[#表紙(表紙.jpg)] 藤沢周平 日暮れ竹河岸 目 次  江戸おんな絵姿十二景   夜 の 雪   う ぐ い す   お ぼ ろ 月   つ ば め   梅 雨 の 傘   朝  顔   晩 夏 の 光   十 三 夜   明  烏   枯  野   年 の 市   三日の暮色  広重「名所江戸百景」より   日暮れ竹河岸   飛 鳥 山   雪の比丘尼橋   大はし夕立ち少女   猿若町月あかり   桐畑に雨のふる日   品川洲崎の男  あ と が き [#改ページ]    江戸おんな絵姿十二景   夜 の 雪  おしづは、途中からその話を上の空に聞き流した。うつむいて火鉢の灰をならした。子供が二人もいる男やもめが、自分を嫁に欲しがっているという話は、おぞましいとか気持がわるいとかいうよりさきに、どこかひとごとのように聞こえる。私には新蔵がいるのに、とも思っていた。 「どうですか?」  問われて、おしづははっと顔をあげた。政右衛門がにが笑いしている。 「あまり気がのらないご様子ですな」  顔は笑っているが、声にたしなめるようなひびきがあった。無理もない。政右衛門はここ数年もの間、ぽつりぽつりと縁談を持って来ては、そのたびにことわられている。恩着せがましいことは一度も言わず、そぶりにも見せたことはないが、政右衛門はいい加減うんざりしているはずだった。 「お齢《とし》は、いくつですって?」  おしづはあわてて問い返した。 「三十四です。さっき申しました。おしづさんが六になられましたから、ま、釣り合わない齢じゃありませんな」 「でも、子供が三人もいるんでしょ? あら、違った。二人だったかしら?」 「ええ、二人です」  政右衛門は辛抱づよい口ぶりで言った。 「しかしその子供も、五つと三つ。二人とも女の子ですぐになつく年ごろです。それよりもわたくしが言いたいのは、万平さんが先が楽しみの商人だということです」  万平というのが縁談の相手だった。小間物屋だという。女相手のはなやかな商いである。 「あの若さで、担い売りから店を一軒持ちました。見上げた根性です」 「………」 「子持ちの男やもめなんか、とばかになさるかも知れませんが、肝心なのは人物ですよ、お嬢さん。若くて身元確かで、その上男ぶりがよくても、中味がつまらなくては何にもなりません。ところが近ごろは、このテの若いひとが大変に多くなりました」 「わかっていますよ、政右衛門さん」 「はい。その点万平さんの人物なら、わたくしが保証いたします。それにお会いになればすぐにわかりますが、万平さんは男ぶりだってまあまあでしょうよ」  おしづは笑った。こういう話は、聞いているだけならたのしかった。母と相談して、いずれ返事するとおしづは言った。 「おや、おどろいた。まだ降っている」  帰るという政右衛門を送って出ると、ひと足先に外に出た政右衛門が大きな声でそう言った。外が雪で真白になっていた。  朝から曇り空で底冷えがきつかったが、八ツ(午後二時)過ぎから雨が降り出した。その雨が、夕方にはとうとう雪に変ったのにおしづも気づいていたが、雪はそのあとも音もたてずに降りつづいていたらしい。地面も庭木も塀の上も残らず雪に覆われてしまって、庭はいつもの見慣れた闇ではなく、ほの白い光に満たされている。  片手に傘、片手に提灯《ちようちん》をさげた政右衛門のうしろ姿が、雪の道を遠ざかるのをしばらく見送ってから、おしづは門を入って格子戸をしめた。戸の上下にある|さる《ヽヽ》をさぐって、しっかりとはめた。  奥の部屋に行くと、母のおたつが目ざめていた。 「誰か来てたの?」 「政右衛門さんよ」 「道理で男の声だと思った。ふーん、それで? 挨拶もしないで帰ったのかい?」 「だって、さっきおっかさん眠ってたでしょ。お茶飲む?」  おしづは母を抱き起こしてお茶を飲ませた。おたつは舌ったるいような口ぶりで、眼がまわると言った。そう言いながら、むさぼるように熱い茶をすすり、政右衛門が手みやげに持って来た餅菓子をたべた。おたつは中風で、半身不随のまま一日中寝ているが、胃ノ腑は丈夫だった。何でもたべる。  おしづの家は雪駄《せつた》問屋で、店は日本橋北の品川町にあった。黒|漆喰《しつくい》塗りの店蔵が目立つ店で、界隈《かいわい》では指折りの繁昌店だったが、八年前におしづの父近江屋幸右衛門が急死するとたちまち潰れた。  父が死んだあと、なぜあんなに沢山の借金取りが来たのか、おしづにはいまだにわからない。来る日も来る日も借金取りが押しかけて来て、母と番頭の清兵衛を相手に大声をはり上げ、むしり取るように金と品物を持ち去った。それで済んだのではなく、ある日大八車を三台もひいた男たちが来て、箪笥《たんす》、長持、建具のはてまで運び去った。奉公人は四散し、親子は店を追われた。店も抵当に入っていたのである。  そのころおしづには縁組みがまとまっていて、婿を迎えることになっていた。相手は同業の信濃屋の次男である。だがさわぎがはじまると、信濃屋はすばやく縁組みをことわって来た。  母と娘がいま住んでいる家は、おしづの祖父がむかし隠居所に使った家である。番頭の清兵衛、近江屋からのれん分けで外に店を持った政右衛門、米吉などが、必死に債鬼とかけ合って、やっと残した家だった。だが引越して来て半年も経たないうちに、今度は母のおたつが倒れた。その病気が、重なる心労から来たことは誰の眼にもあきらかだった。  それから八年、おたつはほとんど寝たきりで暮らしている。はばかりにだけは、おしづの肩を借りて自分で立つが、めまいがひどくてうしろから身体をささえてやらないと用が足せなかった。おしづがつかまえていても、おたつは眼がまわるよう、うしろにひっくり返るようと言いながら用を足すのである。 「政次郎、何だって?」  おたつは、自分より五つも年上の政右衛門を、むかし近江屋に奉公していたときの名前で呼んだ。 「また、お嫁の話よ」 「ふーん?」  おたつは疑わしそうに娘を見、話してごらんなと言った。だがおしづの話を、おたつは途中でさえぎった。 「いやらしいね、子持ちの男やもめなんて。政次郎は、そんな話しか持って来られないのかい」 「おっかさん、あたしだってもう二十六よ。話を持って来てくれるだけでもありがたいと思わなくちゃ」  じっさい縁談というものがひとつもなくなり、政右衛門も来なくなったらどんなにさびしかろうとおしづは思った。たとえ役にも立たない話でも、縁談はかすかな幸福感を運んで来て、いっときは心をうき立たせる。 「万平て言うんですってよ、そのひと。変な名前ね」  おしづはくすくす笑った。 「おまえが嫁に行ったら、病人のあたしはどうなるのさ」 「昼はおっかさんの世話をしに来てもいいんだって。夜はかわりのひとをよこすそうよ」  おしづは少しうきうきした声で言った。 「まるで、お妾さんみたいだと思わない?」 「品がわるいことを言うもんじゃないよ」  おたつは寝返って背をむけた。そして何かつぶやいた。 「何て言ったの?」 「早くお迎えが来ればいいって言ったんだよ」  またはじまった、とおしづは思った。 「あたしさえいなければ、おまえはまだいくらでもしあわせを掴《つか》めるのだから」  おっかさん、と言ったが、おたつは振りむかなかった。背をむけた頭と肩がこまかく顫《ふる》えている。おしづは立ち上がって部屋を出た。このままそばにいても、母親が気持を昂《たかぶ》らせるばかりだとわかっていた。  居間にもどると、おしづは火鉢によりかかってほんの少し泣いた。自分を憐れむ気持が胸にあふれて来るのに身をまかせ、逃げ道などどこにもありはしない、と思った。  だがおしづはそんなに長くは泣いていなかった。立ち上がって賃仕事の縫い物を持ち出すと、そのまま針仕事にかかった。手を動かしながらとりとめもない物思いにふけるのがおしづは好きである。気持はすぐに落ちついた。そして物思いの中に、またするりと新蔵が入りこんで来た。  信濃屋の次男との縁談が決まりかけたころ、奉公人が一人やめた。新蔵といい、おしづと同年の十八で、商家勤めにはどうかと思われるほど、はげしい気性を持つ若者だった。やめる前の晩、新蔵はおしづに裏庭まで来てくれと懇願した。おしづが面白がってついて行くと、新蔵は突然に店をやめて上方に行きますと言った。ひとかどの商人になったらかならず会いに来ます、とも言った。気負っていた。なぜ、急にそんなことを言うのかとおしづは聞いた。 「新蔵は、もうお嬢さんのそばにいたくないのです」  はげしい語気で言うと、新蔵は突然におしづの手を握った。そして獣のように暗い物陰に姿を消した。握られた手に痛みが残った。  ──ちっとも現われやしないじゃない?  おしづは胸の中でつぶやく。べつに新蔵をあてにしているわけではなかった。だが心のどこかで、おしづは新蔵がいつかは自分の前に姿を現わすような気もするのである。そのことを考えると気持が少しのぼせて来る。新蔵が来るのは三十のときかも知れなかった。ひょっとしたらおしづが四十のときかも知れなかったが、そんなことはかまわない、と思うのだ。  おしづは縫い物を下におろすと縁側に出た。雨戸を繰ると、夜気がほてった頬を気持よくなでた。雪はもうやんでいた。縁側にうずくまったまま、じっと雪を眺めていると、門の戸がことことと鳴った。はっと耳を澄ましたが、物音は一度だけだった。誰もいない夜の道を、風が駆けぬけて行ったらしかった。 [#改ページ]   う ぐ い す  軒下の洗濯物をとり込んでいると、うしろでお六の声がした。 「湯屋《ゆや》にいかないかね」  振りむくと、太って色の黒いお六が、子供の手をひいて立っていた。おすぎはあいまいな笑顔になって首を振った。 「今日はうちのひと、帰りが早いから」 「そうかい。じゃほかのひとを誘うかね」  口のきき方も気性も男のようなお六は、そう言うとあっさり行きすぎた。本気で誘ったわけではなく、たまたま通りかかったらおすぎがいたので、ひと声かけたというふうにも見えた。  それも当然で、おすぎはいまの家に引越して来て一年ほどたつが、お六と一緒に湯屋に行ったことは一度もない。お六にかぎらず、長屋の誰とも連れ立って湯屋に行ったということはなかった。行くときは一人で、それもひとがそろそろ床につく刻限をみはからって、走って行ってしまい湯を浴びて来る。ずっとそうして来た。  一年もたてば、そういうことはあたりに知れわたったはずだが、怪しんでなぜだと聞きただす者はいなかったし、気をつかって湯屋に行こうと誘いに来る者もいなかった。おすぎは、陰気で人づきあいの悪い女だと思われているのである。そして事実、おすぎは身体をすくめてあたりをやり過ごすような暮らし方をして来た。皮膚のうすい、平べったい顔をうつむけて、外にいたかと思うと、鼠のようにもう家の中にひっこんでいるおすぎをみると、誰しもせいぜいその日の天気のことぐらいしか、声をかけては来ないのである。  おすぎはお六を見送って一度休めた手を、また洗濯物にもどした。洗った物はよく乾いていた。日は西に傾いたが、束になって路地に流れこんで来ている日差しがあたたかかった。物陰に行くと、まだそこに蹲《うずくま》っている冬の気配が肌を刺して来ることはあるが、季節が春に移ったことは疑いようがなかった。手をのばしたついでに見上げたおすぎの眼に、青い空が映った。  はずした洗濯物を、山のように胸に抱えこんでから、おすぎはもう一度お六の方を見た。途中に三人ほど、女たちが立ち話をしているが、お六はそこでもことわられたらしく、木戸わきの左官の平助の家から、平助の老母を連れ出すところだった。着膨れて腰が曲っている平助の老母に、手を貸して路地を出て行くお六を横目に見ながら、おすぎは家に入った。  おすぎは台所に跪《ひざまず》いて青菜をきざんだ。まだ自分を湯屋に誘ったお六のことを考えていた。みんなと仲よく出来たら、どんなにうれしかろうと思った。だが、その考えはたちまちに恐ろしい記憶を引き出して来るのだ。  二年前には、おすぎは竪川《たてかわ》堀の川上にある菊川町に住んでいた。やはり長屋住まいだったが、おすぎはその長屋で一番のおしゃべりだった。おすぎのおしゃべりは、ひとに嫌われてはいなかった。実際に、おしゃべりに熱中しているときのおすぎは、頬は赤らみ眼はきらきら光って生気に満ちて見えた。つぎからつぎと面白いことを言うので、おすぎのまわりには笑いが絶えなかった。  亭主の勝蔵は大工職人で、むっつりとした男だが、勝蔵もおすぎのおしゃべりを嫌ってはいなかった。ときたま「おめえのおしゃべりを聞いていると飽きねえや」とか、「よくそんなに話すことがあるもんだ」とか言った。だがおすぎに言わせれば、おすぎをとり巻く世界はおしゃべりの種で満たされているのである。長屋の誰それの話したこと、やったこと、季節の日の光、風のそよぎ、今日はじめて来た物売の若者、大家が飼っている奇妙な咳をする黒犬。そのすべてが尽きない興味となって、おすぎの胸に棲みつき、気持をあおり立て、残らず話してしまわないことには胸は空っぽにならないのである。  ある日、例によって井戸端で集まった女たちとおしゃべりを楽しんでいるとき、突然におすぎの家の中でただならない泣き声があがった。二つになる庄吉の声である。振りむいたおすぎは戸口から真黒な煙が噴き出しているのを見た。顔色を変えて駆けもどるおすぎの後から、火事と見た女たちが、手近かなものに水を汲んで走った。  火事は、台所半分ほどを焦がしただけで消しとめたが、庄吉は瀕死の火傷《やけど》を負った。竈《かまど》に残っていた火をいたずらしているうちに、大事を惹き起こしたとみられた。火傷を負った庄吉は、大家の知り合いの医者に運ばれたが助からなかった。知らせをうけてもどって来た勝蔵の、その日の怒りをおすぎはまだ忘れていない。 「このおしゃべり女め」  勝蔵は、家の中に入って来ると、庄吉の亡骸《なきがら》には眼もくれずにおすぎを殴り倒した。足蹴にかけた。てめえがしっかり子供を見てりゃ、こんなことにはならなかったのだ、とも罵《ののし》った。誰かがすばやく告げ口をしたらしい。蹴られて泣き叫びながら、おすぎはちらと勝蔵の顔を見た。  勝蔵は恐ろしい顔をしていた。仁王立ちになって、他人より冷たい眼でおすぎを眺めおろしていた。あ、これでおしまいなのだ、とおすぎは思った。なにもかもだめになって、このひととは他人になったのだと思った。恐怖に胸が冷たくなるのを感じながら、おすぎは自分でも意味不明の、長い叫び声をあげた。そして黙りこんだ。泣いてもわめいても、おしまいになったものはおしまいなのだと思ったのである。  しかし勝蔵は、おすぎに出て行けとは言わなかった。ただいっそう寡黙になり、夜は酒の匂いをさせてもどることが多くなった。おすぎも人が変ったように陰気な女になった。ひとに会っても物もしゃべらず、外を歩くときはうつむいて足早やに歩いた。二人は家の中でもほとんど話をしなかった。一組の、申し分なく陰気な夫婦が出来上がった。夫婦を見る長屋の者たちの眼は冷たかった。子供を殺し、火を出しそうになった女として、おすぎはうしろ指をさされたし、それだけの不始末をしでかした女を、離縁も出来ない男だと、勝蔵もうしろ指をさされた。  居辛くなって、一年後にはいまの長屋に引越して来たが、事情はさほど変ったわけではなかった。勝蔵はさすがに男で、いくらか気をとり直したらしく、物も言うようになり、飲んで帰ることも少なくなったが、おすぎはもとのままだった。おすぎの胸の中には、まだ二年前の恐怖がこびりついている。  恐ろしい記憶を忘れさせないのは、夫の勝蔵と腕に残る火傷の痕である。勝蔵は、家の中の物言いがやわらかくなり、おすぎの不始末など忘れたように見えることもあった。だがそれに気を許して、おすぎがついもたれかかって行くと、勝蔵は何とはない感じで、身をかわしたり突きはなしたりする。そのつどおすぎははっとわれに返り、胸が冷たくなるのを感じないではいられない。  おすぎの右の二の腕には、大判一枚ほどのひきつれがある。火の中から庄吉をつかみ出したときに負った火傷の痕である。まだなまなましく醜い傷痕だった。ひとに見咎《みとが》められて、わけを聞かれたらどうしよう、と思うだけで、おすぎは女たちと湯屋に行く気持をなくする。お仕置きは、まだ終ったわけではないのだ、とおすぎは思っていた。  おすぎは立ち上がると、湯気を噴き上げている釜を確かめて竈の火を弱め、鉄鍋に水を汲むと、刻んだ青菜を投げこんだ。  勝蔵が帰って来たとき、おすぎはまだ台所にいた。めずらしく勝蔵は台所に入って来た。お帰りと言ったが、おすぎは勝蔵の身体から酒が匂うのに気づいて胸が苦しくなるのを感じた。引越す前の話だが、勝蔵は二度ほど、酔って帰っておすぎを殴りつけたことがあるのだ。 「今度、親方の世話で鑑札をもらうことになった」  前置きもなく、勝蔵はそう言った。おすぎはまあと言った。 「これで棟梁というわけじゃねえが、鑑札をもらうと大きな仕事をまかしてもらえるようになる。そのうちにゃ、表店《おもてだな》に越せるぐらいになるだろうさ」 「………」 「やり直しだ」  それだけ言うと勝蔵は背を向けたが、茶の間に入ってから、もうひと言何か言った。子供もつくらにゃと聞こえた。おすぎは濡れた手を握りしめたまま、ぼんやりと立っていた。夫は二年前のあのことを赦《ゆる》すと言ったつもりらしい、とわかったが、やり直しなどほんとに出来るのだろうかとも思った。  二日ほど雨が降ったあと、地上にはまた日が降りそそいだ。まぎれもない春の日差しに見えた。日のいろはやわらかかったが、時おり風が吹きすぎると、光は中空で弾け合い、力強くきらめいた。おすぎは、井戸端で笑いさざめいている女たちを長い間見つめていたが、やっと決心がついて軒下をはなれると、女たちに近づいて行った。女たちの輪の中から、さっきおすぎの心を強くゆり動かしたうぐいすの声が聞こえた。 「どうしたんですか? そのうぐいす」  おすぎが声をかけると、女たちはぎょっとした顔でおすぎを振りむいた。 「あたいの亭主が預かって来たのさ。旦那の家で留守にするもんでよ」  とお六が言った。お六の亭主は米屋の車力をしている。まあ、と言っておすぎは籠の中で元気よく動いている小鳥をのぞきこんだ。女たちが無言で身体をあけた。 「うちでもうぐいすを飼ったことがあるんですよ、四、五年前のことだけど」  女たちの顔を見回してそう言ったとき、おすぎは、長い間忘れていたあのなじみ深い衝動が、胸の中でむくりと顔をあげたのを感じた。そうだ、あのことを話してやらなきゃ。あの変てこなうぐいすのことを……。そう思いながら、おすぎは無意識にころころとひびく笑い声をたてていた。 「そのうぐいす、亭主がよそから頂いて来たのだけど、とんだ駄物だったの。でも亭主はそんなことは知らなかったわけ。あたしだって気づかなかった。だもんで、擂餌《すりえ》をこさえたり、大家さんのうぐいすを借りてきて鳴き声をしつけたり、そりゃもう大さわぎ……」  気をのまれたように押し黙っている女たちを見ながら、おすぎはひと息にしゃべった。あ、こんなところを勝蔵に見つかったら叱られる、とちらと思ったが、その怯《おび》えもひさしぶりのおしゃべりの快さに押し流されてしまった。そう、あれは勝蔵と所帯を持った翌年の春のことだった。しゃべりつづけながらおすぎは、いまの世界も過ぎ去った世界も、一斉にいきいきと動きはじめたのを感じている。 [#改ページ]   お ぼ ろ 月  うしろの空に月がのぼって、それがまた見たらびっくりするような、赤くて大きな月だったのだが、むろんおさとは気づかなかった。きくえの家を出て間もなく日が落ちたのにおどろいて、いそぎ足に歩いていた。  町は、歩いているうちにも少しずつ暗くなった。こんなおそい時刻に、一人きりで遠い町を歩いたことなどなかった。その心細さが、二十のおさとの胸に軽い恐怖心を運んで来て、足どりはおのずからはやくなる。  こわいだけではない。家にもどったら、こんな時刻まで何をしていたかと、早速に叱られるに違いなかった。そのことも気持をせき立てていた。おさとの家は、神田橘町で老舗《しにせ》に数えられている糸問屋で、年ごろの娘の行動にはうるさく口をはさむ。  ことに去年の暮に縁談がまとまり、あとひと月もすると、遠州屋という同業の店に嫁入ることに決まっているので、親たちの監視は近ごろ一段ときびしくなった。一人では外に出なさんな、などと言う。親たちは今日、おさとが友だちのきくえをたずねることにも、いい顔をみせなかったのである。もっとも、それにはわけがあった。  きくえは同じ町の履物屋の娘である。おさとよりひとつ年上で、子供のころから遊び友だちで育ち、年ごろになるとお稽古事にも一緒に通った仲だったが、きくえは十八になった春に、突然男と駆け落ちした。相手は店に出入りしていた下駄職人だった。  きくえの家では大さわぎになったが、ようやく一年ほど前に、二人が男の生まれ在所に近い川崎宿にひそんでいることを突きとめ、江戸に呼びもどして小さな店を持たせた。それがさっき行って来た北本所多田薬師そばの家である。きくえにはもう子供がいた。  きくえの家では、町の者の眼をはばかってそんな遠い町に娘夫婦を住まわせたのだが、そういうことはいつの間にか町中に知れわたるのである。おさとの家でも知っていたし、おさとはおさとで、べつにきくえの実家の顔|馴染《なじ》みの女中から、その話を聞き出していた。  おさとは、遠州屋に嫁入る前に、一度はきくえをたずねてみたいと思いつづけていて、今日その思いを果したのだが、おさとの家の者は、おさとがいまだにきくえのような事情のある女を友だちと思っているらしいことに、にがり切っている様子だった。長居しないで帰りなさいよ、と言った母親の眼がきびしかったのをおさとは思い出している。  だが春の日暮れは、秋のようにすとんとひっくり返ったように夜に変ることはない。そこまで来ている夜と、しばらくはじゃれ合いながら、ためらいがちに姿を消して行く。両国橋まで来たとき、橋の上はもううす暗くなっていたが、西の空にはまだ木苺《きいちご》の実のいろほどの明るみが残っていた。おさとはほっとした。  ──ここまで来れば、もう大丈夫。  と思った。橋をおりて広小路を突っ切れば、橘町まではひと息の距離である。そう思ったが足どりはゆるめなかった。心細い気分はみるみるうすれたが、家に帰って叱られる気重さが残っている。  橋の上には、やはり家路をいそぐらしいひとびとがせわしなく行き交っていて、おさとのはやい足どりを見咎《みとが》める者はいなかった。  ──あのひと、ほんとに変った。  おさとは、会って来たきくえのことを思い出している。三年ぶりに見たきくえは、姿から物言いまで、すっかり職人の女房らしくなっていた。そのときのおどろきが、いまは胸の中で少しずつ感嘆の気持に変って来ているのを感じる。なんて強いひとだろう。  遠州屋との縁談がまとまったことを打ち明けると、きくえはおめでとうさんと言った。 「親の言うことを聞いて、ちゃんとしたところに嫁に行くのが一番だわ。あたしをみてごらんな。わがままを通したかわりに、いまじゃ職人の女房だものね」  きくえはそう言ってからからと笑ったが、言葉とは裏腹に、きくえがいまの暮らしに十分満ち足りていることは、ひと眼みてわかったのである。  苦労したはずなのに、きくえは娘のころよりいくらか太っていた。ひと皮むいたように皮膚がうすく光を帯び、子供を生んだ腰が厚かった。膝の上の子供もかわいかったし、きくえに呼ばれてちょっとだけ挨拶に顔を出した夫も感じのいい男だった。  喜七という名前だというきくえの夫は、寡黙そうな顔の中に、一本きりっとした感じがある若い職人だったが、きくえに話しかけた声は低くてやさしかった。しあわせそうじゃないの、とおさとは心の中で思った。胸の中に、きくえをうらやむ気持が溢れた。  誰にも言っていないが、おさとは遠州屋との間にまとまった縁談に、ずっと不満を抱いていた。夫になるはずの房之助という男が嫌いだった。  房之助は、縁談が持ち上がる前から、仕事の話で何度かおさとの家に来ている。長身で、平べったいつるりとした顔を持つ男だった。遊び人だという噂を聞いた。だがおさとはその噂を聞いて嫌いになったわけではない。房之助に、遊びに崩れたところが見えるのを嫌ったのである。房之助のちょっとした物の言いようとか、ひとを見る眼づかいなどに、大店《おおだな》の跡つぎらしくない、ひょいと卑下た感じが出るのに気づくと、おさとは鳥肌が立つ。だが親たちには、房之助のそういうところは少しも見えていないらしかった。  遠州屋は、おさとの家よりもひと回り商いの大きい店である。親たちは、あんまり大事にし過ぎて、いくつかあった縁談をことわったために、今度は婚期をのがしそうになっていた娘に、遠州屋のような店と縁組みがととのったことを単純に喜んでいた。  一度だけ親たちは、今度の縁談についておさとの考えを聞いたが、その聞きようはほんのおざなりで、これまで何事であれ親の意にさからったことのない娘が、今度の縁談に限って不平を言うはずはないという顔つきだった。おさとも黙ってうなずいただけである。親たちが乗り気になっている以上、不満を言っても無駄だと思ったし、また自分でも、これ以上婚期がおくれることがこわかったのである。  だが、おさとは嫁入る前に一度は誰かに、胸の中の不満を聞いてもらいたかった。そのためにきくえをたずねたのだが、不思議なことに、しあわせに暮らしているきくえをみると、そのことを口に出しかねた。話して、きくえにあざ笑われるのがこわかったようでもある。  ──あのひとは、強いひとだから。  でもきくえだって、はじめからあんなに強かったわけではない。男に思われたり、男を思ったりすると、女は強くなるのだろうか。そしてあたしは一度もそんなことがなくて、このまま嫁に……。  あっとおさとは叫んだ。叫んだときには、突きとばされたように橋の上にころんでいた。物思いにふけりながら、上の空で足をいそがせているうちに、物につまずいたようである。一瞬息がつまったようになって、おさとはすぐには起き上がれなかった。 「よう、よう、ねえちゃん」  男の声がした。つづいて男たちがどっと笑う声がした。 「派手にころんだもんじゃねえか。しっかりしなって。何なら手を貸してやろうか」  おさとは夢中で身体を起こした。いそいで下駄を拾った。ころんだとき打ちつけた膝と手首がはげしく痛んだが、はずかしさと恐怖が痛みを忘れさせた。  おさとが立ち上がると、それまで様子を見まもっていた職人ふうの四、五人の男たちは、もう一度どっと笑って離れて行った。おさとは手にさげていた下駄を調べてみた。片方の下駄の鼻緒が、いまにも切れそうにのびている。途方に暮れた顔を上げると、近づいて来た人影が、おさとの手からすっと下駄を取り上げた。ころんだところを見ていたらしい。 「こりゃだめですな。緒をすげ直さなくちゃ」  とその男が言った。 「ついそこに知っている家がある。行ってなおしてもらいましょう」 「いえ」  おさとは後じさりした。夢中で手を振り、けっこうです、一人で直せますと言った。恐怖で胸が固くなっていた。だが、おさとはふと後じさりをとめた。あたしはいつもこうして男とみれば逃げてばかりいた、と思ったようである。おさとはぼんやりした月の光に立っている男を見た。感じでは、三十前後の、風采のいい商人ふうの男だった。 「どうしました?」  男は苦笑しているような声で言った。 「こわがらなくたっていい。あたしはべつに、怪しい者じゃありませんよ」  手を貸してあげるから、下駄をはくといいと男は言った。男がのばして来た手に、おさとは眼がくらむような思いで縋《すが》った。  男が連れて行ったのは、河岸にある一軒の水茶屋だった。そこは懇意にしている店らしく、男が何か話すと、四十ぐらいのおかみがおさとを釜場の奥に連れて行って、親切に着物の泥を落とし、下駄の緒をすげ換え、手首の擦《す》り傷に軟膏を塗ってくれた。  その間、男は近くの腰かけでお茶をのみながら、ちらちらと釜場を振りむいたが、おさとが手当てを終えて男の前にもどると、あんたもお茶を一杯どうですかと言った。  明るいところでみると、いっそう風采のよさが目立つ男だった。運ばれて来た熱いお茶をのみながら、おさとはこれからどうなるのだろうかと思った。知らない男と一緒にいる不安に胸がとどろくようだったが、その不安の中には、ちょっぴり得意な気持もまじっていた。  水茶屋で男とお茶をのんだなどと言ったら、親はもとよりきくえだってびっくりするに違いない。そう思うと、男と一緒にいるのが悪い気持ではなかった。でも、酒に誘われたりしたらどうしよう、と思ったとき男が立ち上がって、では行きますかと言った。 「はいっ? どこへ?」  おさとは兎のようにとび上がって言った。 「どこへって、お家へ帰るんでしょ?」  男は怪訝《けげん》そうにおさとを見た。おさとは赤くなって、改めて丁寧に礼を言った。  橋にもどると、男は気をつけてな、と言って、あっけなく背を向けた。おぼろ月に照らされた男のうしろ姿が、みるみる橋の上を遠ざかるのを、おさとはぼんやり見送ったが、不意に腰を折って笑った。こみ上げて来たのは安堵《あんど》の笑いだったが、快い昂《たかぶ》りがまだ胸に残っていた。笑いやむと、おさとはゆっくりと歩き出した。こんなにいい月夜に、いそいで家にもどることはないと思った。おさとは、胸の中にほんの少し不逞《ふてい》な気分が入りこんで来たのを感じている。 [#改ページ]   つ ば め  新吉が懐《ふところ》から出したのは、一冊の薄い黄表紙本だった。おきちは受けとるとぱらぱらとめくってみたが、すぐに畳に投げ出した。 「こんなものは、大した金にならないよ」  新吉は顔を赤くしてうつむいた。新吉はもともと気が弱くて、店から物を盗んで来たりすることにはむいていないのだ。もっとも、おきちがそうしろとすすめたわけではない。 「松枝町の角の絵草紙屋かい?」 「そうだよ」 「あそこのおやじはうるさいからな。ま、とって来た度胸だけは買ってやるよ」  おきちがそう言うと、それまで黙っていた仙太が、ぬっと手を突き出した。 「おいらは、これだぜ」  開いた手に乗っているのは、飴いろの櫛《くし》だった。小さいが鼈甲《べつこう》細工らしい。おきちは受けとってしげしげと眺めてから、仙太を見た。 「こいつは本物だよ、仙ちゃん」 「あたりまえさ。巴屋に入りこんで、ちょろまかして来たんだ」  巴屋というのは、町のずっと西にある下白壁町の小間物屋である。水茶屋で働いたころ、巴屋の簪《かんざし》がほしいと思ったことがある。 「気づかれなかったろうね」 「大丈夫だって。その櫛、何だったらおきっちゃんが使ってくれてもいいぜ」  と仙太は言った。仙太の声には媚《こび》があるが、おきちは相手にしなかった。 「いいよ。お金に換えよう」  と言ったが、おきちは立て膝になって、髪に手をあげると櫛をさしてみた。仙太と新吉の眼が、落ちつきを失って内股のあたりにそそがれるのを感じた。  ──こいつら、もう色気づきやがって。  おきちは胸の中であざ笑ったが、悪い気持はしなかった。十五の少女は、半分は大人である。本能的に男たちの賛美の気配を嗅《か》ぎとる。おきちは気づかないふりで、わざと腰をひねって内股をのぞかせてやった。  仙太はひとつ年下、新吉はもうひとつ下の十三である。二人はちらちらとおきちの割れた着物の前を盗み見たが、まだ十の庄助は、そんなことには気づかないらしかった。ごそごそと懐をさぐると、四、五枚の煎餅を取り出した。 「おいらもやって来たよ」 「ばあか」  おきちは櫛を畳に投げ出してどなった。 「おまえはまだ小さいんだから、物をとっちゃいけないって言っただろ」 「だって、おいらもみんなと一緒に見世物小屋に行きたいよ」 「いったい、どこでやって来たんだね?」 「………」 「角のおかつばあさんのとこだな?」  おきちは、仙太と新吉に内股を見せるのをやめて、長火鉢のうしろに回った。仕事に出たじいちゃんが忘れていった煙草道具がある。おきちは煙草をつめると、灰の底の豆つぶのような火種から火を吸いつけた。  大人の女のように、天井をむいてぷかりとけむりを吐き出す。畏敬の眼で自分を見つめている男の子たちに、おきちはあごをしゃくって、その煎餅はここで喰べちまいな、と言った。そして、庄助に言った。 「町内で物をとっちゃいけないって言っただろ。おまえがつかまったら、みんなの手がうしろに回るんだからね。見世物にはちゃんと連れて行くから、もうやめな」  男の子たちが帰ったあと、おきちは台所に入った。じいちゃんの飲み残しの酒を持ち出すと、徳利を傾けて茶碗についだ。外には春が過ぎて行くもの憂い気配がある。そのせいなのか、おきちは胸の中に、わけもなく苛立つ満たされない気分があるのを感じる。女だてらに板の間にあぐらをかくと、茶碗の酒をひと息に半分ほどあけた。そのまま膝をかかえてじっとしていると、間もなく身体が浮き立つような、いい気分がやって来た。  おきちはいまから三年前、十二の齢《とし》に両国の川端にある水茶屋に働きに出た。  おきちは早く両親に死に別れ、六つのときに祖父の六蔵に引き取られたのだが、その六蔵が仕事先で倒れて、寝こんだためである。六蔵は日雇いをしている。大きな身体と腕力が自慢で、自分を年寄りだとは思っていなかった。だがある寺の鐘楼の石垣を積んでいたとき、満身の力で石を抱き起こした直後に倒れた。軽い中風だった。半年ほど寝こみ、起き上がったときには右足を引きずるようになっていた。  大家の世話で働き口が決まると、おきちは朝晩の飯の支度をしながら、水茶屋に通った。十二の娘には荷が勝ちすぎやしないかと、裏店《うらだな》の者は心配したが、おきちはけなげに祖父との二人暮らしをささえた。  そのかわりに、水茶屋勤めの間におきちはどんどん悪くなった。一年ほど経つと濃い化粧をすることをおぼえ、二年目になると奥座敷で客の酒の相手をすることも平気になった。おとりというひとつ年上の盗みぐせのある朋輩がいて、店が休みの日は、二人で盛り場で物をかすめ取り、金に換えて橋向うの見世物小屋に一日中入りびたったりした。おとりは、盗品を金に換えてくれる家も知っていた。  去年の暮のある日、六蔵は、あくどい化粧で店に出かけようとするおきちをつくづく眺めると、不自由でない左手で、いきなり孫娘を殴り倒した。 「てめえも、おっかあのような女になるつもりかい」  と、六蔵はどなった。おきちの母親は、十七のときに男が出来て、親を捨てた女だという。もう勤めはいいから家の仕事をしろ、おれは身体が治った、と六蔵は言った。不自由な右足を引きずりながら、六蔵はまた日雇い仕事に出るようになった。  だが働くのをやめて家にいるようになってみると、おきちは一緒に遊んだり話したりする幼な馴染《なじ》みが、町からほとんど姿を消しているのに気づいたのである。みんな奉公に出ていた。懐かしそうに寄って来たのは、表町の古手屋の息子新吉や、奉公先をしくじって家に戻っている同じ裏店の仙太など、年下の男の子だけだった。  おきちは遠い町まで出かけて、そこでおとりとしたように物をかすめ取って金に換えると、寄って来る男の子たちを見世物小屋に連れて行った。男の子たちは、大人になりかけているおきちをあこがれの眼で見る。そういう連中に見世物小屋をおごったりするのは気持よかった。男の子たちは、おきちがどうして小遣いを稼ぎ出しているかを知ると、半ばはご機嫌とりに、競って町から物を盗み取って来たがおきちはとめなかった。盗品を金に換えて、みんなの遊び金に使っていた。  巴屋を出て半町ほど歩いたところで、おきちはいきなり強い力で腕をつかまれた。おきちは身体に水を浴びたような気持になって振りむいたが、腕をつかんでいるのは巴屋の人間ではなかった。職人ふうの若い男だった。 「何すんだい」  おきちはあばれたが、男はうむを言わせずおきちを人気のない路地に連れこんだ。 「懐の中の物を出しな」  と若い男は言った。おきちが黙ってにらみ返していると、男は空いている方の手で威勢よくおきちの頬を張った。そしておきちの懐から、隠してある簪を取り上げた。 「いやらしいね」  とおきちは言った。懐に突っこんだ男の手が、わずかに乳房に触れたのでそう言ったのだが、男は動じなかった。けわしい眼でおきちを見ている。 「こういうことをやっていると、いまにお上のご厄介になるぞ」 「よけいなお世話だよ。あんた、誰さ」 「巴屋に品物をおさめに来た職人だ。こいつは、おれがつくった品物さ」  男はそう言うと、不意に顔いろをやわらげた。 「簪がほしいのかね」 「………」 「ほしけりゃ、一本つくってやってもいいぜ。半月したら取りに来な」  男はきびきびした口調で、遠い町にある細工場と自分の名前を言った。巳之吉という男だった。 「そのかわり、こういう真似はもうやめるんだな。こいつは預かって、おれから巴屋さんにもどす。いいな」  半月後に、おきちは箱崎町の河岸にある錺《かざ》り職《しよく》の細工場をたずねた。だが、若い男はもうそこにはいなかった。 「どこへ行ったんですか?」 「さあ、どこかなあ」  応対に出た男は、無愛想に言った。 「親方と喧嘩して出ちまったんだ。もともと渡りの職人だよ。行先なんぞわかるもんじゃねえ」  あの、とおきちは言った。 「あたしに簪をくれるって言ったんですが、聞いてませんか?」 「ねえちゃん、名前は何て言うんだね?」 「おきち」 「おきっちゃんか」  三十半ばの男はにやにや笑った。 「その話は聞いていねえな。わけは知らねえが、ねえちゃんよ。そいつは巳之吉の野郎がいい加減のことを言ったのだろうぜ」  おきちは踵《きびす》を返した。ちきしょう、これだから大人は信用出来ないよ、と思った。水茶屋の奥座敷で、十三の自分の臀《しり》をなでた男たちの姿が思い出された。遠い道をたずねて来て損した、とも思った。  だが、自分の町にもどって来たころには、怒りは消えて、おきちは何となく沈んだ気分になっていた。妙にがらんとした道を、二羽のつばめが連れ立って飛びすぎた。  ──あのひと、どこへ行ったんだろ。  と思った。気持が沈んで来るのは、あの気持のいい若い男に会えなかったせいだとわかっている。うきうきした気分が裏切られたあとに、ぽっかりと空虚なものが残っていた。ちぇ、おなかン中に穴があいたよと思いながら、おきちは足もとの小石を蹴とばした。 「おきっちゃん」  不意に呼びかけられて振りむくと、仙太が立ってこっちを見ていた。いい物が手に入ったと、仙太は身ぶりで言っていたが、おきちはもの憂げに手を振って通りすぎた。年下の幼な馴染みには、もう興味を失っていた。さっきのつばめが、夕日に背を光らせて、地面すれすれにもどって来るのが見えた。 [#改ページ]   梅 雨 の 傘 「無理しちゃ、だめ」  とおちかは言った。うつむいて、そりゃあんたに会えなくなるのはつらいけど、と湿った声を出すと、うまいぐあいにそこでほろりと涙がこぼれた。男は知らないが、おちかにとっては手馴れた芝居で、勘どころで涙をこぼすなどはわけもないことだった。 「あたしは、無理な借金の算段までして、来てもらいたくはないの。そんなあんたを見るのつらいし、第一あんたのおかみさんや子供にも申しわけないじゃないか。そんなんじゃ、もう遊びとは言えないもの」  さりげなく、男に家のことを思い出させようとしたが、それはうまく通じなかったらしい。男は暗い眼でおちかをじっと見た。 「こっちは、ただの遊びのつもりじゃなかったぜ」 「そうよ、もちろんそうよ」  おちかはいそいで言うと、にじり寄って男の手をにぎった。 「あたしだって、ただのお遊びなんて、思っちゃいなかった。女郎とお客の仲でも、あ、このひとだと思うことはあるのよ。あんたとはじめて会ったとき、息がつまりそうな気がしたのを、まだおぼえてる」 「………」 「だからよ、だからこそあんたのことは大事にしたいの。お家も仕事も捨てさせるような、野暮はしたくない」 「………」 「また、お金をためて来てちょうだい。そうなるまで、何年でも待っているから、あんたの方は迷惑かも知れないけど」 「おめえ」  懐《ふところ》がお寒くなった男は、疑い深かった。 「おれに金がなくなったんで、体よく追っぱらうつもりじゃないのかね」 「ばかお言いでないよ」  おちかは鋭く言い返した。にぎっていた手を放すと、男の前に白い喉《のど》をつき出した。 「そんなふうに思うんなら、いっそあたしを殺しておくれ。女郎の誠を見せようじゃないか」  何人かの男に言ったことがある、とっておきのせりふだが、それを言うには度胸がいる。相手にそんな勇気はないと読んでいても、やっぱり身体が顫《ふる》える。だが、大概の男はそこで誤解するのだ。経師《きようじ》職人清吉も、顫えているおちかの肩を抱くと、自分も顫える声でささやいた。 「おめえは、ほんとにかわいい女だぜ」  男を見送って部屋に引き返すと、おちかはけだるい身ごなしで火鉢のそばに坐った。長ぎせるで煙草をふかした。  ──うまく切れてくれるといいけど。  と思った。金がなくなった男には、もう興味がなかった。そのことをさとらずに帰った男の、未練そうなうしろ姿がわずらわしかった。清吉は経師職人だったが、はじめて宝莱屋に来たときには、間もなく自分の店を持てるほどのたくわえを持っていたのだ。だがおちかの腹勘定によれば、その金は宝莱屋とおちかがあらかた吸い上げてしまったことになる。  もう用のない男だった。だが、もう用がないと、顔に出したり口にしたりすることは禁物だった。愛想づかしを喰い、金も使い果した男が、逆上して刃物を持ってあばれこんで来たことがある。そんな刃傷《にんじよう》沙汰などまっぴらだった。後くされなくけりをつけることが大事なのだ。  ──また、小金を持ったひとをさがさなきゃ。  きせるをほうり出して、おちかは男が見たら興ざめしそうな大きなあくびをした。この商売では、少少無心を言っても気前よく金を出してくれるような馴染《なじ》みをつかまえることが肝心なのだ。やっと工面した二朱の金をにぎりしめて走って来る連中は、客とは言えない。  身体を売るもとになった長患いの父親が死んで、おちかは一人ぽっちになった。一年前には借金も返し、気楽な身分だった。それでもまだ場末の女郎屋にいるのは、ほかにつぶしがきかないからである。ただ、ここで金をためて、小さな飲み屋でも持てればと思っていた。女郎だって、何ののぞみもなくては生きてはいけない。  男と寝る商売が嫌いではないが、金を持たない男には興味がなかった。惚れたのはれたのということには気を惹かれない。借金を返してから、おちかはかえって金に欲が出た。  ──どれ、階下《した》に言っとかなきゃ。  清吉が来たら、おかみにさりげなくことわりを言ってもらうのだ。その方が面倒がなくていい、と思いながら、おちかは大儀な身ごなしで立ち上がった。  襖《ふすま》をあけると、奥から来た男女が、びっくりしたように足をとめた。淡い光の中で、おちかは客の男と眼を見合わせた。男は松次郎と言い、隣町の種物屋の息子である。ここ半年ほど宝莱屋に入りびたっていた。相手は松次郎のうしろにいるおとよである。 「あら、こんばんは、若旦那」  おちかは艶っぽい声で言うと、松次郎の眼をたぐり寄せたまま、全身でしなをつくった。松次郎は顔を赤くしたが、おとよに尻をつつかれると、呪縛をとかれたように眼をそらし、あわてて梯子《はしご》の方に歩いて行った。おちかは声を立てないで笑った。ちょっとからかっただけなのに、おとよがこちらの顔をにらみ、松次郎が赤くなったのに満足している。かわいいじゃないのさ、あのひとと思った。松次郎はたしか二つほど年下のはずである。そう思ったが、後を追って梯子を降りるときには、二人のことはもう頭からはなれていた。  ところが、おちかがおかみと話し終って二階にもどると、おどろいたことに部屋の前におとよが待っていたのである。 「ちょいとあんた」  おとよはいきなり喧嘩腰の声を出した。おとよは宝莱屋に来て一年にしかならない。五つも年下で、器量はよくないが元気にあふれている。つけつけと言う。 「妙な真似をしないでよ」 「何のことさ」  とおちかは言った。 「ちぇ、わかってるくせに。ひとの大事の客に、色眼など遣いなさんなということ。ほんとに油断も隙もありゃしない」 「勝手だろ」  おちかはうそぶいた。口のきき方をしらない新前女郎に腹を立てていた。 「そんなに大事の客なら、ひと眼にさらしなさんな」 「なんだって、このどろぼう猫」  おとよはいきなりつかみかかって来た。胸からおとよの手をはずすと、おちかは無言でおとよの髪をつかんだ。  おちかは、おかみがいる帳場の部屋で、通いの髪結いに、髪を結ってもらっている。清吉が通いつめていたころは、昼過ぎから部屋に籠ったりもしたが、近ごろはいくらか身体が空いた。勤めは軒に灯が入ってからでよく、客が来るまで、まだ少し間がある。  じめついた梅雨空がつづいていて、湯屋に行って来たばかりなのに、もう身体が汗ばんでいる。眼をつぶって髪を結ってもらいながら、おちかはつぶやいた。 「もう、雨やんだかしら」 「まだ少し降ってるよ」  帳簿を見ていたおかみが答えた。 「これじゃ、お客だって来やしない」 「おっかさん、あのひとどうした?」  おちかは、眼をひらいて横目でおかみを見ながら、清吉のことを聞いた。 「まだ来てるの?」 「あのあと二度ほど来たけど、おまえがいそがしいからって帰したよ。ろくに金も持たないのにまつわりつかれると厄介だからね」 「そうなのよ」 「顔が合っても、情なんぞくれなさんな」  おかみがそう言ったのに、おちかは答えずに眼を大きくみひらいて部屋の外を通った人影を見た。玄関の方に行ったのは松次郎とおとよである。松次郎が帰るところらしい。 「おつねさん、ここらでいいわ」  おとよが玄関から梯子の方に引き返すのを見とどけると、おちかは仕上げの櫛《くし》を動かしている髪結い女を制して立ち上がった。  どこへ行くんだね、とおかみが咎めたが、おちかは返事もしないで、傘を持つと玄関を走り出た。邪悪な思いつきに胸を躍らせていた。霧のような雨が降りつづいていて、町はほの暗かったが、男の姿はすぐに見つかった。松次郎は背をまるめ、頭からすっぽりと手拭いをかぶって、いそぎ足に歩いている。 「若旦那」  追いついて声をかけると、松次郎は立ちどまっておどろいた顔になった。おちかは傘をさしかけながら、すばやく身体を寄せた。 「近くまで送りますよ。あたしも、ちょっとこの先に用がありますのさ」 「こりゃ、どうも」  松次郎は顔を赤くして、すみませんと言った。うぶな男なのだ。 「いいんですよ。若旦那と相合傘なんて、しあわせ」  おちかはそ知らぬふりで身体をぶつけた。松次郎が身体を固くするのがわかった。そのまま、わざと口をつぐんで歩いた。おちかには自信がある。おちかを抱いた男たちは、みんなが言ったものだ。おめえの肌は、ほんとにいい匂いがするぜ。  ほの暗い道を、幾人かのひとが声もなくすれ違って行った。静かな雨の日暮れだった。はじめははばかるようだった松次郎が、少しずつ大胆に身体を寄せて来るのがわかった。やがて煙るような雨の中に、黒い橋と長い枝を垂れた柳が見えて来た。松次郎が、われに返ったように身体をはなした。橋を渡れば隣町である。 「ここでいい。すまなかったよ、おちかさん」  おちかは答えずにぴったりと身体を寄せると、松次郎の手をつかんで袖口に引き込んだ。 「走ったものだから、ごらんな、汗かいちゃった」  松次郎の指は、おちかの乳房にみちびかれると、一度ぴくりと引っこめられそうになったが、やがておそるおそる乳房にさわって来た。するままにさせながら、おちかは黙って男の眼をのぞきこんでいる。男も眼をそらさなかった。乳房をにぎる手に力がこもった。  もう、半分手に入ったようなものだ、とおちかは思った。松次郎はいまにあたしを抱かずにいられなくなるだろう。金に不自由しない新しい男が手に入るのだ。おちかは甘え声でささやいた。 「おとよちゃんには、内緒よ」 [#改ページ]   朝  顔  日はのぼったばかりである。日差しは建物にさえぎられて、まだ裏庭にはとどいていなかった。塀ぎわの高い椎が明るんで立っているだけである。椎にあたる日差しはまだ弱いが、今日も暑くなるだろう。空には雲ひとつなかった。  おうのは縁から庭に降りた。歩き出すとすぐに、足もとが草のつゆで濡れたが、夜の温気《うんき》が残っている家から出て来ると、それもつめたくて気持がよかった。  おうのは軽く着物の裾をつまむと、台所の外を通って土蔵の裏にいそいだ。台所は奉公人の飯どきとみえてざわついていた。だがざわつく物音だけで男たちの声は聞こえず、女中のおくらの声だけがした。  おくらは男まさりの大きな身体と腕力を持つ女中である。話す声も笑う声も大きく、男の奉公人をどなりつけたりすることもある。がさつで人前にも出せないような女だが、そのかわりに骨身を惜しまずに働く。わずかのひまにも台所の隅までみがいたりするので、伊原屋の家の中はいつもぴかぴか光っている。  伊原屋では数年前には女中を三人おいた。それが、いまではおくらと通いの小女の二人で間にあっている。おくらはざっと普通の女の倍は働くのだ。土蔵の裏まで行っても、おくらの声が聞こえた。  だがおうのの考えが男まさりの働き者の女中の上にとどまったのは、ほんのわずかの間だった。気持はすぐに眼の前の朝顔にうばわれた。  ざっと数十の朝顔の花がひらいていた。出入りの植木職人に竹垣をつくってもらったので、朝顔は勢いよく垣を這いのぼり、見上げるような高いところにも、花が咲きみだれていた。  夫の忠兵衛が、取引き先にわけてもらったと言って、朝顔の種子をわたしたのは去年の秋である。おうのは受けとったまま茶箪笥のひき出しにしまった。そのことを思い出したのは春も過ぎ、まわりに草木の若葉が目立つころになってからである。ひき出しをあけると、花の種子は紙にくるまったまま、つつましくその中にひそんでいた。  ──かわいそうに、忘れるところだった。  とそのとき思ったのをおぼえている。おうのは苗床だけはおくらに作ってもらい、あとは子供のころの記憶をたどって種子を水に漬けたあと、自分でまいた。  伊原屋は畳表問屋である。裕福だとひとに言われている。店には十人をこえる奉公人がいて、忠兵衛と番頭の彦蔵が采配をふるっているので、おうのは藺草《いぐさ》の匂いがこもる店に出ることはない。夫婦の間には子もいないので、おうのの仕事といえば、家の中の客の相手と台所の指図ぐらいのものだった。  ひまだった。だがおうのは、ひまだからと外を出歩くような性分ではなかった。親戚の者や同業の店の女房に誘われて、たまに芝居見物をしたり、寺参りに行ったりすることはあるが、帰ると必ず頭痛がした。人ごみが嫌いなのである。  おうのは、大ていは家の中に閉じこもり、出入りの貸し本屋がとどけて来る新版の読本《よみほん》や、呉服屋がおいて行った雛形を眺めたり、気がむけば自分で季節の着物を縫ったりしている。おうのは三十八。間もなく四十になるのに、いつまでも童顔の失せないたちで、ちょっと見たところは三十過ぎぐらいにしか見えない。仔細に眺めれば、目尻や口辺にかすかにきざまれている小皺がみてとれるはずだが、大ていのひとはそこまでは見ない。  やや丸顔のふっくらした頬や童女のように澄む眼に気持をうばわれて、いつもお若くてと言ったりする。だがそういう世辞にも、おうのは口数少なくおっとりと微笑を返すだけなので、ひとにはいっそう箱入り女房といった印象をあたえるようだった。  そんなおうのを、店の奉公人たちは陰でウチの天女さまと呼んだりするらしい。そのことをおうのはおくらから聞いた。おくらは自分が獅子鼻の醜女なので、美貌の女主人をそのことだけであがめている気配がある。天女というあだ名も半ばは得意で伝えて来たのだが、おうのは奉公人のその呼び方に、もうひとつ裏の意味があるのをさとっていた。  忠兵衛には妾がいる。囲ってから四年になる。しかしおうのは、そのことで忠兵衛にひと言でも非難めいた口をきいたことはなかった。日暮れから妾の家に行く忠兵衛に、羽織を着せかけ、紙入れと煙草道具をわたして家から送り出す。奉公人たちはそのことも指して、天女という言葉に皮肉をこめているのだろう。そうさとったが、おうのは女中のおくらにはそのことは話さなかった。おっとりと微笑して聞いただけである。  朝顔は、おうのに思いがけないたのしみを運んで来た。地表を破って顔を出した朝顔の芽が、やがて殻をぬぎ捨て、ひしめくように双葉の苗の姿をあらわしたとき、子を生まなかったおうのは、子供が生まれ育つさまはこんなものかと思ったほどである。じっさいに、双葉の苗は手を空にさし上げる赤子にも似ていた。  おうのは朝顔の世話に夢中になった。植木職人に竹垣をつくってもらうと、人手を借りずに自分で苗を移し植えた。朝起きると、まず朝顔ののびぐあいを眺めるのが日課になった。蔓《つる》がのびて来たころ、いつまでも竹に絡めずにいる一本の朝顔を、あまりに手をそえてかまって枯らしたこともある。だが朝顔は、一たん竹をつかむと、そのあとはたくましく蔓をのばした。葉もうっとうしいほどに茂り、やがて燈芯のようなつぼみをつけた。  いま朝顔は、眼にまぶしいほど折り重なって咲いている。色は藍と薄ももいろと白。花柄も大きく派手だった。以前は風情もなかった土蔵裏の一画が、はなやかな色につつまれているのを、おうのは満足して眺めている。だが、そうしているうちにおうのはふと眉をひそめた。枯れ葉が目立つようである。気をつけて見ると、枯れないまでも、穴のあいている葉が点点とまじっている。  おうのは手をのばして、一枚の葉を裏返してみた。そして小さな悲鳴をあげた。ぽろりと地面にこぼれたのは緑いろをした毛虫である。よく見ると、毛虫は葉の間いたるところに這い回っていた。おうのは少しずつ後じさりし、それから小走りに台所までもどった。すぐに元気のいいおくらの声が聞こえて来た。 「くらや、ちょっと、くらや」  おうのは外から呼んだ。おびえのために、おうのの声は鋭かったようである。おくらがあわただしく台所口に顔を出した。 「はい、おかみさん、何か?」 「中に、長吉がいるかえ?」 「はい、いまご飯が済んだところです」 「それじゃ、外によこしておくれ。あ、長吉に箸を持たせてね」 「箸ですか? おかみさん」 「そう、毛虫がいるんだよ」  おくらはなんだという顔をしたが、振りむいて長吉を呼んだ。すぐに箸を持った長吉が出て来た。この春伊原屋に奉公に入ったばかりの子供である。おうのは長吉をしたがえて、朝顔までもどった。そして自分は花から一間も手前に立ちどまると、長吉に言った。 「その中に毛虫がいっぱいいるからね。取っておくれ」 「毛虫ですか?」  長吉は葉の間をのぞきこんだが、すぐに笑顔でおうのを振りむいた。 「こんなものがこわいんですか、おかみさんは?」 「いいから取って。だめ! 箸をおつかい」  素手で葉をかきわける長吉を見て、おうのは手で顔を覆ったが、長吉は女主人の臆病さを面白がっているらしい。言うことをきかなかった。指の間からおうのがのぞくと、長吉は無造作に指で毛虫をつまみ、はらい落とし、草履で踏みつけている。おうのは気味わるくて背筋がぞくぞくした。 「毛虫なんか、平気です」  と長吉は言った。 「むこうの家でも、この間退治して来たばかりですからね」 「むこうの家?」  おうのは手を顔からはなした。毛虫を取っている長吉の小さな背を、まじまじと見た。 「雉子《きじ》町の家かい?」  うん、と言ったが、長吉は子供ながら自分がまずいことを言ったのに気づいたようだった。背中からさっきの勢いが失われた。 「むこうにも、朝顔があるんだね?」 「………」 「こっちをお向き」  とおうのは静かに言った。長吉はおうのに向き直った。ふてくされたような顔になって、ちらと上眼づかいにおうのを見たが、すぐに顔を伏せた。 「これとおんなじ朝顔なんだね?」 「………」 「はっきりお言い!」  おうのが少しきつい声を出すと、長吉は急にべそをかいて、はいと言った。もう行ってよい、井戸端でよく手を洗いなさいよとおうのは言った。日は高くのぼって、いまは裏庭の半ばまで照らしている。長吉が、逃げるように走り去ったあとも、おうのは少しずつにじり寄る日差しを眺めながら、じっと立っていた。  おたかという名前の忠兵衛の妾を、一度だけ見に行ったことがある。誰にも言わず、一人で見に行ったのだ。女は二十過ぎに思えた。若くはないが、崩れた色気を持つ女だった。四年もつづいているところをみると、忠兵衛は大柄で面長の、ああいう女が好みなのだろう。朝顔の種子は、そこから持って来たのだ。さすがにそう言うのは憚《はばか》られて、取引き先にもらったなどと言ったらしい。  おうのの眼に、ひとつの光景が見えて来た。あくびをしながら庭に降りたおたかが、歯みがきの房楊子を使いながら、朝顔の花を数えているところである。家の中には、忠兵衛がまだ寝ているだろう。夫は昨夜もいそいそと妾の家に出かけて行ったのである。不意におうのの耳に、朝顔の世話に熱心な自分をからかった忠兵衛の声がひびいた。おまえにも、お気に入りの仕事ができたようでけっこうじゃないか。  おうのは花を見た。よく見れば、朝顔は毒毒しい精気に溢れた花のようでもあった。おうのは手をのばして朝顔の花を摘み捨てた。無表情につぎつぎと花をむしり、つぼみも摘んで捨てた。ひとつも残さず花をちぎり捨てると、おうのはゆっくりと家の方にもどった。  日がさらに高くのぼり、誰もいない土蔵裏を白日が照らしたとき、そこにはむき出しに、異様な狼藉《ろうぜき》が行なわれた痕があらわれた。 [#改ページ]   晩 夏 の 光  とっさに背を向けたが間にあわなかった。木戸から出て来た女は、すぐに「おや、ま、おせいさんじゃないか。ひさしぶりじゃないの」と言った。  おせいはくるりと女に向きなおった。身体をくねらせて、はすっぱに笑った。 「しばらく、おたきさん。こんなところで見つかってさ、あたしゃはずかしい」 「何言ってんのさ」  と定斎屋《じようさいや》の女房は言った。薬箪笥をかついで暑気払いの薬を売り歩く亭主は、痩せた小男だが、女房のおたきは相撲取りのように足を踏みひらいて歩く大柄な女である。気性も身体に相応して大まかだった。 「話はいろいろと聞いたけどさ、もうむかしのことじゃないか。気を使いなさんな」 「そう言ってもらうとありがたいけど……」  おせいは、上眼づかいにちらとおたきの顔を見た。 「でも、やっぱり。このあたりに立ち寄るのは気がひけますのさ」  はっ、はっとおたきは男のように太い声で笑った。 「そりゃあんたは、男をこしらえてご亭主を捨てた女だものね」 「………」 「冗談、冗談、いまのは取り消し。三年前のことなんか、もう誰も気にしていないって。だって、あんたが出て行っただろ、そのあと裏店《うらだな》じゃいろいろなことがあったんだから」 「………」 「おはつを知ってるだろ? 左官屋の」 「ええ」 「あの女が、あろうことか、あんた……」  おたきは、上体をかぶせるようにおせいに身体を寄せると、ささやき声になった。 「富蔵といい仲になってさ」 「富蔵って、あの鳶《とび》の若いひと?」  おせいも釣りこまれて小声になった。むかし井戸端でひととのうわさ話にふけったころと同じ好奇心が、たやすく胸の中に入り込んで来ている。 「そうなのよ」  おたきはぐっとあごを引くと、にらむような流し目でおせいを見た。重重しくうなずいた。 「だもんでさ、それがばれてからは大変。左官屋の八助と富蔵が、あんた、家の前で取っ組みあいの喧嘩さ。あんときはこわかった」 「まあ。それでどうした?」 「どうもしないよ。どっちかが裏店を出てけばけりがつくのに、そのまんまだからね。あの二人、まだにらみあったままさ」 「おはつさんは?」 「おはつはあんた、知ってのとおりの女だからね。しれっとした顔でおはようなんて言ってるよ。近所じゃ誰も相手にしないけど、本人はそれで平気なのさ」 「得な性分ね」 「そういうわけ。だから、あんたのことを気にしているひとなんかいやしないよ。あちこち出入りがあって、住むひとも変ったし……」  おや、こうしちゃいられないと言って、おたきは内職仕事の荷らしい風呂敷包みをつかみ直した。おせいの別れた亭主、伊作のことは何も言わなかった。 「またおいでよ。今日はこのとおりだけど、今度はゆっくり話そうよ」 「おたきさん」  おせいは、歩き出した定斎屋の女房に、あわてて追いすがった。並んで歩きながら言った。 「あのひと、変りなくていますか?」 「あのひとって……」  おたきは足をとめてじっとおせいを見た。そして、あんたやっぱり、それで来たのかいと言った。おたきはべつに嘲《あざけ》ってそう言ったようでもなかったが、おせいはやはり顔を伏せた。 「伊作さんなら引越したわ」 「いつごろ?」 「あんたのことがあって間もなく。ひと月ぐらい後かね?」 「どこへ越したか、知りません?」 「知ってることは知ってるけど……」  おたきは言葉をにごすと、もう一度見直す眼つきでじろじろとおせいを眺めた。堅気には見えない着物の着こなしと、化粧の濃さに改めて気づいたに違いない。おたきはこれまでとは違うつきはなした口ぶりで言った。 「ひとのことだからどうでもいいけど、伊作さんの様子を見に来たのなら、ちょっと遅かったね。それにずいぶんきれいになってさ、いまさらむかしのご亭主でもなかろうと思うけど」  おせいは、これまで来たこともない町を歩いている。深川のはずれにある入船町というところだった。  町は油のように濃い西日に照らされて、日暮れが間近いことを思わせるが、暑さの方はいっこうに衰えなかった。風のない路面から立ちのぼる熱気がわっと顔を包み、猛猛しい日差しが背に突き刺さって来る。炎天の下の、気が遠くなるほど長い道を歩いて来て、おせいは全身汗にまみれていたが、目指す町にたどりついて、伊作の家をさがし回っているうちに、また新しい汗が噴き出した。  ──日が暮れる前にさがしあてなければ。  とおせいは思っている。だがおせいのあせりをあざ笑うように、伊作の家は容易に見つからなかった。  きつい口をきいたが、おたきは伊作の引越し先は教えた。そこは裏店からも、おせいがいま働いている料理屋からも、そう遠くはない下谷の町だった。だが行ってみると、伊作はそこには半年ほどいただけで、川向うの本所に引越していた。おせいは本所までたずねて行った。しかし伊作は一年ほど前にそこも引きはらって、今度は深川に越したという。  そこでおせいは一度、いい加減にあきらめて帰ろうかと考えたのである。長い道を歩いて、くたびれてもいた。だが思い直して深川まで来たのは、一度伊作に会わないと決めかねることを胸に抱えていたからである。  三年前に、おせいは外に男をつくって家を出た。おせいはそのころ、ひと町はなれた場所にある小料理屋に手伝いに出ていた。はじめは夕方までの約束だった。店を拭き掃きし、夜の酒の支度をして家にもどると、ちょうど晩飯の支度に間にあった。  だが、そういう堅気勤めが崩れるのは、あっという間のことだった。三月、半年と小料理屋勤めに馴れるうちに、おかみに頼まれれば、ひと晩ぐらい客の相手をするぐらいは何でもないと思うようになった。やがて馴染《なじ》みの客が出来ると、帰って亭主の飯の支度をするよりは、おもしろおかしく客の相手をする方がたのしいと思うようにもなった。おせいは、時にはへべれけに酔って、男に送られて家にもどった。  忠助という男は、そのころ店に現われたのである。みるからにやくざっぽい男だったが、おせいは一度過ちを犯したあとは、自分からのめりこむようにその男との仲を深めて行った。亭主に知れ、近所の評判にもなると、おせいは家を捨てた。後悔はしなかった。だが男との暮らしはたった三月しか続かなかった。  忠助は本物のやくざ者だったのである。持ち出した金と身体をしゃぶりつくすと男は去って行った。おせいはしばらく腑抜けのようになった。  男に捨てられたおせいは、通い勤めをした小料理屋からさほど遠くない町で、普通の料理屋の下働きに住みこんだ。器量を見こまれて、客が混むときは着換えて酒の酌にも出る。そういう勤めだった。  いま、店の客の一人に、妾にならないかと誘われていた。相手は裕福な足袋《たび》屋の隠居で、ぜいたくをさせてやるよと言っている。それも悪くはないわ、とおせいはなげやりに思うのだが、心を決めるには何かのふんぎりが必要だった。おせいは二十三である。妾にしてもそろそろとうが立つ齢《とし》ごろだが、所帯を持ち、子供を生むという、一度捨てた世間並みの暮らしにまだ心残りがあった。迷っているうちに、一度伊作をたずねてみようかと思い立ったのである。  まさか元にもどれると考えたわけではない。ただ、伊作が新しく所帯を持ったことをたしかめたら、そこできっぱりとあきらめがつくかも知れないと思ったのである。しかし伊作は、転転と引越す間ずっと一人暮らしだった。おせいが深川まで足をのばす気になったのは、そのせいでもある。  ──ひょっとして、まだ一人だったら……。  元の鞘におさまることだって、まんざらのぞみがないわけではない、とおせいは思いはじめていた。そう思う気持には根拠があった。  伊作は根付け職人で、腕がいいと言われていたが、醜男《ぶおとこ》で気の弱い男だった。おせいは気の弱い亭主をとことん尻に敷いたが、伊作はひと言も不平を言わなかったのである。伊作をさがし歩くおせいの胸には、奇妙な自信が息を吹き返していた。  ──おや、ここだ。  たずねあてた家の前に立って、おせいは思わず眼をみはった。そこはちゃんとした表店だったが、入口にさげた看板には伊作の名前が入っている。小さな鑿《のみ》の音が聞こえた。伊作は自分の店を持ったのだ。  茫然と立っていると、家の中で若い女の声がした。おせいは少し顔色が変るような気がしたが、声が聞こえた家の横手に回った。そこには出窓があって、すだれの隅から家の中が見えた。  若い女が、ほろ蚊屋《がや》の中の赤子に添い寝しながら乳をのませていた。うす暗い中に、女の白い胸と乳房がぼんやりとうかび上がるのを、おせいは息をつめて見つめたが、ふと女が顔を上げたので、あわてて首をすくめた。  だが、女はおせいを見咎めたわけではなかった。甘ったるい声で伊作の名を呼んだ。すると鑿を打つ槌音がひとつやんで、不意に伊作が部屋に入って来た。伊作はあごがとがったへちまのような顔はそのままに、いくらか太ったように見えた。伊作は蚊屋のそばに膝をついて、中の赤子をのぞきこんだ。  そこまで見て、おせいは軒下をはなれると表に出た。いそぎ足に伊作の家から遠ざかった。馬場通りに出ると、道の正面に沈む日が見えた。その光に照らされながら、おせいは人混みの中を追われるような足どりで歩いた。後悔しちゃいけないよ、これがあたりまえさ、とおせいは胸の中でつぶやく。唇を噛んで、町にただよう晩夏の赤い光を見た。ひとつの季節の終りが見えた。 [#改ページ]   十 三 夜  入口にひとの気配がしたので、お才は夫が帰って来たのかと思って、いそいで立ち上がった。だがすぐに女の声がして、出てみると隣の鍛冶屋の女房だった。 「ごめんね、こんな遅くに来て」  おすえという名の隣の女房は、いつもの甲高い声でそう言った。痩せて背が高い三十女である。 「どうしたの?」 「すすきが余ってないかと思ってさ。いえね、あたし今日は本所の実家に行って来たの。帰ってみたらお月見だというのに何の支度もしてないじゃない。まったく男ってのはしょうがないねえ」  鍛冶屋の亭主は、体格はいいがのっそりした無口な男である。 「それでも子供に言われて、枝豆だけは買ってあったからさ。いまその豆を茹《ゆ》でてんだけど、子供は子供であんた、もう眠くなっちゃって眼ェ半分しかあいてないのに、お月見を済まさなきゃ寝ないなんて言うんだから、ほんとにしょうがない」  おすえはひと息にまくし立て、ひとりで笑ってからやっと肝心の用に話をもどした。 「すすきないかしら。ほんの一、二本でいいんだけど」 「いいよ、わけてあげる」  とお才は言った。隣の仕事場に飾ってある月見の飾りの中から、すすきを数本抜き出して、もどるとおすえにわたした。受けとりながら、おすえは言った。 「片月見はしないものだっていうからね。恰好だけのことでもするだけのことはしなくちゃ」  と言って、はじめてわたされたすすきを見る。 「あら、わるいね。こんなに沢山もらっていいかしら」 「かまわない、かまわない。ウチは少し余分なほどに買ってしまったから」 「そう、わるいね。いつも無理言っちゃって、すみませんね」  それで帰るかと思ったら、おすえはすすきを胸に抱いたまま、首をのばして仕事場をのぞくようなしぐさをした。小声で言う。 「ご亭主、帰ってるの?」 「まだなのよ」  とお才は言った。だが、わざとそっけない口調でつづけた。 「でも、そろそろ仕事も終いだそうだから、今日明日にはもどるんじゃないかしら」 「そう」  おすえは、お才の顔をじっと見た。 「でも、今度は長いね」  隣の女房を送り出すと、お才はぴしゃりと表戸をしめて、仕事場にもどった。あけはなした格子窓から、十三夜の月の光が溢れるほどにさしこんでいて、灯もいらなかった。窓から少しはなして据えた机の上に、皿に乗せた団子、別の盆に盛った栗、枝豆、皮のまま茹でた里芋がそなえてある。十五夜の月見団子は餡《あん》を使い、十三夜の団子には黄粉《きなこ》を用いる。  瓶《かめ》にさした机の上のすすきが、隣にわけてしまってまばらになったのを形をつくろってから、お才は床にじかに敷いた薄べりの上にぺたりと坐った。  ──いやな女だ。  と思った。鍛冶屋の女房のことである。  今日の昼すぎ、お才は月見にそなえる物を買いに町に出たついでに、角の瀬戸物屋に寄った。死んだ母親ぐらいの齢《とし》ごろの、その店のおかみにかわいがられていて、お才は時には買うものがなくてもこの店に来て気を許したおしゃべりをする。  お才は五年前に、菊蔵と所帯を持ってこの町に住みついた。十九だった。瀬戸物屋は、看板の瀬戸物のほかに荒物も売っていたので、新所帯の物をそろえるためちょいちょい買物に来ている間に、おかみとも親しくなったのである。世話好きな瀬戸物屋のおかみは、所帯のことにまであれこれと口を出し、近ごろは「まだ子供が出来ないっていうのは、どういうことだ」などと言ったりする。  今日お才は、木更津に仕事に行った菊蔵が、昨日にはもどると言ったのに、まだ帰らないとこぼした。そういう愚痴を言える相手だった。するとおかみが言った。 「あんた、それ、ほかのひとには言わない方がいいよ」 「あら、どうして?」  お才はびっくりしておかみの顔を見た。菊蔵は鑑札をもらったばかりの大工で、もとの親方の指図であちこちと遠方まで仕事に行く。そのために家をあけがちでお才は味気ない思いをしているが、それは棟梁になるまでの辛抱である。そのどこがいけないのだろう。 「変なうわさを立てるひとがいてね」  おかみはお茶をすすめながら言った。 「いくら大工でも、あんなにしじゅう家を留守にするのはおかしいとか、女がいるんじゃないかとか、はては深川のあたりで、ご亭主が女と一緒のところを見かけたとか、言うひとがいるんだよ」 「だれ? そんなことを言うのは」  お才は一瞬あっけにとられたが、すぐに胸が高鳴るのを感じた。お才はそういう話を笑い流すことが出来ないたちである。 「誰って、名指しはしないけど、お隣なんかには、気をつけて口をきいたらいいんじゃないの」  おかみはそう言ったのだ。お隣といえば鍛冶屋の女房に決まっていた。おすえはこの町で指折りのおしゃべりで、それにもう片方の隣は、年寄り夫婦が細細とやっている絵草紙屋なのだから。  ──よくも図図しく、すすきをもらいに来られたもんだわ。  あれは菊蔵がもどったかどうかと、様子を見に来たに違いないのだ。すすきなんかありませんと、ぴしゃりとことわればよかったと、お才はいまごろになってくやしさがこみ上げて来る。  自分が知らないところで変なうわさがささやかれていることを知って、お才は一たんは顔がひきつったが、じっくりと考えてみても思いあたることは全くなかった。菊蔵から女の匂いを嗅ぎつけたこともないし、第一自分は夫にかわいがられている。夫婦の間に隙間を感じたことなどない。うわさを真にうけて、仕事で疲れている夫に変なことを言ったりしない方がいい、と思った。  不快な気持は夕方には消えて、お才はさっぱりした気分で月見の飾りつけにかかったのである。一度落ちついたその気持が、おすえが来てまたかき乱されたようだった。じっとしていると、消えたはずの蟠《わだかま》りが、黒黒と胸を染めるようでもある。まだもどらない菊蔵に、いやなうわさが重なる。  お才は急に立ち上がって、仕事場を出た。  お才は鏡をのぞきこんだ。化粧でもして気をまぎらせるつもりだったのに、鏡の中の顔は変に醜かった。紅が濃すぎる。お才は紙をとると荒荒しく唇の紅を拭き取った。  今度は台所から水を持って来た。芝居を見に行くときのように、もろ肌ぬぎになってうすく白粉《おしろい》を使いはじめる。  ──浮気なんかしたら承知しないから。  手を動かしながら、お才はそう思っている。おなかの子供だって水子にしちゃうからね。  月のものがとまっていた。二月《ふたつき》になる。前にもそんなことがあったが、それはただの身体のぐあいのものだったので、夫婦はがっかりしたことがある。だが今度は本物らしかった。お才は近ごろ食欲が落ち、喰い物の好みも変ったような気がしていた。  喰い物のことだけでなく、気持にも照りかげりがあり、あとになってみると何でもないようなことにひどく気を苛立てたり、くよくよと思い悩んだりすることがある。身籠ったのだ、とお才は思っていた。  菊蔵は子供を欲しがっているので、打ち明ければ大喜びするだろう。だがお才はまだ話していなかった。もっとはっきりしてからと思っていた。だが、いま唇に紅をひきながら、お才は変に残酷な気分になっている。隠し女なんかいたら、子供なんか生んでやらないから、と思っていた。  化粧が終ると、お才はあらためて鏡の中をのぞきこんだ。お才がむかっている鏡台は、指物師の父親が、娘の嫁入りというのではりきってこしらえたもので、一点のゆがみもない上質の鏡がはまっている。その鏡の奥に、うつくしい裸身が映っていた。  ──このあたしの、どこが不足なのよ。  自分の身体に見とれながら、お才は胸の中でつぶやいた。  お才はひそかに、自分はそんなに悪い器量の女ではないと思っている。菊蔵も男っぽくていなせな男だが、嫁入るときには似合いの夫婦だと言われた。鏡をのぞいていると、その自信がもどって来るのを感じた。変なまねはしない方が身のためだよ、お前さん、とお才はまた胸の中でつぶやいた。  お才はまるい乳房を両手ですくい上げるようにして鏡に映してみた。身籠ると乳首のいろが変ると聞いていたが、そのしるしはまだあらわれていなかった。胸をよじって乳房を映していると、突然に表の戸があいた。つづいて菊蔵の大きな声が聞こえて来た。 「おーい、いま帰った。腹へった」  お才はあわてて肌を隠した。その間にも菊蔵は、疲れた疲れた、何か喰わしてくれと言っている。お才は大いそぎで着物を着ると、すすぎの水を持って出て行った。みると菊蔵は、腕いっぱいにすすきを抱えて土間に立っている。 「お帰り、遅かったじゃないか」 「仕事が一日のびた。吉助も弥三郎も、いま一緒に帰って来たところだ」 「そのすすき、どうしたの?」 「途中にすすき売りがいたから、くれって言ったら、いやもう、たんとまけてくれたぜ」 「それじゃさっそく飾らなきゃ」  お才はすすきを受けとった。その顔をみて、菊蔵が眼をまるくした。 「お、お。めっぽうきれいだと思ったら、かみさんは寝化粧で待ってたな。そうじゃねえかと思って、おれも走って来たぜ」 「ばあか、待ってなんかいませんよ」  憎まれ口を叩いてお才は仕事場に入った。すすきは瓶に溢れるほどあった。足を洗いながら、菊蔵は仕事の話をしている。ふん、ふんと相槌を打ちながら、お才は胸の中の黒い蟠りがいつの間にか消え、何でもない日常の暮らしがもどって来たのを感じている。そろそろ子供のことを打ち明けなきゃ、と思った。活《い》け終えたすすきの穂が、月の光を浴びて、まぶしく光るのに見とれた。 [#改ページ]   明  烏 「おや、どうしんした?」  吉原の大籬《おおまがき》大黒屋の花魁播磨《おいらんはりま》は、闇の中に目ざめると、半身を起こして暗い部屋の中の男の身動きを咎めた。 「やあ、おいらん。眼をさまさせたか?」  と男は言った。馴染《なじ》み客の新兵衛という男である。新兵衛は神田本石町で雪駄《せつた》屋をいとなむ商人で、齢《とし》は三十六。さほど男ぶりがいいわけではないが、闊達《かつたつ》な気性で金遣いがきれいな男だった。 「いや、起こそうかどうしようかと思案していたところだが」 「そこで、何をしていやんす?」  播磨は、自分もすばやく着る物をたぐりよせながら、暗がりの男の姿に眼をこらした。 「着がえているところさ。家にもどろうかと思ってな」 「泊ると言わしゃんしたではないか」  播磨は、胸に怒りが兆すのを感じながらそう言った。その怒りは、新兵衛が急に帰ると言い出したせいばかりではなかった。  播磨は二十三。大黒屋の花と呼ばれた花魁の格式は、まだどうにか保っているものの、全盛の時期は過ぎつつあった。新兵衛はわるい客ではないが、二十前の播磨には、蔵前の富商として江戸に名を知られる桂屋善右衛門がついていたのである。桂屋にくらべれば、金払いがいいの、遊びがきれいだのといっても、新兵衛はありきたりの商人に過ぎなかった。そういう新兵衛が馴染み客の座におさまり、自分もまたその馴染み客を大事にしなければならないいまの境遇に、播磨は心のどこかで暗い怒りの火を燃やさずにはいられない。  日ごろのその不満が、思わず声音に出たようだった。播磨の声は不機嫌にとがった。せっかくの寝入りばなを起こされたいまいましさもある。芯が無粋だから、こういうとっぴなことをする、と新兵衛をいやしめる気持も動いた。播磨の不機嫌は、新兵衛にもすぐわかったらしい。恐縮した声で言った。 「いや、泊るつもりだったが、明日家が解かれるとあっては、やっぱり落ちつかない」 「家が解かれしゃんすと?」 「うん。借金で首が回らなくなって、家屋敷をとられるのだ」 「………」 「おいらんとも今夜かぎりだ。もう会えぬ」  播磨は起き上がって、無言のまま手早く着物を身につけた。新兵衛はもう着がえて、部屋の隅に坐っているらしい。  播磨はその前を通りすぎて、隣の居間に入った。行燈《あんどん》に灯をともしてから新兵衛を呼んだ。全盛のころは、播磨はこの居間のほかに専用の客座敷を三つ持っていた。いま使えるのはつづきの隣座敷だけである。  だが播磨の部屋は、盛りのころのおもかげをそのままに、豪華な調度で飾られている。火鉢は桐だった。箪笥はすべて黒塗りのメッキ金具仕立て、鏡台も黒漆塗りである。小机は紫檀、茶器をおさめる盆も、赤漆地に金銀の模様を散らした蒔絵《まきえ》塗りだった。  秋の夜の、ひやりとした空気が部屋にただよっている。播磨は襟《えり》をかきあつめると、火鉢の火を掘りおこし、茶器をひきよせた。  新兵衛は、お茶をいれる播磨の袖口から、白い手首がのぞくのをちらちらと見ている。播磨は琴、三味線から端唄までの、すぐれた芸を身につけているだけでなく、歌もよめば見事な文字も書く。いまはほろびた太夫の風格を伝えると評判をとった女である。立居ふるまいのひとつひとつに気品があった。  男の口から出た言葉は尋常ではなかったが、播磨は動揺のいろはみせなかった。茶をすすめながら、静かな声で言った。 「いまから帰るのは、遅うありんす」 「なに、まだ引け四ツまでは少し間がある」  吉原の遊女町は、建前では四ツ(午後十時)に店を閉じるきまりだったが、実際には大門は閉じてもくぐり戸はあけておき九ツ(午後十二時)まで営業した。浅草寺の鐘が九ツを打つのを聞いてから四ツの拍子木を打ち、つづけて九ツの拍子木を打って回り、町町の木戸をしめるのである。このときの四ツの拍子木を町では引け四ツと呼ぶ。  なるほど新兵衛の言うとおり、外にはまだひとがざわめく気配があり、清掻《すががき》はやんだもののどこかで三味線の音もしていた。播磨は色が浅黒く口が大きい新兵衛の顔をじっと見た。 「わけを話してくんなまし」 「わけなんてものは、ありはしないよ、おいらん」  と言って、新兵衛は天井をむくとからからと笑った。明日、家を奪われる人間には見えなかった。 「あたしは十分に遊んだ。そのツケが回って来たというだけのことでね」 「おかみさんや子供さんは?」 「女房は自分から去り状をもらって実家に帰った。子供も一緒です。三月ほど前かな」 「なぜ、そんな無理をしんした?」 「無理?」  新兵衛は、微笑して播磨を見た。男にしてはやさしすぎる細い眼だった。 「無理といえば、はじめから無理だったのさ。おいらんは、あたしのような雪駄屋風情が近づける女じゃなかった。それはわかっていたが、ある日茶屋に行くおいらんを見てしまったのだ」 「………」 「四年も前のことです。この世ならぬうつくしい女子《おなご》を見た、と思いましたな」  新兵衛の顔に、夢みるような表情がひろがった。 「そのとき、あたしは心に誓ったものです。男と生まれたからには、一度はこのような女子と添い臥《ふ》してみたいものだとね」  新兵衛のそんな告白を聞いたのははじめてである。四年前といえば全盛のころだ、と播磨は思った。むろん、店持ちとはいえ、一介の雪駄商いの商人など当時は振りむいてもみなかったろう。  去年の秋でさえ、引手茶屋を通して新兵衛の話が持ちこまれたとき、播磨はすぐには首をタテにはふらなかったのだ。札差の桂屋こそ妹女郎の東雲《しののめ》に譲ったものの、播磨にはまだ、新兵衛などより数等上の金持ちの商人がついていて、持ちこまれた新兵衛の話を、身のほど知らずと思ったことをおぼえている。だが新兵衛はあきらめなかった。二度、三度と掛け合いが来て、播磨は最後には茶屋への義理立てから新兵衛に会ったのだが、その掛け合いの間に、新兵衛は茶屋にかなりの金を使ったはずだった。  そして初会、裏、馴染みとつき合いがすすむ間の派手な茶屋遊び、紋日《もんび》の仕舞い金、さらに妹女郎東雲の披露目でお役をつとめたときの諸掛り。あのときはたしか、新兵衛から百両の金をねだり取ったはずである。  播磨は背筋が寒くなった。眼の前の雪駄屋に使わせた金の大きさが見えて来たのである。新兵衛はまだしゃべっていた。 「そう決心したとき、あたしは家も商売も捨てたのです。こわいものなど、ひとつもなかった」 「こなさんえ」  播磨は新兵衛を制し、思わず息を乱して言った。 「さぞ、わちきをうらんでおいやすでしょうな?」  新兵衛は細い眼で播磨を見ると、何を言う、おいらんと言った。きっぱりとした声だった。 「あたしは、分不相応な男の夢がかなったしあわせ者だ。何でおいらんをうらむことがあるものか。後悔などひとつもしていませんよ」  新造に言いつけて引手茶屋から迎えを呼ばせ、新兵衛を見送ると播磨は灯を消して座敷にもどった。だが寝る気にはなれなかった。頭がすっかり冴えてしまっている。播磨は窓をあけて外を見た。  不夜城という。吉原の町はまだ隅隅まであかるかった。だがさすがに夜もふけて、ひとのざわめきはひそやかだった。一夜の歓楽をもとめに来た男たちも、早帰りする者は帰り、残る男たちは女の白い胸の中で眠りについたのだろう。まだどこかで三味線の音と、新内ながしの声がしている。  ──おかしな男……。  播磨は、だしぬけに別れを言って去った新兵衛のことを思っていた。新兵衛は今日も、茶屋でも大黒屋でも終始機嫌よく金をまき、店が破産したことなどは、露ほども顔に出さなかったのだ。それだけに、ぐさりと刺されたような気分が残っている。  新兵衛との仲は、ありきたりの客と女郎のつき合いだった。それほどこまやかに心を通わせたとは思わない。播磨は、ひところは一枚摺りの錦絵にもなった女である。男が貢ぐのは当然と思い、灯に慕いよる蛾のような男たちを、傲然《ごうぜん》と眺めていたのである。  だがその中に、新兵衛のように家も妻子も投げ捨てて、つまりはおのが人生を抵当に置いて通って来た男がいただろうか。男のことなら手のひらを読むように知りつくしている、と思って来たが、そこにはまだ女の播磨の知らない領域があったようである。  ──そこまですることはないのに。  播磨は常陸の小村から買われてきて、六つのときに大黒屋の小職《こじよく》になった。色が黒く手足の細長い女の子だったという。その子供が、磨かれて一枚摺りの花魁になっただけである。ひと皮むけばそれだけの女に、家も妻子も捨てて狂う男というものが無気味だった。新兵衛に、まだ何か言うことがあったような気がしてならなかった。  春雨の、眠ればそよと起こされて、乱れそめにし浦里は……。かすかに聞こえて来る新内の声は明烏だった。じっと聞いている播磨の耳に、不意に引け四ツの冴えた拍子木の音がひびき、明烏の声がはたとやんだ。  翌日、町女ふうに装った播磨は、本石町の雪駄屋の前に立っていた。大黒屋の若い者がつき添っている。家を解かれるといったが、実際に売られた家はすぐ建て替えられるらしく、新兵衛の家は十人ほどの男たちの手で、片っぱしからバラされているのだった。 「こなさんえ」  播磨は、柱をかついでそばを通る男に声をかけた。 「この家の主がどこへ行ったか知りんせんか」  ひげづらの大工は、廓《くるわ》ことばをしゃべるうつくしい女を怪訝そうに見た。しかし、さあてね、と言って首をひねった。 「借金で首が回らなくなって、夜逃げしたという話は聞いたがね」  誰も新兵衛の行方を知らなかった。播磨の眼の前で、新兵衛の家の最後の梁《はり》が落ちて、地上に濛《もう》と埃をまき上げたのが見えた。 [#改ページ]   枯  野  回向《えこう》が終ってから、庫裡《くり》でお茶を馳走になったので、おりせが寺を出たのは七ツ(午後四時)過ぎになった。だが、それで帰りの時刻を気にしたというわけではない。途中立ち寄るところがあって、家の者には今夜はおそくなると言ってある。ちょうどいい時刻かも知れなかった。おりせは、ひと仕事終えたようなさっぱりした気持で、長い石だたみの上を山門にむかった。  すると門をくぐって、こちらに来る女の姿が見えた。うしろに風呂敷包みを抱いた小女をしたがえている。  ──おや。  近づいて来る女を見て、おりせは立ちどまった。どきりとした。向島にあるこんな寺で、顔見知りに会うとは思いもしなかったことである。女は同業の紙問屋成瀬のおかみおかぢだった。 「あら、おりせさん」  おかぢも立ちどまった。茶店のとこに駕籠《かご》がいると思ったら、あんただったのと言った。やはりびっくりしたようである。だがおかぢは、すぐにおりせがここにいるわけに気づいたらしかった。 「ああ、おりせさんとこは、お寺がここだったね。今日はお墓参り?」 「ええ。命日なもので、墓参りをしたり、ちょっとお経を上げてもらったりしたんだけど」  おりせは、おかぢの浅黒くて男のように頬骨が出ている顔を見た。 「おかぢさんは?」 「あたしの方は、法事の後始末さ」  おかぢはうしろの小女を振りむいた。 「その日になって檀那寺の和尚さんが風邪で寝こんだのよ。それでこちらの住職さまに手伝ってもらったもので、今日はそのお礼に」  おかぢは、自分のことはそれだけ言って、おりせをじっと見た。 「そういえば、旦那が亡くなってどのくらいになるかしら?」 「もう四年になるわ」 「はやいねえ。こないだのことのように思えるのに」 「四年も経ったなんて、思えやしない」 「お店は、もう麻之助さんが一人前だし、番頭さんがしっかりしているから心配もないだろうけど」  おかぢはふだんもあまり笑わない女である。商家の内儀にしてはこわい感じの顔をおりせにむけたまま言った。 「でも、あんたはさびしいでしょ?」 「そりゃ、やっぱり。生きてる間はずいぶん文句も言った亭主だけど、死なれてみると心細いものだねえ」 「あんたはそんなことを言うけど、清兵衛さんはいいひとだったもの」  とおかぢは言った。 「商い上手で、太っ腹で。外で遊んでるなんてことも聞かなかったし、あんたはしあわせ者よ」  おかぢは不意におりせにすり寄ると、声をひそめた。 「うちの亭主の女、ほら芝にいる女のことを前にあんたに話したでしょ?」 「え? ああ、芸者をしてたとかいうひと? でも、そのひととは切れたんでしょ?」 「それがそうじゃないのよ」  おかぢは、遠慮して少し離れたところに背をむけている小女をちらと振りむいてから、いっそう小声になった。 「ちゃんと金を渡して切れたはずだったの。それがなんのことはない、まだつづいていたとわかって、家じゃまたひと騒動あったのよ」 「あら、あら」 「女もたちが悪いけど、うちの旦那ときたらほんとにだらしのない男だからねえ。そういう女がいて、遊びの方はやんだというのなら、まだかわいいところがあるわけ。そうじゃないんだから。吉原だ、仲町だと相変らずだからねえ」  おかぢはひとしきり愚痴をこぼすと、空を見上げて、おや、長話をしていると夜になってしまう、と言った。日は正面の本堂の陰にかくれてしまっていた。 「そのうち遊びに来ておくれな。聞いてもらいたいことがいっぱいあるんだから」 「おじゃましますよ」  とおりせも言った。おかぢは小女を呼んで本堂の方に歩きかけたが、ふと振りむいて言った。 「おりせさん、あんた前より太ったじゃないか」 「あら、そうかしら」  おりせは笑い返したが、内心ぎくりとした。背をむけて門の方に歩きながら、女の眼はごまかせないね、と思った。  夫の清兵衛が、急な中風であっという間に死んだとき、おりせは一時は途方に暮れた。ひと回り以上も齢《とし》のはなれた夫婦で、そのとき清兵衛は五十を過ぎていたが、まだ死ぬことまでは考えていなかったのである。だがひとにこそ言わね、そのあとしばらくして、おりせの胸の中に、ほっとひと息つく思いが生まれたことも事実だった。  清兵衛は、紙問屋山倉屋の旦那としてひとに知られる商人らしい、立派な押し出しと商いの手腕を持つ男だった。店では愛想のいい笑顔をふりまき、外に出ても山倉屋さん、清兵衛さんと仲間うちの信用が厚かった。それで仲間(組合)の役持ちもしていて、弁も立ったとひとに聞いている。色町に遊びに出ることもめったになく、清兵衛はひとには堅物とみられていた。  だが女房のおりせの眼には、べつの清兵衛が見えていた。山倉屋に嫁入って来たときから、おりせは夫の口やかましさに泣いた。清兵衛は、食事はおろか家の中の掃除のことまで、がみがみと口を出す男だった。当然ながら、金銭にはことにこまかかった。  そして成瀬の主人のように、色町で名を売ることこそしなかったが、清兵衛も人後に落ちない女好きの男だったのである。ひとに隠した妾とも情婦ともつかない女が、二人も三人もいた。その女もとっかえひっかえし、その合間に店の女中にまで手をつけるのである。  息子の麻之助にも話せないことだった。新しい女が出て来るたびに、おりせは嫉妬に身をさいなまれ、亭主の女狂いの尻ぬぐいにひと知れぬ苦労をしたのだが、清兵衛が死んだあとも、まだおりせの知らなかった女と隠し子が出て来たのである。  夫が急死したとき、むろんおりせは悲しんだ。しかし一周忌がすぎ、三回忌も済ませたころになって、おりせは突然に、長年の苦労ときっぱりと縁が切れ、まるで娘のころに返ったように自由な自分を見出したのである。  店のことは麻之助と番頭にまかせておけばよかった。麻之助は商売熱心で、番頭の角助はほかの店がうらやむやり手である。あと、一、二年もすれば、麻之助に嫁を迎えなければならないだろうが、それまでは嫁姑のわずらいもない。  おりせはいま四十である。だが人には言えないが自分でも、近ごろ少し若返ったような気がしている。成瀬のおかみは、そういうおりせから、敏感に女のはなやぎを嗅ぎつけたかも知れなかった。  茶店の前に待っていた駕籠に乗るとき、おりせは、風の用意に持って来た頭巾で顔を包んだ。四十後家に不似合いなはなやぎが出ているのなら、その顔を世間から包み隠した方がいいだろう。 「浅草寺前に回っておくれ。いそがないで、ゆっくり行ってね」  とおりせは言った。  村を出ると駕籠は野道にかかった。野は半ば枯れていたが、何の花か、その野を埋めて赤く咲き乱れる花の群落が見えた。点点と咲く青い花もまじっている。斜めに照る淡い日差しの下に、華麗な景色がひろがっていた。  浅草寺の門前で駕籠を返すと、おりせはあたりに目をくばってからうす暗い茶屋町の路地に入りこみ、やがて一軒の料理屋の軒をくぐった。  もう行燈《あんどん》をともしている奥の部屋に、一人の男がいておりせを迎えた。 「おそくなってごめんなさいね。途中で知ったひとに会って話したものだから」  おりせは頭巾をとって、男の前に坐りながら言った。男の名は戸田屋仙太郎。やはり同業の紙問屋の主で、おりせより二つ年下である。仙太郎は死んだ清兵衛と昵懇《じつこん》のつき合いをした男で、おりせも知らない清兵衛の女道楽の内実にまで通じていた。 「やっと片づきましたよ」  と言って、仙太郎は懐から出した書付けをおりせに渡した。それは百両の金の受取りだった。そして、今後山倉屋とは一切かかわりを持たない、とあることわり書きにそえて、女の名前と爪印がある。これで清兵衛の女道楽の最後の始末がついたのである。  仙太郎は、骨細の美男子だが、軽薄な男だった。女遊びだけが達者で、商売はだめだと聞いている。だが仙太郎は、こういう頼みごとを片づけるのがうまい男でもあった。今度だけでなく、おりせは前にも二度ほど、ひそかに仙太郎に清兵衛の女の始末を頼んでいる。  おりせは仙太郎に約束の礼金を渡してから、女中を呼んで食事の支度を頼んだが、酒を言いつけなかった。仙太郎は女に手がはやい男である。二人きりで酒をのむのは危険だった。だがおりせは、仙太郎に会うとき、近ごろは半ばその危険をたのしんでいた。 「途中で誰に会ったか、わかりますか?」 「さあて」 「成瀬のおかみさんですよ」 「え? あのおしゃべりに?」 「そうなのよ」 「まさか、これからあたしに会うなどとは言わなかったでしょうな」  と仙太郎は言った。おりせは、男もこの密会に似た、世間に隠した相談ごとが持つ危険をたのしんでいるのを感じる。 「まさか。そんなことをひとことでもしゃべったら、たちまち世間にうわさがひろまっちゃうでしょ?」  おりせは、その危険に一歩踏み込んでみる。おりせは枯野をいろどっていた花の群落を思い出している。やがて枯れつくすことを知っているから、野はひとときあんなにも燃え立つような花に包まれるのだろうか。 「これで当分、おりせさんにも会えませんか」  と仙太郎が言った。おりせは眼を上げた。男の眼が、これまでになく大胆におりせを見つめていた。おや、この人やっぱり誘って来た、でもあんたの思惑どおりにはいかないよとおりせは思ったが、誘われて悪い気はしなかった。その先を見届けたい気持もある。おりせは少しかすれた声で言った。 「今夜は、少しお酒をのみましょうか」 [#改ページ]   年 の 市  諏訪町裏の家から表の蔵前通りに出ると、おむらはたちまち、騒然とした呼び売りの声と、出店の前をひしめいて歩いている人の波にのみこまれた。  年の市の出店は、浅草寺の境内、門前の広場から、蛸《たこ》の足のように大通りまでのびて、南は蔵前通りを延延と浅草御門まで、西は門跡前から下谷車坂、上野黒門町のあたりまで、隙間なく立ちならぶ。毎年のことだが、おむらは店数と買物客がふえる一方なのにおどろかずにはいられない。  だがおむらは、いつもと同じように、途中の出店には眼もくれずに、人ごみの中を真直ぐ浅草寺にむかった。亭主の佐助とはじめて所帯を持った年に、おむらは浅草寺境内の出店で新しい年の物を買いととのえた。三十年以上もむかしのことだが、そのときから、おむらは、ずっと同じ場所で買物をして来た。近いからと、ほかの店で買う気はしなかった。  年の市は、師走の十四、十五両日の深川八幡宮の市で蓋《ふた》をあけ、大晦日の捨て市まで浅草の観音さま、神田明神、芝神明宮、同じく芝の愛宕《あたご》権現、麹町の平河天神とつづいて、江戸の町に近づく正月気分を盛り上げるのだが、浅草寺の市は例年十七、十八日の二日だった。おむらはその買物日も十七日と決めている。  ひそかに縁起をかついでのことで、買物が翌日になったらわるいことが起こりそうで落ちつかない。十九の齢《とし》に佐助と所帯を持って油屋というものをはじめてから、おむらはきりきりと働いて来た。骨身惜しまず働いたと、自分でも思う。だが間口二間の借り店からはじめて、いまは諏訪町の油屋と言われ、ひとに知られる店を持つまでになれたのは、働きだけで出来たことではない、運も味方してくれたのだ、とおむらは思わずにはいられない。その運を逃さないために、おむらはふだんも暮らしの中でさまざまの戒律を守っていた。亭主の佐助は十年前に病死したが、年の市の買物の習慣は、その前もあとも変らずにつづいているのである。  おむらは顔をしかめた。頭痛がしている。ゆうべほとんど眠っていないせいである。息子の宗吉が家を出たまま、もどっていなかった。  ──どこをうろついているのやら……。  あの親不孝が、とおむらは思った。だがはじめのころのはげしい怒りは、いまはたとえようのない不安に変って、おむらの胸をいっぱいに満たしている。ちらと空を見上げた。師走の空はどんよりと曇って、おむらの不安を映したように暗い雲が頭上にひろがっている。いまにも氷雨か雪でも落ちて来そうな、寒寒とした空だった。  宗吉が家をあけているわけはわかっている。ひと月ほど前に、嫁のおきくが家を出て行ったからである。そのあと宗吉はすっかりふてくされて、商いも投げやりになり、夜は外に出て毎晩のようにしたたかに酔って帰った。母親のおむらにはひと言も口をきかず、家の中でも眼が合うのを避けるようにしていたのだが、つい三日前にふっと家をあけた。それっきりもどって来ないのである。  宗吉は一人息子である。大事に大事に育ったせいで、女遊びも知らず、一緒に酒を飲むような友だちもいなかった。少し固すぎるぐらいに生まじめな息子だったのだ。それが女房をもらったあとはこの変り様である。  ──みんな、あの女のせいだ。  とおむらは、嫁が憎くてならない。  おきくははじめから気にいらない嫁だった。同業の下谷の油屋からもらった嫁で、それならさぞ商いの手伝いも出来るだろうと思ったのだが、それからしてとんだ見込みちがいだったのである。ろくに客あしらいも出来ないのはともかく、おきくは商売ものの油のことを何ひとつ知らなかった。店に出てもとんちんかんなことしか言えない。  そのとまどいぶりがかわいいと、客が笑うのはまだしも、店にいる宗吉や奉公人まで笑うのを、おむらはかんにん出来なかった。所帯を持ってはじめて油というものをいじったが、あたしは客の前でうろたえたりしたことはなかった、と自分にひきくらべる。  ──商いに身が入っていないのだ。  おむらはある日、客の前もかまわずにおきくをどなりつけると、それっきり店に出ることを禁じた。そして家の中の拭き掃きや台所仕事で嫁をこき使った。  だが、おきくはその程度の仕事も満足に出来ない女だった。台所で女中のおそめにバカにされた口をきかれている。おそめのひとを小バカにした笑い声と、バカにされているとは思わないらしい、おきくの甘ったるい声が台所から聞こえて来ると、おむらは肝が煎《い》れていても立ってもいられなくなる。あれがやがてこの家をつぐ嫁かと思って、情なくなった。  だが、その何にも出来ない嫁は、宗吉と二人でいるときは、小鳥のようにさえずり笑って、宗吉にくっつき通しなのである。おむらの耳は、宗吉に嫁をもらってからなぜか鋭くなって、離れた部屋にいても、嫁のおきくの鼻声や、含み笑う二人の声、若い夫婦がじゃれ合う物音などを敏感に聞きわけた。そうして耳を澄ましていると、宗吉が嫁を気にいっている様子も手にとるようにわかった。そのこともおむらにはかんにんならないことだった。 「しかしな、おむらさん」  おきくが実家にもどったと聞いてとんで来た、仲人の久左衛門が言った。 「あんたのような苦労人の眼から見れば、そりゃ気にいらないことだらけだろうが、いまの若い者は、大体あんなものだよ、ええ。世間知らずなのです。ま、ここは勘弁して、長い眼で見ていてくれなくちゃ」  久左衛門は、死んだ亭主と同じ店に奉公した男で、いまは油の仲買人をしている。やり手で羽振りがいいと言われている男である。古いつき合いの人間だが、おむらは、久左衛門が嫁に味方する言い方ばかりするのが気にいらなくて、じっとその顔を見ている。  その顔を見返して、久左衛門はなだめるような笑いをうかべた。 「何のかのと言っても、この店もいずれは若いひとたちに譲らなきゃならんわけだから、あんたの後家のがんばりもほどほどにしないとね」 「後家のがんばりって、何のことですか? 久左衛門さん」  おむらは背筋をのばし、きっとなった声を出した。 「あたしは嫁に不服があるから文句を言いました。おきくはそれが気にいらなくて出て行ったのですよ。それだけのことです。後家のがんばりなんて、何のことかわかりませんね」  言い返して、そのあとおむらは久左衛門と大喧嘩をしたのだが、いまこうして年も暮れるというときに、一人息子の行方も知れないことを考えると、おむらもあの嫁には少し強く言いすぎたかも知れない、と思わないわけにいかなかった。  久左衛門の言ったことも、一部はあたっている、と思えて来るのである。気の遠くなるような話だが、何年も辛抱づよく仕込めば、あのどうにもならない嫁も、店の手伝いぐらいは出来るようになるかも知れないのだ。姑づらを表に出して、がみがみとどなりつけたのは、宗吉のためによくなかったかも知れない。  ──それにしても……。  この寒空に、あの子はいったいどこにいるのだろう、と宗吉のことを考えるとおむらの胸はしめつけられるように苦しくなる。宗吉が家をあけた翌朝、おむらは奉公人に言いふくめて、下谷のおきくの家を見にやった。しかし、宗吉がそこには立ち寄った様子がないとわかると、あとはさがしようもなかった。  さがしようもないために、想像は悪い方にふくらんで、もしやどこかで身体を悪くして倒れてやしないだろうかとか、それともいかがわしい女でもいるどこかの店に上がりこんで、さほど飲めもしない酒を飲んで荒れているのではないかと思ったりする。  痛む頭に、一段と騒騒しい売り声が突きささって来た。そこは浅草寺の門前だった。おむらは青白い顔を伏せて、買物客でごった返している境内に入って行った。  ──そんなに気にいっているのなら……。  おきくをもどしてもいいのだ、とおむらはいまはそこまで弱気になっている。それが宗吉を呼びもどす一番手っとりばやい方法だということはわかっている。ただし、それは先方の親が手をついてあやまって来たときの話だ。もどってくれと、こっちから頼む筋合いのものではない。 「油屋のおかみさん、こっちだよ、こっち」  呼びとめられて、おむらははっと立ちどまった。顔|馴染《なじ》みの出店の男が笑いかけていた。考えごとに気を取られて、危うく店の前を通りすぎるところだったのだ。  おむらはそこでほんの少し買物をした。三方《さんぼう》、しめ縄、橙《だいだい》、裏白、海老などの飾り物だけを風呂敷に包んでもらった。門松と竹は、あとで人をよこすから取っておいてくれと頼んだ。少し奥の店に行って、暦を買い、真新しい箒《ほうき》と塵とりを買っただけで、おむらは踵《きびす》を返した。  また強く頭が痛んで来て、おむらは顔をしかめながら歩いた。そのとき、眼の隅を若い男の顔がかすめた。あわてて顔をもどすと、一軒の出店の前に宗吉がいた。宗吉は一人ではなく、女連れである。袖につかまって宗吉に笑いかけているその若い女が、なんとおきくではないか。  衝き上げて来た憤怒に、おむらは眼がくらんだ。ものも言わずに、人を掻きわけて二人がいる場所に突きすすんだ。すると宗吉がひょいとおむらを振りむいた。と思う間もなく、宗吉はおきくの腕をつかむと一散に逃げ出した。  息を切らしておむらは追ったが、若い二人の足にはかなわなかった。人ごみの中を、二人のうしろ姿が見る見る遠ざかった。 「こら、待て。その二人」  おむらは叫んだ。われながらぞっとするような狂気じみた声が出た。だがそのとたんにおむらは人に突きあたり、下駄の緒を切って勢いよくころんだ。湿った土の上に買ったばかりの物が散らばった。踏みつけられた三方が、こわれてばりっと音を立てた。  起き上がったが、おむらは膝を打って、すぐには立てなかった。地面に坐りこんだまま、のろのろと散らばった物を掻きあつめた。 「親不孝……、性悪おんな……」  掻きあつめた物を風呂敷に包みながら、おむらはつぶやいた。涙があふれてあたりが見えなくなった。息子を嫁に奪われたことだけが、はっきりと見えていた。  いつの間にかおむらを遠巻きにみていた買物客が、白髪のおむらが泣き出すとどっと笑った。しっかりしな、ばあさんという声もした。おむらの耳には、みじめな自分を世間が嘲り笑う声に聞こえた。 [#改ページ]   三日の暮色  家にもどったが、おくには着換えるひまもなかった。女中のおりきが、明日の客に出す煮物をみてくれと言うので、羽織だけを取って台所に行った。 「これでいいじゃないか。おせちも残ってるんだから」  おくには鍋の中をのぞきながら言った。おりきが渡した小皿と箸で、大根と里芋の煮つけを味見する。 「上等、いい味だわ」  今年は年始客が思ったよりも多く来て、用意した料理がなくなった。それであわてて煮物を作らせたのだが、今日はもう正月の三日。明日は客が来るかどうか、来てもそう大事の客というわけでもあるまいから、あわてることはなかったのだ、とおくには思った。  うす暗くなった台所には、もう一人の女中のおはつと、手伝いに来ている裏の左官屋の女房おかねが働いている。おはつは、さっきおくにと一緒に外からもどったのに、もう竈《かまど》に鍋をかけて火加減をみていた。おかねは音たてて瀬戸物を洗っている。箸と小皿を返しながら、おくにはおりきに言った。 「今日はお客が多かったんだって?」 「そうですね、十人ほどみえました」 「旦那さまは外に出かけたの?」 「ええ、倉田屋さんがみえて、ご一緒に鹿野屋さんに行くと言っておいででしたけど」 「鹿野屋さんなら、あたしとおはつがもう行って来たのにね」  とおくには言った。  鹿野屋はむかし、亭主の喜兵衛が奉公した紙問屋である。倉田屋甚助も、同じ鹿野屋に奉公した仲間だった。だが、鹿野屋は一度商いに失敗し、その後立ち直りはしたものの、商いは喜兵衛や甚助が奉公していたころにくらべると、ひと回りも二回りも小さくなってしまった。商いの高から言えば、いまはおくにの店の方が、鹿野屋のざっと三倍は売り上げているだろう。  おくには何となしいやな感じがした。倉田屋は、もとは奉公人仲間でいまも同様の紙屋だが、商い下手でちっともうだつの上がらない商人である。おくには倉田屋が、ときどき自分には内緒の金を借りに来ていることを知っている。  困れば駆けこんで来るくせに、倉田屋甚助はいつもいばった口をきく横柄な男である。おくにはそういう倉田屋も嫌いだが、言いなりに金を貸している喜兵衛にもときどき腹を立てる。倉田屋は、それほどに義理のある男かと思うのだ。商い上手と言われるにしては、喜兵衛は気の弱い男である。  いやな感じがしたのは、鹿野屋の年始の挨拶におくにをやったと知って、倉田屋がそんなことで済むかと、強引に喜兵衛を連れ出したように思えたからである。甚助は、よくそういう正義漢ぶったことを言う男だが、喜兵衛は鹿野屋から暖簾《のれん》をわけてもらったわけではない。自分ではじめたのだ。  それに鹿野屋は代もかわり、商いも小さくなった。正直に言っていまのおくにの家にとって、さほど大事の店ではない。おくにの店をささえているのは、鹿野屋ではなく、ほかの取引き先である。  だから年始回りは女房で間にあわせたというのではないが、全部に昔どおりに気をくばっていては、喜兵衛の身体がもたない。四十になった喜兵衛は、以前にはなかった弱音を吐くようになった。昨日も、一日年始回りをして帰ると、すっかり疲れてしまって、今日は家で客の相手をすると言うから、おくにがかわりに回って来たのである。  それなのに、甚助に誘われるといやと言えずに腰を上げた喜兵衛に、おくにはあらためて腹が立って来る。ほんとにひとがいいんだからと思った。だがおりきにはそこまで言う気はなく、おくには、暗くなって来たから灯をいれたら、と言って台所を出た。  茶の間もうす暗かった。行燈《あんどん》に灯をいれて着換えていると、娘のおさとが入って来た。 「おっかさん、これ見て」  おさとは手にさげている紙をひろげた。手習いの字である。おさとは十二になるが、まだ手習いに通っていて、明日は師匠の家で書きぞめがあるので、遊びから帰って字を習っていたらしかった。  おくにはうるさそうに手を振った。 「あとにしておくれ」 「どうして?」 「どうしてって、みればわかるでしょう? 着換えてひと休みしなきゃ。おっかさん、あちこち回って来て疲れてんだからね」  おさとは、唇をとがらせて上眼づかいに母親を見たが、おくにの不機嫌をみてとったらしく、足音を立てずに姿を消した。  固い帯を取って、ふだん着に着換えると、おくにはほっとした。おくにはめかしこんだり、よその家をたずねたりすると、すぐに肩が凝《こ》るたちである。火鉢の火を掘りおこすと、上にかけてある鉄瓶がいきなり鳴り出した。お茶をいれてゆっくりと口にはこんだ。  ──おさとに肩を揉ませればよかった。  と思った。午《ひる》過ぎに出かけて、鹿野屋をいれて五軒もの家を回って来た。その疲れが肩にも足にも残っている。その不快さを我慢していると、またさっきのおもしろくない気持がもどって来た。  ──ひとを何だと思ってるのかしら。  と思った。子供の使いが行ったわけじゃない。玉木屋のれっきとした女房が年賀の挨拶に行ったら、それでいいではないか。そう思うと、鹿野屋に誘った甚助も、言いなりに出かけた夫も憎くてならない。おくには額に皺をつくってお茶をすすった。  するとそのとき、表の方に、はい、おめでとうさんという声がして、つづいてけたたましい木魚の音がひびき、大きな声が経文のようなものをとなえはじめたのが聞こえた。お釈迦さまでも恋路にゃ迷たあ、何のかのとてご門に立ちたる、きまぐれ坊主のずんぼらぼ……。 「いやだねえ」  とおくにはつぶやいた。正月にはさまざまの門付け芸人が店先におとずれる。獅子舞い、三河万歳、鳥追い、猿回し。正月の景物とも言うべきそういう芸人が、おくには嫌いでなく、おひねりと餅をどっさり用意しておいて、おりきにやらせる。  海上はるかに見わたせば、七福神のたからぶね、と三味線にあわせて編笠の鳥追いが歌って来るのを聞くと、気持が浮き立って、自分も表に走り出たりする。  だがそういう正月の芸人たちにまじって、ふだんもよく来る物もらいまで、いまが稼ぎどきと回って来る。彼らは、おひねりか餅が出るまでは、芸もないとなえごとをがなり立て、店先を去らないのである。いま、もう暗くなろうという店先に来ているおぼくれ坊主もそうなら、さっき店にもどったとき、入れ違いに店先を離れて行った梵論字《ぼろんじ》も似たようなものである。下手な尺八だった。 「おかみさん」  長七という、店番の小僧が来た。 「物もらいですけど、どうしますか?」 「おりきに言って、お餅でも上げな」  とおくには言った。長七が出て行くと、新しいお茶をついだ。そして茶碗を口まで持って行ったとき、おくにはふと手をとめて耳をそばだてる顔になった。  店の方からおぼくれ坊主のとなえごとがひびいて来る。じっと耳を澄ましているうちに、おくには少しずつ顔色が変るのを感じた。おくには茶碗を下に置いた。背をのばし、顔を傾けてしばらく表の声を聞いたが、やがて部屋を出て二階に上がる梯子《はしご》の陰に行った。  暗いその場所から、土間でとなえごとをつづけている男の姿がよく見えた。袖《そで》のあたりから綿がはみ出している垢じみた綿入れに着ぶくれて、荒縄で腰にくくりつけた木魚を叩いているその男は、むかし別れた、おくにの亭主だった。  助造という名の男である。おくには十八のときに、その男と所帯を持った。だがその暮らしは二年しかつづかなかったのである。助造は、おくにと一緒になったころは油売りだった。だが、三月後には知り合いに頼まれたといって定斎屋《じようさいや》の荷をかつぎ、その年の暮にはもう芝居の番附け売りに変っていた。  仕事の腰が落ちつかないだけでなく、助造はおくにに隠して手慰みにも凝《こ》っていた。暮らしの頼りにはならない男だと気づくまで、一年もかからなかった。そう気づいていながら、そのあと一年もつづいたのは、助造が女にやさしい男だったからかも知れない。  おくにが風邪をひいて、うわごとを言うほどの高い熱を出したとき、助造は血相を変えて医者を引っぱって来ると、ひと晩寝ずに看病した。一部はあとでひとに聞いた話である。助造は家にはめったに金をいれないくせに、よく外からみやげを買ってもどったり、おくにを花見や祭り見物に連れ出したりする男だった。陽気でにぎやかな男だった。そして若いおくにも、そういう見物をけっこう喜んでいたのである。  おくにはときどき、助造のでたらめな暮らしぶりをはげしくなじったが、助造は怒らなかった。おくにに手を上げるようなことは一度もなく、なじられると困ったような顔でにやにや笑うだけだったが、ある夜助造は、やはりそういう顔で笑いながら家を出て行って、それっきりもどらなかったのである。  十七年前に姿を消したその男が、土間にいた。助造は青白くむくんだような顔をして、少し太っていたが、眼の下のたるみや、白い物がまじるあごのひげをのぞけば、面影はさほど変ったとも思えなかった。声などむかしのままである。だが、その助造を包んでいる、一種言いようのない荒廃を、おくには息をつめて見つめた。こんなふうになるひとだったのだ、とおくには思った。  長七から餅を受けとった助造が店を出て行った。それをみて、おくにも大いそぎで土間に降り、外に出た。  外の方に、まだ日暮れのほのあかりが残っていた。地面はかなり暗くなっていたが、白っぽい空には、やっと星が光りはじめたところだった。ほかに人影もない暗い道に、助造の姿が動いている。仕事はもう終りなのか、まっすぐに遠ざかるその姿を、おくには小さくふるえながらしばらく見送った。  店にもどると、おくにはやさしい声で店番の小僧を呼んだ。 「お店番ごくろうだったね。もういいから表をしめて、二階にお上がり」  茶の間にむかいながら、おくには喜兵衛がもどって来ても、小さなことで文句を言うのはやめようと思った。いまの自分のしあわせが、おくににはおどろくほどはっきりとみえている。 [#改ページ]    広重「名所江戸百景」より   日暮れ竹河岸  信蔵《しんぞう》は焦りと苛立ちではらわたが焼けるような気がしている。金を貸してもらえないことははっきりしたのだから、一刻も早く立ち上がって帰りたかったが、市兵衛《いちべえ》の話はまだつづいている。 「あんたはね、信蔵さん。あたしがみるにいささか功を焦ったね。表に土地を借りたのはけっこうなことだ。商いが大きくなれば誰だってやることだ。だけど、以前の空き店を壊して新しく建て直していると聞いたとき、あたしゃこいつはいけないと、ぴんと来たね」  市兵衛はあわれむような目で信蔵を見た。しかしあわれんで思い直すつもりなどまったくないことは、次第に鋭くなる語気でわかる。お説教はたくさんだと思ったが、市兵衛は同じ店に奉公した大先輩である。それに金を貸してくれと頼んだ手前もあって、信蔵は市兵衛の説教をやわらかい微笑で受けとめた。 「おっしゃるとおりですよ、瀬戸物町さん。つまりはあたしが生意気だったというひとことに尽きます。世間を甘く見てしっぺ返しを受けたんです」 「そうとも」  市兵衛は肉の厚い丸顔に、満足そうな表情をうかべた。生意気な信蔵が、自分の非をみとめたのが気にいったらしかった。 「お説教がましいことは言いたくないが、商いは辛抱だよ、信蔵さん、な? そりゃ商いには才覚もいる、いざというときの度胸だっている。だが何にも増して肝心なのは辛抱さ」 「ごもっともです」 「おまえさんはね、才覚はありすぎるほどにある。度胸だって大したものだ。だが肝心かなめの辛抱はどうしたね」 「………」 「あんたはな」  市兵衛は、信蔵の非をあげつらう機会にめぐまれたことに、ほとんど酔っているようだった。なめらかにしゃべっている。 「あんたは惜しいことに辛抱が足りないんだ。あたしに言わせれば、表に店を張るには十年早いね。どうして、もう四、五年は横町のあの借り店で辛抱しなかったのかねえ。いくら儲かったか知りませんよ、知らないけれども、その齢《とし》で表で商売するのは、信蔵さん、それは傲《おご》りというもんだ」  市兵衛は太物《ふともの》問屋伊豆屋の番頭をつとめたあと、暖簾《のれん》をわけてもらって店を構えた男である。信蔵が同じ店に奉公に入ったころは手代をつとめていた。実直が売り物で首尾よく暖簾わけまで漕ぎつけたものの、市兵衛自身はこれといった商才のある男ではなかった。そういう市兵衛から見れば、才走った信蔵のやり口は小癪《こしやく》にさわるものだったかも知れない。  市兵衛が信蔵に投げつける言葉には、そういう人間が吐き出す毒がふくまれていた。いくら金策に窮したとはいえ、市兵衛を頼ったのは間違いだったと思いながら、信蔵は頭を垂れて聞いている。 「ま、これを機会にだ。商いというものを一度じっくり考え直してみることだね。それが大事だよ」 「そうするつもりです」 「あんたはつめたいと思うかも知れないが、さっき言ったとおりお金は貸しません。十両の金がないわけじゃないけれど、それを借りたところでつまりは一時しのぎということでしょ」 「………」 「あたしは商人ですからね。捨て金は使わないよ」  言いたいことを言って、さすがに少しは気の毒だと思ったか、市兵衛は茅場町に行く気があるなら添状を書いてもいいよと言ったが、信蔵はことわって外に出た。塀の外に出ると地面に唾を吐いた。  茅場町というのが、むかし市兵衛も信蔵も奉公した問屋伊豆屋である。信蔵は事情があってその店をやめたのだが、伊豆屋にしてみれば、やめ方が唐突だっただけにせっかく目をかけたのに後足で砂をかけられたと思ったかも知れない。金は喉《のど》から手が出るほど欲しかったが、茅場町の店は金を借りに行く場所ではなかった。  かりに行ったところで、信蔵が商いをしくじったことは市兵衛が知っていたぐらいだから本店でも評判になっているだろうし、鐚《びた》一文貸してくれるはずはなかろうと信蔵は思った。市兵衛の店にだって出来ることなら行きたくはなかったのだ。しかし借りられるところは借りつくして、切羽つまってたずねたのだが案の定だった。恥を掻いただけだった。市兵衛は、明日は信蔵が血相変えて金を借りに来たと、伊豆屋から分れた店店にうわさをひろめるに違いない。  信蔵は立ちどまった。そこは小船町の入り堀の岸で、正面に江戸橋が見えている場所だった。暮れ六ツ(午後六時)に京橋のそばで、伊豆屋でむかし朋輩だった六助に会う約束をしていて、市兵衛と話している間にもしきりに気がせいたけれども、外に出てみると町は意外に明るかった。日は傾いているがまだ江戸の家並みの上にある。  まだ早いな、と信蔵は思った。それに金の工面《くめん》を頼んだものの、六助は古着の行商人である。あまりあてには出来なかった。いまから行って、半刻(一時間)待ってだめだったではみじめすぎる。信蔵は江戸橋の手前で左に折れ、入り堀にかかる荒布《あらめ》橋をわたった。  信蔵は堀江町三丁目の横町に入ると、一軒の料理茶屋の台所口に立った。そして女を呼び出した。 「どうしたのさ不景気な顔して」  下駄を突っかけて外に出て来たたみはそう言った。男を惹きつける細い目は少しも変りないが、明るい光の中で見るたみは、肌の荒れが目立った。この女と寝たのはいつごろだったろうと思いながら信蔵は言った。 「借金で首が回らなくなったのさ」 「そう」  たみは信蔵をじっと見た。そして笑いもせずに言った。 「いい気味じゃないか」 「………」 「女を泣かせた罰さ」 「ちげえねえ」  と言って信蔵はにが笑いした。  信蔵が手代になる一年ばかり前に、たみは伊豆屋に飯炊きで雇われて来た。齢《とし》は十五ぐらいだったろう。色が黒く、手足のひょろ長い女の子だったが、男を見る細い目に色気があった。おい、あの子には気をつけた方がいいよと信蔵たちは笑い合ったが、あにはからんや、たみと真先に間違いを犯したのは信蔵だったのである。  それは台所ばあさん一人を留守番に残して、伊豆屋の主人一家、奉公人が総出で近くの船宿から船を仕立て、向島に花見に行った日で、その日朝から腹痛に悩んでいた信蔵は、船が柳橋まで行ったところで堪え切れずに船を下り、店にもどった。すると店にはばあさんではなくて、その日一日の休みをもらって駒込の病気の親を見舞いに行ったはずのたみが留守番をしていたのだった。  たみとの仲はその後もつづき、やがてたみは、しめし合わせて外で会うだけでは満足せず、店の中でも人目もかまわず信蔵に近づきたがるようになった。持病の腹痛で二階に寝ていた信蔵に粥《かゆ》をはこんで来たたみが、夜具の中に入りこもうとしたことさえある。信蔵は震え上がった。そして主人に知れる前に店をやめた。 「近ごろ、六助は来てるかい」 「あまり顔を見ないね。いそがしいんだろ」 「これから六助に会うんだ」  と信蔵は言った。 「金の工面を頼んでるんだ。あまりあてには出来ないけどな」 「手あたり次第に借りまくっているんだ」 「背に腹はかえられないよ」  信蔵は言って、たみの顔を見た。 「六助に金なんか借りるなとは言わないのか」 「べつに」  たみは投げやりな口調で言った。伊豆屋にいたころのたみは丸顔だったのに、いまは少し頬骨が出た面長な顔に変っている。顔の皮膚は荒れているけれども、はだけた襟《えり》の間に見えている胸は、かがやくほどに白かった。 「だって、六助と所帯を持つんだろ」 「六さんがそう言ってるだけさ。あたいはどっちでもいいの」 「そんなあやふやなことなら、おれと一緒にならないか」 「冗談じゃないね。そういう科白《せりふ》はもっと景気のいいときに言うもんだよ。いまはそれよりも、潰れかかっている店を心配する方が大事じゃないの」 「ちぇ、つめたい女だ」 「そんなことを言えた義理かい。あたいはあんたに二度だまされてんだからね」  そのとき台所口の戸があいて、太い首のあたりまで真白に白粉《おしろい》を塗りたくった女が顔を出し、たみちゃん、支度しないと間に合わないからね、と険のある声をかけた。 「あいよ、わかった。うるさいね」  たみは言い返すと、また細い目を信蔵にもどした。たみはこの店の酌取り女である。 「いったい、借金はいくらあるのさ」 「おれにもよくわからない。ま、利息をいれて堅いところ七、八十両ってとこかな」 「店なんか建て替えなきゃよかったんだよ」  いまになれば信蔵もそう思うようなものだが、西神田の横町に持った信蔵の木綿店は繁昌した。仕入れが間に合わないほどに売れる日もあって、少しは金もたまった。そのあとの信蔵のやり方をみて、人は商いを甘く見たと非難するけれども、それは横町の店の繁昌ぶりを見ていないから言えるのである。  そして信蔵だって商人のはしくれである。横町から少し距離がある三河町の表通りに地借りして引越すとき、横町の店の繁昌がそのままつづくと考えたわけではない。しかしそこそこは売れるだろうとは思ったのだ。それが傲りだったとは思わない。  だが事実はもっときびしかった。店構えをととのえ、新しく品物を仕入れて店を開いたところでぱったりと客足が跡絶えたのである。信蔵の引越し先を聞いて、買いに行くよと言った客は一人も姿を見せなかったと言ってもよい。信蔵は心底商いのこわさを知った。  信蔵は小僧を店番に置いて、また屋敷回りをはじめたが、建て替えのときに持ち金では足りずにした借金、仕入れの借金の返済に回す金が出るわけはなく、利息はふくれ上がる一方だった。そしていまは店を投げ出すかどうかの瀬戸ぎわに立っている。  信蔵は空を見た。いつの間にか光がしぼむように空のいろが褪《あ》せかけていた。まわりにはまだこま切れになった日差しのきらめきが残っているけれども、物の陰には暮色がしのび寄っているのが見える。信蔵はまた身体の中に焦りが息を吹き返すのを感じた。  信蔵は言った。 「またな」 「六さんにいくら借りようっての」 「十両だ」  たみは口笛を吹いた。それからゆっくりと首を振った。 「とても正気の沙汰とは思えないね」 「そうかね」  そうだろうな、と信蔵は思った。他人がみればそう思うかも知れないが、信蔵は違う。ひょっとしたら六助がその金を工面してくれないものでもないと、藁にもすがる思いで考えているのだ。六助は最後の頼みの綱だった。 「十両借りたらどうするの」 「とりあえず、明日催促されている金を返す。しばらくは店も潰れずに済むというわけだよ」 「でも、それでおしまいじゃないでしょ」 「そのあとにはもっとでかい催促が待っている。もっともそれはすぐじゃないから、それまでにいまの商いを盛り返すのぞみはある」 「あやふやな話ね」 「そう考えなくては暮らしてはいけない」 「綱渡りなんだ」  とたみが言った。綱渡りさ、と信蔵も言った。そしてこんなときなのに、少し気の利いた科白を言いたくなった。 「みんな綱渡りさ。おまえだってそうだし、六助も、明日のことはわからない行商だ」 「かっこつけちゃって」  すかさずたみが言い、二人は気ごころの知れた者同士だけに通じるうす笑いをかわした。信蔵が向けた背にたみが追っかけて言った。 「六さんとどこで会うの」 「竹河岸だよ、京橋の北だ」 「変なところ」 「あのへんの家に用があるそうだ。やつに会ったら飲みに来るように言っておくよ」 「あんたも来て」  信蔵は手を上げて台所口をはなれた。  じっとしていると、気持が焦って居たたまれなくなる。それに、橋袂《はしだもと》に立っていると橋を渡る人がかならず顔をのぞいて、信蔵の落ちつかない気分を一段と掻き立てるのだ。日は落ちて暮れ六ツの鐘をたしかに聞いたのに、六助はいっこうに現われなかった。  ──場所を言い間違えたんじゃないか。  思いながら信蔵はのび上がって対岸を眺め、とどのつまり橋に上がって少しずつ歩いて行った。うす暗い橋の上は、まだかなりの人通りがあった。いそがしげに信蔵を追い抜く者もいれば、前から来て身体をぶつけて行く者もいた。日が暮れて、みんな気がせいているように見えた。信蔵も彼らに劣らず気がせいているのだが、人にはそうは見えまい。  信蔵は立ちどまった。橋の中ほどまで来ていた。いや、南じゃない。竹河岸と言ったのだからやっぱり北だ、落ちつけと自分に言いきかせた。川の北河岸は、ほの暗い空に突き刺さるように立て掛けられた無数の竹材で埋められている。ここの竹は房州から高瀬舟ではこばれて来るのだと聞いたことがある。立て掛けられた竹の間から、ところどころ灯のいろが洩れて見えるのは、河岸に並ぶ竹問屋の灯だろう。もっとも家家は、壁のように目を遮る竹に隠れて見えなかった。  信蔵はまた北側の橋袂まで引き返した。六助はまだ来ていなかった。やっぱり無理だったんだな、と信蔵はようやく観念した。町で顔が合ったからとっさに金を貸せと言ったけれども、考えてみれば行商の六助においそれと十両の金が工面出来るはずもなかったのである。  六助は茅場町の伊豆屋で一緒に奉公した朋輩だが、数いる奉公人の中で信蔵は六助といちばんウマが合った。ほかの者がバカにした六助のお店者《たなもの》らしくないぼんやりしたところが、信蔵は気にいっていた。信蔵が店をやめたあとで、六助とたみが出来合ったのも、信蔵と六助がウマが合っていたことと無関係ではないかも知れなかった。とにかく六助はそれで店を首になり、そのあとは格別の才覚もなくて行商で喰っているのである。  友だちだから、六助は出来ないと言いかねたのだ。それをあてにしたのは間違いだったと信蔵は思った。これで明日の払いは無理になったと信蔵は思い、足もとに暗い穴が口をあけたような気がしたとき、すぐ目の前をすました顔の六助が通りすぎた。 「おい、ここだ」  信蔵が声をかけると、六助は立ちどまった。 「顔いろが悪いな。飯は喰ってんのかい」 「飯じゃないよ。おまえがあんまり遅いんで、気分が悪くなって来たんだ」 「いや、悪かった。おとくいさんで話が長くなってな、おれも気が気じゃなかったんだ」 「頼んだものはどうだった」  性急に信蔵は言った。現金なもので、ずんぐりした身体つきの六助がにわかに頼もしく見える。 「あわてなさんな。おれが何とかするって言っただろうが」  六助は信蔵を竹材のそばの暗がりに引っぱって行くと、ほらよと言って布に包んだものを渡した。信蔵の手がつかんだのは、間違いなく小判の重味だった。 「おれが見張ってるからよ、改めな」 「いいよ、おまえを信用してるよ」 「バカ言いな。商人が借りた金を改めねえって法があるもんか」 「それもそうだ」  信蔵は道に背を向けて布包みをひらいた。小判を一枚一枚数えた。そして包み直した金を懐深く押しこんだ。それから信蔵は顔を上げ、片手おがみに六助をおがんだ。 「ありがとよ、六さん。持つべきものは友だちだ。これで助かった」 「大げさに言いなさんな。出来ることをしたまでさ」  六助は胸を張ったが、ふと不安そうな表情になって信蔵を見た。 「その金、かならず返してくれるんだろうな」 「もちろんだとも」 「六両はおれの持ち合わせの金だ。だがあとの四両はよそで工面した金だから、返してくれないと困るんだ」 「大丈夫だって。ちゃんと利息をつけて返すから心配しなさんな」 「利息なんかいらないが、いつ返す」 「そうさなあ、ひと月後あたりだな。これにはそう書いておいたんだ」  信蔵は用意して来た借金証文を六助に渡した。竹問屋の店先からさしかける光を頼りに、六助が証文を読んでいるのを見ながら、信蔵はさっきの焦りが跡形もなく消え失せたのを感じている。はたして六助に金が返せるかどうかはわからなかった。ただ、明日の催促を無事にしのげることだけがわかっていた。  河岸の空に月が出ているのに、信蔵ははじめて気がついた。信蔵は六助の肩を抱いた。 「大丈夫だって。おれを信用してくれよ」 [#改ページ]   飛 鳥 山  その小さな女の子と目が合ったとき、女は身体の中で何かがことりと音を立てたような気がして、胸がさわいだ。  それはかわいい子供だった。齢《とし》は二つか、あるいはせいぜい三つになったばかりのように見える。ももいろの頬、ちんまりした鼻、唇がぷくりとふくらんでいる小さな口、訝《いぶか》しげに女を見ている目は黒く澄んでいる。小さいからかわいいというだけでなく、うつくしい子だった。  ──何てかわいい子だろ。  ゆっくりと膝を折りながら、女はそう思った。胸がまだざわめいている。女はもともと子供が嫌いではないが、こんなに心を動かされるような子に会ったのははじめてだった。  子供が逃げないように、目を合わせたままそろそろと膝を折った。しかし女の子は逃げなかった。やはり訝しそうな目をしたまま、手をのばせばとどきそうなところにとどまって、じっと女を見つめている。 「齢《とし》はいくつ?」  問いかけながら女は微笑した。女は自分が頬骨の張った男顔で、ともするとこわい顔に見える人間であることをよく知っていた。むき合っている女の子をこわがらせたくはなかった。  女の問いに、子供は首を振った。自分の齢を知らないように見える。しかし子供はおびえてはいなかった。 「お名前は?」  小さな声で聞いた。女は顔には似ない丸くてきれいな声を持っている。その声に気をゆるしたのか、女の子が口をひらいた。 「ゆき」 「おお、おお」  と女は言い、何度もうなずいた。 「おゆきちゃんね」  そうささやいた直後に、女はすばやく立ち上がった。  子供とむかい合う前に、あそこから来た子らしいと見当をつけた一団の花見客がいる。商家の人間かと思われる十人ほどの男女は、芝草の上に敷いた緋毛氈《ひもうせん》に上がってにぎやかに飲み喰いしているが、その中から急に女が一人立ち上がった。と見る間に、その女がまっすぐにこっち目がけて歩いて来るのが見えたからである。  そばに来たのはやはり商家の下女といった身なりの十七、八の娘だった。太って手も足も丸丸としている。娘は何か文句を言われはしないかと、身を固くして立っている女には目もくれず、邪険に女の子の手首をつかんだ。 「ゆきちゃん、ふらふら歩き回っちゃだめじゃないの」  子供の手をひいて背を向けかけてから、若い娘ははじめて立っている女にひややかな一瞥《いちべつ》をくれた。そして捨てぜりふを言った。 「人さらいにさらわれるからね。それでもいいの」  女は顔を赤くした。いくらかわいいと思ったところで、まさか子供をさらう気持はなかったのだが、人から見れば何かしら物欲しそうな女に見えたかも知れないと、わが身のそぶりをかえりみたのである。  ──それに……。  あたしはこわい顔をしているから、と女は思った。うさんくさく思われても仕方ない。  女は、若い娘と子供が帰って行く緋毛氈の上のひとびとをそっと窺《うかが》った。いまのやりとりを見られたに違いないと思ったのだが、案に相違してこっちに目をむけている者は一人もいなかった。無礼講の酒が回っているらしく、男たちは旦那らしい中年男を真中に、笑い声をひびかせながら盃をかわしているし、中の一人は三味線を弾いていた。そして女たちもこっちには無関心に花見弁当をひろげ、大口あけてごちそうをたべている。  手をひかれた女の子が緋毛氈までたどりつくのを見とどけてから、女は背を向けて歩き出した。  将軍徳川吉宗が命じて、庶民の行楽地としてひらかせたと言われる飛鳥山は桜の名所で、江戸の北郊外王子権現のそばという遠い場所にもかかわらず、時季には江戸の町からも大勢の花見客が押しかける。花はいまが盛りだった。花の下を歩いて行くと、頭上からかぶさって来る花びらの光、すれ違う人、毛氈の上の花見客の喧騒と酒の匂いなどで、女は酔いそうな気がした。ようやく女は花の下を抜けて、台地のはずれに出た。  空は花ぐもりで、日は見えているものの日差しは空中で濁った光の粒となって拡散し、地上も少しはなれたところは霞に覆われていた。台地から見おろしたところに、王子村の家家と田圃のむこうを流れる荒川が見えた。川があるあたりは厚い霞に包まれて、荒川はその霞の底に、不鮮明な白っぽい光を照り返しながら蛇行している。晴れた日には見えるという筑波山は、空が濁っているせいで見えなかった。  女はやっと腹がすいているのに気づいて、麓にむかって歩きはじめた。時刻は八ツ(午後二時)を回ったころかと思われた。  女は遅い昼飯をたべ、ならびの水茶屋に入ってゆっくりとお茶を飲んだ。それから来たついでに権現さまとお稲荷さんを参詣し、境内を見て歩いてから引き返して帰途についた。王子稲荷の門前から飛鳥山の麓にかけては、道の左右に飲み喰いの店がならび、その前を花見の客が絶えず往き来している。  女はさっき来たゆるやかな坂道を飛鳥山の方にもどると、今度は山には入らないでその下を通り抜けた。通りすぎるときに、上の方から三味線の音やそれに合わせて歌う声、酔った笑い声などが聞こえて来た。子供の泣き声もした。だがにぎやかな物音は、山を通りすぎるとすぐに遠くなった。  昼飯をたべてからずいぶんあちこちと歩き回り、途中休みもしたが、時刻はまだ七ツ半(午後五時)を回ったかどうかというところだろう。日はかなり傾いたものの、依然として濁った空に赤茶いろに光ってうかんでいた。女の前後は閑散として、道のずっと前方に、そろそろ引き揚げる花見客か、子供連れの数人の人影が見えているだけだった。鈍い光が、乾いた道と遠くに動く人影を照らしている。祭を見て来たあとのようなわびしい気分が、女を包んだ。  女は遠い根津から来た。そう言ってもいま歩いているあたりから、道が中仙道とぶつかる本郷の駒込追分まで一里余、追分から日本橋まで一里の距離である。来ようと気持を決めればそんなに遠い道のりというわけではなかった。その上女はこの道の途中にある上駒込村に母親が住んでいて、今日も一人暮らしの母親を見舞ったついでに飛鳥山まで足をのばしたのである。このあたりは、勝手の知れた土地だった。  女の母親は、村の大きな植木屋の雇人だった夫、女の父親に死なれたあと、大勢の雇人を使っているその植木屋の下働きに雇われて暮らしている。齢は五十半ばでまだ元気だが、子供は女一人だけなので、母親がもっと年を取れば、いずれ面倒をみなければならないだろうと女は思い、そのための蓄えもしていた。  女は根津の引手茶屋で働き、はじめは住み込みだったがいまはすぐそばの千駄木に住んでいた。人手が足りないからと店に言われて、着換えて座敷の用をすることもあるが、ふだんは台所で下働きをしている。齢は三十四で、独り身だった。  はじめから独りだったわけではなく、女は十八のときに隣村の染井《そめい》村で小さな植木屋を営む男に嫁入った。男の家は、係累といえば年取った父親がいるだけで、嫁としては気楽な暮らしだったが、どういうわけか子供が出来なかった。  夫婦仲が悪かったのでもない。むしろ良すぎるぐらいだった。女は父親似の男顔をしているが、着ている物の下にはやわらかくて真白な肌を隠し持っていた。形のいい乳房は、夫につかまれると手のひらに隠れるほどに小さくなるのに、手をはなすと勢いよく弾けて、夫をおどろかせたり喜ばせたりした。  おまえの身体は宝ものだ、こんないい身体の女はめったにいるものじゃない、と夫は感に堪えたように言うことがあった。それが閨《ねや》の口癖になった。しかし子供が出来ないまま三年もたったころから、夫はその口癖をぷっつりと口にしなくなった。いい身体に飽きたのだろうと女は思った。  そしてもともと酒好きだった夫が、そのころから正体を失うほどに深酒をするようになった。江戸市中に注文の植木をはこんで行ったきり、二日も三日も帰って来ないようなこともときどき起きた。そのつど、女は心あたりの場所をたどってさがしに行ったが、夫を見つけることは出来なかった。小石川音羽の切見世という女が聞いたこともない場所から人が来て、金を持ってそこまで夫を迎えに行ったこともある。  こういうことのすべてが、子供が出来なかったために起きたとは言えないだろう。しかし夫婦の間に子供がいないことが、夫の乱行をとめどなくしたことは確かだと思われた。四年たったが、子供は生まれなかった。そして五年目の春に、夫の留守に赤ん坊を抱いた若い女が来て、これは夫の子だと言ったその日に、女は荷物をまとめて夫の家を出た。夫が迎えに来たがもどらなかった。  根津の引手茶屋の台所で働く器量のよくない女に、男が目をつけることはめったになかったが、それでも女が着物の下に隠している、形がよく肌の白い身体を見通す目を持つ男がときどき現われた。女は誘われればそういう男たちと浮気をたのしんだが、長くはつづけなかった。ほとんどは一夜きりで別れた。  女の気持の底には、男たちに対するどす黒い不信感が居坐っていた。植木屋だった夫もふくめて、男たちは女の身体を漁り、賞美はしたものの、心から自分をいとしんでくれた男は一人もいなかった、と女は思う。そして、それは自分が子供を産めなかったことと、どこかでつながっているらしいとも、女は思ったりする。男たちは見事な身体をほめそやすけれども、その身体に石女《うまずめ》のつめたさを感じるのだろうか。  しかし子供が生まれなかったのは、女の罪ではなかった。どんなにか、女は子供が欲しかったことだろう。新妻のころに、やがて生まれて来るはずの子供のやわらかい肌、元気よくうごく手足を思い描いて人知れず胸をはずませたことを思い出す。  ──だが、それも……。  ずいぶんむかしのことだ、と女は思う。いまは男にも、自分の赤ん坊というものにも何の希望も持っていなかった。寄って来る男たちに、女たちがほんの束の間のあやしげな夢を売って金を巻き上げる根津の色里の隅で、ただ時に流されて、日日生きているだけである。  女は歩きながら、深いため息をついた。一人暮らしの女は小金を持っていたし、またいまの茶屋には長いこと勤めているので融通もきき、一日の休みをもらって花見に来るぐらいのゆとりはある。だが花見も、終ってみればわびしさが募《つの》るだけだった。女の目に千駄木の長屋の部屋がうかんでいる。なまじにぎやかな人波に揉まれて来ただけに、帰って行く部屋の人気ないつめたさが胸にしみるように思えた。  このごろふと、胸にしのびこむようになった孤独感が、ひしと女をしめつけて来た。こうしてあたしも年を取って行くのだろうか。ひとりっ切りで……。  突然に、女は立ちどまった。西ヶ原の一里塚を通りすぎ、平塚神社の参道前を横切ったころだった。女は首を回した。うしろから誰かが女にささやきかけたような気がしたのである。いま、ゆき、と言わなかったかしらと女は思った。気のせいにしても、そんなことはあり得なかった。だが女は身体を回すと、そのまま歩いて来た方角に鋭い目を凝《こ》らした。その間に、飛鳥山の方から来た駕籠《かご》が二挺、女のそばをゆっくり走りすぎて行った。乗っているのは花見の客だろう。  だが女は駕籠には目もくれなかった。たったいまうかんで来たある思いつきに心をとらえられていた。  ──もう一度……。  あのゆきという子に会って帰ろうかしら、と女は思っている。そう思っただけで、女は胸のあたりがほんのりとあたたまるのを感じた。  少しぐらい早く帰ったところで、待っている人がいるわけじゃなし、と女は思った。あわてることはない。ただ、女の子に会うつもりなら、いそぐ方がよさそうだった。赤茶いろの日は濃い霞の陰に半ば沈みかけているし、道の遠くには、帰途についた花見客の姿がちらほらと動いている。女は、いま来たばかりの道を飛鳥山の方に小走りにもどりはじめた。 「おかみさん、おゆきちゃんを少し叱ってくださいな。いくら言っても聞かないんです」  と下働きのまつが言った。まつは頬が赤く、手も足も丸々と太っている。 「姿が見えなくなったのは、今日はこれで三度目なんです。どうしてじっとしていないんでしょう。いまなんか、あんな遠い崖っぷちに行って土器《かわらけ》を投げる人を見てたんですよ」 「ゆき、こっちへおいで」  下働きのまつとは反対にぎすぎすと痩せて、面長の顔を厚化粧で飾りたてたおかみは、険しい顔で子供を呼んだ。  子供がおずおずとそばに立つと、おかみは血管の浮き出た手を上げて、いきなり女の子の頬をつねった。 「おまえはいつだってそうなんだから。性悪な子だ。小さなくせしてひとの言うことを素直に聞いたためしがない」  頬をつねられて、女の子は一瞬泣き顔になったがこらえた。真赤な顔をして、うつむいて立っている。 「強情な娘だ。今度遠くに行ったら、家に帰ってもごはんをたべさせないからね。この曲った性根は誰にもらったのだ。死んだおっかさんか」 「妹のことを言うんじゃない」  それまで奉公人を相手に盃をあけながらバカ笑いをしていた旦那が、いまの女房のせりふを聞きつけたらしく、急にどなり出した。旦那は大柄な男で、どなると迫力がある。 「おまえが病気のおとしにどんな仕打ちをしたか、おれが知らないとでも思っているのかね。それを棚に上げてだ、今度は忘れがたみの姪《めい》をじゃま者扱いにする気か」 「おや、聞き捨てならないことをおっしゃいますこと」  おかみはたちまち目をつり上げた。 「子持ちの出戻り、おまけに労咳《ろうがい》病みの小姑を気持よく引き取って養生させたのは、誰でもないこのあたしですよ。離れを明けわたして、医者も呼べば看病のばあさんもつけた。おとしさんを粗末にしたようなことを言われるのは、あたしは承服出来ませんね」 「あまりりっぱな口をきかない方がいいぞ。おれにだって耳もあれば目もある。病気がうつるからと、おまえがとうとう一度も離れに足を踏みいれなかったことぐらいは先刻承知だ」 「誰がそんなことを言ったんですか」 「誰でもいいわい。おとしが無断でゆきを連れ出したのをもっけの幸いに、赤ん坊もろとも離縁した藤見屋にも腹が立つが、おれはおまえにも腹が立つ。おまえは、おまえは……」  旦那は気持が高ぶって口をきけなくなったらしく、おかみをにらみつけてわなわなと身体をふるわせた。しばらく黙りこんでから言い継いだ。 「家の中に波風を立てても仕方なかろうと、いままで言わなかったことがあるが、今日は言ってやろう。おれは高庵先生に、金に糸目はつけないから、いい薬を使っておとしの病気をなおしてくれろと頼んだのだ。ところがそれを聞いたおまえは先生を物陰に呼んで、どうせ助かりやしないんだから、高い薬など使うことはないと言ったそうじゃないか、ちきしょう」  旦那は興奮して、持っていた盃をおかみに投げつけた。するとそれまで、主人夫婦の喧嘩をおろおろと眺めていた奉公人たちが、わっと総立ちになった。旦那の腕を押さえる者もいれば、忠義顔におかみの前に立ちはだかる者もいる。中にははだしで毛氈の外に走り出た者もいた。 「静まりなさい、みんな落ちつきなさい」  番頭が大声でみんなを制した。番頭は三味線を抱えて旦那ににじり寄ると、太鼓持ちのようにへらへらと笑った。 「旦那さま、こんなところで大きな声を出してはいけませんです、はい。どうぞお気を静めてください。やつがれ、ここでご気分直しにひと節歌わせていただきますから」 「番頭さん」  その番頭にも、旦那は八つ当たりをしている。 「おまえさんの三味線道楽は大したもんだよ。玄人《くろうと》はだしだ。しかし肝心の商いの方はどうなんだね。え? せめて三味線ほどに、商いにも気を入れてもらいたいものだ」 「じゃ、おばちゃんと一緒に行く」  ついにそう言ったとき、女の胸は早鐘を打った。無性に目の前の子供が欲しかった。ゆきがうなずくのを見ると、女は鋭い目であたりを窺った。青白い光の中で、花は色あせ、帰りをいそぐ花見客が右往左往している。女がさし出した手に、子供がつかまった。  山を降りると、女は子供を胸に抱き上げた。子供の身体はずしりと重くて、あたたかかった。女の胸に幸福感があふれた。だがそれは一瞬で、すぐに胸は恐怖でつめたくなった。混雑するひとの間を小走りにすり抜けながら、女はつのる恐怖のために息苦しくなり、口をあけて喘《あえ》いだ。  だがうしろから肩をつかまれることもなく、「人さらい」と指さされることもなく、女は人影もまばらな前の方に出ることが出来た。女は走り出した。 「大丈夫だからね。安心してつかまっていなさいよ」  ささやくと、子供は女の首にしっかりと腕を回してつかまった。  子供の幼い脳裏に、切れ切れの光景が点滅する。もっと暗かった。その暗やみの中を女が走っていた。そして自分はちょうどいまのように、女の首につかまっていたのだ。やがて走っているのは母親だとわかった。いま自分を抱いて走っているのも、母親だろうか。  子供はささやいた。 「おっかちゃん」 「おう、おう」  と女は答えた。胸に抱いているのは、生まれるはずだった自分の子だと思った。突然に、女の目から涙があふれ出た。 [#改ページ]   雪の比丘尼橋  橘屋藤五郎の妾宅を出ると、外は雪が降っていた。  鉄蔵は舌打をした。曇って底冷えのする日だとは思ったが、雨はともかくまさか雪になるとは思いもしなかったのだ。引き返して古傘でも借りて行こうかと思ったが、親方の藤五郎にさんざんいやみを言われながら、お情け半分に古い手間賃をもらって来たところである。その上に傘なんか借りるのは気がすすまなかった。  それにたとえ古傘でも、借りれば返しに来なければならない。それも億劫だった。  ──まあ、いいさ。  途中で何か頭にのせる物でも拾おうと思いながら、鉄蔵は雪の中を歩き出した。ただ、濡れるのは仕方ないとして、腰が冷えないかなという心配が頭にうかんでいる。  五十を過ぎたころに、鉄蔵は一度腰を痛めた。痛みはそのときは難なくなおったが、六十近くなると同じ痛みがぶり返し、還暦を過ぎたいまは容易ならぬ持病になっている。  しかし腰の痛みには一進一退があって、陽気の加減であるかなきかに軽くなることがある。そういうときに鉄蔵はせっせと働きに出た。もう力仕事は出来なくなったが、鉄蔵は若いころに大工の棟梁に弟子入りしたことがあって、いまでも道具さえ借りれば、鋸《のこぎり》を使ったり釘を打ったりすることは出来る。鉄蔵は、近ごろはそういうところを探して、大工の手伝いで喰っていた。  もっとも働きに出るのは、なにも働きたくて行くわけではない。とりあえずは喰わなければならないからだが、鉄蔵にはもうひとつのもくろみがあった。  鉄蔵はひとり者なので、腰が痛くて動けなくなればすぐにも喰い物に事欠くことになる恐れがあった。しかしいま住んでいるところでは、鉄蔵は大家にもまわりの人にもきらわれているので、鉄蔵が飢えても誰かが親切に米や金を貸してくれるとは思えない。そのときはどうなるかという不安は大きかった。働きに出るのは、その日にそなえて少しはたくわえというものを持たなくてはと思うからである。  しかし働きに出るのは腰のぐあいがいいときである。ひと働きして金をにぎるころには、鉄蔵は大概は腰の痛みも、金をたくわえるという殊勝な心がけも忘れている。そして場末の飲み屋か、博奕《ばくち》場に走るので、肝心の金は少しもたまらなかった。  今日藤五郎の妾宅に行ったのも、十日ほど前に起こした腰痛がやっとおさまったものの、仕事に出るにはまだ不安があり、そうかといって米も金も底をついて来たので、ふと思いついた古い手間賃をもらいに行ったのである。  藤五郎は俗に道中師と呼ばれる人入れ稼業で、大名行列の人足を仕立てるのが本業だった。しかし道中師としては小物で、出入りの大名も小さなところばかりなので、本業だけで人足を抱えているわけにもいかず、ひまなときは社寺の工事場や、大きな葬いの行列にひとを押しこんだりしていた。  鉄蔵はいつごろからか橘屋の半抱えの人足のようになり、そして藤五郎にくっついていれば飯の心配はなく過ぎて来たのだが、腰を痛めてからは橘屋の仕事は辛くなった。最後の仕事が芝にある大きな寺の石垣積みで、鉄蔵はこの人足仕事の途中で腰痛を起こし、無断で休んでしまうとそのまま橘屋と縁が切れてしまったのである。  話は一昨年のことで、おまけに不義理をしている。とても大きな顔で催促出来る金ではないが、背に腹はかえられず、鉄蔵はおそるおそるたずねて行ったのだが、藤五郎はそのときのいきさつをおぼえていて、ほう、おととしの手間賃かいと言った。あのときはさんざんみんなに迷惑をかけたそうだが、手間賃は忘れずに催促に来たかとも言った。  何日働いたと聞かれて、十日ほどと答えると、小娘のような顔をした若い妾が奥から分厚い帳面を持ち出して来て、あんたが工事場に出たのは六日で、そのうち三日は昼までで帰ったから正味のところは四日半日だと言った。すると藤五郎が、おめえまだ腰が痛むのかと聞き、四日半日なら手間は一分と百三十文だが、亀井町くんだりから来たのだから少し上乗せしてやろうと言って一分と五百文をくれた。  雪が降り出したせいか、お濠端の道にはほとんど人影が見えなかった。水のむこうの石垣の斜面にも雪がたまりはじめて、その下に数羽の鴨がじっと動かずに浮いている。目をもどしたときに、比丘尼橋をわたって荷をかついだおでん屋が来るのが見えた。大きくはないがよく通る声で「おでん、燗酒」と触れる声が聞こえる。鉄蔵の胸が、灯がともったように明るくなった。  近づいたおでん屋に酒をくれと言うと、五十前後といった齢《とし》ごろのおでん屋は、愛想よく返事をして雪の上に荷をおろした。鉄蔵は足ぶみをした。 「いそいでくんな。寒くてかなわねえや」 「へい、あいにくの雪でござんして」  おでん屋は、湯気が立っている一合|枡《ます》の酒を鉄蔵にわたした。 「おでん、いかがです」 「いらねえ、酒だけでいいよ」  鉄蔵は枡に口をつけた。喉《のど》が鳴ってみるみる一合枡がからになった。おでん屋が目をみはった。 「めずらしそうに見るんじゃねえや」  と鉄蔵は言った。 「一合いくらだい」 「二十八文いただきます」 「高えな」 「旦那、お燗代がへいってますもんで」 「足もとを見やがって。ま、いいや、もう一杯くんな」  へいと言ったが、おでん屋は菅笠の下から窺うような目で鉄蔵を見た。二十八文が高いといったからというよりも、このときになってはじめて、この雪空に傘一本持たず歩いている鉄蔵の人相風体をあやしんだというふうにも見えた。  鉄蔵は懐から巾着《きんちやく》を出して振ってみせた。 「金はあるぜ、ほら」 「いえいえ、そんな心配はしていません」  おでん屋はあわてて手を振ると、合羽の前をさばいて膝を折り、枡に酒をついだ。  おでん屋と別れて、鉄蔵は比丘尼橋を北にわたった。雪は降りつづいているが、身体があたたまったのであまり気にならなかった。腰が冷えないかと思った不安も、いつの間にかうすらいでいる。 「ちぇ、おでん屋め」  人の身なりを見て変な目つきをしやがったと思ったとき、鉄蔵は突然におでん屋を追っかけてなぐりつけたいような強い怒りに襲われた。若いころから酒癖がわるいと言われた。しかし、むかしは正体もなく酔ったあとでやって来たそれが、いまはたった二合の酒でたやすく姿を現わすようである。  むろん追っかけて行くなどということは無理だった。腰をかばってそろそろと歩いている身が、なんで走って人に追いつけよう。それにいつも履いている古びた雪駄がすっかり雪を吸ってしまい、腹と頭は熱いものの、足先はわがものとも思えないほどにつめたかった。ひとを追っかけるどころか、無事に亀井町の長屋までもどれるかどうかも心もとなかった。  橋をわたり切ったところに、左に焼いも屋、右に猪鍋《ししなべ》屋が店を出していた。考える間もなく、鉄蔵は山くじらと書いてある看板の横に立てかけた雪よけの簾《すだれ》をめくった。予想したとおりに、うまそうな猪肉の煮込みの匂いと一緒にあたたかい空気が身体を包んで来た。  鉄蔵は先客が二人いる長|床几《しようぎ》の端に腰をおろすと、酒をくれと言った。すると意外な返事が返って来た。 「酒は売り切れです」  鉄蔵は横にいる先客をちらと見てから、改めて料理台のむこうにいる店の亭主の顔を見た。三十半ばほどの大柄な男が、つめたい目で鉄蔵を見おろしていた。ふん、人間を見てあんなことを言っているなとぴんと来たが、さっきのひとのよさそうなおでん売りとは違って、みるからに柄のわるそうな亭主である。鉄蔵は気持がひるむのを感じた。  もう一度横を見ると、猪鍋の吸い物と茶碗酒を手もとに引き寄せた二人は、顔にうす笑いをうかべて鉄蔵と亭主のかけあいを眺めている。二人とも職人ふうの若い男だった。 「でも、そっちは酒が出てるじゃねえか」  鉄蔵が言ったが亭主は顔色も変えなかった。 「だから売り切れです。今日は雪になると思ったからたんとは仕込まなかった。早じまいにしようと思いましてね」 「そうかい、じゃしょうがねえや。吸い物をひとつくんな」  と鉄蔵は言った。腹の中はにえくり返っているが、腰をおろしているだけで身体があたたまる。すぐには外に出たくなかった。  しかし亭主がさし出した吸い物をすすっているうちに、腹立ちはむくりむくりとふくれ上がって、抑えがきかなくなって来た。おい、亭主と鉄蔵は言った。 「こんな恰好してるからといって、ばかにすんなよ。貧相なじじいが来たと用心したかも知れねえが、牡丹を喰う金ぐらいはあるぜ」 「金のことなんか言ってませんよ」  亭主はとりつく島もない口調でひとこと答えると、鉄蔵に背をむけてしまった。すると横でくすくす笑う声がした。  鉄蔵は横の二人を見た。男たちはあわてて顔をそむけると、わざとらしく椀の吸い物をすすった。その姿をにらんで鉄蔵が言った。 「おい、若えの。いまおれを笑ったろう」 「誰も笑ったりはしねえぜ」  一人がうす笑いの顔で鉄蔵を振り返った。 「気のせいだろう、とっつぁん」 「いいや、笑ったとも。これでも耳はいいんだ」 「じゃ笑ったことにしとけばいいじゃねえか。それがどうだと言うんだ」  もう一人の気短かそうな丸顔の男が言った。 「おれがこの愛想のねえ亭主にコケにされてるのがおもしれえんだろうが、なあに、この程度の男なんか、おれがもうちっと若かったら大きなつらをさせておくもんか」 「そうかい、いさましいな」  若い男が言い、丸顔の連れと顔を見合わせると、今度ははばかりなくどっと笑った。鉄蔵はうつむいて椀の汁をすすった。そして顔を上げると、今度は牛のような横目で若い二人を見た。 「かわいそうに、よっぽど銭がねえとみえる」  鉄蔵はねちねちと言った。 「見れば仕事は休みらしいが、おれが若えころはこんな雪の日に仕事がなきゃ、一目散に女のそばに走ったもんだ。吉原でもいいや、吉原が遠けりゃ深川でもいいや」  二人はあっけにとられた顔で、鉄蔵を見ている。 「それをいい若えもんが、こんな葭簀《よしず》で囲ったような店で牡丹なんぞ喰いやがって、ありがたそうに安酒をなめてるなんざ、威勢がわるくて絵にもならねえや」 「このじじい、おれたちに喧嘩を売ってんだぜ」 「わめくなって」  一人が仲間をなだめた。 「入って来たときから酔ってたんだ。年寄りの酔っぱらいを相手にしてもはじまるめえ」 「へえ、若えくせに分別くせえことを言うぜ」  鉄蔵は立ち上がった。 「おい、亭主。こいつはいままで喰ったこともねえ、まずい牡丹だ。おまけにこの店も客も気にいらねえぜ」  言うと鉄蔵は、ほんの少し中身をすすっただけの椀を左から右に振り回した。汁と猪肉が、亭主と若い客二人にふりかかった。 「このじじい」  若い二人は、猛然と立ち上がると左右から鉄蔵の腕をつかんで店の外に引きずり出した。亭主があわてて、「おいおい、喧嘩は金を払ってからにしてくんな」と叫んだ。  殴りつけ、足蹴にしたあげくに、二人の若者は鉄蔵を一度俵か何かのように高く持ち上げてから雪の上に投げ落として立ち去ったが、二人の姿が見えなくなっても、年寄りを助け起こそうとする者は現われなかった。日暮れ近い道にはばったりとひと足がとだえ、いい匂いをさせている焼いも屋も、様子は察しているはずなのにことりとも音を立てなかった。かかわり合いになるのを恐れているのだろう。むろん猪鍋屋の亭主は、外をのぞき見もしなかった。  鉄蔵はうなった。全身の痛みに加えて、額が切れたらしく、そのあたりに堪えがたい激痛がうずく。血の匂いがした。額が切れただけでなく鼻血も出たようである。さあ、帰らなきゃと思ったが、身体を動かすと今度は腰に身体を切り裂くような痛みが走った。これまでにおぼえのない痛みである。  ──腰っ骨に罅《ひび》が入りやがったかな。  と鉄蔵は思った。雪に顔を半分うずめたまま、鉄蔵はうなりつづけた。声を出すと、痛みがいくらか紛れるようでもある。しかし雪にもぐった顔半分がつめたくしびれて来た。  とうとうおれもおしめえだな。うなりながら鉄蔵はそう思った。そう思うことはおそろしかったが、その中にほっと安堵するような気分も少しはまじっていた。 「おじいさん、いったいどうしたの」  頭の上で、突然女の声がした。 「まあ、こんなに血が出ちゃって。年寄りのくせに喧嘩でもしたの」  鉄蔵は目をあけた。雪がやんでいた。そしてそばにお店《たな》の若女房といった感じの品のいい女がしゃがみこんで、鉄蔵をのぞいていた。鉄蔵はそっと頭を動かした。すると焼いも屋の前に女の子が一人立って、こっちを見ているのも目に入った。雪がやんで、焼いもを買いに出て来た親子連れかと鉄蔵は思った。 「起きられる? こんなところにいつまでも寝てるとこごえ死んじゃうよ」 「ほっといてくんな」  鉄蔵はにべもなく言った。親切にされると逆らいたくなるひねくれ根性が身についている。 「そんなこと言わないで起きて。ほら、手を貸して上げるから」 「うるせえや、おせっかいな女だ」  と鉄蔵は言った。  暗くなった町にもどると、鉄蔵はそっと家の中に入りこんだ。そして手さぐりで上がり框《かまち》をつかんだあとは、這って部屋に上がった。痛みをこらえながら、そろそろと長火鉢のそばに寄った。しばらくそこで息をついでから火鉢の灰を掘ると、家を出る前に埋《い》けて行った炭火がいくつか、豆粒のように小さくなって出て来た。その上の鉄瓶も、さわってみるとほのあたたかかった。  深い安堵感が鉄蔵をつつんだ。よくも無事にもどってこられたものだと思った。自分を助け起こし、額の傷まで縛ってくれた若女房の姿が目にうかんだ。  しばらく指先をあたためてから、鉄蔵は今度は這って行燈《あんどん》と附け木をさぐりあて、灯をいれた。寝床を敷きっぱなしにしたままの、うす汚れた部屋の景色がうかび上がった。鉄蔵はうなりながら台所から茶碗を持って来ると、鉄瓶から湯をついで飲んだ。なまぬるい湯がうまく、冷えた腹があたたまるようだった。腹もすいているが、ひと休みしてからだと思いながら、鉄蔵はちびちびと白湯《さゆ》をすすった。そっと指でさぐってみると、額の血はとまっていた。  若いうちはいいんだよ、という声が聞こえた。若いうちはそれでもいいけれど、齢とったらどうするのさ、おまえさんのような暮らしをしてたら、あたしが死ねば末は野垂れ死にだよ、と言っているのは、四十にもならずに病気で死んだすみという女房の声だった。ひさびさにすみを思い出したのは、さっき若い娘に親切にされたからだろうか。  だが意見するすみを、鉄蔵はうるせえ、だまれとどなっては殴りつけ、すみが内職でためた金までうばって賭場に走ったのだ。夜も眠らずに博奕を打ち、儲かれば深酒をしてあげくに喧嘩で血だらけになって家にもどった。そういう生き方を悔いたことは一度もないが、なんだかすみの言ったとおりになってきたぜ、と鉄蔵は思った。  ──おや?  誰かが泣いていやがる、と思って鉄蔵は顔を上げた。だがすぐにそのすすり泣きは、ほかでもない自分の口から出ていることに気づいた。泣きながら、鉄蔵は飯を炊くためにそろそろと立ち上がった。 [#改ページ]   大はし夕立ち少女  さよは外にお使いに出るのが好きだった。店の外には、さよの気持を浮きたたせるものがたくさんある。  道の左右にならぶ一軒一軒の商い店、むこうから歩いてくるひとの顔、さよを追い抜いて行った女の大きな尻、表から横町に、また表へと執拗に牝犬《めすいぬ》を追っかけている牡犬《おすいぬ》、煮豆屋の前で、どんぶりを持ったまま大口あけて立ち話をしているおかみさんたち。どれを見ても飽きなかった。憚《はばか》りもなく亭主をこきおろしたり、下《しも》がかった話をして興じているおかみさんたちのそばで、一緒になって笑っていたら急ににらまれたこともある。  またあるとき、さよは狭い小間物屋の店先に立って、鼈甲《べつこう》の櫛《くし》、貝に入った紅、飾りがたくさんついた簪《かんざし》などをじっと見つめている。いつまでも動かないさよを見てたまりかねた店の者が、うす暗い店の奥から「ねえちゃんや、買わないんならそこのきな。お客さんのじゃまだよ」と声をかけてくるのを聞いて、さよはようやく目がさめたように歩き出す。  しかし歩き出しても、小さな貝に入った紅はまだ目の奥に残っていた。客の気をひくためだろう、小間物屋の貝はひとつだけ蓋《ふた》をあけて、中身の紅が見えるようにしてある。死んだ母親も、そんな小さな貝入りの紅をひとつ持っていたのをさよは思い出している。 「さよも大きくなったら、こうしてきれいにするんだよ」  同じ町内にある料理茶屋に手伝い勤めに行っていた母親は、昼すぎになると柱に逆さに立てかけた手鏡にむかって唇に紅を塗りながら言った。 「きれいにしているとね、いいひとがきて、さよをお嫁さんにしてくれるからね」  母親は八年前の大火事のときに死んだ。火事はまだ明るいうちに北の方の町を焼き、少しずつ大きくなって夜になるとさよがいる長屋も、母親が働いている料理茶屋もひと呑みに焼きつくした。そして火勢は衰えずに南の方角に走って行って大火事になったのだが、さよは同じ長屋の桶芳の女房に手をひかれて逃げ、無事だった。  そしてその夜、火がくる方角にむかって狂ったように走って行くさよの母親を、長屋のべつの女房が見ていた。その女房は、大声で母親を制したが、聞こえないとみると引き返して後を追った。しかしみるみる引きはなされて、火とけむりと逃げまどうひとの間に母親の姿を見失ったという。それっきり、さよの母親は行方知れずになった。父親はさよが生まれて間もなく病死したので、さよは孤児になったのである。 「あんたがまだ長屋に残ってやしないかと思ってたしかめに行ったんだよ」と、母親のことを話した桶芳の女房はしんみりと言った。その桶芳の夫婦は、孤児になったさよを引き取った。さよはそこで大きくなり、二年前に、大家の世話でいまの店に奉公に入った。  桶芳ではさよを家の子同然に扱ったが、さよのほかに自分たちの子供が三人もいた。そしてさよの奉公話が決まるころには、女房の腹はまた大きくなっていたので、大家は双方のことを考えて、さよを早めに奉公に出すことにしたのかも知れなかった。  そういう事情は子供ごころにも自然にのみこめるものなので、大家が奉公先を決めてくれたとき、さよは奉公をつらいとは少しも思わずほっとしたのだった。  母親と死にわかれたときさよは四つだったので、暮らしの思い出がそんなにたくさんあるわけではない。入口と台所の隅に外の光が差しこむだけの、いつもうす暗かった家の中、こわれかけて顔も半分ぐらいしか映らなかった手鏡、そして小さな貝に入った紅。白粉《おしろい》を塗り、唇に紅を塗ると別人のようにきれいになった母親。その母親を夜中に家まで送ってきてむりやり中に入ろうとし、母親と腕ずくの争いをしたおそろしい男。  さよがいまもおぼえているのはそのぐらいのことである。ならべてみるとあまりしあわせとは言いがたい思い出だが、さよ自身はそうは思っていなかった。さよは快活なむすめで、それにどんな思い出にしろ、そばに母親がいたころほど、さよにとって懐かしくうれしい日日はない。  小間物屋の口紅を見ても、さよは気持が落ちこんだりはしなかった。さよは母親が言ったことを思い出してうれしくなり、早く大人になってあの紅をつけたいなと思っている。  さよは外にお使いに出るのが好きだったが、ことに今日のように知らない町に使いに出されるときは、よろこびは倍加した。はじめて見る町は、家のたたずまいから住んでいるひとの顔つきまで変っているようで、さよは胸がどきどきする。  さよがよく使いに出されるのは、家の中でやっている仕事がまだ小間使い程度だからということもあろうが、そればかりでなく方角の勘がいいからでもあった。目印になるものさえ聞けばぴたりぴたりとさがしあてて、はじめての町に使いにやられても迷うことはない。  大体はおかみさんの使いだが簡単な店の用を頼まれることもあって、さよは店と奥の両方から重宝にされていた。「さよはほんとにかしこい子だよ。長吉とは大違いだ」とおかみさんが言う。長吉はさよよりひとつ齢《とし》上の小僧だが、春ごろに二度も道に迷ってお使いをはたせずに帰って、お役ご免になった。  長吉は道に迷って手ぶらで帰ったときに店の者に笑われたことと、おかみさんの使いをさよにうばわれたくやしさを根に持っていたらしく、さよが台所に一人でいるときにそばにきて凄《すご》んだことがある。 「おれは頭がわるくて道に迷ったんじゃねえや。おかみさんの使いなんか、辛気くさくてやってられねえから迷ったふりをしたんだ」 「そうよね。男の長吉さんがわけもなく道に迷うはずがないもんね」  さよは軽くいなした。小柄なのでおかみさんのほかには誰も気づいていないが、さよは半年ほど前に大人のしるしをみている。それからというもの、さよは自分の身体の中にこれまではなかったものが棲《す》みついてしまったのを感じていた。棲みついたのは女という生きものである。面皰《にきび》づらの長吉の相手などしていられなかった。  しかしもちろん、さよは大人になりきったわけではなかった。八割方はまだ子供だった。  はじめてきた町も、使いを済まして帰り道をたどるころには、違う世界に迷いこんだようだった緊張感はゆるんで、町の様子もはじめに目にしたときほど変っているとは思えなくなっている。さよは図図しくなって、なにかおもしろいものはないかときょろきょろしながら歩いたが、町はさほどさよをおもしろがらせるものもないままに武家町に変った。高い塀がつづく陰気くさいその道を通り抜けると、町はまた左右に店がならぶ小さな商人町になった。  すると町はずれの、そろそろ大川の河岸に出るころだと思われるあたりに、商い店にはさまって一軒のしもた屋があるのが目に入った。灰いろの塀の上から竹の枝がのぞいて揺れている。見えるのはそれだけで、あとは建物も人も塀と格子戸の奥にひっそりと隠れているような住居だった。  塀の間にはさまっている格子戸の前を、さよは横目を使いながら通りすぎた。が、何も見えなかった。塀の内はしんと静まりかえっている。  どんな人が住んでいるのだろう、とさよは思った。住んでいるのは隠居した年寄り夫婦かも知れなかったが、そうではなくてさよより少し齢上の、きれいな着物を着た病身の娘と身の回りを世話する老婢かも知れない。  町の出口に、日にかがやく河岸の道と御船蔵の屋根が見えてきた。いまは幕府の御用船を繋留《けいりゆう》する十棟余の船蔵がならんでいるそのあたりは、江戸のはじめごろに長さ三十八間、胴間二十間ほどもある安宅丸という大船がつながれていた場所で、さよが歩いてきた町町の北側の一帯を|あたけ《ヽヽヽ》と呼ぶのは、幕府が廃船にしたその大船が町の下に埋められているからである。  さよは立ちどまった。くるりと振りむいて歩いてきた道を見たが、歩いている人の姿は見えなかった。七ツ(午後四時)過ぎの道には、家家の濃い影が道の半ばまで覆いかぶさり、遠く近く蝉の声がひびいているだけだった。物の影が濃いのは夏が終りかけている兆しとも見える。  さよはいそぎ足に引き返すと、しもた屋の塀の透き間をさがした。塀はひさしく手入れしていないとみえて塗りは剥《は》げ、板はそっくり返っているが塀の内側をのぞけるような透き間は簡単には見つからなかった。やっと見つけた細い透き間に、さよは目を押しあてたがその先は草むらのようで、視界にはぼんやりした緑いろがひろがっているだけだった。  あきらめてべつの透き間をさがすと、今度は庭の一部と建物の一部が見えた。しかしただそういうものが見えるというだけで、塀の内は相変らず物音ひとつせず静まり返っている。今度こそあきらめて帰ろうと、目をはなそうとしたとき、糸のような視界に何かがちらりと動いた。さよはあわててもう一度目を押しあてる。  だが見えるのはさっきと同じ庭とどことも知れない建物の一部だけである。さよは辛抱づよく眺めつづけたが、さっき動いたものは二度とあらわれなかった。気のせいかしらと思ったときうしろの方で大きな声がした。 「そこのむすめっ子」  とその声が言った。とび上がるほどびっくりしたさよが振りむくと、声の主は斜め向いの古手屋のおじさんだった。太ったおじさんはひと雨くるぞと言い、言いながらせっせと店先に出してある商い物を中にしまいこんでいる。 「お使いの途中じゃないのか。早く帰らないとずぶ濡れになっちまうぞ」  おじさんはさよが抱えている小さな風呂敷包みをみて、お使いと見破ったらしい。さよは顔を赤くしてぺこりと頭をさげるといっさんに走り出した。  日は変りなく照っていたが、いつの間にか光が白っぽく変り地上の物の影がうすくなっているのにさよは気づいた。河岸の道に出たときに、不意に強い風がうしろから吹きつけてきた。さよは身体をあおられて風呂敷包みを落としそうになり、あわてて包みを胸へ抱えこんだ。  風は強いだけでなく、ぞっとするほどつめたかった。振りむいて空をみたさよは、思わず恐怖に襲われて声を立てるところだった。さよがこれから帰って行く新大橋の向う岸の町町は、日を浴びて白くかがやいているのに、|あたけ《ヽヽヽ》の北にひろがる町町の上の空は、見たこともない厚い鉛《なまり》いろの雲に埋めつくされていた。そしてその下の一段低いところを、うすい黒雲が右に左に矢のように走り抜けているのだった。  あの橋さえわたってしまえば、と必死に走りながらさよは思った。だが橋にたどりつく一歩手前で、日が雲に隠れてあたりは夕方のように暗くなり、つづいて雷が光った。さよが下駄を鳴らして橋に走りこんだとき、頭の上でおそろしい雷鳴がとどろきわたり、ほんの少し間を置いてからさよのまわりが一斉に固い物音を立てはじめた。そしてそれはすぐに、耳がわんと鳴るほどの雨音をともなう豪雨になって、さよだけでない橋の上のひとびとに襲いかかってきた。  その雨の中に紫いろの光がひっきりなしに光り、雷鳴はずしずしと頭の上の空をゆるがした。「落ちたよ」と誰かが叫ぶ声がして、さよはおそろしさに足が竦《すく》むようだった。するとそのとき、びしょ濡れの身体にうしろから傘をさしかけた者がいた。 「ほらよ、入んな」  と男の声が言った。  ありがとうございました、と言って、さよははじめて男の顔を見た。傘に入んなと言われたときも、雷がこわいんなら袖《そで》につかまりなと言われたときも夢中で、顔を見るゆとりなどはなかったが、立ちどまってむかい合ってみると、男は二十過ぎと思われる若い男だった。風体からみて、職人ではなくお店《たな》の奉公人だろう。 「家はここから近いのか」  と男が言った。ええ、とさよは言った。 「家ではなくてお店なんです。あたし奉公してるんです」  ふーんと男は言った。奉公人にしては少し小さいじゃないかと思ったようである。 「おめえ、いくつだい」 「十二です」 「十二? ふーん、それじゃそろそろ大人だ」  男は言って、さよの雨に濡れて着物が肌にはりついている胸のあたりをじろじろと見た。いやらしいひと、とさよは思った。だが、男にそういう目で見られるのはわるい気持はしなかった。身体は小さいけれども、少しずつふくらんできている自分の胸を思った。 「名前は?」 「さよと言います」  ふーんと男はまた言ったが、急にひょうきんな口調で言った。 「さよでござんすか」  おもしろくもない駄洒落にどういうわけか気持をくすぐられて、さよははじけるように笑った。男も声を立てずに笑った。目が少し大きくて口も大きめ、頬がこけていい男ぶりとはいえない男の顔に、笑うと隠れていた才気のようなものが動いた。その感じのいい笑顔のまま、男はじゃあな、と言って背をむけた。  さよは黙って頭をさげてから男を見送ったが、男の姿がはなれて小さくなったころにもう一度声を張って「ありがとうございました」と言った。声が聞こえたらしく男は振りむかずに手に持っていた傘を小さく上げた。そして角を曲って行ってしまった。  大雨のあとの町はまだ誰も外に出ていなかった。ところどころに水たまりが出来た道を、もどってきた日差しが照らしているだけである。そしてその日差しは暑く、空は青いのに雨後の町の光景はどこかしら秋を感じさせた。遠くの方で、まだどろろーんと雷が鳴っている。  さよはくすりと笑った。ひょっとしたらさっきの若者が、母親の言ったいい人だったのかしらと思ったのである。 「ありがとうございました」  さよは誰もいない道にむかって、小さな声でもう一回言った。すると思いがけなく、恋を失ったあとの気持はこんなだろうかと思うような、甘酸っぱいかなしみが胸にひろがって、さよはあわてて濡れた風呂敷包みをかかえ直すと、いそぎ足に店にむかって歩き出した。 [#改ページ]   猿若町月あかり  浅草、聖天《しようでん》町の下駄雪駄鼻緒問屋相馬屋では表の戸をしめようとしていた。客は帰り、店の中はむろんのこと外もうす暗くなっている。  そのとき新しい客がきたらしかった。戸をしめていた小僧の安吉が客と思われる男としゃべっているのを、働き者の主人善右衛門は帳簿を見ながら耳に入れている。安吉が、今日は商いをしめましたとちゃんと言えるかどうか危ぶんでいた。しかし買物のいそがしい客ならもちろん中に入ってもらって、しまいかけている鼻緒を出し、買ってもらわねばならない。客を粗末にしたとは言われたくない。  安吉は十八だがどこかぼんやりしたところのある子だった。ちゃんとそれだけのさばきをつけられるだろうか。  店に出ている行燈《あんどん》は二つ。ひとつは帳場にいる善右衛門のそば、もうひとつは店の者を指図して鼻緒をしまっている番頭の弥助のそばにある。その弥助が、いまは膝に手をおいて入口の方を見ていた。  それでいい、安吉が応対にもたつくようだったら弥助が立って行くだろう。そう思って善右衛門が帳簿に目をもどし、そろばんをひきよせたとき、いそぎ足に安吉がそばにきた。旦那さまと安吉が言った。 「甥御さんがみえています。何かいそぎのご用があるそうです」 「おお、そうかい」  と善右衛門は言った。そのときにはもう店に踏みこんでこちらを見ている富蔵の姿が目に入ってきた。行燈の光が遠いので、富蔵の顔は目鼻もはっきりせずただ白っぽく見える。  ──やっぱりきたか。  と善右衛門は思った。背筋がざわめくような不快感に身体を包まれたが、善右衛門はその気分をおし殺した。のび上がって富蔵を手招きした。 「富蔵、こっちにきなさい」  安吉と入れちがいに富蔵が土間を歩いてくるのを善右衛門は見まもった。背丈があり、少し痩せているものの顔立ちはわるくない若者である。ただ表情が暗かった。  富蔵は妹の子である。妹が嫁いだ家は小さな太物《ふともの》屋だが、富蔵は地道な家の商いに身が入らず、ひと儲けをたくらんで家から金を持ち出し、仲買いの真似ごとをはじめた。手引きする者がいたらしい。しかし結果はあちこちに借金をこしらえただけで、近ごろは返済にくるしんで金を借りに親戚にあらわれると聞いていた。ほかにも悪い仲間ができて賭けごとに手を出しているといううわさもあった。 「おじさん、ごぶさたしました」  と富蔵は言った。 「お元気そうで何よりです」 「ありがとうよ。おまえもすっかりいい若い者になったじゃないか」  まあ、そこにかけろと善右衛門は言って、帳場わきの上がり板を手で示した。富蔵の用件はわかっているので、長居させるつもりはなかった。 「いくつになった?」 「あ、おれ二十六です」 「二十六だって? これはおどろいたね」  善右衛門は富蔵の顔をつくづくと見た。そして気の弱そうな細い目と肉のうすいあごのあたりが、ますます妹に似てきたのに気づいた。そして富蔵の声はといえば、これはまた亡くなった祖父、つまり善右衛門と妹のひろの父親の声にそっくりのように聞こえた。  不思議なことがあるものだ、と善右衛門は思った。妹は女だから父親に声柄《こえがら》が似ていると思ったことはないのに、声の質というものはこの遊び人の甥に伝わっているらしい。 「すると、おまえのおやじさんの一周忌で会ってからかれこれ五年もたったかね。いやはや、これじゃあたしが齢《とし》とるのも無理はない」  富蔵は気よわそうな笑顔で善右衛門を見ている。膝をきちんとそろえて顔を善右衛門にむけている。その甥のどこに博奕打ちのように一攫《いつかく》千金を夢みる気性がかくれているのかと、善右衛門は不思議でならない。 「いやあたしはね、近くに行ったときはよくおまえの家に顔を出しておっかさんと話してくるんだけれども、おまえと顔があうことはなかったからね」  善右衛門が話しているとき、番頭がそばにきた。話のじゃまをする詫びを言ってから、番頭は店が片づきましたと告げた。 「ほかにご用はありませんでしょうか」 「あ、もう奥に引き揚げていいよ」  と善右衛門は言った。 「店の者にはあたしにかまわずにご飯をたべさせて、それが終ったら番頭さんは帰ってください。あ、それからおてるにね、あたしはこれと……」  善右衛門は台所を指図する婢《はしため》の名前を言ってから、目で富蔵を指した。 「少し話してから引き揚げるので、ご飯はそのあとにたべさせてくれと言っておいてください」 「かしこまりました」  と番頭は言い、富蔵にお愛想の言葉を残して立って行った。  店にいた奉公人が奥にひっこみ、最後に残った番頭が行燈の灯を消して行ってしまうと、店の中はひっそりとしてしまった。にわかにつめたい夜気が身体をとりまいてくるのを善右衛門は感じた。  さっきの番頭とのやりとりで、晩飯を出すつもりも上にあげる気もないことがわかったはずだから、ひとがひっこんだあとすぐにも何か言い出すだろうと思った富蔵は、まだうつむいたまま黙っている。用件はわかっているのだからはやく済まそうじゃないかと、善右衛門はいらいらしたが、じっとうつむいている甥が少し不気味でもあった。 「おっかさんは元気か」  仕方なくそんなことを言ってみた。妹にはふた月ほど前に会って、元気なことはわかっているのだ。しかし善右衛門の言葉に、富蔵は顔も上げずにはいと言っただけだった。 「おまえはいまは何をしてるんだね」  と善右衛門は言った。 「相変らず夢みたいな儲け話を追っかけているのか」  妹の家では、むかし富蔵を主筋の太物問屋に奉公に上げた。だが富蔵は奉公をしくじった。辛抱を通せなくて途中で逃げ帰ったのである。それからは家の商いを手伝ったり、同業の店に雇われたりしたがどちらも長続きせず、そのうち父親が死ぬのと前後して手引きする者と一緒に仲買いのような仕事に手を出しはじめたのだが、そばで見ているとそれも遊び半分のようだったという。近ごろは何をしていることやらと妹は言っていた。 「なかなか大儲けなんてものはできるもんじゃないよ」 「………」 「おまえもそろそろ目をさましてだな。嫁をもらって家に落ちつかなければいけない齢《とし》だろう。いくら小さな店だって、おっかさんをいつまでも店に出しておくのはかわいそうじゃないか」  黙ってうつむいている甥を見ていると、善右衛門の口調はだんだん尖《とが》って説教くさくなる。なまじの説教など聞く気はなかろうと思っても、それじゃ伯父としてほかに何を言えばいいのだと善右衛門は思う。  そのとき富蔵が立ち上がった。そしてせっぱつまったような声で言った。 「おじさん、突然きてこんなことを言うのは重重申しわけないのですが、お金を貸してもらえませんか」  そらきたぞと善右衛門は思った。富蔵が金を借りに行っても一切貸さないでくれと、妹に言われている。なまじ金をにぎると悪くなる一方だからと。だが言われなくとも、善右衛門にはふらふら遊び回っている身内になど、鐚《びた》一文貸す気はなかった。 「いくらだね」 「五両です」 「五両だって」  善右衛門はおどろいてあいた口がふさがらないという表情をしてみせた。じっさいに突然きて五両貸せとは厚かましい言いぐさではないかと思っていた。 「おまえ、いつもこんなふうにして親戚から金を借り回っているのかい」  富蔵はうつむいている。 「借りた金を何に使うんだね」 「いろいろ」 「商いの金かい」 「いえ」  富蔵は顔を上げた。顔に善右衛門が予期しなかった必死の表情がうかんでいた。 「わるいやつに金を借りたもんで、それをきれいにしないとひどいめにあわされるんです」 「というと、賭けごとの借金だな」 「………」 「そういうのを自業自得と言うんだよ、え? 富蔵。ふらふら遊び回って堅気の仕事をバカにしているとこういうことになるのだ」 「………」 「親戚がおまえの賭けごとの始末をつけてやらなければならない義理はないんだ。そうだろ」 「ええ、その通りです。でも、ほかに行くところがないもんでおじさんにおねがいにきたんです」 「情ないねえ。二十六にもなってガキみたいなことを言うじゃないか」 「………」 「金を貸せというが、返すあてはないんだ。くれということだ。そうだな」  善右衛門は富蔵に言った。 「とは言うものの、情としてはたとえ一両でも持たせてやりたい気持だ。しかしあたしはおまえも知っての通り、この家の婿だ。はずかしながら、財布は女房がにぎっている。わけのわからない金はただの百文も自由にはならないのだよ」  じっさいはそんなことはない。たしかに善右衛門は奉公人から引き上げられて婿の座におさまった人間だが、女房のるいは奉公人の善右衛門に惚れて一緒になったのである。ほかの縁談には一切耳を傾けなかった。  夫婦仲はいまも円満で、善右衛門は婿の慎みとして理由のない金はそれこそ一文たりとも私したことはないが、財布は自分がにぎっている。たとえ五両の金を融通してやっても、わけを話せばるいがべつに文句を言うわけではない。 「おまえは頼る人をまちがえたな。それにな、ほんとのことを打ち明けると、あたしはおまえのおっかさんにおまえがきても金は鐚一文貸してくれるなと固く言われているんだ。貸しても、何ひとつおまえのためにはならないとな」  富蔵が行ってしまったあとも、善右衛門はぼんやりと帳場に坐っていた。  ごたごたするのはきらいだった。五両の金ぐらいに文句は言うはずがないといっても、富蔵にその金をやってしまえば、善右衛門はやはりるいに縷縷《るる》言いわけをしなければならないだろう。婿の立場は弱い。その上、女房に話して身内に遊び人がいることを知られるのも気のすすまないことだった。  それに何よりも、貸して益のない金だと善右衛門は思った。富蔵は金を返さないとひどいめにあわされると言ったが、まさか五両の金で相手も富蔵を殺しもすまい。それならかわいそうだが殴られる方が本人のためになるだろう。大体金を貸して妹に文句を言われるのは間尺に合わない話だ。そう思うものの、善右衛門はどういうわけか少しも気持が落ちつかなかった。うまく追いはらってやったとは思わなかった。気持はずっと富蔵を追っかけていた。  しかしもしも相手がやくざ者か何かだったらどういうことになるのだろう、と善右衛門は思った。富蔵は指をつめさせられるのだろうか。それに金を借り回っていた富蔵が、これまで一度もこの家に姿を見せなかったのは、大きな店の主人とはいえ婿の身分の伯父に遠慮があったのではないか。しかし、今度ばかりはせっぱつまってたずねてきたのだとも考えられる。  その富蔵におれは少しつめたくあたりすぎたようだ。自業自得とは、われながら何という言いぐさだと善右衛門は自己嫌悪めいた気分に陥る。金を貸さないつもりなら説教などしなければいいのだ。富蔵は、さぞやおれをつめたい伯父だと思ったにちがいない。おれにことわられて、富蔵はこれからどうするのだろうか。  ──かわいそうなやつだ。  と善右衛門は思った。妹の目とあごを持ち、父親そっくりの声を持つ甥を思いうかべながら、善右衛門は次第にいたたまれない気持になってきた。甥や姪などというものは、なにかで身内があつまるようなことでもなければめったに会うこともなく、ふだんは忘れて暮らしているのに、この物がなしい気がかりは何だろう。  血のつながりさ、と善右衛門は思った。思ったときには行燈の灯を消して立ち上がっていた。  茶の間に行くと、人はいなくて行燈だけがともっていた。るいは町内の女房たちと誘い合って芝居見物に行き、留守だった。善右衛門は隠し戸棚から金箱を出すと、大いそぎで小判を三枚出して紙に包み、懐にねじこんだ。  金箱をしまって立ったとき、絵草紙をかかえた娘のふみが部屋に入ってきた。 「おとうさん、どうしたの」 「ちょっと外に出てくるよ」 「ご飯は?」 「すぐにもどる」  言い捨てて茶の間を出た。  店を出るのに手間どったから見つかるかどうかと心配したが、家を出てまもなく、遠くの方に千住往還から右に曲る富蔵の姿が見えた。そこも聖天町の内である。帳場でした思案は、そんなに長いものではなかったのだろう。  善右衛門は小走りに富蔵のあとを追った。前を歩いているひとはほんの二、三人で、ひとも道も大きな月の光をあびてしらじらと光っている。その明るみのおかげで、富蔵の姿も見わけられたのだ。  善右衛門は富蔵が曲ったと思われる路地に入った。そして町を突っきったところで左右に目を走らせたが、富蔵はいなかった。どうやらその先の芝居町に入って行ったらしい。善右衛門はまた小走りに道を横ぎった。五十三の善右衛門はすぐに息が切れてきた。操り人形の結城座の小屋の北側を走り抜けると、突然に善右衛門は芝居小屋と茶屋の灯がまぶしくふりかかってくる道に出ていた。  混みあうほどの大勢のひとが道を歩いていた。茶屋の男衆に案内させて芝居小屋にむかう客、走って道を横ぎる茶屋女、その間を縫って何ということもなく浮かれ歩いているぞめき男たちやいそがしそうな出前持ち。屋台をかついでゆっくり触れ歩く夜鳴きそば、ひとびとの足もとをうろつく白い犬。その町の上にも大きな月が照りわたっていた。だが富蔵の姿は見えなかった。  はずむ息を静めながら、善右衛門はゆっくりと歩いて富蔵をさがした。見つからないので、今度は後もどりして左右を見直した。すると、茶屋に呼ばれた駕籠《かご》らしく、店の前に横づけして客を待っている駕籠の男たちの横に富蔵がいた。富蔵はぼんやりと芝居小屋の二階を見上げている。  肩をつつくと、富蔵はおどろいて身体をかたくした。 「ああ、びっくりしたよ、おじさん」  善右衛門は懐から金包みをつかみ出すと、黙って富蔵にわたした。 「三両だけ持ってきた。これは返さなくていいよ。それだけあれば、むこうもおまえを殺しはすまい。残りは働いて返すと言うのだ、いいな」  みるみる泣きっつらになる富蔵にうなずいて、善右衛門は背をむけた。気持がいっぺんに軽くなった。これでよかったのだと思った。  しかし結城座のそばまでもどったころには、善右衛門の胸にはやくもかすかな後悔がしのびこんできていた。女房への言いわけはともかくとして、事情を知ったら妹はやっぱり怒るだろうなと思った。結局は自分がいい顔をしたいばっかりに、誰のためにもならないことをしてしまったような気もしてくる。  ──それに……。  返さなくともいいと言ったのはまずかったかな、とも善右衛門は思った。甘い伯父さんとみくびって、富蔵はまたぞろ金を借りに現われたりしないだろうか。そこまで考えてきたとき、善右衛門は自分が、今夜突然に現われた甥の暮らしぶりを何ひとつ知らないのに気づいた。にがい気持を抱いて、善右衛門は月の明るい道をもどった。晩秋の冷えが身体を包んでくるのを感じた。 [#改ページ]   桐畑に雨のふる日  その日は居残り番で、ゆきの帰りは遅くなった。通いで働いている駿河屋という木綿問屋を出たのは五ツ(午後八時)少し前だったろう。柴井町から家がある芝口三丁目まで、間にある町二つ、それもまだひとが歩いている表通りを歩いて帰ってくるだけなのに、居残りの日はゆきは帰り道がこわくて胸が固くなってしまう。はきはきと物を言うので人には勝気と思われがちだが、ゆきはほんとのところは臆病な女だった。  だから何事もなく住んでいる長屋に帰ってきたときはほっとした。木戸を入るといつもの習慣で提灯の火を吹き消した。木戸わきの家が大家で、この好人物の大家は店子《たなこ》を上回る貧乏大家である。いつも夫婦で夜内職をしている。  その灯明かりをたよりに歩き出したとき、ゆきはいったん静まった心ノ臓がぴくりとはねるのを感じた。一人暮らしの自分の家に灯がともっている。誰がきているのだろうと思う間もなく、ゆきは家の中にいるのが父親だと確信した。父親の由松が行方不明になってから九年たったが、ゆきは父親はいつか必ず帰ってくるだろうと思っていた。それもきっとこんなふうに突然に。  父親は大工だった。棟梁ではなかったが、年季奉公もワタリの修業も済ませた腕のいい大工で、ゆきが物ごころついたころには奉公した親方の右腕として働いていた。その父親が突然に失踪するにいたったわけというものを、ゆきはいまだに十分に納得できないでいるのだが、父親はどういう事情があってか、あるとき建て主からもらって親方にわたすべき手間賃を、そっくり猫ババして行方をくらましたのである。そのことは棟梁の家からひとがきてはっきりした。ただ大金ではなかったので、棟梁は話を内内で済ませ、外に訴え出るようなことはしなかった。  失踪する由松を見送った日のことを、ゆきははっきりとおぼえている。父親は家の者には親方の用で甲府まで行くと言っていた。父親は朝早く家を出るつもりだったようだが、じっさいには夕刻になった。ゆきの母親が風邪をこじらせて高い熱を出していたからである。母親は身体が弱かった。由松は医者から薬をもらってきてのませたり、濡れ手ぬぐいで額をひやしたりして甲斐甲斐しく女房を看病したが、七ツ(午後四時)の鐘の音を聞くとたまりかねたようにゆきに言った。 「あとをたのんだぞ。どうしても今日のうちに旅立たねばならねえのだ」 「送って行く」  とゆきは言った。  一家はそのころ芝口南の備前町に、狭いながらも表店を借りて住んでいた。隣の種物屋と懇意にしていたので、そこの女房にあとをたのんで、ゆきと旅支度をととのえた父親は家を出た。  外は夜明けに降り出した小雨がまだ降りつづいていて、町は梅雨どきのようにうす暗かった。家を出るとすぐに、由松は何ごとかに深くこころを奪われたような顔つきになった。その顔でひとことも口をきかずにひたすらに道をいそぐので、ゆきはときどき小走りに走って父親に追いつかねばならなかった。 「ここでいい」  ひょっとしたら自分がついてきているのを忘れたのじゃないだろうかと、ゆきが心配になりはじめたころに、由松はようやく立ちどまってそう言った。二人は葵坂をのぼって溜池が見える場所に出ていた。 「おっかあをたのむぞ、いいな」  由松はそう言うと急に膝を折ってしゃがみ、ゆきを胸にひきよせて抱いた。不自然なほどに長い間そうしていたのを、ゆきはおぼえている。父親の身体は強く煙草の匂いがした。  ゆきは十歳だった。少し気はずかしい思いで父親に抱かれながら、ゆきは胸の中にさっきまでは影もみえなかった得体の知れない不安がひろがるのを感じていた。  池の上手に町ができるまで、そのあたり一帯はいちめんの桐畑だったという。いまは畑と呼ぶほどのものはなくなったが、むかしの痕跡はまだ残っていて、町とその先にのびている道から池の水ぎわにかけて、ややまばらながら桐の林がつづいている。桐の木は直立する紫色の花をつけて雨に濡れていた。  由松の姿は、一度は馬場の先にある武家屋敷とその先につづく町に隠れたが、やがて町はずれの道にもう一度現われた。桐林のむこうを横切る小高い道を、由松は背を曲げて遠ざかって行った。由松の前後にも傘をさした数人の通行人が見えたが、合羽を着て大きな笠を傾けた父親の姿は、遠目にもすぐ見わけられた。  ──あんなにいそいで、どこに行くのだろう。  ふと、ゆきはそう思った。正体がわからずますます大きくなる不安とかすかなかなしみを胸にかかえて、ゆきは立っていた。父親は一度も振りむかなかった。やがてうす暗い雨の中に消えて行った。それから九年がたったのである。  ゆきは足音をしのばせて土間に入った。すると突きあたりの障子の陰からいびきの音が聞こえた。家の中で男のいびきを聞くのは何年ぶりだろう。  ──おとっつあんだ。  遠くから帰って、くたびれて寝ているのだとゆきは思った。幸福感がゆきの胸をふくらませた。だが障子をあけたとたんに、幸福感は跡形もなくしぼんだ。長火鉢のそばに鼻提灯を出して若い男が眠っている。むろん父親ではなかった。 「豊《とよ》ちゃん、起きなさいよ」  そばに膝をつくと、ゆきは邪険に男の身体をゆすった。  男は豊太といい、由松の世話で同じ棟梁に奉公し、去年までに御礼奉公もワタリの修業旅も済ませた大工である。齢《とし》は二十四で、ワタリ修業に出かける前あたりから帰ったら所帯を持とうとゆきに持ちかけていた。 「お、お」  身体をゆすられて豊太は目をひらいた。けげんそうにゆきを見た。それであわててはね起きるかと思ったら、大きなあくびをしてからのっそりと身体を起こした。横着な男である。おまけにのんびりと言う。 「おれ、眠っちゃったな」 「なんで夜分になんかきたのよ」  ゆきは豊太をねめつけて、つけつけと文句を言った。半分は自分の思い違いに腹を立てていた。どうして父親が帰ってきたなどと思ったのだろう。九年もの間、生きているか死んでいるかの消息すらない父親が帰ってきたなどと、なぜ簡単に思ってしまったのだろう。 「女一人の住居なんだから、少しは考えてもらわないと。長屋の人ってけっこう口がうるさいんだからね」 「いや、明るいうちにきたんだぜ」  豊太は言って、もう一度あくびをした。 「待てどくらせどおまえさんが帰らねえから、つい眠っちまったんだ」 「あきれた」  とゆきは言った。 「で、何しにきたのよ」 「何しにとはごあいさつだな」  豊太もようやく、自分が歓迎されていないことに気づいたらしくにが笑いした。 「いや、たいしたことじゃねえ。今日の棟上げで一人で喰うにはもったいねえような鯛をもらったから半分……」  豊太はきょろきょろと身のまわりを見回している。 「はて、折りがどっかに行っちまった」 「ひょっとしたらあんたの背中にくっついているのがそれじゃないの。まあ、なんてひとだ」  ゆきは豊太をにらんだが、たまりかねてぷっと吹き出した。  豊太は固太りの身体の大きい若者である。丸顔の男ぶりもわるくなく、大工の腕はかなりのものだと聞いている。だが葛西の百姓家の末子とかで、そのせいか万事やることがのっそりしている。生まれも育ちも芝のゆきには、豊太のやることなすことがかったるくて仕方がない。  ゆきは笑いをひっこめた。油断をすると豊太はすぐに所帯を持とうと迫ってくるから甘い顔は見せられない。豊太の背中からつぶれた折り箱をはがしてあけてみた。なるほど一人ではたべ切れないほどの大きな鯛が、きれいに焼き上がって入っている。 「はい、はい。じゃ半分いただきますからね。そうしたらすぐに帰ってちょうだいよ。木戸がしまったらみっともないから」  おしまいの方を切り口上で言うと、台所で鯛を分けにかかった。すると豊太が何か言った。ゆきは包丁の手をやすめた。 「え? いま何か言った」 「いい加減に所帯を持とうぜと言ったんだ」  と豊太が決まり文句をとなえた。 「そうすりゃ、鯛を切る手間もはぶける」 「まだその気はないって、こないだも言ったばかりじゃないか」 「そういうけど、おめえだって来年は二十だぜ」 「よけいなお世話よ」  豊太がきらいではない。子供のころから備前町の家に出入りしていたから、気ごころも知れている。母親が死んだとき、そしてそのあと備前町からいまの裏長屋に引越したときは、ずいぶん豊太の世話になった。このひとがいなかったらどうなったろう。  だがゆきの胸の中には、どことなく片づかない気持がひとつ隠れていた。嫁に行く前に、せめて父親の生死ぐらいはたしかめたいと思うのだ。だがどうしたらそれができるかもわからず、胸の中の落ちつかない気分は痼《しこ》ったままだった。  それにもうひとつ正直なことを言えば、ゆきにはまだ、一緒になるならぜひとも豊太でなければというほどの気持がなかった。ゆきのまわりには、豊太よりもっと気のきいたせりふを言えて姿もいい若者たちがいて、彼らは豊太のように生まじめで頼り甲斐があるようには見えないとしても、気があるそぶりをして若いゆきのこころをくすぐったりするのがうまかった。  ゆきは半分にわけた鯛の包みを豊太にわたした。 「さあ、帰って。いつまでも二人でいると長屋のひとに怪しまれるから」 「何をこわがってるんだい」 「世間よ」  とゆきは言った。 「一人暮らしの女は、世間に憎まれたら生きちゃ行けないんだから」  鯛の包みを持って、豊太はのっそりと立ち上がった。そして土間に降りてからふと思い出した口ぶりで言った。 「そう、そう、さっき八丁堀の親方がきたぜ」 「あら」  とゆきは言った。  八丁堀というのは父親の由松の兄弟子で、運よく株を買うことができていまは棟梁と呼ばれている富五郎のことである。住居が本八丁堀そばの松屋町にある。母親の葬式を出すときには、富五郎が万事采配をふってくれた。 「なにか、おめえに話したいことがあったようだぜ」 「いやだ、あんたが家にいるのを見られたんだ」  とゆきは言った。かっとなった。 「八丁堀のおじさんに、きっとだらしない女だと思われたわ」  ゆきの見幕に、豊太も長居は無用と思ったらしく、めずらしく機敏に外の闇に姿を消した。  翌日はゆきは早番だった。勤め先の駿河屋は、通いをいれると十人を越える奉公人がいる店だが、春先に長年勤めた台所女中がやめると、後に残った住みこみは十三と十五の若い二人だけになった。  それをゆきと、もう一人近所からくるまさという所帯持ちが、早出、居残りをくりかえして補っている店だから、休むということができない。ゆきちゃん、あんたは家にもどっても待つ人はおらへんのやから、住みこみで働いてくれてもええやないかと、上方弁の店のおかみに言われるが、ゆきにはいつかは父親が帰ってくるだろうという思いこみがある。  以前に住んだ町の種物屋には、父親がもどってきたらいまの住居をおしえてくれるように、くれぐれもたのんであるから、帰ってくれば父親はまっすぐに三丁目の長屋をたずねてくるだろう。そのときは狭かろうが古かろうが、父親がゆっくり休める家が必要なのだと思っていた。  だがこの日は、一日中仕事に追われて夕方の早引けどきが近づくと、ゆきの気持は落ちつきなくさわいだ。八丁堀の棟梁の話とは何だろうという疑問がくりかえしくりかえし胸にわき、そして最後にはおとっつあんのことに違いない、ほかに富五郎おじさんがあたしにどんな話があるわけもないという確信が胸に居坐った。  富五郎はまた日を改めてくる、と言ったそうだが、とてもそれを待ってはいられない。そう思いながらゆきは駿河屋を出ると、そのまままだあかるい町を八丁堀にむかった。  富五郎はいなかった。富五郎の女房はゆきに笑顔をみせて、おやゆきちゃんひさしぶりだね、ずいぶんきれいな娘さんになったじゃないかと言い、親方はまだ帰っていないが、家に上がって待ったらどうか、それともいそぐ用なら今日の仕事場はこの家のすぐそばだから、そっちに行ってみるかと言った。  ゆきは道を教えてもらって富五郎の仕事場にむかった。女房の笑顔の中に、世をしくじった亭主のおとうと弟子に対する憐愍《れんびん》、それとは逆に首尾よく棟梁株を手に入れたわが亭主の甲斐性をほこる色があることに気づいたからである。むかしは家がらみで親しくしたひとのそういう態度はゆきにつらい思いをさせたが、女房は自分では気づかなかったかも知れない。  仕事場は近かった。なんのことはなく、さっき通り過ぎてきた松村町の奥の方で、富五郎は家普請の指図をしていた。ゆきを見ると、富五郎はちょっとむこうへ行くかといって仕事場を出た。表に出ると、そこはまだ人がいっぱい歩いていた。富五郎は通行人の間を横切って、堀にかかる紀伊国橋まで行くと、そこでゆきを振りむいた。 「用ができてな、上方に行ってきたんだ。もどってきたばかりだ」  と富五郎はいった。  富五郎は小柄で、日焼けした顔にきれいな白髪が似合う男である。齢は五十近くになったはずだが、目は鋭く、身体はまだまだ機敏そうだった。 「上方はな、若えころにおめえのおとっつあんと一緒にワタリの修業に行った土地だ。こころあたりがあったから、少し行方をさがしてみた」  富五郎は口べたで、ところどころ話を端折るが、言っていることはむろんわかる。父親をさがしたのだ。ゆきは突然に息ぐるしく胸がとどろくのを感じた。  富五郎はそこで言葉をさがすように口をつぐんだが、すぐにあきらめたように言った。 「おとっつあんに会ってきたよ。大坂だ。女と暮らしていた。その女が、おれも知っていたひとなのだ」 「大坂のひとですか」 「いや」  富五郎は首を振った。つらそうな顔をして、ゆきから目をそらした。胸のとどろきが急におさまり、橋の下の三十間堀から汐の香が強く立ちのぼってくるのをゆきは感じた。 「神明前に小料理屋があってな、女はそこで働いていた。いまは子供が二人いる。おやじのことはもうあきらめな」  死んだかみさんとゆきちゃんのことを話したら泣いていたが、江戸に帰る気はねえそうだと富五郎はつけくわえたが、ゆきは半分ほどしか聞いていなかった。  旅に出る日、母を看病しながらそわそわと落ちつかなかった父親のことが思い出された。あれは父親が妻子を捨てて駆け落ちする姿だったのだとゆきは思った。 「このことは女房にも話さなかった。おめえさんのほかは誰にも話すつもりはねえから、安心しな」 「おじさん、ありがとう」  ゆきは深々と頭をさげると、富五郎に背をむけて橋をおりた。うしろで富五郎の声がした。 「豊太と一緒になるのか。あれは腕もよくて信用できる男だ。そのつもりならおれがめんどうみるよ」 「いいえ」  ゆきは橋袂から富五郎を振りむいて、笑顔をみせた。 「豊太さんが勝手にそう言っているだけなんです。あたしはまだ、当分一人でいます」  家に帰ると、ゆきは飯の支度もせずにじっと考えに沈んだ。天涯孤独という言葉がうかんできた。  駿河屋で住みこみで働いている十三の少女は、駿河屋の主人の遠い身よりで、みなしごだという。はるという名前である。はるは天涯孤独の子うやから、うちでちゃんとしつけて嫁にやらな思うてますのや、と駿河屋のおかみがときどき言う。  これまで一度も感じたことのない、天地の涯にきたようなさびしい気持に身体をつつまれて、ゆきは声を立てて泣いた。泣きやむと風呂敷包みをひとつつくって行燈の灯を吹き消し、外に出た。季節は梅雨に入ったはずだが、雨はいっこうに降る気配がない。町はうす暗く、頭の上に禍禍《まがまが》しいほどに赤い色をした雲を残しながら夜になるところだった。  豊太が住んでいる長屋に行くと、豊太は膝をそろえて飯を喰っているところだった。風呂敷包みを背負ったゆきを見ると、豊太は黙って箸をおいた。 「どういう風の吹き回しかな」  豊太はつぶやいた。 「まさか、嫁さんが乗りこんできたということはねえよなあ」 「さっき、八丁堀のおじさんのところに行ってきた。おとっつあんが大坂で見つかったんだって」  ゆきは風呂敷包みをおろすと、膳をわきにどけた。豊太の前に膝がくっつくほどに近く坐った。 「かみさんがいて、子供も二人いるんだって。あたしたち、おとっつあんに捨てられたのよ」 「へーえ」  豊太はけげんそうにゆきを見た。 「でもまあ、無事でいてよかったじゃないか」 「バカ、バカ、バカ」  とゆきは言った。両手のこぶしをかためて、豊太の胸をつづけざまに打った。 「男なんかみんなバカなんだから。男なんかみんな死んじゃえばいいんだ」 「まあ、そう言えばそんなもんだろうが……」  ゆきに胸を叩くままにさせながら、豊太は言った。 「でも、男がみんな死んだら、女だって困りゃしねえかい」  ゆきは身をそらして豊太を見た。それから小さく頭をさげて言った。 「あたしをお嫁にしてください。いいかみさんになるから」 「よしきた」  と豊太は言った。こわごわした手つきで、ゆきの手をとった。 「ゆきちゃんを大事にするぜ。おれは妻子を捨てたりはしねえ」  と豊太は言った。ゆきが身体を傾けて行くと、豊太はやっとゆきの背中に手を回したが、突然におとずれた幸運を信じかねているとでもいうふうに、こわれものにでもさわるようにそっと抱えている。そしてまだうわごとを言うように、一生懸命はたらいてあんたをしあわせにするぜとか、金をためていずれ備前町の家のような表店を借りるのだなどと言っている。  広くて厚い胸に額をつけながら、ゆきはあたしが嫁になるのはこのひとしかいなかったのだ、それなのにどうしてあんなにふわふわと浮ついた気持に取り憑かれていたのだろうと思った。 「ごめんね」  顔を上げて、ゆきはそう言った。豊太にその意味がわかるはずはなかったが、わからなくてもいいとゆきは思った。  長い間胸の中に痼っていたものが消えて、気持がさっぱりしているのを感じた。かわりに胸を満たしてきた幸福感につきうごかされて、ゆきは自分から豊太の胸にひしとしがみついた。豊太もようやく自信がわいてきたらしい。口をつぐむと太い腕で力強くゆきを抱いた。 [#改ページ]   品川洲崎の男 「おや」  みちは白粉《おしろい》をえらんでいた手をやすめて、たったいま小間物屋の前を通りすぎて行った男を見送った。  男は以前に、といってもそんなにむかしのことではない、みちとわけのあった人物だが、半年ほど前にふと消息を絶ってそれっきりになった。その男が、神田室町の繁華な通りを歩いていた。  男は一人ではなかった。若い女と風呂敷を背負った小僧をしたがえている。長身の胸をほんの少し反らし気味にして歩く姿がりっぱで、男はみちがかねて見当をつけたように、相当のお店《たな》の主人のように見えた。みちは店の表まで出て男を見送りながら、跡をつけてみようかと思った。  跡をつけて男の素姓をつきとめてどうしようというつもりはない。みちもひとの女房、男も多分れっきとした所帯持ちのはずである。素姓が知れたから、また以前のような世に秘めたつき合いがはじまるというものではなかった。それは百も承知だが、みちの胸の中に、澄ました顔で通りを歩いている男の正体を知りたいという、やみくもな気持が動く。 「あら、まあ」  とみちはつぶやいた。  まるでみちの気持が通じたように、男が大きな店の手前で右手の細路地に曲った。そして女は男について一緒に曲って行き、小僧は構えの大きいその店の表の入口から中に入って行った。 「お客さん、白粉どうしますか。お買いになるんならはやくして下さいな」  小間物屋が外へ出てきてそう言った。番頭をおくような大きな店ではないから、多分その男が店の主人なのだろう。丸顔で色が黒く、女相手の小商いには不向きな感じがする男である。  男はみちが手にしている白粉の小袋に目を走らせた。持ち逃げされては大変だと思って店から出てきたらしい。ふん、こんな安物の白粉を誰が持ち逃げなんかするもんかねと思いながら、みちは小袋を主人の手に返した。 「ちょっと聞くけど」 「何ですか」  買わない客と見きわめたか、主人の声は急につめたくなった。 「さっき店の前を通った男のひとを見なかった?」 「へ?」 「若い女のひとと小僧を連れてた」 「そんなことを言われても、これだけのひとが歩いてんだから」  小間物屋の主人は、右に左に通り行きかうひとびとに目をやりながら言った。 「いちいち通行人に目をくばってはいられませんよ」 「でもそのひとたち、あのお店のひとじゃないかと思うんだけど」 「どの店?」  五十近くみえる主人は、無愛想な声を出した。いつまでも買うか買わないかはっきりしない客の相手をしてはいられないといった気配が露骨にみえたが、つぎの客が来て待っているわけでもないので、どれどれと言いながらみちのそばに寄ってきた。  みちは通り右側の五、六軒先に見えている大きな店を指さした。いまは店の前に、さっきはいなかった荷馬が二頭いて、店の者が二、三人馬の背から俵に詰めた荷を中にはこび入れている。 「あの店なんだけど、旦那らしい男のひとと女のひとは路地を店の横に曲って行ったし、小僧は表から店に入った。だから男と女は母屋の入口に回ったんじゃないかしらと思ったわけ」 「どんな男だったか、もう一度言って」 「そうね」  あの男のことなら肌の色まで知ってるよ、ただ所も名前も知らなかっただけだと思いながらみちは言った。 「齢《とし》は四十になったかならず、背が高くて男前のひとだった」 「女の方は?」 「こっちもなかなかの美人だったねえ。若い女と言ったけど、二十半ばにはなってるんじゃないかしら」 「そりゃああんた、あの店、徳丸屋の旦那とかみさんだよ」  と、小間物屋の主人は急に破顔一笑という顔になって、小僧が入って行った大きな店を指さすと、そう言った。 「かみさん?」  みちは鋭く問い返した。 「ずいぶん若いかみさんじゃないか」 「後添いだからね。信兵衛さんは五年ほど前にかみさんに死なれてしばらく男やもめだったんだ。いまのかみさんは半年前にもらったんだよ」  小間物屋は急に饒舌になった。 「徳丸屋は大身代だからね。その上に信兵衛さんがあのとおりの風采のいい男ときている。若い女だって美人だって、いくらでも後添いにきますよ、そりゃ」  男の声には強い羨望のひびきがまじった。 「うちの女房なんか、いっそ死んでくれないもんかと思うようなひどい女だけどね。こういうのに限って丈夫で、多分亭主より長生きするね。でもそんな女房でも、死なれたらあたしらなんかにはおいそれと後添いなんかきませんよ。若くて美人なんてどこの世界の話かと思うようなもんだが、徳丸屋さんはそういうかみさんをもらったね。大したもんだ」 「何を商ってるお店なの?」 「看板にでっかく出てるじゃないか」  小間物屋の主人にそう言われたが、みちは無筆で看板の字ものれんの字も読めない。みちはあたしゃ目がわるくて読めないからと言った。  するとそれと察したらしい小間物屋が、うす笑いしながら読み上げた。 「諸国乾物卸、徳丸屋と書いてあるね。このあたりは乾物屋が多いんだ。徳丸屋さんはその中で三本指に入る大店でね、商売敵がおなじならびでその先十軒ほどのところにある相模屋。扱う品が似たようなものだから競り合っている。あの二軒は、奉公人まで仲がわるいそうだよ」  乾物というのはね、あんた、知ってるかも知れないが干物《ひもの》のことだよ。椎茸、干瓢から煮干、鰹節。干物を使わない家はありゃしない。それに諸国の名産というのがあってね、松前、秋田、越前越後の乾鮭《からざけ》、越前の干鰺、出雲、加賀の干鱈、駿河の干海老、播磨の干蛸などというものもある、と小間物屋は学のあるところをひけらかした。  しかしそこで主人は、ようやく本業の商いを思い出したらしく、手の中の小袋をかざして振った。 「白粉どうするんですか。買わないんですか。安くて上物の白粉だよ」 「またにしとくわ」  とみちは言った。  みちは小間物屋の主人の呪い言葉を背に聞き流して、室町一丁目と二丁目の角を左に曲った。本小田原町から伊勢町の米河岸に出る道だが、魚河岸の北側になるので、河岸の喧騒がかすかに聞こえる。  みちは米河岸を足ばやに南に歩いて荒布《あらめ》橋をわたり、小船町で日本橋川の河岸に出た。  ──へえー、おどろいたね。  とみちは、胸の中で何度めかのつぶやきをくりかえした。少し興奮していた。だがそのつぶやきの中に、ただおどろいたおどろいたでは済まされないものがまじっているのも感じている。  お互いに所も名前も明かさない。それもおもしろいじゃありませんか。男はそう言って闊達に笑い、ひとの女房であるみちをおもちゃにした。そしてみちもまたそれを承知で、女をよろこばせるすべに長《た》けている男のあつかいに陶酔したのだ。それはそれで何の不満があるわけではない。夢だとすれば、これほど甘美な夢もなかったろう。  その男は半年前にふっつりと消息を絶ったけれども、みちは男が消えたことをそれほど残念がったわけではなかった。いつかはそういう日がくるだろうと思っていたし、それに一見お店の旦那ふうで、風采もりっぱな男といっても、相手はどこの馬の骨とも知れない人間である。世の中は広いから、風采のいい女たらしの詐欺師だっているだろう。そんなのにひっかかったらたまったもんじゃない。いい潮時じゃないか、とみちは思ったのだ。  しかし今日、色の黒い小間物屋に聞いた話によれば、男は半年前に、若くてぴちぴちした美人の後添いをもらい、時を同じくして弊履《へいり》のようにみちを捨てたことになる。つまり乗り換えて、はいさよならというわけだ。気に喰わない。  ──そりゃ聞こえませぬ、信兵衛さん。  永代橋を東にわたりながら、みちはこっそりとつぶやいた。口の中で言ったはずだったが、声になって洩れたらしく、すれ違った女がじろりとみちを見て通り過ぎた。  小間物屋の主人と話している間に石町《こくちよう》の鐘の音を聞いた気がするから、時刻は午《ひる》をかなり回ったはずである。そのせいか、橋の上の人影は疎《まば》らだった。  朝は寒さがきびしかったが、一片の雲もなく晴れわたったせいで、いまは空気があたたまり首のあたりがかすかに汗ばむほどだった。小春日和とはこういう日のことだろうとみちは思いながら歩いている。ただし十二月の日は懸命に燃えているものの、地上にとどく日差しには、一点のつめたさがふくまれていた。  風がないので、橋の下を流れる大川の水は、上流も下流も空のいろを映して真青に染まって、ゆたゆたと揺れていた。下流の、川水が海とまじわるあたりに白い日が映って、そこだけきらきらと水がかがやいているが、かがやいている部分はやがてどんどん上流に移ってくるだろう。河口の方から現われた舟が三艘、青い水を蹴ちらすように川を遡ってきて、橋の下をくぐって行った。  みちは陽気な女である。胸がおさまらないものがあることはあるが、そんなに深刻に男の不実にこだわっているのではなかった。長い橋をわたり切るころには、気持は腹をすかして待っているだろう亭主の富蔵のほうに移っていた。  富蔵は錺《かざ》り職人である。女房に死なれた独り者で子供もいない、錺り職の腕はよくて、ほれ、この通りだと言って縁組み話を持ってきてくれた男が見せた、富蔵がつくったという簪《かんざし》にみちは惚れこんだ。みちは門前仲町の料理茶屋松葉屋に十何年から先も勤めているうちに、うかうかと二十半ばを過ぎてしまって、富蔵との縁談が持ちこまれたときは三十を目前にしていた。  ろくに相手をたしかめもしないで承諾した。みちの方は初婚だが、どういうわけかこれまであった縁談はひとつもみのらず、みちは料理屋勤めに厭《あ》いていた。このへんで奉公を切り上げてひとの女房におさまるのもいいんじゃないのと、そのときはいやに気をせかされておねがいしますと言ってしまったのだ。  だが嫁にきてみると、家が永代橋からさほど遠からぬ小松町の長屋にあるのは聞いていたことだからよいとして、その家は目の前に武家屋敷の高い塀と木立があって、ろくに日も差さない。そして肝心の聟どのは、胡瓜のようにあごがしゃくれて顔いろが青白い男だった。女房に死なれてからろくなものを喰っていなかったとみえて、極端に痩せている。おまけに目を上げてみちを見ることも出来ず、おどおどと下うつむいている。借り物とひと目でわかる羽織がぶかぶかと大きすぎるのが、いかにもわびしかった。それが初対面だった。  みちは少少がっかりしたが、すぐに気を取り直した。  ──ま、ええわ。  うまい物をつくってたくさん喰わせて、ひげも毎朝あたしが剃ってやろう。頬とあごに剃り残しの長い不精ひげが四、五本そよいでいるのを見ながらそう思った。そうしたらそのうちには少しは見栄えのする亭主になるだろう。  だが一緒に暮らしはじめてみ月も過ぎるころから、みちの目論見《もくろみ》を打ち砕くようなことがつぎつぎと出てきた。ひとつは富蔵がいまは簪も指の輪(指輪)もつくっていないことであった。毎日金床の上で木槌で叩きのばしている板金は、かなり大きいものである。もちろんそういう品物も、仕上げのときは鑿《のみ》とやすりでこまかい仕事をするが、出来上がった金物はやはり大きい。  みちはあまりに不思議で、それは何かと聞いた。 「仏壇の金具だよ」 「仏壇? 簪なんかはつくらないの?」 「若いころはこさえたけど、目をわるくしていまはこまかい仕事はやってないんだ」  富蔵は、ぼそぼそと弁解口調で言った。みちは内心憤然とした。仲人口に乗せられたと思ったのだ。だが顔いろには出さずに、もったいないねえ、折角いい腕を持っているのにと言った。  すると富蔵が意外なことを言った。 「そのうち、ひまが出来たら簪をつくってやるよ」 「あたしに?」 「うん」 「うれしい」  だがそのひまはたっぷりあるのに、富蔵が簪をつくってくれる気配はなかった。追い追いわかってきたことだが、富蔵は売れない錺り職人だった。得意先やむかしの親方筋が仕事を持ってくることはめったになく、大ていは自分が注文取りに出かけて行くのだが、それも手ぶらで帰ることが多かった。当然収入は少なくて、たびたび暮らしの金につまった。  だがみちはべつにあわてなかった。亭主には打ち明けていないが、松葉屋で働いている間にためた金がある。ひとが聞いたらびっくりするほどの金額だった。  じつを言うと、みちは富蔵を弟子の一人くらいはいる職人だと思っていたので、亭主に長屋から表店に出たい気持があるのなら、そのときは持っている金を使ってもいいと思っていたのだ。その気持は、富蔵が腕も大したことはない、世わたり下手の職人とわかっても変らなかった。表店に引越して、富蔵より腕のいい職人を一人頼めば済むことだ。  そのぐらいの夢は見ても、罰はあたるまいとみちは思っていた。それで暮らしの金に不自由するようだったら、また働きに出てもかまわない。働くのを厭《いと》う気持は少しもなかった。わが家のためと思えば今度は張りあいがあるようなものだ、とみちは思う。  松葉屋は女中のしつけがきびしかったので、みちは水商売上がりには見えない。おまけにはじめて広い世間に出て、顔いろも動作もいきいきしている。 「あんたは、富さんには過ぎた女房だ。よく面倒みてやってるじゃないか」 「でもさ、こんなぴちぴちした美人が後添いじゃ、あたしゃ心配だよ」  そう言ったのは長屋で一番の不器量で知られる、左官の女房だった。 「ウチのばか亭主が、よしおれもひとつなんてその気を起こしかねないからね」  女房たちはどっと笑った。長屋の女たちは、こんなあけすけな言い方でみちを自分たちの仲間と認めてくれたが、だからといってみちは、ろくに日も差さず、羽目板どころか、うっかりすると畳の上を蛞蝓《なめくじ》が這い回っているような長屋で一生を終るつもりはなかった。  ──いつかは……。  日の差す表店に出るのだ、と思っていた。あたたかい日が差す店の前を、絶えず身ぎれいに装った人たちが行き来し、遠くからのどかな物売の声が近づいてくるようなにぎやかな表通り。店構えは小さくとも、そこに店を借りて錺り師の看板を上げよう。  誰にも言わず、自分だけでそのことを考えていると、みちの胸は小さくときめく。ひとは誰でも、前途にたとえ小さくともあたたかく光るものを見つめていないと、当面の鬱屈に堪えられない。光るものはうまいものを喰うことでも、いい着物を着ることでもいいが、みちの場合は表店に引越すことである。そののぞみは微動もせず、みちは想像するだけでたのしくなる。  だがみちのそういううきうきした心づもりを一撃で打ちくだくようなことがあった。ある日みちが買物をして帰ると、家の中が線香くさかった。おや、と思ったが、みちはそんなに気にしたわけではない。仏壇というものもない家なので部屋の隅に底を上にした箱をおき、その上に先妻の位牌が飾ってある。みちは几帳面に月命日、ふつう立ち日という日は、水とご飯のほかに線香と草花などをそなえておがんでいる。線香の匂いに違和感は持たなかった。  だが今日は月命日でも、ましてや祥月命日でもない。 「どうしたの?」  何気なく声をかけて家の中に入ると、亭主が位牌の前で線香の香を散らそうと大わらわで手を振り回している。それはいいとして、みちを見た目が真赤で、おまけに頬には泣いた跡が歴然と残っているではないか。  みちはかっとした。みちの留守をさいわいに、亭主が亡妻の思い出にどっぷりとひたって泣いていたことはひと目みただけであきらかだった。おまけに線香までともして。  泣いたのがわるいというのではなかった。数数の古い思い出の中には、思い出して思わず泣けてくるような事柄だってあるだろう。それを責めたってしようがない。責めるつもりもない。ただそれを女房の留守に、こそこそとやるとは何事だと思うのだ。 「何やってんのさ、みっともない」  富蔵は両掌を腿の間に突っこんでうなだれている。 「そんなに死んだかみさんが恋しいのなら、いっそ会いに行ったらどうなの。男らしくもないね、まったく」  みちはこれまで亭主に悪態をついたことなどないのに、このときばかりは大声を出した。怒っているうちに、こういうことが二度、三度とあったことに気づいたせいもある。外から帰ってくると、亭主が入口の戸をあけてばたばたと団扇《うちわ》を使っていたことがあったのだ。暑い時期だから気づかなかった。うかつだった。 「どこへ行くんだい」  みちが部屋の隅の葛籠《つづら》をあけて着換えをはじめると、富蔵が顔を上げて言った。さっきまでの悄然とした顔いろは消えて、いまは不安そうな表情に変っている。 「どこだっていいでしょ。あたしがいない間に、また先《せん》のかみさんとしんみりと話でもしてたら」 「出て行くのか」  みちは返事をしなかった。実際どうしようかと迷っていた。この家に未練はないとも思った。富蔵は戸の外まで追っかけてきた。 「飯をどうすんだ」 「知らないよ」  とみちは言った。振り返りもせずに木戸を出た。  あの男、いまは神田室町の乾物問屋徳丸屋信兵衛と、素姓も名前もわかった男と出会ったのは、富蔵との間にそんなことがあった当日のことだった。  東海道品川宿はつぎの川崎宿にむかって北の方から歩行《かち》新宿、北品川、品川にかかる橋をわたって南品川という順序でつづいている。そして南品川に入るとすぐ、一丁目から左に、ということは品川の河口に沿って海ぎわにということになるが、そこに出島がある。品川の洲崎と呼ばれる場所がここで、品川の流れはこの洲崎と北品川の間を通って海に出る。  洲崎は猟師《りようし》町と呼ばれて、四、五十軒の漁師の家がある。歩行新宿、品川北本宿、品川南本宿の旅籠あわせて百軒弱、内実は遊女である飯盛り女五百人、ほかに芸妓置屋、引手茶屋でにぎわう東海道への出口、江戸の入口である品川宿のにぎわいにくらべると、猟師町は宿のにぎわいから取り残されたような閑寂な場所である。  その猟師町の西側、蛇行して急に北に曲る品川に沿ったところに、寄木大明神というあまりぱっとしない神社名ながら、多少人に知られた社《やしろ》がある。大むかし日本武尊《やまとたけるのみこと》が妃の弟橘媛《おとたちばなひめ》をともなって海上をわたっていたときにはげしい嵐に巻きこまれて、船が難破寸前という状態に陥ったとき、媛がみずから身を海に投じて海神の怒りを鎮めた。そのときに破損した船板の一部がこの浦に漂着したので、浦のひとびとが媛を憐れんでその霊を祀ったのが寄木大明神であるという言い伝えがあった。  この洲崎を別名|兜《かぶと》島と呼ぶこともあるのは、さきの言い伝えを聞いた源義家が奥羽の戦乱を鎮めて帰る途中、寄木大明神に立ち寄って兜を奉納したからだと言われる。  みちが信兵衛と出会ったのは、この明神さまの境内をぶらついていたときだった。深川小松町に家がある女房が、何でこんな辺鄙な場所をうろついているかといえば、ここ南品川には叔父夫婦の家があり、ついでに言うとみちは赤ん坊のときに両親をはやり病いで失い、叔父夫婦に育てられたのである。  みちは十二の齢に、世話をするひとがいて深川門前仲町の松葉屋に奉公に上がった。叔父は寿司桶、手桶、小桶などをつくる小物桶屋で、場所柄もあって注文はそこそこにあったがなにしろ子供が多かった。十二のみちを頭に四人の子供がいるのに、叔母のせいははやくも五人目の子供を腹に抱いていた。働いても働いても貧乏と縁が切れない。 「十二のおまえを奉公に出したくはないけれども、ほら、叔父さんも暮らしが大変だから。わかってくれるね」  松葉屋のひとたちに、ひれ伏さんばかりにおじぎをくりかえして門まで出ると、叔母は送ってきたみちにそう言った。  血のつながる叔父よりも、他人の叔母の方が情が濃く、あんまり辛いときはいつでも帰っておいでとつけ加えたときには叔母はみるみる泣き顔になってぽろぽろと涙をこぼした。下うつむいて、重い足どりで馬場通りを遠ざかる小柄な叔母を見送って、自分も門の陰にかくれて泣いたことをみちは忘れない。  よろこぶことがあるにつけ、悲しいことがあるにつけ、みちは深川からはいささか遠い場所にある叔父の家にきた。そして胸にあることを話してしまうと気持が晴ればれとするのだった。だから今日も叔母にひと通り亭主の悪口を聞いてもらい、遅い昼飯を馳走になったあとは、いつもするように一分銀二つの小遣いを叔母にわたして帰途についたのだが、いったん重く塞いだ胸はいつものようには晴れなかった。そこで、子供のころによく友だちと遊んだ寄木大明神の境内にきて、丈高い松や榎の葉が茂る場所を歩き回っていたのである。  品川の対岸にある品川北本宿は、夜になれば煌煌と灯がともり、三味線や歌舞の音が灯が映る川面をわたって聞こえてくるのだが、いまは横町のあたりにいそがしげに立ち働くひとの姿は見えるものの、まだ静かだった。  季節は初夏というにはまだ少し早い春の終りごろで、榎、欅《けやき》、えごのきなどの新葉にまじって、桜が一本遅い花を咲かせている。あたたかい日差しが、松や榎の枝葉の間から地面を斑に染め、時おり漁師の家の間から江戸湾内の遠い波音が聞こえてくる。そういう静かなたたずまいに心を惹かれてか、境内にはゆっくりと動き回っている数人の人影が見えた。  ──そろそろ帰ろうか。  とみちは思い、足を洲崎の出口の方にむけた。亭主の富蔵に対しては、まだ腹に据えかねるものがあるが、帰る家といえばやはり深川小松町の、蛞蝓が這い回っているあの長屋しかない。みちはそのことをかすかにいまいましく思った。  そのとき数歩先を歩いていた男が、物を落としたのを見た。うしろに小僧らしい風呂敷包みを背負った子供がついているのに、その子はあち見こち見、顔はあさっての方を向いているので気づかない様子である。 「もし」  とみちは背の高い男に声をかけた。拾い上げた物は、袂落としと呼ばれる煙草入れである。それも革細工で、留金も銀のりっぱなものだった。 「これが落ちましたけど」  近寄りながらみちが手に掲げた物を見て、男は懐をさぐり、つぎに狼狽した様子でいそいでもどってきた。これはこれはと男は言った。 「大事の品を無くすところでした。ありがとう存じました」  男は引きしまった風貌に似げないやわらかい口調でそう言い、何度も頭を下げて煙草入れを受けとった。  齢はまだ四十にはなっていないだろう。目にも艶のいい顔いろにも、男盛りの自信がおのずとにじみ出ているような中年男だったが、口の利きかたから推して商人だろう、それもかなりの店の主人か、とみちは見当をつけた。長い間大きな料理茶屋に奉公したので、みちはこのたぐいの人物鑑定には自信があって、めったに間違わない。  礼を言って背をむけた男は、かなり先に行ってから何を思ったかまた遅れて歩いているみちの前に引き返してきた。 「失礼ですが、おいそぎですか」 「いいえ。ごらんのとおりひまつぶしをしていたところです」 「それならば……」  お礼というほどのことでもないが、そのあたりで茶を一服さし上げたいが、いかがでしょうと、男は自分の申し出のためにみちが鳥が飛び立つように逃げ去るのを懸念するような、おそるおそるといった感じの口ぶりで言った。  みちは承知した。どうせすぐには家にはもどりたくない気分でいたところである。見知らぬ男とお茶を飲んで少少の刻《とき》をつぶすのも一興だろうと思ったのである。こういうところに、もと料理茶屋の座敷女中の地が出る。男はこわくない。  ──それに、べつに怪しげな男でもなさそうだし。  そう思いながら、みちは男のうしろについて品川の流れにかかる中の橋をわたって品川北本宿にわたった。橋を降りると男はすぐに右側の横町に曲った。北本宿一丁目と二丁目の境にある道で、以前この横町に宿の本陣があったので、陣屋横町という通称で呼ばれる通りである。  男が案内したのは、言った通りの茶屋だった。ただしただの水茶屋ではなく、奥には男と女が差しむかいで酒を飲む部屋がある。それだけでなく飲んだあとで男と女は何かたのしいことをするのだという。土地っ子であるみちは、友だちの女の子たちと一緒に、男の子が聞かせるそういう話を聞いて顔を赤らめ、顔を見合わせてくすくす笑ったものだった。たのしいことの中身はわからなかったが、何かしら罪の匂いがする、そしてそれにもかかわらず気持がいいものであるらしいことは漠然と予想出来たのである。  だがみちを茶屋に誘った男は、たのしいことをする気などはなさそうだった。熱い茶と上等の蕎麦《そば》まんじゅうでみちをもてなした。二階の部屋からは洲崎越しに海が見え、時おり日にあたためられた海風が入ってくる。 「これをちょっとごらんください」  男はさっきみちが拾ってやった煙草入れをわたして、小さな二つの留金を指さした。双方の身体が近づいたので、みちは突然に男くさい匂いに包まれた。 「鯉ですよ。おわかりですか」  みちは目を凝らした。爪の先ほどの銀の留金に、手彫りで躍動する鯉が彫ってある。しかも鯉はひとつの留金に一尾ずつ、尾をはね上げた形に彫ってあるので、二つの留金で二尾の鯉がむき合うようになっている。見事な細工だった。 「ごりっぱな細工ですこと」  みちがおっとりした口調で言うと、男は満足そうにうなずいた。 「亡くなった祖父の形見でしてね。無くしてはならない品なのです。本当は一席設けてお礼を言わなきゃならないところです」  男の口調はあくまで丁寧だった。松葉屋では着物の着つけ、口の利き方のしつけがことにきびしかった。男が目の前のみちを見て、相当の商家の人妻とでも思っているらしいことはまず間違いがなかった。化の皮が剥げないうちに退散しようと、みちはお茶を馳走になった礼を言って、先に茶屋を出た。  男は引きとめなかったが、茶屋に入る前に何か言いふくめて小僧を帰したところをみると、一席設けてというのは案外本音だったかも知れない、とみちは思った。くわばら、くわばらとみちは思ったが、少し残念なような気もした。あんな地位も金もありそうで、貫禄までそなわった中年男にちやほやされる機会などめったにあるものではない。家で腹をすかして待っているだろう貧相な亭主のことを考えると、よけいにそう思われた。  ──それにしても……。  とふと思ったのは、高輪の大木戸を過ぎてからである。あのひとは自分も名乗らなければ、こっちの住みかも名前も聞かなかったねえ、不思議なひともいるものだとみちは思った。  ほんの少し気味のわるい感じもしたが、しかしあの人品骨柄で大泥棒ということもあるまいし、相手はひとの女房であるみちの立場を思いやって、聞きたいことも遠慮したということに過ぎまい。そう考えると気分はそれでさっぱりした。二度と会うことはないひとだろうから、それでいいのだとも思った。  ところがそれからふた月ほどたったころ、みちは思いがけない場所で洲崎の男と再会したのである。  その日みちは、もとの松葉屋の先輩女中で、みちより先に神田三河町に嫁入っているたねに誘い出されて、浅草の浅草寺にお参りにきていた。ひさしぶりにみちの家に遊びにきたたねは、これから浅草寺にお参りに行かないかと誘った。あまり気はすすまなかったが、ここでは話せない相談ごともあるし、厩河岸まで船を奢るからとまで言われるとことわりきれなくなって、みちは着換えて家を出た。  ところが道みちたねが話した相談ごとというのは、結局金を貸せということだった。たねの夫は下り塩の仲買い商人で、松葉屋に客できていたころは大層な羽振りだった。そのころ、齢は三十になるやならずだったろうから、商才に長《た》けたやり手だったのだろう。女中たちにわたす心づけも、目を剥くほどに多かった。だから、見込まれて仲買いのおかみにおさまったたねは、同僚たちに大いにうらやましがられたものである。  だが長次郎というたねの亭主は、二年ほど前に商いの見通しを誤り、莫大な借金をかかえることになった。みちはたねと仲がよくて、所帯を持ってからもときどき行ききしていたので、その話は聞いていたが、商いに借金はつきものである。いずれはどこからか金を工面して、最初の借金の補いをつけることになるだろうと思い、まさかいまごろになって、その話が自分にふりかかってくるとは夢にも思っていなかったのだ。  浅草寺の本堂の伽藍の前で、みちは立ちどまった。 「おたねさん、あんたあたしの家の暮らしを見たでしょ。大人二人かつかつ喰って行くのが精一杯なんだから。どこにあんたに貸す金があるのよ」 「あるじゃないのさ」  とたねはすわったような目で、みちをじっと見た。 「あんたがこっそりとお金をためていたのを、あたしが知らないとでも思ってるの。三十両? それとも五十両? ご亭主には内緒でかなり持っているはずだわ。そのお金を貸してよ。かならず返すから」 「やめて」  みちは背筋にぞっと寒けが走るのを感じながら言った。 「そんな口約束を信用すると思ってるの。あたしを甘くみないで。おねがいだから」  たねはそれでもまだ動かない目をじっとみちに据えていたが、不意に顔をそむけて言った。 「そう固いことを言われちゃしようがないわ。どれ、この先の馬道に知り合いがいるから、そっちをあたってみようかね」  あーあ、舟賃を一人前損したよ、聞こえよがしに言い捨てると、たねはみちを見向きもしないで雑踏をかきわけ、境内の外に逸れて行った。  行きかう参詣人と、観音堂裏の奥山に行く行楽の客の流れの中で、みちは小さく身体をふるわせて立っていた。恐怖と安堵の思いが身体の中を駆けめぐって、すぐには歩き出す気になれなかった。  恐怖は、もの静かで手落ちのない口を利くたね、みちが持ちかける相談ごとをいつでもおだやかに親身に聞きとり、時にはみちを意地のわるい先輩女中からかばってくれた仲よしのたねが、知らないひとを見るような目でみちを見ながら、まるでこちらの懐の中をのぞいたような口を利いたことからきていた。  ──あたしを見ていたのではない。あたしが持っている金を見ていたのだ。  とみちは思った。気味わるさはそこからきていた。蛇に見つめられたようなざわつくような感触が残っている。女は亭主次第であんなふうに変るのだろうか。それともあれがもともとのたねの本性だったのだろうか。そして、たねはほんとにあたしの金をあきらめたのだろうか。  通りすがりに誰かがぶつかって行ったので、みちは大きくよろめいた。そのとき男の声がした。 「どうしましたか、そこのご新造さん」  みちは振りむいた。横の方に品川の洲崎で出会った男が立っていた。男は今日は一人だった。みちの顔を見ると満面に笑いをうかべながら近づいてきた。 「やっぱりあんたでしたか。どうもそうじゃないかと思って、さっきから見ていたところです」  あの節はどうも、と言って男は頭を下げた。大きな安堵がみちをつつんだ。そして今度はそのために身体がふらりと揺れたが、すばやくそばにきた男が力強い腕で抱きとるようにしてみちの身体をささえた。 「これはおどろいた、顔いろが真青ですよ。ぐあいでもわるくなりましたかな。え? そうではない? 痛むところはないのですな」  男はみちの肩を半ば抱えるようにしながら言った。 「それじゃ軽いめまいでしょう。頭の血がさがるとこんなふうになることがあります。よし、よし、とりあえずそのへんでひと休みしましょうか」  ひと休みというからには、仁王門前の茶屋町のあたりでこの前のように茶でも馳走してくれるのかと思ったら、男はみちの腕を取ってどんどん先に進み、雷門を出て東仲町の町筋に入って行った。そして一軒の料理屋に上がった。部屋がいくつもある奥深い家だった。 「こういうときは軽く一杯やるのが一番の薬としたものです。そしてちょっと休めば、なに、すぐに元気になりますよ」  男は快活にいい、酒と肴をはこんできた女中が去ると、さっそくみちに盃を持たせ、酒を注いだ。みちはまだ夢のつづきを見ているような気分のままひと息に盃を干した。  奥に入れば入るほど部屋数が多い造りのせいだろう。家の中はうす暗くて、まだそんな時刻とは思えないのに、女中は部屋を出て行くときに行燈に灯をいれて行った。多分そのせいで、男と二人きりの部屋にはなまめかしい夜の気配がただよい、みちはすすめられるままに盃をあけた。そして気がついたときには、男と二人で隣の部屋に用意されていた夜具の中にいた。  二人はその日をいれて三度、東仲町奥にあるその家で密会し、四度目からは二人が最初に出会った品川北本宿の茶屋の奥で会うようにした。月に一度の約束で会った三回目の密会のあと、連れ立って料理屋を出たとき、親しげに男に声をかけた人間がいた。  ひと目で裕福な商人とわかる羽織姿の老人だったが、声をかけられた男の狼狽ぶりは見るにしのびないほどのものだった。男は先方が聞きもしないのに、みちを取引き先の内儀だと紹介し、大きな取引き話がまとまったので料理屋でもてなしていま帰るところだと、しどろもどろに弁解した。相手はうす笑いの顔で聞いていたが、表情には男の弁解を少しも信じていないいろがうかんでいた。 「同業のお偉方のじいさんだ」  男はそう言い、離れて行く老人を見送りながらさかんに汗を拭いた。そういう事件があったあと、二人は河岸を品川に移したのである。  老人に見つかったのが七月末のことで、その翌月から年末の閏月をいれて今年の二月まで、二人はそのあと八回も品川で密会をくりかえしたことになる。だが男は今年の三月末の約束の日に、突然みちに待ちぼけを喰わせ、それっきり消息を絶った。  最後まで名前も身分も名乗らなかったので、地にもぐったも同然、さがしようもなかった。もっとも女にさがす気があればの話である。みちにその気がなかったことは、前に言ったとおりである。ただし、一言のことわりもなしに鼬《いたち》の道を決めこんだ男に不信感が残ったのは否めなかった。  ──でもね……。  永代橋をわたりきったところで、みちは下うつむいてくくっと笑った。わたくし、若くてきれいなかみさんをもらうもんで、つき合いはこのへんで終いにしてくださいとは言いにくかったろうさと思った。  日が少し西に回ったせいで、長屋の狭い路地にほんの少し日が差しこんでいる。疲れた足をひきずって、みちが家の戸をあけると、金床の上に胸をかぶせて仕事をしていた富蔵が頭を上げた。 「腹へった」  と富蔵がひとこと言った。ひとの顔を見れば飯のことしか言わないんだから、とみちはまたかっとしたが、帰ってきた女房を見て子供のように喜色を露わにしている亭主を見ると、怒りはすぐにしぼんだ。  たねの家があった三河町のその場所は、板切れひとつ残さずきれいに整地されていた。表店がならぶ通りのここだけが櫛の歯が一本欠けたように、うつろに暗い。力のない初冬の日差しがその空地の一隅を照らしていた。  みちがあまりに動かないので気になったのか、隣の履物屋からひとが出てきた。六十年配の髪のうすい老人である。店の主人かも知れない。 「知り合いの家かね」  と老人が言った。 「ええ、ここのおかみさんの友だちです。それでたずねてきたのですけど」 「ああ、おたねさんの友だちか」 「この家建て替えるんですか」 「いいや」  と老人は首を振った。 「建て替えには違いないが、ここのご主人が商いに詰まって首をくくったものでね。家主さんが縁起でもないというのですっかり建て替えることにしたようだねえ」 「首をくくったって、あの、長次郎というひとのことですか」 「そう。塩の仲買いでひところはずいぶん儲けたひとだけどね。いつごろからか、商いが傾いたようだったな。あたしらのような商売と違って、仲買いは先を読めないとうまくいかない商いらしいから」 「あの、おたねさん、いまどこにいるかわかりません?」 「さあて」  老人は首をかしげた。 「行方知れずと言われているね。だいぶ前から店を閉めていたから、いつごろこの家を出て行ったかは、このへんのひとも誰も知らない」  はかないことを聞いたという気がした。すると、あのときは留守だとばかり思って引き返したが、そうではなくてもう店を閉めたあとだったのだと、老人に礼を言ってその場をはなれながらみちは思った。  あのときというのは、室町の大通りで徳丸屋信兵衛と若い女房を見かけた日のことである。浅草寺の境内でああいう別れ方をしたものの、そのあとみちは心の隅にいつもたねのことがひっかかって気に病んでいた。ぴしゃりとことわらずに、五両ぐらいの金なら貸してもいいと言えばよかったかと気弱に思うこともあった。あの日も、その後どうしているか、金策はうまく行ったかと、それとなく様子を聞くつもりで出かけたのである。だがたねの家はぴったりと戸が締まり、森閑としていた。戸を叩いてみたが、返事はなかったのだ。  みちはたねの家があった場所を振りむいてみた。通りの家家はことごとく日があたり、光は弱いながらあたたかそうに見える。たねの家があった場所だけが、隣の二階家の陰に覆われて、夜のように暗いのが見えた。  みちは行方知れずになったたねのことを考え、くらい気持を抱いて永富町から新石町とつづく道をたどり、鍛冶町で大通りに出た。さっき、たねの家をたずねる前は、ついでに室町の徳丸屋をのぞいて、不実といえば不実な、あの調子のいい男をびっくりさせてやろうかと思っていたのだが、いまはそんな気も失せていた。  ただ、みちは帰りにこの前はひやかして終った小間物屋で、白粉を買って帰るつもりだった。料理茶屋勤めの習慣で、たとえ安物でもうすく白粉を使わないと気が済まない。その白粉が切れていた。 「もうおいでにならないかと思ってあきらめていましたですよ」  色の黒い小間物屋の主人は、みちが白粉をと言うと大よろこびでそう言った。忘れもせずに、みちをおぼえていた。  そして金を受けとると、心安だてに教えるという口調で、みちにささやいた。 「徳丸屋さん、子供が生まれますよ。大よろこびだそうです。はい」 「まあ、そうなの」  みちはおっとりと言ったが、急に腹の中が煮えくり返った。なにさ、ずいぶんいい気なもんじゃないの、と思った。  みちはずんずん歩いて、そこから見えている徳丸屋に行くと店の中に入った。お客さま、何をさし上げましょうかと番頭だか手代だかが言ったが、みちは見向きもせずに立ったまま、奥の帳場に坐っている信兵衛を見つめた。小僧がそばにきて、こちらにかけませんですかと袖を引いたが、みちはその手を払いのけた。店にいる数人の客も、話をやめて呆然とみちを見ている。  突然に徳丸屋の店の内は静寂につつまれた。それに気づいたらしく、信兵衛が顔を上げた。そして店の入口に立っているみちを見ると、たちまち狼狽した顔になった。それだけではなく急に帳場の中に立ち上がると、うろうろと履物をさがしている。  信兵衛は履物を突っかけた。だが、足もとがもつれて二度、三度と危うく倒れそうになった。ようやく体勢を立て直してみちを見たとき、みちの中に不意に本来の陽気な気分が気泡のようにうかび上がってきた。  信兵衛にむかって、みちは科《しな》をつくってにっこり笑いかけた。そして振りむきもせず店を出た。うしろに店の者たちの騒然とした罵り声が聞こえた。  永代橋は暮れかけていた。川は流れの中ほどまで河岸の家家の陰に覆われ、わずかにみちがむかって行く方角の流れが赤らんで揺れている。橋をわたってくる人の顔は沈む日をうけてうす赤く染まり、みちのうしろにつづくひとびとの顔は青ざめて見える。対岸の佐賀町の蔵の白壁だけがまだ赤かった。一日が終るところだった。  ──亭主が……。  腹をすかして待っているだろう、とみちは思った。はじめて富蔵にやさしい気持が動き、このへんがあたしらの相場じゃないの、と思った。それに、がんばってたねに金を貸さなかったから、表店に移る金は手つかずで残っている。そのころまでには、いくら甲斐性なしの亭主でも簪一本ぐらいはつくってくれるだろう。みちはかすかな幸福感につつまれて、帰りの足を動かしている。 [#改ページ]    あ と が き 「江戸おんな絵姿十二景」は、かなり前に文藝春秋本誌に一年間連載したもので、一枚の絵から主題を得て、ごく短い一話をつくり上げるといった趣向の企画だった。一話が大体原稿用紙十二、三枚といった分量ではなかったかと思う。いわゆる掌篇小説である。  どんな種類の絵にするかは、その当時浮世絵に凝っていたのですぐにこれと決まったが、ただ漫然と自分の好みの浮世絵にお話をつけるだけでは、おもしろくも何ともない。そこで一月から十二月まで季節に対応した話を、ごく簡単なあらすじだけつくって、担当編集者の佐野佳苗さんにわたし、それに対応するような絵をさがしてもらうことにした。  その上で、小説に仕上げるときは微調整を行なうことにした。絵を編集者の選択にゆだねることで、創作のときのハードルを高くしたわけである。だから「江戸おんな絵姿十二景」には、若干の遊びごころと、小説家としてこの小さな器にどのような中味を盛ることが出来るか、力倆を試されるような軽い緊張感が同居している。  このように成立の事情を長ながと記したのは、私は若干の遊びごころなどと言っているが、絵をさがした佐野さんの苦労は大変なものだったろうと思うわけで、あえて当時の事情を記し、改めて編集者の佐野さんに感謝の気持を表したいと考えたからにほかならない。  なお「広重『名所江戸百景』より」の方は「江戸おんな絵姿十二景」の趣向を継承するものではあるけれども、こちらは掌篇小説ではなく、枚数は多少ひかえ目ながら、一般的な短篇小説に近く、掌篇小説の苦労はなく仕上がっている。あわせてお読みいただきたい。  一九九六年 秋 [#地付き]藤沢周平  初 出   江戸おんな絵姿十二景     「文藝春秋」昭和五六年三月号〜昭和五七年二月号。   広重「名所江戸百景」より     「別册文藝春秋」一九四号〜二一四号。     但し本短篇集は「桐畑に雨のふる日」および「品川洲崎の男」をのぞき、     「藤沢周平全集」第二十二巻に収録された。  単行本 平成八年十一月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十二年九月十日刊