藤堂志津子 熟れてゆく夏 目 次  鳥、とんだ  熟れてゆく夏  三 月 の 兎  あ と が き [#改ページ]  鳥、とんだ  この皮膚病のきざしが現われはじめたのはいったいいつごろからなのか、美沙子は杓文字《しやもじ》型の赤い木製の柄のついた犬用のブラシを手にしたまま、足もとに横たわっているサスケを呆然《ぼうぜん》とみおろした。  今年六歳になる雑種犬のサスケは、玄関先の地面のうえに心地良さそうに四肢を投げだし、安心しきった様子で眼をとじ、横腹をのびやかにひろげている。全身すきまなく密生しているふさふさとした茶褐色の毛が、秋の午後の陽をあびて、ところどころ黄金《きん》色に光る。ふと、おもいがけなく秋の風が渡る。すると陽ざしを存分に吸いこんで、のどかにふくらんでいた毛並みに乱れが生じ、片方にたわみ、あるいは四方八方によりわけられてゆく。  美沙子の眼が気づいたのはそのときだった。たっぷりとゆたかな尾の、その付け根の部分がまるくはげている。ゆっくりと尾を持ちあげてみた。肛門のまわりの無毛の箇所がふしぜんなひろがりを示している。毛の脱け落ちた跡に、手でふれる、とたちまちに熟れておちてきそうな濃い桃色が露呈《ろてい》している。それが太いみみずのように這《は》いのぼっていき、尾の付け根へとつながっていた。  美沙子はうろたえながら、両手の指先で用心深く毛をかきわけていった。それはくちのそばの短く硬い毛並みのなかにも、うずもれていた。二本の後肢の外側にもそれぞれひとつずつ、歪《ゆが》んだ楕円《だえん》形がみつけだされた。どの部分もただれてはいたが膿《う》んではいない。  だが右の耳の状態は美沙子を愕然《がくぜん》とさせた。耳殻《じかく》の内側をはしるうねりのあいだには黄色い膿《うみ》がこびりつき、じくじくとした透明な粘液がまんべんなくぬりたくられている。柔毛を剥《は》ぎとられた皮膚は薄桃色に腫《は》れている。つまみとっていた手をはなすと、耳はおじぎ草のようにちぢまって、内側のみにくさを恥じるように伏せられてゆく。その点検のあいだ、病みくずれた耳の異臭は凄《すさ》まじく鼻腔《びこう》を刺戟しつづけた。  美沙子はサスケから手をはなし、ぼんやりと彼をみつめた。気配を察して、サスケがかるく首をあげ、みつめ返してくる。その右の眼にも、ちいさな輪郭《りんかく》をとけながしてしまうかのような黄色いめやにがびっしりとはびこっていた。  美沙子は、この家をでて、よその土地で暮していた一年間のながさを、あらためておもった。  帰ってきたのは昨夜だった。電話での話どおりに、母親はおとといの朝、数人の仲間と連れ立って旅行にでかけてしまったらしく、美沙子を迎えてくれたのはサスケだけだった。 「まただめだったのかい!!」と、二週間まえの電話で母親は金切り声をあげた。家に戻《もど》ってもいいだろうか、と美沙子がおずおずときりだしてすぐの反応がそれだった。 「まあね、あたしはもうあんたにはなんにもいいたくはないよ。小娘じゃあるまいし、あんたももう二十七だ。親がとやかくいってもきくような齢ごろでもないし、だいたいが親のあたしのいうことを素直にききいれるような人でもないからね。しかしねえ、あんたもう少し上手《うま》くやれないものかねえ。男なんてもんはどれもこれも似たようなものさ。そこんとこのツボを心得て、下手にでるようなふりをしながらがっちりしっぽを握ってりゃあ、もうこっちのものなんだよ。あたしは今度こそはとおもっていたんだがねえ。だから早く籍をいれちまえばよかったんだ。そうすりゃあちっとやそっとのことじゃ切れないし、そのうちまたヨリが戻るもんなのさ。ほんとにあんたはあたしの娘とはおもえないよね、あたしなんぞは、若いときにゃあ……」  母親のお喋《しやべ》りはしばらくつづいた。美沙子にはききなれた、若く、華やかであった日々の自慢話だった。  ひとしきり喋りちらし、娘からきかされた話の憂《う》さが晴れたらしい母親は、十月のはじめに踊りの仲間数人と旅行にでかける手筈《てはず》になっているからそのあいだに帰ってくるとこちらの都合も良いと言い、電気やガスの支払い料金のこととか、持ちアパート二軒の家賃取り立ての手配などを早口にまくしたて、最後に声をひそめて、もらうものはもらっておけとそそのかし、電話をきった。  受話器を置いてから、美沙子は、あの男とは別れたのか、と尋《たず》ねるのを忘れていたことに気づいた。もし、あの中年男がいまだに通ってきているなら、家には戻りたくなかった。といって、ほかに身を寄せる心当りがあるわけでもない。  美沙子が昨夜十時すぎに家に帰りつき、着換えもせずにまっさきにしたことといえば、あの男のために母親が誂《あつら》えたゆかたや安物のウールの袷《あわせ》、下着類などが詰められていた母親の居間の整理|箪笥《だんす》のなかを調べることだった。それらは一枚のこらず処分されていた。おそらくそのまま質に流してしまったか、クリーニング屋に洗い張りにだしたのち、だれかに安く売りつけたのだろう。母親のきりかえの素早さと抜け目のなさは、いつの男のときもそうだった。  母親の居間につづく八畳の座敷には二|棹《さお》の和箪笥と、亡夫の位牌《いはい》のあがった仏壇が置かれてあった。昨夜おそく、美沙子は仏壇に線香を立て、ながいあいだ父親に語りかけ、少しばかり泣き、そして床に就《つ》いた。 「耳がこんなふうになってきたのはいつごろから?」  美沙子の声には、母親に叩《たた》きつけたい腹立ちが籠《こ》められていた。  サスケの耳の病は今度がはじめてではなかった。六年まえの春はやく、路上に捨てられていた、まだ肢腰《あしこし》のさだまらない幼いサスケを家に連れて帰り、なんてみっともない犬ころだろうと繰返《くりかえ》す母親を憎みながら、心を傾けて育てていたその年の冬に、サスケはもう右の耳を腐らせていた。気づいたとき、耳の内側は今回と同じ状態にまで悪化していた。毎日相手をしながらその迂闊《うかつ》さは否《いな》めなかったが、毛脚のながさも傷をみつけがたくさせていた。 「ひどい臭いじゃないか! 早く医者にみせるか、それでもだめならさっさと保健所に引き取ってもらうかしておくれよ」  母親の甲高《かんだか》い声にせき立てられながら、美沙子は職業別の電話帳を繰り、家からもっとも近いペットクリニックを探した。運良くバス停留所から三つさきとおぼしき住所の診療所がみつかった。  その日のうちに、美沙子はサスケの紐《ひも》を引いて家をでた。牡丹《ぼたん》雪のふる午後だった。雪片は赤ん坊の掌のおおきさでコートばかりではなく顔にまで貼りついてきた。  訪ねていった診療所には痩《や》せた七十がらみの老獣医がひとりいるだけだった。老人は白衣もはおらず、薄汚れた灰色のカァディガン姿でサスケに近づいた。サスケは獣医を寄せつけなかった。吠《ほ》え立て、暴れ狂った。口輪をはめることさえ不可能だった。ついには老獣医も癇癪《かんしやく》を起こし、こめかみと額に青筋を走らせ、まるで相手が犬だということを忘れきってしまったように声を荒らげた。美沙子はうろたえ、なだめようとしたが、サスケはいっそう猛《たけ》りつのってゆく。  やがて獣医は、遠くから眺めただけの診断だから利くかどうかは保証できないというようなことを言い、美沙子の手に放り投げるようにして白い薬袋を渡してきた。美沙子がいわれたとおりの金額を手渡すと、まだ怒りが鎮《しず》まらないのか、老獣医はとりつくしまもなく、診療室の奥の扉のむこうへと歩み去ってしまったのだった。紙袋のなかには十日分の飲み薬が入っていた。帰り道でもまだ雪はふりしきっていた。  薬の効果はめざましかった。が、サスケはその錠剤をまるのままではけっして飲みこまなかった。必ず吐き捨てた。好物のソーセージのなかに薬を詰めこんで与えると、どうにか咽喉《のど》を通るらしい。毎朝ソーセージに仕掛けをしている美沙子をみると、母親は必ず嗤《わら》ったものだった。 「あたしが病気になってもこれほど親身に世話をしてくれるかねえ。あんな犬畜生のどこがいいのか、まるで自分の子供みたいな気の使いようじゃないか」  かつての母親のことばを憶《おも》い出しながら、美沙子は、いまふたたび耳をおとしかけているサスケの横腹をゆっくりと撫《な》でさすった。  そう、これはわたしの子だ。  サスケを拾うまえの年、美沙子ははじめて身籠《みごも》った子を始末していた。うめる子ではなかった。うむ、うまないと迷いあぐねる以前に、その子の芽生えに戦慄していた。彼女以上にふたりのあいだの子を怖れていた相手には告げる必要はなかった。堕《おろ》せ、というこたえはわかりきっていた。剥《む》きだしのそのことばを突きつけられたくはなかった。言われた瞬間、ふと相手を憎みそうな気がした。  美沙子はだれにも打ち明けることなくだまって病院の門をくぐった。手術台のうえのゴムの冷たい感触、強《し》いられた姿勢、術後に寝かされていた病室の、白いペンキが藻屑《もくず》のように垂れ下っていたささくれ立った天井、病院のそとへでたとたんに、かっと照りつけてきた脂《あぶら》の塊のような真夏の太陽、あぶら汗をにじませてめまいに耐えていた舗道のかわいた白さ──はたちの年の記憶といえば、これらの情景ばかりがそそり立ってくる。そのあくどい色合いはかなり褪《あ》せかけてはいたが、ときおり胸のひろがりいっぱいに、風のようによぎってゆくことがあった。そして、現在《いま》の刻《とき》の流れを止めた。  あの年の秋は悲惨だった、と美沙子はひっそりと狂っていた一時期をおもい返した。相手から遠ざかることばかりを考え、そのつらさにさらに頭を狂わせていった。やがていっせいの紅葉《こうよう》があり、呆気《あつけ》ない凋落《ちようらく》が訪れた。おびただしい雪片を窓のそとにかぞえあげながら、美沙子は必死に自分の裡《うち》の原始的な生命力にしがみついていた。その力が、気を狂《ふ》れさせることなどじつに簡単なことなのだ、と囁《ささや》きはじめてきたのはいつごろからだったろうか。  サスケに出会ったのは三月だった。雪どけのぬかるみに四肢をとられ、冷たさに震えながら心細げに自分をみあげてくる黒々とした瞳が胸に喰いいってきた。孕《はら》んだ子を失わなければ今月が臨月だった、と美沙子は漠然と逆算していた。さまざまなおもいが咽喉《のど》もとにからまった。他愛《たあい》ない感傷とおもいこみだと自嘲しながらも、そのみすぼらしい仔犬をみすてられなかった。  あれから何年もの歳月をへてきていながら、わたしにはなにも視《み》えてはこない。美沙子はサスケの毛のやわらかさを指先で愛《め》でながら、これまでの月日を抑揚のない気持で振り返った。唯一、みのらせることができたのはこのサスケだけだった。  だが、サスケにしてもあえて飼犬としての保護を受けなくとも、ひょうひょうとした一匹の野良犬として成長し、子供たちから菓子を恵まれ、ごみ箱を漁《あさ》り、保健所の野良犬狩りの眼をくらませながらの旅をつづけ、今日に到ることも可能だったのかもしれなかった。いや、あの耳の病はそう簡単には治らなかったはずだ、美沙子は自分のはたした役を自分自身に納得させたかった。その気持のしたからあらたな想念があたまをもたげてくる。もしかすると鎖の束縛がまたたくまに病を悪化させていったのかもしれない──。  西空に朱が溜《た》まりかけていた。まだ薄い紗《しや》のかげりだった。風も方向を定めはじめていた。  土曜日のきょう、ほとんどの病院は午後からは休診となっている。だがペット相手の診療所は例外かもしれない。美沙子はおもい立って家のなかに引き返し、電話帳をめくり、かつていちどだけ訪れた老獣医の名を探した。老人は健在らしく、所在地にも変りはなかった。  ダイヤルをまわしおえ、待ち受けていた耳に伝ってきたのは留守番電話に吹きこまれた若い女の声だった。「月曜日に……」とつづく声の中途で美沙子は受話器を置いた。昨夜の疲れで正午《ひる》まで寝ていたことがひどく悔《く》やまれた。  翌日の朝、八時すぎに眼をさました美沙子はすぐさま床を離れ、階下の洗面所へおりてゆき水で顔を洗った。秋の冷気は水のなかにもしみていて、洗面器にむかった美沙子の手首を痛いほど締めつけてくる。洗面所の窓から眩《まぶ》しく澄んだ秋空がみえた。  それから美沙子は台所へいった。昨夜床にはいってからサスケの耳のことをあれこれと考えたすえ、サスケがどれほどいやがるにしろ、月曜日までのまる一日をあのまま放って置くわけにはいかないとおもったのだ。せめて消毒ぐらいはしておく必要があった。  茶の間とは、曇りガラスのはめこまれた仕切り戸一枚で隣合っている台所には、ほかに勝手口と納戸への引き戸が左右にむかいあって付いていた。美沙子は、母親のがらくた収納所となっているその納戸《なんど》を開け、裸電球に煌々《こうこう》と照らしだされた隅のほうから、積み重ねられてあるアルミの灰皿の一枚を借りうけた。重なりの真上にあって、ぶあつく埃《ほこり》をかむっていた白金色のそれをていねいに水で洗い、そのなかでぬるい食塩水をつくった。脱脂綿の入っている救急箱は母親の居間にあった。  サスケは、肢と尻の部分の消毒にはおとなしく従ったが、昨日とちがって病んだ耳には指さえ触れさせなかった。右の耳だけを器用に半分に折り伏せて、美沙子が腕をのばしかけると同時に、鎖いっぱいの範囲を逃げまわりだす。  ようやくとらえて、食塩水で湿らせた脱脂綿で膿を拭き取ろうとすると、はげしく頭を振り、ヒィヒィとせつなさそうに鼻を鳴らしてきた。美沙子がその声にかすかなひるみをみせた、と知ると、突如、渾身《こんしん》の力をふりしぼって暴れだし、つかんでいる手の力が弛《ゆる》んだ一瞬をぬって、素早く小屋の奥にもぐりこんでしまった。  しばらく待とうと美沙子はおもい、犬小屋から少しはなれた位置に、何気ないふうを装ってしゃがみこんだ。  休日の冴《さ》え渡った青空のなかを、ヘリコプターがにぎやかな音をひびかせて旋回していた。  サスケは小屋から片眼だけを覗《のぞ》かせこちらの様子を窺《うかが》っている。サスケの気持をほぐすため、美沙子は脱脂綿を持った手をうしろに隠し、アルミの灰皿の中身を半分ほどゆっくりと地面に流してみせた。サスケは疑い深かった。今度はやさしい口調で話しかけてみた。が、サスケの気持のねじれは解けなかった。  美沙子は諦《あきら》めて家のなかへ戻った。アルミの灰皿をふたたび洗う。この灰皿は色違いの青とピンクを含めて、たしか二十個以上あるはずだった。  十年前、父親の葬儀をおえ、弔問客もあらかた帰ってしまったがらんとした家の所々に、うつろに光りながら最後まで居坐っていたのが、この灰皿たちだった。母親に心当りはないという。手伝いにきてくれた隣家の主婦や帰り支度をしはじめている三、四人の親戚の者に尋ねても、買ってきた記憶はなく、どこかから借りてきたような感じもなかったと言う。「するとおじさんが死ぬまえにこの日のために準備しておいたのかなあ」と、当時大学生だった母方のいとこの茂行が皮肉っぽい口調で呟《つぶや》き、だれも笑わなかったのは不謹慎だからというより、故人の生前を顧みるとありそうなことにおもわれたからだった。実際、その場に居合わせた人々は、曖昧《あいまい》な顔つきでなんとなく頷《うなず》き合ったものだった。そのとき高校三年生であった美沙子は、いちど退《ひ》いていた哀しさがにわかに押し寄せてきて、一目散に二階の自分の部屋へ駈けあがっていった。父親が最期まで、おおざっぱで迂闊《うかつ》なところの多い、家事の不得手な母親を庇《かば》いつづけていったようにおもわれてせつなかった。  父親はほんとうに知らなかったのだろうか、といまになっても美沙子はときどきおもう。  美沙子は自分が中学三年生であった当時の母親の不貞を知っていた。母親の相手は娘の中学一年のときの中年の担任教師であった。  母親はながいあいだ美沙子を子供としてしか扱っていなかった。娘が人並みに齢相応の知恵と勘が備わってきていることにずっと無頓着《むとんちやく》だった。  往年の美貌が無残な毀《こわ》れかたをし、卑しさだけがとり残されてしまったような顔を持つその教師が訪れてくるのは、土曜日の午後ときまっていた。母親よりひとまわりも齢上の父親は、出張や宴会や接待のためのゴルフなどで、週末といってもふだんの日と変らない忙しさに追いまくられていた。しかも土曜日の午後は、美沙子が小学生の時分から通わせられている習字の稽古《けいこ》日でもあった。教師がやってくると、必ず母親と差し向いの昼酒となった。酒にきたない男だった。気分がすぐれず、手習の稽古をそうそうにきりあげていつもより早目に帰宅すると、玄関の三和土《たたき》には教師の靴があったのに、茶の間にはふたりの姿がみえない、ということが二度あった。そして茶の間につづく座敷の襖《ふすま》が閉じられている。夕方の六時近くになってようやく教師が帰ってゆくと、酒で眼もとをあからめた母親は、おまえの進学のことでいろいろと相談があってね、といつもと同じ台詞《せりふ》をけろりと言い放ったものだった。  こんどこの灰皿全部を使うのはいつになるだろうか、美沙子は母親の化粧の濃い若づくりの顔をおもい浮かべた。「母さんはな、若いころはとにかくびっくりするような美人だったんだぞ」と誇らしげに言っていた父親の、人の善さそうな笑顔が蘇《よみがえ》ってくる。いまさら余計な詮索《せんさく》はいらないのだ、と父と母どちらにも似ていない、といわれつづけてきた美沙子はふと苛立《いらだ》った。  母親は今年五十になったはずだった。そして、と美沙子はアルミの灰皿をかわいた雑巾で丹念に拭《ふ》きながら、いとこの茂行の齢をかぞえた。三十一になったのだなとおもった。  茂行とはもうずっと会っていなかった。彼は大学卒業後、一流企業に建築設計技師として就職し、実家のあるこの街からはなれていっていた。結婚したという話は耳にしていなかったが、美沙子が家をあけていたこの一年のあいだに落ち着いたとしても不思議ではない年齢だった。母親同士が姉妹のせいか、茂行は実の母よりも、そして娘の美沙子よりも美沙子の母親そっくりだった。脳裡《のうり》にともったその顔を、美沙子はこれまで自分の日々の猥雑《わいざつ》さでゆっくりと圧《お》し潰《つぶ》していった。  翌日、月曜日の正午《ひる》まえ、美沙子はバスに乗り、六年前に訪れたきりになっている老獣医のもとへむかった。  空はきのうの晴れやかさを失って灰色に垂れさがり、冷たい秋の風がななめに吹き渡っている。バスの窓から、紅《あか》く色づいた樹々の葉がつぎつぎと風にさらわれ、散ってゆくのがみえた。  バスを降り、ふいに顔に捲《ま》きついてきた風のひややかさをふっ切るように、美沙子は足早に診療所への道を歩きはじめた。  ちいさな鈴《ベル》がとりつけられた滑りの悪い戸に手こずり、軋《きし》ませながらようやく開けたそこは、以前と同じにすぐさま診察室となっていた。剥《む》きだしのコンクリート床が寒々と広がっている。部屋の真ん中には黒いゴム敷きの診察台。左手にはカルテなどの書類や紙|挟《ばさ》み、鉛筆立て、聴診器などが載っている古い木製の机、そして椅子、診察室と住居との仕切り扉の手前には男物の革靴やサンダル、ゴム長靴がきちんと並べてあった。  だれもでてくる気配がない。美沙子はふたたび苦心して軋み戸を閉め、それからゆっくりと部屋のなかをみまわした。  六年前のここはもっとがらんとしていた。わびしさに肌寒さをおぼえるほどだった。だがきょうの印象は少しちがっている。  ああこれのせいか、と美沙子の視線は真新しい白い一台の器具に気づいた。なんのためにどのようにして使うのか、その白い胴体には二本の長い脚がいかめしく折りたたまれている。黒い何本ものコードが幾重にも捲きついている。机のそばには観葉植物の鉢が三個並べられ、そこからのてらてらとした濃い緑の活気も室内をなごませていた。部屋の右側には、青いペンキ塗りのかまぼこ型の容器が五個置いてあり、近寄ってゆこうとすると、けたたましい犬の鳴き声が飛んできた。それに呼応して、まのびした猫の声も伝ってきた。 「どうもお待たせいたしまして」  声のするほうにからだの向きを変えると、白衣姿の四十がらみの男が血色の良い頬《ほお》をほころばせ、柔和な笑顔をみせて立っていた。美沙子は予想外のことに愕《おどろ》き、それからうろたえ気味に老獣医のことを尋ねた。 「ああ家内の父親ですね。この夏にとつぜん亡くなりまして。ええずっと心臓が悪かったものですから」  獣医は愛想のよい口調で応えながら、折り畳み式のスチール製の椅子を運んできて広げ、美沙子に坐るよう掌ですすめ、自分も机にむかって腰をおろした。  美沙子は促《うなが》されるままに、サスケの病状やここへ連れてきても無駄であったかつての状態などを告げた。獣医はカルテに書きこみをしながら、如才ない相槌《あいづち》を忘れなかった。糊《のり》の利いた清潔な白衣の裾《すそ》からでているズボンの折目もきれいに尖《とが》っている。  獣医は二、三の質問を済ませるとたばこに火をつけ、犬の皮膚病の種類の多様さなどの説明をのんびりとはじめた。それは世間話を紡《つむ》いでゆくような悠長《ゆうちよう》さだった。笑顔も絶やさない。最後のしめくくりとして彼は言った。 「……ところで何日分のお薬をさしあげましょうか?」  とっさに美沙子はまごついた。人間相手の医者ならこんな問いかけはせず、症状にみあわせてむこうからあっさりと日数分の薬を与えてくれるはずだった。美沙子はちょっと考え、十日分、と応えた。そして、飼い主の思惑《おもわく》ひとつで、そのいきものを生かしもすれば見殺しにもできるのだな、とごく当りまえのことをあらためておもった。  帰宅するとすぐに美沙子は、たったいま買い求めてきた魚肉ソーセージのなかに薬を仕掛けた。二種類のを二錠ずつ合計四錠、一日一回飲ませればよかった。  サスケは眼を輝かせ、美沙子の掌のうえのちいさな塊にとびついてきた。  サスケのくちが慌《あわただ》しくうごめき、咽喉《のど》もとがこくりと上下する。するとくちの端から白い錠剤がまるごと地面にこぼれ落ちてきた。次のも同様だった。結局、四つの錠剤はいずれも失敗に終った。  サスケの食事は日に一度、四季を通して暮れどきに与える習慣となっていた。美沙子は、空の色が変りかけてくるのを待ちかねて、その食事のなかに錠剤を砕きいれた。  三十分ほどしておもてへでてみると、容器の中身は半分にも減ってはいない。しかも、そのそばには飯粒と一緒に薬の破片が二つ転がっている。サスケは地面のうえに力なく腹|這《ば》いになり、揃《そろ》えた前肢に顔をのせたまま、怨《うら》めしそうなまなざしで美沙子をみあげた。尾を振りさえしない。美沙子のたくらみにかなり打ちのめされた様子だった。  それ以上サスケを責めたてるのは忍びがたかった。美沙子は家のなかに戻って散歩用の紐《ひも》を持ちだしてきた。夕暮れどきのあてどない散策は、サスケを飼いはじめてからの日課となっている。サスケは赤革の紐をみると弾かれたように起きあがり、快活なまなざしとなって、おもむろにからだの屈伸運動をしはじめた。  きまった道順のない、歩調もごくゆるやかな散歩は、いつもサスケが道案内者だった。この一年間、おそらく満足に散歩もさせてもらえなかったにちがいないサスケは、飢えたように叢《くさむら》に鼻づらをうずめ、なにかのにおいのしみついているらしい小石にしきりとこだわり、路上の色あいやくぼみにひとつひとつ眼をまるくして、飽きることがなかった。歩みは遅々《ちち》として進まない。風の冷たさもいちだんとましてきたようだ。が、美沙子もまた頭のなかをからっぽにして、時間の枠のそとへとめどなくはみだしてゆく歩行者だった。  あくる日は朝からはげしい雨だった。雨音で眼をさました美沙子は、ガウンをまとい、犬小屋の様子をみにおもてへでた。風を伴った横なぐりの雨に、犬小屋のなかもかなり濡《ぬ》れていて、サスケは奥のほうでちぢこまっている。  サスケを玄関の三和土《たたき》に招きいれ、ふたたび二階にあがって枕もとの時計をみると、午前六時になるところだった。美沙子はもういちど寝床に横になった。風邪気味なのか頭が痛く、からだがだるかった。  幾度か目ざめながらも、浅い睡《ねむ》りの川を漂いつづけていった。夢に追われて、鋭く叫んだときもあったようだった。極彩色の夢のなかにサスケが現われてきて、はじめてことばを喋った。美沙子は歓喜した。サスケは綿々となにかを訴えて、その内容は忘れてしまったが、ききながら美沙子ははげしい哀しみにとらわれていた。哀しみの強さで目ざめた。泣いていたらしく枕が湿っていた。時計を覗きこむと夕方の五時をすぎている。雨音はまだつづいていた。  美沙子は寝床をはなれ服に着換えると、すぐにサスケの食事にとりかかった。薬を混ぜいれるかどうかしばらく迷ったが、耳の状態を考えると、余計なおもいは消し飛んだ。空腹になれば、いずれたいらげてしまうだろう。根気よく待つつもりだった。  窓のそとが闇《やみ》になっても雨はやまなかった。食欲はなかったが、パンを焼き、牛乳をあたためて夕食の区切りとした。食後、サスケの排泄《はいせつ》のために、傘をさし、十五分ほど近辺を歩いた。ひと雨ごとに秋の気配は濃くなっていた。路上におびただしい落葉が貼《は》りついていた。  とらえどころのない永い夜を、美沙子はテレビを観るのに費《ついや》した。茫洋《ぼうよう》とした闇の深みにむけて心を昂《たか》ぶらせたくはなかった。さまざまなおもいを闇のひと色に塗りこめてしまうことは、まだできそうにもなかった。  その夜も母親からの電話はなかった。  十一時をすぎ、テレビを消して二階へあがるまえに、三和土のところにいるサスケの姿を覗いてみた。サスケは睡っていた。食事にはくちをつけていないようだった。  二階の部屋の窓のカァテンを引きかけて、美沙子はふと、はげしい雨脚の隙間《すきま》にともっている遠い家々のあかりに眼が吸い寄せられた。窓ガラスに当る雨のしずくに視界は揺れさざめきながらも、美沙子の眼には、それらはくっきりとした位置を保って、間然《かんぜん》としたところのないたしかなものとしてみえた。  美沙子は窓際に佇《たたず》みつづけた。家々の窓あかりにみとれた。  あかりの内側には必ず暖かなもの、心なごませ充たすものがあるとおもいたかった。ひとつの窓のかたちほどのつつましやかな、それでいてしっかりとむすばれてゆるがない団欒《だんらん》があると信じたかった。  かつての美沙子はあるとおもった。あるはずだと信じていた。  美沙子は自分をしっかりと呑みこんでくれる窓がほしかった。窓あかりのこちら側に佇むのではなく、むこう側に入りこみたかった。そうした窓を、愛する者とともにつくりたかった。  美沙子はひとりの異性にめぐりあったとき、そこに完璧な信頼を求めた。求める心のはげしさと性急さは、容赦《ようしや》がなかった。求めれば求めるほどに、些細《ささい》な事柄に拘泥《こうでい》し、相手がそれをはぐらかした瞬間から、どす黒い猜疑《さいぎ》心があたまをもたげてきた。そうなると事態は混乱する一方だった。信じたい、が、信じられない。美沙子が狂的な渦の勢いに喘《あえ》いでいるとき、その相手は必ずその猜疑心の強さにうんざりとしたため息を洩《も》らした。 「どうして信用しない、どうやったら信じてくれるんだ?」  その返答として、美沙子は一度だけおもわず口走ってしまったことがあった。 「どうして信じさせてくれない!」  もちろんそのとき相手は、ほとほと愛想がつきたという表情で、美沙子をみはなしてしまった。  完璧さを求めすぎる緊迫した余裕のなさ、どうしようもないほどの猜疑心の強さ、このふたつはどの男《ひと》も指摘した。美沙子の病的な欠陥《けつかん》だということばも申し合せたように一致していた。「こいつがきみのほかの面での良さをすべて帳消しにしてしまう」そして、いつのときの訣《わか》れもこのふたつが原因となって、相手が去ってゆくか、美沙子自身が逃げだすか、のかたちとなっていた。  これは生まれながらの性質だ、と美沙子は焦慮《しようりよ》する。加えて、ひとつの傷が自分をながいあいだ蝕《むしば》んできているともおもう。傷は、十数年間も膿んだ傷口をひろげていた。猜疑心の毒素を繁殖《はんしよく》させていた。  わたしのほんとうの父親はだれなのか。  その疑惑を抱かせるきっかけとなった黄ばんだ一葉《いちよう》の写真は、もはや母親の和箪笥の抽斗《ひきだし》の底からは失せていた。それはみず色の袱紗《ふくさ》にくるまれた紫水晶の数珠《じゆず》のしたに隠されてあった。ナフタリンのにおいがしみこんでいた。みつけだしたのは中学生になったばかりの春だった。写真の男の目鼻立ちが、鏡を覗いたときのように自分にそっくりなのにまず意表を衝《つ》かれ、ついで、だれにも似てないといわれてきたけれどこの人に似ているじゃないか、と嬉《うれ》しさと安堵《あんど》感につつまれたのをおぼえている。だが、なぜこんなところに隠してあるのだろうか、ふいに奇妙ないまわしさを嗅ぎとって、いそいでそれをもとの位置に伏せ置いた。それから十三歳の美沙子は、家に古くからある何冊かの写真のアルバムを繰ってみた。父方母方のおじおばのうちで早くに亡くなった者とか、遠縁の者の写真ではないかとおもったのだ。男の顔はどのページにもなかった。一縷《いちる》ののぞみはふっと断ち切れた。あの写真のことはだれのまえでもくちにしてはいけないのだ、本能的に皮膚を走り抜けていった感覚だった。日を経て、もういちどたしかめたい欲求をこらえきれず、母親の留守をねらって探ったとき、それはもうそこにはなかった。  その日から二カ月後、美沙子は自分の裡のおんなの証《あかし》をみた。父親から遠くなり、そのぶんだけ母親に近づいてしまった自分が、ひどく穢《きた》なく感じられた。あの写真の男も穢なかった。屈託した気持を察してもくれず、むしろいつまでも|ねんね《ヽヽヽ》のままだとからかって、これみよがしに出来合いの赤飯を買い求めてきて食卓に並べる母親を、美沙子はうまれてはじめて淡く憎んだ。  これまでの歳月、美沙子は母親との距離をとらえきれなかった。焦《じ》れつづけてきた。なぜひとちぎりの風景として眺められないのだろう。けれど、 「きみは、きみがきらっているという母親とそっくりなんだな」  と、つい最近までともに暮していた相手からそう言われたとき、美沙子のからだは凍った。はげしい言い争いの途中でのことばだった。その男は、美沙子の母親と会ったことはない。男が言外に匂わせていたのは、これまでの美沙子の異性関係のおびただしさ、つまり、だらしのなさだった。  美沙子自身は、自分をそのようにおもったことはなかった。その考えから巧みにのがれていた。いずれの場合も真剣だった、懸命だったということばをもって盾としていた。いいのがれや弁解とすら感じないように自分を仕向けていた。だが、そのことばをはずしてしまったとき無言の曖昧なわらいや開き直りの貌《かお》を嵌《は》めこんだとき、そこに佇立《ちよりつ》しているのは美沙子なのか、母親なのか、区別はつかなくなるのだった。陰と陽の二面をひるがえしながら風に揺れる一枚の葉。そして、その一枚の葉の姿を視たとき、なぜかとつぜんその男への|執 着《しゆうちやく》が切れた。  美沙子は窓辺に立ちつづけ、遠い家々の窓あかりから視線を戻した。銀の雨の糸を織り込まれている間近な闇のなかにこれまでの男たちの顔が憶い返された。どの男にもあの写真の男の面影がどこかに宿され、その奥に美沙子の顔が浮かび出る。  雨のあがった翌日、その次の日、そしてきょうを含めると、これで五日間、サスケは薬を飲むのを拒みつづけている。  魚肉ソーセージのかわりにハムを使っても、舌先で薬だけよりわけて地面のうえに吐き捨てる。冷飯に、魚のあらとその煮汁を混ぜあわせ、砕いた薬を忍ばせておいても、ごつごつとした|あら《ヽヽ》だけをわずかによりすぐって食べ、そのほとんどは残してしまう。夜更けておもてへでてみると、たっぷりと汁を吸いこんだ容器のなかの飯粒は玄関の燈《あかり》のもとに眠っている。  病状の進み具合はめざましかった。この一日二日のあいだにも耳の外側の毛は脱けはじめ、それを待ちかねていたかのように、膿《うみ》が湧《わ》きだしていた。耳のまわりの皮膚に手を触れてみると異様な熱さを帯びている。気のせいか、サスケの動作も緩慢《かんまん》となり、地面から立ちあがったり、小屋からでてくるのさえ大儀そうにみえる。薬に神経質になっているばかりではなく、多少の異物感など気にとめてはいられない、といったかつての旺盛《おうせい》な食欲も、耳の病のために減じているのかもしれなかった。  夕暮れどきの散歩だけは、気晴らしになるのか、尾を振り、みずから勇《いさ》み立って、小路から小路へと美沙子を引きまわしてゆく。人肌にはうすら寒く感じる秋の宵の風も、サスケの病み火照《ほて》っている耳には、快い冷たさなのだろう。  だが、きょうからの散歩は陽がすっかり落ちてからにしなくては、と美沙子は、読みかけの書物から眼をはなし、二階の部屋の窓から、暮色をとけこませた空を眺めた。  昨日のことだった。散歩の途中、道端で買い物|籠《かご》をさげて立ち話をしていた二人の若い主婦のそばから、三、四歳の男の子が駈け寄ってこようとしたのだった。「あっ、ワンワン!」と男の子は弾んだ声を張りあげ、まるで自分の仲間を見いだしたような喜びいさんだ表情と足どりで寄ってきた。頬の豊かな子どもだった。美沙子とは同年輩とみえた母親らしき女性は、お喋りをつづけながら眼で子どもの姿を追い、そしてちらりとサスケをみた。「汚ない!」と主婦は叫ぶと同時に走り寄り、子どものズボンの背中のつり紐を強くとらえた。主婦は、サスケを連れた美沙子に険《けわ》しい一瞥《いちべつ》をむけ、すぐさま子どもの顔を覗きこみながら、小声で叱《しか》りつけはじめた。「汚ないでしょう? 病気が移ったらどうするの? いたいいたいになってお注射しなくちゃならないのよ。お注射、いやでしょ、だったら、ほらちゃんとママのそばにいなさい」  美沙子はそのときだけサスケに先立って、小走りにその場を通り抜けた。主婦の懸念《けねん》も、汚ないということばももっともだった。サスケの耳のくずれは、もはや隠《かく》しようもない部分にまでひろがっていた。しかも、美沙子がどれほどのおもいを傾けても、サスケは犬だった。だれも美沙子の子どもと認めるはずがない。明日からの散歩は暗くなってからにしよう、人影のない通りにようやく抜けでてから、美沙子はおもった。サスケの気に染まなくとも仕方がない。  書物に読み耽《ふけ》っている美沙子の耳に、サスケのせわしげな吠え声が飛びこみはじめた。  鳴き声は容易に鎮まらない。  美沙子が玄関の戸のそとへでてみると、サスケはふつりと吠え立てるのをやめ、美沙子の手もとを探るようにみつめ、それから苛立《いらだ》ったように跳びまわりだした。散歩の催促《さいそく》、と知れた。この数日間の規則正しい散歩の時刻を、陽の翳《かげ》り具合によっておぼえこんでしまったらしい。  サスケは肢踏みを繰返し、当然のことのように美沙子を促《うなが》しつづけてくる。散歩は、サスケにとって唯一の愉しみであることはわかりきっている。だが、これからも、いや、きょうにでも、昨日のような他人の険しい一瞥に遭遇しないとは限らない。あの主婦のまなざし──たかが犬一匹を我子のように溺愛《できあい》している、もう若くはない女の滑稽《こつけい》さやわびしさや貧しさを見透していたような眼。犬にばかり愛情を注ぎ、また気持のよりどころを一匹の犬にしかみいだせないような風変りな在《あ》り方を咎《とが》めていたような視線。  サスケはなぜ薬を飲もうとしないのか。病んだ耳を治し、せめて普通の健康な状態をとり戻そうとはしないのか。 「おまえは犬なのよ。人間の子どもとちがって病気持ちの犬なんて嫌われるだけなのよ。それでなくともこのごろは犬なんていやがられているのに」  サスケは美沙子の苛立つ語勢にびっくりし、やがて自分が叱られ、そしられていると悟ったのか、振りあげていた尾を垂れさげ、しょんぼりとその場に腰を落した。  いやだ、と美沙子は胸のなかで叫んだ。いまのヒステリックなことばはもちろん、あの主婦の一瞥に対し殊更《ことさら》に被害妄想気味になって卑屈に心をねじ曲げている自分も、そうおもいながらもなおもサスケばかりをみつめてしまう自分もいやだった。昂ぶった感情は、眼の奥にまでこみあげてきて、熱く小刻みに震えていた。視界がかすんでゆく。美沙子はそのままそこにしゃがみこみ、両掌で顔を蔽《おお》った。 「おまえに当るなんて、いやな女ね」  ひとしきり泣いたのちの気持は、すっかり居直っていた。こそこそと夜陰《やいん》にまぎれこむことなどない、だいいちサスケにはしっかりと紐がゆわえられている。自分が気をつけてさえいれば、他人には迷惑をかけないはずだ。できるだけ人と会わぬように、気を配って歩いてもいる。もし偶然にも出会い、目障りだと言う人がいるなら、きのうのようにあっさりと走り抜けてしまえばいい。  人通りのない道を歩きながら、昨日会った男の子の姿が憶い出されてきた。頬のみのりきった、堅太《かたぶと》りの元気そうな子だった。かつて身籠った子をうんでいたなら、あの子ぐらいにはなっていただろう。だが、当時の美沙子には、すでにあの窓あかりの内側への憧憬《しようけい》があった。どこにでもある平凡な、落ち着いた、そして対世間的なうしろめたさなどひとかけらもない、怯《おび》えるときのないあかるさ。相手の、子を持つことについての思惑はどうであったにしろ、わたし自身もまた、そうしたのぞみをまっとうしたいがために、あの子を葬《ほうむ》ったのだ。  あれからあとの歳月のなかで、そののぞみは一体どうなったのか。依然として一年先、いや半年先も視えない生き方をしている自分に、美沙子はうなだれた。  いとこの茂行が訪ねてきたのは、翌々日の日曜日、午後三時すぎだった。  二階で洗濯物にアイロンをかけていた美沙子は、玄関先に車の停まった音と玄関の戸の開けたてのひびきを耳にして、慌《あわ》ててアイロンのスイッチを切り、階下へ降りていった。  茂行はすでに靴を脱いで廊下にあがり立ち、茶の間へと歩きかけているところだった。  あらっと美沙子はおもわず口走り、茶の間への仕切り戸に手を触れかけていた茂行がびっくりして振り返った。  短い空白ののち、最初にくちを切ったのは茂行からだった。彼は愕《おどろ》きを押し止めかねているようなかすれ声で、嫁にいったのではないのか、それとも実家《さと》帰りなのかときいてきた。美沙子はかぶりを振りながら笑い返そうとしたが、上手《うま》くゆかなかった。その場のぎこちなさをはぐらかすように、美沙子は茂行に先立って茶の間へとすすみいった。 「おばさんは?」  茶の間にはいると、茂行は馴《な》れた手つきで座蒲団を引き寄せて胡座《あぐら》をかいて坐り、ツイードのジャケットのポケットからたばこの箱とライターをとりだして、それを扱いながら言った。  美沙子は急須を傾けながら、旅行にでかけている、とだけ応えた。茂行はたばこをくゆらしながら、おばさんはあいかわらず優雅に暮してるのか、といったようなことを呟き、その感心したようなあきれ返ったような口調には、母親の異性関係についても知りつくしているような気配が匂いでていた。咎めている様子ではなさそうだった。美沙子は茶器に手を添えながら、上眼遣いにちらりと茂行をみた。部屋のなかをみまわしている横顔が、長火鉢のむこうにあった。やはり美沙子の母親によく似た輪郭《りんかく》を持つ顔だった。  美沙子が差しだした緑茶を、茂行は、咽喉《のど》が渇いていたといって、うまそうに飲んだ。盛大な音を立ててすすった。多勢《おおぜい》の人前ではけっしてこのような飲み方はしなかった彼を憶い出し、その記憶のほつれに従って、美沙子はようやく目前に坐っている、自分にとってはじめての異性だった茂行をまじまじと眺めはじめた。  長身のすらりとしたからだつきは以前と少しも変っていなかった。眼尻の皺《しわ》はあのころより刻まれ方が深くなってはいたが、それがかえって眼もとを翳《かげ》らせ、ほど良い愁いを漂わせていた。頸《くび》から肩にかけての線が太く、強くなっていた。かつての拗《す》ねたような、投げ遣《や》りな感じは、その剥きだしの尖った部分を磨《みが》き落し、ふてぶてしさと気怠《けだる》さの混り合った雰囲気に変っていた。  いったい、いつごろどのようなことがあったのか、美沙子の小学校の夏休みの宿題であった昆虫採集のため、大きな虫捕り網を振りかざして駈けまわり、膝《ひざ》小僧を真黒にして張り切っていた少年が、ある日ふいに、疲れはてた埃《ほこり》っぽい匂いを撒《ま》き散らすようになったのだった。鋭い皮肉屋にもなっていた。が、茂行は美沙子にだけは変らぬやさしさと心遣いを示してくれた。茂行に惹かれたのはそのやさしさなのか、あるいはやさしいまなざしの下に潜んでいた悖徳《はいとく》的な匂いに、若い女特有の関心がそそられていったのか、いまでは憶い出せなかった。いま、二十七歳の美沙子は、そのかつての相手を目前に据え、これまでのどの男《ひと》よりも、いちばん|みえ《ヽヽ》の良い人だと、とっぷりと鑑賞しているだけだった。 「ほんとに結婚したのじゃなかったのか? おばさんからはそうきいていたが」  茂行は、からの茶碗を茶卓に戻しながら、真顔になって尋ねた。 「ちょっと駈け落ちしてみただけ」  何気なく言ったつもりだったが、その口調がどのように茂行の耳に触れたのか、彼は一瞬、表情を暗く歪《ゆが》ませた。 「……変ったな、美沙ちゃんも。ま、随分《ずいぶん》ながいあいだ会っていなかったから当然なんだろう。いくつになった?……そうか、二十七か。子どもの一人ぐらいいてもおかしくない齢だ。ところでほんとに相手はいないのか?」  美沙子は頷《うなず》いた。そしてふたたびくちを開くと、なぜかさっきと同じ冗談めかしたような、揶揄《やゆ》的なことばしかでてこなかった。 「わたしの場合ははじめが良くなかったせいか、あれ以来雪だるま式にだめなことばかりの連続なの。もういい加減に生臭いことからは足を洗ったほうがいいみたい」 「それは嫌味か? 当てつけか?」  茂行の顔が苦々しく引き攣《つ》った。  そしてたばこのけむりを勢い良く宙に吐きあげてから、独言のようにして呟いた。 「いろいろと揉《も》まれてきて開き直りのテクニックもおぼえたわけか」  とっさに美沙子は視線を膝のうえに落した。この人はわたしたちのあいだに芽生えた子のことを知らないのだ。それから眼の位置は徐々にずりあがり、何十年も使われてきたという長火鉢の縁に移りとまった。まなざしは、更に火鉢のうえの鉄瓶《てつびん》のくちにまで引きあげられた。そして、そこからかげろうのように立ちのぼっている湯気のゆくえを追った。  美沙子と関わってしまってからの茂行は、にわかにその事実に怯えだし、いとこ同士ということにこだわりはじめたのだった。母親同士の血が繋《つなが》っているいとこというのは、ほとんど兄妹と呼びうる近さであるとか、そのあいだにうまれてくる子どもの知能は、優・劣いずれか、極端に二分されがちだとか、世間体がどうのこうのといったことばかりをくちにしつづけた。美沙子はそうした茂行の一面が意外だった。そして自分たち二人の将来については一言も語ろうとしない茂行に焦《じ》れた。親たちの反対や世間体など跳ねのけて、子どもはつくらない、とたがいに了解さえすれば事は簡単だった。茂行にその決断を求めながら、そのことばで自分を捲《ま》きとってくれることをはげしく期待しながら、美沙子自身のほうから茂行にぶつかってゆく勇気は持てなかった。相手をそう仕向けて悔いはないとは言いきれなかった。茂行が抱いているさまざまな不安やうしろめたさは、美沙子の胸のなかにも嵩《かさ》高く積っていた。そうしたおもいを最初にくちにしはじめたのは茂行ではあったが、もし彼がいつまでも楽天的な無言で通していたなら、おそらくわたしのほうからねちねちと切りだしたにちがいない。それは間違いがないと美沙子は自分の勝手さを感じながらも、茂行の態度には不満が残った。多分、と美沙子はいまになっておもう、茂行もまた、わたしの毅然《きぜん》とした振舞いやわたしの側からの勁《つよ》い決意を待ちのぞみ、そう仕向けられるのを心待ちしていたのかもしれない。 「いまになってみると、あのころのわたしたちはどんなふうにもなりようがなかったのね」  遠くへむけていた視線をたぐり寄せてくると、目前に茂行のやさしいまなざしが待ち受けていた。美沙子はふいに決まりの悪さをおぼえた。いまの自分のことばが、二人のまわりに湿った余韻《よいん》を漂わせてもいる。美沙子は慌《あわ》てて、機械的に上下の顎《あご》と舌を動かしていた。 「でも遺伝についてだけは、大学受験生なみの特訓を受けたわ。すべて耳学問だったけれども」  また当てつけのような口調になってしまった、と美沙子は苦い気持に陥《おちい》った。いつからこんな対応の仕方をおぼえたのだろう。母親にはけっして使ったことのない声音であり、態度であった。それにもし使っていたなら、耳ざとく癇《かん》を立て、容赦なく指摘してくるのが母親の気性だった。これは茂行だからなのか、あるいは茂行に限らず、かつて関わりのあった男たちいずれに対してもむやみに肩を張ろうとする構え方なのか、相手からの同情や好奇心を振り払って矜持《きようじ》を保とうとする心の、歪んだあらわれ方なのか、それともすべての異性に対して、もはやこのような実《じつ》のないことばを飛ばすだけの対応しかできなくなってしまったのか。  うっとうしい気持を払いのけるようにして、美沙子は言った。 「ほら、わたしたちと同じパターンのご夫婦がいると言っていたでしょ。畸型児《きけいじ》がうまれたとかいう。そのお子さんどうなったの」 「死んだよ」 「そう……」 「ひとつだけききたかったんだが、美沙ちゃんは本気で俺と一緒になりたかったのか」  茂行は二本目のたばこを咥《くわ》えながら言った。 「好きだったもの。子どもがいなくともいいとさえおもっていたわ」ああ、またわたしの舌はゼンマイ仕掛けのように動いている、と美沙子は首をまっすぐに立てたままおもった。 「俺はそのことばをはじめて耳にしたよ。あのころの美沙ちゃんは、いちども好きだなんて言ってくれなかった」  それは実の兄と関係してしまったような恐怖心とうしろめたさに戦《おのの》いていたからなのだ。せめてその一言を胸深く矯《た》めていることによって、ささやかな逃げ道を自分自身に与えたかったのだ。  だが、現在は……と美沙子は、茂行のたばこを挟《はさ》んだ指のしなやかさをみつめた。好きでもきらいでもない、好きか、と問われれば、そうだと頷けそうだったし、きらいか、と尋ねられれば、どこかで疎《うと》んじているような心地にもなりそうだった。茂行のみならず、どの異性にむかっても、そのような反応しか示せないような気がした。それがいまいちばん正直なおもいだった。  ふっとだまりこくってしまった美沙子を、茂行は、過去のつらさを憶い出しているようにでも想像したのか、さり気なく話題を変えてきた。 「今年の春からこっちの支社に転勤になってね、この齢になってまた親父たちと同居しているよ。結婚、結婚とせっついて、うるさくて仕方がない。その点、ここのおばさんはいいよなあ。親は親、子どもは子ども、とはっきり割り切って考えている。すべてに対してそうなんだな。だからときどきここにくるのはストレス解消の意味もあってね。よくご馳走《ちそう》になっている。今朝もおふくろに見合いの話をがたがたきかされて、うんざりしてでかけてきたところなんだ。まったくゆっくり朝寝もできない」 「一度でもお見合いしたの?」 「いや、結婚する気がないからね、最初から罪なことはしないよ」 「でも、もう三十一でしょ」 「齢なんて生きていれば否応《いやおう》なくとってゆくさ。……結婚したくない理由?……そうだな、もしかすると美沙ちゃんとのことがあったからかな」と言いながら茂行は上体をのばしてテレビのスイッチをいれ、チャンネルをまわしはじめた。画面にプロ野球中継が写しだされたところで、彼の手の動きはとまった。  そろそろサスケの散歩の時刻だ、とおもいながら、美沙子のくちは漠然と動きつづける。 「そんなふうなことばで何人、女のひとを口説いてきたのかしら」 「俺だってそうそうこんな殺し文句は使わない。これはとっておきの……」  茂行は視線をテレビの画面に貼りつけたまま、ふとことばを途切らせた。かとおもうと、すかさず画面の三振した打者にむけて舌打ちをし、それからまたことばをつづけた。 「美沙ちゃんのことがあるまでにも好きになった相手はいたけれど、あれ以来、すっかりしらけた心境になってね、どんな相手とつき合いはじめてもすぐに遊びだという気持になるんだな。どうしても本気になって惚れない。どうも俺たちはおたがいに弁償し合わなければならないみたいだな」  茂行はテレビの画面に半ば気持を移しかけたうわのそらの調子で、それでも澱《よど》みなくすらすらと言った。言い流す、といった感じであった。随分と女を扱い馴れているようだ、と美沙子はおもった。 「俺はまあともかくとして、美沙ちゃんみたいないい子がどうして結婚しないのかな」 「ちっともいい子なんかじゃないわ。猜疑心は強いし、ヒステリーだし、陰気だし。つき合った男の人はみんなそういってたわ」 「美沙ちゃんがか?」  茂行はびっくりした顔で美沙子をみた。美沙子は曖昧に笑って頷き返した。 「信じられないな」茂行は低く呟いた。 「俺にはそういう美沙ちゃんは想像できないよ。むかしのままの姿しかない。おっとりとして、素直で甘ったれの。あんまりいい子なものだからだれにもやりたくなくなったんだろうな。そう、あのころの美沙ちゃんはいつも縁側で陽なたぼっこをしているふわふわの、柔らかい毛をした猫みたいだった」  茂行は遠いまなざしになっていた。  過去の情景が際限もなく蘇《よみがえ》ってきそうな気配に、美沙子はいそいで立ちあがった。 「犬の散歩の時間なの」  慌《あわただ》しく廊下に飛びだした美沙子の背に、茂行の声が追ってきた。 「俺はテレビを観させてもらっているよ」  その日の散歩はいつにもまして、とめどなく時間のそとへはみだしてゆくひとときとなった。白樺の黄ばんだ葉群《はむら》のあざやかさも、茜《あかね》色に染まりかけた雲が風に引きちぎられてゆく様も、眼にはいらなかった。 「ふわふわの、柔らかい毛をした猫みたいだった」  茂行のことばが頭のなかでまわっていた。そして、そういう自分はもうどこにもいなかった。どこで失ってきたのか。  母親のこと、父親の面影、茂行との日々、はたちの夏の断片、幾人かの男たちの貌《かお》などが、次々と宙を翔《と》び交った。それらのすべてが現在の美沙子たらしめたものであり、同時にけっしてこのようないまの姿を求めてではなく、むしろより良いものと判断して、美沙子みずからが選《え》りとってきた事柄のほとんどであった。いま、それらは美沙子のまわりを羽毛のように漂い浮かんでいた。そのなかのどれを掴《つか》みとり、自分の内面の太々と育ててゆかなければならない大木の種子として埋《う》めこめばよいのか、美沙子にはみきわめられなかった。どれもが儚《はかな》く、頼りなくおもわれた。間違いだらけではなかったか、美沙子は自分の選択してきたものを、どのようにも誇れなかった。そうしたなかで、唯一、自分の判断をはなれて存在しているのは父と母だった。いや、確実なのは母親だけだった。それは疑えなかった。あの母親からうまれた子ども、これだけは信じられる。とすると……母親と同じ血の色や勢いが、結局、わたしをもっとも支配してゆくのだろうか。美沙子は一瞬茫漠とした気持につつまれた。その血のながれをとめたい、とおもった。もうこれまで充分に支配されてきたではないか。ながれを塞《せ》き止める、その枷《かせ》は、どこに、どうしたら見いだせるのか。美沙子は狂おしいおもいに駆られて中空をみつめた。それは、異性にむかって取り乱してゆく心の傾き方の前兆と同じだった。けれどわたしがいま視つめているのは母親なのに。  ふいに紐の先に重味が加わった。振りむくと、サスケが道端にぺたりと坐りこみ、首をうなだれている。いつもより歩きすぎたのかもしれない、平生の感覚が潮のようにみちてきて、美沙子はにわかに鳥肌立つ風の冷たさを知らされた。それからサスケの横にしゃがみこみ、小声でなにかと話しかけながら、首のまわりや背のひろがりをゆっくりとさすってやった。サスケは上眼遣いに、飼い主の気紛《きまぐ》れを探りあげながら、病んだ耳の内側を巧みに折り隠していた。  西空に真紅《あか》が燃えたぎっている。道の両側に生い茂っている丈高い雑草のむれが、夕風に身を反らせ、ざわめき立っている。  真紅《あか》の塊が溶けくずれてきたのか、西空は濁った血の海に変ろうとしていた。  美沙子は立ちあがり、サスケを励ましながら歩きはじめた。  家に帰りついたころには、隣家との境の低い柴垣《しばがき》のうえにも隈《くま》なく夕闇がのしかかっていた。茂行の車は玄関前に横づけにされたままであったが、家のなかのあかりはかき消えていた。  茂行はテレビをつけっ放しにしたまま、ふたつ折りにした座蒲団に頭をのせ、軽い寝息を立てていた。  美沙子は茶の間のあかりをつけてから、二階から来客用の毛布を運んできた。仰向けになって寝入っている茂行の足もとからそろそろと毛布をかけてゆき、その端を顎の下に収めようとした瞬間、強い力で手首を握りとられ、茂行の胸に引き寄せられた。  二人はしばらく無言で争った。汗だくになるほどの拒絶を返しつづけても、茂行はいっこうに諦めようとはせず、腕の力も弛《ゆる》めなかった。なぜなのか、美沙子は必死に茂行のからだを押しのけようとしながら、絶望的なおもいに眼の奥が真暗になりかけていた。なぜこの人はまたこんなことをしようとするのか、かつてのことに懲りてはいないのか。  茂行は凄まじい力を全身に漲《みなぎ》らせはじめていた。強姦のかたちとなっても恥とは感じないのか、それともわたしがいずれ屈伏するだろうと、この、自分がこの女の最初の男だと知っている男はタカをくくっているのか、あるいはこれほどの抵抗を受けても自分を押しとどめられないほどに飢えているのか。  浅ましい! と美沙子は胸のなかで、おもいっきり叫んでいた。すると、すべてがばかばかしい狎《な》れ合いのようにも感じられてきて、あらがう気力は抜け落ちていった。  好きなようにすればいい、欲望に取り憑《つ》かれた男の滑稽《こつけい》な醜態をみるのは、もうたくさんだった。  汗に濡れたからだをはなした茂行は仰向けに横たわり、充ち足りたため息を深々とついてから、ようやくくちを開いた。 「どうしてあのとき俺からはなれていったんだ?」  その問いかけが煩《うるさ》く頭にひびいた。 「忘れたわ」 「血の繋《つなが》りが怖《おそろ》しかったのか?」 「きっとそうなのでしょう」  そのとき別の怖しさが皮膚に走った。自分のからだに湛《たた》えられている母親の血の勢いを塞き止められるのは、同じ血を分けあっている者以外にはいないのではないか。あくどいものは、それと同じ濃さを持つものによってしか制しきれないのではないか。 「いまもこわいか?」 「こわいわ」美沙子はからだを硬直させて、仄《ほの》暗い宙にむけて応えた。  茂行はからだの向きを変え、ふたたび美沙子を捕えていった。  翌日の夜八時すぎ、はじめて母親からの電話がかかってきた。美沙子がこの家に舞い戻ってきてから九日目の夜だった。  いまどこにいるのか、との問いかけに、母親はとある温泉地の名をあげた。旅先で、持病の神経痛がでて、その治療に利き目があるときいてやってきたのだという。あと二、三週間滞在してから帰るつもりだが、何か変ったことはなかったか、と母親は、神経痛に悩まされているとはおもえない上機嫌さで言った。美沙子はサスケの耳の病のことを尋ねてみた。 「へえ、あたしはぜんぜん気がつかなかった。そうかい、あのサー公、また厄介なものしょいこんだのかい。ま、放っときなよ。そのうちくたばっちまえばせいせいする。あたしはどうもいきもんは虫が好かないからねえ。だいいち不衛生だろ、うちんなかにまで犬の毛が入りこんできてさ、汚ないったらありゃあしない。くたばっちまってから線香の一本でも立ててやりゃあ、それで供養《くよう》になるだろうさ」  母親は、サスケに対する美沙子の可愛がりようは充分知っているはずだった。美沙子は母親の無神経さに腹を立て、そんな言い方はないでしょう、といつになく声を剥きだしに尖《とが》らせて言った。 「しかし、あんただってあいつをずっとほっぽりだして男と暮してたじゃないか。そのあいだ面倒みてやったのは、このあたしだよ。いくら嫌いだといってもみすみす見殺しにはできないからね。ところがあれほど犬ばかだったあんたが、一年間もサー公の顔ひとつみにこなかった。なんやかんや言っても、所詮、犬は犬の分際《ぶんざい》さ」  母親の台詞は胸にこたえた。電話をきり、茶の間に戻ってからも、うなだれた気持は立ち直らなかった。  この一年間だけではなく、憶い出すうしろめたさには、必ず男がからんでいた。男に熱中しているときは、サスケの面倒をみるのはつねにおろそかになっていた。どこかここかで手抜きされていた。擦《す》り寄ってくるサスケを邪険に扱わなかったとも言いきれなかったし、たっぷりと費されていた散歩の時間を早々に切りあげていた日々もあった。ブラシをかけてやるのをずっと忘れきっていた季節もある。  そうした態度がサスケに伝わらないはずはないだろう。特に幼犬のころの、人間の子と変らぬ丹念な世話と、注がれていた愛情のこまやかさ、豊かさが身にしみていればいるほど、なおざりにされたときの淋《さび》しさやうつろさは強いにちがいない。そうした、飼い主の気儘《きまま》さや身勝手さに繰返し遭遇してゆくうちに、サスケもまた期待を抱くことの虚しさをおぼえこんでいったのか──。  薬を拒みつづけているのはサスケの意志なのか、美沙子はふとそんな気がした。もしそうだとしても、今更、サスケの心に巣喰っている不信感や上眼遣いの癖は取りのぞけそうもなかった。期待と失望、不安と安堵、喜びと哀しさが入り混り、迷いつづけながら織りこまれてきたサスケの構え方は、ほつれることのない本能的なひとつの文目《あやめ》におもわれた。きのう、きょうのうちに仕上った文様《もんよう》ではなかった。  耳を病みくずし、薬を拒みつづけながら、食欲も失っているサスケが、いまいちばん希《ねが》っていることはなんなのか、それはかなえてやれないことなのか。  美沙子がぼんやりと暗い思念に憑《つ》きまとわれているときだった。  玄関の戸がけたたましい音を伴って開けたてされたかとおもうと、足音をひびかせて茂行が茶の間に現われた。眼のすわった、あかい顔をしていた。  茶をくれ、と言いながら、茂行は酒臭い太い息を吐き、足もとをよろめかせて胡座《あぐら》をかき、ようやく腰をすえた。  美沙子は殊更《ことさら》な無表情さで番茶を淹《い》れはじめた。茂行の粘りつく視線に気づいたからだった。だが、それもまた気に喰わなかったらしい。 「俺がここにくるのはおもしろくないのか」と酔っぱらった男はからみはじめた。からむきっかけはどこにでもあり、どのようにもつまみとってこれた。  美沙子はだまっていた。急須を傾けながら、かつて酒乱に近いほど酒癖の悪かった男と関わっていた一時期のめまぐるしさを憶い出していた。その男は素面《しらふ》のときはいたって気が弱く、どっちつかずのやさしさが、結局は相手も自分も振りまわしてゆく結果となっていた。  茂行は差しだされた茶には眼もくれず、堰《せき》を切ったように、美沙子への罵倒《ばとう》を言いつのりはじめていた。  おそらく昨日のことが負い目になっていて、相手をおとしめることによって自分との均衡《きんこう》を保とうとしているのだろう。負い目の重さのあまりに酒を飲まずにはいられなくなり、そして酔ってくると更に気持はねじりあげられてゆき、収まりのつかない情態をどこかにぶつけなくては済まなくなる。  美沙子は目前の男をみながら、少しの同情も哀れさもおぼえなかった。むしろ、この人はきのうよりもっと醜くなっている、とおもった。この醜ささえみせてくれなかったなら、自分はもっと救われるのか、あるいはもっとふっ切れないしこりが残ってゆくのかはわからなかった。ただ、かつての美沙子自身の狂態に似ていることはたしかだった。  茂行が、おもいつく限り、ありったけの罵詈雑言《ばりぞうごん》を叩きつけても、美沙子はひるまなかった。どのようなことばも、いつであったか、どの男かによって言われている記憶があった。  最後に茂行は、どうしてまたこの家に帰ってきた、と鋭く声を放った。わたしもこれと同じようなことを言った日があった、と美沙子は寒々とした気持に陥った。「どうして信じさせてくれない!」その一言が、いまの茂行のことばとともに、受けとめてくれる者のないままに、ゆるゆると広がってゆく。  いずれのものとも分ちがたい、混濁した血の匂いが、部屋のなかに充満していった。  あくる日は朝から見事な秋晴れの空だった。天気予報では、こののどかな空と気候は四、五日つづくとのことだった。  正午《ひる》まえ、美沙子は掃除を終えた後、サスケに仕掛けをしたハムを与えてみたが、やはり薬だけをより分けて吐きだした。  サスケがハムを食べつくしてから、地面のうえに転がっている四つの錠剤を拾いあげ、掌にのせてサスケの目前に差し示してみせた。 「なぜ飲まないの。耳が治らないのよ。それともそのまま耳が駄目になって死んでしまってもいいの」  サスケの瞳《ひとみ》が快活にうごめき、ふと笑ったような気がした。たしかに笑った、と美沙子はおもった。  そのとき狭い庭のどこかで騒がしい音がして、顔をあげると、鳩に似た形と大きさの黒っぽい羽毛の鳥が三羽、中空に舞いあがっていった。サスケはそれを追った。鎖のながさいっぱいにまで走りゆき、それから、鳥たちのしだいに遠のいてゆく姿をじっと見送りつづけた。 「あんなふうにおもいっきりとんでみたいの?」  サスケは振りむきもせず、空の彼方をみあげている。  美沙子も青のきらめく空を仰いだ。やはり半年先の自分の影さえ視えなかった。  その日の夕方、しばらく迷いあぐねたすえ、サスケの食事にはもはや薬は混ぜいれなかった。そのことを見透しているかのように、そして美沙子に了解した気持を伝えるかのように、サスケは容器の中身をわずかに食べてみせた。散歩にでかけ、戻ってくると、サスケはふたたび容器に鼻をいれ、残りもすっかりたいらげてしまったのだった。  夜に茂行からの電話があった。くぐもった声の主は、神妙に昨日の醜態を詫《わ》びてから、明後日の夜そちらへいってもかまわないか、ときいてきた。昨夜のようなそうぞうしさはもうまっぴらだった。が、すげなく断ったとしても、茂行はまたもやアルコールの力をかりてまでして、押しかけてきそうな予感がした。どうぞ、と美沙子は短く応え、ちょっと用があるからと言って電話を切った。もちろん、それは嘘《うそ》だった。  美沙子は浴室へゆき、風呂の火をつけた。ガスの青白い円筒形の炎が風呂の釜とつながると、浴室の水垢《みずあか》の臭いとガス特有のあまい臭気とが溶け合って、妙にかぐわしい匂いを漂わせ、美沙子を陶然《とうぜん》とさせた。儚《はかな》い夢のような匂いのなかにおもいきり心を解き放ち、味わいつくしてから、茶の間へ戻った。  テレビの画面にはさっきと同じホーム・ドラマが展開されていた。筋書きはほとんど頭にははいっていなかった。盛りだくさんの色彩だけが、愉しめた。  木曜日の夜八時すぎ、約束通りに茂行は訪れてきた。夕食は済ませてきたといい、熱い茶を欲しいと言った。そとは雪でも降りかねない寒さだという。  そういえばきょうの夕方、雪虫の大群がしぐれのように翔び交っていた、美沙子は散歩の途中の出来事を憶い出した。空はうるんだような灰青色で、まだ陽ざしは翳っていなかったから、雪虫は空の色に紛れこんでいて、美沙子はそれとは気づかずにそのおびただしさのなかに歩みいってしまったのだった。すると、つぎつぎと顔やセーターに貼りついてくるちいさなものがある。セーターの袖《そで》口のところでもがいているそれをつまみとってみると、薄い、青白い翅《はね》を持つ、胴体の黒い虫だった。顔面にひっきりなしに吸い寄ってくるそれを指先で払うと、指の腹に点のような黒いしみが残る。可憐な翅の色は跡かたもなく潰《つぶ》されてしまっている。雪虫は眼のなかにまで飛びこんできた。淡い異物感をおぼえ、眼をこすると、指にくっついてでてきたのは、頭も腹も肢もばらばらに崩れた墨のしずくのような残骸だった。虫はサスケの背のあちこちにも、草の葉にとまる蜻蛉《とんぼ》のようなのどかさで、色づいた翅を仄《ほの》かに震わせていた。散歩から帰り、洗面所へ手を洗いにいって、何気なく鏡を覗いた。ななめに垂らした前髪の端からでている額に、雪虫が一匹、残っている。ふっと前髪を振りあげた一瞬、美沙子は戦慄した。垂らしていた前髪の陰に、産みつけられた昆虫の卵のような黒いものがびっしりとはびこっていた。  ああいう返礼の仕方もあるのだな、と美沙子は、茂行の注文の番茶を淹れながらおもった。自分の身ひとつでは、どうしても相手に打撃を与えられないとき、せめて数を恃《たの》もうとするやり方──。  茂行は差しだされた茶をすすりながら、そのぬくみに安堵したような気楽な調子できいてきた。 「美沙ちゃんとしてはやはり俺と結婚したいのだろうなあ。こうなった以上は」 「わたし?……さあ、どうなのかしら」 「俺たちが結婚するとなると、まわりがうるさいだろうが……」 「かなり面倒でしょうね」 「それをおもうとうんざりだ」 「あなたはどうなの?」 「俺か……俺は美沙ちゃん次第だろうな」 「じゃあこのままでいいのじゃない。面倒なことは考えないでおきましょうよ」  その返答は茂行にとって意外であったらしい。茂行はにわかに表情を変えた。納得のゆかないような、不満のような、疑うような、そして眼もとがほっとしたように和《やわ》らんだような。  やがて茂行はあまりの呆気《あつけ》なさに心もとなくなったのか、ほんとにそれでいいのか、と繰返し念を押してきた。そのたびに、美沙子は笑って頷き返した。 「結婚したくなったら、そしてそのときほかに相手がいなかったらお願いするかもしれないけれど。そのときはまた考えてくれる?」 「約束するよ。俺は美沙ちゃんを哀しませたくない」  どの男《ひと》もいちどはそんなことを言った、と美沙子は茂行から眼をそらせた。そして、これはたいへん曖昧な、都合の良い、同時に女の心をくすぐることばだとおもった。男らしさも適度に添加させた、男たちのお気に入りの常套《じようとう》句。 「残念なことに、哀しいことはもうずっとまえにあったわ」  美沙子自身、愕くようななめらかさと抑揚のなさで、そのくちは、茂行の子を身籠ったことがあったと伝えていた。  茂行の顔がはげしく歪み、引き攣《つ》り、やがていちどに崩れた。悪かった、と茂行は言って、俯《うつむ》いた。 「ちがうの、責めてるわけじゃないの」  嘘だ、と美沙子は自分に叫んだ。茂行に打撃を与えるためでなくて、どうして今更こんなことを言いだすものか。言ったとしてもどうしようもない過去の事柄ではないか。あの雪虫たちは衆を恃み、悪意の返礼をしてきた。わたしは、死児を利用した。しかもそれは茂行一人が望んでいたのではなく、わたし自身の意志でもあったのに、いまそれを告げたとき、哀しいこととして打ち明けたとき、かつての自分自身の思惑には蓋《ふた》をして、まるで茂行だけの罪のようにして死児を叩きつけたのだ。そして、これもまた女の常套句なのだろうとおもわれた。たがいのいやらしさと掛け引きだけがみえた。 「美沙ちゃん!」おもいつめた茂行の顔が間近にあった。 「俺と一緒になろう。そしてもうどこへもいかない、むかしのように俺からはなれていってしまわないと約束してくれ」  美沙子は淡く笑った。そして、いまのわたしはどんなことでも約束できるとおもった。  その夜、美沙子は茂行に抱かれながら、自分の尾を呑《の》みこんでひとつの円になった蛇のようにぴたりと閉じられてゆくのを感じた。  翌日、正午《ひる》を待たずに、美沙子はサスケを伴って家をでた。昨日と同じ秋の澄みきった青空がとりとめのない、ながい散歩をおもいつかせたのだった。  美沙子は、厚手の毛糸のジャケットとスラックスを身につけ、底のたいらな、歩きやすい靴をはき、布製の手提げ袋の底には、サスケに飲ませるための、プラスチックの密封容器にいれた水と、ハムの塊を収めた。  玄関の戸に鍵を掛け、二、三歩すすみかけて、ふとサスケの毛が随分と荒れすさんでいるのが気になった。まばゆい陽ざしにそぐわない。  おもいきって引き返し、ふたたび玄関の戸に鍵を差しこんで、犬用のブラシを持ちだしてきた。  陽当りの良い場所にサスケを坐らせ、ブラシで丹念に毛を梳《す》いてやると、心地良さそうに眼をほそめる。しばらくそうしていると、枯れ草のようになっていた毛にも艶《つや》がでてきて、少しばかり身なりが整ってくる。 「さ、これでサスケも男前になったわよ」  秋の陽の光はひどく透明だった。  サスケの病みくずれた耳の、黄色い膿《うみ》の層もひときわあざやかに照り映えた。  美沙子はできるだけ人通りの少なそうな小路を選びながら、何となく北へと辿《たど》っていった。  一時間も歩いてゆくと人家はまばらになり、道の両側に刈りいれの終ったとうもろこし畑がつづきはじめた。よく乾いた、堅そうな太い茎《くき》が、地面からそう遠くない部分でぽきりと折られ、飴《あめ》色の上体が地に這いつくばっていた。かつて、弾けるように実ったとうもろこしを幾重にもかばっていた細長い葉も、紙のように乾上《ひあが》って、吹き渡る風にさらされていた。  そこを通りすぎると見渡すかぎり芒《すすき》の原が揺れ広がっていた。白い穂先が風と戯《たわむ》れている。その頭上に幻のように薄く流れている真珠色の雲は、青空から撒きちってくる光の粒を残らずすくいとり、まぶしすぎる光を柔らかくくもらせたのち、あかるさだけをゆっくりと扇状に注いでいた。その恩寵《おんちよう》を受けとめて、芒は鋭い光沢を照り返し、大気は乳色にかすんでいた。  淡い風景のなかから抜けでると、到る所、濃い秋の気配に彩《いろど》られた草むらがざわめいていた。紫、朱、紅、黄、茶といった色の帯が、一面、水のように流れていた。雲の動きにさえぎられて、それらの色合いはふいに七色にも十色にも染め分けられ、趣《おもむき》のある渋さに沈んだかとおもうと、とつぜん黄金《きん》色の輝きを放ちだして、眼をくらませる。朱金色にさんざめきながら朽ちかけている葉むらもあった。道の両端には、まだわずかな緑が残ってはいたが、眼を彼方へ流すと、夏にたぎり立つその強い色は、ことごとく風に練《ね》りあげられ、秋の相のなかにまぎれこんでいた。  遠くに、ポプラの木立ちだろうか、高い樹々の連なりがみえた。あそこまでいって少し休もう、美沙子はサスケを励ました。  そこまでの道のりは予想外にながくかかった。しかもつづいているとおもった草はらは、ふいにアスファルト舗装道路の灰色で断ち切られてしまっていた。車の通りはほとんどなく、道路わきにも雑草が生い茂り、人家らしきものといえば、幾種類もの自動販売機を店先に並べ置いてある雑貨屋が一軒、みとめられるだけだった。  美沙子は缶ジュースでも買おうと、その店にむかった。缶ビールの自動販売機が眼にとまった。ジュースとともにそれも一個、買い求めた。  目的の木立ちのもとに辿りついたのは、それから十五分ばかりあとだった。  美沙子は歩き疲れ、一本の太い樹の根もとに腰をおろした。汗ばんだからだに、樹々の翳りの冷たさが憩《いこ》いとなった。  サスケもぐったりと首を落し、舌をあえがせている。美沙子は持参した水を飲ませ、それからハムも与えてやった。美沙子自身は、まず一息にジュースを飲みほし、ついでビールの蓋《ふた》を開けた。ビールを飲みはじめた美沙子の足もとの、黒々とした土のうえに、サスケは腹をつけ、ゆったりと坐りこむ。 「耳は痛くないの」  サスケの頭を撫《な》でながら語りかけた。 「おまえは耳が痛くて、わたしはどこが痛むのだろうね、どこが病んでいるのかしらね」  サスケは上眼遣いに美沙子のくちもとをみつめている。 「わたしが茂行兄さんを、ほんとに好きだと言えたのはもうずっとまえのこと。いまはどうなのかよくわからない。でもこれまでの男《ひと》のなかでは、やっぱりいちばん安心できる、なつかしい人なの。茂行兄さんもきっとそうなのでしょう。そしてただそれだけのことなのでしょうね」  サスケは揃《そろ》えた前肢に頭をのせ、まどろみかけている。  美沙子もビールの残りをすべてくちに含み終えると、太い幹に背をもたせかけ、眼をつむった。  きれぎれの夢なのか、あるいはとりとめのないおもいを流していたのか、美沙子はだれかに囁かれつづけていた。  死ねない、まだ死んではならない、と声は耳たぶに吹きこまれてくる。まだたしかめなければならないことが残っている。死ねないのだ、死ぬまえに果さなくてはならない。おまえの父親はだれなのか、はっきりと知らなければならない──。  寒気によって眼を見開かされた。立てつづけに三回、くしゃみをした。  そばにサスケはいなかった。美沙子は慌ててあたりをみまわした。姿はない。立ちあがって、大声でサスケの名を呼んだ。それに呼応するかのように、ポプラの樹の高い位置で葉がざわめき、一羽の鳥が翔び立っていった。 「サスケ!」と、美沙子は鳥をみあげながら叫んだ。  鳥はみるみるうちに空のむこうへ、はてしない拡がりにむけて翔び去ってゆき、黒い粒となり、そして消えた。  眼のなかには秋空だけが残っていた。ひらたい、動きのない空だった。硬く張りつめた平面は、その内側からあふれでようとする光の強さに所々うるみかけながらも、容易にほころびようとはしなかった。  それはどこまでも高く、時を忘れ、あやしい夢を拒み、むなしささえとうに断ち切って、遥かな静謐《せいひつ》のきわみへと、ゆっくりとのびあがっていた。  凜《りん》とした蒼《あお》さが眼にしみて、美沙子は視線をゆるく落した。  虚空が帯状に広がっていた。からんとしたその空間のなかに、むこう側の、遠い山々の連なりのある風景を引き寄せれば、とらえどころのないうつろさはすぐに埋められる。  けれど、まなざしを間近に戻すとき、目前を渡る風の戯れが、すべてを払い落していた。風のなかにつづり織られた赤ん坊の泣き声や犬たちの遠吠え、さまざまな体臭や脂粉の匂いが、嵌《は》めこまれていた穏やかな風景をちりぢりに裂きくだき、いっさいのたしかな象《かたち》を消し去っている。  ひときわ強い風の一吹きが走った。空の色が揺れた。  勢いにさらわれようとした瞬間、美沙子の片掌はとっさにポプラの太い幹を求めていた。その逞《たくま》しさにすがりついた。  やがて、風の渦は通りすぎ、掌に当っている樹皮の感触が、にわかに息づきはじめてくる。一面こまかくひび割れ、所々ちいさく、いびつに腫《は》れ上っていて、指の腹にこびりついてくる滓《かす》のようなものがあり、ひんやりと湿った、太く、まるみのある……。  無数の吹出物と瘡蓋《かさぶた》におおわれた病みくずれた男の胴体が、極彩色のあらあらしさを伴って、いきなり目前に立ち現われてきた。美沙子は叫びそうになって跳び退《の》いた。すると背中に別の樹の肌がぶつかり、驚きと恐怖のあまりに、おもわず甲高い声が短く飛んでいた。その鋭い叫びに、男の胴体もむごたらしい肉の色も消えていった。  美沙子はしばらくぼんやりとそこに佇んでいた。自分の声が耳の底に残り、いましがた視《み》たもののなまぐささが顔面に粘りついていた。ながく求めつづけてきた夢の正体はこれだろうかとおもった。いや、わたしは夢など視ていなかった。夢を信じたくて、あんなにもみっともない、滑稽な、そうぞうしい日々を送ってきた。わたしの夢、わたしの男たち、わたしを育ててくれた父、実の父。母親という唯一の現実。  それから美沙子はそろそろと背後を振り返ってみた。そこには何本もの太々とした樹々がうっそうと生い茂っていた。重なり合ったおびただしい葉群が頭上を塞《ふさ》いでいる。  早くここから逃げよう、美沙子は手提げ袋のある場所にいそいで戻った。 「サスケ……」と呼びかけて、声は途切れた。そうだった、サスケはいない。おそらく、もう、還《かえ》らない。わたしの子ども、ずっと以前に、すでに捨てていた、子ども。  哀しさが湧きあがってきて、美沙子はその場に蹲《うずくま》って泣いた。  足もとにサスケが食べ残したハムのひときれが落ちていた。あざやかな桃色のそれは、黒い地面に貼りついていて、そこからサスケがうまれでてきたような地の裂け目におもわれた。 [#改ページ]  熟れてゆく夏  海沿いの街にきてから三日目、眼ざめと同時に律子は寝台からとび降りた。足裏に深々とした絨毯《じゆうたん》の感触が快い。頬《ほお》に垂れてきた髪のあいだから昨夜洗い残っていたらしい潮の匂いが流れでる。たっぷり眠ったあとの爽快な夏の朝。九時半。  窓際へと歩みよる。両手で白い二本の紐をあやつってブラインドを捲きあげてゆく。あかるい灰青色の蛇腹《じやばら》はおもしろいほどするするとたたみこまれ、その下から矢つぎばやに眩《まぶ》しさの飛沫《しぶき》がなだれこんできた。  昨日よりまたいちだんと強さをたぎらせてきた七月の光。さい先のよい二日つづきの快晴。一気にブラインドを引き絞る。  ホテル六階の高さから街並みをざっと眺め渡す。残念なことに南向きのこの部屋からは海の色はちらりとも見えなかった。かわりにこの街を三面からぐるりと取り囲む山々のみどりが愉しめた。巨大なマリモを連想させるのどかで豊潤《ほうじゆん》なつらなり。いま、夏の盛りへとむけて、その山肌はまるで生き物の腹のようにふくらんでいた。  その下にひらたくひろがる扇状の街。どこといって変りばえのしない、低くて、黒っぽい家並み。山々の燃えたつみどりとは対蹠《たいしよ》的な陰うつさだった。  南東よりの正面にJR駅構内が見える。これもまた煤《すす》けた古めかしい木造の建物だった。そこから北にむけて流れでているこの街|随一《ずいいち》の目抜き通り。あまりぱっとしないその色褪《いろあ》せた通りは、あちこち途切れがちながらこちらへと蛇行し、そしてこのホテルは駅前商店街の最後のとどめとなっていた。くすんだ街並みを見おろす純白の十五階建て「ホテル・リッチ」。周辺には小さな酒場やホルモン焼きの店などが軒をよせあっている。海辺にでるにはホテル前の通りをさらに北へと進む。北側の部屋からは海がのぞめるらしい。  律子はうつうつとしたこの街の感じはどうも気に入らなかった。夏の朝のさわやかさが半減する。陰気な街のひろがりを見て、次に肥え太った山々へと眼を移す。するとなんだかそのつややかなみどりも不気味に思えてくる。街の生気を残らず吸いとっているお化けマリモの群生、そんな空想もわいてくる。  しかしまあ、あんまり贅沢《ぜいたく》はいえない、そう独りごちてから、律子はふたたび寝台へともどって、そのふちに腰かけた。小卓からたばことマッチを取りあげ、一本|咥《くわ》えて火をつける。その位置から見る窓のそとは青空ばかりがひろがっていた。正午《ひる》まえだというのに、すでにこまかく炒《い》られた光のつぶが空の表面にひしめきあい、じっと見つめていると、そこから弾きだされた一つぶ二つぶに眼を射られそうだった。薄絹のような雲がゆっくりとよぎってゆく。  きょうもかなりの暑さになりそうだった。いや、戸外の空気はもう充分に熱くふくらんでいるかもしれない。律子はきのうの朝のかろやかな放散を憶《おも》い出し、思わず眼を細めた。  冷房のきいたホテルの玄関から一歩そとへでた瞬間の、あのむっと息づまる緻密《ちみつ》な熱気。そのとたん、あまりの暑さにくらりと頭が傾いた。慌《あわ》てて上体をたて直し、それから慎重な足どりで海辺への道を歩きはじめる。一足ごとに巨大な夏の生理が皮膚にしみ入ってくる。湿った肉体と乾いた大気の交感が体のほうぼうでなされてゆく。孔《あな》という孔がとめどもなくうるみだしてくる。砂浜につくころには、Tシャツまで汗に溶けかけていた。それでいて頭だけはへんに希薄だった。からんとうつろだった。そして日中いっぱい砂の上に寝転がって時をすごし、ビーチマットをかかえてホテルにもどる夕暮れの道、律子は自分の裡《うち》にサイコロほどの余白が生じかけているのに気づいた。なにかがほんの少し更新《こうしん》されてきた。この一年間、ことばではどうしてもかたづかなかったものたち。それがたった一日で、数時間の夏の陽ざしで、もう追い払われてしまったらしい。  やはりこの小旅行は正解だった。これでそばにあいつがいなければ最高の夏なのに、律子は紀夫の顔をちらりと思い浮かべ、と同時に灰皿の底でたばこの火をもみつぶす。しかし、まあ、松木夫人がやってくるまでの二、三日の辛抱《しんぼう》だ。  律子はたちあがりバスルームへと向った。  洗面台の正面の壁の鏡にきのう一日、陽に灼《や》いた顔が映っている。サンオイルを全身にすりこみ、こまめに塗り直し、脂の塊みたいな太陽とねばつく潮風にゆだねきっていた成果がこんなにもはやく現われてきている。もっともっと灼くつもりだった。できれば膚の質が変わるほど陽ざしを吸いとってしまいたい。たとえ半年間でもいい、眼に見える形でこの夏を刻みつけておきたい。心が過去のくさぐさに引きもどされそうになったとき、自分の現在に鳥肌立つような不安がこみあげてきた瞬間、しかし、すべてはあの夏のなかに払い落してきた、とそのあかしを鏡のなかに確かめたい。ローソク色の顔のわたしはもはやいないのだ、と。  ホテルに十日間、という贅沢《ぜいたく》が許されたのは松木夫人のおかげだった。学生である律子にとってはまず費用のことがあり、せいぜい四、五日、それも安いビジネスホテルが精一杯と考えていた。生れてはじめてのひとり旅となる。その計画をきいた松木夫人がそくざにこの街とこのホテルを口にしたのだ。ごく親しい友人がそのホテルの経営者だという。 「あたくしの紹介ということになるとほとんどただ同然の宿泊料にしていただけるの。失礼だけれど、あなたのご予算は……そう、じゃあそのお金で十日間の予約をしておきましょう。大丈夫、あたくしにまかせておいて」  そのかわりに、と夫人は言った。「あたくしたちもご一緒してよろしいかしら」  律子はまごついた。夫人と一緒なのは迷惑どころか大歓迎だった。しかし紀夫、夫人の若い愛人である彼は目障り、どうしても虫が好かない。戸惑ったまま口をつぐんでいると、夫人はくすりと笑いかけ、そして顔をよせてきて囁《ささや》いた。 「まさか、あなた、あたくしたちにアテられるのでは、と心配しているのじゃないでしょうね。でも残念なことに、あたくし寝室以外で男の方とべたべたするのは趣味にあいませんのよ。こっそり隠れてアレコレするのは大好きですけれど。ですからその面ではあなたに気づまりな思いをさせないってお約束できますわ。それでもおいやかしら」  結局、律子は夫人の申し出を承諾《しようだく》させられてしまっていた。  今回のことばかりではなかった。律子はつねに夫人の思い通りに動いてしまう自分に憮然《ぶぜん》とする。ときにはいらいらする。といってもそれは夫人と別れてからじんわりとしみだしてくる感情で、そのそばにいるときはただ呆然《ぼうぜん》と流れよってくる香水の蜜に酔いしれている。優雅な手の動きに見とれている。なまぬるいアルトの声、だし惜しみしない笑い声に聞き惚れている。いつだって朦朧《もうろう》とした愉悦《ゆえつ》の状態にくるまれてしまう。知りあって最初の二カ月ぐらいはとりわけそれがひどかった。そしてふっと我に返ってみると、夫人の勧める真紅のブラウスを財布の底をはたいて買い求めている。いつもなら見ただけでもう胸がいっぱいになるタンシチューを、夫人の、「おいしい」にたぶらかされて、とっさに注文している。それから、夫人の小気味よい舌づつみにのせられ、平然と箸《はし》を運びつづけていた、あの鯛《たい》の活《い》き造り。こうしたことはすべてそのころの失敗談だった。  あとになってみると、真紅のブラウスの目立ちすぎる色合いは後悔の一言につきた。タンシチューは憶い出しただけで胸がむかついた。活け造りにいたっては、あの半死半生の不気味な痙攣《けいれん》がずっと眼の裏に焼きついていて、しばらくはいっさいのサカナ類が咽喉《のど》を通らなかったものである。  それを笑い話めかして夫人に媚《こ》びるように語ってみたとき、相手は、あらそうぉ、とそっけなく受け流した。ぞっとするような冷たい表情だった。律子は慌《あわ》てて口をつぐみ、眼をそらした。自分に対して当てこすりめいたことばなど聞きたくもない、といった夫人の態度はとりつく島もない堅さだった。  律子が夫人と知りあったのは、叔母の経営する「ラン美容室」でだった。繁華《はんか》な街中のビルの二階にあるその店で、律子が授業の合い間をぬってアルバイトしはじめたのは昨年の十二月、沢井と別れる一と月前ぐらいからだった。仕事は雑用係。叔母のかわりにレジ台にたったり、電話番をしたり、銀行に使い走りにいったりといった、まあ、叔母が学生である姪《めい》の小遣い稼ぎのために無理にひねりだしてくれた係と言えなくもない。  そのビルの一階は宝石、呉服、毛皮、有名デザイナーのブティックなどの店舗で占められていて、それら高級品店の顧客層がそのまま「ラン美容室」にも流れてきていた。ラヴェンダー色で統一された店内。いぶし銀で縁取られた十台の大きな楕円形の鏡。ビロード張りの扉。内実はともかく見かけだけは豪華なシャンデリア。店の四隅に置かれた腰の張った大きな銀の壺《つぼ》。そこにはむらさき色の薄絹で造られた幻想的な大輪の花々が飾られ、毎朝、香水のしずくを与えられていた。美容師は女性ばかり八人、服装は黒、と定められている。  律子の知っている夫人は二日置きに店にやってきた。一週間ぶっつづけという週もあった。けれど叔母の話によると律子がアルバイトをする前はせいぜい週に一度のわりだったらしい。  初対面の日から夫人はたいそう親密な口調と心がとろけるような微笑であれこれと話しかけてきた。帰り際、黒のブラウスとパンタロン姿の律子を手放しでほめちぎってくれたのを覚えている。二日後に現われた夫人は、律子を話相手として指名はできないものか、と叔母に持ちかけた。 「この方、あたくしの若いころの感じにそっくりですの。そう、そのほとんどまたたきせずにじいっと相手を見つめる眼の感じとか、あんまり笑ったりおしゃべりしない無表情なところ。信じられないでしょうけれど、あたくしってそんな少女でしたのよ」  その日以来、夫人はマニキュアされているときも、個室で全身にオイルマッサージを受ける場合も、必ず律子を話相手として指名した。わがままな人、と叔母は陰口を叩《たた》きつつも夫人がやってくるといそいそと律子を差し向ける。その見返りは充分にあった。松木さんのご紹介で、と言って訪れる客がにわかにふえ、それらの客はデパートと美容院通いを日課としているようなじつに金遣いの荒い婦人たちだった。しかし叔母は夫人が人のいないすきをねらって、待合室の絹製の花に火のついたたばこの先を押し当てたり、わざと絨毯の上に火種をおとしたりして愉しんでいるのは知らないだろう。律子にしてもまったく偶然に目撃したのだった。たえず夫人へと吸いよせられてゆく視界のなかにたまたまその光景もはさまっていた。  夫人は四十五歳、知的な顔立ちと輪郭《りんかく》の溶けかかった柔らかい体つきの持ち主だった。小肥りというのではない。体の線がくずれているのでもない。体ぜんたいが残らず皮下脂肪でできていて、それが腐りかけ、流れてゆく寸前のあやうい美しさとでもいったらいいのだろうか。律子は初対面の日からその顔の凜《りん》とした感じとその体つきのなまめかしさに悩ましい戸惑いを覚えたものだった。マッサージ室で夫人の着換えを手伝っているときなど、ふいにその体のあちこちにめったやたらとかじりつきたくなる衝動《しようどう》がこみあげてくる。きっと、しんなりとした歯ごたえがするだろう。どれほど歯ぐきに力をこめてもアザはもちろん、一滴の血もにじまないような気がする。そして噛《か》みしめれば噛みしめるほど、その下からなにか弾力のある、小気味よい舌ざわりのものが現われてくるのではないか。  夫人は体にぴったりとしたニットスーツがお好みだった。またじつによく似合う。そのたびに律子はこみあげてくる妖《あや》しい衝動を抑えるのに一苦労だった。夫人を思いっきり虐《いじ》めてみたくなる。手荒く、乱暴にそのスーツをむしり取り、心ゆくまでなぶってみたい。夫人の姿に見とれているうちにふいにだれかから声をかけられ、はいと答えたつもりが声がかすれてでなかったこともしょっちゅうだった。  律子はまたたくまに夫人の生活のなかに組み入れられてしまった。紀夫に引きあわせられたのは初対面の日からたった二週間後、同じビルの地下の喫茶店でだった。二日後にはレストランでの夕食に招かれた。その席では翌日の仮り縫いに立ちあってくれるようせがまれ、その約束をはたすやいなや、今度は三日後の昼食に招待され、その金曜日の午後の別れ際には日曜日のドライヴに誘われ、といった急速な接近だった。もちろん、いつも紀夫がくっついてくる。連絡はつねに夫人から一方的にだった。 「ごめんなさいね。あたくし、あの電話のベルの音って大嫌いなの。せっかくまとまった仕事の計画もあの音をきくともう台無しになってしまうのよ。家にいても、仕事に熱中するとノリがやってきてもぜったい部屋のドアはあけませんの。返事をするのも面倒だからほっといてしまうわ。ええ、ノリはもうそういうあたくしには慣れているはず」  夫人はお金持ちだった。詳しいことは知らないけれど、夫人がなにげなく口にすることばや紀夫との会話のやりとりからすると、歓楽街に大きな雑居ビルを三つ持ち、とある総合病院の共同出資者の肩書きもあり、三十世帯入居できる賃貸マンションの所有者でもあった。夫とは十五年前に死別し、子供はいない。だからゆくゆくは紀夫を養子に、と考えたりもしているという。養子、の一言を耳にした瞬間、紀夫の瞳がビー玉みたいに光ったのを律子は見逃さなかった。  三人がこのホテルにやってくるのは七月二十六日とはやくから決っていた。ところが前の晩の七時すぎ、夫人から「ラン美容室」の律子のもとへ電話がかかってきた。急用ができ、あしたは一緒に行けなくなったと告げる。しかしホテルも予約済みのことだし、とりあえず紀夫と二人ででかけてほしい。 「ノリはとても愉しみにしてましたから、ここに引きとめておくのは可哀想。ええ、仕事は二、三日で片附《かたづ》くのですけれど、ノリったらすっかりしょんぼりして。いえ、あたくしが遅れて行くことじゃなくて、もしかしたら律子さんはぼくと二人きりじゃおいやかもしれない、一緒に行ってくれないかもしれないって。もう何時間も拗《す》ねたり、ひがんだり、困ってますのよ。どうかしら、ノリのことお願いできますかしら」  そのときも律子は受話器の穴からあふれでてくる夫人の生ぬるい声をむげにはしりぞけられなかった。それに夫人の口調はいやにしんみりしていた。子を案じる母のように気弱だった。そんな夫人の心中を思うと、彼は気に食わない、と一言でつっぱなすのはあまりに酷な感じだった。また遠まわしに、コーヒーやスープを飲むときハナをすするような音をたてる彼はあんまり元気すぎると仄《ほの》めかしても夫人には全然通じないだろう。夫人は少しも気にならないらしい。たしなめもしない。それどころか、それもまた紀夫の魅力の一つとでも言いたげな柔媚《じゆうび》なまなざしで見つめ入る。律子としては閉口どころか、癇癪《かんしやく》を起こして怒鳴りつけたくなるぐらいのしろものだった。 「ね、承知していただける。あなたがご一緒して下さるとあたくしもとても安心できますの。いえ、ホテルに着きさえすれば、あとはおたがい好きなように」  しかしホテルのレストランでかちあう場合だっておおいにありうる。そのとき、いつぞやのロシア料理店でのように片手にスープスプーン、もう一方の手で週刊誌を、しかもヌード写真のいっぱい載《の》っているそれをめくりながら、といった恥知らずな姿にでくわしたならどうしよう。知らんぷりしていても彼のことだ、気がつけばきっと声をかけてくる。 「よォ あんた」あの虫酸《むしず》の走る野蛮なドラ声。下品なことば遣い。 「ねえ、おいやかしら。ノリってそんなにご迷惑な子なのかしら」 「迷惑だなんて、そんな」 「まあ、よかった」  夫人の口調はがらりと明転した。 「それじゃあ、あすの午後一時、ノリがアパートまでお迎えに行きますからよろしくね」 「いえ、あのう、それは」  ガチャリと電話はきれた。  翌日、紀夫は約束の時刻に一時間も遅れてやってきた。  律子は一時五分前からアパートのそとへでて待っていた。夏の陽ざしが頭のてっぺんをたえまなく攻撃してくる。ぬぐってもぬぐっても顔中に汗が吹きだしてくる。十五分すぎ、三十分がたち、ついに五十分をかぞえた。もう旅行なんて取りやめにする。  部屋にもどって十分ほどすると、玄関のほうからたてつづけに四回、クラクションの音がきこえてきた。丁度《ちようど》インスタントコーヒーをいれおわった所だった。あいつだ、とすぐに直感した。が、律子は平然とカップを口に運んでいた。諦《あきら》めて帰るならそうすればいい、部屋にやってきて遅刻をわびるなら考え直さないこともない。まだ着換えてはいなかった。  そのうちクラクションは鳴りっぱなしになってきた。やっかましい、とアパートのどこかの窓から怒鳴り声があがった。律子は飛びあがり、急いでスーツケースを手に玄関へと走りでる。熱いのか冷たいのか分らないような汗が腋《わき》の下を流れつづけている。紀夫への怒りに頭がくらくらした。  純白のムスタングがアパートの玄関前いっぱいに横づけされていた。出はいりもできないような近さだった。開け放った車の窓に片腕をのせていた紀夫は、律子を見るとにやりと笑いかけてきた。 「ちょっと寝坊しちまってな。あんたもなかなかでてこなかったけど昼寝でもしてたのか、よだれ垂らしてよ。へえ、その白い服、なかなかじゃないの。馬子にも衣裳だな」  律子は顔をそむけた。腹立ちのあまり声もことばもでてこない。  車の後席の扉へと歩みよった律子に、紀夫は助手席を指さした。 「事故に遭《あ》ったとき、そこが一番あぶないっていうじゃない。あなたみたいな男と心中なんてまっぴらよ」  紀夫はふふんと鼻で笑い、それ以上はすすめなかった。  松木夫人の電話での話とは違って、車中の紀夫はしょんぼりもしていなければひがんでもいなかった。運転のあいだ中、カーステレオをつけっぱなしにし、それもロックばかり耳がおかしくなるぐらいの音量にし、興がのってくると曲にあわせてハミングする。肩を揺らせもする。そのたびに律子はハンドルさばきが気になってはらはらし通しだった。また紀夫は、夫人が作って持たせたというサンドイッチをハンドル片手にぱくつき、その出来の悪さを毒づき、それをきっかけにひとしきり夫人の悪口を吐きちらし、そのくせ持参のサンドイッチは残らずきれいにたいらげ、缶ジュースに取りかかり、ガムを噛み、後席でむすりとしている律子に、いまんとこは男|日照《ひで》りか、とからかい、無視していると、いきなり、あのババァにきいたけど、あんた女房持ちの中年男にまんまとダマされてたんだってなあ、と思わずかっとしてたばこの箱を叩きつけたくなるようなことばを平気でほうり投げてくる。  いくらでも斬《き》り返すことはできた。たとえば、女に飼われている二十一の男なんて人間のクズ、と汚物を見るような眼つきで吐き捨ててもいい。あるいは、ツバメのくせして何をエラそうに、とけたたましい笑いで応酬してやってもいいだろう。けれど律子は終始、貴婦人みたいに取り澄まして窓のそとを眺めやっていた。両の耳を象のように広げたて、紀夫の言いたい放題をもらさず吸いよせていた。そのうち折をみて夫人に告げ口してやろう。逐一《ちくいち》、報告してやる。なにが、まんまと男にダマされていた、だ。 「男と女のことってほんと難しいですわねえ。どちらが良い悪いなんて、こればかりは決めつけられませんもの」  律子が沢井とのいきさつを打ちあけたとき、夫人は何かを憶い出したようにただしんみりとこう呟《つぶや》いただけだった。それがこの紀夫の頭のなかを通過してくると、こんなにもいやらしい表現に塗り変えられている。それも面と向って訊《き》いてくるがさつな神経。  やはり夫人はこんな男とは手を切らなくてはいけない。養子、ときいただけで露骨に眼を光らせるこんなたかり屋とは。それからの車中、律子は夫人が紀夫に愛想づかしをするそのきっかけはないものかと模索《もさく》しつづけた。たとえば、なぜ夫人にくっついているのかという本心をはっきりつきとめる、テープにでも録音しておいて夫人にきかせる。浮気させ、その現場に踏み込んでゆく。どちらにしても女を使うとやり易い。  しかしそうした具体的なやりくちをあれこれまさぐりつつも、律子の思案は横道にそれがちだった。いずれ受けるであろう夫人からの感謝のことば、あるいは紀夫と別れた当座の夫人を慰める役、どちらの想像も律子の気分を浮きたたせた。夫人の泣き顔、後悔や未練などに苦悶《くもん》する表情というのもぞくぞくするぐらいいいものかもしれない。車の後席で律子はひっそりとほくそ笑みつづけた。自分がすべての鍵を握っている劇的なその日を夢見て幾度も陶然とした。夢に傾くあまり、これといった策をまとめあげるにはいたらなかった。ただ夢想のうちに時間は飴《あめ》のように溶け、そうこうするうちに車はホテルに到着していた。  ぬるいシャワーを浴びたあと、律子はふたたび鏡の前にたった。顔の膚《はだ》は、まだふんだんに脆《もろ》いローソク色を残している。きょうを含めるとたっぷり八日間の可能性がある。このホテルを引き払うころには、この膚はどれだけ煮しめられ、過去を消しているだろうか。  鏡面のなかの黒々としたアーモンド型の瞳としっかりと向きあってみる。沢井へのなつかしさなどこれっぽっちもないと断言できた。あのころは少しアタマがおかしかった。男の体にばかげた期待を持ちすぎていた。  道子にもそんな時期があったのだろうか。  ふいに胸の底からきなくさい匂いが漂いだしてきた。鏡のなかの瞳が曖昧《あいまい》に揺れた。せわしなくまたたいた。湿った気分に陥りそうになり、律子は急いで眼に力をこめ、鏡を強く凝視《ぎようし》した。とにかくわたしはわたし、道子は道子。勇み立ってきた気持をしぼませぬうちにと、律子は足早にバスルームをでた。つまらない物想いに耽っているよりも、苦手なことばで片附けようとするよりも、まず放散、とにかく途方もないうわの空になってゆくこと。  海岸へでるにはホテル玄関前の路を北に向けてまっすぐ歩いて行けばよかった。それは海原へ吸いこまれてゆくような下り坂となっていて、十分も歩けば砂浜にたどりつく。  簡易舗装された路の両側には真新しい小ぎれいな家がきっちりと建ち並んでいた。どの家もささやかながら庭を持ち、コンクリートやレンガ積みの塀などで領分を囲っている。白いレースのカァテンがひるがえっているベランダ、手入れのゆき届いた芝生、小さな花壇。魚の寄りつかなくなった海の街、といったさびれた感じはこのあたりには見出せない。都会の新興住宅地の趣きそのままだった。しかし昨晩、ホテルのボーイからちらりと耳にした話では、あの一帯は特別だ、という。 「東の灯台のほうへ行ってみるとよろしいですよ。お客さまのイメージ通り、年寄りと子供と猫ばかりが棲《す》んでいますから。魚の腐ったような臭気がこびりついていて、屋根のかしいだ小屋が密集していて、よく見るとその小屋の窓の下のほうからいくつもの眼がこちらをうかがっていますよ」  そう言ってから、まだ少年の稚《おさな》さを頬と襟足《えりあし》に漂わせているボーイはにやりと笑った。一瞬、そのまなざしにひどく意地の悪い光が流れ、律子は慌てて眼を伏せた。彼の家は�東の灯台のほう�にあるのかもしれない。  路の途中に大きなマーケットが一軒あった。やはりこれも建ったばかりらしい明るく、清潔感あふれる店だった。建物の三面が床から天井までのガラス壁となっていて、店内は卵の黄身のような光にみちていた。律子はそこにたち寄った。備えつけの店の黄色いビニール籠《かご》にホットドッグ二本とパック入りのオレンジジュース、たばこを三箱、と次つぎとほうりこんでゆく。果物コーナーにきて積みあげられた真赤なプラムに眼が惹かれた。近寄って片手に四個|掴《つか》み取り、それからちょっと考えてから思い切って二十個のプラムを籠におさめた。紀夫の凄《すさ》まじい食欲を憶い出したのだった。  きのうの正午《ひる》すぎ、海辺に現われた紀夫は大きなスイカを手にぶらさげていた。どこからくすねてきたのか、包丁がわりの太い木の枝も握りしめている。スイカはすぐに叩き割られた。鋭い音の一撃と同時に、乾いた砂の一面に薄桃色の果肉の破片と黒いつぶつぶが飛びちった。 「ほら、あんたも食えよ」  律子は無視した。海を眺めていた。すると、ついと目前に不恰好《ぶかつこう》な赤いかたまりが差しだされてきた。その腕は押しつけがましくそこから動こうともしない。左腕を律子の顔面に突きだしたまま、紀夫はもう一方の手でスイカをむさぼり、唇のはしから音をたてて種を吐き捨てている。律子は仕方なくスイカを受け取った。とろりとした色合いのそれは全然冷えていなかったけれど、甘く、おいしかった。口に含んだだけで舌の熱気で溶けてゆく。律子が食べたのはその一切れだけ、あとはすべて紀夫が平らげた。 「あーあ、食った、食った。やっぱりめしのあとのすぐのスイカはきついよなあ。腹がパンクしそうだ」  いつもこんなに食べるのだろうか。それでいて紀夫の体は見事な筋肉質で、贅肉《ぜいにく》のたるみなどどこにも探りだせない。律子は横眼を使い、そこだけぷくりと盛りあがった彼の胃袋のあたりにすばやい一瞥《いちべつ》を走らせた。そこでこなされたものは、いったいどこに、どのようにして貯えられてゆくのか。彼の言動はもちろんのこと、その肉体自体が下卑《げび》た、とてつもなく貪欲《どんよく》な革袋に視《み》えてきて、その臭気が移ってきそうで、律子は思わず体の位置をずらしていた。  プラム二十個を買ったのはきのうのスイカの件があったからだ。紀夫にはいっさい借りは作りたくない。  砂浜にはまだ人はでていなかった。手首の時計を覗《のぞ》くと十時半になるところだった。律子は昨日と同じ鰐《わに》を連想させる巨きな流木のそばへ行き、かかえていた赤いビーチマットを砂の上にひろげた。さっそくTシャツとジーパンをぬぐ。黒のワンピース型の海水着はすでにその下に着こんである。マットにすわり、ビニール製の頭陀《ずだ》袋からヘアブラシやピンの入った小箱を取りだす。パーマっけのない長い髪をゴム輪で一本に束ね、くるくるっと丸めて地膚にピンで固定する。最後にサンオイル。全身にまんべんなく塗りはじめる。塗りつけてゆくそばから、油に封じられた膚のあちこちが喘《あえ》ぎだしてくる。全身くまなく塗りおえるころには、膚とオイルのあいだにもう一枚、薄い汗の膜が張りめぐらされている。そろそろとマットの上に仰向《あおむ》けに横たわる。眼をつむる。  夏の陽ざしがゆっくりと、けれど少しずつこまかい螺旋《らせん》を描いて毛穴にしみ入りだしてきた。もうしばらくすると皮膚の真下でひそやかな蠢動《しゆんどう》がはじまるだろう。無数の毛穴から別々にもぐりこんできた空の光と大気の熱が一つながりに溶けあい、黄金色の濃密な液となる。頭に柔らかく響くのは波の音。おだやかに、単調に繰返される。その音が頭から足先にまで流れこむ。そして引いてゆく。また忍び入る。流れでる。やがて膚の所々にへこみができてくる。古い表皮が波音とともに海へと運び去られてゆく。削《そ》ぎ取られる。と、皮膚のすぐ下を流動していた液状の色彩がすばやくそこにつどいよる。あっというまに固まる。つややかなバター色に染めあげてゆく。  背骨が灼けた砂のとろ火を受け、軟骨のように煮くずれしてきた。はじまった。皮膚の下に夏がもぐりこんできた。  灼熱の太陽の下にさらけだされた律子の頭はとうに朦朧《もうろう》となっていた。快い放心。全身の力が手足の先からほどけでていっている。古い皮膚がどんどん更新されてゆく。  そのとき頭の真上から荒い声がふり落ちてきた。 「畜生、やっぱりあんたのほうが早かったか。きょうはだし抜いてやろうと思ったのに」  眼をあけるまでもなく、その度胆《どぎも》を抜く蛮声《ばんせい》の主は分っている。頭のなかに毒々しい一筋がねじりこんできた気分だ。  右横に紀夫が腰をおろす気配が伝ってきた。 「いや、ゆっくり寝てるつもりだったのさ。それがあのババァの電話に叩き起こされちまってな。何時だと思う、七時半だぜ。まったくジョーシキねえよな。だいたいそんな時間に俺が起きてるかってんだ。あいつだって知ってんだぜ、俺の一日は十一時からはじまるってことはな」  松木夫人からの電話ときいて、律子ははじめて目蓋《まぶた》を弾きあげた。 「おばさまはいつこちらにくるか、おっしゃってた」 「ああ、おっしゃってましたよ。あさってか、しあさっての午前中だと。そいであんたのことも訊いてましたよ。俺と仲良くやってるかって。だから一応言っといた。ヒジョーに仲良くしてるってな。年寄りはいたわらなきゃあな」  そう言いながら紀夫は敏捷《びんしよう》にたちあがり、白木綿のポロシャツを手早くぬぎだした。その下から底光りする浅黒い背が現われてくる。ポロシャツはまたたくまにむしり取られ、くしゃくしゃに丸められて砂の上にほうり投げられた。それから紀夫は白いスラックスのベルトをゆるめ、一気に前ファスナーを引きさげた。律子はとっさに顔をそむけた。彼はきのうもこうだった。しかもきょうのようにまだ人気のない時間ではなく、色とりどりの水着にざわめいている正午すぎ、わざと人眼を惹《ひ》くような仁王立《におうだ》ちとなり、ズボンと下着を一緒にずりおとしたまではよかったけれどこともあろうに海水パンツをはき忘れてきて、慌てて腰にバスタオルを巻きつけて着換えをした。その最中も何度もタオルをずり落しそうになり、といってもいっこうにうろたえもしない。そんな紀夫を目撃してキャーキャー騒ぎたつ波打ち際の女の子の一団に笑い返したり、見たいんならいくらでもタダで見せてやるぞ、などと叫んだりして律子をいたたまれない心地にさせたのだった。  紀夫がふたたび腰をおろす様子が律子の右の頬をかすめた。きょうはちゃんと海水パンツをはいてきたらしい。紙袋のなかをしきりとまさぐっている物音がする。しばらくするとぴちゃぴちゃと膚を叩《たた》きつける音をさせはじめた。  律子はもう彼には取りあわないつもりできつく眼をつむった。十日間のうち晴れ渡った日中の三十分も無駄にはしたくない。紀夫の相手をしているとたった五分間でもとんでもない時間の浪費をした悔《く》いにとらわれてしまう。きのうの海水パンツ騒ぎのあとなどは、心がすっかり掻《か》き乱されてしまった。膚がちりちりと苛立《いらだ》ち、かれこれ一時間近くも陽ざしや波の音と呼応できなかった。  律子は紀夫の気配にいらつきがちな全身の神経を耳の底に寄せ集め、波音だけに専念しようと試みた。  と、またもや極彩色の縞《しま》が頭蓋《ずがい》をつき破ってなだれこんできた。 「悪いけど、ちょっとこれ塗ってくれないか」  薄眼をあけてみると、眼の前にみず色のサンオイルの壜《びん》が示されている。 「背中のまんなかまで手が届かないんだ。頼む」  びくりとして律子は跳《は》ね起きた。 「ほら、これ。どっぷり頼むわ」  壜はしつこく押しつけられてくる。思わず律子の背筋に寒けが走り、手足が鳥肌立ってきた。紀夫の体にさわるなど思っただけでぞっとする。いや紀夫だからとは限らない。男の膚にさわるのは、たとえ相手が父親でもいや。あれほど馴染《なじ》んでいた沢井の体にしても、いったん離れてしまったいまとなっては、憶い出しただけで不潔感を覚える。だから満員電車やバスは大きらいだった。汗臭く獣じみた男の体臭、ばかでかい手、そこに無数の菌がはびこっているような青黒くぽつぽつとしたヒゲの剃《そ》りあと、いやらしさに脂汗がでてくる。ときには無性に憎たらしくなる。どこへ行くにもできるだけ乗り物を使わず歩くようにしているのはひとえにそれがためなのだった。 「ほら」と、紀夫はそんな律子の心中などお構いなしに、こちらも見ずにサンオイルの壜を差し向けてくる。片手で器用にたばこの箱を扱い、そこからじかに一本くちに挟《はさ》み取っているところだった。 「いや」  薄気味の悪さに心がちぢみあがってくる。 「いや」  カチリとライターを鳴らし、唇にのせたたばこの先を炎へと傾けながら紀夫が訊《き》き返す。 「いやってあんた、そう勿体《もつたい》ぶらなくたっていいだろう。たかがサンオイルの話じゃないの。別にヤラセロって言ってるわけじゃなし。ま、あれにしてもたいしたこともないけどな。とにかくそうお高くとまってカマトトぶらずにさ……」  火のついたたばこを唇から右手に移しかえ、紀夫ははじめて律子のほうへ顔を向けた。視線があった。律子はとっさにうつむいた。  紀夫の声がとがった。 「なんでそんな眼をするんだ。俺の体はそんなに汚ないのかよう」 「違うの、あなただからってことじゃないの。駄目なの、わたし。いやなの、男の人の体にさわるなんて耐えられない」  律子の口調は羽毛のようにふるえていた。紀夫はしばらくのあいだまじまじと律子の表情に眺め入り、やがてすうっと視線を細めた。 「ふうん。要するに男が怖いってわけ。意外だな、こりゃあ。男を見下してるような感じのあんたがねえ、ふうん。しかし、ま、世の中にはそういうこともあるわな。はい、はい、分りましたよ、お嬢さま」  紀夫は咥えたばこのまま自分の肢にオイルを塗りはじめた。左右の肢を交互に胸に引きよせ、指の股《また》にまですりこんでゆく。長い退屈な一日をそんなことでもしなければ、とうていこなしきれないといったものうい手の仕草で。  律子はビーチマットにすわったまま、ぼんやりと海を見つめていた。胸のあたりがしきりとひりついている。男が怖いのか、という紀夫の一言が思いがけない弾丸《だんがん》となって肋骨《ろつこつ》のあいだに食いこんでいた。異性の体に触れることへの生理的嫌悪、その混沌とした感覚をせんじつめてゆけば、いまの紀夫のことばがしぜんとあぶりだされてくるのかもしれない。だが律子は認めたくなかった。頷《うなず》きたくなかった。ことばにあおられたくはない。わたしは男が怖い、と心に書きとめたとき、その瞬間から本当に男を恐怖しそうだった。世間一般の女のなかからはみだしてゆきそうだった。それはなおさら耐えられない。  海はきのうよりも波が小さくなっていた。晴れ渡った青空の下で、海原は無数の鏡を砕き入れたように光りざわめいていた。水平線のあたりにときどき小型のモーターボートがサメのように現われる。鋭く、白く、海面を切る。また消える。右手のはるかむこうには東の灯台のある防波堤、その反対側、西へと眼をこらすと針のように突きでている陸がかすかにたしかめられる。  防波堤の下あたりにぽつぽつと人影が見えた。午前十一時前後になると、ウニ獲りの船が帰ってくるという。きっとそれを待つ人々なのだろう。  海水浴場となっているこちらの砂浜にもちらほら子供たちの姿が現われだした。夏休みとなり海辺に日参している住宅街の小学生たちなのだろう、どの子もこんがりとおいしそうに陽灼けしている。そのうち背後でとてつもない歓声《かんせい》があがった。と同時に若い男女十数人がばらばらっと海へと突進してゆく。色とりどりの水着に同じように生白いいくつもの足裏。  紀夫はその一団の声にちらっと顔をあげたきり、ふたたびサンオイルに専念しはじめた。なんのつもりか足の指の爪にまですりこんでいる。子供みたいに熱中している。その姿を漠然と見つめるうちに律子の心は次第に自信と居丈高《いたけだか》な気分を掻《か》き鳴らしはじめてきた。こういう男もいるのだ、女に飼われているこんなだらしない男もいる、男の外見的な威圧感《いあつかん》などたかが知れている、怖れることなどない。  律子もまた自分のサンオイルの壜を手にし、全身に塗り直していった。  陽ざしがいちだんとうねりだしていた。 「あんたの男嫌いは例の中年男と別れてからか」  紀夫が足の小指の爪に油をなすりつけながら訊いてきた。 「男嫌いなんかじゃないわ」  舌打ちしたい心地で律子は吐き捨てた。よりによってこんな男に自分の弱点を覗かれてしまったのがいまいましくてならなかった。考えてみれば紀夫の膚に手を触れず、サンオイルの壜の口から直接香辛料みたいに背中に振りかけてやる方法もあった。効果があろうとなかろうと、こちらの知ったことではない。いや、あなたの薄汚ない体になど指一本触れたくない、と露骨に答えても構わない相手のはずだった。とっさのことに気持がすくみ、しどろもどろの対応をしてしまったのが律子には口惜しくて仕方がなかった。 「男嫌いじゃないと言ったってさわるのはいやなんだろ」 「相手によるわ」  ぴしりと律子は言いきった。 「ほう。さっきとは違って今度はまたえらく威勢《いせい》よくなったじゃないの。なるほど、そうするとあんたはもっぱら中年男専門か。あいつら結構むっつりスケベが多いっちゅうし」 「ききたくないわ、そんな下品な話」 「なぁにカマトトぶるのよ。バージンじゃあるめえし。あ、それとも不感症か」  ひっぱたいてやりたい、律子は怒りのあまり手の先がふるえてきた。 「とにかく下司《げす》の勘ぐりはよして頂戴《ちようだい》。自分がまともな生き方をしていないからって、他人まで同じように考えないでほしいわ」 「まともな生き方をしていない、それどういう意味よ」  背を丸め、うつむきがちに足の甲をいじっていた紀夫は手の動きをとめた。 「意味なんてないわ。ありのままを言ったまでよ」 「なにがありのままなんだ」  紀夫は海に向ってゆっくりと顔をあげた。その姿勢のまま言った。 「よう、どういうことかって訊いてんだ」 「松木夫人の囲われ者、早い話が|男 妾《おとこめかけ》ってこと」 「おとこめかけ、ほう、なるほど、しかしそういう呼び方は引っこめてほしいな。もっと違うことばがあるだろうが」  紀夫はことさらに声を圧《お》し殺し、ドスをきかせた低い口調を使った。律子はひるまなかった。そうやってすごんで見せる紀夫を、むしろ内心ではいっそう軽蔑《けいべつ》し、せせら笑っていた。 「あら、へんなところにこだわるのね。あなたはもうとっくにプライドなんか捨ててるヒトだと思ってたわ。それじゃあ、なに、松木夫人の内縁の夫とか素晴しいパトロンとでも言われたいわけ」 「あんた、いいかげんにしとけよ。それにそんなことをあんたが言えるざまか。えっ、人の亭主を寝取るようなアマがよぉ」 「寝取るなんて人聞きの悪いことばはよしてもらいたいわ。わたしは奥さんを追いだすつもりはまったくなかったんですからね、実際、そんなこと考えもしなかったわ」 「さあ、どうだか。追いだすのに失敗したんじゃねえのか」 「そう、そういう言い方が下司の勘ぐりなのよ。よく覚えといて頂戴」 「下司の勘ぐりであろうとなかろうと他人の持ちモンに手ェだしたのは事実だろ」 「わたしから誘ったわけじゃないわ」  それは嘘《うそ》だった。見栄がとっさに働いた。 「ふん。女はすぐそう言うよな。しかしどっちが先にモーションかけたか、そんなのは問題じゃねえよ。どっちにもその気があったからデキちまったまでのことさ。あんただって口ではイヤ、イヤなんて言いながら結構わくわくしてついてったクチだろうが。さかりのついた猫みたいによ。そいで最後は結局、ダマされた、男はもうこりごりだ、なんてほざいてな。女ってのは、まあよく言うよ」 「これだけははっきり言っときますけど、わたしたちはダマしたりダマされたりといったイヤラシイ関係じゃありませんでしたからね。相手に妻子がいるのははじめから分っていたし」 「じゃ、なおさら悪どいじゃねえか。あんたも見かけとは違ってたいした女だな。いい度胸《どきよう》してるよ、まったく。俺はな、こう見えても人妻には手ェつけてないぜ。一盗二婢《いつとうにひ》とかいってよ、そりゃあ一発やりたくなるようなぞっとするほど色っぽい人妻にも逢ったことあるさ。あのババァの知りあいでよ、ちょっとちょっかいだせばノッてきそうなスキそうな感じだったけど、しかし俺はぐっとこらえたね。その女はいいさ、いかにもヤリたそうなんだからな。じゃあコケにされたそいつの亭主はどうなるわけよ。同じ男として、なんか、こう、カナシイんだよな。あんた奥さんに気ィつけなって忠告したいような、へーんな気持になんかなったりしたもんな。あんたの場合はほんとに平気だったのか。そいつの女房に悪いな、とか自分はダメな子みたいに思わなかったのか」 「善人ぶって人に説教するつもり。そんなヒマがあるのだったら自分の将来でも真面目に考えたらどうなのよ」 「いまだってマジよ、本気よ。俺の選んだ生き方だ」 「まあ、いったいあなたのどこに真面目があるの。あっ、そうね、男妾になるのが小さいころからの夢で、そうなろうとして涙ぐましい努力を重ねてきたのね」 「うるせえっ、やめろっ、その言い方、引っこめろと言っただろうっ」 「このごにいたって何つっぱることあるのよ。妾は妾じゃない。おばさまに飼われてるのでしょ。ほかにどう呼びようがあるのよ」  一瞬、律子は右の頬に激しい衝撃を受けた。けたたましい肉の響きにぐわんと耳の底が揺れた。瞳孔が炸裂《さくれつ》し、視界が反転した。すべての感覚が左半身へと傾いてゆく。  はっと気づいたとき、それでも左手をつっかえ棒としてかろうじて上体を支え、マットの上にすわっていた。頬から顎《あご》にかけて痛みが脈打ちだしている。口腔《こうこう》にたまっているねばつくものを砂に吐きだすと、つばのなかに血が混っていた。手の甲でのろのろと口のまわりをぬぐう。頭陀袋《ずだぶくろ》をたぐりよせTシャツとジーパンを取りだす。サンオイルにぬめる体にまとう。サンダルをはく。ビーチマットを筒状に巻きあげ、小脇に抱える。そして立ちあがる。  紀夫に殴られた右の頬を右手で押さえながら律子はホテルへの路を歩きはじめた。台無しだ、せっかくの夏の休暇が三日目でもう惨澹《さんたん》たる有様となってしまった。やはりきままなひとり旅にすべきだったのだ。  海辺で膚を灼くには恰好《かつこう》な夏の真昼のきわみが、いま次第に青空のすみずみにまでひろがりはじめてきていた。  ホテルに帰りつきフロントで部屋の鍵を受け取ろうとすると、ただいまお部屋の掃除中ですので、と係の男が言う。 「まことに申し訳ございませんが、あと二十分ほどお待ちいただけませんでしょうか」  ぷいっと律子はふくれっ面でその場を離れた。その男にでも八つ当りしたい気持だった。とにかくはやく一人っきりになりたいのに。  仕方なくロビーの隅の喫茶フロアへと足を向けて行く。頭陀袋に詰めこんであるプラム二十個の重みがうらめしい。それにもう一方の腕にかかえこんでいるビーチマットからときたま絨毯にこぼれ落ちる砂。  頬の痛みは鎮まるどころかますます火照《ほて》り、うずきだしてきている。どうやら右の耳の付け根あたりをまともに殴られたらしい。この仕返しはぜったいしてやる、ぜったい忘れない。生まれてからこの二十年間、律子は両親にすら殴られた記憶がない。仕草が粗《あら》くて、ことば遣いがずさんで、立居振舞《たちいふるま》いが野卑《やひ》で、といった若い男たちは大学のなかにもうんざりするほどいるけれど、しかしかれらにしても紀夫ほど野蛮ではなかった。どれほど逆上しても女に暴力をふるうような礼儀知らずはいない。それが、こともあろうに、あんな紀夫に。帰り際に砂でも握りとって叩きつけてやればよかった、律子はいまになって自分のだらしのなさに地団駄《じだんだ》を踏んだ。  床が一段高くなっているだけで、仕切り壁もついたてもめぐらせていない喫茶フロアには、ぱらぱらと客の姿がちらばっていた。すばやい一瞥《いちべつ》を走らせ、女客のほうが多いと知ると、律子はほっとした。運良く、きのうすわった柱のかげの席もあいている。その前後のボックス席もからだった。  茶色いビニール張りの肘掛《ひじか》け椅子に腰をおろしてほどなく、紺の制服に白いエプロン、蚊トンボのように痩《や》せた暗い眼の少女がおしぼりとおひやを運んできた。きのうと同じおどおどした表情で、注文を訊《き》くにもまともにこちらを見ようともしない。蒼白い顔をした、この十五、六の少女を見ると律子の心はざわめきだしてくる。雰囲気が従姉《いとこ》の道子によく似ているのだ。  律子はミルク入りコーヒーを注文した。少女は注文の品をもう一度口にして念を押すこともせず、とにかくそれを忘れまいとしてか、いっそう緊張した硬張《こわば》った顔つきとなり、足早に立ち去っていった。途中、へんなふうに肢をもつれさせ、あやうく転ぶところだった。その骨の脆《もろ》そうな腰のあたりを見送りつつ、体つきも道子ちゃんにそっくりだと、律子はふいになつかしさがこみあげてきた。  道子が律子の家に預けられていたのは中学一年の冬から三年生になるまぎわまで、律子が小学校の五年から卒業証書を手にしたころまでだった。  道子がどうして自分たちと一緒に暮すようになったのか、当時はなんにもきかされなかった。なぜ? と訝《いぶか》りもしなかった。律子は有頂天にうれしかっただけだった。母親同士が姉妹で、しかも物心ついたころからずっと同じ街に住んでいたからしょっちゅう行き来があり、律子は道子を姉のように慕っていた。その道子がしばらくは同じ家で一緒にごはんを食べ、一緒にお風呂に入り、しかも律子の部屋の隅に勉強机さえ運びこむという。律子は道子が両手にスーツケースをさげて家にやってきた日のよろこびをいまでも憶い出すことができる。たしか十二月二十四日だった。道子を歓迎する気持をどうにかして表わしたく、その夜、クリスマスケーキのいちばん大きな一切れを道子に手渡した記憶がある。いつもなら律子がまっ先に獲得するはずのそれを。妹の雪子が泣きべそをかこうとも平然とぱくつきはじめる大好物の特大の一切れ。  律子の家族四人に道子を加えた毎日はなんのいさかいもなく、水のようになめらかにすぎていった。  律子の両親は放任主義だった。子供たちの行動もいっさい詮索《せんさく》しない。だが律子に対しては無関心を通り越して野放しにしておく、といった感じがあった。年に一度ぐらい百点のついた答案用紙を持ち帰る。母親は、あら、そうと一瞥するだけ、そしてふたたび雪子とのあやとりに熱中しはじめたり雪子を伴って夕食の買物にでかけていったりする。家にぽつりととり残された律子は腹いせに答案用紙をくしゃくしゃにまるめて屑箱に捨てたりしたものだった。仕事|一辺倒《いつぺんとう》で家にいるときはカンシャクばかり起こしている父親は、律子の顔を見ると、よく「お前はいったいだれに似たんだ」とわけもなく怒鳴りつけてくる。それがなぜか発火点となって父と母の口|喧嘩《げんか》となる。ある夜、襖《ふすま》ごしに耳にした父のことばがある。「あれは俺の子じゃないだろう」低く圧《お》し殺した声だった。  三人の女の子たちはよく遊んだ。三人のうちで、律子はそのわがままさからボス格となり、おとなしく我慢づよい道子はいつも律子の言いなりで、その上いったんその遊びをしはじめると奇抜なアイディアや工夫を凝らし、存分に律子を愉しませるのだった。律子より二つ齢下の雪子は無邪気な観客であり、使い走りであり、暴君である姉の律子の手前こっそりとだったけれど、道子の絶対的な崇拝者《すうはいしや》だった。  道子はたいそう手先が器用だった。お手玉やおはじきはもとより、折り紙で作る動物たちの愛らしさなど絶品だった。律子のゴム人形の服も縫ってくれたし、毛糸で編んだ兎《うさぎ》もこしらえてくれた。それから道子のつくる紙芝居。ストーリィも絵もすべて道子の考えだしたもので、全部で五種類ぐらいあったのではなかろうか。にんげんは一人も登場しない。どの紙芝居もそうだった。犬や猫や山羊《やぎ》などがぞろぞろと現われてきては、なにか途方もない計画をたて、決して失敗に終らず、いつもめでたし、めでたしとなってゆく。ただ犠牲者は必ずでる。途中で死ぬ者がいる。それが妙に哀切で、雪子などその場面にくると自動点火されたかのようにしゃくりあげる。その紙芝居は律子の母親も感心したぐらいにおもしろく、絵がばつぐんに上手だった。皆から口々にほめられると、道子はまるで悪戯《いたずら》をしたかのように首をうなだれ、みんなお話、ウソっぱち、と低声《こごえ》で答える。紙芝居に昂奮《こうふん》した雪子が、いまのあのヤギさんはあたし、あのアヒルはお姉ちゃま、などと一つずつ身近な者に当てはめてゆくとき、道子はそのおしゃべりにはさからわないけれど、雪子の気のすんだあたりでぽつりと訂正する。「みんなに食べられてしまったあの豚さん、あれ、わたし」  道子は無口だった。律子のと隣りあっている勉強机に向ったまま窓のそとをぼんやり眺めている時間が多かった。道子ちゃんどうしたの、と声をかけると、ううん、なんにも、と急いでかぶりを振る。口もとにぎこちない笑いを刻んでみせる。けれどその瞳には子供心にもどきりとするような、よどんだ沼のような暗さがたたえられていた。  一緒に生活しはじめて半年ぐらいたったころ、律子がなにげなく訊いたことがある。「おうちに帰りたくならない。おじさんやおばさんに逢いたいでしょ」  道子はすっと律子から視線をはずし、しばらく黙っていたけれど、やがて独言《ひとりごと》めかして呟《つぶや》いた。 「あの人たちにはわたしはいらないもの。わたしは邪魔みたいだもの。律子ちゃん、わたし邪魔かしら」  律子はびっくりし、ううん、と頭を強く左右に振った。道子にいやなことを言ったらしいとうろたえてもいた。「そう、よかった」道子はうっすらとほほえんだ。いつものあの暗い眼をして。  当時の道子の家の事情を知ったのは、律子が高校三年の冬だった。母親にとって欠くことのできない話相手である高校一年の雪子からのまたぎきだった。  道子が律子の家にいた二年間、道子の母親は精神病院に入っていたという。夫とその愛人とのごたごたが原因だった。小学生の道子の目前で毎晩のように凄まじい夫婦喧嘩がくりひろげられた。そのたびに父親は女と手を切ると約束しつつも、一週間たつかたたないうちにまたもや愛人のもとへと通いだす。女のほうも死ぬだの殺すだのと半狂乱の状態にあったらしい。母親は夫が背負って帰る女の気配に敏感だった。ヒステリックな詰問《きつもん》がはじまる。口汚ない喧嘩となる。掴《つか》み合いとなる夜もある。相手の女が家にのりこんできた日、道子もその場に居合わせた。わたしたち夫婦にはこの子がいる、と母親は道子を使った。数週間後、今度は母親が女のもとに泊りこんで帰らない夫を迎えに行った。いやがる道子を強引に伴って。そこで母娘はぶざまな半裸姿の男を見せつけられた。そのあたりから母親の頭は少しずつ、おかしくなっていったのだという。  一年と数カ月で道子の母親は退院し、ふたたび親子三人の生活がはじまった。けれどそれからもしばらくのあいだ、道子はさまざまな不快な光景の目撃者でありつづけたらしい。母親の神経は毀《こわ》れやすくなっていた。半年後、父親が転勤となり道子たち一家は別の街に越して行った。それ以来、律子は一度も道子に逢っていない。中学生の時分、二、三回手紙をだしてみたが返事はなかった。高校卒業後、道子は親ののぞみを振り切って大学へは進まなかった。自分でさっさと就職先を探しだし、その街からでていったという話は耳にしている。結婚したともきかない。たしか今年の五月で二十四。  コーヒーが運ばれてきた。テーブルに茶碗を置く少女の手がかすかにふるえている。律子はふいにいじらしさを覚え、思わず、ありがとう、と口走っていた。その瞬間、びくりと少女の全身がわななき、律子はあっけにとられた。過敏すぎる反応だった。少女は急いで砂糖壺を茶碗の横に添えると、逃げるようにそこから離れて行った。どこか病んでいるのだろうか。少女の痩せ細った後姿が痛々しく眼にしみてくる。  道子はどうしているだろう。あれから十年後の現在、どんなふうになっているのだろう。やっぱり昔と同様に細く、肉の薄い体つきだろうか。  それまでなんの音沙汰《おとさた》もなかった道子がいきなり自分の詩集を送りつけてきたのは去年の六月、律子が自炊の学生生活に入ってほどなくだった。包みの裏に道子の名前を見てびっくりし、よくこのアパートの住所が分ったものだと訝《いぶか》しんだけれど、それはA市にある律子の実家にでも問いあわせたにちがいないと納得がいった。包みのなかには一冊の乳色の詩集が入っているだけで、手紙らしきしろものはいっさい見当らなかった。 「熟れた夏」。題字もその横に並んだ道子の名もみず色だった。まず後書きから読んでみた。そしてこれが第一詩集で自費出版であること、道子が高校時代から詩作しつづけてきたこと、現在はある同人誌に加入していることなどを知った。現住所はT市、となっていたと思う。おもて表紙へともどり扉をめくると、まっさらなページの下のほうに小さく、Rへ、と記された活字が沈んでいた。それもみず色だった。  目次によると詩集のなかは三章に分れていた。律子は読みだした。たちまち困惑した。  第㈵章におさめられている五篇の短い詩は、少女時代の回想、とまでは理解できた。動物紙芝居とかおはじき、クリスマスケーキなどといったなつかしい単語が散っていた。しかしいったい何を言いたいのか、律子にはまるで不可解だった。回想がテーマであるなら、もっと豊潤な情感を盛りこむとか、時間に漉《こ》された清澄な抒情を吹き流すとか、あるいはまったくの感傷のべた塗りで押し通すとか、とにかく雰囲気が統一されていればまだ律子にも納得はいっただろう。ところが小道具としての語彙《ごい》はもっぱら過去から持ちこんできていながら、描きだされた詩の空間はちっとも遠景ではない。いたる所にいびつな感じがある。そこだけ調子が烈《はげ》しく濃くなっている。なまなましさがとぐろを巻いている。口の臭いまでたちこめてきそうな、異様に荒い道子の呼吸音。これはなんなのだろう、しばらく第㈵章の字づらを眺めているうちに、律子はへんな胸苦しさを覚えてきた。顔をそむけたくなってきた。  第㈼章へと進む。今度はむっとする強烈な臭気とは反対に余白がふんだんに使われていた。短歌ばかりを収録した章か、と疑ったほどだった。作品は四つ。いずれも同じ形式の風景詩だった。題名のあとに、まずかなりきわどい、けれどぴりりと緊迫した衝撃的な最初の一行、次に余白の行。二行目はふいにくずれる。一行目とは全然意味がつながらず、しかも、ずるずるとした語感。また余白。次は鋭く張りつめたことばの塔。余白。またもや身をななめにくねらせた一行。この三つのリズムを持つ詩句の繰返しで構成されていた。おびただしい余白にはふしぎな媚があった。対象は風景なのになぜかひどく隠微《いんび》な官能がゆらめいてくる。甘ずっぱい腐敗臭とでもいうようなねっとりした匂い。  第㈽章にくると感じはがらりと変っていた。載っているのは一篇だけ、それも一見したところ、わりとまともな活字の配列だった。律子はほっとし、第㈵、第㈼章ですっかりくたびれてしまったまなざしをゆるゆるとすべりこませていった。 [#ここから1字下げ] わたしたちの闇には乳の匂いがみちていた。土とほこりと藁《わら》のこなごなもちっていた。 わたしたちの躰《からだ》は冷たく堅くぎこちなく いつまでたっても首はなめらかにそり返ってはゆかなかった。 わたしたちの永い夜。すでに淋《さび》しい夜のとき。 わたしたちはくじけなかった。苛立《いらだ》たなかった。あきらめなど知らなかった。 ただ呆然《ぼうぜん》として遥かな無垢《むく》をおもった。 わたしたちは素裸でよこたわり、支えあい、闇の熟するのを待っていた。 闇がひとつのおおらかな抱擁であり、受容《じゆよう》であり、とめどない休息であったと憶い出すまで。 ああ、かつて弾きだされたその昏《くら》い球の中。 永遠にやすらっていたかった闇の円環。 闇の底の一人遊び、闇にまみれた悪戯 泳ぎ廻ってつかまえ殺したあまたの精虫。 やがてわたしたちは暗い色に溶けていた、古い記憶をたしかめあおうとふるえる指でたがいにつかまった。 すべてのくぼみ、つきでた部分、うつろな孔あなに指をひっかけた まだ、たりなかった 完璧ではなかった。 ちがう、そうじゃない。 おもいだして。 ついにくちでぶらさがった 闇のなかで夥《おびただ》しい唾液がぬめり、光った。 裂け目は銀のしずく 樹液を絞りあげての光芒《こうぼう》 すじはいつのまにかちいさな川となり 机と机のはざまを流れ 糸となり 部屋をよぎり 窓のすきまから ゆっくり と 空 へ 昇って いっ た [#ここで字下げ終わり]  律子は慄然《りつぜん》とした。慌てて題名を見直した。「子供部屋」まちがいはない、あの部屋、道子と一年余りともに寝起きしていたわたしの部屋。律子は思わず詩集をとじていた。きつく眼をつむった。記憶が体の深い所からせりあがってくる。とめようとしてもずりあがってくる。  最初は四六時中、一緒にいたいと望む子供心からしぜんと一つ蒲団で寝るようになったのだった。律子のほうから強引にもぐりこんでいったと記憶する。二組敷かれた夜具の一方はほとんど使われなかった。なんとなく抱きあって眠り、半年になるころから、ふざけ半分にたがいの体をくすぐりあうようになっていった。道子はくすぐったがり屋だった。ちょっとさわっただけでトビ魚のように身をよじる。それが律子にはおもしろい。いつもちょっかいをだしてゆく。「こんなとこがくすぐったいの」「律子ちゃんは」「ぜーんぜんなんともない」「ここは」「平気」「じゃ、ここは」「なんにも」二人の手は、指先はどんどん大胆になっていった。ありとあらゆる箇所にもぐりこみ、這《は》いまわり、やがて熟練し、弄《いら》うことを覚えていった。蒲団のなかは汗ばみ、深い吐息に蒸れあがり、毎晩、秘密を宿してまあるい形を成した。ともに甘美なことと知った。  しかし、律子の皮膚に浮いてくる感覚はまだ淡かった。三つ齢上の道子ほどの濃さはついにもたらされなかった。その違いはしぜんと律子を施す者、道子を施される者としての回数を多くしていった。夜ごとに道子の体は深まってゆく。律子の指に自在にあやつられる。ときには律子が愕《おどろ》きにすくんでしまうほど、烈しい反応を示した。全身をわななかせた。びっくりした律子がとっさに手を引っこめようとする。すると道子は律子にむしゃぶりつき、その手首をとらえて離すまいとする。苦しげに喘《あえ》ぎつつ、ふくらみかけた自分の胸へと律子の頭を掻き寄せてゆく、あの強い腕の力。  律子の脳裡《のうり》から次々と当時の闇の姿態が泡立《あわだ》ってきた。とめどもなく蘇《よみがえ》ってくる。それらは過去に味わったかぐわしさなど一かけらもなく、生臭い汗と分泌液の臭いにまみれて二十歳の律子の胸をむかつかせるだけだった。けれど、ぶよぶよと腐りかけた果肉のなかを追憶の波にさらわれ、羞恥《しゆうち》と嫌悪に舐《な》められながら踏みこんでゆくと、そこには道子の暗く淋しいまなざしだけが堅い種子となって待ち受けているのだった。断崖に追いつめられた小動物の、からんとうつろに開いた瞳のようなそれが。その眼に対しては少しのおぞましさも感じない。むしろ言いようのない焦《あせ》りと辛《つら》さと哀しさがこみあげてくる。自分がなんの力にもなれず、どう慰めていいのかも分らず、ただ黙って道子を見つめているしかなかったいくつもの日々。あの部屋の窓。「ねえ、道子ちゃん、どうしたの。なにがあったの。どうしてそんな眼してるの」  遠い過去から冷たい潮のような一条が流れだしてくるにつれ、律子は次第に気持を取り直していった。以前と同様に、やはり道子には無関心ではいられなかった。おずおずと詩集をくってゆく。中ほどのページで手がとまった。第㈼章、さっき読んだ印象では、ここにはどうやら道子の現在がもっともでているようだったのだ。少なくとも子供の世界ではない。「子供部屋」を知ったいま、律子の心のなかでその一篇は、すべての作品をあかあかと照らしだす鏡としてすえられていた。  律子はおびただしい余白に惑わされず、慎重に第㈼章をたどっていった。予感は当った。恋唄ではあるまいか、先刻もうっすらとそう感じてはいたのだ。しかし道子はことばを縦横に張りめぐらし、巧みにそれを隠していた。余白を使い、交互に詩句の長さを変え、リズムを乱し擬人化《ぎじんか》した風景詩と見せかけていた。 「金の秋」では「とうもろこし色の髪の少女」への執着が語られているらしい。「水蜜桃」での相手は、どうやら「樹液の色に染まらない」十七、八の「眼尻のとけた少女」のようだ。また「冬の蘭」という作品では「一本の草の繊維のような少女」がやがて異性に惹かれ、自分から別れていってしまった日の哀しさが自虐的な表現のなかからゆらめきでていた。少女を烈しく憎み、相手の男を凄まじく怨《うら》み、痩せ我慢の乾いた高笑いを宙に飛ばしている道子の姿、そんな一篇だった。  第㈼章の四つの作品のどれを読んでも道子は受け身ではなかった。記憶にある、無口で辛抱《しんぼう》強く、おどおどと遠慮がちで、といった道子の面影はどこにもない。積極的に相手に突進し、がむしゃらに獲《とら》え、引き寄せ、溺愛《できあい》し、そして失う。「冬の蘭」みたいに相手が去ってゆく場合もあれば、道子がいとも無造作に切り捨ててしまうときもあるらしい。対象は少女ばかり、さらに共通しているのは、どの作品の背後からも妙にヤケっぱちで自虐的な道子の横貌《よこがお》がにじんでくることだった。  道子は随分《ずいぶん》と性格が変ったようだ、律子ははぐらかされたような一抹《いちまつ》の淋しさと、なぜか四人の少女たちに淡い妬《ねた》みを覚えながら、ふたたび「子供部屋」のころ、第㈵章へとページをさかのぼっていった。さっきは充分に読み取れなかったけれど、道子が自分をなつかしんだり、あるいはひょっとして逢いたがっているような詩句が見出せるのではないかと期待した。  駄目だった、やっぱり分らない。とにかくそこに塗りつけられている道子の異様な呼吸音が邪魔をする。次々とこちらの神経を苛立たせ、惑乱《わくらん》させる。他人の安易な理解などいらない、とにかく好きなように書く、叩きつけるといった荒い息遣いが脈打っている。ページのはしから、いまにも噴《ふ》きおちてきそうな激情のうねり。そう、道子にはときたまこれらの詩のような依怙地《いこじ》なところ、強情な一面があった。唇を堅く一文字に縫いあげ、眼ばかりをぎらつかせていたあの表情。律子や雪子がつかのま道子の存在を忘れ去り、母親にまつわりついているとき。あら、道子ちゃんは、と気がついてその姿を探すと、部屋の暗い隅からじいっと息をひそめるようにしてこちらの光景を凝視《ぎようし》している。いつになく強い光をたぎらせた二つの瞳。こっちにいらっしゃいな。道子は黙ってかぶりを横に振る。もう一度、皆が口々に声をかける。道子はその場から動こうともしない。雪子が走りゆき、手を取ってたちあがらせようとする。それでもがんとしてそこに貼りついている。片手を引っぱられながら、泣きだしそうに口もとを歪《ゆが》めながら。  律子の指先と眼は㈵章の数ページを往復しつづけた。こだわらずにはいられなかった。漠然とながらも憎しみやうらみの息遣いを感じる。それも自分に向けられているような気がする。しきりと記憶の深い所を小突《こづ》いてくる。次第に何かを掘り起こしてくる。ふいにその核に当った。一瞬、律子は息を呑み、そして、とっさに口走っていた。道子ちゃんを大好きだったのは本当なのだ。  律子のその感情は、自分の好きな女の子をわざとからかったりいじめたりする少年のそれと同じだった。手首や足首がくびれるほど丸々と肥え太った赤ん坊があんまり小さくて可愛くて、そのくせ一人前ににんげんの恰好をしていて、人形よりずっとおもしろくて、なんだか生意気な感じもして、ふっとつねってみたくなったりする衝動と変りはなかった。自分で虐《いじ》めておいて、自分で慰める。笑顔を取りもどさせる、そこにはなんともいえない充足感があった。  道子の目前でわざと母に甘えてみせたこともある。道子の依怙地《いこじ》な反応を充分、意識していた。といっても律子の場合、母親に無視されっぱなしの一人芝居だった。子供部屋にもどってから律子の攻撃ははじまった。道子を問いつめてゆく。ゆっくりと、執拗《しつよう》に。「ねえ、さみしかったの。ほんとはこっちにきたかったんでしょう。でも道子ちゃんはここの家の子供じゃないものね、イソウロウって言うんでしょ。ねえ、ひがんでたの。ああ、そうね、焼きもちやいてたの、そうなんでしょ」おとなしい道子はそのうち自分の机の上につっ伏し、肩をふるわせはじめる。その瞬間、律子はたまらない快感を味わう。もっと声をだして泣けばいい。立ちあがりそばに寄って、嘘つきっ、ほんとのこと言いなさい、とその背を二つ三つ殴りつけたくもなる。しばらくその姿を堪能《たんのう》してから、律子はできるだけやさしい口調で謝りだす。道子にあれこれ自分の秘匿品《ひとくひん》をプレゼントしたり、日ごろ道子が羨《うらや》ましそうな眼で眺めていたペンダントを貸してやったりとご機嫌をとる。  動物紙芝居のことでも虐《いじ》めた記憶がある。やはり二人きりの部屋にもどってからだった。雪子が紙芝居のなかの動物たちを家族に当て嵌《は》めてはしゃいだあと、道子は、みんなに食べられてしまったあの豚は自分だとひっそりと訂正した日。律子は例によってじわじわと追及しはじめた。「道子ちゃんはへんな人ね、痩せっぽっちのくせして豚なんて。そんな痩せた豚なんてだあれも食べないわ」いつも黙ってうなだれているだけの道子はその夜、めずらしく弁解した。「でも、あの、痩せたって食べられるところはあるわ。少しぐらいは役に立つもの」「そんなおいしくないお肉、だれが食べるもんですか、あたしならぜったいいや、死んでも食べない」「律子ちゃんが食べなくとも、ほかの人は食べてくれるかもしれないもの」「家の人はきっとみんな食べない。あたしが駄目って言ってやる」「でもきっとだれか喜んでくれる人がいるわ、食べなくとも、死んでほっとしてくれる人」「なぜ、なぜほっとするのよ」「だって一人いなくなったら、その分だけお金がかからないっていうし、うちのパパとママもわたしがいなければもうとっくに別れられたんだけど、わたしがその邪魔をしたんだって」そう言ってから道子は両掌《りようて》で顔をおおい、しゃくりはじめた。その耳に向って律子はさらに、ひねくれ者とか痩せてるから豚じゃなくて山羊《やぎ》だとか、ひどいことばを投げこんだ。律子自身、父親に言われたことのあることばだった。あんまりはやく泣かれて、なんだか言いたりない不満が残っていた。その日の道子の涙は盛大だった。機嫌を取りもどさせるにはかなりてこずったけれど、その分だけその後の満足感と優越感は大きかった。  嗜虐《しぎやく》性の発作は月に二、三度といった程度だったと思う。それ以外の日々はつねに道子をかばい、いたわっていたつもりだった。しかし、と記憶を引き寄せてゆくうちにそれもあやしくなってくる。道子の我慢強さや従順さは、あるいはいつはじまるか分らない律子の発作をおびえての一つの楯《たて》だったのかもしれない。  闇のなかの秘密にしても、その最初のきっかけがなんであったか、多分、道子は脳裡《のうり》に鮮明に刻みこんでいるに違いない。約束を破った体罰だった。くすぐったのは、さんざんつねったあと泣きだした道子のご機嫌とりのためだった。  道子は雪子を可愛がった。その態度にはどこか律子に対するのと違う、そう、柔らかくのびのびした感じがあった。雪子もまた道子のそばから離れない。終日、まとわりついている。そんな二人を見ていると妙に気持がじりじりしてくる。「あたしと雪ちゃんとどっちが好き」とある日ついに難問《なんもん》を吹っかけた。やはり子供部屋だった。どちらも好き、と道子は答えた。嘘っ、と律子は詰め寄った。そんな返答など欲しくはない、ちゃんと自分を選んで欲しい、雪子と一緒くたになどされたくはない。やがて道子は根負けしたのか、ついに律子を満足させる答え方をした。 「じゃあ、その証拠に雪ちゃんとは一週間ぜったい口をきかないって約束して」  道子は雪子を無視しつづけることはできなかった。子供たち三人だけの場ならともかく、おとな二人が混っている食卓においてはどうしようもなかった。それも雪子が道子の突然の変貌《へんぼう》に困惑し、嫌われた、と母親に泣きついたものだから、母親は親バカを丸出しにして子供たちのことにくちばしをはさんできた。もしそれが雪子でなく律子であったなら、母親は知らんぷりを装っただろう。夕食の席で母親はさりげなく言った。「雪ちゃんはこのごろちょっとひがみっぽくなっているみたいなの。仲良くしてあげてね、道子ちゃんは一番上のお姉さんだし、よろしくね」「はい」道子はだれの顔も見ず、低く返事をした。するとさっそく雪子が話しかけてくる。道子は避けようがなかった。  その夜、蒲団のなかで律子は約束を破ったと道子を責めた。すぐそばに、これまで何度も叩いたりつねったりしてみたかった体がある。烈しい衝動がこみあげてくる。一回だけ、と自分に弁解し、手をのばしていった。「痛いっ」道子の鋭く小さな叫び声を耳にした瞬間、なんとも言いようのない快感が皮膚の上を走り抜けた。そのあと律子の手はもはや抑制力を失ってめちゃくちゃに道子の体のあちこちをつねりつづけていった。しばらくしてはっと気づくと道子がひっそりと泣いている。こちらに背を向け蝦《えび》のように体を丸めている。今度は用心深くそろそろと掌をのばしていった。その背をさすり、髪を撫《な》でた。泣き声がやんだと知ると、ふざけるようにその体に絡みつき、そしてくすぐりはじめた。それもまた予想外のおもしろさだった。自分の指先のちょっとした動きで相手の体がタンポポの綿毛みたいに浮きあがる。青虫みたいに身をくねらす。それもたった指の一本か二本で。  はじめのころ道子はさわられるのをいやがった。律子は許さなかった。抵抗されればされるほど心は猛《たけ》りたつ。おもしろみが倍加する。そうこうするうちに道子は逃げなくなった。深く吐息をもらすようになった。そしてさらに、と反芻《はんすう》するうちに、突然、律子の頭のなかに「子供部屋」のおしまいのほう、ふしぜんに途切れ、乱れちってゆくことばのリズムがわっと押し入ってきた。かつての道子のあえぎ声と重なった。  ひょっとすると、あれがいわゆる性愛の絶頂感というものだったのだろうか。  ふっと手もとのページを見ると、Rへ、と印刷された文字が眼にとびこんできた。鋭く頭をついた。Rとはわたしのことではないのか。  律子は茫然《ぼうぜん》としてページから顔をあげた。  第㈼章の詩句のなかから浮かびあがってきた道子の横貌、あのヤケっぱちで自虐的な素振《そぶ》りが彼女の現在の生き方そのものであったとしたら、それを追ってゆく先に「子供部屋」があるのだとしたら、そこまで考え、律子の体は急に金縛りにあったように硬直した。  多分、道子はわたしをうらんでいる。憎んでいる。Rへ、とはその意味なのだ。きっとそうだ。そしてこの詩集の一ページ目にわたしの名前を呪文《じゆもん》のように貼りつけ、この世界にわたしを引きずりこもうとしている。自分と同様につまずかせようとしている。そう、ごく普通の女としては生きられないように。まるでいまのわたしの男嫌いをだれかからきき、そこにつけこむかのように。  瞬間、律子ははっとした。雪子、わたしのそうした性行を知っているのは雪子しかいない。彼女のボーイフレンドをこきおろすついでにうっかりそれらしきことばを口にした記憶がある。あのとき雪子はくやしそうな眼をしてわたしを睨《にら》みつけ、ふん、病的ね、と吐き捨てた。何年も前のことではない。道子の絶対的崇拝者だった雪子。しかし、まさか。  頭がぐらぐらした。道子のあの暗い眼が、部屋の隅からじっとこちらを凝視するまなざしが、脳の襞《ひだ》のあいだから次つぎとぬめりでて、カエルの卵のように頭をいっぱいにした。  わたしのせいじゃない、眼の重圧を押しのけるように、律子は思わず口走っていた。わたしの責任じゃない、道子がいまどんなふうになっていようとも、わたしには関係がない、昔のことだ、子供のころの出来事だ、たかがこんな詩集一冊におびやかされるものか、いいかげんなことばのワナにはまりこむものか。充血した頭のまま、律子は詩集を一気に、まっぷたつに引き裂いていた。  それからしばらく律子は静かなヒステリィ状態にあった。軽い対人恐怖症だったのかもしれない。大学の講義も欠席がちとなった。  大学が夏期休暇に入ってからもA市の実家には帰らなかった。かつて道子と共有した八畳間「子供部屋」にはもどりたくない。他人をうとみながら、しかし一人ぼっちでアパートの部屋に閉じこもっていることもできなかった。暮れどきとなり、部屋のなかにカーキ色の夕陽がみちてくると、背筋が頼りなくちぢんでくる。人恋しさにふらりとそとへでてゆく。大学近くの沢井の店『喫茶・キャビン』に日参しはじめたのもそんな日々のことだ。  沢井に抱かれたのは夏休みの終り、八月の末だった。その夜、律子は閉店時間の十時までカウンターの隅でねばっていた。いつにない長居だった。そして全身を充電させ、その気配に気づいた沢井が声をかけてくれるのを待っていた。男を識《し》ってしまえば道子に取り憑かれているこんな状態も払い落せるかもしれない。律子にしてはかなり考えつめた末の決断だった。  案の定、沢井は察しのよい中年男だった。彼とはその夜一回きりの関係であればよかった。はっきりいって厄《やく》ばらいとなる男はだれでもよかった。  ところがその夜、律子の体は男の仕草《しぐさ》のことごとくにおじぎ草のように反応した。体中の繊毛が男の意のままにそよぎたち、その動きに遅れまいとなびきつづけた。しとどの汗にまみれ、髪を振り乱し、声がもれた。惑乱には終りがなかった。途中、沢井は何度も手の動きをとめ、ほんとにはじめてか、と顔を覗《のぞ》いた。頷きながら律子もまた呆然としていた。  まったく訳が分らなかった。沢井の手が触れた瞬間から道子が現われてきたのだから。道子の手が、爪が、生温かい唇と唾液が、沢井のそれを借りて蘇ってきたのだ。過去と現在の見境いがつかなくなった。そしてかつての一年余、狎《な》れ親しんだ道子の手の下で、律子は安心し、くつろぎきって体をさらけだし、神経の束をあっというまにほどいていった。少女だったころとは比較にならないほどの蜜にまみれながら。  沢井との関係は尾をひいた。ずるずるとした好奇心がつづいていった。沢井に抱いている感情とはべつに、官能は深まる一方だった。そのたびに律子は、道子が十年前に知ったらしい感覚とはこれだろうか、このぐらいの烈しさだったのだろうか、と無意識のうちに測っているのだった。「あなたはほんとに処女だったのかねえ」沢井はよくこう言ってからかった。律子の大きらいな顔つきと口調だった。いつも無視した。この男に抱かれているのだという実感が全然なかった。反対に道子の気配は沢井に抱かれるたび、ますます濃くなっていった。沢井の体に伏せられてほどなく、二人のあいだにするりと道子が忍び入ってくる。すると決って感覚が鋭く飛躍する。大小の波の満ち干きがはじまる。  事後、よもやあの一瞬に道子の名を叫びはしなかっただろうか、と冷や汗が吹きだしそうな日も随分とあった。けれど次の逢瀬《おうせ》、またしても道子を呼びこんでしまう。過去から流れよってくる微風のようなその体温をのがすまいとして、思わず沢井の背を強く掻《か》きよせている。手放すまいとする。男としては小柄な沢井の体つきは、その点、丁度よかった。まあ、唯一、気に入っている所といえた。  沢井と別れたのは今年の一月、松木夫人と知りあってまる一と月後だった。もう逢わない、と律子から告げた。夫人との親交が増すにつれ、沢井との時間を工面するのがひどく億劫《おつくう》に思われてきた。それに最初のころは抱かれるたびに的確に彫りを深めていた快感の度合が、そろそろ変りばえのしない一定線を引きはじめてもいる。なんだか、もうこれ以上は期待できそうもなかった。  沢井のことは夫人から異性関係を訊かれたおりに話してあった。別れると同時にそれも報告した。ただその性愛の場においてつねに道子を媒介としていたことはずっと口にだせなかった。思いきって相談してみたのは五月になってからだった。 「そんなこと異常でもなんでもありませんわ」  夫人はいともあっさりとそう言った。 「あたくしにだって、いえ、だれにでも覚えのあることじゃないかしら。あたくしが空想するのは、そうね、やはり同性より男性のほうが多いかしら。でも殿方にも飽きてくると、たまには、ね」  律子はほっとした。沢井にはついに道子のことは語らずじまいとなっていた。言ってもどうせからかいの種にされる。紀夫はどうだろう。松木夫人からきいてるのだろうか。  紀夫、の一言によって忘れていた頬の痛みがぶり返してきた。腕時計を見ると三十分近くコーヒーをすすりながらぼんやりしていたらしい。律子は伝票を手に椅子からたちあがった。  蚊トンボみたいな少女の姿は喫茶フロアのどこにも見当らなかった。  ほんの数十分の仮睡のつもりだったのが、眼をさましてみると、ぞっくり三時間半も抜けおちていた。長方形の部屋のなかはうっすらと青味がかり、また冷房のせいもあって、水槽の底にいるような錯覚にとらわれた。寝台の裾《すそ》のほうに一列に並んだ細長い衣裳ダンス、三点セット、聖書と仏典の載った書き物机、それらの輪郭が皆一様に墨色にぼやけている。  律子は慌てて寝台から飛びおり、窓際へと走りよった。空の青が水っぽくうるんでいる。西空のほうからあかね色が流れだしている。もう一日が終ろうとしている。一時間も膚を灼かずにうかうかとすごしてしまったきょう一日。なんてもったいないことを。  がっくりとした気分で窓際の机の前の椅子に腰をおとす。足もとに黄色い頭陀袋が転がっている。先刻、たばこの箱を抜きだしたときのまま、うっすらと口が開いている。宝珠《ほうぎよく》のように赤く光っているものがいくつか見える。ああプラムを忘れていた。上体をかがめ、二十個のプラムを机の上へと移しはじめた。両手に二つずつ、袋の口からせっせと運びだす。あまり広くはない机の表面はたちまちにルビー色の球《たま》でいっぱいになった。聖書と仏典もプラムのお尻の下となっている。どうしよう、一人でこんなに食べきれない。ホットドッグの包みをひらくと、かすかに臭いだしている。とても食べられるしろものではない。  もとはといえば、すべて紀夫が原因だった。このプラムも、きょう一日台無しにされたのも。あの野蛮人。  かっとした頭で律子は一個のプラムを掴《つか》みあげ、口へと持ってゆきかけた。そのとき電話が鳴った。松木夫人からかもしれない。プラムを手にしたまま、急いで寝台わきの小卓へと向った。海辺での出来事を言いつけてやろう。 「もしもし」 「あ、俺」  紀夫の野太い声だった。 「さっきは悪かったな。あやまるよ。詫《わ》びのしるしと言っちゃなんだけど、晩めしおごるからさ、ちょっと早いけどでてこないか。十階のラウンジレストランまでよ」 「それはわざわざどうも。でも、わたしぜんぜんお腹がすいてませんので」  ガチャリと受話器を置く。そばの屑箱の底へ思いっきりプラムを叩き入れる。  正直なところ、律子は空腹でぺこぺこだった。きょうは朝から口にしたものといえば、朝食のバタートースト一枚とオレンジ果汁だけ。紀夫はラウンジレストランに行くらしい。それではこちらはホテル地階の和食レストランにしよう。紀夫の顔なんか見たくない。  律子は化粧バッグを取りだし薄く口紅を引くと、巾着《きんちやく》型の白い小さなビーズバッグに財布やたばこを押しこみ、木綿の小花模様のワンピースに着換えて部屋をでた。五時を少しまわったばかりだった。  人気のない廊下をエレベーターのほうへと歩いてゆく。床には臙脂《えんじ》色の絨毯が敷きつめられていた。靴音もほこりももれなく吸いこんでしまいそうなぶ厚く、豪勢な織りだった。  ぎくりと立ちすくむ。エレベーターのそばの壁に、紀夫が所在なげにもたれていた。眼を伏せ、靴先のあたりの一点をぼんやりと見つめている。日中とは違ってベージュ色のスーツに焦茶色のオープンシャツ、靴もベージュ色だった。ややうつむきかげんの額に、さらりと軽く前髪がふりおちている。しゃべらなければかなりイイ男なんだな、と律子はそのときはじめてそう感じた。背丈も充分あるし、肩幅もがっしりと広く、それでいて腰のまわりはしなやかに引き締っている。浅黒い膚にはほどよい光沢もあるし、目鼻立ちの彫りも深い。ある種の女たちから見ると、性的魅力に富んでいる、というタイプなのかもしれない。松木夫人もそのクチだろうか、憂い顔をつくろい、ことば少なに気取っていたこんな紀夫の姿に眼がくらんだのだろうか。わたしは若い男たちのこういったポーズにはうんざりするぐらい見飽きているけれど。  律子がこのままエレベーター前へ進もうか、それとも引き返して階段を使おうかと迷っているうちに、紀夫のほうも律子の姿に気がついてしまった。にやりと笑い、すぐさま駈けよってきた。 「ふう、よかった。助かったよ。もしあんたがルームサービスで晩めしをすませちまったらどうしようかとはらはらしてたんだ。な、悪かった。頼むから機嫌なおしてくれよ。あんたを怒らせちまったら、あのババァとの仲もまずくなるんだよなあ。これには俺の生活がかかってんだからさ」 「これってどういうこと」  紀夫のいやに大仰《おおぎよう》な台詞《せりふ》と切迫した口調につられ、律子は一瞬、彼への腹立たしさを忘れていた。 「ま、そこんとこの事情はあとでゆっくり話すからさ、きょうのところは俺につきあってくれよ。とにかくめしを食いに行こう、な」  紀夫の切羽《せつぱ》つまった真剣な表情よりも、その事情とやらに律子の気は惹かれた。彼に夕食をおごらせ、その話をさっさとききだしさえすれば、あとはすぐに部屋にもどればいい。せいぜい三、四十分の辛抱《しんぼう》だ。 「分ったわ。ただし話はちゃんときかせてくれるのでしょうね」 「ああ。しかしババァには俺がしゃべったなんてぜったい言わないでくれよな」 「ええ」と答えつつも、本心からではなかった。紀夫と夫人とどちらが大切か、あらためて考える必要もない。もしかするとこれは絶好のチャンスかもしれないのだ。紀夫がこれからしゃべる内容の全部、夫人にバラしてやろう。二人が別れるきっかけとなるかもしれない。そう考えると律子の口もとはしぜんとほぐれてくる。 「よ、笑ってくれたか、よかった、よかった。さ、行こう」  律子の気まぐれが移ろわぬうちにとでも考えたのか、紀夫は律子の肘のあたりを掴みとり、うながした。  律子はその掌の感触に全身が粟《あわ》立った。すぐにこれだ、この図々しさ。律子は低く、けれど鋭く気を放った。 「さわらないでよっ」  十階のラウンジレストランは三面がガラス壁となっていて、それに添って四人掛けのテーブルがコの字型に置かれていた。まだ時間が早いためか、十五台のテーブルのうちふさがっているのは二つだけだった。二人は右側、東の灯台を遠くに眺められる席にむかいあってすわった。タキシード姿の男がおしぼりとおひや、模造皮を張った重々しいメニュウをたずさえてやってくる。紀夫はハンバーグステーキとボルシチ、それに大盛りライスを注文し、律子はピザパイと野菜サラダを頼んだ。 「なんか飲むか。生ビールでも。ワインもあるし」  そう言いながら紀夫は律子の背後へと顎《あご》をしゃくって見せた。肩越しに振り返るとグランドピアノが置かれたさらに奥のほうに何十本ものワインを斜めにねかせた柵がある。 「結構よ」 「うん、俺もいいわ。飲むと腹がふくれて食えなくなるから」  タキシードの男は去って行った。律子はバッグからたばことマッチを取り出し、一本咥えて火をつけた。ガラス壁のむこうへとまなざしをそよがせてゆく。夕暮れの血液色の大気のなかに白くすっきりとたっている東の灯台。だがその下のまわり一帯はよどんだ家屋がひしめいているという。貧しく、朽ちかけてゆくばかりの家々がぎっしり肩を寄せあっているという。あしたあたり行ってみようか、律子は火のついたたばこを手にぼんやりと考えた。その地域のことを話してくれたときのあのボーイの眼、あの陰湿な光、それは律子の胸に奇妙なうしろめたさとなってねばりついていた。  淡い物想いに耽《ひた》っている律子の耳に紀夫の声が流れ入ってきた。いつになく気弱な口調だった。 「はっきりいって、あんた俺のこときらいなんだろ、いや、それぐらい俺にだってピンとくるさ。あんた、俺を見るときひどくイヤーな眼するもんな。ま、しかしそれはそれとしてよ。ババァがここへきたときは、せめてあいつの前だけでいいからよ、なんちゅうか、こう、俺にべたべたしてくれないかなあ。早い話が俺とデキちまったような感じでよ」 「あなたとっ、なに、それ」  律子は思わず甲高《かんだか》く叫んでいた。自分で自分の声にびっくりし、慌《あわ》てて声をひそめる。低く、口早につづける。 「いったいなにを言いだすのかと思えば、話ってそんなことだったの。あなた相談する相手をまちがえてるんじゃない。やりたいならほかの人を探しなさいよ。あたしはまっぴらだわっ」 「ちがうんだよなあ、それが」  紀夫は深々とため息をつき、それから両手をテーブルのふちにのせ、軽く組みあわせた。瞑想《めいそう》するかのように視線をおとす。 「そうなったほうがババァはよろこぶのさ」 「そりゃあ、わたしたちが仲良くしていたらおばさまはほっとするでしょ。いがみあってるよりもね。だからといって、どうしてわたしたちが恋人同士みたいに振るまう必要があるの。あなたの考え方ってとかく極端すぎるわ。わたしが男にダマされた、なんて言い方もその一つよ。あれはぜったいに訂正してもらいたいわ。わたし、おばさまにはそんなふうには話しませんでしたからね。それなのにあなたはすぐに勝手にねじまげて」 「ちょっと待てよ」  紀夫が顔をあげた。怪訝《けげん》な表情だった。 「ダマされたって、それ、ババァのことばだぜ」 「また、そんなでたらめを」 「ちがうって。ほんとだって。あの子は可哀想なんだ、男にさんざダマされてきたって、あいつほんとに言ったんだ」 「………」 「ぶちまけて言うとな、俺もどうもあんたのこと気に食わなかったのよ。小生意気だとか高慢ちきだとか、よくババァにぶつくさ言ってたものさ。そのたんびにババァはあんたをかばって、そのうち、じつはあの子は、とやけにしんみりした口調できりだしてきてよ。そのあげくに、俺にもいたわってやってくれ、妹みたいに思って少しは親身になってくれ、なんて頼まれちまったりなんかして、俺、これでもあんたに同情してたんだぜ。あんたの前ではこのことは口にするなってのもずっと忠実に守ってきたんだぜ。ところがあんたは相変《あいかわ》らずぶすっとしてただろ、ほら、ここにくる車のなかでもさ、だもんでついこっちもからかってみたくなって」  律子にも、紀夫の前では口にしないで、と夫人から念を押されていたことがあった。彼のおいたちのことだ。物心がつくかつかないうちに身なし児となり、親戚中をたらいまわしにされていたこと、そのため中学校までしか進学させてもらえず、卒業後は転々と職を変え、そのあいだには警察沙汰になりかねないようなきわどいこともやってきた、という話。夫人はどこへ行くにも紀夫を連れていた。だからそういった話は紀夫のいないすきをねらってちょこちょこっと語られたのだ。レストランで紀夫が手洗いにたった合間を見計らってとか、「ラン美容室」の片隅とか。律子が沢井とのいきさつを打ちあけたのも、紀夫が駐車場に車を取りに行っている十数分のあいだ、街中のとある喫茶店でだった。  夫人は紀夫の身上話を好んで口にした。低声《こごえ》で早口に断片的に、そして痛ましげに眉をよせて。そして必ず、やさしくしてやって下さいな、可哀想な子なんですのよ、としめくくる。 「これはおばさまからおききしたんだけど、あなたは親もきょうだいもない身なし児なんですって」 「身なし児」と鸚鵡《おうむ》返しに言ったかと思うと、紀夫はげらげらと体を揺すって笑いだした。 「そうか、なるほど。あのババァ、あんたにはそういう手を打ってたのか」  それからひとしきり笑いに身をよじったあと、紀夫は口もとをほころばしたまま答え返してきた。 「生憎《あいにく》なことにおやじもおふくろもぴんぴんしてるよ。いや、あれはぴんぴんとは言えねえな。それにうちのおやじは子供を作るのがたった一つの趣味だったらしくてな、ま、貧乏人のなんとかっていうけど、俺んとこもそうでさ、俺は九人兄妹の上から三番目」  料理が運ばれてきた。紀夫はさっそくフォークとナイフを握りしめ、皿の中身へと取りかかる。  律子は夫人に向けて柔らかく開かれていた心のどこかがふっと鼓動をとめ、硬張《こわば》ってゆくのを感じていた。にわかに食欲が失せてゆく。なぜ夫人は嘘などついたのだろう、そうしてまでわたしたちの仲を円満にさせたいと思うのなら、いっそはっきり、ノリと仲良くして、と言ってくれればいいのに。律子は短くなったたばこを灰皿に捨て、くぐもった気分でタバスコの小壜を取りあげた。どろりとチーズの溶けたピザパイの上に点々と朱のしずくをふりかける。「あんた、それかけすぎじゃねえのか。口んなかが火事になるぜ」と紀夫が声をかけてくるまで、ぼんやりと手を動かしつづけていた。 「ね、どうして、どうしておばさまはそうしたことを」 「そう、そこさ、俺があんたに話しておきたいってのは」  紀夫はボルシチの茶色い汁でぬめった唇ときらりと光る眼で律子を見返した。養子、の一言を耳にしたときとおんなじビー玉みたいな光だった。 「あいつ、このごろちょっとあせってるんだ。かれこれ半年になるのに俺とあんたが少しも親しくならないことによ。そいで、俺一人を先にこのホテルにこさせた。あんたと二人っきりにするためにさ。そのあいだにデキちまえって魂胆《こんたん》よ。俺の役目はあんたをモノにすること。そ、ババァの命令。まあ、ご丁寧にもいろんなテクニックも教わってきたよ。女心とやらについてな。そんな七面倒くさいことなんか、全部うわの空できき流してたけどな」  律子は愕然《がくぜん》とした。眼尻が吊《つ》りあがり、そのままこめかみへと裂けてゆきそうだった。なにか言おうとし、訊こうとしたが咽喉《のど》が渇《かわ》き、ことばがでてこない。紀夫の顔を、まんざらでたらめを並べたてているとも思えないその表情を呆然と眺めているだけだった。 「要するにあいつは退屈しているわけよ。亭主がおだぶつしてからのこの十五年間、ま、働くのも働いたらしいけど、それ以上に遊びにかけてもさんざ好き勝手なことやってきて、ちょっとやそっとのことじゃ物足りなくて仕方がない、ぜんぜん刺戟を感じなくなってしまったんだってよ。つまりあいつは俺たち三人ひと組になってくんずほぐれつを愉しもうってもくろんでるのさ。男が俺一人じゃあ体が持たねえって、一応、ご辞退はしてみたさ。そんなの俺の趣味でもねえしよ。するとあのスケベババァ、なんてほざいたと思う、いいのよ、ノリ、あたくしは男でも女でもいいんですもの、ホホホ、だってよ。おっそろしいじゃねえか、なあ」  律子はまばたきもできなかった。道子だ、夫人の念頭にはわたしが打ちあけた道子の話がある。 「しかし、訊きたいんだけど、あんたにもそのけがあるのかい。いや、あいつがいやに意味シンなこと言ってたからさ、いろんな可能性を秘めた子、だとか、教育のし甲斐《がい》のある子とかな。でもよ、あんたは以前は例の中年男とイイ間柄だったんだろ、それとも両刀使いか、ああ、女だから両刀とは言えねえか」 「おばさまはわたしのこと誤解してるのよ」  律子はようやくそれだけを口にした。かすれ声となっていた。 「うん。そうらしいな。あいつみたいなイントウな女じゃないよな、たしかにそうだ、うん、それは分る」  紀夫はなにを憶い出しているのか、一人でしきりと頷《うなず》いていた。頷きながらハンバーグをせっせと口に運び、付け合せのいんげんも残らずたいらげた。しばらく手と口に熱中し、皿の中身が半分になったところで、またもや手の動きをとめた。 「俺にしてもいやがるあんたを無理矢理ヤっちまうつもりはまったくないんだ。後味が悪いし、だいいちあんたが可哀想だ。ただ俺の立場ってのもあるわけよ。そこでさ、あいつの前だけでも俺とデキたふりをしてもらいたいんだよな。そのかわりぜったいあんたには指一本ふれないって約束する。ババァ対あんた、これはあんたがじかに肘鉄くらわせればいい。それは俺の知ったことじゃない。しかし俺はババァの言いつけ通りにした、あんたとヤっちまったというふうにしておきたいんだよな。頼まれてくれよ、な」 「共犯になれってこと」 「また、あんたそんな大袈裟《おおげさ》なことば使って。俺のほうのツライ事情も分ってるだろうが。ま、なんやかやいっても、とにかく俺はあいつに食わせてもらってんだからさ、そうそうさからえないんだよ、特に今回のこのプランには、あいつ、かなりやる気だしてるし」  松木夫人にはかられたという明確な感情は律子にはなかった。女の腕一本でここまでのしあがってきた女性、その並たいていでない努力、あるいはしたたかさを考えれば、夫人がそうしたことをたくらんだとしてもふしぎではないような気がした。と同時に、この半年間の夫人への濁点一つない自分の心の開き方も反芻せずにはいられなかった。信頼していたからこそ、過去をまるごとさらけだし、夫人であればこそ、と恥かしさをこらえて沢井との性愛の光景まで語り相談できたのだ。四十五歳という母親に似た年齢、けれど母親など太刀打《たちう》ちできない色香、そこには母親からずっと冷淡に扱われてきた心の飢えと憧れが入り混っていた。しかし夫人がそうした打ちあけ話から読み取ったのは、そのおりおりのこちらの心情ではなかったらしい。おもしろい場面、おもしろい光景としてこっそり眼を輝かせていたらしい。わたしの追いつめられていた気持、そうせざるをえなかった心の動きなどにはいっさい無関心だったのだろうか、とふっと淋しさが胸をよぎったとき、律子は耳もとに夫人のなまぬるい囁きをきいたような気がした。いつかどこかできき覚えのある台詞。 「そうよ、あたくしはあなたのそうした悩みや辛さが人より特別大きかったとは思いませんもの。当人はとても重大に考える、でも、そこいらへんにごろごろしている砂利のうちの一つと変らない。だって、だれだって心の底にはいろんな悩み、うしろめたさ、後悔などをいっぱいかかえ持っている。そういうものよ。そして黙って生きてゆく。それぞれの暗さがある、まずそれが前提としてあって、そこからその人がどのように生きてゆくか、大切なのはそれだけ。暗さをあれこれほじくりだしたり説明したりひけらかしたりして、いったいそれがどうだっていうの」  そうかもしれない、律子はその声にひっそりと頷いた。でも、わたしはまだよく分らない、わたしは自分の気持をだれかに理解してもらいたいと望むし、またおたがいに分りあえると思うし、そこに信頼があると考えたい、いえ、あると信じている。 「そうね、あなたはまだ若いのね」と、声はもう一度耳に吹きこまれてきた。 「あたくしも昔はそうでしたもの。でも、いまはもうことばなど信じない。特に自分で自分について語ることばなんて。そのときのことばよりも、そのことばを口にした瞬間のその人の表情を見ているほうがよっぽどおもしろい。同じ一つのことばでも人の受けとめ方、感じ方は千差万別。だから完全な理解なんて親子でも夫婦でも不可能ですわ。ことばってとても曖昧《あいまい》なもの。ことばだけでなど人を信じませんわ。ほら、いつも言ってるでしょ、男性は一緒に寝てみなくてはその本性などまるきり分らない。同性もそうかもしれなくってよ」  律子はおずおずとその声に訊いた。それじゃあ、おばさまは、道子や沢井とのことを打ちあけたときのわたしからは少しも深刻な印象、悩み苦しみ傷ついている感じは受けなかったとおっしゃりたいの、ゲームのように過去を弄《もてあそ》んでいるように見えたの、だからおばさまもその仲間入りをしたいと。  返答はなかった。ふくみ笑いだけが両の耳のあいだを風となって渡っていった。  律子はまっすぐ首をたて、紀夫に言った。 「分ったわ。見せかけだけでいいのね。おばさまの前でだけそんなふうに演じれば」  これまでと同様に、夫人との均衡がとれたと律子は胸のなかで呟いた。少くともこれでもう夫人をうらむことはないだろう。  律子は冷たくなったピザパイをゆっくりと食べはじめた。  レストランをでたのは六時半すぎだった。ついでに隣りのバーも覗いてみないか、と言う紀夫の誘いを律子は断った。空腹がみたされるとともに、烈しい疲労感が血管をむくませてきた。とにかく体を横たえたい。 「そうか。じゃ俺も部屋にもどってババァにでも電話するか。あんたとは今夜あたりうまくゆきそうだとでも言っとくよ。かまわねえだろう」  律子は頷いた。三時間半も昼寝をしたというのに口をきくのさえ億劫なほどくたびれていた。  部屋にもどった律子はすぐさまサンダルをぬぎ捨て寝台に横たわった。うつぶせになり眼をとじる。しばらくじっとそうしていると紀夫の声や、レストランの隅々からせわしないさざ波となって耳もとをかすめつづけていた人声、夫人への混濁《こんだく》した想いなどが火照《ほて》った頭のなかから抜けだしてゆくのが感じられた。かわりにこの部屋の静謐《せいひつ》さが森の冷気のように脳にしみてくる。  律子は食後の充足感とけだるさにつつまれ、眠りと覚醒《かくせい》のほんのわずかな隙間《すきま》へと漂いだしていった。耳のうしろ側はたしかにこの部屋のそこかしこを意識しているのに、もう半分、額のあたりは夢の水槽にたぷたぷとつかってゆく。  ものういふくみ笑いがきこえてきた。嗅ぎなれた香水のかおりも鼻腔《びこう》へ流れ入ってきた。あ、おばさまだ、いつここへいらしたのかしら。声をかけようとした一瞬、体はあっけなく向きを変えられ、横向きに抱き取られていた。湿った熱い膚がぴたりと貼りついてくる。律子はいつのまにか素裸となっていた。  あなた大好きよ、耳のなかにぬるい息が吹きこまれた。耳もとのうぶ毛がいっせいにそよぎたつ。息は次々と律子の耳穴をみたしてゆく。あふれでる。唾液が耳たぶにからみつく。糸を引く。一方、夫人の指先は休みなく律子の体をなぞりつづけている。よして下さい、待って下さい、と叫ぼうとするが口が動かない。身をよじってその手からのがれようとするが、全身が硬直していて髪の一本もゆらめかない。ただマネキン人形みたいに、夫人の意のままに扱われている。あなたはほんとにいい子、ノリと同じくらいにあたくしの可愛い人、夫人の指先が律子の乳首を掴みとった。指の腹と腹のあいだですりあげる。あなたはすてきよ、まるでスポンジみたいな柔軟な心の持ち主ね、吸い取るものはどこまでもたっぷり吸いあげて、そのくせいやになったらまったく自分次第で吐きだし、ほうり投げ、そしてどこも傷つかずにいられる人、そこが大好き、ほんとう、素晴しい。夫人の掌はさらに下へと這《は》いおりていった。まるい腹の感触を存分に堪能《たんのう》する。道子さんのことにしても沢井氏との関係にしても、あなたはちっとも傷ついてなんかいない。そんなことはない、と律子は言おうとする。けれど唇は密封されたかのように固まっている。あなたは詩集が送られてくるまで道子さんなど忘れきっていた、そして急におびえだした、それは攻撃されそうな不安がもたらした一つの身構え方、自分のほうがおびえてみせることで立場をすりかえようとする狡猾《こうかつ》な知恵。先に被害者づらをしたほうが勝ち、ね、そうでしょ、あなたのそのしたたかさ、ほんと惚れぼれするわ、また、あなたが沢井氏にまだ未練があるとしたら、それは単に性的なこと、あなたご自身、気がついてるでしょうけれど。でも、それは別に彼でなくたっていいはずよ、あたくしがそれを実証してあげる。夫人の指先はあっというまに律子の叢《くさむら》へとすべりおちていた。その指をえて、律子ははじめて自分の体がすでに充分に、いや過剰なくらいに溶けだしているのを知った。そのときまで分らなかった。夫人の仕草は繊細だった。優美でしめやかで、そしてふいをつく大胆さがあり、律子が小さく叫ぶのを合図にさっとあとずさる。またそろそろと忍び入ってくる。その繰返しのあいだも夫人は律子の耳もとで卑猥《ひわい》でたまらなく下品で、しかもこの上なくきららかなことばのあれこれを囁きつづけるのだった。律子は何度も何度も背筋がたわみかけた。夫人は許さなかった。律子のその気配を察すると同時に動きをとめ、いまに引きもどす。幾度かの淡い浮き沈みののち、ようやく律子は淵《ふち》へおとされた。肉がふくらみ、血管が張りつめ、息を呑んだその一瞬後、律子はまっさかさまに落下した。と、感覚が中途でくるりと反転し、とめどない上昇となっていた。烈しい炸裂《さくれつ》と溶解。  そのきわまりのまっただなかで律子は眼がさめた。昂《たか》まりのあまりの鋭さが夢を破ったのだった。  膚のいたるところになまなましい余韻があえぎ残っていた。上体を起こすと、体の輪郭がどろりと垂れ流れてゆく感じを覚えた。下着が濡れた。  律子はとっさにあたりを見まわした。夫人の姿はなかった。やはり夢だったのか、思わず安堵の吐息がもれる。  律子はたばこの入った巾着型のバッグのありかを眼で探した。バッグは寝台のむこうのテーブル、赤いポットの腹によりかかっている。律子はテーブルへと歩みより、バッグからたばこを一本とりだして火をつけると、灰皿を手にふたたび寝台にもどった。  頭のぐるりに夢の真綿が巻きついていた。量感に富んだ極彩色の夢だった。最後に走り抜けていった感覚の余燼《よじん》がそこだけ滑走路のように白く光っている。あれはもう、茫漠とした夢の領域からはみだしてしまった鮮烈さだった。現実の毒やほこりやぬかるみの底からほとばしりでてくる一条の真水のようなものがあの一瞬であるのなら、律子がたったいま夢のなかで噴きあげられた感覚はまちがいなくそれと言いきれた。あのときだけ夢の曖昧さ、朦朧さははがれおちた。いや、夢どころか、これまで律子が知っていた肉の壁まで突き破った。沢井によってもたらされ、それが肉の砕けちる断崖と思いこんでいた足場まで難なくとっぱらわれてしまった。その果てしなさを夢が教えた。  まるで夢にそそのかされているみたいだ、と律子はなにげなく夢のうちで呟き、そしてどきりとした。以前にもこうしたことがあったのだ。夢がゼリーのように現実へと流れだし、何日間も律子の気分に粘りついていたことが。  律子はおびえた。夢のなかで自分の体に新鮮な衝撃を与えたのがほかでもない松木夫人、同性であったことに。そしてそれを憶い出すのを二の次とするほどにあの感覚の甘美さの反芻に気をとられていた自分に。ほんとに夢に引きずられていってしまうのではあるまいか。指先がびくりと痙攣し、挟み持っていたたばこを床に落しそうになった。急いで灰皿に捨てる。枕をたぐりよせ、両腕でしっかりと抱きこむ。さらわれまいとそれにしがみつく。  沢井との関係に見切りをつけるきっかけの一つに夢もあった。  彼とはどっちみち先の見えたつきあいだったけれど、あの夢がなければ、もうしばらく腐れ縁はつづいていたに違いない。  夢の下地は街中で出会った一握りの襤褸《ぼろ》のような老女だった。  一月末のある日、めずらしく風のない、春めいた陽ざしの午後だった。「ラン美容室」へと向う律子の前方から異様な風態の老女がゆらり、ゆらりと歩いてくる。しらが混りのざんばら髪、しなびた青黄色い顔。ぞろりとまとった、垢まみれのドテラみたいな着物。その裾《すそ》は一足ごとに路上を掃く。ヨーカン色の半纏《はんてん》。その袖口《そでぐち》からはみだした綿は腸のように垂れ下っている。雨風に煮しめられた毛糸の襟巻《えりま》き。指の二、三本が欠けている軍手。片手にはちんまりとした風呂敷包み。  老女の姿は人眼を惹いた。真新しいビルや白いコンクリート舗道、華やかなショウウィンドウの並びたつなかで、そのみすぼらしさはどんなファッショナブルな恰好よりも人の度胆を抜いた。  二、三歩よたよたしては、どんより空を見上げる。また数歩。今度は風呂敷包みのなかをまさぐる。それから路のまんなかに突ったって中空を睨みつけ、なにやらぶつぶつと呟いている。  律子は物珍しさをおぼえ、老女に視線を当てたままゆっくりと歩いていった。すれちがいざま、その顔を間近にし、瞬間、思わず息を呑んだ。松木夫人に似ている、とっさに顔をそむけた。小走りとなっていた。なれの果て、その一言がふいに胸の底から弾きでた。  その夜、夫人の夢を見た。昼間の老女よりさらにむごたらしい老婆と化し、ひび割れた小さな鏡に向っていた。それは「ラン美容室」特注のいぶし銀の縁取《ふちど》りのある楕円形の鏡をそのまま縮小させたもので、そういえば老婆がすわりこんでいるそこは人気のないがらんとした叔母の店でもあった。老婆の片眼は白濁して溶けかけ、もう一方は火のように充血している。それでも必死に鏡面を覗きこんでいる。老婆の右手には銀製の一本の櫛《くし》。鏡の前で彼女は堅くてごわごわしたしらが頭を梳《す》きつづけている。腕は割り箸みたいにしなびてしまっていて、なかなか思うように櫛を扱えない。何度もなんども宙を引っ掻《か》いてしまう。それでも鏡と櫛に固執する。ふうっと生ぐさい息を鏡面に吹きかけてはぶるぶるふるえる手の指の腹でこする。ヘアオイルがわりに髪につばを塗りつける。しばらくして手の動きをとめ、一本残らず歯の抜けおちてしまった口をおそるおそるあけてみる。深々とした真っ黒い孔。体中で唯一うっすらとぬめりを残した歯ぐき。かろうじての人肉色。咽喉の奥に黄色く膿《う》んだ肉の切れはしがハの字型に小さく垂れ下っている。ようやっとこびりついている。日ごとにそれは腐りつづけ、くずれおち、次第に形を失っていっている。ぽとり、ぽとりと欠けてゆく。舌の上に受けとめる、その膿にまみれた肉片を老婆はどうしても吐きだせない。呑みこんでしまう。勿体ない。もうどんな肉も自分の体からそぎおとしたくはないのだ。そして老婆が口にするものといえばそれだけ、あとはどんな食べ物も咽喉を通らない。ああ、こんな姿になってしまった、と老婆は鏡のなかの自分を嘆く。だからあの男は還《かえ》ってこないのだろうか。そのとき遠くから足音が近づいてくる。急いで棒紅を握りとる。もう一方の手で内側へとめくれこんでしまった薄い唇を引きのばす。一筋の血の色を引く。けれど足音は家の前を通りすぎ、去っていってしまう。  眼がさめたとき、律子は心に深い満足感をはらんでいた。人並はずれて我《が》が強く、他人のことばになどいっさい耳を傾けようともせず、おそらく事業面でもかなり悪どいことをやってきたにちがいない夫人は結局、ああいう老いを迎えるのだろう。  しかし翌日、叔母の店にやってきた魅惑的な体つきの夫人を見たとき、律子の気持はあっさり反転した。眼の表面には夢のむごたらしさだけがぴたりと貼《は》りついた。その一枚のウロコのむこうに現実がうごめく。  可哀想なおばさま。  老婆と化した夫人が待ちあぐねていたのは紀夫に違いない。あいつに家も財産も奪い取られ、捨てられてしまったのがあの姿だ。  律子の気持はにわかに気負いたった。たとえ夫人がどのような境遇になろうとも、自分だけはそばについていてあげよう。  二日後に逢った沢井に律子は、別れる、と告げた。夢の余韻はまだつづいていた。目前の沢井が訳もなく小面憎《こづらにく》い。沢井だけではなかった。夢に絡《から》みつかれていたその一週間ばかり、律子はこれまで以上にどんな男の存在も癪《しやく》にさわって仕方がなかった。ふてぶてしくいかがわしいもの、決して信用などしてはならないものと見えた。  例の中年男とはきのうはっきり別れた、と報告したのは、美容師が退室したあとのマッサージ室でだった。スリップ姿の夫人はマッサージ台の横の革のスツールに腰かけてストッキングをはいていた。化粧をおとした顔は病人みたいに青黄色く、シミもふんだんに浮いていた。街中の老女は、あるいは夫人その人ではなかったか、と思ったほどだった。  律子のことばを耳にすると、夫人は手の動きをとめ、ゆるく笑いかけてきた。 「それはよかったこと。家庭持ちの男というのはいろいろ面倒ですからね。でも随分とつぜんのお話ね。何かあったの」  律子は老女の一件や夢のことをざっと語った。夫人を傷つけぬよう、できるだけことばを選び、都合の悪いことは所々はしょってしゃべったつもりだった。紀夫については一言もふれなかった。  最初は興味ぶかげであった夫人の表情は、話の終るころには放心した無表情さとなり、律子がしゃべりおえたのにも気づかぬ様子だった。みず色のナイロンスリップが寒ざむとして見えた。  しばらくしてようやく夫人は口をきった。低く、抑揚のない口調だった。視線は宙の一点にとまったままだった。 「……そうね、あたくしには平穏《へいおん》な老後なんて訪れないかもしれませんね。あなたの見た夢の通りになるか、街をうろつきまわる浮浪者みたいなお婆さんになるか。でも怖ろしくはありませんわ。なんだか、どちらにしてもいかにも自分らしいという気がしますもの。ただ、あたくしとしては何もかも一切合財《いつさいがつさい》失って、もうなんにもなくなって、自分の身一つ、というのがいちばんすっきりするみたい。狂人だの乞食だのと言われても構いませんわ。だって人様に迷惑さえかけなければ、どう生きてもいいでしょう。それにすべてを失ったとき、もしかするとあたくしは本当にほっとするかもしれません。これ以上、失うものがなくて。きっと、とっても心がかろやかになるでしょうね」  律子は夢の話を夫人にしたことを後悔した。やはり夫人には残酷すぎたのではあるまいか。そんな律子の心中を察してか、夫人はにわかに口調を変え、冗談めかして言った。「でもそうなるまえに、もう二、三回は華を咲かせてみたいですわ。この齢になっておかしいかしら。いいですわよねえ。それも並みの華じゃなくて。そうね、カミソリでできた華というのはどうかしら。もしかするとそこに集まってくる人もあたくし自身もうんと傷つくかもしれない。でもおもしろいと思いません。緊張感があってスリリングで、とってもステキ。血の色って見ようによってはとてもきれいな色ですわ」その夜も次の晩も、老婆の夢はつづいた。この前とは違って、夫人をそのようにさせたのは紀夫ではなく律子自身なのだった。夢のなかではしてやったりとよろこびながら、いったん眼がさめると、そんな夢のなかの自分が怖しかった。夫人と知りあってまだ一と月、しかも夫人との仲は円満そのものなのに、こうした夢を見る自分自身の心の在《あ》り方が不可解で薄気味悪かった。  だが、きょうの夢はそうした暗さとはほど遠かった。へんに仄《ほの》明るく、しかもその空間のところどころになまめかしさがとろりと実っていた。加えて夢の前|手形《てがた》としてかぐわしい官能の一房まで与えられたのだ。あの豊潤な味わい、律子は慌てて枕に顔を埋めた。憶い出すだけで体の奥底がふたたび妖しく息づいてくる。  夢が律子に要求してきたのはごく簡単なことだった。ふっと全身の力を抜いてしまえばいい、それだけだった。その安易さがかえって夢と現実の境いの脆さを示しているようで、たちまちに夢に呑みこまれてしまいそうで、律子は怖しかった。  律子にとっては自分の意思力など当てにならないしろものだった。そうはするまい、なるまい、と一応の決意はする。けれど皮膚や神経がなんの自覚もきざしもなしに、するすると湧き水みたいに意思の下をくぐり抜けていってしまう。いつのまにか脳の弾力も神経の束もほつれきっている。そこに、たとえば沢井の肉体や老婆の夢がすべりこんでくる。仮の棲処《すみか》とする。何か一つの衝撃にでくわすといつもそうだった。びっくりし、呆然としているうちにコトは運ばれていってしまう。  そう、これがいけない、律子ははっとして枕から顔をあげた。あの夢にこうしてじくじくとこだわりつづけているのがよくない。結局は自分で自分に暗示をかけてしまう。  律子は枕をほうり投げた。つまらぬことをいじくりまわしているよりも、お酒でも飲んでさっさと寝てしまおう。  数分後、口紅を塗り直した律子は巾着型のバッグを手にエレベーターへと向っていた。九時少し前だった。  ラウンジレストランの隣りにあるそのバーは奥に細長い、すっきりとした矩形《くけい》だった。内装は白と黒の二色だけで簡潔にまとめられている。ボックス席はない。カウンターの前にずらりと並んだ黒い椅子はゆったりと大きく、ざっとかぞえてみたところでは二十脚ぐらいあるようだった。バーテンダーは三人、やはり白と黒のいでたちだった。かれらはぎこちない愛想笑いというのをほとんど示さず、洗練された身のこなしでてきぱきと立ち働いている。天井の片隅からは古いシャンソンがふりおちていた。空気をやわらげる程度の慎《つつ》ましい音響だった。  客は律子のほかに二組、低声でなにかしきりと語りあっている初老の紳士二人とそう若くはない男女の二人連れだけだった。初老の男たちの会話のきれぎれから察するところ、どうやらどこかの大学の先生のようだった。二人連れはどちらもあらぬ方をぼんやりと眺め、無表情にゆっくりとグラスを口に運んでいる。  律子は出入口にいちばん近い席にすわっていた。ウイスキィの水割り二杯目だった。こういった場所に一人で入ったのははじめてだった。席につき、水割り、と注文はしたものの、一杯目をからにするまでまともに顔があげられなかった。両肢が緊張のあまりこまかくふるえていた。二杯目になって少し落ち着いた。まわりを見まわせるようになり、酔いもほんのりとめぐりだしたらしい。  ウイスキィの味はいやではなかった。グラスのなかのいくつかの氷の破片がかちあう音や次第に溶けてまるくなってゆくさまもおもしろかった。氷が溶けだすとき、グラスのなかにゆるい動きが起こる。律子はそれに見とれた。一口すする。中身が減ってどうなっただろう。グラスの真上から覗きこむ。また口に含む。今度はグラスを両掌に包み取ってみる。暖める。そして味を確かめる。そうこうするうちに二杯目はすぐになくなった。  律子はすぐさまおかわりを頼んだ。あらたな一杯が黒いプラスチックのコースターに乗せられる。グラスの表面がうっすらと汗ばんでいる。手に取る。氷の小気味よいひびきが喉もとを爽《さわ》やかにくすぐる。グラスを傾ける。舌にウイスキィの苦味が走り、快い刺戟となる。先刻、夢におどかされ、じんわりと不安の微熱をかぶっていた心がふいに引き締まる。 「ちぇっ、なあんだ、ここにいたのか」  思いがけない背後からの声に、律子は一瞬、口に含んだ液を飲みちがえそうになった。軽くむせながら口もとに片手を当てて振りむく。 「あれからずっと部屋でテレビを観ててな、ついいましがたババァに電話したとこさ。で、折り返しあんたのとこにも電話したんだぜ。ところがいくら待ってもでない。こりゃあ、もしかしたらトンズラしたんかな、とちょっとはらっとしてよ、わざわざフロントなんかにまで訊いたりして」  そう言いながら紀夫は律子の横の椅子に腰をおろした。近づいてきたバーテンダーに、ジントニック、とばかでかい声を放つ。 「ババァ、よろこんでたぜ。俺が今晩あたりあんたとしっぽりやれそうだと言うとな、まあまあ電話口で大変なはしゃぎよう。まったく業《ごう》つくババァだよ。いや、俺は約束通りあんたには指一本触れないから、そっちのほうは心配ねえよ、とか言っちゃって、これで俺も案外酒乱のけがあるらしいんだよなあ。いやいや、これはウソ、ウソ」  酔いがまわってきたのだろうか、律子は紀夫の無神経で調子のよいことばにもさほど苛立たなかった。要するに、これだけの男。  紀夫はしばらくのあいだバーのあちこちにせわしない視線を走らせていた。壁や天井の造りにはさっと眼をなぞらせただけ、カウンターの内側の柵にぎっしり並んだ洋酒の壜に向ってはぶつぶつ呟きながら、初老の紳士たちにはそっけない一瞥、三十前後のカップルには律子がはらはらするぐらいの長い凝視と、永すぎた春ってとこか、という感想、そして三人のバーテンダーたちにはそれぞれどこか見下すような、アラを探しだそうとするような意地悪な眼つきとなった。  ジントニックが運ばれてきた。三人のうちでいちばん小柄なバーテンダーだった。紀夫はにわかにきつい眼となった。相手はそれにすばやく気づいたらしい。伏眼がちに、どうぞ、と言ったきり、まともにこちらを見ようともせず、そそくさと離れて行った。その背に向けて、なおも紀夫の眼が喰らいついてゆく。その横顔を見て、とっさに律子は身構えた。何かいちゃもんをつけるのではあるまいか。紀夫は両肩を怒らせ、しかし、結局何も言わなかった。ジントニックの味かげんにも文句はつけなかった。グラスを口へと運びつつ、上眼遣いにバーテンダーたちを睨みつけてはいたけれど。  グラスの中身が半分になったころ、紀夫はようやくまなざしをゆるめた。ふうっと大きな溜め息を吐きつつ、ブレザーのポケットからたばこの箱とライターを取りだす。まず一本自分の唇のあいだに乗せ、ほら、と律子にもすすめてきた。ためらっていると、これもリハーサルのうちよ、といらいらした口調で言う。 「しっかし、あんたはまったく神経質だな。男アレルギーもいいけどよ、もっとその気でやらなきゃあ、ババァに見破られるじゃねえか。遊びじゃねえんだからな、俺にとっちゃあ、生活かかってんだからな」  低声《こごえ》で叱りつけながらも紀夫はライターの火をたて、律子の目前へとさしだしてきた。むかっとしたけれど、ともかくさからわずにたばこを傾け、持ってゆく。  最初のけむりを、律子は下|顎《あご》をつき出し思いっきり宙に吐きとばした。いまの紀夫の態度、あの言い草はなんだ、律子はむしゃくしゃした気持を上下の歯ぐきにこめ、たばこのフィルターの部分に滅多やたらと噛みついた。紀夫はなにを図にのってるんだ、こっちは、いつだって手を引ける。律子は口からたばこを離し、ちょっと息を吸いこんだ。台詞は咽喉もとにまででかかっている。が、いったん構えてみるとなんだか面倒臭くもあった。それに、多分、紀夫はまた眼の色を変えて自分の立場とやらを言いだすだろう。場所柄もわきまえずに声を荒ららげ、おどしたりすかしたりもするかもしれない。その相手をするのもうんざりだった。ちらりと横顔で紀夫の様子をうかがう。グラスを手にカウンターの一点を見つめている放心しきった横顔。律子はどきりとした。すでに律子のことばに打ちのめされてしまったようなその表情。まったくトクな男だ、律子は一瞬どぎまぎした自分に腹をたてながら胸のうちで呟いた、とにかく黙ってさえいれば深刻派に見えるのだから。  結局、その場はうやむやに流されていってしまった。  律子は気分を変え、あらためてグラスに集中しはじめた。四杯目をおかわりする。そのころから胃のあたりがざわめきだした。ウイスキィに潜んでいた酒精《しゆせい》がつぎつぎと弾きでてきた。胃壁にぶつかる熱くて小さな火花、動きがはっきりと感じとれる。しばらくすると、一枚のぶあつい帯状のうねりが胃の底から這いあがってきた。肉厚の熱い舌。しきりと胃の壁面を舐《な》めまわす。  眠くなるようなゆるやかで柔らかな愛撫。律子の頬にゆっくりと酔いの上気がのぼってくる。酒精による胃の洗礼。うっとりしているうちに強い一撃がきた。それを合図に小便色の聖水はすばやく本来の放埒《ほうらつ》さに引きもどる。あまたの血管のなかへとちってゆく。いっせいに血の管がどよめきだす。動脈が歓喜し、静脈が媚びる。毛細血管の一群がヒナ鳥みたいにさわぎだす。  酔いのめぐりだす感覚は悪くはなかった。むしろ律子はアルコールの力に感嘆していた。どうしてもっと早くお酒に馴染《なじ》まなかったのだろう、今夜のように薬がわりの寝酒と考えればよかったのに、そうすればあの老婆の夢からものがれられたかもしれない。  律子は嬉々として五杯目を注文した。紀夫への腹立ちはもはや霧散《むさん》していた。心に絡みついていた不安の微熱も酒精がたちどころに鎮めてしまっていた。松木夫人の夢も、所詮《しよせん》夢にすぎない。律子は塵《ちり》ひとつまじらない高揚感につつまれていた。すべてウイスキィの頼もしい力業のおかげだった。  バーテンダーが微風のように寄ってきてあらたな一杯を律子の目前に置き、無言でさらりと去ってゆく。 「ここの勘定、俺が持つからな。そうだ、チーズでも食うか。いや、そんなふしぎそうな眼するなよ。例のババァの一件の礼のつもりさ。ほんと感謝の一言。じつは半分以上は諦《あきら》めてたんだ。だって相手があんたじゃあ、どこをどう押してもヤバイよ、だろう。俺なんかこの半年間あんたから無視されっぱなしだもんな。そうでなきゃあ、すっげえ眼つきで睨むしよ。しかし当って砕けろとはよく言ったもんだよな」 「一芝居打ってまでしておばさまのご機嫌を取るその下心はなあに。結婚それとも養子縁組。どちらにしろお金が目的でしょうけど」 「まあな」 「でもうまくゆくかしら。おばさまはそうやすやすとあなたの手玉に乗るような単純な方じゃないと思うわ」 「そうかなあ。たしかにあのババァはアホじゃないさ。ときどきカシコイことも言うしな。俺のいまの生活ってのはよ、長い人生のなかでの休み時間なんだと、しかし休暇はすぐに終る、その日のために心の準備をしとけ、なんておどかしといて、次の日にはなんて言ったと思う、ノリはあたくしの最後の男になるかもしれない、そのときは死に水をとってほしい。それも明日にでも死にそうなぐったりとした青黒い顔してな、俺も本気でぎくっとなんかしたりして。あのババァ、頑固なわりにはすぐに気がころころ変るんだよな。俺としてはそこが困るわけ」 「もしかしたら、おばさまそうやってあなたをためしてるんじゃない。ほんとに愛してるのかどうかって」 「いや、それはちがうわ。もしそうならもっといろんなカマをかけてくるさ。俺の経験から言ってもそういうときの女ってもっとアサハカで支離滅裂《しりめつれつ》なこと言うよ。でも、あいつの場合は」  紀夫は顔をあげ、視線を遠くへとゆるめた。なにかを憶い出している様子だった。それからグラスを握りしめ、ぐいっと一息にからにした。グラスの底で氷が鳴った。 「いま気がついたんだけど、ババァのきまぐれっていつも同んなじパターンだな。なんかふさぎこんでいるなと思うと、そのあと必ず自分が死んだら、とか自分が死ぬときは、とか言いだしてくる。あたくしが死んだら哀しい、なんてきかれてよ、俺、とっさのことにどもっちゃってよ、するとババァのやつ、急に笑いだして、それが狂ったような笑い方で、俺なんだか気味が悪かったな。ま、要するにあいつは死ぬのがこわいのさ、しっかし、五十年近くも生きてきてよ、なおかつああも根性が汚ねえもんかなあ」 「軽いノイローゼかしらね」 「かもな。とにかくそんなときのあいつの顔をあんたに見せたいよ。ものすごくインサンな眼つきになるんだから。死んだ亭主のことをさんざコキおろしていると思うとわっと泣きだしたり。俺、慰めるのに一苦労よ」 「慰めるって、あなたが」 「柄《がら》にもなくって言いたいんだろうが。しかしよく考えてみるとあいつも女としては可哀想だよな。ある日突然、なんの書き置きもなしに亭主に自殺されたんじゃあ、たまったもんじゃないよな」  律子は愕《おどろ》いて紀夫を見返した。 「それ、ほんと、知らなかった」 「ふうん。じゃ、これはここだけの話にしといてくれよな。なんでもよ、亭主は一流商社に勤めてたんだと。働き蜂みたいに働きずくめのモーレツなんとかでよ、それがちょっとした仕事上の失敗でノイローゼになったらしいな」  律子はちらりと親たちの顔を思い浮かべた。仕事と心中しかねないような父親の生き方。父親似の雪子を溺愛《できあい》する母。 「で、その亭主がお陀仏《だぶつ》して、あいつがらっと考えを変えたんだってよ。人に使われるのじゃなく使う立場になってやろう。うんと働く一方でうんと遊んでやろう。思い通りになったんだからスゲェよな」 「おばさまにそんなことがあったなんて。わたしの前ではいつも元気いっぱい、むしろはっぱをかけられるぐらいなのに」 「お、知ってる。一回限りの人生、ってやつだろ。あたくしの人生はあたくしだけの一回きりのもの、思う存分、好きなように生きなくては損だ」 「あら、あなたにもおっしゃってるの」 「これはあいつの十八番《おはこ》さ」  ふっと会話が途切れた。紀夫はジントニックのおかわりをし、律子はバッグからたばこを取りだし火をつけた。初老の紳士たちがバーから引きあげてゆくところだった。若くはない一組の男女はいまだに黙々と飲みつづけている。天井の隅から流れていたシャンソンがタンゴの「青空」に変っていた。  律子はおおらかな酔いの状態のなかに「ラン美容室」でときたま見かける夫人の気懸《きがか》りな表情をたぐりよせていた。ドライヤーの釜に入っていてふっと死魚のそれのようになる眼、どんよりと半開きになる口もと。待合室でぼんやりたばこをくゆらしているときの妙に年寄りじみた、途方にくれた横顔。その表情にはへんに暗くて湿ったものが脂のように浮きあがっている。だれかがそばに近づいてゆく。するとその不透明な膜はするりと夫人の耳のうしろ側に巻きこまれ、その下から光沢のあるほほえみだけが巧みに盛りあがってくる。  律子はいまほど夫人を身近に、慕わしく感じたことはないような気がした。おおらかな気分がさらに一まわりふくらんでいった。夫人をいたわってあげたい、自分にできることならなんでもやってあげたい。 「おばさまの前でのお芝居、なんだかとてもうまくやれそうな自信がでてきたわ」 「うれしいこと言ってくれるじゃねえか。どうもあんたは少し酔っぱらったほうがいい感じになるみたいだな。やさしくなるもの」 「そう、じゃ、いつもブランディでも舐めてようかしら」 「ただしアル中にならん程度にな」 「もちろんよ。でもお酒がこんなにいいものだとは、ほんと、知らなかった。病みつきになりそう。あ、バーテンさん、もう一杯お願いします、こちらの方にも。ええとこちらはジントニック。あなた早くそれ飲んでしまいなさいよ」  そのとき紀夫が独言めかして呟いた。 「どうもあのバーテン気に食わねえな」 「え」 「いや、あのいちばん背の低いやつ。むかし俺がバーテンの見習いみたいなことしてたころ、あいつにそっくりなのによくイビられたものさ。まったくよく似てるな、兄弟かもな」 「こういった所で働いてたことあるの」 「ああ。ビルの清掃夫から化粧品のセールス、土方、食料品工場、食堂の皿洗い、キャバレーの呼びこみ、と中学でてからいろんな職を転々としてきたからな。そのかわりにいつもピーピーでよ、というのもそのころは家に金送らなきゃあなんなかったもんで、まったくしんどかったよ。あのクソババァにはときどきうんざりするけどな、まあ、これまででいちばん条件のいい勤めだな。おもしろおかしく遊んでいれるし。俺よ、あんたはどう思ってるか知らんけど、ババァと暮してからのこの二年間、まだ一回もほかの女抱いたことねえんだ。俺、自分の仕事はわりと大事にするほうだから」  翌朝、眼がさめたのは十二時十分前だった。手首の時計を覗き、律子は慌てて寝台から降りたった。そのとたんに頭がずきずきと脈打ちだし、にわかに胸がむかついてくる。  片手で胃のあたりをさすりつつ窓際へとすすむ。ブラインドをあげる。  そとは雨だった。窓ガラスに当る音もきこえない糸のような糠雨《ぬかあめ》だったけれど、それだけにしつこく降りつづきそうな空模様だった。窓から見おろす街並みも灰色にくすぶっている。  律子はがっかりして寝台にもどった。このホテルへきてから三日目だというのに、存分に膚を灼こうと張り切ってやってきたのに、それがかなえられたのは最初の一日だけではないか。寝台のはしに浅く腰かけたまま、律子は窓のそとをうらめしく眺めやった。体もだるかった。頭も痛いし胃の調子も悪い。息も酒臭く熱っぽい。律子はきのうのバーでの自分の上機嫌さ、あのとてつもない高揚感、紀夫ともごくしぜんにおしゃべりできた自分が信じられない気持だった。ウイスキィの力を借りてしっとりと柔らかくそり返っていた気分が、きょうはそのぶんだけ内側へとめくれこんでしまったようだ。  だれにも会いたくなかった。部屋からもでたくない。服に着換えるのも億劫《おつくう》だった。  律子はものうい動作でたちあがりバスルームへと向った。  浴槽に湯をみたしはじめる。勢いよくあふれでてきた湯の音がひどくやかましく耳を刺戟する。やめようか、と一瞬、心がひるんだほどだった。しかしまた手をのばして栓《せん》をひねるのも面倒臭い。律子はバスルームの壁にもたれ、しばらくぼんやりと青味がかったピンク色の湯槽《ゆぶね》を眺めつづけた。  部屋にもどる。机の上にずらりと並んだプラムが、はちきれんばかりにただれた無数の小さな血袋となって眼に飛びこんできた。熟れきったその匂いも膿や分泌汁の甘ったるさとしか感じられない。律子は急いで頭陀袋からビニール袋三枚を取りだし、プラムを始末しはじめた。途中、二回、吐きそうになった。プラムでふくれあがった袋の口をしっかりと結び、屑箱に入れる。目前からプラムが消えてほっとしたけれど、鼻や胸に流れ入ったその匂いは粘膜にからみつき、律子の気分の悪さはさらに深まった。ぐったりと寝台の上に倒れ伏す。  そのとき電話が鳴った。けたたましいそのひびきは律子の頭に四方八方から刺しこんでくる。 「あ、俺。気分はどうだ」 「あんまり」 「らしいな。そんな声してるもの。しかしあれだけ飲めば宿酔《ふつかよ》いにもなるさ。俺がとめても全然言うこときかないし、結局、一時まであそこにいたんだぜ。これもまたいい勉強になったろうが、えっ」  くくく、と紀夫が笑っている。 「ところでよ、さっきババァから連絡があって、きょうの晩の七時くらいにこっちにくるってよ。晩めし一緒にって言ってたな」 「おばさまが。またこんな雨のなかを」 「ほら、きのうの夜、俺とあんたがイイ線いきそうだって電話しただろ、それでそわそわ、わくわくしちゃったらしくてよ、早くあんたのツラ見たいんだと」 「そんな」  いまの律子は松木夫人さえうとましかった。 「よう、頼むぜ、ババァの前でいちゃつくこと忘れんでくれよ」 「その話はあとにしてよ」  思わず金切り声になっていた。その声がまたもや頭に突き刺さる。 「おう、しっかりしてくれよ。こっちは生活かかってんだから、あんただけが頼り」  律子は話の途中で受話器を置いた。バスルームへ行き蛇口《じやぐち》の栓をとめる。湯は浴槽の半分ほどをみたしていた。かがみこみ、排水|蓋《ぶた》につながった鎖を握り取ると一気に手前に引っぱった。地鳴りに似た音をひびかせ、湯はみるみるうちに孔の底へと吸いこまれていった。  律子は寝台にもどり毛布の下へともぐりこんだ。頭が鐘のように鳴っている。  ふたたび目醒めたのは午後の四時すぎだった。部屋の扉がしきりとノックされている。とっさに、はあい、と間のびした大声で答え、それから律子はおもむろにガウンをまとい、夢見心地のもつれる足で鍵へと向った。何度も手こずり、ようやく鍵をはずす。  紀夫だった。胸に大きな紙袋をかかえている。 「どうだ、調子は」 「まあ、なんとか」  睡気のさめやらぬどんよりとした口調で律子は答えた。たしかに頭痛はおさまったようだ。胃の重苦しさ、これは多分、寝起きのせいだろう。 「ちょっと入らせてもらっていいかな。いや、心配すんなって。見舞いにきただけよ」  部屋に入ってきた紀夫はテーブルの上に紙袋をのせ、さっそく中身を取りだしはじめた。スタミナドリンクの小壜が二本、缶入りトマトジュース三本、水蜜桃四個、胃腸薬一箱、カスタードプリン二個、そしてブランディ一本。律子は寝台の裾に腰をおろし、漫然と、しかし用心深く紀夫の手もとを見つめていた。 「どうせ朝からなんにも食ってないんだろ。ほら、まずこれ飲んで」  紀夫はスタミナドリンクの封を一ひねりでねじあげ、律子に手渡してきた。おそるおそる匂いを嗅ぎ、それから口へと持ってゆく、さほど、まずくもない。胃もむかつかない。やがて律子はそれをすっかり飲みほした。 「もう一本飲むか」 「ううん。随分やさしくしてくれるのね」 「当ったり前だろ。俺たちデキちまったことになってんだよな。あ、プリン食うか。前に好きだってきいてたからよ」  紀夫にすすめられるまま、律子はそれからプリンとトマトジュースをたいらげた。ゆっくりと長い時間をかけて。そのあいだに紀夫はバスルームへ行き、浴槽に湯をみたしてくれた。 「うん、少し顔色がよくなったな。それじゃ、俺も部屋に帰るか。俺よ、七時前に一階の喫茶フロアに降りといてババァをお出迎えするけど、あんたどうする。ババァが着いたらここに電話するか」 「ええ、そのほうが」 「よし、分った」  紀夫は扉へと歩きかけてふとたちどまり、律子を振り返った。 「そうそう、きき忘れるところだった。大事なことをな」  そう言ってにやりと笑う。 「俺の背中にサンオイルを塗ってくれとはもう金輪際《こんりんざい》頼まねえけどよ、やっぱり腕を組んだり手ェ握るぐらいのことババァに見せなくちゃリアルにならないと俺は思うわけ。しかしあんたいやなんだろな。ケッペキなヒトだからなあ」  紀夫の臆測《おくそく》通り、そう言われただけで律子の顔面はさっと後に引きつり、眼の奥に力がこもった。 「ほら、もうそれだもんな。あんたほんとに男がいやなんだな。もう二十歳《はたち》になったんだろ、そんなことしててこれからどうするの。世間をせまくするだけだぜ。あんたをそんなふうにしたのは例の中年男か、それとも持って生まれた性格っちゅうやつか」  持って生まれた性格、その一言に律子はおびえた。道子の顔が脳裡《のうり》にともった。詩集のなかのきれぎれが額の内側をきらめき走ってゆく。違う、わたしは道子とは違う、ごく普通の健全な女だ。道子のじっとこちらを見すえる暗い眼の背後から、松木夫人のほほえみが帳《とばり》のように降りてきた。ふくみ笑いがひろがった。『難しいことはいやって言ったでしょ。さ、ふうっと体の力を抜いて』あのなまめかしい夢の色彩がやんわりと咽喉もとを締めつけてくる。 「わたしは普通の女よ」  自分の声がかすれてきこえた。こまかくふるえてもいる。 「女なら男の人がきらいなわけないでしょう」 「いいさ、無理しなくとも」 「無理なんて」  律子は笑おうとした。唇の両端が小魚の腹みたいにひくつきながらも、かろうじて吊りあがってゆく。 「男の人と腕を組んだり手を握りあうぐらいどうってことないわ、でしょう」  律子はそれまで腰かけていた寝台のふちから立ちあがり、紀夫に向って右手をさしのべた。腋の下がじっとりと汗ばんでくる。右腕全体にさざ波のように痙攣《けいれん》が起こっている。  紀夫は苦笑した。 「なんだかそんなあんたを見てると痛々しくなっちまうな。しかしこれはまあ芝居なんだから気ィ楽に持ってくれよな。それ以上のことはぜったいしないからさ。そ、リハーサル」  紀夫の厚く湿った掌が律子の手を軽く握りしめてきた。律子は反射的に眼を伏せた。襲ってくるに違いない嫌悪感に身構えた。が、ぞっとしたのは一瞬だけ、あとは緊張のあまりに腋《わき》の下が汗ばんだきりだった。 「な、これでいいわけよ。手を握ったくらいで子供でもできると思ってたのか、その齢で」  突然、紀夫の手に力が入り、あっと叫んだとき、すでに律子は紀夫に抱き締められていた。右の頬にポロシャツの乾いた感触。 「あんたのこと好きだ」  囁きとともに律子の胴のくびれが紀夫の堅い腕にぐいっと絞りあげられた。それだけだった。一瞬の出来事だった。紀夫はぱっと律子から離れ、そして口もとににやりと笑いを刻んだ。 「これもリハーサルのうち。ああ、あのブランディ、ババァに逢う前に少し飲んどくといいぞ。あんたそのほうがうまくやれそうだからな。ただし飲みすぎるなよ、ネズミのションベン程度だぞ」  紀夫はでて行った。  律子は呆然とつったっていた。それから足にふるえがき、なだれ雪のようにその場にしゃがみこんでいった。  六時半になった。仕度はとうにおわっていた。髪も洗って乾かした。口紅はいつもより濃く、服は黒のジョーゼットのワンピース、真珠のイヤリングもつけてみた。  律子はテーブルの横の椅子にすわり、ブランディの壜《びん》を手に取った。ちょっとためらい、何かにすがるように宙を見上げ、やがていっさいの感情をふっ切るような手早さで封を破った。  コップに琥珀《こはく》の液を注ぐ。コップをきつく握りしめ、眼をつむって一口すする。あざやかな熱だった。舌の表面に無数の亀裂《きれつ》が刻まれる。それは歯ぐきにまで及ぶ。もう一口。もう一すすり。今度はいっそかじりこむようにして。液の暴威《ぼうい》に口腔のやわな粘膜がたちどころに剥《は》ぎ取られてゆく。舌も打ちのめされる。仮死状態となる。胃の底に炎がたつ。徐々に炎のたけはのび、その先端はまっすぐ脳をさし示す。  子供のころ、わたしはどんなヒトになりたかったのだろう、律子は手にしたグラスのふちで自問した。憶い出せなかった。目標などなかったような気もする。あれこれ考えるような子供ではなかった。よく笑いよく遊ぶ元気いっぱいの無邪気な子供。でもわたしは雪子のようには親から可愛がってもらえなかった、どんなにイイ子ぶってもだめ、だからうんと雪子をいじめてやった、道子が同居しはじめると、その上に君臨《くんりん》しようとした、ほんとに元気な子供、つねに心を居丈高《いたけだか》に掻きたて、だれからも優位であろうとした、そうしていないと耳のなかにあのことばが根を張ってしまうから。「あれは俺の子じゃないだろう」  そして現在、わたしはどのようなヒトになろうとしているのだろうか、それも何一つ分らない。  かろうじていくつかの手がかりとなる持ち札《ふだ》は残っていた。額の裏側にそれを掻き集めてみた。たしかめてみた。道子、やはりなつかしく慕わしかった。彼女が自分を憎んでいたとしてもそれは当然だとおだやかに認めることもできた。松木夫人、好きだ。男はあまり、と決めかけ、ふっと紀夫との握手のときの感覚が蘇ってきた。以前ほどいやではなかった。そう、と律子はグラスに向ってほほえんだ。わたしは男のなにもかもがきらいなのではない、男の体の一部分は好きだ。  これらの持ち札がこの先どのような動きをしだすのか、律子には皆目、見当もつかなかった。からっぽの自分のなかでその三枚の札がからからと飛び交っている。これは賭《か》けだ、律子は自分に呟いた。おそらく最後の子供じみた賭け。後悔はしない。道子、あなたはどうなのだろう、いまでもわたしがあなたのサイコロを横取りし、振りおろしたとうらんでいるのだろうか。  電話が鳴った。受話器を取りあげると、夫人が到着したと告げる紀夫の声だった。  律子はオレンジのプラスチック棒のついた部屋の鍵を手に廊下へとでた。酒精がゆっくりとめぐりはじめていた。  一階のロビィの隅、喫茶フロアにかれらはいた。麻のブレザーを着た紀夫は、エレベーターから降りた律子の姿を見ると、すぐさま椅子から立ちあがり小走りに寄ってきた。腰に軽く腕をまわしてくる。 「頼むぜ。うまくやってくれよな。ほら、にっこりして」  律子は言われた通りにほほえんだ。  夫人はあいかわらず優雅で上品で美しかった。仕立ての良いあっさりとした白のスーツ。少し痩せたようだ。 「まあ、律子さん、とてもおあいしたかったのよ」  なつかしいなまぬるい声。昨夜のそれと変らぬ酔いの大らかさが少しずつ律子の皮膚にしみだしてきた。律子は夢のなかの夫人を憶い出し、はにかみながらほほえんだ。  可哀想なおばさま、どこかひっそりと病んでいる女《ひと》。でも大好き。どうしたらおばさまを慰めてあげられるのかしら。テーブルをはさんで夫人の真向いの椅子に腰をおろす。その横に紀夫がすわる。  こちらへと近づいてくる人の気配があった。 「どこへいらしてたの。咲山さん」  夫人の甘くとがめる声に黙って笑い返しながら、その人は夫人のとなりの椅子に深く腰を沈めた。見事な銀髪の、眼もとに淡い色気を漂わせた五十七、八の男性。 「ノリはご存じね。律子さん、ご紹介いたしますわ。あたくしの主人のお友だちでした咲山さん。美術関係のお仕事をしてらして、画廊もお持ちなの」  そこで夫人はちょっとことばを切り、律子にいたずらっぽいまなざしをぴたりと押し当てて言った。 「現在、独身でいらっしゃるのよ。律子さんのことは前々からお話ししてあるの。とても興味を持たれて。ね、そうでしたでしょう」  一瞬、律子はどきっとした。が、すぐさま平静さをとりもどす。顔には現われなかったようだ。咲山に挨拶《あいさつ》がわりの笑顔をむける。そうしながら手にしていたビーズバッグの腹に爪を立てていた。力をこめる。ぱらぱらっとビーズの粒が膝《ひざ》にこぼれてくる。相手もまた口もとをほぐし、軽い会釈を返してきた。  紀夫がすばやく耳もとで囁いた。 「ババァはやっぱり一枚うわてだな。四人組ってのにするつもりだ」  律子の酔いの柔和さは、しかし一箇所もほころびなかった。口のまわりにたえまなく微笑をそよがせながら、頭のなかでは、もはや不用となったサンオイルの三本の壜をどうしようかと考えていた。�東の灯台のほう�、あの貧しさと暗さの場所へはついに行かずじまいになりそうだ。  律子は視線をあらためて夫人にすえて言った。 「おばさまのことですから道子ちゃんでも連れてきて下さるのかと思ってましたのに。じゃ、これで」  律子は部屋の鍵を手にして立ちあがった。夫人の顔からさっと血の引くのが見えた。  喫茶フロアのカウンターの隅には蚊トンボの少女がお盆を手に佇《たたず》んでいた。なぜか病みあがりのように背をまるめうなだれていた。律子にむかってかすかに頭を下げた。 [#改ページ]  三 月 の 兎  わずかに開いたドアのむこう、蛍光灯のあかりの下に、純二の裸が見える。真っ白いブリーフ一枚きりの恰好《かつこう》だ。顔はドアにかくれている。耳に当てている受話器も見えない。茶色いほくろのある胸も、腹から膝《ひざ》にかけての起伏も、ことごとくドアの厚みと幅に断ち切られている。わたしの眼が探ってゆけるのは後背部、しかも左側面だけだ。  わたしは寝室のベッドの上にいる。背中を壁にあずけ、毛布を胸まで引き寄せ、ブランディを舐《な》めつづけている。ベッド脇のテーブルには和紙を使った雪洞《ぼんぼり》型のスタンドがともされ、そのまわりだけ闇が黄ばんでいる。ほんのりとした小さなぬくみだ。ドアの隙間からなだれこんでくる居間の蛍光灯の光は強すぎる。少くとも最近のむくみかけている神経にはこたえる鋭さだ。紺色の絨毯《じゆうたん》の上にななめに降りおちてくる光の白いすじ、長い剣の刃先を思わせる。いや、からんとしたうつろさをのぞかせている底知れない淵《ふち》、些細《ささい》な刺戟でこの部屋がまっぷたつに割れてしまう裂け目。怪しげな妄想《もうそう》が働きだし、わたしは慌《あわ》ててグラスを口へ持ってゆく。 「……何度言ったら信用するんだ?! しつこいよ、きみは……だれがどんなことを言ったか知らないが、とにかくここには彼女はいない……アパートに電話をしてみたって? ほう。彼女が留守なのと俺と一体どういう関係があるのかな……そんなこと俺は知らないよ」  純二の声がふたたび低くなる。かなりわたしの耳を意識しているらしい。  彼女とはわたしのことだった。そして電話をかけてきたのはやはり礼子のようだ。しかし彼女はわたしのアパートの電話番号をだれにきいたのだろう。それとも礼子のもとにも文芸部O・B会の名簿が送られてあるのかもしれない。  十年前、わたしたち三人は私立K大学の一年生だった。クラスは別々だったけれど、ともに文芸部に籍を置いていた。といっても四年間ずっと頑張り通していたのは三人のうちでわたしだけだった。そのわたしにしても、もう何年も前から日記ひとつかかなくなっている。  当時を振り返り現在と照らし合せてみると、三人のなかでいちばん気取りのなかったのは純二だったような気がする。彼は部員のだれからも好かれた。週に一度の例会には欠かさず出席し、必ず万年筆とノート持参でやってくる。いつも出入口そばの席にひっそりとすわる。自分からはほとんど議論に加わらない。仲間たちの威勢のよいやりとりにびっくりしたような、感心したようなまなざしを注ぎ、そのかたわらせっせとノートを取ってゆく。意見を求められると気の毒なくらい緊張し、それでも懸命に慎重にことばを選び、どうにかして自分の考えを伝えようと努力する。いつの場合もじつに常識的な、健全なる発言内容だった。「……あのう、少し不道徳かもしれませんが……」この前置きを、彼はよく使った。実際、そこには困惑と羞恥に歪《ゆが》んだ表情が添えられている。部員たちは、またはじまった、といったにやにや笑いや苦笑をもって次の台詞《せりふ》を待つ。からかいはしなかった。彼が心底そう思っているのを知っているからだ。彼は詩を書いていた。人柄通りの明るくおだやかな、くせのない作品だった。はっきり言えば、どうってことのないことばの寄せ集め、毒にも薬にもならないしろものだった。それでいて皮肉なことに、彼は数十人の男子部員のだれよりも文学少年風に見えた。さらさらした長めの髪、ストローみたいな華奢《きやしや》な体つき、夢想がちな茶色っぽい澄んだ瞳、清潔で洗練された服装。加えて、あのころの彼のほほえみには決って淡い淋しさが掃《は》かれたものだ。ふだんはいたって晴朗な顔つきなのに、なぜか笑顔となるとそれが伴う。現在の純二のほほえみにも、ときたまそのかげりが現われる。礼子について語る場合と限られているけれど、そのときわたしは半ばうわの空で相槌《あいづち》を打ちながら彼のその表情だけを愉しむ。純二を見ていると二十歳《はたち》のころはだれしもが詩人となる、ということばがしぜんと頭に浮かんでくる。なつかしさに口もとがゆるむ。  文芸部の雑誌は年に二回、六月と十二月に刊行されていた。純二は熱心な書き手だった。夏休み直前に開かれた六月号合評会での彼の作品への批判は、次回を期待する、の無難な一言で通過した。けれど十二月号に発表した二篇の詩はさんざっぱらこきおろされた。ここには内的必然性が少しも感じられない、先輩のこの台詞はきつすぎた。そのとたん、純二の顔がさっと蒼ざめたのをわたしはいまでも覚えている。その日を境に彼の姿は次第に例会から遠のいていってしまった。  電話はまだつづいていた。テーブルの上の目覚し時計へ眼をやる。十時三十五分。かれこれ二十分たっている。純二が先にベッドにもぐりこみ、わたしがスリップ姿になったとき、電話が鳴ったのだ。一瞬、わたしは肩越しに彼のほうを見た。視線があった。彼は怯《おび》えたような、すがりつくようなまなざしをむけてきた。黙って、しっかりと頷《うなず》き返す。それを合図に彼はベッドからとび降り、居間へと走っていった。取り残されたあと、スリップを剥《は》ぎ、ブラジャーのホックへと手をかけながら、わたしは自分への苦々しさを奥歯で噛《か》みしめた。どうしても昔の役柄から抜けだせない。そんなしっかり者ではなかった。どうしよう? どうしたらいい? としなだれかかってゆきたいのはわたしのほうだった。  電話の相手である礼子は去年の夏ごろまで純二の恋人だった。新しい恋人ができて去っていったのだ。それが数週間前の二月半ばあたりから頻繁《ひんぱん》に電話をかけてくる。例の男とは別れたという話だ。だから純二との仲を元にもどしたいらしい。電話は平日の夜もかかってくるようだが、土曜日の晩となると必ずだった。この五カ月間の、わたしの週末のすごし方を知っている者はだれもいないはずだった。ただ二回だけ、純二とわたしが連れだって街中を歩いているところを、ばったり真正面から、大学時代の純二の友人に目撃されている。しかもわたしたちは腕を組んでいた。そのことがまわりまわって、その上かなり誇張されて礼子の耳に入ったとしてもふしぎはない。礼子の電話は長かった。純二もまた最後までつきあう。さっきのように声を荒らげたり、怒鳴り返したりしながらも、結局、礼子の気のすむまで相手になっている。  十年前の礼子は文芸部のなかでは純二とは対蹠《たいしよ》的な存在だった。純二によると現在の礼子も当時とほぼ似たようなものらしい。我儘《わがまま》いっぱい、言いたい放題の振るまいをし、男子部員の仲を険悪にさせたり、先輩の女子学生を激怒させたり、とかく問題児だった。しかし妙に憎めないところがあった。例会で皆が真剣に次号の雑誌編集について討議している最中、つまらなさそうに手の爪を噛んでいたかと思うと、かたわらの大きな紙袋からやおらレース編みをとりだして手を動かしだす。だれかが注意する。すると礼子はわるびれもせず、平然と答える。「だって退屈だもの。いいじゃない。ちゃんときいてはいるんだから」なにをやってる! ときびしい男の声がとぶ。礼子は顔もあげずに返答する。「縫いぐるみの犬に着せる夏用のチョッキ」せっせとレース編みに励むその仕草や表情には、日ごろの彼女からは想像もつかないあどけなさがにじんでいる。  また全身から小さな棘《とげ》をいっぱいに突き立てている日もあった。コンパの席ではたいがいそうだった。アルコールが入ると心が内側にめくれこむたちだったのかもしれない。あまりしゃべらなくなる。そのかわり、ときたま噴《ふ》きあげる一言二言は毒をふんだんに孕《はら》んでいた。酔った勢いに乗ってかなり観念的な恋愛論を繰り展《ひろ》げていた先輩女性がいた。話が一段落したとき、礼子は言った。「男と寝たことあるの?」相手はひるんだ。もじもじした。そこをねらって礼子は冷たく言い放った。「男を美化できるのは処女《バージン》のうちだけよ。その齢になってまだ男を知らないなんて恥かしくない? 薄汚ないと思わない?」  別のコンパの席では男子勢を一束ねにむこうにまわし、眼を据《す》えるようにして吐き捨てた。「所詮、男なんてコヤシよ!」  しかし礼子は結構男たちにもてた。肉付きのよいこりこりと引き締った体、表情にとんだ愛くるしい目鼻立ち、黙っているといかにも童女といった印象を受ける。十四、五歳と称しても通用しただろう。その童女がいったん口を開くやいなやツッパったもの言いをし、辛辣《しんらつ》なことばをまきちらし、他人の思惑などまるで気にかけない強気で押し通す。ときどき先輩からたしなめられると、怒りを剥《む》きだしにしてつっかかってゆく。その姿はエネルギイの塊、それも原始時代から地中に埋《うま》っていたそれをたったいま掘りだしてきた、といったなまなましい迫力にみちあふれていた。  ある種の男たちと同様、わたしも礼子の濃厚な存在感にひそかに幻惑されていた。つい眼が行ってしまう。ひそやかな期待を抱く。礼子の怖い物知らずの啖呵《たんか》を心待ちにする。嫉《ねた》ましいときもたびたびあった。自分もあんなふうにやれたら、なにもかも発散できたら、どんなにすっきりするだろう。十九歳のわたしは幾重にも屈折していた。一見したところはそうは見えない、それこそがわたしのポーズだった。肋骨《ろつこつ》のあいだにはタールのような悪どいものがびっしりはびこっている。それをペン先からしたたらせ、ことばに置き換えていったのがわたしの小説だった。いつまでたっても終りのない長篇物。一年目の六月号から連載しはじめた作品があった。大学四年間ついに完結しないまま、いまだに中絶となっている。  礼子は純二と同じく詩を書いていた。六月の雑誌には発表しなかったが、十二月号には三篇載せた。意外にも甘ったるい恋愛詩だった。かなり体験を織りまぜたと想像される詩句もあり、だれかが、ここは生きている、と褒めると礼子は誇らしげに胸をそらせ、そうよ、詩は頭で書くもんじゃないわ、と答えたものだ。彼女はずいぶん年配の男とつきあっているらしい、口にだす者はいなかったけれど、その場はにわかにざわめいた。礼子は軽蔑のまなざしでわたしたちの動揺ぶりを眺め廻していた。しかし彼女の自尊心がきららかに発光していられたのはそこまでだった。つね日ごろ、礼子に怨みや憤懣《ふんまん》を抱いていた連中、十三人ほどがいっせいに攻撃をしはじめたのだ。最初のうちは作品への質問の形で小突いていたのが、徐々に凄《すさ》まじい、意地の悪い発言の続出となった。もはや批評、分析どころではなく、礼子個人の在り方への容赦《ようしや》ない裁断《さいだん》だった。仲介に入る者もいない。きっとまた痛烈な反撃にでるだろう、そう考えていたのはわたしばかりではなかったらしい。沈黙している者は皆、ちらちらといたずらっぽい視線を礼子に送っている。だが少数派の熱いまなざしとはうらはらに、当の礼子は無言を保っている。手の爪を噛みつづけている。そして上眼遣いに相手を睨《にら》み返しているばかりだ。かれこれ一時間がたったころ、礼子はすっくと椅子から立ちあがった。「あなたたちの薄汚ない根性ってものがよーく分ったわ。わたしのやり方が気に食わないのならどうして一対一で言ってこないのよ。作品の出来、不出来はともかくも、わたしの生き方に文句をつけられる筋合いはないわ。妻子持ちの男とつきあおうと、だれと恋愛しようとこっちの勝手じゃない。あなたたちは要するに頭デッカチよ。不感症の耳年増《みみどしま》とロリータ趣味のインポってとこね。こういう下司《げす》どもが詩だの小説だのを得意顔でこねまわしてるんなら文学なんてまっぴら。わたしもあなたたちの仲間の一人だったのかと思うとぞっとするわ。詩なんて、わたし、もうやーめたっと。バイバイ」そして礼子は部室からでていった。以来、二度と例会には現われなかった。  純二と礼子はともに十二月の合評会が原因で文芸部から離れていった。二人の交際はそのころからとわたしは臆測《おくそく》していたが、本当はもっとあとになってかららしい。純二が苦笑まじりに打ちあけた話によると、当時の礼子はとても怖ろしくて近づく気にもなれなかったと言う。「特にあの十二月の合評会の捨て台詞はすごかった。俺なんかハラハラしてたよ。それに詩に書かれていた中年男ともしばらくつきあっていたらしいし。そいつと別れて、もうああいうタイプの男はこりごりだ、だから俺みたいなのを選んだとか言ってたな」そう語ってから、純二は、複雑な、淋しげなほほえみを浮かべたものだ。  二人が親しくなったのは大学三年の九月、卒業論文の準備にとりかかりはじめたころだった。大学の図書室でしばしば顔をあわせ、そのうち礼子のほうからあれこれ話しかけてきたという。「俺にとっては最初の女だった」  ブランディをゆっくりと咽喉《のど》に流しこむ。ドアのむこうに贅肉《ぜいにく》のない、すっきりとした細身の体が見える。その体型はわたしの好みを過不足なくみたしている。ごてごてした筋肉に飾られない、長い茎《くき》のような肢。腰幅はきりりと狭く、それでいてぷくりと後に突きでた少年のように愛らしいお尻。眼を蕩《とろ》かすうちに、耳もしぜんとむこう側へ集中されていく。盗み聞きはするまい、と自制していたはずなのに、ベッドの上にほうりだされつづけている心細さが、純二の声のする方向へと慕いよっていってしまう。土曜日の夜の礼子との長電話、ほぼ一時間かかる。わたしはぼんやり待っている。今夜で三回目だ。 「……分ってる、ね、だから俺の言うことをちゃんときいて……そ、当り前じゃないか、きみは心配しなくともいい、俺にまかせなさい……うん、そうだよ、そう……」  優しく、おだやかな声がかすかにきこえてくる。だだをこねる子供をあやしているのとそっくりな口調だ。わたしには一度も使ったことのないしゃべり方。わたしたちの場合、子供になるのは純二だ。いたわり、励ますのはわたしだ。だがわたしだって思いっきり心を裂きひろげ、無茶を言って甘え、そして静かに背中をさすってくれる厚い掌がほしい。わたしは純二が買いかぶっているような我慢強い女でも気丈《きじよう》な人間でもない。充分に練りあげられたにんげんなんかじゃない。もしそうなら、どうして春になると脳がぶれだしたりするだろう。体中の神経がわなないたりするだろうか。春、雪どけの三月、わたしの発作の季節。この月になると、一年間、体の隅々にまでぎっしり詰めこまれていたさまざまな菌糸がいっせいに芽をふき、皮膚を食い破って繁殖しようとうごめきだす。わたしのかろうじての理性と巨大な毒素とが日ごとにせめぎあいだす。格闘しあう。発作はいろんな形で現われてくる。一定の型もその周期も決っていない。ただ発作の根底にはいつも暗いなにかの貌《かお》がのぞいていた。  三月になるとある日ふいに得体《えたい》の知れない、だれにむかってとも分らない憎念や怨念で頭がぐらぐらしてくる。たった一日ですむこともあれば十日もつづく年もある。かと思うと、ある朝、狂ったみたいに陽気になっている自分に気づく。会社からいったんアパートの部屋に帰っても、どうしてもじっと閉じこもっていられない。夜ごと街中を徘徊《はいかい》しはじめる。飲み屋街をうろつきまわる。色情狂になっている。通りすがりの男に声をかけられるとすんなりついてゆく。だれでもというわけではない。異様な昂奮状態にありながら、自分の好みだけは忘れない。必ず男を明るい場所へと誘う。商店の前でも街灯の下でもかまわない。そして相手が細身の体型か、顔の膚《はだ》がきれいかをしっかり見定める。体つきは多少、妥協できても膚への好みはそう簡単には譲れない。吹出物一つない顔、紙のようにさらりとした膚がわたしの理想だ。その点でも純二は申し分がない。思いっきり満点をつけられる。火のように陽気になっているわたしは、同時に、風のように寛大だ。いくらか脂ぎっている膚も及第とする。発作の現われ方はそれだけではすまない。執拗《しつよう》な妄想にも捲《ま》きとられる。とりわけ会社の同僚や上司に対して頭がうねりだす。この人もあの人もわたしを嫌っているはずだ、課長は折を見て別の課にわたしを追い払おうと考えているに違いない。あっまたあそこでわたしの悪口を言っている。神経がたえられなくなって会社を休む。終日、蒲団のなかにもぐりこんでいる。気持はさらに底なしにへこみ、卑屈にねじくれだす。わたしが欠勤して、きっとみんなはせいせいしている、きょうこそとばかりに誹謗《ひぼう》中傷しあっているに違いない。死の触手《しよくしゆ》が絡みついてくる最悪の数日間もあった。頭がへんに研《と》ぎ澄まされ、沈静に、冴えざえと自省の気分に包まれる。たいそう理にかなった死の必要性を自分に説ききかせてゆく。少しの感傷も含まれない。これがじつに危険だ。あと一歩でとりかえしがつかなくなる、その寸前までいったこともある。  特定の男と関わりつつ三月を迎えた年もあった。抑制されたのは色情狂の面だけだった。そのかわり、妄想と死の誘惑の強さは例年よりひどくなった。自虐を装いつつ、あらん限りのことばで相手を苦しめた。三月が通りすぎ四月に入ってまもなく、相手は別れをきりだした。なにも言えなかった。一と月間というもの、どれだけ相手を傷つけることばを吐きちらし、返答不可能な難問をふっかけ、追い詰め、いたぶっていたか、自分でもよく覚えていた。もうしない、とは確約できなかった。来年の三月になれば、おそらくまたやらかすだろう。相手の男は、三月のころのわたしは不気味だったとも言った。顔つきがまったく変容してしまうという。彼も純二と同様、それまでのわたしを母性的な姐御《あねご》肌の女と思いこんでいた。  三月の持病を自覚しだしたのはここ数年のことではない。学生時代からうすうす勘づいてはいた。といっても当時はまだ頭のぐるりに厚ぼったい糊《のり》を塗りつけられたようなウツ状態だけだった。それが年々、多様さを示しだしている。不安だ。怖ろしい。先のことなどできるだけ考えないようにしている。  きょうは三月二日。一体、どうなるのだろう。神経がだらしなくゆるみかけている感じはある。輪郭《りんかく》のきっちりした物を見つめていると苦痛を覚えだしてくる。だが例年よりその度合いが軽い気がする。純二の存在が大きな影響力を及ぼしているのはたしかだった。彼にうとまれたくない、嫌われたくない、そしてがっかりさせたくない。三月を抜きにすれば、わたしは純二の知っている学生時代のわたしそのままを演じてゆける。純二だからこそ、と実際のわたしをさらけだしたい衝動にもときたまかられるけれど、その苦しくて熱いしゃっくりさえ嚥《の》み下していれば、ほころびは生じない。十年前、自分自身に課した役柄をつつがなくこなしてゆける。純二が気に入っているのは|この《ヽヽ》わたしではない。|その《ヽヽ》わたしだ。多少の物事になど動じない、寛大であっさりした性格の女。昨年の十月、純二が電話をかけてきたのも|その《ヽヽ》女に対してだった。「ほら、夏に文芸部のO・B会があっただろう。あのときもきみにいろいろと彼女とのことで相談にのってもらいたかったんだけど、まわりに人がいたし。きみならなにを言っても分ってくれそうだと思ってね。いや、彼女とのことはもういいんだ。それより、どう? 久しぶりに一緒に飲まないか」そのときすでに純二は礼子と別れていた。その話をきき、わたしはそくざに彼の慰め役であろうと心に決めた。彼はそういうつもりではなかったのかもしれない。事実、会社に電話をかけてきたその夜、二人で何軒も酒場をはしごしながらも、彼は一言も礼子への怨みや愚痴をもらさなかった。彼に優しくあろうとするわたしの過剰なサービス精神は、その夜、ベッドの中にまで持ちこまれてしまった。三月の持病を人知れずこっそりと抱きかかえているわたしは、傷ついたもの、弱い小さな者に同情しがちだった。同類の親しみを覚えてしまう。純二への気持も最初のうちはそうだった。いずれ礼子は彼のもとにもどるだろう、この確信もあった。「彼女の浮気は今回がはじめてではない」そうきいたのは十月末の日曜日だった。「最初の一回は正直に言った。つきあいだして二年目ぐらいだったかな。しかしそれからも何度もやってるんだ。うまくごまかそうとしたって一緒に寝れば分る。特にあいつの場合はね」「なぜいままで結婚しなかったの?」「彼女が言うには女の人生は結婚がすべてではない、特に平凡なサラリーマンの女房なんて考えただけでうんざりする……」礼子はピアノの個人教室を持っていた。それにひきかえ純二はごくありふれた、礼子のことば通りのどこにでもいるようなサラリーマンの一人だった。とはいっても礼子はきっともどってくる、しかし口にはださなかった。万が一、それが空手形になったらどうするのか。無責任で軽はずみな言動は三月のそれだけでたくさんだった。  この五カ月間、わたしは純二が描くイメージ通りの自分を演じつづけてきた。学生時代の、あのひっきりなしにたばこをくゆらし(それも両切りピース一辺倒《いつぺんとう》だった)その煙幕《えんまく》のむこうからにやにや笑いを浮かべていた女子学生。二年生の後半あたりから部員たちはわたしを「元村女史」と呼び、一種の名物女に仕立てあげていた。コンパの席ではやつぎばやに飲まされた。だれが言いふらしたのか、男顔負けの大酒飲み、の風評がまことしやかに流布《るふ》されていた。そうなると虚勢《きよせい》を張り、意地になるのがわたしの悪いくせだった。飲めるだけ飲んでやろうという気を起こす。皆の前では決して醜態をさらさない。しかし便所に駈けこみもどした記憶は無数にある。男子学生から女として扱われることが少なかったかわりに、同性の、しかも下級生からはなつかれた。いっとき同《レ》性|愛《ズ》の噂《うわさ》が立ったくらいだ。あえて否定もしなかった。得意のにやにや笑いで終始した。わざと女子学生ばかりを引き連れて縄のれんに出向いてみたりもしたものだ。それが二十歳そこそこのわたしのポーズだった。いまでも純二は褒《ほめ》ことばのつもりで、きみは昔からそうだった、と言う。「なんか、こう、並の男じゃ太刀打《たちう》ちできない、かなわないって感じだった。自分てものがすでにきちんと出来上がっていて、こっちがなにか言ってもいい子いい子って逆に頭を撫《な》でられそうな雰囲気があったよ。一緒にいても疲れなくて、ご機嫌をとる必要もなくて、なにもかも許してくれそうだったなあ、あのころから」  わたしの三月の暗い発作を純二は知らない。知らせずにすませたい。もちろん自分のイメージを毀《こわ》したくない見栄もある。だがそれ以上に嫌われたくないと切望する。いつのまにか彼に惚れてしまったのだ。そして彼がそばにいてくれたなら、この三月は無事に渡りきってしまえそうな気がする。まったく平常通りとはいかないにしても、あれほどの惑乱状態には陥らずにすむのではないか。彼の眼があると緊張する。身を引き締める。いやな面は見せまいと神経を張りつめる。ほころびる余裕などなくなってしまう。  カチャンと受話器を置くかすかな音がした。居間の灯りはそのままにして、純二がこちらへもどってきた。わたしに背中をむけ、ベッドのはしに浅く腰かける。深いため息をつき、それからがくりと首をうなだれた。彼が口をきく気になるまで決してしゃべりかけないのが、役柄のなかのわたしだ。しかし内心は礼子の話の内容をききたくてうずうずしていた。礼子がよりをもどしたがっているとは先週の土曜日に打ちあけられている。ところで彼自身の気持はどうなのか。どんな受け答えをしたのか。いまにも咽喉奥からことばの大群が反吐《へど》のようにこみあげてきそうだった。急いでブランディをすする。押し流す。彼を失いたくない、胸のなかで強く呟《つぶや》く。十二月いっぱいぐらいまでだったなら、しぶしぶながらも手放せられただろう。痩《や》せ我慢の気取ったほほえみも付け添えられたに違いない。だがそれはもうできない。いまのわたしにはぜったいに彼が必要なのだ。 「彼女ちょっとおかしいんだ……」  首を深々と垂らしたまま、ようやく純二が口をきった。 「おかしい? 精神状態が?」 「ああ、かなりだ。多分、俺のこと、もっとタカをくくって考えていたんだろうな。ところが思い通りにならないものだからヒステリーを起こしてる。しかしこっちだってそうそういい顔なんてできないよ。だいいちいまの俺にはきみだっている」  グラスを片手に彼のそばに擦《す》りよった。掌をその背中に当てる。ひんやりしている。 「すっかり体が冷えてるわ。ほらベッドに入って」  彼は素直に頷き、物憂い動作で毛布の下へともぐりこむ。わたしはブランディを口に含み、ぬるんだそれを口移しに彼に飲ませる。 「うん、おいしい」にっこり笑い返してくる。これだ、この屈託のない透明な笑顔がどれだけわたしの心をほのぼのと柔らかく脈打たせてくれることか。乾いた絹のような髪のなかに片手をしのばせる。しばらくゆっくりとまさぐってから、今度は卵型の顔の輪郭を指先でなぞってゆく。礼子にはこの人の良さなどまるで分っていないのではないのか、自分の意のままになる便利な男、ぐらいに考えているのではないか。わたしならこの人だけを大切にする。こんなに好みにかなっている男はいなかった。二十歳《はたち》のころはどこといって際立ったところのない、まわりにいくらでも見出せたこの人の平凡なかろやかさが、二十九歳となったいまではかけがえのない輝きとなっている。この人が変らないからだ。大学時代の友人たちがどんどん余分なぶ厚いものを身につけだしているというのに、この人はいつまでたってもすっきりとした骨の白さと硬さを保ちつづけている。また一方では、礼子がこの人に物足りなさと退屈を覚えるのも理解できないわけではなかった。十年前のわたしならおそらく礼子と同じ気持を味わっただろう。 「彼女そんなにおかしいの?」 「うん。しかも悪いことに両親が旅行にでかけているらしくて、家にいるのは彼女だけなんだ」  わたしは彼の顔のあちこちに指を這《は》わせつづけていた。純二はうるさがりもせず、じっと眼をつむっている。いつまでも根気よく、どこまでも受身になっていられる男だった。 「しかしきみとの仲をだれにきいたのかなあ。ずいぶん当てつけがましいこと言ってたよ。あなたにもそんな度胸があったのか、なんて、まだバカにしてた。それでいて俺のほうから下手にでてちやほやしてくれるのを待ってんだからなあ。まったく自分勝手でプライドの高い女性だ」純二の口調は淡々としていた。礼子とは別れたと告げた十月の夜も、やはりこれと同じ物静かで平坦《へいたん》なしゃべり方だった。自嘲の気配もなかった。それがかえってわたしの胸を衝《つ》いた。心の底に薄氷のように貼《は》りついている冷えびえとした淋しさ、その冷気が伝ってくるようだった。多分、彼自身はなれっこになっていて自覚もしないでいるのだろう。 「こんなこと話してもきみなら愕《おどろ》かないと思うから打ちあけるけど、じつはさっきの電話で彼女、死ぬっておどかしたんだ。もし自分が死んだらその原因はすべてあなたにある、あなたがそうさせたと同じだ──」  わたしは手の動きをとめた。ついに礼子もそれを言いだしたか。 「ね、きみはどう思う? やっぱり俺の責任かい? でも俺が一体彼女になにをしたっていうんだろう。俺はさ、何年間も何回も彼女に裏切られてきた。いや裏切りなんて大袈裟《おおげさ》なんだろうな。彼女に言わせると単なるアソビ、つまみ食いってことにすぎないらしいから。正直いって辛かった。でも彼女を失いたくなかった。見て見ないふりをするのが精一杯だったな。それでも自分って男の腑甲斐のなさにつくづく厭気《いやけ》がさすときもあったよ。でも駄目だった。俺から別れようなんてどうしても言いだせなかった。そのうちいつのまにやら、男の意地だの面子《メンツ》だのプライドだのなんて、どっかへいっちゃった。仕方なかったんだ……」純二のこめかみに泪《なみだ》が流れていた。糸みたいに細くて儚《はかな》い泪だった。眼をとじたまま泣いている。  わたしはグラスを片手にぼんやりその顔を見つめた。彼の顔を愛撫していた手とグラスを握っているそれと、体が二つに裂かれてゆきそうだった。あなたは寛大すぎたのじゃない? 役柄のなかのわたしはそう忠告したがっていた。(礼子の度重《たびかさ》なる浮気も死んでやるの一言も、もしかしたらあなたのそうした悟りきったような態度への挑戦じゃない? 要するに殻《から》をひんむきたいのね。泪なんて見せたこともないのでしょ? 彼女には。礼子はあなたの裡に眠ってるのかもしれない強烈な、どろどろしたマグマを叩き起こそうとしている、火傷《やけど》みたいなその洗礼を浴びたがってるのよ、きっと)だがもう半身、生身のわたしの手足の先からは体中の気力が水のように流れだしていた。頭のなかでいくつもの数字がはじけ、明滅《めいめつ》し、そして定まった。まる七年。かれらの歳月が重々しく肩にのしかかる。膝をかかえこみ、そこに顔をつっ伏したかった。 「ごめん。へんな話しちゃって」純二は指先で泪をぬぐった。わたしも左右に割れかけていた背筋をすばやく縫いあわせる。 「大丈夫よ。彼女はあなたをおどかしてみただけ。女がよく使う手だわ」 「俺もそう思いたい。でもあんなこと口走ったのはこれがはじめてなものだから」 「本気で言ってやしないわ。死ぬと自分から宣言する人なんて結構したたかなものよ」 「そうだよなあ」 「そうよ」きっぱりと言い下す。 「でもきみがそばにいてくれてよかった。俺一人なら頭が混乱しておろおろしてどうなっていたことか」  ふいに性急な焦《あせ》りにとらわれた。もしこの場にわたしがいなかったなら? そうしたら? しかしからかうような笑顔を必死にとりつくろう。それに見合った口調を使う。 「その場合は彼女のもとに馳《は》せ参じたってわけ?」  返答にまがあった。ありすぎる、とわたしはじれた。 「いや……分らないよ、そんなこと」 「本当のこと言ってもいいのよ」  声にはまだ笑いの破片がちらばっている。けれど体の内側に怪しい兆《きざし》を感じた。うごめきだしている。全身の神経が真っ黒い無数の小蛇と化し、鎌首をもたげかけている。 「彼女とよりをもどすつもり?」声が硬張ってきた。 「そんな。だって俺にはきみがいるもの」  答えになってない! 思わず叫びそうになった。皮膚に小刻みなうねりが生じてくる。 「一体、あなたにとってのわたしってなに?!」  とうとう言ってしまった。弦《げん》のように緊迫した語勢となっていた。純二はびっくりしたまなざしをむけてきた。視線がかちあった。視界のふちの小卓の上のスタンドが、そのまるくやわやわとした灯りが、ふいに眼にしみてくる。 「どうしたの? 会社ででもなにか厭なことあったのかい? ね、そんな眼つきで睨まないでくれよ。なんだかこわいなあ。急に声も顔つきも変っちゃうんだもの」  ぎくりとした。発作だ。三月のあれがはじまった。グラスの中身を一気に飲みほす。からになったそれを純二へとさしだす。 「もっと飲む?」  強くかぶりを振る。わずかに顔を伏せる。しゃべってはいけない。口を開いたならどんなことばが噴出するかしれやしない。彼には見せたくない。たとえ彼の心が七年の歳月にからめとられ、礼子の体臭に染めあがっていようとも、ぶざまな姿はさらしたくない。毛布の下へすべりこむ。純二の体に蛭《ひる》みたいに貼りつく。 「俺にとってのきみか……そうだなあ……」 「いい。分ってる」鋭くさえぎる。彼のぬくみだけにすがりつく。  そのときふたたび電話が鳴った。とっさにわたしは片腕をのばし、彼の胸をななめに押さえこむ。電話にだすまい。でてほしくない。 「ほら、ちょっと」そう言うなり、彼は勢いよく上体を起こす。腕はあっけなく払いおとされた。 「はい光村です……ああ、きみか……だからさっきも言っただろ。風邪気味でとても外出は無理だって……違う、彼女なんていやしないよ、デマだ……え、だれがそんなこと言ったって?……バカだなあ」  枕に顔を押し当て、わたしの両耳は純二のことばを逐一ききもらすまいと尖り立つ。いやだ、いやだ、と胸のなかで叫びつづける。 「よしなさい! そんなことしてなんになる……待ちなさい、待てよ!……分った。分ったから、いいね、じっと家にいるんだよ。すぐ行く。うん約束する、いまからすぐ行く」  純二がもどってきた。わたしもベッドの上に起きあがる。なんだか頭がへんにどんよりしている。 「彼女の所へ行くの……」 「ああ。あの調子じゃ本気でバカなことをやりかねない」  彼はベッドの脚もとにちらばっていた下着やセェタァ、ズボンなどを手早く身につけだした。険しい表情だった。 「彼女って、きっと昔と少しも変ってないのでしょうね……」 「そう同じ。子供さ。残酷で我儘で始末におえない大きなガキだ」 「狂言よ……」相変らずわたしの声には力がこもらなかった。視線も弱々しく純二の動きを追ってゆく。 「狂言なのは分ってる。しかしどこまでがゼスチュアなのかが問題さ」純二は洋服|箪笥《だんす》からコートをとりだしている。 「ええと、財布は……入ってるな」 「今夜は帰らないの……」 「ちょっと無理かもしれない……あ、きみはどうする?」 「さあ……決めてない……」 「そうか。じゃ俺、行くからね。鍵は、そうだな、一階の郵便受けに入れといてくれ」  純二はコートの袖《そで》に手を通しながら玄関へと歩きだす。わたしもベッドから降り、のろのろとついてゆく。身につけているものといえば、包帯みたいなちっちゃなパンティだけだ。  純二はこちらに背をむけ、かがみこんで靴をはきかけていた。行ってしまう、礼子のもとにもどってしまう。帰ってはこない……。突然、頭が炸裂《さくれつ》した。体のなかを閃光《せんこう》がつらぬいた。わたしは純二の背後からしがみついた。両腕で力いっぱいその胴を絞《しぼ》りとった。 「行かないで!」 「どうした?」 「彼女は死なないわ。行かなくとも死にゃしない。ぜったいそうよ。だからここにいて。わたしのそばにいて頂戴《ちようだい》!」 「おい、どうした? きみらしくもない、だから言っただろ、狂言なのは承知してる、が、もし、万が一──」 「彼女なんてほっとけばいい! そんなに死にたいのならさっさと死んじまえばいい!」 「なんてこと言うんだ!」純二の手がわたしの腕の鎖《くさり》を解きにかかった。五本の指と指を交互にしっかりと組み合せているその結び目を、どうにかしてもぎ離そうとする。わたしは必死だった。手の皮がずるりとむけそうになっても歯を食いしばって耐えた。 「お願い、そばにいて!」 「きみの相手になっているヒマはないんだ。とにかくいまは行かせてくれ。な、帰ってくる。どんなに遅くなっても必ず帰ってくるから」 「嘘《うそ》! あなたは帰ってこないわ。彼女が帰さないわよ」 「もう、よしてくれ! この手を放してくれ」 「いや! 彼女なんか死んじゃえばいい! 彼女なんていままでさんざ好き勝手してきたじゃない、不公平よ、あんまりひどいわよ! 死ねばいいんだ!」 「きみまで、きみまで俺の頭を狂わす気か! 礼子もきみも、よってたかって俺をどうしようってんだ。俺がなにをした? 二人して俺を苦しませたいのか! 放せ、放せって」  純二の手に容赦ない、死物狂いの力が加わった。手首が折れそうだ。もう駄目だ。折れた、と思った一瞬、輪はほどかれていた。純二の手がドアの把手《とつて》にかかっている。わたしはまたもやその体にとびついてゆく。 「うるさい!」  凄まじい腕力で突きとばされた。体はふっとび、背中と腰を壁にしたたかに打ちつけた。意識がふっと昏《くら》くなる。そのすきに純二の姿は掻《か》き消えていた。  どのくらいたったのだろう、わたしはいつのまにかきちんと服を着こんでいた。腕時計もはめている。文字盤をのぞくと午前一時半をややまわっている。横にはベッドがあり、わたしは絨毯の上に正座していた。帰らなくては、とゆっくりと立ちあがる。足が少し痺《しび》れていた。  洋服箪笥を開けハンガーからコートをはずしとる。バッグは箪笥のそばにころがっていた。スタンドの灯りを消そうとベッドに近づくと、その乱れようが眼についた。シーツを引きのばし、毛布も皺《しわ》一つなく整える。枕はほどよくふくらませ、最後にベッドをカバァですっぽりとおおう。ざっと寝室のなかを見渡し、汚れたグラスを手にしてから灯りを消した。  台所でグラスを洗う。ついでにガスの元栓を点検する。浴室へ行くと湯槽《ゆぶね》のなかは純二が使ったままとなっていた。排水蓋につながる鎖を引く。湯が深い夜の底へなだれこんでゆく音をききながら、壁の鏡にむかって化粧をなおす。「よってたかって俺を苦しませたいのか」そのことばだけがツララみたいに体の内側を刺しつらぬいている。居間にもどり、そこも真っ暗にして玄関へでた。金属製のぶ厚いドアに鍵をかけ、それから把手《とつて》をまわしてたしかめてみる。大丈夫なようだ。  エレベーターは使わず、五階から一階までコンクリートの階段を降りはじめた。だれにも顔をあわせたくない。壁にぶつけた腰のあたりがかすかにうずいている。ちょっとした打ち身だろう。二、三日もすれば治る。コートのポケットから左手を抜いてみた。男物とまちがわれそうながっしりとした腕時計、ベルトもかなり幅広な、そして膚に貼りついて、ずれのない黒革製だ。おととしの三月だったなと思い出す。アパートの流しに洗面器を置き、その横の水道の水はだしっぱなしとなっていた。蛇口の真下にさらしてある左手首はもうすっかり冷たくなっている。感覚を失っている。まだか、まだ彼はこないのか。三十分前、わたしはアパートのそばの公衆電話から、男に、きてほしいとせがんでいた。午前零時。こなければ死ぬ、とも言った。三カ月前から男はふっつりわたしの部屋を訪れなくなっていた。|執 着《しゆうちやく》のある相手でもない。ずっとほったらかしにしてあった。それが三月に入り、にわかにわたしの心はうねりだした。その男のことだけで四六時中、頭が充血しだした。四十分たち、五十分がすぎた。男は現われない。よし、それなら、わたしは水道の蛇口をとめ、右手で流しの台の上のカミソリをとりあげた。左の手首は水を張った洗面器のなかだ。カミソリを当てがった。眼をつむり、一気に引く。痛みはない。アパートの玄関、廊下の物音へと耳をそばだてる。男がやってくるのをその姿勢で待ちつづける。しばらくしてうっすらと眼をあけた。洗面器の水は真っ赤に変っている。大変だ、ほんとに死んでしまう。慌てて台の上の濡《ぬ》れぶきんを掴《つか》んだ。手首の傷に押し当てた。その上から乾いたタオルをぐるぐる巻きにする。そして部屋をとびだし、表通りへと走った。運良くタクシーはすぐにつかまり、夜間救急センターに駈けこむことができた。三針ぬった。  しかし、と胸におかしさがこみあげてくる。あのとき財布と一緒にちゃんと健康保険証を持ってでたのだから。  一階にたどりつき、純二に言われた通りに鍵を郵便受けにおさめる。ふっと純二の像が脳裡にともった。なぜか十年前の姿だった。茶のコールテンのブレザーとスラックス。ぶ厚いノートと万年筆。はにかんだ、淋しげな笑い。肋骨《ろつこつ》がきしんだ。が、まとまった痛みとはならなかった。くすぐったいような、苦いような笑いが気管のあたりをよぎっただけだった。  マンションのそとへとでる。三月の生ぬるい夜の風が顔の表面を舐《な》めまわしてゆく。mad as a March hare 唐突に浮かんできた。「三月ウサギのように狂ってる」教わったのは英語の教師からだったろうか。いや生物の時間かもしれない。わたしの三月。だが、どうして三月? その年によっては七月でも十一月でもよさそうなものだ。記憶をまさぐってみても、三月にまつわる際立った思い出などなんにもない。わたしの誕生月であるというだけだ。  アパートとは反対の方角へ歩きだしていた。まっすぐ部屋には帰りたくない気持だった。お酒でも飲んでゆこうか、それとも、とわたしは自分にむかってにやりと笑いかける、男から受けた打撃は男で癒《いや》すか。いずれにしてもその場しのぎの鎮痛剤めいたしろものだった。半日もたてば効果はきれる。  むこうから空車のタクシーがやってきた。思いきり高く腕をあげていた。自分の意思でそうしたとは信じられないはずんだ動作だった。タクシーに乗りこみ、行き先を告げる。その声もまた甲高《かんだか》く、金粉のようにちった。それからもぞもぞと体を移動させ、運転席の真後に陣取る。頬《ほお》を窓ガラスにくっつけ背中をまるめ、手足をひっそりと胸に引きよせる。どこにいてもこの姿勢がいちばん安心できるのだ。  十分も走らないうちにタクシーは歓楽街のまっただなか、真昼のような明るさの中心部へとわたしを運んでいった。色さまざまなネオンサインが夜の空をきらびやかに彩《いろど》っている。底知れない闇の色も、ここではものの見事に追っ払われている。ふいに眼の奥に活気が芽ぶいた。体中の毛穴から、あの、あらがいようのない三月の陽の精気がわらわらと這いだしてきた。鎮痛剤がわりであろうと、一時しのぎの湿布であろうと、ないよりはましだ。バックミラーににやけた自分の顔が映っていた。頬紅が日の丸みたいにどぎつかった。 [#改ページ]  あ と が き  散歩が好きである。  健康のために歩くという殊勝な心掛けからではない。目的もなく、足の向くまま気の向くままに「ブラつく」状態が、私の性分には、とてもよく合っている。ある時期、無趣味で、ふくらみのない自分の生活を恥じて、趣味、ときっぱり言えるものを持とうと試みたりもしたのだが、結局、何ひとつ今に至ってはいない。残っているものは、散歩と読書だけである。  散歩をしながら素敵な家の前を通りかかると、ここには一体どういう方がお住みになっているのだろうか、とつい窓の向こうを覗《のぞ》きたくなる。開店したての喫茶店を見つけると、急にコーヒーが飲みたくなってくる。犬小屋のそばの、鎖につながれ、退屈している犬を見ると、思わず話しかけてしまう。昔ながらの市場を発見すると、必ず足を踏み入れ、ひと通り眺めてみなければ気が済まない。  また散歩をしていると、季節のうつろいを風の匂いから知ることもできる。同じ青空であっても、その微妙な青の濃淡と、光の分量、雲の厚さ、などから、春の訪れを感じたり、夏の終りを実感したりもする。札幌の秋は短く、九月になると空も風も秋めいて、十月の末には、もう初雪が降る。だから、秋になると一日一日が見逃せない。ひと雨ごとに、樹々は葉を落し、痩《や》せてゆく。きのうは紅葉、きょうは裸木、という激変も珍しくはない。  この本に収録された三作は、いずれも、こうした散歩の折に味わった季節感の中から思いついた物語である。三作とも下敷きになる現実の出来事とか、モデルはまったくない。「鳥、とんだ」のサスケという犬だけはモデルがあり、しかし、その犬も二年前に死んでしまった。三作を一冊の本にするに際しては、大幅に加筆訂正した。作品の手直しをしながら、小説のヒントとなった、あの季節の、あの光景が蘇ってきて、私は、再び「散歩」をしている気分になったりもした。  散歩をするとき、たいがいは一人である。けれど、二人で散歩、というのも大好きで、これは同性・異性を問わず、気心の知れた友だちに限る。他愛ないお喋《しやべ》りや冗談を交し、心おきなく笑い、ときに本音を言い、けれど、どんな言葉も大気の中に残りなく散って、友だちがいることの幸せだけを噛《か》みしめさせてくれる。学生の頃、最も親しい女友だちと、よく散歩をしたものである。最近読んだ本のこと、家族のこと、お互いに憧れている男性についてなど、話題は尽きなかった。その頃から、そして未だに、私は胸がドキドキする男性とは散歩をしない。緊張のあまり、必ず石につまずいたり、信号無視の暴挙に走ったりするからである。散歩に関しても、私の成長は十九歳のときから止まっている。  一九八八年十月 [#地付き]札幌にて  藤堂志津子   単行本 一九八八年十一月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成三年十月十日刊