[#表紙(表紙.jpg)] 藤沢周平 三屋清左衛門残日録 目 次  醜  女  高 札 場  零  落  白 い 顔  梅雨ぐもり  川 の 音  平 八 の 汗  梅咲くころ  な ら ず 者  草 い き れ  霧 の 夜  夢  立 会 い 人  闇 の 談 合  早 春 の 光 [#改ページ]   醜  女      一  自身の隠居と惣領又四郎の家督相続。外からみればたったそれだけのことだが、藩に願いを上げてから、それが承認されて又四郎が城に出仕するまで、実際にはさまざまに煩瑣《はんさ》な手続きとひととの折衝が必要だった。  だからそのすべてが無事に済み、最後にごく内輪に、親戚の者たちと他家に片づけた子供を呼んで、又四郎の相続を披露する祝い事をおえたとき、三屋清左衛門は心からほっとした。  又四郎は若年のころに小姓組に召し出されて、数年城に出仕したことがあり、城勤めははじめてではない。勘定方見習という配属にも不服はなかった。清左衛門も御小納戸の見習から城勤めをはじめて用人まで行ったのである。又四郎はさいわいに身体は強健だった。先年嫁をもらって子供もいる。その子供は男子である。  これで三屋家は心配がない、と相続にからむ一切の雑事から解放されたとき清左衛門は思ったのだが、その安堵のあとに強い寂寥《せきりよう》感がやって来たのは、清左衛門にとって思いがけないことだった。  清左衛門が、用人の職をしりぞいて隠居したい旨を藩主に申し出たのは、ざっと一年二カ月ほど前だった。長い患いのあとに先代藩主が死去し、葬儀につづく一連の国元の法事がすべて終って、江戸屋敷にもどったころである。  日ごろから、新しい藩主は新しい側近を用いるべきだと考えていたので、用人という職には未練がなかった。そして用人から身をひくと心を決めると、にわかに居場所を失ったように勤めをつづける気力もうすれて、ついでに隠居願いも提出したのである。新藩主は清左衛門の願いを受理した。ただしと藩主は懇《ねんご》ろに言った。あと一年ほどはそばにいて、残務を整理しながら後任の者に君側の勤めの要点を教えてもらいたい。  清左衛門はもちろん承諾した。しかし江戸屋敷でそれまでとさほど変りない勤めをつづけながら、清左衛門が生涯の盛りはこれで過ぎ、あとは国元に逼塞《ひつそく》するだけだと考えていたことも事実だった。  清左衛門は家禄百二十石の御小納戸役から出発し、その後累進して最後には用人を勤めた。累進して役が変るたびに加増を受けて現在は二百七十石、五十石の役料を加えれば三百二十石という上士並みの禄高になっている。しかし用人をやめれば役料を取り上げられるのはもちろん、用人に昇進したときにあたえられたいまの屋敷も出なければならないだろう。そしていまよりはやや手狭な屋敷をいただいて、そこに移り住むことになる。逼塞という感想の中には、そういう事柄がふくまれていた。  ──ひとが……。  至り得た地位に執着するのは、こういうことがあるからだな、と清左衛門は時折り思うことがあった。  そんなある日に、清左衛門は藩主に呼ばれた。藩主は穏やかな笑顔で、国元に帰って隠居してもいまの屋敷を出るにはおよばない、そのことについては家老たちと談合済みだと言った。そしてさらに言った。 「隠居部屋が欲しければ申し出るとよい。家老を通じて普請組に手配させよう」  藩主の言ったそれがいま、清左衛門が使っている隠居部屋である。江戸の勤めを切り上げて帰国したときには、普請組の手で増築された小ぎれいな部屋が出来上がっていたのだった。  藩主のあのときの好意は何だろう、といまも清左衛門は思うことがあった。はじめは単純に、先代藩主に対する長い献身の年月にあたえられた褒賞かとも思ったが、いくらか違うようでもあった。そして近ごろになって、ふとあのことかと思いあたることが出て来た。  いまの藩主を世子に定めるころ、先代藩主に少し迷いが見えたことがある。先代藩主には男子二人がいて、弟の方が賢かった。しかし助言をもとめられたとき、清左衛門は躊躇なく兄の方、つまりいまの藩主を推した。長幼の序をみだしては、藩内に争いを生じかねませんと進言したことをおぼえている。  しかし古いことだった。また先代藩主がそのことで意見を徴したのは、清左衛門一人だけでもないはずだった。  たしかなことはやはりわからなかったが、離れの隠居部屋が藩主の好意の賜《たまもの》であることは間違いなかった。清左衛門は思いがけない居心地のよさを味わった。しかし寂寥感は、やがてその部屋にもおとずれて来たのである。  江戸屋敷は屋敷自体が町の中にあるだけでなく、屋敷の中にも藩主の在府の年と留守の年で百人ほどの差は出来るものの、均《なら》して三百五十人ほどの人間が住んでいた。ひそかな町のざわめき、ひとのざわめきは夜がふけるまで絶えなかったものである。長い間そういう場所で暮らして来た清左衛門には、自分のほかに若夫婦とまだ赤ん坊の孫がいるだけの家は、ほかに下男と婢がいても静かすぎるように思われた。  事実国元の夜は、時刻が五ツ(午後八時)にもなればもう夜ふけで、塀の外を行くひとの足音や話し声もぱたりとやみ、あとは時折りの犬の遠吠えを聞くぐらいになる。  そういうことも理由のひとつだったかも知れないが、夜ふけて離れに一人でいると、清左衛門は突然に腸をつかまれるようなさびしさに襲われることが、二度、三度とあった。そういうときは自分が、暗い野中にただ一本で立っている木であるかのように思い做《な》されたのである。  清左衛門は意外だった。清左衛門がひそかに隠居を考えるようになったのは、三年前に妻の喜和が病死してからである。妻が死んだとき清左衛門はまだ四十九だったが、やや勤めに疲れていた。そして先代藩主が死去したときには、隠居の決心はゆるぎないものになった。  したがって、隠居して勤めをひき、子供に家を譲ることについては、仕事の上の心残りも余分な感傷の類も一切なかったつもりである。隠居してあとは悠悠自適の晩年を過ごしたいと心からのぞんでいたのだ。  清左衛門が思い描いている悠悠自適の暮らしというのは、たとえば城下周辺の土地を心ゆくまで散策するというようなことだった。散策を兼ねて、たまには浅い丘に入って鳥を刺したり、小川で魚を釣ったりするのもいいだろう。記憶にあるばかりで久しく見る機会もなかった白い野ばらが咲きみだれている川べりの道を思いうかべると、清左衛門の胸は小さくときめいた。  ところが、隠居した清左衛門を襲って来たのは、そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情だったのである。そして、その奇妙な気持の萎縮が、数日して自然に消えたとき、清左衛門はそのものがどこから来たかをいささか理解出来た気がしたのだった。  隠居をすることを、清左衛門は世の中から一歩しりぞくだけだと軽く考えていた節がある。ところが実際には、隠居はそれまでの清左衛門の生き方、ひらたく言えば暮らしと習慣のすべてを変えることだったのである。  勤めていたころは、朝目ざめたときにはもうその日の仕事をどうさばくか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、隠居してみると、朝の寝ざめの床の中で、まずその日一日をどう過ごしたらいいかということから考えなければならなかった。君側の権力者の一人だった清左衛門には、藩邸の詰所にいるときも藩邸内の役宅にくつろいでいるときも、公私織りまぜておとずれる客が絶えなかったものだが、いまは終日一人の客も来なかった。  清左衛門自身は世間と、これまでにくらべてややひかえめながらまだまだ対等につき合うつもりでいたのに、世間の方が突然に清左衛門を隔ててしまったようだった。多忙で気骨の折れる勤めの日日。ついこの間まで身をおいていたその場所が、いまはまるで別世界のように遠く思われた。  その異様なほどの空白感が、奇妙な気分の原因にちがいないと清左衛門は納得したのである。そしてむかしにもどることが出来ないとすれば、その空白感は何かべつのもので、それも言えば新しい暮らしと習慣で埋めて行くしかないことも理解出来た。うかうかと散歩に日を過ごすわけにもいかぬらしいと、清左衛門は思ったのである。  清左衛門が落ちついたのをちょうど見はからったように、その日の八ツ(午後二時)過ぎ、嫁の里江が隠居所に来た。 「この間のお祝いの掛りですが、今日で残らず支払いが済みましたので……」  里江はそう言いながら、手に持っていた薄く閉じた帳面のようなものをひろげた。掛りの詳細を報告するつもりらしい。 「それは聞かなくてもよかろう」  と清左衛門は言った。家と同時に財布も譲ったと思っていた。それに家中の多くは受け取った禄米を出入りの商人にゆだね、必要なときに金銭として受け取っていて、三屋家も例外ではない。  三屋家の禄米を預っているのは越後屋という城下の米問屋で、越後屋との交渉は、清左衛門が江戸詰だったので以前は喜和が、喜和の死後は又四郎がやっていた。改めて財布を譲るという気分も薄かったのである。 「そなたたちがうまくやればいいことだ」 「でも、又四郎どのがひととおりはおとうさまに申し上げるようにと言われましたので」  里江はそう言い、酒二樽、するめ五十枚、白砂糖一斤などと掛りの中身を口ばやに読み上げた。酒も肴も質素にしたのでさほどの費用にはならず、一番値が大きかったのは引出物として当夜の客にくばった一反ずつの絹だった。 「しめて五両一分と六百三十文でした」 「ふむ、そのへんで済めば上出来」  と清左衛門は言った。すると里江は帳面を閉じて、さりげないふうに部屋の中を見回した。そして机の上に乗っている日記にじっと眼をそそいだが、すぐにその眼を清左衛門にもどした。 「いかがですか。いくらか落ちつかれましたか」 「うむ、落ちついた」 「それは、ようございました」  と言って、里江はまた眼を机の上の日記にもどした。 「お日記でございますか」 「うむ、ぼんやりしておっても仕方がないからの。日記でも書こうかと思い立った」 「でも、残日録というのはいかがでしょうね」  里江にははなれた机の上においた日記の文字が読めるらしかった。里江は眼に舅の機嫌をとるような微笑をうかべている。 「いま少しおにぎやかなお名前でもよかったのでは、と思いますが」  祝い事の掛りの報告は口実で、嫁はわしの様子を見に来たのではないかと、清左衛門はふと思った。数日沈んだ気分でいた間は、それが外にも現われずにいなかったろう。 「なに、心配はない」  と清左衛門は言った。 「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。残る日を数えようというわけではない」 「そうですか」 「いろいろとやることが出て来た。けっこうわしもいそがしくなりそうなのだ」  父親が急死したために、清左衛門は若いときに家をついだ。そのために学問も、またひところは有望だと評判された無外流の剣の修業も、すべて中途半端にしたという気持が残っている。  ひまになったのをさいわいに、埃をはらって経書を読み、むかしの道場ものぞいてみるつもりだと清左衛門は言った。 「この齢になっては、若い者にまじって稽古するわけにもいかぬだろうが、相手を頼んで型を習うぐらいのことは出来るだろう」 「けっこうでございますね」  と里江は言った。そしてしばらく黙っていたが、やがて考えていたことを打明ける口ぶりで言葉をつづけた。 「実家の父が隠居しましたときに、急に元気をなくしてそのうちに寝ついたことがございました。それまでは風邪ひとつひかなかったひとでしたのに」  里江は郡奉行を勤めた服部弥右衛門の末娘である。話の弥右衛門は、七十を過ぎてなお矍鑠《かくしやく》と元気なはずだった。清左衛門はその話に興味をそそられた。 「ほほう、それでどうしたな?」 「私が磯釣りをすすめました。支度をしてさし上げて、むりやりに海にやったのですが、それですっかり元気を取りもどしまして、いまもあのとおりでございます」  里江はくすくす笑い、おや、おしゃべりをしましたと言うと、膝の上の帳面をたたんで立ち上がった。  里江が部屋を出て行くと、清左衛門は一人でにが笑いをした。里江自身の才覚か、それとも又四郎に言われたからか、ともかく元気をなくしていたわしの様子を見に来たことは間違いないようだと思ったのである。  しかしそのことを、里江はむきつけに口に出すようなことはせず、そうかといってべたべたとこちらの気持に入りこむような言い方もしないで、ただ出来たての隠居の気持を若夫婦が気づかっていることを、さらりと告げて行ったようだった。  よく出来た嫁だ、わしの眼に狂いはなかったと清左衛門は思った。服部の末の娘が心ばえもよく容貌も醜くないと聞いて、用にかこつけて里江を見に行ったのは清左衛門である。そのとき挨拶に出て来た、すがすがしい感じの娘だった里江を思い返していると、出て行ったばかりの嫁があわただしくもどって来た。  町奉行の佐伯さまがみえられました、と里江は言った。清左衛門が隠居してからはじめての、外からの客だった。      二 「やあ、やあ、やあ」  里江に案内されて部屋に入って来ると、佐伯熊太は騒騒しく言って、どかりと坐った。それが挨拶のつもりらしく、すぐに隠居した気分はどうかと聞いた。 「静かでよい」  里江がまだそのへんにいるので、清左衛門はあたりさわりなくそう言った。すると佐伯は大きくうなずいた。 「さようか。いや、うらやましい。じつにうらやましい」 「………」 「わしも、そろそろこんなくそいそがしい役目を解いてもらって、倅に家を譲りたいと思っているのだが……、や……」  佐伯は目ばやく縁の先の庭に眼をとめた。 「いい庭が出来ておるな。これはつくらせたのか」 「うむ、思いがけなく藩に隠居部屋をいただいたゆえ、ついでに倅に言いつけてつくらせたのだ」 「金がかかったろう」 「なに、値が張ったのは石ぐらいのもので、あとは知っている村の者を頼んだということで、さほどに金はかかっておらぬ」  二人が庭談議をしている間に、里江がお茶と菓子をはこんで来て去った。その足音が聞こえなくなるのを待って、清左衛門が言った。 「隠居はいそがぬ方がいいぞ」 「ん?」  佐伯は口に持って行きかけた茶碗をとめて、怪訝《けげん》な顔をした。佐伯熊太は、元服前からともに無外流の中根道場に通った仲で、何をしゃべってもかまわないごく少数の友人の一人である。佐伯は声をひそめた。 「何か、まずいことでもあるのか」 「いや、そう言うわけじゃないが……」  清左衛門はにが笑いした。 「ただ、隠居というのは考えていたようなものじゃない」 「ほう」 「さぞ、のんびり出来るだろうと思ったのだ。たしかにのんびり出来るが、やることが何もないというのも奇妙なものでな、しばらくはとまどう」 「ほう」 「過ぎたるはおよばざるが如しだ。やることがないと、不思議なほどに気持が萎縮して来る。おのれのもともとの器が小さい証拠だろうが、ともかく平常心がもどるまでにしばらくかかった」 「へえ」  と町奉行は言った。しかし一見ひとのよさそうな、達磨《だるま》のようにまるい顔を持つ佐伯は、風貌に似合わない鋭く働く頭脳を持っている。すばやく清左衛門が言っていることを理解した表情になった。 「人間が出来ているはずの貴公にしてそういうことがあるか。油断ならんものだな」 「油断ならん」 「おのれを、世の無用人と思うわけだ」 「ま、そういう気持に近い。だから、いそがしいとこぼしているうちが花だぞ。町の取締りに、しっかりと働け。ところで、今日は何か用か」 「おお、そのことよ」  と言って、佐伯熊太は酒をのむように、ぐいとお茶をのみ干した。 「じつは貴公の力を借りたくてやって来た。ひまをもてあましているというならちょうどよかった」 「いまは、ひまをもてあましてはおらん」  清左衛門は町奉行を見返した。 「話したとおり、漫然と日を過ごしてはいかんということでな。やるべきことを決めた。明日にも取りかかろうと思っていたところだ」 「何をやるつもりだな」 「まず紙漉町の道場に行ってみる。少しずつ身体を慣らして、型を稽古するぐらいのところまでは行きたいものだ」 「年寄りのひや水だな」 「ほかにもある。保科|穆山《ぼくざん》先生の塾は、いまはご子息の笙一郎どのがつがれて、このひとがまたお父上まさりの学者だそうだな。そこにうかがって、経書を読み直してみようかとも思っておる」 「それも不急のことだ」 「ほかに釣りにも行きたいし、山に入って鳥も刺したい」 「わかった、わかった」  と佐伯は言った。 「ぜひやってもらいたい。隠居したがために気力までなくしては困るからな。しかし、いまはとにかく、こちらを手伝え」 「どういう仕事だ」 「それが……」  と言って、佐伯は突然にはげしいくしゃみをした。いそいで鼻紙を出し、顔をぬぐってから言った。 「じつは、ひと一人の命がかかっている話だ」 「………?」 「むかし、奥に勤めていたおうめというひとをおぼえているかな」  佐伯は微妙な言い方をした。その言い方で清左衛門は、佐伯が言っているのがどういう女性のことか、およその見当はついた。そして名前の方にも、かすかな心あたりがあるような気がしたが、はっきりとは思い出せなかった。 「おうめどのか」  清左衛門は首をかしげた。 「わしにそういうところをみると、先代さまのかかわりがあった女子かと思うが、はて、どういうひとだったか」 「先代の殿のお手がついた女子だが、そのお手つきというのがただの一度だったと言ったら思い出さぬか」 「や、思い出した」  と清左衛門は言った。  おうめは城下小鹿町の菓子屋鳴戸の娘である。店が古くから大栗、小栗という小豆菓子を城中におさめて来た縁で、行儀見習のため城の奥御殿に奉公に入っていたのだが、ある年、在国中の先代藩主が何の気紛れを起こしてか、おうめに一夜の伽を言いつけた。  どういう気紛れかとひとが怪しんだというのは、おうめが醜女だったからだというが、清左衛門はその女性を見たことはない。ただその一夜の出来事のあと、おうめが暇を出されて実家にもどり、藩から三人扶持をもらう身分になったことは知っていた。そのときおうめは十六で、そのことがあったのはいまから十年ほど前のことである。 「鳴戸の娘のことか。そのおうめどのがどうかしたかな」 「身籠《みごも》ったらしい」 「身籠った? それはめでたい」 「いや、めでたくはないのだ」  と佐伯が言った。 「身籠ったのは、相手が誰かわからぬ父《てて》なし子だということだ」 「………」 「厄介なのは、それを知って怒り狂っている人物がいることでな。さきの殿の御威信をそこなわぬように、その女子をひそかに処分してしまえと言ったとかのうわさがある」 「それはまた過激だな。誰だ、そういうことを言うのは」 「山根備中どのさ」 「ははあ、組頭か。あのおひとなら言いかねん」  と清左衛門は言った。組頭の山根家は、家柄では藩主家よりも古いと言われる藩中の名門だが、その名家意識が災いしてかひとに嫌われ、十代ほどの家系の中で執政入りしたのはわずかに二人だけだと言われている。いまの当主の備中も、万年組頭の地位にとどまっていて、執政にという声がかかったことは一度もない。  ひと口に言えば、山根家の人びとがひとに嫌われるのは、どうしようもなく古くさい権威主義のせいなのだが、当主の備中もまた、権威主義に忠実な家風を踏襲していることでは定評のある人物だった。あの組頭なら、言うだけでなく実際にその女子を抹殺しかねないぞと清左衛門は思った。むろん、そんなばかげた蛮行を見すごすわけにはいかぬ。 「それは用心した方がいいぞ。山根どのは言うだけでなくやりかねんからな」 「そこはわかっておる。だからこっちでも、うわさを聞くとすぐに、鳴戸のまわりに見張りをくばった」 「その方がよい。しかし、何でいまごろになって、そんなことをさわぎ立てるのかわからんな」  と清左衛門は言った。君側に勤めていたころのことを思い出そうとしていた。 「そのおうめというひとなら、たしか先の殿が身罷《みまか》られたあとに、藩を通じて以後勝手たるべしの達しがとどけられたはずだ。三人扶持は取り上げる、かわりにどこに嫁入ろうと自由だということだったと思う」 「何だ、そうか。いや、そうだろうな」  佐伯は膝を打った。 「ところがな。おうめどのはいまだに藩から三人扶持を受けておるのだ」 「何と。はて、面妖な」  と言って、清左衛門は佐伯を見た。ようやく全体の事情がのみこめて来た。 「それだと、四角ばったことの大好きな山根どのがさわぐのも無理はない。はてな、どこに手違いがあったかな」 「どうだ、そういうことも絡んでいるので、ひとつ今度の一件の始末に骨折ってくれんか。じつは、そのあたりの事情に一番あかるいのは貴公だろうから、相談してみろと言われたのはご家老の間島さまだ」 「………」 「あまり公けには出来んことなので、ほとほと困っているところだ。手を貸せ。山根どのの方は、わしがひきうけて手出しはさせぬ」 「しかし、わしはもはや隠居の身分でな。公けのことを手伝うには倅の許しをもらわなくてはならんだろう」 「そのことなら、さっき城で又四郎どのに会って話した」  佐伯はぬかりなく言った。 「おやじは退屈しているはずだから、かまわんでしょうと言っておったぞ」      三  清左衛門は単身で菓子屋の鳴戸をたずねて行った。そういうところは隠居の身分は気が楽で、威儀を張る必要はない。  清左衛門はすぐに鳴戸の奥に通された。大栗、小栗というのは栗の実をかたどった大小の小豆菓子で、城中だけでなく江戸屋敷の奥にも送りとどけているいわば土地の名産だが、鳴戸は一方でめずらしい南蛮菓子の製造も手がけるような商い熱心な老舗だった。店は繁昌し、裕福だと聞いている。  と言っても、清左衛門が通された店の奥は、城下で富商と言われている呉服屋の山城屋や油商人の加賀屋、あるいは町町の肝煎《きもいり》をつとめる米問屋などにくらべると、ひとまわり狭くて質素だった。隠居したというものの、清左衛門はついこの間まで用人をつとめていた人物である。清左衛門の突然のおとずれは、よほど鳴戸の家の者をおどろかしたようだった。おうめに会いたいと言ったのが、よけいに家人を動顛《どうてん》させたかも知れない。  清左衛門はひとまず客間に案内されたが、しばらくは部屋の外の廊下を、鳴戸の家の者が足音をしのばせて右往左往する有様が手にとるようにわかった。待っていると、菓子づくりの作業場からただよって来る甘いにおいが清左衛門の鼻にとどいた。  その部屋におうめを連れて来るのかと思っていたらそうではなく、清左衛門は間もなく、ではこちらへと言われた。案内されたのは離れで、そこにおうめが待っていた。二人だけで話したいと言うと、お茶と菓子をはこんで来た家の者は、丁寧な挨拶を残して部屋を出て行った。  清左衛門は挨拶をしてから、胸を起こして眼前にいる女性を見た。もう若くはない。小太りで目立たない容貌の女が、静かに清左衛門を見返していた。 「ご機嫌よろしく、なによりでござる」  と清左衛門が言うと、おうめは小声でありがとうございますと言った。小声だが、態度は落ちついていて清左衛門を恐れているようには見えなかった。短い間ながら宮仕えをしたことがあるからだろう。  清左衛門はあらためて、おうめを見た。醜女と聞いていたが、なるほどおうめの眼は細く、鼻は小さく低くて、小太りの身体は美人という形容からはほど遠い。  ただおうめは肌の白い女性だった。見るからに繊細でやわらかい肌をしている。藩主が一夜の伽に呼んだころは、皮膚はもっと光りかがやくようだったかも知れない、と清左衛門は思った。もっともおうめの肌の白さは、藩主のお手つきの女として、家の奥に籠りがちな暮らしを強いられたせいもあるのではないか。 「ずっと、この部屋にお住まいか」  清左衛門は、かすかに傷ましい気持を誘われながら、部屋を見まわした。鏡台、箪笥など女らしい調度はととのっているものの、華美な感じはまったくなく、むしろ質素なほどの部屋だった。おうめは鳴戸の末の娘だということだったが、城から扶持をもらい、嫁にやることも出来ない娘は、家の者にとっては荷厄介な存在だったに違いない。  ──十年か。  と清左衛門は思っている。開いている障子の外に庭が見え、そこにいまがさかりの桜の花が咲いているのも見えたが、部屋は隠居部屋のように質素で、さほど広くはない。  ただ一度お手がついたために、十年もの間この部屋に閉じこめられることになった若い女の残酷な運命が見えて来て、清左衛門は先の殿も罪なことをなされたものだと思った。家にもどして漫然と扶持をあたえていたということが解《げ》せなかった。そのうちにもう一度側に召し出すつもりでもあったのか、それともどこかに良縁を見つけて嫁がせる気持だったのか。  いずれにしろ、長い幽閉に抗《あらが》っておうめが子供を孕んだのは自然の理と言うべきで、責めたくはない。ただし、むろん相手の男が問題だと清左衛門は思った。清左衛門の問いに、おうめはうつむいて、小声ではいと答えただけだった。  では、今日の用件に入らせていただくと清左衛門は言った。それとなくおうめの身体を見まわしたが、男の眼には腹がふくらんでいるかどうかはわからなかった。 「ずかずかと会釈なしにたずねさせてもらうわけだが、さる方角から、おうめどのが身籠っておられるのではないかという話をうかがった。事実でござろうか」 「………」 「お答えによってわれわれも考えなければならんことがあるので、正直な返答をいただきたいのだが……」  おうめはうつむいている。ひとことも答えなかった。しかし清左衛門の言葉で、おうめの顔は一度は首筋のあたりまで真赤になり、つぎにはその色がさめて、透きとおるように青ざめたのが見えた。孕んだのは事実なのだ。ただならぬ顔色と、ひとことも否定しないのが証拠だった。  なるほど、と清左衛門はつぶやいた。 「聞いたうわさは、事実のようでござりますな」 「………」 「ではつぎに、相手の男のことをおうかがいしたい。これまた大事のことなので、どこのどなたであるか、隠すことなくお聞かせねがいたいものでござる」 「それは、ご勘弁いただきとうございます」  不意におうめが言った。やはり小声だったが、きっぱりした語気に聞こえた。 「いずれこのことが外に洩れれば、お城からお咎めがあるのは当然。どのような罰でも甘んじてお受けするつもりでおりました」  おうめは顔を上げて物を言っていた。口調にも、この日にそなえて言うことを決めていたように渋滞がなかった。のみならずその顔に、さっきは気づかなかった脂切った精気のようなものがうかんでいるのを、清左衛門は興味深くながめた。男の理解を越える、孕み女の捨て鉢の強さとでもいったものを、どうやらいまのおうめも抱え持って生きているらしい。 「いかようなお咎めでもくださいまし。ただ、そのひとの名前は口が裂けても申し上げられません」 「ま、そのような殺気立たんでもらいたいものだ」  清左衛門はにが笑いした。 「何か、それがしの言い方を誤解されているようだが、それがしはこなたさまが子を身籠られたことを咎めに参っているわけではござらん」 「………」 「打ち明けた話をいたそう」  清左衛門はつとめてざっくばらんな口調を心がけながら言った。 「先の殿が亡くなられた折り、と言えばもはや一年ほども前のことだが、その折りにおうめどのの処分について、じつはいまの殿から国元にあてて書類が出ている」  清左衛門はその書類が、おうめの束縛を解き、かわりに扶持を取り上げるものだったことを説明した。 「若い女子を縛ってはいかんという、いまの殿のおぼしめしにござった。念のためにおうかがいするが、そのお達しはこなたさまにはとどいておらんのでしょうな」 「いいえ」  おうめは首を振った。眼は呆然と清左衛門を見ている。 「やはり、さようか。藩の手違いにござる。いまさがしているところだが、その書類はどこかに滞っているものと思われる」 「………」 「つまり、その手違いさえなければ、一年前にこなたさまは嫁入ろうと子を生もうと自由の身になっていたはず。藩内には今度のことをとやこう申す者もいるが、われわれはこの事実を勘案して、なるべく事を穏便に処理したいと思い、こうしてたずねて参っておる」 「一年前」  と、おうめはつぶやいた。無為に過ぎ去った歳月に気持を奪われて、清左衛門の言うことなど半分も聞いていないような表情をしている。二十六の女が見せた途方に暮れたような表情は、清左衛門の心を打った。 「さよう、一年前。ただし、手違いのために、三人扶持の身分が今日なお生きているのも事実。もし、相手がいかがわしい人物であるとか……」 「いいえ」  おうめはきっとなって、清左衛門を見返した。 「そのようなひとではございません」 「お店の奉公人かの」  と清左衛門は言ってみた。考えられる一番の相手はそのあたりであろう。ぜひとも男の身分と名前を聞き出さなくてはならなかった。そうでないと、無事にこの事件を処理することはむつかしい。 「どうしても言わなければなりませんか」 「ぜひ、お聞かせねがいたい」  清左衛門はきっぱりと言うと、きびしい眼をおうめにそそいだ。 「そのひとには、お咎めをおよぼさないと約束をしていただけませんか」 「それはむつかしい。ただし、あくまでもその人物によりましょう」  と清左衛門は言った。相手によっては、おうめをひそかに子おろしのばばの家に連れて行かなければならない場合もあろうし、またその相手がもっとたちのわるい人間で、極秘に処理したことを世間に触れまわるようなときは、男に対しても何らかの処置が必要だろうと思われた。清左衛門としては、おうめの男が尋常な人間であることを祈りたい。  清左衛門の譲らない気配をさとったらしく、おうめは深いため息をついた。そしてすらすらと言った。 「近江屋の竹之助さんです」 「近江屋というのは、例の日雀《ひがら》町の大きな呉服屋かな」 「はい」  と言って、おうめはもう一度真赤になった。おうめは身も世もないように肩をすくめてうつむいているが、清左衛門にはまだたしかめなければならないことがある。 「竹之助というひとは?」 「近江屋さんの三男坊で、お店を手伝っているひとです」 「齢は?」 「二十三だと思います」  そう言うと、おうめはせっかくさめかかった顔色をまた赤くした。  相手がいかがわしい人間でなかったことに清左衛門は安堵の息をついたが、新しい懸念が押しよせて来た。おうめは二十六である。しかもこの器量である。竹之助という年下の男に弄《もてあそ》ばれたのではなかろうか。二人のつき合いが実《じつ》のないものだとすると、やはり山根備中を説得するのに障りとなるだろう。  清左衛門は咳ばらいした。 「突っこんだことを聞くようで恐縮するが、その竹之助というひととのつき合いは、遊びではござらんでしょうな」 「違います」  おうめはきっぱりと言った。おうめの顔がまた脂切った精気でかがやくように見え、いきいきとした声でおうめは言った。 「いずれはお城のお許しをいただいて、夫婦になるつもりでおりました」 「その竹之助というひとを、ここに呼んでもらえまいか」  まだ全面的には信用出来ない清左衛門はそう言った。男に会って、じかに人物をたしかめるつもりだった。      四  清左衛門が菓子屋の鳴戸を出ると、日はとっぷりと暮れて町にはうす闇が立ちこめていた。そのうす闇の中から、足音も立てずに清左衛門に近づいて来た男が、おわりましたかと言った。佐伯熊太の配下で横山半蔵という同心である。 「おわった。これから家にもどる」 「ご用心ください」  と言って、横山は声をひそめた。 「じつはついさっき、鳴戸の裏口のあたりを男三人が徘徊しているのが見つかりまして、咎めましたところ一人は馬廻組の犬井彦之丞、ほかの二人は山根さまのお屋敷の家士と判明いたしました。犬井は山根さまの組子で、花房町の小滝道場の高弟です」 「ほう、それで?」  小滝道場は一刀流を指南する道場である。 「立ち去るようにと言いましたところ、犬井がいきなりこちらの小者に乱暴をいたしまして、いま少しで斬り合いになるところでした」 「現われたか、油断するな」  と清左衛門は言った。 「奉行に聞いておるだろうが、相手は頑迷|固陋《ころう》、こうと思いこむと何をやるかわからん人物だ。警戒をたのむぞ」 「心得ました。ご隠居さまも、気をつけてお帰りなされますように」 「まさか、わしを狙ったりはしまい。心配はいらぬ」  と清左衛門は言ったが、しばらく歩いてから横山がご隠居と言ったのを思い出して、一人でにが笑いした。そう呼ばれたのははじめてだと気づいたのである。  そして、言われてみると死んだ藩主が残した女の後始末に心を砕くなどということは、いかにも隠居仕事にふさわしいようでもあった。若い者は、そんな手柄にもならぬ模糊とした問題に首を突っこむのはいやがるだろう。  町は深い霧のようなうす闇に包まれていた。小さな川にかかる橋をひとつわたると、商人町はそこで尽きてあとは道に人影も見なくなった。左右には静まり返った武家屋敷がつづき、町はそのまま夜の深みに沈んで行くばかりのようである。  その道を歩いているうちに、清左衛門はやがて、同じ道を歩いている者が自分のほかにもう一人いることに気づいた。足音は、清左衛門のうしろ数間ほどのところを、つかずはなれずついて来る。  まさかと思ったが、念のために清左衛門は歩きながら脇差の紐をはずし、鯉口をゆるめた。隠居してからは脇差だけで外を歩いている。まさかというのは、もしや山根備中が、どこからか清左衛門が鳴戸の娘の問題に口をはさむらしいと聞きつけて、妨害に出て来たのではなかろうかということだったが、そういうことが全くないとは言えなかった。  山根は思い込みがはげしいたちで、しばしば狂したかと思うほどの行動に走ることがある。そういう危険な性格を知っているので、家老の間島弥兵衛も佐伯に対して早い解決を指示したのだろう。  清左衛門は立ちどまると、くるりとうしろをむいた。するとあとから来た者も足をとめた。立ちどまったまま、黙ってこちらを見ている。うす闇の中にようやくひとの輪郭がうかんで見えるだけで、何者とも見わけられなかった。 「わしに、何か用か」  と清左衛門は言った。相手はまだ黙って立っている。 「わしは三屋の隠居、清左衛門。これから家にもどるところだ。あとをつけたところで仕方あるまい」 「………」 「おぬし、犬井彦之丞ではないか」 「………」 「もしそうなら、帰って山根どのに伝えるがよい。数日の間に、三屋清左衛門が談合したきことあっておたずねするとな」  男はそれでも黙って立っていたが、清左衛門もそれ以上は言わずに男を見ていると、やがてくるりと背をむけて去った。羽織の裾から刀の鞘が突き出ているのが見えた。推測したように犬井彦之丞だったかも知れないが、歩き出した清左衛門の胸に、無気味な印象が残った。  家にもどると佐伯が来ていた。又四郎と話していたが、むろん清左衛門に用があって来ているのである。隠居部屋に誘うとすぐについて来た。 「飯を喰わんで大丈夫か」  坐るとすぐに佐伯が言った。 「なに、まだ腹はすいておらぬ。さきに用件を済まそう」 「わかった。では、わしの方から言おう。例のお達しの書類が見つかったぞ」  佐伯は懐から、奉書紙に包んだ一通の書きつけを大切そうに取り出した。  受け取って押しいただいてから、清左衛門が書きつけをひろげてみると、それはまさしくおうめの処分を指示した書類だった。ただし指示はそれだけではなく、城の乾《いぬい》の石垣と土手の修復についても触れていて、むしろそちらの方が主だった。あて名は当時の月番家老の名前になっている。 「なかなか見つからぬも道理、書きつけは普請組の書類綴りの中に紛れこんでおった。恐れ多いことだ」  と言って、佐伯はあらためて清左衛門を見た。 「鳴戸の方は、どうだったな?」 「そちらも判明した」  と清左衛門は言った。 「わしが心配したのは、相手が良民とは呼びかねる男の場合にどうするかということだった。建前としては、おうめどのはまだ藩から特別の扶持をいただく身分。その特別という意味は、藩中どころか、城下で知らぬ者はいない」 「そのとおりだ」  と佐伯が言った。 「そこへもって来て、相手がたとえば市中のごろつきなどということであれば、とても山根どのを説得することは無理。それどころか事実世の聞こえもいかがかということに相なる」 「ふむ、そうなる」 「そのときは貴公に進言して、おうめどのを子おろしにかけるか、男を領外に追放するか、少しく強硬な手段をとることもやむを得まいと思っていたのだが、その心配は解消した」 「ほう、相手は何者だ」 「日雀町の呉服屋の倅だった」  清左衛門は微笑した。竹之助に会ってみて、清左衛門の最後の気がかりも消えた。竹之助はいたって実直そうな若者で、呼びつけられて顔青ざめてはいたが、清左衛門の聞くことには悪びれずに答え、遊びでないこともきっぱりと言い切った。 「竹之助は、呉服の雛形を持ってたびたび鳴戸をおとずれていたらしい。その間に、怪しからぬかかわり合いが生じたということのようだ」 「まあ、いいではないか」  安心したのか、佐伯はおうように言った。 「呉服屋の倅は二十三か。二十三といえば、わしにもおぼえがある。暗くなるのを待ちかねてひそかに遊所に走ったものだ。貴公だって、おぼえがないとは言えまい」 「それがおかしなことにな、熊太」  清左衛門はこらえかねてくすくす笑い、むかしの呼び名で町奉行を呼んだ。 「竹之助はなかなかの美男子なのだ。年上で不美人のおうめどのでなくとも、相手はいくらもあろうと思われるのに、縁はまことに異なものだ」 「ふ、ふ」  と佐伯も笑った。 「そういう組合わせは、えてして仲のよい夫婦に出来上がることがあるものだ」 「わしは二人が一緒になれるよう、骨折ってやろうかと思っている」  と清左衛門は言ったが、実際は二人にその約束をして来たのだ。それを聞いた二人の喜びようが眼に残っている。ことにおうめはしあわせそうで、面妖なことにちょっぴりうつくしくさえ見えた。言うまでもなく、充ち足りてしあわせな人間ほどうつくしく見える者はいないのである。 「乗りかかった舟だ」 「その前に、山根の方を片づけねばならんな」 「これがあれば、ま、大丈夫だろう」  清左衛門は書類を奉書紙にもどして、佐伯に返した。 「わしがかけ合ってもいいが、むこうは隠居だとみて軽くあしらうかも知れぬ。同道してくれぬか」  清左衛門が推察したように、藩主名の達しが決め手になった。それまで居丈高に二人に対していた山根備中は、さし出された達し書を黙読すると、ぴたりと口をつぐんでしまった。 「本来ならば、藩はおうめどのに償わねばならぬ立場にござる。一年余の歳月をむなしく費させてしまったわけでござるからな」 「しかし、ふしだらな女子に変りはない」  山根はまだ憤懣が残るらしく、短く吐き捨てるように言ったが、清左衛門は聞こえなかったふりをした。 「ともあれ、藩は早速に手つづきを済ませて、本人を自由にしてやるべきです。山根さまにご異存はありませんな」 「………」 「ひとことお断り申しておきたい」  佐伯が太い声で言った。 「良民に対して私に手出しすることは、厳重につつしんでいただきますぞ。今度のことは未発に終りましたゆえあえて咎めませんが、おやりになったことは、組頭の地位にあるほどの者としては甚だ恥ずべきことと愚考つかまつる」  二人は山根の屋敷から、真昼の道に出た。上士屋敷がならぶ町は、物音も聞こえず、道にひとの姿も見えず、森閑として春の日射しが照っているだけだった。どこからか花の香がただよって来る道を、二人はしばらく無言で歩いた。 「これで終ったかな」  清左衛門がぽつりと言った。清左衛門は一人の女がようやく理不尽な束縛を脱して、どうにかひとなみのしあわせをつかんだらしいことを祝福したつもりだったが、佐伯は佐伯でべつのことを考えていたようである。  勢いよく言った。 「終った。山根どのといえども、邪《よこし》まに我意を通すことは許せぬ」  隠居と働きざかりの町奉行とは、感想にも差が出たなと清左衛門は思った。 [#改ページ]   高 札 場      一  その日三屋家の隠居清左衛門は、およそ七ツ半(午後五時)ごろに的場町にある木戸前の広場に通りかかった。  清左衛門は何十年ぶりにはじめた釣りがおもしろくなって、近ごろは天気さえよければ三日に一度は城下の西を流れる小樽川に通っていた。今日も釣りの帰りで、藍の軽衫《かるさん》にわらじばき、腰には脇差一本と魚籠《びく》、弁当を喰ってしまった風呂敷、頭には菅笠という軽装で、釣り竿をかついで的場町まで来たのだが、帰りの時刻はいつもよりおくれていて、清左衛門はわずかにそのことを気にしていた。  経書を読み直すために保科塾に通うところまでは手がとどかずにいるものの、初夏のころから清左衛門は一念発起して、十日に一度は紙漉町の無外流の道場に通い、ほかは釣りに出かけたり屋敷畑に降りたりしてもっぱら身体を動かすことに専念していた。せまり来る老境にそなえて、頭よりはまず足腰を鍛えているという形だったが、実際にそうして身体を動かしてみると、清左衛門は自分がいかに長い間身体を使っていなかったかに、あらためて気づくようだった。  はやい話が、三屋清左衛門の身体は油の切れかかった車同様にさびついていたのである。少し無理に動かすと、身体はたちまち軋み声を立てた。およそ三十年ぶりに紙漉町の道場をたずねたときも、道場主の中根弥三郎の指示で木刀を振ってみると、手と足の動きがまったくばらばらで、おまけにたちまちあごが出て眼がくらむという醜態ぶりだった。  かくてはならじと、清左衛門はその後、道場通いをふくめて出来るだけ身体を動かすようにつとめて来たのだが、その甲斐はあって、近ごろは木刀を振っただけで眼がくらむようなことはなくなったし、炎天下の川岸で小半日釣りをしたぐらいでは、さほど疲れを感じなくなっている。  そして三屋家の若夫婦は、隠居した当時清左衛門がしばらくふさぎこんだのを知っているせいか、近ごろの清左衛門のそういう変りようを喜んでいるようだった。  釣りに行く日は、嫁の里江は婢にまかせず自分で弁当をつくってくれるし、無口な又四郎も、あるとき釣り支度が済んで出かけようとしている清左衛門をつかまえると、釣りほど身体によいことはないこと、鳥刺しと釣りは藩がむかしから家中に奨励して来たことであることなどを、長長としゃべった。  若夫婦公認のあそびで、しかも考えてみれば、清左衛門が外へ出れば嫁はその間、舅と同じ屋根の下にいる気づまりから解放されるわけだから、大いばりで釣りに出かけていいはずだが、しかしそれも野放図というわけにはいかない。  ──又四郎が城をさがるまでは……。  家にもどっておらぬとまずかろう、と清左衛門は思う。いつの間にか倅夫婦に気兼ねする気分が生まれたようで、わびしくないことはないが、しかしそれが家の秩序というものだった。家の当主としての又四郎を立てなければならぬ、と清左衛門は思っている。  清左衛門のその秩序感覚からすると、その日は家にもどるのが四半刻《しはんとき》(三十分)ほどおくれていた。的場町の木戸は二ノ丸の大手門につづいていて、そこまで来ると肩衣をつけた下城の武士の姿が見えるのにも気持をせかされて、清左衛門はいそぎ足に木戸の前を通りすぎようとしたのだが、ふと、足をとめて広場の奥を見た。そこに人だかりがしているのが見えたからである。  木戸前の広場は、藩が北陸から入部して来る以前は、地元領主が弓の調練に使った場所と言われ、その後はいったん事が起きて藩をこぞって出陣するときに、最後の人数をそろえる場所ということになっているものの、出陣の人馬がこみ合うような光景も見られないまま歳月がたって、いまはただの人通りの多い広場になっていた。  広場の南には、三ノ丸からはみ出して建てられた郷方御用屋敷の古びた建物があり、北側には藩主家の一族の屋敷がひろがっているが、道一本をへだてる東側は、もう的場町のにぎやかな商人町である。  人だかりがしているのは広場の隅、商人町から広場に踏みこむとすぐ右側にある高札場の前だった。  藩では国境の関所からもっとも近い宿駅五カ所と、城下二カ所に高札場を設けていた。そして城下の二カ所というのが、的場町の広場と城下のほぼ中央にあたる雁金橋のたもとにある高札場であった。どちらも城下でもっとも人通りが多い場所である。その高札場を取りかこむようにして、城をさがる途中の武士や、それをさらに遠巻きにするかたちで、かなりの人数の町人たちが立っているのだった。  ──新しく高札が立つところか。  清左衛門ははじめにそう思い、それならめずらしいことに違いないと考えたが、すぐに人だかりはそういうものでないことがわかった。  立っている人びとは、高札を眺めているのではなかった。そして半円の人だかりの中に、あきらかに下城の武士たちとは異る羽織姿の武士と、半纏《はんてん》を着た小者らしい男たちがいそがしげに動いているのが見えた。どうやらその者たちは町奉行佐伯熊太の配下か、あるいは大目付の配下のようである。  何事か、その場所で事件が起きたのだとわかったが、清左衛門が見たのはそこまでである。城の木立の陰から高札場がある広場にさしこむ日射しが、すっかり衰えて斜めにかたむいているのにおどろいて、いそいでその場所を通りすぎた。  家にもどると、又四郎はまだ城からさがっていなかった。そして、ひょっとしたら高札場にいた弥次馬のなかにまじっていたのではないかと思われるほどの間をおいて、清左衛門のあとからもどって来た又四郎は、肩衣をはずしただけの姿ですぐに隠居部屋に来た。 「いつぞや……」  帰宅の挨拶を済ませた又四郎が言った。 「小樽川で非番の安富源太夫どのに会われたとのお話でしたな」 「申した」 「その折り、安富どのと何かお話をなされましたか」 「いや」  清左衛門は首を振った。安富源太夫は知らない男ではないが、世間話をかわすほど親しい人物でもなかった。 「話はしておらぬ。会釈をかわしただけじゃった」 「ははあ」 「安富がどうかしたか」 「今日の七ツ(午後四時)すぎに、大手前の高札場で腹を切ったそうです」      二  町奉行の佐伯熊太が、大目付配下の徒目付《かちめつけ》だという浅井作十郎をともなって、突然清左衛門をたずねて来た。安富源太夫が高札場で腹を切ってから五日後の夜である。 「ちと相談があって来たのだ」  清左衛門に浅井を引きあわせたあとで、佐伯はそう言った。 「安富源太夫が腹を切った話は聞いたか」 「聞いた」  と清左衛門は言った。 「死に切れずに苦しんでいるところを、駆けつけた家の者に引き取られたと聞いたが、その後どうしたかの」 「一昨日に死んだ」  と佐伯は言った。それは、気の毒だと清左衛門は言った。安富は清左衛門とほぼ同年配のはずで、若いころ紙漉町の道場で短い間だが一緒だったことがある。 「相続はうまく行ったかな」 「それは心配ない。安富では源太夫が腹を切った日の夜に、病気の届けを出していたから、跡目相続ということで倅が跡をついだ。しかしこれには少し問題があったのだ」  佐伯は色浅黒く長身で痩せている浅井作十郎をちらりと見てから言った。 「腹を切った動機やいかに、ということだよ」 「理由がわかったのか」 「いや、わからん」  佐伯は首を振った。 「わからんが、腹を切った場所が悪かった。三ノ丸の外ではあるが、あそこはまっすぐに大手門に通じる場所だ。たまたま安富が腹を切るところを見た者が大勢いるのだが、安富は城に正対して何事か大声でわめき、その直後に地面に膝を折って腹を切ったと言っておる」 「つまり、殿に怨みをのべたのではないかと疑われたのです」  はじめて浅井が声を出した。痩せて長い喉から出た声は野太いものだった。 「もし疑われたような事実があれば、安富の家は、藩で名ある家とは言え断絶を免れません。われわれは迅速に調べに着手しました」 「それで?」  清左衛門が浅井を見ると、浅井は軽く頭をさげるようにしてから言った。 「疑いは一応晴れました。恩こそあれ、殿あるいは殿のご一族とのかかわり合いで、安富どのが殿を怨むような事実は過去に何ひとつないことがたしかめられました」 「それに、源太夫がわめいたのは女子の名前だったという者がおる」  と佐伯が補足した。 「女子? どこの女子かな?」 「さて、それがわからんのだて」  と佐伯が言うと、あとを浅井がひきとった。 「お奉行が言われるとおり、安富どのが口にした名前は女子であったこと、また安富の家の者に事情をただしたところ、源太夫どのはここ一、二年ほどの間、気鬱の病いにかかっていたと疑われるようなことがたびたびあったことが判明し、そのことは勤め先である御使番のほうでもたしかめられましたので、われわれはさきの疑いを解き、調べを停止しました」 「つまりだ。死んだ源太夫を狂者に仕立てた恰好で、家の方は首尾よく首がつながったわけだが、じつを言えば事件はまだ解決をみたわけではない。不明のところが残っておる」 「源太夫がわめいた女子のことか」 「さよう。浅井たちの調べによると、どうも安富の家の者は、源太夫が申した女子の名前に心あたりがある様子だったそうだ。しかし口を緘《とざ》して言わなかったと、そうだな?」 「さようです」  と浅井が言った。清左衛門が、思いついたことを言った。 「城に働く女子の名前ではないのか」 「それは調べました。そういう名前の女子はおりませんでした」 「いまはおらんでも、むかし城勤めをしていた女子ということもある」 「そこも調べましたが、安富どのの言った名前の女子はむかしもいまも、城勤めのなかにはおらんのです」 「はて、面妖な」  と言って、清左衛門は首をひねった。 「何と申す名前だな?」 「ある者はもよと聞き、ある者はもんと申したと聞いております」 「もよか」  清左衛門が首をひねっていると、佐伯が三屋と呼んだ。 「その女子、貴公がさがしてくれぬか」 「わしが?」  清左衛門は訝《いぶか》しんで二人を見た。 「何でそこに、わしが首を突っこまねばならんのだ」 「事情を話すと、こうだ」  と佐伯は言った。  大目付の山内勘解由は、安富源太夫が藩主家に意趣を含んで腹を切ったわけではないと見きわめがついたところで、公式には調べを停止した。安富家の相続がいそがれたからである。  しかし女の名前の問題が残っていたので、その後も浅井たちに命じて非公式な聞きこみをつづけさせていたのだが、昨日になって突然に安富本家から横槍が入った。いったん不審なしと判定した事件を、なおもほじくり返すのはどういう意味かという抗議だった。安富本家の当主忠兵衛は五年前まで中老を勤めた藩内の実力者である。おそらく死んだ源太夫の家の者から、本家の当主である忠兵衛にひそかな要請が行なわれた結果かと思われたが、理屈は忠兵衛の方にあるので、山内は窮した。  そこまで聞いて、清左衛門は言った。 「安富の方では、源太夫が口にした女子の身元を知られたくないわけでもあるのかな」 「山内もそういう見方をしておる」  と佐伯は言った。 「いかにすべきかと、わしに相談があったから、わしは貴公を推薦した」 「だから、なぜそこにわしの名前が出るのかと聞いておる」 「源太夫は貴公と、紙漉町の道場で一緒だったそうではないか」 「たわけたことを。どこから聞きこんだか知らんが、源太夫と一緒だったというのはたったの半年ほどのことだ。ろくに口をきいたこともない間柄では、同門とも言えん」 「なに、たとえひと月でも同門は同門だ」  と佐伯は言った。 「その上、あの男とは釣り仲間だったとも聞いたぞ」 「釣り仲間……」  清左衛門は絶句して佐伯の顔を見た。 「またまた大げさな。たしかに小樽川の釣り場で二、三度顔をあわせたことはあるが、源太夫とは言葉もかわしてはおらんのだ」 「なに、中身などどうでもよい」  町奉行は乱暴なことを言った。 「要するに三屋の隠居が、腹を切った源太夫のことをあちこち聞きまわる名分が立てばよいのだ。二人はもと無外流の同門で、近ごろは釣り仲間だったとくれば、これはすこぶるりっぱな名目になる」 「無茶だ」 「本人が来てはさしさわりがあるので、かわりに浅井が来たが、山内がぜひたのむと申しておる。わしが、ほかに手はないとすすめたのだ」 「ほかにも、ひとはおるだろうに」 「それがおらん」  と佐伯は言った。 「誰かに頼もうとすると、ことは全部公けになってしまうのだ。事情をのみこんで、内密に事情をさぐってくれそうな人物となると、そう多くはおらぬ」 「………」 「気がすすまぬか」 「ま、喜んでひきうけたい仕事じゃないことはたしかだ」 「それでは聞くが……」  佐伯は清左衛門の顔をじっと見た。 「源太夫が狂って死んだと思うか」  清左衛門は、陰鬱な顔をうつむけて釣り糸をたれていた安富源太夫を思い起こそうとした。暗く、物に悩む表情をしていたが、それは狂っている者の顔つきとは違っていたようである。  いや、と清左衛門は首を振った。 「それは違うだろう。源太夫はわけがあって腹を切ったと思う」 「われわれも同意見だ。だから真相を見きわめたいと、山内は言っておる。手伝ってくれんか」 「………」 「安富本家のことは心配いらぬ」  佐伯は清左衛門の気持が少し動いたとみてか、力をいれてそう言った。 「隠居の私ごとに口出しするようなことはさせぬ。そのあたりはきっちりと押さえると、山内も申した」 「さて……」 「源太夫が口にした女子が何者か、知りたいとは思わんか。わしは、ぜひとも知りたい」  清左衛門は、眼をゆっくりと佐伯から浅井へ、そしてまた佐伯へと移してから言った。 「はじめに、誰に会えばいいのかな?」      三  小室甚八は、まだ二十代半ばの若い男だった。小室は、安富源太夫が腹を切ったとき、的場町の木戸に詰めていた足軽である。  小室の母親と思われる女性が、部屋に上がってくれとしきりにすすめるのを固辞して、清左衛門は上がり框に腰かけながら質問した。 「源太夫は、下城の人びとが広場に姿を現わしたころになって腹を切ったと聞いたが、本人が広場に来たのは、すると七ツ(午後四時)ごろのことになるのかな」 「いえ」  小室は、いまは隠居しているとはいえ、ついこの間まで藩の用人を勤めた清左衛門が、単身で組屋敷をたずねて来たことに動顛しているようでもあった。緊張した顔で答えた。 「安富さまが広場に現われたのは、もっと前でした」 「ほう、いつごろかの?」 「おっしゃる時刻より半刻(一時間)ほど前、八ツ半(午後三時)ごろではなかったかと思います」 「なるほど。で、源太夫はずっと高札場のところに立っておったのか」 「いえ、広場の中を行ったり来たりしておりました。かなり、眼につく動きでした」 「ふむ、それで?」 「は?」 「いや、それからいかがしたな?」 「そんなわけで私は安富さまをずっと眺めていたのですが、やがて下城触れの太鼓が鳴って、お城をさがって来た方方が広場に姿を見せると、大声で叫びはじめたのです」 「話しかけるというのではなく、叫んだのだな?」 「はい、叫び声でした」 「狂っていたような声か」 「さあ、どうでしょうか。とにかく、大きな叫び声でした」 「よろしい。そのとき、安富は城にむかって声を出していたというが、まことかの?」 「お城にむかってというか、御門を守るわれわれのほうをむいていたことはたしかです。つまり、高札場を背にしていたのです」 「待った。そうか、そのときは安富はもう高札場の前に立っていたのだな」 「そうです」 「よくわかった。それでは……」  と言って清左衛門は、若い足軽の緊張を解きほぐすように微笑してみせた。 「そのとき源太夫が叫んだこと、そなたが聞いた言葉を、出来るだけそのままに聞かせてもらいたいものだ」 「かしこまりました」  甚八は手のひらで顔の汗をぬぐった。清左衛門も持参の扇子を使った。時折り弱い風が入って来るものの、日が落ちるまでまだ一刻の間がある時刻の暑熱は、家の外から白熱した一団の塊のようになって家の中に侵入して来る。 「聞いていただきたいことがござる、と安富さまははじめにそう叫んだのです」  と甚八は言った。  安富源太夫は、高札場の前に両腕を垂れてまっすぐに立っていた。そして叫び出した。 「安富源太夫は……卑劣な男でござる。おのおの方の前……偽りなく申し上げるが、もよどのの不幸はこの源太夫の……まぎれもない。しかと耳にとめていただきたい。もよどのは……死なれた」  源太夫の声は聞きぐるしくひび割れて、また繰り返しや意味不明のところがある上に、切れ切れにしか聞こえなかったが、およそは右のような言葉を、甚八は聞きとった。  小室甚八が思わずその声に耳をそばだてたのは、城の正面口を警衛する木戸番士の、半ば無意識の警戒本能が働いたせいとも言えるが、しかし源太夫の叫びそのものにも、ひとの耳をそばだてさせる一種悽愴なひびきがこもっていたのである。  やがて安富源太夫は、叫び出したときと同様に、唐突に言葉を切った。と思うと、その姿は突然に人びとのうしろに沈みこみ、立ちどまって源太夫を見ていた者も、われ関せずと広場を横切っていた者も、いっせいに驚愕の声をあげて高札場の方に走るのが見えた。甚八も、番所の内で休息していた同僚にあとをたのむと、高札場目がけて走った。 「そのときは、もう腹を切っていたのだな」 「はい。両手で腹に突っこんだ小刀を握っていまして、あたりはものすごい血でした」 「源太夫が申した女子の名だが、そのとき広場にいた男たちの中には、もんと聞いた者もいるらしい。そなたには、もよと聞こえたのだな?」 「はい。たしかにそのようでした」 「もよどのの不幸か」  これは懺悔の言葉のようだな、と清左衛門は思いながら、甚八にうなずいてみせた。 「いや、よくわかった。せっかくの非番のところをじゃましたな」  礼を言って、清左衛門は博労町の足軽組屋敷を出た。道に出ると、七月半ばを過ぎても少しも衰える気配がない暑い日射しが、頭の上から照りつけて来た。  安富源太夫が広場に行ってわめいたのは、ただの偶然ではなく、かれには長年もてあまして来た心の重荷とでもいうべきものがあって、それを人びとの前に告白し、懺悔する場所として城下の高札場をえらんだものであるらしい。城にも藩主にもかかわりがないと判断した大目付の調べは、間違っていなかったようだと清左衛門は思った。ことの中身は、ごく私的な色合いを帯びて来たようである。  ──もよという女子のことも……。  あまりつつかない方がいいのではないか、とも思われて来るが、しかし腹を切って償わねばならないほどの心の重荷とは何かと、源太夫をあやしむ気持があるのも事実だった。  調べを源太夫の身辺にしぼりこめば、謎はおのずから解けて来るのではないかという気がした。源太夫は若いころ、安富に婿に入った男であることを思い出し、清左衛門は浅井作十郎に使いをやって、源太夫の経歴を調べてもらおうと思った。      四 「すると源太夫は……」  と清左衛門は言った。 「こちらの道場に来る前は、染物町の市村道場に通っていたわけですな」 「そうです。なかなか腕が立ったほうでした」  と中根弥三郎が言った。紙漉町の中根道場の当主弥三郎は、清左衛門より三つ年下で、丸顔で温厚な顔をした男だが、剣の方はまだ少年のころから天才児の名をほしいままにし、先代に見込まれて婿になり道場をついだ人物である。空前絶後と言われた中根弥三郎の剣を破る門人は、その後も現われていないということを聞いている。 「それが、こっちに移って来たというのは?」 「安富に婿入りしたからでしょう」  中根はにが笑いした。 「あのひとは、そういうことに機敏なところがありましたから」 「なるほど」  清左衛門はうなずいた。いまはどうなっているか不明だったが、清左衛門の若いころは染物町の市村道場には軽輩の子弟が、紙漉町の中根道場には百石以上の家の子弟が通うという、不文律のようなものがあったのである。  浅井に調べてもらったところによると、安富源太夫は普請組で三十五石をもらう池田の家の四男坊で、二十のときに安富に婿入りした。安富家は藩の重職の家系につながり、家禄は百二十石である。  源太夫の名前ははじめの池田与之助から安富与之助に変り、つぎに家督をついだときに安富源太夫と改めたのだが、中根の話によれば源太夫が中根道場に移って来たのは、安富家に婿入りした直後ということらしかった。源太夫と道場で一緒だった時期が短かったのを、清左衛門は自分の方が家督をついではやく道場通いを廃したせいかと思っていたのだが、源太夫の方も中根道場に来るのがおそかったわけである。  ──しかし……。  勇んで移って来たのだろうな、と清左衛門は思った。近年は知らず、若い時分の源太夫はそういう性格だったようである。 「道場で、とくに源太夫と懇意にしていたという男はおらなかったかな」  と清左衛門は聞いた。安富の身辺を洗えば、もよという女子のことはすぐにもうかび上がって来るのではないかと清左衛門は思い、二、三日安富の実家や近所の家を聞き回ったのだが、おどろいたことにもよのもの字も出て来なかったのである。  清左衛門はそこで方針を変えて、道場の交友関係を調べてみることにして中根道場に来たのだが、清左衛門のその質問に、中根弥三郎は首を振った。 「これといった友だちは出来なかったようですな。むろん、そうくわしく見ていたわけではありませんが、ここではあのひとは孤立しがちでした。やはり途中から移って来たせいでしょう」 「そうか。それは困った」 「そのころ懇意だったひとをおさがしでしたら、市村に行ってみられてはいかがでしょうか」 「それも考えぬではなかったが、なにしろ雲をつかむような話なもので、ちと気持が臆した」 「いや、市村道場にもそれがしと懇意なものはおります。その者にたずねれば、安富さまが若いころに親しんだ者の名前は、難なく知れ申しましょう」  中根の言葉は、窮したかと思われた清左衛門の調べに新しい道をひらいたものだった。中根の紹介で、清左衛門はその日のうちにむかし市村道場で師範代をつとめた溝口という男に会い、さらに数日の間に溝口から名前を聞いた三人の男に、それぞれに会うことが出来た。  そして三人目の男、郷方勤めの笠原重助という下士がもよの名前をおぼえていたのである。 「それは友世というひとのことでござりましょう」  日焼けした皮膚を持ち、面長のくたびれた顔をした笠原は、そう言うと真黒な顔に何とも言えないなつかしげな微笑をうかべた。 「ずいぶんむかしのことで、おっしゃられるまでそのひとのことは忘れておりました」 「安富源太夫、若いころの池田与之助とかかわりがあった女子に間違いないか」 「間違いござりません。二人はひところ、ひそかに夫婦約束をかわしておったようでした。もっとも、そのことを知っているのは、われわれ二、三の仲間にすぎませんが」 「友世と申す女子の素姓は?」 「御|餌差《えさし》頭の娘でござりました」  御餌差は鷹狩りの鷹の餌にする小鳥を捕る足軽で、御餌差頭はその足軽たちを指揮し、二十石の小禄ながら一応は家中身分に属している。御餌差頭と餌差足軽は、鷹匠町の北にある広大な御餌差組屋敷に住み、ともに鷹匠頭の支配下に属していた。 「普請組の四男坊と御餌差組の娘が、どんなきっかけで知り合ったものかの」 「盆踊りです」  と笠原は言った。 「われわれ下士の倅は倅で、組をつくって踊りに加わりましたので」  踊りの支度を手伝いに来た女たちの中に友世がいて、与之助と知り合い、二人は相惹かれるようになった。与之助が十八、友世が十六のときである。  だが二年ほどして、与之助に家中の上士である安富家から縁談が持ちこまれると、ままごとのような恋はあっけなく終わった。与之助は安富の婿になり、一年後に一人娘だった友世も婿をもらった。いま御餌差頭をつとめる横山権七郎がその婿である、と笠原は言った。 「あわれなのは、権七郎を婿に迎えて二年ほどして、友世が病死したことでござります。権七郎はその後、後添いをもらって横山家を建て直しましたが、友世との間に子はありませんでしたので、横山の血は絶えました」 「そうすると源太夫は……」  と清左衛門は言った。脳裏に、安富源太夫は、卑劣な男でござるという声が、かすかに谺してひびき合ったような気がした。 「友世を裏切ったと考えていいわけかな」 「形から言えばまさに裏切った、捨てたということになりますが、しかし……」  笠原は意外に慎重な口ぶりで言った。 「何分二人とも、物事を深刻に考えるには若すぎる年ごろのことでもあり、そのころ二人の間にどのような話があったものか、まことのところはわかりません」 「源太夫からその後、友世を捨てたことを悔むようなことは聞いたことがなかったかの」 「ありません。かりに心にそう思っても、与之助はその後悔を口に出す男ではござりませんでしたゆえ。与之助は、もっと強気な男でした」 「ところがそうばかりでもないらしくてな」  と清左衛門は言った。 「源太夫が腹を切ったことは聞いておるな」 「はい、それがしは村回りをしていたときで、話はあとで聞きましたが、おどろきました」 「源太夫はそのとき、広場にいる人びとにむかって、友世というひとの不幸は自分のせいだと告白したらしい」 「………」 「安富源太夫は卑劣な男だと、自分を責める言葉も吐いたと申すから、友世という娘を裏切って上士の安富の婿になった自分を責め、人人の前におのが醜行を懺悔したと考えるほかはないようなのだ」 「そうですか」  笠原重助はうつむいて考えこむ様子をみせたが、やがてその顔に静かな感動のいろがひろがった。 「すると与之助は、あのときやはり友世を捨てたのでしょうな。しかも友世が若死にしたので、消えない悔恨が残ったものでしょう。そう考えると、三十年胸に悔恨を隠して来た与之助もあわれでござりますな」 「しかし、人間それだけで腹を切る気になれるものかな」 「それは……」  と言って、笠原は一瞬鋭い眼を清左衛門に投げた。 「ご他言無用にお願い申しますが、本人からではなく、ひとに聞いた話によりますと、与之助は安富の家ではあまり厚遇されなかった由です」 「理由は?」 「身分違いの家から婿入りしたということでござりましょう。よくあることです」 「ふむ」  清左衛門は小さくため息をついた。やり切れない話を聞いたようである。気を取り直して笠原を見た。 「横山の娘友世にはそなたも会っていると思うが、どんな女子だったかな?」 「色白で小柄、あまり物を言わぬおとなしい娘でござりました」 「病死したあたりのことは知らんか」 「そのころには、それがしも郷方勤めが決まって城下をはなれましたので、いっこうに知りません」 「誰か、事情を知る者はおらんかな」      五 「おそらく横山のその娘は……」  清左衛門は、使いをやって家に呼んだ佐伯熊太と浅井作十郎にむかって言った。 「源太夫に捨てられたあと、べつに親のすすめる婿をもらったものの、鬱鬱とたのしまず病気がちになって死んだという事情だろうな。そのことが源太夫の胸に重い痛手となって残ったのだ」 「………」 「しかし腹を切った直接の動機はそれではない。源太夫は家の中で、いたってつめたい扱いを受けておったそうだ。何十年にわたってだな」 「その話は誰かに聞いた」  と佐伯が言った。清左衛門はつづけた。 「だから源太夫が気鬱の病いにかかっていたというのは真実かも知れぬ。狂うところまでは行かなかったとしても、気持がきわめて不安定になっていたことは考えられる」  清左衛門は、また陰鬱な顔をじっと川の流れにむけていた源太夫を思い出している。 「そこに、友世についての辛い思い出が引き金になったのだ。多分な」 「………」 「若いころはさほどに気にもかけなかったことが、老境に入ると身も世もないほどに心を責めて来ることがある。源太夫の胸の中でも、いつごろからか知らぬが友世という女子にかかわる悔恨の念が、みるみるふくれ上がり、あの日ついに暴発して源太夫を切腹に追いこんだというのが真相ではないか」 「みごとな推測だ。な? それ以外には考えられない」  と言って、佐伯が浅井を見ると、浅井もうなずいて言った。 「これで安富一族が調べをいやがったわけもわかりましたな」 「源太夫を冷遇したことが外に洩れては、世間体がわるいという考えだろう。婿もよく相手をえらばぬと種馬あつかいにされるという例だ」 「安富では、友世のことも知っていたかも知れません」 「あり得る」  佐伯はうなずいて清左衛門を見た。 「むかしの醜聞を掘り返されるのを嫌ったのかも知れんて。いや、三屋、とんだごくろうをかけたが、これで事件はすっきりと解決した。山内もさぞ大喜びすることだろう」 「まことにお手数をおかけしました。いずれ、大目付もお礼に参ることと存じます」  浅井作十郎も、深深と頭をさげた。  一日おいて、三屋清左衛門は鷹匠町の御餌差組屋敷をたずねた。清左衛門は佐伯と浅井にほめられて大いに気をよくしていたが、報告した自分の調べのなかに、一点の疑念が残っていることを感じていた。  疑念と言っては少し大げさになるかも知れない。画龍点睛を欠くといったほどの気分のことである。清左衛門は、笠原重助から名前を聞いたむかし友世と昵懇《じつこん》の友だちだったという女性にまだ会っていなかった。今日は、その女性をたずねて来たのである。  朝のうちにめずらしく雨が降ったが、空はたちまち晴れて、清左衛門が鷹匠町に着くころには、日はいつものように暑苦しく頭上に照りわたった。清左衛門は汗をふきふき、組屋敷に入った。笠原に言われた家をたずねると、四十半ばほどの大柄な女が出て来た。年江というたずねる女だった。年江は組屋敷に生まれ、組屋敷の中の餌差足軽に嫁いだのである。  清左衛門は安富源太夫の事件から話を切り出すと、笠原重助に若いころの源太夫と友世のことを聞いたことも話し、源太夫は友世の若死にについては、自分に責任があると考えていたらしいと、滔滔《とうとう》とのべ立てた。 「友世というその女子は、婿をとって二年ほどして亡くなったのだそうだな。思うに源太夫に捨てられて、婿をもらったものの気分は少しもたのしまず病気がちとなったのではないかと思われるが、そのへんの事情はそなたがもっともくわしいと聞いた。ぜひ聞かせてもらいたいものだ」  年江は丸顔に微笑をうかべて、ところどころでうなずきながら聞いていたが、清左衛門がしゃべりおわると笑顔を大きくした。 「お話はよくわかりましたが、おっしゃるようなこととは、事情は少し違うと思いますよ」 「どう違うな?」 「友世さんは気落ちなどしておりませんでした。そりゃたしかに、与之助さんが突然に安富さまの婿におなりのときはびっくりしたようでした。でも与之助さんはもともと実のないひとでしたから、友世さんのあきらめは早かったようですよ」 「………」 「それに迎えたお婿さんがりっぱなひとでした。友世さんはお婿さんに夢中で、よく私の前もかまわずに旦那さまにふざけかかるので、年下の私は顔を赤くして逃げたものです」 「友世はおとなしいひとだったと聞いたが」 「見かけだけでございますよ。気性は活発なひとでした」  こともなげに言う年江を、清左衛門は呆然と見つめた。 「権七郎さんも、友世さんをかわいがりましてね。亡くなったあと五年も後添いをもらわなかったほどでした」 「すると、身体が弱かったということは?」 「いいえ、いたって丈夫なひとでしたのに、どうしたことかあの冬は風邪をこじらせて、ふっと亡くなったのです」  清左衛門は御餌差屋敷を出た。日は相変らず暑かったが、遠くの空にうかんでいるのは秋の雲だった。  ──何か、ひどい思いこみをしたようだ。  と清左衛門は思った。自分だけでなく、あの安富源太夫も勝手な思いこみから命をちぢめたようにも思える。探索の自信がみるみる消えて、清左衛門は餌差足軽の女房年江から聞いた話は、当分誰にも言うまいと思った。ひとに話しては、源太夫がかわいそうだという気がした。 [#改ページ]   零  落      一  鶴子町の保科塾を出ると、顔にぽつりと雨があたった。おどろいて空を見上げると、低いところに灰色の雲がいっぱい出ていて、上空には風があるらしく雲は西から東にいそがしく動いている。雨を落としたのは、その雲らしかった。  はげしく動く雲の間に、まだ七ツ(午後四時)ごろの青い空が見え隠れしていたが、西空は日暮のように暗くなっている。  ──ひと雨来そうだな。  と、三屋家の隠居清左衛門は思った。いそいで鶴子町を抜けて河岸の道に出た。その道を西に行って、雁金橋のひとつ手前の小さな橋を南にわたれば、家にもどるにはかなりの近道になる。  雨は一度ぱらついただけで、清左衛門が河岸に出たころにはやんだ。しかし空は歩いている間にもみるみる暗くなって、木木の葉が半ば落ちてしまっている町が、にわかに荒涼とした気配に覆われるのが見えた。やはり雨を恐れているのだろう、すれ違う通行人が小走りに駆けて行くが、武家である清左衛門は町人のように駆けることもならない。見えて来た橋を目ざして足をいそがせた。  だが、やはり間に合わなかった。清左衛門がようやく橋に踏みこんだときに、川の上流に雨音が起きて、水面をたたくその音はたちまち清左衛門がわたっている橋に達した。清左衛門も橋も、みるみる濡れた。  たまらず、清左衛門も走った。橋を駆け抜けると、そのさきは小禄の武家屋敷がならぶ百人町である。道の両側には、雨やどりする門もないような家がつづいたが、左手にようやく粗末な草|葺《ぶ》きの笠門が見えた。清左衛門はその下に逃げこんだ。  懐紙を出して、まず脇の下に抱えていた風呂敷包みをぬぐい、それから髪と衣服をぬぐった。風呂敷の中身は、保科笙一郎から借りて来た老子、孟子の抄本と唐詩正声である。 「いま塾生はこれを読んでおります」  保科は清左衛門の晩学の志をほめてから、その本をわたして、ひととおり眼を通してから、塾生と一緒に講義を聞いてはいかがかと言った。  ──あのひとは……。  大物になりそうだな、と清左衛門はやや小やみになった雨の様子をたしかめながら、まるで年長の人間のようなどっしりした貫禄で物を言った保科笙一郎を思い返している。  保科は実際はまだ三十四だった。藩命で江戸に遊学して幕府の昌平黌《しようへいこう》に学び、そのあとも江戸の高名な学塾に学んで、四年前に帰国したばかりだが、藩では帰国した保科をすぐに藩校彰古館の助教に任命した。相当の学者でも、藩校に奉職するときは典学からはじまるのが普通だが、その身分を越えての抜擢《ばつてき》である。保科に対する藩の期待の大きさが窺われた。事実保科笙一郎は、いずれは藩校の中枢に坐る司業、学監の地位にすすむ器だろうといううわさも、清左衛門は耳にしていた。  思い切ってたずねて行ってよかったと、清左衛門は思っている。経書をかかえて保科塾にかようことになるかと思うと、気持が若返る感じがするばかりでなく、前途に、宮仕えのころは予想もつかなかった新しい世界がひらけそうな気もして来る。束脩《そくしゆう》をさし出して、きちんと塾生に加えてもらうことにしよう。  清左衛門の思考は、またひとしきり降って来た雨の音に中断された。一過性の時雨で、大した雨にはなるまいと思った予想がはずれて、どうやら本格的に降りつづく気配である。肩がつめたいと思ったら、門の屋根から雨が漏っている。  片とびらの古びた門扉はひらいたままになっていたので、清左衛門は雨漏りを避けて敷居まで後退した。すると、背後からひとに呼ばれた。 「そこのおひと」  という声に振りむくと、戸があいて玄関の前に男が立っている。着流しで、羽織も着ていない人物だった。この家の主だろう。  清左衛門は、いそいで会釈した。 「突然の雨で、ことわりもなく軒をお借りしてござる」 「この雨は、ちょっとやみそうもありませんな」  と男は言った。 「傘をお貸し申しましょうか」 「それはかたじけない」  清左衛門は礼を言ったが、傘を貸すと言った男は動かなかった。黙って清左衛門の方を見ている。やがて言った。 「これはおどろいた。迷いこんで来たのは三屋清左衛門らしいな」 「いかにも三屋だが……」  清左衛門は男を見返したが、あたりがうす暗いうえに玄関までは距離があるので、男の顔はぼんやりとしか見えなかった。ただ大よそは同年配の男らしいと見当がついただけである。 「そう言われるそちらは、どなたでござろうか」  男はすぐには答えず、突然にしゃくり上げるような笑い声をたてた。礼儀にかなう応対とは言えなかった。笑いやむと、男は無作法な口調のままで言った。 「金井奥之助だ。ひさしぶりだな」 「奥之助」  清左衛門は絶句した。亡霊に出会ったような気がした。金井奥之助は清左衛門より二つ年上で、若いころに昵懇のつき合いをした男である。同じ道場に通い、城中でも同じ御小納戸に勤めた。しかしある時期を境に二人の交際はぷっつりと絶え、清左衛門はその後金井の消息を聞くこともなく、三十年ほどが過ぎたのである。むろん、そうなったのにはわけがある。 「死んだと思ったか」  顔の表情までは見えないが、清左衛門はそう言った金井がにやにや笑っているのを感じ取った。 「ま、中に入ってお茶でも一杯どうか」 「いや、そうしてもおられんのだが……」  雨はまた小降りになっている。それに金井奥之助は、やあしばらくだと、偶然の邂逅《かいこう》をよろこんで肩をたたきあうような相手ではなかった。清左衛門の胸のうちには、長い間心のうちでひそかに会うことを避けて来た男に、ばったり顔を合わせてしまった当惑がある。  清左衛門の逡巡をすばやく見抜いたらしく、金井がわずかにしつこい感じの口調で言った。 「ざっと三十年ぶりだろう。ごらんのとおりのあばら屋だが、素通りはちとつれないんじゃないのか」 「では、ほんの一服だけ」  清左衛門はそう言うと、門を出て小走りに玄関まで走った。  そこに金井奥之助が立っていた。痩せた長身はむかしのままだったが、奥之助の顔は若いころの面影をとどめないほどに変っていた。灰色の髪、眼の下の黒ずんだ隈、眉間にきざまれた深い縦皺、深くくぼんだまま血色を失っている頬と喉のたるみ。そして若いころの奥之助は持たなかった、猜疑を宿しているような暗い眼が、じっと清左衛門にむけられている。  立っているのは、一人の老人だった。清左衛門は驚愕に胸をつかまれるのを感じた。このおれももはや老人だろうが、奥之助にくらべたらまだ壮年だという気がした。 「おたがい……」  おどろきを隠して、清左衛門は言った。胸に、振り切って帰るべきだったかという後悔が兆している。 「すっかり年を取ったようだ」 「いや、貴公はまだ若い」  そっけない口調で奥之助が言った。 「用人と二十五石の村回りの差だ。それにわしは大病をしたし、家内もはやく亡くした。苦労は、ひとを老けさせる。ま、上がってくれ」  奥之助は、背をむけて、狭い式台に上がった。 「ご内儀を亡くしたとな」 「うむ、死んでからはや十年はたつ。だが嫁がおるゆえ、お茶ぐらいは馳走出来よう」  しかし、家の中は暗く、玄関に客の声がしているのに、その嫁は姿を見せなかった。      二 「しかし、どうもわからんのだて」  酔った金井奥之助が言った。二人がいるのは三屋家の離れ部屋である。 「ともに紙漉町の道場に通っていたころは、この家はたしか百二十石だった」 「さよう」 「三十年たってみると、そのころ百五十石だったわしの家は二十五石におちぶれて、貴公の家は二百七十石にのぼっておる。どこで、どう喰い違ったものかの」 「それは、貴公にもわかっておるのではないか」  と清左衛門は言った。言い方は異っても、奥之助の話は毎度おなじようなところに落ちついて来る。わが身の不運をなげき、そのあとはひとしきり愚痴になる。  清左衛門はわずらわしかった。いつの間にか容易ならない重荷を背負いこんだ気がしている。 「むろん、わかっておる」  と言って、奥之助は銚子をつかむと、手酌で盃に酒をついだ。酒はそれでおしまいらしく、奥之助はしきりに傾けた銚子を振っているが、清左衛門は気づかないふりをした。  たずねて来た最初の日に、お茶をはこんで来た初対面の里江に、奥之助がいきなり酒があれば酒をいただきたいと言ったので、そのあとは来るたびに一、二品の肴をそえて酒を出しているが、もともと奥之助をそこまでもてなさなければならない義理はない、と清左衛門は思うのだった。  ──いや……。  旧友だから酒を出すぐらいは何でもない、と清左衛門は思う。気になるのは奥之助の態度の中に、落ちぶれた境遇を逆手にとって、もてなしを強要する気配が感じられることだった。 「わかっておるとも」  奥之助は繰り返して言うと、盃の最後の酒をすすった。さほど飲んだわけでもないのに、顔は猿のように赤くなっている。 「政変があった。貴公は頼るひとを間違えなかったが、わしは間違えた。明暗がそこでわかれたのだ」 「それだけではなかったはずだ」  清左衛門は静かに言った。 「ご内儀のことがある。頼るひとを変えることは、ご内儀との約定を破ることだった。たしかそうだったな」 「それはそうだ」 「それなら愚痴は言わぬことだ」  清左衛門は語気をつよめた。 「おのれが信じるところに殉じたわけだろう。以て瞑すべきだと、わしなら思うところだな」 「しかし肝心の家内とはうまくいかなかったのだ。犬猿の仲だったよ。死なれたときは正直のところほっとしたほどだ」  奥之助はそこで低い笑い声を立てた。 「わかっておるとも。それをいま言ったところでどうにもならぬ」 「………」 「ただ、解せぬ思いがするわけだ。二百七十石と二十五石、十分が一だ」  奥之助は蛇のように底光りする眼で、清左衛門を見た。 「ひとの世はおもしろい。三十年たってみれば十分が一だ、ハ、ハ。いや、馳走になった」  ゆらりと頭をさげると、奥之助は唐突に立ち上がった。むろん、清左衛門はひきとめなかった。  奥之助を送り出して離れにもどると、清左衛門は縁側の障子をあけた。中に籠っている酒の香を散らすというよりも、金井奥之助が残して行った不快な後味を払いたいといった気分が強かった。  外の空気は思ったよりもあたたかかった。塀の上から斜めにさしこむ日射しが、庭の石を赤く染めている。時刻は七ツ(午後四時)を過ぎて、日は間もなく足早に暮れるはずだった。  部屋に入って来て酒のあとを片づけていた里江が、おとうさまと言った。 「金井さまのことですが……」  振りむいた清左衛門を、里江は手を膝においた姿勢で仰ぎながら言った。 「このところ、よくおみえになりますね」 「すまんな」  清左衛門は畳にもどって坐った。 「そなたらに厄介をかける」 「いえ、それはいっこうに構いませぬ。酒代と申しても、あの方はさほどにおのみになりませんから、気になさることはありません。ただ……」 「ん?」 「あの方がいらっしゃるのを、おとうさまはあまり喜んでおられないように見えますけれども」 「まあ、そうだ。古い友だちだから来るなとも言えぬだけで、うれしい客というわけじゃない」 「むかしに何か、お若いころにでもあの方に借りでもございましたのですか」 「借りというわけではないが……」  嫁の、いかにも内輪の会話らしい俗な言い方に、清左衛門はにが笑いした。 「しいて言えば、わしはしかるべき地位を得て禄もふえたが、奥之助は家禄をへらして、ま、不遇と言ってよい暮らしをしておる。それが借りかな。やつの家で茶を一杯ふるまってもらったが、いや、粗末な家だった」 「そうですか」 「もとは同列だったものが、三十年会わずにいる間にその違いが生じた。若い間は功名心もはげしくまだ先があるとも思うから、多少の優劣などということでは決着がついたとも思わぬものだが、年取るとそうはいかぬ。優劣はもはや動かしがたいものとなり、おのがことだけでなく、ひとの姿もよく見えて来るのだ」  清左衛門は、ついでだから金井奥之助のことを嫁に話しておこうかと思った。 「奥之助がいまのようになったのには、わけがある」      三  近く藩を二分する政変が起きるだろうといううわさがささやかれるようになったのは、清左衛門も金井奥之助も御小納戸勤めをしているときだった。二人ともまだ若く、清左衛門は二十三で奥之助は二十五だった。  うわさの中心にいるのは家老の山村喜兵衛と組頭の朝田弓之助である。山村は十年にわたって藩政を指揮して来た実力者で、山村が筆頭家老となってからの十年は、領内が比較的穏やかにおさまったと言われていた。  従って敵対する者などはなく、あと数年はこのまま山村を中心にしたいまの執政たちが、藩政を執行して行くものだろうとみられていたのに、事実は異って水面下で山村、朝田のはげしい権力争いが行なわれて来たというのだった。  朝田弓之助は家柄も山村より上で、頭脳明敏な器量人と呼ばれる組頭だった。齢は若く当時はまだ三十半ばだった。その朝田が、ひそかに山村の失政をひろい上げ、その証拠をそろえてやがて山村に政権交代を迫るだろうといううわさが、藩内をさわがせたのは当然である。その時期は藩主が江戸から帰国する来春で、朝田はその前に山村に会って政権譲りわたしをかけ合い、聞かれない場合は藩主に弾劾書を提出するつもりらしいといううわさも流れた。  朝田側があつめた山村の失政というのはこれこれだと、秘密めかしたことを触れまわる者もいれば、またそれを否定して、失政の証拠をにぎったというのは朝田側の単なる脅しで、山村喜兵衛に失点はない、藩政はこのまま現執政にゆだねるべきだと説く者もいて騒然として来た空気の中で、あちらの屋敷、こちらの屋敷で夜分しきりに会合がひらかれた。  政権を争うということになれば、単純な理屈の言い合いで事が決まるわけではなく、藩内にどれだけの支持勢力をまとめることが出来るかが、勝敗をわける鍵になって来る。両派ともにひそかに家中藩士に支持を呼びかけて、数の取り合いになったのだが、呼びかけを受ける側にも打算の気持が働いて、政争決着後の褒賞を目あてに巧妙な立ちまわりをみせる者も出て来た。  だが若い清左衛門や奥之助に、その種の老獪《ろうかい》な立ちまわりなどというものが出来るわけがなく、はじめの間は呼びかけられるままに、うろうろと両派の会合に出入りするばかりだったのである。  そして、清左衛門がようやく政争の先行きに見通しらしいものをつけることが出来たのは、年が変って長い冬が終ろうとするころだった。藩主が帰国するまで、あとふた月ほどの余裕しかない。そんなある日、清左衛門は奥之助に言った。 「おれはご家老側に与《くみ》することに決めた。貴公は決まったか」 「おれは組頭の方だ。そうか、ここに来てわれわれも二派にわかれてしまったか」  奥之助は愉快そうに笑った。 「どっちの見通しがあたるか、見ものだな三屋」 「………」 「しかし、考え直す方がよくはないか。いろいろなひとに意見を聞いたが失政は事実だそうだ。まず山村家老に勝ち目はないぞ」 「この春はな」  と清左衛門は言った。 「しかし、そのあとのことはわからんぞ」 「そのあと?」 「山村家老は今度の争いに負けるかも知れぬ。だがおれが聞いた話では、いまの藩政を支えているのは、じつは、家老たちではなくて中老の遠藤治郎助どのだというのだ。これまでの十年、藩がよくまとまって来たのは山村家老の手柄ではなくて、遠藤どのの采配がすぐれていたからだと、ひそかに言う者がおる」 「………」 「筆頭家老は、遠藤どのほかの執政から事実は腫物扱いされていたらしい。組頭が指摘するような失態も実際にあって、この春の朝田派の攻勢を受けとめ切れまいと遠藤治郎助どのはみておられると聞いた」 「………」 「しかし半面、それで山村家老が藩政から身をひくということになれば、それはそれでねがってもないことだというわけで、あとは遠藤どのは黙ってその後の推移を見まもるつもりらしい。朝田弓之助どのはたしかに頭の切れる組頭だが、いまのむつかしい藩政を切りまわすには少少齢が若過ぎる。つまりは経験不足、いずれボロが出るとみているのだ」 「ふむ、そういう見方か」 「いまの執政は、筆頭家老本人に少少問題があったというだけで、概してうまく藩政を動かして来た。朝田派にボロが出れば、政権は自然に現執政にもどって来る。そのときは遠藤どのを中心にした新しい執政の顔触れが出来るだろうという見通しが出来ておる」 「それもひと理屈だな」 「おれはこっちに賭けた。どうだ、そっちこそ考え直す時期じゃないのか。朝田派から乗り換えるというのなら、家老派というよりも遠藤派のしかるべき人間にひき合わせてもいいぞ」 「しかし、話はそうと決まったわけではあるまい」 「むろん、決まったわけではない」  と清左衛門は言った。その日非番の二人は、言い合わせて道場に行った帰りで、話している場所は紙漉町のはずれにある橋の上である。  川は小樽川とはべつに、城下の東から入って来て市内を北に抜ける川である。夏は小舟も通う川だがいまは水が少なく、石垣の下に露出している泥土の上には、ひと月ほど前に降った大雪の名残りのよごれた雪が乗っていた。そのあたりを力のない早春の夕日が照らしているのを見ながら、清左衛門は言葉をつづけた。 「どっちにころぶかはまだわからない。しかしおれはひとにひき合わされて遠藤中老に会ったが、あれは人物だぞ。感心したな」 「経験不足か」  清左衛門が何を言いたがっているかはわかっているらしく、奥之助は小声でつぶやいた。おそらく頭の中で、若い組頭と齢は十しか違っていないが、老練の政治家である遠藤中老とを比較してみたのだろう。  だが奥之助は、すぐにうす笑いをうかべた顔を清左衛門にむけた。 「おたがいにかなり深入りしてしまったようだな。しかしおれも、いまさら中老派に乗り換えるというわけにもいかんのだ」 「多加どのと約束が出来たのか」  と清左衛門は言った。多加は御小納戸組頭の三女である。気性の活発な美人だった。  御小納戸組頭の池内弥右衛門は熱烈な朝田派で、若い組頭の才幹を高く買っていた。その関係で藩内二派の対立がはっきりして来ると、清左衛門と奥之助もたびたび池内の屋敷に呼ばれた。そのときにもてなしに出て来た多加に、二人ともひと眼で心惹かれてしまったのだが、その度合いは奥之助の方がはげしかった。奥之助が清左衛門には内緒で、派閥争いを口実にその後もたびたび池内の屋敷に出かけていることを清左衛門は耳にしていた。  清左衛門が池内家に行くことが次第に少なくなり、対する遠藤中老の側に近づいて行った理由のひとつは多加にあると言ってもよい。奥之助と多加を争う気持はなかったが、やはり仲のよい二人をそばで見ているのはおもしろくなかったのである。 「結納までは行っておらんが、内内の約束は出来た」  と奥之助が言った。表情は平静だったが、声にはずみが出た。 「この秋には祝言のはこびになるだろう」 「それはよかったではないか」  と言ったが、清左衛門はどうしても自分の声がつめたくなるのを感じた。 「そうなると、組頭を裏切って遠藤派を支持するというわけにはいかんな」  そのときそう言ったのが、二人のわかれ道になったと清左衛門は嫁の里江に言った。 「その後の情勢は遠藤どのが予見されたごとくになった。朝田弓之助どのは政権をにぎって家老となられたが、たった三年で藩政を投げ出し、そのあとに筆頭家老の職についた遠藤治郎助どのがひきうけられた」      四 「意外だったのは家老にのぼって藩政の表に出て来た遠藤どのが、かつての両派の抗争を取り上げてきわめてきびしい賞罰を行なったことだった。おそらく朝田派が政権をにぎったものの、藩に益するところがなかったどころか害を残したのを咎める意味もあったかと思うが、それにしてもきびしい処分だった」 「………」 「わしは加増もうけ、役ももらって得をしたが、御納戸奉行にすすんでいた池内どの、その縁につながって普請組小頭になっていた奥之助は食禄半減の処分を受けたのだ。遠藤どのの処分は、朝田派に与して加増、昇進をはたしたひとびとにことにきびしかったのでやむを得ない。しかしこの賞罰の徹底によって、以後の十年、遠藤家老の藩政が小ゆるぎもせずつづいたのはさすがだった」 「それにしても」  と里江が小首をかしげた。 「金井さまのただいまの二十五石というご家禄は、少なすぎるように思いますけれど」 「それはな」  清左衛門は、また立って縁側に行った。日は遠い砂丘の陰に落ちてしまったらしく、庭石や山茶花の白い花にかすかな光がまつわりついているだけだった。やはり寒くはない。 「処分から四年たって奥之助が遠藤家老がくだした処分の不当を訴える上書を提出したからだ。あて先は藩主の叔父御信濃守さまだが、その上書に述べられている文言がきわめて不穏だったという話だ。その事件があって、さらに食禄を三分が一に落とされたのだ」 「………」 「それ以来わしは奥之助に会わなかった。会って顔を見るのがつらいということもあったが、身分が変って会う機会もなくなったのだ」 「しかし、おとうさま」  と里江が言った。 「いずれにしても、お話をうかがったかぎりでは、あの方に負い目をお感じになることも、怨まれる筋合いもひとつもないと存じますけれども」 「怨まれる?」  清左衛門は振りむいて嫁を見た。なるほど怨恨かと思った。はなはだしい身分のへだたりは、羨望などというものを越えて憎悪と怨恨の心を生み出したかも知れぬ。それがあの無気味な感じがする強要の正体ではあるまいか。借りとは少し甘い考えだったかも知れない。  もっとも、奥之助自身がそのことに気づいているかどうかは不明だと思いながら、清左衛門は里江に聞いた。 「そのように見えたかの」 「お気をつけなさいまし」  と里江は言った。 「申しては失礼かも知れませんが、あのお方はおとうさまに何ごとか含むところがおありで、それであのようにしげしげとたずねてみえるように思われてなりませぬ」 「大体の顔つきがそうだ」 「いいえ」  里江はつよく首を振った。 「そうではありませぬ。おとうさまがあの方をむかえるのを喜んでいらっしゃらないように、金井さまも、この家をたずねるのを喜んではおられないように見えますよ」 「これはしたり」  と清左衛門は言った。大体の見当はついていても、嫁の口からそう言われるとやはり胸にこたえるものがある。すると、あれはどういうことなのだろう。 「今日は奥之助に、磯釣りに誘われた」 「まあ、いつのお約束ですか」 「明後日。しかしやつの気持がそうだとすると、うかつに海になど行かぬ方がいいかも知れんな」 「おやめなさいまし」  里江は即座に言った。緊張で顔色が青白く変ったように見えた。 「あの方に、油断は禁物でございますよ」  しかしまさかと、里江が部屋を出て行ったあと、清左衛門は腕を組んで思案に耽った。身分に差がついたのがうらめしいと、まさか奥之助がわしを殺しもしまい。  それにとことんつき合わないことには、奥之助は本心を見せないだろう、という気もした。だらだらと、いまのようなつき合いがつづくのも不愉快だが、中途半端な扱いのままで奥之助がつき合いを切り上げることは考えられなかった。  ──磯釣りに行ってみようじゃないか。  と清左衛門は思った。そこで奥之助が、何かを仕かけて来るのか、それとも何にもしないかで、奥之助が何を考えているか、答はおのずから出て来るだろうと思ったのである。      五  破船の陰で、ひとしきり火を燃やして談笑していた男たちが去ったあとは、海辺は波の音だけになった。灰いろににごった海が、時折りとんでもない高い波をはこんで来ては、足もとの岩を叩いて行く。  清左衛門は釣糸を垂れたまま、首をまわして磯を見まわした。岩の間を縫って、こちらに歩いて来る奥之助の姿が見えるばかりで、ほかに人影は見えなかった。空は気持よく晴れているが、風がつめたかった。  もう間もなく日が落ちるとみて、釣りびとは引き揚げて行ったのだ。多くは家中藩士だった。若い者の姿もけっこうまじっていたのは、非番に海まで足をのばして来たのだろう。  ──そろそろ……。  引き揚げた方がよさそうだ、と清左衛門は思っていた。百姓のように蓑《みの》を着て、足に藁はばき、手には手甲《てつこう》をつけているが、それでも絶えまなく襲いかかるしぶきを避け切れず、着ているものはいつの間にかじっとりとしめっている。 「そろそろ、帰るか」  清左衛門はこちらの岩にのぼって来る奥之助に声をかけた。また警戒心がもどって来た。おたがいに場所を変えるまで、二人は一刻以上も同じ岩の上で釣ったが何事も起きなかった。怨恨とは思いすごしだったかとも思ったのだが、まだ警戒心を解くわけにはいかない。  清左衛門は家から荷縄を持って来ていた。藁に布切れを綯《な》いこんだ太目で頑丈な縄である。その荷縄をしっかりした岩に結びつけ、もう一端は腰に巻いた。奥之助には、ひさしぶりの磯釣りで、高波にさらわれても困るからなと言訳したが、なに、不審に思われたってかまうものかとも思っていた。清左衛門は声をかけながらちらちらと縄を見た。縄は間違いなく岩につながっていた。  もっとも奥之助に、懸念したような悪意があればその縄も役に立つまい。海につき落として縄を切ってしまえば、それっきりの話だと清左衛門は思った。  奥之助は清左衛門の呼びかけには答えず、黙って岩に上がって来た。そして釣れたかと聞いた。 「小鯛が三匹だ」 「少なかったな」 「いや、これでけっこう家のみやげになる」 「………」 「魚もナニだが、やはり海は気持がよい。ひさしぶりに潮気を嗅いで、気がせいせいしたぞ」  そう言ったとき、竿につよい手ごたえがあった。喰ったようだと言い、清左衛門は足を踏みしめて竿をひいた。一瞬、魚に気を奪われた。  そのとき、うしろから重い風のようなものがのしかかって来たのを感じて、清左衛門はとっさに横にとぶと岩に腹ばった。その低い顔の前を、奥之助の足がたたらを踏んで通りすぎ、踏みとどまれなくて岩から落ちて行った。奥之助は声を立てなかった。  はね起きてのぞくと、奥之助は岩礁の間の波にすっぽりと落ちて、清左衛門がいる岩の根もとにつかまろうともがいている。 「待て。いま、縄を投げる」  清左衛門は叫ぶと、荷縄を解いた。またのぞきこむと奥之助はまだ岩につかまれなくて、波に揺られていた。  さいわいに落ちた場所が、ぐるりを岩礁に取りかこまれて壺のようになっている場所なので、外に流れ出す心配はなさそうだったが、大きな波が来ると岩礁は一瞬その下に隠れてしまう。きわどい姿である。岩礁の外にはこび去られてしまえば、助かる手段はない。 「いいか、縄をつかめ」  清左衛門はどなって、荷縄を投げおろした。奥之助は波の上に落ちた縄をつかんだが、清左衛門がつづけて、それを身体に巻けと言ったにもかかわらず、縄をはなしてしまった。波がひいて奥之助の身体が岩礁の底に落ちる。奥之助はもがきながら、また縄に手をのばしたが、今度は寄せて来た波に身体を持ち上げられて、縄から手が遠くなった。  ──これはいかん。  手がこごえてしまったらしい、と清左衛門は思った。初冬の海はつめたく、放置しておけば、手どころか身体もじきにこごえてしまうだろう。 「待っておれ。いま助けてやる」  縄をたぐりながら、清左衛門は叫び、たぐった縄で輪をつくりながら、岩から駆けおりた。そして岩の根もとにおり立つと、波に濡れていない小さな岩を慎重に眼でえらんで、海の中に踏みこんで行った。岩から岩に、小さくとびながら、釣りをしていた大岩を回ると、波に浮いている奥之助の姿が見えて来た。清左衛門は足場を固め、投網を打つように縄を投げて、奥之助をつかまえにかかった。  半刻後、清左衛門が燃えそうな物をあつめて火のそばにもどると、奥之助が起き上がっていた。顔に血色がもどっている。 「だいじょうぶか。もう少し横になっている方がよくはないか」 「いや、もうだいじょうぶだ」  うつむいたままで、奥之助が言った。 「火種が残っていたから、助かったのだ」  と清左衛門は言った。海からひき上げると、まず火を燃やし、それから奥之助の濡れた着物をはいで身体をこすってやり、肌着を一枚と綿入れを分けて着せてやった。  その間奥之助は眼をひらいてふるえていたが、顔色は真青で表情はまったく動かなかったのだ。清左衛門は一番下の肌着に胴着をまとっただけで、その上から蓑を着て寒さをふせいでいる。 「火がなければ、二人ともこごえてしまうところだった」  清左衛門は言って、あたりを見回した。日は落ちて、青白い薄明のいろが海辺を覆っている。波は黒く、その波のはるかに遠い沖に、血のいろをした夕焼けの名残りがのこっている。 「さて、とても着物がかわくまでは待っておれんな。暗くなるし、腹もすいて来る」 「………」 「あの山を回ると村がある。あそこまで歩けるか。歩けたら着る物を借りて、家にもどるとしよう」 「わしはもう少しここにいる」  しゃがれた声で、奥之助が言った。 「そうか。では村に行って着る物と喰い物をつごうして来よう」 「いや」  奥之助は立ち上がった清左衛門を制した。 「そのまま行ってくれ。もう、もどらんでくれ」 「何を言うか」 「いや、自分が何をしたかはわかっておる」  と奥之助は言った。しばらく沈黙してから、また声を押し出すようにしてつづけた。 「貴公が憎かったのだ。いや、ずっとそうだったわけじゃない。が、ひさしぶりに会ったとき、その思いが胸にあふれて来た。とめようがなかった」 「………」 「同じ隠居でも、貴公は家禄をふやし、用人という役も勤めた。その上の隠居だ。わしは一度も日の目を見なかった。落ちぶれたまま隠居せざるを得なかった。家の者も、大事にはしてくれぬ。当然だ」  奥之助はちらりと顔を上げて、清左衛門を見た。 「しかし憎んだと言っても、まさか殺すつもりはなかった。信じてもらいたい。魔がさしたのだ。恥ずべきことをした」 「………」 「許してくれとは言わぬ。助けてもらった礼も言いたくない。それでも、むかしの友人という気持が一片でも残っていたら、このままわしを見捨てて帰ってくれ。もう二度と、貴公には会わぬ」 「そうか」  清左衛門は太い吐息をついた。しばらくして言った。 「わかった。では、このまま帰る」  砂浜を横切って、清左衛門は漁村がある山陰にむかった。寒気が身体を刺して来た。波の音がだんだんに遠のいた。  ──これで……。  金井奥之助とのつき合いが、すべて終ったようだと清左衛門は思った。のぞんだことなのに、喜びはなく胸に空虚なものがしのびこんで来ている。年老いてみじめなのは、豈《あに》奥之助のみならんやと思うからだろう。  振りむきたい気持をおさえて歩きつづけた。暗い足もとでさくりさくりと砂が崩れた。 [#改ページ]   白 い 顔      一  寺の門を入ったところで、三屋清左衛門は一人の女性とすれ違った。  地面にはまだ雪が残っていて、雪が消えたところも、一日照りわたった日が融かした雪解け水に濡れ、泥濘になっている。そのために清左衛門は、その女性とすれ違って会釈をかわし合ったものの、足もとに気をうばわれて相手の顔をよく見なかった。  ただすれ違った相手が頭巾で顔をつつんだ武家の女、それも若い女らしいことはわかった。その程度のことは顔を見なくとも気配で知れる。  だがそうして行き過ぎてから、清左衛門はふとあわただしくうしろを振りむいた。顔を見たわけでもないその女性に、どこか見おぼえがあったような気が不意にしたのである。だが頭巾の女性は、清左衛門が振りむいたときにははや門前から姿を消していた。  ──気のせいか。  と清左衛門は思った。もし相手が面識のある女性なら、すれ違って会釈したときに何らかの挨拶があったはずである。むこうも清左衛門の顔を見なかったとは思えない。  やはり気のせいだろうと結論を出して、清左衛門は高い本堂のために日が遮られてうす暗くなった庭を横切り、ゆっくりと庫裡《くり》の方に回った。  寿岳寺は三屋家の菩提寺である。その寿岳寺から遠忌の通知が来たのが、去年の暮である。明ける年の二月に忌日を持つ百年忌の仏がいる、供養する気持があれば法事の手配をするという通知だった。仏の戒名は清光信女、俗名かなという女性だという。  清左衛門といまは三屋家の当主である嫡子の又四郎は、寺から来た通知を見て顔を見合わせた。清光信女という戒名にも、俗名かなにもまったくおぼえがなかった。 「何か、お心あたりがありますか」 「いや、さっぱりわからんな」  と清左衛門は答えた。清左衛門の父が病死してから十五年、また祖父は長寿で七十まで生きたひとだったから、そちらも死後三十年は経っていない。ひきくらべて百年前の仏は、いかにも遠い死者だった。その存在は、模糊とした歳月のかなたに紛れて、どのような現《うつ》し身の姿も思い描くことは出来ない。  その上にもうひとつ、三屋家の男たちを当惑させたことがある。清光信女という戒名は、あきらかに武家のものではなく、百姓町人身分のものだった。その戒名がどうして三屋家の過去帳のなかに記載されているのかが、わからないことである。心あたりがあるかという又四郎の問いは、むろんその疑問をふくんでいる。  しかし問われた清左衛門にも、生前の父母や祖父母から、百年前の仏にかかわりがあるような話を聞いた記憶は一切なかった。合点行きかねるところもあるが、むかしのことはわからぬと清左衛門は言った。 「寺にたしかめて、間違いなく三屋家の仏とわかれば、むろん供養してやるべきものだろうて」  そう答えたとき、清左衛門ははたして先祖の一人かどうかわからぬ、かなという俗名を持つ遠い仏が、三屋家の者があつまって香を焚き、寿岳寺の住職が経を手向けるその日を待ちのぞんでいるような気がしたのだった。  そのささやかな百年忌の法事を昨日終えて、清左衛門は今日は、昨日のうちに済んだ法事の諸掛りの精算とはべつに、寺に対する礼を思いついて、改めて寿岳寺をたずねて来たのである。三屋家が仏について問合わせた不審には寺でも気づいていた。そして老住職の徳元は、寿岳寺に伝わる古い覚え書の類を綿密に調べ直してくれたのである。  その調べで清光信女の正体が知れたわけではなかったが、仏が三屋家の者か、少なくとも三屋家ゆかりの者であることはたしかめられたのであった。清左衛門が礼物をたずさえて来たのは、徳元和尚のそのときの骨折りに謝意を表するためである。  百年前の、生前の姿を知らない死者の法要だったが、済ませたあとの気分は意外に快いものだった。死者がその法事を、間違いなく生者がささげるなぐさめとして受け取ったかのような感触が後に残ったのである。清光信女、俗名かなという女性は、法事を介して清左衛門たちに親しい仏となった。清左衛門が、寿岳寺の骨折りに改めて礼物を考えたのも、その後味のすがすがしさとかかわりがなかったとは言えない。  庫裡の、住職の居間での話も、もっぱら清光信女のことになった。 「戒名から考えて、どうもまだお若かった方のように思われますな」  と徳元は言いながら、清左衛門にお茶をすすめた。手のひらに隠れるような、小さな茶碗である。茶はにがく香ばしかった。 「そこでいろいろと考えてみました。仏は三屋さまの奉公人だったが、身よりのない女子だったので三屋家の仏として葬ってやったとか、あるいは奉公は奉公でも、ひょっとしたらお妾さんではなかったかとか」 「妾? それはなかろう、ご住持」  清左衛門はにが笑いした。 「わしの家は、妾を囲うほどに沢山の禄を頂いておるわけではない」 「いいえ」  徳元は首を振った。 「三屋さまはつつがなく跡取りにめぐまれましたからそうおっしゃいますが、そうでないお家は、いまでもひそかにお妾をお用いでありますぞ。三屋さまより禄が少ないお家でもそうです」  重重しくひびく読経の声を持つひとだが、徳元は小柄で痩せている。六十を過ぎてまたひと回り身体が小さくなったようにも見えた。  そういう身体つきが、もともと頭の鉢がひらいて眼が大きい徳元の風貌に、近ごろはいよいよ脱俗の風をつけ加えて来ているのだが、寺は城下の話題があつまる場所でもある。小柄な老住職は、意外に世俗のことにくわしいようでもあった。  清左衛門は盆に茶碗をもどした手で、あごをなでた。 「さようか。そう言われればご先祖のことはわからんからの」 「または三屋さまから町家に嫁入られて、事情あって家にもどられた方かも知れません」 「町家の嫁などということがあるかな」 「脇腹の方なら、あり得ることです」 「なるほど」 「しかしいずれにいたしましても、百年忌の仏は喜んでおりましょう。どういうおひとかは、なおこのあとも調べてみます」  と徳元は言った。  帰るために膝を上げかけてから、清左衛門がふとさっき門内で出会った女性のことを聞いてみる気になったのは、老住職との話が女子の話に終始したせいかも知れなかった。  いずこの方であろうかと聞いた。 「まだ若いひとのように思われたが……」 「米内町の加瀬さまのご息女です」  と徳元が言った。米内町の加瀬? 清左衛門は衝撃をうけた。 「加瀬伝八郎どのの娘御か」 「さようでございます。母御が亡くなられて今年は七回忌になりますので、その法事のご相談にまいられました。多美どのと申されますが、あの方もお気の毒なことに藤川さまを離縁になりまして、いまは……」  清左衛門は徳元の言うことを半分も聞いていなかった。そうか、あのひとはもう七回忌でさっきのは娘御か。すれ違ったときに見おぼえがあると思ったのは気のせいではなかったのだと思い、自分のその思い入れに気持をうばわれていた。      二  清左衛門が支藩の松原藩に使いに行ったのは、二十一の夏のことである。前年から御小納戸組に見習として出仕していて、公用の使いはそのときがはじめてだった。  使いの中身は松原藩の重役に会って、書類を受け取って来るだけの簡単なものだったが、清左衛門は緊張していた。その日は未明に家を出て昼すぎには松原城下に着き、書類を受け取るとひとやすみもせずにひき返した。  八ツ(午後二時)ごろに国境いの|籾摺《もみすり》川に出、川岸に腰をおろして持参のにぎり飯を喰った。そして湊町の魚崎についたのが七ツ半(午後五時)である。そこまで帰れば、あとは城下まで三里の行程だった。まだいくらか日の気配が残るうちに、城下にもどれるだろう。  そう思ったとき、若い清左衛門もさすがに重い疲れを感じた。魚崎は漁船のほかに商い船も入る湊町である上に、街道の宿場でもあった。ひとがごった返しているにぎやかな町である。そのにぎやかな町が持つ心やすさに惹かれて、清左衛門は葭簀《よしず》張りの茶店に立ち寄ると、つめたい麦茶をのんだ。生き返った気持になった。日射しはまだ暑かったが、残る三里を歩き通す気力がもどって来た。  茶店を出て、清左衛門は尾花町という商人町にさしかかった。そして男に呼びとめられた。清左衛門を呼びとめたのは、大坂屋という呉服問屋の主人である。  自分でそう名乗ってから、主人が言った。 「ご城下におもどりの方とお見受けしましたが、ご家中の方でしょうか」 「さようだが」 「それでは折入ってお頼みがございます」  主人はそう言い、ひとを一人城下まで同伴してもらえないだろうかと言った。  そのひとは家中の女性で、所用があって女中を連れて魚崎まで来たが、城下にもどる時刻になって女中が腹痛を訴え、やむを得ず知り合いの呉服問屋に助けをもとめて来た。店ではすぐに医者を呼び、さいわいに薬のききめがあらわれて痛みはやわらいで来たが、まだ歩ける状態ではない。そこで店では女中を明日まで預かることにしたのだが……。 「問題はお嬢さまの方で、何としても今日のうちにお屋敷にもどりたいと申します」 「では、駕籠を雇ったらよろしかろう」  頼まれている連れが女とわかって、清左衛門は少し迷惑な気がしてそう言った。しかも話の様子では若い女性らしいのが気づまりに思われた。 「はい、わたくしどももそう申し上げたのですが……」  店の主人はあからさまに当惑した表情を見せた。 「お駕籠に酔われるたちだそうで、駕籠はだめだと申されます。さればと言って店の者をつけてやるにも生憎にみな出払っておりまして、夜にならないともどりませんのです」 「………」 「お嬢さまは一人で帰ると申されますが、女子の足では途中で日が暮れます。万一のことがあっては私どもの手落ちになりますので頼れる連れのお方を物色しておりましたところに、失礼ながらあなたさまをおみかけいたしましたわけで」  そこまで聞いてしまっては清左衛門もことわれなかった。では同道しようと言ったが、さきほどからの店の主人の口のききようが少少癇にさわっている。相手は何様の娘だというつもりかと思った。 「家中のどちらのひとかの」 「山吹町の杉浦さまのお嬢さまでございます」 「………」  清左衛門は思わずおどろきの声を洩らしそうになった。山吹町の杉浦兵太夫は物頭で、その家の娘は波津。美人の聞こえが高く、家中の若者なら大ていは名前を知っているうわさのひとである。  ただしもう主ある花で、そのひとは御番頭の加瀬家の総領伝八郎と婚約がととのっている、といったことを清左衛門も道場の行き帰りに聞く仲間のうわさ話から知識として仕入れていたが、本人を見たことはなかった。杉浦も加瀬もいわゆる家中上士で清左衛門の家とは家格が違い、顔を合わせる機会もなかったのである。  そのうわさの女性と同道することになった偶然に、清左衛門は胸がときめいた。その動揺が顔に出たらしく、店の主人が言った。 「波津さまをご存じでしたか」 「お名前だけはな」 「これはさいわい。では何分お頼みいたしまする。失礼ですが、あなたさまのお名前を……」  そういういきさつで、清左衛門は杉浦の娘波津を同道して、城下にもどることになったのだが、その道行きはかなり窮屈な感じを伴うものだった。  若い娘を連れて道を歩くなどということは生まれてはじめてのことで、第一その年ごろの娘と何を話したらいいものやらさっぱりわからない。その上ひとにあやしまれてはならないという気遣いがあるので、行きかう人間にたえず気をくばることになった。有体《ありてい》に言えば清左衛門はすっかり動顛し、その動顛のためにくたびれてしまったのである。  では波津との道行きは迷惑なだけかといえば、そんなことはなかった。波津はうわさにたがわぬ美人だったが、そのうつくしさを鼻にかけるような女性でないことは、顔をあわせて挨拶をかわしたときにすぐにわかった。波津は物言いも立ち居もごく控えめで、その美は内側からにじみ出て来るような女性だったのである。挨拶の中で清左衛門に迷惑をかけると、しきりに恐縮していたのが好もしい印象をあたえた。  そして控えめな女性ではあったが、波津は清左衛門が話しかければ気取りなく返事を返すので、清左衛門がさばけた性格の人間だったら、波津を同行した帰り道はもっとたのしいものになったにちがいない。  だが清左衛門は人間としても、また男女のことでもごく未熟な若者だった。話の種はまだうしろの方に魚崎の町が見えているうちにたちまち尽きて、そのあとは気づまりな沈黙がつづいた。それでも、やがて道は城下へ半ばというところまで来たので、何事もなければ二人はそのまま城下にたどりつき、清左衛門は道中の窮屈さは忘れて、うわさの美人と同道出来た喜びともっと話せばよかったという悔恨を胸に抱きながら、挨拶をかわして別れることになったはずである。  不測の事態は、二人がその道中の半ば、臼田という村落を通りすぎたころに起きた。晴れていた空が急に曇って来たのには気づいていたが、その雲はにわかに凶暴な厚みを加えてはげしい雷雨になったのである。  清左衛門は通りすぎて来た臼田村を振り返った。かなり遠かった。それよりは行く手に見える庚申《こうしん》堂と思われる道ばたのお堂に雨宿りする方がよさそうだった。 「あれへ」  清左衛門は波津が持っている荷物を受け取ると、ひと声どなって走り出した。一緒に走る波津に手をそえてかばう姿勢になったのは仕方ない。それでもお堂についたときは、二人はかなり雨に濡れてしまっていた。  二人ははじめは狭いお堂の縁に上がって雨を避けたが、雨には次第に風が加わり、しぶきは地面から縁の上まで吹き上げて来るので、やむを得ず格子の扉をあけてお堂の中に入った。奥の祭壇に三猿を刻んだ石像が乗っているほかは何もなく、乾いたほこりの匂いが立ちこめているお堂だった。扉をしめると、格子の間からはげしい風雨に白濁した外の景色が見えた。そして稲妻が白い景色を切り裂き、とどろいて頭上を雷が通りすぎた。 「仕方ありませんな。しばらく休みましょう」  清左衛門が言って、羽目板を背に腰をおろすと、波津も少しはなれたところに坐った。  だが、風雨はいっこうにやむ気配がなく、むしろ勢いが募るばかりだった。雷の音も衰えず、東から西に走り、西から東に走り、時には頭上に近くお堂がびりびりと顫《ふる》えるほどの音を立てる。その間にも威嚇するようにつぎつぎと稲妻がひらめいた。そして堂の中は次第に暗くなった。風雨のせいばかりではなく、日暮れが近づいているのだと思われた。  そのとき清左衛門は、何かがかたかたと鳴っているのを聞きつけた。顔をあげると、波津の白い顔がぼんやりと見えた。表情はわからないが、波津はまっすぐ清左衛門を見つめているようである。 「いかがなされた?」  と清左衛門が言った。雨に濡れて、寒さに身体が顫えているのかと思った。物音を立てているのは波津である。 「寒うござるかな」 「いえ」  と波津は答えた。よく見ると、波津は顫えるわが身を両腕でしっかりと押さえているようである。 「暗くなるかも知れぬが、心配はいらぬ」  と清左衛門ははげました。 「|雷ごち《ヽヽヽ》(雷雨)ゆえ、おさまるのもはやかろう。雨さえやめばあとは城下まで一里、案じることはありませんぞ」 「………」  波津は答えなかった。また空を真二つに裂いたかと思われるほどの音を立てて、雷が鳴った。波津の身体の顫えがいっそうはげしくなったようである。物音は身体にひきつけている風呂敷包みの荷が、床に触れて鳴るのだった。波津は依然として白い顔を清左衛門にひたとむけている。  突然に、清左衛門は理解した。 「雷がお嫌いか」 「はい」  清左衛門は立って行って波津のそばに腰をおろすと、手をのばして波津の手をにぎった。波津の手はおどろくほど顫えていたが、清左衛門がにぎっているうちに少しずつ顫えがおさまって行った。  またすさまじい音を立てて雷がとどろき、お堂はその雷鳴と眼もくらむ稲妻の中に、一瞬ふわりと浮き上がった感じにつつまれた。波津が、はっと叫んで清左衛門の肩に顔を伏せて来た。そしてすぐに恥じて顔を起こそうとしたが、そのときには清左衛門の手は波津の背に回っていた。そのまま、そのままと清左衛門はささやいた。淫らな感情は毛筋ほどもなく、外敵から弱い者を守る庇護者めいた一心な気持になっていた。  その気持がまっすぐに伝わったのかも知れない。波津は一度は身体を固くしたものの、すぐに改めて清左衛門の肩に顔を伏せると、深深と吐息をついた。安堵の息に聞こえた。  清左衛門が言ったように、雷雨は間もなく唐突におさまり、空に洗ったような月がのぼる良夜になった。二人は無事に城下に着き、雁金橋の袂《たもと》で別れた。 「さきほどのことだが……」  別れの挨拶をかわしたあとで、清左衛門が口ごもりながら言い出した。 「魚崎からそれがしと同道したこと、途中雨やどりしたことは申されてもよいが、その余のことはたとえお家の方といえども、一切口にされぬ方がよろしいかと思う」  これが雨宿りの場所から城下にたどりつくまで、清左衛門がずっと気にして来たことだった。雷雨の中で抱き合ったことに、どう始末をつけるべきかと、清左衛門はうろたえていたのである。  話が外に洩れればたとえ雷のためとはいえ、男女相擁して済むと考える者はいまい。理由が雷などというものであるがゆえに、いっそう誤解をまねきそうである。事実明るい月の光に照らされて歩いていると、さっきは波津と自分、二人ともに世間的な分別を取り落としていたのだということがよく見えて来るのだった。  それならば一切沈黙するにしかずと、二十一の分別がようやく結論を出したのである。清左衛門の言葉を波津はすぐに理解したらしかった。はっとしたように清左衛門を見つめると、波津はわかりましたと言った。 「そのようにいたします。ありがとうございました、三屋さま」 「こちらも、誰にも洩らさぬゆえご懸念なく」  そう誓ってから、はや三十年になると三屋清左衛門は寿岳寺からもどった夜、机にむかいながら思っていた。  波津というひとと、はからずもひとつの秘密をわけ合うことになったその日の出来事は、波津が加瀬家の人となり、また清左衛門も家督をついで喜和を嫁にむかえたあともなお消えがたく記憶に残った。あのころは物を知らなかったという、淡い悔恨をともなう感想がその思い出に加わった。しかし三十年も経てば記憶はやや色あせ、数年前にそのひとが病死したと聞いたときも、さほどに深い動揺はなかったはずなのだが……。  ──しかし忘れたわけでもなかったようだ。  と清左衛門は思った。清左衛門は日記をひらき、筆を取り上げると、「寿岳寺に礼物。寺にて加瀬家の息女に会いたり。多美女と申される由。何かは知らねど、あるいは清光信女仏のひき合わせにてもあらむか」と記した。そう書きながら、清左衛門はひさしぶりに身体の中に若い血が甦るのを感じていた。      三 「ご家老がそばが好きだからと、わざわざ信州からそば粉一斗を取り寄せて献じたというのだ」 「ほう」 「ばかばかしい話だが、ほんとうのことだ。新手の賄賂だな」  町奉行の佐伯熊太は、憤慨に堪えないという顔をして盃の酒をぐいとあけた。佐伯が憤慨しているのは御納戸組頭の杉谷利兵衛のことで、ご家老と言っているのは、新任だがいずれは筆頭家老に坐るだろうとみられている器量人内藤寅之助のことだった。 「しかし費《つい》えが大変だろう」  清左衛門は佐伯の盃に酒をついだ。  佐伯は思い出したように、清左衛門の隠居部屋にこの種の世俗の空気を持ちこんで来る。時には外では言えないことを清左衛門にぶちまけて、宮仕えの鬱屈を晴らすといった気味がみえるものの、酒を出して二人でちびちびやりながら、佐伯熊太のそういう話に耳を傾けるのを清左衛門は嫌っていなかった。  佐伯の話からは、ついこの間まで清左衛門が呼吸していた世界が匂っている。人物も話の筋道も手にとるようにわかり、清左衛門は一種のなつかしい気分で佐伯の話を聞くのだが、しかし今夜はなぜか話にもうひとつ気分がのりかねているのを感じる。  相かわらずなまぐさいことを言っておるという気分が先に立って、佐伯の憤慨に素直につき合い切れないのだ。ひょっとしたら隠居気分が身について来たということかな、と清左衛門はいささかさびしくなる。世俗のことがおもしろくなくなっては、老いは加速してこの身にのしかかって来るばかりだろう。佐伯は気づかずにしゃべっている。 「わざわざひとをやって取りよせたというから、そりゃ大変な費えだろうて。もっとも杉谷はそこに値打ちがあるという考えだろうから、バカにつける薬はないわけだ」 「杉谷の家は裕福だからな。多少の費えは気にせぬかも知れん」  清左衛門は自分の盃にも酒を満たした。嫁の里江が酒をはこんで来たあとは、母屋の方はひっそりとしている。火桶の炭火が赤く燃えて、時刻は五ツ半(午後九時)に近いかと思われた。  清左衛門は顔をあげた。 「杉谷は何がのぞみかの」 「本人に聞いたわけではないが、うわさでは御使番か御奏者役をねらっているらしいな」 「御納戸では役不足というわけだ」 「もっとも禄高から言えば御使番が勤まらぬ家ではないが、問題は杉谷の器量だ」 「そばの利き目はあったかの」 「それが、だ」  と言って、佐伯熊太はからからと笑った。 「相手がご家老ではどうかというのが、大方の見方ではある」  そこまで話して気が済んだらしく、佐伯はところでこっちの近況はどうかと言った。 「百年忌という仏が出て来て、法事をやったところだ」 「これはまた、話が急に抹香くさくなって来たな」  と言ったが、佐伯は清左衛門の話を熱心に聞いた。そして仏の正体は不明だというところに話が落ちつくと笑い出した。 「相手が仏さんではな。町奉行といえどもちと手にあまる」 「それはそれとして……」  清左衛門も笑顔になった。 「法事の翌日、寺で意外なひとに行き会った」 「誰だ?」 「杉浦の波津どのというひとをおぼえているか。のちに加瀬伝八郎どのの妻女となられたひとだ」 「おぼえておるとも」  佐伯は達磨のような丸顔に、悪童めいた笑いをうかべた。 「なにせ評判の美人だったから、あのころの若い連中で、波津どのの名前を聞かなかったものはおるまい。よほどのへそ曲りはべつとしてな。惜しいことに早く亡くなられたが、そのひとがどうした」 「その娘御と出会った」 「多美というひととか」 「何だ、知っておったか」  清左衛門はいささか鼻白んで言った。 「いや、わしは一度ちらと見たぐらいで、本人とは話したこともないが、ほれ、うちの奥方が加瀬の|マキ《ヽヽ》(血族)だ。話は聞いておる」 「ほう、そういうことか」 「神楽町の藤川に嫁入ったのだが離縁になって家にもどり、それよ、かれこれ一年ほどにはなろう。しあわせとは言えぬ娘だ」 「そのような話は、寿岳寺の和尚に聞いた。離縁になったわけは何かの」 「貴公は聞いておらぬか」  つまり亭主運がわるいということになるが、と言って佐伯熊太はつぎのような話をした。  藤川金吾は小姓組に勤め、家格から言えばいずれは騎馬衆にすすむ身分なのに、急に勤めを解かれて半年の謹慎を命ぜられた。ひそかに酒気を帯びて登城し、それが二、三度にとどまらないことが判明したからである。  藤川は酒狂だった。酒をみるとのまずにいられないたちだった。藤川がそういうふうになったのは二十過ぎからだが、家の者も周囲もひた隠しに隠したので長くひとに知られることなく過ぎたのである。  嫁いで間もなく、多美は夫の病気に気づいたが、しかし夫に酔ってひとを苛《さいな》む性癖がなかったら、物陰で泣きながらも我慢したはずである。だが藤川は酔うと手当り次第に家の者を苛んだ。ことに妻の多美には無法な苛みを加えた。 「そういうわけで、こらえかねて実家に逃げ帰り離縁になったのだが、怪しからんことにその藤川が、いまも多美に未練があってか、時どき加瀬の家に押しかけるそうだ」 「何という男だ」  清左衛門は、憤慨して高い声をあげた。苛みを受けたのが、若いころの波津であるような錯覚に襲われている。 「そういう無法者は、佐伯の権限で何とかならんのか」 「ちょっと筋が違うだろうな」  佐伯はしぶい顔をした。 「それに加瀬に押しかけるときは、やつはべろんべろんに酔っておる。さめれば酔ったときのことはおぼえておらんというわけで、始末におえんらしい」 「あきれた話だ、そんなことが世の中に通るのか」 「そこで加瀬では、一日もはやく娘をよそに片づけたがっておる。再婚させてしまえば、いくら藤川でもあきらめるだけの分別は残っておろうというわけだが、この再婚先がなかなかない」 「………」 「いや、後添いといった口はないでもないのだが、わるいことははやく伝わるもので、藤川のことはみんなに知れわたっておる。で、どこも二の足を踏んで話がまとまらぬということになるらしいの」 「それは気の毒だ」 「貴公に心あたりはないか。わしも女房に頼まれておるものの、こういうことは得手でない」  佐伯はがりがりとさかやきを掻いて、盃の酒をのみ干した。清左衛門の頭に、一人の男の顔がうかんでいる。 「加瀬どのでは、後添いでもかまわんと言っておるのか」 「ああ、かまわんそうだ。事実、人物さえよければそんなことは問題じゃない」 「しかし禄高には注文があるだろう。家の釣合いというものがあるからな」 「心あたりがあるのか」 「ふと思い出した男がおる」 「禄高はいくらだ」 「百石だったと思う」 「上等だ」  と町奉行は言った。 「釣合いが取れていると思った藤川があのざまだ。百石もらっていれば、文句を言う筋合いではない、とわしなら思うところだ。なに、文句を言ったらわしが説き伏せてやる。出戻りのまま実家の墓に入るなどということは、本人ものぞまぬだろうし、親たちものぞむまい」  佐伯の言葉で清光信女という仏の名前が、清左衛門の胸にうかんで来た。町家に嫁入って、事情あって家にもどったひとかも知れないと言った寿岳寺の住職の声も耳に甦って来た。  ──波津どのの娘御を……。  そのような境遇に落とすのはたまらんな、と清左衛門は思った。あのひとの娘なら、心ばえやさしくきっと美人にちがいなかろう。 「多美というひとだが……」  と清左衛門は言った。 「美人かの」 「おや、寿岳寺で本人に会ったのではなかったか」 「それがすれ違っただけで顔はよく見ておらん」 「そうか」  佐伯は首をかしげた。 「いやわしも見かけたことはあるがずいぶん前のことで、年ごろになってからは会っておらんのだ。しかし、ま、あの波津どのの娘ゆえ、美人には違いなかろうて」  初老の男二人は、曖昧な顔を見合わせてうなずき合った。 「色白の美人でな。その上ひとに聞くところによるとごく気さくなたちだと申すから、上士の家を鼻にかける気遣いはまずない」  言いながら清左衛門は、頭の中に若かった波津の姿を思い描いているのだが、その波津と娘の多美はぴったりと重なって、自分がしゃべっていることに何の不安も感じていなかった。この平松なら波津どのの娘をしあわせにしてくれるのではなかろうか。  平松与五郎は、熱心に弁じ立てる清左衛門を、かすかな笑いをたたえた眼でじっと見守っている。そのもの静かな人柄を、清左衛門はかねがね好ましく思っていたのだった。  平松は清左衛門が月に二度通っている中根道場の高弟で、城では御兵具方に勤めていた。勤めのかたわら道場にも出て、後輩を指導している。三年前に若い妻を病気で失い、男やもめだった。子供はいない。 「そう、そう、多美というひとは二十一になるそうだ。貴公はいまいくつだったかな」 「二十七でござる」 「ふむ、年回りもわるくなさそうだ」 「しかし、三屋さま」  平松は眼の笑いを消して率直な表情になった。 「先方は三百五十石の上士で、それがしの家は百石。正直に申して釣合いが取れる縁組みとは思えませんが」 「しかし多美どのは出戻りだ」 「それがしも初婚ではありません」 「それに加瀬どのには、さっき話した藤川金吾のひっかかりが残っておる。何かの、やはり藤川のその一件が気にいらんのではなかろうな」 「いや、それはまったく」  平松は胸を張った。痩せて見えるが、実際にはぶ厚く幅のある胸だった。 「じつに理不尽な男で、ひとごとながら怒りをおぼえます」 「多美どのを、気の毒と思われるだろう」 「いかにも」 「そう思うなら、この話ぜひ乗ってもらいたいものだ」  二人が話しているのは、花房町の小料理屋「涌井」の小部屋である。藤川を恐れない男が、ここに一人いるのである。清左衛門はもうひと押しするつもりで銚子を取り上げた。      四  平松与五郎と多美の縁組みは、思ったよりもあっさりとまとまり、三月には挙式のはこびになった。意外にも多美の父加瀬伝八郎が平松の剣名を耳にしていて、今度の縁組みを喜んで積極的にすすめたせいである。  婚儀は双方ともに再婚ということもあり、ごく内輪に行なわれるらしかった。らしいというのは、清左衛門にも招待が来たが固辞したので詳細を聞いていないからである。清左衛門は橋わたしに徹したいと思っていた。それが多美の死んだ母親にかかわるほのかな思い出、なぜかわずかに悔恨をはこんで来るその思い出にふさわしい役割だと感じていた。仲人は佐伯夫妻が勤めるという話である。  平松の婚儀が十日後にせまったその日、清左衛門はひさしぶりに小樽川の川岸に散歩に出た。上流までさかのぼると、岸にははや猫やなぎの穂がほうけ、日に乾いた枯草の間には犬ふぐりの花やつくし、蕗のとうなどが見えがくれしていた。  川上の村落やそのうしろにそびえるまだ雪が残る山は、半ば霞にまぎれてその上に午後の日が気だるく照りわたっている。清左衛門はあまりの陽気のよさに誘われて、蕗のとうを摘んで鼻紙につつんだ。つくり方は知らないが、蕗のとうの味噌はちょっぴりほろにがい独特の風味が珍重される。里江にわたせば、その味噌をつくってもらえるだろうと思ったのである。  清左衛門が川べりの散歩を切り上げて、屋敷がある町まで帰って来たとき、日は西山の陰に落ちて、川岸と屋敷町をへだてる雑木林の傾斜のあたりは乳のような薄靄につつまれていた。わずかに空にのこる日のいろが、うすいももいろに靄を染めているのを頭上に仰ぎながら、清左衛門は林の中のゆるい坂道をのぼって行った。そして林が尽きて上の道が見えて来たとき、坂の上に黒い人影が立っているのを見た。  立っている男は武家だった。清左衛門を見ると、腕組みをといて声をかけて来た。 「三屋清左衛門どのですか。ご散策はいかがでしたかな」 「………」  清左衛門は足をとめて男を見た。そのときには男の正体に気づいていた。男がなぜ、敵意もあらわにそこに立っているのかも。  清左衛門は無言のまま、ゆっくりと道をのぼった。上の道に上がると、十分に息をととのえてから言った。 「失礼した。年寄りは坂道が苦手でしてな。さて、どなたでござろうか」 「藤川でござる。酒くらいの藤川金吾」  藤川はにやにや笑った。齢は二十五だと聞いたが、頬がふくらんだ丸顔はもっと若く童顔に見える。頸と腕、それに腹回りも太かった。  清左衛門は胸がむかつくような気がした。この男が、多美どのを苛んだ本人かと思ったのである。ひややかに言った。 「なにか、この隠居にご用でも」 「いかにも用があって参った」  藤川は二、三歩近づいて来てそう言った。そのときつよく酒の香がにおって来た。まだ日のあるうちから酒をのんでいたらしい。藤川の言葉がどぎつく変った。 「よけいなことをしてくれたそうだな、ご隠居」 「よけいなこと? はて……」 「おとぼけはよしてもらおうか。多美のことだよ」  藤川は白い歯をむき出した。笑顔は消えて、形相が一変した。隠れていた凶暴なものが表に出て来たようである。 「多美を平松に片づけるのに、隠居がずいぶんと骨折ったという話を聞いたぞ」 「それが何か」  と清左衛門はいくらか無気味な気持で言った。 「おてまえにはかかわりがござるまい」 「そうはいかぬ。多美はまだおれの女だ」 「だまらっしゃい」  清左衛門は一喝した。おれの女という下卑た物言いに腹が立って、相手の無気味さを忘れた。憤怒の声が出た。 「多美どのは間にひとを立てて離縁の手続きを済ませた身。それをなおも未練がましく、加瀬家に押しかけるとも聞いた。酒くらいか何かは知れぬが、少しは恥を知られたらよかろう」  波津というひとのために言っているという気がした。清左衛門はなおも声をはげました。 「藤川といえば家中に知られた家。世間に恥をさらしてはご先祖が嘆かれよう。少しは身を慎まれてはいかがか。多美どのよりおのが身の始末を心配すべきだ」 「みんながそう言うが、よけいなお世話だ。誰にも指図は受けん」  襲われでもしたように藤川は腰を落とし、腰の刀に手をやった。そのままの姿勢で、じりじりとうしろにさがりながら、突然に泣くような声で言った。 「相手が誰であれ、おれに指図することはゆるさんぞ」  藤川の右手が柄に動いた。その瞬間、走り寄った清左衛門は藤川の左腰に身をよせ、同時に柄をにぎった相手の手首に手刀を打ちおろした。  手をはなした藤川から、一歩、二歩すばやく身体をはなすと、清左衛門は鞘のまま腰から抜き取った脇差で、相手の肩を打ち据えた。気合もろとも打ち据えた刀の下に、藤川がへたへたとくずれ落ちて地面に膝をついたのは、あるいは清左衛門に斬られたと思ったのかも知れない。  それだけ目まぐるしく動いたのに、ほんのわずか息がはずんだだけだった。道場に通った甲斐があったようである。まだ、大丈夫だなとふと思った。その感想が清左衛門の気分を猛猛しくしたようである。  刀を腰にもどしながら、清左衛門は藤川金吾を脅した。 「今日のことは、ここだけの話にしておこう。しかしこのつぎはゆるさんぞ。また平松にまつわりつくのはやめる方がいい。平松は無外流の名手だ。わしのように手加減はせぬとおぼえておくがよい」  後日談がある。婚儀が済んで数日して、礼物をたずさえた平松与五郎が三屋家に来た。心ばえ、ご隠居が申されるとおりの嫁にござった、と平松は清左衛門の口ききに礼をのべたあとで、例のもの静かな笑顔で言った。 「しかし色白の美人というのは、あたっておりませんでしたな」 「………?」 「多美はごく色の黒い女子でござる」 「ほう」  清左衛門はあっけにとられたが、すぐに合点が行った気がして言った。 「では、父親似じゃな」  御番頭の加瀬伝八郎は、色の黒い大男である。そう言ったあと清左衛門は不意に笑いの発作に襲われて高笑いした。笑っているうちに、多美の母親の若若しく白い顔がなつかしくうかんで来るのを感じた。  清左衛門は言った。 「それで、ご不満かの」 「いや、いや。決して」  今度は平松も声を合わせて笑った。  寿岳寺の住職は、清光信女の身元についてもっと調べてみると言ったのだが、そちらからの消息はまだない。 [#改ページ]   梅雨ぐもり      一  娘の奈津がみじかい挨拶をのこして部屋を出て行くと、三屋清左衛門は腕を組んで額に深い皺をつくった。  ──あの窶《やつ》れようは、一体何だ。  と思った。ひさしぶりに会った娘が、眼は異様に大きく肉はうすく、まるで骸骨のように痩せているのに気持をふさがれている。  清左衛門には二男三女がいたが、女児一人は乳のみ児のうちに病死した。しかしのこる男二人、女二人は無事に成人し、嫡男の又四郎をのぞく三人はそれぞれに他家に片づいた。奈津は末の娘で十八のときに御蔵方の杉村要助に嫁いで三年になる。子供が一人いる。  前にも一度、清左衛門は奈津がひどく痩せたのを見たことがある。いま二つになる女児を身籠《みごも》ったときだが、今日の奈津はそのときとは違って表情に生気がなく、また男親の眼にも身籠っているようには見えなかった。  ──病気か。  清左衛門は重苦しいものに胸をふさがれたまま、部屋の外の庭を見ている。朝から降っていた霧のような雨が上がるところらしく、庭木の上にうっすらと日が射しかけている。  清左衛門は立ち上がって、外に行く支度をした。今日は紙漉町の道場に稽古に行く日である。奈津の様子が気がかりだといっても、道場を休んで手をこまねいていても仕方ないことはわかっていた。それに奈津はきわめて無口なたちで、父親に問われてすぐに物を打ち明けるような娘ではなかった。無力感にとらえられながら、清左衛門は腰に脇差一本だけを帯びて、部屋を出た。  茶の間の横を通り、立ったまま障子をあけると、女二人が向き合って物を喰べていた。昨夜清左衛門も喰べた小豆を砂糖で甘く煮たものらしい。 「お出かけですか」  あわてて立って来た嫁の里江が、そう言いながら玄関まで送って来たが、奈津は部屋の中から行っておいでなされませと挨拶しただけだった。その声も気のせいか陰気に聞こえた。  隠居して清左衛門がよかったと思うことのひとつに、外出するのに重い刀を二本も帯びなくともよくなったことがある。短い脇差一本で歩くと腰が軽い。その上町なかを歩いていても目立たず、半ば町びとにまぎれてしまう安気さがある。  城下の目抜き通りに出ると、手に傘を持つひとが大勢いた。季節は梅雨に入りかけているらしく、ここ数日雨が降ったりやんだりの日がつづいている。今日も朝の間は空がまっくらで霧雨が降り、そのために外に出る人間はほとんどが傘を持って出たのだろうが、いまは町の上に日が照りわたり、あちこちにある道の水たまりがまぶしく光っている。定めない空模様だった。  嫁に奈津の様子を聞いてみてくれ、などと言わなくてよかったと思いながら、清左衛門は町を歩いている。病気なら、婚家の杉村で医者にかけるか薬を使うか、何とかするだろう。実家が口出しすべきことではなかった。そして病気か、それともほかに理由があって窶れたのかは、あの骸骨のような姿をみれば清左衛門が言うまでもなく嫁が聞きただしてくれるだろう。  そう考えて気が軽くなったわけではなかったが、清左衛門の胸にいくらかあきらめに似た気分が生まれた。いったん他家にくれてやったからには、肉親といえども家の者ではなかった。すべて婚家にまかせるしかないと思いながら、清左衛門は四辻を右に折れて道場がある紙漉町の町筋に入って行った。  道場に通いはじめたころは、長い間使わなかった身体があちこちと痛み、木刀で型を遣うだけで息が切れ眼がくらんだものだが、近ごろはそういうことはなくなった。そして身体が馴れるにしたがって、不思議にも清左衛門は、有望だと言われた若いころの竹刀遣いの勘までもどって来るのを感じたのである。  清左衛門はこのごろ、自分の稽古のかたわら道場主の中根弥三郎にたのまれて初心の少年たちに型を教えることまで引き受けている。あるいは中根が、隠居の清左衛門に気持の張りをあたえるつもりで画策したことかも知れなかったが、清左衛門は孫のような子供たちを仕込む役目が気に入り、たのしみにしていた。  しかし今日は、道場が見えて来ても清左衛門の気分はいつものようにははずまなかった。やはり奈津に対する気がかりが残っていた。      二 「お気づきと思いますけれども……」  道場からもどった清左衛門にお茶をはこんで来た嫁の里江は、そう言いながら坐り直した。奈津はとっくに帰ったらしく、いなかった。 「お奈津さまが、ただごとでないお窶れようで……」 「………」 「で、わけをただしてみました」 「病気か」 「いいえ」  里江は首を振った。 「ほかにわけがございますそうです。お家の中に気苦労がありまして、近ごろは夜も眠れないとか」 「ばあさまと諍《いさか》いでもしたかの」  杉村の姑はきびしい性格の女だと聞いている。杉村との縁組みがまとまるときに、ただひとつの気がかりだったそのことが、悔恨をともなって胸にうかんで来るのを感じながら、清左衛門はそう言ったのだが、里江はそれにも小さく首を振った。そして心もち膝をすすめるそぶりをしながら、声をひそめた。 「近ごろ、杉村さまは外に女子がおられるのだそうです」 「女子だと?」  清左衛門は深刻な表情をしている嫁を見、ついでにが笑いをした。奈津の夫杉村要助はそういう話が似つかわしい男ではなかった。風采も気性も、ごく地味な男である。 「奈津がそう言ったのか。何かの間違いではないのか」 「ところが、それがまことらしゅうございまして……。杉村さまは今年になってから毎晩のように帰りがおそく、その上帰ると必ず酒と白粉の香がするのだそうです」 「それで女子がいると考えたわけか」 「いえ、そのことはお奈津さまの推測ばかりではなくて、ある方からも杉村さまがひんぱんに料理茶屋に出入りしているゆえ、気をつけるようにとご注意があったというお話でした」 「誰だ」 「お加代さまです」 「ええーと……」  清左衛門はあごをなでた。 「勘定方の布施に嫁いだ、要助の姉か」 「はい。お加代さまは杉村さまが出入りなさっている料理茶屋の名前もご存じで、紅梅町の播磨屋だと言われたそうです」 「播磨屋は、藩のお偉方がよく使う店だぞ」  と清左衛門は言った。そのとき頭の中に何か気がかりなものがうかびかけたのを感じたが、それはうかび上がるかにみえて途中で消えてしまった。清左衛門は首を振った。 「それで相手の女子の素姓はわかっておるのか」 「店で働いている女子衆らしゅうございますけれども、はっきりとは……」 「それだけのことで、悋気《りんき》して骨と皮に痩せたわけかの」  清左衛門はにがい顔をした。実際に不快な気分が胸にこみ上げて来るのを感じた。 「杉村は御蔵方で、夜分商人と茶屋酒を飲むのも勤めのうち。足しげく茶屋に通うからと申して、だから女子がいるとは限らん。奈津はそのあたりの事情をわきまえて苦情を言っているのか」 「それはご承知でございました」 「………」 「その上でなにかしら確証のごときものがあるからこそ、あのお窶れようだと思いますけれども……」 「それにしても、感心せぬ」  不快な気分は、いくらかもどかしげな怒気に変って来るようである。清左衛門は強い口調で言った。 「よしんば杉村に過ちがあるとしても、ひと眼につくほど悋気に窶れるとは、武家の妻としてはつつしみのない話だ。末っ子はどうしてもしつけが甘くなり、こういうところにボロが出て来るものとみえる」 「それはそれとしまして……」  里江は清左衛門の顔にも物言いにも怒気があらわれて来たのを見たはずなのに、取り合う気配はみせなかった。平静な声でつづけた。 「悋気が怪《け》しからぬと、あのままにほってもおかれますまい。お奈津さまは病気になりますよ」 「………」  里江の言葉で、清左衛門は奈津がまだほんの子供だったころの、ある出来事を思い出している。  江戸詰を終って帰国した若い父親だった清左衛門は、子供たちを居間にあつめて江戸みやげを手渡した。男の子には短刀、経書、武鑑といったもの、女児には帯、錦絵、人形などだったが、末娘の奈津だけは母親の実家に行っていて留守だった。みやげの品をもらいそこねた。  もちろん清左衛門は、奈津にやる人形も用意していたので、もどって来たら直接手渡すつもりで居間の棚にしまいこんだ。そしてそのまま忘れてしまった。奈津はそれから数日して家に帰り、兄や姉がそれぞれに江戸みやげをもらったことを知ったが、その夜父親に会っても自分もみやげが欲しいとは言わなかった。黙って一夜を過ごし、翌朝になると熱を出して寝こんだ。  奈津の熱は、思いあたった清左衛門があわててみやげの人形をあたえると、嘘のようにさがってしまった。清左衛門が思い出したのは、そのことである。 「ほっておくと病気になるかの」 「多分」 「はて、こまったものだ」 「又四郎どのに相談されてはいかがでしょうか。布施さまから、いま少しくわしいお話を聞き出せるのではないかと思いますが」  家督をついだ又四郎は、いまは見習を終って正式に勘定方に勤めている。詰所は違うらしいが杉村要助の姉の夫布施とは勤めが同じで、内密の話をするにはつごうがいいはずだった。      三  五日目の夕刻、三屋清左衛門は紅梅町に出かけた。空は一日中曇りでそのまま夜になるかとみえたのに、清左衛門が出かける支度をはじめたころから雨が降り出した。もっとも例によって霧のような雨なので、傘をさして歩いているうちにわずかに着物の裾がしめって来た程度である。  雨はさほどに気にならなかった。ただ気分は天気同様にしめっていて、これからにぎやかな場所に行くというのに、清左衛門の胸の内はごく暗い。  ──おひでか。  又四郎が聞き出して来たところによると、それが杉村要助の女であるらしい。素姓は播磨屋で座敷回りをしている婢だという。そのおひでに会うつもりで出て来たものの、会ってどうするといった思案は、まだ出来ていなかった。  ──ひとが知れば……。  さぞ親馬鹿と譏《そし》ることだろうと思ったが、清左衛門の気分を重くしているものは、もうひとつその奥にあった。親は死ぬまで子の心配からのがれ得ぬものらしいという感慨がそれである。その感慨は、今日の空模様のように清左衛門の気持をじっとりと重くする。  子は跡つぎをのぞいて残らず他家に片づけ、わが身は隠居してあとは太平楽と思ったが、なかなかそうは問屋がおろさないようだった。浮世の煩いは隠居の身にも遠慮なく降りかかって来る。  雨のせいか、町にはひとの姿が少なかった。清左衛門は二カ所ばかり、店に灯が入ってひとが混んでいる場所を通り抜けたあとは、すれ違うひとも稀なうす暗い道をたどって、紅梅町に着いた。ひと口に茶屋町と呼ばれる紅梅町は、いま灯をいれたばかりのところだった。  播磨屋は知らない店ではなく、入口で名前を告げると旧知のおかみと番頭が出て来て、清左衛門をむかえた。座敷にもおかみが先に立って案内し、懐かしげにむかし話をして、清左衛門がおひでに酌をしてもらいたいと頼むと、格別あやしむ様子もなく請け合った。  そのおひでは、丸顔で小太りの気のよさそうな女だった。齢は二十半ばを過ぎているだろう。むろん清左衛門とは初対面で、なぜ自分が酌取りに名指しされたのかわからないというふうに、おひでははじめの間落ちつかなげに見えた。  しかし清左衛門が、自分が通っていた数年前までの播磨屋の女たちの名前を持ち出すと、そのひとたちならまだ台所で働いているとか、いまは播磨屋をやめて自分で小料理屋をやっているとか、おひでの口はたちまちほぐれて行った。おひではかなりおしゃべりな女だった。器量がいいとは言えないが、おひでのさえずるようなおしゃべりには底抜けに明るい感じがあって、案外杉村要助はこの女のそんなところが気に入ったかも知れぬと、清左衛門は思ったりした。  奈津の口数の少なさには、ひとの気持を滅入らせるようなところがある。武家の妻だからそれでいいようなものの、三百六十五日あの有様では、杉村もたまにはおひでのような女のたわいないおしゃべりを聞きたくなるのではあるまいか。 「相変らず城の者が来ておるらしいの」 「はい、みなさまにごひいきにしていただいております」 「いまはお偉方というと、どなたがおいでになるのかな」  何気なく聞くと、それまでぺらぺらしゃべっていたおひでが、ぴたりと口をつぐんでしまった。清左衛門は盃をつき出した。 「どうしたな」 「お客さまのことは、あまりしゃべらないようにと言われていますので」 「どこの店でもそう言うものだ。だが相手によるだろう」  清左衛門は言ったが、かすかな疑念が心をよぎった。播磨屋ではあるいは何かのわけがあって、女たちの口を封じているということはないだろうか。 「おかみに聞いたかも知れぬが、わしはもはや隠居の身。城方の者とはかかわりがない。何を聞いてもほかに洩らしたりはせぬ」 「そうですか」 「そうとも。何を話してもかまわん」 「では申し上げます。お偉い方といえば、よくおみえになるのが安藤さま、山根さま、それから岡安さま」 「ほほう」  安藤と山根は組頭の安藤市兵衛と山根備中だろう。 「岡安は郡奉行の方かの、それとも番頭の岡安茂太夫どのか」 「番頭さまです」  おひでは聞かれて答えているものの、やはり気がさすのか小声になっている。そなたも飲めと言って、清左衛門はおひでに盃をさした。 「ほかに時どき、安富さまがみえられます」  おひではきれいに盃をあけると、盃洗で盃をすすいで清左衛門に返した。 「安富忠兵衛どのだな」 「はい。安富さまは大ていはご家老の朝田さまとご一緒に参られます」 「ほほう」  清左衛門は軽い衝撃を受けていた。ここ三十年ほどの間、藩政を左右して来たのは遠藤、朝田の二派閥だった。先代の朝田弓之助が藩政の経営に行きづまって政権を投げ出したあと、遠藤治郎助が筆頭家老の職につき、そのときから、二派の抗争がはじまったと言われているが、経過から言えば遠藤派の圧勝だった。  初代の遠藤治郎助は、十年藩内を静謐《せいひつ》におさめたあとで、政権をさきの家老山村喜兵衛の嫡男万之丞に譲った。しかしこの人事については藩内に、山村万之丞は隠居した治郎助の傀儡《かいらい》で、二代目遠藤治郎助が家老に就任するまでのつなぎにすぎないという声があった。そして事実、山村万之丞は四年筆頭家老の席に坐っただけで、二代目遠藤治郎助が執政入りした翌年には、その地位を若い治郎助に譲っている。  初代の遠藤治郎助が十年、山村万之丞が四年、ついで二代目の治郎助が八年。六年前に朝田派のはげしい巻き返しに遭って政権を譲るまで、藩内の見方があたっているとするならば、遠藤派はじつに二十年余にわたって藩権力を独占して来たというべきだった。  そして安富忠兵衛は、初代の名家老遠藤治郎助を補佐し、治郎助が藩政から身をひいたあとも遠藤派の政権保持に辣腕をふるって第三の実力者と呼ばれた人物だったのである。胸の中に動いた違和感は、遠藤派の長老とも言うべきその人物が、政敵の立場にある朝田家老と会っているという、意外な事実がもたらしたものである。  ──まさか……。  安富忠兵衛が近ごろ朝田派に鞍がえしたというわけではあるまいな、と清左衛門はふと疑った。  それにしても、おひでが城の重職の名前と顔を知っていることはおどろくほどだった。播磨屋では、一度店に上がった客の名前を、女たちに徹底して教えこむと言われている。むろん大事の客に粗相のないようにという趣旨からそうしつけるのだろうが、その意味ではおひでは播磨屋の婢に適っている女だった。  ほかにももっといろいろなことを聞き出せそうな気もしたが、清左衛門はお偉方の動きに触れる質問はそれで終りにした。隠居が城のことを嗅ぎまわるようなことはつつしむべきだろうという気がしたし、それにそういう話を聞くためにおひでに会いに来たわけではない。 「ところで、話は変るが……」  咳ばらいをひとつして、清左衛門は口調を改めた。 「杉村要助が、よくこの店に来るらしいの」 「はい、みえられます」  おひでは笑顔になった。 「杉村さまをご存じですか」 「知人の倅だ」  清左衛門は用意して来た嘘を口にした。 「親は今年になってからにわかに杉村の茶屋通いがはげしくなって、酒気が切れることがないようなことを申しておったが、まことかの」 「さあ」  おひでは首をかしげた。まじめな顔にもどっているが、べつに清左衛門の言葉に動揺したようには見えなかった。 「よくおみえにはなりますけれども、でもここには毎晩というほどでも……」 「ふむ」 「それに大ていは御城下の米問屋、種物問屋の旦那さま、番頭さんといった方方とご一緒で、つまり御用向きのお酒でございますから、そんなには深酒はなさらないと思いますけれども……」 「そういうときは芸者を呼ぶのか」 「はい、芸者さんが来て踊ったり唱ったりいたします」 「ほかに、要助が一人で来ることもあるのじゃないのか」 「ございます」 「ふむ、さてはやっているかな」  と清左衛門は言った。 「要助のような若い者が、自分の財布だけで播磨屋のような店の酒を飲めるわけはないから、やつはきっと藩の金をくすねているぞ」 「まあ、そうでしょうか」 「と思うが、べつに心配はいらん。わしにもおぼえがある」 「お金をくすねるということですか」 「そうよ。いやくすねるというと少少言い方がどぎついが、つまりは要助のような役目の者は、ある程度自分の裁量で使えるなにがしかの金を藩から預かっていて、そこから自分の飲み代《しろ》を浮かすわけだ。わるいことには違いないが、なに、そのぐらいの才覚もない堅物では商人の接待など勤まらんだろうから、心配することはない」 「そうですか」 「要助は一人のときも芸者を呼ぶのか」 「いいえ」 「そういうなじみの女子はおらんというわけだ。するとそなたのお酌で飲むぐらいだな」 「そうでございますね」 「二人で部屋に籠りきりというわけかの」 「まさか。あら、いやですよ」  おひでは顔を赤くして笑った。 「今日のように、こうして早いお時刻ならいくらでもお相手出来ますけれども、お客さまが混んでまいりますとわたくしは座敷回りですから、杉村さまのお相手だけをしているわけにはいきません」 「そうか。するとその間は杉村は一人で飲んでいると……」 「さようでございます。一段落したところでわたくしがまたお相手をしまして、それでお帰りになることが多ございますね」 「杉村は泊ることはないのか」  清左衛門はわざと唐突に言ってみたが、おひでは格別の反応を示さなかった。軽く首を振った。 「いいえ、お泊りになったことは一度もございません」  季節からいってこれが最後だろうと思われる筍の煮物、海から上がって来たばかりの焼いた小鯛がうまかったが、来た目的から言えば、結局これぞといった収穫はなくて、清左衛門は播磨屋を出た。  雨はやんでいたが、外には霧が出ていた。生あたたかく立ちこめる霧を、軒下や門柱に掛けてある行燈が照らして、路地は海の底のようにほの暗く静かだった。その中を朦朧とした人影が通りすぎる。清左衛門も人影のあとから歩き出した。  ──杉村とのことを……。  隠しているようには見えなかったなと、清左衛門はおひでのことを思い返している。ただ杉村は、御用向きのほかにも一人で播磨屋に来て、おひでを相手に飲むことがあるらしい。あやしいといえばあやしいが女はそれも認めた。おひでが認めた以上のことが二人の間にあると、布施は何かの確証をにぎっているのかどうか。  そこまで考えたとき、清左衛門はふと、数日前に嫁の里江と話していたときにうかびかけた懸念のようなものが、ようやくはっきりした形にまとまって心にうかび上がって来るのを感じた。播磨屋は藩のお偉方がよく使う料理茶屋である。むろん、だから一介の御蔵方の役人である杉村要助が飲みに行ってわるいという理屈はないが、御用向きでもなく一人で飲みに行くのに似つかわしい店とは言えない。若い藩士が飲みに行くには、ほかにそれにふさわしい店がいくらでもある。  色恋沙汰でないとすれば、杉村はなぜ一人で播磨屋に飲みに行くのだろうか。  ──勘定が高いはずだ。  おひでの気持をほぐすためにさっきはあんなことを言ったが、一夕の飲み代といえども藩の金を私に流用しているとすれば大問題である。おひでの一件をべつにしても、今度杉村に会ったらそのことは厳重に忠告してやらねばなるまい、と清左衛門は思った。新しい心配が生まれた。  紅梅町の表通りが見えて来た。依然として霧は濃いが、灯は表通りの方が多くてあかるい。路地まで流れこんで来る光の中に、そのとき清左衛門は妙な動きをする男を見た。頭巾で顔をつつんだ武家である。  その男は播磨屋がある路地に踏みこみかけてから、つと踵を返すと表通りを左に歩いて行ったようである。それが、見ようによっては路地に清左衛門を見かけて顔を合わせるのを避けたようにも見えた。清左衛門の胸にかすかな不快感が動いた。当然、表通りに出ると同時に男を見た。一瞬杉村要助かと疑ったのだが背中を見ただけで別人とわかった。  のみならず見えている背中に見おぼえがある。悠悠と遠ざかる幅広く大きな背と、わずかに肩をゆする歩き癖は親友の佐伯熊太、町奉行にちがいなかった。  ──いったい……。  どういうつもりだ、と清左衛門は思った。そっちがそのつもりなら、こっちにも出様があると、清左衛門はいくらか意地わるい気持になっている。足音をしのばせて追いつくと、うしろからいきなり町奉行の肩を叩いた。 「おしのびか、奉行どの」 「お、お」  佐伯は気の毒なほどうろたえている。振りむいてきょろきょろと眼を動かしたが、頭巾はとらなかった。清左衛門は追い討ちをかけた。 「妙な真似をするではないか。いま、わしの顔を見て逃げたろう」 「いやいや、そういうわけじゃない」 「じゃ、どういうわけだ」 「いや、逃げたりはせんと言っておる」 「たしかにそう見えたがな。おぬし、このあたりにわしに知られてはまずい女子でもいるのではあるまいな」 「まさか。おい、人聞きのわるいことを言わんでくれ」  佐伯は清左衛門を、戸をしめた餅菓子屋の軒下までひっぱった。佐伯はまだうろたえていた。  霧は翌朝まで残った。清左衛門が屋敷町の下にある雑木林を散歩していると、男が一人ゆるい坂道をおりて来るのが見えた。裃をつけた男である。清左衛門は木立を抜けて道にもどった。来たのは自分に用がある人間だろうと悟ったのである。近づいた男をみると、はたして杉村要助だった。 「おはやい散策にございますな」  と杉村は言った。 「いつもいまごろですか」 「さよう。飯前に川岸の方までひと回りして来るくせがついてな」 「静かだ。このへんは鳥がたくさん鳴いていますな」  杉村は耳を傾けるような顔をした。 「いま鳴いた鳥は、何ですかな。変った鳴きようですな」 「里では|けろろ《ヽヽヽ》と言うらしい」  清左衛門は眼を杉村にもどした。 「城に上がる途中だろう。用があるなら、遠慮せずに申したらどうだ」 「はい、では申し上げます」  杉村は浅黒い顔をして眼が少し釣り上がり、口の大きい男である。その口をいったんひきしめるようにしてから言った。 「昨夜、播磨屋に行かれて、おひでに会われたそうですが、そういうことは以後ご無用に願いまする」 「ほう」  清左衛門は注意深く杉村を見た。杉村要助の顔にはかすかに緊張した気配が窺われる。 「迷惑というわけだな」 「申しわけありません」 「その仔細を、聞かせてもらえるのかな」 「いや、それはまだ……」  杉村は一礼した。 「ただ、奈津が何を申したか知りませんが、それがしがこのところ足しげく播磨屋に行くのは、酒のためでも女子のためでもありません。そのことは信じていただきたく……」 「それだけでは、なかなか信じがたい」 「では……」  杉村は、あたりに慎重な眼をくばってから言った。 「あるひとに命ぜられたお役目がござって、とだけ申し上げておきます」 「お役目だと?」  反問した清左衛門の頭に、このとき突然におひでがしゃべった播磨屋の客の名前がうかんで来た。  考えてみれば、安富忠兵衛をのぞく安藤、山根、岡安はすべて朝田派の人間である。その上に時どきは家老の朝田弓之助も顔を出すということは、近ごろ播磨屋で、ひんぱんに朝田派の会合がひらかれているということになるだろう。それと要助の茶屋遊びとのつながりに気づかなかったとは、隠居してわしの勘もかなり鈍くなったようだと清左衛門は思った。  しかしその考えがあたっているとすれば、杉村はきわめて危険な仕事を命ぜられていることになるのかも知れない。清左衛門は自分も声をひそめた。 「あるひととは、遠藤派の誰かということだな」 「それは申し上げかねます」 「ふむ。そのことを、わしの口から奈津にほのめかすのはまずいだろうな」 「………」 「あれはどうも武家の女子にあるまじき悋気をしておるらしい。親のしつけの至らぬところでおはずかしい話だが、わしからぼんやりと話してやれば、気持はすぐに休まるだろう。それとも要助どのが言ってくれるか」 「いや」  杉村は首を振った。くるしげな影が杉村の顔を通り過ぎたように見えた。 「さいわいに世間もそのように見ているようですから、奈津にもお役目が解けるまでそう思わせておく方がいいかと思います」      四  半月ほど経って、その日中根道場にいた清左衛門は、昨夜紅梅町で家中藩士同士の喧嘩があって、双方が手傷を負うさわぎになったことを聞いた。その話を聞かせた男は、下城の途中に稽古のために道場に立ち寄ったのである。おそらく城中では、その話で持ちきりなのだろうと思われた。酔ったまぎれに斬り合いの喧嘩をしたのは、片方が小姓組の畑野と矢部、片方は御蔵方の杉村要助らしいと男は言った。  清左衛門はその話を聞くとすぐに道場を出て、河岸通りにある町奉行所をたずねた。奉行の佐伯熊太は奥でお茶を飲んでいて、ちょうどよかった、いま城からさがって来たところだと言った。 「紅梅町の一件だろう」  佐伯はさぐるような眼で、清左衛門を見た。 「どこで聞いたな?」 「道場だ」 「ふむ、もうそのへんまでうわさが流れたか」  と佐伯は言った。 「その喧嘩だが……」  清左衛門は声をひそめた。 「当然、大目付の方で裁くことになるのだろうな」 「いや、わしが扱う」  佐伯は意外なことを言った。 「大目付の山内から、わざわざそういう頼みがあったのだ。つまり家中同士の斬り合いがあったということではなく、町で喧嘩があったが、まわりに迷惑は出なかったかという調べにしてくれというわけだよ」 「………」 「格別の迷惑はなかったということになれば、調べはそれで打ち切ってよろしいと。つまりほんの形式だな」 「そんなことでいいのか」  ほっとして清左衛門は言ったが、その喧嘩なるものの背後にある二つの派閥勢力が、それぞれの思惑があって大目付に圧力をかけたのだろうとは、すぐに推測が出来た。  むろん杉村要助は喧嘩に巻きこまれたわけではなく、朝田派の動きをさぐっているうちに、気づかれて襲われたということなのだ。 「杉村は貴公の娘婿だったな」  佐伯が言った。 「もう会ったか」 「いや、これからだ」 「手傷を負ったと言っても、ごく軽傷だ。心配はいらん」 「さようか。これでほっとした」 「昨夜は折りよくわしも紅梅町に居あわせてな。すぐに駆けつけて仲裁に入ったのだ。大事に至らなかったのはわしのおかげだぞ。感謝してもらいたいものだ」 「それは大きに世話になった」  頭をさげてから、清左衛門は言った。 「先夜のように、ひそかにあの町を巡視していたわけだろう。町奉行どのはどちらの組かな」 「何のことかわからんな」  と言って、佐伯熊太はそっぽをむいた。  その足で日雀町にある杉村要助の屋敷に寄ると、杉村は手当てした腕を胸もとに吊っているだけで、起きていた。話を聞いてみると、佐伯が言ったとおりごく軽傷だとわかった。  見舞いの言葉をのべたあとで、清左衛門は事件に対する藩の態度に触れた町奉行の言葉を伝えた。そして何気ない口ぶりで言った。 「これで、あちらのお役目は当分ご免になるのだろうな」 「おそらく」  と言って、杉村はかすかなにが笑いを見せた。 「正体が知れてしまってはいけません」  遠藤派の探索係をつとめていたことを、ぽろりと白状したような言葉だったが、清左衛門の話できびしい処分はないらしいとわかって杉村も気がゆるんだのかも知れなかった。  帰る清左衛門を、子供の手をひいた奈津が門の外まで送って出た。奈津は相変らず暗い顔をしている。憔悴していた。奈津は、夫の要助が茶屋あそびの果に路上の喧嘩までしたことに気持をふさがれているかも知れなかった。 「わざわざのお見舞いを、有難うございました」  と奈津が挨拶した。うなずいて清左衛門は背を向けかけたが、ふと気が変ってこらえていたものを口にした。 「要助どののことだが、女子などはおらん」 「………」 「わしが播磨屋に行ってたしかめて来たことだから、間違いない」  奈津は何も言わず、のろのろと身体を曲げると足もとの子供を胸に抱き上げた。そしてまっすぐに父親を見た。痩せた顔に、かすかな生気が動くのを清左衛門は感じた。 「信じがたいというなら、いまひとつ話して聞かせるが、このことは他言無用だぞ。要助どのにもだ」 「はい」 「要助どのの茶屋通いは、ひとに言えぬお役目のためだ。今度の喧嘩も、それにかかわりがある」 「………」 「しかしそのお役目は終って、もう心配はいらぬ」 「いろいろとご心配をおかけして、申しわけございませぬ、おとうさま」  奈津が神妙に言った。しかしその顔にはやくもおさえ切れない喜びのいろがうかび上がり、声にまで艶がもどっているのを、清左衛門は憮然として眺めた。ひとの言葉を信じやすいのは奈津の美質だが、これではまるで、江戸みやげの人形をもらって急に元気になったときの顔そのままではないかと、清左衛門は思っている。  親もそうそう長生き出来るわけではない。いつまでもこの有様では困りものだと思ったが、その小言を言うのは後にして、清左衛門は指で奈津に抱かれている女児の頬をつついた。 「要助どのをいたわってやれ」  あとは振りかえらずに歩いた。藩の内部には、またしても何かしら険悪な空気が動きはじめた様子でもあるが、今度の一件では両派ともに自重したようだ。いますぐ騒動が起きるとは思えないが、しかし先のことはわからぬ、と清左衛門は思った。  町角をひとつ曲ると、いきなり淡い西日に照らされた。一日中重苦しく閉ざされていた梅雨ぐもりの空が、日暮れになって雲がとぎれて日が射して来たようである。  奈津に似た空だな、と清左衛門は思った。陰気に沈んでいた顔に手のひらを返したようにうかびかけた笑いを、眼に思いうかべている。 [#改ページ]   川 の 音      一  川釣りはひさしぶりだったが、よい釣り場をもとめて根気よく上流まで遡《さかのぼ》ったせいか、ウグイ三尾、鮎二尾の収穫があった。空前の釣果《ちようか》というべきである。三屋清左衛門は気分よく帰途についた。  時刻は、いまあとにして来た菱沼村のはずれの最後の釣り場、そこで清左衛門はゆうに一尺をこえるウグイを一尾釣り上げたのだが、その場所に着いた直後に、遠く城下の高林寺の鐘が七ツ(午後四時)を知らせるのを聞いているから、それから半刻(一時間)が過ぎたとしても、まだ七ツ半(午後五時)ごろだろう。日は西に傾いているが、明るいうちに城下にたどりつけるはずだと、清左衛門は思った。  清左衛門は小樽川の川岸を、下流にむかって歩いている。さほど高くはないが、いわゆる川土手になっている岸には、ひとが踏み固めた跡がとぎれずにつづいていて、自然な道を成していた。清左衛門のような釣り人、野良仕事の農夫たち、そして夏は泳ぎ場をもとめて走りまわる村の子供たちが通った跡である。  しかし手入れして作った道ではないので、川岸の道はその上を葛や野葡萄の蔓《つる》、手ごわい棘《とげ》を持つ野いばらの蔓などが這い回り、根の固いオオバコなどの雑草もはびこっていて、足もとをおろそかにすると躓《つまず》くおそれがあった。足音に気づいた蛇が、あわてるふうもなく悠然と草に隠れるのを見ることもある。  小樽川は、いくつかの村のへりをかすめる形で、流れているので、土手を降りて村から野に出て行く道に回れば、足もとのそういう懸念はなくなるが、しかしそれでは城下にもどる道が遠くなる。小樽川の岸を帰るのがいちばん近道だった。  村落は、北にむかって流れる小樽川と西の方に起伏しながらつづく低い丘陵の間に点在している。清左衛門が歩いている間に、日は少しずつ沈んで、丘がやや小高くなっているところに来ると、麓の村も小樽川の水面も、歩いている清左衛門も青白く日影に覆われた。  日射しはまだ十分に暑いのだが、川には裸で水にたわむれる子供の姿は見えなかった。真夏にくらべて、水はずっとつめたくなっており、水嵩《みずかさ》もいくらかふえていた。その水嵩の変化は、数日前から小樽川の上流の山地一帯を襲っている、散発的な雷雨のせいだろうと思われたが、同時に季節の変化を現わしてもいた。  誰もいない、丘の陰に入って小暗く見える川には、水面を飛ぶ虫をとらえる魚がはね、そしてそこだけ日があたって見える丘の高い斜面のあたりでは、一団になってひぐらしが鳴いていた。夏が終り、季節が秋に移るところだと清左衛門は思った。丘の、どこか見えない場所に、やはり一団になって鳴くひぐらしがいて、ひぐらしは寄せる波音のように交互に鳴きかわしていた。  突然に清左衛門は、真向から照りつける日射しの中に出た。そこは小樽川が大きく曲って西北にむかう場所であり、菱沼村がそこで終って清左衛門は野の中に出たのである。過ぎて来た村村の背後につづいていた丘は、やはりそこから遠くしりぞいて、西の方に何かの塚と見まがうほどの低い隆起となって終っている。  日はその塚のように丸くて低い丘のはずれから、一直線に野を照らし、野のむこうにいまは克明な姿を現わして来た城下の木立や家家の白壁などを照らしていた。野の稲は、いちめんに直立する穂をつけ、白い花がひらくのも間もないだろうと思われた。その穂の間をわけて田の畦を歩いて行けばいくらか近道になるかも知れないが、清左衛門はそうはせずにやはり川岸を歩いて行った。  小樽川は、いま前方に見えている野塩村の村落に突きあたったあとは、今度は向きをはっきりと城下の方に転じて流れて行くし、それにここまで来ると川幅はひろくなり、附随して土手の道もひろくなってもう歩きにくいことはなかった。その道は、常時野道として使われているためかいくらか手入れされているようでもあった。  ──いそいで帰ることはない。  と清左衛門は思っている。釣りに出る清左衛門を見送った嫁の里江が、「たくさん釣っておいでなさいませ。夜食のあてにしておりますよ」と言ったが、それは景気づけの諧謔だと清左衛門にはわかっていた。ものものしい支度のわりにはいまひとつ成績のふるわない舅を激励したのである。今日の収穫を見ればおどろくことは請け合いだとしても、嫁は本気で、手をあけて清左衛門が釣って帰る魚を待っているわけではない。そしてそんなにいそがなくとも、里江が夜食の指図にかかるまでには家にもどれるはずだった。  ──それにしても……。  清左衛門は微笑した。日ごろ生まじめな嫁があんなおどけを口にするのは、それだけ三屋の家にもひとにも馴れて来たということである。めでたいことだと思った。  清左衛門の年齢になると、そういうささいなことにも、ふと幸福感をくすぐられることがあった。珍重すべきことのように思われて来る。      二  野塩村に近づくと、鬱蒼とつづく森のような木立、その下に三軒、あるいは五軒とかたまって点在する農家のたたずまいが見えて来た。森も家も、背中に日射しを背負っているために暗く見え、村はずれの橋、その下を泡立ち流れる川、周辺の田圃などは真向から射しかける日に光りかがやいている。風景をわける極端なほどのその光の濃淡にも、季節が移りかわる気配が現われていた。  このあたりまで来ると、小樽川には上流にはなかった砂洲が出来ている。水は川の中で蛇行し、砂洲の縁に露出している小石を洗ってはげしい水音を立てていた。  清左衛門の眼には、波にくだける日の光が映っている。波は日の光をこまかくくだき、交錯する光と影を乗せて動いていた。くだける光は眼の中まで入りこんで来て、まぶしかった。そしてまぶしさに堪えかねて眼を上げたとき、橋の上にいる黒い人影を見たようである。  というのも、つぎの瞬間には清左衛門の眼はもう一度川にもどって、そこに立ちすくんで助けを呼んでいる女と子供を見つけたからである。急流の中に立ちすくんでいるのは、親子のように見えた。清左衛門は足の疲れも忘れて走った。  場所はさっき見た村はずれの橋から数間ほどの上流である。はげしい水音を立てる急流の中で、女と子供は固く抱き合い、子供は恐怖のために高い泣き声をあげていた。四、五歳に見える女の子だった。その子を抱きしめている女は三十前後で、走り寄る清左衛門を血の気の失せた顔で見た。  二人がなぜ動けないで抱き合っているのかは、そばに寄ってみるとすぐにわかった。そこは向う岸に近く大きな中洲があり、その中洲から清左衛門がいる側にかけて、ゆるやかに川底が傾いている場所だった。蛇行する水がはげしく石垣にぶつかっているこちら岸では、水は膝を越えるぐらいかと清左衛門は見当をつけた。  女と子供がなぜそんな急流の中に立っているのかはわからなかったが、いずれにしろ二人はこちら岸にわたることも、中洲に上がることも出来ず、そこで動けなくなっているのだった。そして動かずに人の助けを呼んだ女の判断は妥当なものだった。二人が立っているあたりで、水の深さは女の踝《くるぶし》を越えるぐらいのものだったが、流れは速かった。へたに動けば足を取られて顛倒しかねない場所である。そしていったんころんでしまえば、女はともかく、子供は間違いなく橋の下あたりの、流れはゆるやかだが底の見えない深みまで、あっという間にはこばれてしまうだろう。 「動くなよ、いま助ける」  清左衛門は大音の声をかけた。二人から眼をはなさず、釣竿を置き腰の脇差と魚籠をはずした。そして二人が立っているやや上流から、石垣を伝って川に降りた。  はたして水は清左衛門の膝をわずかに越すほどであり、水に入ったとたんに、清左衛門は身体が頼りなく浮き上がるのを感じた。手で水を掻きながら、半ば流されるようにして急流を斜めに横切ると、どうにか女と子供がいる場所にたどりつけた。しかし立ちどまると足もとをさらわれそうな速い流れである。清左衛門はよろめいて、三人は川の中で抱き合った。 「さあ、もう大丈夫だ」  清左衛門は女の手から、まだ泣きじゃくっている子供を抱き取った。それで気がゆるんだのか、今度は女が足をすべらせて倒れそうになった。川底の石は苔ですべりやすくなっている。  清左衛門が手を出してささえ、三人はまた抱き合う形になった。そしてそのままそろそろと中洲の方に移動した。  中洲に上がると、女は安堵のあまりか、子供を抱きしめて膝を折ったまま泣き出した。それから清左衛門に繰り返し礼を言った。女はすぐそばの村の家の者で、子供をつれて川に物を洗いに来ているうちに、子供が流れに引きこまれてしまったのだと言った。 「どうぞ家に寄ってください、旦那さま。家はすぐそこですから」  と女は言った。清左衛門の袖をつかまんばかりにした。 「火を焚いて、着物を乾かしませんと」 「どうしようかの」  清左衛門は思案したが、軽衫《かるさん》姿の腰から下はぐっしょりと水に濡れている。このままの姿で城下にもどるのも体裁がわるいようだった。それにいくらか寒気もするようである。 「では、言葉に甘えるとして、さきに刀を取って来なくちゃならんな」  と清左衛門は言った。大事の刀と魚を向う岸に残したままである。橋をわたってもどらなくちゃならんかと思ったとき、清左衛門の頭に、さっき橋の上に見た黒い人影がうかんで来た。いそいで橋を見たが、いまは無人だった。  ──鳥刺しのようだった。  と思った。人影は菅笠をかぶり、短い刀をさし、釣竿のようなものを持っていたが、釣竿ではなく黐竿《もちざお》ではなかったかと思えるのである。  鷹匠に附属して、飼い鷹の餌にする小鳥を取る鳥刺しの足軽がいて御餌差と呼ばれている。しかし藩では、心身の鍛練を名目に非番の家中が鳥刺しと釣りに出ることを奨励しているので、鳥刺し姿の者がかならず御餌差足軽であるとはかぎらない。家中のなにがしである可能性も大いにあった。  ──それにしても、さっきの男……。  親子が急流に立ち往生して助けを呼んでいるのに、いっこうに動こうともしなかったではないかと清左衛門は思い返している。ほんの一瞬の観察だからはきとした自信があるわけではないが、男の姿から高みの見物をきめこんでいるような不自然な感じをうけたのは、こちらの思い過ごしだろうか。  清左衛門はあたりを見回した。遠くの田に稗《ひえ》を抜く農夫が二人ほど、ゆっくりと動いているだけのほかに人の姿は見えなかった。不可解な気分が残った。 「さっき、橋の上にひとがいたのを見なかったか」  洗い物を抱えてもどって来た女に言ってみたが、女は怪訝な顔で首を振っただけだった。見ていないのだ。うしろを振りむくゆとりはなかったろうから当然だと清左衛門は思ったが、自分だけが幻を見たような薄気味わるさもないわけではなかった。  女の顔にだいぶ血のいろがもどっていた。よく見ると色白で器量もよく、賢そうな顔をした女だった。      三  残暑が遠のくと、季節は露骨なほどに秋らしい顔を見せはじめた。雲の形は軽やかになり、その下で稲の花はとっくに散ってしまい、穂は稔りはじめていた。そして夜は虫の声がにぎやかさを増した。  そんなある日の深夜に、三屋家に客があった。おとうさまにお話があると申されております、と取りついだ里江が言った。 「どなただと?」 「近習組の黒田欣之助さまです」 「よろしい。通してくれ」  と清左衛門は言って、書見台の書物を片づけた。読んでいたのはいま保科塾で習っている老子だが、書見にもそろそろ倦きて寝ようかと思っていたところである。夜更けてからの突然の客は、迷惑でないこともないが退屈しのぎにはなると思った。  ──それにしても……。  高林寺の鐘が四ツ(午後十時)を撞《つ》いてからかなり経ったはずである。近習組の黒田といえば代官町の黒田だろうが、この時刻に何の用があるのかと、清左衛門は不審でならなかった。家の見当はついても、黒田欣之助本人は一面識もない男である。  その黒田は、里江に案内されてすぐに隠居部屋に現われた。まだ三十にはなっていまいと思われる若い男だった。 「夜分おそくおうかがいして……」  黒田欣之助は、座を占めるとさっそくに夜更けの来訪を詫びたが、口ほどにはすまながっている様子は見えなかった。 「この隠居に用があるとか」 「さようです」 「何か、緊急のことでも?」 「さよう、緊急と言えば緊急……」  黒田ははっきりしない言い方をしたが、突然に清左衛門が思いもしなかった人間の名前を口にした。 「三屋さまは、野塩村のおみよという女をご存じですな」 「存じておる」  と言ったが、清左衛門はいささかあっけにとられていた。おみよというのは、清左衛門が川の中から救い上げた親子のうちの母親の方である。  清左衛門が釣り好きで、たびたび小樽川に来ていることを知ったおみよが、釣りに来たときはいつでも寄って足を休めてくれと言うので、清左衛門はその後二度ほどおみよの家に立ち寄って、庭の木から|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取って来た梨を馳走になったりしている。 「その女子がなにか」 「じつは少少困ったことになっておりまして……」  黒田はまたしても持って回ったような口をきいたが、突然に姿勢を改めて正面から清左衛門を見た。 「少少おうかがいしますが、三屋さまはこれまで、おみよとどのようなことを話されていますか」 「話だと?」  清左衛門はもう一度あっけにとられて黒田の顔を見たが、今度はそれではすまないものが気持の隅に残った。何を話そうと、よけいなお世話ではないか。 「そんなことを聞きたいわけかの」 「ぜひとも」 「ちょっと聞くが、これは何かの訊問かの?」 「いえ、そういうものではありません」 「では、こちらも言わせてもらおう」  清左衛門はきびしい顔で黒田を見据えた。 「わしが村の者と会って何を話そうと、それは元来が私ごと。ひとに話して聞かせることでもなければ、話の中身を言えと強要される筋合いのものでもなかろうと思うが、いかがか」 「お腹立ちはごもっともです」  清左衛門の不機嫌を、敏感に読みとった表情で黒田が言った。 「ご無礼は重重承知しておりますが、さる人にぜひともお聞きして来いと言いつけられまして」 「どなたのことだ」 「それは申し上げられません」  と言ったが、黒田はそこで微笑した。ほう、よほど自信があるのだな、と清左衛門は思った。黒田をよこしたのは、多分藩の大物なのだろう。  そのとき、里江が茶菓をはこんで来たので、話はとぎれた。しかし里江が部屋を出て行くとすぐに、黒田は粘っこい口調でつづけた。 「お話しいただけなければいたしかたありませんが、しかしそうなると、後あとまずいことになるかも知れません」 「これはおどろいた。いまのは脅しかの」  清左衛門は声を出して笑った。長年藩主のそばで用人を勤め、何度か藩政の修羅場にも立ち会って来た清左衛門からみると、黒田の恫喝は笑わずにいられないほどに露骨で青臭い。  しかし黒田は脅しの骨法を心得ているようでもある。将来ひとかどの者になるかも知れないぞと清左衛門は思った。 「知るとおり、わしは隠居の身。半分がほどは世捨て人でな、脅しはあまり利かぬ。ゆえにここで、一切話さぬとがんばってもよいのだが、それではそなたが困ろうし、またおみよという女子と、ひとに言えぬ粋なことを話したわけでもない。よろしい、話そう」  黒田は一礼すると、底光りする眼を清左衛門にむけて来た。 「まずは今年の稲の出来、漬け物の味、里の暮らし、それにおみよの身の上話……」  と清左衛門は言った。  おみよの家は六反歩の田と畑二畝を耕す小農だが自前百姓だった。二年前に夫が病死しておみよは寡婦となったが、すぐそばに実家があり、田畑がいそがしいときはいつでも手伝い人を呼べるので、暮らしはそれで成り立っていた。 「しかしいずれは婿を取らねばなるまい。そうせぬと夜這い男が這いこんで来ていそがしかろう、とまあ、そんな話をしたわけだ」  清左衛門は大いにさばけたところをみせたつもりで、話をそう結んだのだが、黒田はにこりともしなかった。ほかには、と言った。 「それだけということはありますまい」 「いや、おぼえているのはそんなものだな」  そう言う清左衛門を、黒田はなおもじっと見つめたが、やがてようやく納得したのか表情をゆるめた。黒田は、どこかほっとしたような顔をしている。  この男は、わしが何かもっとべつのことをしゃべるかと思っていたらしいが、はて、何のことだろうと清左衛門が思ったとき、黒田がまた、さっき一度見せた微笑を顔にうかべた。 「お話はおよそのところ相わかりましたが、そこで失礼ながら三屋さまにおねがいがございます」 「何だろう」 「野塩村のおみよは、少少わけのある女子でありまして、以後お近づきにならぬよう、おねがい申し上げたい」 「おねがいというが、内実は近づいてはいかんという禁止だな」 「いえ、そのように丁重におねがいしろと言われております」  黒田はあくまで下手に出ているが、背後にいる大物の権威を十分に意識して物を言っていることはあきらかだった。  少しからかってやろうかと清左衛門は思った。おみよに近づくなという言い方も癪にさわる。 「忠告をきかずにおみよに近づいたら、どういうことになるのかな」 「あの女子の命は、保証出来ません」 「ほう」  さすがに清左衛門もおどろいた。 「そう言えと言われて来たのか」 「さようです」  黒田欣之助を送り出してから、清左衛門は夜具を敷くのも忘れて考えこんだ。  おみよに近づくなということなら、第一に考えられることは、あの女が藩の誰かの持ちものかも知れないということである。おみよはこのあたりの農婦にはめずらしいほど色白の膚を持ち、やや大柄な身体つきにも魅力のある女である。十人並み以上の器量を持つその女が寡婦と知って、手当てをくれてわが物にしている人間が家中にいないとは言えない。  黒田が執拗に聞き出そうとしたのは、女がその誰かの名前を清左衛門に告げたかどうかではなかったかと思うと、黒田の突然の訪問はそれで辻つまが合うようでもあった。  ──しかし……。  命の保証が出来ないとはどういうことだ、と清左衛門の思案はそこで行きづまる。村の中に妾をかこうことは醜聞でないとは言えないが、それを世間から隠すために女の命を奪うことはまず考えられない。そんなことをすれば、いずれは身の破滅につながるだろう。  そこまで考えたとき、清左衛門の頭にうかんで来たのは、おみよ親子を助けたときに橋の上にいた男の姿だった。あれは見張りではなかったのだろうか。誰の見張りかといえば、むろんおみよのである。  ──そう言えば……。  黒田がいる間はあまり不審とも思わなかったが、あの男を寄越した大物は、わしがおみよの家に立ち寄っていることを誰に聞いたものだろうかと、清左衛門はいささか無気味だった。誰かが告げ口をしたのだ。告げ口をしたのは、やはりあの鳥刺し男なのだろうか。  そこまで考えると、おみよの背後にはひとの妾などというものとは違う、べつの黒い影が見えて来るようでもあった。近づかなければいいというのなら、事はこれで終ったようなものだが、この一件は一度、それとなく佐伯に相談をかけてみる必要があるかも知れんなと、清左衛門は思った。  数日して佐伯熊太が清左衛門の隠居部屋をたずねて来た。里江に案内されて来て坐ったが、佐伯はぜいぜいと肩で喘いで物も言えないでいる。 「少し太り過ぎではないのか」  と清左衛門は言った。町奉行は年ごとに醜く太って来るようである。 「いくら物がうまい秋と言っても、喰い過ぎはいかん」 「いや」  佐伯は手を振った。喘ぎながら、喉がわるいのは夏にひいた風邪がまだ治り切っていないのだと言った。 「それに、知らせることがあっていそいで来たせいだ。大体わしは喰い過ぎてなどおらん」 「よし、聞かせてもらおうか」 「この春先、江戸の石見守さまがおいでになられ、しばらくこちらに滞在されたことは聞いたろうな」  石見守は藩主の次弟で、はやくから徳川家に仕えて旗本となり、禄三千石をもらっている。  藩主家の一族とはいえ、江戸に住んで国元にはめったに帰ることがないひとだが、石見守は若年のころ、器量は兄、つまりいまの藩主より上とうわさされた人物だった。この春、藩主家では前藩主夫人の七年忌の法要を盛大に行ない、石見守はその法要に出るために墓参を名目に暇を乞うて帰国したらしい、という話を清左衛門も耳にしている。 「それは聞いた」 「ちょうどそのころに、野塩村で妙な事件があったのだ。貴公が聞きたいというのは、そのことではないかな」  佐伯はそう言ったが、そのとき里江が茶菓をはこんで来て、盆の上に厚く切った羊羹がのっているのにすばやく眼をつけたらしく、やあ、ここで一服しようではないかと言った。喰い過ぎはないという言いわけは、あまりあてにならないようである。 「何が奇妙かというと、こういうことだ」  茶を喫し、羊羹を喰い終ってから、佐伯熊太が話して聞かせたのはつぎのようなことだった。  ある日の午後、小樽川の下流で水死人が上がった。その若い男の水死人は、前夜から行方知れずになっていた野塩村の久右衛門の奉公人だとわかった。  一見して酒に酔って足を踏みはずし、水に落ちたといった状況だったが、調べにあたった村役人は、そのうちにその水死人にはいろいろと腑に落ちないことがあるのに気づいた。水死の若者は、ふだん一滴の酒も口にしない男だとわかったのである。それに小樽川は、そのころ格別水嵩がふえていたということもなく、また男は子供のころから小樽川を泳ぎ場にして育った、泳ぎ上手でもあった。過って水に落ちたぐらいでおぼれるはずがないという証言がいくつもあつまった。  そうなると、男が水死したのは過って水に落ちたときに頭でも打ったか、それとも喧嘩でなぐられでもして、その後川にほうりこまれたかである。頭を打ったとなればただの不運だが、もし喧嘩があったとすれば事件である。村役人は裸にした死人を仔細に調べた。そして頭を打った痕も、喧嘩の痕も見つからなかったが、腹のところ、正確には鳩尾《みずおち》のところに、何かでなぐられたような痕があるのを見つけたのである。  村役人の急報で、郡代屋敷から郡奉行配下の横目付が野塩村に派遣されて、再度検死にあたった。そしてその結果、いささか武術の心得がある横目付は、鳩尾の打撃痕を当て身の痕と断定したのである。つまり水死人は強い当て身を喰わされたあとで、川にほうりこまれ、息を吹き返したときは水の中で、そのまま水死したものと推測されたのだった。 「そういうわけで、この事件はわしの方に回って来たのだ」 「ふむ、おもしろい」  清左衛門は思わず言った。おもしろいと言っては死んだ若者に気の毒だが、これでおみよが何にかかわり合っているかがわかったと思ったのである。  おみよは、そのときの事件を目撃しているのではあるまいか。そしておみよがそのことを口外するのを、藩の大物が極端に恐れているらしいのは、事件の加害者がその大物と何らかのつながりを持っているからに違いあるまい。 「それで、事件は究明出来たのか」 「いや、それが……」  佐伯はぼりぼりとさかやきを掻いた。 「何の手がかりもうかばず、犯人はわからずじまいだった。しかし貴公に言われて調べさせてみたが、あのあたりで近年に起きた事件といえば、野塩村の水死人、これしかないな」  清左衛門はうなずいた。佐伯にはおみよの名前も黒田の名前も出さず、ただ野塩村周辺に最近事件が起きたことはないかと聞いただけだが、収穫はあったと思った。 「犯人は武家だろうな」 「もちろん、そうだ。藤井という、そのときに立ち会った横目付によると、当て身の主はかなり武術が出来る男ではないかということだった。しかし……」  と言って、佐伯は天を仰ぐようなしぐさをした。 「武家が何の用あってあの夜、野塩村の川べりになどいたのか。どうにもわからんかったな」      四  嫁の里江が告げる客の名前を聞いて、清左衛門は驚愕した。佐伯が来てから三日後のことである。 「おみよだと?」 「はい、この前お話にうかがいました野塩村のおみよさん」 「それはまずい」  清左衛門は思わず言ったが、これは誤解を生みかねない言い方である。はたして里江は、妙な顔をして清左衛門をまじまじと見た。 「ふーむ、おみよが何しに来たのだ」 「町に用があったついでに寄ったとおっしゃって、秋茄子と取りたての青菜をおみやげに……。いつかのお礼のつもりではありませんか」 「秋茄子か、うまかろうな」 「お茶でもさし上げようかと思いますけれども……」 「よし、ここに通してくれ。おみよには話もある」  と言ったが、これも誤解されかねない言葉である。里江は狐のように横眼で清左衛門を見ながら出て行った。  ──もう会わぬつもりだったが……。  むこうから来たものは仕方あるまい、と清左衛門は思った。そして佐伯に聞いた話をたしかめるなら、いまが最後の機会だと感じていた。あの生意気な黒田の鼻を明かしてやりたい気持もある。  なに、たしかめたあとはおみよにむかって、一切口外するな、口外すると命にかかわるぞと警告してやれば、あれは賢い女子だ、ここで話したことをひとに洩らすようなことはすまい、と思っているうちに、里江に案内されておみよが部屋に来た。  おみよは家の中に招きいれられるとは思わなかったらしく、恐縮し切った顔で部屋の入口近いところに坐った。坐っても、大柄な身体をちぢめたままである。 「いつものとおり、楽にしろ」  清左衛門はそう言い、青物のみやげの礼を言ってから、今日は少し聞きたいことがあるから、もっとそばに来いと言った。それでおみよはようやく顔を上げて清左衛門を見た。  おみよはいくらか上気したような顔をしていた。そして清左衛門の家に寄るために着たのか、新しい絣の袷を着ていて、それが元来の白い膚によく映っていた。 「話はほかでもないが……」  婢にまかせず里江がお茶をはこんで来た。それをおみよにすすめてから、清左衛門は切り出した。  春に、野塩村で水死人さわぎがあったのをおぼえているかと言うと、おみよはよくおぼえていると言った。手ごたえは十分である。 「正直に申せ、いいな」  清左衛門は念を押してから言った。 「そなた、その晩弥市というその若者が、川に投げこまれるのを見たであろう」 「………?」  おみよは清左衛門を見た。怪訝な顔をしている。いいえ、とおみよは首を振った。 「見ておらぬとな」 「はい」 「嘘は言っていまいな」 「いいえ」  おみよは大きく首を振った。そんなことで嘘を言うわけはないという顔をしている。はて見当が違ったらしいと、清左衛門は悟らざるを得なかった。ちょっとがっかりした。  ──すると……。  黒田欣之助のあの脅しは何だと思った。清左衛門が腕を組むと、おみよが自分から口をひらいて、あの晩はいそがしくて外になんか出られなかったのですと言った。 「掃部さまのお屋敷にお客さまがあって、私は頼まれて台所を手伝いに行ってましたから」 「ははあ」  掃部というのは、野塩村に住む大地主である。名字帯刀の家柄で多田という姓を持っているが、領内で五指に数えられる富者であるのに、ほかの豪農・豪商と呼ばれる人びととは異り、城と一切かかわり合いを持たないことで、謎めいた印象をあたえる家でもあった。その宏大な屋敷は、野塩村の奥にある。 「時どき手伝いに行くのか、その屋敷に」 「はい」 「その晩は、どんな客があったのかな」 「さあ、よくは知りませんけど、とても大切なお客さまのようでした」 「どうしてわかったな」 「客の姿をのぞいてはいけないと、厳重に言われましたから」 「ほう」  清左衛門はその話に興味をひかれた。 「何者だろう。商人かな、それとも武家かな」 「お武家さまでした」 「なに?」  清左衛門はおみよの顔を見た。 「のぞいたのか」 「いえ、それが……」  おみよはうつむいて笑った。思い出し笑いをしている様子である。 「帰ってもよいと言われて、焼き魚をみやげにもらって台所口から外に出ました。そして玄関の前まで来たら、ちょうどお客さまがお帰りになるところだったのです」  掃部家の人びとが三、四人見送りに出て、帰る客と挨拶をかわしていた。それを見てすぐに後に引き返せばよかったのだが、おみよはこのとき、なぜか前にもうしろにも足が動かず、建物の角を曲ったところにぼんやりと立ちすくんでしまったのである。あとから考えると、客をのぞくなときつく言われたことが頭に残っていて、失敗したかも知れないという強い緊張感に身動きを奪われてしまったようでもあった。  ともかく、何ほどかの間おみよは客と見送り人を見て立っていたのである。そのおみよを最初に見つけたのは掃部家の者だった。あわてて飛んで来て、おみよを玄関に引き入れた。その様子を見て、客の方でもおみよが見送り人でも何でもないことに気づいたらしい。お供の一人が玄関までもどって来て、鋭い眼をおみよにくばりながら、掃部家の人人におみよの住居と名前をただした。 「そのあとでお客さまはお帰りになり、私はさんざん叱られてやっと放免されたのです」  それだな、と清左衛門は思った。おみよは掃部屋敷のごく内密の訪問者の顔を見てしまったのだ。 「そのお客の顔だが……」  清左衛門は注意深くおみよを見ながら聞いた。 「まだ、おぼえているかな」 「それはおぼえていますとも。あの晩のことは忘れられません」  おみよはまたうつむいて笑った。そして顔を上げると、馬が二頭おりましたと言った。 「それから身分の高そうなおひとが二人と、提灯を持ったお供のお武家さんが二人、全部で四人でした」 「その身分の高そうな方の顔を言ってくれ」 「一人は五十ぐらいで、ここの髪が……」  おみよは横鬢を押さえてみせた。 「真白で、眼がきつくつり上がったひとでした。顔はおも長で眼の下に大きなたるみがありました」  朝田弓之助だと清左衛門にはすぐにわかった。いまの筆頭の家老である。 「もう一人はずっと若いひとで、やっぱりおも長の顔で、ここにほくろがありました、鼻のそばに。鼻が高くて、口が大きくて唇のうすいひとでした」 「よし、わかった」  清左衛門は言った。その夜、多田掃部の屋敷をたずねたのは朝田家老と藩主の弟石見守である。黒田が言った、命の保証は出来ないという言葉が胸にうかんで来た。  朝田派というのか、ともかく朝田家老の側には、その夜石見守と二人で掃部屋敷をおとずれたことを、ひとに知られてはならない事情があるようである。石見守が同行した理由はいまひとつ不明だが、たとえば敵対する遠藤治郎助派を、潰滅に追いこむための資金をつくりに行ったなどということは考えられないだろうか。  お化け葛籠《つづら》をあけてしまったかな、と清左衛門は思った。背中に小さい戦慄が走った。とにかく葛籠の蓋をしめねばなるまい、間に合うかどうかはわからんが、とも思った。 「いま、わしに言ったようなことを……」  と清左衛門は言った。 「ほかの者にも言ったことがあるかな」 「いいえ」 「それはけっこう。では、改めてそなたに言っておく」  清左衛門はきびしい顔で言った。 「掃部屋敷で見たことは、一切忘れてしまうことだ。ひとに聞かれたら、忘れた、おぼえていないと言え。そうせぬと、そなたも弥市の二の舞になるぞ」  清左衛門のその言葉で、おみよは青ざめてしまった。みるみる顔から血の気がひいたのがかわいそうだった。清左衛門は言葉をやわらげた。 「なに、それほど心配することはない。あの晩のことをしゃべらなければ、誰も何にもせぬ。ところで……」  誰かにつけられはしなかったかと聞こうとして、清左衛門は思いとどまった。つけられ、おみよがこの家に入ることを見られたのは、まず間違いないことである。おみよに話して、無用のおびえをあたえても仕方ない。 「むこうに着くまでには日が暮れよう。送って行こう」 「とんでもありません。一人で帰れます」 「いや、わしも丁度散歩に出ようと思っていたところだ」 「………」 「ただし同行させたい者がおるゆえ、その者が来るまでちょっと待て。ここが窮屈なら台所で待ちなさい」  おみよを台所に連れて行ってから、清左衛門は下男の平助を平松与五郎の家に走らせた。万一のことを考えて助けを呼んだのである。平松は非番でなくともそろそろ下城するはずだった。      五  呼びにやったその平松与五郎は、なかなか来なかった。平松がだめなら又四郎を連れて行くか、と思ったがその又四郎も下城して来なかった。  ──いかんな。  これでは夜になってしまう、と清左衛門は思った。意を決して外出の支度をはじめた。相手はお化け葛籠だと思った。夜道になったら、闇にまぎれて何をしかけて来るかわかったものではない。弥市も、その一行と正面から顔を合わせてしまったために、始末された疑いがある。  ひさしぶりに両刀を帯びた。そして玄関に出ると里江に命じて草鞋《わらじ》を出させた。里江はすぐに草鞋を持って来たが、やはり刀に眼をとめた。 「どういうことですか、このお支度は」 「おみよを村まで送って行く。あとで平松が来たら、いそいで追いつくように申せ。野塩村までは一本道、迷うこともなかろう」  ようやく里江は、不穏な空気を嗅ぎつけたらしかった。表情を改めて言った。 「何がございましたのですか、おとうさま」 「たかが一人の百姓女の命を狙っておるものがいるのだ」  そう言うと同時に、清左衛門はにわかに胸に怒りが動くのを感じた。 「武家の風上にもおけぬ」 「まあ」  里江は呆然と清左衛門を見たが、すぐにはげしく言った。 「それは、どなたのことをおっしゃっているのですか」 「それがはっきりせんのだて。だから平松の助けを呼んだのだ」 「もう少しお待ちになってはいかがですか」 「いや、日が落ち切らぬうちにむこうに着きたい」  おみよを呼んでくれ、と清左衛門は言った。そして、何も知らないおみよを連れて家を出た。  その男たちは町はずれの地蔵堂で待ちうけていた。そして二人をやり過ごしてから道に出て来た。帯刀、羽織はかまの男二人である。一人は二十半ば、一人は三十を越えているだろう。二人は野道に出ると、一定の距離をおいてどこまでもついて来る。  ──やはり、来たか。  と清左衛門は思った。おみよの話を聞いて清左衛門が思ったのは、その夜の秘密を守るためには、やつらはこの女を殺しかねないぞというものだった。  つぎに考えたのは、おみよが清左衛門の家をたずねたことを、彼らがどう受け取ったかということだった。これまでおみよを殺さなかったのは、掃部屋敷の人人にいきさつを知られているからでもあるだろうが、おみよがしゃべらなければ殺すことはないと思っていたからだろう。ただ監視だけはつけた。その監視の男は、おみよ親子が水に流されかけているのを見ながら助けなかった。あの二人は水死したと報告すれば、監視を命じたものが喜ぶことを知っていたからだろう。  ところで今度は、清左衛門が出て来た。おみよの口から清左衛門に、あの夜のことが洩れれば朝田派にとってはつごうがわるいことになる。今度は殺すにしかずと考えたかも知れない。二人をつけて来ているのが、あの鳥刺しではなく、両刀を帯びた武士なのは、彼らがその気になったということのようでもある。  清左衛門は両手のひらに、じっとりと汗をかいた。道場には怠たらず通っていて、勘も体力も少しずつもどって来てはいる。若いころは無外流で少少鳴らしたものだという自負もある。だがいかにせん、もはや若くはないと清左衛門は思わざるを得なかった。うしろから来る屈強の二人を相手に斬り合ったら、まずひとたまりもあるまい。  日は稲の穂のむこうに沈みかけていた。まさか日のあるうちに斬りかけても来ないだろう、その間に平松が駆けつけてくれればいいがとねがいながら、清左衛門は歩いて行った。うしろのおみよも、後から来る二人が気になるのか、時どき振りむきながらついて来る。  突然、男たちが走って来た。そこは小樽川の手前の四辻だった。四方は田圃で、そのむこうに野塩村の木立が青黒く見えている。あとひと息だったが、日は沈んであたりはたそがれいろに包まれはじめていた。  走り寄って来た男たちは、すばやく二手にわかれて退路を断った。そこで年長の男が、清左衛門にむかって言った。 「三屋のご隠居には、ここからもどっていただこうか」 「このひとをどうするつもりかな」  と清左衛門は言って、おみよを振りむいた。 「それを聞かぬうちはもどれんな」 「どうするかはこの女子との談合次第。ご隠居は気になさらん方がよろしい」 「いや、大いに気になる」  と清左衛門は強い口調で言った。 「ざっくばらんな話をしよう。この前黒田欣之助が参って、この女子とは会うなと申した。小癪な言い分だが、事情があるとのことゆえ諒承した」 「………」 「で、もう会わぬつもりだったが、今日はむこうからたずねて参った。他意はない。秋茄子と青菜をとどけて来たのだ。そうだな、おみよ」  清左衛門が振りむくと、おみよがいそいでうなずいた。おみよの顔は、恐怖でひきつっている。清左衛門は、軽くその肩を叩いてやってから男にむき直った。 「何を話したかが気がかりだろう。格別のことは何も話さぬ。稲の出来、秋茄子のうまい漬け方といったものだ。おみよにたずねたくばたずねてもよいが、無駄なことはせぬ方がよいのではないか」 「無駄かどうかは、こちらで判断させてもらう」  と男が言った。あくまでおみよをどうにかするつもりらしかった。 「さようか。では、わしはこれでこのひとから一切手をひくが、ひとことだけ言っておく」  しゃべりながら、清左衛門は平松与五郎はまだかと思った。あの話を聞いた以上は、このままおみよを男たちにわたすわけにはいかないのは自明のことである。 「こちらはもっぱら下手に出て、手の内も残らず明かして来た。この女子に事なかれとねがうためだ。その気持を踏みにじってだな、この女子にもしものことが起きるようなときは、ただでは済まさぬ。このことは承知しておいてもらうぞ」 「………」 「たかが隠居と侮らぬ方がよい。三屋清左衛門、まだ藩の中に知己もおれば、頼みこむ筋もにぎっておる。おみよに不審なことが出来たときは、どこまでもあばき立て、そなたらに命じた者が身の置きどころを失うまで追いつめてやるぞ。さよう心得て……」  清左衛門がそこまで言ったとき、むかい合っていた年長の男がひどく動揺した様子を見せた。ひと声、若い男を促すとつぎにはいきなり背をむけた。二人はそのまま、すたすたと田の中の道を遠ざかって行く。  振りむくと、つねと変らない足どりで平松与五郎が近づいて来るところだった。男たちは、目ざとく平松を見わけたようである。その日ごろ見なれている痩せ型の長身が、清左衛門にはこの上なく頼もしく見えた。 「やあ、助かった」  清左衛門が言うと、平松はかすかな笑いをたたえた眼で清左衛門を見た。 「いかがいたしましたか、ご隠居」 「いや、送り狼につきまとわれて、あぶないところだったのだ」 「それは、それは」  と言いながら、平松は野道を遠ざかる二つの人影をじっと見ている。  その視線を追いながら、清左衛門は、あの二人があきらめておみよから手をひいたのか、それとも近づくのが無外流の平松とみて、いっとき身を避けただけなのか、どちらだろうかと思った。 「このひとをひとまず家まで送って……」  清左衛門は平松に言った。 「うまい梨でも馳走になって帰ろうではないか。少少喉がかわいた」  ようやく平常心を取りもどした耳に、小樽川の川音が聞こえて来るのに気づきながら、清左衛門は村にむかって歩き出した。 [#改ページ]   平 八 の 汗      一  紙漉町は裏町になるので、道が細い。三屋清左衛門は道場から表通りに出る道を、いくらかいそぎ足に歩いていた。  時刻は七ツ(午後四時)過ぎ。べつにいそぐ用があるわけではなく、無外流の稽古を終って家にもどるだけのことだが、稽古の余韻が身体に残って、まだ全身が熱っぽかった。  ──わしも……。  まだ捨てたものではないと、清左衛門は思っていた。例によって少年たちに基本の型をしつけたあとで、最後に自分の稽古にもどったのだが、今日の相手は土橋謙助という男だった。  土橋は御勘定目付の土橋家の三男で、いわゆる冷飯喰いの身分だが、無外流の腕は優秀で、道場では五指に数えられている好青年だった。清左衛門は、今日は自分でもびっくりするほどに身体が動き、二度ばかり土橋を羽目板まで追いつめるほどの、はげしい竹刀を使ったのである。 「いや、お若い。身体の動きも、技もです」 「年寄りを喜ばせようと思って、そんなことを言っておるな」 「いえ、本音です。もう少しでこっちが負けるところでした。むかし取った杵柄《きねづか》ですかな、三屋さま」  多少は社交辞令が入っているにちがいないと思っても、土橋のような高弟にほめられて気分がわるいわけはない。清左衛門は土橋の言葉を思い出し、内心笑いを噛み殺しながら歩いているのである。足がはずんで当然というものだった。  そろそろ歩いている道の出口に、表通りを往来する人の姿が見えて来ようというところまで来たとき、清左衛門はその道を武士が一人、こちらに歩いて来るのに気づいた。  真西にむかっているその道には、折りからまぶしいほどの日の光がさしこみ、はやくも赤味を帯びた光がつくる濃い影のために、すぐには武士の顔は見わけにくかった。うつむいて、思案ありげに肩までまるめて歩いて来るその男が、大塚平八だとわかったのは、二人の間が四、五間まで近づいたときである。 「平八、どこへ行く」  清左衛門は声をかけた。大塚平八は清左衛門の旧友である。ここ十年あまりは清左衛門が江戸詰が多く、また身分にもへだたりが出来て顔を合わせることも少なくなっていたが、二人は少年のころはともに清左衛門がたったいま出て来たばかりの無外流の道場に通い、その後も何かと行き来のあった仲である。 「おお、三屋か」  大塚平八は立ちどまった。そして満面に笑いをうかべて清左衛門を見た。するとその顔に|たぬ《ヽヽ》平と呼ばれた少年のころの面影が出た。平八は色が黒くて顔がまるく、少し口がとがっているあたりが狸に似ている。そしてそのままの顔で、髪が白くなっていた。 「いま貴公をさがしながらこっちに来たところだ」  と平八が言ったので、清左衛門はおどろいた。 「わしをさがして?」 「さよう。屋敷に行ったら、嫁女が今日はこちらだと申す。それで回って来た」 「何か、急用か」 「いや、急用というわけでもないが……」  平八は言葉をにごした。 「ちと、頼みがある」 「この隠居に、何の頼みがあるか知らんが……」  清左衛門は、表通りの屋根のはずれに沈みかけている日に眼をやった。日が落ちるとにわかに空気が冷えて来る、そんな季節だった。蟹の味噌汁で、熱く燗した酒を飲んだらうまかろう。 「近年みつけた酒のうまい店がある。つき合え」  と清左衛門は平八を誘った。      二  花房町は城下の南にあって、道場がある紙漉町とはかなりはなれている。清左衛門と大塚平八が小料理屋「涌井」ののれんをくぐったころには、日は城下の西の丘の陰に沈みかけ、町には青白い靄のような夕色がただよいはじめていた。  二人は「涌井」の奥座敷に落ちついた。 「蟹が入っているかな」  清左衛門が聞くと、顔馴染みのおかみが、まだ脚を動かしている蟹がありますと言った。「涌井」は海から上がったばかりの魚を、大いそぎではこんで来て喰わせるので評判がよかった。 「茹でますか、それとも味噌汁になさいますか」  膚がきれいで、眼に少し険のあるおかみが言った。おかみのみさは三十前後で、険がある眼と頬骨が出ている顔のために美人とは言えないが、いわゆる男好きのする女だった。 「味噌汁の方が野趣があっていい」 「はい、そうおっしゃる方もおられます」  おかみはほほえんだ。 「ほかには焼いたかれいと、三屋さまのお好きな風呂吹き大根ぐらいでよろしゅうございますか。足りなければ、ほかに貝も魚もありますけれども」 「いや、そのぐらいでよい。隠居の身であまり高い物は喰えぬ」 「あら、まあ、三屋さまがそんなことをおっしゃって」  おかみは笑いながら部屋を出て行った。すると、それまで黙っていた平八が、ここには時どき来るのかと言った。 「いや、ごくたまに佐伯と来るぐらいだ」 「ああ、佐伯熊太」  平八はうなずいた。そしてにが笑いをうかべた。 「子供のころは、あのひとにはいじめられた。いまでも苦手だ」  思い出して、清左衛門もふふと笑った。 「佐伯はめちゃくちゃだったな。勤めをしくじりもせず、ここまで来たのが不思議なくらいだ」 「まだ町奉行でばりばりやっているのも、あの元気があったからだろう。われわれとは人間の出来がちがう」 「おや、平八」  清左衛門は平八を見た。旧友といっても、会うことがなくなれば消息にうとくなる。 「おぬし、隠居したのか」 「隠居した。一年ほどたつ」 「そうか。それは知らなかった。で、跡取りは?」 「倅が二十三で、いま江戸詰でむこうに行っている」 「やはり、右筆《ゆうひつ》で勤めているのだな」  そうだ、と平八は言った。  大塚平八の家は代代御右筆衆の家柄で、平八の祖父の代には御右筆頭を勤めていた。そのころは家禄も百三十石をもらっていたが、その後平八の父親が勤めの上で失態があり、家禄を削られて八十石となった。平八の元服が済んだころの話である。  そういう経過があったせいか、大塚平八の勤めぶり、暮らしぶりが異様に小心翼翼たるものだったのを、清左衛門は思い出していた。そんなに気を遣って勤めても、削られた禄がもどるということはなかったのだが、しかし無事に家を守り切って跡取りにわたしたわけかと清左衛門は思った。 「そうか、跡取りが江戸詰か。これでひと安心だな」 「まあな」 「嫁はもらったか」 「これからだ」 「いい嫁をさがすことだ。嫁のよしあしは隠居にも大いにかかわりがあってな、わしの家なども……」  清左衛門が嫁自慢をはじめようとしたとき、酒肴がはこばれて来た。勝手に飲むからと酌取りをさがらせてから、清左衛門は平八に酒をついだ。 「連れ合いは達者か」  清左衛門が言うと、平八は達者だと言った。 「それはいい。いま思い出したが、われわれの仲間じゃ、おぬしが嫁をもらった一番手だった」 「十九でもらったからな」  と平八が言った。二人はしばらくそのころの思い出話をした。 「ちと早すぎはせんかと、あのころは思ったものだが、いま考えるとおやじは例の一件で元気をなくしていて、一日もはやく城勤めから身を引きたかったらしい。一年後にはおやじは隠居して、わしが勤めに出たのだ」 「そうか」  と清左衛門は言った。淡い悔恨が胸に入りこんで来た。当時はそんな事情も知らず、十九で妻を娶ることになった平八を、まるで好色漢のような言い方をしてあざ笑ったり、祝言の席をのぞきに行って、新妻が平八に劣らない丸顔なのを発見してはやし立てたりしたのだ。剣の腕ものびず、気も弱い平八を軽くみていたのである。  若いときに限ったことではない、と清左衛門は思っていた。ひたすらにお勤め大事、女房が大事、子が大事と、わき眼もふらず城と家を往復する平八を軽くみる気持は、つい近年まであったのではなかったか。 「どうした? 蟹を喰ってくれ。うまいぞ」  清左衛門は、平八がまだ蟹汁に手をつけていないのを見てすすめた。清左衛門は適当に飲み、顔にも酔いが出て来ているのに、平八は酒もそんなには飲んでいないようである。 「熱いうちにやるといい」  遠慮しているのかと思って、清左衛門は平八に酒をついだ。そしてやっと、平八が頼みがあると言っていたのを思い出した。 「ところで、頼みとは何だ」 「うん、それだ」  平八はついでもらった酒を飲みほしてから、清左衛門を見た。 「おぬしなら、歴歴の方方をよく知っていると思うが……」 「歴歴と言うと、役持ちのことか」 「まあ、そうだ」 「佐伯とか、大目付の山内勘解由とかのことかな」 「いや、もう少し上の方だ」 「もっと上というと御奏者、番頭、組頭……」 「………」 「あとは中老、ご家老方になるぞ」 「ご家老に、どなたか昵懇の人はおらぬだろうか」 「ほう」  清左衛門は平八を見た。平八は上眼づかいに清左衛門を見ていた。 「いたらどうするな」 「お会いして頼みたいことがある。紹介の労をとってくれぬか。おぬしなら出来るだろうと思って来たのだが……」  ふーんとうなって清左衛門は腕を組んだ。気配を窺うような平八の上眼づかいがいくらか気になったが、平八の頼みはひさしぶりに清左衛門の自尊心をくすぐるものだった。  頭の切れる用人などと評判されて、君側で羽振りをきかせていたころの清左衛門は、遠藤治郎助、朝田弓之助、山村万之丞、内藤寅之助といった元家老、現職の家老たちと、時には対等の口をきいた。事実、意見をもとめられて助言したこともあれば、彼らの私邸に招かれて饗応をうけたことも一再にとどまらなかった。平八の言う昵懇のまじわりをしたと言ってもよい。  むろん、三屋家の隠居となったいまも、むかしのまじわりがそのまま通用すると考えるほどに、清左衛門は甘くない。家老たちが昵懇にしたのは、藩主の信頼厚い用人であり、その用人がにぎっていた権力だったことを承知しているが、さればといって当時の重職たちとの交際が、すべて過去のものとなったというわけではない。一部はまだ生きていた。平八の頼みはそのことを思い出させたようである。 「間島さまでいいかな」  しばらく忘れていた、権力の筋を動かす快さを感じながら清左衛門は言った。平八の顔に喜色が動いた。 「いいどころではない。紹介状をもらえるか」 「頼みの中身は何だ、平八」  清左衛門は気づいて聞いた。 「紹介するからには、あまり変なことは持ちこまんでくれよ」 「それは心配ない」  と平八は言った。 「じつは隠居してから、例のおやじの一件を調べているのだが、ちょっと上の方にうかがいたいことが出て来た。いや、面倒は何もない。ご家老衆のどなたかにひと言聞けば済むことだ。おぬしに迷惑はかけぬ」 「そういうことなら間島さまが一番くわしいだろうさ。よかろう、紹介状を書こう」  清左衛門は鷹揚に言った。間島家老なら、清左衛門の紹介状を持参する人間を、粗末には扱わないはずだった。それに近ごろまたキナ臭い匂いをはなちはじめた派閥争いにも抵触せぬところがいい、と清左衛門は思った。  間島弥兵衛は、内藤寅之助のようにつぎは筆頭家老にのぼる器などと言われることもないかわりに、遠藤治郎助が筆頭家老のときも、遠藤派がしりぞいて朝田弓之助が権力をにぎったあとも、ずっと家老職にとどまっている不思議な老人だった。実務にくわしく、間島家老がいなかったら藩政は闇だなどという声もあり、そういう実務派的な肌合いが、間島を派閥を超えた存在にしているのだと思われた。 「さあ、話はこのぐらいにして蟹を喰おうじゃないか」  清左衛門は言いながら、銚子をつかんで平八を見た。そして眼をみはった。大塚平八は汗をかいていた。それもただの汗ではない。襟元から、ややうすくなった頭から、ぼうぼうと湯気が立っている。  もちろん平八は懐紙を出して、顔から首のあたりをしきりに拭いているのだが、そんなことでは追いつかない、おびただしい汗だった。 「どうした、平八。暑いのか」 「うむ、酒をいただきすぎたようだ」  茹でた蟹のような顔いろで、平八はそう言ったが、清左衛門には平八がそんなに湯気が立つほどに酒を飲んだとは思えなかった。      三 「三屋さまは、夜分はおひまでしょうか」  講義が終って保科笙一郎が奥に入ると、塾の広間には急に解放されたような雑談の声がひろがった。その中で清左衛門が老子の抄本を丁寧に風呂敷につつんでいると、そばに来て坐った若者がそう言った。御使番の牧原頼母の総領で、新之丞という男である。  牧原新之丞は齢は二十一。今年の春から見習格で小姓組に勤めたと聞いているが、今日は非番とみえて保科塾の講義に出ていた。いかにも上士の家の行きとどいたしつけを感じさせる、立居のきびきびした若者である。 「夜はひまです」  清左衛門は丁寧に答えた。 「もはや、日が暮れたから飲みに出ようという元気はなく、夜は家で書物を読むほかたのしみはありません」 「はたしてそうでしょうか」  新之丞が、急にいたずらっぽい笑顔をむけて来た。年長の人間に物怖じせず応対するところにも、育ちのよさがあらわれている。 「つい半月ほど前に、花房町の路上で三屋さまをお見かけした者がおりまして、その者が言うには、三屋さまはかなり御酒を召されていたと……」 「これはしたり」  清左衛門は笑った。湯気を立てて汗をかいたあと、大塚平八が急に底なしに酒をあおり、清左衛門も釣られて飲んでしたたかに酔った帰り道を、誰かに見つかったらしかった。  笑いながら、清左衛門は立って座を縁側に移した。縁側は板敷きだが、午後の日があたってあたたかかった。庭に白菊と黄菊が咲いている。 「うかとしたことは言えませんな。わるいところを見つかったらしい」 「そのようです。しかし……」  新之丞はやわらかく微笑している。 「三屋さまはまだまだご壮健。ご隠居などとおさまりかえるのは似合いません。花房町、紅梅町あたりに出没なさるのは大いにけっこうではないでしょうか」 「やあ、そうしてけしかけてもらうと元気が出る」  と清左衛門は言った。目の前の青年が、すっかり好きになっていた。 「で、ひまな隠居に何かご用でも……」 「はあ、じつはお誘いしたいあつまりがありまして」  新之丞はまじめな顔にもどって、清左衛門を見た。 「論語を読む会なのです」 「ほう、論語を……」 「そう言っても、べつに堅くるしいあつまりではありません」  と新之丞は言った。  むかし藩校や保科塾に通って、学問の下地のある者が二、三人、あるときに茶屋酒も倦きた、たまにはあつまって論語でも読むかと申し合わせたのがはじまりで、そういう会合が出来た。  齢も中年なら藩の役どころも中堅といった男たちのあつまりだったから、特に師を呼ぶこともなく、論語を読んだあとは藩の時事を論じたりもする気楽な会にした。そしてその気楽さがよかったのか、伝え聞いてひとが加わったり、また誘われて来る者もいて、いまはふだんで二十人、多いときは三十人もあつまる会になっている、と新之丞は説明した。 「主な顔触れは?」  用心ぶかく清左衛門はたずねた。人数が多すぎるような気がしたのである。藩中に党を立てるようなあつまりには、隠居としては出ることは出来ない。 「ええと、尾形七郎右衛門、鳥飼吉兵衛、植田与一郎、杉浦兵之助、臼井甚吉、花井六弥太……」  新之丞はすらすらと十人ほどの名前をあげた。  特に問題はなさそうだな、と清左衛門は思った。尾形は物頭だが、高百八十石の万年物頭である。鳥飼吉兵衛は御書院目付、植田与一郎は新設の銃隊の隊長、杉浦兵之助は物頭の家柄だが、いまはまだ小姓組にいるはずで、臼井甚吉は代官といった大体の見当はついて、ちらと懸念したような朝田派、遠藤派という色合いは感じられない。 「で、場所は?」 「それが回り持ちで、つぎは郡奉行の栗原さまのお屋敷でひらきます」 「栗原又兵衛どのか。さっきは名前を言わなかったようだな」  と清左衛門は言った。栗原又兵衛は古い郡奉行で、色分けによれば遠藤派に属する人物である。  あ、そうでしたかと言って、新之丞が少しうろたえたような顔をしたが、そのとき清左衛門はうしろを通って出口の方に行く二人連れの、高声の話し声に耳を奪われた。思わず首を回してその後を見送った。 「いかがですか」  という牧原新之丞の声に、清左衛門ははっとわれに返った。 「ええーと、栗原どのの屋敷で、いつの会合と申されたかな」 「たったいま申し上げました。十二月五日、夜五ツ(午後八時)です」 「承知いたした。では、せっかくのお誘いゆえ、一度出席させていただこうか」  と清左衛門は言った。論語を読むだけでなく、そのあと世間話も聞けるとなれば、とかく世間にうとくなる年寄りにはわるくないあつまりのようだと思ったのだが、事実はさっきの二人連れの話した言葉が耳に残って、新之丞の誘いどころではないといった気分になっていた。 「大塚平三郎は、御叱りで済むらしいな」 「おやじの平八が、どういうツテあってか間島家老に直訴嘆願したのが利いたらしい」  二人はたしかにそう言ったのである。御叱りとは何だと思いながら、清左衛門が立ち上がろうとしたとき、新之丞がつとその膝をおさえた。 「誰でも誘うというわけではありませんので、会合にお出になることは、相成るべくはご内聞に」  と、新之丞は言った。顔には微笑がうかんでいるが、もう残っている者も四、五人しかいないというのに、新之丞の声は低かった。  そのわけを、三屋清左衛門は栗原又兵衛の屋敷に行った夜に理解した。  ──これはしたり……。  明明白白な遠藤派のあつまりではないかと、すぐに思った。たしかに牧原新之丞が言った男たちは概ね顔をそろえていたが、名前を言わなかった男たちもかなりいた。安富忠兵衛が藩政から身をひいたあと、遠藤派の番頭と呼ばれた元中老の桑田小左衛門、遠藤派の組頭細谷孫三郎、吉岡主膳、現職の番頭中野峯記、そして意外だったのは、そのれっきとした遠藤派の中に家老の間島弥兵衛が坐っていることだった。  ほかに清左衛門が顔も知らないような若い男たちが大勢来ていたが、肝心の牧原新之丞の姿は見えなかった。無責任な男だと清左衛門は思った。  ──どうも、あの牧原の息子……。  調子がよすぎた、と思い返しているうちに会がはじまり、たしかに論語を読むことからはじまったのだが、それはどうやら朝田派の眼をそらす擬態らしく、中身は粗末なものだった。  鳥飼吉兵衛が論語の郷党篇の一章を読み、それに解釈を加えるのだが、その解釈がしどろもどろで、時にはあきらかに見当ちがいの説をのべているにもかかわらず、聞く方は一言も発しないというおそるべき読書会だった。  しかし元中老の桑田小左衛門が、ごくろうであったと鳥飼をねぎらい、ではと形をあらためて最近の藩政のありようを話しはじめると、座はにわかに活気づき、それまで死んだように黙りこんでいた男たちが、つぎつぎと質問をはなち、自分の意見をのべて、一刻(二時間)ほどの時はあっという間に過ぎたのである。  会が終って、清左衛門が帰り支度をしていると、そばに間島家老が来た。清左衛門は恐縮して久闊《きゆうかつ》の挨拶をのべてから言った。 「いま、こちらからお詫びを申し上げようと思っていたところでした」 「何の詫びだな?」 「大塚平八のことです」  平八の総領平三郎は、上の命令で公文書を作成した際に重大な失策を犯した。それは文書を送った相手方に対して、藩が面目を失うような失策だったので、事件の処理が終ったのち国元に召喚されて処分を受けることになった。そしてその処分は減石か、あるいは右筆職からはずすといったものになるのではないかとうわさされていたのだが、父親の平八が間島家老に泣訴して軽い咎めで済んだ。  清左衛門が右のような事実を知ったのは、保科塾で牧原新之丞に会った翌日である。清左衛門にたのまれた嫡子の又四郎が、城中からその事実を聞き出して来た。 「そういう事情があるとは知らず、平八に紹介状を持たせたのはいかにも軽率。ご家老にはとんだ迷惑をおかけし、申しわけござりませんでした」 「いきなり直談判に来たのは少少おどろいたが……」  間島は干し柿のようにしなびて黒い、面長な顔に笑いをうかべた。 「おぬしの紹介とあれば会わぬわけにはいかん、またきつい処分も出来かねた」  平八の狙いはそれだったのだと、いまではわかっている。つまり清左衛門の元用人という経歴にまだ利用価値ありと踏んだのだ。  しかも真実を話せばことわられるのは目に見えているので、倅の一件は隠した。要するに清左衛門をたばかったのだが、たばかり切れないものがあのぼうぼうと湯気が立つ汗になって出たのだろう。 「しかし大塚平三郎の今回のような失敗は、一度身にしみれば二度は犯さぬものだ。軽い処分にとどめてよしと判断した。もっとも、わしが月番で平八は得をした。朝田や内藤が係だったらお叱りだけで済んだかどうか」 「ありがとうござりました。平八になりかわって御礼申し上げます」  と清左衛門は言い、深深と頭をさげた。  真相がわかっても、清左衛門は平八を呼びつけて文句を言ったりはしなかった。御礼というよりはお詫びのつもりらしく、平八からとどいた鱈も黙って喰った。清左衛門の前で盛大に汗をかいたとき、平八は平八でつるぎの刃わたりを演じたのだと思いあたったからである。小心翼翼と家を守って来た平八の、あれは最後の力をふりしぼって仕かけた一世一代の大勝負だったのではなかったか。 「ところで、お返しと言っては何だが……」  と間島は言った。 「お察しのとおり、これは遠藤方の気勢を盛り上げるあつまりのようなものだが、毎度とは言わぬ、時どき出てもらえるとありがたい」 「しかし、それがしは隠居の身分……」 「それは心配いらぬ。先日のあつまりには又四郎も出た」  間島はにこにこ笑った。 「だから牧原の倅におぬしを誘わせたのだ。元用人の名前は小さくないからの」 [#改ページ]   梅咲くころ      一 「折敷いて鉄砲をはなったところ、猪はまっすぐに師匠を目がけて走って来ると、避ける間もなく上からのしかかったそうです」  安西佐太夫はそこで言葉を切り、三屋清左衛門を振りむくと微笑した。ふだん笑顔などみせることもない無口な男がどことなく機嫌よさそうにみえるのは、話が得意とする鉄砲のことだからであろう。 「佐太夫、そこで話をやめるな」  清左衛門はじれて催促した。 「それで、白石はいかがした?」  白石というのは、若いころに外記流の鉄砲で藩から一家を立てることをゆるされた白石直右衛門のことだった。安西佐太夫はその一の弟子である。 「一緒に子持山の猪狩りに行った人人は、すわとおどろいて刀を抜くと師匠が倒れた場所に走ったといいます。ところが師匠は何事もなく猪を押しのけて起き上がり、猪はと見ると、眉間をまっすぐに撃ち抜かれてもはや絶命していた由です」 「ふむ、大した腕だの。それに元気だ」  と清左衛門は言った。いま安西が話している猪狩りは二年前のことだが、それにしても白石直右衛門はもう六十を過ぎているはずである。白石の壮健ぶりは、うらやむべきものだった。 「わしも釣りを嗜《たしな》むが、猪狩りとは思いもよらぬ」 「わが師匠の元気は特別でござりますゆえ……」  安西はにこにこと笑ったが、そこでわが家のそばまで来たことに気づいたらしかった。顔に、わずかに困惑のいろをうかべた。 「お立寄りいただければいいのですが、あいにくと……」 「いやいや、その気遣いはご無用」  清左衛門はいそいで安西の言葉を遮った。くわしい事情は知らないが、安西が妻を離縁したことを耳にしていた。五年ほど前だと聞いたようでもある。話はまだ尽きないが、男やもめの安西に気を遣わせるわけにはいかない。 「日が落ちる前にもどらぬと、また嫁が心配する」  これでと言って、清左衛門は会釈をかわすと背をむけた。安西の家がある天王町は小禄の藩士が住む町である。安西もたしか勘定方に勤めて家禄は四十石足らずのはずで、道の両側にはつつましい見かけの家家がつづき、なお歩いて行くと右手に町の名前になっている四天王を祀る御堂がある。そしてその先は、両側ともに足軽屋敷だった。  そういう町柄のせいか、天王町には他の武家町にはない人のにぎわいのようなものがあって、たとえば町角に子供が群れて遊んでいたり、垣の内ながら足軽の女房たちが人眼もはばからず声高に立ち話をしているのを見かけたりする。  しかしいまはまだ二月のはじめで、日が傾くと寒気はたちまち町を覆いつつんでしまう。おそらくはそのせいで、町は無人のように静かだった。道の両側には積み上げた雪が残り、黒く汚れた雪の上に、ところどころ衰えた日射しが射しかけているのが見えた。しかし一日じゅう日が照りわたったので、道は乾いている。  ──気持のいい男だ。  と清左衛門は思っていた。むろん別れて来た安西佐太夫のことである。  安西とは例の遠藤派の読書会で知り合った。今日もその帰りだった。読書会は夜ひらくとはかぎらず、今日のように非番の者をあつめて日中に会合を持つこともある。相変らず論語を読む体裁は保っているものの、対抗する朝田派が、近ごろは播磨屋を使うだけでなく、直接家老屋敷に人をあつめることもあるとかで、遠藤派の会合も、その情勢につれて近ごろは半ば公然のものとなっていた。  安西とはたまたま会合からもどる道が同じ方角で、これまでも二、三度連れ立って帰っているのだが、清左衛門は会うたびに安西の人柄のよさを発見するような気がしている。  安西は若くはない。齢はおよそ四十前後と思われ、物静かな男だった。しかし寡黙で礼儀正しいその男は、藩内で誰知らぬ者もいない外記流の鉄砲の名手で、また清左衛門のにらんだところでは学問にもくらくない様子である。言葉のはしばしにそれがあらわれる。  ──なぜ、離縁を……。  人の家の事情に立ち入る気持はないが、清左衛門はふとそう怪しまずにいられない。安西の妻は何の不服があって家を去ったのか、あるいは妻の方にともに暮らせないようなどのような不始末があって、安西が去り状を書いたのか。  ふと甘い花の香が顔をかすめたのを感じて眼を上げると、梅だった。そこは足軽屋敷のはずれで、生垣の内側から清左衛門の頭上近くまで梅の木の枝がのびている。その枝にふくらんだ蕾とぽつりぽつりとひらきはじめている白梅が見えた。  歩いているうちに日が暮れてしまったらしく、低い空にははやくも薄墨いろの暮色がただよいはじめ、見上げる梅の花も真白ではなかった。暮色に紛れて、白梅はややいろが濁って見える。だが匂いは強かった。  今年はじめて見る梅の花を、立ちどまって眺めていると、前髪をつけた少年が二人、清左衛門に挨拶をして通りすぎた。二人とも風呂敷包みを抱えているのは、多分塾か藩校の帰りなのだろう。や、と答えて、清左衛門は少年たちを見送り、ようやく歩き出した。  家にもどると、隠居部屋にお茶をはこんで来た嫁が、留守の間に客があったと言った。 「わしにか」 「はい、それも女の方ですよ」  嫁の里江は気を持たせるような言い方をした。 「三十ごろのおきれいな方でした。お心あたりがございますか」 「思わせぶりはいかんぞ。はっきり言え」  清左衛門はたしなめたが、べつに里江の言い方を不快に思ったわけではない。隠居の清左衛門を女性がたずねて来ること自体が三屋家の珍事である。そんなふうに言いたがる里江の気持もわからぬではなかった。  里江は笑ってあやまり、あっさりと女性の名前を言った。 「松江さまとおっしゃる方を、おぼえておられますか」 「はて、松江……」 「江戸のお屋敷で、むかしおとうさまのお世話になったことがあるとか……。今度ご用があって国元にもどられたので、ご挨拶にうかがったと申しておられました」 「おう、あの松江かの」  清左衛門がそのとき思いうかべたのは、まだ少女の面影を残している若い娘の顔だった。 「わかった。たしかに江戸屋敷に勤めていた女子だ。これはめずらしい。それで?」 「おとうさまがおられるときに、もう一度来ると申して帰られました。おみやげを頂きました」  嫁が部屋を出て行くと、清左衛門はゆっくりとお茶をすすった。あのことがあってから、十五年はたつだろうと思っていた。      二  三屋清左衛門が江戸屋敷の奥のひと間に呼ばれたのは、抜擢されて用人になってから間もないころだった。清左衛門を呼びつけたのは、滝野という老女である。 「何人《なんぴと》にも一切秘密のご用ゆえ、そなたに来てもらいました」  滝野は不機嫌な顔をしてそう言い、これから言うことは他言無用だが、秘密を守れるかと念を押した。  滝野は奥向きの奉公人を取締る権力者で、四十を少し過ぎているだろう。色は浅黒くふっくらと太った女で、姿にも言うことにも威があり、なりたての用人である清左衛門などは顎で使う気でいる様子が見えた。清左衛門は、何事であれ秘密は守ると誓った。 「そなたを呼んだのは、殿さまのご推薦があったからです。口の固いのは三屋だと申されました」  そこで滝野は、その言葉が本当かどうかをたしかめるといった無遠慮な眼つきで、しげしげと清左衛門を見たが、すぐにうなずいて言葉をつづけた。 「松江というお側の女中が、男にだまされて自害をはかったのです」 「ほほう」  清左衛門は眼を上げて滝野を見た。それでは滝野の取締り不行きとどきという話ではないかと思ったのだ。べつにかしこまる必要はないらしい。 「で、男とは?」 「村川助之丞どの」 「ははん」  と清左衛門は言った。 「前にもそのようなことがござりましたな」 「二度目です。だから助之丞どのは国方に帰されるよう、再三殿さまに申し上げましたのに、お取り上げにならないからこのようなことが起きるのです」  滝野は憤懣やる方ないという言い方をした。村川助之丞は組頭の村川玄蕃の総領で、小姓組に勤めているが、自分から願いを出して江戸詰になったというだけあって、派手な女遊びで名を売っている若者だった。 「不義はお家のご法度。本来ならば表に出して、男女ともにきびしく処罰されるべきですが、助之丞どのには玄蕃さまもおられれば当屋敷に犬井さまという後盾もおられる」  犬井は江戸家老の犬井茂八郎のことだった。清左衛門はうなずいた。 「その上松江は奥方さまのお気に入りの女中なのです。内密に事をおさめるほかはありません」 「その二人は、いまどこに?」 「助之丞どのはもう屋敷にもどっておられましょう。松江は神田本石町の清水屋におります」  清水屋は藩屋敷出入りの呉服屋である。松江をそこに使いに出したのは滝野だが、助之丞と松江はしめし合わせて、清水屋に行く前にすぐそばにある若松という料理茶屋に入った。そこで松江が自殺をはかったので、村川助之丞はあわてて清水屋から人を呼び、医者も呼んで松江を清水屋まではこんだのである。 「自害をはかったわけは?」 「別れ話を持ち出したところ突然に懐剣で喉を突いたと、当の助之丞どのが清水屋のおかみに話したそうです」 「すると松江は、清水屋で傷の手当てをしておるのですな」 「そうです」 「それにしても、二人はいったいどこで知り合ったものでしょうな」 「芝の奥方さまのご実家に病人が出て、月に一度松江は代理で見舞いに参ります。助之丞どのはそれに目をつけて近づいたのではありませんか。なにしろ、困ったことが起きました」 「心得ました。何とかいたしましょう」 「気楽そうにおっしゃるが、こちらが何をおたのみしているか、わかっておいででしょうね、三屋さま」  滝野は辛辣な口をきいた。安請け合いする男だと思ったかも知れない。 「されば……」  と清左衛門は言った。底意地のわるそうな老女の眼を正面から見返した。 「松江はおそらく生きる気持の張りを失っておることでしょう。これに正気を取りもどさせ、当屋敷にもどすこと。ただしこれには半月ほどの猶予が必要でしょうか。いまひとつは、村川助之丞を即刻国元に帰すことでござろう」 「そのようなことが出来ますか」 「それがしには出来んと思われますかな」  滝野はまじまじと清左衛門を見た。そうしているうちにやがて、滝野の顔に年少の弟を見るように親しみ深い笑いがうかんだ。いいえと滝野は首を振った。 「そなたならお出来になるでしょうよ。よしなに頼みいりますよ、三屋さま」  ──あのときは……。  ちょっと気負いすぎたのだて、といまの清左衛門は思っている。きれいに処理して、意地わるそうなばあさんにひと泡吹かしてやれと思ったのだ。若くもあったと清左衛門は思う。そのときは三十六だったのである。  滝野の頼みを引きうけた日、清左衛門は屋敷の中の事務をひとつ片づけてから、同僚にことわって外に出た。そしてまっすぐに本石町の呉服屋に行った。  松江の様子は予想したようなものだった。清左衛門を見ると床に起き上がって挨拶をしたものの、眼は清左衛門を通り越してべつのものを見ているようで、清左衛門が試みた二、三の質問にもまったく答えなかった。  松江は骨細な身体つきで、齢は十七と聞いたのに顔に少女の面影を宿している娘だった。そして首に巻いた白布が、よけいに少女めいた印象を強めていたが、その印象と一切の表情を失ったような白い顔がどこかでしっくりとつながっているようなのを、清左衛門はいささか無気味な思いで眺めたのだった。  数日、清左衛門は本石町の呉服屋に松江の様子を見に通ったが、変化は見えず、松江はひとこともしゃべらなかった。顔は表情を忘れたままで、身体は痩せ、はじめに会ったときよりむしろぐあいがわるくなっているのではないかと心配されるほどだった。店の者の話によると、松江はほとんど物を喰べていないのである。あっという間に十日が過ぎた。  そしてその日、清左衛門は藩屋敷を出るときに、ふと思いついて庭師の老人を呼ぶと、玄関わきの梅から手ごろな枝を二、三本手折らせ、松江へのみやげにしたのである。  清水屋の奥に通ると、松江はうす暗い障子の内側にひっそりと坐っていた。もう床はたたんであった。まだ白布はとれていないがもともと松江の傷は皮膚を破った程度で血脈をはずれ、寝ていなければならない病人でもなかったのである。浅くないのは心に受けた傷の方だった。 「ぐあいはどうじゃな」  清左衛門が声をかけると、松江は身体を回して一礼したが、眼は依然として遠くを見つめているようで、はたして清左衛門を認めたかどうかも疑わしかった。辞儀を終ると松江はまた身体の向きをもとにもどし、障子の一点に眼をむけた。自分が一番好む場所にもどって行ったように見えた。  その松江が首を回して清左衛門を見たのは、それから間もなくである。はじめて、清左衛門は松江の顔に表情らしきもの、物問いたげないろが動いたのを見た。小鳥が餌をさがすように、松江は眼を動かした。 「これかな」  清左衛門は手をうしろに回して、油紙につつんだ梅の枝をつかむと、松江にさし出した。 「お屋敷の梅だ。まだ三分咲ほどだろう」 「………」 「後で活けてくれるように、この家の者に頼んで行こう」  松江は答えなかったが、膝の上でゆっくりと受け取った花包みを解いた。見ている方がじれるほど、まだるっこしい手つきだったがとにかく包みを解いた。松江はまじまじとひらきかけている花を眺めた。一度顔を上げて清左衛門を見、つぎに顔を寄せて梅の香を吸った。  長い間そうしてから、松江は梅の枝を膝にもどし、それからうなだれて泣きはじめた。最初のしのび泣きに、途中からかぼそい声が加わった。それは身も世もないような泣き声で、その声を聞きながら清左衛門ははじめて、自分が村川助之丞を強く憎んでいることに気づいた。それはほとんど父親のような感情だったのである。 「さあ、その枝をこちらにもらおうか。花が台なしになる」  清左衛門が言うと、松江は泣きやんで梅の枝を清左衛門に返した。松江が示したはじめての人間らしい反応だった。  その夜、藩屋敷にもどった清左衛門は自分の長屋に村川助之丞を呼びつけると、はげしい叱責を加えた。そこで松江が屋敷にもどる前に、帰国願いを出して国元にもどることを誓わせた。そうしないと事を公けにするぞと脅したのである。      三  客座敷に入ってそこに坐っている松江を見たとき、清左衛門は一瞬人違いをしたかと思いかけたほどだった。それほどに松江はむかしの面影を失い、ふっくらと太っていた。  清左衛門は思わず笑いがこみ上げて来るのを感じた。あの権高な屋敷奥の実力者、滝野を思い出したのである。色の黒い、白いをべつにすれば、二人の体型はそっくりと言っていいほどに似ていた。  しかしこの場合の清左衛門の表情は、遠来の、しかも古い顔見知りの客を迎えるには不似合いなものだったらしく、久闊の挨拶をかわすとすぐに松江が言った。 「むかしにくらべてすっかり太ってしまいましたので、びっくりなさったのですね」 「いや、いや」 「お隠しにならなくともようございますよ」  膝をすすめるようにして言ってから、松江は自分の言葉に自分で笑いを誘われたらしく、袂をすくい上げて顔を隠した。今度は清左衛門も遠慮なく笑った。それで二人の間にあった年月の隔てが掻き消えたようだった。 「いつごろから太られた」  と清左衛門は訊ねた。すぐそばで松江を眺めたのは十五年前の事件のときだけだが、しかしその後も時には外に使いに行く松江を見かけていて、少なくとも数年前まではこんなに太ってはいなかったと清左衛門は思っている。  それに清左衛門の記憶には、何といっても事件のころのほっそりと少女めいていた松江の姿が残っている。同じ人物がこうも変るものかと、清左衛門は感嘆せざるを得ない。 「ごく近年でございますよ」 「そうだろうな。むかしは細かった」 「ええ、ほんとに」  松江はどことなく貫禄を感じさせる、おっとりした口調で言った。 「どうしてでしょうね。お屋敷の女子たちは、三十近くなるとこうなる人が多いのですよ」 「甘い物を喰べすぎるのではないか」  と清左衛門は言った。ひさしぶりに江戸屋敷の暮らしを懐かしく思い返している。 「何とかいう菓子屋が、しじゅう出入りしておったな」 「竹村ですか。あそこの羊羹をよく頂きました」 「そうそう、竹村だった」 「あまりに変ってしまって、じつはお目にかかるのがはずかしゅうございました」 「そんなことは気にせんでよろしい」  清左衛門は言った。 「お役目柄か、少少貫禄がついたようだが松江どのは松江どの。さほど変ったとは思えぬ」 「そうですか」  疑わしそうに、松江は清左衛門を見たが、清左衛門はべつに女を喜ばせるために世辞を言ったわけではなかった。  あのとき松江はやがて元気を取りもどし、無事に清水屋から江戸屋敷にもどったのだが、その間の世話を焼きながら清左衛門はこれはなかなかいい娘ではないかと思ったものである。村川助之丞のような、見てくれだけの遊蕩児にだまされたのが信じられないほどだった。  太ってはいるものの、松江はむかし清左衛門が感じたかしこさ、気持のやさしさをそのまま持ちつづけているように思えたのである。そして色白のふっくらした顔には、それなりに若いころとは違ったうつくしさがあった。  形を改めて、松江が言った。 「三屋さまは、その後お変りもなく……」 「このとおり、隠居して気楽に暮らしておる」  清左衛門はいまの暮らしのことを話して聞かせた。無外流の道場のこと、保科塾の勉学のこと、朝の散歩のこと。 「いまはまだ無理だが、これからあたたかくなると川釣りに出かける」 「まあ、それではずいぶんとおいそがしいではありませんか」  松江は言い、清左衛門をじっと見た。 「そういえばほんとにお顔のいろもよろしく、お元気そうに見えますこと」 「いや、もう年寄だ。孫がもう三つになるからの」  と言ったが、元気そうだと言われてやはり清左衛門はうれしかった。しかし、そこではじめて松江が国元に帰って来た理由に気持がむいた。 「ところで、もどられたのはお屋敷のご用でもあってか」 「いいえ、それが……」  松江は下うつむき、少し顔を赤くした。顔を上げると思い切ったように言った。 「じつは縁談がございまして……」 「縁談? そなたに?」 「はい」 「それはめでたい」  と言ったが、清左衛門は虚を突かれたような気がした。松江が嫁になることは、まったく念頭になかったようである。 「この齢になって嫁ぐなどは、おはずかしいことですけれども……」 「いや、いや、そんなことはあるまい。けっこうなことだ」  清左衛門は真実そう思って言った。松江の新しい人生を祝福してやりたい気持になっている。あんな事件さえなかったら、当然もっとはやく人の妻になっていたに違いない娘なのだと思った。 「嫁ぎ先は?」 「金丸小路の野田です」 「ほほう」  清左衛門は二度びっくりさせられた気がした。野田は家禄百八十石で、当主の平右衛門は以前御供頭を勤めたはずである。しかし松江の実家はたしか御兵粮蔵の役人で、家禄もせいぜい三十石前後ではなかったか。  そう思ったのだが、実家はそうだとしても松江自身は江戸屋敷で相当の地位を占めていることが考えられた。かりに若年寄でも勤めていれば、用人や御供頭とは対等の話が出来る権力者で、百八十石の家に実家を卑下する必要などはさらさらない。  松江の様子に、身分を気にかけている気配が見えないのは、その見方が当っているからだろうと清左衛門は思ったのだが、それとはべつに、野田という名前を聞いて何かしら不快な感じがちらと胸を走り抜けたのを感じた。はて、これは何だと思ったが、一瞬の不快感の正体はわからなかった。 「野田には、そなたに合うような齢ごろの倅がいたかな」 「平九郎どのと申されるそうです。それが……」  と言って松江ははにかんだ。ういういしい表情に見えた。 「わたくしより二つ齢下なのです」 「ま、齢のことはいいではないか」  と清左衛門は言った。 「縁があれば、少少の不釣合いなどはどうということもない。まずはめでたい」 「ありがとうございます」  と松江は言った。 「江戸のお屋敷も千寿院さまが間もなく中屋敷に移られますので、わたくしもお勤めを退くならいまが潮時かとも思いまして……」  千寿院は、松江をかわいがった先代藩主の内室である。新藩主の世にかわって、江戸屋敷奥の勢力関係も以前とは違って来ているのかも知れなかった。  帰る松江を玄関に見送ってから、清左衛門は嫁に新しく茶をいれさせ、隠居部屋に籠った。そして松江との話の間にふとうかんで消えた、奇妙な不快感の正体をつきとめようとした。  野田という名前に関連して、どこかで何かを聞いたらしいということはぼんやりと見当がついたが、それがどういうことだったかはいくら考えてもはっきりしなかった。しかし、だからといってそのまま打ち捨てておいていいものではないような気がした。 「ふむ、頭がわるくなったぞ」  ひとりごとを言って立ち上がると、清左衛門は外に行く支度をした。羽織を着、脇差を帯びて玄関に出ると、嫁が飛んで来て行先をたしかめ、奥に引き返して羅紗の襟巻を取って来ると、うしろから清左衛門に着せかけた。  まだ外には日があったが、空気ははやくも冷えかけていた。清左衛門は襟巻に顎をうずめて川岸の道を歩き、町奉行所に行った。町奉行の在宅をたしかめて奥に入ると、ちょうど佐伯熊太が商人ふうの男を送って、執務の部屋から出て来たところだった。 「や、お客だったか」 「いや、いま用談が済んだところだ。部屋に入っていてくれ」  と佐伯は言った。商人と思われる小柄な老人を、玄関まで見送るつもりらしかった。 「いまの男、誰かわかったか」  部屋にもどって来ると、佐伯が言った。 「いや、知らんな」 「泊屋の主人だよ」  と佐伯は言った。清左衛門はおどろいて佐伯の顔を見た。  泊屋は湊町魚崎の回漕問屋で、魚崎の町の富の半分は泊屋がにぎっていると言われる富商だった。 「あれはめったに外に出ぬ男だからな。今日のように城下に来るのもめずらしいことだ」  佐伯は大声で人を呼んで灯をいれさせると、今日はどこかの帰りかと言った。 「いや、そうじゃない。少したずねたいことがあって来たのだ」 「ふーん、わざわざか」 「そうだ。野田平右衛門を知っているな」 「知っておる。野田がどうした?」 「近年、何か人のうわさになったことはなかったか」  佐伯はからからと笑った。 「うわさどころか、無尽の不正で町人たちが野田を訴え、家が潰れるほどの大さわぎがあったではないか。二年ほど前の話だ」 「ははあ」 「そのときの訴えはわしが受理した。まさか家を潰すわけにもいかぬから、示談にしておさめたがひどいものだった」  それで清左衛門も思い出した。その話はたしか保科塾に行ったときに耳にしたのである。野田は商人をあつめてこっそりと無尽をはじめたが、これがきわめて不正なもので、野田は自分の息のかかった者を商人のなかにもぐりこませて、二度か三度自分の手に金を落とすと、それっきり無尽を解散してしまったというのである。  そのことを話した男が、武士にあるまじきといった言い方で野田を非難していたのも、清左衛門は思い出した。得体の知れない不安が、清左衛門の胸にひろがった。 「野田の家は、いまはどうなのかな?」 「借金で火の車だろうて」  町奉行は下世話なことを言った。 「示談にしたときに、野田は親戚、知人から大枚の金を借りている。その以前の借金の残りもあるというわけで、ま、まだ首が回るほどになったとは思えんな」 「野田はなぜそんなに借金があるんだ」 「暮らしにしまりがないからだろうな」  と、佐伯は言った。 「いまは藩に家禄の五分を貸している時節だ。どこの家も倹約につとめて慎重に暮らしている。ところが野田はそうじゃない。呉服屋が美美しい着物を持ちこんで来ればすぐに買う。富川町に芝居がかかれば、さっそくに出かける。男も女もそうする。それがあの家の家風なのだ」 「………」 「ま、ほかにも理由があるかも知れんが、わしの聞いている限りではそんなところだな」 「話がある。聞いてくれんか」  清左衛門は松江のことを話した。佐伯は達磨のようにまるい眼を清左衛門に据えて、じっと聞いていたが、話が終ると即座に言った。 「目あては金だな」 「金?」 「松江というその女子は、江戸屋敷に勤めて何年ほどになるかな」 「されば、十五の齢からとすればざっと十七、八年ほどか」 「奥ではえらいのか」 「若年寄ぐらいは勤めていると思う」 「じゃ、ざっと三百両のたくわえはあるだろう。いや、もう少し多いかな」 「三百両……」 「仲人は誰だ?」 「寺内甚八だそうだ」  佐伯は笑い出した。そして寺内は野田とひとつ穴の貉《むじな》だと言った。      四  松江は清左衛門の話を、ひとことも口をはさまずに聞いた。取りみだすかなと思ったがそんなことはなく、かすかな微笑をたたえた顔には話をおもしろがっている表情さえ窺える。清左衛門は感心した。 「佐伯は、たくわえは三百両ぐらいだろうと言っておった」 「もうちょっとございます。四百両ほど」 「ほう」 「先さまは実家とは身分が違いますから、そのお金を持参金にして嫁に行くつもりでした」  松江はにっこり笑った。うつくしい笑顔に見えた。その笑顔のまま、松江は江戸勤めの女らしく少し蓮っ葉な口調で言った。 「どうやら、一杯喰わされたようでございますね」 「それでどうされるな?」 「もちろん、おことわりします」 「再考の余地なしか」 「はい、再考の余地はございませんね」 「わしが話をつけてやってもいいのだが……」 「いいえ、一人で出来ましょう」 「しかし、いらざるさし出口をしたようで、心ぐるしい気もする」 「いいえ、それは違います、三屋さま」  と松江は言い、どんなにありがたく思っていることかと言葉を強めた。 「寺内さまはずいぶん前に、私から持参金のことを聞き出しているのです。もっとはやく、気づくべきでした」  松江は、持って来た梅の枝を清左衛門の方にさし出した。まだ二分咲きほどの梅だった。 「あとで活けてくださいませ。あのときからわたくし、梅の花が大層好きになりました」 「これからどうなさる?」 「せっかく何年ぶりかでもどりましたので、もうひと月ほどは国にいて、そのあと江戸のお屋敷にもどります」  その夜の遠藤派の会合は、終りが四ツ(午後十時)過ぎになった。清左衛門と安西佐太夫は連れ立って会合があった家を出ると、天王町の方にむかった。提灯は清左衛門が持った。  その夜は清左衛門がむかし話をした。多くは子供のころに出会った奇人、変人の話である。安西は相槌も打たずに黙って聞き、時どきうふ、うふと笑った。 「おふうというおこもがいたな」  二人は河岸の道を歩いていた。間もなく天王町である。 「ほかのおこもは、侍の家は窮屈に思うかして、武家町にはなかなか入りこまなかったが、おふうだけは平気だった。そして、それなりにかわいがられていたものだ。わしの家でも、母親がこれはおふうが来たらやろうなどと、古着をそろえていたのを見たことがある」 「………」 「齢は、なにしろ汚くよごれているゆえ、いくつとも知れなかったが、ひょっとしたら若い娘だったかも知れぬ。というのは、おふうの乳房を見たことがあるのだ」 「ははあ」  安西が声を出したのは、話をおもしろがっているのだろう。 「龍善院という寺がある。網打町の南にある寺だ」 「存じております」  と、安西が言った。 「そこの墓地でおふうを追い回したことがある。いや、追い回したのはわしではない。二つ三つ齢上の連中だ」  そう言ったとき、清左衛門は強い力で横につき飛ばされた。膝をついた清左衛門の前を、鈍い白刃の光がすべって行った。そして起き上がって身体をたて直したときには、刀を抜き合わせた安西佐太夫が、一人の男と斬り合っているのが見えて来た。  清左衛門は声をかけた。 「斬ってはならんぞ、佐太夫」  だが声をかけるまでもなく、斬り合いはあっけなくかたがついた。襲って来た男が倒れ、安西は叩き落とした相手の刀を拾い上げると、無造作に川に投げこんでいる。そして倒れた男も、斬られたわけではなかったらしく、腿をさすりながら立ち上がった。  近づくと、清左衛門は男の顔を提灯で照らした。青白い顔をした若い男だった。男は提灯で照らされると、まぶしそうな眼をしてうしろにさがった。安西が、じっとしておれと叱った。 「この男は?」  清左衛門が聞くと、安西は野田の倅ですと言った。 「野田平九郎。何か、襲われる心あたりでもありますか」 「心あたりはないわけではない」  清左衛門は苦笑した。 「わしがじゃまをしたために、この男、四百両ほど儲けそこなったのだ」 「は?」 「平九郎か。おやじに申せ」  と清左衛門は言った。 「家を潰す気かとな。今夜のことは眼をつぶるが、もう一度こんなことをしたら大目付にとどけて出るぞ」  行けと言うと、片足をひきずった平九郎が闇に消えて行った。あまり利口そうには見えない男だった。  清左衛門は安西に礼を言った。 「いや、助かった。なにしろおふうの話に夢中だったから、あぶないところだった」 「おけがはありませんか」 「大丈夫だ」  そう言ったとき、清左衛門はすぐ眼の前に松江にもっとも似つかわしい男がいるのに気づいていた。  安西佐太夫が妻を離縁したのは、わずらって余命いくばくもなかった佐太夫の老母に、妻が辛い仕打ちをしていたのを知ったためだと佐伯熊太から聞いている。その老母はもういないが、よしんば存命だったとしても、一度死の淵をのぞいたことのある松江なら、そんなむごいことは決してすまい。そして佐太夫の離縁された妻は、子もいないせいか派手ごのみだったというが、こつこつと四百両もたくわえた松江の方が、ずっと家庭むきではあるまいか。 「佐太夫、嫁をもらわぬか」  と清左衛門は言った。 「少少太り気味だが、気持のやさしい美人だ。齢は三十を少し越えたかも知らんが、子供を生めぬ齢でもない」 「はあ、しかし……」 「ぐずぐずしていると、その女子、江戸に行ってしまうぞ。ぜひ嫁にもらえ」  清左衛門は熱心に言った。 [#改ページ]   な ら ず 者      一 「客は頭巾で来るかも知れぬが、そのまま部屋に通してくれ。また、わしの名は出してもよろしいが、先方の名前をたしかめたりしては相ならん。わかったな」  三屋清左衛門は、「涌井」のおかみに相庭与七郎を迎える際の段取りをこまかく指示した。おかみはかしこまりましたと言った。  おかみは清左衛門にお茶をすすめ、それから火桶の火のぐあいをたしかめてから、ではお客さまがみえられたらご案内しますと言って、もう一度あたまをさげた。そのとき、清左衛門の眼にそれまで眼に入らなかったものが見えた。おかみの頬にある青黒い痣のようなものである。かなり大きい。 「どうしたな、その顔は」  清左衛門が聞くと、おかみは顔をそむけて痣を隠した。そしてテレ笑いをうかべた。 「お見ぐるしいものがお目にとまりまして」 「なに、わしに気づかいならいらんぞ。どれどれ、こっちをむいて見せぬか」  と清左衛門は言った。 「涌井」に飲みに来るようになってからまだ二年ほどしか経っていないはずだが、料理がうまい上におかみのみさはひかえめでしかもこまかく気のつく女なので、清左衛門はすっかりこの店が気に入っていた。  こういう店にありがちなおかみが出しゃばるようなことも、自慢の料理を押しつけがましく喰わせるようなこともなく、「涌井」では黙って坐っていればうまい肴でほどよく酔わせて帰すようなところがあった。よけいな気をつかわずに済む。そういうところが気に入って、清左衛門は近ごろ、五ツ(午後八時)を過ぎたころに突然に思い立って寝酒を一杯やりに来るほど、「涌井」とは顔なじみになっていた。常連のはしくれといったところである。  清左衛門にそう言われて、おかみは度胸を決めたらしく、それまで隠していた横顔を清左衛門に見せた。 「見てくださいな。これですからね」 「ほほう」  おかみのみさは、膚が白く少し頬骨が出た顔立ちの女である。その目尻から左頬にかけて、痛痛しく変色した腫れが見えた。清左衛門は青黒いその腫れをじっと見た。 「ただ、物にぶつけたというのではなさそうだな」 「人に打たれたんですよ」 「誰にだ」 「あとで、お話を聞いていただきます」  おかみは清左衛門にふっと笑顔をむけ、それから目を伏せて一礼するとお盆だけ持って部屋を出て行った。  清左衛門はお茶をすすった。  ──男かの。  と思った。  佐伯熊太に聞いた話によると、おかみのみさはもとは万年町の油商三海屋の嫁だった女である。嫁入ってからわずか二年ほどで夫が急死し、子供がいなかったので実家にもどされることになったが、両親ははやく病死していて、支藩の松原城下で小さな仕立屋をいとなむ実家にはみさのいる場所はなかった、というような話をきいている。  婚家を出されるときに、みさはなにがしかの金をもらったもののそれで身を立てるような暮らしも思いつかず、仕方なく嫁入る前に働いていた紅梅町の料理茶屋にもどって住みこみ奉公をはじめた。それを伝え聞いたもとの舅がみさをあわれんで、そのころ売りに出ていた小さな店を買い取って客商売をやらせたのが、いまの「涌井」のはじまりだという。  三海屋は加賀屋とならんで城に種油を納めている指折りの油商人で、古い小料理屋を一軒買い取ってやるぐらいのことは何ともなかったかも知れないが、しかしみさが三海屋の嫁として可愛がられていたのでなければ、こういう話にはならなかったろう。  とにかくみさは思いがけない幸運にめぐまれたわけだが、しかし三海屋の姑の方は、夫が嫁にしてやったことをさすがに破格と思ったらしく悋気《りんき》したそうだと、佐伯は町奉行らしく、下情に通じたうわさ話を披露した。しかし実際には三海屋の主人は腹の太い男で、連れ合いや世間が臆測したような、もとの嫁との醜関係などというものはまったくなかったのが真相らしいとも佐伯はつけ加えた。  その男らしくて腹の太い三海屋の主人も数年前には病死して、「涌井」のおかみの周辺には男の影らしいものはちらりとも射さない、と世間では思っているようで、清左衛門もそういう評判を何となく信じていた。そう信じる方が酒がうまいという事情もある。  しかし考えてみれば、おかみのみさは夫に死別してからこのかた、ずっとひとり身を通して来た女だった。そしてうしろ楯になっていた三海屋の主人が病死してから数年という時期は、みさが女子の最後の稔りともいうべき成熟を迎えた時期に重なっていたはずである。  子供がないせいか、みさはいまも齢よりは若く見られているようだが、醜からざるひとり身の女が、女盛りの時期に一人の男もいなかったなどということがあり得ようか。まず、あり得ないなと清左衛門は首を振った。長い江戸詰の間に茶屋酒も飲み、遊所にも通って、清左衛門はいささか男女の機微に通じている。  ──多分、その……。  隠し男との痴話喧嘩か何かの痕だろう、と考えると、一度はおどろいたおかみの顔の腫れから、清左衛門はやや関心が遠のくのを感じた。痴話喧嘩に首を突っこんでもはじまらないと思ったのである。  そしてそう思うと同時に、気持は間もなく現われるはずの相庭与七郎の方にむいた。相庭は元の郡奉行相庭勘左衛門の長男で、江戸屋敷では近習頭取を勤め、若いながら藩主の側近では実力者とみられている男だった。そういううわさや名前は耳にしているが、清左衛門にとっては初対面の人物である。  相庭与七郎が帰国していて、滞在中に一度貴公に会いたいそうだ、と告げたのは町奉行の佐伯である。そして貴公を名指しだと附け加えた。相庭が何の用で清左衛門に会いたいのかは、相談をかけられた佐伯も知らないということだった。  相庭は、出来れば清左衛門に会うことを人に知られたくないと言ったというので、清左衛門は急遽《きゆうきよ》「涌井」に席を設けることにしたのだが、相庭の用件が何なのかはこうして待っている間も、さっぱり見当がつかなかった。      二 「はじめにおうかがいしたいのは、いま藩内にある派閥の対立のことです」  相庭与七郎は丁重な言葉を遣った。藩主側近の実力者といった驕《おご》りは見えず、あくまで元用人の立場を立てるつもりでいるらしいのがいささかくすぐったいが、清左衛門は悪い気はしなかった。  若いながら礼儀をわきまえた男ではないかと思いながら、無言で相庭を見ている。相庭与七郎はまだ三十半ばほどに見えた。小太りで丸顔のずんぐりむっくりした身体つきからは、迸《ほとばし》る才気といったものは感じ取れないが、この若さで近習頭取を勤めるからには相当の切れ者なのだろう。  その相庭が声を落として言った。 「じつは昨年の春、国元の法要に出席するために石見守さまが帰国されました。その折りに石見守さまは藩内のどちらかの派閥に利用されて、野塩村の多田掃部から大金を借り出すのに一役買ったという話が流れて来ました」  殿はそのことを非常に憂慮され、派閥の対立なるものが、いまどういう有様になっているかを調べて来るようにそれがしに言いつけられたのです、と相庭は言った。 「で、その話を聞くのにそれがしを呼ばれたのには、何かわけでも?」 「いや、これも殿のお言いつけです。三屋なら派閥にかたよらずに公平な話を聞かせるだろうと申されました」  清左衛門の胸にあたたかいものがひろがった。死歿した先の藩主に殉じる形で勤めを辞し、隠居した身である。もはやいまの藩主の記憶もうすれたろうと思いこんでいたので、意外な信頼ぶりに胸打たれたのである。  これでは、じつはわしも半分がほどは遠藤派にひっぱりこまれてしまってとも言えない。清左衛門はうけたまわったと言った。すると相庭は、いまひとつ頼みがございますとつづけた。 「三屋さまは、半田守右衛門の収賄事件というものをご記憶でしょうか」 「よくおぼえておる」  と清左衛門は言った。  事件が起きた当時、半田守右衛門は江戸屋敷で御納戸頭を勤めていた。そして屋敷に出入りする商人からの買物を捌くだけでなく、商人たちから藩が借り入れている借財のやりくりにも一役買っていて、半田はその方面でもなかなかの手腕家と言われた。  その半田守右衛門が、関係の商人たちからひそかに賄賂を取っていたと判明したのが、清左衛門が用人に登用されて四、五年経ったころである。袖の下をつかうということはないことではなく、時にはそれが仕事を円滑にはこぶ油の役目をすることもないではないが、半田の賄賂はそういうものではなかった。意図的に賄賂をあつめ、かつその金額も大きいことが調べでわかった。  半田守右衛門は役職を免ぜられた上に家禄五分の一を削られ、国勤めに変えられた。いまから十年ほど前にあったその事件は、しかし国元から遠くはなれた江戸屋敷で起きたことで、その上さきの藩主が内密の処理を指示したこともあって、知る人ぞ知るという事件になっていた。帰国した半田は、その後多少の曲折はあったにせよ、いまは何事もなく国元で御納戸役を勤めているはずである。  古い話を持ち出されて、清左衛門はいくらか奇異な気分で相庭を見た。 「それが何か」 「じつはそのときの事件は、冤罪ではなかったかという疑いが出て来たのです」 「まさか」  と清左衛門は言ったが、つぎに相庭与七郎が話したことは、清左衛門をおどろかせるに十分だった。  半田守右衛門が失脚したあと、同じ御納戸役の東野市兵衛が江戸屋敷の御納戸頭となった。東野は大過なく役を勤めて二年前に帰国し、家督を倅にゆずって隠居したのだが、最近になって御納戸の帳簿に続続と不審な点が見つかった。買物の数と藩が支出した金額が合わないのである。のみならず御納戸は、素人が見ても市価よりかなり高い買物をしていた。明白な支払い過剰である。  江戸屋敷の費用節減は、毎年のように国元からきびしく談じ込まれていることなのに、少なくとも御納戸では、その方針に逆らって大盤振舞いとでも言うべき買物をしていることになるのだった。しかし実態はと言うと、藩主の身の周りでも屋敷奥でも、さほどぜいたくなかつ乱雑な物の買い方をしているわけではなかった。  となると残るのは何者かが帳簿を操作して、元締(藩収入役)から余分の金を引き出している、つまり不正を働いているということである。 「その結果、さきの御納戸頭東野市兵衛ほか御納戸役二名の不正があきらかになったのですが、その調べの途中で、むかしの半田守右衛門の収賄事件は、当時下役だった東野が仕掛けた罠ではなかったかという疑いがうかび上がったのです」 「それはおかしい」  と清左衛門は言った。 「そのときの調べにはそれがしも加わって、何と申したかの、そうそう桝屋と住吉屋という出入りの呉服商を取調べたのだが、たしかに半田に賄賂をわたしたと申したぞ」 「ところが三屋さま」  と相庭は言って、血色のいい顔に落ちついた微笑をうかべた。 「その桝屋と住吉屋ですが、東野市兵衛が御納戸頭になると、両者は切っても切れないかかわり合いになり、東野は帳簿に不正を加えただけでなく、桝屋、住吉屋両人から大枚の賄賂を取っていたことがわかっています。東野と二軒の呉服商は、いまではひとつ穴の貉ではないかと疑われているのです」 「………」 「半田の収賄というものは、そもそもが東野市兵衛の密告から発覚したものでした。よってここは、どうしても東野の誣告《ぶこく》を疑わざるを得ないということで、いま内密の調べをすすめているところです」  ついては清左衛門に、はたして半田守右衛門は濡れ衣を着せられたのか、それとなく半田当人にあたってたしかめてもらえないかというのが、相庭の頼みだった。 「殿はもし真相がそうであれば、半田の一件は先代の失政だと考えておられます。つまり事が冤罪だったとわかり、その後の半田の勤めぶりも清清しいものであれば、ゆくゆくは家禄を元にもどしてやってもいいというお考えです。しかしいまただちに公けに調べ直すことではないので、とりあえず三屋さまに頼めということでした」 「承知いたした」  と清左衛門は言った。半田守右衛門の調べは多少面倒なものだったが、しかしそれも出来ないことではない。むしろ清左衛門の気分は、隠居仕事にしては過分なほどの役目を振りあてられて、高揚していた。古いその事件には、多少のかかわり合いはある、とも思った。 「派閥対立のことは、知る限りをただいまお話し申し上げよう。しかし半田の調べの方は早急にとは参らぬかと思うが……」 「あ、それはご懸念なく」  と相庭は言った。 「それがしはあと数日滞在してほかの用を片づけ、その後江戸にもどります。半田の方は、殿の帰国までにお調べいただけばいいことで、調べがつき次第飛脚でも立てていただけばと思います」 「相わかった。それでは後ほど貴公あてに飛脚を出すことといたそうか」  と清左衛門は言った。藩主が帰国するまでに、まだひと月半ほどのゆとりがある。その間に半田を調べて、相庭に手紙を書くことは可能だと思われた。  相庭が相変らず腰低く、よしなに頼み入りますと言い、清左衛門がすすめて二人はそこではじめて盃を取った。しかし相庭はひと口酒をすするとすぐに盃を置き、ひと膝すすめて来た。 「これはそれがしの一存でお話し申し上げるのですが……」  相庭は言った。声はほとんどささやくように低くなって、相庭与七郎はいま、君側の実力者として自分の責任で物を言おうとしているように見えた。 「さきほどの石見守さまの一件を殿がお気にかけられるのは、じつは派閥と石見守さまの間に何かの密約が交されたのではないかという疑いがあるからです」 「密約? ほほう」  清左衛門は衝撃をうけていた。単なる藩内の主導権争いと思っていた派閥の対立が、にわかに緊迫したものに変ったのを感じたのである。  現藩主の子供は男子一人しかおらず、しかも剛之助というその嗣子は病弱である。しかし石見守信弘には男子が二人いた。きわめて健康で賢いと評判の男子である。密約とはそういうこと、つまり時折り藩内でささやかれる藩主家の後継にかかわる事柄ではないのかということは、清左衛門にも難なく想像出来た。  しかしその種の密約は、成功すればむろん将来にわたって派閥の優位を決定的にするには違いないけれども、もし途中であらわれれば悲惨な事態をも招きかねないものだった。はて朝田家老はいま、そういういわば一種の賭けに手をつけざるを得ないような、何かの事情を抱えているのだろうかと清左衛門は訝《いぶか》ったが、しかし相庭の言う密約のひとことが、野塩村の水死人、若後家のおみよをめぐる事件でうかび上がった、朝田派の異様なまでの秘匿ぶりとぴったりと符合している気がするのも事実だった。掃部家から金を引き出すだけのことなら、あんなにきびしい警戒をする必要はない。 「なるほど、それで腑に落ちることは多多ある」 「ただいまのこと、ほかには洩らさぬようにねがいまする」  と相庭が言った。むろんのことです、と清左衛門は言った。そして形を改めると、自分も低く声を落とした。 「では、朝田派と遠藤派の動きについてお話し申し上げよう」  相庭との話が終って、その夜清左衛門が家にもどったのは四ツ半(午後十一時)過ぎ。遅い時刻だった。起きて待っていた嫁の里江が、お茶がいりますかと言った。  里江も去って一人になると、清左衛門は熱いお茶をすすった。寝るきわにお茶を飲んでは眠れなくなるかなと、ちらと思ったが、相庭与七郎との密談の興奮が残っていて、どうせすぐには眠れそうもなかった。  ──おかみの……。  話を聞いてやるひまがなかったな、とふと思ったのは、気持がいくらか落ちついたころである。  男女の痴話喧嘩に口をはさむこともなかろう、と思ったのだが、眼を伏せて顔の傷を見せないようにしていたみさの顔に、一種見過し出来ない愁いがあったような気がして、清左衛門は茶碗の手をとめると、部屋にただよう深夜の光をじっと見つめた。      三  城下は桜の季節を迎えていた。城内二ノ丸、三ノ丸の桜も、城の濠端の桜も咲き、城下で一番の桜の名所とされる天満宮の境内もいまが見ごろだと言う。日はその上に、力強く照りわたっていた。  町を行く三屋清左衛門も、気分爽快だった。面倒かと思った半田守右衛門の調べは、意外に順調にすすみ、しかもこれまでのところ、調べは半田の冤罪を予想させる方角にむかっている、と清左衛門は思っていた。さわやかな気分は、そのことと無関係ではない。  もっとも、冤罪と思われる方向にむかっているといっても、清左衛門は単刀直入に半田の収賄事件を洗い直しているわけではなかった。まず周辺から現在の半田守右衛門の勤めぶり、家の暮らしぶりなどを調べているだけである。  はじめに、清左衛門は倅の又四郎に命じて、城内での半田の評判を聞きとらせた。つぎには半田の上司である御納戸頭の私宅をたずねて、半田の仕事ぶりと私生活について聞いた。御納戸頭の三宅藤右衛門は旧知の人間である。快く清左衛門の質問に答え、なぜそんなことを聞くかと、深く追及するようなこともなかった。  聞き取りの結果は好ましいものだった。半田守右衛門は罪を得て、役持ちから平の納戸役人に落とされたにもかかわらず、その後悪びれることなく職務に精励していた。国元にもどされた当初こそ、周囲に半田を白眼視する者もいたが、その後の精励ぶりと有能な仕事ぶりをみて、いまは半田を悪く言う者は一人もいない。他方半田の私生活はきわめて謹直で、夜分遊所を徘徊するようなこともなく、家の者を大事に非番の日は盆栽などをいじって暮らしている。  清左衛門と又四郎が聞き出した半田の評判は、およそ以上のようなものだった。そして昨日、清左衛門は御城出入りの呉服商山城屋をたずねたのである。濠を埋めて、つぎにいよいよ搦手《からめて》からの攻めに転じたという形だった。  山城屋の主人徳兵衛も、清左衛門とは旧知の間柄である。これは司直の取調べとは無縁の、べつに必要あって聞くことだから、飾りなく答えてもらいたいと前置きして、出入り商人たちが近ごろ御納戸に金をつかませている気配はないかと清左衛門がたずねると、徳兵衛は苦笑してそれはありませんと言った。 「以前はかなり大がかりにお金を動かしたこともありましたが、何年か前にそのことでお江戸に大騒ぎがございました。あれ以来、御城の方はいったいにお金にきびしくなられて、固すぎると申しますか、じつは私どもも往生しているところです、いえ、ほんとに」 「………」 「もっとも、さればといって一文の内緒金も動かせないということでは、商談もぎすぎすして、まとまる話もまとまりません。そこで、三屋さまの前ですが、いわゆるほんのささやかな袖の下を使ってみる、あるいは紅梅町あたりで一杯さし上げるという程度のことは、まったくないとは申し上げません。しかしこれはおっしゃるような賄賂にはほど遠いものでございまして、第一紅梅町にお連れしたところでみなさま落ちつかれません。やりにくい世の中になりました」 「半田守右衛門を知っているな」  と清左衛門は言った。 「承知だと思うが、江戸屋敷のあの騒ぎの張本人だった男だ。すると守右衛門にも不審な点はないとみていいかの」 「まず、人に知られず賄賂を取られるなどという度胸のある方は、半田さまに限らず御納戸のうちには一人もおられないのではないでしょうか。もっとも……」  と山城屋は言って清左衛門を見た。 「半田さまが扱われるのは木綿物でございましてな。正直に申しまして、私は半田さまのことはよく存じません。どうしてもたしかめたいとおっしゃるのでしたら、日雀町の駿河屋にたずねられたらいかがでしょう。駿河屋は半田さまと昵懇のはずです」  山城屋はそこでにやにや笑って、もっとも駿河屋がわたくしのように正直にお話しするかどうかは請け合いかねますと言った。  清左衛門はいま、日雀町の駿河屋に行くところである。  ──収賄事件から、およそ十年。  と清左衛門は歩きながら思っていた。もしあの事件が冤罪ではなく事実だったとしたら、この十年の間に、半田守右衛門はどこかでボロを出すものではあるまいか。精励恪勤は装えても、長く本性を偽ることは出来まい。  そういう考え方からすれば、半田はまずいままでのところは合格と言えた。念のために駿河屋をあたってみて、やはりそれらしい醜聞の影もないとわかれば、あとは最後に本人に会ってもう一度むかしの事件について問いただすことになるが、ここまでの心証のよさから考えて、半田の無実は大いにあり得ることだと思われて来る。  ──聞きただしてみて……。  もし半田が無実を訴え、それが納得出来るようなものである場合は、少少力になってやらねばなるまいて、と清左衛門はそこまで考えていた。  駿河屋の名前は知っているが、主人の庄八に会うのははじめてである。清左衛門はそこのところにいくらか懸念を持っていたが、名乗ってみると先方は清左衛門の名前を知っていた。駿河屋庄八は、元用人の突然の訪れにあわてふためくといった感じで、自身先に立って清左衛門を奥の客間に招き入れた。  店の者が茶菓をはこんで来て、清左衛門と駿河屋は時候のよさを話題にした。しかし駿河屋はその間にも、清左衛門の訪問の目的は何かとしきりに訝っている様子である。そこで清左衛門は、昨日山城屋をたずねたいきさつを述べ、率直に半田守右衛門の名前を出して聞くべきことを聞いてみた。  いきなり半田の名前を出したのは、御納戸役半田守右衛門の精励恪勤ぶりが念頭にあったからである。あかるい否定の言葉が返って来るはずだった。駿河屋庄八は、愛想のいい笑顔と張りのある声を持つ商人である。  だが清左衛門の期待ははずれた。駿河屋の顔に突然に狼狽のいろが走り、次いで駿河屋は下うつむいて黙りこんでしまった。 「お上のお調べではないとおっしゃいましたが……」  顔を上げた駿河屋が言った。 「申し上げても罪にはならないということでしょうか」 「そこのところは骨折るゆえ、正直に答えてもらいたい」  駿河屋は、清左衛門がそう言ってもまだためらう様子だったが、ようやく腹を決めたように言った。 「賄賂というほどの大金ではありませんが、半田さまからお申し出がありまして、月月に多少のお金をつごうしてさし上げているのは事実です。貸したとも借りたとも言わず、証文もございませんからこれはやはりおっしゃる賄賂でございますかな」      四  半田守右衛門は、駿河屋から賄賂を取っていたことを認めた。清左衛門は気落ちして言った。 「こうなると、いくら十年前の事件が無実だとしても、わしの口からそれゆえに家禄を旧にもどしてしかるべしとは言えんな」 「当然です」  と半田は言った。肩の盛り上がったいかつい身体つきをしているが、半田の髪は半ば白くなっていた。齢は清左衛門より二つ三つ下のはずだが、半田は顔の皺が深く、総じて老けて見える。  半田は駿河屋からの収賄は認めたが、十年前の事件については事実無根を主張した。それがまことなら、半田の変貌ぶりはいわれない罪を着せられた男の心身の疲れが、外に現われて来たというようなものかも知れなかった。清左衛門は軽い憐愍に動かされて言った。 「今度のことには目をつぶってやろうか。といっても無罪放免というわけではない。江戸には、むかしの事件はやはり事実あったことらしいと言ってやるのだ」 「………」 「つまり、家禄をもとにもどす話はそれで立ち消えになるとしても、駿河屋の一件で罪されることからは免れることになる。どちらを取るかは貴公の勝手次第としてもよいが、わしの考えを言えば、新たな収賄が発覚しては殿の心証はすこぶる悪くなるだろうな。家禄がもどるどころか、二度と貴公に日が射すかどうかは疑わしい」 「お慈悲をもって……」  と半田は言った。半田の顔から汗がしたたり落ちた。 「出来ますならば、おっしゃるごときお取りはからいを願いまする」 「ただし、駿河屋にはきちんと証文をいれて、何年かかろうと弁済することが条件だぞ」 「もちろんのことです」 「十年前のことも……」  ある疑念に動かされて、清左衛門は言った。 「ほんとうは賄賂を取ったのではないのかな」 「いえ、いえ」  半田守右衛門は顔を上げた。手のひらで汗をはらうと断固とした顔いろで言った。 「濡れ衣です。お調べいただけばわかることです」  ひと回り身体が小さくなった感じで、半田は「涌井」の部屋を出て行った。残った膳を見ると、一滴の酒も飲んでいなかった。  ──しかし……。  解《げ》せぬ話だと思いながら、清左衛門は手酌で盃を口にはこんだ。  疑問は、半田が言うように十年前の事件が濡れ衣なら、その清廉潔白な半田がどうしていまごろになって、駿河屋から賄賂を取ったりしているのだろうかということだった。清左衛門は、むろんそこまで突っこんで問いただしたのだが、そのことになると半田は、牛のようにおし黙って答えなかったのである。  家に、何か金を必要とする事情でもあるのか、それとも一度故なく冤罪に落とされた男の報復なのか。  ──半田は……。  そろそろ隠居の時期かなとも思った。賄賂は、それと何かのかかわり合いがあるのだろうかと、そこまで考えたとき、突然に「涌井」の表の方で、何かが割れるけたたましい音がし、つづいて女たちの悲鳴が聞こえて来た。  清左衛門は刀をつかみ上げて廊下に出た。いそいで玄関の方に行くと、男のどなり声が聞こえた。なかなか迫力のある声である。玄関に出ると、土間に着流しの男が一人立っていた。どなっているのはその男である。 「やい、みさ」  と男は「涌井」のおかみを呼びすてにした。 「黙って金を出しやがれ。もう一度さっきのような御託をぬかしやがると、てめえの店なんぞ火をつけて燃しちまうからな」  おかみのみさは玄関の端に、青ざめて立っていた。そのうしろに台所で働いている女二人と座敷回りの若い娘が一人、みさの背にしがみつくようにして顫えている。 「涌井」の土間には、一方の壁ぎわに細長い上げ床の席があって、衝立で仕切ってそこで何人か酒を飲めるようになっていた。いまも三人ばかり、職人と思われる男たちがそこで飲んでいたが、みんなが手を休めて唖然とした顔で男を見つめている。男の足もとには、土間に置いてあった瀬戸物の大きな狸の置物が、粉粉にくだけて散らばっていた。 「おい、何を見てんだ」  男は足もとの瀬戸物を蹴散らすと、今度は横の男たちの方をむいた。 「おいら見世物じゃねえぜ。何だってんだ、てめえら」  男はにたにた笑いながら客に近づくと、あわてて眼をそらした職人たちの飯台に手をのばした。そしてあっという間に徳利、盃から肴が乗っている皿まで土間にはらい落とした。徳利がくだけて中身が土間に流れ、酒の香がひろがった。 「乱暴はよしなさいよ」  おかみのみさが息をはずませて言った。 「何ですか、お客さんに手を出して」 「だから言われたとおりに、金を出しなって言ってんだよ」 「あんたにやるお金なんかあるもんですか」 「あま、今度は腕でも折られてえか」  いなせな恰好をした男ぶりのいい若い男だったが、その男はならず者だった。それだけのことをしているのに顔いろは青白く、人を刺すような目の光が冷静だった。そして男は歯切れのいい江戸弁を使っていた。  男は玄関の隅にいる清左衛門を、まったく無視していた。おかみのみさを見ながら、玄関に上がろうとした。それを見た女たちが、また一斉に悲鳴をあげた。  そこまで見て、清左衛門ははじめて前に出た。男が匕首を持っていないと見きわめがついたのである。清左衛門は男の胸を突いて、土間に押しもどした。 「乱暴はいかんぞ、乱暴は」  清左衛門は履物を突っかけて、自分も土間に降りた。ぴったりと身体を寄せると男の肱の急所をつかんだ。 「店にきて、たのしくやっている客のじゃまをするなどというのはもってのほか。さ、帰ってもらおう」 「じいさん、じゃまする気か」 「もちろんじゃまする気だ」  清左衛門はぐいぐいと男を出口の方に押した。 「女をいたぶるのは男のもっとも恥ずべき行為。見ていると反吐を催すゆえ、去《い》んでもらう」  男は押されながら、清左衛門がにぎっている刀を見ている。 「これか。これは簡単には抜けんようになっておる。つまらぬことを考えるものではない」  戸をあけて、男を外に突きはなした。清左衛門の手に、蛇をつまんで投げ捨てたようないやな感触が残った。      五  おかみのみさの酌で、半刻(一時間)ばかり飲み直して立ち上がると、おかみが、これは三屋さまの物ではありませんかと言って、風呂敷包みをさし出した。しかしそれは清左衛門の物ではなかった。 「わしのではないな。どこにあったかな」 「床の間の隅です」 「では、さっきの客の物らしいな」  と清左衛門は言った。書類でも包んであるらしい薄い風呂敷包みは、半田の忘れ物のようである。いそいで、清左衛門は中身を改めた。そして手をとめると、眼を宙に投げた。風呂敷包みはやはり半田の忘れ物だったが、中身は意外なものだった。帳面と束にした借金返済の証文。それは半田が、城下でもっとも悪辣な商売をしていると言われる高利貸児玉屋勘七からある時期に五十両の大金を借り、月月高利の金を返済していることを示していた。そしてもっとも新しい受取り証文の日附は今日になっていた。ということは、半田は今日も児玉屋に金を返しに行って来たということである。  清左衛門は、無言で見まもっているみさに眼をもどし、それから書類を包みなおした。 「預かって置いてくれぬか。あとで本人が取りに来るだろう」  言い置いて「涌井」を出た。提灯はないがまだ時刻が早いので、町の通りは灯のいろで明るかった。そして少し酔ってはいるけれども、その酔いは足に来るほどではなかった。清左衛門はいい気分で夜の道を歩いた。  ──ならず者か。  あのままで済むはずはないから、さっきの男のことは一応佐伯熊太にとどけてみるものかと清左衛門は思っている。  若い男の名前は清次。江戸から流れて来た料理人だった。四年ほど前に、みさは清次を料理人に雇い入れた。清次は料理の腕もよかったが、女を蕩《たら》す腕の方はもっとよかった。ひと月も経たないうちに、みさは清次と関係が出来、やがて齢下の男の手管に溺れた。  しかし男が誠意のひとかけらもない、女から金をしぼり取るだけのならず者だと気づくまで、そんなに手間はかからなかった。清次は底なしの金喰い虫だった。その金を持って遊び回り、やがて料理場に入ることもなくなった。みさは男がこわくなり、半年後に五十両の手切れ金をはらってようやく男を「涌井」から追い出した。男は金をにぎって江戸にもどった、といううわさを聞いた。  その男がまた帰って来たのである。今度は本性を現わしたように、はじめから無心をし、暴力をふるった。みさの顔が紫いろに腫れ上がったのも、そのためである。 「ばかですね、女は。ああいう男だと見抜けなかったんですから」  みさはうつむいて笑った。するとその顔にいかにもしあわせ薄そうな愁いのいろがうかぶのを清左衛門は見た。  ──何とか……。  考えてやった方がよさそうだ、と思ったとき清左衛門はいきなり行手を塞がれた。前に立ち塞がったのは男三人である。とみる間に、一人は清左衛門のうしろに回った。退路を絶ったその動きは、どこか物馴れてすばやく見えた。三人とも頬かぶりで顔を隠していた。 「よう、お侍」  正面の男が声をかけて来た。清次だった。清次の手ははやくも抜身の匕首をにぎっていた。多分「涌井」からほうり出された腹いせに、仕返しをするつもりなのだろう。 「さっきはよくもじゃましてくれたな。ちっとお礼をしたらどうだと仲間が言うもんでね。お待ち申してたんだ」  清左衛門はもう一人の男を見、振りむいて背後の男を見た。二人とも匕首を持っていた。三人が待ち伏せをかけたのは花房町のはずれで、大通りの灯がかすかにとどく場所である。清左衛門は脇差の紐をはずし、鯉口を切ると身体をそっと道の端に寄せた。  紙漉町の道場にはきちんと通っているし、男たちとやり合って負けるとは思わなかったが、酒が入っている。気持ほどに身体が動かないかも知れなかった。それに町人を相手に争うときは、慎重な心構えを必要とするのだ。万が一不覚を取って、武家の面目を失うようなことになれば、家名に障りが出るだろう。  ──いずれにしても、ここはまずいな。  と清左衛門は思った。足もとも不たしかな薄くらがりで、命知らずの男たちとやり合うのは感心しなかった。  緊張を隠して、清左衛門は言った。 「ここは暗い。もう少し明るいところに行ったらどうだ」 「ばか言いな」  嘲けるように清次が言った。 「逃げようたってそうはいかねえぜ。ここが一番いいんだ」 「そうか。よし、それなら来るか」  清左衛門は言った。そしてすばやく脇差を抜いた。じじいが抜いたぞ、と清次が罵り、男たちはさすがに怖《お》じたのか少しうしろにさがった。だが逃げる気はないらしく、じっとこちらを窺っている。  やがて男たちは、じりじりと包囲の輪を縮めて来た。それっきりひとことも口をきかないのが無気味だった。  そのとき、道に提灯の光が射した。提灯は隣町から花房町に入って来るようである。その灯が見え、やがて近づく男の顔が見えた。提灯の光にうかび上がったのは、半田守右衛門の沈痛な顔である。 「守右衛門、気をつけろ。夜盗だぞ」  叫ぶと同時に、清左衛門は男たちの間におどりこんで刀をふるった。峰打ちで、一人の肩を打ち一人の腿を打った。男たちも打たれながら斬りかかって来たが、清左衛門は匕首をはねとばした。  振りむくと、提灯を投げ出した半田が残った一人の背をしたたかに打ち据えるのが見えた。わめき声を残して男たちが逃げ去ると、道に落ちた提灯もめらめらと燃えてきた。 「斬りはしなかったろうな」 「はあ、峰打ちです。お怪我はありませんか」 「大丈夫だ。いや、助かった」  と清左衛門は言った。正直な感想だった。 「さっきの店にもどって、飲み直そうか」 「はあ、しかし……」 「わかっておる。忘れ物を取りにもどっただけだというのだろう」 「そうです。大事な品を忘れまして」 「ま、それはそれとして一杯やれ。わしの奢りだ」  来た道をもどりながら、清左衛門は半田に念を押した。 「飲み直すだけだぞ。貴公に助けられたからと言って、さっき申したことを取り消すわけにはいかん」 「それは、わかっております」  と半田守右衛門が言った。  三年前に三十両、さらに半年ほど経って二十両、計五十両の金を半田守右衛門は児玉屋から借りていた。二枚のその借用証文を、児玉屋の膝の前に押しやりながら、清左衛門は聞いた。 「何のための借金だと、半田は申したかの」  あまりあてにしないでしたその質問に、児玉屋勘七は、申されましたよ、と言った。 「お孫さまが重病に罹られたのです」 「ほう」 「それが大変な病気でございましてな。御城下のお医者は利く薬の持ち合わせがなく、江戸の知り合いのお医者から薬を取り寄せたということでした。高いお薬だったそうです」 「で、孫の病気はどうしたかな」 「二年ほどして元気になられたそうです。評判のわるい児玉屋の金が、半田さまのお家のやがては跡取りになるかも知れぬお子の命を救ったわけでございますよ」  児玉屋はにたにた笑った。色が黒くて、その上|皸《あかぎれ》が入ったように夥しい皺が走っているものの、児玉屋の顔はてらてら光っている。その顔を見つめながら清左衛門は言った。 「返済の残りは、元金であと六両ほどらしいな」 「さようでございます。半田さまはあのとおりのお人柄で、まじめに返されましたので」 「しかし高い利息でもうたっぷりと儲けたろう。どうだな、児玉屋。このへんで半田の利息をまけてやるとか、返済の期日をゆるめるとかしてやる気持はないか」 「何をおっしゃいますか、三屋さま」  児玉屋は笑いを引っこめると、露骨に険しい表情をした。 「器量人のお名も高い三屋さまのお言葉とも思えませんな。金貸しは利息が命、ひとに情をくれてはこの商売は成り立ちませんです」  一本やられたな、と思いながら、清左衛門はただのしもた屋にしか見えない児玉屋の家を出た。  人影もない静かな裏通りを歩きながら、清左衛門はまた半田守右衛門のことを考えつづけた。半田の賄賂が、重病の孫を助けるためにした借金のせいだということは、半田を問いつめるまでもなく明らかなことだった。清左衛門の眼には、高利を承知で借金した半田の行為が、冤罪とはいえ、家禄を減らした男の家の者に対する贖罪のように映る。  あるいは考え過ぎかも知れないが、と思いながら清左衛門は、やがて店が立ちならぶ表通りに足を踏み入れた。日暮れの表通りは、買物の客で混んでいた。半田のためにしてやれる、何かもう少し良い策はないだろうかと思いながら、清左衛門は人混みの中を歩いて行った。  胸に、半白の髪で沈痛な表情をうかべた半田の顔を思い描いていた。 [#改ページ]   草 い き れ      一  三屋清左衛門は夏風邪をひいた。一滴の雨も降らない炎天の日がつづいて、身体が熱いのもとめどなく汗が出るのもそのせいと思っているうちに、汗に濡れた肌着を換えたあとに突然に寒けが襲って来たり、怪しからぬことに鼻水まで出る。疑いもなく風邪だった。  息子夫婦が心配し、ことに嫁の里江が医者にもらった薬を煎じて飲ませる一方で、静かに寝ているようにと口やかましく言うので、清左衛門は昼も隠居部屋に床を敷いてもらって寝た。  ところが風邪は、清左衛門がそうして自重して床につくと、むしろ本性を現わしたようにひどくなったのである。拭いても拭いても汗が出るのは相変らずだったが、そのうちに喉が痛くなって、物をのみこむのも辛くなった。そして多分熱があるせいだろうが、終日頭がぼんやりして耳までどうかなったのか物音が聞きとりにくくなり、食欲が失われた。  隠居部屋は庭にむいている縁側の戸を全部ひらき、廊下の戸も襖もあけてあるので、寝ている清左衛門の上を風が通る。すると風に触れる胸や腕、浴衣から突き出ている足先などは熱く乾いた感じにつつまれ、そして背中はいつの間にかぐっしょりと汗に濡れているのだった。うたた寝からさめたときなど、清左衛門はそういう自分をたとえば一枚の紙のように、軽くて頼りないものに感じたりした。  そして床について三日ほどすると、急に足が弱くなって、起き上がると身体がふらつくのにもおどろいた。ふだん釣りに出かけたり道場に通ったりして足腰を鍛えているつもりでも、齢はあざむけぬと清左衛門は思った。たかが風邪でこんなにへこたれるとは、若いころは思いもしなかったことである。  しかし里江が根気よく薬を煎じ、清左衛門の食欲が衰えたとみると、婢にはまかせずに自分の手で蕪《かぶ》の酢の物、小茄子の浅漬け、金頭《かながしら》の味噌汁、梅干しをそえた白粥といったふうに献立に心を砕き、一箸でも多く喰わせようと工夫したせいか、しつこかった風邪もようやくぬけた。  と言っても、異常な汗がすっかりおさまり、喉の痛みが消え、食欲がもどって来るまで半月ほどはかかったろう。長い夏風邪だった。      二  清左衛門は、小刀を腰にはさみ、頭に菅笠をかぶったいかにも閑人といういでたちで、町に出た。紙漉町の中根道場に行くつもりだった。  もう大丈夫だろうと思った足が、外に出て土を踏んでみるとまだどことなく心もとなかった。うっかりすると高低の感じがつかめずに、たたらを踏みそうになる。清左衛門は足もとに気をくばりながら歩いた。  照りつける日射しも強かった。日射しは地面を焼いて笠のうちにはね返ってくる。嫁に笠をかぶって行くようにすすめられたときは、体裁がわるいように思って気がすすまなかったが、これでは笠がなかったら紙漉町まで歩き通すことはむつかしかったろう。  ──里江は……。  よく気がつく嫁だ、と清左衛門は思った。里江の心利いた看護がなかったら、風邪をなおすこともおぼつかなかっただろう。  だがそう思う一方で、清左衛門は今度の風邪さわぎでは胸の内にべつの感想もあったのを思い出していた。格別の感想というわけではない。ただ、死んだ喜和がいたならなとちらちらと思ったのである。  嫁に不満があったわけではない。しかし病人として嫁の看護を受けてみると、いくらか窮屈な感じがしたのも事実である。  たとえば、無理にも召し上がらないと風邪がなおりませんと里江に言われれば、清左衛門は食欲がなくとも言われたとおりに出された物をたべた。それだから厄介な風邪もなおったのだということもわかっている。わかってはいるが、相手が死んだ妻だったら、喰いたくもないものを喰えるかと箸を投げ出したかも知れない。病気の間に清左衛門の頭にうかんだのは、そういうささやかなわがまま願望のようなものだったのである。  里江はよくやってくれたが、所詮は息子の嫁である。妻に言うようなわがままを里江に言えるわけではない。そういうあたりまえのことに、病気になってはじめて気づいたというようなものだった。しかしそのことは、ふだんも息子夫婦と折り合いをつけて暮らすためには、案外におのれも気づかぬところで遠慮をしているのかも知れぬと、清左衛門を考えこませるきっかけにもなった。  清左衛門は手厚く扱われていた。そのことに感謝こそすれ、文句を言うのは筋違いというものである。だが、その手厚い庇護が、連れ合いを失った孤独な老人の姿をくっきりとうかび上がらせるのも事実だった。その老境のさびしさは、足もとを気遣いながら紙漉町の道場にたどりつくまで、清左衛門につきまとった。病いは気も弱らせるものかも知れなかった。  道場に入ると、めずらしく平松与五郎がいて後輩を指導していた。清左衛門が道場主の中根弥三郎と挨拶を済ませるのを見ていたらしいそぶりで寄って来ると、平松は挨拶をしてから清左衛門を道場の隅に誘った。 「この間の集まりには、おいでになりませんでしたな」  平松はやや声を落として言った。数日前にあったはずの番頭中野峯記宅の会合を指していることは明らかである。平松もいまは遠藤派の会合に出席していた。 「それが……」  清左衛門も声をひそめた。すぐそばで少年たちがおめき叫んで竹刀を打ち合っているので、誰に聞かれる恐れもないのだが、やはり極秘の話になると声音はおのずから人の耳をはばかるふうになる。 「風邪をひいての。案内はもらっていたが、出席はかなわなんだ」 「お風邪ですか」  平松は少し顔を反らせて、検分するように清左衛門の顔を見た。 「そういえば、お顔のいろがいささか青白くなられたようですな」 「夏風邪と言ってもバカにはならん。十日ほどは寝たきりでな。ようやく起き上がれるようになったので、今日は足馴らしにここまで来たところだ」 「それは、それは」  と平松は同情するように言った。そういう平松は、風邪とは縁もゆかりもなさそうな、浅黒く引き緊まった顔をしている。 「そうしますと、その晩の会合に向う側の人間が紛れこんでいて、ひと騒ぎあったこともお聞きになっていませんか」 「聞いておらんな。当日は又四郎も宿直で城泊りだったからの」  と清左衛門は言った。平松が向う側と言っているのは、むろん遠藤派と対立する朝田派のことである。 「紛れこんだのは諜者か。それともただのうろたえ者か」 「当方の動きをさぐりに来た者と、間島さま、桑田さまあたりはみておられるご様子でしたが、証拠がござりませんので、そのまま帰してやったようです」 「さようか。血なまぐさいことがなかったのはよい」 「はい。組頭の吉岡さまなどはかなりご不満らしくて、強硬なことを申されておりましたが、大方の意見は先方とむきつけに争うには時期が早かろうということで……」 「その紛れこんできた男というのは誰だ」 「郡奉行配下で、金井祐之進という男です」 「金井?」  清左衛門は衝撃をうけていた。 「百人町の金井かな」 「そうです。ご存じの人間ですか」 「いや」  清左衛門はあいまいに首を振った。その男は、旧知のひねくれ者金井奥之助の倅に違いあるまいと思ったが、奥之助の名前は口にしたくなかった。 「本人は知らぬが、父親を知っておる」 「そうでしたか」  平松はうなずいたが、べつに深く穿鑿《せんさく》する様子でもなかった。うす笑いを顔にうかべて口調を変えた。 「金井の勤めは、大方は山村回りであまり目立たぬ男だと言いますが、偏屈者という見方が一部にはあるそうです。諜者を引きうけたのも多分……」  と平松が言ったとき、道場の隅ではげしい叱責の声が起きた。二人の少年をならべて怒っているのは高弟の土橋謙助だった。  大きな声におどろいて、ほかの者も竹刀の手をやすめてそちらを見ている。清左衛門も三人の方にあごをしゃくった。 「土橋は何を怒っているのかな」 「怒られているのは野添森三郎と戸川章吾です」  平松も揉めている道場の隅に顔をむけた。 「二人はこの春ごろから急に仲がわるくなって、何かというと角突き合っておるのです。と言っても、これといった深い仔細があるわけではありません」 「ははあ」 「われわれにもおぼえがありますが……」  と言って、平松はちらと白い歯をみせた。 「つまりは力がありあまっているのでしょう。血が騒いでどうにも静まらんので、まわりに突っかかっている間に、野添は戸川を見つけ、戸川は野添を見つけ、お互いにちょうどいい喧嘩相手が見つかったというわけでしょう」  二人の少年が、土橋に首筋をつかまれるようにして道場主の中根の前まで行き、頭を小突かれながら詫びを言っている。少年といっても、背丈は小男の土橋にせまるほどひょろ高く、頬の赤いにきびづらをした子供たちだった。  二人の詫びが無事に済むと、まわりの少年たちも稽古にもどりはじめた。いかがですか、と平松が言った。 「お疲れでなければ軽くお相手しますが……」 「いや、とてもとても……」  と清左衛門は言った。 「有難いが、ここまでやっとたどりついた体たらくで、稽古はとても無理」  清左衛門がそう言っているところに、中根が寄ってきて、お茶を一服さし上げましょうと言った。稽古もそろそろ終るところらしかった。      三  中根の居間に通されて茶を馳走になり、次いで茶のおかわりをはこんで来た中根の妻をまじえて世間話をしているうちに、案外に時が経ったらしかった。  辞去の挨拶をかわして、清左衛門が母屋から道場にもどると、そこにはもう誰もいなかった。中根と茶を飲んでいるときに、平松と土橋がちょっと顔を出したが、そのときが稽古の終りだったようである。  無人の道場の武者窓から、赤味がかった光が幾本かの斜めの筋になって屋内に入りこみ、床の埃を照らし出していた。その光を横切って出口の方に歩いて行くと、むっとする熱気の中に少年たちが残して行った汗の香だろうか、饐《す》えたような匂いがかすかに鼻を刺して来た。重い杉戸を閉めて、清左衛門は外に出ると菅笠をかぶった。  日は町のむこうに落ちかかっていて、清左衛門が歩いて行くと、家家の屋根や木立の間を、綱わたりのように一緒に移るのが見えた。足もとの地面からは、見えている日が残して行った、焦げたような埃っぽい熱気が立ちのぼって来る。清左衛門は眼を足もとに落とし、道場で平松与五郎から聞いた話を思い返そうとした。  ──金井奥之助は……。  息子がしたことを知っているのだろうかと、清左衛門は思った。  金井の息子がどういう人間かは、平松の話だけではよくわかったとは言えないが、反対派の会合にもぐりこむといったことは、ひとつ間違えば刃物沙汰になりかねないきわどい行為である。ただの偏屈や軽はずみ、または胆力の誇示などといったことで出来ることではなかった。  その行為から清左衛門が嗅ぎつけているのは、ある種の熱狂の気配、べつの言い方をすれば凝り固まった使命感といったようなものだった。  ──おそらく……。  祐之進というその息子は、朝田派に献身を誓っているのだろうと清左衛門は思っている。平松が言ったように、偏屈をうわさされる男なら、献身ぶりもおのずと熱狂の色彩を帯びるかも知れない。  しかしいくら熱狂の傾きがあるといっても、祐之進という男が、それだけで命がけの危険な役目を買って出たとは思えなかった。金井の息子なら、父親が百五十石の家禄を二十五石に減らしたことを子供のころから頭にきざみつけているはずである。派閥に対する献身の裏には、当然削られた家禄を復活したいという願望があるに違いない。  そう考えると、案外金井奥之助は息子の無謀な行為を知らされてはいないのではないかという気もした。かつて金井がぽろりと洩らしたところによると、隠居の金井は家族に疎んじられて暮らしているようだった。かつて思うことがうまく運ばずに家禄を減らした男が、年老いてそのむかしの失策を家の者に責められているということだったようである。  ──いずれにしろ……。  金井の息子の朝田派への加担が、父親の奥之助との合意によるにしろそうでないにしろ、三十年前の三屋家と金井家の選択、どちらの派閥を選ぶかという争いが、またぞろ再現されることになったのはたしからしいと清左衛門は思った。  どちらがうかび、どちらが沈むことになるかはわからなかった。それぞれが、三十年前のように信念にしたがって派閥に賭けるほかはないのだと思いながら、清左衛門は気分がさっきよりいくらか重くなるのを感じた。こちらが勝つとは限らず、金井祐之進がうかび上がり、又四郎が沈むことも十分にあり得ることだった。  町角をひとつ曲ろうとして、清左衛門はふと足をとめた。前方に、何か気になるものを見つけた気がしたのである。そこは店先に材木を立てかけた職人の家が二、三軒見えるばかりで、ほかには売り店というものも見当らない、ひっそりとした町だった。曲ろうとする道には傾いた日射しがなだれこむようにさしこみ、目もあけられないほどの光が溢れていたが、清左衛門が歩いて来た道、その先にのびている道には、ところどころ切り裂いたように道を横切るほそい光が見えはするものの、大方は色青ざめて夕暮れのいろの中に沈みかけていた。  そのうす青い光の中に、もうとっくに家に帰ったはずの中根道場の少年たちがいた。十人ほどの少年は、それぞれに肩に竹刀と稽古着をかついだまま、町の隅にかたまって立っていた。何か言い争うらしい、険しい声も聞こえて来る。清左衛門を立ちどまらせたのは、そこから押し寄せて来るどことなく不穏な空気だったようである。  一度角を曲りかけた足をもどして、清左衛門は目を凝らした。すると少年たちの真中に、さっき道場で土橋謙助に叱られていた野添と戸川の顔が見えた。清左衛門は元来眼のたちはいい方で、手もとの物こそ少し見辛くなって来たものの、遠くはよく見えて以前よりかえって眼がよくなったように思うことがある。  いまも青ざめた顔で向き合っている二人の少年の顔が、はっきりと見えた。  ──ふむ。  まだ喧嘩のケリがついていないというつもりかの、と清左衛門が思ったとき、少年たちが急に動いて歩き出した。話がまとまったというふうに見えたが、不穏な空気は消えるどころか、かえって強まったようにも思えた。  清左衛門は踵を返して彼らを追った。といっても、少年たちがまとっていた不穏な空気なるものを、それほど心配したわけではなかった。どうやら道場から持ち越した喧嘩にケリをつける気になったらしいという見当は容易についたが、清左衛門にも身におぼえがあって、立会人がいる喧嘩は生死にかかわる危険なことにはならないのがわかっていた。少年といっても、野添や戸川のように十四、五という年齢になれば、そのぐらいの分別はおのずからそなわって来る。  清左衛門に少年たちの後を追う気を起こさせたのは、懸念ではなくて、一種のなつかしい気分だったと言える。少年たちの行動に、清左衛門はひさしぶりに何十年前の自分の姿を見ていた。  しかし路地に入ると、少年たちの姿はもう見えなくなっていた。そして道は急に細くなって人の家の庭先を通り抜けたり、迷路のように枝分かれしたりして清左衛門をまごつかせたが、さほど迷うこともなく清左衛門は軒の低い家家の間を通り抜けて町の外に出た。すると、すぐにさっきの少年たちの姿が目に入って来た。  そこは夏草が生い茂る荒れ地だった。少年たちは思いのほかに遠く、多分そこが町の子供たちの遊び場なのだろうが、禿山の頂きのように草がなく、剥き出しの赤土がてらてらと光る場所にいた。少年たちがいるあたりは、まだ落ちきらない夏の日に照らされ、清左衛門は足もとから原っぱに、長くのびる家の影の中にいる。むせるような草いきれが、清左衛門の顔をつつんだ。  少年たちの声は聞こえなかった。そして突然に野添と戸川が殴り合いをはじめた。      四  清左衛門が予想したとおりだった。野添森三郎と戸川章吾は、素手で殴り合っていた。おそらく二人が帯びている小刀は、立ち会っている少年たちが預かったのだろう。  清左衛門は微笑した。物音が聞こえないので、殴り合っている二人の動きが人形の所作のようにぎごちなく見えた。そしてその光景から、清左衛門はいま遠くに見えている少年たちと同じ齢ごろに起きた、ある出来事を思い出していたのである。  清左衛門が中根与一右衛門に無外流を習ったのは十九の齢までで、同じころの同門に町奉行の佐伯熊太や、いまの道場主でそのころは淵上と言って紅顔の少年だった中根弥三郎がいた。そして思い出す出来事というのは、齢下の天才剣士淵上弥三郎が入門して来る前、多分清左衛門が十三か十四か、その齢ごろに起きたことである。  そのころ清左衛門は、熊太とも友だちだったが、熊太よりももっと仲よくつき合っていた友人がいた。小沼金弥である。小沼は性格にやや軽率なところがあったが、身体がほっそりした美少年だった。その小沼も、そのときの出来事のもう一方の主役だった吉井彦四郎も、中根道場の同門だった。  小沼金弥と吉井彦四郎が、どういうわけで決闘めいた殴り合いをすることになったのか、その詳細はいま思い返してもはっきりしない。金弥が彦四郎の悪口、それも彦四郎が身におぼえのない町の少女のことで悪口を言い触らしたとかいうことだったのをぼんやりとおぼえているだけで、悪口の種になった少女が誰だったかも思い出せなかった。  それでいて、そのあとに起きたことがはっきりと記憶に残っているのは、それが清左衛門の身に降りかかって来た事件だったからである。  四十年前の夏のその日、清左衛門たちはいま遠くに見えている少年たちのように、一団になって道場を出た。金弥と彦四郎の決闘の約束は、道場にいる間に出来上がっていて、あとは場所をさがすだけだった。そしてその場所も、あらましの見当はついていてさほど迷ったわけではない。  今日の少年たちとは逆に、清左衛門たちは道場の前の道に出ると真直ぐ北にむかって歩いた。日雀町を通り抜け、つぎの釣瓶町で丑寅に方角をとると、やがて正馨《しようけい》寺という禅宗の荒れ寺の門前に出る。寺守りの老人だけが住む大きな荒れ寺の塀に沿って裏に回ると、そこがひろい野原になっていた。  片隅に湿地帯があって、夏の間はそこの葭原《よしわら》に巣をかける葭切《よしき》りの声が絶えない原っぱは、ふだんの遊び場所というわけではないが、今日のような揉めごとの決着をつける場所として、大ていの者が知っていた。そういう場所は、ほかにも二、三カ所あった。  清左衛門たちが原っぱに踏みこんだ日も、暑い日だった。膝まである草をわけて、湿地の反対側にある地面が露出している場所に歩いて行くと、草いきれが顔をつつんで来た。しかし原っぱを照らしているのは、ねっとりとした晩夏の光で、草は穂を垂れ、葭切りはもう啼いていなかった。 「日が暮れないうちに決着をつけよう。いいな」  葭原の陰に落ちかかる日をにらんで、佐伯熊太がそう言った。熊太はそのころから音頭取りが得意で、世話好きだった。 「おれはいつでもいいぞ」  落ちついたしぐさで、腰の小刀をそばの少年にわたしながら、吉井彦四郎が言った。小沼金弥も刀をはずそうとしていた。だが金弥は手がふるえて刀をはずせなかった。 「どうした」  そのころはまだ清之助といっていた清左衛門が声をかけると、金弥は顔を上げて清左衛門を見た。そして笑ってみせようとしたようだったが、うまく笑えずにべそをかいたような顔になった。手はさらにはげしくふるえて、腰から刀をはずすそれだけのことが、金弥にはどうしても出来ないのだった。  ──怯えてしまっている。  と清左衛門は思った。あまり胆の据った男でないことはわかっていたが、それにしても予想以上の怯えようで、清左衛門は呆れるよりも心を痛めた。金弥はこのあと、人の笑いものになるぞと思ったのである。  金弥がまた顔を上げて清左衛門を見た。すがるような眼つきをした。金弥は血の気を失って蒼白になっていた。その青白い顔に痙攣するように泣き笑いの表情がうかんだり消えたりし、あとひと押しすれば、殴り合うまでもなく金弥が泣き出すことはあきらかだと思われた。清左衛門は金弥と顔を見合わせていた。怯え切った目に、なぜか責められているような気がしていた。  小沼金弥の異様な様子は、ほかの者にもすぐわかったらしく、じきに低い私語や失笑する声が聞こえはじめた。清左衛門は人の輪から一歩前に踏み出した。笑いものになることは防げないとしても、金弥の傷を浅くしてやることは出来るだろうと思っていた。真直ぐに吉井彦四郎を見て言った。 「金弥のかわりにおれがお相手するよ。かまわんだろう」 「やめろ、三屋」  低くドスの利いた声で、佐伯熊太が言った。 「小沼にやらせればいいんだ」 「どうする」  佐伯にはかまわずに清左衛門がさらに言うと、吉井彦四郎はちらと金弥を見てから言った。 「いいよ」  無口な彦四郎が答えて、落ちついたしぐさで袴の股立《ももだ》ちをとると、まわりを取り囲んだ少年たちは騒然となった。清左衛門も小刀を熊太に預け、十分に身支度をして彦四郎の前にすすんだ。  突然に清左衛門は拳で頬を殴られた。口の中に血の匂いがひろがったと思う間もなく、今度は彦四郎がどっと組みついて来た。彦四郎は、背丈は清左衛門に劣るが、幅のあるがっしりした身体を持ち、俊敏な動きをした。  しかし先手を取られた清左衛門も、つぎの彦四郎の動きは察知出来た。体をひねって脇の下に首を抱えこむと、拳を固めて彦四郎の頭を殴った。だが清左衛門の身体は、彦四郎にうしろから抱え上げられてふわりと浮き上がり、つぎの瞬間強く地面に叩きつけられていた。      五  清左衛門が顔を上げると、少年たちがいなくなっていた。殴り合っていた野添と戸川も見えず、少年たちは一人残らず姿を消していた。幻を見たようなあやしい気分が胸をかすめたが、よく見ると建物の影は荒れ地の中ほどまで這いすすみ、日のいろはすっかり衰えていた。清左衛門の放心が長かったのである。  草むらから逃げ出した光は、それまで気づかなかった荒れ地の隅にある木に這いのぼって、細い幹をわずかに光らせていた。そしてその木のうしろには緑の稲田がつづいていた。しかし穂孕み前の稲田は、日を受けながら日没のあとのようにいちめんに暗く見えた。  ──吉井彦四郎は死んだ。  何の木か、頂きに鳥の巣のような枝葉をひろげ、白っぽい幹を光らせている隅の木を眺めながら、清左衛門はぼんやりとそう思った。  小沼金弥の代役で殴り合ってから、清左衛門は吉井彦四郎ともつき合うようになった。二人でよく釣竿をかついでおさん沼に行った。沼は城下の南に見える丘の麓にあって、むかしおさんという娘が、領主に召されたが城に行くことを拒んで身投げしたというその沼では、鮒が釣れた。  吉井彦四郎は挙措の落ちついた少年だったが、無口だった。清左衛門は、彦四郎といて金弥と一緒のときのように声を出して笑うことはほとんどなかったが、並んで黙って釣糸を垂れているのも、それはそれでたのしかった。清左衛門の釣好きの嗜好は、そのころに培われたものである。  城下から沼のある丘の麓まで、ざっと小一里はあっただろう。途中に村が二つあった。その行き帰りの道中で、彦四郎が重い口をひらいて何か言うこともあった。  そういうつき合いが一年近く経ったころ、二人は釣りの帰りにはげしい雷雨に会った。遠くで雷が鳴りはじめたのに二人とも気づいて、それで帰り道についたのだが、空は二人が歩き出すのを待っていたかのようにみるみる暗くなった。ついさっきまで、あたりの木や草を日が照らしていたのが嘘だったような、急な変化だった。  もう雨が降っているのか、帰っていく城下の方は夜のように暗く見え、雷鳴は頭上に移って来た。空気を打ち叩くような重い光がつづけざまにはためき、雷鳴がとどろいて頭上を右に走り左に走った。腹にある力を根こそぎさらって行くような威嚇的な音だった。清左衛門は、自分と彦四郎がかつて出会ったことのないような危険に遭遇しているのを感じた。  しかし二人は野道の途中にいた。恐怖をこらえて清左衛門は前方の村を指さした。 「あそこまで走るか」 「いや」  落ちついた声で彦四郎が制した。 「走るとあぶない。このまま行こう」  彦四郎がそう言った直後に、清左衛門は物が焦げるキナ臭い匂いを嗅ぎ、眼の前がかがやく白光に閉ざされるのを感じた。雷の音は聞かなかったが、強い力で身体をつかみ上げられる感じがあり、同時に白光は頭の中でもはじけて、清左衛門は意識を失った。  気がつくと、二人とも地面に倒れていた。立とうとしたが足に力が入らないので、清左衛門は這って彦四郎のそばに行った。髪を少し焦がし、ちょっぴり鼻血を出して彦四郎は息絶えていた。彦四郎のそばの地面が抉れ、その先の道ばたの草も、焚火のあとのように焦げていた。  自分でも知らずに嗚咽の声を洩らしながら、彦四郎の頭を膝の上に持ち上げたとき、沛然《はいぜん》と雨が降って来たのを清左衛門はおぼえている。  そして金弥は出世した、と思いながら、清左衛門は荒れ地に背をむけて路地にもどった。低い煙が路地を這い、飯を炊《かし》ぐ匂いが清左衛門の鼻にとどいた。嫁が心配しているかも知れんなと清左衛門は思い、幾分いそぎ足になった。  小沼金弥はしばらく近習組に出仕したあと、家督をついで惣兵衛となり勘定組に転じたが、そこでにわかに頭角を現わした。魚が水を得たように、身にそなわっていた算勘の才を発揮し、組内で累進したあげく、最後は勘定奉行を勤めた。家禄もたしか五、六十石はふやしたはずである。  勘定奉行の最後のころは、城下の富商と癒着して懐を肥やしたなどといううわさもささやかれたが、小沼惣兵衛は結局ボロも出さずに清左衛門より二年はやく職をひき、隠居した。その惣兵衛とは、こちらが隠居してから二、三度は会っているものの、去年病気で妻女を失ったと聞いたときは、清左衛門は葬儀には行かなかった。  隔意があるというほどではないが、清左衛門の気持の中には、以前から惣兵衛があるときを境にむかしの金弥とはまったくの別人に変ったような違和感があって、同じく旧友とはいっても佐伯熊太に対するときのような胸中を打ちあけるようなつき合いはしてない。しかしひさしぶりにむかしの出来事を思い出したせいか、清左衛門はしきりに惣兵衛に会ってみたい気がした。考えてみれば二人ともやもめで隠居、出世だ加増だというなまぐさい時代は終って、むかしのように似た境遇にもどったわけである。  ──やもめになったあと……。  惣兵衛はどうしているのか、と清左衛門は思ってみる。嫁にはよくしてもらっているのか、それとも冷遇されているのか。人格まで脂ぎったように変ってしまったあの男が、嫁に冷遇されたらそれもまたおもしろかろうと、ちらと意地の悪い気持も胸を横切る。  よしんばよくしてもらっているとしても、このおれのように、それを窮屈に思うことはないのかというような話も、一杯やりながらの酒の肴になるだろう。  ──明日にでも……。  さっそくたずねてみようと、もとのひろい通りに出たところで清左衛門は決心をつけた。日が落ちたあとの白っぽい光がただよう町を、清左衛門は思わぬ道草を喰って疲れた身体をはげましながら歩いた。      六 「出られるか」  清左衛門が言うと、小沼惣兵衛は大きくうなずいた。 「出られるとも。ちょうどいいところに来た」  細おもての小沼の息子の嫁が、上がってくれとすすめたが清左衛門は固辞し、玄関の土間で支度する惣兵衛を待った。そして出て来た惣兵衛と連れ立って小沼の屋敷を出た。 「身体に別条はないか」  外に出ると惣兵衛が聞いた。 「いや、それが風邪をひいて、半月も寝たり起きたりした」 「それはいかんなあ。風邪はこわいぞ」  惣兵衛は眉をひそめたが、そういう本人は風邪などひきそうもない頑丈な身体つきをしている。いったいこの男は、いつからこんな脂ぎった大男になったのかと、むかしの惣兵衛を知る清左衛門は、またぞろ胸の奥に不信の気持にも似たかすかな違和感が動くのを禁じ得ない。  そんなこととは知らず、惣兵衛は鴉のようなだみ声でしゃべっている。 「それでもういいのか」 「もうなおった。それで今日は風邪払いと暑気払いをかねて一杯やろうかと思って誘いに来たのだ」 「それはいい。よし、盛大にやるか」  日が沈みかけていたが、町はまだ暑かった。二人は衰えた日射しを背に受けながら、橋をひとつわたった。 「『涌井』に行こうかと思うが、いいか」 「それもいいが、今夜はおれにつき合え」  と惣兵衛が言い、急にきょろきょろとあたりに目をくばった。二人はにぎやかな売り店が並んでいる商人町の通りを歩いていた。その町のはずれにある四辻を右に折れれば、小料理屋の「涌井」がある花房町に出る。  さがしたのは瓜だったらしく、惣兵衛は夕方の買物客でにぎわう青物屋で、真桑瓜《まくわうり》を二個買った。 「じつはな」  縄でしばってもらった瓜をさげて歩きながら、惣兵衛は秘密を打ち明ける慎重な声になった。 「今度女を囲った。若い女子だ」 「へーえ」  ど胆を抜かれて、清左衛門は惣兵衛の顔をのぞいた。 「元気だな」 「元気? 何を言ってるか」  惣兵衛は立ちどまった。おつき合いで立ちどまった清左衛門を見ながら訝るように言った。 「おぬし、もうそっちの元気はないのか」 「べつに女子が欲しいとは思わんなあ」 「なさけない男だ」  惣兵衛は言って、また歩き出した。 「まだ五十やそこらで、老いるにははやいぞ」 「老いたとは思っておらぬが……」  清左衛門は軽く反撃した。 「しかし、いまさら女子も面倒だ。それに、おぬしのように妾宅を構えるほどの金も持たぬ」 「いやな言い方だ」  惣兵衛は渋面をつくった。 「わしが賄賂を取ったとかいううわさを指しておるのなら、そりゃ親友として少少つれないぞ。あれはとんだ誤解よ。いや、うわさの火元はわかっておる。その火元というのは、ほれ、おぬしも知っている……」  惣兵衛は縷縷《るる》弁解しながら、まめに足をはこんで清左衛門を商人町の裏通りにみちびいて行った。 「わかった。その話はよそう」  と清左衛門が言った。 「しかし息子夫婦が、よくうんと言ったな」 「一応は反対した。しかし形だけよ」  惣兵衛はうす笑いを見せた。 「隠居などというものはな、清之助」  惣兵衛は、清左衛門のむかしの名前を呼んだ。 「若夫婦にとっては、口に出してこそ言わね、ただの厄介者に過ぎん。飯を喰わせなきゃならん、掃除、洗濯もしてやらなきゃならん」 「………」 「それが半日、一晩、よそに行って心配もしなくて済むというのは、若夫婦にとっては大きな息抜きだ。わしはそこを考えておる。ただの好色漢のように思うのはやめてもらおうか」 「理屈はわかるな」 「そうだろ。わしはな、病気で倒れるときもこっちの家で倒れたいとねがっておる。嫁に看病されるのは好かん」  ここだ、今夜はここで一杯やろうと言って、小沼惣兵衛は一軒の小粋なつくりのしもたやの前で足をとめた。あちこちと手入れをした様子が見え、けっこう金がかかっていそうな家だった。  滑りのいい格子戸をあけて、惣兵衛は奥に声をかけ、清左衛門を招きいれた。 「おはつ、おまえの好きな瓜を買って参ったぞ」  睡いような目をして口もとが小さい、丸顔の娘が出て来て、瓜を受け取ると清左衛門に挨拶した。まだほんの子供のように見えて、清左衛門は惣兵衛の趣味を疑った。 「おとなしくしていたか、おはつ」  機嫌を取るように惣兵衛が言っている。 「今夜はおまえの手料理で一杯やろうと思ってな、友だちを連れて来たのだ」  女は清左衛門を見てちらと歯をみせただけだった。はきとした返事もしないで台所の方に消えた。 「おい」  惣兵衛の案内で奥に通りながら、清左衛門が言った。 「いくつだ。まだ子供みたいな人じゃないか」 「あれで十九だ」  惣兵衛は自慢顔でにたにた笑った。 「少しはうらやましくなったんじゃないのか。だったらおぬしもひとつ考えてみたらどうだ」  悪酔いして清左衛門は妾宅を出た。表通りに出ると、秋のような月が出ていて、ひと気のない道と家家の軒を照らしていた。  惣兵衛は清左衛門にむかって、しきりに若い妾を自慢したが、娘の方は黙って酌をしているだけで、さほどうれしそうにも見えなかった。そういう娘に、惣兵衛は酔っていながらも、時どき機嫌を取るような口を利いた。勘定奉行も勤めた男がと、馳走になったこととはべつに清左衛門はいささかにがにがしかったのである。  ──はたして……。  病気で倒れたとき、あの若い妾が親身に看護してくれるかどうかは疑問だと、清左衛門は思った。しかし惣兵衛も自分も、そういうことで足掻《あが》く齢になったのはたしかだと思いながら、清左衛門は頭の痛みをこらえて歩きつづけた。 [#改ページ]   霧 の 夜      一 「この赤蕪《あかかぶ》がうまいな」  町奉行の佐伯熊太は、おかみがはこんで来た蕪の漬け物にさっそく手をつけた。 「わしはこれが好物でな。しかし、よくいまごろまであったな。赤蕪というのは、大体これから漬けるものじゃないのか」 「そうです。よくご存じですこと」  おかみのみさはそう言い、手早く清左衛門の膳にも赤蕪と、このあたりでクチボソと呼ぶマガレイの焼いたのを配った。 「赤蕪もナニですけれども、クチボソもおいしいですよ。やっととれる時期になったそうで、昨日から入り出したばかりです。召し上がってくださいな」 「クチボソか。うまそうだな」  町奉行はそっちにも箸を回した。 「うむ、いい味だ」 「ありがとうございます」 「時期といえば、ハタハタがそろそろじゃないのか」 「いや、あれはもっと寒くなってからだ」  と清左衛門が答えた。 「みぞれが降るころにならんと、海から上がらぬ」 「そうですね」 「涌井」のおかみは相槌を打って、清左衛門と佐伯に酒をついだ。 「ハタハタは、大黒さまのお年夜《としや》のころからとれる魚ですから」  おかみがもう一杯ずつ酌をして部屋を出て行くと、佐伯は清左衛門の膳にある赤蕪を指さして、もうそれは喰わんのかと言った。自分のはとっくにたいらげてしまっている。 「これがよほど気にいったらしいな」  清左衛門は、ほとんど手をつけていない小鉢の蕪漬けを佐伯に回してやった。  これがあれば、ほかの肴などはいらぬようなものだと佐伯は言った。 「桜井孫蔵に聞いた話だが……」  佐伯が言い、桜井は知っているなと念を押した。 「知っておるとも。鹿沢通の代官だ」 「うむ。その孫蔵に聞いた話だが、この赤蕪と申すものは平地の畑で作ってもうまく行かんそうだ」 「ほう」 「鹿沢通のように焼畑の多い山奥で作ったものが、出来もよく味もよい。つまり痩せ地に適し、土の肥えているところには不向きということになる」 「なかなかくわしいな」  清左衛門は言った。 「おぬしが喰い物について一家言ある男とは知らなんだ」  二人はそれから、互いに新しく酒をつぎ合って、おかみが入って来たために中断した話にもどった。  しかし話の中身はさほど改まったものではなく、佐伯から最近の藩上層部の動きを聞くだけのもので、その話はおかみが熱燗の酒と追加の肴をはこんで来たときにはあらまし終っていたのである。 「いまは双方ともに模様見と言ったところだろうな」  と佐伯は言い、熱燗の酒をぐいと飲み干した。 「そう言っても、これでおさまるというわけじゃない。いずれ大騒動になる気配はどうして、きわめて濃厚だが、朝田派がこのところおとなしい」 「ほう」 「何かを待っているように、わしには見えるがな」 「待っている? 何をだ」 「さあ、それはわからん。が、朝田派はひと月ほど前に江戸に使いを出した。表向きは公用だが中身は違うようだ」 「………」 「近習組の黒田という男を知っておるか」 「黒田欣之助なら知っておる」  と清左衛門は言った。野塩村のおみよという女子のことで、清左衛門に恫喝めいた口をきいた若い男である。 「黒田は小才の利く男でな。朝田派でちょっと頭角を現わしかけている。使いは黒田と郷方回りの村井寅太という男だ。村井は身分は低いが直心流の遣い手だ」 「ほう、すると護衛つきということかな」 「そのとおり。ということは、黒田欣之助の役目というものが軽くない証拠にもなるだろう。この二人が、まだ帰国しておらん」 「すると何か」  と清左衛門は言った。 「朝田派は、その二人が帰るのを待っているというわけだな」 「二人の帰国というよりも、二人がもたらす江戸の何かの動きを待っているということだろうな」 「それが何かは見当がつかんか」 「それは無理だ。もう少し情勢が動かんことには何も見えはせん」  佐伯が今度は銚子を持ち上げて、清左衛門と自分の盃に酒を満たした。 「ところで、遠藤派の集まりには相変らず出ているのか」 「たまにはな。なに、枯木も山のにぎわいという程度でな。隠居ががんばっているわけじゃない」 「それがいい。ほどほどにしておけ」 「そういうおぬしはどうなのだ。もうどっちかに決まったか」 「わしは町奉行だ、清左」  佐伯熊太は胸をそらした。そのとたんにげっぷが出て失礼と言った。 「公平をむねとすべき庶民の司寇《しこう》だ。めったに派閥に加担するわけにはいかぬ」  佐伯は見得を切ってから、赤蕪の最後の一切れを慎重に口の中にほうりこんだ。そして、喰い終って盃を取るとひょいと清左衛門に顔をもどした。 「そうそう、異なことを聞いたが、近ごろ成瀬喜兵衛に会ったことがあるか」 「いや」  清左衛門は首を振った。 「ひさしく会っておらんが、あのひとがどうかしたか」 「それが、だ。おどろくべきことに……」  佐伯は勢いよく盃の酒を呷《あお》った。そしてつづけた。 「にわかにボケたらしい」 「なに、ボケた」 「そう聞いた」  佐伯は最近耳にしたという、成瀬喜兵衛の急な老耄ぶりを語って聞かせた。  それによると、成瀬の奇矯な振舞いが目立つようになったのは、今年の梅雨のころからだという。第一にほとんど物をしゃべらなくなった。もともと無口なたちだったが、今度は極端で家の者が話しかけるのに、返事もしなくなったのである。そして終日、隠居部屋の縁側に出て呆然と外を眺めているのだが、その姿がこれまで見たこともない立て膝で、その上に重ねた手にあごを乗せ、一見招き猫の姿形に異ならない。  三度の食事にも興味を示さなくなり、家の者が強制して膳の前に坐らせなければ、飯を喰おうともしない。そうかと思うと、裏の菜園から抜き取って来た大根を、洗いもせずにかじったりする。  そして夏の終りには、もっとおどろくべきことが発見された。成瀬喜兵衛は、夜夜家人が寝静まったころに家を抜け出し、朝帰りするようになった。それがまた、どこをさまよい歩いて来るのか手足も着ている物も泥だらけで、本人は疲労|困憊《こんぱい》して倒れるように家にたどりつくのだという。 「信じがたい話だ」  清左衛門はつぶやいた。事実とすれば痛ましい話だった。  成瀬喜兵衛は、長く御勘定目付を勤めて先年隠居した人物だが、喜之助と言っていた若いころは無外流の中根道場で師範代をしていた、清左衛門たちの剣の先輩である。鬼の喜之助と呼ばれた荒稽古で有名だった。とてもいまからボケるような人間には思えない。 「あのひとはいくつだったかな」 「齢か」  と佐伯は言った。 「われわれより四つか五つ上のはずだ」 「すると、五十九か、六十」  清左衛門はにわかに身辺がうすら寒くなったような気がした。 「人間、そのぐらいではやボケるものかの」 「人にもよるが、めずらしいわけでもなかろう」  と佐伯は言った。そして佐伯はさらにつづけた。 「われわれも、そろそろそういう年配に来たということだ。お互い気をつけぬとな」 「気をつけろと言っても、ボケというやつは突然に来るんじゃないのか」 「そうには違いないが、よく身体を動かし、気持に張りを持って暮らしておれば、いきなりボケるということもなかろうて」 「そうか」 「大体はやばやと隠居するなどというのがいかん。おれを見ろ。さっそく明日にもボケるようには見えんだろうが」  佐伯は現役を誇示した。 「成瀬も家督を譲るのがちと早過ぎたのではないかな。朝田派の岡安茂太夫の引きがあって、ついこの間まではばりばり働いていたのだ」 「ほう、あのひとは朝田派か」 「なんだ、知らなかったか」  と佐伯は言った。 「そうだよ。その男が、隠居して三年にもなるとこの有様だ」 「いやなことを聞いたな。気が滅入る」  と清左衛門は言った。 「どうだ、豆腐汁でももらって、熱燗でもう少しやるか」  そう言うと、清左衛門は手を叩いた。      二  ところがそれから数日して、三屋清左衛門はボケの成瀬喜兵衛について、まったくべつの話を聞いたのである。清左衛門にその話をしたのは、無外流の道場主中根弥三郎だった。 「この間、成瀬のご隠居が参られましてな」  清左衛門を、母屋の居間に誘った中根は、そこで声を落とした。 「三屋さまに伝言を残して行かれました」 「伝言?」  清左衛門は中根の顔を探るように見た。だが、中根は少しも動じない表情でつづけた。 「そうです。内密に三屋さまにお会いしたいということでした。ただし、いそがぬゆえ、三屋さまが来られたときに伝えてもらえばよいと」 「ほう」 「三屋さまは、小鹿町に『つばな屋』という小料理屋があるのをご存じですかな」 「入ったことはないが、家は知っておる」 「都合のついたときに『つばな屋』に行かれて、おしまという酌取りを呼び、名前をおっしゃれば間もなく成瀬さまがそこに参られるそうです」  成瀬の家がある狩衣町は、小鹿町と背中合わせの町だ。理にはかなっている、と清左衛門は思った。  だが、この前佐伯熊太にああいう話を聞かされたあとでは、中根のつたえる伝言というものも、無条件には信用しがたかった。これもボケの一種ではあるまいか、と思いながら清左衛門は言った。 「その成瀬のご隠居だが、何か変った様子は見えなかったかな」 「変った様子? いや、いや」  中根は首を振ったが、しかし途中で清左衛門の言葉でふと思いあたったというふうに、ちょっと顔をしかめた。 「ま、言われてみますと、以前にくらべていくらか痩せて老けられたかも知れませんな。それに髭などものびて、多少むさくるしい感じではありましたが、しかし御城勤めがあるわけではありませんし……」 「病気のようには見えなかったか」 「いや、いや、とんでもありません」  中根は微笑した。 「いたって丈夫のようです。ひさしぶりに一手教えてやろう、などと冗談のようにおっしゃるので、道場に出て竹刀を合わせましたが、いやお強い。あの齢で、いまだに往年の太刀筋とさほど変りない、力強い竹刀を使われるのにはおどろきました」 「鬼の喜之助か」 「まさにそのとおりです」  中根弥三郎は懐かしそうに言った。中根は成瀬が家督をつぐ一年前に入門して、鬼の喜之助にたっぷりとしぼられた記憶を持っているはずだった。      三  中根弥三郎の話は清左衛門を混乱させたが、その翌日の夜、清左衛門はとりあえず小鹿町の「つばな屋」まで行ってみた。成瀬喜兵衛は、中根に清左衛門への連絡をたのむと、ほかには一切他言無用とつけ加えたと聞いては、知らぬふりをするわけにいかないことは自明のことだった。  ──何事か……。  内密の話があるのかも知れない、と清左衛門は思った。  しかし「つばな屋」に着いて、奥のひと部屋に上がるまでは、まだ半信半疑だったというべきだろう。ところが中根の言うとおり、酌取りのおしまは実在した。色はやや浅黒いが眼鼻立ちのととのった二十半ばの女で、清左衛門が用件を切り出すと、いそいでうなずいた。 「そのお話なら聞いております。このままお酒を召し上がりながら、待っていてくださいまし」  とおしまは言った。言葉遣いも、立居の礼儀作法も心得ている女だった。おしまは手早く酒肴の支度をすると、もう一度しばらく待つようにと念を押して姿を消した。  しかしおしまは、それから一刻(二時間)経っても部屋にもどって来なかった。  さほど部屋数があるとも思えない店だったが、「つばな屋」はけっこう繁昌しているらしく、ひとりで盃を嘗めている清左衛門の耳に、酔った人声や、女の唱う声などがきれぎれに聞こえて来る。そして、店に入るときは気づかなかったが、二階にも客を入れる部屋があるらしく、時どき頭上でみしみしと人が動き回る物音が聞こえたりした。  盃を口にはこんで成瀬を待っている間に、清左衛門は自分の胸に、それまではなかった奇妙に不安な気分が入りこんで来るのを感じていた。  不安のもとは、成瀬喜兵衛が朝田派の人間だということだった。清左衛門は、先頭に立って働いているわけでないとしても、動かせない遠藤派である。おしまが部屋を出て行ってから、とっくに一刻は過ぎているだろう。と、すると時刻はおよそ五ツ半(午後九時)を回ったはずである。遠藤派の人間が、深夜に明白な朝田派の人間と会って、何らかのさし障りはないものだろうか。  ──むろん……。  わしはそんな大物ではない、と清左衛門は思った。もと用人という経歴は軽からざるものだが、仕えたのは前藩主で、いまの身分は隠居である。派閥に何かの影響をあたえるような人間ではない。  しかし誰かが、怪しからぬ罠を仕かけ、朝田派の成瀬喜兵衛に会ったことが清左衛門本人、あるいは三屋家、さらには遠藤派という派閥に不利な結果をもたらす、ということがまったくないとも言えまい。  ──少し軽率だったかな。  と清左衛門は思った。どうも佐伯に聞いた、成瀬がボケたという話が頭の隅にあって、成瀬にいらざる同情心を抱いたのがまずかったようだと思った。  清左衛門は銚子を傾けたが、酒はもうなかった。ほんのひと口ずつ盃をふくんだつもりだが、一刻も経てば酒もなくなる。もう十分に待った、来なければ来ないでそれでもよいと清左衛門は思った。  手を叩いておしまを呼ぼうとしたとき、まるでその気配を察したように、襖があいておしまが入って来た。おしまの顔にあわただしいいろがある。 「申しわけありません。こんなにお待たせして」  とおしまは詫びた。 「成瀬どのが参られたか」 「それがちょっと……」  おしまはひらりと身体を動かすと、清左衛門のそばに来て耳打ちした。 「相済みませんが、二階までいらしていただけませんか」 「………」 「お見せしたいものがあります」  とおしまは言った。  おしまが案内したのは梯子の上り口、通りに面している無人の部屋だった。部屋に入ると、おしまはすばやく襖をしめてしまったので、部屋は暗くなった。  だがすぐにべつの光が、障子から射しこんでいるのに清左衛門は気づいた。小鹿町は紅梅町のような茶屋町というわけではなく、町のほんの一隅に一軒の料理茶屋、数軒の小料理屋がかたまっているだけである。  しかしそれでも、並みの町家がならぶ場所とは異るにぎわいがあって、夜はおそくまで軒行燈が通りを照らす。障子をそめているのは、外から射すその光だった。  おしまはしのび足に部屋を横切ると、障子を少しずつ少しずつあけた。つめたい夜気が部屋に入りこんで来た。おしまは、およそ一寸ほどもひらいた障子の端からじっと外を眺めおろしていたが、やがて手真似で、清左衛門にのぞいてみるようにと合図した。  清左衛門は障子の隙間に眼をあてた。軒行燈に照らされた前の通りが見えた。目の下のひときわ明るい場所は、「つばな屋」の軒行燈が照らしているのだと見当がついたが、軒行燈そのものは屋根にさえぎられて見えなかった。  その光の中を、時折りゆっくりと人影が通りすぎる。数人の男たち、商人風の男一人、中年の男女が通りすぎた。そしてそのあとはぱったりとひと足が途絶えたが、むろんおしまは通行人を眺めろと言ったわけではないだろう。  清左衛門にもその人影が見えた。「つばな屋」の行燈の光がようやくとどく道のむかい側に、「松前こんぶ」という大きな看板をかかげている店がある。むろん店はもう戸を閉めているが、家の端においてある天水桶のそばに、男が二人立っていた。二人ともに武家だった。二人は身動きもせず、顔を「つばな屋」の方にむけている。 「見た」  清左衛門が振りむいて言うと、そばに寄って来たおしまが、慎重な手つきで障子をしめた。濃い化粧の香が清左衛門の鼻先で匂った。  下の部屋にもどると、おしまが熱い酒をはこんで来た。そして成瀬喜兵衛は今夜は来ないと言った。 「見張られているときは店に入れないから、三屋さまにお詫びを言い、ゆっくりお酒を召し上がって引き揚げてもらうようにということでした。出かけて来たとしても、もうお家にもどられたと思います」 「そうか」 「お勘定は成瀬のご隠居さまがお持ちになりますので、どうぞお気遣いなく」 「いや、その斟酌《しんしやく》は無用だが、しかしさっきの男たちは何者だろうな」 「さあ、わかりません」  おしまは、くわしい事情は知らされていない様子だった。 「時どき、ああいうことがあるのか」 「はい、夏ごろから」  清左衛門は首をひねった。それと佐伯熊太に聞いた成瀬のボケとは関係があるのだろうか。 「成瀬どのには、そなたが知らせに行ったのか」 「はい」 「よほど親しいつき合いとみえるな」 「五年前まで、あのお家に奉公していましたもので」 「なんだ、それでは親しいわけだ」  清左衛門はおしまの酌を受けた。さっきから一人で飲んで、少し酔いが出て来たようでもある。ついくだけた口調になった。 「それでいて、つぎに小料理屋に奉公するとはめずらしい」 「一度は嫁に参りましたのです」  おしまは顔を赤くした。清左衛門がさした盃を受けながら、恥じるような笑いを顔にうかべて言った。 「でも、このとおりのがさつ者で、不縁になりました。それで少しは世の中のことを見習おうかと、ここに来たのです。この店は叔母の家ですので」  おしまの言葉で、清左衛門は成瀬がこの娘とこの店を頼りにしている理由がわかった。この店を使えなくなったのは、成瀬にとって痛手に違いない。  少し相談がある、と清左衛門はおしまに言った。 「花房町の『涌井』を知っているかな」      四  清左衛門が「涌井」に行くと、成瀬喜兵衛が先に来ていた。しばらくぶりに見る成瀬は、髪が薄くなり頬の肉が落ちて、全体にひどく年寄りくさく見えて清左衛門をおどろかせた。二人は久闊の挨拶をかわした。 「このたびは突然にご迷惑なさわぎを持ちこみ、申しわけもござらん」  成瀬は丁重な口をきいた。むかしと変りない木訥な口調である。 「ほかに頼る者もおらぬのでおすがりしたが、さぞ、勝手な男と思われたことでござりましょうな」 「いや、いや」  清左衛門は手を振った。  家禄も身分も清左衛門の方が上なので、成瀬は丁寧な言葉を遣っているが、目の前にいる老人は、よく見れば目の光、声のひびきが紛れもないかつての師範代、成瀬喜之助である。清左衛門は聞いていて何となく落ちつかない気持になった。 「おたがいにいまは隠居の身分、これからの話はもと中根道場の同門ということで、ざっくばらんにねがいたいものでござる」 「さようか」 「もっとも中根道場といえばそちらは鬼の喜之助、こちらは一方的に殴られた方で、ぐっと分がわるくなるようではあるが……」  成瀬は苦笑した。しかし固かった表情がゆるんで、成瀬はいくらかくつろいだように見えた。 「で、今夜はうまく行きましたかな」  清左衛門の方が、先輩に物言う口調になった。成瀬がうなずいた。 「お手配のおかげで、何事もなくこちらに入れ申した」  清左衛門は「つばな屋」のおしまと、ここのおかみに言いふくめて、いったん「つばな屋」に入った成瀬がすぐに裏口から出て、花房町の裏通りを伝って「涌井」の台所口から入るように手配したのである。  うまく行けば、たとえ成瀬をつけ回している人間がいたとしても、まだ「つばな屋」のそばで見張りをつづけているはずだった。 「見張りは?」 「『つばな屋』の表におった」 「あれは何者ですか」 「朝田派の若い者でござる」  成瀬がそう言ったとき、おかみのみさが酌取りと一緒に酒肴をはこんで来た。しかし様子で密談と察しをつけていたらしく、肴をならべて一杯だけ酌をすると女たちはそのまま引き揚げて行った。 「ここははじめてだが……」  成瀬は盃をふくむと、部屋を見回した。 「なかなか小ぎれいな店ですな。『つばな屋』とは雲泥の相違だ」 「魚のうまい店です。ごひいきに願いたいものです」 「しかし、なにせ隠居の身。そうたびたび小料理屋で飲むというわけにも参りません」 「ご同様です」  と清左衛門も笑った。 「嫁が気を使って、外で飲むほどの金は持たせてくれるものの、たびたびというわけには行きませんな」 「さて……」  成瀬は不意に盃を置いて、形を改めた。 「さきに願いごとを申し上げてしまいましょうか」 「どうぞ、何なりと……」  清左衛門も言って盃を置いたが、成瀬の願いごととは何かと、気持がひきしまるのを感じた。 「遠藤派のしかるべき頭株、どなたでもけっこうだが、貴公の懇意な方がおったらお引き合わせいただけまいか」 「ほう」 「どなたかの門に真直ぐに駆けこもうかとも思ったのだが、それがしは人も知る朝田派、じかに物申しても相手が信用せぬ懸念がある。そこで貴公を頼ることを考えついたわけだが、いかがであろう、頼まれてはもらえまいか」 「朝田派の成瀬どのが遠藤派の頭株に会いたいと言われる、そのわけを聞かせてもらえますかな」 「それが、ひと口には言い難い」 「しかし、これこれの用というおよその輪郭も聞かずに取りつぐことは、ちとむつかしかろうと存ずる」 「しかしながら緊急の用にござる」  それでも清左衛門が無言でいると、成瀬は顔を伏せて考えこんだ。そしてつぎに顔を上げたときは声をひそめた。 「ひと口に言えば、御家の大事が出来《しゆつたい》いたした」 「………」 「他言無用でござるぞ」  まだ清左衛門が納得していないとみたらしく、成瀬はそう言った。射竦《いすく》めるような目で清左衛門を見ながら、梅雨のころに番頭の岡安茂太夫屋敷で行なわれた朝田派の会合に出たとき、聞き捨てにならぬ密談を聞いてしまったのだと言った。 「密談の主は屋敷の主茂太夫と朝田家老であった。わしはそのころ冷え腹を病んでいて、その日もはばかりを借りるために、勝手知ったる奥に行ったのだが、その帰りに偶然に二人の密談を耳にいたしたのだ。むろん、聞こうと思って聞いたわけではない」 「………」 「ところが、間のわるいことに、密談を耳にしたちょうどそのところを、ひとに見咎められ申した。はっきり聞いたと断定したわけではないにしても、彼らはわしが密談を聞いたのではないかと疑った。いまも疑っておる」 「ははあ、それであの見張りですか」 「夜も昼もだ」  成瀬は鼻のつけ根のあたりを、指で揉んだ。かなり疲れているように見えた。 「外に出ればひとがついて参る。用があって出かけると、要所要所にはひとが配ってあるというぐあいだ」 「………」 「わしは耳にしたことを、誰かに伝えねばならぬと思ったが、はじめに誰に話したらいいのかわからなかった。本来は殿にじかに申し上げるべきものだろうが、わしにはそのつてがない。ようやく、反対派の誰かに話せばよいと気づいたが、見回してみると申したような有様だ。たとえば遠藤さまのお屋敷に駆けこむとしようか。駆けこむ前に斬り合いがあるのは必定として、さっきも申したごとく、はたして先方がわしの申すことを信じてくださるかどうかは甚だ疑問だ」 「そこでそれがしを思い出されたのですな」  と清左衛門が言った。 「それはよい思案と存じますぞ。で、その密談とは……」 「それは聞かれぬ方が、御身のためではあるまいか」 「いや、乗りかかった舟。さわりだけでも、うかがっておきたい」 「毒を飼おうと申しておった」 「どなたに?」  驚愕して清左衛門は成瀬を見た。 「殿に? それとも御世子に?」  成瀬喜兵衛は首を振った。くぼんだ頬に、くっきりと深い皺がうかび出て、これ以上は一言もしゃべらぬという顔つきに見えた。  清左衛門は銚子を取り上げて、成瀬に酒をついだ。 「ご安心ください。明日にでも間島さまに取りつぎましょう」 「よしなにお頼みしますぞ」 「しかし、さぞお苦しかったことでしょうな」  清左衛門はなめこ汁をすすった。酒もなめこ汁もすっかりつめたくなっていた。 「ボケを真似られたのも、そのためですか」 「あれは失敗だった」  と成瀬は言った。 「家の者はだまされたが、あの男たちは信じなかったようだ」 「ご安心くだされ。もう、大丈夫ですぞ」  清左衛門は請け合い、酒もなめこ汁も熱いのに替えてもらいましょうと言った。      五  成瀬喜兵衛を間島家老の屋敷に残して、清左衛門と平松与五郎は外に出た。なまあたたかいような夜だった。季節は初冬というのに、道には夜目にも白く霧が這っている。日暮れにさっと降った雨の名残りだろう。 「なんにも出なかったな」  と清左衛門が言った。 「きっと出るだろうと思ったのだが……」 「出なくて幸いです」  と平松が言った。  間島弥兵衛と連絡をつけると、清左衛門は平松与五郎を成瀬喜兵衛の護衛につけた。成瀬が間島屋敷に入るのを、必ず邪魔立てする者が現われるだろうと思ったのである。  しかし平松と同道して成瀬を迎えに行き、さらに三人で間島家老の屋敷に着くまでに、それらしい男は一人も現われなかったのである。いや、一人も現われなかったという言い方には語弊がある。  成瀬の家の近くに、見張りが一人いた。若い男だった。しかし男は二人が成瀬を呼び出して外に出て来たときには姿を消していた。誰かが跡をつけて来る様子もなく、それっきりだったのである。 「平松が一緒なのをみて、恐れをなしたかな」 「いや、そんなこともないでしょう」  二人は暗い屋敷町を通り過ぎて、河岸の方に歩いて行った。だが、河岸の道に出る前に、清左衛門は平松に袖を引かれ、途中の路地に折れた。平松が、持っていた提灯の火を吹き消した。 「どうしたな?」  清左衛門がおどろいて言うと、平松はしっと言った。 「待ち伏せがいました」 「ほう、どこに」 「牧原さまのお屋敷の横です」 「気づかなんだな」 「引き返しましょう」  と平松は言った。  二人はもとの道にもどると、待ち伏せがいる側とは反対側の塀の下を、足音をしのんで間島家老の家の近くまでもどった。そのまま路地の端に身をひそめて待った。目が次第に闇に馴れて、ゆっくりと道を這う霧の動きが見えた。  四半刻(三十分)も経たないうちに、間島屋敷の塀の内に灯の色が動いた。すぐに潜り戸がひらいて、提灯を持った成瀬喜兵衛が出てきた。夜のせいか、肩がとがってひどく痩せて見える姿だった。  すたすたと成瀬は河岸の道の方に歩き出した。かなりの距離を置いて、清左衛門と平松も跡を追った。  すると、途中から成瀬と清左衛門たちの間に、黒い人影が割りこんで来た。人影は三つである。うしろから清左衛門たちに見られているとは気づかないらしく、塀下を這うようにして、成瀬を追って行く。 「少し間を詰めた方がよくはないか」  清左衛門がささやくと、平松はこのまま、このままと言った。そしてつけ加えた。 「大丈夫です。成瀬のご隠居はもう気づいています」  成瀬喜兵衛は河岸の道に出た。ひろいその道に出るのを待っていたのだろう、うしろの人影が一斉に走って成瀬に追いつくと斬りかかった。  成瀬が投げ捨てた提灯が燃える間に、白刃がきらめき、無言のはげしい斬り合いが行なわれた。成瀬喜兵衛の姿が、地を摺るようにして走ったかと思うと、つぎには高く跳躍し、きびきびと刀を揮うのが清左衛門の眼にはっきりと見えた。  襲撃をかけた男たちのうち二人が倒れ、一人が足を引きずりながら辛うじて逃げた。 「おどろきました。すべて峰打ちです」  と平松がささやいた。 「出番がなかったな」 「はあ、出番なしです」 「とんだボケ老人だ」  清左衛門は、深刻な顔で成瀬がボケたと言った佐伯熊太を思い出して笑いを噛み殺したが、事情を知らない平松は怪訝そうに言った。 「え? どなたのことでしょうか」  河岸の一角に、船着き場の常夜燈がある。霧は川底からも湧いて、河岸の道を低く這い回っていた。その白い霧を蹴散らすように、足早に遠ざかって行く成瀬喜兵衛のうしろ姿が見えた。 [#改ページ]   夢      一  三屋清左衛門は、目ざめるとしばらくは動かず、床の中で重苦しい胸の鼓動を聞いた。胸を圧迫している速い動悸は、さっきまでみていた夢の名残りだった。  夜は明けたばかりらしく、隠居部屋の障子には、雨戸の隙間からさしこむ青白い光が映っている。そして部屋の中には寒気が張りつめていた。季節は小正月が過ぎたばかりで、外にはまだ雪が積もっている。寒いのは当然だった。今朝も、夜明けには雪は凍っているだろう。  凍る雪の上を照らす、暁の光を思い描いているうちに、胸の動悸は次第に静まって行った。そして清左衛門の気持は、さっきの夢にもどって行った。  はじめて見る夢ではなかった。これまでも何度か見た夢である。といっても、むろん夢の中の出来事は同じことの繰り返しではなく、出て来る情景もそのつどに異り、登場する人間も一様ではなかった。  にもかかわらず、それらの夢は一連のものだった。動かない共通点があった。まず夢の主役は、若いころの清左衛門と同僚の小木慶三郎であるらしい。相手の顔が見えないときでも、それは小木である気配が濃厚だった。そして夢の中の清左衛門は、つねに何事かしきりに慶三郎に弁疏《べんそ》している。そこがその夢の肝要な部分だった。時には何を言いわけしたとも知らないままに、せっぱつまって弁疏している気分だけが、目ざめたあとにありありと残っていることがある。  今朝の清左衛門を胸苦しくさせたのも、夢の中の弁疏だった。欺いたのか裏切ったのか、とにかく清左衛門は慶三郎にむかって、必死に言いわけをしている。夢のことながら卑屈とも思える態度だったと思う。しかしその弁疏の中身と、それに対して小木慶三郎が何を言ったかは、夢がさめると同時に言葉も掻き消えて、いつものようにまったく知ることが出来なかった。  ──やれやれ……。  清左衛門は呪縛を解かれたように、床の中で手足をのばした。なぜいつも、あんな夢を見るのだろうかと思った。  厳密に言えば、そういう夢を見る理由はわかっている。多分あのことのせいだろうと思う心あたりはあった。若いころに、ある事柄を通じて清左衛門はたしかに小木慶三郎に負い目を感じた一時期がある。  だがそれは、いわば清左衛門の気持の上のことで、夢の中で感じるような、小木を欺いたとか裏切ったとかいうどぎつい話ではなかった。清左衛門はふだんははるかなむかしにあったそのことを忘れている。それがいまだに夢に立ち現われて、汗ばむような緊張感をもたらすのはなぜなのかと、清左衛門はぼんやりと考えている。  そのことがあったのは、清左衛門が御小納戸勤めから御近習組に変って四、五年経ったころ、齢で言うと二十五、六の時期である。  その日清左衛門は、表御殿にある藩主の執務部屋で、藩主が月番家老から回って来た書類に目を通すのを介添えしていた。  回って来ている書類は藩主の決裁を必要とするようなものではなく、ほとんどが月番家老の段階で処理済みのものだった。この種の書類は、藩主の手間をはぶくために、係りの小姓が書類の内容を簡略に説明してお目通しをねがう習わしだった。また書類の中には、数件は藩主の花押《かおう》を必要とするものがあって、介添えの小姓はそれにも気を配らなければならない。  清左衛門の要領を心得た介添えのせいで、藩主の書類をみる仕事は一刻(二時間)足らずで終った。時刻はまだ七ツ(午後四時)前で、障子をひらいた縁の先に、庭を埋めて躑躅《つつじ》が咲いているのが見えた。  日がかたむいたせいで、躑躅の植込みの半分は建物の影に覆われているが、残る花は日射しを浴びて燃えるように赤かった。その庭から、時折り風とも呼べないほどのかすかな外気の流れが入りこんで来る。 「お疲れにござりましょう」  書類箱に、見終った書類を納めてから清左衛門が言った。 「ただいまお茶を言いつけますゆえ、おくつろぎください」 「そうだな、熱い茶を持って参れ」  藩主はそう言ったが、書類箱を持って立とうとした清左衛門を、三屋、ちょっと待てととめた。 「もそっと、そばに来い」  執務部屋には、ほかに人もいないのに藩主はそう言った。机から二間ほどの場所まですすんだ清左衛門に、藩主はさらにもっと寄れという手ぶりを示してから、聞きたいことがあると言った。 「小木慶三郎から、再婚の許可願いが出ておる。このことは、そなたらも聞いておろう」 「はい。ざっとは耳にいたしております」 「今度の嫁は、宮内外記の娘だ」  と藩主は言った。そう言ったとき、面長で柔和な藩主の顔にちらと不快そうないろがうかんだのを清左衛門は見た。  宮内外記は組頭である。家禄は四百五十石と少ないが、時には藩の執政も出して来た家柄だった。対する小木慶三郎は、藩主のおぼえめでたい御近習組の古参で、将来の立身は間違いないとみられている才人だが、家禄は百石だった。藩主はそのあたりに気持のひっかかりをおぼえるのかも知れなかった。  はたして藩主は言った。 「宮内の娘も出戻りで、それでまとまった縁談だというが、少少身分が違いすぎる。三屋もおぼえておくとよいが、身分は軽軽《けいけい》に扱うべきものではない」 「重重、肝に銘じておきまする」 「小木が、前の連れ合いを離縁したわけは聞いておらぬか」 「諸説がありますが……」  清左衛門は慎重に言った。 「小木慶三郎本人は、母に孝ならずと申しております」 「姑と肌が合わなかったということだな」 「そのようにございます」 「よくある話だ。近ごろは若い者のしつけが足らぬらしい」  藩主は思案顔にそう言ったが、さらに諸説とは何だと言った。 「ほかの者はどう言っておるか」  清左衛門は膝に眼を落とした。小姓組の同僚がささやいていること、ことに御小納戸の鈴村武四郎が言ったことを、藩主に話してしまいたい衝動が強く胸に動いた。  しかしそれをいまここで口にするのは、小木慶三郎を陰で誣《し》いるようで気が咎めた。清左衛門がためらっていると、藩主がほかには人もおらぬ、遠慮するなと言った。 「婚姻は許すことに決めた。そなたが何か申したから取りやめるということはない。安心せい」 「………」 「言え。ほかの者はどう言っておるか」 「されば……」  清左衛門は顔を上げた。 「上士の宮内さまと縁をむすびたいがために、小木は先の妻女を離縁したと申す者もおります」 「ふむ」 「ただし……」  清左衛門はいそいで補足した。 「声を大にしてそう触れているのは、御小納戸の鈴村武四郎です。しかし鈴村は離縁された小木の妻女の縁者でありまして、そのままに信用出来る話ではありません」  小木慶三郎のことで、清左衛門が藩主とかわした問答はそれだけである。  しかしそのあとに、やはり陰で慶三郎のことを告げ口した後味の悪さが残った。よけいなことを言ったものだと清左衛門は気が重かったが、その気の重さは、告げ口の中身よりも、それが自分のどういう心情から出て来たかということから来るようだった。  御近習組の中で、ことに藩主に目をかけられている者が三人いた。小木慶三郎、高村光弥、そして藩主のお声がかりで、御小納戸から御近習組に転じた清左衛門の三人である。  しかし同じく目をかけられているといっても、中で小木の人物、才覚が一歩ぬきん出ていることは衆目の認めるところだった。小木は風姿がすぐれている上に弁舌さわやかで、また事の処理にあたってきわめて冷静沈着だった。そういうところがただの才人ではなく、藩の要職にいる人間の中には、家禄百石の小木がいずれ藩政の枢要な地位にすすむだろうとみる者が少なくなかった。  清左衛門の胸の中に、小木の新しい縁組みに芳しくないうわさがあることを藩主に告げたい、といった衝動を呼び起こしたのは、そういう小木慶三郎に対する強い競争心だったろう。陥れるというほどの気持はなくとも、りっぱすぎる小木にいささかケチをつけたい気分が動いたのは事実だったのである。  そういうことはたしかに清左衛門の気持を重くしたが、しかし悔恨の念はじきにうすらいだ。告げ口といっても、つまりは藩主に問いつめられたからしゃべったことである。また御小姓組の同僚たちは、鈴村よりもっと露骨な言い方で、小木の陰口をささやき合っているけれども、その陰口は藩主の前には出さなかった。  ──さしたることはあるまい。  と清左衛門は思った。そして藩主が保証したように、小木の縁組みが無事に行なわれると、躑躅の花の盛りのころに、藩主とそういう問答をかわしたことも次第に忘れた。  しかしそれから二年後に、清左衛門は深い後悔につつまれながら、藩主とかわした小木に関する問答を思い出すことになる。  二年後の秋に、小木慶三郎は突然に御近習組勤めを解かれ、郡奉行支配の郷方勤めに変った。特に役職はつかず、ただの村回りである。村回りを軽く見るわけでなくとも、小木の人物、経歴からみればあきらかな左遷である。それは小木慶三郎が立身出世の道からはずされたことを意味していた。郷方勤めから藩政の要職を占める道がないではないが、それはもう三十になっている小木にとっては、目もくらむほどに遠い道であるはずだった。  その知らせを、清左衛門は藩の江戸屋敷で聞いた。愕然とした。とっさに思い出したのは、小木の再婚について藩主とかわした問答と、そのときに見た藩主の不快そうな表情だった。あのことが無関係であればよいと祈った。  知らせをもたらした男に、小木に左遷されるような失態があったかどうかを聞きただしたが、男は国元でもそのことが話題になったが、はきとした理由は誰も知らなかったと言った。そして、ただ御沙汰書には思召しによりの一句があったそうだとつけ加えた。  思召しはむろん藩主の意向を指す言葉である。やはり藩主は、上士との縁組みを立身の背景に仕立てようとした小木の勘定高さを咎めたのではないかという気がした。もしそうであれば、やはり清左衛門も小木の左遷にひと役買ったことになるだろう。  この考えは、以来たちのわるい痼疾のように、清左衛門の胸の奥底にひそみ隠れて、時どき意識にのぼって来ては清左衛門を苦しめることになった。とりわけ御供頭に抜擢されたあと、藩の外交官である御留守居を経て用人に転じるという、思いがけない立身の道をたどる間、清左衛門は幾度となく郷方勤めに変った小木慶三郎を考えないわけにはいかなかった。  もっとも、そういう意識が清左衛門を苦しめたのは、用人になるころまでだったろう。それ以後はまた次第に忘れ、小木本人を思い出すことも稀になった。用人の職務は激職で、およそ古い後悔につき合っているひまはなかったのである。  ──そのかわりに……。  夢を見るようになったのだ、と冬の朝の床の中で清左衛門は思っている。夢が時折り清左衛門をおとずれて、|かさぶた《ヽヽヽヽ》の下に隠れている古い傷をあばく。しかも夢の中の後悔の念は、だんだんに強くなるようだった。それも老いるということとかかわりあいがあるような気がした。  ──死ぬまで……。  こんな夢を見つづけるのはかなわんな、と清左衛門は思った。そして、そう言えば小木慶三郎の左遷の真の原因をつきとめるということを一度もしていないことに気づいた。あれはやはり、わしの告げ口のせいだったのだろうか。  台所の方で女たちが立ち働く、ひっそりとした物音が聞こえて来た。障子を染める朝の光は、清左衛門の長い思案の間に日の色に変っている。今日の日がのぼったのだ。  ──小木慶三郎に……。  一度会ってみようか、と清左衛門は思った。      二 「小木はたしか、代官を勤めたのだったな」  清左衛門は言った。 「それより上には行かなかったのか」 「代官どまりだ。宮内さまのひきがあるから郡代までいくかなと思ったが、案外に出世しなかった」  と町奉行の佐伯熊太が言った。町奉行所の奥の部屋で、風邪気味だという佐伯は、大きな唐金《からかね》の火鉢に炎が上がるほど炭を焚いている。清左衛門には暑すぎるようだ。 「家は鳥羽町かな」 「いや、代官になったときに与力町に移ったのだ。小木慶三郎は隠居したが、家はそのままのはずだ」 「そうか、やはり隠居したのか」 「何だ、小木のことはさっぱり知らんらしいな」  と佐伯が言った。 「それはちと、つれなくはないのか。小木慶三郎といえば、近習組のころはおぬしとならんで出来物の名が高かった人物じゃないか」 「わしなんぞは、小木の足もとにもおよばなかったさ」  清左衛門はにがい気分で言った。すると佐伯が突然に咳きこんだ。真赤な顔をして、しばらく咳きこんでから、佐伯が潰れた声で言った。 「小木のところに行くのか」 「うむ、ひさしぶりにたずねてみようかと思ってな」 「途中でころばぬようにしろ」  と佐伯が言った。 「雪道は歩きにくいぞ」 「なに、気をつけるさ」  清左衛門は腰を浮かせた。この部屋は、やはり暑すぎるようだと思った。ふと気づいて、中腰のままで聞いた。 「この前申した、江戸に行った二人。あれは帰って来たかの」 「黒田と村井か」  佐伯は今度は鼻紙を出して、騒騒しく洟をかんだ。そして、まだもどらんと言ったが、その声はさっき清左衛門を部屋に迎えたときよりも、さらに鼻声になっている。町奉行の風邪は、どうやら本物になる気配だった。 「まことか」 「まだ、もどらん。じつに不思議だ」 「黒田は江戸詰で行ったわけではなかろうな」 「いや、違う」  あまり強く洟をかんだので、鼻の頭が真赤になっている町奉行は、首を振った。 「朝田家老の使いで出府したことは確かだ。使いの中身はわからんがな」 「それがまだ帰らんのは……」  清左衛門は顔をしかめた。胸に緊張感が動いた。 「まだ、言いつけられたことが終っておらぬということだ」 「そうだ、まだ終らんのだ」  と佐伯も言った。その佐伯に、清左衛門はふと聞いてみた。 「朝田派のその後の動きを聞いておらぬか」 「それは、そっちの方がくわしかろうが」  と佐伯が言った。 「いや、それが近ごろはあまり集まりに行っておらんのだ」 「ふーん」  佐伯はじろじろと清左衛門を見た。それから少し声を落とした。 「それじゃ、知ってることを言おうか。例の茶屋町の播磨屋だが、近ごろは朝田派の足がぴたりと途絶えたそうだ。といって以前のように家老屋敷に集まっているとも聞かぬ」 「ほほう」 「つまりは鳴りをひそめている、という感じだな、このところ」 「何かあるぞ、これは」  清左衛門が言うと、佐伯も何かあると同調した。二人は顔を見合わせた。  しかし清左衛門はすぐに立ち上がり、変った動きがあったときは知らせてくれと頼んだ。小木慶三郎に会う前に、もう一人会っておきたい人物がいて、そちらに回るとすればあまりのんびりと構えているわけにもいかなかった。冬の日は秋よりもさらに短い。 「はやく、風邪を治せ」  部屋の外まで送って出た佐伯に、清左衛門が声をかけると、佐伯は鼻声で、風邪が治ったら一杯やろうじゃないかと言った。 「この間の、ほれ、赤蕪を喰わせる店に行こう」      三  清左衛門たちの上司だった元御近習頭取、金橋弥太夫の屋敷を出ると、いつの間にか雪が降っていた。大きなぼたん雪である。うす暗い空から切れ目なく落ちつづける雪片を見ていると、その動きに引きこまれて、ふと目まいを起こしそうだった。  三屋清左衛門は、日暮れが近づいている雪空から、足もとに眼を移した。  ──さて、どうするか。  と思った。  予定ではここから与力町の小木慶三郎の屋敷に回って帰るつもりだったのだが、ひさしぶりの訪問を喜んだ金橋のむかし話が長びいて、かなり時刻が遅れてしまっている。小木の家に着くころには、日はとっぷりと暮れるだろう。  その上にこの雪だった。今日は朝から雪催《ゆきもよ》いの底冷えがきびしい一日で、こういう日のあとに降る雪は大雪になることが多いのを、清左衛門は知っていた。合羽を着て笠をつけ、足には藁で編んだ雪沓《ゆきぐつ》をはいて、清左衛門はひととおりの身支度はして来ている。しかしいまの勢いで降りつづけば、帰りには雪は降りつもって、雪沓では間に合わなくなるかも知れなかった。  ──しかし……。  せっかくここまで来たのだからな、と清左衛門は思った。小木が住む与力町は、間の商人町を二つ通り抜けたところにある。雪道とはいえ、行って行けない遠い距離ではない。  笠を傾けて、清左衛門は足を踏み出した。表通りに出ると、大勢の人が歩いていた。中には高足駄の武家もいて、人人は雪などあまり苦にしていないようにも見えた。しばらくその様子を眺めてから、清左衛門は心を決めて商家がつづく表通りを、小木が住む町にむかって歩き出した。  長長とむかしの話を聞かせたくせに、金橋は肝心の小木慶三郎の左遷については、何も記憶していなかった。 「あれはたしか、殿が仰せ出されたことだったな」  金橋はおぼつかなげに言った。元の御近習頭取は、顔こそ艶があるものの、髪はひとつかみほどしかなく歯は欠けて、むかしは大男だと思ったのに、身体もひと回り小さくなったように見えた。齢は七十近いはずである。  歯がないために不明瞭に聞こえる声で、金橋は言った。 「わけなど、申されたかどうか」 「いや、お頭である金橋さまには、何らかの内内の御沙汰があったはずですが……」 「それもそうだ」  金橋は考えこみ、やがてついにあきらめたように笑顔になった。 「思い出せぬが、役を勤めたころの日記がどこかにあるはずだ。そのうちさがしておこう」  元御小姓頭はそう言ったが、清左衛門はその言葉を信用して待つ気にはなれなかった。取りあえず小木に会おうと思った。会って、小木の話のぐあいではきっぱりと謝ってもいいではないかと、清左衛門はそこまで考えている。  思い立ったからには、多年胸の中にあるもやもやしたものにケリをつけたかった。三日前の夜に見たような夢におさらば出来たら、さぞせいせいするだろう。  と言っても、小木慶三郎に会うのはたのしいことではなかった。足場のわるい雪道をすすむように、会見にはつらいものがふくまれているが、しかしあれだけの気持の負い目を、死ぬまで持って行くわけにもいくまいて、と清左衛門は思った。  隠居の小木慶三郎は在宅した。玄関に出て来た小木は、雪まみれでたどりついた清左衛門を怪しむように見たが、清左衛門に間違いないとわかると満面に笑いをうかべた。 「これはおめずらしい。さあ、上がってください」 「妙な時刻におじゃまして申しわけない」 「なになに、雪のせいで暗くなりましたが、そんなに遅いわけではありません。まず、上がってくだされ」  いや、めずらしい方がみえられたものだと、小木は浮き浮きした声で言い、一緒に迎えに出た家の者に手短かに何事か命じると、先に立って清左衛門を奥に案内した。  そこは小木の隠居部屋らしく、書見台の上に漢籍が乗っている。きれいに片づいている部屋だった。小木は自分で行燈と火桶の位置を移し、清左衛門を部屋の中ほどまで招き入れた。  久闊をわびる挨拶をかわしてから、清左衛門と小木は、無言でお互いを見つめた。そして清左衛門は衝撃を受けていた。  御近習組勤めのころの小木は下ぶくれに見えるほどの豊頬で、ひげの剃りあとが青く、いかにも自信にみちた風貌をしていたものである。だがいまの小木慶三郎は、鋭い眼の光こそ変りないものの、別人かと思うほどに面変りしていた。若いころには隠れていた高い頬骨と、その下につづく殺《そ》いだような頬のくぼみ。そして小木の顔は全体に、長い間村回りを勤めて風に吹かれ、日に焼かれた痕をとどめて、鞣《なめ》したように黒光りしている。  小木の顔には、御近習組から村回りに左遷されたあと、小木が嘗めた辛酸がどういうものだったかが現われていた。  ──多分……。  おれがこの男を、こういう顔にしたのだと清左衛門は思った。しかしさりげなく言った。 「一別以来、どのくらいになるかな」 「ざっと二十年にはなり申そう。勤めが違うと、なかなか顔も合いません」 「お互いに年寄った」 「さよう、さよう」  小木は機嫌よくうなずいた。 「しかし、三屋どのは出世なされた」 「何の……」  清左衛門は首を振った。お互いにむかしの近習組、丁寧な口をきくにはおよばないと言った。 「女房どのはお丈夫か」 「丈夫です」  清左衛門が言ったにもかかわらず、小木は元の代官が元用人に対する言葉遣いを改めなかった。 「今日は実家に祝い事がありまして、そちらに参りました」 「ご子息が御小姓組にいるとか」  それは町奉行の佐伯に聞いた話である。小木はうれしそうに、勤めて四年になると言った。 「平平凡凡たる男です」 「それは、むかしのおやじどのにくらべればの話だろう」  清左衛門がそう言ったとき、家の者がお茶と茶菓子をはこんで来た。そして清左衛門に、酒を上がらぬか、夜食を喫して行かぬかとすすめた。まだ二十ほどとみえるその女子は、小木の倅の嫁なのかも知れなかった。清左衛門は両方とも固辞した。雪がつもる様子ゆえ、長居は出来ないと言った。  しかし話は小木の郷方勤め、清左衛門の長かった江戸詰におよんで長くなった。清左衛門がようやくあの話を出すときが来たと思ったころには、夜はいささか更けて来たようだった。 「古い話を持ち出すようだが……」  と清左衛門は言った。強い緊張を、胸に隠した。 「貴公が近習組から郷方勤めに変えられた、そのわけは何だったのかな」 「いや、それが……」  鋭く尖っているような小木の顔に、不意にぼんやりした、つかみどころのない表情がうかんだ。 「はっきりしませんでしたな。何か失態があったには違いありませんが、それは明示されたわけではありません」 「それで、よく納得して移られたものだ」 「いや、納得はしませんでしたが、お上の思召しということだったもので、それがしとしては、もはや……」  小木は遠いむかしがそこに見えているとでも言うように、部屋の長押《なげし》のあたりの一点を見つめた。清左衛門はさらに言った。 「誰かに讒《ざん》されたということは?」 「まさか。それとも何かそれらしきことがお耳にでも?」 「それがしが江戸に行く前に、ちらと妙なうわさを聞いたことがある」  そう言ったとき、清左衛門は胸が早鐘を打つのを感じた。しかし、つとめて平静な顔で、当時小木は立身出世のために前妻を離縁し、宮内の縁者となったのだと言う者がいたと話した。 「それは、それがしもうすうす耳にしておりました」  と小木は言った。小木は苦笑していた。 「事情を知らぬ者の、あらぬ臆測です。そうですな、もうそろそろあのことをお話ししてもいいかも知れません。ご迷惑でしょうが、三屋どのに聞いてもらいましょうか」  小木は言い、妻を離縁する二年前に、自分が一年間江戸詰で家を留守にしたのをおぼえているかと聞いた。清左衛門がおぼえていると言うと、小木は帰国すると間もなく妻の密通が発覚したのだと言った。 「事はある上司の命令で、ごく隠密に処理されました。母と気性が合わぬという名目で離縁したのです。その前妻も、ほかに嫁して先年病死しましたのでこうしてお話しするわけです」 「………」 「いまの妻との縁組みは、事情を知る宮内がそれがしを憐れんですすめてくれたものです」      四  小木の部屋にいる間に、時折りみしみしと家鳴りするように思ったのは風だったのである。雪はまだ降りつづいていて、風はその雪を巻きこんで、時折りはげしく清左衛門に襲いかかって来た。  よろめきながら、清左衛門はようやく大通りに出た。だがひろい通りには一人の人影も見えず、降りしきる雪とその雪を横なぐりにさらって走る風が見えるだけだった。家家はもう寝静まったらしく、灯の洩れる家もなく、黒黒とした軒が左右につらなっている。  心配したことが起きた。つもる雪はいよいよ深くなって、いまは一歩踏み出すごとに雪沓がすっぽりと埋まる。そして沓の中に雪が入って来た。しかし清左衛門の気持はほかに奪われていて、足のつめたさを感じなかった。  ──卑怯ものめ!  と思った。罵ったのは自分自身に対してである。したり顔に藩主に告げ口したことが、根も葉もないうわさだったとわかったのに、まるでぴったりと出口をふさがれたように、詫びの言葉はひとことも清左衛門の口を出なかったのである。  ──あの告げ口が……。  殿の小木に対する心証を悪くしたことは、まず間違いあるまい。小木をそのあとの境遇に落としたのはこのおれだ、と繰り返し清左衛門は思った。小木のあの農夫のように日焼けした顔をみれば、そう思わずにはいられなかった。  清左衛門は時折り襲う強い風に押されてよろめき、そのつど小木に借りた提灯の灯をかばった。しかし雪を降らせる雲の上のどこかに月があるらしく、町並みはぼんやりした明るみにつつまれている。提灯がいらないほどだった。  酔ったような心もとない足どりで、清左衛門は商人町の雉子町まで来た。そして突然に、自分が尋常でない寒さに襲われているのを感じた。足は雪に濡れて、はだしで雪の中を歩いているも同然だった。そして合羽の襟からも、雪が入りこんでいた。腹の底から胴ぶるいがこみ上げ、手足はつめたさに感覚を失おうとしていた。  そこは雉子町の四辻だった。ふるえながら、清左衛門は家までの距離を測った。まだ三分の一しか来ていなかった。辻のどちらを向いても、提灯の灯ひとつ見えなかった。家にもどるまでに、途中で行き倒れる危険があるのに清左衛門は気づいている。  どっと吹きつけて来た風から提灯を守り、清左衛門はその灯でかわるがわる両掌の指先をあたためた。花房町なら近い、と思いついたのは、そうしてあわただしく思案しているときだった。清左衛門は、半ば感覚を失った足をあやつって歩き出した。  さすがに花房町には、まだぽつりぽつりと軒行燈が出ている店があった。半分頭が痺れたようになりながら歩いていた清左衛門は、折柄暖簾をはずすために外に出て来た女に声をかけられた。 「いまごろどこにいらっしゃるおつもりですか、三屋さま」  振りむくと、「涌井」のおかみのみさが、仰天した顔で清左衛門を見ていた。 「ここを目がけて来たのだ。危うく行き過ぎるところだった」  と清左衛門は言ったが、痺れは口の中まで入りこんで、うまく舌が回らないのを感じた。  清左衛門は男物の褞袍《どてら》を着せられ、おかみの情夫のように茶の間の火燵《こたつ》に招き入れられた。もっとも今夜の「涌井」は、一人の客もなく店をしめたということで、清左衛門の恰好を見咎める者は誰もいなかった。 「熱燗にしましたから、一杯召し上がれ。これであたたかくなりますよ」  大いそぎで酒の肴をととのえ、酒をはこんで来たみさが言った。大雪の中を訪れたたった一人の客を歓待するつもりらしかった。 「まあ、褞袍がよく似合いますこと」  みさはくすくすと笑い、清左衛門に酒をすすめながら、後で六助に送らせるから、心配せずに飲めと言った。六助は夫婦で「涌井」に奉公している頑丈な年寄りである。 「いや、助かった。今夜はもう少しで行き倒れになるところだったな」  と清左衛門は言った。少し酒が入ってようやく人心地がついた気分になっていた。  しかしその夜、清左衛門は酔いつぶれて「涌井」に泊った。六助をお屋敷に使いにやりますから、心配せずにおやすみくださいとみさに言われ、敷いてもらった床に這いこんだのはおぼえているが、あとは泥のような眠りに押し流された。  ただ、夜中に一度清左衛門は眼がさめた。つめたい風が顔の上を吹き過ぎたと思うと、襖がしまるかすかな音がし、やがて床の中にあたたかくて重いものが入りこんで来た。あたたかくて重いものは、やわらかく清左衛門にからみつき、そのままひっそりと寄りそっている。  とてもいい匂いがした。  ──夢にちがいない。  と清左衛門は思い、また眠りに落ちた。  雪はまだいくらか残っているが庭には早春の日射しが溢れ、その中に桃が咲いている。庭に出て、清左衛門がぼんやりと日を浴びていると、門から人が入って来た。金橋弥太夫だった。  金橋は清左衛門を見つけると、ずかずかと近づき、挨拶もなしに見つかったぞと言いながら持っていた帳面をさし出した。 「ここに、先の殿から仰せられたことが書きとめてあった」  金橋はそう言うと帳面をめくって、清左衛門に突きつけた。受け取って読むと、日にちのつぎに、「小木慶三郎ノ御近習組勤メヲ解キ、郡奉行支配トスベキコトヲ仰セ出サル」とあり、さらに補記して、「小木三度ニワタツテ高村光弥ヲ讒シ、マタ重職ノ意見取次ギニアタリ越権ノ行為アルヲ咎メラレシモノナリ」と記してある。 「これで納得が行ったかの」 「ありがとうございました、お頭」  と清左衛門は言った。その礼の言葉は、心から出た。小木の不遇はおれのせいではなかった。その安堵が身体の隅隅までひろがるのを清左衛門は感じた。 「中身がこういうものであるゆえ、表に出すことを憚ったのだろうて。よくは思い出せんが……」  金橋がそう言っている声を聞きつけて、嫁の里江が外に出て来た。そして上がって一服してくれとすすめたが、金橋はことわった。 「いや、そうのんびりしてもおられんのだ。今日は家の者に留守番を頼まれておるのでな」  金橋は背をむけかけたが、三屋の嫁女、わしに桃を一枝くれぬかと言った。  金橋弥太夫が、里江が手折って渡した桃の花を持って出て行くのを見送ると、清左衛門は深く息をした。多年の疑問が解けて、胸はすっきりと軽くなっている。もう、悪夢を見ることはないだろう。 「わしも、桃の花でも持って行くか」  清左衛門が言うと、里江が訝しげにどこへいらっしゃいますかと言った。 「『涌井』だ。あれっきり行っておらんからな」 「お出かけは夕方ですか」 「そうだ」 「それならまた、菓子折でも支度しましょう。桃の花だけでもおかしいでしょうから」  と里江は言った。清左衛門が雪のために一泊した翌日、里江は婢を使いにやって「涌井」に菓子折をとどけたと聞いている。  里江が、不意にこちらの顔色を見さだめるような奇妙な笑顔で、清左衛門を見た。 「『涌井』のおかみは、きれいな方だそうですね」 「まあまあだろう」 「でも、雪はもう降りそうもなくて、残念ですこと」 「べつに残念なことはない。何を言うか」  と清左衛門は言った。少しうろたえていた。  朝目ざめてみると何の痕跡も残っていなかったが、あの夜床の中に人が入って来たのは、やはり夢ではなくみさだったに違いない、と清左衛門は思っていた。みさが、凍えたわしをあたためてくれたのだ、と思おうとした。  しかし小さな気がかりが生まれたようでもあった。と言ってもその気がかりは小木慶三郎に対するそれとは違って、中に心たのしいものが含まれているように清左衛門には思われた。 [#改ページ]   立 会 い 人      一  七ツ半(午後五時)ごろに、三屋清左衛門は自分の町にもどった。中風で倒れた大塚平八を見舞った帰りで、いくらか気分が滅入っていた。  病気そのものは清左衛門が考えていたよりも軽く、平八は床の上に起き上がっていた。医者にはそろそろ外に出て歩く方がいいと言われているが、右手右足が萎えて、歩こうにも力が入らぬということだった。しゃべることは支障がなく、口の方はしっかりしていた。  そういう平八を見て一応はほっとしたものの、それで清左衛門の気分が晴れたわけではなかった。わずかに気持が塞いだままである。それは言葉にすれば、いよいよその齢がやって来たかというような気持だった。  平八は前髪のころからの友人である。齢も同年だった。そして同年のつき合いには、また格別のものがあった。  たとえば、家督をついだあとの二人の歩みは、実際のところかなり方角を異にしたといってもいいだろう。平八が小心翼翼と家の職である右筆役にはげみ、家禄を守るために懸命だったのにくらべ、清左衛門は途中から用人に登用されて君側の重職となった。家禄もふえて俗に言う出世を遂げたのである。  普通これだけ境遇が変ると、前髪以来といってもつき合いはやや疎遠になるものかも知れないが、二人の間にはそういうことは起こらなかった。いそがしく気疲れすることがつづいたあとに、あるいは長い江戸詰から国にもどったときに平八に会うと、清左衛門は不思議に解放された気分を味わったものである。平八には、人には言えない愚痴をこぼすことも出来た。そのあたりが同年というものの、曰く言い難い効用というものかも知れなかった。  その平八の突然の患いである。清左衛門にはひとごととは思えなかった。むろん自分にも中風になりそうな徴候があるというのではない。しかし平八も、そんな徴《しるし》は何もなかったという。病いはにわかに平八を襲ったのである。  そういう齢にさしかかったのだと思わないわけにはいかなかった。平八の病いはいつわが身に降りかかって来るかも知れない災厄だった。その思いが、家に近づいたいまも気持の底に沈んでいた。  七ツ半を過ぎても、空はまだ明るかった。低くなった日射しが、家家の塀の内に立つ若葉の木木に横から射しかけ、風がないので木は身じろぎもせず日に染まっている。そして木木の間には、李や梨の白い花がまじっていて、同じように弱まった日射しを浴びていた。  家にもどると、迎えに出た嫁の里江がおとうさまにお客さまですと言った。たずねて来たのは、紙漉町の道場主中根弥三郎だという。めずらしい客だった。 「何の用か、申したかの」 「いえ、それが……」  清左衛門に、じかに頼みたいことがあるというので、用件は聞かず、待ってもらっていると里江は言った。非番の又四郎が中根の相手をしているらしく、居間の方から男たちの低い話し声が洩れて来る。  清左衛門は、居間には顔を出さず、そのまま離れにむかった。そして嫁には、むこうの話が終ったら、客を離れに案内するようにと言った。  清左衛門のその様子から何ごとかを感じ取ったのか、うしろに従いながら里江が声をかけて来た。 「大塚さまのご病気はいかがでしたか」 「思ったよりも元気だった」  と清左衛門は言った。しかしそう答えたとき、清左衛門はどういうわけか夥しい疲労感に身体をつつまれるのを感じた。嫁の気遣いまで、煩わしく思われた。  しかし、それだけの返事ではあまりにそっけないようで、清左衛門は離れの隠居部屋に入ってから言い添えた。 「床には起き上がっていたが、まだ歩けぬらしい」  里江は入口に坐ったまま、清左衛門をじっと見つめた。そして無言のまま、二度三度うなずくと、玄関で預かった小刀を床の間の刀架にもどし、お客さまをお連れしましょうと言って出て行った。      二  間もなく中根弥三郎が来た。中根が隠居部屋に入るのははじめてではなく、以前二度ほど来ているので、中根は勝手知った様子で部屋に通ると畳に坐った。 「いや、突然にお邪魔して申しわけありませんが、ぜひともおねがい申したいことが出来て参上いたしました」  挨拶が済むと、中根はいつもの闊達な口調でそう切り出した。中根は中背の色白な男だが、日ごろの鍛えが物を言ってか、とても五十を過ぎたとは見えぬ均整のとれた身体つきをしている。 「貴公の頼みごとというのはめずらしいの」  と清左衛門は言った。中根とも、言わば前髪のころからのつき合いである。改まった口調が奇異にひびいた。 「何事か知らぬが、言ってみてくれ」 「立会い人をおねがい申したいのです」  と中根は言ったが、その言葉は清左衛門をおどろかせた。 「立会い人? 何の立会い人かな」 「納谷甚之丞をおぼえておられますか」  と中根が言った。  中根の言葉は、清左衛門の記憶の底深く埋もれていたその名前を、ゆっくりと呼び起こしてくる。おぼえている、と清左衛門は言った。納谷甚之丞は、少年のころに中根弥三郎と並び称された天才剣士で、その上道場一の美少年だった。しかし、のちには中根道場の異端者となった。 「先代に試合を挑み、負けて破門されたといううわさがあった、あの甚之丞だろう」 「そうです」 「あの男がどうかしたか」 「試合を申し込んで来たのです。この試合は、あるいは果し合いのごときものになるかも知れません」 「ほほう、果し合いとな」  清左衛門は眉をひそめた。大塚平八の病間から持ち帰った重い気分も疲労感も忘れていた。中根の言っていることは尋常ではないが、相手があの甚之丞なら、あり得ないことではないという気がした。 「急にそう申し上げても、ご納得がいかぬかも知れません。事情をお話ししましょう」  と中根が言った。  先代との試合に敗れて破門されたという話は、先代の中根与一右衛門がまわりに話したことで、事実ではなかった。試合の真相は中根道場の後継者争いで、甚之丞と試合したのは弥三郎で、当時の淵上弥三郎である。  この試合で弥三郎は甚之丞に勝ち、一年後に与一右衛門の娘杉乃と祝言を挙げ、中根道場の跡つぎとなった。一方の甚之丞は、試合に敗れると間もなく、剣術修行を名目に藩に離藩願いを出し、許しを得ると領外に出てそのまま行方をくらました。 「その甚之丞から、昨日飛脚をもって手紙がとどきました。いま初雁宿に滞在しているそうで、文面は修行を積んでようやくそれがしに負けぬほどの技を会得した、立ち会ってもらいたいという簡単なものでした」  初雁というのは隣国の宿場である。山ひとつ越えたところまでもどって来たということらしかった。 「何年ぶりの便りかの」 「ざっと三十年ぶりになります」 「三十年……」  清左衛門は背筋にうすら寒いものが走ったのを感じた。異常な執心だと思った。 「その間、かの男は一度も国に帰らなかったのか」 「そのようです」 「藩が、よく黙認していたものだ」 「いえ、一度納谷の家の者にお叱りがあったそうです。しかし甚之丞は冷や飯喰いの四男でもあり、藩でも深くは咎めなかったと聞きました」 「それにしても、恐るべき執心だな」  と清左衛門は言った。 「三十年前の試合に、そこまでこだわるとはな」 「気持はわからぬでもありません」  中根は言ってから、つぎを言おうかどうしようかと、少し逡巡する様子をみせてからつづけた。 「じつはその試合は、いまのわが女房を争う試合でもありまして、いや、執心したのは甚之丞の方でした。しかし先代は、甚之丞の心情に一点心を許せぬものがあると申されて、それがしとの試合を命じたのです」 「なるほど」  それが納谷甚之丞の執心のみなもとかと、清左衛門は納得した。清左衛門は若いうちに家督をついで道場をはなれたために、中根が言うようなことはいまはじめて知ったのだが、事情がそういうものであれば、納谷甚之丞はその試合で恋と剣士の誇りを一度に失ったことになるだろうと想像は出来た。  清左衛門の脳裏に、中根の妻女の物静かな細おもての顔がうかんでいる。若いころの美しさを、いまも面影に残光のように残している妻女自身は、当時の男たちの争いをどうみていたのだろうかと、ふと思ったのだが、清左衛門はいそいでその想念を振りはらった。 「それで、申し込みを受けるつもりかの」 「はあ、やむを得ません」 「しかし、理不尽といえば理不尽な申し込みだ。気がすすまぬなら、わしから藩の方に話してしかるべく処置してもらってもよいぞ」 「いえ、そのようなことは何とぞご無用に……」  中根は不意に鋭い目を清左衛門にあて、ゆっくりと首を振った。 「ただ立会い人の件のみ、なにとぞおねがいいたします」 「その立会い人だが……」  と清左衛門は言った。 「わしより、もっと試合の見巧者というか、立会い人にふさわしい人間がほかにいるのではないかな。たとえば平松与五郎、土橋謙助……」 「いや……」  中根は手を上げて遮った。その姿勢のまま少し考えこむような顔をしてから言った。 「今度の甚之丞との試合では、思わぬ技を使うことになるかも知れません。ゆえに、立会い人は何とぞ三屋さまにおねがいいたしたいのです」      三  町奉行の佐伯熊太が、内密に会いたいと使いをよこしたので、清左衛門は花房町の「涌井」を指定した。 「涌井」に着くと、おかみのみさがすぐに言った。 「今日は、お一人ですか」 「いや、あとで奉行どのが来る」  清左衛門がそう言うと、みさは身をひるがえして案内に立った。そして密談が出来る奥の部屋に案内してから、また言った。 「今度はお一人でおいでなさいまし」 「一人だと、何かいいことでもあるかの」  清左衛門がからかったが、みさはその軽口には乗って来なかった。首を振って、いいえと言った。 「ちょっと、ご相談したいことがありますもので」 「面倒な相談か」 「いいえ、そんなにむつかしいことではありません」  みさは笑顔をみせたが、その笑いは清左衛門には少しとってつけたように見えた。どうやら「涌井」のおかみは、胸に何かしら屈託を抱えているようでもあった。  みさは気を取り直したように、肴は小鯛のうまいのが入ったばかりなので、それの塩焼きはどうかとたずね、清左衛門がそれでいいと言うと、すぐにお茶をはこばせると言い残して部屋からさがって行った。  年若い酌取りのおけいがはこんで来た鳴戸の小豆菓子でお茶を飲んでいると、清左衛門は気持がゆったりとくつろいで来るのを感じた。家にいてくつろげないというのではないが、隠居の暮らしには、どこかに家の者に対する遠慮がある。  ──喜和がいれば……。  またべつだったろう、といまも清左衛門は熱い茶をすすりながらぼんやりと考えている。連れ合いには言えるわがままも、息子夫婦の前ではどうしても押さえがちになる。そういう遠慮をしないように、嫁の里江が気を配っていることはわかっていても、やはり亡妻の喜和に物言うようなぐあいにはいかなかった。 「涌井」に来て気持がくつろぐのを感じるのは、多分そういう小さな遠慮が、知らず知らずのうちにたまるせいでもあろうか。  ──平八は……。  倒れても丈夫な連れ合いがいるからいい、と清左衛門が思ったとき、大きな声がして佐伯熊太が入って来た。 「どうした? うかぬ顔をしているではないか」  がさつなようでも町奉行という職掌柄か、佐伯は坐るとすぐに、そう言って清左衛門の顔をのぞきこんだ。 「うむ、いま大塚平八のことを考えていたところだ」 「平八がどうかしたか」 「中風で倒れた」 「なんと……」  と言って、佐伯も暫時沈黙したのは、やはりわが齢ということが念頭をかすめたのかも知れなかった。佐伯熊太は、清左衛門たちより二つ齢上のはずである。 「そうか、平八が歩けなくなりおったか」 「いや、そう決めるのはまだはやい」  と清左衛門は言った。 「医者は、たゆまずに修練を積めば、中風の跡も目立たぬほどに歩けるようになろうと申したそうだ。病気そのものは軽いのだ」 「で、歩いているのか」 「いや、まだだ。床には起き上がっている」 「そこがあの男のふんぎりの悪いところだて」  と佐伯が言った。 「事にあたってきわめて慎重、と言えば聞こえがいいが、要するに臆病なのだ。万事おっかなびっくりで、勇猛心が足らん。わしなら歩けといわれたら、あのへんの塀につかまってでも歩く」 「貴公のようにはいかんさ。ひとにはそれぞれの流儀がある」  と清左衛門は言った。 「自分の流儀を平八に押しつけてはいかん。いつだったか、子供のころに貴公にいじめられたことをぼやいていたぞ」 「平八がか? はっは」  佐伯が笑ったとき、おかみと酌取りのおけいが酒肴をはこんで来た。  肴はさっき言った小鯛の塩焼きで、ほかに豆腐のあんかけ、山菜の|こごみ《ヽヽヽ》の味噌和え、賽の目に切った生揚げを一緒に煮た筍の味噌汁、山ごぼうの味噌漬けなどが膳にのっている。  筍の味噌汁には、酒粕を使うのが土地の慣わしだった。 「わしは筍汁が大好きだ」  と佐伯が言った。前には赤蕪の漬け物が好物だとさわいでいたから、佐伯には「涌井」の料理が口に合うのかも知れなかった。 「今年はもう喰えぬかと思ったら、またお目にかかったか」 「でも、もうそろそろ終りでございましょうね」 「小鯛の塩焼きか。こっちもうまそうだ」 「小鯛はこれからがシュンでございます」  とみさが言った。そしてみさは、清左衛門が内緒話だから酌取りはいらぬというと、二人に一杯ずつ酌をしただけで、おけいを促して出て行った。 「さて、では軽くいこうか」  佐伯が言って、二人は盃をあけた。そして佐伯はすぐに清左衛門に酒をつぎ、つぎ終ると敏捷に立ち上がって入口に行った。  清左衛門が見守っていると、佐伯は襖をあけて首を外につき出し、緊張した様子で廊下の気配をたしかめている。 「だいぶ、用心きびしいではないか」  もどって来た佐伯に酒をつぎながら、清左衛門が言うと、佐伯はふむと言った。少し不機嫌な顔で盃を飲み干すと、椀を取り上げて筍汁をすすった。 「念のためだ」  筍汁の椀をもどしてから、佐伯が言った。 「ここに来る途中、人に跟《つ》けられたのだ」 「へえ?」 「姑息なことをやる連中だ」 「と言うと?」  清左衛門は、顔を上げた。 「相手が誰か、わかっているのだな」 「朝田派だよ」 「朝田派?」  清左衛門は佐伯をじっと見た。 「何か、跟けられるわけでもあるのか」 「いや、そうじゃない」  佐伯は清左衛門に酒をつぎ、自分は手酌で盃をあけた。 「最近になって、夜外に出る役持ちを朝田派の者が跡を跟け、行先をたしかめているといううわさが出ていた。まさかと思ったが、事実だった。無礼なやつらだ」 「まったくだ。穏やかならぬやり方だ」  清左衛門は同調した。 「しかし、何のためにそんなことをやっておるのかな」 「さあ、それはわしにもわからん」  佐伯は首をひねったが、すぐに断定するように言った。 「いずれ、身にやましいことがあるからだろう。それで、人の動静が気になるのだ」 「朝田家老の差し金だというのは、たしかなことか」 「大目付がそう言っておった」  佐伯はふ、ふと笑った。 「山内は人柄穏やかな男だが、骨は太い。二、三の事実をつかむとすぐに朝田家老に会って、うわさのようなことがあるとすればまことに不穏当。もしそのために不祥事が起きた場合は、ご家老の責任が問われることになるので、さようお含みねがいたいと釘をさしたそうだ」 「山内は清廉潔白だからな」  と清左衛門は言った。 「そのぐらいのことは言ったろうさ。しかし家老にそう言える人間は少ない」 「おれは清廉潔白じゃないみたいに聞こえたぞ、おい」 「おや、貴公は清濁あわせのむ方じゃなかったのか。いつから清廉潔白に鞍替えしたのだ」  清左衛門は佐伯に酒をつぎ、自分は小鯛の肉をほぐしながら言った。 「ところで、内密の用というのは何だ」 「黒田欣之助がもどって来よったぞ」  と佐伯は言った。声をひそめている。 「村井寅太も一緒だ」 「ほほう」 「役目を終えて帰国したという形だな。だが、話はそれだけではない」  佐伯はまたすばやく立ち上がると、さっきのように襖をあけて廊下の人の気配をたしかめた。二人がいる部屋は、小庭の池に面して大きな出窓がひとつあるだけで、あとは三方の壁を塗り籠《ごめ》のように厚く塗ってある。廊下側を警戒するだけで十分だった。  町奉行の用心ぶりを、清左衛門は目をみはって見た。佐伯は、何か知らないがよほどの秘密を話そうとしているらしかった。 「二人が江戸屋敷に滞在している間に……」  席にもどった佐伯は、やはり声をひそめてそう言った。 「何か怪しからぬことは起きていないかと調べてみた」 「ふむ、それで?」 「江戸屋敷に別条はなかった。殿をはじめ、奥の方方もお世嗣の剛之助さまも何のお変りもない」 「それは重畳《ちようじよう》」 「しかし、思わぬところに不幸が起きていた。ご別家の石見守さまが病死されておる」 「なんと!」  と清左衛門は言った。佐伯の言葉以上に不吉なものが、するりと胸に入りこんで来た感じを受けていた。 「聞いていなかったか」 「いや、初耳だ」 「そうだろうな。わしもつい三日前に聞いた話だ」 「しかし、あのお方は……」  清左衛門は、野塩村の農婦おみよに聞いた、二年前の秋口の夜に野塩村に現われたという石見守を思いうかべながら言った。 「お齢はまだお若かったろう」 「問題はそこだ」  と佐伯は言った。 「石見守さまは三十四歳。日ごろ弓術をよくされて、お身体はきわめて強健だった。その石見守さまが、にわかに病死されるとは諾《うべな》いがたいと言う者がいる。それだけならよいが……」  佐伯は、さらに声をひそめた。 「石見守さまは、毒を盛られたのだという極め付きのうわさがある。しかもそこにさっきの二人、黒田と村井が絡んでいるというのだ。ま、そう言っているのは当然遠藤派だろうが……」 「ちょっと待て」  清左衛門は佐伯の言葉を遮った。脳裏にうかんで来たのは、成瀬喜兵衛に聞いた、毒を飼うという言葉である。その言葉は、清左衛門の頭の中でみるみる大きくなった。  しかし、石見守は、朝田家老と何かしら秘密を分け合う仲、言えば一味同体の間柄のはずである。味方に毒を飼うということがあるだろうか。 「もしそれが事実とすれば……」  清左衛門も声をひそめた。 「ただごとでは済まんぞ。石見守さまは徳川の直参、将軍家の旗本だ」 「だからこうしてひそひそ話をしておる」  と佐伯は言った。 「遠藤派にしても、うかつに大声は出せんさ。しかしそれにしても、もし事実なら朝田派の狙いは何だ」 「それはわからんが……」  清左衛門は、これまで誰にも言わなかったことを、洗いざらい佐伯に話したくなっていた。 「それはそうとして、去年の暮にやはりここで飲みながら、成瀬喜兵衛がボケた話をしたのをおぼえておるか」      四  一刻ほどして、二人はべつべつに「涌井」を出た。佐伯が用心のためにそうする方がいいと言ったのである。しかし花房町の出口のあたりで、それとなくまわりをたしかめたが、清左衛門が誰かに跡を跟けられている気配はなかった。  ──紙漉町に曲って行くか。  清左衛門はふとそう思い、途中で道を逸れた。時刻はかなり遅くなっていた。さて、そろそろおひらきにするかと佐伯が言い、二人が立ち上がったときに、高林寺の鐘が四ツ(午後十時)を告げたのをおぼえている。  歩いていても、時折り遠くに提灯の灯を見かけるぐらいで、行きあう者はいなかった。暗い晩だった。これでは「涌井」で提灯を借りなかったら歩くのに苦労したろうと思いながら、清左衛門はもうひとつ角を曲って、目ざす紙漉町に入った。  すると、暗く湿った夜気の中に、いい匂いがする場所があった。路上にたまっている匂いの正体は、どうやら牡丹の花のようである。清左衛門は寝静まった町の、とある垣根の外にしばらく立ちどまって牡丹の匂いを嗅ぎ、また歩き出した。  ──中根は、寝たかな。  と清左衛門は思った。寝ても不思議はない時刻である。そんな深夜に道場をたずねようとしている自分に、清左衛門はいつもとは違う深酔いを感じている。  深酔いしたのは、やはり佐伯の話が尋常なものではなかったせいだろう。石見守の毒殺が事実なら、藩の内紛はこの先どこまで縺《もつ》れるか、見当もつかぬという気がした。しかし酔っているので、深刻な考えはちらと頭をかすめただけで通りすぎて行った。清左衛門の考えは、また当面の用件にもどった。  納谷甚之丞が中根道場に乗りこんで来るのは、明後日である。中根がもし起きていれば、その日の何刻ごろに道場に来たらいいかをたしかめて行こう。もうひとつ……。  ──立会い人が……。  はたしてこのおれでいいのかどうか、これももう一度念を押してみよう。おれよりはむしろ、さっき佐伯との話に出た成瀬喜兵衛の方が適任ではないか。  清左衛門は立ちどまった。そこは中根道場の前だった。しかし母屋も道場も闇に沈んで、ひと筋の灯影も見当らなかった。  ──やはり、寝たか。  うなずいて、清左衛門は歩き出そうとした。そのとき、清左衛門は何か異様な気配に身体をつつまれるのを感じた。そして気配はみるみる重く濃くなって、清左衛門をその場に縛りつけるようである。強い警戒心に襲われて、清左衛門は提灯の灯を吹き消した。  すると、すさまじい気合いの声がひびいて来た。声がしたのは、暗い道場の奥である。金縛りにあったように、道に佇立したまま清左衛門はその声を聞いたが、気合いはひと声だけだった。  しばらくして道場の中に、ぽっと灯がともった。光が揺れて、武者窓から外に洩れるのを見て、清左衛門は手足に力がもどるのを感じた。足音をしのんで、いそぎ足に道場の塀下からはなれた。      五  納谷甚之丞が来たのは夜の五ツ半(午後九時)過ぎ、清左衛門が待ちくたびれたころだった。  甚之丞は入口で草鞋をぬぎ打飼《うちが》いをおろすと、まるで昨日も来ていた人間のような軽い身ごなしで道場に上がり、入口の厚い杉戸をしめた。そして、はじめて振りむいて清左衛門と中根弥三郎を見た。  甚之丞の変貌ぶりはすさまじいものだった。髪は半ば白くなり、身体は痩せて、目は落ちくぼみ頬は抉ったように肉が削げていた。そして旅の日と風に晒しているせいか、皮膚は日焼けを通り越してどす黒くなっている。まとっている衣服は汚れ、ほつれて物乞いのようだった。  齢は中根と同年のはずだったが、見たところ五つほどは老けて見え、どこをさがしても往年の美少年の面影はない。ただひとつ変らないものがあった。甚之丞のこれだけはむかしを思わせる鋭い目が、二人をじっと見ている。 「甚之丞か、ひさしぶりだ」  中根が声をかけた。 「丈夫のようでなによりだ」 「貴公も変りなくてなにより……」  甚之丞の挨拶はそっけなかった。声は老人のようにややしわがれている。それだけ言うと、両刀を腰からはずして下に置き、手に下げていた袋を解いて飴色の木剣を取り出した。そして言った。 「では、はじめようか」 「得物は木剣か」 「不服かな」 「いや」  中根は師範席のそばに行くと、壁にかけてある木剣を取り、二、三度素振りをくれた。そして道場の中央にもどって来た。 「お引き合わせしよう」  と中根が言った。 「われわれの先輩だった三屋清左衛門どのだ。この試合の立会い人をおねがいした」  甚之丞はちらと清左衛門を見ただけだった。頭も下げなかった。木剣をつかむと、ゆっくりと道場の真中に出て来た。 「では、はじめ」  清左衛門は、中根に言われたとおりに声をかけると、いそいで師範席までしりぞいた。あとは勝負を見とどけるだけでいいと言われている。  師範席の両側には四本の燭台が置かれ、百匁蝋燭が油煙を吐きながら燃えている。その光の中で、中根と納谷は木剣を構えてむかい合った。  と見る間もなく、二人は言い合わせたように、床を摺る音を立てて後にさがった。距離およそ六間ほどで、二人は足をとめ、構えを固めた。中根は青眼の構えのままだったが、納谷甚之丞はしりぞいてむかい合うと構えを八双に改めた。長身の甚之丞の八双の木剣には、威圧感があった。  その構えのまま、二人は今度はひたひたと前に出た。そして距離を三間に縮めると、そのまま動かなくなった。長いにらみ合いがつづいた。清左衛門がその緊張に堪えられなくなったころ、甚之丞が右に回った。中根はわずかに爪先で甚之丞の動きに合わせて回っている。しかし、腰も上体も微動もしていないように見えた。  およそ半周したところで、二人は動きをとめてまたにらみ合った。そして、ついに甚之丞が仕かけた。甚之丞は三間の距離を瞬時に詰めた。同時に中根の身体も躍動し、二人は気合いを発して打ち合った。甚之丞の木剣は中根の胴にのび、中根の木剣は甚之丞の眉間に詰めたように見えた。そして戛戛《かつかつ》と木剣が鳴った。  木剣の試合だから、身体には当てないはずである。だが、二人は勢いあまって擦れちがうと、そのまま前に走った。  そしておどろいたことに、振りむくと同時に二人はすばやく走り寄り、ふたたび猛然と打ち合ったのである。甚之丞の打ちこみがわずかにはやく、その木剣は中根の頭蓋を砕いたように見えた。  ──これは、真剣勝負だ。  ほの暗い天井に、二人の影が縺れて躍るのを感じながら、清左衛門は思わず目をつむった。そのとき異様な物音がした。  清左衛門が目をひらくと、道場のほぼ中央に、半分に折れた木剣をにぎる甚之丞が立ち、その前二間のところに青眼に構えた中根が立っていた。中根の顔面から、汗が滴り落ちるのが見えた。よほどの急場を切り抜けたものと見えた。 「負けたな」  ぽつりと甚之丞が言った。夢からさめたように、一歩しりぞいて頭をさげると、半分だけになった木剣をほうり出し、ゆっくりと入口の方にもどって行った。  甚之丞は腰に刀をもどしかけ、一度音立てて床に刀を落とした。なぜか、手早く刀を差せないらしかった。緩慢なしぐさで打飼いを背負い、杉戸をあける甚之丞に、中根が声をかけた。 「甚之丞、手当てして行かぬか」  その声に、納谷甚之丞は刺すような目をむけた。しかし無言のまま上がり框で草鞋をつけると、外に出て行った。 「勝ちましたな」  清左衛門が言うと、中根弥三郎は顔をしかめて、さて、どんなものでしょうかと言った。 「これをごらんください」  中根は稽古着の片袖をぬいで、清左衛門に右胸を見せた。蝋燭の光でも、肋《あばら》の上の方がはやくも赤く腫れているのが見えた。 「はじめの打ち合いでやられたのです。骨に罅《ひび》が入ったかも知れません」 「これは大変」  と清左衛門は言った。 「手当てをいそがれたらよかろう。それにしてもわざとやったとしたら、甚之丞め、怪しからぬ男だ」 「いや、むこうははじめからそれがしを打ち殺す気で来たようです。最後に頭を打って来た技は、じつに避けようのないものでした。そこでこっちも、甚之丞の手首の骨を挫いてのがれたのです」 「ははあ」  清左衛門の目に、差そうとした刀を床に落とした甚之丞の姿がうかんで来た。 「それで、手当てして行くように声をかけたのか」 「そうです。甚之丞が果し合いのつもりで来ることはわかっていたのに、うまく防げなかったのはこちらの不覚ですから」 「しかし木剣を折り、手首を挫いた技を見たかったな。あそこは思わず目をつむってしまったのだ。いや、じつに……」  清左衛門はにが笑いした。 「何の役にも立たぬ立会い人だった」  二人が話していると、いつの間に母屋から出て来たのか、そばに来た中根の妻女が、うしろからそっと中根にぬいだ片袖を着せかけた。  そうしてから妻女は清左衛門を犒《ねぎら》い、母屋に寄ってくれと言った。 「むこうに、お茶の支度がしてございます」 「いやいや、ご新造。弥三郎の手当ての方が先、それがしはこれでお暇する」  と清左衛門は言った。  外に出ると、湿った重い夜気が清左衛門をつつんで来た。その夜気のつめたさが、三十年の修行のはてに、またしても中根に敗れて去った納谷甚之丞の姿を、ものがなしく思い返させたが、夜道には人の気配はなかった。  歩き出したとたんに、ふと清左衛門の胸にうかんで来たことがあった。  甚之丞の必殺の一撃をしのいだとき、中根はよほどの技を使ったにちがいなかった。しかしそれは、ひょっとしたら道場の高弟たちには見られたくない技だったかも知れないと思いあたったのである。中根が言った、思わぬ技というのはそういう意味だったのだ。  ──すると……。  あそこで目をつむったのは、中根ののぞむところで、またたとえ目をあいていたとしても、おれには技の全容を見きわめられないことが、中根にはわかっていたのではないかと清左衛門は思った。それが、おそらく、清左衛門を立会い人にえらんだ理由であろう。  清左衛門はもう一度にが笑いした。しかし身体の中に、生涯に一度見られるかどうかという、すさまじい試合を見た興奮がまださめやらず残っていて、清左衛門は中根に腹は立たなかった。  前方の闇から、牡丹の花が匂って来た。足は一昨夜通った路地にさしかかったところだった。 [#改ページ]   闇 の 談 合      一  外の闇に突然大きな雨音がしたと思ったら、つぎに生あたたかいような風が吹いて来て、外はあっという間にはげしい吹き降りになった。おまけに雷まで鳴り出し、家鳴りするほどの雷鳴が屋根の上を駆け抜けて行った。  はたはたと戸を閉める音がする。当然である。さっきまでは空気が淀んだように暑い夜で、どの家でも床につく前のひとときを、少しでも涼を取ろうと戸という戸を開けはなしていたはずだった。  三屋清左衛門も例外ではなく、いそいで立つと隠居部屋の縁側の戸を閉めた。その間にも雨まじりの風がうなるような音を立てて部屋の中まで吹きこみ、行燈の灯がゆらめいて消えそうになった。庭から塀のあたり、そしてその先の隣家の木立と屋根が、一瞬の稲妻に真昼のようにうかび上がるのを見ながら戸を閉め終ると、またしても大きな雷が頭上でとどろいた。  雨はいまごうごうと音を立てて降り、風にあおられて時どき屋根や閉めた戸に、打ち叩くようなしぶく音を立てた。  ──これで……。  少しは涼しくなるかなと思いながら、清左衛門は書見していた場所にもどった。  暑いから書物が読めないというものでもないが、清左衛門は近ごろ、暑さ寒さに対して以前よりもややこらえ性がなくなって来た気がしないでもない。気持はしっかりしていても、身体が言うことをきかないようでもある。これも老いの兆しだろうと、清左衛門は思うことがあった。  書見台の前に坐ったものの、清左衛門はすぐには書見にもどらず、降りしきる雨の音に耳を傾け、縁側の戸の隙間にうかび上がる稲妻の光を見つめていた。暑熱にうだっていた木木や庭の草が、雨を浴びて生気を取りもどすさまが目にうかぶようだった。すると、それにつながるようにして、まだ子供だったころに見たある光景が思い出された。  それは季節が今よりもう少し先、秋の入口のあたりのことだったろう。夜分に、清左衛門は隣家まで使いに出された。子供が外に使いに出るには、幾分おそい時刻だったような気もする。  ともあれ外に出た清左衛門は、その夜かつて見たことがないような稲妻を見たのだった。南西の空の隅に、ひと塊の雲があり、稲妻はそこから出ていた。稲妻が光ると、天も地も一瞬むらさき色に明るく染まる。それで稲妻を発する雲の在りかも見て取れるのだが、一瞬ののちには天も地ものっぺりとした闇につつまれる。そして音はしなかった。  ふたたびはげしく稲妻が光り、四方の木立も家家も明るいむらさき色に染まる。それははじめて見るうつくしい夜景だった。清左衛門は、自分の家にもどってからも、そのまま家の中に入るのが惜しくて戸口の前で稲妻にうかび上がる夜の景色を見ていた。  そのときうしろから母の声がした。帰りがおそいのを案じて外に出て来たらしい母は、すぐに稲妻に気づいたらしく、そのまま清左衛門の横に来てならぶときれいな稲光りとつぶやいた。そしてつけ加えた。 「稲はあの光で穂が出来るのですよ。だから稲光りが多い年は豊作だと言います。おぼえておきなさい」  ──あのとき……。  と清左衛門は思い返していた。おれは十歳かそこら、そして母も若かったのだ。家もいまの家にくらべれば小さかった、と思っていると襖の外に嫁の里江の声がした。 「どうした? 入れ」  急な風雨を心配して様子を見に来たかなと思いながら清左衛門が声をかけると、里江が襖を開けた。そしてたしかに戸が閉まっているかどうかと点検する目で部屋を眺めたが、用はそれではなかったらしくすぐに、お客さまですと言った。 「客?」  清左衛門はおどろいて言った。 「いまごろ、どなたかな」 「船越喜四郎さまです」 「船越? ほほう」  清左衛門はもう一度びっくりした。船越喜四郎は用人で、在府の藩主にしたがって江戸屋敷にいるはずだったからだ。 「船越がいつもどって来たのかな。よし、通せ」 「この雨で、大層濡れておいでのようですけれども……」  と里江が言った。雨の音がひどいので、里江は声を張っている。 「いかがいたしましょうか。お着換えをさし上げましょうか」 「そうだな」  清左衛門は思案したがすぐに思い直した。 「いや、とにかく会おう。びしょ濡れならここで着換えてもらえばよい」  わかりましたと言って里江が去ると間もなく、廊下に足音がして船越が姿を現わした。 「いや、三屋どの、おひさしぶり……」  丸顔で、少年のように艶のいい頬を持つ船越喜四郎は、立ったまま部屋に顔を突き入れて如才ない挨拶をしたものの、そのあとは廊下でもたついている。 「ちょっと濡れましてな、ただいまここで袴を取らせていただく。このまま中に入ってお部屋を濡らしては申しわけない、ハ、ハ。ご無礼はゆるされよ。しかし……」  袴を取りながら、船越はまたひょいと部屋の中の清左衛門をのぞいた。雨音がやかましくて、そうしないと声がよく聞こえないということもある。 「考えてみれば、ついてもおった。ここに参るのを人に見られたくはなかったもので……。ところがこの雨で、このあたりは人っ子一人歩いてはおらなんだ」  言いながら船越は、暗い廊下でけんけんをしている。清左衛門は待ちきれなくて、部屋の入口まで立って行った。 「大丈夫かの」 「あ、いやいや、ご心配なく。濡れて袴がくっついただけでござる。もう大丈夫」  ようやく部屋に通って改めて挨拶をかわしたが、船越はすぐにはたずねて来た用件を言わなかった。着換えを出そうかという清左衛門の申し出をことわったあとは、聞きもしないのに藩江戸屋敷の近況などを長長としゃべっている。  少少聞きぐるしいほどの饒舌だったが、清左衛門はそれがこの船越喜四郎という人物の一種の擬態であることを知っていた。清左衛門と交代して新藩主の用人となった船越は、人人の注目をあつめる切れ者だった。家柄もよく、齢はまだ四十前である。この男の本領はべつのところにあった。  お茶と菓子をはこんで来た里江が去ると、船越はやっと口を閉じた。優雅な手つきでお茶を一服すると、清左衛門を見てさてと言った。 「じつはお願いがあって参りました」 「この隠居にかの」 「そうです。殿のお言いつけです」  船越は別人のように慎重な表情を見せた。ようやく雷が遠ざかって、船越のひそめた声は難なく聞こえた。  船越はしばらく口をつぐんで、清左衛門を凝視してからつづけた。 「ご別家の石見守さまが、にわかに病死されたことはお聞きおよびですかな」 「何となく耳にいたした」 「それが、朝田派による毒殺であることが判明しました」      二  別家の石見守信弘は、深川|小名木《おなぎ》川の南に下屋敷を持っていた。派手好きな性分で、石見守はそこに時にはひそかに幇間、踊り子を呼んで酒盛りをするらしいといううわさを、江戸屋敷の重職たちは日ごろからにがにがしい思いで聞いていた。  今年の桜のころのある夜、その下屋敷に二人の客があった。頭巾に顔を包んだ武家だった。二人をむかえたのは、それより半刻ほど前に、単身馬でやってきた石見守である。石見守は使用人に酒を言いつけ、あとは三人で奥の部屋に籠った。  二人の客が来てから一刻ほど後だったろう。用を足して外からもどった若い婢は、灯の消えた家の中に主人と同僚の死骸がころがっているのを発見した。石見守は奥の部屋で口から血を吐いて倒れており、台所には婢の同僚である夫婦者の使用人が斬られて死んでいた。  事件はその夜のうちに築地の本屋敷に、さらに本家である藩江戸屋敷へと知らされ、築地の屋敷では、本家の意見に従って石見守を「本屋敷ニ於テ俄ニ病死」した体につくろって、幕府に届け出た。さいわいに別家の長男光五郎信正は将軍家に御目見が済んでいて、三千石の家は支障なく相続がかなった。  しかし江戸屋敷から派遣された医者の、極秘の報告によれば、石見守の死因は毒死である。別家の跡目相続がつつがなく済んだあとで、船越は藩主に呼ばれ、石見守の変死について、ひそかにかつ徹底した調べを行なうように命令された。思案の末に、船越は徒目付樋口孫右衛門を呼んで密命を下した。樋口はそういう調べでは老練の手腕を発揮する男だった。  樋口はただちに探索に取りかかったが、その結果おどろくべきことが判明した、と船越は言った。 「石見守さまを毒殺したのは、国者でござった」 「………」  清左衛門はうなずいた。およそは予想出来たことだったが、黙って船越の話に耳を傾けた。 「別家の下屋敷をたずねて来た男たちは、国言葉をしゃべったと申す。その話し声を、ひでという若い婢が、使いに出る寸前に耳にしておったのです」  斬殺された夫婦者の使用人は、藩につながる国者だったが、おひでは下屋敷からほど近い深川の町の生まれである。それでも男二人がしゃべる、口の中に音が籠るような国訛りだけはわかった。  男たちは、おひでも夫婦者もろともに抹殺するつもりだったに違いない。その時刻に買い物を言いつけられて外に出たのはおひでの幸運だったが、おひでが殺されなかったために、樋口は犯人を藩江戸屋敷の者か、近ごろ国から出府して来ている者にしぼることが出来た。別家の屋敷には、国元から来ている奉公人はいない。  樋口は黙黙と調べをつづけ、やがてその夜の刺客が、江戸屋敷の者でも、公用で出府し江戸屋敷に滞留している国元の藩士でもなく、どうやら家老の朝田弓之助が出府するときに定宿にしている寺院、下谷の長楽寺という寺に泊っていた二人の男らしいことを突きとめた。  男たちの名前は黒田欣之助と村井寅太。国元では朝田派と呼ばれる家老方の派閥に属している男たちであることも判明した。黒田と村井は前年の冬近いころに出府して来て、春まで長楽寺に滞在した。寺には公用で来たと言い、時どき二人で羽織、袴に威儀をただして外出したという。  しかし樋口の調べによれば、黒田と村井はざっと半年におよぶ江戸滞在の間、一度も藩の江戸屋敷に顔を出していなかった。そして帰国する、とことわって寺を出たのが、石見守が毒殺された日の朝である。その日一日だけは市中に宿をとり、夜分に石見守と会った疑いが濃かった。  そこまでの報告を受けると、船越喜四郎は樋口をともなって築地の石見守の屋敷をたずねた。  黒田と村井は、在府中に時どき石見守に会っていたようである。石見守の屋敷でその点をただしてみたが、さすがに用心したらしく、二人はそこには一度も顔を出していなかった。そのかわりに船越と樋口は、石見守と朝田派のつながりを証拠立てる、有力な物証を手に入れた。石見守と朝田弓之助の間に交された多数の手紙である。  その手紙の文句は、二人の間に何かの密約があったことを強く疑わせるものだった。ただし、密約の中身が何かはわからなかった。手紙類は、船越の求めに跡継ぎの光五郎信正が快く応じて、手文庫をあけてみせたので読むことが出来たのだが、その中にただ一通だが、国元野塩村に住む屈指の豪農多田掃部から来た手紙がまじっていた。多田の手紙には石見守の次男友次郎信成の名前があり、また手紙の内容はやはり、石見守と多田との間にも何かの密約があったことを疑わせるようなものだった。 「ここまで来れば、調べの方角は歴然と国元の朝田家老を指しておる。そこでそれがしは、殿に経過を申し上げた上で、樋口を国元に派遣してくださるようにとお願いした」  と船越は言った。  樋口は帰国した。そして樋口は、大目付の山内勘解由の配下なので、当然のごとく一時帰国の挨拶に行ったものの、内密の任務のことは上司の前でもおくびにも出さず、ただちに探索に取りかかった。樋口には、状況によっては相手に上意による極秘の調べである旨を示す権限があたえられていた。  樋口は朝田派にも遠藤派にも知り合いがいた。そのあたりから両派の中にもぐりこみ、かなり上の方まで話を聞きあつめる一方、船越から預かった添書を持って、深夜ひそかに野塩村の掃部屋敷をたずねても行った。その結果、樋口はついに、朝田家老と石見守、多田掃部の三者の間にかわされた、これが密約ではなかろうかと思われるものにたどりついたのである。  話は数年前に遡る。そのころ出府した朝田弓之助をたずねて来た石見守が、ある提案をしたという。それは次男の友次郎信成を、藩主家の養子にすることは出来ないかというものであったらしい。  そういう提案をしたとすれば、石見守の狙いははっきりしているだろう。当時藩江戸屋敷では世嗣の剛之助の病弱が人人の心配の種になっていた。そして藩主には、ほかに子宝に恵まれる気配はなかった。そのために江戸屋敷、国元を問わず、要職にある人人はそのころ、世嗣に万一のことがあったら殿はどうなさるつもりだろうということを、ひそひそと話し合い、憂慮していたのである。  友次郎を養子にしておけば、その心配は解消出来る、と石見守は言ったに違いない。藩主家にわが血筋の者を押しこみ、あわよくば次の藩主の座につかせようというのが、石見守の考えだったろう。  石見守は若年のころ、器量は兄より上と評された人物である。だが凡庸の兄は藩主となったが、人物識見ともに勝りながら自分は三千石の旗本の身分に甘んじなければならなかったという無念の気持も、その提案にはひそんでいたかも知れない。  朝田弓之助が、その提案にどう答えたかは、樋口の探索を以てしても分明ではなかったが、少なくとも朝田はその提案をすぐに藩主に持ちこむ気持はなかっただろう。藩主と石見守は、兄弟でありながら犬猿の間柄だったからである。朝田派のある幹部は、石見守の提案は耳にしたことがあるが、朝田家老はにぎりつぶしたはずだと言った。  ところが二年ほど経って、朝田弓之助は突然に石見守をともなって野塩村の掃部屋敷に現われた。藩安泰のために友次郎どのを藩主の養子に推したい。ついては藩内の意見をまとめるための資金の工面をねがいたい、と朝田は言い、養子実現のあかつきには、多田掃部から願いが出ている黒尻野百町歩の開墾請負いを許可しようと言った。 「この時期は、ちょうど遠藤派の藩政批判がにわかにきびしくなったころで、朝田家老は養子縁組みよりは派閥を固めるために、金が必要だったのだろうと、多田は申したそうだ。多田は多田で、目もあれば耳もある。お偉方の動向はあらましつかんでいたということでしょうな。ともあれ、その見方があたっているとすれば、朝田家老は石見守をダシにして多田から金を引き出したことになるが、多田は何にも言わずに資金なるものを提供したということです」  そこまで調べて、樋口は江戸にもどったと船越は言った。  密約の中身はほぼつかめたが、石見守が毒殺された理由はまだわからなかった。船越と樋口は再度築地の別家をおとずれ、新しい当主の許可を得て石見守の書斎を綿密に調べ直した。手紙類をすべて読み直し、備忘録のようなもの、保存してある反故や紙片に至るまで、くまなく読み漁ったあとで、ようやく新しい事実がうかんで来た。  ひとつは朝田弓之助から来た手紙の中に発見された。朝田はその手紙の中で、きわめて曖昧な文句を使っているものの、石見守が何ごとか新たな提案をしたのに対して、きびしい警告を発していた。「御考ヘノ如キハ御自身ヲ危クサレル恐レ甚ダ大ニシテ」、「軽軽ニ着手サレルコト固ク無用ト心得ラレタク」、「独断コトニ及バレテハ身ノ破滅ヲ招来スベク候」といった文言は数通の手紙の中から見つかり、その時期は昨年の夏から秋に集中していた。  新しく発見された事実のもうひとつは、心おぼえの紙片に書きつけてあった一人の医者の名前である。その医者は藩江戸屋敷に抱えられている奥医師の一人で、あたえられている扶持は七人扶持。国者ではなく、また百石、二百石の御匙《おさじ》にくらべるとごく身分の軽い者だが、子供の病いの見立てにくわしいことで知られていた。江戸屋敷の長屋に住んでいる。  江戸屋敷詰の医者の名前が出て来たのを見のがすわけにはいかなかった。船越と樋口は別家の奉公人たちをつぶさに調べ、やがてその中の一人が、去年の秋に石見守が外でその医者と密会したのをおぼえていることを突きとめた。 「鳥羽玄朴というその医者は、石見守から剛之助さまに毒を飼うことを持ちかけられたと、あっさり白状した。もっとも石見守に会ったのはそのときただ一度で、話のおそろしさに顫え上がってことわったと申したそうだ。石見守が示した礼金は莫大なものだったらしいが……」 「………」 「つまりはこういうことでござったろう」  と船越喜四郎は言った。 「御世嗣の剛之助さまは、このところすこぶるお丈夫になられた。加えて昨年春には側女のお桐どのが男子を出生、別家の友次郎さまなどというお方はまったく必要ではなくなった。当然そういう状況の変化は石見守さまもご承知で、養子の件は自然にあきらめられたものと朝田家老は思っていたであろう。ところがさにあらず……」  船越は、もうすっかりつめたくなった茶をひとすすりした。 「石見守さまは、剛之助さまに毒をすすめても養子の一件を実現したいという意気込みだ。執念もここまで来ると気狂いを疑わねばならんだろうが、相談をかけられた朝田家老のおどろきはただごとではなかったはず。ほうっておけば一族潰滅、派閥また四散という凶事が持ち上がりかねない。そこで黒田、村井を出府させて説得を試みさせたのだろう。むろん聞かれぬときは極秘に抹殺せよという命令つきの説得だったに違いない」      三  船越喜四郎の長い話が終った。雷も雨もやんでいた。二人は申し合わせたように、茶碗をとりあげてつめたい茶をすすった。 「いや、何やら怪しからぬことがすすんでいるらしいことは察しられないことでもなかったが……」  と清左衛門は言った。まだ胸の中におどろきが残っていた。 「しかし、よくお調べになられた。敬服のほかはない。すると、これで朝田家老も年貢の納めどきですかな」 「たしかに年貢の納めどき……」  と船越は言った。 「ところで、ほかならぬそのことで、今夜はご相談に参った次第」 「ははあ」 「それがし明晩は朝田家老にお会いするつもりだが、その折りにそれがしとかの屋敷まで同道してはいただけまいか。といっても、これはそれがしの発案ではなくて、殿のお指図なのだが……」 「それがしを同道するということがですかな」 「さよう。それがしが持ちかける談合に対して朝田家老がどう出るかはまったく不明……」  と言って、船越はにが笑いした。 「いまの話気に入らぬと、帰り道に闇討ちということも大きにあり得る。だからと言って話はさっきのようなこと、誰にでも相談出来るというものではない。そう申し上げると、殿は三屋に相談しろと申された。ほかに人はおらぬと」 「これはかたじけない仰せ……」  清左衛門は膝に手を置いて低頭した。しかし多少の戸惑いもあった。 「しかし朝田家老と何を談合される? こういうことは即刻、大目付の山内どのに届ければそれで済むことではあるまいか」 「むつかしいのはそこのところ。殿は石見守さまの一件を表に出すことならぬとおっしゃる」  はっと清左衛門は納得した。 「そういえば亡き石見守さまは徳川家の直参、表沙汰にしては藩がお咎めを受けることは必定、ということですな」 「そうです。殿はそこのところをいたく憂慮されておる」 「さればと言って、朝田家老をそのままに捨ておくわけにも行きますまい」 「殿は家老に真相を突きつけ、執政の大交代を行ないたいご意向です。つまり朝田家老は手中の権力を黙って遠藤治郎助どのに渡して引退する。むろん、それだけで済ますことは出来ないから、政権交代後に殿が下す処分に従うこと。この条件を呑めば、遠藤派には上意を下して朝田派弾圧とみられるような極端な処分を行なってはならぬと釘をさす、というお考えですな」 「朝田家老の処分は?」 「閉門五十日と二百石の減石。さらに本人の隠居」 「それは軽い」 「殿は石見守さまとは仲悪しくあられた」  と船越は言った。  清左衛門はうつむいて考えた。江戸にいる藩主の考えはよくわかった。朝田家老の犯した罪を不問に付すことは出来ないが、処罰は出来るだけ表沙汰を避ける形で軽く行なおうというのである。 「相わかったが、ひとつおことわりしておきたいことがござる」 「何ごとですかな」 「格別熱心というわけではないが、それがし形だけは遠藤派に与《くみ》しておる。そのことは朝田家老も当然承知と思われる。そのわしが家老説得の使いに加わるというのは、先方の存念もあり、いかがなものか」 「そのことは殿とも相談いたした。しかるべき筋から、国元の朝遠二派一覧といったものが殿の手もとまでとどいていて、殿は三屋どのが遠藤派であることをご存じだ。しかしこう言われた」  と船越は言った。 「用人は本来無派閥。三屋はもと用人ゆえ、わけを話せば派閥抜きで合力するだろう。それに朝田を納得させたあとは、相手方の遠藤を説得しなければならぬ。そのときは貴殿に表に立ってもらわねばならぬだろうから、貴殿が遠藤派に与しているのはむしろもっけのさいわいという考え方をされておる」 「なるほど」 「いや、三屋どのに対する殿のご信用の固いのにはおどろき入りました。同職としてそれがしも何卒《なにとぞ》あやかりたいものでござる」  清左衛門は黙って頭を下げた。船越が、こちらを乗せようとしているのは丸見えだったが、藩主がそれに近いことを言ったのもたしかだろう。  最後のご奉公という言葉が頭をよぎった。清左衛門は改めて軽く頭を下げて、うけたまわったと言った。そのときになって気づいたが、全身にびっしょりと汗をかいていた。清左衛門は立って縁側の戸をあけた。たちまち、雨後の涼しい風と虫の声が部屋にとびこんで来た。 「さて、家老を説得するのはいつにするか」  座にもどって清左衛門が言うと、船越は明晩にもさっそくと言った。それから、少しうかないような顔をしてつづけた。 「身の危険はござるかな」 「ないとは言えぬ」  清左衛門は、つり上がった目と痩せた頬を持つ朝田弓之助の顔を思い描きながら言った。 「こちらも、応分の用意はいたさねばなるまい」      四 「こちらは、ご家老が野塩村から調達した資金なるものが、総額一万両を下らぬというところまで承知しております。派閥の軍資金にしても、これは多うござりますが」  船越の最後の言葉が終ると同時に、朝田家老の頬骨が高く突き出た長い顔が、突然真赤になった。無気味なほどに赤くなったその顔色は、しかし徐徐にさめてむしろ青白くなる様子を、清左衛門は黙然と眺めた。人をまじえぬ密談をと申し入れたので、家老屋敷の奥座敷にいるのは三人だけだった。  朝田弓之助は、青白い顔をうつむけて目を閉じた。だがその目をあけたときには、口辺にうす笑いをうかべていた。百姓め、約束を反故にしてべらべらしゃべり散らしたらしいの、と朝田は低い声で罵った。  それから真直ぐに船越を見た。 「それでお上はどうなさるおつもりかな。この朝田に腹を切れとでも言われたか」 「当然、お腹を召されてしかるべき罪と、殿は考えておられます」  鋭く船越は切り返した。態度は落ちついていて言語も明晰、船越は家老と互角にわたり合っていた。 「しかし、殿がそうはお命じにならないことは、ご家老もよくご承知でありましょう」 「むろん、わしに腹切らせることは出来ぬ」  朝田のうす笑いが大きくなった。 「やれば一切は表に出て、わしのみか当藩の破滅となる」 「そのとおりです」  船越はあっさりと言った。それで? と朝田は船越と清左衛門に鋭い目を向けた。 「腹切るかわりにどうせよと仰せられたかな」 「執政職はもとより、藩の要職からご家老の派閥の人間は一切引き揚げていただく。つまり遠藤派に政権を明け渡せというご命令です」 「ほかには?」 「一段落したのち、殿の御名で閉門五十日と減石二百石、さらにご家老の隠居の申し渡しが下されます。名目は藩政不行き届きですが、これは黙ってお受けなさらなければなりません」 「………」 「以上です。きわめて寛大なご処置かと思いますが……」  朝田家老は腕をこまねいて考えている。やがてその手を膝におろした。 「しかし殿はそのおつもりでも、政権を渡してしまったら、遠藤が何を言い出すかわかるものじゃない」 「その点はご心配なく」  と清左衛門が口をはさんだ。 「遠藤派とは、それがしが話をつけます。一切事情を問わぬことを条件に、政権を委譲するという形でまとめます。もっとも……」  その事情なるものは、遠藤派でもうすうすつかんでいるはずだが、藩の縁者である直参の不審死を掘り返すのは遠藤派としても気味が悪いはず。この話は難なくまとまりましょう、と清左衛門は言った。そしてさらに、政権交代が実現したあかつきには、殿から遠藤派に弾圧禁止の上意が下される手はずだから、控え目な賞罰は免れないとしても人心が動揺する心配はないと保証した。  朝田家老はまた考えに沈んでいる。胸を去来しているのは犯した罪か、それとも権力に対する未練かと清左衛門が思っていると、家老が顔を上げた。念頭にあったのはどうやら後者だったらしく、その顔にはまたうす笑いがうかんでいた。もしもと、家老が言った。 「わしが殿の申されることを聞かなかったらどうするな」 「どうもいたしません」  間髪をいれず、船越が言った。このあたりの一分の隙もない駆け引きこそ、切れ者船越の本領を示すものだった。 「それがしは帰って、殿にそのままを復命するまで。多分殿は、ご家老に向けて即座に討手を放たれるでしょう。ただし何びとにも知られぬよう、ひそかにです。殿は穏やかなご気性ですが、こういう大事のことをうやむやになさる方ではありません」  殿を見くびってはなりませんぞ、身の破滅ですと言ってから、船越は顔をひきつらせている家老をにらんで、もうひと押しした。 「また、われわれを抹殺して事を隠蔽しようなどというお考えもご無用になされたい。証拠は江戸にあって明明白白、われわれを消しても何の益もありません」 「相わかった。さっき申されたことで話をまとめてもらおう」  突然に朝田家老は言った。顔に、がっくりと疲れたいろがうかんでいる。 「こちらはこちらで、今夜にも頭株を呼んで話をまとめることといたそう。いや、お使いごくろうでござった。殿には仰せのごとくかしこまると申したとお伝えしてくれ。いま粗茶を進ぜる。少しくつろがれよ」  家老は廊下に出て人を呼んだ。そして茶を言いつけながら部屋の中の二人を振りむき、近ごろ夜道が無用心ゆえ、帰りは供をつけてやろうと言った。  四半刻ほどして船越と清左衛門が玄関にもどると、土間に男が一人立っていた。それがお供らしかった。しかしその顔を見た清左衛門は、突然に身体の血が泡立ったような気がした。男は村井寅太だった。  一度だけ、町奉行所のそばでその男を見たことがある。いまのが直心流の村井寅太だと、そのとき一緒だった奉行の佐伯が言ったのだ。  清左衛門の頭に、冷酷な策謀家という朝田家老に対する日ごろの評判がもどって来た。説得出来たというのは甘い考えで、家老はわれわれを斬って捨てて遠くにいる藩主にやるならやってみろと圧力をかけ、事をあくまで闇に葬る腹を決めたのではあるまいか。  さっきの長い沈思は、窮鼠《きゆうそ》が逃げ道をさぐるためのものだったとも考えられる。あり得ないことではなかった。説得を受け入れてしまえば、家老が生きている間に朝田派に日が射すことはのぞめないのである。 「折角ながら……」  と清左衛門は言った。 「お供はご辞退申し上げる。提灯はあるし、われらは二人。格別帰り道を心配することはござるまい」 「いやいや遠慮は無用」  家老は野太い声で言った。こけた頬が灯火に濃い影をつくり、鬢の白髪が逆立つように見えた。 「普請組の者が町の入口あたり一帯を掘り返したのを見られたろう。先日も近くの者が、夜分穴に落ちて大怪我をした。さようなことのなきよう、案内させる」 「いや、恐縮にございますな」  何も知らない船越喜四郎が言った。やむを得ず、清左衛門は口をつぐんだ。しかし門を出る前に、清左衛門はひそかに刀の鯉口を切った。  粘りつくように闇の濃い夜だった。空は厚く曇っているとみえて、一点の光もなかった。提灯を持った村井が前を行き、そのあとに清左衛門と船越がつづく。村井はまったく無言だった。  時刻は五ツ半(午後九時)を回っているだろう。屋敷町を通りすぎる間、人っ子ひとり逢わないままに、家老が言った普請組が道を掘り返してある場所に来た。そこを通りすぎれば、河岸の道に出る。そこは夜は大概無人の、ひろい道である。  そのあたりが危いかな、と清左衛門が思ったとき、村井が振りむいて声をかけて来た。 「足もとに、お気をつけください」  三人は、道に穴があき乱雑に土が盛ってある場所を通り過ぎた。そして河岸の道に出た。そのとき、うしろから来た者が、風のように動いて村井にならんだ。中根道場の平松与五郎だった。 「お迎えに参じました」  平松は清左衛門にそう言うと、村井にむかって言った。 「村井寅太、ごくろうだったな。ここからはそれがしがお供する。帰ってよいぞ」  村井は足をとめた。色の浅黒い、少し醜いほどの顔に何の表情もうかべずに平松を見返したが、やがてぽつりと言った。 「しかし、ご家老のお言いつけですゆえ……」 「いや、かまわんだろう。供は一人で十分」  平松がそう言っても、村井はなおもじっと立っていたが、やがて小さくうなずくと提灯を渡した。平松が相手から目を放さずに提灯を受け取ると、村井は間合をあけるように少しずつうしろに下がった。  呼応するように平松もゆっくりと身体を動かして、清左衛門たちのほぼ前に来た。提灯を高くかかげながら、目は鋭く村井の動きを追っている。その提灯の光の中で、村井が不意に一礼して背をむけた。そしてあっという間に姿を消した。  兵具方の平松ですと、船越に名乗ってから、平松は清左衛門に言った。 「門前からずっと後を追って来たのですが、何かやるとすればこのあたりだろうと思いまして。提灯の明りで村井の顔を見たときはおどろきました」 「いや、こっちはそなたが来ておらんのではないかと思って、ひと汗かいた」 「何の話かな」  と船越が話に割りこんで来た。 「さっきのお供が、村井寅太だ」 「村井?」  と言ってから、船越も気づいたらしい。絶句したが、すぐにつづけた。 「深川の下屋敷で、夫婦者を斬ったと思われている男ですか」 「さよう」 「ふむ」  船越は軽い笑い声を立て、朝田家老かと、つぶやいた。 「喰えぬおやじだ。しかし、まさかこっちを消すつもりはなかったろう」 「さあ、どうですかな」  と清左衛門は言った。そのときになって、全身が汗でつめたく濡れているのに気づいた。 [#改ページ]   早 春 の 光      一  秋がやや深まった九月のはじめになって、藩の執政府が音もなく交代した。  家老四人、中老二人のうち、残ったのは家老の間島弥兵衛だけで、朝田派の重職は一人残らず執政府から姿を消した。かわりに遠藤派がそのあとに入ってそれぞれの役に就いたので、間島が残ったといっても、事実上の総入れ替えにほかならなかった。  筆頭家老には、長年藩政の表面から身を隠していた元の家老、遠藤治郎助が返り咲いた。しかし遠藤は、自分と間島のほかは思い切って若手を登用し、藩政の中枢を固めるという英断を示したので、新執政の顔触れは新鮮なものとなった。  すなわち新たに家老に引き上げられたのは組頭の細谷孫三郎、吉岡主膳の二人、そして中老には差立《さしたて》番頭を勤めていた中野峯記、元の中老桑田小左衛門の嫡子である倫之助が抜擢された。桑田倫之助は、まだ三十二の若年ながらはやくから人物才幹を認められていた人間で、江戸藩邸御小姓頭という要職からの転進だった。  藩首脳のこれだけの大異動が、藩主名による一片の触れで示されただけというのに、家中の間にはさしたる動揺はみられなかった。従来藩の首脳部の交代にはつきものだったごたごたのたぐい、たとえば隠れた刃傷沙汰、あるいは喧嘩口論のうわさは今度は一切聞かれず、むしろ無気味なほどの静けさのうちに、執政府の交代が終了したのである。  三屋家の隠居、三屋清左衛門は、枯野のむこうに小樽川の川土手と野塩村の木立が見えて来たところで足を止め、ついで踵を返した。  夕日を正面から浴びながら歩いて来たので、日に背をむけたとたんに、清左衛門は目の中が真暗になったのを感じた。それまでの光がまぶしすぎたせいだろう。だが目はすぐに馴れて、ふたたび目の前にひろがる透明な光につつまれた晩秋の風景が見えて来た。  ところどころに見える畑に、太ぶととならぶ大根と枯れて立つ豆の畝を残すぐらいで、野の作物はほとんどが取り入れを終ったようである。道わきからひろがる田圃も、稲の株から心ぼそげにのびる蘖《ひこばえ》のうすみどり、畦にはえる芒《すすき》の白い穂が夕日を浴びてわずかな色どりをなしているものの、あとは一面に露出した黒土がどこまでもつづいているだけだった。  畑と境を接する田圃の隅に、稲杭をあつめて積み上げている人影が二つ、黒く動いているほかは人の姿も見えなかった。季節の終りを示す光景だった。  しかし数日の霰もまじるつめたい雨のあとにおとずれた今日の晴天は、風がないせいもあってか、季節にしてはあたたかかった。そのあたたかさに誘われて、散策の足を野塩村のあたりまでのばしてみようかと思ったのだが、そうするには少少時刻が遅れたようである。  近ごろの日は唐突に暮れてしまうので、あのまま野塩村にむかったら、村に着くまでに日は落ちて、帰り道はぶり返す寒気に襲われてふるえる羽目になっただろう、と思いながら清左衛門は来た道をのんびりと引き返した。  今度は正面に、国境いの遠い山山が見えている。小樽川の水源をなす南方の山塊からわかれる国境いの連山は、東から北に、障壁のように空を斜めに区切っていた。そしてその奥に、いまごろの季節には雲に隠れてめったに姿を現わさない弥勒《みろく》岳の山頂が見えた。  鉾の先のようにとがっている弥勒岳の山頂は、数日のつめたい雨の間に雪が降ったとみえて真白に光っている。そしてその下に翼のように東から北に波打つ峰をひろげる連山は、雪こそ見えないものの、頂きのあたりは落葉したあとの寒寒とした灰色に変り、わずかに麓に近い三合目あたりから下に紅葉の色をとどめるだけだった。衰えた西日がその山山を照らし、山はその弱弱しい光のためにかえってかすんで見えた。  ──今日の日和のように……。  藩もこのまま何事もなく済めばよいが、と清左衛門は思った。  そういう感想がふと胸にうかんで来たのは、執政が入れかわってひと月が過ぎたのに、失脚した朝田弓之助に対する処分がまだ行なわれていないこと、しかしその処分が行なわれれば、それをきっかけにいたるところで藩の役職が交代し、藩内騒然となることが予想されるなどということが胸の中にあるせいだろう。  派閥の交代というものは、本来そうしたものだった。日の目を見た者は傲《おご》り、失脚した者は失意の淵に沈むという、単純で残酷な明暗の景色が露骨に現われるのがその時期である。そしてそういう時期には、必ず変革に不満をとなえてひと騒動起こす者が出て来るのである。  これまでのところ、交代は静謐《せいひつ》に行なわれている。だが問題はこのあとだろうと、清左衛門は思っていた。  清左衛門の一族は、今度の派閥争いにはあまり深入りせずに済んだ。清左衛門と長男の又四郎は、遠藤派寄りで動いたといってもさほど目立った働きをしたわけではなく、また次男が婿入りした秋吉家、長女が嫁いだ市村家はそれぞれ遠藤派、朝田派にわかれたものの、これも強いて色わけすればということで、格別派閥の先に立って動いたわけでも何でもない。褒賞もないかわりに、罰を受けることもあるまい、と清左衛門は考える。  例外は末娘の奈津が嫁いだ杉村家で、奈津の夫要助は、日ごろ地味な男なのにどう血が騒いだのか、派閥争いの初期には遠藤派のためにかなり危い橋をわたったようだった。要助には、いずれ何かの褒賞があるかも知れない。  ──そのときは杉村に……。  老婆心ながら、人に傲って憎まれぬようにせよと、説教する方がいいかと清左衛門は考えたりする。  ともあれ、何事もなく家禄を守って平穏に暮らしていければ、それにまさるしあわせはないのだと、清左衛門が一族のためにそう思ったとき、日はとっくに背後に落ちて、道の前方に城下の入口の建物がたそがれ色をまとって姿を現わしていた。  家にもどると、嫁の里江が今夜さしつかえなければ「涌井」まで来てもらいたい、という佐伯熊太の伝言を伝えた。 「何か格別のご用がおありなのでしょうか」 「なあーに、用なんぞあるもんか」  と清左衛門は言った。 「急に飲みたくなったのだろう」      二  しかし、嫁にはそう言ったものの、その夜の酒は清左衛門もうまかった。酒もさることながら、ほどのよい夜の寒さと酒の肴のせいでもあったろう。  肴は鱒の焼き魚に|はたはた《ヽヽヽヽ》の湯上げ、茸は|しめじ《ヽヽヽ》で、風呂吹き大根との取り合わせが絶妙だった。それに小皿に無造作に盛った茗荷《みようが》の梅酢漬け。 「赤蕪もうまいが、この茗荷もうまいな」  と町奉行の佐伯が言った。佐伯の鬢の毛が、いつの間にかかなり白くなっている。町奉行という職は心労が多いのだろう。  白髪がふえ、酔いに顔を染めている佐伯熊太を見ているうちに、清左衛門は酒がうまいわけがもうひとつあったことに気づく。気のおけない古い友人と飲む酒ほど、うまいものはない。 「今夜の酒はうまい」  清左衛門が言うと、佐伯は湯上げ|はたはた《ヽヽヽヽ》にのばしていた箸を置いて、不器用に銚子をつかむと清左衛門に酒をついだ。 「この寒さじゃ、酒でも飲まなきゃ世の中過ごせんぞ、三屋」 「何だ、言うことが支離滅裂だな。酔って来たか」 「なあーに、まだ序の口だ」  町奉行は自分も手酌で酒をつぎ、また|はたはた《ヽヽヽヽ》に手をのばした。  |はたはた《ヽヽヽヽ》は、田楽にして焼いて喰べるのもうまいが、今夜のように大量に茹でて、大根おろしをそえた醤油味で喰べる喰べ方も珍重されている。町奉行は勢いよく、|ぶりこ《ヽヽヽ》と呼ばれる|はたはた《ヽヽヽヽ》の卵を噛む音を立てた。浜で|はたはた《ヽヽヽヽ》がとれるようになると、季節は冬に入る。 「ところで……」  町奉行は|はたはた《ヽヽヽヽ》の大皿を膳の横におろしてから言った。 「異なことを耳にしたぞ」 「異なことと言うと……」  清左衛門も箸を置いた。佐伯の盃に酒をついでやった。 「黒田欣之助が、大坂の蔵屋敷に役替えになったのを聞いたか」 「いや」  清左衛門は注意深く佐伯の顔を見た。 「それはいつだ? 近ごろの話か」 「問題はそこだて」  と佐伯は言うと、酒くさい顔を清左衛門のほうに突き出して声を落とした。 「執政府が黒田の役替えの許しを江戸の殿からもらったのは、総入れ替えの十日ほど前、きわどい時期だ。そして黒田が大坂にむけて出立したのが、つい五日ほど前のことだ」 「その間、ざっと四十日ほどか……」  と清左衛門は言った。 「きな臭い話だ。黒田を遠地に遠ざける朝田派の工作が匂うな」 「それだけではない」  と佐伯は言った。銚子を引きよせると酒をついだ。 「馬廻りの犬井彦之丞を知っているな?」 「ああ、山根どのの組子で……」 「むかし、おぬしに乱暴を働こうとした男だ」 「その男が何か」 「黒田が出国するときに、その犬井が同行していたらしい」 「ほほう」  清左衛門は、口にはこぼうとしていた盃を途中でとめた。犬井彦之丞は、朝田派の領袖である組頭山根備中組に属する藩士で、一刀流の小滝道場の高弟だが、性格粗暴な男だった。 「送り狼という形だな。黒田の身が危いぞ」 「わしもそう思った」  佐伯はそう言うと、ひと息に盃の酒を飲みほした。 「なにしろ黒田は、石見守さまの一件を知り尽しておる。大坂に飛ばしただけでは安心ならぬと、あのひとが考えることはあり得る」 「大いにあり得る」  と清左衛門も言った。二人ともに、胸に失脚した朝田弓之助の姿を思い描いているのである。 「犬井も大坂まで行くことになっているのかな」 「いや、勘解由の話によると……」  と、佐伯は大目付の名前を出した。 「犬井の行先は江戸屋敷になっているそうだ。しかし、一度出国してしまえば、先のことはわからぬ」 「それはそうだ」  清左衛門は腕を組んだ。しばらく口をつぐんでから、胸の中の懸念を口にした。 「黒田欣之助の大坂行きが、もしわれわれが心配するようなことだとすると、村井寅太も危いぞ」 「それは勘解由も承知しておる」  と佐伯は言った。佐伯は休みなく盃を干し、肴に手をのばしている。口から器用に鱒の小骨を吐き出してから言った。 「これは秘事だが……」  佐伯は、清左衛門が佐伯にさえ言わなかった、遠藤、朝田両派談合の核心に触れる言葉を口にした。 「どうも近いうちに、朝田家老に江戸から処分言い渡しがとどくらしい。大目付は前の家老が、その言い渡しがとどく前に、例の一件の証拠を消してしまうために動きはじめたのではないかと見ている」 「………」  清左衛門は黙って手酌で酒をついだ。どちらから洩れたのか知らないが、秘密は保たれがたいものだと思っていた。  清左衛門は顔を上げた。 「すると、今度の政権交代がこのまま静かにおさまるかどうかは、わからぬということだな」 「まだ、まだ」  と佐伯熊太は言った。 「これからまだひと波瀾も二波瀾もあろうさ」 「やはりそうか」 「考えてもみろ」  佐伯は盃を置くと、あごを引いて清左衛門を睨みつけるような顔をした。 「処分言い渡しのうわさが事実なら、そのあかつきには必ず朝田派から不平不満が噴き出して来よう。政権交代にともなう賞罰も役替えもまだ行なわれておらぬ。すべてはこれからの問題だな」      三  酔った二人が帰ると言うと、おかみのみさが店の外まで送って出た。そして清左衛門が、ここでよいと店の前で再三ことわったにもかかわらず、みさは花房町の通りが大通りに突きあたるところまで二人について来た。 「おかみが店を抜けて、商売に障りはせんのか」  佐伯が酔っただみ声で言った。言っただけでなく、佐伯はおかみにしなだれかかるように身体を寄せたりしている。  その大きな肩をうけ止めながら、おかみのみさはどうぞご心配なくと言った。 「お客さまは、あとおひと方が残っているだけでございますから」 「わはは、さようか。いや、遅うなった」  佐伯が振りむいたので、清左衛門もうしろを見た。宵の口に来たときは明るくて真昼のにぎわいだった花房町の通りも、店は軒並みもう半ば以上が行燈の灯を落とし、その下を歩く人の姿もまばらだった。時刻は四ツ(午後十時)を回ったに違いなかった。 「奉行が、こう遅くまでのんだくれておってはいかんな」  大通りに出たところで、佐伯はひとりごとを言って立ちどまった。にわかに本来の職掌に目ざめたとでも言うふうに、おかみから身体をはなすと佐伯は、上体を立て直した。 「いや、おかみ。今夜の酒と肴は格別にうまかったぞ」 「またどうぞ、おいでくださいまし。今度は鱈汁などを用意いたしましょう」 「鱈汁! それはまたこたえられんだろう、なあ三屋」 「いそぐにはおよばん」  と清左衛門は言った。 「霰もみぞれも降って、もう少し寒くなってからの方がいい。それ、鱈は何とかと言うではないか、ええーと」 「寒鱈か。三屋、貴様少し酔ったな」  しかし、そう言う佐伯も足もとが揺れている。 「つぎはみぞれが降るような寒い日に来て、熱い鱈汁で一杯やるか」  そう言うと、佐伯は急に背を向けて歩き出した。家の方角は清左衛門とは反対である。町奉行は不意に振りむいて言った。 「おかみ、三屋は少し酒を過ごしておる。途中まで送ってやってくれんか」 「あれがあの男のわるい癖でな。酔うとやたらにひとに構いたくなるのだ」  清左衛門がそう言うと、みさは笑いながら遠ざかる佐伯に頭を下げ、ついでに手を振った。その手がいやに青白く見えると思ったら、空に銀色の月が光っていた。 「寒かったろう。さあ、もどってくれ」  振りむいて言うとみさは会釈したが、清左衛門が歩き出すあとについて来た。 「おいおい、佐伯が言ったのは冗談だ。わしはそんなに酔ってはおらん」 「少し聞いていただきたいお話があるのです」  とみさが言った。 「歩きながらお話ししてはいけませんか」 「わしはかまわんが、そなたが寒かろう」  と清左衛門は言った。日が射す日中はさほどでないが、夜になると夜気は冷えて寒さは骨まで突きささって来る。その寒気は真冬とあまり差がない。  いいえとみさは首を振った。ちらと微笑した歯が白かった。 「まだ若いですから、寒さぐらいは平気です」 「そう言えばそうだな」  清左衛門はにが笑いした。 「寒い寒いというのは年寄った証拠で、考えてみればわしも、そなたぐらいの齢のころは寒さなどはあまり気にかけなかったものだ」 「ご自分をお年寄ふうにおっしゃるのは、おやめあそばせ」  みさが思いがけない蓮っ葉な口をきいた。口だけでなく、みさは肱を曲げて清左衛門の脇腹をやわらかくつつく媚態まで示した。 「まだ、そんなお齢ではございませんでしょ」 「なあに、もう年寄さ」  清左衛門はそう言ったが、そのとき思いもかけないものが、頭の奥にちらと動いたのを感じた。  動いたものは、一瞬の快楽《けらく》の記憶だった。おぼえていたのは心ではなく清左衛門の老いた身体で、その記憶は言うまでもなく、この春先の季節はずれの大雪の夜の出来事につながっていた。その夜清左衛門は、「涌井」に泊って夢に似た一夜を過ごしている。  ──凍えて、この女子にあたためてもらったのだと思ったが……。  どうも、それだけではなかったらしい、と清左衛門はうろたえている。いままで心のうちに隠れていたその記憶を引き出したのは、むろんたったいまみさが示した馴れなれしい媚態だろう。  快美な記憶は、鋭く清左衛門の身体を通り抜けて消えて行ったにもかかわらず、残された感覚はなまなましかった。清左衛門は思わず顔を赤らめたが、しかしその記憶は不快ではなく、むしろ快いおどろきをはこんで来たようでもあった。  ──それが真実か。  そうでなければ、この女子がこのように馴れなれしく身をすり寄せて来るわけはない、と清左衛門が思ったとき、みさが顔を上げた。 「寒くはございませんか」 「いや、大丈夫だ。さて、そなたの話というのを聞こうか」  清左衛門が言うと、みさは顔を伏せた。黙って数歩先に歩いた。  その姿を眺めているうちに、清左衛門の胸にかすかな懸念が生まれた。みさが、何かめんどうなことを持ち出すのではないかという気がしたのである。「涌井」のおかみの心根は、長いつき合いの間に十分読んでいるつもりだったが、さっき甦って来た記憶が事実なら、持ち出されることは客とおかみのことではなく、男女の問題である可能性がないわけではない。  ──いやはや……。  と清左衛門は思った。  その場合は、齢に似合わぬことではあるが、女子の言い分を十分に聞いてやらねばなるまい。妾を囲った小沼惣兵衛ほどの度胸はなくとも、逃げて女子に背中を見せては醜かろうて、と清左衛門が思っていると、みさが立ちどまって振りむいた。  そして唐突に言った。 「急なお話ですけれども、今度生まれ故郷に帰ることにしました」 「帰る? ほう」  清左衛門は呆然とみさを見た。帰るとわざわざことわるからには、行ったきりでここにはもどらぬということだろう。しかし、言い方が少少大袈裟ではないか。 「しかし、そなたの生まれ故郷というと、松原ではないのか?」 「いえ、本当は隣国の狭沼なのです」 「なんと、それはまた遠い」  と清左衛門は言った。狭沼領は隣国の支藩で、北辺の山に囲まれた盆地を城下町とする三万石足らずの小藩である。以前に、佐伯に聞いた話とはずいぶん違っていた。  みさの言葉に、地元にはない訛りぐせがあるのに二、三度気づいたことがあったが、なるほど遠い土地から来た女子なのだと清左衛門は思った。 「いつごろに相成るな」 「雪がつもらないうちにと思っていますけれども……」 「それはまた、にわかなことだ」  と清左衛門は言った。何やら年甲斐もないはなやかな色どりの夢を見ていたのに、いきなり灰色の現実に引きもどされたような、寒ざむとした気分にとらわれていた。  清左衛門は念を押した。 「ここにはもうもどらぬということかな」 「はい、そのつもりです」 「『涌井』はどうなる」 「おなみさんにあとを頼んで参ります。変りなくごひいきをおねがいします」 「ふーむ」  おなみは「涌井」の女中頭で、みさより二つ三つ齢が上のしっかり者である。清左衛門は路上に腕を組んだ。短い影が二つ、くっきりと地面に映っている。 「帰るわけを聞かせてもらえるかの」 「こみいった事情がございまして」  とみさは言った。  みさの家は油屋で、さほど大きな店ではないが使用人もいて、手堅い商売をしていた。子供はみさと妹の二人だけだったので、みさは十七のときに婿をもらった。  婿は同じ狭沼城下の塩商人の四男だった。江戸で商いの修業をして来たという触れこみで、齢は二十五、見てくれもわるくない男だった。男は神妙に働いたので、油屋ではよい婿をもらったと言われた。だが、一年近く経ったころに、男が馬脚を現わした。みさの婿は、じつの親にも隠していた病気、酒毒に犯された人間だったのである。  長い間の禁を破ってしまうと、婿の酒はとめどがなくなった。昼日中から酒の香をさせ、商いの方もおろそかになった。夜は酔って外で喧嘩をし、血だらけで家にもどることがあった。それでも店に出ることはやめなかったが、いま店にいたかと思うと、いつの間にか台所の隅にしゃがんで、茶碗酒をあおっているというぐあいだった。  半年ほど様子をみて、たまりかねたみさの父が、婿を離縁して実家にもどそうとした。すると婿は、舅であるみさの父を半殺しのめにあわせた。そのときから婿には、この世にこわい者がいなくなった。事実実家にも親戚にも、誰ひとり稲二郎という名前のその婿を始末出来る者はいなかったのである。  稲二郎はほとんど働かなくなった。そして酒の気が切れると、青白い顔をして頭から夜具をかぶり昼日中も寝ていた。しかし夜になって酒が入るとみさに挑みかかり、逃げるみさを追いかけ回しては殴りつけ、親たちの目の前で犯した。地獄図だった。  みさは親たちと相談して、まず妹を他国に奉公に出してから自分も狭沼を逃げ出し、この城下に来たのである。そして紅梅町の料理茶屋に住み込み奉公をはじめた。  子供二人を遠くに逃がしてから、親たちは意を決して町役人に稲二郎を訴えて出て、ようやく離縁に漕ぎつけた。しかし稲二郎は、それから三年も油屋から出て行かなかったのである。なにか人間ばなれした、妖怪のようなものが油屋に棲みついてしまったようにも見えた。  稲二郎がようやく家を出て行って半年ほどしたころに、みさの父親が急死した。長い心労のせいだろうと言われた。しかしみさは、親の葬式にも帰れなかった。稲二郎がまだ家の中をのぞきに来るので、帰って来てはいけないと母の手紙に記されていたからである。そのまま時が流れ、やがてみさは、思いがけない成行きから見込まれて万年町の油屋三海屋の嫁になった。そしてもともと病身だった夫が亡くなると、舅の好意で「涌井」のおかみにおさまった。舅は、息子の病身を承知で三海屋に来た嫁を憐れんでいたのである。みさはいつの間にかこちらの暮らしになじんだ。そして時には故郷を忘れていることもあった。  しかし、今年の春に稲二郎が死んだことを知った。その男は、最後の一、二年は酒毒のために廃人同様の有様だったという。その知らせが来て、みさは帰ることにしたのである。十五年ぶりの帰郷だとみさは言った。するとみさは、三十三になっているのである。 「奉公人がいて店の方は大丈夫ですけれども、母が年寄りましたし……」  うつむいて、みさは言った。 「ずいぶん迷ったんです。一時の借金も消えて『涌井』が儲かる店になったのは、つい二、三年前からですし……」 「そう言えば、相談ごとがあると申しておったな」  清左衛門は後悔に苛まれながら言った。 「なにやらせわしなく過ぎて、ちゃんと聞いてやれなんだ。済まなかった」 「いえ、もういいのです。ただ……」  みさの声がふと湿った。 「みなさんにお別れするのが辛くて。とてもよくしていただいて、楽しゅうございました」 「何も出来なかった」 「いいえ」  みさは首を振ると、つと清左衛門に胸を寄せて来た。そして低い声で、ちょっとだけわたくしを抱いてくださいませんかと言った。  化粧の香が、清左衛門の顔をつつんだ。みさのうるんだ目が、瞬きもせず清左衛門を見つめていた。 「こうか」  ためらいなく、清左衛門はみさの肩を引き寄せて抱きかかえてやった。おどろくほど、熱い身体だった。みさはじっと目を閉じていたが、ひと声喘ぐ声を洩らすと、清左衛門の胸に顔をうずめた。  肩を顫わせて、みさは静かに泣いている。清左衛門は泣くままにさせた。長い刻が過ぎた。 「ごめんなさい」  身体をはなすと、みさはすばやく袂で顔を押しぬぐい、清左衛門に笑いかけた。 「さぞ、ご迷惑だったでしょうね」 「いや」 「でも、三屋さまには、ぜひ二人きりでお別れを言いたかったのです」 「入口まで送ろうか」  清左衛門が言って来た道をもどると、みさは素直に一緒について来た。人影のない道が白くのびて、その上に二人の影が並んで動いて行く。 「察するに……」  と清左衛門は言って、みさを振りむいた。 「わしは、そなたの死んだ父親によく似ているらしいな。図星だろう」 「さあ、どうでしょうか」  みさはつつましい笑い声を立てた。そして花房町の入口までもどると、清左衛門の腕に手をかけてここでけっこうです、ありがとうございましたと言った。行きかけてから、みさはもう一度振りむいた。 「これで、思い残すことはありません」  と言った。背をむけたみさに、清左衛門も声をかけた。 「国に帰ったら、今度こそよい婿をもとめることだ」  みさは振りむいたが、答えなかった。月明かりに、笑顔が見えただけだった。      四  清左衛門は河岸の道を歩いていた。金井奥之助の葬式があって、野辺送りに行って来た帰りである。道の端には、二日前に降った雪が残っているが、まだ根雪になるにははやく、この雪も一度は消えるだろう。  半月ほどの間に、いろいろなことがあったと思いながら、清左衛門は曇天の下に光っているぬかるみに足を取られないように、ゆっくりと歩いている。  まず、かねて予告があったとおり、執政府からしりぞいた前の家老朝田弓之助に、五十日の閉門と減石二百石の沙汰がくだり、あわただしく法が執行された。そしてその時を待っていたように、藩内の役職の大幅な入れ替えが行なわれ、その異動にともなう形で両派の賞罰が公けにされた。  即ち遠藤派に属する者は昇進して新しい役職につき、中には家禄をふやした者もいた。遠藤派にわが世の春がめぐって来たのである。逆に朝田派の者は、これまでの役職を取り上げられ、あるいは小幅ながら減石の沙汰をうけて境遇の変化をかこつことになった。藩主の意を体した控え目なものではあったが、派閥交代にともなう変革はやはり藩を動揺させずにはおかない。  藩内が騒然とした空気につつまれているその間に、「涌井」のおかみみさが帰国して行った。隠居の清左衛門にとっては、藩内一新の動きに劣らない、深い感慨をもたらす出来事だったが、その感慨がさめやらないうちに、今度は金井奥之助病死の知らせを聞いたのである。病気ということも耳にしていなかったので、金井の突然の死は清左衛門をおどろかした。  金井奥之助は若いころの同僚だが、親しい友人とは言えない。ことに近年、奥之助がむかしの怨みを根に持って清左衛門を海に突き落とそうとした事件があってからは、二人はまったくまじわりを断った。  だから、おれにはかかわりのない他人の死、と傍観することも出来たのだが、清左衛門はやはり野辺送りに行って来た。ひところは、親しくつき合ったこともある同年配の人間の死は、やはり見過ごしに出来なかったのである。  だが、野辺送りに行っても気持は晴れなかった。草葺きの、粗末な笠門から担がれて出て来た柩が目に残っていた。  ──だんだんと、一人ずつああなる。  そう言えば平八をひさしく見舞っておらぬが、行ってやらぬと、と清左衛門が中風で倒れている大塚平八を思いやったとき、川の向う岸を人が走って行くのが見えた。  走って行くのは一人や二人ではなかった。武士も町人も、大人も子供も走り、人数は見ている間に次第に多くなった。走る人人は、向う岸を清左衛門が帰る方向とは逆方向にむかっている。  足をとめて見まもってから、意を決して清左衛門も後にもどった。そして橋をわたって向う岸に移った。その清左衛門の前を、切れ目なく人が走りすぎた。 「これ」  清左衛門は、非番の足軽ふうの男を見つけて呼びとめた。 「何事があったのだ」 「斬り合いだそうです」  言ってから足軽は、改めて足をとめて清左衛門に辞儀をした。 「場所はこの先の長柄町だそうです」 「よし、行っていいぞ」  清左衛門は足軽を解放すると、自分も小走りに駆けて長柄町にむかった。  長柄町は足軽長屋と町屋が入りまじっている場所で、青物や種物を商う二、三の店があることはあるものの、商人町ではない。裏町だった。  その長柄町の通りが人でいっぱいだった。人人はしきりに町の一角にある納屋を指さし、あそこだ、あの中だと言っている。奉行所から人が出て、弥次馬をそちらに近づけないように手配している様子もわかって来た。  人を掻きわけて前に出て行くと、町奉行の佐伯熊太がいた。熊太のまわりにいるのは、奉行所の同心だけでなく、どうやら大目付配下の徒目付も来ているようである。 「何事が起きたのだ」  そばに行って清左衛門がそう言うと、佐伯はおどろいた顔をむけた。緊張した顔色で言った。 「見てのとおりだ。とんだ捕物よ」 「相手は?」 「おい、むこうの連中を追い返せ。怪我人を出しちゃならんぞ」  佐伯は大声で配下に命令を下してから、清左衛門に顔を寄せると、声を落とした。 「村井寅太だ。心配したことが起きた」 「村井が何をやったのだ」 「下城する安富忠兵衛を襲った。ついさっきの話だ」 「ほほう、で安富どのは?」 「さいわい怪我で済んだ」 「襲ったわけは?」 「まったくわからん。その場に居合わせた者の話によると、村井は裏切り者と叫んでいたらしい」 「裏切り者か」  清左衛門は首をかしげた。元の中老安富忠兵衛は近年、朝田派に近づいていたはずである。裏切り者というからには、今度の政変にからんで朝田派との間に確執を生じたということだろうか。 「で、村井は?」 「追われて、あそこに入りこんだのだ」  佐伯は納屋を指さした。道に面している納屋の入口は、ぴったりと板戸がしまっている。納屋は表通りに店がある材木屋の持ち物のはずである。 「うかつには踏みこめんから、城に討手を要請したところだ」 「討手?」  清左衛門は、佐伯に顔をもどした。 「村井を討ち取る気か」 「説得はするが、応じなければやむを得まい。その用意だ。大目付が留守で、この場の指揮はわしにまかされているが、わしとしては良民の安全を第一に考えざるを得んからな」 「ちょっと待て、佐伯」  清左衛門は言って、町奉行の袖を引っぱった。二、三歩人からはなれてから、清左衛門はいま頭にひらめいたことを口にした。 「村井を斬っちゃいかんぞ」 「なぜだ」 「黒田欣之助の二の舞いになる」  佐伯には清左衛門の言ったことが、すぐにぴんと来たらしかった。まさかと言った。  大坂にある藩御蔵屋敷に役替えになった黒田欣之助は、大津まで行ったところで盗賊に襲われて横死した。財布そのほか、金目のものはすべて奪われていたと、藩は土地の係り役人から報告を受け取ったが、清左衛門にも佐伯にも、朝田元家老が口をふさいだのだとすぐにわかった。犯人は江戸屋敷に行ったという犬井彦之丞だろう。  だがその知らせはほんの十日ほど前、藩内が役職の総入れ替えで煮え立っているときにとどいたので、注目した者はさほど多くはなかったはずである。だが村井の一件はそのつづきだと、清左衛門には確信があった。 「そのまさかよ。村井は石見守さまの一件の最後の生き証人だ。藩の手でその口をふさいでもらおうという小細工に違いない」 「くそ!」 「村井を殺しては、後のち貴公が人に侮られることになるぞ」 「誰がその手に乗るか」  佐伯はわめいた。 「しかし、ではどうする」 「何としても説得して、村井を生かしたまま納屋から出すのだ。きちんと口書を取って、その際ひそかに、助命することを条件に石見守さま殺害の口書も一緒に取る」 「なるほど、その口書が遠藤派の財産になるか」 「村井は追放処分にした方がいいかも知れん。領内に置いては、いずれ朝田派に消される運命にある」  清左衛門が断言したとき、清左衛門も面識がある徒目付浅井作十郎がそばに来て、よろしいでしょうかと言った。 「やあ、どうだった」  と佐伯が言うと、浅井はすぐに報告をはじめた。浅井は城に行って来た様子である。 「間もなく月番家老の細谷さまが到着されます。討手三人とご一緒です」 「討手の名前は、わかっているかな」  清左衛門が聞くと、浅井は独特の野太い声で即座に名前を挙げた。 「馬廻り組の峰岡兵助さま、普請組の江坂常之進さま、御兵具方の平松与五郎さまの御三人です」 「よし、説得は平松にやらせよう。平松にはわしがよく言いふくめるから、心配はいらぬ」  清左衛門と佐伯熊太がひそひそと話し合っていると、不意にあつまった人人がどっと声をあげた。  見ると、馬に乗った新しい家老細谷孫三郎と、白い布で襷《たすき》、鉢巻の支度をした三人の討手が路上に現われたところだった。その中に平松がいるのを確かめてから、清左衛門は一歩しりぞいて佐伯に言った。 「隠居のわしが表に出るのはまずい。いま言ったことは、貴公から細谷どのに掛け合ってみてくれ」      五  暮れから降り出した雪はいつもの年よりも多く、領国は二月の声を聞くまでは、厚い雪に覆われた。その間は空から日が射すことも稀だったのだが、ようやく長い冬も終ったらしく、ここ数日、雪を押しわけて地上を照らす日の光は、まぶしく力強ささえ感じさせた。  清左衛門は、道の両側に掻き寄せられている雪の山を眺めながら、箭引《やびき》町から川端に出る道を歩いていた。今朝になって遠藤家老から使いをもらい、濠端の家老屋敷まで行って昼飯を馳走になって来たところである。  家老の用は、村井寅太の処分に関するものだった。暮れに起きた村井寅太の元中老襲撃事件は、清左衛門が佐伯を通して進言したとおりに審理がはこばれて解決し、十日前には村井の領外追放も終ったので、家老は清左衛門に謝意を述べるために屋敷に呼んだのだった。  村井は元の中老安富忠兵衛を襲ったことについては、頑強に朝田元家老の使嗾《しそう》を否定し、自分の一存でやったことだと言い張ったが、石見守の殺害については、意外に脆く白状した。  隠しても無益だと悟ったのかも知れないが、朝田元家老がおまえに安富を襲わせたのは、藩の手を借りておまえを抹殺しようとしたのだと言われたときに、村井は顔色を変えたというから、使嗾こそ否定したものの、村井にも元家老に対する反発の気持があったとも考えられる。石見守殺害の自白は詳細をきわめたという。 「あの口書が手もとにあれば、まずわが方の天下も十年は安泰……」  と言って、遠藤治郎助は穏やかに笑った。笑顔は穏やかだったが、言っていることはなかなか生ぐさいものだった。 「佐伯もそう言っておったが、すべてそこもとの配慮のおかげだ。そこもとも、そこもとの倅も決して粗略には扱わぬつもりだぞ」 「有難うございます」 「わしはな、三屋。朝田のように名利好みの亡者どもに利をあたえるのではなく、老若を問わず真に藩のために役立とうという者に道をひらいてやりたい」  昼飯をはさんでざっと一刻もの間、遠藤家老の熱のこもった藩政改革論議を聞かされて、やっと帰途についたところだが、清左衛門には家老に功を認められたといった気持の弾みはうすかった。もともと遠藤派のためというよりは、黒田、村井といった若い者の命が、みすみす政治的な策略のために失われるのを見過ごし出来なくて口をはさんだということでもあったからだろう。  それに、筆頭の家老と差しむかいで飯を喰ったなどといえば、むかしは家の名誉と思ったかも知れないが、そういうことからもいまは気持がはなれていることを、清左衛門は感じる。  ──わしは、隠居だからの。  と清左衛門は思っていた。  佐伯熊太は依然として町奉行を勤めていた。政権がかわっても、佐伯ほどの町奉行はおらぬという理由で、そのまま留任になったのである。佐伯のように、遮二無二現実とつき合う元気がないと、人は政治の生ぐささなどというものとは、なかなかそういつまでもつき合いきれるものではない。  もっとも、清左衛門の気持がそういうことから隠者ふうに動くのは、冬の間に、医者を呼ぶほどの重い風邪を患ったせいかも知れなかった。その風邪で、清左衛門はしみじみともう若くはないことを思い知らされたのである。  そのときの風邪は、いまも腰とか足とかにかすかな名残りを残しているような気もした。道はよく乾いているが、ところどころ雪の山から流れ出る水が大きな水たまりをつくっている。日射しを映してまぶしく光っている水たまりを、清左衛門は用心ぶかく迂回した。  ──風邪など……。  むかしは玉子酒でもぐいとやってひと眠りすれば、それであらかた治ったものだと清左衛門は思った。それが、変にこじれるところが年老いた証拠だった。  それに、気持に衰えがある、と清左衛門は思っている。たとえばそのときはさほどに深刻に考えたわけでもない金井奥之助の死が、いつまでも気持からはなれなかった。ある朝目ざめた床の中でふと、旧交を復活しておけばよかったか、と思ったりする。  金井奥之助の息子は、今度の政変では朝田派に属して働いたはずである。詳細は知らないが、政権が交代して日が射さない側に押しやられたことは、まず間違いがないだろう。いわば金井親子は、二度頼るべき派閥に賭けて、二度敗れたことになる。  失意の男が、おそらく失意のうちに死んだだろうことが清左衛門の気持を暗くした。旧交を復活すればよかったかと思うのは、気持がそういうふうに落ちこんで来るときだった。  生まれ故郷に帰った「涌井」のおかみ、みさのことも時どき思い出された。「涌井」にはその後も顔を出しているが、あとを引きついだおなみは男のようにさっぱりした気性の女で、さほど愛嬌はないが気持よく酒を飲ませる。  だが、酒の肴ということになると、どこがどう変ったということもないのに、みさがおかみだったときとは微妙に違ってしまったようで、そういうことまで、ふとみさを思い出すよすがになった。清左衛門はさびしかった。佐伯や大塚平八と飲み、そばにみさがいたころのことが、得がたいしあわせな光景のように思われた。その光景は、佐伯と餞別を持って「涌井」に行き、酔いつぶれた夜に終ったのである。  ──あれは……。  男運のわるい女子だから、と今朝もみさのことを思ったばかりである。  今朝、野塩村のおみよが野菜をとどけに来た。冬はどうしても青物が不足がちになるので、嫁の里江は大喜びでおみよを迎えたのだが、そのとき近くおみよが再婚することを聞いた。おみよは土地の言葉でいう|ごきり《ヽヽヽ》(後添いの夫)を迎えるのである。  里江の知らせで、清左衛門も玄関に出て祝いを述べた。 「それはめでたい。何か進物をとどけなければならんな」 「あら、けっこうですよ。ほんとに簡単な盃ごとをするだけですから」 「相手はよいひとか」 「ええ、それはもう……」  と言って、おみよは色白の頬を染めた。  そのとき清左衛門は、とっさにみさのことを思い出したのだった。男運にめぐまれないみさにも、よい婿が来るだろうかと思ったのだ。  だがこういうふうに、すでに過ぎ去ったことにいつまでも気持がとらわれるのも、気持が衰えて来た証拠だろうと清左衛門は思いあたる。元気なころは、過去など振りかえるいとまもなかったものだ。  ──案外……。  また現われた水たまりを、慎重によけて歩きながら清左衛門は思った。みさの方は、もうこの年寄のことなどは忘れているかも知れぬのだて……。  だが、そう思う尻から狭沼のあたりは、まだ雪が深かろうとも思った。清左衛門は顔を上げた。水色の空がひろがって、雲は空の片隅にほんの少しあるだけだった。風はなく、あたたかかった。  清左衛門は橋をわたった。そして、ふと平八を見舞って行こうかという気になった。河岸の道を少し南にさがると、大塚平八の家に行く近道に出る。  暮れに見舞ったときに、平八の息子の嫁が、お医者には少し歩くとよいと言われているのですけれど、と舅の無気力を嘆くように言っていたのが思い出された。しかしこの冬の大雪では、よしんば歩く気になっても、外には出られなかったろう。  清左衛門は、青白くむくんだ顔をして、言葉数も少なかった平八を思い出し、また少し気持が沈むのを感じた。  路地をいくつか通り抜けて、清左衛門は大塚平八の家がある道に出た。そして間もなく、早春の光が溢れているその道の遠くに、動く人影があるのに気づいた。清左衛門は足を止めた。  こちらに背をむけて、杖をつきながらゆっくりゆっくり動いているのは平八だった。ひと足ごとに、平八の身体はいまにもころびそうに傾く。片方の足に、まったく力が入っていないのが見てとれた。身体が傾くと平八は全身の力を太い杖にこめる。そしてそろそろとべつの足を前に踏み出す。また身体が傾く。そういう動きを繰り返しているのだった。見ているだけで、辛くて汗ばむような眺めだった。  つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打っていた。清左衛門は後を振りむかずに、いそいでその場をはなれた。胸が波打っているのは、平八の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。  ──そうか、平八。  いよいよ歩く習練をはじめたか、と清左衛門は思った。  人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽して生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。  家に帰りつくまで、清左衛門の眼の奥に、明るい早春の光の下で虫のようなしかし辛抱強い動きを繰り返していた、大塚平八の姿が映ってはなれなかった。今日の日記には平八のことを書こう、と思った。  門を入ると、襷がけで今朝おみよにもらった葱を土に活けていた里江が、立ち上がって手の土を払いながら近寄って来た。 「ご家老さまの方はいかがでしたか」 「うむ、昼飯を馳走になって来た」 「それはよろしゅうございました」 「用件はな」  清左衛門は話してやる気になった。 「この間又四郎にも話した村井寅太の一件だ。そのときのわしの助言をご家老は喜ばれてな、又四郎のことも粗略には扱わぬと申された」 「ありがたいことにございます。おとうさまのおかげでございます」 「ああ、里江」  家に入りかけて、清左衛門は言った。 「納屋から釣竿を出して来てくれぬか」 「かしこまりました」  里江がくすくす笑った。 「今年は、お早いお手入れでございますこと」 「それからな」  清左衛門は機嫌よく、もうひとことつけ加えた。 「平八が、やっと歩く習練をはじめたぞ」  初 出 「別册文藝春秋」一七二〜一八六号  単行本 平成元年九月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成四年九月十日刊