[#表紙(表紙2.jpg)] 藤沢周平 風の果て(下) 目 次  町 見 家  政  変  陰 の 図 面  天 空 の 声 [#改ページ]  風の果て 下巻   町 見 家      一  雨さえ降らなければ、桑山又左衛門は一日のうちに何度かは庭に出る。  何年か前に、郡代から中老にすすんでいまの屋敷をあたえられたとき、又左衛門がもっとも喜んだのは屋敷にひろい庭がついていたことだった。しかもごてごてと木や石で飾ったりせずに、あっさりした築山《つきやま》のうしろに、素朴な雑木林を残してあるところが気に入った。文字どおりの雑木林で、そこには小楢や栗、えごの木、辛夷《こぶし》などがあり、欅の木までまじっていた。  雑木林は、四季の変化を敏感に映すだけでなく、晴天の日、雨の日、風の日と、それぞれに微妙な風情をみせる。むろん、絶えず小鳥がおとずれて、季節によっては騒騒しいほどにさえずり合うのである。  長い間郷方廻りの役人を勤めた又左衛門には、村の百姓なみにその日の天候を気遣う習性が身についていた。朝起きて顔を洗ってから縁側に立ち、雑木林とその上にひろがる空の色からその日の天候を占う一刻が、又左衛門のひとに打ち明けたことのないたのしみになっている。  いまは雑木林は、あらまし葉を落としてしまっていた。歩いて行くと、足もとにかさかさと落ち葉が鳴った。又左衛門は立ちどまって上を見上げた。赤茶けた小楢の葉が、あちこちの枝にかたまってしがみついているほかは、木木の枝はほとんど裸で、青い空に網目のような細い枝先をひろげている。  その枝の隙間に、網にかかった魚のように浮かんでいる白い月が見えた。位置からみて、日が暮れれば一刻も経たずに隠れる月であろう。又左衛門は、月を仰いでいるうちに昨夜の舟の上の斬り合いと、陸に上がったときの町の暗さを思い出した。  だが、昨夜の出来事は、さほどに又左衛門の胸に衝撃を残しているわけではなかった。事前に組頭《くみがしら》の堀田衛夫から耳打ちされていて、そういうことがあるかも知れないと、気持ちの中で待ちかまえていたせいもあるだろう。過ぎてしまえば、おどろきは少なかった。又左衛門は藤蔵に他言を禁じたので、二人がそんな危ない目にあったなどとは家の者も知らない。  ──おどろいたといえば……。  あのときの方がよほどびっくりしたのだ、と又左衛門は、考えがどうしても若いころにあった銀橋《しろがねばし》の上の斬り合いと、そのときに見た野瀬市之丞のことに流れて行くのを感じる。  そのころまだ隼太《はやた》といっていた又左衛門と、用人の牧原喜左衛門を襲って来たのは、小黒派の男たちと後で判明した。五人の襲撃者の中から即死二人が出て、隠しようがなくなったのである。  形から言えば、又左衛門はあの夜、あきらかに市之丞に救われたのだった。五人に襲われて市之丞が現れなかったら、牧原ともどもおそらく助からなかっただろう。  だが、又左衛門はそのあと市之丞をたずねることをしなかった。その夜の出来事には、たずねて行って市之丞に礼を言うことを憚るようなものが含まれていたのである。  野瀬市之丞が、あの夜偶然に銀橋に来合わせたなどということはあり得なかった。あきらかに、二重に牧原を護衛していたのである。だがそれは、又左衛門とはまた異なる理由から、ひとに言うことを憚る役目だったのだろう。だから、声をかけられるのを恐れるようにして立ち去ったのだ。忠兵衛が言った、陰扶持という言葉がそこに浮かび上がって来る。  それも市之丞をたずねにくい理由のひとつだったが、又左衛門にはもうひとつのこだわりがあった。その夜の斬り合いで、市之丞が二人もの命を奪ったことである。しかし襲って来た男たちは、ひと口に言えば蹴ちらせばいい相手だったのだ。それを情け容赦なく殺害したところに、市之丞の剣の腕を知っている又左衛門は、ひとを斬ることに狎れ親しんだ者の、一種|荒《すさ》んだ空気を嗅ぎ取らずにいられなかったのである。  むこうが知らぬふりをするなら、こちらもそうした方がいいと、又左衛門は思った。しかし、そう思ったままつぎに市之丞と会うまで思いがけない長い月日が経ったのは、翌年から、いまは天明の凶作と言っている未曾有《みぞう》の不作がはじまったせいだったろう。 「ただいまもどりました」  声がして、青木藤蔵が林の小道を又左衛門の方に近づいて来た。 「どうだった?」 「影も形も見えません」  と藤蔵は言った。藤蔵の顔には、朝から歩き回った疲れがうかんでいる。どことなく浮かない顔をしているのは、疲れだけでなく収穫がなかったせいもあるだろう。 「見つからんか」 「はあ、御城下にはおられないのではないかと思われます」  しかし藤蔵は、そこで気を取り直したように顔いろをひきしめた。 「もしおひまを頂けましたら、明日は八葉山まで行って来たいと存じますが……」 「海穏寺か」 「はい」 「やつめ、そこに案外もぐりこんでおるかも知れんな。行ってみるか」  と又左衛門は言った。  八葉山は、海に沿って北にのびる砂丘の根もとにある山で、高さはさほどでもないが懐が深く、古来真言宗の修験場として知られて来た。長い峰峰と深い襞《ひだ》をきざむ谷間に十五の寺院が散在し、一山の寺院を統《す》べる学頭が山麓の海穏寺だった。  市之丞が親戚の家のように出入りしていた城下の祈願所光明院は、海穏寺の末寺になっていて、住職の徳栄は海穏寺で修行した僧である。  そのあたりのことはもう調べてあるらしく、藤蔵は明日は市之丞をさがしに海穏寺まで行くと言っているのだった。ひょっとしたらと、又左衛門も思わぬでもなかったが、ひとつだけうなずきかねるのは、八葉山の麓まで城下からざっと四里の道のりがあることである。隠れ家として絶好だといっても、ただ果たし合いの日まで又左衛門を避けるという、それだけの理由で市之丞がはたして足まめにそこまで行くだろうか、と又左衛門は疑う。 「実家をのぞいてみたか」 「はい。下男の才助に事情を聞きましたが、ここ三月ばかり、野瀬さまのお顔を見ていないそうです」 「山崎の家と、片貝道場、それに……」 「播磨屋《はりまや》ですか。すべて回りましたが、立ち寄った形跡は皆目見当たりませんでした」  藤蔵は、又左衛門が挙げた、城下で市之丞を泊めて喰べさせておきそうな場所を、すべて否定した。  山崎というのは、十五年ほど前に市之丞が寺田一蔵の一件とは別に上意討ちの討手を命ぜられたときに組んだ相手で、以来|昵懇《じつこん》のつき合いをしていると聞く馬廻りの山崎作之進のことで、また片貝道場を疑うのは、市之丞と道場の長いつながりを知っているからである。  道場は、道場主の片貝十左衛門が老齢を理由に隠居したあと、十左衛門には血縁がいないので羽賀吉十郎が跡をついだ。その道場と、市之丞はずっとつながりを持ち、平井甚五郎、中根又市といった高弟たちの足が遠のいたあとは、羽賀を助けてしばらく師範代格で若い門弟に稽古をつけていたこともある。  もっとも、あるとき中根又市から聞いた話によると、市之丞が道場に出入りするのは陰扶持を隠すための擬態で、そもそも陰扶持というそのものが、師匠の十左衛門の斡旋によるものだとも言う。その話が真実なら、道場と市之丞は切っても切れない縁につながれているのである。  片貝十左衛門はもう七十を過ぎたが、まだ健在で、市之丞はいまも時おり道場に顔を出しているはずだった。数日身を隠しているのに何の支障もない場所である。  播磨屋と市之丞のつき合いの詳細は知らない。ただ又左衛門は、城下でも指折りの呉服屋である播磨屋が、市之丞がたずねると異様なほどに丁重に待遇し、時には黙って三日ぐらいは泊めることを伝聞しているだけである。 「そうか。するとあとは、藤井庄六の家ぐらいかな」  と言って、又左衛門はにが笑いした。庄六はかくまえと言われればあるいは市之丞をかくまうかも知れないが、その家には行って来たばかりである。それに庄六の家は、ひとをかくまうには狭すぎるだろう。 「やはり、海穏寺まで行って来るか」 「はい、さしつかえなければ……」 「明日は二、三客が来るだけで、外に出る用はない」  と又左衛門は言った。  もどって行く藤蔵を、ちょっと見送ってから、又左衛門はまた道というほどのものもない林の中を歩き出した。  ──姿を隠しているのは……。  まだ脈があるということだ、と又左衛門は思った。つかまえて話しこめば、市之丞は話のわからぬ男ではない。また、話が通じないほど冷え切った仲でもない。そのことを自分でも知っているから、市之丞は逃げ回っているのだろう。  又左衛門は雑木林の梢を仰いだ。枝にあたっている日射しが、いくらかさっきより濃くなっている。日が沈むところらしかった。そのとき、又左衛門の頭に、ぽっかりと浮かび上がって来たものがあった。  市之丞がいるかも知れない場所で、一カ所だけ記憶から抜け落ちていたところがある。又左衛門は藤蔵を振りむいたが、藤蔵はもう林を出て、庭を横切っているところだった。呼びとめようとして、又左衛門はやめた。  ──いや、あそこは……。  おれが直接に行った方がいい、と又左衛門は考え直した。市之丞をたずねて、たった一度隠れ家のようなその家に行ったときのことを思い出している。それは、又左衛門が代官になった翌年のことだったのだ。  そこに住んでいるらしいと、市之丞の実家で聞いて来た餌刺町は、ごみごみした職人町だった。桶屋、指物師、漆塗り細工、表具師などの家がならび、町には木の香や砥《と》の粉《こ》の匂いが漂っていた。この道を通り抜けると、日向町に出るらしいと見当がつきかけて来たころに、目印の町角の庚申塔《こうしんとう》が見えた。  聞いたとおりにそこを曲がると、町は急に裏通りめいたひっそりした路地に変わり、槌の音や木の香も次第に遠のいた。そのあたりにあるのは、ほとんどがしもた屋だった。  からからと、よく鳴る格子戸をあけると、玄関まで小砂利を敷きつめた路がある小粋な住まいだったが、その家は日も射さず、陰気なほどに静かだった。はたして中に市之丞がいるのかどうかと危ぶみながら、隼太は玄関の戸をあけて訪《おとな》いをいれた。だが、家の中は森閑としている。  二度、三度と声をかけると、ようやく奥の方で女の声がした。声の主が出て来るまで隼太はまたしばらく待たされた。そして軽い足音がしてその女が姿を見せたとき、隼太は一瞬、家を間違えたのではないかと思った。はげしい狼狽に襲われ、思わず背をむけてその家をとび出そうかと思ったほどである。女は宮坂の後家だった。もっとも宮坂の家は、一蔵の脱藩の始末がついたあとで、取り潰しになっている。  だが、女の方は少しもあわてなかった。平静な顔と声で言った。 「おひさしぶりでございます、桑山さま」 「ご無沙汰いたした」  隼太はぎごちなく言った。 「お会いするのは何年ぶりでしょうか」 「されば……」  隼太は、そろそろ四十に近いはずなのに皺ひとつなく、相変わらずふっくらと白い女の顔を、怪しむように見ながら言った。 「かれこれ十年近くにも相成ろうか」 「まあ、そんなに……」  女は眼をみはるようにした。その眼もきれいだった。 「ご出世のご様子は、よく存じ上げておりますよ。おめでとうございます」 「いや、いや」  隼太は声を落とした。 「ところで、市之丞は在宅かの」 「はい、おります。少少お待ちくださいまし」  女は取り澄ました口調で言うと、身軽に立ち上がって奥に姿を消した。  市之丞をたずねて来たことを、隼太は強く後悔していた。ひさしぶりにひまが出来、また市之丞に二、三話したいこともあったのは事実だが、こういう成り行きは予想もしなかったことなのだ。狼狽がおさまったあとに、今度はざらつくような不快な気分がこみ上げて来た。  ──市之丞だって……。  宮坂の後家と暮らしているところを見られては、ぐあいが悪かろう。そう思うと、隼太はまた逃げ帰りたい気分に襲われたが、そのとき奥から今度は男の足音がして野瀬市之丞が出て来た。 「外へ出るか」  と市之丞は言った。何年ぶりかに会った男の挨拶がそれだった。市之丞もあきらかに狼狽していた。履物をつっかけようとして、二度、三度とよろめいた。  女は見送りにも出ず、二人は戸をしめてそのまま外へ出た。 「比丘尼《びくに》町へ行くか」  市之丞は言ったが、そこではじめて気づいたように、隼太の身なりをちらちらと見た。 「そうか。代官になったのだったな。比丘尼町はまずいか」 「いや、そんなことはない」  隼太が言うと、市之丞は空を仰いだ。時刻を測ったらしかった。六月の日は暮れかけていて、西空にうかぶ雲の塊の間から、強い光の束が町にさしかけているのが見えたが、日のあたらない家家の軒下には、もう青白い夕暮れの翳《かげ》がまつわりついている。 「べつに、早いことはないな」  市之丞がつぶやき、二人はそのままさほどの人通りもない餌刺町を、黙って比丘尼町の方角にむかった。  しばらく歩いてから、隼太が言った。 「もう、長いのか」 「………」  市之丞は、ちらと隼太を見た。市之丞は血走ったような眼をし、無精ひげをはやしていた。 「もう、三年ほどになるな」 「どうもひっかかる」  隼太は、さっきから胸にたまっている不快な気分を、とうとう口に出した。 「自分が命を奪った、親友の女房と暮らす気分はどんなものだ」 「………」 「よく平気でいられるものだな」  市之丞は、またちらと隼太を見た。そしてぼそぼそした声で、平気なわけじゃないと言った。 「だが、おれが手を出したわけじゃなく、むこうが押しかけて来たのだ」 「………」 「堕地獄だ」  市之丞はため息をつくと、普通の声にもどって、わけはあとで話すと言った。      二  比丘尼町に着いたが、市之丞が言ったとおりで、飲み屋がならぶ道には、その日の仕事を切り上げた職人や、勤め帰りの足軽などが、はやくも酒と女に気持ちを奪われた顔で、ちらほらと歩いていた。  相つぐ凶作の中で、初音町は一部、比丘尼町は残らず一時商売を停止する、という引き締め案が町奉行と一部の執政の間で論議されたことがあったが、結局はかえって庶民の活力を奪うという理由で取りやめになった。その引き締め策が形を変えて、四ツ(午後十時)以後は飲酒、放歌を禁止するという自粛令が残ってはいるものの、比丘尼町はさほどの変化もなく商売をつづけていた。  二人は「ぼたん屋」に入って、部屋を取った。 「こうして顔つき合わせて飲むのは、何年ぶりかな」  酒が来ると、市之丞は自分で隼太の盃にも酒をついでから言った。顔いろが悪く、眼は血走って、どことなく憔悴《しようすい》して見えるが、盃を上げて微笑した顔に、むかしの表情が出た。 「ざっと十年ぐらいは経つだろう」  隼太も軽く盃を上げてから飲み干した。 「お互いにいそがしかったからな。十年という月日もじきに過ぎる」 「いそがしかったのは貴公だけだろう。こちらは遊んで暮らして来た」  と市之丞は言った。  市之丞の言い方に、どことなく自分を韜晦《とうかい》する気配があるのを、隼太は敏感に感じ取った。陰扶持のことに触れられたくはないのだ、と思った。  はたして市之丞は、話をすぐに隼太の近況にむけて来た。 「おぬしもいまは代官か。いずれそうなるとは思っていたが、早かったな」 「早くもないだろう」  と隼太は言った。代官になったのは一年ほど前のことだが、隼太はもう三十の半ばを越えている。 「家柄がいいか、才幹のあるやつはもっと早くなっている」 「しかし、貴公の代官就任は、凶作をしのぐのに功績顕著だったからだと聞いたぞ。そっちの方の才幹がないわけじゃあるまい」 「いや、いや、とんでもない」  と、隼太は手を振った。 「われわれなんかは及びもつかぬ能吏型の男たちがいてな。目から鼻へ抜けるようなそつのない仕事をする。花岡、西村、山根といった連中だ。名前は聞いているのじゃないかな」 「まあ、ぼんやりとはな」 「花岡はおれと同年だが、今年のはじめに郡奉行にすすんだし、西村も山根も、三十になるやならずで代官になっている」 「なるほど」 「おれが代官になれたのは、おぬしがいう功績などというものとは大いに違うが、凶作について二、三策を献じたのが用いられて、それがうまく行ったせいだとは言えるだろうな。ただ、献策というのはおれひとりというわけじゃなくて、花岡や山根なんかも意見を出して、うまく行ったりはずれたりしたのだ」 「貴公は何を献策したのだ」 「早稲の作付け奨励と、上方からの米の買い付けだ。上の方に上申書を出したのは、あの年の二月だから、意見具申としては一番早かった。もっとも、半分はおやじの入れ智恵だった」  天明二年から三年にまたがる冬は、異様にあたたかい日がつづき、普通の年なら降った雪が根雪となるべき年末の領内は、道も田畑も乾いて、時おり強く吹く南風に地面は埃が立つ有り様だった。年が明けてわずかに雪が降ったが、その雪はたちまち消えた。  空は隅隅まで青く晴れて、冬とは思えない暖気がつづき、人びとは不安げに空を見上げることが多くなった。  いまに、天気が変わっておどろくほどに雪が降るさという者もいたが、病床の孫助はそうは思わなかったようである。隼太をそばに呼ぶと、しきりに「宝五の凶作のときに似ている」と言い、その用意をするよう上の方に意見を述べろとせき立てた。  宝暦年間に、四年、五年、十三年と、領内に三度の凶作があり、ことにその年からおよそ三十年前にあたる宝暦五年の凶作は、「宝五の飢饉」と呼ばれて、領内も餓死者を出す一歩手前まで行ったのである。  そのときの天気に酷似している、と孫助は言うのだったが、隼太はなおひと月ほど様子を見た。風はまだ、気まぐれのようにつめたい北風に変わることがあり、雪も降ったり消えたりしていたからである。だが、並の年なら手足も凍る一月が終わろうとしているのに、平地にはまったく雪が積もらず、田の畦には草の芽らしきものさえ見えはじめて、その上を終日日が照りわたった。  さすがに天空にそびえる大櫛山は、年明けに降った雪に白く覆われていたが、その雪も五合目あたりから下はまばらで、青黒い樹林が濁った空気に包まれている景色は、春先の風景に異ならなかった。そして雪の気配はばったりと遠ざかった。  隼太は二月の末に、上司である郡奉行あてに上申書を提出した。市之丞に話したとおり、今年の稲の作付けは、晩稲を避けて早稲種を奨励すべきだということと、不作を不可避と見越して、上方からの米の買い付けをいそぐべきことの二点を強調したのである。  隼太の上申書は、直接の上司である郡奉行から郡代を経て、月番家老に回された。隼太の上申書が出てから十日ほど経って、やはり凶作にそなえるべき対策をのべた上申書が二通、相ついで月番家老まで提出されたので、つぎの執政会議は、これらの上申書を取り上げてきわめて慎重に協議した。  そのころには、執政の間にも異常な天候による凶作を予想する者が出て来ていて、隼太らの上申書が取り上げられたのは当然だったが、執政たちがその取り扱いに慎重だったのは、たとえば隼太が、早稲の作付け奨励は藩の強権を以《もつ》て行うべきこと、としていたからであろう。  稲の実成りは、当然のことだが早稲より晩稲の方が多いので百姓は収穫の多い晩稲を主力に作付けする。凶作の予想がよほどはっきりしない限り、田植えのときにはやはり晩稲を植え付ける者がかなり出るはずだった。そこを、藩の強権で一律に早稲を奨励するということになると、百姓の間から抵抗の声があがることが予想されるだけでなく、藩もかなりの危険をおかすことになるのである。  ひらたく言えば、執政たちも百姓に劣らず早稲より晩稲の収穫をのぞんでいるのだった。領内一円を早稲田にするということは、はじめから米の収穫を平年より減らす自然減収を認めるということである。苦しい財政にまた拍車がかかることになるのだ。  しかし桑山隼太の上申書が述べているように、今年の夏は寒くなるものであれば、晩稲の作付けを許しては元も子もなくなるのである。執政たちも、凶作について無知ではなかった。宝暦五年の秋は、まだ田にある秕《しいな》のようにうすい穂をした稲の上に、雪が降りつもったのである。そのことをおぼえている者もいた。  はげしい論議の末に、執政たちは早稲の奨励を藩命として触れることを決めた。田ごしらえも、種籾を水におろす時期も近づいていて、論議を先にのばすことは許されないところに来ていたのである。 「もう一方の上方米の買い付けは、あとで聞いたところによると、会議はもっと揉めたそうだ」 「城に金がなかったからだろう」 「おぬしは、何も聞いていないのか」  隼太は盃をおいて、市之丞の顔を見た。十年という歳月のせいばかりではないへだたりが二人の間にあるのを感じ、いくらか憮然とした気分になった。  気を取り直して、隼太は市之丞に酒をついだ。 「まあ、飲め」 「………」  市之丞は黙って盃を受けたが、さっきからかなり飲んでいるのに、顔色はむしろ青ざめて来るように見えた。 「藩庫に金がないのは、わかり切っていたことだ」  と隼太は言った。 「たとえば上方米を買い付けるにしても、さっそくにどこからか、新たな借金をせねばならんという状態だった。しかし、ことは緊急を要したのだ」 「………」 「ほかの藩も、上方米買い付けに動くことは必至とみられていたからだ。現物があれば現物を押さえる、なければ今年の収穫を見越して手付けを打つ。これは競り合いだ。借金に手間どっているひまはなかった」 「早いもの勝ちか」 「それと、必要なのはどのような交渉も出来る潤沢な金だ。おれは上申書に、その仕事を羽太屋重兵衛に請け負わせろと書いたわけだ」 「羽太屋?」  市之丞が顔を上げた。細い眼が光った。その眼を隼太は受けとめた。 「羽太屋という名前は、わが藩では禁句になっているからな。貴公がおれをにらむのも無理はないが、藩は所詮どこからか借金をせぬと、藩士を喰わせ、領民を喰わせることが出来ぬ状況になっている」 「まあ、そうだ」 「藩が羽太屋を嫌ったのは、羽太屋が潰れ地を欲しがったからだ。借金の方が大事だから、一時期買い入れを許したものの、もともと藩の方針は、潰れ地は村耕作にして、永代売買を禁じるということになっていた」 「………」 「しかし、羽太屋と縁を切って外の借金に切り換え、それで安泰かといえばそんなわけにはいかぬ。大体上方からの借金は、来年の年貢米を担保にして借りている金だし、城下に上方商人が入りこんで、さまざまな特権を要求していることは誰でも知っていることだ」 「荒物の近江屋などだな」 「そうだ。借金をするからには、利息の返済のほかに何らかの代償を支払わねばならんということだ。しかも近年は、上方の借金も高利になって来て、羽太屋のような財力のある地元商人を放っておく理由はなくなったとおれは見ていた」 「………」 「金があって、西国、上方を問わず、廻船問屋として顔がひろい羽太屋を、この際登用すべきで、場合によっては扶持をあたえて、藩の交渉役としての資格をあたえるのもよかろうと、思い切った献策をしたわけだ」 「………」 「執政たちは、おれが何か羽太屋とつながりでもあるかと疑ったらしくて、おれは呼び出されて、お歴歴の前でもう一度上方米買い付けの計画をしゃべらされたりしたが、とにかく早稲の奨励と外からの米の買い付けは、五年前の凶作に関してはぴったりとあてはまった」  天明三年の天候は、田植えごろから寒寒とした雨の日がつづき、土用の時期に至っても、年寄りは綿入れをはなせないような異常なものとなった。七月になると、さすがに暑い日が照りわたる炎天が姿を現しはじめたが、長くはつづかず翌日は氷のような東風《やませ》が、稲田の上を吹き荒れるという定めない天候で、秋は早く来た。  そしてその年の暮れには、はやくも他領からの流民が領内に姿を現し、年を越えると、その人数は一挙にふえ、藩の救済の手も及ばずに道ばたで餓死する者の姿を見るようになった。  しかし藩ではその年、稲作は奇蹟的に四割減にとどまり、自領から餓死者を出すことを危うくまぬがれたのであった。  稲作四割減は、隼太の献策した早稲作付けの奨励が徹底したことと、大櫛山を主峰とする山脈が、つめたい東風を遮る位置にあって、流れこむ冷気をわずかに緩和出来たのが理由だと思われた。そのほかに、酒造の禁止、備荒籾の放出、一切の穀類の沖止めなど、通常の凶作対策がすばやくとられ、また羽太屋が買い付けた肥前米、肥後米も年明けには入荷して、被害の大きかった村村に御救い米として貸し出されたので、領内の凶作の影響は最小限度に押さえることが出来たのである。藩は、他領から流れこむ飢民に対しても、お救い小屋を設けて施粥を行う余裕を得た。 「代官になったのは、そのときの献策の褒美というわけだ」  と市之丞が言った。 「それだけじゃないが、ま、そんなところかも知れん」  と隼太は言った。その年隼太は郡奉行助役にすすんでいたのだが、大不作の影響を極力喰いとめ、領民に翌年への活力を残すためには、さまざまな細かい施策が必要だった。早稲植え付けの徹底と監視、糧飯《かてめし》にすべき木の実、草の根の採集奨励、飢饉にそなえる合積(配給制度)の計画作成などは、すべて凶作の答えが出る秋までにやらねばならないことだった。  隼太は足を棒にして村村を回り、各地の代官所に泊まりこんで二月も家に帰らず、その間に長男が急病で死亡したために、妻の満江との溝がいっそう深まることにもなったのだが、そういう細かな仕事のことは、市之丞には話してもわからないだろうと思った。  また、先手を打つように市之丞が言った。 「ところで、何か急な用でもあったのか」 「うむ」  隼太はうつむいて、空の盃をいじった。軽い気持ちで市之丞に頼もうか、と思った用件が、顔を合わせてみると、何となく言い出すのが億劫なものに変わっている。  市之丞が催促した。 「どうした?」 「じつは、近くある男がおれをたずねて来ることになっている」 「………」 「田口半平という町見家だ」 「町見家?」 「土地などを測る、あれだ。江戸屋敷にも小人数だが普請組の者がいて、その中に田口友軒という町見の名人がいるそうだ。定府だから国元には、名も顔もあまり知られてはおらん。半平はその友軒の長男だ」 「ふむ、それで?」 「まだ三十前の若い男だが、和算の名手で、阿蘭陀《オランダ》流の町見術は、父親に勝るとも劣らない。そういう男らしい」 「その男が何でおぬしをたずねて来るのだ」 「これから話すことは他聞を憚る。内緒にしてもらう」 「よし」  と市之丞はうなずいた。 「田口は今度、国元に公用があって来るのだが、そのついでにおれをたずねろと指図しているのは用人の牧原喜左衛門どのだ。牧原どのから、そういう手紙がとどいた」 「………」 「田口が行ったら、一度太蔵が原に案内して水の手をさがさせてはどうかと、牧原どのは言って来たわけだ。以前にそのことで、牧原どのと話したことを、忘れておられなかったのだな」 「ふむ、それで?」 「むろん、ねがってもない機会だから、その男が来たら太蔵が原に連れて行くつもりだ」 「やめた方がいい」  市之丞はにべもない口調で言い、不意に立って襖をあけると、女中を呼んで酒を言いつけた。 「太蔵が原は不毛の地だ」  席にもどると、市之丞は言って盃の底に残っていた酒をすすった。 「この前の開墾さわぎをおれは見ておらんが、大失敗だったというじゃないか。無理に水を通そうとすると、そういうことになる」 「………」 「あのときだって小黒の伜は、江戸の何とかいう男、ひょっとしたらそれも町見家かな。その男を莫大な費用をかけて呼んで、水路づくりの指図をさせたが、とどのつまりは失敗したと聞いたぞ。同じことの繰り返しにならぬ自信はあるのか」 「自信なんか、あるものか」  と隼太は言った。 「だが、おれは太蔵が原を美田に変える夢を捨て切れないのだ」 「夢だと?」  市之丞は虚を突かれたような顔でつぶやいた。 「貴公、いくつになる?」 「おぬしよりひとつ下だ。三十六だ」 「それで、まだ夢を見るのか」  市之丞は陰気な顔をうつむけて、くすくす笑った。ちょうどそのとき女中が酒をはこんで来たが、市之丞が笑いやめないので、気味悪そうに大急ぎで引きあげて行った。  やっと笑いやんで、市之丞は熱い酒を隼太の盃についだ。 「いや、ごめん。しかし桑山。代官どの。おまえさんはしあわせな男だ」 「………」 「おれには、見る夢なんぞひとつもないからな」  市之丞の口ぶりに、若いころの調子がもどって来たようだった。 「一蔵を討ち果たしたときのことを、まだ話していなかったな」 「ああ」 「聞きたいか」 「ああ。いつかはその話を聞かせてもらうつもりでいた」 「気持ちのいい話じゃないぞ」 「かまわん」 「おれは、討手に加わったときから、一蔵に腹を切らせるつもりだったのだ」  と市之丞は言った。 「おれが介錯《かいしやく》して、苦しませずにしかも武士らしく死なせてやりたかったのだな」 「その気持ちは、よくわかる」  と隼太は言った。 「おれが討手にえらばれたら、やはりそう考えるだろう」 「途中で、横沢金之助がもどったのは知ってたか」 「庄六から聞いた」 「あれは、おれがわざと喧嘩を吹っかけて、やつが怒って帰国するように仕向けたのだ。庄司は尋常な男だが横沢はどうしようもない乱暴者で、一緒にいては一蔵に腹を切らせるなどということはおぼつかないとわかったからだ」 「………」 「考えたとおり、庄司七郎はおれが頼むと一蔵に腹を切らせることを承知した。近江まで行って、一蔵が美濃路の守山にひそんでいることを突きとめたあとのことだ」 「おぬしの顔を見たとき、一蔵はおどろいたろう」 「うむ。しかしやつはかなり憔悴しておった。おれたちが追いついたのを見て、ほっとしたようにも見えたな。逃げ回るのもいやになっていたのだろう。介錯してやるから腹を切れと言うと、素直に応じた」  市之丞と庄司七郎は、宮坂一蔵を守山の東を流れる野洲川まで連れ出した。ひと気のない川原をさがして下流に歩いて行くと、葦原に囲まれた手ごろな砂洲《さす》があったので、そこで一蔵を腹切らせることにした。  青い空から灼けつくような日が降りそそぎ、あちこちで葦雀《よしきり》が鳴いていた。砂洲のむこうに川水が光り、三人が立ちどまった場所まで軽やかな水音が聞こえて来た。腹を切るのに悪い場所とは言えなかった。そして、それはほんの短い手順で終わるはずだったのである。  何がその手順を狂わせたのか、正確なところはわからない。あるいは一蔵が腹を深く切り過ぎたせいだった、とも考えられる。  とにかく一蔵は、腹を切りかけた小刀をにぎったまま、むっくりと立ち上がった。そのために、市之丞が振りおろした介錯の刀は、一蔵の頸を浅く斬ってあらぬ方に逸れた。  一蔵は市之丞を振りむいた。そして何かしら呪咀《じゆそ》めいた言葉を吐き散らすと、いきなり川下にむかって走り出した。思いがけない展開である。 「逃がすな」  少しはなれた場所から二人を見ていた庄司七郎が、刀を抜いて走って来た。その庄司に、市之丞は刀を向けた。 「手を出すな。おれが始末する」  真昼の日の下を、腹からはみ出した腸を押さえ、首から背にかけて血をしたたらせながら、一蔵が走って行く。その足は、物に憑かれたように速かった。まだ小刀をにぎっている手を振り振り、一蔵の姿は見る間に遠ざかる。市之丞は猛然と後を追った。      三 「とどのつまり、青草の中に一蔵を押し倒してとどめを刺すしかなかった。あばれる猪か何かを組み伏せるようなぐあいに押さえつけながらだ」 「どういうことなんだ」  隼太は茫然とつぶやいた。その場の凄惨な格闘が眼に見えて来て、酒を飲む気分も消えている。 「やつは最後になって、気が臆したのか」 「わからん」  と市之丞は言った。それから盃に残っている酒をすすり、うめくような小声でつづけた。 「おれはそのとき、これからはとても、人なみの暮らしは出来んだろうと思ったものだ。そのとおりになった。いまでも、あのときの一蔵の顔が眼にちらつく」 「しかしそれは、仕方がないことだろう」  と隼太は言った。 「藩命だ。逃がすわけにはいかんのだから。それに、腹を半分切ってしまった一蔵にとどめを刺すのは、友だちの慈悲というものだ」 「なぐさめてくれるつもりかも知れんが、桑山よ。いや、代官どのだったな」  市之丞はつめたい眼で隼太を見た。 「それは、その場に居合わせなかった者のせりふだな。駆けつけて様子を見た庄司は、胃の腑の物をみなもどしたぞ」 「………」 「おれはそのとき、庄司を脅してやった。吐いたことは内緒にしてやるから、一蔵が逃げたことは秘密にしろとな。いさぎよく腹を切ったことにすれば、藩の扱いも少しは変わるかと思ったのだが、なに、それも無駄だった」  市之丞は、つづけざまに手酌で酒をあおり、隼太にもついで言った。 「一蔵の話は、それで終わりだ。今度は貴公の夢の話を聞こうじゃないか」 「貴公は、太蔵が原は不毛の地だと言うが、おれはそうは思わん」  隼太は冷静に言った。 「平地からみればかなり高台になるから、霜などに気をつけねばならんだろうが、地味は肥えている。稲も畑作物も十分に育つ場所だ。ただ、水が見つからんというだけでな」 「ふむ」 「そこで、ちょっと相談がある」  と隼太は言った。 「道場には、ずっと行っているらしいな」 「ああ、ひまな身分だからな」 「若い者で、骨っぽいのがいないか。いたら、二人ばかり貸してもらいたいのだ」 「何をやらせるつもりだ」 「さっきも言ったように、田口という町見家が来たら太蔵が原に連れて行くつもりでいるのだが、職権でやる仕事ではないから、二人だけで山に入ることになる。それが洩れると妨害の手が入る心配があるのだ」 「妨害? 誰だ?」 「小黒勝三郎だよ」 「ああ、小黒の伜か」  市之丞は舌打ちした。 「あいつ、まだあきらめていないのか」 「いや、それにはまた、べつの事情が絡んでいる」  と隼太は言った。  安永九年に発令した御賄いを、執政たちはそう長くつづけるつもりでいたわけではなく、期間は両三年とみていたらしい。あまりに長くなると、家中、扶持米取りの不満が爆発して、執政の責任を問われかねない。過去にそういう例があった。  ところが、執政たちが御賄いを廃止すべく予定していたその年が、天明三年の凶作にぶつかってしまったのである。御賄いを解く情勢ではなくなった。翌四年は天候が持ち直して、田の物、畑の物もまずまずの作柄を得たものの、藩は前年の凶作の後始末に追われ、つづく五年、六年はふたたび凶作年だったために、結局御賄いの解除は去年の秋まで持ち越されたのである  藩財政の実情から言えば、まだ御賄いを解く状況ではないとも言えたが、前後八年にもおよぶ御賄いは藩内にさまざまの弊風をもたらしていた。借金の流行と内職の跋扈《ばつこ》は、その典型的なものだった。  家中、扶持米取りを問わず、やたらに借金することがはやり、しかも金を貸すのは商人だけでなく、家中の中にも、高利で同僚に金を貸す者が現れたのである。また、内職の習慣は以前からあったものの、武家はその内職をなるべくひとの眼から隠すことをたしなみとしたのだが、近年は団扇や虫籠などの内職物をかついで、平気で城下の目抜き通りを歩く者が出て来た。また、病気と偽って登城を怠り、家で内職に励んでいた者さえいた。  そういう風潮と、ひとつの小さな政変が、執政たちに御賄いの解除をいそがせることになったようだった。  政変というのは、中老の松波伊織が執政からのぞかれて、一年の謹慎処分を受けたことである。松波は、最近の士道の荒廃ぶりを指摘して、御賄いの早い解除を執政たちに迫り、小見山、小黒両家老の忌諱《きい》に触れたのだと言われたが、事実はそのことを主張した執政会議の席上で、松波は小見山、小黒両家老が、藩の借金先である近江商人から多年賄賂を受けて来たことを暴露し、その賄賂を吐き出せば、家中の御賄いを解くことなどいと易いことだと放言して、両家老を攻撃したのだという。  むろん、小見山、小黒両家老は、即座に賄賂云云を否定し、逆に松波を執政からはずして謹慎処分に追いこんだのだが、その政争は松波のあとに杉山派の組頭佐治庸助が中老として入り、しかも佐治の中老就任は藩主のお声がかりだったということで、小黒派に少なからぬ衝撃を残したのである。 「つまり、小黒派はいま追われる立場にあって、何か目立つような財政回復の政策を打ち出さないことには、いまの地位を守るのはむつかしいと考えているわけだ」 「………」 「松波が言った賄賂云云の実情は知らんが、ありそうなことではある。執政という職は、富と権力があつまる場所だからな。降りてしまえば木から落ちた猿同然になるゆえ、彼らは相当の汚い手を使ってもその座を守ろうとする」 「富と権力があつまる場所か。だから長年その座にいると人間が腐るわけだ」  と市之丞は言って、うす笑いした。 「大きな声じゃ言えんが、いまの忠兵衛の父親だって、執政のときはかなり手を汚したらしいぞ。おれたちが若いころ、有り難がって話を聞きに行った|楢岡図書《ならおかずしよ》も一味同体だ。何であんなに熱心に和泉町に通ったものかな」 「白ばくれちゃいかん。楢岡の千加どのがいたからじゃないか」 「そうか。千加どのか」  市之丞の青白い顔に、わずかに赤みがさした。市之丞はなごやかな顔になって、隼太を見た。 「その後、千加どのに会ったことがあるか」 「いや」  隼太は首を振った。 「おれはずっと村回りで、城下にいることが少なかったからな」 「おれは二度ほど会った。お供をつれて寺詣りか何かに行く途中らしくて、道ですれ違っただけだが、こちらをおぼえていたぞ」  二人は一瞬、二十代の若者に返ったような顔を見合わせ、それに気づいてバツ悪く眼を逸らした。市之丞がまじめな声で言った。 「貴公のことだって、おぼえているさ。賢いひとだ」 「そうかな」 「ひとの妻になって、かえってうつくしくなったな、あのひとは。臈《ろう》たけた女房というふうに見えたぞ」  だが、市之丞は急に乱暴な口調で、ひとの女房をほめたって、何の足しにもならんと言った。 「話が逸れたが、ひとに聞いた話によると、前の執政で人格高潔、ひとに指さされる一点のしみもない人物といえば、家老の金井権十郎ただひとりだったということだ」 「さもあらん」 「だが、ここが玄妙なところでな。それでは人格高潔な金井権十郎のところにひとがあつまったかというと、あつまらん。現職のときも、執政をしりぞいたあともだ」 「………」 「反対に、いま雪庵などと言っている鹿之助の父親は、在職中も賄賂だ何だと、とかくのうわさがあったひとだ。しかし賄賂があつまるということは、ひとの面倒もみるということだからな。またあつまった金は、さほどに惜しい金でもないから、気前よくまわりに散じる。だからひとがあつまった」 「………」 「いつか、いまの忠兵衛が、父親が執政を降りたときは門前|雀羅《じやくら》を張る有り様だったと、嘆いたことがあったが、いま鹿之助が忠兵衛を継いで、藩政に乗り出す構えを示すと、またぞろひとがあつまり出したようじゃないか」 「そのようだ」 「あれは名門ということもあるだろうが、それだけじゃないな。杉山一門の権力に対する執着の強さを知っているから、ひとが寄るのだ。いまのうちに慇懃を通じておけば、行く末悪いことはないと踏んでいるわけだ」  そこまで言って市之丞は、不意に口をつぐむとじろりと隼太を見た。少ししゃべり過ぎたという顔になっている。 「すると何か」  と市之丞は言った。 「小黒派は、太蔵が原は人手に触れさせたくないと思っているわけか」 「まあ、そうだ」  と隼太は言った。 「松波の謹慎事件で、はからずもお上がいまの借金政策にきびしい考えをお持ちだということがわかった以上、急に借金をやめることは無理としても、いくつかの財政回復策は用意せねばならん。安易を捨てて、せめて借金先のひとつぐらいは無くする構えを示さねばならん。となると、太蔵が原の開墾というものは、小黒派にとっても今後の政策の目玉になるということだろう」 「しかしだな」  と市之丞は言った。 「水の手などというものは、さがしたい者にさがさせればいいではないか。たとえば貴公がさがしあてたとしても、開墾の方は、貴公一人で出来るわけじゃあるまい」 「素朴な理屈だな」  隼太は笑った。 「しかし、水の手を見つけた者が杉山派の人間だったら、小黒派には大打撃になる」 「貴公、忠兵衛と組んでいるのか」 「いやいや、そういう意味じゃない」  隼太は、市之丞の盃に酒をついでやった。銚子はほとんどからだったが、隼太はもう酒に倦きた気分になっていた。身体の底に重い酔いがたまっている。市之丞も似た気分なのか、隼太がついだ酒に手を出さなかった。 「おれはまだ一介の代官で、忠兵衛から声がかかるような身分じゃない」  そう言ったとき、隼太の胸に牧原喜左衛門の護衛役を勤めた夜の屈辱感が、ちらとうかんで来た。 「水の手を見つけたいというのは、あくまでおれ単独ののぞみだ。貴公が笑う夢のためだよ。だが田口を連れて太蔵が原に入ったとわかったら、小黒派はそうは思わんだろうな。おれを杉山派とみて、妨害の手をのべて来ることは必定だ」 「わかった」  と市之丞は言い、最後の酒をすすった。 「おれが行こう。代官どののお供を勤めようじゃないか」 「おい、ほんとか」  隼太は喜んで、市之丞に手をさし出した。 「それはありがたい。おぬしが来てくれれば心配はない」 「べつに礼を言うことはないさ」  市之丞は、隼太がさしのべた手を素気なく黙殺した。喰い荒らした焼き魚の骨を箸でつつきながら言った。 「話を聞いて、ひさしぶりに山の空気を吸いたくなっただけだ」 「田口はあと数日で、こちらに着くことになっている。済まんが、身体をあけておいてくれるか」 「身体なんかは、いつでもあいている」  市之丞はそう言い、あきらめたように箸を置いてから、改めて隼太に顔をむけた。市之丞の顔は、青白いなりに酒の酔いで光っている。もの憂いような口調で言った。 「桑山よ」 「何だ」 「もし、水の手が見つかったら、おぬしどうするつもりだな」 「そうさな」  隼太はうつむいた。それから顔を上げて、ゆっくりと言った。 「高い値で売りつけることにするか。それぐらいの値打ちはある」 「金か」 「いや、身分だ」  と隼太は言った。声をひそめた。 「将来は郡代に推す、ぐらいの約束は取りつけたいものだ」 「ほう」 「郡奉行までは黙っていてもすすむだろう。だが、このままではそこ止まりだが、売り物が出来れば郡代は夢じゃない」 「………」 「興ざめしたか」  隼太は、微笑して市之丞を見た。 「俗な夢を見るものだと思うかも知れんが、郡代は舅の夢だった。それに、そこまで行けば藩政の一角に喰いこむことが出来る」      四 「藩政だと?」  市之丞は、暗い眼で隼太を眺めた。 「権力に近づいて、そこで腐るのがおぬしののぞみか」 「そうなるかもわからんが、あるいはもっとうまくやれるかも知れん」  隼太は穏やかに言った。 「まだ、そこまで考えが行っているわけではないが、しかし……」 「………」 「いま藩政を動かしているお偉方にまかせておいて、われわれや領民の暮らしが楽になるとは思えぬ。じゃ、杉山忠兵衛にまかせれば安心かといえば、おれにはそうも思えぬ。むろん小黒よりは多少ましな政治を心がけるだろうが、忠兵衛にしても領民の暮らしがわかっているわけじゃない」 「………」 「とりあえず頭にあるのは、権力の争奪ということだろう。勝った方が藩政を牛耳る、そのことに鎬《しのぎ》をけずる。そのへんの駆け引きになると、ふだんは生死も定かでない原口などという人物まで出て来て、すさまじいものだ」 「原口民弥を見たのか」 「忠兵衛の屋敷で見た」 「それは凄いな。すると、小黒派もそう長くはないな」 「おやじもそう言っておった。小谷、原口が会合に姿を現すようになると、執政の交代もそう遠いことではないということになっているそうだな。それはそれとして……」  隼太は市之丞を正面から見た。 「いつごろからそんなふうになったのかわからんが、とにかくお偉方の頭というのはもっぱら権力争いの方に向いて、政策というものも、そのための道具に使われた例が少なからずあった。しかし近年のように領内が窮迫して来ると、これからはそういうやり方は通用せんだろうとおれはみているのだ。もっと領民の実情をつかんでいるやつが、藩政の内側に入って物を言うときが来ている」 「それがおまえさんというわけだ」  市之丞がつめたい口調で言ったが、隼太はとりあわずにつづけた。 「士道の荒廃などということをやかましく言っているが、村方の荒廃ぶりもただごとじゃないぞ。小黒がいまやっているのは苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》だからな。不作がつづいて、藩が苦しいことはわかっているから、百姓たちはいまのところ黙ってしぼられているが、あと二、三年もこういうことがつづけば暴動が起きかねん有り様だ」 「………」 「われわれ出先の役人としては、手に汗をにぎる思いをしているわけだが、上の連中はそういうことがわかっておらん。意見具申をしても、なかなか取り上げてはくれぬ。つまり、百姓をしぼるしか能がないということだな」 「なるほど、おぬしの言わんとするところも、およそはわかって来た」  市之丞は言ったが、そこで顔にうす笑いをうかべた。 「しかし貴公だって、きれいごとだけで権力に喰い込もうというわけじゃなかろう。えらくなれば栄耀《えいよう》も一緒にくっついて来る。それものぞみなのじゃないか」 「おれは、いまは名門、上士の時代ではないと言っているだけだ。栄耀までは頭が回らなかったが、かりにそういうものがくっついて来るとしても、それはおまけで目的じゃないな。目的じゃないから拒むべき筋合いのものでもないと思うが、それで悪いか」 「いや、悪いとは言わん」  市之丞は、うす笑いの顔のままで言った。 「だが、気をつけろ。どこまで行っても上士は上士、下士は下士だ。しくじったら、一度でおしまいだぞ」 「わかっておる」  と言ってから、隼太もにが笑いした。 「何かもう、藩政の一角に喰い込んだような言い方だな」 「ところで、見つかったらどっちに売るつもりなんだ」 「水の手の話だな」  隼太は酔いで気だるくなった腕をのばしながら言った。 「まさか、小黒に売るわけにはいかんだろうよ。組むなら忠兵衛と組む」 「わかった」 「だが、あんまり期待してもらっても困るぞ」  と隼太は言った。 「おやじの孫助は、町見家じゃないが長年山も見、川も見、地勢とか地相とかいうものはひと通り呑みこんでいるひとだが、何度か通ったものの太蔵が原に水を引く方法はついに見つからなかったそうだ」 「………」 「小黒勝三郎も、結局は失敗した。たずねて来る田口半平も見つけられないということになれば、太蔵が原は、貴公の言うとおり不毛の地だな。これまで話したことも、ただの夢物語ということになる」 「まあ、いいではないか」  逆に、市之丞がなぐさめる口調になった。 「とにかく、その若い町見家とかいうのに見てもらうことだな。先にたのしみがあるということは、いいものだ」  市之丞のその言葉が、その夜の話のしめくくりのようなぐあいになって、二人はそのあと物も言わずに漬物で茶漬けを喰ってから「ぼたん屋」を出た。  外に出ると、月が出ていた。しかしその月は、春の終わりごろのおぼろ月のように白っぽくぼやけていて、歩いているひとの顔もそばに来ないと見わけられないほどに光が弱かった。季節は六月に入って、日中の日射しは暑くなっていたが、梅雨はまだ明けていなくて、夜になると夜気は冷えて来る。ぼんやりした月の光も、まだ定まっていない季節を示していた。  比丘尼町の通りを歩いている人影はまばらで、それも大ていは町人だったが、なかに武家の姿もちらほらとまじっていた。  二人が「ぼたん屋」を出たとき、ちょうどすれ違って町の奥の方に歩いて行く数人連れの若い武士などは、わざとのように大声で話し、なかの二人は小唄らしきものを歌うというよりはがなり立てて行った。身なりはいずれも下士の子弟とみられる若者たちである。 「四ツ(午後十時)にはまだ間があるが……」  隼太はちらと若者たちを見送りながら言った。 「あれは触れに反抗しているつもりらしいな」 「そのようだ」  と市之丞も言った。 「日ごろ頭をおさえられているので、ああして発散しないと気がおさまらんのだ」 「若い時分を思い出す」  隼太は言い、不意に郷愁に駆られたように声をはずませた。 「近ごろ庄六に会ったか」 「いや」 「庄六はどうしているかな」 「病気をしたとも聞かぬから、普請組で真っ黒になって働いているだろう」 「女房どのは内職をしてか」 「多分な。内職をせぬと、二十石の家では暮らせまい」  そう言ったが、市之丞の声には羨望に似たひびきが含まれていた。 「おい、三人で庄六の女房を見に行ったことがあったな」 「ああ」  隼太はうなずいた。雪が消えたばかりの畑の中を息が切れるほど走って、婚約がととのったという庄六の相手を見に行ったのだ。それにしても、どうしてあんなに夢中になって走ったものだろうと思っていた。 「相手は二十石でも三十石でもいい。おれもさっさと婿に行くべきだったかな」  と市之丞が言っている。本音に聞こえた。 「しくじった」 「おれもしくじった」 「おまえはしくじったとは言えまい」  語気鋭く、市之丞が聞きとがめた。 「いまは代官だ。やがて郡奉行になるのも間違いなかろう。何を言ってるんだ。のぞんだとおりになって来ているではないか」 「………」  形だけはな、と隼太は思ったが、ここで妻の満江と気持ちが通じないなどということを、市之丞に言うつもりはなかった。  だが、若いころのことを話しているうちに、秋葉町のはずれにある普請組組屋敷の前の路上で、庄六の嫁になる娘と一緒だった井上という家のつつましげな娘を見たことを思い出し、いまとは違う、平凡だが平穏無事な暮らしもあったかなという思いが、ちらと胸をかすめたことも事実である。しかし市之丞に言われてみると、それはただの感傷に過ぎなかったようでもある。  それにしても、過ぎ去ったつつましい思い出が、消えるどころか、だんだん好ましさを増して思い出されて来るのはなぜだろうか。 「そうか」  気を取り直して、隼太は言った。 「おれは、愚痴を言ったりしちゃいかんのだな」 「愚痴なんぞ、言うな、おれも言わん」  市之丞が酔いの回った声で言った。二人は比丘尼町から肴町の表通りに出ていた。そのまま行けば青柳町で、市之丞はその前に横町に入らないと、家に遠くなる。 「おれはおれの道、おまえさんはおまえさんの道を行くしかない。ひとそれぞれだ。いちいち後悔してもはじまらん」  通行人の姿もない道に、市之丞の声がひびきわたった。そして市之丞は、不意に片手を上げると、右手に現れた路地に入って行った。そのうしろ姿に、隼太は声をかけた。 「山のことを頼むぞ」  市之丞は振りむかなかった。もう一度手をあげて答えただけだった。暗い家の影に入ったり、月の光に照らし出されたりしながら遠ざかる市之丞の姿を、隼太はしばらく見送ってから、青柳町の通りにむかって歩き出した。  ──市之丞は……。  自分のことは何も話さなかったな、と思ったのは青柳町の目抜き通りを、半ばまで来たころである。  市之丞が、何者かに扶持をあたえられていることはまず間違いがなく、しかもその扶持の主は、杉山忠兵衛の話や、銀橋の暗闘事件などから藩主自身ではないかと疑われるのだが、市之丞はそのことにも触れなければ、一緒に暮らしている宮坂の後家のことも、結局何も話さずに帰って行ったようだった。  ──しかし……。  まったく話さなかったわけでもないな、とも思った。脱藩した宮坂一蔵を始末したときのことを、あんなにくわしくしゃべったのは、その事件が、いまもまだ心の痼《しこり》となって残っているからだろう。  太蔵が原で桑山孫助に会ったことが、そのあとのおれの運命を決めたように、市之丞は一蔵の討手に選ばれたことで、尋常の生き方を奪われてしまったのだ、と隼太は思った。あれも気の毒な男だと思いながら、隼太は思わず歩いて来た道を振りむいたが、むろん市之丞の姿はなく、どこかに雨気を含んでいる夜の町を、ぼんやりした月が照らしているのが見えるだけだった。      五  田口半平が、左内町の隼太の屋敷をたずねて来たのは、比丘尼町で市之丞と会ってから半月ほど経ってからだった。  下城の時刻まで郡代屋敷に詰め、まだ強い日射しが残る道を汗を掻きながら家にもどると、表口に出迎えた満江が、お客さまですよと言った。 「どなたかな」 「田口さまとおっしゃいますお若い方です」 「来たか」  と隼太は言った。  思わず大きな声を出したのは、田口の着くのが牧原の知らせより遅れていて、ここ数日到着を待ちわびていたからである。 「だいぶ、待たせたかな」 「はい、でも……」  満江は、茶の間に上がる隼太のうしろにしたがいながら言った。 「ずっと父がお相手していますから……」 「ほう、ご自分の部屋でか」  着替えながら耳を澄ますと、孫助の部屋の方から低い笑い声が洩れて来る。 「いかんなあ、病人に客の相手をさせては」 「でも、お客さまに会いたいと言い出したのは、父の方ですよ」  田口半平がたずねて来ることと、その目的は孫助に話してある。それで会ってみる気になったのだろうが、孫助は長い梅雨が身体にひびいたのか、ずっと臥せり勝ちの日がつづいていたのである。  隼太は、そういうこまかなところに気遣いが足りない妻を、いまも不満に思っていた。 「客座敷の用意はいいのか」 「はい、もちろん支度してあります」  隼太の不機嫌を敏感に察したらしく、満江は切り口上で言った。  だが、孫助の部屋に行ってみて、隼太は自分の心配が杞憂《きゆう》だったらしいことを悟った。孫助は床をはなれて客と対坐していたが、さほどに疲れた様子もなく、いい顔色をしていた。そして隼太の挨拶をうけると、上機嫌の声で言った。 「めずらしい客人なので、むさい病人の部屋まで来ていただいたが、いやたのしい話を聞かせてもらった」 「桑山でござる」  隼太は改めて客に挨拶した。田口半平は色白で小柄な男だった。まだ二十を過ぎたばかりではないかと思われる若さなのに、隼太は少少びっくりしながら言った。 「お待たせして、相済まぬことでござった」 「いや、こちらこそ突然におじゃまして、ご迷惑をおかけしております」 「父上、よろしいか」  隼太は孫助に言った。 「客人をあちらに借りて行きますぞ」 「田口どの」  孫助は丁寧な口調で言った。 「長らく薬くさい病人の相手をさせて、申しわけござらん。しかしお物語はじつにたのしく拝聴いたした。では、これでごめん蒙りますぞ」  隼太は、田口半平を奥の客座敷に案内した。様子を窺っていたらしい女中が、すぐにお茶をはこんで来た。 「病人がわがままを申したようで……」  隼太が言うと、田口は落ちついた身ぶりで首を振った。 「いえ、牧原さまに一度はお父上にもお会いして来るように言われましたので、ちょうどよろしかったのです」 「父と、何を話されたのかな」 「ま、水のことですな」  と言ったが、田口はそれでは不十分と思ったらしく補足した。 「水はどこにたまるか、とか、どういうふうに流れるかとか、そんなお話を申し上げましたわけで……」 「ははあ」  隼太は、齢に似合わない落ちついた物腰を持つ町見家を、じっと見た。 「それで、父が喜んでいたわけですな」 「………」  田口は無言で微笑した。隼太はお茶と菓子をすすめてから、形を改めて言った。 「ところで牧原さまは、貴公にどのようなお話をされたのですかな」 「桑山さまにお会いしてお指図を受けよと、それだけですが……」 「ああ、そうですか」  隼太はうつむいた。牧原が田口を自分に接触させることを極秘扱いにしたのは、それで間違いないと思った。  隼太は顔を上げた。 「ところで、今度の公用というのは?」 「あ、それはもう半分済みました」  と田口は言った。 「こちらの普請奉行に書類をわたし、その返事をもらって行くのが仕事ですが、返事の書類が出来るまで十日ほどはかかりそうだということです」 「それで?」 「そのことは江戸藩邸でも承知で、書類が出来上がるまで、領内の山と川を見て回って来いと、これも藩邸の命令です」 「領内を見て回るということになると、一応の届けが要るかも知れんな」 「そのことについても、普請奉行の蔵内さまから月番家老の方に、持参した文書を提出してもらっています。お奉行の話によりますと、別段の面倒はなくお許しは明日にも出るだろうというお話でした」 「ひょっとすると、お供がつくかな」 「いえ、蔵内さまのお話では、必要なら案内人をつけるということでしたが、それがしの方からおことわりしてあります」  そう言ってから、田口は微笑した。 「牧原さまのお話のご様子では、そのぐらいの用心は必要かと思いましたもので」 「いかにも」  隼太はうなずいた。 「では、申し上げよう。貴公にぜひとも鑑定してもらいたい土地がありましてな」  隼太は、太蔵が原の開墾にまつわる、これまでのいきさつを話した。 「そういう次第で、水が引けて隅隅まで耕すことが出来れば、百年ののちにはゆうに数カ村を養うことが出来る土地が、いまのところは無為に眠っているわけにござる」 「………」 「と申しても、水が引ける土地かどうかは、われわれには何とも見わけがたいことで、鑑定して頂きたいというのはそのことにござる」 「わかりました。一度、その山にご案内いただきましょう」 「なお、ご推察のとおり……」  と隼太は声をひそめた。 「それがしが貴公を山に案内するとわかると、ほかから邪魔が入るおそれがある。ゆえに、よそには洩らさぬようにお願いしたい」 「承知いたしました」 「宿は、どこにお取りかな? この家に来ていただけば一番手っ取りばやいのだが、いま申し上げたような事情もあって、それもかなわぬ」 「いえ、そのことはご心配なく」  と田口は言った。 「昨夜は用談もありましたので、蔵内さまのお屋敷に泊めて頂きましたが、滞在中は住吉屋を使うようにと牧原さまからお指図がありまして、もう旅の荷物はそちらに移してあります」 「それは好都合」  と隼太は言った。牧原喜左衛門は、ただ町見家を紹介してよこしただけでなく、国元の事情を考慮して、こまかいところまで気を配ってくれたものらしかった。 「では、二、三日はぶらぶらと領内を見物されるとよろしかろう」  と隼太は言った。 「山に行っていただくときは、前日にそこもとまでご連絡しよう」 「わかりました」 「ところで……」  隼太はまだ童顔を残している若い町見家の顔をのぞきこんだ。 「異《い》なことをおたずねするが、そなたが町見家であることを知っている者が、国元におりますかな」 「さて……」 「普請奉行どのは?」 「いや、あちらはただ、普請組の公用で来たとのみ思っておられるはずです。父の名も言っておりませんし……」 「江戸詰からもどった者はどうだろう」 「さあ、田口と言えば父の名前を思い出すかも知れませんが、名乗らぬかぎりは……」  田口は顔をしかめたが、すぐにやわらかな笑顔になった。 「いや、それがしを見知っている者はおらんだろうと思います。数年前に長崎で異人について町見術をおさめたあと、諸国の町見家をたずねて帰府したのが一年前です。父は定府で、それがしは藩邸に出仕しているわけではありませんから、それがしが町見をやることを知っている者はいないはずです」 「相わかった」  隼太は牧原がさしむけて来た若い町見家が、今度の仕事にぴったりとはまっているのを感じた。水の手をさがす仕事は、隠密のうちにしかも手ぎわよくやれるだろうと思い、思わず胸がはずんで来たほどだった。 「菓子などつままれよ」  隼太は田口に茶菓をすすめた。いますぐにも眼の前の若者に太蔵が原を見せたい気持ちが動くのをおさえながら、隼太は言った。 「どうやら、長年待ちうけたお方においで頂いたような気がしますな」      六  三日後の早朝、隼太と田口半平、野瀬市之丞の三人は、何の支障もなく城下を抜けて大櫛山にむかった。 「勤めの方はかまわないのか」  と市之丞が隼太に言った。 「うむ、二日ばかりひまをつくった」 「二日? おいおい、山に泊まろうというのじゃあるまいな」  と言ったが、市之丞は今度の太蔵が原行きをさほど厭がっている顔つきではなかった。一緒に歩いている田口をじろじろと無遠慮な眼で眺めたりして、これから先に起こることに少なからぬ興味を抱いているようにも見えた。  田口半平の方は、そういう市之丞をいっこう気にする様子もなく、大櫛山を眺めて、いい山ですな、山気がここまで匂って来ますなと言ったり、戸部川をわたるときは、とんでもない方角を指して、この川は百年前にはあのへんを流れていたに違いありません、と言ったりした。江戸弁のせいか、少少軽軽しい男に見えた。  よく晴れた日だったので、歩いているうちに空気はじりじりと灼け、笠をかぶっていても顔を汗がしたたり落ちるほどになったが、四ツ(午前十時)過ぎには、三人は太蔵が原に入った。  草原を風が渡っていた。十年前の開墾の痕跡はあとかたもなく、腰丈どころか、場所によっては胸までもありそうな青草を風が動かし、そのたびに草は日を照り返しながら波のように南から北へうねりを伝えていた。  その草に、半分埋まった恰好で、開墾小屋が残っていた。もともと、材木も造りも間に合わせの粗末な人夫小屋なので、小屋は羽目板が落ちたり、屋根が陥没したり、見るかげもなく荒れはてていた。小屋全体が斜めにかしいでいる一棟は、雪に押しつぶされたものらしかった。中をのぞくと獣の糞が転がっていた。 「つわものどもが、夢のあとかね」  一緒にのぞきこみながら、市之丞が言った。 「ここに泊まったわけだ」 「さよう。庄六も一緒だった」  と隼太が言った。振りむくと、田口は小手をかざしてしきりに前山の頂のあたりを眺めていた。その田口に、隼太は声をかけた。 「早めに昼飯を済ますことといたそう。もう少しむこうに参ると、腰をおろすに手ごろな場所がござる」  三人は、隼太が先頭に立って草をかきわけながら、ゆるやかな傾斜をのぼり、やがて巨石がかたまっている場所に出た。隼太が、はじめて孫助に出会った場所である。まわりには砂地が露出し、大きな石がその上に濃い影を落としていた。 「やあ、疲れる、疲れる」  その石の陰に、這い込みながら市之丞が言った。 「山もけっこう暑い」 「草木の勢いを見たか」  ならんで腰をおろしながら、隼太は言った。 「水さえきちんと引ければ、十分に作物が育つ土地なのだ」  三人は竹筒の水で、にぎり飯を喰った。それからしばらく足を休めてから、今度は田口が先頭に立って歩き出した。最初に目ざして行ったのは、開墾小屋からざっと一里近くもある前山の麓の方である。  前山に近づくと、十年前に掘った水路の跡が見えて来た。一面に草に覆われ、水路の形も崩れているが、あきらかに人工の跡と見たらしく、田口が振りむいた。 「これは?」 「先日話した、開墾のときにつくりかけた水路のあとでござる」 「ははあ」  田口は身軽に水路の底に降りて、背中から麻袋を降ろすと、中から細い銅の棒を取り出した。握りの部分をつかんで地面に突き刺すと、釘のように先が尖っている棒はするすると水路の底に埋まった。  棒を引き揚げて、付着した土を慎重に調べた田口は、今度は袋から折り畳んだ木製の測量器のようなものを出した。木製の器具はひらくと十字形にひろがり、真ん中に磁石がついていた。田口は十字に開いた木に器用な指さばきで糸を張り、水路の土手に器具を据えつけると、上手、下手を入念にのぞいた。 「どなたのお指図か知りませんが……」  やがて、器具だけを袋にしまいながら、田口は二人を見上げて言った。 「水さえ引ければ、この水路はこのままで十分に使えますな」  隼太と市之丞は、このあと田口半平のあとについて、前山の麓を北に二里も歩き、つぎには台地の入り口にある雑木林のそばをふたたび開墾小屋の方にもどったので、すっかり疲れてしまった。  開墾小屋のそばを通りすぎて、巨石のそばまでもどったときは、三人とも汗みどろになっていた。 「ひと休みするとしよう」  隼太が言うと、市之丞は崩れるように石のそばに腰を落としたが、田口半平は立ったまま、いま通りすぎて来たあたりをじっと見つめている。 「原っぱの半分は歩いたのじゃないかな」  竹筒から水を呑みながら市之丞が言った。ぼやく口ぶりになっている。 「いや、半分まではいくまい」  隼太も石に寄りかかりながら言った。 「せいぜい、三が一だろう」 「これからどうするのだ」  市之丞はそろそろ西に傾いた日を指さし、つぎにこちらに背をむけている田口半平をそっと指さした。だが、声は大きい。 「ただ歩き回っただけで、日が暮れるんじゃないのか」 「田口どの」  と隼太は半平を呼んだ。 「さっきは、何を調べられた?」 「雨でござる」  と田口が言った。田口は台地に入りこんでから、あまり物をしゃべらなくなったが、いまも隼太を振りむいた眼がきびしかった。何かの考えにふけっていたところを、隼太が邪魔したらしい。  だが隼太も、そろそろ日暮れが近づいているので、考えこんでいる町見家を放っておくわけにもいかなかった。それに、田口の返事に意表をつかれたこともあって問い返した。 「雨と申すと?」 「この台地に降った雨が、どこに行ったかと思いましてな。いや、地面の上とは限らんのです。土の下に隠れている場合もありますので、ひととおりはさがしたのですが……」  田口は吐息をついた。 「ちょっと、見方が甘かったようですな。ここには水はありません。やはりほかから引いて来なければならんようです」 「すると雨は?」 「土質のぐあいで地中深くもぐってしまうようですな。底の岩盤のあたりにたまっていることはたしかですが、深すぎて井戸も及びません。多分、この台地を少し降りたあたりに、たまった水が噴き出しているはずです」 「なるほど」  隼太の頭に、雑木林の外の鳥飼村を流れる、ゆたかに澄んだ水路がうかんで来た。 「すると今夜は?」 「山泊まりになりますな」  田口は平気な顔でそう言った。 「明日、改めて外から水を引く方法を考えることにいたします」 「山泊まり?」  それまで、足をのばしてぐったりと石に寄りかかっていた市之丞が、むっくりと上体を起こした。 「あの小屋に泊まるのは、かんべんしてもらいたいものだ」 「いや、鳥飼まで降りよう」  隼太は、市之丞のあわてた顔に笑いを誘われながら言った。 「小屋に泊まっても、虫に責められて眠れんだろうし、第一食糧が、今夜はともかく明日まではもたない」  開墾のときに崩れ落ちた崖のそばまで行って、隼太が田口にそのときの状況を説明したあと、三人はいそぎ足に台地の下の雑木林を抜け、日が落ちる間ぎわに鳥飼村までたどりつくことが出来た。  隼太が身分を明かして一夜の宿を頼みこむと、相手の村人は、鳥飼で一番大きな百姓家に案内した。その家では突然の客におどろいたようだったが、何年か前にも巡回の郷方役人を泊めたことがあるとかで、手ぎわよく三人をもてなした。  翌朝も、三人は白白明けにはもう鳥飼の村を出て、山に入った。雑木林を抜けて、昨日見た崖のそばまで、まっすぐに登る。そこから見ると、むかしは急傾斜の谷川の形をしていた水流が、いまはただの岩盤としか見えなくなっている。その岩盤が濡れ光って、もっと下の方には飛沫が上がるところを見ると、その場所を、いまもかなりの水量の水が流れ落ち、岩盤を浸蝕しているのだろうと思われた。  田口半平は、その崖のあたり一帯の土質を嘗めるようにして調べたあとで、近くの林に入ると、小刀をふるって種竿をつくった。 「では……」  田口は山の裂け目に見える、谷川の残骸を指さして言った。 「あれの上の方を少し見ましょうか」  田口はその日一日、精力的に動き回った。田口が背負っている麻袋の中には、昨日使った規矩《きく》原器のほかに、渾発《こんぱす》や分度の矩《かね》、原器に使う糊をひいて墨で染めたすが糸、間縄のかわりに使う麻糸などが入っていた。  田口はほとんど無駄口をきかなかった。そういう町見の器具を駆使する田口を助けて、隼太と市之丞は種竿を持って走ったりする羽目になったが、田口はべつに遠慮する様子もなく、時どき短い指図の言葉を口にするだけだった。測っているのは、方角と距離と、土地の高低だろうということが、大体わかって来たが、田口は測って得た数字を、矢立《やたて》の筆でつぎつぎと帳面に記して行くだけで、隼太には何の説明もしなかった。  その田口半平が、その日の仕事についてやっと説明らしい言葉を口にしたのは、三人が太蔵が原を見おろす裏山の頂にのぼったときだった。 「あそこに間歩《まぶ》(隧道《ずいどう》)を通せば……」  田口はそこから見える、裏山のもっともくびれた地点を指さした。 「台地に水が引けます。しかし、その方法がいいか、それとも崖ぎわに石組みの水路をつくるのが得策か、図面を引いて見ないことには何とも言えません」  崩れ落ちた谷川の水源をたどって行くと、途中から前山の裏側に分かれて流れこむ水路があることがわかった。それはほとんど水無川で、石と砂の道に異ならないように見えたのだが、田口はそれも谷川だと言った。間歩を通すというのは、そこから水を引くということだった。 「すると……」  隼太は静かに若い町見家の顔を見た。 「水を引く方法はあるわけですかな」 「あります」 「図面が出来上がるのはいつごろに相なろうか」 「多分、秋の末までには……」  田口が答えたとき、市之丞がしっと言った。隼太は市之丞の指さす方を見た。  日はすっかり西に傾いて、雑木林と草原が入り混じる太蔵が原に、やや赤らんだ光を投げかけている。その台地の中を、北の方から一列にすすんで来た数人の男たちが、開墾小屋に着いたのが見えた。  男たちはそこで急に四方に散って小屋を改めているように見えたが、間もなくまた一列になって雑木林に消えた。 「小黒が、嗅ぎつけて来たかな」  と市之丞がつぶやいたが隼太にはどちらともわからなかった。強い緊張感だけが残った。  市之丞が言ったように、あるいは小黒家老が田口半平の正体を嗅ぎつけたのかも知れないと思い、隼太は城下にもどってからも、若い町見家の身辺から警戒の眼を離さなかったのだが、何事もなく十日ほどたって、田口は江戸にもどって行った。太蔵が原に現れた男たちの正体は不明だった。  ──あれは……。  偶然に来合わせた山見回りの男たちだったかも知れないと、隼太は思うことにし、ほっとひと息ついた。あとは田口から来る図面を待つばかりだった。  その図面のことを考えると、胸がはずんだ。      七  だが、田口半平から図面がとどく前に、隼太の身の上に予期しない出来事が起きた。領内は、これからいよいよ田畑の作物の収穫にかかるという秋半ばの夜、隼太の任地である黒川郡白田郷の村から、ひそかな使いが桑山家に入ったのが発端だった。  領内四郡は、一郡がそれぞれ二郷に分かれ、郷の下に十カ村前後の村々を一組とする組が、三組|乃至《ないし》四組付属しているのが、古くからの郷村の仕組みだった。藩では一郡に一人の郡奉行を置き、各郷に一名の代官を配置している。つまり、村数で言えば三十カ村から四、五十カ村を治めるのが代官の仕事だった。  しかし、八郷すべてに代官所と称する役所を置いているわけではなく、隣藩と境を接する郷のほかは、村役人の家の一部を借りて常駐の代官所手代を置くぐらいで、郷内の巡視、稲作の検見などの時には、城下から出かけて郷内の肝煎《きもいり》の家を常宿にし、そこで事務を執るのが慣習になっていた。  隼太が常宿にするのは、漆山組古畑村の肝煎政右衛門の家で、その夜の使いは、政右衛門から来たものだった。使いの男は、容易ならぬことを告げた。組内が騒然とし、手代の高野彦作が百姓たちに連れ去られたというのである。使いが来たのは五ツ半(午後九時)過ぎだったが、隼太はすぐに使いの男と一緒に家を出た。途中、配下の小田三五郎の家に寄って三五郎を同道し、夜道をいそいで古畑村に着いたのが、九ツ(午前零時)ちょっと前だった。  肝煎の家では、当然ながらまだ灯をともしていて、当主の政右衛門が隼太を出迎えた。集まって相談していたものとみえて、政右衛門のうしろには添役、長人《おとな》など、ほかの村役人の顔もみえた。 「夜おそく、ごくろうさまにござります」  政右衛門は丁寧に労をねぎらい、上がってひと休みしてはどうかとすすめたが、隼太は首を振った。 「いや、そうしてはいられまい。高野はまだもどっておらんのだろう」 「はい」 「連中はどこに集まっておるのだ?」 「楢井村の愛宕《あたご》神社の境内だということです」 「人数は?」 「見て来た者の話では、暗くてしかとはつかめなかった由ですが、ざっと見たところ二千人ほどはいたようだと申しております」 「二千人だと」  そんなにはいまい、と隼太は思った。夜目にみる人数は多く見えるものである。 「それにしても急なことだったな。もっと早くわからなかったのか」 「二、三日前から、組内に荒谷郷の人間が入りこんでいるという者がありまして、高野さまが調べはじめたところでございました」 「わかった」  隼太はうなずいた。道みち使いの男から聞いたことと、政右衛門のいまの話で、今夜の騒動の輪郭がはっきりしたと思ったのである。  この秋、隣の荒谷郷に不穏なうわさが立った。秋口に行われた稲の検見について、荒谷郷には不満の声が湧きおこり、百姓たちがこっそりと会合して、年貢の減免をねがう強訴の人数を城下に繰り出す相談をはじめたというものだった。藩ではそのうわさに神経をとがらせ、事実の有無をさぐらせたのだが、藩の手が動いたころにはうわさは掻き消えて、ただの流言のたぐいと断定されたのである。  だが、掻き消えたのは表面のうわさだけで、事実は百姓たちの不満は消えるどころかひそかに蔓延して、近郷の人間まで巻きこむ大規模な強訴に仕立てるべく動いているということらしかった。高野が拉致《らち》されたのは、その真相に触れたからだろう。 「焚きつける者がいるのだな」  と隼太は言った。 「そうなるとひとたまりもあるまい。百姓たちは長年のきつい年貢に疲れ果て、火のつきやすい枯れ葉のようになっておる」 「そのとおりでございます」  と政右衛門が言った。 「では、行って来る」  隼太が言うと、それまで政右衛門のうしろで黙然と耳を澄ましていた村役人たちが、急にざわめき出した。政右衛門を取り囲んで、小声の鋭い言葉がやり取りされたあげく、やがて政右衛門が向き直って、桑山さまと言った。 「お出かけになるのは、夜が明けてからになされてはいかがでしょうか。夜分、気が立っている者たちの前に出て行くのは危険だと、みんなが申しておりますが……」 「しかし、高野を放っておくわけにはいかぬ」  と隼太は言った。 「それに、揉み消すなら早いうちが勝負だ。高野の身に間違いでも起きてしまうと、双方ともに引っ込みがつかなくなろう」  隼太と小田三五郎は、土間に立ったまま白湯《さゆ》をいっぱいずつもらって飲み、政右衛門の家を出た。政右衛門が案内をつけると言ったが、それもことわって、二人は楢井村にむかっていそいだ。楢井村は隣村になるが、古畑村との間を戸部川がへだてている。その川ひと筋のために、村びとの気風も風俗も、古畑村とは異なる村である。 「わしは、百姓たちを説得する」  と隼太は小田に言った。 「その間に、高野をさがして助け出してくれ」 「承知しました」  小田は二十半ばでぶっきらぼうな物の言い方をする男だが、思慮深くまた剣が出来る男だった。谷村という、無眼流を教える小さな道場の高弟である。 「しかし……」  小田は危ぶむように言った。 「お一人で大丈夫ですか」 「やってみぬことにはわからんが、ま、とにかく説いてみよう」  と隼太は言った。殺気立っているに違いない千、二千の百姓たちを説得出来るかどうかはわからなかったが、煽動する者が入りこんでいるのだとすれば、放っておくわけにはいかなかった。高野を拉致して行ったからには、ある程度の人数の百姓が、腹を決めて動いているのだろうと隼太は想像した。  ただそういう状況の中でも、説得すれば何とかなるかも知れないと思うのは、やはり十年以上も郷方廻りを勤め、代官として任地を預かるに至ったその間に、城の中にいる連中よりはいささか百姓というものを肌で知ったという自信から来る直感のようなものだった。ただしその直感が間違っていれば、小田が懸念するように、きわめて危険なことになるだろう。  二人は戸部川にかかる暗くて長い橋をわたった。そして闇の中にうずくまる楢井村の村落の中に入って行った。  道は暗くても、隼太はこのあたりの村落は、何度となく通り過ぎているので、迷うことはなかった。そしていっそまわりが暗いと、その中からわずかに白く乾いた道が見えて来るのである。  三つ目の村落を抜けたとき、隼太の眼に明るい光がとびこんで来た。行く手の木立の間に火の色が動いている。火は提灯や松明《たいまつ》だけでなく焚火も燃やしている様子で、時どき宙に飛びただよう火花が見えた。 「あれだ」  足をとめて、隼太は小田を振りむいた。 「わしはまっすぐに集まりの中に入って行くが、おぬしとは境内の入り口でわかれることにしよう」 「心得ました」  と小田が言ったとき、どっと上がった喚声が、二人を威圧するように畑をわたって来た。百姓たちの集まりは、いまが盛りの熱気をはらんでいるようだった。  楢井村の愛宕神社は、村落と村落の間にある広い森を境内にしている神社である。その境内の広場をひとが埋め、一段高い石垣の上に立つ男がはげしい口調で語りかけるのを、じっと聞いている。  ──せいぜい、七、八百人だな。  と隼太は人数を読んだ。地面に腰をおろしている人びとの前に、ずかずかとすすんで行った。  能弁にしゃべっていた男が、ぴたりと口をつぐみ、腰をおろしていた人びとの間から、声にならないおどろきのつぶやきが洩れた。半数ほどは立ち上がった。  その立ち上がった人びとに、隼太は腰をおろすように手で合図をした。 「わしの顔を見てびっくりしたところをみると、ここに集まっているのは白田郷の人間らしいな。もっとも……」  隼太は背後の石垣の上にいる十人前後の男たちを振りむいた。 「見かけぬ顔もいる様子だから、全部が全部というわけでもなさそうだが、白田郷の百姓たちなら、わしから聞きたいことがある」 「………」 「そのためにいそいでやって来た」  隼太が言葉を切ると、ざわめいていた境内はひっそりと静まった。石垣の上にいる、多分荒谷郷から来たと思われる男たちも口をつぐみ、焚火の音だけがひびいた。 「今夜の集まりは、この秋の検見に対する不満を藩に訴えて出ようという相談事だと聞いたが、白田郷の検見は、不肖この桑山隼太が行った。そこで、そなたらにたずねたい」 「………」 「わしの検見に、不公平、見のがし、依怙《えこ》の沙汰。何でもよろしい。要するに裁定に不満ありと思う者はいまここで申しのべよ」 「………」 「遠慮はいらんぞ」  隼太はうつむいている百姓たちを見回した。 「私情をはさまず公平に、また、そなたらの労苦を無にせぬよう心を配ったつもりだ。と申しても代官も人の子、神でない以上は間違いもある。検見に不満ありという者があれば申せ」 「………」 「ほほう、一人もおらんとな」  隼太は隅から隅まで人びとを眺め回すと、穏やかに言った。 「ならば、みんな立って家にもどれ。徒党を組むことは禁止されているのを知らぬわけではあるまい。ひとに焚きつけられて禁を犯し、あとで後悔してもはじまらん」 「検見の不満だけではござりませんぞ」  うしろから鋭い声が飛んで来た。隼太はゆっくりと振りむいて石垣の上の男たちを見た。 「高いところから、ひとに物を言いかけるのは無礼だろう」  隼太はきびしい声でたしなめた。 「こちらに降りて、物を言え。また、わしはもう名乗った。いま、物申した者。そなたも名を言うべきだ」  すると、石垣の上から男が一人、身軽にとび降りて隼太の前に歩いて来た。度胸のいい男である。齢は三十前後で、男は浅黒くひきしまった顔と、着物の上からもそれとわかる、たくましい筋骨をそなえていた。 「ご無礼を申しました。わたくしは荒谷郷黒野村の百姓で……」  男がそこまで言ったとき、うしろから、名前は言うな、お代官に訴えられるぞと言った者がいた。  男はその声に笑顔をむけた。訴えられるのは覚悟の前さ、と男は言い返した。 「旦那のお出ましで今夜のもくろみは潰れた。引き揚げるしかあるまいが、言うべきことは言わしてもらいましょう」  男は隼太に向き直り、黒野村の与之助と名前を名乗った。 「お代官さまの前ですが、今年の荒谷郷の検見は、血も涙もないきびしいものでございました。この秋はまた、村村から沢山の潰れ百姓が出ることでしょう。しかし、さっきも申しましたように、お上に対する不満はそれだけではござりません」 「遠慮なく、申せ」 「ありがとうございます」  と与之助は言った。そして、長年きびしい年貢に苦しんで来た村村の実情を淀みなくのべ立てた。  大変な弁舌の持ち主だった。男の言葉は、時には為政者の側にいる隼太の肺腑を抉《えぐ》り、また聞いている百姓たちの心を強くゆさぶる力を持っていた。男がしゃべっている途中から、百姓たちはまたざわつきはじめ、「そのとおり」、「このままじゃ、百姓は殺されるぞ」などという鋭い声が飛んだ。 「申すことは、相わかった」  男がしゃべり終わるのを待って、隼太は大音を上げて百姓たちを見回した。 「与之助の言うことは、いちいちもっともである。だが、城下に押し出して訴え出れば百姓の暮らしが楽になると考えるのは、少少浅はかな了簡ではないか」 「………」 「年貢がきびしく、そなたらの暮らしが楽でないことは、われわれにも十分にわかって、出来る限りの手はつくしている。だが、事は一朝一夕にははこばぬ。そのことで藩も苦しんでいることをわかってもらいたい。城下に住むわれわれも、家で内職をせぬものは稀だ。楽をしているものは一人もおらぬ」 「………」 「それでも、与之助に与して強訴に加わるか。強いてというなら止めはせぬが、そのときは一同咎めを受け、指図した者は御法によって磔《はりつけ》となる。わかっておるな」  意識した隼太の威嚇に、地面に腰をおろしている百姓たちの顔が、石のようにこわばったのが火明かりでわかった。そのとき焚火のうしろに、高野をともなった小田三五郎が現れた。高野はべつに変わった様子もなく、遠くから隼太に辞儀を送って来た。 「白田郷の代官として、そなたらに言う」  隼太は、高野に軽く手を挙げてから言った。 「そなたらが城に強訴をかけるのを見過ごすわけにはいかぬ。このまま散って家に帰るなら、今夜の集まりは見なかったことにしよう。手代をこの村まで拉致して来たことも、咎めぬと約束してよい」  隼太がそこまで言ったとき、与之助を先頭にして、荒谷郷から来た男たちが無言のまま境内の出口の方に歩き出した。その背に隼太は、黒野村の与之助、と声をかけた。 「そなたの名前を挙げて訴えるつもりはないが、夜が明けたら荒谷郷一帯に不穏の動きあり、ということは上の方に訴えて出ねばならぬ。それまでに、むこうに集まっている人数を散らしてはどうか」  振りむいて聞いていた与之助が、微笑して首を振ったのが見えた。男たちは、隼太にむかって深深と一礼すると、足早に火明かりのとどかない闇の中に消えて行った。  城下にむかって動き出した荒谷郷の百姓二千人が、戸部川を越えたところで、槍、鉄砲を持つ城方の人数に阻止されたのは、翌日の昼過ぎである。  隼太が通報するまでもなく、執政たちには荒谷郷の強訴の動きが洩れていて、敏速な措置がとられたのであった。強訴を指揮した黒野村の与之助たち十数名は、戸部川の岸で百姓たちから切りはなされ、裁きを受けるために城下に連行された。  裁きが下りたのは、取り入れが終わった田畑に霜がおりはじめたころだった。五名が斬首され、残りの十名は寒い冬を牢で過ごすことになった。斬首された与之助は、黒野村で若いながら長人《おとな》を勤めていた男だった。  強訴一件の裁きが終わったあとで、郷方廻りの役人の処分が行われた。荒谷郷の代官は職を解かれた上に一年の閉門、そして隼太は代官からもとの郡奉行助役にもどされた。白田郷の強訴加担をとめたとき、また荒谷郷の強訴人処分について意見をもとめられたとき、百姓に同情して為政を誹謗する口をきいたというのが理由だった。  そして田口半平からの図面はとどかず、舅の孫助の病気は寒さを迎えて重くなった。 [#改ページ]   政  変      一  餌刺町はふだん通る町でもなく、何かの用があるような町でもない。あらまし十数年ぶりに、又左衛門はむかし市之丞が宮坂の後家と一緒に住んでいたその町をたずねて行った。  だが、餌刺足軽たちが住む通称「鳥刺長屋」の前を通りすぎたあとは職人の家が軒をならべるだけの町を歩きながら、又左衛門は、いま、奇妙な感じに包まれている。  町は見たところ、むかしとどこも変わっていないように思われた。相変わらず木の香や漆《うるし》の匂いが道にただよい流れ、又左衛門のつい鼻先を横切った子供たちが、あっという間に横手のうす暗い路地に消えた。鉄鎚、木槌の音、のこぎりや鉋《かんな》を使う音がひびき、夕日に照らされる羽目板が黒ずんでいる。壁に立てかけた青竹、堆《うずたか》く積み上げられた軒下の桶。  記憶にあるものとさほど変わらないそういう光景が、どういうわけか、又左衛門にはじめて来た町を歩いているようなかすかな違和感をあたえる。奇妙ないくらか落ちつかない気分はそこから来るようだった。一見して少しも変わっていないように見える光景の中に、やはり長い年月がもたらした変化が隠れているせいかも知れなかった。  ──市之丞が……。  あの家を出てから、もう何年にもなると又左衛門は思った。町もひとも変わったのだ、あの女だって、むかしの家にいるかどうかはわかるものではないと思いながら、又左衛門は四辻を左に曲がった。  だが、その家の格子戸をくぐり、頭巾をとって玄関で訪いをいれると、出て来たのはやはり宮坂の後家だった。 「これは、ご家老さま」  と女は言った。まじまじと又左衛門の顔を見つめたが、すぐに落ちついた笑顔になりながら言った。 「おめずらしいことです。何年ぶりでしょうか」 「さて、十年余にもなろう」 「あなたさまはすっかり偉くおなりになって、もう、お目にかかることなどないものと思っておりました」 「いや、いや。偉くはない」  又左衛門は手を振った。さりげなく、女の顔色をたしかめた。  宮坂の後家、類は髪が真っ白になっていた。頬の肉が痩せ、そのせいか以前にくらべて眼つきがきつくなったように見える。熟れた果実のように、武家の女にあるまじき崩れた色香を誇示して来た女にも老境がおとずれたのが見てとれたが、類は又左衛門に何かを隠し立てしている様子ではなかった。 「そなたにも変わりがなくて、何よりじゃな」 「もう、ばばでございますよ」  類は意外にあっさりした口調で言った。 「今日は何か。あ、それよりお上がりなされませ。お茶でもさし上げましょう」 「いや、そうはしておれぬ」  又左衛門にはもう、ここには市之丞がいないとわかっていたが、念を入れてたしかめた。 「ところで、市之丞が来ておらんかの?」 「野瀬さまが?」  むかしは一緒に暮らしたことがある男を、宮坂の後家は他人行儀にそう呼び、とんでもございませんと言った。首を振った顔に、偽りのいろは見えなかった。 「出たきりで、一度もおもどりになりませんでした。何年というもの、あの方の影も見ていませんよ」 「………」 「喰い扶持はとどけると、そう申して出られたのですが、お約束を守ったのは一年ばかり。いい加減なひとなんですから」 「それっきりか」 「はい、それっきりです。いまごろになってたずねて来るはずもありませんが、何かございましたのですか」 「いや」  又左衛門は懐から頭巾をつかみ出した。市之丞がいないとなれば、長居は無用だった。 「急用が出来たのだが、いつものところにおらんので手わけしてさがしているのだ。いや、邪魔した」  又左衛門が敷居をまたいで外に出ると、いそいで下駄をつっかけた類が後を追って来た。 「桑山さま」  類はうしろから声をかけて来た。 「せっかくのお出《いで》ですから、お茶を一服いかがですか」 「いや、そうはしておられぬ」 「そうですか」  類は二、三歩うしろにさがった。きつい感じがする眼をじっと又左衛門にあてたままで、類は口もとに笑いをうかべた。 「桑山さまは、一蔵の昵懇のお友だちでございましたな」 「そのとおりだ」 「一蔵に、あのようなことがなければ、わたくしもいまごろは何の苦労もいらず安楽に暮らせていたものをと、このごろはそんなことばかりを思っております」  又左衛門は、鋭い視線を返した。何を言っているかと思っていた。すべては、この女の不身持ちから起こったことである。 「まだ、わたくしのことを蔑《さげす》んでおられますね」  女は勘よく言った。 「でも、あのときはみなさんが間違えられました。ほんとのことをお聞かせしましょうか」 「………」 「過ぎたことをいまさら申しても仕方ありませんが、あれは一蔵の勘違いなのですよ」 「………」 「やはり、お信じにはなれませんね」  女は言い、又左衛門が弁解しかけるのを、軽く首を振ってとめた。 「よろしいのです。どなたもお信じにはなりませんでしたから」  宮坂の後家、類はそこでぱっと笑顔になると、眼を又左衛門に据えたまま、身体を近づけて来た。 「それよりは、お願いを聞いて頂きとうございます」 「何の願いかの?」 「正直に申し上げますが、わたくし、暮らしに困っております。いくらかでも、桑山さまのお持ち合わせを恵んでくださればありがたいのですが……」  旧友の一蔵の名前を持ち出し、その女房の困窮に同情しろ、というつもりだろうが、言い方は強請《ゆすり》に似ている。  女は又左衛門に、媚びるような笑顔をむけていた。その顔に、うす暗い玄関先ではよくわからなかったおびただしい小皺がうかび上がり、女がその齢で濃い化粧をしているのも見えて来た。まだ、通って来る男がいるのだろうかと、又左衛門は疑った。  懐をさぐると、気がむけば帰りにふきの店に回るつもりでねじこんだ紙入れが、指に触れた。ひっぱり出して中をのぞいてみると、小判、一分銀などをあわせて五両足らずの金が入っていた。 「多くは入っておらぬが、これを使われよ」  又左衛門は、まだ媚びる眼をむけている老女に紙入れを握らせると、背をむけて外に出た。いそぎ足に四辻までもどり、角を曲がって頭巾に顔を包むと、やっとぬるりとした感触のものからのがれられたような気がした。  ──あの女子は……。  むかしから苦手だったと思いながら、又左衛門は、まっすぐ歩いて行けば日向町に出るはずの道をゆっくりと歩いて行った。  日が落ちたところらしく、空には黄色い微光が満ちているものの、道は歩いている間にも、たそがれ色に包まれて行くように思われた。道の行く手に、うす青い霧のようなものが這いはじめたのも見える。  歩いている裏通りをどこまでも行って、日向町を突っ切ると初音町の裏側に出ると見当がついている。又左衛門はふきの店に寄るつもりになっていた。金を持たなくとも、ふきなら酒を飲ませるだろう。  ──それにしても……。  又左衛門の考えは、ようやく宮坂の後家からはなれて肝心の市之丞の消息にもどった。やつめ、いったいどこに潜っているのだ、と思ったとき、又左衛門の頭に思いがけないものがひらめいた。  ──まさか。  又左衛門は、ひと気のない裏町の道に立ちどまった。ひょっとしたら、市之丞は杉山屋敷にかくまわれているのではなかろうかと思ったのである。  まさかとは思うが、考えてみればあり得ないことでもなかった。市之丞は、名門、上士というと目の敵にして悪口を言って来た男だが、杉山忠兵衛とはべつのつながりがあることを、又左衛門は思い出している。  片貝道場のころの、古い友だちづき合いのことではなかった。杉山忠兵衛が、一夜にして執政の職に就いたあの政変のときのことを、又左衛門は思い出していたのである。  机の上にひろげた図面を見ながら、隼太がそろばんを片手に費用を算出する仕事に熱中していると、部屋の外に足音がして、妻の満江が入って来た。 「どんなぐあいだ?」  隼太はそろばんを置いて、妻を見た。満江はここ数日、孫助が急に衰弱して医者が出入りし、自分もつきっきりの看病を余儀なくされているので、少し面やつれして見える。 「いまは落ちついております」 「道庵どのは?」 「さきほど、お帰りになりました」  と言って、満江はふとあくびを洩らしそうになり、あわてて口もとを手で押さえた。 「それで? 父上のことは、どう言っておられた?」 「すぐには、急な変わりはあるまいとのお見立てでしたけれども」 「それなら、今夜はゆっくりと休んではどうか。疲れているようにみえるぞ」  だが満江は、隼太のいたわりには返事をしなかった。またあくびがこみ上げて来た顔で立ち上がりながら、むこうでひと休みして参りますと言った。  むこうというのは、奥の義母の居間のことで、夫のそばではくつろげないと露骨に言ったようなものだったが、事実桑山家では義母の加音がいる部屋が家の中心になっていた。そこに満江と子供もいて、隼太と病人の孫助ははなれて孤立している。  満江が部屋を出て行くのを見送ってから、隼太は二枚の図面を折り畳んで持つと、茶の間を出て孫助の部屋に行った。  孫助は目ざめていた。隼太が部屋に入るとゆっくり顔をむけたが、行燈の光のせいか、夕方にのぞいたときよりも顔にわずかながら生気がもどって来ているように見えた。と言っても、孫助は重湯をすするぐらいで、ほとんど物をたべられなくなっているので、痩せている。 「いかがですか」  隼太は枕もとに坐った。 「うむ、気分は悪くない」 「じつはさきほど……」  隼太は手の中の図面をかざしてみせた。 「江戸の田口半平から、取水口《しゆすいぐち》の図面がとどきました」 「ほう」  隼太を見上げた孫助の眼がぎょろりと光った。 「それで、どうだった」 「図面は二枚です」  隼太は図面をひろげた。 「間歩で引く場合と、石組みで崖の方から引く場合とを、それぞれに精密に図面に書きわけてあります」 「どれ、拝見」  と孫助が言った。手は夜具の中に入ったままである。  隼太は行燈を枕のそばまで引き寄せると、孫助が寝たままで見えるように、顔の前に図面をひろげてやった。孫助は無言で見つめていたが、一枚を見終わるとうながしてもう一枚も丹念に見た。  だが、それだけのことにも疲れが来るらしく、もうよいと言うと、眼をつむった。隼太はもとのように図面を折り畳み、行燈を枕もとから遠ざけた。 「あの男は、天才らしいの」  眼をつむったまま、孫助が言った。 「はあ、まことに」  と隼太も言った。 「さっきから田口に同行して歩いて回ったあたりの地形を思い出しているところですが、この図面のようであれば、埋もれかけている谷の水も無理なく取水出来るだけでなく、太蔵が原の裏山の細流はもとより、降る雨までことごとく、この取水路にあつまる仕掛けになっているように思われます」 「人数を割り出してみたか」 「ざっとそろばんをいれてみましたが、約三月の工事とみて、石組みの方は延べで一万八千人から二万人、間歩の掘り抜きはひとが多少減るかわりに仕事は長期にわたると思われますので、およそ延べ二万五千人から三万人といった見当でしょうか」 「費用の方はどうだ?」 「これもまったくの見当ですが、石組みの取水口はざっと二千両、間歩の方は二千三百両から二千七、八百両といった勘定になりそうです。しかしどちらも資材、人夫賃をもっとも安く見積もった掛かり費用で、石工の手間賃、金掘り人夫の労賃といったこまかなものは含んでいません」 「取水口をつけるだけで、二千両か」  孫助は眼をひらいて隼太を見ると、ため息をついた。 「その上に開墾に乗り出すとなると、万の金が要るな」 「そのとおりです」  と隼太は言った。 「藩にはそんな金はありません。しかし取水口をつけ、ともかく開墾ということを藩の暦にのせてしまえば、十年後にはやや形をととのえ、五十年、百年ののちには、太蔵が原は借金漬けの藩を救うことになるかも知れません」 「じゃ、どうするつもりだ」 「………」 「そう言って説いただけでは、藩から金は出んぞ。金が出なきゃ、田口の図面もそなたの意見も宝の持ち腐れだ」 「ひとつだけ、考えていることがあります」 「もったいぶらずに言え」 「羽太屋重兵衛に、開墾を請け負わせるのはどうでしょうか」 「羽太屋だと?」  隼太を見た孫助の眼に、危惧のいろがうかんだ。 「めったなことを申すなよ。羽太屋は油断のならぬ商人だぞ」 「しかし、羽太屋はあり余るほどの金を持っています。利にさといと申しても、その利を持ってどこに行くわけでもありません。領内の人間です」  隼太がそこまで言ったとき、襖の外で下男の友吉の声がした。出てみると、友吉は杉山さまからお使いが見えましたと言った。 「使い?」  隼太は眉をひそめた。 「何の使いだ」 「はい。至急にお屋敷までお出《いで》頂きたいと申しまして、ご返事を待っておりますが……」 「わかった。すぐに行く」  隼太は、聞き耳をたてている孫助に事情を言い、病間を出ると手燭を持つ友吉のあとから表口に出た。  そこに以前、郡奉行詰所にいた隼太に、杉山忠兵衛の伝言を持って来た男が立っていた。思慮深そうな顔を持つその男は、すっかり年寄りめいた様子に変わっていた。 「夜分おそくお呼び立てして申しわけございません」  男は相変わらずつつしみ深く慎重な言い回しで、主人の忠兵衛が隼太に至急に屋敷まで来てもらいたいと言っていると告げた。 「もし、お出いただけますなら、お待ちしてわたくしめがお供いたしまする」 「一緒に連れて来いと言われたのだな?」 「さようでございます」 「何の用か、申されたか」  男は首を振ったが、すぐに言った。 「しかし、外にお出になれば、じきにおわかりになるかと存じます」 「待て、すぐに支度する」  と隼太は言った。異変を感じ取っていた。      二  忠兵衛がさしむけて来た使いの男の言うとおりだった。隼太は左内町から表通りに出たところで、路上に篝火《かがりび》を燃やしている男たちに、行く手を阻まれた。  隼太が下城して来たころは、家家の塀の内から花の香が匂って来る穏やかな春の夕刻でしかなかったのに、光景は一変して、町は物物しい空気に包まれている。隼太を阻んだ男たちは素槍で武装していた。 「どなたですか?」  その場の指揮者らしい若い男が、隼太の前にすすんで来て言った。 「恐れ入りますが、お名前を承ります」 「左内町の桑山隼太だ」 「どちらへ行かれますか?」  隼太が答えようとしたとき、篝火の陰にいた男が前に出て来て、あ、そのひとはいいのだと言った。 「おひさしぶりです」  明るいところに顔を出したその男が言った。加藤という名前で、片貝道場で二、三年後輩だった男である。加藤はいま、足軽目付を勤めているはずだった。  隼太の胸に強い緊張が生まれた。夜の町を固めているのは大目付の配下のようである。 「何事だ?」  隼太がたずねると、加藤は隼太の袖をつかんで道の端に寄った。そして声を落とした。 「それがしは……」  と言って、加藤は篝火を振りむいた。 「道を封鎖して、みだりに家中の通行を許すなという命令でこうしているのですが、封鎖されているのは鷹匠町、和泉町、与力町に入る道と城内の大手門前、それと卯の口門前の木戸です」 「ほほう」  隼太は鋭く加藤の顔を見た。加藤が挙げた場所は執政たちの屋敷がある町である。すると、加藤も無言でうなずき返してから言った。 「耳にしたところでは、中老の佐治さまをのぞく執政方のお屋敷に、のこらず、ひとの出入りを封ずるための人数が配られたということです」 「指図されているのは、お上かの」 「よくはわかりませんが、今日の夕刻、金井さま、松川さまなどが、相ついで登城されて桐の間に入られたとも聞いております」 「ほほう。年寄たちがお上を補佐して動いているのか」  と隼太は言った。  奥御殿のそばに、桐の間と呼ぶ部屋がある。ふだんは空き部屋になっているが、何か事があって藩主が召すと、そこに藩の長老とも言うべき五人の老人が登城して詰めることになっていた。桐の間の年寄と呼ばれる五人は、執政の経験者である上に、人格、識見ともにすぐれその上人望が高かった人物から選ばれる。いまは金井権十郎、松川万助、高瀬半左衛門といった人びとが、その職を勤めているはずである。  大目付は家老の支配下に入る職だが、緊急の場合は、桐の間の年寄の補佐を受けた藩主が、じかに命令をくだすことが出来た。 「ところで……」  加藤は、足軽目付の職務にもどった眼つきで、隼太を見た。 「どちらへ行かれるところでした?」 「杉山忠兵衛に呼ばれている」 「ああ、そうですか」 「迷惑なら、遠回りしてもいいのだ」  首をかしげている加藤を見て、隼太がそう言うと加藤はいやと首を振った。 「どっちみち、またどこかでひっかかることでしょう。それがしが与力町の外まで送ります」 「しかし、かまわんのか」 「どうせ見回りのついでですから、ご遠慮なく」  加藤がそう言うので、隼太は忠兵衛の使いを呼んだ。  二人は、加藤の案内で河岸の道から御小姓町に入った。野瀬市之丞の実家があるその町は、異変に気づいているのかどうか、灯火の色も少なくひっそりとしていたが、その町を通り抜けて与力町に入ると、夜景はまた一変した。  辻には篝火が焚かれ、篝火のない町角にも提灯を持つ警固の者が立っていて、通りかかる三人に鋭い誰何《すいか》の声を浴びせて来た。配られている人数は、すべて火明かりに素槍を光らせている。慌ただしく町から町へ走る一隊もいた。 「あれは……」  与力町の南端をかすめるようにして、単にお濠端と呼ばれている杉山屋敷がある町に近づいたとき、隼太は道のむこうに見える、ひときわ明るい灯の色を指して言った。 「小見山家老の屋敷らしいな」 「そのようです」  と加藤も言った。高い場所に見える灯は、高張提灯の明かりである。三人はいっとき足をとめて、夜空を焦がす禍禍《まがまが》しい灯の色を見つめた。  与力町を横切って城の濠端に出るところで、三人はもう一度はげしい誰何の声に行く手を阻まれたが、そこで警固の人間と話した加藤がもどって来ると、慌ただしい顔色で隼太に言った。 「事件が起きたようです」 「………」 「小黒家老の屋敷から、囲みを破って外に忍び出た者があるらしく、大目付は反小黒派や桐の間の年寄たちへの報復を懸念して、城のまわりの警戒を強めたとのことです」 「外へ出たのが誰かは、わからんのかな」 「不明です。人数もはっきりせんということで上の方は気を揉んでいる様子です」 「大胆なことをやるものだ」 「さようですな。そういう無法なことをやると、家が潰れかねんのですが、しかし……」  加藤は首をかしげた。そして監察の職にいる人間らしい辛辣な口調で言った。 「ひょっとすると身におぼえがあって、黙っていても潰れると踏みましたかな。や、ではここで失礼します。持ち場を見回らねばなりませんので」  礼を言って加藤と別れると、隼太は杉山家の奉公人をしたがえて、いそぎ足に濠端の道を乾櫓《いぬいやぐら》の方にむかった。  濠端に出たときは、二之門越しに、おそらくは大手門前に配られた警固の人数のものと思われる灯の色が空に立ちのぼるのが見えたのだが、隅の乾櫓に近づくにしたがって、高い土居と松に遮られて明かりは遠ざかり、眼の前には濠端の屋敷町と呼ばれる、暗く建物の大きな町が迫って来た。  その暗い町が、眠っているのか目ざめているのかはわからなかった。歩いている間に、沈丁花か何かの、強い匂いが路上にただよって来て、通りすぎて来た殺伐な夜景とはちぐはぐな感じをあたえたが、たどりついた杉山屋敷も眠ってはいなかった。  門はぴったりと閉じられていたが、門の内側には赤赤と灯がともっているのが見えた。使いの男が軽く戸を叩くと、潜り戸がひらいて二人は門内に通されたが、眼にとびこんで来た屋敷内の物物しい警戒ぶりが、隼太をおどろかせた。  二人を門内に招きいれた男たちは、手槍で武装していた。ほかにも家士に中間《ちゆうげん》、小者といった組み合わせの男たちが、右から左からすれ違いながら、提灯を片手に塀ぎわを巡回しているのが見えた。杉山家の奉公人だけでなくほかからも警戒の人数が入っている様子で、玄関前の高張提灯の下の腰掛けには、さらに数人の男たちがいて、談笑しながら茶を飲み、握り飯をぱくついているところだった。  以前に、用人の牧原喜左衛門の警固を頼まれたときとは違い、隼太は今度はまっすぐに奥の忠兵衛の居間に通された。 「やあ、来てくれたか」  隼太を迎えると、杉山忠兵衛は落ちついた声をかけてきた。忠兵衛は、あとは裃《かみしも》をつければいいように正装して、一人で坐っていた。 「今夜のうちにも、お上のお召しがあるらしいというので来てもらったのだ。屋敷にも親戚にも、頼りになるほどの者がおらんのでな」  と言って、忠兵衛は顔をしかめた。 「一応の用心をせねばならんということだよ、桑山。今夜の御沙汰はもっぱらお上の腹から出たことだが、小黒たちはそうは思わん。こちらの差し金だと思っておる」 「御沙汰と言いますと?」 「お、まだ聞いておらんか」  と忠兵衛は言い、やや声を落とした。 「閉門だ。佐治をのぞく執政はすべて職をのぞかれ、閉門の沙汰を受けた。藩政を動かす者が一夜にして消え失せたわけでな。今夜にも登城の御沙汰があろうというのは、そういうわけからだ」 「………」 「ずいぶん待ったが、ようやくわしの出番が来た」  忠兵衛は眼をつむったが、すぐにその眼をあくと、やや傲慢にきこえる口調で言った。 「小黒、小見山はあまりに無能だったからの」 「………」 「幕閣は、田沼老中の時代が終わって白河侯が音頭取りと替わり、心ある藩は白河侯の指図を仰いで藩の改革に乗り出しているのが近ごろの形勢だ。そういうことを見聞きしているお上は、帰国のたびに借金漬けの藩を何とかしろと、小黒たちに迫っておられたのだが、今度はしびれが切れたということだろうな」 「………」 「小黒は改革案ひとつ出せなかったくせに、御用商人と結託して私腹を肥やしていたのだから、今度の処分は止むを得んだろう」 「しかし、後を引きつがれる方も、容易ではござるまい」 「なに、長い間冷や飯を喰わされたおかげで考えるひまだけは十分にあった。産業をさかんにして借財を減らし、藩校を興して人心を一新する策は、この胸の内におさまっておる。登城したら、さっそくお上に改革案を申し上げるつもりだ」  忠兵衛の顔は、気持ちの高揚もあらわに肌が光って見えたが、そのために元来の美男顔に一種の迫力がにじみ出て、次代の執政にふさわしい男の顔に見えた。 「桑山、貴公にも手伝ってもらわねばならんな。そうだ、わしが執政の席についたら、貴公を郡奉行にすすめよう。いや、いや、妙な顔はせんでもらいたい」  忠兵衛は手を振って、にが笑いした。 「今夜の礼の前渡しというわけじゃない。今夜は友人として来てもらった。公私を混同したりはせぬ」 「そのようにねがいたいものです」 「欲のない男だ」  忠兵衛はやはり興奮しているのか、笑いを声に出した。 「昨年の秋の強訴の一件のことだ。貴公は白田郷の動揺を押さえ切ったのに、代官からおろされた。不可解な、というよりは杜撰《ずさん》きわまる人事だった。しかし、そういうことも眼のある者はちゃんと見ているものでな……」  忠兵衛がそこまで言ったとき、襖の外に女の声がして、入ってもいいかとたずねた。隼太は身体を固くした。声を聞いただけで、忠兵衛の妻女千加だとわかったのである。 「ああ、桑山さま」  襖をあけた千加は、ついこの間会った人間のような、気さくな笑顔を隼太にむけて来た。いくらか太り、眼尻にわずかな小皺が出ていたが、面影は若いころと変わらず、千加はずしりとした女の稔《みの》りを感じさせる人妻になっていた。 「今夜は、心安だてに厄介なお願いを申し上げまして……」  千加は隼太にむかってつつましく頭を下げたが、すぐに忠兵衛にお城からお使いが参りましたと、告げた。 「来たか」  と言うと、忠兵衛はすばやく立ち上がった。隼太も襖ぎわにしりぞいてから立った。 「では、玄関にてお待ち申し上げる」 「申しわけござりません。何のおかまいもせずに……」  千加は詫びを言って、次の間に入った忠兵衛を追って行った。  ──執政か。  庭に面した暗い廊下を玄関にむかいながら、隼太は自分もかすかな興奮に包まれているのを感じた。かつての杉山鹿之助が、一藩を支配する職にのぼるということには、やはり男の気持ちを熱く掻き立てるものが含まれているようだった。  執政は領民を養い、衣食を保証することに責めを負わねばならないが、同時に家中を含むその領民の頂点に立って、彼らの生殺与奪をあずかる権能を手にいれるのである。これまではよく見えなかったその権力の大きさが、忠兵衛という人間を通すとよく見えて来るような気がした。  ──忠兵衛はいま……。  その巨大な権力を手に入れようとしているところだと思った。その事実の重みに気押されて、何年ぶりかに会った千加の、好ましい女房ぶりまでは頭が回らなかった。      三  城の供待ち部屋に、のっそりと入って来た者がいる。めずらしく羽織、袴に威儀を正した野瀬市之丞だった。  市之丞は首をのばして隼太を見つけると、ひとを掻きわけるようにして隼太のそばにやって来た。そして、行儀悪くどしりと腰を落とした。 「どこから来たのだ?」  いくらかあっけにとられた感じで隼太がたずねると、市之丞はにが笑いした。 「城から呼び出しが来てな」 「………」 「杉山忠兵衛の護衛を命ぜられたよ。どうやら忠兵衛は筆頭家老を命ぜられたらしいぞ」 「そうか、はじめからか」  隼太は一瞬、眼もくらむようなものを目撃したような気がした。忠兵衛は、隼太や市之丞の及びもつかない高い場所にのぼってしまったようだった。これからは忠兵衛が藩を切り盛りするのだ、と隼太は思った。  だが、市之丞はその事実にさほど心を奪われたようでもなく、無頓着な口調で言った。 「やっぱり家柄だな。三十七の若さで筆頭家老だ」 「それで、お上からも護衛が下されたというわけかな」  隼太が言うと、市之丞は鋭い眼を隼太に流し、お上じゃない、年寄連中の命令だと言った。 「護衛なら貴公がついているから十分じゃないかと言ったんだが、小黒屋敷から抜け出した連中の行方というのが、まだつかめておらんのだそうだ。それで年寄たちが気を揉んでいる」 「抜け出したというのは、誰のことだ?」  隼太が聞くと、市之丞は声を低めた。 「伜の勝三郎。家老の末弟、つまり勝三郎の叔父の清太夫、これは一刀流の遣い手だ。ほかに家士の山岸兵助、遠藤作之進」 「大目付は何をやっていたのだ」  隼太は舌打ちした。それだけの人間が藩主の裁断を不服として、しかも処分は忠兵衛もしくは杉山一門の使嗾《しそう》によるものと信じこんで夜の町に走り出たとしたら、きわめて危険な話だった。  登城の途中、よくも何事もなく来られたものだと、ぞっとするようだった。 「はじめは閉門という話じゃなかったそうだから、油断があったかも知れないが、土台囲まれた屋敷から抜け出す者がいるとは、誰も考えんだろう」 「破れかぶれか。いや、貴様に来てもらって助かったな」 「しかしいくら小黒でも、ここまで来れば妙な真似はせんだろう」 「いや、油断はならぬ。勝三郎という男は、なかなか激情家のようだった」  小声で話し合っている二人を、やはりこの深夜に登城を命ぜられて来ている者たちの供びとが、不安そうに見つめていた。  小姓組の者が供待ち部屋に来て、忠兵衛たちが下城する旨を告げたのは、時が翌日に移って八ツ半(午前三時)を回ったころだった。  表御殿の玄関には、かけ連ねられた裸火が赤赤と燃え、その光の中に談笑しながら男たちが現れた。さきに中老を辞職した松波伊織、番頭《ばんがしら》の和田甚之丞、金井又四郎などの顔は見わけられたが、あとは隼太が顔も知らない男たちだった。その中心に忠兵衛がいた。  そしてその一団の男たちのうしろから、疲労困憊した顔の長老たちも姿を現した。  忠兵衛は、市之丞の姿をすばやく見つけた。足早に近寄って来た。 「やあ、野瀬も送ってくれるそうだな。よろしくたのむぞ」  忠兵衛は市之丞にむけた笑顔を、隼太とお供の家士二人にも回し、では行くかと言った。笑顔を見せているが、忠兵衛が登城前よりも緊張しているのを隼太は感じた。  その緊張が、待望の執政にのぼり、しかも筆頭の家老に推されたことから来るのか、それとも帰り道の危険を考えてのことかはわからなかった。  金井権十郎以下の長老たちには、藩主から駕籠があたえられ、隼太たちが見ているうちに、老人たちはつぎつぎと駕籠の中に姿を隠したが、忠兵衛をふくめる新しい執政たちは、その駕籠を見送ったあと、それぞれに供の人数をしたがえて、徒歩で本丸御殿をはなれた。  二ノ丸の広場を横切り、卯の口門をくぐって三ノ丸に出ると、門前の橋ぎわ一帯を固めている大目付配下の燃やす篝火が、一団の人びとを照らした。 「おさがりですか」  指揮者とみえる四十前後の男が、小走りに忠兵衛のそばに寄って来た。 「その後の様子はどうだ?」  と、忠兵衛が言った。 「はい。一人だけつかまりました。遠藤と申す男です」 「すると、あと三人がまだ行方がわからんということだな?」 「はい、懸命にさがしておりますが……」  そこで指揮の男は、ちょっと言い淀んでから言葉をつづけた。 「遠藤作之進をつかまえた場所にござりますが、吉住町にひそんでいるのが見つかりました。帰り道のご用心をねがいます」 「お聞きのとおりだ、諸公」  忠兵衛は、松波や和田を振りむいた。 「お互いに、帰りは気をつけることといたそう」 「お見送りの人数をつけましょうか」  指揮の男が、特に忠兵衛にむかってそう言ったのは、遠藤という小黒家の脱走家士が見つかった吉住町が、忠兵衛の帰路にあるせいだろうと思われた。吉住町は、三ノ丸の正面の木戸から市中に出て、川沿いに南に下ったところにある商人町である。  だが忠兵衛は、その申し出をことわった。人びとは一団になって、会所や郡代屋敷、藩主の一族の屋敷などがある三ノ丸を抜けて、卯の口門前の正面の木戸から城の外に出た。  そこにも通常の木戸番のほかに、大目付の配下が篝火を焚き、高張提灯を掲げて警戒の眼を光らせていた。一行はそこで挨拶をかわし、それぞれの方角にわかれた。  木戸から遠ざかると、道はたちまち闇に包まれて、供の家士が持つ提灯の光が、心ぼそく足もとを照らすだけになった。隼太と市之丞は、前後から忠兵衛をはさむようにして歩いて行った。  ──小黒の伜も……。  つまらぬ騒ぎは起こさぬ方がいいのに、と先頭を歩きながら、隼太は思った。  旧執政は、佐治庸助をのぞいてことごとく職を免ぜられ、そのあとを襲う新しい執政が誕生してしまったのである。電光石火の政変だった。屋敷を抜け出た小黒勝三郎が何を考えているかはわからないが、どうあがいたところでこの大勢を覆す機会はない。  ──ただし、私怨があればべつだ。  隼太は、杉山屋敷を出たときから、ぼんやりと頭にひっかかったままになっている忠兵衛の言葉を思い出している。  忠兵衛は、小黒派は彼らの突然の失脚を自分の差し金のせいだと思っている、という意味のことを言ったのだが、それは隼太がそのとき漠然と受け取ったような、小黒派の誤解といったようなものではなく、いま少し根拠のある話なのではなかろうか。  そう思うのは、杉山屋敷の物々しい警戒ぶりや、忠兵衛がいち早く小黒派の失脚をつかんでいたばかりでなく、城中からの呼び出しにそなえて衣服まで改めていたのをこの眼で見たせいかも知れなかった。今度の政変に対するあまりに手回しのいいそうした備えが、忠兵衛の言い方に反して小黒派の失脚に忠兵衛が一役買っているのではないかという、かすかな疑惑を呼びおこすようだった。  忠兵衛もしくは杉山派が、今度の政変にかかわり、そのことをまた小黒派が察知しているとすれば、小黒勝三郎は身を捨てて忠兵衛を襲って来るかも知れないのだ。  五人は吉住町を通り抜けて、もう一度橋を渡ると三ノ丸の外濠端に出た。町屋はそこで一たん途切れて、濠端の広場を横切るように歩いて行けば、今度は道は長者町に入る。  市之丞が、足音を殺して前に出て来ると、隼太の横にならんだ。 「出て来るとすると、このへんだぞ」  市之丞がささやいた。隼太もそう思っていたのである。濠端には柳の大樹がならんでいて、新芽のほころびはじめた枝が、木の幹を覆いかくすように垂れさがっている。その木の形は、家士が提げている提灯の明かりにぼんやりとうかび上がって見えたが、柳の背後のあたりは闇だった。  隼太は油断のない眼を四方にそそぎながら、いくらかゆっくりした足どりで広場を横切ったが、小黒たちは現れなかった。長者町の入り口が見えて来た。  最初の危機が去ったのを、隼太は感じた。小黒たちが狭い町通りで斬りかけて来る公算は少ないだろうし、つぎに濠端の道に出るときは、もう杉山屋敷に近づいている。 「ふん、怖気づいたのだ、やつら」  つぶやいて、市之丞がまたうしろにさがって行った。長者町に踏みこんだときである。まさにその瞬間、提灯の光の中に白刃がひらめいた。隼太はいきなり熱い風に包まれた。熱いと感じたのは、軒下をはなれていっせいに斬りかかって来た男たちと、とっさにまじえた刃が焼ける匂いだったかも知れない。 「壕端へ」  隼太が叫んだときには、忠兵衛と提灯持ちの家士はいま、通りすぎてきた広場にむかって走っていた。かわりに市之丞と、もう一人の家士が前に出て来たが、いかにも道が狭かった。 「ここはまかせろ」  市之丞が家士にどなる声が聞こえた。 「忠兵衛の面倒をみろ」  言い終わると同時に、市之丞がすべるように前に出て一人を斬った。肩を押さえてよろめいた相手に、とどめとも思える二撃目を打ちこむのが見えた。  ──勝三郎だ。  倒れる男をよく見たわけではない。隼太は山岸兵助と思われる細身の男と対峙していて、他を顧みるゆとりはなかったのだが、直感でそう思った。なぜ、まっさきに勝三郎を斬らなきゃならないのか、とちらと思ったようでもある。忠兵衛にとって危険なのは勝三郎ではなく、山岸と勝三郎の叔父小黒清太夫だという頭があったからだろう。  斬り合いは、広い場所をもとめて濠端に移った。遠い提灯の明かりにうかんだのは、やはり山岸兵助の顔だった。刃を交わしたのは三度、山岸は左半面と肩口から血をしたたらせ、隼太は右の二の腕に傷を負っていた。  それまで気合の声も洩らさなかった相手が、不意に怒声ともとれる声を挙げながら、一気に踏みこんで来た。その打ち込みを隼太は辛抱づよく待っていたのである。一瞬早く体を沈めると、わずかに隙を見出した胴を薙《な》ぎ上げながら、前に走った。  一髪の差に過ぎなかった。山岸の剣はすれ違いながら隼太の肩の肉を削り取って行った。焼けるような痛みを手で押さえながら振りむいた眼に、山岸の身体が地にのめるのが見えた。そのとき、市之丞と市之丞より頭ひとつ高い大男の小黒清太夫も、正面から走り寄ってともに刀を振りおろしたところだった。  市之丞が斬られたのではないかと、思わず手に汗をにぎったほどのきわどい打ち合いだったが、やがて隼太の眼に、市之丞の足もとに清太夫の身体が崩れ落ちるのが見えた。      四  杉山忠兵衛を中心にする新執政たちが、旧小黒派の処分と主要な人事の交代を終えるまで、ほぼ三日かかった。  佐治中老をのぞく三人の家老、二人の中老のうち、改めて一年の閉門を命ぜられたのは二人の家老だけで、中老二人は三カ月の謹慎という軽い処分に改められた。しかし、伜の勝三郎を失った小黒武兵衛は家禄を取り上げられ、妻子は領外追放、武兵衛本人は領内の俚謡《りよう》に「鳥も渡らぬかむろ沢」と歌われる、奥深い山中の村かむろ沢に郷入りを命ぜられた。  郷入りは、山中の僻地に設けた小屋に座敷牢をつくって咎人を幽閉する刑罰で、一度その処分を受けて城下にもどった者はいないといわれる、苛酷な刑罰だった。思いがけないきびしい処分になったのは、小黒の伜勝三郎が、藩主の任命した新執政をその夜のうちに襲撃したことを、重く咎められたのである。  一連の新しい人事の中で、隼太は待望の郡奉行に任ぜられた。杉山忠兵衛は、執政に任ぜられる直前にした口約束を守ったのである。そのお礼を言いに杉山屋敷をおとずれたときに、隼太は田口半平が書き上げた取水口の図面を持って行って、忠兵衛に見せた。 「一度、お目通し願わしゅうござります」  隼太に言われて、忠兵衛は二枚の図面に眼を通したが、やがてにが笑いしてその図面を隼太に返した。 「これで、太蔵が原に水を引くというわけか」 「はあ」 「桑山の執念はおそるべきものだな。われわれが楢岡の義父からその話を聞いたのは、十数年も前のことだろう」 「さようにござります」 「執念は見上げたものだが、あきらめろ」  忠兵衛はいきなり言った。もう笑ってはいなかった。冷淡な口調でつづけた。 「太蔵が原の開墾が、藩の金喰い虫にすぎぬことは、あの小黒が手本を見せたことだ。おまけにあのときは、死人まで出した」 「しかし……」 「まあ、聞かぬか」  と忠兵衛は言った。 「お上がわれわれにのぞまれているのは、財政の建て直しと人心の一新だ。そのためにやるべき仕事は山積しておる。青苧《あおそ》と漆の植え付け奨励、藩校の設立、借金の整理、倹約令の見直し、すべてこれからの仕事だが、その中に太蔵が原の開墾は含まれておらん。なぜか、わかるかの?」 「急場の間に合わぬからでござりましょう」 「そのとおりだ。産業の奨励、藩校の設立、すべて急を要する事業だが、見込みはついておる。青苧と漆は、すでに奈良屋が上方に売り捌きの道をつけてあるゆえ、植え付けをふやせばいいだけの話だ。藩校は、今度固辞して執政に加わらなかった内藤与七郎が、総監として取り組む。荒廃した士風を建て直すためには、これもいそがねばならぬ事業だ」 「………」 「借金の整理というのは、青苧と漆の苗木をもとめるために、新たな借金をせねばならんのだが、当方の打診に膳所の加納屋が応じて来た。これを機会に散らばっている借財を若干整理しようというわけでな。要するに、不急の開墾に回す金は、一文といえどもないのだ」  忠兵衛は淀みなく述べ立てたが、そこで不意に表情をやわらげた。 「ま、これが建前だ。藩政を預かる者としてはそうとしか言えぬが、わしもむかしの誼《よしみ》というものを忘れたわけではない。さほどに金がかからず、それで藩内で貴公の顔も立つような方法があれば、開墾を認めるのにやぶさかではないつもりだ」 「………」 「ツバだけでもつけてみるか」 「しかし、まず取水口をつけるのが先ですが、概算したところ、これだけでざっと二千両の費用がかかります」 「そら、いかんな。桑山」  忠兵衛の顔に、またそっけない表情がもどって来た。 「そんな金があれば、こちらに回してもらいたいものだ。二千両などという金は、話にもならん」 「むろん、その費用を藩に出してもらおうとは考えておりません」 「……?」 「いっそ請負の事業にしたらと考えているのですが、いかがでしょうか」 「請負?」  忠兵衛は鋭い眼で隼太を見た。 「誰が請け負うのだ。開墾は即刻に利を生む仕事ではないぞ。かりに土地がひらけたとしても、十年先の利は微微たるものだろう。元利そろえて受け取れるのは、五十年、百年先のことになる。その長丁場を背負い切れる地主など、領内におるわけはない」 「地主でなく、商人なら金を出すかも知れません」 「誰のことを言っているのだ」 「羽太屋重兵衛です」  忠兵衛は沈黙した。顔をうつむけて考えに沈んだ忠兵衛に、隼太はひと押しを加えた。 「羽太屋は商人です。利を示せば、五十年先のことにも心を動かすかも知れません。また羽太屋なら、開墾を請け負うだけの財力をそなえております」 「あの羽太屋のことだから……」  顔を上げた忠兵衛が言った。 「元利は金でなく、ひらいた土地でもらいたいというかも知れんな」 「あるいは……」  と言って、隼太は強く忠兵衛を見返した。 「しかし、そこのところこそ羽太屋に請け負わせる話のうま味です。むしろ、こちらからそう持ちかけるべきです。元利をひらいた土地であたえる約定を結ぶのです。そうなったところで、羽太屋はその土地をどこに持ち去るわけでもありませぬゆえ、年貢が取れます」 「………」 「うまく行けば、藩は一両の金も費やすことなく、新たな土地を手に入れることが出来ます。また、たとえ失敗したとしても……」 「藩の損失にはならぬか」  忠兵衛はにが笑いした。 「乗って来るかの」 「話の持ちかけようによりましょう」 「成功すれば、羽太屋はお上をしのぐ領内一の地主にのし上がるかも知れんな」  忠兵衛は言って、あからさまに不快な顔をしたが、すぐ思い直したらしくきっぱりした口調で言った。 「よかろう、桑山。太蔵が原の開墾のことは貴公にまかせる。羽太屋に交渉してみろ。郡代にはわしから話しておく」  だが、隼太が戸浦に行って羽太屋に会ったのは秋口のことになった。新任の郡奉行としていそがしい日を送っている間に、舅の孫助が夏の暑熱に耐えかねるようにして死去したからである。  孫助の葬儀を出したあとに、隼太は桑山家の代代の通称又左衛門を名乗ることになった。羽太屋との交渉は、桑山又左衛門となった隼太の、大きな仕事となった。 「しかし、うまい話を持って来られたものですな、お奉行さま」  重兵衛は又左衛門のくわしい説明を聞き、太蔵が原の絵図面、田口半平が作成した取水口の図面、費用の見積書、元利の計算などにじっくりと眼を通したあとで、うす笑いをうかべて又左衛門を見た。  羽太屋重兵衛は、六十を過ぎて髪こそ白くなっていたが、日焼けした肌には艶があり、微塵の衰えも感じられないどころか、又左衛門を一瞬見据えた眼には刺すような光があり、油断ならない男に見えた。 「お城では、ご自分の腹は痛めたくないお考えらしい」  又左衛門は無言で微笑した。説明すべきことはして、この話に大利が含まれていることを、羽太屋はのみこんだはずだった。あとは喰いついて来るか、どうかだけである。 「失敗したら、元も子もないという話ですな」 「………」 「だが、見積もりはうまく出来ている」 「………」 「わたくしと組むと、ひとに悪しざまに言われるかも知れませんぞ」  重兵衛は皮肉まで言ったが、やがて、一度山を見せてもらいましょうかと言った。 [#改ページ]   陰 の 図 面      一  初音町に行くのをやめて、又左衛門はいそいで与力町の屋敷にもどった。  長い土塀や板塀がつづき、塀内に常緑の松や杉が多いためにいつも森閑としている屋敷町にも霧が湧いていた。霧は道の途中でうすれたり、誰もいない四辻で急に濃くなったり、塀を乗りこえて屋敷の中になだれこんだりしている形のままじっと動かず、そのままで半ばはたそがれ色の中に溶けこんでいる。  潜り戸から中に入り、玄関に行くと、もううす暗くなった玄関前を掃いていた下男の友吉が、一人で現れた又左衛門を見ておどろいた顔になった。 「藤蔵はもどっているか」  頭巾を取りながら、又左衛門が言った。 「いえ。ご一緒ではござりませんでしたか」 「いや、藤蔵はべつのところに行ったのだ」  玄関に入ってから、又左衛門は友吉が早朝から畑に出ていたのを思い出した。家中では、大概の家で自分の家で使うほどの四季の青物は屋敷の中で作っている。桑山家も、左内町にいたころは屋敷畑だったが、いまは城下の西はずれに別に菜園をもらっていた。その畑は、杉山家の畑と隣り合っている。  又左衛門は式台に上がりながら、奥に主人の帰宅を告げ終わった友吉に言った。 「畑仕事ははかどったか」 「はい、今日はごぼうを掘りまして。あとは明日、半日ほど豆を引いて終わります」 「今年のごぼうの出来はどうだ」 「はい、なかなかよく出来ましてござります」  畑仕事が好きだった甚平の息子らしく、友吉ははずんだ声で答えた。うす暗くて表情はよく見えないが、声に満足そうなひびきがある。 「ところで……」  又左衛門はたずねた。 「隣の杉山の畑は、誰か出ておったか」 「いえ、どなたも見かけませんでした」 「取り入れはもう済んだかの」 「はて」  友吉は首をかしげたが、すぐに思いあたった様子で早口に言った。 「おっしゃられてみますと、少少様子がおかしゅうござりました。豆の莢《さや》などははじけんばかりになっていましたが、取り入れの手が入った様子はなく、草などもそのままで、いったいに畑の手入れをおろそかにしているように見うけました」 「そうか」  そのとき、古参女中のちよが手燭を持って迎えに出て来たので、又左衛門はちよのあとについて居間に行った。  ちよは手早く行燈に灯をいれ、それから又左衛門が着替えるのを手伝った。着替えといっても、羽織と袴を取って袖無し羽織を着、足袋をはきかえるだけである。  市中を密行するために、又左衛門は木綿着を着て出た。それでも気づく者は家老と気づくだろうと思ったが、一応は身分を隠すためである。着替えを手伝っている間に、ちよはそのことに気づいたはずだが何も言わなかった。ちよは狐のようにとがった顔つきで、いつもぶっちょうづらをしているように見えるが、性格はおとなしく口数の少ない女だった。 「すぐに、お茶をお持ちいたします」  縁側に出て、夜色が濃くなって行く庭を見ている又左衛門に、うしろにうずくまった気配のちよが言った。 「お食事の方は少少遅れます。それから、奥さまはまだおぐあいが悪く、お夜食は召し上がらないそうです」 「よし」  と又左衛門は言った。考えごとがあった。不平ごとの多い満江と顔を合わせないで済むなら、それに越したことはないと思った。  道の霧が入りこんで来たのか、それともはじめからそこに湧いたのか、夜の闇に呑まれようとしている庭の奥に、一団の霧が宙に浮いたままじっと動かずにいるのが見えた。季節にはめずらしく、夜気はうるみを帯びたようにあたたかく湿っている。  ──忠兵衛に味方して……。  あのときおれは郡奉行の職を手にいれ、それがのちに郡代から執政にすすむはずみになったのだが、同じように働いた市之丞が、それに見合うような報酬を忠兵衛からもらっただろうかと、又左衛門は夜の庭に蟠《わだかま》る霧を見ながら考えている。  小黒派の勢力を藩政から一掃した政変のあとで、又左衛門の郡奉行昇進をふくめて、しばらくはいわゆる杉山派に対する加増、昇進など、さまざまの行賞が行われたのだが、人びとはそれを、政変にともなう慣例的な地位と禄の再配分とみて、あれを疑い、これを怪しむというようなことはしなかった。  だからその中で、たとえば筆頭家老という家中最高の権力を手にいれた忠兵衛が、陰の功績に報いる意味で野瀬市之丞に三人扶持、あるいは奮発して五人扶持ほどをあたえ、一家を立てさせたところでどこからも文句は来なかっただろうと思われる。当時、忠兵衛の手の中には小黒派から取り上げた禄がだぶついていたのだから。  だが市之丞は捨ておかれた。市之丞のみはと言い直してもいい、と又左衛門は思った。市之丞だけは捨ておかれて、当時もいまも身分は御小姓町野瀬家の厄介叔父のままである。そして又左衛門の知るかぎりでは、市之丞がほかの形で忠兵衛から報酬を受け取った形跡はなかった。  ──なぜ……。  それを怪しまなかったか。  言うまでもなく、市之丞には藩主|忠盈《ただみつ》から、暮らしに不自由しないほどの陰扶持が出ていると思いこんでいたからである。だが、はたしてそうかと、又左衛門は餌刺町の路上で市之丞は杉山屋敷にいるのではないかと思ったときからうかび上がって来た、その疑惑を見つめた。  市之丞の陰扶持のことを、最初に又左衛門に聞かせたのは杉山忠兵衛である。そして忠兵衛は、扶持を出しているのは藩主と決まったわけではなく、小黒家老である可能性もあることを匂わせたのだが、その後の推移は、市之丞を飼っているのは小黒家老かも知れないという推測を裏書きするようなものではなかった。だから残る藩主が、市之丞の施主だろうと思って来たわけだが、はたしてそうだったのか。  忠兵衛のほかに、又左衛門に市之丞の陰扶持のうわさを吹きこんだのは中根又市だが、中根はその話を誰から聞いたのだろう。 「お茶をどうぞ」  いつの間にもどって来たのか、部屋の中からちよがそう言った。同時に廊下のはしから、ただいまもどりましたという青木藤蔵の声が聞こえて来た。  藤蔵は、部屋から洩れる明かりの中に又左衛門が立っているのを見て、廊下のはしにひざまずいて物を言っているらしい。そのあたりは暗くて、藤蔵の姿は見えなかった。 「こっちへ来い、藤蔵」  声をかけて、又左衛門は居問にもどった。ちよが部屋を出て行き、入れ違いに藤蔵が廊下に来てひざまずいた。 「中に入らんか」 「袴が埃りだらけになっておりまして」 「なあに、かまわん」 「それでは、ごめんを」  藤蔵は敷居の内側までにじり上がった。 「行って来たか」 「はい」  藤蔵は顔を上げた。 「野瀬さまは、おられませんでした」 「やはりな。どうもそんな気がした」  と又左衛門は言った。 「はじめに海穏寺に参りまして、それとなく裏から聞きだしましたがおられない様子でしたので、これは見当違いかと思いましたが、念のために山の上の坊にものぼってたしかめて参りました」 「そこにもいなかったか」 「はい」 「ごくろうだった」 「いかがいたしましょうか」 「いや、もうよかろう」  と又左衛門は言った。だが藤蔵は、気遣わしげな顔で又左衛門を見まもったまま、腰を上げる気配をみせなかった。  又左衛門が事情を打ち明けたわけでなくとも、藤蔵は主人と市之丞の間に容易ならないことが持ち上がっていると気づいている様子だった。そして、その容易ならない事態というものが、市之丞が見つからないことで悪化するのではないかと懸念しているのである。 「じつを申すとな、藤蔵」  又左衛門はにが笑いした。 「わしにも、少少見当がついて来たのだ」 「は?」 「いや、確証のある話ではない。ただ、これだけさがしてもどこにもおらん、山にも行っていないとなると、あとは杉山の屋敷ぐらいしか、市之丞の隠れる場所はなさそうな気がして来た」 「杉山さまのお屋敷ですか」  藤蔵はつぶやいた。新たな懸念が湧いて来たという顔をしている。だが、又左衛門はきびしい口調で言った。 「やつは、わしには会わぬということなのだ。これ以上はさがすな」 「かしこまりました」 「腹がすいたろう。台所へ行って飯を喰え」  そう言われて、藤蔵は一礼してやっと腰を浮かせたが、そこで何か思いついたという顔でまた廊下に膝を落とした。 「海穏寺で、いろいろと聞きただしているうちに妙な話を耳にしました」 「ん?」 「野瀬さまのことです」  藤蔵が膝をすすめたとき、ちよと若い台所女中でともという女の二人が、夜食の膳をはこんで来た。  一人で喰うから給仕はいらないと言って女たちをさがらせてから、又左衛門は藤蔵をうながした。 「何を聞いたのだ」 「野瀬さまは今年の夏、海穏寺のひと部屋を借りてひと月ほど滞在したそうですが……」 「うむ」 「ご病気だったそうです」 「病気?」 「寺男から聞いたところによりますと、野瀬さまはご自分のことを、死病に取り憑かれたと申しておられた由です」  藤蔵がさがって行ったあとで、又左衛門は夜食にとりかかったが、一人で喰べる飯は味気なかった。だが、給仕するつもりのちよをさがらせたのは、考えごとをするためである。  ──市之丞のことを……。  知らなすぎたようだと又左衛門は思っている。陰扶持のことも、病気のことも。死病とは何のことだろうと思った。  又左衛門の頭の中に、光明院をたずねたときに見た、鐘楼の石垣の崩れを押さえた太い杭がうかんでいる。あれが病気持ちの男の仕事だろうかと思ったが、杉山忠兵衛との政争の後始末に追われたとはいえ、市之丞には春以来一度も会っていないのである。その間に何が起きても不思議ではなかった。  ──もし……。  市之丞が病に冒されているというのが事実で、その上扶持をわけていたのが藩主でなくて忠兵衛だったということにでもなれば、市之丞が申しこんで来た果たし合いの意味はがらりと変わって来る、と又左衛門は思った。  市之丞の果たし状を、又左衛門は私憤から出たものと思っていた。又左衛門と忠兵衛は、もと片貝門の親友で、しかも又左衛門は事実は見た眼ほど単純なものではなかったのだが、形の上では杉山忠兵衛に引き立てられた形で郡代にすすみ、さらに執政にすすんでいる。  市之丞も世間と同じようにそう思っていて、この春の政争を、又左衛門が自分の権勢欲から恩義ある親友を蹴落として、みずから筆頭家老におさまったと見たに違いなかった。奸物などという罵詈《ばり》までつらねて果たし合いを申しこんで来た裏には、五十を過ぎた厄介叔父の屈折した怒りがあるのだろうと又左衛門は解釈し、会って話せばわかることだと思っていたのである。  だが、もし忠兵衛と市之丞が陰扶持というものでつながっているとすれば、事実はそう単純なものではなくなる。市之丞が又左衛門を避けて身を隠していることもそれで腑に落ちて来るというものだ。  ──待て。  又左衛門は箸をおいて腕を組み、開いている襖のむこうにぼんやりと見えている夜の庭に眼をやった。霧は、灯のとどくところには見えなかった。あるいは消えてしまったのかも知れなかった。  ──待て。はやまってはならん。  又左衛門はまた茶碗と箸を取り上げて、つめたくなった飯を口にはこんだ。市之丞がつながっている相手が杉山忠兵衛かも知れないという考えは、今日になって突然に心にうかんで来たことである。慎重にたしかめるべきことだった。  たしかめる手段がまったくないわけではないと、又左衛門は思った。藩主は在府中でじかにたしかめるわけにはいかないし、また直接に聞いていいことかどうかも疑わしいような事柄だが、ほかにも方法はあった。中根又市に会って、市之丞の陰扶持のことを誰から聞きこんだかと聞きただすことである。  ──中根に会ってみよう。  と又左衛門は思った。市之丞が藩主につながっているか、忠兵衛につながっているかで、又左衛門の市之丞に対する態度もおのずから変わらざるを得ない。もし市之丞が杉山忠兵衛の走狗《そうく》なら、話し合いは無用だった。果たし合いに応じて死力をつくすほかはないのだ。  忠兵衛が市之丞を養っていたのだと断定することはむろん出来ない。だがこれまで、何分にも思いこみが強すぎたと又左衛門は思いながら、黙々と飯を噛んだ。  何の思いこみかといえば、市之丞のうしろに藩主がいるということである。牧原喜左衛門を護衛して曲師町まで送ったとき、市之丞が暗夜の銀橋に影のように現れて剣をふるったときもそう思った。  そして数年前にそういうことがあったから、小黒派を藩政から一掃した政変のとき、忠兵衛を守って市之丞が小黒勝三郎を斬ったのを、藩主か藩主の意を汲んだ桐の間の長老たちの命令と考えて、そのことを疑いもしなかったのである。  だが考えてみれば、藩主と市之丞とのつながりということは、忠兵衛とあとは中根又市から陰扶持のことを聞いただけで、ほかに何の確証がある話でもなかったのだ。そしてさきの二つの事件は、藩主の陰扶持などというあいまいなうわさ話を取り去って虚心に眺めるなら、そこにはあきらかに杉山忠兵衛の利益がうかび上がって来るのである。  ──むしろ……。  忠兵衛が扶持をあたえて市之丞を雇っていたと考える方が、話の筋道が通っているわなと又左衛門は思う。  忠兵衛が市之丞を雇い、その事実を世間から隠蔽するために陰扶持などという話をささやきかける。そんなに大勢に話すことはない。とりあえず市之丞の動きを怪しみそうな又左衛門、中根又市あたりに洩らした、と考えたらどうだろう。  なぜ隠蔽が必要だったかといえば、忠兵衛はそのとき、来るべき政争にそなえて走狗となるべき人間を雇ったからである。もともと狷介《けんかい》な性格が婿にも城勤めにも向かず、その上宮坂一蔵のことで気持ちが滅入っていた市之丞を藩政の裏道に引きこむのは、さほどむつかしくなかったかも知れない。剣が出来て、日にあたることを好まない男。天性の政治家である杉山忠兵衛は、そういう男の使い途をよく心得ていたに違いない。  そして、ここぞというときに又左衛門の救援をもとめたのは、忠兵衛を危険から守り、一方で容赦なく政敵を屠る市之丞の役割を、世間から隠すためだったとは考えられないか。  ──ふむ、政敵か。  又左衛門は、味もわからずに喰べ終わった夜食の膳を、膝から遠ざけた。  友吉の話によれば、閉門の沙汰を受けたわけでもないのに、杉山家の畑は荒れているという。忠兵衛はひょっとしたら、政争はまだ終わったわけではないと思いながら、最大の政敵である又左衛門に市之丞をさしむけ、息を殺してその結果を見守っているのではないか、と又左衛門は思ったのである。      二  又左衛門が食事を終えると間もなく、見はからっていたように女中のちよが膳を下げに来た。 「おや、霧が入って参りました」  とちよは言った。その声で顔を上げると、廊下に白い霧がうずくまっていた。霧は消えるどころか、外の闇を満たしただけで足りずに、家の中まで入りこんで来たらしい。  膳と飯櫃を廊下に出してから、ちよが言った。 「雨戸をしめましょうか」 「いや、まだはやい」 「では障子だけしめましょう。夜の霧はお身体によくございません」 「いい。そのままにしておけ」  と又左衛門は言った。ちよはそうですかと言い、不服そうな顔をして去って行ったが、ちよはもともとそういう顔立ちの女である。  ──政敵か。  又左衛門は廊下まで這い上がって来た霧が灯に光るのを眺めながら、にが笑いした。霧はさっき見たときとは違い、少しずつ動いていた。  杉山忠兵衛の政敵と呼ばれることになるとは、若いころはむろんのこと、つい近年まで思いもしなかったことだと、来《こ》し方を振りかえって思わず苦笑を誘われたのだが、むろん、いまは事情が違っている。又左衛門は、自身が忠兵衛にとって最大の政敵であることを認めざるを得なかった。  そうなったきっかけは、又左衛門が郡奉行に昇進してから三年目のある日に、突然にやって来たのである。  寛政四年七月の最後の五の日に行われた城中の会議は、倹約令にともなう江戸屋敷の掛かり費用の削減が、江戸屋敷を代表する形で会議に出席していた留守居の横山源兵衛の手ごわい抵抗に遭って難航し、一刻半(三時間)ほどの議論を費やしてようやく終わった。  暑い日で、会議が行われた白雨の間は、襖を取りはらって風を入れたにもかかわらず、地を焼く熱気が四方から押し寄せて会議の席の人びとをうんざりさせた。執政たちの最初の意気ごみにもかかわらず、またしても江戸側の費用を大きく削りそこなったのは、頑迷とも言える横山のがんばりのせいもあったが、猛暑の中の一刻を越える汗だくの議論に、執政たちが疲れはてたせいでもあった。  疲れを知らぬ頑丈な身体を持つ横山源兵衛が、意気揚揚と引き上げたあとで、残った者は扇子を畳み、挨拶をかわしてから腰を上げた。又左衛門も、同僚の郡奉行山根茂太夫と一緒に廊下に出たが、そこでうしろから杉山忠兵衛に呼びとめられた。 「急ぐか」  と忠兵衛が言った。 「いえ、役所にもどって書類をみるだけですが」 「それではちょっとつき合え。話がある」  忠兵衛がそう言うと、少しはなれて様子を窺っていた山根は、黙礼を残して去って行った。 「お話と申しますと?」 「いや、話があるのはわしではない」  忠兵衛は眼だけで笑った。 「お上だ」 「………」 「開墾地のことを聞きたいそうだ」  言いながら忠兵衛は、連れ立って部屋を出て行く男たちを、油断のない眼で見ている。 「近いうちにという仰せだったが、今日がいいだろう」  そう言って忠兵衛は、みんなが去って行く方に背を向けて歩き出した。そのうしろにしたがいながら、又左衛門はかすかな戸惑いとともに、身体が固くなるのを感じた。藩主の忠盈に会うのは、在国の年の正月ぐらいで、それも家中一同の中にまじっての拝謁である。直接に言葉をかわしたことはなかった。  ──いや、一度だけあったな。  と又左衛門は思った。家督をついで桑山隼太となったあとの正月に、又左衛門と同じく前年に家督をついだ者数名と一緒に藩主の前に呼び出され、御酒を頂いたことがある。そのときに、月番組頭の紹介があったあとでひとりずつ名前を名乗り、それに対して藩主から「油断なく勤めろ」といったような言葉を頂いたのだが、しかしあれは言葉をかわしたとは言えぬか。  又左衛門がそう思っていると、その緊張ぶりを察知したように、忠兵衛が振りむいた。 「なに、むつかしく考えることはいらん。聞かれたことに、正直に答えればいいのだ」 「わかりました」  と又左衛門は言った。  忠兵衛は、郷方勤めの又左衛門が踏みこんだことのない廊下に入って行った。そしてある部屋で立ちどまると、中から中年の武士を呼び出した。安藤弥一右衛門という、又左衛門も名前だけは知っている小姓頭だった。そこからは安藤が案内して、二人は藩主の執務部屋に通された。 「終わったか」  忠盈は、机の前から二人に身体を向けると、気さくに声をかけて来た。忠盈は涼しげな白地の衣服を着て、羽織は脱いだままで坐っていた。 「終わりましてござります。ところが、横山ががんばりまして、例の件はうまくはこびませなんだ」 「それでも、いくらかは削ったろう」 「考えた額の半分にも足りません」 「えらく遠慮したものだの」  忠盈はにこにこ笑った。 「横山は何と言っておった?」 「藩の体面にもとる、の一点張りです。いやじつに、あの男の頑固なのにはあきれ果てました」 「体面か。ふむ、そう言ってがんばるのが無難だろうな」 「よほど、江戸の費用の削減は殿の御意向でもある旨を言って聞かせようかと思いましたが、それを言うと横山の立場がなくなりましょうゆえ、こらえました」 「そりゃあ、杉山」  忠盈は又左衛門の方にも笑顔をむけた。 「言っても無駄だ。横山はわしよりも女どもをこわがっておるのだ」  忠兵衛も失笑した。それから形を改めて言った。 「ところで、これが郡奉行の桑山にござります。何なりとおたずねを」 「桑山又左衛門にござります」  又左衛門は改めて名乗って、礼をした。顔を上げると、忠盈が笑いを消した、少し鋭い眼で又左衛門を見ていた。 「太蔵が原の開墾がすすんでいるそうだの」 「はあ。いっぺんにとはいきませんが、少しずつすすんでおります」 「これまでひらいた土地は、およそ三百町歩余になります」  と忠兵衛が口をはさんだ。 「ほう、三百町歩……」  忠盈はやはり鋭い眼を又左衛門にそそいだままで言った。 「これからの見込みはどうだ?」 「はい、だんだんに鍬を入れて行けば、三千町歩の土地はひらける場所とみておりますが、そこまで行くにはこのあと何十年もかかりましょう。とりあえずは、それがしが郷方におりまする間に、二千町歩ほどの土地をひらく道はつけたいものと考えております」 「二千町歩か」  忠盈は、思い出したように机の上から扇子を取って顔をあおいだ。その動作とともに、忠盈の顔はやわらいだ表情にもどった。 「豪儀なものだ。な? 杉山。もう耕す土地はないかと思っていた領内に、まだそれだけの余地があったというのは喜ぶべきことだ」 「さようでござります」  と言って、忠兵衛が軽く頭を下げた。又左衛門は、申し上げますと言った。 「たしかに三百町歩の土地はひらけましたが、なにせ高所にありますので、田畑の物がうまく育つかどうかは、これからのことにござります」 「そっちの見込みはどうだ?」 「これまでのところ、畑の物は赤蕪から豆、青菜と植えて、まず支障なく育っております。しかし稲作は、今年はじめて早稲を使って試みましたものの、収穫はこれからにござります。稲が育つかどうかが鍵でござりまして、これがうまく行かぬ場合は、開墾地の値打ちは半減することになりましょう」 「稲の植え付けはどのぐらいやったのか」 「十町歩ほどでござります」 「百姓はどう言っておるかの」 「昨今の暑さが七月いっぱいつづけば、まず心配はなかろうということです」 「しかし、よくやった」  と藩主は言った。 「太蔵が原は平坦な台地で、ひらけば耕地となるとわかっていながら、開墾ではあれだけの手腕をふるったそなたの父親も手をつけかね、小黒は安易に手を出して失敗した。そういう土地だ。たとえ稲が育たなくとも、使いみちは出て来よう。よくやった」 「しかし、牧原さまからお聞きおよびかも知れませんが、今度の開墾はひとえに、取水口をつけた田口半平の町見の才に負うものです。それがしはただ、牧原さまの斡旋と田口の町見術に乗っかって、開墾の手順を取り決めたに過ぎません」 「それと、羽太屋の財力の上にも乗っかっておる」  と、忠兵衛が口をはさんだ。言葉にいくらか皮肉なひびきがあった。忠兵衛が羽太屋を嫌うのは、杉山一門がむかしから住吉屋などの城下の富商と深く結びついていて、そのいわば一門の財政の黒幕たちが、羽太屋の財力がこれ以上に太ることを嫌うからだとわかっている。 「そういうことは聞いた」  と忠盈は言った。忠盈は忠兵衛、又左衛門より二つ年下だが、頬が肥えて色白の顔はもっと若若しい感じをあたえる。その顔に微笑がうかんだ。 「だから牧原には、田口を粗末に扱わぬように言ってあるが、しかしだ、それもこれもそなたの太蔵が原の開墾に賭けた一念があってこそ、うまく生きたことだ」 「恐れいりまする」 「それを言うと杉山に甘いとたしなめられるが、わしは太蔵が原一面に稲が稔るとき、わが藩の借金もよほど減るのではないかと思っているのだ。桑山、このあともしっかりと勤めろ」 「かしこまりましてござります」  又左衛門は平伏した。藩主の言い方は、少少過褒気味ではないかと思ったが、又左衛門は、さすがに長年の苦労を認められたうれしさで胸が熱くなるのを感じた。 「開墾地を一度見たいものだな」  と藩主がつぶやいた。 「杉山。又左衛門に案内させて、ざっと山を見て来てはいかぬかの」 「それでは少少、大事になりましょう」 「なに、忍んで行くのよ。馬で飛ばして行けばさほどの道のりでもあるまい」  忠盈は馬術の名手だった。帰国しているときは、二ノ丸の馬場でよく馬に乗る。忠盈は自分の思いつきが気に入った顔になって、勢いよく言った。 「月番は松波か。松波に言って手配させてくれぬか。供は又左衛門のほかに二、三人もいればよい」 「どうしてもという仰せなら、松波、安藤と談合してみますが、山登りは疲れますぞ」  と忠兵衛は言った。藩主の突然の思いつきに、あまり賛成しない様子が露骨に見えたが、忠盈は押し切るように言った。 「こう暑くては城の中にいるのも楽ではない。たまには外に出たいものだ」  忠盈の開墾地の視察は数日後に実現して、又左衛門は取水口から耕地、さらにただいま開墾中の新地《さらち》まで藩主を案内して回ったのだが、崖に埋め込むように作られた石組みの水路や、真っ黒になって働いている開墾人夫たちの姿は、藩主に強い印象を残したようだった。二日ほどして、開墾人夫たちに対して煙草代の名目で、藩主から五十両の金があたえられた。  開墾地の稲を刈りとる時機に、忠盈はもう一度太蔵が原を訪ね、翌年参府のために国元を出発する直前に、桑山又左衛門を郡代にすすめる人事を発表した。  それまでの郡代山内奥太夫は病身で、一年ほど前から隠居退任を願っていた。だが、その後任には花岡郷助が推されるものと思われていた。花岡は二十八の時に代官に抜擢《ばつてき》され、又左衛門がようやく代官になったときにはもう郡奉行にすすんでいた能吏型の秀才だったから、誰しもが山内のあとを襲って郡代の席に坐るのは花岡と思ったのである。花岡の家は、曾祖父が郡代を勤めた家柄で、家禄も三百石だった。  だから新しい郡代が花岡ではなく、又左衛門だと知れわたったとき、家中の者は一様におどろき、一部には陰口めいた言葉がささやかれた。杉山忠兵衛との古いつき合いから、忠兵衛のひきによる人事だろうというのはいい方で、中には開墾を通じて又左衛門が羽太屋重兵衛とつながっていることをあげつらい、重兵衛の金で執政たちに賄賂を使ったのではないか、などという悪質なうわさをばらまく者さえいた。 「地位もすすみ、禄高の方も一度に倍近くふえるとなると、いろいろ言われるのもやむを得んな。ま、気にするな」  忠兵衛の屋敷に、郡代に昇進した挨拶に行ったとき、忠兵衛はそう言ってなぐさめた。  郡代は、過去は二人で勤めた実用本位の役職だったが、近年はずっと一人職で、中身も郡奉行、代官の行政を統括する農政の代表者という性格が強くなっていた。中国風に司農の別名でも呼ばれ、執政といえども、こと農政に関しては郡代の承認を経ずに決定を下してはならないというほどの権威を附与されていた。  その権威にふさわしく、郡代の禄高は三百石以上という定めになっていたので、又左衛門は郡代に就任すると同時に、一挙に百五十石の加増を受け、家禄は三百三十石となったのである。妬みに似た陰口がささやかれたのも無理はなかったが、その陰口をきいた者たちのほとんどは、又左衛門の指揮で太蔵が原に着着と開墾地がひらけていることに関心を払わなかったのである。  しかし、それから四年後に、又左衛門がさらに三百石の加増を受けて中老にすすんだときは、家中の者はその加増と昇進の意味を理解し、今度は陰口をきく者はいなかった。太蔵が原の開墾地は千百町歩に達し、その半ば近い四百五十町歩の田畑は良質の米と畑作物を産するようになっていた上に、藩ではその年太蔵が原の開墾地の米の初沖出しを祝って、家中からの借り入れ米を一律五石ずつ戻したのである。  それで藩の借り入れが解けるだろうとまでは思わなくとも、家中の人びとがその出来事で太蔵が原で行われている開墾に改めて注目したことは確かだった。開墾が順調に推移すれば、小黒家老の時代に頻繁に採用されて家中の暮らしを苦しめた御賄いは姿を消すだろう、と人びとはささやき合った。  郡代になると、月の二十五日に行われる大会議のほかに、執政会議に呼ばれて農政上の意見をもとめられることが、たびたびあった。  郡代にすすんでから四年目の、秋のその日も、又左衛門は通常の諮問があるだけだろうと思って執政会議の部屋に入ったのである。たしかに執政からは、その秋の田畑の収穫の大要、検見の見込みと実収との差などについて、つぎつぎと鋭い質問が出た。そういう質問に、又左衛門はいつものように、くわしく懇切に答えて行った。  又左衛門は、郡代にすすんでからも、時おり馬を駆って領内を巡視して回った。長年の勘でどこを見れば何がわかるかを心得ていた。そういう自信は、執政たちの質問に答えている間にもにじみ出て、執政たちは最後には教えを乞うといった口調になるのである。  その日の質問がすべて終わってから、上座にいた杉山忠兵衛が、不意に又左衛門に笑顔をむけると、さあ、ではお上に会って来ようかと言った。 「貴公は、本日から中老に任ぜられる」  忠兵衛のその言葉が、自分にむけられたのだと理解するまで、又左衛門にはしばらく混乱があった。執政たちが低い声で笑った。それは好意的な笑い声だった。  ──内側に入った。  混乱がおさまったとき、又左衛門は突然にそう思った。  その不思議な気分を味わうのは、はじめてではなかった。元服して前髪を落としたときや片貝道場の紅白試合で、はじめて兄弟子の平井甚五郎を破ったときにも、又左衛門はそれまで肌を包んでいたなじみ深い世界がみるみる遠くにしりぞき、突然に新しい世界が眼の前に口をあけたのを感じたのだったが、今度の場合は元服や剣の話の比ではなかった。  混乱はおさまったが、忠兵衛のひと言で見えて来た世界を理解したとき、四十三歳の又左衛門の身体は、熱湯をかぶったように熱くなっていた。権力の内側に入った実感が襲って来たのである。  つねに不透明なものに鎧《よろ》われていて所在も不確かでありながら、監視したり、命令をくだしたり、時にはうむを言わせずひとの命を断ちもする、無気味で油断ならない力。げんに又左衛門は、ついさっきまでそのものの前に引き出されて、自信ありげな郡代の外見とはべつに、強い緊張感にとらえられながら物を言っていたのである。口を出る言葉にまで気を配らせずにおかなかったそのものが、いま音もなくとびらをあけて、自分を招き入れたのだ。  又左衛門は、二列に並んで自分に顔をむけている執政たちを見た。おそらく又左衛門の顔は、おさえ切れない内心の高ぶりのために赤くなっていたに違いない。杉山忠兵衛、組頭からいきなり次席家老に坐った多田|蔵人《くらんど》、政変後中老から家老にすすんだ佐治庸助、そして松波伊織、長谷川吉右衛門、金井又四郎、和田甚之丞の四人の中老たちは、また低い笑い声を立てた。内輪な感じの笑い声に聞こえた。 「お上にお会いする前に……」  忠兵衛が、やはりそれまでとは違う、内輪な言葉遣いで言った。 「桑山にも、つぎの郡代を推してもらおうか。どうせ、お上からはそのことでご下問があるだろうし……」 「それがよろしかろう」  と言ったのは佐治庸助だった。小柄だが太っていて、鬢の毛が白い佐治は、そこでぐいと居ならぶ執政たちを見回した。 「農政のことは司農に聞けというのがそれがしのむかしからの持論だ。むろん、人事もふくめてのことにござる。現場のことは現場を踏んだ者でなくてはわからぬ」 「………」 「ところで又左の後釜が、この間から相談しているにもかかわらず容易に決まらぬのは、諸公のお手もとに自薦、他薦の希望者がひそかにおとずれているためという風聞を耳にした。まさかとは思うが、そういう風聞を断つためにも、ここは又左の意見を重んじて用いるべきである」 「佐治どののご意見だ」  と忠兵衛が言った。佐治が述べた言葉の中には、あきらかにほかの執政たちを刺す棘《とげ》が含まれているのだったが、忠兵衛はそのことには気づかなかったような、あっさりした口調でつづけた。 「もっともなご意見で、方方も異存はないものと存ずる。と、いうわけで、桑山」  忠兵衛は、今度はにこやかな顔を又左衛門にむけた。 「貴公なら、誰を推すな?」 「花岡郷助が適任でござりましょう」  と又左衛門は言った。郷方勤めでなく藩主の側近にいたら、あるいは用人、側用人まで登りつめたかも知れないと言われる不運な能吏花岡郷助は、まだ郡奉行の職にとどまっていた。 「代官から郡奉行と歴任する間に、花岡は領内の農事なら掌を指すごとく諳んじるに至っております。また、花岡の農政の処理が剃刀の切れ味を示すことはどなたさまもご承知のとおり。かの男にまかせれば、藩の農事は小ゆるぎもせぬことを請け合います」  そう言ったとき、又左衛門はたったいま踏みこんだ場所から、はやくも自分に附与された権力を行使したような気分を味わったのだった。その気分は心をくすぐった。      三  だが、そのあとに起こった執政入りにともなうさまざまな出来事を考えると、忠兵衛に中老就任を告げられた日の又左衛門は、じつは中老職ということ、また執政ということの意味をほとんど理解していなかったと言うべきかも知れなかった。  中老就任が公にされた翌日には、藩主名ではやくも屋敷替えの命令が出た。住み馴れた左内町の家を引き払って、与力町の中老屋敷に移ったとき、又左衛門は屋敷と建物の広さに驚いた。左内町の家も四百五十坪の敷地に建坪七十四坪の狭くはない家が建っていたのだが、与力町に藩からあたえられた屋敷は、敷地千六百坪、建物は左内町の家の二倍はあり、屋敷の中に雑木林があった。それもまた執政というものの一面だったのである。  そこで屋敷替えが済むのを待っていたように、祝いの進物を提げた客が、ぞくぞくと又左衛門の屋敷をおとずれて来た。  又左衛門の推薦で郡代にのぼった花岡をはじめとする郷方勤めの者や、戸浦の羽太屋、古い友人の藤井庄六、片貝道場の主でいまは片貝姓を名乗るもとの羽賀吉十郎がたずねて来たり、新たに同僚となった執政たちから進物がとどけられたりということには、又左衛門はずいぶん大げさなことになるものだという感想は抱いたものの、違和感は持たなかった。  だが、それまでほとんど面識のなかった城下の富商や、言葉をかわすことも稀だった城勤めの役持ちが、当然のように進物を持って現れたのには内心驚きもし、また奇異な感じも受けた。  ことに城下商人たちが、進物の品に添えて大ていは百両前後の金子を包んで来たのには、驚くよりも当惑した。  その当惑の気分を、又左衛門は面識だけはある住吉屋の主人宗兵衛に話した。 「ただいまのようなお話を、わたくしめのほかにもお洩らしになりましたか」  と宗兵衛は言った。宗兵衛の方が、又左衛門よりもっと当惑したような顔をしていた。 「いや、話したのはそなただけだ」 「それでは申し上げますが……」  宗兵衛は皺の深い面長な顔に、はげますような微笑をうかべた。 「黙ってもらっておかれてはいかがですか。申しては何でござりますが、われわれほどの所帯になりますと、百両、二百両の金が店にひびくようなことは万万ござりません」 「それはわかっておる」  と又左衛門は言った。 「そなたたちからみれば、百両はまずはした金だろう。だが、そのはした金も十人が持参すれば千両になる」 「それはそうでござります」 「わしはさしあたってそんな金はいらぬ。それに、進物の品はともかく、金からは賄賂が匂う」 「匂うのは道理で桑山さま、この金はもともと賄賂でござりますよ」 「………」 「いずれ何かの折には、よろしくお頼み申しますという意味あいのお金でござります」  住吉屋の言葉からは、生あたたかくかすかな、物の腐敗する気配が匂って来るようだった。権力に近づいて腐るのがのぞみか、と言った市之丞の古い言葉を、又左衛門は思い出していた。  又左衛門は顔をしかめた。 「そういう趣旨の金は受けとれぬと申したら、どういうことになるのかな」 「今度の新しいご中老は、頼み甲斐のないお方だということになりましょうか」 「金をもらわんでも、力になるときはなる」 「もうご承知の上で、そういうことをおっしゃっておいでのようですな」  住吉屋の笑顔が大きくなった。 「商人と申すものは、利で結ばれた相手でないと、なかなか信用しない悪い癖を持つものでござりまして」 「なるほど」 「おことわりになるよりは、受け取ってお散じになることをおすすめいたしますよ。桑山さま。大変失礼ですが、執政として十分にご器量をふるわれるためには、思わぬ金もかかるもののようでござります」  住吉屋宗兵衛の言葉を聞きながら、又左衛門はやはり市之丞が言った、金井権十郎は人格清潔な執政だったが、まわりにひとがあつまらなかったという言葉を思い出していた。それも考えものだと、又左衛門は思った。  同じ時期の執政だった忠兵衛の父親雪庵は、金井とは逆に遠慮なく賄賂を取り、それをまた私利私欲のために使うことをはばからなかった人物だったらしい。だが、執政としてどちらがいい仕事を残したかということになると、問題なく先代の杉山忠兵衛だとわかっている。  戸浦湊をひろげて千石船が出入り出来るようにし、桑山孫助の進言を容れて長四郎堰の開削を許し、土堤を築いて戸部川の溢水《いつすい》止めに積極的に取り組んだのは、いずれも雪庵だという。それらは雪庵が執政からしりぞいたあとに戸浦湊の盛んな舟運、長四郎堰に沿う浜通りの荒地の開墾などとなって実った。  雪庵には楢岡図書という智恵者の同僚がついていたが、それだけではなく、まわりに大勢の人間があつまったから、思い切った政策が打ち出せたのだろうと見当がつく。そしてひとがあつまったのは、雪庵がよく金を散じたせいだろう。  ──私利私欲とはべつに……。  この種の金はやはり受け取っておくべきものらしいと、又左衛門は納得した。幸いなことに妻の満江は、他界した姑とは違って物欲の薄い女だった。又左衛門が再度の加増を受けて中老にすすんだことは素直に喜んだようだったが、そういう口の下から生まれ育った左内町の古い家を懐かしんだりするところが、満江にはあった。満江は栄耀をのぞんで金を欲しがったりはすまい。それなら、いざというときに散じるために、あつまって来る金はもらっておけばいいのだ。  ──それとも……。  いったんもらってしまうと、賄賂というものはもらい癖がつくものなのか。ちらとそうした不安が胸を横切るのを感じながら、又左衛門はにが笑いして住吉屋に言った。 「仰せのとおり、黙ってもらっておくのが無難のようだの」  だが、又左衛門をおどろかす出来事は、それで終わったわけではなかった。  中老に就任してひと月近くも経ち、その間二度城中の会議に出席し、与力町の新しい家の暮らしにもいくらかなじんで来たころ、思いがけないところから使いが来た。使いは原口民弥の家から来た男だった。  又左衛門が、その夜原口に指定されたとおりに、単身で鷹匠町の奥にある原口の屋敷をおとずれると、主人の原口民弥は、屋敷の奥深い場所にある部屋で又左衛門を迎えた。三十前後と思われる若い男が一緒だった。 「途中で、ひとに会われなかったかな」  酒肴の膳をはこんで来た少年二人が、主人と客の盃に酒を満たして部屋を出て行くと、原口はすぐに言った。  又左衛門は、いえと言った。時刻は五ツ半(午後九時)を回っていた。肌寒い晩秋の夜ふけである。屋敷町を歩き回っている人間はいなかった。 「さようか。それは重畳《ちようじよう》」  原口はわずかに口もとをほころばせ、そばの若い男を振りむくと、これは小谷直記だと言った。又左衛門は驚きを隠して頭をさげた。その若い武士を、又左衛門は原口の息子ででもあるかと思って眺めていたのである。  ──小谷の当主か。  政治好きで、黒幕呼ばわりされていた小谷直記が病死してから数年経つ。その葬儀が、城下の万泉寺で盛大に行われたのは知っていたが、小谷の後継者については、又左衛門は何も聞いていなかったのである。不意打ちを喰ったような驚きがあった。  顔をあげると、若い小谷は又左衛門に微笑をむけていた。眼が合うと、軽くうなずくようなしぐさをしたが声は出さなかった。 「では、そこもとの中老就任を祝って」  原口が言って盃をつかんだので、又左衛門もおそれいりますと言うと盃を取った。小谷もそれにならった。  酒を飲み干したが、又左衛門の胸は緊張でこわばっていた。藩主家の血を引き、藩では特別の家とされている原口、小谷の両家が、このおれに何の用があるのだろうかと思っていた。ただ中老になったから、それを祝ってくれるというわけではあるまい。  ──それとも……。  両家が、執政入りした者を呼んで祝福する慣例でもあるのか。そう思っている又左衛門の気持ちを読んだように、原口が言った。 「べつに固くならんでもよろしい」 「………」 「そこもとが執政入りした機会に、少し話しておきたいことがあって来てもらっただけのことだ」 「相わかりました」  と又左衛門は言った。 「で、そのお話と申しますのは?」 「これからの話は、他言無用だぞ」  不意に原口がそう言った。原口民弥は、十年以上も前に杉山忠兵衛の屋敷で見かけたときにくらべると、髪は白く、顔の皺もふえていたが、細おもての引きしまった顔、鋭い眼つきはそのままで、肌の色が黒いのはあきらかな日焼けだった。日ごろ山か海に出かけているのだ。藩では無役の家中や非番の藩士に、身体を鍛えるために山で鳥を刺したり、磯で魚を釣ったりすることを奨励していた。  その鋭い眼を受けとめながら、又左衛門はやはり密談があって呼ばれたのだなと思った。それは単身で、しかも五ツ半という時刻に来るようにという使いを受けたときから予想出来たことだった。ただし、密談の中身は見当もつかなかった。 「心得ましてござります」 「さっそくにたずねるが、執政のなかの誰かが、そこもとに会いたいと言いはしなかったかの」 「いえ」 「まだ、遠慮しているのだ」  原口民弥は言い、不意ににやりと笑うと小谷直記を見た。若い小谷も、秘密めいた笑いを原口に返した。 「そのうちに、誰かがほかの執政には内密に、そこもとに会おうと言い出す」 「はあ」 「ということは、どういうことかおわかりだろうな」 「執政府に、派閥があるということですか」 「そのとおり」 「わずか七名の執政の間に?」 「そこもとをいれて八人だ」  と原口は言った。すると、それまで声を出さなかった小谷直記が、まるで老練な政治家のような口を利いた。 「三人寄れば二人対一人というのが、人間の性かも知れませんな」 「とにかく、近くにそういうことがあると心得ておかれよ」 「承りました」 「ところで、そこもとは杉山派かの」 「いや」  又左衛門は胸を起こした。 「杉山忠兵衛とは片貝道場の同門のつき合いでござりますが、派閥となれば話はまた別の話になりましょう」 「ふむ」  原口は鋭い眼で又左衛門を見ている。 「執政のなかに、そこもとの中老就任に強く反対した者がいた。それはご存じか」 「いえ」  又左衛門は水を浴びたように胸が冷えるのを感じた。杉山忠兵衛が又左衛門にむかって中老昇進を告げたとき、好意的な笑顔でこちらを見ていた執政たちを思い出していた。  だが、あのなかに自分の昇進を喜ばない者がいたのだ、と思うと胸がつめたくなるような気分が喉のあたりにこみ上げて来るのを感じたが、又左衛門はどうにかその動揺を隠すことが出来た。静かにたずねた。 「それは、どなたさまのことでしょうか」 「いや、わしから名前を言うわけにはいかぬ。なに、いずれはわかることだ。そういう事実があったことをおぼえておくだけでよろしい」 「はあ」 「そういう次第でな、そこもともいずれ派閥の争いに巻きこまれる。そのときに敵を味方と見誤ったりせぬよう、慎重に振る舞うことだ」 「………」 「孤立はいかんぞ、桑山」  と原口は言った。 「そこもとは郡奉行から成り上がって来た中老だ。それだけで、すでに執政府のなかで孤立しておる。誰かと組むことだな。そうでないと自分の意見を通すことはむつかしい」 「………」 「そうは言っても、はじめにそこもとに誘いをかけて来る者が味方とは限らぬ。そのあたりは慎重に見きわめることだ」 「わかりました」 「そこもとを呼びつけて、こういう話を聞かせるのはいささかお節介に似て聞きぐるしいかも知れぬが、お上がそこもとに大層のぞみをかけておられる。存分に力をふるわせたいお考えだ」 「恐れいりまする」 「しかしお上の立場というものは不自由なものでな。言ったことは大方執政たちの耳に筒抜けにとどく。また、お上ご自身があまり執政府の実情にあかるいとは言えぬ、ということで、今夜はお上に代わってわれわれが少少助言を試みた次第だ」 「ありがたいことにござります」 「ついでに、ひとつ耳に入れておこう」  と原口は言い、突然に手を叩いた。さっきの少年たちを呼ぶためらしかったが、それがあまりに突然だったので又左衛門はびっくりした。 「なに、用件はこれで終わりだ。そのひとつだけという話だが、お上もわれわれも、杉山が小黒の家を潰してしまったのは、やり過ぎだったと考えておる」 「はあ」 「いや、小黒の罪状は明白だった。家中、領民にあれだけの辛抱を強いながら、おのれはひそかに私腹を肥やしていた。そしてそのことが露見するのを恐れて、内藤や松波を執政府から追い出しただけでなく、杉山が動き出したと知ると、今度は牧原を襲わせて杉山の失点としようと画策した。権力に執着するとそこまで行ってしまうという見本のようなものだが、本人はやめるにやめられぬ立場だったかも知れぬて。そこもとも用心されよ」  さっき酒肴をはこんで来た少年二人が、主人と客である小谷と又左衛門に酒をつぎはじめたが、原口はいま話していることは秘事ではないという口ぶりで、小黒の話をつづけた。 「そういう次第ゆえ、小黒本人の郷入りはやむを得ぬ処分だったのだが、小黒の家がああいう形で根絶やしになるということは、お上はむろん、われわれも予想しなかったことだ。小黒の家は藩草創以来の名誉ある家だから、処分は処分として小さく残すという手はあり得た」 「すると小黒勝三郎が斬られたり、残った一族が領外に追放されたりしたことはお上のご本意ではなかったと……」 「むろん、それもある」  と原口は言って盃を口にはこんだ。すると、小谷直記が横から口をはさんだ。 「あの夜のことは、大目付の方にも不審があったらしく、あとでだいぶ調べてみたようだ。というのは、大目付配下の厳戒の中から小黒の伜やら弟やら四人もの男が家を抜け出たということで、外から手引きした者がいるのではないかと疑ったらしい」 「なんと……」 「いや、事実だ」  と、小谷は言ってうなずいた。 「お上もわれわれも、その調べに甚大な関心を寄せたのだが、結局は何も出なかった」 「疑われたのは杉山忠兵衛だ」  原口が言って、低い笑い声を立てた。 「つまり、手引きしてわざと自分を襲わせたのではないかと疑われたわけだの」 「まさか」  と又左衛門は言った。 「あの夜は、それがしも頼まれて杉山の護衛についておりましたが、とてもわざと襲わせたという状況ではありませんでしたぞ」 「そのへんのことはわかっておる」  と原口は言った。まだ、顔の笑いを消していなかった。 「やるとすれば命がけだからの。だがあの夜は、忠兵衛は鉄桶《てつとう》の守りで身を固めていたと、大目付は言っておった。桑山隼太、野瀬市之丞は片貝道場の俊秀だ。そしてあとの二人、杉山家の家士で松崎新作という男は一刀流の免許取りで、いま一人は……何と申したかの?」  原口は小谷を振りむいた。 「駒井雄次郎」  と小谷が言った。 「そう、そう。その駒井という男は江戸家老の推薦で十日ほど前に杉山の屋敷に来たばかりと判明したが、江戸で直心流を修行して、これも免許取りだったそうだ」 「………」  又左衛門は声が出なかったが、やっと言った。 「すると、小黒の家を根絶やしにするために、わざと襲わせて男たちを屠ったと……」 「ま、疑いはそんなことだったらしいが、証拠は出なかったらしい。だが証拠がないから杉山が潔白だとも言えぬわけでの」 「形としては……」  と小谷直記も言った。 「長年対立して来た小黒一族を、一度に手ぎわよく抹殺したことになったのが、杉山に疑いが残るところだろう」 「あの雪庵の伜だ、そのぐらいの手は使うだろうと思われるところが、杉山の分が悪いところだの。忠兵衛には気をつけることだ」  原口も小谷も、こういう話題が嫌いではないらしく、そこで声を合わせて笑ったが、又左衛門は笑えなかった。  又左衛門は、あの政変の夜のいかにも手ぎわよく準備がととのっていた杉山屋敷の模様や、忠兵衛本人の隠し切れない興奮ぶりなどを改めて思い返していたのである。      四  原口と小谷のその夜の話には、多分に謎めいた部分やあいまいなところなどがあって、又左衛門は半信半疑の思いをしたのだったが、それからさらに半月ほど経って、城中で月の最後の五の日の会議が終わったあとで家老の佐治庸助に声をかけられたとき、又左衛門は卒然と原口の言葉を思い出すことになった。 「菊も、もう終わりでござるな」  佐治はうしろから声をかけると、又左衛門を引きとめるように廊下に立ちどまって庭を見おろした。 「近ごろは霜がきびしゅうござるゆえ」  と又左衛門も言って、佐治と肩をならべて庭を見た。中庭に庭番の者が丹精する菊畑があって、毎年見事な花を咲かせる。花は白菊と黄菊だった。  初冬の乾いた日射しの下に、菊はまだ盛りのころの色を残していたが、ところどころに霜に焼かれた褐色の部分が見え、その褐色のしみは次第にひろがる気配をみせていた。 「いかがですかな。会議にはよほど馴れましたかな」  佐治は又左衛門を見ずに、庭に顔をむけたままで言った。その間に、会議に出席した人びとは三三五五廊下を遠ざかり、背後の部屋には後片づけの者たちが出入りしはじめていた。 「はあ、おかげさまで」 「それはけっこう」  と言ってから、佐治は不意に又左衛門に向き直り、ついですばやくあたりの様子を窺った。その眼のくばりが鋭かった。 「初音町に『若松』と申す料理茶屋があるのをご存じかの」 「存じております」 「貴公と、膝をまじえて談じたいことがある」  と佐治は言った。又左衛門を見た眼に、わずかに笑いをうかべた。 「なに、固い話を聞かせるつもりはない。ただ、執政に入った者として心得ておく方がいいと思われることを、二、三お話ししようかと思っての」  原口が言ったのはこのことだな、と思いながら、又左衛門は冷静に佐治を見返した。「若松」に行くと言うと、佐治は用意していたようにすぐに約束の日時を言い、そのまま後も見ずに又左衛門からはなれて行った。  又左衛門が「若松」をたずねたのは、佐治に指定された三日後の夜である。案内された部屋に、佐治庸助はさきに来ていた。 「まず、少し飲もうか」  と佐治は言い、女たちに酌をさせてぐいぐいと盃をあけた。その間に又左衛門から太蔵が原の開墾の話を聞き、自分でも根掘り葉掘り質問したあとで、佐治は突然に盃を伏せ、女たちを部屋から追い出した。 「正保年代に辻四郎兵衛が郡代から執政入りして名家老と呼ばれた。そのあと寛文十年に土屋勘助、正徳四年に小田弥四郎が郡代から中老に変わり、これまた農政に手腕をふるったそうだ」 「………」 「貴公はひさしぶりに郡代から中老にのぼって来た人物ということになるが、この人事はじつを申すとかなり揉めた」 「それは当然でござりましょう。それがしはもと百八十石の郡奉行。執政に入るには、少少資格に欠けるところがあります」  又左衛門は、原口から聞いたことは伏せてそれだけ言った。佐治は敵か味方か、まだ正体の定かでない人物だった。 「いや、資格などということはかまわん」  と佐治は言った。 「貴公を中老にという話は、もともとお上の口から出たことだ。それを執政に取り次いだのはわしだ。ところが、中老をふやしてよいならほかに適任の人物がいると、貴公の執政入りに待ったをかけた人物がいた」 「………」 「その人物が推したのは、楢岡外記だ。図書の養子だ。と申せば、貴公の中老就任に待ったをかけたのが誰か、おわかりだろう」 「いえ」  又左衛門は首を振った。内心ではもうわかっていたが、この話を持ち出した佐治の真意が知れなかった。佐治庸助は杉山派の執政のはずである。  それとも、佐治はべつの人間のことを言っているのだろうかと訝ったとき、佐治は肉の厚い顔に嘲笑うような表情をうかべた。 「桑山又左衛門、用心のいいことだ。だが、わしを警戒することはない。わしは杉山派と言われているが、中老に入ったのはお上のご下命によるもので、杉山に対しては是を是とし、非を非として来た。執政たる者の心構えはしかあるべきものだと考えておる」 「同感です。みだりに雷同すべきではありません」 「それでおわかりだろうが、楢岡を中老に推したのは杉山忠兵衛だ。筆頭家老の権威でそれを執政府の申し合わせとし、貴公の昇進は時期尚早ということでお上を押し切ろうという肚だったが、われわれは反対した」 「………」  やはりそうかと、又左衛門は胸がつめたくなるような気がした。忠兵衛はやはりおれの中老昇進を喜ばなかったのだなと思い、だがそういう忠兵衛の気持ちが、何となくわかるような気もした。  忠兵衛か……。  若いころ、物わかりのいいくだけた友達づらが出来たのは、腹の中に小ゆるぎもしない上士意識を隠していたからに違いない。あの笑顔はその意識の裏返しだ。その忠兵衛が、おれと肩をならべて藩政をみることを喜ぶはずがない。 「反対したのはわしと多田蔵人、和田甚之丞の三名だった。楢岡を執政に入れても、藩に益するところは何もないとわれわれは申した。その点、桑山又左衛門は……」  佐治庸助がしゃべっていることを、又左衛門は半ばしか聞いていなかった。  忠兵衛が、そこまではっきりと肚を見せたということになると、こちらもあの男とのつき合い方を考え直さなくてはならないだろうな、と又左衛門は思っていた。さしあたって、忠兵衛に不満を持つらしい佐治庸助と、こうして人眼を避けて酒を飲んでいるなどということは、危険きわまりないことに違いない。相手がおれに好意を持っていることは疑いないにしても。  いや、佐治に好意を持たれることが、すでに忠兵衛に佐治の一味とみられることになりかねないだろう。 「わしも、あのときは少し言い過ぎた」  佐治庸助が、まだしゃべっていた。佐治の顔は酔いに染まり、密談というには大きすぎる声になっている。 「漆の植え立てなどということを、筆頭家老が指図すべきでないと言ったのはよいとして、二十万本の苗木を枯らす羽目になったのもそのためだと言ったのは、たしかに言い過ぎた」 「………」 「それからだな、杉山のわしをみる眼が変わったのは。いずれ杉山は、わしの欠点を拾い上げて家老職から降ろしにかかるに違いない」 「………」  又左衛門は無言で佐治を見つめた。そうか、佐治庸助はもう忠兵衛にそういう眼でみられているのか、と思った。 「だが、わしはお上の肩入れで執政入りした者だ。杉山の思い通りにはさせぬ」 「それは、当然です」 「そう思うか。そこで桑山に相談がある」  佐治庸助は銚子をつかみ上げると、又左衛門に酒をつぎ、ついでに自分の盃も満たした。佐治の動作には、どことなく粗野な感じが出ていた。 「松波伊織、長谷川吉右衛門、金井又四郎は筋金入りの杉山派だ。杉山がこうと言えば、一言の反対もせぬ連中だ。杉山はその勢いを背に、これまで執政会議を意のままにあやつって来た。意のままにだ」  佐治は、乱暴なしぐさで盃をあけた。 「そこに貴公が執政入りして来た。これで釣り合いがとれたと、わしは多田どのに申したが、多田どのも同感だと言われた」 「ちょっと、お待ちください」  と又左衛門は佐治の言葉を制した。 「それがしはまだ、どちらに味方するとも申し上げておりません。そういう派閥争いめいたことも、ただいまうかがっておどろいたような次第で……」 「狸め!」  と佐治は言った。だが声は小さく、眼は笑っていた。 「そうか、おどろかれたか。だが、一度おどろいたらもうよかろう。さて、そこで相談というわけだ。無理強いするつもりは毛頭ないが、さっき話したように、杉山は貴公の執政入りを喜ばなかったのだ。貴公にしても、それでも杉山の肩を持つというわけにはいかんだろう」 「筆頭家老の思惑はどうあれ……」  又左衛門は胸を起こして、正面から佐治を見た。 「それがしも佐治どの同様、お上の推挽《すいばん》によって執政にのぼって来た者です。事の審議にあたっては、派閥の益のためではなく、事の是非によって物事を判断したい考えです」 「ということは、われわれと組むことをことわるということだな」 「いや、是是非非で行くということです。佐治どのと組むこともありましょうが、場合によっては筆頭家老と組むかも知れません」 「そんなことは、長くはつづかん」  と佐治は言った。 「さような生ぬるい了簡では、遠からず執政から降ろされるぞ。執政入りをのぞむ者は目白押しにひかえておるのだ。そのときに味方がおらぬと辛いことになると思うがの」 「うけたまわっておきます」  と又左衛門は言い、盃を伏せて一礼した。 「これで失礼致しますが、今夜ここで佐治どのと会合したことは、一切ほかには洩らしませぬゆえご心配なく」  又左衛門は駕籠を呼んでもらって「若松」を出たが、恫喝めいた佐治の最後の言葉が、胸のなかにいつまでも不快な味を残して消えないのを感じた。  ──郷方勤めとは……。  だいぶ違うな、と又左衛門は思っていた。代官、郡奉行という役目は、治める土地と人間といかにうまく折り合いをつけて、そこからいかにして最高に双方の利益を引き出すかということと、その作業の間に、どのような意味での不正も入りこまないように、きびしく監視するということに尽きていた。  そして郡代になると、土地とひとを治めるという役職に付随する道徳的な面はいっそう拡大されて、郡代の人格そのものが怠りない農事と不正のない農政の鑑《かがみ》のごとき存在であることを要求されるのであった。  正保のむかしに郡代から家老に転じた辻四郎兵衛は、藩の公文書に行実君子たりと記録された人物で、辻が馬で郷村を一巡するだけで、村村の気風が粛然と改まったという伝説を残した。  又左衛門は、辻を真似て君子になるつもりはなかったが、それでも身を慎み私利私欲を遠ざけて、身辺清潔な郡代であろうと努力したことは事実である。郷方勤めだから誘惑も賄賂もないというわけではなく、その気配を見せればすり寄って来て袖の下を使おうとする者は、郷方にもいくらもいた。水稲の検見の加減、隠し田の露見、新田の年貢取り立ての開始といった事柄がそこに絡んで来る。  郷方勤めでは、いかに誘惑されようとも賄賂は厳禁だった。受け取ればただちに汚吏の極印をおされる。そしてまた、賄賂さえ受けなければ、たとえば村や百姓たちと折り合いをつけるのに役立つという判断から、代官が自分の裁量で隠し田一枚を見のがすということは許されることがあった。時には法よりも人倫が重んじられるのである。そういう意味では郷方勤めはわかりやすい世界でもあった。  ──少なくとも執政府よりはな。  と、駕籠にゆられながら、又左衛門は思っている。執政という職は、賄賂をむさぼれば私腹をこやしたとして断罪もされるが、多少の賂賂におどろくような小心者にも勤まらない職であるらしく、また隙あらば誰かを蹴落とそうと、油断のない眼をあたりにくばっている人間のあつまりでもあるらしい。  佐治が恫喝めいたことを言ったのも、要するに、背後にひかえている執政間の生ぐさい権力争いが原因だとすれば、およその状況は見当がつく。  ──忠兵衛との仲が……。  見かけ以上に険悪になっているのではないか、と又左衛門は思った。露骨な誘いかけも、自分の思惑どおりにいかないとわかると今度は脅しをかけて来たのも、すべて佐治庸助のゆとりのなさを示すものだ。  ──佐治はああ言ったが……。  今後誰かが執政から降ろされることがあるとすれば、それはおれではなく佐治庸助の方が先ではないのか。  そう思うと、今夜の佐治に対する応対は、まあまあうまく行った方かも知れないという気がした。あいまいなことを言って佐治の一味とみられる危険から、一応のがれ得たことはたしかだと思われた。      五 「若松」から「卯の花」に回った又左衛門から、その夜の話を聞き終わると、ふきは青い眉をひそめた。 「それでは杉山さまは、あなたさまがお偉くなりなさるのを嫌っておいでなのですか」 「まあ、ひらたく言えばそうだな」  と又左衛門は言った。快い酔いが身体を満たしている。物音も内に籠りがちに、静かに更けて行く初冬の夜の気配が、少しずつ酔いを高めているようでもあった。  又左衛門がさし出した盃に、ふきは酒をついでから言った。 「なぜでございましょうね。杉山さまは、あなたさまがお若かったころからのお友だちではありませんか」 「よく知っているがゆえに、かえって一緒にやりにくいことだってあるだろうさ」  と又左衛門は言った。 「若いころは、ろくなことをしなかったからな。ほかの道場のやつを待ち伏せして、大勢で喧嘩をしかけたこともあったし、二十を過ぎるころからは、嫂に小遣いをせびって毎晩のように比丘尼町に通ったものだ。音頭取りは、おれと市之丞だった」 「塀から落ちて、足を挫かれたことがありましたね」  ふきは思い出し笑いをしたが、すぐに、その夜介抱するために隼太を部屋にいれたのが間違いで、二人の間に男女のまじわりが生まれたことも思い出したらしく、顔を赤くした。うつむいて頬をそめているふきには、四十も半ばを過ぎようとしている女とは思えない、ういういしい色気がうかび上がっている。  誘われて、又左衛門は腕をのばすとふきの肩を引き寄せた。そして無低抗なふきの襟から手をさしこんで、乳房にさわった。子供を生まなかったふきの乳房は、やわらかく弾んで又左衛門の手を押し返したり、逆に手のひらに吸いついて来たりする。そうしていると、又左衛門は日ごろの自分が、桑山という家名、あるいは又左衛門という通称、または郡代と言いいまは中老という職分など、じつにさまざまの重苦しい衣裳を身にまとって生きていることにも気づくのだった。  ちょっとの間、男のしたいようにさせてから、やがてふきは無造作な力で又左衛門の手を胸からしりぞけた。 「中老さまがこんなことをしているところをひとに見られると、体面にかかわりますよ」  とふきは言ったが、さっきふきが人ばらいをしたので、呼ばなければ女中たちは二人がいる奥の部屋には来ないはずだった。  ふきは又左衛門にまた酒をつぎ、自分も盃に酒を満たすと、ひと息にのんだ。 「それで?」  ふきは話を元にもどした。 「だから、どうだとおっしゃるのですか」 「若いころの鹿之助と言った忠兵衛は、喧嘩にも加われば比丘尼町にも出入りしたものだ。そのかぎりでは、やつはわれわれの仲間だったが、身分までわれわれと同じになったわけではない。そこのところは厳然とちがう」 「ええ、あちらさまはご家老さまのお家柄ですから」 「そうよ。だから忠兵衛は、むかしの仲間であるわしが応分の出世をすることには格別の文句はなかったろうが、中老となると話が違うと思ったかも知れんな」 「………」 「中老、家老は家柄で決まると思っているのだ。ひと口で言えば、忠兵衛がそういう考えでいるところに、わしが土足で踏みこんだ形になったわけだろう」 「あなたさまは、お偉くなりすぎたのですよ、きっと」  ふきは不安そうに言った。 「なるべく目立たぬようになさいませ。杉山さまに憎まれぬように」 「なに、こうなれば男の意地だよ、ふき」  と又左衛門は言った。 「わしは忠兵衛の言うがままにもならんが、潰されもせぬつもりだ。忠兵衛が言う家柄は軽んずべきものではないが、そこに固執すると藩はいまの時勢を乗り切れぬ。そのことを、わしはいずれ忠兵衛にわからせてやるさ」 「でも、さっき佐治さまという方のお誘いをことわったとおっしゃったじゃありませんか。おひとりでそんなことが出来ますか」 「いや、ひとりというわけじゃない。これでも、わしにも味方はいるさ。おまえさんが心配することはない。それに、むろん他言無用のことだが……」  又左衛門は声をひそめた。 「佐治どのは、いずれ執政から降ろされることになりそうだ。そういう人間と組むわけにはいかぬ」  又左衛門のその夜の予感は二年後に適中して、黒川郡の百姓三千人が年貢の不服を言い立てて城下に入りこむという不祥事に関連して、佐治庸助は突如として家老職を罷免されたのである。その出来事があったとき、月番家老を勤めていたのが佐治の不運だった。  そのときの黒川郡の百姓の強訴は巧妙で、百姓たちは朝から散り散りばらばらに城下に入りこみ、しかも入りこむ街道を違え、のちに凶器とされた鎌も、ひと月も前から城下に持ちこんでいたという用意のよさで、町奉行配下の者が、日枝神社の境内にひとがあつまっているという知らせで駆けつけたときは、三千人近い人数が境内を埋めつくし、なおも続続とひとの数がふえつづけている最中だったのである。  急報を受けた月番家老の佐治は、ただちに使いを走らせて執政会議を召集する一方で、物頭二名を呼んで鉄砲組百人で日枝神社境内を封鎖するように命じたのである。この鉄砲組の派遣が強訴の百姓を激昂させ、城下に一触即発の危機をもたらしたことが、のちに月番家老の処置よろしからずと弾劾されるもととなった。  佐治は同僚の月番組頭にも相談せず、また強訴の人数が城下に入った以上は、当然取り締まりの当事者である町奉行に連絡すべきなのに、その連絡も怠って独断で鉄砲組を動かしたのである。手落ちはあきらかだった。  しかも事件は、その夜のうちに藩が鉄砲組の囲みを解き、執政を代表する又左衛門が町奉行を同道して強訴の百姓たちの中に乗りこみ、説得して百姓たちを村に帰すことに成功したので、佐治の強硬策はいっそう浮き上がったものになったのであった。  佐治庸助のあとに松波伊織が昇格して家老となり、松波の抜けたあとを襲って楢岡外記が中老として執政入りした。外記は杉山派の組頭石川家から楢岡に養子に入った人物で、まだ三十二と若かった。往年の杉山、楢岡の組み合わせが再現され、執政府は杉山派に独占された形になった。  そういう状況を、又左衛門は慎重に眺めていた。かつて佐治庸助が、反杉山派だと言った家老の多田蔵人、中老の和田甚之丞が、こういう状況をどうみているかはわからなかったが、杉山忠兵衛が、もうその二人を問題にしていないのはよくわかった。むろん、忠兵衛は又左衛門も問題にはしていなかった。  重要な議題や、杉山派の利害に関係するような議題があるときは、杉山派は執政会議の前に内輪で相談事を済まし、会議は形だけで終わらせるということさえやった。気配でそれがわかった。そして忠兵衛の又左衛門に対する態度はいっそう親しげに、にこやかになった。 「又左、たまには遊びに来い」  忠兵衛は時どき声をかけて来る。 「たまにはお招きしろと、家内がうるさく言う。何か、手料理の物を貴公に喰べてもらいたいらしいの」 「恐れ入ります」  又左衛門もにこやかに答える。 「しかし、ただいまはご用繁多でござりましょうから、いずれおひまを見はからって」  実際に筆頭家老の屋敷には、終日ひとが出入りする。江戸、上方の商人、地元の富商、富農。書類を持参する会所の役人、身内の引き立てを頼みに来る組頭、公務で帰国したついでに挨拶に立ち寄る江戸詰の役持ち。  忠兵衛はそういう人間と精力的に会い、仕事をさばき、密談し、さらに初音町の茶屋に飲みに出たり、屋敷で客をもてなしたりする。とても又左衛門をむかえて二人でのんびりと酒をたのしむなどというひまはないはずだった。  にもかかわらず、酒太りが目立って来た顔に微笑をうかべた忠兵衛が、ことさら旧友づらをつくって声をかけて来るのは、そのやりとりの間に、執政府の中で何の力も持たない、成り上がりの孤立した中老である又左衛門が、いまも杉山派にとって無害な人間であるかどうかをたしかめるためかも知れなかった。同じように笑顔をつくって答えながら、又左衛門はその間に、忠兵衛の無遠慮な視線が、こちらの変化をさぐって嘗めまわすように動くのを感じていたのである。  執政府に入って歳月が経つ間に、又左衛門は自分でもおどろくほどに、そういう事柄がよく見えるようになっていた。そして見えてさえいれば、そういう忠兵衛の眼から自分を隠すことはさほどむつかしいことではなかった。又左衛門は、会議では大方杉山派の発議、意見にしたがい、さらに忠兵衛の前ではつとめて律儀な郡代上がりの執政らしく振る舞うようにした。  そうしながら又左衛門は、杉山派との間にある距離をおくことも忘れなかった。執政府にいるかぎり、いつかは忠兵衛と対立する日が来ることが疑いなかったからである。忠兵衛はいちはやく、又左衛門が自分との間に距離をおいていることを察知した様子だったが、反対しないかぎりは無害と考えたのか、たとえば自分の誘いに対して、又左衛門がさきのような答えをしても、さらに無理強いに誘うということはしなかった。それは忠兵衛の念頭に、又左衛門を杉山派に誘いこむ気持ちがないことを示してもいた。  佐治庸助が執政を罷免されてから三年経って、今度は多田蔵人が病弱を理由に家老をやめた。病弱を理由としていたが、多田が長年の杉山派の専断に不満を募らせて辞職したことは、誰の眼にもあきらかだったが、そのことを口に出す者はいなかった。  多田のあとに、又左衛門が推されて家老に昇格し、又左衛門のあとには、やはり杉山派とみられている組頭山内蔵太が中老として入った。  その人事が発令されて半月ほど経った夜、又左衛門は前触れもせずに、深夜一人で和田甚之丞の屋敷をおとずれた。和田の屋敷は、同じ与力町のうちにあった。  時刻は五ツ半(午後九時)を回っていたが、和田はまだ起きていて、訪いをいれた又左衛門は、すぐに居間に通された。 「ご書見中でござりましたか」  と又左衛門が言った。部屋の隅の書見台に書物がひらいたままで乗っていたからである。和田は番頭から転じた中老だが、和田の家は元来、藩が戸浦に陣屋を置いていたころに代代城代家老を勤めた家柄で、郡代から執政入りした又左衛門とは身分が違う。  又左衛門は、自分より三つ年下の和田に、つねに丁重な態度で接していた。 「いや、書見というほどでもござらぬ」  和田は細おもての品のいい顔をほころばせた。 「内藤どのが、成蹊館で使う韓非子《かんぴし》の翻刻が出来たととどけてくれたので眺めていただけで……」  和田がそう言ったとき、さっき又左衛門を案内した老家士がお茶をはこんで来たので、二人はしばらく沈黙した。家士が出て行くと、和田の方から口を切った。 「何か、火急のご用でもござりましたかな」 「いや、いや」  又左衛門は首を振った。居住まいをただして言った。 「ご承知のとおり、このたびは和田どのをさしおいて、それがしが家老に任ぜられました。お上のご命令とはいえ心苦しいことにござります」 「………」 「一度そのご挨拶に上がらねばと考えておりましたので、かくのとおり。と申しましてもごらんのとおり手ぶらでござりますが」 「いや、さような気遣いはご無用」  と言ったが、和田はそのままつぎの言葉を待ちうけるように、又左衛門を凝視している。むろん、前触れもない深夜の訪問が、又左衛門が言うような用だけであるはずがないと思っている様子だった。 「多田どのが去られて……」  と又左衛門は言った。 「ついに、二人だけとなりましたな」 「さよう」  和田甚之丞は無表情にうなずいた。そして身ぶりで又左衛門に茶と菓子をすすめると、自分も茶碗をつかみ上げて静かにお茶をすすった。和田は自身が杉山派でないことを認めたのである。 「そこで、今夜はおねがいがあって参上しました」  和田にならってひと口お茶をすすってから、又左衛門は言った。 「ねがいと申すのは、今後執政の会議においてそれがしが杉山派に反対するときは、何とぞお味方を賜りたいということです。和田どのが反対されるときは、不肖それがしがお味方つかまつります」 「………」 「むろん、何もかもということではござりませぬゆえ、誤解なきように。杉山派の言い分に非があり、それがしの言い分に理があるとご判断なされたときのことを申し上げております」 「いまになって、さように申されるか」  と和田が言った。射抜くような眼で又左衛門を見ていた。和田は家中では一般に、学問好きの物静かな人物とみられているが、和田が番頭として城内を取り締まった五年間は、威令がよく行きとどいて事故ひとつ起きなかったという。外柔内剛の人柄だった。  その和田が、非難するような眼を又左衛門にむけていた。 「多田どのがおられるうちなら、申し合わせれば杉山に対抗出来たかも知れぬが、いまとなってはいかがでござろうかの」 「いえ」  又左衛門は首を振った。 「佐治どの、多田どのが執政府におられたときは、杉山派にはまだわれわれに遠慮があったかにそれがしは見ております。しかし、それがしと和田どのの二人を残して、あとは残らず杉山派となったこれからは、執政府も少少様変わりするかも知れません」 「………」 「杉山派はわが世の春を迎え、彼らの申し分の中には、身命《しんめい》を賭《と》しても争わねばならぬことが出て来る恐れがござります」 「あるいは、な。ふむ」 「そのときにはそれがし、真っ向から反対いたします。お味方を賜りたいというのは、さような場合のことにござる」 「それは言うまでもないこと」  と和田は言った。 「貴殿に頼まれて味方するというものではござるまい」 「しかしそれがしは、もとは平藩士の出でござる」  と又左衛門は言った。 「上士と下士は同席せずと言われております。今夜、和田どのをおたずねしてかようなおねがいを申し上げるのは、それがしが杉山派に反対を申し立てたとき、下士の出身なるがゆえに味方することをためらわれる、ということの一瞬たりともなきよう、という意味合いをふくめております」 「相わかった」  和田は緊張を解いたように、ゆったりと微笑した。 「桑山どの。いかにもそれがし、貴殿にお味方つかまつることといたそう。杉山派に対しては、ご懸念なく思うことを述べられよ。それがしおよばずながら援護申し上げる、とはいうものの……」  和田の笑いがやや大きくなった。 「こちらが二人では、さほど勝ち目のある戦とも思われぬが」 「いや、さにあらずです」  又左衛門も笑った。 「執政会議では、仰せのとおり勝ち目がありませんが、月の最後の大会議では非番の組頭、大目付、町奉行、さらには郡代、郡奉行が出席します。杉山派に対抗する必要が出て来たときは、この大会議に審議を持ちこめば、負けるとは限りません」 「と、申されると?」 「それがしも多少の手は打っております。大会議に出て来る者たちは、杉山派の提案を鵜呑みには通しますまい」      六  又左衛門が予感した杉山派の強引な政策打ち出しは、二年後の春に行われた。その月の中の五の日の執政会議に、忠兵衛はひそかにささやかれていた農地の新竿打ち直し(検地)を提案したのである。 「諸公もご承知のとおり、われわれ執政の職にある者は、これまでさまざまな施策を講じては来たものの、わが藩の財政はつねに支出が収入を上回るというぐあいで、いっこうに楽にはならぬ」  忠兵衛は、はじめは上席から又左衛門がいる下座の方をにらむように見つめながら、月並みな言葉をならべた。 「さいわいに又左が指揮する太蔵が原の開墾と、青苧《あおそ》の上方売り込みがまずまず順調で、さきの執政諸公のように御賄いを強行するには至っておらぬが、早晩そこまで追いつめられることは必定の形勢とみなければなるまい」  又左衛門は、中老にすすんだときからそこと場所を決めている末席から、執政たちの顔を見ていた。  無表情に前をむいている和田甚之丞をべつにすれば、ほかの執政たちは眼を天井にむけたり、逆に膝の上に視線を落としたり、思い思いの姿勢をとっていた。その表情の中には、忠兵衛がこれから提案しようとしている政策案を、すでに耳にしている気配がありありと出ていた。中老の長谷川吉右衛門は、あきらかにあくびを噛み殺している。  ──中身を知らないのは……。  おれと和田の二人だけのようだな、と思ったとき、忠兵衛の新竿打ち直しという言葉が、雷のように耳の中ではじけた。 「ここで新竿打ち直しを実施すれば、いくらかは息をつけるのではないかと思われる。姑息の手段と思われるむきもあるかも知れぬが、わが藩がおよそ百二十年にわたって新竿打ち直しを行っておらぬことは、記録に明白なことで、この間に生じた余歩、縄延び、隠し田の延べ面積は、われらの予想以上の大きにのぼるものと思われる」 「およその見込みでは、どのぐらいの測り出しが出ますかな」  と聞いたのは松波伊織だったが、その声音には迎合のひびきがまじった。杉山忠兵衛は即座に答えた。 「郡代の花岡に調べさせたところでは、きちんと測り直せばまずいまの土地台帳記載の地積より、三割から五割増しになるのは間違いあるまいという話だ」 「五割増……。これは、これは」  松波は驚愕の表情をつくった。しかし、ほかの執政たちが平気な顔でいるところをみると、それも打ち合わせ済みの芝居なのかも知れなかった。  ついで松波伊織は、けしからんと言うと、浅黒く角ばった顔を又左衛門の方にむけた。 「するとこれまで、百姓たちはずいぶんと楽をして来た理屈に相なりますな」 「まあ、そうだ」  と答えたのは忠兵衛だった。すると、松波は顔を忠兵衛にもどした。 「それがしは、新竿打ち直しに賛成いたします。かりにそれだけ余分の土地が測り出されて、新たに年貢を生むとなれば、それで藩庫がひと息つくことは疑いありませんからな」 「しかし、百姓たちが納得しますか」  と口をはさんだのは、金井又四郎だった。金井はまぎれもない杉山派だったが、一方で父親譲りの倫理感も身についている男だった。 「十分に説いて納得させぬことには、領内が騒動しませんかな」 「弱気なことを申される」  松波が嘲笑うような声を出した。 「お互いさまということだよ、金井どの。これまでは百姓たちが楽をしてきた。そろそろ貸しを取り立ててもいいころではないのか」 「ちょっとおうかがい申したい」  と又左衛門が言った。すると、表情をやわらげた忠兵衛が、又左か、何でも聞いてくれと言った。 「竿は以前の測り竿を変更なさるつもりですか」 「いや、最後の検地を行った七、七の竿(四百九十坪で一反歩とする)でよろしかろう。それでもざっと四割の測り出しは出るはずだ」 「きっちり測り直して、余歩、縄延び、隠し田は一切認めぬという方針ですな」 「そのとおりだ。百二十年の間、竿の打ち直しはなかったのだ。このあたりでタガを締め直すのもわるくはあるまい」 「それがしは、新竿打ち直しに反対いたします」  又左衛門がきっぱりと言ったので、それまでいくらかだらけ気味だった会議の席が、急にぴりっとした緊張感につつまれた。執政たちは居住まいをただして、一斉に又左衛門を見た。  杉山忠兵衛だけが、にこにこ笑いながら言った。 「わけを申せ、又左」 「余歩と言い、縄延びと言い、すべては藩が新田の開墾を奨励した時代の名残、つまり荒地開墾の努力に対する藩の褒美にござる。松波どのが言われる貸しなどとは、話の筋道がまったく異なることをまずご承知いただきたい」 「ふむ、それで」  忠兵衛はまだ微笑していた。 「それを藩の土地台帳に照らして測り直すということは、いったんあたえたものを取りあげることに相成るという認識が必要でござる」 「かも知れんな」 「杉山どのは、さきほど百二十年にわたって、藩は検地を行っていないことを申されたが、それには理由があるとお考えいただきたい。ひとつは申したように余歩、縄延び地は藩からの下され物であること。いまひとつは、にもかかわらず一部の富農をのぞけば、百姓は決して楽などしておらぬということでござる。代代の執政は、検地を強行すれば百姓たちが暮らしに窮することを十分に承知していたがゆえに、行わなかったと考えるべきでござろう」 「隠し田はどうだ?」  忠兵衛が白い歯を見せた。又左衛門の百姓擁護の弁論を嘲笑ったようにも見えた。 「隠し田は、藩の眼をかすめる不正ではないのかな」 「不正かも知れませんが、百姓たちが、一、二枚の隠し田によって、辛うじて息をついている実情も認めてやるべきでしょう。帳面では百姓の暮らしは測れませんぞ」 「又左の言うことは、正論に似てじつは百姓どもを甘やかすものではないのか」  突然に忠兵衛は、きびしい声を出した。 「松波の言い分ではないが、百姓たちは百二十年藩が検地を怠ったことで十分元を取ったはずだ。それでもなお暮らしが苦しいという者は、これはもはや惰農であって救済の余地はない」 「杉山どのは、どうも現実の百姓の暮らしがいかなるものか、ご承知がないようだ」  又左衛門も、膝を上座の忠兵衛にむけた。 「凶作以来、多数の百姓が藩に年貢の借り分をつくっていることはご承知と思われるが、毎年の年貢に古い借り分を上乗せさせられる慣例のために、村村は疲れ切っているのが実情。楽をしているなどという見方は、とんでもない話でござる。そこへもって来て、新竿打ち直しを強行したりすれば、村村に騒動が起きるのは、まず火を見るよりもあきらかでござろう」 「やってみねばわかるまい」  忠兵衛はひややかに言うと、じろりと執政たちを見回した。 「又左の言うことにも一理はある。しかし百姓たちも又左が言うような善意の者たちばかりではあるまい。あるところにはあるとわしは見ている。あるならば、そこから取らねばなるまい。藩財政の苦境はそこまで来ていると、それこそ諸公にも認識していただきたいものだ」 「必ず、騒動が起きますぞ」 「そのときは城から手勢を繰り出して、押さえるまで」  忠兵衛はぴしゃりと言い、鋭い眼を又左衛門にそそいだまま言った。 「では、決をとろうか。長談議も疲れる」 「お待ちください」  又左衛門は膝に拳を突き立てて、大声を出した。 「ことは今後の藩政の帰趨《きすう》にかかわる重大事ですぞ。このことの決は、郡代、郡奉行が出席する月末の大会議において、十分に論じた上でとるべきものと存ずる」 「桑山どのの申されるとおりでござろう」  不意に声を出したのは、それまで沈黙を守っていた和田甚之丞だった。和田はまっすぐに忠兵衛に膝をむけると、きびしい声で言った。 「何ゆえさようにことをいそがれる。新竿打ち直しなどという重大事は、衆知をあつめて協議すべきもので、執政会議で決をとり得るものではござるまい」  和田は忠兵衛からほかの執政たちに、鋭い視線を回すと言い捨てた。 「なお忌憚《きたん》なく私見を言わせてもらえば、新竿打ち直しは狂気の沙汰。百姓の実情を知らぬ者の、およそばかげた思いつきの案としか思えぬ。どなたの入れ智恵かは知らぬが……」  と言って、和田はふたたび射るような眼を忠兵衛にもどした。 「かようにお粗末な案を軽軽《けいけい》に取りあつかっては、杉山どの。悔いを後世に残すことに相成りませんかな」  和田甚之丞はふだんは無口で、執政会議で発言することは稀だった。会議のはじめから終わりまで、一語も発せずに退出することもめずらしくない。その和田の痛烈な批判の言葉に、執政会議の席はしんと静まってしまった。  辛うじて忠兵衛が、にが笑いしてその場を取りつくろった。 「骨身にしみるご忠告として、うけたまわろう。しかし、新竿打ち直しは和田どのが申されるごとくばかげた案とも思わぬ。では、ご意見を頂戴してつぎの大会議に提案したいと思うので、諸公もさようにご承知ありたい」  又左衛門と和田甚之丞は、大会議までに新竿打ち直しに対する反対勢力を固め、当日はこもごも強力な反対意見を述べたてて、ついに杉山忠兵衛に新竿打ち直し案について決をとることを断念させたのであった。  雪の日のその夕刻に、又左衛門をたずねて来たのは伊作という若い男だった。戸浦の羽太屋の手代である。 「お店帳面を出させて調べて行きましたが、その帳面は太蔵が原の開墾を請け負った年からのものだそうです」  と伊作は言った。 「それで?」  又左衛門は静かに聞き返した。 「万年は、どう言っておる?」 「おそらく……」  と言ってから、伊作は声をひそめた。 「桑山さまの落ち度さがしではござるまいかと申しております」 「調べに行った者の名を、もう一度……」 「畑文次郎さまと小塚惣吉さまでござります」 「間違いないな。奉行所の者だ」  と又左衛門は言った。小塚という姓には心あたりがなかったが、もう一人の畑の方は、むかし奉行所に畑文太夫という敏腕の徒目付がいたのを思い出している。文次郎はその血縁の者かも知れなかった。  膝をくずして菓子をつまめ、と伊作に言って、又左衛門は席を立つと廊下に出た。上部が明かり取りの障子になっている雨戸を一枚繰ると、白い光が眼にとびこんで来た。昼ごろから降り出した雪が、まだ止む気配もなく降りつづいていて、そのために時刻はもう日没ごろと思われるのに、外には明るみが残っていた。  ──いよいよ来たか。  と又左衛門は、一瞬の静止もなく降りつづける庭の雪を見ながら思った。杉山忠兵衛とは新竿打ち直しで対立したあとも、領内百姓の古い未納年貢米をめぐる問題と、上方商人からの借財整理の一件で、二度も大きな衝突を繰り返していた。  未納年貢米というのは、凶作のためにその年の年貢を納め切れず、百姓たちの藩に対する借り分になっている古い年貢米のことで、又左衛門ははやくから、毎年の年貢米に上乗せして納めさせられる、その古い未納米が村村の疲弊の根元だと見ていた。  だから忠兵衛が、藩財政建て直し策のひとつに、未納年貢米の一斉取り立てを言い出したときに猛然と反対したのである。又左衛門は、安易な旧債取り立ては百姓の騒動を招きかねないだろうと警告し、未納年貢米というものが、元来は大きく減免すべき凶作年にも平年同様に賦課した藩の手落ちによって生じたことをあきらかにした上で、むしろ古い残り年貢は切り捨てにして、村々に活力をあたえるのが上策であると主張した。  もうひとつの借財整理の問題は、上方商人からの借財の三分の一を江戸の金貸し田原屋利兵衛に肩代わりさせるという提案だったのだが、又左衛門はこの案でも忠兵衛と対立した。又左衛門は杉山一門の中に田原屋から多額の借金をしている家があることをつかんでいて、田原屋と藩のつながりに私的な色合いが入りこむことを強く警戒したのである。  こうした対立を通して、忠兵衛は又左衛門が自分の追従者ではないことを知ったはずだったが、すぐにはどうという態度の変化は見せなかった。又左衛門もまた、忠兵衛の発議にことごとくさからうというわけではむろんなく、発議の中身によっては積極的に賛成もしてきた。  そういう形のままで釣り合いがとれれば一番いいのだと又左衛門は考え、そのねがいは叶《かな》うかにも見えたのだが、忠兵衛はやはり、大きな問題でおれに反対されたのを肚に据えかねたらしいな、と又左衛門は思っていた。  町奉行所の者が、前触れもなく羽太屋を急襲して帳面を出させ、中でも太蔵が原の開墾請負関係の帳付け部分を調べたということが、又左衛門に無関係であるはずがなかった。太蔵が原の開墾は、又左衛門と先に病死した羽太屋重兵衛との合力によって実現した事業である。杉山派が、又左衛門を排斥するときはそこが急所になると考えるのは当然のことだった。  ──いよいよか。  又左衛門は、予想しなかったわけではないのに、やはり緊張に胸が固くなるのを感じた。小黒一族を根こそぎ葬り去った杉山一門が、その力を又左衛門の排斥にむけてふるいはじめたのである。下手に抗うとはじきとばされる危険があった。  又左衛門は、急にほの暗く変わったように思われる空を見上げた。無数の羽虫が飛びかうように、雪は空をただよいながら落ちて来る。風はなく、雪は積もった雪面に触れるときだけ、ささやくような音を立てている。  又左衛門は雨戸を閉めて、部屋の中にもどった。伊作はお茶を飲み干しただけで、菓子には手をつけていなかった。 「帳面のことで、ほかに万年は何か言ったか」 「はい。お気遣いになるようなことはひとつもなく、ご安心くださるようにということでした」 「不正はない、というつもりだろう。むろん、不正などはないが、むこうがその帳面をどう使うかだな。使い方によっては鎌も凶器に変わるからの」 「………」 「雪がかなり積もったようだ。今夜は泊まって行ってもよいぞ」 「いえ、山吹町のお店に帰るだけですから。何の、これしきの雪」  と言って、伊作はやっと笑顔を見せた。山吹町には羽太屋の支店がある。 「万年には……」  と又左衛門は言った。 「委細承知した、こちらも応分の支度をするゆえ、心配いらぬと伝えてくれ」  雪は翌朝まで降りつづいて、城下を雪で埋めつくしたが、昼近くなるとばったりとやみ、やがて青空から日が降りそそいだ。昼前には人通りもなかった町の中に、急にひとが溢れ出て、町は祭りでもあるかのようににぎやかになった。雪は踏み固められて、町から町へ雪の道が出来た。  夕刻、又左衛門は青木藤蔵を供にして初音町に行った。ふきの店で五ツ(午後八時)ごろまで時をつぶしてから、舟で翁橋に上がり、和泉町に入った。その町で又左衛門が立ち寄ったのは、三年前まで大目付を勤めていた堀田|勘解由《かげゆ》の屋敷だった。 「夜分にうかがって、恐縮」  又左衛門は、突然の家老の訪問におどろいている勘解由に詫びを言い、たしかめたいことがあって来たと言った。 「古い話になる」  又左衛門はさらに前置きして言った。 「小黒、小見山といった前の執政が、一夜にして執政職を免ぜられた事件があったのをおぼえておられるであろうな」 「むろんにござります」  いまは隠居して、家督を伜に譲っている勘解由は微笑を見せた。 「それがしが大目付に代わって間もなくのことで、職を奉じている間に起きたもっとも大がかりな政変でござりました」 「そのとき、小黒家老の屋敷から男四人が脱け出した。貴公の配下が、それぞれの屋敷回りを固めたあとのことだ。ということで、その後だいぶ手を入れて調べられたそうだの」 「それは……」  勘解由は、不意に笑いを消してもと大目付の顔になると、又左衛門をじっと見た。 「その調べは極秘のはずでしたが、どちらで耳にされましたか」 「原口民弥どのだ」  又左衛門が言うと、勘解由はうなずいてやっと表情をもとにもどした。 「それで、お知りになりたいのはどのようなことでしょうか」 「杉山忠兵衛どのとあの夜の事件とのかかわり合い一切、というところかな」 「杉山さまと、何事か争論でも?」 「いや、羽太屋の帳面などを調べて、こちらの落ち度をほじくりはじめたらしいのだ。ほじくっても大したものが出る気遣いはないが、それを種にこしらえごとをされるのがこわい。さような仕掛けにはまって執政をおろされるのも業腹《ごうはら》だが、執政府が杉山派一色に染まるのは藩にとって好ましいこととは言えぬ」 「………」 「そこで、うまく行くかどうかはわからぬが、こちらもちょっぴり相手方の弱みをにぎっておいて、いざというときに尻をまくる足しにしてみようかというわけだが、さて……」 「………」 「お力添えいただけるかな」  堀田勘解由は破顔した。皺の多い顔に、若若しい表情が動いた。 「さすがに、ご炯眼《けいがん》ですな。急所に眼をつけられました」  と勘解由は言った。  又左衛門がまだ中老だったころ、人づてに勘解由が借金の返済に苦しんでいることを聞き、内密に三百両ほどの金を融通して急場を救ったことがある。その融通金は、その後勘解由の方から少しずつ返済して来て清算がついたのだが、その事件が暗黙のうちに二人を結びつけたことはたしかだった。  しかし堀田勘解由が在職中は、大会議の評決で大目付がそれとなく又左衛門の支持に回るといったことをのぞけば、又左衛門が特に大目付の手を借りるような事件は起きなかったのだが、勘解由が職をひいたいまになって、又左衛門が勘解由に助けをもとめ、勘解由がむかし受けた気持ちの上の負債を一度に支払う機会がおとずれたのである。  勘解由の若若しい表情には、そのことを理解した気負いと、ひさしぶりに藩の秘事に触れる興奮があらわれていた。 「いかにもお力添えつかまつる」 「待った」  と又左衛門は言った。 「わしに協力したことが洩れると、貴公の立場はわるくなるぞ。むろん、極力貴公の名前を出さぬようにはするが……」 「いや、その点はご懸念なく」  勘解由は淡白に言った。 「あのときの一件につきましては、お上にも申し上げずに手もとに押さえた秘事がござります。その秘事を墓場に持って行くべきかどうかは、多年の悩みにござりましたが、ご家老が来られて、かように話せと申される。天の声にござりましょう」  勘解由は、又左衛門に手焙りを使うようにすすめてから話し出した。 「あの夜、佐治中老をのぞく執政の屋敷を囲んだのは、それがしの配下だけではなく、ほかに町奉行支配の者と鉄砲組一組がまじっておりました」      七  堀田勘解由が打ち明けた事実は、奇怪この上もないものだった。  小黒、小見山両家老とその与党である執政たちが失脚した日、城に呼び出されて月番組頭立ち会いの上で藩主の密命を受けた堀田は、屋敷にもどるとすぐに、そういう変事の際に大目付に付属することになっている物頭七名を、ひそかに屋敷に呼びあつめた。時刻はおよそ夕七ツ(午後四時)ごろだった。  しかし、所属の物頭が動かし得る徒組、足軽組の人数はおよそ二百人ほどで、城下の要所を押さえ切るには、少し足りなかった。そこで堀田は、そういう場合に大目付の権限で隠密の応援を要求出来る町奉行支配の人数若干と、鉄砲組一隊を召集した。堀田の指揮を補佐すると同時に、監視する役目も帯びて大目付屋敷まで来ていた月番組頭と相談した上の緊急の処置である。  堀田が使用出来る人数は、それで三百人に達したので、物頭、堀田の指揮下にある徒目付、足軽目付、町奉行から派遣されて来た徒目付、足軽目付、同心をあつめて、綿密に押さえるべき場所と指揮者の割りふりを指示した。そして堀田は、時刻が五ツ(午後八時)になるのを待って、隠密にしかもすばやく人数を動かして、執政屋敷と城下の主要な道路を押さえてしまったのである。  手配が滞りなく終わったという報告を受けてから月番組頭は使者派遣の手続きをとるために城にもどり、堀田は屋敷から総指揮を執る態勢に入った。しかし、あとはよほどの突発的な事故でも起きない限り、城下は堀田が敷いた警備体制のままに、翌日の朝をむかえるはずだったのである。小黒屋敷から男が四人も脱出して、しかも新執政を襲うなどという事態は論外のことだった。  当然、堀田は当夜の小黒屋敷の警備について、きびしい調べを開始した。その結果、奇怪なことが判明した。  小黒屋敷を固めたのは徒組の二十五人で、指揮を執ったのは堀田がもっとも信頼する配下、徒目付の浅井甚四郎だった。浅井甚四郎は表門に十人、裏門に十人の警固兵を貼りつけ、残る五人を二組にわけて屋敷のまわりを巡回させた。そして自身は、四半刻(三十分)ごとに表門と裏門を往復して、異常のないのをたしかめながら、城から来る執政罷免の申し渡しの使者を待ったのである。  町奉行配下の足軽目付小川宗蔵とひきいる鉄砲足軽十名が、小黒屋敷の裏門に現れたのは、浅井甚四郎が表門で城中からの使者を迎えていた、まさにその時刻だったことが、のちに判明する。 「交代だ」  と小川は裏門警固の兵に言った。小川と鉄砲足軽たちは、小黒屋敷から半町(約五十五メートル)ほど北にある、与力町と和泉町の境の四辻を警備していて、命令で裏門を固めるために来たのだと言った。  浅井甚四郎から裏門警固の指揮をまかされていたのは、安藤小六という年配の徒《かち》である。安藤は小川の言い分にわずかに不審を感じて浅井に確認の使いを走らせようとしたが、小川は高飛車な口調で、上からの命令だと言った。 「表門も交代するはずだ」  そこまで言われると、安藤以下裏門警固の兵は所詮雇われの徒である。小川に譲って、彼らの持ち場だったという四辻に行って、そこの警備の人数に加わった。  のちに堀田からこのときの処置について訊問された安藤は、彼らが警戒すべきは屋敷の中にいる人間で、指揮者の浅井から、たとえ女子供といえども屋敷の者は一人も外に出してはならないと厳命されていたが、小川宗蔵と鉄砲足軽は少なくとも敵ではなかったので、小川の指示に従ったと答えた。  ところが、事件は裏門警固の人数が交代したその直後に起きて、屋敷まわりを巡回していた徒の者が裏門に行ったとき、門は大きくあけ放たれ、門前に二名、門内に一名の鉄砲足軽が倒れていて、指揮者の小川宗蔵がさわぎ立てる足軽たちを鎮めながら、あちこちに急報の使いを出しているところだったのである。門内に倒れていた鉄砲足軽は、巡回の徒の者が抱き起こしたときにはもう絶命していた。深深と肩を斬られていて、その手傷は脱走した小黒勝三郎ら、四名の男たちが残して行ったものだと思われた。巡回の徒は、走って表門の浅井に知らせた。 「その小川という足軽目付が怪しいな」  と又左衛門は言った。 「その者が、屋敷うちの小黒勝三郎に連絡を取って、外に出したのではないか」 「それがしも、その疑いを持ちました」  堀田はうなずいて、ことに小川の下についていた鉄砲足軽の一人が、門内深いところで斬り殺されていることに不審を持ったと言った。  そこで堀田は、小川を訊問する前に、配下の浅井甚四郎たちを使って、その夜裏門警固についた鉄砲足軽の中で、斬られた男が門内に入るのを見た者がいるかどうかを聞きまわらせた。小川に言いふくめられたその男が、潜り戸から小黒の屋敷内に入り、城中の処分決定と杉山たち、新たに執政となるべき男たちの夜の登城を、勝三郎たちに通報したのではないかと推測したのである。  もし推測が当たっているとすれば、男はあるいは小黒勝三郎たちが脱出したどさくさまぎれに、口封じのために小川宗蔵に斬られた可能性もうかび上がって来るだろう。そう思ったが、鉄砲足軽たちの間には、死んだ同僚が門内に入ったところを目撃した者はいなかった。ただ、小黒たちが脱出した混乱のあとで、小川宗蔵が門内にとびこんで、斬り殺された同僚を見つけたことは、二、三の足軽がおぼえていた。 「ふむ、いよいよ怪しい男だな」  と又左衛門は言って堀田を見た。 「それで、そこもとの訊問に、小川はどう答えたのかな」 「死んだ鉄砲足軽が門内に入ったのには、まったく気づかなかったの一点張りです。小黒たちが脱走したあと、門内に入って斬られた足軽を見つけ出したのも、配下の無事をたしかめるためにしたとっさの行動だったと強弁いたしましてな。小川は町奉行配下でもあり、そうがんばられては、ほとほと困惑いたしました」 「しかしその男には、偽って裏門の警備に回って来たという、動かしがたい不審がある」 「そこのところです、ご家老」  と堀田は冷静な態度で言った。 「裏門警備の交代は、じつは命令に依ったもので、小川が独断でしたことではありませんでした」 「ほほう」  小川宗蔵はその夜、足軽組七人を連れた大目付配下の徒目付菅谷吉兵衛とともに、鉄砲足軽十人をひきいて前述のように町境の四辻を固めていたのである。そこに使いが来て、小川と鉄砲足軽十名の警備の移動を命令した。 「誰が使いに来たのだ?」 「それが誰かは、そこにいる者にはわからなかったそうです。馬で来て馬上からそう伝えた男は、たちまち走り去りましたそうで」 「そこもとの命令だと申したのか」 「いや、それが違っておりました」  と堀田は言い、やや緊張した顔つきになった。 「月番組頭の名前を使って、鉄砲足軽の十人は小黒屋敷の裏門の警備兵と交代するようにと言ったのを、徒目付の菅谷も聞いております」 「そのときの月番組頭は誰だったのかな?」 「山内蔵太どの」 「や?」  と又左衛門は言って堀田に鋭い眼をむけた。堀田は微笑してうなずいた。 「山内どのは表むきに言われるよりははるかに熱心な、杉山びいきの人物です。それまでそれがしの頭にあったのは、小黒たちの脱出を助けたのはむろん反杉山派の人間だろうということでした。小黒、小見山一派に属する何者かが、最後の悪あがきに出たと」 「誰しも、そう思う」 「だが、使いが月番組頭の名前を使ったと聞いたときから、事実は逆ではないかと考えるに至ったのです」  月番組頭山内蔵太の名前を使った使者は、誰しもが偽者だと思うに違いない。しかし事実はその逆で、みんながそう思うことを計算にいれた杉山派の策謀ではないかと、堀田は考えはじめたのである。  山内蔵太は、その夜の城下警備の配置をのこらず知っているだけでなく、町奉行に対して堀田と連名で増援の人数を要請した人物でもある。山内と町奉行配下の足軽目付小川宗蔵が、その夜の一連の動きの中で顔を合わせていれば、小黒屋敷の裏門でひと芝居打つことは、いとやすいことだと思われた。 「結果は、原口さまに申し上げたようなことです。杉山さまはその夜、過剰なほどに身辺の守りを固めておられました」 「わしも、何も知らずに使われたのだ」  又左衛門は苦笑した。 「山内蔵太を訊問してみたか」 「はい、ひそかに屋敷に呼んで問いただしましたが、使者を出したおぼえはない、小川などという足軽目付は知らぬと申されるばかりでした」 「原口どのに話したのは?」 「身の保証です。大目付または町奉行は、時の執政にかかわり合う極秘の事件を扱ったときは、原口さまもしくは小谷さままで、ひそかに内容を報告するのが慣例になっておりまして、それによって身の安全を保証されます」 「ふむ」 「しかし、原口さまにも申し上げていない事があります」  と堀田は言って、苦笑した顔を又左衛門にむけた。 「裏門警備の鉄砲足軽十名、うち一名は事件の夜に死亡しましたので、残るは九名ですが、この九名をそれがし自身で、二度訊問しました。誰にも知られぬように、ひそかにです。その結果、そのうちの三名が、小川宗蔵が死んだ足軽をうしろ手に潜り戸から押し込むのを見たと証言しました」 「やはり、そうか」 「ただし、その口書きがとれたのは、それがしが大目付からしりぞく三日前のことで、世は杉山さまの天下になっておりました。小川宗蔵も大きく出世して御使番に抜擢されておりましたので、その口書きはどこにも提出しませんでした」 「………」 「必要の場合はいつでもお申しつけください。ご家老にお渡しします」  又左衛門が堀田勘解由に会ってから六日後に、城中で執政会議が行われた。さほどに重要な議題もなく、忠兵衛も又左衛門も、お互いに相手の落ち度をさぐり合っているなどという気配をおくびにも出さず、会議の席では笑顔で冗談を言い合った。  だが会議の部屋を出て、表御殿まで来たところで、又左衛門は忠兵衛たちと別れると、城中にある元締詰所にむかった。又左衛門の顔を見ると、元締の神尾杢内は机の上の大きな鍵をつかみ上げて立って来た。  二人は無言で元締詰所の前の廊下から雪が積もっている中庭に出ると、御金蔵の前に歩いて行った。一切無言のまま、神尾杢内は鍵を使って御金蔵の戸をあけると、又左衛門を先に立てて蔵の中に入った。  金蔵の中の空気は冷えて、黴の匂いがした。中に入ると杢内は今度は自分が先に立って、二階に上がる梯子をのぼった。杢内は小男で太っている。齢は六十を過ぎていた。梯子をのぼりながら、杢内はぜいぜいと喉を鳴らした。  金蔵の二階にも、一階に劣らず暗くてつめたい空気が澱んでいたが、鉄格子と金網を張った明かり取りの窓から入る光に眼が馴れると、厚板の床に無造作にころがしてある黒っぽい鉄の塊が見えて来た。 「これか」  又左衛門が言うと、杢内はこれでござりますと言った。 「この鉛銀を灰吹きで仕分けましたものが、すなわち銀でござります。と申しましても、いまは領内で灰吹きを行うことはなくなりましたが……」 「この玉ひとつで、銀子どのぐらいになるものかの」 「されば、良質の鉛銀でござりますゆえ、うまく仕分ければ二百両ほどになりましょうか」  と言って杢内は床にしゃがみこむと、いとおしむように黒く大きい鉄塊を撫でた。 「この玉がしめて三十ござりましたものが、いまはふたつだけに相成りました」  執政のほかに月番組頭、郡代、大目付、町奉行などが出席する大会議の席に、藩主忠盈の出席を仰いだ上で、杉山忠兵衛と桑山又左衛門がはげしい論争を行ったのが、年を越えた今年の三月のことである。  論争の種は、太蔵が原の開墾だった。年明けの初会議で、杉山忠兵衛は羽太屋が開墾地にはやくも二百町歩を越える私有地を確保したことを非難したが、三月の会議の席では、その問題をもう一度蒸し返すとともに、今度は羽太屋に開墾を請け負わせた又左衛門をはげしい言葉で非難したのである。  その非難を受けて、会議の席に藩主の出席をもとめたのは又左衛門の方だった。忠盈はすぐに出て来たので、会議の間にはにわかに緊張がみなぎった。 「聞くところによると……」  藩主が着座するのを待って、又左衛門は反撃に転じた。 「杉山どのは羽太屋にある開墾請負関係の帳面を残らず調べられたそうだが、それならおわかりになったはずで、羽太屋は融資金と一割二分の利息に相当する土地を、年年藩から受け取って来たにすぎぬ。一割二分は低利でござりますぞ」 「それにしても二百十町歩の土地は大き過ぎる」  忠兵衛は執拗に言った。 「羽太屋はいまに、お上をしのいで領内随一の大地主にのし上がることは必定。そうなれば今後、われわれは羽太屋のひげの塵を払わずには生きられなくなろう」 「しかし、それを言って、羽太屋が藩の援助なしに独力で二千町歩の土地をひらいたことを言わぬのは、片手落ちではござりませんかな。その土地から、われわれはすでに少なからぬ恩恵を蒙っておりますぞ」 「ところで、お上もおられる席に内輪の話を持ち出すのはどうかと思われるが……」  不意に忠兵衛の口調が変わった。顔にいくらか品がない笑いが動いている。 「又左は年少からの友人ゆえ、率直なところをたずねるわけだが、羽太屋は二百町歩の新開地を得て、名字帯刀を許され三百石郡奉行格の待遇を与えられるにいたった。大した優遇じゃな。その見返りはどのようなものかうかがいたいものだ」 「………」 「初音町に、又左の生家でむかし婢《はしため》を勤めた女子が店を持っておる。これなどは羽太屋の見返りの産物かと思うが、違ったかの。もっともこの女子、もういい加減のばばのようだが……」  忠兵衛の言葉に、迎合するような笑い声が起きた。笑ったのは杉山派の執政たちだった。 「羽太屋の見返りの産物かどうかは、調べていただければわかること」  又左衛門は無表情に切り返した。 「ご遠慮なくお調べいただきたい。それで不正の証拠でも上がったときは、いさぎよく執政から身をひかせて頂くが、そこまで申されれば、こちらも少少杉山どのの身辺の不可思議に言及せねばなりませんな」 「………」 「大目付の奥村どの」  又左衛門は、下座の方にいる奥村権四郎に声をかけた。 「古い話になるが、さきの執政交代の大政変の折に、小黒勝三郎が杉山どのを襲ったのが小黒一族滅亡の原因となったことは周知のとおり。ところが、その襲撃が杉山どのが仕掛けた罠だったという説がある。証拠があることゆえ、一度調べてはいかがか」 「又左、あれは貴公も加わっていることではないか。何を言い出すか」  忠兵衛が狼狽した声でたしなめたが、又左衛門はその制止を無視した。 「いまひとつ、御金蔵の鉛銀のことがござる」  又左衛門が言い出すと、会議に出席している者は何事かという顔で又左衛門を見た。中には藩の金蔵にそんなものがあることを知らなかった者もいる様子だった。  ただ一人、杉山忠兵衛は又左衛門が鉛銀という言葉を口に出したとき、さっと青ざめたように見えた。 「ご承知がない向きもおられることと思うので説明させてもらうと、鉛銀の塊は三十個。これはかつての領国銀の残りでござる。灰吹きにかけて仕分ければ、およそ六、七千両の銀子を生むといえば、その値打ちはおわかりいただけるものと思う」  会議の席がざわついた。しばらく人びとが私語するままにまかせておいてから、又左衛門は言った。 「その鉛銀塊が、ただいまは御金蔵にただの二個残るだけでござる」 「………」 「そもそもこの鉛銀が御金蔵に秘匿されたのは、わが藩三世の殿仁世公の遺言によるもので、仁世公は戦支度の用が出来たときに遣うべきことを遺言されて、鉛銀を残された。つまり、いざというときのわが藩の戦費に用立てるべきものとして、鉛銀は御金蔵の奥にしまわれて来たものでござる。このことは、わが殿もご承知のことにござりましょう」  又左衛門が上座に眼をむけると、忠盈がうなずいた。 「その鉛銀が、さきほど申したとおり、ただいまは御金蔵にわずかに二個残るのみ。しかもおどろくべきことに、二十八個の鉛銀が御金蔵から消えたのは、当代の杉山どのが執政として藩政の采配を振るに至ってからと判明した」 「………」 「かのやり手の小黒家老も手をつけ得なかった鉛銀が、一度に姿を消したことについては、ここで杉山どのの弁明を聞かねばならぬものであろうと存ずる」  杉山忠兵衛が咳ばらいした。顔いろがはっきりと青ざめていた。 「又左の申すことを聞いていると、まるでわしが不正を働いて、鉛銀を懐に入れてしまったように聞こえるが、使途ははっきりしていてやましいところはない」 「いかような向きに遣われましたか」 「上方商人からの借銀の利子払いにあてたのだ。その出入りは元締詰所の帳簿にきちんと記載されているはずで、お疑いなら帳簿を改めていただこう」 「疑いはしませぬが、使い途を間違われましたな」 「又左、窮屈なことを言うものではない」  忠兵衛は弱弱しい笑顔を又左衛門にむけた。 「なるほど戦費として蓄えられて来た鉛銀だが、世は泰平、どこに戦の気配があるか聞かせてもらいたいものだ。それよりはここで、切迫している藩財政に役立てようとしたわしの才覚が、さように咎められるべきたちのものとは思わん」 「お言葉ですが、幕府から再三にわたって通達があり、わが藩が目下手をつけている異国船に対する海岸の武備は、仁世公が申された戦ではありますまいか。費用を捻出しかねて、海防の作業がおろそかになっては申しわけが立ちますまい」  領国の海岸の要所に見張り番所を設けたり、大砲を購入して家中の調練をすすめたりする海防計画は出来上がっているものの、費用のつごうで実際の作業は遅遅としてすすんでいなかった。だが、そのことを持ち出した又左衛門の言い分は詭弁《きべん》だったのだが、又左衛門はその詭弁で十分に忠兵衛を追いつめることが出来るのを知っていた。 「執政のわれらに相談もなく……」  又左衛門はとどめを刺した。 「また、お上のお許しを得るでもなく、独断専行、仁世公のご遺言を破られたのは、杉山家老の大きな落ち度と思われるが、いかがなものであろうか」  又左衛門の一言で、会議の間は静まり返った。人びとの沈黙の中に、仁世公の遺言のひと言が重くぶらさがっていて、誰も顔を上げられなかった。又左衛門と忠兵衛だけが、正対してお互いを凝視していた。  不意に忠兵衛が身じろぎした。その瞬間、忠兵衛の顔は朱《しゆ》を浴びたように赤くなり、すさまじい形相になった。 「はめられた」  忠兵衛は吐き捨てるように言った。その声を聞くと、藩主がすっと立ち上がり、無言のまま部屋を出て行った。 [#改ページ]   天 空 の 声      一  野瀬市之丞が果たし合いに指定した五日目の朝の日がのぼりはじめたのを、桑山又左衛門は庭のうしろにひろがる雑木林の小道を歩きながら見ていた。  日がのぼると、それまで又左衛門のまわりを取り巻いていた、霧とも夜の名残とも見わけがたかった白っぽくあいまいな空気の澱みが、おどろくべきはやさで消え失せ、すべての物がはっきりした形と色を取りもどすのが見えた。  楢は罅《ひび》われた黒っぽい樹皮と透明な脂を、欅《けやき》の巨木はやや赤みを帯びた灰いろのざらつく幹を、昨日と変わりなく朝の光にうかび上がらせ、木立をすり抜けて来る日射しは、又左衛門の身体を斑《まだら》に染めた。林の中に動く物はまだ見えず、歩いて行く方角の樹上に、鵙《もず》が一羽だけ鳴いている。  晩秋の冷気が肌を刺して来て、又左衛門は身顫いして立ちどまった。雑木の梢を見上げると、そこからまだ遠い木にいるのに、まるで又左衛門の視線を感じ取ったように、鵙が鋭いひと声を残して姿を消した。  ──やはり……。  一人で行くべきかと、又左衛門は思っていた。その迷いが芽ばえたのは、未明の床に目ざめたあとである。昨夜眠りにつくまではなかった考えだった。  又左衛門は、昨日のうちに二人の男に会った。桐の間出仕の年寄高瀬半左衛門と、長兄が若死にしたために家を継いで、いまは御槍組に勤めている中根又市の二人である。  もと中老の高瀬半左衛門にたしかめたことは、小黒一族が自滅したあの政変の夜に、野瀬市之丞を城に呼んで杉山忠兵衛の護衛につけたかどうかという一点だった。高瀬はもう七十になっていたが、身体も丈夫なら頭の働きも明晰で、その夜のことをくわしく記憶していた。 「さような事実はなかったな」  高瀬はあっさりした口調で言った。 「われわれはあの夜、大目付を呼ぶとお上の名前でもって執政屋敷を封鎖するように命じた。それで安んじて新しい執政をえらぶ論議に入ったわけでな。囲みを破ってひとが脱け出すなどということは、予想もしていなかったのだ」 「そのことを知ったのは?」 「それよ」  高瀬は軽く天井をにらみ上げる表情になったが、すぐに眼を又左衛門にもどした。 「新しい執政が登城して来て、お上からのお言葉も終わり、一同牡丹の間を出て表御殿の玄関にむかう途中だったと思う」 「たしかですか」 「たしかだとも。急報して来たのは徳光という徒目付で、番頭の立石甚左衛門がつき添っていたのを思い出した」 「………」  それが事実なら、いや、事実に違いないが、あのとき市之丞はやはりおれに嘘を言ったのだ、と又左衛門は思った。市之丞は、供待ち部屋に姿を現したとき、もう小黒屋敷から脱け出した男たちの名前を知っていたのである。事前に杉山忠兵衛と連絡がとれていた何よりの証拠だろう。  又左衛門はそう思ったが、念のためにたしかめた。 「お上が新しい執政、とりわけ筆頭家老に任ぜられた杉山忠兵衛どのに、護衛を下されたということは?」 「そういう事実もない」  高瀬はまた、はっきりした口調で言った。 「お上は小黒屋敷から脱け出た男たちがいることをご存じなく、奥にもどられた。特別の護衛を下されるいわれはない」 「なるほど、さようですか」 「何を調べておられるのかはわからぬが……」  高瀬半左衛門は、やや皮肉な笑いを又左衛門にむけた。 「あの夜の小黒一族の扱いについては、尊公とさきの大目付堀田勘解由が明らかにしたごとく、杉山忠兵衛の策略が目立った。やりすぎだ」 「………」 「尊公の調べも、そのあたりに関係がありそうだが、ともあれ、忠兵衛の護衛などということは、われわれ桐の間の年寄のまったく関知せぬことだ」  中根又市にたしかめたことは、市之丞に陰扶持が出ているといううわさをどこから仕入れたかということだった。 「古い話ですな」  高瀬半左衛門とは違い、中根又市は聞かれたことをすぐには思い出せないらしく、困惑した顔になった。  そしてそんなことを聞きに、道場の後輩とはいえ、いまは立身して筆頭家老を勤める男が、お忍びでたずねて来たことがどうにも解しかねるというように、上眼遣いに又左衛門を見た。  中根又市は髪が薄くなっていた。生来のむっつりした顔つきは家老の前でも変わらなかったが、片貝道場の高弟として名前を知られていたころの精悍《せいかん》さは失われて、ただの無愛想な初老の男の顔になっている。中根は家をついだとき、亡兄の妻だったひとと婚したのだが、夫婦の間には子供がなく、いずれ養子をとらなければならない立場だった。  中根の色の黒い無愛想な顔には、そうした境遇から来る屈折も隠されているように思われたが、中根は又左衛門が聞いたことには、何とか正確なところを答えようと努力しているようだった。 「あれはたしか……」  中根は小首をかしげたまま言った。 「道場に行ったときのことだったと思います。陰扶持という話が出たのは」 「そう言えば貴公は、師匠が斡旋したとかどうとか言っていたようでもある」 「ちょっと待ってください。何とか思い出せそうです」  中根は、又左衛門を手で制した。 「ええと、そのときはぶらりと道場に立ち寄ったのだと思います。そこで稽古をしたかどうかは忘れましたが、母屋の師匠を見舞うと、部屋に杉山忠兵衛どのがおられた。陰扶持というのはそこで出た話ですな。奇妙な話だったので、おぼえています」 「それはいつごろの話だろう」 「さて」  中根はあごの先を指でつまみながら、首をひねった。 「はっきりはしませんが、ああしてお供もなく道場に来られたところをみると、杉山どのは家老になられる前だったのでしょうな」 「陰扶持の話は、杉山どのの方から言い出されたことかな。それとも師匠が……」 「いやいや、師匠じゃありません」  と中根は言った。 「杉山どのの方です。そう切り出してから、師匠が斡旋したといううわさがあるがまことかとたずねていました。うむ、間違いない。たしかにそう言っているのを、そばにいて聞いたのです」 「で、師匠はどう答えられた?」 「さあて。そのへんになると、どうもあまりはっきりとは思い出せませんな」  そう言ってから中根は、はじめて顔にうす笑いをうかべた。 「いっそ、じかに市之丞にお聞きになってはいかがですか」 「………」 「やつも話したいことはあるはずですよ。書院目付の岩村達弥と呉服問屋の桂屋升六が急死した事件を、おぼえておられますか」 「聞いたことはあるが、それもまた古い話だの」 「いかにも古い話ですが、それがしはあの事件は野瀬がやった仕事だと思っています」 「まさか」  と又左衛門は言った。岩村は、小黒、小見山両家老の指図で家中の動静を嗅ぎ回り、しかも少なからぬ配下を動かしていたことから、裏目付と綽名《あだな》されて忌み嫌われた人物である。また桂屋升六は、古くから時の執政と上方商人の間を仲介して働き、そこから巨利を得たとうわさされた男だった。  二人ともに、どちらかといえば悪名の方で家中に知られた人物であるために、急死のうわさは郷方勤めの又左衛門にまでとどいたのだが、病死と聞いた記憶がある。 「病死ではなかったのか」 「なんの」  と中根は言った。もとの無愛想な顔つきにもどって、岩村は自分の屋敷の門前で、升六は初音町の料亭「小菊」を出た直後に何者かに刺殺されたのだと言った。 「どちらもたそがれ時だったそうです」 「しかし、病死と聞いたおぼえがある」 「藩がそのように取りつくろったのですな。かかわり合いの筋には厳重に口止めしたと聞いています」  中根はにべもない口調でそう言ってから、さらにつけ加えた。 「四年後に、蒲池清助が脱藩しました。杉山どのがご家老になられて後ですな。ご承知と思いますが、蒲池は町奉行配下の足軽目付で、岩村と一心同体で働いた男でした。上意討ちの命を受けて蒲池を追ったのが、市之丞と山崎作之進です」 「うむ、その時のことはおぼえておる」  と又左衛門は言った。しばらく沈黙したあとで、又左衛門は改めて家老の威厳をつくろうと言った。 「ためになる話を聞いた。だが、いま話したことは以後他言無用にしてもらおう。貴公の身のためでもある」  脅しめいた又左衛門の言葉を、どう受け取ったかはわからなかった。中根又市は無表情に頭を下げた。  高瀬半左衛門、中根又市の二人と話してみて、杉山忠兵衛が市之丞に暮らしの金を出していた証拠がつかめたわけではなかった。だが二人に会ったあと、又左衛門の気持ちの中で、その確信がいっそう強まったことは疑えなかった。  大目付や町奉行配下の、探索を仕事にしている男たちなら、そのあたりでもう動かしがたい証拠をにぎったかも知れないが、又左衛門にはそこまでは無理だった。だが……。  ──まず、間違いないな。  と又左衛門は思っていた。市之丞と忠兵衛の姿は、いたるところで重なっていた。ちょうど世間の表面で、又左衛門と忠兵衛の姿が頻繁に重なっていたように。  ──つまるところ……。  忠兵衛は小黒、小見山の結束を崩して政権を手中ににぎるために、表側でこのおれを、裏側で市之丞を使って来たとみるべきだ。しかし、おれが執政にすすんだばかりか、家老にまで成り上がって自分を執政から追い落とすことになるとは、忠兵衛は予想もしなかったに違いないと又左衛門は思った。  市之丞の背後には、忠兵衛がいる。そして市之丞が忠兵衛の走狗であるからには、果たし状は私憤をよそおった暗殺の一手段とみるべきだった。いまは藩政を担う人間が、そんな手にひっかかってたまるかと又左衛門は思い、果たし合いの場所には青木藤蔵を連れて行き、うむを言わせず市之丞を討ち取る腹を決め、昨夜ははやばやと床についたのである。  だが、寝るのがはやかったせいか、今朝の目ざめもいつもの朝よりはやかった。欄間のあたりに、かすかに青白い光がまつわりついているだけで、屋敷の中は物音ひとつしなかった。朝のはやい台所の女たちもまだ眠っているらしい、と思いながら、又左衛門は身じろぎもせず欄間の光を見つめていた。  しかし貴様だって、あまり立派なことは言えまい。不意に胸の奥からそうささやく声を聞いたのは、そうして仰向けに寝て、静かな呼吸を繰り返していたときだった。  又左衛門は両掌をにぎり合わせ、身体を固くした。それは自分の胸の中から、立ちのぼる気泡のように湧いて来た考えだったのに、あたかも野瀬市之丞が耳もとでそうささやいたような、一瞬の錯覚に襲われたのである。又左衛門はすぐににぎりしめた手をはなし、身じろぎして身体の凝りをほぐした。だが、胸に高い動悸が残った。  胸が波打ったのは、つづいて市之丞の言うことにも一理はある、という考えがうかんで来たからである。  昨夜、眠りに落ちるまでは、又左衛門は自分こそ正義だと思っていた。前の執政から政権を奪うために、杉山忠兵衛が打った手は目にあまるものだった。そして一度政権をにぎってしまうと、今度は藩政の中枢を自派で独占しようとした。対立する者はつぎつぎと要職からはずし、その鉾先《ほこさき》を最後には又左衛門にむけて来たのである。  忠兵衛の政策の根底には、古い執政たちが何度かそれで躓《つまづ》いている、村と百姓は搾《しぼ》れば吐き出すという思想があって、目前に苦境打開を迫られると、すぐさまその近道に走りたがった。そのためには又左衛門が邪魔だったのだろう。  だが、又左衛門に言わせれば、忠兵衛のそのやり方こそ藩を自滅にみちびくものだった。搾れば一時の苦境はしのげるとしても、やがて潰れ百姓が出、農地は荒れ、いずれは食に窮した百姓たちがむしろ旗を立てることになるだろう。むろん又左衛門が多年心を砕いて来た、自前百姓をふやすという農政上の一番肝要な仕組みも、そこで破綻せざるを得ない。忠兵衛の失点を拾い上げて反撃したのは、正義だった。やましいところはない、と又左衛門は考えていたのである。  だがはたしてそうかと、又左衛門はいまはじめて、自分の歩いて来た道を怪しみ振りむいているのだった。  執政入りしてから足かけ十一年、家老になってからでさえ、六年の歳月が過ぎていた。その間、藩政を担う日日は重くて辛かったかといえば、否である。そういう時期がまったくなかったわけではないが、概して言えば、人にこそ言わね又左衛門は大方は愉快な日日を送って来た、と言ってもよい。  その時時の施策を、ほかの執政たちとああでもない、こうでもないとつつき合い、時には意見が対立してはげしく言い争っても、中身が藩政に関する事柄と思えばその争論さえもたのしく、そこにはかつて知らなかった気持ちの充足があった。  一方で、富商あるいは富農と呼ばれる男たちと茶屋酒を飲む機会がふえ、美食と若い女子の酌にも馴れた。男たちは、又左衛門が持つ権力を利用して、わが利をふやそうと近づいて来る。そういう商人や地主に、小出しに権力を分けあたえてやることも快い仕事のひとつだった。そして力を貸してやれば、必ず見返りがもどって来た。  言いわけをすれば、又左衛門はその見返りを、私利私欲に費消したとは思っていない。忠兵衛に対抗するために、自分のまわりに味方をふやすことに使ったのである。  いまは、清廉な家中藩士が清廉たるがゆえに借金に苦しむような時代だった。又左衛門は借金を抱えて立ち往生している有能な家中を見つけると、時には戸浦の羽太屋から金を取り寄せてまでも金を融通した。融通金は無利子で、相手によっては呉れっきりにした。忠兵衛と対決して勝ちをおさめたのは、長年のその工作が実を結んで藩内での孤立を免れたことと、藩主に提出した財産目録が物を言ったためである。又左衛門の家財は、中老就任以来まったくふえていなかったのだ。  ──だが、それも……。  物欲に淡白だということを証明しても、正義を証明するわけではない。ふり返ってみればおれもひそかに権勢におごりもしたし、忠兵衛に対しては阿漕《あこぎ》な手も使ったのだと思ったとき、それまでずっと頭の隅にひっかかっていた言葉が、不意に又左衛門の意識のおもてにうかび上がって来たのである。権勢欲ということだった。又左衛門は顔をしかめた。  ──市之丞は……。  執政の地位に対する、おれの執着を見抜いたのかも知れないなと又左衛門は思った。  執政は、名誉と権力とその気になれば富さえもあつまる場所だった。郷方勤めとは雲泥の違いだった。太蔵が原の開墾に成功して郡代にすすんだころでさえ、又左衛門を見る家中の眼には、どこか風変わりな仕事に成功している男を眺める気配があったものだが、いまは違う。  すれ違うひとは、又左衛門に畏敬の眼を投げる。居心地のよさは言いようがなかった。  ──何とかを三日やれば、というが……。  執政も三日やったらやめられんな、と又左衛門はあるときそう思い、ひそかににが笑いしたものだ。  又左衛門は、地位を利用して金をあつめようとは思わなかった。また権力をふりかざして、ひとを圧迫しようと考えたこともなかった。長い郷方勤めの間に身についた倫理感覚は、いまも堅苦しく又左衛門を縛っている。  あとに残るのは、藩政の中枢にいてひとにあがめられるというぐらいのことだった。だが残るそれだけのことが、白状すれば言いようもなく快いことだったのである。  ──多分、それは……。  と又左衛門は、かつて考えたことがある。富をむさぼらず権力をひけらかしもしないが、それは又左衛門がやらないというだけで、出来ないのではなかった。行使を留保しているだけで、手の中にいつでも使えるその力をにぎっているという意識が、この不思議な満足感をもたらすのだ、と。  実際に、その力のことを考えるだけで、又左衛門の顔はおのずから威厳に満ちあふれ、またあるときは、ひとを許すにこやかな表情になった。実家の兄夫婦に、藩の重役らしいいい顔になったとほめられたのは、そのころのことである。  その地位に至りついた者でなければわからない、権勢欲としか呼びようがないその不思議に満たされた気持ちは、又左衛門のような、門閥もさほどの野心もない人間をも、しっかりとつかまえて放さなかったのである。  市之丞に見抜かれたのは、そういうことだろうと又左衛門は思った。忠兵衛は権力を遠慮なく行使してはばからなかったが、おれは留保した。それだけの差でしかないと見抜いたのだ。そして忠兵衛とおれとの争いは、どちらが権力の座に生き残れるかを賭けた私闘にすぎなかったのに、残ったおれが正義漢づらでおさまり返っているのは許しがたいと考えたのではないか。 「そのとおり、五十歩百歩よ」  又左衛門は大声を出した。声は森閑とした朝の雑木林に吸いこまれて行った。  市之丞の非難は的を射ている、と又左衛門はさっき床の中にいる間にうかび上がって来た考えを、また胸の中でころがした。非難が理に叶っているとすれば、藤蔵と二人がかりで市之丞の挑戦を闇から闇に葬るような真似をすべきではなかった。又左衛門は市之丞の前に一人で出て行って、その挑戦を受けてやるべきなのだ。うしろに忠兵衛の手が動いているかどうかは、この際問題ではない。  ──それに……。  市之丞は必ず一人で来る。たとえば忠兵衛が何かの手を使いたがったとしても、一人で来る。市之丞はそういう男だ、と思ったとき庭に面した雨戸が勢いよく開きはじめた。戸を繰っているのは友吉だった。  しかし友吉は、二枚ばかり雨戸を繰ったところで、途中の雨戸が一枚開いているのに気づいたようである。手をかざして林の方を見た。そして、いそぎ足に庭に降りて行く又左衛門を見ると、お早いご散歩でござりますると言った。 「友吉」  と又左衛門は言った。 「朝飯を喰ったら使いに行って来い」 「かしこまりました。どちらさままで」 「大目付の奥村の屋敷だ。火急の用が出来たので、ここまでおはこびねがいたいと言うのだ」 「承知いたしました」 「それから、藤蔵は起きているか」 「はい。さきほど厩の方に行かれたようでござりますが……」 「すぐ、ここに来るように言え」 「はい。しかし、じきにお食事が……」 「飯前に片づく話だ。雨戸をあけたら、すぐに呼んで来い」  と又左衛門は言った。  大目付の奥村権四郎が来たのは、又左衛門が妻の満江と朝の食事を済ましてから、四半刻ほど経ったころである。 「火急のご用とうかがいましたが……」  と奥村は言った。奥村は四十を過ぎたばかりで、大きな身体と大きな声を持っている。額などはてらてら光っていて、男ざかりという印象があった。 「まず、これを見てもらおうか」  又左衛門は、手もとの手文庫をあけて、中から取り出した野瀬市之丞の果たし状を、奥村に渡した。 「拝見しても、よろしゅうござるか」 「どうぞ、遠慮なく」  奥村は巻紙をひろげて黙読した。読み終わると、怪訝そうな眼を又左衛門にむけた。得意の大声をひそめて言った。 「これは何でしょうな。まさか、本気というわけではありますまい」 「いや、本気だ」 「しかし……」  と言って、奥村は狼狽した顔になった。 「本気なら、野瀬を野放しにはしておけませんぞ。よろしい。それがしにご命令をください。すぐにもかの男を拘束します」 「待て待て」  と又左衛門は言った。 「何もあわてることはない。野瀬をつかまえるつもりなら、やつは今日の夕方、そこに書いてあるとおり三本欅のところに現れる。だが、貴公を呼んだのはそのためではない」 「と、申されますと」 「わしは、この果たし状を受けてみようかと思っているのだ」 「ご冗談を」 「いや、冗談ではない。野瀬は前髪のころからの友人だ。その野瀬が悪人呼ばわりするからには、わしも悪人かも知れんのだて。ま、それはともかく、この申し込みを受けるとしたら、誰かにとどけ出ねばならん。月番家老にとどけてもいいが、それでは話が大げさになる。それで貴公を呼んだのだ」 「いや、しかしそれがしの一存では……」  と言ったとき、奥村の顔に突然に汗が噴き出して来た。 「いや、それはなりませんぞ、ご家老」  奥村は取り出した懐紙で、いそがしく汗を拭き取りながら言った。 「ご身分をお考えください。いやしくもわが藩筆頭の家老が、果たし合いなどとはおそれながら無思慮が過ぎませんか」 「ま、みんながそう言うだろうな」 「当然でござる。ご家老の肩には藩の命運がかかっております。果たし合いなどということは私事に過ぎません」 「まあ、そうがなり立てずともよい」  又左衛門は、大きすぎる奥村の声をたしなめた。 「貴公がそう言ってくれるのはありがたいが、なに、筆頭家老の代わりなどいくらもあってな。わしがいなくなれば、すぐにも喜んでその席に着きたがる者が出て来るはずだ。ま、それはそれとして……」 「………」  奥村権四郎は、むっつりした顔で又左衛門を見つめている。 「野瀬の顔を立てて、決闘場まで行ってやりたいというのは、まことの気持ちだ。だが、わしもそこで命を落とすのはいやだ。果たし合いというのはどう考えてもばかげておる。野瀬は頭がおかしくなっているとしか思えぬ」 「そのとおり、狂っています」 「だから行きはするが助勢を伏せる。うちの青木が一刀流の免許取りなのは知っているな?」 「はあ」 「青木を近間に伏せておく。いざというときは二人で立ちむかうゆえ、貴公が心配するようなことは起こらぬ」 「しかし、万一ということがござりますぞ」 「その場合にも、後が困らぬようにしておくから、貴公に迷惑はかからん」 「わかりました。では……」  と言って奥村は手の中の果たし状をもう一度ひらいた。 「時刻は七ツ半(午後五時)ですな。こちらはそのあとで、遠巻きに配下をくばります」 「手を出すなよ」 「出しません。ええと、この果たし状は、一応こちらにお預かりしておきましょうか」      二  又左衛門は、奥村を帰してから待たせておいた城下の商人二人に会い、そのあと居間にもどって遺書を二通書いた。一通は満江あて、一通は月番組頭の堀田衛夫あてである。万一のことを考えて、私事と公の後始末のことを記したのだが、筆を持ってみると、書きおくことはさほどになかった。  軽い昼食を済ませると、刀を手入れしてから自分で掻巻を出し、畳に横たわって仮眠を取った。眠ってもよし、眠れなくともよしと思ったのに、朝の目覚めがはやかったせいか深い眠りに落ちた。  だが寝すごすことはなく、又左衛門は七ツ(午後四時)前には目覚めて、さっぱりした気分で身支度した。常徳寺の七ツの鐘を聞いてから玄関に出ると、家士の青木藤蔵が待っていた。 「いいか。打ち合わせたとおりだぞ」  と又左衛門は言った。 「水番小屋をたしかめて来たか」 「はい。身を隠すには好都合の場所のように思われました」 「よし」  又左衛門はうなずいた。 「だが、小屋に隠れるのはわしが市之丞と声をかわしてからでよい。その前に小屋に近づいて、市之丞に怪しまれてはならん」 「心得ました」 「河岸の道は、見はらしのいい場所だ。だが、そなたが回って来る方は、草原のために人影は容易には見えん。だから、あわてることはない。よく見きわめてから、小屋に入れ」 「はい」 「いったん隠れたら、今朝言ったとおり、わしが呼ぶまでは小屋を出てはならん。よいか、ここが肝心のところだぞ」  噛んでふくめるように言い聞かせ、又左衛門は門前で藤蔵と別れた。  ──市之丞の顔を立ててやろう。  大目付の奥村に言ったように、又左衛門の考えの行きついたところはそういうものだった。果たし合いに応じる、ということである。ただし、命までやるつもりはなかった。市之丞との果たし合いの成り行きがどういうものになるかは、予測のほかだったが、あぶなくなったらすぐに藤蔵を呼ぼうと思っていた。  ──市之丞には気の毒だが……。  おれは藩政を預かる家老だ。私闘で命をやりとりすることは許されておらぬ、と思いながら、又左衛門は日が傾いて来た町をいそぎ足に南に歩いて行った。  又左衛門のその考え方の中には、自己の本心に対するいつわりがあり、にごった権力者のおごりさえまじっていたが、又左衛門は気づかないふりをしている。ほかに市之丞の挑戦に応じて、しかも執政の地位を失わずにすむようなつごうのいい理屈が見出せない以上、いつわりの理由に身をまかせるしかなかった。  城下も場末になると、往来のひとの姿も少なくなる。又左衛門はひっそりした馬喰町を通り抜けて、六斎川の河岸に出た。城下を南北に縦断する六斎川は、馬喰町を抜けたところで川筋が急に彎曲《わんきよく》して、上流は東南を指す。市之丞が指定した三本欅は、弓なりに迂回する河岸を二町ほど行ったところにあった。  三本欅からさらに十町ほど河岸を遡ったところに、藩の牧があり馬が飼われている。河岸には、時おり牧と城下の馬場を馬が往来するのにそなえて、幅広い道がつくられていた。そのために、町はずれに立つと、はるかむこうにある三本の欅の巨木がよく見えた。  又左衛門は立ちどまって頭巾を取ると、しばらく三本欅を凝視した。近い物は見えにくくなったが遠目はまだ利く。しかし丁寧に見たが人影は見えなかった。又左衛門は歩き出した。川音が耳に入って来た。  六斎川は夏を過ぎるまでは、水量ゆたかに流れる川だが、秋も半ばを過ぎて好天がつづくと、次第に水嵩が減って白い河床があらわれて来る。そして水は、砂と石の間に黒っぽい木の根や獣の骨などをのせたまま乾いている河床を、遠巻きに巻いて流れるようになる。  歩いて行くと、川底を這う日暮れのいろが、あちこちに露出している河床や、深い水の澱みを染めはじめているのが見えたが、水は浅いところでは落ちかかる日の色をはじいていて、きらきら光っていた。  三本の欅の巨木に、およそ十間ほどの距離まで近づいたとき、背後の枯れ草の中から、ぬっと立ち上がった者がいた。市之丞だった。市之丞は幹を回って又左衛門がいる道まで出て来ると、薄笑いをうかべてどなった。 「ひとりか」 「ひとりだ」  又左衛門もどなり返した。だが、答えながら又左衛門は、半年ぶりに見る市之丞の変貌に、胸をしめつけられるような気がしていた。  市之丞は髪が真っ白になっていた。頬の肉は落ち、顔には縦横に皺が走り、まるで老人のように面変わりしていた。日焼けした顔と又左衛門を見つめる鋭い眼だけが変わらない。市之丞は、死病に取り憑かれているらしいと言った藤蔵の報告を、又左衛門は改めて思い出していた。  又左衛門は大きな声で言った。 「髪が白くなったではないか」 「おたがいさまよ」 「身体のぐあいはどうだ? 病気はしておらんか」 「べつに」  市之丞の返事はそっけなかった。むろん、自分の病気を他人にこぼすような男ではない、と又左衛門はあきらめた。 「ずいぶんさがしたが、見つからなかったな。いったい、どこに隠れていたのだ」 「さてな」  市之丞はそっぽを向いたが、不意に鋭い眼を又左衛門にもどした。 「果たし状を見たか」 「見た。だから、こうして来たではないか」 「よし、よし」  市之丞はうなずいて、履物を脱ぎ捨てた。 「執政などに納まりやがって、腹の底まで腐ったかと思ったが、そうでもなかったらしいな。一人で来たのは上出来だ」 「待て」  又左衛門は手をあげた。 「話がある。斬り合う前に話さぬか」 「そいつはごめん蒙ろうじゃないか、桑山」  市之丞はひややかに言った。 「貴公は口達者に執政まで成り上がった男だ。何を話そうと果たし合いをやめる気はないが、弁口じゃかなわんからな」 「それでは、ひとつだけ聞く」  又左衛門は言いながら、ちらと川の上流に眼をくばった。三本欅から十数間ほどの上手に橋がかかっている。小さなその橋を対岸に渡ったところに水番小屋があった。そこから、灌漑《かんがい》用の水を取る水路が分かれているのだ。  対岸を埋める枯れ葦に隠れて、水番小屋は屋根しか見えなかった。藤蔵はうまく隠れただろうかと思いながら、又左衛門は言った。 「この果たし合い、まさか忠兵衛の差し金じゃあるまいな」 「おい、おい」  市之丞はにが笑いした。 「人聞きのわるいことは言わんでくれ。何事にも政治的な裏とかいうものをさぐらぬと気が済まぬのは、貴公らお偉方の病らしいが、安心しろ。忠兵衛なんかはかかわりがない。貴様の執政づらが、どうにも目ざわりでならんというだけのことよ」 「もうひとつ。忠兵衛が執政からおろされて、それで貴公もお払い箱になったのではないか」  市之丞は答えなかったが、顔色が変わった。市之丞の顔はさっと赤くなり、それから徐徐に青白くなった。又左衛門の言葉が的を射たのか、それとも単純な怒りのせいなのかはわからなかった。市之丞は羽織を捨てた。 「さあ、来い。日が暮れるぞ」 「そうか。はじめるか」  又左衛門も羽織を脱ぎ、革足袋ひとつになった。そのときになって、又左衛門は突然にあることに気づいて顔色を変えた。  川音が高く鳴りひびいていた。さっきから、何か気になるものがあると思っていたのはそれだったのだ、と又左衛門は気づいている。  すぐそばの川の中に、梁《やな》を仕掛けたあとがあった。梁そのものは引き揚げたらしく、もう見当たらないが、丹念に積み上げた石組みが残っていた。その石組みで、ひとところにあつめられた川水が、堰になっている梁のあとで、絶えまなく高すぎる水音を立てているのだった。  市之丞と言葉をかわしながら、無意識のうちに声を張り上げていたのは、そのせいだったのだと、又左衛門は思った。これでは、呼んでも藤蔵まで声がとどくまい。 「どうした?」  はなれていても、又左衛門のただならない顔色が市之丞にも見えたらしい。いったん刀の柄にかけた手をはなして、声をかけて来た。市之丞の顔に訝しそうな表情がうかんでいる。 「いや」  又左衛門は首を振った。首を振りながら、又左衛門は執政桑山又左衛門という重苦しい衣裳を脱ぎ、いそいで三十年前の上村家の冷や飯喰いにもどろうとしていた。一瞬の決断である。ほかに、いま直面している危機をのがれる方法はないと、本能が教えていた。  迷いは禁物だぞ、と又左衛門は強く自分を戒めた。藤蔵をあてにせず、一人で切り抜けるしかないのだ。 「ひさしぶりだな、市之丞」  又左衛門は改めて呼びかけると、まるめた羽織を投げ捨て、襷《たすき》をしぼり直した。闘志を掻き立てるように、革足袋の足で二度、三度地を掻き均してから、しっかりと足場を定めた。 「さあ、来い。貴様の空鈍流が錆びついていないかどうか、とっくりと見せてもらうぞ」 「………」  市之丞は声を立てずに笑った。面変わりするほど顔が痩せ、眼ばかり光っているので、笑うとかえって悪相に見える。市之丞は叫び返して来た。 「元気だな、又左」 「おう、元気だとも」 「美食に馴れて、刀など振り回せぬ身体になったかと心配したが、そうでもないらしいな」 「そんなことはないさ。いつでもかかって来い」 「よし、行くぞ」  市之丞は言うと、眼にもとまらぬ速さで刀を抜いた。又左衛門も抜き合わせた。又左衛門が刀を八双に構えると、市之丞も青眼の剣をすぐに八双に上げた。  二人の間には、およそ十間ほどの距離がある。二人は言い合わせたように、一歩、二歩と前にすすんで間合いを詰めたが、そこで動かなくなった。  ──最初の一撃で決まるな。  と又左衛門は思っていた。又左衛門も市之丞も、五十を過ぎている。刀を振り回して荒れ狂うというわけにはいかない。八双からの、隙を見ての一撃。おそらく、その遅速が勝敗を分けることになるだろう。空鈍流の基本に還るわけだ、と又左衛門は思った。  市之丞も同じことを考えているのかも知れなかった。二歩、ずかずかと踏み込んで来たあとは、足の指にまかせて小刻みに前にすすみ、横に動き、かと思うとぴたりと立ちどまって、今度はわずかに後にさがるといった動きを繰り返している。  距離は、両者が前に踏みこんだときとほとんど変わりなく、依然として七、八間ほど。と思ったとき、市之丞がまた一歩踏みこんで来た。又左衛門は髪が逆立つような気がした。斬り合いの間合いまで、あと一歩しかないのを悟ったのである。しかも日が落ちて、その一歩をどちらかが踏みこむしかない時が来ていた。そう思いながら、又左衛門は動かず、市之丞も石のように動かなかった。  ──……?  市之丞が、かすかに身じろぎしたようである。左足の踵をわずかに外側にずらしたのだ。固い守りの構え。だが軸足の右の踵が、草の根にでもあたったか回り切れなかったようだ。歩幅がわずかにのびて、腰が沈んだ。  その一瞬の乱れに、又左衛門はわめき声をあげて斬り込んだ。足を引きながら、市之丞が剣を回して下段からはね上げた。だが、市之丞の上体はまだ不安定に揺れている。躱《かわ》して八双に引いた剣を、又左衛門はまたも鋭く踏み込んで、市之丞の肩に叩きつけた。  と思った瞬間、暗い地面から市之丞の剣がはね上がって来た。打ち合った二本の刀がすさまじい音を立て、二人ははね返った刀を抱いてすれ違い、前に走った。  振りむいて刀を構え直す。だがそこまでの斬り合いで、又左衛門は信じられないほどの疲れに襲われていた。口をあけて、又左衛門ははげしく喘いだ。腕は鉛のように重く、足はみじめに顫えつづけている。喘ぎながら、又左衛門は市之丞を見た。  市之丞も、又左衛門を見ていた。だが市之丞は、又左衛門よりもっとみじめな恰好をしていた。身体を二つに折り、折り曲げた上体を膝にあてた手で支えながら、市之丞は肩で喘いでいた。喘ぐ息が、喉を鳴らす音まで聞こえ、市之丞は刀も構えられないように見えた。又左衛門は声をかけた。 「市之丞」 「………」 「市之丞」 「おう」 「まだ、やる気か」 「あたり前よ。勝負はこれからだぞ、又左」  市之丞は喘ぎながら言うと、腰をのばした。そして刀を八双に引き上げると走って来た。又左衛門も走った。よたよたと二人は走り寄り、刀を打ち合ってその刀の重さによろめいた。二人は酒に酔った男たちのように、もつれ合ってははなれ、また緩慢に走り寄っては重い刀を振り回した。  何度目かの打ち合いで、市之丞の刀が又左衛門の二の腕を斬り裂き、その一撃を避けながらすれ違いざまに振りおろした又左衛門の刀が、深深と市之丞の肩を斬りさげたのは、偶然の出来事のように見えた。すれ違って身体を回そうとして、又左衛門は尻餅をついた。  あわてて起き上がろうとした又左衛門の眼に、仰向けに倒れた市之丞の姿が見えた。市之丞の姿は、地から這い上がるうす闇に、半ば紛れている。  又左衛門が這い寄ると、市之丞は眼をつむったまま、水と言った。その身体をさぐってみて、又左衛門はさっきのすれ違いざまの一撃が、市之丞に致命傷をあたえたのを悟った。 「いま水を飲むと、死ぬぞ」 「なあに」  市之丞は笑顔をつくろうとした。 「かまわん」  又左衛門は刀を鞘におさめると、川に降りて両手に水を掬《すく》った。そばにもどってひざまずき、市之丞が喉を鳴らして手からこぼす水を飲むのを見まもってから言った。 「ひさしく真剣などは使わなかったから、あのざまだ」 「なに、よくやったさ」  市之丞は眼をひらき、又左衛門をなぐさめるような笑顔になった。 「二人ともな」  だがそのあとすぐに、市之丞の顔は眼を吊り上げた苦悶の表情に変わり、口からごぼごぼと血を吐きこぼした。顔色が紙のように白くなり、鼻腔をさぐってみると、もう息は絶えていた。又左衛門は、市之丞の刀を鞘におさめて横におくと立ち上がった。  それから哭《な》くような大声で叫んだ。 「藤蔵、藤蔵」 「これにひかえておりまする」  いきなり近くで声がして、欅のうしろから藤蔵が姿を現した。二人が斬り合っている間に、こちらに移って来たらしい。又左衛門の大声が聞こえたらしく、河岸の道とその北側にひろがる畑地から、ひとが走って来た。大目付の奥村と配下の男たちだった。配下の男たちは、まっすぐ市之丞に駆け寄った。 「お怪我をなされましたかな」  又左衛門の左袖が斬り裂かれているのに、すばやく眼をとめた奥村が言った。 「いや、かすり傷だ」 「まずまず、ご無事で何よりでござった」  奥村に後を頼み、また藤蔵には市之丞の亡骸《なきがら》につき添って町に帰るように言うと、又左衛門は羽織を拾って河岸の道を歩き出した。河岸の道も対岸の葦原も夜色に沈みかけていたが、六斎川の水面だけが、蜜柑色にかがやく西空を映して明るかった。  又左衛門は馬喰町を西に歩き、もう一度六斎川べりに出ると、今度は古びた木橋を西にわたった。わたり切ったところは野道で、左右に暗い田畑がひろがっているだけだった。又左衛門は、歩いて行く間にも急速に色あせて行く西空の下に、秋葉町の灯がまたたくのを眺めながら、黙黙と歩きつづけた。  藤井庄六の家の土間に立つと、はじめに庄六の妻が出て来たが、目ざとく又左衛門の傷を見つけて大きな声を出した。その声で、庄六も式台まで出て来た。 「どうなされましたな、その傷は?」  と庄六は言った。 「やあ、庄六。ひさしぶりだ。ちょっと話したいことがあって来たが、出られぬか」 「はあ、しかし……」  庄六はいきなり又左衛門の腕をつかむと、袖をまくって傷を改めた。又左衛門の左腕は、流れ落ちる血で指先まで赤く濡れていた。 「これは傷の手当てが先。ただいま、手当てさせましょう」  夫婦は、又左衛門を式台に坐らせると、大いそぎで傷の手当てをはじめた。と言っても仮の手当てで、傷口を焼酎で洗い、あとを白布で縛っただけである。 「あとはお屋敷にもどられてから、医者を呼ばれたらよろしゅうござりましょう。金瘡《きんそう》は油断禁物ですぞ」  庄六の妻は、お湯を持って来て腕の血を拭きとり、半ばちぎれた袖は鋏で切り取った。そして又左衛門を立たせると、うしろから羽織を着せかけた。それから又左衛門と庄六は外に出た。  組屋敷の門を出て、塀沿いにしばらく歩いてから、二人は暗い畑の端に立った。 「おい。おれ、おまえで話そう」  又左衛門が言うと、しばらく黙ってから庄六がわかったと言った。 「市之丞と斬り合いをして来たのだ」 「やっぱり、そうか」  と庄六が言った。 「どうもそんな気がしたのだ」 「………」 「それで、やつは死んだか」 「死んだ」  庄六が地面にうずくまる気配がした。又左衛門は身体を回して遠い六斎川の方を見た。そのあたりはもう闇で、高い欅も見えなかった。 「やつは、おれに果たし状を送って来たのだ」  又左衛門はこれまでのいきさつを話した。好んで斬り合いをしたわけでないことを、庄六にだけはわかってもらいたいと思っていた。いざとなれば青木藤蔵と二人で討ち取る手順を決めていたことも、隠さずに話した。 「そのときは当然だと思ったが、考えてみると傲慢な話だな。それをやらずに一対一の斬り合いが出来たのが、せめてもの慰めだ」 「………」 「もっとも、市之丞は病気持ちだったようだ。それがなければ、勝負はどっちにころんだか、わかったものじゃない」 「………」 「泣いているのか、庄六」  庄六はいやと言った。だが声がかすれていた。立ち上がってしばらく黙ってから、庄六が言った。 「おとといの夕方だ。市之丞が新屋敷村の工事場に来てな。小屋にひと晩泊まったのだ」 「果たし合いのことを言ったか」 「いや、ただおぬしの悪口を言っていたな。それから、死病を患っていてもう長い命ではないとも言っておった。ひょっとしたら、おぬしに斬られて死にたかったのかも知れん」 「………」 「その覚悟が決まって、おれにも別れを言いに来たのだろう」  庄六はもう一度声を詰まらせた。二人はしばらく黙って闇の中に立っていた。やがて、庄六が言った。 「早く帰って、傷を手当てする方がいい。市之丞のことは、あまり考えぬことだ」 「庄六、おれは貴様がうらやましい」  と又左衛門は言った。 「執政などというものになるから、友だちとも斬り合わねばならぬ」 「そんなことは覚悟の上じゃないのか」  庄六は、不意に突き放すように言った。 「情におぼれては、家老は勤まるまい。それに、普請組勤めは時には人夫にまじって、腰まで川につかりながら掛け矢をふるうこともあるのだぞ。命がけの仕事よ」 「………」 「うらやましいだと? バカを言ってもらっては困る」  数日後の昼すぎ、桑山又左衛門は太蔵が原の南端に立って、ひらけた耕地と村村を見ていた。いま、馬で新しい村村を一巡して来たばかりである。  又左衛門が立っている場所は、二十半ばのむかし、後に舅となった桑山孫助と出会ったところである。そのとき這い上がって飯を喰った大石のかたまりはそのまま残っていて、そのひとつにつながれた馬は、日を浴びておとなしく草を喰んでいた。  ──この台地に水を引いて……。  荒地を田畑に変えられたらと夢見たものだ、と又左衛門は思った。その夢はかなったというべきだろうとも思った。  田畑合わせて二千五百町歩。不毛の土地だった台地には、家家を強い西風からまもる杉や椹《さわら》に囲まれた数個の村が点在し、その村村には人びとが移住して来てから生まれた子供が育っていた。雪が降るのが早く、消えるのはおそいという地形上の欠点も、心配したほどには農事にひびかず、羽太屋が請け負う開墾の鍬は、いまも少しずつ北にのびている。  だが、それだけの耕地がふえて、藩の暮らしが楽になったかといえば、そうは言えなかった。太蔵が原の開墾が一千町歩を越え、新田からとれた米がはじめて船積みされて上方に売られた年に、藩では家中からの借り入れ米を一律五石ずつ戻した。だが、新田から家中が得た余禄はそれだけにとどまった。  御賄いのような非常手段こそ必要としなくなったものの、その後は借り上げ米を戻すほどのゆとりは、藩にはついにおとずれなかった。そして領外からの借財は、じりじりとふえこそすれ、一両といえども減ることがなく今日まで来たのである。また、開墾地に入った百姓は、それぞれに借金を背負っていて、これまた暮らしが楽になるところまではまだ先があった。  ──つまるところ、開墾は……。  羽太屋を太らしただけだったかも知れないなと、又左衛門はふと気弱く思った。羽太屋はすでに、この開墾地から二百町歩を越える私有地を得ていた。その上、いま当主の伊藤万年に交渉させている近江借りの肩代わりが実現すれば、羽太屋は領内に、もう一人の藩主と言ってもよいほどの隠然たる支配力を確立することになるだろう。  近江借りの肩代わりは、藩の財政上欠かせない要点だった。しかし、これでは羽太屋に藩を売り渡したと言われても仕方ないだろうな、と又左衛門は思った。忠兵衛の言い分にも、理はある。  又左衛門は顔を上げた。澄み切った空を顫わせて風が渡って行った。冬の兆しの西風だった。強い風に、左手の雑木林から、小鳥のように落ち葉が舞い上がるのが見えた。  ──風が走るように……。  一目散にここまで走って来たが、何が残ったか。忠兵衛とは仲違いし、市之丞と一蔵は死に、庄六は……。  ──庄六め。  この間は言いたいことを言いやがった。茫然と虚空を見つめていた又左衛門は、ふと村の方から羽織、袴の数人の村びとがこちらにむかって来るのに気づいた。村役人が家老の巡視とみて、休息をすすめに来たのだろう。  桑山又左衛門は咳ばらいした。威厳に満ちた家老の顔になっていた。 [#地付き](完)  単行本 昭和60年1月 朝日新聞社刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年一月十日刊