[#表紙(表紙2.jpg)] 藤沢周平 漆の実のみのる国(下) [#改ページ]   漆の実のみのる国(下)      二十五  安永四年五月六日の早朝、上杉治憲は少数の供の者を連れて城を出発し、下長井にむかった。  前日に降った雨のせいで、城も城下の町町も濃い朝靄《あさもや》につつまれ、四囲はまだうす暗かった。しかし馬上の治憲を中心にした一行が、城下北端の北町番所を通りぬけ、米沢街道を北にすすんで中田村にさしかかったころに、雨雲のように上空を閉ざしていた靄の一角にほの紅い筋のようなものが現われ、それはみるみる夜明けの光になった。  そしてまるでそれが合図だったように、靄は急速に引きはじめて、靄の中からいちめんの青い稲田、点在する村村などが姿を現わした。と思う間もなく、街道の奥につらなる山山の上に日がのぼって、一行を照らした。 「あれを見よ」  それまで黙って馬をいそがせてきた治憲が言った。 「もう草を刈っておる」  供の者たちも一斉に田圃を見た。遠い田圃の中に、腰を深く曲げて鎌を使っている者がいた。田の畔《あぜ》の草を刈っているのである。  草を刈っている男は一人ではなかった。街道の西に見えている宮井村と思われる村落のはずれにも、二人の男が鎌を使っているし、街道の北、これから通って行く窪田村の手前にも人がいる。 「牛馬にやる朝草を刈っているところでござりましょう」  と近習の一人が言った。少しは百姓の暮らしを知っている口ぶりだった。近習はつけ加えた。 「男どもは、空が白むころには家を出るそうにござりますゆえ、草刈りもそろそろ終りかと思われます」  治憲はもう一度田圃の中の男たちに目を走らせた。  日はいまはくまなく田圃や村落を照らし、ところどころで靄の置き土産である水滴が日の光をはじくのも、宮井、藤泉、そのはるか奥にある小山田などの村村に炊《かし》ぎの煙が這いまつわっているのもあきらかに見えた。さっきまで騎馬の一行を厚くとり巻いていた朝靄は、遠く盆地の隅にしりぞき、その中にも時おり草を刈る鎌がきらりと光るのが見える。のどかな景色だった。  ──何事もなく……。  豊作であってくれればよい、と治憲は思った。それは祈りだった。民はかくのごとく勤勉である。だが天候は、神に祈るしかないものだった。  一行は窪田村を通り過ぎ、その日の最初の目的地である糠野目《ぬかのめ》村に着いた。巡覧出発にあたって、沿道の村村に藩主がくるからと特別のことをしてはならぬと、厳重に通達を出しておいたので、巡覧の一行を迎えたのは郷村出役の鰐淵甚左衛門吉武と糠野目御役屋(陣屋)の役人、少数の村役人だけだった。治憲と供の者たちは、御役屋の一室で城から持参した粗末な弁当を使って朝食をとり、小休止すると鰐淵の案内で糠野目村内にある開墾地を見に出かけた。  郷村出役という新たな農政の役職が新設されたのは三年前の明和九年(安永元年)九月で、この役職は、前年に行なわれた農村支配機構の改革を引きつぐ形で新設されたものだった。前年の改革の中心は郡奉行制の復活で、さきに竹俣《たけのまた》ら重臣に誅殺された森利真も採用したこの制度を、竹俣ら改革派も農村改革の骨組みをつくるにあたって再登場させたのである。  ただし森の時代とは違って、郡奉行二名には前の町奉行長井庄左衛門(藤十郎)高康、江戸御納戸頭永井喜総兵衛貞則という人材をあて、家禄はそれぞれ二百五十石に引き上げた。永井はじつに二百石の加増だった。  そして郡奉行の下に五名の次役、その下に代官、副代官をおき、これら全体の上に郷村頭取、次頭取を据えた。現在奉行が兼帯する新制の郷村頭取の職をになっているのは、さきの重臣騒動で失脚した千坂対馬高敦、色部修理照長にかわって奉行となった毛利|内匠《たくみ》雅元である。  こうした農政機構の形は、大方は藩政初期、さらには森利真の藩政掌握時代の郡奉行制を踏襲するものだったが、前記の時代にはなかった内容もまた加えられていた。ひとつはこれまで慣例としてきた代官の世襲制を廃止したことであり、ふたつ目は副代官と掛り役人を増員して勤務の充実をはかったことである。  副代官は各代官ごとに二名、合計十名が任命されたが、彼らの特色はいずれも五人扶持十石程度の小禄家臣だったことで、この実践を重視した副代官の組織はのちにこの中からすぐれた農政家を輩出することになる。  新制の農政機構の三つ目の特色は、郡奉行、次役に直属する形の役職である十二人の郷村出役と六人の回村横目を置いたことである。郷村出役は領内二百六十カ村を十二に分けたその一区画二十余カ村を管轄区域とし、その地域に住みついて農民の農作業、暮らしの教導にあたる役職で、横目は農村を密行して盗賊、賭博、さらには惰民の取締りにあたった。  これが制度上の農村改革で、糠野目村で治憲をむかえた鰐淵吉武はそういう新しい農村官僚の一人である。そして彼らの役目はひと口に言えば農村の教導にあった。  さきに述べたように、治憲が就封してからのちも米沢藩は度重なる災害と国役で財政は少しも楽にはならなかった。こういう場合の藩が取る手段は領民に重い年貢を課してきびしく取り立てるという、いわゆる苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》の色彩を帯びざるを得ない。明和七年ごろの米沢藩では七公三民といわれた重い年貢が課されていたのである。  藩主である治憲がどう考えようと、政治機構としての藩は、必要な税は未納の農民を打ち叩いても取り立てねばならない。その有様を、もう少し時代が下った寛政二年に、藩のもとめに応じて具申した意見書の一冊である藁科立遠《わらしなりゆうえん》の「管見談」は、近年年貢の取り立てがきびしくなり、初秋になるやいなや役人が村村に下りてきびしく催促し、年貢の納めが遅れる者は肝煎《きもいり》の家に縛っておいたり、水風呂に入れたりしたと記した。「厳冬烈寒にケ様の責に逢ふ事ゆゑに間々凍死する者も有と云へり。また当時は死せず共、翌年多くは疫病を病み死すると云へり。誠に不仁の甚しき哉」と立遠は嘆息している。  このような苛斂誅求が何をもたらすかといえば、農村人口の減少とその結果としての村の疲弊である。農民が夜逃げした、あるいは耕作を放棄して町奉公に変ったなどといういわゆる潰れ百姓が残した田畑は村の責任で共同耕作し、年貢を納めなければならない決まりである。しかし自分の家も人手が足りない家家に他をかまうゆとりがあろうはずがない、というので、最終責任者である肝煎が潰れ田の耕作は放棄したまま、年貢だけを納めるといった事態も現われた。しかしこのような弥縫策《びほうさく》が長くつづくわけはなく、村は荒廃し、安永初期の農村の人口はおよそ八万人、元禄初期にくらべると七千五百人も減少したのである。  藩がもっとも危機感を持ったのは、この農村人口の減少である。郡奉行制を柱とする農政改革の開始にあたって、竹俣|当綱《まさつな》は農村官僚に郷村勤方心得を示した。  その中に人少なで農業に手が回らないということが一国の衰微をもたらしたと述べ、人をふやすことが大事の根元であり、この一カ条が成就するだけで郷村は立ち行くだろうと説諭している。また「治世のもとは食物に候、食は土を掘りて田を作り、稲を植ゑて米を取り、これを喰らひて我ひと生きて居候致し方に候。その致し方が悪しく候へば家国衰へ、人々饑ゑて死に申候。政務の儀これに過ぎ候大事はこれ有るまじく候」とも述べている。  これが竹俣当綱の政治観である。そのために骨組みのしっかりした農村の改革をすすめようとしているのだが、領内八万人の農民をこの改革の軌道に乗せることは簡単ではない。少数の村役人や地主をのぞけば、大方の農民は人倫のわきまえも十分でない無筆の徒である。教えこまなければならないことは多多あるが、これを彼らの心にどう伝えるか。  藩主治憲は新しい農村改革の出発にあたって、新設の郡奉行に愛民の心を説く諭告を下した。しかし基本はそうであっても、勤方心得としてはいま少し実際的、具体的な方針が必要だろうと当綱は考える。  民を養い育てること父母のごとくするのが郷方役人の心得ではあるが、民は知らしむべからず由《よ》らしむべしともいう。農民をおだてすぎれば乱を招くことがあるだろうと当綱は述べ、農民に対するには寛猛二つの心得が必要だが少少のことはゆるやかにしてひどい取扱いをしてはならないと説諭した。その上で農民をみちびくための数数の条項を示し、農村指導の目安としたのである。  そしてこれらの農村指導を実地にすすめるのが新設の郷村出役、正式には郷村教導出役の役目だった。当綱は彼らにも教導の心得を指示したが、その内容はたとえば天道をうやまうこと、御上を恐れ尊ぶことといった人倫の教導から衣食住にわたる農民の暮らしむきまでこまかに言及し、奢りをいましめて質素に徹すべきことを教えみちびくように言ったもので、当綱の意図は意図として、規制される農民側にすればたまったものではないという気持もあったであろう。  しかしまたその指示の中には、藩の用務を帯びて村に下る諸役人や知行主の横暴を排除することを命じた一項もあり、当綱が明確に郷村出役が農民保護の立場に立つことをもとめたことも示している。さきに記述した郷村出役の村方肝煎に通達した諭告の中には、奉行竹俣当綱のそういう基本的な考え方に沿った方針が示されているとみてよかろう。  郷村出役には中級家臣である三手組の者が任命された。彼らは翌年に起きた七重臣の反改革事件の間も黙黙と赴任地で働き、いま一行を迎えた鰐淵吉武のように、このあとの巡覧地でもつぎつぎと現われて案内役をつとめるはずだった。  彼らの中からはのちに中郡代官となる|蓬田郁助《よもぎたいくすけ》、勘定頭格に昇格する今成吉四郎相規《いまなりきちしろうすけのり》、天明二年に郡奉行に任ぜられる小川源左衛門尚篤など、農政に通じた良吏が出て藩政の中枢に用いられて活躍することになる。鰐淵は馬廻組出身の二十五石、つつましい一郷村出役にすぎないが、やがてこの人物も文化二年には百七十五石を加増され、家禄二百石の物頭となるのである。  巡覧の一行は、開墾地を見終ると、村の東を流れる松川べりにある舟場、糠野目河岸に行った。河岸にある津出場(舟屋敷)は、元禄五年に対岸の幕領屋代郷の産米を松川の下流最上川の舟運によって江戸に輸送しようともくろんだ京都の豪商西村九左衛門の置土産である。  西村はこの年米沢藩に松川下流の難所黒滝の開鑿《かいさく》願いを上げ、翌年藩と幕府の許可がおりると二年の歳月と費用一万七千両を投じて開鑿工事を成功させた。これまで屋代郷のみならず米沢藩でも、領外に売りさばく物資はすべて困難な峠越えにたよるしかなかったのだが、この工事完成によって松川と最上川が舟運でつながり、物資は最上川、酒田湊経由の西廻り舟運によって大消費地につながる道がついたのである。 「しかしながら黒滝の水路がひらかれた結果、思いがけぬことが起きました」  と河岸まで一行を見送り、治憲の諮問に答えていた鰐淵が言った。  西村から黒滝の開鑿願いが出たとき、米沢藩では賛否両論が起きた。黒滝の岩盤がくだかれて舟運の便がひらかれれば、出入りする商品の量は従来の比ではない。工事は国益に合致するという意見に対し、滝を切り落とせば土地の膏油を流し去り、地味は痩せて五穀の豊熟が損なわれるだろうという反対論があった。 「藩では国益と決して許可をあたえましたが、水路が開通したとき予想もしなかったことが起きました。松川、羽黒川、鬼面川の淵は浅瀬と変り、白旗の松原は枯れ、郡中の漆木は生育が阻まれました。ここの河岸も水不足となってふだんは使えず、これからおいでになる宮村の河岸が常用の舟着き場となりました」  鰐淵の言うことを興味深そうに聞いていた治憲が言った。 「しかし開鑿の利もあったであろう」 「ござりました。永世通船の便がひらけましたことが第一、また水量が減ったために河川の水害が減り、下長井河原前には桑畑がひらけました。得失を論じれば、得が残ったものと愚考いたします」  治憲は満足そうにうなずいた。  一行は鰐淵や村役人に見送られて舟に乗り、糠野目をはなれたが、昨日の雨の名残りを残す川は、濁ってはいるものの水量が多く、舟はなめらかに松川をくだった。この日治憲は出役湯野川半左衛門忠隆、小川尚篤らの案内で精力的に沿岸の開墾地を見て回り、夜は小出村の竹田四郎兵衛家に泊った。  小出村は北側に隣接する宮村とともに、最上川と野川が合流する肥沃な扇状地の上に出来た村で、下長井地方の中心をなす土地である。米だけでなく青苧《あおそ》、繭、紅花、真綿など、下長井のゆたかな産物の加工地でもあり、また商品の集散地でもあり、舟場を持つ宮村とともに中心地は在郷町を形成して、多数の富商が住んでいた。  治憲の巡覧一行はここを根城と定めて各地の開墾地を見て回り、また小出村の筒屋(製蝋所)、籾《もみ》蔵、宮村の青苧蔵、米蔵などを巡視して回り、五月九日には宮村河岸(舟場)からふたたび舟に乗って、下流の荒砥、白鷹方面に足をのばし、白鷹山に登った帰りには漆苗畑や植立ての杉林などを見た。翌日はさらに下流の黒滝、古四王原などを見た。古藤長左衛門政富、蓬田右門らの郷村出役が案内役をつとめた。  六日に城を出発してから十二日に帰城するまで、治憲は七日間にわたって下長井を中心に各地の開墾地と産業を見て回ったのだが、その間にこの地方の景勝の地と呼ばれる草岡村の洞松寺をおとずれ、また荻野、中山と狐越街道を北上して、白鷹山に登り虚空蔵菩薩を参拝したことは、治憲にとって日ごろの多忙な政務をはなれたいっときの休息となった。下長井滞在の最後の日十一日には今度の旅行の名目とした放鷹矢魚の遊びもたのしんだ。  治憲は十二日に帰城して、たまっていた政務の処理にかかったが、五月も末に近づいた二十七日に、二年前の七重臣騒動で隠居閉門の上知行の内三百石を削られた侍頭長尾景明、清野祐秀、平林正在の閉門を解く旨を公示した。竹俣当綱らと協議した結果である。  この処置によって、三家は後継の長尾景純、清野秀将、平林正賀がそれぞれ減石後の七百石、千百十六石、五百五十石の家禄で侍組に復帰した。この処置の二日後、五月二十九日に、治憲は城中に諸士手伝いで奉公した家臣らを招き、これまでの手伝いの勤労をねぎらうとともに、思う仔細もありという言い方で、以後の手伝いを禁止した。しかし諸士手伝いをふくめた開墾地の巡覧、諸工事手伝いの巡覧はそのあとも入念につづけられ、その年の十月ごろになってようやく終った。  また五月に重臣騒動の三家を侍組に復帰させたのにひきつづき、七月三日にはさきに当主が切腹処分をうけて苗字断絶した須田家、芋川家に、末家を立てて二百石とし、侍組に召し出す旨の下命があった。赦免措置をうけて両家の跡をついだのは大小姓須田平九郎|満清《みつきよ》と芋川磯右衛門|親生《ちかいき》である。  同じ日、隠居閉門の上知行半減の処分を受けて慎んでいたもとの奉行千坂対馬、色部修理の両家にも、閉門を解いて対馬の嫡子与市清高と修理の嫡子典膳|至長《のりなが》に家督相続と家禄半減のまま侍組に復帰すべき旨の下命があった。七重臣に対する苛烈な処分は、越後以来の名家重臣といえども藩主を侮ることはゆるさぬという、治憲の断固とした意志表明だったが、今度の赦免措置は、しかしながら越後以来の功業の臣の裔《すえ》である名家の名を惜しんだといったものだったろう。  治憲が諸士手伝いの跡を巡覧し、七重臣の赦免措置を講じている間に、奉行の竹俣当綱は金主を相手に汗だくで借財整理の交渉を行なっていた。当時の藩の借り受け金は三谷《みつや》三九郎が三万両余、野挽甚兵衛一万六千両余、酒田の本間家八千両余など、合計して十六万千七百三十両で、たとえば明和八年の元利を合わせた年間の返済額は三万九千九百六十一両、半永半石(半分は永楽銭、半分は米)という藩の年貢の半永(実情は銀納中心)、つまり一年分の銀納め分を上回る額となっていた。  苛酷な年貢取立てをあえてして、領内から掻きあつめるようにして金をあつめても、これではとうてい財政が立ちゆくわけがなく、改革にともなう新規事業に取り組むとしても、その前に、この膨大な借財を何とかしなければならないというのが当綱の考えである。当綱は手段をつくして借財整理に取り組み、この年ついに古債の永年賦払い、無利息という交渉に成功した。  八月初旬には、莅戸《のぞき》善政《よしまさ》が具申した家中への借り上げ銀方一回限りの返却が実現した。諸士手伝いの跡を藩主みずからが巡覧して、長きにわたった勤労をねぎらうことと以後の手伝い停止、重臣処分の赦免措置、借財整理、そして銀方の返却は、いずれも本格的な改革事業を始動せしめる前に始末をつけておくべきことであったと言えようか。  あるいは協議の末に、あるいはたまたま関係者の符節が合致して、実行のはこびになった以上の政務は、いずれにしろ新しい事業を心おきなく行なうために必要な事柄であった。  安永四年十月四日は朝から断続的にしぐれが降る寒い日だった。その日治憲が執務室に入るのを待っていたように、莅戸善政を同道して現われた竹俣当綱は、朝の挨拶が済むとすぐに、三木植立ての計画書が出来ましたと言った。  竹俣当綱は、持参した風呂敷包みをひらいて奉書紙に包んだうすい冊子を取り出すと、うやうやしく治憲にささげた。 「まずはお目通しをねがわしく」  当綱は言うと、しりぞいて一礼した。莅戸善政もこれに倣った。治憲はうけとった冊子に目を走らせた。並んでいるのはつぎのような数字だった。  一、漆木百万本  二十二万二百十二俵 実穂一本より一斗計つゝの出方  一万九千百五十七両 百万本の御潤益  一、桑木百万本  七千四百七両 一本より四十文計つゝの出方にして御潤益  一、楮《こうぞ》百万本  五千五百五十五両 一本より三十文計つゝの出方にして御潤益  合せて三万二千百十九両  御知行に積り  十六万五百九十五石 百石二十両の割にして御知行に直し候分  右は三木の御潤益十年の後御出方空勘かくのごとし、ただしこれまで御出方の外  三木の内漆百万本植立て候地割(ただし一本を三坪に植立積り)  一、六十四万本 御郡中百姓持地百坪へ三十本つゝ植立て  一、二十六万五千本 御郡中空地七百五十九町の地所へ植立て  一、七万五千本 御家中諸士一屋敷へ十五本つゝ植立て  一、五千本 町々一屋敷へ五本つゝ植立て  一、五千本 御郡中諸寺院境内へ一ケ寺十本つゝ植立て  一、一万本 御郡中神社仏閣一地へ二十本つゝ植立て  合せて百万本。  治憲は計画書を二度読み返した。三木植立て計画については、当綱からいずれ書面をさし出しますという報告を受けていた。だが、いまこうして計画の全容を目にすると、治憲はさすがに気持が高ぶるのを禁じ得なかった。記されているのは十五万石の貧しい藩を実高三十万石とする案である。  起死回生の策にござります、これよりほかにわが藩が生きのびる道はありませんと、はじめて三木植立てを口にしたときに当綱は言ったが、当綱はついに米沢藩が貧苦から抜け出る道を見つけたのだろうか。  領内に大倹令を布き、荒地を開墾し、藩政の基礎である農村支配の仕組みを改めたが、それが藩建て直しのいわゆる地均《じなら》しに過ぎないことを治憲は承知していた。四民が豊かとはいえなくともいま少しゆとりのある暮らしを営むことが出来、藩が負っている山のような借財をわずかずつでも減るほどに返せるようにするには、この地均しの上に、何か新しいことをはじめなければならない。  その何かが産業の振興であることはもちろんわかっていて、それについてはこれまで何度か当綱や莅戸善政とも話し合ったことがある。そしてその産業は米ではない。  ひと口に置賜《おきたま》地方と呼ばれる米沢藩領は、四方を山に囲まれた盆地である。米を商品として領外に売り出すには、峠路を通すにしろ、黒滝の開鑿によって可能になった最上川経由の海路を頼るにしろ、輸送費用がかかりすぎた。平野の一角に酒田という良港をかかえる隣領庄内藩のようなぐあいにはいかない。  もちろん、だから米つくりに力をいれないというのではない。米沢盆地は平坦で、三方の山山から流れくだる河川のめぐみをうける肥沃な土地である。米つくりに適した土地だった。だがいかにせん、人口に比して土地は狭く、かりに輸送費の問題がなくとも、領内の人口を養った上でなお大量に領外に売りさばくほどの米を生産することは不可能である。  稲作は藩の基礎である。貧しいなりに藩が現状を維持するために必要な基礎産業である。藩は荒蕪地《こうぶち》をひらき、米に余剰が生じればすかさず領外に売りさばいているが、それはあくまでも現状を維持するための努力であり、藩を富ますための政策とは言えない。  そして米だけではとうてい国を維持することが出来ず、藩がこれを補う漆、青苧、紅花などの換金作物の生産を奨励してきたのがこれまでの経過である。たとえば青苧は、雨が多く日照りが少ない、稲作にとっては冷害となるほかはない気候に強く、作柄もよいという意味でも、米作を補う力を持つ作物だが、それにしても藩の現状維持をささえる以上の力があるわけではなかった。  これが待ちのぞんだ国を富ます産業だろうかと思いながら、治憲はさらにもう一度熟読してから顔を上げた。 「三木それぞれに百万本か。遠大な計画だが、植立てるだけでもさぞや苦労があるだろう。このあたりの手当てはどうか」 「仰せのとおりにござります」  と当綱が言った。 「たとえば百姓が丹精して作っている畑地に、上の命令だからと無理に植樹を行なえば、百姓は朝夕その木を見るたびにわれらをうらむことに相成りましょう。十年先には漆なら実《み》がなって、定めにしたがって藩が買上げることになりますが、その利は説いてやってもいまは見えません。植立てを成就するには、その仕事にあたる者らに苗一本いくらと植立て料を払ってやるのが上策です」 「以前にもそう申したが、植立て料はいかほどか」 「漆木一尺以上一本につき二十文と考えております」  と当綱は答えた。治憲の顔が少し曇った。 「苗木を買う費用に植立ての費用が加わるとなると、かなりの金額となるの」 「ざっと五千金」  しかしご心配なく、と当綱は言った。 「さきに申し上げました江戸の三谷よりの借金のうちから千五百両、領内の木の実から上がる純益千五百両、それにさいわい家中手伝いによって荒蕪地がひらけた結果、開拓地の米、雑穀その他に平年作がのぞめれば、ざっと二千両の収入が上がってくるものと予想されます。あわせて五千金、植立ての費用としてはこれで十分でござります」 「さようか」 「新たに植立てた分は御役木には加えず、その旨を証文にして郡奉行より各村村に渡すことも考えております」  御役木というのは、明暦元年に藩が領内の漆木の本数を調べ、二十六万三千三百十三本を御役木と定め、ここから生じる木の実五千八百俵余を公税とした制度である。今度の植立てにあたっては、新しい漆は役木にくわえず、藩が残らず買い上げることを村村に約束するというのである。 「漆はもとより、桑木百万本が成就すれば領内の養蚕も空前のにぎわいとなるだろう。繭をとるだけでなく、ゆくゆくはわが国内で絹布を織り、他国に売り出すようなことは考えられぬか」  と治憲は言った。 「たとえば小千谷縮《おぢやちぢみ》のごときものだ」 「ご卓見にござります。さっそくに研究いたしまする」  と当綱が言い、善政もおもてを伏せてもごもごと何か言った。治憲は計画書を当綱に返し、これにさきほど申した植立ての費用、経費の捻出方法なども書き加えて、再度提出するようにと言った。そしてかたちを改めた。 「妙策じゃな、美作《みまさく》。よくわが国が多年の貧苦から脱する道を考えあてた。礼を言うぞ」 「あ、もったいのうござる」  竹俣当綱は深深と一礼したが、頭を上げたときはひげの剃りあとの濃い顔が紅潮していた。 「植立てはいつからかかるか」 「今月中にも、さっそくに」  と当綱は張りある声で答えた。 「三木植立てを実行に移すための樹芸役場というものを考えておりまして、ただいま人選をすすめております。総頭取は奉行の吉江輔長、次頭取に侍組から斎藤三郎右衛門英信をこれにあて、のちほどご裁可を得たいと思っております。漆方、桑方、楮方をそれぞれにわけて、植立ての計画決定と費用の算出、植立ての見届けにあたらせるわけで、こころ利いた係り役人の人選と人数の配分が重要事となりましょう」  当綱はひと息に言い、樹芸役場については成案を得次第、お手もとにご裁可をもとめる書類を提出すると言った。 「植立てがはじまるのがたのしみじゃ」 「いやいやお館さま。植立てに着手してもその実効を目にするのは少なくとも十年先、気長にながめていただきたいものでござる」  当綱はそう言ったが、肉の厚い丸顔に自信に満ちた微笑をうかべた。 「とは申しましても、それがしのこころの内にも、わが国の行末を思い描いて飛び立つ思いがないわけではござりません。およそ三十年……」  と言って当綱は言葉を切った。微笑を消し、かわりに胸を張った。 「およそ三十年にわたり、家中の者の知行から借り上げがつづき、残らず返すという一条は錠がかかったごとく不可能と思われて参りました。しかしながら本日、ご披見をねがった三木の植立て計画が成功すれば、やがては家中に負債を返すことも夢にあらずと思われます。樹木は稲作のごとく天候に左右されません。成功はまず疑いなしと、それがし愚考しておるところです」  かすかな不安が治憲の胸をよぎった。その不安は当綱の自信満満の言葉がひき起こしたもののように思われた。  はたしてそうか。三木植立ては非凡の大策だが、そこまで言い切っていいものかどうか。貧苦に喘ぐ十五万石の藩が、ゆとりある実高三十万石に変るということをそのまま信じていいのか。植立て計画が、どこかで齟齬《そご》することはないのだろうか。  治憲は、黙然とひかえている莅戸善政を見た。思慮深い善政の意見も聞くべきだった。 「九郎兵衛、そのほうは美作の植立て案をいかに思うか」 「二十年、三十年先を見据えた遠大な再建策と愚考いたします」  と善政は即座に言った。 「着想の卓抜、用意の周到、お奉行ならではのすぐれたご計画ではないでしょうか」 「そなたも、しか思うか」  と治憲は言った。  善政の言葉はほめ過ぎた感じはあるものの、少なくともこの計画に疑念や危惧をいだいているようではなかった。やはりこれは比類なく卓抜な計画なのだろう。治憲はいっとき胸をさわがせた不安が、ゆっくりと消えて行くのを感じた。美作と治憲は呼んだ。 「三木植立て計画となっておるが、主力は漆だの」 「さようでござります。もっとも確実に、しかも多額にわが藩に利益をもたらします」 「わしは漆を知らぬ」  と治憲は言った。 「漆について語れ」 「かしこまりました。さて、何からお話しいたしましょうか」  と当綱は言ったが、すぐにうなずいて話し出した。 「漆には雄木《おぎ》と雌木《めぎ》がござります。雄木には実が生《な》らず、樹皮を傷つけて生漆の液を採ります。雌木は実をつけ、この実を加工して木蝋をとります。すなわちこの木蝋が蝋燭の原料として、よき値段にて取引きされるものでござります」  漆は五、六月ごろになると総《ふさ》のかたちに緑いろの小花をつけ、秋九月ごろには実が生る。実は成熟すると黄褐色になり、田畑の仕事が一段落する初冬のころに収穫されて、下長井小出村の筒屋(製蝋所)などで加工されて木蝋となる、と当綱は言った。 「過日の下長井ご巡覧の折には、小出の筒屋もご覧いただいた由にござりますが、時期はずれでござりましたゆえ、作業の姿はお見せ出来なかったものと思います。ただ、手順だけを申し上げればこのようになります」  当綱は言って、簡略に作業の手順を説明した。  収穫された漆の実はその後しばらく屋内に放置して乾燥させ、実際に蝋しぼりの作業にかかるのは雇われる農民の手が空く冬である。はじめに樫の棒で実を叩いて小枝を切り落とし、通しにかけて切りはなした小枝、塵などを取りのぞく。そのあと今度は実を臼にいれて搗《つ》きくだくと、実は蝋粉と種子に分離する。これを再度細かな通しにかけて殻と種子をのぞき、残る白い粉を蒸籠《せいろう》にいれて蒸し、蒸し上がったら麻の袋にいれて搾り台にかける。 「この搾りは力仕事でござりますが、こうして搾り出された蝋汁が木蝋となります」  と当綱は言った。 「以上が漆の大体でござりますが、なおつけ加えますと漆は比較的気温が温暖で日あたりがよく、土地が肥えて空気の通りがよいところでよく育ちます。山なら日あたりのよい中腹以下の場所ということになり、高山、低山に囲まれているわが国に適していると言えましょうか。また漆の実は毎年の収穫物ではなく、一年おき、あるいは二年おきに実がなります。このことはこの計画書の中でも十分に勘案し、平均の金額を算出しておりますゆえ、見込みの純益に手違いを来すようなことはござりません。栽培には根分けと実を植える方法の二通りがござります」 「美作、ごくろうであった」  と治憲は言った。 「この上はこの植立ての事業を、ぜひとも成功にみちびきたいものじゃ」 「渾身の力をふるってつとめまする」  と当綱が言った。  治憲は立って南の障子窓をあけた。外にはまだ季節には少しはやいと思われるしぐれめいた雨が降っていた。断続的に、ときには強く音を立てて降る雨に、庭の木木は濡れてたえまなく雫をこぼしている。  物音はそれだけで、鳥の声も聞かず、空にはいちめんに雨雲がひろがって、やがて到来する冬を思わせるようなさむざむとした日だった。事実じっとしていると手足が冷えるが、火桶を使うのはまだまだ先のことである。 「漆は、今年は生り年かの」 「はい、生り年と聞いております」  と当綱が答えた。善政は相変らず黙然と坐っているが、善政にはただそこに坐っているだけで人を安心させるようなところがあるので、それでいいとも言える。 「漆の実の大きさはいかほどのものか」 「いたって小さな実にござります」 「ほほう、小さい……」  治憲はまだ漆の実を見たことがなかった。ただ漠然と、それはどんぐりのようなものであろうと想像していた。さきほどの当綱の説明で、その想像は若干の訂正を余儀なくされて、どんぐりのような実は総状にかたまって捻り垂れるものらしいと思ったものの、大筋で変化があったわけではなかった。  いま当綱は実は小さいという。治憲はそれで残っていたいささかの疑いがとけたように思った。櫟《くぬぎ》の実のように大きくては、総のごとくついては重すぎないかと思ったが、それは同じどんぐりでも小楢《こなら》の実のような、かなり小さなものであるらしいと治憲は想像した。  植立てが実施され、十年、二十年たてばこの国は三木、とりわけ市街地にまで植立てられる漆の木で埋めつくされるだろう。そして実が生る秋、それも今日のようではなく、目も青く染まるような晴れた日は、いささかの風にどんぐりのような実はからからと音を立てることだろう、と治憲は思った。      二十六  竹俣当綱が上申した漆、桑、楮各百万本の植立て計画は、その後これを実行に移す樹芸役場の機構が固まり、これに対して藩主治憲の認可があたえられたので、九月十二日に当綱から諸役人に発表された。  樹芸役場の機構は、総頭取に奉行の吉江輔長を据え、次頭取に侍組の斎藤英信、その下に三手組から御附横目三人、扶持方から役方十人、さらにその下に下役、掛役の小吏数人を配するという陣容で、植立て実施にあたってはこの人数を漆方、桑方、楮方の三部門にわけて発足させることになった。  この藩経済の再生を目指す計画がすべり出した翌月の二十六日、地味ではあるが治憲や執政の当綱らがかねてから念頭においてきたもうひとつの計画が実現のはこびとなった。武芸稽古所の開設である。  稽古所の場所は二ノ丸の御長屋で、ここに剣、槍、棒、弓、乗馬の各流派の高名な遣い手で、現実には各流派の師匠や高弟である人人をあつめて師範とし、治憲の御小姓頭|大平《おおだいら》源五右衛門道次を頭取に指名して武芸稽古所を発足させたのである。  大平は、三富《みとみ》流から出て夢覚《むかく》流をひらき名声一藩を傾けたといわれ、上松《うえまつ》義次の系流をつぐ達人でもあった。  もともと米沢藩は、鉄砲をはじめとする武芸のさかんな藩で、稽古所を開設しても師範の選定に困るようなことはなかった。夢覚流中太刀の師範には頭取の大平道次、宗家の上松蔵之進義局など十四人が顔をそろえ、また夢覚流と同じく三富流からわかれた心地《しんち》流中太刀は、師範は正系をつぐ三代須藤五郎右衛門久隆と高弟林部美津右衛門忠寄の二人だが、久隆の弟伊門興起は、剣技超絶を理由に寛政二年にいたって藩から終身三人扶持をあたえられる人物である。  この伊門興起が心地流四代目で、六代兵八郎久明の代になると、門人は増えて千五、六百名になったという。なおつけ加えると須藤家は代代|伏嗅《ふしかぎ》組頭を勤める家で、稽古所の師範となった五郎右衛門久隆も伏嗅頭取だった。  また一刀流の居合は、初代の梅沢忠兵衛広通が、江戸で阿字《あじ》一刀流の味岡久之右衛門光綱から伝えられた居合術である。忠兵衛広通の高弟が梅沢運平綱俊で、この師弟が伊勢参りに出かけたとき、途中で泊った宿が盗賊の家で、深夜に盗賊多数が襲いかかってきた。二人はまたたく間に四人を斬り伏せたが、二人ともに太刀音を立てなかったという話が伝えられている。  この一刀流居合からは、平林霞吹正相、梅沢※[#「手へん+(公/心)」、unicode6374]助親綱、早川政右衛門秀政、神保作兵衛忠昭、吉田一夢|秀序《ひでのぶ》、梅沢与総太直盛の六人が師範に選ばれたが、なかでも神保忠昭と吉田秀序は運平綱俊の高弟で、両者甲乙つけがたいといわれた達人である。  なお神保作兵衛は、のちに藩校興譲館の督学《とくがく》となる神保容助の父であり、吉田一夢は二年前の八月八日、まだ次左衛門と称していたときに君前に呼ばれ、一刀流の極意を伝え、数多《あまた》の門弟(三百余人)を指南したことを賞されて綿五把をもらった。一夢は隠居後の名である。  しかしまた吉田一夢は、明和八年に治憲の招聘をうけて米沢にきた細井平洲をめぐって、藩論が二分したとき平洲を襲った人物でもある。  武芸稽古所にはこのほかに卜伝流中太刀、三富流中太刀、真天流中太刀、卜伝末期流長刀、伊藤流槍、佐振《さぶり》流槍、鹿島流棒、印斎《いんざい》流弓、雪荷《せつか》流弓、日置《へき》流弓、人見流鞍掛、徒鞍《とくら》流木馬などの各流派師範があつまって、家中藩士の武芸修行を指導することになったのだが、発足にあたって頭取の大平道次が示した稽古所規程は次のようなものだった。  師範は門人をねんごろに取扱い、技を伝えなければならない、門弟は師に対して厚く礼儀をつくし、謹んで指南を受けること、同門の者は相親しみたがいに切磋すること、ほかの流派の善悪を評判してはならない、また他流との試合はこれを禁じる、すでに免許を受けた者たちは、同流の中で申し合わせて修行すること、稽古所内では世上の雑談をしてはならない。  武芸修行の決まりに似つかわしく、大平が示した規程は簡素なものだったが、眼目はその二項、三項あたりにあったであろう。  さきに記したように、寛文以降の経済の逼迫《ひつぱく》は、三手組以下の家中が武家の体面を保つことをむずかしくしたほどのものだった。享保十三年の著作とされる「笹野観音通夜物語」に登場する人物の一人は、藩による知行四分の一の借り上げに言及して「おっつけ諸士の破滅も遠からずおぼえ候」と言っているが、その後の推移はこの書の予言のごとくになって、家中の逼迫、士風の退廃は目に余るものとなった。  たとえば去年の六月、代官阿部清左衛門|秀静《ひでしず》、屋代孫兵衛盛昌が役儀の上で清潔ならざることがあったという理由で隠居閉門を命ぜられ、さらに清左衛門は組外《くみほか》御扶持方、孫兵衛は猪苗代組に編入されたという一件、あるいは馬廻組の安江五郎左衛門|繁英《しげひで》、与板組の坂《ばん》利兵衛正春が、それぞれ町奉行を勤めていたときに藩に差し出すべき日市金《ひいちがね》を自分の懐に入れてしまった。  二人はそれが理由で町奉行を解任されたが、その後も藩に返すべき金を返さず、坂利兵衛は返さないうちに死去したから仕方ないとして、安江五郎左衛門はその金で自宅を美美しく普請するなどしたので、公儀を恐れざる大胆の者ということで昨年九月に家改易、本人は在郷処分をうけた。また死去した坂利兵衛の方は、家督をついだ藤馬順正に、亡父が懐に入れた金を藩に皆済するまでは家禄八十石をさしおさえると通告した上で、藤馬と家族に御介(飼)扶持として三人扶持を与え、藤馬本人を閉門処分にすることでケリをつけた。  賄賂をとったとして隠居閉門の処分をうけた阿部清左衛門は代代|小国《おぐに》代官を勤め、役料をふくめて百石をうける家柄の者であり、町奉行勤務中に不正を働いた安江五郎左衛門は三手の馬廻組に属し、いろいろな役職をつとめて家禄二百石をいただくれっきとした中級家臣であった。また坂利兵衛も中級家臣である与板組に属していた。  こうした身分もありかつ藩の要職を勤める者たちの間に犯罪が頻発したことは、やはり稀有なことだったろう。三手に属する中級家臣にしてこの有様であるから、扶持方役人の間の紀綱のゆるみもかなりのもので、この年の六月に断罪された扶持方の者の犯罪では、江戸割方小川丈左衛門が改易、同役佐藤武兵衛が斬罪、また同じ一件にかかわり合った漆蔵役方渋谷喜左衛門は藩を出奔したために苗字断絶、佐藤武兵衛と同じく死罪となるはずだった徳間七郎右衛門は先に死去したために、跡つぎの組付《くみつき》御扶持方徳間勘次郎が改易の処分をうけた。私曲これありとされた彼らの犯罪の詳細は不明である。  さらに先月、九月四日にも故あり、私曲これあり、あるいは悪事いたしという理由で扶持方三名が断罪されている。御|徒《かち》の平米御蔵役竹津孫右衛門は改易、組外御扶持方で御兵具蔵役小山仙右衛門は私曲これありとされたが、自殺したので苗字断絶となった。また御台所木場蔵役|相場《あいば》文吉は、自殺した小山と組んで悪事を行なったことが判明して改易となり、御兵具蔵役頭である高山|仁助《じんすけ》政盛はこれら一連の不祥事の責任を問われて御役を取り上げられた上に閉門となった。  こうした士風の退廃、士分の者の犯罪の増加が、家中、扶持方の経済的な窮迫と密接にむすびついていることは、「笹野観音通夜物語」の指摘を借りるまでもなく治憲以下の藩の執政府でははやくから承知していた。  しかしまた士風の退廃は、経済の逼迫と密接にむすびついてはいたが、それが理由のすべてとは言えなかった。世の流れの不思議というか自然というか、この時代のように絶えず上から統制を加えられた世の中にあっても、人間の反面である享楽的な流れは絶えることがなくつづき、やがて隙を窺っては拡大して統制を破ろうとする。享楽ということが人間の本性に根ざす欲求であるからにほかならない。  それはまた視点を変えて見れば、米をつくりその米で藩も領民も自足していた時代はとっくのむかしに終って、人間の欲望を誘い出す消費文化が世に行きわたるようになったということであり、そうした世の自然な流れは、貧しく質朴を旨とする米沢藩のような江戸の消費文化から遠い場所にも、江戸屋敷などを通して静かに浸透してくる。  いま大殿と呼ばれている重定が家督をついで初の国入りをし、文武ならびに謡曲乱舞に心がくべきことを諭告して、素朴な米沢藩士の度肝をぬいたのは延享四年だが、そのころから、武家、庶民を問わず儀礼の乱れ、風俗の退廃は世を覆うようになったので、士風の退廃は米沢藩に限ったことではなかった。とはいうものの放置しておけば「諸士の破滅も遠からず」という「笹野観音通夜物語」の予言が現実のものとなるだろう。  そういう見地から、治憲をめぐる改革派執政府は大局的には三木百万本植立てのような経済振興策をすすめながら、一方で肌理《きめ》こまかな士風鼓舞の手を打ってきた。八月初旬に、竹俣当綱、莅戸善政が具申してきた銀方一回限りの返還を裁可したとき、治憲が諸組頭に御取箇《おとりか》(年貢)帳を閲覧させたのも、今回の武芸稽古所の開設も、それぞれに家中対策の一環と言えるものだった。  武芸稽古所開設にのぞんで大平道次が示した規程の二項は弟子は師に対して礼儀をつくし、つつしんで指南を受けることを指示し、三項は同門の者が相親しみながら切磋することをもとめている。いずれも武家としての儀礼が武芸修練の基礎であることを示して、その徹底をもとめたのである。しかしまた規程にこのような武家として当然の作法を盛らねばならないところに米沢藩今日の問題があるといえようか。  また過日の家中借り上げ銀方一回限りの返還は、善政がのべたように沈滞した家中の士気を高めるためのものだったが、それと一緒にこれまで部外秘とされてきた御取箇帳を組頭に貸出して閲覧させたのは、年貢の元(収入)払い(支出)を彼らに公開することで、家中からの借り上げがなければ藩の財政が立ち行かない実情を知らしめたのである。  組頭は御取箇帳を筆写することも、配下の組士に貸出すことも禁じられたが、閲覧によって、それぞれの組内に、借り上げがつづいているのはなぜか、あるいは銀方返還が一回限りなのはなぜかという疑問が出たときに納得のいく説明が出来ることになったのである。同時に執政府は、富国生産について意見があればのべるようにもとめたので、一連の措置は家中借り上げというものをこれまでよりかなり風通しのよいものにしたことは確かだった。  一方領内二百二十六の村村からも目を離すことは出来ない。十一月九日、藩主治憲は御書院に郷村教導出役十二人を召し出して各村村の習俗、田畑の肥痩、山川の形勢などを聞きとり、その上で彼らの勤労ぶりをほめ、なお農民を安んじて、衰えた国を振興させるべく努力せよと励ました。  この郷村教導出役の任命は、さきに行なった農村の機構改革の中でもっとも成果が上がりつつある部門といえたが、執政の竹俣当綱は、郷村教導出役をふくむ郷方役人の指導について、日ごろから老臣たちにつぎのように指示をあたえていた。  領内二百二十六カ村と農民は、領国万人の暮らしの費用を産出する場所と人である。この村と人間の盛衰は国家の盛衰を左右するものであるから、藩の重職を勤める者はことに地方をおさめることに力をそそがねばならない。  ところで実際に村と農民をみちびくのは郷方勤務の役人であるから、彼ら役人が稲作、養蚕の道に暗くては、農民が十分に力を発揮することはむずかしい。しかるに役人がそのことには考慮をはらわず、秋になって年貢の取立てばかりに熱中するようであれば、農家は日日に窮地に追いこまれて、往往にして年貢を納めるのに滞りを来すことになるだろう。国家の衰微、君上のご艱難はここからはじまるのである。  国の本は民にある。重職の地位にある者はふだんからこのことを大切に心得て郷方役人をはげまし、役人は二百二十六カ村に対してその村村の利害を熟知し、その害をのぞいて耕作をはげまし、産物をふやして秋には滞りなく貢租がおさまるようにせよと下知すべきである。  竹俣当綱はこのあと数年後に失脚するが、ここまで農村を熟知して農民に同情をそそぎ、その上で理にかなったやり方で農村が持つ潜在的な生産力を引き出そうとしたという意味では、やはりこの時代には稀な、艱難辛苦の米沢藩が生み出した名宰相だったということが出来よう。  この時代に藩経済の建て直しに取りかかった藩は米沢藩に限らないが、一般的な傾向を言えば改革は経済に偏りすぎて、当綱のように人間的なあたたか味を重視した施策を心がけた藩はやはり少なかったであろう。この人間を重視する藩政ということでは、当綱と藩主治憲の姿勢はぴたりと一致して寸分の隙間もなかった。そしてこの稀な一致には、多分に当綱が治憲の確固とした政治信条に感化された面があったであろう。  この年、安永四年も残り少なくなった閏十二月二十三日に、治憲は特に諸役人を面前にあつめ、衰微の一途をたどってきた藩財政がこのところ若干持ち直し、回復の兆しも見えてきたことを告げ、これはひとえに諸役人が持ち場持ち場で努力した結果であるとたたえ、さらに今後の精勤を要請した。財政好転の兆しをいちはやく周知させ、臣下とともにこれを祝ったのである。  暗雲につつまれたままだった藩財政に、わずかながら持ち直しの機運をもたらしたのは、天候にめぐまれて農作物の収穫が安定し、年貢収納が比較的順調にすすんだということもあったが、最大の理由は当綱らが治憲の裁可を得て行なった借財整理の成功にあったと言える。  すでにのべたように藩がかかえる旧債は十六万千七百三十両におよび、明和八年における年間の返済額は三万九千九百六十一両だった。この借財を返しながら藩が生きのびて行くのは至難のわざである。いわば藩の痼疾ともいうべきこの旧債整理にあたって当綱は先頭に立って働き、あるいは配下に指示をあたえ、自身も京都までのぼって在京の金主に掛け合うなど奮励努力した。  その結果旧債のほとんどを永年賦、無利息とすることに成功したことも既述したが、借財整理の交渉はそれだけにとどまらず、江戸の三谷家、越後与板の三輪家、越後関川の渡辺家、酒田の本間家などの有力金主とは、手段をつくして新しい契約をむすび、にわかに大金が必要となったような場合は、新たに金子を融通してもらえる道を確保した。こうした交渉が成功したことで、藩財政はひと息ついただけでなく、このあとも金融の道がついたことで藩の産業振興の施策を有利に展開することが出来たのであった。  このころから治憲は、一度は沙汰やみになった学館の再興に、本格的に取りくむ決心を固めた。財政的な若干のゆとりもその決心を誘ったであろうが、学館再興の目的はいうまでもなく学問の府を藩の中央に据えることで、家中はもとより一般庶民にまで、人が守るべき道義の道が行きわたることをねがおうというのである。  安永のころの藩主治憲、大殿重定の年間仕切料、自分の自由裁量で使える金は治憲三百両、重定六百両である。ところが時代が違うとはいえ、能狂言を愛好した五代藩主綱憲は、能の嵐山一番を興行するのに千両を投じたという。  綱憲は浪費家だった。この人が藩主だった元禄年間に米沢藩の蓄え金が尽き、豪商からの借金、藩士からの借り上げがはじまったことはさきに述べた。しかしまた綱憲は、元禄という享楽的な時代が持つもうひとつの側面、学問の尊重ということにも理解を示し、米沢藩の藩校のもととなる学館を創設した人でもあった。  そのはじまりは、綱憲の側医で儒医を兼ねる矢尾板|三印《さんいん》が、城北の元御細工町の自邸に聖堂を建てたことである。学問好きの将軍綱吉が、元禄三年神田湯島に宏大な規模の聖堂を建築してから、諸藩の中にも聖堂を建てる者が多かったので、学儒である三印もこの風潮にならったものであったろう。  しかし言うまでもなく私的な祭事を行なうためのものだから、矢尾板邸内の聖堂は小さかったはずで、これを聞いた綱憲は、元禄十一年に改めて三印が建てた聖堂を改築し、これに新たな講堂を建造して加え三印に預けたのである。すなわちこれが藩の学館の濫觴《らんしよう》をなすものだった。  しかし矢尾板家の聖堂、講堂は、三印が歿すると引きつぐ者がいなくなったので、藩命によって儒者片山元僑が祭酒《さいしゆ》となった。以来片山家の者が代代聖堂、講堂を管理し祭祀を維持してきたものの、それはあたかも片山家の家塾の私的な行事に似て、元禄のころに藩主綱憲が矢尾板屋敷の聖堂で釈奠《せきてん》の礼を修め、矢尾板三印がかたわらの講堂で論語を講義したような藩との親密なかかわり合いは次第に影を薄くし、享保九年以降は藩とのつながりは絶えてしまった。  その背景には藩の財政的窮乏ということがあったであろう。綱憲以後の米沢藩は財政のやりくりにくるしみ、やがてつもる借金は藩をがんじがらめにしばり上げて、学問どころではなくなったのである。道義は廃《すた》れ、士風は退廃のみちをたどり、いまは片山家にある聖堂、講堂のある場所をかえりみる者もいなかった。  だが治憲や執政の竹俣当綱らが学館再興の拠りどころとしたのは、まさに元禄のむかしに藩が学問の聖域と定めた、現在の片山家の聖堂とそのささやかな講堂だったのである。  安永四年もおしつまった十二月二十四日に、治憲は頭取に奉行の吉江喜四郎輔長、御用掛りに近習頭|莅戸《のぞき》善政を登用して、学館再興の準備にとりかかるように命じた。  学館再興は突然に浮上してきた計画というものではなく、治憲を藩主にむかえて以来、折にふれて議論されてきたことである。実務の最高責任者に任命された莅戸善政は、治憲の側近として、議論の大要をもっともよく把握していたので、ただちに三通りの学館再興案をまとめ上げ、執政らの意見と、藩主治憲の評価をもとめた。  このとき治憲は「学館建立の事、三箇条の内、片山講堂を用る事|甚《はなはだ》可也《かなり》」という評価をくだし、執政らもこれに賛同したので、学館は聖堂と講堂のある片山屋敷に建てることに決まったのである。  なぜ新規の土地をもとめて学館を建立し、はなばなしく新建設をうたわなかったのだろうか。これについて治憲は「新たに取り立てるより廃れたるを興すは人情いつも平なるもの」と言い、むしろ新しく建設する印象を避けて、再興の意義を強調したという。  米沢藩の歴代藩主の中で、治憲はおそらくもっとも理想主義的な藩主として登場した人といえるだろう。改革の旗を高くかかげて、疲弊のどん底にあった藩を再生しようとしたのである。だが治憲と竹俣当綱ら治憲を補佐する人人の、いわゆる改革派が示す新しい政策は、なぜかつねに強い反発を呼びおこして藩内が動揺する種子となったのである。  新規なものの提示は、人人の警戒心を呼びおこす。そういうことを治憲は過去から学んだに違いない。新たに事を取り立てることよりも、廃れたものを再興する方が、人情として受入れられやすいものだという治憲の感想は、にがい経験を経てたくましい現実主義者に変りつつある治憲自身を示すものでもあった。  そうは言っても治憲は、理想主義を捨てたわけではない。藩中興の理想は、なお脈脈と胸中に生きているのだが、理想を実現するにあたってその手段を現実的な、実現可能なものとする方法を手にしつつあると言ってもよいかも知れない。場合によっては妥協もいとわない現実感覚を身につけはじめたということであったろう。  治憲たちはかつて米沢に師細井平洲をむかえて一気に学館を建設しようとしたことがある。だがそのときの藩内の反発は、改革派の予想をこえるものだった。いま治憲は、学館の新設を言わず再興と言い、綱憲が建てた聖堂と講堂のある場所を再興されるべき学館の敷地とした。廃れたるを興すことは伝統を尊重することでもある。家中も異をとなえにくい。ことをすすめるのに、治憲はきわめて慎重だった。  しかし再興するといっても、学館の規模は片山屋敷の聖堂、講堂とは比較にならない大きなものになる。治憲はこれについても、隣家の外様法体《とざまほつたい》、樫村玄龍の屋敷を取り上げてそこに片山家を移し、かつ片山家、樫村家の間にある塀を取りはらってひとつ屋敷とし、空いた敷地いっぱいに学館を建てるように指示した。また儒者片山|一積《いつせき》、神保容助の二人が館主となり、片山は聖堂の祭酒を兼ねるべきこと、神保はこのあと江戸にのぼって細井平洲に会い、学館の理念、教授の方法、規約などについて平洲の指示を仰ぐように命じたあとで、治憲は執政、有司の意見である内評に対して総評と呼ばれるこの評言、所信の終りを「年来の宿志いままさに成る。時なるかな、時なるかな、大夫|旃《これ》を疾《つと》めよ」という言葉で結んだ。  神保容助は少年のころから藁科松伯の門人となり、江戸にのぼって世子治憲の学問の相手を勤め、さらに君命で細井平洲の嚶鳴《おうめい》館に入門して、のちに塾頭となった逸材である。明和八年に細井平洲がはじめて米沢を訪ねたとき、神保は師に同行して帰国し、平洲が江戸に帰ったあとは塾長として馬場御殿の松桜館を預かっていた。  治憲や竹俣当綱、莅戸善政らの改革派は、平洲の米沢招聘を機会に念願だった学館を再興する計画だったので、計画がつぶれたあと五年の歳月をむなしく送ってきたことになる。学館再興の最後の詰めを固めるべく、神保容助を江戸に派遣するところにきて、治憲にも感慨があったに違いない。総評の結句には、その心情があらわれていよう。  神保容助は安永五年二月二日に米沢を出発し、嚶鳴館の平洲のもとで再興される学館の内容について、種種指導をうけた。帰国したのは四月二日である。この間建物の工事もすすんで、四月十九日には学館の落成式が行なわれた。  そして同じ月の二十六日、完成した学館に治憲と落成式の当日に養子となったばかりの世子治広(大殿重定の四男)がそろっておとずれ、釈奠の礼を行なった。  再興された学館の名称は興譲館である。命名者は平洲で、興譲の二字は「大学」の「一家譲なれば一国譲に興る」からとられた。平洲はこれを譲を興すとは恭遜の道を修業させることだと説明している。  この註をつけたのは、神保容助が携行した治憲の諮問に対する答弁書である「建学大意」の中でだが、これについて平洲はさらに譲の意味を敷衍《ふえん》し「徳は遜譲より美なるはなし、美徳は仁者の所行也。不徳は驕慢より悪なるはなし、悪徳は不仁者の所行なり。館を興譲と名づけしこと、美徳を修し悪徳を除せんが為也」とも述べている。ここには学館の教育理念というものが、明確に示されていると言ってよかろう。  しかし興譲館の教育において、なぜ遜譲が第一等の徳として掲げられなければならないか。平洲はこれを右のような理念からだけでなく、きわめて具体的に現実の側からも説明する。  平洲のみるところ、封建の仕組みが行きわたったいまの世は、東照宮以来二百年におよぶ四海太平の安楽世界であり、この中で虚偽軽薄の介抱をうけて育った高位貴人すなわち為政者階級は、人情世態、あるいは安危存亡の道理を悟る機会もなく、成長するにしたがって驕傲の心だけが募っているのが現状だという。  この現状認識は、第一回の訪問以来注視をおこたらなかった米沢藩の現状とも重なる。藩の為政者階級について、平洲は「分領は腹の内より分領、侍組は腹の内より侍組、襁褓《むつき》の内より諸人に頭をさげられ、已《すで》に西東を知るに至れば、自《みずから》高貴なるをしらぬ童子もなく、驕泰の心知るとともに長し。亢傲《こうごう》の態心とともに来り、四書一通も読み知らねども、元服すれば終《つい》には十五万石の執権になる身分と落付たる痼疾、いかなる良薬を用いてか仁厚恭敬の君子とはなるべき」と歯に衣着せない論評を加えている。  大名、世子、藩政の実権をにぎる高級家臣などの為政者が驕傲の心の持主であれば、それは万民の不幸というしかないと、平洲は考えていた。このような人間観、政治観から、興譲館では分領(執政を出す家格の家)、侍組、小姓頭の子弟、あるいは大目付、宰配頭、六人年寄、奉行など三手組の高級官僚の子弟にきびしい道徳教育をほどこして、将来の賢相、能吏を育成しようというのである。  二月に神保容助を平洲のもとに派遣したとき、御用掛りの莅戸善政は平洲あての手紙を持たせ、その中に特に「学館では知識偏重の唐《から》自慢人間をつくるのではなく、親にうちの子は学館に入ったら大酒をやめて不行儀もなおったと言われるようにしたい」と述べた。平洲が示した興譲館の教育方針は、このような善政の要望をも満たすものであったろう。  さて完成した興譲館は、敷地の正面に聖堂があり、そこには治憲直筆の「先聖殿」の扁額がかかげられた。聖堂の左には講堂、右に文庫、学寮があり、学寮は二十余室で、ほかに当直所、食堂、庖厨、主宰局、番人室などが附属していた。  元御細工町は三ノ丸の堀の内側にあり、元来は上級家臣の屋敷がならぶ場所なので、片山、樫村の両屋敷も狭からぬ敷地を有していた。そこに立ちならぶ興譲館の建物は、再興という言い方が似合わないほど、堂堂とした姿をそなえていた。  興譲館の学業を指導するのは片山紀兵衛一積、神保容助綱忠の両提学で、全体を統括するのは総監莅戸善政である。  ここに学ぶ学生は「定詰勤学生《じようづめきんがくせい》」と呼ばれる二十名が中心で、彼らは三年間、学寮で生活をともにして勉学する。第一回の定詰勤学生には千坂与市清高、色部典膳|至長《のりなが》、毛利弥八郎隆元、大国与市頼泰、竹俣勝三郎秀豊、井上隼人恒満、本庄孫八|寿長《ひさなが》、須田数馬義喬など、侍組あるいは執政の子弟が選ばれているのは当然だが、ほかに三手組の子弟、さらには今成吉四郎相規、蓬田郁助など下級官僚の子弟の中から選抜された俊秀もまじっていた。  この定詰勤学生のほかに、一年間諸生の塾に寄宿して勉学する寄塾生十余人も入館を許可された。また月に六回行なわれる提学の講義は、一般の士民もこれを聞くことを許された。  注目すべきことは、学業のほかに月に三回、小笠原家から伝わる躾方《しつけかた》をもって藩に仕える大河原善右衛門を館にまねいて、定詰勤学生と童生に礼式の作法を学ばせたことである。空理空論をもてあそぶのではなく、上下の秩序をきちんと守り、恭倹にして有用な人材を育成する興譲館の教育は、このようにしてすべり出したのであった。しかし根本に譲の理念をかかげながら実学を重んじた館の学風は、のちに、藩学が朱子学にかわるとともに一変し、時世を切りひらいて一藩をみちびくような、破格の人材の出現を妨げたとして批判をうけることになる。  ところで安永五年は参勤の年だったので、治憲は興譲館の学業がつつがなくはじまったのを見とどけて、五月四日に国元を出発し、江戸にむかった。  その年の八月になって、江戸にいた治憲は細井平洲に懇望して米沢に行ってもらうことを決めた。治憲の胸のうちには、平洲の指示を仰いで動き出した興譲館を師に見せたい気持もあったろうが、狙いは草創期の藩校の学業をわが国有数の碩学に鼓舞してもらいたいというところにあったろう。  平洲は承諾し、九月十四日に米沢に着いた。平洲は五年前の明和八年に一度米沢を訪れているので、今度が二度目の来訪である。  五年前にきたときは、不評の大倹令を下令した新藩主として治憲が乗りこんできてから間もない時期だったので、細井平洲の招聘も藩内では必要以上の疑惑や警戒心、あるいは反感を以て迎えられた。  よそから儒者を招くのは国風に合わないばかりか、藩中に人なきを示すようで一藩の恥辱であるとか、あるいは新政の方針が文に傾いて、越後以来の武の誇りを汚すに至るものだといった議論が藩内に横行し、その騒然とした空気に刺戟された一刀流居合の名人吉田次左衛門秀序が、平洲の宿所である松桜館、通称馬場御殿を襲うという事件まで起きた。  平洲は資性温柔|敦厚《とんこう》にして、生涯|色疾言《れいしよくしつげん》せずと言われた人だが、このときも自若として乱暴者をむかえ、次左衛門は居間に躍りこんだものの平洲の静かな威厳に圧倒されてたちまち降参し、何事も起こらなかったといわれている。  その五年前にくらべれば、今度の米沢訪問は平洲にとっては藩をあげての歓待と思えたであろう。宿所には執政吉江喜四郎輔長の官宅があてられ、その宿所で十八日に荀子を講じたときは侍頭、奥取次、大目付、宰配頭、六人年寄、郡奉行、町奉行など、藩の要職を占める人人が礼服に威儀を正してあつまり、講義を聞いたといわれている。翌十九日には、平洲は学館の講堂で書経を講じ、これを聴講する者は四百余人におよんだ。この第一回の講義のときに、平洲は興譲館の学則を発表し、自筆の扁額をかかげた。中身は管仲の「弟子職」の冒頭八十字である。  しかし今回の米沢訪問が前回ともっとも異ったところは、平洲の講義が、興譲館の学生、家中藩士だけでなく、講話を聞きたいとのぞむ庶民相手にも行なわれたことである。そのうちのひとつ、興譲館で城下の町人三百人を聞き手に行なわれた講話の模様は、名古屋の友人伊藤玄沢、浅野巨郷あての平洲の手紙によれば、おおよそつぎのようなものだった。  このときの講話は主だった城下町人だけに限り、家中藩士の出席を禁じ、町奉行立ち会いの上で行なわれたのだが、敷居の内に町奉行が麻上下で着座、町人たちは敷居の外に平伏していたので、私(平洲)は町奉行に、そのようにかがんでいては話をしみじみと聞くことも出来ないだろう、いずれも頭を上げてゆったりと話を聞くように言ってもらいたいと頼んだ。そこで町奉行の指図で聴講者一同は頭を上げて話を聞いたが、話がすすむにつれて聴衆は次第次第に感動の涙をこぼし、しまいにはみなみな頭をひしと畳につけてすすり泣いた。もちろん私も涙ながらに語り、両町奉行も落涙した。一同が退散したあとを見ると、畳は水をこぼしたようになっていた。さてさてめずらしいことを見聞した。  平洲は米沢の城下から北に三里余のところにある上小松村でも講話を行なっている。上小松村は下長井の小出とならぶ蚕糸の産地であり、また越後街道の宿駅としてもにぎわういわゆる在郷町で、この村にも平洲の門人がいた。懇望を受け入れて講話に行ったのはそういう関係である。  ここに平洲は安永六年二月の七、八、九の三日間滞在し、豪商にして地主を兼ねる金子十三郎家や、本陣の大竹芳助家で講話を行なったが、その模様は同じく平洲の手紙によれば「本陣大竹芳助と申す者の宅にて、昼夜数百人の百姓共を召出し、教諭をいたし聞かせ申候所、いづれも落涙にむせび申候て、老人共の分はひとしほ名残ををしみ、米沢へ帰府の節は降り敷申候雪の内に七、八百人も平伏仕り、ただ声を揚げ申候て泣き申し候」という有様だった。  ところで金子十三郎家で行なった「孝経」の講話のときの聴衆は、土地の上層農民の家の女性二百人だったという。平洲は彼女らにどのような言葉で講話を行なったのであろうか。  これについて参考になりそうな記録が残されている。平洲は安永九年に故郷である尾張藩の儒者となり、天明三年には尾張藩の藩校明倫堂の学館総裁となるのだが、その年に名古屋橘町の延広寺で、聴衆二千四百人を前に講話を行なった。残されているのはこの時の聞き書で、書き取ったのは柴田応助という町人である。 (前略)生得天地の信《まこと》を請《うけ》て来たと言《いふ》は、幼少子《をさなご》を母の懐にだひて居る。或いは母が小便でもしに行く。其間|姥《ばば》さが抱ひて居ると、かかさへいくいくと泣いてやかましい。そこで姥さがだましつ、すかしつ、かかさは今小便しにいた。今くるだまれだまれとて随分《いろいろ》すかせどかかさかかさと泣いてだまらぬ。そこで母が来て扨《さて》もやかましい餓鬼《がき》では有る。ちとの間もまたぬやつぢやと、一つあたまをはつて懐へねぢ込《こむ》、其やうに母があたまはつても、懐へねぢこんでさへ母がいだけば、其|儘《まま》ひしとだまる。  是子といふものは生得邪智も分別も無い。只親にいだかれ、親にすがる計《ばか》りの心、親はただ何が無しに、我子が可愛可愛と思ふ心ばかりで余念はない。是が天地の間に生をうけ天地よりもらひ受たる信の本心と言物《いふもの》。其天地よりもらひうけたる誠の本心を失ふと悪人と言物になる(細井平洲講釈聞書)。  上小松村で庶民を相手にした講話は、大体こうした調子のものであっただろう。しかし武家に講義するときは平洲は言葉を改めてきびしかったであろう。平洲は安永六年二月二十一日に米沢を出発して江戸に帰ったが、それを見送った藩内の人人には、学問という音のない颶風《ぐふう》のごときものが去った印象が残ったかも知れない。  興譲館のことは莅戸善政にまかせて、竹俣当綱はもっぱら産業振興に力をいれていたが、安永五年も押しつまった十一月になって、みるべき成果がひとつあがった。越後松山から縮師を招くことに成功したことである。  米沢藩の特産物である青苧《あおそ》は、奈良|晒《さらし》、小千谷縮の原料として売り出され、米沢藩は隣国の村山地方とともに晒、縮の最大原料供給地となっていた。しかし言うまでもなく、原料として売ることと製品にして売り出す場合とでは、収益に比較にならない差が生じる。  これを国内で織り出すことが出来ないかというのは、ことに藩政改革、産業振興が目標となって以来の懸案だった。その評議をふまえて、当綱は藩士小倉伝左衛門と下長井小出村の肝煎横沢忠兵衛を越後小千谷に派遣して、縮師の招聘にとりかかったのである。  工作は成功して松山の源右衛門ら男女十三人の縮職人を雇うことが出来たのだが、これを聞きつけた松山の名主が、青苧の生産地に縮製造の方法を指南すれば、のちのち越後の縮産地である魚沼、頸城《くびき》、刈羽三郡に悪影響をおよぼすだろうと考えて妨害したので、小倉と忠兵衛はわずかに源右衛門一家五人、職人二人だけ、とはいうもののともかく松山の縮師を連れ帰ることが出来たのだった。  この成功があって、藩では十一月六日に寺町の蔵屋敷内に縮布製造場を設け、またその分場を下長井の横沢忠兵衛宅においてさっそくに製造事業を開始したのである。管理役人は用掛頭取以下七、八名で、織手には三手以下の婦女子を用いるように指定された。  それというのも、手広く事業を行なっては越後の在所から引戻しの掛け合いがあるかも知れない、また織手は指定した男女のほかは、習いたいという希望があってもこれに指南してはいけない、というように、もとの郷国とはいえ、いまは他藩となっている越後に対してはばかりある事業なので、当初は隠密裡に縮布を織る必要があったのである。      二十七  安永六年は、藩祖不識院殿(謙信)の二百年の遠忌《おんき》の年だった。米沢藩では藩主治憲が上府中だったが、名代に奉行吉江輔長を立て、三月一日にはじまり十二日の真言一宗の大法会、十三日の藩主家および家臣の諸寺院における拝礼、焼香にいたる仏事を無事に終えた。  翌日十四日には、御遠忌にともなう赦免がひろくおこなわれ、その赦しは武家だけでなく、町人、農民にも行きわたったので、欠落ち百姓ら千四百人ほどの領国帰還がゆるされることになった。  四月末に治憲が帰国したあとも、七月の下旬に大雨で川水が氾濫し、治憲自身が人家の流出した割出町に出馬し、水防の指揮をとるということがあったほかは、領内は災害もなくおだやかに推移し、やがて九月に入ると、この年の稲の豊作が確定した。  稲の作柄がいい年は、ほかの農作物もおおかたは出来がよい。治憲はひさしぶりの豊作をよろこんで、遠山村の籍田《せきでん》の稲が刈取られると新米で餅を搗かせ、これに酒をそえて奉行以下諸役人に配った。九月十四日のことである。  また十一月に入ると、治憲は諸役人、村役人に家中、郡内各村にいる九十歳以上の老人を書き出して提出するように命じた。そして書き上げにもとづいて六日には武家身分(陪臣をふくむ)の老人を城中に、八日には村村の老人たちを番匠町の代官所に呼んで慰労した。  ただし古老たちを呼んで馳走を出してもてなしただけでなく、治憲と大殿の重定がそろってもてなしの場所に顔を出し、古老たちにむかし話を語らせて聞きとった。その上で武家の老人たちには治憲から衣服一枚、重定から金子百疋(一千文=一分)、村村から出てきた老人たちには治憲から玄米三俵、重定から金子百疋を贈って、長年の勤労と労苦を慰謝したのである。藩主みずからが、率先して敬老の範を示した形になった。  なお書き上げに載っているものの、病弱で城下まで出られなかった広河原村の久左衛門、下谷地村与右衛門の母親などにも、洩れなく玄米三俵と金子百疋が贈られた。  このような敬老の行事、為政者はかくのごとく領民の一人一人を心にかけているぞということを示す行事を、治憲はもっと以前から行ないたいと思っていたが、薄氷を踏むような藩財政はそれをゆるさなかった。たとえわずかな費《つい》えといえども、不急のものは慎まねばならぬという空気が支配的だったのだ。  だが今年の豊作は、増収の見込みばかりでなく、治憲をはじめとする藩の為政者の気持にも、ひさしぶりのゆとりをもたらすものだった。言うまでもなくその背景には、奉行竹俣当綱らの奮闘によって借財の整理が実現し、借財は消滅したわけではなくとも、連年ぎりぎりと藩の首をしめ上げてきた返済苦からは脱することを得たという事情がある。  治憲が敬老の行事のことを奉行たちに諮る気になり、奉行たちがまたそれに賛意を表して行事の段取りをつけたのは、ひとえに右に述べたような気持のゆとりが藩を覆っていたからだといえる。  ともあれ、敬老の行事は無事に終って、招かれた老人たちがよろこんで家に帰ったのをみて、治憲は満足していた。そして関係した奉行以下の諸役人も、治憲と老人たち、双方の心を推しはかって満ち足りた気分でいた。  だがその気分に、一人だけ乗りきれないでいる者がいた。奉行の竹俣当綱である。当綱の胸の中には不満が渦巻いていた。  いまも若党をしたがえ、着ぶくれて馬上にゆられながら、当綱は、三日前に終った敬老の祝事のことを考えていた。  ──無駄な費えだ。  と当綱は思った。ひさしぶりの豊作でひと息ついたといっても、それで家中藩士からの借り上げがなくなるわけでも、山のような借財が返せるわけでもない。  それなのに餅を搗いて祝ったり、領内の年寄りを呼びあつめて金穀をあたえたりするのは少少はしゃぎ過ぎではないのか。来年どうなるかは誰にもわかりはしないのだと思う。それに、今日のゆとりが、当綱らがした血のにじむような借財整理の掛け合いの成功を土台にしていることを、もはや心にとめる者もいないようにみえるのも気にいらなかった。  当綱は上級家臣の大きな門構えが左右にならぶ主水町の通りを、北にむかってゆっくりと馬を歩ませた。夜が明けたばかりで、路にはまだ人影は見えなかった。  空は昨日と同様に、隅隅まで灰いろの雲に覆われているとみえて日が差してくる気配はなく、町にはまだ薄ぼんやりとした暗さが残っていた。肩をまるめても、夜明けの寒気はひしと身体をしめつけてくる。こういう底冷えのする日が数日つづいている間に、国境の山山に雪が降ることがある。  ようやく空が晴れて、初冬の日差しがくまなく領国にさしかけるような日に、人人はふと見た遠山のいただきが白くなっているのにおどろくのだ。  ──殿に迎合するやからがおる……。  それがいかんのだて、と当綱は思った。奉行の吉江輔長、毛利雅元そして、と少しためらってからつぎにうかんできた顔、小姓頭の莅戸《のぞき》善政も迎合するやからの一人に加えた。  莅戸善政がただ者でないことを、当綱は熟知していた。鋭鋒を真綿にくるんだ非凡な男だ。これまで当綱は善政に対してつねに主導権をとりたがり、温和な性格の善政がそれに唯唯《いい》としてしたがうのをみて満足してきた。そういう関係は、当綱につねに善政おそるべしという気持があったからだともいえる。  だが学館再興を指揮して功をたてたころから善政は君寵に狎《な》れてわしを無視することがありはしないか、と当綱は思う。治憲と善政の仲があまりに密だと、当綱は自分だけがその親密な空気からはじき出されたようでおもしろくなかった。  もちろん治憲と側近の善政の間にかわされる相談ごとの中には、いちいち奉行にはかるまでもないといった事柄もたくさんある。それは当綱もわかっていた。しかし今度の敬老の行事の場合はどうだったか。  その案は、示された奉行たちがそのままのむしかないような形で出てきたのである。費用は最少に押さえてあった。それでいながら敬老の実が上がるような中身になっていた。最後に、実施されれば治憲の名君ぶりが領国の隅隅まで行きわたることは疑いないと思われるものだったのだ。善政が練っただけあって、周到な案だった。  だが事前に相談をうけたら、当綱は時機尚早を理由に案をつぶしたに違いない。借金財政がわずかでも好転したというのならともかく、その気色も見えないときに不急の敬老行事をやる理由はないと一蹴すれば足りる。口に出したことはないが、当綱は一藩を動かしているのはこのおれだと思っていた。  実際には案を示されたときに当綱は反対しなかった。吉江や毛利のように双手をあげて賛成することはしなかったが、認めた。案の中に見えがくれする藩主治憲の善意を、さすがに無視しかねたのだ。だがその善意が、人気取りと紙一重のものであることも当綱は見抜いていた。そのことがいまも心にひっかかったままで苛立ちをさそう。ふと、感情が激発した。  ──名君気取りも、ほどほどにされてはいかがか。  当綱は馬上で顔を上げた。あたかもいまの声がどこからか聞こえてきたかのように左右を見回したが、もちろん声は当綱の胸の中から出てきたのである。  当綱は太いためいきをついた。近ごろはこういうことが多くなってきていた。今朝も未明に目ざめて床の中であれこれと考えているうちに、莅戸善政に対する日ごろの不満を押さえきれなくなった。 「たかが馬廻の分際で以て……」  当綱は吐き捨てるようにつぶやいた。つぎの瞬間、当綱はすばやく床の上に起き直っていた。  莅戸善政の非凡さを認め、珍重しながら当綱はその善政が三手組の出でしかないことを、かすかに侮る気分がわが胸にあることを知っていた。最近のことではない。その傲慢な気分は、改革派が少年の治憲のまわりに結集したころには、もう芽生えていたのだ。  もっともそういう気分はあっても、ふだんは押さえている。もしくは忘れている。それが近ごろはたやすく外に出るようになった。押さえきれずに激発する。年齢のせいかも知れなかった。長年激務を処理してきて、当綱はいま五十の坂を目前にしている。疲れてこらえがなくなってきたのだ。だが主たる原因は多分、改革の進行があまりにも遅遅としていることにあるだろう。藩再生のために、当綱は打てる手はすべて打ったと思っている。あとは成果が現われるのを待つだけである。だが一例をあげれば二年前に着手した漆百万本の植立て事業は、まだ二万本ほどしか植立てがすすんでいないという。そういうことに気持が苛立つ。  しかしそれにしても、莅戸善政は生死をともにと誓い合って困難な改革に取り組んできた同志である。善政が理解するようにわしを理解出来る者が、ほかにいるか。一人もいないと当綱は思う。たかが馬廻という言い方はなかろう。それは言った当人の心情の卑しさが露呈されているだけの言葉だ。  ──わしはだめだ。  卒然と当綱は思ったのだ。おのれの傲慢を押さえきれぬ。  その恐れを何者かに訴えたくて、当綱は朝餉《あさげ》もそこそこに身支度をととのえて、外に出てきたのである。自分がもともと傲慢な気質の人間だということを当綱は承知していた。人にそうみられていることもわかっていたが、あえて改めようとはしなかった。傲慢といってもまわりに大被害をもたらすようなものではない。また押さえようとすればいつでも制御出来ると思っていた。だがそれは誤りだったのだ。そう思ったのははじめてだった。  気持が落ちこんでいた。当綱の父本綱は、当綱が三歳のときに発狂して自刃している。ふだんは忘れているそういうことまで思い出している。  当綱は元御細工町の通りに入り、藩校興譲館の角を北に曲った。そしてさらに三ノ丸の濠の土手に沿って土手の内の通りを横切り、元御細工町の北側路を通って、代官屋敷がある番匠町通りを見わたす場所に出た。  するとその通りを当綱の方にむかって歩いてくる人影があった。その男は目ざとく当綱を見つけて、軽く手を上げた。当綱は小さく舌打ちをして馬を降りると、若党に手綱をあずけて男を待つ姿勢になった。近づいてくるのは七家処分で失脚した色部照長である。  いまいちばん会いたくない人間に出会ったようだった。もっとも色部の広大な屋敷は番匠町通りのつきあたりにあるので、色部がこのあたりを歩いていても不思議はない。 「しばらく会わなかったな」  色部修理は少し横柄に聞こえる口調でそう言った。色部の顔はひところにくらべると痩せて鋭い相貌に変ったように見えるが、顔いろはよくて頬や額のあたりはつやつやと光っている。 「まったくだ」  と当綱は応じた。 「時どきは城にもきて、気づいたことがあれば意見を言ってくれればいいのだ」  色部は、は、はと笑った。笑って当綱の社交辞令的な言い方を一蹴したように見えた。そして、ところでこの寒いのに見廻りか、と言った。当綱が着ぶくれて馬に乗っているのを不審に思っている気配だった。 「いや」  と当綱は言った。 「近ごろはあまり身体を動かさぬもので、太って仕方がない。そこで、ほれ」  と当綱は御清水町表町の先に土手が見えている追い回し馬場の方にあごをしゃくった。ひと馬責めようかと思ってきたのだ、と言ったが、修理が信じたかどうかはわからなかった。  事実は違う。当綱は今朝、何ものかに追い立てられるように馬場のわきにある白子神社に参詣してみようかと思ったのだ。わが傲慢さを矯《た》めたまえ、と祈りたかった。この情けない悩みを抱いて、ほかにどこに行くところがあろう。  修理は深くは追及しなかった。話題を転じた。 「尊公もいろいろとやっておるが、まだこれといった成果は上がらんようだな」  またしても伝わってくる、わずかながら横柄な気配。  その気配の出どころに、当綱は心あたりがあった。色部たち重臣七家が治憲に提出した訴状の中には、当綱を攻撃して改革派の政治は側近政治であり、当綱の専権ぶりは悪人の森に異らないという一項があった。彼らは当綱の気質を正確に見抜いていたのであり、七家側の訴えにも理があった。  監察の裁断によって当綱は勝者に、修理は敗者にとわかれたが、内実は紙一重だったと言ってよい。にもかかわらず以後閉門は解かれたものの冷や飯を喰わされつづけていることの不満が修理の口調におのずとにじみ出てくるのだ。そう思ったが、当綱には修理の言動を咎める気はなかった。  治憲が強訴の七家に対して裁決を下した夜、隠居閉門、知行半減の沙汰をうけた筆頭の奉行千坂高敦が屋敷にもどると、嫡男の与市清高ははげしく泣いたという。助命されたのがうれしくて泣いたのではない。わが父が家を出て裁きの場にむかわれたとき、自分はひそかに遺骸をむかえる覚悟をした。しかるに首魁として切腹を命ぜられたのは須田|満主《みつたけ》、芋川延親の二人で、執政の首座にあるわが父が、この二人の従とされて命助かって帰られたのが情けないというのが、このときの清高の言葉だった。  この気概は色部の家にもあるだろう。へたに刺戟せぬ方がいいと当綱は思ったのだが、また修理の言動に敗者の卑屈がみられないことが気持よくもあった。もっとも修理はもともと皮肉な物言いをする男でもある。  当綱はおだやかに言い返した。 「計画したことがただちに実をむすぶようなら、政治に苦労はない。なかなか思うようにはこばぬのが世の中というものではないのか」 「それにしても漆の植立てはさっぱりすすんでおらんという者がいる」  色部は、当綱がいちばん触れられたくない話題を持ち出してきた。 「あれでは貴公がぶち上げた百万本に達するのはいつのことやら、などと言うとった。事実か」 「そのとおりだ」  と当綱は言ったが、屈辱で腸《はらわた》がにえくりかえるようだった。あきらかに計画が齟齬しているのだ。それをみて笑っている者は少なくなかろう。  もちろんこの状況を、当綱はだまって見ているわけではなかった。数日前にも、当綱はひそかに勘定頭の黒井半四郎|忠寄《ただより》を呼んで、樹芸役場の役人をあつめて植樹の遅れを叱責しようと思うがどう思うかと相談している。  黒井忠寄は五十騎組に属し、わずか二十五石の軽輩の身分から当綱の推挙で勘定頭となった英才である。若いのに和算の名人で就任以来藩のあらゆる事業に計数の才を発揮しているが、また秀でた識見の持主でもあった。当綱は時どき彼の意見を聞いて重宝にしていた。  忠寄は当綱がそう言うと、少し考えてからおそれながらと言った。 「樹芸役場は吉江さまが宰領されるところです。お奉行が直接に口をはさまれるのは越権と思われます」 「吉江は無能だ。ただ奉行の席を埋めているに過ぎん」  当綱が言うと、忠寄は沈黙した。  黒井忠寄は気の毒なほどの醜男である。その顔に沈痛な表情がうかんでいるのを、当綱はじっと見た。おれの傲慢さを非難しているのだな、と当綱は思い、わかった、もう少し様子をみようと言った。  色部修理の前で、当綱はそのときのことを思い出していた。 「わしも座視しているわけではないが、いろいろと事情もあってな。ま、いまのところは我慢して様子をみているところだ」 「我慢か。それは貴公としてはつらかろう」  修理は口のあたりに皮肉な笑いをうかべた。 「ま、しっかりやってくれ。聞いておるところでは、藩が立ち直るかどうかは貴公の立案した植樹の成行き如何にかかっておるそうだからの。もっともただの大風呂敷だと言う者もいるが……」 「たわ言を言う者には言わせておけ」  当綱は強い口調で言った。 「見ていてもらおうか。いざというときは、わしが筆頭奉行の強権をふるって一気に片づける。人になんと謗《そし》られようとかまわん」  それでこそ竹俣美作、期待しておるぞと言って修理は背をむけたが、ふと思い出したようにまた当綱を見た。そして、目が血走っているではないかと言った。 「顔いろもよくない。少し疲れておるのではないかな。藩政を一手に動かすのは大仕事だ。がんばりもほどほどにせんとな」  それだけ言うと修理はふたたび背をむけた。歩き出しながら修理は大きな声で、そこへいくと隠居は気楽でよいと言った。そしてさらに少しはなれてからは、はとわらったのが聞こえた。当綱は遠ざかる背をにらんだ。  四方の山山はいつ晴れるとも知れない、霧のように厚味のある雲に覆われ、盆地にはつめたい雨が降ったりやんだりしていた。雨は日によっては霙《みぞれ》になったり、霰《あられ》に変ったりしながら、米沢の領国を冬景色に変えつつあった。  安永六年十一月二十五日。その日も午過ぎまでは雨が降り、その雨に時どき霰がまじったが、午後になると雲がうすれてきて、やがて小さな雲の切れ目から恩寵のような日の光が地上に差しこんだ。草は枯れ、木木は葉が落ちて裸だった。束の間の日差しは濡れている木肌や枝の先にとまっている水滴を光らせ、枯草の上で溶けかかっている霰の水玉を光らせたが、空は間もなくもとの曇りぞらにもどってしまった。そして点在する村村が暮色に沈むと底冷えのする冬の闇が足早に盆地を覆いつつんでしまった。  その日竹俣当綱は、莅戸善政を介して治憲の執務部屋をおとずれると、致仕をねがい出た。突然の申し出におどろく治憲に、委細はこれにしたためてございますと封書を上呈すると、奉行詰所にはもどらずに、いつもより早めに下城した。このままでは済まず、明日になればかならず城から呼び出しがあるに違いないと思ったが、当綱は一切応じないつもりだった。  病気と言って引き籠ってしまえば、お館もあきらめるだろうと思いながら当綱は家にもどった。一藩の経営をわが手で切り回してきた過去に未練がないわけではなかったが、片方に肩の荷をおろしたほっとした気分があるのも否めなかった。長く執政の地位に坐りすぎた、と当綱は思った。  ところが上書を読んだ治憲は、その夜のうちに当綱の屋敷をたずねてきたのである。近臣を一人連れただけの治憲は、大あわての竹俣家の人人に気遣いはいらんぞ、美作と膝をまじえて話したいことがあってきただけだと言い、当綱の案内でずんずん奥に通ってしまった。  人ばらいを命じて当綱と二人だけになると、治憲はすぐに切り出した。 「さてと、執政の座を去るわけを聞こうか」 「上書に記したとおりでござります」 「多年努力してきたが藩の経済は少しもよくならない。疲れたのでやめたいということか」 「そのとおりでござります」 「つまり、うまくいかぬから投げ出すというわけだの」  当綱は答えなかった。 「そうだとすればいささか無責任な話だが、本音はほかにあるのではないか」 「お館に隠した本音などはござりませぬ」 「美作、顔を上げてわしを見ろ。うつむいて物を言うのはそなたらしくないの」  当綱が顔を上げると、治憲のきびしい目にぶつかった。 「そなたとはじめて出会ったのは、わしが米沢藩世子となって桜田の屋敷に入った翌年だ。わしは十かそこらだった。それから何年経つかわかるかの」 「はて、十年以上になりましょうか」 「十六年だ。十六年にわたるつき合いだぞ、美作。その間われらは一体となってここまで藩の改革をすすめてきた。わしの言うことに間違いがあるか」 「いえ、仰せのとおりでござります」 「ならば、政治にかかわることでは、何ごとであれ、わしに隠しごとをしてはならん。不満、落胆、憤り、すべて腹にあるところのものを隠さずに申せ」  当綱は治憲を直視した。当綱には意識のどこかで治憲を少年と思う癖がある。手塩にかけて育て上げた少年藩主……。だがいま目の前にいるのは、おそらくは知力も体力も当綱を上回るに違いない、二十七歳の青年藩主だった。当綱は圧倒される感じをうけた。  それではつつまずに申し上げまする、と当綱は言った。 「藩再生の実効が、いまだに見えないことに疲れたのは事実でござります。しかしそれだけではありません」  治憲はうなずいた。黙って当綱を見ている。 「それがしはもともと傲岸不遜な人間でござります。藩政を指図する上でも、おのれの才を恃《たの》み、門地を誇り、人を人とも思わぬやり方を通して参りました。そのことには自身も気づいておりましたが、持って生まれた気質ゆえ、矯めることはかなわなんでござります」 「ふむ、それで」 「とは申しながら、それがしにしても、時と場所によっておのれの傲慢をおさえるすべぐらいは心得ており申した。しかるに近ごろ……」  当綱は深い吐息をついた。 「以前のようなこらえ性をなくしてござります。齢のせいでもありましょうか、思いどおりにいかぬと不平不満はたやすく身の内をあふれ、誰かれかまわずに非難、叱責の言葉を浴びせずにはおられぬ、かようなことが多くなりました。こういう人物が執政の座にいてはいけません。国をあやまる恐れがあります」 「そなたが傲慢な人間であることは、よく知っておる」  と治憲が言った。当綱が垂れていた頭を上げると、治憲は微笑していた。そしてひとつ聞こうと言った。 「その傲岸不遜な指図なるものを、自身のために行なったことがあるか」 「いいえ」  当綱ははげしく首を振った。 「すべては藩のためにしたことです」 「では美作、不満があるときは腹にためておかずにわしのところに来い。わしがいつでも聞き役になろうではないか」 「しかし……」 「非常の時には非常の大才が必要だ。いかにも人柄つつましくとも経営の才がなければ役には立たぬ。見わたしたところ、美作にかわって藩再生に取り組むほどの器量の者は藩中に一人も見当らぬ。だから、このようにいそいできたのだ」 「………」 「人間誰にも欠くるところはある。傲慢など気にするな。思うところを遠慮なく行なえばよい。それが私のための恣意に出ずるにあらず、藩のためにすることだというのは、見る者が見ればすぐにわかることだ」  当綱は微笑を絶やさずに話しかけてくる治憲を見ていた。治憲は藩内に大倹令を布告した襲封の年以来、変りなく着つづけている木綿の衣服をいまも無造作に身につけていた。質朴で気力あふれる藩主だった。  なんという大きな方だ、と当綱は思った。底知れない包容力に身もこころもつつまれるのを感じた。  ──この人をおいて……。  ほかにわが藩を生き返らせる藩主はいまい、と当綱は思った。やはりいまが、藩再生の好機なのだ。いまをのがしては、わが藩が立ち直る日は二度と訪れまい。故人となった学問の師藁科松伯が、かつて声をひそめて、われわれはたぐい稀な名君にめぐり会ったのかも知れませんと言ったのが思い出された。  そのとき治憲は十二歳の少年だったのである。この君のために、たとえ途上で倒れようとももう一度残る力をふるいおこすべきだろうか。考えに沈む当綱の耳に、治憲の力強い説得の声がひびいてきた。 「藩建て直しの事業はまだ途中にある。打つべき手は残らず打ったようにみえるが、はたしてそうか。果実の実りを見るまでは誰にもわからぬことだ。そしてそなたが申すとおり、改革の実りたるやまことに遅い。遅遅としてすすまぬ」  しかし、だからといってここで執政の座から降りていいものでもあるまい、と治憲は言った。 「ここまで藩をひっぱってきたのはそなただ。そなたには、事業を仕とげて領民すべてに藩立ち直りの果実が実ったさまを見せる大責任がある。そうは思わぬか、美作」  竹俣当綱は膝をずらしてうしろにさがった。そして無言で平伏した。治憲の説得を受けいれ、執政の職にとどまる意志を示したのである。  治憲を門前まで見送ると、当綱はいそいで自分の部屋にもどった。胸には治憲の厚い信任をうけたよろこびが残っていた。当綱は立ったままで治憲が言ったことのひとつひとつを胸に反芻してみた。すると、新しいよろこびがわき上ってきて、当綱は胸が震えるのを感じた。  どのぐらいそうしていたろうか。興奮がおさまり、当綱はやがてふだんの自分を取りもどした。すると、それを待っていたようにそれまでよろこびの陰にかくれていたものがそっと顔を出してきた。それはかすかな気配にすぎなかったが、徒労感のようなものだった。その証拠に、そのものは当綱にむかってがんばってもおなじことではないのか、とささやいた。自分をあやしみながら、当綱はじっと立ちつづけた。  その日から五年のちの天明二年十月。当綱は突如として奉行職を解任され、隠居の上、かつての政敵芋川家の屋敷に押し込めを命ぜられた。      二十八  江戸家老の千坂清高と、折柄上府中だった奉行毛利雅元が前をさがると、上杉治憲はしばらく黙然と考えにふけった。人ばらいを命じてあるので、藩江戸屋敷の執務部屋には誰も入ってこなかった。  二人が持参して治憲の手もとにおいて行ったのは、国元の奉行広居図書|忠起《ただおき》と六人年寄志賀|祐親《すけちか》、降旗《ふりはた》左司馬|忠陽《ただあき》らが急送してきた言上書、筆頭奉行竹俣当綱の犯罪を告発する言上書だった。言上書は、当綱に公私混同と認められる専権のふるまい、重大な不法行為など、十一カ条にのぼる奉行職を勤める者にあるまじき犯罪的な行為があることを告発し、治憲の裁断をもとめていた。  六人年寄は御中之間年寄ともいい、馬廻、五十騎、与板の三手組から抜擢された六名の政務参与を指す役名である。ひとに卓越する人物、才幹の持主である彼らは、奉行に直属して重要政務の審議に加わり、それが実施されるさまを掌握する。奉行とともに藩政の中枢を占める重要官僚であり、六人年寄に就任するとその地位にふさわしい百数十石の加増をうけるのがふつうであった。三手組の通常の家禄は二十五石であるから、彼らの才幹がいかに重く待遇されるかが知れよう。竹俣当綱の犯罪行為を告発してきたのは、藩政のそういう中枢部だった。  治憲は手の中の言上書を丁寧に奉書紙につつみ直し、机にのせた。そうしながら、まだ考えていた。日差しが机の前の障子のほんの片隅を染めている。十月の日差しのいろは淡いが、まだ冬を感じさせるほどではなかった。あたたかく見える。日が西に移って、わずかに残る光がそこにとどまっているのだ。  治憲は当綱の処分の是非を考えているのではなかった。言上書によれば当綱はあきらかに法を犯していた。藩法の定むるところにしたがって処罰すべきであった。ことに言上書が挙げている藩祖謙信公の忌日に飲酒歓楽していたという事件は、それだけで当綱の地位身分を剥奪して重い処分をくだすに値する行為だった。  当綱を告発する十一カ条の犯罪行為の中にこの一項を発見したとき、治憲は当綱がそれがしを罰して奉行職からおろしてくだされと呼びかけているように感じた。もしそうではなく、当綱がおれならこのぐらいのことをやってもゆるされるだろうと思っていたとしたら、これはまたこれほど世の中をなめ切った話はあるまい。近年の当綱の思い上がった行動を考えれば、それもあり得ないこととは言えなかった。  いずれにしても潮時だと、治憲は雅元、清高の話を聞きながら早早に肚を決めたのだった。五年ほど前に竹俣当綱は最初の辞表を提出し、慰留する治憲に自分の性格の欠点を挙げて、こういう人間が執政の座を占めているのはよくないと言ったことがある。今度はすみやかに当綱の奉行職を解き、重い処罰をくだすべきだった。その決断に迷いはなく、治憲の胸のうちでは当綱の処分は終っている。いま治憲が考えているのは漆のことだった。  当綱から在府中の治憲に、漆木植立ての準備段階である雌木《めぎ》の根伏せが一挙にすすみ、これが苗木となり植立てられるあかつきには、既存の漆木と合算して領内百万本の目的は難なく達成できるだろうという報告がとどいたことがあった。根伏せの本数は山口村十万本余、横越《よこごし》村五万五千本、鮎川村八千本、村山松右衛門担当分十四万六千本、古藤長右衛門担当分十三万五千本、片山代次郎担当分三万五千本、合計四十七万九千本で、村名は植立て適地である下長井郷北部の村村、氏名はこの地方を管理する郷村出役である。  この報告書がとどいたのは辞表を出して慰留された翌年の安永七年五月で、治憲が参勤のために江戸にのぼってからひと月もたたないころだった。当綱が報告書に意気揚揚と記しているところによると、これまでさっぱりすすまなかった漆木の植立て事業がいっぺんに動き出した事情はつぎのようなものだった。  参府する治憲の一行を見送ったあと、当綱はかねてこころに蟠《わだかま》っていた漆木植立ての停滞解明に乗り出した。手をつけてからやがて丸三年目を迎えようとしているのに、実際に植立てられた漆木はわずか二万三千八百七十一株に過ぎなかった。この有様では百年たっても目的の本数に達するかどうかは、はなはだおぼつかない話になったと当綱は危機感に駆られていた。  ──吉江に遠慮はしておられん。  当綱は詰め部屋に、樹芸役場の係り役人を呼び出して、計画の遅れを指摘してきびしく詰問した。なぜこんなに進行が遅いのかという詰問に、係り役人は、苗木には雄木、雌木の別があり、ある程度生長しないことにはその判別は出来かねる、これが今日の遅れの主たる理由である、と言った。当綱は唖然として担当役人の顔を見た。そういうこともあろうかと予想して、当綱は最初から雌雄鑑別の必要がない根伏せの栽培法を指示しておいたのに、その方法は行なわれなかったらしい。これでは植立てがすすまないのも当然だと思った。  胸に怒りが兆してきたのを押さえこみながら、当綱は漆の雌木を切りたおしてその根を取り、根伏せの苗を用いるように指示してある、そうしなかったのはなぜかと訊いた。それに対する係り役人の答えが、当綱を激怒させた。役人はいま現に実《み》をつけている木を切りたおすにしのびないと言ったのである。  当綱は植立てが一年遅れれば、富国の実現にも一年の遅れをきたすと思っている。せっぱつまっていた。しかるに木がかわいそうだとは、なんという言いぐさだと思った。そこには藩政に責任を負う者と、日日の用を大過なく処理すればよいと考える諸役人との乖離《かいり》があらわれていた。これだから国力の回復もすすまんのだと当綱は思った。 「領内の漆木五、六十万本。かりにそのうちの二、三万本を根伏せ用に切りたおしたところで何だというのだ。おのれら」  当綱は怒号した。あまり怒って身体が熱くなり、気分がわるくなりそうだったので、しばらく口をつぐんで目の前の男たちをにらみつけた。係り役人らは竦《すく》み上がって頭を垂れている。当綱はその頭の上に、さらに大声を浴びせた。 「そのほうらにまかせておいては、いつになったら埒あくかわからん。よろしい、わしが自分でやる。一緒にきて、わしがやることを見やえ(見よ)。よいか」  四月二十二日は、参勤の治憲が江戸の桜田屋敷に到着した翌日である。その日当綱は樹芸役場の係り役人、下長井の山口村から呼びよせた肝煎卯兵衛、自分の供の者などを同道して、下長井郷北部の村村にむかった。卯兵衛は漆の根伏せ栽培にすぐれた技術を持つ農民である。当綱ははじめ松川右岸の荒砥、あるいは左岸の鮎貝村、その奥の山口村あたりまで行くつもりで歩いていたのだが、途中荒砥の手前の畔藤《くろふじ》村にさしかかると道から見えるところに漆の大木があった。二丈余もある雌木である。すぐ近くに家があるから、漆はその家のものであろう。  当綱は卯兵衛が持参していた斧をつかみ取り、漆木までのゆるい傾斜を道から走り上がった。そして羽織をぬぎすてて斧をふりかぶると、小情のために大義を忘るべからず、これ百万本のもとなりと大音声に叫び、漆の根もとにはっしと斧を打ちこんだ。さわぎに気づいて持主が家から走り出てきたが、当綱は振りむきもせず、えいえいと掛声をかけて汗みずくになりながら独力で木を切りたおしてしまった。  卯兵衛が木の根を掘りおこし、根から切り分けた小根を係り役人に説明しながら、もとの大木のまわりに埋伏した。一株から三百七十本余の根が伏せられた。それが終ってから、当綱は漆木の持主に青緡《あおざし》一貫文を切りたおした木の代金としてあたえ、そうこうしているうちに呼び出しを受けて到着した荒砥、鮎貝の村村を担当する郷村出役古藤長右衛門、村山松右衛門、片山代次郎に、卯兵衛を師匠にして根伏せ法で苗木を取る植立てをいそぐように指示をあたえた。彼らには根伏せの費用としてそれぞれ十両を支給し、そこから米沢に帰還した。  その結果が冒頭の報告書にある根伏せ本数の数字となって現われた。出役からその届けがあったのは五月四日であり、じつにわずか半月後のことである。呆然としている漆木の持主に青緡をあたえたとき、当綱はお国のためにおまえの漆木を切らせてもらったが、この根伏せ法が国内に行きわたればお国の繁栄は疑いなし、この青緡はその前祝いだぞと言ったと報告書には書いてあった。当綱得意の場面である。  そのくだりを読んで、治憲は思わず頬をゆるめたのだが、この報告書にある果断と、紙一重で蛮勇になりかねない荒荒しい実行力は当綱の得難い資質だった。そしてそれこそ瀕死の状態にある藩経済の建て直しに必要なものだった。吉江喜四郎は篤実にして謹直な奉行だが、こうはいかないと治憲は思ったものだ。あれから四年がたち、今度は当綱は罪を告発されて処分されるという事態をむかえたのである。  ──当綱を処分したら……。  当国の漆はどうなるのだろうかと治憲は考えている。考えがそこに行くのは、漆には藩をここまでひっぱってきた当綱の政策が集約されていると思うからだが、それがひいては米沢藩の命運にかかわっているからでもあった。当綱の漆中心の殖産政策がコケれば、その瞬間に藩もコケざるを得ないという関係である。  とはいうものの、治憲にしてもかつて三木百万本植立ての計画書で当綱が示した、漆木が生み出す一年の純益一万九千百五十七両という数字を、無条件に信用しているわけではなかった。あれから七年が経過し、計画書に対する治憲の目もいささか辛辣になってきている。胸中にいくつかの懸念があった。  ひとつは植立て実施の困難ということである。五十万本にせまる雌木の根伏せを達成したという報告書を読んだ治憲は、大よろこびで当綱の努力を称賛する親書を書き送ったのだが、そのあとの雑談のなかでのべた莅戸《のぞき》善政の意見によれば、伏せられた根がすべてよき苗になるとは限らず、そのうちの何割かは育たず、あるいは育っても形悪しく捨てられるだろうということだった。言われてみれば当然そのとおりで、つまりは五十万本の根伏せといっても内に歩留りの問題を抱えているのである。  さらに植立てられて成木となるまでの間に枯死したり、風に折れる木も出ると聞けば、ひと口に百万本の植立てといっても、言うはやすくして実現ははなはだ容易ではないと治憲も納得せざるを得なかったのである。  植立て実施上の困難ということでは、ほかにも治憲がひそかに懸念することがあった。領民の不人気ということである。もしくはそのようにわが目に映るということである。  一尺以上の漆木一本を植えれば二十文を支給すると、藩では計画書で発表した。百本植えれば二貫文、二百本植えれば四貫文(一両)になる理屈だから、片手間の内職と考えれば決してわるくない仕事のはずだった。だが領民の間にそういう気運は盛り上がらず、植立ては停滞した。その原因を、当綱は苗木を用意する役目を負う係り役人が、緊迫感に欠ける対応をしたためだとみて、一挙に根伏せによる苗の育成を敢行した。  だがそれだけだったろうかと、最近の治憲は思っている。植立て計画では領内の百姓持ち地に六十四万本を植え、領内の空地に二十六万五千本を植え、この両所への植立てで百万本のほぼ九割の本数を賄うということになっていた。しかし空地はともかく、百姓の持ち地は田畑、山林、宅地である。田畑、山林はむろんのこと、宅地にしても人人はそこに果樹や蔬菜《そさい》の一部を植えていて、遊んでいる土地はさほどにないというのが現実ではなかろうか。そこに漆の割りこむ余地がどれほどあったかと考えると、一|竈《かまど》(一戸)あたり三十本で計算した、膨大な植立て計画を押しつけられた郡中百姓の迷惑顔が見えてくるようである。  現在どのぐらいの本数が植立てられているかは、治憲は近年の報告を受けていないので正確なところを知らない。しかし報告がないということは、本数がまだ百万本達成にはやや遠いところを行きつもどりつしていることを想像させる。そうして新規の植立てをすすめる間にも、漆木の成木が枯死する、あるいは風に倒れる。すると、これらを手当てしなければ総体としての本数はたちまち減ってくるのだ。こういうこともふくめて、本数だけのことをいえば、まだこのあとも曲折があるだろう。  ──一挙百万本という計画には……。  当初から無理があったらしいと、いまとなっては治憲もそう思わざるを得なかった。  懸念は漆木の植立てという内側の事情だけでなく、漆そのものにも存在した。何年か前に、江戸屋敷で豪商の三谷《みつや》三九郎を引見したことがある。三谷家に代替りがあり、若いいまの三九郎が当主となって後のことだから、安永五年か六年あたりのことだったろう。当時江戸家老だった広居忠起が陪席した。  三谷三九郎は、当主となる以前から父親と一緒に江戸屋敷に出入りしていたので、藩主の治憲とも初対面ではなかった。江戸商人らしく、問われることにははきはきと答えた。そして話が漆のことに移った。三谷家は最有力の金主として藩から二百五十石の知行を受けているほかに、古借一万九千両を四十年賦とするかわりに毎年五十駄(約二千貫)の漆を受けとり、さらに米沢藩の漆蝋を一手に売りさばく権利を得ているので、話がそこにおよぶのは当然のことだった。 「近ごろは……」  と若い三谷三九郎が言った。 「西国の|櫨蝋《はぜろう》が力をのばして参りましたので、お国の蝋もやや売りにくくなりました」 「ほほう」  と言ったが、治憲は突然に総身に水を浴びたような気がした。米沢の漆蝋には競争相手がいると、三九郎は言っているのである。そういうことはこれまで聞いたことがなかった。西国の櫨蝋とは何か。三谷、もう少し前にすすめと治憲は言った。 「櫨と申すのも、やはり漆だな」 「さようでござります。暖国に生育して、実はよき蝋となります」 「諸国がこれを植えておるのか」 「もとは山地自生のものですが、いつからか諸藩がこれを植えて実をとるようになりました。くわしくは存じませんが、肥後の熊本藩がもっとも熱心に栽培している由を耳にいたしております」 「そのほう……」  と治憲は言った。 「近ごろと申したが、櫨蝋が江戸に現われたのは近年のことかの」 「それがしはよく存じませんが、父に聞いた話では元文のころにも少少の入荷はあった由にござります。しかし元来西国の蝋は大坂が取引きの本場でござりますので、さしたる荷ではなかったろうと推量されます。江戸の市場で目立つようになりましたのは、さよう……」  三九郎は思案する表情になった。 「ここ四、五年ほどのことかと思われます。入荷が少しずつふえておりますのは、産地での生産がのびているばかりでなく、品物の質がよろしいことも一因かと考えておるところです」  治憲はまた衝撃をうけた。陪席している広居忠起の顔を見たが、広居は無表情にふたりの話に耳を傾けているだけだった。通常の蝋の商いの話と思っているらしい。  櫨蝋はやはり米沢蝋の大敵なのだ、と治憲は悟った。当綱はこのことを知っているのだろうか。 「米沢蝋は品物の質で西国ものに負けるかの」 「いえ、里蝋(栽培漆)はなんらひけを取りません。十分に太刀打ち出来ます。しかし山蝋(天然漆)の方は木蝋をつくるときに、よほど丁寧に手を加えぬことには売りにくくなりましょう」 「飾りなく申せよ、三谷」  と治憲はそのとき言ったのだ。 「結局櫨蝋に押されて、わが国の蝋はやがて売れなくなると、そのほう、さように見通しておるのではないか」 「いえ、いえ」  三谷三九郎は顔を上げた。若いなりにしたたかな商人顔になっていた。 「てまえどもは商人でござります。引きうけた荷はいかようにしても売りさばきます。ただし、市場の動きによって、あるいは売値が安くなることはあろうかと存じます」  漆蝋は商品である。市場の模様如何によって、売値は上がりもし、下がりもするだろう。しかし大まかなことをいえば、櫨蝋のような力のある競争相手が出てくれば、米沢蝋をかかえる三谷の商いの駆け引きは苦しいものになり、圧迫されて売値を下げることはあり得る。三谷はそういうごくあたりまえの市場の原理を語ったのだった。  だが当綱の当初の植立て計画案には、この平凡な理屈、漆が商品であり、売れたり売れなくなったりする生きものであるという見方が欠けていたのではなかったかと、近ごろ治憲は思うようになっている。当綱は年間の純益一万九千両という金額を、あたかも保証された数字のごとくに掲げ、その先に藩を苦難の十五万石から豊かな三十万石へみちびくという壮大な夢を描いてみせたのだ。  自信満満の当綱の説明を聞いているそのときに、ふとかすかな不安が胸にうかんできたことを、治憲はいまも思い出すことがある。それは本能的な一瞬のこころの動きにすぎなかったが、いまにして思えば、どこかで漆は商品なりという三谷三九郎の話とつながっていたかも知れない。  とはいえ、当綱から計画案を示されたあの日は、わしも豊饒のまぼろしを見たのだ、と治憲は思った。領内を埋めた百万本の漆木は、秋になるとどんぐりのような実をつけ、晴れた日は実は日に光り、風が起きると実と実はたがいに触れあってからからと音を立てるだろう。山野でも川岸でも、城下の町町でもからからと漆の実が鳴り、その音はやがてくるはずの国の豊饒を告げ知らせるだろうと思ったものだ。  実際には、その後治憲が見せられた漆の実は、総《ふさ》状の小枝の先についた米粒のように小さなものでしかなく、治憲は自分の思い違いに一驚を喫することになったのだが、それで豊饒の幻想が掻き消えたわけではなかった。当綱の三木植立て計画案には動かしがたい魅力があった。そしてまたその案のほかに、米沢藩を苦境から救い上げるいかなる考えも見あたらなかったのである。  当綱の漆が、計画当初の光彩を失ったことはたしかだった。いまはその案はいくつかの疑問と懸念につつまれ、実現の可否さえ危ぶまれているありさまである。竹俣当綱は二年前の三月に二度目の致仕をねがい出、そして今度は罪名を着て処分をうけようとしている。漆中心の殖産政策の停滞と、このような当綱の進退にはなにかの関連があるのだろうか。  ──美作の漆に……。  過大な幻想は持っておらぬ、と治憲は思った。しかし藩はこのあともそこにのぞみをかけざるを得ないだろう。長い思案をそこで打ち切ると、近臣を呼んで莅戸善政を呼び出すべく、治憲は机の上から鈴を取って振った。 「や、これは……」  部屋に入ってくるとすぐに、莅戸善政が言った。 「灯をいれねばなりませんな」 「まだよい」 「いえ、このあとはたちまち暗くなりましょう。ご倹約もさることながら、お目を疲れさせては何にもなりません」  と善政は言って近習を呼んだ。米沢藩では三年前の五月に再度五カ年の大倹令を発令していて、いまもまだ諸事倹約の最中にある。しかし治憲の倹約は米沢藩主として貧しい領国を治めることになって以来の身についた倹約癖のようなもので、いまのような言い方も、特に実施中の大倹令を意識しているわけではない。  また莅戸善政の方は、緻密な実務的なものの考え方が出来る一方で、性格としては竹俣当綱の剛に対する柔、些事にこだわらない大まかなところがあって、いま治憲が示したような反応などもやわらかく受けとめる。受けとめてこんにゃく問答のようなところに持ちこみ、いつの間にか自分の意志を通したりするのが得意だった。  それに対して治憲があくまでも発言に固執することをしないのは、大まかに聞こえる善政の物言いが根本のところで決して規矩を越えないことを熟知して、信用しているからである。だから、善政がものを言い、それに治憲が一応異をとなえたあとで、結局は善政の意見にまかせるといういつもの儀式めいたやりとりがあったあとに、近習二人がきて何事もなく行燈に灯をいれて去った。  善政が言ったとおりで、そうしている間にも部屋はどんどん暗くなって、灯がともると部屋の中は急に夜の気配に変った。 「国元からきた急便のことで、千坂に話を聞いたか」  と治憲が言った。 「いえ、まだ何も……」 「国元の者らが美作を告訴してきた。まあ、これを読むとよい」  治憲は言って、無造作に広居奉行以下が送ってきた告発状を善政にわたした。うやうやしく押しいただいてから、善政はすばやく封じ紙の中身を取り出して目を走らせたが、読み終えたあともしばらく無言で書面を見ていた。 「どうだ、そのほうに心あたりはあるか」  治憲が言うと、善政はようやく顔を上げた。だが答えるまえに丁寧に告発状を巻きもどし、紙におさめて治憲に返上した。こういったところにじれったいほどに慎重な善政の性格が現われる。さて、と善政は言った。声は落ちついていた。 「書状にござります下女ノ事と申しますのは、お奉行が内方に先立たれたあと、広間番の青木の娘を妾にしたことを指すものかと思われますが、ほかには思いあたることはありません」  告発状はこのほかに「材木ノ事」、「内会所江金子ノ事」、「新御殿御舞台ノ事」、「藤巻、真島、三矢寝廻ノ事」など、当綱の公私混同、大倹に反した遊楽の行状などを咎めていた。最後に挙げられている家中の姓名は、当綱は近年直言の士をしりぞけてこれらの佞臣《ねいしん》を近づけているという告発である。  そしてこれら執政の職を勤める者にあるまじき不行跡を一貫しているのは当綱の驕奢専権だと告発状は断じているのだが、その典型的な例が「八月十二日肴ノ事」、つまり藩祖謙信の忌日である八月十三日に、前夜からの酒宴をつづけてやめなかったという一件だった。当綱は故意にか、あるいは酔って自分を失ってか、藩最大の禁忌を犯したのであった。  善政はそのことに触れてきた。 「しかしながら藩祖公の忌日に酒宴をひらいて遊楽に耽っていたのは、申しひらき不能の失態というほかはありません。これはちと、困ったことに相成りました」 「そのほうも、さように思うか」  治憲が言うと、善政ははあと言って目を伏せた。そして少しものを考える表情をしてから顔を上げた。  じつは以前から解せぬうわさが耳に入っておりました、と善政は言った。 「お館もご承知のとおり、お奉行は村村を巡回して農事を視察することを無上の喜びとされておりました。家僕に夜具を背負わせてつとめて貧家に泊り、一汁一菜に甘んじてしかも翌朝その家を去るにあたっては手厚い礼金を残すのがつねでござりました」  善政の口調が熱っぽいひびきを帯びてきた。 「少しでも貧家によかれとはかられたのです。過去何人のお奉行と呼ばれ、執政と呼ばれた方方がおられたか、いまにわかに数え挙げることは出来ませんが、美作さまのように骨身を惜しまずにみずから村村を回り、土地の肥痩、作物の豊凶をたずね、孝子、精農をほめ、奸吏をこらしめたお奉行はおられなかったのではござりますまいか。ここは何人《なんぴと》といえども認めざるを得ないところです」 「うむ、よき執政であった」  治憲は当綱を過去形で賞揚した。善政はそれに気づかなかったような顔つきで、しかるにと言った。 「近年、かのお方の村村の巡回は従来とは中身がこと変り、村に宿泊しては酒宴をくりひろげ、その費えは村費をもって賄わせるといううわさがござりました」 「近年とはいつごろのことか」 「一昨年春、美作さまは致仕をねがい出て慰留されました。それからということでござります。以来お奉行は人格が一変したと言う者もおります」 「だからあのとき、わしは請をいれてやめさせろと申したのだ」  と治憲は言った。  安永九年三月十一日に、奉行竹俣当綱は二度目の致仕願いを提出した。するとたちまちほかの奉行たちから当綱の留任を懇願する願書が出された。しかし治憲は当綱の致仕を受け入れる肚だった。執政たちを呼んで、いまの当綱の身は十五夜の月のごときものである。十六夜からは闕《けつ》を生じるだろう。請にまかせて功名を全うせしむるのがよい、と諭した。  ところが今度は御中之間年寄長井高康が根回しをして、高家衆、侍頭、宰配頭、御中之間年寄、御使番などから、当綱が隠退すればこの国の政治は立ち行きがたいという趣旨の留任願いを治憲に提出させた。やむを得ず治憲は当綱を呼び、信国の刀をあたえて格別の覚悟で藩政を導くように激励したのである。 「そのほうらは知らぬが、美作が致仕を言い出したのはあのときが二度目だ」  善政は無言で治憲を見た。その善政にうなずいてみせて、治憲は六年の冬のことだと言った。 「説得して一夜にして撤回させたゆえ、公けにはならなんだが、致仕願いの理由は何だと思うな?」 「はて」  善政は首をかしげた。慎重な口ぶりで言った。 「懸命に働いても、藩が楽になる兆しはいっこうに見えぬ、疲れましたとでも申しましたか」 「それも申した。だがわしはそれだけではないとみて本音を申せと言った」 「ははあ」  善政の顔に、めったに見られない驚愕の表情が走った。善政は畏れるような目を治憲にむけてきた。 「お奉行は何と答えられましたか」 「自分はもと傲岸不遜な人間である、そして近ごろは気力が弱ってその性癖を押さえられなくなった。こういう人間が執政の座にいては、国をあやまるもとであると、当綱は申した」  藩主の執務部屋を深い沈黙が埋めた。治憲と善政は一言もかわさずに対座していたが、治憲には、善政も二年前に提出された当綱の致仕願いを治憲が差しとめるべきではなかったと考えていることがわかった。  なぜかはなおつまびらかでないところがあるが、それより以前に当綱の時代は終っていたのだ。そのことを、ほかでもない当綱本人はよく承知していたのではなかろうか。そこを察知出来ずに信国の刀をあたえて激励したりしたわしは軽率だったと、治憲はおのれを責めている。  善政が身じろぎした。 「なにか、湯茶でもはこばせましょうか」 「いや、よい」  と治憲は言った。そして九郎兵衛と改めて善政を呼んだ。 「わしにはどうも解せぬことがある」 「はあ、何事でしょうか」 「あの賢明な美作が、藩祖公の忌日の禁を破ればわが身がどうなるかぐらいは心得ておらぬはずがない。あえて禁を犯したのは、自分を罰して執政の座からおろしてくれと申しておるのではないか。わしにはそう思えてならんのだが、そのほうはいかが思うか。つまり……」  治憲は考えをたしかめるように、一度口をつぐんでからつづけた。 「二度目の致仕願いを出したとき、美作は真実執政職から去りたかったのだろうと思う。それを、みんなが寄ってたかって押しとどめてしまったので、今度は非常の手段に訴えたと、そうは思えぬか」 「それはお館さまのお考え過ぎでござりましょう。小松駅での酒宴の一件は、かのお方の生地が出たにすぎません」  善政はほとんどそっけなく聞こえるほどの口調で答えた。 「思うに美作さまは、藩を再建する仕事がいつ成就するというあてもなくつづくことに飽かれたのだと思われます。お仕事に見切りをつけるにしたがって、その日までと思ってご自分をしばってこられたもろもろの我慢もほうり出し、あのお方本来の人を人とも思わぬ御気質をはばかりなく表に出されることにしたということではありますまいか。これが人格一変という評判の中身であるとそれがしは考えますが、お奉行ご本人の心境はむしろはればれとしておると思われますぞ」 「さようか、なるほどの」 「傲岸不遜はかのお方が持って生まれた痼疾でござります」 「ははあ、持病か」  治憲は思わず失笑したが、善政は笑わなかった。 「強いてご自分をしばってきびしく自制してこられたその間にも、ご性格の一端は独断専行という形でたびたび表に現われておりました。ゆえに痼疾と申し上げる次第です。去る四月に吉江さまが執政の座をしりぞかれたのもこのあたりが原因、美作さまと藩政を議することに堪えがたくなったものと愚考しております。しかしながら……」  善政は胸をおこして治憲を見た。 「美作さまの独断専行がなかったら、はたしてこの国が今日まで持ちこたえ得たかどうか、はなはだ疑わしいとそれがしは思うものです」  善政は当綱を弁護した。治憲はうなずいてから言った。 「それはわかっておるが、目前の訴えの始末をつけねばならんぞ」  治憲は、国元からきた告発状に善政の注意をひきもどした。 「美作の処分をいかにするか、いまも毛利、千坂と相談したところだが、そなたも意見を言え」 「これは恐れ多い仰せ……」  善政はつぶやいて目を伏せると、ひと膝あとにさがった。 「それがしは一小姓頭。月旦はいたしましても、藩政の枢機にかかわることに意見を申し上げる立場にはござりません」 「まあ、そう言うな」  と治憲は言った。 「わしが許すゆえ、遠慮のない意見を述べてみよ」 「されば……」  善政は暫時思案する顔つきになったが、やがてきっぱりと言った。 「美作さまの奉行職を剥奪しなければなりません。告発によれば小松駅の豪農の家で飲酒した美作さまは、十二日夜からはじめて深夜日にちが改まり、藩祖公の忌日である十三日となったにもかかわらず、灯の消えぬうちは十二日なりと申して遊楽をやめなかった由にございます。奉行職にある者としてゆるされざる言動と存じます」 「ほかにつけ加える処分は?」 「毛利さま、千坂さまのお考えはいかがでござりましたか」 「告発の条条が事実なら、罷免の上芋川邸に押し込めが相当という意見であった」  それを聞くと、善政は露骨に顔をしかめた。 「小松駅の一件で鬼の首をとったというところですかな。お奉行の独断専行に反感を抱く人人は多うござりましょうから、かさにかかって攻めてきておるのでござりましょう。それにしても、結論を出すのが少少早すぎはしませんでしょうか」 「美作の不徳のいたすところだ」  と治憲は言った。しかしと善政は粘りを示した。 「お奉行は農をはげまし、ことこまかに藩再建の手だてを講じ、借財を整理して藩を借金地獄から救い出しました。その功に免じて、処分にも若干のご配慮があってしかるべきではないでしょうか。押し込めの沙汰は酷にすぎるかと存じます」 「気持はわからないでもないが、私情をさしはさんではならんぞ、九郎兵衛」  治憲はかたちを改めて言った。 「いかなる功臣といえども、罪を犯せば法にてらして断固処分せねばならん。自明のことだ」  治憲の態度から、善政も治憲の肚が毛利、千坂両家老と協議の上ですでに固まっているのを察知したのだろう。うやうやしく平伏して、恐れいりましてございますと言った。  善政が顔を上げるのを待って、治憲は言った。 「九郎兵衛、そのほう国元に行って、この一件の始末をつけてまいれ」 「それがしがでしょうか」  善政は一瞬おどろいたように治憲を見たが、すぐに表情を暗くした。 「これはちと、それがしには荷が勝ちすぎるお役目と思われますが」 「ほかに人がおらん。毛利も千坂も祝い事に手いっぱいで江戸をはなれられぬ」  治憲が参勤で上付した翌月五月、藩では治憲の養子喜平次|勝意《かつおき》を嫡子養子としたい旨、幕府に願いを上げた。喜平次は養父重定の四男保之助で、去る安永五年に治憲の順養子となった。当年二十二歳である。  その嫡子養子願いと幕府の許可が皮切りで、七月一日の御目見、つづいて九月十九日には登城して元服をおえ、将軍家の一字を頂いて、喜平次は中務大輔治広となった。この間の各方面に対する折衝、挨拶、おびただしい礼物の指揮をとるために、執政毛利雅元、江戸家老千坂清高は忙殺されていた。なおこのあと間もなく将軍家から許しが出るのを待って、世子治広に尾張大納言宗親の養女|純《すみ》姫をむかえる婚儀が行なわれる予定で、去る四月に供奉の家老として参勤の供をしてきた毛利雅元は、この婚儀を宰領し終らないと帰国できないという状況にあった。  そういう事情は、自身江戸屋敷の多忙の一端をになっている善政にはよくわかっていた。しかし改革の同志であり、比類ない起案者、実行者、欠点はあるものの生まれながらにして名宰相の資質にめぐまれた人物としてうやまってきた当綱を断罪する使者となるのは、いかにも気のすすまないことだった。  そういう善政をじっと見ながら、治憲は言った。 「気がすすまぬのはわからんでもないが、一方的に余人に申しわたしを受けるよりも、そなたに言われるほうが、美作は処分を受けいれやすいということもあろう。ただのうわさかも知れぬが、美作はわしを軽んじているという風評がある」  治憲は微笑した。 「愚昧な藩主がくだした処分は受けぬ、と申すかも知れんぞ。そのときはじゅんじゅんと説得するのだ。そなたのほかにそれが出来る人間はおらん」 「しかし、いずれにしても難儀なお役目……」 「いや、そなたが適任だ。さきほどそなたも申したように、告発状だけではいまひとつ罪状の中身がしっくりと腑に落ちぬ感じが残る。心利いた者が帰国して、そのあたりをはっきりさせることが肝要だ」 「………」 「帰国したらまず奉行の広居、御中之間の者たちと密談し、なお納得がいかねば自身人を使って調べてみよ。冤罪があってはならんからの。しかし確信を得たら躊躇はいらぬ、わしの名代として美作を一気に断罪に追いこむのだ」  治憲はことこまかに指示した。 「しかし帰国にあたっては、くれぐれも美作にそなたの役目をさとられぬよう、用心が必要だ。大殿あての手紙を持たせるゆえ、表向きは本日順養子を許された直丸の件を大殿に報告し、御礼を述べる使者として帰国するがよい」  直丸の順養子というのは、治憲の実子直丸を治広の養子と定めることで、藩では四日、幕府にその許しを願い出ていた。それに対して昨日六日にわかに許しが出て、治憲、治広父子は今日早朝の卯ノ上刻(午前五時過ぎ)に登城して台命《たいめい》を受けてきたのである。  昨日来た達しには四ツ(午前十時)とあった登城の時刻が早朝に改まったのは、将軍世子家斉が大川筋に御成りになるせいで、おかげで台命を受けたあと老中ほかへの御礼回りを済ませて桜田屋敷にもどったあとに、治憲は思いがけない余暇を得た。国家老の毛利、江戸家老の千坂を呼んで、午後はたっぷりと当綱の処分を協議するゆとりがあったので、善政が言う結論を出すのが早すぎないかという非難はあたらないと治憲は思っていた。当綱の犯罪は、見ようによってははなはだ粗雑で、単純なものだった。  なんだかだと抵抗を示していた善政が、ようやく観念したらしくうやうやしく礼をした。 「仰せの条条まことにごもっともと存じます。九郎兵衛つつしんでうけたまわり、使命を果して参りまする。御前《おんまえ》をもはばからず我意を申し立てましたことを、何とぞお許しいただきとうございます」 「よい、気にするな。で、いつ行くか」 「支度もありますので、し明後日《あさつて》、十日ごろに」 「頼んだぞ」  治憲は言ったが、ふと思い出して善政の名を呼んだ。 「美作が執政の座から去ったあと、残された美作の政策はいかに相成るかの」 「生きるものもあり、捨てられるものもありましょう」 「漆はどうなるか」  善政は突然に沈黙し、目を伏せた。長い沈黙がつづいたが、治憲は辛抱して待った。ようやく顔を上げた善政は重苦しい表情で言った。 「お奉行は、漆植立ての効果が出てくるまで十年はかかると申されました。まだ事業の可否を論じる時期にあらずと思われますが……」 「ふむ、しかしそなたなりの見通しというものはあろう」 「されば……」  と言って善政はまた口をつぐんだが、今度の沈黙は短かった。 「残念ながら見通しは暗いと申しあげざるを得ません」 「理由を申せ」 「まず費用がかかります。植立てはいまもつづいておりますゆえ、その植立て費用、結実の時期が来れば木の実買い上げ代、筒屋(蝋製造所)の製蝋の掛り費用。またご承知のごとく、わが藩の最大の金主三谷には毎年五十駄を送り、古債一万九千両の返済にあてる約定をかわしております。五十駄の蝋は時価にしておよそ五百両ですか、以上の金額は無条件に年年漆蝋の収益から差し引かれるものです。そのほかにも……」  燈火に照らされた善政の表情はいっそう暗くなった。 「この間も三谷の手代半左衛門に聞いたことですが、西南諸国の|櫨蝋《はぜろう》は市場においてますます勢いを得てきている由にござります」 「米沢蝋は圧迫されて、将来とも売り上げはのびぬだろうという予想か」 「さようでござります」 「美作が言う十年後の漆の収益を予想してみよ」 「予想ですからあたらぬかも知れません。むしろあたらぬことを祈りますが、それがしの最近の試算によれば純益はまず三千両から五千両ほどかと思われます」 「えらく少ないの」 「試算でござりますゆえ、たしかではござりません」 「こういうことに美作は気づいておると思うか」 「もちろんです。賢明なご家老がかかる情勢を知らぬはずはありません」 「よろしい。さがっていいぞ」  と治憲は言った。深い疲労感に襲われていた。懸命にやっても報いられないということはあるものだと思っていた。  襖ぎわでもう一度礼をした善政に、治憲は九郎兵衛と声をかけた。 「美作はいまも日日登城しておる。帰国したら十分に心してかかるのだ」  帰国した莅戸善政は、大殿重定に会って直丸君順養子の許しを報告、治憲の御礼の言葉を言上したあと、ただちに執政の広居忠起、御中之間年寄志賀祐親らと密談したが、告発状の内容は概ねうなずけるものだった。中でも藩祖公忌日の禁を犯した一件はかくれもない罪状と判明したので、善政は広居奉行らに藩主治憲の裁断をうけて毛利雅元、千坂清高が作成した御用状を示し、竹俣当綱に隠居を命じた上、芋川屋敷に押し込める処分を決定した。  ところで竹俣当綱は性格に激越なところがある上に、若年のころは伊藤流の槍の師範である侍頭平林正相について槍を修行したつわものである。申し渡しが気にいらぬと激怒するようなことがあれば惨事を呼びかねないとも考えられた。  そこで善政は御中之間年寄降旗左司馬、御使番梅沢※[#「手へん+(公/心)」、unicode6374]助、中野与右衛門の三人を上使として竹俣家に派遣し、用向きを伝えて、広居奉行宅に同行を求めさせた。梅沢※[#「手へん+(公/心)」、unicode6374]助は一刀流の師範である。  抵抗するかと思われた当綱は、三人をむかえると少しもさわがずに用向きを聞き、広居の屋敷に至っても泰然として申し渡しをうけた。さらに広居家から今度は罪人として芋川屋敷に護送される間も、当綱の言語、動作は日頃と少しも変るところがなく、万一にそなえた善政らは拍子抜けしたほどだった。これらの処分がすべて終ったのが十月二十九日である。  その様子を知らせてきた善政の急便を、治憲は夜の執務部屋で読んだ。読み終ると手紙を丁寧に封じ紙におさめて机にもどした。治憲はつめたくなった手の指先を押し揉んでから机の横にある手箱をひきよせ、煙草道具を出した。  煙草を一服、二服と吸った。初冬の夜は静かで、隣室にひかえているはずの近習たちも、物音ひとつ立てなかった。  ──治広の祝い事をのぞけば、今年はあまりよいことがなかった。  と治憲は思った。  三月九日に正室|幸《よし》姫が死去したが、治憲は国元にいて葬送にも間に合わなかった。幸姫とは心が通じていたろうか、と治憲は思う。通じていたようでもあり、心を通じる道は最後まで閉ざされていたようでもある。真相はおぼつかない記憶にまぎれたままで定かではなかった。  そして四月には吉江輔長が執政の座を去り、今度は竹俣当綱が職を剥奪されて押し込めの処分を受けた。幸姫の死は、人がこの世にある限り避け得ない不幸のひとつとあきらめることも出来たが、相ついで藩政の中枢から去った吉江、竹俣については治憲には悔いがあった。あれは避けようとすれば避けられた災厄のようなものではなかったか、と思うのだ。  吉江は凡庸と言われながらも執政の一角を占めて、それなりに重味があった。そして竹俣当綱は、ただひとつの欠点をのぞけば稀にみる宰相の器だった。吉江の凡庸といい組み合わせだろうと思っていたが、当綱の欠点は大きすぎて、人をほろぼしただけでなく自分をもほろぼすようなものだったのである。  ──二人とも、……。  軽軽と去っていい男たちではなかったと、いまの藩の情勢を考えあわせながら、治憲は思っている。当綱が去ったあと、わが藩はいかなる道を歩むことになるのか。その答えを見つけるのは容易ではないという気がした。  考えをめぐらしていると、肩のあたりをうそ寒いものに吹かれるような気がした。桜田上屋敷の主は小さな音を立てて煙草盆に灰を落とし、まだ熱い煙管に新しい煙草をつめた。  しかし藩をおそった災厄はそれで終ったのではなかった。年もおしつまった十二月十七日、世子御|傅役《もりやく》木村丈八高広が致仕した。高広は藩政改革派の一人として活躍し、改革についても、また学館再興の折にもたびたびすぐれた意見を述べたが、近年は世子治広の厳格な傅役として誠実に勤めをはたしていた。高広が同志として当綱の罷免、押し込めに殉じたことは明らかだった。  治憲は高広の致仕を、当綱に次ぐ改革派の脱落として受けとめ、暗い気持になった。しかしふたたび傾きはじめた藩に追い討ちをかけることになる真の災厄天明の飢饉が、じりじりと足もとににじり寄りつつあったのを、治憲はこのときはまだ知る由もなかったのである。      二十九  天明三年四月十七日に、米沢藩では籾蔵御用掛、御使番、御勘定頭などの連名で、凶作にそなえる籾蔵、御備米蔵の管理徹底を示達した。この年は天候不順で、その中には凶作に対する警戒心を呼びおこすようなものが含まれていたのである。  危惧されたそのものは、五月になって顕在化した。長雨がやまず、日の光を見ることが稀な天気がつづき、その悪天候は六月になるといよいよ甚しくなった。雨が降りやまず、気候は秋の末ごろのように寒くなり、人人は綿入れを出して着た。この有様をみて、たちまち米の値段が上がった。  しかし悪天候の間にも、田植えは無事に終えていたので、凶作という見込みを立てるのはまだ早かった。雨がやみ、夏の日差しと暑熱がおとずれるなら、一転して豊作となることもあり得るからである。  藩では治憲が帰国してひと月ほどたった六月十一日に、家中から借り上げの内、米半分、銀は残らず、ただし一回に限り返却する措置を決定した。家中の困窮をみかねたと令達にはあるが、この決定は今年の作柄が凶作か豊作か、まだ見きわめがたいという時期だから行ない得たと言ってよかろう。凶作を懸念はしているが、まだそれがはっきりと見えたわけではなかった。同じ月のうちに、安永八年以来つづいていた大倹令を来春に解くことを発表したのも同様の理由からと言える。  しかしそういう藩の見きわめの甘さを嘲笑するように、稲が穂孕《ほばら》みする時期になっても、降りつづくつめたい雨はやまず、八月に入ると凶作の疑いは濃くなった。見わたすかぎりの平野は暗い雨雲に覆われ、なお降りつづく雨の中に、みのらない穂を持つ青立ちの稲田が延延とひろがっていた。それはおそろしい光景だった。  それでも稀に日が照ると、田には村村から穂孕みをたしかめに出る百姓たちの姿があふれた。雨が上がって日差しと暑熱がもどれば、たとえ半作程度にしろ、稲が穂を孕むゆとりはまだあると、人人ははかないのぞみをかけていた。  万一の僥倖をあてにしているのは藩も同様だった。藩は八月の末に、隣国福島藩と大森領代官の求めにこたえて、それぞれ米二百俵を送ったが、それはこの時期にきても自領の作柄を凶作とはまだ断定出来ないでいるからこそ出来たことだった。しかしそのころから少しずつ奥羽諸国大不作のうわさが聞こえてきた。藩では凶作にそなえて、来年夏の飯米不足を補うための、大麦を蒔くように、村村に指示を出した。  そして九月に入っていよいよ凶作を疑い得なくなったあとの藩の対応は迅速だった。まず凶作の兆候がみえるので、いまから粥食、糅飯《かてめし》を用いて用心するように、また他領から入りこむ乞食《こつじき》の徒にはたべものを勧進しないように触れを出し、月末には糀《こうじ》、米類を材料とする菓子、豆腐、納豆の製造停止を命じた。その間に仙台藩、三春藩、秋田、最上、白石の各藩から買米の交渉があったが、このたびは当然ながら謝絶した。  十月に入ると大凶作の様相がはっきりした。このころになると奥羽諸藩が凶作から稀にみる飢饉に見舞われつつある状況が少しずつ判明し、米沢藩の為政者も、自領が同じ凶作の流れに巻きこまれてただよい流れつつあることを実感した。  十月四日、藩はさきに発表した大倹令の来春解除を撤回し、財政困難はまぬがれないので解除をひとまず延期することを告示した。そして六日には御備籾蔵をひらいて、家中に日日二百俵、商家には義倉《ぎそう》の貯蔵米に補助米を加えて払い出した。この月治憲は御政事掛り役人、さらに郷村出役を呼んで、それぞれに凶作対策に全力を傾けるように説諭した。  一方、藩では越後新潟に御中之間年寄志賀八右衛門祐親を、隣藩庄内藩の酒田湊には同じく降旗左司馬と町医師遠藤孫左衛門を派遣し、越後では米二千俵、酒田では米九千五百俵を糶《せ》り買いすることが出来た。また月末の十月二十九日に、藩は凶作被害をまとめ幕府に届け出たが、損耗量は十一万五十一石におよんだ。米作は平年の収穫量のおよそ二割余にとどまったのである。  合計一万俵ほどの米を他領から買入れることが出来たものの、藩では領民を飢餓から救うには米はまだ足りないと見ていた。その用意のため、六月に一回限りとして借り上げを返却したばかりの家中に対し、改めて百石につき銀二分の出金をもとめた。十一月五日のことである。また同じ達しの中に、主食は家中、寺院、町家は粥、糅《かて》を用い、一人一日玄米三合五勺、百姓は労働がはげしい時期四カ月は一人五合、耕作期、収穫期をのぞく八カ月はほかと同じく一人三合五勺と見積もるべきこと、と凶作時の主食の量をこまかく規定し、最後に麦作、早稲米の手配をするようにとつけ加えたのは、来年の食糧不足にそなえたのである。  しかしこの年の降雪ははやく、断続的に降る雪は木の実、草の根をもとめて山野に出る窮民たちの足を阻んだ。寒気はなすすべもなく藩の救済を待つ彼らに、容赦なく襲いかかった。  その有様を見て、藩はさきの示達を出した五日に、領内数十カ所で本格的な救済活動に乗り出した。救済の中身は日日男子三合、女子二合五勺の割合で御救い米をあたえ、また味噌蔵をひらいて一人あたり味噌十匁を施与するといったもので、窮民たちは前途に不安を感じながらも、熱い粥と味噌汁をすすることが出来てひとまず安堵したのである。  このほかにも藩は、つのる寒気にそなえて着る物に事欠く困民には衣服もあたえた。こうしたこまかな手配は、一人でも餓死者を出してはならぬという、お館治憲の強い意志が反映されたというべきだろう。  この年の凶作で窮民たちの救済に用いた米穀は、御蔵籾一万四千俵、諸士備籾八百三十九俵、在郷備籾一万俵、義倉備籾一千俵、米に換算して計一万二千九百二十俵、これに酒田買入れ米九千五百七十五俵、越後買入れ米二千三十俵の計一万一千六百五俵を加えると、米は二万四千五百二十五俵に達した。このほかに、麦二万四千俵が加わる。しかし買米の資金がなお不足とみた藩は、町家物持ちに対して十四日、新たに一千両の御用金用立てを命じた。  こうした藩を挙げての凶作対策が一段落した十一月二十三日に、御小姓頭|莅戸《のぞき》善政が致仕した。 「本来なら美作さまが処分を受けられた直後に、それがしも職を退くべきでした」  と、致仕願いを出した善政は言った。 「お館さまもご承知のごとく、それがしは森平右衛門の悪政を排するために結束して以来の、美作さまの同盟者でござりました。しかるに、美作さまに罪を問われる行為があったとはいえ、ともに藩改革のためにはげまし合ってきたその人を、みずからが断罪の使者となって処分に追いこんだ事実は、私情を申しのべるようではありますが、いまなおわが胸を痛めて消えません。たとえお館さまのお叱りをうけようとも、職を賭してなおあのお方を弁護すべきではなかったかというのが、わが胸に去来する思いであります」  善政がきわめて率直な物言いをし、その中にわずかに自分につらい役目を命じた藩主を批判する気配をふくめたのを、治憲は黙って聞いていた。  それはそれとして、と善政は言った。 「美作さまが執政の座から去られたあとのわが藩の行方《ゆきかた》、かつは本年の産物大不作にかかわり合っている間に、それがしとしては思わぬ時が流れました。しかしながらそれも一段落したいま、なおも寵恩をたのんで栄職にとどまることは、九郎兵衛節操なきに似ると人が申しましょう。なにとぞ願いの筋をお聴きとどけいただきたく存じまする」 「やむを得んか」  と治憲は言った。事実、器量人の善政が申し立てた致仕願いの理屈は、治憲が慰留の言葉をかける余地のないほどに、理路整然としたものだった。そのうえ善政が退隠を願い出たのは、今度がはじめてではない。二年前の一月と十二月の二度にわたって致仕願いが出されていて、今回は三度目だった。  差し許すほかはあるまいと思うものの、治憲の気持はつい、りっぱすぎる申し立ての裏側に向いてしまう。そこにある善政の本音は何かと思うのだ。もちろん善政の申し立てが虚偽だという意味ではない。述べたような思いも、善政の真実の一部ではあるだろう。だがすべてではない。  ──九郎兵衛は……。  美作に対して義をつらぬくという建前もさることながら、見込みのない藩改革から逃げ出したくなったのではないか、と治憲は疑っている。  気持がそのように善政に対して批判的に動くのは、自分が疲れているせいに違いないと治憲は思った。泥沼のような改革や眼前にのしかかっている凶作の処理に疲れて、気持が寛容さを失っているのだ。治憲は、自分も善政とともに改革に見切りをつけて逃げ出したかった。それが出来たらどんなにか気持が楽になるだろう。  ──だが……。  逃げ出して、どこへ行くのだとも思った。安楽の地はどこにもない。  やむを得んの、と治憲はもう一度つぶやくと形を改めた。きっぱりと言った。 「このたびは、願いの儀を差し許す。長年にわたる勤め、なかでも藩政への格別の力入れ、ごくろうであった」 「もったいない仰せにござります」 「しかしこれで……」  治憲はこらえ切れずに言った。 「九郎兵衛もついに藩改革から逃げ出すことになったか」  黙然と、善政は目を伏せて坐っている。暫時して治憲は、ゆるせ、よしないことを申したと詫びた。 「このところ少少疲れておっての、正直のところ、隠居するそなたがうらやましかったのだ」 「いえ、仰せのとおりで、わが心中をかえりみれば改革に見切りをつけて逃げ出す気味合いがまったくないとは申せません」  と善政は言った。善政は伏せていた顔を上げた。 「ただ、このたびの不作で藩の借金はかさみ、改革はさらに後もどりいたしました。賽の河原でございます。この手詰まりの有様を目前にながめながら、それがしがおそばにいても何の役にも立ちません。無為無策にして高禄をむさぼるはよからず、とも思うものです」 「九郎兵衛、わしが申したことを気にするな。つい気が弱って、言わでものことを申したのだ」  善政は膝でうしろにさがると一礼し、お館さまと呼びかけた。 「隠居するそれがしがけなりい(うらやましい)とさきほど仰せられましたが、たとえ退隠しても所詮はこの国の中のこと、貧苦はただちにわが日日の暮らしにつきまとって参りましょう。それを思えば、いまはいかにおぼつかなくみえようとも、九郎兵衛の心中より、この国をしかと建て直す改革への思いが消えることはご座あるまいと思いまする」 「さようか。よく申した」  と治憲は言った。たとえ、一人残る自分をなぐさめるために言っているのだとしても、治憲は善政の言葉がうれしかった。 「そのほうが、そう申したことをおぼえておくぞ」  善政はうやうやしく一礼した。それで座を立つかと思ったら、善政は坐り直して、時にはと言った。 「時には手詰まりの渦中から身を退いて、大まかに全体のかたちを眺めることも必要ではないかと、それがし考えております。眺めてもたやすくよき思案がうかぶとは思えません。むしろ絶望いよいよ深まるばかりということもありましょう。しかし万が一、思わぬ活路を見出すことも、ないとは申せません。いずれにしても、おそばにいては日日の勤めに忙殺されて、よき考えもうかびませぬ」 「そのとおりだの、九郎兵衛」  と治憲は言った。微笑して善政を見た。 「退隠を許すゆえ、しばらくはのんびりしろ。そしてよき思案がまとまったら、いつでもわが前に来い」  善政が部屋を去ったあと、治憲は善政が言ったことを脳裏に呼びもどしながら思案した。善政にうまうまと嵌《は》められたような気もした。明日からは善政がいなくなると思う空虚感が、そのような不満な気持を呼び起こすようだった。  だが善政は竹俣美作にくらべると、複雑な男である。述べたことはそれぞれに真実だったに相違ない。改革をあきらめたわけではないという、最後の言葉もだ。またしても美作にくらべるなら、善政は粘りづよさで美作に勝る。その粘りづよさは、美作とはかたちの違う剛毅な気質というものであるように、治憲には思われた。  治憲は顔いろをやわらげて、煙草道具に手をのばした。打つべき手をすべて打ったが、それで凶作をしのぎ切ったのかどうかはわからなかった。結果が知れるのは来年である。そしてこのような眼前の危急をしのぐのに汲汲としている間に、善政が指摘するとおり、藩改革はむしろ後退した。  起死回生の改革策を提示出来るような人材は見あたらず、このような藩政の暗がりはなおつづくだろう。善政が三度目の退隠願いを言い出したとき、治憲はとっさにそう思いながら強い孤独感に襲われた。だが善政が去ったあとは、気持はむしろかすかな明るさを取りもどしている。善政が残して行ったあたたかみのせいだと思われた。  ──九郎兵衛は賢者なるかな。  と治憲は思った。治憲は右に竹俣当綱、左に莅戸善政という二人の家臣を両翼として、藩政を経営してきた。だが当綱は罪を得て去った。そして善政もいま当綱に殉じて去った。けれども、善政は言葉ではっきりとそう述べたわけではないにもかかわらず、致仕したあとも自分が治憲の片翼でありつづけることを暗示し、治憲に一人でも改革に立ちむかう気力を残して去ったのである。それが善政の行ったあとに残るあたたかみの正体だった。  善政の致仕にともなって、藩では跡取りの八郎|政以《まさもち》に二百石をあたえ、御中之間詰を命じた。善政にかわる御小姓頭には、侍組の香坂昌諄《こうさかしようじゆん》が就任した。大晦日に発令された人事である。  明けた天明四年正月元日の未明、寅ノ半刻(午前四時半ごろ)という時刻に、大殿重定が住む二ノ丸の御隠殿南山館が火事になった。火は御小姓頭詰之間から出火して、家中、町火消の働きで半刻(一時間)後には鎮火したものの、土蔵を残して御隠殿は残らず焼失した。重定と周囲の者は本丸に避難して無事だった。  南山館は贅をつくした建物である。藩はただちに新たな新隠殿の造営にとりかかったが、蔵元は南山館の焼失を二万両の損失と見積もり、不凶対策の出費と合わせてこの年の財政に、五万両の不足を来したと発表した。  天明四年は参勤上府の年になるので、治憲ははじめ三月二十七日に出発して、翌月六日桜田の江戸上屋敷に到着する予定で、その旨を幕府に届け出ていた。しかし出国直前の三月二十三日になって、治憲は幕府に脚気を理由に参府の延引願いを提出した。  この届出以後、治憲は二ノ丸南御殿にいる大殿重定をたずねるときも、わずか二町(百メートル強)ほどのところを駕籠に乗って行ったが、内実は仮病だった。  藩では前年の凶作はどうにかしのぎ切ったものの、その後始末というべき窮民の手当て、出金の求めに応じた町家への米返済といった行政事務が山積し、その一方で長い月日をかけてためこんだ備荒籾を放出した穴を、いかにして埋めるかなどといういそがしい問題も抱えていた。もちろんこうした政務の一切は、広居|忠起《ただおき》、毛利雅元の両執政を、老練の降旗忠陽、切れ者と言われる志賀祐親らの御中之間年寄が補佐して処理がすすめられている。  だが治憲の目から見ると、いまの執政府はよく奮闘はしているもののかつての竹俣当綱、莅戸善政という組み合わせが持っていた切れ味鋭い政策立案の才能と力強い指導力を欠き、時に右往左往するように見える。凶作という自然がもたらした難局が相手ということでは同情の余地があるものの、治憲はいささかこころもとない思いをすることがあった。  加えて今年の米の作柄はどうかという今日ただいまの心配がある。幕府に参府延引の願いを届け出た三月下旬の気候は、特に凶作を予想させるほどに悪いわけではなかった。だが雨の日が三日も四日もつづき、その中に尋常でない冷気がふくまれているように思われるときは、治憲の気持は凶作の再来を疑って鋭く尖った。  昨年の十一月、治憲は中条|与次《ともじ》(のち豊前)至資《よしすけ》を江戸家老に任命した。いずれ現在の江戸家老千坂清高を奉行に格上げして国元にもどし、執政府にいれる含みである。奉行三名が執政府を形づくるのが藩政本来の姿で、千坂が加われば合議体制はととのい、藩政の舵取りは力強いものになるだろう。いまの広居、毛利二者の協議にゆだねられている執政府の運営は、変形であるだけでなく舵取り役としては弱体をまぬがれないものだと治憲は考えていた。  弱体の執政府に錯綜する後始末をすべてゆだね、凶作再来の不安にも目をつぶって参府するのは無理がある、と治憲は考えたのである。せめて凶作の有無だけでもたしかめてから参勤の途につきたかった。脚気はそのために考え出した仮病である。その届出に義理を立てて、治憲は城内でも律儀に脚痛を装った。むろん幕閣を偽ることにまったく罪悪感がないわけではない。だが藩が凶作でつぶれても、誰も同情はしないのだと治憲は思っていた。肚はきまっていて、動揺することはなかった。  そして凶作の再来をおそれる治憲の憂慮は的を射て、今年も例年ならそろそろ梅雨明けの兆しが見えてくるはずの六月初旬になっても雨はやまなかった。いつやむとも知れないつめたい雨が、野と山とそして村村をおし包んで降りつづける光景は、次第に大凶作となった昨年の気候と酷似してきた。  六月十日に至って、治憲は法音寺ほかの寺僧たちに命じて、城内本丸の御堂、二ノ丸の春日神社、明神堂町に鎮座する白子神社の三カ社で五穀成就の祈祷を勤行させた。僧たちは御堂では三日三夜壇上に詰め切りで、春日、白子両社でも二夜三日の修法勤行を行なった。  治憲は十一日の明け六ツ(午前六時)にみずからも御堂に参詣し、五穀成就を祈願したあとで、付きしたがってきた奉行以下の家臣にむかって、つぎのように凶作に立ちむかう覚悟を披瀝した上で、この日から二夜三日の断食参籠を行なう旨を告げた。  去年は凶作に襲われたものの、領民は辛うじて飢餓を免れ、いまは今年の新穀の豊熟を待つのみという心境で日日を暮らしている。しかるに近ごろの気候の推移、作毛《さくもう》の有様にははなはだ心もとないものがあり、憂慮は深まるばかりである。  もし昨年に引きつづく凶作の再来となれば、領内十万の人命をいかに扶助いたしたらよかろうか。元来やりくりに苦しんでいる藩の勝手向きは、昨年の思わぬ出費もかさんで、とうてい窮民を救済する力を持たない。事態はせっぱつまっており、残るは神明の加護を祈る一事のみである。余は二夜三日の間断食して、ここ御堂に参籠することとした。奉行ら用事あるときは御堂に来るべし、というのがこのときの治憲の告知だった。  治憲の声音は静かだったが、家臣たちの肺腑に突きささった。家臣らは粛然とその告知を聞き、終ると争ってともに参籠することをねがい出た。  このときの断食参籠は、翌日になって治憲の身体を案じた大殿重定が、御堂に乗りこんできてみずから持参した粥をとるようにすすめたので、断食の方は一日一夜で中止された。しかし参籠はそのままつづけられて、その治憲の祈念が神に通じたか、あるいは寺僧たちの必死の修法が効験をもたらしたか、十一日はあるいは晴れ、あるいは降雨という天気に変り、十二日は朝から晴れ、午後は曇るという経過をたどったあと、御結願の十三日に至って、空は快晴となり天地に待望の暑気がみなぎった。  それだけでなく、夕方ちかくなると西南の山山の方角に高い夏雲がそびえ立ち、そこからのびる雲がにわかに領国を覆いつくして夕立の雨を降らせた。平野には殷殷と雷鳴がとどろきわたり、四半刻(三十分)足らずの間、雨はいっときは風までともなって稲田や村村をはげしく打ち叩いたが、騒がしい雨音がおさまり、雷雲が去って野に静寂がもどると、西空に低く懸かる夏の日が地上を照らした。  十三日の夕立を境に、領国は一転して晴天と暑熱にめぐまれ、田の稲は生色をとりもどした。その有様をみて人人は安堵し、ついこの間までの不安を忘れたかのように表情もあかるく振舞いはじめていたが、治憲の胸の中にはまだ強い危惧が残っていた。  いまはがらりと様相が変ったけれども、六月十日まで降りつづいた暗くつめたい雨には、まぎれもない凶作の顔が見えがくれしていたと思うのだ。禍禍《まがまが》しいそのものは、さっと身をかわすようにどこかに姿を隠してしまったが、その行方がどうなったかをたしかめるまでは、まだ安堵は出来ないと治憲は思っている。  六月末の二十七日になって、治憲は江戸屋敷を通じて、脚痛の回復がおもわしくないので、当月の参府も延引の許可を得たい旨、老中まで届け出た。そのついでに治憲は、昨年の大凶作に加え大炊頭《おおいのかみ》(重定)の住居が火災で焼失したので、何事もなくてもくるしい台所の事情がまことに窮迫してきた、ついては参勤御礼の登城の際に献じる恒例の贈り物のうち、将軍家、西丸の将軍世子方への御太刀、馬代白銀二十枚ずつはともかく、幕府諸役人への贈り物を、本年より戌年に至る七カ年の間、一格減じたいがいかがであろうかという伺い書を提出した。  内容は老中、水野忠之(老中格)、若年寄への金馬代(馬の代りに献上する金子。金一枚は七両二分)は従来通り、御側衆に対する銀馬代三枚(銀一枚は銀四十三匁)も従来通り。しかしそのほかの御奏者番、御留守居年寄、大目付、町奉行、御勘定奉行、御作事奉行、御普請奉行、百人組御頭、御目付に対しては、銀三枚を二枚とするなど、金額を一格減じたい、ただし年限明けにはすみやかに従前にもどすというものだった。  幕府と藩とのかかわり合いの中で、もっとも繁雑をきわめるのは礼物の贈答である。参府すれば参勤の御礼、帰国すれば在着の御礼として江戸城本丸、西丸へ礼物を献上するのが慣例である。ほかに年頭の祝賀、八朔の祝い、端午、重陽、歳暮といった四季恒例の献上品、領国の産物を毎月献上する月次《つきなみ》献上といったぐあいに、藩では目白押しの恒例献上物を捌《さば》かなければならない。またこれに対して、将軍家からはその折折に礼物下賜がある。  参勤御礼の献上品を一格引き下げるということは、これらおびただしい贈り物のやりとりの中のほんの一部のことである。だが毎年のこととなれば、それは無視出来ない金額になることはむろんのことだった。藩が凶作と火災を理由に、費用の減少を掛け合ったのは時宜をとらえた機敏な措置といえよう。  右の伺い書に対して、老中田沼意次から承知したという付け札がついた伺い書がもどされてきた。もともと貧乏藩で鳴る米沢藩に無理を言っても仕方ないと思ったか、許可が出るのははやかった。なおつけ加えれば、田沼意次は後世賄賂取りの親玉のような悪評を得たが、事実は幕府のしきたりである贈り物以上のものをもとめたことも、特に喜んだこともないのが真相だと言われる。  それはともかく、治憲は自分の胸の奥底に、誰にも、信頼する莅戸善政にさえ洩らしたことはないが、いつからか、一点かすかに幕府を軽んじる気持があることを承知していた。その気持は十八年間米沢藩主として江戸に参勤することを繰りかえしている間に、次第に形をととのえてきたもののように感じている。  日ごろ一汁一菜を用い、木綿着を着て平然としているように、治憲は元来が実質を重んじて虚飾をきらう気質の人間である。その治憲から言えば、天下国家のことにしろ、一藩のことにしろ、政治とはまず何よりも先に国民を富まし、かれらにしあわせな日日の暮らしをあたえることである。民の膏血をしぼり取って、その血でもって支配者側が安楽と暮らしの贅を購ったり、支配者の権威を重重しく飾り立てたりするためにあるものではない。幕府に経世の努力がないとは言わないが、幕府はその以前にあまりにも多くの精力を諸藩統治ということに傾け過ぎているように、治憲には思えてならなかった。  参府して、登城する日は、治憲は江戸城表御殿の大広間に着座する。大広間は外様の国持ち大名の控えの間で、島津、伊達、細川、毛利といった大身大名が多い。そこに十五万石の米沢藩が加わっているのは、元来の米沢三十万石の家格によってというよりも、さらにその以前の、いま以て本国越後と名乗る越後の旧太守上杉家の家格が生きているとみるのが正しかろう。  その席に坐って、季節によって定められている衣服に身をつつみ、島津、伊達などの大大名と肩をならべながら治憲が抱いた感想は、幕府の機構は、民を富ますことよりも礼儀三百威儀三千で諸侯を縛り、徳川将軍の権威と支配を維持するためにあるのではないかということだった。それは天下静謐のために必要な仕掛けかも知れないが、いかにも内容空疎なものだった。  実際に自身煩瑣な礼儀作法の中で進退しながら、治憲はしばしば、礼儀や威儀では一藩の民どころか、一村の村人の腹も満たすことは出来まいと思ったものである。それは儒教を論理ではなく実践の学問として説く細井平洲を師と仰ぐ治憲としてみれは、当然の感想だった。礼儀が不要だというのではない。ただ民の上に立つ為政者は、その前にやるべきことがあるのではないかと、貧しいわが藩をかえりみながら治憲は思うのだ。  たとえば高級家臣である侍組のある者は、荷橇《にぞり》をひいたあきらかに下級藩士とわかる者が、自分と雪道で出会ったのに道をあけなかった、あるいはべつの下級藩士が、|にぞ《ヽヽ》(藁で編んだ帽子)をかぶって顔をかくすこともせず、荷かけ縄一本で重荷を背負い、そういうおのが姿を恥じるどころか意気揚揚と町を歩いていたと、礼儀も武家の矜持も欠落したいまの世を怒り、嘆く。  しかしかつて細井平洲は、治憲に「管子」冒頭の牧民篇にある「倉廩実《そうりんみ》つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知り」という語句を指し示したことがある。治憲は、百姓が田畑でかぶる|にぞ《ヽヽ》をかぶり、暮らしのために重い荷を担いはこんでいる下級藩士を責めることは出来なかった。実際に治憲の側近第一にして小姓頭という重い職を勤めた莅戸善政さえ、家には床張りがなく、土間に敷物を敷いた部屋に寝ているのだ。それがこの国の貧しさだった。そのことを考えると、治憲はおのれの無力さにほとんど泣きたくなる。  そういう治憲からみると、幕府が張りめぐらしている礼儀三百威儀三千は、ただの虚礼の世界に過ぎなかった。虚礼だが、それは幕府の各藩統治にとって必要なものである。たとえば正月の年始の礼では、元旦に清水、田安、一橋の三卿は、御座の間上段に着座した将軍に下段で年始礼を行なう。徳川三家、加賀前田家、越前松平家は白書院で上段の将軍に下段から礼を述べる。しかるに外様国持ち大名は、二日に大広間に出てきた将軍に年始の礼をのべるのだ。基本の考えがそこにあるから、莫大な出費を強いることになる国役を命じるときも、幕府がそのためにくるしむ領民のために心を痛めることはない。  こういうことに考えをめぐらしているとき、治憲のこころは幕府から次第にはなれている。幕府よりわが藩大事と思い、そういう心情は少しずつ肥大して行くようだった。脚痛と偽って参府を遅らせ、凶作を理由に贈り物の軽減を掛け合い、あるときは微恙《びよう》を申し立てて登城を怠っても、治憲がさほど良心の咎めを感じないのはそのためである。  藩では八月に入って、長期の備荒穀物貯蓄計画を下命した。その内容はこの秋から二十カ年にわたって、籾米十五万三千四百二十八俵、麦六万二千百五十六俵を備蓄しようというもので、二十年としたのは昨年の家中借銭、中津川郷、小国郷などの凶作被害が大きかった土地の救郷銭、御救い米貸付けなどの返済期限を二十カ年としたためである。  昨年来の凶作は、大局的にみれは迅速な救荒対策が効を奏して、被害を最小限度に喰い止めることが出来たというものだったが、地域によってバラツキがあった。  たとえば下長井の南西、白川上流の山間にある中津川郷十四カ村の凶作被害ははなはだしく、藩の御救い米に頼る農家は全戸数の八割におよんだが、農民たちはそれだけでは暮らせず、暮らしの道具である鍋やお椀、桶、樽など、農具である鍬、鋸、馬の鞍などを質入れして餓えをしのぐ有様だった。  しかし日日の暮らしの窮迫はそれでも防ぎ切れずに、やがて雪も消えはじめようという春先になって続続と餓死する者が出た。餓死を免れた者も、あるいは他村に奉公に出、あるいは村を捨てて駆け落ちする者が多く、村村は荒れた。  救荒籾の備蓄は、このような貧窮農民をふたたび出さないために、早急に実行に移さなければならないものだった。  この手当てが終った九月中旬に、治憲は参府発向を前にして高家衆、侍頭、平分領家、御城代、奥取次、三手宰配頭、御中之間年寄にあてて、隠居退身の内意を示達した。理由は、幕府の普請手伝いが一両年中に命ぜられるのは必至の状況である。この普請役を勤めてから退身すれば、若殿治広の代になって間もなく重ねての普請役が回ってくるだろう。こうなっては家国相立ちがたしという有様になろうから、いまが退身の時節と判断したというものだった。  参勤出府を前にして、治憲は上級家臣、主な役持ち家臣を前に隠退の内意を洩らしたが、言ったことが治憲の真意のすべてではなかった。  大殿上杉重定は、小藩から養子に入って世子となり藩主となった治憲を、終始わが後継ぎとして礼をつくし、養子なるがゆえに隔てをおくような気配を一切示さなかった。これがひそかに乱舞狂いと謗られ、女子を愛し美食を好み、米沢一の浪費家、享楽家ともいうべき重定の半面だった。  しかしその重定も新しい年を迎えれば六十五歳になる。顔色には出さなくとも、血のつながる世子治広が藩主となる日を待ちわびているのではなかろうかと、治憲は養父の心のうちを推しはかってみる。出来れば重定がまだ元気なうちに藩主交代を実現し、重定をよろこばせてやるべきだった。治広はもう二十一歳で交代の時機は十分に熟している。  そういう思いがひんぱんに脳裏にうかぶようになったのは、必ずしも重定に対する孝養のためばかりとも言えなかった。治憲のこころの底にも、わが血筋をつぐ顕孝《あきたか》が、いつの日か米沢藩主の座にのぼるのを見たいものだという親としてみれば当然の願望がある。  顕孝はまだ九歳だが、二年前に治広の順養子にする願いが幕府に認められ、このときに幼名直丸を顕孝に改めた。去年には松平土佐守豊雍の姫と婚約がととのっている。子供の成長ははやい。顕孝にしても藩主の地位にふさわしい年齢などというものはあっという間にやって来るだろう。そのことも考慮にいれれば、治広に藩主の座を譲る時期ははやい方がいいと治憲は思っていた。  ──そして、首尾よく隠退が実現したあかつきには……。  この身は藩主としての内外にわたる煩瑣な実務から解放され、藩の建て直しに専念出来ることになるのではないかというのが、近ごろ治憲が胸中に描きはじめた考えだった。  致仕した莅戸善政が言い残したように、昨年の大凶作で藩改革はむしろ後もどりした。大凶作というものの、わずか一年のことで蓄えは尽き、山のような借金が残ったのである。米沢藩の国力はそれほどに脆弱なものだった。竹俣当綱も莅戸善政も去ったあとの、その脆弱な藩の面倒をみ、後もどりした改革を引きうける者は、残る自分しかおらぬと治憲は覚悟をきめていた。  ただしそうしたことが、藩主としての勤めの片手間に出来ることではないのは自明の事柄である。治広に藩主の座を譲り、幕政下の大名としての多岐にわたる勤めと交際、家中の賞罰、家家の家督相続といったこまごまとした藩政の実務をまかせてしまえば、隠退藩主として執政府を助け、あるいは彼らに示唆をあたえて、悔いが残らぬほどの力を藩の建て直しにそそぐことは可能になるのではないか。  参勤出府を前に、一部の家臣に隠退の内意を洩らしたあと、なおも胸の中に去来していたそういうもの思いは、十月十五日に江戸桜田屋敷に到着するまでには固まり、隠退の決心はゆるぎないものになった。  治憲は江戸屋敷到着の二日後は、江戸家老千坂与市清高を奉行職に命じ、十二月には国元の芋川屋敷に囲入れを命ぜられていた七家騒動の関係者、元芋川九兵衛正令、元平林|爰涼《えんりよう》正在、故須田伊豆満主の子ら図書、富弥、八十馬の囲入れを解いてそれぞれの一族に預け、また失脚して同じく芋川屋敷に囲入れを命ぜられていた竹俣美作当綱を芋川屋敷から出して、自宅囲入れとした。いずれも将来の藩人事をにらんで、自分がまだ藩主の座にいる間に布石を打ったという形の処置だった。  年明けた一月十八日に、治憲は御留守居高橋吉輔を幕閣の実力者である老中田沼意次の邸にやり、自身の隠居について内意をうかがわせるとともに、幕府に提出する願い書も意次に見せて意見を聞かせた。これに対し、意次からは翌日、万事これでよろしかろうという指図があった。治憲は前年十月に出府したものの、以来脚痛を理由に一度も登城せず、重要な年始の礼にも江戸家老中条至資が、名代として布衣を着て登城したほどだったので、意次の治憲隠居はやむを得まいという判断はおそらく早かったであろう。  この内意を得て、治憲は以後すみやかな隠退実現にむけて、もろもろの手続きをすすめて行った。一月二十一日には、江戸三屋敷に勤仕するすべての家中に、近ぢか幕府に隠居願いを出すので、以後は新藩主治広に奉公仕るべしとの布告を発した。また藩主交代時の慣例にもとづいて、国元の家老三名侍頭本庄弥次郎|精長《きよなが》、島津左京知忠、奉行広居図書忠起に出府を命じ、三人が出府した二十九日には、これに在府の奉行千坂与市清高、江戸家老中条豊前至資を加えた五家老の御目見の儀を執り行なった。  二月三日に、治憲は脚痛を理由に親族秋月山城守|種徳《たねのり》を頼んで、老中牧野越中守邸に隠居願いを提出した。その日、国元米沢でも家中一統にむけて、先月に江戸屋敷勤仕の家中に告知下命したものと同じ内容のことを告知せしめた。提出した隠居願いに対しては、二月六日に老中連署で、父子同道で登城すべきこと、治憲が病気で登城できないときは名代も可なりという告達があった。  翌日、治憲は再度秋月種徳を頼んで、治広と同道で登城させた。二人は白書院縁側に老中列座する中で、治憲の隠居と治広の家督を許す旨の将軍の下命を聞いた。台命を伝えたのは老中牧野越中守貞長で、この直後に、治憲は家督相続以来二十年に達しようとする藩主の座から解放されたのである。  治憲の隠居と治広の家督相続にともなう一連の手続きが済んで、慣例の藩主交代の盃事も終ったその夜、治憲はその日から桜田の江戸屋敷の主《あるじ》となった治広と改めて対面した。 「諸事障りなく相済み、祝着の至りに存じる」  治憲は新藩主をねぎらう口調でそう言ったが、すぐに本題に入った。 「しかしながら、中務どのの新藩主としての勤めはまさにこれからでござる。まことに大儀であるが大名としての外の勤めから、内は米沢の国守としての勤めまで、折角お働きいただかねばなりません。むかしは……」  治憲はきびしい表情を治広にむけた。 「大名は気楽なものでござったと申す。幕府と朋輩大名とのつき合いのほかは、国元のことはこころ利いた重臣たちにまかせて、それで事は済み申した。しかし近年は諸藩ともに財政のやりくりにくるしみ、なかなかそのようなぐあいにはいかぬのが実情、一歩運用をあやまれば国の破滅という有様で、国政も重臣まかせには出来ぬ。万事につけて藩主みずからがきびしく目をくばらねばならぬ世の中と相成った」 「そのことは折にふれてのお父上のお話によって、治広もいささか心得ておりまする」 「さようか。されば近年来のわが藩の苦境も中務どのはご承知のはず。何とぞ領民の暮らしに怠りなく目をむけ、執政、有司の相談にも乗って、国政に力をそそいでいただきたいものでござる」 「それにつきまして、治広、お父上にお願いの儀がございます」  新藩主は形を改めた。 「在府中の五家老衆からもお願い申し上げた由にござりますが、治広はいまだ若輩、危殆に瀕しているわが藩を預かって誤りなき政治をすすめるにははなはだ力不足と痛感いたしております。つきましては家老衆が申し上げたごとく、それがしが国主の座に馴れるまで、藩政においてはむろんのこと、幕府に対する勤めのあれこれにいたるまで、何とぞご後見の立場にて種種お指図をたまわりたく、お願い申し上げまする」 「そなたはもはや若輩ではない。隠居の指図などは無用と思って、ご自身が思うところを断固として行なってよろしいのだ」  治憲はぴしゃりと言ったが、すぐに新藩主に微笑をみせた。 「さように思うものだが、しかしわしにしても多年藩政の改革向上に取り組んで来たものの、政治は生き物、思うようには成功いたさなんだ。いま中務どのの前にある藩は、わしの力不足による悪しき遺産という趣がないわけではない。形は出来ておるものの産業は衰え、借財は大きく残った。これをそのまま手渡してうまくやれと申すのはいかにも気の毒な話である。隠居に出来ることは限りがあろうけれども、中務どのがさように申されるのであれば、およぶ限りは後見役を勤め、藩の建て直しに力を添えようかと思う」 「ありがたき仰せにござります。治広、数日来の胸のつかえが降りたごとき心地がいたします」 「さればと申して、わしに頼り切っては相成りませんぞ」  治憲は釘をさした。治憲は治広を藩の世子と定めたあとで、改革の同志木村高広を世子|傅役《もりやく》に任命した。治広、当時の喜平次|勝意《かつおき》は、心情はこまやかだが剛気に欠けるところがあった。その性格を矯《た》めて、将来の米沢藩主にふさわしいねばり強さ、物に屈することのないたくましい気性を養わせようとしたのだが、木村の起用は結局のところ裏目に出た。  木村は古武士さながらの厳格な男である。世子教育を重い任務とうけとめて、きびしく勝意の訓育にあたったが、そのきびしさは度を過ぎたものだったので、勝意はやがて悲鳴を上げた。木村高広の訓育には面《おもて》をそむけるようなはげしさがあった。そのことは、世子のお相手役としてそばに上がっていたわが子丈助を、世子に過ちがあるたびに代役としてはげしく叱責したので、丈助は才気にめぐまれた少年だったのに、心労のあまり病いを得てはやく死んだということでも知れよう。  みかねた周囲の者から、治憲に木村の傅育《ふいく》は厳酷に過ぎるという訴えがあったので、治憲が莅戸善政に命じて再三にわたり木村をなだめさせるということがあった。しかし木村が見抜いた性格の柔らかさは、成人した治広の中になお残っていると治憲はみていた。 「一日もはやく藩主の身分に慣れて、わしの申すことなど隠居のいらぬ差し出口と思うようになってもらいたいものじゃ」  心得ましてござります、そのように相成るべく努めますると治広は言った。あくまでも素直だった。その姿に、治憲は養い親としての喜びと同時にいちまつの不安も感じる。  もうひとつ、この機会にぜひとも申し伝えたいことがある、と言って治憲は懐から奉書紙の包みを出した。 「藩主となって心がけるべき、いまひとつの重大事がござる」 「いかなることでござりましょうや」 「佞言の者を近づけるべからず、ということでござる」  と治憲は言った。 「家中の中には、わが家わが身をかえりみず藩のために尽そうという者もいる」  そう言ったとき、治憲は胸のうちを師の藁科松伯、失脚した竹俣当綱、隠退した莅戸善政、そして不可解な自裁をとげた木村高広らの顔が、懐しく通りすぎるのを感じた。  不可解と言ったが、治憲は木村高広の自裁について、近年おぼろげに理解がとどくようになったのを感じている。木村は致仕したあとに自裁した。おそらく、と治憲は思いやる。木村高広は心血をそそいだ改革の停滞と世子傅育の失敗に絶望して死をえらんだのではないか。しかしこの考えは間違っているかも知れないとも思う。ひとの心中は測りがたい。 「しかしそのような無私の者たちは、じつはほんのひとにぎりしかおらぬ。多くの家臣はわが家の末長い保全とわが身の立身出世をもとめて、日日勤仕していると思わねばならない。それが人間の自然と申すものだ。しかしそのこころが行き過ぎれば佞言ともなる」 「………」 「藩主たる者は、そのような耳に快い言葉に惑わされることなく、つねに声なき声に耳を澄まし、あやまりなき政治を行なわなければなりませんぞ」 「声なき声と申されますと」 「民の声のことを申してござる」  と治憲は言った。 「さいわいにわが藩には、郷村出役と申して日常村に居住して村村の実情を見、村民の声に耳を傾けながら暮らしの向上に努めておる者たちがおる。この者たちを大切にされるとよい。彼らが声なき民の声を中務どのに聞かせるであろう」  治憲は奉書紙の包みから、書面を取り出して治広に示した。そしていま申したことを書き記したものであると言った。それはつぎのような文言だった。  一、国家は、先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべきものには無[#レ]之候、  一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無[#レ]之候、  一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には無[#レ]之候、  右三条、御遺念有間敷候事、  天明五巳年二月七日 [#地付き]治憲 華押    治広殿 机前  読み終った治広の顔が紅潮した。治広はなおも二度三度と丁寧に文面に目を走らせてから、顔を上げて治憲を見た。目に養父に対する畏敬の念があふれている。  書面を一度額までささげてから、治広は治憲に深深と礼をした。 「ありがたきご教訓をいただきました。治広、なにやら前途にすすむべき道を見出した心地がいたします。治広は果報者にござります。お教え、拳拳服膺して藩主として道をあやまらぬように心がけまする」 「さようか。それはありがたい」  と治憲は言った。  治広を世子に迎えたとき、治憲がもっとも懸念したことは、治広が二ノ丸御殿の贅沢な環境の中で自由奔放に育ち、民のくるしみを知らないどころか、長上に対する礼儀作法すらわきまえていないように思われることだった。  さきに焼失した二ノ丸御殿南山館の主である大殿重定に対して、治憲はわが身の費用を削っても、のぞむところの贅沢をかなえてきた。しかしその放恣な暮らしぶりは重定の四男である治広にも、悪しき影響をおよぼしたことをみとめざるを得ない。だから治憲は、世子の近臣と定めた者たちに、くり返し治広にうやうやしく人にへりくだるという一事を教えこむように指示し、さらに木村高広を傅育の係に任命して世子教育に力をいれたのであった。  さいわいに治広は性格が率直だったので、次第に周囲の意見をいれて、藩世子としてはずかしからぬ人間となった。しかし人君にして民の暮らしのせつなさに思いをいたすことが出来る者は少ない、と治憲は思う。  藩校興譲館の再建にあたって、治憲の学問の師細井平洲は藩重臣たちに対し、君主の子にしろ、藩重臣の子弟にしろ、襁褓《むつき》のころからまわりにかしずかれ、阿諛迎合のことばに馴れて育った者に世態人情の真実を悟れる道理がなく、成長するにしたがって心中に驕傲の思いがつのるのはきわめて自然なことだ、と高貴な家柄の者が持つ欠陥を鋭く指摘し、為政者は驕慢を排して謙譲のこころを養わなければならないと説いた。  人民のこころを知らず、また知ろうともせずに驕りたかぶったこころのままに強権をふるう政治ほど、治憲の政治理念と真向から対立するものはない。治広に驕傲の気持があるとは思わないが、また新藩主に人民のこころを知ろうとする気持が強いとも思われない。そこが残るいちまつの不安だった。  治広に示した三カ条は、治広の世子教育に通底していた考えを、藩主の立場に置きかえて示したというようなものだったが、ここには治憲の一歩も譲ることが出来ない政治理念が示されている。文言にこめた有無を言わせぬというほどの気迫を、治広は受け取ったろうかと思いながら、治憲はまだ感激さめやらずという顔でいる新藩主を見つめた。  しかし治広はこの三カ条をよく守り、次代藩主斉定に手渡した。これが「伝国の辞」と呼ばれ、代代の米沢藩主に伝えられて藩政の根本理念となった治憲の遺訓である。  藩主交代により、以後治憲を中殿様と称することが決まり、また幕府に願いを上げて治憲はこれまでの弾正|大弼《だいひつ》に代えて越前守と名乗ることになった。そしてその月の二十七日に、かねて父子で打ち合わせたように、治広から幕府に隠居治憲の二十カ月の御暇を願い出た。名目は脚痛を治療するために領国の赤湯温泉で湯治をさせたいというものだった。  しかし事実は、治憲はこのたび帰国すれば、ふたたび出府することはないだろうと考えて、青山長者丸にある秋月藩下屋敷に、実父の秋月種美をたずねたり、芝白金の藩屋敷に治広夫人、子息の久千代をたずねたりしてひそかに親戚、血縁との暇乞いを済ませていた。幕府の許しが出て、江戸を出発したのが三月十九日、米沢到着は二十六日だった。  出府するときは藩主として、帰りは隠居としての帰国だったが、藩政の実権はまだ治憲の手の中にあった。そして託されたその権能は、治憲が当初考えていたものよりも大きかった。  治広に後見を頼まれたというだけではなかった。その前に打ちそろって拝謁をもとめてきた在府の五家老、いまの藩で自分もそう思い、他人からも実力者とみとめられている男たちが、治広の後見役とこれまでと変りない藩政への目配りを要請した上に、口をそろえて、この要請はわれらだけの私案にあらず、近年来のきびしい藩情勢にかんがみて君を措《お》いてよく藩を支え得る人はあらじというのが、家中こぞって言いもし、かつ念じてもいる一項であると言ったのである。      三十  治憲は軽軽と馬を走らせていた。お供はただ一騎、御側役と御手水番を兼ねる浅間|登理《とうり》忠房だけだった。その身軽さがなんとも快い。  ──隠居するとこういうたのしみもあるか。  と治憲は馬上で思っている。  藩主でいる間はただ一人の供を連れて馬をとばすなどということは思いもよらないことだった。外に出るときはいつも暑くるしく供奉の者に取りまかれて移動した。いまは日番出勤の執政に、口上で行先をとどけておけば足りる。咎める者は誰もなく、城門の番仕も親しみのこもった目で治憲を仰ぎ、無言で礼をするだけである。  治憲は剣、弓、馬術とひと通りの武術の心得があるが、中でも馬術にもっともすぐれた才能を示した。巧みに馬をあやつる。そのために御側役の浅間忠房は少し遅れていた。治憲は馬を並足《なみあし》にもどして忠房を待った。 「疲れたかの」  忠房が追いつくと、治憲は声をかけていたわった。忠房は治憲より四歳ほど齢上のはずである。いえ、遅れまして申しわけございませんと忠房は言った。 「疲れはいたしませんが、中殿さまの御馬が速すぎますので」 「目ざすあたりは間もなくじゃ。このままで行こうか」  と治憲が言い、主従はゆるやかに馬をすすめた。  二人は城門を出ると、大町の札の辻(高札場)から道を南にとり、そのむかし帰農した少禄の家臣いわゆる原方衆が住む猪苗代町の背後を通りぬけ、笹野観音を目ざしていた。といっても観音さまにお参りするのが目的ではない。  笹野観音と通称される観音さまは笹野山の南麓にある真言宗の寺院、長命山幸徳院の本尊である千手観音のことで、領内外の信仰をあつめているその観音さまは十七日が祭礼である。そういうときに突然たずねて寺僧たちをおどろかす気はなかった。城外に出てきた目的はほかにある。  二人がたどっている道は会津街道で、そのまま南下すれば綱木峠、檜原《ひばら》峠を経て会津領檜原村に達する。しかし正面には吾妻山、大日嶽、西吾妻山とつらなる国境の連峰がそびえたち、峠は青青とした山肌にかくれて見えなかった。 「このへんでよいか」  治憲は半ばひとりごとのように言って、馬をとめた。場所は笹野村にかなり入りこんだあたりである。前方に笹野山をその中にふくむ小高い丘陵とひとかたまりの村落が見えた。丘も村も緑に取りかこまれ、村ははげしく繁茂する緑の木木に埋もれてしまいそうに見える。丘のふもとにあるはずの観音堂は、そこからは見えなかった。  すずしい風が稲田をわたってきて、汗ばんだ馬上の二人を吹きすぎた。 「今日は三日か」 「さようでございます」  と忠房が答えた。六月三日はそろそろ梅雨が明ける時期ではあるが、照りつける午後の日差しは梅雨の晴れ間にしては暑すぎて、このまま梅雨明けになるのかとも思わせる。  だが視界をさえぎっている吾妻の連峰は、山襞から昨日の雨の名残りと思われる雲を吐き出していた。うすい雲はところどころでちぎれながら、ゆっくりと緑の山肌を這いまわっている。その上に高い空をわたる雲の塊が時どき影をおとすと、地上の風景は急にくらくなって、たちまちつい数日前まで降りつづいた雨を思い出させた。梅雨が明けるには、もうしばらく間があるのかも知れなかった。 「今年の作柄はどうかの」  治憲は馬上で身をよじって、丘陵ぞいに笹野村から北の古志田村の方角にひろがる稲田を見ながら言った。田のあちこちに、深く腰を曲げて草取りをしている村人の姿が見える。  さて、と忠房は首をかしげた。稲は見たところ葉の緑も濃く、背丈ものびて順調に育っているように見える。忠房が馬を降りて街道わきの田のへりにしゃがんだので、治憲もそれにならった。 「虫もつかず、うまく生育しているように見えますが、素人にはそれ以上のことはわかりません」  どれどれと言って治憲も馬を降り、忠房のそばにしゃがんで稲の葉に手をのばした。ざらりとした、へたに手の中でしごいたりすると皮膚を切りそうな強健な葉の感触が伝わってくる。城内の神神にそなえるため、秋の収穫後の黄熟した稲束には手を触れているが、出穂前の稲そのものにさわったのははじめてだった。  ふと、祈る気持が胸の中を走りすぎた。豊作であってくれればよい、と治憲は思った。去年は前半の天候不順がたたって、稲の実入りはわるく不作だった。治憲が隠居をいそいだ理由の中に、そのこともなかったとは言えない。二年前の大凶作以来、治憲のこころの底には天候に対する強い警戒心が残っている。凶作のおそれはまだ去ってはいないと思うのだ。出来れば常時国元にいて、災いの兆しが見えたときはただちに対処したかった。 「暫時お待ちくだされ。あそこにいる百姓に聞いてまいりましょう」  稲の葉をにぎって深刻な顔をしている治憲を見て、忠房は主人がまだ作柄を案じていると思ったらしい。そう言いのこすと軽い足どりで田の畦を伝い、田草取りの村人に近づいて行った。いかにも鄙《ひな》の人間らしい、訛《なまり》のつよい大声の農夫としばらく問答をかわしてから、忠房はもどってきた。 「これからの日の照りぐあいにもよりますが……」  忠房はすぐに言った。 「去年のような不作はまずあるまいと申しております」 「そうか。それはよかった」 「ここまでの稲の育ちは、例年になくよいとも申しました」 「や、よくわかった。大儀だった」  治憲は忠房をいたわると馬にもどった。そしてぼちぼちと帰るかと言った。治憲の胸に城を出るときはなかった安堵感が腰を据えている。今日は田圃を見て来ようと思って、遠乗りに出たのだ。その目的は達せられたようである。  為政者にとっても、農民にとっても、米の平年作以上の収穫がすべての基礎だった。その土台がゆらいでいては産業の振興などということをとなえても徒花《あだばな》である。一昨年の大凶作は、そのことを為政者側に骨の髄まで知らしめた事件だった。大凶作までいかなくとも、不作の年に農民の尻をたたいて年貢を掻きあつめるのはつらい仕事である。年貢の減免といっても限りがあり、農民に情けをかけすぎれば今度は藩政の運営が成り立たなくなる。  ──為政者というものは……。  と治憲は思った。いつもその兼ね合いにくるしまなければならない。というよりもくるしむべきだった。農民の痛みに無関心な為政者はろくなものではない。治広に書き遺したことも、つまりはそういうことだ。  そう思ったとき、治憲は脳裏にふと一人の人物の姿がうかび上がるのを感じた。もっとも、その人に治憲はこれまで会ったことがない。ただ大名間で評判の人物なので、一度も会っていないにもかかわらず漠然と容姿まで思い描くことが出来る。  ──あの方も、いまごろはやはり稲の育ちぐあいを気にかけているだろうか。  と治憲は思った。忠房、と治憲は言った。 「今度の帰国の途中、白河侯がご書簡を寄せてこられたのをおぼえておるか」 「もちろん、しかと記憶いたしております」  と忠房が答えた。  白河城下を通過したときに、藩主松平定信が慣例のごとく手紙にそば粉一箱をそえて持たせた使者をよこした。ところが今度の書簡は定信自身の手書きで、文面はつぎのようなものだった。つねづねご美名相慕い謁見を願いおり候ところ、ふとご譲封ご帰国の由、ご縁の薄き、志願の空しくまことに一生の残念に御座候、この上はよくご自愛なられ候よう存じ奉り候。  そのとき治憲は恐縮して答礼の使者を送ったのだが、思いがけない人に突然に過剰な親近感とも思える心情を打ち明けられた違和感が残った。その気持はまだすっきりと消えたわけではない。 「そのときの侯のご書簡はそなたにも見せたはずだが、感想は聞かなかった。あのおり、そなたはどのように思ったかの」 「中殿さまは、白河侯とお会いしたことはござりましょうか」 「一度もない。参勤の年次が異るゆえ、その機会がなかった」 「ははあ、それであのように申されたのでござりますな」  と忠房は言ったが、すぐに言葉をつづけた。 「白河侯は賢君の聞こえ高いお方で、藩はよくおさまって一昨年の大凶作にも一人の死者も出さなかったと承っております。わが中殿さまも多年藩改革に取り組まれて、この言い方はおそらく中殿さまには面映ゆく、またごめいわくとも思われましょうが、その名君ぶりは諸侯の間にて賞賛されております。おそらくその親近感があのご書簡となったものと拝察いたしました」 「それだけか」 「いえ、しかしながらあのとき、受けとられた中殿さまの方にはいささかとまどいがあられたのではなかろうかとも拝察つかまつりました」 「………」 「忠房、言い過ぎでござりましょうか」  浅間忠房は明和八年に竹俣当綱の推挙で治憲の小姓となった。以来十五年も治憲のそばに仕えている。二人はいわゆる気心の知れた主従だった。 「いや、かまわん。つづけてよいぞ」 「ではお許しを頂いて申し上げますが、おそれながら白河侯と中殿さまのお二方はいささか人間の肌合いが異るように拝察いたします。それが中殿さまのとまどわれた原因ではなかったでしょうか」 「………」 「もっと申し上げてよろしいでしょうか。それともこのへんでやめといたしましょうか」 「忠房、前に出て馬をならべろ」  と治憲は言った。帰りをいそぐ必要はなく、二人は並足で馬をすすめていた。笹野村の田圃は次第にうしろに遠ざかり、原方衆が住むひらべったい町が近づいてきた。日はまだ高く、暑かった。笠をかぶっていなかったら、主従ともに頭から灼かれたろう。 「おもしろいの。考えていることを残らず言え」 「白河侯は貴人にござります」  と忠房が言った。声は左の斜めうしろから聞こえる。  浅間忠房は、はじめて米沢に招かれた細井平洲が、松桜館に滞在して藩の子弟を教えたとき、二十人の学生のうち学力第一等と称された秀才である。忠房の言う貴人が、平洲の「建学大意」に述べられている高位貴人を指していることは明瞭だった。暗に民のこころを読むことにおいて、治憲にかなうはずがないと言ったのだ。松平定信は三卿の筆頭田安宗武の七男で、八代将軍吉宗の孫である。貴人中の貴人だった。 「いまひとつ、中殿さまと異るところは、白河侯は天下に志があると、もっぱらうわさされている点にござります」  と忠房が言った。  八代将軍吉宗は米将軍といわれた。寛文六年に制定した「諸国山川掟《しよこくさんせんのおきて》」を廃して新田開発を奨励し、これまでの検見法《けみほう》に変えて定免法《じようめんほう》を採用し、毎年一定量の年貢が収納出来るようにした。  ただし定免法採用を理由に、年貢の収公率を上げたので、前代の正徳期ごろには三公七民にも達しなかった年貢が、吉宗の時代には五公五民となり、これはのちに享保末期以降に諸国一揆が多発する原因となった。年貢増徴策は、畑作物を対象とする畑地年貢、三分一銀納法《さんぶいちぎんのうほう》にも適用された。三分一銀納法というのは、米作不可能な畑地を三分の一とみなし、この耕地面積で収穫出来る米の量を算定して、実際にはこれを換金畑作物から得られる銀に換算し収めさせるもので、このような一連の年貢増徴策は、逼迫している幕府財政を救済するためにとられた措置である。  しかしせっかく新田を開発し、収公率を上げて年貢米を掻きあつめても、米の値段が下がっては何にもならない。米で衣食をまかなう武士の暮らしは、たちまち影響をうけてくるしくなる。そこで吉宗は米価の安定策にまで手を出さざるを得なかった。  吉宗以前は米の値段が高かったので、幕府は商人が先の値上がりを見越して米を買い溜めることを不実商《ふじつあきな》いとしてきびしく取締った。しかし米価が安くなった享保期には、不実商いは歓迎すべきものとなったのである。吉宗は延米《のべまい》取引きを公認し、大坂の堂島に米市場をもうけて米の延取引きを行なわせた。  それだけではない。酒造制限を解いて、酒つくりを奨励し、商人たちに半ば強制的に米を買入れさせ、幕府自身も加賀藩から十五万両もの借金をして市中米を買いあつめた。その上諸国大名たちにも、指示があり次第米を買入れる用意をするように命じている。幕府の権威を総動員して米価の釣り上げと安定に立ちむかったというべきで、米将軍の渾名は故のないことではない。  しかし米相場ほど不安定でとらえがたいものはない。吉宗の苦心の政策にもかかわらず、享保十七年に西国を中心に蝗《いなご》の害による大凶作が起きると、米の値段はたちまち高騰した。このために江戸では打毀《うちこわ》しが起きて、幕府の命令で米を買いしめていた商人高間伝兵衛の店は、江戸市民千七百人の襲撃をうけた。打毀しは徹底していて、家屋、家財、帳簿類一切を川に投げこんだという。しかしその翌年から二年間は、今度は大豊作がやってきて、吉宗はまたしても米価釣り上げに奔走しなければならなかった。  この米の値段とのたたかいは、とどのつまり、吉宗自身が嫌いぬいた貨幣改鋳によって、世に流通する貨幣の量をふやすことで一段落したのだが、このような吉宗の米に執着した政策は、視野に何をいれていたのであろうか。  言うまでもなく武士階級の優位を維持するということである。武家奉公に対する報酬は、扶持米取り、あるいは禄高何百石というように、収入となる米の量で示される。幕府の直参である旗本、御家人も、地方諸藩の家臣も基本的には同じ仕組みで、彼らは一部を日日の食用に、一部を換金して衣服その他生活に必要なものをもとめる費用とした。こういう雑用を武士にかわって代行したのが地方では米商人、江戸では札差で、江戸の札差は台所のくるしい直参に対して、あずかる米を担保にして金を貸しつけた。  幕府がくりかえし発令する倹約令にもかかわらず、元禄ごろから目立ってきた消費拡大の傾向は、都市から地方へ、商家から武家、農民へと滲透して、これまでの米を中心にした武家政治の基本の姿を破壊しかねないところまで来ていた。購買意欲をそそる商品はふえつづけ、贅沢な暮らしをおぼえた人人はやがて暮らしの金に困るようになる。  こういう世の動きの中で、米は置き去りにされようとしていた。消費物資が少なく、暮らしが質素だった時代には、生活の基礎は米にあって米の値段に消費物資の値段が追随した。それで米で暮らす武家も農民も一応は安泰で、世の中はまるくおさまっていた。  ところがいつからか米の値段が下がっても、そのほかの物の値段は高いままでつづくという現象があらわれるようになった。値段が高くとも買うことが出来る富裕な客層がふえてきたということでもあり、また高い金を払っても買う気をおこさせる魅力のある商品がふえてきたということでもあったろう。  そして物を動かし、物を売るのは商人である。富がそこにあつまるのは当然の成行きであった。そのような新興の商人が出はじめたのが元禄のころからである。しかし吉宗が将軍職をつぐころに世の中の富を独占しようとしていた富商たちは、財力を誇示しかつ享楽的だった元禄商人たちとも、また徳川政権の草創期に、徳川家の覇権確立に深くかかわり合った伝説的な豪商たちとも、いささか性格を異にしていた。  かれらは何よりも富の確保に堅実だった。そのためには多分に禁欲的ですらあった。そして富の運用にあたって、たとえば幕府や諸藩の御用商人的な役割をつとめたとしても、必ず対価を取った。  このようにして世の中の富は、商人という一階級が独占するとまではいわなくとも、その場所に集中して蓄積されつつあって、米中心の経済に頼らざるを得ないために、相対的に財力の低下をきたしている武家社会と、その支配の体制は、商人が持つ富に頼らなければ何事もすすまぬという時代を迎えつつあったのである。  吉宗が米の権威を確立するために、あらゆる手段をつくして奮闘したのは、消費物資をにぎる商人中心にかたむきつつある世の中を、米中心の経済にひきもどして武家の権威を世に明示しようと考えたからにほかならない。政治の形は一種の農本主義だが、吉宗の目の中には農民の姿はなく、五代将軍綱吉が民は国の本なりと宣言したような農民保護の観点は皆無だった。農民をしぼれるだけしぼるというむかしながらの思想があるだけである。政権末期から農民一揆が多発したのは当然の成行きというべきだろう。  将軍職をついでから七年目の享保七年、吉宗は破滅に瀕している幕府の財政を救うために、万石以上の諸国大名に対して、石高一万石につき百石の上げ米の上納を命じた。その代償として参勤交代の在府期間を半分にするという条件を提示した上での頼みである。  しかし参勤交代は、幕府の対諸藩政策の根幹をなす制度である。諸大名が献じる上げ米は年間十八万七千石ほどになり、疲弊し切った幕府の財政をうるおしつつあったが、これによる幕府の、ひいては将軍家の威信の低下はまぎれもなかった。背に腹はかえられずに取った措置だったが、吉宗は胸のうちの屈辱をぬぐえなかったろう。  上げ米制度を採用してから六年後の享保十三年に至って、吉宗は六十五年間にわたって財政悪化を理由に取りやめていた日光社参を行なった。日光社参は将軍を中心に諸大名、旗本が厚く供奉して日光の東照宮まで行軍する準軍事的な催しである。出費は多大だが、将軍家の威信を取りもどすには、この上ない行事でもあった。  次いでその翌翌年、享保十五年には上げ米を停止した。参勤の在府期間をただちにもとにもどしたことはいうまでもない。こうした将軍、幕府の権威強化、あるいは復活と直接の関係はないが、吉宗は将軍職をついだ翌年に、さっそくに生類憐れみの令以来ながく停止されていた鷹狩りを再開し、また文化的に傾きすぎた前代の武家諸法度を旧にもどしている。いずれも武家の権威を高めるための、武威を張った措置といえよう。一連の米対策の中で、吉宗は大商人たちの財力を利用せざるを得なかったが、その政策の基本は武士階級と隠然たる実力をたくわえつつあった商人階級との間に、強く一線をひくことにあった。  しかしつぎの時代の実力者老中田沼意次は、吉宗がこだわったようには商人階級にへだてをおかなかった。むしろかれらが持つ財力を積極的に政治に利用しようとした。  意次が九代家重の時代を経て、十代将軍家治治政下の老中として行政的な手腕をふるうようになっても、やったことは吉宗時代の政策の踏襲とみられるものも少なくない。たとえば倹約令の発布、荒地開発、貨幣改鋳といったようなことだが、しかしこれらの政策は、この時代に政策をすすめるためには誰がやってもある程度は同じようなことにならざるを得なかったということでもあったろう。  だが意次は、吉宗がやらなかったことにも手をつけた。下総国の印旛沼、手賀沼の干拓は、吉宗が手をつけ、財政事情が行きづまって放棄した事業である。意次は行きづまりが幕府の出費でやったがために起こったことを見抜き、これを町人請負いの形で再度とり上げた。干拓を請負ったのは大坂の富商天王寺屋藤八郎、江戸の長谷川新五郎である。  事業そのものは、このあと天明六年に起きた大洪水による利根川決潰で挫折するけれども、町人の財力を利用した請負い開発は、意次の体面にこだわらない柔軟な行政ぶりを物語るものであったろう。  また意次の時代に株仲間(株によって同業者の数を制限するためにつくった組合)の公認が急増し、株仲間の公認は商人の利益保護につながる制度であるために、意次と商人たちとの癒着、ひいては収賄がうわさされたけれども、意次は意次で株仲間から上がる運上金、冥加金を、幕府財政をささえる重要な経済政策のひとつとして考えていたのであろう。意次は経済政策にあかるく、政策の実行にあたっては果断なところがあった。  運上金の吸い上げだけにあきたらず、のちに意次は貸金会所というものまでつくろうとした。全国の寺社、百姓、町人から出資金をつのり、これに幕府の出資金も加えて官制の金貸し機関をつくり、大名に貸しつけようとしたもので、意次が失脚したために日の目を見なかったが、目のつけどころは卓抜で、またきわめて商人的でもある。  同じく失脚によって実現しなかったが、意次は蝦夷地の大開発とここを足場にした開国貿易を考えていたとも言われ、政権末期にはその調査に着手していた。長崎貿易にも力をいれ、俵物輸出の増加で成功をおさめていただけに、田沼意次の積極的な経済政策は、政権が持続すれば以後のわが国の経済、外交に特筆すべき展開をもたらした可能性がある。  しかしこうした田沼意次の一連の政策をひややかな目で見まもっている一群の人人がいた。松平定信と、かれを中心とする定信が心友と呼んだ大名たちである。本多|忠籌《ただかず》(泉藩主)、松平|信明《のぶあきら》(吉田藩主)、松平信道(亀山藩主)、戸田氏教(大垣藩主)らがそれで、かれらは定信の田沼政治批判に同調して、会うたびにあるべき政治の姿を語りあって激論をくりかえしていた。  田沼意次の政治は、経済重視の政策を基本とするために、どうしても有力商人との密着したつながりを特色とせざるを得ないものである。そのために田沼が打ち出す政策は、定信らには将軍吉宗がせっかく商人階級の手から取りもどそうとした武家の権威、威信を、ふたたびなしくずしに崩壊させるものと見えたに違いない。  加えて田沼政権にとって不運だったのは、意次が幕政で力をふるいはじめた明和末年ごろから天変地変が多発したことである。明和九年の江戸大火は人災だったが、江戸を丸焼けにした。大名の藩邸千五百、旗本屋敷千七百、江戸の町六百二十八町が焼け、死者行方不明者は一万八千七百人、怪我人は六千百六十一人におよぶという大災害だった。  安永七年には伊豆大島の三原山、翌八年には鹿児島の桜島が大噴火を起こし、このときは一万六千人の死者を出した。そして天明三年にいたって浅間山が爆発し、この爆発はつづく奥州、北陸の大飢饉の遠因となったとも言われた。飢饉による死者は十三万人である。  こうした災害の多発は、意次の積極的な経済政策の効果をいちじるしく殺《そ》ぎ、たとえば大洪水によって印旛沼、手賀沼の干拓が失敗したように、時には政治的な努力を台なしにした。そして天変地変が意次のせいで起きたわけでないことはあきらかであっても、大災害がもたらす世情不安の中で、人人はそれがあたかも実力者意次の不徳と失政がもたらしたものであるかのように思いはじめるのである。  そして、そういう風潮を助長したものに、不確かなしかし根づよい収賄のうわさがあった。だが権力者への過剰な接近、つけとどけの習慣は意次以前からあった現象で、また意次が格別に賄賂をよろこんだという証拠はないとも言われる。  しかしこうしたことをふくめて、松平定信を中心とする譜代大名の一派は、それが災害のためであれ何であれ意次が政治的な失策を重ねるさまをじっと凝視していたのである。意次の政策が方法こそ異るものの、吉宗が腐心した幕府財政の確立にあることがあきらかであるにもかかわらずである。  意次の父意行は紀州藩の足軽だったが、吉宗が将軍となって江戸に入るときに随行し、用いられて直参となり最後は御小納戸頭取をつとめて六百石の知行地をあたえられた。意次の出自がそういうものであることに対しても、譜代にして門閥大名でもある定信らの視線はつめたかったであろう。成り上がり者が天下の政治を左右していると思わなかったろうか。  江戸城内のこのような政争の動きは、いつとはなく外に洩れるものである。述べたようなことは登城出仕のときにも治憲の耳に入ってきたが、また一部は高橋吉輔ら御留守居の役目の者からもたらされることもあった。御留守居は藩のもっとも先端ではたらく外交官であり、そうした今日ただいまの情勢にうといようでは勤まらないのである。 「白河侯は、いずれ幕閣に乗りこんで田沼さまにとってかわられ、天下を料理するつもりではあるまいかと申す者もおります」  と浅間忠房が言った。 「その御志には深甚の敬意をささげるものですが、それにつけてもわが中殿がそのような御志を持たれないのはさいわいだったと、われらは語り合っております」 「は、は。わしにはそんな器量はない」  と治憲は笑ったが、背後の忠房ははたしてそうでしょうかと言った。振りむくと、忠房は馬上で首をかしげている。 「ご器量だけのことなら、僭越ながら白河侯といずれかと、われらは思うものですが……」 「身びいきもほどほどにいたせ」  治憲はあきれて叱ったが、忠房はまだ何かを考えている様子で、はきとした返事をしなかった。  白河侯が田沼意次にかわって政権をにぎることに野心を燃やしているのは、ほかにも理由がある、と治憲は思っていた。  安永三年に病弱だった田安|治察《はるあき》が病死したとき、子供がいなかったために田安家は家名断絶の危機をむかえた。そしてその数カ月前に、家に残っていた七男の定信は、白河藩主松平定邦の養子になっていた。田安家では治察の病弱を心配して、いざという場合は定信に家督をつがせたいと思っていたのでこの養子話に強く反対したのに、最後は将軍命令で定信は強引に田安家から外に出されてしまった。そのあとに起きた田安家長男治察の死去である。  背後にわが子家斉を将軍継嗣に推したい一橋|治済《はるさだ》と、時の権力者田沼意次の結託があるといううわさがささやかれた。田安家は、一橋家、清水家を加えた三卿の筆頭であり、田安家の当主は将軍継嗣にもっとも近い人物であることは言うまでもない。一橋治済と意次は、万一の場合英才のうわさが高い定信が、田安家から将軍職をつぐことをおそれて手を結んだのだというのが、ささやかれている中身だった。事実そのときの養子縁組は、老中がすすめ、大奥がすすめて異様な雰囲気のもとにまとまったものであるらしかった。  白河侯には、田沼に対する私怨がある。しかし忠房もそこまでは知るまいと治憲が思ったとき、また背後から忠房がよろしゅうございましょうかと言った。ようやく考えがまとまったらしかった。 「ご器量だけのことでありますならば、中殿さまは白河侯におくれをとられることはござりますまい。しかしながら、ご性格として、中殿さまは天下のことにはさほど関心を抱かれない。お考えは華美をきらい、きわめて堅実。はじめに人間の肌合いが異ると、僭越をかえりみず申し上げたのは、そのことでござります。そのことを、われわれはわが藩のためにこの上なくよろこぶものであることを申し上げたく、今日はあえてかずかずのご無礼を申しました。おゆるしください」  馬が原方衆の町を過ぎて町人まちにさしかかったので、二人は口をつぐんだ。日暮れちかい町通りに、馬のひづめの音が軽快にひびいた。日がな一日町の上に日が照りわたって、道が乾いているせいだろう。  ──忠房は……。  さすがによくみておる、と治憲は思った。わが主《あるじ》大事の身びいきな評価はともかく、治憲に天下に対する興味はないという指摘は、まったくそのとおりだった。上杉は外様であり、幕閣入りして天下の経営に参加するということは起こり得ないが、かりに治憲が譜代藩主だとしても、みずから望んで幕閣に加わるなどということは、これまたあり得ないことだと思われた。  政治権力というもの、はなばなしく、大きな身ぶりで天下を牛耳ることを快しとする生き方は、忠房がまさに指摘したように、治憲の性格にも生き方にも反するものだった。  原方衆の町にくらべると、町人まちの道は人通りも多く、どこかしらに活気がある。一群の子供たちが道を横切って路地から路地へと走り抜け、商家の前には町の女房たちが立ち話をしており、家家の奥からは槌をふるう音が聞こえてくる。馬上の二人をみて、小腰をかがめて会釈したり、家に隠れたりする人人の中に、笠の中の顔を治憲とみとめていそいで路上にひざまずく者もいた。  会釈して通りすぎながら、治憲は、土台一藩のやりくりもままならない身に、天下を切り盛りする才覚があるわけがないではないかとも思った。      三十一  翌天明六年の五月になって、治憲の隠居御殿|餐霞館《さんかかん》を、執政の毛利雅元と御中之間年寄志賀八右衛門祐親が、連れ立ってひそかにたずねてきた。  中殿もご承知のごとく、と雅元は言った。 「わが藩はまだ、三年前の大凶作による疲弊から立ち直っておりません。しかるに昨年も意外の不作と相成りまして、中殿には申し上げておりませんが御取箇《おとりか》(年貢収入)に不足を来しました。加えるに……」  雅元は目を伏せたまま、持ちまえのゆっくりした物言いでつづけた。 「昨年は当藩御代替りにともなう諸出費、大殿、中殿お二方の御隠殿新建のご出費などがかさみ、藩の台所は、今年に入ってにっちもさっちもいかぬという有様になりました」  治憲はしばらく無言で、白髪が増した雅元の頭を見つめてから言った。 「よほど、ひどいのか」 「つつみ隠さず申しますと、藩は、明日のやりくりもままならぬところに来ております」 「なんということだ」  と治憲は言った。  胸の中に動いた一瞬の怒気は押さえこんだものの、声が思わず非難するひびきを帯びるところまでは制し切れなかったようである。無能の執政府という言葉が治憲の脳裏にちらついた。 「内匠《たくみ》」  治憲は呼吸をととのえるひまをおいてから、雅元を呼んだ。 「さようなことであれば、いま少しはやくわしに申すべきだったの」 「それにつきましては当然われらも相談いたしましたが、とどのつまりは中殿にご心配をおかけしてはいかぬと、相談が一決いたしたもので……」 「しかし、いずれは知れることである」  申し上げます、と志賀祐親が言った。 「じつはこの苦境を、何とか当面の借財をもって切りぬけることは出来ぬものかと、領内の豪農、富商に借金の掛け合いをいたして参りました。ために中殿さまに実情を申し上げるのが遅れたということもあり、その責めは執政府のみならず、われら年寄どももともに負うべきものと考えております」 「それはよい。ここで責任を云云してもはじまらぬ」  志賀の弁明に、治憲は迂遠なものを感じた。 「それより、その借金の掛け合いはいかがした?」 「応じる者なし、です。もはや藩の要求には応じつくして、逆さにして振ってもらっても鼻血も出ぬ、と申す者もおりました」  志賀が言っていることは、聞きようによっては剽《ひよう》げた中身のものだったが、誰も笑わなかった。志賀自身も、自分が剽げたことを言ったとは夢にも思わないらしく、述べおわると深刻な顔をうつむけてしまった。  治憲はそっとため息をついた。 「さもあらん。領内の者からは借りつくしておる。借金に頼るのは甘い」 「しかし、金はまだあると存じます」  と志賀が言った。 「ただ、藩に貸しても益がないと思っているのです。さればと申して、金を隠しておるだろうと責め問いするわけにも参りません」 「当然だ。で、これからいかがするつもりか。何か方策はないのか」 「昨年は思わぬ不作と相成りましたが……」  今度は雅元が答えた。 「もし今年もあのような事態になれば、諸国から借金して米を買わねばならぬということにもなりかねません。そのことを考慮にいれるならば、この際は、何としてでも目前の金不足を解消しておく手だてが必要であると思われます」 「相わかった。で、その手だてはありやとたずねておる」  治憲がこころもち語気をつよめて言うと、雅元と志賀祐親は顔を見合わせた。つぎに雅元がひと膝前ににじり出てきた。 「それにつきましては種種協議を重ねましたものの、とどのつまりはこれといった名案はなく、無策には似たれども、この上は家中一統より増借りをいたすほかはないということに相成りました」 「増借りのう」  と治憲は言った。気持が一度に重くなったのを感じた。 「家中はすでに藩に半知を貸し、いまも辛うじて日日をやり過ごしておる。そこにもってきてこの上の増借りということになれば、今度はいよいよ暮らしが立ちゆかぬ者が多数出るのではないか。ほかに方策はないものか」 「目前の危急を乗りきる手だては、これよりほかにありません」 「いかほど借りるつもりか」 「残知百石につき一両の出金をお申しつけいただけば、とりあえず藩の日日を動かす費用は賄えようとの見通しにござります」  治憲は二人から視線をそらした。季節はいよいよ梅雨に入るところらしく、ここ数日雨が降ったり、みじかい晴れ間がのぞいたりする天気がつづいている。今日は朝から曇りで、南向きの書院の障子はうすぐらかった。時刻はまだ八ツ半(午後三時)過ぎと思われるのに、日暮れのような冷えた空気が部屋の中に澱んでいる。  じっと考えていると、雅元が中殿さまと呼びかけてきた。 「増借りもやむを得ぬという中殿のご判断をいただけば、ただちに志賀を江戸にやり、お館さまに面談して増借りの布達を乞いうける段取りといたしたいと存じます。しかしながら増借りは家中の大事、中殿さまよりお館さまにあてたお口添えの書状をいただき、志賀に持たせてやるわけには参りませんでしょうか」 「添え状か」 「はあ、お口添えがあれば江戸の殿からも布達を賜りやすいのではなかろうかと、愚考いたした次第ですが」  内匠、と治憲は雅元を呼んだ。 「わしは増借りを黙認も承認もせぬ。また添え状も書かぬぞ」  はっと顔を上げた二人に、治憲はつよい視線をくばった。 「江戸のお館は家督を済ませて弾正|大弼《だいひつ》となられたものの、いまだ入部しておらぬ。しかるにいわば初仕事が家中への増借り布達というのではあまりにも気の毒な話、とても添え状は書けぬ。また……」  と治憲は語気をあらためた。 「国政の相談に乗るということになってはいるがわしは隠居、この国の主《あるじ》は弾正大弼どのである。その人を差しおいて仮にもわしが重要な国事に何らかの判定をくだすようなことはなすべきでない。増借りがなんとしても必要ならば、まず志賀を江戸にやって、誠心誠意お館に訴えさせよ。お館からは何らかのお指図があろう。すべてはそれからの話じゃ」  詫び言を言って雅元と志賀祐親が引き揚げたあと、治憲は部屋を片づけにきた小姓にことわって書斎に引き揚げた。  休休亭と名づけた書斎は、餐霞館の中で治憲がもっとも気持の休まる部屋である。縁側に面した窓の小障子を半ばあけて机の前に坐ると、治憲は物入れから喫煙具を出した。家紋入りの煙草盆には、治憲の煙草好きを熟知している近侍の者が、つねに絶やさぬように用意している火種が入っている。  治憲は火入れの埋《うず》み火《び》を掘りおこして、煙草を吸いつけた。二服、三服煙草を味わっているうちに、毛利雅元と志賀祐親に会っていたときの苛立った気分が少しずつ鎮まってくるのを感じた。窓の外の景色は相変らずうすぐらい。正面の築山のくらい緑と、泉水の一部が見えているが、そのあたりに差しかける日の気配もないままに、今日は暮れるらしかった。  ──少々いきりたったかの。  と治憲は思った。口添えはしないとつっぱねられたときに二人の顔にうかんだ沈痛な表情を思いかえして、治憲は胸が痛んだ。  だが、何という無策と思ったことも事実である。家中から増借りをすると聞いたとき、治憲がとっさに思いうかべたのは香坂右仲昌諄《こうさかうちゆうしようじゆん》のことだった。  香坂昌諄は家禄二百三十石の侍組で、天明三年末から治憲の御小姓頭を勤めている。香坂の父帯刀は治憲の傅役だった。その昌諄が貧しくて暮らしかねているという風評が耳に入ってきた。昨年の暮のことである。本人を呼んで問いつめてみると、香坂家の極貧は事実だった。よく見れば昌諄の綿入れの襟は擦り切れて、中から綿がのぞいている。治憲は昌諄に急場の費用として自分の仕切金の中から二十両を貸しあたえ、御小姓頭の役にいる間は、この金を返さずともよいと言った。  いまは、藩の中核をなす三手組の者といえども内職をしなければ暮らせないと言われていることを、治憲とて知らないわけではなかったが、家格から言えば三手組の一段上、上級家臣と呼ばれる家士層にも貧困になやむ者がおり、かれらは家の面目もあっておおっぴらには内職もしかねるために、中には香坂のように窮地に立つ者がいることを治憲は覚ったのである。  すでに家中藩士は家禄の半分を藩に貸し、日日貧困とたたかっているのに、この上残知百石につき一両の増借りということになれば、家禄だけは多くて内実は極貧の香坂昌諄などは、いかにして暮らしを立てて行くであろうか。そう思って治憲は暗然としたのだった。  思わず語気をつよめたゆえんだが、しかし代表して叱られに来た形の雅元と志賀祐親も、去年があのような不作になるとは思わなかったろうと、治憲は気の毒な気もした。治憲自身、去年の六月はじめに浅間忠房とともに馬を駆って城南笹野村のほとりに稲の出来ぐあいを見に行ったときは、不作ということには思い至らなかったのである。  ところが翌月になって、天候が急変した。七月八日に米沢城下を襲った嵐は近年になかった大暴風雨で、三ノ丸にある相模|勝熙《かつひろ》の御殿を破壊した。勝熙は藩主治広の同母兄で、前月に三ノ丸御殿が完成して移り住んだばかりだった。  その大暴風雨のあとににわかに旱天がつづき、そうかと思うと稲が花穂をつける初秋になって、梅雨どきのような寒い雨の日がつづくという有様で、治憲がいよいよ幕閣にねがいを上げた赤湯の湯治に出かけた八月末にも、領内の河川が大氾濫を起こす大雨が降った。こうした天候不順は、どこかにその二年前の大凶作の影を感じさせるところがあったのだが、取り入れを終ってみると、はたして平年作にははるかにおよばない作柄となったのである。  こういう成行きは、たしかに執政府にとっては気の毒なものだった。しかし、だから仕方ないと言ってしまっては、いささか心中に違和感が残ると治憲は思っている。大雨、旱《ひで》りは大方の予想を越えたものだったが、目には見えていた。その見えている物の中に、不作を予感させるものもあったはずである。  藩政に責任を負う執政府としては、そのことをもっと敏感に感じとらなければならない。そして不作に対する警戒心をつよめ、ひそかにその対策を練るべきではなかったか、と治憲は思うのだ。不断の心がけとしてそうあるべきだった。  たとえば大殿重定の隠居御殿偕楽館の造営である。天明三年大晦日の夜、より正確にいえば翌四年一月一日のあかつき寅ノ半刻に出火した火によって、重定の隠居御殿南山館は土蔵一棟を残して全焼した。以来重定とその家族は本城内に仮住まいを余儀なくされていたので、御殿の再建は藩にとって緊急の大事業となった。  藩勘定方は、南山館の火災による損失を二万両と算出していた。ということは再建にあたって、少なくとも蔵元から二万両を上回る支出が必要となるということである。藩から自分の手もとにも新御殿再建の建議が上がってきたとき、おのずとそういうこともわかってきたが、治憲は自分の意見をさしはさまなかった。大殿が満足なさる普請をしてさしあげよと言った。享楽をこのむ義父であれば、その享楽を不足なく実現してやるのが子のつとめで、その間に賢《さか》しらな私見をはさんだりすべきではないというのが、治憲の考え方である。  だが、それから先は執政府に下駄をあずけたつもりでもあった。勘定方は、天明三年の藩の収支について五万両の蔵元不足を発表したが、内訳は大凶作による赤字三万両、南山館焼失による損失二万両である。重定に不満のない普請をという治憲の意見は意見として、時節柄を考慮にいれた再建計画ということになっても、過剰なものでない限りそれはそれでやむを得ないことと思っていた。  だがその後治憲の手もとにとどいた具体的な計画には、治憲の懸念したような抑制のあとはなく、建物の構造は旧南山館を踏襲しているばかりでなく、庭園などはむしろ旧御殿の規模を上回るものとなっていた。  事実完成した偕楽館の庭園は、旧御殿の木石を移した上に、ほかの名園からも名木、名石を買入れた見事な景観のものとなり、また大殿重定は時節柄を顧慮するような人物ではないので、御用人五十嵐弥左衛門を江戸にやって、好みにまかせて什器、器具を買わせた結果、新建の御殿は旧南山館をしのぐ贅をつくした住居となったのである。  しかし、こういう成行きは、治憲にとっては一面よろこばしいことでもあった。執政府が時節柄を考えて計画を縮小し、そのことで大殿重定がこころたのしまない日日を送るということになれば、治憲は悲しんだであろう。治憲には、自分の身にかえても老境にいる重定に不足の思いがない日常を送らせたいというねがいがある。しかし執政府がすすめた偕楽館の建設に、天明三年の凶作と旧御殿焼失による五万両の蔵元不足という現実を一切顧慮した形跡がないことに、治憲はひそかにおどろき、またかすかな懸念を禁じ得なかったのも事実である。  大殿重定の居館再建の着手にひきつづいて、新たに隠居する治憲にも新御殿が必要になった。いずれ治広が藩主として入部して行くことを考えれば、いつまでも本城内に仮住まいをつづけているわけにはいかない。新御殿の建築は当然のことだったが、やがて治広と執政府が打ち合わせて縄張りした新御殿の図面がまだ江戸にいた治憲にとどけられてくると、その結構は、治憲の目にはいささか予想を上回る豪華なものに見えた。  ──りっぱ過ぎないか。  江戸家老が普請の大体について説明したあとで置いて行った図面を眺めながら、最初にそう思ったことを治憲はおぼえている。  隠退後の住まいについて、はじめのころ治憲のこころにはどちらかといえば隠居所という言葉が似つかわしい、簡素な建物が思い描かれていたといってもよい。想像の中のその住居は、今日《こんにち》ただいまの藩の財政状況に照らしてこのぐらいが妥当ではあるまいかと思われる規模のものであり、また大殿重定の御殿にかかり過ぎた費用を、多少なりとも引きうけて簡素にとどめる意味合いもふくんでいた。しかしそれは、もっと正直に言えば治憲自身の好みを映したものでもあったのである。  しかし治憲のもとには、さきに藩主治広の世子となった実子|顕孝《あきたか》が同居しており、また治憲は藩主の後見人でもある。そういう立場からいって、隠居御殿が胸中に思い描いたような隠者の住居のような建物で済まされるはずはなかった。治憲はこころの中の簡素な隠居所を、いさぎよく消し去った。だが、それでもりっぱ過ぎないかという感想は残った。わずかながら居心地がわるかった。  治憲は国元の奉行たちにあてて手紙を書いた。「紙面の通り直じき懇ろに申し達せられ候方、猶以て手厚くしかるべく存じ候。別紙案文随分よろしきように存じ候。併せて拙慮一通相したため一覧に入れ候。いずれにしてもよろしき方に相決せられ候ように候 以上」  新御殿の普請については、こまごまと報告をしてもらったが、計画案は大変よいもののように思う。しかしながらこれについては自分も考えていることがあるので、その案をも奉行衆のご覧にいれたい。ただし決定は奉行衆に一任する、といったほどの意味である。ひかえ目にではあるが、治憲は自分の希望をのべたのである。天明四年の暮のことである。  しかし結果的には執政府は治憲の希望を黙殺した。新建の隠居御殿餐霞館はりっぱに完成して、六月末に大殿重定が偕楽館に入居したのにひきつづいて、治憲も九月二十二日、世子顕孝とともに本丸御殿から三ノ丸御殿餐霞館に移った。この移住を機会に、奉行らと打ち合わせた藩主治広から、御殿内の仕切料を大殿重定に準じて年間七百両に増額するようにとの沙汰があったが、治憲はそちらの方はきっぱりと固辞して、従来通りの二百九両にとどめた。  これが前年、天明五年のことであり、餐霞館の規模、内容についての希望はいれられなかったが、治憲はそれで大いに不満だと思ったわけではない。住んでみると新しい居館の住みごこちはこの上なく快適で、黴くさい本城の住居に数等まさると思うほどだった。  こういう経緯をふり返ってみれば、蔵元窮迫という状況は、執政府のせいばかりにすべきではなく、自身も責任の一端を負うべき立場にある、と治憲は思う。  本城内から餐霞館に住居を移したころ、治憲は世子顕孝の近臣たちに、顕孝のために物語るべき七項目、物語るべからざる七項目を示した壁書をあたえた。世子は左右にいる近臣の言行を見て育ち人となるのである、そのことに心を用いよという意味で、内容は語ってよしとする物語を孝悌忠信の話、恭敬退譲の話、壮士義武の話、諫諍論弁の話、農事耕耘の話など七項目、遠慮すべき物語として財利損益の話、飲食酔飽の話、奇技淫巧の話など七項目を挙げ、最後に為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけりという治憲自身の信念を託した和歌を記したものだった。  このことは意外な方面に洩れて、治憲の壁書は尾張藩主徳川宗睦に賞賛された。宗睦はわが家でもこれを以て世子の壁書とするべしと言ったということで、治憲は大いに面目をほどこした形になったのだが、そのころ領内の不作が確定しようとしていたことを考え合わせると、苦心の壁書にしても名君気取りの不急の閑文字とさえ思えてくる。  壁書のこともふくめて、いったいに昨年は気のゆるみがあったかも知れぬと、治憲はにがい反省の気持が胸にうずくのを感じた。隠居して藩政に直接責任を負わなくともよくなったというだけではない。十七歳で家督を継ぎ、以来ざっと二十年近い年月を財政困難な米沢藩の主《あるじ》として、気の抜けない緊張した日日を過ごしてきた。その地位から解放されて、さすがの治憲も大きくひと息ついたのだ。疲れもたまっていた。  帰国して隠居暮らしに入ると、治憲は得意とする馬を駆ってしきりに遠馬をこころみ、またたびたび近郊に出て鷹狩りをたのしんだ。以前は仰仰しい行列を組まねば出かけられなかった鷹狩りが、近臣だけを帯同して手軽に出来るようになったのもうれしかった。さらに肩のこらない夜話を聞くために、隠退したもとの奉行吉江輔長、剣客としても高名な大平道次、もとの小姓頭|莅戸《のぞき》善政らを召し出すこともあった。餐霞館に移ると、庭で優雅な曲水の宴を催し、桜の盛りには大殿やその家族を招いて花見をした。  隠居暮らしを治憲はたのしんでいた。というよりも、まさにこれからたのしもうとしていたところだった。だが実情はそれをゆるさなかったということのようである。  では、奉行たちも治憲と一緒になって気を抜いていたというのであろうか。むろんそんなことはあり得なかった。事実上の藩政の責任者として、かれらは昨年七月以後の天候の急変に目をとめていたはずである。さらには郷村出役などからの報告をうけて、天候不順によって作物に不熟の不安、あるいは兆候があらわれてきたことも大筋でつかんでいたはずだった。それなのにかれらは何の対策も取らなかったのだ。  大殿重定の偕楽館は天候が急変する前の六月末に完成した。この工事に手直しの余地がないことは明白である。だが治憲の餐霞館が完成するのは九月二十二日、天候悪化を予感させる大暴風雨が米沢を襲ってから、およそふた月半後のことである。天候不順と作物の不熟はこの間に進行した。  この状況をみて、執政府から経費節約のための餐霞館の工事の一部手直し、あるいはそれが間に合わなくとも、庭園普請の延期というような申し入れがあったとしたら、治憲はよろこんで応じたに違いない。だがかれらは何も言わなかったし、財政の窮迫が既成事実となった今年に入ってからも、残っていた偕楽館の庭園築立てに二千人の人夫を使役した。  こうしてやるべきことをやったあとで、執政府は昨年の不作と大殿、中殿の御隠殿建設による莫大な出費を理由に、家中から増借りを言い出したのである。  治憲は黙然と煙草を吸っている。窓の外に見える庭の樹木がうっすらと赤くなっていた。日差しを見ないままに暮れるかと思ったが、日没に近くなって雲が切れたらしい。赤らんだ木の影が手前の池に映っている。冷えた空気はそのままで、むしろさっきより少し寒さを増したようだった。  ──大国意識か。  煙草のけむりをくゆらしながら、治憲はそう思った。この国の痼疾ともいうべき大国意識が、藩政改革をさまたげている最大の原因だと覚ってから久しい。  上杉はかつて越後の大守として、京の足利将軍にも頼りとされた戦国の雄だった。豊臣政権のときに、越後から会津に移されたが、それでも麾下《きか》八千の精鋭を温存する禄高百二十万石の戦国大名だった。この意識が、奥羽の一隅に十五万石の封をつたえる今も、事あるごとに表面にうかび上がって大国の格式、体面を主張するのだ。いまにして思えば、家督を継いだあとに示した治憲の改革方針に対して、藩重臣らがこぞって反対をとなえたのも、無視された大国意識がはげしく反発したのだと、治憲はかえりみることが出来る。  一概に大国意識が間違っているとは言えない。歴代の藩主は公式文書に本国を記すとき、いまも本国越後と記す。本国越後は米沢藩をささえる誇りである。だがそれがために、侍組の中にさえ香坂昌諄のように貧にくるしむ者が出ているような現実に目をつむり、大国の体面を言い立てるのは錯誤もはなはだしいものだろうと治憲は思う。  藩政を一新するためには、人も機構も軽軽と動かなければならぬと治憲は思っている。古いものをすべて捨てるというのではなかった。捨ててはならないものもある。だが改革の足をひっぱりかねない余分なもの、贅肉のごときものは躊躇なく削ぎ落として身軽にならねば、藩政一新は成就せぬというのが治憲の考え方だった。  執政たちは、今度もおそらく大国の体面というものに照らして不満のない隠居御殿偕楽館、餐霞館を完成させたのであろう。情勢の変化に応じた手直しなどは念頭になかったと思われる。  ──だがそういう臨機応変の身軽さがなければ……。  この貧にくるしむ国を経営して行くことはむつかしいのではないか、と治憲は思う。そうは思うものの、治憲は大国意識に批判的な考えを表に出すことには慎重だった。不用意に指摘すると蜂の巣をつついたようになることは、先に経験済みである。餐霞館についてのべた自分の意見が容れられなかったあと、沈黙して執政府の方針にまかせたときも、その意識が働いたといってもよい。  突然に目の前がくらくなったように感じて、治憲は顔を上げた。築山の木木を照らしていた日差しは消えていた。樹木も池の水も黒く静まり返っている。窓から入ってくる空気は、夜気のつめたさをふくんでいた。日が落ちたようである。治憲は煙草盆に灰を落とし、煙管と煙草をしまった。  ──結局のところ……。  家中からの増借りを認めるしかあるまい、と治憲は思った。ほかに目前の急場をしのぐどのような手段も思いあたらなかった。  なすすべもなく窮迫をむかえた執政府を、無策なるかなと嘆じたが、その無策の批判は治憲自身の胸にもつき刺さってくるようであった。わずかな天候の変化にもおびえて暮らすこの国の前途に、どのような活路があるのか。白子神社に納めた誓文の一節「因って大倹相行い、中興仕りたく祈願仕り候」という文言は、いまも埋み火のように治憲の胸の底を照らしているが、前途に活路などないのだとなれば、それは十七歳の少年藩主が描いた夢想にすぎなかったことになる。 「くらくなりました。灯をお持ちします」  部屋に入ってきた小姓の声に、治憲ははっと顔を上げ、自分がくらがりの中に一人で坐っているのを覚った。小姓の声に訝《いぶか》るようなひびきがあるのも当然である。 「灯はよい。今夜はこのまま奥に帰ろう」  と治憲は言った。  書斎の隣には寝間があり、書物を読んで夜おそくなるときはそこに泊ることがあるのだが、治憲は今夜は早目に奥にひきとって、お豊の方と軽い雑談でもかわしたい気分になっていた。  江戸にいる藩主治広に、家中への増借り上げを下命してもらうために陳情に行った志賀祐親は、六月の末になってむなしく手ぶらでもどってきた。治広は、増借り上げに許可を出さなかったのである。 「不首尾だったそうだな。それにしては、だいぶ手間どったの」  と治憲は、帰国の報告をしにきた祐親に言った。 「はあ、行って間もなくお館さまのご意向を頂戴しましたが、そのまま帰っては子供の使いのごときものと相成りますので」 「それで、これまで粘っておったか。ごくろうであった」 「江戸家老を頼み、時には二人でおねがいに参上しましたが、お聞きとどけいただけませんでした」  祐親は、旅の疲れだけとは思えない憔悴した顔をうつむけた。  江戸家老は中条豊前|至資《よしすけ》で、二年前に同役の千坂清高が奉行職に転じて帰国したあと、一人で江戸屋敷を切り回し、対幕府、対諸藩の折衝にあたっていた。人格、識見ともにすぐれて、やがては藩政を担う逸材と嘱望されているが、豊前はまだ三十歳で、なんといっても若かった。治広の拒否をうまく丸めこむような老獪さは望むべくもない。 「で、お館は何と言われたのだ」  いまだ入部もしておらぬ身ゆえ、新藩主としては、はじめに家中、領民にまずもって仁慈のこころをこめた政策を示したいものだと仰せられました、と祐親は言った。 「しかるに、志に反して家中の者たちに苦しみをあたえる布達をもって、藩主の勤めをはじめねばならぬとは、余儀ない事情があるとはいえ、忍びがたいものがある。他に方策はないか、さらに一考すべし。お館さまはかように仰せられ、われらのねがいをきびしく斥けられました」 「さようか、そのように申されたか」  うなずきながら、治憲は治広どのは大丈夫だという思いが、すばやく脳裏をかすめたのを感じた。これでわが後の藩は心配ないと思った。  ふと、自裁した木村丈八高広の顔を思い出していた。治広の現在がそういうものであれば、当時は厳格に過ぎて失敗したと思われた木村の世子教育は必ずしも失敗だったとは言えない、と治憲は思った。木村は正義を正義としてつらぬくべしと教えなかっただろうか。悪を悪として断固として斥けることを、治広にもとめなかったろうか。  執政府の要求をきびしくはねつけた治広のこころの中に、少年のころに叩きこまれた木村の教えが、当時は強く反発したとみえたのに、消しがたくいまも生きつづけていることは十分にあり得る。治憲はわれにかえってたずねた。 「お館の意向をうけて、執政たちはどう申しているか」 「お言葉は重重ごもっともでありまするが、もはや猶予はならぬ時がきた。なんとしても増借り上げが必要なわけを列記した書類をつくり、今度は奉行の毛利さまが出府なさるということで評議は一決いたしました。二、三日うちには、毛利さまが中殿さまにそのご報告に参るものと思われます」 「相わかった」  治憲はひと呼吸おいて、八右衛門と志賀を呼んだ。志賀祐親は、浅間忠房の前に三年間治憲の御側役をつとめたかつての側近である。 「内匠が出府する折には、今度はわしも添え状を書こうと思う。内匠にそう申せ。そなたには持たせず、執政に添え状を持たせるのはへだてを置くに似るがそうではない。情勢が変った」 「天候順ならずということでござりますか」 「今年の不作は必至だぞ」 「仰せのごとく、と心得まする」  祐親は顔を上げて治憲を見た。その顔が、突然に青ざめたように見えたのは、藩政にかかわり合う者としての戦慄が、祐親の身の内を走り抜けたのであろうか。祐親は頭脳明晰な官僚だが、小心なところがある。いまもその小心さがちらと顔を出したように見えた。  主従は顔を見合わせ、そのあと無言のまま言い合わせたように、窓の障子に目をむけた。うすぐらい窓の外には、朝から一度もやまずに降りつづいている雨の音がした。冷気をふくんだ長雨は志賀祐親が江戸にいる間にはじまり、藩が城下の寺社に祈祷を行なわせたあと、いったん回復するかに見えたのだが、二、三日前からまた降り出して、いつやむともなくいまも降りつづいているのだった。  いよいよ去年につづく不作と決まれば、四方の金主をたずねて金を借り、米を買いもとめて不作に備えなければならない。その前に増借りであれ何であれ、藩の日常を賄う金を工面しておかねばならぬことは自明のことだった。 「国元のただいまの事情を知れば、お館もつぎの陳情は無下には斥けられまい」  と治憲は言った。  毛利雅元は藩主治広にねばり強く説得と嘆願をくり返し、ついに増借り上げの許可をとった。すでに藩に貸してあるあとに残る知行百石につき一両の借り上げ御頼みという布告が執政府から出されたのは八月十九日で、家中藩士はかねてのうわさから覚悟はしていたものの、いざ借り上げが発表されるとさすがに騒然となった。執政のその報告を、治憲は重い気分で聞いた。  しかし雅元が江戸表に出府したあとの七月十七日ごろから国元では連日冷気をふくんだ雨が降りつづき、暗く垂れこめた雨雲の下に、田も畑もおし黙って濡れているばかりだった。七月十七日は太陽暦の八月十日である。もっとも日照りが欲しい時期に、置賜《おきたま》の平野は雨期をむかえたような暗くうすら寒い日日がつづいたのである。  藩ではふたたび城下の寺社に命じて天候回復の祈祷を行なわせたが、そのころには誰の目にも天候の異常はあきらかに見えていた。稲が花穂を出す初秋まで、まだひと月足らずの日にちは残っていて、その間に雨がやみ、野に強い日差しがもどれば、多少は雨の影響が残るとしても、大きな不作はまぬがれるかも知れぬという観測がまったくないわけではなかった。  だが農民であれ、郷方勤めの藩役人であれ、そういう見方にのぞみを託す者は少なかった。初夏以来の天候不順が災いして、稲の育ちはきわめてわるく、茎は痩せ株は隙間だらけである、葉もまた生色を欠いて田のところどころでうすい黄ばみが見られるという報告が治憲の手もとにとどいていた。  七月半ばになれば、平年作の稲株は密集して直立し、葉は深い緑に染まってうっかり葉のへりに手を触れたりすると、皮膚を切りかねないほどに強健に茂る。今年の稲田にはそういう稲株は見られないというのだった。  藩では、寺社に雨止みの祈祷を命じた七月十七日に、凶作にそなえて領内の者は残らず粥を用い、一国一家の思いを為すべしという布達を出し、つづいて他国から米を買入れる資金をつくるために、藩の財政をささえる金主たちに借金すべく、いそいで掛け合いの準備に入ったのである。  そういう騒然とした空気の中で、治憲は不意に思い立って、雨の中を糠野目村の近くまで稲の様子を見に行ったことがある。七月の晦日だった。供は御手水番をつとめる小姓綱島伊左衛門頼元である。治憲の御手水番は昨年まで浅間忠房が御側役を兼ねてつとめていたが、その後忠房を御用人に引き上げたので、後任に綱島頼元を起用した。  糠野目村は、米沢城下からほぼ二里ほど米沢街道を北上したところにあり、村のさらに北方を領内第一の河川松川が右から左に横切る。このあたりは置賜の平野のほぼ真中とされている場所だった。村の手前で、治憲は馬をとめた。  四方に稲田がひろがっていた。霧のような雨がその稲田と、合羽を着た馬上の治憲を音もなく濡らした。梅雨どきのように、ゆっくりと雨空をおしわたる黒い雲があり、くらい空と降りつづく雨のために野は半ば白濁した靄に覆われ、遠い田づらも野末の村もその奥にかくれて見えなかった。治憲は目にはいる限りの稲田のひろがりをじっと見た。丈はのびているものの、稲の株はこの季節なら当然そなえているはずの太ぶととした力強さを欠き、そのために田はあちこちに隙間を生じているような印象をあたえる。以前に手もとに上がってきた報告のとおりだった。  この稲に、はたして実がはいるのだろうかと治憲は思った。伊左衛門、と綱島頼元を呼んだ。 「今年の作柄をどう思うか」  頼元はすぐには答えなかった。笠の先を少し押し上げるようにして、長い間稲田を眺め回してから言った。 「稲のことはそれがしいたって不案内で、作柄のことはわかりかねます」 「見たままを申せばよいのだ」  頼元はもう一度じっと稲田を見た。そしてやっと言った。 「田圃に例年の勢いがござりません。由由しきことに思われます」  綱島頼元は寡黙な男である。それだけ言ったあとは口を閉じてしまった。治憲は蓑笠を着て馬上に濡れそぼっている頼元から目をそらした。作柄の見通しを言うことを避けた頼元の返事は、気にいらないものだった。だが目の前にひろがる光景は、返事のとおりにただならないものに見えた。  三年前の大凶作のときも、田圃はこんなありさまだったろうかと治憲は思った。そう思ったとき、治憲の胸を何の前触れもなくいきなり悲傷の思いがしめつけた。治憲は天を仰いだ。  ──天よ。  と、治憲は思った。いつまでわれらをくるしめるつもりですか。治憲の問いかけに、天は答えなかった。くらくおし黙ったまま、ゆっくりと動いていた。治憲はみだれた息をととのえた。一瞬のかなしみは、たちまち遠くに走り去ったようだった。  治憲は馬上に背をのばした。弱気に身をゆだねている場合ではあるまい、と自分を叱咤したのだ。わずかな間とはいえ、気持をみだしたことが恥ずかしかった。靄の奥にかくれている村村には、今年の不作をさとって恐れおののいている村人がいるはずだった。どのような凶作に見舞われようとも、かれらを飢餓から守るのが為政者のつとめである。いまはそのために、力をふりしぼってあらゆる手を打つべきときなのだと治憲は思い直した。  馬首をめぐらして、伊左衛門帰るぞと言った。そのときいったんやんでいた弱い東北風がまた吹き出して、馬上の二人をたちまち凍えるような冷気がつつんだのを治憲はおぼえている。  今年の増借りの沙汰はたしかにきびしいが、しかし不満の声を挙げた家中にしても、眼前にいまの田圃のありさまを見れば、暮らしの不自由を堪えしのんでくれるのではないか、と治憲は思った。  ──ただしその声の中には……。  なすすべもなく今回の窮地をまねいた執政、御中之間年寄、ひいてはわれら藩主家の者に対する家中一般の不満がふくまれているだろう、とも治憲は思った。そのことを、家中の動向を報告にきた執政広居忠起は察知していたのだろうか。  ──千坂は執政府の非力を承知していた。  と治憲は思った。毛利雅元の出府と前後して、千坂清高が致仕をねがって奉行職からおり、御中之間詰に転じた。そのあとには江戸家老の中条至資が抜擢されて奉行となり、中条のあとには色部典膳|至長《のりなが》が江戸家老として赴任している。  この一連の藩の重職の異動を、家中がどのように見ているかはわからないが、家中からの増借りという緊急の施策をすすめている最中に致仕をねがい出てきた千坂の心情が、治憲には「無策を恥じる」というふうに読める。千坂清高は、四十歳、本来ならこれからが働きざかりである。治憲のように解釈しなければ、その致仕は納得出来ないものだった。  千坂清高は安永五年に開校された興譲館の第一回の定詰勤学生《じようづめきんがくせい》だった。しかも才学すぐれた藩士の子弟から、二十名だけ選抜される定詰勤学生の中で、千坂は学頭をつとめ、才敏にして自重すと評された人物である。千坂の致仕には無策を恥じるだけでない含みがあるようにも思われるのだった。  この年八月二十五日に将軍家治が薨《こう》じ、米沢藩江戸屋敷では幕府に弔意を表し、国元では三手物頭に国境の警備を厳重にすべしという命令が下されたが、この間にも藩の首脳部は、いよいよはっきりしてきた凶作への対策、ことに米買入れにそなえる資金づくりに奔走していた。閏十月十五日に幕府にとどけ出た稲作の損失は七万余石、天明三年の大凶作に次ぐ減石で、飢餓対策の確立は一刻の猶予もゆるされないものとなったのである。  それより前の八月に、治憲は越後の金主渡辺万之丞、渡辺儀右衛門、三輪飛兵衛を越後から呼び、餐霞館で手厚くもてなすと同時に資金協力を頼みこんだ。頼みの要点は二点、連年年賦で返済している借財が、今年は凶作のために返済出来ないことを伝え、諒承を得ること、もうひとつは手伝い金の貸与を懇請することだった。  この懇請のあとで、治憲はかねて藩で打ち合わせたとおりに、渡辺万之丞に知行二百石、渡辺儀右衛門に六十石、三輪飛兵衛に扶持米二十五石という家禄をあたえた。  また米沢藩最大の金主である江戸の三谷三九郎家には、奉行広居忠起を江戸にやって、越後の渡辺家、三輪家にしたのと同様に、当年の借財返済の困難を伝え、かつ手伝い金の借受けを懇請したのであるが、治憲はこのときも忠起に、三谷家にわたすべくみずから書いた書信と脇差一振りを持たせている。  三谷家代代当家への功は申すにおよばず候、ついては当家においてもすべて如才なく取り扱ひきたり候ところ、今般は重重無心の頼みにおよび候段、心外の到りに存じ候(中略)、われら隠退の身柄に候へども、在府にて候へば直直《じきじき》申し談じ候ところ、八十里をへだて心底に任せず云云という三谷三九郎あての書信には、辞を低くしてというよりも、ほとんど相手の機嫌をとる口吻があると言っても言い過ぎではないだろう。  使者の広居は、このとき三谷家にこれまであたえていた家禄にさらに三百五十石を加増することを伝えたので、これで三谷家が米沢藩からうける禄高は七百石となった。七百石の家禄は、九百人余の米沢藩家中で上位から二十数人のうちに数えられる上士待遇である。享保のむかしに将軍吉宗が歯ぎしりしたのもむべなるかなといった好遇ぶりだが、ともあれこれが米沢藩の現実だった。そして藩の金主を手厚く処遇するのは、米沢藩に限ったことではなかったのである。  藩のこのような懇願に対して、金主たちは年賦の繰りのべには応じたものの、肝心の手伝い金融資に応じた者は一人もいなかったといわれる。たとえば少しあとのことになるが、初入部をはたした藩主治広が帰府した天明八年、江戸屋敷にもどってみると桜田、麻布、芝白金の三邸ともに扶持米が欠乏して諸士は貧窮に喘いでいた。辛うじて丸屋某という米屋から米を借りて三、四日はしのいだものの、後がつづかない。そこで役人たちが江戸の金主たちの間を金策に駆けまわったが、金を貸す者は一人もいなかった。のみならず中には藩の日ごろの不信義を責め、侮辱的な言葉を吐く者もいたという。  同じころにわかに金が必要になって、江戸屋敷の勘定頭佐藤市右衛門、渡部儀右衛門が、屋敷の重宝とされている刀剣、掛軸などを持参して三谷家に駆けつけたことがあった。しかし三谷家では再三の懇願を受けいれず、二人の勘定頭が江戸屋敷と三谷家の間を二度三度と往復するにおよんで、ようやく金子百五十両を貸した。  このような両者の関係、ことに藩側の御用商人に対する懇請ぶり、あるいは度はずれな処遇をみると、藩が一方的に金を借りているようにも見えかねないが、もちろんそういうことではない。三谷をはじめとする御用商人は、米沢藩の米あるいは特産物の専売を独占して請負うという特権をあたえられているのであって、藩の資金融資の懇請というものは、このような関係を下敷きにして行なわれているのである。  ことに隣国酒田の本間家、越後下関村の渡辺家、越後与板の三輪家など、港町に住居と店があり、あるいは海岸に近接した土地に店を構える商人たちは、藩から米沢米、青苧《あおそ》、蝋などの国産物を買いうけて上方に売りさばく一方で、藩が入用とする塩、繰り綿などの上方の産物の調達にもあたっていたので、かれらは藩に資金を融資する前に、そういう形で商いの利益を得ているのである。  しかしこの時期になって、藩とのそうした結びつきによって得てきた利を失い、場合によっては利害で結びついてきた長年にわたる関係そのものも損ないかねない危険をおかしてまで、商人たちが固く借財の要請をこばんでいる理由は、ひとえに「彼所より借りて此所へ返し、此所より借りて彼所をくすぐり候」といわれた、誠意のみられない一時しのぎ的な藩の資金政策に対する根深い不信があったからだろう。  以前は藩政改革に意欲を燃やす藩主治憲がいて、左右には放胆な政策家竹俣当綱、緻密な実務家莅戸善政がいた。藩は困窮のどん底にいたが、藩のむかうところはあきらかで、融資する資金の行方もおおよそのところは見えていた。だがいまは竹俣、莅戸が相ついで藩政の表舞台から去り、治憲もまた隠居の身の上である。  融資は信義の問題である。誰を信用して藩に資金を融資すべき、と金主たちは思ったに違いない。ともあれ藩と金主たちのこじれた関係が解消され、両者の間にむかしの信頼がもどるのは、のちの莅戸善政の再登場を待たねばならなかったのである。  藩がこのような混迷に陥って右往左往しているときに、自宅にいて幽閉の暮らしを余儀なくされているもとの執政、竹俣当綱から藩主治広にあてた上書が呈上された。  当綱は上書の中で、藩政改革が途中で沙汰やみとなったあと、藩がこれといった対策も打ち出せずに、半知借り上げの上に残知百石につき一両の増借りを決めるという現実に立ち至ったことに激怒していた。  米沢藩の財政窮迫は百年来のことで、ことに寛文四年の三十万石から十五万石へという半領の沙汰以後は、国をおさめる基本は入るを量って出ずるを制すにありといわれるにもかかわらず、年年歳歳収入は少なく支出は多く、働けど働けど楽にならない状況がつづき、藩政は混迷をふかめてきた。しかしながらこの状況をみて、当然ながら十五万石の土地から三十万石の収入を生み出そうとする努力も生まれ、これが効を奏して安永五年から三年ほどは、藩政の運営もやや穏やかに推移したといってよかろうか。  しかるに近年ふたたび世が衰える兆しがあらわれ、さきにはついに、四十年来半知を借りうけている家中から、さらに残知百石につき一両を絞りとるという決定がなされ、家中の家家に残るは滓ばかりという有様になった。このようなくるしい状況の中で、領民はいま新藩主の入部を嬰児が父母をしたうように待ちうけている。国家の盛衰、四民の苦楽が分れる大事な初入部となろう。  当綱は長文の上書で、大略このように述べ、さらにいかに学問があっても、国を困窮から救う方策がなければ学問は何の役にも立たない、国家は今年ばかりの国家にあらず、君上は御一門の意見からひろく衆慮まで聞きとって、目前の困難に対処するだけでなく、二十年先の構想を打ち立てて国人のくるしみを救われるべきであると上書を結んでいた。  当綱の上書を、治憲は写しで読んだが、読み終ったあとにうかんだ感想は快いものではなかった。それは警世の書といった体裁をとってはいたが、より強烈に当綱、善政以後手をこまねいたままここまできてしまった藩首脳部を弾劾する文章として読めたのである。目のさめるような成果は上げられなかったとしても、自分たちはやるべきことをすべてやった、しかるにその後の藩首脳部はという、強い自負が当綱にはあるのだろう。  それはともかく、当綱が思い描く無策の藩首脳部の中には、わしもふくまれるだろうと治憲は思ったのだ。もちろん当綱は上書の中ではそうは言っていなかった。近年国力の衰えが目立つのは賢君が隠居されたせいだと治憲を持ち上げていた。  しかしその一方で、当綱は藩が数十年来家中の喰い扶持の半分を借り上げ、いままた新たに残知百石につき一両の増借りを命じて君家の御国用に回しているのは、家中の身の油、身の肉を取り上げてきたことにほかならないと論じ、こうして家中から取り上げてきた家禄を米穀金銀にして積めば、国境にそびえる吾妻山よりも高かるべしと言っていた。  家中の身の肉を取り上げるという文章には、当綱が意識したかどうかはべつにして、治憲の胸を刺す針がふくまれていた。明和四年に家督をついだ治憲は、奉行千坂高敦を江戸屋敷に呼んで、国元の家中に大倹令を告達することを命じ、このとき重臣を説得するために特に書いた志記と題する文章を一緒に手渡した。その志記の中に、治憲は家康の遺訓をひいて、人民の肉を取ってたのしむ心は露ほどもないと宣言している。  事実はこのときの意気軒昂とした宣言に反して、治憲もとどのつまりは先人の政策を踏襲して借り上げをつづけるほかはなく、人民の肉を削り取って国の運営を藩主家一族の暮らしの用にあてる結果となったのである。当綱の上書の文言が治憲を憂鬱にさせるのは、そこにうかび上がってくる自分の非力と、改めてむかいあう気分にさせられるからだろう。  だがそうして声高に藩首脳部を弾劾する竹俣当綱自身にしても、藩財政のいまの行き詰まりを打開するほどの有効な手を所持しているわけではなかった。  当綱はさきの上書につづいて、時務を論じるという形で「長夜の寝語」と題する提言書を上呈してきた。  その中には藩世子に農民の辛苦を知らしめるために、城下から二、三里ほどはなれた田野の内に、世子の仮屋を建てて住まわせよ、あるいは家中の女子に織物を織らせて、家家を富ませる工夫をすべきである、といった卓見もふくまれていたが、眼目は何といっても藩財政の救済策である。  この救済策で、当綱は依然として漆木百万本植立てによる収入増に執着していた。植立てから十年たてば、百万本の漆の潤益で藩を運営する費用が出来、家中から借りている家禄は、半ばを返済することが出来るだろうと当綱は言う。  しかし治憲が、じかに江戸の金主で米沢蝋を一手に商う三谷三九郎に聞いているとおり、山地に自生する山漆から採る山蝋はもちろん、植立ての里蝋にしても西南諸藩の櫨《はぜ》蝋に押されて、市場では売りにくく、かつ売値は安くなっているのである。理由は一にも二にも品質にあった。  櫨栽培と製蝋技術を最初に確立したのは薩摩藩だが、その後久留米藩、熊本藩、福岡黒田藩、萩藩、紀州藩などが、薩摩藩からあるいは種子を譲りうけ、あるいは苗木を買いうけて藩内で栽培を奨励した。その普及の流れの中で、福岡藩はことに櫨の品質改良に力をいれ、竹下直道による優良品種松山櫨の発見、内山伊吉による伊吉櫨の発見などが、木蝋の品質を高める基礎になった。  それに加えて、西南諸藩の多くが積極的に晒蝋の技術に取り組んだことが、米沢蝋との間に決定的な品質の差を生み出すことになったのである。  晒蝋の原理は、ひとことで言えば生蝋を天日漂白して白蝋をつくるということだが、筑後晒と呼ばれる晒にしても、灰汁を加えて大釜で煮る、固まったものをさらに削って粗片にして天日で漂白する。そのあとふたたび釜にもどして煮直して灰分をのぞき、ふたたび斧、カンナなどで削ったものを天日漂白するという、幾工程かの手間をかけて白蝋をつくり上げる。  櫨栽培と晒蝋の技術は、大洲藩や松山藩、宇和島藩などの伊予諸藩にも伝えられて行ったが、注目されるのは大洲藩ではじまった晒法で、宝暦年間に芳我弥三左衛門がはじめた、筑後晒法に対抗する伊予晒法は、ついにこのあと文政期に完成して、筑後晒法を上回る品質すぐれた白蝋を生産することに成功するのである。  もちろんこうした櫨事情の詳細を治憲は知るよしもなかったが、つまりは三谷三九郎が治憲に会ったその席で、ついぽろりと洩らしたように米沢蝋は黒く、西国の櫨蝋は白かったのだ。  木蝋は蝋燭、鬢つけ油、絹織物の艶出し、膏薬の原料、家具を磨く材料などの原料として使われ、すべてが白くある必要はないとはいえ、どちらが高値で、かつ多量に売れるかは言うまでもないことであろう。  また当綱が言う漆の実の収益をみるには十年先を待たねばならないということも、本格的な植立てが行なわれた安永七年から数えても十年近くの年月がたち、そろそろ答えが出はじめていた。たとえば天明五年の藩の製蝋買上げ額は山一蝋が千二百十五貫四百一匁、里蝋が二万五千二百七十五貫六百七十三匁、山弐蝋が四百八十六貫百九十八匁だったという結果が出ている。これを里蝋の地払い値段(地元で売り渡す場合の値段=蝋四貫匁で一両)で計算すると、ほぼ六千七百四十四両になるという。潤益はさらにこの金額から藩の木の実買上げ代、木蝋製造所(筒屋)の製蝋費用をさし引いたものになるわけだが、この金額は一応の収入と言えるものだった。  問題は天明七年の藩の歳入出予算に計上された蝋収入で、米の収入(年貢と諸国売払い分)一万五千両、青苧四百八十五駄分売払い代四千三百六十五両にくらべ、蝋の売払い代がわずか五百六十両しか計上されていないことである。蝋は三谷家の場合のように、借財の返却分として出荷される分もあるとはいえ、藩の収入としては少なすぎる見積もりというほかはない。  当綱のもくろみでは、十年後の漆木は一万九千百五十七両の潤益を生み出すはずだった。これに同時に植立てる桑木の潤益七千四百七両、楮《こうぞ》の潤益五千五百五十五両を加算して、その合計は三万二千百十九両、知行にして十六万五千石余になると見積もったのである。これが十五万石の藩禄高を内実三十万石とする政策だった。  この見積もりからすれば、天明五年御買蝋御算用帳が記録する製蝋買上げ額六千七百四十四両、あるいは天明七年の藩歳入出予算に計上される蝋収入五百六十両は、あまりに落差が大きい数字と言わねばならない。当綱の遠大な見通しにもかかわらず、藩は不振の木蝋に見切りをつけはじめているといえないだろうか。  しかしこれが米沢蝋のいつわりのない現状だった。せっかく漆栽培に力をいれても、藩による漆の実の買値が安ければ、農民の収入は手間にもならないということになりかねない。治憲の耳にさえ、近ごろ漆木は減っているのではないかという消息がとどいているのに、当綱にはただいまの現実が見えていないらしかった。  百万本の漆木に固執しているだけでなく、当綱は漆木が期待される収入を上げるのは植立ての十年後である、それまでの苦難を緩和するために、三谷三九郎から四万両を借りうけて運用せよとも言っていた。  十年後と当綱はさも遠い先のことのように言うが、百万本植立てに着手してからもはや十一年、本格的な植立てが行なわれてからでさえ、八年目になるのである。十年の年月はあらまし過ぎて答えは出かかっており、しかもその答えがあまり芳しいものでないことを、ひとり当綱だけが理解していないように見えた。三谷から借金せよということも、近ごろの藩と金主たちの関係のつめたさを考えれば、論外というほかはないものだった。  治憲は「長夜の寝語」を閉じて、机の上にもどした。  ──これは……。  役には立たぬ、と思った。当綱について、治憲はいつも感心することがある。大藩の重臣の家系に生まれながら、当綱がつねに社稷《しやしよく》ということを正確に理解して謬《あやま》らないことだった。社は土の神である。稷は五穀の神である。社稷すなわち国家は、この二つ、土地と五穀によって成り立つのだという具体的な認識がつねに当綱の内部にある。  藩世子を城から出して田野に住まわせ、農民の苦労を理解させよというのは、当綱でなければ吐き得ない卓見である。だが、肝心の藩財政の救済策はだめだ、なんら新たな示唆をあたえるものではないと治憲は思った。  当綱にしてかくのごときかと思ったが、幽閉の身には外から入ってくる知識は限りがあるだろう。せっかくの提言が現実から遠く遊離しているのはやむを得ない。そう思ったが、期待して読んだために落胆も大きかった。藩が出口の見えない袋小路に入ったことが胸をしめつけてきた。  煙草道具を出そうとして、治憲はふと手をとめた。小姓を呼んで九郎兵衛を呼べと言った。いまの莅戸九郎兵衛は善政の長男|政以《まさもち》のことである。父善政が隠居したあと、家督をついで御中之間に詰めていた。 「九郎兵衛は近ごろどうしておる」  政以がくると、治憲はさっそく聞いた。莅戸善政は隠居したあと太華と称していた。だが治憲には呼び慣れた九郎兵衛の方が気持にしっくりとくる。 「書き物をいたしております。終日飽きることなく書き、時には深更におよびます」 「何を書いておるのかの」  治憲は興味をそそられた。善政のことである。書いているのは藩を袋小路からひっぱり出すような提言ではあるまいか。  さて、と言って政以は首をかしげた。政以はまだ二十七歳で、御中之間に籍を置きながら興譲館に通っていた。俊才で、今年中には学頭に上げられるだろうといううわさがある。  首をかしげた顔は血色がよく、若若しかった。 「たずねても何も申しませんので、何を書いているかわかりかねます」 「ほほう」  深刻な顔をうつむけて筆を走らせている善政の顔を、治憲は想像した。 「機嫌がわるいのかの」 「いえいえ、さにあらず、きわめて上機嫌でおられます」  政以は微笑した。政以は、少年のころから父善政に連れられて治憲に会っていて、この主従にはへだてのない気分が通っている。 「この間、父は狂歌を詠みました」  おそれながら墨を拝借出来ましょうか、と政以は言った。治憲が政以を引見しているのは、餐霞館の書斎である。  治憲が机の上の筆箱をおろしてやると、政以は懐紙を出してさらさらと筆を動かした。 「米|櫃《びつ》を、莅戸《のぞき》て見れバ米ハなし あすから何を九郎兵衛(喰ろうべえ)哉」  懐紙を差し出しながら、政以は詠んだ。さすがは興譲館の俊才で、見事な手蹟だった。はは、と治憲は笑った。声を出して笑ったのはひさしぶりのことである。  九郎兵衛は、少しもへこたれておらんのと思った。するとくらく閉ざされた藩の一隅にひとすじの光が差しこんだような気がした。微笑したまま、治憲はたずねた。 「九郎兵衛は元気か」 「いたって元気にござります」 「それはよい」 「暮らしが貧しいと、かえって身体にはよいように思われます」  治憲はまた笑った。政以のほがらかな顔を見ながら、親が親なら子も子という言葉を思ったのである。  ──九郎兵衛善政がいる限り……。  藩は大丈夫だ。突然に、治憲はそう思った。その実感は生生しかった。だが、それはまだ人に言うべきことではないようにも思えた。      三十二  損耗七万石という不作に見舞われ、しかもこの傷を手当てする借財も不調に終った米沢藩では、その年の暮に、奉行、御中之間年寄があつまって評議をひらいた。  評議の中身は、言うまでもなく危機に追い込まれた藩の経済をいかに建て直すかということだった。長年資金を援助してきた金主たちが、そろってあてに出来なくなったとすれば、あとは国内の乏しい収入をやりくりして、何とかして藩政を切り回して行かなければならない。  評議の座の出席者は、そのことについて長長と議論したが、そういうことが出来るのかどうかは誰にもわからなかった。確信をもってこうすれば出来ると発言した者は一人もいなかった。しかし評議は、最後には慎重な口調ながらも問題の核心に迫る発言が多かった志賀八右衛門祐親を御内証係(財政責任者)にえらび、志賀にやりくりの予算化をゆだねることを決めて散会した。  評議が終ったのは深夜だった。しかし一応の区切りをつけたものの、志賀に大役を押しつけてそれで安心と思っている者はいなかった。そして志賀自身も、出席者の中でただいまの藩の大勢をもっともよく把握しているのが自分らしいということは認めざるを得ないとしても、御内証係に任ぜられたことを決してよろこんではいなかったのである。  この日の八ツ(午後二時)ごろから日没まで、米沢城下にはめずらしく冬の日差しがさしかけた。そのために雪の道は夜に入って凍りつき、すべりやすくなった。提灯の光で足もとをたしかめながら城をさがる人人の顔は、一様に重くるしく沈んで見えた。  年が明けて天明七年と変った三月三日、治憲は餐霞館《さんかかん》の居間で、明日江戸に帰るために挨拶にきた江戸家老色部典膳|至長《のりなが》と会い、藩主治広をはじめとする江戸在住の人人に対する伝言を申しふくめた。  色部至長は、さきの七家騒動で知行半減、隠居閉門の処分をうけた色部修理照長の跡継ぎで、昨年七月に、江戸家老中条|至資《よしすけ》が奉行に転じたために空席となった江戸家老に任ぜられた。今度の帰国は、昨年暮の経済評議にもとづいて、御内証係志賀祐親が作成した経済再建策を評議する会議に加わるように呼び返されたのだった。  色部が帰ったあとに、今度はやはり明日出府する志賀祐親が、挨拶のため餐霞館にきた。治憲は志賀を書斎に呼びいれた。  八右衛門と治憲は呼んだ。 「このたびの使いは大役だが、発議者であるそなたでなくては、弾正|大弼《だいひつ》どののお質《ただ》しに十分には答弁出来まい。ごくろうだが行って参れ」 「はあ。何とか無事にご承認いただけるように、努めて参りまする」  志賀は答えて、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》をぴくぴくと動かした。志賀は国元の評議をもとにまとめた再建策と歳入出の組立て案を持って、藩主治広に説明に行くのである。  はやくも緊張しているようにみえる志賀の青白い顔をじっと見ながら、治憲は言った。 「そなたがまとめた再建策は思い切ったものだが、弾正大弼どのは賢明な方だ。説明すれば、なぜそのような破格の再建策が必要かを理解されるだろう。案じることはないぞ」 「仰せのごとくでござれば、まことにありがたく存じまするが、ただ再建策の骨子は、大省略、大倹約でございまして、事の性質上二、三の項目につきましては、お館さま初入部の以前に手をつけていただかなくてはなりません。これも頭痛の種でござります」  と志賀は言った。  志賀がまとめた藩再建のための経済政策は、藩の収入と支出を従来のおよそ半分と見積もる、徹底した緊縮財政を基礎としている。外部からの資金導入がまったくあてに出来ず、国内にある物を掻きあつめて財源とするしか方法がないとすれば、まず真先にやらなければならないのは、藩政の仕組みの簡略化とそれによる諸経費の削減である。そっちをぎりぎりまで削って、その上で歳入歳出の予算を組まなければならない。志賀が評議の席に提出した歳入歳出の予算は、そういうものになっていた。  藩政の仕組みの簡略化といっても、一役職の廃止から参勤の行列の簡素化まで、内容は多岐にわたるが、簡略化とこれにともなう経費の削減ということでは、志賀は自分の言い分を通して大鉈《おおなた》をふるったといってもよい。  たとえば志賀が取り上げた参勤の行列の簡素化の場合は、これまで聖域あつかいされてきた上杉家の御家風、べつの言い方をすれば、この藩に抜きがたく存在する大国意識に、腕をつっこんで掻きまわしたといった感じのものだったが、志賀の発言の背後にあるものは崖っぷちに立たされている藩経済である。  志賀の説明を聞いて顔を引き攣《つ》らせる奉行もいたけれども、表立って反対する声はなく、志賀がまとめた経済の建て直し策は承認された。今後の米沢藩はこれで行くと、評議は決定したのである。だが不安がないわけではなかった。諸経費を削りに削り、国内の換金可能なものは籾ひとつぶも見のがさずに収入に計上して、歳入歳出の予算を組み上げてみたものの、志賀本人にしてもそれでうまく行くと自信を持つまでには至らなかった。  算勘の数字の中には魔物が棲んでいる。支出は何をしなくともすぐに膨れ上がるけれども、入金の方は手をつくしてもとかく不足勝ちになり、歳入歳出の均衡を破ろうとするのである。それだけでなく、志賀が提出した予算案には重大な欠陥があった。歳入総額三万百十八両余、歳出総額は二万三千九百三十七両余で、差引六千百八十一両の残金が生まれる。  志賀はこの残金は、諸金主に対する借財の年賦償却金にあてるものだと説明したが、問題はそれで償却金が全額返し切れるのではないということだった。このほかに、返し切れない年賦償却金三百十二両、前年未済の償却金九千八百両余、計一万百十二両余が予算の外に残ったのである。  その点を追及された志賀が、つぎのように答弁したことが治憲の耳にとどいている。  不作年の農民を、これ以上しぼっても鼻血も出ない。町人たちは出すべきものはすべて差し出して、日日の暮らしを維持するのに懸命である。となれば、最後の責めは領民から取り上げる御取箇《おとりか》(年貢)によって暮らしを立てている家中藩士が負うしかない、と志賀は述べた。つまり予算の外に残った年賦償却金の返却にあてる金がどこからも出てこないときは、家中藩士がこれを負担するしかないというのである。  志賀のこの答弁を聞いて、評議の席はいっとき騒然となったが、それもすぐに静まったとも、治憲は聞いている。ほかに財源とすべきものが皆無の状態では、結局志賀の言うようにするしか方法がないことがあきらかだったからである。  しかし御取箇で暮らしを立てているといっても、馬廻、五十騎、与板という、いわゆる三手組以下の家中の大半は、その乏しい収入を内職で補って暮らしているのが現実である。志賀の答弁は承認されたものの、この決定は評議の空気をいっそう重くるしくするものだった。  そういう紆余曲折があった末の結論を持って、家督を相続したもののまだ初入部も済んでいない藩主に会いに行く志賀の気の重さは、治憲にも察しがついた。しかも志賀が言うように、再建策の全体は治広の入部を待って公表されるものだが、一部はその以前に藩主名で発令してもらう必要があった。元締役場の廃止、侍頭、御近習頭、宰配頭の騎馬通行の停止、供廻りの削減、諸公子、御部屋方の御通行時は駕籠を廃して歩行とする、江戸御留守居役三名を二名とするといった項目である。  志賀の愚痴に対して、治憲はそれはやむを得まいと言った。 「決まったからには一日もはやい実行がのぞましいという側面が省略にはある。そのあたりは弾正大弼どのも心得ておられるであろう。ただ……」  と言って治憲は、志賀の顔をのぞきこんだ。 「初入部の行列のことだが、弾正大弼どのは生まじめな方ゆえ、行列の簡素化ということを申せば、かならず初入部の行列から実行に移されるに違いない。このあたりのことについて、そなたはどのように考えておるかの」 「されば……」  と言って、志賀祐親はくるしげな表情をみせた。 「そのことのご判断は、お館さまにゆだねるべしというのが評議の大勢でございました。しかしそれがしは、それがし一己《いつこ》の意見として、初のご入部の行列からご省略があってしかるべしと申し上げておきました」 「ほほう、そのわけは?」 「今度のご省略は藩はじまって以来のことと相成ります。そして、省略の正否はこのあとのわが藩の命運を決めることとなりましょう。さればこそ、お館さまにはご入部のはじめから簡素化のお手本を国内にお示しねがいたいと思考した次第です」  治憲は黙黙とうなずき、少ししてそれもひとつの考え方であると言った。そのあとは雑談になり、最後に治憲は、上府の一番の目的である藩主への再建策の具申が済んだあとに、江戸の金主三谷三九郎らに会って、借財の償還を低利、三十五年賦という形で話をまとめてくるようにと命じた。 「色部と同道して、辞を低くしてたのみこむのだ。もう金は借りぬという気色をちらとでもみせてはいかんぞ」  治憲は懇懇と言いきかせ、帯ひと筋をあたえて志賀を激励して帰した。  治憲は縁側に出て首筋を揉んだ。首から肩にかけてめずらしく筋肉が凝っていた。志賀との話は決してたのしいものではなかったが、そのせいで肩が凝ったということはないだろう。ただ、話している間に何か気がかりなものが頭の隅にちらついていたような気がする。  南に面している書斎の縁側には、昼近い春の日差しが燦燦《さんさん》とふりそそいで、まぶしさに治憲は目をほそめた。庭の奥を流れる泉水が、一箇所だけ強く日を照り返している。泉水の左手奥にある桜の木のつぼみはふくらみ、あと十日ほどもたてば花が咲きそろうのではないかと思われた。  小さな幸福感が治憲をつつんでいた。春になって春の日差しがふりそそぐ。そのごくあたりまえのことが、何事にも代えがたいしあわせのように思えるのは、昨年の不作がまだ念頭にあるからだろう。  ──今日あつまる者たちと、この幸福感をわかち合いたいものだ。  と治憲は思った。今日の午後は十人ほどの家臣を呼んで、曲水の宴をひらくことにしていた。呼び出されている者は香坂昌諄、莅戸《のぞき》政以《まさもち》、浅間忠房、降旗忠陽、神保綱忠《じんぼつなただ》といった気のおけない者たちだが、中には三俣吉年のように、かつて小国郷の御役屋将からのち治憲の正室となる幸姫の御傅役に転じ、そのあと御中之間詰に任ぜられている変り種もふくまれていた。  風もなく、日はあたたかで曲水の宴の遊びには、この上ない日和だと思われた。しかしそう思ったのはわずかな間で、治憲の気持は江戸に行く志賀祐親にもどった。  ──八右衛門の申すことは理に適っている。  藩の舵取りは、志賀にまかすほかはない。そう思ったとき、ふともつれた糸がほどけるように、志賀と対話しているときにうかんでは消え、うかんでは消えした気がかりなものが正体をあらわしたのを感じた。  外部から資金を入れることが絶望となったいまの藩に出来ることは、掻きあつめることが可能な財源に見合うだけの支出で、藩を運営して行くことでしかない。それを自明のこととして、志賀はその運営費をこれまでのおよそ半分と見積もったのである。  つまり外部からの借財がなければ、表向き十五万石の藩の国力はせいぜい七万石から八万石程度のものであると見きわめたことになる。うすうすは気づきながら、誰も触れることを好まなかった藩の実態を、志賀は白日の下に晒したのだとも言える。  しかしその判断の裏には、もはや見てくれや虚栄のために藩の体裁を飾るゆとりはないという、志賀の強い主張があるようにも治憲には思えるのだった。もっともそれは、言ってしまえばごくまっとうな、理詰めの結論だった。これに対して反対論を述べることは、おそらく何人《なんぴと》たりともむつかしい。だから、藩の運営は志賀にゆだねるしかないのだ。  ──しかし、いかにも華がないの。  と、いま治憲は思っているのだった。それが気がかりの正体だった。  竹俣当綱、莅戸善政を中心にした改革が、天明三年の大凶作の一撃を受けてほぼご破算となり、自身も現職から身を引くというときにも、莅戸善政は治憲の身辺にあたたかみのある空気を残して去った。  その不思議なあたたかみは何かといえば、まだのぞみはあるということだったように治憲は思う。藩はいまは疲弊している。しかしいつかは枢要の地位に人を得、策のよろしきを得て、藩はついに繁栄をむかえるだろう。善政はそののぞみを、治憲の胸のうちに残して行ったのである。  志賀祐親はその人であろうか。そうは思えなかった。志賀の立てた藩再建策は、策のよろしきものだろうか。それもそうとは思えなかった。理に適ってはいるが、志賀の再建策からつたわってくるのは冷えびえとした感触である。志賀は藩を袋小路から抜け出させようとして、かえって一層深い袋小路へみちびこうとしているようにもみえた。  ──国内ににぎわいをもたらすような、新しい策がないからだ。  竹俣当綱の漆、楮、桑の三木植立てには、壮大な夢があった、と治憲は思う。いまふり返ってみれば大言壮語に似た若干のいかがわしさがあったものの、十五万石の表高を実質三十万石に変えるという構想には、聞く人をふるいたたせるものがあったのだ。  だがそれを言えば、志賀祐親は冷静に反論するだろう。財源がないと。これに対して、治憲もまた一言もなかった。  うしろで小姓の声がしたので振りむくと、居間との境い目に跪《ひざまず》いた小姓が、昼飯を書斎にはこばせるかとたずねていた。 「いや、奥に参ろう」  と治憲は答えた。  藩主上杉治広の初入部の行列が、その年の五月二十六日に国元に到着した。  新藩主初のお国入りの行列は、通常の参勤の行列よりひと回り豪華で美美しいのが慣例になっている。その行列を迎えながら拝見しようという人人、家中の者たちから遠近の領民の群が、その日は城下町の郊外から市中の道道まで溢れた。  しかし行列の先頭が姿をあらわしたとき、奉迎の人人の間に異様なざわめきがひろがった。むかしの行列は、先頭が目の前を通りすぎても後尾は後方の村に隠れてまだ見えないほどに延延とつづく大行列だったのである。だがいま近づいてくるのは、思いもかけず簡素な行列だった。行列の先立ちを勤める本|手明《てあき》、新手明の扶持方につづく百挺鉄砲の者、御弓組の者はもちろんのこと、最後尾で行列の押さえを勤める供奉の家老、表用人、奥取次、行列の前後に配置される騎馬物頭、槍、鉄砲はすべて省かれ、規模からいえばこれまでの中行列を残すだけというのが、この晴れの日の新藩主の行列だったのである。  以前は武具の間に御道具をおさめる桐油籠がいくつも担がれ、うつくしく彩色された小道具類や傘なども捧げ持たれて、奉迎の人人はそういうものを拝見するのもたのしみとしていたのであるが、今度の行列からはそれらの御道具類も姿を消していた。行列が通りすぎると、人人は嘆声を残して散って行った。  初入部にともなう恒例の祝賀の行事が一段落すると、藩では藩主治広の出座を仰いで、経済の建て直しをめぐる正式な評議を開いた。もっとも評議の中身は決まっていて、藩の運営を従来の御家風のおよそ半分の費用でまかなうことを目的とすること、今後は外からの借財を一切もとめず、国内の歳入をもって支出をまかなうことの二点が柱である。  この基本政策に従って、御堂、諸神社の祭祀料の削減、各御殿のお附き役、奥御殿、お住居の仕切料の減額、武芸所の廃止、学館の定詰勤学生《じようづめきんがくせい》を半分に減らす、提学神保綱忠を休職させる、籾代官の役職を解除する、樹芸役場などの産物役所、郷村出役、廻村横目等の役所、役職を休止するなどの措置が承認された。  武芸、学問の振興といった藩の将来にかかわる基礎的な施策は、不急の出費として狙いうちされ、また樹芸役場、郷村出役など、竹俣当綱、莅戸善政らの改革政治から生まれたもろもろの産業振興策も不振を理由に否定されたことになる。さきにも述べたように、志賀祐親が組み立てた歳入歳出予算に盛られた木蝋収入は五百六十両余にすぎなかった。  また鉄砲御役筒の役料廃止、通常の褒賞金の削減などは、家中の暮らしを一層くるしくするものだった。  この評議の席で、藩主治広はただ一点、予算の不足を家中から石掛け出金でまかなうことについて、強く難色を示した。日常身の回りの費用を節約せよという要請はいかようにも忍ぶべし、しかし暮らしにくるしむ家中藩士からの再三の石掛け出金要請には堪えがたいものがある、と治広は述べた。  これに対し奉行、御中之間年寄ら、評議に出席した執政府の人人は、つぎのように答弁した。金主に対して無情の永年賦償還を押しつけ、かれらの胸に怨嗟の心を残したからには、すでに藩の退路は絶たれたというべきである。  このようなときに御代替りにともなう幕府の手伝い普請の下命があるときは、わが藩の前途は予測しがたい苦難に見舞われることとなろう。家中藩士にこの上の石掛け出金をもとめるのは、苛酷この上もない措置には違いないが、わが身の苦難はわが身で処置する覚悟が必要であり、家国の安危には代えがたいことを説き聞かせるほかはない。  執政府の一致した意見具申に、治広はついに折れて、六月二十四日に高家衆、侍頭、宰配頭、三十人頭、物頭を城に呼び出して、石掛け出金の要請のやむを得ないことを説明したあとで、当年から三年間、家中藩士に百石につき二両の出金を命じた。家中の暮らしは、これによってさらに一段とくるしくなったのである。ともあれ、志賀八右衛門祐親の経済建て直し策は承認され、米沢藩は未曾有の緊縮政治に突入することになったのである。その成否は、まだ誰にもわからなかった。  その年の秋、八月二十四日に、治憲は実父秋月長門守|種美《たねよし》の病気を見舞うために出府した。種美の病気は五月末ごろに伝えられ、治憲は出府して見舞いたい気持が募ったが、折からの藩の大緊縮政治である。費用を考えて長く逡巡した。  藩でも事情を知って内内で評議を重ね、その上大殿重定、お館治広も出府、お見舞いをすすめたので、二十四日の江戸到着となったのである。治憲は念願の病父との対面を果し、以後は連日種美が臥せっている長者丸の高鍋藩下屋敷に通って看護につとめたが、この間に思いがけないことが起きた。  九月十五日に、治憲は江戸城中白書院の間に呼び出されて、将軍家斉からじきじきに年来の国政の運営をほめられたのである。家斉はまた治憲の病気も気にかけていて、病気を押してよく登城した、なおゆるゆる保養をいたせなどという言葉もあった。去る六月には白河藩主松平定信が幕閣入りして老中首座を勤めているので、家斉のじきじきの褒賞は、定信の推奨によるものかとも思われた。  この日は将軍が奥に去ったあと、さらに閣老列座の中で松平周防守から、隠居するまでの国政のあり様が格別であった、今後なお家政に厚く心添えをするようにという将軍家の書面と紋付羽織を拝領したので、治憲は思わぬ面目をほどこすことになった。  しかしこのあと老中、若年寄に御礼の進物を贈ったりしたので、今度の褒賞は予想外の出費にもなった。祝いごとが済んでから治憲は、かねて気にかけていた江戸の金主三谷三九郎と三谷家の手代を藩邸に呼んで、羽織などをあたえ、饗応して帰すなどした。そうこうしているうちに実父秋月種美が死去したので、治憲はねんごろに喪に服したが、十一月になって国元から大殿重定の病気を告げる早飛脚が到着したので、急いで帰国した。      三十三  治憲は空をながめていた。近年はわずかなひまが出来ると、こうして空模様をみたり、風にふくまれている湿気をじっとはかったりしていることがある。  若いころにはおぼえのなかった癖だから、おそらくは天明の大凶作以後に身についたものなのだろう。凶作にいかに対処するかで為政者、ことに藩主は、藩主たる器の如何《いかん》を問われるのだと治憲は思っている。あの災害以後天気の変化に敏感になったのはそのあたりに理由があるかも知れなかった。  襖の外で、中殿さまと呼ぶ小姓の声がした。治憲はいちめんに曇ってはいるが、さほどくらくはない空から目をはなして障子をしめ、書斎を出た。表の間に行くと、広い座敷にぽつんと坐っていた執政の広居忠起と中条|至資《よしすけ》が治憲をむかえた。  餐霞館《さんかかん》の表の間は治憲が公務に使用している場所であり、執務部屋と人を引見する部屋になっている。部屋は上段ノ間、二ノ間、三ノ間の区画、上段ノ間、二ノ間の区画、御広間の三区画にわかれ、ほかに御広間の反対側に、御手明番所をはさんで御座敷がある。二人の執政がいるのは執政部屋に隣接する二ノ間だった。  平伏した二人に頭を上げるように言ってから、治憲は読んだかと聞いた。二人の前にはそれぞれ一通の諭告書がおかれていて、中身は治憲が書いた「夏の夕」と題する諭告と、もう一通はその写しである。両執政は半刻(一時間)ほど前に呼び出されて、諭告を読むように言われていた。 「つつしんで拝読つかまつりました」  と広居忠起が言った。 「まことに仰せのとおりにござります。お諭しを持ち帰って、参政(御中之間年寄)ともどもご趣意とされるところを胸にきざみ、日日の勤めにあたる所存にござります」 「頼んだぞ」  と治憲は言った。  諭告「夏の夕」は、現行の藩政の欠陥を指摘し、政治の実務にあたる者たちの奮起をうながした文章だが、ただそれだけにとどまるものではない。もっと深刻な内容をふくんでいた。  だが広居がそこまで察知出来たとは思えなかった。広居忠起は、江戸家老を勤めた時代から大勢を取りまとめることに格別の才能を発揮した。広居の長所といえる。執政となってからも、この才能にはむしろ磨きがかかり、藩が困難な状況にありながら表向きはさしたる破綻もみせずに済んでいるのは、広居の懸命の周旋に負うところが大きいと言わねばならない。  だが広居の理解はひろく行きとどいても、深くはとどきかねるところがある。やむを得なかった。ただ、治憲が「夏の夕」のなかで暗示した藩の危機に、執政である広居がついに気づかないときは、やがて取りかえしのつかない悲劇が到来するだろう。事態は思ったよりもはやくすすみ、もはや穏便に取りまとめて藩を保つぐらいでは済まなくなる。  豊前と治憲は中条至資を呼んだ。 「そなたにもとくに申しておこう。図書が申したとおり、その文書は持ち帰って、参政ともどももう一度熟読いたせ」 「かしこまりました。そのようにいたします」 「特に書き記してはおらぬが、これは昨年暮の話のときに申した、わしの答弁書だ。その気持を汲み取ってもらいたい」  中条の顔に、一瞬驚愕の表情がうかんだ。だがその表情はすぐに消えて、かわりに中条の顔はうすい朱にそまった。 「暮の話とは何だ」  広居が低声に、しかし鋭く中条にたしかめたのが、上段ノ間にいる治憲に聞こえた。二人の執政は、今度は治憲の前もはばからず、顔をよせてひそひそと言葉をかわしている。それでも広居の顔には、まだ不審が解けないといった表情がうかんだままだった。事態を把握しかねているのだ。  ──まさか……。  あの一件を広居が知らなかったということはあるまい、と治憲は訝《いぶか》しんだ。聞いたが忘れたか、いずれにしろ中条との間に、あの件に関しては認識の喰いちがいがあるらしいと思いながら、治憲は興味深くなにやら揉めている二人を眺めた。  去年の暮、餐霞館を中条至資がたずねてきた。一人だった。時刻が朝の五ツ(午前八時)前ととんでもなくはやかったのは、そのころ治憲が、連日朝の五ツから夜九ツ(十二時)まで、寸分のひまもなく偕楽館で病床についている大殿重定の看病についていたからである。  中条は懐からうすい冊子を取り出した。あるいはお聞きおよびかも知れませんが、中殿を批判した匿名の書物が出ました、と中条は言って冊子を治憲にわたした。 「なにはともあれ、まずお目通しを」 「どれどれ」  と言って、治憲は冊子を受け取った。表には「夢中の嘘言」という題名が記されていた。  数十年来、寡君が家中の知行、俸禄の半ばを取り上げてきたのは、家臣の身の肉を食してわが命を養ってきたというべきであり、また衣服にしても臣下の衣服を剥いで寒暖をしのがれたと同じことである、と冊子は述べていた。  ほかにも職人、日傭《ひよう》の払いも半ばしかあたえず、市店の物を買ってその代金を支払わないのは、国君の身として喰い逃げに類することをされているというほかはない、とつづけたあとに、匿名の冊子は最後につぎのような嫌味なことを述べていた。「寡君文学に長じその徳を修め申され候とも、この衰世をすくひ申されず候ときはその用これ無く候」  ほう、ほうと治憲は言った。書物を閉じて中条を見ると、中条は待っていたように治憲の視線をとらえて、もってのほかの言い分でござりますと言った。中条の顔は赤くなっていた。はじめて読んだときの怒りと困惑が、胸に甦ってきたというところだろう。 「ただいま、何者がかように不遜な文章をしたためたかを調べております。突きとめましたならばきびしく糾問して、重き罪科を加えるつもりでありまするゆえ、しばらくのご猶予をねがいまする」 「いかん、いかん」  治憲は大きな声を出した。 「それでは話の方角が違うだろう、豊前。若いそなたが事をさように小さくとらえてはいかんぞ」  治憲はもっとそばに来いと言って、中条を近くに招きよせた。 「この男の言い分は、なるほど無礼ではあるが間違ったことを言っているわけではない。わが藩では、従来まさにこのとおりのことが行なわれてきておる」 「はあ、見方によればそのとおりかも知れませんが、しかしかような、中殿に対する悪意に満ちた文書の出現は前代未聞……」 「まあ、もう少し聞け、豊前」  と治憲は言った。 「そなたらは知行取りゆえ、暮らしにまだ多少のゆとりはあろう。しかし三手組以下の者は、内職をせずにすむ家はめずらしく、武士の体面をととのえるのに必死だと聞いておる」 「そのことはわれらも十分承知しております」 「ゆえにだ。こういうわしに対する悪態も……」  治憲は取り上げた冊子を、指で軽くたたいた。 「藩政改革はどこに消えたのか、この国は小さく身をかがめたままで亡ぶのかと問いかけておるのだとは思わんか。家中の者がひとしくかかえている不満と懸念だ。そのいらだちを文章にすれば、このようなものになろう」  中条豊前はうつむいて、じっと考えこむ顔いろになった。わしにも責任がある、と治憲は言った。 「十分に考えて、いずれそなたらにこれに対する答えを示そう。犯人さがしなどは無用なことだ。不問に付すがよい」  その答えが、いま手わたした「夏の夕」だと、治憲は豊前に言ったのだった。  みじかい私語の間に、広居と中条もそのことの重味を理解したらしかった。居住まいをただして広居が言った。 「頂戴いたしました御《おん》諭告の重味は、しかと胸にきざみましてござります。われら持ち帰った上は、再読三読し、ご指示に添うべく相つとめまする」 「そうしてもらいたい」  治憲は言い、口調をあらためて、ところでとつづけた。 「志賀八右衛門に御内証係をまかせてから一年たったが、少しもよくならんの」 「はあ、仰せのとおりでござります」  と広居が言った。広居の表情はくらかった。 「中殿にさように指摘されると、執政の職にある者としては胸が痛みますが、しかし事はまだはじまったばかり。いましばらく志賀に猶予をあたえられてはいかがでしょうか」 「むろん、そうしてやりたい。志賀は財政建て直しに五年をみておる。一年で結果をどうこう申すのは酷な話だ。また志賀の策は失敗したと決めてしまうのは、いかにもはやかろう。しかしながら見のがしならぬことがある」 「は? 何事でござりましょうか」 「その方らは気づいておらぬか。近ごろ国内のあちこちに、亡国の相が見えてきておるぞ」  二人の執政はぎょっとした顔で治憲を見た。 「大げさなことを言うと思うかも知れんが、わしの目にはそう映る。その方らも知るとおり、近年わしは遠馬に名をかりて気楽に城の外に出るようになった。隠居してよかったと思うことのひとつだ」 「………」 「ところが今年になって目立ってきたことだが、城下にも村村にもはなはだ活気がない。いわんや藩の建て直し策に協力して懸命にはたらこうなどという意気込みは、どこにも感じられぬ。村はともかく、城下の町町はにぎやかではないかと申すかも知れんが、人がふえたように見えるのはその日暮らしの日傭とりがふえたので、その者らは、仕事がなければ昼酒を飲んで路上で無駄話をしておるという話だ」 「事情の一部はわれらもつかんでおりまして、いずれ何らかの処置が必要と考えております。日傭とりの多くは、村をすててきた百姓どもにござります」 「処置と申しても、なまなかのことでは片づくまい。根本は庶民は田畑を耕すだけでは喰って行けぬのに、ほかによろこんではたらくような仕事がないことだ。このままでは、藩は少しずつ坂道をころげ落ちて行くばかりではないかと思われる。そうだとすれば、志賀に時を藉《か》すゆとりはさほどにないと思わねばならんぞ」  二人の執政がくらい顔を伏せて下がって行ったあと、治憲は上段ノ間に残ったまま考えにふけった。  諭告書「夏の夕」の中身は財政についての諭告である。それは当然だが、その中でとくに治憲が指摘したのは、予算に計上されている御備え金、三千両、不時御備え金二千両がいまだに入金されていないこと、および金主に対する未済の償却金九千八百両が、家中から増借りをしたにもかかわらず手つかずで残り、その結果返済すべき償却金は一万両を越えたことの二点だった。このほかに、年賦返済の去年分がそっくり残っていて、治憲はこの事実もきびしく咎めている。  御備え金は幕府の普請手伝いなど、莫大な出費が予想される事態が起きたときにそなえて、天明七年から亥年までの五カ年間に一万五千両を積立てることを目標にした預金計画で、すでに三千両が積立てられたが、今年の積立て分が滞っていた。また不時御備え金は、普請手伝いのように使途が明白でない突然の出費、たとえば昨年治憲が将軍家から賞賜をうけたあと、老中、若年寄など幕府要路の人人に礼物を贈ったように、思いがけない費用をまかなうために必要な備金だった。いざというときにこの用意がなく、金主と不仲で金を借りることも出来ないとなれば、米沢藩は天下の嗤《わら》いものになりかねないのである。  もちろんいますぐ必要な金ではないが、藩としての体面をたもつためには、この上なく重要な意味を持つ積立て金である。事情によっては藩の浮沈にもかかわりかねないその金の準備を、いまの執政、参政が不急の積立てと軽くみている気配があるのを、たとえくるしまぎれの処置だとしても、治憲は腹に据えかねた。  また治憲は、諭告の中で力をこめて金主との交渉のありかたを論じたが、藩の係り役人が、金主との交渉にあたってただただ目前の窮地をのがれるために一寸のがれの口をきき、言うことはそのときそのときでまったく違うという誠意のなさを指摘し、さらには金主との関係が悪化して交渉がとだえると、それをさいわいに支払いを先に繰りのべるという悪辣なことまでしていることを取り上げて、金主に対するこのような態度は、信義にもとる恥辱の上の恥辱というものだと述べた。  治憲がとくに金主との交渉について、声をはげますといったきびしい言い方をしたのは、藩の経営は、資金を貸す金主なしには成り立たないと思っているからである。それは金主から金を借りることをやめ、出費を切りつめて自力で藩を経営しようとする御内証係志賀|祐親《すけちか》のやり方をみて、いよいよはっきりした。  出費を切りつめて借金を返して行くことだけでは、個人はいざ知らず国家は立ち行かない。国家には産業のにぎわいが必要である。そのにぎわいで庶民の懐と国の財源を太らせ、借金も返して行くようにするのが藩政の方向でなければなるまい、と治憲は思う。  多年馴染みの金主から借金をするのは恥ずかしいことではない。その関係を通じて金主にも利益がもたらされるような方法を講じればよい。どこの藩でもいまはそうしている。農は国の基本だが、農中心の藩経営はもはや成り立たなくなった。外から資金を導入して、産業をおこす、そういう時代になったのである。竹俣当綱や莅戸《のぞき》善政に見えていたことが、志賀には見えないのだろうかと、治憲は訝しむ。  ──いや。  賢明な志賀にも、そのことは見えているだろう、と治憲は思った。ただ藩政のお膳立てをする御中之間年寄という役職にいる人間としては、志賀は小心なところがある。新しい藩の経営を考えたとき、金主に喰らいついて資金を導入する道をえらばずに、巨大な借財を生むもとである金主とのまじわりを断ち、国家の規模を小さくまとめて危機を乗り切る方向をえらんだのだ。  だが、そのやり方が失敗だったことは、残る借金を年賦払いで返すゆとりさえ持てずに、日日の藩運営に汲汲としていることで明白になったといってよい。  ──志賀にまかせておけば……。  やがては返し切れない年賦返済分の借金が山とふくれあがって、藩は息の根をとめられることになるだろうと治憲が思ったとき、小姓の声が耳に入った。  二ノ間の入口に坐っている小姓は、さっきから何度か声をかけたらしい顔色で治憲を見まもっていたが、主人がやっと自分に気づいたのをみて、時刻が遅くなりましたが、遠馬に出かける支度をいたしましょうかと言った。  おう、おうと治憲はつぶやいた。広居と中条に会ったあと、近くの村を見廻ってくる予定だったのだが、話が長びいて外に出る時刻ではなくなっていた。 「これから出かけるのは、ちと無理であろうよ。またの日といたそう。それよ……」  治憲は思案したが、すぐに心を決めた。 「いまから大殿を見舞うとするか。供の用意をいたせ。おう、それから用意を申しつけたら、そなた書斎にきて着換えを手伝え」  時刻は七ツ(午後四時)を四半刻ほど過ぎたはずだが、外に出てみると、三ノ丸の上の空はまだあかるかった。空は相変らず曇っていたが、その雲の中にかすかな日の光がにじんでいるのは、日が西に回り、その方角から雲が薄くなってきているのかもしれなかった。  三ノ丸から二ノ丸御殿偕楽館のある区域に入ると、うすあかるい空は繁り合う樹樹の枝葉で少しばかりくらくなった。その下を、治憲はゆっくり歩いて行った。供が二人ついていて、一人は提灯を持っている。帰りが遅くなる場合にそなえたのである。  ──明日は晴かの。  と治憲は思い、いきおいよく繁っている樹樹の枝葉を見上げた。  ここ数日、梅雨の前触れかと思われる雨が降りつづいたり、雨が上がった翌日は、にわかに狂暴なほどに暑い晴天になったりしているが、大まかにいえば天候の推移は順調だった。今年は天気を心配せずとも済むかも知れぬ、と治憲は思っている。しかし、もちろんそれは確かなことではなく、治憲は胸の奥で、祈りに似た気持でそっとそう思うだけである。  ──せめて志賀が御内証係をつとめている間は、天気が順調であってくれればよい。  と治憲は思った。志賀は藩の台所のやりくりに四苦八苦している。この上に不作だ、凶作だという災難がかさなったら、綱わたりのような志賀の政策は収拾がつかなくなるだろう。  そう思っているうちに、考えは自然に二人の執政とかわしたさっきの会話にもどった。治憲はそれとなく志賀の政策を見直すべき時期がきていることを示唆し、広居と中条の両執政はそのことを理解したかに思われたが、しかしと治憲は思っている。  ──では、志賀の政策を修正し……。  もしくは廃して、それにかわるいかなる政策をもとめるのかということになると、話はそう簡単ではなかった。治憲の脳裏には忘れがたいひとつの記憶が刻みつけられている。記憶はそう古いものではない。  去年の正月に、江戸屋敷三邸では、勤務の家士に支払うべき扶持米の手当てをつけられず、日割りで米を支給するということが起こった。米の値段が高騰して、まとめて買うことが出来なくなったのである。それが正月のはじめのことであり、同じ月の二十三日には、三邸の米不足を補うために、急遽国元から陸路二十六駄(五十二俵)の米を送ってしのいだ。  しかしその後も扶持米の欠乏はつづき、四月の末には日割り支給の米を買う金も底をついたので、縁戚の尾張家に借米を申し入れたが、四年前の貸し米をまだ返してもらっていないという屈辱的な理由を盾に、ことわられた。やむを得ず新婚の親戚土佐山内家に懇望して米六百俵を借り、急場をしのいだのだが、お館治広としては忘れることの出来ない恥辱を味わったことになるだろう。  そして藩主治広が初入部で在国していた六月末ごろに、米沢の家中の間に江戸屋敷ではまたしても飯米に窮し、江戸勤番の者たちはいまや飢餓に瀕しつつあるといううわさが急速にひろがった。このうわさをめぐって、江戸勤務の者を送り出している家家では騒然となったが、さきに述べたような今年に入ってからの三邸の米不足を考え合わせれば、留守宅の心配は当然のことといえる。  事態を憂慮した治広は、江戸表に急使を走らせた。しかしその結果は、うわさのような米不足の事実はなく、上屋敷、中屋敷、下屋敷ともに、勤務の者はつつがなく暮らしているというのが、帰国した急使の報告だった。  藩主治広は、この報告にもとづいて諸役の長あてにその事実を告げ、今後とも飯米は不足せぬように手当てするゆえ、在番の家中の留守宅の者は安堵するように、家家に通達せよという布達を出した。前代未聞の布達だった。  治憲の胸に残っているのは、このときの出来事である。いまは特産品で潤っている少数の藩をのぞけば、諸藩ともに経営にくるしんでいる時代である。貧しく、その経営は辛うじて商人たちからする借金で支えられている。  ──だが……。  と治憲は思うことがある。藩主がこのような内容の布達を出さざるを得ない藩がほかにあろうか。わが藩の貧しさは、諸藩のなかでも例を見ぬほどに際立っているだろう、と。  この貧しい藩を安泰に保つことは、志賀にしろ、ほかの誰にしろ容易なことではない。だが、このままの状態がつづけば、藩はジリ貧に再起不能の境涯に落ちることもあきらかだった。この感想は、ときには治憲のように内に不屈の粘りを秘める人物の心をも、くらくする。  奉行から御中之間年寄まで、藩政の実際にあたる人人を叱咤激励した「夏の夕」のなかでも、治憲はふとつぎのような述懐を記さずにはいられなかった。「今日の国体上に暴戻《ぼうれい》の君なく、下に専権の臣なく、大小の有司真実に相勤め、女謁《じよえつ》賄賂の行はれ候事もこれ無く、何ひとつ他に恥ぢることもこれなく候へども、ただ嘆かはしきは勝手向きの差支へのみにて云々」  なにひとつ人に謗られるようなことはしていないのに、ただ貧しいがために人に侮られる、と治憲は述懐したのだ。まだ若かったころ、江戸の薩摩侯屋敷で行なわれた責馬《せめうま》に招待されたことがある。ほかの大名は供の近習にいたるまで美麗な乗馬袴をつけていたが、治憲は藩に大検を触れたあとなので、桟留《さんとめ》の木綿袴で出席した。  その粗末ないでたちを見て、なかには目ひき袖ひきする者もいたが、治憲は昂然としていた。若さが周囲の侮りをはね返したのである。いまに見よ、とも思った。だがあれから二十年ほどがたったいまも、藩は先行きも知れない混迷のなかにいた。さすがの治憲も、愚痴のひとつぐらいはこぼしたくなるのだ。  だが治憲は気力を失ったわけではなかった。わしが気力を失ったらこの国はどうなるかと自分を叱咤する。遠くに偕楽館の門が見えてきたときも、治憲はまだ考えていた。  ──評議をひらいて……。  いまの政策を反省し、今後のことを相談すると申して執政二人は下がって行ったが……。さほど期待は出来まい、と治憲は思った。  正月に老練の奉行毛利雅元が致仕して、執政は広居忠起、中条至資の両奉行だけだった。そして政策の立案、実施にかかわり合う参政である御中之間年寄は、長井高康、志賀祐親、降旗忠陽、北条|元智《もととし》らで、この危機を乗り切るには執政府はあまりにも弱体といわねばならなかった。  ──人がおらぬ。  と治憲はつくづく思う。藩が落ちこんだ空前の危機を乗り切るには、いまの執政府では無理だった。起死回生の策を打てる人物をさがしもとめなければならぬ。  治憲の胸の内には、そういう切羽つまったときに登用すべき一人の男の姿が思い描かれている。いうまでもなく莅戸善政だった。  だが、いまの執政府にむかって、治憲がいきなり善政を推薦することは不可能だった。治憲は藩政の実際にあたる者たちに、さまざまな示唆、忠告をあたえることは出来るが、治憲自身が先頭に立って政治を引っぱって行くことは出来ない。藩主のときでさえ、そうである。政治は執政府にゆだねて、藩主もその方針にしたがう。それが藩主の分際というものだと思っていた。  ましていまは隠居の身分である。藩主でいたころより多少物を言いやすくなったといっても、おのずから限界がある。藩主家の矩《のり》を越えてはならない。  一歩控えて莅戸善政の登用を示唆するようなことも無理だった。善政は何者かといえば、中級家臣団三手の内の馬廻組莅戸家の隠居にすぎず、かつてのように御中之間年寄でさえない。身分、家柄がすべての藩において、善政が藩政にもどっても、坐る場所はない。まして藩政を切り回すなどということは、到底無理だった。そして善政を小姓頭に登用し、側近として存分に政治の才をふるわせた治憲は隠居していて、もはやその力はない。  ──待てよ。  治憲はふと、脳裏を中条至資の顔が横切ったのを感じた。  中条も身分高い侍組だが、若いだけに物の理解も考え方も柔軟で、古い既成の型にとらわれないところがある、と日ごろ治憲はおもっている。  その中条にも、善政を登用しろ、と頭ごなしに申しつけることはむろん出来ないが、そのあたりに何らかの事態の突破口をもとめることは考えられないか。 「中殿、中殿」  供の小姓があわてて呼びかける声がした。はっと顔を上げると、考えに夢中で大殿重定が住む御殿偕楽館の門前を通りすぎるところだった。治憲は威儀をただして門にむかった。 「やあやあ、越前どの」  大殿重定は、治憲が待っている部屋にいつものようにずかずかと入ってきた。もう七十になろうとしている老人には見えない大きな身体とたしかな足どりだったが、顔色が白っぽく、声が以前にくらべて嗄《かす》れたように思える。去年の大病の名残りがそこに出ていた。  袴をさばいて坐ると、重定は生まじめな表情をつくった。 「たびたびの見舞いで恐れいる」 「いえ、急にひまが出来ましたもので、ご様子をうかがいに参ったまで。お気遣いなされますな」  と治憲は言った。 「近ごろは政務の手伝いに手を取られて、しばらくおうかがいしておりませんが、おぐあいはいかがでござりますか」 「上上の気分じゃ。そなたの看護のおかげだ」  と重定は言った。  去年の九月に、治憲は出府した。実父の旧秋月藩主長門守種美の病いが篤いと聞いて看病に駆けつけたのだが、折から藩は新しい態勢をととのえて耐乏の日日に入ったばかりである。周囲に気兼ねして出府についてはさんざんに迷った。  しかし大殿重定、在国中の藩主治広をはじめ、執政府もこの際は出費を度外視して出府するようにすすめたので、治憲は種美を看護することが出来、その死を見送ることが出来たのであった。  ところが、種美歿後の仏事や、後の始末にかかわり合ってまだ江戸に滞在していた治憲のもとに、十一月十五日米沢から早飛脚がきて、今度は大殿重定が病気となり、その病状ははなはだ重篤であると告げたのである。治憲は翌十六日、幕府に帰国伺い書を提出、許しが出るとただちに当夜中の出発をとどけ出た。十七日丑ノ刻(午前二時)前後に藩邸を出発して雪の積もる道を急行し、米沢に着いたのは十一月二十四日だった。帰城の時刻は亥ノ刻(午後十時)過ぎとも子ノ刻(午前零時)とも言われるが、いずれにしろ深夜だった。  治憲は帰城すると、旅装も解かずにまっすぐ二ノ丸御殿偕楽館に入って重定を見舞い、そのまま看病につこうとしたが、重定の再三のすすめにしたがって、その夜は三ノ丸の餐霞館に帰った。しかし治憲は翌日から翌年の二月二十六日に重定が快癒して病床をはなれるまで、じつに八十日ほどの間一日も休まずに重定の看病につとめ、しかも朝の五ツ(午前八時)から夜九ツ(午前零時)まで、時には終夜看病にあたりながら、その間治憲が睡気に襲われる様子を見た者は一人もいなかったと伝えられている。  周囲の重定の近臣、医師などは、長い看病に疲れて夜ともなるとつい睡気を誘われることが多かったので、江戸の実父の看病にひきつづき大殿を看病して寸分も油断なくつとめる治憲をみて、人人は中殿の御《おん》至誠、尋常の人間のなせることにあらずと感嘆したのであった。  しかし治憲が献身的に重定を看病したのは、養い親に孝養をつくすという道徳的な意味ももちろん含んではいるがそれだけでなく、この養父に対して治憲は格別の思いを抱いていたからである。  治憲が上杉家の家督をつぐころに、義父重定は家臣の間でも暗君と言われた。竹俣当綱などは、治憲の前でも、重定を無能の愚物呼ばわりしてはばからなかったものである。いやしくも主君に対するそういう物言いが快いはずはないが、治憲自身の心の中にも、義父がそのようなお人であれば、竹俣らの言うごとく藩政の座からしりぞいてもらうのが、米沢藩のためになるのかも知れないという思いがなかったとは言えない。  藁科松伯、竹俣当綱、莅戸善政など、藩政を改革して窮乏の領国を再生させようとする人人の意見を吸収しているうちに、治憲の胸のうちにも改革への熱意が生まれ、その思いはしっかりと育ってゆるぎないものとなっていた。われ、藩中興の藩主とならんと治憲はそのころしきりに思ったものである。貧窮にあえぐ家臣団、領民を思うと、胸が熱くなった。  だから、追われるごとく藩主の座を明けわたした義父重定に対しても、治憲はさほど同情しなかったのだ。だがそうしていわば乗りこんできた治憲を、重定は実の子のようにねんごろな態度で扱った。養子としてへだてるようなことは一切なく、その態度は治憲を養子にむかえたあとで徳千代(上杉勝熙)、保之助(上杉治広)と相ついで実子が生まれてもまったく変らなかった。  ことに忘れられないのは、安永二年に奉行の千坂高敦ら七人の重臣が改革政治の撤回をもとめて強訴したときのことである。重臣たちは撤回が聞きいれられなければ押し込めも辞さずというほどの勢いで治憲に迫ったのであった。  このとき治憲の前に仁王立ちに立ちふさがって、重臣らを叱咤非難したのが大殿重定だった。  ──もしも大殿が……。  策略を好むような腹の黒い人物だったら、と治憲はその後あの場面を思い返して胸がつめたくなるのを感じたことがあった。重定にはすでに実子が二人もいて、丈夫に育っていた。かりに重臣たちが治憲を藩主の座から引きずりおろしたとしても、後継ぎはいる。しかも重定の実子である。藩も重定も治憲を排除したところで何の痛痒も感じなかったはずである。  だが重定は自分に利のあるその種の思惑には目もくれなかった。治憲が救援をもとめるとすぐに立って重臣らの前に急行した。前藩主の雷のような怒声を浴びて、重臣らは顔いろを失い、言葉を返す者もなく城を下がるしかなかったのである。  養父重定のこうした自分に対する心くばりに、改めて気持が向くようになったのは、治憲が自分も顕孝という子を持ってからだったに違いない。父の幼名をついではじめ直丸といった顕孝は安永五年に生まれ、天明二年には現藩主である世子治広の養子となった。いわゆる順養子であるが、自分も養子として上杉家に入った治憲としては、自分の血筋が上杉という藩主家の正統を継ぐことになった成行きに、格別のよろこびを感じないではいられなかった。  養子手続きがすべて、つつがなく終った日の夜、顕孝の生母であるお豊の方と、しみじみとわが子の将来を語り合い、よろこびをわかち合ったことを忘れない。この年、治憲は三十二歳で壮年期の入口に立っていた。顕孝を治広の養子と定めるにあたって、なにくれとなくこまやかな世話を焼いてくれた重定に対して、ごく自然に感謝の気持がわくのを感じたのも、三十二歳という年齢とかかわりがなくはなかったろう。  このころになってようやく、治憲は藩政の指導者としては無能であるという重定観から解き放たれ、ものにこだわらず、享楽的であるけれども、人間として在るべき道は心得ている義父を認識したといってもよい。 「近ごろ、舞台の方はいかがですか」  と治憲は言った。偕楽館にはりっぱな能舞台があって、重定はいまも舞台に立ってひとさし舞うことを無上のたのしみとしている。  重定は初入部にあたって、文武とならべて謡曲乱舞に心がくべしという諭告を出して家中を驚倒させた藩主だが、さすがに近年は体力がおとろえて、乱舞狂いと言われた能好きもやや影をひそめていた。もっとも、だからといって舞うことをやめたわけではなく、装束、鳴り物をはぶいた仕舞《しまい》だけは変りなくつづけている。近臣に謡をうたわせ、あとは身ひとつで出来る仕舞の簡素をほめて、重定は老体には手間がかからぬこれがよいと言っていた。 「仕舞などはいたされますか」 「いや、それがの」  重定は顔をしかめるような表情をみせた。 「もの憂くて、まだ舞う気にはなれんのだ」 「それはいけませんな」  治憲は重定の顔を見た。能好きの重定のために、治憲は江戸から能役者を呼んだことがある。そんなに遠いむかしのことではない。そのときの重定のよろこびようはいまも目に残っている。治憲はいまのような言葉を聞くと、義父のおとろえを感じないではいられない。 「しかし医師たちの見立てでは、ご病気は全快して何の心配もないとのことです。季節はそろそろ梅雨、もの憂いのはそのせいでござりましょう。仕舞などは、つとめてなされてはいかがかと思われます」 「相わかった。心配をかけて済まぬ」  重定は神妙にうなずいたが、ところでと言った。 「そばにつかえる者たちの話によると、藩の新しい仕法もなかなかうまくいかぬそうだの」 「仰せのとおりにござります」  治憲は、ふだん藩政のことには無関心と思っていた重定が、突然に政治向きの話を持ち出してきたことに少しとまどいながら答えた。 「しかしながら新しい仕法に切りかえてから、いまだ一年ばかり」  治憲はさっき広居忠起に言われたことをそっくり持ち出してしゃべっていることに内心苦笑しながら、重定に言った。 「しばらくはことの行方を見まもってしかるべきかと思われます。いよいようまくいかぬと見きわめがついたそのときは、ほかの手だてに切りかえるべくよりより談合もいたしておりますので、ご心配なされませぬように」 「さようか。すると借金で藩がつぶれるようなことはないか」  治憲は笑った。 「さような心配は断じてありません。藩にもまだ人がいて、必死に建て直しにはげんでおりますゆえ、大殿には安んじてたのしき日日をお過ごしなされませ」 「うむ、安堵した」  大殿重定は大きくうなずいたが、もうひとつ聞きたいことがある、と言った。 「近ぢか幕府の巡見使が参ると聞いたが、まことかの」 「まことでござります」  治憲は、義父が今日は意表外のことばかり話題にするのでおどろいていた。幕府巡見使は、将軍代替りにともなって諸国に派遣され、各藩の藩政の状況を視察して幕府に報告する。しかもかれらは、藩政の当事者をさしおいてじかに百姓、町人から聞き取りを行なうので、困窮のどん底にある藩としては歓迎せざる客というしかないがやむを得ない。ありのままを見てもらうしかなかった。  義父はそのことを心配しているのだろうか、と治憲は思った。 「幕府より巡見使派遣の通達がありましたので、藩としては壊れた道を修理したり、防火用の天水桶を修理したり、準備をすすめて参りました。先日は郷村、城下の町町に、お使いをむかえて粗相のなきよう触れを出したばかりでござります。貧しい領国の台所をのぞかれるようで、いささか気はずかしい思いもいたしますが、下手に取りつくろうよりも、ありのままをお見せするのがむしろ藩のためかと思います」 「それはそのとおりだ。飾っても仕方がない」  と重定が言った。そして、しかしと言葉をつづけた。 「費用がかかるだろうの」 「さきほど申しましたような道普請、橋の修理、それに宿の費用……」  と治憲は言った。 「来国される巡見使の方方は御三名ですが、この方方にそれぞれ随行のご家来衆がついてこられます。総人数はざっと百名近くにもなりましょうか。幕府は巡見使の応対に藩はなるべく費用を使わぬように、かつまた音物饗応は一切無用であると申されますが、それでもかかるものはかかります」 「いかほどになるかの」 「執政府では、他藩での掛りから勘案して、ざっと二千両ほどはかかると見込んでいるようです」 「うむ、二千両……」  重定は呻いた。そして思いがけないことを言い出した。 「仕切料を削られるかも知れんの。越前どのはどう思われるか」  治憲は顔を上げた。  重定が顔を突き出すようにして、治憲を見ていた。その顔には意味不明の、強いていえば含羞を包んだような微笑がうかんでいる。治憲は思わず腹に笑いが動くのを感じた。義父重定が、藩政の行方を憂慮し、巡見使の掛り費用を心配するのは、ほかでもない藩から支給されている暮らしの費用、仕切料への影響を心配してのことらしいと見当がついたのである。  気はずかしげな微笑の奥に、意外に真剣なもうひとつの表情が窺《うかが》われて、そこに女色を愛し、乱舞に日を暮らし、美食を好む享楽主義者重定の素顔がのぞいていた。答えやいかにとこちらを窺っている顔に、正直にそれが出ている。  ──わが義父は、善人なるかな。  と治憲は思った。贅沢を好んで金を使いすぎる、と歴代の執政たちは重定を非難してきたが、治憲は目の前に不可解な微笑をうかべている義父を愛さずにはいられない。執政たちは、善良で策略を好まないという大殿重定の半面の美質にも目をむけるべきだ、と思った。 「藩が大殿の仕切料を削るなどということは、万にひとつもござりません。ご安心めされ」  治憲は太鼓判を押してやった。 「貧したりといえども、藩には二千両の不時の出費を賄うぐらいの蓄えはございます。大殿にはお気遣いなく、まずご自身の体調をととのえることに専心なされてしかるべしと思います」 「さようか、よくわかった」  重定の微笑が満面の笑いに変った。その笑顔をみると、近臣が雑談の間に耳にいれたことを、一人思い悩んでいたようでもある。壮年のころはもっと豪毅なところがあったひとだが、これも老いの証拠であろうか、と治憲は思った。  この義父に、不満のない晩年を送らせたいものだと思いながら、治憲は言った。 「湯治もお身体によろしいかと思います。赤湯あたりでのんびりしたいというお気持が起きましたときは、お申しつけがあればいつでも手配いたしますぞ」  寛政二年九月。治憲は野袴に菅笠という軽装で、野道に馬を走らせていた。供はただ一騎、御手水番の綱島頼元である。  小さな村落を駆け抜けると、二人の姿はふたたび野道に出て、八割方は取り入れが終ったがらんとした田圃の土の上に、二つの長い影が踊るようにはげしく動いた。時刻は間もなく七ツ(午後四時)になるころであろう。正面に見える吾妻連峰の山肌は黒黒と暮色に塗りつぶされて、その上に熱気を失った赤い日がぽっかりとうかんでいる。その日もじきに山陰に落ちて野はすみやかに夕闇に包まれるだろう。 「城に帰るまでに、日が暮れそうだの」  と治憲が言うと、綱島頼元は「しか、思われまする」と答えた。それだけだった。相変らずの寡黙ぶりだが、治憲は一面で頼元の口の重さを珍重していた。馬で村村を回る間、治憲は考えることが多い。供の者の寡黙は考えの邪魔にならなくてよい、とも思う。  また、さっきよりは少し大きめの村落を通りすぎた。治憲は、おとろえた日差しに照らされている家家の庭先に、すばやい目を走らせる。はやく取り入れを終って、庭に敷いたむしろの上で千歯《せんば》で稲をこいているところもあれば、まだ取り入れが終っていないらしく、年寄りから子供まで総出の人数が庭に出、稲束を家の中にはこびこんでいる家もあった。  村落を通りすぎると、その先は見わたすかぎりの田圃で、はるかむこうに、横に長く夕色に覆われた城下町が見えた。吾妻連峰の上からさしかける日の光は、城下町の上空を通りすぎて先端を無人の野に落とし、治憲たちがいる野とさらにその背後の村村を光らせている。そのために、日差しに取りのこされた町は、灰色で扁平な物の寄せあつめとしか見えない。 「中殿、あれは何でござりましょうか」  と綱島頼元が言った。振りむくと、頼元は馬上から稲田の間に点点とはさまっている荒れ地を指さしていた。あらまし取り入れが終った田圃の中に、ぼうぼうと枯草が生いしげる、それも一カ所や二カ所ではない土地が点在している光景は、稲田が虫に喰われでもしたように異様に見える。口の重い頼元がおどろきの声を発したのは、はじめてみる景色だからだろう。  治憲は手綱をしぼって馬をとめると、頼元を振りむいた。さしかける日差しに、頼元の顔半分は濃い笠の陰に隠れている。 「あれももとは稲田だ。年貢をおさめ切れぬ百姓が、田圃と家を捨てて村を出奔したゆえ、ああいうふうになっておる」  実際には、潰れ田は百姓が属する村の責任で耕作することになっているのだが、いま見えているような少なからぬ潰れ田が残っていることは、村自体が人手不足で、他人の田圃までは手が回らないのだろうと推察がつく。  しかし、農事にくらくて、たったこれしきの景色にもおどろいている頼元には、そこまで説明してやっても仕方あるまいという気がした。治憲は行くぞと低い声をかけて馬首を城下町の方にむけた。  すると、同じように馬首をめぐらしながら、頼元がめずらしく自分から感想をのべた。 「しかし、逃げた百姓もあわれでござりますな」  治憲はもう一度頼元を振りむいた。そして、その気持を忘れるなと言った。  城下に帰りつくまでに、はたして日はとっぷりと暮れた。餐霞館に入ると、奉行の中条至資が待っていた。      三十四  治憲は手早く着換えて至資《よしすけ》に会った。野行着を人に会う衣服に着換えるといっても、用いる衣服はいまも質素な木綿着なので、さほど変りばえするわけではない。それでも治憲は藩の執政である中条至資とその職をうやまって律儀に着換える。 「だいぶ待たせたらしいの」  と治憲は至資をねぎらった。 「何か、至急の用件でも出来《しゆつたい》いたしたか」 「はあ」  と言って、中条至資は懐から奉書紙に包んだものを取り出し、治憲にわたしながら言った。 「志賀が二度目の解職願いを提出いたしました。ご披見ねがわしゅう存じます」  治憲は黙って解職願いを受け取ると、奉書紙をひらいて取り出した書面に目を走らせた。志賀八右衛門祐親は、その解職願いの中で、わが力のおよぶかぎりの再建策を試みたが事態は好転せず、かえって借財をふやし、人心は沈滞した。万策すでに尽き、罪万死に値するので、ここに御内証係(財政責任者)の解職を冀《こいねが》うものである、と記していた。  志賀はかつて、莅戸《のぞき》善政、倉崎七左衛門清恭、佐藤文四郎秀周らと一緒に治憲の御小姓を勤めた人物である。怜悧な男だった。その怜悧さは佐藤文四郎の愚直とならべると際立って見えた。馬場次郎兵衛頼綱は、一人半扶持の身分からのちに御勘定頭に抜擢された人物だが、去る安永二年、七家騒動があったその年に治憲が志賀をこの馬場とともに江戸の農政家に派遣し、農業技術を学ばせたのも、志賀のすぐれた才能を見込んだためである。  ──だが八右衛門は……。  その怜悧さのゆえに、目前の事象の処理に気を奪われて、大局を把握しかねたところがあったかも知れない、と治憲は思った。志賀には、もともと一藩の経済を処理するほどの器量はなかったのだ。賢い男ではあったが、その賢さの限界をみずから暴露する羽目になったもとの近臣に、治憲はかすかに憐れみを感じながらそう思った。  ふと沈思からさめて、治憲は顔を上げた。 「八右衛門は非難されているのか」 「暮らしのいっそうの逼迫、世を覆う人気の沈滞、ふくれ上がった借財、すべて志賀の方策よからざるゆえの結果と、十人集まれば十人がさように申しております」 「志賀一人を責めるのは酷だ」 「もちろんです。われらも同罪ですが、いまや誹謗の声は志賀の一身にあつまっているという状況です」 「志賀を御内証係に任ずることには、わしも賛成した。責任の一半はわしにもある」  治憲は言って、借財の状況はどのようになっているかと、話を転じた。 「彼が御内証係に就任して四年、その間に二万両余りの借財がふえましてござります。その以前からあった新借財と合わせて、わが藩の借財はいまや十一万両余と相成りました。もちろんそれ以前の巨万の古借を抜きにした金額にござります」 「で、志賀八右衛門の解職にもどるが……」  治憲は奉書紙におさめた書面を中条至資に返しながら言った。 「その方らはいかがするつもりか」 「夜も眠らずということがござりますが、志賀は懸命に、知力のおよぶかぎりの手を尽しました。にもかかわらず、藩のありさまはかくのごとくです。貧はびくとも動きません。しかるになおいまの職にとどまれというのは、志賀をこの上さらに心ない誹謗の前に晒し者にするも同然、解職やむなしというのが、われらの考えです」 「わしも、しか思う」  治憲は短く言った。  さきに執政らに示した「夏の夕」は、当面の藩の在りようを声をはげまして論じたものだった。藩政の目下の欠陥を指摘し、執政をはじめとする諸役人の奮起をうながす内容のものと言ってよい。呼び出されて治憲のきびしい言葉を浴びた執政、広居忠起と中条至資は、深刻な表情で治憲の前からひきさがって行ったが、そのあとの動きは依然として鈍かった。すなわち諭告書「夏の夕」に応えるような動きは、その後も現われる気配は少しも感じられなかった。またそれについての執政たちの陳弁の言葉もなかった。  ──糠に釘だの。  と思ったが、治憲は一度方針を示したあとは静観していた。  高鍋藩の家老三好善太夫重道は、当時松三郎と称していた治憲が遠縁につながる上杉家の養子となったことをよろこびながらも、家の禄高、格式、家風すべてにおいて格段に異るこの養子縁組を懸念して、二度にわたって将来米沢藩主となるべき治憲に、いわば一藩の藩主たる者の心得べきことを進言した。  その中に、人に君たる御身は寛仁大度と申し候て、ゆったりとして人を憐れみ、御胸中を広く人を疑うことなく云云という一箇条がある。一藩の藩主たる者はひろい心で人民を憐れみ、しかしながら小事にこせつかず悠然と構えているように心がけるべきであると、君主の日ごろの在りようを諭したのであった。  三好善太夫の教訓は、いまも治憲の手文庫の中に秘蔵されていて、そのときどきに治憲がきびしい態度決定の必要にせまられたときの指針の役目を果している。  ──執政らには執政らの考えがあろう。  そう考えて、治憲はその年の暮の夜、急に執政を呼んで、休講したままになっている興譲館の再興について諮問したが、そのときもあえてこちらから「夏の夕」に対するその後の措置についてふれるようなことはしなかった。わが胸中にある方針は示した、あとはそなたらが努めよという態度にもどったといってもよい。  ところが意外なところから、本来なら執政が一藩に対して示すべき方針を意見具申した者が現われた。  昨年寛政元年(一月に天明九年を寛政元年と改元)は、藩主在国の年で、治広は五月三日に帰国して本城で政務をみていた。その治広に御側役の丸山平六|蔚明《もちあき》が時務を論じる上書を献じたのである。  丸山ははじめ治憲の近習から小姓となってほぼ一年半ほどの間治憲のそば近く仕えたが、そのあと抜擢されて世子治広の御用人を命ぜられた。そのころ治広の御傅役《おもりやく》は木村丈八高広で、きわめてきびしい態度で治広の傅育にあたったので、その厳正さに堪え難くなった治広がついに悲鳴をあげて、教育がきびしすぎることを治憲に訴えたとも言われる。  ところで、世子の訓育にあたっては、寸毫の甘さも許すべからず、びしびしと諫言せよ、それが世子治広をすぐれた藩主とする道であるという木村の教育方針にしたがって、その配下に属する近習たちは諫言を競い、時には治広を逃げ場のないところまで追いつめることがあったらしい。  その中で、丸山平六一人は同じく木村の下に配属されながら、ほかの者とは治広に対する態度が違っていた。丸山はつとめて寛大な態度で治広に接し、また厳格にすぎる上下の者の調和をはかる風があったといわれる。それをみて木村高広は激怒したか。否であった。木村は丸山のやり方を珍重して、平六には長者の風格があると評したという。  丸山平六は、当然ながら治広の厚い信頼をうけ、治広が家督をつぐと今度も抜擢されて御側役となっていた。丸山は元来は組外《くみほか》と呼ばれる御扶持方の出であるが、五十騎組の丸山家に迎えられて跡をついだ。藩主治広に時局を論じた上書を提出したときは三十七歳だった。  丸山の主張は要約すればつぎの各項目にしぼられるだろう。  一、国の基本政策を決めるにあたっては、ひろく大衆の意見を聞くことが必要である。  一、藩政の実施にあたっては重職の任に堪え得る人物を得て、万事をまかせるべきである。  一、元締所(会計所)の人数は、御仲之間年寄一人、御使番一人としてはどうか。現在の様子は船頭多くして船山にのぼるの観がある。費用の無駄づかいである。  一、諸役人の中に汚職を事とする者がいるやに聞く。因循遅延して処分を怠るときは、国の綱紀が弛《ゆる》むだろう。断固処分すべし。  一、ただし博奕の死刑は厳刑にすぎるものと考える。若干刑を弛めるべきではなかろうか。死罪ということではむしろ無頼の反抗心を煽って、かえって非違に走る者が手がつけられないほどにふえるものと愚考する。  一、衣、食、住について示達を出されたが、これを守らぬ者が出ると、かえって人人の悪い手本になる。自分も、という気持にならぬものでもないので、気をつけるべきである。  治広から丸山のこの建言書を見せられた治憲は、そのときは、なかなか思いきった建言で聞くべきところは多多ありますな、などと言ったが、治広のもとからひきあげて外に出ると、治憲はついに局面が動いたか、と思った。胸の奥にざわめく興奮を押さえられなかった。  丸山平六も英才だが、志賀とはまた形の違う才能を胸に蔵しているようだった。丸山は寡黙で、めったに自分を人に見せない。才能はその寡黙の中に居眠っているという感じがある。  丸山の上書には、いま藩にもっとも必要とされているものが、二つふくまれている。在るべき藩の方向は衆論に聞け、ということが第一。第二は言うまでもなく、藩政をひっぱって行く力量のある人物を登用せよ、ということである。丸山はおそらく、家門意識ばかりが強くて、従来のしきたりに病的にこだわり、新規の事を行なうことにきわめて臆病な上士階級が主導する藩政が、これまで藩の再生に何ひとつ効果らしいものをあげ得ずにきた経過をみて飽き飽きしたのだろう。そうでなければ、これだけの思い切った提言は出来るものではない。  その日の午後は、半刻ほど前に降った雨が止んで、うすい雲の間から夏の終りの日差しがまぶしく差しはじめてきた日だったことを、治憲はいまも思い出すことが出来る。そして執政も御仲之間年寄たちも、丸山のこの提言を無視することは出来ないだろう、と思ったことも。  ところが、治憲が期待したようなことは、何ひとつ起こらなかった。丸山平六の提言後も、提言があった前と同じような日が流れ、そして一年余の歳月が過ぎたのである。  その間、かれらは一体何を考え、何をしようとしているのかと治憲は怪しんだのだが、いま目前にいる執政中条至資が言うことを聞いて、はじめてその謎が解けた気がした。  志賀祐親の政策が破綻したことは、執政たちにももっとはやくわかっていただろう。だが、かれらは志賀に辞職せよとは言わなかった。志賀が解職願いを出すと、かれらは慰留してなお御内証係をつづけさせた。そして二度目の解職願いが出るにおよんで、はじめて志賀解職に動いたのである。  それは一面においては、志賀をやめさせて、では代りに誰が御内証をみるかという問題があり、その見通しを得られなかったということがあっただろう。だがここには上に立つ者たちの怠惰の気配がある。志賀をやめさせれば、その後始末はたちまちおのれらの肩に重くのしかかってくる。  しかし、志賀をやめさせるのに手間どったのは、言ったような事情のほかに、根強い形式主義というもののせいでもあったろう。解職願いを出したのをひとたびは慰留する。あるいは二度、三度と慰留する。隠居願いの場合も同様である。長い間の潜在的な慣行と言ってよかろう。待っていたように願いを受けつけるのは、本人に対してはもちろん、本人が属する家門に対する侮辱である。  ほかに人はいないと慰留し、なお本人の努力をのぞんで、いったんは解職願いの取りつぎを拒否する。それが礼にかなったやり方である。解職するかどうかは、二度目以降の本人の申し出によって本格的に論議される。 「して、これからどうするつもりかの」  と治憲は言った。治憲の肚は決まっているが、中条の意見を聞くことを優先させたのである。 「中殿は、昨年丸山平六がお館に建議書を提出したことをご記憶であられましょうか」 「丸山平六? はて」  治憲はとぼけてみせた。一応相手に花を持たせたのだ。もちろんおぼえておるぞ、と言ってしまっては中条としては身もふたもなかろう。  しかし言うべきことは言った。 「うむ。思い出した。目下の藩にとって必要なことは何か、を論じたなかなかの建議書であった。その方らがなぜあの建議を用いないのかと、不審に思ったものだ」  最後にちくりと刺した。治憲も四十歳、このぐらいの腹芸は出来る年齢になっている。 「全部用いよとは言わぬ。だが採るべき二、三の項目はあったように思うぞ」 「恐れいりましてござります」  中条至資は詫びたが、表情はさほど恐れいった風には見えなかった。  丸山平六の建議を用いることになれば、多年苦労をかけた志賀祐親を即刻|馘《くび》にしなければならないだろう。情においてしのびないところである。だが、それだけではなかったろう、と治憲は推測している。  丸山平六は三手組の五十騎組に属しているが、すでに述べたように素姓は御扶持方の出である。猪苗代、組外、組付《くみつき》の三組を総称して三扶持方、あるいは御扶持方とも呼ぶ。平六蔚明も実父星源五右衛門は代官を勤めたともいわれるように、大まかに言えば藩の組織の中で、末端部分を取締まる、いわゆる小役人級の人人を御扶持方と呼ぶのだが、かれらの藩から受け取る給与は、家禄ではなく扶持米、すなわち、米そのものである。かれらの暮らしはきわめて不安定と言わざるを得ない。  これに対して、中条至資が属する侍組は、藩から知行地を支給されている身分であり、日日の糧である米を藩の支給に頼る御扶持方とは、身分、経済力において天地ほどの懸隔があるというべきであった。はやい話が、中条らからみれば、丸山なにがしは五十騎組に養子に迎えられなかったら、ゴミのような存在としか映らなかったろう。  丸山平六のめざましい建議を見ても、中条、広居がこれを採用する気配をちらともみせなかったのは、志賀の一件のほかに、かれらの心中にふん、もと扶持方の男の意見かという意識が動いたせいではなかったろうか、という思いを治憲は捨て切れない。そうでなければ、丸山の、藩を憂える渾身の文章が、黙殺といった形で捨ておかれるということがあり得ようか。  そしてまた、これだけの大事を、広居忠起、中条至資の二人、あるいはこれに江戸家老を勤める色部典膳至長、竹俣兵庫厚綱の意見を加えたとしても、たったの四人で決めたとも思えない。背後には侍組九十五家がいるというのが治憲の認識である。  侍組に属する九十五家が藩から受けている知行地の合計は約四万石。米沢藩の禄高十五万石の約四分の一強をかれらの知行地が占める。藩に知行の上がりの半分を借り上げられている現状でも、一家あたりの平均の手取りはほぼ二百十石で、俸禄だけで十分に暮らせた。もっとも侍組の中にも貧乏暮らしで知られる香坂昌諄のような例外もいることはいる。  そしてまた、侍組は、奉行(言うところの執政、あるいは国家老)三名、江戸家老二名、侍頭五名、中老一名、御小姓頭二名、御城代一名、御傅役四名、支侯御家老一名、奥御取次二名、御役屋将五名(鮎貝、荒砥などの、各陣屋を統率する指揮者)など、いうなれば藩機構のもっとも枢要な部署をすべて押さえていた。藩政上の最高の地位とされる執政といえども、侍組のこのような機構の一部分に過ぎないともいえ、多かれ少なかれ同僚であるかれら、さらにはその背後にいる侍組の無言の圧力を受けざるを得ないのだ。  丸山平六の建議書を読んで、かれら侍組の者たちにしてもそこに藩の今日の病理が指摘されていて、その手当ての方法も明快に示されていることを、察知出来なかったわけではなかろう。だがそれでも、まず真先にかれらを襲う感情は、たかが御扶持方の意見かというものであったろう。たとえそれが非常にすぐれた意見であっても、扶持米取り出身の男が提出した意見にとびつくことは、侍組の沽券《こけん》にかかわるとかれらは思ったであろう。出来れば歯牙にもかけたくないのだ。  長い間、藩のそれぞれの階層の在りようというものを眺めてきた治憲の目は、かれらの心の動くさまをそのように見てとる。竹俣当綱の偉さはそこにあった。独断専行してずいぶんひとに非難されたが、竹俣は侍組の人間でありながら家柄や禄高で人物を評価しようとはしなかった。禄高は低くとも識見のすぐれた人物を、しきりに各所に登用しようとした。  比較して莅戸善政はあくまでも三手組、中士階級の分を守ったといってよかろう。治憲の小姓頭に挙げられ、徐徐に権力の一端をゆだねられても、出身母体である中士階級の牆《かき》をはみ出すようなことはなかった。それはそれでひとつの見識というもので、誰にでも出来ることではもちろんない。  それはそれとして、執政の中条至資が、埃をはたいて一年前の丸山平六の建議書のことを持ち出してきた理由は何か、と治憲は興味深く至資の顔を眺めている。  治憲に建議書のことで文句を言われても、至資がさほど恐れいった様子もなくけろりとしているのは、丸山の建議書を黙殺したのが、中条と広居忠起の才覚と責任だけでないことを証拠だてるようなものだが、では背後の侍組の中に、ほかに手はない、ここはひとつ、丸山の意見を用いるべしという議論でも出てきたというのだろうか。 「志賀を罷免することはいと易いことでありますが、あとに坐る者がおりません」  治憲に皮肉を言われても恬然《てんぜん》としていた中条は、ごくあたりまえのことを言った。 「そこで、ここは昨年の丸山平六の意見をいれ、衆知を募って国の方針を聞くのみならず、それを実行に移すような人物がいまの藩中にありや否やを問うてみる時機かと考えました。これについて中殿はいかがお考えでありましょうか」 「侍組の者たちが、さように申しておるのかの」  治憲は注意深い目を至資にそそぎながら、さぐりをいれた。いえと至資は答えて、胸を張った。 「それがしが昨年の丸山の建議を思い出し、広居どのを説いて、かように中殿のご意見をうかがいたく参上いたしました次第。至資は性もと愚昧」  中条至資はみずからを謙遜した。 「志賀の罷免のことといい、丸山の建議のことといい、事実その時が到らぬことにはなかなか事の真相をつかめませぬ」  至資の言葉を聞いているうちに、治憲は中条至資にまつわるある挿話を思い出していた。至資は若いくせに大酒家である。大酒呑みの評判があった。  あるとき至資は、みるからに古雅の風をそなえる菓子器を手に入れて愛用していたが、ふとこれを盃にして酒をのんだらさぞうまかろうと思いついた。大酒家らしい発想といえようか。そこで、米沢一の碩学である神保綱忠に頼んで、菓子器から一転して酒盃に変った器に銘をいれてくれるように頼んだのである。  ところがそのころの神保綱忠はといえば、志賀の緊縮財政の犠牲になって興譲館が大幅に縮小された結果、提学を罷免され、悶悶とした日を送っていた。その神保からみれば、中条至資は志賀八右衛門の憎っくき上司である。  神保はさらさらと銘文を書いた。中条至資重任を辱《かたじけな》くするも、国事艱難の時にあたりその職を勤むるを知らず。唯大酒これ耽《ふけ》り、この盃やじつに桀紂《けつちゆう》の象箸《ぞうちよ》玉杯を超ゆ。この銘文には、神保の藩上層部に対する日ごろの憤懣がこめられている。ことに神保は若い中条至資に斬新な政策を期待していただけに、至資がこれまでと少しも変りばえしない、黴《かび》のはえた事なかれ主義にどっぷりと漬かったまま奉行の席をあたためている有様をみて心中ひそかに憤慨していた。  神保の父作兵衛忠昭は、吉田次左衛門|秀序《ひでのぶ》とならび称された一刀流の名人で物頭を勤めたが、子の容助綱忠は学問の道にすすみ、ついに藩校興譲館の最高位である督学まで勤めた。しかし歩んだ道は違っても、気性のはげしさは父子ともに相似たところがあったろう。ひと口に言えば中条至資の酒盃に記した銘文は、面罵にひとしいものであった。  藩の事情が絡んでいるとはいえ、こういう時期に、こういう人物に銘文を頼んだ至資こそ災難というほかはない。  ここで怒ればただの人だが、至資は怒らなかった。神保を丁重に自分の屋敷に招き、うやうやしく藩政について神保が日ごろ考えていることを質した。その態度は師に対する門弟のようにつつましかったといわれる。そのとき神保は、今日の政治には人心を厭《あ》かせるに十分な数カ条の弛緩した部分があること、また興譲館を閉鎖同様に縮小したがために、藩内の好学の風は廃れ、家中のこころは荒廃しつつある、と述べたという。中条は黙然と聞いていたが、その後中条は、あちこちと人を説いて回り、ついに興譲館をもとの形にもどした。  ──至資は、やはり物の考え方に柔軟なところがある。  と治憲は思った。かつて、若くして執政にのぼってきたこの男に期待したのは間違っていなかったとも思った。  ただし、立ち上がりの腰が重い。侍組の通弊とも言えるだろう。竹俣当綱のような人物は稀で、大ていはまず家門の安泰とこれから行なわんとすることを秤にかけるのだ。 「至資、よくぞ申した」  と治憲は言った。先日御仲之間から近習に転じた小見吉馬親忠が顔を出して、白湯でもお持ちしましょうか、と声をかけなかったら、にじり寄って至資の手を取ったかも知れない。いま中条が言ったことこそ、治憲の待っていたものであった。 「機至るとは、まさに今日の状況を指す言葉だろう。いまをのがしては機会は二度と来はせんぞ。八右衛門の施策はもはや底が見えた。これ以上つづけても、八右衛門には気の毒な言い方になるが、無駄だ。至資」  治憲は、中条至資に鋭い視線を据えた。 「その方、さっそくに上府してお館にさきほどわしに申した意見を申し述べ、ご意見をいただけ。いや、不退転の意気ごみで、お館を説いて参れ。わしからも早急に口添えの手紙を書くゆえ、持って行くがよい」 「明朝までにご書簡を頂戴出来れば、それがし明日にでもただちに出発いたします。これより広居どのに本日の首尾を報告いたさねばなりませんが、広居どのもさぞおよろこびなさることと思います」  そう言うと、中条至資はいそがしく席を立った。怠惰な獣が長い眠りからさめたように、きびきびとした動きに見えた。  ──人それぞれのやり方があるものだ。  下がって行く至資を襖ぎわまで立って見送りながら、治憲はそう思った。中条至資はこういう人間であるとはめったに言うべきものではない。一人の人間の中に、何が隠されているかは容易にわかるものではない、という感慨が胸を占めていた。  中条豊前至資が江戸藩邸で藩主治広に会い、帰国したのが寛政二年の十一月十三日である。そしておよそその十日後の二十二日には、はやくも家中の者であれば無給の者、すでに隠退した隠居を問わず、藩政について意見のある者は封じ書をもって上申せよという布達が行なわれた。  布達の要旨は、諸事節約に基礎を置いた財政の施策もうまくいかず、四年間に二万両の会計不足をもたらして、負債は増した。このような施策をつづける限り、来年は今年よりも、さらに藩財政は窮迫に追いこまれるであろう。  一方倹約といっても限界があり、これ以上の節倹は不可能なところに追いつめられた。このようなときに幕府の御用を仰せつかったり、あるいは領国に何らかの災害が起きたりした場合は、まさに家国の大事、膚《はだえ》に粟を生じる思いである。ここにおいてわが藩は、上は主君から下は無給の者にいたるまで、封印の書面をもって藩によかれと思うことが少しでもあれば、それを申し述べ合うことに決した。  多分物を書き馴れぬ、言い廻しの下手な者もいるに違いないが、理屈がわかればそれでよい。遠慮なく上言すべし。なお意見を述べる者の参考までに、本年十月より来年九月までの歳入、歳出を簡明に作成し、諸士に示すこととする。布達は大略こうした内容のものだった。  国の歳入、歳出、すなわち国家予算を示す会計御一円帳は、古来深く秘匿され、一般家中の目には触れることがなかったものなので、この措置は家中を感激させた。そのためばかりではなかったろうが、意見書を封印をもって厳重に包み、提出した者は三百四十人余におよんだ。さらに十二月一日には江戸屋敷勤務の者たちにも、国元と同様に今日の藩政の得失について論じた封印書を提出するように発令された。  年も暮れようとする十二月の十四日に、中条至資はふたたび、封印のままの意見書三百四十余通を背負って国元を出発し、江戸藩邸にむかった。藩主治広に読んでもらうためである。  雪は里でさえ、もう根雪だった。白一色の風景の中に葉を落とした大木、村落の貧しげな板壁が黒く点在している。稀に厚い雲の割れ目から日が差して、これらの風景を束の間のやすらぎに似た光で染めることはあるが、大方は風景は深くうすぐらい沈黙の中に、それぞれに孤立しているように見えた。  平地の村村でさえ、風景はかくも寒寒としている。雪の積もる山中の道は、さぞ寒かろうと治憲は思いやった。若い若いと思っているうちに、中条至資も中年である。 「風邪などひかぬように、気をつけよ」  出発の挨拶に来た至資に、治憲はそう言い、用意しておいた任重くして道遠しの五文字を大書した書を贈ってはげました。  中条至資は翌年一月二十六日夜、風邪もひかずに帰って来た。そして翌日になるとさっそく餐霞館《さんかかん》にやって来た。治憲は至資を書斎休休亭に招きいれた。 「お館さまに申し上げてみたか」  と治憲は言った。声が思わずひそめ加減になったのは、これから話すことが重要事だからである。  じつは中条至資が封印の意見書を背負って江戸に行く三日前の十一日、治憲は至資を餐霞館に呼んだ。そしていまいる書斎で、世子の顕孝を同席させた上で、至資に重要なことを依頼した。ひと口に言えば莅戸善政を再勤させ、執政職に入れたい。ついてはお館の忌憚のないお考えを聞かせていただきたいということであった。むろん至資は治憲の意見に賛成していた。至資はいまの執政府の非力を誰よりもよく承知していた。丸山平六の建議の第二項、一藩をひきずり回すほどの政治力のある人物が執政府に入らねば、行き詰まった局面を劇的に改革することは無理である、という点で、治憲と至資の考えは一致していた。そしてそのような人物をさがすとすれば、それは莅戸善政以外にはいないということでも。  首尾を聞いたのはそのことである。 「申し上げました。反対なされたら論争も厭わずとまで思っておりましたが、お館には、中殿が申されるとおり、善政のほかに人はおるまいと申されました」 「さようか」  治憲は眼の前に一条の活路がまっすぐにひらけたのを感じた。ここまで長かったとも思った。これには幸運なこともござりました、と至資が言った。 「意見書は、お館がすべてご自身で開封し、丁寧に目を通されたのですが、その意見書の中に、莅戸善政に再勤をねがうべしという意見が数通含まれておりました。思うことはいずれも同じということでしょうか」  治憲はさようか、と言ったが、そのまま口をつぐんだ。気がかりなことがひとつあった。莅戸善政を藩政の牽引役にしたいということは、長い間治憲の胸の中にあったことである。だが、具体的に善政の名前を出したのは、じつは至資だった。  第一回目に江戸に出発する前、治憲が至資を餐霞館に呼んだときに、ふと至資の口から善政の名前が洩れたのである。治憲が話の中でそのように誘導した部分がないとはいえないが、とにかく至資は善政の名前を出し、執政府にかれのような人物が加わっていたら、このようにはならなかったろうと言ったのである。  その言葉を治憲はとらえた。お館にその件をうかがってみよと言ったのだ。その首尾は上上のものだったことが、至資の口吻からも知れる。しかし善政は、以前は知らず、いまは三手組の一隠居にすぎない。善政の再勤を意見書の中でもとめた者たちも、善政の執政府入りまで考えた上の意見であろうか。なかには御仲之間詰ぐらいにしか考えなかった者もいたのではなかろうか。  だが、執政府に入れなければ、善政の再勤は無意味である。権限は小さく、なし得ることは限られる。  至資、と治憲は中条豊前を呼んだ。 「善政をいきなり家老にして執政府入りさせることには、侍組に強い反対があるかも知れんぞ。いや、必ずあろう。そこをどうするつもりだ」 「中老という役がござります。はじめはこれでいかがでしょうか。これならばそれがしもうるさ方を説得出来ます。そして徐徐に執政職に持っていけばよろしいかと思います」  中老は家老、江戸家老、侍組の下だが、御小姓頭、御城代の上に位置する。重い役職の間にはさまれた小さな隙間のように、たった一人のために設けられた職だが、むろん藩政の重要事すべてに参画する。 「中老か。至資、そなたがこのように知恵の働く男とは知らなかったぞ」  治憲は言い、晴れ晴れと笑った。あとは多分隠居づいてしまった善政を、いかに説得して、藩政に復帰させるかということだけである。      三十五  隠居した莅戸《のぞき》善政が再勤を命ぜられて、中老に挙げられるらしいということは、中条豊前|至資《よしすけ》が帰国して間もなく、家中の間にうわさとなってひろまった。こういうことは、いつ誰から洩れたということもなく、いつの間にか人人の話題となるものである。  そしてはやくも、善政が要職を占めて藩政に参画することの得失を論じる者が出た。ある者は善政の老齢を言い、ある者はかつての善政が結局は改革に失敗して職を辞したことを言い、またある者は、ただいまの藩を見わたしたところ幅広い行政経験、政策を組み立てる能力、人心の理解において、莅戸善政をしのぐ人材は見あたらない、もしいるというなら、その名を挙げてみよといきまいた。  こうしたひそひそとしたささやき、時には公然となされる議論の中で、莅戸善政は執政の広居忠起に一通の陳情書を提出していた。陳情書の内容を一言にして言えば、再勤は不可であり、そのことを執政を通して中殿治憲、お館治広まで申し上げてもらいたいということである。宛先を広居にしたのは、善政が日ごろ広居と懇意にしていて、その繋りを頼ったのであった。  家国の現状が興廃の境い目にあることは、よく存じていると、まず善政は言う。その家国が治まるか治まらないかは、まったく治政にあたって人を得るか得ないかの一事にかかっていることもまた承知している。  それがし莅戸善政は、家国の危急を救うためならば、自分から訴え出てももう一花の奉公を買って出て、国民を安んじ、社稷《しやしよく》を安泰にみちびきたいとねがう者であるが、この善政がはたしてその人であろうか。  むかし燕の昭王は臺《だい》を築いて賢者を招き四民に披露して優遇したというが、いま身分の低いそれがしを貴殿方の相談相手にしようという御趣旨も、すなわち燕昭の臺を建てるということにほかならず、これによってそれがしにまさる人材が多く馳せあつまる道を開くことになるならばそれに勝るよろこびはない。しかし平時ならそれでよいとして、いまは一触即発ともいうべき人心不安のときである。なおその上にそれがしの不徳のゆえに、すでに巷間のうわさで大いなる謗《そし》りをうけているときでもある。そのそれがしが格別の優遇を蒙って召出されるようなときは、もはや政治からはなれている人心が、なお一層背くことに相成るだろう。そうなればお館さま、中殿さまの君徳を汚すことになり、かつは燕昭の臺にのぼるにふさわしい真の賢人の登用の道をふさいで、家国の大事をもたらしかねないことになるだろう。  ゆえにたとえ三ノ丸さま(治憲)のお召があろうとも、それがしは病気と称して参上をおことわりするつもりなので、さようにご承知ありたい。  陳情書の要旨は以上のようなものであった。しかし、善政は、その陳情書の中に、微妙に揺れる気持も書きつけていた。  そのひとつはみずからの隠居に関することだった。善政は言う。前回は重い役職を無事に勤め上げて隠居を許された。その上よき待遇をも得てこれも勤めの間に、人には言えぬものの忠誠ひと筋に職務に励んだためであろうかと、自分としては満ち足りていたところに、これを一切水に流して新たに家国の大事にあたるべしという今度のご命令である。これは累代高恩を蒙っている君家に対し、場合によっては害をもたらしかねないきわどい話である。考えざるを得ない。  もうひとつは、有用の者を重く用い、無能の者、悪事を働いた者を降格あるいは追放する家中の人事について、藩はもう少し慎重であるべきではなかろうか、ということだった。  たとえ右のような事実があきらかであろうと、罪を犯した者も、それまでは家国のために懸命に尽してきた者である。これをたとえ執政の言上があり、これに中殿さまが同意されたとしても、お館が江戸におられる間に事をはこんでしまうのは軽率のそしりを免れないのではなかろうか。人事の確定は、お館さまの帰国を待って、そのご下命によって行なうべきものである。ただし一人、二人の重用、降格(善政は黜陟《ちゆつちよく》というむずかしい言葉を使っている)についてはやむを得ない場合もあろうかと思われるが、例を挙げれば今度のそれがしの場合のように、四方に影響するところ大きいような場合は、ぜひともお館ご在国の折に、重重しく任命していただきたいものである。  前段の隠居の項には、安気な隠居の身分に対する未練がちらちらと見えている。善政の本音がのぞいたとも言えよう。しかし、後段の人材の登用、あるいは人材にあらざる者、犯罪を犯した者の降格、追放に事よせて、人事の確定はお館在国の折に執り行なうべきであるとの論には、そこに自分をあてはめて、お館、つまり現職の藩主の権威を以て、自分の非をあげつらう家中の者を黙らせたいという意図が隠されていると言えなくもなかろう。ということは、その過程を踏んでくれるなら、中老職を引きうけてもよいということである。それはまた別の側面からいえば、もし自分が失敗しても中殿治憲に責任は及ばない、そのための保険をかけたいのだと見ることも可能だろう。  以上の文章は善政が広居忠起に提出した長文の陳情書をかいつまんで述べてみたものだが、善政はさらにこういうこともつけ加えている。  以上のようなことを申し上げると、善政はわが身かわいさに重責を免れようとしている臆病者とみられるかも知れないが、それがしは家国のためならば決して一命を惜しむような者ではない。もしさようなお疑いを中殿さまも持たれるようなときは、致仕の折に中殿さまに頂戴した相州貞宗の脇差を以て、腹十文字にかっさばいて心底の潔白を証明するつもりである。 「陳情書を見た」  と治憲は言った。 「九郎兵衛も五十七に相成ったか」 「もはや老齢でござります。あ、それから中殿さまのお耳にはまだとどいておられぬかも知れませんが、それがしいずれ六郎兵衛と改名いたすつもりで、ただいままわりにさような相談をかけております」 「六郎兵衛とな」 「老齢のゆえに、むかしの九郎兵衛にはちと及ばぬという意味でござります」  は、はと治憲は笑った。季節はまだ厳寒を抜けきれていない寛政三年一月の末だが、治憲は胸の中をやわらかい春風が通り抜けたような気がした。善政には、竹俣当綱が持ち合わせなかった諧謔のこころがある。  ──善政の再登用は、うまく行くだろう。  と思った。ひとかたならず複雑な藩政に、新たな改革の道をつけ、窮地を打開して行くためには、剛直一本槍のやり方ではなく、進んでは退き、退いてはまた進む粘りづよいやり方が必要だろう。それをするためには、一度や二度の失敗、行きづまりにへこたれない柔軟にして強靭な精神が必要とされる。善政はそのやわらかな精神、しかし簡単にはあきらめない粘り強さをふたつながら内部にそなえているように思う。  そしてこのとき、ふと幽閉十年に及ぶ竹俣当綱のことが心を横切ったが、治憲はそれには目をつむる気持で話題を転じた。幽閉十年というが、当綱は謙信公歿後、何人も破ったことのない戒律を破ったのだ。  九郎兵衛、と治憲は善政を呼んだ。こうして二人だけで対座し、隠居名の太華《たいか》ではなく、むかしの名前を呼ぶと、若かったころの君臣の日常がもどってきたような錯覚をおぼえるが、二人ともに取りまく環境はいちじるしく変っている。その上治憲は四十一歳となり、善政は五十七歳になった。この歳月の経過は取りもどしようのないものだ。  ただひとつ藩の窮状は変らず、というよりもさらに苦悩を加えて目の前にどっしりと横たわっている。 「五十七といえばたしかに老齢には違いないが、そなたが言うほどの年寄りでもない。これからひと働きするには十分な齢だとは思わぬか」  善政は目を伏せて黙然としている。治憲がこれから何を言おうとしているかを、およそは察している表情だが、そのまま受け入れる気色とも見えない。 「ところで隠居の間にしきりに物を書いておったと聞いたが、何を書いておったのか」 「いろいろと……」  善政は目を上げたが、めずらしく歯切れわるく言葉をにごした。 「わしのことを書いていると申す者もいたが、さようか」 「はあ。恐れながら中殿さまのこれまでの言行を記し奉りました。『翹楚篇《ぎようそへん》』と申します」 「無駄なことをしたものだ。わしの言行を書きとめたところで、翹楚(高くぬきんでた状況)というほどのものは出て来まい」 「いやいや、さにあらずです」  と善政が言った。少し声音が強まった。 「中殿さまの言行を記せば、そこにはおのずからわが国の来し方、行き方がうかび上がって参ります。中殿さまは、再三にわたって、わが家国の行き方はこうぞと、正しい道を示されました。『翹楚篇』をお読みになれば、そのことがくっきりと見えて参ります。しかるに家国はいまだにこの有様で、中殿さまの示された場所からいまだに一歩も進まず、一歩踏み出したかと思えば二歩も三歩も退くということを繰り返して参りました。これひとえにこの九郎兵衛をはじめ、中殿さまに仕える者の怠慢のしからしむるところでござります」 「怠慢とは言えまい。みなみな努力した。しかしそのときそのときに、それぞれやむを得ぬ事情があってかくのごとき現状がある」 「恐れ多いお言葉ですが、とどのつまりはわれら家中の無能、怠慢というところに落ちつきまする」 「ほかにも書いたものがあろう」 「『樹畜建議』、『凶荒予備』、『総秕《そうひ》』といったものですが、それがしの基本とする考え方はただいま書き終らんとしている『政語《せいご》』に述べてあります。御前をはばからずに申せば、この著述には九郎兵衛心血をそそぎましてござります」 「出来上がったら持参して、わしにも読ませろ」  と言ってから治憲は少し沈黙をはさみ、再度九郎兵衛と呼んだ。 「わが藩の危機について、それだけの憂慮と衰えぬ改革の熱意を持ちながら、なにゆえに広居にあのような陳情書を提出したか。老齢ゆえにわが任にあらずとは言わせんぞ」  善政はまた目を伏せた。 「侍組の者たちが上からいらざる圧力をかけてきておるということか」 「いえ、そうとも言えません。もちろん、たかが家禄わずか二十五石の三手の者が身のほどもわきまえずわれらが領分を侵すつもりかという声もないわけではありませんが、侍組の方方の中にも、それがしに理解を示す向きもござります。むしろ同輩の三手の中にある、異常な出世を遂げようとしているそれがしに対する嫉視の方が多いかも知れませぬ」 「ふむ、ひと筋縄ではいかんものだの」  と治憲は言った。善政が陳情書の中で、一般の例にかこつけて、家中の黜陟《ちゆつちよく》についてはお館治広のじきじきの命令が必要で重要だと力説していたことの意味を余すところなく理解した気がした。  善政がいま言ったようなことはおそらく事実であろうし、その種の反感、嫉視を引きずったまま中老職についても人はついて来ない。そうなると策を立てても存分に腕をふるうことが出来ず、その結果善政は孤立に追いこまれるだろう。孤立して中老職を辞すということになれば、手を打ってよろこぶ者もいるのだ。それが世の真実というものである。 「侍組の方は懸念するにおよばん。いま、そなたを中老職にということで、至資が懸命に根回しをしておる。また三手組の方も、……」  と言って、治憲は形を改めた。 「そなたを執政府に入れるということは、すでにお館が承認済みのことだ。桜田の江戸屋敷で、至資はこの件でお館と余すところなく懇談したが、その席で至資はそなたをまず中老職にということを申し上げてみたところ、お館は待っておられたごとくにうなずかれ、この上ないよき人事であると申されたという。ゆえにこの一件はすでに決定しておる。いかに三手組といえども、心やすだてに今度の人事をあれこれとあげつらったり、誹謗したりすることは許されぬことだ」 「みなみな暮らしが貧しいがために、一人だけその境遇から抜け出す者があれば、おもしろからぬ思いを致すのでござります」 「本末顛倒だの。一同の貧しさを解消せんがためにそなたを用いようとしておるのに、これを邪魔するとは、まさに小人の仕業だ」  治憲は言ってから善政をじっと見た。 「しかし大局からみれば、あれもこれも区区たる些事に過ぎん。九郎兵衛、肚は決まったか」 「本日、御殿に呼び出されるとき、さように仰せ出されることは覚悟して参りました」 「もちろんそなたの気持を汲んで、お館ご帰国の折には、改めてご下命を頂くつもりだが、いまはその手順を踏むゆとりはない。志賀はすでに辞表を出して罷免を待っており、かれにかわって至急にこの国の舵をとる者が必要だ」 「うけたまわりました」  と言うと、善政は膝をすべらせて平伏した。 「御殿に参上致すまでは、断固おことわりするこころにござりましたが、中殿さまの諄諄のお諭しには、九郎兵衛一言の返す言葉もござりません。この上は身命の及ぶかぎり、与えられた職務に励むことと致しまする」  善政は顔を上げ、膝をすすめてもとの座にもどると、中殿におうかがいいたしたいことがあると言った。 「江戸の三谷、越後の渡辺一族、庄内の本間など、わが藩の金主との近ごろの行き来はいかが相成っておりましょうか」 「そなたの耳にも多少はとどいているかと思うが、米、青苧《あおそ》といった国産物を売り捌いてもらうということがあるゆえ、かれらとのつながりがまったく切れたということはない。だが、こと借財の一件に関してはだめだ。その話になるとかれらは一様に顔をそむける」  善政は無言だったが、その顔にただならない憂慮のいろがうかび上がるのを治憲は見た。金主と呼ばれる商人たちとの金銭的なつながりがなければ、いまの世の藩政は成り立たないことを、善政は骨の髄まで知りつくしておるからの、と治憲は思った。  そしてもうひとつ、冷静沈着な善政が顔いろを変えるからには、かれの第二次改革の構想の中に、外から資本を導入出来なければ動かない、たとえば新しい産業のごときものが描かれているからであろうとも治憲は思いながら、言葉をつづけた。 「かれらがそっぽをむくのも無理のないことで、担当の者の金主に対する応対ぶりは、言いわけの逃げ口上に終始し、しかも苦しまぎれにその場しのぎの虚言を吐いてごまかすというものだったそうだ。金主たちが、誠意のかけらもないと憤ったのは無理はない。それにまた志賀八右衛門の政治方針が、そなたらの世話にはならぬというものであった。うまく行くはずはない」 「志賀は方針を間違えましたな。もっともそれがかれの政策の骨子でもあったわけでござりますが……」 「わしが心配しておるのはの、九郎兵衛」  と治憲は言った。 「藩財政の行きづまりもさることながら、幕府から普請手伝いの命令がくることだ。お館に家督をゆずってすでに六年、いつ命令がくだっても不思議はない時期になっておる。そしていったん幕命による普請を引きうけるとなれば、まず二万両の金は軽く消え失せるだろう。その金の算段に無理に無理を重ねて、家中、領民の顎が干上がろうとも、そうしてつくった資金は一文残らず消え失せる」 「そういうことに相成りましょう」 「民の顎が干上がっても、必要な費用を捻出出来ればよしとせざるを得ないが、その費用をどうにも工面出来ぬという場合もあろう。為政者たる者はそこまで考えが及ばなければならぬものを、八右衛門の目は内側に向いたままじゃった。もし費用を工面出来なかったらどうなるか。そのときわが米沢藩は破滅をむかえねばならぬ。しかも満天下の嘲りのもとにだ」  善政は顔いろを曇らしたまま、黙然と手を膝に置いている。 「この心配があったゆえ、わしは八右衛門の財政方針が、長いつき合いの金主といえども新規の借金はしないと決まったあと、折に触れて金主たちに、ふだんはともあれ普請手伝いといった緊急の事態が起きた場合は、よろしく融資をたのみ入ると言って回らせた。金主に接触して、そのような口上を述べたのは新しく江戸家老に任ぜられた者であり、藩命で江戸屋敷に行く重職であり、とにかく機会あるごとに、とくに三谷には接触させたのだ。だが三谷はうんと言わなかった。三谷だけではない、ほかの者、越後の渡辺三左衛門を長とする一族、酒田の本間家、最上の柴崎弥左衛門などだが、かれらも申し合わせたように口をにごし、首を縦にはふらなかった」 「………」 「つまりはわが藩の信用は地をはらったということだの。そなたの再勤をいそぐ理由のひとつだ」 「しかし、それがしにしても……」  善政は顔を上げ、困惑の色を隠さずに治憲を見た。その善政に、治憲は言っていることとはうらはらに、ゆったりとした微笑を見せた。 「だがそれで金主たちとのつながりが切れたかといえば、なに、そんなことはない。たとえば三谷はいま七百石かな、もっともらっておるかの。侍組に匹敵する俸禄を得ているはずだし、また折に触れていろいろと贈り物もしておる。利益は以前にくらべて少なくなったとしても、漆の一手取扱いも許している。また、越後の渡辺一族、与板の三輪一族は時どき挨拶に参るゆえ、懇談の上で溜の間あたりで馳走を出し、帰りには土産物を持たせて帰す。わしの口から金を貸せと申しては、かれらも断る言葉に窮するだろうから、それは言わぬ。だが下地はつくってあるつもりだ。中老職につくそなたに、誠意をもってかれらとの新しいつき合いをはじめる気持があればの話だが……」 「ありがたきお言葉にござります」  と善政は言った。顔を覆っていた憂色はいつの間にか晴れている。その善政の心底を写したかのように、そのとき餐霞館《さんかかん》の奥の書斎がぱっとあかるくなった。障子に日が差したのだ。 「ほう、雪がやんだようだの」  と言って治憲は火桶の上で手を揉んだ。春も遠くないというのに、暗いうちから降り出した、こういうときは大雪になると伝えられる音もなく降る雪が、明けてもやまず昼になってもやまず降りつづいていたが、八ツ半(午後三時ごろ)を過ぎて、急にはたとやんだ気配である。  それのみならず、日まで差してきたのは、鬱陶しく領国にかぶさっていた雪空がようやく晴れつつあるらしい。九郎兵衛、火桶に寄れ、と治憲は言った。倹約第一でもともと少量だった炭火が、話がつづいている間に半分以上も減っている。 「わしはまだ若いがそなたはそろそろ齢だ。さぞ寒かったであろう。気づかぬことをした」 「恐れ多いお言葉にござりますが、日ごろ鍛えておりますゆえご心配にはおよびませぬ」 「わしの前で恰好をつけることはいらん。まだ火があるうちに寄って身体をあたためろ」  さればお言葉に甘えて、と言って善政は火桶に寄ってきて手をかざした。善政の手はさすがに皺が目立つものの、大きくて指は太い。またしても治憲の頭の中を、自分はまだ青年期の半ばで、善政はいまの自分ほどの年齢だったろうが、心身ともに男盛りの活気に満ちていたころの日日が、幻のように通りすぎた。 「あのころは……」  と言ってから、治憲はわしもそなたもまだ若かったころはと言い直した。 「人材が豊富だったの。そなたがいて、当綱がいた。木村丈八、佐藤文四郎、焼味噌九郎兵衛と並んで町奉行を勤めた干菜《ほしな》藤十郎こと、長井庄左衛門、かれはいま御中之間におるか。いまは興譲館の柱ともいうべき神保容助、郡奉行を勤めた小川源左衛門。それにしても丈八はなにがゆえに自裁したものか。わしにはいまもって謎だ」  治憲は口をつぐんだが、また指を折って数え、 「一癖あったが奉行、色部修理照長も人物だった。それに扶持方から役所役に登用されて、いまも重要な会議には欠くことの出来ない人物、今成吉四郎《いまなりきちしろう》。同じく扶持方から出て名代官と呼ばれるに至った|蓬田郁助《よもぎたいくすけ》。じつに多士済済だった」 「まことに……」  と善政も和した。 「それだけの人材がいて、竹俣どのが国策の大綱を定め、それがしがその竹俣どのをたすけ、さらに全体について当時のお館であられた中殿さまが目を配っておられた。それでいて藩改革は中途にして挫折せざるを得ませんでした。ふり返ってみると、あの時こそ改革を成就する唯一の機会ではなかったかと、努力の至らなさにこころを苦しめられることがござります」 「それを申すな、九郎兵衛」  と治憲は言った。しばらく、障子を照らす春の光とも見える日差しに目をやってから、視線を善政にもどした。 「みなそれぞれに努めたのだ。ただ天の時というものがある。西国の|櫨蝋《はぜろう》が市場に出てくる時期がいま少し遅かったら、わが藩は漆蝋でもって大いに潤ったかも知れぬが、それをいま言ってもはじまらぬ。過ぎ去ったことは過ぎ去ったこととして、新たな改革に取りかからねばならぬ。いずれそのために、そなたが藩政の舵取りとしてもどって来ることを、わしは信じて疑わなかったぞ」 「もったいなきお言葉にござります」  と善政は言った。治憲は話題を転じた。 「ところで、いま若手で人材と言われるほどの者は誰かの」 「まず、丸山平六」  間髪を入れずという感じで、善政が言った。 「年明けてすぐに大目付、奥取次次席に抜擢されましたが、あれはよき人事にござりました。二年前に、平六はお館に七カ条におよぶ建言書を提出しましたが、目のさめるような意見にござりましたな。わが家国の病弊をあれほどぴたりと言いあてた文章は近ごろ見たことがござりません。しかも平六のすぐれているところは、その病弊なるものの手当てを、誰の意見も借りずに、自分の考えで述べていることです」 「ずいぶんとほめたものだ。いや、じつを言えばわしもあれを読んだときは驚愕した」 「当代の若手、と申しても四十にはなっておりましょうか、しかしその中でまず第一等の人物というべきでしょう。それがしが執政府に入るようなことがあれば、ぜひ力を借りたい男です」 「ほかには、誰がいるか」 「少し偉いところで江戸家老の竹俣兵庫厚綱どの、さすが美作どのの嫡子だけあって、頭は切れるし、人物の幅がひろいところが魅力でしょうか。ほかには黒井半四郎|忠寄《ただより》、ただいまは御中之間詰に進んでおりますが、識見にすぐれ、財政の建て直しには欠くことの出来ない人物と思いまする」 「しかし、半四郎は和算家だ。和算にすぐれているために人物に偏りがあるということはないかの」 「いえ、かれの和算の才こそこれからのわが藩にとって必要なもの。半四郎はいずれ必ずや大きな仕事を成しとげるに違いありません」 「ほかには……」 「新しく台頭してきた目立つ人物といえば、このようなところでしょうか」 「寥寥たるものだの」  と治憲は言ったが、すぐに気づいて言い直した。 「これはしたり。そなたの跡つぎの政以《まさもち》を忘れておったわ」  善政は手を振った。 「あれはまだ未熟者です。しかし改革がはじまれば、おのずから頭角をあらわす人物という者は出て参りましょう」  そのあと二、三世間話をしてから、善政は暮れぬうちに罷り帰ると言って書斎を出た。例によって部屋の入口まで見送りながら、治憲は声をかけた。 「考えごとに気を取られて、雪に滑るでないぞ、九郎兵衛」  そしてつけ加えた。 「滑って足でも折ったら、六郎兵衛が縮んで五郎兵衛になってしまおう」  九郎兵衛の諧謔にお返しを言ったつもりだったが、われながら拙い冗談だと思った。  だがそんなおどけを言いたいような気分が、治憲の胸の内に動いていた。治憲は机の前にもどり、そばの手文庫から煙草道具を出すと、田舎の親爺のように火桶に首をさしのべて火を吸いつけた。  その一服はうまかった。日はそろそろ落ちるところらしく、障子を染めていた日差しのいろもややあせてきている。だがいろは薄くともそこに残るあかるみは暖かく見えた。煙草のけむりをくゆらせながら、治憲は多年心をくるしめてきた大きな気がかりから、いまゆっくりと解き放たれつつある自分を感じている。  ──九郎兵衛にまかせることが出来れば大丈夫だ。  暗いだけだった前方に、小さな光が見える。治憲はかすかな幸福感につつまれていた。      三十六  寛政三年一月二十九日、莅戸《のぞき》善政は正式に中老職に就任した。しかも、中老として政治に参画するだけでなく、郷村頭取と御勝手係を兼ねることとなった。郷村頭取はいま疲弊の極に達している農村を再生させる施策の責任者であり、御勝手係は藩財政の責任者である。これ以上はない重い職務と言わざるを得ない。  しかし治憲の肚は、執政の中条|至資《よしすけ》と打ち合わせたとおりいずれは善政を執政に加え、存分に持てる手腕をふるわせようというところにある。だがそれはいますぐというわけにはいかない。三手組の一隠居がいきなり奉行となり、執政職に加わるということになれば、目立たない中老職の場合は黙って眺めていた者も、そのときは口を噤《つぐ》んではいないだろう。囂囂《ごうごう》たる非難の声が挙がり、その声は善政の一身のみならず、依怙《えこ》の沙汰ありとして治憲、お館治広の身の上にも降りかかるのを防ぎ得まい。藩がこのように浮沈の境にあるときでも、人は藩の行く末よりも、とかく人の立身、凋落に目をうばわれやすいのである。  それを恐れるというのではない。だがそうなれば善政の施策はことごとく壁にぶつかり、苦心して中老に引き上げたことまで無意味と化してしまうだろう。善政を正式に執政の一角に嵌めこむためには慎重に時期を見きわめる必要があった。  そして職を中老にとどめたままでも、郷村頭取と御勝手係という藩にとってのかなめのところを兼務することにすれば、それは内実からいって奉行職同然の権限を手中にすることになる。だがそれについては人はおそらく非難の声を挙げないだろう。人間の不思議さといえばそれまでのことだが、要するに人人は善政が中老になることはゆるせるが、奉行になることはゆるせないのである。これを建前にこだわるといってもよいかも知れぬが、表向きの変化はただちに家門の誇りといったもの、ひいてはおのれの身分にもひびいてくるが、中身のことはさほどにひびかぬということでもあろうか。  とにかく莅戸善政は、事実上執政にひとしい権力をあたえられ、またただちにそのように行動した。  とはいえ善政も、このたびのわが身の上に降りかかってきた人事を引きうけるについては、決死の覚悟を必要とした。すでに老齢である。また治憲のそばで小姓頭として政策に参画していたときとは事情がまるで異る。元来小禄の三手組出身の中老が、仕事の上でへまでも犯せば、ただちに嘲笑い、批判しようと待ち構える侍組の者がいるだろう。さらには禄高五百石の中老という異常な立身をとげた善政が、どこかで躓《つまず》くのを待ちのぞんでいる三手の者もいるだろう。さながら裸で餓狼の野に放たれたようなものだった。  治憲と会い、中老就任を受諾した善政は、その夜家にもどると一首の和歌を詠んだ。善政は、さきに御小姓頭から退いたときにも画家に委嘱して木こりが山中の丸木橋をわたっている図を描かせ、その画を賛してつぎのような歌を詠んでいる。  今さらに見るもあやふし丸木橋 渡りし跡の水の白浪  という歌であった。丸木橋をわたっている木こりは善政自身である。今度の和歌は、前回のその歌を踏まえ、しかし前回とは異る感懐を詠みこんだものとなった。  立帰り又踏みそめし丸木橋 行衛は知らず谷の白浪  どうなることか、あとのことはわからぬという感慨の吐露である。そうはいっても善政にも多少の成算と自信はあった。それがなければ、いかに中殿治憲の委嘱といっても、中老のような重い職務を引きうけられるものではない。善政が御小姓頭を辞してから、足かけ八年になる。その間善政は漫然と隠居生活に甘んじていたわけではなかった。身体のぐあいと相談しながら、時には藩の行方に思いを凝らし、考えがまとまれば書きつけて備忘とした。その量は意外に多くなり、「翹楚篇《ぎようそへん》」、「樹畜建議」、「凶荒予備」、「総秕《そうひ》」、「政語《せいご》」といった著作物にまとまった。  ──わが労作を活かす時が来たか。  と善政は思う。すると老骨が火に炙《あぶ》られたように熱くなるのを感じた。  中老就任のあと、善政は仔細にわが著作物を点検した。とくに「総秕」と「政語」はくりかえし読み返した。  そして二月に入ると、善政はにわかに行動を起こした。  ほとんど毎日のように奉行中条至資の屋敷か、奉行広居忠起の家に三人で寄りあつまることに決めて、政策を審議した。審議の中身は、さきに家中からあつめた存じ寄り書(意見書)のくわしい検討、すでに不正があきらかになっている役人の処罰対策、またもっとも重要、かつ緊急を要するいかにして財政を建て直すかという問題、疲弊して活力を失っている農村をいかにして甦らせるかなどという具体的な政策の審議だった。  これまで執政の政策審議といえば、とかく観念論に流れがちだったから、広居、中条の二執政はさぞかしおどろいたことであろう。しかしこの執政会議には、問題によっては大目付丸山平六、御中之間年寄黒井半四郎、明晰な論理を展開することで注目をあつめ出した勘定頭奥泉善之丞といった時の英才を同席させ、意見を聞いた。会議の性格がいよいよ具体的で実行力をともなうものとなったことは言うまでもない。  二月の二十八日間のうち、莅戸善政がわが家に在宅したのはただの三日間、あとは連日、広居、中条宅の会議に出ていた。おそるべき精励ぶりと言わねばなるまい。  そのことを洩れ聞いた治憲が、九郎兵衛は少少働きすぎではないかと心配したころ、その九郎兵衛がひょっこりと姿を現わした。  治憲は善政を書斎にまねき入れた。そしてつくづくと善政の顔を見た。善政は年相応の皺づらになっている。だが血色はよく、面上には生気が溢れていた。 「元気そうだの」  と治憲は言った。 「だが近ごろ、ちと働きすぎではないのか。そなたはいまや藩の柱だ。自重して身体をいたわることも考えねばならんぞ」 「もったいないお言葉にござります」  善政はうやうやしく頭を下げて言った。 「やらねばならぬことは山積し、わが齢は限られておりまする。おそらくはその思いが知らず知らず事をいそがせるのでござりましょう」  善政は顔を上げて、もっともただそれだけでもないと言った。 「隠居している間に洩れ聞いた話では、これまでの執政会議なるものはまことにのんびりとして、茶飲み話のごときものでもあったと申します。もちろんうわさでござりますゆえ、真偽さだかではござりませんが、もしもさようなことであれば、かれらに一藩を預かる執政会議の在りようはこうぞと、その一端を示したい気持もなかったわけではござりません」 「ふむ、竹俣美作がいてそなたが加わったころの執政会議は、席上火花が散ったからの」  治憲は千坂高敦がいて色部照長がいて、竹俣当綱がいたころの改革初期の執政会議を懐しく思い出した。もっとも千坂と色部は議論の上の火花にとどまらず、治憲に反旗をひるがえすところまで行ってしまったのだが。 「真剣勝負じゃった」  治憲は言って、開けてある障子の外に目をやった。  季節はちょうど二月の半ばを過ぎたばかりだが、今日は朝からあたたかく三月の末に近い気候を思わせる日だった。風もなく、静かな日差しがまだ雪が残る庭を照らしている。その風景の中に、池の右端にある梅の老木が一、二輪の花をつけはじめているのが見えた。蕾は赤みをおびて大きくふくらんでいる。  だが実際家の莅戸善政は、治憲が長くむかしの感慨にひたっていることを許さなかった。 「ところで……」  と話題を変えた。 「先日お手もとまでさし上げましたものは、ごらんいただけましたでしょうか」 「おお」  治憲は現実にもどって、善政を振りむいた。 「聞きしにまさるものだの。それにしても藁科立遠《わらしなりゆうえん》か、その者よく調べた」  安永二年七月の七家騒動で、治憲の施政に、ほとんど悪口雑言ともいうべき批判の言葉をならべたてた訴状を提出した重臣たちは、江戸家老須田|満主《みつたけ》、侍頭芋川延親の切腹を筆頭に、それぞれ重い処分をうけたが、騒動が一段落してからおよそ三カ月後の九月末になって、一人の医師がひっそりと打首の刑をうけた。藁科|立沢《りゆうたく》である。  立沢はもともと儒者兼医師であったが、二年前の明和八年に儒業怠惰を理由に儒者職を免ぜられ、御番医師に格下げされた。このことから立沢は治憲を筆頭とする時の改革派を深く怨み、七重臣の言上書の原型となった密書を、江戸家老須田満主に送ったとされる。そのことが判明したので、教唆の罪に問われたのみならず、一藩をゆるがした事件の首謀者とされたのである。  いま治憲と善政が話題にしているのは、その立沢の養子藁科立遠が善政に提出した「管見談」と題する意見書だった。本来なら年末に藩が募集した封印書に加えられるものであり、事実その趣旨に相当する藩政についての長文の意見もふくまれてはいたが、「管見談」の特異な点は、意見開陳にとどまらず、侍組から足軽にいたる武家階級の現状、町人、農民の現況をつぶさに調査して述べているところにあった。  封印書とはいっても、ただの意見書ではなく、大部の冊子である。善政も治憲も、この立遠の労作を見て、わが藩の現況を一目瞭然に俯瞰し得た思いをしたことは確かだった。立遠がこれを治憲に呈上せず、善政に持参したのは、藩法をもって処刑された立沢の跡つぎである身を恥じ、また遠慮もしたのであろう。 「三手組の暮らしの苦しみを書いてあったが……」  と治憲は言った。 「これまでも多少は耳にせぬわけではなかったが、事実が立遠の言うがごときものであれば、役人に規律を説いても無駄という気がいたすの」 「立遠が記していることは事実でござります」  と善政は言った。 「それがしの家などは、幸いに厚遇を蒙って過分の役料を頂戴しておりまするゆえ、安気に暮らすゆとりを得ておりますが、役ももらえずただの二十五石で暮らすということになりますと、丸丸の手取りは一年に米十六俵と銭八貫文(二両)。その中からかれこれよんどころない掛りを差しひけば、手もとに残るのはまず米十俵に銭七貫文というところでござりましょうか」  善政は治憲の前にいることを忘れたように、深深とため息をついた。 「まずはようやく夫婦二人が暮らして行けようかというほどのものでござりましょう。しかしながら養う親や子のおらぬ家はござりませぬゆえ、みなみな必死と内職にはげんでいる次第でござりまする。それがしがこのたび中老職を拝命いたし、これについては同格の三手の嫉視があると以前申し上げましたが、中老という役職に対する羨望もさることながらそれは表向き、裏では五百石というかれらからみれば途方もない役料があたえられることをうらやむ気持が働くのでござりましょう」  善政はにが笑いを洩らした。 「もとよりそれがしも三手組。そのあたりの気持は十分に相わかりまする」 「わしにだってわかるぞ」  と治憲も言った。 「『いかなる卑劣の態をなしても、今日の取続きで御奉公なすこと本意なれ』と書いてあったな」 「ご奉公を続けるためには、人に何と言われようとかまわぬ、という一種の居直りでござりましょうか。百姓がかぶる藁帽子をかぶり、あるいは荷かけ縄一本で重い荷を背負う力仕事に従事し、面も伏せずに悠悠と市中を罷り通る、それをまた誰も不思議とも何とも思わないという時節となったようでござります。三扶持方も同様、玄人はだしの細工物の内職に精を出すのはもちろんのこと、なかには商人になりすまして馬に商う品を積み、他領との間を往来する者もいる由……」  善政は一瞬苦悶の表情を顔に浮かべた。そういう世の建て直しを一身に引きうけることになった重荷をひしと感じたふうでもあった。 「藁科立遠は、これを表に士を飾れども内はまさしく商売なりと、痛烈に批判しておりますが、まさにその通りにござりましょう。憂慮すべきことは、暮らしの助けにはじめた商売が、金儲けのたのしみに変りつつあるということではないでしょうか。立遠はそれを申しておるものと存じます」 「国力の衰微のせいとはいえ、容易ならぬ事態に立ちいたったものだの、九郎兵衛」 「わが藩の窮乏はいまにはじまったことではなく、寛文四年に禄高三十万石が半領の十五万石に削られたときよりはじまりました。元禄のころにはすでに酒を売って内職をしていた者がいて、藩よりきびしく注意をうけたと記録にござります。しかるに半分に削られたわが藩を相続した法林院殿(上杉綱憲)さまは、お能に凝って嵐山一番の興行に千金を投じた、おそれながら大浪費家にござりました」 「声が高いぞ、九郎兵衛」  治憲は注意した。善政ははっとしたように背後をふり返ったが誰もいなかった。密談すると言って、近臣は遠ざけてある。 「とにかく……」  と善政はやや声を落としてつづけた。 「中殿さまもご承知のごとく、わが藩は百二十年来の貧乏藩でござります。その積年の疲弊が、つもりつもって今日の有様となったということでござりましょう」 「軽き者たちの進退も目にあまるものがあるようだの」  と治憲は言った。 「足軽などは金子を取って町人に苗字と扶持をゆずり、自分は隠居して楽に暮らしていると『管見談』は言っているが、これはまことかの」 「残念ながらまことにござります。いまは巷間足軽の苗字の大半は町人の手にわたったと言われております。大半は言い過ぎにしても、金のある町人が足軽株を買いあさっているのは事実で、中には一人で三つも四つも足軽の苗字を持っている者もいる由にござります」 「嘆かわしい世だの」  治憲は嘆息した。 「足軽になることが、そのようにうれしいものかの」 「それはやはり……」  と善政は言った。 「町人と卑しめられてきた身が、軽き者とは申せ士分となるわけゆえ、そのよろこびは格別でござりましょう。それに足軽の扶持は、大概一人扶持から三人扶持ぐらいのものにござりますが、一人扶持はむかしは三石、いまは二石ぐらいに減っておりましょうけれども、笑い話のようなさきほどの話、一人でもって三つも苗字を買った者は一人扶持でも六石の扶持を頂くことに相成ります」  善政の話はあくまで実際的だった。 「それに役職につけばその上に七人扶持の役料を頂戴出来ます。そうなると本扶持を加えて一人扶持の者でも十六石、ほとんど三手組の本来の禄高に変りないということに相成ります。苗字を買うときに出す金は一度限り、扶持は小なりといえども年年入ってまいります次第ゆえ、このあたりは町人らしい細かな計算が働いておるのかも知れません」 「いま、ふと思ったのだが……」  黙って善政の話に耳を傾けていた治憲が顔を上げた。 「興譲館などは、ちと高踏にすぎたかのう」  善政は訝しげに治憲を見た。それはいかがな意味であろうかとたずねた。 「足軽のことはさておくとして、三手の馬廻組、五十騎組、与板組は藩の中核である。武においてはもちろん、平時の職務でも、藩を支えるべき階層であるかれらが今日《こんにち》のような有様で日日を送っているとすれば、聖賢の道を説く藩校とは何か、あまりにも日常からかけはなれてはおらぬかと、いまふと考えたところだ」 「恐れながら中殿さま」  善政は顔いろを改めてただちに反論した。 「その学館から幾多の俊秀が世に出ていることをお忘れではないでしょうか。部屋住みの身分で郷村出役を命ぜられ、いまは若殿顕孝さまのご学問相手を勤める嶋田多門、さきにも申しました今成吉四郎、蓬田郁助。かれらはいずれも郷村出役を経て、いまは人に一目おかれる良吏となって、藩を支えております」 「そういえばそうか」 「もし学館なかりせば、藩は背骨を失った巨魚のごとく、つかみどころのないものと成り果てましょう。学館は藩の骨でござる。これあるがために、人は時に廉恥《れんち》を思い、時におのが人格の向上に思いをいたすものではござりますまいか。さきほど三手の内職の話が出ましたが、三手の者もすべてがすべてそうであるとは限らず、中には金儲けを卑しとして、いまなお毅然として貧に堪えている者もおるのが半面の事実にござります」 「さようか」  と治憲は言った。少し物思うふうに目を伏せてから言った。 「しかし平洲先生ならば、いま少し経書なども中身を噛みくだいてお話しなさるだろう。金儲けに狂奔している者どもに、ぜひ先生のご講話を聞かせたいものだ」  ごもっともでござりますと善政が諾《うべな》うと、治憲はまだ話をつづけてよいかと言った。多忙な善政の身を気づかったのである。 「ご存分にお話しくださりませ」  善政が言うと、治憲は高く声を張って、これよ、明かりをもてと言った。遠くで近臣の者が答える声がした。早春の日は暮れやすく、さっきまで庭を照らしていた日差しは、もはや跡形もない。日没のあとのうす闇が青黒く庭を覆いはじめ、その中に幻のように雪の白さがうかび上がっている。梅の木のあたりを動かず、しきりに澄んだ声をひびかせていた小鳥の囀りもいつの間にかやんでいた。  近臣たちにも、日が暮れたことはわかっていたろうが、密談に遠慮して、またいつもの倹約にも配慮して声をかけそびれていたようである。治憲の声を聞いて、いそいで廊下をやってくる足音がした。  善政は立って窓を閉めた。そのあたりのすばやくて構えない動きに、三手の腰の軽さが出たのを治憲は微笑して眺めた。近臣の者は部屋に燈火を持ちこみ、さらに火桶の火はいるかとたずねた。 「九郎兵衛はどうか」 「いや、今日はあたたかゆえ、それがしのためならばご辞退申し上げまする」  では、わしもいらぬと言うと、近臣は去って行った。そのしのびやかな足音が消えるのを待って、善政が言った。 「お話というのは『管見談』のことにござりましょうか」 「さようだ」  と言って治憲は身を捩《よじ》り、机の横に積んである書籍の中から「管見談」の冊子を抜き出した。 「気になるところがある」  善政は黙って治憲の動きを見ていた。その善政の前に、治憲は立遠が村村における年貢取立ての酷薄さに触れた個所をひらいて示した。  農村における年貢の取立てはむかしからきびしかったが、近年はことにやり方が苛酷になり、初秋になるのを待っていたように取立て役人が村村に入り、厳重な督促をするようになった。そう言われてもすぐには納められない者は肝煎の家に連行して縛っておき、または水風呂に入れるなどという有様で、このために病死する者がめずらしくなかった。  しかるに当年は、ということは前年の寛政二年のことを言っているわけだが、立遠は筆を改めて取立てはとりわけてきびしかったと言い、つぎのような例を挙げていた。  年貢を納められぬ者からは家財、農具、蓆《むしろ》の下敷わら、人糞までも取り上げ、それらをすべて金に代えて年貢とした。翌年の耕作、農民の暮らしを考慮しない根こそぎの取立てである。それでも決められた年貢に達しない者は、先日のことであるが冬至より二、三日つづいた大雪の中を中田村の橋の袂にまで連行し半日ほどもかがませておいたのを目撃している。また未納農民を凍てつく松川の中に追いこんで水流に浸し、肩が水より上に出ているといって棒でしたたかに肩を打つ取立て役人もいたと聞く。  これではとても命がもたないというので、わずかの家財を背負い、老人、子供をひき連れて村を出奔する者が一村に五軒、十軒と出ていると立遠は記していた。 「これも事実だろうの」  と治憲は善政に問いかけた。それがしは事実あったこととして読みましたと善政は答えた。治憲はたたみかけて聞いた。 「八右衛門(志賀祐親)は承知しておったかの」 「さて」  と善政は首をかしげた。 「昨年の秋というと、志賀はもはや実権を失っておりましたゆえ、格別に志賀が苛酷な命令を出したとも思えません。むしろ末端の取立て役人の行きすぎではござりませんでしょうか」  ここで善政はかすかな微笑を頬にうかべた。 「ただ農民も純朴にして骨身を惜しまずに働く者ばかりではござりません。惰農といわれる者がおります。身は百姓でありながら土を耕すことを厭う者の謂《いい》でござります」 「ふむ、人間のことゆえさような者もおるであろうな。で、その者たちは何をいたしておるのだ。村の中でただぶらぶらと遊んでおるということでもあるまい」 「さような者もおりましょうが、まず町に遊びに出る者が多うござりましょう。しかし町で遊び、立ち飲みの酒などを飲むためには銭金《ぜにかね》を必要といたしまする。かような者が博奕に手を出すのでござります」 「なるほど、博奕か」 「そういう者が、わが田に生える草を横目に見て、隣の屋代郷などにもぐりこみ、一攫千金を夢みて博奕を打つもののようにござります」  屋代郷は元来上杉領だったが、寛文四年の半領削減のときに切りはなされて幕領となった。いわゆる天領となったわけである。その後屋代郷は米沢藩の預り地となったり、また天領にもどったりということを繰りかえし、明和四年には元禄の検地のときにはおよそ四万六千石あった領地が、うち六カ村四千六百五十石を国替えで東北に下った織田藩に編入されるなど、複雑な動きがあった土地である。  このような経緯はあったものの、屋代郷の領民は一体に天領の民として高い気位を持っていた。しかし半面年貢の率は米沢藩にくらべて比較にならないほどに低くて暮らしやすく、また天領の民なるがゆえの自由も許されていたので、それがともすると放縦の気風を生むことにもなった。中には博奕を打つ者が出ても不思議はない環境といえよう。その気風を倣《なら》っていまは藩領の村村でも、ひそかに博奕を打つ者がいて問題となっている。 「竹俣美作どのが、郷村出役を村村に派遣するにあたって、農民には寛猛の二字をもってあたるようにと申されたのは、このようなことも考慮されたものであろうと思われます」 「しかし、きびしい取立てに泣いた者たちの、みながみな惰農というわけではあるまい」 「もちろんです。むしろ精いっぱい働いて、なお年貢を納め切れなかった者の方が、十人のうち八人と、はるかに多かったろうことは容易に推察出来まする」 「あわれじゃの、その者ども」  治憲は夜の闇にまぎれて、いそぎ足に村を後にする一家のうしろ姿を追うように、灯のとどかぬ部屋の隅のあたりに目を凝らした。先祖伝来の住む土地と家を捨てて行くかれらに、新しいしあわせの土地が用意されているとは思えなかった。  その顔いろを見ていた善政が、治憲の心中を推しはかったように言った。 「改革の第一年目は、まず役所の整理から手をつけます。役人も大幅に入れかえる相談をいたしておりまするゆえ、中殿さまがご心配なさるような酷吏はやがて一掃されましょう」  莅戸善政が退出して行ったあと、治憲はしばらく黙然と考えにふけった。酷薄な年貢取立ての模様が、善政と話したことでまた新しく記憶に甦り、頭を熱くしていた。それはまったく治憲の意に反したものだった。そのためか、今夜はこの前善政を送り出したときのように、煙草道具を出して一服するという気分にはならなかった。  さっき善政が口にした農民には寛猛二つの心得をもってあたれと言ったのは善政が言ったとおり竹俣当綱だが、当綱はまた、新設の郡奉行にあたえたこの説諭の中で、少少のことはゆるやかにして酷薄な取扱いをしてはならないともつけ加えている。これは治憲が下した愛民の心を説いた諭告を補足したものだった。  治憲の頭の中を、「百姓は日にくろみ泥にまみれ、田畑を作り候て世上の宝をこしらへ、人の飢寒をしのがせ候尊き役目にて候」という言葉がゆっくりと横切って行った。これは当綱が郷村出役を通じて村村の肝煎に行なった諭告の最後にある言葉である。いかに財政が苦しいとはいえ、農民に対する藩の態度は基本的にはこのようなものであったはずである。  治憲は火のない火桶の上で手を押し揉んだ。夜になって夜気は急に冷えてきたようである。  ──農民に対する対応がいつから、このように荒《すさ》み切ったものとなったのであろうか。  と治憲は思った。思いながら一人の男の顔を脳裏に思い描いていた。謹厳にして端正なその顔は、いま幕政改革をすすめている松平越中守定信である。      三十七  莅戸《のぞき》善政は、例のごとくやや俯目に、黙然と坐って、治憲の声がかかるのを待っている。治憲の前に差し出されているのは、のちに十六年の組立てと呼ばれることになる善政の意見書だった。  治憲は一読してから顔を上げた。それは善政が隠退して書斎(部屋の隅のことである)に籠っている間にまとめた改革案だった。そこには「総秕」など、隠退中の善政が心魂をそそいだ藩政改革のもとになる思想が扱われている。そのなかからまとまった改革案のひとつが、いま治憲の前に提出されている案の正体だった。  改革政策案はその思索から生まれた、いわば果実である。 「よく出来ておる」  治憲はその案の出来をほめた。だが、実際には、頭にうかんできたべつのことに気を取られていた。十六年組立て──改革すべき項目を十六段階に分け、一年に一項目を実施してその上に次の新規の事業を積み上げて行くという方法である。  善政は第一年目の事業に、藩政改革を挙げていた。当然そうあるべきことだった。藩政の乱れが、いま米沢藩の最大の障害となっている。武士が金儲けに狂奔していた。貧しいがゆえである。  治憲はもう一度意見書に目を走らせた。そして後尾に殖産振興が控え目に配されているのを見た。 「殖産振興はもっとも肝心のことだが、これには資金の導入が必要だ」  そしてつけ加えた。 「ところがわが藩はいま、すべての金主に背をむけられておる。どうするつもりか」  善政は重い瞼を上げた。 「何とか、あたってみまする」  何ともなるまい、と治憲は思った。ゆううつだった。  しかしながら善政は、かたくなに凝りかたまった金主たちの前に、裸のおのれを投げ出すようにして懇願し、ついにかれらが拒否の態度をひるがえして、藩の事業に出資する約定を取りつけたのである。  殊に出府して藩最大の金主である三谷三九郎に会った善政は、まず従来の藩の係りが「彼所より借りて此処に返し、こちらより借りてあちらをくすぐり候」といわれた誠意のない対応を詫び、以後、もしこのような信義にもとることがあれば自分は割腹も覚悟で対処いたすという腹をさらけ出した言い方で迫った。  そして出資を待ちのぞんでいる藩の事業についてくわしく説明し、これらの殖産産業は資金の導入なくしては動かない旨を述べて懇願した。善政の誠意と迫力に圧倒された三谷はついに言った。どうぞ莅戸さまお手をお挙げください。もちろんそれによって、当方ももうけさせていただく身です。そこのところの誠意さえ示して頂けば、資金を提供するのに何の障りがありましょう。  すでに越後の渡辺三左衛門、酒田の本間四郎三郎の諒解はとりつけてある。藩と金主たちとの関係は復活した。藩にとって最大の懸案が解決をみたのである。  その報告をうけた治憲のこころのなかに、ふたたび静かな感慨がもどってきた。  しかし十六年組立て──。この計画の特徴はすでに述べたように一年に一事業のみを行ない、積み上げて、その成果をたしかめながらすすめることである。事業の完結までには長年月を必要とする。年齢からいって、善政がこの財政組立ての成果である殖産産業が華咲くところをみることはおそらくむつかしかろう。  しかし治憲はそのことに触れなかった。いたわりをこめて言った。 「善政、そなたのような人物こそ、真の政治家と申すものだ」  善政はうつむき加減のまま、めずらしく微笑した。  治憲は享和二年に鷹山と改名し髪を総髪に改めた。文政五年、鷹山は池のほとりに出て、一月の日の光を浴びて立っていた。一月の光はか弱く、風はなかったが、光の中に冷ややかなものがふくまれていた。冬の日のつめたさである。  鷹山は前年の十一月に、愛妻のお豊の方を喪った。糟糠の妻だった。その欠落感は大きく、冬日の中にじっと立ちながら、鷹山は胸の中に巨大な穴が空いている感覚を捨て切れない。  だがいま鷹山の胸にうかんでいることは亡妻のことではなく、漆のことだった。  米沢に初入部し、国入り前に江戸屋敷から国元にむけて大倹実施を発表したことで、入部するや否やむかえた藩士たちの憤激を買い、嘲罵ともいうべき猛反対の声を浴びてから五十年が経過している。白子神社におさめた大倹執行の誓文。竹俣当綱によって、漆の実が藩の窮乏を救うだろうと聞いて心が躍ったとき、漆の実は、秋になって成熟すれば実を穫って蝋にし、商品にすると聞き、熟すれば漆は枝先で成長し、いよいよ稔れば木木の実が触れ合って枝頭でからからと音を立てるだろう、そして秋の山野はその音で満たされるだろうと思ったのだ。収穫の時期が来たと知らせるごとく。  鷹山は微笑した。若かったとおのれをふり返ったのである。漆の実が、実際は枝頭につく総《ふさ》のようなもの、こまかな実に過ぎないのを見たおどろきがその中にふくまれていた。 [#地付き](完)  平成九年五月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十二年二月十日刊