直轄警察犬だけでは不十分だと判断された場合、嘱託警察犬が捜査に加わる事例は決して少なくない。  竹内さんの場合は、彼女自身が警察官であり、同時に正式な形で警察犬の訓練士の資格も持っている。これは女性としてはかなり珍しいそうだ。  わたしたちが時々話すようになったのは、お互い警察官としては珍しいタイプに属するという、一種の同族意識があったためかもしれない。  警察犬の訓練所は、署の裏手にある。もともと、二十年ほど前まで、その土地は駐車場として使用されていた。  当初は五、六台しか停められない程度の広さしかなく、署に勤務している警察官から、毎年のように駐車場の拡充について、要請があったそうだ。  その頃は今のように、ビルや建物が建ち並ぶようなことはなく、市内にも空き地や林などがいくらでもあった。わたしも子供の頃、よくそういう場所で遊んだりしたものだ。  そして、署の裏手の土地の更に奥も、やはり雑木林だったため、歴代の南武蔵野署の署長はその土地の持ち主と交渉し、五年ほどの間に雑木林を少しずつ買収していき、最終的には十数台のパトカーや署員の車が停められるほどの広さにまでした。  ところが、間がいいのか悪いのかよくわからないのだが、十年ほど前に、署の隣にあった雑貨屋が店を畳むことになり、そこの土地が空くことになった。当然のことだが、やはり駐車場は車道に面していた方が便利だということになり、結局市がその土地を借り上げた上で、南武蔵野署の駐車場として使用されるようになった。ブルドーザーまで入れて更地にした裏手の土地は、その意味で丸々空いてしまったことになる。  その空いていた土地の利用法については、さまざまな議論があったそうだが、最終的に今の佐久間署長の二代前の署長で、現在は都議会議員となっている大城辰巳《おおしろたつみ》という当時の署長が、警察犬訓練所にすることを決めた。  さすがに後に都議会議員になるだけのことはある人物で、本庁への根回しも怠りなく行い、正式な認可を得た上で、警察犬の訓練所を作ったのだ。  当初は嘱託警察犬の訓練所を兼ねていたらしいが、三年ほど前に竹内さんが別の署から異動してきたことをきっかけに、直轄警察犬のみの訓練所となった。今もそれは変わっていない。これはわたしにとって、大変にありがたいことだった。  というのも、何しろわたしには仕事がない。八時半に署へ行き、前日の報告書を読んでハンコを押し、それを署長に回す。  めったに大きな事件が起きないことで有名な南武蔵野署では、報告書といってもたいしたことが書いてあるわけではない。痴漢を捕まえたとか、万引き少年を説諭したとか、その程度のことだ。わたしはそれを斜めに読み、署長は更に流し読みをしてハンコを押す。  その他は、会議などがあれば出席するが、基本的には何もすることがない。副署長室で雑誌を読んだり、テレビゲームをやったり、パソコンでお薦めのレストランを検索したりするしかなかった。  明らかにこれは税金泥棒と言われても仕方のない話だが、決してわたしのせいではない。警察というシステムの問題なのだから、わたしに何ができるというものでもないだろう。  それでもどうしても暇で退屈を持て余してしまった時は、署の裏手にある警察犬訓練所へ行って、竹内さんと話したりすることにしていた。わたしにとってありがたい、というのはそういう意味だ。  幸い、と言うべきか彼女の仕事は専門職なので、他の婦警と比べると、副署長というわたしの肩書はあまり気にならないようだった。困った時には竹内さん、というのが最近のわたしの標語だ。  だいたい、月に一、二度ほどわたしは訓練所へ行く。あまり邪魔をしても悪いと思って、これでも遠慮しているのだ。本来なら、二日に一度は行きたいところだった。  そして今日、わたしは本格的に暇を持て余していた。自分でも驚くほど、何もしたくないし、やるべき仕事もなかった。  この前訓練所へ行ったのはいつだったろうか、と思いながら、わたしは副署長室を後にした。午後三時半を回ったところだった。        3  現在、南武蔵野署に警察犬は一頭しかいない。雄のシェパードで、名前はカールという。  訓練士としての竹内さんの能力は他の署でも有名で、またカール自身も優れた警察犬だった。過去に何度も難事件を解決したことがあるという。言ってみれば、名コンビというところだろうか。  残念なのは、その名コンビの能力を生かすような事件がめったに起きないことだが、その方がいいんです、と竹内さんはいつも言っていた。 「あたしたちが現場に出るような事件は、なるべくなら起きない方がいいんです」  それが彼女の口癖だった。おっしゃる通りだろう。  訓練所へ近づいていったわたしに気づいたのは、カールの方が先だった。すごいスピードで駆けてきて、わたしにじゃれついてくる。  わたしはだいたい動物が大好きで、特に犬に関しては目がないといってもいい。その気持ちが通じているのか、わたしが行けば必ずカールは歓迎してくれた。 「カール、そんなにはしゃがないの」手袋をした竹内さんがやってきた。「相手を誰だと思ってるの? 副署長なのよ」  どういうことになっているのかよくわからないが、カールが動きを止めた。わたしの前に座ったその姿は、人間でいえば正座ということになるのだろう。  ただ、尻尾《しっぽ》だけは振り続けている。大きな舌を出しながら、わたしのことをじっと見つめているカールは、抱きしめたくなるほど可愛かった。 「カール」  竹内さんが言った。すごすご、という感じでカールがその場を離れた。手袋を取った竹内さんが、ご苦労さまです、と敬礼した。  彼女はちょっとぽっちゃりしているが、色白でなかなかの美人だ。三十歳とは思えない童顔で、署内でも人気があるという。  ただ、本人はあまりそういうことに興味がないらしく、署に顔を出したかと思えば、すぐに訓練所の方へ行ってしまうのが習慣だった。男の人とか苦手なんですか、と不躾《ぶしつけ》な質問をしてしまったこともあったが、そうじゃありません、と笑われた。 「ただ、今はカールのことで頭が一杯なんです。あたし、あんまり器用な方じゃないんで、いろんなことを一緒にできないんですよ」それに、と秘密を打ち明けるように声をひそめた。「あんまり男の人と話したりしてると、カールが焼き餅《もち》を焼くんです」  なるほど、そういうこともあるのか、と話を聞きながら思った。人馬一体という言葉を聞いたことがあるが、彼女の場合は人犬一体、ということなのだろう。 「どうされたんですか、副署長」  年齢は彼女の方が上なのだが、役職柄どうしても竹内さんは丁寧語で話さざるを得ない。そういうのはやめませんか、と言ったこともあるのだが、こればかりはどうしようもないです、というのが竹内さんの答えだった。 「いえ、別に。何でもないんです。ちょっとカールの顔が見たくなっただけで」  よかったね、カール、と竹内さんが声をかけた。 「副署長は、君に会いたくて来てくれたんだって。お礼を言いなさい」  驚くべきことに、カールが短く吠えた。竹内さんとカールとは、明らかに意思を疎通させることができるようだった。 「今日は訓練は終わりですか?」  はい、と竹内さんがうなずいた。ちょうど終わったところへわたしがやってきたのだという。いいよ、カール、とまた竹内さんが言った。 「ほら、走ってきなさい」  嬉しそうにカールが訓練所の中を所狭しと走りだした。まさに、犬は喜び庭|駈《か》けまわり、の図だ。この訓練所はそこそこの広さがあるから、走るのにはちょうどいいだろう。  わたしと竹内さんは、走り回っているカールを見ながら、小一時間ほど世間話をした。たいしたことではない。上司がどうしたとか、誰それがつきあってるらしいとか、職場環境がどうとか、そんなことだ。要するにサラリーマンの愚痴に過ぎない。  ちなみに言っておくが、警察官というと何か特殊な職業のように思われがちだが、実際には普通のサラリーマンとそれほど変わるものではない。  そういえば、と竹内さんが言いにくそうに口を開いたのは、陽が西の空に落ちかけた時だった。 「実は……ちょっと副署長にご相談したいことがあったんです」  なんだろう。犬舎の改築か。それともドッグフードをワンランク上げてほしいとか、そういうことだろうか。 「いえ、そういうことでは……あの、最近ですね、妙なことが続いてるんです」 「妙なこと?」  カール、と立ち上がった竹内さんが叫んだ。走り回っていたカールが一直線に戻ってきた。 「ああ、よかったね、たくさん走れて。楽しかった? さあ、じゃあ今日はシャワーを浴びようね。汗臭いと、副署長に嫌われちゃうぞ」  カールがあまりシャワーや水浴びが好きでないことは知っていた。その種の単語が出てくると、尻尾を後ろ足の間に挟んで後ずさりすることさえあったが、今日はわたしがいるためなのか、素直に竹内さんの後についていった。 「妙なことっていうのは……」カールと一緒に歩きながら、竹内さんが口を開いた。「シャワーのことなんです」 「シャワー?」 「……というか、正確にはシャワーの時に使う石鹸のことなんですけど……」  石鹸。ますますわけがわからなくなってきた。とりあえず、直接ご覧になっていただいた方が早いと思います、と竹内さんが言った。わたしとしても、うなずくしかなかった。        4  シャワーといっても、本格的なシャワー室があるわけではない。もちろん、バスタブもない。カールはあくまでも警察犬で、ペットでもなければお犬様でもないのだ。  犬舎の脇に水飲み場がある。昔の小学校などによくあったような、石作りの水飲み場だ。蛇口が三つ並んでいる。そのひとつにホースがつながっていて、そこから水を浴びせるのがカールにとってのシャワーだった。 「ああ、今日はありますね」  何のことかと思っていたら、竹内さんが蛇口にぶら下がっていた赤い網の袋を指さした。こういうのを見ると、本当に警察というものは旧態依然とした組織だと思う。  それは石鹸を入れておくための袋だった。今時、小学校でもこんなものはめったに見ることができないだろう。  警察という組織が変化を嫌うということを、わたしはここに赴任してから学んでいたが、これもまた昔からの伝統、ということらしい。  ホースを掴んだ竹内さんが蛇口をひねった。勢いよくその先から水が飛び出していく。諦《あきら》めたような顔で静かに座っていたカールの背中に水をかけていった。  全身に水をかけ終えたところで、竹内さんがホースを地面に置き、さっきの赤い網の袋を蛇口から外して素早くカールの体をこすり始めた。  くすぐったそうに身をよじったカールに、我慢しなさい、と強い口調で命じると、はあ、というようにカールがまた元の姿勢に戻った。  面倒だなあ、早く終わってくんないかなあ。これ、あんまり好きじゃないんだよなあ。匂いもけっこうキツイしさあ。  たぶん、カールが口を利くことができたら、そんな文句を言ったことだろう。それぐらいふてくされた表情になっていた。  体中が泡だらけになったところで、竹内さんがホースを取り上げてもう一度水をかけた。カールが体を震わせて水滴を払おうとしたが、ストップ、と竹内さんが命じるとすぐに動きを止めた。 「あたしたちに水がかかっちゃうでしょ。ダメ、ゼッタイ」  覚醒剤禁止のポスターのようなことを言いながら、ホースの水を止めた竹内さんが少し離れた場所を指さした。とことこと十メートルほど離れていったところで、カールが盛んに体を振り始めた。水気を振り払うためだ。鼻が鳴っているのは、水が入ってしまったためだろうか。 「あの……今日はあるって、おっしゃいましたよね」  手を洗っていた竹内さんが、そうなんです、とうなずいた。それってどういう意味なんですか? とわたしは尋ねた。 「よくわからないんですけど……最近、ここの石鹸が何度も盗まれているんです」 「石鹸が……盗まれてる?」  はい、と答えた竹内さんが、水飲み場の隣にあったゴミ箱の蓋を開けた。出てきたのは、石鹸を入れておくための赤い網の袋だった。ひとつではない。数えてみると、三枚あった。  その網の口の部分が、すべて鋭利な刃物|様《よう》のもので切られているのは、ひと目見ればわかった。これだけじゃないんです、と竹内さんが言った。 「最初は……ひと月ぐらい前だったと思います。それまで、この水飲み場は犬舎の中にあったんですけど、水道管の配管工事があって、今の場所に移されたんです。これは、あたしも署の方に前からお願いしていたことで、犬舎と水飲み場は離しておいた方がいろいろと都合がいいものですから、それはよかったんですけど……」  それで? とわたしは尋ねた。はい、とうなずいた竹内さんが話を続けた。 「その工事が終わった頃、いつものように、ここへ来てみたら、この網だけが水飲み場のところに置かれていて……中に入っていた石鹸がなくなっていたんです」  意味がわからない。わたしは竹内さんの話に耳を傾けた。 「この網はナイロン製なので、人間が手で破ったりすることはできません。切り口の鮮やかさから見ても、明らかにハサミであるとか、カッターであるとか、そういうものを使って切ったのは間違いないと思います」  竹内さんが言った。確かにその通りだろう。試しにわたしは赤い網の袋を手で思いきり引っ張ってみた。指が痛くなっただけで、袋は元の形のままだった。でも、しかし。 「……石鹸を盗むために、ですか?」 「……そうかどうかはわかりません。ただ、犬舎そのものに何か変わったことが起きた様子はないんです。石鹸がなくなっていることを除けば、ですけど」  赤い網の袋は、何らかの道具を使わなければ切断することはできない。そして、網自体はそのまま水飲み場に残されている。つまり、やはり目的は石鹸ということになるのだろう。  だが、いったい誰がそんなことをするというのだろうか。だいたい、署の裏手にあるとはいえ、ここは立派な警察の敷地内なのだ。  ここに侵入するというだけでも、相当な度胸がいるだろう。もちろん、周囲は高い塀で囲われている。簡単に入れるものではない。しかも、危険を冒して盗んでいったのが石鹸というのでは、割に合わないにもほどがあるというものだ。 「竹内さん、一応確認なんですけど……その石鹸には何か特別な……例えば、すごい高級品であるとか、そういうようなことはあるんですか?」  そうですねえ、と竹内さんが顎に指をかけた。 「普通、犬の体を洗う場合は、専用のシャンプーを使う場合が多いんですけど、カールは皮膚が過敏なので、天然素材を使用した石鹸を使っています。一個千円ぐらいしますから、高いといえば高いと思いますが……」  奇妙な話だ。いったいどういうことなのだろう。 「もしかしたら、カールがやったのかとも思ったんです。ただ、今までそんなことをしたことはありませんでしたし……」 「その可能性はありそうですね」わたしはうなずいた。「確かに、カールは体を洗われるのがあまり好きではないようですから。子供みたいな発想ですけど、石鹸を隠してしまえば水浴びとかをしなくてもいいと考えたのかもしれません。だから網を食い破って、石鹸をどこかへ埋めたとか、そういうことなんじゃないでしょうか」 「あたしも、少しそれは考えたんですけど……ただ、絶対にカールにはできないんです」 「どうしてですか?」  理由は簡単だった。竹内さんによれば、カールは竹内さんがいない時は犬舎の中で過ごしている。そして、万が一にも逃げ出したりすることがないように、彼女は常に外から鍵をかけていた。  もちろん、竹内さんがいる場合、逆にカールは外へ出ている方が多い。だいたい、訓練は外でやるものだし、シェパードには必ず運動が必要だからだ。  ただし、その間、竹内さんはカールから目を離したことは一度たりともないという。訓練や運動が終われば、カールを犬舎に戻すのも竹内さんの仕事のひとつだ。  それも含め、竹内さんは常にカールの動向を把握していた。鍵をかけ忘れるような人ではないことも、わたしにはわかっていた。 「でも……犬って賢いじゃないですか。もしかしたら、中から鍵を開けて……」  それが、とちょっと肩をすくめた竹内さんが犬舎を指さした。遠目にもわかったが、犬舎の扉には大きな南京錠がついていた。 「鍵を持っているのは、あたしだけなんです」竹内さんがポケットから懐かしい感じのする鈍い銅色の鍵を取り出した。「もちろん、スペアキーは総務にもありますけど、たぶん誰も使ったことはないと思います」  つまり、カールは犬舎の中に入り、鍵をかけられたら、そこからは絶対に出ることができないということになる。では、石鹸は誰が盗んだのだろう。そして何のために。 「ひと月前に、初めて盗まれたということでしたね。その後は、どうなんですか?」 「一度だけだったら、変なこともあるね、で済むような話なんですけど、もうこのひと月の間で、七、八回は同じことが起きているんです。いったいどういうことなんでしょうか」  竹内さんが首を傾げた。さあ、とわたしも首をすくめた。        5  それでですね、先生、と勢い込んでわたしは言った。先生、というのは土井先生のことだ。  わたしは四十歳近く年が離れたこの初老の獣医さんが大好きだった。そして、先生の方もわたしのことを娘のようにかわいがってくれていた。  毎週日曜日の午後、お互いの都合が合えば、必ず会ってお茶を飲んだりランチを摂ったりするというのが、ここのところのわたしたちの習慣となっていた。だいたい八割方はわたしが話し、先生はにこにこと相槌《あいづち》を打っているだけだ。  わたしの話の九割以上は、警察官という仕事、そして副署長という要職に無理やり就かされているということに対する愚痴だった。本当に先生は我慢強い人だと思う。二十五歳の女の子の仕事の愚痴なんて、自分で言うのも何だが、ほとんど意味などないだろう。  ただ、残りの一割については、多少事情が違う場合もあった。わたしは南武蔵野署管内で起きた奇妙な事件、あるいは未解決の事件などについて先生に話すようにしていた。  先生は魔法使いではないかと近所でも噂されている名医で、動物と話すことができる、と信じている子供たちも大勢いた。実はわたしも時々本当にそうなのではないかと思うこともあった。  それは先生の才能だったが、もうひとつ別の優れた能力もあった。探偵としての資質だ。  先生はわたしが話す不可解な事件のいくつかについて、孫の桃子ちゃんと共に、大きなヒントを与えてくれることがあった。言われてみれば、どうしてそれがわからなかったのだろう、というようなことが多かったが、これはコロンブスの卵というもので、思いつくことが難しいのだが、先生はいつでもやすやすと謎《なぞ》を解いてくれた。  だが、今回の事件に関しては、わたしも意気込みが違った。毎回、町の獣医さんに謎を解いてもらっていたのでは、南武蔵野署の副署長、泣く子も黙るキャリア組の名がすたるというものだ。  竹内さんから聞いた連続石鹸盗難事件について、あれからわたしはわたしなりにいろいろと考えてみた。そして、これしかない、という結論に達していたのだ。 「紅茶が冷めますよ」  先生が落ち着いた声で言った。わたしたちは桃子ちゃんと一緒に、吉祥寺の駅から少し離れたところにある喫茶店にいた。わたしたちの他に、客はひと組しかいなかった。のんびりした店内で、わたしの言葉だけが妙に浮いていた。 「それでですね、先生」  わたしは話を続けた。例の石鹸盗難事件の概要はもう話し終えていた。概要といっても、基本的なポイントは外していないつもりだ。これでも一応は警察官だから、重要な点を見落としてはいない、と自分なりに考えていた。 「なるほど、それは不思議な話ですね」先生がティーカップに口をつけた。「大変、興味深い」 「変なの」  桃子ちゃんがケーキを食べながら言った。確かに変な話だ。 「ですが先生、わたしは犯人がわかったような気がするんです」 「さすがは令子さんだ」先生が真面目な表情でうなずいた。「その犯人とは、いったい誰なんです?」 「誰、と特定はできないんですが……要するに、ホームレスの人たちがやったのだと思うんです」 「ホームレス?」  最近、吉祥寺付近にホームレスが増えているのは、先日母とも話した通りだ。あの後も、たまたまだったが、町で彼らの姿を見たことが何度かあった。ホームレスと石鹸というのは、一見結び付かないようだが、そうではないとわたしは考えていた。 「そうです。ホームレスの人たちです」わたしは自信たっぷりに断言した。「彼らにとって、いちばんの問題は食料、水、そして寝るための場所の確保ですが、もうひとつやはり重大な問題があります。つまり、入浴です」  これは生活安全課から上がってきた報告書の受け売りだったが、南武蔵野署と保健所がいわゆるホームレスの人たちに聞き取り調査をしたところ、彼らから返ってきた答えの中に、入浴についての訴えは少なくなかった。  彼らは金があればコインシャワー、あるいはサウナなどを使うこともあったが、銭湯やサウナなどはホームレスの入場を断る場合も多かった。そして、彼らもそれらの施設を使うほど、金が余っているわけではない。仕方なく、例えば公園のような公共の場所の水で顔を洗ったり、駅のトイレの個室などで体を洗う場合もあるという。 「でも、そういうところに石鹸は用意されていません。もちろん、彼らがそれほどきれい好きだとは思えませんが、それでも例えば週に一回ぐらいは石鹸を使って体を洗いたい、と希望する者は少なくないでしょう」  気持ちはわかりますね、と先生が二の腕の辺りを掻いた。あたしは毎日ちゃんと体を洗うよ、と桃子ちゃんが得意気に言った。それで、とわたしは話の先を続けた。 「ホームレスの人たちは、例えば窃盗のような犯罪行為をしない、というデータが出ています。それをしてしまうと、本格的に行政が彼らの排除に取り組むとわかっているからだと思いますが、それでも石鹸で体を洗いたい、という欲求はあるでしょう。石鹸は日用品ですが、どこにでもあるというものではありません。窮した彼らは、どうやって知ったのかはわかりませんが、警察犬訓練所に石鹸があることに気づき、それを盗んでホームレス仲間と使い回しているのではないでしょうか」 「……ですが令子さん、それはやはり窃盗という犯罪行為に当たるのではありませんか?」 「もちろん、そうです。ですが、人間用のものを盗むよりは、罪が軽いと考えたのではないかと思うんです」 「令子さんは、先ほどその石鹸は動物用のものだとおっしゃっていましたが、ホームレスの人たちはそれを知っているんでしょうかね」 「どうでしょうか……でも、石鹸が動物用のものであっても、それにこだわるとは思えません。それに、これはペットショップで聞いてきた話ですが、動物用石鹸と人間用の石鹸とでは、成分にそれほど大きな違いはないそうです」  実際問題として、カールが使っている石鹸は、むしろ普通の人間のそれより、かなり高級品ということらしい。なるほど、と先生がうなずいた。 「今回の場合、窃盗と呼べるのかどうか、彼らホームレスを犯人と呼ぶべきなのかどうか、わたしにも判断はつきませんが、ホームレスの人たちがあの水飲み場から石鹸を盗んでいったことは間違いないと思っています」  わたしは報告を終えた。いつもは先生が謎解きの担当だが、わたしにだって一応は警察官としての意地がある。  今回の事件に関しては、わたしの推理にほぼ間違いがないだろうという自信があった。ちょっと得意に思っていたぐらいだ。なるほどなるほど、と先生がまた言った。 「非常に素晴らしい推理です。ただ令子さん、いくつか疑問がないわけでもありません……それを指摘しても構いませんか?」  ええ、とわたしは余裕たっぷりにうなずいた。まずひとつは、と先生が指を一本立てた。 「私も、あのカールという警察犬についてはよく知っています。半年に一度、うちの病院で定期的に検診していますからね。ついでにというわけではありませんが、あの警察犬訓練所にも行ったことがあります。あそこは二十年ほど前までは駐車場で、その奥は雑木林だったのですが、市がそれを借り上げ、現在の警察犬の訓練所にした、という経緯があります。令子さんも、それはご存じですね?」  もちろんです、とわたしは答えた。さて、と先生が両手を合わせた。 「それに当たって、警察署は訓練所の周囲に高い塀を巡らせました。当然の措置ですね。警察署の裏手の土地が、囲いも何もないというのでは、あまりに不用心ですから」  先生の言う通りだろう。周囲に塀を巡らすというのは当然の話だ。 「さて、そこで問題です。疑問があるというのはですね、令子さん、まずあなたのおっしゃるホームレスの人たちが、どうやって裏手にある警察犬の訓練所内に石鹸があることを知ったか、ということです。そして次に、どうやって彼らが高い塀を乗り越えてあの敷地内に入ってきたのか。それが二つめの疑問です。どうお考えですか」 「……あそこに警察犬がいることは、おそらくホームレスの人たちにもわかっていたと思います」わたしは慎重に言葉を選びながら答えた。「カールは犬です。訓練の際、模擬犯人を威嚇《いかく》するために吠えることもありますし、竹内さんと遊んでいる時に吠えたりもしたでしょう。ホームレスの誰かがそれを聞いて、そこに犬がいるのなら、しかも警察犬であるのならば、犬のための洗い場や、石鹸などがあると考えたのかもしれません」 「かなり苦しい理由ですが、そういうこともあり得たかもしれませんね。では、もうひとつの疑問については、どうお考えですか?」  確かに先生が言った通り、警察犬の訓練所の周囲は、高さ四メートルほどの塀で囲われている。どうやってそこを乗り越えて入ってきたのか。決して簡単なことではないはずだ。  ただ、乗り越えるだけなら、いくらでも方法はあるだろう。もし人数が複数だとすれば、肩車のような手段を使って仲間の一人を中に入れることぐらいは可能なはずだ。どこかでロープ状のものを用意しておけば、戻ってくる時はそれを使えばいい。  あるいは、段ボール箱のようなものを重ねて、一種の階段のように使ったのかもしれない。いずれにしても、何らかの手段を使って塀を越えることは不可能とは言えないだろう。 「それでは、最後にもうひとつ」先生が人差し指を振った。「ホームレスの人たちが、不法行為を働くことは少ない、とあなたはおっしゃった。その通りでしょう。彼らの立場は、非常に弱いものです。この町でもこのところよく目にしますが、ほとんどあらゆる場所を彼らはその住み処にしています。はっきり言って、市民にとって迷惑な存在であることは否めない事実でしょう。今のところは、誰もが見て見ぬふりをしているといいますか、迷惑さえかけないのならその存在を黙認しよう、ということになっていますが、何らかの意味合いで法を犯すようなことがあれば、これは住民運動に発展する可能性も十分にあり得ます。例えばホームレス排斥運動のような。住民の強い要請があれば、市としても動かざるを得なくなるでしょう。彼らはそれをわかっているから、目立たないように、静かにひっそりと暮らしているわけですし、もちろん不法行為などは絶対にしないようにしていると言ってもいい。そんな彼らが、不法侵入であるとか、ましてや単に石鹸を盗むために、そんな大掛かりなことをすると思いますか? しかも相手は警察署なんですよ。あり得ない話だとは思いませんか?」  先生が細かくかみ砕くように情報を整理しながら、わたしに説明をしてくれた。そして、それはわたしにもある程度わかっていたことだった。  ホームレスが石鹸を盗んだ、ということについて、わたしは自分の意見に自信を持っていたが、なぜよりにもよって警察署から盗んでいったのか、ということについてはまったく見当もついていなかった。あるとすれば、南武蔵野警察署はその裏手にある警察犬訓練所について、夜間の見回りをしていない、ということだろうか。  紺屋《こうや》の白袴《しろばかま》、医者の不養生ではないが、警察はあまり自分たちの署そのものをパトロールしたりはしない。基本的にその必要がない、と考えているからだ。確かに、わざわざ警察署内に泥棒に入る者もいないだろう。  そういう意味で、意外とガードは緩いといえば緩い。特に警察犬訓練所については、盗むものさえないのだから、夜になれば誰も行かなくなるのが普通だった。 「なるほど、確かに犬舎の警備はしていないも同然だったでしょう。しかしね、令子さん、率直に言えば、ホームレスの人たちが石鹸一個を盗むために、わざわざ警察署の敷地内に入ったとは、常識的に見て考えられないことだと思います」  残念ながら、それは認めざるを得なかった。金品とかならまだしも、石鹸のためにホームレスが泥棒に入るというのは、あまりにも割に合わない犯罪だ。その時、わたしの中に天啓がひらめいた。        6  わたしが思い出したのは、子供の頃に読んだシャーロック・ホームズシリーズの一編だった。うろ覚えだが「六つのナポレオン像」とか、そんなタイトルだったと思う。  だいたいのあらすじはこうだ。ロンドンの街で、ナポレオンの石膏像が盗まれ、砕かれるという事件が立て続けに起きた。しかも、盗んでいるところを見つかったために、犯人は目撃者を殺害するに及んだ。  そのためもあって、警察はホームズに事件についての調査を依頼してくるのだが、それは本筋とあまり関係ない。問題なのは、なぜ犯人がナポレオンの石膏像を盗んだのか、そしてそれを砕いたかだ。  結論から言うと、犯人はそのナポレオン像を作っていた職人だった。彼は職人という正業を持ちながらも、裏では犯罪組織に加わっており、ある夜、仲間と一緒に高価な宝石を盗んだ。  しかし、すぐに警察に通報され、追われた彼は自分の勤めていた工場に逃げ込み、作りかけでまだ生乾きだったナポレオン像の中に、その宝石を埋め込んで隠した。つまり、犯人の目的は、ナポレオン像自体を盗むことでも破壊することでもなく、その中に隠していた宝石を見つけることだったのだ。  わたしはその話を先生にした上で、この石鹸盗難事件にも似たようなことがあったのではないか、と言った。何を盗んだのかはわからないが、やはり宝石のように小さくて、しかも高価なものだろう。  それを盗んだ犯人は小説の中の犯人と同じく、石鹸の製造工場のようなところへ逃げ込み、作っている石鹸のひとつの中に盗んだものを埋め込んだ。それを捜すために、危険を冒してまで石鹸を盗みに入ったのではないだろうか。 「令子さん、あなたにいろいろと悩みがあること、ストレスを抱えていることは、私も理解しているつもりです」憐れむように先生が言った。「私も子供の頃、その話は読んだ記憶があります。非常に面白いストーリーでしたが、タイトルにもありますように、その話の中で犯人が捜さなければならないナポレオン像は、六つと限定されていました。逆に言えば、だからこそ犯人もその石膏像を捜すことができたわけです。ですが令子さん、石鹸は大量生産品であり、はっきり言えば万単位で製造されているものです。そしてホームズの時代と違い、二十一世紀の現代は、その流通経路も複雑化しています。それは動物用の石鹸でも同じです。仮に宝石泥棒がいたとしても、彼は自分が埋めて隠した宝石を発見することは絶対にできないでしょうね」 「でも先生、だとすると話は元に戻ってしまいます。いったい誰が、どんな目的で警察犬訓練所から石鹸を盗み出していったのでしょうか」 「それはとても難しく、そしてとても簡単な問題です」  そう言った先生が指を一本上に向けた。そこにあったのは店の天井だ。 「天井に何かあるんですか?」 「いえ、違います。私が指しているのはその更に上、要するに空です」 「空?」  先生は疲れているのではないだろうか。何を言いたいのかさっぱりわからない。 「つまり犯人は空から降りてきて石鹸を盗み、そして再び空に帰っていった。そういうことなのですよ、令子さん」  先生が微笑んだ。わたしには理解不能な発言だった。        7 「いつでしたか、山羊に食べさせるために雑誌を万引きした、友香ちゃんという女の子がいましたね」  先生が言った。しばらく前に、そんなことがあった。幼稚園児だった友香ちゃんは、動物園の山羊に食べさせるため、事もあろうにエロ本を万引きしていたのだ。 「動物の食生活には、非常に特殊なものがあるというひとつの例です。更に極端な例を挙げると、これはゴキブリの場合ですが、青インクを食料にして一年近く生き続けてきたという事例もあります。動物は本当に何でも食べるという実例ですが、今回食料として選ばれたのは石鹸だったというわけです」 「石鹸?」  石鹸を食べる動物などいるのだろうか。います、と先生が厳粛な表情でうなずいた。 「しかも私たちのごく身近に。非常に近い存在と言っていいでしょう。決して特殊な存在ではなく、誰もが知っているでしょうし、誰もが見たことのあるものです」 「先生、もったいぶらずに教えてください」わたしはその先を促した。「いったい、それは何ですか?」 「カラスです」 「カラス?」  わたしはぽかんと口を開けてしまった。カラスが石鹸を食べるなど、聞いたこともない。 「カラスは非常にユニークな鳥でしてね」先生が真面目な顔で言った。「ある種の研究によれば、カラスの知能はチンパンジー以上とも言われています。例えば、これは実際に確認されていることですが、ある町でカラスが車道にクルミの実を置いていたことがあったそうです。なぜそんなことをしたのかといえば、堅いクルミの殻を、走っている車に轢《ひ》かせて割るためでした。つまり、カラスは車を一種の道具として使ったということになります。これはチンパンジーを含めた霊長類以外にはほとんど見ることのできない現象です」 「カラスが頭がいい、というのはよく聞きますね」わたしはうなずいた。「記憶力もいいといいますし、銃で撃たれたり、石を投げられたりすると、その相手である人間のことを覚えていて、逆に襲ってきたりすることもあるそうですけど」  その通りです、と先生が軽く手を叩いた。 「記憶力、認識力に特に優れた鳥の代表格といっていいでしょうね。そして雑食であり、生命力も強い。ある意味では世界最強の鳥類と呼んでも差し支えないでしょう。そして、その特性のひとつとして、脂分を好むということが知られています」 「脂分?」 「そうです。カラスは雑食ですが、どちらかといえば肉食の鳥類です。そして肉の中でも脂分、つまり脂身ですね、それを好んで食べるという特徴があります。これはあまり知られていないかもしれませんが、カラスの大好物のひとつにマヨネーズがあります。これは、マヨネーズが豊富な脂分を含んでいるためです」  さすがに専門家は詳しいものだ。わたしは先生の話に耳を傾けるしかなかった。 「今回の場合、石鹸を盗んでいったのは、状況から考えて間違いなくカラスでしょう。令子さんはおっしゃってましたね。石鹸は赤いネット状のナイロン製の袋に入っていたと。そして、それがハサミのようなもので切断されていたと」 「はい」  竹内さんからもそれは聞いていたし、わたしも実際に自分の目で見ていた。明らかに刃物様のもので切られていたのは間違いなかった。 「ご存じの通り、カラスの嘴《くちばし》は非常に鋭く、また硬いものです。それをハサミ代わりに使い、ネットを切り、石鹸を盗んでいったのだと考えられます」  言われてみれば、カラスの嘴ならあのネットを切り裂くことも容易だっただろう。 「これは以前からある話なのですが、カラスは石鹸、あるいはロウソクのようなものを好んで食べます。今でも、数年に一度ぐらいは起きていると思いますが、田舎《いなか》などで、カラスが火のついたままのロウソクをつついて倒してしまい、火事になるというようなことも実際にあります。火がついていても食べたいと思うほど、ロウソクや石鹸は彼らにとって大好物なのでしょうね」  もうずいぶん前からの話だが、都内のカラスの増加は深刻な問題だった。その理由のひとつとして挙げられるのは、開発によってカラスの生息地に人間が入り込んでいったことだ。  人間が入っていくことによって生活圏を脅《おびや》かされた彼らは、逆に人間の町に入ってこなければならなくなった。皮肉な話だが、これが現実というものだろう。  そしてもうひとつ、町に出てきたカラスは、そこが絶好の餌場となっていることに気づいた。つまりゴミ捨て場だ。  昔、ゴミ袋が黒いビニール製だった頃はそれほどでもなかったというが、ゴミの減量化のためもあり、いわゆる半透明のゴミ袋を使いだしてから、カラスがゴミ捨て場を荒らすことが飛躍的に増えたという。袋の中に何が入っているか、見分けがつくようになったからだ。  カラスは鳥類だから、当然目がいい。中に食べ物が入っているとわかれば、袋を食い破り、その中にあるものを食べようとするのは当然のことだっただろう。 「では、ひと月前から石鹸が盗まれるようになったというのは……」 「犬舎と水飲み場を離しておくための工事が終わったのは、ひと月前だったということですね。つまり、それまでは石鹸は犬舎の中にあった。いかにカラスといえども、鍵のかかった犬舎の中に入るのは不可能だったでしょう。しかも、その中には警察犬がいたわけですから、なおさら無理な話です」  だが、ひと月前に犬舎と水飲み場を離す工事があった。そのため、カラスは石鹸を盗むことが容易になった。そういうことなのか。 「カラスの増加は、実は非常に厄介な問題が含まれているのです」先生が少し憂鬱そうに言った。「ゴミ捨て場を荒らしたりするのもそのひとつですね。ですが令子さん、その原因を作ったのもやはり人間なのですよ。強引な形での乱開発や、森林の伐採、その他の理由によって、自然界の生態系が崩れつつあります。それはすべて、人間がしていることです。その意味で、人間がカラスの被害に遭うというのは、ある意味で自業自得なのかもしれませんね」  先生がため息をついた。桃子ちゃんはわたしたちの話に飽きたのか、持ってきた絵本を読み始めていた。わたしたちはしばらく無言のまま、紅茶を飲んだ。 「……先生、先生がおっしゃっていることはよくわかります。その通りだと思います。ただ、それはそれとして、警察犬の訓練所からカラスを追い払うことはできないでしょうか。せめて、石鹸を盗むのをやめさせるわけにはいかないでしょうか。正直、訓練所の予算はぎりぎりのところでやっているのが実情です。月に七、八個も石鹸を盗まれてしまうのでは、竹内さんがかわいそうです。このまま放っておくのは、わたしとしても忍びないものがあるといいますか……」 「石鹸を別の場所に保管するか、あるいは蓋のついた容器に入れるというわけにはいかないのですか?」 「……別の場所、というのは難しいと思います。だいたい、そういう場所もありませんし……それに、容器に入れても、カラスは一度それを覚えてしまえば、次は彼らの嘴で開けるようになるのではありませんか?」 「可能性はありますね。カラスなら十分にできるでしょう。下手をすれば、容器ごと盗んでいって、空高くから落として割ろうとするかもしれません。その場合、歩行者や車に当たれば、非常に危険な事態になりかねないでしょうな」  しばらく考えていた先生が、思い出した、というように急に立ち上がった。 「令子さん、行きましょう」 「ど、どこへですか?」 「買い物です」  先生が答えた。        8  先生はわたしと桃子ちゃんを連れて、吉祥寺のサンロードという商店街をしばらく歩き続けた。何軒か雑貨屋や生活用品店などを巡ったあげく、最終的にたどり着いたのは釣り具を扱っている店だった。  先生が店員に話をすると、ございますよ、という答えと共に、棚から黄色の網を出してきた。目が少し詰まっているが、警察犬訓練所の水飲み場に置かれていた石鹸入れの網と、色以外ほとんど変わるところはない。まあ、こんなものでしょう、とつぶやいた先生が料金を支払って店を出た。 「令子さん、とりあえずこれを今の赤いネット袋の代わりに使うようにしてみてください。おそらく、それで問題はなくなるはずです」  はあ、とわたしは渡されたネットを見た。材質はおそらく例の赤い網と同じナイロンの類だろう。手で引っ張ったぐらいで切ることはできないが、カラスの嘴なら容易に切り裂くことができるのは、既にわかっていることだ。いったい、今までと何が違うのだろうか。 「これは、本来は釣った魚を入れておくための袋なんです」  先生が説明した。なるほど、だから普通のネット袋と比べて、目が細かいのか。だが、いくら細かいといっても、石鹸が中に入っていることはカラスならすぐにわかってしまうだろう。 「いえ、そうではありません。この場合、重要なのは目の細かさではなく、色なのです」 「色?」 「カラスに限らず、鳥類は視覚に優れた生き物です。犬などは視力よりも嗅覚《きゅうかく》を主に使って餌を探したりするわけですが、鳥類の場合は目で餌を探す場合の方が圧倒的に多いんですね。更に、カラスは驚くべき特性を持っています。人間の目は赤、青、緑のいわゆる光の三原色を組み合わせて、現実にあるものを認知しているわけですが、カラスの場合はそれに加えて黄色、つまり四原色を組み合わせて物を見ているんです」  いつも思うことだが、先生は動物のことなら何でも詳しい。それにしても、カラスが四原色で物を見ているとは知らなかった。 「専門家の説によれば、カラスはこの黄色に対する認識力が非常に高いということです。これは私などよりもっと詳しく説明できる学者がいるはずですが、かみ砕いて説明すれば、要するにカラスは黄色いものがあると、他のものが見えなくなる、あるいは見えにくくなってしまうんです」 「……それは、ある種の保護色と考えればいいのでしょうか」 「難しいところですが、少し違うでしょうね。黄色がカラスの網膜の中で目立ってしまうことによって、他の色のものが見えなくなってしまう、そう考えた方が正しいかもしれません」一種の過剰反応ということでしょうか、と先生が言った。「さっきも話に出ましたが、ゴミ捨て場が荒らされるようになったのは、ゴミ袋がポリエチレン製の半透明の袋になってからのことです。つまり、中に何が入っているのか、それが食べられるものなのか、そうでないのかを、カラスが識別できるようになったためです。それは令子さんもおわかりでしょう」  はい、とわたしはうなずいた。 「昔の黒いビニール袋の頃は、中が見えなかったためにカラスがビニール袋を破くようなことはなかったと思います。やっぱり、今の半透明のゴミ袋になってからですね、そういう被害が目立つようになったのは」 「そこで、これの出番ということです」先生が黄色いネットを指さした。「とりあえず、これを使ってみてください。まず、このネットは目が詰まっていますから、それだけでも中に石鹸が入っているかどうか、カラスにわかりにくくなるのは確かでしょう。そして、何よりも重要なのは色の問題です。カラスにとって、最も強く印象に残る黄色であるため、中に石鹸が入っているかどうかわからなくなるはずです。つまり、カラスにとってそのネットは、ただ黄色い何かである、というところまでしかわからなくなってしまうという効果があるのです」  そういうものなのか。わたしは思わず感心してしまった。ただし、と先生が補足するように言った。 「現在、カラス対策用に、半透明の薄い黄色のゴミ袋が販売されていることは事実です。東京では、確か品川区がその推進に力を入れているというような新聞記事を読んだ記憶があります。品川区だけではなく、全国の自治体でも、半ば実験という形でその薄黄色のゴミ袋を使っているところも少なくありません。そして、多くの自治体が、カラス対策として効果があったと報告しているのも事実です。ある地方自治体では、普通の半透明のゴミ袋と、薄黄色のゴミ袋を同じ条件で放置し、比較したところ、カラスは半透明のゴミ袋の方だけを破いた、という結果が出たそうです。ですが、これは科学的な意味でその効果が実証されたわけではない、ということだけは言っておかなければなりません。カラスは警戒心の強い鳥です。見慣れない薄黄色のゴミ袋に対して、とりあえず様子を見ておこう、と考えた可能性もあります」  土井先生は科学的な根拠を大事にするところがある。今回もやはりそうだった。 「他の自治体では、薄黄色のゴミ袋でも、普通の半透明のゴミ袋と同じレベルでカラスが荒らした、という報告もあったと聞いています。加えて、この薄黄色のゴミ袋を販売している会社の話では、単なる黄色では意味がない、という説明をホームページなどでもしています。まあ、ある意味でこれは宣伝のようなもので、だから自社商品を買ってください、ということなのかもしれませんがね。いずれにせよ、この黄色いネットでカラスが石鹸を盗んでいくのを防げるかどうか、絶対とは言えませんが、可能性はかなり高いでしょう」  わかりました、とわたしは答えた。 「竹内さんにこれを渡して、石鹸を入れる袋を作ってもらうようにします。それで石鹸が盗まれることがなくなればいいわけですし、それでも盗まれるようなら、もっと抜本的な解決策が必要になるということですね」  そういうことです、と先生がうなずいた。 「極端に言えば缶に入れておくとか、布製の袋を使って外からは中に何が入っているかわからないようにするとか、そうすればいいのかもしれません。ただ、面倒なことは確かですよね。竹内さんというその人の気持ちはわかります。蛇口に赤いネットの袋で石鹸をぶら下げておくというのは、昔からあるやり方ですが、非常に便利なものです。いちいち缶を開いたり、汚れが目立つ布製の袋を使うのは、やはり不便と言わざるを得ません。まずはこの黄色いネットで袋を作り、使ってみてください」  そうします、とわたしは答えた。それにしても、と先生がつぶやいた。 「私たち人間も、そろそろ本気で自然との共生を考えていかなければならないでしょうね。景気が回復しているということもあるのでしょうが、都内、あるいは郊外においても、高層ビルや大型のショッピングモール、道路の整備などがどんどん始められています。もちろん、それは必要なことなのかもしれません。ですが、何かを新しくするというのは、それまでにあった何かを壊すということです。そしてそこには、動物や鳥、虫、あるいは植物もいるでしょう。その生態系を一方的に破壊していけば、最終的にそのつけが回ってくるのは人間自身なのです。こんな簡単なことが、なぜ彼らにはわからないのでしょうか」  先生が首をひねった。自然との共生。言葉にするのは簡単だ。  だが、先生も今言った通り、今後も開発は続けられていくのだろう。その際に要求され、必要とされるのは、それまでそこにあった生態系を壊すことではなく、言葉としては変かもしれないが、自然と譲り合いながら、わたしたちすべてが暮らしていくことなのだろうと思った。 「十年後、あるいは二十年後」先生が桃子ちゃんの頭に手を置いた。「この子たちのためにも、これ以上環境が悪化しないことを願いたいものです」 「カンキョウのアッカってなに?」  桃子ちゃんが尋ねた。それはね、と先生が屈み込みながら言った。 「桃子たちが楽しく、幸せに暮らしていくためには、これ以上自然を荒らさないようにみんなが考えていかなければならないということだよ。わかるよね」  桃子ちゃんが真剣な顔をして考え始めた。いったい彼女はどこまで先生の言ったことを理解しているのだろう。  もっとも、わたしも他人のことは言えない。知らないうちに、環境の悪化に手を貸しているのかもしれないのだ。自戒の念を込めて、これからは気をつけるようにしなければ、とわたしは手の中のネットを見つめながら考えていた。  そしてもうひとつ、ホームレスの人たちに対して、あらぬ疑いをかけていたことについても反省していた。この前の朝、母に言われた通り、ホームレスは町にとって邪魔なだけの存在だと思っていた。だが、それは間違いだった。  ホームレスの人たちも含めて、わたしたちはやはり共生していかなければならない。そのために何かできることはないだろうか、とわたしは考え始めていた。 [#改ページ]  警官殺し        1  午後四時半になると、わたしは帰り支度を始める。支度といっても、別に何があるというわけではない。暇つぶしのために持ってきていた雑誌をバッグにしまったりとか、そんな程度のことだ。  そして十分後、四時四十分に着替えを始める。わたしは南武蔵野警察署という所轄署の副署長という立場にあるため、勤務中は常に制服を着ていなければならない。それを通勤着に着替えるのだ。  通勤着といっても、そんなたいしたものを着ているわけではない。だいたい、南武蔵野署はわたしの住んでいる家から一キロほどのところにある。  吉祥寺はそれほど着飾って歩く必要のない町だ。シンプルなブラウスや、フレアースカートとか、そんな感じだ。  着替えが終わればメイクを直し、そして後はただ時が経つのを待つ。ひたすら待つ。  時計の針が五時を指した瞬間、わたしは立ち上がり、隣にある署長室に向かって、失礼します、とひと言だけ告げてから、副署長室を出る。一分一秒でも署内にいる時間を短くするために、いつの間にか身についた習慣だった。  最初のうちは、もう少し遠慮もあった。せめて署長がいる間は帰らないようにと殊勝なことを考えていた時期もあったのだが、何の意味もないことがわかって、それはやめることにした。この署内で二番目に高い役職に就き、そして最も暇なのがわたし、立花令子だった。  その後は簡単だ。廊下を進み、階段を降り、正面入口から外へ出る。これがだいたい五時五分のことだ。  人間の習慣というのは恐ろしいもので、少しでも遅れようものなら、何となく損をしたような気分になってしまう。もっとも、そんなことはめったにない。  受付を担当している婦人警官から、副署長が目の前を通り過ぎていくと、ああ、五時なんだなあ、と思うんです、と言われたこともある。皮肉だったのかもしれないが、どうでもいいことだ。  わたしが帰宅を急ぐ理由というのは、署にいても何もすることがないからだ。それでなくても、朝の九時から夕方五時まで、八時間も一人きりで副署長室内にいるというのは、ある種拷問に近いものがある。そのストレスは相当なものだ。  副署長というのは、その名の通り署内で二番目に偉いポストなので、婦人警官が声をかけてきたり、廊下で立ち話をしたり、ランチにでも行きませんか、と誘われることもない。一日中誰とも口を利かない日も少なくなかった。  基本的にわたしは副署長室にいる間、テレビをつけっぱなしにしているのだが、時々テレビのアナウンサーに挨拶をしてしまうことさえあった。実は軽いアルツハイマーになっているのではないかと自分で自分を疑うこともある。  二十六歳という年齢にもかかわらず、その日常はほとんど独居老人に近いものだった。一分でも早く署を出ようとするのは、その反動だと自分では分析していた。 「お疲れさまです」  受付の婦人警官が立ち上がって敬礼した。わたしも軽く答礼した。  そのまま署を出ようとした時、制服を着た中年の警察官が入ってきた。わたしは思わず足を止めて叫んでいた。 「近藤《こんどう》のおじさん!」  おや、というようにわたしを見た警察官が微笑を浮かべてから、立ち止まって敬礼した。 「本日の勤務は終わりですか、副署長」  誰にも見られないように、その警察官が眼鏡の奥で片目をつぶった。わたしは敬礼を返しながら近づいた。 「副署長なんて、そんな……やめてください」 「いや、そうはいきません。自分はまだ勤務中ですので」  そう言いながら、近藤巡査がまた小さく笑った。先月の初め、近藤のおじさんは我が家へ来ていた。父の命日が近かったためだが、だから会うのはひと月ぶりぐらいということになる。  近藤巡査は四十代後半ぐらいで、父の十歳ぐらい下ではなかったか。父が所轄署に勤務していた頃、新人警察官としてそこへ配属されてきたのが近藤巡査だった。  わたし自身は幼かったため、よく覚えていないのだが、父はずいぶんと近藤巡査のことをかわいがり、しょっちゅう家に連れてきては食事を一緒にしていたという。  わたしがその頃のことでおぼろげながらも覚えているのは、近藤巡査、いや近藤のおじさんが、わたしを自分の膝の上に乗せて遊んでくれたということだ。  その後、父は警視庁の捜査一課に転属していったが、近藤のおじさんとはそれからも連絡をとり続けていたようだ。父は近藤のおじさんの警察官としての能力を高く評価しており、本庁で働かないか、と実際に誘ったこともあるらしい。  だが、近藤のおじさんは、他にやりたいことがあると言ってそれを断った。おじさんが選んだのは、交番勤務の警察官、つまり町のお巡りさん、という仕事だった。  町を自転車で巡回しては、何か異常がないかどうか確認し、道を尋ねられれば丁寧に教え、例えばケンカなどがあれば行ってその仲裁に入り、深夜でも早朝でも、何かあれば駆け付ける。  地味で、陽の当たらない仕事かもしれない。でも、おじさんのような警察官がいるからこそ、町の、大きく言えば日本の治安が守られていることは厳然とした事実だ。近藤のおじさんは、そういう町のお巡りさんの代表的な一人と言っていいだろう。  真面目で、不器用で、実直。仕事に対しては厳しいが、人間には限りなく優しい。わたしはそんなおじさんのことが大好きだった。日本中の警察官がみんなおじさんのような人だったら、本当にどれだけ住みやすい国になるだろう、とよく考えたものだ。  わたしの父は、事件の捜査中に殉職した。近藤のおじさんは、交番勤務の警察官のため、その捜査に加わることはできなかったが、父に誘われた時、本庁に行っていればよかった、と何度もわたしや母に言った。  そうしていれば、父を殺した犯人を自分で調べることができただろうし、絶対に逮捕したのに、という意味だ。交番勤務の警察官という仕事を選んだのを後悔したことはないが、あの時だけは悔やみました、とも言ってくれた。わたしたちとしては、その気持ちだけで十分だった。  それからも、近藤のおじさんは時々わたしの家に寄ることがあった。今でも、わたしたちは親しくつきあっているといっていい間柄だ。 「お帰りですか」  おじさんが言った。はい、とわたしはうなずいた。 「おじさんは? 署に何か用事でも?」 「例によって例のごとく、報告ってやつですよ」手に持っていたノートを見せた。「日報の提出です」  おじさんが丁寧語で話すのは、わたしが副署長という立場だからだ。警察は階級社会だから、年齢や経験に関係なく、職級が上の人間の方が立場は上になる。  仕事を離れれば、もう少し親しみを込めた話し方になるのだが、そのあたりのけじめがおじさんの警察官としての立派なところだった。 「だったら、わたし、待ってます。日報の提出だけなんですよね? それなら、終わったらお茶でも……」 「そうしたいところですが、まだ仕事が残っているんですよ」おじさんが苦笑した。「まったく、宮仕えは辛いものです。お茶はまたの機会にということにしましょう」  では、ともう一度敬礼をして、おじさんは数歩足を進めたが、そうだ、というようにわたしのところへ戻ってきた。 「副署長、ちょっと今日はまだ仕事が残っているので、長く話せないのですが、近いうちにお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?」 「もちろんです。母も喜びます」わたしはそう言った。「いつでもけっこうです。大歓迎です」  ええ、とおじさんが言った。なぜかはわからなかったが、その表情に少し暗い影が差していた。 「なるべく早いうちに伺いたいと思っています。もっとも、急ぎというわけではないのですが……とりあえず、今日はそういうことで」  急ぎではないが、なるべく早く。矛盾した言い方だったが、気にはならなかった。それでは失礼します、と言って、おじさんが今度は本当に署の奥へと入っていった。  後ろ姿が見えなくなったところで、わたしも署を出ることにした。まさか、それが近藤のおじさんと会う最後の機会になるとは、考えてもいなかった。        2  寝室のドアが叩かれる音で目が覚めた。枕元のスタンドをつけると、時計は朝の四時半を指していた。四時半。  わたしは早寝早起きではあるが、四時半というのは普通ならぐっすりと眠っている時間だった。 「何なのよ、もう」  パジャマのままベッドを降り、ドアを開くと、そこにはわたしより眠そうな母が立っていた。 「電話」  母が言った。電話って、こんな時間に? 「あんた、一応警察官なんだから、携帯電話の電源ぐらい入れておくようにしなさいよ」  わたしは寝る前に携帯電話の電源を切っておく習慣がある。間違い電話とか、スパムメールが入った時のバイブ音で目が覚めてしまうことがあるからだし、だいたいこんな時間に電話がかかってくることなどあり得ないと思っていた。それにしても、四時半とはどういうことなのか。 「誰から?」  階段を降りながら尋ねた。佐久間署長、と母が答えた。嫌な予感がした。朝の四時半に電話をかけてくるほど、わたしは署長と親しくない。  何かがあったのだ。しかも、よほど重大な何かが。  一階に降りて、わたしは受話器を取った。耳に当てると、後ろで罵声《ばせい》が飛び交っているのがわかった。 「もしもし。立花です」 「すみません、副署長」騒がしい中で、佐久間署長の声が聞こえた。「こんな時間に申し訳ありません」  恐縮しきった声だった。それは構いませんが、とわたしは言った。 「いったい何が?」  しばらく沈黙していた署長が、殺人事件です、と言った。殺人。やはり耳慣れない単語だ。  最近、犯罪が増加しているとよく言われるが、実際にはそんなことはない。警察白書を読めばすぐにわかることだ。  もちろん、コンピューター犯罪、あるいは外国人による犯罪などは増えているが、殺人事件はむしろ減っているし、めったなことで起きるものではない。 「それは……やはり、わたしも現場に行った方がいいんでしょうね」 「そうしていただければと思います」  遠慮がちに署長が言った。もちろん行きます、とわたしは答えた。殺されたのは、と署長の無機質な声が続いた。 「北橋交番の近藤巡査です」  目眩がした。近藤巡査。北橋交番。まさか、そんなことが。 「副署長もよくご存じの、近藤巡査です。犯人は近藤巡査の所持していた拳銃を奪って逃走している模様です」 「誰が……何かの間違いではありませんか? まさか、近藤のおじさんが……」 「申し上げにくいのですが……事実です」 「誰が……いったい誰がそんな……」  まだ不明です、と署長が言った。 「今、パトカーをそちらへ向かわせましたので、それをお使いください。本当に朝早くから申し訳ありません。しかし、これはやむを得ない事態で……」 「すぐに行きます」  振り向くと、わたしの制服を抱えた母が立っていた。さすがに刑事の妻だっただけのことはあり、電話の雰囲気で何かを察したのだろう。わたしがそれを受け取った時、サイレンの音が近づいてきていた。        3  北橋交番は五日市街道と井ノ頭通りが交差する辺りにある。吉祥寺駅からはかなり遠い場所だ。  パトカーを運転していた制服警官は、わたしが乗った時から降りた時まで、ひと言も口を利かなかった。それが彼なりの怒りの表現であることは、わたしにもよくわかっていた。  警察官というのは、やはり特殊な職業だと思う。もちろん、どんな仕事にも危険はつきものだろう。デスクワークのサラリーマンでも、通勤時に交通事故に巻き込まれることがないとは言えない。最近では過労死というのもよく耳にする。  ただ、警察官ほど身近な意味で死の危険性が高い職業は、消防士などを除けばそれほどないのではないか。  事件が起きれば、それを捜査するのが警察官の役目だ。そして、最終的には犯人を逮捕しなければならない。  だが、犯人が抵抗する場合もある。また、無事に逮捕されたとしても、それを逆恨みに思って、お礼参りに来るようなこともあり得る。それ以外にも、あらゆる意味で死と隣り合わせになっているのが警察官という仕事だ。  だから、警察官は仲間意識が強くなる。もちろん、警察もある意味で競争原理を取り入れているから、全員が仲良しグループということではない。人間だから、気が合わない者が隣の席にいることもあるだろう。  だが、殺されたとなれば話は別だ。仮に、大嫌いな同僚が殺されたとしても、その警察官は誰よりも先に捜査のために立ち上がるはずだ。そうでなければ警察官とは言えない。  そして、その意識はわたしの中にもあった。わたしが南武蔵野署に赴任してから、二年半ほどが経つ。いつもは暇だ何だと不平不満ばかり言っているが、さすがに警察官としての最低限の常識はわたしも持っていた。  殺された警察官は、わたしもよく知っている近藤のおじさんだ。それもわたしの怒りを大きくした理由のひとつと言っていい。  だが、殺されたのが近藤のおじさんでなかったとしても、わたしの気持ちは同じだっただろう。近藤巡査も、他の警察官もわたしたちの仲間だ。仲間を殺されて、何も感じない者などいるはずがない。  わたしの中にある感情は、半ば私的なもので、半ば公的なものだった。絶対に犯人を捕まえてみせる。そうわたしは心に誓っていた。 「急いでください」  わかっています、というように、運転していた警察官がサイレンの音を高くした。わたしが感情的になっているのは、もうひとつ理由があった。わたしの父もまた殉職警官だったからだ。  父は所轄署から本庁の刑事に引っ張られる形で、本庁の捜査一課に勤務するようになった。  父が有能な刑事だったことは確かだ。これは決して身内の自慢話ではない。  父はわたしと違い、叩き上げの刑事だった。警察官としてのスタートは、それこそ交番勤務からだったはずだ。そんなノンキャリアの警察官が、本庁の捜査一課に引っ張られること自体、めったにある話ではない。よほどその能力を見込まれなければあり得ないことだ。  警視庁内でも、父の評価は高かったと聞いている。例えば、わたしは警察大学校で教育を受けたが、そこの講師はわたしが父の娘と知っただけで、最敬礼をしたほどだ。父を知っているすべての刑事、警察官もそれは同じだった。  父は多くの難事件を手掛け、それを解決に導いていった。娘のわたしなど及びもつかないほど、警察官としての天性の能力を持っている人だった。  だが、ある殺人事件を捜査している際に、凶弾に倒れた。犯人は捕まっていない。  その父がかわいがっていた近藤巡査が、やはり殺害された。もし父が生きていれば、誰よりも先に捜査のために飛び出していっただろう。だが父はいない。わたしがその代わりを務めなければ、という思いがあった。 (いったい誰が)  交番勤務の警察官も、決して安全な仕事とはいえない。ただ、例えば本庁の捜査一課の刑事たち、あるいは身近な例で言えば、わたしが勤務している南武蔵野署の刑事課の者と比較した場合、それほど危険性が高いわけではない。  そして、近藤のおじさんの人柄は折り紙つきだ。誰かに恨みを買うような人ではなかった。それはわたしがいちばんよくわかっている。 (拳銃が目的だったのだろうか)  誰であるにしても、必ず逮捕してみせる、ともう一度わたしは心に固く誓った。そんなふうに思うのは初めてのことだった。気がつけば、北橋交番は目の前だった。        4  佐久間署長がわたしを呼んだのは、マスコミ対策のためだった。既に、新聞記者やテレビ局などの記者たちが動き始めているという。それが彼らの仕事なのだから、当然のことだ。  しかも、警官殺しというのは決して小さな事件と言えない。彼らが躍起になって情報を入手しようとするのは当たり前のことだった。 「六時の段階で、記者会見を行う予定です」  佐久間署長が時計を見た。午前五時を少し回ったところだった。  わたしたちは北橋交番近くに停めてあったパトカーの後部座席に並んで座っていた。ひとつは、他に適当な場所がなかったためだったし、もうひとつは現場をわたしに見せまいとする署長の配慮によるものだった。署長は近藤巡査とわたし、そして父との関係についてもよく知っていた。 「会見自体は、署の方で行います。捜査本部も署に設置する予定です。先ほど本庁から連絡がありましたが、やはり殺人事件ということで捜査は本庁主体で行われます。ただ、何しろこの時間ですので、彼らがこちらへ到着するまで、まだ一、二時間はかかると思われます。それまでの間、マスコミ対応はこちらに任せる、というのが本庁の指示です」  殺人のような重犯罪の場合、捜査の主導権は警視庁が握る。これは常にそうであり、わたしたち所轄署の捜査官は、その協力をするのが主な仕事となる。  しかも、今回の場合、犯人は近藤巡査が所持していた拳銃を奪い、逃走していた。被害が他に及ぶ危険性がある以上、本庁が前面に出てくるのはやむを得ないところだった。 「ですが」  そう言ったわたしに、わかっています、と佐久間署長がうなずいた。殺されたのが南武蔵野署の警察官である以上、自分たちの手で犯人を逮捕したいというのは、署員全員の意志と言っていいだろう。  しかも近藤巡査は仲間たちから愛され、後輩からは慕われ、優れた警察官として尊敬されていた。縄張り意識というわけではないが、本庁に任せたくはない、というのが南武蔵野署全体の本音だっただろう。  だが、こればかりは仕方がない。繰り返すようだが、犯人は近藤巡査の銃を持っている。市民に危険が及ぶ可能性がある以上、署の面子《メンツ》にこだわっている場合ではなかった。 「既に、吉祥寺駅周辺および北橋交番周囲三キロ圏内には、我々の方で検問を敷いています。詳しい事情は後で説明しますが、目撃情報などが早めに入っていたため、犯人がその外に出ることはほとんど不可能だと私は考えています」 「網は張られている、ということですね」  そういうことです、と署長がうなずいた。 「非番警官も含め、全署員の動員を命じました。犯人が検問を破って逃げ出すことは難しいでしょう。後は本庁の指示を待つだけです。ただ、その前にマスコミに対して会見をしなければなりません。六時というのは、警視庁記者クラブなどの強い要請によるもので、本庁の広報からもそれに従うようにという指示が出ています。私は本庁との連絡なども含め、ここを離れることができません。副署長にお願いしたいのは、状況の把握に努め、記者たちに対して説明をしていただく、ということです」  署長の声が上ずっていた。わかりました、とわたしはうなずいて、バッグからペンと手帳を取り出した。 「状況を教えてください」  鳥井刑事を呼ぶように、と佐久間署長が命令した。パトカーの運転席にいた制服警官がドアを開けて飛び出していった。        5  鳥井刑事と話すのは久しぶりだった。相変わらず頼りない風情だが、それでも今回はさすがに様子が違っていた。表情が強《こわ》ばっていることからも、それはわかった。  鳥井刑事によれば、事件が起きたのは午前三時前後ということだった。北橋交番付近はその場所からいって、午前三時という時間帯でも車が通らないということはない。  付近を走っていたタクシーの運転手から、北橋交番で何かがあったようだ、という通報が警察に入ったのは午前三時過ぎだった。タクシーの運転手によれば、彼が見たのは北橋交番から飛び出してきた、男性と思われる人影だった。  そしてその直後に、近隣住民からもやはり通報があった。交番の方から、悲鳴のような叫び声が聞こえてきた、というものだった。  南武蔵野署の刑事課が北橋交番に連絡を取ったが、応答はなかった。すぐに刑事の一人が北橋交番へ向かった。  そこで彼が見つけたのは、交番の床にうつ伏せになって倒れていた近藤巡査の血まみれの姿だった。制服は着用していたが、制帽は少し離れたところに落ちていたという。床もまた血にまみれており、後頭部を何か鈍器のようなもので殴打されたのは明らかだった。  刑事はすぐに応援を要請、同時に救急車の手配もした。ただし、その時点で近藤巡査が死亡していたことは、その刑事にはわかっていたという。手の施しようがない状態だった、というのがその刑事からの報告だった。  多少時間は錯綜しているかもしれないが、佐久間署長の元に連絡が入ったのは、応援の捜査官たちが現場に到着してからのことで、四時少し前のことだったようだ。  署長はすぐに現場へ急行、同時に近藤巡査の死亡を確認した後、本庁と連絡を取った。今の段階では、現場保存のため近藤巡査の死体などはそのままになっているという。  南武蔵野署の刑事たちが現場を確認したところによれば、交番内部にそれほど激しい争いの跡はなかったようだ。  おそらく犯人は一撃で近藤巡査を倒した、ということなのだろう。付近の住民たちが聞いた悲鳴というのは、近藤巡査の叫び声だったと思われた。  また、交番内の机に吉祥寺駅近辺の地図が開かれていたことから、犯人は道を尋ねるふりをして、近藤巡査の油断を誘ったのではないか、というのが彼らの一致した意見だった。  近藤巡査は眼鏡をかけていることからもわかるように、視力がいい方ではない。細かい住所などの文字を見るためには、地図の上に屈み込むようにしなければならなかった。それもまた、偶然かもしれないが、犯人にとって絶好のチャンスということだったのかもしれない。  近藤巡査の携行していた拳銃が紐を切断された上で、なくなっていることがわかったのは、刑事たちが現場に入ってすぐのことだった。推測するまでもなく、犯人が奪っていったことは明らかだった。弾が入っていたことは、署の装備係の担当者によって確認されていた。  以上の事実から考えて、犯人は近藤巡査を殺害することが目的だったのではなく、拳銃を奪うことがその狙いだと考えられた。何のために拳銃を必要としていたのか、それは今の段階では不明だ。  ただし、何らかの目的があることは言うまでもない。第二の事件が起きることも十分にあり得ると言っていいだろう。  交番から飛び出していった人影を目撃したタクシー運転手の証言によれば、犯人の性別はおそらく男と思われるが、正確なところは不明。身長は百六十センチから百八十センチ、黒っぽいズボン、ジャンパー様の上着のようなものを着ていた。ニット帽のようなものを目深にかぶっていたため、人相は不明。やや痩せ型、という印象を受けた、ということだった。タクシーの運転手には申し訳ないが、ほとんど意味のない証言と言わざるを得ないだろう。  犯行の手口、また状況から考えて、犯人が男性であることはほぼ間違いないと思われた。わざわざ確かめるほどのことではない。そして、それ以外の証言は、手掛かりというには曖昧すぎた。  ただ、実際的な意味で重要だったのは、タクシーの運転手が交番から飛び出してきた人物に不審さを感じ、すぐに警察に連絡を取ってきたということだ。そのおかげでわたしたちが得られたのは時間だった。  佐久間署長は事件についての報告を受けた直後、吉祥寺周辺に検問ポイントを設けることを即決し、すぐに命令を発した。深夜ではあったが、事情を聞いた警察官たちすべてが、検問の担当を志願した。当初、佐久間署長は半径二キロ圏内を検問の範囲としたが、警察官たちの強い要望により、半径三キロ地点までが検問の対象となった。  犯人は交番を飛び出した際、徒歩だったという。付近に不審な車が停まっていた、というような情報は今のところ上がってきていない。犯人は徒歩、あるいは自転車などを使用して現場から逃走したものと思われた。  そして、近藤巡査の死体の様子から考えれば、犯人はかなりの量の返り血を浴びていることも確実だった。例えばだが、着ていたジャンパーを脱ぎ捨てたりすることは十分に考えられるだろう。だが、顔やその他の部分に付着した血はどうしたか。洗い流すしかないはずだ。  つまり、犯人の居場所は北橋交番からそれほど遠くではない、ということになる。  以上が、鳥井刑事からの説明だった。犯人の逮捕は決して困難ではなく、むしろ時間の問題と言っていいのではないか、というのが関係者全員に共通する考えだった。  事実、そうだっただろう。検問は既に張り巡らされている。南武蔵野署の警察官は、非番の者も含め、全員が動員されていた。  近藤巡査の人徳、ということもあるかもしれないが、彼らの士気は異常なまでに高くなっているという。  普通の殺人事件とは事情が違う。これは、わたしたち警察官が通常の殺人事件捜査について、手を抜いているという意味ではない。ただ、仲間が殺害されたというのは、人間の感情としてやはり何かが違った。必ず犯人を逮捕する。それはわたしたち全員に共通する誓いのようなものだった。        6  事件はあっさりと解決した。犯人が自首してきたのだ。  時系列的に述べれば、以下のようになる。午前六時、わたしは南武蔵野署に集まっていたマスコミの記者たちに対し、事件の発生と概要についての説明をした。六時半、本庁から機動捜査隊をはじめとする捜査官たちが到着し、同時に北橋交番警官殺人事件の捜査本部が立ち上げられた。  犯人が自首してきたのは、その三十分後、つまり朝七時のことだった。あっけないと言えば、あまりにあっけない幕切れだった。  犯人の名前は大蔵尚也《おおくらなおや》といった。数年前から関西の暴力団|砥川組《とがわくみ》が東京進出を図っていたが、大蔵はその先鋒《せんぽう》部隊の一人と言っていいだろう。  ただし、武蔵野地区は戦前から前田会《まえだかい》という、いわゆるテキ屋を中心とした一種の互助会が仕切っていたため、砥川組の思惑通りになっているとは言えなかった。  砥川組も武蔵野地区を狙っていたわけではない。だいたい、武蔵野地区などのいわゆる都下に、狙うべき利権はなかった。砥川組が武蔵野地区にその拠点を構えたのは、あくまでもその後、東京都の中心部へ進攻していくための足場としての意味しかなかっただろう。  ただ、そうはいってもやはり同じ場所に二つの組織が共存していくことは難しい。この一年ほど、砥川組と前田会との間には、小競《こぜ》り合いが続いていた。ある意味では、一触即発の状態だったといっていい。  そして大蔵尚也は砥川組の中でも主戦派の代表的存在だった。大蔵は三十歳で、殺人の前科こそなかったが、調べてみると傷害、強盗、暴行、恐喝など数多くの犯罪歴があった。  大蔵の目的は、現在前田会の代表を務めている桜田順哉《さくらだじゅんや》という男の殺害にあった。桜田が死ねば、前田会はその求心力を失う。  結果として会は解散し、その後は砥川組が武蔵野地区一帯を押さえることができるようになるだろう。そうすれば、組としても今後都内への進出が容易になる、というのが大蔵の考えだった。  大蔵はそのために闇《やみ》ルートを通じて拳銃を入手しようとしており、実際その寸前まで事態は進んでいたのだが、前田会の桜田が先代の墓参に行くという情報が入った。私的な墓参であり、警護も数人しかついていないということがわかり、大蔵は闇ルートによる拳銃の入手を待っていることができなくなった。  そこで大蔵が選んだのは、最も単純な方法だった。つまり、交番勤務の警察官から拳銃を奪う、ということだ。その犠牲になったのが近藤巡査だった。  大蔵の自首は、砥川組若頭、安田隆次《やすだりゅうじ》の説得によるものだった。大蔵は近藤巡査を殺害した後、徒歩で吉祥寺駅近くの砥川組事務所に戻ろうとしたが、その途中検問が張られていることに気づいた。  駅近くまで来ることはできたが、それ以上の逃亡は不可能と判断し、付近にあった同組準構成員、成田勝三《なりたかつぞう》の家へ逃げ込んだ。成田は大蔵が警察官を殺害して拳銃を奪ったという事実を聞くに及んで、自分の手に負えることではないと考え、すぐに若頭の安田に連絡を取った。  安田は状況から考えて、大蔵の逮捕は免れないものだと判断した。更に言えば、警察官殺しは砥川組そのものを危険にさらすという考えもあったのだろう。  安田は四十三歳で、暴力団員としての経験も長かった。警察官を殺せば、警察組織そのものが報復として組を潰しにかかるであろうことをよく知っていた。  最悪の場合、砥川組が解散に追い込まれる公算は高い。ようやく武蔵野地区の一部に食い込むことに成功していた安田としても、それはどうしても避けたい事態だった。  そこで安田は大蔵に対し、自首するように説得した。また、関西の本家にも連絡を取り、組長の砥川|弦蔵《げんぞう》からもその了解を取り付けた。大蔵も組長の命令には従わざるを得ず、そのまま安田に伴われる形で警察に自首してきたのだった。  すぐに本庁の機動捜査隊、また南武蔵野署の捜査官などにより取り調べが始まった。証拠はすべて揃っていたと言っていい。近藤巡査から奪っていた実弾入りの拳銃、血まみれのジャンパー、護身用の鉄パイプ。  大蔵は素直に取り調べに応じ、すべてを自白した。捜査官たちの推察していた通り、道を尋ねるふりをして背後に回り込み、鉄パイプで後頭部を殴打したこと。殺すつもりはなかったが、結果的にそうなってしまったこと。血まみれになって床に倒れ込んだ近藤巡査の体から、用意していたハサミで紐を切り、拳銃を奪ったこと。  そのまま外へ飛び出し、どこをどうやって逃げようとしたのかは本人も混乱していて思い出せないということだったが、これはこのような事件においてはよくある話だ。  大蔵としては吉祥寺駅の南口側にある砥川組事務所へ逃げ込むつもりだったようだが、途中検問の警察官が多数いることに気づき、それが不可能であることを悟った。  その後、舎弟分にしていた成田の住まいが近くにあることを思い出し、そのアパートへ向かったこと、途中、アパート近くで白い犬に吠えかけられて慌てたこと、それから成田、そして若頭の安田、更には砥川組組長による説得を受けて、自首を決めたことなどをすべて話した。  その日の午後、大蔵本人を連れての現場検証が始まった。具体的には、犯行の再現と逃走経路の確認だ。  わたしは立ち会っていなかったが、後に担当者に話を聞いたところ、大蔵の証言に不審な点はなかったという。本人が盛んに強調していたのは、警察官を殺害するつもりはなかったということで、拳銃を奪うのだけが目的だったと何度も繰り返し言っていたようだ。  北橋交番から大蔵は砥川組の事務所に戻ろうとしたが、井ノ頭通り付近で警察官を見たこと、また町中をパトカーが走り回っていることから、まず身を隠すことを優先することにした。  そのため、多少足取りが不明になっている部分もあったが、最終的に大蔵が出たのは駅を挟んで事務所とは反対側、五日市街道から奥に入ったところにある成田勝三のアパートだった。  事務所とは逆側に当たるが、大蔵としては仕方がなかったところもあったのだろう。何しろ、南武蔵野署はその総力を挙げて犯人を捜索していたのだ。  逃げ回っているうちにその辺りへ出てしまったというのは、大蔵にとっても計算外のことだったかもしれない。いずれにせよ、大蔵は成田のアパートへ逃げ込み、匿《かくま》ってほしいと頼んだ。  成田勝三に対してもやはり事情聴取が行われたが、大蔵の供述と矛盾するところはなかった。というより、本人も事態をよく理解していないようだった。  成田にわかっていたのは、夜中の三時か四時頃、アパートのチャイムが何度も鳴り、起き出してみたところ、外に真っ青な顔をした大蔵が立っていた、ということだった。大蔵の体が血まみれであったこと、またポケットに拳銃が入っていることに気づき、部屋に上げた後、何があったのかを尋ねた。大蔵の形相の凄まじさに、自分も殺されるのではないか、と成田は思ったという。  もちろん、大蔵にその意図はなく、ただ匿ってほしいと言われた。詳しく事情を聞くに及び、自分の手には余ると思い、若頭の安田に連絡を取った。後は既に述べた通りだ。  安田の説得により、大蔵は自首を決めた。彼らの証言に食い違うような部分はなかった。  例えば大蔵の逃走経路のように、若干不明な部分はあったが、犯人としては当然のことだっただろう。決して大蔵も冷静だったわけではない。本人によれば、警察官を殺害するつもりはまったくなかったというのだから、逆上して記憶があやふやになっているのはむしろ当然と言うべきかもしれなかった。  警視庁の捜査一課の刑事たちが大蔵を逮捕、その身柄を引き取っていった。それで事件はすべてが終わりになった。  わたしたちにできること、あるいはやるべきことは事務的な作業以外にはなくなっていた。仲間を失った悲しみだけが、いつまでもわたしたちの胸に残った。        7  とてもむなしい事件でした、とわたしは土井先生に言った。わたしたちはその週の日曜日、駅近くの喫茶店で遅めのランチを摂っていた。 「本当に……むなしいとしか言いようがありません。何と言えばいいのかわかりませんが、怒りのやり場がないというか……」  変な言い方かもしれないが、それはわたしの実感だった。もし、大蔵尚也が自首してこなかったら、わたしたちは体力、精神力の続く限り、犯人を追い続けていただろう。  通常、殺人事件のような重犯罪の場合、捜査は本庁が中心となって展開される。ただ、この事件についてだけ言えば、本庁もわたしたちの気持ちをよくわかってくれていた。  わたしは副署長という立場から、本庁から派遣されてきた管理官などとも話したが、近藤巡査を殺害した犯人をわたしたち所轄の手で逮捕したいという願い出に対し、一定の範囲内ではあるが理解を示してくれた。エリート中のエリートといっていいキャリア組の管理官としては、あり得ないことだったが、やはりその管理官も警察官だったということなのだろう。  本庁が主体という建前はともかくとして、南武蔵野署で別班を作り、捜査に当たってはどうか、とまでその管理官は言ってくれた。逆に言えば、警察官殺しというのはそういう犯罪だった。  だが、実際には捜査本部を立ち上げ、担当の割り振りをする前に、大蔵は自首してきてしまっていた。あっけない結末としか言いようがなかった。  その後も本庁及び南武蔵野署の捜査、大蔵の取り調べなどが続けられていたが、大蔵が犯人であることは確実だった。  わたしたちがするべきことは、ほとんど何もなかった。したことといえば、事実関係の確認、それだけだ。他にできることは何もなかった。  もちろん、事件が早期解決したのは悪いことではない。問題は何もなかった。近藤巡査の拳銃も発見されている。次の事件が起きることはないだろう。  ただ、わたしたちの間に残ったのは、近藤巡査のために何もできなかったというやり場のない感情だった。 「そんなことはありませんよ」土井先生が首を振った。「あなたたちは犯人を逮捕した。それこそが近藤巡査のためになることです。犯人は近藤巡査から拳銃を奪い、それで敵対する組織の組長を射殺しようとしていた。そうですね? もし本当にそうなっていたら、近藤巡査にとってこれほど屈辱的なことはなかったでしょう。当然のことですが、警察の管理責任も問われたはずです。それだけを考えてみても、あなたたちは近藤巡査のためにできることをすべてやったということになります」  そうなのだろうか。そうかもしれない。少なくとも、そう考えるべきなのだろう。 「近藤巡査は……近藤のおじさんは、とてもいい人でした」わたしの唇から言葉がこぼれていった。「誰に聞いても、そう言うと思います。わたしの父は刑事の鑑と言われていたそうですが、わたしに言わせれば近藤のおじさんこそが警察官の鑑でした。誰にでも優しく、親切で、よくいる刑事たちのように偉ぶることもなく、いつでもこの町に住む人たちのことを考えていました。そのために大事なものを犠牲にしたこともあったと思います。でも、そんなことについてひと言も不満を言ったりしたことはありませんでした。あんなにいい人を殺すなんて……」  許せません、という言葉は声にならなかった。その代わりに、わたしの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。  気がつくと、隣の席にいた桃子ちゃんが、わたしの手をしっかりと握りしめていた。ありがとう、ごめんね、とわたしが言うと、ううん、と桃子ちゃんが首を振った。 「後悔することばかりです……もちろん、わたしにはどうすることもできなかったことはわかっています。あの夜、近藤のおじさんが勤務についていたのは、誰の責任でもありません。それはあくまでも偶然でした。もしおじさんが勤務についていなければ、別の警察官が犠牲になっていたでしょう。その時のおじさんの後悔を考えれば、仕方がないことなのかもしれません。でも、近藤のおじさんはわたしにとって……」  本当に、悔やんでも悔やみきれないことだった。他の警察官が殺されても構わないという意味ではない。だが、犯人の大蔵も、何も近藤のおじさんを殺さなくてもよかったのではないか。 「あの日、おじさんと署で偶然会ったんです……久しぶりに会ったということもあったのだと思いますが、おじさんはわたしに話があると言っていました。もう、それを聞くこともできません。何だか、心にぽっかり穴が開いたような……そんな感じです」 「令子さん、あなたの責任ではありません。それだけは明確にしておいた方がいいでしょうな。私は近藤巡査と面識はありませんが、噂はよく耳にしていました。とても親切で、どんなことでも丁寧に応対してくれる警察官がいるというような話です。あなたが自分で言っていた通り、もし近藤巡査の代わりに別の警察官が殺されていたとしたら、彼は誰よりもそれを悲しみ、憤り、なぜ自分ではなかったのかと苦しんだことでしょう。少なくとも、私の聞いている近藤巡査はそういう人でした。あなたにとって、何の慰めにもなっていないことを言っているのはよくわかっています。ですが、近藤巡査がそういう人だったことは覚えておいてもいいでしょう。いずれにしても、これはどうにもならない事件でした。言ってみれば事故のような……そう考えた方がよろしいでしょう」  はい、とわたしは涙を拭いながらうなずいた。ただ、と先生が言った。 「あなたの話を聞いていて、ひとつだけどうしても気になることがあります」 「……何でしょうか」  それを確かめに行きませんか、と先生が言った。もちろんです、とわたしは立ち上がった。        8  わたしと先生、そして桃子ちゃんの三人は、あるアパートの前に立っていた。近藤巡査を殺害した犯人、大蔵尚也が逃げ込んだ成田勝三という男が住んでいるアパートだった。 「先生、いったい何のためにこんなところへ?」  北橋交番はあちらの方角にあります、と先生が五日市街道を指さした。成田のアパートは街道から少し奥まったところにあった。閑静な住宅街の一角といっていいだろう。  吉祥寺駅の北口までは、歩いて十分ほどだろうか。そして北橋交番は五日市街道と井ノ頭通りが交差する辺りにあるから、ここからはかなり離れている。 「大蔵は駅の南口側にある砥川組の事務所に戻るつもりだった、と供述していたそうですね」 「そうです」 「ですが、ここは駅の北側になります。もちろん、大蔵の供述にも納得できる部分はあります。警察が検問を張るのが早かったため、逃げ場を失った大蔵は道を選ぶことができず、とにかく駅の方へ向かうしかなかったということですね。その結果として、駅の北側に出てしまい、そこで成田がこの近くに住んでいることを思い出し、とりあえずそこへ逃げ込むことにした。わからないでもありません。近藤巡査を殺してしまったため、動揺して道がわからなくなってしまったという供述にも納得できるものがあります。とにかく、駅の方へ向かっていたことだけは間違いないわけですから、事務所を目指していたというのは事実と考えていいでしょう」  そうです、とわたしはもう一度言った。大蔵の逃走経路については、署の内部でも多少問題になっていた。  もともと、大蔵は交番の警察官を殴り倒して拳銃を奪い、事務所へ逃げ込むという計画を立てていた。にもかかわらず、彼が逃げ込んだのは事務所とは駅を挟んで反対側の北側だったことに対する疑問だ。  だが、大蔵は警察官を殺すつもりはなかった、と何度も言っていた。にもかかわらず、実際には警官は死んでしまった。動揺してしまったのは当然だろう、というのがわたしなども含めた全署員の見解だった。  警察官を殺してしまったために、大蔵が焦ったことは大いに考えられる。大蔵にとっては、まず何よりもその場から逃げることが最優先事項になってしまった。  だが、逃げようにも五日市街道、井ノ頭通り、武蔵境通り、その他すべての道路は警察官によって検問所が設けられていた。それも含め、人目につかないように逃げるためには、道を選ぶことなどできなかっただろう。しかも、事件は真夜中に起きている。道を間違ってしまったとしてもおかしくはない。 「その通りです。その意味で不自然な行動とは言えないでしょう」  先生が歩き始めた。わたしと桃子ちゃんはその後に従った。 「さて、それはいくら考えても答えの出ない話です。そこで、考える角度を変えてみたいと思います。私が気になる、と先ほど言ったのは、実は別のことなのですよ」  先生が指さしたのは、成田の住むアパートから数十メートルほど離れたところにある一軒家だった。表札には、山元《やまもと》、と記されていた。かなり古い家だ。 「この家が何か?」 「家ではありません。この家にいる犬のことです。令子さん、あなたの話によれば、大蔵はこう供述したということですね。逃げ回っているうちに、駅の北側の住宅街に出てしまった。そして、例のアパートに成田が住んでいることを思い出し、とりあえずそこへ逃げ込もうとした。その途中、どこかの家の白い犬に吠えられたと。間違いありませんか?」 「はい……そうです」 「自分で言うのも何ですが、私は吉祥寺近辺にいるペットの類について、ほぼ把握しているつもりです。うちの病院の患畜かどうかは関係ありません。どこの動物病院に通院していても、ペットであれば私はその存在を知っているのです」  わたしはうなずいた。先生は嘘やはったりを言うような人ではない。その先生が明言する以上、本当に先生はこの付近にいるペットについて、すべてを把握しているのだろう。 「もちろん、この辺りは住宅街ですから、ペットを飼っている家は少なくありません。ですが、白い犬を飼っているのは、この辺りではこの家しかありません。山元さんの飼い犬、チロです」  先生が断言した。わたしは話の続きを促した。 「チロは犬種で言うとスピッツです。スピッツは室内で飼う人もいるようですが、やはり基本的には屋外犬と言うべきでしょう。庭で飼うのが普通です。チロもその例外ではありません。そこに犬小屋が見えることからも、それはわかります」  先生が何か小声でつぶやいた。それに反応するように、犬小屋から一匹の犬が出てきた。全身が真っ白な体毛で覆われている。大蔵に向かって吠えた犬というのは、これのことなのだろう。 「いえ、違います」先生が腕を組んだ。「それはあり得ません」  犬が鎖をつけたまま、庭をぐるぐると歩き回っている。どういうことでしょうか、とわたしは尋ねた。 「山元さんはチロを飼うにあたり、声帯除去手術を受けさせています。ですから、チロは吠えることができません」私の病院では絶対にしないのですが、と先生が言った。「山元さんは私の病院に来たことがありましてね。声帯除去をしてほしいということでしたが、私はそれを断りました。犬は吠える必要がある動物です。声帯を除去する権利など人間にはありません。ですが、山元さんにも事情があったのでしょう。この辺りは住宅が密集しています。飼い犬が吠えればトラブルの元になる、と考えたのでしょうね。しかし、それなら犬を飼わなければよろしい。山元さんには動物を飼う資格がないと言ってもいいかもしれません」 「待ってください!」わたしは思わず叫んでいた。「先生、それでは大蔵の供述には嘘があるということですか?」  おそらくは、と先生がうなずいた。 「私はね、令子さん。大蔵は最初からその成田という男の住むアパートを目指していたように思います。大蔵が近藤巡査を殺害したのは事実でしょう。拳銃を奪って逃げたというのも本当のことだと思います。ですが、それは決して偶発的な出来事ではなかった。もしかしたら、警察官のことも最初から殺すつもりだったのかもしれません。おそらく大蔵はそのための下見もしていたのでしょう。その時に、このチロという犬を見た。自分の供述の真実味を高めるため、白い犬に吠えられたと言ったと私は考えています。確かに、スピッツはよく吠える犬種ですからね。大蔵がそう考えたのも無理はないでしょう」 「先生、どういうことなんですか? いったい大蔵は何のためにそんな嘘をついたんですか?」  わかりません、と先生が肩をすくめた。 「ただ、これは想像ですが、大蔵は最初から自首するつもりだったのではないかということです。私は専門家ではありませんから、詳しいことはわかりませんが、警察官を殺した犯人が逃走中に逮捕されるのと、自首してくるのとでは、刑罰が違ってくるのではありませんか? しかも、大蔵は供述の中で何度も�警察官を殺すつもりはなかった�と繰り返しているそうですね。仮に腕のいい弁護士がつけば、殺人罪ではなく傷害致死罪ということになるかもしれません。大蔵の狙いはそこにあったと私は思っています」 「それは、つまり……大蔵の狙いは近藤巡査の殺害そのものにあったということでしょうか?」  かもしれないということです、と先生が落ち着いた声で言った。 「ですが、それを証明するのは非常に難しいでしょうね。チロが吠えることができない犬であることはすぐに証明できますが、大蔵は錯覚だったと供述を変えるかもしれません。吠えられたような気がした、というようにです。犬を見たことから、吠えられたと錯覚することはないとは言えませんからね」 「先生……いったい何のために大蔵は近藤のおじさんを殺さなければならなかったのでしょうか」 「それも私にはわかりません。ただ、ひとつだけ言えることがあるとすれば、もしこれが計画的な殺人であったとしましょう。その場合、大蔵には近藤巡査を殺さなければならない理由があったということになります。もしかしたら、大蔵ではなく、砥川組の誰かにその動機があったのかもしれませんね。つまり大蔵は身代わりというわけです。ですが、これは老いた獣医の想像に過ぎません」先生が小さく笑った。「私はあくまでも獣医です。捜査をする権限もありません。しかし、あなたは違う。あなたは警察官であり、南武蔵野署の副署長という要職に就いています。つまり、あなたがその気になれば、この事件を更に深く調べることが可能だということです」  先生が右手を振った。チロというその犬が、寂しそうに犬小屋の中に戻っていった。 「先生……わたしにそんなことができるでしょうか?」 「それもわかりません。令子さん、それはあなたの問題です。できるのかできないのか、やるのかやらないのか、それはあなたが判断するべきことです。ですが……私が知っている立花令子さんなら、誰が止めても調査を始めるでしょう。彼女は決して有能な警察官ではないかもしれません。ですが、どんな警察官よりも正義感の強い人間だということを、私は知っています。仕事だからというのではなく、人間としてあなたはそれをすることになるでしょう。私はそう信じています」  わたしはその場で決心していた。調べてみよう。最後まで。この事件について、すべてを調べてみよう。  そうしなければならない。なぜなら、それはわたしにしかできないことだからだ。 「おねえちゃん」桃子ちゃんが顔を上げた。「がんばれば、できるよ」  わたしは桃子ちゃんの手を握りしめた。その通りだ。何ができるか、それさえもわからないけれど、頑張ってみよう。やってみるしかない。 「先生……わたしはこの事件を調べてみようと思います」  自分に言い聞かせるようにわたしは言った。不思議な予感がわたしの中に生まれ始めていた。 [#改ページ] 初出 老人と犬 ジェイノベル 2003年4月号(「土井徹先生の診療事件簿」改題) 奇妙な痕跡 ジェイノベル 2005年2月号(「女性副署長室ガサ入れ」改題) かえるのうたが、きこえてくるよ ジェイノベル 2005年7月号 笑う猫 ジェイノベル 2006年6月号 おそるべき子供たち 星星峡 2008年1月号(「おそるべき子供達」改題) トゥルーカラー パビルス 2008年4月号 警官殺し ポンツーン 2008年4月号 〈著者紹介〉 五十嵐貴久 1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業後、出版社に入社。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞しデビュー。著書に『交渉人』『パパとムスメの7日間」『交渉人遠野麻衣子・最後の事件」『相棒』『For you」『年下の男の子』『誘拐』などがある。 [#改ページ] 底本 幻冬舎 単行本  土井徹先生の診療事件簿  著 者——五十嵐貴久  2008年11月10日  第1刷発行  発行者——見城 徹  発行所——株式会社 幻冬舎 [#地付き]2008年12月1日作成 hj