ホルモー六景 万城目 学 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)二人静《ににんしずか》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)京大|青竜会《せいりゅうかい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から1字上げ]万城目 学 ------------------------------------------------------- 〈帯〉 全国のホルモー愛読者に告ぐ!! 今度は恋だ!! 「本の雑誌」エンタテインメント第一位「王様のブランチ」新人賞受賞 「鴨川ホルモー」続編、満を持して堂々凱旋!! 奇才マキメ、今回も策謀の限りを尽くします!! [#改ページ] 〈カバー〉 このごろ都にはやるもの、 恋文、凡ちゃん、二人静《ににんしずか》。 四神見《ししんまみ》える学舎《まなびや》の、威信を賭けます若人ら、 負けて雄叫びなるものかと、今日も京にて狂になり、 励むは御存知、是《こ》れ「ホルモー」。負けたら御存知、其《そ》れ「ホルモー」。 このごろ都にはやるもの。 元カレ、合コン、古長持《ふるながもち》。 祗園祭の宵山に、浴衣で駆けます若人ら、 オニと戯れ空騒ぎ、友と戯れ阿呆踊り。 四神見える王城の地に、今宵も干戈《かんか》の響きあり。 挑むは御存知、是《こ》れ「ホルモー」。負けたら御存知、其《そ》れ「ホルモー」。 古今東西入り乱れ、神出鬼没の法螺《ほら》試合、 若者たちは恋謳い、魑魅魍魎《ちみもうりょう》は天翔《あまかけ》る。 京都の街に咲き誇る、百花繚乱恋模様。 都大路に鳴り渡る、伝説復古の大号令。 変幻自在の第二幕、その名も堂々「ホルモー六景」、ここに推参! [#改ページ]  ホルモー六景 HORUMO Rokkei [#地から1字上げ]万城目 学 Makime Manabu [#地から1字上げ]角川書店      プロローグ  第一景 鴨川(小)ホルモー  第二景 ローマ風の休日  第三景 もっちゃん  第四景 同志社大学黄竜陣  第五景 丸の内サミット  第六景 長持の恋 [#改ページ] プロローグ  湯気に煽《あお》られ、かつお節が踊るきしめんと、ライス小。  いつものメニューをトレーにのせ、窓際の席に腰を下ろすと、目の前にはネギトロ丼にヨーグルト、黄金色の大学イモという豪勢極まりないメニューが並んでいた。 「ずいぶんリッチですな、高村《たかむら》くん」  正面の席に座る色白で小作りな顔をした男は、「祭りですから」とよくわからぬ受け答えとともに、 「大学イモ、一つあげるよ」  と小鉢を箸《はし》の先で示した。 「イモよりも、俺はネギトロ丼のネギトロが欲しい」 「嫌だよ」  にべもない返事を寄越して、高村はわさびを溶いた小皿の醤油《しょうゆ》を几帳面《きちょうめん》に丼全体にまぶし、「いただきます」と手を合わせた。 「昨日、実家の母親から電話がかかってきた」 「おお、御母堂さまはお元気か? この前、お裾《すそ》分けしてもらった錦松梅《きんしょうばい》、たいへんおいしゅうございました、とお伝えください」  お裾分けした覚えなんかない。安倍《あべ》が勝手に段ボールから持っていったんだろ、という棘《とげ》のある言葉に、そうだったかな? と俺はきしめんをふうふうしてすする。 「ねえ——安倍は大学でどんなサークル活動をしているのか訊《たず》ねられたとき、どう答えてる?」 「何だよ、藪《やぶ》から棒に」 「昨日の電話の用件がそれだったんだ。やけにしつこく、僕が大学で何のサークルに入っているか訊《き》いてくるんだよね。どうも新聞で、大学キャンパスに潜伏する、あやしい宗教サークルについての記事を読んで、急に心配になったらしい」 「なるほど。で、どう答えたんだ?」 「そんなの母さんには関係ない、って教えなかった。誰が京大|青竜会《せいりゅうかい》というところで、ホルモーやってます、なんて言える?」 「わかってないなあ、お前」  幅広|麺《めん》をつるると吸いこみ、俺はおもむろに手にした器を置いた。何がだよ、とむっとした表情で、高村もネギトロ丼をかきこむ箸の動きを止める。 「いいか。実家の御母堂が求めているのは、真実じゃない。安心だ。勉学以外のことには一切興味がないから、サークル活動はしていませんとか、入っているにしても地域のじいさま方とゲートボールに勤《いそ》しんでいますとか、いっそのこと部屋で鉄道模型作りに没頭していて、一週間誰とも会うことがないからご安心くださいとか——何とでも言えるだろう。わかるだろ?」  実に的確に要点を把握した回答にもかかわらず、高村の表情はどこまでも鈍い。それどころか、あからさまに軽蔑《けいべつ》の表情を浮かべ、俺を見返してくる。 「僕は親にそういうウソはつきたくないんだよね」  いかにも殊勝な顔つきで、高村は首を振った。 「きれいごとだね、そんなの」  俺は即座に反論した。 「現実から目をそらすな、高村。俺たちはもう、どっぷり浸かってしまっているんだ。ホルモーの魔窟《まくつ》に囚われの身になり、はや三年目。新入生をたぶらかして、次代の犠牲者を仕立て上げることに、もう何の躊躇《ためら》いも感じぬほどだ。オニの連中を見ても、悲しいほど何も思わない。あんなこの世のものではない連中が、足元で整列していても、平気でメシが食える。我がもの顔で台所を疾走する、長い触覚の黒い昆虫に悲鳴を上げている自分が、ときどき滑稽《こっけい》に思えることがある。どう考えたって、オニのほうがデインジャラスな存在だからだ」  さすがに今度は異論の余地も見つからないのか、高村は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたまま、ネギトロ丼に向かい合っている。しかし、丼の残りをかきこむと、 「でも——何とか、うまく説明することはできないかな?」  と往生際悪く、言葉を繰り出した。 「説明? どうやって? ホルモーのルールでも懇切丁寧解説するか? 千匹と千匹のオニをお互い引き連れ、京都市内で戦争ごっこをします、京都大学青竜会、立命館大学白虎隊《りつめいかんだいがくびゃっこたい》、京都産業大学玄武組《きょうとさんぎょうだいがくげんぶぐみ》、龍谷大学《りゅうこくだいがく》フェニックスの各五百代目メンバーが構成員です、あくまで平和的な競技ですが、オニを全滅させてしまったときだけ、ちょっと面倒なことになります——とか? やめておけ、話したところで、余計不安を煽るだけだぞ。だいたい、普通の奴にはオニの姿が見えないんだ。人間は結局、自分で目にしたものしか信じない。もしもお前がホルモーとは無縁の人間であったとしろ。俺がサークルでこんなことをしてます、といきなりホルモーの説明を始めたところで、信じるか?」  高村は空になった丼の内側で、所在なげに箸を遊ばせていたが、「信じない」と力なく首を振った。 「だろ? 世間と俺たちの間には、大きな隔たりがある。その溝を埋めることは容易ではないし、俺はそもそも埋める必要を感じない」  高村は黙って箸と丼を置くと、代わりにスプーンとヨーグルトの小鉢を手に取った。俺もすでに湯気を失ったきしめんに戻る。 「みんなも、こんなことを考えたりするのかな?」  ヨーグルトをちびちびすくいながら、高村がぽつりとつぶやいた。 「みんなって?」 「京都でホルモーをやっているみんなだよ」 「どうだろう……。まあ、やってることは同じホルモーだ。携わる人の数だけ、いろいろあるだろう」  きしめんの汁でライスを平らげ、俺は大きく息をついた。少し腹が窮屈でベルトを弛《ゆる》めようとしたが、今日はベルトをしていないことに気づき、手を止めた。 「それにしても、お前がチョンマゲをやめてしまったのが惜しいな。今日みたいな日にこそ、チョンマゲが映えるというのに」  湯飲みの麦茶を口に含み、俺はニヤニヤしながら高村の頭に視線を送った。  というのも実は高村、学食前で待ち合わせしたときより、京大青竜会に代々伝わる藍《あい》染めの浴衣《ゆかた》を纏《まと》っていたからだ。かくいう俺も、同じ藍色の浴衣姿である。揃いの浴衣を着た男が、面と向かって座っているものだから、先ほどから食堂を行き交う学生たちの視線を感じ、面映《おもは》ゆくて仕方ない。  なぜ、俺が「チョンマゲ」などという単語を口走ったかというと、向かいの男が、ほんの三カ月前まで、チョンマゲだったからだ。頭頂部を丁寧に剃《そ》り上げ、後ろ髪を器用に結い上げ、正真正銘のチョンマゲ姿となって、この男、およそ十カ月にわたり、京都の街を闊歩《かっぽ》し続けた。  その間、どれほど俺が、いい加減やめろと直言しても、一向に聞く耳を持たなかった。ところが、春の健康診断の日、高村は突然マゲを放棄して現れた。側頭部に残った髪をそり落とし、坊さまのようにツルッパゲになってしまった元さむらいに、心変わりの理由を訊ねると、ある女性からの強いオファーがあったためと打ち明けた。俺の言うことは聞かず、女の言うことなら聞くのかと思うと、少し妬《や》けた。 「いや、もちろん未練や愛着はあったんだ。でも、チョンマゲがもうその役目を終えたような気がして」  最初から役目なんてないだろう、と言いたかったが、俺も大人だ。ここでいちいち反駁《はんばく》して、元に戻されても困るので、黙って聞いた。 「お言葉に甘えて、いただくぞ」  俺は向かいの小鉢に箸を伸ばし、大学イモを一つ突き刺すと口に放った。懐から時計を取り出し、時間を確かめた。 「そろそろ行くか」 「あれ? 楠木《くすのき》嬢は待たなくていいの?」 「楠木は先に行って、鉾《ほこ》とかを見てるってさ。近くに来たら、連絡くれって言ってた」 「じゃあ、三好《みよし》兄弟は?」 「用事があるとかで、六時頃合流するそうだ」 「芦屋《あしや》や早良《さわら》さんは?」 「集合場所と時間は伝えてあるから、他の連中と一緒に来るだろう」  そっか、とうなずき、高村はヨーグルトを一気にかきこんだ。 「あれ? 大学イモが二つしかない」 「おお、つい食べ過ぎてしまったかな」 「一つだけと言ったろ」 「そうだったっけ」 「お金、半分払ってよ」 「セコいことを言うな。今日は祭りじゃないか」  そんなの関係ないだろ、と不貞腐《ふてくさ》れた顔でイモを頬張る高村に「コンチキチン」と口ずさんで、俺はトレーを手に立ち上がった。  食堂の外に出ると、厳しい陽射しが降り注いでいた。今年の夏も、いつもの如く灼熱《しゃくねつ》の日々が、この京都の街に訪れるのだろう。 「何だか、祭りの雰囲気を感じるね」  東大路《ひがしおおじ》通の空を見上げ、高村がつぶやいた。うむとうなずき、俺は浴衣の帯を締め直す。露店もなければ、コンチキチンも聞こえてこないのに、祭りの気配が街全体を覆っていることが感じられるから不思議だった。  百万遍《ひゃくまんべん》の交差点を渡りながら、きっと今日はどこも人が多いんだろうなあ、とつぶやくと、時間まで何する? と高村が訊ねてきた。 「久しぶりにカラオケでも行くか?」 「いいね、楠木さんも誘おうよ」 「来るかなあ」 「じゃあ、僕が誘うよ。彼女、何歌うの?」 「郷ひろみがうまいな。『林檎《りんご》殺人事件』とかフリつきで踊るんだ。ジャケット・プレイも秀逸だ」 「エッ、そうなの?」 「ウソだよ」  じゃあ何歌うんだよ、何でお前そんなこと知りたいんだ? そりゃあ誰だって知りたいよ、だって凡ちゃんだよ? 別に普通に歌うぞ、だから何歌うんだよ、ええと何だっけ、そうそう——俺が答えようとする脇を、バスが低い音を立てて追い越していった。十メートル先の停留所に停車したバス目がけ、俺と高村は走る。浴衣の裾がはためき、下駄がカランカランと音を奏でる。  高村に続き、俺が乗りこんだところで扉は閉まった。バスの中には、浴衣姿の男女がちらほら見受けられる。空いている座席に、高村と並んで腰を下ろすと、バスがゆっくり動き出した。 「いよいよ、�四条烏丸《しじょうからすま》交差点の会�だね」 「ああ、通算五百一回目の」 「本当かなあ、それ」  さあねと笑って、俺は窓の外に顔を向けた。わずかに茜《あかね》が射し始めた空を見上げていると、今夜の三条木屋町《さんじょうきやまち》居酒屋「べろべろばあ」の大宴会で、開会の挨拶《あいさつ》をしなくちゃいけないことを思い出した。  懐の銀時計をちらりとのぞいた。まだ時間はある、と俺は一つ、大あくびをした。  祇園《ぎおん》祭|宵山《よいやま》を目指し、バスは東大路通をのんびり下っていく。 [#改ページ] 第一景 鴨川(小)ホルモー  京都産業大学玄武組なら、二人静《ににんしずか》の話がおもしろい。  ある者は二人静を名指し、その勇猛果敢ぶりを源平合戦における巴御前《ともえごぜん》の活躍にたとえ、大いに褒め称《たた》えた。ある者は二人静の交わりの深さを、いにしえの管仲《かんちゅう》と鮑叔牙《ほうしゅくくが》、廉頗《れんぱ》と藺相如《りんしょうじょ》の交わりに勝るとも劣らないと評した。 「黒い嵐」と称され、しばしば「王者」とも号される京産大玄武組の強さの源を、二人静に代表される鉄の結束に求める声は意外や強い。並みいる男どもを脇に置き、二人静のうち一人が次期会長に選ばれるだろうとは、衆目の一致するところである。  だが一方で、相反する意見もあまた聞かれる。ある者はあれはただ考えなしに、前へ前へ、行け行けどんどんしているだけだと評した。また、ある者は確かに二人静の活躍ぶりは認める、だが、その強さにはどこか向こう見ずな、捨て鉢でネガティヴなエネルギーを感じずにはいられないと評した。  第四百九十九代京都産業大学玄武組会長|清森平《きよもりたいら》が語った言葉は、二人静の関係性を最も的確に表した言葉として知られている。 「二人静——? あれは犠牲均等ルールに基づくバランスの産物だよ」  では、その均衡が崩れたらいったいどうなるのかと訊《たず》ねられたとき、京産大玄武組会長は眉《まゆ》を曇らせ、短くこう答えた。 「危ないね——とても危ない」      *  女が三人集まって「姦《かしま》」しい。  だが、三人集まらずとも二人静はいつだって姦しい。二人静などという瀟洒《しょうしゃ》な名前を戴《いただ》いておいて、実際は静かなことなど一つとしてない。二人静はどこまでもやかましく、騒々しくできている。  例えば二人静が一部屋に集ったとき、おしゃべりがやむことは一瞬たりともなかった。比叡山《ひえいざん》の山膚《やまはだ》が朝日を迎えるまで、二人静は果てしなくしゃべり続ける。「毒は溜《た》めると身体に悪い」とは、二人静の掲げる第一モットーとして知られている。毒を塗った矢じりの先は、あらゆるところに向けられる。大学の授業の退屈さに、バイト先の店長の融通のきかなさに、新聞勧誘員の無作法さに、北山の喫茶店のバカ高い紅茶の値段に。なかでも切っ先がひときわ鋭くきらめくことがある。吐き出された毒が瘴気《しょうき》となって、部屋じゅうにとぐろを巻くときがある。  彼女たちの怒りが世の男に向けられたとき、部屋はまさに言葉の阿鼻《あび》地獄と化す。俎上《そじょう》に載せられた男どもは、膾《なます》にされ、| 醢 《ししびしお》にされ、原形を留《とど》めぬほどめっためたにやられ廃棄される。  定子《さだこ》に彰子《しょうこ》——これが二人静を構成する者の名前である。  二人は揃って北山のとあるレディース・マンションに住んでいた。  北山の冬は厳しく、一度雪が降ると、ずいぶん長い間、路肩に残る。ある夜のこと、マンションの入り口を出た場所に立つ、街路樹の根元の残雪を見て、「私たちみたいだね」と彰子がつぶやいた。本来美しいはずの白雪は、すすをかぶったように薄汚れ、木の根元で邪魔者のようにひっそり固まっていた。その様を見下ろしていた定子が一歩前に出て、ブーツのつま先で勢い良く雪山を蹴った。雪のかけらが宙を舞い、削れた表面には目の粗い氷の粒がキラキラ輝いていた。マンションの大家がエントランスに設置したイリュミネーションが、断面に赤や青の光を反射させていた。  行こうよという彰子の声に、定子は黙って歩き始めた。ワインと鱈《たら》チーズの補充にコンビニに向かおうとする二人を、クリスマス・イヴの底冷えする空気が、容赦なく包みこんだ。 「賀茂川《かもがわ》の水、双六《すごろく》の賽《さい》、山法師」  とは平安の昔、都で並ぶ者ない権勢を誇った白河《しらかわ》法皇が、どうにも意のままにならぬものとして挙げた、いわゆる天下三大|不如意《ふにょい》である。  その夜、彰子の部屋のこたつに籠《こ》もり、二人は新たなる天下三大不如意を決定した。 「鴨川の等間隔カップル、足先の冷え、男ごころ」  同時に、二人はある誓いを立てた。  定子が起草し、彰子がスーパーのチラシの裏側に、泥酔しながらも几帳面《きちょうめん》さが滲《にじ》み出る字でしたためた紙は、今も彰子の部屋の冷蔵庫にマグネットで固定されている。  歴史は夜、作られる。  通称�北山議定書�として知られ、後日、「鴨川(小)ホルモー」を引き起こす原因となる一枚の紙は、まさにきよしこの夜、生まれたのだ。      *  そのルーツをたどるとき、定子と彰子——それぞれの境遇がとても似ていることに気がつく。  二人はともに、高校時代あまり派手な生活を送ってこなかった。一度も彼氏がいた時期がなかった。もっとも、それは仕方のないことだった。二人とも純朴な校風漂う、田舎の女子校、もしくは男子の数が極端に少ない共学校に通っていた。高校時代の三年間、二人は男に見向きもしなかった。いや、見向くような相手など、実際近くに一人もいなかったのだ。  もちろん、いくら校風が、土地柄が素朴な性質であれ、乙女の心の内側までが純朴であろうはずがない。二人とも当然、彼氏が欲しいと思っていた。経験の進んだクラスメイトの話を聞いて、素直にうらやましいと感じた。もっとも、欲しいと思えど焦るまでには至らなかった。大学に入ったら、彼氏なんてものはいくらでもできるものと思っていた。現に彼女たちの兄や姉は、大学に進学してほどなく彼氏や彼女を作った。見栄えも平凡な兄や姉が、さしたる困難もなく、当たり前のように恋人を作っているのを眺め、まあ世間とはそういうものなのだろうと合点した。十八になったら自然に普通免許が取れるように、自分たちも自《おの》ずと彼氏ができるのだろうとたいへん楽観的に、近い将来を考えていた。  ところが、迎えた現実は、ずいぶん予想と異なっていた。  晴れて京都産業大学に入学し、訪れた新歓コンパの嵐のなかで、二人はまざまざと現実を思い知らされた。  端的に言おう。  つまり——彼氏などできなかったのである。  例えば二人はおしゃれにさして気を遣っていなかった。化粧もほとんどせず、すっぴんだった。どっかと酒の席に座り、目の前の杯をひたすらぐいぐいあおった。先輩が前に座っても、物怖《ものお》じせず、言いたいことを好き勝手言った。気弱そうな男子を見つけたらいじめた。彼女たちは分類上で言うおっさんの部類に該当する飲み方をする輩《やから》だった。  例えば彰子の場合、どのコンパに行っても、自己紹介のときまわりにいた男たちが、やがて潮が引くようにいなくなるのを、はじめ偶然の結果だと捉えていた。  同時に特定の一人か二人の女子のまわりを、十重二十重に男たちが取り囲むシーンが現出するのも、これまた偶然の結果だと思っていた。  だが、あるコンパで、賢明な彰子は気がついた。男の輪の中心に座る女の匂いが、いつもどこか似通っていることに気がついたのだ。妙に胸がざわめくのを感じながら、彰子は女を遠目に眺めた。ふと眉をひそめると、彰子はパーカのフードをかぶり、背を丸めこそこそと男どもの輪に近づいた。  間近より観察した同じく新入生の女は色白で丸顔、全面に幼い面影を残した、彰子から言わせればどこまでも乳臭い娘だった。何がおもしろいのか、いつもニコニコ笑っていた。ふられた話にはだいたい「そうなん?」と返すだけだった。彰子は十分ほど女と男どものやりとりを眺め、いとも容易《たやす》く真実を看破した。 「なんだ、この女は徹頭徹尾ウソをついているだけじゃないか」  彰子から言わせれば、この女は何も自分の本当の姿を見せていなかった。その表情、その声、その言葉、その物腰、すべてが作り物だった。  彰子は訝《いぶか》しげにまわりに視線を送った。どうして男どもがこうして、この女を取り巻いているのかよくわからなかったからである。だが、女の何でもない受け答えに、手を叩いてよろこぶ大勢の男を目にしたとき、彰子は頭の後ろをガンと殴られたようなショックを受けた。女がこれほど明々白々にウソをついていることを、まわりの男どもは誰一人として気づいていないという事実に、初めて気がついたのである。同時に、女がそのことをちゃんと承知の上で、ウソを演じていることにも気がついた。彰子は思わずその場で「そうなん?」と意味もなく自問してしまった。  もっとも、このとき彰子の前にいた少女が、どこまで自覚的に行動していたかについては、判断の分かれるところだろう。幼稚園児のときから、女は立派に女を演じることができるという。ひょっとしたら、少女も中学・高校時代、彰子と同じような境遇だったのかもしれない。新歓コンパで突如男に囲まれ、自分の価値を図らずも知ったとき、無自覚のうちに心の奥底に眠っていた「女」が呼び覚まされたとは、十分考え得る話である。  輪から離れ、ふらふらと彰子は自分の席に戻った。妙な髪形の男がぎこちない動きとともに隣に座ってきて、彰子のあずかり知らぬ漫画や戦車の話を始めた。彰子は努めて笑顔を保とうとした。「そうなん?」と、ちっとも「そうなん」なことなどなかったが、小まめに相づちを返した。ところが、相手はちょっとトイレと言って席を立つと、二度と彰子の前には帰ってこなかった。  一人でぽつんと座布団に座る彰子に、コンパの喧騒《けんそう》は、まるで膜を一枚隔てているかの如く遠くに感じられた。すべてが猿芝居じみて映った。だが、手品のタネを知ったのなら、それと同じことをしたらいいじゃないかという心の声に、彰子はどうしてもウンとうなずくことができなかった。彰子は気高い人間だった。同時にシャイな人間だった。必要もなく笑顔を振りまき、とことんきゃぴきゃぴする行為に、パンツ一丁で往来を歩くような気恥ずかしさを覚えた。  明らかに過剰な自意識であったにもかかわらず、彰子はその心理を「自分の不器用さ」という妙にあたたかい言葉でカテゴライズした。守るべき「誇り」として擁護した。天衣無縫な振る舞いとともに、男どもを魅了する少女たちを視界の隅に捉えながら、彰子はどこまでも仏頂面のおっさんスタイルを貫き通した。正確には、そうするほかなかったのだ。  だが、女のおっさんが新歓コンパでモテるはずがない。見えない負の重力が発生したかの如く、彰子のまわりは終始|人気《ひとけ》なく、それがまた一人酒・手酌酒を加速させるという悪循環を招いた。  コンパが終わり居酒屋を出ると、男どもが携帯電話を手に、アリのように先の少女に群がっていた。その騒がしい風景を尻目《しりめ》に、彰子は一人、北山行きのバス停に向かった。  その夜を境に、新歓コンパのシーンから彰子の姿が消えた。  定子の場合、少々勝手が異なる。  定子は彰子と違い、男どもに囲まれる側だった。行くコンパ行くコンパで、大勢の男が定子と話したがった。居並ぶ先輩連中が定子にサークルに入るよう懇願した。  定子は中高ともに女子校で、男と話した記憶は思春期に入ってからというもの、ほとんどない。男の兄弟もおらず、男の扱い方などまるで知らない。服装もほとんどこだわらない。化粧気もない。なのに定子はたいへん男にモテた。定子が彰子と同じように、あくまで唯我独尊的おっさん応対をしているにもかかわらず、定子の返答に男どもは喜色をあらわにした。そのツンとした感じがたまらないと勝手にありがたがった。  定子が彰子と違うことといったら、背が比較的小柄なことと、声が丸みを帯びてかわいらしい響きを湛《たた》えていること、あとは好き勝手言っているつもりでも、その発言がときに少々軸からブレることくらいだったろうか。だが、その些細《ささい》な違いが、定子の座る位置を、男どもの輪の中心へと引きこんだ。  もっとも、期せずして得たそのポジションを、定子自身はちっともありがたいと思っていなかった。むしろ迷惑に感じた。男どもからの積極アプローチも多く、付き合わないかという気の早い申し出もいくつか受けた。だが、そのことごとくを定子はにべもなく突っぱねた。  定子は注文の多い女だった。群がる男どもの一々の行動が気に障った。例えば定子はすぐに駅まで送ろうと言ってくる男が嫌いだった。子供ではない。余計なお世話だと思った。例えば定子は初対面で「さっちゃん」などと気安くファーストネームを呼んでくる男が嫌いだった。その他、携帯のアドレスをすぐに訊《き》いてくる男が嫌いだった。家の場所を訊いてくる男が嫌いだった。自慢をする男が嫌いだった。クイズを出してくる男が嫌いだった。いろんな男が嫌いだった。  中高六年間の女子校生活で、定子の精神は大いに純粋培養され、すくすくと発展した。純粋培養と書くといかにも清潔そうなイメージを与えるが、ベクトルがどの方向に突き進んだかはまた別の話である。口さがない女たちの園で、定子はのびのびと毒気を培った。その一見眠たげで大人しそうな眼《まなこ》の底に、定子はしっかと相当量の毒を有していたのだ。  行く先々の新歓コンパで男どもの輪の中心に座っておきながら、定子の気分はまるで晴れなかった。定子は自らの状況をちっともモテていないと認識していた。自分がいいと思える相手から言い寄られない限り、モテるとは言えない。ハードルをわざわざ高く掲げ、定子は自分をモテない子と認定した。少々、嫌味な匂いがしないでもない。だが、どこまでも正直に定子はそう考えた。定子にとって現状は、たくさんのくじ引き券をもらえど、結果はすべてポケット・ティッシュ——というようなものだった。  当然、この定子のスタンスには大きな問題がある。男女の関係は、男が女に言い寄るだけではない。女性からの能動的な働きかけがあってもよいはずだ。もちろん、定子もその点に気づいている。だが、そのことに考えが及ぶとき、定子は自分の弱点をまざまざと見せつけられた気がした。  嫌いな男の話ならいくらでもすることができる。しかし、定子は好きな男の話をすることができなかった。なぜなら、定子はまだ男という生き物を好きになったことがなかったからだ。  やがて、飽きもせず言い寄る男どもをあしらうことに疲れた定子は、五月に入ってから、ぱたりと新歓コンパに行くことをやめた。  二人が入学して一カ月、ここまで互いの接点はまだ存在しない。  この二人が正式にひとところに集い、言葉を交わすのは五月も下旬のことである。  三条木屋町居酒屋「べろべろばあ」にて行われた京都産業大学玄武組の新歓コンパで、二人はついに知己を得た。      *  きっかけは葵祭《あおいまつり》だった。  京都三大祭のうちの一つ葵祭。例年五月十五日に行われる、葵祭�路頭《ろとう》の儀�に、定子と彰子はともにエキストラ・アルバイトとして参加していた。  平安装束に厚化粧を施し、女人列に参加して都大路を練り歩いた。上賀茂《かみがも》神社までの巡行を終え、日当をいただいて、さあ家まで帰ろうとした道すがら、二人は京産大玄武組と名乗る得体の知れないサークルから勧誘のビラを手渡されたのである。  上賀茂神社の一ノ鳥居を出たところにあるバス停で、偶然二人は並んで立っていた。そこに一組の男女が突然、 「すいません、京産大の方ですか」  と声をかけてきた。男女は二人の返事を待たず、さっさと黒色の背景の紙を手渡してきた。そこには白い文字でこう記されていた。  カモン、ジョイアス! 京産大玄武組  手元のビラを眺め、定子はどうして自分が京産大生とわかったのだろうと訝しんだ。ついでに何とかならんかこのコピーとサークル名と眉をひそめた。彰子はずいぶん素敵な感じの人だなと紙を渡してきた男性の胸のあたりを見つめた。  清森と言いますとよく通る声で男は名乗ると、 「きっと気の合う人たちがたくさんくると思うから、良かったら一度のぞいてみてください」  と何が根拠なのか知らないが、やけに自信のある口調とともににこりと笑い、去っていった。  それから二人は間もなくやってきたバスに乗りこんだが、バスがたいへん混んでいたこともあり、一度も言葉を交わさぬまま、北山でバスを降りた。そこから定子は雑貨を買うためイノブンに寄り、彰子は四条烏丸《しじょうからすま》で友人に会うため地下鉄に乗った。  一週間後、二人は三条木屋町居酒屋「べろべろばあ」に向かっていた。新歓コンパとはおさらばしたはずの二人だったが、どういうわけかスケジュールがぽっかり空いていたり、五月に入ってサークルの勧誘ビラをもらうことはめずらしく、俄《にわか》に興が乗ったりで、ついのぞいてみる気になったのだ。  居酒屋の玄関で靴を脱ぎ、定子は二階に上がった。階段を上ったところの襖《ふすま》に、「京大青竜会様」と記された紙が貼ってあった。そのまま通路を奥に進むと、「京産大玄武組様」と貼られた襖に突き当たった。世の中にはいくらでも妙な名前のサークルがあるのだなと呆れながら、定子は襖を開けた。  座敷はすでに二十人ほどの男女で埋まっていた。葵祭で声をかけてきた清森という男が入り口に立って、あそこにどうぞと案内した。見ると座敷の真ん中にぽつんと、席が空いている。人の背中の間をすり抜け向かうと、空いた座布団の隣に見覚えのある顔があった。 「あ、この前のバス停で——」  定子の声に彰子が面を上げた。 「あ、あのとき後ろにいた——」  そのとき、彰子は定子を見上げ、かわいらしい雰囲気の子だなと思った。定子は彰子を見下ろし、大人びた雰囲気の子だなと感じた。  定子が腰を下ろすと同時に、全員揃ったみたいだから、そろそろ始めましょう——という清森の声が響き、京産大玄武組の新歓コンパがスタートした。  その夜、二人はまるで生来の友人であったかのように意気投合した。彼女たちは互いに非常に似た匂いを嗅《か》ぎ取った。それは謂《い》わば毒の薫りであり、おっさんの香りだった。もっとも、当人たちはそれを「実に女らしい」匂いと認識した。いくら鋭い感覚の持ち主でも、自分の匂いを客観的に認識することはできないのだ。  まわりの人間のことなどそっちのけで、二人は語り合った。やがて住んでいる場所に話題が移り、まさかの北山のレディース・マンション「メゾン オキタ」の名前が出たとき、二人はのけぞり、手を叩き合ってよろこんだ。大学に入ってこのかた、最も気の合う相手が同じ屋根の下に住んでいたことに、二人は今宵《こよい》の邂逅《かいこう》に何か特別なものを感じずにはいられなかった。  新歓コンパが終わっても、二人の気勢は毫《ごう》も衰えない。北山のマンションに戻り、その足で定子は一階の彰子の部屋に上がりこんだ。 「誰か男と住んでるの?」  部屋をのぞいた定子が思わず声を上げてしまうほど、彰子の部屋は風変わりな雰囲気を醸し出していた。そんなわけないでしょうと彰子は笑ったが、性別で言うと彰子の部屋は明らかに「男」だった。小物はもちろん、鏡すら部屋にはない。大きなモニターのパソコンが隅に陣取り、床を這《は》う長いコードがやたらと目につく。コンセントはあらゆる方向からプラグが差しこまれ、異様な立体物と化していた。 「これ……誰の?」  部屋の真ん中に置かれたこたつ机を指差し、戸惑った声で定子が訊ねた。机の上にはいかにも作業の途中といった様子で、ハンダごてと基板が置かれていた。 「私のだけど」  当然でしょうといった口調で、彰子はヤカンをコンロにかけた。工学部じゃ一回生からこんなことするの? と定子が訊ねると、好きでやってるだけと彰子は答えた。これ、何を作っているの? とおずおず訊ねる定子に、 「風呂のお湯張りセンサー」  と彰子はどこまでも真面目な顔で答えた。  お盆の上に紅茶ポットと何やらラジコンのコントローラーのようなものを載せ、彰子はキッチンから戻ってきた。彰子はコントローラーを手にすると、スイッチを入れた。するとベッドの枕元からラグビーボールのような形をした物影がふらふらと飛び上がった。ゴールデンウィークのときに作ったの、キラークイーン号って言うの——彰子が器用に操作して、室内用飛行船を照明の周囲に旋回させるのを見上げ、定子はため息をつくようにつぶやいた。 「素敵……彰ちゃん」      *  いつから彼女たちが二人静《ににんしずか》と呼ばれるようになったのか、正確なタイミングは定かではない。常に行動をともにし、京産大玄武組の例会の場でも、まるで打ち合わせをしていたかのように同じ意見を述べる彼女たちに、いつの間にかそんな呼び名がつけられていた。もっとも「静」という字については、少々皮肉の香りがしないでもない。  その呼び名が広く洛中洛外《らくちゅうらくがい》に知れ渡ったのは、彼女たちが二回生になり、第五百代の京産大玄武組メンバーとして、「五百代目間ホルモー」すなわち「鴨川ホルモー」を戦うようになってからのことである。  六月の第一土曜日、「鴨川ホルモー」初戦が行われ、京産大玄武組は対戦相手の龍大フェニックスの本拠地、龍谷大学深草《りゅうこくだいがくふかくさ》キャンパスに乗りこんだ。  この�深草ホルモー�にて裁定人を務めた、京都大学青竜会第四百九十九代会長|菅原真《すがわらまこと》は、ホルモー終了後、こんなコメントを残している。 「回るんだよね。女の子が二人、ひたすら回るんだ。これが滅法、強くてね。あれぞまさしく�車懸《くるまが》かりの陣�だよ。しかし、参ったねえ。今年も玄武組は強いよ。こりゃまた、玄武組の一人勝ちかな?」  もちろん、この「回る」という言葉の主語は、彼女たちではない。回ったのは彼女たちが率いる「オニ」である。  体長はおよそ二十センチ。顔と胴体の比率は、だいたい一対三。顔の真ん中がくしゅっとなって、ちゅっと飛び出している。茶巾《ちゃきん》絞りという和菓子があるが、それをそのまま顔の真ん中に据えたら、ほぼ実物と相違ない。顔の中央には、�絞り�が構えている。膝丈《ひざたけ》ほどの黒い襤褸《ぼろ》を身体に纏《まと》っている。「装備」の命令を受けると、襤褸の下から棒やら熊手やら物騒な武器を一斉に取り出す。「きゅるる」と鳴く。「きゃあきゃあきゃあ」と囃《はや》し立てる。「ぴゅろお」と消える。これがオニである。  ホルモーに参加する人数は、京産大玄武組、龍大フェニックスともに十人ずつ。一人が率いるオニの数は百匹。つまり、総勢二千匹のオニを使って、人がホルモーを行う。  一般的なホルモーの戦い方として、女性は後方で補給部隊を指揮するのがセオリーとされる。だが、彼女たちはそんなものには見向きもしなかった。彼女たちは誰よりも前線に立って、戦闘に加わることを希望した。実際に�深草ホルモー�において、定子と彰子の率いるオニは常に最前線に立ち、龍大フェニックスを圧倒し続けた。 「ぎゃらぎゃら、くぅお(回り続けろ、右回り)」  二人の口から発せられた鬼語に従い、定子と彰子が率いる二百匹の�黒�オニは、棍棒《こんぼう》をぶるんぶるんと振るい、大きな弧を描きながら、龍大フェニックスのオニにぶつかっていった。龍大フェニックスの�赤�オニと刃《やいば》を交えても、�黒�オニは決して立ち止まらない。そのまま走り続け、後方へと同じく弧を描き戻っていく。後方には補給部隊が位置している。まるで給水所でマラソン選手にドリンクを手渡すが如く、補給部隊のオニたちは、走って戻ってきたオニにレーズンを手渡す。  レーズンを受け取ったオニは、すぐさま手にしたものをぐいと己の�絞り�に押しこむ。すると相手の攻撃を受けへこんでいた�絞り�が、「すぽん」という音とともに威勢よく元の状態に戻るのである。  レーズンの受け渡し場となった補給部隊の前面は、まさしくバーゲン会場が如き喧騒具合。 「すぽぽぽぽぽぽぽ、すぽぽっぽん」という復活のコールが引っ切りなしに鳴り響く。レーズンを摂取して復活したオニは、勇気|凜々《りんりん》、敵陣目がけ、弧を描き駆けていく。絶え間なく新戦力が投入される二人静の攻撃の前に、龍大フェニックスの�赤�オニたちは「ぴゅろお」とはかなげな声を残し、次々と地面に消えていく。  ひたすら周回運動を続けながら、十二時の方向で交戦し、六時の方向でレーズン補給をする。旋盤の動きに着想を得たこの戦術を、彰子は回って回って回って回る「夢想花《むそうばな》アタッキング」と名づけた。どういう意味? と眉をひそめる定子に、彰子は「とんで、とんで、とんで」と実直に円広志《まどかひろし》を歌って聞かせたが、さすがの定子もわからない。それを見て、彰子は父親譲りの円ファンであることは、しばらく内緒にしておこうと心に決めた。  初戦のプレッシャーを撥《は》ね除《の》け、二人静は「夢想花アタッキング」を見事成功させた。その完璧《かんぺき》な連係の前に、龍大フェニックスは反撃の糸口さえ見出《みいだ》すことができない。岩盤を突き崩す掘削機の如く、二人静の「夢想花アタッキング」は黒い波濤《はとう》と化して相手の堅い守備を突き崩した。そこへ男どもが満を持して突撃を仕掛けた。まさしく玄武組の代名詞「黒い嵐」そのままに、�黒�オニたちは�赤�オニを蹂躙《じゅうりん》し、開始二十八分——龍大フェニックスに降参を宣言させたのである。  二週間後、京都府立植物園にて、京産大玄武組と京大青竜会との「鴨川ホルモー」第二戦が行われた。  過去九年間、一度も玄武組より勝利を得ることができず、その対戦カードをして「平成の大鉄板」などという不名誉極まりない名称をつけられた、京大青竜会会長菅原真はホルモー前日に、こんなコメントを残している。 「清森くんのところは、やっぱり強いよなあ。特にあの女の子二人が強烈だよね。ウチかい? ウチは初戦で負けて、少し揉《も》めちゃってね。ちょっと難しいかなあ」  当の会長ですらこの弱気ぶりゆえ、誰もが京産大玄武組の圧勝を予想したのは、仕方のないことだった。だが、�京都府立植物園ホルモー�の結果は驚くべきものだった。なぜか規定の十人より一人少ない九人で戦いを挑んできた京大青竜会に対し、十人揃った京産大玄武組が完敗を喫したのだ。  前回のホルモーであれだけ威力を発揮した「夢想花アタッキング」は、最後まで戦場に姿を現さなかった。柱となる攻め方を失い、連係もちぐはぐな玄武組は、相手のとてつもない速さでオニを指揮する芦屋《あしや》という男にいいようにやられ、開始三十六分にて降参してしまったのだ。  いったい、「黒い嵐」京産大玄武組に何が起こったのか?  このときの状況について、京産大玄武組会長清森平はのちにこう証言している。 「バランスが崩れた、いや壊れたんだ。うちの中枢がまったく機能しなかった」  中枢とはいったい何かという問いに、玄武組会長は怒ったようにこう答えた。 「決まってるだろう——二人静だよ」      *  二人静という名を与えられながら、入学以来、彼女たちの心が穏やかに満ち足りていたときなど、たったの一日もない。  いくら空騒ぎを重ねようと、心の隙間に吹きつける風の冷たさがいかんともしがたかったクリスマス・イヴの夜、二人が新・天下三大不如意を制定したのは前述のとおりである。 「鴨川の等間隔カップル、足先の冷え、男ごころ」  不如意として「鴨川の等間隔カップル」を唱えたのは定子、「男ごころ」を唱えたのは彰子、「足先の冷え」は両者よりのエントリーだった。  それらは彼女たちの憎しみの対象だった。彼女たちを不当に苦しめる、超克すべき敵だった。  そもそも、高校時代より二人には彼氏がいなかった。その状態が少し拡大延長されているだけなのに、どうして大学に入った途端、不当な「さびしさ」をことあるにつけ感じなくてはいけないのか。誕生日、クリスマス、バレンタインデー、ホワイトデー——それこそ「さびしさ」のチェックポイントは引きもきらない。どれほど彼女たちが心のバリア・フリーを要望しようと、世間の無理解の壁は厚く、高い。彼女たちのか細い声は、北山を支配する強烈な夏の熱気、冬の寒気に煽《あお》られ、いとも容易く空へと消えていく。  心の底でめらめらと燃える暗い怒りを、彼女たちはそのままホルモーにぶつけた。ホルモーでぽかりと敵の攻撃を受けると、オニの顔の�絞り�はダメージに比例してへこんでいく。さらにぽかぽかやられると、�絞り�はさらにへこみ、ついには顔の内側へねじれるようにめりこんでいく。力を失い、地面に倒れこんだオニは、とどめの一撃を喰らうと、「ぴゅろお」と残し、地面に消えていく。  この「ぴゅろお」が二人の加虐心をいたく刺激した。男か女かで言うなら、断然「男」と思われるオニたちがばたばた倒れ、珍妙極まる顔とともに消えていく様を見て、鬱屈《うっくつ》した彼女たちの心は大いにエキサイトした。後続の様子を碌《ろく》に確かめもせず、たった二人で「夢想花アタッキング」を仕掛ける様を、ある者は向こう見ず、捨て鉢な行動だと評したが、まさに正鵠《せいこく》を射た意見だったろう。実際に彼女たちにとって、ホルモーの勝敗など、どうでもいいことだった。ただその怒れる心の赴くまま、攻撃的精神の求めるままに、暴れ回りたいだけだった。  しかし、京大青竜会との�京都府立植物園ホルモー�にて、二人静の夢想花は最後まで花を咲かせなかった。  京産大玄武組のメンバーが、京都府立植物園に入園し、最後の打ち合わせをしていた最中の出来事だった。定子が突然、補給部隊に回りたいと言い出した。補給部隊はホルモーの戦闘に直接関与できない。必然、「夢想花アタッキング」もできない。男どもは一様に戸惑った表情を定子に、次いで彰子に送った。「何か言ってくれるだろう」という期待のこもった視線を浴びても、彰子は足元のオニを見下ろしたまま、無言を貫くばかりだった。「じゃ、そういうことで」補給部隊を担うはずだった男の手元より、さっさとレーズン・パックを奪うと、定子はホルモーの行われる場所へ向かっていた。  突然の事態に動揺と混乱が収まらぬまま、京産大玄武組はホルモーに臨んだ。結果は惨敗だった。「黒い嵐」は微風すらも引き起こすことなく、十年ぶりに京大青竜会に勝利をプレゼントしてしまったのだ。  この�京都府立植物園ホルモー�にて、開始から終了まで、定子と彰子は一度も言葉を交わさなかった。視線すら合わさなかった。両者がこの日、初めて言葉を交わしたのは、上賀茂神社までオニを返しに行った帰り道のことだった。 「じゃあ、三日後の火曜日」  と声をかけた彰子に、 「うん、火曜日」  と定子は短くうなずいた。  それから彰子は原付きバイクに乗り、定子は北山行きのバスに乗り、別々に帰路についた。 「三日後の火曜日」は京産大玄武組の例会の日だった。  朝より続く梅雨の長雨が、じめじめとした空気に陰鬱《いんうつ》な色合いを添えていた。上賀茂神社からほど近い、五山の送り火の一つ、船形を見上げる鴨川べりに、傘をさして待つ八人の男と八百匹のオニの姿があった。  集合時刻の午後六時になっても二人静は姿を現さない。電話をしてもつながらない。仕方がないので男どもだけで例会を始めることにした。一時間ほどが経って、「先週は残念だったね」と京産大玄武組会長清森平が、傘をくるくる回しながらやってきた。 「あれ? あの二人は?」  と開口一番訊ねる清森に、男どもは連絡が取れないことを伝えた。 「しょうがないなあ。明日あたり、僕が二人から事情を訊こう。どうやら、二人の間に問題が起きているみたいだから」  何か知っているのですか会長? という声に、何も知らないけど、二人には仲良くしてほしいでしょう、だってウチの看板娘なんだからと清森は答えた。 「みんな、気を落とさずに。まだ、たったの一敗。残り全部に勝てばいい」  最後に王者のメンタリティをさらりと発露して、清森は去っていった。  会長の言葉に奮起した玄武組メンバーはその後、あたりが暗くなってからも、雨の中でホルモー訓練に勤《いそ》しんだ。  午後八時半を過ぎた頃、急に雨がやんだ。三十分ほど風もない、静かな時間が川べりに流れたが、溜めていた分を吐き出すかのようにふたたび雨が降り始めたところで、訓練は終了した。  結局その日、二人静は最後まで例会に姿を現さなかった。      *  二人はよく夜通し語り明かした。  定子はいつも嫌いな男の話をしたがった。  彰子はいつも好きな男の話をしたがった。  定子にはいつになっても、好きな男ができなかった。  彰子にはいつになっても、好きな男が振り向いてくれなかった。  ほんの一握りの男の問題を、二人は大きく世の男どもの問題へと帰納し、大いにけちょんけちょんにした。それはまったくもって理不尽かつ非論理的なやり方だったが、おかげで二人静の関係はいつも平穏だった。  しかし、�京都府立植物園ホルモー�の前日、突如としてその均衡が崩れた。  ひょっとしたら自分は恋をしたかもしれない。そう、定子が打ち明けたのである。  最初の一撃を見舞われても、彰子は何とか声を出さず、我慢することができた。だが、六月二十四日にデートをすることになったと聞かされたとき、彰子は思わずこたつ机に手をつき、「エッ」と声を上げてしまった。 「そ、それって——定子の誕生日じゃない」  上擦った彰子の声に、定子は視線を落とし、うなずいた。 「定子が食べてみたいって言うから、誕生日プレゼントにあれを作っていたのに、もう少しで完成するのに——」  彰子が指差す先には、楕円《だえん》の形をした幅一メートルはある、大きな物体が床に横たわっていた。 「定子が流しそうめんしたことがないって言うから、一緒に食べようって言うから、ずっと作っていたんじゃないッ」  部屋の隅に佇《たたず》む扁平《へんぺい》な物体——それは流しそうめんマシーンだった。彰子が一から作製し、すでに水流実験も完了し、あとは楕円内側の単一電池四本がむき出しになっている部分に、薬味スペースをカバー代わりに設置すれば完成するはずだった。 「ごめんね……彰ちゃん」  定子は消え入りそうな声とともに、頭を下げた。  彰子はじっと定子の顔を見つめていたが、やにわに立ち上がるとキッチンに向かった。冷蔵庫の横にマグネットで留《と》めた一枚の紙を引っぺがし、戻るとそれを定子の前に突きつけた。  それは「北山議定書」だった。半年前、うらさびしきクリスマス・イヴの夜、どちらからともなく言い出し、作成された誓約書だった。そこには几帳面な彰子の字で、こう記されていた。 [#ここから1字下げ]  私たち二人静は、いわゆる世の記念日と呼ばれる日をいつも二人で過ごすことを誓います。もしも、どちらかがこの誓いを破るときは、もう一方の要求を必ず受け入れ、然るのちに誓いを破ることを誓います。 [#ここで字下げ終わり]  十二月二十四日の日付のあとに二人のサイン。その隣には、新・天下三大不如意の文句も書き記されている。  自分がチョイスした「鴨川の等間隔カップル」という文字を見つめ、定子は揺れる声で語り始めた。 「暑い日も寒い日も、馬鹿みたいに鴨川の河原に並んで座っているカップルを見て、ああ、何て鬱陶《うっとう》しい眺めなんだろうと思ってた。あんなの鉄砲水にでも押し流されりゃあいいのにって思ってた。でも、違うの。本当はうらやましかったの。私も一度、あの等間隔の中に混じってみたいとずっと思っていたの」 「違う。だまされちゃ駄目よ、定子。あれは橋の上から俯瞰《ふかん》するから、視覚的効果も相まって、ついうらやましく見えるだけ。あの中に紛れて座ったら、きっと何でもない、混んだバスの中で座っているのとまるで同じよ」  彰子は大きく首を振って反論した。だが、それならそれで同じだと実際に感じてみたい、やっと好きになれそうな人を見つけたんだから——と定子が消え入りそうな声で告げたとき、彰子はもう定子の心を引き止めることはできないと知った。  わかった——何だか涙がこぼれそうな気持ちになりながら、彰子はうなずいた。 「向こうは定子の誕生日だって知っているの?」  知っていると定子は答えた。どこの人? という問いに、バイト先の人と返した。  突然、定子は身を乗り出すと、彰子の手をつかんで強く揺さぶった。 「何でも言って、彰ちゃんッ。約束は守る。どんなことでもいい。誓いを破るんだから、決闘でも何でも、彰子の望むことを言って」  彰子は定子の瞳をのぞきこんだ。そこにはこれまで見たことのない、強く熱を帯びた光が宿っていた。どうにもまぶしくて、彰子は思わず視線をそらした。 「彰子も——清森さんに告白したらいいのに……」  突然の定子の言葉に、彰子はギョッとした表情でふたたび顔を上げた。 「私、知っていたよ。彰子は絶対に名前を言おうとしなかったけど、はじめから清森さんのこと好きだったんでしょ?」  彰子は完全に固まった表情で、定子を見つめた。だから——定子からサークルに入ろうって誘ってくれたの……? 彰子がようやく絞り出した声に、定子はウンと小さくうなずいた。 「駄目だよ、彰ちゃんみたいないい女が、いつまでも引きこもっていちゃ。前に踏み出さなくっちゃ——」  定子の言葉に、彰子は凍りついたように固まった。彰子は定子が本当に、平穏な箱庭からひとり大海原へ乗り出す覚悟を決めたこと、二十歳の誕生日を前に蛹《さなぎ》から蝶《ちょう》へと羽化しようとしていることを知った。  二人はじっとお互いの目を見つめ合った。 「決闘を——しましょう」  長い沈黙を破って、彰子はわずかに震える声で告げた。 「えッ?」  まさか本当に決闘の二字が出てくるとは思わず、定子はつい声を上げた。  少しだけ潤んだ、されどどこまでも真摯《しんし》な眼差《まなざ》しとともに、彰子は定子に語りかけた。  無茶苦茶な要求であることは百も承知している。心から祝福すべき事柄だということもわかっている。でも、定子のためずっと前から温めてきた、いくつもの楽しい計画を反故《ほご》にされた、この悲しみはどうしたらいい? このさびしさはどうしたらいい? わかっている。定子は間違っていない。でも、私は振り上げた拳《こぶし》を、そのまま愛想笑いとともに引っこめることはできない。なぜなら私は二人静だから。「毒は溜めると身体に悪い」から。だから、私は定子と決闘をする——。  定子は大きく目を見開いて、彰子の言葉を聞いた。定子は彰子が誰よりも誇り高い人間であることを知っていた。そして、そんな彰子が定子は誰よりも好きだった。 「わかった——やる」  定子は覚悟を決めた顔でうなずいた。 「それじゃあ、今度の火曜日」 「うん、火曜日」  決闘の内容を聞かされた定子は、立ち上がると、そう言えば明日はホルモーだけど、これじゃあちょっと難しいねとつぶやいた。「おやすみなさい」と玄関で残し、定子は部屋から出て行った。  一人残された部屋で、彰子は流しそうめんマシーンの隣に座り、スイッチを入れた。すでに水を湛えた堀の水面が揺れ、ゆっくりと流れ始めた。  彰子は壁際の勉強机に顔を向けた。  卓上カレンダーの六月二十四日火曜日の欄には、「例会&定子誕生日パーティー」と几帳面な字で書き記されていた。      *  四条通に面した、祇園《ぎおん》のビルの三階にある和風居酒屋ダイニング「焼酎納言《しょうちゅうなごん》」で、定子は一回生のときからアルバイトをしていた。  定子を含め四人いる学生アルバイトの中に、一条という男がいた。寡黙ながら、常にてきぱきと仕事をこなす男で、同じシフトに入るときも、定子とはほとんど口をきくことがなかった。  その一条が突然、今度、映画を観に行かないかと誘ってきた。急な申し出に戸惑う定子に、一条は来週の二十四日はどうかと訊ねた。その日は——とつい口ごもる定子に、知ってる、誕生日だろ、だから誘うんだと一条は途切れ途切れ言葉を連ねた。何週間も誘おうと思っていたけど、ずっと言えなかった、シフトも空けてある。一条の言葉に、定子は手元のシフト表をのぞいた。ひと月前に決めたシフト表には、確かに二十四日、定子と一条の欄にマルは入っていなかった。 「で、でも、一条くん、今までそんな素振り一度も見せなかったじゃない。どちらかというと、私のこと避けていたくらいじゃない」 「そりゃ絶対にバレないようにしていたから」  それじゃあ意味ないじゃない、思わず声を上げた定子に、だってそういうの軽蔑してそうな雰囲気だったから、でもそれだと伝わらないからこうして今、言っていると一条はうつむきながらぼそぼそと反論した。  少し考えさせてほしいと、定子はその場で回答することを留保した。だが、もともと彰子との予定が入っていたにもかかわらず、考えさせてくれと言った時点で、答えは出ていたのかもしれない。  三日後、定子は一条に了承の意を伝えた。というのも、一人部屋で考えている最中にふと、かれこれ一年以上、一緒にアルバイトをして、たったの一度も一条のことを悪く思ったことがなかったことに気がついたからである。これは定子にとって衝撃的な発見だった。そんな男、どれだけ周囲を見渡したところで、これまでたったの一人もいなかった。彰子が心を寄せる清森にさえ、定子は密《ひそ》かに内股《うちまた》気味の歩き方がいかがなものかとケチをつけていたくらいだ。  どういうことだと定子は自問した。もちろん、単に無関心なだけだったという選択肢も考えられる。だが、決して定子が一条に無関心ではなかったことを、定子自身が知っていた。むしろ、無駄口を叩かぬ実直な働きぶりに好感を持ち、少し仲良くなろうと、何度かコミュニケーションを図ったくらいだった。だが、その都度、一条はいかにも面倒そうな顔で対応し、定子はあきらめに似たさびしい思いを感じていた。  つまり、定子には予感があったのである。  ひょっとしたら、この男なら好きになれるかもしれない——という予感が。  二十四日は朝から雨だった。  同志社大学《どうししゃだいがく》に通っている一条と、阪急《はんきゅう》百貨店一階の世界地図前で待ち合わせをして、映画館に向かった。二時間映画を観たが、黙ってスクリーンに向かっていることが何だかもったいない気がした。映画の後、祇園の鍵善《かぎぜん》に行った。半透明の幅広なくずきりを黒蜜につけて、ちゅるるとすすった。  くずきりを食べ終え、顔を上げたとき、定子は一条の唇の脇に跳ねた黒蜜がほくろのようについていることを発見してしまった。定子は一条にそのことを告げようか激しく逡巡《しゅんじゅん》した。同時に、逡巡している自分に驚いた。普段なら、ニヤニヤしながら指摘するくらいなのに、相手を変に傷つけてしまったらいけないなどと心配をしている自分に、ほとんど驚愕《きょうがく》した。  これはひょっとしたら、ひょっとすると思いながら、定子は隅に夜光貝が嵌《は》められた黒塗りのテーブルを見つめた。幸い口元の黒蜜は、その後一条がおしぼりで口を拭《ぬぐ》ったとき一掃され、定子はホッとしてほうじ茶をすすった。  それから二人は鍵善を出て、おしゃれな手ぬぐい屋をのぞき、OPAをぶらぶらして、かつくらで夕食を食べた。  どうする? 帰る? 夕食を終え、店を出たところで一条に訊ねられたとき、定子は首を振った。 「まだ、終わっていないから」  定子のつぶやきに、え? どういうこと? と一条は返したが、定子は無言で新京極《しんきょうごく》のアーケードを歩き始めた。  アーケードを出ると、いつの間にか雨がやんでいた。時計を見ると、午後八時半だった。 「鴨川に行きたい」  定子は一条に言った。二人は四条大橋に向かい、交番脇の階段より河原に下りた。  雨に濡れた四条河原に、等間隔に座るカップルたちの姿は見当たらない。しかし、夜に覆われた人気ない河原を見つめ、定子は「ここだ」と確信することができた。  定子は静かに「展開」の鬼語を発した。  定子の足元から、百匹の黒い襤褸を纏ったオニが、定子と一条を囲むように散らばった。  朝からの雨を受け、目の前の鴨川の流れは、水位も上がってずいぶん速い。闇のなかを大きな蛇の背中が、音もなく動いていくような迫力がある。一条が今日観た映画の話をするのを聞きながら、定子はじっと川に浮かぶネオンを見つめ、待った。  彰子との決闘のときを。      * 「六月二十四日は、オニを百匹連れて行動すること」  それが、彰子が定子に提示した要求だった。  火曜日には京産大玄武組の例会がある。上賀茂神社に行けば、オニが待機している。二十四日はずっとそのオニを連れて歩くこと——。  オニなんか連れてどうするの? 思わず訊ねた定子に、彰子はただ「決闘をする」と答えるのみだった。  したがって、上賀茂神社経由で向かった待ち合わせ場所の阪急百貨店世界地図前には、めずらしく前髪の様子を気にする定子と、その足元に直立不動の姿勢で整列する百匹のオニの姿があった。いったん定子が動き始めると、オニは一斉にわらわらと後に続いた。新京極のアーケードでは、あるオニは人を避けて、あるオニは人の足をすり抜けて定子を追った。映画館ではオニたちはロビーで勝手に遊んでいた。鍵善では入り口で整列させられていた。かつくらでは定子の足元に待機させられていた。彰子は決闘の時間を、最後まで具体的に伝えようとしなかった。それはすなわち、いつ何時決闘が始まるかわからないということを意味していた。決闘の内容も同様に知らされなかったが、オニを引き連れる時点で、もはやすることは一つしかない。時間の経過につれ、定子は周囲に目を配りながら、彰子の登場を待った。  だが、鴨川べりに出たとき、定子はすとんと了解した。ここの場所をおいて、決闘の場など他にあろうはずがない。定子は確信とともに、オニたちに「展開」の命令を発した。  雨は引いたが、雨の匂いが依然、鼻をくすぐる。やっぱりここで等間隔になって座りたかったなと思いながら、定子は今にもふたたび降り出しそうな、低い雲に覆われた、汚れた空を見上げた。 「またここに来られるかな?」  定子は一条に訊ねた。バイトの日にいつでも来られるじゃないと一条が少々ピントのずれた返答をするのを聞きながら、定子は小さく笑った。  定子は鴨川に背を向けた。すでに定子の顔は戦う者のそれに変わっていた。低く重い川音を背後に感じながら、定子は南北に続く河原に鋭く視線を走らせた。 「何だあれ?」  そのとき、急に発せられた甲高い一条の声に、思わず定子は振り返った。  一条が指差す先に目を凝らすと、確かに川面を横切って、ゆっくりとこちらに向かってくる物影がある。四条大橋から注ぐネオンの光が、はっきりとその姿を捉えたとき、思わず定子は口を押さえた。  それは彰子の作った流しそうめんマシーンだった。  いかなる改造を加えられたのか、流しそうめんマシーンが、川の流れに抗《あらが》い、堂々と波を切ってこちらに向かってくる。近づくにつれ、流しそうめんマシーンはその威容を明らかにした。どうやら、流しそうめんマシーンは、完全に空母へとその機能を変更した模様だった。甲板部分にはもちろん、武器を携えた百匹のオニたちの姿があった。黒い襤褸がはたはたと風に舞い、言いようのない殺気が漂っていた。  定子は展開させていたオニたちをすぐさま足元に呼び寄せた。「装備」の鬼語を発すると、オニたちは一斉に武器を襤褸の内側より取り出した。  定子は注意深く周囲を見回した。彰子の姿はどこにも見当たらない。定子は甲板に整列する�黒�オニたちを見つめ、どうやって彰子は連中に鬼語を伝えるのだろうと訝しんだ。  だが、定子の疑問はすぐに解消された。  土手にたどり着いた流しそうめんマシーンから、揚陸艦《ようりくかん》の如くタラップが下ろされた。タラップがコンクリートの土手に接したところで、甲板のどこかに設置されたスピーカーより、彰子の声が大音量で響いた。 「ぐああいっぎうえぇぇぇ(進めぇ)」  それと同時に、百匹のオニが「きゃあきゃあ」とときの声とともに一斉にタラップを駆け下りた。  定子は隣の一条の顔を見上げた。一条は何だこれ? と訝しそうに、接岸した流しそうめんマシーンを見下ろしている。一条にはもちろん、土手を駆け上がる黒い集団も、半日近く足元をうろうろしていた連中の姿も見えない。  ごめんなさい——。  定子のつぶやきに、一条が、え? と顔を向けた。定子の目に一瞬悲しそうな表情が浮かんだが、すぐさま覚悟を決めた顔で視線を前に向けた。  一条の前で、定子は大きく息を吸いこむと、とびっきりのおっさんボイスで号令を発した。 「ぐああいっぎうえぇッ」  オニたちは、武器を手に掲げ、嘶《いなな》くように�絞り�をふるふるとさせると、怒濤《どとう》の勢いで土手を駆け下りた。  六月二十四日、午後八時四十三分。  長きにわたるホルモーの歴史上、誰もその存在を知らない、「鴨川(小)ホルモー」の火蓋《ひぶた》は切って落とされた。      *  空へ向かってすっくと立つ北山杉のように、真っすぐな心を持った二人だった。  どう考えても、ナンセンスな戦いであっても、彰子は定子に戦いを挑まざるを得なかったし、定子もまた、その勝負を受けざるを得なかった。それは女の意地であり、けじめだった。全力でぶつかってくる彰子に対し、全力で応《こた》えることこそが、定子の彰子への誠意の証《あかし》だった。  気の毒なのは二人のわけのわからぬ意地の間に立たされた一条だった。いきなりおっさんが嘔吐《えず》くような声を連発し始めた定子を前にして、ただおろおろするばかり。  だが、もはや定子に一条を構う暇はなかった。定子の前では、二百匹のオニたちによる、まさにバトル・ロイヤルが展開されていた。その戦況は早くも収拾がつかないものと化し、定子の周囲三百六十度で、凄《すさ》まじい乱戦が繰り広げられていた。いつの間にか一条の身体によじ登り、頭の上で一騎打ちをするオニの姿まで見える始末だ。  定子はその一々を確認しては、鬼語を発した。しかし、隣には一条がいる。どうしても遠慮が生じてしまう。その隙に乗じ、彰子は次々と新たな指示を発してきた。おそらく無線を片手に、どこかから双眼鏡で戦況を追っているのだろう。流しそうめんマシーンから聞こえてくる鬼語の声は、いよいよやかましい。 「お、おい、どうしたんだよ、さっきから」  心配そうな声を上げる一条に、定子は頭を振り、己のすべきことを続けるほかなかった。 「違うの」 「違うって何が」 「ずるぅうぎぃ、がっちゃあっ(左翼に、展開)」 「は?」 「ぼごき、ぐぇげぼっ、ぼっ(待て、追うな)」 「何だ? どうしたんだ?」 「ご、ごめんなさい」 「ごめんなさいじゃなくて……本当に大丈夫か?」 「あ、やっぱり、ぐぇげぼっ(あ、やっぱり、追って)」 「な、何を言っているんだ? さっきから」 「ごめんなさい」 「だから、そうじゃなくて——」 「べけっ、くぉんくぉんくぉんくぉん(前線、走れ走れ走れ走れ)」  いい加減にしろッ、馬鹿にするなと一条が本気で怒り始めるのを見て、定子の目に涙が浮かんだ。だが、定子は決して戦いの手を緩めようとはしない。 「勝手にしろッ」  ついに一条が背を向け、立ち去っていくのを、定子はその場に立ち竦《すく》んだまま見守るしかなかった。  やがて、溜めていた分を吐き出すかのようにふたたび雨が降り始めた。定子の頬を伝った涙の跡を、雨があっという間に洗い流していった。  定子は顔を拭い、「ここに等間隔になって座りたかったなあ」ともう一度つぶやいて、ようやく赤い傘を広げた。  もはや人っ子一人いない河原で、定子は思う存分、鬼語を叫んだ。それまで彰子に一方的に押しこまれていたが、戦況の把握に関しては、足元の出来事だけに定子のほうが格段にアドバンテージがある。定子は周囲を見渡し、速射砲のように鬼語を発し始めた。素早い指揮により、形勢は徐々に逆転し始めた。彰子もスピーカーより必死に鬼語を発し、応戦するが、いかんせん戦況の判断スピードに格段の差がある。  各所で彰子のオニを粉砕しつつ、定子はじりじり鴨川に向かって、攻撃ラインを押し上げ始めた。もっとも、両者ともに補給部隊のいない過酷な消耗戦である。雨がうち叩く河原には、もはやともに三十匹ずつのオニしか立っていない。もちろん、�絞り�を無傷のまま保っているオニなど皆無である。  土手に押しこまれた彰子のオニを、定子はいよいよ攻め立てる。�絞り�を失ったオニたちは、一匹また一匹とコンクリートの地面に倒れ、哀しげに「ぴゅろお」と消えていく。今や彰子のオニは残り十匹足らず。対する定子のオニは二十匹。堪《こら》えきれなくなった彰子のオニは土手を駆け下り、タラップを蹴って、流しそうめんマシーンの甲板に逃げこんだ。川の流れに逆らい、ぷかぷか浮かぶ流しそうめんマシーンに立てこもる最後のオニたち——それはまるで戦国の昔、本能寺の変で、悲壮《ひそう》な決意とともに寺に留まった信長《のぶなが》家臣たちの姿を髣髴《ほうふつ》とさせた。 「是非に及ばず——定子、来なさいッ」  スピーカーから彰子の声が響いた。  定子のオニは一斉にタラップを踏み、甲板へ突入した。それを待っていたかのように、タラップが上がった。甲板の上で、オニたちは最後の決戦を前に睨《にら》み合った。 「あれ?」  そのとき、スピーカーから戸惑った表情の彰子の声が聞こえてきた。 「しまった、電池切れみた……」  声が途中で切れると同時に、流しそうめんマシーンがぐらりと揺れた。何事かと訝しむ定子の前で、流しそうめんマシーンはふらふらと岸辺から離れ、見る見る流れ始めた。  川の流れに押され、ゆっくり船体を回しながら、流しそうめんマシーンが遠ざかっていく様を、定子は呆気にとられ見守った。もはや、雨と川の音に掻《か》き消され、定子の声はオニに届かない。  ふと定子は対岸に視線を向けた。  暗い対岸の河原に、ぽつんと一人だけ立つ人影があった。水色の傘がぼんやりと夜に紛れ浮かんでいるのを発見したとき、定子は彰子だと直感した。暗闇に薄ら浮かぶ小さな水色は、これまで何度も目にしたことのある、彰子お気に入りの傘に違いなかった。  流しそうめんマシーンが木の葉のようにくるくる回りながら、四条大橋の下に差しかかったとき、定子は無意識のうちに走り出していた。対岸の人影も、まるで計ったかのように走り始める。定子は階段を駆け上がった。そのまま道路を横断し、南側の歩道を橋の欄干沿いに突っ走った。  定子が感じたとおり、対岸に立つ人影は彰子だった。すでに真っ赤に泣き腫《は》らした目を乱暴に拭い、首から双眼鏡をぶら下げ、彰子は四条大橋への階段へ走っていった。頬を伝う涙が、風に飛んで雨の中に消えていった。  彰子は定子に決闘を申しこんだ。それは決してフェアではない、むしろ定子にとって極めて残酷な申し出だった。決闘のとき、定子の隣には男がいる。その男の前で鬼語を使えば、いったいどうなるか?  だが、定子は何の異論も唱えず、彰子の申し出を受け入れた。戦いが始まっても、定子は決して逃げなかった。男が去っても戦いをやめず、彰子との対決を最後までやり遂げようとした。  そのとき、彰子は自分がとてつもない過ちを犯してしまったことを知った。ほんの些細な意地と、小さな企《たくら》みが、定子の大切なものを壊してしまったことに今さらながら気がついたのだ。  赤信号の横断歩道を強引に渡り、彰子は欄干に沿ってひた走った。道の向こう側から、赤い傘を揺らして駆けてくる定子の姿が目に飛びこんできた。彰子の視界は涙で歪《ゆが》んで、もはや傘が赤い点にしか見えない。 「定子ッ」 「彰子ッ」  二人は傘を放り出し、四条大橋の真ん中で抱き合った。  ごめんね、ごめんねを呪文《じゅもん》のように繰り返す彰子に、定子はいいのいいのと連呼した。すれ違う人々は誰もがびっくりした表情で振り返り、うぉんうぉん泣きじゃくる二人を見つめた。 「私、とんでもないことしちゃった。そうだよね、こんなことしたら、誰でも怒って帰っちゃうよね」 「ううん、いいの」  定子は容赦のない雨に打たれながら、首を振った。 「これでいいの。今度は私から一条くんを誘うから。ちゃんと謝って、自分からもう一度誘うから」 「私も——私も勇気を出して、きっと無理だろうけど、清森さんに告白してみる」  彰子の言葉に、定子は滴が次々と流れ落ちる顔で何度もうなずいた。  そう言えばあれは? という定子の声に、あ、そうだと彰子は欄干の下をのぞいた。流しそうめんマシーンは、揺れながら橋の下から姿を現したところだった。甲板部分では、薄らネオンを浴びたオニたちが、いかにも手持ち無沙汰《ぶさた》な様子で、主人たちを見上げていた。ねえ、あれってどうなるの? という定子の問いに、さあ、わかんないと彰子は鼻をぐずらせて答えた。 「それより、二十歳の誕生日おめでとう」 「ありがとう」  とんだ誕生日になっちゃったけどねと笑って、定子は髪をかき上げ、道端にひっくり返った傘を拾い上げた。本当だね、二人ともひどい顔だねと彰子も笑って傘を拾う。  そのとき、二人は急に身体に異変を感じて、互いに目を合わせた。  何これ——と定子がつぶやこうとしたとき、「それ」はすでに二人の身体のなかに宿り、目一杯空気を吸いこませる運動に取りかかっていた。      *  二人が傘を拾うべく欄干から顔を戻した、ほんの十数秒後の出来事である。  オニたちを乗せた流しそうめんマシーンは、橋を越えてしばらくのところに設置された堰《せき》の部分で、いとも容易く転覆し、きりもみするように川の流れに消えていった。  堰による落差のため急に流れが強くなる場所で、オニたちは一斉に川に投げ出され、為《な》す術《すべ》もなく暗い水底に沈んでいった。最後に放り出された二匹のオニは、水面から手を伸ばし、何とか可能性を見出そうとしたが、呆気なく濁流に呑《の》みこまれた。音もなく二匹のオニが鴨川の藻屑《もくず》と消えたとき、二人の身体に「それ」は訪れた。  のちに二人静はこう証言している。  オニが全滅したときに、何が起こるかはもちろん承知していた。だが、それはあくまで正式なホルモーの場でのみ起こることだと思っていた——と。  何か大きなかたまりのようなものが、身体の底からこみ上げてきたとき、彰子はそういえば清森さんが、訓練のとき絶対に仲間のオニを全滅させちゃいけないと言ってたっけ? と刹那《せつな》思い返していた。  次の瞬間、四条大橋の真ん中で、雨の音も、川の音も、バスの音も、すべてを覆い尽くす勢いで、二人静の雄叫《おたけ》びが炸裂《さくれつ》した。 「ホルモオオオォォォーッ」 [#改ページ] 第二景 ローマ風の休日  その人がやってきた日のことを、今でもよく覚えている。  今日よりホールに入ってもらうことになったから、と店長から紹介されたとき、その人はぎこちない動きとともに頭を下げた。おそらく一緒に「よろしくお願いします」と言葉を発したのだと思う。だが、緊張のためか、もともと声が小さいのか、くぐもったその声を僕はほとんど聞き取ることができなかった。  すぐさま店長から、お客さんの前ではもっと大きい声で頼むよと注意され、その人は傍目《はため》にも気の毒なほど頬を赤くして、うつむき、うなずいていた。見るからに苦手そうな感じなのに、どうして接客のアルバイトなんて選んだのだろうと思っているうち、こっちを案内するからと店長に連れられ厨房《ちゅうぼう》へ向かっていった。  正直に言って、そのとき僕は、その人に対しあまりいい印象を抱かなかった。それまで店のスタッフに、女性は一人もいなかった。今度、女の子のアルバイトが入ることになったから、と三日前に店長から聞かされたときより、密《ひそ》かに抱いていた期待は、早くも軽い失望に変わっていた。とにかく愛想のない人だと思った。店長に注意をされたとき、一瞬、感情をうかがわせたが、それから先はふたたびむっすりとした表情に戻ってしまった。意地悪な気持ちからではなく、本当にここで働けるのかなと思った。  テーブルのセッティングをしていると、厨房から戻ってきた店長が僕を呼んだ。オイ聡司《さとし》、基本のところを教えてやってくれ、さっそく今日から入ってもらうからと告げ、店長はさっさと表に煙草を吸いに出て行ってしまった。  相変わらずいい加減な店長だと困惑する僕の前で、その人は無愛想な顔で立っていた。それでも視線が合うと、「よろしくお願いします」と頭を下げた。その声はやはり、くぐもって聞きづらかった。  取りあえずメニューを渡して、簡単な説明をすることにした。イタリア語で書かれた部分をやけに熱心に見つめているので、イタリア語読めるのですか? と訊《たず》ねると、読めないと首を振った。後で知ったことだが、それはその人の癖だった。注意を向けた対象に、ちょっと見過ぎじゃないかというくらい、視線を集中させるのだ。  うつむき加減にメニューの説明に耳を傾けるその人の顔を、僕は間近より見つめた。もっとも僕の注意は、その人の表情よりも、頭部のシルエットと、顔の一部に完全に固定されていた。  その人はずいぶん膨らみのある髪形をしていた。加えて、枠の太い、やけに面の広いメガネをかけていた。ぶ厚い髪形にくっきり浮かぶ光輪を見つめ、この人はどういうつもりでこの格好をしているのだろうと不思議に思った。店に来る、近所の芸大の学生たちが発する�個性�とは、根本的に違うものを感じた。うまく表現できないが、向こうが意図して奇を衒《てら》っているのに対し、こちらはどこまでも「素」の趣があった。率直に言えば、お洒落《しゃれ》な芸大生たちに比べ、ずいぶん野暮《やぼ》ったかった。  丸みを帯びた頭部のラインを目で追っていると、ふと、顔の面積の半分近くを占める広いレンズの向こうから、遠慮ない視線が注がれていることに気がついた。まるで心の内側を見透かされたような居心地の悪さを感じ、僕は慌てて視線をそらすと、「あ、まだ名前言ってなかった」とつぶやいて、取り繕うように自己紹介をした。  もっとも、名前を教えたところで、その人が僕の名前を呼ぶことは、その後もほとんどなかった。僕が高校生であることを知ると、その人は三つか四つしか歳が変わらないのに、僕のことを、 「少年」  と呼ぶようになったからだ。  京都造形芸術大学からほど近い、白川《しらかわ》通に面した場所に、僕がアルバイトをしている、イタリア料理店「ann,s cafe」はある。  その人が店にやってきて一カ月後の、八月半ばの日曜日。蝉がやかましく鳴きたてる、陽射しのきつい午後に、僕は生まれて初めてのデートをした。  自転車の荷台にその人を乗せ、白川通を一気に駆け下りた。  その人の名前は、楠木《くすのき》ふみという。      *  とにかく不思議な人だった。  何より口数の少ない人だった。必要もなく、自分から声を発することは、ほとんどなかった。もちろん、オーダーを訊《き》くときや、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」といった挨拶《あいさつ》は、まわりの人間に合わせ、声を出す。だが、その声はいかにも頼りなかった。パンチの効いた外見とはかけ離れた、張りのない声が、近くにいるとふと聞こえてきたりする。いっそのこと黙っておいたほうがいいんじゃないかと思ったが、本人は真面目にやっている様子だから、下手なことも言えない。もっとも、声のことを除けば、仕事の呑《の》みこみはすこぶる速かった。それどころか、仕事を始めて一週間も経たないうちに、僕より先に気がついて動き始めていることもあるくらいだった。  仕事がないとき、彼女はいつも静かに立っていた。客が一人もいないときでも、フロアの隅でひっそり佇《たたず》んでいた。雨のせいか客も来ず、手持ち無沙汰《ぶさた》なあまり、僕と店長が無駄話をしているようなときでも、彼女はメニューを眺めたり、厨房の様子をじっとのぞいたりして、常に一人でいることを選んだ。  どうにも捉《とら》えどころのない人だったが、店長はこの寡黙で風変わりな新人を、なかなか気に入っている様子だった。開店前の準備のときなど、暇と隙を見つけては、盛んに彼女に話しかける店長の姿が見受けられた。 「ねえ楠木さん、今度の土曜日に十五人の団体が入ったから、一人ホールを増やしたいんだけど、その日ダメかなあ? ダメ? そうかあ……。そういえば楠木さん、シフト表で土曜日は全部外しているけど、何かやってるの? 別に? そうかあ……」  店長があれこれ話しかけても、彼女はせいぜい首を振るかうなずくかくらいで、一向にテーブルをセッティングする手を止めようとしない。だが、そんな一方通行なやりとりが存外楽しいらしく、店長はニヤニヤしながら、あれこれ言葉を投げかける。 「あ、わかった、楠木さん。土曜日は彼氏とデートなんでしょう?」 「ちがいます」  突如、彼女がはっきり声を上げたものだから、僕は思わずナイフとフォークを揃える手を止め、面を上げた。店長も驚いた顔で立ち止まっている。男二人の視線を受け、彼女は一瞬、困惑の表情を浮かべたが、 「土曜日はサークルのことがあるんです」  と急に小さい声に変わってつぶやいた。男たちからの視線を断ち切るように、彼女は背中を向けると、畳んだテーブルクロスを勢いよく広げた。  思わず開いた会話の扉に、店長は大いに興味をそそられた様子だったが、厨房から「ちょっと、店長」と呼ぶ声がして、残念そうな表情とともに奥に向かった。  店長が去り、急に静かになったフロアで、僕は何とはなしに彼女に話しかけた。 「あの、サークルって、何のサークルに入っているんですか?」  居心地の悪い、長い沈黙が訪れた。待てども待てども、返事はやって来なかった。代わりにおそろしく不機嫌そうな顔で睨《にら》みつけられた。すいません、何でもなかったですと僕が言うと、彼女は本当に何もなかったかのように仕事に戻っていった。      * 「今日は午後六時から三人、六時半から二人、午後七時から二十人……こりゃ大学テニスサークルの、夏合宿の打ち上げと見た。八時からは二組と——今日は予約が多いね。うれしいね」  開店前、鼻歌混じりに上機嫌でリストを眺めていた店長だったが、突然「わッ」と声を上げたきり固まってしまった。  どうしたんですと隣からのぞきこむと、店長の指は六時と六時半の予約名の間で止まっている。参ったなあ、彼女だよという声に、え? どっちがです? と訊ねると、両方だよと店長は苦い口調で答えた。  店長のプレイボーイぶりは、すでに店では知れ渡っていることなので、こちらも今さら驚かない。どうやら、店に食べにおいでよと気軽に誘った結果、ものの見事にバッティングしてしまったらしい。しかもこの二人、現在、店長を巡って激しくしのぎを削っている最中で、ここで両者が顔を合わせると店長が日々こつこつと積み上げてきたウソが一気に露見してしまうのだという。 「自業自得じゃないですか」  冷たく突き放す僕の言葉に、店長は「恋の道は甘美なものほど、高く、険しい」と、勇ましく己の恋愛哲学を披露したが、絶体絶命の状況であることに変わりはない。 「参った、参った、どうしよう」 「まあ、三人目が現れないだけでも、よしとしよう」  強気と弱気が妙な具合に混じり合う店長だったが、開店十分前になって、「すまない」と言い残し、急な腹痛を訴え職場から逃亡してしまった。  あまりの事態に、アルバイトたちは呆然《ぼうぜん》として、ホールに立ち尽くした。そのとき、からんからんと鐘の音を鳴らして、ドアが開いた。「ちょっと早く来てしまったけど、いいかしら?」とずいぶん派手な雰囲気の女性たちが姿を現した。 「六時から三人で予約していた二条ですけど、在原《ありはら》さんはいます?」  入ってくるなり、先頭の女性がいきなり店長の名を口にした。 「ええと……」  どう対応してよいかわからず、僕が口ごもっていると、 「在原は本日は急用があって、出勤しておりません」  と背後から急に声がした。振り返ると、そこにはすでに脇にメニューを挟んだ厚ぼったい頭の持ち主が立っていた。「お待ちしておりました」と黒光りする頭部を不器用に下げ、彼女は三人を奥の席へと案内した。「来てないの? おかしいな」と訝《いぶか》しげな表情で店内を見回しながら、女性たちは店の奥へ向かっていった。  レジ前に、僕を含めたホールのアルバイト三人が集まった。これからどうすべきか、ひそひそ話しているところへ、彼女がいつもと変わらぬ静かな表情で戻ってきた。 「ねえ——」  男三人を見上げ、彼女は珍しく自分から声を発した。  僕はてっきり、これからどうするかという話し合いをするものだとばかり思っていた。だが、彼女の口から発せられたのは、話し合いの提案などではなかった。彼女が何を言っているのか理解するのに、数秒の時間が必要だった。なぜなら、彼女はアルバイトたちに「指示」を与え始めていたからである。  彼女から発せられる得体の知れぬ威厳に押され、指示を受けたアルバイトたちはふらふらと動き始めた。彼女は最後に僕に視線を向けると、少年、ちょっとこっちに、と手で呼んだ。そのまま「仕分け」のスペースに入った彼女は、厨房の人間と短いやりとりを交わすと、�本日のおすすめメニュー�と書かれた黒板に、チョークで字を書きこみ始めた。 「く、楠木さんが『仕分け』をするんですか?」  ウン、とチョークを動かしながら、彼女はいとも簡単にうなずいた。 「ち、ちょっと待ってください。それは無茶です。だって、楠木さんはまだ店に来て二週間じゃないですか。しかも、今日は二十人の団体の予約まであるんですよ」  他にできる人いる? という問いに、僕は言葉に詰まった。確かに、今日のメンバーに、厨房とホールの連絡係である「仕分け」の経験者はいない。普段は店長が担当し、店長が休みの場合は、最古参のアルバイトが担当する仕事なのだ。 「で、でも——」 「これでよろしく」  彼女が差し出した黒板には、いつの間に覚えたのか、イタリア語のメニューが書きこまれていた。もちろん、横には日本語も併記されている。 「大丈夫、見ていたから」  そう言って、彼女は小さく笑った。それは彼女が初めて僕に見せた笑顔だった。左の頬に、かすかにえくぼが浮かんでいた。  大きなレンズを光に反射させて、彼女は短く宣言した。 「さあ、やるよ——少年」      *  その日、北白川のイタリア料理屋「ann,s cafe」は、どこまでも静かだった。  まるで店長がいるときのように、いや、むしろ店長がいるときよりも平穏に時間が流れた。午後八時を迎えたとき、フロアにある五十の客席ほぼすべてが埋まっていた。陽気な喧騒《けんそう》に包まれながら、「ann,s cafe」のスタッフたちは午後十一時半の閉店を迎えるまで、忙《せわ》しなくも、完全にコントロールされた時間を過ごすことができた。  その夜、すべては彼女を中心として回り続けた。  ほぼ満席となった店内から、引っ切りなしに注文が飛びこんできても、彼女は決して気負うことなく、淡々と「仕分け」を続けた。だが、それがとてつもなく高度な技術を必要とすることを、店の誰もが理解していた。ホールの人間は、ただ伝票を差し出し、彼女が示したトレーを持って、客席との間を往復しさえすればよかった。「仕分け」のスペースに向かうと、取り皿まで人数分用意されたトレーの上に、場所の近いテーブル順に、料理とドリンクが並べられていた。いずれも、店長の「仕分け」では、決して見られない風景だった。ホールの人間は、ただ伝票に従って、近くの席から順に料理を届け、トレーが空になったところで戻りさえすればよかった。  彼女は頻繁に、フロアをのぞいては、各テーブルの料理の進み具合をチェックした。十を超えるテーブルの状況を把握しながら、調理時間も計算に入れ、オーダーの優先順位を定める。後で聞いたところによると、厨房にいる三人のシェフの、それぞれの仕事の速さまで頭に入れていたという。それらの話を聞いたとき、僕はようやく、フロアの片隅で、彼女が沈黙の時間に行っていたことの意味を知った。  料理ができ上がるスピードに滞りが見えると、彼女はホールの人間を呼び、ドリンクのオーダーを訊いて時間を稼ぐよう指示した。逆に厨房のペースが上がったときには、皿の料理がもう減らないテーブルを素早く選別し、次の料理を運ぶ準備にかかるよう言いつけた。  その声は凜《りん》として、昨日までの彼女とはまるで別人だった。時間が経過するにつれ、彼女の指示に、誰もが弾かれるように行動に移った。彼女が手にしたタクトに従って、厨房の人間も、ホールのアルバイトも、酒と料理さえも、すべてが渾然《こんぜん》一体となって、�「ann,s cafe」の夜�を奏でた。  店長の窮地を救うことも忘れなかった。「予約していた伊勢《いせ》です。在原さんいる?」と派手な格好で現れた女性を、先の二条さんとは視線の合わない場所に座らせた。まさにパーフェクトと言うに相応《ふさわ》しい彼女の対応だった。  だが、そんな彼女の仕事ぶりを、大きく損ねかねないピンチが訪れた。  伊勢さんが急に席を立ち、トイレに向かって歩き始めたのである。フロア奥のトイレに行くには、どうしたって二条さんの前を通らなければならない。ちょうど二十人の大学テニスサークルの大所帯が到着したばかりで、ホールの人間は皆その対応に追われていた。ひらひらした派手な服が店の奥に向かうのを見て、誰もが「しまった」と思ったが、時すでに遅し。伊勢さんは二条さんのテーブルまで二メートルのところに接近していた。  誰もが修羅場の勃発《ぼっぱつ》を覚悟したとき、伊勢さんの顔の隣に突如、大きな黒い物体が出現した。  それは、彼女の膨らんだ頭部だった。いち早くピンチを察した彼女は、「仕分け」のスペースを飛び出し、その豊かな、球体を成す髪形を活《い》かして、両者の視線を完全にシャットアウトしたのだ。伊勢さんが用を終え戻るときも、彼女は必要のない赤ワインのボトルを手に抱え、ブラインドの役を律儀にまっとうした。伊勢さんは、常に視界の右半分を覆う、異様に厚ぼったいシルエットに視線を走らせながら、「何なんだ、この子は」と言いたげだった。一方、彼女もぎこちなく歩を合わせながら、「何で、自分がこんなことをしなければならないのだ」と言いたげだった。  閉店後、平身低頭して店に舞い戻った店長は、店と自身の評判が無事保たれたことを知り、 「すごいなあ、楠木さん。今度から楠木さんに任せちゃおうかなあ」  と冗談混じりに語っていたが、この言葉は後日、本当のこととなる。彼女は店長に代わって、「仕分け」の仕事を担当し、以後、店長はレジの仕事に集中することになった。 「ありがとう、楠木さん」  店長が深々と頭を下げるのを見て、彼女は恥ずかしそうに笑みを浮かべた。今日はみなさんに大変ご迷惑をかけました、ごめんなさい、と店長のポケットマネーから店のスタッフ全員に一万円ずつボーナスが出ることが発表されると、フロアから大きな拍手が湧き上がった。  友好的とはほど遠いそのスタンスゆえ、彼女はなかなか古参のスタッフと馴染《なじ》むことができなかった。なかには「あいつとシフトに入ると、テンションが下がる」と公言して憚《はばか》らない者もいた。  そんな彼女に対する周囲の雑音は、この夜を境にぱたりとやんだ。その無愛想な眼差《まなざ》しの底に秘めた、類稀《たぐいまれ》なる能力を存分に発揮することにより、彼女は「ann,s cafe」の一員として、完全に認められるようになったのだ。      *  店を出ると、すでに時間は午前零時を過ぎていた。本当は、高校生は午後十時までしか働けないのだが、あの状況で一人家に帰るなんて真似ができるはずはない。店の裏の自転車置き場に向かうと、ちょうど彼女が自転車を出そうとするところだった。今日はおつかれさまでした、八時頃の注文ラッシュのときは大変でしたねと改めて声をかけると、彼女は十元連立方程式を解くみたいだったと、よくわからないたとえを聞かせてくれた。 「さようなら」「おやすみなさい」と言葉を交わし、僕は原付きバイクを引っ張り出すため奥に向かった。バイクを従え、自転車置き場を出ると、なぜか別れの挨拶をしたはずの彼女が立っていた。 「どうしたんです?」  彼女は困ったように視線を地面に走らせながら、 「あの、家まで送ってくれない? こんな遅くまで働いたことなかったから」  と小さな声でつぶやいた。 「ああ、そうか——」  僕はアルバイトのシフトに入るとき、彼女が必ず「早番」の時間帯を選ぶことを思い出した。いつも決まって彼女は午後八時に上がるので、仕事の後にこうして話をする機会もこれまで一度もなかったのだ。 「本当は今日も八時までの予定だったんですか?」  彼女はウンとうなずいた。彼女もまた、あんな状況で、途中で離れることなどできなかったのだろう。 「楠木さんの家ってどこでしたっけ?」 「銀閣寺のほう」  なら下り坂だから、バイクを牽《ひ》いても楽ですねと告げると、ありがとうと小さく頭を下げ、彼女は自転車を牽いて歩き始めた。  人気《ひとけ》ない白川通を、自転車と原付きバイクを並べて下りながら、僕はどうしていつも早番にしか入らないのかと訊ねた。もっと働きたくても、法律で午後十時までしか認められない僕から見れば、彼女のシフトの入れ方はちょっともったいない気がしたのだ。 「夜が——怖いから」  え? と僕は思わず彼女の顔を見た。彼女は本気なのか冗談なのかうかがえない表情で、僕と一瞬視線を合わせたが、続きを言うでもなく、すぐに顔を前に向けてしまった。  夜が怖いとはどういうことだろうと考えながら、今出川《いまでがわ》通にぶつかる交差点の横断歩道を渡ろうとしたときだった。彼女が急に自転車を止めた。どうしたんです? 青ですよと声をかけても、彼女は強張《こわば》った表情で前方を見つめている。無意識に彼女の視線を追ったが、誰もいない横断歩道の向こうで、歩行者用の信号が点滅を始めるばかりである。  こっちから行こう、と彼女は急に自転車の向きを変えると、かわって青になった白川通の横断歩道を進み、哲学の道に入った。途中もちらちらと交差点を振り返る彼女に、何かあったんですか? と訊ねるも、返事はない。ひょっとしてお化けでも見たんですか? と冗談めかして言うと、彼女は急に顔を向けた。へらへら笑う僕の表情が思わず固まるほど、彼女はとても怖い顔をしていた。  桜の葉が黒いアーチとなって哲学の道を覆っていた。ときどき、蝉が寝ぼけたように、短い鳴き声を上げた。砂利を踏む音を響かせながら、二人して黙々と道を進んだ。自動販売機の白々とした明かりが、頼りなげに羽ばたく蛾のシルエットを浮かび上がらせていた。夜に共鳴するように唸《うな》り声をあげる自動販売機の手前で自転車を止めると、彼女は正面の建物を指差した。 「ありがとう、ここだから」  今度、何かお礼をするからと彼女が言うので、 「じゃあ、夏休みの数学の宿題を代わりに解いてください、半端ない量が出てるんです」  と頼んだら、「そういうのは自分でやらないと意味がない」と真面目な顔で諭された。どうやら、いつもの彼女に戻ったようだった。 「少年の家はどこ?」 「北山です」 「バイク、気をつけてね」  ヘルメット越しに聞こえる彼女の声に、おやすみなさいと返して原付きバイクを発進させた。  白川通今出川の交差点で信号待ちをしながら、どうしてさっき、彼女は信号を渡らなかったのだろうと改めて思い返した。まるでそこに何者かが存在するかのように、彼女は無人の横断歩道を険しい表情で睨みつけていた。だが、腕時計をのぞいた瞬間、彼女のことはすっかり頭から消え去った。すでに時計の針は午前一時を迎えようとしていた。こりゃあ、親に叱られるぞと覚悟を決めて、僕はグリップに手をかけた。      *  白川通沿いに立つ街路樹では、タガが外れたように蝉が鳴きわめいていた。八月も半ばに入り、陽射しは狂気を帯びたようにひたすら強い。  自転車置き場に原付きバイクを停め、店の入り口に回った。開けた瞬間に押し寄せるクーラーの冷気を期待しながら、からんからんと鐘の音とともにドアを開けた。  ところが、期待した感覚は訪れない。外とまるで変わらない、むしろ澱《よど》んだ熱気が、身体を押し包んだ。訝しむ僕の正面で、顔じゅうに汗粒を張りつかせた店長が、脚立の上から、状況を説明してくれた。 「クーラー、壊れた」  呼ばれてやってきた電器屋が調べたところ、故障の原因は室外機の基板が壊れていることにあるとのことだった。部品を取り寄せなければならないため、今日じゅうの修理は無理だと告げられた店長は、今夜の営業をあきらめざるを得なかった。天気予報は今日も、当たり前のように熱帯夜になると告げていた。 「せっかくの日曜だというのに、何てこった」  ぶつぶつつぶやきながら、店長は脚立を畳んでいたが、 「ああ、楠木さん、ゴメンね。今日は店、閉めるわ」  と急に大きな声を上げた。振り返ると、開け放しになったドアから、彼女が顔をのぞかせていた。店の熱気に気づき眉《まゆ》をひそめる彼女に、僕はクーラーが故障したことを伝えた。困ったねとまったく困ったようには見えない表情で、彼女はつぶやいた。  悪いけど、今日は帰っていいよ、これで二人でコーヒーでも飲みな、と店長から千円札一枚を渡され、僕と彼女は店を後にした。  自転車置き場で、僕は千円札を手にしたまま、これどうしましょう? と訊ねた。 「いいよ、あげる」  そう言って、彼女はさっさと自転車を取りに奥に向かった。僕はしばらく蒸し暑い空気のなかで、千円札を眺めていたが、ふと思い立って、自転車置き場をのぞくと、 「楠木さん——今日、これから用事ありますか?」  と訊ねた。  別にないけど——自転車を出しながら、彼女は答えた。低い屋根に覆われた薄暗い自転車置き場のなかで、厚ぼったい頭は、まるでフルフェイス・ヘルメットのようなシルエットを醸し出していた。少々、暑苦しかった。 「じゃあ——少しだけ、僕とデートしてくれませんか?」  その瞬間、「うえッ?」と、どこから出したのかわからない、奇妙な声が彼女から発せられた。サドルに手をかけたまま、彼女は暗い屋根の下で、完全に動きを停止させていた。 「あの……覚えていますか? 二週間前のこと。家まで送っていったとき、楠木さん、今度何かお礼をするって言っていたでしょう」  ああとため息のような声が丸いシルエットから聞こえてきた。 「だから、デートです」 「デート……?」 「ええ、デート」  誘うのが何だか気恥ずかしくて、敢《あ》えて冗談ぼく「デート」という言葉を使ったのだが、予想を遥《はる》かに超えて、彼女の触覚に訴えかけるものがあったらしい。深刻な方向に捉えられても困るので、僕は慌てて言葉を継ぎ足した。 「いや、本当は楠木さんにちょっと教えてもらいたい数学の宿題があって、今日、持ってきたんです。楠木さん、確か数学科だったでしょう。時間があったら訊こうと思って……。でもこんなことになってしまったから」 「ああ……。じゃあケンタッキーとかで」 「いや、そういう問題じゃないんです。一緒に動いてもらわないといけない問題なんです」 「一緒に動く?」 「だから、デートなんです」  要領を得ない表情で、彼女はしばらく僕の顔を見つめていたが、でも一緒に動くってどうするの? 自転車とバイクじゃない——と訝しげに背後の原付きバイクに視線を送った。ええと、だから——僕は彼女の自転車の荷台を指差した。  だから? 彼女は相変わらず、ぼんやりした顔で、自分の自転車を見下ろしている。  仕事のときはあれほど頭脳|明晰《めいせき》なのに、どうしてここまで分かりが悪いのだろうと不思議に思いながら、僕は彼女にこれからの計画を伝えた。  五分後、僕は彼女の自転車で白川通を勢いよく下っていた。後ろの荷台で「速い、速い、速い」と繰り返す彼女を乗せて、午後四時になってもまだ陽の高い、京都の休日へ繰り出した。      * 「この問題です。わかりますか?」  百万遍《ひゃくまんべん》の交差点で信号待ちをする間に、ショルダーバッグからノートを取り出して彼女に見せた。ノートに書かれた図や字が逃げてしまうのではないかというくらい、彼女はじっと紙面を見つめていたが、やっと顔を上げると、 「いい問題だね」  とつぶやいた。 「少年の高校の先生が作ったの?」 「ええ、意味わからないでしょう、そもそも何でこれが数学の問題になるのか、しかもそれを証明しろだなんて」  ノートには、高野川《たかのがわ》に賀茂川、合流して鴨川、加えて琵琶湖疏水《びわこそすい》の計四本の川と水路、それらにかかる九本の橋が描かれている。図の横には、 「これら九つの橋を、一つの橋を二度渡ることなく、すべて渡ることができるか? 数学的に証明せよ」  という問題文が記されている。 [#挿絵(img/02_075.png)入る] 「わかりますか楠木さん? というか、これって数学なんですか?」  彼女は僕の問いには答えず、一筆書きだね、これ、と短くつぶやいた。 「一筆書き?」  一回しか渡っちゃいけないんだから、一筆書きと同じでしょうと彼女は当然のように言った。どうして、橋を渡ることが一筆書きの問題になってしまうのか、わかるようでわからず、僕は曖昧《あいまい》にハアと返事をした。 「それで少年は、全部の橋を渡ることができたの」 「できません。最後の一つがどうしても残ってしまって」 「じゃあ、今から何をしようとしてるの」 「図の橋を実際に回ってみるんです、本物でやってみたら、何か解き方がわかるかもしれない」  同じじゃない? と鋭い意見が聞こえてきたが、 「いいじゃないですか。せっかく時間が空いたんですから。そう、デートですよ」  とわざと「デート」の部分を強調して返した。すると案の定、彼女は急に黙って、荷台でごそごそし始め、自転車が不安定になって困った。  信号が青に変わり、ノートをバッグにしまうと、力をこめて横断歩道に漕《こ》ぎ出した。  まず「河合《かわい》橋」を渡り、賀茂川と高野川が合流する三角洲《さんかくす》のところで作戦会議をした。  もっとも、作戦を練っているのは僕だけで、彼女は出町柳《でまちやなぎ》駅前のパン屋で買ったくるみあんぱんを、パックの牛乳と一緒にもぐもぐ食べていた。午後四時を過ぎても、相変わらず陽射しは強い。松の木陰のベンチに座り、やっぱり無理かなあ? と鉛筆でノートに何度も線を引いていると、 「まあ、回ってみたら? 考えることは、悪くないと思う」  と珍しく肯定的な意見が、隣から聞こえた。 「もう、楠木さんは答えがわかっているんですか?」  くるみあんぱんを黙々と齧《かじ》る彼女から、返事はない。もう少し、自分で考えろということらしい。  取りあえず「葵《あおい》橋」はおいて、「出町橋」を渡って、鴨川べりを南に進むことにした。「賀茂《かも》大橋」、「荒神《こうじん》橋」、「丸太町《まるたまち》橋」と目の前に橋が現れるたびジグザグに渡り、琵琶湖疏水の「熊野《くまの》橋」を北から南へ進んだ。ふたたび鴨川に戻って「二条《にじょう》大橋」、「御池《おいけ》大橋」と橋を求め、ひたすら自転車を走らせた。 「御池大橋」を西から東に渡ったところで、僕は自転車を止めた。すでに「熊野橋」と「二条大橋」は渡ってしまった。どうやっても最後に残る「葵橋」には、たどり着けない。  ノートを広げ、僕がうなっていると、後ろから「アウチですか、少年」と遠慮ない声が聞こえてきた。ええ、アウチですと暗い声で答えると、彼女は残念だったねとちっとも残念そうには聞こえない声で僕をねぎらった。  どうする? もう一度チャレンジする? という彼女の問いに、すぐにまた鴨川の上流に向け漕ぎ始める気にもなれずにいると、 「ちょっと行きたいところがあるんだけど」  という声が聞こえてきた。  どこです? と僕は首を回して訊ねた。彼女はくすんと鼻を鳴らすと、ようやく穏やかな陽射しになってきた空を見上げて言った。 「閻魔《えんま》大王のところ」      *  彼女の言うところによると、祇園の南のあたりに、閻魔大王のいる冥土《めいど》につながっていると古くより言い伝えられる井戸があるらしい。 「何だか、意外ですね」  車通りの多い、細い道を抜けながら、荷台に向かって話しかけた。 「何が?」 「楠木さんてそういうのには、いかにも興味がなさそうな感じがするのに」  ハアと彼女は気の抜けたように声を上げた。興味とか、もうそういう話じゃないよね、とつぶやくので、何ですか? 大学で研究とかしているんですか? と訊ねると、まあ、そんなとこかなと気のない答えが返ってきた。いくら何でも、数学科で閻魔大王の研究はしないだろうから、 「ひょっとしてサークルですか?」  と訊ねた瞬間、しまったと思った。だが意外にも、まあ、そうなるかなと肯定的な返事が来た。調子に乗って、それって何をやるサークルなんですかと訊ねたら、今度は完全に無視された。  建仁寺《けんにんじ》の前を過ぎて、しばらく自転車を漕ぐと、朱塗りの門の前にたどり着いた。門の柱には「六道珍皇寺《ろくどうちんのうじ》」と墨で書かれた木札がかけられていた。自転車を停めて、門の手前にある解説の立て札を見上げた。本当に、境内には冥土への入り口と言われる井戸があると書いてあって驚いた。 「よく、知ってましたね、こんなところ」  先輩に教えてもらったのと答え、彼女はさっさと門をくぐって境内に入っていった。サークルの人ですか、と訊ねると、「そう」と彼女はうなずいた。  こぢんまりとした境内に、人影は見当たらない。つくつく法師《ぼうし》がおーしんと鳴いている。右手のお堂の内側をのぞくと、暗い堂内から大きな閻魔大王の木像がこっちを睨みつけていた。不気味だった。まさしく閻魔堂である。 「どこにあるんですかね、その井戸って」  まわりを見渡すも、井戸の姿は見当たらない。すると彼女が正面の大きなお堂の右手に、何かを見つけたらしく近づいていった。  縁側に上るための短い階段があって、その先には引き戸がある。彼女は靴を脱いで縁側に上ると、「あった」と声を上げた。  スニーカーを脱いで階段を上り、彼女の隣に立った。引き戸には目線の高さの部分に格子が嵌《は》められ、向こう側をのぞけるようになっている。格子の先には庭が広がっていた。白い砂利道から少し離れた場所に、シダの緑に囲まれ、小さな井戸がのぞいている。あれが、冥界の閻魔大王のところまでつながっているという井戸らしい。  あれが見たかったんですか? と訊ねると、彼女はウンとうなずいた。でも向こうにはいけないみたい——彼女は戸に手をかけて引いて見せた。 「そうなんですか? 開かないんですか、これ?」  彼女と同じように、軽く手をかけたつもりだったが、力を入れた途端、何かが折れるような小さな音とともに、戸が二十センチほど開いた。 「あら」  思わず、彼女と顔を見合わせた。壊すほど力をこめた覚えはない。かといって、初めから空いていたにしては少々滑りが悪い。さらに力を入れて引くと、ずるずると音を立てて、戸の隙間は五十センチほどまで開いた。  どうします? と押し殺した声で訊ねると、どうしますって何が? と彼女は驚いた表情で見返した。 「中に入らないんですか? だって、あの井戸が見たかったんでしょう」  そうだけど——湿っぽい声とともに、彼女は心配そうに周囲に視線を走らせた。僕は階段の下に戻ると、自分のスニーカーと彼女の靴を手に取った。彼女に靴を押しつけるようにして手渡し、空いた戸の隙間から頭を入れて、人の気配をうかがった。 「大丈夫。たぶん、誰もいません」  彼女に目配せして、僕は隙間に身体を滑りこませた。  スニーカーを縁側から音を立てぬよう砂利に下ろし、まだ引き戸の向こうで躊躇《ちゅうちょ》している彼女を手で呼んだ。彼女はおずおずと敷居をまたぎ、ぎこちない動きとともに砂利の上に靴を置いた。  音を発さぬようスニーカーを履き、砂利の上にそっと立った。みしりと砂利が小さい音を立てた。どれほどつま先立って歩いても、砂利は必ず音を立てる。仕方がないので、なるべく道の端を歩くように努め、敷石に足が届くようになると、一気に石の上を伝って井戸の前まで駆け走った。  ちょうど膝丈《ひざたけ》ほどまである井戸は、がっしりとした白っぽい岩に囲まれていた。井戸の上には、黒ずんだ色合いの、竹で作った蓋《ふた》が置かれている。振り返ると、彼女はまだ靴を履き終えたばかりで、どこに第一歩を印《しる》そうか、難しい顔で砂利を睨んでいた。  井戸の手前には、まるで井戸を守ろうとしているかのように石仏が置いてあった。ちょっとお邪魔しますと念じて、井戸の前に歩を進めた。井戸蓋に手をかけ、音を立てないよう、ゆっくりと三分の一開けたところで、中をのぞいた。暗くて何も見えない。足元の小石を拾い、そっと井戸の口から落としてみた。いつまで待っても音は聞こえてこなかった。  砂利がきしむ音に振り向くと、両手を横に広げ、危なっかしい足取りで彼女が向かってきていた。砂利と対峙《たいじ》する真剣な表情がおかしくて、思わず見入っていると、ふいと顔を上げた彼女と視線が合い、「何ニヤニヤ見てんだ」とばかりに睨みつけられた。  慌てて顔をそらした拍子にあることを思いついた。彼女が敷石にたどり着いたところで、右手を一度、大きく掲げ、その手をそろりそろりと井戸に突っこんだ。何をするつもりかと、彼女は敷石の上に立ち止まって、訝しげな表情でこちらを見つめている。  肘《ひじ》のあたりまで、井戸の中に腕を下ろしたときだった。  突然、井戸の底から、何者かに手首をつかまれた。がくんと身体が揺れた。そのまま身体ごと引きずりこまれそうになり、僕は左手で井戸のへりをつかんで必死で踏ん張ろうとした。  短い悲鳴を上げ、彼女が駆け寄ってきた。彼女は躊躇なく僕の腰のあたりにしがみつくと、力いっぱい引っ張った。その瞬間、ふっと手首をつかむ力が消えた。予想を超える彼女の力に驚きながら、二人してよろよろと後退《あとずさ》った。 「だ、大丈夫だった?」  彼女は上ずった声とともに、背中から顔を回した。僕は右手を彼女に見えるように掲げた。だが、井戸から生還した右手からは、手首より先の部分がすっぽりと消えていた。  彼女は口元を両手で押さえると、「んぐわ」と妙な声を上げ、へなへなと腰から砕けて、地面に座りこんでしまった。  予想を遥かに超えた反応に、僕は笑いを噛《か》み殺しながら、 「ウソですよ、ウソ。ほら」  と手をひらひらして見せた。  我ながら上出来の演技だった。手に関しては、ただ単に、彼女の位置から見えぬよう手首を曲げただけのことである。 「びっくりしました?」  笑いが声になって漏れるのを抑えきれぬまま、僕はもう一度、井戸に腕を引っ張られる演技をして見せた。  刹那《せつな》、広いレンズの向こう側で、彼女の目が吊《つ》り上った。そのヘルメットのように丸い髪が、ふっと膨らんだかのように見えたとき、彼女は勢いよく立ち上がり、僕の胸を思いきり拳《こぶし》で叩き始めた。 「痛い、痛いですって、楠木さん」  肋骨《ろっこつ》がぼんぼんとくぐもった音を立てるのを我慢しきれず、僕は思わず悲鳴を上げた。  そのとき、 「コラァ、誰だッ」  と野太い怒鳴り声が庭に響いた。  振り上げた彼女の拳が一瞬、宙で静止した。その手首を素早くつかみ、僕は一目散に駆け出した。靴を脱ぐ暇もなく、そのまま縁側に上がると、引き戸の隙間を抜け、「すいませんでしたァ」と叫んで、境内を疾走した。  朱塗りの門をくぐり、自転車にたどり着くと、彼女を荷台に乗せて全速力で通りに漕ぎ出した。  東大路《ひがしおおじ》通に出たところで、大丈夫、誰も追いかけてこないという声が荷台から届いた。  赤信号で自転車を止め、ようやく息を整えた。後ろからくっくっという笑い声が聞こえてきた。何、笑ってるんですか、と息が荒いまま、抗議の眼差しで振り返ると、左頬に薄らえくぼを浮かべ、彼女は身体を左右に小さく揺らしていた。  その様子に、自然と笑いがこみ上げてきた。信号が青に変わり、「よいしょ」と掛け声とともに、ペダルに力をこめた。      *  東大路通を北に進むと、下り坂になる。ゆるいカーブを曲がるとほどなく祇園の交差点に出た。八坂《やさか》神社の前で自転車を止めて、少し休むことにした。のどが渇いて仕方がないので、通りの向こうにあるコンビニに飲み物を買いに行くことにした。何か欲しいものありますか? 店長の千円があるから何でも言ってください、買ってきますよと告げると、アイスが食べたいと彼女は言った。何のアイスかと訊ねると、抹茶のアイスと彼女は答えた。  四条通を見通す、朱《あか》い八坂神社の楼門前の階段に腰掛け、二人してアイスを食べた。ハーゲンダッツの抹茶味を手渡すと、彼女は「おお」と心《しん》から感極まった声を上げた。 「結局、楠木さんは井戸の中を見られませんでしたね——」  そうだねと彼女はスプーンのアイスを舐《な》めながら、壇上より、いかめしい面構えで参拝客を睨みつけている狛犬《こまいぬ》を見上げた。 「どうして、あの井戸を見たいと思ったんですか?」 「ヒントになると思ったから」 「ヒント?」 「そう——問題を解くヒント。あ、少年とは別のね」  何のヒントですかと訊ねると、あれより強いものっていうか、あれが苦手なものというのか、そんなものがわかるかなと思ったけど、きっと関係ないだろうから、もういいの、とまったく要領を得ないことをつぶやいて、彼女は正面の四条通に顔を戻した。 「何ですか、�あれ�って?」 �あれ�ねえ——、アイスにスプーンを突き刺し、彼女はしばし動きを止めた。 「名前は知らない。きっと、誰も知らない。夜になったら、たくさん出てくる。わらわらといっぱい。黒くて本当に気味が悪い。それが毎晩、嫌な声を上げるの」  はあ? 僕は思わず間抜けな声を上げた。 「何ですかそれ? 鼠のことですか?」 「鼠じゃない。二本足で歩くもの。まあ、大きさは鼠が立ったくらいかもしれないけど」  何だか小さな化け物ですね、それ、と笑いながら返すと、 「うん、まあ、そんなところ」  とどこまでも真面目な顔で、彼女は答えた。 「からかわないでください」 「本当だよ。少年にはわからないだろうけど、この街ってそんなのでいっぱいなんだから」 「だから、閻魔大王の井戸だったんですか?」  まあ、そんなところかな、と曖昧にうなずいて、彼女は刺さったスプーンを抜き、アイスをすくう作業を再開した。初めて聞くこの人の冗談は、何だかわかりにくいな、と思いながら、僕もアイスを口に運んだ。  正面より照らす西日を受け、祇園は茜《あかね》色に染まりつつあった。八坂神社の階段に、休日を楽しむ人々の長いシルエットが映し出される。もう食べ終えたの? 早いねと感心している彼女の丸い頭部も、見事な楕円《だえん》となって影を引いている。 「それにしても楠木さん、井戸の前で、本気でびっくりしてましたね。あんなこと、あるはずないのに」  わからないでしょ、そんなこと——彼女は照れ隠しのつもりか、必要以上にむっすりとした顔でスプーンのアイスを口に運んだ。 「ひょっとして、楠木さん、閻魔大王のところに井戸がつながっているって信じていたんですか?」 「そうじゃないけど——でも、そういうのがあってもおかしくないかもしれない」 「あのう——楠木さんって、理学部ですよね」  ウンと彼女はうなずいた。 「物理とか数学とかやる人って普通、そういうのを意地でも認めないんじゃないですか?」  彼女は少し首を傾け、スプーンに残ったアイスを舐めていたが、 「たぶん、逆だと思う」  と小さな声で答えた。 「逆?」 「物理や数学の世界では、誰も証明したことがない、そもそも実在するかどうかも定かでないことについて、研究している人がたくさんいる。まわりの人が、そんなこと不可能だ、はなから存在しないのだからやっても無駄だ、と口を揃えて言ってもね。そういう人たちがしようとしていることって、ひょっとしたら閻魔大王に会うのと同じことなのかもしれない。だって、他の人は誰もその存在を信じていないんだから。でも、なかには必ず、本当に見つけてしまう人がいる。あるはずのないところから、新しいものを見つけてしまう人が。たぶん、そういう人って、閻魔大王を頭ごなしに否定したりはしないと思う。きっと、そういう目に見えないものを、大切に考えているような気がする」  途中、何度も確認するようにうなずきながら話し終えると、彼女は空になったアイスのカップにスプーンを置いた。楠木さんはじゃあ、閻魔大王のことをどう思うんです? と僕が訊ねると、彼女は小さく笑って、 「少年、さっきのノートを見せて」  とはぐらかした。刹那、彼女を家まで送った夜、彼女は本当に、僕には見えない何かを見ていたのではないか、と思った。だが彼女は、もうこの話は終わり、とばかりに僕のショルダーバッグを見つめている。僕は話の続きをあきらめて、バッグからノートを取り出し、彼女に渡した。  明日から実家に帰るの、しばらく店はお休みするから、とつぶやいて、彼女はノートを広げた。書くもの貸してくれる? と手を差し出され、僕は慌てて筆箱をバッグから取り出した。 「ここにA、B、C、Dって書いてあるでしょ。これがたぶん、先生からのヒントだと思う」  ヒント? ただの記号じゃないですか、と眉をひそめながら、僕はサインペンを手渡した。 「橋を渡るということは、このA、B、C、Dのエリアに足を踏み入れるということと同じだから——この図を書き換えると、こうなる」  彼女は地図の隣の白いページに、黒い点とともにA、B、C、Dと書きこむと、地図を見比べながら線を引いていった。 [#挿絵(img/02_088.png)入る] 「A、B、C、Dのエリアを�点�と考え、それぞれを結ぶ橋を�線�と考える。例えば、AとBを結ぶ線は『葵橋』と『出町橋』の二本。BとCを結ぶ線は『賀茂大橋』『荒神橋』『丸太町橋』の三本みたいにね——」  彼女はすべての線を書き終えたところで、僕の膝の上にノートを戻した。 「ほら、一筆書きでしょう」  鉛筆の先で、彼女はその図の外周をなぞる真似をした。 「一度しか渡らずに全部の橋を渡る、ということは、この図を一筆書きで線をなぞるということと同じになる」  ハハアと僕はノートを見つめうなった。はっきりと了解したわけではなかったが、何となく理解できる気がした。  じゃあやってみ、という彼女の声に、僕はしばらく、あちこちの線をなぞって奮闘したが、うまくいくように思えても、やはり最後に一本が残ってしまう。 「これ……できるんですか?」  ウウン、できない、あっさりと彼女は首を振った。 「それぞれの点から出ている線がこの数字、三本、七本、五本、三本——全部、奇数でしょ? これが全部、偶数なら、一筆書きができる。だって、どのエリアに入っても、出るための橋があるということだから。どこから始めても、必ず戻ってこられる。でも、奇数だとそうはいかない。例えば、一つのエリアから三本の橋がかかっているとき、出発して、戻ってきても、一本残ってしまう」  彼女は僕の膝の上から、ノートを取り上げた。 「ただし、線の本数が奇数の点が、二つの場合だけはオッケー。なぜなら、お互い余った一本の線を使うことができるから。一つ目の奇数の点から出発して、最終的には二つ目の奇数の点をゴールにしたら、一筆書きを完成できるはず。この問題だと——いちばん下の『御池大橋』を削ってみる。ほら、奇数が二つ、偶数が二つになって、これなら解ける」 [#挿絵(img/02_090.png)入る]  彼女はBとDを結ぶ線を一本消した図を描いて、線の数を書き換え、ふたたび僕の膝に置いた。なるほど、AかCをスタートとゴールにすると、数回チャレンジしただけで、一筆書きを完成することができた。 「ゆえに、これら九本の橋を、一つの橋を二度渡ることなく、すべて渡りきることはできない。渡ることができるのは、A、B、C、D、四つのエリアから、偶数本の橋が架かっているか、もしくは二つのエリアにだけ奇数本の橋が架かっている場合のみである」 [#挿絵(img/02_091.png)入る]  彼女は淀《よど》みなく、言葉を連ねると、慣れた手つきでノートの余白に「Q.E.D.(証明終わり)」と書きこんだ。      *  彼女はそれから、いろいろな数学の話を聞かせてくれた。  この橋に関する問題のオリジナルは、十八世紀の数学者オイラーが、�ケーニヒスベルクの橋の問題�として実際に解いたものであること。そのときオイラーが用いた、問題を点と線に抽象化する解き方が、後にトポロジーという学問へ発展していったこと。トポロジーの世界では、ドーナツとコーヒーカップが同じ意味を持ち、トポロジーを研究する学者の両手にそれらを持たせると、両者の違いがわからず、コーヒーカップを食べてしまうことがあること。  彼女は生き生きとした目で、数学の世界の話を続けた。それらは次から次へ、無尽蔵に彼女の口元より湧き上がり、メガネのレンズに夕焼け空を映しながら、彼女は途絶えることなく語り続けた。  初めのうち、僕はそれらの話に感心して、ときには本当かなあと笑いながら耳を傾けた。だが、しばらく経ったあたりから、なぜか無性に腹が立ってきた。  僕は今まで、これほど饒舌《じょうぜつ》に話す彼女の姿を、一度だって見たことがなかった。もしも今、店長がこの石段の前を通ったら、店の様子とあまりに違う彼女の姿を見て、引っくり返ってしまうに違いない。  何より僕が苛立《いらだ》ちを感じたのは、普段あれほど口数が少なく、なかなか心を開こうとしない彼女が、これほどまで数学に心を許しているという事実だった。あんなに人とは話をしようとしないのに、数学の話になった途端、水を得た魚のようにしゃべりだす。何だか馬鹿にしてると思った。ああも店長が気を遣って話しかけているのは、何のためかと思った。  白けた気持ちが急に広がっていくのを感じながら、僕は彼女の横顔に視線を送った。僕が相づちをやめたことにも、まったく気がつかない。変わらず一心に話を続けている。僕は自分の足元を見つめた。 「楠木さんて、好きな人っていないんですか?」  えっ、彼女は虚を衝《つ》かれた表情で言葉を止め、僕の顔を見た。 「楠木さんは彼氏とかいないんですか?」 「ど、どうしてそんなこと……」 「いるんですか? いないんですか?」  彼女は明らかに戸惑った表情を浮かべていたが、僕が視線を外さずにいると、気圧《けお》されたように目を伏せ、「いない」と小さな声で答えた。じゃあ、好きな人はいるんですか? と訊ねると、しばらく経って「いる」とさらにか細い声が返ってきた。  彼女はちらりと僕の顔に視線を向けた。とても不安そうに、レンズの向こうで瞳《ひとみ》が揺れていた。相手が最も苦手とする類の話だろうとわかっていても、止めることができなかった。ふつふつと湧き上がる意地の悪い感情に押され、僕は表情を殺して、さらに質問を重ねた。 「楠木さんはその人の前だったら、今みたいにたくさんしゃべるんですか?」  彼女は広いレンズの向こうで、驚いたように目を見開いたが、視線を落とすと首を振った。ぶ厚い髪が動きに合わせ、力なく揺れた。 「その人には、告白とかしたんですか?」  彼女はやはり、無言で頭《かぶり》を振った。 「じゃあ、何も言っていないんですか?」  足元の石段に視線をうろうろさせながら、彼女は「ノックした」と意味のわからないつぶやきを放った。 「どうして、告白しないんですか?」  どうしてって——彼女は絶句したまま、一瞬、僕の顔を見つめたが、すぐに視線をそらし、 「そんなこと、できない」  と消え入りそうな声を発した。萎《しお》れたようにうつむく自信なげな姿は、彼女が初めて店にやってきた日のことを思い返させた。  それに、誰も私のことなんか、相手にしないから——彼女はかすれた声でつぶやいた。  その言葉に、ふたたびむらむらと怒りの気持ちが湧き上がってきた。もはや、どうして彼女に対し、これほど辛辣《しんらつ》な感情を抱くのか、自分でもよくわからなかった。どうにもならない、もどかしさと腹立たしさが、言葉を乱暴に後押しした。 「どうして——どうして、そんなに自信がないんですか。『仕切り』をやっているときの楠木さんは、いつだって自信満々じゃないですか。今だって数学のことを、好き放題、話していたじゃないですか。なのに、どうして普段のときは駄目なんですか。どうして、普通に人と話すときは、ちっともしゃべってくれないんですか。楠木さんはズルいです、臆病《おくびょう》です。どうせ、その相手の人を、デートに誘ったこともないんでしょう。別に今の数学の話みたいに、いっぱいしゃべって誘ったらいいじゃないですか。あんな難しい数学の問題を解くよりも、よっぽど簡単なことじゃないですか」  一気に言い切った僕の顔を、彼女は蒼白《そうはく》な顔で見つめていた。膝の上に置いた指先が、小刻みに震えていた。  思わずハッとして、彼女の瞳を見つめた。真っ赤に充血した眼《まなこ》が僕を正面から捉えていた。急速に醒《さ》めていく気持ちと入れ替わりに、とてつもない後悔の念が押し寄せてきた。 「どうして……今日、一緒についてきたかわかる?」  ぽつりと彼女がつぶやいた。 「え?」 「初めてだったの」  彼女は顔を伏せると、かすれる声で言った。 「こうやって、男の人にデートに誘われるの、生まれて初めてだったの。だから、相手が少年でも、別に冗談ってわかっていても、うれしかった」  言葉が出なかった。呆然としたまま、四条通を見下ろす彼女の横顔を見つめた。 「自分のことくらい自分で知ってる。何が駄目かなんて、ずっと前からわかってる」 「い、いや——」 「告白なんかしても意味ない。だって、私のことを好きになる人なんていないもの」 「ち、ちがいます。そうじゃない——」 「ちがうことなんてないでしょッ」  彼女は突然顔を向けると、身体を折り曲げるようにして叫んだ。 「たった今、数学の話ならいくらでもできて、人とは碌《ろく》に話すことができないって言ったばかりじゃないッ。臆病者だって言ったばかりじゃないッ。わかってる。わ、私だって、本当は……。でも、できないの。だから少しでもうまくできるようになりたいと思って、あそこでアルバイトを始めたの」  周囲の目が彼女に集まり、ざわついた雰囲気が立ち昇る。彼女は立ち上がり、真っすぐ僕の顔を見下ろした。厚く膨らんだ髪が、静かに茜の空を反射させていた。 「ごめん、一人で帰ってくれる」  低い声でつぶやくと、彼女は背中を向けた。一度も振り返ることなく、階段下の自転車に乗り、八坂神社の前から去っていった。  いつまでも石段に座り続けた。  日が完全に暮れてから、ようやく立ち上がった。店に原付きバイクを取りに行くため、バスに乗った。北白川までのバスの時間は、とてつもなく長く感じられた。      *  それからしばらく、彼女とは会わなかった。  八坂神社の前で言っていたとおり、彼女は八月の残りを実家で過ごすため、アルバイトのシフトをすべて空白にしていた。店長は「楠木さん、早く京都に帰ってきてくれないかなあ」とぼやきながら、ふたたび「仕分け」の仕事に戻った。  九月から高校の二学期が始まった。アルバイトは土日のどちらか一日だけ、というのが親との約束だった。シフト表をチェックしたら、彼女は依然、土曜日を外していた。早く彼女に会って、あの日のことを謝るべきとわかっていたが、どうしても勇気が出なかった。心に太い棘《とげ》が刺さったような、重い気持ちを引きずったまま、僕は毎週土曜日のシフトに入り、午後十時まで店で働いた。  十月に入って、二度目の土曜日のことだった。鐘の音とともに店のドアを開けると、そこに彼女が立っていた。 「ひさしぶり、少年」  彼女はかすかに笑みを浮かべ、手にしたテーブルクロスを広げた。どうして、そこに彼女がいるのかという疑問より先に、強烈な違和感が僕の視界を襲った。 「あれ、メガネ——」  思わず僕は彼女の顔を指差してしまった。  あの個性的なメガネが、彼女の顔の上半分から消え去っていた。厚ぼったい髪型は同じだが、メガネがなくなっただけで、ずいぶん雰囲気が変わって見える。「メガネ壊しちゃって、その間、コンタクトを試してるの」と彼女がやけに恥ずかしそうに説明をする隣で、店長は「僕は断然、そっちだな。もう、ずっとコンタクトにしちゃいなよ」としきりに褒めていた。僕は、もうあのメガネが見られないのかと思うと、少しさびしい気がしたが、店長の言葉に彼女が控えめながら笑みを浮かべているのを見て、ああ、それは言っちゃいけないのだなと了解した。 「あの、この前は——」  店長が厨房に消えた合間に、僕は彼女に話しかけた。だが彼女は、仕事が終わってからと取り合わなかった。大丈夫、今日は十時までだからと言って、彼女は黒板に�おすすめメニュー�を書き出す作業を始めた。  仕事を終えて、自転車置き場に向かうと、ひと足先に彼女が自転車を出して、待っていた。  遅くても大丈夫なんですかと訊ねると、彼女は「もう、夜は怖くなくなったから」と言った。いったいどういう意味か訊ねたかったが、それよりも先に、言わなければならないことが山ほどあった。 「この前は本当にすいませんでした」  八月のことを、僕はようやく謝った。  もう、いいよ——彼女は僕の言葉を途中で遮った。 「だって、少年が言ったことは正しいもの」 「いえ、ちがいます」  彼女は静かに首を振った。 「この前ね……。私、ちゃんと言ったの」  え? と僕は思わず声を上げた。 「ちゃんとって——告白したってことですか?」  ウン、ちょっと無茶苦茶だったけど、と彼女は左頬にえくぼを浮かべ、恥ずかしそうにうなずいた。メガネを取ったからか、それとも別の理由からか、彼女の表情はとても晴れやかに映った。結果は聞くまでもなかった。相手は同じサークルにいる人だと彼女は言った。どんな感じの人ですかと訊ねると、駄目な感じの人とすぐさま返ってきた。 「デートの予定とかあるんですか?」 「ウン、そのうち」 「どこへ行くんですか?」  言えない、内緒、と彼女は笑って誤魔化《ごまか》した。 「ありがとう、あのとき本当のこと言ってくれて」  これが言いたくて、今日シフトを代わってもらったの——彼女は手元のベルをチンと鳴らすと、「おやすみなさい、少年」と告げ、夜の白川通に自転車とともに去っていった。      *  原付きバイクを自転車置き場の奥から引き出して、エンジンをかけた。  白川通北山の交差点で、赤信号を見つめながら、僕は少しずつわかり始めていた。  あの八坂神社の石段で、僕は何に腹を立てていたのか。僕は彼女に腹を立てていたんじゃない。彼女の心に少しも近づけない、自分に腹を立てていたのだ。  そのとき、ようやく気がついた。自分が彼女に恋をしていたということを。  赤信号がやけに滲《にじ》んで見えた。鼻の奥がなぜがツンと痛い。慌てて空を仰ぐと、いつの間にかまん丸な月がぽっかりと浮かんでいた。しんと浮かぶ白い光に、こういうときの月はいけない、いけないぞと心が鳴っていた。  信号は青に変わり、北山通に入った。  月は宝ヶ池《たからがいけ》の空を、どこまでもついてきた。 [#改ページ] 第三景 もっちゃん  鴨川の流れを眺めながら、足元の草葉を指先でもてあそび、俺はこんなことを考えた。  世の植物が緑色をしているのは、それらが葉緑素を含んでいるからだ。葉緑素は太陽の光を受けて光合成をする。それによって植物はエネルギィを得て、こうも青々生い茂る。きっとこのうららかなお天道様の光を受け、この連中は今、満腹の心持ちでそよそよ風に揺れているに違いない。何だか無性に腹が立つ。腹が立ったついでに、ぐうと腹が鳴った。  俺はごろりと草の上に寝転がった。ぶんぶんと耳元で羽虫が唸《うな》っている。さわさわと流れる鴨川の瀬音が、車の騒音を遠くに引き離す。草の匂いに包まれながら、俺は自問した。どうして同じ太陽を浴びているのに、草の奴らは満腹で、俺はこうも腹を空《す》かしているのか?  その答えは簡単だ。俺の身体に葉緑素がないからだ。  もしも草花と同じく、俺の身体にも葉緑素が備わっていたなら、こうして川べりで暖かい陽気に包まれ、惰眠を貪《むさぼ》るだけで、俺は日々のエネルギィを充填《じゅうてん》できる。ああ、何と素晴らしいことだろう。俺はただ、こうしてひねもす、のんびり日向《ひなた》ぼっこをしていればいいのだ。それだけで俺の空腹は満たされる。毎月訪れる、仕送り前のこのひもじい思いとも永遠におさらばだ。  だが、待てよ——。俺はそこでハタと思い当たった。  もしも、実際に葉緑素を身体に取りこんだら、そのときはどうなる? 当然、身体は草の色に変わる。それではまるで、河童《かっぱ》の眺めではないか。 「河童かあ」  俺は目を閉じて、人が葉緑素を手に入れ、河童となった世界を想像した。昼休みを迎えると、人々は日光浴のため建物の外に出てくる。少しでも光合成の効率を上げるため、誰もが着物を脱ぐ。緑に彩られた裸の連中が鴨川べりに寝転ぶ風景は、さながらマッチ棒が整列するが如き眺めだろう。河川敷を延々と、四条、五条、七条まで続いていく緑の枕木——むふふ、こいつは相当、気持ち悪い眺めだぞ。 「何一人でニヤニヤしてんだ——。気持ち悪い奴だな」  そのとき、唐突に声が降ってきて、俺は驚いて目を開けた。  帽子を目深《まぶか》にかぶった蝦蟇《がま》のような顔が、逆さになってのぞいていた。 「わッ、もっちゃん」  俺は慌てて身体を起こした。 「人が前を通ってるのに、よく一人で笑っていられるな。どうせまた、くだらないことを考えていたんだろう」  薄汚れた布カバンを草の上に放り出し、もっちゃんは俺の隣に騒々しく腰を下ろした。 「失敬な。くだらないことじゃない。極めて人類にとって有意義なことだ」 「じゃあ、言ってみろよ。俺が判断してやる」 「平和のためのアイディアを考えていたんだ。これが実現したら、世界じゅうから戦争がなくなる。狭い土地や、資源や、小さなことにこだわるのが馬鹿馬鹿しくなる。貧困もなくなる。資本家と労働者の喧嘩《けんか》もなくなる。そもそも働く必要がなくなる。講和会議だってすぐに終わる。世界が万々歳だ」  何言ってんだ、意味がわからん——もっちゃんはフンと笑って、草の上に勢いよく大の字に寝転んだ。それっきり何も訊《たず》ねてこない。どうやらもう、興味がなくなったらしい。 「たまたま通りかかったのか?」 「いや。部屋に行っても留守だったから、ひょっとしたらここかなと思って来た」  いつものせっかちな口調で、もっちゃんは答えた。丸太町橋から少し南に下ったあたりの川べりは、確かに俺のお気に入りの場所だ。 「昨日も部屋に行ったんだぞ」 「昨日? ああ、葵祭に行っていた」 「葵祭? 何だ、ずいぶん風流だな。柄にもない」  風流ねえ……、俺は力なくつぶやいて、もっちゃんの隣にふたたび寝転がった。昨日の�路頭の儀�の様子が、ありありと脳裏に浮かぶ。初夏の都大路を練り歩く、きらびやかな平安装束を纏《まと》った巡行の列。その足元には、ぞろぞろと連なる、青、白、赤、黒の襤褸《ぼろ》を纏ったオニが計四千匹——また、新たな「ホルモー」の一年を迎えるに際し、前触れの儀式が執り行われたのだが、どう考えても、風流な眺めではなかった。  来月から始まるというホルモー初戦のことを思い、空に向かって大きなため息をつくと、腹は減ってるか? と急にもっちゃんが訊ねてきた。ウン、空いている、と正直に答えると、カバンにパンがあるからやるよと妙に湿っぽい声が返ってきた。  もっちゃんの食い意地の強さといえば、さすがの俺も一目置くほどである。それだけに、 「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」  と大いに訝《いぶか》しみながら訊ねると、 「食べる気がしない」  と萎《しお》れた声が戻ってきた。  俺は半身を起こし、 「どうした、大丈夫か?」  と一応心配そうな声をかけながらも、素早くもっちゃんのカバンを手繰《たぐ》り寄せ、中身を探った。果たして中には、菓子パンが一個入っていた。 「いいんだな?」  早口で確認して、俺は菓子パンを紙袋から取り出した。俺が菓子パンにかぶりついている最中、もっちゃんは帽子のつばを鼻の頭あたりまで下げ、黙って寝転がっていた。もっちゃんの象徴と言っていい、厚い下唇と横に広い口が、黒光りするつばの下で静かに一文字を描いていた。 「本当にどこか具合でも悪いんじゃないのか?」  普段とはずいぶん異なるその様子に、つい訊ねてみたが、もっちゃんは返事を寄越さない。 「もっちゃんにご馳走《ちそう》してもらうなんて、まったく珍しいこともあったもんだ。雹《ひょう》でも降るんじゃないだろうな——」  どうした? 恋でもしたか? とさらに続けようとしてやめた。もっちゃんに限ってそれはない。大方、食い過ぎたか、飲み過ぎたかで、胃もたれでも起こしたのだろう。だが、「もっちゃんと恋」という取り合わせが、いかにも新鮮でおもしろく、「それはないよな、ウハハ」と一人でつぶやきながら、最後のパンの欠片《かけら》を口に放りこんだ。 「恋だ」  そのとき、暗いつぶやきが耳に飛びこんできた。  へ? と思わず向けた視線の先で、もっちゃんが勢いよく上半身を跳ね起こした。反動で帽子が落ち、いかにも一本一本が太そうな、量の多い髪が姿を現した。それらは頭の上で激しくうねりを打ち、好き勝手に踊っていた。もっちゃんは手のひらで、乱暴にごしごしと顔を拭《ぬぐ》った。色黒な肌の色が、落ちてしまうのではないかというくらいの勢いで。 「ど、どうした? もっちゃん」  もっちゃんは手のひらから顔を上げると、じっと俺を見つめた。細い目の奥で、妙に熱を帯びた光が瞬いていた。 「ラヴだ——安倍《あべ》」 「へ?」  ラヴだ、女神《ヴィーナス》だ、とかすれた声でつぶやいて、もっちゃんは切れ長の目を空に向けた。 「ははあ、ラヴ」  俺は困惑しながら、もっちゃんの視線を追った。  薄い雲が棚引く五月の天高くを、大きな鷹《たか》が羽を広げ、風に乗って舞っていた。      *  もっちゃんと俺は、ともに入学以来の友人である。  厳密には、入学前からの付き合いだ。俺が京都にやってきて、初めて口をきいた学生が、もっちゃんだった。もっちゃんは俺の下宿の隣人だった。  初対面でいきなり、「安倍は京都の夕焼けが好きか?」と訊ねてくる風変わりな男だった。まだ京都の夕焼けを見ていないと答えると、フンと鼻を鳴らし、京都の夕焼けはまるで物足りない、大阪に比べたら屁《へ》のようなものだ、とまくし立てた。もっちゃんは大阪の出身だった。もっとも、都会育ちとは思えぬ野暮《やぼ》ったさがあったが。  俺ともっちゃんが、同じ屋根の下で生活した期間はとても短い。入学してひと月も経たぬうちに、もっちゃんが吉田《よしだ》にある寄宿寮に引っ越してしまったからだ。その後も、会うたび遊びにこいと誘うので、一度、寮をのぞきに行ったことがある。妙な臭いはするわ、入り口で誰かが叫んでいるわ、誰もが半裸で生活しているわ、廊下を犬が走っているわで、到底|馴染《なじ》めぬその雰囲気にさっさと退散した覚えがある。  どうやらもっちゃんには、ひとところに留《とど》まれないという厄介な癖があるらしく、その後も顔を合わせるたびに、住む場所が変わっていた。寮を出た後も、浄土寺《じょうどじ》、吉田、北白川《きたしらかわ》、と俺が三年生になっても目まぐるしく学校の周辺を転々とした。去年の夏休み明けに会ったとき、三重でひと月のんびりしていたと言うので、何だ引っ越していたのかと訊ねると、そんなわけないだろう、ヴァカンスだとさすがにジロリと睨《にら》まれた。  もっちゃんは異相の持ち主だった。顔の中央にどしんと大きな鼻がそびえ、まぶたの厚い、細い目の奥には、炯々《けいけい》たる眼光が控えていた。口は大きく、横に広がっていて、それがどうしても蛙を想像させた。がっしりとした肩をいからせ、前のめりになって歩くものだから、どことなく獰猛《どうもう》な雰囲気が漂っていた。その肌の黒さゆえ、冬の日に黒い外套《コート》などを着ていると、まるで岩が歩いているような観があった。もっともこれは、俺だけの認識ではなかったらしい。一度だけ訪れた吉田の寮で、もっちゃんは相部屋の二人から「ゴッちゃん」と呼ばれていた。もっちゃんが便所に立った合間に、なぜ「ゴッちゃん」なのか訊ねると、「ゴツゴツしてるから」と二人はニヤニヤしながらその理由を教えてくれた。  だが、どれほどゴツゴツしていようと、もっちゃんは間違いなく繊細な男だった。俺の部屋に遊びに来ても一人で黙々と本を読んでいたり、ノートに図を書いていたりすることが多かった。もっちゃんは理系で工学を勉強していたから、製図の課題でもやっているのかとのぞくと、たいてい撞球《ビリヤード》の研究をしていた。もっちゃんの撞球の腕は確かで、俺も何度も対戦しては小銭を巻き上げられたものである。 「球撞《たまつ》きから悟りに入ってやろうと思うんやが」  とよくわからない壮大な目標を設定していたが、その後、もっちゃんの研究が実を結んだのかどうかは知らない。  楽譜を持ってきて熱心に読んでいるものだから、何を格好つけているのかとからかうと、いきなり大声で「カルメン」を歌いだしたこともあった。どうやら本当に楽譜が読めるらしく、ベートーベンの交響曲《シンフォニー》をまるまる一人で忙しく演じられたときは心底閉口した。「音は色なんだ」とよく口にしていたが、もっちゃんの独演から、彼の脳裏で点灯する鮮やかな色彩を感じることはついぞなかった。  全身から疼《うず》くようなエネルギィを発しておきながら、良い本と良い楽譜が読めたら俺は満足だと言う。その動と静との不思議なバランスが、もっちゃんという男の真髄だった。  ひと月かふた月に一度ほど、もっちゃんは俺の下宿をふらりと訪れた。もっちゃんのような個性的な男が、どうして自分のような人付き合いも悪く、小説や音楽の話も出来ない、つまらない人間のところに遊びにくるのかわからず、一度その理由を訊ねたことがある。  すると、もっちゃんは即座に、 「安倍は強いから」  と返答した。次いで「俺は弱いから」と元気のない声で続けた。 「強い? 俺が? どこが?」 「安倍は決して顔の造作もよくない。恋人もいない。金もない。頭もあまり良くない。どれも俺と同じないない尽くしなのに、いつも能天気にやっている。俺はそこに非常な敬意を感じる」  ともっちゃんはいたって真剣な眼差《まなざ》しでその理由を述べた。なるほど、どうやらもっちゃんには、革命に近い劇的な認識の変化を求めなければならないようだった。だが、早くも楽譜を広げ、 「バァーン」という声とともに、頭の中でシンバルを打ち鳴らしている様子を見ると、言葉を返す意欲も失《う》せた。結局、何も言い返すことなく、今に至っている。  そんなもっちゃんが、あろうことか恋をした。  これはまさしく、「鴨川某重大事件」として新聞に載ってもいいくらいの出来事ではあるまいか。 「い、いつからそんな人がいたんだ?」  上ずった声で訊ねる俺に、もっちゃんは湿った声で「先月から」と短く答えた。オオと思わず歓声を上げた俺の前で、もっちゃんは憂いに満ちた蝦蟇顔でつぶやいた。 「でも、終わったんだ」 「え?」 「今朝——俺の恋は終わった」      *  もっちゃんの恋は車内にて芽生えた。  大阪からの通学の途中、通勤・通学客でごった返す車内に、もっちゃんは彼女《ヴィーナス》の姿を見つけた。いつの間に電車通学になったのか訊ねると、春から大阪の実家より通学しているという。  もっちゃんが恋をした相手は、我々が日頃、同女《どうじょ》と呼んでいた同志社大学の隣に建つ女子校の学生だった。ある朝、同じ車両に乗ってきた彼女の姿を発見した瞬間に、もっちゃん曰《いわ》く「恋という言葉のすべての意味を理解した」のだそうだ。それって一目惚《ひとめぼ》れってことだろ? と俺が言葉を挟むと、そんな軽薄な言葉で表現するな、とやっこさん、本気で抗議してきた。 「とても秀でた、きれいな額をした子なんだ」  もっちゃんは己の長方形に似た、狭い額を撫《な》でながら、しきりに相手の額の美しさを力説した。というか、額の話しかしなかった。どうやらもっちゃんは、人の額に並々ならぬ執着を抱いている様子だった。まったく妙な場所にこだわるものだと思ったが、自分も人のことを言えた立場ではないので、黙って聞いておいた。 「それでどうして終わりなんだ? 相手に男でもいたか」 「そんなこと知らない」 「じゃ、どうして」 「告白したんだ」  うえッ、俺は思わず素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げてしまった。 「こ、告白? もっちゃんが? ど、どこで」 「電車に決まってるだろう」  当たり前じゃないかとばかりに、もっちゃんはジロリと視線をこちらに向けた。  もっちゃんの言葉に、俺は心の底から驚嘆した。よもや、そんな勇敢な行為に及ぶ男とは、夢にも思っていなかったからである。だが、よく考えてみたら、常日頃より、とかくエネルギィを持て余していた男だ。恋という未知なる地平に向け、そのエネルギィが一気に活動を始めたとしても、何もおかしくはない。 「じゃあ、告白してフラれたのか……」  俺は戦地より凱旋《がいせん》した兵士を仰ぐ気持ちで、憂鬱《ゆううつ》そうな蝦蟇顔を見つめた。俺には逆立ちしても、たとえ清水《きよみず》の舞台から吊《つ》り下げられたとしても、落ちてこない勇気だと思った。 「いつ告白したんだ?」 「昨日——」 「じ、じゃあ今朝、フラれたってことか?」  もっちゃんは黙ってうなずいた。俺は今すぐ、もっちゃんを強く抱きしめてやりたい気持ちに襲われながら、 「つらい、つらいよなあ。でも、よく頑張った。偉いぞ。俺はもっちゃんを誇りに思う」  と心の底から同情し、称賛した。  もっちゃんは俺の言葉を聞いているのか聞いていないのか、不貞腐《ふてくさ》れたような表情で、足元の草葉をちぎっては宙に放っている。その肉づきのいい、太い指の動きを眺めながら、内心大いに意気消沈しているのだろうと思ったが、いったいどういう具合に告白したのか、もう少し訊《き》いてみたい。 「そ、それで……どうやって告白したんだ?」 「渡したんだ」 「渡した? 恋文《ラヴレター》をか?」  もっちゃんはゆっくりと首を横に振った。 「読んでいた詩集のページを切り離して渡した」  へ? 俺は思わず間抜けな声を上げてしまった。 「失礼——今、何を渡したって?」 「だから、キーツの詩集の一ページをちぎって、これを読んでくださいって、彼女の膝《ひざ》の上に置いたんだ」  もっちゃんはぶっきらぼうな口ぶりで、言葉を連ねた。 「……そしたら?」 「今朝、読んでくれましたかって訊ねたら、あんなの読めません、知りません、ってずいぶん冷たい態度で言い返された。俺は完全に拒絶されたんだ」  もっちゃんはがっくり肩を落とすと、大きなため息をついた。 「ええと……確認するけど、詩の一ページを渡したんだな」 「そうだ」 「それって、いつも俺の部屋で読んでいるようなやつか」 「ああ」  俺はしばらくの間、黙ってもっちゃんの顔を見つめていたが、 「今、その詩集を持ってるか?」  と訊ねた。もっちゃんはウンとうなずくと、草の上のカバンを引き寄せ、中から古びた一冊の本を取り出した。 「ここを渡した」  もっちゃんは本を開くと、強引な破り目の見えるページを差し出した。 「なあ、もっちゃん……。一つ言っていいかな」 「何だよ」 「これ、全部英語じゃない」 「だから、何だよ」  いや、だから——、俺は深い悲しみを感じながら、もっちゃんの切れ長の目をのぞいた。 「読めないって言われたんだろ?」 「ああ、言われたさ。ひと言の感想だってなかった。まるで門前払いさ」 「ちがう、そうじゃない——。だから、読めないんだよ。だいたい、俺だってこんなの読めないよ」  え? もっちゃんは目を大きく見開き、しばらく固まったように俺の顔を見つめていたが、 「そうなのか……?」  と揺れる声でつぶやいた。 「そもそも、何で英語の詩をわざわざ渡す必要があるんだ?」 「だって口下手な俺が話すより、偉大なキーツに語ってもらったほうが、何万倍も効果がある。俺の想いは、すべてあの詩のなかにこめられていたんだ」 「誰だよ、キーツって?」 「ジョン・キーツだよ。二十五歳の若さでこの世を去った、英国《イギリス》を代表するロマン派の詩人だ」  そんなことも知らないのか、とでも言いたげな口ぶりで、もっちゃんは草の上に落ちた帽子を拾って頭に載せた。 「ああ、もっちゃん……」  万感こもごも胸に至り、俺は思わず空を見上げた。鳴呼《ああ》、お天道様、この哀れなるもっちゃんに、ぜひともお慈悲を賜《たまわ》りますように。彼の純粋かつ勇敢極まる行為は、言葉の壁、もしくは文化の壁、いや、そもそも世間一般の常識の壁に阻まれ、その想いは意中の相手の心に、おそらく一分たりとも伝わらなかったでしょうから——。 「なあ……もっちゃんよ」  しばらく時間が経って、俺はようやく声を発することができた。何だよ、と帽子の位置を几帳面《きちょうめん》に決めながら、もっちゃんは返事をした。 「それでいいのか?」 「だって……もう、どうしようもない」  もっちゃんは帽子を目深にかぶると、あぐらをかいた股間《こかん》の、日陰となった草葉をじっと見つめた。その横顔は、今まで見たことがないほど寂しげな表情をしていた。 「書こうぜ——もっちゃん」 「書く? 何を?」  訝しげな視線を寄越すもっちゃんに、俺は身体を乗り出し、強い口調で訴えた。 「恋文《ラヴレター》だよ。もっちゃんの気持ちを、もう一度、相手に伝えるんだ」      *  背中を丸めたまま、鈍い表情でこちらを向いていたもっちゃんだったが、 「安倍は恋文《ラヴレター》を書いて、うまくいったことがあるのか?」  と低い声で訊ねてきた。 「ない」 「そもそも、恋文《ラヴレター》を書いたことがあるのか?」 「ないね」 「相変わらず恋人いないだろ?」 「う、うむ、いない」 「まだ、前に言っていた人のこと好きなのか?」 「……よ、よく覚えていたな」 「じゃあ、安倍も書けよ」 「へ?」 「安倍も恋文《ラヴレター》を書けよ。それなら俺も書く」  何でそうなるの? 自分の話だろ? と声を上げる俺をおいて、もっちゃんはさっさと立ち上がると、カバンを拾い、歩き始めた。  慌てて俺もあとを追う。どこへ行くんだ? と訊ねると、材料を買いにいく、という。材料? と訝しむ俺に、書くからには最高の材料が必要じゃないか、上質の便箋《びんせん》とペンがまず必要だろう、ともっちゃんは当たり前だろうと言わんばかりの表情で振り返った。  俺ともっちゃんは二条大橋西詰より階段を上り、続く二条通を西に向かった。先をすたすたと進むところから見ると、既にどこかあてがあるらしい。  もっちゃんは、三条、四条、河原町|界隈《かいわい》の地理に、異様に詳しかった。それはもっちゃんが無類の「細い路地好き」だったことに因《よ》る。縦横無尽に交わり合う辻々《つじつじ》の先に、見知らぬ細い路地を見つけると、もっちゃんは迷わず足を踏み入れた。俺の都合などお構いなしに、「こっちだ、こっちだ」と背中を丸め、熱に浮かされたように突き進んでいった。何でも、路地を抜けたとき、まるで知らない街に出てしまったらどうしようと想像する瞬間が、たまらなく楽しいらしい。  確かに細い路地の先に、突然、料理屋の格子戸が姿を現したり、さらに奥へと続く路地が登場したり、お地蔵の祠《ほこら》がひっそり待ち受けていたり、京都の路地には不思議な空気が充満していた。だが、そんなとき俺は、もっちゃんが抱く期待とは正反対に、このまま進むと元の場所に戻れなくなるのではないかという不安のほうが勝った。きっと、そんな不安すらも、もっちゃんにとっては興奮の種だったろう。もっちゃんは「ここにはない雰囲気」や「ここにはない感覚」といったものが大好きだった。いつも見慣れたものが、まるで別のものに感じられる瞬間を、その細い眼《まなこ》の奥から、常に探し求めていた。  たとえそれは、目からでも、耳からでもよい。一度、もっちゃんは「言葉を外国語のように聞く方法」というものを、教えてくれた。例えば、 「今日は、いい天気ですね」  と人が話すのを、 「キョ・ウワイ・イテン・キデスネ」  と敢《あ》えて間違った節で区切って聞き取る。そうすると、日本語を知らない異国の人間のような気分になるというのである。 「日本語がシナや朝鮮の言葉の仲間ということがよくわかる」  とその印象を披露していたが、その発想も実行も、俺には到底及びのつかないものだった。  ゆえに二条通から寺町《てらまち》通に入る角の八百屋で、もっちゃんが急に立ち止まり、珍しい舶来の果物なぞを眺め始めたときも、ああ、いつものもっちゃんの癖が始まったぞ、と思った。もっちゃんは勾配《こうばい》の急な棚に陳列された色鮮やかな果物を、無造作に手に取り、天井の裸電球にかざしたりした。俺は果物よりも、もっぱら野菜のほうに視線が向いた。やはり菓子パン一つでは、どうにも腹が膨らまず、丸々と太ったカブが、ともすればほかほかの肉|饅頭《まんじゅう》のように見えて困った。  髪を立派に結《ゆ》った御婦人が隣にやってきて、品定めを始めた。賀茂茄子《かもなす》を手に取ろうと屈《かが》んだ拍子に、朱《あか》い飾り櫛《くし》が目に映った。ぼんやり櫛の絵柄を眺めていたら、その向こうでもっちゃんは、さっさと会計を済ませ、果物を買っていた。何を買ったのか訊ねると、もっちゃんはぽんと手元から小さな物体を放った。黄色い点が宙を舞い、慌てて手で受け止めると、そこに一個のレモンが収まっていた。 「こんなもの買ってどうするんだよ?」 「書くときに嗅《か》ぐに決まってるだろ。頭がはっきり覚醒《かくせい》して、脳の働きが活発になって、| 霊 感 《インスピレーション》が舞い降りる」  最高のものを書かなくちゃいけないからな、と何度も念仏のように唱え、もっちゃんは寺町通を下っていった。市役所の脇を抜けて、御池通を渡った。本能寺の門前を通り、鳩居堂《きゅうきょどう》の前を過ぎて、三条通を右折する。もっちゃん曰くカルフォルニア産だというレモンを手に、ときどきそれを鼻に近づけたりしながら、俺も跡を追う。レモンは鼻の先に押しつけるほど近づけると、ほんの少し香りがした。  三条通をしばらく進むと、書店の看板が見えてきた。文具も扱っている店である。なるほど、ここで道具を揃えるつもりらしい。店に入り、 「俺は適当に本を見てるよ。筆が乗りそうな紙を選びなよ」  と告げるともっちゃんは、 「何、言ってるんだ。安倍も書くんだぞ」  と怖い顔で睨《にら》みつけてきた。 「本当に?」 「ああ、本当に」  頑固な眼差しでもっちゃんはうなずいた。仕方がないので、「わかったよ」と連れ立って店の奥に向かった。たとえ恋文《ラヴレター》を書いたとしても、渡すのはまた別の話である。何はともあれ、もっちゃんのためだ。書く真似くらいなら我慢しよう。  店の奥にはショーケースが並び、そこに時計やらドイツ製万年筆やら、いかにも高級そうな品々が陳列されている。パイプやペーパーナイフ、香水なども、天井の照明を受けてキラキラ輝いている。どれもひどく高い。一等高い万年筆など、俺の下宿代を一年分積んでも買えないほどだ。 「こりゃ、万年筆は無理だな……」  思わずつぶやくと、もっちゃんも隣で少々|強張《こわば》った顔でうなずいた。どうやら相場を知らず、乗りこんできたらしい。それでも、なだらかな曲面に七色の光の粒を反射させる舶来の品々に、いたく心奪われた様子で、もっちゃんはガラスに触れんばかりに顔を近づけ、のぞきこんでいた。  どうあがいても手の届くはずのない高級品ばかり眺めて、一向に目的の品々を選ぶ様子がないので、俺は本を読んでるよと伝えて、入り口付近の書架に戻った。  棚から画集や全集を抜いてはパラパラめくった。だが、普段より見慣れていないものだから、何をどう見たらいいのかわからない。すぐに退屈してしまって、まだかなと奥をのぞくと、ショーケースの前に既にもっちゃんの姿はなかった。あと少しかなと腕を組み、もう一度書架を見回した。ふと目についた一冊を抜き取り、ぱらぱら中身をのぞいた。どうやら短編集のようである。何気なく目次を目で追っていると、ある題名のところで視線が釘づけになった。  例えば、もっちゃんが女性の顔のなかで、「額」の部分に注目するように、俺にもどうしても注目してしまう顔の一部分がある。それはまさしく不可抗力であり、人知を超えた、歴史を超えた宿命のようなものすら感じる習性である——と言えば大げさだろうか。兎《と》に角《かく》、俺にとって何よりも大事なあの存在が、何ということか本の目次に、そのまま漢字一字の題名として記されていたのだ。  俺はわけもなくどぎまぎしながら、ページをめくった。作者の名前には聞き覚えがあった。確かまだ三十にもならない若い作家で、「俺は決して好きじゃない。何というか、うますぎる。俺はもっと不器用な感じがいいんだ」ともっちゃんがやっかむような口調で評していた覚えがある。  なかなか目当てのページにたどり着けずにいると、急に人の気配を感じ振り返った。いつの間にか、もっちゃんが立っていた。手にした店の紙袋を持ち上げるのを見て、 「おお、買ったのか」  と少し未練はあったが、本を棚に戻した。 「よし、帰ろうぜ」  と振り返ったとき、ふと、もっちゃんの視線が、ある一点に注がれているのに気がついた。何気なくたどったその先には、俺が好き勝手棚から抜いたまま、縦に積み重ねた本の山があった。その頂にはレモンが一つ、静かに佇《たたず》んでいた。 「あ、忘れるとこだった」  慌てて手を伸ばそうとしたそのとき、 「駄目だッ」  ともっちゃんが押し殺した声を発した。  思わず、差し出した手を止めた。もっちゃんはなぜか、驚くほど真剣な眼差しで、山頂の黄色い紡錘形を見つめていた。  俺の下宿に戻る途中、最後に見つけた本のことをもっちゃんに訊ねた。三、四年前に出た本だ、坊主の話だよ、ともっちゃんはさして関心なさそうに教えてくれたが、あの題名がどうして坊主と関係するのか、さっぱりわからなかった。 「何を買ったんだ?」 「便箋と封筒と鉛筆一本」  結局は身の丈に合った買い物になったらしい。もっちゃんはカバンから時計を取り出すと、「夕飯にしよう」と言った。金がないと俺が言うと、おごってやるよとあきらめたような声が返ってきた。  三条大橋を渡りながら、いったい女の額の何がいいんだ? と訊ねてみた。やっこさん、下宿近くの食堂に到着するまで延々、女性の額についての美しさを説明してくれた。      *  腹ごしらえをして、下宿でみっちり恋文《ラヴレター》を書く算段だったのに、帰りに酒屋に寄ったのがマズかった。  下宿に戻り、筆に勢いをつけるため、一杯のつもりで注《つ》いだはずが、あと一杯、もう一杯と続けるうち、あっという間に買ってきた酒を平らげてしまった。  気がついたとき、俺は畳の上に転がっていた。唸り声とともに首を起こすと、机に静かに向かっている蝦蟇顔が視界に映った。 「今……何時だ?」 「午前一時半だ」  もっちゃんは反古《ほご》でいっぱいになった机の上に置いた時計を、向けて見せた。 「ずっと書いていたのか?」  もっちゃんは黙ってうなずいた。  俺は身体を起こすと、伸びをして、自分の足元に散らばった紙を拾った。やはりと言うべきか、俺にまともな恋文《ラヴレター》など書けるわけがなく、それらの紙には、文章の代わりに絵が描かれている。小さい頃から絵を描くのは好きだった。俺が手にした紙には、額の極端に広い、ほとんどチョンマゲ姿に近い女子生徒と、その前にひざまずくもっちゃんの姿が描きこまれていた。吹き出しには「鳴呼、あなたは何と美しい額をもつてゐるのでせう」と大げさな台詞《せりふ》も入っている。 「安倍は書き終わったのか?」  もっちゃんの問いに、ああ、出来た、と俺は描いた絵をさっさと封筒に入れて糊《のり》づけをした。これでもっちゃんから、あれこれ詮索《せんさく》されずに済む。ちゃんと渡せよ、という声に、「了解了解」とうなずいておいた。もちろん、たとえ本気で書いた文章であったとしても、俺が女性に恋文《ラヴレター》を渡すなんてことは、金輪際あり得ない。 「もっちゃんは、そんなにたくさん、何を書いているんだ?」  机の上に散乱する反古から、一枚抜き取ろうとすると、ものすごい勢いで手を押さえつけられた。腫《は》れぼったいまぶたの下から、ずいぶんおっかない視線が向けられている。 「わかったわかった。見ないよ」  両手を挙げて、俺は意志のないことを示した。 「でも、小難しいのはいけないぞ。わかりやすい、心に響く文章にしなくちゃいけないぞ」  自分のことは棚に置いて、いい加減なことを言いながら、座布団に尻《しり》を据えたとき、ふと、もっちゃんの足元にレモンが置かれていることに気がついた。皿の上で、レモンはいつの間にか、真ん中で二つに切り分けられていた。手を伸ばして、一つをつかみ、鼻に持っていった。果汁が滴る瑞々《みずみず》しい断面から、酸味ある、されどかすかに甘い、上品な香りがした。少し舐《な》めてみたら、一瞬の苦味の後、刺すような酸っぱさが訪れた。香りに含まれる甘みが、まるで感じられないのが不思議だった。 「これを嗅いだら、| 霊 感 《インスピレーション》でも降りてきたか?」  俺の問いに、もっちゃんはフンと鼻を鳴らしたきり返事をしてくれなかった。明日、渡すのか? と訊ねると、無言でうなずいた。便箋に向かうその顔は、真剣そのものだった。俺は「がんばれよ」と声をかけ、ふたたび襲ってきた眠気に従い、畳の上に寝転がった。  目を開けたら、窓から朝の光が射しこんでいた。  ううんと唸りながら、身体を起こした。隣を見ると、もっちゃんが大口を開けて寝転がっている。胸がはだけ、腹まで見えている。相変わらず、寝相の悪い男だ。  今、何時だろう? と机の上に置いてあったもっちゃんの時計をのぞいたとき、俺は思わず声を上げた。 「わッ、もう八時だぞ、もっちゃん」  その瞬間、もっちゃんが弾《はじ》かれたように上半身を起こした。 「電車が今出川に着くのは?」 「八時二十分だ」  もっちゃんはかすれた声で答えた。彼女が通う学校は、今出川の駅から降りたところに、同志社大学と並んで建っている。 「どうする?」 「今日渡さないと、もう二度と渡せない気がする」 「でも、もう間に合わないぞ」 「間に合わせる」  すでにもっちゃんは立ち上がり、慌ただしく身づくろいを始めていた。髪が力の限りに爆発して、さながら雷神さまのような出で立ちになっている。 「もっちゃん、相手の前で帽子は取るな」 「わかった」 「恋文《ラヴレター》は持ったか?」  おお、そうだ、ともっちゃんは慌てて机の上の封筒を取ると、肩から提げたカバンに入れた。 「もっちゃん、これも」  おお、そうだ、ともっちゃんは俺の手から時計を受け取った。ああ、こいつを捨てないと、と机の上の反古を集めようとするので、何やってんだ、走らないと間に合わないぞ、と俺は声を荒らげた。 「絶対に見るなよ」 「見ないよ」  それでも疑わしそうな視線を送ってくるもっちゃんに、 「本当だって。誓う」  と重ねてようやく、もっちゃんは、わかった、行ってくる、泊めてくれてありがとう、と早口に言葉を並べ、背中を向けた。がんばれよと声をかけたとき、既にもっちゃんの姿は扉の向こうに消えていた。  一陣の突風が過ぎ去ったかのように、部屋は急に静けさを取り戻した。約束どおり、文面は一切見ずに、反古はすべて屑箱《くずばこ》に捨てた。陽射しは柔らかで、小鳥のさえずりが心地よい。確か今日は一時間目から授業があったはずだが、どうしたものだろう? おい、ここで寝転がってはいけないぞ、でも、もう寝転がってしまった、なら目を閉じてはいけないぞ、ああ、もう目を閉じてしまった、いかんいかん、このままでは——しかしどうだい、この気持ちよさといったら。  目が覚めたとき、ずいぶん高くまで太陽が上っていた。机の引き出しを開け、時計を取り出すと既に十一時だった。俺は立ち上がり、大きく伸びをした。伸びを終えたとき、ふともっちゃんが枕代わりに使っていた座布団の下に、白いものを見つけた。何だろうと拾い上げると、それは封筒だった。  封がされたその封筒を顔に近づけたとき、俺は思わず息を止めた。待てよ、もっちゃんは部屋を出るとき、どこから封筒を拾った?  寝ぼけた頭を叱咤《しった》して、今朝方の出来事を思い起こそうとした。もっちゃんが机の上から封筒を手に取った絵が蘇《よみがえ》ったとき、俺はつい、 「駄目だ、もっちゃんッ」  と叫んでしまった。  封筒の表面をじっくりと見回したが、俺が封をした証拠はどこにも見当たらない。光に透かしてもよくわからない。俺は鋏《はさみ》を取り出すと、おそるおそる封を開けた。 「ああ……」  祈るような気持ちでのぞいた封筒の内側に、筆圧の強いもっちゃんの字を認めたとき、俺は力なくその場に座りこんでしまった。  夜まで待ち続けたが、結局、もっちゃんは俺の部屋に現れなかった。遅い夕飯を済ませ、部屋に戻ると、畳の上でレモンが黄色い光を放っていた。あれだけ瑞々しかった断面はすっかり干からびて、果肉が醜いくらいに膨らんでいた。  皿の前にしゃがんで、手にした一つを鼻に近づけた。  未《いま》だかすかに甘い香りが、弱々しく鼻を撲《う》った。      *  翌年の春、俺は無事、学校を卒業し、京都を去った。  地元に戻って製糸会社で働く俺のもとに、ある日、もっちゃんから封筒が届いた。卒業して早くも三年が経とうかとする、新年明けて間もない、寒い冬の日のことだった。  差出人の住所は、東京の目黒とあった。もっちゃんは結局、二度の落第を含め、京都で足かけ六年、学生を続け、卒業後は東大の文学部に進んでいた。封筒の中には『青空』と題された冊子が入っていた。もっちゃんが東大の有志たちと発行した文学の同人誌だった。  あの恋文《ラヴレター》の一件の後、もっちゃんは小説を書き始めた。  あの日、俺の下宿を飛び出したもっちゃんは、今出川御門《いまでがわごもん》駅で、市電から降りてきた女子学生に恋文《ラヴレター》を手渡した。丸太町から駆けに駆け、汗だくになった蝦蟇顔の男から突然、手紙を渡され、女子学生はさぞ驚いたことだろう。おそらく学校で一人になったところで封を開け、そこに描かれたものを見て、女子学生は何と思ったことか? その先をほんのわずか想像するだけで、俺の胸は未だ痛む。  もちろん結果は、散々だった。翌日から、もっちゃんが乗る車両から、女子学生の姿が消えた。その後、もっちゃんは二度と、通学の車内で彼女《ヴィーナス》に出会うことはなかった。  これがもっちゃんの恋の一部始終である。  この出来事をもとに、もっちゃんは一編の小説を書いた。それまで書くことに興味はあったが、本人曰く、きっかけがなかったのだそうだ。だが、小説を書き始めたと喧伝するくせ、読ませろと俺が頼んでも、お前は駄目だ、と一向に首を縦に振らなかった。結局、もっちゃんの書いたものを読む機会を一度も与えられぬまま、俺は京都を去った。  東京から送られてきた封筒には、手紙が添えられていた。そこには、ようやく貴君に読ませられる話を書くことができたから、どうか読んでください、と懐かしいもっちゃんの字が並んでいた。ひょっとして知っている話かもしれないが、あくまで自分は文学を書いたつもりだ、とも書かれていた。最後に、あのときの出来事ほど、京都で自分の心に残った風景はない、お礼というわけではないが、『青空』とともに同封した包みを、どうか受け取ってほしい、と結んであった。  俺はまだ重量を残す封筒をのぞきこんだ。小さな紙包みが底に沈んでいる。机の上にあけると、滑り出した拍子にことりと硬い音がした。  包み紙を開けると、見覚えのある銀色の懐中時計が姿を現した。いつも、もっちゃんが携えていたものだった。思わず声を上げると、隣で洋裁をしていた妻が、どうしたの? と顔を向けた。 「あら、素敵な時計ね」  俺がもっちゃんのことを説明すると、いいのかしら、こんな立派なもの、と俺の手のひらの時計をのぞきこんだ。妻は机から『青空』を取ると、ぱらぱらページをめくっていたが、これがもっちゃんさんの作品ね、立派ね、と手を止めた。しばらく、紙面を睨んでいたが、何と読むのか、と訊ねてきた。どうやら、題名から読めなかったらしい。俺はちらりとのぞいて、「レモンだよ」と教えてやった。ふうんとうなずくと、今度は俺の手から懐中時計を取った。耳に当てて「ちぃちぃ鳴っている」と楽しそうに言っていた。耳から離し、時計を裏返したとき、「あら」と妻は甲高い声を上げた。 「これ、名前じゃなくて?」  差し出された時計に顔を近づけた。そこには「基」と一文字、蓋《ふた》の部分に刻みこまれていた。言うまでもなく、もっちゃんの名前——基次郎《もとじろう》の一字だった。  隣の部屋で子供が急に泣き始め、「おや、どうしたのかしら」と妻が立ち上がったところで、俺は火鉢を寄せ、『青空』を膝の上に置いた。  もっちゃんの作品を読む俺の脳裏に、あの日の出来事がありありと蘇ってきた。  寺町通の八百屋の様子や、便箋を買った丸善《まるぜん》の瀟洒《しょうしゃ》な雰囲気、積まれた本の上に置かれた黄色い紡錘形、濡《ぬ》れた石畳の続く細い路地、鴨川の川べりを吹く風、あのときの空気がいつの間にか肺の中で呼吸を始めていた。そうだ、あの年の秋、東京駅で首相が刺殺されたとき、もっちゃんが「ハラケイ(原敬《はらたかし》)が死んだ、ハラケイが死んだ」と号外を片手に、学生帽が落ちそうなほどの勢いで、部屋に飛びこんできたなあ——。  子供を寝かせつけて戻ってきた妻が、俺の顔を見るなり、「あら、泣いてるのあなた?」と驚いた声を上げた。 「悲しい話なの?」  と訊ねる妻に、違う、うれしいんだよ、と答え、俺は冊子を机に置いた。代わりに懐中時計を取り上げ、鈍い銀の光を放つ裏盤を何度も指で撫でた。      *  それから二年後、俺の勤める会社が京都に支店を出すことになり、事務所開設の準備のため、俺は一カ月間の予定で、京都に戻ってきた。  七月十六日、街は昼間から祭りの雰囲気に包まれていた。仕事で外を回っている途中、俺はふと思い立って、室町《むろまち》通|六角《ろっかく》にある和菓子屋|沙狗利《しゃくり》を訪れた。そこにはもちろん、学生のときと変わらぬ�告げ人�の主人がいた。俺は挨拶《あいさつ》にくるのが遅れたことを詫《わ》び、差し出されたほうじ茶を飲みながら、会社の景気の話などをした。子供が三人いることを伝えると、�告げ人�の老人は「初めてここに来たときは、安倍も青っちかったのになあ」としみじみした声とともに、目を細めた。 「すいません」  そのとき、表の扉が開いて、気忙《きぜわ》しげに白い浴衣《ゆかた》に学生帽をかぶった青年が入ってきた。 「立命館の和泉《いずみ》ですが」  と名乗った青年は、老人から宴会の場所を教えられていた。ふと青年の浴衣に視線を向けると、背中の白い生地に、黒の線で虎が縁取られている。 「ああ、そうか。今日は宵山《よいやま》だから、四条烏丸のあれか」  俺がつい声を上げると、青年は戸惑いと警戒の念が混じった視線を送ってきた。だが、俺が短く鬼語を口にすると、急に安心した顔に戻って、深々とお辞儀した。 「今は何ホルモーをやっているんだい?」 「八瀬《やせ》ホルモーです」  ずいぶん渋いところを持ってきたねと俺が笑うと、和泉青年も苦笑いしながらうなずいた。 「あのう、すいません……」  俺との話が終わると、和泉青年は急に声を湿らせ、老人に向き直った。 「時計を貸してくれませんか?」  胸の前で学生帽を握りしめ、青年は老人に頭を下げた。どうしたんだいと訊ねる老人に、近頃金欠続きで、時計を質屋に入れてしまった、今夜、四条烏丸で、自分が戌《いぬ》の刻(午後八時)を宣言しなくてはならないのだが、そのために友達に時計を借りるのも恥ずかしい、だから今夜だけ貸してもらえないだろうか——と和泉青年は深刻な表情で訴える。俺がいた頃と変わらないなあ、とどこか微笑ましい気持ちで聞いていたが、時計なんて洒落《しゃれ》たものは持っていないよ、と老人が苦笑しながら顔の前で手を振ると、そうですか、と和泉青年はがっくり肩を落とした。その様子がやけに気の毒に映ったので、 「なら、俺のを貸してやるよ」  とつい声を出してしまった。 「え、いいんですか? でも……」  用が済んだら、ここに返しにきてくれ、明日取りにくるから、という俺の言葉に、ハイ、必ず今夜じゅうに返します、と青年は何度も頭を下げた。  青年は押し頂くように、懐中時計を受け取ると、表、裏と丹念に眺め、 「�基�って書いてありますね」  とつぶやいた。ウン、最初の持ち主の名前なんだよ、と伝えると、もう一度、ありがとうございましたと礼を言って、店から去っていった。  翌十七日、京都の街が祇園祭|山鉾巡行《やまぼこじゅんこう》に沸く一方で、俺は一カ月にわたる京都での仕事の最終日を迎えていた。  結局俺は、時計を取りに戻らなかった。挨拶回りに忙殺され、とてもじゃないが、室町通六角まで足を運ぶ余裕がなかったのだ。俺は京都駅で�告げ人�の老人宛に手紙を投函《とうかん》してから、地元への汽車に飛び乗った。手紙には、あの時計は、よければこれから宵山の行事のとき、時を告げるために使ってほしい、きっとあの時計も京都が好きだと思うから、と書きしたためた。一週間後、ありがたく申し出を受け入れる旨の、老人からの返信が届いた。不思議ともっちゃんの時計を手放したという意識はなかった。むしろ、あのときの自分ともっちゃんの気配が、永遠に京都に居続けるような気がして、却《かえ》って小気味よかった。  老人から手紙が届いた翌日、俺は新聞で一人の作家の死を知った。もっちゃんと訪れた丸善の書棚に、俺がその名を見つけた作家は、「ぼんやりした不安」を訴え、自らの命を絶ったとのことだった。その記事を読んで、俺はあの日から六年が経ってようやく、丸善の書棚で手に取った本を買って読んだ。『羅生門』という本に含まれる、「禅智内供《ぜんちないぐ》の」から始まるその一編は、もっちゃんの言ったとおり、本当に坊主の話だった。  それから五年後、もっちゃんはこの世を去った。中学の頃から患っていた結核が、もっちゃんの若い命を奪ったのだ。三十一年の短い生だった。  もっちゃんとは、第三高等学校卒業後、会う機会はなかった。それでも、『青空』を毎号欠かさず送り続けてくれた。年賀状も必ず寄越してくれた。あの鴨川の川べりが懐かしい、といつも同じ内容が書かれていた。もっちゃんの年賀状を見ると、俺は決まって三高の太い白線が入った学生帽を目深にかぶり、前のめりになって歩く、憂鬱そうな蝦蟇顔の男を脳裏に描いた。細い路地に分け入っていく、ゴツゴツとした背中を思い返した。      *  その死後、大勢の人々に愛されるようになったもっちゃんのことを思うたび、俺はいつも不思議な気分になる。  それは、もしもあのとき、もっちゃんが恋文《ラヴレター》を間違えなかったら、その後どういう未来が展開されていただろう、ということだ。  もっちゃんは最後まで、俺の描いた恋文《ラヴレター》を同志社女学校の学生に渡したことを知らなかった。もしも、あの夜、ひと晩かけて書いた恋文《ラヴレター》を、もっちゃんが間違えずに相手に渡していたのなら——きっと、もっちゃんの恋は成就していたと思う。なぜなら、俺はもっちゃんの恋文《ラヴレター》の中身を知っているからだ。  そう、俺は言われたとおり、反古には手をつけなかった。だが、恋文《ラヴレター》は読んだ。もっちゃんが読むなと言ったのは反古だけだったから、などと屁理屈《へりくつ》を言うつもりはない。ただ俺が言いたいのは、もっちゃんの恋文《ラヴレター》は、掛け値なしに素晴らしいものだったということだ。便箋には、一人の青年の真摯《しんし》な心の声が、ありのまま綴《つづ》られていた。その激しくも美しい想いに、俺はひたすら圧倒された。もしも、相手の女子学生があの恋文《ラヴレター》を受け取っていたなら、もっちゃんの恋は違った結末を迎えたはずだと俺は断言できる。  だが、その場合、もっちゃんは小説を書き始めただろうか? きっかけが失われても、果たしてもっちゃんは、いつか原稿用紙に向かって筆を執っただろうか? エンジニアを目指し、理科甲類に入学したもっちゃんが、その進路を百八十度変えるほどの原動力を、自身に持ち得ただろうか? 一方で、もしももっちゃんが小説の世界などに身を投じなければ、三十一歳などという若さでこの世を去ることもなかったのではないか、とも俺は思うのだ——。  こんな具合に、「もしも」がいたちごっこを始めると、もはや俺の頭では始末に負えなくなる。人知の及ばぬ、大きな流れのような存在を前に、ひたすら卑小な己を確認するばかりになる。ただ、もっちゃんの作品は、これからも永遠にこの世に残り続ける。これだけは揺るがない真実である。  毎年、祇園祭の記事を新聞に見つけるたび、俺は老人に預けた時計のことを思う。俺ともっちゃんの思い出は、今も誰かの懐で揺れながら、祭りの空気を楽しんでいるのだろうか——と。 「梶井基次郎《かじいもとじろう》はその生涯において、たった一冊の本しか出さなかった」 「なるほど」 「作品の舞台となった丸善京都河原町店が閉店になると決まったとき、みんなが梶井基次郎の本を買い求めにきて、閉店直前の一週間で、何と千冊も文庫が売れたそうだよ」 「ほほう、そいつはすごいな」 「最終日、営業時間を終えて、店の人が閉店の整理を始めると、フロアのあちこちから、お客さんがこっそり置いたレモンが見つかったんだってさ。どれもレジからは見えない場所に、ひっそりと置かれていたそうだよ。いったい、いくつ置かれていたと思う? 全部で百個以上のレモンが見つかったんだ——って、聞いているのか、安倍?」  俺が曲目リストをめくる横で、高村《たかむら》はやけに不満そうな声を発した。ああ、聞いてる、と俺はリストから面を上げた。 「いや、実にジンと来る話だ、高村くん。だが、俺がさっきから疑問に思っているのは、なぜこうしてカラオケに興じている最中、そんな話をする必要があるのか、ということだ」 「だから、最初に言ったじゃない」 「最初? いつ?」 「ここのカラオケに入るときだよ。このビルには前に丸善が入っていたって教えたじゃないか。まあ、もっとも、梶井基次郎がいた時代と場所は違うんだけどね」  知らないね、聞いてないね、と突っぱねる俺の言葉を無視して、高村は、 「ねえ、言ったよね、楠木《くすのき》さん」  と呼びかけた。俺の隣でクリームソーダを黙々と飲んでいた楠木ふみが小さくうなずく。  フンと鼻を鳴らして、俺はぶ厚い曲目リストに戻った。スピーカーから曲のイントロが始まり、「あ、僕だ、僕だ」と高村はマイクを持って立ち上がった。そのまま藍染めの浴衣を翻し、高村はモニターの前に向かう。  聖歌隊仕込みと噂の、異様に達者なファルセットを駆使して、高村は「木綿のハンカチーフ」を歌い始めた。何でも、LAで生活していたとき、御母堂が毎日のようにキッチンで流していた、高村にとって唯一無二の懐メロらしい。  下手に声が高いだけに、逆に艶《なま》めかしくて気色の悪い高村の歌声を聞きながら、俺は胸元から懐中時計を取り出した。 「午後六時かあ、そろそろ行かないといけないかな」  そのまま机に置いた懐中時計を、楠木ふみは手に取って眺めていたが、裏返したとき、おや? という表情を見せた。 「どうした?」  楠木ふみは「これ」と鈍い光を放つ銀色の盤を指差した。よく見ると、何か文字が刻まれている。 「�基�っていう字かな? 何だろう。ぼやけてしまっていて、よくわからないな」  照明に当てたりして、いろいろ試していると、歌い終えて戻ってきた高村が、俺の手元の時計を見て、「あ、懐かしいな」と声を上げた。 「その時計、二年前、菅原さんが持っていたやつだろ? どこでもらったの?」 「昨日、『べろべろばあ』で他の大学の会長三人と集まって、クジを引いたんだよ。何だお前、細川《ほそかわ》さんから聞いていないのか?」  細川さんとは、立命館大学白虎隊第五百代会長の名前である。 「それで俺が、見事当たりを引いたってわけだ。おめでとう、と店長から時計を渡された。まったくスガ氏に続いて、二回連続でウチが幹事をする羽目になるなんて、ツイてない」 「じゃあ、今回も四条烏丸で集まった後に、『べろべろばあ』で大宴会だ」 「うむ、そうなるな。でも、ちょっと変なんだ」 「変? 何が?」  高村の声に、楠木ふみもクリームソーダのアイスをつつく動きを止めて、顔を向けた。 「一サークルにつき、三回生と一回生が十人ずつだから、四サークルで八十人のはずだろ? なのに、店長が九十人で用意しておくって言うんだ。残りの十人は何だと訊ねても、店長、ニヤニヤするばかりで、何も教えてくれなかった。明日になったらわかる、ってはぐらかされた」  何だろう、ひょっとして新しいサークルとかが登場したりして、と冗談めかして高村が言うのを、くだらん、きっとどこかのOBでもくるんだろう、と俺は一蹴《いっしゅう》した。 「それよりも、俺は一回生がちゃんと集合しているかが心配だ。本当に十人集まるのかな。これまでの新歓活動が惨憺《さんたん》たる出来だったから、俺はまったくもって自信がない」 「大丈夫だよ。何とかなるって」 「本当か? いつでもそう都合よくいくものかな」 「一回生には何て連絡したの?」 「俺たちのときと一緒だよ。祇園祭宵山午後七時——」  四条河原においでやす、と高村と見事ユニゾンが決まったとき、入り口のドアが開いて、 「ああ、遅れてごめん」 「いやあ、河原町通はものすごい人、人、人」  と騒々しく、浴衣姿の三好《みよし》兄弟が現れた。 「うわっ、安倍、浴衣が似合わないな」 「何だか、病院から抜け出してきたみたいだぞ」  入ってくるなり、容赦ないファッション・チェックを浴びせかける二人に、 「スガ氏から昨日、渡してもらったんだよ。少し大きいんだよな、これ。しかも、ナフタレンの匂いがひどい」  と俺が答えると、隣で楠木ふみが少し離れていった。楠木さんは浴衣が似合うねー、と三好兄弟が声を揃える横で、「道も混んでいるだろうし、早めに出発しておいたほうがよさそうだな。芦屋《あしや》たちも集合場所に向かっているだろうから。じゃあ、これで、最後の一曲にするか」と俺はマイクを片手に立ち上がった。 「そう言えば、さっきの梶井基次郎の本の名前は何て言ったっけ?」  京都に住んでいたら常識だぞ、と嫌味な前置きをしてから、高村は本のタイトルを教えてくれた。なるほどとうなずいて、俺はリモコンに曲目ナンバーを打ちこむ。  モニターを背にした俺の前には、揃って藍色の浴衣を着た面々が並んで座っている。もちろん、背中には悪趣味な白い縁取りの竜が躍っている。何を歌うつもりか、とモニターを見上げていた四人だったが、タイトルとともに作詞作曲者名が現れた瞬間、「うわ」という声が一斉に湧き起こった。  イントロの開始とともに、俺は手にしていた懐中時計を首からかけ、深々とお辞儀をした。歌詞を見る必要はない。なぜなら、すべてインプットされているから。  もちろん歌うは——さだまさしで『檸檬』。 [#改ページ] 第四景 同志社大学黄竜陣  木枯らしが京田辺《きょうたなべ》の空を、粉雪を乗せてぴゅうと吹き、教室のなかでは受験生の緊張した息づかいがはちきれそうに充満する、そんな寒い冬の日に、私は桂《かつら》先生に出会った。  私がいた教室の監督官だった桂先生は、すべての試験科目が終わったあとに、 「運がいい人は受かる。運がなかった人は残念。また来年頑張りなはれ」  とマイク越しに告げ、「おつかれさん」と手を振ってから教室を出て行った。  一人の男の受験生が、先生のあとを追いかけていくのが見えた。先生を呼びとめ、ペコペコ頭を下げている。私はフンと鼻を鳴らし、席を立った。受かってから、挨拶《あいさつ》に行けっちゅうの。私は荷物を持ってドアを出ると、足早に先生の横を通り抜けた。間近でちらりと顔をのぞいたが、先生は意外と背が小さく、私とほとんど変わらないくらいだった。テレビや雑誌で見慣れた、縦に長く、皺《しわ》の深い横顔だったが、思ったより撫《な》でつけた銀髪の下に頭皮が透けて見えた。「先生、握手してください」と頭を下げる男に、先生は苦笑いしながら手を差し出していた。  自分は運のいい人間でありますように、と念じながら校門を出たとき、 「巴《ともえ》」  と呼び止められた。マフラーを鼻の下まで巻いた彼氏が立っていて、右の手袋を上げて見せた。二人並んで、雪が足元から吹き上がってくる長い坂を下った。坂の先では近鉄|興戸《こうど》駅が、ぞろぞろ連なる受験生の列を呑《の》みこんでいた。  近鉄電車で京都駅に向かい、そこから新幹線に乗って、地元へ戻った。新幹線の車内で、彼氏は隣の席で黙って英単語帳を眺めていた。私は今日で受験が終わりだけど、彼氏はまだ本命の国立の試験が残っているのだ。 「受かっているといいな」  と私がつぶやくと、彼氏は「受かってたら、入学金どうしよう」と返してきた。 「何のこと?」 「いや、京大にも受かったら、こっちの入学金無駄になるだろ? でも、払わないのも、京大落ちたときのこと考えると怖いしなあ」 「そんなこと受かってから考えなよ」 「いや、受かってるでしょう」  俄《にわか》に嫌な気持ちがこみ上げて、私は彼氏に背中を向け、目を閉じた。どうして、この人はいつもこうなんだろう。彼にとって、今日の試験が滑り止めであることも、私なんかよりうんと賢いことも、予備校の模試でよく冊子に名前が載ることも全部承知している。それなのに、いちいちこうやって自分の能力を誇示してくる。私の第一志望がこの大学で、桂先生の授業を受けたくて受験した、って知っているのに、桂先生が監督官だったと聞いても、「ふうん」で終わり。何だお前、ウチの父親か。  結局、私は彼に背中を向けたまま寝てしまった。駅に着いたところで起こされ、新幹線を降りた。地元はすっかり夜で、彼氏はバスに乗り、私は迎えに来てくれた兄の車に乗って家に戻った。 「どうだった?」  と控えめに訊《たず》ねてくる兄に、 「運がよかったら受かるらしいよ」  と答えた。まあ、違いないな、と兄は笑って、車のヒーターの温度を上げた。  どうやら、私は運がなかったらしく、大学に落ちた。  春より私は、地元の予備校に通い、浪人生活を始めた。大学生になった彼氏とは、夏休みが始まる前に別れた。こっちに気になる人が出来たとか何とか、ごちゃごちゃ言いだしたかと思えば、でも巴の気持ちも大切にしたいから、なんてふざけたことをぬかすから、京都まで行って私からフッてやった。まったく最後までイジイジして、はっきりしない男だった。いくら顔がよくったって、あれじゃ駄目だ。図体《ずうたい》ばかり立派で、情けないったらありゃしない。「巴の気持ちも大切にしたいから」だあ? 気色悪くて、ヘドが出るわ。何なの? 京大生って、あんな阿呆ばっかなの?  腹が立つ、腹が立つ、と思いながら勉強したら、夏休みの間に急に成績が伸びた。クラスの指導員から、山吹《やまぶき》さんは私学一本に絞らず、国立を受けてもいいんじゃないか、と言われたけど、私は去年と同じ大学を受験した。だって、あそこには桂先生がいるから。  一年前と同じ、雪のちらつく寒い冬の日に、私はまた新幹線に乗って京都にやってきた。  監督官は桂先生ではなかったけれど、どうやら今度は運がよかったらしい。  二度目の挑戦で、私は晴れて同志社大学の門をくぐることになった。      *  桂先生は英文学科の教授であり、同時に翻訳家でもある。  私の母が桂先生の翻訳ものの大ファンで、家にはたくさん、桂先生が訳した本が置いてあった。高校生になって、少しずつ本を読むようになった私は、身近にあった翻訳本に手を出すうち、すっかり桂先生のファンになってしまった。  私は女性が主人公の話が好きだけど、「わかる、わかる、ぐっしょり泣いちゃうよね」みたいな簡単な話は好きじゃない。その点、桂先生の本は女性が主人公でも、常に女性に対して、微妙に意地悪なスタンスを取っていて、そこに不思議と好感が持てた。もちろんそれは原作者の書いた内容に従ってのことだし、作品によって当たり外れもあるけれど、どれも読者に媚《こ》びない感じがいいよね、と私と母は声を揃えて褒め合った。妙なところで趣味が一致する母娘だった。  もともと、英文科志望だった私は、どうせ行くのならと、桂先生のいる大学を目指すことにした。試験会場に桂先生が現れたときはびっくりしたけど、これも教授の仕事なんだと思うと、何だかおかしかった。  試験用紙が配られてから試験開始まで、しばらく時間が空いたとき、桂先生は急に、 「もし合格しても、君らは三回生になるまで田辺やな。田舎やけど、空気はええぞ。田辺から今出川《いまでがわ》に来たら、空気が悪なって、急に鼻毛が伸びだすらしい」  と言いだして、受験生を笑わせた。桂先生なりに受験生の緊張を解《ほぐ》そうとしたのだろう。私はその言葉に、先生の本に共通する、一見意地悪そうだけど実はやさしい、という雰囲気を嗅《か》ぎ取って、ああ、やっぱりこの先生に教えてもらいたいな、と思ったものだ。まあ、運がなくて、もう一年余計にかかったけど。  同志社大学の一、二回生は、京都市街からだいぶ南に外れた場所にある、京田辺キャンパスに通う。京都|御所《ごしょ》の北にある今出川キャンパスに通うようになるのは、三回生になってからだ。今出川デビューの日まで、一、二回生はひたすら田辺坂と呼ばれる、長い坂道を登って、山の上のキャンパスに向かわなければならない。私は文句も言わず、毎日せっせと坂を登り続けた。なぜなら、その先に桂先生がいると思ったから。  ところが、ここに大きな誤算が生じた。  坂の上に、先生はいなかった。一、二回生が受講する、一般教養の授業を先生は持っていなかったのだ。去年までは京田辺キャンパスでも基礎論を一コマ受け持っていたが、今年から、別の先生に交代してしまったらしい。  さらに、衝撃的な情報がもたらされた。何ということか、桂先生は今年で退官してしまうのだという。そんな馬鹿なと思ったが、確かにそれなりのお歳だし、あり得ないことではない。そのうち、桂先生のゼミに所属するサークルの先輩から確認した、という極めて信憑性《しんぴょうせい》の高い情報まで伝わってくる。  冗談じゃない。  私は呆然《ぼうぜん》としながら、田辺坂を見下ろした。毎日坂を登っていると、ヒールの底が異常な早さですり減っていく。しかも、縦の方向に斜面を描いてすり減るものだから、平地での違和感もバツグンだ。おかげで好きじゃないスニーカーを履いて、毎日坂を登る羽目になってしまった。それって何のため? そう、いつか桂先生の授業を受けるため。でも、桂先生辞めちゃうじゃない。ちくしょう、それを先に知っていたら、わざわざ浪人しなかったよ。  私は激しく憤慨した。もしも現役で受かっていたら、去年、このキャンパスで基礎論を受講できたのだと思うと、残念でならなかった。母にこのことを話したら、「巴はどこまでもアンラァキー・ガールね」とやけに巻き舌で発音されて、無性にむかついた。  すでに新歓期の喧騒《けんそう》は過ぎ去り、サークルにも入りそびれたまま、気がつけばもう六月も半ば過ぎ。じめじめとした梅雨の季節が田辺に訪れつつあった。  ある朝、目が覚めてカーテンを開けると、灰色の雲が空を圧し、向かいのアパートの壁面を、雨が暗い色に染め替えていた。彼方《かなた》に連なる山々は霧に隠れ、キャンパスの建物は驟雨《しゅうう》に覆われ煙っている。ああ、学校に行きたくないなあ、とその様子を遠目に眺めていたとき、私の頭にあるアイディアが浮かんだ。  私はいつもより濃い目に化粧して、襟付きシャツにハーフパンツという出で立ちで、鏡の前に立った。四回生くらいに見えるだろうか、と思いながら、試しにこたつ机の上にあった受話器を手に取って、CanCam のスチール写真のように片足を上げ、ウインクしてみた。たいそう気味が悪く、私は「ああ、雨が鬱陶《うっとう》しいんじゃ、足が太いんじゃ」とつぶやいて、傘を片手にヒールの靴で部屋を出た。  坂の上のキャンパスには向かわず、そのまま近鉄電車に乗って、京都駅を目指した。京都駅で地下鉄に乗り継ぎ、今出川駅で下車した。  駅の外に出ると、赤レンガの建物が雨の中に佇《たたず》んでいた。  自分の大学なのに、入っていいものか少し戸惑いながら、私は初めて今出川キャンパスに足を踏み入れた。守衛室の隣の地図で、向かうべき場所を確認した。桂先生が退官するならするで仕方がない。これまで立派にお勤めされてきたのだから、お疲れさまでしたと私も敬意をこめて温かく送り出そう。だが今年度が終わるまで、先生はこの今出川キャンパスで教鞭《きょうべん》をとっている。あんな、京都市内より、奈良にほど近い場所で、指をくわえている場合じゃない。授業にもぐりこんで、一度くらい桂先生の教えに触れてみないと、悔やんでも悔やみきれない。  すれ違う学生は京田辺のキャンパスを歩く人たちより、明らかに落ち着いて見える。浮いていないかな私? と心配しながら、文学部の建物のドアをよっこらせっと開けた。      *  入り口脇の壁にはネームプレートがずらりと並んでいて、それぞれの横に小さなランプが備えつけてある。無意識のうちに桂先生の名前を探していたら、六階という区分けに「桂大五郎」というプレートを見つけた。プレート横のランプは点《つ》いていない。留守ということなのかな?  授業はどこでやっているのだろう、と階段を上って二階に向かったが、どこにも教室がない。フロアすべてが、教授の研究室で埋まっている。三階に行っても同じ。あるのは研究室のドアばかり。  どうやら、講義は他の建物で行われているらしい。てっきり文学部に行ったら、教室で授業をやっていて、あわよくば桂先生のクラスに紛れこめないか、などと思っていたのに、いきなり出鼻をくじかれ意気消沈した。一階の事務室で訊ねたら教えてくれるのかもしれないけど、何だか気が引ける。あなたは誰? ウチの学生なら、どうしてそんなこと訊《き》くの? なんて返されたら、どうしよう。  あれ、これで終わり? キャンパスに入って、まだ五分じゃない。何てお粗末な結果だろう、としばし悲しい気持ちに陥ったが、せっかくだし先生の部屋の前まで行ってみるか、と私はエレベーターに乗って六階に向かった。  六階も研究室が通路に沿って、ずらりと並んでいた。部屋のドアにはいずれも、「○○研究室」と教授の名前を冠したプレートが掲げられている。フロアの中央には、磨《す》りガラスに覆われた大きな書庫が構えていて、まわりを研究室が囲むという構造だ。途中、ドアが開いていて、ふとのぞくとセイウチのように腹回りの立派な、大男の白人の先生が熱心に本を読んでいた。私は足音を消してドアの前をそっと通り抜けると、忍び足で絨毯《じゅうたん》敷きの通路を進んだ。  桂先生の研究室は通路の突き当たりにあった。 「桂大五郎英文学研究室」というプレートの下には、「在室」「昼食」「会議中」「不在」と項目に分かれた連絡板が貼ってあり、赤いマグネットが「不在」の欄に置かれていた。あーあ、と私はため息をついた。「不在」じゃないよ、どこで授業やってるとか書いておいてよ、と恨めしげに、連絡板を見つめていると、突然ドアが開いて、向こう側から桂先生の長い顔がにゅっと現れた。  桂先生はいきなり目の前に現れた学生に、しばし面食らった様子だったが、 「おお、君、いいとこにおった。ちょっと頼まれ事されてちょうだい。今すぐ、この鍵《かぎ》で五階へ行って。大急ぎで書庫から取ってきてほしいものがあんねん」  と有無を言わさぬ間合いで私に鍵を手渡した。  桂先生が登場したときから、私は驚きのあまり声も出ない。「違うんです」のひと言が言えぬまま、気がつけば、私は桂先生から場所の説明を受け、小走りで五階に向かっていた。  各階、同じ構造になっているらしく、五階に下りて、フロア中央に構える書庫を壁沿いに進むと、入り口にたどり着いた。  渡された鍵で扉を開け、足を踏み入れた瞬間、むっとした空気が鼻を撲《う》った。桂先生が言っていた「入って右手の棚の中段にある、阪神《はんしん》百貨店の紙袋」はすぐに見つかった。ずしりと重い袋を抱え、急いで六階に戻ると、「おお、ご苦労さん」と片手をヨッと挙げて笑いながら、先生は紙袋を受け取った。中から、ぶ厚い本を数冊抜き取ると、それをカバンに入れた。 「ホンマすまんけど君、これ、さっきのところに戻しといてもらえるか? あ、鍵はここの下に隠しておいてくれたらいいから」  先生は屈《かが》むと、扉の脇に置いてあるクワズイモの鉢を少し持ち上げて、その下を示した。 「あ、あのう、私——」 「わかってる」  桂先生は右手をパッと挙げ、即座に私の言葉を遮った。 「あれやろ、次の発表のことやろ? 堪忍、明日にしてくれんか? 君の発表、何やったっけ? あ、言わんといて。今、思い出すから。せや、キーツや。ジョン・キーツとブラウニング。せやろ? えらい渋いとこ、探してきたなあ」  桂先生は聞いたこともない人名を挙げ、一方的にしゃべり続けると、 「今からちょっと約束があるんや。せやから、ごめん、失礼するわ。あ、これ助かった。さんきゅうな」  と私が手渡した袋を持ち上げて、エレベーターのほうへ足早に去っていった。  台風に襲われ、ひと雨やられたような気分のまま、呆然と猫背気味の後ろ姿を見送った。ふと我に返ったとき、一年ぶりの再会を終え、手のひらの鍵がぐっしょり汗に濡れていた。  依然、胸の鼓動を感じながら、阪神百貨店の紙袋を抱え、五階に向かった。書庫のドアを開けると、古い本の臭いが素早く身体にまとわりついてきた。急にむず痒《がゆ》くなる鼻の頭を、指でこすりながら、右手の棚の前に進む。  紙袋を持ち上げ、元の位置に戻そうとしたとき、ふと、棚の奥に古い木箱が置いてあることに気がついた。さっきは急いでいて気づかなかったが、紙袋を下ろしたことで、衝立《ついたて》がなくなり、棚の奥が見えるようになったのだ。  少し腰を屈めてのぞいたところ、ずいぶん古い色合いの木箱の表面に、太いラインで、十字のマークとそれを囲む円が描かれている。  私は棚の上下左右を見回した。どこもぎゅうぎゅうに本が並んでいるなかで、この場所だけ、ぽっかりと書籍の緊張感から隔絶している観がある。学会資料と「ユリイカ」のバックナンバーとの間に、身体をちぢこめうずくまっている木箱。奇妙な違和感を覚えながら、私は丸十字のマークをじっと見つめた。  気がついたとき、私はふいと手を伸ばし、箱を奥から引っ張り出していた。  手元にやってきた箱を見下ろし、 「先生の手伝いもしたし、このくらいOKよね」  とあやしい言い訳とともに、およそ三十センチ四方の木箱の蓋《ふた》をゆっくり開けた。柿色の風呂敷《ふろしき》包みが、箱の形にすっかり馴染《なじ》んで沈んでいた。一瞬|躊躇《ちゅうちょ》するも、結び目を解いて、箱の外に風呂敷の角を広げた。  何だこりゃ——。  箱の底のものを認めたとき、思わず私は首を傾げた。  てっきり昔の本か書類が出てくるのだろうと思いきや、そこには黄色い浴衣《ゆかた》が畳んで収まっていた。もっとも相当古びて、あちこち虫にも食われ、全体的にずいぶん白っぽい風合いに変わってしまっている。  襟の部分に手をふれると、かさかさとした布の感触が訪れた。そっと上から押さえると、合わせた襟の下でパリッとかすかな音がした。おや? と手を差し入れると、滑らかな手触りがする。取り出してみると、すっかり茶色に変色した油紙のようなものが出てきた。  手のひらに載せてみるも、やけに軽い。薄い布でも包んでいるのだろうかと私は油紙の端をつまみ、そっと開いてみた。  何だこりゃ——。  油紙の内側から現れたのは、手紙だった。  数えてみると全部で四枚。紙の質やインクの薄まり具合から見ても、相当古いもののようだ。しかも、ざっと目を通したところ、文章はすべて英語で書かれていた。箇所によって太さが違っているから、ペンで書かれたものだろう。おそらく日本人ではなく、ネイティブの人間が書いたものだと思われる。少し右上がりの文章は、実に流暢《りゅうちょう》な筆記体で認《したた》められている。  それにしても妙な手紙だった。何しろ、一枚目には、中央にたった一つの単語しか記されていない。  見たことのない単語だ。私は小さくつぶやいてみた。 「|horumo《ホルモ》——」  変な言葉だな?  私は首を傾げながら、紙をめくり、二枚目から始まる、癖のあるアルファベットの文章を目で追った。      *  桂先生の研究室まで戻り、クワズイモの鉢の下に書庫の鍵を隠すと、エレベーターで一階に降りた。  建物の外に出ると、まだ雨が降っている。  桂先生が学校にいなければ、受けたい授業だってない。かといってこのまま田辺に帰るのも、何だかもったいない。私は取りあえず、傘をさして今出川通を東に歩き始めた。  今出川キャンパスに入るのは初めてでも、このへんの地理は少し知っている。確かこの先に、橋があるんだよね。あ、あった。それで、これが鴨川でしょ、あの三角洲《さんかくす》は鴨川デルタ。向こうが糺《ただす》の森《もり》、その奥に下鴨神社。そうそう、こんな感じだったなあ。  どうして、鴨川デルタなんて名前を知っているのかといえば、去年、あそこであいつと別れ話をしたから。来月でもう一年が経とうとしている。早いなあ。でも、あのとき、何で私、別れ話をした後に、あいつと四条で晩ごはんなんか食べたんだろ? さっさと帰ったらよかったのに、変なの。  こんなところを歩いていて、ばったりあいつに会ったりしたら嫌だな。ここを真っすぐ行ったら京大があるって言ってたし。そういえばあいつ、四月に電話してきやがったよなあ。うっかり出ちゃって、同志社に受かったことを教えたら、あいつ、おめでとう、よく頑張ったな、とか言ってきて、あらあら、少しは気の利いたこと言えるようになったじゃない、と思っていたら、十分後には自分の彼女の愚痴を話し始めてやんの。ど阿呆って叫んで、電話切ってやった。本当に、どこまで無神経な奴なんだろ。何で私があんたの彼女のこと相談されなくちゃいけないのよ。なに勝手に「何でも相談できる相手」にカテゴライズしてくれてんのよ。あいつ、先月も電話してきて、この前はゴメンね、とかごちゃごちゃ留守電に入れてたけど、いったい何のつもりなんだろ。別れて、一年経ったのに。というか、もう一年も経つんだ……。  ぼんやりあいつのことを考えながら、赤信号でふと顔を上げると、信号機の下に「百万遍《ひゃくまんべん》」という案内プレートがくっついていた。聞き覚えがある地名にまわりを見回すと、大きな交差点の対角線上に、大学らしき建物が見える。ウチの大学じゃあまり見られない、攻撃的な色合いの看板がいくつも並んでるから、あれが京大なのかな、せっかくここまで来たんだし、時計台とか見てから帰ろうかな、まさかあいつと会うこともないだろうし——とか考えながら、正面に顔を戻したとき、私は思わず「きゃっ」と声を上げた。  幸い、雨の音に掻《か》き消され、私の声は相手には届かなかったようだ。私の斜め前に立つ男は、依然、傘をさして前方の赤信号を眺めている。  信号が青に変わり、男はすたすた歩き始めた。私もあとに従って、横断歩道を渡る。横断歩道をこちらにやってくる人々は、誰もが目を剥《む》いて男に視線を向けている。人の流れが割れて、男が進む先には自《おの》ずと道が生まれる。郵便局から出てきたおばさんが、ギョッとした表情で立ち止まっている。けれど、そんなことまるでお構いなしに、男はさっさと進んでいく。  横断歩道を渡ったら、男はまた信号待ちのために立ち止まった。私も同じく信号待ち。  男のすぐ後ろに立ちながら、私は心の底からクエスチョンを発した。  どうして——この人はチョンマゲなんだろう?  真後ろから見ているからよくわかる。この人、カツラじゃなくって、本当にチョンマゲを結っている。マゲがしっかり立ちきれていないあたりが、手作り感満点だ。剃《そ》り上げたばかりなのか、むき出しのてっぺんの地肌が青々しすぎて痛々しい。  首から下だけを見たら、チェック柄の長袖シャツにジーンズと、別におかしいところは何もない。まあ、シャツをそんなにジーンズに押しこまなくたって、とは思うけど。顔にしたって、色白で気のやさしそうな感じだ。どれもいたって普通なのに、ただ一点、髪形だけが普通じゃない。  信号が青になって、男とともに私も歩きだす。予想どおり、男は京都大学の構内に入っていった。私も少し伏し目がちになって、大学に潜入する。  周囲の熱い視線を浴びながらも、男は面を上げ、胸を張って進んでいく。いったいこの自信はどこから来るのか。やがて男は軽快な足取りのまま、途中の建物に消えていった。  ゆさゆさとリズミカルに揺れ続けるマゲのシルエットが、しばらく脳裏から離れぬまま、降り続く雨の中を進むと、唐突に時計台が現れた。こんもりと半円を描く大きなクスノキと時計台を、携帯のカメラで撮って、帰りはバスで京都駅に向かった。  バスの中で私は考えた。あいつにしろ、さっきのチョンマゲにしろ、あそこの大学って阿呆ばっかなのかな——。  京都駅から近鉄線に乗ったところで、バッグから紙の束を取り出した。あの油紙に包まれていた手紙を、私はこっそり、書庫の外のコピー機でコピーしていたのだ。本当はいけないのかもしれないけど、だってあまりに意味のわからないことだらけで、すごく興味が惹《ひ》かれたんだもの。 「horumo」とだけ記された一枚目をめくると、「Dear Joe」から始まる手紙が現れる。ページをびっしりと埋めたアルファベットの文章が三枚続き、最後に跳ねるような優雅な筆致で、「W・S・Clark」という署名。署名の下に、この手紙が書かれた日付が記されている。私はその日付を見て、改めて驚嘆する。  一八七七年五月九日。  優に百年以上前の手紙が、あの木箱の中に眠っていたのだ。      *  果たして私は、幸運な女なのか、不運な女なのか。  せっかく授業をサボって、雨の中、今出川まで行ったのに、桂先生に会うも結局授業を受けられぬまま、すごすごと帰ってきた。これは明らかに不運。  一方で、妙ちきりんな手紙に出合った。単に私が図々《ずうずう》しいだけかもしれないけど、これってどこか桂先生が導いてくれた結果のように思える。印刷物に載っている文章だけが英語じゃないよ、と桂先生がメッセージを送ってくれていると思ったら、何だか幸運な気がしてこない? まあ、勝手にコピーまで取れとは、さすがに桂先生も言わなかっただろうけど。  両者痛み分けってところかな、なんて考えながら、私は退屈な授業の合間、手紙を読んだ。英文科だから英語は得意なほうでも、直筆の手紙というのは読んだことはない。当たり前の話だが、印刷されたアルファベットのようにすらすらとは読めない。おばあちゃんの筆ペンで書いた手紙の字が、ときどき達者すぎて読めないように、この手紙も「u」だか「n」だか「r」だか、潰《つぶ》れてしまって読み取れない字がしょっちゅう出てくる。何せ、百三十年前の手紙なのだ。  結局、手紙を解読するのに、三日かかった。わからない文字や文法は、教室でシンガポールからの留学生を捕まえて教えてもらった。  改めて訳したものを読み返しての率直な感想は、「何だこりゃ?」ということだ。冗談で書いたものなのか、それとも本気なのか、判断がつかない。とにかくどこもかしこも妙だった。手紙の内容はというと、「W・S・Clark」という人が「Joe」という人へ、預り物を届けにきたので、受け取ってもらえないか、とオファーするという実にシンプルなものだ。ところが、このクラークさんとジョーさんはお互い外国人なのに、やけに日本づいていて、手紙の途中に突然、日本の地名が出てきたり、お芋の名前が出てきたり、さっぱりわけがわからない。そもそも話題の中心である「horumo」というものがわからないのだから、一向に話がつかめない。  オックスフォード英英辞典を使って調べてみても、「hormone(ホルモン)」はあっても、「horumo(ホルモ)」はない。子音と母音の組み合わせから見て、英語ではないのかもしれないが、かといってこんな日本語聞いたこともない。広辞苑《こうじえん》を調べても、やはり「ホルモン」しか載っていない。何なのよ、ホルモって?  私はベッドに寝転がって、もう一度訳を読んでみる。わからない単語には(?)をつけたけど、私としては文章全体に(?)をつけたい気分。本当に何なのよ、「horumo」って。 [#ここから1字下げ]  親愛なるジョーへ  この箱をようやく君に手渡すことができて、私はとてもよろこんでいる。  実はこの箱は、札幌でロシアとの貿易の仕事をしている、ある若い日本の友人から、ぜひ君に手渡してほしいと懇願され、預かってきたものだ。彼が言うには、彼は「ishin(?)」の前に、君のいる場所で働いていたそうだ。彼は当時、十八歳か十九歳で、そこで「ishin」の前に、仲間と一緒に「horumo」をしていたのだという。  私が「horumo」とは何だと訊ねると、彼は競技だと答えた。彼の説明はたいへんユニークで、意味のつかめないところも多くあったが、私が思うに、日本に古くより伝わる陸上スポーツの一種のようだ。「horumo」というのは、掛け声で、降参するときに発するのだという。何か専門の道具を用いるようだが、何度聞いても、聞き取れない言葉だった。どうやら我々の言葉には存在しない単語らしい。  彼は今も、昔所属していたさつま芋に非常に誇りを持っているようだ。彼はさつま芋の人々とチームを組んで、「horumo」をプレイし、箱の中に収めてある衣服は、そのためのユニフォームだったという。彼はさつま芋はイエローで、他にブルー、レッド、ブラック、ホワイトがあったと言っていたが、これはチーム・カラーのことだろうか? 彼は昔の中国の話を持ち出して説明してくれたが、私にはよく理解できなかった。  どうしてこの箱をジョーの元へ運んでほしいのか、と私が友人に訊ねると、彼は「生まれたところに戻るべきだからだ」と答えた。何が生まれたところか、と訊ねると、彼は黙って木箱を指差した。彼が言うには、「ishin」の前の争いで、さつま芋の家の一つが焼けてしまった。彼が燃え盛る家から運び出したものの一つが、このユニフォームだったという。その後、京都の街の安全が不安定になり、「horumo」は中断し、彼はその後、二度とプレイすることはなかったそうだ。  私は彼に、今もその「horumo」は京都で行われているのか、と訊ねた。彼はわからない、と首を振ったが、他のチームの人間が、人知れず続行していることもあり得ると答えた。彼はとても懐かしそうに、「もう十年以上前の出来事になるが、さつま芋の人々は相手が降参を宣言しても、最後の一人が敗退するまで、徹底的に戦ったから、他のチームからとても嫌がられた」と笑いながら、話してくれた。  ジョー、君は知っているだろうか? この木箱に記された、サークルにクロスのマークは、有名なさつま芋の紋章だそうだ。宝物に触れるように、友人がこの箱を扱っていたのが、非常に印象的だった。彼は私に、自分が属したチームの名前を教えてくれた。とても誇り高い表情で、彼は「イエロー・ドラゴン」と言って、箱のユニフォームを指差した。  もしも迷惑でなかったなら、ジョー、君の元でこの木箱を保管してもらえないだろうか? 私の友人が言うには、「イエロー・ドラゴン」がふたたび京都で復活する日に、これが必要になるのだそうだ。彼は「horumo」が中断したとき、チェアマンにあたる人物から、復活のための三つの条件を伝えられたのだという。私はその条件を聞いたが、まったく意味を理解することができなかった。しかし、彼の目は真剣そのものだった。彼が自ら記した三つの条件は、この手紙と一緒に同封しておく。  私はこのユニークで、かつどこか神秘的な話を、とても愉快な気持ちで聞いた。我々が信じる神の教えとは大きく異なるが、この国の人々が持つ、目に見えぬ存在への、穏やかな信仰心を垣間《かいま》見たようでたいへん興味深い。もしも、君が私の申し出を受け入れて、この箱を京都の地で保管してくれるのなら、私は多大なる感謝の気持ちを君に捧《ささ》げるつもりだ。 [#地から1字上げ]君の友 W・S・Clark [#ここで字下げ終わり]  改めてじっくりとこの手紙を読んで、真っ先に頭に浮かぶのが、「三つの条件、読みたいよ」だ。でも、油紙にはクラーク氏の手紙しか同封されていなかった。何せ百三十年も昔のことだ。散逸してしまったのかもしれない。  それにしても変な手紙だ。クラーク氏は一応内容を把握した上で、理解できないと言っているみたいだけど、私はそれ以前に、どうしてさつま芋が「家」を持って、「イエロー・ドラゴン」というチームを作って、果ては信仰心につながっていくのか、まったく話の筋がつかめない。さつま芋の家が焼けた、って書いてあったけど、焼き芋をしたときの、焚《た》き火の不始末かしら? 推理小説とか全然、犯人を当てられないし、こういう断片的な話をつなげるのって苦手——と天井を見上げ、ぼんやり考えていたら、机の上で携帯がぎぎぎと音を立てて震えた。三回鳴っても、まだ鳴り続けている。電話だ。私は腕を伸ばして携帯を取り上げ、パネルを開いた。  液晶画面に表示された名前に、私は舌打ちをした。あいつだ。まったくいつも、タイミングがいいんだか、悪いんだか。  いったんは躊躇したけど、結局「なに?」とことさら不機嫌な声を装って、電話に出てしまった。  画面に現れた名前は「芦屋満《あしやみつる》」。  一年前に別れた、前の彼氏。      *  私って馬鹿なのかな、と思いながら、翌週、私はふたたび今出川に向かった。  別にあいつに会うためじゃない、ちょうど火曜日は、二時間目のあとこれといった授業がないから、それに今出川キャンパスにちょっと用があるから、とことさら強弁したところで、どこかむなしい。「最近、彼女とうまくいってなくて、あまり電話もしていない」なんて、どうでもいいことをあいつから聞かされて、心のどこかで小さくよろこんでいた自分が心底鬱陶しい。  地下鉄の駅を出ると、やっぱり雨。朝からずっと降っている。 「これだったんだ」  西門の前で足を止め、私はそこに設置された立て札を見上げた。 「此付近薩摩藩邸跡」 �さつま芋の家�の正体を改めて確認して、私は今出川キャンパスの構内に足を踏み入れた。  昨日のこと。  キャンパスを歩いていたら、 「こんにちは、山吹さん」  とウー君に声をかけられた。ウー君はシンガポールからの留学生で、同じクラスの男の子だ。どうしても解読できない手紙の綴《つづ》りの読み方を教えてくれたのが、このウー君だ。 「この前の手紙、どうなりましたか?」  細いフレームのメガネを光らせて、ウー君は訊ねてきた。中国系シンガポール人のウー君は、顔だけ見ると日本人とほとんど変わらない。日本語もとても上手だ。だけど、あまりに律儀なぴっちり横分けが、文化の違いを濃厚に感じさせてくれる。 「一応訳したけど、それっきり放ったまま。だって、さつま芋とか何とか、意味わかんないんだもん」  さつま芋? ウー君は訝《いぶか》しそうに、整った眉の間に皺を寄せた。 「そんなこと……書いてありましたか?」 「書いていたよ。Satsuma、サツマって何度も出てきたじゃない」 「確かにそうでしたけど……でも、�芋�はついていなかったでしょう」 「何言ってるの、ウー君。サツマと言ったらさつま芋でしょう。まあ、さつま揚げもあるかもしれないけど、こっちはちょっとマイナーかな」  しばらく黙って、私の顔を眺めていたウー君だが、 「あのう……私、思うのですが——」  と小指でぴっちり横分けをかき上げながら、遠慮気味に口を開いた。だが、私の視線を受けると「あ、やっぱりいいです」と尻ごみしてしまった。 「何よ。気持ち悪いじゃない。言い出したら、最後まで言ってよ」  ハアとうなずくと、ウー君は控えめな口調で言葉を発した。 「あれって……サツマハンのことじゃないでしょうか?」  は? と私は思わず間抜けな声を上げてしまった。「何それ? 食べ物?」と訊ねる私に、ウー君は困った表情で立ち尽くしていたが、カバンからノートを取り出すと、胸ポケットのボールペンで「薩摩藩」とさらさら書いた。 「そっか——わ、ヤダ、私」  顔が赤らむのを感じながら、私は思わずウー君の二の腕を叩いていた。 「この前、山吹さん、言っていたでしょう。箱にサークルとクロスのマークが描いてあったって。あれ、薩摩藩のマークです。この前、新撰組のドラマ見ました。あのマーク、映っていました」  ふええ、と感心する私に、ウー君はさらに続けた。 「それにですね」 「な、何? まだある?」 「�ishin�という言葉があったでしょう」 「うん、�イシンの前�って、よく使われてたよね。え? あれの意味もわかるの?」 「あれはきっと、明治維新のことじゃないでしょうか」  心配そうな顔で、ノートに書こうとしてくれたウー君に、さすがにそれは大丈夫と手で制した。といっても、本当はよくわかっていないけど。 「あの手紙、一八七七年の日付だったでしょう。大政奉還ののち、明治政府が成立するのが一八六八年。だから、�ishin�というのは、たぶん明治維新だと思うんです」 「へえー。すごいね、ウー君。何でそんな詳しいの?」  日本に来る前に歴史の勉強をしましたから、と淡々と語るウー君の言葉に、「サツマと言ったらさつま芋」とためらいなく断じた前言を思いだし、穴があったら入りたいほどの恥ずかしさを覚えた。ああ、もう阿呆丸出し。 「じゃあ、山吹さんも『horumo』という競技、知らないのですか?」 「う、うん、聞いたことない。シンガポールではどう?」  ウー君は首を横に振った。そりゃ、そうだよね、知らないよね、という私の言葉に、 「でも、やってみたいです」  とウー君は何だか楽しそうな声で言った。 「え?」 「だって、日本の伝統的な競技なんでしょう。僕、そういうの興味あります。それにイエロー・ドラゴン」  最後だけ急に、ネイティブの発音に戻って、ウー君は手をくねくねさせて宙を泳がせた。どうやら竜を表現しているらしい。 「イエロー・ドラゴン、黄竜は、中国では皇帝の証《あかし》。かっこいい。クールです」  ふうん、そうなんだ、とあまり気乗りしない返事をする私に、 「山吹さん、『horumo』するときは、ぜひ、僕を誘ってくださいね」  とウー君は真面目な顔で頼んできた。  わかった、手伝ってもらったし、復活したら教えてあげる、といい加減な答えを返すと、ウー君は白い歯を見せてにっこり笑い、「楽しみにしていますよ。よろしくお願いします」と律儀に一礼してから去っていった。  授業も終わって、下宿に帰るところだったけど、ウー君の言葉を聞いて、その足で図書館に向かった。少し明治維新や薩摩藩のあたりを調べてみようと思ったのだ。だって、シンガポール人のウー君に教えてもらうなんて、みっともなさすぎるじゃない。  図書館に入り、正面に設置された改札のようなものを通り抜けようとしたとき、ふと受付に視線が向いた。受付のカウンターに、キリスト教関連行事のポスターが貼ってある。  図書館カードを機械の読み取り部に当てると、改札前方のストッパーが左右に開いた。  その瞬間、私の頭の中で、何かがぽんと音を立てて開いた。  Joe——?  私はその場で足を止め、振り返った。  後ろから続こうとした人が、私が急に立ち止まったせいで、「わっ」と驚いた声を上げた。しかし、そんなことお構いなしに、私はポスターの写真を食い入るほど見つめた。  ポスターには、この大学にいる人間なら誰もが知っている、お馴染みの白黒の顔写真がでかでかと印刷されていた。  新島襄《にいじまじょう》——敬虔《けいけん》なキリスト教徒にして、我が同志社大学の偉大なる創設者。      *  西門脇の立て札の横には、「薩摩藩邸跡」と刻まれた小さな石柱が建てられていた。立て札と石柱を携帯の写真に収め、私は西門を通って文学部に向かった。  傘を打つ雨滴の音を聞きながら、私は図書館で得た知識を思い返した。  さっきの立て札が示すように、この今出川キャンパスは明治時代、薩摩藩邸跡地に建てられた、ということ。  手紙のなかにあった、薩摩藩邸の一つが焼けたという記述は、禁門の変の際、四条烏丸のあたりにもあった薩摩藩邸が、火災で焼失したことを指す、と思われること。焼き芋の焚き火が原因じゃない。ちなみに、禁門の変は一八六四年、大政奉還の三年前の出来事だ。  そして、何といっても衝撃的だった、手紙の日付、一八七七年五月九日と差出人の「W・S・Clark」についてのこと。この日付が、大学の歴史を記したぶ厚い本に登場したときは本当に驚いた。さらに、この「W・S・Clark」なる人物が、日本人なら一度や二度、その名前を聞いたことがある超有名人であると知ったとき、私は思わず「ウソッ」と図書館で声を上げてしまった。 「少年よ、大志を抱け」  札幌農学校を去るとき、クラーク博士は生徒たちに言い残した。そう、あのクラーク博士こそが、「W・S・Clark」だったのだ。高校の修学旅行で北海道に行ったとき、クラーク博士の銅像の下で私、ポーズを真似して写真を撮ったよ。  大学史によると、一八七七年の五月九日、まさに手紙の日付に、クラーク博士は北海道からの帰国の途次、この京都の地に新島襄先生を訪ねたらしい。いくらトロい私でも、このときクラーク博士が、あの手紙を木箱と一緒に新島先生に渡した、という推論くらい立てられる。  もっとも、すぐさま疑問は生じる。もしも、あれが本当にクラーク博士が新島先生へ送った手紙ならば、必ずどこか記録に残っているはずだ。何せビッグネーム二人のやりとりだ。こんなぶ厚い本が、放っておくはずがない。  されど、手紙に関する記述は一切ない。ということは、あれは違うクラークさんとジョーさんの手紙なのだろうか? それとも、あまりに馬鹿馬鹿しい内容に、黙殺されたのか? ひょっとして、これまで誰もあの手紙を読んだことがなかったとか? そんなはずないか。だって、あの書庫にあったということは、誰かがチェックして保管しているということだから。じゃあ、どうして誰も注目しないのだろう? あの手紙は他の人には見えないものだったり……しないよね。コピーも取れたし、ウー君だって読んでいたし。  私は傘を畳むと、文学部の建物のドアを開けた。エレベーターに乗って、六階に向かう。途中、教授らしき男性とすれ違ったり、ドアの向こうに笑い声を聞いたりしながら、一路、桂先生の部屋を目指した。一階エントランスにある、桂先生のプレート横のランプは今日も点灯していない。でも、この前だって点いていなかったのだからわからない。  廊下の角を曲がると、突き当たりにクワズイモの鉢植えが見えた。もしも桂先生が在室していたら、思いきって手紙のことを訊いてみよう、百貨店の紙袋の後ろにあったんだから、ひょっとしたら桂先生もあの箱のことを知っているかもしれない——急に胸がドキドキするのを感じながら、私はドアの前で立ち止まった。  されど私のささやかな願いは、いとも簡単に砕かれた。ドアには一枚の紙が貼ってあった。そこには無慈悲にも、 「六月二十一日から二十六日まで、アメリカの学会に行っております。 桂」  とワープロ打ちされた文字が並んでいた。  今日は六月二十四日。今頃、桂先生はいずこへ? NY? LA? それともアラスカ?  これじゃ、本当にあいつに会うためこっちに来たことになっちゃうじゃない、とうなだれる私の視線の先で、クワズイモの葉が、窓から入りこんだ風を受け、ふるると揺れた。  しばらく、クワズイモとにらめっこしたのち、腰を屈め、ゆっくりと鉢を持ち上げた。トレーと受け皿の間に、見覚えのある銀色の鍵が姿を現した。  胸がドキリと波打った。背後に誰もいないことを確かめて、素早く手を伸ばした。私はすぐさま立ち上がると、先生の研究室の前を立ち去った。  階段を駆け下りて、五階に向かった。誰ともすれ違うことなく、書庫の前にたどり着くと、鍵を差しこみドアを開けた。そっと身体を滑りこませ、後ろ手にドアを閉めた。澱《よど》んだ空気が、薄い膜となって頬を包む。書庫の壁はすべて磨りガラスに囲まれているので、電気をつけずとも、廊下の照明が入りこんで薄ぼんやりと明るい。何だか私、スパイみたい、と失笑しながら、右手に進んで、阪神百貨店の紙袋の前で立ち止まった。  紙袋を床に置いて、棚の奥をのぞきこんだ。  木箱に印《しる》された、丸十字の薩摩島津家の家紋が、磨りガラスを抜けた光を背に受け、ぼうっと浮かび上がっていた。  木箱を引き寄せ、蓋を開けた。  内側の風呂敷を広げ、黄色い浴衣を確認した。色褪《いろあ》せた襟元から、茶色い油紙の端がのぞいている。私は浴衣の下に手を入れ、そっと持ち上げた。手に取った拍子に、浴衣の背中がめくれ、黄色い竜が濃紺の線で縁取られているのが見えた。  イエロー・ドラゴンだ——。  心でつぶやいて、私は木箱をのぞいた。  一枚の黄ばんだ紙が、底に置かれていた。  私は浴衣を「ユリイカ」のバックナンバーの上に載せ、箱の中におそるおそる手を差し入れた。  およそ二十センチ四方の紙に、小さな字で何か書きこまれていた。  私は光を求め、磨りガラスに、手にした紙を近づけた。 「〈ホルモー〉黄龍陣、復活ニ関スル三条件」  几帳面な文字が目に映ったとき、私は思わずつぶやいた。  伸ばすのかよ、ホルモー。      *  烏丸今出川の交差点に面したTSUTAYAで時間を潰していたら、入り口のドアが開いて、傘を持ったあいつが入ってきた。 「おお、久しぶり」 「遅いよ」  約束の時間をもう十五分も過ぎている。このへんに住んでいるくせに、田辺から来た私が待つってどういうこと?  何ら悪びれた様子も見せず、どっかでコーヒーでも飲む? 腹減ってない? なんてぬけぬけ訊いてくるものだから、飲まないし、減ってないし、と乱暴に答えて、私はとっとと店を出た。 「どうするの? 雨だぜ」 「このへんでいちばん近い神社ってどこ?」 「はあ?」 「だから、神社に連れてって、と言ってるの。なるべく大きなほうがいい」  何で急にそんなこと言い出すんだよ、とやけに戸惑った様子の彼に、「遅れてきたんだから、そのくらいしてよ」と傘を広げた。 「ここからなら下鴨神社かなあ、いや……」  去年、下鴨神社の手前にある鴨川デルタで別れ話をしたことを思い出したのか、彼は急に言葉を呑みこむと、携帯電話で地図を調べ始めた。しばらくして、 「こっちだな」  と烏丸通の北の方角を指差した。 「上御霊《かみごりょう》神社がいちばん近い」 「そこって有名?」 「結構デカいし、由緒ある神社だな」  じゃ、そこまで連れて行って、と北に向かって歩きだすと、何か言いたそうな様子だったけど、結局、あいつもついてきた。  法科大学院の前を通りながら、 「知ってた? 同志社って昔、薩摩藩邸があったところなんだよ」  とさりげなく教養をアピールしたら、 「ああ、ここで薩長《さっちょう》同盟が結ばれたんだろ?」  と思わぬ返事が戻ってきた。その言葉、図書館で何度かお目にかかったけど、短い説明ばかりで、意味がよくわからなかったんだよね。坂本竜馬とかが関係してるの? でも、ここで「で何なの、薩長同盟って?」なんて、死んでも訊きたくないから、 「そうだよね、結ばれたよね薩長同盟」  と背伸びして合わせておいた。まったく、何やってんだか。  地下鉄|鞍馬口《くらまぐち》駅の手前を右折して、しばらく歩いたところに、上御霊神社はあった。予想以上に大きくて、重厚で立派な門が正面にでんと構えていた。私は肩からかけたバッグを胸の前に抱え、少し頭を下げて門をくぐった。  賽銭《さいせん》箱の前で、私はバッグから風呂敷包みを取り出し、胸に抱きながら、賽銭を放った。手を叩いて、願い事をして顔を上げると、隣で彼が不思議そうな、訝しそうな、何か言いたそうな、とても複雑な表情でこちらを見下ろしていた。 「何よ?」 「何だよ、その風呂敷包み」 「満には関係ないでしょ。だいたい、さっきから、何で何でっていちいちうるさいのよ。別に彼氏でも何でもないんだから、エラそうにしないでよ」  私は風呂敷包みをバッグに戻した。もちろん、柿色の風呂敷の内側には、竜を背中に縁取った黄色い浴衣が入っている。すぐに雨の中に戻る気になれず、二人して本殿の屋根から雨が滴り落ちるのを眺めていると、彼がぽつりとつぶやいた。 「もう……何でもないのか?」 「な、何よ。満には彼女がいるでしょ。私にどう思われようと、関係ないじゃない」  ちらりと彼は私の顔に視線を落とした。どこか寂しげな、揺れるような眼差《まなざ》しだった。私と視線が合うと、彼はすぐに顔をそらした。何よ、その目。勝手にこっちに彼女作って、別れたいって言ってきたの、そっちだろ。 「行くよ」  私はさっさと傘をさすと、雨の中に飛び出した。  今出川キャンパスまで戻り、「少し用事があるから」といったん彼と別れ、もう一度、文学部の建物に向かった。五階の書庫にこっそり入り、風呂敷包みを木箱に戻した。六階の桂先生の研究室前で、クワズイモの下に鍵を隠し、「ありがとうございました」と遠くアメリカにいる先生にお礼を言った。  一階に降りるエレベーターの中で、私はバッグのポケットから折り畳んだ紙を取り出した。そこには「〈ホルモー〉黄龍陣、復活ニ関スル三条件」と記されている。これもこっそりコピーを取ったものだ。そこにはタイトルどおり、三つの条件が並んで記されている。 [#ここから1字下げ]  一、黄龍陣ノ証ヲ持チテ、神社ヲ訪レルベシ。 [#ここで字下げ終わり]  これが第一の条件。「黄龍陣」というのはチーム名だろうか? 「証」というのは手紙の内容からも、たぶんあの浴衣のことだろうから、これはクリアできたんじゃないかな。でも、次で早々にアウト。条件達成の試みは早くも頓挫《とんざ》する。なぜなら、その隣には、 [#ここから1字下げ]  一、彼ノモノヲ使役スル者トトモニ、神社ヲ訪レルベシ。 [#ここで字下げ終わり]  という意味のわからない一文が続いているからだ。何だ、「彼ノモノ」って? そんな言葉、これまで一度も出てこなかったじゃない。いきなり言われたって、さっぱりだよ。  それに「彼ノモノヲ使役スル者」って誰のことよ? まさか、あいつなわけないし。だいたい、「彼ノモノ」と「使役スル者」で、�もの�の表記が違うのはどうして? 「彼ノモノ」って人間のことじゃないの? それを「使役スル」って、どういうことよ? ああ、何もかもまるで意味がわからない。完全にお手上げ。  だいたい、復活とか大げさなことを言ったところで、誰も見ていないじゃない。たとえ私が「彼ノモノヲ使役スル者」と一緒に、さっきの神社を訪れたところで、誰がそれをチェックしてるの? 三つの条件を満たしたことを、誰が認定するの? それに昔は複数のチームでやっていたんでしょ? 万が一、私が「イエロー・ドラゴン」を復活させたとして、他のチームはどこにいるのよ? もっと根本的なこととして、私は「ホルモー」の中身を何も知らない。知りたくても、ヒントすらない。ということは、今も「ホルモー」をやっている誰かが、直接ルールを教えてくれるしか、私が「ホルモー」の中身を知る方法はない。でも、そんな馬鹿なことあるはずがない。  少し真面目に考えただけでも、何もかもが出鱈目《でたらめ》で、穴だらけで、ないない尽くしで話にならない。  でも、これでいいの。別に私は、「ホルモー」なんてわけのわからないものを復活させるつもりはないから。ただ、百三十年前、この浴衣をクラーク博士に託した人の供養に、少しでもなればいいかなと思って、浴衣を神社に届けただけ。  一階に着いたところで、エレベーターの扉が開いた。私は紙をバッグに戻して、外に出た。 「ホント、何してんだろ、私」  自嘲《じちょう》の笑いとともに傘をさして、あいつが待っているTSUTAYAに向かった。      *  どうして私は、この男と並んで歩いているのだろう。  私は彼と友達じゃない。もちろん、付き合ってもいない。付き合いが終わって友達に戻るという人もいるけど、私は戻ることはできない。そもそも私は満と友達だった時期はない。高校一年生のとき、満に付き合ってくれと告白されるまで、満の存在もよく知らなかったくらいだから。  今出川駅から地下鉄に乗って、四条駅で降りる。そこから、四条通を東へ歩いて、祇園は八坂神社まで行ってUターン。今度は河原町通を北に上がり、新京極のアーケードを南に下る。途中、アイスを食べて、店をあちこち見て、ゲームセンターに寄って、何だか高校生のデートみたい。  気がついたらもう午後六時半。お腹すいたなと私がつぶやくと、メシ食べていく? と彼が簡単に誘ってきた。もう田辺に帰ろうかなと思っていたけど、屈託ない声で「あそこ、どう?」なんて指差されると、まあ、いいかな、という気になって、あとについて錦《にしき》市場から少し外れた、町屋風の居酒屋に入った。  これまでの電話でのやりとりで学習したのか、今日会ってから、彼はまだ、一度も彼女の話をしない。お互い当たり障りない大学の話をして、街をぶらつくだけ。店に入って、目についたものを手にとって、CDを試聴して、軽いおしゃべりをして店を出る。結局、何も買わない。  もちろん、あいつの彼女の話なんか聞きたくもない。嫉妬《しっと》深いとかどうとか、本当にどうでもいい。でも、どこかで彼女のことを聞いてみたい、という矛盾した気持ちもある。彼がうっかり彼女の話をして、それに対して腹を立てたい——そんな変な気持ち。これって何なんだろ?  だいたい、この男、自分が原因で別れた女を、市内まで呼び出して、まるで何事もなかったかのような顔してぶらぶら歩いて、いったい何考えてんだろ。今日、私と会うことを、どう思っていたんだろ。私はくやしいけど昨日あまり眠れなかったよ——なんて考えていたら、彼がそら豆の皮を取る手を止めて、急に訊ねてきた。 「なあ、巴は彼氏とかいるの?」 「な、何よ。いきなり」 「巴、美人だから、いくらでも近づいてくる男がいるだろう」  あいにく私の入った英文科は、クラスの九割が女の子で、サークルにも入っていない、バイトもしていない我が身には、悲しいほど何の出会いもございません、とは答えず、 「何でこの前の電話で、急に会いたいとか言いだしたの?」  と質問を返した。 「——別に」 「別にじゃないでしょ。わざわざ市内まで出て来たんだよ」 「だから……会いたかったんだよ」 「何で?」 「何でって……会いたいって思ったから、会いたいと言っただけだろ」  ちっとも答えになってないと思いながら、 「満は彼女がいるでしょ」  と烏龍《ウーロン》茶のグラスについたしずくを人差し指の腹で撫でつけ、私は訊ねた。 「そうだけど、別にそれとは——」  詰まった言葉尻を、彼は強引にジョッキのビールとともに流しこんだ。 「じ、じゃあ、お前はどうなんだよ。どうして来たんだ?」 「お前って言わないで」  高校時代、彼が私のことを「お前」と呼ぶことなんて、一度もなかったことを思い出し、少しだけ悲しい気持ちになった。 「ごめん——なら巴だって、嫌なら来なけりゃよかったじゃないか」 「私は別に……他の用事がこっちにあったから——」  私がうつむいたまま口を閉ざすと、満は黙ったままビールを飲み干し、「すいません」と店員を呼んだ。それから彼は、この話題に触れなかった。高校時代、三年間付き合った二人だ。このまま言い合いを続けても、不毛な喧嘩《けんか》が始まるだけということを、お互いよく理解していた。その喧嘩は付き合っているからこそ、耐え得るもの、意味あるものだった。もはや今の私たちには、何の意味もない。  その後、話は途切れがちになり、午後八時半になる前に、私たちは店を出た。 「ありがとう、今日は久々に巴に会えて、楽しかった」  私はウンとうなずいて、シャッターが並ぶ、人気《ひとけ》ない錦市場を歩いた。 「また会えるかな」  私は思わず満の顔を見上げた。満は背が高い。百八十センチ近くあるから、私とは二十センチ以上、身長の差がある。背の高い男はズルいと思う。どうしても見上げると、格好良く見えてしまうから。 「駄目?」  甘えたような、弱々しい声が降ってくる。心が酸っぱい感じで揺れる。彼女がいるくせ、何言ってんの、こいつ。本当にズルい奴——。上手に返事をすることができないまま、錦市場を抜けて、入り口の鳥居に提灯《ちょうちん》がいくつも並ぶ錦天満宮《にしきてんまんぐう》の前まで来たとき、満が突然、足を止めた。 「何だ、ありゃ——?」  がらりと変わった声色に、思わず見上げると、満がポカンと口を開けていた。  何事かと視線の先を追うと、なぜか満は、たった今、目の前を通り過ぎたカップルの後ろ姿を食い入るように見つめていた。いや、実際にはカップルの足元を凝視していた。 「どうしたの? 知り合い?」  いや、そうじゃない、そうじゃないけど……あれって、たぶん京産大の——でも、何であいつらを連れてんだ? 彼は混乱した声でつぶやいた。  連れてる? あいつら? 私はもう一度、四条通の方向へ新京極のアーケードを並んで歩く男女に視線を送った。人もまばらな道を、二人して仲良く歩いている。他に映るものは特にない。 「何のこと? あいつら……」  って——と続けようとしたところで、私は思わず言葉を呑《の》みこんだ。  なぜなら、満の肩越しに真《ま》っ蒼《さお》な顔で立ち尽くす、女の子の姿に気がついたからだ。  髪の長い、色が白くて、鼻筋の通ったきれいな子だった。  私と一瞬、目が合ったが、すぐに向こうからそらした。そのまま満の背中を睨《にら》みつける瞳が、見る見る真っ赤に充血していくのを認めたとき、私は彼女が何者であるかを完全に理解した。  私が声をかけあぐねている合間に、私の視線に気づいた彼は、「どうした?」とひょいと後ろに首を回した。 「あ……」  目の前の人物を認識した瞬間、口を半開きにして、彼は完全に絶句した。  人形のように、私たちは向かい合ったまま固まった。  凍った時間が十秒以上続いたのち、 「ちがうんだ、ちがうんだって——」  と乞《こ》うように手を差し伸べ、満はふらふらと彼女のほうに近づいていった。 「誰よ、この人」  震える冷たい声が彼女の口元から漏れた。 「こ、こいつは、友達だよ。学部の友達」 「そうじゃないでしょッ」  敵意をむき出しにした視線とともに、彼女は鋭く叫んだ。 「ま、待て、ちがうんだ」 「やっぱり、会ってたんじゃない。信じられない」  肩に触れようとした満の手を、彼女は乱暴に振り払った。満が「キョーコ」と、弱々しく名前を呼ぶのが聞こえた。 「うるさいツ」  彼女は踵《きびす》を返すと、三条方面に向かって、足早に歩き始めた。  お、おい、とそのあとを追おうとする満に、 「ウソつき、ついてこないでッ」  という涙声が背中から発せられた。  満は鞭《むち》打たれたかのように、動きを止めた。差し伸べた手を力なく下ろし、彼女が去るのをただ見つめていた。  彼女とすれ違う人々が、驚いた表情で振り返っていた。私は蒼褪《あおざ》めた心で、立ち去っていく小さな背中と、立ち尽くす大きな背中を眺めていた。      *  そのまま満を放って帰ったって、別に構わなかったんだろうけど、あまりに落ちこんだ彼の様子を見ていたら、何だかかわいそうになってきた。彼を連れ、アーケードに面したスタバに入った。私だって、見たくもないものを見せられて、言い訳ついでに「こいつ」呼ばわりされて、十分腹も立つし、落ちこんでいるし——でも、結局、放っておけない。ああ、とことんお人よし。 「ほら、飲みなよ」  先に席についていた満の前に、アイスのラテを二つ置く。「おごりだから」と言っても、こっちを見ようともしない。彼女への電話がつながらないのか、彼は大きく舌打ちして、手にした携帯電話を机の上に置いた。 「ちゃんと説明したら、わかってくれるよ。別に何もないんだし。ツイてなかったんだって」  私はカップの蓋を外し、ガムシロップの封を開けた。満は机の携帯電話をふたたび手に取り、未練がましそうに画面をのぞいている。 「本当だよ。何で来たんだよ」  ぽつりと満は暗い声でつぶやいた。 「たまたま、このへんで飲み会とかがあったのかな——?」 「ちがう、巴だよ」  は? 私は思わずガムシロップを傾ける手を止めた。 「どうして、今日の俺の誘い、断らなかったんだ? だって、もう俺のこと、好きでも何でもないんだろ?」 「な、何言ってんのよ……」 「ちくしょう……何でお前、今日来たんだよ。おかげであいつに会ってしまうし、踏んだり蹴ったりだよ。本当に碌《ろく》でもない一日だ」  顔から一気に血が引いていくのを感じた。あまりに怒りが急激に沸点に近づいたため、頭が真っ白になってしまって、言葉が浮かばない。 「い、いい加減にしんさいよ……」  震える声でつぶやいたとき、私は思わずイスから立ち上がっていた。 「誘ってきたのはそっちじゃろ。そっちがへなへな情けない声だすけぇ、しょうがないけぇ、付き合ってやったんよ。それを何《なん》ねッ、さっきから、俺のこと、もう好きじゃないのかとか何とか。ああ、気持ち悪い。ほんま、セコい男じゃ。そんなん、彼女と別れてから言ってきんさい。それやのに、彼女のことまで、私のせいにして。ほんま、最悪じゃ。お前なんか、男のクズじゃ」  私は手にしたアイス・ラテの中身を、思いきりあいつの顔にぶちまけ、店を出た。  新京極のアーケードを四条通に向け、駆け走った。後ろから追ってくる声も、気配もない。何よ、彼女のときはすぐに駆け寄ったくせに。  くやしい。涙も出ないくらいくやしい。これだけコケにされても、まだあいつのこと嫌いになりきれない、自分がいちばんくやしい。何もかもが鬱陶しい。あんなヤツ、死んじゃえばいいんだ。ホント、死んじゃえ、死んじゃえ、死んじゃえ、死んじゃえ——。  呪詛《じゅそ》の言葉をひたすら唱えつつ歩き続け、気がつけば四条通を東に進んで、鴨川の手前まで来ていた。四条大橋のネオンを受けて、雨が光の輪のなかで踊っている。  頭上のアーケードが途切れ、私は傘を広げた。橋の西詰にある交番の前を通りながら、あいつを逮捕してくれないかな、と本気で思った。裁判長は私。あんな馬鹿、即日裁判で無期懲役にしてやるのに。  違う——馬鹿なのは私だ。  急に悲しい気持ちになって、四条大橋の上より鴨川に視線を向けた。川の流れは暗いシルエットを描き、今にも竜が、背中から浮かび上がってきそうな勢いだ。傘から腕を伸ばし、欄干に手を置いた。濡れた欄干はひんやり冷たかった。いつの間にか、胸の鼓動も鎮まっていた。それでも、あいつにアイス・ラテをぶちまけた瞬間を思い出すたび、手の甲を叩く雨の感覚が、近づいたり、遠ざかったりした。何度目か遠ざかったついでに、ふと「〈ホルモー〉黄龍陣、復活ニ関スル三条件」のことを思い返した。 [#ここから1字下げ]  一、黄龍陣ノ証ヲ持チテ、神社ヲ訪レルベシ。  一、彼ノモノヲ使役スル者トトモニ、神社ヲ訪レルベシ。 [#ここで字下げ終わり]  に続く、三番目の条件として、 [#ここから1字下げ]  一、同日夜、彼ノモノヲ鴨川ニ柱トシテ捧グベシ。 [#ここで字下げ終わり]  という内容が書かれていた。  鴨川に「彼ノモノ」を生贄《いけにえ》として、流せということなのだろうか? 何だか物騒な内容だ。もっとも、「彼ノモノ」が何であるかわからない以上、どうにも仕様がないのだけれど。まさか偶然、今夜のうちに、私の知らない「彼ノモノ」が、鴨川に流されるはずもないし。  私はバッグから四つ折りにした「三条件」のコピー用紙を取り出し、四条大橋の欄干から鴨川に放った。ふと川の流れをのぞいたとき、楕円形の黒い大きな物体がぷかぷかと浮いていたような気がしたが、すぐに橋の下に隠れてしまった。  少しだけ落ち着いた気持ちになったけど、浮かんでくるのはあいつの顔ばかり。心の底から、あいつに復讐《ふくしゅう》してやりたい、と思った。あの傲慢《ごうまん》な勘違い男の腐った性根を叩き潰せたら、どれだけ気持ちがいいだろう。  そういえば、この前、図書館で調べた本に、新島襄先生が詠んだ「寒梅《かんばい》」という歌が載っていた。 「庭上《ていじょう》の一寒梅 笑って風雪を侵《おか》して開く 争わず又|力《つと》めず 自《おのず》から百花の魁《さきがけ》を占《し》む」  とても素敵な歌だけど、私は絶対に寒梅になんかなれない。冬の寒さや風にひたすら耐えて、美しい花を咲かせようなんて、そんな穏やかな、謙虚な気持ちにはなれない。私はあいつをぶっとばしたい。けちょんけちょんにしてやりたい。別に何でだっていい。「ホルモー」でもいい。何が「ホルモー」なのか、結局、何もわからないままだったけど。  本当に私、こんなところまで来て何やってんだろ——。  気を抜くと、泣いてしまいそうだから、「ホルモー、ホルモー」とつぶやきながら歩いた。本当に馬鹿みたいな言葉。誰がこんな言葉考えついたんだろう。  そのとき、雨の音に混じって聞こえた叫び声のようなものに、ふと反対側の歩道に目を向けると、一人の女の子が、手にした水色の傘を飛ばさんばかりの勢いで走っていた。  思わずその姿を追っていると、今度は橋の西詰より、赤い傘をさした女の子が同じく、何かを叫びながら走ってくる姿が見えた。  足を止め、成り行きを見守っていると、何事が起きたのか、走ってきた二人は橋の中央で出会うなり、傘を放り出して抱き合ったものだから、びっくりした。  どうやら二人して泣いているようだった。男に痛い目にでも遭わされたのだろうか。まったく世の中、碌な男がいない。 「少女よ、大志を抱け」  雨の中で抱き合う二人に、無言のエールを送って、私は橋の先に見える京阪《けいはん》四条駅の入り口に向かって歩き始めた。      *  地下へと続く駅の入り口で、傘を畳んだ。  勢いよく傘を振ったら、いつもより力が入って、白い階段のタイルを水滴が勢いよく音を立てて走っていった。  さあ帰って、とっととお風呂に入ろ、とつぶやいて、階段を下りようとしたとき、突如としてぶ厚い雨の向こうから、 「ホルモオオオォォォーッ」  という雄叫《おたけ》びのようなものが聞こえてきた。  ギョッとして、振り返った。  だが、橋の上は、何事もなく人が行き来している。別段、何の異常も見られない。女性の声のようだったから、無意識のうちに抱き合っていた二人を探したが、ちょうどバスの陰に隠れて見えない。 「まさかね」  思わず苦笑して、正面に顔を戻した。  ああ、そうだ、明日、教室でウー君に会ったら、謝らなくっちゃ。ゴメンね、「イエロー・ドラゴン」復活は無理だったよ、三つの条件はわかったけど、最初の一つしかクリアできなくてね、だって、あとの二つはちんぷんかんぷんだったんだもの、って。ついでに、ウー君に教えてあげよう。でも読み方はわかったんだ、あれって「ホルモー」って読むんだよ——。  誰もいない階段を下りながら、私は顔の斜め前方を指差し、勢いよくつぶやいた。 「Girls be ambitious」  何だか、少しだけ元気が出てきた。 [#改ページ] 第五景 丸の内サミット  四月二十四日火曜日  午後五時二十三分 青山《あおやま》  ねえ井伊《いい》嬢、と隣から何やら押し殺した声がするので、なになにと直子《なおこ》が顔を向けると、パソコン画面を眺めたままの姿勢で、酒《さか》ちんが「今週の金曜日、丸の内で異業種交流会があるんだけどいかがかしら?」とささやくように伝えてきた。  あら、それはそれは、と伝票を整理する手を止め、直子は酒ちんのパソコンのモニターに顔を近づけた。やけに馴《な》れ馴《な》れしい文面で、合コンのお誘い文句が続くメール画面をのぞき、 「いいの? こんな外部とメールして。部長が抜き打ちで、中身をチェックしてるって言うじゃない」  と直子は眉をひそめる。 「だから、井伊嬢の返事を聞いてすぐに消しますって」  で、どうするよ? と酒ちんが「返信」のアイコンを押して、返事のメールを書く画面を呼び出したところで、でもねえ、と直子は腕を組んだ。 「この人の文章、見るからに頭悪そうだよね。最後の『よろしくゥ!』のあたりとか、非常に匂うよね。そのうち、放っておいたら、よろしくメカドックとか言ってきそう」  よろしく……何? と酒ちんが訝《いぶか》しげな顔をする横で、 「でも、行ったところで、どうせ何もないんだよね——。いい男には、もう彼女がいるものなのよ。こんな| G W 《ゴールデンウイーク》直前に合コンしようと言ってる時点で、駄目でしょ。結局、お金と時間の無駄だよ」  と腕組みのまま、直子はつぶやく。向こうも同じこと考えているんじゃない、と酒ちんが冷静に返してくるのを、 「私たちみたいないい女を捕まえて、そんなこと言うなんて百年早い」  と眦《まなじり》を上げ、直子は小声で憤慨した。 「で、行くの? 行かないの? 確かに軽い奴であることは否めないけど、これでも商社だよ。稼ぎあるよ」 「行く」  最初からそう言いなよと面倒そうにつぶやいて、酒ちんはかたかたキーボードを叩き、「あらよっ」と掛け声とともにメールを送信した。  伝票の整理に戻ろうとする直子に、業務外メールの記録を素早く消去した酒ちんが、 「ポッキー食べる?」  と机の上の箱を指で示した。 「食べない」 「何? ダイエット中?」 「いつだってダイエット中」  趣味はダイエットですか、と笑って、酒ちんはポッキーを一本くわえると、「デビクレ、デビクレ——デビットは左で、クレジットは右」と唱え、伝票入力画面に戻っていった。  四月二十四日火曜日  午後五時二十九分 赤坂《あかさか》 「お、いけるみたい」  隣の席でノートパソコンをのぞきこんでいた忠《ただ》やんが、急に身体を起こすと、 「やったぞ、榊原《さかきばら》」  と康《やすし》の肩を乱暴に叩いてきた。何だよ? と机に顔を向けたまま、面倒そうに返す康に、忠やんは、合コンだよ、合コン、と親指を立て、ニカリと白い歯を見せた。 「今週の金曜だけど、お前、行きたい?」  机に並ぶ会議資料の山を前にして、康はホッチキスを打つ手を止め、首を横に振った。 「いいよ。だってGW前だろ? いかにも連休中の予定を埋めたくてがっついているみたいで、そういうのって、いかがなものでしょう。それに僕は近頃、はっきり理解したんだ。世の中のかわいい子には彼氏がいる。だから、かわいい子は合コンに来ない。なるほど、彼氏と別れたばかりのかわいい子だって、なかにはいるかもしれない。けど、そんなタイミングのいいことは万に一つも起こり得ない。僕はもう、合コンというものに幻想を抱くのはやめた。あれは金と時間の浪費に他ならない。きっと、今度だって碌《ろく》なのが来ない。特にお前が主催する合コンでは、経験上百パーセントの確率で来ない」  まあまあ、そうツンツンするなよ、前のやつは確かに悪かった、でも俺だって付き合いってものがあるんだよ、それに向こうだって同じこと考えてるかもよ、と忠やんが指でボールペンを回しながら鋭すぎる指摘を放つと、 「ううむ、確かに……」  と思わず康は言葉の接《つ》ぎ穂を失った。だが、それはそれで腹が立つ、とつぶやいて、康はきゅっと眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる。 「今度の相手は青山にある大手アパレルの子だから、期待が持てるぜ」 「どういう知り合いなんだ?」 「大学のときのサークルつながりだな。この前、飲み会で再会して、携帯のアドレスは駄目だったけど、会社のアドレスを教えてもらったんだ。小さい穴からコツコツ広げていったんだぜ」  知らんよ、そんなこと、と康はけんもほろろに資料の束に顔を戻す。相手の酒井はかなりの美人だぜ、美人は連鎖するからな、連れてくる子も期待が持てるんじゃないかなあ、アパレルだしさ、とつぶやく忠やんの声を聞きながら、康はふたたびホッチキスを手に取る。 「で、行くの?」 「金曜は仕事も早く片づきそうだ。暇だし行ってみようかな」  素直に行きたいって言えよ、と苦笑して、忠やんは手帳を取り出して、ページをめくった。 「場所は丸の内にしようと思う」 「丸の内? 遠いな」 「その日は朝から大阪に出張なんだよ。だから東京駅に近いところがいい」  なるほどとうなずいて、康はホッチキスを打った資料を重ね、とんとんと隅を整える。 「しかし、毎日、毎日、よくもまあ、こんなに会議があるもんだ。何かをすることばかり考えて、肝心の何かをする時間がない。愚かだ。非常に愚かだ」  おやおや、いきなり現代の会社組織が抱える問題の核心を語るね、と忠やんは手帳を閉じると、ニヤニヤしながら康の顔をのぞきこんだ。 「榊原選手、一つ、いい言葉を教えてやろう。この資本主義社会を生きるリーマンにとって、特に俺たちみたいな入社三年目の連中にとっては、真実|真正《しんせい》の言葉だ」 「聞かせてもらおう、本多《ほんだ》選手」 「考える兵隊は要らない」  しばらく忠やんの顔をのぞいた後、康はフンと鼻で笑うと、違いないねとつぶやき、新たに手にしたぶ厚い資料に、大型ホッチキスの針をバチンと打ちこんだ。  四月二十七日金曜日  午後七時三十二分 東京メトロ青山一丁目駅 「その本多っていう人とは、どこで知り合ったの?」 「ああ……本多は大学時代からの知り合い」 「酒ちんは、お茶の水女子大学だったんでしょ?」 「そうだよ」 「何で知り合いだったの?」 「まあ……強いて言うなら、サークルつながりってとこかなあ。本多は一橋《ひとつばし》大学だったんだけど、サークル同士の交流があって、この前、同窓会みたいなのを開いたとき、ひさびさ会ったんだよね」  携帯のアドレス教えろって、しつこくってさあ、仕方なく名刺渡したら、本当に会社にメール送ってきやがんの、という酒ちんの声に、へえと相づちを返しつつ、直子は東京メトロ青山一丁目駅の入り口をくぐり、カツカツと豪勢にヒールを鳴らし階段を下りる。 「井伊嬢、あなた、ずいぶん派手にヒールを鳴らすのね」 「かかとが浮いて、どうしても鳴っちゃうんだよね。何で酒ちんは鳴らないの?」  鳴らすほうがわかんないよ、とにべもない返事とともに、酒ちんはさっさと改札に向かう。 「酒ちんは大学のとき、何のサークルに入っていたの?」 「何だろうね。まあ、アウトドア・サークルみたいなやつかな」 「女子大だったら、みんな女なんでしょ?」 「そうだよ」 「女の子だけで、どこかに行くの?」 「行くわけないでしょう。だから、他の大学の人と一緒にあれこれするわけよ」  ふうん、とうなずいて、直子はまたぞろヒールをカツカツ鳴らし、プラットフォームへの階段を下りていく。 「井伊嬢は何してたの? 井伊嬢、京都の大学だったよね」 「私? そうねえ……」  乗車口を示す足元のマークの前に、整然と二列を作って並ぶ乗客を、思案顔で眺め、直子は「東京の人たちは、どうしてこうも行儀良く電車を待つのだろう」といつものように不思議を感じた。かといって、青山にあるアパレル会社で働き始めて三年目、東京の人間がとりわけ心やさしいわけではなく、列に割りこんで電車に乗りこもうものなら、あからさまな舌打ちが聞こえてきたり、軽く肘《ひじ》で小突かれたり、案外、攻撃的であることも知っている直子だった。 「サークルとか、どこにも入ってなかったの?」  列の短いところを選び、最後尾についたところで、酒ちんがふたたび訊ねてきた。 「入っていたよ」 「何のサークル?」 「ううん、そうねえ……」  龍谷大学|朱雀団《すざくだん》ていう変な名前のサークルで、ホルモーやってたんだ、とはとても言えないので、 「何だろ、私もアウトドア・サークルみたいなものかな。外でスポーツみたいなものをしたり……」 「スポーツみたいなもの?」 「そう、走ったり、叫んだり」 「何それ? 鬼ごっこするサークル?」  ううん、「ごっこ」はつかないなあ、と思いつつ、「まあ、変なサークルだったの」と直子が曖昧《あいまい》にまとめると、酒ちんは「どこの大学にも、変なサークルってあるものなのよねえ」と妙に納得した様子でうなずいた。そこへ、ぷあぁあんと間延びした警笛を響かせ、東京メトロ銀座線がプラットフォームに滑りこんできて、二列縦隊に並んだ人の頭が、ゆっくり左右に分かれた。  四月二十七日金曜日  午後七時四十七分 JR東京駅  JR東京駅丸の内北口で、康が立派なドーム型天井を見上げていると、「今日も一日、おつかれさん」と出張先の大阪から帰ったばかりの忠やんが小走りでやってきた。 「何とか間に合いそうだな」  駅を出ると、目の前にチェスの駒《こま》のような相似形を成して、白い外観の丸ビル、黒い外観の新丸ビルが、通りを挟んで夜にそびえ立っている。 「おうおう、みんなまだ働いてるねえ」  忠やんは目を細め、天井の蛍光灯が明々と点《とも》る上層階の窓を見上げた。こんな有名な場所に毎日通勤するというのは、どんなものなのだろうと思いながら、康も巨大な羊羹《ようかん》の如く、闇夜に突っ立つ摩天楼を見上げる。 「大丈夫か? こんなところに入っている店って、どれも無茶苦茶、高いんじゃないのか?」  早くも懐具合を心配する康を、大丈夫だ、普通の店もあるから、と忠やんがなだめる。 「今日の相手の酒井って子は、大学のサークルの知り合いなのか?」 「ウン、そうだよ」 「同じ大学の人?」  いや、と忠やんは首を振る。 「酒井はお茶の水女子大学だ」 「じゃあ、サークル同士でつながりがあったってことか」 「まあ、そんなとこだね」 「忠やんは大学のとき、何のサークルに入っていたんだ?」 「ううん、何て言うのかな——イベント・サークルみたいなものかな? 野外で、他の大学の連中と一緒にわいわいがやがやすることが多かった」  イベント・サークルみたいなもの、って何だと思いつつ、康はそれ以上質問を続けなかった。ふうんと素直にうなずいて、信号が点滅を始めた、距離の長い横断歩道を走って渡った。なぜなら、「それで、康は何のサークルに入っていたんだ?」と返されると、面倒なことになるからである。京都産業大学玄武組という妙な名前のサークルで、ホルモーというものをやっていました、なんて言えるはずがない。  幸い忠やんは、新丸ビルに入るとすぐさま、「ええと、何階だったっけ?」と壁面のフロアガイドに向かったので、お返しの質問は受けずに済んだ。 「五階だ」  という忠やんの声に従い、エスカレーターに向かう。 「そうそう、今日、大阪で昼メシご馳走《ちそう》してもらったんだけど、お好み焼き定食を頼んだら、お好み焼きにごはんがついてきた」  それがどうした? 発言の意図がわかっていない康の様子に、やっぱりそうなのか——と忠やんは一人納得している。 「何だよ」 「だって、お好み焼きじゃないか。ごはんは変だろ」 「どこも変じゃない」 「炭水化物に炭水化物だぜ。おかしいだろ」 「パスタにパンを合わせるだろう」 「その論法なら、ピザにパンじゃないか?」 「別にお好み焼きの粉の味で、ごはんを食べるんじゃない。ソースと具の風味で食べるんだ」  それでも何か違わないか? とつぶやく忠やんの声に、何も違わんよと返し、康はエスカレーターの左側に立った。  大学を卒業して、東京に来たばかりのときは、このエスカレーターの立ち位置にずいぶん戸惑った。なぜなら、関西では、右側に立ち、左側を空けることが暗黙のルールになっているからだ。入社して間もない頃、会社の同僚に、咄嗟《とっさ》のとき、どちらに立てばいいかわからなくなる、と打ち明けると、 「道路と同じと考えたらいい。右が追い越し車線だ」  と実にスマートな説明をされたが、それでも気がつけば右側に立っていることが、三カ月くらいは続いた康である。  いったい西と東のエスカレーターの立ち位置の切れ目はどこにあるのだろう、やはり名古屋あたりで、ここから西は右寄り、東は左寄りといった境界があるのだろうか——などとくだらないことを考えていると、 「この階だ」  と忠やんの声が背後より聞こえた。  オウケーとうなずいて、康は五階のフロア表示を目の端に捉え、ヨッとエスカレーターから降り立った。  四月二十七日金曜日  午後七時五十六分 丸の内 「本多くんて、どんな人?」 「本多? まあ、お調子者だけど、悪い人じゃないかな、責任感もまあまああるしね」  との酒ちんの評価に、何で責任感のことまでわかるのよ? と直子が質《ただ》すと、 「一橋のサークルで彼、リーダーやってたんだよね。私はタイプじゃなかったけど、他の女の子の間じゃ、そこそこ人気あったみたい」  とフロア地図の載ったビルの案内冊子を広げ、酒ちんは答えた。へえ、と相づちを打って、直子はエレベーターのフロア表示が数を重ねていくのを見上げている。 「酒ちんは、気に入らなかったの?」 「何だか愚図愚図していて、イライラさせられることが多くてさ。私は駄目だったな」  いつもの如く、酒ちんは男に対し、滅法手厳しい。職場でも、仕事が遅い先輩男性社員に、異様なまでの敵意を燃やす酒ちんである。もっとも、先輩女性社員に対しても厳しいから、フェアといえばフェアなのかもしれない。酒ちんが後輩じゃなくてよかった、と常々感じる直子である。 「でも、合コンには積極的じゃない。場所決めの連絡も手際よかったよ」 「そういうとこだけ如才《じょさい》ないのが、イラッと来るのよ」  難しいなあ酒ちんは、と直子が心でつぶやいていると、エレベーターがチンと鳴った。扉が開いて、五階のレストランフロアに出たところで、 「あ、そうそう井伊嬢、言い忘れてたけど、今日は二対二だから」  と酒ちんが告げてきた。 「え? そうなの」 「もう一人、大学のときの友達を誘っていたんだけど、仕事が入って行けなくなったって昼間、連絡があってね。本多のほうもちょうど一人欠員が出たって言うから、二対二でもいいかってことになって」  二人と二人じゃ、何だか合コンというより、お食事会ね、という直子の声に、まあねと酒ちんはうなずいて、手にしたフロア地図をぐるぐる回している。 「こっちだと思う」  酒ちんのあやしいナビに従って直子も歩き始める。壁面を覆うガラス窓の先には、向かい側に建つ丸ビルが煌々《こうこう》と光を放っている。 「こんなところで働く人って、やっぱりじゃんじゃん稼ぐのかなあ」  呑気な声とともにガラス窓をのぞこうとしたとき、ふとガラスに映った人影に、視線を奪われた。  直子は思わず振り返った。一瞬、ガラスに映った絵に、見知った顔を認めたような気がしたのだ。だが、直子が視線を送る先には、似たような後ろ姿のスーツ姿の男性が数人、重なるようにして歩いている。もはや、どれが今ガラスに映った横顔の持ち主かわからない。 「まさかね」  直子は小さくつぶやいて、「あ、あの店だ」という酒ちんの声につられ、歩き始めた。  四月二十七日金曜日  午後七時五十七分 丸の内  イタリアンのお洒落《しゃれ》な居酒屋の入り口で、忠やんが名前を告げると、 「四名でご予約の本多さまですね。お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」  と案内の人間がすっと前に出て歩き始めた。 「あれ? 四人なのか?」 「ウン、もう一人大学の後輩を呼んでいたけど、急に仕事の予定が入ったって午前中に電話があってさ。ちょうど、酒井のほうも一人来られなくなったって言うから、まあこのままでいいかなって」  まだテーブルに女性陣は到着していない。席についてメニューを眺めながら、ところで相手の酒井さんてどんな人? と康が訊ねると、 「酒井ねえ……。そうだなあ、いい加減なようで、実は無茶苦茶しっかりしてて——。あいつ、お茶の水のサークルで会長だったんだけど、俺のいたサークルの男連中のなかにも、かなりの隠れファンがいたな」 「忠やんは、その仲間には入らなかったのか?」 「俺? 俺は酒井にいつも怒られてばかりだったから、そういう気持ちにはなれなかったな。とにかく、おっかない奴だった」 「よく、そんな相手に合コンしようと誘ったな」 「それとこれとは別だよ」  なるほど、と康は曖昧にうなずく。 「そもそもサークルつながりなんだろ? 怒られるって、何をしたら、そんな怒られるんだ?」 「そりゃ——段取りが悪いとか、連絡が遅いとか、ツメが甘いとか、あれやこれや」  職場で課長に言われていることと、同じじゃないか——と口にしたくなるのを康が我慢していると、忠やんの携帯電話が鳴った。得意先からだろう、忠やんは急に声色を変えて、「今、まだ出先ですので、後で社に戻りましたら、FAXをお送りします」と答えている。忠やんの電話はしばらく続きそうだ。時計の針は、午後七時五十九分。合コンにやってくる女性は、たいてい五分か十分遅れて店にやってくる。ちょっとトイレに行ってくるわ、と忠やんに小声で告げて、康は席を立った。  店を出て、トイレに向かう通路の右手は、一面ガラス張りになっていて、その先に丸ビルの偉容が映し出されている。すれ違ったカップルが、 「七階にテラスがあって、外に出られるらしいよ」  と話していた。そういえば、横断歩道からビルを見上げたとき、テラスに出ている人たちが見えたな、何だか気持ちよさそうだったし、後で行ってみたいな、と思いつつ、康はトイレに入った。  康が用を済ませ、店に戻ると、すでにテーブルについている二人の女性の姿がある。 「おお、戻ってきた」  と忠やんが手を振った。 「あ、どうもすいません。お待たせして」  慌てて康が声を発したとき、背中を向けていた二人が、ふいと振り返った。  忠やんの斜め向かいに座っていた、髪の長い、淡いピンク色のアンサンブルに白いスカートを纏《まと》った女性と目が合った瞬間、康は思わず息を止めた。「ぎゃっ」と声を上げそうになるのを、すんでのところで堪えた。相手の女性も、口を開けたまま、思う存分、目を見開いている。 「い、井伊さん?」 「やっぱり榊原くん、何で——?」  え? 知り合い? と忠やんと酒ちんが同時に、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。  京都産業大学玄武組第四百九十八代会長榊原康と、龍谷大学朱雀団第四百九十八代会長井伊直子。  四百九十八代目間ホルモー、通称「京極ホルモー」を二年にわたり戦い抜いた二人。繰り返された激戦の数々をして、越後《えちご》の上杉謙信と、甲斐《かい》の武田信玄との戦いに比された二人。ホルモー史に残る好敵手《ライバル》として、都大路にその名を轟《とどろ》かせた二人。 「京極ホルモー」の終結より、三年と半年の歳月を経て、両雄は東京丸の内に屹立《きつりつ》する新丸ビル五階、合コンの席上にて再会したのである。      *  二人の出会いは五年前に溯《さかのぼ》る。  四百九十八代目間ホルモー、通称「京極ホルモー」において、当時ともに二回生だった二人は、初めて刃《やいば》を交えた。その後、二年にわたり都大路を覆った「京極ホルモー」の戦塵《せんじん》のなかで、あい見《まみ》えること四度。討ちつ討たれつ、まさしく死闘と銘打つに相応《ふさわ》しい好勝負を演じてきた。  二人の戦い方はおよそ好対照だった。 �黒�オニを率い、誰よりも先陣を切って敵陣深く侵入し、危険を顧みず、果敢に突撃を仕掛けた榊原康。その勇猛なアタッキングは、戦国の世、毘沙門天《びしゃもんてん》の旗を靡《なび》かせ、戦場を駆け抜けた越後の竜を髣髴《ほうふつ》とさせた。一方、まずは守りを固め、神経戦とも言える粘り強い戦いを続けたのち、相手が攻め疲れたところで、ようやく�赤�オニに号令を発し、押し潰《つぶ》すようにして相手を攻め立てた井伊直子。その重厚な布陣は、「風林火山」の旗を背に、戦場を睥睨《へいげい》した甲斐の虎を想起させた。  その一見穏やかそうな風貌《ふうぼう》からは想像もできない、康の激しい攻撃姿勢は、いつしか「黒い嵐」と称され、京産大玄武組の代名詞となった。一方、一見頼りなさそうな風貌ながら、その実どんな男連中よりも、どっしり地に足をつけ、磐石《ばんじゃく》の防御線を敷いた直子の陣は、「赤い鉄壁」と称され、同じく龍大朱雀団の代名詞として、他大学の畏怖《いふ》の対象となった。  現在、龍大朱雀団は、直子の後を継いだ、第四百九十九代会長|立花美伽《たちばなみか》の手により、龍大フェニックスとその名称を変えている。この名称変更の際、立花美伽が朱雀団OB・OGから嵐のようなバッシングを受けるなか、直子が「今の主役は彼女たちだから」と訴え、関係者のもとを行脚《あんぎゃ》し、その支持を取りつけたのは、あまりに知られた話である。もっとも、事の発端が、大学在学中、忘年会の席にて「こんな格好悪いサークルの名前、彼氏に言えないよね」とふと漏らした直子の言葉に、「そうです、そのとおりです」と立花美伽が強く同意したことにある、というのは二人だけの固い秘密である。  まさに正反対の戦い方をする二人が繰り広げた激闘の歴史は、今も人々の記憶に新しい。「京極ホルモー」において、両雄は力の限りを尽くし、競い合った。一年目は直子率いる龍大朱雀団が、直接対決の大一番、川中島ならぬ�中書島《ちゅうしょじま》ホルモー�を制し、最高位の栄冠を勝ち取った。翻って二年目は、康率いる京産大玄武組がリベンジに成功し、最高位に輝いた。  二年目の最終戦に行われた両者の直接対決、�鴨川デルタホルモー�は、ホルモー史に残る激戦として、未だ人々の脳裏に、鮮烈に刻みこまれている。  最終決戦を前に、ある者は中国の故事を引き合いに出し、まさしく「矛盾」の戦いと予見し、ある者は、川中島にて五たび激突した、越後の竜と甲斐の虎との戦いの再現と胸躍らせた。この一戦を前にした洛中洛外の盛り上がりは、さながら祭りの様相を呈し、普段は同日開催されるはずの他大学のホルモー日程が変更されたくらいである。ホルモー当日、鴨川デルタを見下ろす賀茂大橋には、他大学のメンバーに加え、OB・OG多数が観戦に馳《は》せ参じ、欄干より戦況を、固唾《かたず》を呑んで見下ろした。それを見た一般の通行人が、何事かと足を止め、一時、橋の上には百人以上が集まり、騒然としたほどである。  多くの目が見守るなか、鴨川デルタにて、「黒い嵐」と「赤い鉄壁」は最後の決戦に挑んだ。両雄の激突は観戦者の期待を裏切らぬ、いや予想を遥《はる》かに上回る凄まじいものとなった。まさしく竜虎相打つ。高野川と賀茂川の合流地点に位置する三角洲にて、両者死闘を続けること、何と五時間以上。両陣営にて消費された補給レーズンの延べ数は、空前絶後の数字をカウントした。  勝負はホルモー開始、五時間四十八分後に、朱雀団会長が降参を宣言することで決した。ホルモー終了後、精も根も尽き果てた、両大学のメンバーが最初にとった行動は、食料を求め、川端今出川交差点のコンビニに向け、一斉に走りだすことだったという。  このとき、河川敷より観戦する関係者のなかに、三条木屋町居酒屋「べろべろばあ」店長の姿もあった。ホルモー観戦後、「自分の知る限り、歴代三指に入る名勝負」とのコメントを残し、開店時刻が迫った「べろべろばあ」へ急いで戻っていったのは、あまりに有名な話だ。  その後、京産大玄武組は四百九十九代目間ホルモー、通称「東山《ひがしやま》ホルモー」においても、破竹の勢いを維持し、一年目、二年目をともに制覇。見事、三連覇の偉業を達成することとなる。  この玄武組黄金時代の礎を築いた、京産大玄武組第四百九十八代会長榊原康。そして、粘り強い用兵の妙に加え、その人格の公正さをして、先輩・後輩・大学の垣根を問わず、広く慕われた龍大朱雀団第四百九十八代会長井伊直子。  ともに都大路の生ける伝説と評しても過言ではない二人が、東京駅前のとあるイタリアン・ダイニングにて、テーブルを挟んで座っている。当時を知る者にとっては、号外が空を舞ってもおかしくない歴史的シーンである。ところが、実際の二人は面映《おもは》ゆい表情のまま、視線をいっかな定めようとしない。「竜が躍り、虎が吼《ほ》える」とささやかれたかつての威勢はどこへやら、ひたすらメニューを手にうろたえるばかりである。 「と、取りあえず、一杯目は生ビールにしておこうかな? いや、やっぱりここはワインにしようかな? い、井伊さんは?」 「わ、私? そうね。じゃ、赤ワインいただこうかな? オホホホホ」  などと、存分に上滑りな会話を交わしながら。      *  康と直子の唐突な再会から始まった食事の席は、その後も、ぎこちない雰囲気を漂わせたまま進行した。  それもそのはずだった。康と直子が旧知の間柄であることを知った残る二人は、当然、どういう関係か聞き出そうとする。ところが、康と直子は、曖昧|模糊《もこ》とした返答を繰り返すばかりで、いっかなその詳細を明らかにしようとしない。おかげでぎくしゃくとした空気がいつまで経っても、四人が囲むテーブルの上に居座ったままである。会話は弾まず、ワインも進まず、四人とも黙々と運ばれてきた料理を口にするばかり。 「ねえ、井伊嬢。はっきり言って。榊原くんとむかし、付き合ってたの?」  痺《しび》れを切らした酒ちんが、直子に詰め寄るも、もちろんそんなはずはない。違う違うと首を振る直子だが、なら何でそんなにぎこちないのよ、という酒ちんの追及に言葉が続かない。付き合っていた二人より、ひょっとしたら気詰まりな関係にあることが問題なのだが、詳細をいちいち説明するわけにもいかない。  何せ大学時代、ことあるごとに人々の話題の俎上《そじょう》に載り、その優劣を比較され続けた二人である。大学四回生時も�裁定人�として、ともに「東山ホルモー」に携わったが、ホルモーを競い合ったときのイメージがお互い拭《ぬぐ》いきれず、どこか気まずい関係が続いたままだった。  相手を十分に意識しつつも、一度も腹を割って話すことのないまま、二人は大学を卒業した。それから、すでに二年の歳月が経過している。  困ったな、と直子が心底参っていると、康が、 「実は……」  と急に口を開いた。まさかホルモーの話をするんじゃないよね、と驚いて顔を上げた直子の前で、 「僕の友達と、井伊さんの友達が、大学にいたとき付き合ってたんだ。それでお互い、少し面識があるんだな。でも、この二人がひどい別れ方をしてね。社会人になって、遠距離を始めたんだけど、双方、浮気に不倫を重ねた挙げ句、別れちゃって。そのことがあったから、何というか……少し、気まずいんだな——」  と康はいかにも言いにくそうな表情で語り始めた。だが、その視線は、しっかり直子の目を捉えている。 「そ……そうなの。お互いしか知らない事情もあるだろうしね。こういうときって、どうしても、自分の友達の肩を持って、相手が悪いって決めつけがちじゃない——」  素早く相手の意図を察し、直子は大きくうなずいて、話の続きを引き取った。これなら直子も話を合わせることができた。なぜなら、直子もよく知っている本当の話だったからだ。 「まったくヒドい別れ方だったのよ。お互い浮気していることがバレちゃってね」  身振り手振りを交え、まるでおばちゃんみたいだな私、と思いつつ、直子は一連のエピソードを語って聞かせた。「うわあ、修羅場」と酒ちんが顔をしかめていることにホッとしながら、康に視線を向けた。目が合った瞬間、このまま行こう、と語りかけてくる康の眼差《まなざ》しに、直子もかすかにうなずいて応える。 「なんだ、そうだったのかよ」  ようやく事情が明かされ、忠やんがホッとした声を上げる。場の雰囲気が少し和んだところへ、タイミングを計ったかのように、あつあつのピザが運ばれてきて、四人は歓声とともにバジルの匂いが香ばしい大皿を迎えた。やがて、ワインも回ってきて、和気藹々《わきあいあい》とした雰囲気が徐々に芽生える。康と直子も、ぽつりぽつりと会話を交わし始める。ときどき、笑ったりする。  一見、打ち解けた様子で、康と言葉をやりとりする直子だったが、その実、内心大いに意外の感に打たれていた。というのも、康の印象が、直子が大学時代抱いていたものと、まるで異なっていたからである。直子にとっての康とは、ホルモーのときにおける勇猛果敢な姿勢そのままの、鋭い「矛《ほこ》」のイメージだった。もちろん、普段の語り口が穏やかであることは知っていたが、それでもピンと張り詰めた緊張感が常に漂う康の雰囲気が、どうにも苦手だった。  ところが、目の前にいる康は実に感じのよい、むしろ柔らかな感触さえする好人物である。少々面長わらじ形の顔が直子のストライクゾーンを外してはいるが、かつてのピリピリムードはどこへやら、実に温厚な青年紳士っぷりである。そういえば、大学時代、結構榊原くんのファンが多かったような気がする。なるほど、そういうことだったのか、と今さらながら、そのへんの機微を理解した直子だった。 「立場とは何と人を変えるものなのだろうか。それを見る者の眼《まなこ》さえも」  しみじみ心でつぶやきつつ、あ、この赤おいしい、と直子はグラスのワインをぐいと飲み干した。  直子が抱いた驚きは、そのまま鏡像のように、正面に座る康の胸のうちにも芽生えていた。  康にとっての直子のイメージも、やはりホルモーにおける沈着冷静な戦い方を映したものだった。大学時代、言葉を交わす機会があっても、とにかく落ち着いたその佇《たたず》まいに、康はまるでこちらの考えをすべて見透かされているような、居心地の悪さを感じていた。まさしく直子の印象は、硬い「盾」そのもの。とっつきにくい、硬質な感触に、康は常に圧迫感を覚えた。  だが、再会した直子から、往時の雰囲気は微塵《みじん》も感じられない。落ち着いてはいるが、何ら威圧的ではない。それどころか非常に心地よい安らぎを感じるくらいだ。多分に垂れ目がちで、狸顔・福顔傾向が強いのが玉に瑕《きず》だが、大学時の得体の知れない雰囲気はすっかり影を潜め、実におしとやかなレディっぷりである。思い返せば、回生、大学の枠を超え、井伊ファンクラブなるものがあったくらいだ。なるほど、ずいぶん流行に後れをとったが、今ならそれもわかる康だった。 「人とはいかに組織のフィルターを通してでしか、個人を捉えられない生き物なのだろう」  予断により、いとも容易《たやす》く心眼を曇らされてしまう、人というものへの認識を新たにしつつ、それにしてもイタリア人はよく豚肉をこんな具合にして食べようと思ったな、と康はチーズのような味わいを舌に残す、ピザの生ハムをぺろりと平らげた。      *  職場での失敗談、大学時代の回想談、人様の恋愛談、それらを順ぐりに展開していくうち、あっという間に時は過ぎていく。気がつけば午後十時半。これからどうする? という声に、康が七階にテラスがあるらしいから、ちょっと見に行かないかと提案すると、へえ、そんなのあるんだ、おもしろそう、と酒ちんがすぐさま賛意を示し、四人はほろ酔い気分で席を立った。  店を出て、七階に向かうエスカレーターの途中、ビルの外の様子を眺めていた忠やんが、いきなり「そういえば、今日って新月だな」と言いだした。それを聞いた酒ちんが間髪を容《い》れず、「今頃、気づいたの?」と非難めいた言葉を投げつける。「いやいや——」と口ごもる忠やんに、「どうして、いつもそう鈍いのよ」と酒ちんはどこまでも容赦ない。康と直子は思わず目を合わせた。二人からすれば、ふと窓の外を眺め、今日が新月であると気づくことなど、今後十年を通しても皆無であると思われたからだ。厳しいなあ、怖いなあ酒ちん、と大学の頃から、ずっとやりこめられていたという忠やんに同情しつつ、直子はエスカレーターの左側に立って窓の外をのぞく。  七階に到着し、四人はフロアをぐるりと一周するテラスを目指した。テラスに出たところで、 「俺、コーヒーでも買ってこようか」  と忠やんが声を上げた。すると、「あ、じゃ、私も一緒に行く」と酒ちんが手を挙げ、二人して、開けたばかりの扉からさっさとフロアに戻っていってしまった。  まったくチームワークがいいのか、悪いのかよくわからない。仕方がないので、取り残された康と直子は、並んでテラスをぶらぶら歩いた。  テラスを囲むように隣接する、高層ビルの明かりが煌々と夜を照らしている。春と初夏の境目に漂う、ひんやりとした夜の空気が心地いい。あの黒く、夜に塗りつぶされたあたりが皇居だろうか、などと考えながら歩いていると、突然、後ろから手首をつかまれ、康の胸はドキリと波打った。 「な、何?」  狼狽《ろうばい》して振り返る康の声に、直子は答えない。そもそも、直子の視線は康に注がれていない。直子の顔は後方に向けられ、隣に立つビルを見上げている。 「あ、あれ……」 「あれって何?」 「だから、あ、あれ、あそこ……」  直子の顔が向く先へ、無意識のうちに康は視線を送った。  だが視界に、別段変わったものは見当たらない。 「何だよ……。何もないじゃ」  ムッとした口調で返す康の声が、唐突に途切れた。 「何だ——あれ」  直子と同じ方向を見上げたまま、康は完全に動きを停止させた。  二人の視線の先に、黒い「何か」がふらふらと浮遊していた。  隣接するビルの窓を横切る、その黒い物体を視界に捉えたとき、康はまず「鳥か? コウモリか?」と勘繰った。だが、ビルとビルの合間より、黒い物体が一つ、また一つ、宙を舞って、こちらに向かってくるのを見て、鳥ではないとすぐさま判断した。なぜなら、黒い物体は一度も羽ばたこうとしないからである。加えて、鳥にしてはあまりにその飛行速度が遅い。  まるで、宇宙空間を慣性で進むが如く、黒い物体は直線的な軌道で、空間を移動していた。その正体を見極めようと康は目を凝らした。ひょっとしたら、誰かがラジコンか何かを使って、見る人を驚かそうとしているのかもしれない、そんな可能性も頭に浮かべた。  だが、テラスからおよそ五メートル離れた空中を、その黒い物体がゆっくりと通過していったとき、康と直子はほぼ同時に、 「ぎゃっ」  と引っくり返るような声を上げた。  なぜなら、向かいのビルの明かりと、テラスからの照明、二つの光源にほのかに照らされたその黒い物体は、二人にとってあまりに懐かしい造形をしていたからだ。  黒い物体の体長は二十センチほどだった。人と同じ四肢の構造を持つが、頭がデカく、四頭身というアンバランスに落ち着いていた。纏った襤褸《ぼろ》が、風を受け、はたはた舞っていた。頭部にはあまりに馴染みある�絞り�が、進行方向を指し示すかのように、ちゅっ、と前方へ突き出していた。  そう。康と直子が、京都で散々使役してきた�オニ�が、東京丸の内の上空をのんびり浮遊していた。ただ一つ、二人の記憶と大きく異なるのは、オニの外見が、膚《はだ》の色、襤褸の色ともに、全身完全な漆黒《しっこく》に彩られていたということだ。それは二人が京都で一度も見たことのない姿だった。  康は思わずテラスの手摺《てす》りより首を突き出して、地表からの位置を確かめた。黒い連中は優に地上二十メートルの位置を、ぷかぷか進んでいた。 「い、井伊さんも見えるよな……」  揺れる康の声に、未だ手首をつかんでいることも忘れ、直子はうなずいた。 「う、うん、飛んでる……よね」  黒いオニたちは、テラスより皇居方面を望んで右側、すなわちおよそ北西の方角から、次々と飛来している。手足をクラゲの如く弛緩《しかん》させ、宙に浮いているオニたちに、とりわけ目的はなさそうだった。その証拠に、よくよく観察すると、黒いオニたちは平気でビルの壁面にぶつかっている。その都度、まるでピンボールのように角度を変え、同じ速度で、別の方向へ飛んでいく。なかには、向かい合うビルの間に飛行コースを定めてしまい、ジグザグを描くように、ビルの谷間をひたすらコンコンぶつかりながら昇っていく者もいる。  タンポポの綿毛が舞うが如く、黒いオニたちは続々とビルの合間より現れて、こーん、こーん、こーん、とビルの壁面にぶつかり、撥《は》ね返りながら、わけもなく飛行し続けている。 「ど、どうしよう」 「どうしようって?」  振り返った直子はようやく、康の手をつかんだままだったことに気づき、「ごめん」と慌てて離した。 「何か言葉をかけるべきだろうか」 「それって鬼語で話しかけるってこと?」  ウンとうなずく康に、何が起こるかわからない、やめておいたほうがいい、と直子は真剣な表情で首を横に振った。  沈黙のまま康と直子が視線を交わしていると、「お待たせ、お待たせ」とそれぞれ両手にコーヒーのカップを持った忠やんと酒ちんが戻ってきた。 「どうしたの? 喧嘩《けんか》でもした?」  二人の間に漂う硬い雰囲気を素早く察知した酒ちんが、遠慮ない質問を投げかけてきた。直子は、ウウンと短く否定してカップを受け取ると、熱いコーヒーをひと口すすった。酒ちんのほんの二メートル頭上を、やる気ない姿勢のまま、黒いオニが一匹、ぷかーと浮遊していくのを目の端に捉えながら。      *  東京駅で四人は解散した。  酒ちんは地下鉄で帰ると丸ノ内線の赤マルの表示を指差し、忠やんも一度、会社に戻るからと酒ちんとともに、東京メトロの連絡口へ向かった。  康と直子はJR沿線在住なので、そのままJRの切符売り場の前で二人を見送った。友人たちの姿が見えなくなっても、二人は券売機の前に突っ立ち、わけもなく路線図を見上げていた。 「榊原くん——今、あれのこと考えているでしょう」  あまりに広すぎて、未だ十分に把握できない路線図を仰ぎ、直子はつぶやいた。 「井伊さんもだろ」  くぐもった声で、康は言葉を返した。 「私は、放っておいたほうがいいと思う」 「どうして? あんなのおかしいじゃないか」 「おかしいから、放っておくのよ。これはホルモーじゃない」  押し殺したその声に、康は思わず顔を向けた。 「上手に説明できないけど、あれは京都でやっていたから、あんな滅茶苦茶ななかにも、調和がとれていたんだと思う。ここは——東京だよ」  直子の強い視線を受け、康はいったん言葉に詰まるも、 「何もしない。ただ見に行くだけなら?」  と低い声で訊ねた。 「どういうこと?」 「あの黒い連中は皆、同じ方向から流れてきていた。きっと、その先に何か源になるものがあるんじゃないか?」  黙ったままの直子に、康は重い口調で続けた。 「ただの好奇心で言っているんじゃない。このまま放っておいていいこととは思えないんだ」  康の眼差しを正面に受け、直子は思わず背中がぞくりとするのを感じた。それは間違いなく、長い間忘れていた、戦いの前の気配だった。 「僕は行くよ」  改札に向かおうと、一度は取り出した財布を、スーツの内ポケットに戻し、康は踵《きびす》を返し歩き始めた。その後ろ姿を、しばらく見つめていた直子だったが、「もう」と短くつぶやくと、同じく財布をバッグに戻し、そのあとを小走りで追いかけていった。  上空を仰ぎ、二人は新丸ビルを右手に行幸《みゆき》通りを進んだ。  空には相変わらず、黒い物体が直線的な軌道を描き、のんびり飛行している。  新丸ビルに沿うように右折して、丸の内仲通りに入る。新緑の匂いが、夜の涼やかな空気に混じって鼻をくすぐる。路面店の明かりは消え、残業帰りのスーツ姿の人間がときおり足早に通り過ぎていく。静寂がビルの合間を満たせども、夜空を通過するオニの列はますます賑《にぎ》わしい。対向するように空を浮遊するオニたちを見上げながら、そういえばもう少しで葵祭だね、と直子はつぶやいた。もうそんな季節かあ、と康が控えめな声で返すと、 「榊原くんて彼女いる?」  と突然、直子がプライベートな質問を投げかけた。 「な、何だよ、いきなり」 「まあ、いないよね。こんなGWが始まる前日に合コンに来るくらいなんだから」 「それはお互いさまだろ」  さあ、それはどうでしょうね、と直子はすっとぼけた声を上げ、街路樹をかすめるように空中散歩するオニを目で追った。 「榊原くんは東京に友達いっぱいいる?」 「あまりいない」 「GW、暇だったら一日くらい、付き合ってもいいよ。映画なんかいいんじゃない?」 「ず、ずいぶん積極的だな、井伊さん」 「何だろう……。こんなのが平気で空飛ぶのを見てたら、ちょっと感覚狂ってこない?」  なるほど、わかる気がする、と康も妙に納得して、じゃあ「映画でも行こうか」と積極的に日にちを挙げた。 「こんなことなら、もっと井伊さんと京都にいたときに話したらよかったな」 「私もそう思います」  オニたちの遊覧飛行を眺めつつ、緊張感のない会話を交わす二人だったが、永代《えいだい》通りに出たところで、打ち合わせたかのように足を止めた。 「ねえ……どうする?」  大手町《おおてまち》の交差点の空を見上げ、硬い表情に戻り、直子はささやいた。どこまでも静かな大手町上空を、さらに密度を増したオニたちが四方八方、好き勝手に飛び回っていた。さながら無音のラッシュアワーの風景である。 「ここまで来たら行こう。きっとこの先だ」  康の指差す先を、直子は唾《つば》を一つ呑みこんで見渡した。幅の広い本郷《ほんごう》通りの空を、数百匹の黒い連中が、自由気ままな編隊を組み、こちらに向かってくる。高度や向きは、それぞれ微妙に異なれど、全体の流れは統一されている。ということは、流れをたどれば、発生の場所を突き止められる。その場所はオニたちの密度の増加ぶりから鑑《かんが》みても、いよいよ近い。 「わかった、行こう」  覚悟を決めた直子の声に押され、康は緊張の漲《みなぎ》る表情とともに、信号が静かに点滅する横断歩道へと足を踏み出した。      *  上空の様子を確かめながら、読売新聞社前の交差点を渡り、三菱東京UFJのビル脇の道を、二人は無言のまま進んだ。  人通りは完全に途切れ、しんとした空気が薄暗い闇を浸《ひた》している。 「ヒールを鳴らすの抑えて」  低く響く康の声に、直子は「すいません」と小声で謝って、足先にぐっと力を入れ、かかとからヒールを着地させるよう努めた。  つつじの植え込みに沿って先を歩く康の足が止まった。直子も康の隣に、極力足音を消して立ち止まる。 「何、ここ……」  ビルとビルの間に、ぽっかりと暗闇がうずくまっていた。  低い石垣に囲まれて、植え込みの向こうに、何本か幟《のぼり》らしきものが立っているのが見える。直子は一瞬、神社かと思ったが、入り口に鳥居はない。かといって、祠《ほこら》にしては生け垣が立派すぎる気がするし、寺にしては間口が狭すぎる。けれども目を凝らすと、幟の横に灯籠《とうろう》らしき物影も見えて、何だか得体が知れない。 「わからない……でも、ここだ」  康は押し殺した声で断定した。議論の余地はなかった。二人が見上げる先で、丸いシルエットを描きこんもり茂る樹木の向こうを、黒い影がシャボン玉のように、ぽん、ぽん、ぽん、ぽん、と空へ向かって打ち上げられている。  腕を引っ張る感触に、直子はポカンと開けた口を慌てて閉じた。道路に面した、植え込みが切れた場所に設置された立て札を、康が指差している。 「何て書いてある、これ?」  康のささやきに、直子は立て札に顔を近づけるが、暗くて読み取ることができない。  ウウン駄目、と直子が顔を離そうとしたとき、一台のタクシーが二人の横をスピードに乗って通過していった。  ほんの一瞬だが、二人の視線の先に、 「都旧跡 将門塚」  と記された立て札の文字が見えた。 「ひょっとして、平将門《たいらのまさかど》の首塚……」  思わず漏れた直子のつぶやきに、「え、首が何?」と康が不安そうな声を上げた。 「知らないの? 平将門」 「ゴメン、受験科目、地理だったから」  そんなの関係ない、と抗議の声を上げようとしたそのとき、暗闇を囲む生け垣の向こう側より、急に男女の話し声が聞こえてきて、直子は慌てて言葉を呑みこんだ。 「——くそ、何で俺がこんなことしなくちゃいけないんだよ」 「はァ? それは私のセリフでしょ? 本当に、あなたのとこって愚図ばっかよね。先輩も先輩なら、後輩も後輩よ。何やってて、今日のこと忘れたんだって?」 「ん……? まあ、麻雀《マージャン》に夢中になってたとか言ってたような」 「麻雀? 馬鹿じゃないの? 今日、私たちがたまたまここにいたからいいものの、もし放ったままだったら、どうなっていたと思うのよ」  知らないよ、そんなこと俺に言われたって、知らないじゃないでしょ、今月はあなたのところが当番なんだから、ちゃんと決められたことは守りなさいよ、いや、確かに俺のところだけど、でも、俺はもうとっくに引退したんだぜ、俺が怒られたって……、うるさい、さっさとやりなさいよ——。  将門塚の敷地内より聞こえてくる、どこか間の抜けた言い合いを耳にして、康と直子は黙って顔を見合わせた。その表情には、驚きと困惑の表情が複雑に混ざり合っている。  二人の顔は揃って、同じことを語っていた。  どうして、忠やんと酒ちんの声が、聞こえてくるのだろう? 「まったく次から次へ、よくもこんなに噴き出すもんだ。温泉じゃないんだ。気味が悪いったら、ありゃしない。でも、本当にこれで効くのかな? 安物すぎないか、この酒?」 「仕方ないでしょ、それしか売ってなかったんだから。だいたい、あなたのところのボンクラ学生どもが、ちゃんと用意しておかないから……ちょっと、本気で急いでよ。終電に間に合わなくなるじゃない」 「わかってるよ、暗くて蓋《ふた》が見えないんだよ」  情けなさそうな忠やんの声が闇より漏れてくる。 「……井伊さん」  遠い声に意識を集中していたところを、突然耳元でささやかれ、直子は弾《はじ》かれたように面を上げた。 「僕たち……ここで帰るべきだろうか」  康の言葉に、直子はすぐに返事ができなかった。ほんの数メートル離れた場所に、間違いなく酒ちんがいる。いったい、どういうことなのか、今すぐ酒ちんに訊《き》いてみたい。けれど、もしここで直子が姿を現したら、後戻りできないことになってしまう気がする。 「どうんどぅぐぁ、げっぽ、げっぽ、げっぽ——」  そのとき、暗闇の向こうより、忠やんの気合がこもった、されども、どうにも間抜けな声が聞こえてきた。  驚いたことに、その声が意味するものを、康と直子は知っていた。なぜならそれは、ホルモーの場でパニックに陥ったオニたちを鎮めるときに用いられる鬼語だったからだ。もっとも、康と直子が知る鬼語は後半の部分がわずかに異なり、「げっぺ、げっぺ、げっぺ」だったが。 「——やっぱり、帰ろう」  直子が康のスーツの袖《そで》をつかみ、引っ張ろうとしたときだった。直子の目の前を、黒い物体がふっと横切った。反射的に顔を上げると、ちょうど黒いものが直子の額目がけ降り注いできた。 「きゃあッ」  避ける間もなく、思わず声を上げた直子の眉間を、黒いオニが音もなく通り過ぎ、後頭部よりゆっくり抜けていった。  驚いて見上げた康の視線の先で、それまで勝手気ままに宙を漂っていたオニたちが、一斉に風を失った凧《たこ》のように、ふらふらと地表目がけ、降下を始めていた。巨大なビルに区切られた新月の空を、逆立ちしたイカのような体勢になって、何百もの黒いオニが墜落してくる。  直子はオニが通過したあとの眉間を、泣きそうな表情で何度も擦《さす》っていたが、 「井伊嬢——」  と呼ぶ声に、動きをぴたりと止めた。  声のする先に、直子はおそるおそる視線を向けた。生け垣と生け垣に挟まれた、首塚の敷地へとつながる低い石段の先に、酒ちんが立っていた。 「ど、どうして直子がここに……? それに、榊原くんも——」  蒼白《そうはく》な酒ちんの顔が、薄闇に浮かんでいる。  ようし、うまくいった、これで大丈夫、封印完了だ、帰るぞ酒井、といっても俺は会社だけど、明日からGWなのにひどい話だ——、カップ酒を片手に、遅れてやってきた忠やんは、康と直子の顔を認めた途端、 「うわッ」  と短く叫んで、手にした空のカップ酒を落としてしまった。 「二人とも、ど、どうしてここにいるんだ?」  動揺の隠せない忠やんの声に、康は黙ったまま顔を空に向けた。ちょうど、康の立ち位置目がけ、ふらふら落下してきたオニを、一歩横にずれてやり過ごした。 「お、お前——見えるのか?」  震えを帯びた忠やんの声に、康は眉間に深い皺を寄せたまま、うなずいた。 「い、井伊さんもなのか……?」  驚愕《きょうがく》の表情の忠やんに、直子は一瞬、躊躇《ちゅうちょ》するも黙ってうなずいた。ちょうど身体の右側を落下していくオニの身体を、人差し指でつーっ、とたどる直子の動作を見て、「直子……」と発したきり、酒ちんは絶句してしまった。 「教えてくれ、忠やん。大学のときに、何ていう名前のサークルに入っていた?」 「な、何だよ、どうしてそんなこと、ここで」 「酒井さんも、お茶の水で何ていう名前のサークルに入っていた? 教えてくれないか」  鋭い康の声が、闇を打つ。石段の上の二人は、凍ったように立ち尽くしたまま、声を発しない。その身体を、オニたちが無遠慮に通過していっても、微動だにしない。 「じゃあ、僕たちのサークルから言う」  息を大きく一つ吸いこんで、康ははっきり通る声で告げた。 「京都産業大学玄武組」  康の手がそっと背中に触れ、直子も続いて口を開いた。 「わ、私は……龍谷大学朱雀団」  長い沈黙が、将門塚を覆った。その間も、黒い雪となって、オニたちは振り注ぐ。 「話すべきことはお互いきっと、山ほどある。でも、その前に二人のサークルの名前を教えてほしい」  抑えた康の声に、酒ちんと忠やんは硬い表情で顔を見合わせる。 「酒ちん——」  直子の揺れる声に、酒ちんは「わ……わかった」と、かすれた声でうなずいた。 「青竜お茶の水——これが私のいたサークルの名前」  言葉が発せられた瞬間、康と直子の身体がびくりと震えた。 「俺は——び、白虎一橋」  詰めていた息を大きく吐き出し、忠やんは土の上に転がったカップ酒を、のろのろとした動作で拾い上げた。  混乱と疑念と不安が入り混じった表情で、ひたすらお互いの顔を見比べる四人。まるで四人の沈黙の重みを背負いこんだかのように、オニたちは次から次へ、暗いアスファルトを目指し、落下していく。 「ぴゅろお」 「ぴゅろお」 「ぴゅろお」  地面へ吸いこまれる際、はかなく、せつない声をかすかに残し。 [#改ページ] 第六景 長持の恋  貧乏という言葉は、何とせつない字面《じづら》をしているのか。  貧しく、乏しい。  まさに今の珠実《たまみ》の状況を説明するに、これ以上ない言葉だった。  もう二日間、珠実は何も食べていない。何も食べぬまま、試験勉強を続けた。水だけ飲んで後期試験最後の科目に挑んだら、空腹より来る強烈な眠気に襲われ、試験中、丸々寝て過ごすという大失態を演じてしまった。  学生食堂の前で、献立のディスプレイを眺め、珠実がこっそり涙ぐんでいたら、急に背後から声をかけられた。  振り返ると、自動車教習所のロゴが入った、黄色いジャンパーを着たお姉さんが「普通免許はお持ちですか?」とパンフレットを差し出してきた。  どうにも人寂しかったので、珠実は導かれるまま、幟《のぼり》が立つ、こぢんまりしたブースのパイプ椅子に腰を下ろした。 「お友達と一緒に、天橋立《あまのはしだて》にドライブなんて楽しいですよ」  珠実は天橋立に行ったことがなかったので、それはたいへん楽しそうだと思い、いろいろお姉さんと歓談したら、どういうわけか話が逸《そ》れ、ここ数日の自分の困窮模様を語っていた。  アルバイトはしていないの? と訊ねられ、以前働いていたカラオケ屋の店長が非常に品格に欠ける男だったので、急に辞めたら残りのアルバイト代を払ってもらえなかった、試験も始まり、他のアルバイトも探せなくて、と珠実が事情を説明すると、お姉さんは「まあ、何て不憫《ふびん》な」と声を詰まらせた。 「これでおうどんでも、食べなさい」  お姉さんは足元のバッグから財布を取り出すと、三百円を珠実に手渡した。駄目です、こんなのいただけません、と珠実は慌ててその手を戻そうとするも、「いいの、いいの。これしかあげられなくてゴメンね」と強引に百円玉を押しつけられてしまった。思わぬ人のやさしさに触れ、珠実の目に、見る見る涙が浮かんだ。同時に、手のひらの百円玉の存在に気づいた消化器官が、一斉に獰猛《どうもう》なうなり声を上げ始めた。腹の音を誤魔化《ごまか》すため、しきりに咳《せ》きこんだら、苦しくなって本当に涙がこぼれてきた。それを見たお姉さんが、「もう少し取っておきなさい」とさらに五十円財布から取り出し、有無を言わさず珠実の手に握らせた。「滋養をつけなさい。何事も身体が資本よ」となぜかお姉さんも、もらい泣きしていた。 「じゃあ、入所日は仮予約だけど、来月二月十日にしておくね。こっちの書類はこれでOKだから、あとはこの一枚、エンピツで囲んだところに、ハンコを押して郵送でいいから、送り返してください」  お姉さんから自動車教習所入所のための必要書類一式を手渡されたのち、珠実はようやく席を立った。 「楽しいですよ、ドライブ。比叡山《ひえいざん》とか、琵琶湖一周とか、浜大津《はまおおつ》アーカスとか、ミシガンとか」  手を振って見送ってくれるお姉さんに、「三百五十円ありがとうございました」と改めて頭を下げ、珠実はその足で学生食堂に向かった。  お姉さんの言葉どおり、わかめうどんと大ライスを注文して席に向かうと、誰かが忘れていったのか、テーブルの中央にアルバイト情報誌が置いてあった。  今日で後期試験も終了し、珠実は早急に新しいアルバイトを探す必要があった。しかも、どういうわけか、普通免許欲しさに自動車教習所にも入ってしまった。これは一日だってうかうかしていられない。情報誌をめくりながら食事をしようと思ったが、ひと口うどんをすすったら、そのまま全部食べ終えてしまった。久しぶりに胃が満たされた感触に、お茶をすすりながら珠実がニマニマしていると、 「細川《ほそかわ》——お前、生きていたのか」  と頭の上から声が降ってきた。  誰かと仰ぎ見ると、汚らしく無精ひげを生やした黒田《くろだ》が、丼をトレーに載せ、立っていた。黒田は珠実と同じく、立命館大学白虎隊のメンバーだ。 「生きてるよ」  珠実はむっとした声で返事をした。 「メールをしても一切返ってこない、電話をしても�お客様の事情�でつながらない」  どうした、また金欠で携帯止められたか、という声に、うんと珠実は重々しくうなずいた。 「金、貸してやろうか」 「その言葉を待っていました。ミスター黒田」  尻ポケットより財布を抜き、「俺も結構、厳しいんだけど」とつぶやきながら、黒田は千円札を二枚取り出した。 「ありがとうございます、ミスター黒田。いつか真心こめて、無利子のままそっくりお返しします」  連絡ぐらい取れるようにしておけよ、来月、新しい会長を選ぶんだからな、と残し、黒田は学部の友人らしき男どもが待つテーブルに向かっていった。 「そうだ」  途中、黒田が急に振り返った。 「細川、�あれ�、どうなった? 何かあったか?」 「ないよ」 「まだ、ないか」 「まだもなにも、ずっと、ありません」 「もう、五カ月経つだろ? そろそろ、いい加減、来るんじゃないか?」 「何のことかしら? 私の場合は、叫んであれで全部終わりなの」  それは甘いんじゃないの? 相手はホルモーだぜ、とニヤニヤ笑う黒田に、珠実はあかんべえをして、追い払う仕草をして見せた。  黒田がいなくなったところで、これでしばらくひと安心と、珠実はほくほく顔で財布をカバンに戻し、アルバイト情報誌に戻った。何気なく開いたページに、「まかないつき」という文字が見えた。なるほど、これなら時給に食事に、一挙両得である。どれどれ、と内容を確かめると、料理旅館の仲居アルバイトとある。場所は伏見稲荷《ふしみいなり》と少し遠いが、せっかく京都の大学に来たのだから、こういうところで一度働いてみるのもいいかもしれない。  珠実はトレーを持って席を立つと、さっそく食堂を出た場所にある公衆電話に向かった。手の甲に書きこんだ番号に電話すると、 「お電話ありがとうございます。『狐《こ》のは』でございます」  という男性の声が、受話器の向こうから聞こえてきた。 「あのう、アルバイトしたいんですけど」 「ああ——ちょっと待って。女将《おかみ》に代わるから」  それから五分間、電話口で話しこみ、珠実のアルバイト採用はあっさり決まった。 「細川さんだっけ? じゃあ、二月から来てくれるかしら?」 「私、明日からでも行けます」 「制服の用意があるから。二月から来てくれるかしら?」 「了解しました、女将さん」  二月まであと一週間、二千円で乗り切るには、一日三百円弱。おお、きっつい、と素早く計算して、珠実は電話を切った。  一週間後のアルバイト初日、珠実は前日から何も食べぬまま「狐のは」に向かった。交通費のことを何も考えず計算していたため、伏見稲荷へのバス・電車代を残すと、前日に所持金が底をついてしまったのだ。  慣れない作業を、空腹を堪《こら》えながら何とかこなし、ようやくまかないの時間が来た。出てきた刺身の切れ端を食べたとき、珠実は感激のあまり、つい泣きだしてしまった。 「ど、どうした。マズいか?」  と慌てる板前に、こんなおいしい刺身は食べたことがないです、と珠実が正直に答えると、板前たちは料理がうまくて泣くなんてミスター味っ子か、とざわつきながら、何だかおもしろいやつだと、余ったとり貝の刺身を一枚おまけしてくれた。  さほどの理由もなく、すぐに涙ぐんでしまう珠実の妙な癖が、「狐のは」の人々に知れ渡るまで時間はかからなかった。  ほどなく、 「泣き虫おたま」  というあだ名が珠実につけられた。      *  お膳《ぜん》を運び、座布団を運び、蒲団《ふとん》を運び、お酒を運ぶ。ひたすら、物を運び続けるのが、老舗《しにせ》料理旅館での珠実の仕事だった。そそっかしい珠実はよく失敗して、先輩の仲居から怒られた。その都度、珠実は涙ぐんでしまうのだが、どうも涙を浮かべるタイミングが余人に比べズレているらしく、怒る側が途中から笑いだしてしまう、という奇妙な光景が頻繁に見受けられた。さんざん怒られた分、仕事を覚えるのも速かった。二週間もすると、珠実はすっかり一人前の顔で、お盆を運ぶようになった。  普通免許取得のための講習もスタートした。そそっかしい珠実はサイドブレーキを引いたまま発進したり、S字カーブで一度目、必ず脱輪したり、よく失敗をした。隣に座る教官は、先輩の仲居のようにがみがみ怒らなかった。その代わり、 「それじゃ、いつになっても教習所の外に出られないよ」  とため息交じりに、修了のハンコが押されていない用紙を返してきた。ある日、「狐のは」に向かう途中、珠実は伏見稲荷大社にお参りして、「S字カーブが上手《うま》くなりますように」とお願いした。だが、お賽銭《さいせん》が一円だったせいか、霊験はあらたかにならず、次の日もS字カーブで脱輪した。なかなか埋まらぬハンコ欄を見て、やはり珠実はこっそり涙ぐんだ。  まかないの食事は、ときにレトルト・カレーが出たり、真っ赤に着色されたウインナーが出たり、かと思うと出汁《だし》のきいた親子丼が出たり、日によって差が激しかったが、珠実はすべてをありがたく頂戴《ちょうだい》した。それでも、やはり刺身の切れ端が出たときが、いちばんうれしかった。 「今日は泣かないのか?」  刺身が出るたび、板前たちから冷やかされた。「鱧《はも》の梅肉|和《あ》えが出てきたら、泣きます」と珠実が言ったら、生意気言うなと怒られた。      *  二月も中旬、風の強い日のこと、大広間のミサキの間で宴会の準備をしていたら、女将から、 「ちょいと、おたま」  と強い調子で名前を呼ばれた。あれ、また粗相しちゃったかな、となるたけとぼけた顔で着物姿の女将のもとへ向かうと、 「阿呆。何、口開けて歩いてんの」  と冷たい顔で注意された。残念、無駄に演じてしまった、と珠実が顔を赤らめていると、 「蔵へ行って、燈台《とうだい》を取ってきてくれる? この前連れていったから、わかるわね。二本、お願い」  といきなり鍵を手渡された。  しまった、貧乏くじを引かされたと思ったが、もう遅い。「早く頼むわよ」との女将の声に急《せ》かされ、珠実はずしりと重い蔵の鍵を手に、広間を出た。  廊下を進み、トイレ脇のガラス戸を開けて、沓脱《くつぬぎ》石のサンダルに足を入れた。思ったとおり、中庭の空気は身を切るほど冷たい。いつの間にか粉雪も舞っている。珠実は作務衣《さむえ》の袖を手のひらで絞り、胸の脇に腕をこすりつけながら、「寒いよ、寒いよ」と踊るような足取りで、ひょこひょこ庭を横切った。  珠実の視線の先には、二階建ての立派な白塗りの蔵が、中庭を睥睨《へいげい》するようにそびえていた。ほんの十メートルの移動にもかかわらず、蔵の前にたどり着いたとき、指がかじかんでいた。入り口の漆喰《しっくい》のぶ厚い扉を開けると、錆《さ》びた蝶番《ちょうつがい》が硬質な音を立てた。左右に開いた扉の内側には、鏝絵《こてえ》で描かれた黄色い狐が踊っている。  漆喰扉の先には、さらに格子戸がある。ぶら下がった南京錠を手に取ると、冷たい重みが指に伝わった。足元より這《は》い上がる底冷えする空気に、足をじたばたさせながら、珠実は鍵を差しこんだ。  格子戸を引くと、珠実は壁に右手を這わせ、スイッチを探った。指に触れた出っ張りを横に倒すと、蔵の天井から吊《つ》り下げられた裸電球がポッと点灯した。  古い空気がむっと鼻を衝《つ》く。十畳ほどの広さがある蔵には、箪笥《たんす》やら、人形やら、夏に庭に出すベンチや唐傘やら、大小さまざまなものが詰めこまれていた。燈台は、ひっそり奥にまとめて立っていた。サンダルを脱いで、床に足を下ろした途端、板の冷たさが靴下をすり抜け、足裏に沁みこんだ。 「痛い、痛い」  珠実はほとんど爪先立って燈台に向かった。  黒漆塗りの長い柄をつかみ、そっと燈台を持ち上げたとき、珠実はふと蔵の隅に、ずいぶん大きな木の箱が置いてあることに気がついた。  中型の冷蔵庫を横に倒したような、みっしりとした質感のある箱が、蔵の角にはまりこむようにうずくまっていた。木の肌合いから見て、相当年季が入っている。板は総じて黒ずみ、蓋《ふた》の中央に描かれた図柄は、すっかりまわりに溶けこんでいる。角を覆う鉄の板も錆びついて、まるで百年も前からそこにあったかのような貫禄《かんろく》だ。  あまりの存在感に、珠実は思わず燈台を置いた。腰ぐらいまで高さがある、黒光りする箱の表面をそっと手で触れた。天井の電球の光を反射させた、ツヤのある木目が、冷気とともに指の腹に吸いついた。  珠実は箱の蓋の取っ手をつかみ、静かに持ち上げた。コトリと音が響き、開いた隙間から、屈《かが》んで内側をのぞいた。何も見えない。もう少し、蓋を持ち上げた。それでも、何ら視界に入るものはない。 「何だ」  結局、全部開けてのぞきこむも、大きな図体《ずうたい》の中身はからっぽだった。  そのまま蓋を閉めようとしたとき、珠実の視界に一瞬、反応するものがあった。しばらく底を眺めていた珠実だったが、いきなり箱の中に頭を突っこんだ。箱の底に触れると、ちょうど影になった部分で、何かが指にぶつかった。  触れたものを手に、珠実は身体を起こした。  電球の光の下で見ると、それは何の変哲もない、古びた木の板だった。かまぼこ板を縦に二枚、並べたくらいの大きさである。補修材か何かかな、と板を裏返したとき、珠実は表面に、文字のようなものが書かれていることに気がついた。 「なべ丸」  中央より少し左下に寄ったあたりに、人名だろうか、筆で大きく書かれた文字が何とか読み取れた。木目の黒ずみに完全に馴染《なじ》んでいるところや、草書体らしき筆づかいから見ても、相当古くに書かれたようだ。  電球の下で、珠実はずいぶん熱心に手にした板を眺めていたが、作務衣のポケットから、先ほどまで宛名書きの仕事に使っていたマジックペンを取り出した。キャップを口でくわえて外すと、珠実はいきなり、「なべ丸」と書かれた面の裏に、 「おたま」  と書きこんだ。  書きこんだ後、数秒経って、珠実は「わッ」と大きな声を上げた。口にくわえたままのキャップが、ころころ床を転がった。  信じられない、といった表情で、珠実は右手のマジックペンを見下ろした。シンナーの匂いがツンと鼻を撲《う》った。 「何で?」  思わず珠実は素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。というのも、珠実自身、どうしてそんな行為に及んだのか、わからなかったからである。  珠実は慌てて、作務衣の袖で木の表面を擦った。だが、油性マジックの筆跡は毫《ごう》も薄まらない。 「——どうしよう」  早くも涙目になりながら、珠実は「なべ丸」の字に影響されたのか、なぜか草書体ぽく書いてしまった「おたま」の字を見つめた。よりによって自分の名前を落書きするなんて。しかもこんなデカデカと——。  燈台を両手に、蒼《あお》い顔で大広間に戻ると、 「お疲れさん。ずいぶん遅かったわね。鼠でも出たかい?」  といきなり女将に声をかけられ、珠実はビクリと身体を震わせた。蔵の鍵を返しがてら、珠実は女将にそれとなく蔵の隅にあった箱のことを訊ねてみた。 「ああ——長持《ながもち》ね」  一瞬の間ののち、厚化粧の女将は甲高い声を発した。 「長持……って言うんですか?」 「あら、知らないの? まあ、そうよね、あんな大きなもの、もう家の中に置けないものね。昔はあの中に、衣装やら調度品を収納したり、持ち運んだりしたの。あれ、上に棒を通して、駕籠《かご》みたいに二人で担ぐように出来てるから」  着物の袖から太い腕を伸ばし、女将は燈台を受け取った。 「亡くなった父親がね、美術やら、骨董《こっとう》やらが好きでね。ウチの玄関のところに、皿とか人形とか、いろいろ置いてあるだろう。そこの屏風《びょうぶ》も、あの長持も、全部それ。骨董を見る目は悪くなかったと思うけど、長持だけは失敗だわね。あんな大きいもの、飾ることもできないし、使い道なんかありゃしない。だから、もう何十年も蔵の中」 「あれって……値打ちものなんですか?」  何でそんなこと訊くの? 何かしたの? と女将が投げかけた鋭い一瞥《いちべつ》に、「いえいえいえいえ」と珠実は胸の前で慌てて手を振った。 「ただ、ずいぶん古そうだったから、由緒あるものなのかなあ、って思って……」 「小さい頃、織田信長が使っていた長持だって教えられたけど、本当のところは、どうなんだろうね」  織田信長——珠実が蒼い顔になっていると、女将は珠実の尻をパンと叩いた。 「こらッ、何アンタ、さりげなく無駄話してるの。さっさと働く働く。あっ、アンタ、何で泣いてんの?」      *  午前中に学科教習。午後は技能教習。今日も珠実は、S字カーブで脱輪し、二重橋でコースアウトした。  いつか、仮免許を取って、外の世界に飛び出す日が来るなんて信じられない。天橋立や、琵琶湖一周なんて、夢のまた夢。すっかり自信喪失気味の珠実は、近頃、教習所通いが億劫《おっくう》で仕方がない。  きっと、このまま一生、教習所の中でS字カーブを曲がり続けるんだ、と送迎バスの待合室で、珠実が落ちこんでいると、 「あれ——ひょっとして、立命館の細川さん?」  と急に名前を呼ばれた。  驚いて顔を向けると、ダウンジャケットを着た男がちょうど引き戸を開けて、待合室に入ってくるところだった。 「あ」  この人、知ってる——。  思わず声が出たが、肝心の名前が出てこない。この人、京大青竜会の……チョンマゲ……チョンマゲ……チョンマゲ。チョンマゲばかりで、先が続かない。  珠実が言葉に詰まっていると、男は珠実の前まですたすたやってきて、 「お久しぶり、高村《たかむら》です」  とぺこりと頭を下げた。 「ああ、そっか、高村くん」  そうだ、あの高村くんだ——。  珠実がぎこちない会釈を返すと、ここいいですか? と色白で小作りな顔をした男は、珠実の隣に腰を下ろした。 「それかぶってるから……わからなかった」  珠実が控えめに頭のキャップを指差すと、この前、教官に喧嘩《けんか》売ってんのかと言われて、それからかぶっているんだ、と高村は真面目な顔で説明した。  ふうん、珠実は興味深げな視線を、高村の頭部に送った。高村と会うのは、去年七月の、三条木屋町居酒屋「べろべろばあ」以来のことだ。あのとき、ホルモーに参加する各大学のメンバー四十名が「べろべろばあ」に集結し、「鴨川十七条ホルモー」の開催を決定したのだ。  あの場に、いきなりチョンマゲ姿で現れた高村を見たときは、さすがの珠実も仰天した。あれから半年、今も彼はチョンマゲなのだろうか? 現在、高村の頭頂部はキャップに覆われ、キャップから流れ出た髪が、後ろで結わえられている。  ねえ高村くん、と珠実が呼びかけると、ハイと高村は顔を向けた。いかにも、人のよさそうな、穏やかな高村の表情を見ると、チョンマゲなどという無謀な行為に走る人物には到底、思えない。だが、彼は思いきりチョンマゲになった。どうして、そんな行為に至ったのか、訊ねてみたい。だが、珠実には訊けなかった。本当は訊きたいのだが、やはり怖くて訊けなかった。 「その下——やっぱり、チョンマゲなの?」  代わりに珠実は別の質問をした。待合室には、他にも大勢、座っている若者がいる。したがって「チョンマゲ」の部分は自然、低いトーンになる。 「そうだよ」 「じゃ、その帽子取ったら、上の部分はツルッパゲなの?」 「そうだよ」 「ちょっと、見せてください」 「駄目だよ」  ちゃんと月代《さかやき》を剃《そ》っていないから、と高村は首を横に振った。少しだけ、と珠実がお願いするも、男のたしなみだから、と譲らない。 「いつまで、そのチョンマゲ続けるの?」 「わからない」 「一生、チョンマゲ? 絶対、就職できないよ」 「チョンマゲをする必要がなくなったと思ったときまでかなあ」  と呑気に答えて、高村は「LA」のロゴが入ったキャップの位置を直した。 「細川さんは普通免許の講習に来てるの?」 「そうだよ」  オートマチック・トランスミッション限定、と珠実はうなずいた。 「僕は二輪免許なんだ。下宿が大学から遠くて、自転車だと大変でさ。春からは、バイクで通学しようと思って」  と高村はバイクのハンドルを握る仕草をして見せた。 「細川さんの下宿はどのへんなの? 立命館の近く?」 「船岡山《ふなおかやま》の麓《ふもと》。紫野《むらさきの》のへん」 「ああ、建勲《けんくん》神社があるとこだ」 「そう、よく知ってるね」  思わぬ名前が出てきて、珠実は感心の声を上げた。太陽が出て暖かい日に、建勲神社の鳥居をくぐって、船岡山を散歩するのが珠実は好きだった。 「織田信長を祀《まつ》ってある神社で有名じゃない」 「えッ、そうなの?」  織田信長と聞いて、珠実の視線が揺れた。昨日の蔵のことを思い出し、急に鼻の奥がツンとした。いつか、女将があの長持を持って、「開運! なんでも鑑定団」出張鑑定大会in伏見稲荷に出ることがあったりしたらどうしよう。「オープン・ザ・プライス」の掛け声が頭に響く。 「『おたま』の落書きがなかったら、長持とセットで百万円のアップでしたのに。残念なことをしました。ところで、『おたま』って誰です?」  会場の笑い声のなか、ステージに立つ女将の怒髪が天を衝《つ》いている。その様を思い浮かべる珠実の瞳に、見る間に涙が溜《た》まった。だが、高村はそんな珠実の心配などお構いなしに、 「実は最近、織田信長が僕のなかで熱いんだよね。だから、今年に入ってから、髪を結うときは、信長スタイルで茶筅《ちゃせん》マゲにしてるんだ。芯のところに割り箸を入れておくと、マゲが立ちやすいんだよ。そうそう、建勲神社を少し北に行くと、大徳寺《だいとくじ》があるでしょう。あそこで信長の葬儀が行われたんだよね」  といよいよ調子がいい。 「織田信長って、おもしろい人だよね。自分の子供に『奇妙』って名前をつけたでしょう。他にも『酌』とか、『人』とか。みんな男の子だよ。本当に無茶苦茶だよね——」  いつからか、隣から相づちが一切聞こえないことに気づいたのか、高村は言葉を切ると、ふいと視線を向けた。 「ワオ」  高村はことさら驚いた声を上げた。 「細川さん、目が真っ赤だよ。どうしたの?」  高村は慌てて、ポケットからハンカチを引っ張り出すと、珠実の前に差し出した。 「ありがとう。気にしないで、ただの癖だから」  珠実は礼を言って、ハンカチを受け取った。 「ひょっとして——何かのアレルギー?」  という高村の言葉に、珠実はちょっと腹を立てながら、目頭にハンカチをあてた。      *  小豆《あずき》色の作務衣に着替えて、更衣室を出るなり、ばったり女将と出くわした。 「ちょっと、おたま」  視線が合った瞬間、鋭い女将の声が飛んできた。すわ、落書きがバレたかと身体を硬くして、珠実が前に進み出ると、 「昨日の燈台、蔵に戻しておいておくれ。まだ置いたままになってるから」  と女将は着物の帯から鍵を取り出し、それだけの用事だったのか、さっさと板場に消えてしまった。  安堵《あんど》のため息をついて、臙脂《えんじ》色のカーペットが敷かれた廊下を、ミサキの間へ向かった。広間の隅に積み上げられた座布団の脇には、燈台が二本、揃えて置いてあった。  昨日と同じく、底冷えする空気に包まれた中庭を、珠実は燈台を手に蔵に向かった。誰かがすでに使ったのだろうか、蔵の前に着くと漆喰扉が左右に開け放たれていた。  格子戸の錠を開け、燈台を蔵の奥に戻した。そのまま帰ろうかと思ったが、案の定、隅の長持から視線が離れない。珠実は仕方なく蓋に手をかけると、ぐいと持ち上げ、中をのぞきこんだ。  昨日、珠実が置いた場所に、板切れが寝ている。薄暗い箱の中でよく見えないが、表に筆書きの文字がぼんやり見える。身体を屈め、珠実は板を手に取った。何であんな馬鹿なことしてしまったんだろ、と暗い気持ちで手元をのぞいたとき、珠実は思わず、 「あれ?」  と甲高い声を上げた。  つかんだ面の裏側をのぞいたので、珠実の前には、「おたま」の文字が姿を現すはずだった。だが、マジックペンであれだけ黒々書いたにもかかわらず、板には何の痕跡《こんせき》も残っていない。  反射的に板を裏返した。そこに書かれた文字を読んだとき、珠実は一瞬、我が目を疑った。  そこに、昨日の「なべ丸」の文字はなかった。いや、あるにはあったが、文字数がずいぶん増えていた。すなわち、 [#ここから2字下げ] はじめてみてをならひ候にて ふみかきあしく候ど そもじさまもまさなかり候 (字を習い始めたばかりで、まだ下手であるが、あなた様も下手であるな)    一日                 なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  と書きこまれていたのである。  思わず、珠実は振り返った。漆喰扉も開いていたことだし、誰かがイタズラを仕掛けているのではないか、と思ったのだ。入り口から顔を出して、左右を素早く確かめた。蔵の二階にも上がった。だが、誰の姿も見当たらない。  珠実は改めて、筆で書かれた板の文字を見つめた。間違いなく、珠実が昨日、落書きをした板だった。大きさはもちろん、板を横切るように刻まれた特徴的な傷痕《きずあと》や、隅の欠け具合にも、確かに見覚えがある。  そのとき、珠実はふと気がついた。  どうして、私はこの文字を読むことができるのだろう?  昨日の「なべ丸」とは違う、ヘビのような筆文字が上から下へ繋《つな》がっている。一文字すら読めなくてもおかしくないのに、珠実はなぜかそれが読める。  まったく、何が何やらさっぱりわけがわからない。ついでにわからないと言えば、板の文面だ。最後が「おたま」で締めてある。珠実宛のメッセージなのだろうか。お前も字が下手だな、と書いている。余計なお世話だ。何だか、腹が立つ。  やはり、「狐のは」の誰かがこっそり自分をからかっているのだ、と珠実は結論づけた。もっとも、どうやって珠実の落書きを消したのかはわからない。木を削ったわけではないことは、黒光りする板の表面を見たら一目|瞭然《りょうぜん》だ。シンナーでも使ったのだろうか? 「まあ、いいや」  珠実はあっさり考えることを放棄した。どのみちこれで、珠実の心配の種も消える。さっさと板を戻して、仕事に帰ろう——そう思ったとき、珠実は自分の右手がいつの間にか、マジックペンを持っていることに気がついた。  どういうことか、理解する間もなかった。 「ちょ、ちょっと——」  蔵の中に、珠実の悲鳴にも似た声が響いた。  次の瞬間、珠実の右手は、まだ何も書かれていない板の裏面に、さらさらペンを走らせていた。      *  技能講習を終え、珠実が待合室で座っていると、入り口のドアが開いて、見知った顔が現れた。 「あ、高村くん」  珠実が声を発すると、高村は軽く手を挙げ、 「聞いたよ、おめでとう」  とニコニコ笑いながら、珠実の隣に腰を下ろした。 「めでたくなんかないよ」 「素晴らしいことだよ、会長就任なんて」  高村の言葉にも、珠実は笑顔を見せない。なぜなら、珠実はこれっぽっちも会長になんか、なりたくなかったからだ。  去る二月二十日、立命館大学|衣笠《きぬがさ》キャンパス東門を出た場所にある、喫茶店「無限洞」に、立命館白虎隊のメンバー十名が揃った。その場にて行われた�会長選出の儀�を経て、珠実は栄《は》えある第五百代立命館大学白虎隊会長に選ばれてしまったのだ。 「人望あるんだね、細川さん——」  心から感嘆の声を上げる高村に、いや、そういうわけじゃないの、と珠実の言葉はどこまでもぎこちない。  立命館白虎隊には、会長選出に際し、古くから伝わる慣習がある。 「室町幕府第六代将軍が、将軍に選ばれた方法と、同じやり方によって会長を決めるべし」  この取り決めに従い、「無限洞」において、厳正なる雰囲気のもと、あみだくじが引かれた。その結果、あろうことか、珠実に白羽の矢が立ってしまったのである。  そう、かつて室町の世、六代将軍足利|義教《よしのり》は石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》の境内にて、くじ引きによって将軍に選ばれた。  古来、くじには神が宿ると言われた。いくら、「会長なんか無理」と珠実が含めた全メンバーが思おうとも、神が宿りし結果である。学生ふぜいに文句が言えることではない。 「覆水《ふくすい》盆に返らず。くじが決めたことには抗《あらが》わない。これは立命館白虎隊に代々、伝わる鉄則だ。かくなる上は、細川の会長の仕事を、皆で支えよう」  相変わらず無精ひげが汚らしい黒田が、苦渋に満ちた表情で発言したとき、第五百代立命館大学白虎隊会長細川珠実は誕生したのである。 「くじかあ……、そりゃまた、斬新なやり方をするねえ」  高村が感嘆の声を上げる隣で、珠実は黙って首からかけたマフラーの端をいじっていたが、 「そうだ——高村くん」  と急に緊張した面持ちで声を発した。  ハイ、何でしょう、と高村は律義に膝の上に両手を揃えて、顔を向けた。 「あの……チョンマゲになったときのこと、ちょっと教えてくれない?」  珠実が発した「チョンマゲ」の語勢の強さに、待合室にいた十人ほどが一斉に、不審そうな顔を向けた。 「やっぱり、手が勝手に動き出したの?」 「そうそう——気がついたら、右手がハサミを持っていてね、って、あれ? どうして、それ知ってるの?」 「いいから教えて」  思わず珠実は高村のダウンジャケットの裾《すそ》をつかんだ。常ならぬ珠実の様子に、高村は少々|臆《おく》しながら、剃髪《ていはつ》に至った経過をかいつまんで説明した。  それを聞く珠実の瞳に、見る見る涙が浮かんだ。 「いやだ、絶対にいやだ——そんなの」 「わ、細川さん、どうしたの、その目。今日もアレルギー?」  高村が急いで差し出したハンカチを、「違うわよ、阿呆」と引っつかみ、珠実は盛大に洟《はな》をかんだ。 「ど、どうしたの、細川さん? 何かあったの?」  呆気《あっけ》にとられる高村の声に応《こた》えず、珠実は立ち上がった。そのまま、待合室前に到着した黄色の送迎バスに、ものも言わず乗りこんだ。行き先が違う高村を置いてバスが発車したとき、珠実はようやくハンカチを握りしめたままだったことに気づき、思わず振り返った。  待合室のドアの前に立ち、高村はバスを見送っていた。刹那《せつな》、珠実の脳裏に、ある映像が浮かび上がった。  去年の六月、立命館大学衣笠キャンパスで行われた、立命館白虎隊と京大青竜会とのホルモーでの光景。あのときも、高村はあんな風に、中央広場の芝の上で呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。  次の瞬間、 「ホルモオオオォォォーッ」  という雄叫《おたけ》びが、夜の衣笠キャンパスの静寂を突き破った。  眼前の光景に、珠実は腰を抜かすほど驚いた。それから三カ月後、まさか自分が、高村と同じく、 「ホルモオオオォォォーッ」  と叫ぶ羽目になるなんて、そのときはまだ夢にも思っていなかった。      * 「ホルモオオオォォォーッ」  の雄叫びを空に放った者には、後日、何かが訪れる。  ある者は大事なものが奪われると言い、ある者はつまらないものが奪われると言う。いやいや、あれは奪われるのではなく、与えられるのだ、と主張する者もいれば、結局何も変わることはないと唱える者もいる。  雄叫びを発した者が、その後いかなる結末を迎えたかについて、余人が知る機会は少ない。なぜなら、その多くが個人の内面の機微に触れるものだからだ。高村のように、ビフォア・アフターがわかりやすい例は、極めて特異と言えよう。  それだけに、雄叫びを発してから五カ月が経ち、身辺に何ら変化がないことに、珠実は、ひょっとしたらこのまま何事もなく済むのではないか? もしくは、気づかぬうちに、すでに「何か」は起きてしまったのではないか? などと、都合のいい解釈を施してきた。しかし、甘いんじゃないの、と黒田が指摘したとおり、ついに「何か」は訪れたのだ。  もっとも、訪れた「何か」は、ずいぶん妙なものだった。  文通である。  珠実は近頃、文通をしている。相手の名前は「なべ丸」。おそらく、だいぶ過去の時代の人間と、珠実は古ぼけた板きれの裏表を使って文通をしている。  白虎隊会長に選出された翌日、珠実は女将から、 「蔵の長持だけど、あのまま放っておくのももったいないから、花器を入れておくことにしたよ。これからはおたま、アンタが管理しておくれ。どれも高い器だから、大事に扱うんだよ」  と申し渡された。さっそく、花瓶を取ってくるよう言いつけられ、蔵に向かうと、長持の中にはすでに、大小さまざまの花器が移されていた。  板きれは、長持の隅に、誰の注意を受けることなく立てかけられていた。手に取ると、やはり短い文面がしたためられていた。近頃、毎日のように、女将に用を言いつけられ蔵に走る珠実にとって、もはやそれは馴染みの光景と化している。 [#ここから2字下げ] うへさまのやりのみこそとおもふなかれ ただいまよりは ふみをおのがならひとすべしと仰せられ候へばみてのならひ励み候 (上様が槍だけではいけない、これからは読み書きができなければいけない、と言うので、勉強に励んでいる)    七日                 なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  表の文面を読んだのち、珠実は裏面に返事を書く。昔の書体で書かれた| 候 文 《そうろうぶん》が自然に読めることに関して、珠実はさほどの不思議を感じない。見えるはずのないオニの姿が見える珠実だ。読めるはずのないものが、読めることだってあるかもしれない、と妙な納得すらしている。  珠実が納得できないのはここからだ。  裏返した面に、右手が勝手に返事を書き始めるのだ。僕の右手を知りませんか? 行方不明になりました、と歌って歩きたいほど、近頃、珠実の右手は傍若無人だ。マジックペンを握った右手が、さらさらと候文を書いていく気味の悪い風景を、珠実は毎度、涙ぐみながら見つめている。  どれほど板きれを無視しようと努めても、珠実の右手は板をつかんでしまう。ならばマジックを持たないでおこうとしても、更衣室の机から勝手に拝借する。いっそのこと「狐のは」を休んだらよい、と考えてみたら、シフトの希望表に右手が勝手に「全部OK」と書いて、担当者に渡してしまった。おかげで珠実は週に六度、シフトに入る羽目になった。もはや不可抗力がそこには働いている。  珠実が文を書き、翌日、蔵の長持を開くと、必ず「なべ丸」から返事が届いている。昨日と同じ板きれに、昨日とは違う文面が書き記されている。常に短く、たいてい一行か二行。最後に日付と「なべ丸」、宛名は決まって「おたま」とある。裏を見ると、前日の珠実の書きこみはきれいさっぱり消えている。そこに右手が、今日の返事を書きこむ。  もっとも、 「貧しいことはせつないことだ」 「金を返せと、まわりがうるさい」 「いつか鱧が食べたい」 「毎日、仕事で怒られてばかりいる」  といった赤面ものの内容を、わざわざ候文に変換して書きこむ必要が、どこにあるのかわからない。これらの出来事が意図するところを、何らつかめないところに、珠実の不安はある。  高村にも、教習所の待合室でそれとなく訊ねてみた。右手が勝手に動いたということ以外、とりわけ共通点はなさそうだが、珠実がこれから、ある日突然、女ざむらいになってしまう可能性だって否定できない。チョンマゲになってしまった自分の姿を思い浮かべるたび、珠実は思わず涙ぐんでしまう。足元がおろそかになって、なみなみ注いだビールジョッキを手にすっ転び、女将に叱られる。  叱られたついでに、花瓶を取りに行くよう言いつけられ、蔵に向かうと、「なべ丸」から新しいメッセージが届いている。 [#ここから2字下げ] ともしくあらむはせちなることに候ひぬべし されば仕ふるはよきことに候 (貧しいことは確かにせつない。だから、働くことはよいことだ)    十日                 なべ丸    おたま 金なきをりはとく走りてのがれたまひなむ (金がないときは、走って逃げるとよい)    十一日                なべ丸    おたま 鱧ほしくばつりにこそまゐりたまはんずれ (鱧がほしければ、つりに行けばよかろう)    十二日                なべ丸    おたま われもいさめらるることおほくござ候 されど御いさめなくば いかにしてそのみちのじやうずにやならむ (自分もよく怒られる。だが、怒られないと、何事も上達しない)    十三日                なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  近頃、自分は「なべ丸」に励まされているのかもしれない、と珠実は密《ひそ》かに思っている。      *  三月に入った。  まだまだ底冷えする寒さに、珠実はマフラーを鼻の頭が隠れるくらいまで引き上げ、背中を丸め、伏見稲荷の参道の坂道を上った。賽銭箱の前に立ち、 「仮免試験に合格できました。ありがとうございました」  と十円玉を放りこみ、頭を下げた。  試験には三度落ちたが、ついに仮免許を取得したことで、近頃、珠実は機嫌がいい。二月分の「狐のは」の給料も入ったことで、さらにご機嫌度アップだ。おかげで、未だ進行している文通の件も、さして気にならなくなってきた。むしろ、目に見えて「なべ丸」の国語力が上がってきたことに、妙なよろこびすら感じるぐらいだ。  もちろん、珠実に当時の言葉遣いの細かなニュアンスがわかるはずもない。単に「なべ丸」の文章に漢字が増えてきたのを見て、そう思うだけのことである。先月、文通を始めた頃は、「日」と「丸」くらいしか漢字が現れず、「候」の字も思いきり崩してほとんど点のように書いて誤魔化していたものが、近頃は「御」という字まで散見されるようになった。「なべ丸」が風邪をひいていると伝えた文面に、珠実(の右手)がお大事にと返したときなど、 「御心やすく候べく候(ご安心ください)」  とたいそうな返事が来た。しかも、文章の最後に「恐々謹言」とくっついていた。だが、さすがに難しかったのか、次の文からは「かしく」になっていた。 「なべ丸・おたま」という、夫婦漫才コンビのような二人のやりとりを、どうも近頃、珠実は楽しんでいる。勝手に動く右手を見ても、慣れてしまったのか涙ぐむこともない。  もっとも、珠実が楽しんでいるのは、単に「なべ丸・おたま」の変テコなやりとりだけであり、「なべ丸」の存在への興味・疑問につながることはない。槍などと言っているし、ずいぶん昔の人らしいとは察するが、それ以上知りたいとも思わない。それはホルモーに携わる者特有の、「深入りしたって碌《ろく》なことがない」という経験に基づく醒《さ》めた感覚のせいかもしれない。  ゆえに、やりとりの数の割に、珠実が知る「なべ丸」の情報は、案外少ない。  一つ、「なべ丸」は珠実と同い年だ。珠実が、自分は二十歳であると何かの折に伝えたとき、自分と同じだと驚いていた。字が下手だから、もっと年下かと思っていたらしい。失礼な男である。  一つ、「なべ丸」は目下、文章トレーニングの真っ最中だ。どうやら同じ仕事をしている若い仲間たちと一緒に、勉強させられているらしい。その中には、「なべ丸」の弟も入っているらしく、覚えが悪いと嘆いていた。まるで現代と同じ兄弟間のぼやきに、文《ふみ》を読む珠実の頬もついほころぶ。  一つ、「なべ丸」の特技は槍らしい。小さい頃から、ずっと訓練を続けてきたそうだ。何かあったときは、命に代えて上様を守る、と鼻息荒く語っていた。  日々のやりとりを眺め、よく出来ているな、と珠実が感心することがある。それは板の「日付」である。  初めて珠実が「なべ丸」のメッセージを受け取ったとき、日付には「一日」と記されていた。以後、板の日付は律義に時を刻んでいる。長持を開き、珠実が新たな文を板きれに書きこむたび、「なべ丸」の返事の日付は一日ずつ進む。昨日は「五月二十日」付の板が長持に収まっていた。つまり、「なべ丸」から送られた、きっかり二十通目の便りということだ。そう言えば、三月に入ってからは、日付に月も書きこまれるようになった。新たに「月」の漢字を覚えたのかもしれない。  近頃、「なべ丸」と「おたま」は、お互い仕事の話ばかりしている。「おたま」の書いた文章を読むと、案外、自分は働き者だな、と我ながら思う。あと、毎日、失敗しすぎじゃないか、とも思う。もっとも「なべ丸」に比べれば、珠実など子供の手伝いレベルだ。「なべ丸」は朝も夜もなく働いている。失敗すると殴られるらしい。乱暴な男が多い時代なのだろう。精を出して働いて、ついでに字の勉強もする勤勉な「なべ丸」に、いつの間にか、珠実は好感を抱くようになっている。  もっとも、候文から相手の正確な感触をつかむのは難しい。むかしの文章は、思いついたことを、どんどん足していくので、ともすれば連絡事項の羅列のようになってしまう。また、母親が送ってくるぎこちない携帯メールの文章と、騒々しい当人とのギャップが大きいように、この堅苦しい候文と実際の「なべ丸」との間にも、大きな差があるだろう。「御座候得共」などと仰々しく書いていても、「なべ丸」は学生食堂でたむろしている男どもと同級生なのだ。  悔しいことだが、蔵に入り長持を開けるのが、珠実の楽しみにすらなりつつある。パソコンを開いてメールを確認する気持ちに、何だか似ている。  気温は未だ低くても、すっきり晴れた青い空の先に、春を少しだけ感じるようになったある日、 [#ここから2字下げ] 蔵の役つかまつるはありがたきことにござ候 長持のつかひにてそもじ様に文やればなり そもじ様はいかなる御方にかあらむ かしく (蔵の仕事を任されるようになってよかった。長持を使って、あなた様とやりとりができるようになったから。あなた様はどのようなお方なのだろう。かしく)    五月|廿《にじゅう》四日              なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  という文《ふみ》を受け取った。これまでにない、直接問いかけるような言葉に、珠実は一瞬、ドキリとした。それに対し、 「掃除がきらい、炊事がきらい、洗濯がきらい」  と右手が正直に申告したときは、心の底からがっかりした。初めて板に、自ら字を書き足そうかと思った。  翌日の返事に、珠実のコメントに関する言及は一切なかった。せつなかった。板には、出発の号令がかかり、準備に忙しい、という仕事の話が書かれていた。返事の最後に「柏原なべ丸」と記されていた。 「上の名前もあったんだ」  いい名前だな、と珠実は思った。だが、せっかくのフルネームも、「なべ丸」のおかげで、たけし軍団の一員のように見えてしまうのが、気の毒だった。 「柏原《かしわばら》くん」  試しに声に出して言ってみた。まるで違う人の響きがして、少し気恥ずかしかった。  種々の情報を統合するに、「なべ丸」はどうやら、槍や弓を収めた蔵の管理を任されているようだ。その蔵の中に、長持があるらしい。何やら珠実と似た話である。その長持を用いて、向こうもやりとりしているようだが、果たしてそれが、珠実の目の前にあるものと同一かどうかはわからない。 [#ここから2字下げ] 明日あづちを出でたちて京へまかり上り候 長持も運び候 京の塵《ちり》おほければわろし かしく (明日、あづちを出て京都に向かう。長持も運ぶ。京都は埃《ほこり》っぽいから好きではない。かしく)    天正十年 五月廿八日       柏原なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  出発の準備がようやく終わったらしい。昔から京都は京なんだ、いや、昔が京だったから今が京都なのか、などと鈍いことを考えつつ、最後の部分に珠実は視線を止めた。「天正」とある。十年だから、年号だろうか。日々、知恵を備えていく「なべ丸」を頼もしく思いながら、 「おつかれさま、いってらっしゃい」  とつぶやいて、マジック右手に珠実は板を裏返した。      *  カウンターで次回の技能教習の予約をして、壁際の階段に向かった。  一階に下りる階段の手前には、壁に地図が貼ってある。路上教習が始まってからというもの、第一段階でのつまずきがウソのように、珠実はすいすいカリキュラムをこなし、一時は夢の彼方《かなた》にあった天橋立や琵琶湖一周が、俄《にわか》に手の届くところまで近づいてきた。  近畿一円が描かれた地図の前に立ち、山中越《やまなかご》えで琵琶湖へ向かう道を、珠実はニヤニヤしながら目で追う。「死にたくない」と嫌がる黒田ら白虎隊メンバーに、 「金を返してほしけりゃ付き合いな。会長命令だ」  と迫り、すでに初ドライブの約束を取りつけている珠実である。  階段を下りて、送迎バスの待合室のドアに手をかけたとき、ガラス越しに、人気《ひとけ》のない室内でひとり本を読んでいる人物の姿が目に映った。 「高村くん——」  ぶ厚い本に読み耽《ふけ》っていた高村は、珠実の姿を認めると、 「あッ。ほ、細川さん——この前は、ごめんなさい」  と弾かれたように立ち上がった。その勢いで膝の上の本が、珠実の足元まで床を滑ってきた。珠実は慌てて本を拾い上げると、 「違うの、ごめんなさいは私のほう」  とカバンからいつぞやのハンカチを取り出した。 「ずっと返そうと思ってたの。やっと会えてよかった。これ——この前の、ありがとう」  い、いや、とんでもないよ、と恐縮しながら、高村は洗濯済みだが、アイロンがけはしていないハンカチを受け取った。 「あの——この前はちょっと私、おかしかったの。いろいろ気をもむことがあって。でも、今は大丈夫。高村くんは本当に何も悪くないから。嫌な思いさせて、ごめんなさい」  珠実が頭を下げると、とんでもないです、そうだよね、会長になったら気苦労も多いよね、と高村はしきりにうなずいて、足元のオレンジ色のリュックにハンカチをしまった。 「あ、織田信長」  手にした本を返そうとして、珠実は思わず声を上げた。表紙には、教科書で見たことのある肖像画が印刷され、その上に『丸わかり織田信長』というタイトルが掲げられている。 「ちょっと見ていい?」  もちろん、高村はうれしそうな声で返事をした。  イスに腰を下ろし、乱暴なイメージがあるから、あまり織田信長って好きじゃないんだよね、と思いながら、珠実はぱらぱらページをめくった。 「そうそう、来週、ウチも『べろべろばあ』で会長選挙するんだよね。いったい誰がなるんだろ。やっぱり芦屋《あしや》かなあ……」  話半分に隣の高村の言葉を聞いていた珠実だったが、「芦屋」という名前に思わず顔を上げた。  芦屋とは、去年の九月、「鴨川十七条ホルモー」初戦にて、立命館白虎隊|式部舞《しきぶまい》の一員として参加した珠実が率いるオニを、瞬時に全滅させた男だ。その名前を聞くのは、今でもやはり愉快ではない。おかげで珠実は、会場となった四条河原町、高島屋京都店屋上にて、思いきり「ホルモオオオォォォーッ」と絶叫させられるわ、その後、妙な文通を始めさせられるわ、ずいぶんな目に遭っている。  もっとも、それらはすべて勝負の結果だ。珠実も今さら、四の五の言うつもりはない。だが、今後は会長同士の付き合いもあるだろうし、できることなら他の人がいいな、と思いながら、珠実は膝の上に視線を戻した。  至るところに高村の付箋《ふせん》が貼られた『丸わかり織田信長』だったが、残念ながら珠実には、何ら興味を惹《ひ》かれる部分がない。男って本当にこういうの好きよね——漫然とページをめくっていた珠実の手が、ふと止まった。最近、目にしたばかりのものが、一瞬、視界を過《よぎ》った気がしたからである。  開いたページを、もう一度、見返した。どうやらそれは年表のようだった。ページの隅には、「織田信長詳細年譜」と書かれている。  ぐるりとページを周回した珠実の視線が、 「天正10」  という、年表の最上段に記された文字で停止した。  どうしてこんなものに見覚えがあるのだろう、と考えこんだとき、蔵の隅にうずくまる長持のシルエットが脳裏に浮かんだ。  昨日の板の最後に書かれていたやつだ——。 「すごい」  思わず珠実は声を発してしまった。本当に「なべ丸」は昔の人だったのだ。「天正10」の下にある漢数字は西暦だろう。「一五八二」と記されている。珠実は実に四百年以上前の人間と文通していたのだ。  さすがに感慨ひとしお、胸にこみ上げるものを感じながら、珠実は紙をめくった。 「あれ?」  現れたページを見て、珠実はつい素っ頓狂な声を発した。 「ん? どうかした?」 「この年表、続きがない。いきなり、ここで終わっている」  ページの前半三分の一あたりで、突然終了している年表に、おかしいな、印刷ミスかな? と顔を近づけた高村だったが、すぐに、 「ああ、そりゃそうだよ」  と笑いながら顔を上げた。 「信長が死んだからだよ。ほら、最後のところ、『本能寺の変』って書いてある」 「あ、そっか——」  珠実はしきりに照れながら、「そうだよね、織田信長の年表だものね」と高村の指が示すあたりに視線を移した。 「天正十年六月二日 早暁卯刻、明智光秀、本能寺を急襲、信長自害」  その一文を目にした瞬間、珠実の表情から笑みが消えた。  さらに、その前に、 「五月二十九日 信長、小姓衆を召し連れ京都に到着」  という記述を認めたとき、珠実の顔から見る間に血の気が引いていった。  胸の動悸《どうき》が激しくなるのを感じた。息が苦しくて、しばらくの間、珠実は目を閉じて、うつむいた。「五月二十八日」という、昨日の板の日付が、まぶたにありあり蘇《よみがえ》った。  偶然だ、偶然——。  何とか、そう思いこもうとした。  当時だって、人口は何千万といたはずだ。そのなかのたった一人が、たまたま、こんな有名な人の側に仕えているなんてありえない。たとえ、織田信長が二十九日に京都に行ったとしても、他に何千もの人が京都に用があったはずだ——。  珠実は必死になって、暗い考えが頭の中を侵蝕《しんしょく》しようとする動きに抗った。「織田信長が使っていた長持と教えられた」という女将の声が俄に蘇る。頭を振って、珠実は本を閉じた。背中の表紙の中央に、図柄がぽつんと印刷されていた。その図柄を、珠実は目を見開き、硬直した表情で見つめた。 「ねえ、高村くん……」  かすかに震える声で、珠実は呼びかけた。 「このマークって何……?」  高村は、珠実の声色の変化に気づく様子もなく、 「ああ、それは織田家の家紋。織田|木瓜《もっこう》って言われてるマークだよ」  と手際よく解説した。  きゅうりかボケの実の断面を描いたらしいけど、なかなかそうは見えないよね、という高村の声が遠くに聞こえた。これまで毎日のように目にしてきたそのマークを、珠実は穴が開くほど見つめた。五角形の花びらにも似たそのマークが、見る見る涙で滲《にじ》んだ。 「ねえ、織田信長って、どこに住んでいたの?」  涙がこぼれ落ちそうになるのを必死で堪え、珠実は訊ねた。 「住んでいたところ? それって、居城という意味かなあ。清洲《きよす》とか、岐阜とか、いくつかの城を転々としているけど、こういうときは最後の場所を言うのかな。じゃあ——」  安土《あづち》だね。  その言葉が発せられた瞬間、珠実はイスから立ち上がった。膝から落ちた本が、ふたたび床にかすれた音を立てた。 「ど、どうしたの? 細川さんッ」  悲鳴にも似た高村の声が待合室に響いたとき、すでに珠実はドアから飛び出していた。      *  教習所の前でタクシーを拾い、京都駅に向かった。京都駅からJRに乗り、稲荷駅で降りてからも、ひたすら珠実は走り続けた。  作務衣に着替えぬまま、コートの裾を翻し、「狐のは」の廊下を駆けていく珠実の姿を、誰もが驚いた顔で見送った。  中庭に出て、蔵へ走った。漆喰扉を開き、帳場の机より持ち出した鍵で、格子戸の南京錠を開けた。  電気もつけず、長持の前に駆け寄った。へりに手をかけ、珠実はぜいぜいと息をした。唾を飲みこんだと思ったら、急に咳きこんだ。それでも、珠実の視線はずっと長持の蓋に注がれていた。黒ずんだ蓋の中央に、色褪《いろあ》せてはいるが、紛れもない織田木瓜のマークが描かれていた。  肩で息をしながら、蒼褪《あおざ》めた表情で珠実は蓋を開けた。隅に立てかけてある板きれを、震える手で拾い上げた。 [#ここから2字下げ] 京につき侍り候 京塵おほけれど 大路のさまなほはなやかなり うへさまも機嫌にて候 かしく (京についた。埃っぽいが、やはり華やかだ。上様の御機嫌もよい。かしく)    五月廿九日            柏原なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  肩にかけたカバンから、ペン・ケースを引っ張り出した。板を裏返し、入っていたサインペンで、 [#ここから2字下げ] うへさまとはだれ [#ここで字下げ終わり]  と書きこんだ。  文法があっているのか、それ以前に文字そのものを、なべ丸が読み取れるのかどうかもわからなかった。珠実が初めて自分の意志で文字を書く間、右手は一切自己主張をしてこなかった。  その日のまかないは、珠実の大好きな刺身の切れ端だった。しかも、珠実が何度もオファーを出していた、鱧の梅肉和えが季節外れながら半切れ入っていた。何でよりによってこんなとき、と口に入れたら、「なべ丸」のことを思い出し、急に涙があふれてきた。  おお、本当に泣いてるぞ、と板前たちがその様子を見て囃《はや》し立てたが、どうも珠実の様子がおかしいことに気がつくと、皆バツの悪そうな顔になって、板場へ引き上げていった。 「狐のは」からの帰り道、ずっと「なべ丸」のことを考え続けた。千本鞍馬口《せんぼんくらまぐち》で市バスを降り、とぼとぼと歩いた。鞍馬口通の先に、比叡山の山影が真っ黒な波濤《はとう》となってそびえていた。山の上には、冷たく澄んだ空気に包まれ、おそろしいほど白い月が浮かんでいた。  翌日、「なべ丸」からの返事が届いた。 [#ここから2字下げ] のぶながさま也    六月の日             柏原なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  女将に身体の調子が悪いと訴え、珠実は「狐のは」を早退した。  下宿には戻らず、大学の図書館に向かった。ぶ厚い辞書を引っ張り出し、ノートに何度も文章を書き直した。 「本能寺から逃げろ、そこにいちゃいけない、明智光秀に攻められて死んじゃうから、今すぐ逃げて、お願い」  馬鹿みたいに簡単な内容なのに、昔の文章で表現できないことがもどかしかった。同じ国で生まれたのに、どうしてこんなに言葉が違うのか、腹が立つやら、悔しいやらで、また涙があふれてきた。でも、珠実は泣かなかった。ここは泣くときじゃない、と唇を噛《か》んで、重い辞書を引き続けた。      *  女将から、身体はもう大丈夫なのかい? 毎日、シフトに入りすぎなんじゃないかい? と声をかけられ、珠実は、大丈夫です、ご心配かけました、と頭を下げた。蔵に花瓶取りに行きます、鍵を貸してください、と珠実が手を差し伸べると、女将は気圧《けお》されたかのように、「そ、そうかい、じゃ、よろしく頼むよ」と机の引き出しから鍵を取り出した。  蔵に入って、長持を開けた。 「なべ丸」からの新しい文は届いていない。昨日、珠実が返事を書かなかったからか、板の文句は「のぶながさま也」のままだ。日付は六月一日。二十九日の次の日付が、いきなり一日と記されているのを見たときは、珠実も激しく混乱した。だが、図書館で、当時は太陰暦を用いたため、天正十年の五月は二十九日までしかなかったことを珠実は知った。ほんの数文字のやりとりに、大事な一日を使ってしまったことを強く後悔したが、一方で、珠実は少しだけ胸を撫で下ろした。まだ、長持の内側で、日付のルールが守られていることを信じる余地が生まれたからだ。  珠実はポケットから折り畳んだ紙と、マジックペンを取り出した。紙には珠実が朝までかかって作った草書体の文章が並んでいる。これまでのやりとりで、「なべ丸」は毎日午前三時に起きて、仕事に取りかかる前に長持を確かめる、と言っていた。本能寺の変は六月二日の早朝に起きた。チャンスはある。たった数時間だけど、まだある。  デザインを描き写すような気持ちで、珠実は正確に紙の文字を板に書きこんだ。気を許すと、すぐに涙ぐんでしまい、その都度、作業を中断して天井を見上げた。  お願いです、稲荷の神様。「なべ丸」に届いて——。  すべて書き終え、珠実は板きれを胸の前で抱きしめると、ぎゅっと目をつぶった。  その夜は、なかなか寝つくことができなかった。天井を見つめながら、珠実は家族の無事を祈るような気持ちで「なべ丸」を想った。不思議なことだった。「なべ丸」は四百年も昔の人物だ。つまり、珠実は死者とやりとりをしている。どれほどこの先、「なべ丸」の危機を珠実が救ったところで、「なべ丸」は決して現代には存在しない。決して今を生きる珠実とは交わらない。  それでも、珠実は「なべ丸」を救わずにいられない。何せ「なべ丸」は二十歳だ。呑気に教習所に通い、ホルモーをしている珠実や黒田たちと同じだ。その人間が槍を持って、人と戦わなければならない。殺し合わなければいけない。そんな馬鹿なことを、珠実は許すことができない。  無性に「なべ丸」に会いたいと思った。一度でいい。もしも、「なべ丸」が現在に生きていたら、何をしていただろう。  気がついたら、天井を見上げたまま泣いていた。さんざん泣いて、泣きつかれてからやっと珠実は眠りについた。  翌日、伏見稲荷大社にお参りしてから、「狐のは」に向かった。更衣室で作務衣に着替え、中庭に出た。格子戸の鍵は昨日、返すのを忘れたふりをして、ポケットに入れたままになっている。  ぶり返した寒さのせいか、それとも緊張のせいか、手が小刻みに震え、南京錠がなかなか開かなかった。ようやく引き戸を開け、珠実は奥の長持を見据えた。大きく深呼吸して、蔵の中に足を踏み入れた。  長持の前で立ち止まり、ゆっくり蓋を持ち上げた。薄暗い長持の隅に、板が立てかけてあった。  もう一度、強く念じてから、珠実は板に手を伸ばした。  電球の光の下、珠実の口から、 「何で……」  というかすれた声が漏れた。  昨日、珠実が書きこんだメッセージと、「のぶながさま也」という「なべ丸」の文字が、そのまま残されていた。何度も裏返してみた。作務衣の袖でこすってもみた。だが、板の文字に何の変化も見られなかった。  不思議と涙は出なかった。板を元の位置に戻し、珠実は長持の蓋を閉めた。しばらくの間、唇を噛んで珠実は蓋に描かれた織田家の印を見つめていた。  次の瞬間、蔵の内側に破裂したような大きな音が響いた。  珠実の拳が、印の上に打ちつけられていた。  蔵の外に出た。いつの間にか、曇り空に粉雪が舞っていた。濡れた感覚に口元を拭うと、透き通るほど白い甲の上に、血のあとが残っていた。      *  京都市役所の脇に自転車を止めて、信号を渡った。  寺町通のアーケードに入ってすぐ左手の場所に、建物と建物に挟まれ控えめに建つ、古めかしい門構えが見えた。  黒ずんだ柱にかかった表札に 「大本山 |本※[#「能−ヒ−ヒ+去」]寺《ほんのうじ》」  と白い文字が記されていた。  本能寺がまだ残っているとは知らなかった。てっきり焼けたものだと思っていたら、当時と場所は異なるが、再建され、今に至るらしい。  その事実を、珠実は一時間前、たまたま近所のコンビニで手に取った、京都を歩く本を読んで知った。久々に「狐のは」のアルバイトも休みであるし、少し遠出をしてみるか、とその足で御池くんだりまで繰り出したのである。  もっとも、本能寺は意外な場所に建っていた。寺町のアーケードに面した本能寺の門前を、珠実はこれまで幾度となく通り過ぎていた。何か古い建物があるな、とは思っていたが、まさかそれが本能寺だとは夢にも思っていなかった。  立派な門をくぐると、大きな本殿の前で、小学生が甲高い声を上げて、鬼ごっこをしていた。石畳に沿って境内を歩くと、「信長公廟」と額がかかったこぢんまりした建物が姿を現した。建物の中の、小さな賽銭箱の前で、老夫婦が手を合わせていた。その先にある墓が、おそらく織田信長の墓なのだろう。岩のように大きな墓石が立っている。  何を見るでもなく、珠実はコートのポケットに手を入れ、信長公廟を回りこむように歩いた。織田信長の墓の隣には、同じくらい立派な墓が建てられていた。その手前に設けられた立て札の前で、珠実は立ち止まった。  たくさんの人の名前が書いてある立て札を、何気なく見上げた。 「本能寺ノ変戦死陣歿之諸霊」  名前に囲まれるように、札の中央に記された文字を見たとき、珠実の聴覚から子供たちの歓声が消えた。  無意識のうちに、視線が右上から名前を追っていた。二列目に差しかかったとき、珠実の身体がビクリと震えた。 「柏原大鍋」  大きく目を見開いたまま、珠実の視線はうろうろ木の表面をさまよった。ふと飛んだ視線が、同じ列左方の「柏原小鍋」という名を探し当てたとき、珠実は「六月二日」に柏原兄弟の身に起きたすべてを了解した。  立て札の前から、珠実は動かなかった。  いつまでも、立ち尽くした。      *  蔵の担当を外してほしい、と珠実が願い出ると、「アンタ、近頃働きすぎじゃないかい? 身体を大切におしよ。でも、給料の前払いはしないよ」と常々口にしていた女将は、そうだね、重いものの持ち運びも多いし、今度からは男にやらせようかね、とあっさりその申し出を了解した。 「あの蔵で仕事をするようになってから、アンタ、何だか顔色が悪かったからね。稲荷の狐に化かされでもしたかしら」  と女将は一人でけたけた笑っていた。すべて狐に化かされた結果だったなら、どんなにうれしいだろう、と黙って珠実が聞いていると、 「じゃ、これが最後のお使い。こいつを戻してきておくれ」  と女将は帳場に置かれていた花瓶を二本、蔵の鍵とともに机に並べた。  格子戸を開けると、二日ぶりの蔵の空気が顔にまとわりついた。珠実は長持の蓋を開け、花瓶を収めた。立てかけられた板には目もくれず、そのまま蓋を閉めようとしたとき、突然右手が、左手が支える蓋の下に、ひょいと潜りこんだ。戻ってきた右手には、板きれがつかまれていた。  有無を言わさず、目の前に突き出された板の文面を見たとき、珠実の呼吸が止まった。  そこには「なべ丸」からの返事が記されていた。 [#ここから2字下げ] そもじ様よりの文よみしをりはまこととはおもひ候はで まさに明智どの攻めきたり候 おとうと共に命をばかけ うへさまの御守りでこそ候はんずれ 長持にはをんなの入りて逃るれば かのかへしまゐらむ ひとたびあひ見ましかばよからまし そもじ様はゆめの世にやおはし候ふやらん ゆめにてもよし いづれの日にか そもじ様の御もとに参り候 そもじ様にても目をつくやふ しるしをばつけ参り候 あづちの城より見え渡る琵琶湖はきよらなり ひとたびそもじ様に見せたきことに候 琵琶湖のしるしととも そもじ様にあひ見ぬらむ そもじ様も我を見つけまほしく候 御身やすく候 かしく (文を読んだときは、本気にしていなかったが、明智どのが攻めてきた。弟とともに命をかけて、上様を守る。この長持には女性が入って逃げるから、この返事は届くだろう。一度、あなたにお会いしたかった。あなたは夢の世界にいるのだろうか。夢でもよい。いつか、あなたの前に参る。あなたにわかるよう、しるしをつけて参る。あづちの城から見る琵琶湖は美しい。一度、あなたに見せてあげたい。琵琶湖のしるしとともに、きっとあなたを見つける。どうかあなたも、私を見つけてほしい。お体大切に。かしく)    六月二日               なべ丸    おたま [#ここで字下げ終わり]  後半は字が乱れ、ほとんど読み取ることさえ困難だった。「なべ丸」の署名も線のように流れてしまっている。にもかかわらず、最後の「おたま」だけ、これまで読んできたなかでいちばん上手な「おたま」だった。それを見た瞬間、涙があふれてきた。一度、板の上に涙が落ちたら、ぼろぼろとめどなくこぼれてきた。  人のために死んでどうすんの、人のために生きてこそ男でしょうが、阿呆、阿呆、阿呆——。  板きれを力いっぱい抱きしめ、天井に向かって、「阿呆ッ」と声の限り珠実は叫んだ。      *  昼を過ぎたあたりから、急に雨が降ってきた。  雨の日の教習は嫌いだ。珠実はよくブレーキのタイミングが遅いと教官に注意される。珠実はベストのタイミングで踏んでいるつもりなのに、助手席でガクンとくるらしい。雨の日が嫌いな理由は、珠実のやり方だと、停止線を少し越えてしまうことがあるからだ。 「今度越えたら、ハンコあげないよ」  と教官の人柄が悪くなるからだ。  カウンターで次回の予約を済ませ、階段脇の地図の前で珠実は立ち止まった。  琵琶湖のしるしとは何だろう? 地図を眺めるたび珠実は思う。しるしと言うからには、形が関係するのだろうか? だが、よくよく見ると、琵琶湖は実に変な形をしている。何と言うか、しまりがない。三角形のようで、三角形ではない。上から踏みつけられて、平たくなった厄除《やくよ》けちまきのような形だ。特徴がありそうでないので、覚えた気になっても、送迎バスに乗る頃には、もうあやふやになってしまう。まったく「なべ丸」も、もう少し詳しく書いてくれたらよかったのに。あれだけじゃ、何のことだかわからないよ。  窓の外を見ると、雨がいよいよ強く降っている。そろそろ送迎バスがやってくる時間だ。珠実は地図の前を離れ、階段に向かった。  階段の上から、待合室前を送迎バスが出発するのが見えた。「しまった」と階段を駆け下りる珠実の目の前を、送迎バスがゆっくり通過していった。幸い運転席脇のプレートには、違う行き先が記されていた。何だ、と珠実が階段を下りるスピードを緩めたとき、窓際にキャップをかぶった男が座っているのが見えた。 「あ、高村くん」  思わず声を上げたとき、聞こえたわけではないだろうが、高村がひょいと顔を上げた。ほんの一瞬、視線が合ったが、送迎バスがカーブを曲がったため、すぐさま高村の顔は見えなくなってしまった。  どうしたんだろ、ずいぶん驚いた顔をしていたな、高村くん——。  珠実の視線の先で、送迎バスはゲート前で一時停車した。煙るほどに降り注ぐ雨の向こうで、赤い停車ランプが二つ、ぼんやり光っている。なぜか、赤ランプがなかなか消えない。ゲート前の道には、一台の車も走っていないのに、送迎バスは発車しようとしない。  どうして進まないのかな? 階段途中で立ち止まり、珠実が視線を向けていると、送迎バスから飛び出してくる人影が見えた。その人物を降ろすと、バスは怒っているかのように、すぐさまゲートから出て行った。  珠実は少々、呆気にとられながら、リュックを手に、どしゃぶりの中をキャップ姿の男が向かってくるのを見つめた。  階段の前に駆けこみ、高村は息を切らして、珠実を見上げた。 「や、やっと見つけた、細川さん」 「ど、どうしたの——高村くん?」  ほんの五十メートルほどのダッシュにもかかわらず、すでに高村は全身ずぶ濡れである。ダウンジャケットから雫《しずく》が流れ落ち、ジーンズは雨を吸いこみ、見るからに重たげだ。  今さらのように高村は、「あ、傘忘れた」とゲートの方角に顔を向けた。身体を傾けた拍子に、後ろで結んだ髪が、うなぎのようにダウンジャケットの背中に貼りついているのが見えた。もちろん高村の視線の先に、バスの姿は影も形もない。 「大丈夫だった、細川さん?」  高村は未だ鼻穴より、荒い息を吐きつつ訊ねた。 「え? 何のこと?」 「何のこと? じゃないよ。ずっと、心配していたんだよ。ここで会うたび、細川さん、いつも泣いてるし、この前なんか、突然、走っていっちゃったでしょう。どう考えても、毎回、普通じゃない別れ方だよ。ひょっとして、細川さんに大変なことが起きているのかもしれないと思って、僕、黒田くんの電話番号を調べて、連絡したんだ。黒田くんから細川さんの番号を教えてもらって、何度もかけたのに、一度もつながらない。黒田くんに相談したら、どうせ金欠だろ、本当にだらしない奴だから、って言ってたけど、僕は何かあったんじゃないか、と心配で心配で——」 「そ、そうだったの?」  珠実は驚くとともに、大いに赤面した。黒田のやつ、何、余計なこと言ってくれてるの、と自分のことを棚に上げて憤慨した。 「でも、元気そうで何より。実は僕、今日で講習が終わりなんだ。もう、ここで細川さんとは会えないかな、と思っていたから、最後に会えてよかった」 「本当にごめんなさい」  珠実は高村を見下ろす位置より、心から反省の念をこめて頭を下げた。明日、携帯の料金を振りこみにいこう、と強く誓った。 「わッ」  そのとき、高村がいきなり素っ頓狂な声を発したものだから、珠実は思わず顔を上げた。 「きゃッ」  目の前に現れたものを見たとき、珠実も同じく甲高い声を発した。ついで、自分の右手が、いつの間にか高村のキャップを手にしていることに気づいて、 「ぎゃッ」  とさらに一段、高い声を上げた。 「ほ、細川さん、いきなり何するの? びっくりするじゃない」  と高村が慌てて、珠実の手からキャップを取り戻す。  珠実は自分の右手を驚いた表情で見下ろしたが、それよりも目の前に突如現れたさむらいの頭に視線が釘《くぎ》づけになった。  珠実は中央部分の広大なスペースを青々と剃り上げた頭頂部に、声もなく見入った。  なぜかそこに見覚えのある形が浮かんでいた。  どうしてここに琵琶湖があるのだろう、と珠実は一瞬、考えた。 「駄目だよ、教官に見つかったら怒られちゃうじゃない」  キャップを頭に戻そうとする高村の手を、「駄目ッ」と珠実はつかんだ。 「ど、どうしたの? 細川さん」  珠実は驚く高村のことなどそっちのけで、キャップより染みこんだ雨が、薄ら湿り気を残す頭頂部を凝視した。 「ね、ねえ、高村くん……」  珠実はかすかに震える声で呼びかけた。 「その赤いの……どうしたの?」  高村は「ん?」という顔をしたのち、珠実の視線の先に気づき、「ああ」と声を上げた。 「このてっぺんのやつ? そうなんだよ。やっぱり目立つ? 実は昨日、京大青竜会の会長選挙があってさ。みんなに会うから、ひさしぶりにきれいに剃ってみたら、急にこんなのが出来ていたんだ。あせもだと思うんだよね。僕って結構、肌弱いんだ。ここ最近、ずっとキャップをしていて、蒸れたのかな……」 「ずいぶん、大きいね……そのあせも」 「でしょう、恥ずかしいよ。やけに濃いしさ。早く消えてくれないかな」 「琵琶湖——みたい」 「琵琶湖? 形が? ああ、そうかも。細川さん、おもしろいたとえするね」 「別におもしろくなんかない」 「そ、そうだね、おもしろくないね。い、いや、そういう意味じゃないけど……って、わッ、どうして細川さん、泣いてるの?」  違う、泣いてない、珠実は首を横に振った。 「僕に会うたび、細川さん、泣いてない? ひょっとして僕、嫌われてる?」  そうじゃない、泣いたことなんかない、と首を振るそばから、ぼろぼろ涙が頬を伝って落ちていった。  高村は慌ててジーンズからハンカチを取り出したが、すでに雨に湿ってしまった様子である。 「ちょっと染みこんでるけどいいよね」  と意味もなく何度も叩いてから差し出されたハンカチを、珠実は笑いながら受け取った。高村の頭部が涙でぼやけ、本当にそこにさむらいが立っているかのように見えた。 「ありがとう」  涙の向こうのさむらいに、珠実は礼を伝えた。  目頭にハンカチを当てると、湿っているうえ、何だか臭かった。  涙を拭き取り、面を上げた。心配そうな顔で見上げる高村の顔が飛びこんできた。  珠実は恥ずかしそうに笑うと、未だ睫毛《まつげ》に涙の珠を貼っつけたまま、畳んだハンカチを男の頭の琵琶湖にのせた。 「ありがとう、私を見つけてくれて」 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 本作品はフィクションであり、実在の組織、個人とは関わりのないことを明記いたします(編集部) [#ここで字下げ終わり] 初出一覧     プロローグ              書き下ろし 第一景 鴨川(小)ホルモー 「野性時代」二〇〇七年三月号 第二景 ローマ風の休日              四月号 第三景 もっちゃん                五月号 第四景 同志社大学黄竜陣             六月号 第五景 丸の内サミット              七月号 第六景 長持の恋                 八月号 万城目 学(まきめ まなぶ) 1976年大阪府出身。京都大学法学部卒。2006年、『鴨川ホルモー』で第4回ボイルドエッグズ新人賞を受賞しデビュー。同書は「本の雑誌」エンターテインメント1位、「王様のブランチ」新人賞、本屋大賞6位など読書界の話題を席巻した。第2作『鹿男あをによし』は直木賞候補に。 [#改ページ] 底本 角川書店 単行本  ホルモー六景《ろっけい》  著 者——万城目《まきめ》 学《まなぶ》  平成十九年十一月二十五日  初版発行  発行者——井上伸一郎  発行所——株式会社 角川書店 [#地付き]2008年7月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・珠実が含めた全メンバー 置き換え文字 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73 蝉《※》 ※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]「虫+單」、第3水準1-91-66 填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56 |※《のう》 ※[#「能−ヒ−ヒ+去」]能−ヒ−ヒ+去