[#表紙(表紙.jpg)] 藤沢周平 秘太刀馬の骨 目 次  秘太刀馬の骨  献 金 隠 し  下 僕 の 死  拳《こぶし》 割 り  甦 る 対 決  御番頭の女  走る馬の骨 [#改ページ]   秘太刀馬の骨      一  小出|帯刀《たてわき》は、近習《きんじゆう》頭取の浅沼半十郎を待たせてある部屋に入って来ると、黙って上座に通った。帯刀が坐るのをみて、声をかけられる前に半十郎が挨拶《あいさつ》をした。当然である。浅沼半十郎は、万年御書院目付と言われた浅沼家から、去年の暮に帯刀の引きで近習頭取に挙げられたばかりである。 「寒さも、多少やわらぎましてござる」  半十郎はまず時候の挨拶をのべた。帯刀に呼びつけられたが、用の中身はまだ聞いていなかった。明後日には城中で四の日の執政会議がひらかれるので、そのつもりなら城中でいつでも、自分の部屋に半十郎を呼べるというのに、帯刀が今日急に使いを寄越して屋敷に呼んだのは、よほどの急用が出来たか、または秘密を要する話があるに違いないと半十郎は思っていた。  それで、なるべくあたりさわりのない方角から話を催促した。 「何か、それがしにお命じになる急用でもござりましたか」 「いや、そうではない」  と帯刀は言った。家老の小出帯刀は六十二になる。大柄だが太ってはいなくて、壮者のように背筋がのびていた。面長の浅黒い顔に、ひときわ白い眉毛《まゆげ》が目立って、白くて長いその眉毛は長命の相だと言われていた。 「少少相談したいことがあって、来てもらったのだ」  帯刀がそう言ったとき、部屋の障子の外に人影がうずくまり、お茶を持参したと言った。若い女の声だった。 「よし、入れ」  帯刀が言うと、半十郎の背後の障子がひらき、夥《おびただ》しい日の光と一緒に女が入って来た。障子はすぐにしまったが、そのわずかの間に、軒から落ちて地面をたたく水滴の音が騒然と半十郎の耳に入りこんだ。四、五日前に降った雪が屋根に残っていて、それが日に溶けて滴り落ちているのだった。  春の音だ。柄にもなくそう思った半十郎は、すぐに生あたたかい体臭のようなものに顔をつつまれた気がして顔を上げた。  若い女が横に来て、半十郎に茶と干菓子をすすめているところだった。ほのかな髪油の匂いと、それを押しのけるような、かぐわしく生あたたかい体臭が、またしても近近と匂った。顔はよく見えなかったが、透きとおるように白い指が目に入った。  女は低い声で挨拶し、茶を喫するように半十郎にすすめると、つぎに帯刀のそばに行って茶と菓子を配った。今度は白い横顔が見えた。うつくしい女だった。身なりからみて、小出家の奥で働く女中だろうと半十郎が思ったとき、異様な光景が目に入って来た。  帯刀が女の手をつかんでいた。それだけでなく、女の肩を抱き寄せるようにして、耳に何かささやきかけている。女は顔を赤くして、やわらかく抗《あらが》った。浅沼半十郎は目のやり場に困った。 「や、客人の前で失礼した」  女が逃れ去ると、帯刀は平然とそう言った。かつてその人の笑顔を見たことがないと城中で言われる顔も、いつもと変りがなかった。白い眉毛の下の鋭い目が半十郎にむけられている。 「きれいな女子《おなご》だろう」 「はあ」 「齢《とし》は十八だ」  と帯刀は言った。 「あれを妾にしようと思っておるのだが、なかなかうんと言わん。それで、いま少しずつ馴らしているところだ。あたら花を、無理に手折《たお》るのは好かんのでな」 「さもありましょう」  半十郎は相槌《あいづち》を打ったが、少しバカらしい気もした。上の方の人間のそういう感覚にはつき合い切れないものがある。  小出帯刀は、かつて栄華を誇った大派閥望月派を継いだ派閥の頭領である。政治的な手腕は確かだと言われていて、帯刀を派閥の頭と仰ぐことには何の不安もなかった。しかしここには帯刀の妾の話を聞きに来たわけではない、と半十郎は思った。相談事というのを、はやく聞きたかった。  すると、まるで半十郎の心の動きを読んだように、帯刀が意外に重苦しい声で言った。 「異なことを申しておると思うかも知らんが、わしはもう二人ほど、わが血を分けた子が欲しいのだ」  はっと半十郎は目を伏せた。帯刀の声音もさることながら、言っていることが瞬時に腑《ふ》に落ちたのである。  小出帯刀は子に恵まれなかった。そのことは家中なら誰でも知っていることだ。長男、長女をつづけざまに幼児のうちに失い、ようやく次男が生まれて育ったが、そのあとで今度は妻女が病死した。それで間もなく後妻をもらったけれども、新しい妻は子供を生まなかった。しかしすこぶる気立てのよい女性だったので、帯刀は縁を解かずに家の奥をまかせて今日に至っている。満江という夫人がその人である。  次男は成人し、跡継ぎの届けも済んで嫁を迎えたが元来病身だった。婚儀が済んで五年たつが、いまだに子が生まれていない。しかし子の生まれない原因が新五郎という次男にあることはあきらかなので、嫁を実家に帰すこともならず、そのままになっている。半十郎の胸にうかんで来たのは、そういう家中周知の小出家の事情だった。 「以前はそういうことはもっと気楽に考えておったものだ。新五郎にどうしても子が生まれなければ、養子を迎えればよいと思っていたが、近ごろは少し考えが変って来よった」  帯刀の声はややひとりごとめいて来た。 「齢を取ると若いころとは考えが変って来るようだ。よくも変り、悪くも変る。ともかく若いときのままではいられぬ。いまごろ子が欲しいと思うのも、あるいは悪《あ》しき妄執のたぐいかも知れんが、望月の二の舞は避けたい」 「ごもっともでござります」  と半十郎は言った。  望月家は藩の名門で古くから代代名家老と呼ばれる人物を出し、藩内に隠然たる勢力を持つ派閥の長でもあった。しかし時代が下ると対抗する派閥の力も強くなり、また望月の当主であり筆頭家老の職にありながら、収賄《しゆうわい》の罪で失脚した四郎右衛門隆英のような人物も出て、派閥の長の地位に変りはないものの、近年は昔日の勢いを失っていた。  そこに起きたのが、六年前の望月四郎右衛門隆安の暗殺事件だった。四郎右衛門隆安は遣《や》り手の家老で、ひさしぶりに対立する派閥杉原派を圧倒する勢いを示しているときに、暗夜の路上で何者かに刺殺されたのである。  直後に政変が起きて、藩政の主導権は杉原派に移ったために、暗殺は杉原派が仕掛けたものだといううわさが立った。しかし同時に、そうではなくて暗殺は時の藩主播磨守親好が命じたものだという根強いうわさもあった。四郎右衛門隆安は切れ者だったが、望月家にはめずらしく傲岸《ごうがん》な男だったので、藩主に憎まれていたというのである。  播磨守は事件があった二年後に病死したので、事の真偽は闇《やみ》に埋もれた形になったが、そういううわさが立った根拠のひとつに、暗殺事件後の望月家の処分の異様さがあったこともたしかである。望月家は藩草創以来の名門で、そういう家は仮りに失態があって逼塞《ひつそく》しても、家名断絶とはせず、小さく残すことを慣例としたものだった。  ところが播磨守は、四郎右衛門隆安に嗣子がいないこと、暗殺されたときに刀を抜いていない武道不覚悟、生前の執政に偏頗《へんぱ》があったことの三カ条を挙げて、無造作に望月家を潰《つぶ》してしまったのである。家中が四郎右衛門どのは殿に憎まれていたとざわめいたのはそのためである。  いま小出帯刀が、望月の二の舞はしたくないと言ったのはそのこと、ことに後嗣のいないことを指している。しかしそのために、六十を過ぎて若い娘に子を生ませようというのはかなりの執念と言うべきだろう。半十郎が、家名と筆頭家老の地位に対する帯刀の執着の強さに圧倒されてうつむいたとき、帯刀は声音を変えて、さて本題に入ろうかと言った。      二 「近ごろ、望月を暗殺したのはわしではないか、などと言う者がおる。そなたは耳にしておらんか」 「いえ」  浅沼半十郎はおどろいて帯刀を見た。初耳だった。帯刀は平静な顔をしている。 「なに、ためにするうわさだ。これでわしも敵が多いからの」 「杉原忠兵衛さまですか」  半十郎は対立する派閥の頭の名前を挙げた。福耳で豊頬《ほうきよう》で、エビスさまのような顔をしているが、杉原には策士という評もあり、単純な政治家ではなかった。  しかし望月四郎右衛門の暗殺事件に乗じて藩政の主導権をにぎってから、小出と交代する昨年暮までの五年半ほどは、忠兵衛は藩内をよく治めて、権謀だけでなく政治的な手腕にも長《た》けていることを証明した。小出に政権を奪われたのは大病を煩《わずら》ったせいで、それさえなければ忠兵衛の政権はまだつづいていたろう。  前筆頭家老の病気は、寒い冬を凌《しの》いだ近ごろになって著しく快方にむかっていると聞こえていた。それで忠兵衛の名前を出してみたのだが、小出はすぐにはうなずかなかった。 「忠兵衛かも知れぬが、案外身内かも知れぬ」 「身内と申されますと……」 「金内、河村などだ」  金内修理は中老、河村作左衛門は組頭である。いずれも旧望月派の重鎮で帯刀の同僚だった男たちだ。浅沼半十郎の表情を見て、帯刀は無造作に言った。 「彼らはいつでもわしの失脚をねがっている。とってかわろうという算段だ」 「それは、意外なことを承ります」 「なに、意外なことは少しもない。どっちの組も似たようなものでな。みな足のひっぱりっこをしておる」 「………」 「そこでわしも、わが身を守らねばならんということで、むかしの一件を少し調べ直してみようかと思っているところだ」 「望月さまの事件のことですか」 「さようだ」  帯刀はうなずくと、少しこっちに寄れと言った。半十郎が膝行《しつこう》して前にすすむと、帯刀はいくらか声を落としてつづけた。 「それというのも、ごく近ごろになって妙なことが耳に入って来ての」 「………」 「六年前に、望月の死体を検分したのは大目付の笠松、御医師の庭田良伯、御徒《おかち》目付の根岸晋作という男、この三人だ」 「………」 「そのとき、傷を改めていた笠松六左衛門が、ほう、『馬の骨』かとつぶやいたというのだ」 「ははあ」 「笠松の家は、親の代には屋敷内に道場を置いて家中から五十人もの弟子を取っておった。そういう家柄だ。六左自身は大目付を勤めてとても道場どころではなく、いまは打ち捨てているがそういう家系の目はそなえている。『馬の骨』とは異な名前だが、察するに斬り口から推した剣法を言ったものだろうと、わしは見当をつけた」 「では、そのことを笠松さまにおたずねになりましたか」 「むろん聞いてみた。だが、やつはそんなことを申したおぼえはないの一点張りだ。さっき申したように、望月の闇討ちは先の殿のなされたことではないかといううわさがあって、笠松は事件の始末をうやむやにしておさめた。犯人さがしにも熱意を示さなんだ。いまさら『馬の骨』を持ち出されても困るという気持だろうて」 「ありそうなことにござります」 「そこで、そなたを呼んだのはだ」  帯刀はひと呼吸おいて、半十郎の顔をのぞきこむようにしてから言った。 「半十郎は、励武館で知られた剣士だったそうだの」  浅沼半十郎は赤面した。励武館は藩校に併設されている藩の武術道場である。半十郎がそこでいささか剣名を知られたことがあるのは事実だが、それはもはや十年以上も前のことだった。 「それは、むかしの話にござります」 「ま、そうかも知れんが、それほど剣に打ちこんだ時期があるとすれば、だ。『馬の骨』ということも耳にしたことがあるのではないかと思ってな」 「一、二度耳にいたしたことはござります」  と半十郎は言った。 「しかしそれは、誰も目にしたことがない秘太刀といったうわさ話が耳に入って来ただけで、はたして、事実ある剣法かどうかはそれがしには判断がつきかねます」 「まぼろしの剣法か」  帯刀は首をひねった。 「すると、どこの誰が遣ったという見当もつかぬということかの」 「いえ、その見当だけならつきます。これまた事実かどうかはわかりかねますが、『馬の骨』は御馬乗り役の矢野の家に伝わる秘太刀と言われておりました。あの家には、いまもたしか稽古《けいこ》所があるはずです」 「矢野か」  帯刀は矢野という家中の家を思い出そうとする顔つきになった。しばらくしてうなずいた。 「樽屋《たるや》町の矢野だな。ほう、あそこで剣術を教えておったか」 「いまも教えているかどうかはわかりませんが、先代の仁八郎は名人と呼ばれたひとでした」 「それだ、半十郎。まず矢野に会ってたしかめるべきだな」 「しかし、それがしが聞いたのは、ただのうわさ話に過ぎませんが……」 「いいや」  と帯刀は言った。 「笠松六左衛門のひとりごとは、有力な証言だ。『馬の骨』はたしかに存在して、それは望月暗殺のときに使われたに相違ない」 「では、それがしに矢野に行けと……」 「いや、そうではない」  帯刀は首を振った。 「いま、江戸の甥《おい》が来ておってな。秘太刀の調べは甥にやらせよう。ただ銀次郎は国元の様子にいたって不案内だ。そこで、非番のときでよろしいが、甥の調べにつき合ってもらうと大いに助かると思ってな」  帯刀は、それで呼んだのだと言いながら立って床の間のそばに行くと、机の上から風鈴の形をした小さな鐘を取って打ち振った。たちまち澄み切った鐘の音が鳴りひびき、障子の外に来た者が用件を聞いた。今度は男の声だった。 「銀次郎を呼べ」  命じて座にもどると、帯刀はさっきの話をつづけた。 「望月の暗殺にかかわり合った秘太刀の持主をさがすとなると、当然身の危険ということも考えねばなるまい。しかしそなたが一緒に動いてくれれば、その危険もよほど減るだろうと考えたところだ」 「すると甥御の警護をしろと、そういうご用命でしょうか」 「いやいや、そこまで堅苦しく考えることはない。銀次郎は神道無念流とか申す流儀の免許取りだそうだ。自分の面倒は自分で見ることが出来よう。ただ銀次郎の調べを世話しながら、それとなく成行きを見守ってくれればそれでけっこう」  帯刀は少し首をのばして、半十郎を見据えるようにした。 「『馬の骨』の遣い手を突きとめることは、望月を殺したのがわしだなどという悪質なうわさを打ち消すためにも必要だが、それだけではない」 「………」 「敵から身を守るためにも、その男の正体はおさえておかねばならん。望月を倒した黒幕は、まだ正体が知れておらんのだからの。用心が肝要だ」  そう言ってから帯刀ははじめて、笑いとも言えない笑いで頬《ほお》を少しゆがめながら、正体をつかんでおけば、いつかわしの役に立つことだってないではなかろうとつけ加えた。  部屋に沈黙がひろがった。帯刀は言い過ぎたと半十郎は思っていた。帯刀もつい口が滑ったと思っているかも知れなかった。障子の外に、部屋のすぐ前で、軒から落ちる水滴の音が一定の調子でつづいているのを聞きながら、半十郎が顔を伏せていると、廊下にご免という声がして部屋に人が入って来た。 「や、お待たせしました」  坐るとすぐに、その男は歯切れのいい江戸弁でそう言った。びっくりするような美男子で、まだ二十過ぎの男だった。だがその帯刀の甥は、明るい声と表情とは裏腹な、値ぶみするような目で半十郎を見ていた。      三  水いろの空がひろがって、このところ日増しに強くなる日差しが、いまも隈《くま》なく城下に射しかけていたが、風はかなり寒かった。通りすぎる樽屋町の家家の塀の内に、梅が咲きかけているのが見えたが、花びらがひらいているのはほんのわずかで、花はまだ多くは赤いつぼみのままだった。 「寒いなあ、北国は」  と石橋銀次郎が言った。見れば綿入れを着ているのに、銀次郎の頬が粉を吹いたように白く、唇は紫いろになっている。 「江戸はもうそろそろ花見だからなあ。まさか雪が残っているとは思いもしなかった」 「こちらも、あと半月の辛抱でござる。この風さえやめば、花も一斉に咲き申そう」  と半十郎は言った。もう雪は終りかと思っているとまた少し降ったりして、春はすぐにはやって来なかった。この間降った雪が道端に積まれたまま、黒く汚れている。ところどころに水たまりがあって、そこにも日の光が弾《はじ》けていた。 「矢野という家は、道場を持っているのかな」 「いや、屋敷が狭いので道場といった建物はござらん。といってもひさしくこのあたりには来ておらんのだが、むかしは庭の隅を稽古所にして、そこで稽古をつけておったものだ。弟子も数人といったものだったろう」 「いまもそうしておるのか」 「さあて、行ってみぬことにはわかりかねる」  と半十郎は言った。  矢野仁八郎が名人と言われた剣客だったことは記憶にしみついているが、現在の矢野の当主については、名前が藤蔵で家の勤めの御馬乗り役を勤めている、といったことのほかには何の知識もなかった。御馬乗りの家の禄高は五十石、多くても七十石ほどのはずである。  やがて記憶にある家が見えて来た。あれが矢野藤蔵の家だと半十郎は言った。粗末な門を入ると前庭の一部と家の横手が畑になっているのが目についた。むかしから藩が奨励している菜畑だったが、奨励されるまでもなく、百石以下の家家は家計の不如意を補うために争って畑をつくっていた。むろんいまは春先で青い物は見えなかったが、雪が消えたあとに形の崩れた畝《うね》が姿を現わし、あちこちに青菜の古株と思われるものが見えている。  そして矢野家の菜畑には、家の右横にある畑の奥に、ほかの家にはないものが見えていた。屋敷の角に平地にはめずらしい栃《とち》の大木があり、その下に標縄《しめなわ》を張った場所がある。そこがどういう場所かは、標縄の内からこちらを見て立っている二人の人物を見れば一目瞭然だった。一人は五十に手がとどくかと思われる年配の男で、一人は子供だった。二人は相対する位置にいて、それぞれ手に木刀を握っていたが、いまは身動きもせずこちらを見つめている。 「あれが、この家の稽古所か」  葉が落ちた栃の木の下からこっちを見ている二人から目を離さずに、銀次郎が聞いた。 「さよう。雪が消えたゆえ、場所を清めて稽古をはじめたと見える」  縄に下がっている紙|四手《しで》が新しいのを見て、半十郎はそう言ったが、銀次郎の関心は場所には向いてないようだった。 「あの男が、矢野藤蔵か」 「いや、この家の家僕でござろう。矢野はそれがしより齢が下のはずでござる」 「ふむ」  銀次郎は鼻を鳴らした。そして急に興味を失ったように目を稽古所からそらすと、先に立って玄関の方に歩いて行った。  さきに半十郎から使いをよこしてあるので、矢野藤蔵は二人を待っていた。矢野は三十をわずかに出たぐらいの齢に見え、顔いろは黒いが温厚な人柄に見えた。顔が黒いのは御厩《おうまや》に詰めて馬を調練するのが勤めだからであろう。 「折角の非番の日をじゃまして悪かった」  と半十郎は言った。そして同道した銀次郎を、御留守居石橋瀬左衛門の次男で、母親が小出家老の妹にあたる方だと引き合わせた。 「石橋どのは定府の御留守居ゆえ、矢野もこのご仁には面識がないと思うが、れっきとした家中の人間。何かそこもとにたずねたいことがある由なので、よろしくたのむ」  半十郎がやや丁重な物言いをしたのは、これから聞くことが、いわゆる上から問いただすといった性質のものでないことはもちろん、ことは流派の秘事にかかわることだという考えが根底にあるからだった。  質問に対して、答えるかどうかは矢野の腹次第である。わが家の秘太刀なので、これにかかわることには一切お答え出来かねると言われればそれまでである。  その気持が通じたかどうか、矢野は伏せていた目を上げて、かしこまりましたと言った。しかしそれで質問にとりかかった銀次郎の態度は、半十郎の気遣いを裏切って、かなり無礼なものだった。 「お手前のおやじどのは名人と呼ばれたひとらしいが、お手前はいかがだ、腕の方は」  矢野藤蔵はその無作法な口調におどろいたように銀次郎を見た。それから視線を半十郎に移して、ちらと苦笑するような表情をみせてから答えた。 「それがしは不肖の跡継ぎで、父には到底および申さぬ」 「ふむ、しかしいまも稽古所があるところをみると、教えてはいるわけだ」 「当藩には、ほかに不伝流を伝える家はござらんので、それがしが型だけは教えております」 「不伝流か、ふむ」  銀次郎はうなずいてから、いきなり核心に入って行った。 「『馬の骨』というのも、不伝流の秘太刀か」 「『馬の骨』ですか」  藤蔵の穏やかな細おもてが、にわかに引きしまったように見えた。藤蔵は無言で銀次郎を注視してから言った。 「その名前を、どこから聞かれましたか」 「まあ、それはいいじゃないか」 「しかし……」  藤蔵はまた半十郎を見た。藤蔵の印象がすっかり変っている。鋭く油断のない気配が藤蔵をつつみはじめていた。  半十郎は、その場の空気をやわらげるように、両手のひらをひろげて軽く上げた。 「この家に『馬の骨』という秘太刀が伝わっていることは、われわれも以前から伝え聞いておる。秘太刀であれば、あまり触れられたくないことかも知れんが、差し支えないところで聞かれることに答えてくれぬか」 「それは小出さまのご命令でしょうか」 「いやいや、そうではない。わしが頼んでいるのだ」  と半十郎は言った。  この問答の間に、婢《はしため》と思われる身なりの十四、五の娘が出て来て、お茶を配って去った。銀次郎は二人の問答にはまるで無関心な様子で、客間を出て行く娘の姿を目で追っている。半十郎はにがにがしかった。  藤蔵が折れて、相わかりましたと言った。その言葉を聞くと、銀次郎がまたすばやく振りむいて藤蔵を見た。 「『馬の骨』は、それがしの祖父が工夫した秘太刀で、祖父から父に伝わりました」 「そして、おやじどのからお手前に伝わったわけだな」 「いや」  と藤蔵は言った。穏やかに微笑して銀次郎を見た。 「さきほど申したとおり、それがしは父にとっては不出来な弟子で、その秘太刀は伝授されておりません」 「しかし、誰かには伝えられたはずだ」 「おそらくは……」  と藤蔵は言った。半十郎が心配したとおり、矢野藤蔵は秘太刀のまわりに厚い壁をめぐらせはじめたようだった。どこの師範家にも秘剣を語らずといった一項があって、それは予想された態度でもある。  だが石橋銀次郎は強引だった。 「誰に伝えられたか、お手前、ご存じないか」 「さあ」  藤蔵は異な質問を受ける、といった目で銀次郎を見た。藤蔵の方が銀次郎に対して、いまは優位に立っていた。 「それは相わかりません。秘太刀の伝授は、父と相伝を受ける者との間のこと。余人のあずかり知らぬことでござる」 「嘘《うそ》だろう」  と銀次郎は言った。 「ほかの者はともかく、道場の人間が知らぬはずはない」 「さように思われますか」  と藤蔵は言った。あとは口をつぐんだままだった。  では、べつのことを聞こうと銀次郎は言った。 「おやじどのが病死されたのは、ざっと十年前だそうだな」 「いかにも」 「では、そのころ当道場の高弟と呼ばれた者たちの名前を聞きたいものだ」  矢野藤蔵のまわりに、また鋭く張りつめた気配がうかび上がって来た。 「それは、それがしの口からはお教えいたしかねます」 「何をそう警戒しておる」  と銀次郎が言った。嘲《あざけ》るような表情を顔にうかべた。 「この道場では、高弟の名前も秘密にしておるとでも言うのかな」 「いや、申せば『馬の骨』の穿鑿《せんさく》に利用されるのは自明のことゆえ、お教え出来ぬと申しました」 「すると何かな」  銀次郎は挑戦的な口をきいた。 「そうひた隠しにするところをみると、『馬の骨』は過去何かよからぬことにでもかかわり合って、ことさら穿鑿を嫌うということでもあるのではないか」 「これはまた、異な申し様だ」  藤蔵は膝《ひざ》にこぶしを立てた。 「ただいまのはいかなる意味か、いま少しくわしく承りたいものでござる」 「まあ、まあ、矢野。落ちつけ」  半十郎は間に割って入った。 「門弟の名前を申したからといって、銀次郎どのがむりやり彼らを糾問して何かを聞き出すということではあるまいし、またそんなことが出来るわけもない。ただ秘太刀については多くは語れぬというそこもとの立場も道理がある話ゆえ、一応はほかもあたってみたいということではないかな。ほかの者も何も洩《も》らさねばそれまでの話」 「………」 「ただし当時高弟とされていた者の名前ぐらいは、そなたが口を閉ざしても、手を回して調べればいずれ判明することだ」  半十郎はそれとなく銀次郎を牽制《けんせい》しながら、藤蔵をなだめてそう言ったのだが、後日このときの自分の言葉を強く後悔することになる。  矢野藤蔵はしばらく考えた末に、ようやく五人の男の名前を挙げた。矢野仁八郎が小人数の弟子を教えていた時期に、高弟として仁八郎を助けた男たちで、半十郎が名前を知っている男もいたが、名前を聞いただけではどこの誰とわからない人間もいた。  半十郎は言った。 「年代には多少ばらつきがあるわけだ」 「さようでござります。祖父のころからの門弟で、死んだ父とさほど齢の違わぬ者もおりますが、飯塚孫之丞のように、父の弟子でそれがしより齢下の者もおります。いまも非番の日は稽古を手伝いに参りますが、飯塚は非凡な男でござる」 「さっき屋敷に入って来たときに……」  銀次郎が割りこんで来た。 「稽古所に人が二人おった。片方は六つ、七つと見えた子供。もう一人は五十前後の男だ。あの二人も当道場の弟子か」 「子供はわが家の長男でござる」 「相手をしておったのは何者だ。門弟のようにも見えなかったが……」 「あれはわが家の家僕でござる」 「しかし木刀を持っていたところをみると、ただの家僕ではあるまい」 「庄六は父の弟子でもござった」 「ほう、ほう、おやじどのの弟子」  銀次郎は思案するように首をかしげてから、やや執拗《しつよう》な感じでつづけた。 「あの者の素姓を聞いてもよろしいか」 「べつに隠すほどのことではござらん」  と言って、藤蔵は庄六が厩足軽の兼子家の厄介叔父で、父の仁八郎が、家事手伝いもさることながら稽古所に通う門弟の世話をさせるために連れて来た奉公人だと言った。 「いまもわが家にいて畑の青物をつくったり、初心の門人に型を手ほどきしたりいたしておる」 「かなり遣うか」 「いや、さほどには。ただ古い門人で流儀の手筋を心得ている男ゆえ、子供たちの稽古をまかせており申す」  藤蔵がそう言うと、銀次郎は急に話に興味を失ったように半十郎を見て、ではこれで失礼しようかと言った。半十郎の目に、藤蔵が身体の緊張をゆるめるのが見えた。  庭に出て門に行く間に、半十郎は屋敷の隅の稽古所を振りむいたが、そこにはさっきの二人の姿は見えなかった。真白な紙四手が風に吹かれている。日が傾いたために、風はさっきよりさらに冷たくなっていた。栃の大木が地上に濃い影を落とし、影の先端は二人が歩いている庭の半ばまでとどいていた。      四  半十郎が帰り支度をしていると、妻の杉江の兄が詰所をのぞいた。大納戸に勤める男で、若いころは藩の励武館でともに直心流を学んだ仲である。妻の杉江はその縁で娶《めと》った。 「下がるどごだか」  谷村新兵衛は言った。 「ンだ」 「ンだば、一緒に下がるか。話もある」  新兵衛はそう言うと、表からもどって来た半十郎の同僚に、いたって愛想のいい声をかけた。 「や、おじゃましており申す」  下城の太鼓が鳴ったばかりで、建物の外に出ると、内庭には城を下がる藩士が溢《あふ》れていた。二人は門を二つくぐって三ノ丸の広場に出た。そこにはまた、会所勤めの藩士や組外足軽が右往左往していて、なかなか思うようには前にすすめないほどだった。  しかしそこを抜けて、桜の馬場と呼ぶ城内の馬場の反対隅にある三叉《みつまた》の木戸の方にむかうと、人影はぱったりと途絶えて、二ノ丸の堀に傾いた日が差しているばかり、これが同じ城内かと思うほどに静かだった。もっとも会所、郡代屋敷の附近、大手門内の混雑もほんの一時で、城内はじきにさびしいほどに人気《ひとけ》が少なくなるのである。  二人は長い影を引いて、三叉の木戸の方に歩いて行った。風はなくてあたたかかった。 「だいぶ、あったこぐなった」 「ンだのう」  半十郎は言葉少なに応じた。義兄がこれから言わんとする用件はわかっていて、それはまた言われても詮《せん》ないことでもあった。  はたして義兄の新兵衛は言った。 「杉江がまた家サ、来たそうだ。おふくろさまに、家の中がさびしくてならぬと口説いて行ったらしい。それも涙こぼしながらだ」 「………」 「おふくろさまは、貴公に頼んでくれと言っている。杉江にやさしぐしてくれどな」 「杉江は病気だ」  と半十郎は言った。  一年ほど前に長男が病死してから、妻の様子がおかしくなった。何日もふさぎこんでいるかと思うと、急に夜中に起き上がって、子供が死んだのは医者を呼ぶのが遅れた半十郎の手落ちだと、ねちねちと非難する。その非難は時には朝までつづいて、半十郎は寝不足の頭で出仕しなければならない。人には言えぬ苦しみだった。 「事をわげて言い聞かせもし、それとなく医者サも相談して気鬱《きうつ》サ効があるという薬も飲ませだ。しかし効き目はない」 「何の薬だ」 「煎《せん》じ薬だ。医者め、高い金を取ったども、少《ちこ》しも効がねさけ、いまはやめておる」 「わしが思うに、薬ではないな」  と新兵衛は言った。 「貴公がもう少《ちこ》しいだわってやれば、薬より効き目あんなでねえがのう」 「言われずともいだわっておる。新兵衛、おれの身にもなってみろ。城から帰れば一日たまっていた苦情《くじよ》を言う。夜の夜中におれを起ごして苦情《くじよ》を申す。それでも、おれは一度だってあれに手を上げたことはないぞ。実家に行って家《や》の内がさびしいと泣いだと。武家の女房のすることではないわ。病気だ。いだわってもなおらぬ」 「はだしてそうかな、半十郎」  新兵衛が牛のような横目で半十郎を見た。 「杉江の話によると、貴公近ごろは非番の日によく外サ出るそうではないか」 「それがどうしたな」 「杉江は、貴公が病気の自分を内心忌み嫌っていると思っている。もはや生ぎでる甲斐はないそうだ。いや、おふくろさまにそう言ったと申す」 「バカくせえ」  と半十郎は言った。 「かりにもそれが女房たる者の言うことか。バカくさぐて話にならね」 「ンだば、何用あって外サ行く」 「ご家老に頼まれた用があるのだ。女房をいだわらねまねさけ、お役に立てませんとは言えぬわ」 「小出さまだな」 「さようだ」 「気をつけろよ、半十郎」  と新兵衛は言った。二人は冠木《かぶき》門のある三叉の木戸番所を抜けて城外に出た。この木戸は暮六ツ(午後六時)になると閉じて、以後出入りする者は手札を出して潜《くぐ》り戸を通ることになっている。  木戸の外には日暮れの日差しがまぶしいほど照り、その光は二人の行く手にある坂の上から差しこんでいた。道が三叉路《さんさろ》になっている木戸前は、商い店の多いところで、物を買う人が群れている。二人は人を掻《か》きわけるようにして坂道をのぼった。  のぼり切ったところが今度は四辻《よつつじ》になっていて、谷村新兵衛はそこで道を左に曲って帰る。新兵衛は立ちどまった。 「気をつけることだ、半十郎」  新兵衛はさっき木戸の内側で言った言葉を、また繰り返した。 「小出派と杉原派が、まだもや争いをはじめるらしいと、近ごろもっぱらの評判だぞ」 「それは承知しておる」 「万事承知の上で、小出家老に与《くみ》していると、そういうわけだ」 「ンだ。ご家老には恩義がある」 「近習頭取に引き上げられて、少少加増してもらったことか」 「二十石の加増は少少とは言えぬ」  半十郎は冷静に言った。新兵衛の言い分は、家代代大納戸のやっかみと聞こえる。新兵衛はどちらの派閥にも属さず、内心それを誇っているふうだが、半十郎からみれば、それはただの臆病《おくびよう》から来た日和見《ひよりみ》というものに過ぎないと思われる。 「禄高はふえたども、その分いそがしくもなったろう」  新兵衛は嫌味とも受け取れる言葉をつづけた。 「小出さまに限らぬが、上の方はくれただけのものは取り返すぞ。ことにご家老ともなると策略ずくめはあたりまえ、変な策略に嵌《は》まらねようにいたせ」 「わかっておる」 「杉江をたのむぞ」  言うと谷村新兵衛はくるりと背をむけて歩き去った。通りは立ちならぶ家の影に塗りこめられて、新兵衛の姿はいきなり薄暗がりの中に溶けこんだように見えた。  いつの間にか日は沈みかけていて、日差しは急に衰えてその分肌寒さが増したように思われた。半十郎はしばらく四辻に立ったまま新兵衛のうしろ姿を見送ったが、新兵衛のやっかみ半分の言葉にいくらか波立った気分は静まって、最後のひと言だけが胸に残っているのを感じた。  自分の家にむかおうとして、半十郎はふと思いついて踵《きびす》を返した。坂下に杉江の好物である麦|落雁《らくがん》を売る店があることを思い出している。  ──無駄になるかも知れぬが……。  買って帰ろうと半十郎は思いながら、のぼったばかりの坂をもどって行った。      五 「どこへいらっしゃるのですか」  と杉江は言った。青白い顔の下に血のいろが動いている。それはすばやくうかび上がって皮膚を赤く染めたと思うと、たちまち底に沈んで、そのときには杉江の顔はほとんど紙のように真白になる。 「樽屋町の矢野の家サ行くと言ったはずだ」 「いいえ、さっきはご家老さまのお屋敷サ行くとおっしゃいました」 「ンだから、はじめ小出さまのお屋敷サ寄り、そこで石橋銀次郎という人、前にも話したご家老の甥御だ、この甥御と同道して樽屋町サ行くと言っておる。何度も言わせるでない」 「樽屋町のどなたのところですか」 「矢野藤蔵。御馬乗りの矢野の家だ」 「御馬乗りのお屋敷サ、何用あって行かれるのですか。おまえさまのお勤めとかかわり合いがあるとは思えませんけれど」 「ご用の中身は、とてもひと口には言えぬ。とにかくご家老に言いつけられたご用があって、行かねばならぬ」  杉江は口をつぐんだ。そしてきっと半十郎をにらんだが、その目にみるみる涙が溢れた。 「どうぞ、行っていらっしゃいませ。どうせ非番の日に家の者と一緒にいるのは、おいやでたまらないでしょうさけ」  杉江はそう言うと、勢いよく塗り戸をあけて隣の寝部屋に入って行った。と思う間もなく間の戸がまた開いて、杉江は三日前に半十郎が買って来た麦落雁を茶の間に投げ返した。そのまま戸がぴしゃりとしまった。  半十郎が憮然《ぶぜん》として散らばる菓子を眺めていると、茶の間と台所の間にある板敷きの戸の隙間に、ちらりと物の影が動いた。小柄な人影は、娘の直江だろう。子供ながら、茶の間の親たちの異様な気配に聞き耳を立てたのではないかと思われたが、むろんほめられる行儀ではなかった。  半十郎の気分は一層暗くなった。一家の主婦の病気は、家の中のさまざまなところにひずみを生み出すようである。 「ばあさん、ちょっと来い」  半十郎は大声で、台所にいる婢のふでを呼んだ。ふでに後を頼むと下僕の伊助の見送りを受けて家を出た。ふでは五十近い下婢だが、心利いた女で家事一切を疲れるふうもなくこなした上に、夜は機《はた》を織ったり、直江に縫物を教えたりする。  近くの村に生まれ、一度城下の職人に嫁入ったものの不縁になって浅沼家に奉公に来た。以来かれこれ二十数年は浅沼の家にいるだろう。まだ自分が子供だったころからの奉公人であるふでを、半十郎は頼りにしていた。杉江がいまのような有様になってみると、ふでがいなかったら家の中はとてももつまいとぞっとすることがある。  外はいくらか肌寒かった。また冬がもどって来たような灰いろの雲が、一面に空を埋めていたが、風はなく、ただかすかに底冷えするだけだった。北の国の春は一度にはおとずれず、一進一退を繰り返しながらやって来る。  家を出てしばらくは、妻のやはり異常としか言えない振舞いに気持が滅入ったが、やがて住む町をはずれて市中を流れる川のそばに出ると、半十郎の気持は小出家老の方にむかった。この前の矢野藤蔵と会った折の始終を、家老は半十郎の口から聞きたがった。甥の銀次郎をあまり信用していないような気配があった。  結局、後見人といったような立場で、銀次郎のやることを見張れということらしいと、半十郎はいまでは自分の役割をそう理解していた。小出家老の信頼が快かった。それなのに、今日は打ち合わせた時刻よりかなり遅れてしまったようである。妻をなだめるのに手間どったせいだ。杉江め、と半十郎は思った。夫に力を添えるどころか、足を引っぱっておる。  半十郎はいそぎ足に橋をひとつわたった。河岸の道を少し北に歩いてから左に曲った。そこはもう武家町で、その町のもうひとつ奥が小出家老の屋敷がある若松町だった。半十郎は一層急ぎ足になった。  しかしそんなに急いだにもかかわらず、石橋銀次郎はもう屋敷を出ていた。そして家老自身も、今日は急用が出来て登城した、と半十郎を迎えた顔なじみの家士はそう言い、さらにこうつけ加えた。 「必ず浅沼さまを待って同道するようにと、旦那さまが固く念を押しておられましたのに、銀次郎さまは旦那さまがお出かけになるとすぐにお屋敷を出て行かれました」  その言葉を聞いて、半十郎はすぐに家老屋敷をとび出した。小半刻《こはんとき》(三十分)ほどの遅れが、何か取り返しのつかない過失につながりそうな、胸さわぎをおぼえていた。  もう一度河岸の道にもどり、そこからさらに北に歩いてからさっきの橋のかなり下手にかかる橋をわたって向う岸にもどった。そのあたり一帯は町人町である。半十郎は往来する人の多い道を横切って裏通りに入った。そこから樽屋町までは小走りに走りつづけた。  そして矢野藤蔵の家の門をくぐった半十郎は、まさに悪い予感が当たったのを知った。庭の隅の稽古所に、木刀を構えて対峙《たいじ》している二人の人間がいて、それは言うまでもなく矢野藤蔵と石橋銀次郎である。二人とも袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取り、襷《たすき》、鉢巻に身を固めていた。  喧嘩《けんか》口論のたぐいから木刀を取り合ったというようなことではなく、尋常の立ち合いであることはそれでわかったが、半十郎には二人が竹刀ではなく木刀を握っていることが解せなかった。打ちどころが悪ければ、どちらかが致命的な傷を負うことがあり得る。そう思いながら静かに近づいた半十郎の足が、ぴたりととまった。稽古所のまわりに溢れる強烈な殺気を感じとったのである。  半十郎はあたりを見回した。すると家の軒下に、家僕の兼子庄六が立っているのが見えた。庄六は身動きもせず稽古所の中の試合を見守っていたが、顔には何の表情もうかんでいなかった。ただ、ぼんやりと試合を見ていた。庄六は素手だった。畑を耕すという指が、無骨に太いのが見てとれた。  半十郎は目を稽古所に移した。二人は半十郎が屋敷に入って来たときのままの姿勢を保っていた。藤蔵は正眼に構え、銀次郎は木刀を右肩に引きつけて八双に構えている。そのまま二人とも微動もしていない。  ──庄六のあの表情は……。  少し動転しているのかな、と半十郎が思ったとき膠着《こうちやく》していた空気が一気に弾けた。双方が気合を発したが、仕掛けたのは銀次郎だった。藤蔵は体を転じながら、相手の木刀をはね上げた。流れるような捌《さば》きだった。だがつぎに踏みこんで打ち合ったときは、藤蔵の木刀が俊敏に銀次郎の小手を打ったのに対し、銀次郎の木刀は藤蔵の胸を打った。銀次郎の身体が沈み、瞬時にはね起きたときに木刀が下段から藤蔵を打ったのが半十郎の目に映った。奇妙な剣である。  二人は擦れ違ってまたも木刀を構えたが、不意に藤蔵の方が身体を前に折ったと思うと、そのまま地面に跪《ひざまず》いてしまった。軒下から家僕の庄六が走り寄って来た。抱えるようにして主人を稽古所の外に出すと、庄六はすばやく落ちていた木刀を拾った。そのまま銀次郎がいる稽古所に踏みこんで行った。 「やめろ、庄六」  顔を上げた藤蔵が、声をふりしぼって庄六を止めた。藤蔵は胸を押さえ、半十郎と銀次郎を交互に見ながらつづけた。 「当家では、殿の御前のよんどころない試合をのぞき、他流試合を禁じてござる。たってと申すゆえ、それがしがお相手申し上げたが、ほかの者との立ち合いは許しませんぞ。石橋さまも、浅沼さまもさよう心得られたい」  そこまで言うと、藤蔵はひと声うんとうなって横転した。青白い顔から、とめどなく汗が流れるのが見えた。それを見て、庄六が藤蔵のそばにもどって来た。両腕をそっと主人の身体の下にさしこむと、そのまま抱き上げた。目をみはるほどの腕力である。 「骨は折れておらんと思うがな」  家の方に立ち去る庄六の背に、銀次郎が声をかけた。 「折れてもせいぜい二本ぐらいだ。なあに、すぐになおる」 「これを見てくれ」  矢野藤蔵の家を出ると、銀次郎は半十郎に身体を寄せて、藤蔵に打たれた手首を見せた。はやくも血が凝《かたま》りはじめたらしく、手首は赤黒く腫《は》れ上がっている。 「藤蔵め、不肖の跡継ぎなどと申して、どうしてなかなかの遣い手だ。これだから立ち合ってみぬことにはわからんのだて」 「しかし、木刀で立ち合ったのは行き過ぎでござろう。こういうことがほかに洩れると、ご家老にとって好ましくない評判も生みかねぬ」  半十郎はきびしい口調でたしなめた。この男は狂犬のようなもので、野放しにしてはならぬ人物なのではないかと半十郎は疑いはじめていた。そのために、小出家老ははじめから目付役のつもりで自分をつき添わせているのではないか。 「しかし、『馬の骨』の持主をさがしあてるためには、竹刀の立ち合いなどではわからん。相手を生死の境い目に引きずりこまぬことには、秘太刀などというものは出て来はせんよ」 「………」 「なあに、おれは真剣で立ち合いたかったほどだ。本音を言えばな」  半十郎は銀次郎の顔を見た。目鼻立ちのととのった、ことに唇は女のように赤く小さい美貌の青年だが、その唇にいまは何か残忍な笑いのようなものがうかんでいる。  半十郎は気持をひきしめた。おかしな男だぞと思っていた。この男が持っている狂気じみたものに巻きこまれてはなるまい。 「その口ぶりだと、藤蔵にかなりしつこく立ち合いを強いたようだの」 「当然だ。尋常なことを言っても、相手は逃げるばかりだ」 「しかし、なぜだ。藤蔵ははっきりと、『馬の骨』は伝授されておらぬと申しておったではないか」 「それを信じたのなら、尊公も思ったよりお人好しだな」  銀次郎は半十郎を見てにやにや笑った。 「おれは信じなかったぞ。なに、立ち合ってみなきゃわからんことだ」 「それでわかったのか」 「わかった。藤蔵は持っている技を残らず出した。だが、あれだけだ」 「しかしご家老は……」  と半十郎は言った。 「今日のようなやり方で秘太刀さがしをやるのは喜ばんと思うぞ」 「まあな」 「それに、矢野家では他流試合を禁じていると藤蔵が申した。それを無視することは出来まい。まして今日のことがあった後は、高弟と呼ばれる者たちは、まず立ち合うことはせんだろう。無理強いすれば、おぬし蛇蝎《だかつ》のように嫌われるぞ。いずれ家中の評判になる」 「しかし、ほかにも方法はあろうさ」  と銀次郎は言った。 「伯父《おじ》は喜ばんかも知れぬが、おれのここに……」  銀次郎は立ちどまって半十郎を見ると、胸を叩《たた》いてみせた。 「火がついてしまった。おれはその『馬の骨』とやらを何としてもこの目で見たい。案内の方をたのむ」  半十郎は同じように立ちどまって、銀次郎を見た。今日の空のように、底つめたく重苦しいものが胸に入りこんで来たのを感じていた。半十郎の方が先に歩き出し、二人の男は言葉をかわすこともなく、底冷えする武家町の道を河岸の方角にむかって歩いて行った。 [#改ページ]   献金隠し      一  矢野藤蔵が咳《せ》きこむと、飯塚孫之丞がすばやく立ってうしろに回り、背後から抱きしめるように藤蔵の身体をしっかと押さえた。咳が肋骨《あばらぼね》の罅《ひび》にひびかぬようにという配慮である。  それでも藤蔵は、二つ三つと咳がつづく間にうつむいている顔を朱にそめたが、発作がおさまると平静な声で、や、手数をかけたと孫之丞を犒《ねぎら》った。 「そういう次第ゆえ……」  孫之丞が席にもどるのを待って、藤蔵は話をつづけた。 「その石橋銀次郎という男は、おそらくそこもとたちの家を一軒ずつたずねて行くものと思われる」  矢野藤蔵の前に、膝《ひざ》をそろえて坐っているのは藤蔵の父仁八郎の高弟だった五人の男である。一番年長の内藤半左衛門は五十八歳、髪はほとんど白くなっているがいまなお普請組の外勤めのせいか、顔は日焼けして骨組みたくましく、矍鑠《かくしやく》とした感じの老人だった。  半左衛門の隣にいる色白で太った物静かな男が沖山茂兵衛。大納戸を束ねる五十がらみの武士である。沖山のそばにいるのが北爪平九郎、三十半ばで、秀麗な男ぶりとただならぬ鋭い眼光を持つこの人物は、御番頭《ごばんがしら》という重い職を勤める。藩中では名家とされる北爪家の当主だった。その北爪のうしろに坐っている色青ざめて痩《や》せた男は、長坂権平。兵具方の役人である。  そして権平とならんで、沖山のうしろに坐っているのが、いま矢野藤蔵を介抱した飯塚孫之丞で、齢はまだ二十八。近習組に勤めている。彼ら五人は藤蔵の亡父の弟子だが、道場を継いでいる藤蔵に対しても、当然のようにつつましく師範家に対する礼をつくしていた。  対する藤蔵は、床の上に起き上がって羽織を着ているものの、寝衣の襟元から胸に巻いた真白な手当ての木綿がのぞき、蒼白《そうはく》な顔色とともに痛痛しく見えた。石橋銀次郎の木剣は、骨を折りはしなかったが、肋骨二本に罅を入らせたのである。 「そこで、そこもとたちに頼みがござる」  藤蔵はそう言ったが、静かな声音の中には師範家の権威を背にした厳然としたひびきがあった。五人は一斉に低頭し、つぎに無言で藤蔵を見守った。 「それがしは秘太刀を継がなかった。だが、ここにいる五人の中には、父から『馬の骨』の秘太刀を譲られた者がいるはずである。それが誰かはわからぬゆえ申すわけだが……」 「………」 「もし石橋が参って試合を挑んでも、他流試合の禁を申し立てて、柳に風と受け流してもらいたい。それでも、よんどころなく立ち合わざるを得ないという仕儀に立ち至った場合にも、秘太刀を遣っては相成らぬ」 「絶体絶命の場合にも、ですかな」  眼光鋭い北爪平九郎が質問した。 「絶体絶命の場合にも……」  藤蔵は北爪の言った言葉を繰り返した。 「遣っては相成らぬ。遣えばあの男は秘太刀を盗み取るとみた。かれはそれだけの力量をそなえておる男だ」  ほう、ほうと内藤半左衛門がうなずき、男たちは顔を見合わせると、改めて藤蔵にむかって深く頭を下げた。言わんとするところを諒解《りようかい》し、いかなる場合にも秘太刀を遣わないと藤蔵に誓ったのである。  五人の男は、藤蔵に見舞いの言葉を残して矢野の家を出た。そして門にむかう途中、戸外の稽古所が見えるところに来ると、一斉にそちらを振りむいた。  今日は朝から風がなく、日が照りわたってあたたかいせいか、稽古所には十人を越える人影が見え、入り乱れて竹刀を打ち合っているのが見えた。大ていは二十前後の若者たちのようだが、中には子供たちもまじっていて、一人前におめき叫んで竹刀を振っている。その中から時おり鋭い怒声が聞こえて来るのは、師範代の溝口要助が稽古をつけているらしかった。 「やっておる」  内藤半左衛門がめずらしく顔をほころばせてそう言うと、太った沖山も「やっておる」と言った。男たちは顔をほころばせながら矢野家の門を出た。  樽屋町の道は、今日は雪もなく乾いていた。道から見える屋敷うちの白梅、紅梅は、依然としてわずかな花がひらいているだけだったが、大きからぬ構えの家家や、歩いて行くと土埃《つちぼこり》が立つほど乾いている道が午後のきらめくような日差しに包まれて、そのあたりの風景はいよいよ春が近いことを示しているように見えた。 「孫之丞」  と北爪平九郎が言った。 「おぬしは残って、稽古つけでやればえがったでねえか」 「いや、いや、番頭」  飯塚孫之丞は手を振った。 「それがしは今日は勤めの日で。急な集《あづ》ばりだって言うさげ無理にひまもらって出て来ましたども、すぐさま城サもどらねばなりません」 「それはご大儀《でえぎ》」  と沖山茂兵衛が言った。そう言ったところをみると、沖山は今日は非番だったのだろう。 「ほかはみなさん、休みでがんすが(ござりますか)の?」 「やや(いやいや)、おれは晩方《ばんかた》から登城して、宿直《とのい》の指図さねまね(せねばならぬ)」  と北爪が言った。  それはご大儀だの、とまた沖山が言い、内藤半左衛門も犒ったが、長坂権平だけはむっつりとうつむいたまま、一番あとからついて来る。 「しかし不伝流も、繁昌しているようでめでてのう」  半左衛門が言うと、北爪が応じた。 「藤蔵はんは、腕前ではお師匠はんに劣るて言われるども、それはお師匠はんが偉すぎたためで、藤蔵はん本人はながながの遣い手だ」  北爪平九郎は、こんな話をする間にも鋭い目を左右に配りながら歩いて行く。 「そして、ほれ、人柄が穏当だろう。教え方が丁寧ださげ、若い者には人気があるらしい」 「藤蔵はんよりも、息子の光之助という子がうまぐなるんでねがと言う人がいる」  突然に、沖山茂兵衛が言った。 「孫之丞、おぬしその子サ稽古つけたことはあっか」 「あります」  同門の人間の、身分を越えた隔意のない雑談という空気になっているが、飯塚孫之丞は最年少で、半左衛門や沖山茂兵衛からみればわが子と言ってもおかしくない年配りである。孫之丞だけは言葉もおのずから丁寧にならざるを得ない。 「どげだけの?」  沖山がたずねるのに、孫之丞はしばし沈黙してから言った。 「一言で言えば栴檀《せんだん》は双葉より芳《かんば》し、ですがの」 「ほう、ほう、ほう」  と内藤半左衛門が奇声を発し、一同はどっと笑った。何事かと、そばの門内から人が顔を出したほど陽気な笑い声だった。人人は半左衛門の奇声を笑ったのではなかった。孫之丞の言葉から、不伝流矢野道場の将来の安泰を悟り、期せずして安堵《あんど》の笑いを洩《も》らしたのである。 「孫之丞」  半左衛門がいつくしむような声をかけた。 「おぬしが免許をもらったのは、なんぼの時だ?」 「十八でがんした。師匠が亡くなられた年です」 「矢野道場創始以来の天才だと聞いださげ、非番を待ってさっそく手合わせに行ったものだ」  と北爪平九郎が言った。それは初耳だと沖山が言った。 「結果はどげなったな?」 「あっという間に二本取られた。どうにか一本は返して先輩の沽券《こけん》だけは保ったども、中身は惨敗だったの」  その孫之丞が保証するのだから、道場の行末は明るいと平九郎は言った。すると、ところで話は少《ちこ》しもどるがと半左衛門が言い出した。 「藤蔵はんが心配している秘太刀を受けたのは、この中のどなただな?」  半左衛門が言うと、一同は言い合わせたように路上に足をとめて顔を見合わせた。だがすぐに、それぞれ顔をそむけて歩き出した。その背に、半左衛門は問いかける。 「孫之丞、おぬしか」 「とんでもがんしね(ござりません)」  孫之丞はあわてたように手を振った。 「それがしはお師匠はん最晩年の弟子、免許をもらうのがやっとで、とても秘太刀などに手がとどくものではありません」 「それはわからねぞ」  内藤半左衛門は孫之丞を睨《ね》めつけた。 「なにしろ、道場はじまって以来の天才児ださげの。それとも、沖山、おぬしか」 「何でまた、わしが。とんだ見当違えだ」 「いやいや、さにあらず。おぬしは見かけは静かだ男だども、遣う剣は恐ろしく辛辣《しんらつ》だ。難剣というやつで、はなはだ奥が深い。おぬしが秘太刀を継いだとしても、何の不思議もねえぞ」 「いや、わしじゃない。わしはまたはじめから、秘太刀を受けたのは北爪はんだと思っておったが違うかの」 「そうか、思い出したぞ」  と内藤半左衛門が言った。 「お師匠はんは、平九郎の剣は当道場の正統を伝えるものだと、たびたびおっしゃられたもんだ。北爪はん、あんただな」 「残念ながらおれではない。内藤老人、そういう夫子《ふうし》自身はどうなんだ。さっけだ(さっき)からおれたちばっかり問いただしておるが、これはひょっとしたら自分が受けたことを隠す方便ではねえのか」 「そんなことはない。秘太刀というものはな、わしのような年寄りが受けるものではない」 「しかし、内藤老人だってはじめから年寄りだったわけじゃあるまいに」  平九郎が言うと、若い孫之丞がくすくす笑った。そっちをにらみながら半左衛門がひとりごとのように言った。 「しかしお師匠はんが、秘太刀を伝えぬわけはない」 「むろんだ。誰かに伝えたとも」  平九郎が相槌《あいづち》を打った。 「伝えたとすれば、やっぱりこの五人の中の誰かだろうの。藤蔵はんの目に狂いはないと思われる。誰かが事実を隠しておるのだて」  半左衛門は言い、その目をふとうしろに回した。 「あ、こら、権平」  半左衛門は体を回すと、うつむいて歩いている長坂権平の顔をのぞくようにしてにらんだ。 「おぬしはさっけだから、ひとこともしゃべっておらんな? うむ、みんなが笑ったときも、おぬしだけは笑わながった。ちゃんと見でだぞ」 「………」 「おぬしだな、秘太刀を受けたのは」  その声を聞いて、前を歩いていた者ももどって来た。みんなでぐるりと長坂権平を取り囲む形になって、半左衛門の詰問がつづいた。 「読めた。それで石橋という男のことが気になって、物もしゃべれなかったと。そういうことだな」 「いや、違います」  と軽輩の権平は言った。 「それがしはそげだ大それた秘伝など、受けてはおりません」 「謙遜《けんそん》することはなかろう。大事の試合でおれにたびたび苦汁を飲ませた籠手《こて》打ち名人の長坂権平、秘太刀を受けていても少《ちこ》しも不思議ではない」  と北爪平九郎が言った。 「いや、それはまったくの見当違いでがんす」 「ンだば、なんでそげだおもしろくない顔で、物も言わずにいるんだ。胃袋でも痛むか」 「いや、胃は大丈夫だども……」  内藤半左衛門の詰問に、長坂権平は蚊の鳴くような声で答えた。 「家《え》の中サ心配ごとがあるもんださげ……」 「何の心配ごとだ?」 「女房が、離縁してくれって、実家サもどってしまった」 「まだか、バカくせえ。これで何度目だ」  内藤半左衛門の興ざめした声がひびいた。兵具方長坂権平の家庭不和はつとに家中周知の醜聞である上に、その原因が奈辺《なへん》にあるかも知れわたっているので、弱っている権平に同情を示す者は一人もいなかった。  男たちは白け切った顔で囲みを解き、道の突きあたりに見えて来た繁華な通りにむかってさっさと歩き出した。      二  浅沼半十郎が家にもどると、出迎えた婢《はしため》のふでがお客さまが来ていますと言った。 「客? 誰だ」 「知らね人だども」 「で、中サいるのか」 「茶の間で、奥さまがお相手してます」  半十郎は仰天して刀を腰からはずし、奥にいそいだ。客が誰であれ、心気が尋常でない杉江に客をもてなす才覚があるはずがない。もしや無礼をはたらいたりしたら、と思うと気が気でなかった。  心配を裏書きするように、障子が閉まった茶の間は不自然に静まりかえっている。半十郎は障子をあけた。すると顔にうす笑いをうかべた石橋銀次郎と、その銀次郎をにらむような目で見守っていた杉江が、同時に顔を上げて半十郎を見た。 「やあ、貴公か」  と半十郎は言った。非番のときならともかく、疲れて下城して来たあとで会いたいような人間ではなかった。半十郎の気持の中には漠然とだが、このひと癖ある美男子を忌避する気分がある。この男が、矢野藤蔵にした仕打ちを見ているからだろう。疫病神に取りつかれたとまでは思わないが、それに近い気分があった。  だが、秘太刀「馬の骨」の探索に関して、銀次郎のために便宜をはからうことは、小出家老に請け合った役目である。 「よい、あとはわしがお相手する」  半十郎が言うと、杉江は失礼いたしますと尋常な挨拶を残して部屋を出て行った。 「尊公の奥方は、なかなかおもしろいひとだな」  杉江が出て行くと、銀次郎が声をひそめて言った。 「それに、美人だ。ところが、それを申したらきつく怒られましてな。それがしも往生した。尊公がもどってくれて助かった」 「妻は気鬱《きうつ》の病いで、気持が平らでない」  半十郎はそっけなく言った。 「ご無礼があったら許していただこう。ところで今日は、何か急なご用でも?」 「沖山茂兵衛の家に連れて行ってもらえぬだろうか。人に聞いたところでは、沖山は今日が非番だそうだ」 「これから行くと、帰りは夜になる」 「いや、そんなに長くはかからぬ。ほんのちょっと話してみるだけだ」  石橋銀次郎は不意に粘っこい口調になった。 「お疲れだろうが、ぜひ案内をたのむ」  それは命令かと言いたくなったのを抑えて、半十郎は無言でうなずくと席を立った。  半十郎は自分の部屋に入った。夫婦の寝間の奥にある小部屋で、ふだんはそこを半十郎の書斎にしているのだが、半年ほど前から杉江が寝間に夫婦の床をならべるのを厭《いと》うようになったので、いまは半十郎はそこを自分の居室、兼寝間に使っていた。  その部屋に入って一人で着替えていると、境の襖《ふすま》があいて杉江が顔を出した。しばらく黙って夫を見ていたが、やがて部屋に入って来ると着替えを手伝いはじめた。めずらしいことだった。 「お出かけでがんす(ございます)か」  と杉江が言った。 「うむ、苗売町の沖山まで行って来る」 「石橋さまとご一緒に?」 「そうだ。前にも言ったように、ご家老のご用足しだ」 「あのお若い方に、ご用心なされませ」  と杉江がささやいた。 「何かあったのか」 「口は巧みでも、底意はべつにある方のように思われまする」 「そなたを美人だと言ったそうだな」 「武士にあるまじき世辞を申す男でございます」 「なあに」  半十郎は振りむいて、手伝いを終った杉江の肩に手を置いた。ただしこわごわと触った。何カ月も触れていない妻に、ふと手を触れたくなったのだが、また機嫌を損じてはつまらない。  杉江は逆らわなかった。黙ってうつむいている。思慮も分別もそなえ、献身的でやさしかった杉江がもどって来たようだった。突然半十郎の胸に、妻への愛情が満ちあふれた。 「石橋は江戸者だ。正直に物を言う。そなたがうつくしいゆえうつくしいと申したまでだろう」  杉江は顔を上げて半十郎を見た。かすかに頬を赤らめ、口の端に笑いをうかべた。少し幼いようなその表情のまま、杉江は尻下がりにそろそろと寝間に引き揚げて行く。うしろ手に襖をあけ、くるりと身体を回した妻に、半十郎が声をかけた。 「おい、今夜はそっちの部屋に行くぞ」  するといったんしまった襖が勢いよくあいた。目をつり上げた杉江が言った。 「けがらわしいことを申されますな」  憮然《ぶぜん》として刀をつかみ上げると、半十郎は足音荒く銀次郎が待っている茶の間にむかった。  ──何が、杉江をいたわってやれだ。  半十郎はこの間会った妻の兄谷村新兵衛の言葉を思い出して、胸の内で舌打ちした。いたわってやればこのとおりではないか。  苗売町の沖山の家に行くと、茂兵衛は在宅していた。人をそらさない機嫌のいい顔で、半十郎と石橋銀次郎を客間に通した。 「休みのところを邪魔して、相済まぬ」  と半十郎は言った。家禄は半十郎が百三十石で茂兵衛が百二十石とほぼ似たものだが、城中の席次は、近習頭取の半十郎が大納戸の茂兵衛の上席に坐る。すなわち身分としては半十郎の方がやや上になるけれども、用件が用件なので、どうしても辞を低くして物を言う姿勢になる。 「このご仁は石橋どのと申して、すでに矢野藤蔵どのからご連絡があったかも知れぬが……」  半十郎は静かに二人を見ている茂兵衛に、鋭い一瞥《いちべつ》を投げた。 「小出家老の甥御《おいご》でござる。会って、何事かたしかめたいことがあると申されるので、かように同道した。差し支えもあろうと存ずるが、訊《たず》ねることに答えてやってはくれまいか」 「………」 「長くお手間は取らせぬ」 「よろしゅうござる」  あっさりと沖山茂兵衛が言った。 「何なりと聞かれよ」 「では……」  茂兵衛の構えない態度に、少し毒気を抜かれたような顔をしていた銀次郎が、膝をすすめる感じで言った。 「矢野家に、『馬の骨』と申す秘太刀があることはご存じですな」 「承知いたしておる」 「先代の仁八郎から秘太刀を譲られたのは、尊公ではありませんか」 「いや、違いますな」 「しかし跡継ぎの矢野藤蔵どのは、自分は譲られておらぬと明言しておる。するとまずは矢野仁八郎門下の逸足《いつそく》と言われた、五人の高弟のうちのどなたかが伝授を受けたものと考えられる」 「さようかも知れませんが、しかしそれがしではありませんな」  淡淡と茂兵衛は言った。その答えに喰い下がるように銀次郎が言った。 「一度立ち合っていただけませんか」 「何のために?」  沖山茂兵衛は問いかけながら、柔和な笑いをたたえた目をじっと銀次郎に向けている。 「立ち合えば、おっしゃられたことの真偽はおのずから判明いたそう」 「おことわり申す。矢野道場では、他流との試合を堅く禁じておりますのでな」 「そこを曲げてねがいたい」 「いや、おことわりいたす。他流試合の禁もさることながら、それがしも齢《よわい》五十二。技も衰え申した。立ち合ってお見せ出来るような技は到底遣えますまい」  沖山茂兵衛はあくまで柔和にそう言ったが、しかし答えの中身はにべもないものだった。試合する気はまったくないと言っているのである。半十郎がそばから口を添えるような余地もなかった。 「ちくしょうめ。何であの男は、あんなに愛想がいいんだ」  得るところなく沖山の家を出ると、銀次郎は薄闇が這《は》う道に、口汚い罵《ののし》りの声を吐き捨てた。立ち合いをことわられたことよりも、軽くあしらわれたことに腹を立てているようにも見えた。 「沖山は大納戸の頭だ。城奥の女性、城下の有力商人たちと顔つき合わせて談合するのが務めだ。自然、愛想もよくなろう」 「大納戸というのは、どんな仕事だ」 「城奥で必要とする衣類、身の回りの品などを、商人から買い入れるのが役目だな」 「呉服屋などを相手にするわけだ」 「まあ、そうだ。呉服屋だけじゃないが」 「大納戸出入りの商人の名前を知らんですか」  と言ったが、銀次郎はすぐに、いやこれは伯父《おじ》に聞けばわかるかなとひとりごち、べつの質問に変えた。 「大納戸という仕事がそういうものだとすると、役得などというものもかなりありそうだな。そのへんのことを聞いたことはござらんか」 「さあて。わしの親戚も大納戸におるが、たしかに盆、暮のつけとどけぐらいはあるようだ。しかし役得というほどのものはどうかな」 「………」 「何を笑っておる」  半十郎が咎《とが》めた。銀次郎はうつむいて低い笑い声を洩らしていた。半十郎の声に顔を上げて答えた。 「いや、いまうまい考えがうかんで来たが、浅沼どのにはかかわりのないこと。なに、そのうちさっきの慇懃《いんぎん》無礼なおやじどのを、笑ってもいられなくしてやろうと思ったところだ」      三  大勢の人にまじって、堀にかかる橋をわたっていると、四、五人前に谷村新兵衛の大きな背が見えた。新兵衛、と半十郎は声をかけた。 「めずらしいの、こっちで一緒になるのは」  と、追いついた半十郎が言った。二人が下城する道は堀がない三叉《みつまた》の木戸の方で、大手門から真直《まつす》ぐに堀をわたり、繁華な商人町に出ることはめったにない。方角違いである。 「女房に買い物を頼まれた」  新兵衛は、前後を歩いているほかの者の耳をはばかって小声で言い、そっちこそどうしたと言った。 「こっちも杉江の薬取りだ。伊助が風邪で寝ついて外サ出られぬ」 「それはまた、ごくろうだの」  と新兵衛は言った。二人はそろって橋をわたり、正面の木戸を抜けた。 「そうそう、聞きでえことがあった」  と半十郎が言った。新兵衛の肉の厚い丸顔を見て思い出したことがあった。 「沖山茂兵衛な?」 「ん? お頭が何か」 「近ごろ、変ったことはねえが?」 「変ったこと、はて」  新兵衛はあごを撫《な》でた。二人は正面の木戸からほど遠からぬ尾張町の道を歩いていた。町は落ちついた大きな店がならぶ繁華な場所である。  あごを撫でながら、道筋の店店に目を投げていた新兵衛が、ふと思いついたように言った。 「そう言えば、このところ来客が頻繁になったかの。ンださげって、特別変ったことってわけでもねえが」 「沖山どのの客か」 「ンだ」 「どげだ客だ」 「呉服屋の番頭が多いようだの」 「どげだ話をしている」 「それはわがらね。われわれは城中勤めだども、商人は特別のことでもなければ城には入らん。商談は三ノ丸の会所でやるのだ」 「ああ、そうか」 「ンださげ、会所から使いが来て、沖山どのがそっちまで出向く。それが近ごろ頻繁だどいうことだ」 「ふうむ」 「中身は一切わからん」 「沖山の様子に変ったところは見えねが?」 「べつに。いつもとおんなじだな」 「つけとどけというのがあったな、盆、暮の」 「ある。菓子折とか、たまに絹一反などというものだ」 「金が動くことはねえが?」 「金? 袖《そで》の下のことか」  新兵衛はいかめしい顔になって、じろりと半十郎に一瞥をくれた。 「何を考えでいるか知らんが、大納戸では賄賂《わいろ》など取っていねえぞ」 「しかし競《せ》るということがあるだろう。同業同士、または小さいのが大きなところに取って代ろうとするとか」 「それに乗じて賄賂など取れば、いずれは洩れてたちまち評判になるだけだな。大納戸には、そんなたわけはおらんぞ」  さて、と言って新兵衛は町角に立ちどまった。 「わしは青柳町に回って、買い物をして帰るが、医者はどごだ?」 「船附町」 「辺鄙《へんぴ》などごだの」  新兵衛はそれじゃと言ったが、ふと思い出したというふうに足を返して向き直った。 「杉江はその後、どげだ?」 「相変らずだ」 「いだわってやってくれよ」 「いだわっておる」  と半十郎は言った。けがらわしいことを言うなと言ってからこっち、顔が合っても目も合わせなければ口もきかない杉江を思い出していた。 「新兵衛、おれの胸をひらいておぬしに見せたいぐらいのものだ。おれの胸の内は、あれをいだわりたい気持で一杯よ。とごろがだ、杉江の方がその気持を受けつけぬ。有り様《よう》はそんなもので、おれもくたびれで来た」 「ふうむ、そこが病気だな」 「病気だけではねえの。もどもど強情なところがある女子《おなご》ではあった」 「まあな」 「おぬしの前だが、おれも嫁にもらう前に、少《ちこ》しそのあたりを考えるべきだったと思わぬでもない」 「おぬし、いまごろそげだごとを言うのか、半十郎」  谷村新兵衛が気色ばんで詰め寄って来た。声はひそめているが、強い口調で言った。 「あのころのことを忘れだか。用もないのに、杉江の顔見たさによくおれの家に寄ったろうが。杉江はつつましく奥に籠《こも》っているのに、喉《のど》がかわいた、お茶を持って来させろと催促しておれをつついたのを忘れはしまい」 「そげだごともあった。若かった」 「半十郎にも困ったもんだと、親たちはにがい顔をしたがおれはなだめた。それというのも、おれは杉江の胸の内を知っていださげの。口にこそ出さね、杉江もおぬしを慕っておった。半十郎にお茶を出せと言うと、顔がぱっと輝いてな、本人はそれを隠すのに苦労しておったものだ」  谷村新兵衛の家にはじめて行ったのは、いくつぐらいのときだったろうと、半十郎は思った。励武館に通いはじめた十二歳のころだ。杉江はまだ、ほんの子供だった。  そしておれの十七歳、十八歳。元服が済んでおれが大人に近づくころになると、杉江は次第に奥に隠れるようになり、しかしたまに表に出て来ると、まるで蛹《さなぎ》から脱皮したばかりの成虫のような、みずみずしい光を帯びた美少女に変っていたことを思い出す。  ある日半十郎が新兵衛の家をおとずれると、あいにく新兵衛は留守だった。それだけでなく両親も留守だった。そして婢が来訪を告げに奥に引っこむと、杉江が表口に出て来た。杉江が板敷きに坐り、半十郎が土間に立って挨拶をかわしたあと、二人は何を話したらいいかわからずに無言のまま同じ姿勢でむかい合っていた。そのままで長い時が経《た》ったのをおぼえている。  ようやく半十郎が帰ると言うと、杉江が土間に降りて来て門まで送ってくれた。半十郎には、斜めうしろからつつましくついて来る杉江の身体が、桃の実のような芳香を放つのがわかった。そして自分の、道場帰りの汗まみれの身体と潰《つぶ》れた面皰《にきび》が盛大に匂うのもわかった。そういう半十郎をあざ笑うように空には夏の日が輝き、谷村家の庭の木木の緑の葉があるとも見えない風に揺れて、散乱する日の光をふりこぼしていたのもおぼえている。悔恨にいろどられたその午後の光景の中の半十郎は二十歳、杉江は十六歳だった。 「新兵衛、わるかった」  と半十郎は詫《わ》びた。 「さっけだのような、軽はずみな口をきくべきではなかった。杉江はかけがえのない女房だ。大事にするさげ、安心してくれ」  機嫌を直した谷村新兵衛と別れ、町はずれの川のそばにある船附町で薬をもらって帰ると、半十郎が家につくころには暗くなった。すると表口に灯がともっていて、人がいた。  行燈《あんどん》を出し、茶を出して相手をしているのはふでで、客は若い男だった。板敷きの端に腰かけていた下僕ふうの若い男は、半十郎を見るといそいで立ち上がった。 「お帰りをお待ちしておりました。堀端の杉原から来た使いの者です」 「もとのご家老の杉原さまか」  半十郎がおどろいて言うと、使いはそうだと言った。堀端というのは上士屋敷のある町である。 「ご多用のところをまことに申しわけないけれども、取りいそぎ相談したいことがあり、今夜五ツ(午後八時)前後までに屋敷においでいただけないか、という殿さまのお言葉です」  男は淀《よど》みなく口上を述べ、来てもらえるかどうか、返事を聞いて来いと言われたとつけ加えた。 「参上いたそう。五ツまでには必ず」 「ありがとうございます。なお、いまひとつ……」  若い男は声をひそめた。 「今夜のことは、出来るかぎり内密にというお言葉でした」      四  杉原家の客間に入ると、元家老杉原忠兵衛のほかに先客が一人いた。大納戸の沖山茂兵衛である。挨拶が済むと、杉原は夜分に呼びつけて済まなかったと言った。 「そなたの力を借りぬことには、どうにも埒《らち》あかんことが出来てな」 「何事でしょうか」  と半十郎が言ったとき、まだ少年のような若い家士が茶をはこんで来た。家士を去らせてから、杉原は二口、三口茶を飲んだ。  杉原はふくらんだ頬《ほお》こそ変りないが、顔色は白っぽくて、どことなく生気を欠いた表情をしている。厚く着膨れているところをみると、まだ寝たり起きたりしているのかも知れなかった。病気が快方にむかったといっても、全快したわけではないらしいと半十郎は見た。それだけに、おれを呼びつけた用は大事なものかも知れぬ、と半十郎は思った。 「ご病気の方は、いかがでござりますか」  と、半十郎は言った。 「見るとおり、ぼちぼちだ。医者は倒れるもととなった病気は治癒したと申しておるゆえ、あたたかくなれば元気になろう」  と杉原は言った。それから不意に鋭い目で半十郎を見た。 「そなたに来てもらったのはほかでもない。例の小出の甥、石橋のことで頼みたいことが出来たのだ」 「石橋?」  半十郎は半ば予期していたものの、少し顔色が変るのを感じた。あの狂気じみたところのある男が、ついに何か問題を引き起こしたに違いない。 「かの男が、何か面倒なことでも持ちこみましたか」 「それが、ひと通りではない厄介ごとでな」  杉原はそう言うと、あとは茂兵衛、そなたから話せと言った。 「昨夜……」  半十郎の方に身体を向けた沖山茂兵衛は、例のおだやかな笑いをふくんだ表情で言った。 「石橋が再度わが家をたずねて参って、またしても試合を強要いたした」 「なんたるしつこい男だ。あれほどきっぱりと拒まれたのに、また押しかけるとは」  半十郎は憤慨の声をあげた。 「ご家老の甥御ではあるが、どうもあの男には尋常ならざる欠陥がある。で、むろんきっぱりとことわられたであろうな」 「それが……」  茂兵衛は口辺にちらと笑いをうかべた。 「敵もさる者で、今度はうまくそれがしの弱味をにぎって掛け合いに参った。つまりあくまでも立ち合えぬというなら、その弱味をご家老に告げるが、それでいいかというわけでござった」 「それはまた汚いやり方だ」  と言ったが、半十郎はそこで表情をひきしめて、茂兵衛をじっと見た。かすかな心あたりがあった。 「で、その尊公の弱味とやらいうものを、訊ねてもよろしいかな」 「賄賂《わいろ》でござる」  淡淡と茂兵衛は言った。 「呉服屋の津軽屋、夜具一式納めの多田屋といった大きな商人から、時期、時期に金子をいただいておる。あとで申すように、これにはわけがござるが、見るところはまぎれもない賄賂。あらわれれば、弁解して済むものではない」 「わけとは?」  慎重に、半十郎は茂兵衛と元家老の顔を窺《うかが》った。 「ぜひともそれをお聞かせねがいたいものでござるが」 「それはわしから言おう」  と杉原が言った。 「浅沼の人物を信用して打ち明けるわけだが、その金は形は茂兵衛への賄賂だが、中身はわが派閥に対する商人たちの献金。派閥の維持には金がかかるものでな。で、献金は双方ともに事のはじめに談合済みのことで、茂兵衛は言わば窓口に過ぎんのだが、しかしこういう一切はわが派としては当然堅く秘したいところだ」 「石橋は、いつの間にか大納戸納めの商人の顔触れを突きとめておった」  と沖山茂兵衛が言った。 「その上で、どうも店の番頭などを脅して、店からそれがしに金が流れている事実を聞き出したらしい。昨夜は怪しげな金額まで書きこんだ書きつけを持参して、立ち合わねばこのことを小出家老にぶちまけると申した」 「脅しだ、武士にあるまじきいたしようだ」  半十郎は言ったが、しかしそこで困惑して顔をしかめた。 「たしかに風変りな男だが、石橋はうしろに小出家老という後光を背負っておる。それがしがとめたぐらいでは、この話埒あくまいと思われる」 「いやいや、さにあらずで。浅沼どのにおたのみしたいことは、べつにござる」  沖山茂兵衛は柔和な表情のままで言った。 「それがしは、石橋のもとめに応じて立ち合うつもりでござる」 「ほう、しかし……」  半十郎は鋭い視線を茂兵衛から、元の家老杉原に回した。この二人は、石橋銀次郎の容赦のない剣を知っているのだろうかと思ったのだが、その疑問に答えるようにうなずいたのは元の家老だった。 「浅沼は若いから知らんだろうが、沖山はそのむかし受けの沖山と申してな、何度かの御前試合をひとつ残らず勝ち抜いたものだ。機を見て放つ横胴一本が絶品で、これを防げる者はいなかった」 「それは大むかしのお話、いまはとてもそんな技を遣えるとは思えませんが……」  茂兵衛は慇懃な口調で元の家老に言ってから、半十郎に顔をもどした。 「いずれにしろ、献金のことを知られたのはそれがしの不始末。とにかく立ち合うことにいたした。ついてはそれと引きかえに、賄賂はただちにやめる。そのかわりに事実を何人《なんびと》にも洩らさないと、石橋から約定《やくじよう》を取りたい。浅沼どのにおたのみしたいのは、その仲介役でござる」 「なるほど」 「元来石橋の狙いは秘太刀の穿鑿《せんさく》であって、賄賂の糾明ではござらんと見た。ゆえにこの取引きは成り立つかも知れぬ、と考えたのだが、当事者であるそれがしがそれを持ち出してはいかにもうさんくさく、ちと出来かねる話」 「………」 「そこで話の仲介役と、もしその約定が出来たときはそれの証人役という難儀な役どころを、浅沼どのにお願いしてはどうかと、杉原さまと相談いたした次第。それというのも、これまでのいきさつから考えて、もし尊公を裏切って約定を破るようなことになれば、以後の秘太刀の探索に尊公の力を借りることは不可能と石橋も気づくはずで。それに……」  いまひとつと茂兵衛は言った。 「じつは先日、われらむかしの弟子五人が、矢野道場にあつめられましてな。藤蔵どのから秘太刀についてかような事態が持ち上がっているというお話がござった。その話が終ったあとで、藤蔵どのは特につけ加えて、石橋と接触する場合、ことにやむを得ず立ち合わざるを得ぬとなったそのときは、必ず浅沼どのに同席していただくようにと指示された。理由は……」 「かの男、どこやら狂気じみたところがあると申されたろう」  半十郎が言うと、茂兵衛はうなずいた。 「そのとおりでござる。決して油断すべからずと申された」 「そういうことだ、半十郎」  と杉原も言った。 「そなたを見込んでの頼みだ。この話、引き受けてくれるかな」 「お引き受けいたしましょう。沖山どのが言うとおり、この取引きは成り立つものとそれがしも考えます」  元の家老と茂兵衛の顔に、安堵《あんど》の表情がうかんだ。その一瞬の隙に斬りこむように、半十郎は言ってみた。 「秘太刀『馬の骨』を伝えられたのは尊公ですかな」  沖山茂兵衛は、一瞬鋭い目で半十郎を見た。だがすぐに無表情にもどって、さてどうでしょうかと言った。それだけだった。      五 「終りましたら、帰りにひと声かけていただきとうございます」  三人を励武館に案内した老いた中間《ちゆうげん》は、そう言い残して入口から帰って行った。塀で囲まれた広い敷地の中には、武術道場である励武館のほかに、藩学の府講学館、書庫、藩主御成り屋などがあって、長柄組の中間が交代でそれらの建物を管理していた。  帰りに声をかけろというのは、寄宿生がいる講学館のほかは書庫も御成り屋も日暮れには無人となり、そこには貴重な品品もあるからだが、むろん形式的なことわりに過ぎない。元の家老杉原忠兵衛の申し入れで、夕刻近い励武館を三人の男が使用することになったのを、当番の中間はかすかに訝《いぶか》しく思っただけだった。  中間が去ると、石橋と半十郎が左右から重い板戸を閉めた。するとその音が、無人の道場内にどーんとひびきわたった。  三人は広い土間から道場に上がった。あまり丹念に掃き拭きをしないとみえて、足袋をはいているにもかかわらず、足の裏にざらざらした埃《ほこり》の感触が伝わって来る。半十郎の胸に、その埃を素足で踏みながら、おめき叫んで竹刀を打ち合った子供のころの記憶が甦《よみがえ》って来た。  西側の壁に一列にならぶ武者窓から、折しも傾いた早春の日が差しこみ、太い縞《しま》になったその光の中に、さっきまで子供たちが入り乱れて竹刀を振っていたことを示す無数の塵《ちり》が漂いうかんでいる。 「浅沼どのは、道場はたしかここでござったかな」  沖山茂兵衛が話しかけて来た。話しかけながら、茂兵衛ははやくも袂《たもと》から出した白い襷《たすき》で袖を絞りはじめていた。馴れた手つきに見えた。それを見て、石橋銀次郎も羽織をぬいで羽目板の方に放った。 「いかにも」  半十郎は茂兵衛にうなずいた。 「いま思い出しておったところだが、もはや十数年もむかしのことに相成る。月日がたつのははやい」 「流儀は直心流」 「さよう、直心流。励武館には直心流と小野派一刀流の二派があったが、それがしは直心流を檜垣四郎右衛門先生に学んだ。惜しいことに檜垣先生は五年前病死されたが……」 「すると、流儀はいまどなたが?」  と言いながら、茂兵衛は羽目板の竹刀掛けから一本の竹刀をつかみ取った。横を向いて片手で素振りしてみる。 「直心流は、跡継ぎがいないのでそれっきりとなり、そのあとに雲弘流の金崎重助先生が師範で入られた。いまは雲弘流がなかなか盛んらしい」 「それは聞いておらなかった」  沖山茂兵衛は手にしていた竹刀を羽目板にもどし、べつの竹刀をつかむと、今度は両手で少し力をいれて素振りをくれた。  その様子を眺めていたらしい。少しはなれたところから石橋銀次郎が声をかけて来た。 「竹刀をお試しのところを悪いが、今日の試合は出来ればこっちでねがいたいものだ」  そう言った銀次郎は、いつの間にか木刀をにぎっている。木刀は一番奥の師範席の横に掛けならべてあった。 「竹刀で出来んのか」  半十郎はやや怒気をふくんだ声を銀次郎に投げかけた。またかと思っていた。 「木刀試合は、この間の矢野道場で遣って、懲《こ》りたかと思ったが……」 「竹刀では、本音は出て来ぬからな」  銀次郎はせせら笑うような口調で言った。 「打たれてもせいぜいコブが出来るか、皮がすりむけるかだ。どっちみち命に別状があるわけではない」 「当然だ。そうでなくてこれは命をやりとりする試合だというのなら、立ち合い人としてはこの試合を考え直さなくてはならんな」 「いや、浅沼どの」  と、横から茂兵衛が言った。茂兵衛はにこにこ笑っていた。 「木刀、けっこうでござる。いやだと申しても、そこのご仁は聞きいれそうもありませんからな。やむを得ません」 「しかし……」 「いやいや、大丈夫。死なぬように十分に用心いたそう」  茂兵衛はすたすたと師範席の横まで歩いて行った。そして、二、三本の木刀を試し振りしてみてから、そのうちの一本をつかんでもどって来た。 「では、立ち合いをねがいましょうか」  茂兵衛が誘うように言うと、銀次郎も寄って来て、ゆるやかな間を取った。では、はじめていただこうと半十郎が言い、二人は黙礼して木刀を構えた。  そのとき沖山茂兵衛の印象が一変した。柔和な細い目は、いまはいっそう細くなっていたが、その目が宿しているのは刺すような光だった。むかい合う相手のどんなかすかな動き、どんな表情の変化も見逃すまいとして、茂兵衛の目はひややかに銀次郎を凝視していた。  やわらかに木刀を絞った手、肥満体をそうとは感じさせない、しなやかな腰の構え、足配り。  ──なんと!  沖山茂兵衛は、まだ一流の剣士のようではないかと、半十郎は感嘆した。銀次郎はそのことに気づいているだろうか。  気づいたかどうかは不明だが、銀次郎の動きは慎重だった。わずかに木刀の先を上下させながら、茂兵衛の動きを見極めるようにじっと様子を窺っている。  だが、そういう時がはてしなく続くかと思われたとき、突然に銀次郎は足を踏みかえた。そしてすぐにまた苛立《いらだ》たしげに足構えを元にもどした。木刀の先の動きが、さっきよりこまかくなり、またはげしさを増したようにも見える。おそらく相手の茂兵衛がぴたりと正眼に構え、あとは微動もしないのに苛立っているのだと思われた。  ──あれでは……。  銀次郎め、やられるぞと半十郎が思ったとき、ついにこらえかねたように銀次郎が前に走った。腰を据えて五間ほどの距離をすべるように詰めた動きも、正眼からすばやく肩に打ちこんだ一撃も、銀次郎が凡手でないことを示す見事な打ち込みだったが、その一撃は、乾いた音とともに撥《は》ね返された。  熱いものに触れたように、銀次郎はすばやくうしろにさがった。十分な距離を置いて再度機を窺っている。沖山茂兵衛ははじめに木刀を構えた場所から一歩も動いていなかった。銀次郎の打ち込みを払った木剣を正眼にもどすと、また深沈と守りの姿勢にもどって行った。  銀次郎は今度は少しずつ距離を詰めている。相手との間をはかるように、ほんの少しずつ足を送り、距離二間ほどに迫ったとき、またしても疾風のように打ち込んだ。木剣を上げて茂兵衛が迎え撃つ。  今度は長くすさまじい打ち合いが続いた。体《たい》を転じ、引くとみせては打ち込み、銀次郎は目まぐるしく動きながら茂兵衛を襲いつづけているが、茂兵衛はその打ち込みのことごとくを受け、はじき返してしのいでいた。沖山茂兵衛の身体が、しなやかに右に左に動き、頭上を襲う打ち込みを受けて屈伸するのを、半十郎は見つめている。  だがやがて、その長い打ち合いに齢《とし》の差が現われて来たようだった。石橋銀次郎の打ち込みは、時がたつにつれてむしろ勢いを増すかのように見えるのに対し、沖山茂兵衛の受けには、やや疲れが見えて来た。受け損じこそないものの、反応する木剣の振りがこころもち緩慢に変って来たかのようである。  ──若さにやられるかな。  危うんで茂兵衛の顔を見た半十郎は、ふとあることに気づいて、思わず声を呑んだ。  茂兵衛は汗をかいていた。汗どめの鉢巻が変色するほどの汗をかいているのに、汗はなおも茂兵衛の髪を濡らし、肉の厚い頬を濡らしてしたたり落ちている。だが半十郎をおどろかしたのはおびただしい汗ではなくて、乱れた髪の下からひたと銀次郎を見つめている茂兵衛の眼光だった。ひややかな目の光にうかんでいるのは、疑いもない殺気である。  ──機があれば……。  試合にことよせて打ち殺す気だ、と半十郎は茂兵衛の気持を読んだ。  何のためかは考えるまでもなかった。秘太刀「馬の骨」の秘密を保つためである。といっても、必ずしも茂兵衛がその秘太刀の継承者であるとは限らないだろう。たとえばほかの者が継承者であっても、その機さえつかめば茂兵衛は相手を打ち殺して、秘太刀にかかわる禍根を絶つつもりだと思われた。  ──分けるべきか。  一瞬、半十郎はそう思った。小出家老の顔がちらと脳裏にうかんだ。そのとき、ついに根負けして銀次郎が足をひいた。と、半十郎には見えたのだが、事実はどうだったのか。  それというのも、つぎに沖山茂兵衛の身体が、大きな獣がついに動き出したように敏速にかつ音もなく前に踏みこみ、しりぞいた銀次郎の胴に茂兵衛の手からのびた木剣が鈍い音を立てたとき、ひいたと見えた銀次郎もまた逆に踏みこんで、茂兵衛の肩を打ち据えていたからである。  足をひいたのは銀次郎の誘いの隙だったかも知れない。しかし茂兵衛はそれを承知で誘いに乗り、相打ちを画策したと考えられないこともない状態だった。  ともあれその打ち合いが終ったとき、銀次郎は道場の床に倒れたまま脇腹を押さえてうめき、茂兵衛は打ち込んだ勢いで数間の先まで走ったものの、そこで片膝をつき、片手で肩を押さえながら、はげしく喘《あえ》いでいたのである。 「おい、大丈夫か」  半十郎が声をかけると、銀次郎はそろそろと起き上がってあぐらを掻《か》き、ひとしきり咳をしてから手で脇腹をさすりながら答えた。 「大丈夫だ。罅《ひび》が入ったかも知れんが、折れはしなかったようだ」  銀次郎がそう言ったとき、沖山茂兵衛はゆっくりと立ち上がっていた。無言のまま、師範席横の壁に木剣をもどし、脱ぎ捨てた羽織をつかむと、茂兵衛は半十郎に黙礼して出口の方に歩いて行った。あるいは肩を挫《くじ》かれたのか、右腕はだらりと垂れたままである。  土間に降りてから、茂兵衛は銀次郎を振りむいた。 「立ち合ったからには、約定は守ってもらうぞ。よろしいか」 「承知した」  と銀次郎が言った。すると茂兵衛は今度は目を半十郎に移した。 「浅沼半十郎どのが証人だ。ンでがんすな」 「そうだ」  と半十郎も答えた。すると茂兵衛は片手で重い戸を少しだけあけ、そこから外に出て行った。 「さて、われわれも帰ろうか」  半十郎は羽目板の下から羽織を拾って来て、銀次郎に投げてやった。いつの間にか日が落ちて、道場の床には薄暗い夜の色がひろがりはじめている。  その中にまだぼんやりとあぐらを掻いている若者に、半十郎は言った。 「同情はせんぞ」 「同情などいらんさ」  脇腹をおさえながら、銀次郎は立ち上がった。 「好きでやったことだ」 「『馬の骨』は見えたか」 「いや」  銀次郎は首を振った。 「沖山茂兵衛は秘太刀を受けておらんな。おれは最後に頭を狙って打ち込んだのだが、やつは辛《かろ》うじてかわした。しかし通常の受けに過ぎなかった」  二人は連れ立って、暗く冷えて来た道場を出た。外にはまだわずかに二月の薄明かりが残っていた。銀次郎がまた咳きこんだ。 [#改ページ]   下僕の死      一  夕刻、近習頭取の浅沼半十郎は城の帰りに若松町の小出家老の屋敷に寄った。帰りに寄るようにと、登城前の半十郎に連絡して来たのは石橋銀次郎である。  銀次郎は、春先に行なった不伝流の沖山茂兵衛との試合で、肋骨に罅《ひび》が入る傷を負ったのに、傷はすっかり癒《い》えたらしく、顔色などもつやつやして元気そうに見えた。若いから治りが早いのかも知れないが、銀次郎という若者自身が、そもそも人間ばなれした強靭《きようじん》な体力にめぐまれているようでもある。  日が長くなり、小出家老の屋敷に着いても外はまだあかるかった。日もまったくは沈み切っていないとみえて、屋敷町の木木の梢、門前から北に真直《まつす》ぐにのびる道が四辻になるあたりに、残る日差しがきらめいている。木木の葉は、濃淡さまざまの新葉で、日があたっているところは柔毛《にこげ》が銀色に光るのも見えた。  門を入ると、家老屋敷の内も木木は新葉のさかりで、濃密な植物の香が顔を包んで来る。玄関にむかってすすむと、右手に大株の石楠花《しやくなげ》が咲いていた。つぼみが沢山《たくさん》ついていて花はまだ半分ほどしか咲いていないのに、真紅の花のかたまりはあたりを圧倒している。  半十郎は足をとめて、ちょっとの間見事な花を眺めた。そして玄関に入ろうとしたとき、左手の視野の端に何かが動いたのを感じて足をもどした。目に入ったのは女だった。その女は以前一度見たことがある、家老が妾にしたいといった女中だった。  半十郎は眉《まゆ》をひそめた。女の動きがあわただしかった。しかも女はどうやら植込みの奥に遠く見えている塀際の物置き小屋から出て来たようである。半十郎はある予感にうながされるままに、玄関わきの黄楊《つげ》の陰に身体を隠した。そのまま微動もせずに見まもっていると、やがて小屋の戸が静かにあいた。出て来たのは石橋銀次郎である。  銀次郎は左右に鋭い目をくばりながら、うしろ手に戸をしめた。そして女のあとを追って、足早に建物の横手の方に姿を消した。  ──ふむ、やっぱりな。  半十郎はにが笑いした。肋《あばら》の傷は十分に癒えて、もう女に手を出すほどに元気になったわけである。  しかし、足軽の塩山孫七の娘だというさっきの女中は、家老の妻女の公認で、帯刀《たてわき》の妾になったと聞いている。伯父《おじ》の持ちものに手を出してはいかんではないか、と半十郎は思ったが、その非難にはどこかおざなりな感じがまじっていた。  塩山の娘もうつくしい女だが、銀次郎も美男子である。家老が情けをかけている女という一点をのぞけば、二人は似合いの男女だった。女だって、家老にしばりつけられているよりは、銀次郎と会っている方がたのしかろう、と半十郎は思ったが、だからといって若い二人の情事を祝福する気持はまったくなかった。女がどんな気持でいるにせよ、銀次郎にとってはただの遊びに過ぎなかろうと見当がついたのである。  玄関に入って訪《おとな》いをいれると、半十郎はすぐに奥の部屋に通された。そこには小出帯刀と半十郎が顔の知らない男と、そしてちゃっかりと石橋銀次郎までいた。  家老は同席している男を上方役の中林市之進だと、半十郎に引き合わせた。上方役は大坂蔵屋敷に勤めて、京都、大坂、大津の取引き商人に、沖出し(輸出)の産米を売り込む役目である。通常、数年は蔵屋敷に常駐する。  ──道理で会ったことのない男だと思った。  と半十郎は納得して、男にしては色白に過ぎるような中年男と黙礼をかわしたが、自分が呼ばれた席に、なぜ中林がいるのかがわからなかった。  それとも中林は偶然に来合わせてこの席にいるのか、と思ったとき、小出家老が言った。 「中林は稲の植付けに先立って打ち合わせることが出来たので帰って来たのだが……」  家老は半十郎の顔を見て、表情をゆるめた。 「蔵屋敷のことで、わしに報告することもあり、挨拶がてらここに立ち寄った。昨日のことだ。ところがその折に、おもしろいことを申したのだ」 「おもしろいことと申しますと……」 「矢野の家に伝わる秘太刀『馬の骨』のことで、祖父の市兵衛から聞いた話があるというのだな」 「ほほう」  半十郎は顔を中林にむけた。 「聞かれたのは、秘太刀の中身ですかな」  いや、いやと中林は言った。いかにも上方商人を相手に商いの駆けひきをするのが役目の男らしく、目もとに柔和な微笑をうかべた。 「それがしは剣術の方はからきしだめでござって、その秘太刀と申すものも存じ上げないが、『馬の骨』の由来について祖父から聞いたことがあり、ご家老とのお話の間にそのことを申し上げたわけでござった」 「市兵衛は矢野藤蔵の祖父、惣蔵といったそうだが、その惣蔵と同僚で、ともに桜の馬場の御厩《おうまや》勤めだったという」  小出家老はその話にひとかたならぬ興味を抱いているらしく、みずからそう注釈をいれた。そして半十郎にもあの話を聞かせろ、と中林に催促した。 「祖父がいつものごとく出仕して御厩にいたある日、前触れもなく殿さまが馬を見においでになられた。そのときに……」  中林は半十郎と銀次郎に等分に目をむけてから言った。 「大事件が起きたのでござる」      二  馬を見に桜の馬場に来たのは、先先代の藩主播磨守親茂である。馬術の上手で、そのせいもあるだろうか、馬が好きな藩主だった。帰国してひと冬を過ごした播磨守は、間もなく江戸にもどる時期を迎えていて、その前に愛馬に別れを告げかたがた、馬乗りをたのしむために来たのである。  桜の馬場の名があるとおり、三ノ丸の東南隅にある広大な馬場は、南と東の土堤が桜並木になっていて、折しも桜は満開に近く、午後の日を浴びてもも色の雲のようにかがやいて馬場を包んでいた。  馬場の御厩は、藩主の乗馬ほかの藩の公用馬を、多少の増減はあるものの常時三十頭ほど養い、これに馬の調練にあたる御馬乗り家中八名、御馬乗り足軽二名、馬の世話をする厩|中間《ちゆうげん》四十名ほど、ほかに馬医者が附属している。総支配は大坪流の馬術師範牧村吉兵衛だった。  藩主が軽装で馬場に現われるのはめずらしいことではないので、御厩勤めの者は、一同で出迎えたあとはそれぞれが自分の仕事にもどり、播磨守は師範の牧村と、牧村が指名した金沢、庄田という御馬乗り二名を相手に、馬術の稽古をはじめた。  そして半刻《はんとき》(一時間)近くたったころ、厩の中で中間と一緒に馬の手入れに精出していた中林市兵衛は、馬場の方の馬蹄《ばてい》の音とかけ声がやんで、あたりが急に静かになったのを感じた。  ──そろそろお帰りかな。  では、見送らねばと思って顔を上げたとき、市兵衛は厩の前を黒い大きな物の影と荒荒しい蹄《ひづめ》の音が通り抜けるのを見た。つづいて人人の異様な叫喚《きようかん》の声が聞こえた。  走り出た市兵衛の目に、沖風という名がある馬が狂ったように馬場の走路に出て行くのが見えた。多分係りの中間だろう、沖風の手綱にしがみついている者がいて、馬はその男を地面にひきずりながら土けむりをあげて走って行く。  しかも、沖風が走って行くそのずっと先の方に、なぜか馬をおりた藩主とお相手の三人がぼうぜんと立っているではないか。 「しまった」  叫ぶと市兵衛は、沖風のあとを追って走り出した。沖風は病馬である。五日ほど前から急に食が細くなり、一時は立っているのがつらそうな様子に見えた。  しかし馬医者の細川は、病気がほかの馬にうつる心配はないと見立てて毎日ねんごろな手当てをほどこし、今日は厩の裏に出して歩かせてみていたのである。それというのも沖風は馬体が大きく、相応して脚力が強く、その上利口な馬だった。細川のみならず、厩勤めの者はみな沖風の病気がなおるのをねがっていた。  だが、中間をひきずって狂奔する沖風の姿には、馬医者が見落とした病気があって、隠れていたその病気がついに動き出し馬の狂気をひき出したのではないかと思わせる、肌寒い感じがあった。  市兵衛の前後にも人が走っていたが、厩の端にある執務部屋のあたりから走り出て、果敢に沖風に走り寄って行く男たちもいた。中に抜刀している男がいるのは、播磨守に従って来た人間らしかった。  男たちは間に合った。しかし沖風の鼻づらにとびつこうとした男は、沖風の顔のひと振りで三間もとばされて倒れ、脚をねらって白刃をふるった男は前脚のひと蹴りで刀をとばされ蹴倒された。沖風は魔物がついたように倒れた男を踏みつぶそうとしたが、男は辛《かろ》うじて地面をころがって逃げている。  そのとき力尽きた厩中間が手綱をはなしたので、沖風はさらに軽軽と走り出した。そして意志あるもののように真直ぐに播磨守の方にむかって行く。怒号、叫喚の声が一段と高くなった。  そのときになって、播磨守とほかの三人はようやく動き出した。自分の馬の手綱を庄田にあずけた金沢虎太が、迎え撃つように沖風の正面に走った。虎太は素手だった。そして師範の牧村吉兵衛は藩主をうしろにかばって横に動きながら小刀を抜いたが、それは遠目にはいかにも心もとない光景に見えた。藩主と牧村、馬二頭の手綱をとった庄田の一団が馬場の柵にたどりつき、出口をさがす前に沖風はその面前に殺到するだろう。  そのとき、藩主たちがいる場所のさらにうしろ、馬場の北隅に設けられている馴らし場と呼ばれる小馬場から、間の柵をとび越えて馬場に出て来た男がいた。馴らし場は、事件が起きた厩からいちばん遠いところにあるので、男はいまごろになって騒動に気づいたようであった。  藩主をかばいながら小走りに横に移動していた牧村に、男の気配が伝わったようである。牧村は振りむいた。そして「惣蔵、惣蔵」と連呼した。矢野惣蔵は御馬乗りの一人だが、不伝流の剣士でもある。 「惣蔵、あの化け物を何とかしろ」  牧村はさらに叫んだが、惣蔵は答えなかった。ひと目見て状況をつかんだに違いない。腰を沈めて疾走に移った。矢野惣蔵はがっしりした身体つきをしているが、やや小柄な男である。だがその疾走は沖風をしのぐほどに速かった。みるみる藩主のうしろに近づいて来る。  しかし馬の方も、いまや藩主の眼前十数間のところまで迫っていた。わずかに惣蔵が間に合わないのではないかと、中林市兵衛が走りながら手に汗をにぎったとき、金沢虎太が素手で沖風に立ちむかうのが見えた。虎太は三十前の元気な男である。沖風の前に大手をひろげて立ちふさがった。  不意を打たれておどろいたのか、それとも邪魔物を踏みつぶすつもりだったか、沖風は高高と前脚を上げて棒立ちになった。すかさず虎太は馬体の横にすべりこんで、手綱をつかもうとする。だが沖風は、魔物の狡知《こうち》がやどっているとしか見えないような動きを見せた。身体をねじって、上げた前脚をどっと虎太の上に振りおろしたのである。  辛うじて虎太は逃れた。そしてすぐに身体を立て直して、もう一度手綱をつかもうと試みた。その虎太を十分に引きつけておいて、沖風は顔のひと振りで虎太を地面に押し倒した。そして横倒しに倒れた虎太にのしかかると、肩に噛《か》みついた。沖風は二度、三度と首を振って虎太を引きずり回すと、高く首を上げて虎太を地面に投げ落とした。そしてまた走り出した。  口の端から血泡を噴き、目をつり上げて走る沖風の顔には、馬とは思えない狂暴な感じがうかんでいる。その様子が見えるところまで、市兵衛たちは追いついて来ていた。  ──虎太は死んだか。  地面に落ちたままぴくりとも動かない同僚を見て、市兵衛が大きく呼吸を乱したとき、藩主たちの横をすり抜けて、矢野惣蔵が前に出て来た。  惣蔵はそこで立ちどまると、これから大事な試合にのぞむ人間のように、ぐいと刀の柄元《つかもと》をくつろげ、両腕をゆるやかに脇に垂れた。それを見て叫喚がやみ、馬場は静寂につつまれた。みんなが、惣蔵対沖風という形で今日の凶事の決着がつこうとしているのを感じたのである。  だが静寂は一瞬のことだった。ふたたびどよめきが馬場の空気を震わせた。沖風がついに播磨守たちがいる場所に達し、その前に立ちはだかる惣蔵に襲いかかったのである。噛みつこうとする沖風の攻撃を、惣蔵は軽くかわした。二度、三度とかわした。沖風はいら立って、竿立《さおだ》ちになった。そして抱きこむように惣蔵の上に前脚を振りおろした。  そのとき惣蔵の身体が右から左にすばやく動いた。振りおろした馬の脚の前、首の下を掻《か》いくぐったように見えた。掻いくぐって馬の左側に立ったときには、惣蔵の刀は鞘《さや》におさまっていた。  沖風は前脚で地面を叩《たた》くと、静かに足を折った。首を前にのべて、そのまま動かなくなった。少量の血が、その首から流れ出ているのが見えた。 「馬医者の細川があとで調べると、沖風の首の骨が両断されていたそうです」  と、中林が話をしめくくった。 「すなわち『馬の骨』だ」  と小出家老が言った。 「何か思いあたるところがあるかの」 「いや、さっぱりです」  と半十郎は答えた。 「矢野惣蔵はそのとき、おそらく居合いを遣ったと思います。不伝流は居合い技を多く遣うそうですから。それからもうひとつ、惣蔵は相手の力を利用して骨を断つ力を得たように思われます。ただし秘太刀の『馬の骨』は、居合いとは思われません」 「要するにわからんということだ」  と、それまで一言も発しなかった銀次郎が言った。口調にはやや皮肉なひびきがあった。 「秘太刀を知っているやつをつかまえて、話を聞く方が早いんじゃないかな。さっそくでわるいが、浅沼どのにさしつかえがなければ、今夜は矢野道場の長老、内藤半左衛門の家に案内していただきたいものだ」      三  夜食のあと、たずねて来た銀次郎と一緒に浅沼半十郎は家を出た。  同じ家の内にいても、いつもは自分の居間にしてしまった寝部屋に籠《こも》ってろくに顔も見せないのに、杉江は半十郎が外に行くと言うと部屋から出て来て根掘り葉掘り行き先をたしかめた。その執拗な口のききかたはやはり病的な感じがした。依然として顔いろも悪かった。  しかし半十郎は、妻の穿鑿《せんさく》にねんごろに答えることにしていた。妻の兄の谷村新兵衛にそうすると約束したためだけではない。同じことを二度も三度もたずねるのに根気よく答えてやると、杉江はやがて納得するのか、顔いろがやわらかくなり、尋常に、ではお気をつけて行っていらっしゃいませと言ったりするのだ。  杉江が根掘り葉掘り、半十郎の行動を知りたがるのは、常人にはわからない何かの理由があるに違いない、と半十郎は思うようになった。煩《はん》を厭《いと》わずに答えるぐらいのことで、妻の心にどういうたちのものかはわからないが、わずかの間でも平安がもどるなら、お安いご用ではないかと半十郎は思う。  しかしそれにしても今夜のように、前もって外出を告げてさんざん質問を浴びているのに、さっき話したばかりの石橋銀次郎が来ると、またぞろ同じ質問が繰り返されるということになると、さすがに辛抱のいい半十郎もいたく疲れる。家を出たときは正直のところほっとした。 「お待たせした」  道に出るとすぐに、半十郎は銀次郎に詫《わ》びた。杉江をなだめている間、だいぶ銀次郎を待たせてしまったようである。 「他人が聞けば笑うべきことと思うだろうが、妻に行く先のことを話しておった。そうせぬと外に出るのがむつかしい」 「焼餅か」  と銀次郎は言った。 「美人にありがちな悪癖だ」 「いやいや、そうではなくこの前も申したとおり、妻は病気持ちだ。そのせいだ」 「頭がおかしいのか」  銀次郎は露骨な口をきいた。半十郎はむっとした。 「いや、医者はそこまでは行っておらんと申した。気鬱《きうつ》の病いで、いずれなおると言っておる」  語気鋭く言い返したが、半十郎は銀次郎を相手に弁解するのも厭《いや》になった。話題を転じた。 「これからたずねる内藤半左衛門は、聞こえた頑固者だ。簡単には埒《らち》あかんと思うぞ」 「しかし、何か方法はあろう」  銀次郎は意外に落ちついた口調で言った。 「なにはともあれ、会ってみぬことにはわからん」 「沖山のように、また立ち合う気か」 「そうなるかも知れん」  平然と銀次郎が言ったとき、二人は橋にさしかかった。昨日の明け方まで、上流の山山の一帯に雨が降ったせいで、川は増水していた。橋の下にいつもより高い水音がする。橋をわたれば、内藤半左衛門が住む松根町はすぐである。  川音に負けないように声を張って、銀次郎がべつの話題を持ち出した。 「この間の中林の話だが、迂遠《うえん》な話とは思われなかったか」 「どこが迂遠かな」  半十郎も大きな声で聞き返した。 「おれなら恰好《かつこう》をつけて首など斬らぬ。出合いがしらに前脚を斬る。それでおしまいだ」 「おぬしは馬乗り役のこころを知らぬ」  半十郎は大きな声で反論したが、橋をわたり切ったので声を落とした。 「御厩の馬は、これすべて馬乗りたちが手塩にかけて調練した馬だ。馬がぐあいがわるいときは、中間ともども夜も眠らずに看病するときがあるそうだ。そうなるとわが子同然だ」 「なるほど、それで?」  ひと目をはばかる夜行なので、供は連れず半十郎が提灯《ちようちん》を持っている。半十郎は提灯を斜めうしろから来る銀次郎に回した。銀次郎はうす笑いの目で半十郎を見返している。  灯を前にもどして、半十郎は馬は脚だと言った。 「脚あるがゆえに馬はとぶがように走る。その姿もりっぱだが、それが生き甲斐でもある獣とは思わんか。たとえ沖風のような化け物でも、馬乗りとしては脚を斬ることは忍びないところだったろう、とこれはわしが忖度《そんたく》して言うわけだが、見当はそう違っているとは思わん。それに……」  半十郎は言い淀《よど》んだ。銀次郎は半十郎を見た。 「それに?」 「一撃で死に至らしめる必要があった。手傷を負わせて死命を制し切れなかった場合は、馬は狂奔して殿に襲いかかっただろう」  話しながら半十郎は、状況はまさにその通りだったに違いないと、はじめて中林が語った事件の全貌を理解した気持になった。矢野惣蔵は、見上げた剣士だったのだ。  惣蔵は、銀次郎が言うように恰好をつけたわけではない。それどころか、そのときの惣蔵は失敗すれば剣士の名が廃《すた》るぎりぎりの崖《がけ》っぷちに立たされていたのだ。そして一撃で倒す道をさぐった末に、無意識のうちに首の骨を断つ技にたどりついたのではなかろうか。  もしこの推測があたっていれば、惣蔵がそのときに遣った技を秘太刀に仕上げて「馬の骨」と名づけたのは、きわめて当然の話だと半十郎は思ったが、思っただけで口には出さなかった。石橋銀次郎という若者とは、一点話が通じない個所があるのを感じている。  それに二人はもう松根町の町筋に入っていた。夜の武家町には人通りはまったくなかった。外に洩《も》れる灯の数も少なく、くら闇の中には濃密な新葉の香がたちこめている。 「ここだ」  と言って半十郎は一軒の屋敷の門をくぐった。内藤半左衛門は百石の普請奉行助役で、身分は高いとはいえぬが普請組の事実上の現場総責任者なので、構えの大きい家をあたえられ、門は笠門だった。      四  さきに下僕の伊助が今夜うかがうと、口上で知らせてあるので、入口で訪いをいれるとすぐに人が出て来た。  お待ち申しておりました、と優雅な身ごなしで二人を迎えたのは、意外にも女だった。 「どうぞお上がりくださいまし」 「これはどうも、夜分痛み入る」  半十郎が何となくそう言ったのは、出迎えた女性が内藤家の嫁ではないかと見当がついたからである。ただし内藤家の嫁は寡婦である。  しかし半十郎のその推測は、半左衛門の部屋に通され、あとでもう一度さっきの女性が茶菓をはこんで来て去るまでの間に少しぐらついた。内藤家の寡婦なら三十半ばになっているはずだが、その女性は三十を越えているとは見えなかったからである。  女性の物言いも挙措《きよそ》もものやわらかだったけれども、中にきりっとした若さが感じられた。そして寡婦の暗さがない。あるいは親戚の者だろうか。 「つかぬことをおうかがいするが……」  半十郎はついに言った。 「ただいまの方が、こちらの嫁女でござろうか」 「さよう、嫁の民乃でござる」  と言ったが、内藤半左衛門は無愛想な顔をしている。半十郎も石橋銀次郎も、歓迎せざる客ということだろう。  じろりと大きな目をむけて皮肉を言った。 「今夜のご用は、そんなお話ですかな」 「いやいや、さにあらず……」  半十郎は赤面して手を振った。 「ほかに大事の用があって夜分をかえりみずおじゃましたが、ふと守之助どのの嫁女にしては、少少お若いように見うけたもので……」 「日ごろ、いそがしく立ち働いているせいでござろう。嫁はわが家の柱でござる」  と半左衛門は言った。その言い方に、民乃という嫁に対する全幅の信頼があらわれているのを、半十郎は気持よく聞いた。 「守之助どのが亡くなられてから、何年に相なろうか」 「十二年、いや十一年でござる」 「守之助どのは稀《まれ》な秀才でござった。生きておられれば、いまごろは藩学を指導する大儒となっておられたであろう」  と半十郎は言った。  内藤守之助は、十六歳のときに講学館にお成りの藩主に「大学」を講じた秀才で、藩校はじまって以来と評判された学徒だったが、惜しむらくは病身で、将来を嘱望されながら二十半ばで病死した。半十郎より二つ年長だった。  半十郎は思わずむかしを回顧する口調になったが、半左衛門の無表情な顔に気づいていそいで口調を改めた。自慢の息子の死は、老人には残酷な話題だろう。 「こちらは、小出家老の甥御《おいご》で石橋どのといわれる」  半十郎は、ずっと無言でいる銀次郎を紹介した。 「『馬の骨』と申す矢野家の秘太刀についてうかがいたいことがある、ついては引きあわせを頼むと言われて、夜分迷惑も顧みずまかり越した次第」  半十郎は丁重な口調で言った。近習頭取と現場勤めの奉行助役との間には、禄高の差以上の身分差があるが、身分をかさにきて物を言うと思われるのを、半十郎は好まなかった。まして相手は年長者である。  そうも思うのだが、半十郎の丁重な物言いにはもうひとつ裏の気持がある。矢野藤蔵の肋《あばら》に罅《ひび》を入れ、沖山茂兵衛の肩の骨をくじいた銀次郎を引き回して家中の者に顔をつないでやることには、いささか忸怩《じくじ》たる気分があった。相手が何びとであれ、半十郎がやや下手《したで》な物の言いようになるのはやむを得ない。  ただ、そこまで嫌気がさして来ている役目を、半十郎が投げ出さずにつづける気になっているのは、単に派閥の長である家老にたのまれたからというだけが理由ではなかった。半十郎のこころの中にも、ここに来て、銀次郎のように胸を叩いて「ここに火がついた」というほどではなくとも、この一件の行く末、もっといえば「馬の骨」の正体を見とどけたい気持が出てきたせいだとも言える。 「話はうかがっておる」  と内藤半左衛門が言った。これまでの仏頂《ぶつちよう》づらとは打って変った笑顔を銀次郎にむけた。 「藤蔵どのの肋を折り、沖山茂兵衛の肩をくじいたご仁が、今度はわしの首の骨でも折りに参られたかな」 「ご老人」  銀次郎の方がかえって神妙な顔をしている。 「さきほど浅沼どのが申されたようなことだが、おたずねしてよろしゅうござるか」 「何なりと」 「矢野藤蔵どのは、不伝流の道場は継がれたが秘太刀の伝授は受けられなかった。とすれば、先代仁八郎の高弟が『馬の骨』を譲られたのは間違いないというのが、それがしの見方です」 「誰もが、しか思うところだ」 「伝授を受けられたのは、ご老人ではありませんか」 「いいや」  半左衛門は首を振った。それっきりで、じっと銀次郎を見ている。 「しかし、ご老人は長く師範代をつとめられ、矢野道場の内藤半左衛門といえば、当時他道場には敵する者がいなかったと聞きましたぞ」 「古い話だ」  と半左衛門は言った。 「むかし話は、とかく大げさに伝えられるものだ。なに、道場もそのころは人材不足で、ほかに人がおらんからわしがような者も師範代をつとめざるを得なかったというだけのこと。その証拠に沖山茂兵衛、北爪平九郎といったほんものの逸材が入門して来ると、数年を待たずしてわしはたちまち師範代の座を追われて、平の門人に格下げされてしもうた」  それが真相だと言うと、半左衛門は口辺に若い者を煙にまくようなうす笑いをうかべた。 「敵する者がいなかったなどと申すのも、お笑いぐさだ。そこもとにその話を聞かせた男は、どこかでよほどたちのわるいつくり話を仕込まれて来たに違いない」 「では、北爪平九郎というひとが伝授されたとは思えませんか」 「それがさ」  半左衛門はどうやらこういう話題が嫌いではないらしい。くつろいだ口調で言った。 「じつは先日のことだ。先代の高弟、と申してもそこにわしが入っているのはどうかとも思うが、ともかく世間がそう申す五人が顔を合わせた。当然のことに、そこもとのことが話題になったぞ、え?」  半左衛門はじろりと銀次郎を見た。 「石橋銀次郎に気をつけろというわけだな。ま、それはそれとしてその折に、では『馬の骨』を譲られたのは誰だということに相成った。おぬしだろう、いやおまえではないかと腹をさぐり合うような話になったのだが……」  半左衛門がそこまで言ったとき襖《ふすま》の外に声がして、茶器を持った民乃が入って来た。民乃は主客の茶を手早く熱いものに換えると、一度襖の陰にもどって今度は羽織を抱えて来た。失礼いたしますと、民乃は客にことわってから半左衛門に声をかけた。 「冷えてまいりましたので、お召し換えを……」  半左衛門も失礼と言って、すぐに部屋の隅に立った。民乃が袖無しをぬがせて袷《あわせ》羽織を着せかける間、半左衛門は従順に立っている。着換えはあっという間に終って、民乃は部屋を出て行った。手際のいい介抱ぶりに見えた。  ──親子のようではないか。  半十郎はそう思った。無骨な半左衛門が、嫁の言いなりに動いていたのがほほえましかった。 「さて、そこでだ」  席にもどって失礼いたしたと言ってから、半左衛門がつづけた。 「結局譲られたと申す者は誰もおらぬ。誰かが隠しておるのだろうとは思ったが、また一方でひょっとしたら伝授を受けた者はここにはおらんのでないかという異な感じもした。もしそのときのわしの勘があたっておれば……」  半左衛門は石橋をじっと見た。 「そこもとの秘太刀さがしはとんだ人さわがせ、無駄骨折りということに相なる」 「立ち合ってみなければわかりません」 「そら来た」  と半左衛門は言った。 「やはり立ち合えというわけだ。この年寄りに」 「ぜひ、おねがいします」 「おことわりしよう」  内藤半左衛門はきっぱりと言った。きびしい表情を見せた。 「矢野道場では他流との試合を禁じられておる。それにわしが譲りを受けていないのは明白な事実。立ち合いは無駄でござる」  言い終った半左衛門の顔は、取りつく島もないものだった。      五 「内藤老人は省いてもいいのではないか」  内藤家を辞したあと、銀次郎がむっつりとおし黙ったままでいるので、半十郎は自分から声をかけた。 「今夜老人が縷縷《るる》述べたことは、要するに自分は秘太刀を譲られていないということだ。老人はなるほど高弟の一人だが、仁八郎のもっとも初期の弟子だ。自身が申しておったように、道場の最盛期にはもっと力のある門人がいたとすれば、どうも伝授を受けた可能性はうすい。老人が言うことは、信じていいのではないか」 「しかし、立ち合ってみぬことにはわからん」  銀次郎がしつこい口調でぽつりと言った。半十郎は思わずかっとなって言った。 「では、また試合を無理強いして、ご家老の評判を落とそうというわけだな」  銀次郎は沈黙したが、松根町のはずれにさしかかり川音が近づいて来たところで言った。 「浅沼どのは、あの家の内情にくわしいのか」 「いや」  と半十郎は否定した。 「家中だからある程度のことは知っておるが、勤めが違う。それほどくわしいわけではない」 「跡取りはいるのか」 「いる。たしか道之助と申して、齢は十一、十二ぐらいのはずだ。父親の守之助が死んでから生まれた子だ」 「死んでから?」  銀次郎の声が鋭くなった。 「それはどういうことだ」 「さっきの女房どのが、守之助が死ぬまえに身籠っていたということだ。べつにおどろくようなことではない」 「ふむ、なるほど」  銀次郎が言ったとき、二人は町を出て河岸の道に出た。すると、それまで顔のまわりに息苦しいほどに立ちこめていた木の葉の香が少し遠のき、かわりにかすかな川風が半十郎にまつわりついて来た。  二人は手近な橋にむかった。どうせ川をわたればそこで別れるのだから、どの橋をわたってもよかった。二人がかりがね橋の袂《たもと》に着いたとき、橋から十間ほど下手にある舟着き場に、四、五本ものたいまつの火が燃えていて、舟から荷を揚げているのが見えた。十人ほどの男女が舟から荷をおろす者、その荷を担いで河岸に揚げる者にわかれて、いそがしく立ち働いている。  内藤家にいたときはかなり夜が更けたような気がしていたが、舟が荷を揚げているところを見ると、時刻はそんなに遅くないのかも知れなかった。火明かりは、橋の上から作業を見おろしている半十郎と銀次郎の顔も赤く染め上げている。 「あの家の奉公人だが……」  と半十郎を振りむいた銀次郎が言った。 「何人いるのだろう」 「百石の家だから下僕が一人、台所女一人ぐらいは雇っているはずだ」 「そのころの人間がまだ奉公しているかな」 「そのころと言うと?」 「跡取りの病死、嫁女の出産といったごたごたのころのことだが」 「さあて、そこまでは知らんな」  半十郎は言ったが、そこではじめて銀次郎の質問に不審を持った。 「何でそんなことを聞く」  だが銀次郎はそれには答えず、ま、調べればわかることだと言った。そしてまたべつの質問をした。 「貴公はさっき、守之助の嫁女にしては若いように思ったと申されたようだったが、あの女子の齢《とし》を存じておるのか」 「いや、はっきりしたことは知らん」  しかし大体はわかっている、と半十郎は思った。内藤家の嫁民乃は、記憶に間違いがなければ三十五、六になるはずである。しかし見たところは三十そこそこに見えたのでおどろいたのだ。 「内藤守之助がさっきの嫁女を娶《めと》ったのは二十一のときで、嫁はそのときたしか十九だったと思う。守之助はわれわれ若い者の間では、何と申すか、あこがれの人物だったのでな、そんなこともみんなは知っておった。わしは来なかったが、祝言のときに花嫁を見に来た者もかなりいたはずだ」  思ったほどには美人じゃなかった、と見に来た男たちが花嫁をくさしていたのを半十郎は思い出した。秀才には美女をという思いこみがあったのだろうが、その後何かの折に見かけた内藤家の新妻は、たしかに平凡な顔立ちの女性だった。  寡婦になったいまの方が、数倍うつくしくなっているのではないか、と半十郎が思ったとき、欄干から身体をはなした銀次郎が言った。 「守之助というひとが病死したのは、いくつのときかな」 「二十五、六だったろう」 「嫁をもらって間もなくということだな。で、それから十一年たったとなると、さっきの内藤家の寡婦は、や、三十五、六に相なる」  銀次郎は歩き出した足をとめた。 「とてもそんな齢には見えん」  それは半十郎もまったく同感だった。しかし女性の中にはある程度齢が加わってから美質があらわれて、若わかしくうつくしく見えて来るひとがいることも、半十郎は知っていた。民乃というひとは、多分そういう一人なのだろう。守之助は、と銀次郎が言った。 「長患いだったのか」 「うわさでは、二年ほどは寝たきりだったようだ。元来病弱の人ではあった」 「学問のやり過ぎか。それはともかく、夫と死別した妻は、実家にもどるんじゃないのか」 「子供が女児の場合はな。内藤家の場合は生まれて来た子が男子、家の跡継ぎだ。こういう場合は嫁は婚家にとどまる。そういうことを聞いておらんのか」 「いや」  と言ったが、銀次郎は心ここにないような様子に見えた。二人はかりがね橋をわたり切った。半十郎は左に、銀次郎は右にそこで別れることになる。  振りむくと、舟の荷揚げは終ったらしく、たいまつは三本に減っていた。一本は石垣の下の舟着き場に、二本は河岸でいつの間にかそこに来ている荷車を照らし、男女がいそがしく荷を積みかえている姿が小さく見えた。  そのとき舟が舟着き場をはなれ、そこにいたたいまつ持ちが河岸に上がる石段をのぼりはじめた。闇に消えた舟は、半町ほど下流にある舟繋ぎ場にむかったのだろう。 「内藤家の嫁|舅《しゆうと》だが、仲が好《よ》すぎるとは見えなかったか」  不意に銀次郎が言った。 「好すぎるかどうかはわからんが、親子のようにも見えたな。けっこうなことだ」 「尊公の目は甘いな」  銀次郎がいきなり突きはなすような口をきいた。 「おれにはあの二人、親子とは見えなかったな。男と女に見えた」 「ほほう」  半十郎は、遠いたいまつの火にうかぶ銀次郎の顔を鋭く見た。 「貴公、意外に心根いやしい男らしいな。そういう曲った物の見方は、おのれのいやしさを映すものだとは思わんか」  はたしてそうかな、半十郎どのと、銀次郎は粘っこい口調で言った。 「おれはずっと、小出の家の新五郎のことを考えておった。新五郎は病身だが、寝ている病人ではない。だが病身のゆえに子供が生まれないのを、尊公も知らぬわけではあるまい。聞けば、内藤家の嫁女は、夫の死後子を生んだという。二年も寝たきりの、しかも死期の迫った病人に、女子《おなご》を孕《はら》ませる元気があったとは不思議だ」 「そういうことは人によりけりだろう。それより、貴公さっきからいったい何を考えているのだ」 「ずばり申そうか」  と銀次郎は言った。 「道之助とか申す内藤家の跡継ぎは、半左衛門の子である疑いがきわめて濃い。守之助に死期が迫り、若夫婦の間には子がいない。内藤家は突然に跡継ぎを失う恐れに見舞われたわけだ。むろん、養子という手はあるが、半左衛門はあくまでおのが血を残すことに執着し、嫁もその気持を理解した。いわば内藤の家系を残すために、嫁舅が結託したとは考えられんかな」 「いやしい妄想だ。しかしそんなことを調べて、貴公どうするつもりだ」 「わずかでも証拠が見つかれば、半左衛門を立ち合いの場所にひっぱり出すことが出来る」 「なるほど。しかし、内藤半左衛門は貴公が考えるような人倫に悖《もと》ることは出来ん男だぞ。調べても無駄だろう」 「むろん、おれにしてもあの嫁舅がいまもって人倫に反した暮らしをしているとは考えておらん。ただ、過去に一度そういうことがなかったかと言っているだけだ。考えてもみられよ、半左衛門は当時四十半ばの壮者だぞ」 「………」 「ただ一度のその想い出があるために、あの嫁女は、半左衛門に対してただの嫁舅にあらず、親に仕えるように、あるいは思い人につくすように、親身に寄りそって生きておるとは見えなんだか。それはそれで女子のあわれではあるが……」  銀次郎の声を聞いているうちに、半十郎の脳裏に、頬《ほお》はなめらかに若わかしく、手ぎわよく半左衛門の身の回りの世話をしていた民乃の姿がうかんで来た。  振り返ると、向う岸のたいまつの火は消えて、河岸も川も闇に包まれていた。川音だけが鳴りひびいて聞こえた。  ではこれで、と言って背をむけた銀次郎に半十郎はうしろから声をかけた。 「証拠さがしなどはやめたらどうだ。誰のためにもならんことだ」      六  男は銀次郎が一杯ついでやると、あとはことわりもなしにつづけざまに手酌で盃を干した。銚子にかわって近ごろはやってきた燗徳利《かんどつくり》一本がたちまち空になった。男は二本目の徳利に手をのばすまえに、空の徳利を振って、銀次郎にそれとなく三本目の酒を催促した。いやしいしぐさに見えた。  男の指は、すぐに酒が入っている二本目の燗徳利にのびたが、さすがにそこで自分のしたことに気づいたというか、それとも腹に酒が入って正気づいたというか、手をひかえて銀次郎を見た。 「旦那、すみませんね。こんなりっぱなところで……」  と言って、内藤家の元の奉公人で、いまは日雇《ひやと》いをしたり商家の使い走りをしたりして喰っている杵七《きねしち》は、土間の飯台の席より一段高い上げ床の席を見回した。 「あっしもこの染川町にはよく来ますがね、飲むのはずっと先の川っぷちの方、汚え店ですよ。たから屋ってえ名前だけはりっぱですが、穴ぐらのようなところでして。今日はこんなお座敷でごちそうになるなんて、夢のようでござんすよ」  杵七は四十過ぎには見えない、皮膚のたるみが目立つ顔に迎合するような笑いをうかべた。だが目だけは油断なく銀次郎を見ている。 「ところで旦那は、お江戸の人でがんすか」 「そうだ」 「なつかしいな。じつはあっしも、若えころに人に雇われて四、五年江戸の水で顔を洗ったことがありましてね。これでもちっとはおもしろいところを見て来たんでさ。ところで、あっしに何かお聞きになりたいことがあるそうですが……」  杵七は上目遣いにじろりと銀次郎を見た。 「もう何でも聞いてくだんしょ」 「では……」  何でも聞いてくれと言いながら二本目の徳利にのばした杵七の手を払って、銀次郎は徳利を自分のわきに引き寄せた。 「あまり酔いが回らんうちに、聞くことを聞いてしまおうか」 「飲んでも耳は聞こえますぜ」  杵七は一瞬険悪な顔を銀次郎にむけ、ついで未練がましく徳利をじっと見たが、すぐにあきらめたらしく、何ですかお聞きになりたいのはと言った。 「松根町の内藤家の跡取り、守之助どのが病死したころ、おまえはあの家に奉公していたそうだな」 「へい、江戸から帰ってすぐに奉公に上がって、かれこれ五年ほど世話になりましたんで」 「そのころ、あの家で何か変ったことを見かけなかったか。おまえが台所手伝いのひさに再三|夜這《よば》いをかけて、内藤家からほうり出される前のことだが……」  杵七は一瞬目も鼻もばらばらになったようなうろたえた顔になったが、すぐに立ち直った。うす笑いをうかべて銀次郎を見た。 「旦那もおひとがわるいや。聞きたいってえのはそんなことですかい」 「いいや」  と銀次郎は首を振った。 「おまえのうす汚い夜這い騒ぎには興味がない。そのころ何か家の中で変ったことはなかったかと聞いておる」 「はて」 「じつはな、杵七」  銀次郎は声をひそめて店の中を見回した。客は混みはじめて来たところで、隅にいる二人に注目している者は誰もいなかった。 「内藤家の跡を継ぐ道之助は、当主の半左衛門の子ではないかと疑っている者がいるのだ」 「あ、やっぱりそのことですかい」  と杵七が言った。 「あっしも、どうもおかしいと思ったんだ。病人の若旦那に、よく嫁さんに子種を仕込む元気があったなって、ずっとそう思ってましたぜ。そうですかい、するとあれはやっぱりあっしの下司《げす》のかんぐりや見間違いじゃなくて、ほんとだったんだ。お相手は大旦那だ。ンでがんしょ?」  旦那、それじゃあっしが見たことをお話ししますから、お酒をくださいなと杵七は言った。銀次郎が徳利をわたすと、杵七は盆に置いた徳利をじっと見た。そして顔を上げた。狡猾《こうかつ》な表情になっていた。 「旦那、あのことをお話しするんじゃ、お酒だけではどうもね」 「金が欲しいのか」 「へい、沢山《たくさん》とは言いませんや。ほんの小遣い程度でけっこうでさ」  銀次郎が鼻紙に一分の金を包んでわたすと、杵七はあれはあっしが内緒で外で遊んで帰った夜でしたと言った。 「ちょうどしのび足で庭に入ったとき、若旦那の部屋の方から、蝋燭《ろうそく》の灯が廊下をわたって別棟に行くのが見えました。ほら、雨戸の上が障子でしょ、それでわかりましたんで。別棟には台所があって台所働きの娘っ子の部屋があって、それに大旦那の部屋があります。あっしは若奥さんが台所に行ったのだと思いましたよ。若旦那のぐあいがわるくなって、夜中に台所にお水を取りに行くことがありましたからね」  杵七は見つからないようにそっと家の入口に滑りこみ、入口横にある自分の部屋に入って寝た。だが眠らずに、床の中で聞き耳を立てていた。入口に滑りこんだとき、台所にいるなら見えるはずの灯が見えなかったのが気になっていた。 「あっしは、若奥さんはどっかの部屋に入ったなと、ぴんと来やしたね。それが何のためかは、そのときすぐにはわかりませんでしたがね。ところで、その若奥さんが部屋にもどる物音を聞いたのは、何と一刻《いつとき》(二時間)ほどもあとですぜ」 「やっぱり灯を持ってか」 「へい、といってもあっしはのぞいたわけじゃありませんよ。あっしの部屋の障子が明るくなって、ひたひたと跣《はだし》の足音が聞こえましたんで。何かこう、もの凄《すご》かったですぜ、旦那」  つくり話だ、と銀次郎は思った。考えたような道ならぬ情事があったとしたら、そんなにあからさまな形で行なわれたわけはない。闇の奥深いところで、ひそかに行なわれたのだ。  銀次郎は落胆したが、まあこんなものだろうという気もした。 「そのとき一度だけか」 「いいや」  杵七は盃にのばした手をとめて、銀次郎を見た。酔いが回った赤い目だった。 「旦那の前ですが、そのあともたびたび見ましたぜ。おれがことは夜這いだ何だと屋敷から叩き出したくせに、あの家じゃ嫁舅がよろしくやってたんでさ、そりゃ若旦那が病人で、嫁さんがさびしいのはわかりますがね」 「けしからん話だ」 「ンでがんしょ? あそこを追い出されたのがあっしの運のつきで、それからは悪い目ばっかりを引きあてやしてね。いまはこの齢で、かかあもいなくてお使い小僧で喰ってるざまでさ」 「しかしそんな大そうな秘密をにぎっていて、よくいままで誰にもしゃべらずに来たものだな」 「そりゃあ、旦那。あっしにだって一宿一飯の恩義ということがありやすからね」  杵七は辻褄《つじつま》の合わないことを言った。 「しかしおまえが夜這いをかけたひさにも会ったが、ひさは若奥さんが夜中に家の中をうろついたことなんか一度もなかったと言ってたがな」 「おひさはまだ小娘だったから……」  と言ったが、杵七の目はみじめなほどにうろたえて、きょろきょろと左右を見た。 「大人の色ごとなんぞ、わかりっこありませんや」  旦那、空になりやしたと、杵七は徳利を振ってみせたが、もっと飲むんならあとはさっきやった金で飲めと言って、銀次郎は腰を上げた。銀次郎の勘は、依然として道之助は舅の半左衛門の子だと告げていたが、杵七の話はそれを証拠だてる何の役にも立たないものだったのである。  だが外に出て、日が暮れたばかりの染川町の上の空を見上げたとき、銀次郎はふと、杵七の話はおそらくでたらめだが、使い道がないわけではないと思った。  だが、その思いつきのために、杵七がやがて死ぬことになるとは、銀次郎はそのとき思いもしなかったのである。      七  日雇いの杵七は、狐町の奥にある半分軒が朽ちかけたような古長屋に住んでいるのだが、ある夜その長屋に帰らず、翌朝早く染川町のはずれにある小川の岸辺で死体で発見された。  傷は二カ所。肩から背にかけて深深と斬った刀傷と、頸《くび》にほどこしたとどめの傷で、それは殺害したのが武家であることを示していた。  浅沼半十郎は、銀次郎から話を聞くまでは城下にそんな事件があったことも、そもそも杵七という男のことも何ひとつ知らなかったのだが、呼び出されて内藤家に行く道みち話を聞きながら、その男を斬ったのは、銀次郎が言うように男の旧主内藤半左衛門のほかにはあり得ないのを感じた。  半十郎は、松根町にわたる橋の手前で足をとめた。これまで聞いた話を少し整理してみる必要があった。 「すると杵七の話を聞いた夜、その足ですぐに内藤家をたずねて、そのバカげた話を持ちかけたというのだな」 「そうだ」  と銀次郎は言った。  銀次郎は半左衛門に会うと、自分がみるところこの家の過去には嫁舅不義の疑いがある、それについては証人もいる、と言った。その上で銀次郎は、この事実は出すべきところに出せば内藤家の相続問題に罅《ひび》を生じるほどの重大事になりかねないと思うが、いまはまだわが胸三寸にある。しかしもし先日申し込んだ立ち合いをうけてくれるなら、いま申したことの一切を他言せぬことはもちろん、証人の口も責任をもって封じるがどうだろうと掛け合ったのである。 「貴公、酔っていたのか」 「いいや」 「それにしては解せぬことがある」  と半十郎は言った。 「貴公は、杵七の話を信用出来るものではなかったと言ったではないか」 「さよう、つくり話だった」 「それを承知で証人などというものを持ち出して半左衛門を脅したのは、騙《かた》りに類して見苦しいやり方とは思わなかったのか」 「手段をえらんではおれん」  と銀次郎は言った。 「『馬の骨』を伝えるのは内藤老人かも知れぬ。そう考えると血が沸《わ》き立って、何としても老人を立ち合いの場に引っぱり出さねばと思うのだ。そのためなら不義密通も持ち出すし、まがいものの証言だって持ち出す」 「それで、老人は何と申したかな」 「くわしく話すと、こうだ。聞き終ると老人はせせら笑って、おれを人間を知らぬ青二才呼ばわりした。そして訴えたかったらどこへなりと訴え出たらよかろう、ただしその程度の思いつきの話を公けの場所に持ちこんで、おれや伯父貴の帯刀が恥をかいても知らんぞと、工事現場仕込みの塩から声で、逆に脅しをかけて来た。喰えないじいさまだぞ、あれは」 「なるほど」 「ことわっておくが、おれには不義密通は事実だったという確信がある。そうでなくては、掛け合いの種には仕立てられん。ただ、杵七の名前を洩らしたのは失敗だった」 「こっちから言ったのか」 「いやいや、証人とは誰のことだと聞かれてついしゃべったのだが、あんなにさっそくに口をふさぎにかかるとは思わなかった。こっちには、杵七の証言はどうせつくり話だという気持がある。その油断を衝かれた形だ」 「杵七というのは、どんな男だ」 「酒毒にやられて酒を飲まずにいられない。それでずいぶん悪いこともやり、金も借りまくってまわりに迷惑をかけていたという話だ。いわば世の鼻つまみだ」 「………」 「ひさという同じころ内藤家で下女をした女子に聞いた話では、杵七が内藤家をお払い箱になったのは、夜這いもさることながら、寡婦になった嫁女が風呂に入っているところをたびたびのぞいていたのが露見した、それが真相だそうだ。いやしい男だ。しかし、だからと言って殺していいものではあるまい。しかも殺した人間はとどめを刺しておる」  前方から数人の人が橋をわたって来たのを見て、銀次郎は口を閉じた。そして人が通りすぎると橋に踏みこんだが、途中で足をとめて半十郎を振りむいた。 「たかが日雇いの、世の場所ふさぎのような男を殺してとどめを刺したのは、口をふさぐのが目的だったろう。そんなことをするのは、内藤半左衛門のほかにはいまい」 「その推察はあたっているようだな」  と半十郎は言った。その半十郎にじっと目を据えてから、銀次郎は言った。 「内藤老人は、そも何を恐れて元の下僕の口をふさいだのか、行ってそれを聞かねばならん。立ち合っていただきたい」  しかし緊張しておとずれた二人を迎えた内藤家の応対は、ごくのんびりしたものだった。玄関に出て取りついだ老人はいまいる下僕らしく、死んだ杵七とはだいぶ違うつつましげな男だったし、客間に茶菓をはこんで来た嫁の民乃は、この前にも増しておっとりとした物腰で、慇懃《いんぎん》な応対ぶりだった。 「ちょうどいい折にみえられた」  家の主人内藤半左衛門も、機嫌のいい顔で二人を迎えた。 「今日は夕刻からこの家に小頭をあつめての打ち合わせがござるが、それまではひま。何のご用かは存ぜぬが、うかがいましょう」 「小頭たちは、何の打ち合わせですかな」  と半十郎がたずねた。 「明後日から、例の杉沢新田沿いの川土堤の工事にかかることに相なりました。その打ち合わせでござる。工事がはじまりますと、ざっとひと月は家にもどれぬようになりましょう。いい折と申したのはその意味でござる」  老人は、半十郎には丁寧な口をきいた。  杉沢新田は五間川下流の村で、去年の梅雨どきに土堤が切れて被害をうけた村村のひとつである。決潰《けつかい》場所の補修は去年の秋に終ったが、藩では過去何度か、同じ場所が決潰して流域の村村に被害が出ているのを重くみて、修復後も流域一帯の土堤に特別の補強工事をほどこしていた。  杉沢新田はすすめて来た補強工事の最後の場所で、しかももっとも大規模な工事が予定されている地区でもあった。土堤下には仮設の人夫小屋が出来ていて、工事がはじまれば担当の普請組の者は、人夫ともどもそこに泊りこむ。そういうことは半十郎もおおよそのところは知識があった。  そういうことなら、話はいそがなければならない。半十郎と銀次郎は顔を見合わせ、銀次郎が、ではさっそくだがと言った。 「この間の話に出た杵七が、染川町のはずれで死んでいた話はご存じですかな」 「聞いた」  と言ったが、半左衛門は顔の筋ひとつ動かさなかった。 「どうせろくな死に方はせぬ男とみていたが、うわさでは人に斬られたそうだな」 「斬られた上に、とどめを刺されていました」  銀次郎は言い、つぎに鋭く語気を改めた。 「斬ったのは内藤老人ではありませんか」 「わしが? これはおどろいた」  と半左衛門は言った。 「わしがなんで杵七を斬らねばならんのだ」 「不義密通を目撃した証人だからです」 「またしてもその話か」  半左衛門はにがい顔をした。 「そんなものは妄想だ。そこもとも杵七も、たちのわるい妄想に取り憑《つ》かれておると申したはずだ。無礼にもほどがある」 「たしかにご老人はそう申されたが、それは表むきの弁明で、内実は違うのではありませんか。密通は実在した。ゆえに、杵七の口をふさいだのではありませんか」 「貴公もしつこい男だの。わしを怒らせぬ方がいいぞ」 「しかし老人のほかに、誰が杵七のような男にとどめを刺しますか」 「そんなことを、わしが知るか」 「あくまでも否定なさるなら、町奉行にとどけ出るという方法がある」 「証拠は何もない」 「いや、たから屋の酌取り女は、頭巾で顔をつつんだ大柄な男が、その夜杵七を外に呼び出したのを見ています。杵七は、ひと声かけられると酔っていたにもかかわらず唯唯諾諾《いいだくだく》と外に出て行ったそうです。なぜか。呼び出したのが旧主だったからにほかなりません」  内藤半左衛門は口をつぐんだ。しばらくしてから言った。 「元の主家について、許しがたい誣言《ぶげん》を申したゆえ、無礼討ちにしたと申し立てることは出来る」 「しかし、そのためにはとどめを刺したわけはもちろん、嫁女との不義密通の疑いについても、弁明をもとめられますぞ」  半左衛門はもう一度口を閉じた。そして長い間半十郎と銀次郎に交互に目を配ってからゆっくりと言った。 「では、立ち合えという貴公の申し入れを受けたときはどうなるな」 「それがしは、この件から一切手を引き、忘れることにするとお誓いいたそう。それがしに興味があるのは、老人との立ち合いのみ。密通も杵七の一件も、それがおもしろくて追いかけているわけではござらん」 「では申し入れを受けよう」  と内藤半左衛門は言った。そして一度口をつぐんでからつづけた。 「しかし誤解してもらっては困るぞ。立ち合うのは、そこもとが言うがごとき事実があったからではない。たとえ妄想にしろ、そのたぐいのことが多少なりとも世に洩れては内藤家の恥辱、ことに何の罪もない嫁があわれゆえに申し入れを受けるのだ」  ひとが妄想をいだくのをとめることは出来んのでな、と半左衛門はつぶやき、半十郎に顔を向けた。 「ただいまの約定《やくじよう》、浅沼半十郎どの立ち合いの上でかわしたこととして、あとは立ち合い人におまかせ申し上げたい。よろしゅうござるか」  城下のはずれ、五間川の上流に、大きな馬場がある。むかしはここが家中の馬術修練の場所で、常時数十頭の馬が出入りしたが、藩の財政が窮屈になって役馬御免、つまり家中の義務とされていた軍用の馬を飼うことを免ぜられると、馬場はにわかにさびれた。  いまも藩の上士が馬を預ける厩があり、そこで生まれた馬を調練する仕事、または馬術の稽古などが細細とつづけられているが、たえず馬蹄の音がとどろいていたむかしの活気はなく、馬柵はところどころで朽ちていた。  その馬場横の川岸の道に、五間川から這い上がる朝霧が流れ、霧の一部は古びた馬柵を越えて馬場の中ほどにまで達していた。  その霧の中で、死闘ともいうべきはげしい木剣の試合が行なわれていた。立ち合っているのは内藤半左衛門と石橋銀次郎である。時どき腹にひびく気合いの声が上がり、打ち合う木剣がかっかっと鳴る。  銀次郎の方が守勢に立たされていた。その銀次郎を鋭く見据えて、またも長身の半左衛門が嵐のように打ちこんでいった。半左衛門の木剣は風を切って鳴り、銀次郎はその強い打撃を受けるのに精一杯で、反撃のいとぐちもつかめない有様である。  分けるべきだ、手に汗をにぎって見ていた半十郎がそう思ったとき、辛うじて半左衛門の打ちこみをしのぎ切った銀次郎が大きくうしろにさがって叫んだ。 「まいった。内藤老人、まいった」 「まだ、まだ」 「双方ともにひけ。半左衛門どのの勝ちだ」  半十郎が大音を発し、身を挺《てい》して前に出ると、内藤半左衛門はようやく木剣を引いた。しばらく鷲《わし》のような目で銀次郎を見つめていたが、やがて木剣を半十郎に返した。 「約束は守ってもらうぞ。証人がいる」  半左衛門はそう言うと、くるりと背をむけて歩き出した。その大きな身体はまもなく霧の中に隠れた。 「これを見てくれ」  みじめに喘《あえ》ぎながら、銀次郎が半十郎に顔をつき出した。頬のあたり、額のあたり、さらにはこめかみからも血が滴っている。 「頭にさわってみてくれ」  銀次郎が言うので、半十郎が銀次郎の頭にさわってみると、指に触れたのはコブだった。それもひとつやふたつではない。銀次郎の頭はコブだらけだった。 「ちゃんと受けているのだが、クソ力《ぢから》で叩きつけてくるから木剣の先があたる。このまま試合をつづけたら殺されると思ったから降参したのだ。こんなことははじめてだ」  と銀次郎はこぼした。そのみじめな姿は気の毒ではあったが、どこか滑稽《こつけい》にも見えた。自業自得という感じもあるせいだろう。こみ上げて来る笑いをおさえて、半十郎は言った。 「『馬の骨』の感触はどうだったな」 「じじいのは豪剣だが、『馬の骨』とは似て非なるものだ。貴公が以前申されたとおり、あんな力まかせの剣では、馬の骨は斬れぬ」  言いながら、銀次郎は襷《たすき》をはずした。そのとき霧が這う馬柵のむこうに、日がのぼった。振りむいて、まぶしげに目をほそめながら、ふと思いついたように銀次郎が言った。 「老人は、今朝はおれを殺しにかかって来たな。密通が事実だった証拠とは思わんか」 「そうかも知れん」  と浅沼半十郎は言った。 「だが、そのことはもうそっとしておく方がよい」  半十郎の目に、見事な牡《おす》の振舞いを見せて去った内藤老人の姿、その庇護のもとにしあわせそうに見えた内藤家の寡婦の姿がうかんだ。  たとえば過去に何かあったとしても、いまはそっとしておけ。あの家のささやかなしあわせを乱すべきではないと半十郎は思った。歩き出すと、霧が少しずつうすれ、川音が耳に入って来た。  未明に無断で家を出て来たので、帰れば杉江にまたひとしきり弁解しなければなるまい、と思ったが、半十郎はそのことをそんなに不快に思っているわけではなかった。小出家、内藤家の、ひとかたならぬ複雑な家の内情にくらべれば、まだわが家の悩みは小さく、単純だという気がしている。  うしろで、銀次郎が深深と溜息《ためいき》をついたのが聞こえた。 [#改ページ]   拳《こぶし》割り      一  近習《きんじゆう》頭取の浅沼半十郎は、今夜の宿直《とのい》を指揮する同僚の野原甚之助と話しこんだので、下城するのが遅れた。少し早めに外に出て、三ノ丸の会所にいる長坂権平に会ってから城を下がろうと思っていたのだが、あてがはずれたようである。  例年のことだが、北国の城に照る日差しは八月の声を聞くとにわかに短くなり、下城の時刻を過ぎてしばらくすれば三ノ丸の広場にただよう夕色が意外に濃いのにおどろかされることが少なくない。本丸御殿を出て、二ノ丸の広場を横切りながら半十郎はこの時刻にはもう権平は城を下がったろうと思った。暑い夏の間は、藩士たちは仕事を終えたあともしばらく詰所に居残って雑談に時を過ごしたりするけれども、日が短くなると誰が言い出すともなく、何やらいそがしそうなそぶりで下城して行く。  しかし短い橋をわたって三ノ丸の広場に出てみると、そこには上空にあるうすい筋のような雲から落ちてくる反射光のせいか、ふだんよりは明るい光がただよい、その下に、まだこれから下城する藩士たちがちらほらと歩いている。半十郎は長坂権平の詰め部屋に寄ってみる気になった。  だがやはり無駄足になった。会所の中は少数の居残りと当直番がいる部屋から灯が洩《も》れているだけで、あとはうす暗くがらんとしている。半十郎はいったん玄関から廊下に上がって兵具方の詰め部屋に行きかけたが、廊下の先がうす暗いだけなのをみると、引き返して玄関の近くにある当直番の部屋の杉戸をあけた。  むかい合ってはやくも夜食のにぎり飯を喰っていた会所当直番の者二人は、半十郎の顔を見るとあわててにぎり飯を下に置いて坐り直した。 「兵具方の長坂は下城したかな」 「さっき武器倉の鍵《かぎ》を持って出て行きましたので、そのまま下城したのではないかと思います」  と、四十半ばの年嵩《としかさ》の方の男が言った。 「今日は兵具方の居残りはありません」 「さようか。いや、じゃました」  半十郎が戸を閉めようとしたとき、もう一人の若い方の男が言った。 「長坂どのは、今日は樽屋町の道場に寄って帰ると申されていました」 「や、さようか」  半十郎は若い男に微笑をむけてうなずいてから戸をしめた。半十郎が権平に会いたがっている気配を感じ取った、機転のきいた男の言葉に感心していた。  ──樽屋町か。  はて、どうしようかと半十郎は思っていた。樽屋町の矢野道場をたずねると、かなりの寄り道になる。家に帰るのが遅くなって、近ごろだいぶ落ちついてきた妻の杉江が、また癇《かん》を高ぶらせる心配があったが、権平に会えるよう手配をたのむと言った石橋銀次郎の依頼も、気がすすまなくてのばしのばししてきたので、これ以上引きのばせないところにきていた。  秘太刀「馬の骨」というあやしげな捜し物に、近ごろは半十郎自身も引きこまれてしまった感じがあったが、冷静に考えれば石橋銀次郎の執着ぶりは異常としか思えないものだった。そしてまた、じつの甥《おい》が身体を張って秘太刀を突きとめようとしているのを、平然と眺めて制止するふうもない小出家老の態度も納得出来るものではなかった。家老は最初に語ったこととはべつに、是が非でも秘太刀「馬の骨」の持主を突きとめたい格別の理由があるのではないか、とまで半十郎は疑う。  しかし気はすすまなくとも、秘太刀さがしは乗りかかった舟だった。銀次郎の、ひいては小出家老の気のすむように事をすすめ、しかしその途中に秘太刀さがしを逸脱するような場面、たとえば争闘のための争闘といったようなことが出て来た場合は、有無を言わせず制止する。そういう自分の役割に徹するほかはあるまいとも、半十郎は思っていた。  城を出ると、半十郎は遠くにちらほらと灯のいろが見える商人町を目ざして歩き出した。樽屋町に寄って行くつもりである。引きのばしても、気の重さが増すだけだろう。  そう思ったとき突然に、耳もとに「ちょこっとええが」とささやいた野原の声が甦《よみがえ》った。  本城の近習頭取は五名、うち二人は非番で今日登城して勤務についたのは野原、半十郎、芳賀善助の三人だった。だがこのうち芳賀善助はすこぶる割り切った男で、下城の太鼓を聞くとただちに帰り支度をはじめて、ほかに用のない限りは「ではお先に下城つかまつる」と帰ってしまう。  時には指揮する近習組の者よりも先に帰ったりするというので、その役持ちらしからぬ一種の奇行を嘲笑《ちようしよう》されたりしたが、上役の中には、夕刻の太鼓は下城をうながすために鳴らす太鼓で、ぐすぐずと居残るのがいいとは言えぬ、善助のような人間もいた方がいいと弁護した者もあったとかで、芳賀善助の早下城は黙認されていた。  だから野原甚之助がそばに寄ってきたときは芳賀は下城済みで詰所にいるのは野原と半十郎の二人だけだった。ひと部屋おいてその先にある近習組の詰所から人のざわめきが聞こえてくるだけである。なにか知らんが大仰に声をひそめることもなかろうにと、半十郎は思ったのだが、野原がつぎにささやいた言葉は半十郎を驚愕《きようがく》させるに十分なものだった。  石渡新三郎どのを暗殺する計画が練られている、と野原は言ったのである。石渡新三郎は側用人《そばようにん》でいまはむろん江戸屋敷にいて藩主に近侍している。だが来春には参勤の供に加わって帰国する予定だった。暗殺はその時期をねらって行なわれるだろう、と野原は言った。 「誰が暗殺すんなだ?」  と半十郎は聞いた。こちらも当然ささやき声になっていた。話されていることは、声をひそめたぐらいでは追っつかないほどの重大事である。問い返しながら、半十郎は思わず誰もいない詰所の中を見回した。 「誰が命ぜられるかまではわがらん。ンだども、仕掛けるのはわが派だぞ」 「わが派だど?」  野原も半十郎も小出家老派だった。野原のささやき声はまたしても半十郎をおどろかした。 「そげだ話をどっから仕入れたな?」 「洩れ聞いた。ある場所でな」  野原は深刻な表情になった。 「偶然だ。盗み聞きしたわけではない」 「しかし、話していた男の見当はついだなでねが?」 「むろんだ。ンだども、いまは言えぬ」 「場所はどごだ?」 「………」 「洩れ聞いた場所ぐらいはおれサ打ち明けておく方がいいぞ。秘事を聞かれたと悟ってだな、誰かがおぬしを消しにかかったようなときに、手がかりがひとつもなくてはおれとしても始末のつけようがない」  ひとつ齢下《としした》の野原はいやな顔をした。いや、誰にも見られなかったと思うがと言ったものの、半十郎の言葉も身にこたえたようだった。短く言った。 「河村どののお屋敷だ」  河村作左衛門は組頭で、小出派の幹部である。半十郎と野原甚之助は、それからあとも声をひそめて、石渡暗殺という不穏な話が出てきた背景について話し合った。いまの藩主が近年病弱で、後継の藩主が取沙汰《とりざた》されていることは二人ともに耳にしていて、暗殺|云云《うんぬん》がそのことにかかわりがあるのではないかという見当はついたが、くわしいことはわからなかった。  最後に野原は、このことを大目付か誰かに告げなくともいいものだろうかと言ったが、半十郎は語気を改めて制止した。 「下手に動くと、おぬしほんとうに消されるぞ。まあ、まだゆとりはある。当分は静観することだ。おれも誰サも言わん」  しかし、野原にはそう言ったものの、いまうす暗い頭取詰所で野原とかわした一連の会話をふり返ってみると、半十郎の胸は得体の知れない不安に波立ってくるようだった。もし石渡新三郎暗殺などということが事実となったときは、藩内は名状しがたい混乱に陥ることが予想されるからである。  石渡新三郎は番頭《ばんがしら》の家の出で、齢は半十郎より三つほど上でしかないが、その人格、識見は家老衆にもうやまわれている人物だった。  半十郎は矢野家に着いた。夜色が濃くなってきた空を仰いでから柱だけの門をくぐったが、二、三歩庭に踏みこんだところで立ちどまった。  庭の一隅にかがり火が燃えている。言うまでもなくそこは不伝流を伝える矢野家の稽古所で、そばに立つ栃の大木が火に照らされているのが見えた。春先にきたときは葉が落ちた裸木だった栃はいまは厚く枝葉に覆われ、その丈高いいただきのあたりは夜空に溶けこんでさだかには見えない。  そしてその栃の木の下に、二人の男が木刀をかまえて向き合っているのも見えた。すぐには見わけがつかなかったが、やがてそれぞれの体型から立ち合っているのはたずねる長坂権平と、矢野家の家僕兼子庄六だとわかった。背が低くて固太りの男が庄六で、庄六よりいくらか背丈はあるがひどく痩《や》せている男が長坂権平である。実際に、はなれて見ると権平はかかしのように骨ばっている。  半十郎は前に出ようとした。そのときすさまじい気合が上がり、はげしく打ち合う木刀の音がひびいたと思うと、二人の姿がめまぐるしく動いた。  地を這《は》うような庄六の低い一撃を、木刀をふるって払いながら権平の痩身が片足立ちに跳ぶ、と見えたつぎの瞬間、二人はどっと身体を寄せ合って、鍔《つば》ぜり合いさながらに木刀で押し合った。だが二人はすぐに押し合いを解くと、大きく跳びはなれた。そしてにらみ合う間もなく、今度は権平が打ちこんで行った。その鋭い打ちこみを、庄六ははね返した。無造作にはね返したように見えた。二人はまた跳びはなれ、やや距離をとった権平がふたたび打ちこんだ。  権平の踏みこみは俊敏としか言いようのないもので、繰り出した木刀が目にもとまらぬ速い動きで庄六の籠手《こて》を襲ったのが見えた。何かしら知らぬ得意技を遣ったらしいと思われる権平のその打ちこみを、庄六はまたやわらかく無造作に撥《は》ね返した。  そこまで見て、半十郎は尻下がりに少しずつうしろにさがり、門を抜けて道に出た。  樽屋町の道は、左右に灯が洩れる家はあるものの、その光は道まではとどかずに暗かった。半十郎の頭の中に疑問が渦巻いていた。甦ってくる問答があった。石橋銀次郎と矢野家の当主藤蔵が、家僕の庄六について話し合っている場面である。銀次郎が、庄六はかなり遣うのかと聞いたのに対して、藤蔵はたしか、そんなでもない、ただ「古い門人で流儀の手筋を心得ている男ゆえ云云」と言っていたのを半十郎は記憶していた。  しかしたったいま見た光景は、藤蔵のその言葉を裏切るものだった、と半十郎は思っている。長坂権平は矢野道場の高弟である。その権平を庄六が軽くあしらっていたように見えたのは目の錯覚だろうか。  ──いや。  半十郎は首を振った。いまは力が衰えているものの、半十郎もかつては直心流の剣士として鳴らした時期がある。見るべきものを見誤ったとは思えなかった。だが、半十郎の判断が正しいとすれば、あの謹直な矢野藤蔵が嘘をついたことになるのだろうか。  渦巻く疑問の中から、さらに濃いひとつの疑問が徐徐に形をととのえてうかび上がってくるのを半十郎は感じた。秘太刀「馬の骨」の探索の対象に、兼子庄六を加えなくてもいいのだろうかという、当然の疑問である。  だが、うかんできたその疑問を、半十郎は当分わが胸におさめておくつもりだった。石橋銀次郎に話す気はまったくなかった。      二  長坂権平の家は、主婦が留守とわかっているせいか、心なしか灯火も暗く不景気に見える家だった。半十郎と銀次郎の二人は、訪《おとな》いをいれてから玄関で長く待たされた。  そして座敷に通されたあとも、かなり時がたってやっとお茶が出てきたが、これは待たされたせいもあってか、熱くてうまいお茶だった。主人に来客を知らせてから奥座敷に灯を点じ、お茶をはこんでのろのろと立ち働いているのは白髪で腰が曲り加減の老婆である。おそらく古くから長坂家にいる婢《はしため》だろうと、半十郎は見当をつけた。  そしてようやく長坂権平がきて、二人に挨拶した。さきに伊助を走らせて知らせたので、権平は用意したとみえて羽織、袴で客を迎えたが、家の者がいないせいかひげを剃ることまでは思いいたらなかったらしく、頬《ほお》から痩せたあごにかけて無精ひげがのびたままである。  そのひげもいっそ黒黒としていれば男らしいということもあるだろうが、権平のひげはいたって薄く、あごに煙がまつわりついている程度のものなので、痩せこけた顔をいっそう貧弱に見せているだけだった。おまけにやや季節はずれの絽《ろ》の羽織のうしろ襟が立って折れ曲っている。 「何か、大事のご用でも?」  と権平は言った。しかし小出家老の甥石橋銀次郎が矢野道場の古い門人の間を試合を強要して回っていることは、道場仲間の沖山や内藤老人から伝え聞いているらしく、権平の表情にはどことなく落ちつかないいろが動いている。目は半十郎と石橋の間を行ったり来たりした。 「いかにも用あって夜分じゃましたが……」  半十郎は銀次郎をかえりみた。青ざめて痩せこけた権平を見ていると、この話にはできるだけかかわりを持ちたくないという気分になる。 「委細はこちらの石橋から聞いてくれ」 「あるいはほかから、すでに聞きおよんでおるかも知れないが……」  銀次郎は家老の甥という身分をひけらかすようなことはしなかったが、べつに権平に同情する気もないとみえて遠慮のない口調で切り出した。 「わけあって、それがしは矢野家に伝わる『馬の骨』と申す秘太刀の主をさがしておる」 「はあ」  権平は力のない目を銀次郎にむけた。 「先代の道場主仁八郎から秘太刀を譲られたのは、矢野道場の高弟ということもわかっておる。そこでだ」  銀次郎は上体を前に傾けるようにして、権平の顔をにらんだ。 「単刀直入にお聞きするが、譲られたのは貴公ではござらんのか」  いやいやと権平は手を振った。そういう質問が出るのは予想していたはずなのに、大いにあわてたそぶりをみせ、はずかしげに顔まで赤くしている。 「それがしは高弟などと申してもただ数に入れてもらっただけのこと、とても秘太刀を譲られるような柄ではござらん」  権平は膝《ひざ》をつかみながら早口で言った。 「ほかをあたってくだされ。それがしをのぞけば、高弟と呼ばれた人人はいずれも尋常でない遣い手ばかり。そちらをあたってみられたらよろしかろう」 「みんなそう申してそれがしを敬遠する」  石橋銀次郎は背筋をのばして、権平を見据えるようにした。そしてまた上体を少し権平の方に傾けた。 「ところがこの石橋は、人間がひねくれてできておって、国元の方方のように率直ではない。まず人の申すことをそのままには信用せぬ。きわめて疑い深い人間だ」  権平は黙って銀次郎を見ている。何を言うつもりかと怪しんでいる顔つきだった。 「もちろん、貴公の申すこともそのままには信用せぬ」  銀次郎はダメを押した。 「貴公がいま申されたようなことを言い、また失礼だが風采《ふうさい》もまたそれらしくは見えぬ人物が、じつは秘太刀の持主ということはよくある話。それがしが帰ったあとで、うまくだましてやったと手を打たれたのではかなわん」 「これはまた、おっしゃるとおりずいぶんと疑い深い」  権平がはじめてむっとしたような声を出した。 「それがし、それほどにひとが悪くはないつもりだが、信用せぬと申されればぜひもない。では、お気が済むようにするには、どうしたらよろしゅうござるか」 「それがしと一度立ち合っていただきたい」  そう言った銀次郎の声は間髪を入れないものだった。 「立ち合っていただけば、すべての疑いは氷解し、すっきりといたそう」 「いや、それはちと」  と権平は言った。権平の声も表情も固くなった。つつかれた亀の子のように防禦《ぼうぎよ》の姿勢に入っている。 「矢野道場では、他流試合を固く禁じております。せっかくのおのぞみながら、それだけは応じかねます」 「ずいぶんと固いことを申すものだ」  銀次郎は嘲《あざけ》るように言った。 「立ち合っていただけないとなると、貴公が秘太刀の持主という疑いは残ることになる。そうなるとのちのち貴公に不利なことも出てくるかと思うが、それでもよろしいと……」 「やむを得ません」  と権平は言った。銀次郎の脅しには屈しなかった。 「わが身の不利をおそれて、道場の約定《やくじよう》を破ることはできません」 「しかし沖山茂兵衛、内藤半左衛門は立ち合ったぞ」 「そのようにうかがってござる」  意外にも権平はそこでうす笑いをみせた。 「中身はご両所とも申されなんだが、なにやら脅迫をうけて立ち合わざるを得なかったと聞きました。しかしそれがしは二十五石の貧乏暮らし、脅迫の種を見つけるのは骨でござりましょう」  長坂権平の家を出ると、二人は提灯の明かりだけが頼りの夜道を、しばらく無言で歩いた。  半十郎は権平が意外な粘りを示して、銀次郎が結局は脅しもすかしも効き目がなく引き揚げてしまったのを、何となく小気味よく思っていた。それで黙っていたのだが、銀次郎の方はその沈黙の間にも権平を試合の場に引き出すテはないかと、あれこれ考えていたらしい。  河岸の道が近くなって、かすかに川音が耳に入ってきたあたりで顔を上げると半十郎を見た。 「権平の女房はまだ家にもどっておらんようだな」 「まだだ」 「かれこれ半年になると聞く。病気で実家にもどっているというのは嘘とわかっているが、本当の話はどうなのかな」      三 「長坂の家は、浅沼どのはご存じのことだが代代御供目付を勤めた家で、権平が家を継いだときの家禄は八十石でござった」  と三宅重兵衛は言った。重兵衛は権平の親戚で、かつ権平の妻女登実の兄である。 「それが参勤の行列が他藩と悶着《もんちやく》を起こしたときに、処理行きとどかず、つまりわが藩に不利の始末をつけたというので三十石を減じられ、役替えと相成った」 「つぎは貸米役だったかな」  と浅沼半十郎は言った。  権平を翻意させて試合にひっぱり出すためには、いま少しくわしく家の事情を知る必要がある、何とか妻女の実家に話をつけて、妻女なり実家の者なりから事情を聞き出せるようにしてもらえないかという銀次郎の頼みを引きうけて、半十郎は今日銀次郎を同道して非番の三宅重兵衛を屋敷にたずねている。  むろん秘太刀「馬の骨」には触れずに、あとはあまり飾らずに権平との間にあったことを話したあとで、銀次郎の願いごとを持ち出すと、重兵衛は意外にあっさりと承知した。  三宅重兵衛は御納戸勤めで本丸御殿に詰める顔見知りで、身分はほとんど差がない。そういうことでは気のおけない相手だったが、異なことを申されると一蹴《いつしゆう》されても仕方のないところを、重兵衛はそうは言わずに相手になった。半十郎の顔を立てたに違いない。  ただし重兵衛は、銀次郎が調子にのって、できれば権平の妻女にも同席をねがって話を聞きたいと言ったのに対しては、きっぱりとことわった。登実は病気であると言い、そのかわりに質問には自分で答えている。銀次郎にかわって要点を質問しながら、銀次郎のねがいごと自体が世の常識に叶《かな》っているとは言えないことなので、半十郎はさっきから気が重い。 「さよう、貸米役でござった」  と重兵衛は言った。 「そこで踏みとどまれば、家中の評判になるほどの家庭不和などという恥ずべき事態は起きなかったはず。権平の妻は気が強く亭主を亭主と思わぬ女などという声も聞かぬではないが、登実はしっかり者ではあっても元来の気持はやさしい女子《おなご》でござる。気の強い女子にしたのは言うまでもなく権平、と言っても身びいきと思われるかも知れんが」 「いや、身びいきの言葉とは思い申さん。女子は住む世界によって変るものでござる」  半十郎はちらと妻の杉江のことを思いうかべながら言った。 「つぎに、またも家禄を減じられていまの兵具方勤めに変ったのは、三年前の御前試合で長坂が思わぬ敗北を喫したあとでしたな」 「敗北し、殿のお怒りを買ったためでござる」  重兵衛は、この話は説明が必要と思ったらしく、石橋銀次郎に目を移すと口調を改めて話し出した。  御前試合というのは家中の者の武技の検分のうちの剣技の検分のことだが、この御前試合が重視されるのは、弓、鉄砲の技の検分が毎年、家老が矢場あるいは鉄砲撃ち場に出向いて行なわれるのに対し、剣技は二年に一度、在国の藩主みずからが検分することがあるからである。腕におぼえのある者はその日を目ざして技をみがくし、また検分の年によっては道場と道場の技くらべの形になることがあり、そうしたことでも藩内に注目されていた。  その御前試合で、長坂権平は下馬評では圧倒的に優勢とされていたにもかかわらず、あっけなく敗北した。相手は励武館で小野派一刀流を学んでいる男だった。  その敗北を見て、藩主の播磨守が激怒した。下馬評に反して負けたからではなく、権平の試合ぶりに無気力、投げやりな姿勢が見えたことを咎《とが》めたのである。播磨守自身、江戸屋敷に道場をつくって師をまねき、小野派一刀流を修行した剣客だったので、長坂権平の無気力な試合ぶりを見破って腹に据えかねたということであったろう。長坂権平は厳粛《げんしゆく》であるべき武道検分を愚弄《ぐろう》したとして、即刻家禄半減、役替えとなった。  長坂権平がなぜ、言われたような厳粛な試合で全力をつくさなかったかは、誰にもわからなかった。ただ権平は唯唯《いい》として藩命にしたがい、屋敷を移り、兵具方に出仕するようになった。このころから権平は持病の胃弱が高じて、身体は痩せ顔いろは一段と青くなった。 「大事の試合で、権平がなぜ籠手打ち名人と言われた技を出さなかったかは謎だと言われたが、登実に言わせるとただの気後《きおく》れにすぎんのだそうだ」  重兵衛はにが笑いした。 「女子が申すことをそのまま信用してよいかどうかは考えものだが、登実が申すには権平はいざというときにふと臆病《おくびよう》風に吹かれる意気地なしだということだ」 「家庭不和はそれからでござるか」  と銀次郎が言った。  銀次郎はそれまで興味深そうに重兵衛の話を聞き、ひとことも口をはさまなかった。めずらしいことである。 「いや、その前から家の中のいさかいはあったようでござる」  と重兵衛は言った。 「それと申すのも、登実はじつは権平のいまは亡き親にのぞまれて長坂に参った女子で、その姑《しゆうとめ》が死ぬときには、権平のことを固く頼んで行ったと申す。権平はたしか八歳かそこらの齢《とし》に父親を失い、そのあとは女子手ひとつで成長したといういきさつがあり、姑としては学問の塾だ、道場だと男子ひととおりの教育はほどこしたつもりでも、どこかに不安を持っていたかも知れぬ」 「甘く育ったと?」 「そう思っていたかどうかはわからんが、長坂の家名を無事に保って行くためには、登実のようなしっかり者の嫁が必要だと申しておった。そういう次第ゆえ、嫁に参ったからには、妹としても権平ともども長坂の家をつつがなく保って行く責任がある。それが思いもかけぬ近年の体たらくだ。家の中が揉《も》めぬわけがない」 「なるほど」 「貴公が聞きたいことには、これで大よそ答えたかと思う。ひとは登実が実家にもどったりするのを、気の強い女子のただのわがままとみて権平に同情するようだが、根はもそっと深い」  と言って三宅重兵衛は腕を組んだ。 「登実にしても、一度失った家禄がそう簡単にもどってくるとは思っておらぬ。しかしながら権平にはせめて長坂の家を旧に復す気概を持ってもらいたいと申す。ところがこの話になると権平の受け答えははなはだ無気力、その場に立ち合ったわけではないが、妹の話によるとそういう有様だそうだ。これが家中に知れわたって恥をさらしている家庭不和の中身でござる」 「いや、そこまでお話しいただけば十分。納得いたした」  半十郎は重兵衛に一礼した。 「内輪の話を根掘り葉掘りお聞きして、まことに相済まぬことでござった」 「そこでおうかがい申し上げるが……」  と銀次郎が口をはさんだ。 「妹御がこちらにもどられてから、かれこれ半年になると聞きおよんでいる。近く長坂の家に帰られるようなおつもりはござろうか」 「いや、まだまだ」  と重兵衛は言った。 「今度ばかりは、権平の心構えに何らかの変化が見えぬうちは帰らぬと、登実は申しておる。身内の肩を持つようだが妹の言い分ももっともでな。じつは人には申せぬことだが、権平は時どき登実を連れもどしにこっそりとこの家に参る。で、わしも居合わせれば立ち合うわけだが、やあ、話にならん」 「と申しますと?」  銀次郎が興味津津といった表情で言った。 「連れ帰るには、たとえ偽りにもせよしかとした今後の覚悟でも述べて説得する、女子がそれでも聞かぬ場合は、では離縁もやむを得ぬと強く出るのが世のつねの男のやり方と申すもの。しかるに権平はただ泣き言をならべるだけでな。飯がまずい、召使いのばあさんが疲れて倒れそうだと、まことに女女しいことを申す。あれでは登実ならずとも、では帰ろうという気持にならんだろう」 「しかし、数日前に本人に会ったときは事実かなり疲労|困憊《こんぱい》して見えたが……」  半十郎は、権平があまりにぼろくそに言われるので少し同情気味に言ってみたが、重兵衛はそれはあの男の自業自得というものとつめたく言い捨てただけだった。 「ふうむ、しかしそこまで行くと……」  銀次郎が顔をしかめた。 「もとの鞘《さや》にもどるのはまことに至難、離縁の方が近道という気もしないではないが、妹御にはそのお気持はないわけですかな」 「妹が真実どう思っているかは知らぬ。しかしわれわれとしては出来ればそうしたいほどだ。しかしそうは出来ないわけがござる」 「と申しますと……」  銀次郎が問い返したのに、重兵衛はすぐには答えなかった。少し困ったような顔になり、これから申すことは世間には内緒にしてはいただけまいかと言った。 「むろん、言うなということであれば刀にかけて……」  半十郎が言うと重兵衛はにが笑いして、それほどのおおごとでもござらんのだがと言った。 「じつは登実は権平の子を姙《みごも》ってござる。こちらに参ってふた月ほどして相わかったことだが、長坂に嫁して十年子供にめぐまれなかったのが、このどさくさの間に姙ったというのは何とも皮肉。夫婦はこれだからわからん」  重兵衛が言い、半十郎と重兵衛は顔を見合わせると声に出して笑った。一拍遅れて銀次郎も笑い出した。銀次郎はまだひとり者だが、玄妙な夫婦の関係が理解できぬほどうぶ、というわけではむろんない。 「まずはめでたい」  半十郎は賀辞を述べた。 「で、それは長坂も承知でござるか」 「いや、まだだ。知らせてくれるなと妹が申しておるもので。ご両所も、権平に会ったときは何分内緒におねがいしたい」 「承知いたした。しかし……」  と銀次郎は言った。何か名案でも思いついたか、表情がややあかるくなっている。 「腹に権平どのの子がいるとなれば、いかがでござろう。妹御としても何かのきっかけがあれば家に帰りたい、近ごろはさように思われているのではあるまいか」 「心境を聞いたわけではないが、言われるような気持もあろうかと思われる。しかしあの権平の泣きごとでは、帰るきっかけとはならぬことも明白」 「では、削られた家禄が権平どのの働きでもどってくるなどということは、帰るきっかけにはなりますまいか。むろん全部は無理としても、たとえば貸米役のころに近い禄高にもどるということなら、のぞみはありそうに思われる」 「これはまた異なことをうけたまわるものだ」  重兵衛は眉《まゆ》をひそめた。 「長坂の家から半分の家禄を取り上げたのは殿でござるぞ。そう簡単に禄がもどるとは思えぬ」 「しかし、さきほどお話をうかがったかぎりでは、そのときの処分は懲罰の意味合いが濃かったように思われる。罪を犯して受けた処分とはいささか趣きが異なるのではござるまいか。懲罰であればもはや三年、伯父《おじ》が間に立って殿に執《と》りなす余地はあるものと考える」  半十郎と重兵衛は顔を見合わせた。ついで途方もないことを言い出すものだという目で銀次郎を見たが、銀次郎は二人の非難がましい顔には頓着せずにつづけた。 「もともと一時の怒りにまかせて、家臣の大事の家禄を半分も削ったのは、殿としてもいささか軽率というものではなかったでしょうか」 「いやはや、これは……」  重兵衛はにが笑いの顔を半十郎にむけた。 「このご仁は思い切ったことを申される。しかし……」  と言って重兵衛は今度は銀次郎を見た。きびしい表情になった。 「よそではかようなことは申されぬ方がよろしかろう。それともうひとつ、たかが権平との試合になぜそこまで執着されるかが不審。そのあたりを少しうかがおうか」 「ご不審はもっともでござる。じつはそれがし……」  伯父小出帯刀の命令で、矢野道場の高弟と試合をしているところだと銀次郎は言った。そして矢野の不伝流の筋を学びたいのが試合を申しこんでいる趣旨だが、これがじつは遅遅としてすすまないのだと、巧みに秘太刀の一件をぼかした説明をした。 「矢野道場の高弟は五人。しかし他流試合の禁止を言い立ててこれまで試合ができたのは沖山茂兵衛、内藤半左衛門の二人。つぎに長坂権平に申しこんで手きびしくことわられたのは、さきほど浅沼どのからお話し申し上げたとおりでござる」 「ご家老のご命令とな」  重兵衛は腑《ふ》に落ちない顔をしている。半十郎はひやりとしたが銀次郎は平気な顔でつづけた。 「そのとおりですが、伯父の目的が奈辺《なへん》にあるかは聞いておりません。それがしは試合して、その模様を報告するまで。その折には若干の小遣いなどももらえるわけでして……」  銀次郎は気の利いたことを言ったつもりで微笑したが、重兵衛も半十郎も笑わないのでまた顔いろをひきしめた。 「とにかく、それがしとしてはぜひとも試合したい。で、この試合にひとかたならぬ肩入れをしているのは伯父でありますので、権平どのを試合にひっぱり出すために必要とあれば、家禄について労をとることを惜しまぬのではないかと考える次第。とりあえず伯父に掛け合ってみるつもりでござる」 「はて、権平との試合に、それだけの価値があるとみておられるわけかの」  重兵衛はなおも不審そうに言った。半十郎はふたたびひやりとしたが、銀次郎はあかるい顔でそのようでござると言った。 「そこで妹御にたずねていただけまいか。権平どのが試合に応じ、それがしのもくろみ通りにかなりの禄がもどるようであれば、そのときは家に帰るつもりはおありか。そのあたりをたしかめておくと、権平どのを試合にひっぱり出すのにまことに好都合かと思われますので」 「さようか」  と重兵衛は言った。銀次郎の熱心さに根負けして、気持を切りかえた気配がした。 「ご家老が試合に執着する裏には、何かしらしかるべきわけがあることと思われるが、そのわけがいかなるものかは当方にはかかわりがないこと。それにしても貴公が言われるごとく事がはこばれるかどうかははなはだ疑問だが、もし試合して失った家禄が少しでももどるなどということになれば、長坂の家にとってはまたとない幸運、わしもぜひ試合に応じるようにすすめたいぐらいだ。しばらくお待ちあれ、いま妹の気持を聞きただして参ろう」  三宅重兵衛は二人を残して座を立って行ったが、しばらくしてもどってきたときには、うしろに婦人をしたがえていた。 「権平の家内、登実でござる」  重兵衛は入口のそばにつつましく坐った大柄な美人を紹介した。登実は権平ほどの背丈があり、その上権平より肉付きのよい大柄な身体をしていたが、いかつい感じはなく、むしろ女らしく見える婦人だった。目に涼しげな光があり、小さめな口もとが美貌をひきしめている。 「ただいま、兄からお話をうかがいました」  登実は二人に丁重に挨拶をしたあとで、落ちついた口調で言った。 「家禄がもどるもどらないは女子《おなご》が口出しすべきこととは思えません。しかし考えを言えとのことですから申し上げますが、権平どのがその試合を受け、男らしく闘ったと聞けばその日のうちにも帰りましょう。しかし試合ぶりが卑怯《ひきよう》であったと聞いたときは、たとえ家禄がもどってもあの家に帰ることはござりますまい」  三宅家を出た半十郎と銀次郎の二人に、夏の名残りといった感じの暑い日差しが照りつけた。 「しかし、美人だったな」  しばらく無言で歩いていた銀次郎が突然に言った。むろん権平の妻女のことである。 「うむ、それに申すこともしっかりしていた」  と半十郎も言った。二人ともども肝を抜かれたような気分が残っていた。しかし半十郎はそう言ったあとで、無精ひげの権平の顔が物がなしくうかんでくるのを感じていた。 「権平には過ぎた女房どのだ。やつも位負けしたかな」  銀次郎がまだ言っているが、半十郎はそれには答えなかった。      四 「二十五石がまるまるもどると保証はできぬが、少なくとも半分以上はもどるように殿に掛け合ってみようと伯父は約束した」  と石橋銀次郎は言った。 「実際に掛け合うのは来春の殿の帰国を待ってということになるが、貴公が試合に応じれば、伯父はすぐにも殿に手紙を書いて、江戸に行く使いに持たせてやるとも申しておる」 「………」 「信用できぬか」  疑惑にみちた表情で自分を見返している権平に、銀次郎は根気よく言った。 「それももっともだが、この話には保証人がいる。浅沼どのだ。試合にはひっぱり出した、旧禄の話は知らんと貴公を欺くようなことはせぬと、伯父は浅沼どのを保証人に立てた。それで、このように同道してきておる」 「石橋が申したことは事実だ。試合すればご家老は旧禄がもどるように尽力なさる」  と請け合ってから、半十郎は権平に言った。 「五石でも十石でもいいではないか。一度失った旧禄がもどるということは大変な幸運だぞ」 「それはわかっております」  権平は言った。権平は疑いは解けたものの、まだ釈然としないといった顔をしている。 「しかし立ち合っても無駄でござりましょう。先に申し上げたように、それがしは秘太刀を譲られておりませぬ」 「それは立ち合ってみぬことにはわからぬ」 「そういうことであれば……」  権平は一礼した。ついに言った。 「この試合、お受けいたす」 「さようか。では気の変らぬうちに、これから外に参ろう」  銀次郎ははやくも膝を起こした。権平も支度するために部屋を出て行った。今日は権平の非番の日である。試合がうまくはこべば、日暮れまでには片がつくはずだった。  権平の家がある町は、この前に銀次郎が内藤半左衛門と試合した五間川上流の馬場に近かった。三人は馬場を目ざして歩き、やがて町をはずれて五間川の川岸の道に入った。 「人がいるな」  馬場が近くになったところで、半十郎は二人を振りむいた。いつもはひっそりしている馬場の中に、今日は何人かの人がいて馬を調練している。日暮れ近い乾いた空気の中に、濛濛《もうもう》と土ぼこりが立ち、その中から馬を責める鋭い声が聞こえてきた。 「これはちと、まずいな」  銀次郎が舌打ちした。長坂権平との試合は、人に見られてはならないものだった。 「どうするか、場所をかえるか」  十間ほど先に半左衛門と試合した足場のいいひろい河岸地が見えているのをにらみながら銀次郎が言ったのに、意外にも権平が答えた。 「馬場のもっと先に、そこよりもっとひろい場所があります。河岸の横は葦原《あしはら》でひと目にもつかぬと思いますが……」 「よし、そこまで行こう」  と半十郎が言った。  三人はさりげないぶらぶら歩きで、馬場の横を通りすぎた。それでも見る人が見れば、銀次郎と権平が肩にかけた竹刀と木刀をいれた袋に不審を持ったかもしれないが、馬場からは変りなく馬蹄《ばてい》の音とかけ声が聞こえてくるだけだった。馬柵を越えて流れてくる土ぼこりが半十郎たちの目と鼻を刺激した。  しかし長い馬場わきの道を通りすぎると、権平が言ったように道の片側は葦がはえる湿地に変り、空気は澄明《ちようめい》になった。七ツ(午後四時)すぎのやわらかな日差しが浅い川の水面を光らせ、川は絶えずさほど高くはない瀬音をひびかせている。三人が通ると向う岸に近い砂洲《さす》にいた鶺鴒《せきれい》が二羽、鳴きかわしながら下流の方に飛び去った。  日は川と河岸道を越えて葦原にもとどき、時おりゆるやかな風が通ると、葦はゆったりと揺れて、そのたびに葦に照る日差しが鈍く光る。 「なるほど、ここか」  と半十郎は言った。川岸の道はそこで平坦《へいたん》な広場のようになっていて、足もとの土もなめらかだった。ここは秋になって刈り取った葦を積み上げておく場所でござる、と権平が兵具方らしくない知識を披露した。 「では、いそごうか」  川の向う側にひろがる田圃《たんぼ》の上に照る日の高さを測っていた銀次郎がそう言うと、権平も背をむけてうずくまり、手早く襷《たすき》、鉢巻の支度をととのえた。 「どちらを使う。竹刀でいいのではないか」  半十郎が言うと、銀次郎は首を振った。 「いや、木刀にしよう。真剣勝負のつもりでやらんと、身の入った試合にはならん」 「権平、それでいいのか」 「けっこうです。異存はありません」  と権平は言った。そして立ち上がると半十郎から木刀を受け取り、軽く振った。その様子を見ながら、銀次郎は言った。 「斟酌《しんしやく》無用だぞ、権平。申したとおり真剣勝負のつもりで思い切ってかかってこい。おれも遠慮はせぬ」  銀次郎の嵩《かさ》にかかった言い方を聞いているうちに、半十郎は何ともいえない不安が胸にこみあげてくるのを感じた。  半十郎の目には、かがり火の明かりの中で兼子庄六を相手に飛鳥の技を遣っていた権平の姿が残っている。半十郎は鉢巻をしめ終った銀次郎のそばに寄るとささやいた。 「権平を甘く見るのは禁物だぞ。権平はおそらく高弟の中でもさらに指折りの遣い手だ」 「わかっておる」  と銀次郎は言った。わかっていても、銀次郎はあの夜の権平を見ていない、と半十郎は思ったが、それ以上の口出しはできなかった。得物をつかんでむかい合った二人の中間に立って言った。 「では一本勝負を行なう。不肖ながら、それがしが立ち合い人をつとめる。では、はじめ」  半十郎の言葉が終ると、二人は言い合わせたようにすばやく跳びはなれて遠い間合いをとった。  そして、やがて前に出たのはやはり銀次郎が先だった。ひたと権平を見据えながら摺《す》り足で二、三歩前にすすんだが、その足どりはきわめて慎重だった。口はともかく、内心は決して油断はしていないらしいと半十郎は思った。それでこそ対等の勝負ができるというものだ、とも思った。  権平は無表情だった。目はまたたきもせず銀次郎を見ているが、一段と顔が青ざめてはいるものの臆したいろはなく、銀次郎の動きに合わせてうしろにひいたり、軽く右に足を移し、左に足を移している。だが仔細《しさい》に見ると、その動きは巧みに相手の勢いを殺しているようにも見える。ただ権平には自分から仕かける気持はまったくないようだった。  おそらくその気配を察知していら立ったのだろう。銀次郎は一歩うしろにひくと、そこから思い切った疾走に移った。気合を発して、銀次郎はそのまま打ちこんで行った。  権平はむかえ撃った。だがその一瞬前に、半十郎の目は権平が奇妙な動きを示したのを見ている。銀次郎が疾走を起こしたとき、わずかに一、二歩風に押されるように権平がうしろにさがったように見えたのだ。緊張してよろめいたとも見えた。  しかしつぎの瞬間、権平はすばやく前に踏み出して銀次郎の木剣を撥ね上げたので、またたきするほどの間の奇妙な動きは錯覚だったかと思えるほどだったが、半十郎の目にはくっきりとそのときの残像が残った。  これは何だと思う間もなく、木剣を打ち合った二人はおめき声をかわしてすれ違い、勢いのままに前に走った。そして立ちどまって振りむくと、また走り寄って打ち合った。銀次郎は権平の肩を打ち、権平は木剣を銀次郎の籠手に打ちこんだが、はげしい動きの中で二人とも巧みに防ぎわざを遣ってのがれている。二人はとびはなれると今度は近い間合いで正眼に構え、にらみ合った。  半十郎の目には、権平の動きがやや固いようにも見えたが、さすがに矢野道場の高弟で、銀次郎の鋭い打ちこみをさばく木剣にはまだゆとりがある。  大したものだ、と思いながら権平の顔を見た半十郎はおどろいた。打ち合いの間に、権平の顔つきが一変していた。元来青ざめている顔いろがいまは灰いろに近くなり、目は銀次郎を凝視しているものの、物に憑《つ》かれたように吊り上がっている。口からははげしく喘《あえ》ぐ息が洩れ、その喘ぎを隠そうとして、権平は目いっぱい鼻の穴をひろげているではないか。  権平のこの急激な変容が、疲労のためではないのを半十郎は直観的に悟った。権平の顔つきを変えたのは恐怖である。権平はそうとは口が裂けても言わないだろうが、打ちどころがわるければ命にかかわる木剣試合がこわいのではないか、と半十郎は思った。半十郎の耳に、あのひとはいざというときに気後れするのだ、と言った権平の妻女の声が甦ってきた。それが事実なら、おそらく長坂権平の現在の不遇のみなもとはここにあるのだろう。  半十郎がそう思ったとき、目の前でふたたび銀次郎と権平がはげしく打ち合った。二人はめまぐるしく身体の位置を入れかえながら、つむじ風のように半十郎から少しはなれたところまで移って行くと、そこでもう一度打ち合った。まいったという権平の声がした。権平は肩を押さえている。  だが、いまの打ち合いは銀次郎の承服しがたいものだったようである。 「まだだ。貴公は技を出しつくしておらぬ」  と銀次郎が言い、権平がそんなことはないというのが聞こえた。半十郎が近づくと、権平はもう鉢巻をはずしかけていた。 「このとおり、試合には応じ申した。約束は守っていただきたい」  半十郎を見て権平はそう言った。顔いろはいつもの青白さを取りもどし、吊り上がった目ももとにもどっている。  その顔を見ながら、半十郎はむろん約束は守る、試合することが眼目で勝敗はかかわりがないことだと言った。 「しかし長坂権平。貴公に聞くがこの試合、はたして男らしく勝負したかな」  権平は答えなかった。うつむいて襷をはずしにかかっている。待て、と半十郎は言った。 「貴公には言わなかったが、じつは先日、石橋と一緒に三宅どのをたずねて、貴公の女房どのに会ってきた」  権平は顔を上げた。 「その折、もし貴公が試合に応じて旧禄がある程度もどるようなことがあれば、長坂の家に帰られるかどうかと聞きただした。それというのも、そこで女房どのが家にもどると言えば、貴公もこの試合で全力をつくして闘うだろうと考えたからだ」 「………」 「だが女房どのの答はわれわれの見込みとは少しく違っておった。旧禄が返る返らないは問題ではない。試合を挑まれて貴公が男らしく闘ったとわかれば家に帰るだろう、もし武士らしからぬ試合ぶりと見えたら家にはもどらぬと申されたのだ」 「………」 「さて、もう一度聞こう。おぬし、今日の試合で心おきなく闘ったか。妻女に対して男らしく勝負したと言えるか」 「………」 「もうひとつ、これは言うべきことではないかも知れぬが、女房どのは貴公の子を姙っておられる。内心はさぞや家に帰りたがっていようとは思わんか」  半十郎の言葉が終ると、権平の顔がみるみる朱に染まった。権平は顔をそむけて、川むこうにひろがる稲田の上をわたってくる衰えた日差しを見、ついで身体をそちらに向けた。そのまましばらくじっとしていたが、やがて襷をしめ直し、ゆっくりと鉢巻をしめてから半十郎と銀次郎を振りむいた。そしてもう一度試合をおねがいしたいと言った。心得たと銀次郎が言った。 「今度は存分にまいる。怪我《けが》をなさらぬよう、お気をつけられよ」  木剣を提《さ》げてむかい合うと、権平は銀次郎に呼びかけた。静かだが、自信に満ちた声音に聞こえた。権平と銀次郎は、木剣をつかみ直すと足早にわかれてむかい合った。 「このとおり、拳《こぶし》の骨を砕かれましてな」  と言って、石橋銀次郎は厚く布で巻いた左拳を上げ、権平の妻女登実に見せた。今日は三宅重兵衛は登城して留守で、半十郎と銀次郎を迎えたのは重兵衛の妻女と登実の二人である。 「指一本、あるいは動かぬようになるかも知れぬと、医者が心配しておる」 「あとで矢野の当主にたしかめたところ、試合で遣ったわざは拳《こぶし》割りという権平どのの得意わざで、道場内では長く禁手とされていたそうだ」  と半十郎も言った。 「すると長坂は……」  登実がまだ不安が残る顔で銀次郎を見た。 「あなたさまと恥ずかしからぬ試合をしたのでしょうか」 「もちろん、もちろん。それがし完膚なきまで敗れ申した」  銀次郎の言葉で、半十郎は死闘ともいうべき二度目の試合をふり返っていた。この試合では権平は終始先手をとって技を仕かけ、最後には拳割りの一撃で銀次郎をふっ飛ばした。砕かれた拳を胸に抱えて、毬《まり》のように地面に身をまるめた銀次郎の姿がうかんでくる。 「まことに男らしい試合ぶりでござった。さすが権平どのは矢野道場の籠手打ち名人、矢野の名を辱しめぬ遣い手でござる」  半十郎がほめると、登実の目がさっと赤くなった。半十郎は銀次郎をうながして膝を起こした。権平の妻女を、気持よく泣かせてやろうと思ったのである。  外に出ると銀次郎がぼやいた。 「しかし、結局はカラ騒ぎだったな。あれほどの試合をしても『馬の骨』らしき技は出て来なかった。おれが大怪我をしただけだ」 「ま、いいではないか。権平が秘太刀の主でないことはわかったわけだから」 「あと二人残っておるか」  と銀次郎がつぶやいた。秋のつめたさをふくむ風が、うしろからも前からも吹いてきて、肩をならべて歩く二人をつつんだ。 [#改ページ]   甦る対決      一  暮に大雪が降って、城下はすっぽりと雪に覆われたままで年を越した。しかし今度こそ消えることはあるまいと思われた大量の雪は、正月三日を過ぎるころから溶けはじめ、十日ごろになるとわずかに家の陰や植込みの間に痕跡《こんせき》を残すだけになった。  北国にはめずらしく晴天がつづいていた。日射しは弱いながら終日家家の屋根や道、水量の減った川の流れを照らし、その上風も吹かない日は、もはや春かと思うほどに穏やかな一日が城下の上を通り過ぎるのだった。もっとも日は季節相応に早く暮れて、日が落ちてしまうと夜気はにわかに刺刺《とげとげ》しく冷えて、季節が冬にほかならないことを人人に思い出させた。  その日、近習《きんじゆう》頭取の浅沼半十郎は定刻に城を下がり、空にまだわずかに暮色が残るころに家にもどった。するとうす暗い門前に下僕の伊助がいた。道を掃いていたらしい。  主人の姿を見ると、伊助は手をやすめてお帰りなされませと挨拶した。 「伊助、墓まいりサ行ってきたか」  と半十郎は言った。今日は妻の杉江が伊助を供に菩提寺《ぼだいじ》に墓まいりに行ったはずである。 「いえ、それがですの、旦那さま」  意外なことに伊助は、元気のない声を出した。 「お供して出ましたども、奥さまは中途から引き返されましたので」 「引き返したと?」  半十郎は眉《まゆ》をひそめた。  今朝、登城間ぎわに杉江が墓まいりに行かせてもらいたいと言った。むろん半十郎はすぐに許しをあたえた。  杉江が墓まいりに行きたいと言い出したのはいい徴候だった。待望した長男を病気で失ってそろそろ二年になる。墓まいりに行くというのは、それだけの月日を経てようやく子供の死を胸に受け入れられるようになってきたしるしとみることもできた。  杉江はまだ、夫の半十郎をそれとなく避ける態度をくずしていなかった。夫の手落ちのせいで子供が死んだ、おそらくそう思うことで杉江はいくらか悲しみをまぎらすことができたのだろう。気持のそういう歪《ゆが》みは胸の奥深いところで痼《こりかたま》り、一朝一夕では改まらないらしかった。  しかしそのほかのことでは、杉江は少しずつ気持の平衡を取りもどしてきているようだった。近ごろは、婢《はしため》のふでに長い間まかせきりだった台所にも時どき入るようになったし、長男を亡くしてから、どことなくそばに近づけるのを忌むように見えた娘の直江にも、声をかけて面倒をみるようになっていた。  ただ、杉江は一時ことわりもなく実家に行って、半十郎の悪口を言ったりしていたのが、ここ半年ぐらいはぷっつりと外出がやみ、深く家に閉じこもる様子なのを、半十郎はひそかに懸念して見ていたのである。こういったあれこれを考えあわせて、半十郎は今朝杉江が自分から墓まいりを言い出したのをひそかに喜んでいたのであった。  ──だが、引き返したとなると……。  喜んだのはちと早合点だったようだと半十郎は思った。要するにひと筋縄ではいかないということらしい、と思いながら念のために聞いた。 「引き返したのは、何かわけがあってか」 「くたびれたさけ、またの日にするとおっしゃられただけでがんしたども」  と伊助は言った。  伊助は五十三、髪は白くなったが身体は頑丈で骨惜しみをせず、性格は律儀で得難い奉公人だった。墓まいりが取りやめになったのを、自分のせいであるかのように恐縮している。半十郎はごくろうだったと伊助を犒《ねぎら》った。  入口で帰宅を告げると、出迎えたのはふでと直江だけだった。杉江は例によって、半十郎の声を聞くとさっさと自分の部屋にひきこもってしまったらしかった。  ──ふむ、そういうつもりなら……。  なぜ墓まいりを中止したかと気の重いことをたずねる手間がはぶけたというものだ、と半十郎は思った。  着替えて茶の間に入ると、ふでが食事の支度をはこんできて、膳のそばに直江が坐っている。 「お給仕をいたします」  と直江は言った。大人のような手つきで飯櫃《めしびつ》からご飯を盛りつけ、大根の味噌汁をよそった。直江は正月がきて六歳になった。 「今日は何をして過ごしたな」  半十郎がたずねると、直江は膝《ひざ》に手をおいた行儀のいい姿勢のままで答えた。 「今日はおかあさまに小太刀を習いました。それからお布団のほぐし方を習いました」 「それはふでに習ったか」 「いえ、おかあさまです」  ほほうと半十郎は言った。杉江は娘のころに長谷という小太刀の道場に通い、兄の新兵衛より筋がよいと言われたことがある。直江に小太刀を教える気になったのは、近ごろの杉江の様子からみて格別不思議はないが、娘に夜具のほぐし方を教えたというのは、子供の面倒をみる気持がもどったと信じてよさそうだった。  衣類や夜具の仕立てや洗い張りの仕事は、武家の女たちの躾《しつけ》の中でも軽からざるものだった。そういうこまかな仕事を手ぎわよくやってのける嫁が、婚家でいい嫁と呼ばれる。杉江は縫物などの躾をふでにまかせてきたのだが、ようやく自分で娘の躾に取りかかったとみていいようだった。  夜食の膳にはハタハタの田楽焼きが載った。季節の魚なので安く買えたとふでが言ったが、近ごろは近習頭取ぐらいの家では毎日魚を喰うというわけにはいかず、魚体の大きなハタハタはうまかった。  半十郎は自分の部屋にもどって、直江がはこんできた茶を飲んだ。部屋にもどると、待っていたように隣の部屋から杉江が立って行く物音がしたが、半十郎は今夜はそういうことがあまり気にならなかった。紆余《うよ》曲折はありながら、少しずつ杉江が回復しつつあることが信じられたからである。  直江の顔いろが明るくなった、と半十郎は思った。子供は親をうつす鏡だ。親次第で明るくもなり、暗くもなると思ったとき、ふでが部屋の外にきてお客さまでがんすと言った。来たのは石橋銀次郎だという。  半十郎が立って入口に行くと、お疲れのところを相済まんがと前置きして、銀次郎が言った。 「これから飯塚孫之丞をたずねる。同道してもらえんか」 「飯塚はとっかかりがなくてだめだと申したではないか」 「それが、説得に恰好《かつこう》の密事をさがしあてたのだ。飯塚もそれを持ち出されたら、試合の申し込みをこばむことはむつかしかろうて」  と銀次郎は言った。      二  夏ならばまだ路上に子供が遊んでいる時刻だが、冬の夜は底知れず暗い。銀次郎が持つ提灯《ちようちん》の光が足もとを照らすだけで、二人が歩いて行く道には、前後に明かりひとつ見えなかった。  その暗やみの奥から寒気が押しよせてくるのに堪えながら、半十郎は孫之丞の密事とは何だと聞いた。 「それは先方に着けばわかる」 「もったいぶらずに聞かせぬか」  と半十郎は催促した。飯塚孫之丞は配下である。銀次郎がにぎったという密事なるものが気になった。上司の半十郎が知るかぎり、飯塚孫之丞は裏おもてのない人間である。性格は勁直《けいちよく》だが粗暴ではなく、快活ではあるがむしろ立居はやわらかくつつしみ深い。孫之丞のような若者こそ、真に男の中の男というものだと日ごろ半十郎は思っている。  その孫之丞に、銀次郎の前に膝を屈しなければならないような密事があるとは信じがたい。銀次郎の誤解ではないかと、半十郎は無意識のうちに配下をかばう気持になっている。銀次郎と矢野道場の高弟との間を周旋するのは、小出家老との約束だからやむを得ない役目だが、飯塚孫之丞が密事とやらのために窮地に立たされるのは見たくなかった。  銀次郎が黙っているので、半十郎はもうひと押しした。 「孫之丞は、およそ秘事、密事などは似合わん男だ。なにか貴公の誤解ではないのか」 「いや、誤解ではない」  銀次郎は半十郎の執拗な詰問に閉口したというように、ようやく口をひらいて飯塚孫之丞は、さる試合で相手に勝ちを譲ったことがあると言った。 「そんなことが問題になるのか」 「なる」  と銀次郎は言った。歩きながらの、しかも提灯の光しかない夜道だから表情は読めないが、銀次郎の声は自信ありげに聞こえた。 「孫之丞が勝ちを譲った試合は、御前試合だ。四年前のことになるがな。ことは重大だと思わんか」  半十郎は小さなうめき声を洩《も》らした。銀次郎が言う御前試合というのは、年に一度行なわれる藩士の武芸検分のことに違いあるまい。藩士の日ごろの鍛練ぶりを検分するのは、大方は家老、中老などの執政の役目だが、藩主在国のときは剣術を藩主自身が見ることがある。  弓は城内二ノ丸にある矢場で、剣術は励武館で見るのが恒例だが、剣術の方は時には二ノ丸の広場に藩主以下が見物する桟敷を組んで、いわゆる御前試合の形で検分したりする。四年前の藩主検分がそうだったのを、半十郎は思い出していた。 「相手は?」 「井森敬之進だそうだ」 「御使番家の井森か。彼も遣い手だぞ」 「しかし孫之丞の方が上だったと言っておる」 「誰が?」 「氏家清太夫。その試合で二人の試合の審判役を勤めた人物だ」 「ああ、そうだったかな」  と半十郎は言った。剣術試合は十数番から二十番ほども行なわれるので、審判役も四人ほどが交代で勤める。氏家は勘定方に長く勤め、数年前に家督を譲って隠居した人だが、励武館で小野派一刀流の安藤孫兵衛に学び一時は筆頭の高弟と言われた人で、隠居後も審判役に駆り出されたのであったろう。  半十郎自身は同じ日、寺前町の矢場で行なわれた足軽組の鉄砲撃ちの検分役の一人に選ばれ、そっちに出むいたので孫之丞と井森の試合は見ていない。 「はて、孫之丞は大事の試合でなぜ勝ちを譲ったりしたのかな」  半十郎のそのさりげない質問に、銀次郎はすぐには答えなかったが、半十郎が答えをせつくと、少し臆測《おくそく》が入っておるがと言ってつぎのような話をした。  飯塚孫之丞と井森敬之進は、剣の修行はべつべつの道場でしたが、学問の方は藩校の講学館の同期で親友のまじわりをした仲だった。そしてもう一人同期の親友がいて、それが加治新之助である。加治を加えた三人は、若年のころにしじゅうそれぞれの家にあつまったり、一緒に海釣りに出かけたりしていたので、孫之丞と加治が家督を継いで城に出仕するようになったいまも、非番の日には申し合わせてあつまっている。  加治家には素女《もとめ》という名前の新之助の妹がいて、三年前に井森敬之進に嫁入った。子供はまだない。 「その女子《おなご》が問題だった」  と銀次郎が言った。そしてこの男にしては思いがけない味なことばをつづけた。 「佳人だ。いまもな」  男三人のつき合いは長い年月にわたっている。当然ながら孫之丞も敬之進も、その長い年月の間に、ちらちらとかいま見るだけにしろ、新之助の妹が繭《まゆ》を脱ぎ捨てるようにうつくしく成人するのを見てきた。関心を持たざるを得ない。  加治家ではそのことをとっくに承知していた。しかし加治家も敬之進の家と同じく御使番を勤める家で、藩命で他国に使いするという職業柄か、家風に城勤めひと筋の家よりはさばけたところがあった。多分そのせいだろうが、加治家では二人の若者が素女に関心を持っているのを咎《とが》めなかった。  それどころか、加治家の先の当主加治左門は、四年前の武芸検分で孫之丞と井森敬之進の組合わせが決まると、その試合で勝った方に素女を嫁がせてもいいと言った。 「と、いうのだが臆測がまじるというのは、このへんのことだ。加治家の隠居がそう言ったのを、じかに聞いた者は誰もおらん」  銀次郎は言ったが、すぐにことばをつづけた。 「しかし試合の前にひろくそのようなうわさが流れたことは事実だったというし、またつい最近になって、うわさを裏づけるようなことが耳に入ってきた」 「ほう、どんなことだ」 「小出の屋敷に出入りしている男で、鹿間というのがいる」  と銀次郎は言った。  鹿間は孫之丞たちより少し齢上《としうえ》で、右筆《ゆうひつ》役を勤める男だが、加治素女が井森家の嫁となったころに、たまたま城中の廊下の端で加治新之助が孫之丞にこう言っているのを聞いた。 「妹は、本音のところはおまえに嫁ぎたかったらしいな。残念だ。父だって、おまえが勝つと思ったからあんなことを言ったらしいぞ」  鹿間は失礼と声をかけて立ち話をしている二人のわきを通りすぎたのだが、孫之丞の顔が血の気を失っているのを見た。 「なるほど。それで……」  と半十郎は言った。 「貴公は孫之丞が四年前の試合でわざと負け、加治どのの娘を井森に譲ったと推測したわけかの」 「まさか」  銀次郎はめずらしく、人のよいテレたような笑い声を洩らした。 「それがしにそんな眼力はない。しかし鹿間からそういう話を聞いたときに、これは何かあるぞという気がしたのは事実だ。鹿間は試合があったころのうわさやら何やらをよくおぼえておったから、審判役が氏家だったこともなんなくわかった。そこで氏家の隠居をたずねて話を聞いたのだ」 「熱心なことだ」 「こっちも、何かしら孫之丞の弱味をにぎらなきゃならん。必死だ」 「氏家清太夫は、孫之丞が勝ちを譲ったとはっきり申したのか」 「いや、そうは言わなかった。御前試合だったので言うを憚《はばか》ったということだろう。そのかわり二度も、剣の腕は孫之丞が上だった、不思議な試合だったと言った」 「なるほど」  それはやはり不正試合だったのだろうか、と半十郎は思った。井森敬之進も城下の貝塚という小栗流の道場で俊才と呼ばれた高弟だが、矢野道場創始以来の天才剣士飯塚孫之丞には一歩を譲るのではないか。 「しかしそれにしてもわがらねのう」  半十郎は思わず土地ことばになった。 「かりにそうだとして、孫之丞は何で娘を井森に譲ったのだ。おぬし、その点は何か見当がついたか」 「いいや」 「飯塚は百石、加治は御使番の頭領家ゆえ四百石だ。格式に遠慮したかな」 「それもあるかも知れませんな」 「しかし先方でくれるというものなら、遠慮なく試合に勝って、娘をもらえばよかったではないか」 「ほかに、男ぶりのことがある」  と銀次郎が言った。 「井森敬之進は市中の女子どもが振り返るような美男子だ。それにくらべると、孫之丞はちと見劣りする」 「バカくせえ」  半十郎はまた土地ことばで言った。 「それこそ臆測もいいところだ。孫之丞だって男らしさではひけをとらぬ」 「だが美男子ではない」  自身美男子の石橋銀次郎は自説にこだわったが、そのとき二人は飯塚孫之丞の家の前に出た。銀次郎は提灯を上げて門を照らした。 「門構えひとつにしても、かように違うからな。孫之丞の心境は複雑だったろうて。どれ、それも本人に会えばわかるかも知れん」      三  家老にたのまれたから石橋をひきあわせるだけのことで、わしに遠慮することはない、矢野道場の門弟として応対しろと半十郎が言ったので、飯塚孫之丞は銀次郎に胸を張って応対した。 「矢野道場に『馬の骨』という秘太刀が伝わっていることは、ご存じでしょうな」 「耳にはしております」 「伝授を受けたのは貴公ではありませんかな」 「それがしが?」  孫之丞は鋭い目で銀次郎を見返した。剣士の目だった。孫之丞は頬骨《ほおぼね》が出て、顔が痩《や》せている。目はやや細く、口は大きくたしかに美男子とは言えない顔だが、ひきむすんだ口、鋭い光を宿す目は精気にあふれて男らしい相貌を形づくっている。  孫之丞が痩せているのは、いまも早朝の一刻をはげしく木剣をふるって身体を酷使するからだと言われていた。銀次郎にむけた目は鋭いが、孫之丞の口調は落ちついてやわらかかった。 「それがしは門弟としては新参。もはやお調べのように洩れ聞いておりますが、道場の先輩にそれがしより力量すぐれた方方が多数おられる。新参のそれがしが秘伝を譲られるわけはありません」 「しかし、貴公が矢野道場はじまって以来の剣士だということも聞いておる」 「それは単なる……」  孫之丞は軽く言った。 「人のうわさでございましょう。人はおもしろおかしくいろいろ評判するものですが、事実は案外に殺風景なものでありまして、それがしが歯の立たぬ先輩が、あの道場にはごろごろおられました」 「たとえば?」 「北爪平九郎どの、沖山茂兵衛どの、長坂権平どの……」 「それはちと、ご謙遜《けんそん》ではないのかな」  と銀次郎が言った。 「北爪どののことは皆目わからんが、貴公の腕は沖山、長坂を上回るのではないか」 「それは貴公の臆測にすぎません」 「では、そのことを確かめさせてもらわねばなるまい」  と銀次郎が言った。 「一度それがしと立ち合ってもらえませんかな」 「それがしの技のほどを試すためにですか。それとも『馬の骨』をさぐるためですかな」 「立ち合ってもらえば、お手前がいま言われたすべてが判明いたそう」  銀次郎は自信満満の口調で言った。だが孫之丞はその声をはね返すように、きっぱりと言った。 「道場では他流試合を禁じております。おことわりいたそう」 「これはつれないご返事だ」  銀次郎は顔にうす笑いをうかべた。 「しかしそれがしとしても、ここでそうですかと引きさがるわけにも参らぬ。ぜひとも試合していただかなくては困る立場だ」 「………」  孫之丞は、銀次郎のうす笑いにはつき合わなかった。無言で鋭い視線を相手にそそいでいる。 「さようさ、それではここで取引きと行こうか。忌憚《きたん》なく言うと、それがし貴公の弱味をひとつ握っておる。試合に応じてくれれば、そのことは一切他言いたすまい。しかし、あくまで拒むということであれば、外にむかってそのことを言いひろめるかも知れん」 「取引きとは異なことを申される」  と孫之丞は言った。銀次郎の言い方はかなり挑発的なものだったが、それにはのらず孫之丞の口調は落ちついていた。 「伝え聞くところでは、尊公はわが先輩たちにもさような脅しをかけて試合を強制したらしいが、それがし、脅されて試合に応じねばならぬような弱味は思いあたらぬ。この取引きは成り立ちますまい」 「はたしてそうかな、飯塚孫之丞」  銀次郎はにやにや笑いをひっこめた。そして声にわずかに恫喝《どうかつ》のひびきをつけ加えた。矢野道場の高弟たちに試合を強いているうちに、脅しもうまくなったようである。  いやな男だ、と半十郎は思った。はっきりそう思ったのははじめてだった。脅されているのが自分の配下だからというだけではない。半十郎は近ごろ、秘太刀「馬の骨」に対する銀次郎の執心ぶりに、やや偏執的なものを感じる。  また、これまでの苛酷《かこく》といってもよい試合の経過は逐一銀次郎から聞き、軽くはない怪我《けが》をした甥《おい》を見てもいるはずなのに、依然として秘太刀の探索を中止させる気もないらしい小出家老にも、不信感が動く。銀次郎の怪我をひと目見れば、甥がまかり間違えば命にかかわる試合をしていることはわかりそうなものではないか。  ──それでもやめさせないわけは何だ。  と半十郎は思わざるを得ない。小出家老は「馬の骨」の遣い手を確かめたい理由を、たしか三つほど挙げたはずだが、それにしても甥が命を賭《か》けなければならないようなものではなかった。家老には、べつに真意があるのではないか。銀次郎の命をかけても秘太刀の主を探し出さなければならないような、のっぴきならない理由があるのではないか。  そう考えると、半十郎の胸には自分が、実際には聞かされた理由とはべつの目的で家老に使われているのではないか、という不快な疑念までうかんでくる。気持がすっきりしなかった。  半十郎は、近ごろは自分の役割を、自分が介在することで、試合が破滅的な様相を呈するのをふせぐことにある、と割り切っていた。そのために、試合はひそかに行なわれ、公けになることをまぬがれている。そのひそかな進行を取り仕切るのは、小出派に籍をおく者として当然の勤めだと、半十郎は思っていた。試合が歯止めを失ってことが公けになれば、あるいは小出家老は藩中の囂囂《ごうごう》たる非難を浴びかねないだろう。家老がそこまでの役割を自分に期待しているかどうかはわからないが、それにはかかわりなく自分の勤めをはたすだけだと半十郎は思っていた。  だがそう割り切っても、銀次郎が孫之丞を恫喝している席に居合わせると、半十郎は配下の前で脅しの片棒をかついでいるような気がしてくる。はなはだ不愉快だった。  それまでは黙っていたが、半十郎はそこではじめて口をはさんだ。 「脅しはこのご仁の常套《じようとう》手段だ。気にすることはないぞ、孫之丞」  半十郎がそう言うと、銀次郎はじろりと半十郎をにらみ、孫之丞は軽く一礼した。では、申そうかと銀次郎が言った。 「四年前のことになるが、城内二ノ丸で行なわれた武芸検分の試合で、貴公は相手に勝ちを譲っておる」 「………」 「相手は井森敬之進だ」  孫之丞は一度天井を見上げた。つぎにうつむくと孫之丞の顔面はみるみる赤くなった。その孫之丞に銀次郎は勝ちほこったように追い討ちをかけた。 「そのときの試合は御前試合だったそうだ。すると藩主をあざむいたことにならんかな」  孫之丞は一言も発せず、じっとうつむいている。その姿を、半十郎は痛ましい気持で眺めた。銀次郎はああ言ったが、半十郎は胸のどこかで、孫之丞に限って公けの場で不正な試合をするなどということがあるものかと思っていたのである。  その期待は裏切られた。孫之丞の様子を見れば一目瞭然である。若い者の無分別、と思ったとき、孫之丞が顔を上げた。  さすがに強い意志力の持主である。孫之丞は平静な顔色にもどっていた。低い声で言った。 「試合をすれば他言せぬと言われましたな」 「さよう」 「では、その申し込み、お受けいたそう」  半十郎の家の伊助よりはるかに年老いた老僕が、履物をそろえ、提灯に灯をいれて客を送り出した。孫之丞の家は母一人子一人の家で、屋敷の中はひっそりとしている。  石橋銀次郎が先に庭に出るのを見送って、半十郎はわざと一歩遅れ、土間に降りた孫之丞を振りむいた。 「勝ちを譲った真の理由は何だ」 「………」 「人には洩らさぬ。言え」 「いや、つまり素女どのが、敬之進に嫁ぐことをのぞんでおられるように思われましたので……」 「下世話に言う気のあるようなそぶりが見えたというのか」 「はあ」  半十郎の脳裏に、まだ面皰《にきび》くさかった若いころのひとつの情景がうかんできた。蜂谷という男がいた。蜂谷は御番頭《ごばんがしら》を勤める蜂谷家の三男で、いまは隣藩にいる親族の家の養子におさまっているが、そのころは半十郎の妻女杉江の兄谷村新兵衛と頻繁につき合っていた。講学館で机をならべているとかで、半十郎より二つ齢上だった。  その蜂谷と、半十郎は時どき杉江の家で顔を合わせることがあった。谷村の家に行ったから必ず杉江に会えるというわけではなく、その機会はごく稀《まれ》にしかおとずれなかったが、新兵衛が気をきかせて杉江に茶を点《た》てさせ、二人に馳走《ちそう》するなどということがなきにしもあらずで、そういうとき半十郎は同席している蜂谷のことが気になって仕方がなかったものである。  それというのも、蜂谷はすこぶる風采のいい男で、加えて上士の家の人間らしく、物おじせずに杉江に話しかけたりする気さくさを持ち合わせていた。半十郎のように、うじうじと杉江の様子をうかがって一言も発しないなどということはなかった。そして話しかけられれば杉江は、つつましくはあったがはきはきと蜂谷に応答して、その間半十郎には一顧もあたえず半十郎の気分を限りなく滅入らせたものであった。  半十郎はさすがに醜い嫉妬《しつと》心は押さえこんだが、そういう日は何とはなしものがなしい気分を胸に抱えて谷村家をあとにしたのである。  しかしそのあと無事に杉江を娶《めと》ってから、その当時のことを持ち出すと、杉江は笑いをこらえる顔になって言った。 「おまえさまも、女子《おなご》の気持にはとんとうといお人ですなあ」  そして杉江は、女は心を寄せる人にはあんなにぺらぺらしゃべるものではないこと、また蜂谷にわざと親しげにして、同席している半十郎に焼き餅をやかせたい気持もなかったわけではない、とおどろくべき解説を聞かせて半十郎を唖然《あぜん》とさせたのである。  杉江の場合と素女という女性のことが、同じだとはもちろん断定できるものではない。だが、あざやかに記憶に甦《よみがえ》ってくる古い情景を思い出しながら、半十郎はひとこと言わずにはいられなかった。 「女子のすることは、時には本心と逆のこともあるようだがの。ま、いまそれを言っても仕方ないか」  半十郎は敷居をまたぎかけて、また一歩土間に引き返した。声をひそめた。 「そなたがいまだに娶らず、ひとり身でいるのは、その素女という女子にかかわりはあるまいな」 「いや」  と孫之丞は言った。そしてあわてていや、それは違いまするとつけ加えたが、その声は孫之丞らしくなく断固としたひびきを欠いていた。  それならよし、と言って半十郎は外へ出た。門の外で、銀次郎と飯塚の老僕がこちらをむいて半十郎が出てくるのを待っているのが提灯の明かりで見えた。  半十郎は、外へ見送りに出てきた孫之丞を、ここでよいと押しとどめた。そして銀次郎の方を見ながらささやいた。 「試合は適当にあしらって、負けてやればよい。本気を出すにはおよばんぞ」  そのときは、そう言ったことがあとで事件をひき起こすことになろうとは、半十郎はまったく予想もしなかったのである。  石橋銀次郎と飯塚孫之丞の試合は、半十郎が立ち合ってそれから五日後に、稽古が終って無人になった励武館で行なわれた。試合ははげしい打ち合いのあとで肩を打たれた孫之丞が、負けを告げて終った。      四  下城の後始末をして、半十郎が詰所を出ると廊下をこちらに谷村新兵衛がやってくるのが見えた。どうした、と半十郎は言った。 「まだこのあたりサ、用でもあったか」 「いや、いや、さにあらず」  と新兵衛は言った。 「おぬしが下がったかどうか、様子見サきたどこだ」 「ンだばちょうどよかった。一緒に下がるか」  と半十郎は言った。  石橋銀次郎と飯塚孫之丞が励武館で試合してから、二十日近く経《た》っている。そのあともう一度大雪が降り、城下にはまだ大雪の跡が残っているが、その上を照りわたる日差しは強く、日没のおとずれは遅くなって、その明るさは春の到来の間もないことを告げるようだった。  半十郎と新兵衛は、まだ明るい光がただよう廊下を、連れ立って表口の方に歩いた。 「何か、急な用事でもあったけか」  半十郎が言うと、新兵衛はされば用事といえば用事とつぶやいた。どことなくうかない顔をしている。 「いや、外サ出てから話そう」  と新兵衛は言った。暮近いころは、同じ時刻に城内はすっかりうす暗くなって、下城するために廊下を歩いていても、めったに人には会わなかったものだが、いまは様子が変って、まだかなりの人が城内にいて、会釈してすれ違ったりする。  事務方の者だろうが、胸に大量の書類を抱えこんだ者が奥の方にいそぐ姿も見えた。まだこれから居残り仕事をするつもりかも知れなかった。外に出てから話すと新兵衛が言うのは、そういう人影をはばかってのことだろう、と半十郎は思った。  大手門を過ぎて三ノ丸の広場に出ると、そこには日没にまだ少し間がある日の光がふりそそぎ、ごった返すほどに下城の人人が動いていた。人人に踏みしだかれ、一日中日に照らされて、広場の中央や往来の道筋には黒い地面があらわれ、雪は会所や郡代屋敷の塀ぎわに厚く残るだけになっている。 「今日はまた、船附町サ行かねばならんのだが」  と半十郎が言うと、新兵衛は杉江の薬かと聞いた。 「ンだ」 「ンだば、おれも途中までつき合おう」  と新兵衛は言った。二人は人の流れに背を押されるようにしながら正面の木戸の方にむかった。三ノ丸の城門を抜け、堀をわたって正面の木戸を出ると、二人は商人町に入って行った。下城の藩士、足軽の姿はそのあたりでようやく疎《まば》らになった。 「薬もれえに行くところをみると、杉江は相変らずのようだの」 「いや、だいぶよくなった」  半十郎は、杉江が近ごろ母親らしく直江にかまうようになったこと、途中から引き返したが、一度は思い立って子供の墓まいりに行こうとしたことなどを話した。 「薬はもらっているども、毎日飲むには及ばぬと医者は言っている。中身もごく軽いものに変えてあるそうだ」 「それはいい徴候だ。しかしごくろうだの」 「いや、明日は非番だ。どうということはない。ところで……」  と半十郎は言った。 「話というのは何だ」 「うん」  新兵衛は自分から半十郎を誘ったくせに、気の重そうなそぶりをみせた。そして少しずつ話しはじめた。  去年の暮に、新兵衛の家を一人の男がたずねてきた。家の名前は聞いたことがあるが、面識はない藩士である。上にあげて話を聞いてみると、小出家老派に入らぬかという誘いのための訪問だった。新兵衛は派閥に与《くみ》せぬことを信条としているので、丁重にことわって帰ってもらった。  するとその翌日の夜、まるで前日に小出派の者が誘いにきたのを見ていたように、今度は杉原派の者がきた。用件は同じである。その男は面識もあり、多少はつき合いもある男だったので、新兵衛はことわるのに苦労したが、ひとまずはことわって帰ってもらった。  その夜のことで新兵衛の印象に強く残ったことがある。杉原派からきた佐野という男は、きたときもいつの間にか入口の土間に立っていたというように、だしぬけに訪《おとな》いをいれたが、帰るときも新兵衛の見送りをことわった。新兵衛が細めにあけた戸の隙間から見ていると、佐野は長いこと門の内側で外の様子を窺《うかが》い、やがて闇に溶けこむように姿を消した。佐野の行動は、新兵衛の胸に軽い恐怖心を残した。 「元の家老杉原さまの病気が全快して、両派の抗争がはげしくなっているのだ」  新兵衛の話を聞いた半十郎は言った。 「両派の人の取り合いが露骨になったことは、わしも聞いている。こういうときに新たに一方の派閥に与する者は、相手側から憎まれるかも知れんな」 「とんだ迷惑だ」  新兵衛は愚痴《ぐち》を言った。 「しかし、ことわったのならそれでいいではないか」 「それが、それで納まらぬから困っている」  と新兵衛は言った。新兵衛は左右の人ごみに目を走らせてから声をひそめた。 「さっき申した二人だが、年が明けてからもちょくちょくきておる。じつに疲れる」 「ははあ、それは大変だ」 「人ごとのように申すな」  新兵衛は尖《とが》った声を出したが、すぐに溜息《ためいき》をついた。 「いやだというのを無理にも加担しろという。己《おの》が孤塁を守るのも難儀なことだ」 「いっそ、肚《はら》を決めてどっちかに与したらどうだ」  と半十郎は言った。 「その方がいまのどっちつかずの状態より、気持がすっきりするのではないか」 「与すれば、斬り合いに巻きこまれる」  と谷村新兵衛は言った。深夜どこそこの町角で斬り合いがあった、行者橋の上に血がこぼれていたというようなうわさを、新兵衛も耳にしているらしい。  あれは佐野のように、派閥の人数をふやすために働いている命知らずの男たちの話だと、半十郎は言った。 「若くて生きのいい連中のことだ。おぬしがどっちかに与したからといって、いきなり闇討ちを食うわけじゃない」 「まことか」  新兵衛は疑わしそうな顔をした。己が孤塁を守るとりっぱなことを言うが、中身は要するに臆病《おくびよう》ということである。相手が義兄でなければ、半十郎は内心失笑するところだった。  だが義兄をからかっても仕方がない。半十郎はまことだと請け合った。 「小出派でも、旧家老派でもどちらでもよい。思い切って籍を預ければいいのだ。そうすればいざというときは派閥も守ってくれるだろう」 「しかし杉原派に与しては、貴公と敵対してしまうな」 「入るなら杉原派というわけか」 「まあな」  新兵衛は気がすすまない表情で言った。 「しいて気持を言えばということだよ。入りたいわけじゃない」 「じゃ、杉原派に入ったらよい。案外敵対することにはならんかも知れぬぞ」 「それはどういう意味だ」  今度は半十郎があたりに目をくばった。二人は松根町の南はずれ、軒の低い足軽長屋がならぶ一角にきていた。歩いているうちに日が落ちたらしく、あたりには暮色がひろがっていた。その中に、足軽長屋から流れ出る炊飯の煙がただよっている。  二人は立ちどまった。すぐ先に見えている四辻を右に曲れば新兵衛の家に帰る橋に出るし、半十郎は真直《まつす》ぐ先にすすんでその先にある職人町を通り抜け、船附町まで行かねばならない。帰りは暗くなるだろう。  雪はこのあたりでは生垣の根もとに細長く残るだけで、道は乾いていた。人の姿は見えなかったが、半十郎は声をひそめた。 「それについてはくわしい話がある。わしは明日非番だから、城の帰りに寄らんか。おお、そうだ、ひさしぶりに杉江の手料理で夜食を食うつもりできたらよい」      五  しかし谷村新兵衛にそう言った翌日、下城にはまだ半刻《はんとき》ほどの間があるかと思われる時刻に、浅沼半十郎は小出家老から使いをもらった。たのみたい用ができたので、大いそぎで屋敷まで来てもらいたい、というのが使いの口上だった。  半十郎は、兄の新兵衛に夜食を馳走するために台所に立っている杉江に事情を告げ、あとをまかせると言った。それまで上機嫌だった杉江の目がつり上がるのを見て、半十郎は日が暮れるまでにはもどれようと付け加えたが、べつに確信があって言ったわけではなかった。取りあえず現状を糊塗《こと》しただけである。家を出ると、いそぎ足に小出家老の屋敷にむかった。  玄関に入って訪いをいれると、若い家士が出てきて、すぐに半十郎を家老の居間に案内した。家士の足どりはあわただしく、うしろに従いながら半十郎はよほどの急用ができたらしいのを悟った。胸に強い緊張感が生まれた。  居間に入ると、家老は人と話していた。総髪の髪を束ねた先で短く切り、顔は浅黒く、鼻が異様に高い男だった。齢は半十郎と同じぐらいで三十半ばほどかと思われた。  半十郎が部屋に入ると、それまで顔を寄せて密談でもしていたように見えた家老と男は身体をはなして半十郎を見た。男を見返したとき、半十郎は何かひやりとしたものを感じたが、すぐに家老に辞儀をして、ご用とは何事だろうかと聞いた。  すると小出|帯刀《たてわき》の口からいきなり怒声がとび出した。 「銀次郎め、あの愚か者がそなたにことわりもなく試合を企みおった」 「試合ですと? 誰と?」 「井森敬之進をそそのかして飯塚孫之丞と試合させるのだという。すぐに行って、その試合、やめさせてくれ」 「場所は?」 「馬場横の川岸だ、五間川の。これに……」  と言って、家老は横にいて、じっと半十郎を見ている男を振りむいた。 「そう申して出て行ったそうだ。まだ半刻は経《た》っておるまい」  事態の異様さはあきらかだった。失礼いたしますと言って、半十郎はすぐに膝を立てた。襖《ふすま》をしめようとした半十郎に、小出家老が部屋の中からわめいた。 「勝手なことをして、どちらかに死人でも出たらわしの命取りになる。みんな、わしの足を引っぱろうと待ちかまえているのだ。いそいでくれ」  若松町の家老の家を出た半十郎は、三ノ丸の堀に沿って城の南側に出ると、市中には入らず町の南端をかすめるようにして東にいそいだ。それが五間川の川岸に出る最短の近道である。  半十郎が歩いている道は、やがて町をはずれて野道になった。半十郎は立ちどまると、袴の股立《ももだ》ちを取った。そしてまだあちこちに雪が残っている道を疾駆した。  間もなく前方に雪に覆われた五間川の川岸が見えてきた。岸に沿って疎《まば》らな枯葦《かれあし》がつらなっている。五間川はそこからゆるやかに向きを変えて、すぐそこに見えている市中に入って行くのである。傾いた日が、川岸に残る雪と疎らに立つ赭《あか》い枯葦を照らしていた。橋板を踏み鳴らして、半十郎は欄干もない粗末な橋をわたった。  橋をわたり切って川岸を右に曲り、ところどころに雪が残る河岸道を走って行くと、前方に馬場の厩《うまや》とその建物のそばから東側につらなる桜の並木が見えてきた。そして河岸道と馬場を区切る馬柵も目に入ってきたが、人の姿はどこにも見えなかった。  ──遅れたか。  と半十郎は思った。にわかに息ぐるしくなって、半十郎は走りながら雪を掬《すく》い上げて口に抛《ほう》りこみ、噛《か》んだ。すると、くっついた喉《のど》がひらいて呼吸が楽になった。  そのときはげしい気合の声が交錯し、竹刀を打ち合う音がひびいてきた。物音は馬柵の角を曲った奥から聞こえてくる。半十郎は、長い馬柵の横をよたよたと走った。疲れた足が、ともすれば道に残る雪にとられて滑りそうになる。それでも走りつづけた。  馬柵の角に近づいたころに、柵の隙間のむこうに、人影が動いているのが見えた。半十郎は走りながら声を張りあげた。 「その試合、待った。双方竹刀をひけ」  だが、半十郎の声を掻《か》き消すように、またしても鋭い気合がひびき、がつがつと打ち合う竹刀の音がした。  半十郎は馬柵の角を回りこんだ。小出家老が言ったとおり、襷《たすき》、鉢巻に身支度をした飯塚孫之丞と井森敬之進が竹刀を構え合っていた。二人とも血だらけになっていた。顔からも拳《こぶし》からも血がしたたっている。ことに敬之進の傷はひどく、頭から流れおちる血が半面を染め、鉢巻まで真っ赤だった。  しかし敬之進は一歩もひかず、うす笑うような目を鋭く孫之丞にむけて隙を窺っている。その顔にうかんでいるのは、はげしい憎悪だった。ととのった美男顔だけに、敬之進の表情は凄惨《せいさん》だった。近づく半十郎に、孫之丞の方は背を斜めに見せているので、頬を流れる血がひと筋目に入るものの、こちらの表情まではわからなかった。  そして二人の動きがよく見える場所、川の縁に立ち合い人然と石橋銀次郎が立っている。その銀次郎に、半十郎は怒声を浴びせた。 「なぜ分けんのだ。竹刀をひかせろ」  銀次郎はちらと半十郎を振りむいたが、すぐに目を二人にもどした。無視したのだ。半十郎の胸に怒気がこみ上げてきた。  ──よし。そういうつもりなら……  なにがなんでも分けてしまおうと思った。半十郎は腰の刀を鞘《さや》がらみに抜き上げた。呼吸をはかって二人の間にふみこもうとしたとき、目の前の光景がはげしく揺れた。  気合をかわし、敬之進と孫之丞は打ち合いながら体を入れかえた。敬之進の身体がはじかれたように馬柵のそばまで飛んで倒れ、孫之丞は竹刀を高く天にさし上げたまま、すべるように二間余を前に走った。 「よし、それまで」  と銀次郎が言った。するとその声に孫之丞が振りむいた。孫之丞は身体を回してむき直ったが、半十郎を見なかった。ひたと銀次郎を見据えた。その目に殺気が動いているのを半十郎は見た。  孫之丞はずかずかともどってきた。そして銀次郎の一間ほど前までくると、立ちどまって足場を固めた。竹刀をつかんだ手はだらりと垂れている。 「ほかには洩らさぬ約束でござった。約束を破られましたな」  と孫之丞は言った。銀次郎を見る射るような眼光とはうらはらに、声は不気味に落ちついている。 「察するにこの間の試合にご不満があったらしい。ならばこの場でもう一度立ち合いましょうか」 「やめぬか、孫之丞」  半十郎が叱るのと、銀次郎が手を振って拒んだのが一緒になった。いや、ごめんこうむろうと銀次郎は言い、顔になだめるようなうす笑いをうかべた。 「おてまえのわざは十分に拝見した。いや、見事な技でござった。どうか、このままお引きとりねがいたい」  銀次郎の言葉を聞くと、孫之丞は足の構えを解いて半十郎にむき直った。襷、鉢巻をはずして一礼した。 「よんどころない事情で、お許しを得ずに試合をいたしてござります。いずれ、罰は甘んじてお受けいたす覚悟です」  うなずいた半十郎に、もう一度深深と頭を下げると、孫之丞は銀次郎には目もくれずに、馬柵のきわに行った。そこにはようやく上体を起こした井森敬之進が立ち上がろうとしていた。  しかし敬之進は肋骨でも痛めたのか、立ち上がりかけては腰を落とし、そのつど片手を地面につき、片手を胸にやっては深くうつむく動きを繰り返している。痛みで立ち上がる足を決められない様子である。  そばに立った孫之丞が何か声をかけ、手をさしのべた。だが井森敬之進はその手を強くはらいのけた。そしてその勢いで立ち上がった。襷、鉢巻をはずすと、敬之進はかばうように片腕で胸を抱き、やや前かがみの姿勢で歩き出した。半十郎の目に、血の気の失せた横顔が見えた。敬之進ははじめはおぼつかない足どりで歩いていたが、やがて少しずつ歩みをはやめて馬柵の角を曲ると、姿を消した。  その姿を見送ってから、飯塚孫之丞もゆっくりした足どりで歩き出した。二人の姿が馬柵の陰にかくれてから、半十郎は銀次郎を振りむいた。 「さあ、どうしてこういうことになったか、わけを聞かねばならんな」 「井森敬之進を、さる場所に呼び出して四年前の試合の話をしてやったのだ」 「しやっ」  と半十郎は憤激の声を吐き捨てた。怒りで胸の中が熱くなったが、じっとこらえて詰問に移った。 「孫之丞が譲った試合だと言ったのか」 「言った。そこが眼目だからな」 「まさか、女子を敬之進に譲るための不正試合だったなどと言ったのではあるまいな」 「それも言った。だが、おれより先に……」  銀次郎はうす笑いをうかべた。 「敬之進の方がそう申した。おれに素女を譲るためか、とな。不正試合と言われて、思いあたることはあったというわけだ」 「………」 「だから話はし易かった。おれは頭にある限りの推測を話してやったよ。孫之丞も素女という女子に心を寄せていた。女子のしあわせをねがって貴公に譲ったのではないかと言ってやった」 「いかなる目的あって、そのような愚にもつかぬおせっかいな真似《まね》をしたのだ。何のためだ」 「何のため?」  銀次郎はふてぶてしい顔つきになって半十郎を見た。 「二人にもう一度試合をさせるためよ。それが正義というものじゃないのか。井森敬之進も男なら、おれの話を聞いて黙ってはおるまいと思った。四年前の試合のケリをつけようとするはずだ。だが念のために、おれはけしかけてやったよ。試合をやり直すつもりなら、段取りはおれがつけようと言ってやったのだ」 「聞けば聞くほど、バカげた話だ。そんなものは正義ではない」  と半十郎は言った。 「貴公、気はたしかだろうな」 「たしかだとも」 「では聞くが、いまごろになって二人を試合させて何の利があるな? 二人の親友を仇敵《きゆうてき》同士に変えただけではないか。先に貴公は孫之丞の過去を掘り返して、それをタネに試合を強要し、励武館で試合をした。貴公はそれで目的を達したのではなかったのかな」 「いや」  銀次郎は牛のような横目で、半十郎を見た。 「いや、あの試合は孫之丞が手を抜いた。さっきの彼の言うことを聞いたか。孫之丞もそれを認めておる。真の試合とは言えぬ。それは尊公にだって見えたはずだ。だが、何も申されなかったな」 「………」 「わしは『馬の骨』を、ぜひともこの目で見たい。だから、飯塚孫之丞が死力を尽さざるを得ない、今日の試合を組んだのだ」 「………」 「しかし、敬之進が妻女を離縁したのは予想外のことだったな」 「なんだと!」 「おれの話を聞いたあとで、敬之進はただちに妻女を離縁して実家にもどした。それから孫之丞に試合を申し込んだのだ。気持はわからんでもないが、潔癖もそこまでいくと、ちと過ぎるだろうな」  半十郎は銀次郎から目をそらして、馬柵のむこうにひろがる馬場を見た。冬の間は馬の調練もあまり行なわないとみえて、馬場はまだ厚く雪に覆われていた。そのはるかむこうに細長い厩が建ち、その横にやや枝の赤らんだ桜の並木がつらなっている。  低い日差しが馬場の雪を染め、その上に馬柵が長い影を落としていた。黒っぽい厩も、両側の板壁は差しかける入り日を受けて鈍く光っているが、中に生き物が飼われているとは思えないほど、建物は静まり返っている。  銀次郎だけの罪ではない、と半十郎は思った。孫之丞に、銀次郎との試合をいい加減にあしらえと言ったこのおれにも、一半の責任はある。しかし、ではあのとき孫之丞にどう言えばよかったのだろう。  銀次郎を振りむいて、半十郎は行くかと言った。歩き出したとき、日の最後のかがやきがつめたく顔に貼《は》りついてくるのを感じた。目を上げると、城下の南西に遠く横たわる丘に、日が隠れるところだった。  そばを流れる川はもう暗くなりはじめていた。川水は少なく、岸辺にも川の中の砂洲《さす》にも雪が積もっている。雪の先端は氷盤となって、流れる水の上にかぶさるようにのびていた。水はその間を、音も立てずに流れていた。 「それで……」  歩きながら、半十郎は銀次郎を見た。 「『馬の骨』は見えたか」 「いや、孫之丞ではない」  と銀次郎は言った。 「いや、うわさにたがわず見事な技を遣ったが、おれの感触では『馬の骨』ではない」 「感触か」  半十郎は、銀次郎という若者が、何かひどくはかなく、たよりないものを追いもとめているような気がしてきた。  ふと思い出して言った。 「貴公、さっきは孫之丞に挑《いど》まれて尻ごみしたな」 「………」 「なぜだ? 立ち合っても勝てぬと思ったか」 「飯塚孫之丞に勝てる者は、おらんさ」  銀次郎は言ったが、そこでふと、赤松|織衛《おりえ》なら勝てるかも知れんとつぶやいた。 「赤松?」  鋭い勘がはたらいた。 「いま、小出さまのお屋敷にいる男か」 「会ったのか」  銀次郎がおどろいたように半十郎を見た。 「顔を合わせただけだが……」  半十郎の胸に、あのときの膚《はだ》がざわめくようだった感触がもどってきた。 「みかけぬご仁だったが、何者だな」 「江戸の父の知り合いさ」  銀次郎はつとめて軽く言う口調で言った。 「父に私用をたのまれてきているのだ。すぐに江戸にもどる」 「剣客か」 「いや、そういうわけでもない」  銀次郎はあいまいに言った。 「だが剣はできる。流派は聞いておらんが。孫之丞と立ち合わせたら、おもしろいことになるだろうて」      六  馬場横の試合があり、その夕刻谷村新兵衛が待ちくたびれて帰ってしまったので杉江との間に軽い悶着《もんちやく》があってから、ひと月ほどが過ぎた。その間、何度か雪が降り、強い風が吹いて城下の町町を吹雪が吹き抜けた日もあったが、季節は少しの遅滞もなく移って、春は目前だった。  町のあちこちに、まだ黒く汚れた雪の塊を見ることがあるものの、道は乾き、日は力強く城下の上を照りわたって、町を歩くとところどころで梅の花が匂った。  そんなある日、非番で縁側に出て釣り竿の手入れをしていた半十郎の前に、いつの間に門を入ったのか、ずかずかと近づいてきた男がいる。矢野道場の長老内藤半左衛門だった。 「いや、本日はよい日和《ひより》にござります」  内藤老人は大声で挨拶した。半十郎は竿を片寄せて居住いをただした。 「やあ、内藤老人。あの節は失礼いたした。相変らずの矍鑠《かくしやく》ぶりで何よりだ」 「それがでござる。雪で出歩くことが少なかったせいか、ちと足が弱って来申した」 「それはいかん。人間歩くのが身体には一番いいようだ。しかし季節もよくなった。また、せっせと歩かれよ」  半十郎はどうもこの老人に甘い。ふだんひとには言えないような、調子のいいことを口にした。 「さあ、上がられよ。奥で話そう」 「いや、今日はここで」  と老人は言った。 「内内の相談を済ましたら、すぐに罷《まか》り帰る」 「相談? はて、何だろう」  さればと言って、内藤半左衛門はずいと前に寄ってきた。 「じつは浅沼さまの組の飯塚孫之丞に嫁を世話したいと思いましてな」 「それはけっこうな話だ」  と半十郎は言った。飯塚孫之丞や離縁になった素女という女性のことは、いまも心の重荷になっている。孫之丞の縁談は半十郎の気持を明るくするものだった。 「相手はどこの娘御だな」 「それがでござる」  内藤老人は腰をかがめて声をひそめた。 「大きな声では申せませんが、御使番家の井森の嫁がこのほど離縁になり申した。つまり出もどりだが、これがじつは同じく御使番の頭領加治家の娘で、器量といい心ばえといいまことによくできた女子《おなご》でござります。あんなにいい嫁を離縁した井森の家の気持がわからん、と、まわりではうわさをしておりまする。もっとも……」 「………」 「敬之進と嫁は気性が合わず久しく夫婦仲が冷えておったという説をなす者もいます」 「ははあ」 「それはそれとして……」  内藤老人は一段と声をひそめた。 「この女子に、そのむかし孫之丞はひそかに懸想《けそう》しておりましてな」 「懸想?」 「いかにも」  老人は腰をのばして大きくうなずいた。 「しかし男ぶりがわるくて井森敬之進に取られ申した」  半十郎は胸の内で失笑した。むろん内藤半左衛門は気づかずに、これまで縁談を嫌って母親と親戚に手を焼かせてきた孫之丞だが、相手が加治家の娘ならうんと言わぬはずはないと力説している。 「今夜にも孫之丞親子に会って、その話を持ち出すつもりでござるが、問題は先方。なにせ加治家は四百石で……」  と半左衛門は言った。 「飯塚の承諾を得ても、その話を加治家に持って行くには、それがしは身分違い、ちと憚《はばか》り多い気がいたしまする。本日こうしておたずねして参ったのは、そのお役目を浅沼さまにおねがいできぬものかと愚考つかまつった次第」 「しかし身分のことなら矢野の同門に北爪平九郎どのがおられよう。かのご仁なら家柄、禄高加治家に劣らぬはずだ」 「いや、平九郎はちと変り者で、こういうときの役には立ちません」  老人は御番頭《ごばんがしら》を呼び捨てにした上、性格の欠点まであげつらった。 「それよりは孫之丞の上司である浅沼さまの方が、お骨折りいただくにはおそれながら適役であろうと、じつは同門の沖山茂兵衛とも相談して参った次第でござります」 「よろしい、よろしい」  と半十郎は言った。もしこの縁談がうまくととのえば、孫之丞の罪業感も、素女という女性の傷心もよほど救われるのではないか。 「それがしにできることなら、何なりと申しつけられよ。加治家への使者、たしかに承知いたした。またもしも孫之丞がうんと言わぬ場合は、それがしを呼んでもらおうか。尊公とともに参って説得つかまつろう。ご老人、これは考えれば考えるほどまことにぴったりの縁談のように思われますぞ」  内藤半左衛門がよろこんで帰ったあとで、半十郎は縁側の先にある敷石の上の草履をつっかけて庭に下りた。  土は乾いて、足の裏にたしかな感触をつたえてくる。縁談がうまくはこべばよい、と半十郎は思った。うまく行くに違いない、という気もした。そう思うと気持が小さくはずんだ。  庭の隅の、いまは馬のいない古い厩の横に立つ白梅が強く匂った。 [#改ページ]   御番頭の女      一  五ツ(午後八時)過ぎという時刻は、暑いころならともかく花どきを前にしているこの時期には早い時刻とは言えない。近習《きんじゆう》頭取の浅沼半十郎が通り過ぎてきた町は、灯のいろが洩《も》れている場所は稀《まれ》で、大方は深夜のように暗く静まりかえっていた。間もなく五間川の河岸に出る。  ──この先で、橋をわたるか。  と半十郎は思案した。その方が家に帰るにはいくらか近道になる。考えながら半十郎は河岸に出て、少し北に歩いた。  すると目ざす橋よりひとつ手前の行者橋《ぎようじやばし》の上に提灯《ちようちん》の灯が見えた。灯は西から東に動いて、半十郎がいる河岸に近づいてくるようである。半十郎は油断なく見まもった。まだ遠い灯ではあるが、提灯を持っている者が武家のように見えるからである。橋の上の提灯はゆっくりと、半十郎が歩いて行く方角に近づいてくるので、このまま行けば橋袂《はしだもと》のあたりで両者がぶつかることになるだろう。  そう思っていると、橋の半ばを過ぎた提灯がいきなり暗い宙に跳ねとんだ。そして乱れる灯のいろにうかんだ人影が二つ、はげしく交錯したのが見えた。白刃が光ったようでもある。橋に落ちた提灯が燃え上がった。  そこまで見て、半十郎は右手の先に口をあけている路地に、つと曲ると提灯の灯を吹き消した。行者橋の上の争いを、近ごろ頻発している小出派と杉原派の争闘ではないかと疑ったからである。半十郎は一応は小出派に籍を置いているものの、小出派の勢力拡大に力をそえようなどという気持はまったくなかった。巻きこまれるのはご免だった。  それだけ小出家老に対して、ひところより忠誠心がうすれてきたということでもあるだろうが、半十郎は近ごろの両派の争闘に、ただの勢力争いとは思えないものも感じている。ひと口に言って血なまぐさ過ぎないかと思うのだ。  梅がまだ散り切らないころに、死者が二人出た。藩士ではなく、家中の次、三男だったが、病死という届けが出されたものの、じつは派閥間の暗闘に巻きこまれたものだとうわさが流れた。  その種の血なまぐささを、派閥争いが熱を帯びてきて、末端の者が盲目になっているのだと言う者がいる。事実そうみることも可能だったが、半十郎は、争いが血なまぐささを増してきた裏には、もうひとつべつの理由があるように思えてならない。  たとえばその勢力争いだが、長く沈滞していた杉原派が勢いを盛り返すところを、そうはさせじと小出派が早目に潰《つぶ》しにかかっているとしても、大筋のところはまず金が動き、それに類した利が動き、弁舌の達者な連中がひそかに右往左往することで争いはあらまし形が決まってしまうのだ。稀に刀に訴えることがなきにしもあらずだとしても、つづけざまに死者を出すような事態はやはり異常と言わねばならない。  近ごろの城下の暗闘には、納得出来ない何かがある、と半十郎は感じつづけていた。その何かがはっきりしない限り、力まかせの争闘にかかわり合うことは無用である。  そろりと、半十郎は路地から河岸に出た。橋に目をやると、中ほどで小さく火が燃えているのが見えた。提灯の燃え殻だろう。人影はなく、川の水音のほかには何の物音もしなかった。半十郎は小走りに橋まで行った。  橋に踏みこむと、はたして提灯が燃えていて、その小さな炎が俯《うつぶ》せに倒れている男を照らし出していた。男は武家だった。男の身体の向う側、二間ほどはなれたところに抜身《ぬきみ》の刀が落ちている。  辛《かろ》うじてそこまで見て、半十郎はいままさに消えようとしている火を、自分の提灯に移した。改めて倒れている男のそばに跪《ひざまず》くと、男の首に手をやって脈をさぐった。そのときうしろから声がした。 「斬ってはおらん。峰打《みねう》ちだ」  半十郎は倒れている男の上を跳び越えた。刀の鯉口《こいぐち》を切りながら振りむくと、橋袂に立っている人間が見えてきた。御番頭《ごばんがしら》の北爪平九郎である。 「身構えるのはやめてもらおうか」  半十郎が提灯の灯をかかげながら油断なく見まもっていると、北爪がうんざりしたような声をかけてきた。  そう言われても、北爪平九郎は上司とは言いながら変り者という世評が定まっている人物である。迂闊《うかつ》にそばには寄れないと半十郎は思った。すると、その逡巡《しゆんじゆん》を察知したらしく、北爪平九郎はかりにもわしは上役だぞ、と声を荒げた。 「貴公を斬ったりはせん。大体貴公を斬って何の得があるな?」 「それがしは、さっきの斬り合いを見ました」 「だからどうだと申すのだ」  と北爪平九郎は言った。 「斬って貴公の口をふさぐとでも思ったか、バカな。さっき面体《めんてい》を改めたが、そこにいるのは家中の家の者には違いないが、顔も知らない若い男だ。うしろからいきなり斬りつけてきたから峰打ちをくらわしたまで。こっちはやましいことなどありはせん」 「わかりました」  と半十郎は言った。 「御番頭を疑ったわけではありません。しかしどうぞ、お先に」 「そう言わずに、こっちに来ぬか」  少し聞きたいことがあるから声をかけたのだ、と平九郎は言った。  気配もさとらせずにもどって、うしろの闇の中から声をかけてきた北爪に対するうす気味わるさは消えなかったが、そこまで言われては半十郎も尻込みしているわけにはいかなかった。 「承知しました。ただいまそちらに」  なお用心を残しながら半十郎は答え、倒れている男の足もとを回ってその場をはなれようとした。すると男が急にうなり声を立てた。  立ちどまって様子を見ていると、平九郎がその男にかまうなと声をかけてきた。 「ほっておけば一人で帰る」      二 「家に帰るところか」  一緒に歩き出すと、北爪平九郎は半十郎に鋭い視線をとばしながらそう言った。 「そうです」 「どこの帰りだな」 「樋口の家で親族のあつまりがあったもので、その帰りです」  なるほど、と平九郎は言った。そしてあやめ橋から帰るのかと聞いた。 「そうです。その方がいくらか近道かと思いまして」 「じゃ、橋まで一緒に行くか」 「御番頭はどちらまで」  とっさに半十郎は問いかけた。北爪が歩いて行くのは、北爪の屋敷とは逆の商人町の方角である。 「わしか、わしは町屋にまいる」 「この夜更けにですか」  半十郎がつっこむと、北爪はまた鋭い目で半十郎を一瞥《いちべつ》し、そうだと言った。そして話題を変えた。 「ほれ、何とか言ったあの若いの……」  北爪平九郎は、急ににたにたした笑顔を半十郎にむけた。平九郎の笑顔は歴歴《れきれき》の家の当主らしくない、陰険な感じがするものだった。おっとりとした明るさがない。  このあたりも北爪が変人に数えられる理由のひとつなのだろうが、平九郎は実際は北爪家の次男で、当主だった長兄が病死して跡を継いだ人間だから、と平九郎を弁護する者も一部にはあった。平九郎は剣士になるつもりで矢野仁八郎に師事し刻苦した人物で、兄にかわって北爪家の当主に坐ることなど、およそ予想もしていなかった。高禄の家の当主ではあるが、北爪平九郎の中身はいまもって剣士なのだというのである。  その油断のならない感じがする笑顔をむけながら、平九郎が言った。 「石橋か、石橋銀次郎とかいう男だ。どういうわけか、わしのところにはまだ来んな」 「さようですか」 「さようですかはなかろう、半十郎」  と北爪平九郎は言った。 「やつが、石橋が矢野の家に伝わる秘太刀をさぐるとか称して、師匠仁八郎から極意を許された弟子をつぎつぎと訪問して試合を挑んでいることは、わしの耳にもとっくにとどいている。その試合の段取りをつけておるのが貴公だということもな」 「………」 「いや、べつに咎《とが》めておるわけではない。矢野仁八郎の弟子で残るはわし一人。いっこうに試合に現われんのはどういうわけかと聞いておるのだ」 「そういえば、石橋からまだなんとも言って来ませんな」  と半十郎は言った。石橋銀次郎にはしばらく会っていない。もっとも、だからといって会いたくなるような人間ではなかった。 「いや、小出さまに頼まれて試合の段取りをつけたのは事実ですが、これはあくまでも石橋の方からそのつど要望があっての話。それがしが先走って動くような筋合いのことではありませんので、石橋がなぜ御番頭に試合をおねがいに行かぬかは、それがしにもわかりかねます」 「北爪は伎倆《ぎりよう》未熟で、『馬の骨』の秘伝はうけておらんだろうと見切ったかの」 「まさか」  と半十郎は言い、少し考えてからしかし想像はつきますと言葉をつづけた。 「矢野道場では、掟《おきて》として他流との試合を禁じておるとのことで、石橋も御番頭のお仲間を試合に引きこむためには、時にはそれがしも賛成しかねるような策略をもちいたりもして、かなり苦労したようです。おそらく、正面からぶつかってもこれまでの二の舞と踏んで、あの男はただいま御番頭の秘事のごときものをさぐっているのではありますまいか」 「たわけたことだ」  と言って、平九郎はまたにたにた笑いを半十郎にむけた。その笑顔を見返して、半十郎は言った。 「しかし、ご油断めされぬ方がよろしかろうと存ずる。石橋は鼻が利きますのでな」 「わしにはさぐられて困るような秘事などないが、何か見つかったら来いと石橋に言え。『馬の骨』などは知らんが、師匠に譲られた『小車』の極意を見せてやろう」 「『小車』が不伝流の極意にござりますかな」 「いや」  平九郎は口が滑ったのを後悔したというふうに口をつぐんだが、すぐにつづけた。 「不伝流の極意はべつにある。『小車』と申すのは、流祖伊藤不伝が師の浅山一伝斎から譲られたものという口伝《くでん》がある。これを師仁八郎からうけたのはわし一人」  平九郎はちょっぴり鼻をうごめかすような口ぶりで言ったが、つぎはにわかに険しい口調になった。 「わしはいつでも受けて立つ。ただし、試合を挑むなら生死を賭けるつもりで来いと、石橋に申せ。ほかの連中のように、手加減はせぬとな」  北爪平九郎がそう言ったとき、二人はあやめ橋の手前に来ていた。  さきほどの騒ぎは何ですか、と半十郎は聞いた。触れては怒られるような事柄か、と思ったが、いまをのがしては聞く機会がないという気もした。平九郎は怒らなかった。じろりと半十郎を見ただけで、わしにも何のことかわからんと言った。 「しかし見当はつく。闇討ちをしかけたのは小出|帯刀《たてわき》だろう」 「何か証拠が?」 「わしが家老を弾劾《だんがい》したからだろう」  北爪平九郎は立ちどまった。場所はあやめ橋の袂だが、別れるまえに半十郎の質問に答えるつもりらしかった。 「小出家老の『馬の骨』さがしだが、貴公、試合の世話を焼いていて何かおかしいとは思わんか」 「それは、うすうす」  半十郎が言うと、平九郎はそうだろう、そう思うはずだと言った。 「わしのみるところ、一連の試合さわぎは小出による炙《あぶ》り出しだ」 「炙り出し? 何の炙り出しですか」 「家中で遣い手と言われる男たちの力量、といったものかな」  と平九郎は言った。しかしそうなると、と半十郎は反論した。 「家中にはまだまだ腕の立つ者がおりますぞ。目的がそこにあるとすれば、これはかなり手間どりはしませんか」 「浅沼半十郎のように、小出派に属する剣士はのぞく」  と平九郎は言った。そして口をはさもうとする半十郎を制してつづけた。 「小出が気にしておるのはむろん杉原派と思われる剣士、また郷《ごう》目付の森口喜左衛門や普請組の清水俊助のような、不偏不党でいながら名手と呼ばれる男たちだろうて。中でも、矢野道場は気になったはずだ」 「その理由は?」 「いまの矢野の当主は杉原派というわけではないが、杉原家老が一時期先代の仁八郎師匠に剣の手直しをうけたことがある。もうひとつは、矢野道場の秘密主義だな。われらは道場の規約を守り、ふだんの他流試合はもとより、御前試合のほかは藩の紅白試合にさえかつて一度も出なんだ」  しかも相当の遣い手がそろっていて、これが杉原派か、日和見《ひよりみ》か見当もつかぬとなれば、小出も気が揉《も》めることだろうて、と平九郎は言った。そして、つぎに半十郎がびっくりするような大胆な推理をのべた。 「『馬の骨』の秘太刀をうけた者をさがすというのは、小出の口実ではなかったかな。その方が貴公や石橋を動かすにはつごうがいい。だが肝要な点は矢野道場の旧門弟どもの伎倆をたしかめることにあったと、みることも出来る」 「しかし御番頭……」  北爪平九郎は手を上げて半十郎を制した。 「それというのも、だ。『馬の骨』の秘太刀などというものが事実あるのかどうか、わからんのだて」 「まさか、御番頭」 「いや、先先代惣蔵から仁八郎師匠に『馬の骨』が伝えられた事実まで疑うわけではない。だが、それがわれら門弟のうちの誰かに伝わったかどうかは、疑問だと申しておる」 「………」 「それというのも、あるとき旧門弟が秘太刀をうけたのはおまえだろうと、侃侃諤諤《かんかんがくがく》の言い合いをしたことがあるが、冗談まじりのさぐり合いにしても、そのときの感触を言えば、秘太刀をうけた者はこの中にはおらんのではないかというようなものだった。石橋には気の毒だが、むろんわしも秘太刀はうけておらん」 「兼子庄六はいかがですか」  半十郎は、長坂権平をたずねて矢野家まで行った夜、かがり火を焚《た》いて権平とはげしく木刀を打ち合っていた庄六を思いうかべながら言った。  北爪平九郎はじろりと半十郎を見た。 「ふむ、いい目のつけどころだ。しかし見当違いだろうな。庄六は免許はうけた。それでああやって藤蔵どのを助けて道場稽古をみておるが、あの男はわれらのように極意までは授からなかった。これはわれら旧門弟がみな知っていることだ」  そうですかと半十郎は言った。言われてみればそんなことのようでもある。兼子庄六を買いかぶっていたような気もした。ところで話はもどりますが、と半十郎は言葉を改めた。 「秘太刀さがしはじつは反対派、中立派の遣い手の炙り出しだというご意見のことですが、するとその目的は奈辺《なへん》にあると御番頭はお考えになっているのでしょうか」 「知れたこと。小出は何事かやろうとしておるのだ」  北爪平九郎は相変らず家老を呼び捨てにしていた。 「石橋を使って遣い手の力量をはかっているのも、それの準備とみるべきだ」 「何事か、と申しますと」  半十郎は深夜の闇を見回してから、声をひそめて聞いた。だが平九郎は声をひそめなかった。世間話をするような声のままで言った。 「側用人《そばようにん》の石渡どのを暗殺する企てがある、といううわさを耳にしたことはないか」 「ござります。暗殺を仕かけるのは小出派であるとか」  半十郎は、その話を聞かせた同僚の野原甚之助の緊張した顔を思いうかべながら言った。 「事実とすれば捨ておきがたいことでしょう」 「小出派の貴公にしてもそう思うかの」 「むろん」  半十郎はきっぱりと言った。 「石渡さまは藩にとってかけがえのない人物。一派閥のつごうで抹殺したりすることは、許されるべきではありません」 「そのとおりだ」  と平九郎は言った。 「しかしここに来て、そのうわさは小出派が意図して流した疑いが出てきた」 「なんと」 「石渡どのが、近ごろ杉原派の再建に力を貸していることは知る人ぞ知る事実でな。また石渡どのも必ずしもそれを隠そうとはなさらん。折に触れて一派閥、小出派のことだが、一派閥だけが栄えて力をふるうのは藩のためにならぬと公言もされておる」 「さようですか」 「小出派にしてみれば石渡どのは目の上の瘤《こぶ》。暗殺の声が出ても不思議はないという状況だが、わしの見るところ家老の狙いはべつにある」 「ははあ」 「殿と小出帯刀の仲がわるいことは聞いておったかの」 「だいぶ昔に耳にしたことがあるように思いますが、近ごろは……」 「近年その声は消えた。しかし事実は殿と小出との仲は修復不可能なところまで悪化しておる。殿のお身体ぐあいがすぐれない、ということは、国元では知らぬ者のない話だが、なんの、あれは小出家老と取巻きが流布した根も葉もない虚事でな。殿は剣客だが時折り深く閉じこもって書を読むことを好まれる。それを病気のごとく曲げて言っただけのことで、殿はきわめてお丈夫だ」 「これは、おどろきました。事実ならもってのほかのことでござる」 「どうだ、小出派に愛想がつきたのではないか。早いところ、派から足を洗うほうがいいぞ」  北爪は笑いもせずにそう言い、さらに言葉をつづけた。 「殿ご病弱、そろそろ後継を考えるべきときと近ごろ小出は声高に言っているが、康五郎さまというご世子が決まっているのに臆面《おくめん》もなくそう言うのは、自分の息のかかったご三男の光之丞さまを世子に据え直したい思惑があるからだ。小出はいま、光之丞さまのまわりを自分の派閥でぎっしりと固めておる」 「………」  半十郎が言葉もなく見まもっていると、北爪平九郎はほとんど悪相と言えるような、にたにた笑いをうかべた。 「小出が今夜わしを襲わせたのは、ある会合で、わしがいま貴公に話したようなことをぶちあげ、小出家老は藩の大悪人となろうとしていると弾劾したからだ」 「お話が事実なら、まさにそのとおりでござる」 「事実だとも。いまにみておるがいい。殿の帰国を待って、小出はかならず何か仕かけるつもりだぞ。そうしなければ、逆に殿に潰される瀬戸ぎわに小出は立っておる。『馬の骨』はともかく、やっきとなって藩内の遣い手の力を測っているのはそのせいだ」  半十郎に、北爪平九郎はうなずいてみせた。 「貴公はこれまでの成行きからわれら矢野道場にだけ目をむけておるが、それだけではないはずだ。さっき申した森口や清水。あの連中にもべつの者が行って、技を試すか派閥に誘うかしていると思うぞ」      三  半十郎は今日は非番で、奥の自分の部屋で今朝とどいた同僚の曾根幾之進の手紙を読み直していた。  曾根は江戸詰の近習頭取で、二年詰なので今年は帰国出来ない。曾根の手紙はそのことに触れ、今年藩の武芸鍛練所励武館に入門する息子の、入門のときの介添えを頼んでいた。富之助という曾根の息子は十歳で、励武館に入門する手続きをすすめているのだが、入門の儀式のときに介添えにつくはずだった親戚の人間が、長患いで床についてしまったのだという。  昵懇《じつこん》の仲にもかかわらず曾根の手紙は丁重で、多用の中を申しわけないと詫《わ》び、家の者をさしむけて、とりあえずつごうをうかがわせるのでよろしくたのむと懇願していた。  ──十歳か。  と半十郎は思った。あけはなした窓の外に、三月の空が青くひろがっているのを見上げた。風もなく、午後の日の光はやや黄ばんだまま静まり返っている。その中にかすかに花の香がまじっているように感じるのは、塀ぎわにある隣家の桜が咲きはじめたのかも知れなかった。花は窓からは見えない。  強い羨望《せんぼう》の気持が半十郎の胸にふくらんできた。こちらは女児一人、跡継ぎの男子など生まれるのはいつのことかという状況なのに、曾根の息子はもう十歳で励武館に通うかと思ったのである。  曾根幾之進は半十郎より二歳下だが、嫁を迎えたのは早かった。子供にもめぐまれ、今年から励武館だという総領の下に、男子一人、女子一人がいるはずである。二年前に男子を失って一度|躓《つまず》いた形の浅沼家とは雲泥の差だった。  一瞬胸にうかんだのはそういう思いだったが、半十郎はいそいでその気持を押し殺した。曾根の家の者がきたら、喜んで介添え役を買って出ようと思ったのである。  そもそも一家の主が、女女しく死児の齢《とし》を数えるようなことをするべきではなかった。そんなことでは、子を死なせて心の平衡を見失った妻を大きく抱擁することなど思いもよらないし、女児をないがしろにするようで直江がかわいそうではないかと思った。  半十郎は曾根の手紙にある追って書きを見た。追而《おつて》と曾根は書いている。今年の殿の帰国は例年より半月ほど遅れる見込みで、その前に御側用人石渡新三郎さまがひと足早く帰国されることになった。いずれも異例のことだが殿はお元気であり、なぜそういう段取りになったか、はきとした理由はわからない。曾根の手紙はそこで終っていた。  ──これは……。  北爪どのが言っていたこととつながりがあることか、と思いながら、半十郎が顔を上げてもう一度窓の外の空を見上げたとき、庭の方でおそろしい犬の吠《ほ》え声と、あきらかに直江の叫び声とわかる悲鳴がした。つづいて下僕の伊助のどなり声と、犬の声が交錯して聞こえてきた。  半十郎は曾根の手紙をほうり出して立つと、一挙動で刀架の刀を取り、部屋をとび出した。次の間を駆け抜け、茶の間を抜けて縁側に出ると、戸があいている縁側から跣《はだし》で庭にとび降りた。すると異様な光景が目に入ってきた。  犬と伊助の姿は見えなかった。門の戸が片側だけひらいていて、伊助は犬を外に追って出たらしい。そして右手にある菜園のそばに杉江が立っていた。その杉江の足もとに直江がうずくまって小さな泣き声を洩《も》らしている。異様だというのは、直江は屋敷に入ってきた犬に襲われたのではないかと疑われるのに、かたわらの母親が娘を介抱する様子もなく、ぼうっと立って門の方を眺めていることである。二人は小太刀の型を稽古していたらしく、足もとに二本の木剣が落ちている。  半十郎は大股に近づくと直江を立たせた。顔にも手足にも異常はなかった。しかし着物の裾《すそ》、膝下《ひざした》のあたりが噛《か》みやぶられている。半十郎は膝を折って直江の着物の裾をひらいた。直江がはじらって父親の手を押し返そうとしたが、半十郎はその手をぴしりと打った。 「おとなしくせい」  膝の下に赤い噛みあとがあった。しかし着物の上から噛まれたのが幸いしたらしく、犬の歯は皮膚を破ってはいなかった。軽い鬱血《うつけつ》にとどまっている。  叱られて観念したらしく、黙って立っている直江の着物の裾を、水遊びをするときのように膝下までくるりとまくってから、半十郎は直江の身体を回して注意深く傷をさがした。ほかに噛みあとはなかった。白くか細い足である。  半十郎は鬱血している場所を、指で押した。 「痛むか。ここだけか」 「はい」  直江がまた泣き出しそうな声を出した。しかし、噛まれた痛みよりも、犬に襲われた恐怖の方が大きいようだと半十郎は思った。裾をおろしてやりながら言った。 「娘なりとも、武士の子が犬ごときを恐れてはならん」 「はい」 「なぜ、木刀で立ちむかわぬ」  直江はうつむいた。それから小さな声で言った。 「このつぎはそういたしまする」 「よし。噛み傷は大したことはない。痛みはすぐにおさまろうが、念のためふでに水で冷やしてもらえ」  入口のそばに出て、こちらの様子を窺《うかが》っているふでを振りむくと、半十郎は大きな声で冷やしてやれと言い、直江に自分の木刀を持たせると、ふでの方に押してやった。  二人が家の中に入るのをたしかめてから、半十郎は杉江に向き直った。拾った木剣を渡してやった。 「どうしたのだ」  半十郎はやわらかく言った。杉江は半十郎に目をもどしたが、その視線はうつろではたして夫を見ているのかどうか、心もとないような表情をしている。 「様子では、入って来た犬を防げなかったようだな」  そう言ったとき半十郎は、思いがけない強い憤怒が身体を駆け上がるのを感じた。  いつの間にか屋敷に入って来た犬が、吠えながら直江に襲いかかる。だがその犬を追い返したのは杉江ではなく、物音におどろいて駆けつけた伊助である。杉江は持っていた木刀を落とし、手で顔を覆って立ち竦《すく》むだけだったろう。そういった光景がありありと見えた。 「しっかりせんか」  半十郎はどなった。 「たかが犬ごときを始末出来ぬとは、何たるざまだ。そなたの小太刀は飾りか」  長い間自分をおさえ、じっと我慢してきた。その我慢をつなぎとめていたものがぷっつりと切れたようだった。いつまで、こんなことがつづくのだ、と半十郎は憤怒の中で思っていた。  杉江は不思議そうな顔で半十郎を見ていた。だが半十郎の叱声がやむと、杉江の顔に急に悲しげな表情がうかんできた。杉江は深い悲しみに打ちひしがれた顔になった。生生しい変化だった。 「申しわけありませぬ、おまえさま」  杉江は低い声で言った。 「以後は気をつけまする」  軽い一礼を残して杉江は背をむけた。とぼとぼと入口の方に行くうしろ姿を見て、半十郎はたちまち強い後悔に襲われた。  ──バカめ。  と自分を罵《ののし》った。病人をどなりつけるやつがあるものかと思った。いままで辛抱して病人をいたわってきたのが、これで無に帰したと思った。心に傷のある杉江は、いまの怒声をどう聞いたろうとも思った。  おい、ちょっと待てと言おうとしたとき、旦那さまという伊助の声が聞こえた。太い棒を提《さ》げた伊助が、いそぎ足に門からこちらにくるところだった。ただし一人ではなく、うしろにやはり下僕ふうの身なりをした男がくっついてくる。  そばにくると、伊助は手で顔の汗を拭《ぬぐ》った。 「直江さまのお怪我《けが》は、いかがでしたか」 「いや、怪我はない。おまえが追いはらってくれたおかげだ」 「それはようがんした」  伊助はほっとしたように表情をゆるめた。 「あの犬は、ここ十日ばかりこのあたりをさまよっていたたちのよくない犬で、用心はしておりましたのですが、まさかお屋敷の中に入ってくるとは。これからは十分に気をつけまする」  伊助は頭を下げてから、少しはなれて立っている男を振りむいた。 「小出さまからお使いでございます」      四  浅沼半十郎は、大声でどなりつけたときに杉江がみせたなんとも言えず悲しげだった表情を思い返していた。分別のないことをしたと思った。だがそれだけでないものが、胸の中にあった。  我慢が切れて憤りをぶちまけたとき、半十郎は怒りの底の方に、やりきれない悲哀感があるのにも気づいていたのである。どうなるのだ、これから先もずっとこんなことがつづくのかと思っていたのだ。  いま落ちついて考えれば、憤りをぶつけたのは目の前にいた杉江にではなく、夫婦のつたない運命に対してだったと思われてくる。  ──おれのその気持が……。  なぜかはわからぬが、あのとき病んでいる杉江に通じたとは考えられないか、と半十郎は思っていた。あの悲しげな顔は、怒られたことを悲しむというよりも、ともに夫婦の運命を悲しんでいる表情ではなかったか。  もしそうだったらあの一瞬こそ夫婦和解の、というよりも、杉江を少しでも正気の方に引きもどすいい機会だったかも知れない。わるいときに家老の呼び出しがきたものだと、半十郎がにがい気分を噛み殺したとき、これから行く小出屋敷の潜《くぐ》り戸が開いて、人が一人表に出てきた。赤松|織衛《おりえ》という男だった。  石橋銀次郎は、赤松は私用で小出屋敷にきたので、すぐに江戸に帰ると言ったが、まだ滞在していたようである。もっとも半十郎は石橋の話をそのまま信じたわけではなかった。赤松はただの使いできたわけではあるまいと思っていた。  そう思わせるのは赤松の風貌だった。鼻が高く目は細く、その目は笑うことを知っているのかどうかを疑わせるほどに、底つめたい。そして痩身だが無駄のない筋肉がついているとわかる身体。赤松織衛は剣士だった。しかもとびきりの技を持っていると半十郎はにらんでいる。赤松はその剣を使うためにきたのではないか。  近づいて行く半十郎を、どういうつもりか赤松は門前の一段高い石組みの上に立ちどまって見つめていた。鳥の嘴《くちばし》のように高い鼻、ひきむすんだ大きな口、目尻が引きつれるほど強くなでつけている総髪。  ──無礼な男だ。  赤松の無遠慮な凝視をはね返すように、強い視線を返しながら半十郎は近づいて行った。肌にざわめくような不快な感じが走ったが堪えた。すると赤松は、不意に凝視をはずして道に降りると、半十郎がきた道とは反対の方向にすたすたと遠ざかって行った。べつに話すことがあったわけでもなかったらしい。緊張をゆるめて、半十郎は家老屋敷の門をくぐった。  案内された小出家老の居間には、女がいた。女は二人で、一人は家老の妾になった塩山の娘である。多喜という名前もわかっている。もう一人は多喜の召使いかと思われる小娘で、その娘は腕に生まれて間もないような赤子を抱いていた。 「よしよし、おまえたちはもう下がれ。わしはこれから浅沼と話がある」  言いながら、小出は名残り惜しそうに赤子のふくらんだ頬《ほお》を、指でちょっちょっとつついた。  女たちが部屋を出て行くと、小出はいまの赤ん坊を見たかと言った。 「男の子だ。女が男の子を生みよった。わしにもまだ、女を孕《はら》ませる元気があったということだ」  どうかな、と半十郎は思った。銀次郎の子かも知れんじゃないかと、気持が意地わるく動いたが、そんなことは言えないので、祝着にござりますと祝辞を述べた。  気持のそういう動きには、人を呼びつけた部屋で女子供と戯れていた家老に対する不快感がふくまれていた。小出家老はいったいに公私混同の傾向がはげしい男で、今日のような光景はめずらしいことではない。それをまた、ひいき目というのか、半十郎などは物にこだわらない開けっぴろげな性格などとひところは思っていたものだが、今日はそういうことがいちいち気持にひっかかってくる。 「こっちへ寄れ」  若い家士がお茶をはこんできて去ると、家老は言った。 「呼んだのはほかでもない。近ごろ銀次郎に会ったか」 「いえ」  石橋銀次郎に会ったのは、城下にまだ雪が残っていたころで、その後は顔を見ていないと半十郎は言った。 「雪が残っていたころというのは、飯塚孫之丞の一件のときのことだな」 「さようでござります」 「まだ、番頭の北爪が残っておる」  と小出は言った。 「銀次郎はそっちをさぐっておるのかな」 「さあ、いかがでしょうか」  半十郎は首をかしげた。その可能性はあるが、連絡がないので何とも言えなかった。 「見通しはどうだ」  不意に家老は脇息《きようそく》から身を乗り出すようにして言った。 「北爪が『馬の骨』の秘太刀をうけていることは考えられるか」 「さあ、当たってみぬことには何とも言えません」 「いやに慎重だな、半十郎」  と家老は言った。 「『馬の骨』は矢野の家に伝わる秘太刀と申したのはそなただぞ。しかしこれまでのところ、秘太刀の遣い手は見つかっておらん。とすれば、残る北爪が譲られたのではないかと考えるのが当然だろう」 「しかし秘太刀は高弟には伝わらず、先代仁八郎で終ったのではないかという説をなす者もおるようです」 「誰だ、そう申したのは」  家老は語気鋭く聞いた。いや、と半十郎は口をにごした。北爪平九郎がそう言ったなどとは言えない。 「雑談の間に出てきた話で、確証のある話ではありません」 「ふむ」  小出家老は身を起こして、半十郎をきびしい目で見た。 「とにかく銀次郎に力を貸して、遺漏のない探索をやってくれ」 「そのように心がけております」 「もしもだ」  と家老は粘りつくような口調で言った。 「『馬の骨』は存在せぬということになって、あとでそれが出てきて何かあったときは、そのときは浅沼、そなたの責任だぞ」  半十郎は軽く頭を下げたが、それでは話が違うと思った。「馬の骨」の探索にかかるとき、家老はたしか調べは石橋にやらせる、半十郎は介添え役を勤めればよいと言ったはずである。  そしてその介添え役ならば、十分に果たしたという思いがある。おれがいなかったら、銀次郎は命を落とすところまでは行かないにしても、不具となることを免れなかったろう。そう思う試合がいくつかあったのを半十郎は思い返している。  そのことには一言も触れず、秘太刀の持主をさがし誤ったときはこちらの責任だとは、勝手な言いようではないか。そう思ったとき、家老がまた言った。 「近日中に、わが派の主だった者をあつめて会合を催すつもりだが、浅沼、そなたは会合には出ずともよろしい。『馬の骨』に専念してくれ」  わしの勘では、「馬の骨」は必ず誰かに伝わっておる、油断するなと家老はしつこくつけ加えたが、半十郎はその言葉を上の空で聞いた。  かっと身体が熱くなっていた。身体を熱くしたのは屈辱感だった。会合に出ることはない、秘太刀をさがせというのは、つまりは使い走りということかと思ったのである。  しかし半十郎はその思いは口に出さなかった。胸を静めてべつのことを言った。 「ご家老におねがいがござります」 「何だな」 「じつは以前から申し上げようと思っていたのですが、それがし病妻を抱えておりまして、派に入れて頂いても何の働きも出来ません」  家老はじっと半十郎を見ている。その目を強く見返しながら半十郎は言った。 「首尾よく秘太刀さがしの役目を終えましたら、それがしを派からはずしていただきたく存じます」 「わが屋敷には、もう来ぬというわけか」 「はあ、そのお許しをねがい出ております」  言い終ったとき、半十郎は前から言いたかったことをついに口に出したという気がした。小出家老はうつむいている。しばらく片手で膝を軽く打っていたが、顔を上げたときは目が笑っていた。 「寝返りか」 「は?」 「杉原の方に寝返るつもりかと聞いておる」 「滅相《めつそう》もござりません」  憤然として半十郎は言った。 「浅沼半十郎、さように節操のないことはいたしません。理由は申し上げたとおり、信じていただきたい」 「それならよいが……」  小出家老の顔に、にたにた笑いがひろがった。北爪平九郎の笑いに似ているが、もっと邪悪な感じがする笑顔だった。家老はその笑顔のままで言った。 「気が変って杉原派に籍を移す場合は、身辺に気をつけることだ、半十郎。そなたはわが派のことを知りすぎておるのでな」  間もなく、半十郎は家老屋敷を出た。日が落ちたらしく、屋敷町の路上にはうす闇が這《は》いはじめていたが、空にはまだ明るみが残り、空気はあたたかかった。その中に、かすかに物の芽と花の香がまじっている。ついに言いたかったことを言ったほっとした気分が、半十郎を包んでいた。  むろん家老の最後の脅しに赤松織衛という剣客の顔をかさねると、うす気味のわるいものが心にまつわりついてくるのは否《いな》めなかったが、半十郎は強い反発心でその恐れを押しかえした。  ──品のないお人だ。  小出家老の笑いを思い出しながら、そう思った。一党を束ねるほどの人だから、ただ品がいいだけでは済まされず、策略も恫喝《どうかつ》も必要なのかも知れないが、自身であんなことを言ってはいけない、と半十郎は思った。闇討ちをかけるというなら、いつでも来い、こちらも相応の準備をするまでだ、と気持をひきしめた。  それにしても秘太刀「馬の骨」は、はたしてあるのかどうか。家老に言われるまでもなく、ないと報告した後でそれが出てきたら、責任はともかくわが重大な失策になることは間違いない、と半十郎は思った。  このとき突然に、折をみて元の大目付笠松六左衛門をたずねてみようかという考えがうかんできた。      五 「小出家老に言われてきたのか」  と笠松は言った。笠松六左衛門はどちらかといえば痩《や》せぎすで、顔つきも鋭い人のように記憶していたが、二年前に大目付の職をしりぞいて隠居したせいか、いくぶん柔和な顔に変っている。体型もやや太ったようでもあった。  違います、と半十郎は言った。これまでのいきさつを全部話し、この役目を終えたら小出派をはなれるつもりだということまで打ち明けた。 「ところがここにきて、『馬の骨』などはたして存在するのかどうか、幻を追っている気もいたして参ったわけでして」 「『馬の骨』を遣う者はいる」  少し沈黙してから笠松は短く言ったが、その言葉は雷のように半十郎の耳に鳴りひびいた。 「すると七年前の望月さまの傷は?」 「『馬の骨』だ。わしは矢野仁八郎とは剣の上のつき合いがあってな。『馬の骨』の技は見せてもらえなんだが、それがいかなるものかは聞いておった」 「では笠松さまは、誰が秘太刀の遣い手だと」 「それはわからんな」  と笠松は言った。そしていまここで申したことは一切他に洩らしてはならんぞ、と言いさらにつけ加えた。 「小出にもだ。金打《きんちよう》を打ってもらおうか」  半十郎はそのとおりにして、笠松家を出た。小出屋敷をたずねてから十日ほどたっていた。つぎの非番の日にでも、と思っていたのが、今日下城するときにふと思い立って、元の大目付をたずねる気になったのは、秘太刀さがしが大詰にきて、はたしていまもその剣が伝えられているかどうかが、しきりに気にかかるからだろう。  ──やはり……。 「馬の骨」は存在するのか、と半十郎は思った。矢野仁八郎が病死したのは十年以上も前である。だが、そのあとに厳密に言えばいまから七年前に、「馬の骨」を遣う刺客が出現したと笠松六左衛門は証言したのである。  十日ほどの間に、城下の桜が咲きはじめていた。城の二ノ丸の濠《ほり》ぎわにある桜並木はまだ三分咲きほどだが、武家町や五間川の川べりにある桜の中には、はやくも七分咲きほどに花がひらいた木があって、夜の道を歩いていてもところどころで淡く花の香がただよってくる。  ──御番頭だろうか。  笠松家で貸してくれた提灯で足もとを照らしながら、半十郎は橋のそばの提灯の光でした立ち話で、北爪平九郎が自分が秘太刀をうけたことはあっさり否定しながら、「馬の骨」は口実で、秘太刀さがしの真意はべつにあると力説したことを思いだしていた。  そのときはなるほどと思ったが、この間小出家老に会い、今日また笠松六左衛門に会ったあとでは、北爪の説は根も葉もない妄説のように思われてくる。小出家老はいまも「馬の骨」を恐れており、笠松は秘太刀の存在を実証した。  秘太刀の受け手はやはり残る北爪平九郎であり、番頭はそのことを秘匿《ひとく》するために遣い手炙り出し説を持ち出したのか。それともほかに「馬の骨」を遣う剣客がいるのだろうか、と半十郎は考えつづけた。  家にもどって門を入り、入口に回ると下僕部屋の上《あ》がり框《かまち》に人がいて、半十郎をみると立ち上がった。 「いや、しばらく」  と言ったのは石橋銀次郎だった。そして土間に降りた伊助がお帰りなされませと言い、台所のふでに声をかけるのを待ってから言った。 「夜分に押しかけてまことに相済まんが、これからちょっとつき合ってもらいたいところがあってきたのだ」  と銀次郎は言った。銀次郎はこれまでの試合であちこちに手傷を負ったのに、若いということは伸びざかりの樹木のように、多少の傷などすぐに癒《い》やしてしまうものか、相変らず颯爽《さつそう》としていた。 「外へ行くのか」 「そうだ。北爪の関係だ」  半十郎はちょっと思案してから言った。 「わしはこのとおりで着替えねばならんし、腹もすいておる。少し待ってもらえるかの」 「むろんだ。そんなにいそがずとも間に合うはずだ」  と銀次郎は言った。そして伊助を振りむくと、それまでこの人に茶を馳走《ちそう》になりながら待つと言った。  もう帰るころと思ったのか、半十郎の部屋には灯が入っていた。手早く着替えてから、半十郎はふと思いついて杉江の部屋の襖《ふすま》をあけた。すると一緒の部屋に寝ている直江はもう床に入っていて、そのそばで杉江が縫物をしていた。 「例の石橋の用で、もう一度外に出てくる。帰りは遅くなろうから、そなたは休んでおっていいぞ」  どうせかかわり合いなく寝てしまう妻だが、そう言うと、襖をあけたときは知らんぷりをしていた杉江が、ふと身体を回して一礼し、ごくろうさまでござりますと言った。  ふでをいそがせて一椀《ひとわん》だけ、飯を腹におさめてから、半十郎は銀次郎を促してまた外に出た。杉江に多少の変化が出てきたのはたしかだった。しかしそれがいい徴候なのか、わるい目なのかは依然としてさっぱりわからなかった。  だが妻のことが心をかすめたのはほんの一瞬で、門を潜《くぐ》って外に出ると、半十郎の気持はにわかに引きしまった。 「どちらに参るのだ」 「雁金《かりがね》町裏だ」 「御番頭の関係だと言ったな」 「さよう。いやあ、あの人の泣きどころをさがしあてるのには苦労した」  だが、ついに突きとめた。それをつきつければ北爪平九郎も試合に応じざるを得まい、と石橋銀次郎は言った。 「あの方にも泣きどころなどというものがあったのか」 「あったとも。とび切りの秘密だ」  だが、その秘密が何かは銀次郎は言わなかった。行けばわかるとだけ言って、そのあとは寡黙《かもく》になった。  二人はあやめ橋をわたり、川に沿ってしばらく北に歩いてから、今度は五間川の下流にかかる千鳥橋をわたった。そのあたりで五間川は大きく東に曲って流れる。 「あそこだ」  半十郎を雁金町の裏通りに連れこむと、銀次郎は一軒の商家の軒先に入りこみ、いま通りすぎてきた道にあるしもた屋を指さした。そして、少し待とうと言った。二人は提灯の灯を消してくら闇の中にじっと立ちつづけた。誰を待つのかは、銀次郎に言われなくともわかっていた。半十郎は生垣の内に小さく灯をともしている家を見つめた。  五ツ半(午後九時)には、まだ間があるだろうと思われる時刻に、提灯をさげた長身の武家がすたすたと裏通りに入ってくると、しもた屋の前で足をとめた。片手に提灯、片手に酒徳利をさげた北爪平九郎だった。そうか、行者橋で刺客に襲われた夜も、御番頭はあの家にきたのかと半十郎は思った。  平九郎は鋭い目で道の前後をたしかめると、提灯の灯を消して生垣の内に入って行った。ほとほとと戸を叩《たた》く音がし、すぐに戸がひらいた。家の中の明かりにうかび上がったのは、女だった。女と一緒に平九郎は戸の内に消えた。  ふう、と銀次郎が吐息をついた。 「いまの女子《おなご》は何者だ。御番頭の妾か」 「かも知らんな。大年増といった齢《とし》ごろかと見たが、これがなんとも優雅な美人だった」  だが、つづけて言った銀次郎の言葉は半十郎をおどろかした。 「ただし前身は北爪の亡兄の妻女だった人だからな。これは醜聞だ」  北爪平九郎が遣った剣がどういうものだったか、立ち合いの半十郎は十分に見きわめたとは言えない。とにかく打ちこんで行った銀次郎の木剣の下に、すり寄るように平九郎の長身が入りこんだと見えたときには、銀次郎の木剣は宙に飛んでいた。 「それまで」  と半十郎は叫んだ。平九郎の二の太刀を避けて銀次郎が自分から床にころび、その肩の寸前で平九郎の木剣が止まったのを見とどけてから半十郎は、二人に走り寄った。  銀次郎の木剣が床に落ちてからからと鳴る。そしてころんだ銀次郎の身体が、みずからころんだ勢いで床をすべる。すでに踏みこんでいた平九郎が二の太刀を振りおろす。すべてが一瞬の間の出来事だった。  起き上がった銀次郎は、木剣を拾うと平九郎に向き直って尋常に一礼し、お稽古を頂きありがとうござりましたと言った。それを見て、それまで鷲《わし》のような目で銀次郎を見まもっていた平九郎が、ふっと表情をゆるめた。  半十郎のそばにきた銀次郎が、それがしは先に帰ると言った。どういうわけか試合はほとんど一方的な負けで、その屈辱に堪えられなくなったらしい。半十郎は励武館の入口まで、銀次郎を見送った。 「どうだ?」  小声で聞いた。むろん「馬の骨」のことである。銀次郎は首を振った。 「しかし御番頭は貴公の懐に入って行ったぞ」 「いや、『馬の骨』じゃない。木剣は強く巻きとられたのだ」  その理屈はわかった。「馬の骨」は切り放す剣である。笠松六左衛門もそう言った。北爪は巻きとって二の太刀で死命を制しにかかったのだ、と銀次郎は言い、それは半十郎の見方とも一致している。  ──では……。 「馬の骨」の遣い手は誰なのだ、と半十郎が重苦しく思ったとき、平九郎の声がひびいた。 「雁金町のことは他言《たごん》せぬこと。その約束は守ってもらうぞ」  銀次郎が姿を消すと、半十郎は平九郎が壁に木剣をもどし、着替えるのを待って一緒に外に出た。重い戸は半十郎が閉めた。 「一命を救われたことは、石橋もさすがにわかっていたようですな」  半十郎が、寸前で止めた平九郎の木剣のことを言うと、平九郎は打っても命に別状はなかったろうと言った。 「ただし肩の骨は折れたかも知れんな」 「二度と剣をふるえぬところでした」  平九郎が足をとめた。日没の光が漂う道に、隣の講学館の庭から桜の花びらが散り落ちてくる。学館の奥の方で、声をそろえて論語の素読《そどく》を行なっている少年たちの声がした。  むかしを思い出した、と平九郎は言って微笑した。そして貴公にだけ話しておこうと言った。 「あのひとは、わしがいま素読をやっている子供たちの齢ごろに嫁にきた。うつくしい人だった」 「はあ」  だが、兄が病死し子供もいなかったので実家にもどされたが、実家にも居辛《いづら》くて雁金町に家を借りて町の者に書と茶の湯を教えているのだ、と平九郎は言った。 「だが嫂《あによめ》は、じつは死病に冒されている」  と平九郎は言った。 「実家の肉親もそのことを承知で、気ままにさせているのだ。むろん、本人も知っておる。あと、二年の命とも、三年の命ともいう。医師にも会ったが、助かる道はないそうだ」  平九郎は空を仰いだ。しばらく口を噤《つぐ》んでから、つくったような明るい声で言った。 「お酒が好きでな。月に二度雁金町に参って、世間話をしながら嫂と酒を汲みかわして帰る。嫂はそれを大そう喜ばれる。ほかに、わしに出来ることはない」  では、行こうかと北爪平九郎は言った。平九郎のうしろから、半十郎も歩き出した。おそらく、銀次郎が言ったような醜聞のようなものはあるまい。しかし御番頭が、いまもうつくしい嫂にあこがれ、あがめていることは確かなようだと半十郎は思っていた。 [#改ページ]   走る馬の骨      一  人がきて襖《ふすま》の外にうずくまったと思ったら、伊助の声が旦那さまと言った。低いが、声にあわただしいひびきがあるのに、近習《きんじゆう》頭取浅沼半十郎は気づいた。 「開けていいぞ」  膝《ひざ》をむけて半十郎が声をかけると、伊助が襖を開いて一礼した。 「ただいま石橋さまがみえまして、いそぎのご用があると申されております」 「この時刻にか」  と半十郎は言った。石橋というからには石橋銀次郎だろうが、前触れもない遅い訪問に半十郎は眉《まゆ》をひそめた。相変らず手前勝手な男だと思ったのである。  時刻は、五ツ(午後八時)の鐘が鳴ってからだいぶたつ。半十郎自身はもうしばらく書見をつづけるつもりだったが、寝るのが早い家は、もう大半眠りについているだろう。それに秘太刀さがしはもうケリがついたはずではなかったか、とも思った。 「石橋は、用は何だと申しておる」 「それが……」  伊助は口ごもった。 「申されません。その上、あの方は血だらけでございます」 「なんだと!」  半十郎は書物を閉じて立ち上がった。かすかに兆していた眠気が、いっぺんに吹き飛んでしまったようである。暗い内縁側を小走りにもどる伊助のうしろから、半十郎もいそぎ足に表口に出た。  すると、広い上《あ》がり框《かまち》に腰をおろし土間に足をのばしていた石橋銀次郎が、立ち上がって「よう」と言った。 「夜分に相済まん」  だがそう言った銀次郎は旅支度をしていて、伊助が言ったとおりに血だらけだった。額にも頬《ほお》にも血をぬぐった跡があり、右の手首からは土間にまだ血が滴り落ちている。肩か腕を斬られているらしかった。  銀次郎は青ざめて、血が流れ落ちる方の袖《そで》をつかんでいるが、ほかにも前襟が裂け、袴の横の方がざくりと切れている。何者かとはげしい斬り合いをしてきたことは明らかだと思われた。 「お上がりなさいましと申し上げたんですよ」  台所口に坐って、そこからこわごわと手燭《てしよく》をさし出している婢《はしため》のふでが言った。そのふでに、半十郎はばあさんの部屋の前の六畳に灯をいれろと言った。 「傷を洗う焼酎《しようちゆう》があったかな」 「ございます」 「よし、それと軟膏《なんこう》、晒《さらし》、油紙を用意しろ」 「はい、かしこまりました」  半十郎がふでに手当ての支度を言いつけている間に、伊助は濯《すす》ぎ水を持ってきて銀次郎を上がり框に掛けさせ、草鞋《わらじ》を解きにかかった。  表口から真直《まつす》ぐ奥に入る廊下は、半十郎夫婦の居間や客間がある方とは別棟で、ふでが寝起きする女中部屋、その向かいの子供部屋、廊下の突きあたりにある隠居部屋、ほかに一部屋の納戸などがある。  子供部屋には三畳が附属していて、ふだんはその三畳を子の直江が使っているのだが、客が多いときはそこも客部屋にあてる。いま直江は母親の杉江と一緒に寝起きしていて、三畳は空き部屋になっていた。 「これはちょっと、わしの手にはおえんかな」  半十郎は銀次郎の片袖をぬがして、腕の傷を改めながら顔いろをくもらせた。頭の傷はさほどのことはなかったが、肩に近い二の腕の切り傷はかなりの深手である。 「外科を呼んで縫ってもらうのがよさそうだ。脚の傷はどうだ?」  家の中に入ってきたとき、石橋銀次郎は軽く足を引きずった。半十郎はそれを見ていたのである。 「脚はさほどのことはない」  銀次郎は立ち上がって袴をめくった。斬られたのは左の膝下で、傷は長いが浅い。傷のまわりは血に汚れているが、その血は乾きかけていた。 「よし、では取りあえず血止めの処置だけいたそう」  ふでが盆の上に用意した手当ての品を手もとに引き寄せながら、半十郎は言った。 「それが終ったら外科を呼んでくる」 「いや、せっかくだがその心配はご無用」 「何を言うか」  手を動かして、頭、二の腕、膝下と傷口を洗いながら、半十郎は強い口調でたしなめた。 「金瘡《きんそう》を甘くみると、あとで取りかえしのつかぬことになるぞ」 「甘くみるわけじゃない」  と銀次郎は言った。 「しかし、いま貴公が町に出たりすると、やつらがここにおれがいることを嗅《か》ぎつけるおそれがある」 「やつら?」  手は休めずに、半十郎はじろりと銀次郎を見た。 「やつらとは誰のことだ」 「………」 「貴公、誰と斬り合ってきたのだ」 「赤松織衛だよ」  それを聞くと半十郎は廊下に出て伊助を呼んだ。そして誰かがきて銀次郎のことを聞いても、そんな人はきていないと言えと命じた。 「ふでにもそう言っておけ。それからその者がわしに会いたいと言っても、もう寝たと申してことわるのだ」  表口に引き返して行く伊助が、言われたとおりにふでに伝えるために台所に入るところまで見とどけてから、半十郎は部屋にもどった。そして銀次郎に、味方同士が斬り合ったのはどういうわけだと言った。 「味方?」  銀次郎は白い目で半十郎を見た。 「味方じゃない。赤松は素姓も知らぬ男だ」 「ほう」  半十郎は傷口に軟膏をのばした布を置き、慎重に油紙をあてると銀次郎に上から押さえるように言った。 「しかし赤松はご家老の家に寄食している男だろう。そういう人間と、どういうわけがあって斬り合ったかと聞いておる」 「伯父貴《おじき》の差し金だよ」 「………」 「じつは例の用も終ったようだから、おれは江戸に帰ることにしたのだ。しかし行きがけの駄賃に多喜を連れ出そうとしたら、伯父貴のやつ、嗅ぎつけて討手《うつて》をむけてきやがった」 「それは当然だろう」  半十郎はあきれて言った。 「伯父御が寵愛《ちようあい》する女子《おなご》を連れ出そうなどと考えた貴公の方がわるい。よくもそんなバカげたことが出来たものだ。非は貴公にある」 「しかし、連れて逃げてくれと泣いてたのまれたのだ。見捨てて一人で帰るわけにもいかんじゃないか」  言いながら、銀次郎は険しい顔で半十郎が晒《さらし》で傷をしばるのを見つめている。そしてふと吐き捨てるように、周到に用意してうまくいくはずだったのだと言った。  その口調に案外な本気がのぞいているのに、半十郎はおどろいた。塩山の娘多喜との情事は遊びだろうと、ずっとそう思ってきたが、あるいは読み違いだったのかも知れないという気がしてきた。多喜が生んだ子は、銀次郎の子ではないのかと疑ったことも半十郎は思い出している。 「さっき、討手と言わなかったかな」  ふと気づいて、半十郎は言った。 「お妾を盗んだといっても貴公はじつの甥《おい》、ご家老もまさか殺す気があったわけじゃあるまい」 「ところがやつら、女の方はこわれ物を扱うようにして連れ帰ったが、おれには刃をそろえて斬りかかってきた」  銀次郎と多喜は、夜のうちに国境いの村に着いて翌朝関所を越えるつもりだった。ところが関所がある村まであと二里という場所までたどりついたときに、帯刀《たてわき》の命令をうけた男たちに追いつかれてしまった。  むこうは五人だった、と銀次郎は言った。 「女子を連れ去ったあとでか」 「そうだ。おれは怪我《けが》をさせてはかわいそうだと思って、おとなしくやつらに多喜を引きわたしたのだ。ところがそのあとで、赤松と残る二人が斬りかかってきた。間違いなく、おれを消すつもりだったろう」 「解せぬ話だ」 「なあに……」  銀次郎は、この家にきてはじめて、例のふてぶてしい笑顔をみせた。 「それには理由がある」 「ほう」 「おれは、伯父の人に知られてはならない秘事をにぎっておる。で、おれがことわりもなく逃げ出したもので、伯父はこのまま江戸に帰してはまずいと気づいたのだろう。やつは、わが身の安泰のためには甥の命など何とも思わん男だよ」 「秘事とは何だ」  手当てを終って、残った晒を巻きながら半十郎が言った。銀次郎をじっと見た。 「話してみんか」 「さて……」 「わしにはかかわりがない話かの」 「いや、そうとは言えない。大いにかかわり合いがある。いや、あったと言うべきかな」 「ふん、『馬の骨』か」  と半十郎は言った。やはりあれには裏があったのだ。 「それならわしにも聞く資格はある。話せ」 「話してもいいが、条件をつけたい」 「言ってみろ」 「おれと、江戸にいるおれの肉親の身の安全。これを保証してくれるなら話そう。よけいなことをしゃべったと、伯父におればかりか一家みなごろしでむかってこられたんじゃ、かなわんからな」  と銀次郎は言った。  いまさら伯父の帯刀に遠慮する気はないが、累が親兄弟に及ぶのは避けたいという意味だろう。ついでに、なんとか半十郎の家に逃げこみはしたものの、明日の方途も立たないわが身の安全を上乗せしたところが、いかにも銀次郎らしかった。  半十郎はあわただしく思案した。口ぶりから推して銀次郎がにぎっている秘事の本体は、小出家老の政治生命を左右するようなものである可能性があった。「馬の骨」さがしは、ふり返ってみれば決して家老のお遊びというものではなかったのだ。銀次郎を江戸に帰す前に、聞くべき立場の者が、家老の秘事なるものをきちんと聞いておくべきだった。私利私欲に利用するためでも、派閥のためでもなく、藩の利益のために。  ──やはり、杉原さまかな。  あの人は人物だ、と半十郎は思った。だが、今夜これから銀次郎を同道して、杉原家老の門を叩《たた》くのはいかにも気がすすまなかった。小出帯刀とは袂《たもと》を分かち、そのことを悔いてはいないが、対立する家老に、さっそくに小出家老の秘事を売りに行くわけにはいかない。思いは同じで、銀次郎だって相手が杉原では気が進まぬだろう。  そうかといって、大目付屋敷に行くわけにもいかなかった。そんなことをすれば、家老の秘事はいっぺんに公けになって、藩が収拾のつかない混乱に陥ることにもなりかねない。ことはやはり、慎重に秘密裡にはこぶ必要があるのだ。 「よし、北爪さまだ」  最後にうかんできた思案を、半十郎は口にした。 「あそこなら隠れ場所としても、この家より安全だ」  と半十郎は言った。そしてふと気づいて銀次郎の袖をめくった。手当てしたにもかかわらず、傷をしばった白布ははやくも赤く血に染まっている。銀次郎を見ると、熱が兆してきたのか目に潤んだような光がある。 「やはり縫わないといかんな。むこうに行ったら外科を呼んでもらうことにしよう」  いま助太刀を呼ぶから横になっていてくれと言いおいて、半十郎は部屋を出た。銀次郎がした話から判断して、御番頭《ごばんがしら》の北爪平九郎の屋敷に行くには、途中の護衛が必要だと思ったのである。  いそいで近習組の飯塚孫之丞を呼んでくるように伊助に言いつけると、半十郎は自分の部屋にもどって外出の支度をした。すると、気配をさとったらしく隣の部屋から杉江が入ってきた。 「ちょっと出かけてくるぞ」  半十郎が言うと、怪我人がきたそうですねと杉江が言った。 「ふでから聞きました。どなたさまですか」 「例の石橋銀次郎だ。一人では手に負えんことが出来たから、御番頭の北爪さままで送りとどける」 「途中危ないことはありませんか」 「いま、飯塚孫之丞を呼びにやったところだ。孫之丞を護衛につければ心配はない」 「お気をつけて行っていらっしゃいませ。石橋さまにはご挨拶はいたしません」  と杉江は言った。顔色は青白いが、杉江は言うことがしっかりしていた。 「よし、では行ってくる」  半十郎は部屋を出かけて、ふと振りむいた。 「出かけたあとに人がきても、今夜は誰もこなかった、主はもう寝たと申すのだ。もしそれでも無理に押入るような気配が見えたときは……」  半十郎は、鋭く杉江を見た。 「刀にかけても阻め」 「心得ました。ご心配あそばすな」  と杉江は言った。だがそう言ったとき、杉江の顔が一瞬の心の高揚に朱に染まったのが見えた。      二  外科医者が、銀次郎の傷をきれいに手当てし直して帰ると、北爪家の居間は、主の平九郎と半十郎と石橋銀次郎の三人だけになった。飯塚孫之丞は、護衛してきた門前から帰っている。 「さあて、話を聞こうか」  と平九郎が言った。しかし銀次郎は、やはり熱が出てきたのか、顔が紅潮して坐っているのがつらそうに見えた。 「身体がきついか」  半十郎は銀次郎に声をかけた。銀次郎を安全な北爪屋敷に送り届けたことで、今夜の目的の半分は達している。大事の話は明日でもいいではないか、と半十郎は思った。傷の悪化が懸念される。気が合った相手ではないが、手傷を負った姿を見てはやはり同情心が動いた。 「あまりきつかったら、話を聞くのは明日にしようか」  同意をもとめて番頭を見ると、平九郎は首を振った。無慈悲な口調で、いますぐに話してしまえと言った。 「話が終ったら、ゆっくり寝かせてやる」  銀次郎はにが笑いし、水を一杯いただきたいと言った。そして家士がはこんできた水をうまそうに飲みほすと、すぐに話し出した。 「それがしがこちらに参る一年近くも前のことでござった。ある夜江戸屋敷で、中迫《なかせこ》という奥医師が自裁いたした」  と銀次郎は言った。  奥医師の中迫道倫は、江戸上屋敷に勤めて百五十石の禄をいただき、藩主の脈を診《み》る医師だった。元来は江戸で雇われた定府《じようふ》の医師だが、藩主の信任が厚くて参勤の行列にもつき添って、たびたび国元にもきていたから、半十郎も中迫の風貌を記憶している。  その中迫が、拝領していた屋敷内の長屋で自裁したことは、半十郎のみならず北爪平九郎も話には聞いていたのだが、銀次郎がそのことから語りはじめたときは黙っていた。だが、つぎに銀次郎がこう言ったときには、二人は驚愕《きようがく》して顔を見合わせたのだった。 「ところが数日して、お屋敷の中に中迫が長い間にわたって殿に毒をすすめていたらしいといううわさが流れたということでござる」 「調べたのは誰だ」 「御徒《おかち》目付の松宮という人だそうです。なにせ殿の御脈を取る医師の自裁ですから、江戸屋敷では、ご家老が指揮をとって綿密な調べを行なったということでござったが、さきほどのうわさはあるいはそういうきびしい調べが生んだ流言だったかも知れません」  と言って、銀次郎は二人にゆっくりと視線を回した。 「それというのも、そのうわさは二、三日でぴたりと止《や》んだそうですから。もっともこういったことはすべて、わがおやじどのの話の受け売りです。そのころそれがしは神道無念流の稽古に余念がなく、お屋敷のことにはあまり気がむいておりませんでしたので」 「松宮という徒目付については、いささか知るところがある」  北爪が事情通ぶりを披露した。 「笠松六左衛門が町奉行の職にあったころ、その下にいて根岸晋作とともに敏腕の聞こえが高かった男でな。笠松が隠居したあと、たしか由利にのぞまれて江戸屋敷に常勤するようになったのだと思うぞ」  由利というのは、長く江戸家老を勤めている由利万之助のことだった。それだけ注釈をいれてから、平九郎は銀次郎に話をつづけろと言った。 「中迫の一件はそれで落着したかと思われました。つまりたちのわるいうわさだったろうということで片づいたようにみえたのでござるが、それから半年ほどして、今度はべつの方角から奇妙なうわさが聞こえてきたということであった」  そのうわさは、さきに家名断絶、領外追放の処分を受けて他領に逼塞《ひつそく》している望月家の血縁の者が、ひそかに江戸に呼び出されて側用人《そばようにん》の石渡新三郎と会っているというものだった。しかも、その両者の密談は、さきに起きた中迫道倫の自裁の一件とつながっているともいわれた。  今度のうわさは、前のように二、三日でやむというわけにはいかず、ひと月ほどもあちこちでひそひそとささやかれたが、器量人の石渡がそんなうわさはどこ吹く風といった涼しい顔で江戸屋敷内に拝領している役宅と表御殿を行き来しているうちに、これもやがて自然にやんだ。  しかしながら銀次郎の記憶によれば、その直後から銀次郎の家に出入りする人の数が、にわかにふえてきたのだった。  石橋家は代代定府の御留守居で、屋敷は藩邸の外にあって当主の瀬左衛門はそこから藩邸に出仕していた。その家にしきりに人が寄りあつまって密談するようになったのは、さっき言ったように、御用人の石渡がひそかに廃家となった望月の縁者に会っているといううわさがやや下火になったあたりからだった。  寄りあつまってくるのは江戸屋敷勤めの人間ばかりではなかった。たったいま国元から着いたとわかる旅支度に汚れた男が突然玄関先に現われ、そのまま数日も石橋家に滞在するようなこともあった。 「国元の兄さまのお使いですよ」  銀次郎の質問に、母の久仁はそう答えたが、母はむろん使いの中身までは知らなかった。  それというのも、男たちの密談は女子供はもちろん銀次郎ものぞくことを許さない、厳重に閉め切った奥座敷の内で行なわれ、ただそこから異様に緊張した気配が伝わってくるだけだったのである。国元から使いが来たときは、石橋家に寄りあつまる人数は多くなった。そして会議を取りしきるのは、銀次郎の父ではなくて御世子付頭役の河村金吾だった。金吾は小出派の組頭河村作左衛門の嫡男である。  そういった一連のことの真相がほぼ明らかになったのは、銀次郎が伯父の帯刀の命令で国元に出発することになってからだった。出発する直前に、父の瀬左衛門があらましを語って聞かせたのである。 「秘事とすべき事柄もあるが、事情を知らなくてはそなたもむこうに行って働きにくかろう」  ただし他言無用にしろと言って、瀬左衛門が話したのはつぎのようなことだった。  自裁した中迫道倫が藩主に毒をすすめていたらしいといううわさには、二説があって、死んだ中迫はそれについて遺書を残したというのと、日ごろ殿にさし上げている薬の中に、致死量の毒をいれて仰ぎ、それで死ぬことで藩主に毒をすすめていたことを暗に告白したのだという二通りのうわさが流れたということだったが、いずれにしても毒飼いは事実だったらしいと瀬左衛門は言った。では、中迫の背後にいて使嗾《しそう》したのは誰かというのは、藩主周辺が抱いた当然の疑惑だった。 「使嗾者としては、まず小出さまを疑うべきでしょうな」  と、側用人の石渡新三郎が第三者のいる前で由利家老に放言したといううわさがある。そのうわさの真偽はともかく、江戸家老の由利と石渡新三郎が、国元と連絡を取りながら小出帯刀と中迫道倫のつながりを調べ出したのは事実だった。  小出家老に対する疑惑を示唆したのは、中迫の周辺を調べていた徒目付の松宮だとも、毒を飼われたとうわさされる藩主自身だとも言われた。 「殿ご自身がですか」  あまり物事を深刻にとらない銀次郎も、父のその話にはさすがにおどろいて問い返した。 「こうしたことは江戸屋敷にいる小出派がさぐりあてたうわさでな。これも真偽のほどはわからん」  と瀬左衛門は言った。 「ただ石渡新三郎どのの態度がいかにも放胆で、物を言うにしてもあまり隠すところがない。この調べの背後には殿がいるのではないかという観測を洩《も》らす者が一人ならずいることは事実だ」 「………」 「それというのも殿と帯刀どのの仲は元来よろしくない。家中周知のことだが、そなたは知っておったかな」 「いいえ」 「表向きはともかく、内実は君臣犬猿の仲であられる。そのわけはどうも、廃家となった国元の望月にあるらしいのだ」  そこまで言ってから瀬左衛門は、つぎを言おうか言うまいかと迷う顔になったが、結局、他言はならんぞと念を押してからつづけた。 「四年ほども前のことだ。さる江戸屋敷の重職が、この方は派閥としてはずっと中立を守られているお人だが、帰国する直前のいそがしいときにわしを役宅に呼ばれた。ある秘事を伝えるためだったが、その秘事というのは、あるとき殿とその方が二人きりでおられた席で、殿がこう申されたというのだ。望月の一件では小出に嵌《は》められたと」 「………」 「殿はさほどの話の脈絡もなしに、ふと思い出されたようにそうおっしゃったというのだが、そのときのお顔は怒りもあらわであられたそうだ。話はそれだけだった。その重職は、申したことを帯刀どのに伝えるも伝えぬも、わしの一存にまかせる、ただしご自分の名前を出すことはならんと言われた」 「で、父上は」 「長く迷った末に、結局帯刀どのにその旨を伝えた。殿と帯刀どのの仲が険悪になったのはそれ以来だ」  と瀬左衛門は言った。そして石渡どのが望月の遺族を呼びよせて何事か調べているのが気になるところだ、とつぶやいた。 「聞くところによると暗殺された望月四郎右衛門どのは、性傲岸ではあったが切れ者だったという。ばりばりと藩政を切り回していたのだ。ところが四郎右衛門どのが暗殺されたあと、殿は三カ条の過失を言い立てて望月を廃家にしてしまわれたが、その中に執政に偏頗《へんぱ》ありという一項がある。帯刀どのは当時四郎右衛門どのを補佐して藩政を動かしていた家老、殿が申される嵌められたということの中身はむろん、知る由もないが……」  瀬左衛門は太い吐息をついた。 「望月家処分に関して、帯刀どのが何かしら人には言えぬうしろ暗い役割を演じたのではないかという懸念がぬぐえんのだ」 「で、殿がそれに気づかれたと?」 「そうだ」  瀬左衛門は銀次郎をじっと見た。 「うすうすとな。もちろん、嵌められたというのはただごとではない話だ。殿の誤解である可能性もあるだろう。しかし、そういういきさつを下敷きにして今度の事件を考えると、帯刀どのは何か外に洩れてはならぬ秘密を抱えていて、事が公けになる前に殿に対して先手を打ったとも見えてくるところが不思議だ」 「まさか、さように大胆なことは……」 「わしもまさかと思う。しかし今度の調べで、自裁した中迫は従来言われてきたこととは異なり、帯刀どののひそかな推挙によって藩邸入りした医師と判明したそうだ」  瀬左衛門は疲れたように言ったが、すぐに姿勢を正した。 「むろん、国元にきて力を貸せと言われたからには、帯刀どのを助けるのは当然のこと。しかしこういう際だから申してもよいと思うが、そなたの母は小出家の脇腹。こちらが敬っているほどには帯刀どのはこっちを思ってはおらん。殿か、帯刀どのかと岐路に迷うようなときは……」  瀬左衛門はまたじっと銀次郎を見た。 「石橋家は殿の家臣。迷わず殿につくことだ」  こちらに来てからのことはご承知のとおりだ、と銀次郎は言った。 「『馬の骨』さがしというのは、伯父は何かべつの理由を申していたが、要するに暗殺剣さがしでござった。ひらたく言えば殿を亡き者にする企てが中途で失敗したので、今度は自分が暗殺を恐れる番になったということですかな。実際伯父は内心戦戦恐恐としているように見えました。そういう伯父の姿を見ていると、江戸のうわさはどうも本当のことだったかと思われるようなものでしたが、やはり血縁ですな、そういう伯父が気の毒で、命ぜられたことは懸命にやったつもりです」  銀次郎はにやりと笑った。 「しかし、それがしは『馬の骨』の遣い手をさがし出せず、最後は伯父に無能呼ばわりされたという次第です」 「『馬の骨』の遣い手など、もともとおりはせん」  と北爪平九郎が言った。そして半十郎に目を移すと、いやおどろいた話だと言った。半十郎も同感だったが、慎重に言った。 「事実ならおどろき入った話ですが、まだ確証が示されたわけではありません」 「その見方は少し甘くはござらんか」  銀次郎が無遠慮に口をはさんだ。 「このあと殿のご帰国に先立って、それより少し前に石渡どのが帰国される。これはすすめてきた望月関係の調べの最後の詰めを当地で行なうためで、相手は不明だが、石渡どのは帰国直後にひそかに何者かと会われるはずだと、先日江戸から伯父にとどいた手紙に記されておった」 「………」 「ところが、そういうこともあろうかと、伯父はかねて暗殺者を用意して石渡どのの帰国を待ちかまえておるのだ」 「赤松だな」  半十郎が言うと、銀次郎はうなずいた。 「さよう、赤松織衛。十分に用心されよ。しかし、かれこれ考え合わせると、伯父はどうも望月一件とのうしろ暗いかかわり合いが白日の下に持ち出されれば、身の破滅と読んでいるごとくだ」  銀次郎は目をつぶった。かなり疲れたように見えた。はじめ紅潮していた顔は、いまはむしろ青ざめて、額にうすく汗をかいている。目をひらくと、銀次郎は大儀そうな口調で話すべきことは残らず話したと言った。 「さっきの約束は、必ず守って頂きますぞ」 「心配するな」  と北爪が言った。 「貴公にも、貴公の家の者にも、何者であれ指一本触れさせぬよう、迅速に手配しよう。よく話した、ゆっくり休め」      三 「使いに行った徳兵衛の話によると、杉江もだいぶぐあいがよくなったらしいの」  と、義兄の谷村新兵衛が言った。 「応対は尋常で、以前のように人を避けるような気配も見えなかったと言っておった。まずこれでひと安心だとかかはん(母親)は言っておる。もっとも、まだ顔いろはすぐれなかったそうだが」  徳兵衛は谷村家の下僕である。時どきかかはん(杉江の母)に言いつけられて、使いにかこつけて杉江の様子を見にくるのだ。 「まだ顔いろがよぐなく、痩せてもいるが……」  と、半十郎は言った。 「徳兵衛が見たように、近ごろはだいぶよぐなってきて、おれの着替えも手伝うし食事の世話もする。ひところはおれの顔を見るのもいやだというふうだったから、くらべれば雲泥の差だの。しかし、まだ元にもどったとは言えん。どこかに……」  半十郎はもどかしくなって、額の前に立てた一本指をくるくると回した。 「屈託が残っているといったあんべえだ。その屈託が何かは、誰サもわからん。だからあれの顔いろがわるい、物言いが暗いといっても、手を貸すことは出来んのだて」 「ごくろうなことだ、おぬしも」 「なに、ここまで直ったのはめっけものだ。そう思って長い目で見て行くしかない」  二人は三ノ丸の隅を三叉《みつまた》の木戸の方に歩いていた。下城時だが、藩士の大半は濠《ほり》のある正面の木戸か、武家町の多い北口の木戸の方にむかうので、二人が歩いているあたりは閑散としている。三ノ丸の土居の内側にある樹木から若葉の香が匂い、暮れかけている日は、そのあたりを真直ぐに照らしている。  それはそれとして、と半十郎は新兵衛を振りむいた。 「いよいよ杉原派に加わったそうだが、居ごこちはどげだ」 「うむ、わるくない」  新兵衛はわずかに胸をそらすようにして言った。 「元のご家老には、派の会合の席で二度お目にかかっただけだが、さすがに人物だな。小出派と対立するといっても、ぎすぎすしたところは少しも見えない。ゆったりとしたものだ」 「そうか」 「こんなことを言われたな。天下道あれば即ちあらわれ、道なければ即ち隠る、わが派はその時期にそなえて悠悠と力を養っておればよく、焦りは禁物である、と」 「いずれ杉原派の出番がくると読んでいるわけだ」 「そういうことだ。それを聞いておれも気持が落ちついた。もっと早く派に加わればよかったと思ったほどだ」 「元のご家老のお身体ぐあいの方はどげだ」 「お元気だ。ご病気はすっかり直られたらしいな」  新兵衛はそこで、おぬしの方はどうなんだと言った。 「小出派を抜けたと聞いたが、こっちサに加わらんのか」 「なかなか、右から左というわけにはいがねさ」 「それもそうだ」  新兵衛は理解を示した。長いつき合いで、半十郎の性格はよくわかっているのだ。  だが半十郎の心中は、新兵衛がいま解釈したような道義的な在り様よりは、もう少し複雑だった。  ──何かが片づいていない。  という感じが、半十郎の気持の片隅にある。有体に言えば、その片づいていないものは秘太刀「馬の骨」だった。  そんな太刀を遣う者は、もともとおりはせん、と「馬の骨」にごく近い立場にいるはずの北爪平九郎はあっさりと言う。そして石橋銀次郎は、「馬の骨」さがしをあきらめて江戸に帰ってしまった。  だが、半十郎は秘太刀「馬の骨」を遣う者がいることを確信していた。金打《きんちよう》を打ったからには誰にも言えないが、笠松六左衛門の証言を疑うことは出来ない。そしてまた、小出帯刀も「馬の骨」の遣い手がいることを信じているはずだ、と半十郎は思う。  石橋銀次郎は、赤松織衛を石渡新三郎を抹殺するために小出家老が雇った暗殺者だと言ったが、それは盾の一面でしかなく、小出は「馬の骨」に対する備えとして赤松を雇った、とも半十郎には見える。だがそこまで考えてもまだ、はたしてそう考えていいのかという疑問が、残っていた。  厳密に言えば、かつて小出が自身で言ったように、望月を「馬の骨」で屠《ほふ》ったのが小出本人だった可能性もまだすっかりは消えていないのだ。もしそちらの方が真実だったら、秘太刀遣いの暗殺者がまた現われはしないかと、歯の根も合わぬふうを装って「馬の骨」をさがさせたのは、小出家老の大芝居だったということになるだろう。何のためかといえば、もちろん自分にかかる疑いを消すためである。そして藩主が言ったという、小出に嵌められたという言葉は何を指すのか。  半十郎は、こうした事の始終を最後まで見とどけたかった。単純な、秘太刀の遣い手は誰かという興味だけではない。秘太刀「馬の骨」は正義の剣なのか、それとも邪剣なのか。今度また現われるときに、「馬の骨」が襲う相手は小出家老なのか、石渡なのか、あるいはまた藩主なのか。  さらに言えば、派閥の一方の頭である杉原忠兵衛は、望月の暗殺事件には一切かかわり合いがなかったと断定していいのかどうか。望月が暗殺されて政権が倒れたあと、かわって藩権力を一手に握ったのは杉原だったのだ。ふたたび現われるとき、「馬の骨」はこうした数数の疑問に答えるものとなりはしないか。  その結末まで、半十郎は見とどけたかった。そこを見極めないで、中途半端に派閥の綱引きに加わることは思いもよらないという気がする。 「ところで……」  三叉の木戸を通り抜け、別れ道の近くにきたところで、ふと新兵衛が声をひそめた。 「昨夜の派の会合でふと小耳にはさんだのだが……」 「ん?」 「御側御用人どのは明後日帰国されるそうだ」  半十郎は足をとめて新兵衛を見た。胸に、いよいよきたかという衝撃があった。  石橋銀次郎は、三日ほど北爪屋敷で傷を養ったあと、沖山茂兵衛、長坂権平、飯塚孫之丞というかつての好敵手、しかし味方にすればこれほど心強い味方もいまいと思われる男たちに関所まで護衛されて帰国した。八日前である。  その銀次郎が残した言葉によれば、帰国する石渡新三郎を赤松織衛という得体の知れない剣客が待ちうけているのである。石渡の動静を言うのに新兵衛が声をひそめたのは、側用人の帰国について藩中にいろいろなことがささやかれているからだろうが、新兵衛は赤松のことは知らないはずだった。  新兵衛、と半十郎は義兄に警告した。 「いま申したことは、ほかには洩らさん方がいいぞ」      四  側用人の石渡新三郎は、帰国したその日のうちに月番家老に会い、翌日の執政会議開催を要請した。そして翌日八ツ(午後二時)に城中で開かれた執政会議で、藩主の帰国が遅れている事情を改めて説明し、帰国予定の日時と藩主の言葉を伝えたあとは、堀端の自分の屋敷に引き籠《こも》ってしまった。  浅沼半十郎が石渡新三郎の動静を聞いたのはそこまでである。だが数日して、深夜使いをうけて山吹町の北爪平九郎の屋敷に行ったときは、事態は一変していた。  北爪平九郎は横になっていた。しかも顔と言わず手と言わずあちこちに晒《さらし》を巻きつけて、この前の石橋銀次郎よりもさらにひどい姿だった。半十郎はおどろいて言った。 「これは、いかがなされました」 「うーむ、やられた」  と平九郎はうなった。 「相手は赤松ですか」 「そうだ。少しあいつを甘くみた。わしはこのとおり手傷で済んだが、沖山は命を落としたぞ」 「なんと!」  半十郎は呆然《ぼうぜん》と平九郎を見た。沖山茂兵衛の穏やかな風貌、物腰が目にうかび、にわかには信じがたい気がした。  発端は、石渡新三郎がわしにひそかに護衛をもとめてきたことにある、と平九郎は言った。夜に外出したいので身辺を守ってくれる者がほしい、ただし大げさにならぬように、隠密にと石渡は言った。  そこで平九郎は、熟慮した末に自身と沖山茂兵衛の二人で、石渡の一夜の用心棒を務めることにしたのである。 「もう一人加える方がよくはないかと、いう気はした。しかし内藤半左衛門は老齢だ。昼はともかく夜の護衛に引っぱり出すのは気の毒だ。長坂権平は近ごろ、妻女と琴瑟《きんしつ》相和しておる。そっとしておこう。飯塚孫之丞は加治家の娘と縁組の話がすすんでいる。怪我はさせられん、ということで、茂兵衛にも相談をかけた上でこの三人をはずしたのだ」 「………」 「わしがどうかと言ったら、茂兵衛はそれでよかろう、二人いれば十分だと請け合った。そして、こういうことを申した」  赤松織衛という男に面識はないが、江戸詰で藩屋敷にいた若いころに、屋敷のある町の片隅に赤松という町道場があった。沖山茂兵衛が言い出したのはそういうことだった。  さびれたふうのごく小さなその道場に、当時何人かの家中が通っていたことを記憶している、と茂兵衛は言った。道場がいまもあるかどうかはわからないが、赤松織衛はその道場の縁故の者に相違あるまい。流儀はたしか今枝流だ。  わかっているのはそれぐらいのものだが、今枝流ならおよその防ぎ方はわかっているゆえ、何とかなるのではないか。 「例によって控え目な申しようながら、茂兵衛の声からは自信が伝わってきた。だが結果はこの始末だ。赤松が使う技は辛辣《しんらつ》というか悪辣というか、見たこともない難剣で、石渡どのを守りきるのが精一杯だった」 「すると石渡どのは……」 「ご無事だ。さすがに沖山茂兵衛は受けの名手、身に替えて難剣を受けに受けた。茂兵衛の働きがなければ、とても石渡どのを守り切ることはむずかしかったろうて」  北爪平九郎はそう言って目をつぶったが、すぐにひらいた目をぎろりと半十郎にむけた。 「この遅い時刻にきてもらったのは、おぬしと一緒に茂兵衛を偲《しの》ぼうというわけではなく、じつは内密の頼みがあるのだ」 「どのようなことでしょうか」 「孫之丞と権平がいきり立っておる」  と平九郎は言った。 「赤松織衛をほうむり去らぬうちは、茂兵衛の墓に詣《もう》でるわけにはいかぬというわけだ。昼であれ夜であれ、見かけ次第に斬り合いを挑むなどと申してな。あの逆上のしようでは返り討ちが心配だ。それにもうひとつ心配がある」 「事が表に漏れてはならんという……」 「そのことだ。内藤老人も今度のことでは若い者以上にいきり立っておって、そもそも相手を甘く見た北爪がわるいとわしまで叱られた始末だが、しかし老人は年の功でいま申したような事情はわかっている。しきりに若い二人をたしなめておった。孫之丞と権平はかしこまったふうを装って聞いておったが、内心は承服しておらん」 「ははあ」 「むろんわしも内藤老人も、赤松を生かして領国から出すつもりはない。機をみてあの化け物を討ちはたすつもりだが、いまはまずい。はなはだまずい」 「殿のご帰国も迫りましたからな」 「いや、そうではない。今度石渡どのの身辺を警護してわかったことだが、石渡どのはすべて殿と談合済みで動いておられるようだ。まかされている権限も尋常のものではない。おそらく殿のご帰国前に、第二、第三の動きがあるように思う。とすれば、われわれがこれを邪魔してはならんということだ」 「ははあ、すると……」 「あの二人に小出家老や赤松の身辺でうろちょろされては、石渡どのが迷惑される。そこで頼みだが、おぬしは孫之丞の上役だ。同門のおれより、おぬしから言ってもらう方が利き目があろう。押さえてくれ」 「むずかしい役目ですな」 「軽挙妄動するな、と一喝してやれ。それでもやつら、夜分こっそり赤松をつけ狙うぐらいのことはやるかも知れぬ。それについては、わしの家の者を見張りに出し、二人がおかしな動きをするときはおぬしに通報するように手配しておこう」 「承知つかまつりました」  はたして頭に血がのぼっている二人を押さえ切ることが出来るのかどうか、と思ったが、平九郎の心配はよくわかった。 「仰せのごとく、全力をつくしてみましょう」 「たのむ」  白布に包まれた平九郎の顔に、安堵《あんど》の表情がうかんだ。余人には頼めんことだからな、と平九郎は言った。 「これで、しばらくはゆっくり寝ておられる」 「ところで……」  と半十郎は声をひそめた。 「石渡どのは先夜、どこに参られたのでしょうか」  平九郎はすぐには答えなかった。はじめ鋭い目で半十郎を凝視したが、半十郎が目をそらさずに見返すと、やがてにたにたと笑った。 「褒美の前払いか、半十郎」 「いいえ」  半十郎もうす笑いを返した。 「褒美は頂きません。しかしそれぐらいの秘密は明かしてもらわぬと、二人を押さえるのはむずかしかろうと思われます」 「秘中の秘だぞ」 「むろんです」 「寺前町の裏通りに、権十長屋と称する三棟の長屋がある。石渡どのは、その中の一軒に住む喜作という者をたずねられたのだ」 「何者ですか」 「米問屋淡路屋の元の番頭《ばんとう》だ」 「ああ、そうですか」  と言ってから、半十郎ははっと気づいた。淡路屋は望月四郎右衛門家が廃家となったときに、一緒に罪になり家屋敷を没収された上に領外追放となった家である。望月家と親しかったというが、半十郎はその罪の中身までは知らない。 「すると、番頭は御城下に残っていたのですな」 「いや、それがだ。喜作は事件当時、主家の罪に連座して御城下を追放されたのだが、それが原因で重い病身となったので、願いを上げたところ、藩は二年ほど前に罪を赦して御城下に住むことを許可したらしい。ひとり者の老人だということだ。そういうことはほんの一部の者しか知らず、むろんわしも今度はじめて知った」 「で、石渡さまがそこで何を話されたかはご存じないのですな」 「むろんだ。わしと沖山は外にいた。しかし……」  北爪は天井に視線をただよわせた。 「よほどの収穫があったらしいな。あの冷静な石渡どのが、表通りに出るとすぐに、殿のお見込み通りであったとつぶやかれた。興奮を押さえかねたというぐあいであったな」 「はて、どういうことでござろう」  半十郎が言うと、平九郎がまたにたにた笑いをむけて、聞きたいかと言った。 「もちろんです」 「それを聞いてしまうと、藩の秘事に首までどっぷりと漬かってしまうことになるぞ」 「乗りかかった船でござる」  ふ、ふと平九郎は笑った。そして、石橋銀次郎からああいう話を聞いたあと、わしはあちこちと手を回して望月の事件を調べてみた、と言った。 「執政に偏頗あり、などと曖昧《あいまい》なことを申して、一切表に出さなかったが、望月の主たる罪は公金横領、それも藩主家の費用をふくむ藩政運営の公費から、長年にわたって一定の金子を横領していたのだ」  藩の公費は、領内から上がってくる年貢米を藩士に支給した残り、およそ三万俵を上方に沖出し(輸出)して、その売り上げ金で賄う。ほかにも収入はあるものの、藩財政の大骨をなすのは、この年貢米他国売却金である。  この業務をすすめるために、御蔵方、勘定方など多数の藩士が働いているわけだが、沖出しから上方での販売まで、実務を一手にまかされていたのが淡路屋だった。 「この淡路屋と望月が組めば、何だって出来たろう。また、小出帯刀どのは当時から派内随一の実力者であった。この小出どのが淡路屋と組めば、これまた何でも出来たろうて。たとえばの話だが、沖出し業務の要所要所に、小出派の者を配る、などということはいと易いことだったに違いない」 「………」 「わしにわかっているのはこのぐらいのことで、小出に嵌められた、あるいは殿のお見込みどおりということがこれに関係してはいないかと思うものの、事の真相は依然として不明だ。あ、そうそう、もうひとつおもしろいことを聞いた」  と、北爪平九郎は言った。 「望月が暗殺されたころか、そのあとかは知らんが、殿あてに密告の文書がとどいたことがあったそうだ。望月は権力に驕《おご》って、沖出し米売却金を私しているといった中身だったという者がおる」      五 「さあ、今夜は何もない。帰れ。これで明日登城が遅れたなどということになったら、ただでは済まさんぞ」  浅沼半十郎が小言を言うと、飯塚孫之丞ははいと言った。しかし動く気配はなかった。長坂権平にいたっては、ちらと半十郎を振り仰いだだけで、うんでもすんでもなかった。暗い中だからわからないが、おそらく白い目で半十郎を見たに違いない。  孫之丞は立ち、その足もとに権平はうずくまっている。二人が顔をむけているのは、そこから斜めむかい側に見えている小出帯刀の屋敷で、その屋敷はまだ眠っていないと見えて、塀の上にかすかな灯明かりの気配がある。  時刻は五ツ(午後八時)過ぎ。そろそろ寝ようかと思っているところに、金蔵という北爪屋敷の小者がきて、その通報で駆けつけてみればこの始末だった。  半十郎は、今度は権平に声をかけた。 「長坂、北爪どのはやっていかんと言っているのではない。傷がなおるまで待てと言っておる。軽挙妄動は、誰のためにもならんぞ」 「それがしは、べつに……」  長坂権平はぼそぼそと言った。それも立って答えるでもなく、うずくまったままで、顔は依然として小出屋敷の方にひたと向けている。言うことをろくに聞いていないのだ。  半十郎は腹が立ってきた。 「べつに目的もないのなら、ここにいることはなかろう。さあ、帰らんか」  半十郎がそう言ったとき、小出屋敷の門の内側が急に明るくなった。そしていきなり潜《くぐ》り戸があいて、人が二人道に出てきた。提灯《ちようちん》持ちは赤松織衛だった。その特異な風貌は夜でも見間違えようはない。そしてもう一人は、家老の小出帯刀である。  二人は、無造作に歩き出した。足は河岸の方にむいているようである。長坂権平がのっそりと立ち上がった。左手につかんでいた刀を持ち上げると、柄《つか》にぷっと唾《つば》を吐きつけ、目釘《めくぎ》を湿らせてから腰に帯びた。孫之丞もそれにならった。  半十郎は、自分も刀の紐《ひも》を解きながら、いそいで言った。 「見るとおり、ご家老が一緒だ。手出しはならんぞ。跡をつけるだけだ」  だが二人は返事をしなかった。半十郎の先に立って、黙黙と前を行く二人をつけて行く。  ──こいつら……。  半十郎は突然に、怒りが頭まで衝き上げてくるのを感じた。勝手なまねはさせんぞ。上司のおれを何だと思っている。  だがその怒りは、前の二人と後の三人という一行が、五間川の河岸道に出て、川に沿って北に歩きはじめたころになって、いくらか勢いを失った。前の二人は橋をわたらなかった。  ──いったい、あの二人は……。  この夜ふけにどこに行くのだ、と思った。かすかな懸念が、このあたりで芽生えたようであった。  千鳥橋の手前で、半十郎たちは前を行く二人と距離をあけ、赤松と家老が左側の商人町の通りに曲るのをみてから跡を追った。  五間川はちょうどそこでゆるやかに東に向きを変えているのだが、曲り切ったところに南から北にかかる千鳥橋の北|袂《たもと》には、橋下の船着き場を照らす常夜燈がある。三人はその光をはばかったのである。  間をはかって商人町の巴町に曲った。町の入口のあたりにはぼんやりと常夜燈の光がとどいているが、もう店をあけている家はなく、町の通りは闇だった。遠くに赤松が持つ提灯が動いている。赤松と小出家老は真直ぐな通りを、まだ北に歩いて行くようである。巴町の先は雁金町、甚兵衛町と思ったとき、半十郎は河岸の道を北に歩き出したときに兆した懸念が、一挙にふくらんでくるのを感じた。  雁金町と甚兵衛町の間の通りを右に折れれば、そこは寺前町。その裏通りには権十長屋がある。半十郎は息を呑《の》んだ。二人はそこにむかっているのではあるまいか。 「孫之丞、権平、顔を貸せ」  二人を商家の軒下に寄せると、半十郎は北爪どのに聞いたかも知れぬが寺前町の裏に藩主側の大事の証人がいる。家老と赤松がそこにむかっているのだとすると、その証人は抹殺される恐れがある、と言った。突然にのしかかってきた責任の重さに、半十郎は胸がくるしくなり声も上ずるようだった。 「証人を殺させてはならん。いざというときはわしは家老どのを搦《から》め取る。貴公らは赤松をやれ。ただしはやまってはいかん。ぎりぎりまでわしの合図を待つのだ。気をつけろ、赤松は難敵だぞ」  二人は一言もはさまずに聞いていたが、聞き終ると、孫之丞が心得たと言った。三人は前を行く提灯との間をつめるべく、足音を殺して暗い町を走った。  はたして前を行く提灯の灯が右に寄ったかと思うと、ふっと見えなくなった。角を曲ったのである。三人がたどりつくと、そこはやはり寺前町の入口だった。通りの中ほどに、ゆるゆると動いている提灯をしばらく見送ってから、半十郎たちも静かに寺前町に足を踏みいれた。  寺前町は雑然とした顔を持つ町である。雁金町、甚兵衛町とつづく表通りに近い場所にはしもた屋が多く並び、また小体《こてい》な商い店がはさまっていたりするが、奥にすすむにつれて通りの左右には職人の店が多くなる。  しかし職人町といった印象は、その先で裏通りに回るとまたがらりと変る。そこには権十長屋のような建物、終日太鼓の音が絶えない、何かの祈祷《きとう》所、空地などがあって、あたりは急に未開の町はずれの感じになる。町の奥に、城の普請組が使う道具小屋が五棟もならんでいるのが、とりわけその印象を強めていた。  だがいまは、町の表も裏も眠っていた。その深夜の町裏に、護衛をつれているとはいえ、一藩を束ねる家老が密行してきているのは、やはり異常だった。追いつめられて分別を見失った姿とも見える。推測したような意図があるのは、疑い得まいと半十郎は思った。  小出家老は、そこに住む男が先夜訪れた石渡新三郎に何を話したかをたしかめるつもりなのだ。そして聞き取ったあとは、おそらく淡路屋の元番頭を消す気持になっているのだろう。  半十郎のこの推測が正しければ、北爪が言った公金横領の張本人は小出帯刀で、その罪を隠蔽《いんぺい》するために、小出はあたかも犯罪が望月のしたことであるかのように工作をし、かねて望月とそりの合わなかった藩主をそこに嵌めたのだ。そして淡路屋の元番頭は、淡路屋が誰と組んでいたかを証言出来る男なのだろう。  ただ、はたしてそうなのか、あるいはそうでないのか、半十郎はさっき二人に言ったように、ぎりぎりまで様子をみるつもりだった。いま家老は、元の番頭が住むと思われる一軒の家に入っているが、会っただけでそのまま帰れば手出しはしない。黙って帰らせる。赤松に対しても手出しはさせない。  その肚《はら》は決まっていて、緊張で額に汗がにじんでいるものの、気持は落ちついていた。半十郎は権十長屋の手前にある辛夷《こぶし》の大木の陰から、家老が入って行った家をじっと眺めている。家の前には、提灯を持った赤松が立っていた。赤松は、あたりを窺《うかが》い見るようなこともなく、石のように黙然と立っている。  と、見るうちに家の中から家老が出てきた。家老は外に出ると、手をのばして赤松から提灯を受け取った。そして右手を上げると軽く振った。赤松がうなずいたようである。腰に手をやったときにはもう右手に小刀をにぎっていた。赤松はずかずかと戸口に近づいた。 「孫之丞、権平」  半十郎が声をかけるよりも、一瞬早かったろう。三棟ならぶ権十長屋の奥から、黒い風のようなものが走り出てきた。そう見たときには黒い人影は赤松がにぎる刀を跳ねとばし、小出家老の脇をすり抜けると、半十郎たち三人が隠れている木の前を走り去った。黒い颶風《ぐふう》が駆け抜けて行ったような、何かしら重重しい感触が残った。  そのとき、しゃーッという怒号がひびいた。赤松だった。地面に落ちた提灯が燃え、その光の中で倒れている小出家老のそばに、赤松が跪《ひざまず》いているのが見えた。赤松はすぐにはね起きると、地面を踏みならして走り去った。黒い人影を追って行ったのだろう。 「権平はご家老を介抱しろ。孫之丞は一緒にこい」  半十郎は言い捨てると、先に走り去った二人を追って走り出した。孫之丞があとにつづいてくる。  ──何者だ。  と、半十郎は走りながら思った。何者であれ、全身黒ずくめの衣裳に身をつつんださっきの男は、石渡新三郎が手配した淡路屋の元番頭の護衛であるように思われた。だがそれならば、なぜ石渡ははじめからさっきの男を先夜の護衛に使わなかったのかという疑問が残る。  一瞬にして赤松織衛の抵抗力を奪い、家老を刺した剣は、目にもとまらない早業だったのだ。事実半十郎は男の剣の動きを見ていない。 「家老を刺したのが見えたか」  走りながら半十郎が聞くと、孫之丞はいいえと言った。 「誰か、見当がつかんか」 「いや、わかりません」  と、孫之丞は言った。  二人は表通りに出て、雁金町の半ばまで来ていた。そこまでくると通りのはるかな前方にぼんやりと千鳥橋の常夜燈の光が現われ、気のせいかそこにむかって走って行く先行の二人の姿がちらちらするような気がした。  だがそれは目の錯覚ではなく、半十郎と孫之丞が巴町まできたときには、前を走る二人の姿がはっきりと見えた。黒衣姿の男の足ははやくて、間もなく千鳥橋にかかろうとしている。赤松は懸命にあとを追っているが、前を行く男との差をつめたと思えなかった。 「お!」  半十郎は立ちどまった。黒衣の男が橋に達し、そこで立ちどまると赤松を振りむくのが見えたのである。男は振りむくと、ゆるやかに両腕を垂れた。迎え撃つ体勢をとったのだ。  赤松も足をとめた。それから男にむかってゆっくりと歩き出した。まだ二十間近い距離があるだろうと思われるのに、赤松の足はこびは慎重だった。 「もう少し、そばに行ってみよう」  半十郎はささやいた。しばらく考えてから、場合によってはあの男に力を貸してもいいぞと言った。飯塚孫之丞は無言だったが、刀の鯉口を切る気配がした。あるいはいまが、赤松を屠《ほふ》る好機かも知れなかった。  二人が橋まで十間ほどの距離に近づいたとき、突然に気合がひびき、二人の男の闘いがはじまった。赤松は長身から鋭い豪剣をつぎつぎと放つ。それを黒衣の男は巧みに受けているように見えた。豪剣をはね返し、時にはすばやくかわしながら、男の腰はぴたりと据わっている。  だが、見ている半十郎は手に汗をにぎった。沖山茂兵衛は受けに受けたがやられたという、北爪の話を思い出したのである。そばにいる孫之丞に言った。 「押されているようだな」 「いえ、そうでもありません。少しずつ返しています」  と孫之丞がささやき返した。孫之丞のいう動きが、ようやく半十郎にも見えてきた。男はただ受けているのではなかった。受けた瞬間、俊敏な返し業を打ち、それは赤松の小手や腕、肩先などに確実にとどいている。赤松の右手首のあたりが黒く見えるのは、そこに血が流れているのだ。  だがそのころから、赤松の難剣ぶりが現われてきた。上段から斬りおろすとみせて、赤松の剣は不意に下段から跳ね上がったり、引き足について行くと突然に鋭い刺突を試みたりする。一度は黒衣の男を橋の欄干まで追いつめた。  だが、この競《せ》り合いでも手傷を負ったのは、赤松の方だった。男は巧みに窮地を脱してぴたりと剣を構えている。 「赤松が翻弄《ほんろう》されています」  孫之丞がそうささやいたとき、赤松織衛がするすると間をあけた。あるいは赤松はこれまでの斬り合いの不利をさとって、一撃の技に必殺を賭ける気になったのかも知れなかった。  吠《ほ》えるような声をあげて、赤松は前に走った。黒衣の男は正眼に構えて待ちうけていたが、赤松の剣が上段に上がると剣先を下段に移した。そして殺到する赤松を迎え撃った。  男の剣が高く鋭く、宙に円弧を描いたのを見ただけである。あるいは男は、そのときに片膝を折ったかも知れない。半十郎が見たのはそれだけだった。しかし赤松の身体が支えを失ったように前に倒れたとき、男はいつ体を移したのか、赤松から二間も横にはなれたところに、剣を正眼に構えて立っていた。  男はじっと倒れた赤松を見ていたが、やがて血を拭《ぬぐ》って刀を鞘《さや》にもどした。血を拭った懐紙はうずくまって赤松の袂に押し込んだ。隠しとどめである。それが終って立ち上がると、男は不意にうしろをむいて、半十郎と孫之丞が隠れているあたりに顔をむけた。  男ははげしく肩で息をしていた。黒衣の胸元、ちょうど襟のところが横一文字にざくりと斬られているのが見える。孫之丞は赤松を翻弄していると言ったが、男もまたいまの斬り合いで、辛《かろ》うじて死地を潜り抜けたもののようであった。  男は頭巾の中からまだこちらを見ている。長い凝視だった。その凝視に、半十郎がふと血も凍る無気味なものを感じたとき、男はくるりと背をむけた。すたすたと橋をわたり、その先の町の暗やみに消えて行った。  半十郎は深い吐息をついた。孫之丞をうながして物陰を出ると、死体のそばに行った。しかしうずくまって検《あらた》めるまでもなかった。赤松の首が骨まで断たれているのが見えた。男は秘太刀「馬の骨」を遣ったのだ。ひと目で、それがわかった。  孫之丞の顔にも、それを見たおどろきが出ている。 「いまの男が誰か、わかったか」  しばらくして半十郎が言うと、孫之丞ははあ、多分とつぶやいた。そして少しためらってから語調を改めて言った。 「しかし、それがしから名前は言いたくありません」 「では、わしが言おうか」  と半十郎は言った。  男は目立たない中肉中背だった。孫之丞によく似た身体つきだったが、むろん孫之丞ではあり得ない。また沖山茂兵衛は死に、北爪平九郎は怪我で寝ており、内藤半左衛門は大男である。そして長坂権平はいま寺前町の裏通りにいる。  矢野家の家僕兼子庄六を、半十郎は長い間秘太刀の持主ではないかと疑ってきたが、庄六は小太りで背が低く、剣を遣うときにやや猫背になる。そういう恰好《かつこう》で、長坂権平と木剣をかわしていた壮絶な夜稽古の光景は、いまも目に焼きついて残っている。男は兼子庄六でもなかった。  身体つきが飯塚孫之丞に似て、しかも生前の名人仁八郎から秘太刀を譲られる機会があったのは、ほかには矢野藤蔵しかいないのだ。 「藤蔵どのだ。貴公のみるところも同じか」  半十郎のその問いかけに孫之丞は答えなかったが、黙ってうなずいた。  ──矢野藤蔵だ。なぜ、もっと早く気がつかなかったのか。  と半十郎は思った。やはり矢野家の稽古所で見た藤蔵と石橋銀次郎の木剣試合と、その場に溢《あふ》れていた強烈な殺気を思い出したのである。  殺気は銀次郎が発したものではない。秘太刀「馬の骨」に触れてきた男を、試合に事よせていっそひと思いに打ち殺してしまおうかどうしようかと思う藤蔵の思案が、あの異様な殺気を生み出したのであったろう、といまにして半十郎はあの場面をふり返ってみる。  しかしそこに半十郎が来合わせたので、藤蔵は思い直して銀次郎にわが胸を打たせたのだ。何のためかは言うまでもない。「馬の骨」と、その遣い手である自身を、深く秘匿《ひとく》するためである。  矢野家の当主藤蔵こそ、秘太刀「馬の骨」の継承者にして藩主お抱えの暗殺者なのだ。疑問の余地なく目の前にうかび上がってきたその事実は、やはり半十郎をおどろかせる。 「馬の骨」には触れずに、半十郎は孫之丞に念を押した。 「さっき見たことは、われら二人の秘事として、他言無用にしよう。何びとにもだ。どうだな」 「心得ましてござる」 「金打《きんちよう》を打とうか」  常夜燈の光に背をむけて、二人は金打を打った。その硬い音がひびいたとき、半十郎は秘太刀「馬の骨」をふたたび闇に閉じこめたような気がした。  そのとき、巴町の通りを男が一人走ってきた。長坂権平だった。 「間に合ってよかった」  と、権平は言った。 「小出家老どのは、じつにひと刺しの剣で絶命しておられました。さて、どこにとどけ出たものか、お指図を頂きとうござる」  そうか、藤蔵は石渡新三郎から、小出家老が証人抹殺に動くときは暗殺すべしという言い渡しを受けていたのだな、と半十郎は思った。小出家老のその行動こそ、自身の犯罪を白状するものだからだ。もちろん石渡の指示の背後には殿のご意志があるのだろう。 「権平、こういう場合は公けにはとどけ出ぬとしたものだ」  と半十郎は言った。 「これから三人で北爪さまの屋敷に行き、委細を話す。ご家老の遺骸《いがい》は、北爪さまから家老屋敷に知らせて隠密に引き取らせることになるだろう」 「わかりました」  と言ってから長坂権平は、はじめてあたりにただよう血の匂いに気づいたようだった。四、五歩橋袂に近づいて、そこにころがっている赤松織衛の死体を見た。だが権平はすぐにそこをはなれて、暗い川岸の草むらにうずくまるとはげしく吐く音を立てた。  女房は無事にもどって家の中は安泰だが、権平の胃弱の方はまだなおったとは言えないようだった。 「これは凄《すご》い。おそらく例の『馬の骨』ですな」  涙をふきふきもどってきた権平が、二人を見た。 「やったのはさっきの覆面男ですか」 「さあて。われわれが駆けつけたときには、もはや死骸がころがっているばかりで、ほかには人を見なんだ」  と、浅沼半十郎は言った。さよう、わしと孫之丞が金打を打ったからには、誰も秘太刀「馬の骨」を見た者はいない。半十郎はそう思い、石橋銀次郎の訪問にはじまった秘太刀さがしが、いまようやく終ったのを感じていた。  ンでがんす(さようでござります)。今日は奥さまがこの間、旦那さまのお許しを頂いたように、お寺参りに行く日でがんした。  今日はこの前のときのように、途中から引き返されるなどということもなく、お寺参りは無事に済み、伊助がお供をして吉住町の旅籠《はたご》結城屋の前まできました。ところがどうしたわけでがんしょ(ござりましょうか)、いつもは閑散としている結城屋の前が、今日は黒山の人だかりでした。  のぞいてみると宿の前で、一人の浪人者が大きな声で人を脅しているところでがんした。はい、ご時世でしょうか、近ごろ時どきご城下で見かけるようになった流れ者のご浪人で、風体はといえば継ぎあての着物に垢《あか》と埃《ほこり》にまみれた袴、大そうなひげづらに足もとは素わらじというむさいなりの大男でした。  この男がなんと片手に一歳と少少、とてもまだ二つにはなるまいと思われる男の子をつかまえ、片手に抜き身の刀を振りかざして、結城屋の者たちに何事か脅しをかけているのです。結城屋の者がまた、宿の前に土下座して何事か懸命にあやまっているのをみると、その子は結城屋の子供なのでしょう。  それはともかく、男は結城屋の詫《わ》びごとなど、いっかな耳傾ける様子もなく、結城屋の者たちにむかって、十両や二十両の詫び金ではかんべんならぬと、途方もないことをわめいております。その利発そうな男の子が、男に対して何か粗相を働いたものでしょうか。  脅しの言葉をわめきながら、浪人者は時どき刀の刃先を男の子の首の近くに持って行きます。その刃先が光るたびに、まわりを取りかこんだ女子《おなご》衆がきゃあきゃあさわぐという有様でした。  ところで奥さまのことですが、その騒ぎの間黙って人質の男の子を見ておりました。そして男の子も、いつの間にか泣くのをやめて、じっと奥さまを見つめておりました。奥さまがあまりしげしげと自分を見なさるもので、つい浪人者よりも奥さまの方に気をとられたという様子に見えました。あどけなく、かわいい子供でがんした。  このとき弥次馬の中にいた男が、これじゃとってもだめだ、誰かお役人を呼んでこいとどなりました。すると浪人者がきっとその男を見て、役人を連れてきたらこの子を刺して捨てるぞと言いました。その声の人情のかけらもないつめたさに、人人は静まり返りました。物をささやく人もいませんでした。  伊助、木刀をと奥さまが申されました。やつがれは首を振りました。奥さまのお顔のいろと声のきびしさで、男の子を助ける決心をされたことがわかりましたが、相手は旅にやつれた浪人者とはいえ、両刀をたばさむ大男です。かかわり合われますな、と懇願いたしました。  しかし奥さまは、伊助めをきびしく叱って木刀を取り上げてしまわれました。そして前褄《まえづま》を帯にはさみ、足袋はだしになられると、人を掻きわけて前に出て行かれました。  結城屋の前は、無人のように静かでした。浪人者も、奥さまを見て一瞬あっけにとられたような顔をしました。しかし奥さまは委細かまわず無言のまま前にすすむと、短い気合をかけて男の肩を打たれました。目にもとまらぬ早業でがんした。  男はおう、おうと吠え声をあげて、子供の手を放しました。そしてつぎの瞬間には悪鬼の形相で奥さまに斬りかかってきました。  やつがれは思わず目をつぶりそうになりましたが、奥さまは一歩もひかず、牛若丸のような身のこなしでその刃の下を掻《か》いくぐられました。そしてすれ違った二人が振りむいたとたん、奥さまはまたしても風のように走り寄ると、今度はぴしりと音がひびいたほどに強く、相手の籠手《こて》を打たれました。浪人者は刀を取り落とし、あわてて拾い上げると後も見ずに逃げ去りました。  奥さまは、やつがれに木刀を返しながら笑顔を見せられました。 「ずいぶん手間どりました。さあ、はやく帰って旦那さまのお夜食を支度せぬと……」  そうおっしゃる奥さまの声はやわらかく、深く、お顔にはいきいきと血色が動いて、長い間の暗く不機嫌なお気色は、拭い去ったように消えておりました。  やつがれの前に、奥さまはむかしのままのお姿で立っておられました。はい、ご病気がお直りになったのだと思いました。  下僕風情がこんなことを申しますと、旦那さまのお叱りをうけるかも知れませんが、奥さまはさきほどの結城屋の子に亡くなられたお子さまの面影を見、その子をご自分の力で危難から助け出されたことで、お気持が救《すく》われたのではがんしね(ない)でしょうか。  むかしの奥さまにもどられたのだ。そう思うと、伊助めは奥さまのうしろに従って町を歩きながら、涙が出てきて困りました。こうして門前を掃きながら、旦那さまの御下城をお待ちしておりましたのも、一刻もはやく今日の出来事を申し上げたかったからでがんす。  旦那さま、奥さまはもうご病人ではござりませぬ。お屋敷に入れば、すぐにそのことがおわかりになりましょう。  単行本 一九九二年十二月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成七年十一月十日刊