[#表紙(表紙.jpg)] 藤沢周平 隠し剣秋風抄 目 次  酒乱剣石割り  汚名剣双燕  女難剣雷切り  陽狂剣かげろう  偏屈剣蟇ノ舌  好色剣流水  暗黒剣千鳥  孤立剣残月  盲目剣谺返し  あ と が き [#改ページ] [#1字下げ] 酒乱剣石割り [#5字下げ]一  門弟が二人、竹刀《しない》を構えてむかい合っていた。対峙《たいじ》してから四半刻《しはんとき》ぐらい経っている。それでいてまだ決着がついていないのは、技倆《ぎりよう》伯仲の証拠だった。  ほかに二人の人物が、無言でその試合を眺めている。一人は道場主の雨貝新五左エ門で、もう一人は次席家老の会沢志摩だった。志摩はおしのびといった恰好《かつこう》で、地味ななりをしている。ほかに人影は見えず、日暮れ近い道場の中はがらんとしている。  明かり取りの高窓から射しこむ光が、二人の門弟の顔面から首筋にかけて、流れる汗を照らし出している。日射しは弱く、日没が近づいていることを示していた。  志摩が、膝《ひざ》を動かして何か言いかけたとき、裂帛《れつぱく》の気合が道場の空気をゆるがした。二人の姿が目まぐるしく交錯し、二合、三合と竹刀を打ち合う音がひびいたあと、もう一度はげしい気合がひびいた。小柄の方の門弟の身体《からだ》が、ふっ飛んで倒れた。 「それまで」  雨貝は手をあげて声をかけると、むき直って挨拶《あいさつ》する二人には眼もくれずに立ち上がりながら、志摩にこちらへどうぞと言った。  庭が見渡せる雨貝の居室に、二人が引き返すと、気配を聞きつけた若い内弟子がお茶を運んで来た。  志摩はのどが乾いたらしく、うまそうにお茶を飲んだ。そして庭に眼をやった。庭木がぽつぽつ芽を吹いている。火桶《ひおけ》が出ていたが、障子を開いておいても寒くはなかった。 「どちらが上と見ましたかな」  と雨貝が言った。  雨貝新五左エ門は、もと百七十石で郡奉行《こおりぶぎよう》を勤めた人物だが、丹石流の高名な剣士でもあったので、早く隠居して家督を息子に譲り、道場を開いて剣ひと筋の道に入った。家中から雨貝道場に学ぶ者はおよそ百人と言われ、城下でもっとも盛んな道場になっている。 「むろん、勝った方が上だろう」  志摩は雨貝に眼をもどして、無造作に言った。聞くまでもあるまい、という眼つきをした。  だが雨貝は低い笑い声を洩《も》らした。 「ところが、そうではございません。負けた方が技倆は上でござります」 「何じゃと?」  志摩は面長《おもなが》の上品な顔をしかめた。ふっ飛ぶように倒れ、ぶざまに床を滑った小柄な剣士を思い出していた。  志摩は険《けわ》しい眼をした。 「するとあの男、わしの眼の前でわざと負けたということか」 「いえ、さようではございません」  雨貝はおだやかに否定した。 「勝った中根藤三郎は、当道場の師範代を勤めております。弓削《ゆげ》はわざと負けたわけではございません。おだやかに申せば、当道場において中根が一位、二位が弓削。見られたとおりでござります」 「………」 「しかしここ一番という、かりに絶体絶命の試合にのぞんだとき、弓削甚六の剣は、中根の剣を上回ること必定《ひつじよう》です」 「ほほう。不思議なことを申す」  志摩はじっと雨貝の顔を見つめた。 「このあたりのことは、師匠のそれがしにもわかりかねるところがありましてな。弓削の剣には、それがしにも測り知れぬ何かがござります。そこが、中根の剣をやや上回ると申しあげたところでござります」 「面白い」 「一番一番立ち合わせますと、さきほどのことのような具合になります。いつもあのように、弓削の方に僅《わず》かに分がございません。しかし、かりに十番勝負、十五番勝負というものを闘わせたら、どのようなものでございますかな」  雨貝は、自分自身にも問いかけるように、志摩から眼をそらせて、庭に眼を投げた。日は庭隅の高い辛夷《こぶし》の花に移って、さっきまで日の色をとどめていた庭石は白っぽくなっている。 「どうなるかの?」  そう聞いた志摩の顔には、なみなみならぬ熱心ないろが現われていた。雨貝は顔をもどした。 「まず六分四分で、弓削が勝ちをおさめましょうか」 「そうなるか」 「ひとつ、好い例がござります」  雨貝は茶をすすった。 「石割りという秘剣がございます。これは当流にある捨留という剣にそれがしが工夫を加えて、極意としたものでござります」 「………」 「この秘剣を、それがしは中根、弓削どちらに伝えてもよい、というつもりでござりました。ところがです。それとなく石割りの伝授にとりかかってみますと、弓削は最後の気息まで難なくつかみましたが、中根は最後のそこのところをついに会得出来ませなんだ」 「ふむ、ふむ」  志摩は興奮したように鼻を鳴らした。 「天賦の才に、わずかに差があるということらしいの」 「さようでござります」 「しかしだ。その甚六が、ああいう具合にころりと負けるのは不思議だの」 「それには、考えられることがひとつござります」  そう言って、雨貝は謹厳な顔ににが笑いを浮かべた。 「何かわけがあるのか」 「弓削甚六は酒毒に犯されておりましてな」 「しゃッ」  志摩はあきれ顔になった。 「きゃつ、飲んだくれか」 「ひらたく申せばさようなことで。しかし、なにでござりますな」  二人の会話は、高邁《こうまい》な剣談から、急に下世話な世間話の色あいを帯びて来たようだった。雨貝は嘆息する口調になった。 「あの癖だけは、なかなか直りませんな。それがしが赤石郡の郡奉行を勤めましたとき、下役に藩中切っての飲み助がおりました。見ておると、昼日中に役所を抜け出して、近間の百姓家に入りこんで一杯|馳走《ちそう》になってくる。酒の気が切れることがありませなんだ。あれには手を焼き申した」 「知っておる。杉山権兵衛じゃ」 「や、ご存じでしたか」 「ふむ。やつは飲みすぎて肝を患い、先年おだぶつになりよった」  家老は顔に似あわない、品のない市中言葉を使った。 「そのような噂《うわさ》を聞きましたな」 「甚六もそうか。昼日中から飲むか」 「いや、弓削は城勤めがございますからな。杉山のように、年中赤い顔をしているわけにもいかんでしょう」 「当然だ。酒気を帯びて登城するなどは許さん」 「それに、たとえばしじゅう飲みたくとも、弓削は元来禄高が少なく、また弓削の女房が、なかなかのしまりやだそうでござる」  雨貝の口吻《こうふん》に、どことなく弓削甚六に同情するひびきがあるのをとがめるように、志摩はじろりと雨貝の顔を見た。 「そのぐらいでちょうどよい。飲み助を甘やかすことはいらん」 「さようでござりますな」  雨貝はさからわずに言った。 「弓削の酒は荒れますからな。同じ酒でも杉山は」 「荒れる?」  志摩は雨貝の言葉をさえぎった。 「飲んだくれ、かつ乱れるということかの」 「はあ」 「人に手をあげたりはしまいな」 「それがです」  雨貝は伏目になった。 「当道場の品位にもかかわることで、時おり言い聞かせてはおりまするが、風聞ではかなりの虎に化けるそうで」 「論外だ」  志摩は舌打ちした。 「それでさっきの負けが腑《ふ》に落ちた。飲んだくれは、やはり信用ならん」  志摩はそう言ったあと、深ぶかと腕組みして考えこんだ。そして顔をあげると、低い声で新五左と呼んだ。 「は」 「わしが今日、二人の試合を見ることは内緒だと申したが、これから言うことはさらに内密の話だ。一切外に洩らしてはならん」 「心得ました」 「さっきの中根だが、彼を松宮の伜《せがれ》と立ち合わせたら勝てるかの?」 「真剣勝負ということでござりますか」  雨貝は淡淡とした口調でそう言った。 「その通りだ」 「はて」  雨貝も腕を組んだ。松宮というのは、側用人《そばようにん》の松宮久内のことで、伜の左十郎は江戸で忠也派一刀流の免許をうけた剣士である。藩内ではつねに五指に数えられる。  雨貝は、左十郎の剣を案じるように、しばらく黙然《もくねん》と膝に眼を落としたが、やがて腕組みを解いて言った。 「まず互角でござりましょうか」 「必ず勝てるとは言えんのか」 「勝てるかも知れませぬ。しかし負ける場合もござりましょうな」 「それではまずいぞ」  志摩はしぶい顔をした。すると雨貝が微笑した。 「それならば、弓削をお用いなされてはいかがですかな?」 「甚六か」  志摩は疑わしそうに、雨貝の顔をじっと見た。 「甚六を信用出来るのか」 「絶体絶命の試合では、弓削の剣は中根を上回ると、さきほど申しあげました」 「それは聞いた。しかし甚六は飲んだくれだ。値引きせんでもいいのか」  今度は雨貝も黙った。雨貝の顔に、かすかに苦渋のいろが浮かんだ。断言は出来ないというふうに見えた。その様子を見ながら、志摩はふと思いついたように聞いた。 「新五左。石割りというのはどういう剣かの?」 「されば」  雨貝新五左エ門は背をのばした。静かだが、自信に満ちた声で言った。 「構えれば破り、仕かければ撃つ必殺の剣にござります」 「甚六が、それを会得しておると言うのだな?」 「さようでござります」 「よし」  会沢志摩は膝を打った。そして立ち上がって気ぜわしく頭巾《ずきん》をかぶりながら言った。 「きゃつめに、酒を禁じよう。そうすれば使いものになるかも知れん」 [#5字下げ]二  中根の足には渋滞がない。勢いよく歩いて行く。真直ぐ家にもどる気になっているのは疑いなかった。  途中まで一緒だった。いつも通称へべれけ小路と呼ぶ、飲み屋がならぶ細小路の手前で別れる。金がない甚六としては、そこにたどりつくまでに、中根に飲む気を起こさせることが出来るかどうかで、今日これからの明暗が分れる。少しおくれて歩きながら、弓削甚六はじっとりと手に汗を握っている。  つとめて何気なさそうに、軽く言った。 「今日の試合は、いささか疲れたの」  誘いの隙《すき》というやつである。だが中根は乗って来なかった。うむ、疲れたと言いながら、眼はあらぬ方を見ている。着飾った町娘が三人通りすぎて行く。お稽古《けいこ》ごとか、それともいま盛りだという天神さまの梅見にでも行って来たという恰好だった。中根はそっちを見ている。  甚六はあせった。別れる場所が見えて来たとき、甚六はついにこらえかねて言った。 「疲れ直しにどうだ。ちくと一杯やらんか」  あたかも自分の飲みしろぐらいは所持しているかのような、あるいは持っていないような、微妙な言い回しに、甚六の苦心がある。正面から飲ませろとは、さすがに言いにくい。飲み助にも、いや飲み助と自分で承知しているがゆえの自尊心がある。  中根はじろりと甚六を見た。返事をせずに歩いて行く。  だが中根は、小路の鼻先まで来ると、そこで立ち止まった。そこが別れ道だから立ち止まったのか、それともつき合う気になったのかはまだわからない。甚六の胸は、期待と不安ではり裂けんばかりである。喰い入るように中根の顔を見る。  だが中根の返事は素気なかった。 「今日は手もと不如意《ふによい》だ。またにしよう」 「また、また」  甚六は、一瞬泣きそうに顔をゆがめたが、必死に喰いさがった。  中根は部屋住みだが、百石取りの家の跡とりである。三十石の甚六が、眼をむくような小遣いを持ち、気前よく使う。甚六も、同門のよしみで、これまで何度か、中根のおごりをうけている。この男が金を持たずに外に出るなどということは考えられない。 「そうすげないことを申すな。多くは飲まん。一本だけつき合え」  そう言いながら、すでに甚六の耳は、小路の奥の女たちの嬌声《きようせい》をとらえ、鼻はほどよく燗《かん》のついた酒の香を嗅《か》ぎとっている。そこまで十歩の距離だった。酒を欲しがって、腸が焼ける。  だが懐中一文なしでは、わずか十歩といえども、百里の道に異ならない。魅力に満ちたその小路に入って行くには、なんとしても中根を金主に仕たて、うしろからついて行くしかないのだ。  甚六は中根の袖《そで》をつかまんばかりにした。じっさい甚六の指は宙におよいでいる。 「む。それにさっきの試合だが、ちと納得いかんところもある。その話もしようではないか」  だが中根はとりあわなかった。うろたえている甚六をにやにや笑って眺めている。 「今日はいかん。ほかに用がある」 「………」 「それとも団子でも喰うか。それならつき合ってもいいぞ」  中根は、は、は、はと笑った。闊達《かつたつ》な笑い声を残して去って行く中根を、甚六は悄然《しようぜん》と見送った。そして小路の入口のあたりに、無念そうな一瞥《いちべつ》をくれてから、ようやく歩き出した。  ──中根にも見放されたらしいな。  と思った。  酒癖が悪い、と人が言う。それがどういうことなのか、甚六には解《げ》せない。甚六がおぼえているのは、酒を飲むと自分が至極機嫌よくなることだけである。  もろもろの不平不満をたちまち忘れ去り、気分は至極さわやかになる。ふだんあまり物をしゃべりたがらない舌もよく回り、自分でもおどろくような、巧みな冗談が口をついて出たりする。頭はよくはたらき、ふだんより眼も鋭くなって、一緒に飲んでいる誰某が、袖のかげで女の手を握ったりするのもたちまち見破る。  そして断言してもいいが、飲んでいる間、甚六は大方は愉快に笑っているはずである。城のわずらいも家のわずらいも遠くにしりぞき、おしなべて何ほどのこともないと思えてくる。気宇宏大、心はかぎりなくひろびろとしてくる。これでは笑わずにいられない。  そういうことを思い返しながら、おれの酒癖は、むしろいいほうではないかと、甚六は誰かれの非難を訝《いぶか》しく思うことがある。何某の頭を張ったとか、上役を投げとばしたなどという非難は信じがたい。  だが心あたりがまったくないわけではない。笑わずにいられないしあわせな酔いが頂点に達するころ、突然に怒りとも悲しみともつかないものがやってくる気配を感じることがある。なぜとも、またどこからくるともわからないが、そいつは命をゆるがす勢いでやってくる。その始末がどうなったかを、甚六はいまだかつて見とどけたことがないのである。  眼がさめたときは、酒もさめている。甚六の意識の上では、われながらしあわせそうな笑いと、酔いざめの気分が直結している。  だが何かあるとすれば、意識がとぎれているその間のことである。その間に、睡魔だけでなく悪鬼が跳梁《ちようりよう》するとしか思えない。悪鬼かと思うのは、飲みたい気持が、近ごろ尋常でないからだ。朝、眼ざめた床の上で、甚六はまず、今日は一杯飲めるかどうかと考えるのである。  ──中根にも、何か嫌われるようなことをしたかも知れんな。  ひどく素気なかった中根を思い出し、甚六は気が滅入《めい》った。それで中根に申しわけないと思ったわけではない。有力な金主を失ったことが、胸にこたえたのである。 [#5字下げ]三  狐町の組屋敷までもどると、とっぷりと日が暮れた。甚六は作事組に勤めている。狭い屋敷の小さな家に灯がともっていた。  妻女の安江は、土間に入った甚六を、嗅ぎまわるようなしぐさをした。以前はもっと遠慮気味に嗅いだものだが、近ごろは鼻を鳴らす。甚六は無気力に嗅がれている。身におぼえのないことだが、二度ほど、酔って帰って安江を縁側から外に投げ落としたという。そう言われれば、黙って嗅がれているしかない。  うるさく言われるのがいやで、甚六は近ごろは外で飲むと、ひと眠りして酔いをさましてから帰る。それでも酒の香は残るが、安江は長年の修練で、甚六から匂《にお》う酒が、そろそろさめ加減の酒かどうかわかるらしく、そうして帰ればあまり文句は言わない。 「今日は、ご酒はめしあがっていませんね」  安江は嗅ぎおわって念を押した。飲んでいないと答えると、安江は身体をひいて甚六を通した。  安江は大女で、甚六が小柄だからでもあるが、亭主より一寸は背が高い。のみならず身体の厚味も十分で、安江がいそいで家の中を歩いたりすると、古びた床がぎしぎしと鳴る。この女を、外にほうり投げたなどという話は信じがたい。 「お夜食は?」  小柄な亭主を、うしろから抱きかかえるような恰好で、着がえを手伝いながら、安江が言った。 「まだだ」 「おや、まあ」  と安江は言った。 「せっかくの非番の日を、会沢さまのお呼び出しということでしたから、お夜食ぐらいは出るかと思いましたのにね」  安江はこういう言い方をする女である。こまかく経済なことを言う。聞きようによっては、休日を棒に振った亭主が、夜食の馳走にもあずからず、おめおめと空手でもどったのが悪いように聞こえる。  男はこういう言われ方をするのを喜ばない。薄給が身にしみる。安江にこう言われると、甚六は何も言わずにぐっと一杯やりたくなる。もう少し若い時分には、言われるたびにむかっときてたしなめたものだが、これが安江の性分であり、またそういう安江だからこそ、薄給の家の台所をやりくりし、なお多少のたくわえも残すなどという芸当が出来るのだと悟ったころから、怒る気力は萎《な》えた。 「わしのは支度しておらんのか」 「いえ、ございますよ」  それなら、そこまでケチなことを言ってくれるな、と思ったが口には出さず、甚六は茶の間に入った。  おかずは変りばえもしない干魚と山菜の漬け物である。たまには浜の女たちがかついでくる、いきのいい魚を喰いたい、と思うが、安江は一文の金も無駄に出費したりはしない女である。山菜も、去年の時期はずれのころに安かったのを買いこみ、自分で漬けた。  わらびもぜんまいも嫌いではないが、こう毎食、興もなく出て来ては飽きる。それに時期をすぎたものだから固い。木の枝を噛《か》むようで、もひとつ味がないのだ。そう思いながら、甚六は黙然と喰べている。  ふと気づいて、甚六は顔をあげた。 「喜乃はどうした?」 「七ツ(午後四時)ごろに出て、そのままですよ」 「どこへ行った?」 「何もおっしゃいませんでしたよ。もっともどちらへいらしたか、たいがいの見当はついておりますけど」 「ん? どういうことじゃ?」 「稲垣さまの坊ちゃまと、またご一緒でございましょ」  甚六は黙って干魚をつついた。夜の飯がいっそう味気なくなったようであった。  喜乃は甚六の妹で、ついふた月前まで、組頭《くみがしら》の稲垣与市兵衛の屋敷に奉公に行っていた。名目は行儀見習いだが、中味は女中奉公だった。十八である。  兄の甚六は、背は五尺そこそこ、顔は黒く口が大きく、がっしりした肩幅だけが取り柄の男だが、喜乃は美貌《びぼう》だった。  小柄なところだけは兄に似ているが、しなやかな細身の身体で、色が白く眼の美しい女である。甚六とならべたら、兄妹と思う者はまずいない。  喜乃は十六の春に奉公に行き、二年近く経った今年の正月明けに、突然暇を出されてもどって来た。身籠《みごも》っていた。甚六は驚いて組頭の屋敷にかけ合いに行ったが、家士だという頑固そうな年寄りが応対に出たものの、相手が誰か、いっこうに埒《らち》があかないでいるうちに喜乃は流産した。  喜乃の相手が稲垣家の総領|八之丞《はちのじよう》らしいと知ったのは、人に教えられてである。甚六はかけ合いをあきらめた。  稲垣家は六百石で、家老も出る家柄である。六百石と三十石では太刀打ちにならないとも思い、また事を荒だてて世間に知られるよりは、そっとしておいて一部に流れた噂が消えたころ、喜乃をしかるべき家にかたづける方がいいと考えたのである。  だが喜乃は、身体も回復し、陽気もよくなったころから、夜分に時どき外に出るようになった。外に出たまま、長くもどらない。それを安江は、稲垣八之丞に会っている、と言うのである。甚六はそうかと思ったが、それではどうするという思案は浮かんで来ない。 「先さまは代代組頭のお家柄でしょ?」  夜食が済んで、お茶が出てから、安江は改めてその話を持ち出した。坐ると、安江の大柄はいっそう目立って、身体は小山のように堆《うずたか》い。うつむいてお茶をすすっている甚六が、叱られているように見える。 「行儀見習いの女中|風情《ふぜい》を、嫁に迎えるわけがございません。まして当家は三十石の作事」 「………」 「ああいうお屋敷の嫁御は、どこそこの娘と、大方決まっているものでございますよ。稲垣の坊ちゃまも、喜乃どのも、いったいどういうつもりでございましょうね」 「………」 「お前さま。このまま捨ておくと、いまに大変なことになりますよ。いまのうちに何とかしないと」 「どうせよと申すのだ」  甚六はうんざりしたように言った。 「どうしろなどと、お前さまに指図は出来ませぬ。この家の主はお前さま。喜乃どのがこれ以上の過《あやま》ちをなされぬよう、手配なさるのがおつとめではございませんか」  しかし、十八の娘を紐《ひも》でつないでおくわけにもいかんじゃないか、と甚六は思う。  甚六の母は、嫁入って来るとすぐに甚六を生み、そのあと子は生まれないものと思っていたら、十二年経ってひょっこりと喜乃を生んだ。そしてその三年後に病死した。  年が離れ、親との縁が薄かったこの妹を、甚六はかわいがっている。それだけに、妹をもてあそんでいるとしか思えない稲垣八之丞という男が憎く、その男の言いなりになっている喜乃に腹が立つが、二人をうまく引きはなす手段などということになると、皆目見当がつかないのだ。  思い切って稲垣家の当主である組頭に会って、一切をぶちまけ、八之丞を取締ってもらおうかとも思うが、うっそうと樹木がしげるその屋敷に入って行くことを考えただけで、足にふるえが来る。一杯やらなければ乗りこめるところではない。  それに、甚六は何となく妹がこわいのだ。もともと色白の喜乃は、流産したとはいえ、一度子供を腹に抱いたあとは、肌に艶《つや》が出た。光るような肌をしている。  ──男を知ってしまった肌だ。  と、男女のことには鈍い甚六も思わざるを得ない。男を知った妹は、もう妹とも呼べない一人の女だという気がして来る。  喜乃が兄に似ているところといえば、小柄で口数が少ないことだけである。美しく、光る肌を持つ女が、むっと押し黙っているのはこわかった。何をやるかわからないという気がする。  下手に説教したり、また稲垣家にかけ合ってさわぎ立てたりして、喜乃に自害でもされたら、と思うと、甚六は手も足も出ないのだ。喜乃は思いつめているように見えた。男に会う浮きうきした様子は見られない。そこがあわれだった。あわれでこわかった。 「今夜あたり、一度みっちりと意見なさったらいかがですか」  甚六がいつまでも考えこんでいるので、安江がじれたように言った。甚六は顔をあげた。 「喜乃にか」 「そうでございますよ。捨ておいて町の噂になったら、喜乃どのはむろん、弓削の家名にも傷がつきましょ?」 「もう少し、様子を見よう」  ぐっと一杯やりたい、と甚六は思った。その酒がないのだから、夜具をひっかぶって寝るしかない。 「わしは寝る」  立ち上がった甚六を、安江は不満そうに見上げたが、あら、もどったようでございますよ、と言った。戸の外に人の気配がしている。  安江が狭い玄関に出ていくと、甚六は部屋の中で立ったり坐ったりした。喜乃と顔をあわせたくなかった。ももいろの、光る頬《ほお》など見たくない。だが寝に行くふんぎりもつかなかった。  甚六は耳を澄ませた。安江が、かしこまりました、間違いなくうかがわせます、と言っている。喜乃ではなく、客が来たようだった。 「誰だ?」  一人でもどって来た安江に、甚六は立ったまま聞いた。安江が訝しそうな顔で言った。 「会沢さまからお使いです。明日の朝、お城にあがる途中に、お屋敷に寄れということでございますよ」 [#5字下げ]四  次席家老の屋敷は、組頭の稲垣の屋敷より、さらに広いように見えた。門を入ると右手に松と杉の木立があり、その間をはき清められた小径《こみち》が、見えがくれにほのぐらい奥につづいている。木立というより小さい森だった。地面から三尺ほどの高さに、薄く靄《もや》がただよっている。  玄関に入って訪《おとな》いを入れると、甚六はすぐに奥にみちびかれた。庭に面した部屋まで来ると、甚六を案内した家士は、障子の外に膝を折って、お連れしましたと言った。 「弓削か。入れ」  部屋の中から声がした。家老の顔は知っているが、声を聞くのははじめてだった。家士が障子をひらくと、甚六は縁側の板の上に平伏した。 「遠慮せずに入れ」  と志摩が声をかけ、家士にうながされて、甚六はようやく部屋に入った。もう一度平伏して顔をあげると、着流しの上に袖無しを羽織った志摩と眼が合った。 「茶を飲め。菓子はどうかの」  志摩は微笑して言った。恐れ入りましてござります、と甚六はつぶやいた。時おり城中で見かけるだけの執政とむかい合って、甚六は胆《きも》がちぢみ上がっていた。用件は何か、とそればかり考えていた。 「弓削は人も知る飲み助だそうだから、菓子などは喰わぬか」 「いえ、頂きまする」  甚六はあわてて言った。 「弓削にこれから申すことは、藩内の機密じゃ。人に洩らしてはならんぞ」  志摩は改まった声を出した。そして、しばらく黙ったが、やがて火鉢のそばに寄れ、と言った。甚六が膝行《しつこう》して火鉢のそばに行くと志摩は眼くばせして火箸《ひばし》を取りあげ、灰の上に久内と書き、ならべて左十郎と書いた。そしてすぐに火箸で文字を消した。 「この二人の噂を聞いておるか」 「は。多少は」  甚六は、はじめて顔をあげて、まともに家老の顔を見た。志摩の顔にはきびしい表情があらわれている。 「どのような噂だ?」 「………」 「申せ。どんな噂を聞いたか?」 「君側《くんそく》の奸《かん》、と申しております」  松宮久内は側用人を勤め、伜の左十郎は近習《きんじゆう》組に勤めて、ともに藩主康紀のお気に入りだった。寵《ちよう》をあつめている。 「そう呼ばれるわけを知っておるかの?」 「いえ、くわしくは……」 「西国屋が桃ノ湯の湯治場に別荘をつくり、そこに殿がたびたびお出かけになることは知っておるな?」  西国屋は、この国の唯一の良港朝川|湊《みなと》の経済を牛耳《ぎゆうじ》る回船問屋で、彼が先年桃ノ湯のはずれに建てた別荘の噂は、甚六も作事組の人間だから耳にしている。  桃ノ湯は城下から五里の山中にある湯宿である。湯泉の質もよく、春の桃の花、秋のもみじにいろどられる渓谷の美がもてはやされ、家中《かちゆう》藩士も足繁く通う場所である。西国屋は、湯宿からわずかに離れた谷川のそばに、豪奢《ごうしや》な別荘を建て、湯をひいた。  藩主康紀が、おしのびでそこを訪れ、しきりに遊興している、そのお膳立《ぜんだ》てをしているのが松宮父子だという噂は、藩中で知らない者がいない。  だが甚六は、志摩がなぜそんな話を持ち出してきたのか、さっぱりわからなかった。その噂を聞いたとき甚六は、そういうところで飲む酒は格別にうまかろうと、殿をうらやんだだけで、それ以上のことには興味を持たなかった。  藩の上の方のことはよくわからないし、首を突っこんだりするのはこわい。知りたい気持もなかった。志摩を上目で窺《うかが》いながら、甚六は用心深く言った。 「そのようなことも、噂にはうかがいましてござります」 「よろしい」  志摩は顎《あご》をひいて、甚六を睨《ね》めつけるような顔をした。 「松宮は遊興をすすめて、殿を骨抜きにしておる。申しては殿にはばかり多いが、その別荘の遊興とやらは、酒池肉林といった趣のものだそうだ。じつに怪《け》しからん」 「はあ」  肉林はともかく、酒池というからには、浴びるほど酒が飲めるということだな、と甚六はぼんやり考える。 「むろんこれには裏がある。殿の遊興は、松宮と西国屋勘兵衛が結託してすすめておることでな。西国屋は殿をもてなすかわりに、これまでさまざまの特権を手に入れておる。そこから上がってくる莫大《ばくだい》な儲《もう》けの一部は、松宮の懐に入るという仕掛けだ。近ごろの松宮は、その悪銭でもって、眼もそむけるほどのぜいたくな暮らしをしておる」  西国屋勘兵衛ははじめ、港に集散する荷を扱う問屋の一人に過ぎなかったが、藩内で産する青苧《あおそ》を、近江《おうみ》、奈良など西国にさばく道をつけたことから、青苧取扱いの一手独占を許された。青苧は船で敦賀《つるが》まで送られ、そこで陸揚げされて近江|蚊帳《がや》の原料となり、さらに奈良に陸送されて奈良|晒《さらし》となる。  西国屋はこの取扱い独占で頭角をあらわし、領内の青苧植付けがふえると、富は急速にふくれ上がった。西国屋が自分の船を持ち、青苧はむろん、大豆、小豆などの雑穀、臘《ろう》、漆《うるし》から材木まで扱う回船問屋にのし上がるまで、さほど年月がかからなかった。  いま西国屋の船は、領内産物をのせて、九州、大坂まで荷をさばき、また西国から松前まで手をひろげて、塩、木棉《もめん》、繰綿《くりわた》、塩引などを領内に移入している。 「西国屋はいま、新しく千石船をつくっている。狙《ねら》いは米だ」 「………」 「むろんこれは独占取扱いというわけにはいかない。だが領内米の何割取扱いという書きつけを欲しがっている。欲には限りがないものだの。そして松宮はこれにも手を貸そうとしておる」 「………」 「しかしこれをやられたら、朝川の問屋、城下の問屋は、ばたばたと倒れる。富がひとところに集まるということはこわいことでの。そうなると台所が苦しい藩が、一人の商人のヒゲの塵《ちり》をはらわねばならんということになる」  志摩は力をこめてしゃべっているが、甚六には話が半分ぐらいしか理解出来なかった。自分の家の台所も、よくわからずに安江にまかせきりである。藩の台所の具合がのみこめるわけがない。  志摩は、そうとは気がつかず、殿にも苦情を言い、松宮久内をも叱責《しつせき》しているがいっこうに利きめがないこと、そのために執政会議はつねに紛糾している、などと少し愚痴めいた打ち明け話までした。  甚六には、家老がなぜそんな内輪なことまで自分に話すのか、依然としてわからなかった。  さて、と言って志摩は胸をひいた。これまで話したことは前置きだというふうである。 「ところが、執政の意見がようやくひとつにまとまった。松宮親子を誅《ちゆう》するにしかず、ということだ」 「………」 「彼らの新たな罪状があがったのだ。これが言うもはばかる醜事での。いいか、人に洩らしてはならんぞ」  志摩は念を押し、お方さまのことだ、と言った。お方さまというのは藩主夫人のことで、満寿子という名である。 「松宮と西国屋は、殿とはべつにお方さまと身辺の女どもも別荘によんで二、三度もてなしている。城奥にまで、おべんちゃらを使っておるわけだの」 「………」 「よんで何をやるかというと、芸者の手踊りを見せたり、浄瑠璃《じようるり》を聞かせたりする。むろん酒肴《しゆこう》も出す。女どもも結構飲むからの」  甚六は、ぐびりと喉《のど》を鳴らした。 「ところが西国屋は去年の暮、江戸から名の知れた浄瑠璃語りを三人ほどよんでいる。お方さまの無聊《ぶりよう》をそれで慰めたのはよい。咎《とが》めん」 「………」 「ところがそのあとで、三人のなかの若くて美声の男をお方さまに献じたと申すのだ。そういう密告がある」 「………」 「まさに醜事での。彼らの堕落ぶりは、もはや手におえんところに来ておる」  しかしお方さまは、たしか五十近いばあさまのはずではないか。献じられたからといってつまみ喰いしたなら、お方さまもお方さまだと甚六は思った。 「それが事実かどうかは、もはや問うところではない。事態は彼らがそういうことをやっても不思議ではない、と誰しもが思うところまで来ておるということだ。そこで弓削」  志摩は突然に言った。 「貴様に、松宮左十郎の成敗《せいばい》を命じる」 「は?」 「久内はわれわれで処分する。だが左十郎は剣客じゃ。われわれの手にはおえん。段取りはあとで打ちあわせるが、今日はまずそのことを心得ておけ」  甚六は茫然《ぼうぜん》と家老の顔を見た。だが志摩は、甚六のそんな様子にはとんちゃくなしに、せきこむようにつづけた。 「左十郎のことは知っておるな?」 「は。いささか」 「強敵だぞ。昨日貴様と中根藤三郎の試合を見たが、あれでは心もとない」 「は」  甚六は赤面した。その様子を、志摩はじろじろと見ながら、話は変るがと言った。 「作事方は飲む機会が多いらしいの」 「はあ」 「それで貴様のような飲み助が出来あがるとみえる」  甚六はうつむいた。志摩は、顔をあげろと言った。甚六がみると、志摩はにが虫を噛みつぶしたような顔をしている。 「貴様の強敵は、松宮左十郎ではなくて、酒じゃ」 「は」 「使命が終るまで、禁酒を命じるぞ」  あ、あ、と甚六は声にならないうめき声をあげた。口を開いたりしめたりしている甚六を、志摩はあわれむように見て言った。 「首尾よく仕おおせたら、たらふく飲ませてやる。それまでは一滴の酒も飲むことならん」 [#5字下げ]五 「お若いひとたちは、時どきとんでもない遊びをなさいます。しかしこれはお遊びとは言えませんのでな」  男はそう言って、歩きながら顔の汗を拭《ふ》いた。料理茶屋菊水の番頭である。甚六は番頭とならんで、黙黙と足をいそがせた。  菊水は、家中藩士がよく飲みに集まる茶屋である。番頭は、彼らの一人から、時どき来て離れに籠る若い男女の素姓と、二人がそんなふうにして会わなければならないいきさつを聞いた。番頭はその話を、草双紙にでもありそうな、悲恋物語として聞いた。稲垣八之丞と喜乃の二人に、ひそかに同情していた。  ところが今日、番頭はとんでもない話を聞いたのである。  一室に藩の若侍が五人来ていた。五人に酔いが回ったころ、稲垣がその席に来た。稲垣は今日も夕方から喜乃と一緒に離れにいたのである。  若者たちが、そんなふうに茶屋の中で落ち合うことはめずらしくなかったが、偶然に聞いた彼らの話し声が番頭を驚かせた。 「女はまだ離れにいるのか」 「いるとも」  と、言った声は稲垣だった。 「慰んでもいいのだな。あとで文句を言うなよ」 「文句を言うわけがない」  組頭の息子の低い笑い声がした。 「そういう荒療治でもやらぬと、あの女、しつこくて離れんのだよ」 「ほ。色男のせりふは、ひと味違うな」  一人が言って、若者たちはどっと笑った。そこまで聞いて、番頭は甚六の家まで走って来たのである。  菊水に着くと、番頭は裏塀に回った。そして潜《くぐ》り戸をあけて甚六を中に入れた。そこは庭の隅で、離れの灯が正面に見えた。  あそこです、と番頭は指さしたが、急に不安そうに甚六を見た。 「おだやかに話をつけてくださいまし」  と番頭はささやいた。 「中で斬り合いなどは困ります」 「わかっておる。迷惑はかけん。知らせてくれて、礼を言うぞ」  と甚六は言った。番頭が塀の外に姿を消すと、甚六は庭木の陰を伝って、離れ座敷に近づいて行った。すでに、渡り廊下が終った場所に見張りが一人いるのを見つけている。万事心得た連中だった。  ──悪質なやつらだ。  と思った。番頭にはああ言ったが、あるいは斬り合いになるかもしれないと思っていた。部屋の中で行なわれていることを想像し、甚六は自分が凌辱《りようじよく》されたように、屈辱感で頭が熱くなっている。  渡り廊下に近づくと、甚六は見張りの男にひたと眼を据えたまま、暗い地面を這《は》った。廊下の下にもぐる。そして男が立っている下まで来ると、踏み板に手をかけ、一回転して廊下に跳び上がった。  口を開いたまま、声も出ずに刀の柄《つか》に手をかけた男に、甚六は強烈な当て身をくらわせた。強烈すぎて、男は後にのけぞると、柱にぶつかって倒れた。大きな音をたてた。  その物音を聞きつけたらしく、離れの障子が開いて、一人の男が外をのぞいた。 「どうした、山崎」  そう声をかけた男の前に、甚六がぬっと立った。そして男の胸を押して部屋に入った。  部屋の中は、落花狼藉《らつかろうぜき》といったぐあいだった。隅に敷かれた夜具の上に、喜乃が転がされ、その身体の上に一人の男がむしゃぶりついている。そこから少し離れた床の間の前にほかの男たちが車座に坐り、肴《さかな》をつつき徳利の酒を回し飲みしていた。  男たちは脂の浮いた顔に淫《みだ》らな笑いをうかべたまま、甚六を振りむいたが、入って来たのが仲間でないと知ると、箸を捨てて一斉に立ち上がった。一人が床の間の刀に走った。  甚六は男たちには眼もくれずに、夢中になって喜乃の胸をなぶっている男に近づくと、足をあげて男の脾腹《ひばら》を蹴《け》った。うおっという声をあげて、その男は夜具から転がり落ちた。  喜乃は手足をしばられて、裸同然で横たわっていた。だが甚六はちらと一瞥しただけで、猛然と背後の男たちに向き直った。刀に反りを打たせた。男たちは茫然と立っている。甚六が何者か、判じかねているように見えた。 「喜乃の兄だが、稲垣の坊ちゃまとかいうのは、どちらかな」  と甚六は静かに言った。すぐにその男がわかった。甚六がそう言うと、顔色を失って一歩うしろにさがった若い男だ。面長で、女のように顔の皮膚がうすい。それが喜乃をたらしこみ、もてあそんだ男だった。  甚六は男の前にすすんだ。そのとき、低い笑い声が起きた。 「誰かと思ったら、酔いどれの甚六か」  甚六の足が釘《くぎ》づけになった。そう言ったのは、さっき一人だけ刀をつかみ上げ、部屋の隅にしりぞいた男だった。  甚六は首を回してそちらを見た。そしてカッと眼をむいた。そこに立っているのは、松宮左十郎だった。長身で骨組みのたくましい男である。千賀という一刀流の道場で二、三度顔をあわせているのに、部屋に入って来たとき気づかなかったのは、やはり頭に血がのぼっていたのだ。 「驚いたな。貴様がこの女の兄かね」  松宮左十郎は、刀を抱いて柱に背をもたせかけたまま言った。 「おのおの方に紹介しよう。これが雨貝道場の遣い手で、かつ飲んだくれで知られる弓削甚六だ。よく人に飲み代《しろ》をたかる癖があるから、諸兄も用心された方がいい」  男たちが笑い、身体の緊張をとくのが見えた。さっき脾腹を蹴られた男も、起き上がって来て笑っている。  甚六はひと言も言い返せなかった。急に気力が萎えるのを感じていた。しかし、一人が酒ならあるが一杯どうかね、と言い、それを聞いて八之丞までが薄笑いをうかべたのを見ると、真直ぐすすんで八之丞の頬を打った。  男たちがどっと殴りかかって来た。甚六は腰をひねって刀を抜こうとしたが、その腕を押さえられた。殴られながら、甚六はわめき声をあげて腕をふりほどき、眼の前の男に組みついたが、そのとき後頭部にすさまじい手刀をうけた。  ──左十郎だな。  と思いながら、甚六は不意に眼の前が暗くなった。次いで地の底に落ちるような感覚にさらわれた。  眼ざめると、男たちは一人もいなくなっていた。部屋は乱雑なままで、その上を白っぽい行燈《あんどん》の光が照らしている。  甚六は投げ捨てられている刀を這い寄って拾い上げ、まだ這ったまま、夜具の上の喜乃に近づいた。頭が割れるように痛かった。  喜乃はさっき見たときのままで横たわっていた。裸ではなかったが、着物は細帯で身体に巻きついているだけだった。乳房も太股《ふともも》も、恥毛もむき出しだった。その姿のまま、喜乃はじっと薄暗い天井を見上げていた。 「なぜ、ものを言わん? ん?」  甚六は喜乃の胸もとと裾《すそ》をあわせてやり、手足を縛った紐をほどきながら言った。喜乃は答えず、いましめをとかれても、うつろに天井を見ていた。  甚六は喜乃を抱きおこして立たせた。どうにか立ったが、歩かせてみると、喜乃は畳に崩折れそうになった。甚六は喜乃を抱き上げ、部屋を出ると、庭を横切って入って来た潜り戸から外に出た。その間、誰にも会わなかった。  外に出ると、喜乃は闇《やみ》におびえたように、甚六の首に手を回してしがみつき、肩に顔を埋めて来た。小柄なのに、ずしりと重い身体だった。 「死ぬなよ」  暗い道を歩きながら、甚六はつぶやいた。重い身体なのに、甚六はなぜか腕の中の喜乃を、子供のように感じていた。 [#5字下げ]六  百間廊下と呼ぶ、長廊下の端に、甚六は刀を抱いてうずくまっていた。  さっき二人の監察につきそわれて、松宮久内が奥に通ったあとは、廊下は人影もなく静まっている。廊下は家中の非違を糺《ただ》すときに使う奥の間に通じているだけで、片側はねずみ色の壁、片側は障子をへだてた庭である。ふだん人が行き来する場所ではない。そこにいる甚六を見咎める者もいなかった。  甚六は半刻後に、この廊下に姿をあらわすはずの松宮左十郎を待っていた。会沢志摩と大目付、監察の人数は、まず登城している松宮久内を糾問の間に連れこみ、そのあとで屋敷にいる嫡子の左十郎に使いを出す手はずをととのえていた。  左十郎を呼び出す使いは、もう城を出たはずだった。左十郎が廊下に入って来たら、うむを言わさず斬れと言われている。だが、まだ間があった。  広い廊下に、障子を通して春の午後の日射しが漂っている。尻を落として壁によりかかり、膝の上に刀を抱えたまま、甚六はかすかに歯を鳴らした。恐怖にとらえられていた。身体が石のように固くなっている。  会沢志摩から、松宮左十郎を討てと命ぜられたときから、甚六は石割りの秘剣を使うしかないと思っていた。構えて先を取り、打ち合って先を取る。防御に心を遣わず、つねに一瞬早く敵の隙を見切って撃ちこむ刀法である。  師の雨貝新五左エ門は、この刀法について、石にも筋目がある、そこを衝《つ》けば石といえども割れざることはないと言ったが、また要諦《ようたい》は湖水の面のように平静な心と、眼遣いだとも言ったのである。  見ざるようにして見る偸眼《ちゆうがん》を遣う。剣気を表に出さず、一見無造作に刀を使うように見えながら、中味はもっとも攻撃的な刀法が石割りだった。  だが甚六の胸は、廊下に入ったときから、ざわめき立ったままだった。その恐怖がどこから来るのか、よくわからなかった。左十郎を迎える恐怖だけでなく、自分が小さく萎縮《いしゆく》してしまった感じが、さっきから甚六をおびえさせている。これでは湖水の面のような平常心どころではない。  しかし、まだ間がある。甚六はいつの間にか額ににじんでいる、薄い汗をぬぐって、家のことに考えをそらした。だがそこにも、甚六の心をひろびろと解きはなつようなものは、何もなかった。  喜乃は二日ほど物も喰べずに寝こみ、やっと回復した。だがあれが元にもどったと言えるだろうか。物を喰べ、話しかければ答えもするが、ふと気づくと部屋の隅にうずくまって、さめざめと泣いているのだ。  そして安江は、と言えばいまだに、甚六の顔を見さえすれば、喜乃にかけた医者の払いが高かったことを言うのである。  甚六の気持は、いつの間にかじっとりと滅入っている。 「これはいかんぞ」  甚六ははっと顔をあげた。呼び出しの使者が、そろそろ松宮の屋敷についたころだと思ったのである。追われるように、甚六は立ち上がった。だがこの廊下から逃げ出すわけにはいかなかった。  甚六はとらえられた獣のように、廊下を行ったり来たりした。一度立ち止まったが、次には前よりもせわしなく廊下を往復した。  そして甚六は、不意に血相を変えて廊下を走った。奥御殿との境目に賄所がある。ふだん行くところではないが、場所は知っていた。百間廊下を抜けると、甚六は賄所に向かって走った。  血相を変えて飛びこんで来た男をみて、賄所にいた人間は、ぎょっとしたように振りむいた。仕事の手をやすめて、一斉に甚六を注視している。 「酒があるか」  甚六は気味悪くおさえた声で言った。甚六の顔は蒼白《そうはく》で、眼は険悪な光を帯びている。料理人頭と思える中年の男が、ございますと言った。 「出せ」 「失礼ながらあなたさまは?」 「つべこべ言わずに出せ。もはや時刻がない」  気圧《けお》されたように、男はうしろにさがり、戸棚から徳利を出して来た。  甚六は徳利を振った。量は十分だった。仰むいて、一気に喉に流しこんだ。快美な感覚が喉をすべり落ち、甚六は石のようにこわばっていた四肢の筋肉が、しなやかに目ざめるのを感じる。料理人頭が、何かわめきながら徳利に手をのばして来たのを、邪険に突きのけながら、甚六は喉を鳴らして飲みつづけた。  百間廊下のはしに松宮左十郎が姿をあらわしたとき、甚六は十分に出来上がっていた。ゆらりと立った。だが身体は軽やかに動いた。  左十郎はゆっくり歩いて来た。そこに甚六がいるのが意外だったらしく、怪訝《けげん》な眼をしたが、近づくと薄笑いした。 「よう、ご機嫌か」  左十郎は横をすり抜けようとした。だが甚六はするすると後にさがり、行手をはばむように廊下の真中に立った。  甚六の足は自然な形に開き、手はゆるく両側に垂れている。左十郎は眉《まゆ》をひそめた。 「何の真似《まね》だ」 「ご家老のお申しつけだ。斬る」  それを聞くと、左十郎は躊躇《ちゆうちよ》なく刀を抜いた。一瞬早く甚六も抜いていた。そして流れるように身体を寄せると、左十郎の小手をすばやく打った。左十郎がはね上げ、二人は体を入れかえて、また打ち合った。人気のない長い廊下に刀の音がひびいたが、誰も来なかった。  甚六の方がのびのびと動き、左十郎は押されていた。攻勢に移るつもりだったのであろう。左十郎は青眼《せいがん》から一気に上段に構えを移した。一瞬の隙が、甚六の眼にありありと映った。その隙を、甚六は踏みこみながらためらいなく斬った。  喉を深ぶかとえぐられた左十郎が、数歩うしろによろけ、やがて突きとばされたように仰むけに倒れるのを見ると、甚六は近づいて膝を折り、作法どおりとどめを刺した。  血をふき取った懐紙を、左十郎の死体のそばに捨てると、甚六は立ち上がってあざやかな手つきで刀を鞘《さや》にもどした。  快い酔いが身体を駆けめぐっている。少し飲み足りないが、気分は上上と言えた。 「さて、次は稲垣の屋敷だ。ケリをつけてやるぞ」  甚六はつぶやいた。心のずっと底の方で、むくりと危険なものが頭をもたげたようだった。いまのつぶやきは、そいつが言わせたようでもある。 「かくいうそれがしは、弓削甚六」甚六はひとりごとを言った。「あなどることは許さん」  甚六は、少し据わりのきた眼で、だれもいない廊下を睨《ね》めまわし、最後にこと切れて倒れている松宮左十郎を一瞥した。そして歩き出した。だが上等の気分は、まだ終ったわけではなかった。廊下の出口に向かいながら、甚六はウーイとおくびを洩らした。 [#改ページ] [#1字下げ] 汚名剣双燕 [#5字下げ]一  眼をそむけるような、はげしい稽古《けいこ》になった。  八田康之助は、稽古をつけている相手の眼に、防具の面を通して怯《おび》えのいろがうかぶのをみると、ある怒りに駆られて、低く叱咤《しつた》した。 「来い、打って来い」  江木という若い相手は、さっき康之助が声をかけたとき、薄笑いして無造作に立って来たのである。江木が近ごろ腕をあげているという噂《うわさ》を康之助は聞いていた。だが江木の薄笑いは、その自信から来たものではなかった。あきらかに康之助を侮《あなど》っていた。  ──いまさら何の怯えだ。  康之助は、江木をじりじりと羽目板に追いつめながら、容赦しない気持になっていた。もう一度低く、来いと声をかけた。 「やあッ!」  康之助が、わずかにあけて見せた隙《すき》に、江木は猛然と打ちこんで来た。腕をあげたといわれる竹刀《しない》が速い。  だが康之助は、軽く足を送ってその打ちこみをはね上げると、すれ違いざまにぴしりと肩を打った。そして江木が向き直ったときには、突きを入れる間合いに踏みこんでいた。  無声の気合をのせて、康之助の竹刀が江木の喉《のど》にすっと入った。その一撃で、江木はふっ飛ぶように仰むけに倒れた。  ひどい音がしたが、康之助は振りむかずに道場の隅に行って防具をはずした。そのときは、もうさっきの怒りはおさまっていた。康之助は、江木を介抱するざわめきをよそに、羽目板に向かってうずくまったまま、無表情に肌の汗をぬぐい、稽古着を捨てて着換えた。  そのとき、道場の入口のあたりで、大きな声がした。 「なるほど、竹刀いじりなら、まだちょっとした腕だということを見せたわけだ」  康之助は袴《はかま》をつけ、刀を腰に帯びてから、ゆっくり身体《からだ》を回して声の方を見た。  関光弥が立っていた。まわりに取り巻きらしい男たちが三、四人いる。関はいつも一人でいることがない。光弥の家は代代|組頭《くみがしら》を勤め、現在は偏屈者で有名な父親の甚左エ門がその要職にあって、藩政に参画している。その家柄のよさが、まわりの者に、近づいて損はないと思わせるらしかったが、光弥自身の派手な性格も、自然に取り巻きをつくるようだった。  腕が立ち、美貌《びぼう》だった。そして、しじゅう城下の遊所で浮名を流していた。踊りの名手で、染川町で一番という評判のある芸妓が、光弥の思われ人だとか、まだ半玉だが、天性の美質を噂される少女とむつみ合っているとか、人を遠ざけた料理屋の離れで、さる人妻とひっそり酒を酌んでいたとか、光弥をめぐる噂はつねにきらびやかなものだった。  遊びにはぜいたくに金をつかう。取り巻き連中は、当然そのおこぼれにもあずかっているのだ。  光弥は少し胸をそらせるようにして、康之助を見ていた。その顔に薄笑いがうかんでいる。そしてその笑いに倣《なら》うように、取り巻きの連中も、近づく康之助を薄笑いで迎えた。さっき、江木達之進がうかべた笑いと同質のものだった。  鋳型《いがた》にはめたように、気味悪いほど似ているその笑いの意味を、むろん康之助は知っている。侮蔑《ぶべつ》だった。彼らは無言で、しかし正面から侮蔑を浴びせて来ている。  だがその侮蔑に胸を刺されたのは、三年も前のことだ。いまはもう慣れていた。怒りに駆られて江木を打ちのめしたのは、たまたま手に竹刀を握っていたからというに過ぎない。ああまですることはなかった。  康之助は、無言で男たちを押しのけて、道場を出ようとした。その腕を、光弥がとらえた。 「しかしずいぶん久しぶりじゃないか。どうかね、一本お手合わせねがおうか」  康之助は光弥を見返した。光弥の眼には、かつての技倆《ぎりよう》伯仲の剣友に対する、好奇心のようなものが動いている。江木との壮絶な稽古試合を見たせいに違いなかった。  いや、と康之助は首を振った。そして光弥の腕を静かに振りほどくと、黙って道場を出た。帰りに母屋をたずねて、師の宗方六郎右エ門に挨拶《あいさつ》するつもりだったが、それもやめて外に出た。  西に傾いた四月の日射しが、町を照らしていた。人通りは少なく、道の上を燕《つばめ》が飛んでいた。  康之助は道場を出ると、家とは反対の方に歩いた。町はずれに、酒を飲ませる店がならんでいる場所がある。料亭や待合茶屋が軒《のき》を連ねる染川町とは、比較もならないごみごみした町だが、そこには町家の人間にまじって、酒好きの下級藩士がよく出入りする。  人に侮られる原因となった事件があったあと、八田康之助は百石の食禄を三十石削られて七十石に落とされた。勤めも近習《きんじゆう》組から普請《ふしん》奉行支配に変えられたが、七万石の藩の中では、それでも下級藩士というわけではない。  だが康之助は時どきその町に出入りするようになった。そこには、康之助を侮る眼で眺める人間もいなかったし、一刻《いつとき》の酒は、しばらくは胸の中の鬱屈《うつくつ》を忘れさせる。  しかし今日は、飲むだけの用ではなかった。そこで落ち合う人間がいた。康之助は、いつとはなく身についた、眼を伏せる歩き癖で、その男が待っている酒亭にいそいだ。 [#5字下げ]二  八田康之助が、拭《ぬぐ》いがたい汚名を着たのは、ほぼ三年前の五月、同じ近習組に勤める香西伝八郎が、同僚を斬って城下を出奔したときである。  康之助はその日、城の表の間にある郡代詰所をたずねたが、たずねる相手が折悪《おりあ》しく外出していて、用を足すのに手間どった。異変はその間に起きたのである。  奥の近習組詰所に通じる長廊下をもどって来た康之助は、前方にただならない物音を聞いて足をとめた。そのときには白刃をさげた香西伝八郎の姿が、十間の距離に迫っていた。そしてその後から、数人の男たちが追いかけてくるのも眼に入った。  異常事が突発したことは、ひと眼で知れた。康之助はとっさに刀の鯉口《こいぐち》を切り、走ってくる伝八郎の前をふさぐように立った。  その姿を認めたのだろう。追って来る男たちの中から鋭い声がした。 「伝八が人を斬った。取り押さえろ」  いや、斬ってよいと別の声が、前の声にかぶせてどなった。その声が、近習組頭花田惣兵衛だということも、康之助にはわかったが、すべては一瞬の間のことだった。  みるみる伝八郎の姿が近づいた。走りながら、伝八郎は前をふさいでいるのが康之助だと認めたらしかった。刀を肩口にひきつけ、言葉にならないうなり声をあげて、殺到して来た。伝八郎は眼をつり上げ、口の端に泡をためている。狂気の相貌だった。  伝八郎の前に立ちふさがったのが、八田康之助だと知ったとき、後を追って来た男たちはしめたと思ったに違いなかった。不伝流の宗方道場で、八田康之助、関光弥、香西伝八郎は三羽烏《さんばがらす》と呼ばれ、技倆は甲乙つけがたいと噂された。だがそれには異論があって、藩中の剣術好きの間では、康之助の技倆が、他の二人をやや抜いているのだという言い方をされていたのである。  だが彼らは意外な光景を見た。伝八郎の刃が一閃《いつせん》したのを、康之助は躱《かわ》して逃げた。だがそのまま廊下の壁にひたとへばりついたまま、抜き合わせることもなく、駆けすぎる伝八郎を見送ったのである。  追って来た花田以下、近習組の者は、一様にあっと声をあげた。その一瞬のおどろきが、伝八郎と彼らとの距離をあけた。彼らが気を取り直して猛然と走り出したとき、伝八郎の姿は廊下の角を表の間の方に曲って消えるところだった。  康之助は、青ざめて立っていた。その前を走り過ぎながら、花田が罵《ののし》った。 「臆《おく》したな。存外な役立たずだ!」  事件はその日のうちに城中にひろまり、康之助の上に即日|稀代《きたい》の臆病者の汚名が立った。それまでの剣名が高かったために、非常の場合に刀を抜き合わせ得なかった醜態は、藩中の嘲《あざけ》りの的《まと》になった。  その日、伝八郎は城を逃げのびて、そのままどこにも立ち寄らずに、馬で城下を出奔した。すぐに討手《うつて》が出されたが、当然ながら康之助はその人数からはずされた。討手は執拗《しつよう》に後を追い、半年後に近江の瀬田というところで伝八郎を討ち取っている。  康之助は、表障子に大きく福平と書いてある酒亭に入った。軒下に大きなふくべがさがっているから、それをもじって店の名にしたつもりだろう。  店の中は、もう薄暗かった。だがその中から立って康之助をむかえた男がいた。香西家の奉公人で、徳蔵という老人だった。徳蔵は今朝、康之助の家の台所に来て、夕方ここでお待ちすると、女中に伝言して帰ったのである。康之助が、こういうふうにして徳蔵と会うのは、はじめてではなかった。  康之助を見て、店の親爺《おやじ》は吊《つ》り行燈《あんどん》に灯を入れ、言いふくめられていたらしく、すぐに酒と肴《さかな》を運んで来た。時刻が早く、ほかに客はいなかった。 「ま、いっぱいいこう」  康之助がさした盃を、徳蔵はかしこまって受けたが、口には運ばなかった。徳蔵の髪は真白で、顔にも手にも深い皺《しわ》がきざみこまれている。 「また、あのひとのことか」  康之助が言うと、徳蔵はへいと言って、盃をいじりながらうつむいた。康之助は手酌で酒をつぎ、ぐいと盃をあけた。酒がにがかった。徳蔵と飲む酒は、いつもにがい。 「また、はじまったのか」 「へい」  徳蔵は救いをもとめるように、額《ひたい》越しに康之助を見た。だが、そんな眼で見られても、おれにはどうしようもないのだ、と康之助は思った。  香西伝八郎の一件で康之助が不覚をとったとき、藩中の一部に、あれは伝八郎が康之助の親友だから、とっさのことで斬り損じたのだという、好意的な見方があった。康之助が臆病者と侮られているとき、わざわざ家をたずねて来て、そう言ってくれた者もいる。  その好意はうれしかったが、やはり間違っていた。城中で私闘に走った者は両成敗《りようせいばい》が定めである。片方が斬られたのを見とどけた者は、斬った方を、その場を去らせず斬り伏せるのが作法とされていた。  康之助も城中に詰める人間だから、そのことは承知している。私情をはさむ余地はなかった。そして康之助は状況を見誤ったわけでもない。主君のそば近くに詰める近習組の人間が、刀を抜いて城中を走るのを見かけただけで、十分斬り伏せる理由になる。  まして伝八郎は、行手をはばんだのが、康之助だと認めながら、刀を投げ出すこともせず、逆に斬りかかって来たのである。状況は明白だった。  そして事実、その寸前まで康之助は伝八郎を迎え撃って、斬り合うつもりだったのだ。それが、相手が斬りかかって来た瞬間、無意識に横に逃げたのは、悪鬼のような伝八郎に重なって、突然に一人の女の姿が見えたからである。女は伝八郎の妻女由利だった。  斬っては、残される由利があわれだとか、伝八郎を自分の手にかけて、由利に恨まれたくないとか、そこまで筋道が立った考えがうかんだわけではない。  由利の面影は、犯すべからざる者のように立ちあらわれて康之助の動きを奪った。気づいたときには、伝八郎はそばを駆け抜けていたのである。  由利は、無役ながら時どきその家系から家老、中老を出して来た加納家の娘で、十五の春から十七の冬まで宗方道場に通った。父の靫負《ゆきえ》の命令にしたがったのだが、女の入門はめずらしがられ、三羽烏の康之助、伝八郎、光弥がかわるがわる稽古をつけた。  由利は美貌だったので、一年も経たないうちに、三羽烏のうちの誰かと結ばれることになるだろうと噂されるようになった。事実その通りになって、道場をやめた翌年、由利は香西伝八郎の妻となった。  由利を娶《めと》るのに、もっとも執心を示したのは関光弥だったが、由利は家柄もつり合い、男ぶりもすぐれた光弥を選ばずに、伝八郎を選んだ。そして八田康之助には一顧《いつこ》もあたえなかった。  宗方道場の三人の俊秀の中で、康之助はもっとも禄高が低く、風采《ふうさい》気性も地味だった。由利ははじめから、康之助を問題にしていなかったかも知れない。そして康之助も由利に対してその気持があるらしいことを、ついぞそぶりにも示したことはない。  だがそのことは、康之助の由利に対する関心が、ほかの二人に劣っていたということではなかった。由利との結びつきということで、康之助ははじめからおりた気持になっていただけのことである。  だが康之助も、当時は二十をわずかに越えた若者に過ぎなかった。由利を思う気持は、固く秘したために、むしろ底が深く、はげしかったかも知れない。宗方道場に通っていたころの由利に思いを寄せない者がいたろうか。十五の由利は、すでに人眼を惹《ひ》くほど美しかったが、十七の由利は、いままさに咲こうとする華麗な花だったのである。  そばにいると息苦しかった。その気持を隠すために、康之助は由利に、ことさらはげしい稽古をつけたりした。由利が伝八郎に嫁入ると決まったとき、康之助はむしろほっとしたほどである。  由利に対する気持は、誰にも覚《さと》られずに終ったはずだった。だがほかならぬ由利がそのことを知っていたのである。 「私のためでしたのね」  塩漬けにされた伝八郎の首がもどり、藩の許しが出てひかえめな葬式を出した夜、由利は別室に康之助を呼んでそう言ったのである。由利は、見るかげもなく窶《やつ》れ、涙ぐんでいた。 「でも、八田さまのお気遣いも、無駄になりました」  康之助は黙って、若い寡婦となったひとを見つめていた。  由利の言うことも、厳密には真相と違っている。由利は、あれほど秘し隠した康之助の気持を覚っていた。そして女の直感で、康之助が伝八郎を斬らなかったのは、自分のためだと思ったのである。  由利のその考えの中には、自分の美しさを知っていて、賞賛されることに慣れている者の驕慢《きようまん》さがひそんでいる。由利は康之助が、妻帯したあともずっと自分を思いつづけていたと思っているらしかった。  だが事実は、康之助は由利が人の妻となったとき、きっぱりとその気持を捨てたのである。剣に熱中することで、康之助は不毛のもの思いを捨て得たようであった。  だが由利の言葉は、半面の真実を言いあててもいた。白刃を握った伝八郎の姿に重なって、由利の面影がうかび上がって来たとき、康之助は、自分がまだ由利の呪縛《じゆばく》から逃れていないことに気づいたのである。  そのために、由利の夫である伝八郎を助けようとしたわけではない。康之助は、ただそういう自分に驚愕《きようがく》して、とっさに刀を抜く機を逸したのである。伝八郎を斬ることが、あたかも由利を傷つけることになるような、一瞬の錯覚に見舞われたようでもあった。それはやはり、不覚としか言いようのないものだった。  だが、由利は誤解した。そして誤解したまま、時どき康之助に相談を持ちかけて、頼って来た。由利の実家は、兄の代になっていたが、美しく驕慢な寡婦は、実家と仲が悪かったのである。  香西家は断絶をまぬがれた。藩祖以来の古い家柄で、また城内の私闘は、伝八郎の方に理があったことが、その後の調べで判明したので、藩では罪は罪としたものの、知行《ちぎよう》を半分に削っただけで香西家を残したのである。伝八郎に、四つになる男子がいたことも、藩の裁断を香西家に有利にみちびいた。  しかし一連のそういう手続きも済んで、落ちつくと、そのあと康之助は自分から香西家に近づくようなことはしなかったので、由利とはまた疎遠になった。  そして一年ほど前から、康之助は由利にまつわる奇怪な話を聞くようになったのである。由利に男がいるというのである。人に知られてはならないその醜聞をひそかに告げて来たのが徳蔵だった。そのときの衝撃を、康之助はまだ忘れていない。  徳蔵は、伝八郎の父の時代から香西家に仕えている奉公人である。そして康之助が伝八郎を斬らなかったのは、二人のこれまでの深い友達づきあいのためだったと、固く信じている。  六十を過ぎた徳蔵にとって、いまようやく七つになった幼主の十五郎が、つつがなく香西の家を継ぐのを見とどけることが、ただひとつの念願だった。その徳蔵からみれば、十五郎の母由利の不身持は、肝《きも》も失《う》せるほどの出来事であるに違いなかった。表沙汰《おもてざた》になれば、家名に傷がつく。そう言って、徳蔵は康之助に泣きついて来たのである。  二度そういうことがあった。康之助はにがい気持を押さえて、由利に会うと、それとなく意見した。それが利いたかどうかわからない。徳蔵は、その後しばらく音沙汰がなかったが、今朝また突然に連絡して来たのである。 「今度の相手は誰だ?」 「………」 「それとも、前の男か? 瀬尾とかいう……」  康之助は、まだ部屋住みだといった若い男を思い出しながら言ったが、徳蔵は首を振った。徳蔵の眼から、涙がこぼれ落ちた。 「情《なさ》けのうございます、八田さま。そのようなお方ではございませんでしたのに」 「まったくな。女子《おなご》はこわいの」  康之助はぐいと盃をあおった。ひらこうとする白い牡丹《ぼたん》のようだった、十七の由利を思い出していた。 「それで、相手は誰だ?」 「関光弥さまです」 「関?」  康之助は、さっき道場で会った関の、血色のいい顔と、蔑《さげす》むようにこちらに向けて来た笑いを思いうかべ、突然無力感に襲われた。あの男は、欲しいものは何でも手に入れるらしい。八年前、由利を妻に望んで叶《かな》わなかったが、いま望みを達したのだ。  ──彼らはどうして、やすやすとそんなことが出来るのだろう。  伝八郎にしても、どんな言葉で、由利に宿の妻になることを承知させたのか、また瀬尾というにやけた男はと、康之助は彼らが不思議でならなかった。  康之助は、由利と相対すると、いまも顔はひきつり舌はこわばって、思うことの十分が一も言えないのだ。徳蔵に泣きつかれて、由利に意見しに行ったときもそうだった。何を言ったか、記憶も定かでない。由利の方が落ちついて微笑していたのをおぼえているだけである。  光弥は、その由利をたらしこみ、抱いたというのか。 「それは確かか」 「おみつが、こっそり知らせて来たことでございます。確かなことですとも、八田さま」  と、徳蔵は言った。おみつというのは、染川町の料亭で働いている、徳蔵の娘である。康之助は、太い吐息をついた。 [#5字下げ]三  家にもどると、妻の市尾が、出迎えるなり、遅うござりましたなと言った。 「遅かろうと早かろうと、いちいち文句を申すな」  と康之助は言った。 「文句など、申しあげておりませぬ」  市尾はひややかな口調で言い返した。 「さきほどまで、宗方さまがおみえで、あなたさまを待っておられましたゆえ、申しあげただけでございますよ」 「なに、先生が?」 「はい」 「これはいかん」  康之助はうろたえた。徳蔵を帰したあと、すぐには家にもどる気にもなれず、一人で酒を飲んだ。その間に、宗方六郎右エ門が来たというのだ。  宗方は病身である。夜分たずねて来るのは、よほど急な用があったに違いなかった。夕方道場を出るときに、挨拶に寄らなかったのを、康之助は悔んだ。 「これから、すぐに行って来る」 「でも、先生はそれにはおよばない、と申されました」 「なに?」 「思い立ったことがあって、急に立ち寄ったが、いそぎの用ではない。来るにはおよばぬと申されました」 「………」 「次の非番の日を確かめられ、その日八ツ半(午後三時)までに道場に参るようにと、言い置かれて、お帰りになりました」  そうか、と康之助は言って、ようやく畳に坐った。 「お食事は?」 「むろん、喰う」 「今日はやえを家に帰しました。しばらくひまをあたえておりませんでしたから」  だから、あまり馳走《ちそう》はしてありませんよ、と言って、市尾は台所に立った。  いやに静かだという気がしたが、そのせいかと康之助は思った。夫婦二人だけの気づまりな夜になりそうだった。  市尾は容貌も平凡で、静かな物言いをし、派手なところのない女だった。康之助が望んでそういう女を探したのである。そういう女こそおれにふさわしいと、康之助は思い、子供が出来ないことをのぞけば、格別の不満を持たなかった。  だが、事件があって、康之助が勤め変えを命ぜられ、禄を三十石削られたころから、市尾の中にそれまで隠されていた、ある偏った気質が洗い出されて来たようだった。  市尾は執拗に、事件のことをあきらめなかった。時どき刺すような言葉で、康之助の不覚を詰《なじ》った。静かで好もしいと思った物言いは、そういうとき、この上なくひややかに聞こえた。 「あなたさまほどのおひとが、なぜ刀もお抜きになれなかったのですか」  と市尾は言った。事件が、平凡な女から平安を奪ったようだった。市尾は尋常でない執拗さで事件のことを問いただした。そういうとき康之助は、ほとんど市尾が事件の真相に気づいているのでないか、と思うほどだった。  夫婦の間に亀裂が入った。康之助は、以前はあまり飲まなかった酒を好むようになり、夫婦は寝部屋を別にした。そうして三年たっている。  馳走は、漬け物に水で冷やした豆腐をそえてあるだけだった。康之助が味気なく飯を噛《か》んでいると、市尾が言った。 「この家を旧禄にもどすようなご沙汰は、まだ出ませんか」 「そんなものが、すぐに出るわけはない」 「でも、あれから三年経ちますよ」 「何年経とうと同じことだ」  またはじまったかと、康之助はうんざりしながら答えた。苛立《いらだ》たしく飯をかきこんだ。 「藩のおためになるような働きでも出来れば格別。そういうことでもない限り、七十石は七十石だ。ほどほどにあきらめんか」 「今日の昼、お留守の間に実家《さと》に行かせてもらいました」  飯をよそいながら、市尾は言った。 「実家の父も、そのように申しておりました」 「………」  康之助はそっとため息をついた。市尾はまた実家でその話をして来たのだ。なぜこの女は、もう済んだこととして、あきらめられないのか、と康之助は少し無気味だった。 「でも父は、わしならかなわぬまでも一太刀斬りつける。八田ほどの男が、なぜそうしなかったか、いまでも不思議だと申しました」 「………」 「なぜですか。あなたさまがおっしゃらないから、私にもまだわかりませぬ」 「もう、よい」  康之助は箸《はし》を投げ出すと、荒あらしく立ち上がって、茶の間を出た。 [#5字下げ]四 「わしは近く町を出て、山にひき籠《こも》ろうと思っている」  と宗方六郎右エ門は言った。康之助はおどろいて宗方の顔を見た。 「いや、山と申しても人も住まぬところに行くわけではない」  宗方は面長《おもなが》の品のいい顔に微笑をうかべた。久しく寝たり起きたりしているせいで、顔色は冴《さ》えなかった。 「伜《せがれ》が小滝村に隠居所を建ててくれた。青石山の麓《ふもと》で、夏は涼しく、冬はあたたかい。景色もいいところじゃ」 「それはそれは」  と康之助は言った。 「結構なことでござりますな。そのようなところでご養生なされたら、お身体も丈夫になりましょう」  宗方は、もと二百石の藩士だったが、四十を過ぎると間もなく家督を伜の四郎右エ門に譲り、道場を開いた。若いころから、不伝流の剣士として高名だった宗方には、道場を持って後進を教えるのが念願だったのである。  伜の四郎右エ門は、いま側用人《そばようにん》を勤め、父とは別に、藩から下賜された屋敷に住んでいる。 「ついては、この道場をそなたらにゆずり、後のわずらいをなくして小滝村に参ろうと思っての」 「………」 「病気で道場に出ることもなくなってから、ずっと考えていたことだが、その時期が来たようだ。せっかく皆が熱心に通って来ていることゆえ、つぶすには惜しい。道場を誰ぞにゆずり、心残りなくひき籠りたい」 「お話は、そのことでござりましたか」 「そうだ」  宗方は、お茶をひと口すすってから、じっと康之助を見た。 「そう申しても、この道場をつぐものは二人しかおらん。そなたか、光弥かということになる」 「………」 「呼んだのは、そなたにその気持があるかどうかを確かめてから、と思っての。勤めの方は、いまのままでかまわん。それは、わしから上の方に話しておく」 「………」 「どうじゃ?」 「お心づかいは有難く存じますが……」  康之助は顔を伏せたまま言った。 「私は、この道場をつぐにはふさわしからぬ人間かと存じます」 「伝八郎の一件か」 「は。私は大事のときに役に立たなんだ臆病者として、隠れもない汚名を着ております。私が跡をついでは、当道場の名を汚しましょう」 「あの件について、わしはそなたに何ひとつ聞きただしておらんが……」  宗方は鋭く康之助を注視した。胸の中を射抜くような、こわい眼だった。 「ひとつだけ聞こう。そのときに臆したか?」 「いえ」 「すると、刀は?」 「むろん、鯉口を切りました」 「よろしい。そのあとのことは聞かんでよい」  宗方はおだやかな顔にもどって言った。 「じつを言うと、光弥はこの道場をつぐことを望んでおる。伝八郎が死に、そなたが藩中で白い眼で見られているいま、自分が跡をついで当然と考えているようだ」 「あるいはしかり、とも申せましょう」 「父親の跡をついで城に上がるのはまだまだ先、勤めのわずらいもないなどと申してな。乗気じゃった」 「………」 「光弥の腕は認める。そなたが道場から遠ざかっている間に、また少し腕を上げたようだ。しかし彼の素行はほめたものではない。いまだに妻も娶らず遊び回っているそうではないか」 「………」  康之助は頬《ほお》がひきつるのを感じた。光弥と会っているという由利のことが、胸をかすめたのである。 「そして腕のことを言えばだ。わしは、まだそなたの方に幾らか、分があるという気がしておる。伝八郎の件は、気にせんでよろしい。そなたの不覚には違いないが、わしはその後のそなたの進退を見まもった。あれでよい」 「しかし……」 「一度光弥と立ち合ってみぬか。久しく竹刀をかわしておらんだろう。その立ち合いをみて、あとはわしが決める。それでどうかの?」 「先生が、お望みなら」  康之助はついにそう答えた。伝八郎の一件で演じた不覚は一生のものである。宗方道場をつぐのは自分の任ではあるまいと思ったが、康之助は、宗方がいま、そういう自分に救いの手をさしのべたがっていることも感じたのである。  宗方六郎右エ門は、仲次郎と呼ばれた少年のころから天稟《てんぴん》の剣才をうたわれ、江戸で不伝流をおさめたあと、藩命によって諸国を修行して回り、ことに松江藩に長くとどまって流派の奥儀をきわめて帰った剣士である。  その非凡の剣は藩中の尊敬を一身にあつめたので、宗方が早く致仕《ちし》して道場を開きたいと申し出たとき、藩主みずからがそれを奨励したほどだった。城下には、ほかに数流の剣術道場があるが、宗方の道場は別格で、家中《かちゆう》藩士は、いまでもその道場に入門を許されるのを名誉としているほどである。  宗方が、後継者として八田康之助を選んだということになれば、藩中の康之助を見る眼もおのずから変って来るに違いなかった。  ──だが、おれはその好意に値しない。  宗方は知らないが、おれは一人の女人のために不覚を取った人間だ。康之助が重苦しい気分でそう思ったとき、宗方が言った。 「では、さっそく立ち合いをみるか」 「え?」 「光弥を呼んである。道場へ行こう」  そう言うと、宗方はすぐに立ち上がった。  宗方の後から道場に入って行くと、関光弥が、数人の門弟に稽古をつけているところだった。  光弥は二人が道場に入って来るのをみると、大声で叫んだ。 「今日はこれまで。皆にはひき取ってもらおう」 「これから何かあるのですか」  竹刀を引いた一人が、好奇心に駆られたようにたずねた。 「大事な試合がある」 「われわれも拝見してはいけませんか」 「いかん、いかん。人に見せる試合ではない」  門弟たちが、宗方に挨拶して道場を出て行くと、光弥は竹刀を右手にさげたまま、大股《おおまた》に歩み寄って来た。  光弥は奇妙な笑いをうかべて康之助を見、それから眼を宗方に移した。 「彼は承知しましたか」 「うむ」 「それはよかった。その方が物事がすっきりする」  光弥は、すぐにはじめますかと言った。そして宗方がうなずくと、竹刀を一本持ったまま、道場の中央に出て行った。  康之助も光弥に倣って、稽古着に着換えただけで防具はつけず、竹刀だけ持った。康之助が近づくと、光弥はおぬしとやるのはしばらくぶりだな、と言った。 「この際、遠慮はなしでいこう。そのつもりで来いよ」 「むろんだ」 「もっとも、そちらはあまり稽古をしとらんだろう。気の毒だ」  光弥は自信ありげな笑いをうかべてそう言った。光弥はひところにくらべ、少し身体に肉がついたようだった。 「この試合がどういう試合かは、もう話してある。二人とも、力をつくせ」  宗方が立っている場所からそう言った。 「では、はじめる。勝負は一本」  その声で、二人は弾かれたように左右にわかれると竹刀を構えた。  広い道場の床に、武者窓から幾筋か長くのびた日射しが這《は》っている。縞《しま》模様のその日射しを踏んで、少しずつ間合いを詰めながら、康之助は数年前の納会の試合を思い出した。  八田、関、香西の技倆は甲乙つけがたいという評判が生まれたのは、そのときのことである。一本勝負で勝ち抜いて来て、最後に三人が残った。康之助は伝八郎に敗れ、伝八郎は光弥に敗れ、光弥は康之助に敗れて三|竦《すく》みになった。  お客で来ていた家老の秋山|多聞《たもん》が、このまま終らせるのは惜しいと言い出して、三人はもう一度立ち合ったが、今度は康之助は光弥に敗れ、光弥は伝八郎に敗れ、伝八郎は康之助に敗れてふたたび三竦みとなったのである。家老の所望は、はからずも三人の技倆伯仲を証拠立て、藩内に喧伝《けんでん》されることになったのであった。  だが光弥の構えには、そのときとは比較にならない、どっしりした落ちつきのようなものが見える。  ──腕を上げたというのは、ほんとうだな。  と康之助は思った。  光弥の竹刀の先が、ぴくりと動いた。そして疾風のような打ちこみが横面に来た。康之助は体を斜めに傾けながら、その打ちこみを払い上げ、踏みこんで胴を打った。だが光弥は軽く後に跳んでかわした。  二人は少しずつ足を送って、ほとんど体を入れ換える位置まで回ると、そこで立ち止まって、また長い睨《にら》みあいに入った。  不意に康之助は嘔気《はきけ》がこみあげてくるのを感じた。稽古から遠ざかっていたために、身体が長い緊張に耐え得なくなっているようだった。  だが嘔気はそのためばかりでなかった。光弥の顔は脂で光り、精気に溢《あふ》れていた。康之助が、ただ遠くながめるだけの女を、無造作に遊び相手の一人として抱いている男の、生ぐさい精気に圧倒されたようでもあった。 「やあッ!」  康之助は自分から仕かけて行った。打ち合い、とび離れ、また打ち合った。そのはげしい動きの中で、光弥の小手に隙を見たと思った。康之助は思いきり踏みこんで、小手を打った。だが浅かった。  同時に康之助は、右肩に灼《や》けるような痛みを感じた。すれ違って向き直ると、康之助は竹刀をひき、鉢巻をはずして頭をさげた。 「負けた」 「いや、まだだ」  鋭く光弥が言った。光弥はまだ竹刀を構えていた。 「貴公は、あれを使っておらん。力を出し切っておらんじゃないか」  光弥が言っているのは、康之助が工夫した秘剣のことだとすぐにわかった。由利が伝八郎にかたづいたあとの、康之助がもっとも剣の修行に刻苦した時期に、ふと工夫が出来たその剣を、康之助は双燕《そうえん》と名づけたが、師の宗方にそのことを告げただけで、まだ誰にも披露したことはない。  だが宗方からそのことを聞いた光弥は、忘れずにいて、康之助がいまの試合にその剣を使わなかったことを咎《とが》めているのだった。咎めているだけでなく、その剣を打ち崩してみると挑んでいるのだった。康之助を見つめる光弥の眼には、ほとんど傲岸《ごうがん》な光がある。  康之助は宗方を見た。すると宗方が手をあげて言った。 「いや、試合はこれまで。十分に見た」  背を向けて歩き出した宗方を、光弥があわてて追って行った。二人の姿が母屋の入口に消えるのを、じっと見送ってから、康之助は道場の隅に行ってひっそりと着換え、外に出た。  町の西に連なる丘に、半ば沈みかけている日の光が、水平に町を貫いていた。家も新緑の木木も、歩いている人の横顔も、一様に赤い光を浴びていた。  双燕の秘剣は独創である。宗方からゆずられたものではない。今日のような試合に使えるかと、康之助は光弥の軽率な言動を心の中で罵った。そしていつものように、うつむいて歩きながら、にがい笑いをうかべた。  ──使えば、光弥の肋《あばら》が折れている。 [#5字下げ]五 「光弥が、来るのではないか」  と康之助は言った。そう言いながら、康之助はこのひとの前にいると、どうしておれの舌はこうこわばるのかと思った。 「関さま? バカなことをおっしゃいますな」  と由利が言った。由利は康之助が来るとすぐに帰って行った、同年輩の女客と二人で、適当に飲んでいたとみえて、うっすらと頬を染めていた。唇は紅く濡《ぬ》れ、眼は挑みかかるようにきらきらと光っている。康之助は眼をあげられない。 「あなたさまが、私にご用があると言いますから、ここにおいで頂きました。関さまなんか、存じませんよ」 「さようか」 「そうですとも。今夜は八田さまとさし向かいで、ゆっくりとお話をうかがうつもり」  由利は、町の女のように顔を仰むけて笑った。紅い唇が、なまめかしかった。 「それにしても、おひとついかが? 私お酒が好きになりましたの。八田さまはおきらいですか」 「いや、酒は好きでござる」 「ござるなんて、ほんとに堅苦しい方ね」  言いながら、由利は膳《ぜん》の上の盃を取って、康之助に酒をついだ。恐れ入る、と言って酒を受けながら、康之助は額ににじんだ汗を拭った。  夕方、康之助は下城の途中、由利の家に立ち寄った。徳蔵には、今日行くと言っておいたのである。ところが、出迎えた徳蔵が恐縮して言った。 「奥さまは染川町の海老屋に参りました。お友だちとお会いになるとかで」 「そうか。では、出直そう」  康之助はあっさり言った。意見を頼まれたから来たが、気が重い話だった。少しでも先にのびる方が有難かった。  だが徳蔵は、康之助の袖《そで》をつかんだ。 「それがです。私も八田さまとのお約束がありますから、今夜おいでになることを申しました。すると奥さまは、それでは八田さまにあちらまでおいで頂くようにと申されました」 「海老屋にか」  海老屋は、うまい肴を喰わせる料理茶屋である。だが、男女の密会によく使われる家でもある。 「しかし、友だちというのは、その、男ではないのか」 「いえ、そのことならご心配いりません。房江さまと申されまして、ご家中のご新造さまですが、ここにもよくお見えになる方です」 「しかしそこまで押しかけるのは、どういうものかな」 「いえいえ」  徳蔵は遠慮は無用というふうに、手を振った。 「奥さまも、八田さまが何でお見えになるかは、もうご承知でございましてな。また八田さまのお叱りだろう、いつもご心配をかけているから、ご酒でもさし上げながら叱られましょうかなどと、失礼ながら、大そう殊勝なことをおっしゃっておいでで」  ぜひ行ってくれ、と徳蔵に背を押されるようにして来たのだが、由利の様子には殊勝なところなどひとつもない。  肴をつつき、手酌で口に盃をはこぶ手つきも堂に入ったものだった。由利には、こういう場所で遊び慣れた感じがあった。  康之助が、茫然《ぼうぜん》と見まもっていると、由利は康之助の盃に、小まめに酒をつぎ、上眼づかいにみながらくすりと笑った。 「また、徳蔵が、何か申しあげたのでございましょ。ほんとに心配性なひとだから」 「いや」  ぐいと盃をあけて康之助は言った。酒が入って、いくらかまともに由利を見ることが出来るようになったようである。 「徳蔵の心配は、無理からぬところがござりますぞ」 「何が心配? 私がほんの時たま、気晴らしに男と遊ぶのが、そんなに心配ですか」 「家名というものがござる。香西の家は、いわば危うく拾った家。大切にせねばなりますまい。由利どのの不……」 「不身持とおっしゃい。口ごもらずにはっきり」 「じゃによって」 「何がじゃによってですか。ほんとに堅苦しい方」  由利は手を口にあてて、小さくあくびをした。そして席を立ってくると、康之助のそばに、身体を崩して坐った。  化粧の香に、康之助は息がつまるような気がした。康之助はいそいで手酌で酒を飲んだ。 「徳蔵も八田さまも、実家の兄も、私がじっと家に閉じこもって、尼さまのようにお経でも上げていれば、気が済むのでございましょ? そういう方も世間にはおられるそうですから」 「いや、そうは言わぬが。しかしほかに気の紛らしようも、ござろう」 「ほかに気晴らしがございますか。私は生身の女子ですよ」  由利の言葉は慎みを欠いてひどく露骨だったが、康之助はぐっと詰まった。確かに由利は、香西の家でみるよりも、はるかに女くさかった。家にじっとしていろというのは、無理かも知れぬ。 「しかし、女子の茶屋遊びは、やはり感心せぬ」 「どうして? こんな楽しい遊びが、どうしていけませんか」 「………」 「こうして殿方と一緒にいて、お酒を飲んでいるとほんとに楽しい。むかしのこともみんな忘れられて。家にばかりいると、私息がつまります」  由利は銚子を持ち上げ、康之助にやわらかく身体をもたせかけて来た。そして気だるいような声で言った。 「お飲みなさいな、八田さま。堅苦しいお話はもうたくさん」  康之助は黙って飲みつづけた。酔いが回ってくると、由利の言うことももっともだと思うようになった。夫の死後、若くとも身を慎んで立派に家を守る女もいる。男は、女はみなそうするものだと決めてかかっているが、そう出来ない女がいても、べつに不思議なことではないのだ。由利の言葉を借りれば、女も生身の人間である。  康之助は、夫の死後、男と通じたことが表にあらわれて悪名が立った、二、三の女たちのことを思い出していた。その女たちは、人に指さされ、親族からまじわりを絶たれたりしたが、だからといって、その女たちが、貞節に身を慎んで老いた女たちより、不しあわせだとは言えぬかも知れぬ。  気がつくと、由利が肩にもたれかかって眠っていた。はじめて見る由利の寝顔は、ひどく幼げに見えた。康之助はしばらくその寝顔を眺めてから揺り起こした。  由利は薄く眼をあけたが、動こうとはせずに、気だるい口調で言った。 「私は泊って参ります。酔って立てませぬから、隣まで運んでくださいまし」 「さようか」 「まだ、さようかなんて」  ふ、ふと由利は笑った。 「八田さまもお泊りになりますか」 「バカを申せ」  そんなことをしたら、徳蔵に何を言われるかわからぬ、と康之助は気をひきしめた。  由利を抱き上げて立ったとき、康之助は十七の由利を抱いたような気がした。康之助は由利を捧《ささ》げ持つようにして歩くと、足で隣の小部屋の襖《ふすま》をあけた。  有明け行燈の光に、ととのえられた夜具と枕二つが照らし出されたのを見て、康之助はぎょっとしたが、眼をつぶるようにして、由利を夜具に横たえた。  膝《ひざ》を起こそうとすると、眼をつむったまま由利がささやいた。 「帯をといて」 「それはならぬ」 「なぜ? 女子がこわいのですか」 「いや」  康之助は眼をそむけるようにして、由利の帯締をはずした。つぎに帯に手をかけたとき、康之助は夢うつつのように、踏みこんではならない場所に入って行く自分を感じた。  由利の身体を縛るものを、ことごとく取り去ったとき、由利の白い腕がのびて、康之助の首に絡《から》んだ。 「私を好いていてくださったのに、ひと言もおっしゃいませんでしたのね」  由利は、低く詰《なじ》るように言った。 「でも、私存じていましたのよ」 「………」 「まだ、お逃げになるつもりですか」  康之助はいや、と言い、静かに由利の胸をひらいた。かがやくばかりに白い胸があらわれた。胸はやわらかに盛り上がる二つの丘と、淡く翳《かげ》る谷間から成り立っていた。微《かす》かな汗の香がまじる肌の匂《にお》いが、康之助の顔を包んだ。  康之助は、稽古をつけたころの由利を思い出していた。由利は幼いころから父の靫負《ゆきえ》に剣を仕込まれ、単身宗方道場に入門して来ただけあって、勝気な娘だった。竹刀を打ち落とされると、くやしがってむしゃぶりついて来た。  そのときの汗の香がした。康之助はその中に顔を埋めた。そのまま康之助の手が、ゆっくりと由利の下肢をさぐって動いた。すると、康之助の頭を抱いたまま、由利がささやいた。 「その前に約束して」 「何を、約束しようか」 「あのひとを殺して」 「……?」  康之助は顔をあげた。由利はまたたきもしない眼で、康之助を見つめていた。 「誰のことだ?」 「関光弥」 「………」 「あのひとに捨てられました」 「………」 「殺して。八田さまならそれがお出来になるのでしょ」  由利はにっこり笑った。娼婦《しようふ》のように男に媚《こ》びる笑いだった。 「香西が言っておりました。関に勝てるのは、八田だけだと」  康之助は黙って由利を見つめた。眼の前にしどけなく胸を開いて横になっているのは、十七の由利ではなかった。眼尻や首に小皺をきざみ、乳房は張りを失った子持ちの寡婦。男狂いの年増《としま》女に過ぎなかった。今夜のことはむろん、すべてこの女が仕組んだことなのだ。  康之助は、身体を起こすと、襟《えり》を正した。 「どうなさるの?」 「それは、ことわる」 「でも、あなたは私を欲しがっていたのではありませんか。むかしからずっと」  康之助は立ち上がって小部屋を出ると、無言のまま襖を閉めた。うしろで由利の鋭い声がした。 「勇気がおありにならないのね。やはり臆病者なのですよ、あなたは」  康之助は、膳のそばの行燈を吹き消し、襖を閉めて廊下に出た。暗い廊下に出たとき、康之助は、由利という女の呪縛から、さっぱりと解き放たれた自分を感じた。それはいくらか寂寥《せきりよう》感をともなった感情だった。 [#5字下げ]六  由利の愚かな頼みはきっぱりとしりぞけたが、康之助は二年後に、宿命の糸に結ばれていたように、光弥と決着をつける時をむかえた。  光弥の父、関甚左エ門は長年藩政に参与して来たが、偏屈な人間としても知られていた。彼はしじゅう執政たちと衝突し、また藩主とも衝突した。  家中の者はそういう甚左エ門を面白がり、甚左エ門にも、自分の偏屈をむしろ誇るいろがあったのだが、悲劇はその中から生まれた。  その年、甚左エ門は農政をめぐって藩主と激論し、三日間の登城停止を命ぜられた。だが甚左エ門は藩命を無視して、常にも増して美美しく供回りを飾り立てて登城した。家中のある者は手を叩《たた》いて面白がったが、大方の者は息をのんだ。  果して藩主は激怒して、甚左エ門に閉門を命じた。当初のいきさつからは考えられない重い咎めになったのである。二日間、甚左エ門は門を閉じてひっそりと慎んだが、三日目には、甚左エ門が屋敷の中に家の子、親族を呼び集めて、酒宴を開いているという目付からの報告が入った。報告はその上に、関家では塀内の要所に武装した家士をくばり、城から討手が来れば、一戦も辞さないと公言していることもつけ加えていた。  藩では慎重な協議をくり返したあと、討手を出すことを決めた。十人の討手が選ばれて、八田康之助はその中に加えられた。康之助を推したのは、いまは筆頭家老を勤めている秋山多聞だった。  藩では、まず関家の屋敷内に呼びかけて、親族の者は、屋敷を出れば罪を問わないと言った。あくまで偏屈に出来ている甚左エ門は、その呼びかけを聞くと、踏みとどまるという親族をことごとく屋敷から追い出してしまった。  間を置かずに、十名の討手が屋敷の中に斬りこんだ。まだ草に朝露が残る、五ツ(午前八時)前のことだった。関家では、家士、奉公人はもとより、女子供まで武装して、手ごわく抵抗した。  光弥はむろん、その下の二人の男子も、いずれも腕が立ち、また家士の中に河井という一刀流の免許取りがいたので、凄惨《せいさん》な斬り合いになった。  康之助ははじめから光弥を目ざし、出会うと無言で裏庭に誘った。光弥はさすがに青ざめた顔をしていたが、康之助の合図をみると、すぐについて来た。  はげしい矢声《やごえ》や、人が斬られる絶叫をよそに、二人は無言のまま長い対峙《たいじ》に入った。不意に光弥が言った。 「あのとき、臆したわけじゃなかったらしいな」 「むろん」  康之助は短く答えた。  光弥がさきに斬りこんで来た。青眼《せいがん》から肩を打ってくる得意の剣だったが、康之助は軽くしりぞいて受け流した。二度同じような形の斬り合いがくり返されたが、康之助の身体は、軽やかに左右に跳んで、光弥の剣をはね返した。  光弥の剣が八双に上がった。大きく踏みこむ気配を見せたとき、康之助の刀が下段に沈んだ。二人の身体が交錯した。すれ違う一瞬、二人の身体はほとんど密着したように見えた。康之助の剣が、きら、きらと二度光って、離れたときに、光弥は肩から地面にのめって行った。  一瞬の間に、康之助は左下段から刀を摺《す》りあげ、さらに踏みこみながら身体を半回転させて、右下段からもう一度摺りあげる剣を使ったのである。最初の剣が光弥の打ちこみをはね上げ、次の剣が深ぶかと胴を斬り払ったのであった。地上すれすれに飛び違って、空に駆け上がる、二羽の燕を、光弥も見たようだった。 「見たぞ、双燕」  光弥も剣士だった。そうつぶやいて眼を閉じた顔に、微笑を残した。康之助は、黙ってその顔を見おろした。光弥の微笑が、汚名を洗い流してくれたのを感じていた。 [#改ページ] [#1字下げ] 女難剣雷切り [#5字下げ]一  佐治惣六ほど城中で目立たない人間はいない。御旗組という、これもぱっとしないところに勤め、うつむき加減に組屋敷と城の間を往復して十年、年は三十六になる。  三十六の惣六は、無妻で子もなかった。はじめから妻を娶《めと》らなかったわけではない。二十代の半ばに、人なみに妻を迎えたのだが、はじめの妻には死別し、そのあと迎えた二人の妻には、次つぎと逃げられた。惣六は、ごく女房運の悪い男だといえる。  しかし人はただ運が悪いだけとは見ない。ある者はそれを惣六の風貌《ふうぼう》のせいにした。惣六はじじむさい男である。いつも日焼けしているような黒い顔に、高い鼻と大きな口が目立ち、眼は細くてどこを見ているかわからない。  その上|小鬢《こびん》は、はや抜けあがって、三十半ばとはみえないほど髪が少ないが、この傾きは二十半ばに、すでにあらわれていたのである。一見して、烏天狗《からすてんぐ》とはこうでなかったかと思わせる男ぶりで、醜男《ぶおとこ》という評価はまず動かないところである。  しかしこういう男ぶりの人間でも、もう少し背丈があって、動作が颯爽《さつそう》としていれば、それはそれで男くさく、サマになるかも知れなかったが、惣六は小柄で痩《や》せていた。小柄で口数も少ない惣六が、背をまるめ気味に登城の道を歩いているのをみると、誰しも、はえない男だなと思う。  はじめの妻はともかく、後添いの二人は、惣六のじじむさい様子に厭気《いやけ》がさしたに違いないという見方も、あながち見当違いとは言えない。惣六は覇気《はき》にとぼしい男だった。そのじじむささには、最後の妻に逃げられて一人になると、さらに磨きがかかったようにみえた。  いや、そうじゃないさ、と声をひそめて言った男がいた。勘定組にいる吉成という男だった。 「惣六はあの顔で、存外な好き者らしいぞ」  おれがにらんだところでは、はじめの妻はかわいがり過ぎて殺した。二番目、三番目は、惣六のもとめが激しすぎるのに辟易《へきえき》して、家に逃げ帰ったというあたりが真相ではないのか、と吉成は言った。  そう言った吉成万次郎が、人後に落ちない女好きで、染川町の茶屋あたりで名を売っている男だったので、聞いていた者は失笑した。 「でたらめを言っているわけではないぞ。惣六が女好きだということには証拠がある」  吉成はむきになって言いつのった。染川町の茶屋で、吉成は以前惣六の家に奉公していたという女中に出会った。その女が、惣六の家の女中が、一年と居つかないのは、若い女中とみると主の惣六が手を出すからで、自分も一度危い目にあった、と話したというのである。  みんなはもう一度笑った。吉成の話は面白いが推測の域を出るものではなかった。その元女中の話がかりに本当だとしても、男やもめの惣六が、ある日むらむらとした気に襲われて、つい手近にいる女中に挑みかかったとしても、それをもって極めつきの好色漢のように言うのはどういうものか。  しかしそれはそれとして、あの佐治惣六が、どの顔で女中に挑みかかったのかと考えると、聞いた者の腹に笑いがこみ上げたのである。  佐治惣六が、近ごろの話題になったのは、三人目の妻に逃げられたあと、こんな形で人の噂《うわさ》にのぼったときだけであろう。あとは、人びとは惣六を無視した。  無視し、心の中ではえない男だと思っても、家中《かちゆう》の者は惣六を口に出してさげすんだり、面とむかって嘲《あざけ》りのいろをみせたりすることはなかった。それは十年ほど前、惣六が城下で目ざましい剣の働きを見せたことがあって、人びとは、風采《ふうさい》のあがらないこの人物を、心の隅でなんとなく憚《はばか》っていたからだと言える。  佐治惣六は若年のころは城下で一刀流を修行した。このときはさほど上達の噂も聞かなかったのだが、十九の年に病身の父親にかわって赴任した江戸で今枝流を学び、長足の進歩をとげたと言われた。  とは言え、その進歩がどれほどのものかは、誰にもわからなかった。ただ、惣六が藩庁に、剣の修行を理由に二度も江戸詰の延期を願い出て、父親が死んだときも帰らずに前後六年も在府したことで、修行への打ちこみが、なみなみのものでないことが知られただけである。  十年前の出来事は、惣六が会得した剣が、どういうものであるかが、はからずも藩中に知られる結果になった。江戸詰から帰国した翌年のことである。 [#5字下げ]二  十年前の秋のある日、河原町の旅籠《はたご》もみじ屋に二人の男が宿をとった。二人とも三十前後と思われる年配で、浪人ふうだったが身ぎれいななりをしていたので、もみじ屋では何の疑いもなく泊めた。二人は上州浪人で、縁故を頼って津軽に行く途中だと話し、帳場に金を預けたが、金はゆうに数日泊るだけあった。  もみじ屋は旅籠と女郎屋を兼ね、五間川の岸の静かな場所にある。浪人たちは、夜は部屋に女を呼んで酒を飲んだ。  そして三日目の夜、城下の富商として知られる造り酒屋竹野屋儀兵衛方に賊が入った。賊は手むかう店の者を二人斬り、主人を脅して五百両の金をかすめ取ると、小雨の降る夜の町に逃げ去った。  その盗賊が、もみじ屋の客だとわかったのは、夜が明けてからである。二人の浪人は、もみじ屋からも、金箱をこじあけて五十両ほどの金を盗み出していた。  奉行所では、すぐに四方の関所に人を走らせ、ほかに間道にも人を配って、人の出入りを監視させた。だが賊は網にかからなかった。賊らしい人間が関所を越えた形跡はなかったので、奉行所は二人がまだ領内にひそんでいるものとみて捜索をつづける一方、領内の村村にくまなく布令《ふれ》を出して届出を待った。  ところが、盗賊は城下に隠れていたのである。河原町とは川ひとつへだてた烏帽子《えぼし》町に、一軒の空家があった。その家から、夜になると炊飯の匂《にお》いらしいものが洩《も》れるのに気づいた近所の者が、奉行所にとどけ出て、二人がひそんでいることがわかったのである。  朝になって、奉行所では捕手の人数を出して空家を囲んだ。だが中にいる二人ははげしく手むかって、容易につかまらなかった。昼までに埒《らち》があかず、日は七ツ刻《どき》(午後四時)にかかった。  その間に捕手五人が斬られ、同心一人が死に、一人が重い傷を負った。死んだ井岡という同心は、日ごろ小太刀の遣い手として知られていたので、捕方の間には動揺が起こった。中にいる二人が、出来心から盗みを働いたというわけではなく、常習の、かなり凶悪な盗賊らしいと見当がついたのである。  あえて中に踏みこもうとする者はいなかった。すぐにつかまえるのは無理だと考えた捕方は、夜にそなえてかがり火の支度をした。それまでの経過は、逐一城に知らされた。  佐治惣六が城から派遣されて、その場所に来たのは七ツをいくらか回った時刻だった。空家の近くの家からは人が立ち退《の》き、その人びとを含めた黒山の人だかりが、一、二町先の町通りを埋めていた。  惣六はやじ馬の間をかきわけて、人垣の中に入ると、家家の軒先にひそんで空家の方を見まもっている捕方に近づき、何か話し出した。  その様子を、やじ馬たちは惣六が城中から何かの指図を持って来たらしいと見ただけだった。惣六は小柄で、その当時から少しじじむさいところがあった。ただのお使いだろうと見たのは、やじ馬だけでなく、捕方の大部分もそう思ったのである。  ところが、惣六は捕方を指揮していた矢部という与力との話が済むと、その場で懐から出した紐《ひも》で、手早く襷《たすき》をかけた。そしてひっそりしている路を横切って、空家に近づいて行った。  空家に踏みこむ前に、惣六が二刀を抜いたのが見えた。そしてそのまま無造作に家の中に踏みこんで行った。家の中は、しばらくひっそりしていたが、やがてすさまじい絶叫が、二度、三度とあがった。声はがらんと静まった町にくまなくひびいた。  そして開いたままの戸口から、襷をはずしながら惣六が出てきた。刀はもう鞘《さや》におさまっていた。中で何があったかは、誰の眼にもあきらかだった。一瞬の沈黙があったあと、捕方がわっと空家に走った。  奉行所のあとの調べで、盗賊の浪人二人はほとんど一刀で斬り倒されていることがわかった。  佐治惣六は、そのことがあってからしばらく、城中でもてはやされた。同僚や顔見知りの者は、盗賊を斬り捨てたときの様子を、根ほり葉ほり聞きたがったし、面識のないものも、城中や登城下城の道すがら惣六を見かけると、目礼を送って来たりした。  惣六にむけられているのは、まぎれもない賞賛だったのだから、惣六が尋常に応対していれば、その時の武勇談は人びとの間に定着して、惣六そのひとの株も一気に上がったに違いない。  だが惣六は少し人と変っていた。様子を聞かれても、「何のこともござらん」とぽつりと言うだけで言葉をにごし、親しみをこめた視線には、どこかバツ悪げに顔をそむけた。迷惑そうだった。  そのようなことから、間もなく「二人を斬ったといっても、たかが盗人のたぐい。少しほめ過ぎではないか」などと言い出す者も出て来た。惣六は、その働きで加増されたわけでもなく、依然として五十石の御旗組勤めにとどまっていたし、ただその夜、惣六に直接命令した家老の杉谷権四郎が、自分の屋敷に惣六をまねいて、酒をのませてねぎらっただけだということもわかっていたので、前のようなことを言う者が出て来たのも不思議ではなかった。  惣六の働きは、少しずつ忘れられた。歳月がつもると、そういう事件があったことさえ、忘れられて行った。  それでも一度あったことは、まったく忘れ去られるということはなく、十年前のその働きのために、佐治惣六は無視はされても、辛《かろ》うじて嘲笑《ちようしよう》からまぬかれているというあんばいだったのである。  ところが今度こそ惣六が面目を失するような事件が起きた。その事件は、隠れもない形で家中の間にひろまったので、人びとは大笑いし、それまで惣六をなんとなく底の知れない男のように思っていた者も、一ぺんに正体を見たという気がしたのだった。 [#5字下げ]三  その夜惣六は、はじめから女中のおさとに挑みかかろうなどと考えていたわけではない。むしろそういう気が起きるのを、心の中でいましめていたという方があたっている。  惣六は、家に女中が居つかないのを、外でどういうふうに言われているか知っていた。主が手を出すから、みな一年足らずで暇をとるのだと言っている。城をさがって組屋敷の生垣の外まで帰ってきたとき、垣の内側で同僚の妻女たちが憚りもない声でそう噂をしているのを聞いて、いまきた道を足音をしのばせて戻ったこともある。  だがそれは濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だった。若い女中ばかりを雇うわけではなく、婆さん女中も、四十過ぎの中年女も雇っている。おなおという婆さんは三年つとめて、飯を炊くのもうまく、きれい好きで、惣六は気に入っていたのだが、腰を痛めて動けなくなりやめた。  おそめという四十女は、惣六がはじめの妻に死なれたあとすぐに雇った女中だが、夜中に惣六の寝部屋の外にきてうずくまっているような女だったので暇を出した。  人はそういうことは言わずに若い女中のことばかり言う。そういう不満はあり、じっさいにどの女中も一年前後で暇をとって行くのに気が滅入《めい》ってもいたが、惣六にはかすかに思いあたることがあった。  若い女中がきて、やがて家になじむころになると、惣六はその女中の何から何まで好もしくなるのである。怠け者の女もおり、ひどい面相をした女もいたが、惣六は少少の欠点は眼につかず、ひたすらいいところを探して満足する。女中にすれば、こんな御しやすい主人はないわけだが、不思議なことにみんな一年足らずで暇をとって行く。  ──あれがいかんのだな。  と惣六は思う。  惣六の心の中には、つねに満たされることのない女への渇仰《かつごう》がある。若い時から女に縁が薄かった。人なみに遊所に行ったこともあるが、そういう場所の女は、惣六の気持が冷えるような言葉で醜貌をあげつらい、扱いも冷たかった。  はじめの妻はやさしかったが、三年で病死した。二度目、三度目の妻ははじめから惣六を軽んじ、一人はわけも言わずに去り、もう一人は、人はみな逃げられたように噂するが、惣六の方で耐えかねて去り状を書いたのである。そしてそのあと、妻を世話しようという者はいない。  そういう女運のなさが、惣六の気持の中の渇《かわ》きをいよいよ高め、女はなべて天女のように思えてくるのである。  顔はまずいが、腰つきは絶品だと、惣六は醜女《しこめ》の女中をじっと見る。台所はいつも物の腐敗する匂いがし、畳も埃《ほこり》だらけだと思いながら、しかしおつねの横顔には、何ともいえない色気がある、と怠け者の女中の横顔を盗みみる。そういうときの惣六の顔は、半ば陶然としている。  手出しはしなかったが、女中たちはそれを嫌って暇をとって行ったのだ、と惣六にもいまでは推察がついていた。  だからおさとが来たときには、大事にした。おさとは以前奉公していて、腰を痛めてやめたおなお婆さんの孫娘で、城下から五里もある山間《やまあい》の村から来た。  来たときは十七だったが、大ていの女中が暇をとって行く一年を過ぎても出て行く気配はなく、したがっていまは十八になっている。十七から十八になったおさとの変りようほど、目ざましいものはなかった。  来たときは顔も真黒で、物言いも男の子のようだったが、一年の間に、顔は浅黒いなりに内側からかがやくように滑らかなひかりを帯び、物言いも立ち居もいつの間にか女らしく変った。そして骨惜しみせずに、てきぱきと働く。惣六の家は、見違えるほどきれいになった。  きれいになった家に住み、うまいものを喰わしてもらいながら、惣六は時どき、おさとに去《い》なれてはならんと自分をいましめた。そのために、近ごろめきめきと女らしくなったおさとをじっくり眺めたい気持も押さえて、なるべくそっぽをむくようにして来たのである。  ところが、その夜は酒が入っていた。組頭《くみがしら》の家の祝い席に呼ばれて馳走《ちそう》になり、家にもどったのは五ツ半(午後九時)過ぎだった。 「飯はいらん。茶をもらおうか」  と惣六は言った。おさとは膳《ぜん》をさげ、湯をわかして茶を運んできた。 「うまい茶だ」  惣六はほめた。 「そなたもいずれ嫁にいかねばならんが、そなたならば、どこへ参ってもいい嫁になれよう」  おさとははにかむように笑って、小さく身体《からだ》をくねらせた。惣六はあわてておさとから眼をそむけた。ぞくりと身体の中を走ったものがある。気をつけろ、と惣六は自分をいましめた。  早く話を切り上げて寝た方がいい、と思いながら、一方で惣六はもう少しおさとと話をしていたいという気がした。 「わしは女房運の悪い男での」  惣六は愚痴を言った。 「そなたの婆さんも知っとるが、三度目にもらった家内はひどい女子《おなご》じゃった。家の中のことはやらぬ。朝も起きなんだ。そのくせ金遣いが荒うての。しきりに着る物を買う。八幡《はちまん》の境内に芝居がかかると、欠かさずに見に行く」  ぼやきながら、惣六は離縁した妻の、白い肌をちらと思い出した。性悪女だったが、肌は雪のように白かった。 「性悪な女子じゃった。そなたも嫁入るときはよく相手を見さだめて、話を決めてもらうことじゃな。どれ、手相をみて進ぜよう」  惣六は、自分がいやに能弁になっているのを感じた。自分の中に棲《す》んでいる、もうひとりのいやらしい奴、そいつは前にも女中たちの腰をうっとり眺めたり、性悪な後添いの女房の肌に未練を持ったりした奴だが、それが表に出てきてしゃべっているような気がした。  おさとは、ほとんど無邪気に手をさし出した。骨細ですべすべして、そして湿っぽい手のひらを握って、もうひとりの惣六が舌なめずりをした。 「男には女運、女には男運というものがあっての。それが手相の中にあらわれておる」  主の多弁を、おさとは珍しく酔っているせいだと思っているのか、疑う様子もなく掌を握らせている。  惣六は片手で掌を握り、ついで片手でおさとの袖《そで》をまくりあげた。薄く静脈が浮いた、なめらかな肌があらわれたのを、惣六は喰いいるように見つめた。  おさとの顔に、いぶかしげな表情がうかんだ。そして手を引こうとした。だが惣六はその手をしっかりと握り直すと、逆に片手でおさとの肩を押さえ引き寄せようとした。  そのとたんに、おさとの身体が兎《うさぎ》のように跳ねた。きゃあーとおさとは叫んだ。あたりに筒抜けの、けたたましい叫び声だった。惣六は動顛《どうてん》して手を放した。  するとおさとは、またいまにも殺されそうな声をあげて台所に駆けこんで行った。 「これ、おさと」  惣六は後を追った。一瞬にして我にかえり、総身に汗が噴き出していた。何はともあれ、あの大きな声をやめさせねばならん。 「おさと、静まれ。何もせぬ」  惣六はあわててどなったが、おさとは惣六が後を追って来たと勘違いしたらしく、悲鳴をあげながら、惣六の袖の下を掻《か》いくぐって茶の間にもどり、さらに襖《ふすま》をあけて座敷にとびこんだ。  家の中で珍妙な鬼ごっこがはじまった。惣六が焦れば焦るほど、おさとは必死に逃げ回る。どたどたと足音がひびき、間断なくおさとの悲鳴があがる。  ついにおさとは戸口から外に逃げだした。惣六も、足袋《たび》はだしのまま後を追った。 「これ、おさと。もどって来い」  惣六がわめいたとき、生垣越しに隣家の庭から声がかかった。 「これで、また一人逃げられたかの」  はっはっと愉快そうに笑ったのは、隣家の島原という同役だった。島原は物音を聞きつけるといち早く外に出て、様子をうかがっていたらしい。笑い声には十分に楽しんだ満足げなひびきがある。  隣家だけでなく、並びの組屋敷のあちこちで煌煌《こうこう》と灯をともしているのは、やがて四ツ(午後十時)近い時刻のこの騒ぎに、どの家でも耳をそば立てているかと思われた。  惣六は総身に冷や汗をにじませながら、庭に立っていた。酒はさめ、恥辱で穴があれば入りたい気分だった。 [#5字下げ]四  それから十日ほどして、惣六は城中で物頭《ものがしら》の服部九郎兵衛に呼ばれた。九郎兵衛は御弓組をあずかり、城中でも一間をあたえられている。 「聞いたぞ、聞いたぞ」  九郎兵衛は、惣六が部屋に入ると、磊落《らいらく》な口調で言い、ついでに豪放に笑った。聞いたというのは、夜中に女中を追い回した一件だろう。  そのことが城中のあちこちで話の種になり、自分が笑われているのは、惣六にはわかっている。惣六はちらと九郎兵衛を見ただけで、膝《ひざ》に眼を落とした。 「佐治は、もちっと手ぎわよくやれんのか、手ぎわよく。城中の評判になるようでは、まことにしまりのない話じゃな」  服部九郎兵衛が、こういう内輪な言い方をするのは理由がある。  惣六は十四の時から五年間、城下で一刀流を教える中津道場に通った。九郎兵衛は惣六より六つ年上だが、そのころには中津道場の高弟で、惣六はまだ田口といっていた部屋住み時代の九郎兵衛にしきりにしごかれたのである。  九郎兵衛はその後、物頭を勤める服部家に婿入《むこい》りし、義父が死ぬと跡目をついで物頭となった。肥満した身体に似つかわしい豪放な人柄で、組をよく掌握しているという噂だった。  つまり九郎兵衛は、いま惣六にむかって、むかし道場でしごいた後輩に物言うといった口をきいているわけだったが、惣六はふだんその縁で親しくしてもらっているわけではない。呼ばれたのは何のためかと思って、いやに馴《な》れ馴れしい九郎兵衛の笑顔を盗み見た。 「呼んだのはほかでもない」  と九郎兵衛が言った。 「そなた、嫁をもらわんか」 「………」  惣六はびっくりして顔をあげた。すると九郎兵衛はまじめな顔でうなずいた。 「顔は十人並みで、気立てもおとなしい。年は二十六じゃが、初婚だ。どうだもらわんか」 「………」 「妻というものがおらんと、この間の話のように、ついそばにいる女子に手を出して恥をかくことになる。どうだ? もらうつもりがあれば早速に仲立ちするぞ」  九郎兵衛は性急な調子でそう言った。  女の名は嘉乃という。御弓組の陣内庄助の娘だが、父親の庄助が長患いで床についていたために看病に気を取られて婚期を逸した。今度弟が家督を相続し、嫁を迎えることになったので、ようやく嫁《とつ》ぐ気になったのだ、と九郎兵衛は言った。 「しかし、そのような初婚の女子を、それがしのような家に迎えるのは、ちと」 「遠慮はいらん。そなたのことは先方によく話した。庄助は、かの盗賊退治のこともよくおぼえていてな。喜んでおったぞ」  信じられないような話だった。惣六は、すべて九郎兵衛にまかせることにして、その日は茫然《ぼうぜん》と時を過ごし、城をさがった。  家にもどって夜食をしたためたあと、惣六はおさとを呼んだ。おさとはあんなに大騒ぎして、きっと暇をとるだろうと思ったが、そういう様子もなく前と変りなく勤めていた。  ただ惣六を見る眼に警戒のいろがちらつき、なるべくそばに寄りつかないようにしているのは、当然のことだろう。おさとを安心させるためにも、今日の吉報を早く話した方がいい。 「じつは、わしは間もなく嫁を迎える」  と惣六は言った。おさとは口を半ば開いて惣六を見た。信じられないことを聞いたという顔である。惣六はにがい顔をした。 「嫁だ。わしはひとり身。それに……」  ひょいと惣六の頭におどけた言葉が浮かんだ。城をさがる途《みち》みち、服部九郎兵衛によってもたらされた思いがけない話を、胸の中で転がしているうちに、だんだん喜びがふくれ上がって来たのだが、その喜びが軽口を叩《たた》くゆとりを持たせたようだった。 「それにまだ、そなたを追いかけ回すほどの元気はある。嫁を迎えるのに不思議はあるまい」 「はい」  おさとは真赤になったが、あわてて、それはおめでとうございますと言った。そして少し不安そうな顔になって聞いた。 「すると私は、お暇を頂かなければなりませんか」 「いや、このままでよい」  惣六は口ごもったが、すぐに自分でも驚いたほど、率直な口調で言った。 「この間は済まなんだ。酒に食べ酔うて、そなたをこわがらせた」 「………」 「もっともそなたも大騒ぎしすぎたぞ。なにも取って喰おうとしたわけではない。はっは」 「お許しくださいませ」 「あのことは忘れろ。これまでどおり働いてくれれば、それほど有難いことはない」  おさととの和解はうまく行ったようだった。惣六の上機嫌は、床に入ってからもつづいた。  陣内庄助は御弓組の役持ちで、禄高は三十石そこそこのはずだった。そのぐらいの家の娘で、父親の看病に明けくれてきたとすれば、家の中のことも十分に心得ているだろう。驕《おご》りのない、おとなしそうな娘の姿を、あれこれと思い描きながら、惣六は半ばあきらめていた妻を迎えられそうな幸福感に、いつまでも心をくすぐられていた。  ──おさとを手籠《てご》めにかけたりせんでよかった。  しみじみとそう思った。だがそう思うのは、どうやら妻を持てそうだと、見込みがついたからだということに、惣六は気づかない。ただ、バカな気を起こしたものだと、その夜の自分を奇怪に思った。 [#5字下げ]五  ごく簡素な祝言《しゆうげん》が済んで、嘉乃は佐治家の人間になった。新しい妻を迎えて、佐治惣六は、幾分胸を起こして家と城の間を往復するようになった。  だが、ひと月も経ったころから、惣六はどこかおかしいという気がし出した。  服部が言ったとおり、嘉乃はおとなしい女だった。話し声も小さく、立ち居は静かだった。服部は十人並みの容貌といったが、惣六には、自分にはもったいないような美人に思えた。色が白く、眼に年増《としま》女の色気のようなものがある。  おさとともうまくいっているようで、二人で話す声を聞いていると、嘉乃はおさとを上手に使っているようだった。嘉乃をはじめて見たとき、惣六は二度目の妻のときのように、閨《ねや》で嫌われたりはしないかと心配だったが、そんなこともなかった。嘉乃は、惣六の女体に対する渇望を十分のみこんでいるかのように、閨でも従順だった。言うことのない妻だと思った。  だがおかしいという気持は、そのあたりから芽生えたのである。もとめれば嘉乃はおとなしく身をまかせた。だがそれは文字どおり身をまかせるとしか言いようのない営みだった。木石を抱いているように味気なかった。  ──そう思うおれが、好色なのか。  と惣六は自分を振りかえってみる。だがすぐに、こんな女ははじめてだと思った。ついぞ乱れることのない妻を抱いたあと、惣六はいつも徒労に似た思いを味わった。心を狂わせて、おさとに挑みかかるほど渇望した女の身体が、こんなにも味気ないものだったことに惣六は驚いた。  やがて惣六がたどりついた考えは、嘉乃は心の深いところで自分を嫌っているらしいということだった。そう思ってみると、おとなしそうな女の振る舞いの中に、異常に冷たいものが見えて来るようだった。嘉乃は笑わない女だった。  いつからともなく、夫婦の交わりは間遠になり、やがて二人は部屋を別にした。そうなるまでに、三月しかかからなかった。そして、そのころから、嘉乃は頻頻《ひんぴん》と実家に帰るようになった。夜遅く帰ることもあり、泊って来ることもあった。  ──先は長くないな。  と惣六は思った。四度目の妻もいずれ去ることになるらしい。そう思うと、つくづく女運のない男だと自分を憐《あわ》れまずにいられなかった。  城中で吉成万次郎に声をかけられたのは、そんなふうに気が滅入っていた、ある日の夕方だった。惣六は城をさがろうとしていた。 「勘定組にいる吉成だ」  怪訝《けげん》そうな顔をしている惣六に、万次郎はそう名乗り、馴れ馴れしく言った。 「一緒に帰らんかね。少し話がある」  惣六はじろりと相手を見た。顔は見かけたことがあるが、話をかわしたことはない。三十前の、見るからに軽薄そうな男だった。 「何の話か」 「なに、一緒に来ればわかるさ」  万次郎は、惣六の咎《とが》めるような眼を無視して先に立った。仕方なく惣六は後につづいた。市中に出ても、万次郎はずんずん先に立って歩くばかりで、べつに話しかける様子もない。それでいて、時どき惣六を振りむいて、ついて来るかどうか確かめた。  しびれを切らして、惣六は横に並んだ。 「話とやらを、承《うけたまわ》ろう」 「ま、ま。向うについてから」  万次郎は、あくまでも押しつけがましい態度で言った。  万次郎が惣六を連れこんだのは、染川町の小さな飲み屋だった。万次郎はそこの常連らしく、店を通り抜けながら板場の中に、おやじ、奥を借りるぞ、と言った。  奥に入ったところに小部屋があって、万次郎はそこにずかずか上がりこむと、惣六にも上がれと言った。間もなく、何も言わないのに店の親爺《おやじ》がつき出しと酒を運んできた。まず一杯、と言って万次郎は惣六に酒をつぎ、自分も手酌で一杯あけた。 「それがしは、義憤に駆られとるのだ」  と言い、万次郎はつき出しの蛸《たこ》の酢の物を口にほうりこんだ。惣六は酒を飲む気にもなれず、独り合点で何か憤慨しているようにみえる男を茫然と見つめていた。 「失礼だが、近ごろご夫婦仲はいかがかの?」 「………」  惣六は盃をおいて、男をじっと見た。 「あ、怒ることはない、佐治どの。話があるというのはそのことでな」 「そういう話なら、聞くこともない。帰る」  惣六が立てようとした膝を、万次郎はすばやく押さえた。 「いや、ご夫婦仲がよいはずはない。そのわけをお聞かせしようというのですぞ。聞かれた方が身のためだと思うがな」 「………」 「貴公の奥方のことだが、あの方は、服部九郎兵衛の妾《めかけ》ですぞ。昔も、いまもだ。ご存じないだろうな」  惣六は坐り直した。バカなことを言うものだ、と思って笑おうとしたが、顔がこわばった。  服部と陣内の娘嘉乃の仲は、もう六、七年になる、と万次郎は言った。服部は嘉乃を狐町の妾宅《しようたく》に囲っていたのだが、妻女に嗅《か》ぎつけられて、ひと騒動があった。服部は入り婿で、家では妻女に頭が上がらない男である。そこで妻女に詫《わ》びを入れ、嘉乃はどこかに嫁入らせるという約束をせざるを得なかった。 「それで、苦しまぎれに貴公に白羽の矢を立てたわけだな。だが事実は服部は嘉乃どの、つまり貴公の奥方を手放す気はないので、貴公をたぶらかして、そのうち縒《より》をもどそうというつもりだったようだ。近ごろはまた会っておる。嘘だと思ったら行って確かめたらいい」  万次郎は麦屋町のある茶屋の名を言った。 「ま、人の色事に、そばからちょっかい出すのもほめた話じゃないが、ご亭主の貴公が何も知らんというところが、義憤に駆られるところでな」 「憐れんでもらわなくともよい」  と惣六は言った。驚きはおさまっていた。麦屋町の密会の場所まで言うところをみると、この男の言うことは本当なのだ。 「そのことを知っておるのは、貴公一人かの?」 「ん?」  万次郎は惣六を見てにやりと笑い、盃を口に運んだ。 「おれひとりなら、斬って口をふさごうとでも言うつもりかな。これだから剣術遣いはこわいの」 「………」 「あいにくと、ほかに知ってる者が大勢いる。ほかの者は、惣六には、おっと佐治どのには言うなと申したのだ。だがおれは黙っておれぬ性分でな。始末はどうつけようと、そこまでは知らんが、貴公には一応知らせるものだろうと思ったわけよ。この親切な男を斬ろうかなどという了簡《りようけん》は、よくない」 [#5字下げ]六  うさぎ屋という小造りな料理屋だった。惣六はその門の内にひそんでいた。  麦屋町は、むかしさかえた遊所だが、近年は新しく出来た染川町の方に客を奪われ、町は夜になってもひっそりしている。それでも五ツ(午後八時)ごろまでは、駕籠《かご》で乗りつける客もちらほらあり、うさぎ屋の前の道にも、いくらか人通りがあったが、五ツを過ぎると、あたりには門前の道のむこうを流れる川音がひびくだけだった。  ──もうそろそろ出てくるだろう。  植込みの陰に、ひっそりと立ちながら、惣六はそう思った。服部が女連れで中にいることは、さっき確かめてある。  あとは出てくるのを待つだけだが、どう処分したらいいのか、惣六はまだ心が決まっていなかった。  嘉乃には未練がなかった。姦夫姦婦と意気ごむ気持はない。それほど離れられない二人なら、さっさと離縁してやってもよかった。しかしこのことは、家中のほかの者に知られている。穏やかに離縁してやっては、恥の上に恥を重ねることになるようだった。  すでに物笑いの種になっているが、これ以上人を面白がらせることはない。二人とも斬って捨てるか。不意にそう思った。証拠も証人も揃《そろ》っているのだから、斬ってもよかった。  惣六が心を決めかねているうちに、うさぎ屋の玄関が明るくなって人が出て来た。にぎやかな送り声の中に、服部の豪放な笑い声がまじった。  植込みの間の道を通って、表通りに出る二人を、惣六は掌に汗を握りしめて見送った。そして二人の姿が門を出たのを見とどけてから、植込みの陰をはなれた。  遅い月がのぼって、道わきを流れる小川の水がきらめいている。そして道の上に、肩をならべて遠ざかる男女の姿が見えた。大きな服部の身体に、ぴったりと寄りそって嘉乃が歩いている。  ──淫婦め!  惣六はやはり怒りがこみ上げて来るのを感じた。服部と嘉乃だけでなく、陣内の家の者も事情を知りながら、服部の言うままに、口をぬぐって嘉乃を押しつけたのだ。佐治惣六なら、すぐに喰いつくだろうとなめてかかった企《たくら》みだ。だが人をこけにした報いがどういうものか、思い知らせてやる。  惣六は刀の鯉口《こいぐち》を切り、地を滑るように二人のうしろに迫った。すると嘉乃の声が聞こえた。 「今度はいつ会ってくださいますか」 「そうたびたびというわけにはいかんぞ」  嘉乃の、家の中では聞いたこともないようななまめいた声にくらべて、服部の声は重苦しかった。 「人目もある。かりにもそなたは、いまは佐治の家内。むかしのようなわけにはいかん」 「あのひとのことは、おっしゃらないで」  嘉乃のはげしい声がした。 「思い出しただけで、吐気を催します」 「バカなことを申すものでない。佐治惣六は醜男だが、女子には情が濃いはずだ。わしはいっそ佐治の妻で納まる方が、そなたのためではないかとも思うようになった」 「私にお倦《あ》きになったのですか」  嘉乃がきっと服部の顔をふり仰いだのが見えた。服部は大きな手を振っている。 「そうではない。わしはそなたを手放したくはないが、いつまでもこうしてはおられんだろうということよ」  どうやら服部は、嘉乃をもてあまし気味でいるように見えた。二人の話し声は、幾分低くなり、嘉乃が涙声になって痴話喧嘩《ちわげんか》めいてきた。  町をはずれたところで、惣六はうしろから声をかけた。振りむいた二人は、驚きで石のようになった。 「さて、どうけりをつけようか、物頭」  惣六は足を小幅にひらき、ゆるく手を垂れたまま言った。服部九郎兵衛は、驚きでまだ口を利けないでいる。 「この不義は、方方に知られておる。二人を斬っても、ほめられこそすれ、お咎めをうけることはなさそうだ」 「お斬りなさい、おまえさま」  不意に嘉乃が叫んだ。嘉乃は惣六を指さし、服部の袖をつかんでゆさぶりながら、眼をつりあげて叫んでいた。 「斬っておしまいなさい。このひとを」 「今枝流に、雷《いかずち》切りという秘剣がござる。受けてみられるか」  惣六の声が無気味に沈んだ。服部は後にさがって、手を出した。 「待て。これには仔細《しさい》がある」 「仔細など聞かぬ。抜きなされ」 「嫁を世話しよう。な、惣六。今度はだましたりせぬ」  惣六は苦笑した。ふっと気を抜いた。やはり斬るほどの相手でもないのか。そう思ったとき、服部の巨躯《きよく》が身軽に動いた。はげしい気合とともに、服部九郎兵衛は抜き打ちの一刀を惣六の胴に叩きつけてきた。  だが惣六はかわした。かわした次の瞬間、惣六の身体は、すべるように前に走って九郎兵衛と嘉乃の間をすり抜けていた。きら、きらと、二度惣六の剣が宙に光って鞘におさまった。嘉乃は倒れて気を失い、九郎兵衛は茫然と立ちすくんでいた。二人の髷《まげ》が、根もとから飛ばされていた。 「嘉乃は、もう帰らぬ」  惣六はそう言っただけだが、おさとはうなずいただけで、黙って台所に立って行った。  ──よくよく女運に見放された男らしい。  寄ってきた女は、大ていは災いを運んできただけだったと、惣六は自分を嘲った。醜男にも、それなりに女難というものはあるらしい。  ──はじめの女房は、やさしかったな。  そう思ったが、やさしかった記憶だけがあって、顔はぼんやりしている。惣六はなんとなく寂寥《せきりよう》感に肩をつかまれて、うつむいた。 「おかわいそうな、旦那さま」  お茶を運んできたおさとが、惣六のうしろにそっと坐ってそう言った。首うなだれている惣六を見て、四度目の妻に逃げられた惣六が、力を落としていると勘違いしたらしい。  おさとの化粧の香が薄く匂ってくる。ここに、一人はおのれの不運に同情してくれる女子がいるわけだと惣六は思った。だが、この前のようについ手を出したりすれば、おさとはまた鳥のように騒ぎ立てるだろう。  気をつけろ、と惣六は自分をいましめた。 [#改ページ] [#1字下げ] 陽狂剣かげろう [#5字下げ]一  道場でなく、三好という茶屋に来いという使いに、佐橋|半之丞《はんのじよう》は不審を持ったのだが、来てみると、三宅《みやけ》十左エ門の話は、はたして他聞をはばかるような中味のものだった。 「困ったことが起きた」  半之丞を奥の小部屋に迎えると、十左エ門はすぐに盃をつき出しながら、そう言った。十左エ門はひとりで飲んでいたらしく、顔が少し赤くなっている。 「乙江《おとえ》を奥にさし出せというご内意があった」  半之丞は、さされた盃を下に置いて、十左エ門を見返した。思わず険《けわ》しい顔になった。  三宅十左エ門は、城下で制剛流を指南する剣客で、半之丞の剣の師である。そしていま口にした乙江というのは十左エ門の次女だが、今年の秋にも半之丞と祝言《しゆうげん》をあげる約束になっている娘だった。 「それはどういうお話ですか。ただ奥方さまのおそばに召し使われるということですか。それとも殿のおそばに?」 「いや、承知すれば若殿のおそばに上がることになる」  十左エ門がそう答えたとき、女中が新しく酒を運んで来たので、話がとぎれた。  部屋には火桶《ひおけ》が置いてあるが、庭に面した障子が半ばあけてある。そこから七ツ(午後四時)さがりの光が部屋に流れこんでいて、庭にはまだ残雪が見えているのに、寒くはない。  半之丞は、庭石を半ば覆《おお》いかくして、日射しにきらめいている雪を見つめた。したたかに胸をひと撃ちされたような重い衝撃がある。前触れもなく悪い知らせを聞くには、あたりの気色《けしき》が明るすぎるようだった。 「ま、ひとつやれ」  女中が去ると、十左エ門は銚子をとりあげて、半之丞に盃を持つようにうながした。 「昨夜、お側御用人《そばごようにん》の菊村さまが見えられて、何の話かと思えば、そういうことじゃった」 「頭からのご下命ですか。それともこちらの意向を聞くという形ですか」 「むろん、話はこちらの考えを聞くという形で来ておる。わしは藩の禄を喰《は》んでおるわけではないからの」 「それがしと婚約があることは申し上げましたか」 「むろんだ。そんな話は聞いておらなかったと不機嫌だったが、むろん、それであきらめるというお話ではない」 「で、どうなさるおつもりですかな」 「正直に申せば、わしは迷っておる。乙江はすでにそなたと約束した娘だ。聞く耳持たんという気持はある。しかし、だからと申して、にべもなくはねつけてよい話でもない。相手は藩主家だ。禄を頂いておらんといっても、ご城下でなりわいを立てている身はやはり弱い」 「………」 「それで、とりあえずそなたの考えを聞こうと思って呼んだわけだ。なんぞ、うまい考えはないか」  半之丞は黙って盃を干した。いい考えなどあるわけはなかった。そういう話が出た以上、乙江との縁は、もう断たれたも同然なのだ。  半之丞は馬廻《うままわり》組百石取りの、れっきとした藩士である。かりに十左エ門がその話をことわったとしても、若殿を袖《そで》にした女を、妻に迎えることはまず不可能だろう。  若殿の三五郎重章は三十二。元服した年に将軍家|拝謁《はいえつ》を済ませ、二十のときに叙爵して能登守《のとのかみ》に任ぜられている。数年前から、藩主|右京《うきよう》太夫《だゆう》の隠居、三五郎重章の家督相続がささやかれながら、まだ実現していないが、いずれは新藩主の座につくべきひとである。  江戸屋敷で生まれ、そこで育ったその人物について、半之丞が知るところは少ないが、ただひとつだけ耳にしていることがある。色好みの噂《うわさ》である。  夫人のほかに側妾が三人いて、それぞれ子を生んでいるという。乙江もそういう一人に選ばれたわけだと思ったとき、口に含んだ酒が、たとえようもなく苦いものに思えた。 「おことわりすることは、ちとむつかしいように思われますな」  半之丞はうつむいたまま言った。 「かりにおことわりしても、その乙江どのをそれがしが宿の妻にもらいうけるということは、むつかしゅうござりましょう」 「わしも、そこを考えた」  と十左エ門は言った。 「この話の辛《つら》いところは、ことわっても益ないというところじゃ」 「乙江どのに、その話をなされましたか」 「まだだ。あれは、そなたに嫁入るものと信じ切っておる。うかつには話せぬ」 「おうけすれば、乙江どのを江戸に送ることになりますか」 「そういうことになる」 「それは、およそいつごろになりますか」 「四月半ば。おそくとも三月の終りごろには、話をうけるかどうか、返事を聞きたいと菊村さまは申された」 「………」 「だから、今日この場でそなたの返事を聞きたいというわけではない。しばらく考えて、何かよい思案があれば、それを聞かせてもらってもよいぞ」 「いや、その必要はござりますまい」  半之丞はきっぱりと言った。 「乙江どののことは断念つかまつりました」 「さようか」  十左エ門は傷《いた》ましそうに半之丞を見たが、どこかにほっとしたようないろがあるのを、半之丞は見のがさなかった。 「思いがけぬことが起こる。はて、娘に何といって聞かせよう」 「さよう」  半之丞は薄笑いした。 「佐橋半之丞は、気が触《ふ》れたとでも言って頂きましょうか。あきらめさせるには、それが手っ取りばやいかも知れませんな」  半ば自嘲《じちよう》気味にそう言ったのだが、半之丞は、ふと自分の言葉にとらわれた。  三宅十左エ門には娘が二人いて、姉妹それぞれに見目《みめ》よかった。三宅道場に人が集まるのは、美しい姉妹がいるせいだなどという言い方が、この間まであったものだが、姉の菜穂《なほ》には、先年、半之丞の兄弟子でいまは師範代を勤めている増子新十郎が婿入《むこい》りした。  増子は郡奉行《こおりぶぎよう》増子治左エ門の次男で、重厚な剣を遣い、三宅道場ではもっとも人望のある剣士だった。性格は温和で、初心の者に対する教え方も手厚く、三宅道場の後継ぎとして、新十郎ほどの適任者はいないと思われている。  残る妹の乙江をめぐって、門弟たちの間にひところひそかな争いがあったが、乙江の心を射とめたのは佐橋半之丞だった。半之丞は増子新十郎から数年おくれて入門したが、やがて三宅道場はじまって以来の俊才と呼ばれるようになった。  剣の品格ということでは、まだ兄弟子の新十郎に及ばないが、竹刀《しない》さばきの鋭さはしばしば新十郎を凌《しの》ぎ、ことに二年前の寒稽古《かんげいこ》の納め会で新十郎を破った試合は、道場の外にまで、三宅道場に佐橋半之丞ありと言われた。  柔をもって剛を制すと言われる三宅道場の刀法の中で、異端とも言うべき激しい剣を遣う半之丞だが、十左エ門は快く乙江との縁組みを許した。それだけ、半之丞の将来に託したのぞみが大きかったとも言える。  こういった事情は、道場の中だけではなく、三宅道場の姉妹のことを耳にしたほどの者は、大方知っていることである。若い家中《かちゆう》藩士の間で、剣才に恵まれ、美しい許嫁《いいなずけ》に恵まれた半之丞は、一種|羨望《せんぼう》の眼でみられている。  その半之丞が、いまなすすべもなく若殿に許嫁を奪われたと知れば、人は口に出さなくとも、必ず憫笑《びんしよう》するだろう。これまで高く仰ぎみられていた男が、一挙に堕《お》ちて人に憐《あわ》れまれるのである。  ──狂者でも装わねば、堪《た》えられることではないな。  半之丞は、ふとそう思った。狂ったふりをして乙江を見送り、しばらく世から遠ざかって引きこもるのだ。 「それがよろしいかと思います」  と半之丞は言った。 「それがし、しばらくは少少気が触れた真似《まね》でもいたしましょう。そうすれば、乙江どのも未練なく江戸に参れるでしょうし、まわりの者も、事情を知ったところで、嘲《あざけ》るのに張りあいもござりますまい。なに、時どきこんなことをやるわけです」  半之丞は、不意に手をのばすと、十左エ門の膳《ぜん》から手づかみで焼き魚をつかみ取り、むしゃむしゃと喰った。  眼をあげると、十左エ門が危惧《きぐ》するような顔で、じっとこちらをのぞきこんでいる。半之丞は狼狽《ろうばい》して言った。 「いまのはただの真似ごとですぞ、先生。ご心配にはおよびません。気はたしかです」 「狂気をもてあそぶのは感心せんな」  十左エ門はにがにがしげに言った。 「そうでもせぬとおさまらんそなたの気持もわからんではないが」 「それがしのことはご懸念なく」 「それでは乙江に申し聞かせ、菊村どのにはおうけすると答えてよいか」 「よろしいように」  考えを聞きたいと十左エ門は言ったが、要するにおれの承諾をとりつけたかったようでもある、と半之丞が思ったとき、十左エ門が盃を置いて居住いをただした。 「乙江の話は、これまでにしよう。もうひとつ伝えることがあった」 「………」 「かげろうの太刀をそなたにさずける。乙江を江戸にやるときに、わしも一緒に出府せねばならんのでな。当分は新十郎に後をまかせるようになる。その前に伝授を終えたい」 「………」 「当分の間、毎夜四ツ(午後十時)に道場に参れ。なおこのことは、ほかの者に洩《も》らしてはならん」  半之丞は黙礼して、庭に眼を移した。  かげろうの太刀は、十左エ門の父、流浪の剣士三宅兵四郎が編み出した秘剣である。兵四郎は、流れついた城下の南、唐紙山の麓《ふもと》にある荒れ寺に十年住んで、かげろうの太刀を編み出したあと、城下に出て制剛流の道場を開いた。  陽の太刀で破り、陰の太刀で制すると言われるその秘剣は、まだ師範代の新十郎にも伝えられていない。狂喜してうけるべきだった。  だが、なぜか半之丞は、冷えびえとした気持で十左エ門の声を聞いた。師の声のなかに、乙江のことはあきらめろ、そのかわりに三宅道場に伝える秘剣をさずけよう、といった取引きめいたひびきを聞いた気がしたのである。  半之丞は、半開きの障子の間から、石の上の雪がうす青い翳《かげ》をまといはじめているのをじっと見つめた。次に眼をくるりと自分の内側に転じた。灰色に死んだ部分が見えた。  ──家中の娘でもない乙江のことを、若殿の耳に吹きこんだ者がいる。  それは誰だろうか、とふと思った。 [#5字下げ]二  佐橋半之丞に、奇矯《ききよう》な振る舞いがある、という噂が流れるようになったのは、雪が溶け、城の濠《ほり》ばたの桜のつぼみがふくらみはじめたころだった。  登城して詰所に入っても、終日居眠りをしているとか、赤ん坊の頭ほどもある握りを二つも持参し、昼刻《ひるどき》でもないのに喰ったとかいう噂である。また登城の途中に鎧橋《よろいばし》のたもとに乞食を見つけると、その前に腕組みして小半日立っていたとも言われ、あるときは、深夜|宿直《とのい》の者が城中を見回っていて、馬廻組の詰所まで来ると、くらやみの中に半之丞が座禅を組んでいたとも言われた。  五間川の上流に未墾の原野がある。原の中ほどを、五間川の主流にそそぐ浅い小川が流れていて、岸は青みはじめていた。嫩草《わかくさ》にまじって、点点と草花が咲いている。 「そんな噂は、うそでございましょう」  と、乙江が言った。返事がないので振りむくと、半之丞は草の上に大の字に寝ている。 「聞こえまして? いま言ったこと」 「え? 何と申した──?」 「半之丞さまが、お城で変なことをなさっているというお噂」 「変なことなどしておらん」 「道場のひとも、木の芽どきが近づいて、佐橋は頭がおかしくなったらしい、などと言ってますわ」 「は、は。ひとの口に戸はたてられん。言わせておけばよい」 「わたくし……」  乙江は、岸からゆっくり半之丞の方にもどって来る。乙江はまだ十六だった。ほっそりした身体《からだ》つきをしている。話す言葉にも、まだ少女の稚《おさな》さが残っている。  それでいて、胸や腰のあたりには、間もなく花ひらこうとしている若い娘の、押さえきれない膨らみが顔をのぞかせている。そのちぐはぐな魅力が、半之丞の胸をしめつけて来る。  乙江は半之丞のそばに、つつましく膝《ひざ》を折って腰をおろした。 「わたくし、江戸になど参りたくありません──」 「だが、藩命じゃ。やむを得ん」  乙江がうんと言わぬ。野遊びにでも連れ出して、言い聞かせてくれと十左エ門に頼まれて、ここに来たのである。  半之丞は上体を起こして膝を抱えた。あちこちに草を摘む人影が見えた。二人のように、若い男女の連れというのは見あたらないが、女連れ、子供を連れた女たちが多かった。また遠くに男がみえるのは、句でも案じているらしい老人で、短か刀をさしただけの姿で、ゆっくりと岸を散策している。  あたたかい日射しが、人びとの上に照りわたり、小川の浅瀬の波立つあたりが、ひとところまぶしい光をまき散らしている。 「やむを得ないだけで、おすませになるのですか」 「………」 「父も、佐橋は少し頭がおかしいなどと言いはじめています。お二人とも見え透いた嘘はおやめあそばせ」 「………」 「私をあきらめさせようと、父と口裏をあわせて、ちかごろなにか変な真似をなさっているのでしょ。だまされませんわ」 「甲斐《かい》ないことを申すものではない」  半之丞は、ふと悲痛なものに心をつかまれた気がしてそう言った。乙江がいくら懸命になっても、二人が夫婦になる道は、しっかりと閉ざされてしまっている。乙江がまだそのことに気づかず、まだ何とかなると思っているらしいのが堪えがたかった。 「お上のお言葉には逆らえん。辛いことだが、なかった縁とあきらめるほかはないのだ」 「よく平気でそんなことがおっしゃれますこと」  乙江はさげすむように言った。 「父が二百石を頂いて、士分に加えられるのをご存じですか」 「………」  半之丞は思わず乙江の顔を見た。 「わたくしが江戸に参ればの話です。父はその話に眼がくらんでおいでなのですよ」  半之丞は野の遠くに眼をやった。今度の話の陰にそういうことがあるのははじめて聞いたと思った。十左エ門がそのことをひと言も言わなかったのを、かすかに不快に感じたが、しかし十左エ門が、二百石を目あてに娘を藩主家に売ったわけではない。乙江を妻にする道を断ったものは、べつにいる。 「親御を、そのように言うものではない」  半之丞はたしなめてから聞いた。 「わしがそなたと婚約を結ぶ前に、ほかの連中もずいぶんさわいだものだ。そのころのことだが……」 「………」 「そなたに附け文をしたり、言い寄ったりした者がいると噂を聞いたことがある。それが誰か、聞かせてくれんか」 「いまごろ、そのようなことを聞いて、どうなさるおつもりですか」  乙江は少し拗《す》ねたように言った。 「何もせぬが、少し気になることがある」 「秦《はた》さまにお手紙を頂きました。歯が浮くようなほめ言葉が並んでいて、気色悪うございました」  秦か。秦じゃないな、と半之丞は思った。  秦達之進は、よく遊里に出入りしている男だが、八十石の平藩士の三男で、係累にも家中で上席を占めるような者はいない。振られた腹癒《はらい》せに、乙江を若殿になどとすすめようにも、そういうツテがない。 「ほかには?」 「津村さまに、門前で待ち伏せされたことがあります。それに、野毛さまには、二度も手を握られたことがございますのよ、ほんとに失礼な方」  野毛雄次郎か。何くわぬ顔をして、手の早い奴だ。津村七蔵は剣術は下手なのに、よくやる。伯父が組頭《くみがしら》を勤めているから、一応確かめる必要があるかも知れん。 「ほかにはおらんか」 「いろいろありましたけれども、特に申し上げるほどのことではございません」 「わしとの婚約がととのってあとに、何か申した奴はおらんか」 「どうして、そのようなことばかりおっしゃるのですか」 「われわれの間を裂いたやつがおる。糾明して、痛い目にあわせねばならん」 「わたくしのためにしてくださることは、そういうことしかないのですか」  と乙江が言った。静かな声だった。 「もう、あきらめていらっしゃるのですね」  半之丞は無言で立ち上がった。乙江の声に胸を刺しつらぬかれて、坐っていられなかった。乙江もようやく別れをさとったのだと思った。  小川の岸まで歩くと、半之丞はあたりを見回した。まぶしいほど明るい日が、野を照らし、草摘みの人びとは、いつの間にかはるかな場所に移って、小さく動いている。その風景が、不意に日がかげったように、一面に灰色に塗りつぶされるのを感じた。  ──乙江が江戸に去れば……。  日日こうなる、と思いながら、半之丞は茫然《ぼうぜん》と、眼の前にひろがる無色の風景を見つめた。乙江を手放すことが、堪えがたいことに思われた。  ──いまなら、まだ間にあうな。  ふと、そう思った。坐っていたところにもどって、乙江のほっそりした身体を抱きしめ、そなたを放しはせぬと言えばいいのだ。乙江は狂喜して、どこにでもついて行くと言うだろう。あとのことは、神のみぞ知る、だ。三宅十左エ門の狼狽、藩主家の怒り……。これは見ものだろうが。  半之丞は乙江を振りむこうとした。だが、身体がこわばって動かなかった。何者かが、うしろを振りむくのを強く制止したようである。半之丞はうろたえ、瞬間自失したようだった。そして、何かに背を押されたように、前に跳んだ。楽らくと跳んだようである。  ざんぶと水音がして、半之丞は川の中に立っていた。風景がもとの明るさを取りもどしていた。 「どうなさったのですか」  小走りに立って来た乙江は、流れの中に膝までつかって立っている半之丞をみて、あきれたように言った。その顔を、半之丞は青ざめて見上げた。 「どうしたのか、わしにもわからん」 「大きな魚でも見ましたか」  手をさしのべながら、乙江はひややかな声で言った。 「みなさまがおっしゃる、気が触れたとかいうところをわたくしにも見せたおつもりかも知れませんが、無駄です。わたくしは信じませんよ。さ、上がっておいでなさいまし」  いや、違うのだ、と半之丞は言いかけたが、口をつぐんだ。軽い恐怖にとらえられていた。  狂気を真似ることは、限りなく狂気に近づくことだった。二、三度半之丞は、少し先の方に、あそこを越えると狂うかも知れんと思うような場所を、ちらと垣間《かいま》見たことがある。むろん、そこを越えるようなことはしない。いそいで引き返した。  だが、一度そういう世界をのぞいてしまうと、今度はそこに近づくことに、心が惹《ひ》きつけられることを知った。それが見えて来たところで、身をひるがえして、引き返したり、しばらく踏みとどまって、紙一重のむこうにある本物の狂気を真似たりしていると、危険なものと戯れているおののきが心に生まれる。  ──だが、さっきはそうではなかった。  一瞬のことだが、牆《かき》を越えて、ずるりと向う側の世界に足をとられたような、気味悪い感触が残っている。狂気をもてあそぶのは感心せぬと言った、十左エ門の言葉が思い出された。  気をつけることだ。だがここで狂者の真似をやめるわけにはいかんな。そう思いながら、半之丞は無言で乙江の手にすがり、岸に上がった。 [#5字下げ]三  半之丞は、雨戸を閉め切った居間の中で、鏡を見ていた。亡母の遺品である。  暗い鏡の中に、若い男の顔がぼんやりとうつっている。青白い皮膚に、まばらにひげがはえ、頬《ほお》は病み上がりのように削《そ》げている。眼はうつろに半之丞を見返していたが、半之丞が頬をゆるめると、鏡の中の男もにやりと笑った。  ──ともあれ、これでうまく行ったわけだ。  半之丞は、机の上に鏡を投げ出すと、仰むけに畳に寝た。誰が見ているわけでもないのに、棒を倒すように、ぱたりと倒れ寝たのは、それだけ狂者の身ぶりが身についたのである。  庭先で、こつこつと石を切るような音がしている。通いの老僕治平が、水が洩るといっていた台所の桶でもつくろっているのだろう。その音を聞きながら、半之丞は、いまごろは峠に近づいているに違いない、乙江の駕籠《かご》を思いうかべた。  江戸から迎えびとが来、しかも駕籠をあたえられての旅立ちである。乙江が若殿の側妾に上がることは、家中にくまなく知れわたったはずだが、それでおれを思い出して嘲ったりする者は、もういなかったはずだと半之丞は思った。  ひと月ほど前に、半之丞は組頭を経て、城勤めをとめられた。しばらく家にいて、病いを養うように、と藩命で養生のための暇を賜ったのである。半之丞は、藩命をうけると同時に、乙江との婚約を解いた。  そのときも、佐橋は麻裃《あさがみしも》、白足袋《しろたび》の正装で、婚約を解きに行ったらしいと、苦笑して噂した者はいても、半之丞の狂気を疑った者はいなかった。半之丞の奇矯な言動は、藩中に知れわたっていたからである。  今日も、乙江の旅立ちを見送りに行きたい気持がしきりにうずいたが、やめて女中のおあきを代りにやった。  見送りに行こうかと思ったのは、乙江と別れを惜しむためではなかった。江戸から迎えが来、藩からも人が同行し、それに父の三宅十左エ門がつき添って行くので、一行は荷持ちを加えて八名ほどになる。  その一行の旅立ちに、道場の人間ほか、大勢のひとが見送りに立つはずだった。その中に出て行って、にぎにぎしくひと騒ぎしてみせようかと、ふと思ったのであった。半之丞狂気の噂は、それで太鼓判を捺《お》されることになるだろう。  だがそれは、やり過ぎのようでもあった。人によっては、そのことで半之丞の狂気と乙江の出府を結びつけて考えるかも知れない。そこにつながりがあることを、ひとにさとられてはならないのだ。  それに江戸に行く乙江に、いまさら異様な姿を見せつけることもあるまい。乙江は狂気を信じなくとも、悲しみはするだろう。やはり行かなくてよかったのだ、といまも半之丞は思った。 「あと、半年よ」  半之丞は大きな声でひとりごとを言った。声が表まで聞こえたらしく、石をきざむような物音がちょっと止まったが、すぐにまたこつこつという音が聞こえて来た。  父母が早く病死し、ひとりの姉は、隣藩の親戚《しんせき》すじの家に嫁入っているので、佐橋の家は半之丞一人だった。半之丞のひとりごとを聞きとがめる者はいない。  ──あと半年だ。  おかげさまで、病いは癒えましたと藩庁にとどけ出て、正常人にもどればいい。だがそれまでには、乙江との間を裂いたやつを見つけて、けりをつけねばなるまい、と半之丞は思った。  表の物音がやんで、ひと声がしている。おあきがもどって来たらしかった。そして間もなく家の中に足音がして、半之丞の居間に近づいて来たと思うと、襖《ふすま》が開いた。 「まあ、どうなさいました?」  おあきは驚いた声を出した。部屋の暗さに驚いたようだった。 「朝、雨戸をお開けしたはずですが……」 「わしが閉めた」 「なぜ、そのようなことをなさいます? 外はよいお天気でございますのに」  おあきはたしなめるように言い、雨戸を開けようとした。  おあきは、狐町の小さな履物屋から来ている。半之丞の乳母だった女の娘である。大柄だが気性はやさしく、半之丞より五つ年上の二十八だった。一度縁づいて子供を一人生んだ女である。 「そのままにしておけ」  と半之丞は言った。声が鋭かったので、おあきは黙って窓ぎわからもどり、半之丞の前に坐った。 「暗いのが、こわいか」 「いえ」 「三宅の家はどうだった?」 「はい。にぎやかな旅立ちでございました。乙江さまにもお目にかかり、若旦那さまのかわりにお見送りさせて頂きますと、確かに申し上げました」  おあきは母親の口癖をそのままに、まだ若旦那と呼んでいる。 「ごくろうだった。乙江は元気だったか」 「さあ」  おあきはうつむいた。 「はきはきとものを申しておられましたが、お顔のいろが、すぐれないようでございました」 「………」 「若旦那さまに、お言《こと》づてがございます」 「………」 「そのままに申し上げますから、お怒りになりませんように。乙江さまは、気が触れた真似は、もういりますまい。おやめあそばすように、とおっしゃいました」  半之丞は薄笑いしておあきを見た。 「あの方は、ちゃんと見抜いておいでだったのですね。そのお言葉を聞いて、わたくしもほっといたしました。そう信じているのは、わたくしだけではなかったと」 「………」 「乙江さまのおっしゃるとおりでございますよ。もう、おそろしい真似はやめてくださいまし」 「真似でないといったらどうする?」  と半之丞は言った。まだ薄笑いをうかべたままだった。 「ほんとうに狂っているのかも知れんぞ。世間ではみなそう申しておる」 「そのようなことは信じません」 「嘘を申すな」  不意に身体を寄せると、半之丞はおあきの両腕をつかんだ。 「ずっとわしを恐れていたではないか。わしにはわかっておる」 「いいえ、いいえ」  おあきは首を振った。色青ざめている。こんなふくよかな肉づきをした女だったのか、と半之丞は思っていた。おあきの二の腕から、快いあたたか味がつたわって来る。そのあたたか味が、胸の中で長く凍りついていたものをゆるやかに溶かして来る気がした。大きな喘《あえ》ぎを繰り返している女の胸を、半之丞はじっと見つめた。 「放してくださいまし、若旦那さま」 「やはり、わしがこわいか」 「いえ」 「わしはこれから外に出て来る」  おあきの腕を放して、立ち上がりながら半之丞は言った。 「今夜、もどったらそなたの部屋に忍んで行くぞ。もっとも、わしがこわかったら、その前に荷物をまとめて出て行くがよい。手当ては後で、家までとどける」  刀を帯びて部屋を出ながら、半之丞はおあきを振りむいた。肩をまるめ、大きな背を見せながら、おあきはじっと動かなかった。 [#5字下げ]四  かしわ屋という酒屋である。だが樽《たる》の腰かけもあり、立ちのみの客もいる。多くは町人だったが、なかに武家姿の者も、二、三人まじっている。  かしわ屋は裏に酒造の蔵があって、手づくりの酒がうまいので客が寄る。もっともれっきとした家中の寄る店ではない。懐のさみしい家中の次、三男とか、足軽などが寄って、一杯ひっかけるだけである。  そばの職人風の男と話しながら立ちのみしている長身の野毛雄次郎を眺めながら、半之丞は辛抱づよく表で待っていた。道を行く者が、天水桶のそばに立っている半之丞を見、ついでその視線をたどって、酒屋の店の中をのぞきながら通りすぎて行く。  昔なら、いたたまれなかったかも知れないが、狂者の看板を掲げているいまは、人の眼は気にならなかった。棒のように立って、半之丞は野毛雄次郎が店を出て来るのを待っている。  日がかたむき、町の軒が黒ずんで来たころ、ようやく雄次郎が出て来た。したたかにのんだらしく喉《のど》もとまで真赤になっている。半之丞には眼もくれずに、雄次郎は町並みを南に歩いて行く。  にぎやかな商家がならぶ柳町を抜け、檜物《ひもの》細工の職人が住む檜物町を通りすぎると、しばらく寺や武家屋敷が続く静かな町に入り、やがて二人は五間川の岸に出た。  そこまで来て、野毛雄次郎ははじめて足をとめて、半之丞を振りむいた。 「おれに何か用か」 「そうだ」 「そうらしいと思って、ここまで連れ出したのだ」  雄次郎はそう言って、小さなおくびを洩らした。徒目付《かちめつけ》の四男坊だが、風貌《ふうぼう》も気性も男くさい若者である。 「元気かね」 「まあな」 「病気の方は、少しはいいのか」 「病気はしておらん」 「なるほど」  雄次郎は笑った。無遠慮に自分の頭を指さして言った。 「ここをやられたやつは、みなそう言うらしいが、ほんとうだな。ま、せいぜい養生して、しゃっきりしてくれ。三宅道場随一の遣い手が頭をいかれたのではさまにならん」 「………」 「乙江どのは、今日江戸へ行ったぞ。無垢《むく》のまま若殿に献じるなどとは、もったいない話だ。それとも貴公、一度ぐらいは寝たか」 「そのことで、貴様に聞きたいことがある」 「乙江どののことか。誤解してもらっては困る。わしは何もしておらんぞ」 「………」 「妙な眼で見るな。うむ、白状すると手ぐらいは握った。なにしろあのとおりの美形だ。あわよくばという気持はあったさ。だが、そいつは貴公との話がまとまる前のことだぞ」 「その話ではない」 「おや、違うのか」 「乙江どののことを、上の連中に持ちこんだ者がいるはずだ。心あたりはないか」 「ははあ、そんなことか」  雄次郎は言ったが、腕組みして首をかしげた。 「なるほど、誰かが言わなきゃ、そういう話は起こるまいな。だが佐橋、そいつが誰かという詮索《せんさく》は、こりゃむつかしいぞ」 「なぜだ」 「貴公は、誰かが悪意を持って二人の間を引き裂いたとでも言いたげだが、悪意でなく好意から乙江どのの名を出す場合だってあるだろう。貴公と婚約が済んでいることを知らなかったということはあり得る」  いや、知らなかったのではない。知っていて言わなかったのだ、と半之丞は思った。 「すべて悪意にとるのが、つまり貴公の病いだな。もっと広い心を持たぬと病気はなおらんぞ」 「ほかの連中はどうだ。秦、津村なども乙江どのに気があったらしいが、連中、おれを恨んではおらなかったか」 「佐橋、そりゃ違う」  雄次郎は大きな掌を顔の前で振った。 「道場の連中を疑うのはよくない。秦はあのとおりの女好きだ。乙江どのにもちょっかいを出したかも知れん。しかし乙江どのに気があったといえば、何も津村、秦に限らん。おれもそうだが、若い連中はみなわれこそはと思ったわけよ、ひところは」 「………」 「だが貴公と話が決まったときは、みんなきっぱりとあきらめたはずだ。相手が変なやつでなくてよかったと、みんなほっとしたのだ。げんにおれと秦はやけ酒をのんだが、秦も佐橋ならやむを得ん、いやよかったと言ったものだ。貴公は祝福されておったのだ」 「………」 「そういう考えがあるなら、もっとべつの方角をさがすことだな。ひょっとしたら貴公を恨んでいたやつがどこかにいるかも知れん。だがもう、おれをつけ回したりするのはやめろ。おれや道場の連中を疑うのは見当違いだぞ」 「………」 「ま、しかし何だな」  野毛雄次郎は、一、二歩後じさりして、じっと半之丞を眺めた。 「その男をさがすのもいいが、もっといいのは乙江どののことをさっぱりと忘れることだな。乙江どのは、なるほど可憐|掬《きく》すべき美女ではあったが、女はなにもあのひと一人とはかぎらん。女はいっぱいいる」  雄次郎はくるりと背をむけた。うす闇《やみ》が這《は》いはじめている川岸を、長身の背が遠ざかって行ったが、ふと足をとめるとこちらを振りむいた。 「寺に籠《こも》って、少し座禅でも組んだらどうだ? そうしたら、その青光りして人を見る眼もなおるかも知れんぞ」  それだけ言うと、野毛雄次郎は急に一目散に走り出した。酔いがさめて来て、うす暗がりの道に半之丞と二人でいるのが、急に恐ろしくなったというふうに見えた。背をまるめた雄次郎のうしろ姿が、みるみる遠ざかるのを、半之丞は苦笑して見送った。  家にもどると、おあきが何ごともなかったように、夜食の支度をしていた。二人はいつもと変りない夜をすごした。しかし夜遅くなってから、半之丞は居間を出ておあきの部屋に行った。おあきは目ざめていて、半之丞が床の中に身体をすべりこませると、黙って身体をあけた。  おあきの身体は、闇に横たわる暗く大きい海のようだった。ひとつもさからわずに、やわらかく半之丞を受け入れ、包みこんで来た。あたたかい身体だった。その胸をつかみながら、半之丞は、しばしば小さい手でいじった乳母の白い胸を思い出したようである。 「ほんとのことを言うとな、わしは狂ってなどおらん」  おあきの胸に顔をうずめたまま、半之丞は言った。 「狂った真似をしているだけよ」 「よくわかっておりますよ、若旦那さま」  おあきは、大きな手で半之丞を掻《か》き抱いた。 「だからこうして若旦那さまをお迎えしたではありませんか」 「そうだな」 「でも、こんなことをおつづけになってはいけません。今夜かぎりのことにしてくださいまし」 「しかし、こうしていると気が楽になる」 「子が出来たら、どうなさいます? 女は子供を生むものですよ」  半之丞は闇の中で顔をあげた。おあきの言葉で、闇が裂けたようにある出来事を思い出していた。  おあきが来る前に、若い女中がいた。はつという名だったが、いつの間にか子を孕《はら》み、世間に、孕ませたのは半之丞だと噂が立った。老僕の治平は通いの奉公人で、夜は半之丞と女中しかいない家だから、周囲がそう思ったのは当然だった。  半之丞は、まわりの噂ではじめてはつの異常に気づき、驚いて問いつめた。相手は同じ馬廻組にいて、ふだんよく往き来している金丸徳之助だと、はつは泣きながら白状した。金丸は女にだらしない男である。  半之丞は下城するとき、徳之助を町はずれに誘い出し、はつのことをなじった。しかし徳之助が非を認めて謝り、きちんと始末をつけることを約束すれば赦《ゆる》すつもりだった。  ところが徳之助は終始はつとのかかわり合いを否定した。その言い方がふてぶてしかった。一片の誠意も見られなかった。  半之丞は激怒して徳之助を殴った。相手が立ち上がれなくなるまで打擲《ちようちやく》した。四年前のことである。半之丞は若かった。しかしはつの後始末がすむと、間もなくそのことを忘れた。徳之助は、そのことがあったあと、馬廻組から近習組に変ったが、そのことも気にしなかった。  だが徳之助は、お側御用人菊村庄左エ門の血縁だったはずである。母方の血筋の者が、菊村の妻女である。  ──あの男か。  半之丞は、色白のいかにも軽薄そうにみえる、金丸徳之助の顔を思い出していた。あの男が、はつの一件で打擲されたことを執念ぶかくおぼえていて、報復したのだ。こんな簡単なことだったのだ。 「どうなさいました?」  おあきが、やさしく首に手を回して来た。その手を、半之丞は荒あらしく振りはらった。醜くふくらんでいたはつの腹を思い出し、急に女の身体のあたたか味が、不快なものに思われて来たようだった。 [#5字下げ]五 「ずいぶん遠くまで来たものだな」  と、金丸徳之助が言った。半之丞は徳之助を、いつか乙江と二人で来た五間川の上流に連れ出している。徳之助は非番だった。 「このあたりでよかろう」  足をとめて、半之丞は野を見回した。  野は、乙江と来たときとは一変していた。草は力強く繁茂し、毒毒しいほどの緑が野を覆いつくしている。そして梅雨が間近いことを思わせる雨雲が四方に垂れこめ、唐紙山の斜面もなかばは雲に隠れていた。  人影はなく、西北の空の片隅にわずかに見える雲の切れ目から、日暮れ近い一条の日射しが暗い野に落ちているだけだった。その風景は、なぜかいまの半之丞の心に適《かな》った。 「乙江のことだ」  振りむいて徳之助を見ると、半之丞は言った。 「そう言えば、貴公をここに連れ出したわけはわかろう」 「さて」  徳之助は、半之丞にじっと眼をそそぎながら答えた。 「そう言われただけでは、何のことかさっぱりわからん」 「とぼけても無駄だ、金丸」  半之丞はひややかに言った。そして淡淡とした口調で、自分の推察を話した。 「そういうことを仕組んだのは、貴公のほかにはいない。これがたどりついた考えだ」 「なかなか面白いな」  徳之助は白い歯を見せて笑った。 「貴公、頭がどうこうと噂を聞いたが、どうしてなかなかよく考えた」 「………」 「だが証拠がないな」  薄笑いをうかべたまま、徳之助が嘲るように言った。 「証拠など、すぐに挙がる」  と、半之丞は言った。まばたきもしない眼で徳之助を見まもっていた。 「菊村庄左エ門どのが、間もなく殿に随《したが》って帰国される。そのときひと言確かめれば、それで万事明らかになる」 「では、そのときに確かめることだな。今日の話はこれで終りか。なんだ、らちもない」  徳之助は捨てぜりふを言った。 「話というのはこれしきのことか」 「待て」  と半之丞が言った。そう呼びとめたとき、半之丞は頭の中に、白っぽいものが無数に弾け散ったのを感じた。はっと気づくと、手に刀を握っていた。 「金丸、返事を聞くまでは帰さん」 「おれを脅す気か」  徳之助は、また白い歯を見せた。 「むかしのようにはいかんぞ、佐橋。近ごろおれは少少腕をあげておる」  三宅道場と並んで、一刀流を指南する樋口道場があって、城下の人気を二分している。徳之助はそこの高弟の一人に数えられていた。 「むかしと同じにはいかんさ」  不意に徳之助は顔をゆがめた。憎悪がむき出しに表情に出た。 「そうとも、おれがやった。おれは一度うけた恥辱は忘れん男だ。三宅の娘のことは、貴様を少しあわてさせてやろうと思ったのだが、存外にうまく行ったようだな」 「………」 「ここでけりをつけるか。呼び出しに応じたからには、腹を決めて来ているぞ」  草をわけ徳之助はうしろにさがった。そしてすらりと刀を抜いた。  さきに斬りこんだのは徳之助の方だった。油断ならない鋭さを秘めた剣だった。半之丞はその撃ちこみをはね上げて後にさがった。だが徳之助はやすまずに二の太刀を送って来た。かわそうとして半之丞はまつわる草に足をとられ、片手をついた。だが徳之助も草の根につまずいたようだった。前にのめりそうになって、あわてて身体を立て直した。  よろめいて立ち直った徳之助の肩に、半之丞の剣が飛んだが、徳之助は刀を合わせて払った。はげしく動き回る二人のまわりに、膝を隠す草が、たえずざわざわと鳴った。  言いあわせたように、二人は小川の岸に出ていた。そこは人の踏みあとがあり、草は短く岸を覆っているだけだった。青眼《せいがん》に構えて向き合ったまま、二人は睨《にら》み合って荒い喘ぎを繰り返した。  やがて半之丞の足が、じりと前に出た。構えは青眼から、真直ぐ上段に引き上げられている。徳之助も前に進んだ。三間の距離に迫ったとき、半之丞の身体が疾風の勢いをのせて徳之助に殺到した。  懸崖《けんがい》の高みから振りおろされる剣。その白い光を徳之助は空中に見たはずだった。迎え撃とうと肱《ひじ》が上がった。だが瞬間、半之丞の身体は地を擦るように低く横を走り抜け、下段から斬り上げる剣が、徳之助の肱を斬り放っていた。後の太刀に必殺の技を秘めるだまし剣、かげろう。 「わっ」  斬られた肱を、抱くようにして振りむいた徳之助の肩を、反転した半之丞の剣が深ぶかと斬り割った。足ばやに、半之丞は野を遠ざかった。無人の野に、遠い雷の音がひびいた。  金丸徳之助を斬った者の探索は不明のまま中止となった。徳之助の死骸《しがい》が見つかった前の日に、徳之助と佐橋半之丞が一緒に歩いていたのを見たという者がいて、大目付は半之丞を屋敷に呼んで取り調べたが、半之丞の返答はとりとめがなく、大目付は得るところなく半之丞を家に帰した。徳之助と半之丞の間に、何かのつながりがあるとも思えなかったのである。  その年の秋、佐橋半之丞は、病気治癒を理由に再勤を願い出たが、却《しりぞ》けられた。なお十分に養生するようにという懇《ねんご》ろな指示があっただけだった。冬になって、半之丞は再び願いを上げ、却下された。 [#5字下げ]六  城中に変事が起きたのは、翌年の六月である。暑い日だった。  藩主右京太夫の出府の日が迫っていて、城中のあちこちで、参覲《さんきん》の荷をまとめるために、小者がいそがしく立ち働いていた。白刃を握って城中を歩いている佐橋半之丞を見つけたのは、その小者たちだった。  知らせをうけて集まって来た人びとは、半之丞の姿を見て戦慄《せんりつ》した。髪はほおけて顔にかかり、その髪の陰から、青く光る眼が集まって来た人間を睨み回した。だらしなくひきはだけた襟元《えりもと》から、高い肋骨《ろつこつ》がのぞいている。袴《はかま》は紐《ひも》がゆるんで、うしろに引きずっていた。  不意に半之丞が口をおしひろげて何か叫んだ。 「お上に申し上げたいことがある」  半之丞はそう叫んだのだが、誰の耳にも、その叫びは意味不明の狂声としか聞こえなかった。半之丞は再び叫んだ。 「三宅の娘を返して下され」  三日前に、半之丞は乙江の死を聞いた。乙江は江戸に行って、三五郎重章の子を身籠ったが、ふた月ほど前に流産し、そのまま病臥《びようが》していた。そして六月に入ると、急に病状があらたまって、江戸藩邸の奥で十七の命を閉じたのであった。  半之丞は、まわりを取り巻いている人びとを見回すと、威嚇《いかく》するように叫んだ。 「乙江を返して頂こう」  半之丞は歩き出した。奥にむかっている。前に回って制止しようとした者がいた。半之丞の刀が一閃《いつせん》して、男が倒れた。 「とめろ、奥にやってはならん」  われに返ったように誰かが叫んだ。斬り捨ててもかまわぬ、という声がした。その声で、人びとが一斉に刀を抜きつれたので、城中はすさまじい光景に変った。  果敢に斬りこんで行く者がいたが、半之丞の剣が一閃すると、あっけなく斬り倒された。冴《さ》えた剣の動きだった。  ──お上にひとこと恨みを言うぞ。  半之丞はそう思いながら、少しずつ前に足をすすめていた。眼の前に白刃がひらめくと、無意識に剣をふるった。息が切れ、身体のあちこちが痛んだ。だいぶ斬られたようだ、と思った。だが、あとひと息だった。右京太夫の執務部屋に通じる廊下が見えている。  右から斬りこんで来た刀をかわすと、半之丞は跳躍して、小部屋からまた廊下に出た。朦朧《もうろう》とした視界に、また黒い人影が立ちはだかった。 「じゃまするな」  半之丞は威嚇した。するとその人影が、落ちついた声で言った。 「わしがわかるか。新十郎だ」  半之丞は眼をみはり、血のりでふさがった眼を手でぬぐった。 「刀を捨てろ、半之丞」  半之丞は首を振った。そして、来いと身構えた。剣先が高く上がる。 「そうか。では、行くぞ」  新十郎の黒い影が、するすると間をあけるのが見えた。じりと半之丞は足をすすめた。不意に黒い影が羽ばたくように前に迫った。その影にむかって撃ちおろし、体をひねって下段から斬りあげる。 「あ」  呼吸ひとつ遅れたと思った。いや、新十郎の剣が速かったのだ、と思ったとき、半之丞は胸に重い衝撃をおぼえ、視界が一気に闇に閉ざされるのを感じた。  昼下がりの歩廊に、まぶしい夏の日射しが照りつけていた。その中に、襤褸《ぼろ》のように斬りきざまれた半之丞の死骸が横たわっていた。  佐橋半之丞の家が、藩に召し上げられたのは、それからひと月ほど経ったころである。藩から差しむけられた人足が、家の中の荷を運び出し、がらくたは庭で焼いた。  火は夕刻になると、四囲を赤赤と染め、立ち働いている人びとを照らした。その火を、門前に立って長い間見つめている女がいた。女はあたりが闇に包まれるころになって、ようやく静かに背をむけて佐橋家の前から去って行った。佐橋家廃絶のありさまを最後まで見とどけた、おあきだった。  遠ざかるうしろ姿を、門のわきにいた人足がしばらく見送ったほど、おあきの大柄な背はさびしげに見えた。 [#改ページ] [#1字下げ] 偏屈剣蟇ノ舌 [#5字下げ]一  家老屋敷の奥の間で、男が二人話していた。一人は屋敷の主、間崎新左エ門で、間崎は三人いる家老の中で上席を占めている。  もう一人は客で、番頭《ばんがしら》の遠藤久米次だった。家老が自分の家で話すのに遠慮もいらないようなものだが、遠藤との話声が小さいのは、二人が人の耳をはばかる密談に耽《ふけ》っているせいだった。  遠藤が来てから一|刻《とき》(二時間)近く経っているが、二人の間にはからになった茶碗が置かれているだけだった。 「それで? 植村はいつ来る?」 「四月のはじめ、桜の花が終ったころでございましょう。殿のご帰国に先んじてということでございました」 「ふむ、弱ったのう」  間崎は腕組みをして、額の皺《しわ》を深くした。遠藤は黙然《もくねん》と口をつぐんだまま、家老の顔を見まもっている。  間崎は顔をあげて、ひょいと遠藤の眼をのぞきこんだ。しばらくにらめっこをするように眼をあわせてから、ぱたりと膝《ひざ》を打った。 「やむを得んのう。植村の大目付就任をはばむ手はないわ」 「ありませんか」 「ない。加賀がバカなことをやりおったから、こっちには打つ手がない。山内の手の内は見えているが、眺めておるしかないわ」 「当分押されますな」 「当分どころではない。やつはわが派を、根こそぎしりぞけるつもりでかかって来たぞ。植村弥吉郎の大目付就任がその手はじめじゃ」  間崎は遠藤から眼を離して、廊下の障子の方に目をやった。  山内というのは、去年の秋に組頭《くみがしら》から中老にすすんだ山内|糺《ただす》兼次のことである。十二年前、間崎は当時首席家老だった山内の父をはげしく批判し、ついに執政の座から追い落とした。  そのあとの十二年は間崎と、間崎に与《くみ》する者の天下だった。思うとおりに藩政を動かし、唐物町の間崎の屋敷は、土産物《みやげもの》をたずさえておとずれる家中《かちゆう》、城下の富商、領内の豪農でにぎわった。間崎は栄華をきわめた思いをした。  しかし山内の伜《せがれ》糺兼次は、その間にじっくりと派閥を養い、二年ほど前からついに二人の家老平塚五太夫、大世古喜内を抱き込んで、巻き返しに転じて来たのである。糺は自派の取りまとめでは、父の山内市郎左エ門を上回る手腕家だと噂《うわさ》されていた。  糺は小姓勤めのころはむろん、父の跡を襲って組頭に就任してからも、あたかも藩政などには興味がない者のように振る舞った。染川町の料理茶屋にも足繁く顔を出し、ひところは遊蕩児《ゆうとうじ》という評判をとったこともある。  だが間崎は、そういう評判を聞いても決して油断しなかった。  藩では家老三人、中老二人を置いて、藩政を執行させる。この五名の執政に、重要な議事があればさらに補佐する組頭若干名を加えて協議させ、形は合議の形式を踏むが、中味はそうではなかった。  古くから、家中には唐泉並び立たずという言い方があった。唐物町にある間崎家と、和泉町に広大な屋敷を持つ山内家を指すことは言うまでもない。  その言い方は、藩草創のはじめから今日まで、両家のどちらかが藩政の主導権を握って来たことを指していたが、より正確には、両家が、和してともに藩政に参画したということがたえてなく、ときには一方が栄えている時期に、一方は閉門、蟄居《ちつきよ》といった処分のもとに呻吟《しんぎん》したという、両家抗争の長い歴史を指していた。  ほかにも家老、中老はいて、それぞれに家柄、禄高ともに間崎、山内に見劣りしない家から出ている。にもかかわらず、その中から、かつて両家の間に割って入って、藩政を左右するほどの器量を示した人物は出なかった。彼らは両家のどちらかにつくのが常だった。そうしたことも、両家のときにははげしい、ときにはひそかな対立を藩内に温存したままにしてきた原因のひとつだといえる。  いつかは出て来るぞ、と間崎は山内の伜を見て来たのである。油断はしていなかったつもりだが、昨年間崎派は大目付の加賀権平が、不正を取調べに行った先で、当の調べられる側の人間と茶屋にあがって遊興するという不祥事を起こした。  藩では、城下から十里の海岸にある鳥見の港町に陣屋《じんや》を置いた。陣屋は昔からのしきたりで中老の一人の支配下に置かれていたが、担当の中老が陣屋に行くのは年に二、三回、政務は常駐の代官にゆだねられているのが実情だった。  不正は代官の服部惣兵衛が、地元の富商数名から賄賂をうけて、藩庫に繰り入れらるべき上納金の額をみだりに加減したというものだった。藩ではこの不正を重く見て、大目付の加賀と勘定方《かんじようがた》の人間一名を鳥見に派遣したのである。しかし加賀は、数日鳥見に滞在して帰城したものの、取調べたところ不正の事実は見当らなかったという報告を提出した。  何ぞ知らん、実情は取調べにあたった当の加賀と勘定方の者が、服部と富商たちの饗応《きようおう》をうけ、女を抱かされて、真相を覆《おお》った報告を出したのであった。  この事実は秋になって判明し、加賀と代官の服部は職を停められて謹慎の処分をうけた。つづいて担当の中老が引責辞職し、その空席に山内糺がすべりこんで来たのである。山内を中老に、という平塚、大世古両家老の要請を、間崎はしりぞけることが出来なかった。間崎は在府の藩主にうかがいを立て、自分で手続きして、山内を中老に据えるしかなかったのである。  加賀の不正を好機に、山内糺が執政の座に乗りこんで来たのだということは、首席家老として、そういう一連の人事をすすめる間に十分に気づいていたことである。それははっきり山内の側についたとわかる平塚、大世古の態度からもわかったが、空席のままだった大目付の職に植村弥吉郎を、と山内が提案して来たときにいよいよはっきりしたようだった。  植村は父祖以来|定府《じようふ》勤めの藩士で、国元とはかかわり合いのうすい人間である。しかし江戸藩邸では若年ながら留守居役として働き、すぐれた才幹は国元にも聞こえていた。  植村の上司は、江戸家老の末次孫兵衛である。その末次が、むかし山内市郎左エ門に目をかけられて江戸家老に転じた人物だったことを間崎はひさしく忘れていた。山内派が失脚したとき、末次は遠くにいたために生き残ったが、その後国元に呼び返されて執政に加わるという機会もなかった非力な家老だったので、間崎は末次を、どことなく島流しにでもした人物のように、意識の外に放置して来た。  しかもいま、植村という人物が眼の前にあらわれて来ると、染川町あたりに出没しながら、山内の伜は一方で、ぬかりなく江戸の末次とも連絡をとっていたことが読めて来るようだった。  ──唐泉並び立たずか。  植村弥吉郎は三十二だという。頭が切れるだけでなく、無外流の奥儀をきわめた剣の達者だということは、たったいま遠藤から聞いたことである。植村の大目付就任を持ち出して来た山内糺は、三十五である。二人とも若い。間崎は、自分がはっきり守勢に回ったことを感じないでいられなかった。  十年余も藩政を意のままに動かして来ると、その間に垢《あか》がたまるようだった。加賀権平の一件は、たまたまその一部が露呈したに過ぎず、間崎自身にも似たような失策がなかったとは言えない。権力の座にいる者の、意識しない驕《おご》りがもたらした失策だった。賄賂も取ったし、赤石郡の開墾地で竿《さお》を打ち直したときには、地主側に有利にはからった。  山内は、いずれ間崎のそういう古い失策にも、調べを入れて来るかも知れなかった。国元にひっかかりを持たない植村を大目付に推して来たのも、思い切った手腕をふるわせるのが狙《ねら》いだと考えられなくもない。  加賀の失策は、間崎の泣きどころだった。植村に対抗して自派の誰かを推すというわけにはいかない。山内は正確に、その弱味をついて来ていた。  中老に就任して、まだ半年しか経っていない男の、ややつめたい感じがする横顔を、ほの暗い障子のあたりに思い描いたあとで、間崎は眼を遠藤にもどした。それがくせで、またぱたりと両手で膝を打った。 「ま、連中の出方を見るしかあるまい。しかし植村が大目付になったら、まずわれらも無傷では済むまい。そなたも覚悟しておく方がいいぞ」 「存外にお気弱なことを申される」  遠藤久米次は苦笑した。そしてその笑いをひっこめると、しばらく考えこむ表情になったが、やがて声をひそめるだけでは足りないというふうに、茶碗を押しのけるとひと膝前にすすんだ。  遠藤はささやいた。 「しかし植村の大目付就任は、わが派の命取りになりますぞ」 「だから苦慮しておる」 「防ぐ手がないわけではありますまい」 「………」 「ひそかに片づけてはいかがですか」 「片づける?」 「これです」  遠藤は片手で物を斬るしぐさをした。遠藤はそろそろ四十に手がとどく年配だが、若いころに、城下の不伝流を指南する堀川道場に学び、いささか剣名を知られた時期がある。  遠藤の顔には、ひさしぶりにそういう昔を思い出したというような、殺伐な表情があらわれていたが、その提案は間崎には気にいらなかった。にがい顔をした。 「バカを申せ。そんなことをやれば、山内の思うつぼにはまるぞ。われから墓穴を掘るようなものだ」 「いや、わが派の人間にやらせるわけではありません。といって、山内の側の者を使うことも出来ませんが……」  と遠藤は言って薄笑いした。 「馬飼庄蔵という男をご存じですか。いや、ご存じないでしょうな」 「知らんな。むかし御槍《おやり》奉行に馬飼源六という男がいたが、その家の者かの」 「よくご存じで。庄蔵はその馬飼の血縁にあたります。ただいまは七十石で御旗組に勤めておりますが、家中に聞こえた偏屈者でござります」 「思い出した」  と間崎は言った。 「馬飼源六も偏屈な男であった。しじゅう上役と諍《いさか》い、なかなか役につけなかったが、御槍奉行になると、今度はしきりに下役と諍い、二年ほど勤めて隠居したはずじゃ」 「偏屈は、かの一族の病いでござりますかな」  遠藤は失笑した。そして自分の高笑いにびっくりしたふうに、また声をひそめた。 「馬飼庄蔵は、それがしには道場の後輩にあたります。この男にうまく持ちかければ、あるいは江戸者を片づけてくれるかも知れません」 「軽がると言うが、植村は無外流の遣い手だと申したではないか」 「たしかに、そのように聞いております。しかし庄蔵も、偏屈者ゆえ誰も相手にしませぬが、知るひとぞ知る不伝流の名手でござります。そのうえ、先日師匠の堀川に会ったときに笑っておりましたが、庄蔵は五年かかって、ついに蟇《ひき》ノ舌という秘剣を習得した由《よし》にござります」 「何じゃ、蟇ノ舌というのは?」 「さて、それがしにも中味は分明でござりませんが、堀川の話では、いつからか流派の奥許しの中に数えられて来た剣だが、堀川自身も伝授をうけたことがなく、試してみたところ、うまく遣えなんだということでござりました。坐ったまま、人を斬るそうです」 「ふーむ」  間崎は妙な顔をした。 「偏屈者には似合いの剣じゃな」 「堀川もそう申しておりました」 「そういう男なら、植村にぶつけてみるのも面白いかも知れんの」  間崎はしばし沈黙して考えこんだが、やがて腕組みをとくと、決心したようにぱたりと膝を打った。 「よし、まかせる。ただしわれらが仕かけたことだと、先方にさとられてはならんぞ。それが出来るなら、やってみてもよろしいが、くれぐれも隠密《おんみつ》にな」 「うまく行くかどうかは、保証いたしかねます」  やってみろと言われて、遠藤はかえって慎重になったようだった。いくぶん控えめな口調で言った。 「しかし、何もやらんでみすみす山内のなすがままになるよりは、ましでござりましょうか」 [#5字下げ]二  馬飼庄蔵の家に行くと、庄蔵はまだもどっておらず、妻女が出て来て、今日は稽古《けいこ》日で遅くなりますと言った。  遠藤久米次は、それですぐに庄蔵の家を出て、初音《はつね》町裏にある堀川道場に向かった。  ──嫁して五年ぐらいか。いくらか見ばえがするようになったかな。  遠藤は、ひさしぶりに顔をあわせた庄蔵の妻の顔を頭に描きながらそう思った。妻女は御供目付を勤めている樋口茂兵衛の娘で、遠藤はやはり道場の同門というかかわり合いから、樋口とは懇意にしている。素世《もとよ》という名の庄蔵の妻女のことも、十五、六のころから知っていた。  素世は、ひと口に言って醜女《しこめ》だった。下ぶくれの顔で、鼻は指先でつまめるほどに低く、唇が厚い。肌の色が白ければ、それはそれで愛嬌《あいきよう》にもなる顔だろうが、素世は浅黒い顔をしている。  樋口茂兵衛には、娘が二人いた。姉の友野はまわりでも評判の美人で、妹の素世とくらべると、これが同じ腹から出た姉妹かと思うほどの娘だったが、内実は友野は母親に似、妹の方は不運にも父親に似たというに過ぎなかった。  馬飼庄蔵の偏屈ぶりが、ひろく家中に知られたのは、素世との縁組みがまとまったときだったかも知れない。  そのころのある日、庄蔵は樋口家を訪ねた。人を介して樋口家との縁組みがすすんでいて、樋口が気をきかせて庄蔵を屋敷に呼んだのである。樋口は酒を出して庄蔵をもてなした。風采《ふうさい》はぱっとしないが、堀川道場の俊才と呼ばれている若者を、樋口は気に入っていた。樋口自身が、先代の堀川弥次右エ門に剣を学んだという親しみもあった。  ころあいをみて、樋口は二人の娘を酒席に呼んで言った。 「娘は二人いるが、どっちでも気に入った方をやるぞ」  むろん冗談だった。娘二人も、その冗談を聞いてくすくすと笑ったが、樋口も娘たちも、当然庄蔵が姉の友野をもらうつもりで来ていると思っていたのである。  ところが庄蔵は、娘たちがさがったあとで、それでは素世どのを頂戴《ちようだい》つかまつります、と言った。樋口の方が唖然《あぜん》とした。 「こっちに坐った見目《みめ》良い方が、姉の友野、こっちにいたのが素世で、わしそっくりの顔をした娘だぞ」  それでいいのか、と樋口はいくらかあわて気味に念を押したが、庄蔵はむろんそのつもりでお願いしております、と言った。庄蔵の家と樋口家の縁組みというのは、まだ二人の娘のうち、どちらかをといった程度のものでしかなかったので、庄蔵のその言葉で縁組みはそのまますすみ、素世が馬飼家のひとになったのである。  人が右と言えば左という馬飼庄蔵の性癖に、人びとが思いあたるようになったのは、そのころからだったろうと、遠藤は思っている。  姉の友野はそのあとすぐに、百二十石の瀬川という家にかたづき、子供も生まれてしあわせに暮らしているところをみれば、庄蔵が格別に容貌《ようぼう》は悪いが心ばえを見込んで、素世をとったということでもなさそうだった。  要するにそのとき、庄蔵は樋口の冗談口の中に、醜女の妹の方をとるわけはないという口吻《くちぶり》があるのに反発して、妹に決めてしまっただけのことだったろうと、いまなら遠藤にも納得出来るのである。  庄蔵のそういう性癖は、城勤めの間にも、また道場でもだんだんにはっきりして来て、いまではどこに行っても変人扱いされていた。はじめ近習《きんじゆう》組にいたのが、御《お》納戸《なんど》組に、次いで普請《ふしん》組に出され、いまは城中でもっともひまな部署とされる御旗組にいるのも、勤めの先ざきで、庄蔵のその性癖が、上役にも同僚にも忌み嫌われたせいである。  蟇ノ舌などという、師匠もよく遣わない剣を、絵図面をたよりにものにしたというのも、いかにも馬飼庄蔵らしいと遠藤は思っている。  たそがれて来た堀川道場の門を、遠藤はくぐった。母屋の方には向かわず、じかに道場に入る入口に行くと、ちょうどそこから二人の若者が出て来たのに会った。  二人は、突然にあらわれた人間が、番頭の遠藤だとみて、あわてて道をあけ、頭をさげた。遠藤は、道場で稽古することはもうなくなったが、道場の先輩格で、紅白試合のときに祝い酒を持参したりするので、門人たちには顔を知られている。 「中に、まだ人がいるのか?」  と遠藤は聞いた。 「馬飼どのが、おひとり」  と、若者の一人が答えた。そなたらも、よく精が出るの、と遠藤は世辞めいた言葉を投げて道場に入った。  道場の入口に立つと、床の真中あたりで、木刀を振っている馬飼庄蔵の姿が見えた。遠藤の方に、ちらと眼を流したようである。だが庄蔵は、それで手を休めるということもなく、黙黙と木刀を振っている。  見ていると、庄蔵がある撃ちこみを想定し、体をひらいて受け流したあと、瞬時に反撃に転じる型を反覆しているのがわかった。反撃するとき、下段から木刀を回して、さながら円を描くようにして肩を打つのは、青嵐という剣である。  庄蔵の無声の動きには凄味《すごみ》があった。薄暗い道場の中で、庄蔵は音もなく体を転じ、眼にもとまらぬ速業で、見えない敵を斬る所作をつづけている。 「馬飼」  遠藤が声をかけると、庄蔵はようやく木刀の手を休めて、遠藤の方をじっと見た。 「こっちへ来い。話がある」  うながされて、庄蔵はようやく遠藤のそばに来た。強い汗の匂《にお》いが、遠藤の顔にかぶさって来た。  庄蔵は顔面に汗をしたたらせていた。汗はおそらく全身に噴き出しているに違いなかった。さながら真剣で敵と斬り合ったあとのように、庄蔵は荒い息をついている。  頬《ほお》がこけた貧相な顔をし、身体《からだ》も痩《や》せてみえるが、庄蔵は鋭い眼をし、そばでよくみると、厚く引きしまった胸を持っていた。 「失礼しました」  ふっと眼の光を消して、庄蔵が言った。 「おひさしぶりです」 「身体を洗って来い。話は飲みながらにしよう」  と遠藤は言った。 [#5字下げ]三 「こういうわけで、わが派はいま窮地に立たされている」  遠藤は言いながら酒をつごうとしたが、庄蔵は手を振ってことわった。あまり酒を飲まなかった。  遠藤たちが注目していた植村弥吉郎が、国元に来て大目付に就任してから二《ふた》月近く経っている。その間に、植村がはやくも鳥見の陣屋と、赤石郡の増川村ほか三カ村、つまり五年前の新竿打ち直しの時に、百姓が暴発しかけた村村に下僚を派遣したことを、間崎派ではつかんでいる。  間崎派が受身に立っているそういう状況を、遠藤は、ありのままに庄蔵に話していた。庄蔵はいくぶん迷惑そうな顔をして聞いていたが、遠藤がひととおり話し終ると、顔をあげてぽつりと言った。 「それがしは、どちらの派にも与《くみ》しておりません」 「それはむろんわかっておる。なに、貴公に向かって、こっちに与して植村をどうこうしろなどというつもりは毛頭ない。ただ今日は、同門のよしみでちょっと愚痴を聞いてもらおうかとな。ふっと思いついて道場に立ち寄ってみただけの話よ」 「………」 「ただわれわれが解《げ》せんのは、だ。山内が、代代定府でいわばよそ者の植村を、大目付という重職に招いたことだな。植村は、祖父が江戸藩邸に雇われたのがはじめで、藩士とは言いながら、国元とは血のつながりが何もない。そういうやつは、冷酷なことをやるぞ。いずれ藩内にひと騒動起きることは眼に見えているが、今度は、これまでのようには行くまい」 「………」 「死んだ親爺《おやじ》どのに聞いているかどうか知らんが、間崎どのが、山内の親爺を家老の座から追い落としたのは本当のことだ。山内派に落度があったからだが、その処分はといえば、職をとめ、一年の謹慎だけだった。むろん組頭の家柄はそのままだ」 「………」 「だから、間崎どのがその跡を襲って首席家老になったといっても、藩という立場からみれば、いわば禅譲といったものでな。血の雨も降らんし、誰が腹切ったわけでもない。だがよそ者の植村には、このほどよい加減がわかるとは思えん。いまにひどいことが起こる」 「………」 「やあ、政治向きの話はこれぐらいにするか。退屈したろう」  遠藤は笑って、庄蔵の盃に酒をつごうとしたが、気がついて手酌で自分の盃を満たした。 「ところで、植村弥吉郎が無外流の達人だという話を知っておるかの?」 「いえ」  庄蔵はうつむいていた顔をあげた。むっつりした顔に、はじめて興味あることを聞いたという表情が動いた。 「いや、そのことは以前から耳にしていたのだが、わしは話半分に聞いておった。世の中にはよく自称の達人というのがおるからの。ところが、これがまことらしい」 「………」 「つい十日ほど前のことだが、植村は三好町に行って、稽古というか、試合というか、あそこの連中と手合わせをしたというのだ」  三好町というのは、五間川の岸にある一刀流の神部道場のことである。不伝流の堀川道場と、城下を二分する大きな道場だった。 「その始末を聞きたいか」  遠藤はただの剣談好きという顔になって、酔いに赤くなった顔を笑わせながら、庄蔵をのぞきこんだ。 「滝井千八郎は負けた。三本勝負で二本立てつづけに取られて、竹刀《しない》を投げたそうだ。藤野勝弥は、はじめ一本入れたが、あと二本をとられてやはり負けた。押されはしたが、辛《かろ》うじて分けたのが一人いる。誰だと思うな?」 「猪谷忠八。それとも今泉藤次郎ですか?」 「今泉だ。猪谷はその日道場を休んだということだった」  庄蔵は黙ってうなずいた。酒を飲まなかったのに、かすかに眼がうるんでいるのは、心の中に動揺があるからである。  馬飼庄蔵が、植村の剣に強い興味をそそられているのは確かなようだった。その心の揺れに手をそえてひと押しするように、遠藤は言った。 「秋の三好町との恒例試合で、馬飼はたしか今泉と分けたと申しておったな」 「はあ」 「植村という男は、すると貴公とほぼ互角の剣を遣うということかの。頭が切れて、腕が立つ恐るべき男が、われわれの敵に回ったことになる」 「………」 「わしの恥を話して聞かせようか」  遠藤は、盃を飲み干すとつるりと額を撫《な》でた。 「じつを申すとな。植村がこちらに来て半月ぐらいも経ったころかな。数日、夜分に植村の様子をさぐったことがある」  ちょっと待て、と言って遠藤は立って行くと襖《ふすま》をあけて廊下をのぞいた。  二人がいるのは、染川町の料理茶屋小花の離れ座敷である。間崎や遠藤たちがしじゅう使っている部屋で、さっきおかみに人払いを命じたから、誰も来るはずはないのだが、遠藤はこれからする話にもったいをつけたのであった。 「植村は代官町に屋敷をもらって、そこで執務しておるが、毎晩和泉町の山内の家に行く」  もどって来て坐り直すと、遠藤は声をひそめてそう言った。 「毎晩だぞ。連中の意気ごみがそれでわかった。わしは、これはいかんと思ったな。間崎どのは、まあやりたいようにやらせておけ、と鷹揚《おうよう》にかまえておられるが、そんなことでは済むまいと思ったのはそのときよ。わしは、よし、隙《すき》あらば斬ってくれようかという気になった」 「………」 「ところが、そのつもりでつけ回してみると、どうして植村という男は隙のない人間でな。わしは何にもしないであきらめてしまったという次第だ。それも道理、今度の三好町の試合の模様を聞くと、わしに斬れるような相手ではなかったらしいわ」 「番頭」  庄蔵が顔をあげた。眼の光が据わっている。 「つまり、それがしにやれというお話ですか?」 「おい、おい」  遠藤は、狼狽《ろうばい》したように手を振った。 「勘ちがいしては困るぞ、馬飼。愚痴話だとはじめからことわっておる。貴公が政治向きのことにはうとい人間だとわかっているから、気楽に話したことでな。変に気を回したりするのはやめろ」 「………」 「あの男を斬ろうかと思ったというのは、あくまで内緒話よ。斬れば斬ったで、また騒動が起きる。誰も貴公に、植村を斬れなどと頼んだりはせん。つまらんことを考えずに一杯やれ。さっきから少しも飲んでおらんではないか」  しかし馬飼庄蔵は、やはり飲まずに間もなく先に帰った。  ──女を呼んで、飲み直すか。  遠藤は、渡り廊下を遠ざかって母屋の方に消える庄蔵を見送ってから、暗い庭に眼を投げて、そう思った。  手をひらくと、じっとりと汗ばんでいた。遠藤は酔ってはいなかった。  馬飼庄蔵の耳に吹きこんだいろいろな話が、はたして植村弥吉郎の暗殺につながるかどうかはわからなかった。庄蔵がその気にならなければそれまでの話である。  だが庄蔵は偏屈者である。どんなに事わけて話して聞かせたところで、だからやれなどといえばそっぽを向く男である。だが今夜は、事わけて話したうえで、やってはならんと言ったのだ。  うまくいけばひっかかって来るかも知れなかった。もっともそれは、庄蔵がおれがした話にどれだけ興味を持ち、なかでも植村弥吉郎という人物に、どういう印象を抱いたかにかかっている、と遠藤は思った。  女を呼ぼうかと思った気持をひとまず措《お》いて、遠藤は灯のそばにもどった。そして皿に残っていた鯛《たい》の刺身を指でつまむと、醤油《しようゆ》をつけて口の中にほうりこんだ。  一人の男を罠《わな》にかけた後味はよくなかった。遠藤は、庄蔵の妻女の顔を思い出している。醜女だとばかり思っていたが、顔の造作はともかく、素世は肌にしっとりと脂がのり、人妻らしくなまめいて見えた。子供がないと聞いていたが、庄蔵との仲はうまくいっているのだろう。もし庄蔵が話に乗って、植村を斬るようなことになれば、一人の平凡な女に、不意の嘆きをみせることになるかも知れないなと遠藤は思った。  しかし馬飼庄蔵ほど、暗殺者に適した人間はいない、とも思うのだ。剣だけのことを言えば、古巣の堀川道場に、庄蔵より技倆《ぎりよう》は上とされている人間がまだ二人いる。正木駿之助と飯塚甚五郎である。遠藤はこの二人とも懇意にしている。  だが正木にしろ飯塚にしろ、いわゆる世間並みの分別をそなえた大人だった。かりに二人を暗殺に同意させようとすれば、説き伏せてその分別を捨てさせるむつかしさがあるだろう。その点馬飼庄蔵は、つねに世間的な分別にさからい、平気で踏みにじって来た男である。  ──それに、斬れと命じたわけではない。  遠藤は、今度の話を庄蔵に持ちかける気になったそのときから、ずっと心の底に隠してきた、狡猾《こうかつ》と呼ばれても仕方ないこの考えを、ふっと思いうかべ、すぐに揉《も》み消した。  植村を斬るとすれば、庄蔵は誰に命ぜられたのでもない。自分の意志で斬るのである。  かりに事が露《あら》われて糾問をうけるようなことになっても、庄蔵はそう述べるしかなかろう。間崎も、遠藤も、暗殺をすすめたわけではないのだ。かりに山内が乗り出しても、糾明はそこで行きづまるだろう。馬飼庄蔵ほど、暗殺者に適した男が、またとあろうか。  やましい気持がないわけではなかった。だが間崎も、そして遠藤も追いつめられていた。そのやましさに耐《た》えるように、遠藤はもう一度刺身を口にほうりこみ、冷えた酒を乱暴に喉《のど》に流しこんだ。 [#5字下げ]四  馬飼庄蔵は、中老屋敷の門内に消えた植村を見送ると、そのまま道の反対側にある寺門の下に入ってうずくまった。寺は蓮泉寺という曹洞《そうとう》宗の寺院で、藩から十石の黒印状をうけている古い寺である。門扉のうちは静まりかえって、檐下《のきした》の闇《やみ》にうずくまった庄蔵をとがめる者はいなかった。  今夜で三晩、庄蔵は植村弥吉郎をつけ回していた。だが斬ると心を決めたわけではない。気持がまだ、そこまでは踏みこんでいなかった。  遠藤から話を聞いて、遠藤が与している間崎派が、新しい大目付の出現に周章している事情はわかったが、庄蔵はおれにはかかわりがないことだと思っていた。悪いことをしているからあわてているわけだろうと思うだけである。  遠藤久米次にも、味方して人を斬るほどの義理があるわけではない。城中で役を持つと、例外なく道場から足が遠のくものだが、遠藤はその中でめずらしく時どき顔をみせ、先輩顔で小まめに世話をやいて行く。二年ほど前、道場を建て増ししたときにも、遠藤は古い門人の間に奉加帳を回して寄附をつのってくれた。そんなことで顔を見知っているというに過ぎない。  だが遠藤が、料理茶屋の小花でした話の中には、いくつか庄蔵の気持をそそるものがあった。  たとえば植村が、神部道場を訪ねて今泉と引きわけたということである。かなり剣に自信がある男らしいな、と庄蔵は思う。植村の無外流の剣に興味をそそられる。また遠藤がしきりに口にしたよそ者という言葉にも、庄蔵は気持がひっかかった。  遠藤の話を聞いてから、庄蔵は登城して来る植村を注意深く待ちうけた。大目付は毎日登城するということもなく、登城の時刻も一定ではない。だがそのつもりで見張っていたので、一度だけ城内で間近に植村を見ることが出来た。一度見ただけで十分だった。  ──なるほど、よそ者だの。  馬飼庄蔵が抱いた感想はそういうものだった。植村弥吉郎はさっそうとしていた。長身|白皙《はくせき》の、それだけでも目立つ男だったが、植村にはもっとはっきり、家中の者とは異質の水ぎわ立った印象があった。服装にも、威厳があるがやや取り澄ました感じの顔にも、さっそうとした歩きぶりにも、隙というものがなかった。これが江戸風というものかと、庄蔵は納得した。  家中にも風采の立派な男はいるが、植村とならべたら、やはり見劣りするに違いなかった。しかし、それで植村に好意を持ったわけではない。その男が庄蔵の気持の中に残したのは、むしろ淡い反感だった。  ──これで剣が強いと来ては、かなわんわけだ。  庄蔵は、取調べられてはまずいことがあるらしく、あわてている間崎家老や、番頭に同情した。  植村に対する反感は、起用した中老の山内に対する反感も呼び起こすようだった。庄蔵には興味がないことだが、遠藤の話を聞いたかぎりでは、山内は間崎につながる一派を藩政からしめ出して、自派で藩政の実権を握りたいと考えているらしかった。  旧弊を一掃して、清新な藩政を敷こうという意気ごみだろうが、それも一ときの話よ、と庄蔵は思う。年月経れば、その山内も汚れて来る。同じことの繰り返しで、どっちにころぼうと、それでわが家の扶持《ふち》が一俵でもふえるわけではない。  政治に対するその嘲《あざけ》りが、庄蔵に植村をつけ回すことを思いつかせたようだった。神部道場はまずいことをしたものだ、と庄蔵は思っていた。  今泉藤次郎は、植村弥吉郎を打ちのめして、国元にも人がいることを示すべきだったのだ。そうすれば、あの立派すぎて鼻もちならない男が、城中人もなげに肩で風切って歩くこともなかったろうに。  今泉が出来なかったのなら、おれがやってもいい、と庄蔵は思っている。だが、斬ることはなかろう。斬れば、遠藤の思うつぼにはまる。遠藤は、植村を斬らせたくてうずうずしていたが、言えばおれがそっぽを向くから言いかねたのだ。  馬飼庄蔵は、寺門の檐下にうずくまったまま、声を出さずに笑った。そして立ち上がると手をあげてのびをし、ついでに疲れた足を屈伸した。  一度、やつが肝《きも》をつぶすようなことを仕かけてやろう。それとも植村の剣は、おれが歯も立たないようなものなのか。  庄蔵の関心は、最後にはそこに落ちつく。植村の無外流の剣を見たかった。こちらが歯も立たないような剣客なら、キザな男だが、のさばらしておくしかない。遠藤も間崎家老も、気の毒だがあきらめるしかないというものだ。  山内の屋敷に灯のいろが動いた。庄蔵は檐下にいる身体をちぢめて、灯の動きを追った。灯のいろは、木陰にでも入ったらしく、一たんうすれたが、今度は門の潜《くぐ》り戸が開いて、提灯《ちようちん》をさげた男が路に出て来た。植村だった。植村は外に出ると、後も見ずに足ばやに歩きだした。  よほど腕に自信があるらしく、植村はいつも一人だった。その黒い背を見送り、中老屋敷の潜り戸が、軋《きし》る音を立てて閉まったのを見きわめてから、馬飼庄蔵も路に出た。  庄蔵は、十間ほど先を行く植村のあとを、黙黙とつけて行った。もう四ツ(午後十時)を回ったはずで、町は人通りもなく暗かった。ただ星あかりで、足もとはわずかに白い。  遠くに小さく灯のいろが見えて来た。代官町の手前にある三ノ曲輪《くるわ》入口の木戸の明かりらしかった。庄蔵は少しずつ、前を行く植村との間隔をつめて行った。  突然植村が立ち止まった。振りむくと提灯をかかげ、足をとめた庄蔵の顔を確かめるように見た。 「間崎の刺客か」  と植村が言った。おだやかな声だったが、眼は鋭く庄蔵を注視している。 「いや、違う」  と庄蔵は言った。植村は低い笑い声を洩《も》らした。 「違うと! しかし貴公、わしのあとをつけるのは、たしか今夜で三晩になるだろうが……」 「そうだが、刺客ではない」 「おかしなことを言う男だ」  植村は目の前にいるのが、城中に聞こえた偏屈者だということを知らなかった。不用意に嘲る笑い声を立てた。 「見え透いた言いのがれはやめろ。刺客でもないものが、深夜に何でわしのあとをつけるか? みればれっきとした家中のようだ。まさか物盗りというわけではあるまい」 「………」 「わしは間崎の刺客など恐れてはおらん。いつでも受けて立つぞ」  傲然《ごうぜん》とした口調だった。庄蔵は胸の中に、いつもの馴染《なじ》み深いものが動くのを感じた。動くものは、庄蔵の胸の中をゆっくり移って行って、ふだんの在り場所とは違う、しかし元来はそこにあるのが本当ではないかと思われる居心地のいい場所に、しっくりと納まった。  履物をぬぎ捨てて、庄蔵は言った。こういうとき、庄蔵の声は滑らかに口を出る。 「では、お言葉どおり刺客ということにしていただこうか」 「ふむ」  植村は庄蔵の足くばりにじっと眼をとめた。それから不意に驚愕《きようがく》した表情で、庄蔵の顔を見直したが、すぐに自分も履物をぬぎ、灯を消して提灯を捨てた。  ほとんど同時に、二人は刀を抜いた。しばらく動かなかったが、やがて星あかりにおぼろにうかぶ相手を確かめるように、二人は少しずつにじり寄って行った。 [#5字下げ]五  草履《ぞうり》を片方、さがしても見つからず置いて来たが、家に帰りつくまで人には会わなかった。植村の剣はさすがに鋭く、あちこちに手傷を負ったが、素世に手当てさせて医者は呼ばずに済ませた。城にも休まずに行った。御旗組は詰所にじっと坐っていればよい。昼過ぎになって熱が出たが、同僚には風邪だと偽った。熱は一夜でさがった。  ひょっとしたら露われずに済むかも知れない、と馬飼庄蔵は思ったのである。  だが期待をかけた大目付を暗殺された山内派の調べは、執拗《しつよう》できびしかった。中老の山内は、自派の物頭《ものがしら》三宅《みやけ》勘十郎を大目付に推し、強引に間崎以下の家老たちの承諾をとりつけると、大目付、町奉行の両役職を動かして、植村弥吉郎暗殺の一件を洗いはじめた。  植村は無外流の剣士でもあった。山内は、その植村を暗殺するほどの腕を持つ家中の氏名を残らず書き出したらしく、庄蔵も一度大目付屋敷に呼ばれて取調べをうけた。  そのときの調べで、山内が城下の医者、薬種屋にのこらず手を回し、また残っていた草履片足を持たせて、履物屋を回らせていることがわかったが、庄蔵はそういう調べが自分におよんで来ることはあるまいと思っていた。履物は、ふだんは下駄履きである。草履は、二年ほど前に素世が外から買って来たものだが、庭の草花を手入れするときなどに使い、古くなっていた。  だが調べは意外な方角から来た。二月ほど経ったころ、庄蔵はもう一度大目付の屋敷に呼ばれた。呼び入れられた部屋に、年若い小坊主がいた。 「よくみろ。この男か」  と大目付の三宅は小坊主に言った。庄蔵は小坊主の顔を見返した。そしてあることを思い出して、少し顔色が変った。  植村を斬った夜ではなく、その前の夜、庄蔵はやはり蓮泉寺の寺門の下にうずくまって、植村が中老屋敷から出て来るのを待っていた。そのとき突然に路上を明かりが近づいて来るのに気づいて、庄蔵は寺門の一番深いところ、潜り戸のそばにへばりつくように身体を寄せた。  寺の門は、通りから二間ほど奥にひっこんでいて、浅い石段で道より高くなっている。路を通りすぎる人間を、そこでやり過ごそうとしたのだが、明かりは急に曲って寺門に入って来た。  提灯の明かりに照らされて、庄蔵は避ける間もなく、灯を持った人間と顔をあわせた。それがいま大目付のそばにいる小坊主だったのだ。そのとき庄蔵は、さりげなく門をはなれて路に出たのだが、小坊主は庄蔵の顔をおぼえていたらしかった。  顔色が変った庄蔵をみながら、小坊主は少しおびえた表情で、このおひとに間違いありませんと言った。三宅は小坊主を部屋の外に出し、かわりに配下の者を二人部屋に呼び入れた。  屈強な身体つきの配下二人は、逃亡をふせぐように庄蔵のうしろに回って坐った。万事休したと庄蔵は思った。 「貴様にやられる前の晩にだ。植村どのは屋敷にもどると、家の方に今夜も刺客につきまとわれたと話したそうだ」 「………」 「しかし何だな。わしは植村どのの傷を改めたのだが、馬飼の不伝流は大したものだの」  三宅は感心したように言ったが、すぐに顔色を改めた。 「さあて、少し問いたださねばならんぞ。その刺客というやつだが、誰に頼まれた?」  三宅勘十郎の訊問は峻烈《しゆんれつ》をきわめたが、庄蔵は自分の一存でやったと答えるしかなかった。事実誰に頼まれたわけでもなかったのだ。三宅はきびしく問いつめて来たが、強いて庄蔵と間崎派を結びつけるようなことはしなかった。  庄蔵は一たん家にもどされ、即日、追って沙汰《さた》があるまで閉門という処分をうけた。屋敷の周りには藩の手で竹矢来《たけやらい》がめぐらされた。喰い物をもとめるために、妻の素世だけが見張りにことわって外に出ることを許されたが、外とのつながりはそれだけで、夏が終ろうとする日日を、夫婦は鶏のように竹矢来に隠された家の中で暮らした。  ある日素世が、声をひそめて言った。 「わたくしから申しあげるのはさし控えて参りましたが、間崎さまのお助けは、あてにはなりませんのですか?」 「それは、あてに出来ん」 「なぜでございます?」  素世は、膝頭がくっつくほど夫につめ寄った。 「植村というおひとのことは、間崎さまと山内さまのお争いから起きたことだと、このあたりではもっぱらの噂でした。わたくしはお前さまが間崎さまにお味方したものとばかり思っていましたが、違いますか?」 「世間ではそう申すが、実情は違う。わし一人でやったことよ」 「なぜ、そのような……」  と言ったが、素世はそこで絶句した。考えてみれば夫はこれまで、ずっと理屈に合わないことばかりやって来たのである。  近習組、御納戸と城内の勤めがつづいていたのに、まわりと合わず、ついに外勤めの多い普請組に回されたとき、上役があわれんで庄蔵を役につけようとした。小頭《こがしら》になれば手当てがつく。だが庄蔵は家にもどってその話をし、あわれみはうけぬとことわったと、得得と話したのをおぼえている。塀ぎわの白木蓮が見事だと、近所の者がほめたと言ったら、庄蔵は夜の間に、残らず花をむしり取って捨てた。  そもそもが美しい姉をめとらずに、自分のように醜貌の女をえらんだ夫である。その夫が、今度だけは理屈にかなったことをやったと考えた自分の方がおかしい。素世はそう思いながら、ひげがのびて物乞いのようにやつれている夫の顔をじっと見つめた。 [#5字下げ]六  追って沙汰すると言った、城中からの沙汰がもたらされたのは、秋も半ばにさしかかった九月中旬の夜だった。  使者は徒目付《かちめつけ》の田原勝右エ門と、馬廻《うままわり》組の奥富|初之丞《はつのじよう》の二人だった。田原は一刀流をおさめて若いころ名を知られた人物で、奥富は城下で去水流を指南する小さな道場で、師範代を勤めている。まだ二十二の若者ながら、精妙な剣を遣う剣士として知られている。この二人を使者にむけて来たところに、馬飼庄蔵に対する城側の用意があらわれていた。  田原は、四十を過ぎている温厚な藩士である。髪を束ね、口をすすぎ、衣服を改めて二人の前に出た庄蔵に、田原は沙汰が遅れたのは、庄蔵の一件と藩内の派閥争いの間に、かかわりがないかどうかを究明するのに手間どったためだが、その事実はない旨判明したと言った。淡淡とした口調だった。  田原が話している間、奥富は無言のまま庄蔵を凝視していた。刀は左膝わきに置かれている。いつでも抜ける支度をしておる、と庄蔵は思った。  田原は、やがて形を改めると、懐から沙汰書を取り出して、庄蔵に示した。 「お上よりご沙汰がくだった。うけたまわれ」  田原は、世間話をするようだったさっきの口調とは声音も変って、きびしくそう言うと、沙汰書をひらいて読み上げた。  閉門を解き、切腹を命じるという申し渡しだった。 「相わかったな。介錯《かいしやく》は奥富がつとめる。いさぎよくうけたまわれ」 「いや」  と庄蔵は言った。庄蔵は頭をあげると尻をわずかに動かして、足の指を内側に曲げた。手をつかえたままだったので、庄蔵の姿は蟇が這《は》いつくばっているようにみえる。 「その前に、いま一度お取調べを願いたい。植村どのを斬った一件は、間崎家老にかかわりがござる。それがしを、いま一度大目付の前に引き出して頂きたい。申しあげることがある」 「何を申すか」  田原は鋭い眼を庄蔵にそそいだ。 「そのことはさきほど申し聞かせたとおり、かかわりなしと判明しておる。さきに行なわれた大目付の調べに、貴様も同様に答弁しておるではないか」 「………」 「見苦しい真似《まね》をいたすでないぞ、馬飼。お上のご沙汰じゃ。神妙にうけたまわれ」 「いや、このままはうけたまわらぬ」 「うけたまわれ、馬飼」  田原は叱咤《しつた》すると同時に、肩衣《かたぎぬ》をうしろにはねた。だが庄蔵に斬りかかったのは奥富初之丞の方がはやかった。  奥富は、上意とひと言告げると、片膝を立てて抜き打ちに庄蔵に斬りかかった。坐ったまま、庄蔵は捩《よじ》るように上体をかたむけて、奥富の迅《はや》い剣をかわした。そしてかわされて前に傾いた奥富の胸を、眼にもとまらぬ小刀の動きで刺していた。蟇は死んで動かない虫は食さないという。庄蔵も、奥富初之丞が動きを起こすのを待っていたのである。庄蔵の剣は、さながら鈍重な蟇が一閃《いつせん》の舌先で翔《と》ぶ虫を捕えたのに似ていた。  奥富の身体が音立てて前にのめった。次の瞬間、庄蔵と田原ははじかれたように立って、剣を構えていた。  素世は台所に坐ったまま、座敷の方から夫と城から来た使者が高声に争う声を聞いた。うけたまわれ、うけたまわらぬと言ったようである。つづいて何ごとかはげしい物音がつづき、その間に、玄関から座敷まで、人が駆け抜けて行った足音も耳にした。  そして、やがて静寂がおとずれた。その静けさは、素世の心を凍らせた。素世は顫《ふる》える足をはげまして立ち上がると、台所を出て座敷に行った。  行燈《あんどん》の光の中に、血刀をさげた夫が立っていた。死体が三つ、部屋の中と廊下の板敷にころがっていた。二人はさっき城から来た使者で、一人はいつも門前にいる見張りの男だった。  立ちこめている血の匂いに、素世は身体が顫えた。すると夫が振りむいて、素世に言った。 「わしを罠にかけたやつがおる。これから打ち果しに行く」  夢見るような表情をうかべていた夫の顔に、そう言ったとき、これまでついぞ見たことがなかった、悲しげないろがうかんだのを素世は見た。素世は黙ってうなずいた。うなずくことぐらいしか、夫にしてやることがないのを感じていた。  夫は部屋を出ようとしたが、戻って来ると素世の肩にそっと手を置いた。 「そなたを嫁にもらったのも、わしの偏屈のせいだと言う者がいたが、あれはちがうぞ。わしはそなたが気に入って、夫婦《めおと》になったのだ」  達者ですごせ、というと馬飼庄蔵は足ばやに部屋を出て行った。  素世は座敷の灯を消して、台所にもどった。ほの暗い台所の板敷に坐ると、とめどもなく涙があふれて来た。 [#改ページ] [#1字下げ] 好色剣流水 [#5字下げ]一  御供目付志賀善八の屋敷から、謡《うたい》の声が洩《も》れて来る。  ──この世はとてもいくほどの、命のつらさ末近し、はや立ち帰り亡きあとを、弔いたまえ盲目の……。  曲は景清《かげきよ》の一節らしい。同じところを、それも大勢の声で繰り返し朗唱しているのは、謡の稽古《けいこ》をしているのだ、と塀外を行く者は耳にとめながら通りすぎる。梅雨《つゆ》もよいの暗い空の下に、志賀家の鬱《うつ》うつと茂る樹木が、塀の外まで顔を出していて、謡の声は遠く籠《こも》って聞こえる。 「三谷」  不意に謡の声をとめて、志賀家の隠居平右エ門が呼んだ。にがい顔をしている。 「なにをそわそわしておる。みておると、さきほどから少しも稽古に身が入っておらんではないか」 「は、恐れいりまする」  咎《とが》められて赤面したのは、三谷助十郎である。長身、白皙《はくせき》で、若いころはさっそうとした男ぶりと井哇《せいあ》流の遣い手で知られた男だが、ただし三十を半ば過ぎたいまは、むかしの美貌《びぼう》にもいささかくたびれが来て、また剣名のかわりに奇妙な噂《うわさ》に包まれている人物である。三谷助十郎は家中《かちゆう》きっての好色な人物ということになっている。 「は、じつは……」  三谷は赤面したまま、ややうろたえた口調で言った。 「それがし、これより人に会う約束がございまして、その時刻が少少気になりまして」 「それなら、はやく申せばよかろう」  平右エ門は、隠居するまで長く物頭《ものがしら》を勤めた人物で、六十を過ぎたいまもまだ矍鑠《かくしやく》としている。若いころから謡の名手として知られ、藩で祝いごとがあると、よく藩主の前に呼び出されて、朗朗と謡を披露した。  その声がひびいて来ると、城中|寂《せき》として音を絶ったと噂されたものだが、致仕《ちし》したあと、家中の者に乞われるままに、日を決めて謡を教授していた。 「そうきょろきょろされては、気が散っていかん。約束があるなら、早めに去《い》んだらよかろう」 「は、それでは途中失礼ながら……」 「約束の相手は女子《おなご》かの?」  謹厳な平右エ門がそう聞いたのは、やはり日ごろの助十郎の噂を耳にとめているのだろう。  謡の稽古に来ているのは、助十郎のほかに六、七人で、これが常連だった。隠居の言葉を聞いて、男たちはどっと笑った。 「とんでもござりませぬ」  助十郎はいっそう赤面して、平右エ門に頭をさげ、それから自分を笑った男たちをじろりと見た。 「会うのは、松野の伯父《おじ》でござります」  しかし隠居部屋を出ると、三谷助十郎は懐紙を出して、額と首筋の汗を拭《ふ》いた。  隠居部屋は、一間半ほどの短い渡り廊下で母屋とつながっている。助十郎は廊下を渡り、平右エ門の妻女や当主の善八の妻女がいる、母屋の茶の間に顔を出して挨拶《あいさつ》すると、いそいで志賀家の玄関を出た。  門の潜《くぐ》り戸から、外に出る。だが歩き出そうとはしないで、助十郎は番傘を持ったまま、人待ち顔に道の左右を見わたした。  空は相変らず厚い雲に覆《おお》われて、いまにも雨が降り出しそうだった。じっさいに日暮れ近い武家町の道には、ほの白い霧のようなものがただよっていて、細かな雨でも降っているかと見える。だが手を出してみると、それは雨ではなかった。昼の間の温気が、やや冷えて来た空気に冷やされて、うすい霧を吐きだしているのである。  その霧のために、両側に塀がつづく武家町の道は、いっそううす暗く見えた。人影は見えない。背後の門の内から、また謡の声が聞こえて来た。  ──評判が大げさに過ぎる。  助十郎は、遊びに疲れた町家の若旦那といった感じの、ややしまりを欠いた男前の顔に、にがい表情をうかべた。  好色の評判をとった理由はわかる。助十郎は二度妻を娶《めと》り、二人とも離縁している。そのあと助十郎の暮らしは少し荒れて、染川町の娼妓と馴染《なじ》んだり、また血のつながりはないが、遠縁にあたる家の若後家との間に浮名が立ったりした。  ことに遠縁の後家との一件は、親戚《しんせき》の間で大問題となり、助十郎は一族の会議の席にひっぱり出され、さんざんに罵《ののし》られたあげく、いまだに親戚づき合いを断たれたままである。藩中きっての好き者のような評判が立ったのは、このときの親戚の大さわぎが原因だと助十郎は思っている。  ──しかし、いずれもしかるべきわけがあったのだ。  二人も妻を取り換えたのは、はじめの妻は、そのころまだ達者だった母親とそりが合わず、自分から去って行ったのだし、二番目の妻は美貌と家柄を鼻にかける驕慢《きようまん》な女子だった。つまり家風に合わなかったのだ。あのような女子を妻にして喜んでいる男がいたらお目にかかりたい。いや、そういう男もいるかも知れぬが、不肖《ふしよう》三谷助十郎を、そういう男と一列に論じてもらっては困る。  藤川の後家と懇《ねんご》ろになったのも、わけがある。後家の亭主藤川惣六は、親戚の中でもっとも気の合ったつきあいをした男だが、惣六が急死したあと、親戚の者は寄ってたかって後家を藤川の家から出して、他家にかたづけようとした。後家を通すには若過ぎるというのが理由だった。  だが、後家の本意はそうではなかった。子供を頼りに、藤川の家に残りたかったのだ。そういう後家の気持を汲《く》んで味方したのは、おれひとりだった。そうして頼られて相談に乗っているうちに、おのずと情が移ったのだ。胡乱《うろん》なもくろみがあって近づいたわけではない。  ──臼井の妻女と妙なことになったが、あれもおれからあの女子を惑わしたわけではない。  助十郎はついでに、まだ世間に気づかれていない、同僚の妻女との密事についても、心の中で弁解した。  助十郎も臼井彦助も、無役の平藩士である。禄高はともに五十石。月に一度城に登って、番頭《ばんがしら》の指揮下に入り、まる一昼夜藩主の御判物《ごはんもつ》を収めてある長持の警固と、城中の取締りにあたる。  彦助とは、格別|昵懇《じつこん》にしているわけでもないが、そういうわけで笄《こうがい》町にある同じ組屋敷に住んでいた。ある夜、彦助の妻女がたずねて来て、上にあげるといきなり泣き出した。夫に内緒で、町で借りた高利の借金の返済を迫られ、毎日死ぬ思いで暮らしている、と妻女は打ち明けた。金を借りに来たのである。  助十郎は女の涙に、ことに弱い男である。妻女をなぐさめ、言われるとおり金を貸しあたえた。すると彦助の妻女がいきなりすり寄って来て、こう言ったのだ。 「臼井は今夜、御番で城泊りでござります」  彦助の妻女は、子供を三人も生んだ大年増《おおどしま》だが、どういうわけかいつまでも若わかしく、顔と肌の照りは、まるで二十過ぎの娘にしかみえない。  その女が、さっき一度泣いたために、いっそうきらきらと光る眼で、思いつめたようにすり寄って来るのをみれば、助十郎ならずとも手を出さずにはいられない。悪いことに、その夜は住みこみのばあさん女中が、実家に帰っていて留守だった。そこも見はからって来たかな、と気づいたのは万事終ってしまったあとだった。  ──その金も、まだ返してもらっておらん。  助十郎は、憮然《ぶぜん》としてそう思った。臼井の家内は、そのあと助十郎と顔があうと、にっこり笑ってしなをつくりはするものの、金のことを言い出す様子はない。そうかといって、あの折りの金はどうした、とはいかにも言い出しにくいのだ。  助十郎としては、利息を先払いしてもらった気分だったのだが、先方はひょっとすると、あれで元金まで残らず支払ったつもりでいるのかも知れなかった。  ──これで、好き者などと評判されては、割があわん。  金と身分に物言わせて、女色を漁《あさ》っている連中は、ほかにいくらもいる。物頭《ものがしら》作間甚兵衛が、下役某の後家の家に通いつめ、妾《めかけ》同然に扱っていることは周知の事実だし、染川町尾花屋の名妓おるいが突然に姿を消したと思ったら、組頭の中根主膳が手折《たお》って妾に囲ったのだということも、家中に知れわたっている。また郷目付の矢部権太夫にいたっては、役目をかさに着て……。  しかし、と助十郎は不意に思った。ここにこうして立って、あのひとを待っているおれは、そも何者だ? 人のことは言うまい。 [#5字下げ]二  霧が湧《わ》いている路上に、そのひとの姿が見えていた。人影はまだ遠く、塀の内に茂り合う樹木にはさまれ、迫る暮色につつまれて、路はほの暗い。だが、助十郎の眼が見あやまることはなかった。近づいて来るのは、そのひとだった。  そのひとは、ちらと助十郎に眼を投げた。軽く会釈した。微笑したようでもある。そして眼の前を通りすぎて行った。足どりは変らなかった。  茫然《ぼうぜん》と、助十郎はうしろ姿を見送ったが、そのひとの姿が数間離れたころ、ようやく志賀家の笠門の下を出た。そのまま、近づきすぎぬよう、また離れすぎないように、足どりをあわせて後をつけて行く。  卑しくないほどに、しかしよく稔《みの》っている臀《しり》。小さく蹴《け》る裾から、わずかにこぼれる白い足首。やわらかい撫《な》で肩は、その陰に隠されている豊かな胸を思わせる。助十郎はそのうしろ姿を、息を殺して見つめながら歩いて行く。  志賀家の近くで、そのひとを見かけたのは、ひと月半ほど前である。いまはそのひとの身分も名前も、また志賀家と同じ代官町のうちに実家があって、病気の実母を見舞いに五日に一度の割合いで代官町に通っていることもわかっている。  そのひとは商人町を二つ横切り、つぎに百石以上の家中屋敷が並ぶ左内町に入って行った。助十郎が住む笄町とは方角違いである。  そのひとは、やがて長屋門のある屋敷の前に来ると、不意に身体《からだ》を折って潜り戸を入って行った。助十郎を振りむきもしなかった。助十郎の眼には、潜り戸を入るときに、一瞬あらわに見えた腰の丸味が残っただけである。潜り戸を閉めた音も聞こえなかった。  門の前を、助十郎はゆっくり通りすぎた。屋敷の主は、百五十石で近習頭取を勤める服部弥惣右エ門。服部は猛之助といった若いころは、一刀流の寺内道場で師範代を勤めたことで知られる人物である。いま屋敷に入って行ったのは、服部の妻女|迪《みち》。服部は四十で、迪は二十四と齢《とし》がひらいているのは、迪が後妻に入ったからである。  ようやく暗くなって来た左内町を、組屋敷がある町の方角に抜けてから、助十郎は不意に憑《つ》き物が落ちたように、太い吐息を洩らした。助十郎は、迪の後をつけたことを、誰かに見られはしなかったかと、うしろを振りむいたが、歴歴の家中屋敷がならぶ町は、ひと気もなくひっそりしていた。  さっきまでざわめいていた血が、少しずつ静まり、そのあとにはじめて迪の後をつけたときに感じた、悲哀に似た感情がやって来た。うらがなしいその気分の中で、自分の卑しさがよく見えた。  ──まるで、犬じゃな。  さかりのついた犬が、舌を垂らして牝犬《めすいぬ》を追いかけた図だと思った。  だが、そう自分を卑しめながら、助十郎の気持の中には一点の歓びがひそんでいる。今日あのひとは、おれを見てはじめて笑ったなと思ったのだ。  それは嘲笑《ちようしよう》だったかも知れない。いい年の男が、さながら思い人を待ち伏せる若者といった恰好《かつこう》で、志賀家の門前であのひとが来るのを待ち、ついには屋敷まで後をつけたのだ。あのひとは、おれの顔に浮かんだ讃嘆のいろを見たに違いない。女は男の讃嘆をめったに見のがしたりはしないものだ。だが三十男の讃嘆は、多分痴愚の表情にも似ていたはずだ。あのひとは笑わずにいられなかったろう。  だがひょっとしたら、あの笑いは許容だったかも知れないのだ。あのひとが、このおれを三谷助十郎だと知っていることは、まず間違いない。無視はせず、会釈して過ぎるのがその証拠だ。笑ったのは、あなたが何を考えているかぐらいは承知していますよ、という暗黙の許容だったとは考えられないか。  ──のぞみが出て来た。  助十郎は暗い道を、胸を張って歩いた。のぞみといっても、助十郎は、歴歴の家の奥のひとをものにしようなどと大それたことを考えているわけではない。そういう点では、おれはつねに世間に誤解されている、と助十郎は思う。  いま助十郎の念頭にあるのは、何かの機会に恵まれて、迪とわずかでも話をかわすようになればいいということぐらいだった。折しも梅雨どきである。急な雨でもあって、あいにくに迪に傘の用意がなく、おれが傘をさしかけて、思わぬ道行になるなどということがあれば言うことはないと、助十郎はせいぜいそのあたりまで妄想してみるだけである。  そう思って、志賀の隠居に謡を習いに行く日は、降っていようが照っていようが番傘を手にして行く。その用意も、いまのところ役立ってはいないが、助十郎は服部の妻女がみせた微笑に、うまい解釈がついたのに勇気づけられ、小道具の傘を抱いて家にもどった。  家の前まで来て、ひどく空腹なのに気づいた。中に入ると、本家の松野の家のひとになっている、姉の千寿が来ていた。 [#5字下げ]三 「やあ、姉上」  と言ったが、助十郎は坐る前に台所をのぞいて、女中のしげばあさんに、腹が空いた、飯を出してくれぬかと言った。 「まるで昼飯を召し上がらなかったひとのようね。どうしたのですか?」  挨拶がすむと、姉は笑いながら言った。 「昼飯? そうそう。今日は志賀さまに参る前に、道場に寄る用を思いつきましてな。昼飯をいただくひまがござらなんだ」  それは嘘である。服部の妻女迪は、実家に行くときは昼飯を早く済ませるらしく、時刻が九ツ(十二時)をまわるとじきに屋敷を出る。  五日に一度と見当はついているが、助十郎は迪が出かけるところを確かめずにいられない。まさか昼日中から志賀家の門前のあたりで、迪を待ちうけるわけにもいかないから、助十郎は早めに左内町まで行って、遠くから迪が門を出て代官町にむかうのを確かめる。そのときから助十郎の頭の中は、その日の首尾のことでいっぱいになり、飯どころではなくなるのだ。 「今日はなにか、お話でもござりましたか?」  しげが運んで来た膳《ぜん》にむかいながら、助十郎はたずねた。 「鹿乃どののことですよ」  唐突に姉は言った。助十郎は箸《はし》をとめて、姉の顔を窺《うかが》った。鹿乃は、死んだ母親とそりが合わず家を去った、最初の嫁である。 「鹿乃がいかがいたしましたかな?」 「話はあとでよいから、さきにご飯を召し上がれ」  姉の千寿はそう言ったが、さっきしげが入れ替えて来たお茶をひとすすりすると、自分から話し出した。 「鹿乃どのが、あの後、禰宜《ねぎ》町の坂本にかたづかれたことは、知っておりましょう?」 「はあ、人づてに聞きました。その後うまくやっとりますかな」 「それが、あなた」  姉は茶碗を下に置くと、片手を胸にあてて驚いたというしぐさをした。 「あのひとも男運のうすいひとというか、二年前に、また実家にもどっているのですよ」 「ほう、それは」  と言ったが、助十郎は黙って漬け物を噛《か》み、別れた妻の男運について、感想をのべることはさしひかえた。母親とそりが合わないだけで、夫婦仲が悪いというわけでもなかったが、言うままに去らせた。その時の悔恨がかすかに胸に残ってはいるが、なにしろむかしの話だ。別れてかれこれ十年にもなる。 「どうであろ、な? 助十郎どの」  姉は自分も考えこむように、しばらく口をつぐんでいたが、助十郎の飯がそろそろ終りに近づいたのを見てとると、また言った。 「一度、鹿乃どのと会ってみられたら、どのようなものであろ」 「ばあさん、お茶くれ」  助十郎は、台所に声をかけてから、膳をどけて姉に向き直った。 「会って、どういたしますか?」 「そなたも、もはや三十六」 「三十五ですぞ」  と助十郎は訂正した。 「五だったかの。ともかく三十五にもなってじゃ。嫁もない、子もない。これでは三谷の家は行末どうなるのかと、日ごろ心配でなりませぬ」  と姉は言った。姉の千寿は、助十郎より三つ年上だが、十五のときに本家の松野瀬左エ門の養女となった。松野家は二百石を頂き、瀬左エ門は長年郡代を勤めた家だが、子が生まれなかった。松野家では最初助十郎をのぞんだが、そのころはまだ元気でいた父親が、がんとして譲らなかったので、やむなく千寿を養女にし、婿《むこ》をとったのである。  千寿はいま、四人の子持ちで、若いころは華奢《きやしや》な身体つきの娘だったのに、いまは見違えるほど太っている。二百石の家の妻女らしい貫禄がそなわっていた。 「一度会ってみてな」  と姉は言った。 「鹿乃どのに、もしその気があるようだったら、この家にもどってもらったら、どのようなものであろ」 「………」 「あのひとが、この家を去ったわけは、わたくしもよく承知しています。母さまもわがままなおひとでしたからの。鹿乃どのが気の毒でなりませんでしたよ」 「しかし、どうも……」  と助十郎は、しげが運んで来た茶を口に運びながら言った。 「一度去った女子を、また家に迎えるというのは、世間体から申しても、ちと……」 「世間体?」  姉はきっと背筋をのばして、弟を見た。 「あのな、助十郎どの。世間でそなたをどう申しているか、ご存じですか」 「………」 「ご存じないとは言わせませんよ。聞くもおぞましい噂をよそに、いったいいつまで、ぶらぶらと一人暮らしをつづけるつもりですか」  姉は声も姿勢も、死んだ母に似て来た。助十郎はあわてて手を振った。 「姉上、それはとんだ誤解」 「なにが誤解ですか」  千寿はますますいきり立った。 「そなたは一ぺん、一族の顔に泥を塗りました。松野の養父《ちち》は、もうそなたにはかまうなと申しておられますよ。もっともな話です。しかしわたくしも三谷の家の者、近ごろのそなたの暮らしようを、黙ってみているわけには参りません」  助十郎はひやりとして姉の顔を見た。まさか服部の妻女の後をつけたことや、臼井の家内のことがあらわれたのではあるまいなと思って、姉の表情を窺ったが、そういうことではないらしかった。  姉の顔に浮かんでいるのは、単純な憤慨のいろである。助十郎は殊勝に首を垂れた。 「ご心配をかけ、申しわけござらん」 「身内の者の身にもなってみることです」  と言ったが、姉の声はさっきよりやわらいだ。もともとこの姉は助十郎に甘いのだ。 「三十六のそなたに、どのような嫁があるかと、いろいろ思案しました。二度も嫁と別れ、そのうえよからぬ噂のあるそなたに、まず初婚の嫁はのぞめません」  三十五だと訂正しようかと思ったがやめて、助十郎は神妙に相づちを打った。 「ごもっともです」 「一度不縁になったひとで、心ばえよろしい方はいないかと、ひそかにさがしていたところ、鹿乃どのが実家にもどっていることが知れました」 「はあ」 「これも何かの縁とは思いませんか、助十郎どの」  姉は自分の発見に、自分で感動している様子だった。助十郎は、べつにそれほどの縁とも思わなかったが、さからわずに答えた。 「なるほど、そうかも知れませんな」 「一度鹿乃どのと会ってみなされ。段取りはわたくしがつけます。二人とも大人同士、というより、もとは夫婦《めおと》の仲。会って話してみるのが、一番ですよ」  助十郎がさからわないので、姉は機嫌を直したらしく、口に手をあててくっくっと笑った。 「助十郎どの、あのな」 「何です?」 「黙っていて会わせようと思ったのですが、言ってしまいます。じつはわたくし、鹿乃どのにお会いしました、ついこの間」 「………」 「そなたも驚きますよ。鹿乃どのは、むかしよりずっとおきれいになりました。それはもう、別人のよう」  ふむ? 心の奥底で、好色の血がむくりと動いたのを助十郎は感じた。鹿乃が嫁入って来たのは十七のときである。そして一年半足らずでこの家を去ったのだ。顔色が悪く、痩《や》せてひ弱な女だった。床の中でも苦痛だけをうったえて、歓びをしめさなかった。その女が、よその家に嫁して、女の花を開いたというのか。 「では」  と助十郎は言った。 「仰せにしたがって、一度会って見ますかな」 「急に、現金な」  姉は機嫌よく助十郎をにらんだ。 「でもな。むかしの嫁なら、養父もよけいなことをしたとは申されまいし、八方うまく運ぶ気がいたしますよ。そのつもりで、お会いしてみたらどうですか」  笄町の角にある駕籠《かご》屋まで姉を送り、駕籠賃を奮発して見送ると、助十郎は家にもどった。  すると、後を片づけていたしげばあさんが言った。 「旦那さま。松野のご新造さまは、ご縁談を持っていらっしゃったので?」 「縁談というほどのものじゃない」  助十郎は苦笑いして言った。 「ばあさんも知っているはじめの嫁な。あの鹿乃がもどって来るかも知れんのだよ」  そう言ったとき、助十郎の脳裏に、不意にくっきりと服部の妻女迪の姿がうかんで来て、あたかもそのひとが、きれいになったという鹿乃そのひとであるかのような錯覚が助十郎を襲って来た。 [#5字下げ]四  万事かたくるしい姉にしては、粋《いき》なはからいをしたものである。姉が鹿乃と会うように手配りした場所は、染川町の奥にあるあかね屋という料理屋の一室だった。  梅雨の中休みで、その日は一日中|灼《や》くような日射しが町の上に照りつけたが、助十郎があかね屋に着いたときには、日射しはようやく衰えて、西に傾いていた。  鹿乃は先に来ていた。庭が見える縁側のそばまで出て、うちわを使っていたが、助十郎をみると、居住いをただして挨拶した。 「おひさしぶりでござります」 「やあ、ひさしぶり」  と言ったが、助十郎はついて来た女中に酒を命じると、どかりと坐って鹿乃を手で招いた。 「かたくるしい挨拶は抜きにしよう。こちらに来て話さぬか」  だが鹿乃は、助十郎がそう言っても、すぐには寄って来なかった。坐っている場所から、助十郎を見つめながら、落ちついた声で言った。 「少し、お変りになられましたな」 「わしか? 当然だ。あれから十年経っておる」 「お噂は聞いておりましたよ」  と鹿乃は言った。出鼻をくじかれたような感じで、助十郎はむかしの妻を見た。  鹿乃は頬《ほお》に目立たないほどに肉がつき、肩や胸のあたりにも、むかしは見なかったほどのよい丸味が出ている。黒く張った眼、うすく紅を刷《は》いた唇にも、姉が言ったように開ききった女の花があらわれている。化粧が厚いようだが、鹿乃が女の豊熟をむかえているのは間違いない、と助十郎は鑑定した。  そして、むかしはうつむきがちに暮らしていた女が、いまは光るような肌をして、臆《おく》せずに助十郎を見つめながら、物を言っていた。自分のうつくしさを知っているのだ、と助十郎は思った。 「ふむ、何の噂か」  助十郎が、何となく鼻白む気分でそう言ったとき、女中が膳を運んで来た。 「ま、一杯いこうではないか」  気を取り直すように、助十郎は陽気な声を出した。たかがむかしの女房、それも勤めかねて出て行ったいくじのない女に会うつもりで、気軽に出かけて来たのだ。  だが鹿乃は、懐かしがってすり寄って来るどころか、何となく遠くから助十郎を見定める気配でもある。助十郎は興ざめする思いだが、それを顔に出したのでは、何のためにここに来たかわからぬ、と思い直していた。鹿乃の思いがけないうつくしい変りように、少なからず気をそそられてもいる。  飲めなどと言ったら、また何か言うかと思ったら、鹿乃は案外に素直に立って来て、助十郎に酌をした。そして助十郎がさす盃を、さからわずにうけて飲んだ。そうしたしぐさに、どこか物馴《ものな》れた感じがあって、助十郎はおやと思ったが黙っていた。 「異な気分だ」  しばらくして、助十郎は言った。 「別れたそなたと、こうして酒を酌むことになるとは、夢思わなんだな」  助十郎としては、感慨をこめたつもりである。事実少少酒がまわって来ると、おのずからそういう気分になった。だが鹿乃は、助十郎の言葉には乗って来なかった。うつむいて、かすかに笑ったようである。  助十郎はテレて、少し乱暴に言った。 「坂本の家は何で出たのだ?」 「酒でございますよ」 「酒?」 「飲むと荒れるひとでした」 「そうか、それはいかんな」 「飲まないときは、よいおひとでしたのに」 「ふむ。そういうてあいは、ふだんは好人物と相場が決まったものだ」  相づちを打ちながら、助十郎はだんだん気分が索然として来る。よりを戻そうかと思う女と酒を飲みながら、なにも女の別れた亭主の話をすることはないのだ。  ──どうも、うまく行かんようだな。  助十郎はそう思いはじめていた。会えば何とかなるだろうと姉が言い、自分もそのつもりで来たのだが、会って、かえって二人の間に立ちはだかっている牆《かき》が見えて来たようだった。  この女は他人だ。姿、形が変ったように、鹿乃はこの十年の間に、中味も変っている。  ──いや、待てよ。  そもそも、中味が変ったといえるほど、おれはこの女を知っているのか、という気がして来た。酒が意外ににがい。  一|刻《とき》ほどいて、結局助十郎はよりをもどすような話を切り出す機会もなくあかね屋を出た。機会がなかったというより、途中からその気が失《う》せたといった塩梅《あんばい》だった。かなり酒をのんだはずだが、料理屋を出たときには、もうさめかけていた。  ──いったい、この女は……。  どういうつもりでここへ来たものかの、と助十郎は自分のことは棚に上げて、鹿乃を怪しんだ。  その鹿乃が、わずかにもとの妻らしいしぐさを見せたのは、染川町を抜けて川岸の道に出てからである。  染川町は、城下の東南を流れる川沿いにひらけた町である。町の背後に畑がひろがり、その畑で、北側の三好町につながっている。鹿乃を家に送りとどけるためには、川岸の道から三好町に入って行くのが近道だった。  六月の夜で月もなかったが、うしろから射しかける染川町の灯あかりで、道はぼんやりと明るんでいる。灯影《ほかげ》は浅い川の水にも、かすかにちらついている。三味線の音が、そこまで聞こえた。  それまでうしろについて来ていた鹿乃が、ふと前に出て助十郎とならんだ。 「おひとりだと、気楽でございましょ?」  そう言うと、鹿乃はく、くと喉《のど》で笑った。 「それよ」  はっと夢からさめたようになって助十郎は答えた。鹿乃は謎をかけているのだ。 「松野の姉から、話を聞いたか」 「はい」 「それで、どうじゃな? そなたにその気持があれば、わしの方は異存ないが……」 「………」 「いまさら、知らぬ他人を迎えるのもうっとうしい。さればといって、姉に心配してもらうまでもなく、いつまでも一人ではおられぬぐらいは、わしにもわかっておる」  さっき、この女は他人だなどと思ったことはけろりと忘れて、助十郎は熱心にそう言うと鹿乃の手をさぐった。三好町までは、まだ距離がある。  やわらかい手をさぐり取ったが、鹿乃はこばまなかった。かえって身体を寄せて、腕を押しつけるようにした。はずむような二の腕の感触が伝わって来る。  ──そうか。あきらめるのは早かったかの。  あかね屋を出るのが早すぎた、と助十郎は後悔した。何はともあれ、この話を切り出してみるのであった。それを愚にもつかぬ親戚の噂話などをして引き揚げて来たのは、少少一人合点に過ぎた。 「一度は夫婦で暮らしたそなたに、誘いをかけるのも異なものだが、その気持になってくれればありがたい」 「考えさせて頂きます」 「明日どうじゃ、家まで来ぬか。わしは非番じゃ。いや、いつも非番じゃが、ハ、ハ」  笑ったとき、助十郎は背後から真黒なものが突きかかって来たのを感じた。  鹿乃を突きとばすと、助十郎は体をひねって川岸に逃げた。暗い中に動いたのは刀身だった。斬りかけて来た黒い影は、体をかわされて、二、三歩前にのめったが、踏みとどまって振りむくと、何やら奇声を上げて、叩《たた》きつけるように助十郎に斬りかかって来る。  黒い影が、刀を振りかぶって踏みこむ動きより、わずかに早く助十郎は体を沈めて手もとに躍り込んでいた。振りおろした刀を避けながら、助十郎は敏捷《びんしよう》に動いた。相手の利き腕に手刀を遣い、刀を落としてよろめくところに、みぞおちを狙《ねら》って強烈な当て身を叩き込んだ。  黒い人影は、身体を折りまげてしばらく立っていたが、不意にそのままずるずると、暗い地面に沈んだ。 「この男は何じゃ?」  助十郎は跪《ひざまず》いて、倒れている人間をのぞきこむと、こちらを透かし見ている鹿乃に声をかけた。斬りかかって来た男は、たしかに、鹿乃、この売女《ばいた》め! と叫んだのだ。 「そなたの知り合いか」 「………」  鹿乃は、突きとばされて畑までふっとんだ驚きがまださめないのか、無言でいた。 「そうさな。年はわしより若そうだが……」  助十郎は男の上に顔を近づけて、仔細《しさい》に見ながら言った。 「少少|鬢《びん》の毛が禿《は》げ上がっておる」 「坂本でございますよ」  と鹿乃が言った。 「坂本? そなたの別れた亭主か」 「………」 「まだ、手が切れておらんのか」  この男は、どうやら染川町から二人をつけて来て、斬りかかったらしいと思いながら、助十郎はそう言った。きっぱり別れた亭主なら、こんな乱暴をするわけはなかろう。それに鹿乃を売女呼ばわりしたのがその証拠だ。まだつづいているから、二人の姿を見かけて裏切られたと逆上したわけであろう。  助十郎は、にわかに興ざめするのを感じた。空家だというから気をそそられもしたのだが、主のある花を無理にうばうつもりはなかった。いくらうつくしく変ったといっても、鹿乃はもはや大年増である。厚化粧の大年増を争って、もとの亭主二人が斬り合ったりしたら、世間の物笑いになる。 「それならそうと、はじめに申せばよいのだ。こちらも無理にとは言っておらん」 「でも、せっかく松野のご新造さまからお話がありましたし……」 「………」 「お前さまにお会いして、お話の模様によっては、今度こそきっぱり手を切ろうかと……」 「両|天秤《てんびん》はいかん、両天秤は」  助十郎は手を振ってさえぎった。 「斬ってはおらぬ。気を失っているだけじゃ。いたわってやれ」  そう言うと、助十郎は背をむけていま来た道をもどりはじめた。そういうことならべつに鹿乃を送って行くこともないのだ。  ──厚かましい女だ。  そう思ったが、いまの出来事で、どことなくへだてる様子が見えた、鹿乃の態度が腑《ふ》に落ちた気がした。事情があって家を出たが、そのあと家の者には内緒で、時おり二人でしのび会っていたということでもあろうか。世間にないことではない。  振りむくと、道の上に二人の姿が黒く見えた。鹿乃が、しきりに男を介抱している様子である。  ──これだからの。  と助十郎は思った。もとの女房にさえ、こけにされて、一人さびしく家にもどるところである。家中きっての好色漢のような評判は、ぜひとも願い下げにしてもらいたいものだ、と助十郎は思った。  いっこうに衰える様子もない染川町の灯のいろが近づいて来た。助十郎は、どこぞで一杯、飲み直して帰るかという気分になっている。 [#5字下げ]五  数日後の夕暮れ、三谷助十郎は、例によって服部の妻女迪のうしろ姿を遠く眺めながら、代官町の路上を歩いていた。  時刻をみはからって、うまく隠居部屋を出たのだが、母屋で平右エ門の老妻につかまって無駄話をした。その分だけ遅れて、助十郎が大いそぎで門を出たとき、迪はもう門前をはるかに行きすぎていた。  ──しかしあわてて近づくことはないのだ。  と助十郎は思っていた。迪が右手に傘をさげているのがみえる。この前、助十郎が貸した番傘である。  今日は朝から雨が降る様子もない、からりと晴れた日だったから、迪が番傘を手にしているのは、助十郎に返すためだったとわかる。どこかで追いつけば、そこで少なくとも迪と二言三言は話をかわすことが出来る。そう思いながら、助十郎はおのずからいそぎそうになる足をいましめながら、ゆっくりと歩いて行った。  はじめて恋を知った若者のように、助十郎の胸はさっきからしきりにときめいている。番傘を貸したときのことを思い出すと、ひとりでに口もとがゆるんで来て、助十郎は口をひきしめるのにも苦労する。  この前迪に会った日は曇りだった。いつものように助十郎は志賀家の門前で迪を待ちうけ、会釈を残して迪が行きすぎるのを見送った。そのあと人眼をはばかりながら後について行ったことは言うまでもない。  前触れもなく、どしゃ降りの雨に遭ったのは、間もなく代官町をはずれるという場所まで来たときだった。迪は傘を持っていなかった。白い雨の中に、迪の姿がうすれたほどの突然の豪雨だった。迪は少し走ったようである。だがそこは裏塀つづきで、雨やどりする門庇《もんびさし》もない道だった。  助十郎は番傘をひらいて疾駆した。用心深い男だと謡仲間に笑われながら、晴雨にかかわらず傘を持って歩いていたのは、まさにこういうときの用意である。 「服部のご新造」  追いついて傘をさしかけると、助十郎はひと息に言った。 「この傘、お使いくだされ」  おどろいて振りむいた迪に傘を押しつけると、助十郎はそのまま韋駄天《いだてん》のようにその横を走り抜けたのだ。  そのとき、ひたとこちらをみた迪の黒い眸《ひとみ》、一瞬鼻腔をかすめたかぐわしい匂《にお》い、か細くやわらかかった指の感触などが、走って行く頭の上から叩きつけるように降りそそいだ快い雨の記憶と一緒に、いまもありありと助十郎の脳裏に残っている。  ──どのあたりで声をかけようか。  いっそ人ごみの中の方がよい、と助十郎は思っていた。迪に近づくところを人に見咎められるのを、助十郎は恐れていた。自分のためではない。迪のために恐れるのだ。初音《はつね》町の人ごみの中で、何気なく近づけばよい。そこで二言三言、言葉をかわせればそれで十分だと思っていた。  迪は五間川にかかる橋を渡った。そしてちらとうしろを振りむいた。助十郎には、そのしぐさが、迪がこちらの所在を確かめたようにも思われたが、気のせいかも知れなかった。  だが助十郎の胸は、突然に高く鳴った。  ──おや?  服部の妻女迪は、初音町を横切るいつもの道には入らず、川岸の道を南に歩いている。そのまま川に沿って行けば、道は職人町をひとつ抜けて、柳の馬場の方に行く。そのあたりは、真夏になると夕涼みの人が出るが、この季節には、日暮れは人気《ひとけ》のない場所である。  見ていると、迪はまさにそちらの方角にむかって歩いていた。恐れと歓びが胸の中でゆれさわぐのを感じながら、助十郎はその後からついて行った。気持は小心なほどに慎重になって、人に会っても迪の連れだとはさとられないほど、十分に距離をあけた。  曲物《まげもの》職人の町には、灯がともりはじめていた。このあたりでは、迪のような武家の女の姿はひどく目立つ。だがそういうことを気にする様子もなく、迪はためらいのない足どりで、町を通りぬけて行った。  職人町を通り抜けてしまうと、道はまた五間川の川岸にもどる。助十郎がその道に踏みこんで行くと、やがてほの白い光の中に、こちらをむいて迪が立っているのが見えて来た。その大胆さに、助十郎は身ぶるいした。 「服部のご新造」  近づいて、助十郎は思わずたしなめる口調になった。 「このようなところに参っては、人目に立ちませんかな」  ふ、ふと迪が笑ったようだった。 「三谷さまは……」  と迪は言った。思ったとおり、助十郎を知っていた。 「お噂とはちがい、ほんとうに生まじめでいらっしゃるお方」 「………」 「ご心配にはおよびませぬ。ちょっと町はずれに散策に参っただけ。すぐにもどります」 「その方がよろしい」 「傘を、ありがとう」  ゆらりと迪が近寄って来た。黒い眸が、かすかにいたずらっぽい光を宿したようである。だがそれは遮るものもない西空に、わずかに残っている入日の名残りが眼に映ったせいかも知れなかった。 「たのしゅうございましたわ」  迪がささやいた。かぐわしい匂いが、ふわりと助十郎の顔を包んだ。と思ったとき、迪は助十郎に傘を手渡すと、すばやく二、三歩離れていた。謎めいた笑顔をむけると、迪は背をむけた。そのまま、すたすたと遠ざかる。助十郎は茫然と立ったまま、その姿を見送った。  すると、立ち止まった迪が、不意に助十郎の方に振りむいた。迪の顔は夕顔の花のようだった。 「代官町には、もう参りませんの」 「………」 「母の病いが癒《い》えましたので」  そうか、それを言うために、ここに来たのかと助十郎は思った。すると今日がわかれというわけだ。なるほどここは、わかれにふさわしい場所のようでもある。  助十郎はずかずかと迪に近づいて行った。眼が昏《くら》むような熱いものに背を押されていた。迪は恐れるように二、三歩後じさったが、助十郎に鷲《わし》づかみにつかまると、あきらめたように眼を閉じた。  迪の身体を抱くと、意外に骨細で、小柄だった。唇は花の匂いがした。しかし、助十郎の手が、単衣《ひとえ》の上から胸をさぐったとき、迪は夢からさめたように眼をひらいて、その手を押しのけた。 「いけませぬ」  助十郎はあきらめて、もう一度深く迪を抱き直した。迪が喘《あえ》ぐような息を洩らした。そのとき、いきなりうしろから声をかけた者がいる。 「三谷ではないか。何をしておる?」  その声は、三谷助十郎の耳の中で雷鳴のようにとどろいた。はじかれたように離れると、迪は背をむけ、助十郎は声の主にむき直った。顔から血の気がひいたのが、自分でわかった。  四十半ばの貧相な男が、釣り竿《ざお》と魚籃《びく》を手にして立っている。平井庄兵衛と言い、組屋敷はちがうが、勤めでは時どき顔をあわせる同僚だった。平井は、五間川の上流に川釣りに出かけた戻りらしい。 「やあ、今日は釣りか」  と助十郎は言ったが、平井はそれには答えずに、道ばたに背をむけて立っている迪の方に、じろじろと穿鑿《せんさく》するような眼を投げた。助十郎は身体を硬くした。  だが平井は不意に、にやりと笑った。 「ふむ。おたのしみか」  それだけ言うと、平井はそのまま背をむけた。ぶらぶら揺れる魚籃をさげた平井の姿は、すぐに遠ざかり、やがて黒い影となって町の入口に消えた。 「狐町の平井庄兵衛じゃ。ご新造を見知っておるかの?」 「さあ」  ほの暗くて、よく見えなかったが、迪も顔青ざめているように思われた。 「わたくし、もう家にもどります」 「そうなされ」  もう一度女を抱く気は、助十郎からも失われている。 「心配はいらぬ。この暗さじゃ。平井にわかったはずはない」  背をむけた迪に声をかけたが、迪はもう振りむかなかった。足ばやに川岸の道を去った。  ──恐れているのだ。  おそらく迪は、自分のうつくしさに、近ごろ不躾《ぶしつけ》に讃嘆のいろを示して来る男が、家中きっての好き者と噂される人物だと知って、ほんの少し興味をそそられただけのことだったろう。いまごろは、おれに会ったことを悔んでいるかも知れない、と助十郎は思った。  それにしても平井は、一緒にいた女が服部の妻女だと見破っただろうか。  ──平井を斬るべきだったかな。  と助十郎は思った。西空にとどまっている最後の日の名残りが消えかけているのを眺めてから、助十郎は歩き出した。平井に見られた恐れは、助十郎の中にも強く残っていた。 [#5字下げ]六  仮眠から目ざめると、三谷助十郎は勤務の部屋に行くために、立ち上がって身づくろいした。  勤務は朝の五ツ(午前八時)にはじまり、翌朝の五ツに終る。その間勤務の者は交代に別部屋で仮眠をとる。助十郎はいま目ざめて、そのまま夜の間御判物を守護し、明け方また別部屋にさがって横になり、勤め明けの時刻が来ると下城することになる。  暑い夏が過ぎ、日足が短くなっていた。部屋の中はうす暗く、空気はひやりとする感じを含んでいる。あくびをして、助十郎は襖《ふすま》をあけた。すると、そこに男が一人立っていた。  四十前後とみえる恰幅《かつぷく》のいい男で、鬢に少し白いものが混じっている。服部弥惣右エ門だった。助十郎は全身総毛だつのを感じた。 「服部じゃ」  男はまず、自分から名乗った。傲岸《ごうがん》ともみえる射竦《いすく》めるような眼を、助十郎にそそいだままである。 「貴様が三谷助十郎じゃな」 「さようでござります」 「談合いたしたいことがある。同道してもらおうかの」 「しかし……」  と助十郎は言った。 「それがしは、これから勤めにつくところでござるが」 「それはよい」  服部は断ち切るような強い口調で遮った。 「岡村どのに、話はつけてある」 「それでは、おともいたしましょうか」  と助十郎は言った。岡村というのは支配の番頭である。  やはり、あのとき庄兵衛を斬るべきだったのだと、服部にしたがって城をさがりながら、助十郎は思った。  あのことがあってからひと月近く、日は何ごともなく過ぎた。助十郎は、ひそかに胸を撫でおろしたのだが、不思議にも、ほっとしたそのころから、助十郎をみて眼ひき袖《そで》ひきする者があらわれた。  それは勤務にのぼった城中でのことだったり、謡を習いに行っている、志賀家の隠居部屋でのことだったりした。新しい情事、首尾からいえば情事とも呼べないほどの、服部の妻女との一件が洩れたのだと考えないわけにはいかなかった。  好き者が、また派手にやったと、周囲の眼が半ばは嘲《あざけ》り、半ばは羨望《せんぼう》をふくんで助十郎を眺めていた。服部に知れなければいいが、と助十郎は迪のために祈ったのだが、松野の伯父に呼びつけられて、あらためて親戚のまじわりを断つと言いわたされたときに、そののぞみも失われた。  こういう噂は、行きつくところまで行かないと下火にならないもののようだった。いずれ服部の耳に入り、そのときは何かが起こるだろうと、ひそかに覚悟を決めていたのである。その日が来たらしかった。  服部は一たん五間川の岸まで降りると、今度は川沿いの町を北にむかって、大またに歩いて行く。一度も立ち止まらず、助十郎を振りむいても見なかった。  ──そうか。問答無用というわけだ。  服部のうしろからついて行きながら、助十郎は不意に背筋を戦慄《せんりつ》が這《は》いのぼるのを感じた。  五間川に沿って、川しもに歩いて行くと、町の北に、藩が足軽の調練場に使っている広い原野がある。服部の足はそこにむいているようだった。そこで斬り合うつもりだろう、と助十郎は覚悟を決めた。  青葉の上を日が照りわたる四月に、はじめて会った迪を思い出していた。迪は志賀家の門の下にいる助十郎には気づかず、連れ立った女と話しながら眼の前を通りすぎて行ったのだが、そのときの胸を殴られたようだった衝撃を助十郎は、ありありと思い出すことが出来た。  やがて梅雨に変ったころの、あさましいほど胸をはずませて、迪の後をつけて歩いた日日。隠微な歓びと、うらがなしい失望にいろどられたそのころのことも明瞭に思いうかんで来る。そして掌の中に溶けるようだった華奢な骨組みの感触。花の香がした唇。そういうものが、すべてあきらかに見えた。  ──なかなか、自分のことは自分でわからぬものだ。  ひとが噂したように、やはりおれは好色な男であったらしい、と助十郎は思っていた。その血にうながされて、知るべきでないものを知った、その制裁をこれからうけるところだ。ならば、悔いてはならん。悔いては家中きっての好き者の名が泣く。 「ここでよかろう」  足をとめた服部が言った。二人は調練場の中に踏みこんでいた。原っぱは人影もなく、押し寄せる暮れいろの中に、不思議な明るさを保ってひろがっていた。調練があるたびに踏み荒されるので、草は短く、ところどころ広く赤土が露出している。  助十郎は来た道を振りかえった。原っぱはゆるい高台になっているので、町がよくみえた。ぽつりぽつり灯のいろが見えるだけで、町は全体に青黒い光の中に沈んでいる。その中から、迪がじっとこちらを凝視しているのを、助十郎は感じた。  振りむくと、服部が念を押すように言った。 「くだくだしく申すこともなかろう。立ち合ってもらうが、異存はないな」 「仰せのとおりに」 「評判というものは、どうにもならんものでな」  と言いながら、服部は肩衣《かたぎぬ》をはずした。下に襷《たすき》をしていた。服部はすばやく袴《はかま》のもも立ちをとり、履物をぬぎ捨てて足袋《たび》だけになった。軽い動きの中に、むかし寺内道場で剣名が高かった男の、精悍《せいかん》な身ごなしが顔を出した。 「眼をつぶってもよいと思っていたが、こうまで噂がひろがっては、そうもいかぬ。けりをつけることにした」 「お手むかいしますぞ」  と助十郎は言った。助十郎も、刀の下げ緒をはずして襷をかけ、袴をひき上げた。 「当然だ」  服部は大きな身体を軽くうしろに運びながら、険しい眼で助十郎を見た。 「おぬしが井哇流をよく遣うことは承知しておる。存分に斬って来い」 「では」  助十郎が刀を抜くと、服部もすばやく抜きあわせた。間合いをつめて来たのは、服部の方だった。微動もしない青眼《せいがん》の構えに、すさまじい迫力がある。  助十郎は後にさがった。相青眼に構えているが、相手の剣に押されていた。  ──これは、勝てぬ。  助十郎は運命がきわまったのを感じた。じわりと冷や汗が肌をしめらせて来る。  無言のまま、服部が斬りこんで来た。暮れて行く空に、黒い影がせり上がり、そこから流星のような剣が落ちかかってくる。助十郎は剣をあわせて撥《は》ね上げ、体を入れかえたが、たちまち口が渇いて来た。  うしろに足を送って間合いをあけながら、助十郎は喘いだ。ここ数年、道場にも行っていない。その不鍛錬がたたって、身体がすっかりなまっているのがわかった。ふたたび戦慄が身体を走り抜けた。  服部はそうではないらしかった。いまの一撃で、ほぼ助十郎の力量を見抜いたらしく、剣を一気に上段に移すと、軽やかに足を送って前に出て来る。日ごろ鍛錬を欠かしていないことが、自信に満ちた身ごなしに出ていた。  また服部が斬りこみ、助十郎はかわして服部の胴に撃ち返したが、身をひるがえして放った服部の二の太刀に腕を斬られた。  数度、二人は撃ち合った。助十郎の剣は、服部の小手を斬り、肩を斬ったが、いずれも浅傷《あさで》だった。その間に助十郎自身は、左腕を深く斬られ、肩と脾腹《ひばら》にひと太刀ずつ浴び、何合目かに斬り合って擦れちがったときに、腿《もも》を斬られていた。  襤褸《ぼろ》のように斬りきざまれつつあるのを、助十郎は感じていた。辛《かろ》うじて致命的な傷をまぬがれているのは、刃を合わせて撃ち合う瞬間、不思議に身体がむかしの技をおぼえていて、無意識に防ぎ技が出るからだが、それも限度に近づいていた。身体も、刀も石のように重くなっていた。助十郎は口をあけ、肩で息をした。  ──あれを遣うしかない。  滴り落ちる血にまみれながら、助十郎は刀身のむこうに岩のように立ちはだかる服部の黒い姿に、ひたと眼を据えた。  助十郎の師は、城下で井哇流を指南する多田仲平である。多田の父、三左エ門はすでに病没しているが、助十郎は若年のころ、この三左エ門にひそかに秘剣の伝授をうけたことがある。助十郎が、多田道場でもっとも将来を嘱望《しよくぼう》されていたころの話である。  三左エ門が伝授した秘剣は、相討ちの剣だった。もっとも三左エ門は、その流水という剣を相討ちの剣として教えたわけではない。この剣を究めれば、弱者が強者に勝つ剣に到達すると言ったのだ。  だが助十郎は、その後の精進を怠った。残っている記憶は、相討ちの祖型だけである。  助十郎は、すり足で数歩うしろにさがると、剣を右後方に垂れ、軽く左足を踏み出した。青眼に構えている服部の剣に、ほとんど無防備の身体をさらした形になった。  服部の足が、窺うようにとまった。しかし服部はすぐに小きざみな足を左に送った。そしてつぎに疾風のように斬りこんで来た。  助十郎の肱《ひじ》が、ぐいと上がった。そのままのび上がって、一閃の剣を飛び込んで来た服部の肩に振りおろした。撥ねず、かわさずただ相手の動きに乗り、捉えた一瞬の隙《すき》にむかって放つ流水の剣。  ほの暗い宙空に、服部の右腕がとぶのが見えた。そう見えたのは、服部の一撃に腹を斬り裂かれて、地に仰のけに倒れたからである。  片腕を失った服部が、よろめきながら原っぱの傾斜を降りて行く。  ──あれでよい。  あの男は迪の夫だ。生かして帰すべきだ。助十郎は肩を斬る剣先をわずかに逸《そ》らして、腕を斬り放った自分の技に満足していた。服部の黒い姿はすぐに消えて、横たわった助十郎の眼に、城下の灯のきらめきがいっぱいに映った。だが、すぐに灼熱の痛みが、暗黒を運んで来た。 [#改ページ] [#1字下げ] 暗黒剣千鳥 [#5字下げ]一  三崎修助が、机の上に「盧生夢其前日《ろせいがゆめそのぜんじつ》」という黄表紙本をひろげていると、渡り廊下に足音がした。人が来るらしい。  修助は、いそいで黄表紙を膝《ひざ》の下に敷き、かわりにかねて用意の史記をひろげた。ほとんど同時に、板戸の外で嫂《あによめ》の声がした。 「修助どの、入りますよ」 「どうぞ」  顔だけむけて、修助が言うと、上気したような顔をした嫂の松乃が入って来た。部屋に入ると、例によってすばやく机の上に眼を走らせる。 「おや、ご勉強ですか」  松乃はにっこり笑って言った。嫂は、修助が書物をひろげていさえすれば、機嫌がいい女である。  十四年前に松乃が三崎吉郎右エ門に嫁して来たとき、三人の義弟がいた。新次郎、源之丞、末弟の修助である。  兄弟の母親は、松乃が来る二年前に他界していたので、松乃は嫁して来たその日から、三崎家の嫁としての日日の勤めのほかに、毎日家の中にごろごろしている嵩《かさ》だかな義弟たちを、しかるべき家に婿入《むこい》りさせる役目も背負いこむことになった。  修助はまだ十歳の子供で問題がなかったが、義弟とはいえ新次郎は二十二、源之丞は十九で、二人とも松乃より年が上だった。よく喰う。  三崎家は高百石で、家中では中どころに数えられている。男の兄弟が多くて喰うに困るというほどではないが、やがて自分の子供が生まれるだろう。義弟たちにいつまでも婿の口がかからず、いうところの厄介|叔父《おじ》にでもなって、生涯家に寄食するなどということになれば、やはり大事《おおごと》である。嫁入って来ると同時に、三崎家の主婦の立場に立たされた松乃は、そう思ったかも知れなかった。  一年たち、二年たち、ようやく三崎家の主婦の貫禄が身につくようになったころから、松乃はせっせと義弟たちの婿入り口をさがすようになった。  そしてそういうことでは、松乃はなかなかの手腕を発揮したといえる。いま新次郎は百二十石の堀家、源之丞は八十石だが組頭《くみがしら》の石野の分家と、それぞれ身分いやしくない家の婿におさまっている。  この二人を片付けて、松乃は一段落したと思ったに違いなかった。次弟の源之丞の祝言《しゆうげん》が済んだころ、松乃は、修助どのにもいずれよい婿入り口をさがしてあげますよ。でも、それはまだまだ先のことですねと言って笑った。そして、そのままほっておいた。  松乃が自信満満でそう言ったとき、修助はまだ十六で、ひげもはえそろわない年ごろだったせいもあるが、松乃自身もその間に子供を二人生んでいた。子供の教育にかまけて、残っていた末弟の成長ぶりにまでは、眼がとどかないというふうでもあった。  松乃が、ふたたび義弟の婿入り口をさがして、あわただしく動きまわるようになったのは、去年の春以来である。そのころに松乃が、無精ひげのはえた修助の顔を、しげしげと見ながら言った。 「修助どの、そなた、いくつになりましたか?」 「二十三です」 「おや、まあ」  と松乃は言った。そう言ったまま暫時沈黙したのは、いつの間にそんな大人になったかと、一方では怪しみ、一方では狼狽《ろうばい》したということかも知れなかった。  女に嫁入りの適齢期があるように、婿に行くにも、おのずからころあいの年ごろというものがある。婿をとる側の娘の齢《とし》というものがあるわけだから、当然の話だが、婿としてよく売れるのは、二十ぐらいから二十五、六までである。そのあとに一服があって、次に三十前後といった時期に、もうひと盛りが来るが、このあたりになると、受け入れ側にも、あまり芳しいところは残っていない。  家柄は申し分なくとも、ああでもない、こうでもないと婿えらびのわがままが過ぎて、とうに婚期を逸した娘とか、親が聞こえた吝嗇《りんしよく》家である上に、娘がまた不器量で婿のなり手がなかった家であるとか、親も当の娘もまあまあだが、薄給で子沢山、行けばそのあくる日から、婿どのがさっそく内職にはげまざるを得ない家とかである。  中には、早くに婿をとったが、親とそりが合わずに婿が二児を残して去った後、などというコブつきの縁談もある。  しかし三十前後の部屋住み連中には、後がない。ここで選りごのみしてことわったりすると、あとは一生実家に寄食する厄介叔父という頭があるから、そういう家にも必死になってもぐりこむ。それで、この年ごろの連中も、ひとしきり縁談でにぎわうのである。  じっさいに三十を過ぎると、婿の口はばったり絶える。あとは二十過ぎると早早に他家の婿になった男が、数年たって思いがけなく病死し、その後釜《あとがま》をさがしているなどという幸運にでもありつかない限り、ひとり身の部屋住みを余儀なくされる。  実家でもあきらめて、ゆとりのある家なら離れを建てて住まわせ、床上げと称する百姓、町人出の娘をあてがって暮らしを持たせるが、子供は生まれるとすぐに間引くのである。 「そんなふうになったら、たいへん」  嫂はひととおり、婿に行くことがどんなに大事なことかを言い聞かせたあと、そう言って笑った。そして値踏みするように、修助を上から下まで眺めまわしたあとで言い足した。 「でも、修助どのはそんな心配はいらぬそうな。旦那さまに似て、丈はあり、男ぶりはよし」  と嫂は、厚かましくも自分の夫を引き合いに出し、腕を撫《ぶ》すといった感じできっぱりと言ったのである。 「おまかせなされ。案外に、引く手あまたかも知れませんよ」  しかし、嫂の自信ありげだった言葉にもかかわらず、一年たっても、修助の婿入り口は定まらなかった。いくつかの話はあったようである。だが、まとまらなかった。  嫂の松乃は、それを修助の学問嫌いにむすびつけたようである。家中《かちゆう》の子弟は、十歳になると藩校三省館に通い、孝経、論語から、大学、中庸まで教授をうける。その課程が終って十五、六歳になると、今度は終日授業に変り、四書五経のほかに、左伝、戦国策、史記などを習う。  このあたりで、学問好きとそうでない者との色分けがはっきりして来るようだった。学問に打ちこむ者は、そのまま終日生の課程をおさめて、さらに一段上の寮生にすすむ。寮生は、藩校の敷地内に建つ三省寮に入り、さらに高度の読書、会読、詩文作成などに励むのである。  だがそこまで行かずに、終日生の段階で落ちこぼれる者もかなりいた。修助もその一人である。藩校に行くと告げて、嫂に弁当をつくってもらい、せっせと城下で三徳流を指南する曾我道場へ通った。終日生の課業は必修ではなく、剣術修行などの名目で休むことが、ある程度許されているのだが、この時期に学問から離れた者は、ほとんどそのままになる。  修助も例外ではなかった。稽古《けいこ》が面白くなり、また生来の気質にも合ったらしく、道場で頭角をあらわすようになると同時に、藩校の課業から次第に足が遠のいた。しまいには道場に入りびたりになって、学問は中途で投げた形になった。  そういうことを、嫂の松乃は修助の婿入り口をさがしている間に、どこかよその家で指摘されて知ったらしかった。そのことで修助を呼びつけたとき、松乃はあきらかに狼狽していた。 「修助どの」  松乃は、長年自分を欺《あざむ》いて来た義弟をじっと見つめながら言った。 「剣術の稽古がいけないとは申しませんよ。でもそなた、そのために三省館のご授業を、途中でやめているそうではありませんか」 「………」 「よもやそのようなことがあるとは思いもしませんでした。旦那さまに知れたら、どうなさるつもりでしたか?」 「………」 「でも、いまさらそれを申しても仕方ありません」  松乃は、どこかでそのことを指摘されて恥をかいたに違いなかったが、一応はあきらめた顔つきだった。そのかわりに、いまからでも遅くはないから書物を読めと、声をはげまして言った。 「そうなさるなら、このことは旦那さまには内緒にしてあげます。それにな、史記や漢書を読めぬようでは、なかなか婿にもらってくれる家もありませんよ。新次郎どのと源之丞どのが、思い通りの家に婿入り出来たのも、おさおさ人に劣らぬ学問が身についていたからです」  新次郎と源之丞は、終日生の課業はおろか、二人とも寮生にすすみ、とくに新次郎は秀才で、寮生からさらに試舎生と呼ぶ課程にまですすんだのである。試舎生は、寮生の中からとくに学業にすぐれ、品行方正な者を選んで学問を授ける制度で、試舎生になると、一人に一室をあたえられて学問に専念する。  長兄の吉郎右エ門も寮生の課程を終えている。そこまで言われると、修助は一言もなかった。昼の道場通いはやむを得ないが、夜はつとめて書物を読むと誓うと、嫂は機嫌をなおして、読むべき漢籍を、山のように修助の部屋に運んで来た。  四書五経から、左伝、国語、戦国策、史記、前漢書、後漢書、唐詩選、唐詩正声……。机のそばに積まれているそれらの書物を眺めただけで、修助は頭がくらくらする。そこで勉強していると見せかけて、押し入れの小櫃《こびつ》からひっぱり出した黄表紙、狂歌本、洒落《しやれ》本のたぐいに読みふける。  小櫃の中のこうした本は、数年前病死した父が、若年のころ江戸詰で上府したときに買いもとめて来たものらしかったが、兄も嫂も、修助が自分の部屋に使っている隠居部屋に、そんな本が隠されてあるとは気づいていないようである。一度も見咎《みとが》められたことはない。  だが嫂は漢籍を苦もなく読みこなせたので、油断は出来なかった。机の上に何がひろげてあるかは、ひと眼で見破る。  しかし、今夜の嫂はどこかうきうきしていた。すぐに修助に顔をもどすと、吉郎右エ門の部屋に来いと言った。嫂はこらえきれないような笑いをうかべている。 「磯部の叔母《おば》が、とてもいいお話を持って来られました。むろん、修助どのを婿に欲しいという話ですよ」 [#5字下げ]二  磯部の叔母というのは、嫂の松乃の母方の叔母である。背が低く小ぶとりで、落ちついた物言いをする、四十過ぎの女である。夫の磯部弥五右エ門は物頭《ものがしら》を勤め、たしか百五十石ほどを頂いているはずで、家中では羽振りがいい家だった。叔母は登与という名である。  登与は、吉郎右エ門とむかい合って、いつものもの静かな声で話していたが、松乃と修助が部屋に入って行くと、すぐに二人に微笑をむけた。修助の挨拶《あいさつ》にも、おだやかに挨拶を返してから、吉郎右エ門に言った。 「ほんとに、いつの間にか大人になられましたなあ。これならば、どこに婿に出されても恥ずかしいことはありません。朝岡さまでも、きっとお喜びになると思いますよ」 「はて、いかがなものですか」  吉郎右エ門は苦笑した。 「なりはごらんのとおり、それがしを凌《しの》ぐほどになりましたが、なにせ末子。つい甘く育ててしまったようでもござる」 「松乃の話では、曾我という道場で、熱心に剣術の稽古をなさっておられるとか」 「さよう。そちらの方が性に合ったようでござる。しかし、文武両道とはなかなかいかぬものらしくてな。藩校の方は、終日課業を終えたところで断念したようでござる。わが家の男どもの中では、めずらしく学問の不出来な人間でござる」  よけいなことを言ってくれるな、と修助ははらはらした。話のすすみ具合で、その終日課業も、中途で投げ出したなどということが露見すれば、せっかくの縁談もフイになりかねない。  松乃も同じ危険を察知したらしく、夫の口を封じるように、いそいで口をはさんだ。 「そのかわり、ナニでございますよ、叔母さま。修助どのは、曾我道場では免許取り。お師匠さまにも、大そう信用されているようでございますよ。な? 修助どの」 「は。四年前に免許をうけ申した」  三徳流の剣は、修助のただひとつの売りどころである。門弟の筆頭は、師範代を勤める鷹野《たかの》甚五郎だが、修助は次席を占め、いまは鷹野ともども後輩に稽古をつけている。そこまで吹聴《ふいちよう》したかったが、遠慮して、それだけ言った。  ところが登与の方が眼をまるくした。 「四年前というと、二十のときですか?」 「さようです」 「まあ、まあ」  と登与は感嘆の声をあげた。 「それならば、近ごろはさぞかし、道場ではもう高弟に数えられていることでしょうな」 「は、次席ということになっております」 「おや、まあ」  日ごろもの静かな登与が興奮した顔になって、姪《めい》に言った。 「松乃はただ、熱心に道場に通っているというだけで、修助どのの腕前のことは何も言わなかったではありませんか」  登与はさらに、吉郎右エ門に顔をむけた。 「吉郎右エ門どの。曾我道場の次席なら、言うことなしでございますよ。この縁談、きっとまとめてさしあげます」  兄夫婦よりも、ちんちくりんの登与の方が、はるかに武芸の何たるかに通じているようだった。登与は勢いよく、縁談の相手のことを話した。  登与が見つけた相手は、二年前まで郡奉行《こおりぶぎよう》を勤めた朝岡市兵衛の娘|秦江《はたえ》。齢は十八で、近所では評判の美しい娘である。家禄は百三十石で、秦江の下に今年十三になる妹がいるだけ、仲むつまじい家である。  登与は若いころ秦江の母と一緒に、茶の作法を習ったことがあった。しかし、それぞれに嫁入ってからはすっかり疎遠になっていたが、つい数日前、彼岸の墓参りに行った寺の境内でばったり顔が合い、娘の婿に来るような若者に、心あたりはないかとたずねられたのである。 「ほんとに、縁というものはどこにころがっているか、知れないものですよ。私などもあなた、松乃は知っていますが、親同士が磯に魚を釣りに行きまして、そこで出た冗談のような話がほんとのことになって、磯部の家に参ることになったのですから」  静かで切れ目のない登与の声が、快い楽の音のように耳にひびくのを聞きながら、修助は突然に立ちあらわれて来た秦江という娘のことを考えていた。  美人だというからには、醜くない娘だろうが、どんな顔をしているのか。声はどんな声か。高慢でなければいいが。いくら美人でも、家つきの娘を鼻にかけるような女子ではかなわん。興ざめする。 「よしなに頼み入る」 「叔母さま、お願いいたしまする」  不意に兄夫婦の声がして、修助ははっと顔をあげた。機嫌のいい顔で、登与がこちらを見ている。修助は束《つか》の間《ま》の放心を見抜かれた気がして、赤くなりながら頭をさげた。 「修助、叔母御を門までお送りしろ」  玄関まで見送って出た吉郎右エ門がそう言ったので、修助は履物をはいて、ひと足先に庭に出た。  登与は、藤作という老爺《ろうや》を供に連れて来ていた。門を出たところで、登与は修助に言った。 「気だてのよろしい娘御ですよ。一度お会いになれば、すぐにわかります。修助どのにはお似合いの娘御です。このお話、ぜがひでもまとめてあげますから、楽しみにしていらっしゃい」  帰って行く登与を、修助はしばらく見送った。お供の藤作は、先代の時から磯部家に奉公している下男で、かなり腰が曲っている。提灯《ちようちん》をさしむけて登与をみちびいて行く姿が、逆に登与に連れて歩いてもらっているようにも見えて、修助は微笑した。  二人の姿が、角を曲ったのをたしかめて門の内に入ろうとしたとき、塀わきに立ち上がった黒い影が、三崎と呼んだ。 「………」  それがあまりに突然だったので、修助は思わず声にむかって身構えたが、近づいて来る人影を透かし見ると言った。 「奥田か? いま時分、どうした?」  男は曾我道場で同門の、奥田喜市郎だった。顔をつき合わせるところまで寄って来てから、奥田がささやいた。 「伊織がやられたぞ」 「なに?」  修助は鋭い眼で奥田を見た。奥田は無言で修助を見返している。 「いつのことだ?」 「ついさきほど、六ツ半(午後七時)ごろのことらしい。禰宜《ねぎ》町を歩いていて、やられた」  禰宜町は、下級藩士の組長屋があつまっているところなので、路は暗い。 「絶命したか?」 「この前の服部と同様、一太刀だったらしいぞ」 「相手はわからんのだな?」 「むろんだ。伊織が倒れているのに気づいた者が、すぐにあたりを窺《うかが》ったが、人影は見えなかったそうだ」  修助は低く唸《うな》った。しばらく沈黙してから、ふと気づいて言った。 「寄って、話して行かぬか?」 「いや、とりあえず知らせに来たが、今夜は帰る。明日道場で会おう」  奥田は手を上げて歩き出した。その黒い背に、修助はきびしい声をかけた。 「帰り途《みち》に、気をつけろ」  ちらりと振りむいた奥田が、貴様も気をつけろ、と言った。  奥田が足早に遠ざかるのを見送ってから、修助はしんかんと暗い路に一瞥《いちべつ》を投げ、門を入るとしっかり閂《かんぬき》をおろした。  家の中から、明るい灯の色が洩《も》れている。兄夫婦は、最後の煩《わずら》いともいうべき末弟の縁談にめどがつき、それも予想以上の良縁が舞いこんで来たのに気をよくして、まださっきの話を蒸し返しているに違いなかった。修助が家の中にもどれば、話に加えて二、三説教らしきものを言い聞かせるつもりでいるかも知れない。  重い足を、修助は入口に運んだ。五日前の服部繁之丞の死、今夜の戸塚伊織の死は、兄夫婦に洩らしてはならない秘事だった。  ──それにしても……。  相手は何者だ、と修助は思った。戸塚伊織は同じ曾我道場で、服部繁之丞は笄《こうがい》町にある一刀流の増村道場で、それぞれ五指に数えられる遣い手である。  その二人を、さっきの奥田の話が間違いでなければ、ただひと太刀の闇打《やみう》ちに屠《ほふ》った者がいる。強い疑惑が湧《わ》き上がるのを、修助は感じた。秦江という娘のことは、ほとんど念頭からうすれかけていた。 [#5字下げ]三  部屋に首をつっこんで、稽古をつけていただけませんか、と言ったにきび面の少年を、奥田はいきなりどなりつけた。 「ちゃんと坐って言わぬか。近ごろの子供は、まったく礼儀を知らん」  修助は苦笑して助け舟を出した。赤面して膝をついた少年に、もう少しで話が終る、それまで自分たちでやっておれと言った。少年が戸をしめて去ると、修助は奥田をたしなめた。 「そう苛立《いらだ》つな。師範代に怪しまれてはまずい」  道場には、師範代の鷹野と、高弟の一人である柚木兵之進が稽古をつけているはずだったが、まだ稽古をつけてもらえず、あぶれて遊んでいる者がいるらしい。二人が籠《こも》っているのは、道場わきの着換え部屋だった。  ふだんはあまり気にしたこともないが、そうして籠っていると、ろくに掃除もしない部屋の中には、男の汗と脂がまじり合った異様な匂《にお》いが澱《よど》んでいて、鼻がひん曲るほどだった。もっとも異臭がことさら濃く匂うのは、八月も終るというのに、変に蒸し暑い陽気のせいもあるだろう。  奥田は顔にうすく汗をかいていた。その顔を手のひらでつるりと撫《な》でてから言った。 「すると三崎は、あの一件が洩れたと考えるわけだな?」 「そう考えるのが筋だろう」  修助は、奥田の浅黒くて平べったい顔を見ながら、低い声で答えた。 「服部が死んだとき、おや? と思ったのだ。死にざまが不審だった。今度は戸塚だ。今度戸塚の家に寄って、線香を上げながらおやじどのに話を聞いたが、貴様が昨夜言ったとおりだった。敵は一撃で頸《くび》の血脈を断っている。服部のときと同じだ」 「………」 「残る三人も狙《ねら》われるぞ」  修助の言葉に、奥田はかすかに身顫《みぶる》いしたようだった。青ざめた顔をそむけて、くそッと呟《つぶや》いた。  だが、奥田はすぐに顔を上げて、粘りつくような眼で修助を見た。 「敵というのは、誰だ?」 「それがわかれば、貴様とこうしてひそひそ話などはしておらん。こちらから斬り合いを挑みに行く」 「………」 「しかし、いずれにしろ明石の縁につながるやつだろう」 「だが、服部も戸塚も、柄《つか》に手をかけるひまもなく斬られておる。明石のまわりに、そんな男がいたか?」  今度は修助が沈黙した。服部繁之丞、戸塚伊織、家中の若者の中で、屈指の遣い手と呼ばれる二人を斃《たお》した者は、暗黒の中に姿をひそめていた。まだその影すら見えていなかった。 「やむを得ん。あのお方に会って、お指図をいただこう」  修助が言うと、奥田も強くうなずき、それがいいと言った。  十年ほど前から、異様なほどの立身を遂げて、家中の注目をあつめた男がいた。明石嘉門である。  明石嘉門が、家督をついで近習《きんじゆう》組に出仕したとき、家禄は家代代の八十五石だったという。だが嘉門は、数年の間に異例の立身を遂げ、三十歳になると郡代を勤め、禄高は二百五十石にはね上がった。  郡代は、多くは四十前後の農政と経済に明るい人物が占める職で、三百石以上の上士が勤めるならわしである。長く郡代を勤め、その地位から抜擢《ばつてき》されて組頭、家老にもすすんだ者もいて、藩では要職とされている。三十歳の郡代は空前のことと言われた。  だがこの若い郡代は職にある二年の間に、農政の上で見事な手腕を発揮し、次いで側用人《そばようにん》に転じた。側用人は、常に藩主に接触し、藩政の枢機にことごとく参与する要職中の要職である。この側用人を勤めている間、藩主|右京《うきよう》太夫《だゆう》の明石嘉門に対する寵愛《ちようあい》はただならないものがあった。  そのころ家中には、嘉門を奸物《かんぶつ》呼ばわりする者が少なからずいたが、その言葉には、異様な立身をつづける男に対する疑惑と同時に、藩主の偏愛に対する嫉視《しつし》がふくまれていたかも知れない。  しかし明石嘉門は奸物だったのか、どうか。嘉門は近習として出仕した当時から、鋭い頭脳で一頭地を抜いていた。端麗な男ぶりをしていたが、天心独名流の奥儀をきわめた剣客でもあった。切れる頭脳と胆力をあわせ持った人物であり、郡代としても側用人としても、有能で水ぎわだった政治力を発揮したとも見えたのである。 「しかし、あの男は奸物じゃ」  ひそかに、修助たち五人の剣士を呼びあつめた次席家老の牧治部左エ門は、明晰《めいせき》な口調で、そう言った。  牧は、嘉門がこれまで犯している失策を、五つほど数えあげた。どれも修助たちがはじめて耳にすることで、さほど目立たないことのようにも思えたが、牧はその失策を、嘉門という人物につき合わせてひとつひとつ説明し、かりに嘉門が執政の地位にのぼったとき、どのような弊政があらわれるかを丁寧に指摘した。牧はこれまで、明石嘉門の人物とやることを冷静に観察して来たらしかった。  その指摘のあとで、牧は茶飲み話のつづきのような平静な口ぶりで、芽のうちに摘み取るにしかずだと言った。嘉門はその年、側用人から組頭に昇進し、四百石に加増されていた。中老に手がとどく地位にのぼったわけである。芽というには大きすぎる存在だったが、牧はまだ間にあうと考えているらしかった。 「のぞくと申しても、表沙汰《おもてざた》にはしにくい。殿の寵愛が過ぎて、まず効なかろう。明石には気の毒じゃが、闇に葬る一手じゃな」  石のように身体《からだ》を硬くしている修助たちを眺めながら、牧は微笑した。そして言葉にわずかに威嚇《いかく》をこめた。 「躊躇《ちゆうちよ》すれば、いまに見よ。藩政は明石一人にかきまわされて、やがて破滅するぞ」  藩主の寵を後だてにした嘉門が執政に加われば、農政はここで躓《つまず》く、家中、領民の暮らしはこう変ると、牧は掌を指すように、ぴたりぴたりと予言してみせた。  牧治部左エ門は、長く筆頭家老を勤めたが、二年ほど前に病を得て、職をしりぞこうとした。だが十数年にわたって藩政を牛耳《ぎゆうじ》り、藩はじまって以来とまで称される善政を実現した牧には、上下の信頼が厚かった。  牧は懇望されて次席家老にとどまり、病間から藩政に加わることになった。重要な議事があるときは、牧のあとを襲って筆頭家老となった野沢市兵衛が、牧家の病間に入って懇談するのが慣例となり、牧は病床の名執政と呼ばれていた。部屋住みの修助たちからみれば、牧はほとんど神に似た人物だった。  修助たちは、牧に命じられるままに、その場で神文誓詞をさし出し、数日後、下城する明石嘉門を五間川の河岸に襲って、殺した。三年前の夏の夜のことである。  討手《うつて》は曾我道場の三崎修助、奥田喜市郎、戸塚伊織、増村道場の服部繁之丞、山口駿作の五人だった。寵臣を闇討ちされた藩主は、激怒して下目付に探索を命じたが、五人は首尾よく追及をまぬがれた。五人の刺客が、すべて部屋住みの若者だったことが、探索の盲点となったようでもあった。  以来何事もなく三年が過ぎた。ほかの四人もそうだったろうが、修助には藩のために一奸物を斃したという考えしかなかった。次第に明石暗殺の一件を忘れた。そのことを、あざやかに思い出したのは、服部繁之丞が不審な死を遂げたときである。そして今度は戸塚伊織が死んだ。二人の死が、三年前の事件につながっていることは疑う余地がなかった。何者かが、死んだ明石嘉門の復讐《ふくしゆう》をくわだてているとしか思えない。  他ニ言ワズ、互ニ語ラズ……。指揮した牧家老にも会わないと誓ったことだったが、いまは牧に会って指図を仰ぐしか途《みち》はないようだった。  修助と奥田が、黙然《もくねん》と顔を見合わせていると、戸の外に足音がして、怒気をふくんだ声が、こら、中の二人と言った。師範代の鷹野の声である。 「出て来て稽古をつけんか。いつまで怠けておる?」 [#5字下げ]四  だが、二人の焦燥を見抜いたように、その日の七ツ(午後四時)ごろ、牧家老から使いが来た。修助と奥田を道場の入口まで呼び出したのは、牧家の老婢《ろうひ》である。六ツ(午後六時)過ぎまでに、家老屋敷に来るようにと、にこにこしながら告げると、老婢はすぐに帰って行った。三年前に呼びあつめられたときと、方法も同じ、使いも同じ人間だった。  二人は、急に元気になった。家老が、すでに異変に気づいて、すばやく対策を講じようとしているのを感じたのである。使いはむろん増村道場の山口にも回ったに違いなかった。  修助と奥田は、さらに半刻《はんとき》余、汗を流して稽古をつけ、終ると母屋に行って湯をもらい、身体の汗をぬぐった。師の曾我平太夫と師範代の鷹野に会い、後刻戸塚の通夜の席で落ち合うことを打ち合わせて道場を出ると、外はもううす暗くなっていた。  真夏がよみがえったかと思われるほど、蒸し暑かった一日も、暮れてみれば、やはり秋だった。うす青い霧のようなものが路上を這《は》い、その中にはひやりとした夜気が含まれている。ただ西の空に、巨大な夕焼けがあった痕《あと》が残っていた。通りすぎる家家の間から、時どき血のように赤い空が見えた。 「気をつけろ」  灯のない町を通りすぎるとき、路を歩いている人は、ほとんど黒い影にしか見えない。そういう人影が前方に現われるのを見ながら、奥田がそう言った。 「いまごろの時刻が、一番あぶない」  修助は低い笑い声を返した。奥田の声にも緊迫感はない。二人連れで歩いているせいもあったが、行先が牧の屋敷だということが、二人を昨夜からの緊張から解き放っていた。牧が彼らを見捨てず、誓詞にそむいて救いの手をのべて来たのを感じていたのである。  元馬場町の牧の屋敷に着くと、二人はすぐに牧の居間に通された。思ったとおり、山口駿作が来ていた。  居間といっても、その部屋は牧の病間を兼ねている。牧はその部屋で、大方は寝てすごし、来客があるときだけ起き上がって人に会い、また気分がよければ、ごく短い間机にむかって書見すると聞いていた。  いまも部屋の主は、脇息《きようそく》によりかかって坐っていたが、背後に夜具が敷いたままになっていた。薬の香が強く匂った。  二人は牧に挨拶し、山口と黙礼をかわした。牧は挨拶をうけた時だけ、眼をひらいて二人を見たが、二人を案内した中年の家士が、今度はお茶と干菓子を運んで来て去るまで、軽く眼をつむっていた。  修助は、三年ぶりに会った家老の衰容に胸を衝《つ》かれた。三年前も、牧はたしかに病人だった。肌に照りがなく、顔も手足もむくんだように青白かった。だがそのときはまだ、牧は太っていたのである。いかつく大きな身体だった。  だが眼の前の牧は、頬《ほお》の肉が落ちて顴骨《かんこつ》がとび出し、喉《のど》ぼとけも、胸もとの鎖骨も高くあらわれていた。肌は黄ばみ、眼の下には黒い隈《くま》が出来ている。尋常でない病いが、家老の身体を蝕《むしば》んでいることは明らかだった。牧はほとんど別人かと疑うほど、面変《おもがわ》りしていた。  修助が、思わず息をのんだとき、牧が眼をひらいて三人を見た。その眼の光とひびきのよい声だけが、以前の牧のものだった。 「そなたたちを呼びあつめたわけは、わかっておるな?」  牧は射抜くような鋭い眼を、ゆっくり三人に配りながら言った。 「容易ならぬことが起きた。何者か知れぬが、明石の一件に気づいた者がおるらしい。あのことを、誰ぞほかに洩らした者がいるか?」  三人は顔を見合わせ、修助が代表して、そのような事実はござりません、と言った。 「どこから嗅《か》ぎつけて来たか、不思議だ。よし、なお誰にも言うな。おびえて他にあの件を洩らしたりすれば、身の破滅だぞ。そなたらも、このわしもだ」 「………」 「服部と戸塚をあやめた者に、心あたりがないか?」 「それが……」  と山口が言った。 「それがしも調べましたが、皆目見当もつきません」 「よい。いま、藩の調べとはべつに、わしの手で探索をすすめておる。いまに正体が知れよう。その調べがつくまで、当分の間は夜の外出をひかえよ」 「………」 「申すことはそれだけだ。十分に用心して次に使いするまで待て」  三人が頭をさげると、牧は太い吐息をついて、軽く眼をつぶった。 「服部と戸塚は、気の毒なことをした。今夜は戸塚の通夜か。誰か、行ってやるか?」 「は、われわれ二人が参ります」  と修助が答えた。牧の用件はそれで終ったらしかった。眼をひらくと、ものうい手つきで菓子を喰えと合図した。  深山のように、生いしげる樹木に囲まれた家老屋敷を出ると、修助と奥田は戸塚の家に向かった。山口とは途中で別れた。別れるとき、三人は口ぐちに気をつけろとささやき合った。  しかし山口は、自分もそう言ったくせに、なに、出て来たらもっけの幸い、逆に切って捨ててやるさと言った。山口は背が低く小太りの体躯《たいく》をしているが、軽妙な剣を遣い、籠手《こて》打ちの名手として知られている。  修助と奥田は、白銀《しろがね》町の戸塚の家に行って、曾我と鷹野、柚木兵之進の三人と落ち合い、四ツ半(午後十一時)ごろまで通夜の席につらなった。戸塚の家では酒を出したが、修助と奥田は飲まなかった。  曾我がひと足先に帰ったので、帰りは四人になった。そして奥田は鷹野と柚木の二人と同じ方角なので、修助は途中で三人と別れて一人になった。  暗い夜だった。途中商人町を通りすぎたときだけ、わずかにまたたく灯の色を眼にしたが、そこを通りすぎて武家町に入ると、四囲はまた足もともおぼつかないほど、濃い闇になった。歩いて行く道と、ところどころに土塀があるのがぼんやり見えて来るだけだった。  修助が歩いている場所は、左内町である。中士が住む町だが、やや構えの大きな屋敷がならんでいる。そこを抜けると、自分の家がある町だった。  背後から、何か重苦しいものが迫って来るのを感じたのは、細い横丁があって四辻になっている場所を通りすぎようとした時だった。とっさに刀の鯉口《こいぐち》を切ると、修助は数間の距離を猛然と前に走った。そして刀を抜くと同時に、振りむいて迎え撃つ構えをとった。  凝然《ぎようぜん》と、闇の路上に構えたまま、修助は待った。だが斬りかかって来る者は、現われなかった。重苦しく首筋を圧迫した、物の気配は消えていた。  刀をさげたまま、修助は四辻までもどった。暗い横丁に鋭い眼を配ったが、物の気配はなかった。仄白《ほのじろ》い板塀がつづいているだけである。  どこの屋敷からか、疳症《かんしよう》らしい高い咳《せき》ばらいが、つづけざまに聞こえて来たあとは、町は物音ひとつせずに静まり返った。修助は刀を鞘《さや》にもどした。  ──気づかれたと知って、横丁に逸《そ》れたのだ。  その感触は動かなかった。気づくのが一瞬おくれていたら、戸塚の二の舞いだったろうと思ったとき、全身にどっと汗がにじみ出た。何者かが、背後から襲って来たことは疑い得なかった。だが、終始足音を聞かなかったと思った。  修助は顔を流れ落ちる汗をぬぐいながら、いそぎ足に歩いた。歩きながら、何かが異物のように記憶にひっかかっているのを感じたが、それが何かはわからなかった。修助は腕を上げて、もう一度気味悪いほど流れる顔の汗をぬぐった。 [#5字下げ]五  道場の門を出ると、修助は空を見上げて憂鬱《ゆううつ》な顔になった。飴色《あめいろ》の重苦しい感じの雲が空を覆《おお》いつくし、いまにもひと雨来そうな空模様だった。  空気は冷えびえとして、日暮れには少し間があるというのに、路上には歩いている人影も見えなかった。そのままで、町は暮れて行く気配だった。  途中で降られるかな、と思いながら歩き出すと、しばらく行ったところで、うしろから女の声で名前を呼ばれた。おどろいて振りむくと、三十前後とみえる、まるまると太った女が立っていた。  女はすぐそばの寺門の中から出て来たらしい。修助をみると、満月のように丸い顔に、いっぱいに笑いをうかべて、三崎さまですねと言った。 「さようですが、そちらは?」 「ああ、よかったこと」  女は修助の問いには答えず、胸を撫でおろすようなしぐさをして見せた。 「二、三度、遠くから拝見してはおりますけれども、もしや人違いではないかと、ひやひやいたしました」  女はもう一度満面に笑いをうかべると、どうぞこちらへと、寺の門内にいざなうそぶりになった。言うこともすることも奇妙だが、女の顔にもそぶりにも邪気はみえない。修助はいくぶん狐につままれたような気分で、女のあとについて行った。  寺は竜泉院という曹洞《そうとう》宗の寺院で、さほど大きい寺ではない。境内も狭かった。修助が女のあとについて寺の門をくぐると、境内の石燈籠《いしどうろう》の陰から、若い女が現われて、こちらを見た。 「朝岡の秦江でございます」  若い女は、修助が近づくと自分も歩み寄って来て、深ぶかと頭をさげるとそう言った。修助は棒立ちになった。  秦江はうすく化粧していた。わずかに紅を刷《は》いた頬が、匂い立つように若わかしく、黒目がちの眼、小さくふくらんだ唇が可憐《かれん》な娘だった。修助は、一瞬声を失ったようである。 「や、これは」  ようやくそう言った。しどろもどろに、名前を名乗った。そして、すぐに名前など言うことはなかったのだと思いあたって、少し赤くなった。  秦江はその様子を微笑して眺めていたが、不意に胸が触れ合うほど近づいて来て言った。 「今日は、三崎さまにぜひともおたずねしたいことがあって、恥をしのんでお会いしに参りました」 「はて、何であろう」  と修助は言ったが、秦江が何を言いに来たかは、およそ見当がついていた。  牧家老の屋敷に呼ばれてから、あらましひと月ほど経ったが、その後牧からの連絡はと絶えていた。探索が行きづまっているとしか考えられなかった。そしてその間に、籠手《こて》打ちの名手山口駿作が死んだ。牧や修助たちの警戒を嘲笑《ちようしよう》したような、一撃の頸部《けいぶ》斬りだった。  死んだ三人の身の上に起きたことは、いずれ自分の身にも降りかかって来ると思わないわけにはいかなかった。げんに一度、戸塚の通夜の帰りに襲われかけている。  修助は、兄夫婦に朝岡との縁組み話を、しばらく延期してもらいたいと言った。兄夫婦は怒った。ことに兄は、修助に生意気に女でもいるかと疑ったらしく、激怒してわけを言えときびしく問いつめて来たが、修助は貝のように口を閉じているしかなかった。  今朝も道場に来る前に、嫂にはげしく叱責《しつせき》されたばかりである。わけのわからない延期話は、間に立つ登与を困惑させ、ついに先方の朝岡の家にも洩れて、不審を持たれているのだろう。  この美しい娘も、そのわけを問いただしに来たのだ。 「三崎さまとのお話を、父母も大そう喜んでおりました。しかし三崎さまは、このお話をすすめるのは待って欲しいと申されたと聞きました。なぜですか?」  はたして、秦江は真直ぐにその話を持ち出して来た。修助は黙って下をむいた。 「おいやなら、おいやと正直に申してくださればよいのです」 「………」 「父も母も、三崎さまのことはあきらめて、ほかに話をさがすと申しております。しかし私は……」  秦江の声が、か細く顫《ふる》えた。 「一たんこのおひとこそと思い決めたお方を、すぐに忘れてよそのお話に耳傾ける気にはなれません。どんなにさげすまれようとも、一度あなたさまにお会いして、本心をお聞きした上で、心を決めようと思って参りました」 「………」 「今度のお話、おいやなのですね。それならそうと、はっきりおっしゃってくださいませ」  修助は顔を上げた。するとちょうど秦江の眼から、涙の粒がひとつこぼれ落ちたところだった。秦江はあわてて袂《たもと》を掬《すく》いあげると、さっと顔を隠して横をむいた。 「いや、そうではない」  と修助は言った。うしろを振りむいて見たが、さっきの女中と思われる女はいなかった。門の外に出て、人を見張ってでもいるのだろう。 「磯部の叔母御に今度の話を聞いたとき、それがしには過分の縁組みだと思った。今日、そなたに会って、ますますそう思う。だが、やはりしばらく待っていただかねばならぬ。事情がござる」 「事情?」  袂をはずして、秦江がこちらをむいた。眼の下の化粧がはげて、変に生なましく、そのかわり親しみやすい顔になっていた。秦江はじっと修助を見つめた。 「その事情というのを、お聞かせねがえませんか?」 「それは言えぬ」  修助はきっぱりと言った。 「ただ、それがしを信用して、いましばらくお待ちいただきたいと申しあげるほかはござらん。それがかなわぬなら、この縁談は、なかったものとしていただくしかない」 「はしたないことをお聞きしますが……」  秦江は、ぱっと顔を赤らめて、小声になった。 「事情と申されることですが、それは、女子にかかわりがございますか?」 「いや、いや」  修助も赤面して手を振った。 「それがしは、そういうことはいたって不調法。若い女子と、このように長話をしたのは、今日がはじめてでござる」 「やはり、お会いしてようございました」  突然に秦江が言った。秦江は微笑していた。かがやくような白い歯が、ちらと見えた。 「私、三崎さまをお待ちいたします。家の者が何と申しましょうとも。もうこのことについては、ご懸念くださいますな」 「すまぬ」  と修助は言った。兄夫婦でさえ不信の眼で見たおれを、この娘は何も言わずに信じてくれるというのか。そう思ったとき修助は、ほっそりした秦江の肩を抱きしめてやりたいような、熱いものが胸に溢《あふ》れるのを感じた。しかしそうはせずに、手だけさしのべた。 「長くは、待たせぬ」 「私、あなたさまを信じております」  秦江は、変に据わったような眼で、ひたと修助を見つめた。そしてさし出した修助の掌に指をからめた。だがそれは一瞬で、秦江はすぐに火傷《やけど》でもしたように手をひくと、身をひるがえして門の方に駆け去った。思いがけなく、小鹿のようにすばやい身ごなしだった。  顔の前にかざして、修助はしばらく茫然《ぼうぜん》と自分の掌を眺めた。信じられないほど、やわらかくしなやかなものが触れた感触が残っていた。  外に出ると、女たちの姿はもう消えていた。担い売りの肴屋《さかなや》が一人、長く触れ声をひっぱりながら、日暮れ近い路を歩いているだけである。  ──さて。  一度空を見上げてから、修助は歩き出した。降るかと思ったが、空は夕方になって少し雲がうすれたらしく、さっきよりむしろ明るくなっていた。  状況は何ひとつ好転したわけでなく、見通しは依然として暗かったが、その中に一点小さな明かりがともった感じがある。女子どころか、と修助は思う。だが秦江に会って、救いようもなく重苦しかった日日に、かすかに光がさしこんだ気がするのを否めなかった。修助は心もち胸を張って、町を歩いた。  だが、その夜の五ツ半(午後九時)過ぎに、奥田喜市郎の家から使いが来た。奥田が斬られたのである。夜の町を修助は奥田の家に向かって疾駆した。  三人目の山口駿作が死んだあと、奥田は急にふさぎこんで、しばしば道場を休むようになった。出て来ても、わずか一刻ほど稽古にはげむと、早早に帰って行く。そうして家に籠っているらしかった。  そういう奥田を、修助は小心だと思ったが、しかしその方がいいとも思っていたのである。牧家老から使いが来るまでは、こちらから身動き出来ることではなかった。その奥田が、なぜか夜の町に出て斬られたらしかった。刺客は、ずっと引き籠っていた奥田が、耐えかねて夜気を吸いに外に出るのを、待ち伏せていたのだろうか。  駆けつけると、奥田はまだ息があった。奥田の傷は、頸をわずかに逸れて肩口に入っていた。奥田の剣は受けに定評がある。どのような難剣も粘りづよく撥《は》ねかえす受けの剣が、闇討ちをうけたときにもとっさに働いたせいかも知れなかった。だが肩口のその傷が、やはり致命傷であることは、手当てした白布が、血に濡《ぬ》れて赤い布のようになっていることでもわかる。  医師の姿は見えず、奥田の枕もとには、数人の身内がひっそりと坐っているだけだった。修助を見ると、奥田の父親が沈痛な顔で礼を言い、修助どのを呼べとしきりに言うので、ご足労いただいたと言った。 「奥田」  耳に口を近づけて呼ぶと、奥田はうすく眼を開いたが、荒い息をつき、惘然《ぼうぜん》と天井を見上げているだけで、修助の声が聞こえたようでもなかった。 「三崎だ」  修助は奥田に顔をかぶせるようにして、辛抱づよくささやきかけた。 「言い残すことがあろう。ん? 言いたいことがあって、おれを呼んだろうが。言え」  あるいは奥田は、三年前の秘事のことを口にするつもりかも知れなかった。だが、ここまで来た、構うものかと修助は思った。 「三崎だ。わかるか? 何が言いたかったか、言え」  奥田の喉が、こくりと鳴った。そして天井を見つめたまま、ただの気息と思える声を洩らした。 「わからんぞ、もっとはっきり言え」 「匂った。くすり……」  不意に奥田ははっきりした声で言った。だがそれが奥田の最後の声だった。奥田は急にはげしく胸を喘《あえ》がせ、喉をかきむしるようなしぐさをみせた。喉が鳴り、奥田は身をよじって何かを吐き出した。  奥田の妹が、いそいでそばに寄ると白布で吐き出したものをぬぐい取った。おどろくほど大きい血塊だった。そして奥田は急に静かになった。みるみる顔色が蒼白《そうはく》に変り、潮がひくように息が微《かす》かになり、やがて絶えた。  しのび泣く女たちの間から、一礼して立つと修助は部屋の隅にしりぞいた。すると奥田の父親が前に来て坐りながら言った。 「喜市郎は、何を申したのであろうな?」 「さて、それがしにもよくわかりません」  修助はそう言ったが、奥田の言葉を聞いたとき、左内町の路上で襲われかけたときのことを、はっきりと思い出していたのである。  さとられたと知って、刺客は足音も残さず姿を消したが、夜気にかすかな異臭が残っていたのである。そのときはよくわからなかったが、奥田の言葉ではっきりした。それは薬の匂いだったのだ。さらに言えば、それは次席家老牧治部左エ門の病間で嗅いだ匂いだったのである。巨大な疑惑が、修助を鷲《わし》づかみにしていた。  ──だが、そんなことがあり得るか?  修助は物言わぬ骸《むくろ》に変った奥田に、呼びかけてただしたい気持に堪《た》えて、じっと坐りつづけた。 [#5字下げ]六  修助が言うことに、じっと耳を傾けていた曾我平太夫は、修助が話しおわるとぽつりと言った。 「よく似ておる」 「………」 「わが派に千鳥と呼ぶ秘剣があるが、それによく似ておる」 「え? 三徳流の?」  中味を伏せたまま、修助は戸塚、奥田を斬り、一度は自分を襲いかけた刺客の剣癖をくわしく話し、そういう剣を遣う人間に心あたりはないかと曾我にただしたのである。  だが曾我の答えは予想外のものだった。修助は混乱した。 「そのような秘剣があることは、聞きおよんでいませんが」 「祖父が工夫し、父に伝えた。それきりで廃《すた》れた剣じゃ」  三徳流は、蝙也斎《へんやさい》松林左馬助の願立《がんりゆう》からわかれた一派で、曾我の祖父又七郎は仙台藩士だったが、三徳流を遣って名人と称された人物だった。事情あって禄を離れると、この城下に来て三徳流を指南した。それが曾我道場の創《はじ》めである。  千鳥の秘剣は、その又七郎から、曾我の父次左エ門に伝えられたものだという。そう言いながら、平太夫は思案するように腕を組んだ。  平太夫は四十半ばで、顎《あご》に漆黒のひげをたくわえている。つねに冷静な、品のいいその顔に、めずらしくあわただしい色が動いている。 「戸塚伊織、増村道場の服部と、若い者が狙われて死ぬ。そのころから少し気になっていたことがあった」 「………」 「千鳥と申すのは居合い技での。しかも一撃必殺を期して頸をはねるところに特色がある」 「………」 「足音を聞かなんだと申したの?」 「はい」 「千鳥はもと、暗殺に用いる剣として工夫されたそうじゃ。それゆえに父は、この剣を廃してわしには伝えなんだが、術者は履物を用いず、足袋《たび》はだしで敵にむかうと聞いておる」  修助は、背筋を寒気が這いのぼるのを感じた。わずかな物の気配としか思えなかった、闇の中の襲撃者を思い出したのである。 「先師は、先生にその剣を伝えなかったと申されますが、当時の門人にはいかがでござりましょうか」 「むろん伝えてはおらんと思う。また、伝えたとも聞かぬ」  平太夫はそう言ったが、げんに千鳥と思われる剣を遣って、門人を闇討ちに屠った者がいることに思いあたったらしかった。待て、調べてみようと言った。  しばらくして、平太夫が次の間から持ち出して来たのは、曾我道場の古い門人録だった。 「こちらが父の代、これは祖父の代の門人じゃな」  数冊ある門人録を、二人は手分けしてめくった。一人一人の門人について、記録は入門の時期、在籍の年月、道場稽古を終えた時期を詳細に書きとどめ、また免許をうけた者はその年月も洩れなく記載していた。 「三崎」  不意に平太夫が修助を呼び、これを見よと言って、手にした門人録を指でつついた。平太夫がさし示した箇所を、修助は凝然と見つめた。  牧忠次郎、その名前の下に千鳥の二字があった。曾我道場に籍を置いたのは、わずか一年ほどの間である。忠次郎というのは、牧治部左エ門が三十二で家督をつぐまでに使っていた名である。 「忠次郎というのは、いまの牧家老のことじゃな?」 「そうです」 「不思議なこともあるものだ。ご家老が、この道場に通ったなどとは、聞いておらぬ。しかも一年あまりということが解《げ》せぬ」  平太夫は首をひねったが、修助には、およそ察しがついていた。牧は若年のころ、江戸で空鈍流を修行して、名手の域に達したという噂《うわさ》があるのを知っている。牧はそのあとで、自宅に曾我次左エ門を招き、千鳥の秘剣だけをうけたのだろう。時期は家督をつぐ五年ほど前である。 「ほかには見あたらんな。そちらはどうだ?」  平太夫は、なおしばらく紙を繰って、門人録に眼を走らせたが、そう言って手の綴《と》じこみを下に置いた。 「こちらにもございませぬ」 「すると千鳥の秘剣をうけたのは、牧家老一人ということになるか」  平太夫はそう言って、顎のひげを撫でたが、不意に狼狽した顔色になって、まさかと言った。 「まさかあのお方が、わけもなく闇討ちを楽しんでいるとも思えぬ。それに、ご家老は病人じゃ。近ごろはかなりお悪いと聞いておる。刀を揮《ふる》うのは、まず無理じゃな」 「むろん、別人でござりましょう」  と修助は言った。家老とのつながりは、なお曾我にも打ち明けられない秘事だった。 「また戸塚、奥田を斃した剣が、はたして千鳥かどうかも分明ではございません。しかしおかげさまで、およその見当がつきました」 「そなたら……」  平太夫は死者もふくめてそう言った。 「何者かに狙われるわけでもあるのか?」 「いえ、さような心あたりは、まったくござりません」 「用心いたせ」  平太夫は修助をじっと見た。 「ただ逃げ隠れせよと申すのではない。千鳥に類似した剣であることに間違いないとすれば、剣士としてそれに立ちむかう工夫があるべきだろう。油断なく立ちむかえ」  修助は黙って頭をさげた。むろん修助もそのつもりだった。  家老屋敷に呼ばれたときの、牧の衰えた顔容が眼にうかんで来る。その牧が夜の町に出、四人を斬るなどということは、あり得ないことに思われたが、出て来た事実はただ一点、刺客が牧治部左エ門本人であることを示していた。  何かの理由があって、牧はかつて使嗾《しそう》して明石嘉門の暗殺に働かせた五人を、残らず抹殺する必要に迫られたのだ。その最後の一人になったという実感が、ひしと修助をしめつけて来た。  半月ほど、修助は柚木兵之進を相手にはげしい稽古を積んだ。柚木に抜き打ちに頸を狙う剣を遣わせ、その剣をかわして反撃に転じる剣を工夫したのである。その間、修助は夕方は早く家にもどり、夜は外に出なかった。  ほぼその工夫がつくと、修助は道場の帰りに牧の屋敷に回り、わざとそのあたりを一刻ほど徘徊《はいかい》して家にもどった。いずれは決着をつけなければならないことだった。修助はすすんで決着をつけたい気持になっていた。  連夜、附近を徘徊する修助を訝《いぶか》しんで、ある夜は無口そうな中年の家士が、牧家の門前に立ってじっとこちらを眺めていたことがある。だが牧は誘いに乗って来なかった。あるいは、牧は病状が悪化しているのかも知れないと修助は思ったりした。  だが事実はそう思って修助が、牧家の近くに行くのをやめた二日後に、牧家老から呼び出しが来るという形で、対決の時が来たのである。使いは修助が道場から家にもどってから来た。いつものにこやかな顔をした老婢が、その使いだった。  修助は虚をつかれた気がした。牧は修助の誘いなど歯牙《しが》にもかけず、修助が拒み得ないような形で、向うから誘いをかけて来たようだった。  ──屋敷に着くまでか、それとも会って帰るところを襲うつもりか。  いずれにしろ、牧は今夜残る一人を抹殺し、ケリをつけるつもりだろう。修助は剣鬼と化した牧を思い、夜の町に踏み出しながら、かすかに身顫いした。  背後に、かすかな物の気配を感じ取ったのは、牧の屋敷がある元馬場町に入ると間もなくだった。  気配だけで、足音はなかった。修助は自分も草履をぬぎ捨てた。そしていつでも抜けるように刀の鯉口を切った。修助が草履をぬいではだしになったとき、気配が少し遠のいたようである。  だが、物の気配は急に濃く迫って来た。闇夜だった。眼も鼻も塞《ふさ》がれるような濃密な暗さが身体を包んでいる。修助ははじめて敵の足音を聞いた。おそらく距離を測っているのだろう。つ、つと斜めに走り、またつ、つと斜めに走る。そのかすかな物音は、たとえば地上を走る、小鳥の足音に似ているかも知れなかった。耳を澄まさなければ聞きとれない、軽い足音は、背後の殺気さえなければ、まさしく渚《なぎさ》にあそぶ千鳥を連想させる。  その鳥が飛んだ。おどろくべきことに、殺到し一閃《いつせん》の剣を浴びせて来たそのときも、敵はまだ足音を殺していた。一陣の風が襲って来たのに似ていた。  逃げるひまはなかった。修助は右膝を折り、左足を一ぱいに送って体を沈めると、頭上に来た剣をはね上げた。次の瞬間、逆に左足の膝を折りながら、右足で地を蹴《け》って立った。その動きが、襲って来た二の太刀の受けに間に合った。鏘然《しようぜん》と太刀音が鳴り、長身の黒い影が、脇をすり抜けて走る。その胴に、修助は鋭い一撃を打ちこんで逆に走った。五間ほどの距離を一気に走り、振りむいて刀を構え直したとき、どさりと人が倒れた物音がした。胴を薙《な》いだ一撃は、敵の腹を半ばまで斬り裂いたはずである。  修助は青眼《せいがん》に構えたまま、しばらく佇立《ちよりつ》していたが、やがて刀を鞘におさめた。鬢《びん》のあたりが痛むので手をやると、ぬらりとした血が手に触れた。最初の一撃を、うまくかわしたと思ったが、それは一髪の差に過ぎなかったようである。  修助は背をむけた。これはいわば闇の中の私闘だった。斬った者も斬られた者も、言葉をかわしてはならないと思っていた。  二、三歩歩いたとき、うしろから、苦しげな声が、三崎ここへ来い、と言った。修助は後にもどると、倒れている人間が刀を握っていないのを確かめてから、そばにうずくまった。血の匂いにまじって、濃く薬の香が匂った。 「千鳥の秘剣を、よく破った」  牧はぜいぜいと喉を鳴らしながら言った。 「ついでに、わしを家の門まで運んで行け。どうせ助からぬが、ここで倒れてはまずい。わしにとっても、貴様にとってもな」 「われわれを抹殺しようとしたわけは、何ですか?」  修助は聞いた。牧は答えなかった。修助がご家老と強くうながすと、牧は、ふふと力なく笑った。 「わしの命は、あと半年だそうだ。医者がそう言った。死んだあとに、明石の一件を知る者を残してはまずいと気づいた」 「われわれは、誓詞をさし出しましたぞ」 「誓詞など、信用ならん」  牧は、かすれた声でそう言った。そして斬られた腹を抱くように、深く身体を曲げた。うめき声は立てなかった。修助は膝をついたまま、茫然とその姿を眺めおろした。長く権力の座にいた者の、おどろくべき猜疑《さいぎ》心を見た気がしていた。  ふとあることに気づいて、修助は牧の肩をゆすった。 「ご家老。いまひとつお聞かせいただきたい」 「………」 「明石嘉門は、まことに奸物だったのですか?」  牧は答えなかった。鼻腔をさぐると、もう息絶えていた。  修助は立ち上がった。牧の死骸《しがい》を門前に運んで行くのはよい。家の者が気づき、死骸を中に運び、二、三日して病床の名執政の病死が公《おおや》けにされることになるだろう。  だが、とほうもなく重い荷を背負いこんだようでもあった。一人では背負い切れないほどの重い秘密だった。その荷を、あの娘が分けて持ってくれるのだろうか。  修助は竜泉院の境内で会った秦江を、ただひとつの救いのように思い出しながら、暗い地面から牧の身体を背負いあげにかかった。 [#改ページ] [#1字下げ] 孤立剣残月 [#5字下げ]一 「鵜飼佐平太のことを、おぼえておるか?」  と、さきの家老三井弥五右衛門は言った。小鹿七兵衛は、は、と口ごもったまま黙ってさきの家老を見返した。  忘れるわけはない。鵜飼佐平太は、上意討ちの命をうけて、七兵衛が討ち取った相手だ。場所は東海道金谷の宿《しゆく》はずれ。十五年も前のことだが、そのときの斬り合いの光景は、いまもはっきりと七兵衛の頭の中に焼きついている。  四人の討手《うつて》を迎えて、一歩もひかず斬り合いに応じた佐平太。河原にはじける白い日。風になびく芒《すすき》。そして持ち帰った佐平太の首に塩をすりこんでいるところを見た、宿の女房の驚き。帰国した七兵衛以下四人の討手を迎えた、城中の賞賛の声、ひきつづいての加増。それは過去にただ一度七兵衛をおとずれた、栄光の思い出だった。忘れるわけはなかった。 「ふむ、そうか。忘れるはずはないの。ところでそなた、佐平太に弟がいたのを知っておったか?」 「半十郎のことでござりますか?」  弥五右衛門は、そうだとうなずいた。半十郎は、佐平太とは十以上も年の離れた弟だったが、城下を出奔した佐平太の死、鵜飼家の廃絶という事件の中で、江戸にいる戸田という家に引き取られて行った。戸田家は定府《じようふ》の家柄で、そこに半十郎の叔母《おば》が嫁いでいた。たしかそのとき、十二の子供だったはずである。 「その半十郎が、いかがいたしました?」 「殿の思《おぼ》し召《め》しで鵜飼の家を再興することが決まり、このほど半十郎が跡をついだと、江戸家老のほうから知らせが入ったということだ」 「はあ」  すると鵜飼の家が再興されるわけかと七兵衛は思った。半十郎や鵜飼の親族の者にとっては、さぞめでたい出来事だろうが、おれにはかかわりのない話だとも思った。それにしてもさきの家老は、なぜこんな話を聞かせるために呼びつけたのだろうか。 「江戸家老からと申しても、話はむろんこちらの矢野や奥沢が打ち合わせて、江戸の殿まで申し上げたことに間違いない」 「………」  七兵衛は、ぼんやりと弥五右衛門の顔を見た。呼ばれたわけが、少しわかりかけて来たようだった。  矢野孫七郎と奥沢権兵衛は、弥五右衛門の政敵である。二人はほぼ一年ほど前に、多年の政敵を蹴落《けおと》として執政の地位にのぼっている。  政権を握った二人の権力者は、まず執政から主だった役職の長まで人を入れ替え、自分たちの派閥を固めたが、それが済んだいまは、三井弥五右衛門を筆頭とする旧勢力が残した施政を、片っぱしから改廃することに手をつけていた。  いつの世にも行なわれて来た、権力の交替にともなうごくあたりまえの様変りが、ここ一年ほど休みなくつづいているのである。すると鵜飼の家の再興をゆるし、半十郎に跡をつがせるという今度の決めも、新しい権力者による旧政の手直しということで、弥五右衛門は、それに対する不満を聞かせたくて呼んだのか。  そういえば佐平太の出奔は、当時の政争とかかわりがあると噂《うわさ》があったな、と七兵衛は思った。詳細は知らない。七兵衛はただ、上意討ちの討手を言いつけられ、勇躍して佐平太の後を追っただけである。あのときは二十六──若かった。 「半十郎は、この春帰国される殿にしたがってこちらに来る」 「………」 「厄介なことになった」  七兵衛は、伏せていた顔を上げた。弥五右衛門は新しい執政に対する不満を聞かせるために呼んだのではないらしかった。重苦しく溜息《ためいき》をついている。 「厄介なことと申されますと?」 「江戸の松村彦三郎が内密に知らせて来たのだが、半十郎は帰国したあと、そなたに果し合いを申しこむつもりでいるらしい」 「………」  七兵衛は茫然《ぼうぜん》とさきの家老を眺めた。バカな、と思った。 「それはどういうことでござりましょうか?」 「つまりだ。半十郎は兄の佐平太を討たれたことをずっと無念に思っていたらしい。帰国したら、そなたと立ち合って積年の怨《うら》みを晴らすのだと公言したそうだ。彦三郎が自分の耳で聞いたことだというから、間違いあるまい」 「しかし、それがしは私の怨みで佐平太を討ち取ったわけではありませんぞ。怨むのは筋違いと存ずる」 「いかにも筋違いだ。しかし半十郎が人前でそう公言したというからには、裏に矢野や奥沢の暗黙の諒解《りようかい》があることが考えられる。バカなことをと笑い捨てるわけにもいかんのだ」 「………」 「佐平太が、城下を出奔したわけを知っておるか?」 「いえ」 「あのころ、いまはわし同様に冷や飯を喰っている組頭《くみがしら》の落合市兵衛が、夜おそく下城するところを襲われるという事件があった。市兵衛の供をしていた家士が斬られて死んだが、市兵衛は手傷を負っただけで無事だった。そのとき闇討《やみう》ちをかけて来たのが佐平太で、うしろに矢野の手が動いていることがうかんで来たのだ。矢野と市兵衛は仲|悪《あ》しかったからの。で、つかまえて矢野とのつながりを糺明《きゆうめい》しようとした直前に、佐平太が逃げよった」 「………」 「事情はそういうことでの。矢野孫七郎は、鵜飼の家に対して、その折の埋めあわせをしようと考えておるかも知れぬ」 「しかし、それがしにはかかわりがないことでござる。また、狙《ねら》われるのがそれがし一人と申すのも、迷惑|至極《しごく》」 「もっともだが、そこがそれ……」  弥五右衛門は、小指を曲げて顎《あご》を掻《か》いた。 「討手は四人と申しても、名目上の討手はそなたで、ほかの三人は補佐としてつけられた。たしか、そうであったな?」 「………」 「記録を読み直したが、そのときの斬り合いでは、最後にそなたが佐平太を仕とめ、作法に従ってとどめを刺しておる。半十郎はどうもそこまで承知しておるのではないかと思われる」 「いかがいたしたらよろしゅうございますか?」  七兵衛は途方にくれたようにたずねたが、弥五右衛門はすぐには答えなかった。ゆっくりお茶をすすり、手のひらで口をぬぐってから、七兵衛に眼をもどした。おだやかだが、力弱い視線だった。 「なにしろ用心いたせ」 「………」 「しかるべき名目をつけ、家老がそれを黙認するという形で、半十郎がそなたに果し合いを申しこむことは、あり得ないことではない。油断せぬことじゃ」 「ご家老のお力添えで何とかしていただけませぬか」 「むろん、家中の私闘は禁じられておる。もしそのようなことがあれば、わしからも一言言わざるを得んが、しかし矢野や奥沢はわしの申すことなど耳にいれまい」  三井弥五右衛門は、聡明な執政として藩内外の信頼をあつめたひとだが、一たん政権の座からしりぞいて隠棲《いんせい》してしまうと、それだけのことにも口をはさむことをはばかるようになるものらしかった。眼の前にいるこの年寄は、頼りにならないと七兵衛は思った。  弥五右衛門自身も、自分の無力を隠そうとしていなかった。伝えるべきことを伝えたというようにあとは口をつぐみ、背をまるめてお茶をすすっている。もう七兵衛を見ようとはしなかった。  居心地悪い沈黙があったあとで、七兵衛は低い声でいとまを告げると、立ち上がった。弥五右衛門は七兵衛の挨拶《あいさつ》にも無言でうなずいただけだったが、七兵衛が襖《ふすま》をあけて廊下に出たとき、不意にうしろから言った。 「ひとつ言うのを忘れておった。彦三郎の手紙によると、鵜飼半十郎は梶派と申す一刀流の名手だそうじゃ」 [#5字下げ]二  火鉢がある弥五右衛門の部屋に長くいたためか、外に出ると夜気が冷たかった。季節は三月に入っていて、日中の日射しはまぎれもなく春の到来を告げているのに、夜になるとどこからか残る冬が顔を出した。晴れた日ほどその差がはげしくあらわれる季節だった。  歩きながら、七兵衛は身顫《みぶる》いした。しかしいそぎ足になっているのは、冷たい夜気のせいばかりではなかった。さきの家老の屋敷を出たときから、七兵衛は、心の中にしきりに気持を急《せ》かせるものが棲《す》みついたのを感じている。  ──何とかしなければならん。  そう思っていた。藩主の帰国は、その年によって二、三日の違いはあるが、通例は四月のはじめである。鵜飼半十郎が帰国するまで、あとひと月のゆとりしかなかった。それまでにさっき聞いたあのバカげた話を、何とかしなければならないのだ。  七兵衛に、果し合い申し込みをうける気持はまったくない。もう十年若かったら、七兵衛はさきの家老がした話をバカげたことだと思いながらも、相手がその気ならとうける気持に傾いたかも知れないが、四十一の小鹿七兵衛には、ただ思いがけない話を聞いた狼狽《ろうばい》があるばかりである。身体《からだ》にはしまりなく肉がつき、ことに前に突き出た丸い腹は、湯を浴びるときなど、七兵衛本人が眼をそむけるほど醜い。  去年の秋、庭石をいじったときのことを七兵衛は思い出している。六十石の七兵衛の家には庭と呼べるほどのものもないが、祖父が庭好きだったとかで、座敷の縁の外に多少の植込みと石が数個置いてある。  ところが、一夜の嵐のあとで、その粗末な庭に大穴があき、一番大きな石が穴の中に落ちこんでしまった。妻の高江がみっともないとさわぐので、七兵衛は数日後腕まくりしてその石を引き上げにかかったのである。人を雇うほどの金もないが、それぐらいは自分で出来ると思っていた。  ところがその石が重かったのだ。七兵衛は血へどを吐くかと思うほど、力をしぼりつくしてようやく引き上げはしたものの、そのあと息が切れ、立ちくらみして、石のそばにへたりこんでしまった。もう若くはない、とそのときしみじみとさとったのである。  かつて家中《かちゆう》で五指に数えられた無明流の剣も、ただの昔話にすぎない。七兵衛が道場から遠ざかってから、もう十年近く経つ。  ──梶派の名手か。  七兵衛は、たるんだ頬《ほお》にひきつった笑いをうかべた。いま半十郎と立ち合ったら、まずひとたまりもあるまいと思ったのである。 「お夜食は?」  家にもどると、高江が聞いた。七兵衛はいらないと言った。じっさい喰べたくなかった。すると高江は、喰べて来たのかと聞き返しもせず、さっさと膳《ぜん》を片づけはじめた。そして台所に入った。  七兵衛は寝部屋に行って着換えた。高江が着換えを手伝わないのは、いつものことである。遠いむかしに仲がこじれてしまった夫婦だった。七兵衛は茶の間にもどって、妻が台所の始末を終えるのを待った。 「酒があったかの?」  もどって来た高江にそう言うと、高江はございますと言った。 「お飲みになるのですか?」 「………」 「もう遅うございますよ」 「文句を申さず、持って参れ」  高江はひややかな眼で七兵衛を見返したが、台所にもどると徳利と湯呑みを持って来た。盆に乗っているのはそれだけで、漬け物ひとつ添えてあるわけではない。 「ほかに、ご用は?」  七兵衛は、黙って徳利をかたむけると酒をついだ。 「三井さまのお話は、何ごとでござりました?」 「春に殿が帰国される。そのときに……」 「………」 「いや、よそう。後で話す」  七兵衛が言うと、高江はではお先に休ませていただきますと言った。  高江が部屋を出て行くと、七兵衛は台所に入って漬け物をさがした。赤|蕪《かぶ》と小茄子《こなす》の漬け物があった。ひとつかみずつ、どんぶりに入れて茶の間にひき返した。  蕪の漬け物を噛《か》み、黙黙と冷や酒をあおっているうちに、七兵衛は淡い悲哀のようなものが胸を染めて来るのを感じた。いわれのない糾問の前に、ただひとり引き出されたような心細さがある。そのいわれのないゆえんを弁ずる口も、自分ではね返す力も持たないのがいかにも情けなかった。  だが酔いが回って来ると、情けない気分は酒気にあたためられて発酵したように、次第に怒りに変って来た。七兵衛は胸を起こし、誰もいない部屋の中を睨《ね》め廻した。  ──敵《かたき》呼ばわりされるおぼえはないわ。  怒りはまず、当面の敵として立ちあらわれて来た鵜飼半十郎にむけられる。あのときはたしか十二だったから、いまは二十七か。ふむ、若造が小癪《こしやく》なことを考えるものだ。その気なら来い。無明流の剣がどういうものか、おがませてやろう。  それにしても、と七兵衛の腹立ちはさっき会って来た三井弥五右衛門に移る。かつては藩政を一手に仕切った筆頭家老ともあろうひとが、ずいぶんと意気地がなくなったものではないか。非がむこうにあることは歴然としているのに、これしきのことを喰いとめられないとは情けない。かかわりがないとは言わせん。上意討ちを命じたのは、三井が牛耳《ぎゆうじ》る時の執政たちである。鵜飼の怨みがおれにあつまっているのを幸便に、おのれらのしたことの後始末には眼をつぶろうつもりなら許せぬ。  ──高江め、この大事のときに何の役にも立たぬ女じゃ。  七兵衛は、亭主の危難をよそに、さっさと寝間に引き揚げてしまった妻に対しても、胸の中で憤懣《ふんまん》の声をあげる。高江はごく寝つきのいい女である。いまごろはもう白川夜船だろう。七兵衛は荒荒しい手つきで、酒をあおった。しかし待て。あの女に文句を言っても仕方ないか。 「ふむ、いまさら文句を言ってもはじまらんな」  赤蕪をつかんでかじりながら、七兵衛はひとりごとを言った。妻との長い不和の歳月を見つめていた。二人が別れないでいるのは、ただ世間体をはばかってのことに過ぎない。あれは、庭石をかつぎ上げたあと、その場にへたり込んだおれを見て、手を貸そうともせずあざ笑った女だ。そういう仲になったもとを言えば古い話だった。  鵜飼佐平太を討ちとって帰国すると、七兵衛はほかの三人と一緒に加増をうけた。そのころは高江も決して悪い妻ではなく、実家に帰ると亭主自慢をして来るような、ごく普通の女だったのである。まめまめしくそのころはまだ丈夫でいた姑《しゆうとめ》と夫につかえ、高江の時おり洩《も》らす不満といえば、子供が出来ないことぐらいだったのだ。  夫婦仲がけわしくなったのは、間に酒が入ったためである。加増をうけたころから、七兵衛はひんぱんに酒に親しむようになった。もともと酒は嫌いではなかったが、家中の者に茶屋に招かれて、佐平太を討ちとった時の武勇談を聞かせることが重なるうちに、話も講釈師のようにうまくなったが、茶屋酒のうまさも身についてしまったのである。  酒ばかりでなく、馴染《なじ》みの女が出来た。武勇談の方は、ひとわたり話してしまうと、やがて茶屋に誘う者はいなくなったが、そのあとも七兵衛はひとりでせっせと茶屋通いをつづけた。家から金を持ち出して遊ぶわけだから、間もなく女のことも露見した。このときの高江の悋気《りんき》がすさまじかった。七兵衛の茶屋遊びは二年ほどでやんだが、高江はそのあとも決して七兵衛を許そうとしなかったのである。  ──もとはと言えば、わしの方がいかん。  酒にあおられた怒りは、徐徐にしぼんで、七兵衛は湯呑みを盆に返すと、悄然《しようぜん》と肩をまるめた。あのときは、浮かれすぎたからな、と思った。  七兵衛の酒に対して、家中の者の見る眼も妻の眼も、はじめは比較的寛大だったのである。何しろ小鹿七兵衛は、百数十里の道を旅して脱藩人を討ちとって来た名誉ある剣士だったのだ。だが賞賛の声は大きければ大きいほど、消え去るのも早い。  祭りが終ったのに、まだ踊っているやつがおる。家中の七兵衛を眺める眼がそう変るまで、さほど長くはかからなかった。人びとは七兵衛を、いっときの功名に酔って酒と女に溺《おぼ》れた男とみた。七兵衛をいささか軽んじるその見方は、いまにつづいているが、七兵衛がそのことに気づいたのは、かなりあとだった。  勝気な高江は、そういうことにも気づいている。せっかく得た小鹿家の名誉をフイにした夫を憎んでいるのである。  ──それなのに、半十郎はおれに、昔の古いツケを払わせようというわけか。  新しくついだ酒を口にはこびながら、七兵衛は泣き笑いの表情になった。 [#5字下げ]三 「それは、ま、そういう事情になったら、わしからも曾田どのあたりに申してやってもいいが」  番頭《ばんがしら》の氏家喜兵衛は、執政に加わっている組頭の名前をあげてそう言った。七兵衛は額を畳に摺《す》りつけて礼を言った。そしてつけ加えた。 「申し上げましたごとく、それがしにいささかの咎《とが》もない話でござりますが、このように番頭にお願いに参ったことは、何分よそにはご内密に願いまする」 「わかった」  番頭はそっけなくうなずいた。そして不機嫌を隠さない口調で言った。 「言うことは委細承知したが、しかし小鹿ももとは藩中に聞こえた剣士。鵜飼半十郎の言い分に無理があると思うなら、その勝負うけてやるという気にはならんのか」  番頭の屋敷をさると、七兵衛はいそぎ足に門を離れ、懐紙を出して額と首筋の汗を拭《ぬぐ》った。屈辱に、じっとりと汗ばんでいた。  いそぎ足に左内町の武家屋敷を抜け、五間川の河岸に出ると、七兵衛はそこで立ち止まった。さて、これからどこへ行こうかと思ったのである。  さきの家老三井弥五右衛門から半十郎のことを聞いてから、二十日近く経っていた。その間、七兵衛は親戚《しんせき》、上司の間を走り回った。鵜飼半十郎の思いこみは、どう考えても無体なものだった。強引な言いがかりとしか思えなかった。  七兵衛はたずねて行った相手に、声を大にしてそう訴え、藩の上の方に執《と》りなしてくれるように頼み回ったのである。だが大方の反応はひややかなものだった。  親戚といっても、七兵衛の親戚は役持ちはほとんどいなかった。ただ一人遠い親戚に吉井という物頭がいたが、吉井は肝心の七兵衛の頼みにはそっけなくうなずいただけで、日ごろの疎遠をなじり、夫婦の不仲の噂を取り上げて叱り、はてはその原因になった七兵衛の茶屋遊びまで、埃《ほこり》をはらって持ち出して来て罵《ののし》るという始末で、七兵衛はほうほうの体で逃げ帰ったのである。  上司もまたさほど頼りにはならなかった。七兵衛は御旗組に勤めている。鵜飼佐平太の討手に選ばれたころは馬廻組に勤めていたのだが、数年後にいまの閑職に移された。上司の御旗奉行も閑職で、藩政の中では何の力も持たない。  だが御旗奉行の増川八十右衛門は、七兵衛の訴えにいたく同情を示し、知り合いの役持ちに数通の添え状を書いてくれた。書院目付の白石忠次郎、近習《きんじゆう》頭取の伊沢庄兵衛、郡奉行《こおりぶぎよう》の中里佐太夫、郡代の柘植《つげ》甚之丞、それに今日会って来た番頭の氏家喜兵衛などである。城中では話しにくい事なので、下城後あるいは相手の非番の日にあわせて、増川から休みをもらい、菓子折りを提げて回ったが、それがどれほど役に立ったかは、七兵衛にはわからない。  背に腹はかえられないと思って頼み回ったが、話を聞いた役持ちたちが、はたしてそれで納得して、上の方に執りなしてくれる気になったかどうかはわからないことだった。  氏家は率直な人柄だからああ言ったが、終始無言だった白石忠次郎、微笑を絶やさなかった中里佐太夫などがどう思ったかはわからない。あるいは武士にあるまじき頼みと思いながら話を聞いていたかも知れないのだ。  突然に七兵衛は、ここ二十日近い日を足を棒にして走り回ったことが、ことごとく無駄なあがきだったような思いにとらわれていた。菓子折りを提げ、卑屈なほどに頭を低くして、ただわが身の恥をさらして歩いたのではなかったか。  暑いほどの日射しが、頭上から降りそそいでいる。日は川水の上にも砕けていて、その光の中に川舟が二|艘《そう》とまっているのが見えた。舟には男が二人ずつ乗り組んでいて、一人が棹《さお》を使って舟が流れるのをとめ、一人が長柄《ながえ》の鎌を使って、水中の藻《も》を切っていた。藻を採っているのではなく、男たちは冬の間に汚れた川を掃除しているのだった。  対岸の柳が白く芽吹いて、その下に数人の男女がかたまり、舟の男たちの仕事を見物している。見物人は、鎌を舟に引き上げた男の合図で、二艘の舟が前後して下流に動き出すと、それで満足したように塊《かたま》りを解いて左右に散った。  七兵衛もいっときの放心からさめて歩き出した。まだ行先は決まっていなかったが、家へもどっても仕方ないようだった。三日前から高江が実家《さと》に帰っていて、もどっても家は無人だった。  ──女め。  七兵衛は、鵜飼半十郎が帰国することを打ち明けたときの、妻の態度を思い出して、低いうなり声を洩らした。  打ち明けたのは、気が弱っていたからである。その夜七兵衛は、書院目付の白石忠次郎に会った。頭が切れ、次席家老の奥沢権兵衛と親しく、将来は藩の要職を占めるだろうと噂されている人物である。白石は七兵衛の言うことをうなずいて聞いていたが、その間にひと言の意見も問いもはさまなかった。七兵衛の話が終ると、最後にうけたまわった、ごくろうだったと言っただけである。  屈辱と不安に苛《さいな》まれながら、七兵衛は家にもどり、はじめて妻に半十郎のことを打ち明けたのである。藁《わら》にもすがりたい気持になっていた。高江は大柄で厚い胸を持つ女である。話しながら、七兵衛は妻の胸を盗み見た。ひさしく触れていない嵩高《かさだか》な胸が、そのときほど慕わしいものに見えたことはなかった。  だが高江の反応は冷たいものだった。 「そのような大事なことを、なぜいままで黙っておられたのですか?」  刺すような声でそう言い、さらに七兵衛を見据えるようにしてこう言ったのだ。 「ご自分のことは、ご自分で始末をおつけなさいまし。その始末がつくまで、私は実家《さと》に帰らせてもらいます」  むろん自分で始末をつけるとも、と七兵衛は思った。だがそう思ったとたんに、焼けるような焦燥に心をつかまれていた。  ──あと、十日あまりだ。  道場に行こう、と七兵衛は思った。十年も足踏みしていない道場である。行ってどうなるというものでもなかったが、焦燥がそこに行くことを思いつかせたようだった。せわしなく汗を拭《ふ》きながら、七兵衛はわき目もふらず河岸の道を道場がある山伏小路の方にいそいだ。 [#5字下げ]四  道場の入口に立ったまま、七兵衛は茫然と稽古《けいこ》の模様を眺めた。踏みこみの足音、烈《はげ》しく打ち合う竹刀《しない》の音、打ち込みのおめき声。そういう物音が、混然とした熱気となって押し寄せて来るのに圧倒されている。  竹刀をふるっているのは、十四、五から二十過ぎまでの若者ばかりだった。高弟らしいやや年長の者が四、五人稽古をつけていたが、それも七兵衛が顔も知らない男たちだった。誰も七兵衛を振りむかなかった。  道場主の稲毛宗近の姿を眼でさがしたが、いなかった。老齢の稲毛は近ごろは道場に出ていないのかも知れなかった。母屋に顔を出して、挨拶だけして帰るか。七兵衛が気弱くそう思ったとき、横の方から、小鹿のおじさまと呼びかけた者がいた。  振りむくと鉢巻をしめ、手に竹刀を握った娘が立っていた。浅黒くりりしい顔立ちで、男のように袴《はかま》をつけているが、それは四人の討手のうちの一人志賀又左衛門の次女静乃だった。静乃は顔面にしたたるほど汗をうかべている。 「おう、お静か」  と七兵衛は言った。数年前になるが、又左衛門がこの子に無明流を手ほどきしてくれと言って、静乃を七兵衛の家に連れて来たことがある。  又左衛門は三人の子供が女ばかりで、つねづねそのことを残念がっていたが、次女の静乃がしきりに剣術に興味を示すので、見込みがあるようなら山伏小路の稲毛道場に入門させたいというのだった。酔狂なことを言う、と七兵衛はそのとき思ったのだが、ともかく手ほどきすることを引きうけた。  といっても道場があるわけではないので、晴れた日に庭で型をつけただけだったが、静乃はのみこみが早く動きもよかった。静乃が通って来たのは一年ほどだったろう。七兵衛は、見込みがありそうだから、入門させたらどうかと又左衛門に言い、稲毛にあてて添え状を書いたのである。  又左衛門から、時おり噂は聞いていたが、七兵衛はその後静乃に会うことはなかった。数年前の、手足のか細い少女は、背ものび稽古着の下に胸のふくらみが目立つ娘になっていたが、浅黒くひきしまった顔に、むかしの面影を残していた。 「ずいぶん背がのびたの」  と七兵衛は言った。 「いくつになったかの?」 「十七です」  静乃ははにかんで答えた。 「ふむ、するとそろそろ嫁に行かねばならんの」 「父もそのようなことを言いますが、まだ早うございます」 「稽古が面白いのか」 「はい。やっと少しわかりかけて来ましたから」 「お静、どうだ?」  七兵衛は思いついて言った。 「一本そなたに稽古をつけてもらおうか」 「稽古をつけるなんて」  静乃はぱっと顔を赤らめたが、ほんとにお願い出来ますか、と言った。七兵衛がうなずくと、静乃は竹刀を取りに道場の奥の方に走って行った。  道場をのぞいては見たものの、七兵衛は若い者の熱気に圧倒されて、中に入って行く勇気はなかったのである。かつてこの道場で筆頭を占めた剣客も、老いを迎えてはこのざまかと思ったのだが、静乃がいるならひさしぶりに竹刀を握ってみようかと思い立ったのだ。  だが、もらった竹刀を握ってむかい合うと、無残なことになった。静乃は上達していて、流れるように型をさばいたが、七兵衛はそれに合わせているうちに、たちまち顔面に冷や汗が流れるのを感じた。口の中がかわき眼がくらんだ。 「待った」  手をあげて静乃の動きをとめると、七兵衛は道場の武者窓まで歩き、その下にうずくまった。多年酒ばかりくらい、竹刀一本握らなかった報いがこれだ、と思いながら七兵衛は口をあけて喘《あえ》いだ。 「どうなさいました、おじさま?」  のぞきこんだ静乃が、驚いた声を立てた。 「しッ、さわぐな」  と七兵衛は言った。 「飯を喰っとらんのだ」 「まあ、どうして?」 「水を持って来てくれんか、お静」  静乃が走り去ると、七兵衛は羽目板に背をもたせかけて、あぐらをかいた。胸がおどろくほど早い動悸《どうき》を打っている。道場の中の者は、幸いにその小さな出来事に気づいていないらしかった。はげしい気合、打ち合う竹刀と足音が絶えまなくつづいている。その物音が壁ひとつへだたったところからひびいて来るように、遠く聞こえるのを感じながら、七兵衛は気味悪く昂《たかぶ》る心音に耳を澄ませていた。  とんだ恥さらしだと思った。ここにうずくまっているのが、この道場の、もと筆頭の高弟だと知ったら、みんなは嘲《あざけ》り笑うだろう。高江が愛想をつかしたのも、無理ない。 「おじさま、はいお水」  静乃がもどって来て、どんぶりに入れた水をさし出した。七兵衛は、息もつかずその水を飲み干した。すると胸のとどろきが次第におさまって行くようだった。 「どうしてご飯を召し上がらなかったのですか?」 「高江が実家にもどって、飯をつくる者がおらん。いや、朝飯は炊いて喰ったが、昼飯をうっかりした」 「おばさまは、どうしておもどりになったのですか? おじさまを一人にして」 「喧嘩をしたのだ。お静が稽古に来たころも、よく喧嘩しておったのを見たろうが」 「おじさま、かわいそう」  と静乃が言った。七兵衛が顔を上げると、静乃が眼に涙をいっぱいにためて、こちらを見ていた。  ──ふむ。  この小娘に憐《あわ》れまれるほど、いまのおれはみじめに見えるらしい、と七兵衛は思った。だが、飯のことは静乃をおどろかせないための口実だった。たしかに昼飯は喰っていないが、このすさまじい疲労は飯のせいではない。自分で思っていたより以上に、身体が衰えているのだ。  絶望が、七兵衛の胸をわしづかみにした。鵜飼半十郎は、あと十日もすればこちらに来る。そのときが、小鹿七兵衛の生涯の終りということか。役持ちの家を頼み回ったが、あてにはなるまい。道場に来てみれば、このざまだ。  七兵衛はゆっくり立ち上がった。静乃が心配そうに寄りそって来た。 「大丈夫ですか?」 「なに、もう大丈夫だ」  心配そうな静乃の顔に、無理に笑いを返したとき、七兵衛の頭の中に閃光《せんこう》のようなものがはためいた。そうか、まだあきらめるのは早いな。あの男たちを忘れておった。 「お静」  と七兵衛は言った。 「ひさしく会っておらんが、又左は変りないか」 「はい。父も年寄りましたが、相変らず頑固にしております」  静乃も、やっと安心したらしく笑顔を見せた。 「そろそろ下城する時刻じゃな。寄り道して、又左の顔を見て帰るか」 「でも早くおもどりになって、お食事を召し上がりませんと」  静乃は、さっきの七兵衛の様子に、よほど驚いたらしく、眉《まゆ》をひそめてそう言った。 「それとも、私の家にお寄りになるのでしたら、母にそう言って、何か喰べさせてもらってはいかがでしょうか?」  七兵衛は笑った。すっかり元気を取りもどしていた。 「なに、ちょっとだけ顔を見に寄るだけだ。心配はいらん」 [#5字下げ]五 「わしを見てくれ」  七兵衛の話が終ったあと、長い間沈黙してから、顔を上げた志賀又左衛門が言った。 「このおれを見ろ」  又左衛門は、もう一度言った。 「もはや年寄だ。竹刀などひさしく握っておらん」 「………」 「もう五年若かったらな、七兵衛。貴様に助勢を乞われるまでもない。話が聞こえたら、何はさておき、刀をつかんで駆けつけるところだ」 「………」 「だが身体は動かぬ。助勢などとはおこがましい。足手まといになるだけよ」  七兵衛は又左衛門を見た。又左衛門は長身で痩《や》せている。髪は半ば白く変り、おびただしい皺《しわ》が顔面を埋めていた。そういえば又左衛門は四つ五つ年上のはずだったと、七兵衛はあらためて思い出していた。 「やはり無理か」 「友達がいもないやつと蔑《さげす》むかも知れんが、まず無理だ。役には立てない」 「………」 「それに、いま上の娘に縁組みの話がすすんでおる」  七兵衛は膝《ひざ》を起こした。又左衛門のように剛毅《ごうき》で知られた男でも、やはりわが身がかわいいかと思ったが、立場が変ればおれも同じことを言うかも知れぬ、とも思った。  七兵衛が立ち上がると、又左衛門が、すまんと言った。又左衛門は、門の外まで送って出た。日が落ちていたが、外はまだ明るく、道には日にあたためられた生ぬるい空気が澱《よど》んでいた。  七兵衛は人気なく静まり返っている屋敷町の道に眼をやってから、又左衛門を振りむいた。 「土橋と八木はどうかの? 助けてはくれんかな?」 「土橋は病気でふせっていると聞いたぞ。八木甚平は普請組の外勤めに変ってから会っておらん。どうかわからんな」  土橋欽之助と八木甚平も、鵜飼佐平太を討ち果しに行ったときの仲間である。あのとき欽之助は二十二、甚平はわずか二十。精妙な剣で知られていたが、若かった。二人はまだあのころの剣をおぼえているだろうか。 「二人に会ってみるか?」 「どうかわからん。ひと晩考えてみよう」  歩き出してから、七兵衛は思い出して言った。 「さっき、道場に寄ったらお静に会ったぞ。いつの間にか、いい娘になりよった」  又左衛門は答えなかった。暗い眼でじっと七兵衛を見つめている。背をむけて、今度は振りむかずに七兵衛は歩いた。又左衛門が自分を責める眼で、まだこちらを見送っているのを感じる。  住む家がある小袋町まで来たとき、あたりはたそがれて、すれ違うひとの顔も見わけがたくなっていた。  七兵衛は重い足どりで、小さな門をくぐったが、そこで茫然と立ち止まった。家の中から灯の色が洩れている。  ──高江がもどって来たのだ。  そばにいて辛《つら》い思いをするのはまっぴらです、と冷たいことを言って出て行ったが、ふむ、やはり夫婦だ。さすがに心配になってもどって来たらしい。そう思って、七兵衛は大股《おおまた》に庭を横切った。  だが物音に気づいて出て来たのは、妻ではなく静乃だった。 「や、お静」  七兵衛はあっけにとられて言った。 「ここで何をしておる?」 「差し出がましいこととは存じましたが、お留守の間に、お夜食を用意しておりました」 「ほう?」  七兵衛は顔をほころばせた。静乃は台所仕事が好きで、七兵衛に剣の手ほどきをうけた子供のころも、稽古が終ると台所に入りこんで、高江を手伝っていたことを思い出したのである。  茶の間はきれいに掃除されていて、火桶《ひおけ》のそばには煙草盆《たばこぼん》ときせるがそろえてある。台所から香ばしい味噌汁の香が流れて来るのを嗅《か》ぎながら、七兵衛は一服つけた。  家の中は、やはり女がいなくてはどうにもならんものだな、と七兵衛はぼんやり考えた。つかの間七兵衛は、さし迫っている危難を忘れて、その先のことに心を奪われたようである。 「お静は台所が好きだったからの。いまも母御を手伝っておるか?」 「はい」 「いい嫁になれよう」  答えはなく、菜をきざむ音がひびいて来た。 「それとも、わしの家の養子に来るか? いい婿をさがしてやるぞ」 「何でござりますか?」  静乃が茶の間に顔を出した。 「この家の子にならんかと申したのだ」  静乃はあいまいな笑顔をみせて、また台所にひっこんだ。  ──ふむ、いい気の話をしておる。  七兵衛は反省した。いまはそれどころではあるまいに。七兵衛はそう思いながら、静乃のような小娘にまで頼りたがっている自分を感じて憮然《ぶぜん》とした。 [#5字下げ]六  次の日。下城するその足で、七兵衛は土橋欽之助と八木甚平をたずねた。しかし欽之助は又左衛門が言ったとおり、床についていた。腎《じん》をわずらっているという欽之助の青黒くむくんだ顔を眺め、見舞いをのべただけで七兵衛は土橋家を出た。残るは八木甚平一人だった。  その甚平は、七兵衛の話を聞くと快諾した。 「いかにも助勢つかまつろう。半十郎が申すことは逆恨《さかうら》み。それがしとしても見過ごしは出来ぬことでござる」  外勤めのために、甚平の顔は真黒だった。しかし皮膚には張りがあり、声音はきびきびしている。身体も機敏そうだった。又左衛門は、もう五つ若ければと言ったが、甚平はまだその若さを残していた。 「ありがたい。これで助かった」  と七兵衛は言った。胸の奥底から、安堵《あんど》の息が洩れて出る。孤立無援のまま、没義道《もぎどう》な言い分をうけねばならぬかと思ったが、最後に味方があらわれたわけだ。  そう思ったとき、若い女が部屋に入って来て、八木の家内でございますと挨拶した。茶をすすめて出て行くうしろ姿が、初初しかった。齢《とし》は二十ぐらいだろう。 「いまの方が、お手前の嫁か」 「さよう」 「まだ若いようだが、いつ娶《めと》られた?」 「さよう、祝言《しゆうげん》を済ませたのは二《ふた》月ほど前でござる」 「二月前?」  七兵衛は茫然と甚平の顔を見た。八木甚平は変り者だという噂が、城中にあった。どこが変っているのか、討手に選ばれてひと月ほど旅を共にしただけで、ふだんは組も違い、つき合いがない七兵衛にはわからなかったが、なるほどこういうことかと思った。  甚平は、三十五にして新妻を娶ったのである。しかもわずか二月前に、だ。長い沈思のあとで、七兵衛は腕組みを解いた。果し合いは生死を賭《か》ける場所である。この男を、その場所に引き出すことは許されまい。甚平のためにも、何も知らぬ新妻のためにも。  七兵衛は、甚平と呼びかけた。 「せっかくだが、さっきの話は取り消しにしてくれぬか」  何者かに背を押されるようにして、七兵衛は夜の町をいそぎ足に歩いた。これで決まりだと思っていた。つまりは一人で引きうけるしかない話だったのに、無駄なあがきをしたという気がした。  半十郎が果し合いを申し込んで来たらうけ、せめて恥ずかしくない立ち合いをしよう。生死は問うところではない。その気持が、次第にかたまって来るようだった。  河岸の道に出たところで、七兵衛は足どりをゆるめた。うるんだようなあたたかく湿った夜気の中に、人が動いている。どこかに夜市でも立ったか、それとももう夜桜をみる季節になったのかと、七兵衛は少なくない人の群が一方に動いて行くのに眼をくばった。  蝋燭《ろうそく》橋の袂《たもと》を通りすぎたところで、七兵衛はふと立ち止まった。人の流れの中に静乃の顔を見つけたのである。静乃には連れがいたが、それが若い武士だった。武士は前を歩き、静乃は一歩遅れていたが、二人は連れだった。  おそらく連れ立って夜桜見物にでも行った帰りだろう。橋袂の常夜燈の光で、静乃を振りむいた武士が、何か話しかけたのが見えたが、二人のうしろ姿はやがて闇の中に消えて行った。  ──ふむ。  七兵衛は歩き出しながら、苦笑した。ひょっとしたら静乃は今夜あたりも飯をつくりに来てくれるかも知れない、と虫のいい期待を抱いていたが、昨日のことは、若い娘のいっときの感傷に過ぎなかったらしい、と思った。だが、それはそれでいっそさばさばしたような気もした。  ──よしんば……。  果し合いに敗れたとしても、と家にもどって湯漬けをかきこみ、木刀を握って暗い庭に降りながら、七兵衛は思った。子もいなければ子も嘆かぬ。妻も嘆かぬ。上司の増川も三井弥五右衛門も、おれが死んだと聞いても、格別嘆くわけではあるまい。又左衛門と静乃は、いっとき哀れと思ってくれるかも知れぬが、二人とも間もなく忘れるだろう。  はだしの足を地面に配ると、七兵衛は木刀を八双に構えた。鵜飼佐平太の討手に決まったとき、師匠の稲毛宗近が、一夜|餞《はなむ》けにある秘剣を伝授した。金谷宿の斬り合いにも遣わず、その後埃をかぶったままになっている、残月と名づけるその秘剣を、七兵衛は思い出そうとしていた。  残月は一撃の剣である。一撃にすべてをかけるこの剣が、いまの自分にわずかに活路をもたらすかも知れないと七兵衛は思っていた。闇の中に描いた敵との対峙《たいじ》は長かった。およそ四半刻《しはんとき》(三十分)も過ぎたころ、七兵衛ははじめて無声の木剣を降りおろした。そして足をもどすと、また無言の長い対峙にもどった。 [#5字下げ]七  五間川の上流に、夏は湿地になる原野がある。そこに着くと、小鹿七兵衛は提げて来た風呂敷包みを解き、中から出した草鞋《わらじ》、襷《たすき》、鉢巻を身につけた。  身支度が終ると、入念に目釘《めくぎ》をしらべた。それだけで、あとはやることがなかった。七兵衛はいま歩いて来た河岸の方を眺めたが、鵜飼半十郎の姿は、まだ見えなかった。もっとも暮六ツ(午後六時)という時刻には、少し早かった。  日はまだ丘の上にあった。野遊びの者も帰ったらしく、がらんとした原野のところどころに、群生する草花が咲いていて、日射しはその上に斜めにさしかけていた。町は、はるか下流の方に横に長く、青黒い帯のようにかすんでいる。  半十郎がこの場所を果し合いに選んだのはなぜだろうかと訝《いぶか》しかったが、来てみるとこのあたりは、半十郎が子供のころ遊んだ場所かも知れないという気がした。  ──それにしても……。  狂気の沙汰《さた》だ、と七兵衛は果し状をうけ取ったときのことを思い出していた。  藩主の帰国は二日遅れて、到着したのは一昨日の夕刻だった。そのさわぎがまだおさまらない昨日の昼すぎに、鵜飼半十郎ははやくも果し状をとどけて来たのである。その男が抱いている怨みの一途《いちず》さが伝わって来た。  筋違いの怨みだが、この一途なはげしい思い込みを遮ることは、誰にも出来まいという気がした。  果し状の中で、半十郎は矢野家老の許しを得て、この果し状を申し送るとことわっていた。予想したとおりだったが、帰国するとすぐに家老に掛け合ったらしい半十郎の執念が、短い文面の中から匂《にお》って来た。とっくにあきらめたことだったが、七兵衛はこう手早く運ばれては、そばからの口出しは間に合わなかったろうと、あらためて思ったのである。  下流の河岸に、ぽつりと黒い人影があらわれた。同時に七兵衛は町はずれの栄寿院の時鐘が鳴る音を耳にした。人影はみるみる近づいて来た。半十郎だ、と七兵衛は思い、もう一度刀を抜き上げると、目釘を嘗《な》めて湿りをくれた。  その男は、およそ十間の距離まで来て、ようやく足どりをゆるめ、立ち止まった。痩身の背の高い男だった。頬骨が突き出た鋭く痩せた顔をしている。 「小鹿七兵衛か」 「そうだ」 「よく来た。立ち合ってもらうぞ」 「無体な申し入れだが、果し状をつきつけられてはうけぬわけにもいかぬ」 「無体か何かは知らぬ」  半十郎は羽織を脱ぎ捨てながら、凄《すご》みのある笑いをうかべた。 「だが怨みは怨みじゃ。その怨みは晴らす」  半十郎は無造作に刀を抜いた。ずかずかと歩いて来たが、数間の距離まで来てぴたりと足をとめた。七兵衛が刀を抜き放って、八双に構えたのを見たのである。  半十郎は青眼《せいがん》に構えていたが、寸分の隙《すき》もなかった。長身の身体が、半分ほどに縮んで剣の背後に隠れたように見える。  ──なるほど、強敵だ。  と七兵衛は思った。闇夜の庭に思い描いた敵よりも、さらにすぐれた腕を持つ相手のように思われた。  少しずつ、半十郎が間合いをつめて来るのを、七兵衛は微動もせずに見守ったが、すでに口の中はからからにかわいていた。残月の秘剣はどこまでも待ち、敵の動きの中にあらわれた隙にむかって一撃を放つ。守りの剣だった。その要諦《ようたい》を稲毛宗近は、七兵衛に「寝モヤラヌ目ニコソウカベアカツキノ 空カトミレバシロキ月ナリ」という道歌で示したのである。  ひたひたと押し寄せ、斬りかける敵の剣の中に隙があらわれるのを、寝モヤラズ待つのが残月だった。だが、それには相手の間合いを見切る習練が身についていなければ、斬られる。七兵衛がその習練をすててからひさしかった。  ──かわしても斬られるだろう。  その恐怖が、七兵衛の口中から唾《つば》を奪っている。  音もなく半十郎が摺り寄って来たと思うと、すさまじい剣が胴に来た。七兵衛はかわしたが腕をかすられた。鋭い剣だったが、七兵衛の見切りが拙かったせいでもある。間をおかず、半十郎は今度は肩を打って来た。体をひねってかわしたが、浅く肩を斬られた。  半十郎の剣が、音もなく手もとからのびるたびに、七兵衛は少しずつ斬られた。七兵衛は口をあけて喘いだ。ただ八双の剣だけは、構えを崩さなかった。  半十郎の動きは俊敏で、鋭い一撃を繰り出したあとに、体の崩れが残らなかった。一撃の打ちこみが、次の打ちこみを誘い出して来るようにさえ見える。隙はまったくなかった。  不意に半十郎は、数歩うしろにさがった。かすかな笑いが、その痩せた顔をかすめたのを七兵衛は見た。およそ七兵衛の力量を読み切り、とどめの一撃に移ろうとしていることが明らかだった。見つめながら、七兵衛は大きく胸を喘がせた。息は喉《のど》にひっかかってぜいぜいと音を立てた。  半十郎が新しく足場をさぐっている。そのとき七兵衛は、半十郎の後方に、異様なものを見た。人が走って来る。女だった。襷、鉢巻をしめ、手に懐剣を握った女が走って来る。折しも丘の陰に落ちようとしている赤い日が、眼を釣りあげて走って来る女の顔を、夜叉《やしや》のようにうかび上がらせた。 「来ては、ならん」  七兵衛は、思わず絶叫した。走って来る女は高江だった。  七兵衛が叫ぶのとほとんど同時に、半十郎も背後から迫る者の気配に気づいたようだった。ちらと振りむいた。不用意な一瞥《いちべつ》だった。シロキ月が現われたのを、七兵衛は見た。うなりをあげて、八双からの剣が振りおろされた。  半十郎が帰国するまで、毎夜明け方まで習練した一撃が、半十郎の首のつけ根を正確に打っていた。声もなく半十郎の身体が仰むけにはね上がり、ついで音たてて地面に倒れた。  とどめを刺すゆとりもなく、七兵衛は膝をついた。刀にすがって、はげしく喘いだ。高江が駆け寄って来た。 「大丈夫ですか、おまえさま」  高江は、跪《ひざまず》いて七兵衛の肩に手をかけ、顔をのぞきこんだ。 「ここで果し合いをなさると、ついさっき聞いたのです。ご無事でよかった」  高江は不意にくしゃくしゃに顔をゆがめると泣き出した。いーっとべそをかいた口になり、涙を流しながら、高江は七兵衛の顔から眼を放さなかった。  その顔を見返しながら、七兵衛はまだ物も言えず、犬のように口をあけて喘いでいる。 [#改ページ] [#1字下げ] 盲目剣谺返し [#5字下げ]一  三村|新之丞《しんのじよう》は、立ち上がって居間を出た。眼に光を失ってから一年半近く経つ。闇《やみ》の世界にもだいぶ慣れて来たが、まだ物に触れながらではないと家の中を歩けない。一歩先に、思いがけない陥穽《かんせい》が仕掛けられているような不安が抜けなかった。  新之丞は左手で襖《ふすま》をさわりながら、そろそろと足を運んだ。座敷の角の柱を撫《な》でて縁側を曲ると茶の間の前に出た。手さぐりで戸を一枚繰ると、縁側にうずくまった。  季節にしては冷たい夜気が、顔を包んで来た。冷たいが夜気はその中に、物の芽のほぐれる香りをふくんでいる。  ──おそい。  新之丞はかすかに眉《まゆ》を寄せた。夜気の冷たさは、時刻が更《ふ》けたことも示している。妻の加世が、まだもどっていなかった。  月に一度、加世は城下から一里先の村にある林松寺という寺に行く。寺の本堂に眼の病いに奇効があるといわれる不動尊があり、そこに祈願に行くのである。加世は、新之丞の眼が、まだなおると思っているらしかった。  加世の、その寺通いに、男の影を感じ取ったのはいつごろからだろうか。去年の秋のように思われる。  秋に眼医者の草薙崗助《くさなぎこうすけ》に見はなされた。これ以上は、手当てをしても無駄でござりますと草薙が言った。そう聞いたとき、新之丞はそれほど落胆しなかった。覚悟はとうに決まっていて、その覚悟は草薙の手当てをうけている間に、次第に固まって来たものだったからである。  では、盲人として生きてみようかと思ったとき、新之丞は、それまで一縷《いちる》ののぞみにひかれてとかく外にむかいがちだった心が、深く沈潜して内側にむいたのを感じたのだった。それまで何気なく見過ごして来た妻の寺|詣《まい》りの陰に男がいる気配は、その沈潜した心が映し出したのである。  はじめは、らちもない妄想だと思った。新之丞は、加世がいなければ着換えも出来ず、飯を喰うことも出来ない。そういう妻にひけ目のある夫が抱く、これはうす汚れた男の嫉妬《しつと》かと、新之丞は不快だった。  だが、そう思い直してみても消えないものが残った。眼が見えなくなったかわりに、新之丞は自分が以前より耳ざとく、また物の匂《にお》いを鋭く嗅《か》ぎわけるようになったのを感じる。と言っても、盲目の身になってから一年やそこらである。物を聴いたり、嗅いだりする力が、それで急に鋭くなったということは考えられず、失った視る力を補うためには、ほかの器官に頼るしかないので、おのずから耳も鼻も、以前に増して利《き》くように思われるだけにすぎまい、と新之丞は思っていた。  それにしても、新之丞の耳は微細な気配をのがさずとらえ、鼻はあるかなきかの匂いをとらえる。物の手触りも、眼が見えたころとは異なった新しい感触をつたえ、あるとき新之丞はそのことに気づいて、これがまことの盲人というものかと、ひそかに嘆じたのであった。  そのさとい耳、利く鼻が、妻に以前にはなかったものを嗅ぎつけるのである。これぞといった証拠はなかった。漠然とした違和の感じである。漠然としているがその感じは動かしがたかった。  新之丞は、凝然《ぎようぜん》とうずくまったまま、庭をむいている。台所から炊飯の匂いが漂ってくるのは、加世の帰りがおそいので、老僕の徳平が飯を炊いているのだろう。時どきひくいしわぶきの声が洩《も》れて来る。徳平は新之丞が生まれる前から三村家に奉公し、この家で老いた。新之丞の家は夫婦と徳平だけの家である。両親ははやくみまかり、加世が嫁入って来てから五年経つが、夫婦の間に子はいない。静かな家だった。静かなために、新之丞の疑惑は、ほかにまぎれようもなく、真直ぐ妻に集まるようでもある。  加世が帰って来た物音を、新之丞はいちはやく聞きつけた。小さな門を閉ざし、軽い下駄の音が、こちらにむかって来る。  ぎくりと、加世が立ち止まったようである。暗い縁に新之丞の姿を見てびっくりしたらしい。 「おまえさま、そこで何をしておいでですか?」 「うむ、夜気にあたっておる」 「外は冷えますのに」  加世はそのまま庭に回って来て、前に立つと新之丞の手をとった。 「申しわけございませんでした、おまえさま。お寺さまで話しこんで、遅くなりました」  言いながら、加世は新之丞の手の甲を撫でた。眼があいていたころは思いもよらなかったしぐさだが、新之丞の盲目がまぬがれないと決まってからは、加世は大胆に夫の身体《からだ》に手を触れて来るようになった。  新之丞は黙って、手をとられたままでいた。加世の息がはずんでいる。遅くなって道をいそいで来たせいかも知れなかったが、暗い縁に思いがけなく新之丞の姿を見出して、呼吸を乱したようにも受けとれた。 「お食事は?」 「いま、徳平が飯を炊いておる」 「相すみませぬ。すぐに支度しますゆえ」  加世はあわただしく下駄を鳴らして、入口の方に回った。その間に新之丞は立ち上がって、縁側の戸を閉めた。  家に上がって来た加世が、新之丞をみちびいて茶の間に入れた。新之丞が坐るのを見きわめてから、すばやく行燈《あんどん》に灯を入れ、加世は台所に去った。  ──化粧の香が濃い。  と新之丞は思った。昼すぎ家を出るときより、匂いが強いのは、途中で男に会って、化粧を直して来たのか。  凝然とそういう疑いに身をひたしているのは、不しあわせなことだった。出来ることなら妄想と思いたかった。だが加世に対する疑いは、いまのような小さな疑惑をふくめて、すでに牢固《ろうこ》として動かないものになったのを、新之丞は感じている。  そうだからといって、加世は盲人となった夫を厭《いと》ったり、うとんじたりしているのではなかった。そのようなそぶりはみえず、新之丞には、むしろ逆のようにさえ思われる。加世は、以前にも増して、ぴったりと新之丞に寄りそって来ていた。不自由な夫を、かゆいところに手がとどくように介抱する。心が離れたのではなかった。そのことを、新之丞は疑うことが出来ない。  新之丞の、見えない眼に映る不倫の影をのぞけば、三村家の日常は一見何の故障もなく営まれているのである。  だが、加世につきまとう影は、日常がそういう平穏無事なものであるために、その背後にかえって色濃くうかび上がって来るようでもあった。加世の日ごろの呼吸は、月一度の寺詣りのあとに、不思議な乱れをみせるのである。数日加世の様子には、どことなく夫を窺《うかが》う気配がみえ、物言いもすこしぎごちなくなる。さながら罪ある者が罪を隠そうとするかのようだった。あるいは違う世界から立ちもどって来た者が、日常との隙間《すきま》を隠し了《おお》せないでうろたえているというふうにもみえた。それがただの寺詣りのせいであるわけはない。  ──かりに男がいるとして……。  それはいったい、何者だろう。心あたりはまったくなく、新之丞は気配だけが次第に濃くなるその男というのが不思議でならなかった。加世に男がいるということも不思議だった。加世は、世に尻軽と言われる女たちとは反対に、つつましくひかえ目な女である。その不思議さのために、嫉妬する気持はどこか頼りなく、淡い。  だが、むろんそれだからほっておいていいという事柄ではなかった。いずれは究明し、不倫があきらかになれば、断乎処分せねばなるまいと思っていた。 [#5字下げ]二  加世の男について、外から最初の知らせを持って来たのは、従姉《いとこ》の以寧《いね》だった。 「加世さん、お出かけですって?」  以寧は、そう言いながらいきなり新之丞の居間に入って来た。もっとも、新之丞は玄関で徳平と話す以寧の声を聞いて、うんざりしていたのである。以寧はおしゃべりで、騒騒しい女である。 「お茶? いらない、いらない」  ただいま、お茶を持って参じますと言った徳平に、以寧は騒騒しく言った。 「ああ、あつい、あつい」  以寧は新之丞の前で、ぱたぱたと扇子を使った。汗の香がまじる化粧の匂いが、まともに新之丞の顔にかぶさって来る。 「新之丞さん、その後お眼のぐあいはいかがですか?」 「よくもなく、悪くもなく。ま、こんなものでしょう」 「ほんとに見えないのかしら?」  新之丞の顔の前に風が動いたのは、以寧が手を振ってみたらしい。 「見えません」 「惜しいことねえ。以前とちっとも変りなく美男子なのに」  新之丞の眼は、外界が見える者のように開いている。死んでいるはずの眸《ひとみ》も、なみのひとと変りなく黒いという。  以寧は溜息《ためいき》をついた。以寧は本家の娘で新之丞より二つ年上だった。いまは波多野という家に嫁いで、子供が二人いるが、嫁入る年ごろにしきりに新之丞の嫁になりたいとのぞんだことがある。  親にも言い、親の方から内内に新之丞の母親にも話をかけたらしかったが、新之丞の母は以寧をことわって、自分の遠縁で、みなし児の境遇にいた加世をえらんだ。そのために、母は本家の機嫌をそこねたようだったが、意に介さなかった。本家、分家と言いならわしているが、そこまで縛られるつながりではないと思っていたのかも知れない。  本家は百二十石、新之丞の家は三十石である。新之丞の亡父は、本来なら百二十石の本家をつぐ立場にいたのだが、亡父の姉、つまり新之丞の伯母《おば》を溺愛《できあい》した祖父は、伯母に婿養子をとり、長男である亡父を外に出した。  新之丞の父母は、そういういきさつを経て、夫婦養子で同じ家中《かちゆう》の三村の家をついだのだが、死んだ夫が本家と気が合わなかったことを知っていた母は、以寧を新之丞の嫁に迎える気になれなかったのかも知れなかった。  夫婦養子で三村家に入るとき応分の支度もしてもらい、また身内の吉凶の集まりには、分家なみの待遇で招かれもしたから、父母は本家という呼び方をしていたが、以寧の生家は滝川と言い、姓も違う。  新之丞は父母とは違い、本家は本家と思っていたのだが、それも母から以寧との縁組みばなしを聞いたあとでは、めったに滝川の家をおとずれることがなくなった。しかし以寧は逆だった。嫁入ってからもしげしげと新之丞の家をたずねて来て、母を失って若夫婦二人だけになった家のことに、まめに口をはさんだりした。  以寧の気持の底には、話のすすみぐあいでは新之丞の嫁におさまったかも知れない、数年前の縁談に対する感傷があるのかも知れなかった。その気持は、不思議なことに、自分自身二人の子持ちになっても、また新之丞が失明しても、毫《ごう》も変ることがないらしく、以寧は相かわらず、手《て》土産《みやげ》を片手に大柄な身体を運んでやって来ては、何かと新之丞の家の中のことに世話をやいて行くのである。 「謡《うたい》をお習いだって?」 「うむ、もはや城勤めもかないませんから、ゆくゆくは謡の弟子でもとろうかと思いましてな」 「それはけっこうなお考えだこと」  以寧はあっさりと言った。そしていつもの早口で、生家の誰かれのこと、今年の秋は郡《こおり》奉行にと声がかかっている夫のこと、子供の話などを立てつづけにしゃべった。波多野の家は百石だが裕福で、以寧はいい家に嫁いでいるのである。  さほど聞きたいというほどの中味もない話だが、新之丞は黙って聞いている。夫婦と徳平だけの家は、時に静かすぎると思うことがある。毒にも薬にもならない従姉のおしゃべりも、いっときのにぎわいにはなった。  不意に以寧が口をつぐんだ。そして次に、新之丞さんと呼びかけたときには、以寧は声音をひそめていた。 「わたくし、波多野から妙な話を聞いたのですけど」 「………」 「それが、加世さんのことなのですよ。話していいかしら」 「何のことです。うかがいましょう」  新之丞は平静に言ったが、あのことだな、と思った。一瞬血が逆流するような、異様な感覚があった。不意打ちを喰らったようである。  加世の背後に見えがくれする男のことは、夫婦の間だけのことだと思っていたが、こういう露《あら》われ方も、むろんあったのだ。  話していいかとことわりながら、以寧はまた口をつぐんでいる。おしゃべりが、めずらしくためらっている気配だった。 「何を聞いても、べつにおどろきませんが」 「波多野が、染川町で加世さんを見かけたというのですよ」 「ほう」 「いえね、それが加世さんおひとりなら、どうということもないのだけど、男の方と一緒だったようだと、不思議がっているのです」 「………」 「心あたりがありますか?」 「それは、いつのことですかな?」 「六日の夜。波多野はあの晩、城をさがってから同役の方と染川町の茶屋にいったのです。お飲みになるなら、いったんは家にもどって、着換えてからいらっしゃいまし、と毎度小言を言っているのだけど、酒飲みはほんとに意地汚い。一刻もはやく飲みたくて、家までもどる手間を惜しむのですよ」  新之丞は従姉のおしゃべりを半分しか聞いていなかった。六日の夜というのは、寺詣りに行って帰宅が遅れたあの時のことなのだ。暗い怒りが、胸の中に動いた。怒りには、むろん恥辱感がまじっている。 「波多野どのは……」  新之丞は静かにたずねた。 「その男の顔を見られたのかな?」 「それが、暗くて、それに少し間があってはっきりとは見えなかったそうです。はじめはお二人が連れだとは思わなかったと言っておりました。べつべつに離れて歩いていらしたからですよ。波多野は、夜目にも加世さんに気づいて、一度は声をかけようとしたそうです。そうしたら加世さんが誰かに会釈をなさり、みるとその会釈をうけて、角を曲って行く男の方のうしろ姿が見えたと、波多野はそう言うのですよ」 「………」 「顔は見えないが、うしろ姿の感じでは、まだ若い方のようだったと」 「………」 「どう? あなたのお友だちか誰か、心あたりはありませんか?」 「はて」 「新之丞さん、あなた大丈夫ですか? 眼が不自由になって、家の中のことに眼がとどかなくなっているのではありませんか」  以寧は、遠まわしな言い方で、加世に不倫の疑いがあり、新之丞がそのことに気づいていないのではないかと言っているのだった。  おそらく以寧と以寧の夫は、そういう意味のことを話し合ったのだろう。染川町は歓楽の町であり、一歩路地を入れば出合茶屋、小料理屋が軒をならべ、男と女が忍び合うのに不自由しない場所である。むろん、三十石の小禄とはいえ、武家の妻女が夜分出入りする町ではない。以寧の夫の不審は当然というべきだった。 「以寧どの」  新之丞は背をのばした。 「そのことは、今日にもさっそく加世にただしてみよう。ただ、いま言われたことは、あまりよそには吹聴《ふいちよう》してもらいたくありませんな」 「吹聴などいたしませんよ」  以寧は気色《けしき》ばんだ声を出した。 「わたくしは、ただあなたの身の上を案じているだけです。自修館に学んだ子供のころは秀才と呼ばれ、木部《きべ》道場では麒麟児《きりんじ》と言われたあなたが、何のめぐり合わせか、お眼が不自由になられた。わたくしはあなたの身の上に、これ以上の不しあわせなど、見たくないのですよ」 「わかっておりまする」  新之丞は、なだめるように微笑した。 「むろん知らせてくださったのは、以寧どののご好意。かたじけのうござった。さっそくに問いただしてみましょう」 「あんまりきびしくおっしゃるのは、どうかしらね」  以寧は、今度はためらうような口調になった。 「かりに波多野の見間違いでなかったとしても、加世さんには、何かご事情があって、あの町にいらしったのかも知れませんからね。だって、加世さんがあなたを裏切るようなことをなさるなどと、わたくしには信じられませんもの。新之丞さん、あなたおだやかに聞いてみなさいよ」 [#5字下げ]三  以寧が帰ると、新之丞は立ち上がって手さぐりで部屋の中を歩き、長押《なげし》に懸けてある木剣をとった。玄関まで出てから、徳平を呼んで、外に出してもらった。 「履物はいらん」  と新之丞は言った。素足で踏む土の感触が快かった。 「お稽古《けいこ》でござりますか」  手を引いて、庭にみちびきながら徳平が言った。 「おひさしぶりでござりますな、旦那さま。むかしはよくお稽古をなさいました。朝な夕な……」 「前と同じ場所に連れて行ってもらおう。わかっておるな?」 「わかっておりますとも、旦那さま」 「いい天気だな、徳平」  額を照らす日射しは暑いほどだったが、やわらかな風がある。新之丞は、その風が羽毛のように額を撫でるのを感じる。だが、視界にひろがっているのは、限りない暗黒だった。 「上天気でござりますが、暑くはありませんか」 「いや、いい気分だ」  ここでございます、と徳平が言った場所に、新之丞は立ちどまった。そこは庭の中でも、一番固く土が踏みならされている場所である。日に向かって立つと、隣家との塀境に梅や李《すもも》の木、右手は家、左手に門のきわまでつづく花畑があるはずだった。見えない花が匂った。 「よし、もどってよいぞ」  徳平が離れて行く気配をたしかめてから、新之丞は木剣を構えた。木部道場は東軍流を指南し、師の木部孫八郎は遠く同流の高木虚斎の流れを汲《く》むといわれている。  軽く木剣を振った。はじめて木剣を振るようなおぼつかない感覚があったが、新之丞はひさしく木剣を手にしなかったためだろうと思った。次いで足を踏みしめて構えを直すと、思い切って型を遣った。  とたんに新之丞は方角を失った。踏みこんだ足がたたらを踏み、木剣の先が地を打って撥《は》ね上がった。手がしびれ、ついで身体が際限なく片側に傾いて行く感覚が襲って来た。新之丞はうずくまって、地面に手をついた。それでも身体はまだ傾いて行く。日がかげったように身体を寒気が走り抜けた。  ようやく異様な感覚がとまり、額にふたたび日のぬく味がもどって来た。  ──ふむ。  容易ならんことになったと、新之丞は思った。そろそろと立ち上がったが、総身にびっしょりと冷や汗をかいていた。  眼が見えなくなってから、新之丞はほとんど外に出ていない。去年の秋に、草薙に失明を告げられたあと、加世がしきりに外に出ることをすすめた。 「少しは外にも出ぬと、お身体に悪うございますよ」  そう言って、加世は時どき手をひいて庭を歩かせた。いくぶん外にも慣れ、そのうちには人手を借りずに杖で歩いてみようかと思うようになったころに、寒い冬が来た。新之丞はそのまま家の中に籠《こも》ってしまったのだ。  異様な感覚は、長い間外に出なかったので、身体がとまどったようでもある。その上に急に重い木剣を振り回したので、軽い目まいに襲われたのかも知れなかった。  ──いずれにしろ……。  新之丞は暗黒の奥底に、じっと眼を据えた。木部道場の俊才と言われた男も、みじめなことになっておる。  新之丞は、声を出さずに笑った。加世の心は離れていないと思ったが、それは思い上がりで、あるいは加世はとっくのむかしに、新しい男に心を移しているのかも知れぬ、と思ったのである。このみじめなざまを見れば、その考えの方がむしろあたっていよう。  新之丞は、また木剣を構えた。顔面から血がひいているのが、自分でもわかった。いずれは加世の不倫を突きとめ、始末をつけねばならなかった。そのためには、盲目の五体に習いおぼえた剣の感触を呼びもどしておかねばならないのだ。  青眼《せいがん》から構えを上段に摺《す》り上げる。足を踏み開いたまま、新之丞は見えない虚空《こくう》を斬った。 「エーイ」  満身の呼気を吐き出したが、さっきのような異様な感覚は起きなかった。蹠《あしうら》はしっかりと地を踏みしめている。  息をのむようにして、そのことをたしかめてから、新之丞はまた木剣を構え直した。剣先を上段に摺り上げて、振りおろす。二十本、三十本と単調なその動きを繰り返すうちに、肌に汗が流れ落ちて来た。それでも新之丞はやめずに同じ一撃を繰り返した。  背後に、小さな足音が近づいて来る。加世だ、と思ったとき、新之丞は木剣を握りしめたまま、すばやく振りむいていた。険しい顔になったはずである。  足音はとまった。ぎょっとして立ちすくんだようである。 「お稽古ですか」  と加世の声が言った。声が少し上ずっているように、新之丞には聞こえた。 「よう思い立たれましたな。うれしゅうございます」 「うむ、ひさしぶりに汗をかいた」  新之丞は言って、木剣をさりげなく左手に持ちかえた。 「眼が見えたときとは、少少勝手がちがう。慣れるまでが、ひと苦労じゃな」 「そうでございましょうとも。でも草薙さまも、少しずつ外に慣れねばいかぬと申されましたよ」 「………」 「お薬をいただいて、帰りに初音《はつね》町に回りましたら、おまえさまの好物の蕨《わらび》が出ておりました。夜は蕨たたきにいたします」 「それはうまかろう」 「まだ、おつづけになりますか? それとも、お入りになるなら、すぐ湯をわかして汗をとってさし上げますが」 「汗がひどいか?」 「はい、着ているものがびっしょり」  今日はこのへんでやめると、新之丞は言った。すると加世は、すぐに寄って来て新之丞の手をとった。胸に抱えているらしい蕨が、強く匂った。 「足もとに、お気をつけなさいまし」  加世は新之丞をみちびきながらそう言い、急に指をからめるような、強いにぎり方をした。小さく、しめっぽい掌だったが、握りしめて来た指には力がある。  不意に激越な感情が、新之丞の胸に波立った。  ──この女を失っては、生きていけまい。  押寄せて来たのは、その思いだった。新之丞も、小さな掌をやわらかく握りかえした。加世は、さっき思わず発した殺気に気づいたろうかと思った。 [#5字下げ]四  しかし、加世はやはり過《あやま》ちを犯していたのである。そのことがはっきりしたのは、従姉の以寧が、以寧の夫が染川町の路上で加世を見たと知らせて来てから、ふた月後だった。  加世の挙動から、たしかに男に会っている気配を嗅ぎつけながら、新之丞は、気持のどこかでそれが事実だとしても、だから必ず不倫の過ちを犯しているとはかぎらないとも思っていたようである。  加世は子供のころに孤児となり、親戚《しんせき》の間に養われて育った女である。肉親はむろん、血縁の濃い縁者もいなかった。夫に隠れて会うような縁者というものにも心あたりはなかったが、思いがけない事情というものもある。  そこまで考えたのだが、事実は新之丞のわずかなのぞみを無残に砕いた。加世が密会している相手は島村藤弥、新之丞の上司とわかったのである。  そのことをたしかめて来たのは、徳平である。新之丞は徳平に、二度加世のあとをつけさせた。加世に不倫の疑いがあることを、噛《か》んでふくめるように言い聞かせ、寺詣りに出る妻のあとをつけさせたのである。徳平は仰天し、言いつけにも気がすすまない様子を見せたが、新之丞に叱咤《しつた》されて出て行った。  最初の日は、徳平は相手をつきとめられなかった。寺詣りというのは密会の口実ではなく、加世はたしかに一里の道を歩いて林松寺まで行き、不動尊をおがんだ。だが夕刻にかかった帰り道で、加世は不意に城下に入らず五間川の岸を東に向かう道に曲った。  行った先は、城下で川向うと呼ぶ青物町だった。まだ新しい町だが、数軒の茶屋があって、その茶屋の成り立ちは古い。茶屋町の別名がある染川町のようなにぎわいはないが、うしろになだらかな丘、前に川をひかえた静かなたたずまいを好んで、ここの茶屋に通う客も少なくなかった。茶屋を囲んで人が住む家が出来、町と呼ばれるようになった場所である。  加世はこの町に入り、一軒の茶屋に入った。花井という家だった。しかしこのときは、徳平は相手の男の姿を見ていない。わずか半刻《はんとき》ほどで、加世はその家を出、さながら物に追われるように、いそぎ足に帰り道についたが、路上にはこれから茶屋に上がって一杯飲もうという恰好《かつこう》の武家の姿はあったものの、加世の連れらしい人物の姿は認められなかったのである。  しかし徳平は、しぶしぶあとをつけた二度目の夜に、加世が男と前後して花井を出、橋を渡ったところで、それとない会釈をかわして別れるのを見た。徳平は老いの胸をとどろかせながら、長身のその武家のあとをつけ、男が左内町の島村家の門を入るのを見とどけたのであった。 「しかし何かのご事情があってお会いしているのかも知れませんぞ、旦那さま。そこはご新造さまにようくおたしかめなさいませんと」  徳平が、新之丞にその話をしたのは、翌日加世が買物に出たあとである。徳平は昨夜自分が見たものが信じられないという口ぶりで、またこれから起こることを案じてか、声を顫《ふる》わせている。おそらく皺《しわ》深い顔には懼《おそ》れのいろをうかべているに違いなかった。 「むろんだ、徳平。軽がるしくは言えぬことだ。おだやかに問いただすゆえ、お前は心配せずともよい」  新之丞は微笑して言ったが、その笑いが途中からこわばるのを感じた。これで加世の不倫は動かなくなったと感じたのである。島村藤弥は名門の家柄で、近習|組頭《くみがしら》を勤めている。むろん妻子がいて、齢は三十四。風采《ふうさい》もよく、一応の才幹を認められている人物だが、島村には痼疾《こしつ》がある。聞こえた女好きだった。  二十前後の島村は遊蕩児《ゆうとうじ》で鳴らした。だが家督をついで城に登るようになってからは、さすがに染川町|界隈《かいわい》で浮名を流すことはやめたが、そのかわりに、島村の女好きは陰にこもった。しきりに家中の若い寡婦を漁《あさ》っているという噂《うわさ》が立ったのである。  噂は少しく誇張されたものだったが、二、三の事実はあり、そのひとつは相手の婦人が自裁をはかるという事件になって、表沙汰《おもてざた》になってしまった。  若いころの島村の遊蕩ぶりは大目に見られたが、すでに一家をつぎ、妻子もいる人間のその醜聞は、藩上層部の間できびしい弾劾を受けた。一夜、次席家老の野村助左エ門が屋敷に島村を呼び、はげしく叱責したという噂を新之丞も聞いている。  藩上層部が、島村の行状に顔をしかめながら、事件をあくまで内聞にとどめ、次席家老の叱責で済ましたのは、名門なればこそだった。島村の家はかつて三代つづけて家老を出し、亡父も組頭を勤めて藩政に参画していた。  家中の噂や、藩上層部の思惑などを、当の島村がどう受けとめたかはわからない。島村藤弥は長身で、名門の家の人間らしく端正な顔をした男である。だがその顔に、つねに得体の知れないうす笑いをうかべている男でもあった。駒野という家の若後家が手首を切ったときも、また次席家老に女癖の悪さを痛罵《つうば》されたと噂されたころも、島村のその表情は変らなかった。  一連の醜聞がおさまったころ、島村の妻女がしばらく実家にもどっていたことがある。その噂も、ひとしきり近習組の間で話の種になり、それは人の顔にもあらわれたはずだが、本人は例のうす笑いで、どこを風が吹くという顔つきだったのである。  ただし島村は、名門の跡つぎにありがちな無能な人間ではなかった。城中の勤めはてきぱきとさばき、能吏といった面も持ちあわせていた。頭脳は鋭く、剣もかつて一刀流の宮井道場で、高弟の一人に数えられた実績がある。藩上層部が、事件の処分を叱責にとどめたのは、名門を勘案したためでもあったろうが、女癖さえやめば、いずれは藩政に参与する人物と、島村を見ているせいかも知れなかった。  そのことがあって、三年ほど島村の周辺に女の噂は出なかった。むろん妻女も屋敷にもどっている。女漁りはそれでやんだかと思ったら、いきなりわが妻を盗まれたわけだった。  ──なるほど、島村か。  新之丞は、それで納得がいった気がした。そういう恥知らずの行為が出来る者といえば、なるほどあの男しかいない。だがその恥知らずに加担して夫を裏切った加世が、新之丞には解《げ》せなかった。  ──どこから出て来た不倫なのか。  足音をしのんで、徳平が部屋を出て行ったあと、新之丞は黙然《もくねん》と考えつづけた。加世が、ただ夫の上司だからという理由で、軽がるしく男の誘いに乗る女とは思えなかった。不思議だった。  だがその不思議は、その夜加世を問いつめてみて、あっけなく解けた。問いつめたが、加世はすぐには白状しなかった。新之丞のはげしい糾問の前に、加世は一刻近くもかたくなな沈黙を守って、この女にこういう強情な一面があったかと新之丞を驚嘆させたが、加世は不意に号泣《ごうきゆう》すると、はっきりと不倫を認めた。  新之丞が失明したのは、藩主の毒見役を勤めていたときである。藩主|右京《うきよう》太夫《だゆう》頼近は、昼の食事を表の執務部屋でとる習慣だった。そのために近習組からひと月ごとに交替するきまりで、毒見役を差し出していた。  新之丞はある日の毒見で、急に病いを発して倒れたのである。痛みは腹だけでなく胸にまでおよぶ激烈なもので、たちまち高熱を発し、新之丞は意識を失ったまま家まで運ばれた。高い熱は十日ほどつづき、その熱がおりたときに新之丞は物見る力を失ったのであった。  すなわち奉公のかなわない身になったのである。当然禄を召し上げられるものと覚悟したが、藩から使いが来て、禄はそのままとめおく、十分に養生するようにという沙汰がくだった。  だがその沙汰こそ、加世が自分の貞操で購《あがな》ったものだったのである。新之丞の眼が見えなくなって間もなく、眼医者の草薙崗助はこの眼は助かりますまい、と加世にささやいた。新之丞は、草薙がサジを投げたのは昨年の秋だと思っていたが、事実はその一年前に、草薙は盲目の診立《みた》てをくだしていたわけである。  草薙にそう告げられたとき、床に起き上がるほどになっていたものの、新之丞はまだ病人だった。思いあぐねた末に、加世は上司である島村藤弥をたずね、家名の存続を願ったのである。島村は承知した。随分尽力してみようと確約したあとで、例のうす笑いをうかべて、代償に加世の身体をもとめたのであった。  加世は死んだ気になって身をまかせた。島村は名門である。のぞむものをあたえれば、願いは聞かれるだろうと確信したのである。むろんただ一度のつもりだった。だが島村は一度の盗み喰いに満足しなかった。二度目からは脅迫して来た。たしかに藩からは格別の沙汰がおりたが、加世は地獄に落ちた。 「いずれはあらわれることと思い、そのときはお手討ちを覚悟いたしておりました。どうぞ、存分に処分なさいませ」 「愚かな女め」  新之丞は、聞き終るとうめき声と一緒に吐き捨てた。 「わずか三十石の家。召し上げられて、路頭に迷うとも何のことがあろう。妻を盗み取った男の口添えで保った家かと思えば、吐気を催す。この家、捨てたがましじゃ」 「三村の家のためではありませぬ」  新之丞は、うなだれていた加世がむくりと顔を上げたのを感じた。加世は前にすすんで来ると、新之丞の膝《ひざ》をつかんだ。そしてささやくような声で言った。 「お忘れになりましたか? 床に起き上がるほどになられたころ、お前さまは刀をよこせと言い、お腹を召されようとなさいました。もはや奉公のかなわぬ身、生きて甲斐《かい》ないと申されました」 「………」 「わたくしも徳平も、刀を渡しあぐねておりますと、お前さまは這《は》って刀を取ろうとなさいました」  加世はつかんだ掌で、新之丞の膝をゆさぶった。熱いものが新之丞の膝を濡《ぬ》らした。 「お前さまを死なせたくございませんでした。たとえ、この身はどうなろうと……」 「ますます愚かな女だ」  新之丞は、膝をつかんでいる加世の掌をゆっくり引きはなすと、徳平、と呼んだ。すぐに返事が聞こえたのは、徳平がすぐそばの台所で聞き耳を立てていたのである。 「この女子《おなご》を、ただいま離縁した。すぐに荷をまとめて、この家から立ち去らせろ」 「しかし、旦那さま」  と徳平が言った。 「もはや、夜も更けておりますが」 「徳平、もうよい」  と加世が言った。静かな声にもどっていた。 「旦那さまは、わたくしの命を助けてくださるとおっしゃる。有難くお受けします」  加世の身支度は、半刻もかからなかった。徳平が見送って、二人が家を出て行く気配を新之丞は黙然と聞いた。  そのときになって加世に帰る家がなかったことに気づいたが、その気遣いを新之丞は強《し》いて押し殺した。あれはおれを欺《あざむ》き、裏切った女だと思おうとした。だが不思議に、加世を憎む気持は少しも湧《わ》かず、寂寞《せきばく》とした孤独な感じが胸をしめつけて来るばかりだった。  徳平は間もなくもどって来た。 「行ったか?」 「はい。旦那さまをたのむと、ひとしきり泣かれまして……」  徳平は自分も涙声になり、盛大に鼻をすすった。 「それはそれは、おさびしげなお姿で歩いて行かれました」 「………」 「はて、それにしても……」  徳平は急におろおろと言った。 「ご新造さまはどこに行かれたものでございましょうな。たしかにご実家と申されるものもないはず。さてさて……」  徳平は、いても立ってもいられないという様子で、上ずった声をはり上げた。 「この夜更けにどこへ。しかし、なんと旦那さまもむごい。いまひと晩ほどは我慢なされてよかったものを。もしよろしければ、やつがれこれからひとっ走り……」 「やかましい、落ちつけ」  と新之丞は叱った。風呂敷包みを胸に抱いて、とぼとぼと暗い道を遠ざかる加世の姿はたしかに見えていたが、それは追っても詮《せん》ないうしろ姿だった。 「加世のことは、もはや捨ておけ。それよりも徳平、頼みがある。遅くてすまぬが、これから山崎兵太の家に行ってくれ。明朝城に上がる前に、ここへ寄ってくれと山崎に申して来い」 [#5字下げ]五  山崎兵太が、新之丞に頼まれた調べを持って来たのは、それから数日後だった。そのとき新之丞は庭で木剣を振っていた。 「やれやれ、そぞろあわれをもよおす風景だな、三村」  庭に入って来た山崎は、振りむいた新之丞にずけずけと言った。山崎の声は大きい。 「木剣を振り回しているのは、むかしを思い出しでもしたか。しかし往年の名手も、盲目の身となってはどうにもならんだろう。惜しいことだ。おれの方はといえば、身体はいたって強健だが剣はさっぱり上達せぬときておる。天はしみったれで、二物をあたえん」  新之丞は苦笑した。 「頼んだものは、わかったか?」 「おうよ、一応調べがついたから来た」  山崎は無造作に近づいて来たが、ふと足をとめたようだった。おっと息をのむ声を立てたのは、新之丞の足もとに散らばる無数の虫の死骸《しがい》を見たらしい。  空気が荒く動いて、山崎の気配が遠のいた。山崎は、一間ほどもうしろに跳びすさったらしかった。 「冗談じゃないな」  と山崎は言った。 「そいつはみな、木剣で打ち落としたのか……」 「まあな」 「木剣をこちらにもらおうか。剣術遣いというやつは、どうも油断がならん」 「まさか」  新之丞は失笑して、しかし素直に木剣を、山崎にさし出した。 「貴様と虫を間違えたりはせん」 「わかるもんか。動くやつには、とりあえず一撃を喰わすのじゃないのか?」  山崎の言葉は噴飯ものだったが、新之丞が近ごろ会得《えとく》した剣を言いあててもいた。  夏の庭には、無数の虫が飛びかっている。大きいのもいれば小さな羽虫もいた。またすばやいものもいれば、鈍重な羽音を立てて飛び回るものもいる。いつまでもまつわりつく虻《あぶ》や蜂《はち》は、盲目の新之丞をおびやかした。  しかしある日、無意識に振った木剣が、かたりとかすかな音を立てて、飛来した小虫を打ち落としたとき、新之丞はもはや無用のものと思っていたおのれの剣に、新たな活路がひらけたのを感じたのである。ひと月余も前のことだった。  新之丞の稽古が、様変りした。しばらく木剣を振って身体をほぐした後、新之丞は構えを青眼に固めて佇立《ちよりつ》する。夏の日は暑い。いくばくもなく新之丞の顔面は汗のつぶを噴き出し、そのしたたりは首筋を伝って、背と胸を伝い落ちて行くが、新之丞は凝然と立って、虫が飛んで来るのを待っている。  視《み》ているのは暗黒だった。その暗黒のなかに、飛来するものがある。そのものの気配にむかって、新之丞は鋭く木剣を振る。はじめはむなしく空を打ち、虫は嘲笑《あざわら》うように新之丞の顔や髪にとまったりしたが、新之丞の木剣は次第に正確に飛ぶ虫をとらえるようになった。いまの新之丞は、十振して九つまで虫を打ち落とすことが出来る。  はじめのころ、面前|咫尺《しせき》にある気配もとらえ得ないほどに鈍磨していた感覚も、徐徐にとぎ澄まされて、やがて構えた木剣の先に動くものを打ち、さらに遠くかすかな気配をさぐりあてて、一歩踏みこんで打つことも出来るようになった。ひさしく眠りをむさぼっていた木部道場での練磨が、暗黒の世界に眼を開いたようでもあった。 「すると、何か?」  新之丞を縁側までみちびいて、自分も腰かけた山崎が言った。 「あれを、谺返《こだまがえ》しというやつを会得したか、貴様」 「いや、そこまではなかなか」  と新之丞は答えた。  谺返しは木部道場に秘剣として伝えられる極意剣である。道場主木部孫八郎の祖父|采女之助《うねめのすけ》が、東軍流の無明切《むみようぎり》から啓示をうけて、さらに工夫を加え極意剣としたといわれ、門弟の中に、孫八郎からその秘剣を譲られたものはいない。  伝えられるのは、むかし木部采女之助が、ある年の寒稽古の納め会で、不意に思い立ってその剣を遣ってみせたという噂だけで、その剣を見た古老も大方は世を去り、真相を知る者は門人の中には一人もいなかった。  ただ、噂ではそのとき、采女之助は門弟四人を選んで木剣を渡すと、自分は竹刀《しない》一本をにぎって、四方から一斉に打ちかからせたという。しかしおめき叫んで打ちかかった門弟たちは、一瞬ののちにことごとく采女之助のまわりに倒れていた。その神速の技を遣ったとき、采女之助は眼を半眼に閉じ、顔色は青ざめて死者のような相貌《そうぼう》に変り、四人を打倒したあとも、しばらくはその顔色がもどらずに、木像のように佇立したままだったともいう。  ──とても、そんなものではない。  おれの虫打ちはただの技だが、秘剣谺返しは多分技を超えたものだろう。もっとも山崎が谺返しを口にした気持はわかる、と新之丞は思った。  新之丞が、木部道場の麒麟児と呼ばれ、ついに師範代の神坂庄之助と勝負を分けるようになったころ、谺返しを譲られる者は三村新之丞だろうとささやかれたことがある。  山崎は自称するように剣はあまり上達しないが、稽古熱心では人後におちない木部道場の門弟である。黙然と木剣を構えていた新之丞の姿に、眼を半眼に閉じ、顔色青ざめて佇立していたという木部采女之助の姿を重ねてみたのかも知れなかった。もっとも、それでいきなり谺返しを思いつくあたりが、山崎の未熟なところかも知れなかった。 「それで? 調べてくれたか」  と新之丞は言った。山崎は、木部道場の同門であるだけでなく、勤めも同じ近習組で、もっとも気の合う同僚だった。新之丞は山崎に、自分が城中で倒れた前後の事情、また捨扶持《すてぶち》にしては大きい家禄が、そのままにとめ置かれたいきさつなどを、ひそかに聞き回ってくれるように頼んだのである。わけは明かさなかったが、山崎は簡単に請け合った。山崎は、いまも無造作に言った。 「ああ、のこらず調べて回ったが、不審はない。貴様が気に病むようなことは、何ひとつなかったな」 「………」 「つまり、のうのうと寝て暮らしておればいいのだ」  毒見役の新之丞が、苦悶《くもん》して倒れたあとで、藩主の身辺は騒然となった。すわ、毒かと疑ったのである。  だがその後の慎重な調べで、原因は昼飯の汁に使われた笠貝の毒であることが突きとめられた。料理人が不用意に古い品を使ったためだった。料理人は領外追放の刑をうけ、台所役人も、それぞれに処分をうけて一件はおさまった。  三村新之丞が、高熱からついに失明にいたったことがわかったとき、むろん執政たちの間で、三村家の処置が議論された。屋敷は召し上げ、年二十俵ほどの捨扶持をあたえて藩の飼い殺しとすればよかろうと言った者が一人いたが、大方の意見は新之丞にもっと同情的だった。逆に、新之丞は職分を全うして失明した者だから、褒賞をあたえてしかるべしと主張する者もいたし、もっとも多かったのは、僅《わず》かの減石にとどめて、三村の家はそのままという意見だった。  その議論に裁きをくだしたのは、藩主の右京太夫だった。三村の家禄はそのまま、新之丞は生涯治療に精出せ、というのが藩主のくだした裁定だった。 「お上の、その裁定だが……」  新之丞は慎重に言った。 「どなたかの進言をいれられて、寛大の処置をくだされたということはないのか?」 「ない、ない。それはない」  山崎が手を振ったのが、気配でわかった。 「議論が片づかないので、月番家老の野瀬さまは、そのままお上に申し上げたそうだ。するとお上はしばらく考えられて、もし新之丞の毒見がなかったら、わしはむろん、奥の者たちまで無残なことになったろうと仰せられて、その場で裁定をくだされたという話だ。これは野瀬さまに、じかに聞いたことだから信用してよい」 「………」 「なにしろ貴様が倒れたとき、奥御殿にはもう膳部《ぜんぶ》が運ばれていて、危機一髪で間に合ったというから、お上も感銘されたわけだろうて」 「すると、お頭の島村さまが、家禄の安泰を口添えしてくれたということもないな……」 「何を言うか」  と山崎は言った。上司への日ごろの反感をむき出しにした、強い口調だった。 「あのご仁が人のために口添えなどするか。詰所で、貴様の眼が見えなくなったと噂が出たとき、これで三村も物の役に立たん人間になったかと、例のにたにた笑いで言っておるのを聞いたぞ」  山崎は、立ち上がって庭に降りると、あくびをした。そしてふがふがした声のままで言った。 「そういうわけでな。ひけ目に思うことなど、何もないぞ。ゆっくり養生すればいいのだ。おれは貴様がうらやましい。おれもいっそ、笠貝の毒にでもあたるか」 「ばかを申せ」 「ところで、女房どのはまだ実家からもどらんのか」  と山崎は言った。加世を離縁したことは、山崎には打ち明けていない。外に触れ回ることでもなかった。 「女子のおらぬ家は、何となくうす汚れて見えるな。殺伐としておる」  山崎は、家の中でものぞいているらしくそう言い、ついでにこぼした。 「こうしてたずねて来ても、一杯のお茶も出ん」  山崎兵太が帰ったあとも、新之丞は凝然と縁に腰かけていた。暑かった空気が、やや冷えて来たのは、日が傾いたらしかった。  ──下司《げす》め!  と思った。山崎の調べは、まず信用してよさそうだった。加世は、安泰に家を保っていられるのは島村のおかげ、という考えに縛られていたようだが、事実は裁定について、島村が口をはさむ余地などなかったらしい。またそうする気もなかったようである。  とすれば、島村はただ突然に眼の前にあらわれた、一人の女を自由に出来る機会に眼がくらんだに過ぎまい。加世はたばかられたのだ。愚かな女と、心情のうす汚れた男の姿が見えて来た。  ──このままには、捨ておけまい。  新之丞は、わずかに残っていた懸念が消え失せ、心が決まったのを感じた。立って、徳平を呼んだ。 「いま、何刻かな?」 「はて、そろそろ六ツ(午後六時)近うございましょう。飯を支度いたしまする」 「飯はいい」  と新之丞は言った。島村藤弥は、もう城をさがっているはずだった。 「これから島村の屋敷へ行ってまいれ」  徳平がぴくりと身体をふるわせたのがわかった。 「口上はこうだ。明後日暮六ツに、馬場わきの河岸でお待ちいたす、と。それだけ申せば先方にはわかる」 「旦那さま」 「屋敷の者には知れぬよう、縁先に回してもらって、島村にじかに申して来い。心配いたすな」  新之丞は手をのばして、顫えている徳平の肩を叩《たた》いた。 「そうだ、つけ加えて言え。盲人とみて侮《あなど》るまいと、おれがそう申したとな」 [#5字下げ]六  刻限におくれずに、島村藤弥はやって来た。新之丞はうずくまっていた身体を起こして、足音がする方角に顔をむけた。来たときには、まだ遠い人声がしていた馬場の物音も消え、手をひいて来た徳平も、言われたとおりに遠い物陰にかくれたらしく、四囲はひっそりとしている。  その中に、近づいて来る足音がした。新之丞は、顔を傾けてその足音を聞いた。足音は一度立ちどまった。島村は身支度をしているらしかった。そこから急に忍ぶような気配になって、ゆっくり近寄って来たのは、履物も脱ぎ捨てたらしい。 「妻女を離縁したそうではないか」  と島村が言った。冷笑するような声だった。 「ならばそれで始末がついたようなものだが、それでは気が済まんか」 「………」 「盲人を相手に果し合うのは気がすすまん。しかし立ち合わねば気が済まぬというなら、遠慮はせん。いいな?」 「侮りめさるなと申し上げたはずだ」  ふ、ふと島村が笑った。そして新之丞は、いきなり殺気に包まれた。島村が刀を抜いたのだ。新之丞も刀を抜いた。暗黒の中に構えた剣のむこうに、かすかに身じろぐものの気配がある。だが間合いはまだ遠かった。  しばらくして気配が右に動いた。新之丞は爪先《つまさき》を右に移した。島村はそこで立ち止まったようである。しばらく凝然と様子を窺う気配だったが、また少し右に動いた。新之丞も体を回した。島村は馬場の柵を背負ったはずだった。  そして突如として、島村は気配を絶った。新之丞の背を戦慄《せんりつ》が走り抜けた。漠とした暗黒の世界がひろがっているばかりで、動くものの気配は消えていた。息する音も聞こえなかった。  だが島村は逃げ出したのではなかった。やはり近くにいた。息苦しいほど濃密な殺気が、新之丞を包んでいる。新之丞はじっとりと冷や汗をかいた。  ──この勝負、負けたか。  そう思った。動くからこそ、小さな羽虫も打ち落とせたが、動かないものは気配を知りようもない。島村は唾棄《だき》すべき男だが、一刀流の剣士でもある。盲人の剣に対して、何か工夫があったかも知れなかった。  だが、狼狽《ろうばい》はすぐに静まった。勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕かけて来るだろう。生死は問わず、そのときが勝負だった。  ──来い、島村。  待ってやろう、と思った。木部道場では、免許を授けるときに、「倶《とも》ニ死スルヲ以テ、心ト為《な》ス。勝ハ厥《そ》ノ中ニ在リ」と諭《さと》し、また「必死スナワチ生クルナリ」と教える。いまがその時だった。  新之丞は、暗黒の中にゆったりと身を沈めた。心を勝負から遠ざけ、生死から離した。一度は死のうとした身だと思ったとき、死も静かに心を離れて行った。新之丞は暗黒と一体となった。凝然と佇《た》ちつづけた。  その重いものは虚空から降って来た。さながら天が落ちかかって来たかのようだった。新之丞は一歩しりぞきながら、無意識に虚空を斬っていた。左腕にかすかな痛みを感じると同時に、新之丞は島村の絶叫を聞いた。重いものが地に投げ出された音がつづいた。 「旦那さま」  おろおろと呼びかけながら、徳平が走って来る。 「気をつけろ、徳平。その男、まだ生きておるかも知れんぞ」  新之丞が怒鳴ると、徳平ははっと足をとめたようだったが、すぐに言った。 「もう大丈夫でございます。島村さまは息がございませぬ」 「そうか」 「それにしても危のうございました。島村さまは馬柵に登られて、鳥のように柵の上にとまっておられましたが、旦那さまはお気づきでないのではなかろうかと、胆《きも》も縮む思いでした」  島村の工夫はそれか、と新之丞は思った。島村は、気配もとどかぬはるかな場所から、宙空を駆けて一撃をふりおろして来たのだ。  ──あれが、あるいは谺返しか?  新之丞は、島村を屠《ほふ》ったほとんど無意識の一撃を振り返っていた。剣は気配を探るひまもなく、相手の動きに反応しておのずから動いたようでもある。虚心が生んだ動きとしか思えなかった。  だが、新之丞はそれを師の木部孫八郎にたしかめるつもりはなかった。もはや、ひとと剣をまじえることはあるまい、と思ったのである。  新之丞の剣は、一撃で島村藤弥の頸《くび》の血脈を断っていた。とどめもいらなかった。膝を起こして新之丞は、行くかと言った。 「徳平の手料理にもあきあきした。もう少し何とかならんのか」  と新之丞は言った。 「だから先ごろから申し上げているではございませんか。女中を一人、雇われませ」 「よし、頼んで来い。何はともあれ、台所仕事に馴《な》れた女子をな。ばあさんでよいぞ、お前の茶飲み友だちになろう」  島村藤弥の死は、屋敷の者から不審死としてとどけられ、大目付の調べが動いたが、その調べは簡単に終った。島村が襷《たすき》、鉢巻に装っていたことで、何者かと果し合いをしたらしいとまではわかったが、大目付はもちろん、家中の誰もその相手が盲目の新之丞だとは、思いもしなかったようである。  新之丞は、果し合いの使いに行った徳平に、何かの聞きただしがあるかと思っていたが、それもなかった。腰の曲った老翁ひとりに、島村の屋敷の者は、誰も目をくれなかったらしい。  島村の横死は、間もなく人の口にものぼらなくなった。何ごともなく日が過ぎ、また春が来た。その間、新之丞の家には、時どき従姉の以寧が、後添いの話を持っておとずれるぐらいで、退屈な日が過ぎて行った。以寧は口から泡を吹かんばかりに再婚をすすめ、新之丞にことわられては憤慨して帰って行くのである。  三日ほどして、徳平は女中を連れて来た。ちよという名前で、齢《とし》は二十五、百姓家の寡婦だという話だった。そういうことは徳平一人がしゃべり、ちよという女はほとんど声を出さなかった。  二人が居間を出て行くと間もなく、台所から物をきざむ包丁の音が聞こえて来た。それだけで男二人だけだった家が、急に明るさを取りもどしたようだった。  ──ふむ、働き者らしいな。  化粧の香もなく、無口そうなのもよい、と新之丞は思った。だがその夜の食事が終るころ、新之丞は、不意に箸《はし》をとめて顔を上げた。だが、給仕をしていたちよが、はっと身じろぐ様子をさとると、何も言わずに食事を終えた。  ──ふむ、徳平め!  その夜、床についてから、新之丞は苦笑した。ちよという名で、いま台所わきの小部屋に寝ているはずの女が、離縁した加世だということはもうわかっていた。汁の味、おかずの味つけ、飯の炊き上がりのぐあいなどが、ことごとく舌になじんだ味だったのである。  だが新之丞は、気づいたことを、加世にも徳平にも言わなかった。加世も知られるのをおそれるように、めったに新之丞には近づかず、大ていは台所に籠っていた。  数日後、新之丞は庭で木剣を振りおわって、家にもどると、台所に向かって茶をくれと言った。加世の返事が聞こえ、間もなく戸を開けて加世が茶を運んで来た。膝の前に茶を置くと、加世は新之丞の手をとって、茶碗に触れさせた。思わずそうしたらしい。加世は、はっと身を縮めたようだった。  新之丞は気づかないふりをした。台所からいい匂いが洩れて来る。蕨の香だった。さっきから家の中で、とんとんと小さな音がしていたのは、加世が蕨たたきを作っていたらしかった。 「今夜は、蕨たたきか」  と新之丞は言った。 「去年の蕨もうまかった。食い物はやはりそなたのつくるものに限る。徳平の手料理はかなわん」  加世が石になった気配がした。 「どうした? しばらく家を留守にしている間に、舌をなくしたか?」  不意に加世が逃げた。台所の戸が閉まったと思うと間もなく、ふりしぼるような泣き声が聞こえた。  縁先から吹きこむ風は、若葉の匂いを運んで来る。徳平は家の横で薪《まき》を割っているらしく、その音と時おりくしゃみの音が聞こえた。加世の泣き声は号泣に変った。さまざまな音を聞きながら、新之丞は茶を啜《すす》っている。 [#改ページ] [#1字下げ] あとがき  郷里に帰って一日、二日経つと、私の話し言葉は自然にむこうの言葉にもどっている。そうなる方が話すのに楽である。ところが昨年、生まれた村で小さな会合があって、そこで村の言葉で挨拶をしたら、あとでさっきの言葉は村ではもう使うひとがいない、懐しい言葉を聞いたと言われた。これはいささかショックだった。浦島太郎というのはこれだな、と思った。  郷里の言葉も、日に日に変化したり、長い間には消滅したりする。ことにテレビの普及は、村の言葉を加速度的に変えつつあって、私が二十過ぎまで使っていた言葉のいくつかは、もはや時代遅れになっているのである。  しかし私は、自分の中にある郷里の言葉をそう簡単には捨てる気になれない。それらの言葉を手がかりに、私はものを感じたり考えたりし、つまりは世界を認識したのであり、言葉はそういうものとして、いまも私の中に生き残っているからである。  同じように私は、子供のころに冬の夜道を三キロも歩いて、村の小学校に映画を見に行ったことが忘れられない。その映画は阪東妻三郎が二役を演じる「魔像」だった。私は兄のうしろから雪の道を歩きながら、見て来た映画の興奮がさめやらず、寒さと睡気《ねむけ》を忘れていた。そのときも私は、多分映像というものによって別の新しい世界に眼をひらかれたのであろう。その世界は、やはりほかのものに代替出来ないものとして、私の中に残った。  この小説集のルーツは、さかのぼるとそのへんまで行くようである。小説の締切りは、たいていは苦痛と一緒にやって来るのであるが、その意味では、この中の何篇かはめずらしく楽しみながら書いたと言える。  それは三カ月に一作という、ほどのよい間隔で書けたこととも無関係ではなく、そういうのんびりした小説が、いつの間にかたまって小説集になるのは書き手にとってしあわせな状況ではないかと思う。この小説を書かせてくれた方方と本にまとめてくれた方方に感謝をささげる。 [#2字下げ]昭和五十六年一月 [#地付き]藤沢周平 ]  初出誌   オール讀物    酒乱剣石割り  昭和53年7月    汚名剣双燕   昭和53年9月    女難剣雷切り  昭和53年12月    陽狂剣かげろう 昭和54年3月    偏屈剣蟇ノ舌  昭和54年6月    好色剣流水   昭和54年9月    暗黒剣千鳥   昭和54年12月    孤立剣残月   昭和55年3月    盲目剣谺返し  昭和55年7月  単行本 「隠し剣秋風抄」昭和56年2月文藝春秋刊  本書は昭和58年に刊行された文庫の新装版を底本としています。 〈底 本〉文春文庫 平成十六年六月十日刊