TITLE : 人麻呂の暗号    人麻呂の暗号   藤村由加 目 次 第一章 開かれた古墳・万葉集 第二章 枕詞《まくらことば》が解けた 第三章 多言語を操る歌詠《うたよ》み 第四章 人麻呂《ひとまろ》は告発する 第五章 死のジグソーパズル 第六章 人麻呂の遺書 アガサからの手紙 後記 人麻呂の暗号  〈凡 例〉 朝鮮語について 会話のことばは現代韓国語音で記したが、歌は『李朝語辞典』(延世大学出版・劉昌惇著)、『朝鮮語大辞典』(大阪外国語大学朝鮮語研究室編)で調べ、古語のあるものはその古語を使用した。 漢字について 漢字の音に関しては、すべて藤堂明保博士の『漢和大字典』(学習研究社)、『漢字語源辞典』(学燈社)によるものである。 第一章 開かれた古墳・万葉集  フェリーは白い波の尾を曳《ひ》きながら海原を渡っていく。夕映えの中をさまざまの輪郭を持った島がゆっくりと過ぎていく。この海峡の風景はずっとこのようだったにちがいない。舟の形や人の姿は変っても大昔からずっと……。  かつてどれほどの人々がこの玄界灘《げんかいなだ》を往き来したことか。まだ国境が不確かだった頃《ころ》、日本という国もまだかたまっていず、従ってはっきりとした外国という意識もなかった古代のことである。住み易《やす》さを求めて、この気候温和な列島に海でつながるあちらこちらから人々が渡って来ていた。とりわけ距離も近く、海流の利にも恵まれた朝鮮半島から渡来した人々の数は圧倒的に多かったに違いない。今、甲板に立って手すりにもたれている私の気分も、外国に行くというよりは、時を遡《さかのぼ》って何か親しいものを求めて、向う岸へ渡っているという気分である。  いつのまにか夕映えは去り、薄青い明るみを残すだけになっている。甲板を吹く風は冷たいというほどではないが、しばらく当っていると耐えがたくなってくる。私は一足先に船内に戻ることにした。関釜《かんぷ》フェリーはこれから夜のとばりの中、私たちの眠りをゆらしながら進み、目覚める時はすでに釜山港に浮かんでいるはずである。  韓国にはこれまでに二度飛行機で訪れた。成田から《ソウル》までわずか二時間余り、便利のようであるが、この船旅に比べるといかにも無機的で味わいのないものに思えてくる。それよりはまず日本列島を西へ抜けて下関からおもむろに船に乗り、海を越えて釜山に渡り、韓国の田園を横切りながらソウルへ向うという方が、気分としてはかえって近く感じられる。  自分の船室に入る前に私は、大ざっぱなしきりがあるだけの広間の一画で、くつろいでいるおばさんたちの話す韓国語に魅《ひ》かれるように仲間入りをしていた。  おばさんたちのほとんどが北九州の在日韓国人で、商いのためにこの海峡を行ったり来たりしているという。さっき乗船の際に免税のウイスキーを分け持ってくれないかと頼まれて戸惑い、結局断ってしまった。でもその時のやりとりがとりもつ縁で、こうして座に交わっている。ビールを飲みながらのおしゃべりの中身は、よくある世間話や身の上話である。 「あんたたち学生? 東京から来たの。あたしの息子もそっちに住んでいるんだよ」  とか、 「うちの嫁は日本人なんだけど、キムチが好きでねえ」  とかいった類。けれども普通と違っていたのは、おばさんたちが完璧《かんぺき》な日本語と完璧な韓国語を、タイミングに応じてひらりひらりと換えながら自在に話していることだ。私もできる限り韓国語でしゃべっていた。おばさんたちは私を勝手に同じ在日韓国人だと決めこんでいるらしい。私が日本人だと言っても、何も隠さなくたっていいだろうという顔をしている。みんな顔を見ただけではどっちの国の人間かわからない。ことばも両方わかるとなると、こういったおしゃべりのレベルでは国の違いも感じなくなってしまう。それが不思議なことに、とても居ごこちがいいのである。  ふとまた、古代はどうだったかな、と思った。船の上では、今私たちが話している日本語や韓国語にかぎらず、中国の色々な地方のことばやウラル・アルタイ系のことばなど、私たちの想像をこえるさまざまなことばが聞こえていたことだろう。そもそも、今でいう「国語」や、それに対する「外国語」という意識のかけらもなかった時のことだ。あったのは多分、その人にとっての比較的わかりやすいことばと、わかりにくいことばだけだったであろう。    聖徳太子はことばの天才 「《アイ》、《キヨウオラ》」  三、四歳の頬《ほお》のまっ赤なこどもが眠い目をこすりながら、雑談に夢中な母親の膝《ひざ》にもぐり込んだ。その瞬間、無意識に私の口をついてでたことばである。私たちが多言語活動で楽しんでいる物語の日韓版、センテンスごとに交互に日本語と韓国語で聞こえてくるテープの一節、それは「わあ、可愛《かわい》い!」という日本語に対応する韓国語の音声だった。その「キヨウォラ」という音声を初めて聞いた時、私は咄嗟《とつさ》に日本語の「清らか」ということばを連想したことを思い出していた。  思えばそれが私たちの記紀・万葉探究へのきっかけだったのである。多言語活動の提唱者、我らが祭酒《サイシユ》——中国において大学の学長などを表すことばで、まさに我らが祭酒は無類の酒好きで何かにかこつけては学生を集めて飲み歩く——が韓国語をこのことばの活動のひとつとして取り上げた時の話を思い出す。 「隣りの国のことばを大切にしよう。ことばを大切にすることは、そのことばを話す人間を大切にすることだ。隣りの国の背後に世界があるのであり、隣りの国を飛び越えた世界はない。多言語人間とは、どんな人をも飛び越えず、すべてのことばに開かれた心なのだ」  そして、私たちの韓国語や中国語などの活動が始ったのである。それから六年たった。  その頃のことである。 「古代日本ではさまざまなことばが飛び交っていた。人間は本来多言語存在なのである」  古代日本の言語状況を独特の想像力で語る祭酒の話を聴きながら、私たちはその意外な発想に好奇心をそそられた。知らず知らずに私たちは、「日本は単民族単言語国家である」という今日の常識に馴《な》らされていたのだった。 「聖徳太子が十人の問に一挙に答えられたという話は、僕には信じられない。人間は二人の話を同時に聴くことさえ不可能なのだ。しかし、彼がいわゆることばの達人で、中国人とは中国語で、古代朝鮮人とは古代朝鮮語で、アイヌ人とはアイヌ語で、また日本のさまざまな方言の問にも答えられたというのなら、十分理解できる。聖の一字をよく見てごらん。聖とは耳と口の王者ではないか。いまだ国語など定まらない言語流動期に、ことばの達人こそ、その共同体の水先案内人、リーダーとしての資格がある聖なる者だったのではなかったか」  そう言って祭酒は悪戯《いたずら》っぽく笑った。 「聖徳太子のまたの名は豊聡耳尊《とよとみみのみこと》というじゃないか」  その時、この話を深い洞察力《どうさつりよく》を持って聴いていたのは私たちの研究のリーダー、アガサただ一人にすぎなかったと思う。    私も韓国語が話せる  酔夢にも似た船旅を経て、釜山より一路セマウル号で北上し首都ソウルに着く。  私にとって三度目のソウルである。いつもその活気には目を見張らせられる街なのだが、前に来た時よりも、オリンピックをひかえての都市開発がぐんと進んでいる。池袋のサンシャイン60より三階分高いことを誇る六三《ユクサム》ビルも竣工《しゆんこう》していた。東洋一の高さというわけである。どこもかしこもガラスばり、ピカピカのビルだらけである。そんなビルの谷間に、伝統的な韓国の家屋が肩をすぼめるように並んでいる。  何といっても私たちが「わあ、韓国にやって来たんだ!」と実感するのは、ハングルの看板の汎濫《はんらん》を見た時である。かつて漢字を共有した隣り同士だったことを忘れさせるほどの、ハングル、ハングルの洪水《こうずい》である。漢字の看板はほとんど見あたらない。  前に来た時は動いている車の中から看板を読もうとしても、最初の一字がやっと間に合う、そんな程度だった。今度はもうずいぶんすらすらと速く読めるようになっている。「《ソウル》」とか「《キンポ》」などと一つ一つ声に出して読んでいた。こんなにすらすら読めることが、自分でも信じられず不思議でたまらない。そのうち「キャバレー」「オリエント」など、読んでみてから、なあんだ英語だったのかというものもあって笑ってしまう。日本では外来語は主としてカタカナで書き分けるが、韓国ではハングルひとつの中にヨーロッパ語も漢語もすべてがもぐり込んでいる。  韓国語に親しみ始めた頃、初めは雑音のように聞こえていた韓国語の音声も、繰り返しテープを聴くことで、一年もたつとずいぶん耳に残るようになってきた。そのころになると音楽をハミングでもするように、韓国語の断片が口をついて出るようになった。言える部分が増え、自分の言っている韓国語の大まかな意味も見えてくるにつれ、そのことばを解《わか》る人、受けとってくれる人に無性に会いたくなった。韓国とのホームステイプログラムに、私は一も二もなく参加したのだった。四年前のことである。  初めての韓国訪問での私のホームステイ先にはこどもが四人もいて、お母さんはいかにもお袋さんと呼ぶにふさわしい、そんな庶民的な家庭だった。少々日本語が話せるのはお父さんだけ、しかも昼間は仕事で不在である。私たちのことば探しが始った。私はまるで二、三歳のやっと片言を話し始めた韓国の赤ちゃんになったような気分だった。 「《マーニ》 《モゴラ》(沢山お食べ)」  やさしい《オンマ》(お母さん)は、いつも手製のキムチと御飯を山盛りにして、目を細めてすすめてくれる。私は、「《カムサハムニダ》(ありがとう)」の繰り返しである。私は、いつも家にいる五歳と二歳の女の子と特に仲良しになり、いつの間にかまるで家族の一員になっていた。何といってもチビたちといると、言語的にやっと対等でいられるようで安心なのだ。  ある時、お腹が空いて思わず、 「《ペゴパー》」  と言ったら、《オンマ》が笑いころげた。たしかにテープの中にある、日本語の「お腹が空いた」に対応する韓国語の音声のはずである。よく聞くと、それは「お腹が空いた」の幼児語で、むしろ日本語の「腹減った」のニュアンスに近かったらしい。年頃の娘が「腹減った」では色気も何もあったものではない。 「《ペガ》 《コツプムニダ》って言うのよ」  《オンマ》があとでやさしく教えてくれた。  しかし一週間も過ぎるころになると、《オンマ》の話す韓国語もほとんど解るようになっていた。そんな自分が天才のように思えてきたことが昨日のことのように思い出される。無意識に私の中に溜《たま》っていたテープの韓国語が、そのことばが通じる空間を得て、溢《あふ》れるように話し始めていたのである。    異邦より来たる 「理窟《りくつ》っぽいとか白っぽいの“〜ぽい”というのも韓国語の《ポイダ》(見える)から来たことばではないか?……」  その頃、私たちの仲間の間では日本語と韓国語とで音声が似ていることばを見つけるのがはやっていた。「マニモゴ」の《モゴ》(食べる)は、日本語の「モグモグ食べる」という時のモグの元ではないか。「《ペゴパ》(腹減った)」は日本語の「お腹がペコペコ」に通じるのではないか。「のっぽ」というのは韓国語の「《ノプン》(高い)」からきたことばではないか——などなど、次から次へと見つかっていく。日本語の「あらそう」というのも、韓国語では「《アラツソ》(わかった)」となる。擬音語、擬態語にいたっては、ほとんどが似通っているということもわかってきた。だいいち語順が同じであり、ことばのメロディの大まかなうねりも似ているのである。  実はこのように日本語を韓国語に対応させる研究はずいぶん昔にも行われていた。江戸時代の学者新井白石は『東雅』の中で、日本語の中に韓国語の転じたものが多いことを述べ、その実例を八十語ほどあげている。 「母(おも)旧事紀《くじき》、日本紀等に母の字、読て、『オモ』といひけり。百済《くだら》の方言にも母を『オモ』と云《い》へり、今も朝鮮の俗、母を『オモ』といふは古《いにしへ》の遺言也……」  また、同じく江戸時代の考証学者藤井貞幹に至っては『衝口発』で次のように断じている。 「本邦の言語、音訓共に異邦より来たりしものなり。和訓には種々の説あれども、十に八九は上古の韓音韓語、あるいは西土の音の転ずるなり」  いつの間にこのような観点が日本語の研究から消えてしまったのだろうか。私たちの記紀・万葉の研究は、総じて日本語系統論を問題にしているのではない。隣接の言語が互いに影響し合ったであろう、その関係性を問題にしているのだ。渡来人たちが古代日本の言語世界に大量の彼らのことばを運び込んできていたということは疑いようのないことなのだから。  興味深いのは、日本語ではもう意味の失われているように見えることばを韓国語におきかえてみると、意味がくっきりとしてくるものが数多くある。日本語のモグモグという音が、もともと食べるという意味を持っていたのではないかということなどもそのごく身近な一例に過ぎない。考えてみれば、はじめから意味のないことばなどありえないではないか。    だるまさんがころんだ  私たちが韓国語の音声に、日本語の意味を見つけ、「アイ、キヨウォラ」の音声に日本語の「清らか」の語を連想するなどワイワイやっているころ、アガサはすでに一歩先に踏みだしていた。親から子へと伝承された昔ながらの決まり文句が、日常の暮しの中にいっぱいちりばめられている。そういったことばは、いちいちもとの意味がわからなくても誰も気にしない。これこそ韓国語で見ていけば意味がみつかるかもしれない——というのだ。  アガサは「いないいないばあ」を例にとった。誰もが赤ちゃんをあやす時に思わずやってしまうしぐさである。これに韓国語をあてはめ、「《インナ》 《インナ》 《バア》」とした方が、ぴったりとくるというのだ。意味は「いるかな、いるかな、見て!」となる。  この話には、私たちもさっそくとびついた。私たちがふだん何気なく使っている意味不明のことば——そうだ、歌いつがれているわらべ歌や遊びことばは忘れられた韓国語の宝庫かもしれない……。ここではそのうちのひとつだけを紹介しておこう。 「だるまさんがころんだ」という遊びがある。だるまさんといえば例のまっ赤な人形を思い浮かべるが、本来は、中国禅宗の始祖、菩提達磨《ぼだいだるま》。「面壁九年」、壁に向って九年間座し、悟りをひらいたという故事がある。  ところで、達磨の達をダルと読むこと自体、日本語で他に例があるのだろうか。中国語では「da」。ダルと読むのは韓音においてのみである。  座りっぱなしの人が転ぶというのも変である。「ころんだ」という音に近い韓国語を探すと「《コロオンダ》(歩いてくる)」があった。神妙に座禅を組んでいるはずの達磨が、かりに歩いたとしたらどうだろう。それを見た者も、見られた達磨もびっくりするに違いない。  これを実際の遊びに当てはめてみよう。オニが「達磨さんがころんだ」と言って振り返る。皆は、パッと立ち止って「どうだ」と言わんばかりに身じろぎもしない。これを繰り返すうち、歩いているところを見つけられてしまった子はオニにつながれる。この遊びが「始めの一歩」のかけ声で始まることや、おしまいに「何歩」で届くかを競うことなどを考えあわせても、「転《コロ》んだ」よりも、「《コロオンダ》(歩いてくる)」の方がふさわしい。  このような例が他にいくらでも見つかるのである。    ハングル文字の背後に  ソウル到着の夜、夕飯をとった店は横丁を入り込んだ所にある純韓国式の小さな食堂だった。ハングルの看板の間をぬって歩いてきたのに、その店に入るとうって変って漢字があふれている。天井も壁も毛筆の漢字だらけなのだ。お店の人に尋ねてみると、本草学(薬草学)の能書きであるらしい。  この店に限らない。韓国では一歩家の中に入れば、漢文の掛け軸などは、日本よりもずっと多く見うけられる。前にホームステイした家もそうだった。漢字を一掃するかのようなハングルだらけの表通りとは対照的に、家の中にはひっそりと根強く漢字の伝統が息づいているのである。  韓国語の「こんにちは」は「《アンニヨンハシムニカ》」というのだが、その「《アンニヨン》」は、もともと漢字の「安寧」で、また「《カムサハムニダ》(ありがとう)」の「《カムサ》」は「感謝」の韓国訛《なま》りである。これらの韓国語がもともとは中国語(漢字)の輸入だった——と知ってなるほどと思ったものである。  そのうち、韓国語そのものだと疑いもしないで使っていた「《ミアネヨ》(ごめんね)」や「《チエソンハムニダ》(申し訳ありません)」の「《ミアン》」の部分が漢字の「未安」であり、「《チエソン》」が「罪悚」であるというようなことを知るに及んで驚いたことも再三だった。これらは「いまだ心安らぎません」「罪をおそれます」という、もともとは中国語だったのだ。このように漢字にすると恐ろしく難しそうなことばを、日常の口語として、こどもでも使っているのである。  その頃、私たちもようやくハングル文字が読めるようになっていた。初めて韓日の辞書を引いた時の驚きは今でも忘れない。もともと韓国語だとばかり思って日常的に使っていることばのほとんどが、漢字すなわち中国語の韓国語訛りだったのである。言いかえれば韓国語の語彙《ごい》の大半が中国語からの輸入によるものなのだ。私たちは文字の持つ圧倒的な威力に目を見張った。  朝鮮は中国とは地続きだから、中国漢字文化圏との接触は、海を越えた日本のそれよりはるかに濃密で、時代もはるか遠く遡《さかのぼ》ることができるだろう。韓国の独自の文字としてハングルが創《つく》られたのは一四四六年、八世紀ごろの日本の平仮名・片仮名の発明より遅れること数百年である。日本のそれに比べてはるか長期にわたって、韓国は漢字文化(中国語)の影響下にあったのである。文字を持つ前の言語はきわめて流動的だったろうし、文字に残された以前の古代朝鮮語について、私たちは知るよすがもない。  李朝第四代、世宗によるハングル文字(当時は訓民正音)の創制は、漢字文化一辺倒の支配からの離脱・独立を意味していたのである。漢字にかわるハングル表記の浸透は、大量の語彙がもともと漢字、すなわち中国語であったことを忘れさせる。特にハングル世代と呼ばれる若者たちにとって、韓国語はもとから韓国語なのである。    文字の渡来・言語の統一  アガサが古代朝鮮語との関連をふまえながら、万葉集を読み解く作業に手をつけ始めているという。私たちにはそのことの意味するところすら解らなかった。 「万葉集って、もともとは漢字だけで書かれていたんだね」  私たちはいまさらのように思い出したのだった。万葉集を繙《ひもと》きはじめた頃《ころ》のことである。このうかつさは、私たちだけの落ち度ではないだろう。中学・高校の古典の授業では、まず読み下し文にふれて、その奥に漢字だけで書かれた原文があることまでには、なかなか指摘が及ばない。市販の本でも原文抜きで紹介されているケースの方が圧倒的に多い。いかにも百人一首のカルタや、絵巻物のように、かな文字混りでさらさらとしたためられているようなイメージを、私たちはいつの間にか持たされてしまっていた。  歴史年譜によると、西暦二八五年ごろ(または四世紀)王仁《わに》が「論語」「千字文」を持って渡来したと記されている。これが一般的には、初めての文字の伝来というエポックメーキングな出来事として捉《とら》えられている。しかし、王仁なる人物が、突然文字をあたかも他の物品同様に一挙にドサッと持参したなどと考えられるだろうか。王仁の渡来に先立つことはるか以前から、ある時は小規模に、ある時はかなり大規模に渡来人がやってきていたであろう。すでに文字を持っていた大陸の先進文化人たちが、文字だけを残し、身ひとつで渡ってきたなどということはありえない。長い年月にわたって、渡来人たちは大量のことばを文字とともに、日本の古代言語世界に運びこんできていたに違いないのである。この文字の渡来は、他のどんな物品、技能や制度の渡来にもましてはるかに重大なことであった。いかに先進的な思想や技術であっても、文字なくしてその土地に根づくことは不可能である。  文字の渡来以前にも土着の言語が数多く話されていたであろう。とすれば、文字の渡来の意味はさらに重大である。文字を所有する以前の言語は定着性も低く、流動的で、語彙数もかなり制限されていたに違いない。文字を持つことで言語は、一挙に定着性を高め、造語の可能性のワクも大きく押し広げられる。  このように考えると、文字こそが言語統一へ向けての唯一《ゆいいつ》の足がかりだったのである。古代の有力言語——より多くの人々が話していた言語——のひとつが渡来人と結びつき、渡来した文字を使って、共同で言語の統一に動きだしたのである。支配体系の確立へ向けて、大きく古代史はうねりはじめる。  私たちは、やがていわゆる和訓(やまとことば)というものも、今まで信じられてきたように、すべてそのころすでにあったものではなく、その多くが漢字を共有しながら、渡来人と共に古代朝鮮語や中国語などを取り込みながら創られたものだということを知るようになる。そもそも、ことばは現在でもあるものではなく、日々新しく創られているものなのだ。 「律令制度などを受けて立つ日本語(やまとことば)はなかったんだよ。渡来した中国語がそのまま日本の支配のための制度として居ついてしまったんだ。そういえば、現在でも法律用語にはほとんど訓読みはないね。古代の名残りかな。支配のための言語は中国語。漢字の音読みはもともと中国語であり、漢字による造語だって、中国の造語法のアプリケーションに過ぎない」  祭酒がぽつんと言った。  私たちは日頃使っている古語辞典を開いてみた。あるわ、あるわ、古代より漢字の音で造られたと思われる語彙が、無数に日本語然として、したり顔で居すわっている。これらはすべてもともと中国語(漢語)だったのである。    情報を制するものは世界を制す  今、私は日本における最古の書物、古事記、日本書紀、万葉集と書きかけてハッとした。現在にまで遺《のこ》されている日本最古の書物と書くべきだったのだ。 「記紀・万葉が突如として完成品の文書として出現したなどということが考えられるだろうか。それ以前に、古代人の過渡的な言語的営為を物語る文字で書かれた無数の文献があったに違いない……」  と祭酒が言った。当然のことであろう。  四、五世紀ごろまで、文字通り大陸と日本は、一衣帯水であった。当時の日本は、半島における高句麗《こうくり》、新羅《しらぎ》、百済《くだら》の争乱を鏡のように映し出していた。日本に渡来したさまざまな部族の親類縁者が、隣りの半島で勝ったり負けたりしていたのである。その頃、大陸の政争は、生活もいまだ安定せず、ことばもよく通じない異郷にいる渡来人たちを一喜一憂させたであろう。いつの日か帰らん、わが故郷へ……。  しかし、やがて定住を決意する者たちも数多くなってくる。土着の豪族たちにとって渡来人たちは、眩《まばゆ》いような先進文化人たちだった。その着ている装束はクリスチャン・ディオールのデザインなのだ。作陶、銅、鉄、土木、建築、医療などの最先端技術が次々ともたらされる。それは巨大な情報産業、文字すなわち漢字とともにやってきたのだった。 「情報を制するものは、世界を制する」  何処《ど こ》かで聞いたようなことばである。 「漢字に習熟せよ。外国語をマスターせよ」  確実に、文字、漢字による言語統一へと状況は進展してゆく。渡来人たちもこの新しい言語世界に定着しはじめる。大陸と訣別《けつべつ》する日も近い。やがて人々は新世界での覇権《はけん》を意識するようになる。その到達点にあるのが、天武・元明朝に太安麻呂《おおのやすまろ》により筆録されたといわれる『古事記』であり、藤原不比等《ふひと》らの手になる正史『日本書紀』の編纂《へんさん》だった。 「もともと、この島国の正統は私たちなのだ」  そう言っているのである。  このような時代において、その為政者たちの頼みの綱は、さまざまな言語に通暁《つうぎよう》し、文字(漢字)に精通した人物であったことは言うまでもない。支配のもととなる法律、制度、ひいては思想などのすべてが、大陸からもたらされ、漢字によって定められるのである。  歌聖、柿本人麻呂《かきのもとのひとまろ》。歌聖の称号が与えられているのは万葉歌人中、ごく限られた人物にである。「歌聖」とは「ことばの魔術師、天才」というほどの意味であろう。柿本人麻呂は宮廷歌人といわれている。しかしその当時の宮廷歌人とは、たんなる優雅な歌の専門職などであったのだろうか。彼の生きた時代背景を考えるのであれば、「さまざまな言語に通暁し、文字に精通した人物」である人麻呂は、為政者にとって最も重要な存在であったはずである。しかし、その名は正史『日本書紀』のいずこにもない。  半島も新羅の統一により落ちついてくる。もう移住してくる人も少なくなった。日本も安定期を迎え、それまではひたすら吸収することに忙しかった文字や文化を、自国流に消化する時期に来ていた。中央集権が不動のものとなり、日本が独立した国としての自信を持てるようになると、もと来た半島のことなどは意識的に忘れようとする。近親ゆえにかえって激しく離れようとする。こちらが「わが邦《くに》」になることであちら側が外国になったのである。  そして自分たちの出自も、ことばも、何もかも、もとからこの日本で生まれたのだと主張するようになる。それが『古事記』『日本書紀』の編纂の目的だった。それ以前にもさまざまな文字の表現で、多くの文献が編まれていたに違いない。だから、新しく覇権を握った支配体制がまっ先に行ったのは、他の系統の出自をわずかでも暗示する文献をきれいに抹殺《まつさつ》することだったろう。『古事記』『日本書紀』という支配者の文献が、現存最古ということ自体、この間いかに多くの証拠湮滅《いんめつ》、焚書《ふんしよ》があったかを思わせる。たとえば十四世紀、北畠親房《きたばたけちかふさ》による『神皇正統記』には、 「昔、日本は三韓と同種なりと云ふことのありし、かの書をば桓武《かんむ》の御代に焼き捨てられしなり」  という文章がみられるのも、そのことのほんの一端を示しているに過ぎない。  そんな中で、もともと中国語だった漢字は、日本語の中で生き続ける。    古代朝鮮の万葉集『新羅郷歌《ヒヤンガ》』  ソウルにある東國大学の古典の書庫は、暗くてひんやりとし、古書特有の臭《にお》いが漂っている。おそるおそる『新羅郷歌』を手に取ってみる。糸でとじられたその本は、初期の活版印刷と見うけられる大きな漢字で埋めつくされていた。こんなにも古ぼけた異国の本の中に、自分たちが知っている歌を見つけると古い友だちに会ったようにうれしいのである。  私たちが万葉集と付き合いはじめ、ようやくその白文にも慣れた頃、『新羅郷歌』の存在を知った。漢字だけで書かれた朝鮮語による現存最古の歌である。それをはじめて見た時私たちは万葉集と瓜《うり》ふたつだなと咄嗟《とつさ》に思ったのである。  とにかく、もう少しくわしくどんなものか見てみたいということで、国会図書館へ行ったのだった。貸出しカードを探すと、わずかに小倉進平の『郷歌及び吏読《りと》の研究』と金沢庄三郎や、土田杏村《きようそん》の論文があるのみだった。それにひきかえ、万葉集関係の本の多さはどうだろう。貸出しカードが抽《ひ》き出し三本分ぐらいぎっしりつまっている。この中で『新羅郷歌』や朝鮮語に言及しているものが、はたしてどれほどあるのだろう。  私たちは、『新羅郷歌』のページをめくることで、また一つの新しい漢字の世界と出会った。なかでも『三国遺事』に収録されている物語と歌のいくつかに、特に親しみを覚えたのだった。 『新羅郷歌』は、ちょっと意外な感じがするかもしれないが、現存するものはわずか二十五首のみである。いくたびかの政変による焚書の中を、くぐり抜け、命からがら逃げのびたといった趣である。これらの歌のみが、漢字を朝鮮風に使いこなしていた文字先進国、古代朝鮮人の工夫を見ることのできる唯一の貴重な資料なのである。  そこでは語の並びがすっかり朝鮮語になっている。それはほとんど日本語の語順と一致する。助詞や語尾変化などを漢字の音を借りて付し、また、固有名詞や、もともとの朝鮮語も、同じように漢字の音を借りて表記されている(このような漢字の使用法を吏読《りと》という)。  ここまでいえば明らかなように、これは万葉集における漢字使用法や万葉仮名の原型ではないかと思わせるのに十分なのだ。万一、万葉集の中に古代朝鮮の郷歌《ヒヤンガ》が一首紛れこんでいたらどうだろう。漢字は表意文字であるし、その型式の相似から、なんとかやまとことばで訓《よ》み解いてしまっていたかもしれない。  このように、漢字は日本に到来した時点で、ある程度消化しやすくなっていた。材料を中国語(漢字)に求め、その調理法を古代朝鮮から学び、次第に日本風の味つけにしていったものが、万葉集にみられる漢字の使用法ではなかったか。これがたんに推測のみに止《とど》まらないことを証《あか》しだてるのが、『新羅郷歌』二十五首なのである。  書庫の中でたまたま手にした本が面白かった。漢字だらけの中に“てにをは”に当る部分だけが表音文字のハングルになっている。最小限のハングル混り文である。語順も朝鮮語になっており、もともと漢語の箇所はそのまま漢字にしてあるから、日本人の私たちにとってもそのまま読めてしまいそうである。日本の漢字かな混り文の成立に比べはるかに時代は下るが、その表記方法が、漢字のみの時代からハングル一辺倒へと移るまでの、過渡的な姿を見せていて興味が尽きないのである。    漢字を共有する一つの世界  韓国で私はひとつの“漢字ゲーム”をやってみた。万葉初期を代表する柿本人麻呂の歌の、漢字のみで書かれた原文を書いて、漢字を共有していた韓国の人たちに見せる——。それなりに読めるのだろうか。ほんの思いつきだったが、ぜひその反応を眼《ま》のあたりにしたい。それも、研究者に見せたりするよりは、街頭で無作為にやってみようということになった。旅の恥のかき捨てか、興味の方が先にたって私を行動的にする。韓国人がその漢字を韓国流で読むと、私たちが見つけられなかった新しい意味が出て来るかもしれない。なによりどんな風に読まれるのか、その生の声に触れてみたかったのである。まずはお年寄りが多いといううわさのパゴダ公園に行くことにした。なんといっても、ハングル世代の若者よりもお年寄りの方が漢字に対する馴染《なじ》みが深いだろうと思ったからだ。  時は昼下がり、緑豊かな庭園のそこかしこにたむろしているおじいさんたち。さすがは韓国と感心する。儒教の教えがゆき届いているお国柄《くにがら》ゆえ、男の長老は誰よりも尊敬され、こうして出向けば仲間に会えるという場を持っている。ともかく、そこでインタビューを始めたのである。  私は、漢字だけで書かれた人麻呂の歌のプレートを五、六枚用意していた。そこにはかの有名な「東野《ひむかしのの》に炎《かぎろひ》の立つ見えて反見《かへりみ》すれば月傾《つきかたぶ》きぬ」の白文が書かれている。まず昔ながらのパジチョゴリを着ているおじいさんに「《イゴスン》 《イエンナルイルボンノレイムニダ》。《チヨム》 《イルゴヂユセヨ》(これは古い日本の歌です。ちょっと読んで下さい)」  とたのんでみる。そうしたらこのおじいさん、さっそく、 「ひがしの……」  と日本語で読みはじめた。それでは困る。私が聞きたいのは韓国語読みなのだ。なにしろお酒を飲みながら、おしゃべりしたり、将棋をさしたりしているおじいさん達だからひまである。たちまち人だかりができてしまった。これではらちがあかない。分厚い輪からやっと脱け出し、別の所へ行ってやり直そう。今度はもう日本の歌とは言わなかった。それでも日本語で読もうとする人がいる場合には、「韓国から来た歌かも知れないんです」とまで言い添えた。  たいていの人はまず漢字を韓国流の音で読む。「意味はわかりますか?」と聞くと韓国語で意味を言ってくれる。現在の解釈で地名とされている「嗚呼見之浦」の「嗚呼」を、ある人は「嗚呼《オホラ》(ああ悲しや)」という感嘆詞に受け取った。表意文字である漢字だから、漢字を知っているおじいさんたちには読めそうな気がするのである。  ソウルの名門大学のひとつ成均館大学の広い芝生には、あちらこちらで若者たちが、車座になって楽しげに語らっている。その一つに割込み、さっきと同じように人麻呂の歌を差し出してみる。難かしいなあと笑いながら、皆でああだ、こうだと口々に読んでくれる。やはり漢字から受け取る単純な意味が出て来た。面白かったのは、「鈴寸釣」というところである。これは「魚のすずきを釣る」という解釈が定着している箇所だが、そんな日本語の訓みが彼らに解《わか》ろうはずがない。誰かが、 「これはきっと、釣り棹《ざお》に鈴が付いていて、魚がかかると鳴るんだよ」  と言ったりした。  韓国語による斬新《ざんしん》な解釈が出て来たわけでは決してなかったが、改めて、漢字を見れば韓国の人たちも、私たちもほぼ同じ意味を共有することができるという、ごくあたりまえなことを眼のあたりにしたのである。そういえば以前、韓国人の友だちと話していて、ことばが通じなくなる度に、お互いに漢字を書いたということも思い出される。たとえば私が漢字で“自然”とか“自動車”と書くと、相手が「あー、自然《チヤヨン》」「あー、自動車《チヤドンチヤ》」とひざを打ってニッコリするように、読む音は変化していても、受け取る意味は同じなのだ。  きっとこれが中国、北京の公園でも、人麻呂の白文はすべて漢字だから、皆読めそうな気がして人垣《ひとがき》ができるに違いない。漢字を共有しているユニバーサルな意味の世界が、中国、朝鮮半島、日本の底流にはあるのである。  中国でも、漢字の読み方は、土地柄による読み方にまかされてきた。ひと口に中国語といっても、多様な方言圏に分かれ、文字に頼らないかぎり音だけでは通じないことの方が多いのである。    多言語の世界観  万葉集のほとんどが後世のやまとことばでかなをふることができたのも、それが表意文字である漢字で書かれていたからにほかならない。とにもかくにも、万葉集の数千首をやまとことばで訓み解いたという手腕は、並大抵の力量ではない。読んだというよりは、文字どおり訓み解いたのである。中には牽強付会《けんきようふかい》とすら思われるものも少なくない。漢字が映し出す意味世界を力ずくで、三十一文字の短歌形式におきかえたとでも言った方がふさわしい。  これがもしローマ字のような表音文字で表記される言語だったら、ことばの音が変れば、たちまち外国語、あるいは死語に近いものになってしまうだろう。  そう言えば、これも当り前のこととして気にもしていなかった中国語の李白《りはく》や杜甫《とほ》の詩も、日本で訓点がふられ、さらにかなまじりの読み下し文になって親しまれている。もともとは中国語だということすら忘れそうになる。万葉集の初期の歌に関しても似たようなことがいえるのではないか。何世紀も後の日本語による訓み方を、あたかも初めからそう詠《よ》まれたかのように思い込み、とんでもない陥《おと》し穴にはまり込んでしまっているのではないだろうか。  とにかく『万葉集』は『古事記』『日本書紀』とともに、現在に至るまで生きつづけている。『万葉集』という名の由来については諸説あるようだが、私たちにとってはそれこそ「万《よろず》の言の葉」で歌われているということで、ぴったりの名前である。多言語——複数の国のことばが詠み込まれているに違いないそんな万《よろず》の言の葉の中で、私たちは気ままに宝探しを始めたのである。  万葉集を読み解いていくとき、どうしてもおさえておかなければならない点がいくつかある。まず、万葉集全二十巻四千五百余首が、途方もなく長い年月にわたって詠まれた歌の集積であるということである。一番古いと言われている磐姫《いわのひめ》の歌が四世紀初めの作といわれ、一番新しい大伴家持《おおとものやかもち》の歌が八世紀中頃に詠まれている。実にその間四百年以上。この期間を単純に当てはめてみるならば、現代の詩人の作品と、安土桃山時代の歌人の作品とが、一つの歌集に同居しているというような桁外《けたはず》れな規模の歌集ということになる。天皇から読み人知らずまで、さまざまな人物が登場すること。長歌から短歌まで、これもさまざまな歌の形式があることなど。こう考えれば、万葉集の歌の内容が変化に富んでいるのもまた当然なことである。    表記法に隠された秘密  記紀の編纂《へんさん》は七世紀後半から八世紀の初頭にかけてである。すでに古代王朝はようやく安定期を迎え、自分たちの言語、日本語の漢字による表記の方法が、それなりに統一的に確立されていた時代と考えていいだろう。それにひきかえ、万葉の歌の初期のものは、それをさらに数百年も遡《さかのぼ》るものが多い。事実、万葉集ではその漢字の使用法が、初期のものと後期のものとでは、くっきりと異なっている。私たちはこの漢字使用法の変遷《へんせん》をたどることで、日本語が成立していくドラマを垣間見《かいまみ》ることができそうな気がしたのである。  後期の万葉集の表記は、一つの音に漢字一字を対応させているものが圧倒的に多い。さながら仮名文字発明前夜の観がある。そのまま仮名に書き換えてもさしつかえがないほどだ。もう漢字は表音のための道具にすぎなくなっている。リズムも五七五七七の定型がきっちりと確立し、いかにも私たちの知っているやまとことばの風情《ふぜい》である。  ところが初期のころの歌はまるでちがう。そこでは明らかに漢字の意味の方が重んじられ、それも漢字の字源まで熟知していた人びとの作品としか思えないような巧妙な使われ方なのだ。万葉初期のこうした表記法にもかかわらず、それらに対する現在の訓み下し文は、後期のスタイルをそのまま初期のものにあてはめているとしか思えない。たとえば初期のわずか十四字の漢字で詠まれた歌を、すでにそのころからやまとことばがあったという前提で、三十一音で訓み解いているのである。そこに無理が生じるのは当然であろう。  また、当初より万葉の歌のすべてがやまとことばで詠まれていたというのならば、初期のものほど一字一音で表記した方が自然である。その後に漢字の意味に複数音のやまとことばで訓じることの方がものの順序というものではなかろうか。万葉の初期、表意文字の漢字に、わざわざ一字一音の漢字の音表記でやまとことばのフリガナをつけて訓んでいたとでもいうのだろうか。  万葉集の初期の歌は、それが編纂される時点で、その編集等に携った専門家たちなど、わずか一握りの人びとにしか、詠者の意図どおりに読めなくなっていたのかもしれない。  私たちが、朝鮮語や中国語も交えて万葉集をみていこうとする際の第一のターゲットも、他ならぬこの初期の歌、主に巻一、二、三に収められた一群であった。これらの歌に用いられた漢字の深みを見ていくと、漢字の祖国である中国や、先進国である朝鮮のことばに考えを及ぼさずにはいられなくなってくる。    開かれた古墳・万葉集  万葉集のやまとことばによる訓み下しは、いつどのようになされたのであろうか。万葉集完成後約二百年を経た九五一年(天暦五)村上天皇の勅命により、宮中の梨壺《なしつぼ》に万葉集解読のための和歌所が設置され、当代一流の学者であった源順《みなもとのしたごう》以下五人がこれにたずさわったとある。この時に初めて若干の歌にほどこされた訓点が、古点と呼ばれているものであり、その後も長年にわたって諸学者により補充されていった。  このような訓点事業がなされる必要がどうしてあったのであろう。それは万葉集が文字どおり読めなくなっていたからと考えるのが自然である。梨壺の六十年程前に菅原道真《すがわらのみちざね》によって編まれた『新撰《しんせん》万葉集』の序には、「万葉は古歌で読めなくなってきた」という意味のことが記されている。彼にとって特に初期の万葉集のことばは、彼の地のことば、外国語のようなものではなかったか。「私にはもう解らない、読めない」と言っているのである。  また、読まない方がいいぞというニュアンスも平安中期ごろにはあったようだ。四番めの勅撰和歌集『後拾遺集《ごしゆういしゆう》』の序文にも、万葉集をさして「かの集の心はやすきことをかくしてかたき事を現はせり」とある。「中身は安直なことを言っているのに、恰好《かつこう》ばかりつけている」という非難めいた口調だが、このような表現は、当時の言い方としては極端である。万葉集は当時の人々にとっては、読んではならぬもの、すなわち禁書に近い状況に置かれていたのではなかったか。  その頃《ころ》、もてはやされたのは、仮名使いの名手、紀貫之《きのつらゆき》等の手によって編まれた『古今集』などであった。その後の数世紀にわたる歌論書を見ても、万葉集は歌人にとっては敬して遠ざけるべき存在、少なくとも実作の参考には供しがたいものとして受けとられていたのである。  時代を数百年遡り、四千五百首という厖大《ぼうだい》な数を蒐集《しゆうしゆう》するという大事業が勅命によってなされた。その歌集が、その後百数十年読みつがれることなく捨ておかれたなどということを、どのように説明したらよいのだろうか。公然と非難めいた表現までなされているのである。  さらに——編集の中心人物であった大伴家持は、一時期ではあったが官位を剥奪《はくだつ》されている。  当時の為政者にとって、さて精力をかたむけて集めてはみたものの、でき上ったものを注意深く眺《なが》めてみると、はなはだ不都合なしろものだったということではなかったか。正史を編纂し、自己の正統性を宣言したばかりの時である。正史は、為政者の意図をふんだんに盛りこんで編んでこそ正史たり得るのである。万葉の歌は、いや歌であるからこそ、その時代々々のリアリティを色濃く映し出していたにちがいない。ありのままの姿で万葉を読み解くことのできる人々にとっては、日本と日本語の成立期の過渡的風景が丸見えだったのかもしれない。  そして、禁書に近い扱いで百数十年、厳重にお蔵入りしていたのである。日の目を見たときには、とくに初期の歌ほどそれを読み解くことは困難、むしろ不可能になっていたというわけである。皮肉なことに、これが幸いした。 「万葉集はすべてやまとことばで書かれている」  かくて『万葉集』は日本最古の古典として、現在でも誰もが手にすることができるのである。このように考えてくると万葉集は、私たちにとってはいわば「開かれた古墳」なのである。    本当に「訓《よ》める」のか 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 吾子之射立爲五可新何本  この漢字の羅列は、万葉集巻一の九番、額田王《ぬかたのおおきみ》の歌である。この歌は、莫から気までの初めの二句の読み方及び解釈が不明とされている。不明というのは何も解《わか》らないということではなく、解釈が一つにまとまらないということだろう。昔から諸家が訓を試みてきた。その数三十余種。しかも内容は様々に異なっている。「夕月の仰ぎて問ひし」(仙覚抄《せんがくしよう》)、「三諸《みもろ》の山見つつゆけ」(万葉集古義)、「静まりし浦波騒く」(注釈)など、山あり海あり、とても同じ歌をもとに解釈しているとは思えないような、相容《あいい》れない諸訓である。一方下句は“異訓あり”としながらも一応、「わが背子がい立たせりけむ厳橿《いつかし》が本」(わがいとしい背の君がお立ちになっていたであろう、あの神聖な橿の木の下)という訓みと訳とに定着している。  とにかく、前半分は現在までのところ、「訓めない」歌なのである。「訓めない」とはいったいどういうことだろう。作者は万葉歌人のヒロインとでもいうべき額田王である。デタラメを書くわけはないし、ことばに精通していたであろう万葉の撰者の目をもパスしたものだ。何か暗号か、呪文《じゆもん》のようなものだろうか。あるいは、詠まれた当時には理解されていたのに、たんに後世の人が意味を汲《く》み取れなくなってしまったのだろうか。全万葉集四千五百余首中、その解釈をめぐって、研究者の間でこれほどまでにもめにもめている歌は、この一首だけのようである。他にも語義未詳の句を含む歌は多々あるが、どれも一応訓み下しの形にはなっている。  しかしここで考えてみる。むしろ奇妙なのは、他の歌がすべて読めてしまうということの方ではないだろうか。ほとんどの訓みが「確定」している——さまざまな試訓の可能性を許さず、唯一《ゆいいつ》の訓み方と解釈とに納まっている——このことにかつて誰も疑問を懐《いだ》かなかったのだろうか。私たちには、すべてが訓めることの方がよほど不自然なように思われる。  たしかに九番の前半の漢字群はいかにも難かしそうではあり、読もうと思っても、とたんに口ごもってしまう。しかし他の歌、たとえば一番目の雄略天皇による御歌、 「籠毛与美籠母布久思毛与美夫君志持……」  にしても相当難かしそうである。それなのに、あっさり訓みと訳とが決まっている。「籠《こ》もよ、み籠持ち、掘串《ふくし》もよ、み掘串《ぶくし》持ち……(美しい籠と美しいへらを持って菜をつむ娘さん……)」というのがそれである。ちょっと待てよ、と私たちは思う。万葉集冒頭の、しかも王の中の王とさえいわれる人物の歌にしては、あまりにたわいないのではないか。別の意味が込められている可能性は皆無なのか。それとも古代日本人の感性はかくも穏やかでなまめかしいものだったのか。それほど平和な、天下泰平の時代だったのだろうか。雄略天皇——血で血を洗う政権抗争におけるもっとも酷薄な勝利者といわれている、その雄略の作として、万葉集の冒頭、いの一番の訓み解きに、私たちが素朴《そぼく》な疑問を持ったとしても、それはごく自然なことだろう。原文の漢字にしても他に訓みようがないのだろうか。よほど九番の歌のように“不明”とでもしておいてくれた方が、私たちもかえって納得がいく。  実はこのように思われるのは一番の歌だけではないのである。万葉集初期のもの、巻一、巻二などの歌に関しては、少なからず訓みや訳への疑問がつきまとう。  これらの違和感は、まず原文の漢字群を見た時の直観的な印象と、読み下し文の印象との隔たりに原因があるといえるだろう。  もとより漢字は音で読んだり、訓で読んだりと色々な組み合わせが考えられる。しかし、ひとつの漢字のもつ意味は、原則的に普遍性を持っている。さらに当時の時代背景をも考え合わせると、朝鮮語や中国語でも読み解ける部分があるのではないかと、私たちは思った。そのころ共有していた唯一の文字である漢字、それを日本にもたらした渡来人たちが、それぞれの母語を日本に持ち込まなかったはずはない。さらに繰り返して言うなら、それらの言語が日本のことばの中に入り込まなかったはずもない。とすれば、朝鮮や中国のことばが、当時の詩歌に入り込むことも、またごく自然なことだろう。  こう考えると、従来の古典研究者に、隣接の朝鮮語や中国語への配慮がなかったということの方がよほど不思議に思えてくる。つまり驚くべきことに、ヨーロッパの古典研究ではごく当り前に行われている多言語的解釈が、日本ではいまだ手つかずの状態なのである。日本上代の古典にこの方法を用いることの是非はともかく、従来の研究が、やまとことば成立期の言語の流動性を顧みなかったのは、私たちにはまったく腑《ふ》に落ちないことである。  手はじめに私たちは、さっそく万葉集の原文の中に朝鮮語や中国語のしっぽを探し出そうということになった。意味未詳といわれている部分とか、もともと意味がないとされている枕詞《まくらことば》などがその取っかかりである。漢字だけの原文に、漢字の語源、朝鮮語の音や訓などあちらこちらから光を当ててみる作業は、そう簡単なことではない。しかし、これまで述べてきたような考え方の筋道が正しければ、必ずやその歌本来の風景が見えてくるはずである。    「物的証拠」を見つける  人一倍夢中になっていたのは、私たちのリーダーである中野矢尾先生だった。ある日、先生が、 「柿本人麻呂の歌が、韓国語との関連で解けたわよ」  と、さっそうと言い放った。みんなの目の前で、それが実際に解き明かされていった時、その説得力と明快さに、ため息にも似た歓声が部屋を満たしていった。その手口のあざやかなこと。誰をもひきつけ、誰をもあきさせない。わずかな手がかりを糸口に、見事に読み解かれると、誰にでも納得がいく。私たちは、中野先生にさっそく「アガサ」の異名を進呈した。もちろん推理小説の女王、アガサ・クリスティーにちなんでのことである。  また、アガサは先にふれた雄略天皇の一番の歌にも新しい解釈があることを見つけていた。表面上の、恋の歌にも似たニュアンスは、朝鮮語で解釈することで一変し、見事なリアリティを帯びてきた。雄略天皇の即位宣言の歌だというのである。それは万葉集の巻頭を飾るにふさわしい堂々たる偉容を備えた歌として、私たちの前によみがえった。あとで知ったことだが、この歌をすでに朝鮮語との関連で読み解いていた先達がいた。その解釈と、アガサの解釈は見事に一致していたのである。しかし、彼の解釈は学界から完全に無視されたという。私たちは後にこの先達とコンタクトを持った。彼は無念をこめて忠告してくれた。 「物的証拠を見つけなさい」 「物的証拠」とは何だろう。  万葉集の歌が、その作者にどのように詠《よ》まれていたか、歌われていたか、私たちにはそれを知るすべはまったくない。どんなに古墳を掘りおこしても、当時の歌会の録音テープを手に入れることなど、どだいできっこないのだから。  しかしはたしてそうだろうか。よく考えてみれば万葉集の物的証拠とは、万葉集そのもの、すなわち文字、遺《のこ》されている漢字以外にないではないか。  文字によることばの統一は、古代知識人が全力を注ぎ込んだ作業だった。私たちは、「記紀・万葉」の研究解読が進む中で、いつも漢字に精通した古代人の目の覚めるような姿に出会うのだ。彼らは文字の使用、選択などを、決して恣意《しい》的にはしていない。いつもそこにその漢字を使わなければならぬ理由が必ずあったのである。漢字の使用法には整然とした約束ごと、規則がある。中国において、新しい漢字の発明は、新しい概念の発明なのである。新造語の方法にも普遍的な規則がある。漢字だけを使っていた日本人は、新しい造語の方法もそこに学んでいたのだった。漢字を知悉《ちしつ》していることが、古代知識人にとって必須《ひつす》の条件だったのである。  古代の思想、孔孟《こうもう》、老荘《ろうそう》、仏教なども、そこで使用されている漢字の解釈で意味が決まるのである。当時、漢字に精通するということは、中国(漢)語に精通することでもあった。事実、『日本書紀』は漢語で書かれているではないか。数世紀にわたって、王仁を始めとする数多くの文字博士が渡来している。二世紀の初頭には、すでに中国では許慎によって漢字解釈の集大成ともいうべき『説文解字』が完成している。  飛鳥《あすか》の仏教界の指導にあたった僧は、すべて大陸からの渡来僧であり、読経《どきよう》はいうまでもなく、日常語も「韓語《からさえずり》」(大陸の言語)だったと言われている。遣隋使《けんずいし》にしても、初めて入隋した留学生、学僧は、これもすべて渡来系の氏族出身者たちだったという。二、三世紀にわたって、その留学生の数は千人を超えていた。船旅も不安でままならぬ当時にしては驚くべき数といっていい。  漢字の素養と中国(漢)語ができること——これが最高の知識として日本に君臨する時代が長々と続く。はるかに時代を下る平安末期の京都五山の僧たちも中国語に精通し、日常的にも中国語を使って生活していたという。  ここで、私は中世ヨーロッパのことを思い出す。中世まで学問の研究はすべて、ヨーロッパの各地に散在した僧院で行われていた。そこでは、日常的にもラテン語が話されていたという。とにかく書きことばはギリシア語かラテン語しかなかったのである。ローマン・アルファベットはローマ北部のギリシア植民地エトルリアで前一世紀頃、そこで話されていた古代ラテン語を表記するために発明された。子母音分離表記という秀《すぐ》れた表音表記のギリシア文字を模して創《つく》られたものである。もともとギリシア文字を踏襲したことで大量のギリシア語彙《ごい》がラテン語の中に取りこまれる。十三〜十四世紀、ダンテがイタリアで話されていた日常語で『新生』『神曲』を著すにおよんで、ヨーロッパのルネッサンスの幕が切って落とされた。次から次へとヨーロッパ各地の有力言語が、同じラテン文字を使ってそれぞれの地方語で表記されることになる。  しかし、ごく近世までヨーロッパでは学問のための言語はラテン語が主力だったのである。そもそもラテン語の表音文字であったローマン・アルファベットを共有する言語圏を私たちはヨーロッパと呼んだのである。共通の表記文字をもつことで、ヨーロッパの諸言語は、ギリシア語、ラテン語をはじめとして大量の語彙を共有することになる。人間の営みは本質的に何処《ど こ》においても変らない。  ある日、アガサが藤堂明保博士の著した、『漢字語源辞典』を持って現われた。 「あんたたち、これ面白いわよ」  この瞬間から私たちの漢字への関心が一挙に沸騰《ふつとう》したといっていい。それは私たちが無意識に探し求めていたものだったのである。  字形とともに漢字の持つ音を特に重要視する藤堂博士の研究は、字形の重視に傾く現在の学界では評価が分かれる。いや、むしろ異端視されていると聞く。そんなことは、私たちにはどっちでもいい。藤堂辞典を手にしたことで、記紀・万葉の漢字が私たちの解釈のための決め手、「物的証拠」として姿を鮮明に現わしてきたのである。  忘れがたい風景がある。まっすぐな道が、乳白色の濃い霧の中に、先を吸い込まれるようにして伸びている。道の両脇《りようわき》にはコスモスの花だけがくっきりと浮遊しており、とびとびにしだれ柳がかすんでいる。  この風景は、ある朝、韓国の公州から扶余《プヨ》へと車で向った時のものだった。霧のすそがほのかに緑をおびていることで、水田地帯が続いていることがうかがえる。まれに、霧の中に忽然《こつぜん》と人影が現われる。頭上に大きな包みを乗せた婦人だったり、牛に荷車を引かせた農夫だったり……。  もうどのぐらい走って来ただろうか。二時間、いや三時間。私たちは車の猛スピードを体に感じながらも、ずっと変らぬ風景の中にいるのである。時間も霧の中に吸い込まれているようだ。もしかするとこの道は、私たちを古代へいざなうタイムトンネルなのかもしれない。今と昔が溶けていく道、そして日本と韓国の境も溶けていく道——この感覚は、私たちが記紀・万葉の漢字の世界に踏み込んだ時にしばしば味わう感覚にも似ている。 「あ、人麻呂」  ふとそんな気がして目をこらすと、昔ながらの白い民族装束の翁《おきな》が、霧の中に現われ、たちまち消えて行った。  この道はどこまで続くのだろうか。この霧が晴れることはあるのだろうか。私たちの万葉探究の行く手は、どうなっているのだろうか。そう思わなくもない。しかし、私たちはむしろこの霧の風景そのものを愉《たの》しんでいるようなのだ。隠されているから探したくなるのであり、見えないから見たくなるのである。ともかく私たちの進む方向は、決まったと思う。先へ先へと行ってみることにしよう。 第二章 枕詞《まくらことば》が解けた  渋谷の雑踏をぬけて、高級住宅が建ち並ぶ松濤《しようとう》の一角に、小さな白いビルがある。このビルの四階のワンフロアーが、私たちの学校「トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックス」、通称トラカレだ。毎日顔を合わせる面々は、十八歳の女の子から、大学や会社を辞めてきている人、もう人生を半世紀分済ませた人まで合わせて、五十人ほどいる。時には、子供たちが駆けまわり、赤ちゃんの泣き声が響きわたることもある。出席もとらなければ、試験もない。はたから見れば、なんとも不可解な学校である。  エレベータをおりて少し重いドアを開ける。目にとび込んでくるのは、壁の青と黄色のコントラストと共に、所狭しと並んでいるコンピューター、じゅうたんの上でゴロリと寝ころんで物理の本を開いている人、漢和大字典や朝鮮語辞典が散乱した机を囲んで話に熱中している人たち。ここトラカレでは、「ことばとは何か」「ことばを話す人間とは何か」ということに、さまざまな角度から光をあてて、それぞれの興味の赴くままに探究を続けている。そんな中で、着実に「万葉の解読」も進んでいた。  アガサは、もうすでに、いくつかの万葉のうたをその表記の漢字に立ち返ることによって解読し、つぎつぎに私たちに話をしてくれている。それは、聞く側にとってみれば驚きの連続であり、自分でも挑戦《ちようせん》してみたいという人が大勢アガサをとり囲んだ。  万葉の歌はすべて漢字で残されている。その残されている漢字が唯一《ゆいいつ》の手がかりなのだ——アガサはいつもそう繰り返す。そうして解いてゆくとひとつのことばの奥にいろいろな意味が浮び上ってくるのだ。 「枕詞の使われ方にも、ちゃんとしたルールがあるはずよ」  アガサのことだ。もうそのルールとやらを見つけているに違いない。 「あなたたち、自分でやってごらん。いまあるものを通してしかむこう側は見えないのよ」思わず顔を見合わせた私たちに、アガサはこうつけ加えた。「つまり、山や母を通して、アシヒキノやタラチネノの意味がきっと見えてくるはずよ」  そのことばにまんまと乗せられて、私たちは枕詞というターゲットに殺到した。    意味未詳という定説  万葉集のうたをひとつも知らないという人でも、枕詞ならば中学や高校の古典の時間で、「あしひきの」といえば「山」に、「たらちねの」といえば「母」に係るなどと、わけもなく暗記した経験をもっているはずである。係ることばと、係けられることばが必ず決まっているから、丸覚えさえしておけば、テストの点数を稼《かせ》ぐのには格好の代物《しろもの》だ。  しかし、なぜ「あしひきの」が「山」に係らなければならないのか、なぜ「川」には決して係らないのかと、ごく素朴《そぼく》な疑問として問いかけられた時に、答えられる人がいったい何人いるだろうか。 「だって、そう決まっているんだから、仕方がないよ」  私たちも、今まではずっとそういうものだと思い込んできたので、その理由も意味もことさら考えたこともなかった。しかし、ひとつの枕詞が、必ず決まったことばにだけ係るということは、いったいどういうことなのだろう。そうでなければならない理由が、その枕詞がつくられた時点ではあったのだ、と考えることの方が自然な気がする。  私たちは、これまで、いわゆる「古典」と呼ばれるものを専門に研究してきたことなどなかった。だからこそ、誰もがもつ素朴な疑問が次から次に湧《わ》いてくる。  枕詞は現在どのように定義されているのだろうか。古語辞典を繙《ひもと》いてみる。 「和歌の修辞用語。一定の語句、または音に固定的に冠して用いる。五音、または四音の詞句。上古、神名や土地をたたえる呪言《じゆごん》に源を発したといわれるが、当初の意味が失われて、そのまま伝承され、声調を整えるなどのために用いられているものも多い。枕詞という呼称が現在のように用いられるのは中世以後で、江戸時代には冠辞などとも称された」  要するに、枕詞というものは句調を整えるためのもので、全体の歌の主想には、意味の関連はないものだという。だから、多くの枕詞が現在でも意味未詳とされている。しかし、その「意味未詳」ということが、半ば定説化されているというのもおかしな話だ。  歌中の枕詞が意味未詳となれば、それを含んでいる歌の意味も未詳ということにもつながりかねない。歌詠《うたよ》みたちは、意味のないようなことばをわざわざ歌の中に投じたりはしない筈《はず》だ。  万葉のうたよりも、もっと口承的な性格の強い祝詞《のりと》には、枕詞はひとつも使われていないという。もしも、枕詞が句調を整えるためだけのものであるとすれば、口承的なものになればなるほど多く使われていそうなものだが——。この矛盾はいったいどう解せばよいのだろうか。ますます不思議なことばかりである。    あしひきの山に諸説あり  前にも述べたように、枕詞は必ずある一定のことばにしか係らない。たとえば、「あしひきの」ならば「山」といった具合である。  それでは、この「あしひきの」という枕詞は、現在どのように解釈されているのだろうか。古語辞典をみると、 「語義・かかり方ともに未詳。山、またはそれに類義の峰にかかる」  となっている。一般的には要するに意味不明というわけだが、もう少し詳しく見てゆくと、古来、さまざまな解釈がされてきていることがわかる。  たとえば、古くは「足曳《ひ》き」で山を行くとき足を引いて歩む意(『釈日本紀』)や、「足引城《あしひきき》」の略で足を長く引いたような一構えの地の意(『古事記伝』)を始めとし、「足病」や「足疾」などの表記があることから、あしひきは足の病気の意で「やまひ」と同音の山に係るとする説、アクセントの上からいって、あしは足ではなく葦《あし》である説など種々多様である。  しかし結局、今のところは、その語義についても係り方についても、定説めいたものすらないわけだ。  繰り返すが、どこに「あしひきの」が山にのみ係る必然性があるのだろうか。  では、「あしひき」はどのような漢字によって表記されているのかを調べるために『万葉集』の中からこの語の表記されたすべての事例をぬき出してみることにした。  足引、足日木、足曳、足檜、足病……  一字一音だけでかかれている安之比奇などを含めると全部で十五以上の表記がある。  ひとまず一字一音のものを除けば「足日木」「足引」が頻度《ひんど》としては圧倒的に高い。  さて、枕詞を含めた万葉集のうただけに限らず、古事記日本書紀などを解いていく手順として、私たちはまずその表記に使われている漢字をひとつひとつ丁寧に当たってみることから始める。その漢字本来の意味、上古音、中古音、さらには語源、字形などだ。現在、私たちが漢字を使うとき、もともとの意味をすっかり忘れてしまっていることが多い。    古代エリートの条件  万葉のうたが詠まれた頃《ころ》は、テレビ、ラジオ、新聞雑誌などがあったわけではないから、情報という情報は、宮廷など一部の権力者のもとに集中していたことだろう。そして、文字こそは現代における科学技術に相当するもので、権力の維持に不可欠なソフトウエアであった。いかに多く、深く漢字の知識をもっているかは、当時のエリートであるための第一条件だったに違いない。  歌をひとつ詠むにしても、おそらく入念な配慮をもって、ひとつひとつ漢字を選びながら使っていたはずである。少しでも、その頃の歌人——一流文化人がもっていた漢字の知識に近づいていくことが、万葉の解読の第一歩を踏み出すことになる。  そこに使われている漢字に関する知識を最大限に得た上で、その漢字を共有した、というより漢字を使うことにかけては大先輩である朝鮮のことばも調べてみる。そして何らかの共通性、関連性があるかないかを見つけていく——解釈を導きだしていくのはそこから先の作業なのである。  それぞれが調べたことや、気づいたこと、疑問などを、お互いに気の向くままに話す。この時間が実に楽しい。 「私の解釈を聞いてくれる? 朝鮮語で足のこと《パル》っていうじゃない? 《パル》ってね、古語ではって書いて光のことをいってたんだって。それからね、あしひきのヒキに似た音でね、《ピキダ》っていうのがあったんだ」 「ふーん。《ピキダ》ってどういう意味?」 「斜めに照らすとか、傾く。だから、あしひきって、光が斜めに照らすという意味だと思うんだ」 「それがどうして山にかかるの?」 「ほら、太陽ってさ、山に沈むでしょ!」 「漢字、ちゃんと調べてみた?」 「うーん。まだ……あんまり詳しくは……」 「まずは、使われている漢字をふまえておかないとね。漢字を調べたらもっとはっきりするかもしれないし。どうして足引とか足曳とかの漢字をつかったのか、その理由も見つかるかもしれないよ」 「俺《おれ》なんか、調べすぎてさっぱり解《わか》んなくなったよ」  こんなおしゃべりの中から、ちょっとした発見がとびだすこともある。 「朝鮮語で《タリ》っていうのも足のことだよね。藤原鎌足《かまたり》の足《たり》っていうのも、朝鮮語だったんだ」 「もしかすると、朝鮮の人だったりして」 「えーっ、まさかあ」 「でも、ありうるかもよ。何だったっけ、百済《くだら》の王子様より凄《すご》い冠を鎌足がもらったって、日本書紀にあったじゃない」 「あ、大織冠《だいしきのこうぶり》とかいう冠のことね」 「ねえ、ねえ、足りるっていうときのたりっていうのも朝鮮語が残ってるんじゃない?」 「足りないって、足がないんだね」  しかし、肝腎《かんじん》の枕詞「あしひきの」の解釈は、いっこうに進展をみない。皆が、頭をよせ合ってわいわい話していると、それまで一言も口を挟《はさ》まないでいたアガサがゆっくりと立ち上がった。 「あんたたちの解釈を聞いていたけれど、もっと詰めていかないとね。私はキレイに解けると思うんだけど」  と言って話し出した。    タリ・タリ・タル 「あしひき」のあしの表記のほとんどが「足」だ。この漢字は、人のひざから足先までの関節がぐっと縮んで弾力を生みだすというところに着目して生まれた文字である。その押し縮んで充分に力をためるところから「足りる」などの意味で使われるようになったという。  また、「あしひき」のひきの表記のひとつで頻度の高い「引」の語源は、弓をまっすぐに引くことである。一番古い表記ではないかといわれる曳は、「申(まっすぐで長いもの)とノ(ひきずるしるし)」からできている漢字だ。いずれも「引き伸ばす」意味をもっていて同じ系列の漢字である。  さて、漢字の多くが、もとはその形をもって作られた象形文字だったことを念頭において、もう一度これらの漢字を見てみよう。足がぎゅっと曲った形と弓がキリリと引かれた時の形。どんな形を思い描けるだろうか。どちらも、くっと曲った「く」の形をイメージできると思う。そして、「あしひきの」のかかる山の形は——というと、それはまさに“<”の形である。  こうして見てゆくと、「あしひきの 山」の表記にあてられる漢字から、同じ「<」型のイメージが運ばれてくる。  さらに、一字一音の際にヒに当てている漢字の比・日・檜・必のどれもが、語源を調べると「ふたつのものがくっつく」、「合わせそろえる」などの意味をもっていることがわかった。これらは、どれもが「<」の形を説明するのに具合のいい漢字であるといえよう。  また、キの表記に使われる紀の語源も、曲がったものがぴんと伸びる、奇はカギ型に曲がることを表わし、まさに「<」型をよく示している。ふつう、一字一音で表記される場合には、その漢字の意味には全く関係ないといわれているが、この例でもわかるように、表記に使われる漢字のどれもが共通のイメージを運んでいるのである。 「しかし、いくら同じイメージを運ぶからといって、それだけではピンとこない」  当然、そう思っている人も多いはずだ。  ところが、これはほんの序の口である。  朝鮮語で足を「《タリ》」ということは、前にも述べた通りだが、調べていくと「引く」ことも古語で「《タリ》(《ダ》)」ということがわかった。それだけではない。この「足引」の係る山のことも古代朝鮮語では、「達(《タル》)」といっていたというのである。しかも中にはこれを「」といったものもあったのだ。  つまり、朝鮮語を通してみると、「あしひきの」という枕詞と、それが係ることば、「山」は、 《タリ》  《タリ》  《タル》 足  引・曳  山  という「タリ」という音の語呂《ごろ》合わせになっているのだ。そして漢字を調べてみてわかったように、それは、山の形を、股《また》を開いた形「<型」によって表現してもいるのである。  この話を聞き終わった時、その場にいあわせた皆は目をまるくしてしまった。どの辞書を開いても「意味未詳」「係り方未詳」と書かれている「あしひきの」という枕詞が、目の前でこんなに納得のいく形で明快に解けてしまったのだから。    枕詞=被枕詞  さらに、アガサは「枕詞を解くカギ」というものを私たちに示してくれた。それは、おおまかに言ってしまうと、 「枕詞イコール被枕詞」  というものである。このカギをあてはめて考えていけば、枕詞は必ず解けるというのだ。ひとつの枕詞がある決まった語だけに係るのも、互いに同じであるからだという。だから、「あしひきの」は決して「川」に係るわけがない。「山」に係らなければならない理由は、実はここにあったというわけだ。  考えてみれば「枕詞には意味がない」といわれていることも、枕詞と被枕詞が基本的には同義であるということを示していることになる。しかし、その同義ということがどんな意味で同義であるかは、足をアシ、引をヒキ、山をヤマと解するだけでは決して明らかにはされないのである。漢字を共有した中国、朝鮮、日本の言語の関連で、はじめてその意味が明らかにされるのだ。「足引—山」は古代朝鮮語との関連でその意味を解くことができたが、TALということばの背後に、漢字「達」があることを忘れてはならないのである。  目の前にかかっていたもやが、一瞬、すーっと消えていくような感じを覚えた。今まで「係り方未詳」といわれ、さまざまな解釈をされ続けてきた枕詞が、「枕詞と被枕詞は同義の関連語である」というルールに沿って係り方が決められている。考えてみれば、ごく当り前なことだろう。それだからこそ、誰もが驚きもしたし、納得もいった。いつも当り前すぎて見すごしてしまっていることに「最も重要な事実」が隠されているのである。第一、私たちが残された表記そのものに立ち返って見ること自体、今までの研究ではすっかり見向きもせずに通りすごされてきたことだったではないか。  ——気がつくとアガサは、いつの間にかもといた席に腰かけ、そしらぬ顔をしてタバコに火をつけていた。  私たちはまだ、「あしひきの」が解かれたことの余韻に酔っていた。 「タリ、タリ、タル……」  何度か口にしているうち、ふと「たらちねの」という枕詞が頭に浮かんだ。たしか、小学生のころに教科書で見かけた気がする。同じTALという音をもつこのなじみ深い枕詞は、いったいどのように解けるだろうか。    たらちねの 「たらちね」は、父や親に係るときもあるが、ほとんどの場合が「母」に係っている。今までの解釈では、「乳が満ち垂れた」とか、「乳房の垂れた」などと言われているが、それ以上詳しいことは、まるで解っていない。同じく、母に係る枕詞に、「たらちし」があるが、こちらの方が「たらちね」よりも古いのではないかとも考えられている。ただ、「たらちし」は、『播磨《はりま》風土記』の中で、地名の「吉備《きび》」に係っている。これも現在までの研究では理由がわかっていない。  まず、「たらちね」の表記を見てみると、「足乳根」「垂乳根」が多く、他に「帯乳根」「足千根」「多良知禰」などがある。 「たら」という音に、足・垂・帯が当てられているのも、朝鮮語を調べるとすぐに納得のいくことだった。  足のことを《タリ》というのは、「あしひき」でみてきたとおりである。「垂らす」こともまた《タル》(《ダ》)という。純粋な日本語と思っていた「垂らす」ということばも、もとはこの朝鮮語にたどることができるのではないか。帯の語源を調べると、「長い布でものをつける」とある。帯自体が、長く垂れるものでもあるし、「附ける」こともまた、朝鮮語では《タル》(《ダ》)という。つまり、たらの音に当てられる、足、垂、帯のどれもが朝鮮語では「TAL」という音なのである。  これと同音の漢字に、「達(《タル》)」がある。しばらく、この字に注目してみよう。    達=山=毎=母 「達」は、字形の中に羊をもっている。羊は、古来、安産のシンボルだった。そこから、この語源は、「羊のお産のようにするすると通り進む」ことを表わす。——これだけでも、何か「母」と関《かか》わりがありそうだが、もっとはっきりしたことが言えないだろうか。  ところで、この「達(《タル》)」が古代朝鮮で山を表していたことは、「あしひき」を解く際に見てきた。同じく山を意味することばに《モイ》がある。今でも山の古風な呼び方として残っている《メ》の古語にあたるものだ。この《モイ》という音を古い朝鮮の書物『鶏林類事』では、ある漢字で表している。「山曰毎」——毎がその漢字である。 「毎」とは、「かんざし()をつけた母の姿」とも、草の芽(屮)とも解されている。どちらにしても「母」も「毎」も、次々に子どもを生んで繁殖するという意味をもつ漢字である。  古代の人は、つぎからつぎに草木が生い繁《しげ》る山に、つぎつぎに子どもを生む母の姿を重ねていたのである。こういう調子でみんなで語源辞典などで解き進み、にぎやかに楽しんでいるうちに、ある日ふとしたことからこのことをさらに裏づけることばを中国の『釈名』という書物の中にみつけた。「山《サン》は産《サン》なり」——やはり山は子を生むものの象徴だったのである。また日本でも、古くは山を「コウム」と訓じていたこともわかった。  すなわち、母も山も「次々に生みふやす」ことでは同義であり、朝鮮でその母なる山を表した「達(《タル》)」が、「たらちね」という語のもとになっているのである。この達(《タル》)の音を、足(《タリ》)、垂(《タル》(《ダ》))を借りて表したのが、たらちねの「たら」なのだ。 「ちね」のねに、根をいちばん多く使っているのも「根源」を意味する朝鮮語の古語が、同じ「《タル》」という語音で表されるからだろう。母が生命の源であるというのは、人間の共通の認識である。同じく母に係る枕詞「たらちし」のしは、種(子)や血筋を意味する《プシ》の音に対応するのではないか。 『播磨風土記』の中で、「たらちし」が地名の「吉備」に係っているのも、「吉」「備」の両字のもつ、「中にいっぱいにつまる、充実する」意味がお腹《なか》に赤ちゃんのいる充実した母の姿と同じ状態と見たからであろう。 「ちね」のちの表記に使われる「乳」は、子を育てる意味をもつ。また、「知」、「千」などはまっすぐ進むことを表すことからも、達の「通り進む」という意味に、母が子を生み子孫が続く意味をかけていることがわかる。上古においては、「《チ》」という語が尊称に使われていたこともつけ加えておこう。  このごろ、洋服の上からでもはっきりわかるくらいになってきた仲間の大きなお腹を見て、みんながニヤリとする。 「タラチネノハハね」 「そう、充実してるって感じだもん」  達=山=毎=母、という語と語の関わりあいの中においてはじめてこの枕詞が成り立つのだ。達()の音を足・垂を借りて表わし、達の意味を乳根で示すことで、繁殖の根源としての母にかかる「たらちね」という枕詞になっているのである。    漢字——表意・表音の二重性——  トラカレに、外国人が遊びにくるのは日常茶飯事である。  そんな時、私たちは彼らの名前に漢字をあててあげる。特に音しか表さないアルファベットを使っている人たちに、漢字が音だけでなくひとつひとつが意味をもっているということを話すと、ひどく驚いて漢字に興味を示す。まして、自分の名前が漢字で書かれ、その意味を知ったときは、片カナや平がなで書いてあげたときよりもずっと喜んでくれる。  この間も、ボストンからローリン・ホークスというそばかす顔の可愛《かわい》い女の子がやってきた。私たちは早速、いろいろと考えたあげくに「露林 鷹」という漢字を贈った。  ホークスに、「鷹」をあてることができたのも、英語でホークスが鷹《たか》を意味していることを知っていたからだ。もし英語の意味を知らなければ、別の字をあてただろう。  ローリンのように、私たちにとって特に意味のない音になると、それを日本のことばでおきかえることができない。そうなると、もう漢字の音を借りて表すほかにはなくなってしまう。ただし、このような、ただ漢字の音を当てる際でも、私たちは知らず知らずのうちに漢字を選んでいる。もし、「ローリン」に「老淋」などとあててしまったら、たとえ同じ音であったとしても、その漢字からうけるイメージは、「露林」のときのみずみずしさとはうってかわって何ともうら淋《さび》しいものになってしまう。漢字は、音だけとか意味だけとかというように、切り離して考えることはできない。漢字はいつも、音と意味を同時に運ぶ文字であるのだ。だからこそ、たくさんある同音の漢字の中から、私たちはその意味をしっかりと汲《く》んで無意識のうちにひとつの漢字を選びだしているのである。  中国では現在でも、外来語や固有名詞を表すとき、「愛因斯旦《アインシユタイン》」「雷根《レーガン》」「可口可楽《コカコーラ》」「巴黎《パリ》」のように、漢字を表音文字としてつかっている。この場合、その意味は関わっていないといわれている。しかし、少なくとも私たちはこういう漢字を見て、あるイメージをもつ。「可口可楽」——いかにも飲んだら楽しい気分を味わわせてくれそうではないか。「愛因斯旦」も偉大な発見をした人物への敬愛の念がその文字から充分にうかがえる。  このように、中国の人たちは漢字の音と意味というものを決して切りはなして考えてはいないのである。 『古事記』『日本書紀』『万葉集』でつかわれる漢字の一つ一つの音を借りて表す一字一音表記(このやり方は万葉仮名の中でも、もっとも古くから見られる用法なのだが)は、今までは「日本語」の音を表わすのが唯一《ゆいいつ》無二の目的で、使っている漢字の意味とは全く関係ないものとされてきた。しかし、「あしひき」でもふれたように、一字一音表記も万葉初期においては、その漢字の意味を充分に承知の上で使われていたということがわかる。それは、私たちや中国の人が現在もそうしていることと何ら変わりがない。  ところで、この「一字一音表記」について一歩踏み込んでみると、もうひとつの大きな問題が見えてくる。 「可口可楽《コカコーラ》」や「愛因斯旦《アインシユタイン》」のように一字一音表記(中国では一字一音節になっている)の用法は、古代から行われていてなにも今にはじまったことではなかった。それは「達磨《ダルマ》」「仏陀《ブツダ》」や「曼陀羅《マンダラ》」などのように、仏教の訳経の際、サンスクリット語の固有名詞、漢字にない概念などを表す場合に使われている。古代朝鮮の「吏読《りと》」もそのひとつで、外来のことばを漢文に入れるときにつかわれていた。  このように、漢字を表音文字として使用することは、本来の漢語(中国語)の世界では、いわゆる「外国語」に対してであったし、今でもそれに変りはない。何も万葉時代におけるやまと人《びと》の発明でも何でもなかった。当初は、純粋の漢語の世界に、初期万葉時代の神名や人名などが漢字を表音文字として使用することで恐る恐る忍びこんだであろう。時代が進むにつれて名前のみではなく、漢字で表記しにくい概念が、続いて普通の語彙《ごい》なども、わがもの顔に漢字の一字一音で表記されるようになる。もちろん、漢語の語順も、自分流に書き改められる。古代朝鮮の「吏読」に学んだのであろう。そのような長い過渡期を経て、万葉後期に見られるほぼ完全な一字一音表記が完成していったのだ。  やがて、平仮名、片仮名が発明される。それらもすべて漢字に由来する。当時、この今風のモダンな表記は文人や、高貴な女性にもてはやされるようになった。しかし、支配層の言語表記としての漢語優位の風潮は、さらに長く続くのである。    天ざかる——にひそむ意味  話を元に戻す。 「天《あま》ざかる」という枕詞《まくらことば》がある。「夷《ひな》」ということばに係る。その係り方については、あまが中央や都を指し、そこから離れた意味でひな(ひなびた田舎)にかかるとも、天の遠く隔ったところに日《ひ》があるから、同音の「ひな」にかかるとも、天のように離れているからなどともいうが、今もって未詳とされている枕詞のひとつである。  一字一音では「阿麻射加流 比奈」のように表されているが、万葉前期のほとんどが「天離 夷」という表記をつかっている。  この表記に注目すると、漢字が対照的に選ばれていることに気づく。  まず、「天」と「夷」だ。天が「高い」という意味をもっているのに対して、夷は「低い」ことを表す漢字である。つまり、「離」を中心にして対称におかれている「天」と「夷」は意味の上でも「高—低」という対照になっているのである。夷の字形も、「大きい人のそばに寄った小さい人」からできていて、この字自体の中にも「大小」という対照を見てとることができる。  ところで、漢字の中では、ひとつの漢字が全く正反対の意味をもち合わせているものがある。たとえば、二は「ふたつのものがくっつく」という意味と「ふたつに分かれる」という意味を合わせもち、乱は「みだれる」と「治める」、副は「ぴたりと寄り添う」と「別々に分れる」というように、まったく逆の意味をひとつの漢字がもっているのである。正反対だから、関係がないというわけではない。むしろ、正反対の意味とは両者がいつもあい補っているものなのである。  それは、誰もが、男といえば女、長といえば短、上といえば下といった具合にことばの意味的対照を直観的に答えることができるのに通じている。  私たちは、「枕詞=被枕詞」のイコールの範疇《はんちゆう》に、このような場合も含める必要性も念頭においた。  さて、この「天離 夷」の中心におかれている「離」に注目してみると、この字自体も、〓(大蛇《だいじや》)と隹(とり)というまったく正反対なものを並べることによって「くっつく」という意味と「分かれる」という正反対な意味を表している。このように、「天離夷」は、どれも正反対の意味をもつ漢字を整然と対称に並べていることがわかる。では、正反対の意味の漢字を並べるということが、いったい何を示しているのだろうか。  先に示した、〓と隹からできた離もそうであるように、中国で漢字をつくっていく時に、相反する字を並べることで、「別々に分かれる」という意味を表すことがあった。海の魚と陸の穀物(禾)を並べてできた〓もその一例である。  こうしてできた「離」を中心にして、さらに正反対の漢字を並べることによって、この「天離夷」という枕詞は「別々に分れる」という意味を表していると解することができるのである。    部分と全体  枕詞は、句調を整えるだけのものではなく、古い歌人たちはその係り方も意味も充分に承知の上で歌に詠《よ》みこんでいたに違いない。  全体の中に部分があり、その部分には全体が反映されている——歌があって、その中に枕詞がある。そこで使われている枕詞はその歌のテーマを鮮かに反映しているのだ。歌を解いていくときに、これが大きな手がかりとなっていくことだろう。  時代の流れとともに、枕詞のルールさえも忘れられ、たんなる修辞法として考えられていった。しかし、私たちは、忘れ去られたルール「枕詞=被枕詞」を手にしたことで、さらにいろいろな枕詞を繙《ひもと》いてゆくことができるに違いない。    ひさかたと九天  天《あま》と、天に関係する雨・日・光・星などにかかる有名な枕詞「ひさかたの」は、「九天」という漢語からつくられていることがわかった。  漢語の「九天」とは、「最も高い空」を表すことばであり「九重天」とも書き、また、もうひとつには、「天を九つの方角にわける」という中国の思想をあらわしている。  九という数は、一から九までのうちのいわばラストにあたる数、究まりいきづまって、最後を引き締める意の数ということだ。ここから、中国では、天を「いくつもいくつも重なっていきづまってしまうほど最も高いもの」と考えて、「九天」「九重天」という漢語にしていたことがわかる。 「ひさかた」のひさに当てられる久は、古くはこの九と同音同義であり、やはり「つっかえて曲がる」意を示している。  すなわち、「九天」という漢語の、「最も高い空」の意味を「久」で表し、「天を九つの方角にわける」という意味を「方」でおきかえたものが「久方」という表記になっているのだ。  では、「久堅」という表記における「堅」とは何を示しているのか。  古代の人は、「高い」ということと「かたい」ということが、物象の中で互いに関係していたことを知っていた。高い所は乾燥して、固い石や土がごろごろとしている。このような考え方を色濃く残している漢字が多数ある。  たとえば、塙(固い土)、槁(枯れて固くなった木)などがそれである。どちらも、本来は「たかいこと」を示す高の字を含んでいるが、ここでは、むしろ「かたい」という意味で使われている。このようなことから、「高い—かたい」という意味が密接に関連していることをうかがうことができる。 「久堅」の堅は、引き締ってかたいことを示す漢字だ。引き締まるという点では、九と同じなのだが、ここで「堅」を使ったわけは、「かたい、すなわち高い」という意を示すことで、「九天」のもつ「最も高い天」という意味の後押しをしているのである。  どちらにしても、「ひさかたの」という枕詞は、漢語の「九天」の翻訳語となっているといって間違いなさそうである。  ところで、「枕詞=被枕詞」となると、同じことを二度繰り返しているということになる。つまり、繰り返すことによって、そのことを強調しているのである。同じことばを強調するということは、枕詞に限ったことではない。私たちの日常的な自然なことばの振る舞いを思いだしてみよう。 「もっともっと話したい」 「かえすがえすも残念だ」  二度繰り返すことで、その様子や気持ちがより明らかに表される。これはなにも日本語だけに限ったものではない。  このような繰り返すことばがきわ立って多いのが中国語の世界である。それは、漢字そのものがもつ特質、意味を担《にな》う一字一字がいつも単音節であることに由来する。同じ漢字を二度重ねることで、目にも耳にもアクセントにしているのである。「暗暗(まっくらなこと)」「淡淡(あっさりしているさま)」のように同じ漢字が重ねられることもあるが、「堅固(かたく厳重であること)」、「微細(非常に細かいこと)」のように、字は違うが同意のものを重ねることで互いの意味をさらに強めるようなケースが圧倒的に多い。これは漢字で熟語をつくる上のひとつの基本原理である。  こういうふうに私たちの周囲に生きていることばの成り立ちから、再び枕詞にさかのぼって考えると、枕詞=被枕詞の技法は、にわかに親しみ深く感じられる。なにも全く同じことをくどくどと繰り返しているというのではない。漢字の意味と音とを熟知した上でそれらを駆使し、きわめて技巧的に強調する——これが枕詞の技法の骨子だったわけだ。    タスキの謎《なぞ》 「玉ダスキって知ってる?」  仲間の一人が弁当をひろげながら言った。 「タスキっておみこしかつぐ時なんかにやるアレだろ」 「昔、女の人がしてた袖《そで》をたくしあげるヒモね」 「ミス・ユニバースだってやってるし」 「玉ダスキっていうことは、それが玉でできてるってこと?」 「ヘェー、ずいぶんと豪華だね」 「そうかな……。玉でできていたら固くってあんまり着け心地よくないと思うなぁ。それより、玉のように綺麗《きれい》なっていうことじゃないの?」 「ねえ、その玉ダスキがどうかしたの?」 「うん、畝《うね》や畝火《うねび》とか懸けるに係る枕詞になってるんだ」 「ふーん。畝って畑の?」 「そう。畝火っていうのは奈良にある山の名前」 「知ってる。畝傍山《うねびやま》って橿原《かしはら》神宮の御神山だよね」 「タスキだから懸けるっていうのはわかるけど、ウネや山がタスキをかけてるわけないよな。——どうして係るのさ?」 「昔、天皇につかえていた女官のことを采女《うねめ》っていうんだけれど、その采女がタスキをかけてたからだって……」 「へえー、おかしいね」 「どこに根拠があって、そう言うのかな」 「タスキには、どんな漢字をつかってるの? やっぱり、衣へんに挙《あげる》?」 「それはちがうよ。襷《たすき》っていう字はね、もともとあたらしく日本でつくられた漢字なんだから……」  タスキという一語の面白さに触発されて、昼食もそこそこに作業にとり組んだ。  まず、玉ダスキに当てられている漢字を万葉集からぬきだしてみると、 「玉手次・玉田次・珠手次」  があった。この表記を見てまず感じられるのは、「手次」「田次」をタスキと読むには少し無理があるなということだった。テツギ→タツギ→タスキということもあり得ただろうが、それよりも「手次」「田次」という漢字をつかっていることの方に興味があった。  古事記の中で、天の石屋戸《いわやど》に隠れてしまった天照大御神《あまてらすおおみかみ》を招き出すために、天宇受売命《あめのうずめのみこと》が歌舞をした話は有名だ。その時の天宇受売命も蘿《さがりごけ》をたすきにしてかけていたとある。しかも、そのタスキには同じ「手次」の表記がつかわれているのだ。  少なくとも、古代におけるタスキとは今私たちが思い描くような、掃除のときに袖をたくし上げるタスキのことではなかったのだろう。むしろタスキをかけるということが何かを象徴していたのかもしれない。 「玉手次」「玉田次」と表記する理由は何だったのか。枕詞=被枕詞のルールを念頭において、これらの漢字をいろいろ調べて考えに考えを重ねるのだが、いっこうに解決の糸口さえ見つからずにいた。  一週間ほどたって、仲間のひとりが顔を紅潮させてとび込んできた。 「解《わか》った、解ったよ。玉手次はカケ、玉田次はウネの字形分解だったんだ」  実のところ私は、一刻も早くその話を知りたいという衝動に駆られていたのだが、 「ちょっと待って……それをヒントにしてもう一度考えてみるから」  と思わず口にしていた。    字形分解にひとつの鍵《かぎ》が  字形分解とは、つまり文字をいくつかの構成要素に分解することである。その分解の仕方が文字学的に正しい、正しくないは別として、中国でも古くから暗号やプロパガンダとしてこの方法が広く使われている。  たとえば、秦《しん》の時代に「貨泉」という貨幣が造られたのだが、この「貨泉」の「泉」を「白」と「水」に、「貨」を「〓《ニンベン》」と「眞」に分けて「白水眞人」とし、白水郷で挙兵した劉秀(後の光武帝)が帝位につくことを予言したという話がある。また『三国志』の中にも「董卓」という将軍の名前の「董」を「艸(草)」と「千」と「里」に、「卓」を「上」と「日」と「十」に分解して、 千里草   青々、千里の草も 何青々   眼に青けれど 運命の風ふかば 十日上   十日の先は 猶不生   生き得まじ  と歌に織り込むことで、董卓の暗殺を暗示している件《くだ》りがある。  このような方法で、「玉ダスキ」がつくられているというのである。いったい、何の字をどう分解すれば「玉手次」「玉田次」になるというのであろうか。 「枕詞=被枕詞」のルールが成り立つことがわかったのだから、手順として今やわけの分らない枕詞から解いていく必要はない。まず被枕詞の方から手をつけてもよいわけだ。そして、その意味が枕詞を貫いているかどうかを糸口にすれば、一見複雑な枕詞も明らかになるはずである。 「玉ダスキ」がかかる被枕詞の「かける」には「懸」、「うね・うねび」には「畝・畝火」が使われている。この懸と畝を単純に分解してみただけでは、「県・系・心」、「・久、あるいは亠・田・久」にしかならず、「玉手次」「玉田次」にはほど遠い。ただ単純に分解すればいいというわけでもなさそうである。  どうしたらいいのだろう。 「畝」と「懸」は、同じ「玉ダスキ」が係るのだから、何かしら共通性があるに違いない。語源をみてみると、「懸」はぶら下がる意を示し、もとは「縣」と同じであった。また、「畝」は、田畑を区切り、物を生みだすうねの意味を表している。これらのどこに共通性があるというのか。  改めて、「懸」「畝」の二文字を調べていくうち、『説文解字』の中にある次のようなことばを見つけた。 「挂は縣なり」 「五十畝を畦となす」  これは、縣と挂、畝と畦が同意であることを示している。見ているうちに、はっと思った。  どちらも「圭」という字をもっている。カケとウネの共通点はここにあったのだ。    圭と玉ダスキ  この圭に注目してみよう。  圭とは、中国で天子が諸侯に領土を授けた印として持たせた古代の型の玉器のことで、正式の場では手に持って貴族のしるしとした。後になると、珪とも書かれている。これは、今では先も丸く、木ではあるが、神主も持っているし、ひな人形の内裏様も手にしている。  この玉器のように<型にとがる形を示すのが、圭のkuegという音で、これを含む字の大半が<型を呈する意味をもっている。だから、この字を含む「挂」も、<型にかけ垂らすことであるし、「畦」も、<型のようにはっきりとカドがあることを「区切る」という意味でつかっているのである。  被枕詞のカケとウネの共通点は、挂《カケ》、畦《ウネ》の圭だということが解ったので、ここで「枕詞=被枕詞」のルールにもう一度あてはめてみた。 玉手次 挂・畦 玉田次  これをじっと見ながら、仲間の「玉手次はカケ、玉田次はウネの字形分解」ということばを思い出したとたん、「玉手次」の手は挂の手へん、「玉田次」の田が畦の田へんだということに気がついた。残る圭は、先ほど見たとおり、玉の一種だったのだから、「玉手(田)次」の玉がこれに対応していることがわかる。さらに、これを裏づけているのが「次」の字なのだ。 「次」は、順序よく並ぶことを意味している漢字だ。「圭」をもう一度よく見てみると、土がふたつ並んでいることがわかる。「玉手(田)次」として、次をつかっているのも、玉は玉でも同じ字をふたつ並べている圭の字でなくてはならない——ということを教えてくれているのである。  次の日、仲間のところへとんで行った。 「玉手次は挂の分解、玉田次は畦の分解だったんだね」 「そうなんだよ。カケルを懸、ウネを畝とだけ考えていると解けないんだ。懸が挂、畝が畦だということがわかればスッキリとする」 「うん。しかも、玉ダスキに、玉だけじゃなくって次の字が入ってるのがヒントになってるんだよね。圭でなければいけない理由がここにあるんだもの。凄《すご》いなあ」  仲間が手もとにある紙にこう書いた。 「こうなると、もしかすると昔は、ケイ・ケイってこの枕詞を読んでたのかもしれないって思えてくるよ」 「そうね。圭の<型とか、区切る意味を繰り返しているのよね」 「ああ。それに圭といえば思いだしたけど、その玉器の形みたいに、きちんとカドがあってスラリとしているものが、古代の人にとっては、美しく尊いものだったんだよ。美人のことを佳人といったり、りっぱな人を佳士っていうのもそのあらわれだろうね」 「じゃあ、玉ダスキってずいぶんいい枕詞なのね」  このような事情があったからこそ、神聖で美しい畝傍山を表すのにふさわしい枕詞として定着したにちがいない。同様に万葉で軍王《いくさのおおきみ》が「珠手次懸けのよろしく」とうたっていたこともうなずけるのである。  こうしてみると、「手次《タスキ》をかける」ということも、圭のような尊い形を身にまとうことと同じになる。天宇受売命や采女たちがタスキをかけていたのも、他のものとは違った尊い人であることの証《あか》しにしていたのかもしれない。    漢字のジグソーパズル  まるでパズルを解いていくような面白さで、私たちは知らず知らずのうちに夢中になっていた。表記につかわれた漢字を手がかりにすると言っても、枕詞のように短いことばですら、はじめはそのいくつかある漢字にとまどってしまう。たとえば「玉ダスキ」の場合でいえば「玉田次」、「玉手次」、「懸」「畝」という漢字のことだ。この漢字をただうわべだけなぞるのみでは、何の関係性も浮かび上ってこない。とどのつまりは「枕詞には意味がない」ということになってしまう。それはまるで、もとの絵柄《えがら》を全く知らないで、バラバラになったジグソーパズルのかけらを手にして「こんなの何にもなるわけない」と言っているのと同じである。ひとつひとつを見ているだけでは、あるものはただ「黄色」、あるものは「緑色」というだけで、そこには作者のえがいたイメージも風景も何も浮かんではこない。  しかし、断片を少しずつ組み合わせたり、同じ色のものをあつめてみたりするうちに、ふと茎らしい線、葉脈らしい片などが見つかって、「あ、これは花の絵かもしれない」と気づく。それをきっかけに、再びかけらを見てみると、緑のかけらは葉っぱに、黄色のかけらは花びららしいことが見えてきて、どんどん組み合わされていく。そしてとうとう、そのジグソーパズルのもとの絵がひまわりだった——ということがわかる……  万葉集に残された漢字のひとつひとつは、それを読み解くものの側からみれば全《すべ》てかけらにすぎない。しかし、それには必ずもとの絵柄がある。玉ダスキでいえば「圭」だった。そして、そこで大切なことはその絵によってつくり手が何を伝えようとしているのか——つまり、ひまわりが何を、圭が何をさし示すのか——ということである。しかし、そのような奥にある意味も、残された漢字を通してはじめて見えてくるのである。  漢字のひとつひとつはかけらでも、それしか手がかりはないのだから、その中からその歌のイメージを、意味を見つけていくこと——それが枕詞を、歌を読みほどいていくことなのである。パズルを解きながら、そのかけらが結びつき、古代の人が注いだであろう思いが浮きあがり、同じように感じている自分に気がついたときに何といっても嬉《うれ》しいのである。    ことばの創造性  こうして私たちは万葉集で出会う枕詞をつぎつぎにほどいていった。その度にどうして今まで千年以上もこんなことが放置されていたのだろうと不思議に思ったものだ。まるで万葉集が私たちの手で解かれることを待っていてくれたかのような——そんな気さえしてくるのである。  今までのことをここでもう一度まとめておこうと思う。何度も繰り返して言うが、基本的なルールは「枕詞=被枕詞」ということだ。さらにその内容について見てみると、「あしひき」のように朝鮮語で解けるもの、「たらちね」のように、中国語・朝鮮語でとけるもの、「玉ダスキ」のように字形分解でとけるものと様々であるが、そのほとんどが漢字の同音・同義の不可分な関係を示していた。  もうこれをただの偶然やこじつけとして片づけることはできないだろう。そう言って過ぎてしまうにはあまりにも大きな普遍的な問題が、そして、人間の言語の営みの、現在とかわらぬ創造性が見えてくるからである。  もしも、日本語をやまとことばとしてその独立性を強調する従来の国語学の立場から一歩も踏み出さなければ、おそらく未《いま》だにこれらの枕詞も解けなかったはずである。  しかし、思い出してほしい。万葉の歌人が残したすべての歌が「漢字」によって表記されているのだ。漢字は、当時の日本が文化の師と仰いでいた大陸で生まれ、半島を通り、海を渡ってもたらされたものだ。その漢字を見すえながら、その文字を共有した中国、朝鮮、日本という関連の中で古代のことばの営みが考察されなければ漢字のみで書かれた「万葉・記紀」の解釈の前進はある一定のワクを越えられないことは明らかである。 「枕詞=被枕詞」のルールで多くの枕詞がつくられたことがほぼ間違いないとしたら、古代の歌人にとってそれは単なる「ことばあそび」などというものではなかった。それもそのはずである。短歌が現在言われているように三十一音であったか否《いな》かはわからないが、もしそうだったとしてみると、そのうちの五音が枕詞で占めることになる。この五音がただの口調を整えるだけのものであったはずがない。短い歌の中の短いことばの中に歌詠みたちはその歌の全てを反映させていたはずだ。枕詞はその歌のもつテーマをうつしだすものだったのである。歌人としての力量、才能、技巧のすべてがいやがおうでも試される真剣勝負の場であった。  ところで、そんな枕詞をふんだんに造語し、巧みに使ったといわれているのが、万葉の代表歌人とされている「柿本人麻呂《かきのもとのひとまろ》」である。    枕詞の王——人麻呂  彼が万葉集の中に残した歌は長歌が一九首、短歌が六九首、他に『柿本朝臣《あそみ》人麻呂歌集』とされているものを含めると、その数は約四〇〇首に及んでいる。(数え方によって多少の出入りがある)  この中で用いた枕詞の種類を、同じく代表的な万葉歌人の大 伴 家 持《おおとものやかもち》、山 上 憶 良《やまのうえのおくら》、山 部 赤 人《やまべのあかひと》と比べてみると左のようになる。  これを見て誰もが気付くことは、人麻呂の枕詞の使用頻度《ひんど》が、他の歌人に比べて圧倒的に多いことだ。人麻呂が、それだけの才能と技巧を兼ね備えていたダントツの歌人であったことをもの語っている。  人麻呂の歌を読み解く上で、特にその枕詞の中に見落すことのできない重要な言語解釈上の多くの問題をみつけることができるだろう。なぜなら、枕詞は必ず歌の中にあって、その意味を反映しているのだから——。  今でこそ文字は溢《あふ》れ、私たち現代人はあたかも文字は人間世界にはじめからあった存在、空気のようなものとして捉《とら》えがちである。あらためて文字のもつ性格について深く考えたりすることもない。  中国における最古の字書『説文解字』の末尾には、文字に対する考え方が次のように述べられている。 蓋《けだ》し文字《もんじ》なる者は経芸《けいげい》の本《もと》、王政《おうせい》の始《し》、前人《ぜんじん》の後に垂《た》るる所以《ゆえん》、後人《こうじん》の古《いにしえ》を識《し》る所以なり。 思うに文字とは学問の根本であって、王者による統治の基礎である。また、前代の人々が後世に範を垂れる道具であって、後世の人が前世を学ぶ道具である。  この中には「文字」に対する古代の人々の態度がくっきりと示されているように思う。  全ての学問と思想の根本となる文字。それは当然、国家統一の基礎となるものであった。文字によって政治のイデオロギー、しくみ、制度を伝えていくわけであるから、文字は統治行政のために必須《ひつす》のものであった。  それは現代も古代も何ら変りはない。このように考えてくると、文字の発明が、同時に支配という人間の思想を発明したと言えるのかもしれない。  万葉の時代、文字(漢字)のもつ性格をふんだんに駆使し、ことばの織りなす彩《いろど》りをますます鮮やかにしていった人麻呂。 前人の後に垂るる所以、後人の古を識る所以なり。  私たちは残された表記——漢字に立ち返ることによって、初めて意味未詳とされていた枕詞を解く筋道を見つけたように思う。同じように、人麻呂の歌の全容も彼が残したことば、文字によってきっと解いていけるはずである。私たちはそこに映し出される生々しい人麻呂の姿をきっと見つけられると思う。  唯一《ゆいいつ》の手掛り、「物的証拠」——漢字——はいつでも私たちの手の中にあるのだから。 第三章 多言語を操る歌詠《うたよ》み  昼食どき、イラストレーターのSから電話があった。耳寄りな話があるから来てみないかという。私たちが、柿本人麻呂という歌人に興味をもつようになって二年がたとうとしていた。Sとは、この春にだした私たちの研究論文がきっかけで知り合いになった。その手のおもしろい話があると時々こうしてトラカレに電話をくれる。  私たちは早速、彼の事務所を訪ねることにした。  事務所の小部屋では、ところせましと物がひしめきあっている。テーブルの上には、食べかけの落花生の殻《から》に埋もれた挿図が散らばっている。ポップアートとでもいうものだろうか、その数たるやさすがプロのイラストレーターである。 「なんだかアガサの部屋だね、これは」  私は、ノートに混じって紙の断片が散乱しているアガサの机を思い出した。アガサは調べものを始めると、手当り次第、書きまくる。ノートがあるときはいいのだが、ないときには新聞の折り込み広告の裏、小さくちぎった菓子折のつつみ、あげくにはティッシュペーパーまでがノートに変身するというのだから凄《すさ》まじい。Sもいざ仕事となると、彼女とさほど違いはないようだ。  しかし、なかでもとりわけ私の目をひいたのは、そこに混じった数枚の絵だった。 「この姿絵《すがたえ》、誰のものかしら。ちょっと薄気味悪い」 「実は人麻呂なんですよ」  Sはにやにやしている。 「ええっ? 人麻呂?」 「だって、人麻呂ったって“謎《なぞ》の人”でしょう。その肖像画があるなんて」 「いや、擬《まが》い物でしょう。江戸期に刊行された『三十六歌仙集』のなかの人麻呂です。まあ、この人が人麻呂に似てるのかどうか、そもそも実在したかも怪しいという説があるんだから」 「じゃ、これも複写《コピー》なんですか?」 「そう。こっちは、土岐善麿《ときぜんまろ》氏旧所蔵と言われている“柿本人麻呂”。また少しちがった顔をしているでしょう」  右手には筆、左手には紙をもち、その膝下《しつか》には歌人らしく硯《すずり》をひきよせている。なにか思念に沈んでいるかのように顔をかしげているのだが、その顔は前のものよりはずいぶんと福々しい。  彼はどうやらこの人麻呂を見せたかったらしい。 「まさか、ここで人麻呂の肖像に会えるなんて思ってもみなかった」 「仕事仲間に、こういった類の姿絵を蒐集《しゆうしゆう》している奴《やつ》がいるんです。あなたたちのやっている人麻呂研究に、なにかお役に立てればと思いましてね」  私たちは、改めてこの協力者に礼を述べた。 「それにしても、人麻呂っていったいどんな経歴の持ち主だったのかしら。結局、いつ、どこで生まれ、どこで死んだのかということすらわかっていないわけでしょう」 「でも、歌を詠んだ時代はわかっている。持統天皇が政権を握っていた六八六年から六九七年頃《ころ》」 「それだって、万葉に残された歌と、それに付けられた題辞や左註《さちゆう》だけが手掛りなわけだし。そのなかでも皇子、皇女に対しての歌や、天皇行幸のときの歌が多ければ、ああ宮廷歌人だったのかと片付けられてしまう」 「その点はどうなんですか? 人麻呂の職が“宮廷歌人”だったというのは」  Sがいぶかしそうな表情で訊《たず》ねる。 「人麻呂に限らず、万葉に名を残したような人たちは、当時にあっては相当の知識人たちだったはずです。現代の詩人や作家ごときは足もとにもおよばない」 「そうねえ、そんな人たちが、ただ歌を作るためだけに宮中にめしかかえられたとは考えられないでしょ」 「——」 「彼らは官僚としての高度な知識を、歌人としての文学性とともにあわせもっていた人たちでしょう?」 「官僚の実用的な知識として求められた第一のものは、漢文の素養があるということだった」 「とすれば、そんな知識階級のトップレベルをいく人たちが、呑気《のんき》に歌だけを作っていたなんて益々《ますます》考えられなくなってくる」 「万葉の他に、人麻呂の登場する資料ってほんとうにないのかなあ」 「“柿本氏”という家系は、春日《かすが》氏や和珥《わに》氏の系列として『古事記』や『新撰姓氏録』にはでてくるけれど、それが人麻呂とつながりがあったかどうかはわからない」 「正史からは消されてるってことか」 「ただ『続《しよく》日本紀』の七〇八年に、従四位で亡《な》くなったという“柿本《かきのもとの》朝臣《あそみ》佐留《さる》”という人はいるけれども」 「結局、決め手がないわけですね」  Sは落花生を指さきでパチッとつぶした。 「生没不明の謎の人。わかっていることは、皮肉なことにそれだけなんです」 「この時代って、天皇の権力が絶大になってたころよね、中央集権国家ができつつあった」 「そして『大宝律令』が制定される」 「やっと“日本国”の誕生か」 「そして、人麻呂は消えた……」 「うーん……。もしかすると消された……かもね」 「ふーん、それはおもしろいですね」 「でも、証拠がない」 「事件は迷宮入り」 「永遠の謎」 「筋書きからいえば、“謎に包まれた歌聖”の誕生ですね。まったく、この謎に包まれたという言い方は古代につく決まり文句になってしまった」  なるほどそうだ。“謎”ということばは“古代史”につく枕詞《まくらことば》と言っても過言ではないだろう。だが、謎ということばには、何か人を夢中にさせてしまうものがある。 「売れないイラストレーターと“柿本人麻呂の謎”か……これは絵になるかなぁ」  Sは、落花生の殻をわってはせわしく口にはこびながら、ぼそっと呟《つぶや》いた。 「でも“謎”といっても、永遠にわからないものであれば、探りようがないじゃない」 「うーん、やっぱり“謎”っていったら文字どおり、言《ことば》が迷《まよう》、もしかしたら、ことばで迷わせることだったかもしれない」 「ナゾナゾっていうのもそうか。謎をかけるときには、ことばで迷わせるだけで、そこにはすでにきちんとした答があらかじめ用意されているわけだし」 「そう、その答を伝えたいヒントの中に包んでおいて、遠まわしにあてさせたのよ」 「それを知っているからこそ、人は無意識に別のことばを探して答えるわけだ。それが永久にわからないものであれば、ほんとうの意味で“謎”とは言わないのかもしれない」 「それじゃあ、初期の万葉の歌こそ“謎”っていうことばがふさわしいものになっていたのかもしれないね。言いたいことを直接記す、なんていうことは決してしなかった」  私は数年前、はじめての歌をときはじめた頃のことを思い出していた。表記につかわれた漢字は、決して謎解きの答をストレートに示すものではなかったのだ。このことは、枕詞を解く上でも経験済みのことである。漢字のなかにある些細《ささい》なヒントをつなぎあわせ、別のことばで言いあらわすことでしか、その謎を解くことはできない。 「なるほど、詩歌には、必ずある秘められた意味が裏にこめられてたってことだね」  さっきから瞬《まばた》きもせず、くいいるように話をきいていたSが口をはさんだ。 「だからこそ、古来、皆それをさぐることに躍起になったわけだ」  私は二枚の人麻呂の肖像画に目を戻して言った。 「人麻呂もまた歌人として同じことを考えたんじゃないかしら」 「歌人として、大陸の言語に通じていたと考えるなら、それらを歌のなかに潜ませることで、歌をより奥行きのあるものとしてつくっていったことは間違いないっていうこと」 「当然、そこに使われた文字は、そのことを充分、意識した上で選ばれていたことになるわね」 「でもどうしてそんなことをする必要があったの?」 「そうね、歌に奥行きをもたせるっていう技法みたいなこともあったのだろうけど」 「それはよくわからないけど、表向きには言えないようなことでも、裏にひそめることで誰かには伝わる」 「暗号〓」 「そうだったかもしれない」 「歌人にはことばを微妙に操ることで、そこに重層的な意味をもたせ、歌の奥行きを深めるという意識があったのだと思うな」 「——ってことは、表記につかわれた漢字そのものが“暗号”になりえたってことだね」 「まぁ、結論はいそぐことはないけれど、そういう可能性はあったっていうこと」 「人麻呂の暗号か……」  私たちは、Sの事務所を後にした。午後の木洩《こも》れ日が薄くなった緑のあいだから射《さ》しこみ、心地よくからだをあたためてくれている。たいした距離ではないのだが、私たちは少しだけ遠まわりをして学校へ戻ることにした。    「炎」の一字が映しだすもの 東野炎立見而反見爲月西渡 ——東 野《ひむかしのの》に炎《かぎろひ》の立《た》つ見《み》えて反見《かへりみ》すれば月傾《つきかたぶ》きぬ(巻一—四八)  ことばの揺籃期《ようらんき》が生んだ謎の歌聖——柿本人麻呂に、私が出逢《であ》ったのはこの歌がきっかけだった。これは人麻呂の代表作とも言われるもので、持統三年(六八九)晩秋、人麻呂が軽皇子《かるのみこ》(のちの文武天皇)につき従って安騎野《あきの》を訪れたときに詠んだ歌だという。  この東方の野には曙《あけぼの》の光がさし初め、西をふりかえると月が傾いてあわい光をたたえている——というのが現在の解釈である。  私がこの歌をはじめて知ったのは、中学の古典の時間だったように記憶している。「東から日はでて月は西」というような歌をそのまま、雄大な風景をうたった叙景歌だとし、“当時の万葉人は素朴《そぼく》だった”と言われたことに何の疑問もなく納得してしまった。ただこんな歌なら私たちでもつくれそうな気がしたことを覚えている。しかも、この歌は、大らかな「万葉ぶり」の代表格として教科書にもしばしばとりあげられるほど多くの人々に愛唱されてきた。  だが、この一見単純な叙景の裏に、もうひとつのことばが織りなす風景がみえていたとしたらどうだろう。そこに託した人麻呂の人知れぬ思いがあったとしたら——。そんな隠された故人の思いを、私たちは探りあてることができるのだろうか……。それならば、私たちはこの歌のどこに手掛りをもとめたらいいものか。  さっきから隣りで、聞くとはなしに私たちの話に耳を傾けている人がいる。スリムな体つき、うしろで、ひとつにまとめた髪が団子のようだ。——アガサ。新入生は彼女のことを称して“おだんご先生”などとも呼んでいる。  最近小皺《こじわ》が少しめだってきた面長《おもなが》の顔から大きな瞳《ひとみ》がのぞいている。 「まず、どの漢字に目をつけるか……歌をとく上で鍵《かぎ》となる、キーワードをみつけることが大切だわね。私だったら“炎”の一字をとっかかりにするかな」  後れ毛を指先でなでつけるしぐさがアガサの場合には、艶《つや》っぽいというよりも、威厳につながっている。 「えっ、どうして?」 「さぁ……それは、あんたたちで確かめてみることね」  アガサの言い方はいつもこうだ。なにもかもお見通しのはずなのに曖昧《あいまい》にかわす。だからといって、すべて鵜呑《うの》みにするとあとでとんでもない目にあうこともある。いまだ何の手掛りもつかめぬ私たちは、とりあえずアガサの推理にたよってみることにした。 「炎」——盛んにもえる火。  字源をみても激しく燃える炎のことでしかない。にもかかわらず、賀茂真淵《かものまぶち》はこれを「カギロヒ」と訓《よ》んでいる。さらにそれ以前は、「アズマノニケブリノタテルトコロミテ」としているではないか。盛んに燃える、激しい火、を表すはずの字が、なぜこんな訓でおこされているのだろう。  私は、いったいこの「炎《かぎろひ》」という表記が万葉集のなかにどのくらいあるものなのかを調べてみることにした。すると、“かぎろひ”という表記には、蜻火、蜻炎、香切火、炎の四種があてられていることがわかった。なかでも炎の表記は、この歌の他には田辺福麿《たなべのさきまろ》歌集の「郷《さと》を悲しびて作れる歌一首」に陽炎《かげろう》の意でつかわれている一ヵ所をのぞいては万葉集のなかには見当らない。  陽炎とは、野原などにちらちらと立ちのぼるはかない「気」のことだ。炎を“カギロヒ”と訓ませたのでは、他の用例からみてもますます腑《ふ》におちないものになる。「炎」と「カギロヒ」とでは、まるで正反対の意味になってしまうではないか……。 「この歌のなかで炎っていうのが、ちょっと不思議じゃない?」  じっと原文に目をすえていた仲間が訊《き》いた。 「この歌の場合、野火とか、かがり火とか、一般には“暁《あかつき》の光”とか言われているようだけど」  そうは言ってみたものの、お互いに腑に落ちない顔になってしまった。言われるまでもなく、炎とは燃えさかる火であり、曙の光などという意味はない。  炎と“カギロヒ”——炎と“曙の光”——何のつながりもないではないか。いったい人麻呂は「炎」をどういう意味に用いたのだろうか。激しく燃えさかるホノオなのか、東野にたちそめる曙光《しよこう》なのか。それとも、はかない陽炎だったのだろうか。  たしかにここでの「炎立所見而」は、炎《かぎろひ》がたつところが見えてとか、現われてという意味の漢文である。しかし、この「炎」をすでに解釈されているように「曙光《あかつきのひかり》」とのみ単純に考えていいものなのか、どうしても納得がいかない。  この安騎野にたった炎を、人麻呂は実際にみたと仮定しよう。人麻呂は歌人である。その風景の背後に、よりくっきりとみえていた何か別のものがあったととる方が、むしろ自然なことではないのか。  私たちは、もうすっかり“人麻呂探偵団《たんていだん》”の気分になりきっていた。まず証拠がためにかかることにしよう。人麻呂のみた「炎」が何であったのかがはっきりするのは、それからでもおそくない。    十四文字のなかの対称性  これは前に長歌をふくめた連作のなかの四首目にみえる歌である。まず原文をみて誰でもが気づくことは、使われている漢字がたった十四文字だということだ。これは他の歌にくらべてかなり少ない。  一般に万葉前期のものはかなり漢文の色合いが濃く「立所見而《たつみえて》」のところなどは、漢文体そのままである。この一首だけは四首連作のなかでも目立って字数が少ないため、後人の作とみる説すらある。  私たちは、この漢字の配列をながめていておもしろいことに気がついた。原文をちょうど真中、七文字目の「而」で区切ってみると、一首の前後にくる「東」と「西」、ふたつの「見」、そして「炎」に対しての「月」がほぼ対称的に位置していることがわかる。  つまり、東景に対しての西景が如実に表わされていることに気づくのだ。人麻呂は、この歌を解く鍵となることばを、意図的にちりばめていたとは考えられないだろうか。また、この対称性そのものが、なにかの意味を象徴しているものではなかっただろうか。  もしそうであるならば、「炎」をさぐる第一のヒントになってくれるものは「東」であったかもしれない。私たちはまず、この「東野」がどこをさしていたかというところから始めることにした。  歌の舞台となっている“安騎野《あきの》”は、奈良県宇陀《うだ》郡大宇陀町一帯、宇陀川流域ぞいの榛原町《はいばらちよう》にかけての山野であるとされている。ここに軽皇子の父、草壁皇子《くさかべのみこ》が、生前好んで狩りにきたという追憶の地であり、人麻呂にとっても草壁皇子を偲《しの》ぶよすがとなる思い出深いところであった。  東はもと、中国語では「」、袋に棒を突き抜いた形()のことである。この字は朝鮮に入ると「(tong)」とよまれるが、その意味はいずれも物を突きとおすということである。太陽が突きでる方向から、ヒガシの意味になっている。  だが当然のこと、朝鮮ではこの「」に他の意味はなかったのかという思いが湧《わ》いてくる。私たちが、「ケ」という音をきいて瞬間、「毛《ケ》」や「笥《ケ》」などのものを連想するのと同じように、朝鮮の人たちは「」という音にどんな意味を与えていたのだろう。  さっそく朝鮮語の辞書を開いてみると、童《トン》()、洞《トン》()などの漢字が一斉《いつせい》に目にとびこんでくる。これらはいずれもその漢字の漢音である。「《トン》」の意味は、この他にはないのだろうか。  ようやく私たちは「《トン》、物事の継ぎ目、終末」ということばを探りあてた。この他のものは、どれもぴったりとこないものばかりである。突き通すことは、当然、通じる、達する、さらには終末という派生的な意味をうむ。表向きは、あくまで東という方向、もしくは場所をさす。が、その音には同音で“終末”の意味をかけている。東野は、安騎野——東の野だと見逃していきがちなものだけに、裏の意味を潜めやすかったのかもしれない。  それにしても、いったいこの東——終末とは、何のモチーフだったのだろうか。これだけではまだ決め手にならない。解けていないも同然である。 「東野炎立所見而」  東と炎とは、どのような結びつきがあるというのだろう。私たちはここまできて、また行き詰まってしまっていた。 「この歌をとく鍵は、炎ね」  と、自信あり気に言っていたアガサの顔が浮かぶ。    朝焼けの風景の中に  ——やはり「炎」にはなにかある。思い出してみれば、万葉のなかで炎を“カギロヒ”と訓《よ》み“曙の光”としているのはここだけなのだ。人麻呂が、曙の意味にどうして「炎」の字を用いたかというのがまず第一の疑問である。  私たちは、ずいぶん長い間、この炎に手をやいた。  炎の朝鮮語音は「《ヨム》」。やはり、激しく燃えあがる炎のことである。では、その炎の美しさはどこにあるのかということを、素直に考えてみたらどうなるだろう。それは燃えあがる一瞬だ。勢い激しく燃えあがり、やがては消えていく炎の美しさを私たち誰でもが知っている。こう考えたとき、頭の中にひらめくものがあった。そうなのだ、もともと炎のイメージには“激しさ”と“はかなさ”とが同居している。つまるところ、それが「炎」の一文字ではないか。  表向きには、盛んに燃える炎のことではあるが、ここにもまた、驚くような意味がかけてあった。  《ヨム》:〓襲《れんしゆう》。死体の体を清め、帷子《かたびら》をきせる——これだったのだ。そうであれば、人麻呂は激しく燃えあがる炎に、誰か死者の姿をダブらせていたことになる。やがては消えていく炎のはかなさゆえに、そこに人の命の灯をみたのだろうか。  そしてさらに、そのことを強調するかのように「かぎろひ」と訓じられていたのである。この音を朝鮮語にてらすとぴったりのことばがみつかる。《カクロ》‐《ヂダ》(古語: 勢いが衰える、死ぬ)だ。カギロヒは、カクロヒ(i→uの音韻変化)という音の範囲で考えることができることからも、ますます、この炎のはかなさが「死」を暗示していたことになってくる。この「カギロヒ」の訓は偶然の一致なのだろうか、それとも、それを知ってのことだったのだろうか。  私たちはここまで解いてきて、あらためて人麻呂がこの一字に託した想《おも》いの深さに驚愕《きようがく》した。美しい朝焼けの風景の中に、くっきりと死者の姿がうきぼりにされたのである。「炎立所見而」は、背筋がゾッとするほどに恐ろしい情景を伝えてくれていたことになる。東野に現れた亡霊の姿、それはまさに炎のように立ちあらわれたのだった。  そして、このことは“東—終末”というモチーフをもうけているものだった。亡霊が現れるにふさわしい舞台というものが、おのずとあったのである。それこそが“終末の野”であり、人麻呂にとっては何かの境目の地としてみたてた場所であったのだろう。東と炎《かぎろひ》とは、死のイメージで分ちがたく結びつくものだったのである。  ふと見ると、じっと私たちのはなしに聴きいっていたアガサが、めずらしく口もとをほころばせていた。    冥界《めいかい》に渡る月 「その炎を見た人麻呂が、さらにふり返って見る。これって何かつじつまがあわないな」 「“反見為者《かへりみすれば》”だね。ふり返ってみるとと解釈されている」  これを朝鮮語でよんでみると、反「《パン》」見「《キヨン》」だ。しかし、このふたつを合わせた「《パンギヨン》」ということばはない。だが、この近辺のことばで何かあうものはないだろうか。朝鮮語や中国語は、日本語と違って子音でおわる語ばかりである。私たちはこれまで、その語尾の子音が欠落するケースが多いことを音韻変化の過程で見てきている。  もう少し枠《わく》をひろげてみたら……《パギヨ》、《パギヨン》、《パンギヨ》……などと考えてみたらどうだろう。いくつか可能な組合せをあたってみると「《パンギヨ》」ということばがみつかった。これは末尾のn音が落ちただけのちがいである。だが、その意味は「懐《なつか》しがる」こと。  為は古朝鮮の『郷歌《ヒヤンガ》』などでも「〜《ハダ》(〜する)」という動詞に使われている。そうすると「反見為《かへりみすれ》(者《ば》)」は、《パンギヨハダ》(懐しがる)と解けるのだが、これではなんのことやらわからない。どうやら人麻呂が、死者に対する追慕の情をよみこんでいたことはわかってきたのだが、いくら人麻呂といえども亡霊を見て「懐しい」とは、いったいどういうことなのか。  いや、むしろこのことは、この歌がただの怪談ばなしではなかったことをさし示しているものなのかもしれない。私たちは、そこのところを行きつ戻りつしながら、予想外にこの歌がより深い、新しい旋律をもって私たちの胸に響いてくることに気がついたのだった。  私はぼんやりといつか見た草壁皇子の墓を思い浮べていた。  後の文武《もんむ》天皇にあたる軽皇子の父、草壁皇子は、天武天皇と皇后、後の持統天皇との間に生まれた。天皇の絶対権力が確立され、律令国家完成期を迎えるこの安定した時代の中で、草壁皇子は天皇になれずに若くして逝《い》った悲劇の人だった。人麻呂は、この草壁皇子の舎人《とねり》であったという説もある。  しかもこの安騎野ゆきは、亡《な》き草壁皇子を偲ぶための旅であった。もし、この歌がそうした人麻呂の追慕のたかまりをうたったものだったならば……人麻呂はその故地で「草壁皇子の亡霊」を見たのではなかったのか。——そうか、そう考えるとつじつまがあうではないか。  炎——亡霊、人麻呂にとってそれは、「懐しい」人であったはずだ。その草壁皇子が東野に現われたというのも偶然ではなかっただろう。私たちは、ぼんやりと頭をかすめた草壁皇子の影を追って、歌の終句「月《つき》西渡《かたぶきぬ》」を考えてみることにした。  これは東景に対する西景である。どう読んでも、月が西に渡るというありふれた光景だ。しかし、そのこと自体をもう一度、さぐってみよう。  西は、中国では古く「冥界」を象徴するものであった。西土といえば極楽のことであるが、古く『漢書』などでも、西征《せいせい》といえば日が西に没することに、人が死ぬことをなぞらえていたものだった。  月もまた「死」と関連の深いものであったことは、古墳の図柄《ずがら》などに頻繁《ひんぱん》に描かれていることからも推測がつくだろう。飛鳥《あすか》、高松塚《たかまつづか》古墳の壁画には、東壁に日像、対して西壁には月像がかかれているが、これも東西という関係で、死者が永遠の眠りにつく小宇宙、生命の終末(墓場)を表すにふさわしいものとして描かれたのであろう。さらに、月客《げつかく》、月卿《げつけい》ということばからもわかるように月や日は、天皇や皇子などの高い位の人をたとえるシンボルにもなっていたものだった。 「月西渡」の三文字は、あの世へ渡ることをさし示すものではなかったか。今でも皇族が亡くなることを“お渡りになる”という表現をするように、ここでの「西渡」は、命が没する方向そのものをさしていたことになろう。そうして冥界に没していく「月」に人麻呂は、草壁皇子の姿を見ていたのかもしれない。  しかし、ここでふと立ちどまってみる。「西渡」は旧訓では「にしわたる」と訓まれているにもかかわらず、今ではこれを「かたぶきぬ」と訓むことに大方おちついている。これは戯訓と呼ばれるものだが、同じ五文字でおこすのでも「にしわたる」よりも「かたぶきぬ」とした方がそのニュアンスがより深まるのだろうか。  この訓も、朝鮮語でとくと「《カダ》(行く)—《ピキダ》(傾く)」という複合語に相当するものではなかっただろうか。これだと斜めに傾いていくようすそのものの表現となる。「《カダ》」にも「逝く(死ぬ)」という意があり、古訓より後の時代になって「かたぶく」と訓まれたことも、それが朝鮮語を源とする和語であったことを示すものであったのかもしれない。 「月西渡」は、表記、そこにふられた訓点のいずれからも「冥界に渡っていく」ことを比喩《ひゆ》するものだと私たちは訓み解いた。月が傾いていくようすに、昔の人たちは生の終末を見ていたのである。すると、東西はともに「終末」という意味を対になって表すものというわけだ。 「炎はもちろんのこと、東西というつながりまでが、朝鮮語をとおしてこんなふうに解けるなんて、思ってもみなかった」 「歌のなかに、これだけの符牒《ふちよう》がちりばめられていたなんてまったく驚きだよね」 「こんなに短い、たった十四文字のなかで、よくそんなことができたって感心しちゃう」 「だからこそ、人麻呂は“歌聖”と称《よ》ばれるにふさわしい人だったんじゃない?」 「でも、歌に裏の意味をもたせるっていうことも、別に人麻呂が発明したことじゃなかった。人間なら誰でもが自然にやっていることだったのよね」 「うん、気がつけばあたりまえのこと。そのあたりまえのことを人麻呂もやっているに過ぎない」 「そう考えると、“かけことば”の技法も、古くは中国のそれに学んだものだったのか」 「人麻呂は、その技《わざ》を自分の歌のなかに取り入れていたわけね」    漢字ならではのテクニックを使う  私たちは、このような技法を古代中国の歌謡、おもに「楽府《がふ》」のなかにみつけた。楽府は六朝《りくちよう》時代、南宋の民間ではやった歌謡の形態で、民謡に根ざしたものが多い。これはもと、前漢の武帝時代から後漢末年までおかれた役所の名をとったものであるが、ここには各地の口誦《こうしよう》による詩歌や民謡が保存されたという。万葉集にも古い民謡に根ざしたものは多く、また現在日本の呉音として定着している漢字音は、おもにこの六朝末期の音系(南朝の劉《リユウ》音)を反映していると言われている。六朝時代に使われていた音は、その時代使われていた漢文体、漢字そのものとともに日本に流れこんだのだ。 『宋書』(四八八年)の倭国伝《わこくでん》には、倭の五王が南朝宋と接触をかさねた記事が数多く残されている。また、そのころ倭は百済との交流が最もさかんであり、その百済も南朝宋と接触をかさねていた。つまり、当時、六朝漢語はおもに百済をへて倭へというかたちで流れこみ、そのことばを使って三国が交流していたと考えられるのだ。地理的にも日本は、古代中国語、朝鮮語のふきだまりになっていったのだろう。ましてそのころ、我国は独自の文字すらなく、自国語表記は「漢字」に頼るしかなかったのである。  この「楽府」の形態も、日本最古の歌集『万葉集』に影をおとしたものがなかったとは言い切れないものがある。 「同音の別字を用いて発音をあわせ、いいたいことを暗示する“双関語(かけことば)”が多くみられる」ことは、楽府の特徴のひとつだ。たとえば、 「理絲入殘機何悟不成匹」——糸を理《おさ》めんとして残機に入る 何ぞ悟らん 匹を成さざるを(小夜歌)  という歌がある。糸を織ろうとしてこわれた機《はた》にかけていたようなもの、一反にもならぬことがわかったというのである。  しかし、このなかには漢字の音をあわせ、糸を織って「一反(匹)」にもならぬ——つまり「匹偶《ひつぐう》(夫婦)」にはなれぬのだという作者の心情をひそめている。このようなかけことばはいたるところにちりばめられ、この他にも「蓮」は、同音の「憐(恋人)」の意に、「魚」は「男」の意でつかわれることなど、往古、歌を詠《よ》む人であれば誰でもが知っていた。こういった技法は、楽府に限らず詩歌全般に見られたものだったのである。 「魚語女」(列子・黄帝)  さて、これはどうよむべきか。これを現代人がまともにとってしまえば「魚語をしゃべる女」もしくは、「魚が女に語る」とでもなるだろうか。しかし、これも中国語でよめば「魚《われ》は女《なんじ》に語《つ》げん」ということである。つまり、魚という表記には類音で「吾《われ》」を、女には「汝《なんじ》」の意味を掛けた用法であり、中国では広く使われたものなのである。これも漢字が、表意文字だからこそできる遊びと言ってもいいだろう。  重要なのは、いかに漢字が表意文字であるとはいっても、字形はそのことばの語義そのものを示すものではないという点である。文字以前にあったのは語音だけなのだ。語義とはその字音より起こると清末の劉師培も説いているように、字音のなかにこそ私たちは語義を見つけることができるのである。「魚」の一字を用いても、その字音が同じであれば、人々はひとつの歌のなかで「魚」という表記の背後に「我」もしくは「吾」という意を見つけることができたのである。  まさに「表音」「表意」文字としての性質をあわせ持つ漢字ならではのテクニックなのだ。このこと自体がすでに暗号とでも呼ぶにふさわしいものとしてあったのだろう。  詩歌のもつ二重性というものも、漢字という独特の文字を持つことで古代中国では詩の当然の技法としてすでに確立されていた。それが、古代朝鮮や日本でも詩歌一般の技法としてうけつがれたのであろう。  万葉集もむろんその例外ではない。詩歌の中にかすかに見えかくれする旋律、それは、隠れているからこそうるわしく響く。だがそれは、当然詠み手の側にせまらなければきくことはできない。情景の描写に感情を重ねるなどということは当り前のことである。歌人がその技と力とをためされたのは、このふたつを結ぶ相関の語句を、いかに的確に歌のなかで駆使することができるかということだった。  人麻呂が安騎野で見たという実景に、新しい角度から光をあてる重要な鍵《かぎ》を握っていたものは、表記につかわれた漢字の字解、その古代中国語、朝鮮語音であった。それらのことばによって歌全体をよみなおしてゆくとき、はじめて人麻呂が見たものの正体がくっきりと形をもってくるのではないだろうか。  私たちはアガサをかこみ、何人もの頭でこの歌の解読に夢中になっていった。この歌にある奥深いなにかが私たちをそうさせていた。    皇子の名が炙《あぶ》りだされた  数日後、アガサが暗号の解読に成功した。 「この歌には、はっきりと草壁皇子の名が織りこまれている」というのである。  草壁皇子は、その別名を太陽と並ぶ皇子として「日並所知皇子《ひなみしのみこ》」という。歌中の「炎《かぎろひの》立所《た つ》」とは、アガサによればまさしく「日並所《ひなみし》」の別表記だというのだ。みないっせいに身をのりだして息をのんだ。アガサは口をさしはさむ隙《すき》をあたえずにつづける。  ——炎は、燃えさかる火。火《ひ》と日《ひ》は、どちらも「太陽」を表す漢字としてつかわれている。並の原字は竝であり、立をふたつならべたものが並だったのだ。さらに炎の字形に注目すれば、まさしく火がふたつ、ならんでいるではないか。すでにこの一字のなかに「日並所」の“日とならぶ(皇子)”の意がこめられていたことになる。 「炎《かぎろひの》立所見而《たつみえて》」と、ここの部分を人麻呂があえて漢文で表したことにもそれなりの理由があったとすれば、ここに日並所知《ひなみし》皇子の名を織りこんでいたからではなかったのか。「炎」には、人麻呂ならではの二重、三重の工夫がこらされていたのだった——。  アガサはここまで一気にはなし終えると、コーヒーをひと口啜《すす》った。私たちは、まるで自分が発見したかのように浮き立っていた。 「やられた!」 「まさにあの炎の一字は、草壁皇子そのものだったことになるね」 「やっぱり炎がキーワードだったんだ」  亡き草壁のことを伝えたいがためにこの「炎」の一字が選ばれていたなどとは思いもよらないことだった。それも、これほどまでに緻密《ちみつ》なことばのかかり方になっているとは……。  人麻呂の生きた時代、それは権力抗争の渦巻《うずま》く時代であった。人麻呂が宮廷歌人として生きたのであれば、天皇の行幸のとき、皇族が亡くなったときなど、詔《みことのり》に応じて「公《おおやけ》」の立場で歌を詠んだことだろう。しかし人麻呂は、「公」に詠むものにすら「私」の感情のすべてをそそぎこんでいたことになる。  この時代、いかに歌人とはいえ、ひとりの皇子への私的な思いをあからさまに詠むことなど、政権抗争のただなかに自らを投げこむに等しい行為である。だからこそ人麻呂は、歌のいたるところに符牒をちりばめていたのだ。それだけではない。さらに、表記としてつかわれた漢字は、確かな歌人の目で選ばれていたものだった。  この「かけことば」の技法にこそ、歌人の秘《ひそ》かなねらいがあった。ここまで解いてきて、私たちはあらためてそのことを実感していた。歌人はこれらをふんだんに用いて、歌そのものを一枚の判じ絵として描いていたのである。  東野炎——終末の野に草壁皇子の亡霊があらわれたと人麻呂はいう。それはまた、夜の白む光に、皇子の白い死装束の姿を重ね見たものだろう。  私たちは残された十四の文字を逐一たどることで、ある程度リアリティのある風景を復元できたと思う。さらにこの解釈を後押しするようなものがみつからないだろうか。    金思氏との出逢《であ》い  四年前になるだろうか。ちょうど私たちのグループがトラカレに入学したての頃《ころ》だった。アガサは私たちに一冊の本——金思〓《キムサヨプ》氏の著した『記紀萬葉の朝鮮語』という本を紹介してくれた。早速手にしてみると《ハングル》がびっしり。これが「文字」であるということですら驚きだった。どれをみても、ラーメンの器に行儀よくならんだ模様のようにしかみえない。  正直いってくしゃみひとつでバラバラと吹き飛んでいきそうな文字、それほど《ハングル》は、はじめての人にとっては剽軽《ひようきん》な記号としかうつらない。  そのころ、私たちにはこの本に並ぶ《ハングル》を読むことなどまったく不可能なことだった。もちろん辞書をひくこともできず、意味などとうていわからない。当時の私たちの韓国語は、耳だけが頼りだったからである。  しかし、読めない《ハングル》がならぶこの一冊には、なぜかことさらに強い興味をおぼえたのだった。  金氏は、大阪外国語大学、京都大学で長年にわたり教鞭《きようべん》をとり、現在はソウル東國大学で日本学を研究している学者である。この本の中でも、日本と朝鮮とのつながりをことばに焦点をあてて研究し、それは朝鮮の古い文献ばかりか日本の古典「記紀・万葉」にまで及んでいる。  私たちにとっては雲の上の人である金氏と、会見のお膳立《ぜんだ》てをしてくれたのは祭酒だ。こんな偉い学者に駈《か》けだしの私たちが会えるなんて、にわかには信じられなかった。  Kホテル。——回転扉《とびら》を押して朱の絨毯《じゆうたん》に一歩ふみだす。何だか場違いな感じ。ズック履きで来てしまったことへの後悔が今さらのように私たちの身を縮ませている。それぞれに緊張した面《おも》もち。申し合わせたかのように片手には金氏の著書を抱えている。 「おまたせしました。トラカレの方ですね」  ズングリと恰幅《かつぷく》のいい老紳士である。色の濃い眼鏡の奥からのぞく目もとが、いかにも韓国の人らしく切れあがっている。おまけに流暢《りゆうちよう》な日本語だ。開口一番、 「まったく、いったい、どうやってこれを研究したのですか。それも、あなた方のような若い人たちが」  想像していたよりずっと若い印象である。私たちが前もって送っていた研究誌に、目をとおしてくれていたのだろう。 「韓国語もさることながら、こんな研究は韓国の大学院でもなかなか難しいことです。特に韓国の難しい古語まで、いったいどのような勉強をしているのですか?」  金氏は表情を少しも変えずに続ける。しかし、私たちの研究をこんなふうに見てくれているなんて、私たちには嬉《うれ》しさを通り越して意外そのものであった。金氏は金氏で、私たちがあまりに若い学生だということにびっくりしたようすである。話をするにつれて、無愛想だった金氏の顔が柔和になり、次第に身をのりだしてくる。  私たちの研究は、従来のカッコ付きの文学研究という道筋を辿《たど》ったものではない。韓国語ひとつとってみても、文字や文法から出発せずに、赤ちゃんが母国語を身につけるのと同じ自然発生的な形でまず話す力を身につけ、しかるのちに読み書きへと入ってきたのだった。そんな私たちのアプローチの仕方が、金氏にとっては新鮮で大きな驚きだったのであろう。  私たちの話に、金氏はもの静かな態度を終始崩すことなく耳をかたむけていた。韓国の《ソル》という煙草《たばこ》に火をつけると、短い小指に、太い金の指輪が光るのが見てとれた。どういうわけだか、そんなところがそこはかとなくユーモラスにうつる人物なのだ。 「あなたたちのように若い人々が、こういう研究をしているというのはほんとうに嬉しい。古典を学者の手で古くさいものにしてしまうのではなく、若い感性でよみなおすということ自体が今、必要なことなんです」  感に堪えぬようすで金氏がいう。 「そうです。私がこのことばの活動をはじめたきっかけも、私たちおとなの窮屈さのようなものを越えた、伸び伸びとした世代の誕生を願ってこそのことなのです」  祭酒はつづけた。 「隣りの国のことばに耳を傾け、それを学ぼうとする柔らかな感性——それこそが今までとらわれてきた“国語”という堅い枠《わく》を打破し、わからぬとされてきたものの多くを明らかにしてゆくのではないでしょうか」  この出会いによって、私たちにとっての韓国は、いっそう近い隣国としてその距離をちぢめたようであった。  別れ際《ぎわ》に金氏は、初対面であることを忘れさせるような笑みを満面にたたえ、次回八月に来日するさいには必ずトラカレを訪ねましょうとまで約束してくれた。こうして同じ目の高さでむきあっている金氏は、それまで私たちが著書を通じて描いていた恐《こわ》い学者のイメージとはおよそちがった身近な存在になっていた。    炎を求めて 「学者先生だって言うから、よっぽどの堅物にちがいないって思ってた。ところがとんでもない。見ると聞くでは大ちがい。会いにいってよかった」  仲間のひとりが真顔でそう言った。 「だいたい何にしても頭のなかだけで思い込んでいるようなものって、現実とズレちゃうよね」 「私たちの万葉の場合だって同じことじゃない? 人麻呂の残したことばだけが、私たちに共通の人麻呂像を見せてくれている」 「それが共通したものになるのも、そこには確かな足場があったからなんだよね」 「確かなものが残されたことばだけだとしたら、その裏付けはどこに求めたらいいのかな?」 「その歌の歴史的な背景とか、その頃《ころ》の風俗習慣、風土……いろいろあるけど」 「待って、そうだよ。行ってみるっていう手があった。私たちの解釈を見にいくことができるかもしれない。まだ完全に解けたわけではないんだから」  皆このひとことにはっとした。まだ解けていたわけではなかったのだ。私たちの解釈を実在の安騎野という風景の中におろすことで、なにか突破口になるような新しい手掛りがみつかるかもしれないではないか。 「おもしろい。行ってみようよ、安騎野。どんな炎がたつのか、この目でたしかめに」  好奇心のかたまりのような私たちは、もうすっかりその気になっていた。  話はたちまち本決まりとなり、私たちは晩秋の安騎野へと旅立った。さすがにアガサだけは、なにぶん寒そうだし年寄にはこたえるなどと言いながら、渋々とついてきた。幸運にもちょうど人麻呂が訪れたといわれているのとほぼ同じ時節である。  午前三時——真暗な木立の道をのぼっていく。  周囲を山々にかこまれた宇陀盆地の安騎野の夜は静まりかえっている。千年以上の昔、人麻呂はこの同じ地に立っていたのだろうか。寒い。骨の髄まで浸《し》みいるほどの寒さである。  凍《い》てつく寒さに膝《ひざ》が震え、ぶるぶると戦慄《せんりつ》がはしる。日の出など永遠に訪れそうにない闇路《やみじ》のなかである。 「石碑がたってる。ほら、あそこ」  誰かがふいに強張《こわば》った口もとをひらく。 「結構大きいね、お墓かしら」  闇のなか目を凝らすと、案内をかってでた宿の主人が笑って言った。 「歌碑ですよ、柿本人麻呂の」 「まぁ、そうだったの」  私には、この閑散とした景色のなかで、歌碑に刻みこまれた人麻呂の「東野炎」の歌だけが、無気味に燐光《りんこう》をはなってでもいるかのように思えた。 「もうじきですから」  宿の主人は、その歌碑には目もくれず、ようやく薄明るくなってきた山際《やまぎわ》をじっとみつめている。時計はもう四時をまわっている。  ——と次の瞬間、空に朱が点じた。  東の山際にうっすらとかかった靄《もや》が、稜線《りようせん》づたいに染まりながら尾をひいていく。まさに「炎」が朱を滴《したた》りおとしながら、周囲の山々に燃えうつっていくのである。  私たちは、わずか数分前にはじまったそのようすを息を殺して見まもっていた。太陽は左端の秋山にかくれたまま、まだ現われないが、「炎」は風にのって秋山を染め、右端に見える高見山に燃えうつろうとしている。それも、灰色から薄い紅に、赤味をおびた橙《だいだい》から濃紺へと色を変え、形を変え、層をなしてひろがっていくのだ。風に流され上の方は淡い藍《あい》の紗《しや》をひきながらひるがえる羽衣のような美しさである。  重くたれこめた天空を突きあげる勢いで、なおもその炎は燃えつづけている。  茂みの岩に腰をおろすと、ようやく私たちは夢から覚めたように、冷たくなった手足をゆっくりと伸ばしていた。どれだけの間こうしていただろうか。朝早くから私たちにつきあってくれた宿の主人も、長年地元にいても、この日の光景はそうはお目にかかれる代物《しろもの》ではないとすっかり興奮している。  人麻呂は、この朝焼けのようすを「炎《かぎろひ》」の一文字に託していたのかもしれない。そんな確信にも似た思いが、私たちのなかで頭をもたげてきていた。私たちは、はじめて目にした「炎」のイメージをしっかりと胸に刻みつけると、明るくなった木立の道を宿へと急いだ。    生死の境界——東野 「あの曙光《しよこう》が“東野の炎”だったかもしれない」  さっきからものも言わずに手をうごかしていた仲間の箸《はし》がコトリととまる。だが、そのことにはさして誰も驚いたふうはなかった。 「私もそう思っていたところなの。あんたたちもでしょ?」  アガサは即座にこたえた。 「でも、あれが“炎”だったとしたら、あれと草壁皇子の亡霊とはどう結びつくんだろ」 「そうね、私もそれを考えていたところなのよ」  くるくると箸の先で納豆をかきまわす。 「——それもただのオバケじゃない。お岩さんとはちがうのよ、草壁皇子だった」 「それってヒント?」  アガサは意地悪そうにくすりと笑った。 「さぁ、あんたたちはどう思う?」 「——」 「わたしにもさっぱりわかんないのよ」  私たちは爆笑した。 「あたしは、あの光景には怖いものなんて確かに感じなかった。とにかく、ただあの勢いに呑《の》まれちゃったっていうか、凄《すご》かった」 「そうか、“炎”にはある勢いを感じていたはずだものね」 「連作のなかでは、これをうけた次の歌では“日雙斯皇子《ひなみしのみこ》が馬をひきつれて”というくらいなんだから、そこにある“勢い”をみたというのも納得できる」 「なるほど。亡霊といっても、いつもあのヒュードロドロってでてくるような弱々しいものばかりじゃなかったっていうことね。そればかりか、あの燃えあがる太陽に血気さかんな草壁皇子の、生前の姿を映したものだったかもしれない」 「ウーン、おもしろい。だからこそ、草壁皇子を“炎”にたとえたわけか」  アガサはフンフンと頷《うなず》いた。 「これでひとつ解けたことになる」 「ま、それはいいとしても、もうひとつ腑《ふ》におちないことがある。“東”のもつ終末とか、境という意味はどうなるのかな?」 「東野(境・終末の野)、炎(死者)はふたつで誰かの死を暗示するためのかけことばになっていた。ここでいう誰かとは、当然草壁皇子のことだった。そうすると、安騎野をなにかの境と見るにふさわしいところだと、人麻呂は見ていたはずだよ」  頭のなかで雑然としていたものを整理しているようなはなし方だ。 「なにかの境」  ついひきこまれて口をひらいてしまったのは宿の主人だった。 「生死の境か」  と、天井にむかってぼそりといった。 「僕ァ、そんな気がするな。ここはいつきても、夜明け前と明けてからとでは、別世界にきたような錯覚がおこるところだ」  まだ日のあるうちは、ここは野原というよりも山々に囲まれた丘陵地である。それが、一旦《いつたん》日が沈むとあれだけくっきりと目立っていた丘陵の高低は、まるで闇に溶けてしまったかのようにわからなくなるのだ。  私たちが夜半にここを訪れたさいも、すでにその立体感は、ことごとく塗りつぶされていた。それまではまるで気がつかなかったのだが、安騎野の山々の稜線にふちどられた闇の世界の中、西にはまだ月をのこし、足もとは暗いなかで東方の山だけがかすかにかぎろい始める。と同時に、そこにせりあがってくる光の円盤を見ていると、ひとつの“安騎野”という世界のなか、朝と夜とが共存しているかのごとく見えてくるのだった。  紅の光だけが闇を切りさく。まさにその風景は、自分がその中間点、境の野に立たされているような不思議さをもって体験できるのだ。  私たちは、この不思議な体験をとおして、自分たちのなかで“境”ということばのもつイメージがむくむくと脹《ふく》らんでいくのを感じていた。  このような朝と夜との境の野を、人麻呂は「生死の境」、つまり終末の野と詠《よ》んでいたにちがいない。そして、さらにここは甦《よみがえ》ってきた草壁皇子と再会するにはふさわしいところだったといえよう。「東野」とは、あの世とこの世の境そのもののことだったのだ。草壁皇子縁《ゆかり》の地にたった人麻呂も、きっと私たちと同じように感じていたに違いない。  私たちはこの発見に興奮した。この歌の解釈も「安騎野」という地で、はじめて実を結んだことになる。私たちが人麻呂の歌のなかに見た風景が、今、脳裏にひろがっている。この風景も、「炎」という文字に出会わなければ何ということもなく通り過ぎてしまったかもしれない。  歌碑に刻まれた人麻呂の歌と、安騎野の炎がひとつにとけあうような瞬間を体験し、この歌の真意に一歩近づいたものの、私たちはまだ霧のなかにいる。この霧の街道をまっすぐすすめてゆけば万葉集はやまとことばで書かれていたという方向からは大きく離れ、“古代語”——古代中国、朝鮮、日本に跨《またが》るユニバーサルな漢字世界へと踏み入ることになるだろう。  万葉集は古代の産物である以上、そこにつかわれたことばは古代語という視野をとおして今、再び眺《なが》められなくてはならない。私たちは、日本語という枠をもう一歩、押し広げてみることで解釈の根底にある“奥行き”というものを、ほんの少し手にしたように思えたのだった。    古朝鮮の詩型とも一致  金思〓氏と初対面以来、半年が過ぎ、八月がやってきた。  氏は私たちの研究論文から、和訓と韓訓の対応に関するレポートを、東國大学の研究誌『日本学』に紹介してくださり、それがつい先頃、手もとにおくられてきていた。  松濤《しようとう》の裏路《うらみち》には、ぶ厚い葉をつけた夾竹桃《きようちくとう》の大ぶりの枝がところせましと張り出している。蝉《せみ》時雨《しぐれ》がコンクリートをたたく中、金氏は約束どおり私たちの教室を訪れた。  早速、フィールドワークの再開である。私たちの解釈も、順調に波にのりはじめたといっていいだろう。  ついに、私たちは金氏の力添えのもとこの歌を朝鮮語で次のように読み解くことができた。  この詩型に注目してほしい。句節ごとにハングル四字で構成されている。意味で区切ってみると、おのずとこうなるのだ。  これは「四・四・四・四」の詩型をもつ、古朝鮮の詩歌の形式と一致するものであると、金氏は、私たちに示唆《しさ》してくれた。  嬉しい驚きだった。朝鮮語の古い詩形式でも読みとけるということは、私たちの言語的アプローチが正しいことを裏付けるものだ。  朝鮮語による読みも、大意は私たちの解と見事に一致した。 あの世とこの世の境の野 この東野に 亡《な》き草壁皇子のお姿が 炎のように立ち現れる 懐《なつか》しい想《おも》いでいるというのに 皇子はふたたび冥界《めいかい》へとむかわれる 「こんなふうによめるなんて、わたしの万葉注釈書も書き直さなくてはなりません」  そう冗談まじりにいってくれた金氏。またとない協力者を得た私たちは、まさに幸運だった。  人麻呂は安騎野で見た曙《あけぼの》の光のなかに「炎」を見た。そして、その「炎」の一文字に「日と並ぶ」と称され、若くして病に散った草壁皇子の燃えつきた命を託したのだった。「炎」という字は、人麻呂の敬慕してやまなかった皇子、草壁皇子の人生そのものにふさわしい一字であったに違いない。  このことは関連の歌を眺めていくことで、さらにはっきりとしてくる。    阿騎野は殯《もがり》の地だった 阿騎乃野宿人打靡寐毛宿良目八方古部念 ——阿騎《あき》の野に宿る旅人打ち靡《なび》き眠《い》も寝《ぬ》らめやも古思《いにしへおも》ふに(巻一—四六) 眞草苅荒野雖有葉去君之形見跡曾來師 ——ま草《くさ》刈る荒野にはあれど黄葉《もみちば》の過ぎにし君が形見《かたみ》とそ来《こ》し(巻一—四七) 東野炎立見而反見爲月西渡 ——東野《ひむかしのの》に炎《かぎろひ》の立つ見えて反見《かへりみ》すれば月傾《かたぶ》きぬ(巻一—四八) 日雙斯皇子命乃馬副而御〓立師斯時來向 ——日並皇子《ひなみしのみこ》の命《みこと》の馬並《な》めて御猟《みかり》立たしし時は来向《きむか》ふ(巻一—四九)  四八番の歌は、亡き皇子への思いからつくられ、やがてはその幻影が現れてくる時間的な昂《たか》まりをうたっていたものだった。四五〜九番の作は、持統六年(六九二)、幼い軽皇子が亡き父追悼のために安騎野を訪れるところからはじまっている。  最初の長歌では、当時の都である飛鳥《あすかの》浄御原宮《きよみはらのみや》から発《た》った一行が、安騎野に到着するところまで、そのあとの四つの短歌は順に、安騎野に宿った一夜の時間的な経過をたどった連作になっている。  ここでは、あまり深くたち入らないが、まず長歌を解いてみてわかるのは、そこで使われている用字がすべて「死」のイメージで貫かれていることなのだ。これは、人麻呂が軽皇子のことを詠《うた》ったものと解釈されているが、このことから思うに、これも亡き草壁皇子のことを偲《しの》んだ追悼歌だったのではないだろうか。このような推測のもと、順を追って続く短歌を見ていくことにする。 阿騎乃野宿人打靡寐毛宿良目八方古部念(巻一—四六)  この地で一夜を宿ることになった人麻呂たちは、寒さと寂寥感《せきりようかん》とで、なかなか寝つけなかったのだろう。この安騎野に夜を明かす旅人は、おしなべて寝入ることなどできようか、これほどまでに昔のことが思われるものを、という解釈が従来なされてきた。  だが、人麻呂にとって心懐しくもある古部《いにしえ》とは何を指したのか。ここは、たんに昔のことが偲ばれるというような思いだけではなかっただろう。  古は、もと祖先の頭蓋骨《ずがいこつ》を象《かたど》った象形文字であることから、「古人」といえば、今はなき人をさすことばとなっている。とすればいよいよこの歌からも、敬愛してやまなかった草壁皇子という具体的な対象が浮かびあがってこよう。  微睡《まどろ》むなかにも、とうに別れ、もう会えなくなってしまった生前の草壁皇子のお姿が、心に深く思われることよ、人麻呂はそう詠んでいたのだった。 眞草苅荒野雖有葉去君之形見跡曾來師(巻一—四七)  さらにこの歌は、先のものをうけて、安騎野というところは、草を苅《か》るしかない荒野ではあるが、黄葉のように去っていった君の形見としてやって来たことだと、これまでは解釈されている。  安騎野を京とは対照的に“草を刈るしかない荒野”としているのがおもしろい。これは当時、農民が集団で草を刈ったというところからきている解釈なのである。  しかし、“真草《まくさ》(立派な草)を刈る”こと、それは、古く朝鮮では死者がでたことを意味するものであった。「真草苅《まくさかる》(《チヨビンハル》)」とは、草殯《くさもがり》のことを表しているのである。  身分の高い人が亡くなると喪屋を造って殯《もがり》をしたことが、記紀の神代にも見られるが、その葬式が長期に及ぶようなとき、棺や死体を庭や喪屋に安置して立派な草を被《かぶ》せておくことを「草殯」といった。あくまで殯のための「真草苅」であり、この歌のなかで人麻呂が、安騎野の真草繁《しげ》る茫漠《ぼうばく》とした光景を皇子の殯の地と見ていたことがわかるだろう。  また、この「真草苅」は、中国での詩歌の技法でよくみられるように、その(くさかんむり)をとると「早刈《はやかり》」となることからも、天皇の位を約束されていながら早くして病に逝《い》った草壁のいのちの意味をかけていたものと見てよいだろう。  次につづく「黄葉《もみちばの》過去君《すぎにしきみ》」というのも、黄に同音で「王」という意味をかけながら、王者であるはずの君、草壁が、秋の葉が散っていくようにはかなくこの世を去ってしまった、と繰りかえしている。 “殯のために刈った立派な草に葬《ほうむ》りおさめ、皇子のお姿は見られなくなってしまった荒野ではあるが、薄命であった君の姿を、ひとめ見たいとやってきたのだ”という人麻呂の気持ちがひしひしと伝わってくるようである。  安騎野を皇子の殯の地にみたて、秋の落葉にそのはかない命をたとえた人麻呂の手腕はさすがである。さらにこれは、次に見える「東野炎」の歌にはいる恰好《かつこう》の序章としての役割をはたしていることを考えると益々、人麻呂の力量に圧倒される思いである。    ここにも日雙斯《ひなみし》の名が 日雙斯皇子命乃馬副而御〓立師斯時來向(巻一—四九)  そしてとうとう人麻呂は、「東野」で草壁皇子と再会する。  曙光《しよこう》のなか、勇ましく立ち現れた皇子のお姿は炎のようであったという。ドラマでいえば、クライマックスの部分である。 「日並皇子の命が馬を連ねて、今しも出猟なさろうとした、あの払暁《ふつぎよう》の時刻が今日もやがておとずれてくる」  というのが一般の解釈であるが、皇子の殯の地、冥界との境の地にみたてた安騎野で、この世の人である人麻呂と、あの世からたち戻ってきた皇子との再会をうたった前の歌をうけ、つづくこの歌では再び別れの時が刻々と近づいてきたことを強調している。  ここでは、冒頭から「日雙斯《ひなみし》」ということばがでてくるが、雙とは二葉の象形で二つに分かれる意、これは「日と並ぶ皇子」の意であり、草壁皇子のことをさしている。  前の「炎立所《ひなみし》見而」よりも直接的な登場のしかたではあるが、ここでもやはり直接の名を記すのではなく、「日雙斯《ひなみし》」というように、その意味にふさわしい別字を用いていることがわかるだろう。  この歌では、すでに人麻呂の眼前に、皇子が立ち現れているのだということが前提となっている。 「馬副而《うまなめて》」の「副」の字は、複数の複の字と同系語である。このことからもわかるように、皇子は複数の従者《おつきのもの》たちを従え、生きていたころと同様、勇ましい出《い》で立ちで登場してきたのである。この亡霊はひとりでなく、複数。  低くたちこめた闇を劈《つんざ》く馬の嘶《いなな》きにまじって、吐く息が白い靄《もや》にかわっていく。  その靄がかすみをひいて闇に消える。それが鮮明な一枚の絵となって、私に迫ってくるような気がした。  さてそれでは、この歌のテーマは何だったのか。  原文のところに戻ってみよう。 日雙斯皇子命乃馬副而御〓立師斯時來向  ここで表記されているこれら傍点の漢字の字形をとくと、いずれも“分かれる”意を共通に含んでいる。なかでも重複してつかわれている斯の字は、『説文解字』では「離《はな》れるなり」と説かれている。つまり、これらの字を巧みにたたみかけて、刻々と迫りくる“別れ”の時をいやが上にも募らせているのだ。そしてこの切迫感を最後の句「時者来向《ときはきむかふ》」につなげているというわけだ。  一首のなかでの時間の流れ、ここでの隠されたテーマ“分かれる”とは、人麻呂と皇子との永遠の別離を物語っていることは、容易に想像がつく。 “死に分かれてしまった神々《こうごう》しい皇子が、馬に乗った従者をひきつれてここにいらっしゃる。だが、それもつかのま、また別れねばならぬ時が刻々と迫ってきている”  このように一首の歌も、前後の関連のなかで見ていくことで、全体がひとつの大きなテーマを表し、個々の歌がまたくっきりとした輪郭を示してくるのである。  さきごろの新聞に、島ノ庄遺跡の出土に寄せてという記事が掲載されていたことは記憶に新しいことだろう。  ちょうど、今見てきた人麻呂の五首の歌が解けたとき、七世紀の大庭園遺構が発掘されたことになる。「島宮」と呼ばれるそれは、かつて二十八歳で薨《こう》じた草壁皇子の宮であった。草壁皇子薨去《こうきよ》は、人麻呂が万葉に登場してくるのとほぼ時を同じくすることからも、今回の出土は、互いになにか因縁めいたものを感じさせる出来事だった。  三方を山に断絶され、「島」と呼ぶにふさわしい姿で現われでた草壁皇子の宮も、千数百年の時を経て再び脚光を浴びたわけである。  祭酒は「万葉集は、古代の開かれた古墳だ」という。  アガサの号令一下、私たちは四苦八苦しながらそこを掘り進んでいく。時にはとんでもないところを掘っていたりすることもあるのだが、その方向にまちがいはないだろう。また、こうした発掘作業は、大勢でかかることがなによりも効率がいい。  そこからでてきた宝、それは自分たちが発見した「ことば」に他ならない。理解するという行為を通して、いつも私たちは新しいことばを獲得していくのだろう。そのことばを通して見えてきたものを、風土、史実とつきあわせてみるとき、歌はその意味をより深く語ってくれるのである。    即位宣言の歌だった  そんな私たちの大先輩にあたるおじいちゃんがいる。今年米寿をむかえた、和歌山市在住の宮本八束《やつか》氏(郷土研究家)を紹介しておこう。  偶然にもその人は二十年前、万葉の巻頭の一首を朝鮮語で読み解くことに成功したという。  私たちが、そんな宮本氏のことを知ったのは、金達寿氏の『古代日本と朝鮮文化』(筑摩書房)という一冊の本のなかでだった。 「教科書にも登場する万葉集巻一の冒頭歌、雄略天皇の『この丘に 菜つます児《こ》 家聞かな 告《の》らさね……』は、万葉の問題歌の一つになっているが、和歌山市の郷土史家宮本八束さんがこのほど『この歌は雄略天皇の即位宣言、服して聞け、我こそは天皇なり、という意味の歌だ』という新解釈をし、小さな論文にまとめた。 『通りがかりの雄略天皇が、若菜摘む少女に声をかけ、堂々と自分から身分を明らかにし、求愛した』と解され、いかにも古代人らしい人間天皇の姿が浮き彫りにされた秀歌、とされている。  宮本さんは雄略天皇の事跡を調べているうち、日本書紀の雄略像と万葉のイメージが、あまりに違うのに疑問を持った。古代朝鮮語を漢字で表現した吏読《りと》法を使ってこの歌を読み直したところ、  こもらすも とみこもらすも ちふくしも とみふくしもち…… 『至急告知するぞ。知りて服しつかえよ……世の人を安どせしめる泊瀬《はつせ》朝倉の高御座に至急服しつかえよ。なんじ臣民よく聞け。この大和の国に、法令によって我は王座にある。我こそは天皇なり。……』という意味で、雄略天皇の即位宣言を裏に隠した歌という。(朝日新聞・和歌山版)」  けれども、その解釈は学界から見向きもされず、完全に黙殺されたままだという。  私たちはわが目を疑った。朝鮮語でよむと、雄略の即位宣言となる。私たちの他にもそんなことをしていた人がいたのだ。私たちの驚きは、そこにとどまらなかった。というのも、以前アガサが講義のとき、同じ歌を朝鮮語で解いていたことを思い出したからなのだ。互いに面識があったわけではない。宮本氏とアガサとは、同じこの歌を別々に読み解いたにもかかわらず、大筋の内容——雄略の即位宣言というところでは、見事に一致していたのだった。  それはふたりともが原文の漢字そのもののところから解いていった結果である。  そしてアガサの方は、それから七年たった一九八三年、五月五日付の毎日新聞に特集されることになる。 「主婦がユニークな新解釈/『万葉集』は恨みの“政治歌”/『大和三山歌』など/古代朝鮮語で解読」  この見出しのとおり、ここではアガサの解いた『大和三山歌』をとりあげ、「万葉原文を古代朝鮮語の音訓で読んでみるという試み」が、説得力をもつものとして紹介されている。そして、のちにその解釈は、香具山における古墳の発掘によって、明らかなものとなっていく。  時代はかわるものだとつくづく感じる。こうして、今に「万葉ぶり」と言われているようなものの中味が、古代語のひろがりのなかで大勢の人に読まれ、親しまれていく日もちかいだろう。新しい「万葉ぶり」である。    古代語の世界  このような私たちの新しい解釈をきいて、おもしろいと思う専門の古典研究者がいるだろうか。  そんな矢先、私たちにとって思いがけない話がまいこんできた。  万葉学者であるN氏に会ってみてはどうかというのである。N氏といえば、学界でも著名な万葉研究の権威者だ。そのN氏が、一介の学生に会ってくれるという。  翌日、私たちは、N氏と会うためにいそいそと新宿のホテルへと向かった。地下のティー・ルームが約束の場所である。  午後の残光がガラスに反射して目にしみる。心地よい籐椅子《とういす》の背もたれに寄りかかると、隣りに色とりどりのケーキがならんだケースが目にはいった。緊張しながらも、こういうものにだけはどうしても目がいってしまう。  ようやく現れた、色白で線の細い顔に金縁の眼鏡をかけた男性がN氏だった。終始、口もとには笑みを含んでいて、ことば使いも柔らかい。これまでの経験から、この分野の学者には狷介固陋《けんかいころう》な人が多いという偏見を持っていた私たちには、氏の社交的で快活な態度は意外だったし、たちまち親しみを覚えた。  あいさつもそこそこに、しびれをきらしていた仲間のひとりが口火を切った。 「あの、万葉集を古代の朝鮮語や中国語を考慮にいれて読み解くという作業をしているのですが、先生はそのことについてはどのようにお考えですか?」  さぞ唐突にきこえたことだろう。私たちはこういうとき、どのように切りだすべきかというようなことに関しては、まるで赤児《あかご》のように無知なのだ。  一瞬、きょとんとした表情をくずすと、N氏は即座に、 「それはいいことですね。古代日本は、お隣りの朝鮮半島とは切っても切れない間柄《あいだがら》だったわけですから。朝鮮語で考えてみるということは大切ですよ」  私たちは余りにすんなりと、予想とはちがった返答をされたことに、かえって「あれっ」と肩すかしをくったように感じた。  だが、そのひとことで張りつめていた空気がいっぺんにとけ、誰とはなしにガサガサと鞄《かばん》からノートを取り出していた。  昨夜、緊張のあまり何を持っていったものか途方にくれて、ありったけの資料を詰めこんでいたので、肝腎《かんじん》のノートがなかなかでてこない。私たちの胸にたまっていることばが、堰《せき》を切って溢《あふ》れるように出口を求めている。 「で、この歌の解釈なんですが、ここは朝鮮語で対応させると」  しどろもどろになりながら、やっとのことで私たちは本題に入りかけた。  すると間髪をいれず、 「あ、私はハングルはわかりませんから、そのことに関してはなんとも言えません」  とN氏。  アガサはずっと沈黙の中にいる。私たちはかまわず無闇《むやみ》に突進した。 「では、ここの用字は中国音から考えてみたらどうでしょうか」 「万葉集には、当時の漢語をそのまま歌にもちこむことなど、ほとんどなかったのです。あってもほんの十五、六個ですよ。これらのものを残して、他は排してしまったのでしょうね」  N氏はにこやかに、歌うように言った。    残された証拠を辿《たど》る  私たちは、すっかり拍子抜けしてしまった。N氏のいう「十五、六個の漢語」とは、万葉では正音(漢字音と一致するもの)と呼ばれている仏教語のことだろう。  法師《ホフシ》(三八四六)、布施《フセ》(九〇六)、餓鬼《ガキ》(六〇八)などのように仏教のことばを歌中にそのままとり入れ、読み方も仏教語音でよんでしまうものである。これらは、奈良遷都《せんと》以後の歌に限って使われているものである。  それらが漢語であることなど、あまりにも当然なことだ。仏教の導入とともにそのような語彙《ごい》がもたらされたように、当時、漢字という文字にともなって、どれだけの中国語、朝鮮語が流れこんできたことか。原文は、すべて漢字なのだ。  私たちが問いたいのは、あくまで万葉集の原文に目をすえ、その文字から作者が言わんとする本来の意味が幾重にも現れるという私たちのアプローチが、専門の学者にどう受け止められるかということなのである。  氏の万葉談義をきき流しながら、私たちはすでに心のどこかに落胆を覚え始めていた。 「先生の言っておられる、それらを排してしまったとは、一体どういうことだったのでしょうか?」 「その十数個の漢語をのぞいて、あとのものの大半はやまとことばだったわけです」 「は……?」 「やまとことばとは、上代の日本語のことです。もとからあった土着の日本語だったのでしょう」  アガサは、N氏のことばを俯《うつむ》きながらじっと黙ってきいている。  私たちは、双六《すごろく》でまたふりだしに戻ってしまったような不思議な気持ちになっていた。万葉集がすべて日本《やまと》語《ことば》で書かれていたというのであれば、なぜ「朝鮮語でよむことはいい」ことなのであろうか。  私たちはいつも、研究を進めるときに“証拠”ということばを反芻《はんすう》してきた。これにはもちろん“物的証拠”、つまり古墳の発掘というようなことを通じての事実という意味もふくまれている。  だが、窮極の“物的証拠”は、まさに残された文字そのものではないかと、私たちはN氏と会って改めて確信したのだった。  安騎野の一連の歌も、その証拠を手がかりに読み解いたものなのだ。  もとより、奈良時代以前には、仮名文字などなかったし、「やまとことば」という概念もさほどしっかりしたものだったとは考えられない。これらがある権威をもつものとして成立するのは、平安期以降なのだ。当初、文書はすべて中国語をそのまま使っていた。このことは、万葉集の題辞や古事記、日本書紀のスタイルを見ても明らかだ。 「五七五七七」といった日本固有の詩型、リズムも、万葉初期にはまだなかったのではないか。漢字を自国のものとして消化するには、かなりの時間を要した。このように考えてくると、万葉初期の歌は漢字という、いわばひとつの「古代語」でかかれていたことになる。漢字は、それを共有した三国の文字《ことば》であったわけだから、古代の万葉歌にも、古い中国語、朝鮮語がそのまま、数多く残されていると充分考えられるだろう。  私たちは、この仮説の上にたってもう一度、万葉の時代にたち返ることにしたのだった。 第四章 人麻呂《ひとまろ》は告発する  わずか一片の歌から、人は拡《ひろ》がりと奥行き、そして色彩と動きを持った画像を思い浮かべる。 あみの浦に船乗りすらむ乙女らが珠裳《たまも》の裾《すそ》に潮満つらむか くしろ着く手節《たふし》の崎に今日もかも大宮人の玉藻苅《たまもか》るらむ 潮騒《しほさゐ》に伊良虞《いらご》の島辺漕《こ》ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻《しまみ》を  この三つの歌はどのような画像を呼び起こすだろうか。これらは柿本人麻呂による歌四〇、四一、四二番の連作を読み下しの形にしたものである。さらに従来の訳注も補うことで、誰もが遠からず次のようなイメージを抱くのではないだろうか。  鳥羽《とば》の南、あみの浦ではうら若い乙女たちが船に乗って遊んでいる。美しい裳の裾に波が豊かにたゆたっている。  答志島の岬《みさき》では官女たちが浜遊びに興じている。藻を拾おうと伸ばす手首にくしろ(腕輪)がキラリと光る。  さらに向う岸、伊良虞の島へ行く船にはあの娘も乗っているだろうか。荒々しい島のめぐりではあるけれど。  どの歌にも現れているのは、風光明媚《めいび》な伊勢の海を背景にして戯《たわむ》れている官女たち。さざ波のあい間にその嬌声《きようせい》まで聞こえてきそうな、うららかな情景である。  この一連の歌には「幸于伊勢国時、留京柿本朝臣人麿作歌」という題辞が添えられていることから、持統六年であること、人麻呂は京に留《とどま》り伊勢には同行していないことなどがわかっている。つまりこれらは現地での写生ではなく、想像によるものである。何ゆえに人麻呂は都(飛鳥浄御原)に居ながら、わざわざ遠く離れた伊勢の地のことを題材にしたのだろうか。天皇の一行を祝福するためにだろうか。どうもそのような歌には受け取れない。宮廷讃歌《さんか》にありがちな仰々しさがほとんど感じられないからだ。例えば、やはり人麻呂が持統天皇の吉野行幸によせた長歌では、「やすみししわご大君 神ながら神さびせすと……(あまねく国土をお治めになるわが天皇が、さながら神として神々《こうごう》しくおられるとて……)」というように天皇を神にまで高めた最上級の讃美をおくっている。またそこに儀礼的な感じをも受ける。だが、それらに比べるとこの三首の持つ雰囲気《ふんいき》はどうだろう。もっと私的な、ひとりごとのようなたたずまいを見せてはいないだろうか。伊勢はいいなあ、あそこはきっとこんな風だろうなどと想《おも》いをはせながら、気の向くまま筆を執ったという感じがしなくもない。これぞ風雅な万葉歌人の振る舞いというものか。    悲劇の予告  しかし、私たちが懐《いだ》いている人麻呂の人物像は、すでにそこから遠く隔たっている。呑気《のんき》なたわいのない歌は、彼にはおよそ似つかわしくないのである。  前章の阿騎野の一連の歌を見ても明らかなように、人麻呂は単純な、初めから意味が丸見えの歌など詠《よ》んではいなかった。剥《は》がしても剥がしてもまだ包みが出て来るかのように、主題は幾重にも包み込まれて奥底にあった。  そもそも、あのうららかな情景は、読み下し文と訳注が喚起したものであり、それは表面をなでるような読み方に過ぎなかったのではないか。  この海辺を詠《うた》った三首も人麻呂の歌である以上、一見穏やかな和《な》いだ海面のように見えることが、かえって深く潜れば何か見つかるかもしれないという期待を持たせることにもなってくる。といっても何か特別に入り組んだことをしようというわけではない。まずは表面を覆《おお》っている従来の訓《よ》みや注にとらわれずに、その元となっている中身の原文に直接あたってみるのである。さっそく私たちはこの海に潜ってみることにした。 嗚呼見乃浦船乘爲良武嬬等之珠裳乃須十二四寶三良武香(巻一—四〇) 「嗚呼」。アガサの目は、この冒頭の二文字に釘付《くぎづ》けになったという。それまで何度となく「あみの浦に……」と素通りして読んでいたのを、ふと白文に目を移した時、「嗚呼」というそこだけがひとつのことばとして浮き上って来るように見えて、ギクリとしたというのだ。 「嗚呼」は“ああ”という感嘆詞として読める。それも“ああ楽しい”というような明るいものではなく、悲嘆にくれた声である。最近まで“嗚呼軍神広瀬中佐”、等々、悲壮美をあおる文句としてさかんに用いられていた。もともとは中国に熟語として存在していた。韓国でも“嗚呼()”といえば、胸も張り裂けんばかりの嘆きの声である。  そのような「嗚呼」を冒頭に置くということは、この歌の悲劇性をあらかじめ予告しているということではなかろうか。しかし、このことばはあくまでも地名の一部分となっている。ただごとではなさそうな、激しい感情の発露である「嗚呼」が、地名というあたりさわりのない姿の中に収まっているのである。  あみの浦は、現在の三重県鳥羽市小浜の南岸を指すのではないかという説があるものの定かではない。もし“あみの浦”の“あ”という音を借りるだけならば、他にいくらでも適当な漢字がありそうなものである。万葉仮名で“あ”の音に当たるものとしては阿や安がすぐに思いつく。さらに奇妙なのは、“あ”の一音にわざわざ嗚呼の二文字が当てられていることだ。いや、この言い方では逆になる。原文の嗚呼を“あ”の一音で読んでいるのだから。ともかく複字一音という点でも稀《まれ》に見るケースである。 「ホントだ。嗚呼というのは珍しいね」  とみんながうなずく中でも、必ずだれか、「でもホントかな?」と言い出す人がいるのがトラカレである。 「けっこう他にも同じ字を使っているケースがあるかも知れないじゃない。万葉集には大勢の歌人がいるんだもの」 「いやいや人麻呂だからこそできた技だよ」  ではとにかく“嗚呼”の特殊性について調べてみようということになった。  トラカレ生みんなで手分けをして万葉集の歌全《すべ》ての中から“あ”の音を表記している漢字をもれなく拾い出し、その頻度《ひんど》を見ていく作業が、たちまち行われた。はたしてその結果は、軽い気持ちで作業を始めた私たちを興奮させた。“あ”の音を「嗚呼」と表記するのは、全万葉集中、他に一例も見つからなかったのだ。    死の気配が漂う“船”  悲痛な「嗚呼」で始まる歌は、表面的な意味はさておいて、やはり悲劇性を帯びているのではないか——この推理をしばらく進めてみることにしよう。 「船乗為」は従来の訳では“船遊びをすること”になっている。おそらく航海のためでもなければ、漁師のように生業のためでもないので、遊びということになってしまったものだろう。しかし万葉時代の人々にとって船に乗ることは、常に身が危険にさらされるという恐怖感を伴なっていた。とても女の子たちがリゾート感覚で乗れるような代物《しろもの》ではなかった。しかも古代においては、海の彼方《かなた》には彼岸があり、そこは神々や死者、または霊魂が住む所と信じられていた。ゆえに舟は他界への導き役や墓地の象徴ともされていたのである。現に中国の漢代には、棺はたいてい舟形に作られていた。その形は日本にも伝来し、今でも残されている。  先ごろ、高松宮が亡《な》くなった時にも納棺の儀を「お舟入り」と呼んでいたのが印象的であった。舟という漢字も、そのぐるりととり巻き封じた姿に着目してできた文字である。そんなことを考え合わせると、この歌においても船というものが、何らかの形で死にかかわるものであることは、ほぼ確実であろう。船に乗るということが、閉じこもり死に至るという意味合いをはらんでいるにちがいない。その上船乗の次に為とあることで、自分の意志ではなく、乗せられるというニュアンスが濃くなっている。  この船に乗せられるのは誰か。むろん乙女たちである。嬬——見なれない字だと思って調べると、は字典にも見あたらなかった。作者の造字なのであろう。感は強い刺激を受ける意味、嬬はか弱い女の意味の漢字である。いずれもあやうい感じのする若い女であることを強調しているのだ。  ああいたましや、死の淵《ふち》へと追いやられる乙女たち……さてこの続きやいかに。不吉な予感はするが、イメージだけを先行させないで、歌を構成している漢字をひとつひとつ点検していこう。    隣りの歌から信号が  珠裳乃須十二四寶三良武香  まず数字がいろいろと並んでいることに気がつくが、これらもたんに音を借りているだけではなく、漢字としての意味をしっかり担《にな》っているに違いない。十は重ね合わせる、二はくっつくという意味を持っている。須もやわらかくくっつくという意味であるから、“須十二”は“スソニ”という音を表すと同時に、裳の裾がやわらかく重なり合っている状態もうまく表している。  四は今でも四《シ》=死《シ》と連想することから忌《い》み嫌《きら》われる場合があるが、字源から見ても四と死はかなり近いのである。漢字では常に音が近いということは、実はその意味が近いということでもある。四は分散した数を示し、死も生気が分散するという意味である。上の句との関連から見ても、ここでの四は死を暗示していると見てもいいだろう。  三も都も字源は集まるという意味であるから、“三都”は“満つ”という和訓の内容とよく合っている。しかも満つ、満ちるということばは、もともとは朝鮮語と思われる。朝鮮語《ミチダ》は、及ぶこと、達すること、ひいては何事かが身にふりかかることをも表す。満ちるとは、どういう状態であるかを、説明したようなことばである。  さて、一首通して見る上でもうひとつ大切な文字に注目しよう。珠である。珠はもともとは真珠のことで、美しいものにもたとえられるので、珠裳とは美しい裳のことになる。また珠は、真珠が貝の中にじっと留まっているということに着目してできた漢字である。これは乙女たちが、貝ならぬ船の中に閉じ込められてじっと動けないでいる様子を暗示する働きをしていそうである。すでに死んでいるのか、あるいは死が潮のごとくひたひたと迫っているのか……。  細々した材料は揃《そろ》えながらも、今ひとつまとまった全体像を描けない私たちを見て、アガサがたまりかねたように言った。 「裾まで潮が満ちるというのはどういうこと? もうすっかり水の中に没してしまっているということでしょう。もう乙女たちは死んで海底に沈んでいるんじゃないの」  そうか、そういう風にもとれる。それまではなんとなく、衣の端だけがピチャピチャと濡《ぬ》れているように思っていたのだ。私たち自身がまだ浜辺の水遊びという感覚から脱け切れていなかったのである。ふと「海の藻屑《もくず》となる」という表現が頭をかすめた。難破や海戦などにより、海で命を落とす時に用いられる。  そういえば次にくる四一番の歌の中には、同じタマモという音でも姿を変えた「玉藻」ということばが出て来る。これは乙女たちが水中に溺《おぼ》れてしまって、その“裳”がゆらめき漂う“藻”のようになっていることをほのめかしているのではないだろうか。一見個々に独立して見える隣りの歌から、何くわぬ顔をして信号が送られて来ているのである。    朝鮮語でよりくっきりと “満つ”と朝鮮語“《ミチ》(《ダ》)”の対応については前に述べたが、この歌の中にはさらに朝鮮語そのものというようなことばがある。それは“〜らむ”である。船乗為良武、そして三都良武香と二度までもたたみかけるようにして“らむ”が出て来るが、この歌だけではなく、三部作になっている次の歌にも苅良武、その次の歌にも乗良六鹿と出て来るのである。ごくありふれた助動詞ではあるが、こうも続出していると見過ごせなくなってくる。日本の古語の助動詞“〜らむ”は、眼前にない現在の事柄《ことがら》を推量する意を表す。これと似ているタイプを韓日辞典に探してみると、〜《ラム》、助動詞“疑いと軽い非難と叱責《しつせき》の意を含む語”とある。また〜《ラム》の語尾としては、“独り言または目下の者に言う語、〜であるのか、〜だというのか”とある。(に《カ》が付くこともよくある)日本語と似ているどころか、朝鮮語で見た方が、よほどピントが合ってくる。そんなの重なりで、全体に作者の憤《いきどお》りのようなものが流れてくるが、いったい何に対して向けられた憤りなのか。乙女たちを酷《むご》たらしい目にあわせている運命に対してなのか、あるいは誰か特定の人物に対してか……。いずれにしても三首の歌の隅々《すみずみ》にまで嗚呼の声がこだましているようである。  嗚呼もどうやら朝鮮語の感覚でとらえた方がふさわしい。嗚呼(《オホ》)《ラ》は口語にすれば《アイゴー》であろう。これは痛い時、悲しい時、くやしい時などに、韓国人が思わず口にする声である。“あらまあ”ぐらいに軽いニュアンスのときもあるが、激しい慟哭《どうこく》になることもある。  私はこの叫びを韓国のテレビドラマで耳にした。私たちは外国でもテレビを見ることが大好きだ。ことばの一つ一つはわからなくても、映像が意味を補ってくれる。韓国で見たその番組は、ヒロインの哀愁を秘めた顔のアップの多い、日本でもよく見るような歴史物メロドラマだった。びっくりしたのはヒロインが泣く場面である。  日本人ならメソメソシクシクといくところを、韓国の吉永小百合とでもいうようなその女優は、「《アイゴー》!」と声をかぎりに泣き叫んだのだった。耐えて忍ぶところまでは同じだが、最後の感情の表出があまりにも激しい。もやもやとはっきりしない日本人に比べて、韓国人の喜怒哀楽の激しさは、日常的にもしばしば感じられることだ。「嗚呼」の声の鋭さをイメージしようとすると、私はついその場面を思い出さずにはいられないのである。  それにしても「嗚呼」は、作者である人麻呂の口からもれる嘆息であろうか、それとも乙女たちの悲鳴であろうか。あるいは両方が溶け合っているものなのか。    巻十五に同じ歌が 「ねえ、ちょっと、こんなとこにも人麻呂の歌があったよ」  万葉集の本に指をさし挟《はさ》んだまま仲間のひとりがやって来た。その子が見つけたのは三六〇六番から三六一一番までの六首だった。 「へぇ! そんな後ろの方に?」  人麻呂の歌は、万葉集の初期、巻一〜巻四に集中しているのだが、それら五首は巻十五の中にあった。 安胡乃宇良布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素之保美良武賀 ——英虞《あご》の浦に船乗りすらむ少女《をとめ》らが赤裳《あかも》の裾《すそ》に潮満つらむか(巻十五—三六一〇)  この三六一〇番は、少しちがいがあるものの、まぎれもなく四〇番の「あみの浦」の歌ではないか。他の四首も既に前の巻に出ていた歌であり、いわばこれらはリバイバルなのだ。それもそのはず、巻十五は後に遣《けん》新羅《しらぎ》使《し》によって口誦《こうしよう》された歌を集めたものだったというのだ。  問題の「嗚呼」が消えている。そして所在不明のあみの浦が、れっきとした実在の地名英虞の浦にすり変っている。また、珠裳が赤裳に変っているのも、当時の女官たちが通常赤い裳を着ていたからであろう。見事に当り障りのない美しい、いわゆる“やまとことば”の歌になっているのである。そもそもそういった意味のすり替えは、元になっている白文の表記のしかたの違いが引き起こしたのであろう。三六一〇番は、万葉後期特有の一字一音の音借仮名の表記になっていて、ここでは漢字は音を示す道具に過ぎない。音借仮名では、漢字の意味の方があまり目立たないように、平均的なありふれた字を使う。対する四〇番やその頃《ころ》の歌では、一字一字における意味の比重がはるかに大きく、字源にまで遡《さかのぼ》って選んでいると見られるケースが多い。漢字の一字一字が意味を訴えており、それを集大成したものが歌全体の意味に反映しているのである。  仲間のひとりが大きな煎餅《せんべい》をバキッと割ってから言った。 「結局、三六一〇番の歌って一般的に受け取られている四〇番の読み下し文にはすごく近いんだよね」 「三六一〇番になっても部分的なことばが変っただけで大差はないよね」 「ところが、私たちが原文から汲《く》み取った悲劇は跡形もなく消え失せている」 「そりゃそうだよね。だって人麻呂は漢字の中に何かを込めていたんだもの。それが平易な表記になればなくなってしまうわけだ」  誰かがあられの袋を開けた。 「四〇番は潜ってみなきゃわからない海みたいだったけど、三六一〇番ははじめから底まで見えるプールみたいな感じだね」 「ふーん、なるほどね。それにしてもどうして悲劇性がなくなっちゃったの? 後の世の人がもう漢字の深い意味を汲み取れなくなってしまったわけ?」 「いや、わかっていたからこそ隠してしまったということだって考えられるよ」 「わかる人にはわかった。そして安全無害な読み方で定着させようとした、とかね」  あられに伸ばす手が止まらなくなった。 「いったい時代的にはどのくらいのひらきがあるんだろう」 「えーと、四〇番が持統六年だから六九二年でしょ、三六一〇番は天平八年の七三六年、その間四四年ね」 「案外短いんだね」 「でも巻十五の巻頭には遣新羅使たちによって誦詠せる古歌とあるわよ」 「ということは、すでに古い歌としてモデル化されていたのかな。もうすでに二重の意味は落っこちていたのかもね」 「こういうことも考えられるんじゃない——三六一〇番のような読み方を指定するような歌があるから、元の四〇番の白文にも遡って読みがなが振られたとか……」  とめどもなく続く私たちのおしゃべりである。見ればあれほどあった煎餅やあられが、粉のようなクズを残すだけになっていた。    読みがなの功罪  これまでの訓《よ》み下し文を可能にしているのは、人麻呂自身が決して露骨な歌の詠《よ》み方や文字遣いをしていないということにも由来しているだろう。たとえ酷《むご》たらしい意味が歌の奥底にはあったとしても、うららかな海辺の情景も、やはり人麻呂のものなのである。  今ではすでに定着している読み下し文の先入観は揺るがしがたいものとなっていて、元の白文はもう不必要といわんばかりに隅に追いやられている。そのように詠まれたとは限らないと思っても、それに代わる読み方がすぐに出て来るわけではないから、やはり読み下し文を頼りにしてしまう。ただ注意深く見ると、白文と読みがなとの間にひび割れやひずみのようなものを見つけることはある。“あみの浦”というただの地名で通っているところに「嗚呼」という嘆きの声を聴きつけたのもそれであった。  かかわりの深そうな次の歌の場合はどうであろうか。続く四一番の歌は、定説をそのまま受け取るならば官女たちの浜遊びを表したものである。しかしここにも「嗚呼」の声は通奏低音のように依然として響いているのではなかろうか。  そう思いながら見始めた矢先、のっけから「あれ? 変だぞ」と首を傾《かし》げてしまうものに遭遇した。釵著《くしろつく》 手節乃埼二《たふしのさきに》……の冒頭、くしろ(腕輪)と読まれている釵という字である。『漢和大字典』で引いたかぎりでは、この字に“くしろ”という訓みは見当らなかった。釵は“かんざし”という訓みと意味である。  では“くしろ”と訓む漢字はどれであろうか。釧である。釵釧(かんざしとうでわ)という熟語があって、二つ並べられることはあっても、これらはまったく別ものである。いったいどこでこのようなくい違いが生じたのだろうか。後の世の人が次の手節に係かるのにふさわしい物として、腕輪と決めつけたのか。これは大変なことである。読み方が変った時、歌の意味も同時に変ってくるからだ。とにかく、ますますふりがなをうのみにしてはいけないという気にさせられる。    タマモの正体は何か  さて、ではこの歌の全体をながめてみよう。 釵手乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武(巻一—四一)  四〇番の歌に続いて再びタマモが登場していることについては前にもふれた。四〇番の珠裳(乙女が身につけているスカートのような下衣)に対し、四一番は玉藻(官女たちが拾っている海草)であり、物はまったく異なるが、一連の歌の中の、タマモという同じ音で読めることばのつながりが浅かろうはずがない。二つのタマモが呼応し合っていることはまちがいないだろう。四〇番の歌では、裳に藻のたゆたう様子をオーバーラップさせて、乙女の状態を考えてみた。さらにこの玉藻ということば自体に女性とのかかわりを見出すことができないだろうか。 “タマモ”というと、今ならうっかり玉のように丸い藻、マリモのようなものを思い浮かべかねないが、そうではなく、ワカメのように長い海藻《かいそう》の類である。玉という字はもとよりいろいろな漢字について、美称の熟語を作るはたらきを持っている。たとえば玉顔《ぎよくがん》といえば美しい顔のことであるように、玉藻も美しい海草のことである。  人麻呂は「玉藻成《たまもなす》」という枕詞《まくらことば》をいくどか用いている。それらは「玉藻成依宿之妹《たまもなすよりねしいも》」(一三一)や「玉藻成靡寐之児《なびきねしこ》」(一三五)などのように、寄り添い共に寝る妻にかかっている。海藻が水の中で靡く様子を、なよなよと従う女性にたとえたのであろう。さらに浜に打ち上げられた海藻の様子も、女性のしどけなさにたとえているかもしれない。また、藻という漢字に、模様や文章のあやなど華やかな飾りの意味があることも、女性を連想させる。万葉集に出て来る玉藻が全《すべ》て女性を暗示するものではないが、歌全体の印象と、ことばの前後関係などから明らかに女性そのものを比喩《ひゆ》したことばとなっているのである。  では玉藻=女ととった時、それを刈る大宮人は誰だろうか。従来の解釈による官女たちではそぐわなくなり、当然そこに男性の影がしのび寄って来る。  そこでさらに一歩進めて“玉藻苅”ということについて見ていこう。たんに海草を刈るだけではないはずだ。万葉集巻一の他の歌にもいくつかの例がある。弓削皇子《ゆげのみこ》が紀皇女《きのひめみこ》を思《しの》へる御歌(一二一)では、“玉藻苅”が一般的には「玉藻のような吾妹子《わぎもこ》と契《ちぎ》ること」となっている。さらに藤原宇合《うまかい》の歌(七二)でも“玉藻苅”について「大宮人の遊興(色事も含む)」と解されている。また、藻ではないが、草や菅《すげ》を女にたとえて、それを苅《か》ることを「交情のあかし」、「我がものにすること」という意味で詠んでいる歌がかなりある。以上の例から見ても、人麻呂がこの四一番の歌において“玉藻苅”ということばを“女を我がものにする”という意味をこめて用いたであろうことが覗《うかが》えるのである。  こう考えると、この大宮人は男であると断定していいだろう。官女たちが拾う美しい海藻から、男の大宮人たちが刈る女たちへと、定訓の主語と目的語が劇的に変ってしまう。しかもこの歌は右に挙げたような恋の歌ではない。なにしろその冒頭に「嗚呼」という悲鳴に近い声が響いているのだから。この“刈る”は、“狩る”という方に近い、大宮人の一方的な行為を指しているのではないだろうか。こうして加害者としての男性の大宮人のイメージが急にはっきりと浮かび上って来たのである。    トラカレの大国主が行く 「ふーっ、重い」  トラカレに着くとみんな口々にそう言って、パンパンに脹《ふく》れ上った鞄《かばん》やショルダーバッグをドカッと机の上に投げ出す。古事記に熱中しているアガサは、こんな私たちの姿をトラカレの「大国主命《おおくにぬしのみこと》」と名付けた。万葉集や古事記、日本書紀に取り組むのは、トラカレでやることの一部分にすぎないが、“ちょっとみんなで集中的に人麻呂の歌を見ていこう”となると、各々《おのおの》何冊かのぶ厚い辞書を持参する。電車のラッシュではその荷物のために肩もろとも〓《も》げそうになる。相模《さがみ》原《はら》の自宅から渋谷にあるトラカレまで二時間かかる仲間のひとりは、ある日、とうとうキャスターつきのショッピングバッグを転がしながら来たほどである。  その中身をちょっと紹介しておこう。まず『漢和大字典』。歌の白文を構成している漢字のひとつひとつについて、意味と音、字解などを知るための必需品である。熟語の用例を見ることも、その漢字の古来の扱われ方を知る手がかりとして欠かせない。また古訓の欄を見ると、日本では元々どのようにとらえられていたのかがわかって面白い。 『漢字語源辞典』(藤堂明保著)も合わせて引くことにしている。同音同義の他の漢字との密接な関係を知ることで、歌にひそむ深い意味を探ることができる。『韓日辞典』『日韓辞典』も欠かせない。朝鮮語の古語を知るためには、『李朝語辞典』も使う。最も古い朝鮮語辞典である。古代朝鮮語についても、ことばの音韻変化には明らかな規則があるから、類推が効くのである。 『漢韓大字典』を引くと、『漢和大字典』より多くの熟語例を見ることができる。他にも折にふれて頁《ページ》をめくるのは『古語辞典』や『和名類聚鈔《るいじゆうしよう》』などの類である。『朝鮮語大辞典』や『百科事典』などはさすがに重すぎるので、トラカレに置いてあるものをみんなで使う。  こう並べてみると、私たちの最大の参考文献は厖大《ぼうだい》な辞書類だと言える。私たちは、さまざまな参考文献に目を通すこともあるが、まずはこれらの辞書を武器として、じかに原文の漢字に接することから始める。そこには既に在るものを教わるのとはちがった、どんな些細《ささい》な事でも自分たちで見つけるという楽しさがある。  時としては、やみくもに辞書を引きまくったあげく、単なるランダムな資料の寄せ集めができてしまい、途方に暮れるといったこともある。するとアガサがやって来て、言うのである。 「辞書写したってしようがないでしょう。もう一冊おんなじもの作るつもり? だけどやっぱり辞書は引かなきゃダメなのよ」  また、ある時は一、二字調べるともう根気がなくなって、ただ重い荷物を運んでいるだけのような気がする時もある。そんな時でもアガサが読みほどいた万葉の歌の話を聞くと、大昔の歌が息を吹き返してくるような気がして、また調べたいという意欲をとり戻すのだ。  みんなが辞書を運んで来た日は、机の上はブロックを積んだようになる。「ちょっとそのデブを取って」「チビを貸して」といった声が飛び交う。大きさに応じていつのまにか付いてしまった辞書たちのニックネームである。    かんざしが手につながるわけ  見慣れた漢字でも一応字典で調べてみることで、現代人の私たちが知らずにいた意外な意味に出会って驚くということがよくある。日本語への漢字導入という大事業の熱意が漲《みなぎ》っていた時代に生きた人麻呂は、私たちよりははるかに深く、漢字そのものの恵沢に浸っていたであろう。人麻呂に近づくにはまず最低限、その時代の唯一《ゆいいつ》の表記であった漢字について知らなければならない。そもそも四一番の歌に疑問をいだいたのも、白文の冒頭の一字釵を調べたことがきっかけだった。さらに各々の漢字の原義をながめわたすと、奇妙な符合が現われてくることに気がついた。 釵手乃埼二  釵のつくり叉は、手で物を挟む象形からなり、Y型のさすまたの総称となった。ゆえに釵は髪を差し挟むカンザシを意味している。釵著の著は、箸の原字であり、やはり二つのもので差したり挟んだりするものである。手節の手は、手の握り囲む姿に特に着目した象形であるから、元の形は叉と軌を一にしている。  節は曲り目である関節のことで、埼は片寄って曲がること。それに二(ふたつ)が添えられている。こうした手順を経て私たちはやっと、 「あーそうか、だから釵《かんざし》が手節にかかるんだ」  と納得がいった。釵著は手の姿の形容ともとれるではないか。本来“答志”と書くべき地名をわざわざ手節と書き換えたのも、そのことば合わせに理由があったのだ。私たちはそれまで「くしろ(腕輪)ならばたしかに手につながりがあるけれど、かんざしとなると手とはどういう関《かか》わりがあるのだろうか」と落ちつかない気分でいたのだが、字源に確かな関係と類似を見つけてホッとしたのだった。  ここまでのこの歌に使われている漢字をながめながらまとめると、何か二つの曲ったもので挟むような状態が浮かび上ってくるようである。ある手の動作、もっと想像をたくましくすると、大宮人たちが女たちをつかまえようとして、両手をカマキリのように振り翳《かざ》している様子が脳裏をよぎるのだ。    漢字の風景が見えてくる  続く“今日毛可母”についても触れておこう。今日は「きょう」と読むが、旧かなづかいでは「けふ」と書き、発音も昔はkefuだった。古代日本のハ行の音は、パ行の唇《くちびる》を使う音に近かったから、“けふ”も“けぷ”というような音だっただろう。古代中国においては、KEPやKAMという音の系列の漢字は全て「ふさぐ・はさむ」というような意味を持っていた。今()という字もそのひとつで、時を捕え、押さえ込むことからきた漢字である。和訓の“けふ”も今という漢字のもともとの音と意味を受け継いでいるのである。(因《ちな》みに今ときわめて近い、及()の字形は、逃げて行く人の背後に手を伸ばしてつかまえたさまを表す)  さらに可母という組み合わせもkamの音をつくり出している。今日毛可母という句は「きょうもまたか」という意味に「封じ込める」という意味を重ねようとしたのではなかったか。それすなわち大宮人の行為、女たちを捕らえ、封じ込めることを暗示しているようである。  こうして歌を構成している漢字群をながめてみると、ある大まかな傾向が現われて来る。ひとつひとつの漢字の意味はどうにでもとれるが、それが束になった時、まとまった力と方向を持って来るということだ。それはまた人麻呂がひとつひとつの漢字を、全体のテーマにふさわしいように厳密に選んでいるということでもある。  漢字というのは、和訓で読んで受け取る意味と、漢字本来の音の持つ意味とが、二重奏をなしているから、見た目以上に奥行きのある表現をつづることができる。だが漢字の原義(音の意味)をひとつひとつつなげて、挟む→曲がる→封じる……などと並べても歌としては成立しない。歌である以上はことばの流れがあり、当然何らかの読み下し文があってしかるべきだ。しかし、ベースにある漢字の原義を汲《く》み取りながら読まなくては、薄っぺらな、作者の真意を見抜けない解釈になってしまうだろう。だからこそ人麻呂は使う漢字の選択に情熱を注ぎ込んだのである。    手節は守節  私たちは、万葉の初期の歌を見ていく時には、常に朝鮮語のことも念頭に置いている。古代日本がいちばん繁《しげ》く、そして深く接した国々は、なんといっても隣の先進国であった朝鮮半島の国々だったからである。前の四〇番の歌でも“満ちる”と“《ミチ》(《ダ》)”、“〜らむ”と“〜《ラム》”などの対応がみられた。「ミツラムカ」といえばいったいどちらの国のことばとみたらいいのかわからない。それほどこの時代の日本のことばの中には朝鮮語が渾然《こんぜん》と融合していたのである。  この四一番の歌にも何か朝鮮語で解ける糸口になるもの、音や表記でぴったりとくるものがあるのではないだろうかと辞書の中にもパラパラと探りを入れてみる。そんな時、 「たんなる地名ということで放《ほう》って置かれることばこそ一番怪しいのよ」  とアガサが言っているのを聞きつけた。人麻呂の歌は特に、“地名を見たら要注意”というルールがあるらしいのだ。すぐに「タフシだ」と思い当った。“手節”これはきっと何か隠しているぞ……。この漢字を朝鮮語音で読むと《スヂヨル》である。“手節”という熟語はなかったが、同じくと読むものに“守節”というのがあった。意味は、女が貞操、貞節を守り通すこととある。日本の普通の国語辞典にはこの漢語はなかったが、『漢和大字典』にはさらに、夫に死なれた女が一生貞操を守って再婚しないことという意味も載っていた。なお、守は手と同音というだけでなく、もともと“手が囲い込む”様の象形からなる同系の文字である。おそらく守節は手節と書かれ“タフシ”と訓《よ》まれることで、すっかりうずもれていたのだ。  このことばは、歌の中においては大宮人たちに迫られている女たちの身の上を暗示しているにほかならない。女たちの操《みさお》が最大の危機に瀕《ひん》していることを。  操という字を見て、形がよく似て音も同じ玉藻の藻という字に思い当った。そして玉という漢字のもともとの意味は、「きわめて固い」ということであるから、玉藻にも「かたい操」という意味をひそませていたのではないかとも思われてくる。それとともにそんな女たちに襲いかかる大宮人の執拗《しつよう》さ、貪欲《どんよく》さがいっそう強調されてくるようだ。  ここまで詰めてきたところで、この歌の風景はだいたいこんな感じかなといったまましばらく放って置いた。一首だけに取りかかっているより、前後左右を眺《なが》めている方がまたいいアイデアも浮かぶかもしれない。ひとつの歌だけにかかりきっていると飽きてしまうこともある。    韓国の風俗が裏付けに  ある日、この歌にまた光が当てられることになった。そのきっかけをもたらしてくれたのは、他ならぬ金思〓《キムサヨブ》氏だった。  氏は集中講義をするために、再びトラカレを訪れた。講義のテーマは、ハングルが作られて最初に書かれた文献『月印釈譜』である。私たちがより古い朝鮮語に触れることができるようにという氏の配慮からであった。講義そのものは言うまでもないが、テキストを追うあい間の金氏の雑談も実に興味深かった。本を読むことだけでは決して得ることができない朝鮮の風俗の独特な空気にじかに触れることができるからだ。  さてこの折にも金氏は私たちの「釵著……」の歌の解釈に耳を傾けていた。そしておもむろにこう言ったのだ。 「そうです。韓国の女性は結婚すると髪を結ってかんざしをつけるんです。ひと昔前までは髪型を見れば、結婚しているか、していないかすぐにわかったものですよ」  そのことばを耳にしたとたん、目の前が急に明るくなったような気がした。釵著—かんざしをつけることと、守節—操を守ることが一挙に結びついた。  やはり問題の女性たちは人妻だったのである。  金氏のひと言をきっかけに、それまで文字の上でのつじつまを合わせることで精いっぱいだった私たちの頭の中に鮮やかな映像が浮かび上って来た。そうだ、四〇番の歌にも“裳”とあったように、その時代の日本の女性のいでたちは私たちの知っているいわゆるキモノ姿ではもちろんなかった。高松塚《たかまつづか》の婦人像のようにどちらかといえば韓国のチマチョゴリに近いようなスタイルだった。現代でも日本人は舶来のより新しいファッションを必死で取り入れようとする。その頃《ころ》も海の向うの半島、大陸の進んだ服飾をまねることに心を砕いていたにちがいない。いつでも服飾は時代のステイタスシンボルとなっているのだ。髪型とてその例外ではない。  人麻呂の時代に、日本にも結婚すると髪を結うという風習があったことは、他の歌からもうかがえる。巻二—一二三番の三方沙弥《みかたのさみ》の相聞の歌に「掻入津良武香《かきいれつらむか》」という表現があるが、これは髪を櫛《くし》で掻《か》き入れて束ねることであり、“結髪は成女を意味し、結婚することを示す”とされている。歌としては“結婚”や“人妻”というようなストレートな言い方は避け、髪型や、その調度である釵にことよせて、婉曲《えんきよく》に表現したのであろう。  韓国のかんざしということで思い出すのは、以前韓国で見た結婚式の模様である。極彩色の韓服に正装した新婦は、ことさらに大きな長い一本のかんざしをつけていた。それは右から左へとあたかも頭を貫通しているかのような印象であった。今にして思えば、そのかんざしは、人の妻になることのシンボルとして強調されていたのである。本来は、その日を境に韓国の女性は、後ろに長くおさげにしていた黒髪を、結い上げるのである。  守節ということばは漢語であるし、既婚女性がかんざしをつける風俗習慣ももとはといえば中国に端を発している。けれどもただ中国から来たと言ってしまうと、漠然《ばくぜん》とした感じになってしまうものが、それを韓国とのつながりの中に、しかもことばの関連から見つけ出した時には、髪の結び目までもはっきりと見えるようなリアルな手ごたえが感じられたのだった。    歌はあくまでも美しく  金思〓氏に助けていただきながら、私たちは四一番の歌を朝鮮古語で通してみた(読みは現代語音を基本とした)。 《ピニヨ》 《コヂヤ》 《スヂヨルハナン》 《コヂエソ》 《オナルドカモ》 《テグギヌン》 《オンニヨ》 《ベラム》 (かんざしを挿《さ》して操を守るタフシの埼にきょうもまた大宮人たちは美しい妻たちを狩っているのだろうか)  玉藻の韓国語音《オクヂヨ》を、音韻変化可能な範囲内で、玉女(《オンニヨ》)ということばを見つけて入れ換えてみた。玉女とは、「美しい婦人」「身も心も玉のように清らかな婦人」のことである。この歌が古代朝鮮語で金氏の低い声で重々しく読み上げられた時、私たちは何か本物に触れたような実感が湧《わ》いてきて、思わずため息をもらしていた。  金思〓氏は、私たちが人麻呂の歌の原文から、大宮人の化けの皮を剥《はが》すような意味を読み取ったことについては、共鳴しながらも、それを露骨な姿のままでさらすのを大変嫌《きら》った。歌の解読の答えとしてより直接的な——“襲う”などといった表現を聞くと、金氏は不満そうに顔をしかめた。 「これはあくまでも詩歌ですから。人麻呂ほどの歌人は、そんなむきだしな表現は避けるはずです。人麻呂の歌に、あまりひどいことばで訳をつけるのは、歌そのものを冒涜《ぼうとく》するようでいやですね」  と言った。彼の一面にある詩人のような感覚が許さないのである。私たちとしても、大宮人の行為に相当するような現代における単語、“暴行”とか“強姦《ごうかん》”とかを持ち出すのは、それだけで事件簿や、ある種の週刊誌のようになってしまっていやである。  詩というものにはさまざまな比喩《ひゆ》が多く用いられる。何かを直接的なことばで表現することなく別のものにたとえることで、かえって受け手に強い印象を与えるのだ。人麻呂は彼一流の多彩な比喩を、真意に被《かぶ》せる隠れ蓑《みの》として自在に駆使していただろう。人麻呂の歌が従来の定訓で何の疑いもなく長年にわたって親しまれてきたのも、このように考えれば理解可能であろう。    いざ韓国へ  仲間うちで、“韓国へ行こうよ”という話が持ち上った。しばらく行ってなかったし、今行けばまた新しいものが見えてくるかもしれない。それにわざわざ日本へ来て下さった金思〓氏を、今度はこちらから皆で訪問しようなどと、話がだんだん熱をおび、とうとう私たちにとって四度目の訪韓が実現することになった。 「何よりもその韓国のかんざしをこの目でしかと見たいなあ」  仲間のひとりが熱っぽく言った。  日韓の比較文化論で知られる金両基氏によると、「かんざしを見たいのならソウルの太平洋博物館がいいでしょう」ということだった。  さっそく訪れた館内は壺《つぼ》や掛け軸などの古美術も納めてあるが、特に女性の装飾品の蒐集《しゆうしゆう》に力を入れているようだった。指輪、腕輪、首飾り等々、何百年も前の物なのだが、私たちにとってもそういったアクセサリーは、時代を超えて日常的な興味そのままに見ることができる。お店のショーウィンドウをのぞいているみたいに「あ、これかわいい! 欲しいな」などと言ってしまう。  肝腎《かんじん》のかんざしはいずこ。あるある、大小さまざまなかんざしたち。すみっこの陳列ケースには釵の字を引いた『漢和大字典』の口絵そのままの二またに分かれたかんざしがあった。これは小さくて色も地味なので、飾りではなく、髪を結い上げて止めるための実用品であろう。韓国の昔の民画の中に、髪をねじって大きく結い上げている女の人の姿を見たことがあるが、さぞかし沢山のピン止めを必要としたことだろう。  私たちは釵という漢字の象形の元になっている古代のかんざしに見入っていた。    竹の節のデザイン  上から覗《のぞ》き込むようになっている中央のケースには五、六十本ものかんざしが並んでいた。大きい物では全長三十センチ、みんな一本の串状《くしじよう》の形で、少し曲がった柄《え》の先にそれぞれの特徴がある。「キノコみたいな形だね」と言っていたシリーズにはちゃんと“マッシュルーム”という英語名が付いていた。これは遊女だけが付けたものだそうである。花や蝶《ちよう》などのにぎやかな細工がほどこしてあるものもあった。  そんな中に銀一色で、飾りというほどではないが、竹の節のようにいく筋かの線が浮き上っているものが目に止まった。気になって館長に尋ねたところ、 「ええ、これは竹の節を象《かたど》っているのです。操《みさお》の堅い女性がつけたものですよ」  という答えだった。 「やっぱり」  私たちは顔を見合わせた。これは収穫である。もともと守節の象徴であるかんざしが、念を押すかのごとく竹の節の姿を借りているのだ。“釵著”と“守節”の両方のことばが、この一本のかんざしに見事に具現されているのである。  それにしても竹の節=貞節という発想は、節という字を媒介とするからこそありうるのではないか。漢字が喚起するイメージである。あらためて、そこまで浸透している漢字文化の深さを思い知らされた。そして隣りのケースに並んでいる、青白く鋭い光を放つ懐刀とともに、確かにかんざしが守節のあかしであることを見たのである。  次に訪ねたのは、百済《くだら》武寧王の墓から発掘された品々が展示されている公州博物館である。ここには観光案内の写真を見て知っていた釵という字にふさわしい、先の分かれたかんざしがあるはずである。  実物のかんざしは黄金に輝いていた。先は三つ叉《また》に分かれ、もう一方は飛ぶ鳥の翼のように広がり、手のこんだ打ち出しの意匠がほどこされている。まさに女王級の逸品である。どのような王妃が髪に挿したのだろうか。きっとこれをつけた女性の顔も誇らしさに輝いていたことだろう。  大勢の官女たちが白馬江へ身を投げたという百済の王朝の末路、そんなことは知るよしもなかった栄華の日々が、金のかんざしに映っているようである。  博物館を出て車でほどなく行った所に、公州の市場がある。そこはもう何と言ったらいいか、中世さながらの混沌《こんとん》とした空間である。縦横に伸びたにわか仕立のひさしの下に、ブタの頭、鶏の丸裸、籠《かご》からあふれそうな大蒜《にんにく》、唐辛子、ぎっしり吊《つ》り下った衣類、生魚のプンと鼻をつく臭い。モタモタしていると「ピキョピキョ(どいてどいて)」とどなりつけられそうな気配である。  私たちの気に入ったのは、調子のはずれたラッパをたまにプワァと鳴らしながら、腰にぶら下げた玩具を売り歩いているパジチョゴリのおじいさん。そのヨタヨタした足どりに誘われるように思わず後をついていってしまいそうになる。 「ねえ見て」仲間が目で示した方向をたどると、かんざしが見えた。おばあさんの頭、後ろの下の方にきっちりとまとめられたごま塩の髪のおだんごに、小さなしぶい銀色のかんざしが一本さしてある。現実にあったのだ。もう都会ではなかなか見られない、白っぽいチマチョゴリ姿のハルモニ(おばあさん)である。見ようと思えば見えて来る。この市場で見かけたおばあさんたちは皆そうだった。一筋も乱れていない髪に挿したかんざしと、額に刻まれたしわとが、冒しがたい威厳を放っていた。  市場を抜けた所で、思いきってひとりのハルモニに声をかけてみる。 「チョーシッレハヂマンクーピニョルルチョムポヨヂュセヨ(あのうすみませんがそのかんざしをちょっと見せて下さい)」  おそらく私たちのつたない韓国語でも通じたとは思うのだが、ハルモニは私たちを一瞥《いちべつ》すると、スタスタと歩調を速めて路地に消えてしまった。彼女にはまったく得体の知れない呼びかけだったにちがいない。とにかく、今も根強く生きているかんざしに出会えたという手ごたえだけは充分にあった。    時調のしらべさまよう  気ままな“かんざしめぐり”に加えて、今度の韓国滞在中には、金思〓先生の気配りで、私たちにはとびきり興味深い実験が用意されていたのである。  私たちのために金思〓氏は、知り合いの“時調《シヂヨ》”の歌い手を招いた。私たちの解釈により古代朝鮮語にした人麻呂の歌のいくつかを、その調べに乗せて唱《うた》ってもらおうというのである。時調というのは、伝統的な韓国歌謡の様式の一つで、日本の短歌の朗唱に似たものだという。今日伝わる時調のうち最も古い作品は、三国時代の郷歌《ヒヤンガ》から派生したものである。長い年月を経て、今なお綿々と歌い継がれているのだ。  その歌い手は、横笛の奏者と連れだって来たが、本来ならこれに打楽器も加わるそうである。その人は金氏から渡された《ハングル》で書かれた人麻呂の歌を見るなり、のどをふるわせ、すぐさま時調の節に乗せて唱い始めたのである。   ……  私たちは時調というものを初めて耳にした。にもかかわらず直観的に、 「あっ、どこかで聞いたことがある」  と思ったのである。こぶしのきいた声がことばを長く引き伸ばしながらうねうねと続く。その間をぬうようにして笛の音が響く。この調と拍、旋律の上り下り……日本の民謡かあるいは詩吟か。邦楽に詳しくない私には言葉でうまく表現できなくて残念だが、もしその道に明るい日本人が聞いたら、即座に“○○に似ている”と反応したのではないか——どこかなつかしい調べなのだ。  普通、万葉集の“歌”と何気なく言われているが、それがかつて本当に声に出して朗詠されたものだったことを意識している人がどれほどいるだろうか。私たちもこういう試みを通して初めて、“歌”だったということを実感することができたように思う。  仲間のひとりはいたく感心して、 「これだ、きっとこういう旋律が人麻呂の胸の奥に流れていたんだ」  と興奮気味である。そこまで断定はできないが、人麻呂の歌は、こういう歌謡の系統からほど遠くないところにあったのだろうという気はする。どんな調べで歌われたか、それを知ることは今ではもう誰にもできない。それは万葉集の歌に限らず、メロディを後の世に残すことは楽譜を伴なわないかぎり無理なのだ。 『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』などもそのいい例である。これは時代がずっと新しくなるが、後白河院が当時の巷《ちまた》のはやり歌を集めたものである。その「口伝集」には次のように綴《つづ》られている。「おほかた、詩を作り、和歌を詠み、手を書く(書道)輩《ともがら》は、書きとめつれば、末の世までも朽つることなし。声わざの悲しきことは、わが身崩《かく》れぬるのち、留《とど》まることの無きなり。」  これまで文字として残されなかったために、それがこの世に存在したという痕跡《こんせき》すら留めていないものは無限にあるだろう。そこへいくと万葉集の歌はよくぞ残ったという感じである。せめてその貴重な文字を見つめて、何かを汲《く》み取りたいと私たちは思う。    宮中批判の歌  釵を漢字から素直にかんざしととり、“玉藻《たまも》”に女性の寓意《ぐうい》を透視することで、それを刈る“大宮人”も官女から男へと変った。そして地名を表記した“手節”に守節ということばを重ねることで、かんざしをつけて操を守っている人妻の姿が浮かび上って来た。それを犯そうとする大宮人たち。そのつかみかかるような人影が歌を構成している漢字にもにじみ出ている。恐ろしい光景があぶり出されて来たのだ。  これはもう激越な大宮人批判である。それも大宮人の悪事をじかに告発するというものではなく、女たちへの悼《いた》みという形で間接的に綴られている。このような宮中批判の歌が何故抹殺《まつさつ》されずに残ったのだろうか。  それこそ漢字のなせるわざであろう。一方ではかんざしをくしろにすり変え、玉藻は文字通り海草ととれば、誰も“不敬”と摘発することはできまい。すらりとかわす逃げ道があるのだから。ましてこれは歌であり、香気漂う文学である。それこそ海藻のようにぬらりくらりと身をかわし、表を見せ、裏を見せ、なかなかつかまらないようなしくみが内部に組み込まれているのである。  時間的にも距離的にも遠ざかっている私たちですら、この歌のもう一つの顔を見た。人麻呂の身近にもこの歌の真相を読み取った人がいたはずである。ましてや身に覚えのある大宮人自身がその暗号を解いてしまったらどうなるのか。いくら歌の表面的な顔の方を見せて、「証拠なし」と言いのがれても、それだけではすまされはしないだろう。かえってそのような知恵こそが最も危険視されるのではないか。人麻呂の身が案じられてならない。    鳥羽実景 「やっぱりきれいな海だったよ、ね」  鳥羽に旅行にいった仲間たちが帰って来た。 「水面がキラキラ輝いてた。帰りはちょうど夕焼けが見られたし……」 「その島に“暗さ”みたいなものはなかった?」 「別に。でも若い人が出て行ってしまうという悩みはあったみたい」 「船はどんな感じ?」 「普通の小型フェリーだよね。学校帰りの学生や買物のおばさんが乗っていてバスみたい。一応観光地なんだけどね」 「そう、釵著の歌の石碑があったよ。けっこう新しいヤツ。それだけで訪ねて来る人が大勢いるんじゃない?」  いたって平穏な、読み下し文から導かれる世界である。私たちが原文から受け取った悲劇の跡も少しは期待していたのだが。しかしそれを答志島の実景に求めるのは見当ちがいというものかもしれない。 「あ、それから漁師のおじさんがね、あっちに見えるのが伊良虞の島だって教えてくれた。あの辺は湾からはずれているから、いい魚が獲《と》れるけど、波がすごく荒いんだって」    すでに暗い三首目の歌  伊良虞の島——人麻呂の伊勢の歌の最後の歌に出てくる島である。 左爲二《しほさゐに》 五十等兒乃嶋邊《いらごのしまへ》 榜船荷《こぐふねに》 妹乘良六鹿《いものるらむか》 荒嶋廻乎《あらきしまみを》(巻一—四二)  この歌には、前の二首の歌にあったような、従来の読み下しと、原文とのずれがあまり感じられない。おそらく、漢字が積み上げている不安な雰囲気《ふんいき》が、すでに読みがなにもにじみ出ているからであろう。“荒き島廻を”というあたり、いかにも危なげではないか。四〇・四一番の歌には、表面をなでる限りではのどかな浜遊びの情景があったが、この四二番には“荒い”としか読みようがないことばがあるためか、楽しそうなふりも許されないのだ。  それだけではない。潮、船、妹などのことばが、前の歌では悲劇としてのキーワードとなっていたので、私たちも今度ははじめからそのつもりで読んでしまう。たとえば四宝が潮に姿を変えて再び現われている。乙女の美しい裳《も》の裾《すそ》に満ちていた死の気配であった“四宝”。今、“潮左為”という時にはもうそのうず潮のただ中にいるという印象すら受ける。また、潮の満干と人の生死との不思議な関係は、太古から知られるところであった。むしろ昔の人間の方がそういった自然界の神秘には敏感だったから、潮といえば、それだけで死の訪れをイメージするのにふさわしいことばではなかったか。  船も死を象徴していたのだった。その悲劇の主人公たち=被害者の乙女たちも、今度は妹という表記になって、続けて現われている。ともかくこの人麻呂の三部作は、四二番で何らかの形の終結をむかえるはずである。    またしても地名と数字  さらに注目すべきは三たび地名が記されていることである。あみの浦→答志島の岬→伊良虞の島、とまるで伊勢の名所めぐりのようである。だが海岸から湾内の島へ移り、さらに沖に出て離れた島へと向う動線は、もう帰らぬ旅を暗示しているようでもある。イラゴの表記がまた奇妙である。 五十等児  数字が単なる数ではなく、また音を借りるだけのものでもなく、ちゃんと一つの漢字として意味を持っていることは、四〇番の歌でも見たとおりである。五は、元はの形をしており、これは上下の二線が×に交差することを示している。片手の指で十を数える時、〓の方向に数えて五の数で〓の方向に戻る。その〓の交差点を示す、と『漢和大字典』の字解にはあった。これは寄せては返す波の動き、満ちては引く潮の動きのようでもある。また次の十とも合わせると、十字路にさしかかった運命の別れ道、生と死との境い目をも示しているように思われて来る。  そして「五十等児」を地名とは切り離してパッと見た時、五十人もの女たち、つまり、多くの女たちと読めた。児は、人麻呂の「靡寐之児《なびきねしこ》」などの使い方からもわかるように、子どもに限らず女のことも指すのである。死に追いやられた女たちがかくも多かったのか。  さらにこの数字の謎《なぞ》をまったく別な方向から切る可能性が残されていた。 「韓国語で読むと泣き声が聞こえるよ」  言っている内容とはうらはらに、とても嬉《うれ》しそうに目をパチクリさせながら仲間が言った。 「えーっ。五十? 《オシツプ》……これは前にも見てみたけど別の意味なんか出て来なかったよ」 「もうひとつの数え方があるでしょ。それとミックスさせるの」  韓国には、日本にイチ、ニ、サンとひとつふたつみっつの二通りの数え方があるのと同じように、イル、イー、サムとハナ、トゥール、セーッの二通りがあるのだ。 「もしかして《オヨル》? あっ“嗚咽《おえつ》”だ!」  そう、組み合わせて五十を読んだ音が、嗚咽の朝鮮語音だったのである。たちまち思い出すのは、嗚呼見之浦の嗚呼である。みごとに対になるではないか。それも嗚呼の叫びから、ここではもはや、押し殺したむせび泣きに変っている。    おもわせぶりなアガサ  数字を駆使した表記はともかく、伊良虞の島というのはどのような所であろうか。なんだか聞いたことがあるなあと思っていたら、万葉集巻一の二三、二四番にも用例があった。 “麻続《をみの》王《おほきみ》の伊勢国の伊良虞の島に流されし時に人の哀傷して作れる歌”というものだ。ただしこれが『日本書紀』には因幡《いなば》に流すとあり、『常陸《ひたち》風土記《ふどき》』には行方《なめかた》郡板来《いたく》村とあり、麻続王の流離譚《りゆうりたん》は各地にあったらしく確かなことはわかっていない。  ただここでかかわりのある肝腎《かんじん》な点は、その事実がどうであれ、この時代に伊良虞の島というのが島流しにうってつけの荒涼とした場所として存在したということだ。もしも女たちが遊びで島に出かけるのなら、もっとそれにふさわしい島があるはずである。  伊良虞の島へ行くこと自体、何かわけがあるのだ。  実際、伊良湖岬《みさき》と神島の間の伊良湖水道は、日本三大潮流の一つに数えられる航海の難所であるという。まさに“荒き島廻を”なのだ。 「この歌はね、死んでしまった女たちが、冥界《めいかい》をぐるぐるさまよっているのよ」  紫煙をくゆらせながらアガサが低い声でゆっくりと言った。 「またそんな魔女みたいなこと言って……」 「わかった、年をとると見えてくるんでしょう」  私たちはくやしまぎれにアガサをひやかした。でも我慢できなくなって、 「どうして」  と聞くと、ニヤリとしてアガサは行ってしまった。これはアガサが何かを握っていて「あんたたちわかる?」と挑発《ちようはつ》する時の彼女独特の表情なのだ。  私たちは原文に尋ねてみるよりすべはない。一つには“分かれる”という意味の漢字が歌の前半に多く見られた。左はY型に分かれるという意味を持つ。二つに分かれる二、百を二分する五十、辺も榜も両方に分かれて張り出すことを示す字源を持つ。この二つに分かれるということは別れることに通じる。死別することなのか。あるいは波しぶきが砕け飛び散るような分かれ方だろうか。潮のまにまに女たちが散ってしまっていることをほのめかしているようでもある。  もう一つ“列《つら》なる”という意味も見えてきて、これは歌の後半を形づくっている。良六鹿とLの音《おん》で始まる漢字が続くが、L音の漢字に共通する意味が“列なる”なのである。それが廻の文字通りぐるぐるまわるという意味に接続する。また船は、舟のもつとりまくという意味と沿などのようにルートに沿うという意味を持つ。アガサが“冥界をめぐる”と言っていた裏付けはここに違いない。浮かばれない、まだ成仏しきれない乙女たちの姿が廻《まわ》り燈籠《どうろう》のようにうつろい流れて行くようである。    人麻呂よ何処《いずこ》へ  伊勢行幸にちなんだ人麻呂のこの三部作には、一貫して女たちへの悼みが読み取れる。人麻呂の歌には“吉備《きび》の津の采女《うねめ》の死《みまか》りし時”(巻二—二一七)や“土形《ひぢかたの》娘子《をとめ》を泊瀬山《はつせやま》に火葬《やきはふ》りし時”(巻三—四二八)、そして“溺《おぼ》れ死りし出雲《いづもの》娘子《をとめ》を吉野に火葬りし時”(四二九)など女性の死を悼む挽歌《ばんか》がいくつも見られる。この伊勢の一連の歌も、実は挽歌的性格を持ったものなのではなかったか。  挽歌ということを隠した挽歌である。なぜ隠さねばならなかったのか、それは死んだ女たちが被害者であるからだ。その女たちを追悼することは、同時に加害者である男たち、大宮人を非難することに他ならない。そんなことが朝廷に知れたら人麻呂が無事であるはずがない。しかし彼は黙してはいられずに、たくみなことばで身を包み守りながら告発したのである。  人麻呂は何を言わんとしていたのか、その問いはやむことがない。人麻呂は、たんに“女をもてあそぶのはよくない”ということが言いたかったのではなかった。いわゆる正義感に燃えて、真相を暴露していくジャーナリスト的な姿勢とは違うようである。女たちがひどい目にあわされるその状況にこと寄せて、人麻呂が糾弾したかったのは、実はその当時の政治状況そのものではなかったか。彼は天皇のとり巻きと、陰で政治を操る者たちに対して、こらえきれぬ反感を表したのではなかったか。  実はこの時の伊勢行きに関しては、非難の声もあったのである。それは『日本書紀』の持統六年の三月の段を見ればわかる。三輪《みわの》朝臣《あそみ》高市麿《たけちまろ》が冠位を脱いで、 「農作《なりはひ》の節《とき》、車駕《き み》、未《いま》だ以《もつ》て動《ゆ》きたまふべからず」  と朝《みかど》をいさめたのである。朝《みかど》はそれをきき入れずに伊勢へと立った。高市麿が止めた理由は、“農繁期に行幸があると農民が迷惑する”というものであり、人麻呂が大宮人をとがめる理由とは異っている。しかしその対象は同じであるかもしれない。要するにその当時の、わがままともいえる朝廷の在り方に対してであろう。  そういう意図があからさまにわかってしまう歌であれば、はじめて読まれた時点で、歌も作者も消されていただろう。真意が読めないからこそ、そして別の穏やかな意味で読めてしまうからこそ、人麻呂の歌は長い年月を生き延びてきたのである。  そのような多様な意味を生み出すエネルギーは、漢字に内蔵されている。そしてその漢字を自在にあやつり、歌を構成していく力を人麻呂は持っていた。そのたぐい稀《まれ》な能力は、支配層にとっては恐るべき諸刃《もろは》の剣《つるぎ》なのである。 第五章 死のジグソーパズル 「柿本《かきのもとの》朝臣《あそみ》人麿《ひとまろ》の石見《いはみの》国に在りて臨死《みまか》らむとせし時に、自ら傷《いた》みて作れる歌一首」  この題詞に続く二二三番の歌は、「鴨山《かもやま》の〜」であるが、この題詞が人麻呂の死、及び死場所について、古来諸説を生んできた。  まず、当時、死ということば(文字)を使うのは官位六位以下の者の称で、宮廷に重んぜられ、皇子や皇女たちの歌を多く歌っている人麻呂という人物像を思い浮かべる時、ふさわしい表現とは思えないのである。そういったことから人麻呂の刑死説も出てきているが、ともあれ人麻呂の死は、千年以上もの間、謎《なぞ》のヴェールに包まれたままである。  この題詞によると、人麻呂は石見国で没したとある。島根県西部の地、石見国。ただ、いまだにその場所は、はっきりと特定されていない。石見国にある鴨山という「山」なのか、それとも、次に続く妻のものと言われている歌中にある、石水、石川という「川」なのか、はたまた、人麻呂の意《こころ》に擬《なぞ》らえて詠《よ》まれたと言われる丹比真人《たじひのまひと》がイメージした「荒浪」から考えると「海」なのかなど、字面《じづら》を見る限り、山、川、谷、海、荒野、あらゆる場所が想定され、そのいずれとも特定できない。  人麻呂の死んだ地を、歌人斎藤茂吉は終生追い求め、複数の人々がいろいろな場所で、この地こそ人麻呂の終焉《しゆうえん》の地と諸説をとなえて久しい。「地名」であるから、実在の地があるという前提に立っているのである。その前提に立てば、歌から想像するしかないから、ありとあらゆる場所が想定されてしまう。私たちは、たんに地名=実在として看過《みすご》すわけにはいかないということをすでに知っている。  私たちは、これまでの常識を頭の中から振り払うことから作業を始めた。「地名は実在の場所」にこだわらずに検証していくことである。  私は石見という漢字にしばらく目を凝らしていた。 「イワミか……」と呟《つぶや》きながら何気なくその文字をノートに書きなぐってみた。そのぐにゃっとした続け字の書体に視線を移すと、ふと意外なことに気付いた。石見の二字が硯という一つの漢字に見えてきたのだ。まず単純に、人麻呂は歌人であり物書きだから、いつも硯《すずり》を持ち備えていたにちがいない。  これが一つの突破口だった。    人麻呂は安産の神  島根県益田《ますだ》市に二つの人麿神社があり、そのうちの一つが安産の神様になっているという。その話に私は思わず耳をそばだててしまった。  柳田国男氏によると、古来から神に祀《まつ》られた人物の多くは、尋常な死に方をした人間ではないという。不幸な死に方をした人の霊は怨念《おんねん》となって祟《たた》ると考えられ、その怨念を恐れるあまりに、神として祀ることで鎮魂が行なわれたという。藤原氏に排斥され、無実の罪で左遷《させん》の地で死んだといわれる菅原道真《すがわらのみちざね》などは、その典型的な例である。  その伝でいくと、人麻呂の死に方も謎につつまれており、後の世に、怨《うら》みを恐れる多くの人々がいたということになる。非業《ひごう》な死に方をしたとすれば、いったい何故なのか、あるいはどんな場所で死をとげたのか、といったことが、にわかに気にかかってくる。  加えて、柿本大明神の効験は、安産の神の他、水難の神、眼病の神、火難の神となっているというから、ますます摩訶《まか》不思議である。そのすべてが、人麻呂の死の秘密に関《かか》わっているとは思えないが、人麻呂の怨念に、怯《おび》えた人々の顔が、いくつにも重なって見えてくる。  さて、人麻呂と安産、そこにはどんな因果関係があるというのだろう。  聞いてみるとなんのことはない、実は、ヒトマロ、ヒトマル、ヒトウマル(人産まる)という連想で、安産の神として祀られているというのである。 「ウッソー」  と私は思わず叫んでしまった。  どういう訳だかわからないが、毎年九月一日に人麻呂の生誕祭までやっているという。  またもや奇妙な暗号が現われた。人麻呂の生没については何一つわかっていないといわれている。どんな意味あいをこめて、彼の誕生日を九月一日に設定したというのか。そんな時は、九月一日と決めた人の気持ちに立ってみる。自分がそれを決めた当人だったら、どうしたかというふうに考えてみるのだ。  九という漢字は、一から九までの基数のうち一番最後のもので、折り返し地点にいる数字である。そして一はむろんのこと、一番最初である。生命が窮《きわ》まって、また新たに生まれてくるという、“人、産まれる”神社の神に何ともふさわしい誕生日ではないか。漢字の知識を多少とも持っていれば、誰にでもできる、いとも容易な連想である。  漢字を巧みに操った人麻呂が、ここではことば遊びで安産の神となっている。当の人麻呂が知ったら苦笑しそうな話である。    石見——硯—《すずり》—断崖《だんがい》  さて、「硯」という漢字にズームを当ててみよう。この漢字は、平面を平らにしたすずり石のことである。同系の漢字、「(研)」は凹凸を去って平らに揃《そろ》えることであり、四川省にある“山”という山は、同じ形の峰が二つ並んだ双子山だという。ふたつに分かれて並んでいることから、同じように揃えるという意を派生したのである。つまり硯の平面が同じ高さに揃っているということも、もともとは二つに分かれているものを並び揃えたことを示している。  この石見という語は、「石見乃海《いはみのうみ》 角乃浦廻乎《つののうらみを》」「石見乃也《いはみのや》 高角山《たかつのやま》」「角〓経《つのさはふ》 石見之海《いはみのうみ》」など、「人麻呂が石見国より妻に別れて上《のぼ》り来し時の歌」の中では角に続いている。角とは普通、想像上の一角獣でもない限り、必ず二本揃って生えているものだろう。石見を硯と解釈するならば、揃って並んでいるということ、それは同時に二つに分かれているということでもある。こうしてその観点から見れば、角のイメージは硯と見事にダブることになる。  こう考えると、石見という語は、相並びあう夫と妻の別離の歌の導入になんともふさわしい地名ではないか。  人麻呂にとって、二つが揃って並ぶということはどういうことだったのだろう。文筆家としては筆と硯、夫としては妻と夫、それに死ぬ時の歌であるから、生と死というような対が考えられる。石見という実在の地名に、これらの対比をこめることで、人麻呂は自分の今の状況をどのように捉《とら》えていたのか。何かの破局を人麻呂が予感していたことだけは確実のようである。  後日、硯の表す意味についておもしろい話を聞いた。道教では、硯は不老不死の世界を表すことばの一つになっているというのである。くぼんだ所を硯池(うみ)、墨をする所を墨道(おか)と言い、一つの世界に見たてたものらしい。  この時、仲間の一人が、大きな目をさらに丸くしながら、「アッ」と声を上げた。彼女の親戚《しんせき》が奈良にいるという。何度か遊びに行った折、 「石見は行っても、何もないからつまらないよ」  と言われたことを思い出したらしい。何に対して驚いたのか、事情を説明しよう。  大和《やまと》郡山《こおりやま》を通って南に橿原《かしはら》まで延びている近鉄橿原線に、島根の石見と全く同名の駅がある。この沿線のほとんどの駅の案内版には、古墳とか、寺などの観光案内が満載されているのに、この石見にだけは、その類の名所が何もないという。  奈良の周辺と言えばいずこも古代史の京《みやこ》である。そこに住む住民にとっては迷惑千万な話だろうが、住域によっては、自分の家を一軒建てる時ですら、必ず市役所の文化課に申請をしなければならないらしい。古都の外観を損なわないということはもちろんだろうが、何より地面を掘り起こしたらどんな古代の貴重な遺物がでてくるかわからないという、このあたりの地ならではの配慮からである。  そんな中で、古墳といった類も何もないと言われる小さなスポット、石見。いったいどういうことなのか、不老不死——墓がない……。  これは偶然の一致だろうか。いずれにせよ、地名が無意味につけられているということはないはずである。  地名の漢字からのこうした解釈が、実際のその地の地形、事情などに呼応することなどを発見した瞬間はいつも不思議な気持ちになる。カルタの歌と絵がピタリと合わさったような満足感を覚える。 「硯は朝鮮語で《ピヨロ》って言うんだって」 「同じ音で、他の意味はない?」  ややあって辞書に目を走らせていた仲間の一人が答えた。 「えっと、断崖だって」  硯を表す朝鮮語は、同時に、川の付近や海辺にある危険な断崖を意味する。古代朝鮮人は、硯の平らな所から水のたまる所へと落ち込む傾斜の部分を、厂型に切りたったガケと同形と見ていたようである。  古代中国における漢字の原義から、生と死の狭間《はざま》のようなイメージが浮かんでいたのだが、朝鮮語で、断崖という意がでてきたことによって、人麻呂と石見の地名の関係がさらに具体的になるようである。「崖は高き辺《はじ》なり」(『説文』)とあるように、ゴツゴツと切りたった高いガケ。そのガケっぷちに臨んでいるのが人麻呂だったということになる。一歩足を踏みはずせば、まっさかさまに死の淵《ふち》に向かって落ちていくのである。人麻呂にとって石見という地名が暗示する状況は、死に到るようなギリギリの所まで追いこまれ、生と死の分かれ際《ぎわ》に立たされていたということではなかったか。    字形は何を暗示するか  次に歌の冒頭の地名とされている語、鴨山という漢字は何を映しだすのか。歌に返って考えてみよう。 鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有(巻二—二二三)  読み下し文は、「鴨山の磐根《いはね》し枕《ま》けるわれをかも知らにと妹《いも》が待ちつつあらむ」  従来の解釈の代表的なものを掲げれば、“この鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を、そうとは知らないで、妻がひたすらに待ち焦《こが》れていることであろうか”といったあたりであろう。  岩根を枕として死ぬとはいくら比喩《ひゆ》だとしても、まことに奇異な表現ではないか。まるで旅先の野宿か何かで、行きだおれにでもなったようなニュアンスではないか。  歌を詠むということは、何がしかの伝えたいよほどの想《おも》いがあってなされることにちがいない。これらの歌はことばの達人が漢字にその想いを二重、三重に織り込み、妻に友人に己れの無念を書き遺《のこ》したものではなかったか。私の目の前で、千年以上もの間伝えようとした真の意味が読み解かれぬままに、埃《ほこり》にまみれていた漢字が、ぶるっと大きく書体を震わしているように思えるのだった。  鴨という漢字は、中国上古音では・、この音は、固く閉じられ封じこめられた状態を表す。  最近の、漢字の研究は“表意文字”として字形の解釈に重点が置かれる傾向が強い。しかし、古来中国では字形に加えてその漢字の持つ音がさらに重要だったのである。鴨は、あっぷあっぷという水鳥の鳴き声を表している。漢字とて一つの記号である。伝えたい意味を一つの漫画のように字形として描いていることもある。だが漢字の字形が暗示するのは、単にその語義の影法師であって、語義そのものではない。(突)の字を「穴(あな)+犬(いぬ)」、犬が穴からとび出ることと説いても、それは字形だけの説明、あくまでもその文字のもつ意味の一つの側面に過ぎないのである。  漢字は、蒼頡《そうけつ》によって作られたという伝説があるが、むろんこれは特定の個人名ではないだろう。漢字の歴史と同じ長い年月に亘《わた》り、多くの人びとによって新しい概念を表すために漢字は造られて来たのである。  たとえば「つつむ」ことを表わすpauという音がある。ある人は、胎児を(包)、ある人はオムツにつつんだ赤ん坊(保)、ある人は家の中に大切にしまいこんだ財貨や玉(宝)を思い描いたのである。いずれも「つつむ」という意味を表していることでは同じであり、その意を示す同じpauという音を持っている。このように、もともと同じことばの意を表すのに、異った観点からいろいろな漢字が多く造られてきた。しかし造語、造字法には普遍的なルールがあった。それが六書《りくしよ》(象形・指事・会意・形声・転注・仮借《かしや》)と呼ばれているものである。    字義は字音より起こる  さて、中国上古音とは、周、秦、漢の時代、ほぼ紀元前七世紀〜三世紀頃《ごろ》の漢語の音韻と言われているものである。この中国上古音を基盤とし、精密な漢字の語源研究をしたのが、藤堂明保博士である。  私たちが日頃愛用している『漢和大字典』『漢字語源辞典』は藤堂博士の手になる辞書である。この辞書が、私たちに漢字の何たるかを認識させてくれたのだった。  まずは、中国最古の辞書である『説文解字《せつもんかいじ》』に遡《さかのぼ》ってみる。これは二世紀の初め頃、後漢の学者、許慎《きよしん》の手になるものである。たとえば「天(tOen)とは顛(ten=いただき)なり」というように、この似ても似つかぬ二つの文字が同じ音を持つことで、共通の意義を表わす別の漢字であることを説明している。これは“声訓”と呼ばれるもので、後漢末の劉煕《りゆうき》による『釈名《しやくみよう》』の中でも、「腹(b?ok)とは複(p?ok)なり」などと事物を説明しているものなどと軌を一にしている。これらが“音義説”の起源である。そしてこの考え方を帰納的に系統立てた、宋の学者たちによって“右文説”という学説が打ち出された。この時、彼らは主に形声文字に注目し、音符となる右側の部分にその漢字が示す基本的な意味、基本義が代表されると主張した。青—晴—清—精を例にとれば、右側の音符“青”によってこの系列は共通の基本義をもっているというのである。  さらに清朝になって古典研究は盛んになり、漢字の研究もさらに精彩を放ってくる。清末の劉師培は、『字義は字音より起こるの説』の中で明快に述べる。 「古代には文字なし、まず語言あり。造字の次《じゆんじよ》は、独体のもの先にして、合のもの後《のち》なり……古人の事物を観察するや、義象《すがた》をもって区《わか》ち、体質をもって別たず。義象を援《ひ》きて名を製《つく》る。故《ゆえ》に数物の義象あい同じければ、命名もまた同じ」  研究はこの段階まで到達したが、中国にはこれらの研究を発展させるための、ローマ字のような表音表記がなかったため、音の表記の所で決定的に行きづまってしまった。  ふたたび、この研究に光があたるのは、近年、スウェーデンの言語学者、カールグレンによってであった。彼は中国語の漢字の単音節読みのものの声母(語頭の子音を示す前半部)と韻母(母音を含む後半部)だけに着目し、十二の大枠《おおわく》を設け、発音が同じか近似していれば、共通の基本義をもつグループ分け、「単語家族」という新しい考えを導入したのである。しかし、これはあまりにも字形への配慮がなく、また音韻枠をあまりにもひろげすぎた。この研究を音韻の領域で厳密にし、かつ字形解説を加えて独創的にまとめたのが、前述の藤堂博士である。  たとえば、右文説の例としても挙げた、青—晴—清—精という系列は、TSENGという音を持ち、“澄みきっている”という共通の基本義をもつ。これは容易に理解できるだろう。ところが、一見形は違うが、旦—綻—誕—丹という系列は、上古の音を見るとすべてTANまたはそれに近似した音を持ち、“外に現われ出る”という基本義をもっている、同系のことばであることがわかる。  太陽が地平線から昇る(旦)、衣がほころびて肌《はだ》が露出する(綻)、赤ちゃんが胎内より出てくる(誕)、赤い丹砂が土の中から現われ出る(丹)、と説明すれば、これらの一見異ったように見える事象のもつイメージの共通性は誰もが納得のいくことであろう。  ことばというものは本来音と意味が表裏一体であるという洞察《どうさつ》に、藤堂博士はしっかりと足場を据《す》えていた。今生きている私たちにとっても、このような考え方はごく自然な言語の営みそのものに思えるのである。  日常的に、いろんな外国語を耳にし、多くの異った言語の音に耳慣れている私たちにとって、音と意味は切り離せない。その音声に、正面からメスを入れている藤堂博士の研究は、私たちには極めて自然科学的な方法論として納得できるものなのであった。    赤ちゃんの自然な認識  鴨・もそうだったが、犬や猫《ねこ》という漢字も中国では、犬の鳴き声“《ク エ ン》”、猫の鳴き声“《ミ ヤ ウ》”をそのまま語音としている。幼児にとっての“ワンワン”、“ニャンニャン”が犬、猫そのものを指すこととまったく同じである。音、すなわち意味であることを最も明快に示す例である。  トラカレには、お母さんに抱かれた赤ちゃんがよく遊びにくる。 「ひとつ、ふたつ、……いっぱい」  やっと数を言い始めるようになった赤ちゃんは、得意そうにおしゃべりをする。  実は、三という漢字も、いくつか寄せ集まった数、もともとはたくさんという意味を持っている。そんなことを知るよしもない赤ちゃんだけれど、結局漢字の祖、蒼頡も赤ちゃんと同じ視点に立っているのだ。  たとえば擬態語などを考えてみるとよくわかることだ。“ごつごつ”という音を聞いて、“ねばねば”したものを思いうかべる人はいないだろう。音を聞くだけで人間は不思議なくらい、誰もが同じイメージを持つのである。  赤ちゃんが、やっと“パパ”と言えるようになった頃、パパはもちろん、パパのシャツや靴《くつ》もパパ、はては、パパの釣ってきた魚まで、パパと呼んでしまう、パパという大枠でとらえた物はすべて同じことばになってしまうということを、私たちは直観的に理解する。このことは、他のことばが言えないからということよりパパという語音で包含できる意味の範囲をはっきり知っているからこそ、そう言うのである。人間の自然な認識が為《な》せる普遍的な捉え方なのだろう。このような自然な認識の仕方が、時代を超えて、古代人と私たちを結びつけてくれる。  私たちは、藤堂博士の研究を知ることで、漢字が示す最も基本的な意味をより真実に近い形でつかむことが可能となったと思う。その上、私たちのためとでもいうように『漢字語源辞典』の前書きには、「この研究が、古典語の基本的意味を明らかにし、今まで気づかれなかった古典解読の多くの誤りを正すことに利用されることを期待する」と記されている。  鴨の・という音は、KAP・KAMという音に包含され、この音の系列には、甲(固いカラに封じこめられた状態)、押(封じこめて、上から下へおさえること)などの漢字がある。これらは“封じる”とか、“おおう”という意を共通にもっている。朝鮮語では鴨を《オリ》と言い“鴨にされる”と言う時は《ポン》と言う。《オリ》は《オリ》(檻)——日本語の檻《おり》がぴったり対応していることは言うまでもない——《ポン》は《ポン》(封・峰—<型にひっついている形)などと合わせ考えると、いずれも封じこめられている状態に着目して命名していると言える。また、この“かも”という語音も、朝鮮語《カム》(閉じる)などの音韻上にあると言えよう。この朝鮮語音が、中国語音、KAP・KAMに音と意味が対応していることは明らかである。  このように、日本語を、文字を共有した中国語、朝鮮語の延長上に考えることによって「鴨《かも》」という一語のもつより深い意味を私たちは見いだすことができる。    山イコール墓  空気がひんやりと冷たく乾いた感じなのに、日射《ひざ》しは、ほのかな暖かさを含み、目に映る緑にも春のきざしは色濃くなってきていた。数年前に出かけた韓国の風景である。《ソウル》から南に向かってバスに乗った時のことだ。人、人、人のの中心部を通り抜けると、あたりは一変して人影もまばらな田園風景になっている。まっすぐ伸びた道路を走るバスの窓に、時おり丘みたいな小さな山が姿を現わしては後ろへ後ろへと飛んでいく。そして、その山の山頂や側面には、随所にきれいな半円形の土盛りがあり、一面緑の草におおわれていた。 「《チヨゴン》、《モオヤ》?(あれは何)」  韓国の人に聞いてみた。韓国の田舎の人たちは、それぞれ自分の家の山を持っており、そこで祖先の霊を祀《まつ》り、またあの土盛りはその家のお墓だという。いわば、土饅頭《どまんじゆう》の墓といったところである。はじめて目にした韓国の墓は、昔ながらの素朴《そぼく》な形を見せてくれていた。  ふと目に入った円錐形《えんすいけい》の美しい山に、三輪山《みわやま》が、まぶたの中で二重写しになった。三輪山、またの名は三諸山《みもろやま》は、山自体が神体であり、古来より祖廟《そびよう》として崇《あが》められてきた山である。この三輪山は、韓国の、小さな土饅頭の墓を故郷《ふるさと》とするものではなかったろうか。  興味深いことに朝鮮語の古語で山のことを《モイ》と言い、これは山と墓の両方の意となる。  朝鮮では、山神信仰が古くからあり、祖先の霊を祀る墓も山の上に作るという。また、山の訓《メ》は動詞《メダ》になると、ふさがる、つまる意となる。  鴨の字義に立ちもどってみると、鴨山の文字に、そういう韓国の墓の風景が、どうしてもダブって映る。鴨の音が示す伏せた形は、まさに固く閉じられた型の墓だ。むろん、この歌にあってはそれは人麻呂自身の墓なのであろう。鴨山を人麻呂が死を迎えるいまわの場所、墓場と見ると、この歌は冒頭から一気に、しのびよる死という影に覆《おお》われてくるようである。  私たちには、鴨山の二字ですでにこの歌が従来の解釈と様相を変えて目の前に現われたような気がした。少なくともここに使われている鴨山は、実際の地名として意味を限定させない方がいいようだ。今までの解釈は、死に臨んだ時の歌という題詞を拠《よ》りどころとして、成り立っている。読み下し文の歌からは死の影の投影はほとんど感じられない。    ・猿は碩学《せきがく》を表わす〓 『日本書紀』天武十年、十二月《しわす》の記に柿本臣〓《かきのもとのおみさる》(佐留)の名が記されている。十三年十一月《しもつき》に朝臣《あそみ》姓となり、『続日本紀』によれば、和銅元年、四月、従四位下にて没とある。この人物と人麻呂との関係も昔からしばしば論じられているが、現在に至るまでなお不明である。書紀には、〓田彦大神《さるたひこのおおかみ》や〓女君《さるめのきみ》という〓(猿の異体字、つまり〓=猿)がつく名がある。中国では、古代から唐代ころまでは猿と呼ばれるテナガザルの系統が神聖化される一方、猴《コウ》と呼ばれる系統は卑《いや》しいものとされた。特に、白猿は神仙《しんせん》にもたとえられるほどだったと言う。古代、猿という呼び名が敬称扱いになっていたことは、ほぼ確実なようだ。  人麻呂と猿を結びつけるもの——それは、はたして何であろうか。 「石頭」とか、「頭が堅い」と言うと悪口の部類に属するが、昔は悪口とは限らず、むしろ知恵者をさす美称となるケースの方が多かったようだ。「碩学《せきがく》」と言えば、石のように充実した頭の学者のことをさすが、まさに人麻呂は、碩学と呼ぶにふさわしいとびきりの知識人であったろう。  この碩であるが、『説文解字』を見ると「頭の大なるなり」と記してある。大頭ということが石頭につながり、それがさらに石のように固く充実しているさまへとつながるのである。そして石の美なるものは玉であるから、玉のように固い頭とは、りっぱなほめことばになってくる。一方石頭が、ゴツゴツと融通のきかないという意に傾いていって派生した語が、「愚、おろかなり」である。この漢字の上部「禺」であるが、これは実は大頭のサルの象形であることがわかった。頑固《がんこ》でコチコチの頭の持ち主ということが、おろかな意として一方で定着したのである。人麻呂が猿と称されていたとしたら、それはサルの大頭に、碩学の頭と、融通がきかない頑固者という意をあわせかけられていたという可能性もでてくる。  いつの世でも、融通がきかない人物は、自分を生きづらい立場に追いこんでいく。人麻呂の人となりが、本当に頑固であったかどうかはさておいて、その言動がもたらした波紋が、周囲から「石頭」との評価を受けたと推測してもおかしくない。  宮廷の中を人麻呂が歩いている。人々の口の端には、「猿」という語が出かかっている。しかし、我関せず焉《えん》と、飄々《ひようひよう》とした物腰に、表情にはやや堅さをにじませながら通りすぎて行く。もしかしたら、人麻呂と「猿」は同じ人物なのではと、思えてしかたがないのである。    猿——渡ってきた人  猿渡《さわたり》さんという名の人が、私たちの学生仲間にいる。珍しい名前だと思っていたが、祖父母は九州の人で、九州の方では決して珍しくない名前というのである。九州では“サルワタリ”とルを省略しないで発音し、他に猿がつく名前もいくつかあるらしい。 「渡来系なのかなあ」  という一言にハッとする。渡が付くといかにも渡来系の出であるという感じがするが、猿が渡来人を意味していたという可能性はあるのだろうか。つまり人麻呂が猿と呼ばれていたと仮定して、その人麻呂が渡来人であったという可能性……。  猿と言えば、何と言ってもあの敏捷《びんしよう》な動き、木から木へと飛ぶが如《ごと》く身軽に渡っていく、その姿が目に浮かぶだろう。枝から枝へ伝って行き、時には、狭いところなら、渓谷《けいこく》をも飛び渡ってしまう。猿橋という名の橋も数多くあるではないか。それに〓田彦大神は、天孫降臨の際、道の分かれ目に立っていて、何処に到るかを告げる道案内の渡し役として登場することも思い起こされる。  猿という字の〓(けものへん)のかわりに(しんにょう)をつけると遠という字になる。この字は猿と同音の語で、間があいて距離にゆとりのあることから、遠く離れる意となっている。  はるか遠くから渡って来た人。  すでに文字を持ち、すぐれた技術を携えて来た人たち、渡来人の集団。彼らは当初は当然のこととして彼らの母国語を話していただろう。それを受けてたつことばが、日本にはたしてどれだけあったのだろうか。彼らのことばがわかる人は、例外はあったにせよ、おそらく、それ以前に半島からすでに渡来してきた人たちと、彼らとの関係がよほど深かった人びとに限られていたであろう。その渡来人たちはそれぞれの集落を形成していたに違いない。また、そのあるものは権力の中枢《ちゆうすう》を掌握すべく血みどろの闘いに明け暮れていた。  猿という呼び名に、「渡って来た人」という意がかけられていると考えると、何だか、この名も、モダンな響きをもってくる。    鴨で始まり鴨で終わる  墓山である鴨山に続く磐根の漢字は、どちらもじっとひと所に留《とど》まって動かないという意をもっている。磐は、どっしりと平らに大きくすわった石で、根は止まって抜けない木の根。磐は、盤と同系のことばで、“盤根”という熟語になると、曲がりくねった根ということから、物事がわだかまってなかなか解決しないこととなる。鴨山、墓という意を受けて、さらに何かにわだかまって、じっと動けないでいる人麻呂の姿が見えてくる。固く大きなしこりとなって人麻呂の心を凍らせてしまう、そんな屈曲した思いを含みこんでいるようだ。恨みなのか、あるいはこの世への執着だろうか。曲がりくねった根は、深く、じっとひと所に留まっている。  それは、「巻有」の中国語音が意味する、丸くとり巻く、枠の中にかかえ込むという意によって、ますます出口を失っていく。理由はわからないが、墓、すなわち死んでいくということで、人麻呂が、がんじがらめになり、まるで棺おけの中に入れられ息を塞《ふさ》がれ、呼吸ができなくなっていくイメージである。  朝鮮語で巻くことを、《カムダ》と言う。中国語音で、封じる、おおうことを意味したKAP・KAMの音が、鴨の中国語音、かもという日本語音、《カムダ》の朝鮮語音と、一首の中に和音となって盛り込まれている。人麻呂自身、この音に封じこまれてしまったような感があるが、前半の句にこの音は鳴り渡り、上から重くのしかかってくるようである。 「吾乎鴨」は、“私を”という意とされているが、この「吾」という字は「語」の原字であり、だれかとだれかが交互に話をかわすことをさす。これは人麻呂が優れた歌人であるということを考えあわせると、とてもおそろしい意を帯びてくる。なぜなら、人麻呂を封じるということが、人麻呂の歌を、ことばを封じるということにつながるからである。  人麻呂のことばに怯《おび》え、人麻呂を封じてしまわなければならないようなことがらでもあったというのだろうか。秀《すぐ》れた歌人であった人麻呂はことばに通暁《つうぎよう》し、漢字のことを熟知していた。ひとつの歌の中に何重もの意味を込めることなど、いとも簡単になし得ただろう。何かの事実を明るみにさらされてしまっては困る人たちが、その可能性に気づき、残酷ではあるが、手っ取り早い手立てを打った……。 「朝鮮語で、《オホラ》と読めるんじゃないですか」  金思〓氏が、「吾乎鴨」の文字を見ていて、突然、一種不思議な面持《おももち》をしながら、そう教えてくれた。正確には、「吾乎」の箇所だが、このことばは、先にも述べたが朝鮮語で悲しい時に発する嘆息の語である。切迫した人麻呂の悲痛な声として、思〓氏には、この漢字が不気味な音に聞こえてならないようである。漢字の表記には訴えが、そして朝鮮語音によっては、人麻呂の心情が吐露されている。  この歌は鴨で始まり、鴨で終わっている。ぴったりと、句の内容を前後でふさぎ、おさえこんでゆくイメージが強調されている。前にも後ろにも行けないという、今の状態を……。そして、これは、次の妻の歌の冒頭の句、“且今日〓〓〓《けふけふと》”に音と意味がエコーしていくのである。これまで考えたことをまとめて解釈すれば、この歌の大意はこうなる。「鴨山之磐根之巻有吾乎鴨」は、“墓山である鴨山に、固くじっとわだかまり、私自身が、私の詞が葬《ほうむ》られていく。ああ、悲しや”という意になってこよう。従来の解釈よりも、よほどリアルなイメージが映しだされてきた。漢字を見直すことで、とにかくもここまで辿《たど》りついた。    万葉愛好家に聞いてみた  さて現在でも、熟年世代を中心に数知れぬ人が万葉集を愛読している。それぞれの人が、いろいろなきっかけで、この歌集に魅せられ、読み続けている。  しかし、ほとんどの人が、七五調に読み下されたものを愛誦《あいしよう》して、古《いにしえ》の歌人たちに思いを馳《は》せているのではないかと思う。漢字に着目し、朝鮮語や、漢字本来の意味などで解釈することも可能だと知り、すでにそれが試みられていることを知ったら、どう思うだろう。  私は祭酒が三重に出かけることを聞きつけ鞄持《かばんも》ちとして仲間と同行することにした。鞄持ちとは名目で、この機会に再び伊勢まで足をのばそうという魂胆である。  何といっても嗚呼見之浦や答志島など、人麻呂ゆかりの地である。  伊勢の海が、秋の青空に映え、ガラスの粉をまぶしたように光っている、そんな景色の中で、私たちは、偶然に万葉集愛好家のグループに出会った。万葉集の歌中に詠《よ》みこまれている地名を巡るバスツアーの一団だった。駐車場には大型バスが十台くらいズラリと並んでいる。集まり始めていた人々に、思いきって声をかけた。 「あの、ちょっとすみません。人麻呂の歌を朝鮮語とかで読むと、まったく違う意味になるんですが。どう思いますか?」  おっかなびっくり話を始めた私たちに無遠慮な視線が返ってきたが、答えはさまざまだった。しかし私たちが当初予期していたような反論は、意外にも少なかった。 「へえ、そうなんですか。でも、私は朝鮮語はわかりませんから」 「そう言えば、最近そんなことを聞いたことがあったね。そうらしいですねえ」 「えっ、それでどんな意味になるんですか」 「古代の日本には、渡来人が多かったからね」 「あなたたちは読めるの? ちょっと待ってて。カセットに吹きこんでもらいたいから」  中には、興奮気味に、 「万葉集は日本語で書かれているんじゃ。朝鮮語だなんてとんでもない。日本語だよ。日本語……」  と、声を荒立てる老人もいたが、傍に立つ連れの奥さんに、 「あなたは頑固なんだから、若い人の言うことは、もっと素直に聞かなくっちゃ」  と言われ、顔をしかめていた。  このグループの長老であろうか、風格のある顔に温和な笑みをうかべつつ、何人かの人に取り囲まれて姿勢正しく立っている紳士がいる。少し気が大きくなった私たちは、自分たちの好奇心も手伝ってか、その長老氏に向きあうと、間髪を入れず同じ問を発していた。しかし、私たちの質問をよそに、どこか遠くを見るようなまなざしで、 「私は、朝鮮語がわからないから、まったくわかりません」  いくら話してみても「わからない」という一点張りで、ノーコメントという態度を崩さない。考えてみれば、自分の知らないことばで読めると言われても、答えようがないのである。  白文の漢字に立ちもどってみるという単純なことですら、白文に後世付けられた訓を、まったく動かしようのない定訓として長年受け止め、ひとつの解釈にすぎない定訓の解釈を研究し、愛好してきた人たちにとっては、受け入れ難いことなのかもしれない。そこでは解釈の解釈という一つの落とし穴にはまってしまい、鋳型《いがた》の枠《わく》から抜け出すことができなくなってしまっている。 「私たちと、同じくらいの歳《とし》の人ってひとりもいないねえ」  横にいた仲間が、ぽそっとつぶやく。このグループ、見渡す限りお年寄りばかりなのである。要するに若者の姿がないのである。一般に、万葉集をやっているとか、万葉が好きだ、とか言うと、年配者と思われるか、国文学でも専攻している人というふうに見られるのが普通だろう。もっと新しい目で万葉を掘り起こせないものか。時には、若さのもつ大胆な発想が一つの突破口となることもあるのではないだろうか。    中国語で詠《うた》う王さん  東京国際音楽学院教授、中国中央楽団作曲家の王燕樵(Wang Yen Chiao)氏が私たちトラカレの教室に現われたのは、まったくの偶然だった。仲間の一人が、中国の古い詩歌に詳しいという中国人が録音のため事務所に来ていると聞いて、引っぱるようにして私たちの教室へ連れてきた。背が高く、眼鏡の奥のやさし気な瞳《ひとみ》が印象的だった。中国人の王さんですと紹介されると、みんな口々に、 「〓好《ニーハオ》!」 「初次見面《チユーツーチエンミエン》(はじめまして)」  と、中国語で挨拶《あいさつ》していた。とたんに、王さんは相好を崩した。ことばの魔法だ。私たちの拙《つたな》い中国語の片言が、私たちと王さんの距離を一気に縮めてくれた。  中国語で万葉集の白文を読んでもらったら、どうなるだろう。私たちは思わず、王さんにこの鴨山の歌を見せていた。  王さんは、しばらくその白文をじっと見つめていた。やがておもむろに、 「まずは現代北京語で」  と、読みだした。  今、万葉の歌が中国語で詠われはじめたのである。その声調に聞きほれていた私たちに、王さんは、 「じゃ、もっと昔、多分千年前位の中国語で……」  と、今度は何と節をつけて歌いだした。  私たちは、どこか遠い記憶にあるようなその旋律の美しさに魅せられ、王さんが朗詠《う た》い終ってもしばらくは皆拍手をするのも忘れていた。 「すごいですねえ」 「真棒《チエンパン》!(素敵)」 「さすが、音楽家。今のは即興ですか」  王さんは、答えた。 「今のは、中国の古い詩を歌うときのメロディーです」  音楽家として活躍している王氏の家系は、代々親から子へといろいろな詩歌を口承で伝承してきた家系だったという。偶然にしては、めったにないような出会いだったのだ。  私たちはすっかり興奮してしまっていた。人麻呂の白文の詩歌が、そのまま中国語で唱《うた》えてしまうとは……。古代詩歌は、文字どおり歌われているものだったと誰もが言う。万葉集の場合、日本語で歌われていたということに限定してそう言われているわけだが、この歌が、中国語の歌のスタイルでも歌えるということは、とりもなおさず中国語で無理なく読めるということ、解釈できるということなのである。定型に捉《とら》われない、大きな音の流れ。もう一度唱ってもらった私たちは、そのメロディーにそこはかとないなつかしさを覚えたのだった。私は《ソウル》で聞いた時調《シヂヨ》の朗詠を思い出していた。  王氏は、「老師《ラオシ》(先生)」と呼び始めた私たちに、ちょっと照れながら、でもうれしそうに、この歌に対する自分の解釈を、何の先入観もなく述べはじめた。まず白文の“鴨山”の所を指さし、 「多分、これは朝鮮の山……」  と言うのである。 「えっ?」  そう言えば、韓国でこの歌を見てもらった時も、鴨山という山の存在を聞いたような気がする。もしかすると人麻呂の故郷は朝鮮にあったのかもしれない。  その死にのぞんで、人麻呂は、その故郷の山に思いを馳せていたのであろうか。  次の“磐根之巻有”を見て、王さんはごく当たり前といった表情で、 「これは、中国では、古くから男女の愛情のたとえとされます」  と説明した。木と木が、かたく、ぐるぐるとからみついた様子が、男女の交わり、感情のもつれとして男女間の気持ちを示すというのである。とすると、何かにつっかえてわだかまっていることを表すと同時に、この語は人麻呂の妻への思いを詠《よ》みこんだものとなる。 “磐根”という漢字を用いることで、その感情を間違いなく伝えているのである。これなら八六番の歌で、磐姫《いわのひめ》が、“磐根四巻手〜”と歌ったのも、恋の苦しさを歌ったものだということで納得がいく。この漢字を見て、中国人の王さんは瞬時にその本来の意味がわかってしまったのである。私たちはまた一つ道が開けた思いだった。中国語の“磐根”から、人麻呂の妻に対する思いまでが、あぶりだされてきたのだった。  前半の句切りとなっている“吾乎鴨”は、王さんによれば、 「多分、意味がございません」  朝鮮語同様、“オホヤー”という嘆息の語になってしまうということだった。歌われてみると、特にこの“オホヤー”という音は、長く伸びて胸に余韻を残す。  王氏のお宅には、その後、仲間を伴って訪ねた。私たちの話を聞いて、その場に居合わせなかった仲間がどうしても自分の耳で直接、古代のメロディーを聞きたいという気持ちに駆り立てられたのだ。それに、あらためてもっと万葉のいろいろな歌を中国語で詠んでもらおうということになったのである。  家の中から、ピアノの音が聞こえてきた。中国の曲なのだろうか、何だかとても大陸的な感じのする曲だった。王氏は、 「私は、学者ではありませんから、よくはわかりませんが……」  と前置きしながらも、次々と歌を詠んでくれる。先日同様、朗々と節がつくものもある。みんな、目を閉じてその音律に耳を傾けている。  いろいろと読み進んでもらっているうちに面白いことに気付いた。一字一音表記で書かれた歌は、中国語としてはすべて、意味をなさないのである。  万葉集の白文の表記には、その成立の過程において、前期のものと、中、後期のものとにかなりのちがいがあることは前に触れた。後期のものほど、一字に対して一音を対応させる表記が多くなり、“やまとことば”としての和訓、また七五調のリズムが定着してきている。一字一音で書かれた歌が中国語として意味をなさない——もちろん、中国語として一字一字の文字は読めるのだが、全体としてつながらず、意味をなさないというわけである。  王さんは、幸い日本語も達者なので、日本語としても読めてしまうのだが、中国語しかわからない人だったら、この種の歌は、全くちんぷんかんぷんに違いない。漢字が意味を運んでいるのなら何でも理解できるのだが、たんに音を運ぶ表音文字として使われていては、中国人に意味をもったことばとしては読めないのが当然である。前期のスタイルの歌が中国語としても意をなし読めるということは、やはりやまとことばが成立の過渡期にあったということを如実に物語っている。    日本語は古代中国語の博物館  三〇番の、人麻呂が近江《おうみ》の都を過ぎし時に作った歌、“楽浪之思賀乃辛碕〜”を見て、 「あっ、これは昔、漢の時代、大体千八百年前、中国の政府がありました、《ピヨンヤン》の近くです」と王氏。  ササナミと訓《よ》まれている楽浪が、中国の楽浪郡として、当然彼の目には映るのである。人麻呂も同様に、楽浪郡の盛衰を大津の宮の短い栄華にダブらせていたとでもいうのであろうか。  中国人は中国語、韓国人は韓国語、日本人は日本語と、表意文字である漢字を共有していることで、それぞれ読めてしまうのは考えてみれば至極当然である。既製の日本語であるという枠を取り除いてしまったことで、私たちの解釈の自由度は一挙に拡《ひろ》がった。しかし、どんな音で読まれていたのか、知るすべもない現代人の私たちにとって、白文に示されている漢字だけが、水先案内人である。 「今の日本語は、私には昔の中国語の博物館のようです」  王氏のこのことばにはドキリとした。日本語を聞いていると、“あっ、これは中国語だ”“これは—昔の中国語だ”と思うことがしばしばあるというのである。北京の下町の方では、鳥《ニヤオ》を“チャオ”、自己《ツーチー》を、“ジコ”など日本語の音読みに近い音で読む。四川の方では、“〜だそうです”という意の“説的是〜”を“そうです”と関西弁みたいなアクセントで言い、“そうだ”という意の“是的”は、まさしく“そうだ”と言うのである。ウィグル語では、“学生ら”などと複数のことを言いたい時、接尾辞に“〜ら”(実際はラル)をつけると言う。  日本のお盆で聴いた歌は、ウィグルの民謡にとてもよく似ている。“はい”を広東《カントン》語で“ハイ”、また“ネー”(朝鮮では《ネ》と言う)と言う所もある。王氏の耳には、中国語がそのまま混じっていることばとして日本語が聞こえるのである。私たちが、韓国語の音の中に、そのまま日本語の音が聞こえるあの体験と同じものである。これらも、すべて漢字を背景にした普遍的な文化圏の存在を示している。  西から東へ、大陸から列島へと大量になだれこんできたことばが、日本の中でそのまま生き続けている——王氏の話は、私たちの眼《め》を大きく開かせてくれた。  王氏が出してくれた茘枝《ライチー》の凍った白い果肉を口にすると、異国の芳香がひろがった。王氏との出会いは、私たちにとってはかり知れぬ意義のあるものであった。万葉集の中の歌が中国語で読めたこと。さらには中国語の詩形で歌えたこと、日本語の中に見られる中国語の痕跡《こんせき》の数々など、可能性として考えていたことが、大まかに現実のものとして証明されたと言っていいだろう。  私たちの万葉集解読の舵《かじ》の方向は決して間違っていないと、また確かな手応《てごた》えを感じた一日だった。 鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有(巻二—二二三)  後半に移る。不知が漢文体そのままであることは、中学や高校の漢文の教科書などで知っているとおりである。妹は妻であるがimoは朝鮮語の《アム》(妻、女)に対応する。「人麻呂に迫りつつある死を知らずに妻は待っているのか」という、漢文として読み下せる箇所である。前半の不吉な意を受け、それを知らずに妻は待っているというわけだが、それだけで、哀切感が募ってくるようだ。  もう一度、全体を見渡してみると、之という漢字が三つもあるのにあらためて気付かされる。“〜の”という意だが、漢字としては人間の足の象形で、中国音は、まっすぐに前進することを表す。この漢字で、人麻呂がひしひしと死に向かっているという、切迫感が醸《かも》しだされている。 墓山である鴨山に、わだかまった根のように私の気持ちは黒々と沈められ、私自身が、私のことばが、葬られていく。ああ悲しや! 妻に対する想いも空《むな》しく封じられる。それが迫っていることを知らずに、妻は待っているのか。    石水・石川——貝・谷——死  次に続く二首の歌は、柿本朝臣人麻呂の死《みまか》りし時に、妻の依羅娘子《よさみのおとめ》の作れる歌とある。人麻呂が亡《な》くなっていく時の思いを詠んだ歌と言うのである。私たちの視線は、いっせいに次の歌の石川に引きつけられていく。 「大体、白文には石水と石川となっているのに、どうして石川と同じに訓み下しているの?」 「まあ、水と川というつながりはわかるけど……どっちにしても、石川は所在不詳となっているし」 「人麻呂終焉《しゆうえん》の地をますます謎《なぞ》めかせているってわけかな」 「山といえば川、人麻呂と妻の合言葉かも」 「そんなあ、忠臣蔵じゃあるまいし」 「石水と石川を地名と決めてかかっているから、わからなくなっちゃうんだよ」 「それに貝に交って倒れているなんて、なんか漫画みたい」 「うん、そう言えば、『古事記』では〓田毘古《びこ》神が貝に手を食われて海で溺《おぼ》れ死んじゃうんだったよね。何か関係あるのかなあ」 「人麻呂の水死説も、“石川の貝に交る”ということと何か関係あるのかなあ」 「貝って二つにパカッとわかれる貝じゃないの」 「二つにわかれる貝……“雲立ち渡れ”の方に“相”が二つあるよねえ。これも二つに分かれて向い合ってることじゃなかったっけ」 「人麻呂と妻が、お互いに見つめあっているみたい」  石川に、雲よ立ち渡ってくれと、空を見据《みす》えているような、強い感情のほとばしりを感じる。  辞書をひもとく私の頭の中にあったのは、人麻呂を慕ったという依羅娘子の人物像であった。どんな女性だったのだろうか。 且今日〓〓〓吾待君石水之貝《けふけふとわがまつきみは石川のかひに》(一云谷《かひに》)交而有《まじりてあり》登《と》不言《いはず》八方《やも》(巻二—二二四) 直相相《ただのあひはあひ》不《かつましじ》石川雲立渡礼見乍將偲《石川にくもたちわたれみつつしのはむ》(巻二—二二五)  石の朝鮮語は、《トル》・《ソク》(訓・音)、水は《ムル》・《ス》である。石水、《トルムル》は渦巻《うずま》きで、《ソクス》は汐水、夕潮。渦巻きは、人麻呂を呑《の》みこもうとしている激しく渦巻く流れ、そして潮が引いていくように人麻呂の人生が終わりを告げる、そんな風景が目にうかんでくる。  これでよしと、悦に入っている私たちに、アガサはその風景の奥をもっと良く漢字を通して見なくてはならないと言う。私たちは、いつも一つ意味がでてくると、それで安心してそこ止まりになってしまいがちだが、アガサはいつも徹底的に、そう、徹底的に調べるのである。この姿勢が、いつも驚くべき発見へとつながっていく。調べ始めたことはいつも頭の中にあって、どんなに期間が空いていても、何かの折りにフッと顔を出し、今まで分からなかった関連性から新しい意味へと発展していくのである。小さな頭の中の抽出《ひきだ》しは、散乱した机の上とはうらはらに、よほど整理が行き届いているらしい。  という音には、石の他に、“溝《みぞ》、水路、穴を穿《うが》つ”などの意味がある。そして水という漢字は、本質的に凹みや溝に沿って低い所へと流れること。同系のことば遂は、水を導く細長い溝で、奥へ奥へと進むことをさし、“遂道”となると墓穴に導く長い洞穴となる。とすれば、石水とは、穴を穿って低く、奥へ奥へと行きついた場所、つまるところは、墓穴を言っているのではないだろうか。石水之貝だが、貝は中国語では、左右にわれる二枚貝をさしており、二つに割れることを意味している。朝鮮語では、《チヨゲ》、《ペ》。動詞になると、《チヨゲダ》(さく、分ける)、《ペダ》(滅びる、亡くなる)など、やはり分かれるという共通の意味を表わしている。  日本でも、平安時代、“貝合せ”の遊びが貴族の間で盛んに行なわれた。これは貝殻《かいがら》が必ず一対だけしか合わないという特性に着目したゲームである。「ベターハーフ」を願う婚礼調度の重要な仕度品の一つにもなっていた。中国、朝鮮でも、貝は二つに割れる、またくっつくという見方に立っていた。人麻呂の妻にとっては、自分と夫、人麻呂が二枚貝のように対をなしてよりそっているものだったのに、石川の貝に交って分かれてしまったというのである。  貝の朝鮮語は同音で、“ともがら”を意味する「輩」(似たものが並ぶこと)と対応し、友、仲間を表す漢字「朋」(貝をひもでつらぬき、二筋並べたさま)と語義的に対応する。石川の貝に交ってしまったという部分は、この世から別れてあの世の人になってしまったと解釈できよう。「交」、×型に交叉《こうさ》しているこの漢字の形は、何だかねじ切られ、ひきちぎられていくようなイメージだ。  ここまで考えてきたとき、私の眼は辞書の泉という文字に吸い寄せられていった。これは狭い穴を穿つようにして水の涌《わ》きでるさまを描いた字だ。とりもなおさず、石水を髣髴《ほうふつ》とさせる。  泉と言えば、“黄泉”とか“泉路”というように、あの世を指す。しかも一見、白と水のたしあわせに見えることが渦巻き()の激しく渦まき、白い飛沫《ひまつ》をあげる水とダブってくる。  さて、「貝」が、“一に云《い》はく”つまり、別の写本では、「谷」となっているというのだ。この漢字も、また水源の穴から水がわかれでることを示している。朝鮮語の谷《コル》は、深い洞穴を意味し、“深穴に入る”という意味が、死ぬことにつながってくるのである。「貝」に交っていくということが意味していた死のイメージを、同じく“かひ”とふられている「谷」も示していることがわかる。カヒは貝でもあり、同時に谷でもあった。二つに分かれる二枚貝も、穴を分けて出る水源も“分ける”意では同じ状態を表している。 “ふたをして封じる”ということは、貝そのものの状態でもある。  鴨山の歌で見たKAP・KAM系の音の意味とまったく同じである。二枚の貝殻に封じられている貝、山と山とに挟《はさ》まれている谷。“かひ”と訓まれていることに、何の不思議もないのである。  この歌は、全体的には、朝鮮語色が強いようだが、実は、それは冒頭から始まっていたのだ。今日〓〓《けふけふ》という語が、《カプカプハダ》と対応するのである(kap→kef)。これは、鬱陶《うつとう》しい、気持ちがすっきりせず息づまるという意。この音と意味が、貝、谷の“かひ”とも呼応し、中国語音のKAP・KAMの音と意味に包含されることは言うまでもない。鴨山の歌に見事に照応している。 “かひ”と聞くと、武田信玄の甲斐《かい》の国を思いうかべる人は多いだろう。富士山麓《さんろく》に広がった大きな峡谷、山と山とに囲まれた谷の国は、戦国の世において強大な力を確立していった。かひの国—谷間の王国だったのだろう。つい二、三十年前まで甲府は旧かなで「かふふ」と訓じられていた。    旧かなづかいは韓国語音だった  ところで、“今日”を“けふ”と訓むのは旧かなづかいである。これは歴史的かなづかいとも言われ、古くは契沖によってまとめられたかなづかいである。これは、昭和二十一年に現代かなづかいが告示されるまで、標準的に使われ、今でも、それ以前の本を手にすると、すべて旧かなづかいで印刷されている。表記の違いは、微妙な音の違いを表現しているのである。今でも“菓子《かし》”を“クヮシ”と言うお年寄りもいる。  この旧かなづかいが、実は、韓国語音ときれいに対応しているのである。今では、“カン”という同じ音になっているが旧かなでは、観は“クヮン”、看は“カン”である。そして韓国語音はと言うと、観は《クワン》、看は《カン》と見事に一致するのである。旧かなで、“カン”と“クヮン”とに読み分けている語が、韓国語音ではすべて区別することができるのだ。  他にも少し調べれば“チョウ”と“テフ”、“ジ”と“ヂ”など、旧かなづかいの使い分けが、整然とした韓国の音韻の秩序の上にあることがわかる。もちろん、対応している韓国語音の語頭の子音は、落ちたり、音韻変化している時もある。だが、旧かなに、「あいうえお」の行と、「わゐうゑを」の行があったのは、明らかに音の違ったものを表記するためだったのである。また“けふ”“かひ”などが必ず韓国語の“〜《プ》”と対応することから、日本語の“フ”がP音に近かったと言われていることなども容易に理解できる。  これらのことを考えたぐっていくと、万葉仮名の甲類、乙類に行きあたる。一つの母音に対する二つの音の区別は、私たちには同じに聞こえる韓国語の母音《オ》と《オ》というような違いだったのであろう。韓国の人にとっては、明らかに発音も聞こえ方も違うわけだから、二つの異った母音として表記するのは当然である。甲乙の区別があった時代の古い日本語音は、想像以上に、朝鮮語音に近かったと考えられるのである。  日本人並に日本語のできる新聞記者をしている韓国の人から聞いた話を思いだす。その昔、日本人は新聞記者といったいわば文章のプロでも、旧かなの使用には苦労して、辞書なくしてはなかなか正確にふりがながつけられなかったものを、韓国人の彼は、自明のこととしてすぐにわかり、間違うことなどなかったという。漢字の韓国語音を知っていれば、自動的にすべてわかってしまう。理屈など関係ない。    依羅娘子の嘆き 「鴨山の」人麻呂の歌が死後妻に渡ったのか、死ぬ前に渡ったのか知るすべもないが、いずれにせよ、妻がそれを見た時、人麻呂が歌に詠みこんだ思いを即座に読みとったのに相違ない。妻、依羅娘子が息づまるような胸ふさがれた思いで、人麻呂を待っている気持ちが強烈に伝わってくる。“カプカプ”という音の息苦しさはどうだ……。  だが、彼女は、もう夫と二度と会えないことを知っているのである。この歌の結句、“不言《いはず》八方《やも》”の最後の二字、八と方が両字とも二つにパンと別れているというニュアンスを如実に示す漢字としてたたみかけてくるのが、さらに効果的である。 息づまるような思いで、私が待つあなたは、墓場である石川で、あの世のともがらに交わっていると言うのでしょうか。あなたは逝《い》ってしまった。  次の歌の石川はどうだろう。川は、地を縫って流れる∧印で、川の流れを描いた象形文字、『説文解字』には「貫穿《かんせん》通流する水なり」とある。穿つと同系で、川の朝鮮語《ネ》も動詞《ネダ》になると、(あなを)あける、穿つなどの意がある。石川も石水と同様、死に場所としての墓穴を暗示しているということが考えられる。  この石川に今度は、雲立ち渡れと続くが、雲は中国語音で魂と同系のことば、人麻呂の亡き魂を雲にかけているのだろう。立、渡、礼は三字とも、字形はくっきりとした形を示している。雲のように立ち籠《こ》めている人麻呂の思いを、はっきりさせたいという妻の願いを色濃く見るような気がする。  じかにお逢《あ》いすることはもうできないだろうと、相の字が示す二人の姿——恐らくそれは人麻呂がこの世でない、あの世にいる姿で妻と向きあい、目を見つめあっているのだ。二人の間には、今生の人には通ることのできない壁が立ちはだかっている。  夏休みが終わる頃《ころ》、アガサが雲についての興味深い話を紹介してくれた。  アガサの万葉アンテナにひっかかってきたのは、雲が昔、山から生ずると考えられていたという説である。私たちは、再び雲について調べ直してみる。アガサの話にピッタリの語があるではないか。 “雲根”——雲がどこから生ずるかという雲のもとをさす語で、一つには高山の谷をさし、同様にそういった谷間の岩石の間からも雲が生ずると考えられていたことから石のことをも言う。つまり、谷と石から雲が生ずるという考え方である。  杜甫《とほ》はその詩の一句に、“穿水忽雲根=水を穿ちて忽《たちま》ち雲根”ということばを使っている。  穴を穿つ、《トル》、石、穴を穿って出てくる水、——石川、石水、雲が、谷という一つの漢字を中心にピタリとはまり絵の如《ごと》くつながった。とすると、“石水の貝”は、“石水の谷”の方が先だったと考える方が自然のようだ。枕詞=被枕詞の関連で石水=谷という意にとれるからだ。依羅娘子が、この“雲根”という語を知らずに歌を詠んだとは、とても思えない。つまり、“雲根”という語が示す、高山の谷や、岩石の間から雲が生ずるという考え方が、当時の漢字を知っている人々に十分浸透していたと言えるのではないか。  さらに、雲のように空中に現われるという気によって、吉凶を占ったということを表す“雲気”という語がある。雲立ち渡れと、人麻呂の魂が雲気となって立ち現われるのをはっきりと見定めたい、その吉凶を見るまでは、悲しい事実を信じたくないという、あきらめきれない思いの現れであろう。  しかし一方では、深い谷の中であの世の人となっている夫であれば、せめてその谷から雲となって現れてほしい、その雲となったあなたを見てお慕いしたい——人麻呂を冥府《めいふ》に奪われてしまった妻には、他になすすべがないのである。  鴨山の歌で人麻呂が使ったKAP・KAM系の語の音と意味——おおわれて封じること——それは、墓に入っていくこと、すなわち人麻呂の死を暗示していた。その意を読みとった妻は、封じられてこもるしかない人麻呂の魂に雲となって立ちのぼれと願っている。石水、石川が写しだしている意味は、雲の立ちのぼると言われる「谷」や「穴」を指し示している。この谷や穴こそが人麻呂の墓地であった。  目の前に一人の女性の姿が浮かんでくる。ほっそりとした体。髪は朝鮮風に髷《まげ》をゆい、きっちりと釵《かんざし》で止めている。静かな美しい顔立の中、強靭《きようじん》な意志を示す口元をぎゅっと引き結び、聡明《そうめい》さを秘めた眼元《めもと》が涙でうるんでいる。そんな女性が、私にとっての人麻呂の妻依羅娘子であった。    深遠な闇《やみ》の奥底から  最初の疑問に立ち戻ってみよう。人麻呂の死んだ地は一体どこなのかという古来の謎《なぞ》である。かならずしも実際の地名を指し示していた訳ではなさそうだということは、今まで見てきたとおりである。  はっきりと見えてきたことがある。川とか海とかで死んだという表現がどこにもなかったことが、その手がかりである。どちらかと言うと、石川、石水は、深い山中、谷間のような所を指し、そここそが人麻呂の墓場であり、鴨山《かもやま》が墓であったということを、谷《かい》と呼応させ、見事にその関連を示している。“石川の貝”“石水”より、「河口での死の趣」とする説は、私たちはとらない。  その先、そこが具体的にどこかということを追究し続けても、これ以上、静かに眠っている人麻呂を揺り起してでも訊《き》かないかぎりわかりようはあるまい。  繰り返すが、三首の歌を通して言えることは、人麻呂終焉《しゆうえん》の地が深い山中の谷であったということである。石川や石水が現実の地名を指し示したのか、それとも谷や穴をいかにも地名風に表したのかそれは決めることはできない。その先、私たちにできるのは、人麻呂が、どんな状況で、どんな気持ちで死んでいったのかという想《おも》いを、彼の残した歌から少しでも汲《く》みとっていくことだけである。そのことだけが、謎とされている人麻呂像を鮮やかにしていく。  鴨山の歌の題詞にある「死」という語によって、人麻呂は刑死したのではないかと言われていた。何の罪の咎《とが》だというのだろうか。  鴨山の歌は、確かに死んでいくイメージを結晶させていた。しかし、死ぬと言っても、病死などではなく、追いつめられた不本意な逃れようのない死の趣なのである。柿本人麻呂という人間の存在が、この世から抹殺《まつさつ》され、無言《しじま》の死の闇へと追いやられた——つまり、殺された。そのことを訴えていたのが、鴨山の歌だったのではなかったか。人麻呂に関する記述が文献として、ほとんど何も残っていないという不自然さ。繰り返すが、一介の歌人ならいざ知らず、歌聖とまで言われた柿本人麻呂がである。  何かいわれのない罪をきせられ、彼に関するすべての過去が抹殺された。しかし、はからずも歌だけが残ってしまった。  調べれば調べるほど、そんなふうに思えてくる。“くしろ着く”の歌が、暗に大宮人批判のイメージを込めていたように、権力の象徴、朝廷にとっては彼は、やっかいな存在になったのではなかったか。理由づけは何とでもできよう。何かがあったのだ。今となっては、彼の歌に皇子、皇女への献歌がずばぬけて多く、朝廷との因縁の深さを物語っていることも、かえって不気味な影となってくる。  この一首、二十の漢字に凝縮された人麻呂の思いは深い。胸のなかに鬱した情は、現れたことばによって初めて明らかになる——死の暗闇に閉じこめられてしまった人麻呂には、もはやそれだけしかなすすべがなかった。  今、私たちは、深遠な闇の奥底から、人麻呂が発することばに虚心に耳をかたむけるだけである。 第六章 人麻呂の遺書  私たちは、都心にしてはめずらしい、三両編成のひなびた電車に揺られていた。渋谷からアガサの家までは小一時間はかかるだろう。 「これで人麻呂の消息も跡絶えたとみていいのかな」  ぼんやりと車窓に顔をむけたまま、仲間のひとりが呟《つぶや》いた。 「そう考えていいもなにも、人麻呂は死んだのよ。あの鴨山《かもやま》の一首を残して」 「そう、一首だけを残して。それがしっくりいかないの」 「——」 「鴨山の関連の歌をみても、肝腎《かんじん》なことにはちっともふれていない。どうして死んだのか、死ななくてはならなかったのかということの核心には、なにもふれていないことになる」 「うーん。そんな重大なこと、一首のなかだけでは伝えきれなかったんじゃないかな」 「そう、そこなのよ、私がひっかかるのは」 「どういうこと?」  皆、苛立《いらだ》ちを感じながら、話のさきをせかした。 「遺書がない」 「ええ?」  調子はずれの声があがる。 「でも、あの一首が」 「人麻呂が本当に言いたかったものはもっと他にあったはずよ」  そのことばに異論はなかった。 「それも、まだ見ていない、今まで解いてきた歌のほかに」  なるほど、人麻呂の辞世の歌は一首のみであり、妻などによる周辺の歌を合わせてみても、そこから彼の死について何かを導き出してくるのには限界がある。もっとも人麻呂は、死に臨んで言い遺《のこ》すことなど、もはや多くは持たなかったのかもしれない。先の一首のほかに、彼の死について、そして生きた軌跡についてもっと知るよすがとなる歌があるはずだ。尋常ではない死に方が見えてきた以上、必ずもっと決定的な何かがある。 「たしかにそうだわ。今までそんなこと考えてみたこともなかったけど」 「遺書か」 「当たりはつけてるの? みつかった?」 「らしいものはね」  だが、人麻呂の歌といっても、今まで解いてきたものの他に七十首以上はある。そのなかからどれに目星をつけたものか、まだ私には皆目わからない。  四人は電車を降りると、商店街をぬって続く、ゆるゆるとした坂道を上りはじめた。近くに大手のスーパーが進出してきたせいか、駅前には活気がある。  古風な門構えのつづく道を目的のアガサの家へと向う。不揃《ふぞろ》いな黄楊《つ げ》の生垣《いけがき》がめぐる庭の緑が、うっそうと繁《しげ》っている。その庭の端から、エプロン姿のアガサが現れた。 「あんたたち、あがってなさいよ」  と、いつもとはうってかわった近所のオバサンふうのアガサである。  私たちは、ずかずかと玄関から居間へとあがりこんだ。 「さっきの話だけど」 「私にもまだよくわからないのだけど、なんとなくね」 「なんとなく、なに?」 「羈旅《きりよ》の歌」  仲間の一人が言った。 「キリョの歌? あの“旅”の歌八首のこと」 「うん」  私はあっけにとられてしまった。 「何が羈旅の歌なんですって」  古びて焦茶色《こげちやいろ》に光る盆に、白い茶碗をのせてアガサが立っていた。そこで、私たちはここにくるまでの一部始終と、なぜ羈旅の歌なのかを話さなくてはならなくなった。珍しくアガサは煙草《たばこ》に火をつけることも忘れるほど、真顔になって聞いていた。 「そう、そうかもしれない」  一抹《いちまつ》の疑問をも打ち消すような勢いでアガサは言った。 「それに、八首っていう数のまとまりも無視できないと思う。同じ巻三の中にも、旅を題材にして歌ったものは別に載せてあるのになぜ、この八首だけが「羈旅《た び》の歌」としてまとめられているのか、不思議よね」 「この八首ってつながりがあるの?」 「その辺は、諸説あるらしい。関連があるといえばあるわけ。でも、最初の歌(二四九)の訓《よ》みは未《いま》だに定訓がないし。それに、旅にしては方向が定まってないみたい」 「フーン、いくら辿《たど》ってみても、途切れちゃうわけね」 「そうなの。一応は、人麻呂が宮人として大和を往復する海上での歌とされている。だけど、地名をつないでいくと、まとまった旅としては方向がおかしくなってくるのよ」 「へぇ、目的地がつかめないのか」 「だから、人によっては、初めの四首を筑紫《つくし》へ下るときの歌、また、明石《あかし》のでてくる真中の二首だけが関連の歌、最後の一首は、大和へ上るときの歌などなど、部分的には関連のものとして扱っている」 「うーん、なんだかよくわかんない」 「八首の題辞には“柿本朝臣人麻呂の羈旅《た び》の歌八首”とあるわけだからやっぱり関連の作と、まずは考えてみたらどうなのかしら」 「そうね。今までの歌だってある関連性のなかで解けていったものばかりなのだし、この八首にひとつの関係性がみつかれば、これらが、いつ、どういう目的で書かれたものだったのかもはっきりとするかもしれない」 「それに人麻呂の死に一歩近づく格好の材料になるかもしれないし」 「そのころの“旅”ってどんなものだったんだろう」 「まず“旅”というところから調べてみようか」  そして、翌日から私たちの新しい「羈旅《た び》」が始まった。 三津埼浪矣隱江乃舟公宣奴嶋 ——三津《みつ》の崎波を恐《かしこ》み隠《こも》り江の舟公宣奴嶋(巻三—二四九) 珠藻苅馬乎夏草之野嶋之埼舟奴 ——珠藻《たまも》刈る敏馬《みぬめ》を過ぎて夏草の野嶋《のしま》の崎に舟近づきぬ(巻三—二五〇) 一本云、處女乎而 夏草乃 野嶋我埼 伊保里爲吾等(一本に云ふ、処女《をとめ》を過ぎて夏草の野島が崎に廬《いほり》すわれは) 粟路之野嶋之乃濱風妹之結吹 ——淡路《あはぢ》の野島が崎の浜風に妹《いも》が結びし紐《ひも》吹きかへす(巻三—二五一) 荒江之浦鈴寸釣泉跡香將見去吾乎 ——荒《あらたへ》の藤江の浦に鱸《すずき》釣る白水郎《あ  ま》とか見らむ旅行くわれを(巻三—二五二) 一本云、白乃 江能浦 伊射利爲流(一本に云ふ、白《しろたへ》の藤江の浦にいざりする) 稻日野毛去思有心戀敷可古能嶋見(一云、湖見) ——稲日野《いなびの》も行き過ぎかてに思へれば心恋《こほ》しき可古《かこ》の島見ゆ(一に云《い》ふ、湖見ゆ)(巻三—二五三) 留火之明大門入日哉榜將別家當不見 ——留火《ともしび》の明石大門《あかしおほと》に入る日にか漕《こ》ぎ別れなむ家のあたり見ず(巻三—二五四) 天離夷之長從戀來自明門倭嶋見(一本云、家門當見由) ——天離《あまざか》る夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ恋ひ来れば明石の門《と》より大和島見ゆ(一本に云ふ、家門《やど》のあたり見ゆ)(巻三—二五五) 乃庭好有之苅薦乃乱出見人釣船 ——飼飯《けひ》の海の庭《には》好くあらし苅薦《かりこも》の乱れ出《い》づ見ゆ海人《あ ま》の釣船(巻三—二五六) 一本云、武庫乃能 波好有之 伊射里爲流 部乃釣船 浪上從見(一本に云ふ、武庫《むこ》の海の庭よくあらしいざりする海人の釣船波の上ゆ見ゆ)  旅の字は、人々が旗の下に隊列を組むことを示している。団体で移動する軍旅などが旅のもとの形であった。「羈旅」の羈という字も、綱につながれたようによそに寄留するという意味である。  万葉のなかにも、旅を扱った歌は多い。そのどれもに共通することは、昔の「旅」のもつ感覚が今のそれとは大きく異なり、そこには望郷や訣別《けつべつ》の想《おも》いが時には「死」を前提にうちだされているようだ。旅や羈の漢字に当たると、のっけから明るくのどかなイメージとは反対の世界が、私の前に顔をのぞかせた。初めてアガサのあの鋭い反応がわかるような気がした。  人麻呂の羈旅の舞台は、瀬戸内海沿岸であることだけは確かなようだ。この当時、船旅は簡素な手漕ぎ船で渡るわけだから、船底の一枚を隔てて地獄、すなわち死とは、いつでも隣り合わせにあった。  また、潮の流れひとつとっても千変万化、めまぐるしく変わるわけだから、小さな船などはたちどころに転覆してしまう。手漕ぎ船にとっては、潮流、波風に逆らうことなどそのまま死を意味するものだったのだ。そのため、今ではほんの数時間という距離を、何日も、ときには何ヵ月もかけて行かねばならなかった。まさに万里の波濤《はとう》を越えていく心もちであったにちがいない。  海路の「旅」の歌こそ、死にゆく人麻呂の遺書としてふさわしいものだったのではないか。  私たちは、その思いつきが突飛なものでないことを確信していた。    浪と隠江《こもりえ》 三津埼浪矣隱江乃舟公宣奴嶋(巻三—二四九)  羈旅の歌の最初におかれた歌である。「三津」は地名で、一説では、難波《なにわ》(大阪市)の湊《みなと》を指すといわれている。  そこの崎《みさき》の波が恐ろしいので入江の舟で君は祈っている、美奴の島に——というのがこの歌の解釈の一例である。奴島が美奴の島と解釈されている。  ところで「君」とは一体誰のことだったのだろう。  特にこのことをふくめた後半「舟公宣奴嶋」の部分には定訓がなく、さまざまに解かれている。ここで君が祈っていたという美奴の島も、所在不明の謎《なぞ》の島というほかない。これでは、訓をたよりにしても何もわからないではないか。  そこで地名に注目してみると、人麻呂はこの歌で謎の島「奴」を末尾に、そして「三津埼」を冒頭に二つの地名を織りこんでいる。  三津は朝鮮語でとくと「《ソク》(三)・《ナル》(津)」となり「舟をつなぐのに格好の場」——つまり渡《わたし》を意味していることがわかる。三津崎が、古代から渡《わたし》として最適な場であったことがその表記からうかがえるわけだ。この調子でさらに歩を進め、漢字の語源をみてみることにする。  三は、数字の3を表した指示文字であるが、もとはいろいろなものが集まる意味であって、必ずしも3という数ではない。古く『説文解字』では、その意味をもって三を彡印に象《かたど》ったとしている。つまり三(彡)とは、もと「毛飾画文《かざり》」の象形で、雑多な模様のことでもあった。 「毛飾画文」——筆画を重ねた模様とは、すなわち「文《ふみ》」のことではないか。私は、『説文解字』の解説に目が釘付《くぎづ》けになっていた。三津の三とは、筆で書いた模様(文)のことを表すものだったのである。  さらに、そのことは、「筆先から点々と滴《したた》りおちる墨」を象った津の一字が続くことからも明らかだ。聿は、筆の象形文字であり、三(=文)津は、筆による文字、人麻呂にとっての文筆、そのものの隠喩《いんゆ》だったのかもしれない。突出し海水を含んだ埼《みさき》の先端部が、今にも走りだそうとする筆先のようすと重なってありありと浮かんでくるような書きだしなのである。  その風景をますます鮮明にするかのように、筆の「浪矣恐《なみをかしこみ》」とつづいている。ここでは「波」ではなく、あえて「浪」の一字を選んでいる点がおもしろい。荒立ち覆《おお》いかぶさるような恐ろしい波であるならば「浪」よりも「波」の方がふさわしいが、人麻呂が選んだのは一切のものを呑《の》み込み、掻《か》き消すような「波」ではなかった。浪の「清らかな白いしぶき」を散らす状態こそを恐れるというのである。なぜ、美しい浪のしぶきを恐れるなどと詠《うた》ったのだろう。  浪のもつ、もともとの字源を繙《ひもと》くと「穀物を水でといできれいにする」意、要するにこの原義は、余分のものを取り去り、物事の清らかな本質をみせる点にある。詰まるところ、こう考えていくと結論はただひとつ。本質が露《あら》わになる、そのことを恐れている人がいたことになってこよう。ここをもう少し掘り下げて考えてみよう。  この波のしぶきのことを「浪花《ロウカ》」という。また一方、昔の難波(大阪地方)のことを「浪花」とも呼んでいた。三津(難波)の崎の浪とは、地名としての「浪」と、しぶきとしての「浪」とをかけた表現だといえる。その浪を恐れるとは、誰かの筆によって何かの本質(真相)が露わにされることを恐れる、という人麻呂一流の表現だったのである。  誰かの筆、それはとりもなおさず人麻呂自身の筆である。  諸注によると、つづく「隠江《こもりえ》」は、一般にアシなどが茂り、また入りこんでいて外から見えない入江のこととされる。隠江《こもりえ》、隠国《こもりく》、隠処《こもりず》、隠沼《こもりぬ》等々、これらはすべて囲まれて外から見えない場所をさしているものなのだ。「ふね」にもまた、ここでみえる舟のほかに、船、兪などの字はあるが、舟の字形は周囲を固くとりかこんだふねを表している。しかも、その囲まれた舟に「公宣《きみのる》」と、「隠江《こもりえ》」をうけて見事に続けているのだった。  これらは一首全体のなかではどうひびいてゆくのだろうか。特に、 浪矣恐江乃公  の部分は注目に価《あたい》する。用字をとおしてこの歌のテーマが「覆い隠す」(○印)ことと「突き抜けにしてみせる」(傍線)という相反する二種の漢字群によって構成されていることがわかるのだ。まるで寄せては返す波のリズムそのものではないか。  三津埼に立つ人麻呂は、埼《みさき》の先端に寄せる波に己れの姿を見ている。埼に抑え止められ、行き場を失って砕ける波に、人麻呂は自分の末路をも重ねたことだろう。覆い隠すものをあの浪のように砕き、明らかにしたいというこの歌の主張が、次々に寄せては返す波のように繰り返され、人麻呂のやり場のない気持ちが異様に高まっていく。しかし波は、それを防ぎ止めるものを突き抜けることはできない。  人麻呂が終始、露わにしたいと繰り返す本質とはいったい何なのか、また、そのことを恐れていたのはいったい誰だったのか。千年以上にわたって解かれることのなかったフレーズ「公宣奴嶋」に、何かそれを暗示するようなことばが見つかるだろうか。    一介の宮廷歌人ではなかった 「宣」の一字にねらいを定める。と、ここで私は、あっと小さく声をあげそうになった。わが目を疑うようなことばにぶつかったからである。 「宣とは天子の宣室なり」  周囲を塀《へい》でとりまいた公室のことをさすと『説文解字』にあるではないか。  これには古く殷《いん》の公室を「宣室」と呼んだ文献もある。「公宣」とは、公の宣室、固く閉ざされた宮殿、朝廷のことだったのだ。  ことの真相を覆い隠した権力の存在そのものを人麻呂は「奴嶋」と呼んだのだろう。「奴嶋」は、やはり現実の地名ではなかったのである。  草壁皇子《くさかべのみこ》の薨去《こうきよ》した宮は「島宮」と呼ばれ、島ノ庄に邸《やしき》をかまえた。また、蘇我馬子《そがのうまこ》は「嶋大臣」とも呼ばれたが、周囲を固く守り閉ざされた宮中は、まさしく「嶋」と呼ぶにふさわしいところであった。  人麻呂にとって「奴嶋」とは、なによりも自分自身と隔絶してしまった場としての朝廷——その象徴として映ったのである。「奴婢《ぬひ》はみな古《いにしへ》の罪人なり」といわれる奴の一文字に、朝廷の実体を暗示していたのかもしれない。  私の瞼《まぶた》の裏に一人の男の姿が浮かんでくる。  やや神経質そうに宙をみつめる視線、額、そして眉間《みけん》に刻まれた深い皺《しわ》、片膝《かたひざ》をたて、肘掛《ひじか》けにゆったりともたれる人麻呂は、異国の貴人さながらの凜《りん》とした威厳をあたりにただよわせながら、今も京都国立博物館の一角に小さくおさまっている。この一枚の肖像画は、私にはなぜか忘れることのできないものなのである。  人麻呂は、持統・文武朝に活躍した宮廷歌人のひとりであったといわれている。これほどまでに文字を駆使することのできた人麻呂の言語感覚には、人並みならぬものがあったに違いない。しかし、その言語《ことば》に秀《ひ》いでた才能ゆえに悲劇が用意されていたとも考えられる。権力者の秘密や国家の重要事項の記述に関《かか》わらざるを得なかった立場にいたのであろう。歌を作って本にまとめるくらいしか、やることのなかった一介の宮廷歌人ではなかったはずである。たとえば大伴家持《おおとものやかもち》のことを思い出して欲しい。  人麻呂は、垣《かき》をめぐらし固く閉ざされた朝廷に、真実を覆い隠そうとする権力者の姿を見たのであろうか。そして、その事実を暴露されることを恐れる朝廷と、自らの筆によって明らかにしたいという人麻呂の強い対立が浮きぼりにされる。人麻呂はこの歌の裏で、そのことを、そして自らの立場を明らかにしたのである。歌を書くことで、誰かにそのことを告げずにはいられなかったのだろう。  だが人麻呂というひとりの人間も、所詮《しよせん》、岩に砕け散った波だった。 わたしの筆によって 事実が明らかにされることを恐れ 抑え止めようとする 埼《みさき》の先端で流れを阻《はば》まれ 行き場を失った波こそが わたしの姿なのだ しかし その波だけが 事の真相を暴《あば》くものなのだぞ 奴の島の朝廷よ  この歌は、こうした人麻呂の深い意図を背後に織りこんでいたものだったろう。それは裏の意味ながら、ひとつの「挑戦状《ちようせんじよう》」でもあった。次につづく七首の歌にどのようなかたちでこの想いが引き継がれていくのだろうか。    地名に潜めた暗号 「人麻呂って渡来人だったんじゃないですかね」  Sは椅子《いす》に深々と座り直すと、目をあげた。  島根県益田《ますだ》市戸田《とだ》にある「柿本人麿神社」には、七体の不思議な像が伝えられているというのだ。 「驚いたことに、人麻呂には育ての親がいたというんですよ、それも渡来人の」  飲みかけのコーヒーカップが宙にとまった。 「ほんとう? でも渡来人とはいっても、朝鮮系の人だったとか、中国系の人だったとか」 「そこのところは、一応あたってはみたんですが、よくわからない。とにかく“渡来人”とだけ伝えられているのでね。僕は七歳の不気味な人麻呂と会ってきましたよ」  Sは自慢げに空咳《からぜき》をひとつしてみせた。 「ブキミな人麻呂?」 「それがね、へんなんです。直感なんですけど、顔が」 「顔?」 「像は七体もあるんです。四体は、貴族ふうの従者、それと二体は翁《おきな》と媼《おうな》のもの。これは、いかにも人麻呂の親らしく、人麻呂をあやすようにして慈愛のこもった顔で笑いかけている。ところが、真中にいる人麻呂は童子《こども》だなんて、とてもじゃないが思えない。皮膚がたるみ、顔にはしわがよって。ともすると両親よりふけて見られるってのに、七歳だっていうのですから」 「肖像までが謎《なぞ》めいているというわけですね」 「じっと見ていると、こっちまでゆううつになってくる面構《つらがま》えだなぁ、あれは。不思議な険がある」  神社には、この像にまつわる古い伝承が残されていた。古いといっても徳川期以降のものだそうだが、それによれば、人麻呂は七歳のとき、突如としてこの神社の主「語家命《かたらひ》」夫婦のもとに現れたのだという。人麻呂の育ての親である彼らは、「語部《かたりべ》」を生業《なりわい》とする渡来人であったという。  このことを調べてきたSは、この伝承と人麻呂の残した暗号とが、何かの糸に結ばれているものなのではないかという。人麻呂ほどの歌人である。渡来人だった可能性はかなり大きいし、そういう推測をする人も古来少なくはない。  けれども、人麻呂が渡来人だったかどうかということよりも、人麻呂の生涯《しようがい》が、彼の残したことばによって明らかにされること、そのこと自体に私はより大きな魅力を感じていた。  同じことを考えていたのか、アガサはゆっくりと煙草《たばこ》に火をつけると歌に目を戻していた。 「この八首は旅の歌だけあって、さすがに地名が多いわね。万葉には約四五〇〇首もの歌があるといわれるけれど、地名がでてくるものだけで三〇〇〇首以上になるでしょ。地名も枕詞《まくらことば》のように裏の意味がこめやすかったせいじゃないかしら」  アガサの推理が始まった。“人麻呂渡来人説”の方は、アガサの煙草の煙にまかれていったんおあずけになってしまったようである。 「人麻呂は歌のなかで、どのくらいの数の地名を詠《よ》んでいたのかしら」  その一言がきっかけで、さっそく捜査開始となった。いったい人麻呂が、どのくらいの頻度《ひんど》で地名を歌に登場させていたのかを、万葉のすべての歌について調べてみようというのである。  こういうことでは、トラカレの人海戦術にまさるものはないだろう。とにかく、アガサの「捜査網」が動きだしていた。学生総動員での“地名探し”である。  結果は予想したとおり人麻呂がダントツだった。大伴家持、山部赤人《やまべのあかひと》、山上憶良《やまのうえのおくら》らと比べても、人麻呂の地名の多さは際立《きわだ》つばかりなのである。  含有率を求めてみる。人麻呂の歌に含まれる句数は、あわせて三一五句、そのなかで、地名は五七回もでてきている。含有率を求めてみると一八・一パーセントである。対して、その他の歌人を総計してみても、三三四五句中、三〇九個が地名、含有率は九・二パーセントにしかならず、これではまるで勝負にならない。  地名に関しては、羈旅の歌でも、三津《みつ》、奴嶋、敏馬《みぬめ》、野嶋《のしま》、藤江《ふじえ》、稲日野《いなびの》、可古《かこ》、明大門《あかしおおと》、飼飯《けい》という具合に、実に多くの地名を登場させている。なぜこんなに多くの土地を記す必要があったのだろう。  三津埼の歌で、地名が人麻呂の「筆先」を暗喩していたように、次からの歌でも地名に何か重大な意味を潜ませているのだろうか。三津埼の歌を解いてからというもの、次の七首にはなんとなく手がのびないでいる。人麻呂の悲痛な声が、私たちを重苦しい気持ちにさせるからだろうか。  アガサは、そんな私たちの気持ちにはおかまいなしに二つめの大福餅《だいふくもち》に手をのばしている。本家本元のアガサより少なくとも迫力の点では数段まさっているようだ。 「八首のなかでも、この歌ほど単純な歌はないでしょ。そこがひっかからない?」  私たちはアガサの方へ向き直った。 「訳文では“美しい藻《も》を刈る敏馬《みぬめ》を離れて、夏草しげる野島の埼に舟は近づいた”ということになっているわけ。でもね、このなかで“珠藻苅”と“夏草之”は、それぞれ地名を修飾する枕詞になっているでしょ。これを除くとどうなる」 「敏馬を過ぎて野島に舟が近づいたか」 「そう、驚くほど単純な歌になってしまう。こんな歌を人麻呂が詠むのかしら」  素人《しろうと》の単純な疑問といっていいかもしれない。けれども、単純に見えるものほど、その奥に深い意味が隠されているということを、私たちは今まで解いてきたいくつかの歌を通して確信していた。地名も例外ではない。こうして「敏馬」と「野嶋」の探索が始まった。    敏馬——母親——百済《くだら》の関係 珠藻苅馬乎夏草之野嶋之埼舟奴(巻三—二五〇) 一本云、處女乎而夏草乃野嶋我埼伊保里爲吾等  敏馬——敏とは「疾《はや》きなり」(『説文解字』)とあることから、敏馬とは「疾き馬」の意であろうか。  とりあえず、その音のところを当たってみると、早速その糸口らしきものがみつかった。敏の音「(ミン)」である。これは、民と同音同義のかけことばになっていた。これが突破口になったのだった。 『説文解字』によれば「民とは氓なり」。  つまり、他国からの移住民のことである。「敏」の一字から、渡来の民という意が炙《あぶ》り出されてきた。  馬の朝鮮語音は「《マ》」。これは、朝鮮の船乗りのことばで「南」を意味するが、古く、三韓の時代(三〜四世紀頃《ごろ》)、馬韓(《マハン》)は朝鮮半島南西部に割拠した韓族である。馬は南の音借表記として用いられているのである。「敏馬」に用いられている「馬」も同じく南を表しているのではないか。馬韓はいうまでもなく、後の百済のことである。 「珠藻苅」という枕詞は、すでに私たちには馴染《なじ》みの深いものとなっている。前に同じ人麻呂の歌で、玉藻・珠裳という表記で登場したからだ。いずれも、なよやかな藻の様子に女性を比喩した表現である。敏馬と女性とは深い関係があったし、「一本云」では、敏馬は「處女《おとめ》」の意となっている。 「敏馬」の二字を睨《にら》んでいた仲間が、いきなり声を挙げた。と、そのはずみに食べかけのポップコーンがバラバラと床にとび散った。 「わかった、とけたよ。ママじゃない? これ」 「えっ、ママ〓」 「人麻呂が“ママ”だなんて、イメージわかないネェ」  私たちは、その突拍子もない発言に笑いころげてしまった。これにはさすがのアガサもことばがでない。しかし、ひょっとするとこれは、かなりおもしろい発見かも知れない。このくらい荒唐無稽《むけい》だとかえって、本当かもしれないという気にさせられる。  朝鮮の人たちは、母親のことを「《オンマ》」といい、中国の人たちは「媽媽《マーマ》」である。最近のテレビでも、中国残留孤児たちが、画像で口々に「マーマ」といっていたことは記憶に新しい。「敏馬」の馬(《マ》)を媽(《マ》)と考えることもできるだろう。たしかに「敏馬《マーマ》」と読めなくもない。けれども音が似ているということだけでは語呂《ごろ》あわせの域を出ず、納得できない。  辞書を引いて驚いた。敏の字源は「母親の出産のさいのように力をこめる」という意だったのである。それも、左側に意符として毎(母親)を伴う字だという。まさしく「敏(母)馬」=「媽」という図式が成立する。 「珠藻苅」という枕詞が敏馬や「處女《おとめ》」にかかるのも女性の意でかけてあったのだ。しかも、被枕詞のなかでは、その女性が母親であったことが強調されている。「敏馬」すなわち「媽」が表す意味は、地名としての南(方角)であり同時に母親だった。だが、この南もたんに場所としての方位をいうのだろうか、それとも馬韓(百済)との関係を暗示したものだったのだろうか。  表記で母の意を伝え、「珠藻苅」という枕詞で“女性”であることを強調する一方、さらに音をあわせて“南の民”——百済という語を潜ませる。なんとここでは三重の意味がかけられていたのかもしれないのだ。  表面では、美しい藻を刈る敏馬の地とうたいながら、背後では“母親を刈る”といっていたのだ。  だが、“母親を刈る”とは、いったいどういうことか。どうやらただごとではなくなってきたようだが、この疑問は後の楽しみにとっておくことにしよう。  まずは、このことと“百済”とはどのようなつながりがあるのかという、ここが解けなくては、これは偶然の単語の羅列《られつ》でしかなくなってこよう。敏馬——母親——百済。この関係性はどこにあるというのだろう。私は無意識に、このことばをノートに何度も書きとめていた。    もう一つの敏馬  水曜日のアガサの講義のあと、食事にでかけようとするアガサをつかまえて、私たちの“敏馬”の解釈をぶつけてみた。この日はアガサをつかまえるだけで一苦労である。いつもの学生数に加えて、聴講生が山のようにいる。外にお昼を食べにいく人たちの波がひくと、やっと一息つくことができる。私は、この合間をぬって敏馬についての解釈を話し始めた。  解釈をひととおり聞いたアガサは眉《まゆ》をしかめた。 「だいたい“母親を刈る”という表現は、日本語になっていない。もっと“刈る”という部分に具体性がなくてはね。あとは、全体性のなかで、部分を解釈していることを忘れては駄目《だめ》」  たしかにその通りだ。ただ、アガサに話したおかげで、自分たちがどこまでわかり、どこからわかっていないのかがはっきりとしてきた。私たちは、もう一度別の角度から“敏馬の地”を探ってみることにした。  敏馬は、現在、神戸市灘《なだ》区岩屋中町四丁目、敏馬神社の周辺の地といわれている。摂津国の『風土記』の逸文では美奴賣《みぬめ》と表記され、敏馬神社の縁起とも重なる内容の記事がある。  神功皇后の新羅《しらぎ》征討にあたって、御船に宿った美奴売《みぬめ》の神の助けによって勝利を納め、その後に、御船が神意のままこの地に留《とど》まりその神を祀《まつ》ったというのだ。  古来、この敏馬の地は明石海峡に近く、水路の拠点として関所の役割をしていた。当然、朝鮮からの船もかなり古くからやってきており、彼らの移住地として敏馬周辺に一国を築いていたのである。渡来人とは切っても切れぬ縁《ゆかり》の深い土地柄《がら》であったことは、疑いようもない。『紀』の敏達天皇の段では、敏馬周辺に、いかに秀《すぐ》れた渡来人がいたかを伝える説話がある。難波の津に、高麗《こ ま》の使《つかい》が国書《ふ み》をもってきたという件《くだ》りがそれである。 「諸《もろもろ》の史《ふびと》を召《め》し聚《つど》へて読《よ》み解《と》かしむ。是の時に、諸の史《ふびと》、三日《みか》の内《うち》に皆読《みなよ》むこと能《あた》はず。爰《ここ》に船史《ふねのふびと》の祖《おや》、王辰爾《わうじんに》有りて能《よ》く読《よ》み釈《と》き奉《つかへまつ》る」  宮中の史《ふびと》が三日かかっても、誰一人として読めなかった文を“王辰爾《おうじんに》”という人は、スラスラと読み解いてしまったというのだ。天皇は、彼の功績を高く賞して、宮中に召しかかえたという。この王辰爾は百済系の渡来人といわれている。  当時、国書はすべて外国語(漢文)だけで書かれたものだった。漢語に通じていた人など、ざらにはいなかったことがこの話からもわかる。公《おおやけ》の文書を読み解くことなど、渡来の民のみがなし得たことだったのだろう。また一方で、このことは亡命百済人などが、日本の宮廷に数多く召しかかえられたことを抜きにしては考えられないことである。ここまでくれば、人麻呂もそのひとりだったと断言してしまってもいいだろう。  しかし、それは朝鮮の人々に限ったことではない。大和朝廷は、律令制を中国から学び、中央集権をうちたてるにあたって、実に数多くの遣隋使、遣唐使を中国へとおくっている。藤堂氏の説によると、六三〇年から八九四年に遣唐使が中止されるまで延べ千人を越える人々が、唐土の文物を吸収して戻ってきたという。さらにこの遣唐使の多くは渡来人であったとする説もある。  飛鳥文化が開花する過程で、すでに「韓語《からさえずり》」を駆使しうる知識層が要求され、それにこたえ、知識層を供給したのは、主として大和・摂津・河内《かわち》の渡来系氏族であったという。 「六〇八年(推古十六)に、小野妹子《おののいもこ》は隋使の裴世清《はいせいせい》の送使として、隋に赴いたが、このとき学生として倭漢直福因《やまとのあやのあたいふくいん》・奈羅訳語恵明《ならのおさえみよう》・高向漢人玄理《たかむこのあやひとくろまろ》・新漢人大国《いまきのあやひとおおくに》が、また学問僧として、新漢人日文《いまきのあやひとにちもん》(旻《みん》)・南淵漢人請安《みなぶちのあやひとしようあん》・志賀漢人恵隠《しがのあやひとえおん》・新漢人広斉《いまきのあやひとこうさい》の計八名が隋に派遣された。日本から初めて入隋(唐)した学生・学問僧の、すべてが渡来人氏族の出身であった事実にも、この一端が示されていると思う」(『古代朝鮮仏教と日本仏教』田村圓澄著、吉川弘文館)  これらの人々が、中国、朝鮮の文物を日本に伝え、それぞれの集落、小国家を築き、政事《まつりごと》の中心にいたのだった。  その代表が奈良であろう。古代、都として栄えた「奈良」の京《みやこ》も、朝鮮語「《ナラ》(国)」のことだった。敏馬の地も、規模は小さいながらもそのひとつだったにちがいない。“敏馬”——人麻呂は、それが百済系の人々の地であることを伝えたいのだろうか。    刈られた母たち  勢いよくドアを開ける音で目がさめた。昨日、徹夜したせいかまだ目の前に白く靄《もや》がかかっている。トラカレでノートをひろげてはみたものの、次の瞬間からぐっすりと寝こんでしまったらしい。飲みかけのコーヒーは、すっかり冷たくなっていた。 「どうですか、はかどってる」  聞き覚えのあるH氏の声だ。郷土研究や旅行が趣味のH氏は、私たちの研究に大きな関心をもたれ、上京するたび必ずトラカレに現われる。 「研究の方はどこまでいってますか?」  今、私たちが敏馬のことを調べているというと、河内に住んでいる氏は即座に、 「あ、あそこら辺は朝鮮からの渡来人の地といわれてますよ。古代、渡来の乳母集団が住んでいたとの説もあるくらいですからね」  私たちは呆然《ぼうぜん》として声がでない。  渡来人の乳母《めのと》集団。目の前の靄が晴れ、視界が急に広がった。ついに私たちの解釈を裏付けるような実証がみつかったのだ。  乳母とは、古代貴人の子を実母に代わって育てた女性のことである。彼女たちもまた選ばれたエリートだった。  九世紀の初頃までは、親王の名に乳母の氏族名を付けることがごく普通に行われ、乳母たちは貴族や豪族に近い扱いをうけていた。高位な子女であればあるほど、大勢の乳母の手で養育された。その教育範囲も、詩歌、作文、読書、管弦などをはじめ、実生活全般に及ぶものであった。 『日本書紀』の神代下に、「彦火火出見尊《ひこほほでみのみこと》、婦人《をみな》を取りて乳母《ちおも》・湯母《ゆおも》、及び飯嚼《いひかみ》・湯坐《ゆゑびと》としたまふ。凡《すべ》て諸部備行《もろとものをそなは》りて、養《ひだ》し奉《まつ》る。時に、権《かり》に他婦《あたしをみな》を用《と》りて、乳を以て皇子を養す。此《これ》、世《よのなか》に乳母を取りて、児《こ》を養す縁《ことのもと》なり」という乳母の縁起ともいうべきものが記されている。  また、『宮人職員令』には、皇族は年十三まで乳母を官給され、その待遇は宮人に準ずる規定であったとされている。そのため、皇族の乳母、及びその一族は特別な待遇をうけ、政治的にも大きい影響力を持っていたという。  時代が下ってもその慣わしは残存している。たとえば、院政期における白河上皇の乳母、また近世では徳川三代将軍家光の乳母、春日《かすがの》局《つぼね》など閨閥《けいばつ》とはまたちがった政治力をもっていたことも有名だ。  これら乳母の背後には、有力な百済系渡来人の氏族がいたことを「敏馬」という表記が証明している。「敏=母」とは、この場合、乳母のことであり、「馬=南」とは百済系渡来人の地のことである。その地で「珠藻苅」とは、女性を乳母として無理に集めた(召し出した)ことを表している。  古代、その源を五世紀頃までさかのぼると乳母と同じようなものとして「采女《うねめ》」の制度があった。采女は、天皇に奉仕する女官として国造《くにのみやつこ》や県主《あがたぬし》の娘を選んであてたという。これが、ひとつの宮廷への忠誠のあかしだったのである。美しい娘たちを宮廷へさしだすことは、少領以上の家に限られたことであり、当然その身分も保証される。乳母にしても同じである。いずれも選ばれたエリート階層の女性たちだった。  ところが人麻呂は、ここであえて「刈る」という表現を用いている。そこに人麻呂の朝廷への反発がよみとれはしないだろうか。家族のもとを離れ、文字通り、無理に刈られるように召し出されていった女たち。この歌を眺《なが》めていると、そんな印象がつきまとって離れない。  敏馬、最初に見た「疾き馬」が象徴したものは、馬を自在にあやつり疾く走ることのできた人々への呼称でもあったろう。それは、たんに馬に乗る技術をさすだけではない。同時に、高い文化、技術をも象徴するものであった。疾き馬、渡来の民の地、敏馬において珠藻苅、すなわち女性刈りが行われたことを人麻呂は告発していたのではないか。人麻呂が自ら、歌の中にこのことを詠《よ》みこんでいたのも、彼らとのつながりがあったことを示すものではなかったのか。  人麻呂は、前にも触れたが一説によると、渡来人語家命《かたらい》の養子であったと伝えられる。この説は、寛文《かんぶん》十年(一六七〇)につくられた『人丸秘密抄《ひとまろひみつしよう》』にはじまるものである。 「石見国美濃郡戸田郷小野といふ所に語家命《かたらひ》といふ民あり。ある時後園柿樹下に神童まします。立よりとへば、荅《こたへ》て曰《いはく》。われ父もなく母もなし、風月の主として敷島の道をしると。夫妻悦《よろこび》てこれを撫育《ぶいく》し、後に人丸となりて出仕し和歌にて才徳をあらはし玉へり」(『人丸秘密抄』)  人麿神社の伝承による語家命《かたらい》の系譜は不明とされるが、これもある研究では、その子孫が“綾部《あやべ》氏”という名をもつことから百済系渡来人、東漢《あ や》氏族と関係の深い人物ではなかったかと推測されている。また、さらにこの「柿本朝臣」の名は、五〜六世紀前半にかけて栄えていた百済系氏族、和珥臣《わにのおみ》の系譜にも見られる。これらの人物と人麻呂との関係は定かでないが、人麻呂の父祖の地が百済だったということはますます動かしがたいものに思われてくる。人麻呂にとって「敏馬」は、ただ足早に過ぎていくにはあまりにも深く関《かか》わる地だったのであろう。    北へ行く舟  さて、後半の「野嶋」まで足をのばしてみることにしよう。 「夏草」は野嶋にかかる枕詞である。夏、草はともに「大きく地表を覆《おお》う」というのが原義である。のび広がっていく、という字解をふまえて野に同義でかかっている。つまり、夏草之野嶋は「覆われた嶋」ということを表していたのである。  また、ここでおもしろいのは、野嶋は今の淡路島北端、江崎から蟇浦《ひきのうら》にかけての一帯の地であるが、朝鮮語で「《ノ》」とは「北」の意味である。前半の「敏馬」が、「《マ》(南)」を指すのに対して、後半の「野嶋」は「《ノ》(北)」を表している。この対比は、前半の敏馬での光景が、後半のそれと対をなしていることを示している。  そして、それは末尾の「舟近著奴」で結ばれるのである。舟が死のモチーフとしてあることは、先にも見た通りである。いたく荒ぶる野嶋に舟が近づくとは、人麻呂自身がじき葬《ほうむ》り去られること、すなわち死期が切迫していることを表している。  これまで表層部の解釈では、単純に敏馬から野嶋へ、という移動の歌にすぎない。が、人麻呂は、敏馬から野嶋に移動していくと歌いながら、その背後に、南から北へ刈られ覆われていく自分の姿を見ていたのである。敏馬に故郷に対する讃美《さんび》の気持を響かせ、後半では一変して蔽《おお》われ荒ぶる島に自分の死を暗示していた。 「敏馬」にはたんに郷愁のイメージを響かせていただけではない。刈り集められる乳母たちの姿に、時の権力者から刈られていく自分自身の姿をダブらせていた。  己れもまた、権力の前に屈し刈られる「藻《も》」のようなものにすぎなかった。 美しい藻、母たちを 乳母《めのと》として刈るというのか 渡来の民の地、敏馬において 権力に刈られていくわが身は 心懐《なつか》しいこの地を過ぎて 覆われ 荒ぶる死の島へと 向っていく  多くのすぐれた人材が、囚われ、流され、死んでいった動乱の時代に、忽然《こつぜん》と現れ、忽然と消えていった人麻呂である。この歌の意味もまた、決して小さくはないだろう。    風——永遠の別れ  人麻呂が次に訪れたのは、粟路の海辺であった。この歌からは浜風が激しく吹きつけてくる。その風を正面からうけているのは人麻呂である。この浜に、ひとり佇《たたず》む人麻呂の上衣《うわごろも》の紐《ひも》はひるがえっている。旅立ちの日、妻が結んでくれたものだ。  遠く都をはなれて、妻のことを偲《しの》んでいる歌だといわれている。それにしてもいったい、この歌を吹き抜ける風は、私たちに何を伝えようとしているのか。「三津埼」の歌が、浪《なみ》を主題にしたのに対し、この歌では風が主題になっているようだ。 粟路之野嶋之乃濱風妹之結吹(巻三—二五一)  古く、紐を結ぶという行為は、親しい男女が無事な再会への祈りをこめたもので、結びの呪力《じゆりよく》信仰にもとづくといわれている。 磐代の浜松が枝を引き結び真幸《まさき》くあらばまた還《かへ》り見む(巻二—一四一)  と有馬《ありまの》皇子《み こ》の歌にもあるように、松の枝を結ぶことで再び還ってこられることを祈った歌もある。  今でも、私たちが相手と何か約束をするときに「指きりげんまん、指きった」といって小指を結びあわせるが、これもそういう信仰の名残りである。 “結《けつちゆう》(紐)”といえば約束をすることで、妻は夫、人麻呂との再会を願って紐《ひも》を固く結んだのである。その紐を無情にも吹返すというのだ。返とは逆方向に戻ることで、“分かれる”ことを意味する。返るとはひとつに結ばれていた紐が、解けて分かれてしまったことをいっている。紐を解く意の朝鮮語「《プルダ》」と、吹くの「《プルダ》」は同類の語である。吹返が、解けてバラバラに分かれてしまうことを示唆《しさ》するような対応になっている。古く、中国で「死」とは、生気が分散しバラバラになることと捉《とら》えられていた。紐が分かれてしまうことは、結びの呪力が解ける、つまり妻との再会はあり得ないということである。人麻呂はそこに自分の死の意味をも掛けていたのであろうか。  薄緑色の絨毯《じゆうたん》にひっくりかえる。もくもくと湧《わ》いていた入道雲も今はなく、筋状にたなびく雲が、こころなしか紐のようにみえてくる。  紐といえば、西洋では死を連想させるものであったといういい伝えを思い出した。固く結びとめておいた紐が不意に解けてしまう。それは、人の死の象徴であろう。人麻呂と妻、それもまたとけた紐のように別れ、風に吹かれるままになっている。諦《あきら》めに似た悲哀感がここからは滲《にじ》みでている。  旅の道すがら、故郷に残してきた妻を偲ぶというのでは、どこにでもありそうな月並みな歌になってしまう。だが、前の二首との関連を思うと、かえってその平凡さが人麻呂の歌人としての非凡さをことさらきわだてているようにみえてくる。そんな時に思い出すことばがある。  トラカレには、自然科学系の先生たちが大勢いるが、その先生たちが口癖のようにいうことばがある。 「物事をどう観察するのかという問題が正しくたてられているときには、その時点ですでに解答の八〇パーセント以上は得られている」  そうなのだ。  この歌でほつれかかっている“紐《ひも》”を根気よくほどいていけば、その奥が見えてくるにちがいない。  三十分も机にむかっただろうか。今度はいきなり誰かの素《す》っ頓狂《とんきよう》な声が耳にとびこんできた。 「あれ、珍しい人がきた」 「Mさん」  トラカレの教室には、暇をみつけてはいろいろな人たちが顔をだす。作家のM氏もそのひとりである。この人の風貌《ふうぼう》は、野球界の太安万侶《おおのやすまろ》といったところであろう。決して筋骨隆々というわけではないのだが、スポーティーで、無雑作に肩に掛けた小さな茶の鞄《かばん》にはよくつかいこんだグローブでも入っているのかなと思わせる人なのである。 「どうだい。最近は何をやっているの?」  浅黒い締まった顔から栗鼠《り す》のような眼《め》がのぞいている。 「ええ、まぁ、ぼーっとしている時間の方が長いんですよ。今は人麻呂の“粟路”の歌をやっていたところ。でもなかなか解けなくって」 「そう。僕も今、ちょうど書いているものがあるのだがね、スラスラと書けてるときはペンの先から勝手にことばが溢《あふ》れてくる。だが、なかなかそうもいかないときには、筆を折りたくなるような気分だからねぇ」 「筆を折る……か」  素人《しろうと》の私たちには折る筆もないのか。M氏は作家だ。物書きには“筆を折る”といういい方がある。いうまでもなく、文筆活動をやめるということである。これは医者であれば“匙《さじ》を投げる”ということになる。そんなことをぼんやりと考えていた。    解かれた紐 「そうか、わかった。紐を解くだ」  紐に関係した“結綬《けつじゆ》”ということばがある。これは、官印の紐を結ぶことであり、官職につくことを表わした。対して、その印綬を解くことを“解紐《かいちゆう》”といい、宮仕えをやめることを意味したのだ。  宮廷歌人であった人麻呂の“紐”をとくとは、役職を追われたということでもあった。私たちは思いがけず、とんでもない拾いものをしたようである。いや、これはむしろ人麻呂の魔球を、代打にでたM氏が、動物的カンというやつで知らずに打ってしまっていたというところかもしれない。  前の歌で「刈られていく」と訴えていた人麻呂が、今度は「役職を追われてゆく」といっているではないか。紐は、妻を偲ぶよすがとしてあったばかりでなく、自身が追いこまれていく状況の象徴だったのだ。また、それは前の歌から徐々に見えてくる「粟路之野嶋」にも如実に表されている。  粟路は『万葉集事典』(中西進編)の地名解説によると兵庫県の淡路島とある。記紀のなかにもこの淡路島にまつわる説話は頻繁《ひんぱん》に登場してくるが、イザナギノミコトがその幽宮《かくれのみや》を淡路の洲《くに》につくったというはなしはよく知られたもののひとつであろう。どうやら粟路嶋は、昔の人々にあの世をイメージさせたものだったらしい。  粟は、古代「穀粟《こくぞく》」という語に代表されるように、穀物全般をさす総称であった。この穀物を古代人がいかに神聖視していたかはいうまでもない。穀(kuk)と、谷(kuk)は同音であり、谷の字を穀と同じく「こくもつ」の意にあてることは、「陸谷(=陸穀。とうもろこし)」などの例でも明らかである。老子は、谷(穀)を「万物を生みだす生命の根源」と見ている。水や穀物の生成に万物の生、再生の姿を見ていたのである。常世《とこよ》の国への起点となった淡路島は、粟(穀)に象徴される再生復活、永遠の地として考えられていたのである。粟路とはまさしく「死しても死なず」という、人麻呂にとっての“幽宮《かくれのみや》”を暗示するものだった。  さらにおもしろいのは「粟散国《ぞくさんこく》」といえば「日本」のことをさすことばにもなっていることだ。粟粒《あわつぶ》のように小さい島がたくさん散らばっているところからの命名だろう。  粟路には「倭」のことをも掛けていたものだったのだろうか。倭の字にも、粟の別表記、禾《あわ》の字がふくまれていることに気づく。倭と禾とは、もとは同じ原義をもつ語なのである。「粟路」は人麻呂にとって“幽宮《かくれのみや》”だった。そこに死を暗示すると同時に、当時の日本や朝廷を意味する「倭」を掛け、それをうけてか二五五番の歌でははっきりと倭嶋が現れてくる。  その粟路が修飾するものが「野嶋」であった。これは前の歌にも登場している。朝鮮語で解いても淡路の北端、地理的にも一致する。  この「北」の字形は、左右の両人が、互いに背をむけそむいたさま()を表している。 「粟路之野嶋」、人麻呂は何らかの理由《わ け》あって朝廷にそむいたのだろう。当然、その報いとして官職を追われ退いていく。そんな彼を待つのは妻だけではなく、死でもあったことがここでさらに明確になってくる。  朝鮮語では、この北(そむく)の「《ノ》」と紐の「《ノ》」が同音で掛かっていることも興味深い。長年、宮中に仕えた人麻呂だが、朝廷と固く結ばれていたはずの紐は解かれ、官職を追われたのだ。それも、倭から激しく吹きつける逆風によって。  この、歌を吹き抜ける風の正体をつきとめよう。風は『釈名・釈天』によると、「放なり。気の放散するなり」、また『説文解字』では「八風なり」と説かれているように、いずれもものを分けて散らすものと捉えられている。放散する風、バラバラの穀粟、バラバラに解ける紐、これらが最終的に表しているものは「死とは〓(バラバラ)なり。人の離るるところなり」(『説文解字』)にあったといえるだろう。  紐を吹返してしまうほどの強い風。  その風が、かつて肩をそろえ並んでいたはずの妻から、また固く結ばれていたはずの朝廷から人麻呂を遠ざけようとしている。その吹き荒《すさ》ぶ風をまともにうけて、己れの命も砕け散るほかないのか。この風こそが、人麻呂を圧迫する権力そのものだったのである。  人麻呂は、その浜風に身をまかせて、吹き返すままにしておこうと詠《うた》っている。刺すような凄涼感《せいりようかん》、現世に対する諦念《ていねん》が、ことばの端々からうかがえる。 倭嶋の荒い風によって ひとつに寄りそってきた わたしと妻は 固く結んだ衣の紐が解けたように 分かれてしまった 官職を解かれ 妻とも離れていくわたしには 死が待っているだけなのだ  永遠の別れを歌う人麻呂の姿が浮かび上ってきた。    藤江《ふじえ》の浦と藤衣《ふじごろも》 「韓国から電話だって」 「かんこく?」  パタパタと受話器にむかって走る足音。仲間のひとりは靴《くつ》もはかずに図書室をとびだしていった。 「ア、《ヨボセヨ》? 金《キム》先生《イムニカ》?」  うわずった声が挙がる。どうやら電話の主は、金思〓氏のようだ。 「は、おいでいただけるんですか? いつでも結構です。《ネー》、《ネー》、《アラツスムニダ》」  金氏と私たちとの会話は、端で見ている人にとってはさぞおかしなものにきこえることだろう。韓国語ではなしだしたかと思うと、はなし終わる頃《ころ》には日本語になっている。古《いにしえ》の宮人たちもこんなふうだったろうか。  さっきからずっと、脇目《わきめ》もふらず書きものをしていたアガサの手がとまる。 「そう、今週いらっしゃるって。わざわざ来ていただけるなんて、そうあることじゃないわよ」  海の向こうから文字博士が渡ってくる。記紀の時代に大陸から、文字博士が渡ってきた日、やはり今の私たちと同じような興奮があったにちがいない。 「まぁ、あんたたちも頑張《がんば》りなさい」  アガサはそうつけ加えることを忘れなかった。 荒江之浦鈴寸釣泉跡香將見去吾乎(巻三—二五二) 一本云、白乃 江能浦 伊射利爲流  播磨《はりま》国明石郡葛江。兵庫県の藤江の浦である。舟旅をつづける人麻呂は、ここでも一首を詠《よ》んでいる。荒い布を織る藤江の浦に鱸《すずき》を釣る海人と見るだろうか。旅をつづけるわたしを。  またしてもひなびた海辺の叙景歌とされているものだ。ここでは人麻呂の脳裏には、どんな風景が去来していたのだろうか。 「荒」は、白、粗く織られた布のことである。その繊維の粗さから「藤」に係る枕詞とされている。  これは、「一本《あるふみ》」によると「白《しろたへ》乃藤江能浦」となっている。白も荒も、荒布であり、古く“喪服”のことであるという。これは、荒妙とも表記され、「藤」や「衣」に係る。 「『古今』巻十三の恋歌三には「思ふどち一人一人がこひ死なば、誰によそへて藤衣きん」云々とよめるも、必ず藤にて織りたる布ならねど、〓衣はあらあらしきものなれば藤衣の名をかりたるなり」(『枕詞の研究と釈義』福井久蔵 不二書版)とあるように、古代喪服は、その織りの粗さから“藤衣《ふじごろも》”(不知古路毛《ふじごろも》)の名をかりたという。  これを朝鮮語で解いてみよう。は、「《ペモク》」、麻糸で織った布である。麻も藤も布に織ったとき、その繊維は粗い。その粗さを強調するかのように「荒」ということばになっていたのだ。  この解釈を黙ってきいていた金氏がぽつりと口をひらいた。 「なるほど。粗織《あらおり》の布は朝鮮でも、古来喪服として用いられていたものです。繊維のあらい、生成《きな》りの麻ですよ」  どうやら「荒藤」には、明らかに不吉な死のイメージがありそうだ。  喪服は、素服《そふく》、あさぎぬ、あさのみそなどともいう。古く『紀』の允恭《いんぎよう》天皇の段に新羅の王が、天皇が亡《な》くなったときいて難波《なにわの》津《つ》でみな素服《あさぎぬ》をきた、と記されている。これももとは、中国、朝鮮から入ってきた風習だったのである。当時、粗く織られた布、といえば、喪服のことだったのだ。  人麻呂は、粗織りの喪服に、固くよじれた自らの気持をこめていたのではないだろうか。  以前、この藤江の浦まで足をはこんだことがあるというH氏のひとことを思い出す。 「なかなか迫力のあるところですよ、藤江の浦は。断崖《だんがい》の岩肌《いわはだ》には、波が打ちつけた跡が荒々しく刻まれている。その濃淡のくっきりとした段層は、まるで粗織の布まがいですよ。海辺に立つとその荒々しい岩肌が、まるでひとつの美しい織物のように見えてくるんです」  まだ見たことのないその風景が急にリアリティを帯びてきた。粗織の喪服、そのものが歌の中にも刻まれている。そんな荒っぽい場所で人麻呂は呑気《のんき》に魚釣りをしていたのだろうか。  私は改めて、その光景のちぐはぐさを想像していた。    白水の男——人麻呂  次なる手掛りは、この「白水郎《あ  ま》」だ。海人のことを意味する漢語である。「白水」は、清らかな水の流れのことで、心が潔白なたとえに用いられる。「郎」は、中国・朝鮮でも男子に与える敬称である。日本でも「一郎」「太郎」などのように男子の名に使われている。白水の男、つまり“清らかな水の人”というのが、白水郎《あ  ま》(海人)のことだったのだ。  これを朝鮮語で解くと「《ペクス》(白水)《サネ》(郎)」、清廉《せいれん》潔白な男と解釈することができる。後半部分は、旅をする自分をひなびた海人の姿として見るだろうかというだけに止まらない。自分を清廉潔白な男として見てくれるかという思いがけない意味が込められていたのである。  なぜ、なにが“潔白”であるというのだろう。これでは、何かわけあって罪をかぶせられでもしたようないい方ではないか。  おいうちをかけるように、さらに私たちをひきつけたのは「去《ゆく》」の一字であった。「旅行《たびゆ》く」といってもよさそうなものを、あえて人麻呂は「旅去吾乎《たびゆくわれを》」と結んでいる。一見単純なことのようだが、用字によって意味は全然ちがったものになる。  今でも“旅立ち”といえば、死去や逝去《せいきよ》の意を表すことが多いが、それが「去」の原義である。ここまで死のモチーフが重なれば、この旅が、死出の旅路であったと断言してさしつかえあるまい。  この最後の一節は、とりわけ悲痛に響いてくる。死んでいく自分を、人は潔白な男とみてくれるか。人麻呂はそう訴えていたのだ。  午前十時、駆け足で教室のドアを開ける。もうほとんど満員だ。トラカレの朝は、席とりで始まる。通常、大学の講義では、時間とともにうしろからじわじわと席が埋まっていく。ところが、トラカレでは始業三十分前でこの有様である。前列からびっしりと人で埋まっていく。とにかく、油断大敵。キョロキョロと見渡すと、ちょうど、いい席が空いていた。  今日は、A氏が講義に来ることになっている。これは、私たちがたまたま手にした一冊の本がきっかけとなった。『漢字学——「説文解字の世界」』である。  およそ漢字研究に関しては、かならずといっていいほど引き合いに出されるものに『説文解字』がある。これは、西暦一〇〇年、中国で誕生した漢字の「字書」である。 「人間が、なにごとかを強く訴えようとするとき、直接そのことを言うことはせずに文字やことばの語源を利用することが多いのですよ。遊びの中でもそういうものがあるでしょう。しかし、この“遊び”は、場合によってはかなりの説得力をもつのです」  A氏が淡々とはなす中でことさら私の興味をひきつけたのは、この遊び、つまり“字形分解”ということだった。漢字はいくつかの構成要素に分解することができ、それぞれの要素ひとつひとつを独立した文字のように用いることがある。その手法は今でも、暗号としていろいろな方面で広くつかわれているという。  人麻呂が、表記に用いた文字の語源をつかって歌の主題をくっきりさせていたことは、前の歌で見たとおりだ。けれども“字形分解”というのはどうだろう。  私は、もう一度手元の万葉集をひろげてみた。なにげなく字面《じづら》をおっていると「泉」の一字に、目が釘《くぎ》づけになった。なんと「白水郎《あ  ま》」は、原文では「泉郎」とある。武田祐吉氏の万葉によると、「泉郎」は、漢語の白水郎をつめて書いたものと説明している。つまり、もとは白水を組合わせた文字が泉だったのである。“黄泉《よ み》”という語に示されるように、この泉は“あの世”を意味することばでもある。  ここで「泉郎」とすると、 「泉郎《あ ま》(死にゆく男)跡香《とか》将見《みらむ》(だと見るだろうか)旅去吾乎《たびゆくわれを》(死にゆく私を)」——と、同じことを重ねてうたっていたことになる。  泉郎、白水郎という両方の表記から、人麻呂の「《ペクスサネ》(清廉潔白な男)」でありながら死なねばならぬ、という切々とした想いが、朝鮮語によって読みとれる。  このことばから、死んでいく身ではあるが本当は無実なのだ、という悲痛な叫びがきこえてくるようである。冒頭の「藤江の浦」も決してたんなる地名ではなかった。人麻呂は、藤江の浦の断崖に死にゆく自分の喪服を、だぶらせていたのだろう。呑気に釣りなどしていたはずはない。アガサのことばが胸をよぎる。    鈴と鱸《すずき》  ここまで解けてくると「鈴寸釣《すずきつる》」は、ますます謎《なぞ》めいた用字に見えてくる。これまで「鈴寸」は魚の鱸《すずき》だとされてきた。  鱸は、万葉仮名では「鈴寸」と表記され、この歌の他にも、 鈴寸取《すずきとる》 部之《あまの》燭火《ともしび》 外谷《そとにだに》 不見人故《みぬひとゆゑに》 戀比日《こふるこのころ》(巻十一—二七四四)  と歌われ、万葉中に二例見える。確かに魚であるが、肝腎《かんじん》なのは、この歌のなかでそれが何を暗示していたのかということだろう。  そこで、今度は「鈴寸」について各々《おのおの》が調べてみたことをカードにして持ちよることにした。集ったカードはざっと五十枚。とりあえず資料がそろったところで皆の考えをつきあわせてみようというのである。  鈴は、今も昔もあの“チリン”となる鈴のこと。その音の清らかなところから、中国でも魔除《まよけ》やお祭りのような神事には欠かせないものだった。今のように装飾品化されたのは、ずいぶん新しい時代になってからで、もとは拝殿や神楽《かぐら》のスズ、絵馬のスズ、大木のまわりに廻《めぐ》らせたスズなどのように、神を招き、邪悪を払うものとして、主に人と神仏とを結ぶ役割があったといわれる。  これが古朝鮮でも同様であったことは、金氏の著書に詳しい。鼓《つづみ》とならんで鈴は“神を招く”楽器として広くつかわれ、それを身につけることで神が宿り、厄払《やくはら》いになると信じられていた。  一方、トラカレではアガサの『古事記』の講義が始まっていた。神代に登場してくる天照大御神《あまてらすおおみかみ》の巫女《み こ》、アメノウズメが何かにつけてトラカレの話題になっていた。 「韓国文化院で巫女の映画をやってるよ」  韓国語の世界に浸りたくなると、私たちはよく韓国文化院で上映される韓国映画を見にいく。たまたまこうして出かけた一人が巫女の映画で「鈴」を見たというのである。 「凄《すご》く気味悪いよ」  私は、その日のうちに文化院へとんで行った。  映画の内容は朝鮮の古い風習を伝えるものだった。そこで私は、巫女が死んだ人の傍で鈴を激しく振り鳴らし、その魂を肉体から浮遊させて壺《つぼ》にとじこめるという場面を見たのである。澄んだ鈴の音に死者の魂が導かれていく。死者の魂があの世に向かうとき、そのしるしとして鈴が鳴りだすのだった。  外にでると、夜の帳《とばり》のなかに蛍光色《けいこうしよく》のネオンが瞬《またた》いていた。私は雑踏の中を歩きながら、以前、金氏が朝鮮に伝わる風俗慣習について語ったひとことを思い出していた。 「朝鮮では古くより、葬式に鈴を鳴らすしきたりがあるのですよ」  このことばと、今しがた見た場面とが私のなかでひとつに重なった。霊を導いていく鈴の音色がまだ耳の奥で響いていた。  この経験は、歌を解いていく上で大きな足場となってくれたのである。  翌朝、逸《はや》る気持ちをおさえてトラカレにでかける。みなで再び「鈴寸釣」を考えてみることにしたのだ。  古代中国語で、鈴は「」。  霊は——なんと、鈴と同音ではないか……。令(鈴)と霊とは、同じことばを表す異体字に過ぎないとある。祭事を司《つかさど》る巫女を「霊」といい、祭礼を「霊」といい、その人間の清らかな魂を「霊」といっていた。古代の人たちは、祭礼、巫女、鈴、魂は全《すべ》て共通のものであることを文字の世界においても表している。  霊と鈴との関係は、後世になっても小説や戯曲のなかでそのまま受け継がれている。そのことにふさわしい話として、小泉八雲の『破られた約束』が思い出される。  この話は、夫が死期の迫った妻に、決して再婚などしないと固く約束したことを、妻の死後一年とたたぬうちに破ったことからはじまる。嫁いできた後妻はわずか十八歳。亡くなった妻は生前の望みどおり、小さな鈴とともに庭へ埋められている。  ところがどうだろう。毎夜、後妻が眠りにつくと、外の闇《やみ》のなかに鈴のチリンチリンと鳴るのがきこえてくるのである。そして、必ず、経《きよう》帷子《かたびら》を身につけ、遍礼の鈴をもったひとりの女がすっと寝屋のなかに入ってくるのだった。後妻はこの幽霊とかわした約束を破り八つ裂きにされてしまうのだが、そこで繰り返し登場する「鈴の音」は、まさしく亡き妻の魂を象徴するものであった。  霊と鈴——この関係は、ここでも気味の悪い怪談を生んでいた。  寸は指一本の会意文字で“わずかな”ということを表す。が、「方寸」「寸心」などといえば、「心」のことである。昔、心は胸の方寸(一寸四方)の中にあると考えられていた。鈴も小型の鐘の中に舌がありこれがあたって音がする。心(霊)と鈴には通いあうものがあるとすれば、鈴寸は、魚のスズキにことよせて霊を表現していたことになる。すると釣の一字は、霊をすくって抜きあげるという意味に解釈できる。しかし、ここの釣にはもっと深い意味がありそうだ。 『説文解字』を見てみると、魚をなかに入れ隔絶するヤナのことを「罠《わな》」、しかもその罠を「釣《つる》なり」と説いている。不本意な死を迎えるというのも、誰かの仕組んだ罠だったとでもいうのだろうか。  このことは朝鮮語で解くとさらにはっきりとしてくる。釣(《チヨ》)と同音なものに吊(《チヨ》)がある。吊の字は古く、弔《とむらう》の俗字であった。ここでは文字通り「鈴を釣る」という表現をかりて魂が抜きとられていく「弔《とむらい》」を表していたことにもなる。  人麻呂は、釣りあげられた鱸に、魂が抜きとられゆく己れの姿を重ねみていたのかもしれない。「鈴寸釣」——ということばの裏には、「魂が抜きとられる」という意と、「鈴を吊る弔《とむらい》」の意が二重にこめられていたのである。  インドの仏教説話にも似た話があるという。仲間のひとりは『仏教語源散策』(中村元編)の“閻魔《ヤマ》”の段をおしえてくれた。閻魔《ヤマ》とは、死者の生前の罪を裁く王のことである。もともとは、インド最古の文献といわれる『リグ・ヴェーダ』に現われる非常に古い神で、捕縄によって死者の霊魂をしばり、死の楽園につれていくと考えられていた。  王子サトヤヴァットの寿命が、予言どおり終わりをむかえたときのエピソードにこんな話がある。 「目の前に黄色い衣とターバンをつけ、太陽のように輝かしく美しく、黒い色をして、目が赤く、手に捕縄をもって、じっとサトヤヴァットを見おろしている一人の男がいたのだった。その男はサトヤヴァットの身体から、親指ほどの大きさの霊魂を引きだし、縄でしばって南の方へ立ち去った」(『マハーバーラタ』)  鈴寸の寸は、指一本の大きさのことである。そのくらい“小さな霊”をぬきとられていくという表現は、古くインドに端を発していたのだろうか。私は偶然とはいえないものを感じて驚いたのだった。  人麻呂は、曲がりくねった藤江の海岸線に、よじれもつれて正体のつかめぬあるものを見た。荒々しい岩肌に、人麻呂は自分自身の葬服を見ていたのだ。その藤衣のような藤江の浦で、人麻呂の耳は微《かす》かにふるえる鈴の音をきいたにちがいない。この歌は、死んでゆかねばならない自分におくる弔いの歌だった。  私の心に「旅去《たびゆ》く吾《われ》は 白水郎《あ  ま》なのだ」という最後のフレーズが暗く影をおとしていた。  これは「一本《あるふみ》」によると、 白乃江能浦伊射利爲流《しろたへのふぢえのうらにいざりする》  さらに、巻十五—三六〇七番の歌では、 之路多倍能《しろたへの》 江能宇良《ふぢえのうらに》 伊射里須流《いざりする》  となっている。  後の歌とは決定的に異なる部分、「伊射利為流《いざりする》」が、ことさら目をひきつける。  伊は接頭語。「射利《さり》」は漢語で、手段を選ばず利を得ようとするもくろみ。「為流《する》」は、“〜される”という受身の動詞と考えられる。ここでもまた、表現こそ変わっていても、誰かのたくらみによって死に追いこまれていく人麻呂の無念がよみとれるようである。  私は、知り合いの韓国の友人に頼んで韓国の喪服を見せてもらった。粗く織られた繊維のよじれと生成りの色に、藤江の浦の湾岸と、その断崖の岩肌のイメージが重なってくる。その喪服から葬祭の鈴の音が響いてくるような気がした。 粗織りの喪服のような藤江の浦に わたしの葬祭の鈴がなる 罠にかかった魚のように 霊を抜きとられ 退いてゆく そんなわたしを 人は潔白な男だと みてくれるだろうか 死に逝く このわたしを  さらに、私たちはこの歌を、金氏に見ていただく機会を得、朝鮮語で以下のように読み解くことができた。 《コチンペモク》 《トウンガンゲエ》 《パンオルウルリダ》 《ペクスサネラゴポラム》 《ナグネガナンナラル》  人麻呂の死出の旅路は続く。旅ゆくほどに死の影は、益々《ますます》色濃く私の目の前に見えてくる。  不死の世界を象《かたど》ったという硯《すずり》。その硯の海には、人麻呂の悲しみだけが満ちている。しかし、その筆にふくませた命の水によって「ことば」に不死の命を与えた人麻呂。今や歌のなかにしか、人麻呂の生はなかったのだろうか。  荒々しい藤江の浦では、葬祭へと向かう自らの姿を訴えていた。やっとの思いで辿《たど》り着いたのは、稲日野であった。ここでも一首、人麻呂は詠んでいる。    過去の島——稲日野 稻日野毛去思有心戀敷可古能嶋見(一云、湖見)(巻三—二五三)  わたしにとって行き過ぎがたい地——稲日野を思っていると、恋しい可古の島が見えてくる——と、またしても、相変わらずの叙景歌と解されている。先の“敏馬”の歌を連想させるような歌である。初句と結句に「稲日野」と「可古能嶋」というふたつの地名を織り込んでいるからだろうか。いずれにせよ、これが曲者《くせもの》であることには変わりない。  今まで調べてきたどのことばも、一枚剥《む》けばその裏にもうひとつの意味がある、という程度の単純なものではなかった。ひとつの漢字を箱にたとえれば、その中には音の許す範疇《はんちゆう》で、まさにいくつもの意味が詰めこまれていた。表記に用いられた文字は、もつ意味のすべてを一度に放射し、他とひびき合うものだった。漢字そのものが、手品師の箱さながらの絶妙なトリックをもつものだったのである。  これこそが人麻呂にとっての“暗号”だった。漢字のもつ性格自体が、おのずからそうなり得たということでもあるし、それを自在に操る人麻呂にしてはじめて漢字が暗号に成り得たともいえよう。  オスカー・ワイルドはいう——この世の本当のミステリーは目に見える事柄《ことがら》であって、目に見えないことではないのだと。  まず、私たちの目を素直にひいたのは「心恋敷《こころこほしき》」ということばだった。人麻呂は、この歌に至ってはじめて自分の感情を表に詠んでいるように見える。“恋しい”とうたった対象、その“可古の島”とは何かが、この歌を解く重要なポイントになるに違いない。まず最初に問題となるのは、一見、何でもない「恋《こひ》」である。私たちはここからとり掛ることにした。  数人も入れば満杯になりそうな図書室に、十人ちかい仲間が陣取っている。ここにある白い椅子《いす》には、仲間のひとりの艾色《よもぎいろ》のスカートがよくはえる。初秋に似つかわしい淡い香が、漂ってくるようである。 「淡い恋心か……」  このつぶやきをきいてか、堪えきれなくなった仲間が、うつむいてくすくすと笑い出した。私たちはあるところまで調べると、その後は辞書をはなれてみる。あとは自分の内で、体験的にうかんでくる“ことば”を探すのだ。 「恋といえば、当り前だけどまず、“恋愛”ってことばがうかぶよね」 「うん。“好きで会いたい”とか、“あの人と一緒になりたい”とか、“切なくって、慕っておりますワ”っていうのかしら」 「でも、それは随分と現代風よね。昔の人たちにとっては、どうだったのかしら」  手にとった字典をパラパラとめくる。 「えっと、確かに慕う気持ちではあるけれど、もとは、もつれた糸のように乱れることと書いてあるよ」 「そうか。いつはてるとも知れない、思い切りのつかない気持ちのことだったのか。単刀直入に“好き”というのは、恋ではなかったのねえ」  なんだかこのままいったら話はあらぬ方向にそれていきそうになる。そういうときのナビゲーターになるのは、きまってアガサだ。 「心恋しきというのにも二通りのとり方ができることがわかるでしょう。“慕う”という意味と、“乱れる”という意味と」 「人麻呂は、その思いを“可古”という地名に掛けていったんだね——そうか」 「過去形の過去?」  そのひとことに、皆はっとした。思わず、歌の原文に目がいく。そこで私たちを、おやっと思わせたのは「去過《いきすぎる》」という語である。これもまた、“過去”のことだったのではないか。漢語では、倒置法によって語順は変わることがあっても、その意味は変わらない。物理的にその地を過ぎていく行為の中に、昔の日々を回想している人麻呂の姿があったのではないだろうか。  一体、この“可古の島”や“稲日野”という地名はどこのことだったのだろう。  稲日野は古く、播州《ばんしゆう》平野南東部、兵庫県加古川市、加古郡、明石市にかけての一帯のことであった。これは「印南野《いなみの》」とも表記され、『風土記《ふどき》』にまつわる景行天皇の求婚伝説に登場する伝承の地でもある。可古の島はというと、兵庫県加古川の河口に浮かぶ三角州の島であるという。これらは、いずれも定かではないことが、『万葉集事典』の地名解釈や、『万葉の歌 人と風土(兵庫)』(神野富一著・保育社)を参照してもわかる。  稲日野とは、加古川の河口部一帯をさす地名だったのだ。この加古川は印南川とも称され「可古の島」も「稲日野」の一部であったことがわかっている。だが、このことは私たちには思いがけないことであった。  今までの歌では一首のなかに、A点からB点へ移動する距離感が詠みこまれていた。それは、物理的な“動き”であったとともに、彼自身の境遇や立場の変化を示すものでもあった。その“動き”こそが歌の深淵《しんえん》では、大きな“うねり”となっていたが、この歌ではその距離感が、あとかたもなく消されてしまっている。  一見離れた地であるかのごとく詠んではいるが、実は、稲日野と、そこを流れている川とはまったく同一の場所だったのだ。  稲日野は、古代、大和と西海道を結ぶ東西交通の中継地であった。語源を解くと、稲は臼《うす》の中でこねた粘りのでる穀物、日は、身近にねっとりとなごむ暖かさ、野は、伸びるという意であるから、「稲日野」とは肥沃《ひよく》な土地がどこまでも広がっている状態をいっていたのだろう。これは、別表記である「印南野」からも同じ意味を見出すことができる。  稲日野に続く「去過」が、過去という意を踏まえていたと考えれば、暖かい豊かな土地に、人麻呂にとって故郷を偲《しの》ばせる何かがあったのだろう。さらにこの伸びやかな地にことよせて、人麻呂は自分の半生を感じとっていたのではなかったか。  ここまでくると四国は近い。肌《はだ》にじっとりとなじむ暖かい風が、ほんのひととき、人麻呂の心を和ませたに違いない。いずれは、去っていかねばならない。だからこそ、ここを行き過ぎがたいと云《い》っているのだ。勝とは“耐える”意である。去ることができないという振り切れない思いの丈が、この一字から伝わってくるようだ。  後ろ髪をひかれながら、人麻呂はどこへ去っていくというのだろう。前の“荒”の歌(巻三—二五二)での“旅去”が、単純に退いていくことではなかったように“去過”という表現もまた、「死にゆく」ことを隠喩《いんゆ》したものに違いない。  このように考えてくると、「去過《いきすぎ》勝《かてに》」は人麻呂の相反するふたつの思いを託している。「過去」への追慕、そして「死」への恐れである。この四文字は、まさしく満ちたりていた過去から、追いつめられた現実へとうつりゆく心情を見事に表現している。 「稲日野」とは、人麻呂にとってその中継地だったのだ。地理的にもここは畿内を抜け、畿外へと踏み入っていく境目の地であった。ここを抜ければ戻ることもない。人麻呂にとって諦《あきら》めきれぬ現世との別離、そこには、悔やんでも悔やみきれないものがあったに違いない。  もうすぐ死んでゆく自分が唯一《ゆいいつ》心を残した地、それが「稲日野」であった。故郷にも似た豊かで暖かい地は、人麻呂の心に過ぎ去った日々のことを呼びおこす。その土地は、自分の過去と重なってくるだけに、そこを去らねばならぬ人麻呂の思いは募る一方であった。この地と訣別《けつべつ》することは、同時に自らの過去への離別を告げるものであった。そのさまざまに乱れる思いを、人麻呂は「恋」の一字に託していた。  末尾に見えてくる「可古の嶋」。これは“恋しく思っている過去の島”でもある。可古と過去との音をあわせたかけことばになっている。  人麻呂は、その「古《いにしえ》の島」に自分の死を見ていた。可古の表記は、屈曲し頭蓋骨《ずがいこつ》のようにひからびて固いことを意味する。それは、砂土が積もり固くなった川の中洲《なかす》の様子ともダブってくる。人麻呂の千々に乱れる思いは、砂《いさご》のように流され、うねり、反転し、やがてはゆき場を失い鬱積《うつせき》していく。塞《せ》きとめられ、かたく凝り固まっていく己れの思いを、人麻呂はこの可古の島にみたてたのだろうか。この地に心を残したまま、死にむかう人麻呂。彼に残された時間は、それほど多くはなかった筈《はず》である。目の前に見えてきた島に、自分の運命を予感したのであろう。 稲日野の暖かく肥沃な土地は わたしに故郷を、そして 豊かに栄えていた懐《なつか》しい日々のことを 思い出させる わたしがこの地を去っていくように あの古《いにしえ》の日々を失うことは 耐えがたくつらい 別れてゆくわたしの前には 固くひからびた“死の島”が見えてくる  稲日野の柔らかなぬくもりは、可古の島で固く枯れていく。過去への思慕は、現在《い ま》こうして断ち切られようとしているのである。    冥界《めいかい》の大門  この歌を残し船はさらに西方へとすすんでゆく。まだうっすらと見えている懐しい景色も、やがてはその視界から消えてしまう。そんな彼の眼前には渦巻《うずま》く明石海峡が見えてきた。ここで人麻呂は、あらためて離別の情にうたれたのだろう。美しい次の一首を詠んでいる。 留火之明大門入日哉榜將別家當不見(巻三—二五四) 「留火之《ともしびの》」は、明るいという意味で「明石《あかし》」にかかる枕詞になっている。風光明媚《めいび》な瀬戸内の風景に“明大門”とは、なんとものものしい表現だろう。  明石海峡は、淡路島の松帆《まつほ》崎と神戸市垂水《たるみ》区舞子《まいこ》の間を結ぶ、約四キロの海峡である。瀬戸内には三百以上もの島々が点在するためか、潮の流れが複雑に絡《から》みあい、所によってはすさまじい速さでぶつかりあう。この流速は、最高七ノットに達する所もあるといわれる。明石海峡の潮流の生む渦を見ていると、思わず引きこまれてしまいそうな恐ろしさを感ずる。  このような明石の潮流は、おだやかな瀬戸内のなかでも「大門」と称するにふさわしい場所だった。すなわち、異質な世界へと入りこむ海の境界だったのである。お寺の大門が象徴しているように、あの世とこの世の境を区切るものが門であり、一歩中へ入ればそこはもう御仏の国である。その大門を“明るい”と形容したのではぴんとこない。  明の字解は「あかりとりの窓から射《さ》すかすかな光」のことだ。留火という枕詞がさし示すものも“囲み閉じた火”であり、やがては消えていくかすかな光の象徴だったのだろう。留と明とが“かすかな”という同義で掛かっている。 「明」と「火」はともに光を意味する。ここで語順を入れかえてみよう。 「留火(之)明大門」は「留明(之)大門火」となる。この“かすかなあかり”の留明(《ユウミヨン》)には朝鮮語の同音で幽明《ゆうめい》()ということばが浮かんでくる。“幽明”とは漢語で「冥土と現世」のことである。  さらに「明《メイ》」には「命《メイ》」の意を掛けている。やがては門に入るように消えていく、人麻呂自身の命のことを表していたのだろう。これらのことばで修飾される“大門”は、生死の境の門として、ますますくっきりと浮かび上ってくる。 「大門に入る」とは、そこに没することをさし示しているのである。    夕日の門火《かどび》  明石の入日が海峡を紅に染めあげている様子が、私たちの手もとの四角い印画紙に小さく収っている。筆ですっとひいたような水平線が、わずかに空と海とを区切っている。 「人麻呂もこれと同じ光景を見ていたんだろうね」 「この海峡を抜けるとき、この世の見おさめだって思ったことでしょうね」 「人麻呂が何を大門火と見たかっていうと、やっぱりこの入日だろうな。死んでいく自分を送る“門火《かどび》”として見てたんだ」  写真に視線を残したまま顔をあげる。 「大門火——朝鮮語では“《テムンフア》”か」 「門火って、送り火のこと? 僕の田舎は九州だけど、そういうの今でもあるんだ。村で死んだ人がいると、門の前で火を焚《た》いて送ってあげるんだ」 「へーえ。今でもそんな風習が残っているのか……」  何人かの仲間たちは、いつの間にか輪から抜けて調べものにとりかかっている。  葬送のさい、死者を見送るしるしとして門前で焚く火のことを「門火」という。お盆には送り火をするところがあるが、これも死者の魂を彼岸に送るためにともすものである。陰暦七月十五日の盂蘭盆《うらぼん》に見られる燈籠《とうろう》流しなどがその顕著な名残りだろう。  私たちの連想は、かつて京都で見たあの「大文字焼」へと及んでゆく。京都市左京区にある如意《によい》ヶ岳《たけ》の西峰で、毎年盆の最終日、八月十六日になると山にそれぞれの文字を表して焚くかがり火のことである。これも送り火の代表的なもので、大文字山に燃え現れる“大”の一字はつとに有名である。この他にも、西賀茂山の“舟型”や水尾山の“鳥居型”などがある。《とりい》を象《かたど》るのも、門がある境界・分かれ目を意味するものであったからだろう。寺院や神社の門が、参道の入口にあれほど大きくつくられているのも、鳥居を境にそのなかが神域であることを告げ知らせるためだった。「大文字」とは、「大門字」だったのである。 「留火(之)明大門」——その現世との境に人麻呂は己れの死を予感していた。そして、門に閉ざされようとしている“留火《ともしび》”に、消え入る己が命の光と、それを見送るしるしとしての大門火のイメージを掛けていた。人麻呂は、門火に送られこの世を去ろうとしている自分の姿を、この雄大な風景そのものに織り込んだのである。  あとにつづく「入日哉」とは、入日の姿をかりて、その閉ざされようとしている門のなかへ消え入る身である——と、前句をうけている。大門は、巨大な明石海峡をさすと同時に渦巻く冥界への入口を象徴していた。人麻呂は斜陽に遠からず没していく自分を見ていた。さらに、断ち切る意の助詞、「哉」をつかって、大門に入る日はすべてを断ち切り、幽明境を異にすると言っているのである。  後半は「榜将別《こぎわかれなむ》 家当不《やのあたりみ》見《ず》」という一節で結ばれている。舟に乗って漕《こ》ぎ別れていくこと自体が、彼岸へむかうことを比喩しているが、「榜将別」の三文字は、すべて“両側にわかれる”という原義をもつものである。両側とは、この場合、もちろん此岸《しがん》と彼岸を指している。  では、「家当不《やのあたりみ》見《ず》」という最後の句はどうか。「家当」とは、たんに人麻呂の家のあたりという意だったのか。決してそれだけでないことが、用字をみるとわかるのだ。「家当(當)」は両字とも、すきまなくぴったりと塞《ふさ》がれた状態を表す。これまでの歌から察するに、人麻呂が思いを馳《は》せるもうひとつの地、それは、やはり長年仕えた大和朝廷のことだったろう。彼の目には、そこはすでに真実がすきまなく隠蔽《いんぺい》され、塞がれた空間となり果ててしまっている。  そして、人麻呂が、もうそこに未練をもつことなくきっぱりと訣別する意志を表したのが「不見」の二文字である。 この明石の海に没する夕日を わが死への送り火としよう わたしの命は あの落日のように 冥土の大門のなかへと まさに没しようとしている きっぱりと別れを告げよう 故郷に そしてあの朝廷に  私のなかで、明石に没する入日が、鮮明な一枚の絵となって宿る。海峡の潮《うしお》は低く唸《うな》り、水しぶきとなって飛び散る。あたかも、人麻呂を呑《の》み込んだ運命であるかのように。人麻呂の旅も終わりにちかい。    離れるほどよく見える 天離夷之長從戀來自明門倭嶋見 一本云、家門當見由(巻三—二五五)  天路遠い夷《ひな》の長い道のりをずっと恋いつづけてくると、今や明石海峡から懐しい大和の陸地が見えてきた、と解釈されているが、私にはそれが安堵《あんど》どころか、諦めにちかい嘆きの声としてきこえてくる。同じ「明石《あかし》」を舞台としているこの歌と前の歌とは、なんらかの関連性があることは疑いようもない。 「天離《あまざかる》」は、夷《ひな》にかかる枕詞であることは、先の章で詳しく説いたが、ここでも少しふれておく。 「天離 夷」、“高い”意の天と“低い”意の夷の字が、離の一字を挟《はさ》んで上下におかれている。離もまた、〓(大蛇《だいじや》)と隹(とり)という全く異質なものを並べることで、“別々に分かれる”ことを表している。天と夷、大蛇と隹の対比で別々に分かれることを強調しているのである。 “天と地ほどの隔りがある”、このような枕詞を冒頭にもってくることで、人麻呂は何を伝えようとしたのだろうか。この歌で、またしても遠く離れてゆくことを詠《うた》ったのではないか。前の歌の「明大門」には、人麻呂自身の葬祭の送り火が暗示されていた。  ここでは、その同じ「明門《あかしのと》」より「倭嶋《やまとしま》」が見えるのだといっている。「人に見えざるを明という」という成句があるが、明とは“見えないものを見えさせる力”のことであった。“物事に明るい”というのも、そのことに精通していることをいう。見えざるものを見た人こそ人麻呂であった。  固く閉ざされていたはずの門がひらき、その生死の狭間《はざま》から、人麻呂が目を凝らしみつめていたものがあった。「倭嶋が見えた」と人麻呂はいう。それは見てはならぬ何かだったかもしれない。  人麻呂が見たという倭嶋、これは「一本《あるふみ》」では「家門当《やどのあたり》」となっている。「家門」とは故郷の意の漢語である。「倭嶋所見《やまとしまみゆ》」でも「家門当見由《やどのあたりみゆ》」でも、人麻呂は同じものを指していたことになる。 「家当不見《やのあたりみず》」。前の歌では故郷、倭はもう見ないといっていた。それが、また見えてきたと、表面的にとってしまうと、この歌でまた倭に戻ってきたような錯覚に陥《おちい》ってしまう。  肝腎《かんじん》なのは、“隠されてしまったところは見ず”という強い訣別の意志を翻《ひるがえ》すかのように、この歌では“明らかに見えてくる”と結んでいる点だろう。  従来の解釈では、ちょうど明石海峡から望むことのできる大和西縁の地、生駒《いこま》や葛城《かつらぎ》の山々の風景に「倭嶋」を求めている。これは、大和一国をさす総称でもあった。  人麻呂は、故郷の山々の背後に、明らかにあるものを見ていた。それはいったい何であったか。 「天離《あまざかる》 夷之長道《ひなのながぢ》」は、いったい、どこへと続く道だったのだろう。 「夷」ということばが、大きなヒントを投げかけてくれる。夷は、夷ぶりともいうように田舎を意味することばである。『説文解字』によれば「夷とは東方の人なり」とあり、中国から見た東夷(田舎)、もとは背丈の低い人のことを表す漢字である。「倭夷《わい》」といえば、古く中国で日本人をいやしめて使ったことばであった。このことから、倭と夷は同じものを表すことばだったことがわかる。  したがって、冒頭の「天離 夷」は、「天離 倭(嶋)」と置き変えることができる。天より離れてゆくとは、人麻呂にとっては、倭からはるか遠く離れてゆくことを示していた。この枕詞がこの歌の主題を決定しているのだ。  遥《はる》かなひとすじの道。それは戻ってくるものとしてではなく、去っていかねばならないものとして、逆転してしまったのだ。  その道を人麻呂は「恋来者《こひくれば》」と言っている。もつれ絡んだ糸のようにわだかまり、千々に乱れている人麻呂の思いが、ここにも表されている。  その倭を遠く離れれば離れるほど、彼の眼《め》の前にはますますくっきりと倭の正体が見えてくる。隠せば隠すほど現れ、離れれば離れるほど人麻呂には見えてくるものがあったのである。  持統十一年(六九七)、人麻呂が敬愛した亡《な》き草壁皇子の遺子・軽皇子《かるのみこ》の即位が実現し、文武天皇の代がおとずれた。人麻呂にとって新しい時代への期待は、やがて崩れさることになる。年若い天皇の夫人に藤原不比等《ふひと》の娘がたつことで、藤原氏が天皇家の外戚《がいせき》として不動の地位を得ることになったからである。持統・文武朝の実権は、すべて不比等によってにぎられた。  人麻呂は、そうした政治の動向をもろにかぶったひとりではなかっただろうか。文武の即位後、宮廷歌人としての人麻呂の歌は、文武四年(七〇〇)に明日香皇女《あすかのひめみこ》殯宮挽歌を最後とし、それ以後、「公《おおやけ》」の作はない。  人麻呂を乗せた船が、海の波間に消える。何もかもを消しさる激しい渦《うず》、それはまたひとつの新しい時代を生んでいく渦であったのかもしれない。 長い間、つき従ってきたはずの 大和の地 そこをあとにするわたしは 千々に乱れ、わだかまっている 随分と遥か遠くにわかれてきたことよ 行けばいくほどに 冥界の門からは 倭嶋の正体がみえてきている    朝廷に生きた伝説の珍獣 乃庭好有之苅薦乃乱出見人釣船(巻三—二五六) 一本云、武庫乃能 波好有之 伊射里爲流 部乃釣船 浪上從見  羈旅の歌最後の一首である。  渦まく大門、明石海峡を背に淡路島の西の海上へとやってきた。内海は凪《な》いで静かだ。今までの荒々しい海とはうってかわって、穏やかな水面《みなも》が広がっている。悠然《ゆうぜん》と魚を釣っている海人《あ ま》たちの船が漂っているのが見える。そんな光景がこの歌の解釈として通用してきた。  飼飯《けい》の海は、兵庫県三原郡西淡町《せいだんちよう》、松帆の慶野松原《けいのまつばら》一帯の海であるといわれている。  この飼飯《けい》の表記はどのような海のことを示していたのであろうか。  飼も飯も、ふやけて柔らかい食物のことである。また、飯()は、ばらばらの玄米のことで、その音は、“平らに広がる”意を含んでいる。表記からは、柔らかく凪ぎ広がった海の様子が窺《うかが》われる。  飼と飯の二字は、共通に“カフ”という古訓をもっているが、これは中国音 KAP《カプ》系列の音に源を発しており、表記の示す柔らかいという状態が、蓋《ふた》をして蒸した米のような柔らかさであることをその音が伝えている。  一見、穏やかに広がっている海とは、実は底のものをぴったりと覆《おお》っている状態を暗示しているのだ。この海のようすに象徴されるものが、それにつづく「庭」の一字である。庭の原字は廷であり、これはもちろん朝廷のことを指していた。 「苅薦《かりこも》」とは、たんに草を苅《か》る意味だけではなかったはずだ。薦は、むしろの材料にする草である。刈り整えられても、すぐに風に吹かれバラバラに乱れてしまう。そういうものであればこそ「乱出所見《みだれいづみゆ》」の乱れにかかるのである。  字源をみると、薦は〓《たい》という珍獣が食うという草のことでもある。「苅薦」の(くさかんむり)をとれば、「〓を刈る」ことになる。中国の『楽府詩集』の中でも、このようなかけことばの技法は多く使われている。例えば、「霧露隠芙蓉見蓮不分明」——霧露は芙蓉《ふよう》を隠し、蓮《はす》を見るに分明《つまびらか》ならず(小夜歌)とあるのも、表向きには、ハスの花が隠されてはっきりと見えぬというのだが、「芙蓉《ふよう》」は、その(くさかんむり)をはずした「夫容《ふよう》(夫の姿)」と音をあわせている。つまり、歌の本意は表面にはなく、“夫の愛を呼ぶ”という別のところにあったことがわかる。  思わず「〓を刈る」というフレーズ、〓の一字に目がいった。〓は、宮中の奥深くで飼育された珍獣で、悪を暴《あば》いてその非を正すと信じられていた。そのため、古《いにしえ》には法務官のしるしでもあった伝説上の動物である。「庭好有之《にはよくあらし》」は、その〓を宮中で大切に囲い育てたといっているわけである。  これはなかなか面白い展開になってきた。人麻呂は、この珍獣に自らの姿を重ねていたのだ。宮廷で大切に育てられていたということは、ある時期、人麻呂が歌人としてもてはやされていた事実そのものである。しかも、それは悪を正す象徴だった。〓を刈るとは、まさに人麻呂自身が刈られることを告げている。  人麻呂の四七番の歌を思い出す。 眞草苅《まくさかる》 荒野《くわうやに》雖有《あれど》 葉《もみちばの》 去君之《すぎにしきみの》 形見跡曾來師《かたみとそこし》(巻一—四七)  ここでの“真草《まくさ》を刈る”ことも、死者の姿を暗示していたものだった。金氏が、朝鮮では死者がでると草を刈って薦をつくり、死体の上にかけたと言っていたことが脳裏をかすめる。死体に草をかけるのも「草は大地よりもえでる生命力の盛んなさまの象徴とされ、多くこの世ならざるものを表象する。草が呪物《じゆぶつ》となり、これを身につけたものが神とされるのは、これがこの世のものでないことを表すものだからであろう」(平凡社大百科事典)  この風習は、朝鮮に限ったことではなく、わが国でも死者に薦をかける風習は、古くからあった。薦を刈ること、そのこと自体がすでに死を暗示しているのだ。  苅薦の乱れが手にとるように見えるという「海人釣船《あまのつりぶね》」とは何だったのだろう。  この歌は、人麻呂が海上で釣するアマの姿を見て詠ったものと解釈されてきたが、実は人麻呂は自分自身をそのアマの姿に投影させていたのである。  二五二番の歌では、「白水郎《あ  ま》」と表記されていた。あまは朝鮮語「《アム》(暗い)」と対応している。アマはまた「没人」とも呼ばれていた。暗い海底と、人麻呂自身が深く没していく姿とを同時にかけていたのだ。  さらにその人麻呂が乗っているであろう「釣船」とは、まさしくあの世へと向かう「弔船《とむらいぶね》」をさしていた。  水面は陽光を照り返し、銀盤のように輝く。光の綾《あや》は波間をぬって幾重にもかさなり、また白い波頭の中へと消えていく。それを繰り返しながら、光は直進し、屈折しながら輝きを増す。目を被《おお》いたくなるような眩《まぶ》しい光。まるで、暗く被われた海底の様子を照り返す鏡のように目に射《さ》し込んでくる。だが、それも満ちてはひき、ひいては満ちてくる波がたたみかけるようにして掻《か》き消していく。この海こそが、朝廷の存在そのものの隠喩《いんゆ》であった。人麻呂の視線は光の粒子となって、その海へとそそがれている。 暗い水底を覆い隠し 穏やかに凪《な》いだ飼飯の海 この海こそ朝廷そのもの その姿は、乱れた薦のように 隠そうとすればするほど見えてくる そこに生きた一頭の〓《たい》 その〓を刈るというのか 死の釣り船から 世の乱れがはっきりと見てとれる  人麻呂の旅もここで幕を閉じる。その旅とは、死出の旅路であったのだということを、私たちは確信をもって言うことができる。  これら八首は、私たちの作業が進むにつれてくっきりと関連づけられた。それぞれの歌は互いに呼応しあい、微妙に揺れる人麻呂の心情が、心の襞《ひだ》から糸を繰るほどの細やかさで歌へと織りこまれていた。私たちはその糸をたぐりながら進み、あるときは絡《から》んだ糸のなかで人麻呂の沈痛な声をきいた。    山部宿禰赤人の歌  私たちは同じ万葉歌人、山部宿禰赤人《やまべのすくねあかひと》(明人)の歌のなかに、おもしろい対応をみつけた。  赤人は、人麻呂の活躍した時代とは多少のズレがあるが、大枠《おおわく》ではほぼ同時代の歌人とみなされている。一応、神亀《じんき》、天平朝の歌人だと言われるが、史書にその名はなく、人麻呂同様、「謎《なぞ》の歌人」である。  私たちは赤人の歌に詠まれている地名の多くが、人麻呂のそれと重なっていることに注目した。 「やすみしし わご大君《おほきみ》の 神《かむ》ながら 高知らします 印南野《いなみの》の 大海《おふみ》の原の 荒《あらたへ》の 藤井の浦に 鮪《しび》釣ると 海人船散動《あまふねさわ》き 塩焼くと 人そ多《さは》にある 浦を良《よ》み 諾《うべ》も釣《つり》はす 浜を良《よ》み 諾《うべ》も塩焼く あり通《がよ》ひ 見《め》さくもしるし 清き白浜」(巻六—九三八)  この歌の関連の歌には、特にそれがきわだって目立っている。  万葉の主要な編者の一人であったとみられている大伴家持ほどの歌人が、このふたりを万葉の「山柿の門」(部赤人・本人麻呂)と称揚したという。赤人もまた、人麻呂に数十年遅れて登場した宮廷歌人であったといわれている。当然その作も、行幸に供して詠った歌が多く、そういった従駕《じゆうが》の歌などには、人麻呂の歌のスタイルが引き継がれている部分も少なくない。  赤人の歌を解いてゆくにつれ、そこには私たちの直感を越える、驚くべきことがかかれていた。 ——山部宿禰赤人の歌六首——より 繩浦從背向見奧嶋榜廻舟釣爲良下 ——縄《なは》の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる沖つ島漕《こ》ぎ廻《み》る舟は釣しすらしも(巻三—三五七) 縄のように幾重にもよじれ 正体のつかめぬ朝廷に 従ってきた君ではあるが その曲がりを正すためには 背向《そむ》くことしかなかったのか 君がのせられたという弔船《とむらいぶね》は 果てしなく奥深い嶋のまわりを 榜《こ》ぎまわっている 武庫浦乎榜轉小舟粟嶋矣背見乍乏小舟 ——武庫の浦を漕ぎ廻《み》る小舟《をぶね》粟島を背向《そがひ》に見つつ羨《とも》しき小舟(巻三—三五八) 武庫《むこ》の穏やかな海——宮中は その暗い水底《みなそこ》に 罪なき身である君の真実を 覆い隠している わたしをのせた小舟は そのことをあばくこともできず 身動きもせずに たじろいでいる 君は幽宮《かくれのみや》へと死にゆくのに 阿倍乃嶋宇乃住石依浪間無比來日本師念 ——阿倍《あべ》の島鵜《う》の住む礒《いそ》に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ(巻三—三五九) 真《まこと》のこころざしをまげ へつらわねばならぬような 汚れた澱《よど》みの島を 振りきってきた君は 身も心もうごかないままでいる この澱《よど》んだ水辺にあがる 清らかな白い浪《なみ》はなく その浪のような君の姿はもうない ——柿本人麻呂よ 君のことが 心に深くおもわれる  これらの赤人の歌は、文字どおり人麻呂に悲劇的な死をあたえたであろう権力への告発になっている。歌をとおして、知る人よ知れという彼らの魂の叫びが、今、私たちにきこえてくる。  これらはまさしく、人麻呂の「羈旅の歌」をうけて詠《うた》われていたものだった。「藤江の浦」のよじれつかえた人麻呂の心情を「縄の浦」でうけ、穏やかに凪いだ「飼飯の海」に「武庫の浦」を重ねている。そして、人麻呂が「三津の埼」の白い浪に自身をたとえていたように、赤人もまた「その浪のような君の姿はもうない」と人麻呂を追慕していたのだった。赤人は、人麻呂の死の真相を文字どおり知っていたとしか思えない。  人麻呂の魂は、赤人の歌によって少しは報われたのだろうか。  この生没未詳の二人の歌の達人を、同一人物だとする説もある。 「人丸赤人の事。二名一体のよし相承有。これは白楽天白居易二名一体の儀をもてかやうにあり」(尭憲《ぎようけん》『和歌探秘抄』)  江戸時代の興味本位の奇書であるから、むろんあてにはならないが、このことは、『人丸秘密抄』をはじめかなり多くの本に、古くから伝えられたものだ。このような珍説がでてくる背後には人麻呂の歌と赤人の歌が、それとなく似ているという読み手の側の感触が当時よりあったことをうかがわせる。  大宝元年ごろを境に、人麻呂は姿を消す。人麻呂といれかわりに登場する高市《たけちの》黒人《くろひと》、そして山部赤人。彼らもまた謎の歌人であった。人麻呂が、宮廷から去った理由を彼らは知っていたにちがいない。  持統三年(六八九)からその後、約十年間にわたって万葉を華やかに彩《いろど》る謎の歌人、柿本人麻呂は幻のように現れ、そして消えた。  律令体制はほどなく確立される。人麻呂は、黒人は、赤人は、「謎」に包まれたままどこへ去っていったのか。  万葉集に残された彼らの歌は、このことを書き残したひとつの黙示録であるといえるだろう。    アガサからの手紙  万葉集という巨《おお》きな歴史の中を、今日まで手さぐりで旅をしてきましたが、この本はそんなあなた達のささやかな、しかし精一杯の旅行記だといえるでしょう。しかし旅行記を書き終えたことで、あなた達の旅が終ったわけではありません。「万葉集の謎《なぞ》・人麻呂の暗号」(NHK特集・一九八七年八月十六日)の二年近い旅、旅行記をまとめるための数ヵ月の旅、その都度旅の最中には気づかなかったこと、見過していたものの中に、後に重大な意味を発見することもしばしばでした。終わりはいつも始まりであり、私達の旅は今また新しく始まったといえるでしょう。  あなた達の旅行記を読みながらそんなことを思いめぐらせていたある日。  古事記を読んでいた私の目は、国ゆずりをした大国主神への祭詞の寿詞《よごと》に釘《くぎ》づけになりました。 縄《たくなは》の千尋縄《ちひろなは》打ち延《は》へ 釣せし海人の 口大《くちおほ》の尾翼《をはた》鈴寸《すずき》 さわさわに 控《ひ》き依《よ》せ騰《あ》げて  何度も目にした箇所であり「スズキ釣る」にはそのたびに懐《なつ》かしい思いが甦《よみがえ》ってくるのですが、その日初めてスズキが古代延縄《はえなわ》で釣られていることに気づいたのです。次の瞬間、「縄の千尋縄打ち延え鈴寸釣る」に「荒の藤江の浦に鈴寸釣る」がピタリとオーバーラップしていました。縄と荒の藤の漢字に、私はある風景を見ることができたのです。一つの風景は次の風景を呼び、それはさらに次の風景へと広がっていきます。そんな風景の中での印象を、少し話したいと思います。    荒の索《ひ》きづな 「荒」は藤の繊維で織った布。藤にかかる枕詞《まくらことば》だといわれている。古代には荒織りの藤衣は喪の粗衣として用いられており、この枕詞はそれだけで不吉な死のイメージを運んでいる。しかし布の意とされている「」の原義は「曲がりくねった木」であり、同じように曲がりくねったツル状の植物・藤にかかると見ることができる。ツル状によじれた藤、そして互い違いによじった紐《ひも》・縄は、全く同じ形状のものだといっていい。 「藤(=縢)は縄なり」(毛伝)と解釈されているように、藤()と縄()は文字としても同系語である。「荒」が藤にかかるのは「曲がりくねる」という同義の関連によってである。藤と縄が同系語であるということにどのような風景を見ることができるであろうか。藤づるのように曲がりくねって続く藤江の浦の海岸線であり、そこに重ね見ることができるのは、幾重にもよじれて伸びる一本の荒縄である。そして、この縄は次句の「スズキ釣る」にかかっていく。荒—藤—縄—釣はまるでしりとりのように語と語が関連し、結び合って意味を構築しているといえよう。  藤衣の死のイメージ同様、縄にかかる魚もまた、不吉な死のイメージを運んでいる。しかし、単に魚を釣るにしてはあまりにも重い死の海辺、藤江の浦ではないだろうか。「スズキ釣る」ことの正体は、一体何だったのだろう。    人麻呂を暗示する鈴寸《すずき》  古事記の寿詞が示しているように、「口が大きく尾ヒレの張った鱸《すずき》」は、神饌《しんせん》に供される代表的な魚とされている。このような立派な鱸が万葉仮名では「鈴寸」と表わされている。 「鈴」は、澄んだ清らかな音をだすタマである。古代から祭祀《さいし》とは深い関《かか》わりを持っている。「令」は、清らかな神のお告げで「霊」(祭礼・巫女《みこ》・魂)と全く同じ意を表わす異体字である。祭祀における鈴は、その清らかな音色が神の声、お告げと同一視されていたことを示している。清らかな魚としての意味が、この「鈴」に表わされているといえるだろう。 「寸《き》」は「鰭《キ》」(魚のひれ)の音借と考えられる。「鰭の広物・狭物」が大小の魚を表わすように、鰭と魚は同意に用いられている。  鰭は「〓《キ》」(年を経てのびた馬のたてがみ・魚の背びれ)とも表わされるが、「寸」を「き」と訓《よ》むときは「馬の背丈をはかる単位」という意味であることをみても、「寸」は「〓(=鰭)」にあてた用法であることがわかる。つまり「寸《き》」には、㈰鰭(魚のヒレ)と㈪〓(年を経る)二つの意味が重ねられているといえるのである。スズキは成長するにつれて、せいご—ふっこ—すずきと名が変わり出世魚として珍重され、年を経て旨味《うまみ》のでる魚である。鱸が鈴寸と表わされたのは、神饌に供される清らかな魚(鰭)であること、年を経るほどに旨味のでる魚(〓・鰭)としてであり、この魚の特長を見事なまでに表わしているといえるのである。  このようなスズキの特長は、そのまま歌人・人麻呂を象徴し得るものであろう。清らかな鈴の声《おと》は清らかな歌人の声《ことば》であり、年を経て旨味のでる魚は、年功を経たことばの達人である。人麻呂は鈴寸に自身を仮託したのである。縄にかかって釣りあげられる鈴寸は、縄打たれた自分自身の姿でもあった。鈴寸は口大《くちおほ》(口が大きい)故《ゆえ》に縄にかかり、歌人はその口(ことば)故に縄打たれたというのであろうか。年を経た立派な魚に年功を経たすぐれたことばの達人を喩《たと》えた人麻呂は、この時すでに年老いていたといわねばならない。老いた人麻呂の風貌《ふうぼう》をどのように思い描けばいいのだろう。    縄打たれた歌人  藤づるのように曲がりくねった藤江の浦は、よじれた千尋の索《ひ》きづなに思われる。打ち延えたその縄にかかって引きあげられる鈴寸こそ、縄打たれたわたし自身の姿である。こうして死出の旅を行くわたしを、人はいやしい海人《あ ま》、それとも清廉《せいれん》潔白な男と見るであろうか。心が残る。  この時、藤江の浦にたった人麻呂の目には、海岸の岩肌《いわはだ》は荒織りの藤衣に映っただろうか。歌人の清らかな声も、今は己れを悼《いた》み魂をあの世へ送る弔いの鈴の声となって響いただろうか。すべてを諦《あきら》めてはいるものの、なお心が残るのである。  人麻呂は「荒の藤」という枕詞・被枕詞の関係に、歌意の方向性を示し、全情報をこめていたのである。  荒の藤の陰には縄があり、その縄にかかった己れ自身を縄の千尋縄によって釣られるスズキに仮託した。とらわれた人麻呂とスズキの二重映しである。「旅去」がどのような旅であるかは、もはや言うまでもない。「荒の藤」は、結句の「死」の意味にまでつながっているのである。藤と縄は相互に依存し関連しながら死の収束に向かって流れているのである。  これらの語句を単なる地名とそれにかかる枕詞として通り過ぎたとき、人麻呂の「暗号」を解読することはできない。枕詞から不吉な死のイメージは感じても、その陰に縄の一語を解読することによって、この縄が人麻呂を捕える縄であることも明らかになるのである。暗号は、その表層では常に最も「あたりまえ」な顔をしている。    八とは別なり。分別してあい背《そむ》く形  八首の羈旅《きりよ》の歌には死の意味が濃厚にこめられていた。旅の歌と死の関連は、人麻呂の死が「客死」であることを物語るのではなかろうか。故郷を遠く離れた他国での死—「旅去吾乎」は、人麻呂のそのようなおもいを示すものであったかもしれない。  それにしても何故「八首」なのかに改めて思いがいく。同じ巻三には旅の歌が他に二首(三〇三、四)ある。何故「羈旅の歌十首」とはしなかったのか。 『説文解字』は八を「別なり。分別してあい背く形に象《かたど》る」と説いている。まさに八首の別れの意味と対応している。 三津埼——奴嶋        (二四九) 敏 馬——野嶋        (二五〇) 稲 日——可古        (二五三)  ・ 結——解       (二五一) 明大門・出——入       (二五四) 天離夷・天——道(高—低)   (二五五) 海 ・ 好——乱       (二五六) 白水郎・清廉——卑      (二五二)  人麻呂は一首の中に二つの地名を詠《よ》みこむことや、二つに分かれる逆の意味を表わす対語を以《もつ》て、離反の意を表わしているが、八(首)という全体でさらに離反を表わしたのではなかろうか。そうに違いない。人麻呂の別れの歌である。遺書である。  八、別、敗、伐、叛、反、返……八系列の文字の中に、叛《そむ》き別れていく人麻呂の姿が浮かび上がる。    嗚呼見の浦の卒事  しかし歌人人麻呂はなぜ縄打たれねばならなかったのだろうか。思いがけない歌の中にその理由の一端を垣間見《かいまみ》ることができるが、その前に通らなければならない歌があった。 嗚呼見乃浦船乘爲良武嬬等之 珠裳乃須十二四寶三良武香(巻一—四〇)  風光明媚《めいび》な伊勢湾の風景の中に人麻呂が透視したものは、その風景とはあまりにもうらはらな大宮人達の「乱行」であった。 「胸中深く抱いた恨みが、かすかな嘆息となって洩《も》れ出ずるあの嗚呼見の浦で、帰らぬ舟に乗っていった女たちよ。ひたひたとせまってくる海潮のように、身に及んだその死がいたましい」と人麻呂はうたう。  この歌をはじめ関連歌も含めて、須十二、四宝三都、五十等児乃嶋など数字の多さは異常である。漢字は視覚にうったえるイメージが強いが、なかでもこれらの数字は人の視線をとらえて離さない。人麻呂が数字にこめたメッセージは何だったのだろうか。    《もすそ》  裳や裔は長いスソ、裙や裾はとりまいておおうスソを表わし、いずれも古く「モ・コロモノスソ」と訓まれている。これらの漢字はそれぞれスソの意味を特定できるが、「須十」はどのように解釈できるのだろう。  十を数学的に説明することはやさしいが、縦線と横線で表わされた十の意味を問われたら、私同様多くの人は改めて辞書をひく以外にはなかろう。十は「全部〓を一本〓にひとまとめにした数」を表わしている。漢字の字形の中では協(力をひとまとめにする)博(多くのものが平らに集まる)の例に示されるように、「ひとつに合わせる」「締めまとめる」ことを表わしている。衣の末端を表わすには、十はふさわしい漢字だと言えそうである。  須は需(柔らかい)と全く同じことばである。繻や襦は柔らかい衣(布)であるから、須はこれらにあてた用字と考えることができる。須十は襦十、衣十でもあるわけだ。 「衣」+「十」で構成された漢字が「」である。見慣れない字だと思われるだろうが、「卆」とともに「卒」の異体字にすぎない。「締めまとめる」意からおわる・やむ・しぬ、の意を表わすものである。字形分解を利用して多くの造語を可能にした人麻呂のことである。「」を須十と表わすことくらい何でもないことである。「珠裳乃須十」は、美しい女たちの卒事(死没)を表わしていた。漢字を通して風景を見ることができるように、風景の中に漢字を見ることもできるのである。    切《しほみつ》 『説文解字』は、死を「〓(バラバラ)なり。卒事(死没)なり」と説明している。死は、精気がばらばらに分散しさることであり、数字でいえばまさに四(細かく分散する数)に相当するものである。四が死に通じる忌《い》み数とされるのも、単に音が通じるだけでなく語義そのものが同じだからである。 「四宝三都」は、「潮満つ」ではあるが、三と四は七を表わしている。七は分配するとき三と四になって端数を切り捨てねばならない数として認識されるところから「切」の原字となっている。キル、キリトル意の他に「切々」(身にせまる)、「切実」(さしせまる)、「切近」(せまり近づく)など、身近に迫る意を表わしている。潮満つを人麻呂は潮がひたひたと迫ってくる状態と解しているが、単に潮が迫ってくることではなく、「」をうけて死がひたひたと身に迫りくることを「七」(=切)で表わしていたのである。  須十に「」(死没)を、四宝三都に「七」(切)を表わしたのが、人麻呂の数字のメッセージであった。数字を利用して、死の忌みことばとしての「—切」を巧みに表わしていったのである。官女達ののどかな浜遊びの風景の中に、かくし絵のような二文字が見えるのである。暗号とはまさにこのようなものであった。  女たちの胸中に深く封じられた恨みが、かすかな嘆息となってもれでる嗚呼見の浦。人麻呂の耳は、その(嗚呼)の歎《なげ》きをききとり、その目は海潮に没した女たちの姿を見ている。つづく歌では女たちの死の原因が歌われることになる。    守節のあかし 釵手乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武(巻一—四一)  女性を表わす珠裳につづいて、ここでは同じく女性を表わす釵(かんざし)がテーマに選ばれている。「裙釵」は「もとかんざし、転じて婦人」を意味するものである。  釵はさすまたのかんざしの足。手節は、ふたまたに分かれた手指。同型を表わした枕詞—被枕詞の関係であるが、結句の苅も、交差するハサミの形である。明らかに前歌の「切」をうけたものである。  守節の証《あか》しであるかんざしを著《つ》けた女たちを、今日もまた大宮人は刈る。まるで藻《も》でも刈るかのように。貞節の証しの釵、しかし皮肉にもそれと同型の刃物・大宮人の手にかかっていく女たち。その死が守節の証しであっただけに、悼みと怒りが人麻呂の中で交叉《こうさ》し、釵のように胸をつきさす。  記紀に名高い巫女《み こ》「天鈿女《あめのうずめ》」は金属製の美しいかんざしでその名が表わされている。単におしゃれな髪飾りではない。巫女として神に仕える絶対の忠誠の証しとしてのかんざしである。  かんざしと手は漢字においても同型「叉」(かんざし)、「又」(て)で表わされている。形状の同一性によるものである。  天鈿女は天石戸に隠れた天照大御神を「招き」、日の神の巫女故に他の神々がいずれも恐れて近づくことのできなかった猿田彦《さるたひこ》に近づいてそれを「手なずけ」、天孫降臨後にはその神を伊勢まで「送り」、またその名を「受け」て猿女君と名乗っている。海中の魚を「聚《あつ》め」、天つ神への忠誠を誓わせ、唯一《ゆいいつ》答えぬナマコの口を「さく」のである。  叉(かんざし)に象徴される鈿女の「手腕」が、ことごとく又(て)によって展開されているのは、単に叉と又の同型の関連のみでなく、かんざしを著けることがどの様な意味を持つのかを暗示する。仕える対象への徹底した忠誠の働きを示しているのである。  最後に猿田彦はその手をヒラブ貝に咋《く》い合わされて海潮に溺《おぼ》れ死んだが、二枚貝もまた「はさむ、ひらく、とじる」手の働きと同一のものであり、鈿女の手にかかって死んだことが示唆《しさ》されている。  女性にとってかんざしとはこの様な忠誠・守節の証しだったのである。韓国には、このかんざしの伝統は今も色濃く残されている。    潮騒《しおさい》の慟哭《どうこく》  人麻呂の耳には渦巻《うずま》く伊良虞《いらご》水道の激しい潮流の音が聞こえていた。それはまるで女たちの慟哭であった。左右からの潮流がぶつかり合い、交叉する伊良虞湾の渦の中で、女の乗る船は——。人麻呂は、「左爲二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乘良六鹿荒嶋廻乎」と歌った。    暗号の解読者たち  嗚呼見の浦に嘆息を、潮騒に女たちの慟哭を聞いた人麻呂の耳。さすまたの様につきでた答志崎に、釵の貞節を刈る大宮人の手をみた人麻呂の目。彼の耳が聞き、目が透視したものを解する者たちはいなかったのか。万葉集に残された歌を通してみるとき、その解読者は遣新羅使《けんしらぎし》の中にいたのである。  巻十五(三六一〇)に次の歌が記載されている。 安胡乃宇良 布奈能里須良牟 乎等女良我 安可毛能須素 之保美良武賀  嗚呼見浦が英虞浦に、珠裳が赤裳に代わっているだけである。巻頭に遣新羅使たちによって、船中で吟誦《ぎんしよう》せる古歌とある。また、荒の藤江の浦も同じく小異をもって、三六〇七に載せられている。  定訓をそのまま受けとるならば、官女たちの浜遊びの歌を吟誦しながら、新羅への船旅を楽しんだということになる。しかし当時の船旅がどんなにおそろしいものであったかは言うまでもない。また全《すべ》てが希《のぞ》んで遣新羅使となったわけでもない。気のすすまぬ者も多かったことは、遣新羅使たちの歌群(巻十五)からも窺《うかが》うことができる。先進文化を取り入れるために、勇んでか気が進まぬままか、船出する彼等を一様に、まず待ち受けていたものは、果てしない荒海である。遣使たちの胸中に去来したものは、嗚呼見の浦から死の船出をし海潮に没していった女たちの運命ではなかっただろうか。藤江の浦の、縄打たれ死出の旅路を行く人麻呂の姿ではなかっただろうか。閉じこめられた船中で、もう永遠に陸地には着けないのではないかという気持ちをいだいた彼等が、同じ運命にさらされた者としてのこれらの歌を吟誦するとき心慰められるものがあったのだろう。人麻呂の歌の真意をよみとったものは、確かにいたのである。これらの歌が、遣使たちによって船中で吟誦された意味は、深い。  嗚呼見浦一連の歌が、大宮人の「乱行」に対する告発歌であるということの裏には、単にそれだけにとどまらぬ権力批判に通じる姿勢がある。歌にかくされた「批難」をよみとる者の存在は、人麻呂にとっては両刃の剣となる。しかし、人麻呂の姿勢は変わらなかった。  暗号とは、隠すことによって表わすことばの働きであるといえよう。しかし、ことばである以上、いつか、誰かによって解読される運命にある。人麻呂のことばも例外ではなかった。清らかな歌人の声を封じられ、縄打たれて死の旅をゆくと詠んだ人麻呂の歎きの一因は、皮肉にも彼のことばそのものにあったに違いない。  歌を知れば知るほど、その人に対する興味はつのるものである。柿本朝臣《あそみ》人麻呂、その名は何を表わしているのだろうか。  マロは人名の敬称接尾語。ここでは柿本の二文字しか手掛りはない。しかし人麻呂にはサル(猿)の別称があった。ただし和銅元年(七〇八)「柿本佐留卒」と記された人物と同一人であるかどうかは定かでない。猿を人麻呂の蔑称《べつしよう》とする説もあるが、果してそんなものであろうか。  記紀の天孫降臨神話の人気者に前出の「猿田彦大神」がいる。天孫に仕え、これを日向《ひゆうが》の高千穂の峰に案内したことから、「猿は日神の神使いの動物」とされている。この神は天の八衢《やちまた》にいて「上は高天原を光《てら》し、下は葦原中国を光《てら》す神」(『記』)といわれ、また『紀』には「口尻明《くちわきあか》く輝《て》り、眼《め》は八咫鏡《やたのかがみ》のごとくして赫色然《かかやけ》ること赤かがちに似たり」とある。これらの描写は、名前との関連から明らかに猿をイメージさせるものであるが、顔や尻《しり》の赤い猿にしては、あまりにもオーバーな表現である。これらの描写と猿との関連はどの様に考えられるだろう。  朝鮮語で「《サル》」(《サル》)は「焼・燃」の意を表わす語である。高くほのおや煙をあげてもえること、「火」の類義語である。猿をサルと訓じたのは、朝鮮語「《サル》()」によるものであっただろう。記紀に描かれた猿田彦も「燃えあがる火」と見れば納得がいくのである。天の八衢にいたこの神を、いずれの神も恐れて近づくことができなかったとあるのも、この神が火の神であれば、燃えさかる炎に近づくことなどできはしないだろう。日神の巫女、天鈿女のみが「い対《むか》ふ神と面勝《おもか》つ神」(『記』)として遣わせられたが、「日の神」の巫女として、「火の神」と相対しても負けないことを表わしている。天つ神の日に対し、国つ神の火を象徴したのが猿田彦だったのである。 『記紀』神話が示すように、国つ神はやがて天つ神に征服され、服従する運命をたどるが、猿田彦もまた日神に服従する火神の姿を示している。日光東照宮の「見ザル・聞かザル・言わザル」三猿は、まさにその姿を示すものであろう。また水を支配する竜蛇《りゆうだ》、風を司《つかさど》る鳥とともに、火を司る猿は家屋を火から守る守護神として、屋根の上に祀《まつ》られているが、これらの姿も猿が本来、火の神であることを今に伝えるものであろう。  猿田彦が天孫に仕え、高天原から高千穂の峰に降臨させたことは、単に服従を示すものではなく、そこには古代の人々の火に対する信仰が表わされていると見なくてはならない。  古代において火は日常のあらゆる場面で、生成の媒介となるものであった。農業(焼き畑)、冶金《やきん》、窯業《ようぎよう》などを通じ、火は文字どおり「産《む》す火」として、生成の媒介として信仰されたのである。A点からB点への移行を可能にする(道案内)ことも、この様な火の働きに対する信仰の表われであろう。    猿と人麻呂  このような猿の信仰と、サルと呼ばれた人麻呂とがどの様な関《かか》わりをもつかといえば、基本的には「柿本姓」との関連によるものだといえる。  赤い実のなる樹《き》を「火樹」というが、柿も勿論《もちろん》その範疇《はんちゆう》に属するものであり、柿本—火樹—火神猿の関連と見ることができる。更に猿は「猿臂《えんぴ》」(猿のように体に比較して長い臂=手)が特長である。長い臂をのばして木に登り、枝を渡る猿は、動物の中でも最も自由自在に臂を使うことのできるものである。歌人・人麻呂もまた、思いのままに筆をあやつる臂の達人である。猿が示している「火と臂」は、そのまま「柿本姓」と「臂の達人」人麻呂の特長だといえるのである。  人麻呂が猿と称された根本の理由は「柿本姓」によるものであるが、人々は赤い柿の色に火を連想し、火の神猿をその別名としたのである。また臂の達人でもある猿に筆使いの達人・人麻呂を重ね見ることは容易だったに違いない。  火は五行では南にあてられるから、木々を渡る猿は、人麻呂が南からの渡来人であったことをも示し得る。  古代の人々が猿に寄せた深い火の信仰を知るならば、猿を人麻呂に与えられた蔑称と片付けられるはずはない。人麿神社では古くから安産の祈願が行われると聞く。ヒトマロにヒトウマルをかけたたんなる附会説とされるが、この伝承も「生成を媒介する火」「産す火」の信仰に由来するものである。「柿本姓」や「猿」が表わす火が、後にこのような安産信仰を生んでいったのである。    人麻呂の故郷  いつのまにか庭の柿が赤く熟する季節になっていた。輝くような柿の赤い色に着目して、柿は朝鮮語では《カム》といっている。「鐘路(韓国の道路名)にはりんごの木を植えましょう。乙路(同じく道路名)には柿の木を植えましょう」という韓国の歌があった。街路樹に柿やりんごの木を植えるという感覚は日本とはちょっと違うな、不思議に思って韓国の友人に聞いてみたが、「実がなって食べられるからでしょ」と味気ない返事が戻ってきた。韓国には実に柿の木が多い。そして日本の明日香にも。  《カム》(旱)は「かわく、ひでり」の意であるが、同系語の乾・〓・〓などと同様、日や火が強く照りつける、かがやくことから、かわく・ひでりの意を派生している。火のように赤くかがやく柿「《カム》」は「《カム》」と同源の語といえるだろう。また「火が燃える」(燃・〓)は「《サル》」でもあるから「《カム》」と「《サル》」はことばは違うが、同義を表わしている。柿と猿の面白い対応は、全くストレートに柿本と猿の関係を表わしているではないか。 「本」と「幹」とはモトという同義を表わす語である。「本支」は幹と枝、「本幹」はいずれも物事の中心の意で同義を並べた熟語である。 「幹」は「から」と訓《よ》まれ、日本では植物のみきや茎をさすが、「から」と訓まれる語のほとんどが、対をなした関係を示している。 「殻」は中身のなくなった外皮で、中身と外殻《がいかく》の関係を示し、「故」は原因・理由を示す語で、それに対するものとして結果がある。「空」は地に対する天である。「唐韓」は中国・朝鮮に対する古称であるが、これらは自国に対する外国としての観念を表わしている。カラは朝鮮語「《カル》」(分・支離)と対応するものであるが、ここではふれないでおく。 「本」は「幹」にあてた用法だとすれば、人麻呂の名は「火のように輝くカラの人」(マロは人名・接尾語)となる。「幹」もまた『説文解字』によれば「日、初めて出で、光幹々たるなり」とあり、日がのぼる様な強い力を表わしている。柿の表わす意と関連する語義といえるだろう。 “日、初めて出で、光幹々たるカラ国の人”の意を、柿とそれに関連する幹で表わし、さらに幹=本としたのが「柿本姓」であったとすれば、何という美しい名であろうか。  カラ(韓)は古代朝鮮南部にあったくにである。古代朝鮮は南部(百済・新羅)は韓族、北部(高句麗《こうくり》)は扶余族と、簡単には言いきれないが、一応の原型としては正しいとされている。  人麻呂の故郷は、その火が象徴する南部のからくにではなかっただろうか。人麻呂の故郷、それはまた万葉集の一つの故郷でもある。 「万葉集の故郷が広がったね。遠くはるかに広がる故郷か。いいね」  祭酒は、つぶやくように言った。  ふと、私は思いだしていた。  近江路には渡来百済人の忘れられた墓があり、新羅の慕夏堂(友鹿洞)には、降倭武士の墓があるということを。  ……この村がかつての日本武士の村であるというので、このイルボン・サラムたちはやってきたのだ、という意味のことをいった。  それに対し、老翁《ろうおう》ははじめて口をひらいた。低い声であった。 「それはまちがっている」  と、老翁はゆったりとした朝鮮語でいうのである。それはというのは、そういう関心の持ち方は——という意味であった。 「こっちからも日本《むこう》へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべきではない」  と、にべもなくいったのである。(街道をゆく2 韓のくに紀行 司馬太郎)  春と呼ぶにはまだ少し早い季節、トラカレの若い研究生たちはそれぞれの旅に出かけていった。アメリカのボストンへ、メキシコのチワワへ、フランスのアルザスへ。そこもまた、彼等にとって広がる故郷になるだろう。  あなた達の旅行記に、私の小さな旅を重ねてみました。参考になれば幸いです。若いあなた達をみていると、いつも故郷は未来にあるのだなあとつくづく思います。  近々またお会いしましょう。 アガサより   後 記 「問題が正しく立てられているか」トラカレの合言葉である。  これまでの万葉古歌の訓《よ》み、解釈は傍証によるものが多い。傍証も真相に迫る有力な手段であろう。しかし、私たちの目標は真相を実証することにある。それによって初めて古典の研究も科学と呼ぶにふさわしいものになるだろう。  私たちは実証するための手だてを遺《のこ》された万葉集の文字そのものに求めた。当然のこととして、同じ文字(漢字)を共有した古代中国語、朝鮮語の世界が私たちの視野に入ってきた。解釈の自由度が一挙に拡《ひろ》がった。その中で誰でもが納得する解、訓みを探求するのである。  最近の藤ノ木古墳の発掘はもとより、発見されるさまざまな考古学の資料は、大陸と一衣帯水であった当時の古代日本を髣髴《ほうふつ》させる。 『万葉集』と同じく漢字のみで記された『古事記』・『日本書紀』の、特に神代の神名、説話にも新しい脚光があてられてきている。それらはすべて若い私たちの好奇心を捉《とら》えて放さない。一歩一歩確かな足どりで進みたい。  本書はこの研究の中心であるアガサこと中野矢尾先生を囲む、研究、討論に参加したトラカレ生全員の共同作業の成果であることもつけ加えよう。  特に、さまざまなアドバイスをいただいた金思〓先生、作家赤瀬川隼氏他、多くの方々の御協力に感謝の意を表して筆を措《お》くことにする。 藤村由加   一九八九年 一月 この作品は平成元年一月新潮社より刊行され、 平成四年十一月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    人麻呂の暗号 発行  2001年12月7日 著者  藤村 由加 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861149-7 C0893 (C)Yuka Fujimura 1989, Coded in Japan