[#表紙(表紙.jpg)] やさしい関係 藤堂志津子 [#改ページ]     1  いつもどおりにG食品会社・広報室の自分の机にむかって仕事をこなしながら、五月もなかばのその日、室伏佐代子《むろぶせさよこ》の気持は小刻みに、せわしなく変化していた。  やはり行こうか、それとも思いきって断わろうか、いや、行くべきか……。  今朝、通勤ラッシュの地下鉄に揺られ、もみくちゃにされながらも、そればかりを考え、午後の一時をすぎた今もなお結論はでていない。 「先月と同じ顔ぶれで集まらないか」  と、三日前の晩、望月伸夫《もちづきのぶお》から自宅に電話がかかってきたときは、突然に浮かれた気分になり、ふたつ返事で承知した。  が、電話をきって五分とたたないうちに、とまどいまじりの後悔にとらわれた。  約束は今夜七時、場所は札幌の歓楽街・ススキノのTビル三階のフロアをしめる郷土料理の店「きくや」。  望月の話では、残るふたりの加賀美浩明《かがみひろあき》と木崎修子《きざきしゆうこ》からも出席の返事をもらったという。 「四人のなかのだれかが欠けてもつまらないよ。この前の盛りあがりというか、和気あいあいの雰囲気は、四人というところがポイントだったのじゃないかな」  望月の感想に、佐代子も受話器を握りしめながら、素直にうなずいた。  先月の四月、東京から一年ぶりにもどり、札幌で再就職した加賀美を囲んで、ささやかな祝杯をあげた。  それは、だれがもくろんだのでもないのに、予想外に楽しく、なごやかな数時間となった。  多分、その場に流れていたのは、遠慮とは異なる、たがいのほどよい思いやりや気づかいだったのだろう。会話は、笑いを誘うやりとりがしきりとはさまれ、その打ちとけた雰囲気は最後までつづいた。  二十代には不足していた、それぞれの精神的な余裕、いくらかのあきらめをふくんだそれを、佐代子はうっすらと感じもした。そして、あらためてひとりずつに視線をむけてみたとき、三十二歳という実際の年齢より二歳のサバは読めても、もはや五つ若くごまかすのはむりなのだ、と自分もふくめて実感された。  しかし、あの夜の充実感と楽しさは、佐代子も忘れられなかった。  具体的にこれとは指摘できないけれど、友だちのありがたみや大切さ、心強さにじかにふれた感触があったし、さらに暗黙のうちに、たくさんの励ましや慰めを与えられた。  それは他の三人も同様だったらしい。  だから、ひと月たって望月が集まろうと声をかけると、加賀美も修子も仕事の多忙さをさしおいても、そくざに話に乗ってきたのだろう。  加賀美の再就職先は、彼の叔父《おじ》の経営する建築資材会社で、前々から請《こ》われていたのが、ようやく実現する運びになった。  修子は服飾デザイナーとして、四十代の女性デザイナー兼オーナーのアトリエに勤め、すでに十年のあいだ彼女と苦楽をともにしている。  四人のなかでもっとも時間的な融通のきくのが望月だった。いずれは家業をつぐらしいけれど、現在は札幌《さつぽろ》の中央区にある金物雑貨の大きな店構えは父親の支配下に置かれ、望月は営業と称して、外まわりを担当している。  佐代子は「カマボコ・クイズを当ててシンガポールへゆこう」に応募してきた消費者のはがきを、北海道内の地区別に分ける作業を終えて広報室のフロアの掛け時計に目をやった。これはG食品がこの春におこなったカマボコ製品の販売促進キャンペーンの一環である。  午後の二時半をすぎていた。  ふいに思った。  今夜の約束は断わる。  望月は携帯電話を持ち歩いているから、いつでも、どこにいても連絡はつく。  その前にひと休みしようと、佐代子は机のすみに置いてあった自分用の白いマグカップをつかみ取り椅子《いす》から立ちあがる。  会議や取り引き先との打ちあわせ、商談などのため、広報室のなかのひと気はまばらだった。  佐代子のほかには室長補佐と、昨年に入社した女性社員がいるだけで、ブラインドをおろさない南と西側にひろがる窓からは、五月の午後の陽《ひ》ざしが、このときとばかりに勢いよく射《さ》しこんでいる。淡いグリーンのリノリウムの床が、陽にさらされた部分だけ白っぽく、そして生気なく、色あせて見えた。  ブラインドをおろしてまわってから、佐代子は、資料に読みふけっている室長補佐の机に進み、からになった湯呑《ゆの》みに手をのばしながら声をかけた。 「おいれしますね」  五十なかばの彼は、ずりさげた遠近両用メガネをあわてて引きあげながら「むむ」と「ええ」の中間の発語で応《こた》えた。  陰気ではないけれど、おとなしい男性だった。停年まで室長補佐のままで終る、というもっぱらの噂《うわさ》だったが、本人はいっこうにそれを気にかける様子もなく、ひまさえあれば資料に熱心に目をとおしている。  なんの資料か、だれも知らない。ひまさえあればといっても、彼は勤務時間の大半がひまだった。補佐とは聞こえがいいものの、実体は窓際族と変わらない。  彼を見ていると、佐代子は自分もこのまま会社にずっと居すわっていたなら、あのような扱いを受ける可能性は大きい、と他人事《ひとごと》でなく同情と心細さの念がわいてくる。女性であるぶんだけ、彼に対するよりも風当りが強く、もっといたたまれない境遇に追いこまれるのではないか。  室長補佐の湯呑みを盆に載せ、フロアを半周して後輩の女性社員のもとに近づいてゆく。彼女はナンバーリングを片手に書類の番号づけを延々とつづけていた。 「お茶でも飲む? 緑茶だけれど」  そう断わりながら、ピンク地に白い猫の顔が描かれた机の上のカップをそっと持ちあげる。 「あ、すいません」  札幌の短大を卒業した丸顔の彼女は、入社して一年がすぎた今「ドジ子」とかげで呼ばれていた。そそっかしい小さなミスを、かぞえきれないくらい重ね、今では広報室のあまされ者となっていたが、噂によると、他のセクションで引き取ってもらえるところがないのだという。  同僚の男性たちが彼女を無能呼ばわりするのを小耳にはさむたび、佐代子は憤然とした心地におちいる。  三年前にも彼女の行動形態に勝るとも劣らないはたち前後の女性が入社した。彼女が次々と引き起こすミスに、広報室の全員が被害をこうむったにもかかわらず、男性社員で気色ばむ者はいなかった。つまり大目にみた。  この違いは彼女たちの容姿の差としか佐代子には思えない。同性の目から見ても、三年前の彼女は清純そうな愛らしい顔立ちだった。現在いる彼女の顔の造りよりも何倍もととのっていた。  そして広報室のやっかい者という定評をつけられぬうちに、入社して一年たらずで他のセクションの者に身柄を預けた。営業部の男性と結婚したのである。  しかし現在の彼女にしても、彼女なりに一生懸命に努力していた。昼休みに会社から二区画はなれた喫茶店のすみで「集中力をつけるトレーニング」といったたぐいの本に顔をつっこむようにして読んでいる姿を、佐代子は三回目撃し、そのたびに声をかけるのはひかえた。活字に食らいつくような真剣な面持《おもも》ちだったからだ。  広報室のドアのそとにでて、廊下の中央にある給湯室にむかう。  三人ぶんの湯呑みとカップをざっと水洗いし、湯をそそいで器を温めてから、やはり別の急須《きゆうす》でさましておいた湯で緑茶をいれた。あまり上等とはいえない緑茶でも、こうすれば多少はいつもより、おいしくなる。  といっても会社でつねにここまで手間をかけてお茶をいれているわけではない。また女性としては広報室ではいちばんの年長者である佐代子が、みずからお茶をいれることは、めったになかった。  別に後輩に押しつける気持もないのだが、年長者の佐代子がそれをすると、後輩の女性たちは当てつけがましさ、いやみ、と受けとめたりもして、余計な摩擦を生じさせかねない。だから当番制になっているお茶いれには、いっさい口だしをせず、彼女たちにまかせるのが得策だと佐代子は部外者を決めこんでいた。  盆を手に広報室に引き返し、室長補佐とピンクのカップの持ち主にお茶をくばって席にもどる。  静かだった。  いつになく電話も少ない午後で、ひっきりなしに鳴る呼びだし音がないだけでも耳がくつろぐ。  ブラインドのひとつが蛇腹の部分がこわれていて、そこから入りこんだ光線が正面の壁にゆがんだ長方形を描き、その形のおもしろさに佐代子はしばし見つめ入り、目を休めた。  マグカップの緑茶をあらかた飲みほしてから、深呼吸をして机の上の電話に手をのばす。望月の携帯電話の番号はそらんじてある。  受話器をつかみ、しかし、一瞬後には、あわてて手をはなす。  またもや気持が動揺した。  やはり行くべきではないのか。  望月の言葉もよみがえってきた。 「四人というところがポイントだったのじゃないかな」  が、望月のこの言葉にかこつけながら、だからやむをえないのだと自分に理由づけしながら、実際はひるむ心をそうやってせき立てていた。  しかし一方では、断わろう、と萎縮《いしゆく》し弱気になっている自分もいて、相矛盾《あいむじゆん》するとはいえ、どちらも本心だった。  望月にいったんは出席すると答えたものの、この三日間、佐代子は日ごとにしりごみしはじめていた。  加賀美に会うのがこわかった。  こわいと同時に会いたい。会って、もういちど自分自身に問いかけたくもある。  友だちとしてほぼ十年間、彼をことさら異性として意識したことはなかった。望月に対しても同様で、この点に関してのあいまいさはいっさい払拭《ふつしよく》されていた。あえてそう努めたわけではなく、かれらと男女関係になるかもしれない、なりたい、なってもかまわない、といった発想を一秒たりとも持ったためしがなかったのだ。  けれど、ひと月前の集まりで、何かが佐代子の心にしのびこんでしまったらしい。  最初は佐代子もまるで自覚もなく、四人が顔をそろえた楽しさの余韻を、数日間、心地よく引きずっていた。気取りのない会話のあれこれを反芻《はんすう》してみたり、いつになくしんみりとした風情のあった修子の姿を思い浮かべたり、相変わらず面倒見のよい望月の気働きぶりや、それとは反対にどこか茫洋《ぼうよう》としつつ一抹《いちまつ》の物淋《ものさび》しさを宿していた加賀美のまなざしなどを、折りあるごとに思い返し、気持をぬくませた。  予測もしなかった自分の感情に気づかされたのは、集まりから一週間とたたずに、加賀美から職場に電話がかかってきたときだった。 「この前はありがとう。みんながおれの再就職を祝って、わざわざ集まってくれて、本当にうれしかったよ。いや、別に用事があったのじゃなくて、ひと言お礼を言いたくてね」  速すぎず遅すぎもしないテンポのその声を聞いたとたん、佐代子の顔は上気した。いきなり全身が緊張し、次には一挙にのぼせて口調がうわずってしまった。  そのため彼に対してどう返事をしたのか、まるでおぼえていない。  電話をきったあと、まだ胸の動悸《どうき》はつづいていた。甘さと苦しさのまじりあった高鳴りに途方にくれながらも、その底からたとえようもない喜びがわきあがってきて、さらに佐代子を狼狽《ろうばい》させた。その喜びは、単純に加賀美の声が聞けたこと、彼が電話をかけてきてくれたこと自体にむけられていた。  佐代子は信じられなかった。  この喜びは、待ちこがれていた男性から、ようやく電話がかかってきたのと、そっくりではないか。  まさか、といそいで否定した。  加賀美はあくまでも友だちであって、特別な関心をいだいている男性ではなかったし、あるはずもない。  おそらく彼が電話をかけてきたのは過去を振り返っても珍しいことだったから、その意外さに驚き、ふいをくらって、アドレナリンの分泌の回路がずれてしまい、好意を持つ男性からかかってきたのと似たような反応を起こしてしまったのだろう。  加賀美に恋心を寄せる? この私が?  胸の動悸が正常にもどるにつれ、佐代子は自分の狼狽を滑稽《こつけい》に感じた。ばかげた早とちりであり、ありえない想像だった。  つかのまの混乱に見まわれ、中断されていた仕事にもどった佐代子は、もはや終業時までそのことは忘れ去っていた。  しかし、その日、地下鉄・平岸《ひらぎし》駅そばの賃貸マンションの住まいに帰宅した佐代子は、会社をでてからずっと加賀美の顔を脳裏にはりつけていた自分を知った。  翌日も折りにつけては彼の姿を思い浮かべ、ほうっておくと取りとめもなく回想にひたりたがっている、もうひとりの自分がいた。  いつから、どんなきっかけでこうなったのか、皆目、見当がつかなかった。  ただ、どう考えても、先日の集まりより前に、こんな心持ちにはなった記憶がないから、あの集まりで彼に一気に惹《ひ》かれていったのだろう。しかし、どんなきっかけでこうなったのか、こまかく丹念にあの夜をたどってみても、これといった瞬間も、印象的な彼の表情も言動も思い出せない。  佐代子は自分に言いふくめた。  きっとこの状態は、一年ぶりに会った彼への友情を恋愛感情に錯覚しているだけなのだ。  一年の間《ま》を置いて顔をあわせた新鮮さが、そのように勘違いさせているだけ。  勘違いの下地はあった。佐代子は、かれこれ四年というもの恋人はなく、かといって割りきった火遊びや情事で憂さを晴らすことのできる性格でもなく、しかし、いたって健康そのものな心身は確実に恋人を求めていた。  そこに加賀美が、こともあろうに、十年来の友だちがまぎれこんで……そう、いっとき、まちがって、まぎれこんでしまったに相違ない。とりあえずの恋人がわりとして。  加賀美を恋人がわりというワクにはめこむのに成功すると、佐代子は気がらくになった。  本気で彼に恋しているのではなく、これはいわば佐代子だけの秘密の心の遊びであり、いずれ現実に恋人ができるまでの場つなぎにすぎない。  見方をそのように変えると大胆になれた。  心ゆくまで加賀美を想《おも》い、その想いとたわむれ、気のすむまで仮の対象に語りかける。  毎日の生活が違って見えてきた。  四年前を最後にとだえている恋愛のはじまりにつきものの、あの他に比較のできない高揚感と、ささいな事柄からも引きだされてくる充実感が、佐代子の五官にゆきわたった。毛細血管のすみずみまで躍動感が息づいた。  まるで胸に小さな、はしっこい、元気いっぱいの仔犬《こいぬ》を一匹飼っているかのような快活さにつつまれた日々がすぎ、やがて、唐突に不安におそわれた。  加賀美は本当に恋人がわりなのだろうか。  この気持はにせものだと、はっきり断言できるのか。  こんなにも浮き立つ感情が、これほどしぜんにわいてくるのは、どうしてなのだろう。  つきつめて考えていったとき、佐代子はひそかなパニックにおちいった。  ルール違反をしたような後味の悪さ、望月や修子、そして加賀美まで裏切ってしまったみたいな身の置きどころのなさ、もっとも脅《おび》やかしたのは、大切な友だちを失ってしまうかもしれないという孤立感で、それは淡い罪悪感まで引き寄せてきた。  ふたたび佐代子は、恋人がわりのひと言で加賀美の存在をおおってしまおうと試みた。  また別の日は、ごく親密な男友だち、これでくくろうともした。  いくつもの言葉を思いついては、より適切なそれに彼を当てはめ、納得し、自分の感情の方向づけを必死ではかった。  加賀美を異性として意識しはじめてからきょうまでの二週間、佐代子は、どうにかしてそこから目をはぐらかそうと懸命になっていた。  懸命になるほど彼にこだわってゆく悪循環をくり返しながら。  望月から集まりの声がかかったのは、そんなひとり相撲をかさねているときにだった。  瞬間、加賀美に会える、と佐代子の胸ははずんだ。これまでの抑制は一体なんだったのだろう、そうあとになっていぶかったほどの明るさが目の前にひろがった。  だが電話を終えるなり、苦い後悔につきまとわれた。  このままの状態で加賀美には会えない。  会ってはならない。  会えそうにもない。  加賀美にかこつけながら、実際に佐代子がむきあっているのは、自分の激しいとまどいと困惑だった。  自分への腹立ちもある。  望月や加賀美ほど長くもなく、気心の知れた相手とまでゆかなくても、友だちと呼べる男性はこれまで何人かいた。  しかし友だちと決めたからにはけっしてそれ以上の深いかかわりになったことはなく、その面では佐代子はかたくななぐらい潔癖だった。それがくずれかけている。しかも自分のほうからこわしかけているとは、妙に後めたかった。  社外広報誌に折りこまれたアンケートはがきの集計をやっていた手をとめ、壁の掛け時計を見あげると、四時を五分ほどすぎていた。  やはり約束したのだから行くとしようか、ため息まじりに、ようやくおのれと妥協する。  自分ひとりで勝手にとまどい、混乱しているだけで、他の三人はまったくあずかり知らぬことなのだから、迷惑をかけるわけにはゆくまい。  次に時計に目をやると、針は五時十分前をさしていた。  切迫した心境で、とても加賀美と顔をあわせる勇気はない、と強く前言をひるがえす。そのとたん、ふっ切れた気持になって、ふたたび集計に取りかかる。  五時の終業時を迎え、帰社するひとびとの声やざわめきをよそに、佐代子はボールペンを握りしめて机からはなれなかった。 「お先に」  という声に、口先だけが反射的になめらかに動く。 「ご苦労さまでした、お疲れさま」  しばらくして、オフィス内に静寂がもどった。気がつくと佐代子は集計の作業に熱中し、たっぷり一時間をやりすごしていた。  掛け時計の白い文字盤に視線を投げかけながら、決意は先刻と変わっていないことに力づけられる。  二十分後、佐代子はアンケートはがきの束を片づけながら深呼吸をくり返した。  一日中、今夜の集まりの出欠について思いをめぐらせ、気を張りつめていたためか、頭の半分が痺《しび》れたように疲れていた。疲労というより徒労感に近いむなしさも感じる。  はがきをうしろの資料棚にもどしてもどってくると、またもや気持が不安定に揺れはじめてきた。  もう振りまわされるのはまっぴらだ。おのれの優柔不断さに舌打ちしながら、佐代子は邪険な手つきで受話器をにぎりあげ、乱暴に望月の携帯電話の番号を押す。  はっきり口にだして断わってしまえば決着がつく。無理やりにでも、そうしてしまおう。 「はい、望月です」 「ああ、私。佐代子ですけど……」  おしまいまで言わないうちに、望月のてきぱきとした、その反面どこかせわしない口調がかぶさってきた。 「遅れないでくれよ。七時、七時に例の�きくや�。予約してあるから。じゃあ、あとで」  電話は一方的にきられてしまった。  ススキノの南五条通りの角にあるTビルの三階「きくや」に着くと七時を五分すぎていた。  大通り六丁目にある会社のビルからは歩いて十分とかからない。  店内に足を踏み入れる前に、佐代子はエレベーター横の女性トイレに寄り、鏡にむきあってみた。  会社をでる際にもトイレで念入りに化粧を直し、身なりのチェックはしてきたが、加賀美に会うのだと思うと、際限なく不安と自信のなさがこみあげてくる。  鏡面には、明るいグレーのスーツの下からピンクのスカーフをのぞかせた、尖《とが》った顎《あご》に特徴のある、そして、そのほかには、どこといって際立ったところのない目鼻立ちがうつっていた。ただ、やや大きめで、上唇より厚味のある下唇の形が、某女優に似ていると言われた記憶が数回あり、唯一そこだけが取り柄かもしれなかった。  黒い大ぶりのバッグからサーモン・ピンクの口紅を取りだして、たっぷりと塗りつける。固形おしろいで頬《ほお》と鼻、額の照りを押さえ、数秒間、鏡とにらみあってから、佐代子は軽く打ちのめされた心地で、その場からそそくさと退散した。  望月の名前を告げると、案内係の男性は広いカウンターの反対側にある仕切り席の並ぶコーナーに佐代子を誘導していった。  四人掛けのテーブルに、すでに顔ぶれはそろっていた。 「ごめんなさい、遅刻ね」  修子と並んで椅子についている加賀美と目をあわさないようにして佐代子はポロシャツ姿の望月の横に腰かけた。 「佐代ちゃんも生ビールでいいか?」  三人の手もとには生ビールのジョッキが置かれ、望月のそれは半分ほどにへっている。 「そうね」 「ええと、じゃあジョッキひとつ……加賀美、どうする? おれたちは冷酒に切りかえるか」 「いや、まだいい」  望月がその場に待たせておいた案内係に飲むものや料理を思いつくままに注文するそばから、修子が話しかけてきた。  彼女は今夜も白のTシャツにジーンズ、洗いざらしのデニムのジャケットといったいでたちだった。これ以外の服装には、めったにでくわしたことがない。 「佐代子、忙しかったみたいね」 「え? そんなことないけれど」  返事が、加賀美を意識するあまり無愛想になっていた。  修子を見返す視界の端に、加賀美が着用している紺色の背広、白のワイシャツ、黒と白のこまかい模様のネクタイが、縦に半分ずつ目に入ってくるけれど、全体をとらえる勇気はなかった。 「でも私たちが会うのは、この前四人であって以来よ。いつもみたいに電話もかけてこないし」 「そうだったかしら」  卵型の形のよい輪郭の青白い顔に、顔をつつみこむようなショートヘア、それを支える長い修子の首に、佐代子の目は不しぜんなくらいはりついてはなれない。 「そうだったかしら、なんて、佐代子、どうしたのよ、なんかうわの空で。疲れているみたいね」 「少し。いえ、大丈夫よ」  佐代子のジョッキが運ばれてきた。  世話役の望月が自分のそれを持ちあげた。 「それじゃあ、取りあえず乾杯だな」 「何に乾杯するのよ、きょうは」修子が遠慮のない、わざと意地悪めかしたきき方をする。 「まあ、ひと月ぶりの再会ってとこかな。四人ともこうしてそろったわけだし」 「もっと気のきいた台詞《せりふ》を言ってもらいたいわね。加賀美さん、新しい職場はうまくいってる?」  ひと呼吸置いてから、いそがない、そして、もったいぶらない口調が返された。 「おかげさまで、まわりのひとびとが引き立ててくれるので、どうにかついていってるよ」  佐代子は新鮮な思いで、その声を、口調を胸で受けとめた。加賀美は、こういう声のトーンで、こういったしゃべり方をしていたのだ。 「修子、話はあとにして、とりあえず乾杯の音頭をおれに取らせてくれよ」 「やれば、早く」  ひるみながらも、望月はすぐに気を取り直し、世話役の務めをはたした。  ほどなく料理の皿が次々とテーブルに運ばれ、それらをウェイターから受け取り、手際よく並べてゆくのは望月である。  引きしまった、というより、しなやかさを感じさせる細身の彼は、ハンサムとはいえないけれど、その体の敏捷《びんしよう》な動きには、ちょっと惚《ほ》れぼれする独特の色気があり、佐代子はいつもなんとなく見とれてしまう。 「ほら、修子の好きな大根サラダだ」  望月が修子の手前にサラダの器を置く。 「加賀美、このカニの和《あ》えものには、冷酒があうと思うけどな、おれは」  カニの和えものの鉢が加賀美に手わたされる。 「ええと、佐代ちゃんの前には刺身の盛りあわせがいいか。特に貝類を多く頼んでおいた」  だれも手だしをしなかった。  こういった場合は望月にまかせておくにかぎるし、また、彼も張り切って座を仕切ってくれる。  ひととおりの皿を並べおえ、望月は満足げに椅子に腰を落ち着けた。  修子が大根サラダに箸《はし》をつけながら、皮肉をまじえない口ぶりで言う。 「モッちゃんみたいなひとが飲み会にひとりいるのと、いないのとでは大違いよね。気働きや段取りのつけ方では天下一品だもの」 「彼は大学の頃からそうだったよ」  加賀美が堅い木の椅子の背もたれに上体を預け、ジョッキを手に、ゆるやかに口をはさむ。 「みんなで何かをやろう、どこかへ行こうというときは、いつも望月が率先して乗りものの手配から、スケジュールからすべてやってくれてね、おれたちは大助かりだった」 「でも、おしゃべりなのが玉にきずってところじゃなかったの」 「いや、これも助かるんだ。特に男ばっかりのグループだと話がはずまず、気づまりな思いをすることもある。ところが望月がいると、たあいのないしゃべりをしてくれるから、みんながほっとする」 「スイッチのないラジオみたいね」 「こういう存在は意外と貴重だよ」  加賀美と修子のやりとりを、どう感じているのか、望月は黙々と食べることに専念していた。だれに、どう思われようとかまわない、という無頓着《むとんじやく》で投げやりな一面が彼にはあり、二十代も前半には、それが、いいかげんな性格に誤解されがちだった。  加賀美は当時から手堅く、思慮深い雰囲気を身にそなえ、あるいは、それは特定の恋人のいる男性の浮わつきのなさだったのかもしれない。  その女性と彼は大学を卒業して一年とたたずに結婚した。ごく内輪の挙式で、望月も招《よ》ばれなかったと聞いている。  昨年の春早くに東京に移ったのは、会社で転勤を命じられたためであったとはいえ、望月の話によると、破綻《はたん》しかけている結婚生活を、どうにかして修復したいという期待もこめられていたらしい。  だが一年ののち、彼はひとりで札幌に帰ってきた。とうに離婚の手つづきはすませていた。  ひと月前の四月の集まりで、彼はそれほど離婚の後遺症をかかえているようには見えなかった。  離婚のいきさつについては、だれも知らないし、加賀美も口を閉ざしている。  しかし今夜の彼は口調こそおだやかで、思慮深い声のひびきだが、その表情はどうなのだろうか。前回はしいて気にもとめずに見すごしていたそれを、佐代子はもういちどこの目で確かめてみたかった。  確かめたいと気持はあせるのに、正視できない。視線は加賀美の首から下、胸のあたりをさまよいつづけている。 「佐代ちゃん、仕事は順調なの?」  ふいに話しかけられ、はじかれたように顔をあげた。  目もとに微妙な陰翳《いんえい》を漂わせ、まぶしげに目を細めるくせを持つ加賀美が、今もその表情を浮かべ、ほほえみながら佐代子を見つめていた。 [#改ページ]     2 「きょうは一日中ばたばた動きまわって汗をかいたものだから、とりあえずシャワーを浴びてくるわ。なんだか体がべとついて気持が悪いの。佐代子、冷蔵庫の缶ビールで先にはじめていて」  修子があわただしくドアのむこうに消え、玄関わきの浴室にむかっていったあと、佐代子は閉めきっていたベランダのガラス戸を、思いっきり開け放った。  五月も下旬になり、ここ数日のあいだ気温の高い日がつづいていた。夜になっても、あまり気温の変化は見られない。  日中は密封状態にあった修子の1DKの室内は、蒸れた空気が停滞し、息苦しさをおぼえるほどだった。  ベランダから微風が流れこみ、かわりによどんでいた空気が、かろやかに夜の色のなかにとびだしてゆく。  ひと心地ついた気分で、佐代子はベランダぎわにすわりこんだ。床に敷きつめられたフェルト状のグレーの絨毯《じゆうたん》が、思いがけない冷たい感触で、ストッキングにつつまれた足にふれてくる。一日の疲れをためた足には快い固さと冷たさだった。  髪止めでひとつにまとめてある襟足《えりあし》のおくれ毛が微風になびく。佐代子は髪止めをはずし、軽くパーマをかけた髪全体にも風をゆきわたらせようと両手でひろげた。  見事な満月だった。  淡黄色に輝いて、たぎり立つような光を放っている。  静寂や物淋《ものさび》しさをイメージさせる月ではなかった。夜の太陽、と称したいほどに強い銀の色を放散させ、生なましい生命力を感じさせた。  修子にすすめられたけれど、ビールを飲む気持にはなれなかった。アルコールを口にしたら、つい自制心を忘れて、胸のうちを洗いざらい語ってしまいそうな不安をいだく。  それでいて佐代子は修子に会わずにはいられなかった。共通の友だちである加賀美について語りあえる相手は修子、あるいは望月しかいない。  十日前、四月に引きつづいて四人で集まったとき、自分でもいやになるくらい佐代子は加賀美を意識し、極度に緊張した。自分の言動のひとつひとつがぎこちなく、あせるほどに、ちぐはぐな受け答えや態度にでてしまう。「どこかうわの空」と修子に指摘されるまでもなく、そんな自分に佐代子は手こずった。  加賀美への想《おも》いは、この十日のうちに、ますますつのり、揺るぎないものになっていた。  もはや「恋人がわり」ではなく、また「ごく親密な男友だち」の枠でくくり、ごまかそうとしてもむりだった。  しかし、佐代子はこの片想いは修子や望月はもちろんのこと、加賀美そのひとにもかくしとおすつもりでいた。  もし、この片想いを他の三人に知られたなら、せっかくなごやかにいっている友だちづきあいが少しずつこわれてゆくのではないか。  互いに異性を感じさせないからこそ成り立っている十年来の仲間だった。  淡彩色の交友ともいえるだろう。そこに、ひとりだけ、けばけばしくも濃い感情をむきだしにしてしまったなら、バランスがくずれだす。  まず加賀美が困惑するに違いない。修子と望月は最初は驚いたり、おもしろがったり、からかったりするかもしれないが、やがては遠慮がちに息をひそめるようにして見守るようになるだろう。  加賀美にもその気があるのなら話はまた別の展開が期待できそうだったが、彼が佐代子にそそいでくるまなざしは、この十年間に見なれたもので、それ以上でもそれ以下でもなかった。  だから佐代子が彼に対する想いを残りの三人に打ち明けた場合、そこに生じるのは三人三様のとまどいだけだ、とかなりの確信をもって予測ができた。  また仲間のひんしゅくをかってでも、やれるだけはやってみよう、加賀美にぶつかってみよう、という大胆な発想に追いつめられるほどの心の状態ではなかった。  そうなるよりも前にまず佐代子は自分に対して途方にくれていた。どうして加賀美に突然こんな感情をいだいてしまったのか、それが不思議でならない。  さらに二十代ではなく三十二歳の智恵《ちえ》も働く。  加賀美にがむしゃらになって、それが失敗したとするなら、気まずさだけを残して、友だちとしての彼もなくしてしまうかもしれないのだ。  あれこれと考えて自分をなだめながらも、しかし想いはいっこうに薄まってゆかない。むしろ反対に、気がつくとひんぱんに彼を思い浮かべている自分がいた。  きょうの早い午後、修子の勤めるアトリエに電話をかけたのも、一種の助けを求める気持からだった。それがどういうかたちなのか、修子に何を望み、どう言ってもらいたいのか、自分でもわからない。  だが、修子もまた加賀美の友だちという一点だけで、佐代子はすでに半分は慰められていた。想いを寄せている相手が修子のまったく知らない人物ではなく、しぜんに話題にのぼらせて違和感のない加賀美だということが。  とにかく、どんなささいな話でもかまわない、佐代子は彼について修子と語りあいたかった。  室内の換気がひととおりすみ、蒸れた空気がさらりとしたそれに入れかわったのを肌で推し測り、ベランダの戸を三分の一まで閉めた。  夜の八時をすぎ、本格的な夜の深まりにつれて満月の光はいちだんと冴《さ》えわたりはじめていた。不気味なほど肉感性をおびた月に、つかのま佐代子は圧倒された。 「ああ、すっきりした」  だぶついた黒いパジャマに着がえ、バスタオルで洗った髪をふきながら、修子があらわれた。ショートヘアが針みたいに四方八方に乱れ、大きすぎるパジャマのせいか、ふだんよりひとまわり華奢《きやしや》で中性的に見える。 「あら、待っていてくれたの? 食べていればよかったのに」  丈《たけ》の低い四角いテーブルの上には、持ち帰り用のホットドッグとサラダを入れた白いビニール袋が、置いたままになっていた。  七時に街中の書店で落ちあい、外食するよりも一刻も早くシャワーを浴びたいという修子の要望で、書店と軒を並べているファーストフードの店でまにあわせることにしたのだ。 「佐代子、それ、開けて。ビール、飲むでしょ?」  冷蔵庫のドアに手をかけた修子に、いそいで答える。 「悪いけどジュースかウーロン茶はない?」 「どうしたの。この時間にジュースってことはないんじゃない」 「ちょっとダイエット中なの」 「ふうん。でもカロリー量からすれば、ビールもジュースも似たようなものでしょうが」  佐代子にさしだされたのは缶入りの緑茶だった。  テーブルをはさんで絨毯の上にすわりこみ、しばらくふたりはホットドッグの夕食にいそしんだ。  途中で修子がリモコンを操作してテレビをつけ、次々とチャンネルをまわしてみたが、これといって興味をそそられる番組もなく、画面はふたたびチャコールグレー一色にもどされた。  修子が二本目のホットドッグに小袋入りのケチャップとマスタードをはさみこみながら、つぶやいた。 「二、三日前に電話でモッちゃんから聞いた話だけれど、加賀美さんの離婚、彼から言いだしたらしいわ」  早々と加賀美の名前が、しかも修子のほうから切りだされてきて、佐代子はとっさにまごついた。できることなら彼の話題は食後に、一段落したそのときに、おもむろにデザートのように持ちだしてほしかった。ホットドッグと一緒に咀嚼《そしやく》するには、今の佐代子には手にあまる。そう簡単にやりすごせない。 「彼から言いだしたというのは……離婚の原因は加賀美さんにあるということ?」  そうきき返してから佐代子はほっとした。身をのりだすようにしてではなく、いかにもさりげない口調を装えた自分に胸をなでおろす。 「さあ、そこまでは聞いてない。なんでも話のなりゆきで、加賀美さんがついうっかりモッちゃんの前で口をすべらしたという状況だったみたいだから」  最初のとっさの狼狽《ろうばい》から立ち直った佐代子は、あらためて離婚のひと言を胸にしみわたらせた。  そうだった。  加賀美はいちど結婚し、離婚していたのだ。破綻《はたん》からまだ一年もたってはいない。 「ただね、私も今の佐代子と同じ質問をモッちゃんにしたわ。つまり、加賀美さんに新しい女性ができたのが離婚の原因なのかって」  佐代子はホットドッグを握りしめた手を顔の下のところで静止させ、修子の次の言葉をひそかに息をころして待つ。 「それはないと思う、というのがモッちゃんの返事だった。ふたりはしょっちゅう会っているけれど、女性の気配は加賀美さんから感じられないのですって。モッちゃんが、おやと思うような不審な言動もまるでなし。品行方正の見本みたいな毎日らしいわ。いつマンションの部屋に電話をかけても、きちんと帰宅しているし、だれかがいるようでもなく、どこかからかかってくる電話を待っている様子もないというの」  ホットドッグのはしからのぞいていたキュウリのピクルスをパンのあいだに押しもどし、やはり話のついでに、といった熱のこもらない調子で、佐代子はたずねた。 「彼の奥さんてどんなひとだったのかしら」 「美人よ」  あっさりと断定した修子に、佐代子は驚きの目をむけた。 「会ったことがあるの?」 「偶然に街中で。それ一回きり」 「美人で、どんな感じだったの」 「よくも悪くも、ひどくクールなひとみたい」  修子の口ぶりに皮肉のニュアンスがまじる。 「夫の女友だちなど私には関係ありません、といった態度をもろだしにするという意味のクール。あれを見て私よくわかったわ。加賀美さんが、奥さんを私たちに紹介しなかったのが。きっと、あまり社交的ではなく、愛想のよいタイプではないのよ」 「ふたりは熱烈な恋愛結婚だったのでしょう?」 「私もそう聞いているわ。学生時代からつきあっていたとか」  二本目のホットドッグをたいらげ、パック入りのサラダも食べおえた修子は、あらたな缶ビールを取りに立つ。  食べかけのホットドッグを持ったまま、一瞬、佐代子は放心状態におちいった。  十年前、四人が急速に親しみを深めたあの夜の光景がよみがえってきた。  街の裏通りにある雑居ビルの地階に、その居酒屋はあった。L字型のカウンターだけの店内は、学生や若いサラリーマン、OLが、それぞれの屈託をかかえてやってくるにふさわしい雑然とした雰囲気につつまれていた。四十代なかばのマスターのぶっきらぼうな客あしらいと、その裏にかくれた面倒見のよさと、そのことに照れたようなわざとらしい乱暴な口のきき方が、すべてに順調とはいかない若者たちの心情にふれるものがあったに違いない。  四人ともその店の常連客だった。それぞれがひとりでやってくる店で、たがいの顔だけは知っていた。  すでに短大を卒業し、G食品会社に勤めていたその頃の佐代子は失恋の痛手から以前よりもさらに足しげく店に通いつめ、それは当時の修子も同様だった。加えて望月にも当てはまる。  修子は服飾専門学校を卒業し、アトリエに勤めるデザイナーの卵、望月は二浪して札幌の私立大学の二年目に在籍していた。加賀美も一浪の経験があり、ただしこちらは公立の大学の三年生だった。  夜も更けた頃、客はこの四人だけになっていた。  口火を切ったのは日本酒の酔いがまわりだした修子で、見栄《みえ》も気取りもかなぐり捨てて、不幸に終った恋愛のつらさをマスターに訴えた。 「マスター、私、もうぼろぼろなの。ねえ、どっちも悪くないのに、どうして恋愛がだめになってしまうのかなあ」  佐代子は自分の心中を代弁してくれているような修子に思わず目が吸い寄せられた。あなたもなの? という親近感がわいた。あとになって聞くと、望月も修子の率直な告白にはドキリとしたという。  三十分後、マスターをふくめた五人は、旧知の間柄のように打ちとけて語りあっていた。  ひかえめに口をつぐんでいた加賀美は、マスターから水をむけられ、巧みな誘導にはまって白状させられるはめになった。 「いや、ぼくはみなさんの仲間入りはとても……いえ、そうではなくて……つまり、そのう、つきあっている女性がいるので……」  そのときの彼の、いかにも申しわけなさそうな、妙に恐縮しきった表情に、失恋組の三人はねたむどころか好印象を受けた。  帰りぎわ、望月の提案で、一週間後にまたこの店で会う約束を取りかわし、それが十年来の仲間になってゆくきっかけとなったのである。  出会いの日から、加賀美に特定の女性がいることを、佐代子は知っていた。  そして二年後に彼が結婚すると聞かされたときも、これといった感想はなかった。むしろ、望月と修子の三人で祝い金を入れた祝儀袋を贈るについても、その発案者は佐代子だったのだ。 「趣味にあわない食器だの掛け時計などよりも、ちょっと殺風景だけど、現金がいちばんありがたいらしいわ。結婚した会社のひとたちに取材した結果、これがホンネみたいよ」  そのときから、つい一カ月前の四月まで、佐代子は加賀美を異性としてことさらに意識したことはなかった。  気がねなく愚痴を語れる相手、あるがままの自分をさらけだせるかず少ないひとり、一緒にいると、それだけで気分のなごむ相手、といった加賀美への信頼感は、しかし、彼にかぎったものではなく、修子と望月にも、つね日頃から感じていた。かけがえのない友だちだった。  それなのに、どこで感情の回路が混線して、加賀美に心がときめきだしたのか、具体的なきっかけは、まるで思い当らない。  修子が片手に缶ビール、もう一方の手にポテトチップスの大袋、口にポテトチップ一枚をくわえてテーブルにもどってきた。 「じつは、佐代子に軽蔑《けいべつ》されるのを覚悟でいうと、私、加賀美さんの離婚には、おおいに関心があるんだ。他人の不幸にこういう言い方は失礼だけど、不思議でならないの。まあ、結婚の経験がないから、余計に想像ができないにしても、これがモッちゃんならすんなり納得できそうなのに、どうも加賀美さんと離婚はピンと結びつかないのよねえ」  手にしていたホットドッグに佐代子はあわててかぶりつく。だが、食べつくすには、あとふた口のそれを要した。 「でも、誤解しないで」  あらたなポテトチップに歯を当て、小気味よい音をひびかせながら、修子は芝居けたっぷりに右手の人さし指をあげてみせた。 「これは加賀美さん個人への関心とは違うの。私たち四人のなかでは、いちばん思慮深くて、温厚な彼が、なぜ結婚の破局を招いたか。佐代子はどう思っていたか知らないけれど、私は彼の離婚はショックだった。彼のようなひとでさえ離婚するのなら、私やモッちゃん、それに佐代子が結婚したとしても、いずれ離婚しても当然という気持になっちゃうなあ」 「もしかすると、結婚するには年齢的に若すぎたのかもしれないわね」  そう言ってから、一瞬、加賀美への想いを忘れ、友だちの立場から冷静に彼を眺めている自分に気づいた。 「結婚したとき、彼、二十四でしょう。男性の二十四歳といったら、まだ精神的な成長過程にあるのじゃないかしら」  佐代子の念頭には、会社の後輩男性たちの言動のあれこれが思い浮かんでいた。 「まあね、あの頃のモッちゃんなんて、まるでアホまるだしだったものね。いろんな女の子を手当り次第ナンパして、その成果を私たちに自慢げに吹聴して」 「でも、結局はたいがいふられていたわ」  ホットドッグをようやくたいらげ、佐代子は缶入りの緑茶で喉《のど》をうるおした。ほんのかすかな甘味がまじっているらしい。  修子が姿勢をただしながら言った。 「モッちゃんのことは、ともかくとして、私、そのうち機会をみて、加賀美さんに離婚のいきさつをくわしくきいてみたいわ。私の今後の参考にもしたいから」  おや、と佐代子は、修子を見返した。今後の参考、とは遠まわしに結婚話が持ちあがっていることをほのめかしているのだろうか。  これまで修子の口からは、いっぺんとして結婚願望めいた言葉は聞いたためしはなく、服飾デザイナーとして独り立ちするのが当面の目標であり、夢だとばかり思っていたのだ。  探るような佐代子の視線を、修子は敏感に察知した。 「違う、違う。私はひとの心の機微とか不可解さを勉強したいだけ。十年前の失恋以来、私は恋愛から見はなされた状態だから、せめて他人の体験から、いろいろと学びたいと考えているわけよ」  恋愛運がないというのは修子の口癖だった。実際のところはわからない。ただ修子の言葉を裏づけるように、その行動範囲は、佐代子の知るかぎり、おおよそ決まっていた。アトリエに電話してゆき先がつかまらないときは、たいがいマンションのこの部屋にいるか、街中のいきつけの喫茶店で望月とおしゃべりしていたりする。独得の風味のあるコーヒーをだす店で、望月などは一日に一回は通っている。 「佐代子からも教えられたよね」 「何を?」 「ほら、四年前に佐代子も哀《かな》しい別れがあったじゃない」 「…………」 「あなたはひたすら耐えて待つ女だった。そうしていれば彼の気持ももどってくるだろうって。ところが、それは相手の思うつぼだったのよね。口うるさく言わない佐代子の寛大さをいいことに、彼はそれっきりはなれていってしまった」  正確には彼が転勤になり、そのまま音さたがなくなったのである。半年後、風の便りで彼が結婚すると知った。相手の女性は札幌のOL、さらに次々に耳に入ってくる話を総合してみると、その女性が彼と交際していた期間は、佐代子と重複した。要するに、彼はふたまたをかけていたのだった。  結婚にこぎつけた女性は、彼の転勤先にひんぱんに電話をかけたり、わざわざ訪ねていったりもしたという。  反対に佐代子は彼からの連絡をひたすら待ちつづけた。 「落ち着いたら、必ず電話をする」という彼の言葉をうのみにし、なんの働きかけもしなかった。わがままで強引な女性は願いさげだ、そう連発していた彼を、ここでもまに受けたからだ。 「四年前の佐代子の件ではね」  修子は、そのつらさを、まるで自分が味わったかのように、つかのま苦渋にみちた表情になった。 「相手を尊重はしても、自分の欲求を押しころす必要はないってこと。相手の気持をふまえて、で、自分はどうしたいのか、そこに正直になって行動する大切さね。我慢も忍耐も、場合によってはマイナスになるもの」 「あの頃の私は、ひたすら相手次第だったわ。そうしていれば愛されると勘違いしていたのよ。つまり受け身よね」  失恋の傷からとうに回復している佐代子は、客観的に当時を振り返る。  二十八歳だった佐代子には、これが最後の結婚のチャンスかもしれないというあせりもあった。  だからチャンスをのがすまいとして、彼にきらわれるまいとして、いっそう彼に迎合した。どこか卑屈なぐらい相手の顔色をうかがう女性でありつづけた。積極的にふるまおうという発想さえなかった。  ところが、強引な女性はいやだと称していたはずの彼が選んだのは、佐代子から見れば、まさしくそのタイプなのである。  多分、強引さは、見方を変えれば、一途《いちず》さという長所になる。  そして、その前に、男女の区別なく、相手から愛され、求められ、それを手ばなしで表現されるのは、けっして悪い気持ではないという、ごく単純な心理を、佐代子は見すごしていたのだった。  この事実を、彼を失ってから、修子に指摘された。  といっても、修子も話を聞いてすぐに敗因のポイントを発見したのではない。  くり返し佐代子を慰め励まし、なぜにふられたか、を語りあうことで痛手から立ち直らせようとするうちに、結論のひとつとしてこれが導きだされてきた。  もちろん、選ばれた彼女と佐代子の容姿や性格の違いはある。だが、そのふたりの女性と彼は同時につきあっていたということは、その時点では彼はどちらとも選べず、佐代子ともう一方の彼女は互角だったと考えられる。  しかし、差が生じた。  彼は彼女を選び、佐代子を捨てた。  その差はなんなのか、そうつきつめていくと、意思表現のあるかないか、になってくる。  彼女は根気よく言ったに違いない。 「あなたを愛している、私にはあなたが必要なの」  その対極に、押し黙って、身じろぎもせずに相手の出方を待っている佐代子がいる。  どちらが彼の心を動かすか。  最初は、佐代子のしおらしさやひかえめさが気に入っていたとしても、どれだけ自分を想っていてくれるか想像するしかない佐代子にくらべ、熱烈な愛情の言葉をあびせかけてくる彼女のひたむきさは、ある種の感動を彼の心に投げかけ、ゆさぶってくるに相違ない……。 「佐代子のあの失恋から私が学んだのは、このひとと思ったら、恥かしさもプライドもいっとき捨てて、まっしぐらに行動してみること。行動しないほうが悔いを残す。といっても実行するチャンスは、いまだにないけれどもね」  修子に言われてみて、佐代子も四年前の反省をこまかくよみがえらせていた。  あの頃は失恋の苦しさとともに、ああすればよかった、こうもしたかったのに、とかぞえきれない後悔にもさいなまれた。  できるだけの努力をした挙句にこうなったのではなく、できるだけ何もしないことで、彼の心をつなぎとめておけると錯覚した自分の稚《おさ》なさ、ひとの心への鈍感さを痛いほど自覚した。  そして現在、またもや同じ過ちをおかそうとしているような……。  ふと、われに返ると、満腹感とアルコールのせいで、眠たげな目をしはじめている修子がいた。 「私、そろそろ帰るわね」 「泊っていったら」 「勤めがあるもの」  ホットドッグの包み紙やサラダの容器をビニール袋のなかにまとめ、細く開けたベランダの戸を閉めようとした佐代子は、さっきよりもいちだんと銀の光をたぎらせている満月に視線が吸い寄せられた。  開けっぴろげな太陽よりも、もっと懐《ふところ》の深さを感じさせる月の輝きだった。  二十分後、佐代子はマンションの自分の住まいにもどっていた。  2DKの間取りとはいえ、広さは修子の1DKとさほど変わらない。  地下鉄にのって修子のところからふた駅先のここに引越してきたのは四年前、失恋のあとだった。  彼が訪ねてきた日の思い出がしみついている部屋で暮らすのはやりきれなくて、六年ぶりに転居した。  それ以前に住んでいたアパートの部屋は、郷里をはなれて短大に入学するさいに借り、四年後にそこをでたのは、やはり恋愛に終止符が打たれたからだった。そのときも、相手にからむ記憶に囲まれてすごすのはつらいという一念にせき立てられた。  現在の住まいには、望月が数回ふらりと立ち寄った以外は、男性を招《しよう》じ入れたことはなかった。  また過去二回の部屋と比較すると、すべてにおいて便利な環境にもある。地下鉄駅に近く、駅のそばにはスーパーが二軒並び、陽当《ひあた》りもいい。よほどのことがないかぎりは、できるだけ長く住みついていたい場所だった。  壁の掛け時計が十時になろうとしているのを横目で確かめてから、通勤着のスーツをぬいでハンガーにかけ、浴室にいってシャワーをあびる。  小さな浴槽はついているけれど、寒さのきびしい真冬をのぞくと、ほとんどシャワーだけですませていた。  熱めのシャワーに頭からつつまれながら、先刻、修子の所で胸をよぎっていった思いつきを、とっさに折りたたんであとでゆっくり検討しようとしたそれを、恐るおそる脳裏にのぼらせてみた。  加賀美への想いを、だれにも告げずに伏せておくのは変わりがない。  しかし、その一点だけは語らずに、彼に電話をしたり、食事に誘ったりする回数をふやすことはかまわないではないか。  理由は適当であっていい。  最近、妙にひと恋しくなっている。離婚し、再就職した加賀美の様子が気がかりだから。ひとりで食事をするのはわびしい心境になってきた、など、そのつど思いつくままに言いつくろっても、だれも深く詮索《せんさく》しないだろう。  もし疑いを持たれても、十年来の友だち、を強調してごまかせる。加賀美に対してもだ。  異性としての自分に、彼の関心をむけさせようというたくらみはなかった。  そうなればうれしいのは当然だけれど、そこまでの高望みはしない。  また、そんな下心をかかえていたなら、ちょっとした目つきや態度にあらわれて、加賀美に悟られてしまうに違いない。  彼の声を聞くだけ、会うだけで佐代子は十分だった。  ただ彼への想いを、いじいじと内向させ、心をくすぶらせていたくはない。  このまま片想いで終るだろうという予測のうえで、しかし、この高ぶりがいくらか鎮《しず》まるか、消えるかするまで、加賀美に接近し、彼とふたりきりの時間をすごしたかった。  ただし、あくまでも彼に特別な感情はいだいていないと見せかけ、慎重にふるまいながら。  修子にも言われた四年前と同じ失敗と後悔は味わいたくなかった。  どうせ実らない想いなら、一緒のときをすごす楽しさだけを満喫すればいい。  佐代子はふっきれた明るさが全身にみなぎってくるのを感じた。  浴室をでてパジャマ姿になり、顔に化粧水やクリームを補給してから、おもむろに電話台の前に立つ。  掛け時計に目を走らせると、針は十時十五分をさしていた。  加賀美はもうベッドか布団のなかだろうか。この時間は迷惑になりはしまいか。  とっさに望月の携帯電話の番号を押していた。彼なら自分よりも加賀美の日常について知っているはずだった。  五回目の呼びだし音で望月の声が聞こえていた。  佐代子はいかにも屈託なく用件をきりだしている自分に驚いた。 「加賀美さんにちょっと電話したいのだけれど、この時間、彼はまだやすんでいないかしら。それをききたかったの」 [#改ページ]     3  加賀美とはじめてふたりきりで会う土曜日を迎え、佐代子は朝から落ち着かなかった。  約束は夜の七時、「いそや」である。  居酒屋と呼ぶには店の造りが粋《いき》で、小料理屋というには店内スペースが広すぎる「いそや」は、仲間うちでよく利用する場所だった。  地下鉄・すすきの駅の南の出口から地上にでたところにある飲食店ビルの地階フロアすべてが、「いそや」にしめられている。  四日前の夜の十時すぎ、思いきってかけた電話のむこうで、加賀美は相手が佐代子だと知っても、べつだんいぶかるふうもなく、驚きもせずに淡々と対応した。これまで佐代子がじかに彼に電話をしたことは、ほとんどなかったにもかかわらず、である。  おかげで佐代子も切りだしやすかった。ひどく緊張はしていたけれど、つとめて軽やかな口調を装えた。 「どうかしら、たまに私とつきあってもらえない?」 「いいね、そうしようか」 「今週はどう?」 「ええと、そうだな、土曜日なら大丈夫だ」  そして加賀美のほうから「いそや」を口にした。  佐代子はつかのま返答につまり、というのも、望月や修子とかちあうおそれのある店は、できるだけ避けたかったからだ。ふたりのうちどちらかと会った場合は、必ず合流する結果になるだろう。加賀美をひとりじめはできなくなる。  といって、とっさに佐代子は「いそや」にかわる店を思いつかず、自分の段取りの悪さを後悔した。  準備不足だった。望月や修子に会うのを避けたいのなら、加賀美に電話する前に、あらかじめしかるべき予定を立て、こちらから積極的にその店に誘うようにしなくてはならない。  押し黙ってしまった佐代子に、加賀美はさらにかぶせるようにたずねてきた。 「�いそや�なら都合が悪いの?」 「……いえ、別に……」  まさか他のふたりとかちあいたくないのだ、と打ち明けるわけにはいかなかった。当然、加賀美は、なぜなのか、そう問い返してくる。しかし、理由は語れない。加賀美への想《おも》いは、だれにも気《け》どられないままにしておきたかった。  佐代子が優柔不断に口ごもっているあいだに、加賀美はすっきりと約束を成立させた。 「じゃあ、土曜の夜七時に�いそや�で」  その時刻まで、あと半日近く待たなくてはならない、と佐代子は朝食のテーブルについて二杯目のコーヒーをマグカップにつぐ。  二人掛け用の小ぶりのテーブルのすみに置かれたパーコレーターには、三杯ぶんのコーヒーがおとされ、これは会社が休みの土曜と日曜日の朝にかぎっての分量だった。平日はパーコレーターを使わずに、インスタントコーヒーで時間を節約し、トースト一枚と半熟のゆで卵を流しこむ。ゆで卵は二日おきに夜のうちにこしらえ、冷蔵庫に入れておく。だから、つねに冷たいゆで卵だった。  ただし、休日の朝は台所に立ってオムレツか炒《い》り卵、目玉焼きのうちのどれかを作り、栄養のバランスを考えて野菜サラダも欠かさない。  五月最後の土曜日のその朝は、チーズ入りのオムレツに、レタスとキュウリとトマトのサラダだった。  二杯目のコーヒーに、一杯目とは違って、たっぷりとミルクを加えながら、佐代子は白いレースのカーテンを引いたベランダのガラス戸へ視線をむけた。  パステル調の淡い青空がひろがっていた。動きの少ない、のどかな雲のたたずまいからすると、風はないに等しいようだ。気温も汗ばむほどではなく、といって肌寒さを感じるほどでもない。  こんな天気こそ戸外のデートにふさわしい、何もわざわざ夜を待たなくとも……ふと胸のなかでつぶやいている自分に気づき、佐代子はあわてて打ち消した。  調子にのるのも、欲張るのも禁物だった。  加賀美とふたりきりの時間を持てるだけでも十分なはずではなかったか。その願いが、いともあっけなくかなったことに味をしめ、すかさず次のワン・ステップの進展を望むとは、あまりにも図々しく、慎重さにも欠ける。  浮き立つ気持が、あれこれと夢想を呼びこんでくるのをはぐらかすように、佐代子はしゃにむに自分を現実に引きもどした。  今夜着てゆく服は、すでに選んであった。ふた晩かけて検討し、デザイナーという職業柄、洋服にはうるさい修子がいつになくほめてくれたスーツが、やはり、いちばんまちがいがないだろうという結論に達した。  材質とかデザインをほめたのではなく「佐代子によく似合う」と称したのである。  色は灰色がかったブルー、襟なしで、上着はヒップまでおおってしまうロング丈なため、実際の体型よりすらりとした印象を与えるらしい。スーツの襟もとから白のブラウスをのぞかせるか、グレーのスカーフにするかは、そのときの気分次第だったが、ここもまた修子にほめられた日のいでたちに従って、ブラウスを組みあわせることにした。  ただ、気がかりなのは、以前にこのスーツを着用して加賀美に会ったか、どうかだった。  スーツを買ったのは、おととしの秋ぐちという記憶ははっきりしている。  だが、その後、彼が東京に転勤するまでの半年間、これを着て四人で集まったことがあったか、と振り返ってみても、さっぱり思い出せない。あの頃は、望月はもとより、加賀美の視線もまるで意識していなかったため、自分が何を着ているかなどに、いちいち注意をはらってはいなかったのだ。  佐代子よりももっと加賀美はそんなこまかいことは見すごしているかもしれない。相手が恋人ならともかく、まったくの女友だちの服装を、そのつど記憶に刻みこんでいるほうが、男性としては特殊ともいえるだろう。  ただ、単なる自己満足とは承知しつつも、佐代子はそのことにこだわらずにはいられなかった。自分なりの「新しい今夜」なのだから、少しでも新鮮なイメージで加賀美の前にあらわれたい。そう思う一方では、彼にとっては自分は新鮮とはうらはらの、十年来の友だちにすぎないのだというあきらめも、心の底にはりついていた。  二杯目のコーヒーを飲みおえ、使った皿やフォークを台所に持ってゆく途中で、ふいにあらたな夢想が脳裏をよぎっていった。  万が一に、もし、万が一に、話のなりゆきで加賀美がこのマンションまでタクシーで佐代子を送ってくるといった状況になったとしたら……で、そのとき佐代子が「お茶でも飲んでいかない?」と軽い気持で声をかけてみたとして、彼が「そうしようか」と答えたとしたら……そこまで想像したとたん、佐代子は突然に引きつった表情で2DKの室内を見まわした。  ベランダのガラス戸の汚れが、いつになく目についた。台所のステンレスの流しも磨き立てとは、とうていいえない。二人掛けのテーブルの下に敷いている小型のブルーのラグマットにしても、すでに二カ月のあいだ洗うのを忘れていた。壁の掛け時計のほこりをはらったのは、昨年の十二月の大掃除のことで、それ以降はほうったままではないか。  佐代子はパニックにおそわれた。  目にするすべてが、ほこりまみれで、薄汚れているように見えて仕方がなかった。ベランダの白いレースのカーテンも心なし灰色がかっているみたいで、急に不安にかられてきた。  浴室に走り、脱衣場に置かれた洗濯機の給水のスイッチを入れると同時に、引き返してレースのカーテンの取りはずしにかかる。ブルーのラグマットも洗濯しなくてはならない、と横目を使いながら気持はせわしなくあせる。  ほどなく洗濯機を作動させながら、掃除機のホースの先を、しつこいぐらい部屋中に這《は》わせている、汗ばんだ顔の佐代子がいた。  掃除のあとはガラスふきが待ちかまえていたし、台所全体のくぐもりも、きれいに取りのぞく必要があった。  潔癖性めいた神経質な視線を働かせると、不満はいたる所に、かぎりなく発見できた。いったんそれに気づいたからには、やりすごすのは不可能だった。  次々と室内をチェックし、そのたびに小刻みに体を動かし、ようやく佐代子の納得のゆく状態に落ち着いてきた頃、陽《ひ》ざしは夕暮れどきの弱々しさに変わりはじめていた。  雑巾《ぞうきん》を手に、ようやくひと仕事をおえて、佐代子はフローリングの床にすわりこむ。  疲労と満足感の入りまじった大きなため息をついた瞬間、わき腹の筋肉に痛みをおぼえた。ふだん使っていない部分まで酷使してしまったらしい。  パーコレーターに残っているコーヒーを電子レンジで温め直そうと立ちあがると、手足のふしぶしにだるさを感じた。あきらかに動きすぎの結果だった。  コーヒーを入れた湯気の立つマグカップを両手につつみこみながら、体力の消耗が、今朝の意気ごみと高揚感を半分以下に萎《な》えさせていることに気づいた。  しかし、そのおかげで加賀美に対する緊張感も薄らいできたようだ。  それにしても相手が何をしたというのでもないのに、ここまで勝手に振りまわされている自分に、佐代子は苦笑するしかなかった。  今夜、加賀美がこの部屋に立ち寄る確率はほとんどないにもかかわらず、わずか一パーセントのもしや[#「もしや」に傍点]の場合を考えて、やっきになって洗濯や掃除に励んだ自分。けれど思い返してみると、だれかに想いを寄せているときは、つねに、まさかの事態、もしやの状況を想定し、たえず気持を引きしめているのが自分の性分だった。といっても、予想が当ったためしはない。きまって空振りに終る。  十代の時分から変化していないこのくせを、苦笑まじりに反芻《はんすう》しながら、佐代子はマグカップを台所にさげ、シャワーを浴びるために浴室にむかった。  体は外出を中止したくなるくらい、くたびれきっていた。 「なんだか、佐代ちゃん、元気がないみたいだな。具合でも悪いのじゃないの?」 「いそや」のカウンター席につき、料理を注文したあと、加賀美は心配そうに顔をのぞきこんできた。ふたりの前にはビールのジョッキと突きだしの小鉢が置かれている。 「元気がないように見える?」  そうきき返し、ほほえもうとしたが、頬《ほお》が妙に引きつって、まるごとの笑顔にはなりきらなかったことが、佐代子にもわかった。時間とともに、全身の疲れは首から上にも波及しはじめていた。 「うん。元気がない。いつもの佐代ちゃんの雰囲気じゃないよ」  そう言いつつ、加賀美は目もとに微笑をふくんだ陰翳《いんえい》を漂わせ、まぶしげに目を細めるいつもの表情で見返してきた。相手へのいたわりとやさしさを存分に感じさせるこの表情は、彼独得のものだった。はたして加賀美が心からそういう感情をいだいて見返しているのかどうかは疑問なのだが、見つめられた相手は、特に女性の場合は、つかのま、とろけるような心地を味わってしまう。彼を意識する前から、佐代子は加賀美のこの表情は「とびきりの女殺し」と称して、修子と一緒にことあるたびに、からかいのタネにしていた。  からかっていたはずなのに、今は同じ表情でのぞきこまれると、ドキリと動悸《どうき》に乱れが生じる。 「考えてみると、佐代ちゃんとふたりだけで飲むのは、はじめてなんだよなあ」  疲労は奇《く》しくも佐代子から、いっさいの緊張を取りのぞいていた。緊張する気力さえ奪ってしまったらしい。 「でも加賀美さんはモッちゃんや修子とはふたりきりで飲んだことがあるのでしょう?」  ごくなめらかな発声になっていた。想いはいっときの錯覚だったのか、と佐代子自身そう思ったほど、それはこれまでどおりのしぜんな口調だった。 「モッちゃんとはしょっちゅう。でも修子とは、なかったんじゃないかな。思い出せないもの。ところで何か相談があるのだろう?」 「相談?」 「元気がないのは、そのせいじゃないの」 「いえ、そういうのではなくて……」  語尾をあいまいににごしながら、佐代子は会社の後輩OLたちの昼休みの会話をよみがえらせていた。  関心のある男性と親しくなるとっかかりには「相談」がもっとも無難で当りさわりがないという。これと思う男性に接近するための、とりあえずの第一歩とか。 「あのう、ちょっとご相談にのってもらいたくて。そのうちお時間いただけますか」  こう声をかけると、断わる男性はほとんどいない。そして、ふたりきりの場の設定に持ちこんでゆく。もはや「相談」は誘いの決まり文句になっている。  佐代子はそれを思い浮かべながら、加賀美と不しぜんでなく会うには「相談」を使うのが、もっとも賢明なやり方かもしれないと気持は動いた。  今回は、ふたりきりで会うのははじめてという物珍しさもあったに違いなく、加賀美はその理由をたずねもせずに、あっさりとOKした。  けれど回をかさねてゆくごとに、彼はどうして自分だけ誘われるのか、望月や修子になぜ声をかけないのだろう、といった素朴な疑問をいだくに相違ない。  持って当然なその疑問を事前に摘《つ》み取るには、相手が望月や修子ではなく加賀美でしかつとまらない相談がある、といったことにしておけば、ふたりきりで会う理由づけができる。  しかし、加賀美ならではの相談内容とは、どういった話がふさわしいのか。  望月と修子にはなくて、彼だけにあるものといえば、結婚と離婚しか思いつかない。  だが、結婚もしていないのに離婚の相談ができるはずもなく、また、結婚の悩みや迷いのたぐいは、佐代子に縁談が持ちあがっているようだ、と加賀美のあらぬ誤解をまねきそうだった。それだけは、ぜったいに避けたい。 「いそや」で会う段取りにしろ、加賀美と会ってからの手順にしろ、佐代子はいかに自分が考えなしであったかを痛感した。  考えなしの点では、過去の二回の失恋と同じくり返しであり、少しも成長していなかった。ただ夢見心地の想いに酔いしれ、ひたりきっているだけで、そこには智恵のかけらさえもない。おそらく、恋の勝利者になれなかったのは、この考えなしの無防備さ、なりゆきまかせの大雑把《おおざつぱ》さが、わざわいしたのだろう。  一瞬の短い反省はしたものの「相談」のヒントはいっこうに思いつかなかった。  だが、いつまでも押し黙り、口ごもっているわけにもいかず、懸命に頭を働かせ、結局、この場は話題をずらすことにした。そういう発想しかできなかった。 「私のことは一応置いといて、加賀美さんはどうなの?」 「どうなのって、何が」  問い返されて、たじろぐ。深い意味もなく口走っただけなのだ。佐代子も自分が何をたずねたいのか不明瞭《ふめいりよう》なまま、とりあえず「どうなの?」ときいたにすぎない。 「何がって、まあ、いろいろな面で……ほら、新しい職場とか……ええと、独身にもどった感想とか……あるじゃない」  加賀美はおかしそうに佐代子を見た。目もとが笑っている。 「佐代ちゃん、本当にどうしたんだ。なんだか、きょうは少しへんだな。やっぱり何かあったのじゃないのか」  相手はなにげなく言っているつもりらしいのだが、佐代子は次第に追いつめられてゆく心境だった。 「遠慮せずに話してみろよ。適切なアドバイスのできる自信はないが、聞くことぐらいはできると思うよ」  佐代子はさらに逃げ場を失った心地におちいる。加賀美の口ぶりと表情が、いかにも親身なだけに、ここはどうしても相談を持ちかけなければ彼の好意を無にしてしまうような、あるいは恥をかかせてしまうような不安につきまとわれてきた。 「……そんな悩みなんていう大げさなものじゃなくて……」  時間稼ぎの、どうにでも受け取れる台詞《せりふ》をとりあえずつぶやきながら、堅い木の椅子《いす》の背に押しつけていたバッグからハンカチを抜き取り、膝《ひざ》の上にひろげた。  次にどう言おうかと冷や汗まじりに頭をしぼっているところに、注文した料理が運ばれてきて、佐代子を苦境から救った。  ふたりの目の前に、この時期ならではの旬《しゆん》の料理が並ぶ。近くの湖でとれたというニジマスの姿焼き、フキやウド、通称タランボと言われているタラノキの新芽といった山菜の和《あ》えものや天ぷら、ベーコンに巻かれたグリーン・アスパラガスも親指ほどに太く、しかし見るからに柔らかそうだった。最近は一年中でまわっているツブ貝とホタテの刺身も、二人前にしては威勢よく大量に盛りつけられている。  一人前の刺身の盛りのよさが「いそや」の自慢であり、客の大半はこれを目当てにやってくるらしい。けれど宴会の仕切り役の好きな望月に言わせると、昨年あたりから以前より量が少なくなっているというのだが、佐代子の目にはその変化はまるでわからなかった。  タランボの天ぷらに割り箸《ばし》をすすませながら、加賀美が望月の名前を口にした。 「先週もあいつとこれを食べにきたんだ。あと一週間ぐらいで旬も終りになると聞いて、それできょうもここにきてみよう、と。もうメニューからなくなっているかもしれないと思っていたのに、ラッキーだった。ついていたよ」  自分よりタランボへの食欲が彼を動かし、この店に足をむけさせたのか、と佐代子は肩すかしをくらった気持で割り箸を取りあげ、ふた皿あるニジマスの皿の一枚を手もとに引き寄せた。 「それに、ほら、佐代ちゃんもタランボは大好きだと言っていただろう? そんなことも、ふっと思い出したものだから」  佐代子ははじかれたように顔をあげた。 「私が? おぼえてないわ。確かにタランボは大好きだけど」 「忘れているとは思ったよ。そうか、もう、四年前になるんだな。四人で小さな居酒屋にいったときに、偶然にタランボが、きょうのおすすめメニューを書いた黒板にのっていて、望月はひどく喜んで興奮するし、修子は食べたことがないってわめくし。あの晩は、みんなもうかなり飲んで、できあがっていたんだよな。佐代ちゃんは好きだ、大好きだって、そればかり言って上機嫌だった」 「で、そのときのタランボはどうなったの」 「望月が、タランボは天ぷらにするのがいちばんうまい、と言い張って、店のあるじにそうしてもらった。おじいさんと呼んでいいような年輩のあるじだったけど、あの店、どうなったのかなあ。はじめていった店だった」 「四年前のことなのに、ずいぶんくわしくおぼえているのね」  四年前の今時分といえば、恋人の転勤を見送ったばかりだった。そして半年後には、彼は別の女性と結婚した。 「といって、すべてに記憶力がいいわけじゃなくてね……」  手にしていたジョッキをカウンターにもどして、加賀美は淡い笑《え》みを口もとにはりつけた。 「二年前、いや、去年のことでも記憶から抜け落ちていることは、いっぱいある」  加賀美の口調に、かすかな自嘲《じちよう》とも淋《さび》しさともつかないひびきを感じ、佐代子はあらためて左隣りにすわっている彼のほうへむき直った。  グレーのスラックスに白のポロシャツ、ベージュのブレザーは袖口《そでぐち》を折りあげてラフに着こなしていた。彼の勤務先は週休二日とは聞いていないけれど、こういった恰好《かつこう》で通勤しているのだろうか。  白いポロシャツの上には陽灼《ひや》けしたやや面長《おもなが》の顔と、一重まぶたの張りのある目、その目の涼しい印象を裏切らない、いくらか薄めの唇が意志的に引き結ばれている。どこかが強く主張している顔立ちではなかった。一見したところは物静かで内向的な人柄を想像してしまう容貌《ようぼう》だった。  しかし実際の加賀美は物腰はおだやかで、温厚ではあるけれど、内向的とか、消極的といった弱々しい性格ではない。  加賀美はふたたび箸を手にし、グリーン・アスパラガスのベーコン巻きを自分の取り皿に移しながら、ごくふつうの口ぶりで言った。 「四年前のちょうど今頃だったんだ、別れた女房から離婚を言いだされたのは」  彼にむけていた佐代子の視線が、にわかに狼狽《ろうばい》した。いきなり体ごと正面にむき変えたなら、内心の動揺を見せつけるようだし、かといって、このまま注視しているのも、好奇心むきだしの無神経さと受けとめられかねない。数秒間、宙をさまよった佐代子の視線は、姿勢はそのままで、加賀美と自分のふたつの椅子のすきまへと落とされた。 「それで四年前の出来事は、いちいち鮮明におぼえる結果になったらしい。これとは反対に、ショックのあまり、ほかのことはいっさいおぼえていないというひともいるらしいけれど」 「…………」 「佐代ちゃんや望月、修子は、やっぱりありがたいな。おれが東京からこっちにもどってきても離婚についてはふれようとしないでいてくれるのだから。でも、おれはもう自分では立ち直ったつもりだ。結論をだすまでに、まる三年間かけたし、女房とも、とことんまで話しあったからね」  正直なところ、佐代子は、もしそれが許されるのなら、離婚のいきさつをもっとこまかく知りたかった。質問したいことは山ほどある。  けれど立ち直ったとはいっても、それをまるごと信じることはできない。本当に立ち直ったときは、多分、こちらがたずねなくても、彼自身から断片的にでも語りだすだろうし、そうなるまで詮索《せんさく》めいた質問はひかえるべきだという気持がした。  四年前、恋人だったはずの相手が他の女性と結婚した際、佐代子と彼との仲を知っていた会社の二、三の同僚からの質問は、苦痛以外の何ものでもなかった。たずねる当人は、ごくなにげないつもりでも、答える側は、そのたびに心臓に針を刺されるような苦しみをしいられる。いっさいそのことにふれてほしくないのだ。黙っていてもらいたい。 「結婚する彼女の存在を知らなかったの?」「どうしてこういうことになったのよ、おかしいじゃない」「彼を許せるわけ?」  こうした問いかけに、できるものなら佐代子はひと言だけ言い返したかった。 「ほうっておいて。なんにもきかないで」  だが、この言葉を口にしたとき、相手の反応は予測できた。 「私たちがこんなに心配しているのに」  職場の人間関係を棘《とげ》とげしくしないために、佐代子は何回となく、この言葉をのみこんだ。ただ、あいまいにほほえみ返すことに終始した。  しかし、今になって考えると、ほうっておいて、と言うべきだったと思う。ただし、ヒステリックな口調ではなく、ごくふつうの調子でやんわりと拒める自信があったのなら。だが、あの当時は心に余裕はなく、声をとがらせずに、その場を切り抜けられるたくましさは持ちようもなかった。  ジョッキのビールで軽く唇をしめらせてから、佐代子は当りさわりのない、けれど、まったくの嘘《うそ》ではない心情を伝えた。 「そうだったの……ちっとも知らなかった……加賀美さんが悩んでいた三年間、私たちはなんの力にもなれなかったわね」 「そんなことはないさ。だいいち、力になるも何も、おれがみんなに打ち明けなかったのだから……本当につらいことは、だれにもしゃべれない。これはおれだけじゃないと思うけれど」  すると、四年前の失恋を修子にだけは洗いざらいぶちまけた私は、彼の三年間の苦悩とくらべると、まだずっとましな苦しみようだったのか。私ほど不幸な女はいない、とあの頃は本気で落ちこみ、修子も「男運が悪い」とたいこ判をおしてくれたとはいえ、加賀美の離婚の比ではなかったらしい。  ふいに佐代子は息苦しいほどのせつなさにとらわれてきた。  加賀美への想いに同情が加わり、それは、なんとも狂おしい感情だった。  彼の手を握りしめ、大変だったのね、と心から慰めたい衝動がこみあげてくる。  私がいるわ、私がついているわ、大丈夫、必ずやり直せる、だって、まだ三十二歳じゃないの……。  つかのまの白日夢からさめ、佐代子はあわててジョッキをつかみ取る。脳裏に描いた光景を、加賀美に見られてしまったかのようなバツの悪さと気恥かしさに全身がちぢこまった。  当の加賀美は先刻からツブ貝とホタテの刺身に取りかかり、たった今、二杯目のジョッキを注文しおえていた。佐代子のそれは、まだ三分の一しかへっていない。  しばらくは料理に専念するつもりらしい彼にあわせて、佐代子もタランボの皿に箸をのばす。  食べながら、ふたたび体のあちこちの筋肉の痛みが自覚されてきた。  めいっぱい整理整とんした部屋のなかをよみがえらせ、満足感と同時に、このあとの段取りがしきりと気になりだす。  加賀美はもう一軒寄ろうと誘ってくるのだろうか。それとも、この店の前でさようならする予定でいるのか。あるいは次の行動は何も考えていないとしたなら、私にまかせると言われたなら、どこへ案内したらいいだろう。カラオケのある店か、ない店か。  タランボの、山菜特有のにがみのあるおいしさに思わず頬をゆるめながら、修子にもこの美味を分け与えたい、という思いが胸をよぎってゆき、一瞬後、まったく別の想念が脳裏に宿った。修子の声をともなっていた。 「モッちゃんから聞いた話だけれど、加賀美さんの離婚、彼から[#「彼から」に傍点]言いだしたらしいわ」  しかし、その同じ加賀美の口からは、まったく逆の内容を、ついさっき聞かされた。 「女房から[#「女房から」に傍点]離婚を言いだされてね」  どちらが本当なのか。  加賀美と望月の日頃の言動からすると、いいかげんなことを言いそうなのは望月だった。ただ、ちょっと智恵のある、美意識にこだわる男性なら、真相はさておき「妻を離婚した」と称するより「妻から離婚された」といったひねったスタイルを取りたがるのではあるまいか。  勤務先にも、そういったたぐいの男性はいた。容姿・人柄ともに女性にもてないはずがなく、事実、取り引き先のいくつもの会社に女性ファンを持ちながら、口を開くと、わざと哀れっぽさを装って言うのだった。「また彼女にすてられてね。もう逃げられてばっかりだよ」  しかし、加賀美はひねった物言いをして相手を煙にまくタイプではなく、むしろ、ごまかしは苦手な性分、とこの十年間、そのように見てきていた。  ごまかしは望月のほうが、はるかに上手だった。  だが、ときによっては、ひとはこれまでとは違う意外な面をあらわすこともある……。  そのかくれた意外さがあるとしたなら、それはどこに秘められているのか、と知らず知らずに佐代子は加賀美に視線を押し当て、身じろぎもせずにいたらしい。  いきなり彼がこちらをむいた。 「どうした? 何か言いたそうだけど」  われに返って、佐代子は顔を赤らめた。ふいをつかれた動揺が赤面にすりかわったのである。 「本当に今夜の佐代ちゃんはおかしいよ。おれを相手に遠慮したりしりごみすることはないじゃないか。言いたいこと、あるんだろう?」  しばし視線をかちあわせてから、敗北に似たため息をつき、佐代子はうつむきがちにたずねた。 「気を悪くしないでね……じつは修子から聞いたのだけど……」  佐代子の話に耳を傾けていた加賀美は、やがて、こともなげに答えた。 「どっちも事実だよ。離婚をきりだしたのは女房、それからいろいろとあって女房も迷ったりしてね、最終的にはおれが結論をつけたということかな」  ひと呼吸ついてから、彼は同じ口調でつけたした。 「彼女に恋人ができたものでね」  びっくりして佐代子が加賀美を見返したとき、背後で望月の声がした。 「おふたりの話は終ったかな。もうそろそろいいかと思ってきてみたんだけど、まだならおれたちはあっちにいる」  振り返ると修子もいた。  加賀美が屈託なく言う。 「タランボはみんなで味わいたいからね……おれ、電話で佐代ちゃんにこのこと言ってなかったっけ?」 [#改ページ]     4  夕方五時の終業時になり、佐代子は机の上にひろげていた資料やメモを手前にかき集めはじめた。  きょうも無事に終った、と安堵《あんど》する気持と、きょうもこれといって特別なことはなかった、とその単調さに嘆息をつく思いが、同時に胸のなかをかすめすぎてゆく。  意を決して加賀美に電話をかけ、居酒屋「いそや」で差しむかいで会うはずだった土曜日から十日がたっていた。  結局、あの夜、ふたりだけの会話が許されたのは一時間ばかり、そのあとは例によって望月と修子が仲間入りし、二次会のバーにも四人そろってくりだすはめになった。事前に加賀美から望月と修子に声をかけたのだという。「いそや」の、この季節ならではのメニューである山菜の「タランボ」を、みんなで一緒に味わいたいから、と加賀美は屈託なく説明した。  彼のその気持はよく理解できたし、非難するすじあいはない。これまでも何かあるごとに、こまめに連絡を取りあう四人であり、佐代子にしても「タランボ」のなつかしいおいしさにふれた瞬間、修子にも食べさせたい、とつかのま思わないでもなかったのだ。  しかし、あの土曜日の晩は、望月と修子を抜きにして、加賀美とだけむきあいたかった。飲みながら、食事をしながら、ふたりだけのひとときをすごしたいと思いつめ、ようやく実現にこぎつけたのに、皮肉にも、加賀美の友だち思いが、それを台なしにした。  加賀美を責めるのは、おかど違いだった。だいいち、ふたりきりの時間を、だれにじゃまされる心配もなく確保したかったのなら、四人がいきつけの「いそや」ではなく、望月と修子の知らない店に加賀美を案内するべきだったのだろう。  こちらから誘っておきながら、そうした店をあらかじめ考えていなかった不手際が、ああいう結果をまねいた。  あれから十日、カレンダーは六月にかわり、加賀美からは電話もない。なくて当然な、これまでのかかわり方なのに、今の佐代子には、それがなんとなく物足りなく、くすぶった不満につながってゆく。  といって、こちらから電話をかけるのも、妙に気おくれし、遠慮が働いた。あまりひんぱんに、しつこく接近しはじめると、加賀美に不審がられ、その真意を嗅《か》ぎつけられはしまいか、といった不安にもかられる。  恋というものがもたらす不自由さを、佐代子はあらためてつくづく感じた。  恋には結びつかない友だち同士なら、こんな先読みの自制心や、余計な慎重さなどはあっさりと投げ捨てて、いとも簡単に行動に移すのに、いったん異性を感じてしまったとたん、ああでもない、こうやってはまずい、と神経を張りめぐらさずにはいられない。  勝手に、一方的に神経質になっているだけなのだ。相手は、こちらのそうした心の動きなどは知るよしもないのに、ひとりで自問自答しては、萎縮《いしゆく》したり、おじけづいたり、弱気になったり、その挙句には、何ひとつ実行にいたらぬうちに、ひっそりとくじけてしまったりもする。  恋する者の、その気持の揺れ動く過程を、まるで心電図のように、つぶさにグラフに表示できたなら、いったい何を思い考えているのか、きっと矛盾だらけの、だれにも理解できない支離滅裂な内容がうつしだされてくるに違いない。  根拠のない不安と自信、とりとめない願望と妄想の交錯、相手を美化するのと同じぶんだけ自己を卑下する心の不安定さ。  恋はある種の熱病、という言い方は、今の佐代子の心境にそっくり当てはまる。  予測できなかったところも病いに似ている。  ただし、恋は楽しいものか、そう問われたなら、佐代子はイエスともノーとも答えられなかった。  楽しいときもあれば、そうでないときもある、としか返答ができない。  実際、加賀美を脳裏に思い描きながら、佐代子は楽しさとつらさを同時に味わう。  加賀美の姿を思い出したとたん、心は晴ればれとした高揚感につつまれる。  だが、彼とこの先どうなるのか、と具体的に考えを進めていってみると、すぐにゆきづまってしまうのだ。ゆきづまりの最大の原因は、加賀美が佐代子を友だち以上には見なしていないという事実だった。  さらに望月、修子を加えた十年来の仲間意識もじゃまをする。だれが言いだしたわけでもないけれど、恋愛感情を持ちこまなかったからこそ、これまでつづいてきた友だち関係だった。  机の上の資料を引きだしの下段にしまいこみ、ふたたび椅子にもどってみると、目の前に同期入社の川村雄治《かわむらゆうじ》の笑顔が久しぶりに待ち受けていた。 「まあ、いつ札幌に?」  川村は昨年の秋、旭川支店に転勤になった営業マンだった。 「今朝、急にこっちに出張になってね。あすの夕方にはむこうに帰るのだけど」  以前より外まわりが多くなったのか、もともと色黒な川村の顔は、いちだんと陽《ひ》に灼《や》けていた。筋肉質のがっしりとした体型は、そう長くはない足に支えられ、いっそう安定感を感じさせる。濃い一文字の眉《まゆ》にくりっとした目は、メガネの細いメタルフレームによって、いくらか印象を弱めているけれど、メガネをはずすと、なんとなく無邪気さを残す少年顔にまいもどる。旭川支店への赴任は、その営業力を買われて、支店長の引き抜きという、もっぱらの噂《うわさ》だった。 「せっかく札幌にきたのに、これがあわただしい出張で、このあとも六時半から取り引き先のひとと会う約束なんだ」 「そう、忙しいのね」 「うん。時間があれば三人で飲みにいきたかったんだけど」  残るひとりは、やはり同期入社で総務課にいる田畑亜紀《たばたあき》のことだった。川村が結婚する二年前までは、しょっちゅう三人で飲みにでかけていた。 「亜紀さんには会った?」 「いや。おれが総務をのぞいたときは、もう帰ってしまっていて」 「コーヒー、飲むでしょ?」 「ああ」  佐代子が廊下の自動販売機からコーヒーの湯気の立つ紙コップをふたつ持ってもどってくると、川村は机のそばに椅子を引き寄せ、ぼんやりとオフィス内を見わたしていた。 「ミルクとお砂糖、どちらも入れたのが好みだったわね」 「ああ、ありがとう」  佐代子も自分の椅子に腰をおろす。  川村はコーヒーをひと口すすり、それとなく視線をそらしながらたずねた。 「ちらっと聞いた話では、亜紀ちゃん、結婚するんだって?」  そんな噂が流れているのは、佐代子も知っていた。だが数日前、昼休みに会社近くの洋食屋でかちあった亜紀は、笑いながら噂を否定した。「結婚する、のじゃなくて、したいな、と言っただけのことよ。そういう相手がいるのなら、の話でね」  佐代子の説明に耳を傾けながら、川村の表情に変化はあらわれなかった。以前の彼なら、亜紀が他の男性社員と親密そうにしているだけで気色ばみ、不機嫌さをむきだしにしたものである。それでも気持がおさまらないときは、広報室の佐代子のもとに用があるふりをしてやってきては、愚痴めいた言葉をひとつ、ふたつ、もらしたりもした。  佐代子の見るかぎりでは、川村はあきらかに、ひとかたならぬ好意を亜紀にいだいていた。  亜紀にしても川村を憎からず思っていたと佐代子は断言できる。  けれど川村はついに自分の心中を亜紀に打ち明けなかった。彼には学生時代からつきあっている女性がいて、その関係を振り切って亜紀を選ぶことは、彼の良心が許さなかった。長い交際の女性と同僚の亜紀、一時期、川村は真剣に悩みつづけた。あからさまな表現は口にしなかったものの、彼がどれだけ苦しんでいるか、そばで見ているしかなかった佐代子にも、その苦悩はひしひしと感じられた。  また亜紀にしても川村の恋人の存在を、他の同期入社の者と同様に、入社当初から知ってもいた。  やがて川村は八年来の恋人と結婚する道を選び、昨年には子供もうまれた。  川村の結婚を亜紀はどう受けとめたか、また、本心では彼女は川村をどう思っていたのか、佐代子はいまだに彼女にきいてみたことはない。  ただ川村も亜紀も、飲みにいく場合は必ず佐代子を誘い、ふたりきりになろうとはしなかった。 「そうか、亜紀ちゃんの結婚話はデマだったのか」 「あら、なんだか、がっかりしたみたいね」  ほっとするかと思ったのに、という台詞《せりふ》は胸にのみこんだ。 「がっかりはしないけど、これで亜紀ちゃんも幸せになれそうだな、とひそかに祝福していたんだ。だって、万が一、このままずっと独身なら、トシをとったとき、寂しいじゃないか、夫も子供もいないなんて……今、亜紀ちゃん、つきあっている男はいないのかな」 「一応いないみたいよ」 「三十二だろう? どうするのかなあ、この先」  本気で亜紀の将来を案じている川村の顔つきだった。  そこには、数年前、ひとりの男性として亜紀に熱っぽいまなざしをそそいでいた面影はなく、自分の身内かきょうだいを心配するにも似た雰囲気が漂っていた。 「亜紀さんのこと、そんなに気がかりなら」  川村にこれまでとは違った親しみをおぼえながら、佐代子は慰める口調になった。 「彼女が独身でいるかぎりは、ずっとお友だちでいてあげるといいじゃない。頼りになるお友だちにね。そうしたら、きっと彼女も寂しくないと思うわ」 「まあ、おれとしてはずうっとそのつもりでいるけどね」  あらためて意志を固めたように、川村は、しきりとうなずきながら、紙コップの底を、のぞきこみつづけた。  自分もまた亜紀と同じく独身で、恋人のいない三十二歳なことに、川村はいつ気づいてくれるだろうか、と佐代子は、わざと沈黙してその瞬間を待ってみた。  きみに対しても頼りになる友だちでいるつもりだ、そう川村がお愛想ついでに言ってくるのを、冗談半分に心待ちした。  しかし、亜紀の先々について気を取られているらしい川村の目線は、いつまでたっても紙コップを見つめて動かない。  恋愛感情が変化し、移行していった際の、濃い友情を目のあたりにしている心地になった。  それは恋愛感情をへなければ育たない、独得の異性間の友情ともいえた。  もちろん、そのとき佐代子は同時に加賀美を思い浮かべていた。  川村と連れ立って会社をあとにし、ススキノにむかう彼と別れた佐代子は、望月のいきつけの喫茶店「コーヒー堂」に、なんということもなく歩きだしていた。  狸小路《たぬきこうじ》二丁目の南裏に面しているその店は、数年前に開店二十周年を迎えたと記憶する。  札幌の街のあちこちにあった喫茶店は最近めっきりとかずをへらしていた。コンビニエンス・ストアにさまがわりしたり、ビルの建設予定地に売却されたりするなかで、「コーヒー堂」はしぶとく生き残っているうちの一軒だった。店主は頑固者と定評のある四十代なかばの男性で、常連客ともほとんど口をきかず、ただ黙々とコーヒーをいれつづける姿勢を一貫して保っている。そこでだされるオリジナルのブレンド・コーヒーはおいしく、他の店ではちょっとまねのできない香ばしさがあった。店で使用しているコーヒー豆もそのまま売っている。かつて一度だけ佐代子は自宅にいながらにして、店でだされるのと同じコーヒーを楽しもうと豆を買い、試してみたのだが、何回やっても店主の引きだす味には到達しなかった。以来「コーヒー堂」のコーヒーは、店にゆかなくては味わえない、と思い決めていた。  望月も似た経験があるとかで、心中ひそかに店主に脱帽し、それでせっせと通いつめることになったという。  六月の札幌の夜の街に流れる風は、まだひんやりと冷たかった。日中は快晴を誇り、汗ばむような気温であっても、日没とともに一挙に肌寒い空気になってくる。  佐代子の着ているベージュの、V字型にカットされたスーツの襟もとにも冷気がしのび寄り、そのたびに歩きながら数回、かすかに鳥肌を立たせた。 「コーヒー堂」は出入口そばに四人掛けのテーブルが六個、奥にカウンター席がある。  望月の姿はなく、テーブル席は勤め帰りのサラリーマンやOLなどでうまっていた。  佐代子はカウンターの席につき、相変わらず無愛想にコーヒーをいれている店主の顔を眺めながら、注文を取りにきたアルバイトの女子学生にブレンド・コーヒーを注文した。客とのやりとりが面倒なのか、カウンターの内側に立つ店主は、けっして客からじかに注文をきこうとはしない。  アルバイトの女子学生が立ち去りかけたのをいそいで呼びとめ、佐代子はコーヒーのほかに厚切りのトーストとゆで卵を追加した。簡単すぎる夕食だったが、昼食のカツ・カレーのボリュームとカロリー量を考えると、今夜はこの程度に抑えておいたほうが賢明だった。  注文の三品を待つあいだも、さらにそれが目の前に運ばれてきて、おもむろに手と口を動かしはじめてからも、佐代子は漠然と川村と亜紀について考えつづけた。  男女間の結びつきは恋愛だけではないのだ、とあらためて痛感された。  恋愛なのか、友情なのか、きっぱりと区分けはできない状態で、しかし、区分けしないがゆえに、たがいに長つづきし、心地のよい関係もある。  あいまいだからこそ、どちらも相手にやさしくなれるかかわり方。  それは、どちらか一方に気を持たせているというアンバランスなものではなく、双方の感情はできるだけ同質、同量でなくてはならない。  そこには、恋愛につきものの、ひりつくような、あるいは陶然《とうぜん》とするような甘美さはないけれど、ひなた水のようなぬくみがある。  気持の激しい起伏のかわりに、熱くもならなければ冷たくもならない、一定し安定した心の交流が保たれる。  佐代子には、恋愛と呼べる体験は二回しかないけれど、恋愛には別れがつきもののような気がしてならなかった。恋愛そく結婚、とストレートに結びつけて考えるほどには、もはや佐代子は若くなかった。恋愛と結婚のあいだには、もうワン・クッションの何かがある……。  たがいに相手に飽きて別れるのならまだしも、多くは片方が想いを残しているうちに、むりやり別れが訪れる。  新しい恋を手にして別れてゆく者はいい。  二回の恋愛はどちらも佐代子のほうは別れたくなかったのだ。  今、どういう形であれ、加賀美を失いたくなかった。  失う可能性は、さしあたってない。  あるとすれば、佐代子が彼に自分の想いを打ち明けたときだろう。  加賀美は佐代子の告白にとまどい、おそらく喜ぶよりも避けはじめるのではあるまいか。突然に、佐代子が重くてうっとうしい存在になり、これまでどおりの友だちづきあいすら、ぎこちなくなってしまう。  たとえば、と佐代子は仮定してみる。  もし望月がいきなり佐代子に異性としての愛情を表現したなら、その場合は、「困る」のひと言につきた。望月をそういった対象として見たためしはいっぺんもなく、困惑の次には、腹立たしさにおそわれ、余計なことを言われた、聞きたくない話だった、といきり立つかもしれない。  こちらの正直な気持を伝えることはできる。 「モッちゃん、私はこのまま、いいお友だちでいたいの」  だが、そのあと望月が自分を見る目に対して神経質になりそうだった。  本当に佐代子をあきらめてくれたか、それとも、まだ想いをくすぶらせているのか。  あきらめてくれた、そう確信できたなら心から安心する。しかし、その目に狂おしい光が宿っていて、いっこうに消えてゆかないとしたら、佐代子は望月に会うのが次第に重荷になってゆくに違いない。修子や加賀美が同席していたにしても。  佐代子が加賀美への対応をまちがえれば、彼をこれと同じ状況におちいらせることになるのだった。  今のところ、佐代子の想いは、だれにも気づかれてはいない。  けれど、いったん加賀美を意識してしまってからというもの、彼の前での自分の言動が、どこか、ぎくしゃくしているのは十分に自覚していた。彼と視線があうと、急に冷静さを欠いてしまう。また、知らずしらずのうちに、彼にそそぐまなざしに熱っぽさがこもっているおそれもあった。  しかし、一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう、佐代子は厚切りトーストをたいらげ、ゆで卵のカラをむきながら、胸のうちでため息をついた。  もしかすると、これは恋愛感情というより同情ではないか、と自問してもみる。  何もかも順調にいっていると思っていた加賀美の、予想外の離婚。それが二回の恋愛のどちらも失恋に終った経験を持つ佐代子に、にわかに同類の親近感をいだかせたのかもしれない。同じ傷と痛みを持つ者同士といったセンチメンタルな同情。  だが、同情の念がわきあがってくるほど、加賀美は打ちのめされてもいなければ、その反対に、平然さを装うようなむりな虚勢《きよせい》も張ってはいない。  ごく淡々と、この十年間と変わらない態度でいる……。  ふいに佐代子は他人事《ひとごと》のようにひらめいた。  加賀美の、あの変わりのなさに、自分は魅《ひ》かれたのではないだろうか。離婚し、白紙からやり直そうと転職までした彼に変化が生じても当然と思っていたのに、一年ぶりに会った彼はひとつも変わっていなかった。変わらないぐらい鈍感な性格という言い方もできるけれど、加賀美の場合は、そこに強い意志力と抑制心を感じさせた。すがすがしい何かがあったのだ。  ゆで卵の最後のひと口をコーヒーで流しこみ、おしぼりで手をふいていると、 「お、佐代ちゃんか」  という声とともに、隣りの椅子に望月が腰かけた。シャワーを浴びたてなのか、かすかに石けんの匂《にお》いがした。望月を待ちわびていたわけでもないのに、佐代子はなぜかほっとする。 「マスター、おれにいつものコーヒーを」  注文を取りにきた女子学生を無視して、そう呼びかけた望月に、店主はうさんくさい一瞥《いちべつ》を投げかけて返事もしない。  だが望月はいっこうに平気だった。たばこをくわえ、苔色《こけいろ》のブレザーのポケットからライターを取りだしながら、いつもの、心ここにあらずといった、どこか落ち着きのない口調でたたみかけてくる。 「修子と待ちあわせでもしているのか」 「いえ、きょうはひとり。ここのコーヒー、たまに飲みたくなって」 「ついでにトーストとゆで卵で腹ごしらえか。なんか、わびしさが漂ってくるな。おれに電話してくれれば、晩めしの相手ぐらいしてやるのに」 「モッちゃんはこれから?」 「うん、加賀美と会うはずだったのが、急にふられちゃって。どうも、おれの勘では、あいつ、女ができたんじゃないかな」 「女って、加賀美さんに?」  佐代子は胸の血管のどこかが、きつく締めあげられると同時に、顔の筋肉がこわばった。 「ああ。これで、つづけて二回、約束の取り消しだ。ひとりで淋《さび》しかろうと、おれがこまめに相手をしてやってたのに、彼女ができると、もう、これだものな。しかし、まあ、あいつにとってはいい傾向だ。いつまでも前の女房にこだわっているよりは、ずっといい」  しつこいとは思いながらも、佐代子はくり返さずにはいられなかった。 「ね、モッちゃん、本当に彼女ができたの、加賀美さんに?」  望月は天井にむけて、たばこの煙を大きく吐きあげた。 「だろうと思うよ。くわしい理由も言わずに、すまない、のひと言だけだから」 「でも仕事の都合かもしれないでしょう?」  自分の言葉にしがみついていた。 「そうなら、はっきりそう言うさ」 「これまではそうだったの?」 「おれと違って、けじめのあるやつだからな、あいつは」  望月のコーヒーが運ばれてきた。  自分の前に置かれたのとは色の異なる、青磁色の厚ぼったいコーヒーカップから立ちのぼる湯気に、佐代子は途方にくれたまなざしをむけた。  胸のなかで弱々しくつぶやく。  結局はこうなって当然なのだ。離婚して身軽になった加賀美に、佐代子とは別の新しい女性があらわれるのは時間の問題だった。彼にとって十年来の友だちの佐代子は、やはり女性とは見なせない、きょうだいに近い感覚でしかないのだろう……。  砂糖もミルクも加えないコーヒーをすすりながら望月が、ふっつりと押し黙った佐代子を横目で見た。 「どうした? 何か加賀美のことであったのか」 「ううん、別に」  佐代子はあわてて背すじをのばし、むりやり唇のはしに笑みを刻む。 「私ももう一杯コーヒーのおかわりをしようかな」  言いながらアルバイトの丸顔の女子学生に軽く手をあげ、目の前のからのコーヒーカップを指さす仕草をした。それだけで伝わったらしく、相手は笑顔でうなずき返してくる。女子学生の察しのよい反応に、佐代子はつかのま心がなごんだ。  が、一瞬後には現実に引きもどされた。 「……そう、加賀美さんにもようやく彼女ができたの……離婚の痛手から立ち直ったという証拠ね」 「できたのかどうか、これは、あくまでもおれの推測だけど」  つい数分前まで自信ありげに断定していた望月なのに、妙に歯切れの悪い口ぶりになっていた。 「いや、おれの早とちりかもしれないな。さっきの話は忘れてくれ」  佐代子はふいに苛立《いらだ》った。望月の言葉に、そのつど振りまわされそうになる自分に、ある種のみじめさと情なさを感じた。それが思わず口調のきつさになっていた。 「モッちゃん、ころころと無責任に話を変えないでよ。聞くほうは、どっちを信じていいのか、わからなくなっちゃうわ」  望月は驚いた目で見返した。 「おいおい、何をむきになってるんだ。信じるも信じないも、そんな深刻なことじゃないだろうが、たかが加賀美に彼女ができたかどうかってことなんだから」  そこでいったん口を閉じ、望月は、あらためて佐代子の顔をのぞきこんできた。 「佐代ちゃん、最近少しおかしいぞ。この前�いそや�で会ったときも、それは感じたんだ。加賀美も心配していたし。悩みでもあるのか? 会社の仕事のこととか、人間関係がうまくいってないとか」  そのとき佐代子の二杯目のコーヒーがわきからさしだされてきた。カップは白でも青磁色でもなく、コーヒーとの境目のつかない濃い茶色だった。  望月が自分の目の前にあった砂糖壺からスプーン一杯のそれを佐代子のコーヒーカップに入れ、少量のミルクも加えてくれた。 「悩みごとがあるのなら言ってみろよ。じっと我慢しているのにも限度がある。ひとにしゃべっただけでも、かなり気が晴れたりもするし」  望月のいたわりにふれて、佐代子はつい感情的になってしまったのを恥じた。 「ごめんなさい、悪かったわ。モッちゃんに八つ当りするような言い方をして」 「謝る必要はないさ。修子なんか、仕事のイライラをしょっちゅうおれにぶつけて、それでストレス解消をしているよ。おれ、こういういいかげんなタイプだから、何言われても柳に風と受け流すから平気なんだ」 「モッちゃんのストレス解消は?」 「おれはストレスのない人間」 「まさか」 「たまにおやじとやりあうけど、商売上のことは、まだおやじにたちうちできなくて、いつも言い負かされてしまう。ただ、負けに徹するらくさもあってね」  それから望月は、佐代子の気分をまぎらわすかのように、父親が経営し、自分は営業を担当している金物雑貨店のあれこれを、軽妙な口ぶりで語りはじめた。そのおしゃべりに耳を傾けているうちに、なんということもなく心がおだやかになってゆく、彼ならではの話のリズムと間《ま》と内容だった。  以前から修子は「イラついたときこそストレス発散相手のモッちゃんよ」と冗談まじりに言っていたけれど、今の望月の弁からすると、それは本当だったらしい。  頼りがいがある、というのではなかった。頼りにし相談を持ちかけたくなるタイプではないのだが、どんな話をしても拒否反応は示さず、「なるほどなあ」とあいづちを打ってくれそうな雰囲気が望月にはある。おおらか、といえば聞こえはいいが、彼の場合のそれはルーズさを多分にふくんでいた。  他愛のないおしゃべりが一段落し、コーヒーの残りを飲みほしたあと、望月はやや声を低めて佐代子にきいてきた。 「ところでつきあっている男はいるのか」 「いないわ」 「何年ぐらい?」 「そうね、四年になるかしら」 「四年? すると、ほら、佐代ちゃんともうひとりの女と、ふたまたかけていた男と別れてからか。いや、修子から聞いたんだ、その一件は……うむ、四年というのは長いな」 「仕方ないでしょ、そういう出会いがないのだもの」  望月は水の入ったグラスを手もとに引き寄せた。氷はとけてしまっていた。 「恋人とはいわないが、そのう、ときたま、おたがいの淋しさを慰めあう男っていうのもいないのか?」 「こうしているじゃないの、モッちゃんとか加賀美さんが」 「いや、そうじゃなくて」  望月の表情は生《き》まじめに引きしめられている。 「つまり、性的な面の解消というか……早い話、割りきったつきあいのセックス・フレンドというか……」  とっさに佐代子は目をむいた。あきれはてた気持で望月に視線をむける。 「なんの話かと思ったら。あのね、モッちゃん、私はそういうことのできる女じゃないの。それができたなら、もっと、どんどん恋人でも彼氏でもできるはずだし、それにね——」  望月は掌《てのひら》を胸のところで垂直にして佐代子を制した。 「待てよ、誤解しないでくれ。おれは、そういった性的なことは大切だ、と言いたいんだ。男はもちろん、女性にも性欲はあって当り前。それを抑えこんでいる状態は、けっしてよくないと思うな。佐代ちゃんはまだ三十二なんだぞ。それが四年間も何もなしとは」 「セックスだけの関係なんて、私には考えられないわ」  望月はさらに真剣さをみなぎらせた顔つきになった。 「誤解しないで聞いてくれ。もし、佐代ちゃんがベッドの上だけの相手が必要になったなら、いつでもおれが相手になる。恋だの、愛だのは、いっさいなしで」  あ然[#「あ然」に傍点]として佐代子は言葉もなかった。  望月の表情はわずかにもくずれない。 「これは友だちとして言っている、あくまでも友だちとして。自惚《うぬぼ》れないでほしいのは、こう言ったからといって、おれが佐代ちゃんに恋愛感情を持っているとは思わないでもらいたいんだ。いいかい? これはまったく別のレベルの話なんだ。わかってくれるかな」  望月はからかっているのか、といった疑いは、数秒後には佐代子の胸からきれいに消えていた。かわって、佐代子はまじまじと目前の望月を見つめ返した。  へんなひとだ、と苦笑がこみあげてくる。とぼけているのか本気なのか、望月の持ち味は結局のところ、このへんにあるのだった。 [#改ページ]     5  そちらに着くのは七時前後、と言っておいたにもかかわらず、佐代子が修子の住む部屋の玄関チャイムを鳴らしたのは、予定よりもぐんと早い六時少し前だった。  カレンダーは七月にかわったばかりの水曜日で、修子の勤める服飾アトリエの定休日でもある。 「ごはんを食べにおいでよ」と数日前、修子から誘いの電話が自宅にかかってきた。 「鉄板焼きの電気プレートをもらったんだけど、ひとりで鉄板焼きをするのもつまらないからつきあってくれないかな」  そのときは仕事の段取りの見通しがきかず、一応、六時半ぐらいまでかかると返答したのだが、当日になって打ちあわせが二本キャンセルされたため、早ばやとした退社になったのだ。  約束より一時間も早くあらわれた佐代子を見ても、修子はべつだんこれといった反応は示さなかった。 「あら、早かったのね」  玄関ドアを開けて、おざなりにそう言ったきりで1DKの室内に引き返してゆく。  ブルーのショートパンツに白のTシャツを着たその後姿は、十年前とまったく変わっていない。肉感的なものを感じさせない細さに加えて、ショートカットの髪型が、さらに彼女の中性的な雰囲気を強めている。 「冷たいものでも飲む?」  ベランダぎわに腰をおろし、スカートと同色のからし色の半袖《はんそで》の上着をぬいでいる佐代子に、キッチンわきの古びた木製の丸椅子《まるいす》の上から修子がたずねた。部屋のなかで、もっとも年代を感じさせるその椅子を修子はことのほか愛用しつづけ、四本の脚の一本がかしいでいる現在も、修理もせずに使っている。 「それとも、おなかがすいているのなら、すぐに食事にするけど。鉄板焼きの材料は、もう焼くだけになってるから」  言いながら修子はその材料をおさめてある冷蔵庫のほうに顎《あご》をしゃくってみせた。 「そうね。とりあえず冷たいものを」 「麦茶でいい?」 「うん」  さしだされたグラスの中身を、佐代子はひと息に半分ばかり飲んだ。自分が思っていた以上に、体は水分を求めていたらしい。  今年は昨年と違って六月の下旬から暑い日が一日おきのように訪れている札幌だった。温度計は三十度まではいかないけれど、しかし二十五度を下まわることはない。  冷えた麦茶が体内の熱気を、いっとき鎮《しず》めてくれるのを快く感じながら、この前「コーヒー堂」で望月に言われた台詞《せりふ》を、佐代子は口にしてみた。いくらか日にちがたっているため、言われた当初のとまどいと困惑はかなり薄らいでいた。 「もし、佐代ちゃんがベッドの上だけの相手が必要になったなら、いつでもおれが相手になる。恋だの、愛だのは、いっさいなしで」  そう語ったときの望月の生《き》まじめな口調と表情も、佐代子は説明した。 「ねえ、修子、この言葉はどう受けとめたらいいのかしら。モッちゃんがふざけていたのなら、私も笑って聞き流せるけれど、どうも、そういう印象じゃなかったわ。といっても誤解しないで。彼が私に特別な好意を持っているのでは、ぜんぜんないの。それは私にだってわかるもの」  修子は驚くふうもなく、あっさりと言い放った。 「モッちゃんは、そういうひとよ」 「そういうひとって?」 「精神的なことよりも、もしかすると肉体的なことのほうが大事ではないか、そういう考えの持ち主ってこと。昔からね」 「……ふうん、知らなかった……」 「まあね、そう言って、自分の性的な欲求の強さを、みずから肯定しているきらいもあるけれど、モッちゃんは正直であるのかもね。たいがいの男は、そう思ったにしても、あえて女の前では口にしないでしょ。女を性欲の対象にしか見ていないのかって、誤解されて、やりこめられるのがおちだもの」 「でも私はモッちゃんの考え方に賛成できないわ」  佐代子はここ何日間も自問自答したり、過去を振り返ったりして、自分なりにまとめた結論を修子にぶつけてみた。 「モッちゃんはそういうタイプかもしれないけれど、私個人はやっぱり精神的なものを重視するわ。おたがいの心があってこそ、だから肉体的にも大切になる。けっして体の関係が先じゃない」 「そうでもないと思うな。いえ、佐代子がまちがっているというのじゃなくて、体から入ってゆく関係もあるってこと。また、おたがいの体は気に入ってはいても、それ以上のかかわりに進展しない場合もあるし……男女の結びつきは、早い話、千差万別なのよ。マニュアルなんてない。あるわけないのよ。体だけのつきあいのカップルを不誠実ともいえないし」  ふいに修子のこれまでとはまったく違う一面をかいま見たようで、佐代子はかすかに面食らった。 「ここ十年間、修子は恋愛には縁がないといってたけど……」 「うん、そうだよ。恋愛はしていない」  言いながら修子はあぶなげな姿勢で両のかかとを丸椅子にのせ、両腕で膝《ひざ》をかかえこんだ。膝の上に顎を置く。目線は遠くを、うつろに眺めていた。 「……恋愛はしてないけど、短期間とか、ひと夜かぎりに近い火遊びは、いくつかあったなあ……」 「どうして?」  とっさに勢いこんで問い返したあと、佐代子はひどく間の抜けた質問だったと軽いばつの悪さを覚えた。 「どうしてって、淋《さび》しかったから、としかいいようがないな。ただ、その一瞬は、つかのまとはいえ、相手がすごくステキに見えたのも本当。おかしな話だけど、本当に、たったの数時間だけ、本気で相手の男を好きになっていた。きらいな男とはしないもの」 「……それで淋しさは消えた?」 「ベッドの上にいるあいだだけは、淋しさを忘れていたと思う。で、それから二、三日、相手からの連絡を待っているあいだも、なんとなくほんわかした気持でいられる。ところが相手は電話をかけてくるつもりなんてなかったんだと悟ったときは、一挙にみじめになるね。そうはいっても、こっちからも電話しようとはしない。できるのに、あえてしないんだよね、電話一本も」 「なぜ? してもいいわけでしょう」  修子は口もとに苦笑を浮かべた。 「おかしな心理だよね。きっと見栄《みえ》を張っているんだろうね。ただ会ってすぐに寝た男と、あらためてまじめな仕事の話とかするのは、私の場合、こっぱずかしいのひと言なんだ。だから、いつも恋愛にまでゆかない。多分、淋しさをゆきずりの相手とのセックスでまぎらわせようとした自分を、心のどこかで恥じているんだろうなあ。まぎらわせられないと知っているのに、それをやってしまった自分を。そういう弱くて、衝動的な自分を」  時刻は六時半になろうとしているのに、おもてはまだ新聞の活字が読めるほどに明るかった。  ただ日中の空の、目のさめるような青さは水っぽいそれに変化し、引きちぎられ、はりついている雲のすきまに、暮れどきのバラ色が、ほのかにまじっていた。  それを見つめているうちに、佐代子のうわずった気持も、少しずつ落ち着いてきた。  予想外の修子の打ち明け話に、さっきまで平静さを装いながらも、かなり動転していたのだ。  振り返ってみると、修子とは性的な会話は、ほとんどといっていいくらい、かわした記憶がなかった。あけすけなセックスにかかわる話などは、いっぺんもしたためしがない。どちらか一方がそれを持ちだしてきたなら、そこそこの体験談や疑問などを交換しあったのかもしれないけれど、ふたりともその点は用心深いのか、羞恥心《しゆうちしん》が働くのか、自分からはふれようとはしないできた。  きょうだって、佐代子が望月の大胆発言を持ちださなければ、こういうなりゆきにはならなかったはずだった。  それとも修子は、いつか、こうしたきっかけを待っていたのだろうか。佐代子と話しあってみたいと望んでいたのだろうか。  ふいに修子の住むマンションから数軒はなれた人家の庭にそびえている一本の松の樹《き》が、そこだけ金色のスポット・ライトをあびたように輝きだした。  美しさに、佐代子は息をのむ。  西空に没《しず》みかけた太陽光線が、雲のさえぎりによって奇妙な角度を与えられ、松の樹だけを照らしだす結果になったらしい。  今、松の樹は緑ではなく黄金色《こがねいろ》そのものになっていた。  ひとつの幻想を目のあたりにしているかのようだった。  それに重なるように、見知らぬ男性と談笑している修子の姿が思い描かれた。加賀美をそばにして、全身を堅くさせながら、ぎこちなくほほえんでいる自分も見えた。  西陽《にしび》のマジックは二、三分つづき、やがて樹は本来の松に、一瞬のうちにもどっていた。ごくありふれた素朴な松だった。  見とれていたのは佐代子だけではなかったらしい。  修子がひとり言めかしてつぶやいた。 「きれいだった、夢みたい……」  そして修子は丸椅子からおりると、いつものぶっきらぼうな口調になった。 「佐代子、鉄板焼きをはじめるよ。そこのテーブルの上を片づけて」  鉄板焼きの油はねと、熱気による汗で、通勤用のブラウスを汚さないようにと、修子から借りた黒いだぶだぶのTシャツを着た佐代子は、しばらく黙々と食べつづけた。  市販のタレに数種類の香辛料をまぜたという修子特製の味がたいそうおいしく、食欲をそそってやまない。  どんな香辛料を加えたのか、と修子にたずねてみたけれど、はかばかしい返答はえられなかった。味見をしながら適当にまぜていった結果、この味になっただけだという。 「要するに二度と作れない味なわけよ」  今回にかぎらず修子の料理の味つけは、即興の思いつきが多く、しかし、いつも佐代子が感心するぐらいのできばえだった。きっと修子には料理の才能があるのだろう。そして、それは服飾デザイナーという独創性の求められる職業と、どこかで一脈通じるものがあるに違いない。  いつだったか、やはり修子のこの部屋ですき焼きの鍋《なべ》を囲んだ際にも、彼女はうろおぼえのままに見事なタレを、あっというまにこしらえた。勘だけが頼りの早業《はやわざ》だった。  また、きょうと同じく修子が、しゃぶしゃぶ用の鍋をだれかからもらい、ふたりして、どうやればいいのか、と大騒ぎで挑戦してみたこともある。そのときも修子は、つかのまの腕組みののち、またたくまに三種類のタレを考案し、その味のじつに微妙なうまさを、佐代子は絶讃《ぜつさん》せずにはいられなかった。  そういえば、卓上用の天ぷら鍋で、ふたりで野菜や海鮮物の串揚《くしあ》げを楽しんだ晩もあるし、それ用だと称する銅の小鍋にチーズをとかし、ひと口大に切ったフランスパンにチーズをからめて食べるチーズ・フォンデューなるものに舌つづみを打った日も思い出されてくる。  まず修子がどこからともなく専用の鍋を入手する。とりあえず佐代子とふたりで試用してみる。使い方のこつをおぼえ、そこでおもむろに望月と加賀美に声をかけ、あらためて四人で鍋を囲む段取りになるのだった。女性陣はいっぺん試しているから、二度目はごくなめらかで手際よい運びとなる。  だが四人で何回となく鍋パーティーをやった記憶はあるにしろ、それをおおまかによみがえらせることはできても、佐代子はその場の細部はきれいに抜け落ちていた。  修子や望月の言動については、どうでもいい。残念なのは、このふたりと同様に加賀美に関しても、こまかなことは、ほとんど脳裏に残っていないのだ。  加賀美がもっとも気に入ったのは、どの鍋をした日だったろうか。  野菜や肉の切り方にこだわるほうだったか。  文句をつけたことはあったろうか。もし、あったとしたら、何に対してだったろうか。  加賀美を異性として意識する前の彼の記憶はいたってあいまいだった。  意識してからは、彼の食事のゆったりとしたテンポ、箸《はし》の使い方の正確さ、少量ずつ数皿の料理を賞味したがる傾向など、すぐに鮮やかに反芻《はんすう》できる。  今となっては、あいまいなままに投げだされてしまった記憶が、ひどくもったいなかった。できることなら過去にさかのぼって、かき集めたい。 「どうしたのよ、佐代子」  修子の声にわれに返った。 「急に無口になって、ひたすら食べているけれど、なんだか心ここにあらずの顔つきをしてる」  小休止なのか、満腹になったのか、修子は箸を置き、からになった小鉢を前に、ビールの入ったグラスをしきりと口に運んでゆく。  佐代子の手はまだしっかりと箸を握り、小鉢を持ち、ほとんど機械的にプレートの上に並べられたイカやシイタケをつまみ取ってはタレにひたしていた。自分が、何を、どれだけの量をたいらげたのか見当もつかなかった。 「私、かなり食べた?」 「うん。きょうはお見事よ。私の倍は食べている。でも用意したかいがあった。ほら、もっと食べて。お肉、もっと乗せようか?」 「ふっと思い出していたの。以前はわりとよく鍋パーティーをしてたじゃない、四人で」 「鍋に凝《こ》っていたのよね、あの頃は」 「なつかしい気がして」 「そういえば、鍋をするといちばんうれしそうにしていたのは加賀美さんだったっけ。結婚している彼が、だれよりも張りきった」  佐代子はシイタケを箸にはさんだまま、修子の次の言葉を待つ。加賀美にまつわる話なら、どんなささいなことでも聞きもらしたくなかった。というより、ごく小さなエピソードでも耳にとめておきたかったし、聞いておきたい。 「考えてみると、当時から加賀美さんの結婚はこわれかけていたのかもしれない。だって結婚している男性が、あんなに鍋を珍しがったり、喜んだりするはずないでしょ。彼の好きな鍋を、きっとあまり奥さんに作ってもらえなかったのね」  佐代子は、鍋を前にしていつになくはしゃいでいる加賀美を思い浮かべようとした。けれど、その像は容易に形をあらわしてこない。はしゃいでいる加賀美はめったに見たことがなかったし、さらに鍋との組みあわせとなると、いっそうイメージがつながらないからだ。そういった彼を思い出せない自分の記憶力の悪さ、かつての無関心さが、今となってはじれったかった。  修子が言葉とはうらはらの投げやりな口調でつぶやいた。 「近いうちに四人でこの鉄板焼きをやろうか。おたがいのスケジュールを調整して」  すかさず佐代子は胸をときめかせながら賛同した。 「いいわね、やりましょうよ」  声があまりにもかろやかに、はずみすぎたらしい。  一瞬、修子がいぶかる視線をむけてきた。 「佐代子、最近ちょっと変ね。モッちゃんもいってたけど、少し情緒不安定じゃないの。妙に沈みこんだり、かと思うと、いきなり元気になったり。そんなに感情の起伏の激しいたちじゃなかったでしょうが」 「私はいつもどおりよ」  佐代子はあわててシイタケを口に入れ、鉄板の上の焼きすぎて半分にちぢんだホタテに箸をのばした。 「そうかなあ、いつもどおりにしては、どうも、なんか、こう違うような……」  そのとき運よく電話が鳴りだし、修子の追及からのがれて、佐代子はほっとした。 「はい……ああ……ええ、そう……いや、私はかまわないけど、ちょっと待って」  電話口を手で押さえ、修子がきいた。 「モッちゃん。これからこっちにきてもいいかって」 「私はいいけど」  修子が電話にもどった。 「こっちはOK。ああ、それからワインを買ってきてくれない? そう、白を二本。……うん、そのぐらいの値段のがあるはずだから」  電話をきった修子はグラスのなかのビールをひと息に飲み、手の甲で口もとをぬぐった。 「モッちゃん、加賀美さんと一緒なんだって」  加賀美、のひと言を耳にするなり、佐代子は突然に体が堅くなった。食欲もたちまちに失《う》せ、胸いっぱいの状態におちいってくる。それでいて期待に胸がふるえた。 「じゃあ、加賀美さんもこっちにくるの?」  つとめてさりげないふうを取りつくろうため、鉄板のすみで黒こげになっている牛肉の破片を箸でつまむ。 「さあ、どうなのか。モッちゃんは何も言ってなかった。加賀美さんは新しい会社に移ったばかりだから、なにかと忙しいらしいし。仕事面だけじゃなく、社内のひととのおつきあいも、まめにこなしているらしいから」  加賀美はくるのか、こないのか。どうして修子はそれをきっちりと望月に確かめてくれなかったのか。  佐代子はいても立ってもいられない気持になってきた。  加賀美があらわれるなら、修子から借りたTシャツではなくブラウスに着がえたかったし、多分すっかりはがれ落ちているであろう口紅も塗り直したい。  だが、ここでいきなり着がえたり、化粧直しをはじめたなら、修子に疑われてしまう。 「モッちゃんはどのくらいでここにくるのかしら」 「二、三十分じゃない」  早くて二十分、遅くて三十分ということか。佐代子は腕時計に目をやる。八時を五分ほどすぎていた。 「ああ、おいしかった。ごちそうさま」  十分ばかりたってそう言った声は、われながらわざとらしい快活さをひびかせた。 「汗をかいちゃったからブラウスに着がえるわ」  言葉の途中から佐代子は腰を浮かせ、ブラウスとバッグを手に立ちあがり、ドアのむこうにある浴室へと気もそぞろになりながら上体を傾けてゆく。  修子はあらたな缶ビールを開け、グラスにつぎながら、その泡立ち具合に見つめ入っている。 「Tシャツは洗濯機に入れといて」  浴室の鏡の前に立ち、佐代子は丹念に化粧くずれをととのえ、髪をとかし、着がえたブラウスのいちばん上のボタンをかけるか、はずすかで、しばらく迷った。携帯用のオーデコロンもバッグにしのばせてあったけれど、そこまでしたなら修子に不審がられるに相違ないと思いとどまる。  しかし、今夜、望月と加賀美がやってきて、鉄板焼きをはじめたなら、先刻、修子が口にした四人そろってのそれは、あらためてセッティングされる必要がなくなってしまいそうだった。  もし、そうなった場合は鉄板焼きにかわる案をだして、鍋ものが好きだという加賀美を喜ばせたい。  だが夏のこの季節、汗みどろになって鍋を囲むのもどうかと思うが、いろいろとあるなかでも、わりあいと暑さに関係のない鍋料理といえばなんだろう……考えをめぐらせながら、佐代子は修子の持っている専用鍋のあれこれを思い返してみた。  それにしても、修子はああいった鍋を次々とどこから手に入れてくるのだろう。  家族がいるのなら別だが、ひとり暮らしの者があえて集める台所道具ではなかった。修子も買ったとは言っていなかったから、だれかから不用品としてもらい受けたのかもしれない。が、どの鍋もピカピカの新品だった。一回でも使用したとは、とても思えない真新しさ……臆測《おくそく》を働かせるうちに、専用鍋のプレゼント主は金物店の跡つぎである望月のほかには考えられなくなってきた。けれど、修子はどうしてそのことをかくしていたのか。かくすほどのことではなく、鍋一個ぶんのえこひいきを望月がしたからといって、佐代子がつむじをまげるとでも怖《おそ》れたのだろうか。  鏡のなかの自分に、佐代子は苦笑を返していた。  浴室からもどってきた佐代子を目にしたとたん、修子の表情が静止した。数秒のあいだあっけに取られたかのように動かなくなった。 「……そういうことだったの、なるほどねえ。いや、言わなくていい、そのきっちりメイクがすべてを物語っている」  加賀美への想いを、やはり見抜かれてしまったのか、と佐代子は内心どぎまぎしながら言い返す。 「勘違いしないで。たまに私が化粧直ししたからといって、そんなふうにからかわないでよ。最近の私はこまめになっただけ」 「からかってなんかいない。でも、佐代子も水くさいなあ。そうならそうと、持ってまわった言い方しないで、ストレートに打ち明けてくれればいいのに」 「違うってば。単に私は……」 「私たちぐらいの齢《とし》になると、ある程度、割り切った大人のつきあいもあってもいいわけだし」 「つきあいまでいかないの。だからね……」  否定してもむだ、といったように修子は片腕を佐代子へのばし、手首を左右にひらめかせた。 「大人のつきあいに定義づけはいらない。それで十分。で、彼は[#「彼は」に傍点]私について何か言ってた?」 「ううん、別に……それよりも修子、この鉄板焼きやしゃぶしゃぶの鍋だけれど」 「あ、深い意味はないみたい。気がむくと、なぜか、こういった鍋ばかり持ちこんでくる。たまには花束のひとつぐらいプレゼントしてくれてもよさそうなものなのに、いつだって鍋。いやになっちゃうね」 「ねえ、修子、それってモッちゃんのことでしょう?」 「そうだよ」 「ついさっき�彼�といったのも?」 「当り前でしょ」  修子は誤解していた。  佐代子が念入りな化粧直しをしたのは望月のためだと頭から決めつけていたらしい。  加賀美のことがばれなくてほっとしたものの、修子の早とちりは佐代子には意外だった。  よりによって、どうして望月と佐代子をくっつけて考えたのだろう。ありえない組みあわせだと疑ってかからなかった修子の発想にも首をひねってしまう。 「修子、私はモッちゃんとは」  言いかけたとき玄関チャイムがつづけて三回せわしなく鳴りひびいた。  修子の顔つきが一瞬けわしさを見せ、だが、それは佐代子にむけられたものではなかった。  鍵《かぎ》とチェーンのはずされたドアのかげからあらわれた望月は、いくらか酒気をおびていて、いつもより言動がにぎやかになっていた。 「修子、ほらワイン買ってきたぞ。一本はお手頃価格、もう一本はちょっとばかり張りこんだ。いや、気にするな。おれのおごりだ。みんなで飲もう」  佐代子は望月の背後に目をこらした。加賀美の姿を待った。  望月がその視線に気づいた。 「加賀美はあと一時間ぐらいしたらくる。会社に忘れものを取りにいったんだ」  ネクタイをゆるめ、白っぽいグレーのブレザーをぬぎながら、望月は上機嫌に鉄板焼きの前に陣取った。大皿に残っている肉や野菜を指さす。 「これ、食ってもいいのか……ええと、スイッチは、と……お、このタレ、うまいな」  修子が卓をはさんで望月とむかいあった。 「修子ももういちど食べるか? 焼くのはおれにまかせろ」  修子の表情のけわしさが本格的に顔にはりついていた。やわらぐ気配はまったくない。 「加賀美さんがくる前に話しておきたいの。佐代子もすわって」  望月は意に介する様子もなく、熱してきた鉄板にモヤシや肉をせっせとひろげてゆく。  修子は何を言いだすつもりなのか、この顔つきはどうしたのか、と佐代子は見当もつかないまま、困惑気味に卓につく。修子のけわしさに圧倒されていた。 「モッちゃん、あなたの取り柄は正直なことだったよね」 「過去形で言わないでくれ。おれは今も正直に生きている」 「ふざけないで」  修子の一喝《いつかつ》に望月と佐代子はたじろいだ。 「正直なら、なぜ佐代子との関係を私に黙っていたの? かくしとおせると思ってたの?ばかにしないでよ」 「佐代ちゃんとの関係? おれが」  佐代子はあわてて割りこんでゆく。 「モッちゃんと私はなんのかかわりもないのよ。修子、誤解してる」 「そうかしら、誤解だって断言できるわけ? モッちゃんは佐代子のベッドの相手になってもいいと遠まわしに口説き、佐代子は佐代子で、今夜ここにモッちゃんがくると知って、急にメイクのし直し。おかしいじゃないの。私たちが一緒にいて、佐代子が化粧くずれを気にかけるなんて前代未聞。笑っちゃうよ、まったく」 「おれは佐代ちゃんを口説いてない。ベッドの相手うんぬんは、確かにそう言った。友だちとしてな。それだけの話だ」 「私の化粧直しだって、モッちゃんには無関係だとさっき言ったでしょう」  修子は相変わらず望月だけをにらみつけていた。 「私が言いたいのは、あなたたちがどうこうしたということに対してじゃなく、モッちゃんがルール違反をした、そのことに腹を立ててる」  佐代子はおうむ返しにきき返す。 「ルール違反?」 「そう。おたがいに嘘《うそ》はつかないという、たったひとつっきりのルール」 「でも、どうしてモッちゃんと修子のあいだに、そういうルールがあるの? 私とモッちゃんのなかにはないのに」 「事情があって、そういう取り決めにしたの」 「いつ頃から?」  修子にかわって望月が答えた。 「四年ぐらい前になるな」 「四年も前……」  しかし佐代子には、ふたりがどういった経緯でそうした取り決めをしたのか、思い当るふしはなかった。修子から、それらしきことを聞かされた記憶もなく、しかし、あったとしても四年前といえば、失恋の渦中にあり、修子の言葉もうわの空で聞き流していたのかもしれない。 「ね、くわしく説明してくれないかしら。私、ぜんぜん知らなかったもの」 「佐代ちゃんだけじゃないさ。加賀美も知らない」 「どうしてなの。なぜ私たちは仲間はずれ?」  困ったな、といった照れたような表情で望月がちらりと佐代子に目を走らせた。  修子は憮然《ぶぜん》として押し黙っている。 「どうする?」  と、しばらくして望月が修子に打診し、そのとたん、ふたたび修子の怒りが爆発した。 「モッちゃんがばかだから、こんなことになったじゃないさ」  望月も負けじと互角に声を荒らげた。 「おれは何もしてないだろ。修子が騒ぎ立てたから、どんどんこういう羽目になったじゃないか」 「誤解されるようなことを言ったり、したりするからよ」 「相手は佐代ちゃんだぞ。修子の友だちの佐代ちゃんに、おれが本気で手をだすと思うのか。ばかはそっちだろうが」  望月のその台詞から、ようやく佐代子はひらめいてきた。同時に、まさか、と打ち消したい気持にもなった。  おずおずと佐代子はふたりの言い争いに口をはさんでみた。 「もしかして、あなたたち、こっそりつきあっていたってこと?」  口論が鳴りやんだ。  修子が語気も鋭く返答した。 「でも、恋愛関係じゃない」 「いわゆる�セックス・フレンド�というやつさ。惚《ほ》れたはれたはまったくなし。だからというか、四年もつづいたんだよなあ、これが」 [#改ページ]     6  ぎこちない沈黙が三人のあいだに流れていた。そういう状態になってから、かれこれ三十分がたつ。  望月はひとりで鉄板焼きにむかい、食は進まないけれど、こうしていなければ間《ま》が持てないといった顔つきで、手と口ののろい動作をつづけていた。  そのテーブルの反対側では、修子が横むきになり、立てた両膝《りようひざ》をかかえる姿勢で、望月の買ってきた白ワインをひっきりなしに飲みついでゆく。見るからに、ふてくされた態度だった。  佐代子は望月のななめうしろに置かれた籐《とう》のタンスに上体をもたせかけ、ひたすら加賀美があらわれるのを待ちわびていた。  想《おも》いから待ちこがれているのではなかった。  妙に気づまりに固まってしまったこの場の空気を、どうにかしてほぐしてほしいという一念からである。  その一方では、今夜はもう帰りたい、自分の部屋でひとりになりたいという気持も、しきりと働いた。  ショックだった。  修子と望月が、佐代子や加賀美には内緒で、四年間も「恋愛感情なしのセックス・フレンド」関係にあったとは。  佐代子はふたりに裏切られたような心地がしてならなかった。  こういう間柄になっていようとは、想像だにしていなかったのだ。  しかも四年ものあいだにわたって関係をかくしつづけ、今夜ひょんなきっかけから露見しなければこのままずっとあざむいていたに違いない。  表情をこわばらせた佐代子に、先ほど望月は神妙な口ぶりで弁解した。 「佐代ちゃんや加賀美をだますとか、そういうことじゃないんだ。おれたちは惚《ほ》れあっているわけじゃなく、淋《さび》しいときの手っとり早くて身近な相手といった安易《イージー》なつきあいだから、いつ、なしくずし的にこれを解消するか、わからないからね。修子と話しあった結果、こういう関係は、だれにも知られずにいたほうがいいと思ったんだ」  修子は何に立腹しているのか、苛立《いらだ》った口調で言った。 「私だって何回か佐代子に打ち明けようと考えた。モッちゃんとの関係が二年をすぎた頃から。でもさ、佐代子の性格なら、こういう男女のかかわり方が理解できないのじゃないか、そういうのを受け入れるのを拒否して、反対に私を軽蔑《けいべつ》するんじゃないかって気がしたんだ。肌を温めあうだけの仲っていうのがね」  修子の指摘はあたってなくもない。  恋愛を抜きにしたセックス・フレンドなど可能なのだろうか、と佐代子はふたりの話を聞きながら半信半疑の心境だった。  自分にはできない。したいと思ったためしもなく、また、体だけのつきあいで心は別、と割り切れそうにもなかった。  はたして口で言っているように望月も修子も、そこまで割り切っているのだろうか。 「どちらにも恋愛感情はないというけれど、本当はおたがいにそれを認めたくないからじゃないの? その証拠に四年もつづいている。で、モッちゃんにも修子にも、ほかに恋人がいるわけじゃないし」 「といって」望月がさえぎった。「やっぱり男女の愛情じゃないんだ。友情と呼ぶしかなくてね」  修子がつっかかるように言い放った。 「佐代子、もう少し大人になってよ。要はね、あなたみたいな女もいれば、私みたいな女もいるってこと。あなたはつねに白黒をはっきりつけたがるけど、私はあいまいなグレーのなかを漂うのも仕方ないか、と思っている女なわけ」  修子の剣幕にたじろぎつつも、佐代子はなおも食いさがった。ふたりを軽蔑しているのではなく、非難するのでもなく、セックス・フレンドという関係そのものが不可解で、どうしても実感できないのだ。 「すると、たとえば、どちらかに恋人ができた場合はどうなるの」  望月がつかのま遠くを見るまなざしになった。 「一応は別れる約束になっている。でも実際はそうならなかったな。一時期、おれに彼女ができた。修子にも正直に告げたよ。ところがきっぱりと別れるまでにゆかなくて、結局、おれは彼女との仲がだめになり、修子とのつきあいだけが残った。言っておくけれど、彼女とこじれたのは修子が原因じゃない。彼女は最後まで修子のことは知らなかったし」  それは単に望月が修子という存在がありながら浮気したという話ではないか、そう佐代子は解釈したが、口にはださなかった。 「佐代ちゃんの気性からすると、おれと修子の関係が腑《ふ》に落ちないのはわかるよ。しかしな、現実にはあるんだよ、こういう男女の結びつきも。だから、おれたちが本気で愛しあっているのなら、きみや加賀美にも堂々と恋人宣言したかもしれないけれど、セックス・フレンドというのは、ちょっと言いにくくてね」  修子がやはりつっけんどんな口調で補足した。 「私たち四人のバランスがあるじゃない。これまで保ってきた調和、というか、四人それぞれの仲間うちでの役どころというか。セックス・フレンドだなんて公表しちゃったら、そのバランスがくずれる。モッちゃんも私も、それを失いたくなかったわけ。セックス・フレンドのモッちゃんを失ったにしてもね」  四人のバランスと調和を大切にしたいからこそ、加賀美への想いをひたかくしにしてきた私がいるのだ、必死に抑制してきたこの数カ月間が、と佐代子はとっさに言い返しそうになった。  そして先刻からじわじわと体にたまっていたくすぶった感情が、いっきにヒステリックな怒りにまとまってきた。  ふたりとも勝手なことをして。  四年間も、よくもだましてくれたじゃないの。  ずるい。ひどいわ。  どこが仲間なのよ。  しかし思ったままを吐きだす度胸もなく、佐代子はただむすりと押し黙るしかなかった。その顔つきのまま、籐のタンスの前にゆき背中をもたせかけた。  そうして三十分がすぎたのだった。  望月よりも遅れること一時間十五分、ようやく加賀美があらわれた。  彼は、その場の気まずい雰囲気を敏感に察知した。 「どうした?」  望月が救われた表情をむける。 「少しばかりまずいことになってな」  加賀美は鉄板焼きの卓の前に膝をすすませ、望月にすすめられるままグラスを手に、つがれるビールを受けた。 「佐代ちゃんもこっちにきたら。なんだか、そこで拗《す》ねてるみたいに見えるよ」  加賀美の笑いをふくんだ声に、佐代子も弱々しく苦笑を浮かべてやおら腰をあげ、卓に近づく。今さら腹を立てても仕方がない、ととうに気持を鎮《しず》めてはいたのだった。 「じつはな、加賀美」  うつむきがちに望月はしゃべりはじめた。  その内容は佐代子に説明したのと、ほとんど違いはなかった。  もういちど話に耳を傾けながら、佐代子は、説明に違いがないのは、あるいは望月と修子が自分たちのかかわり方について、何回となく語りあってきたためではないだろうか、とそんな気がしてきた。  恋愛感情のからまないセックス・フレンドとはいえ、ふたりはそれなりに真剣に自分たちの関係の意味づけやルールづけを、くり返し重ねてきたのかもしれなかった。  説明は望月にまかせきりにして、修子はひたすらワイングラスを傾けている。  加賀美の反応は、平静、のひと言につきた。顔つきに変化は見られず、目のわずかな表情にも動きは生じない。また話の途中から、正視が望月の心の負担になりそうだと判断したらしく、その目線は望月の顎《あご》と首の中間にそれとなく移されてゆく。  おだやかに根気よく聞き手に徹している加賀美の態度に、佐代子はつい見とれてしまっていた。同時に先刻の自分のうろたえ方をひそかに恥じた。  説明が一段落し、もうそれ以上、望月からは、訂正もつけたしもないと見きわめるまでの十分な間《ま》を置いてから、加賀美は、不思議とあたたか味のある声音で言った。 「おたがいに、きれいにそんなふうに割り切れるのなら、悪くはない関係だよな。おれは少しばかり、うらやましく感じるよ」  よこでようやく修子が口を開いた。やや挑戦的な口ぶりだった。 「加賀美さんにはいないの? 独身にもどったのだから、そういう女性がひとりぐらいいてもいいのに」  にわかに息苦しさをおぼえた佐代子とは反対に、当の彼はいたって涼しげな面持《おもも》ちだった。 「そうだなあ、離婚問題が持ちあがって、もめていた時期に、そういう相手に恵まれていたなら、ずいぶん慰められたと思うよ。女房と別れるまでの三年間、まだ自分の女房なのに指一本さわらせてもらえなかったからなあ」  こんどは修子と望月が眉《まゆ》をつりあげて加賀美を見返した。 「本当なのか、その話?」 「三年ものあいだ、そこまで深刻にこじれていたわけ?」 「ああ。�いそや�で佐代ちゃんにはちらりと話したけれど、彼女に恋人ができたのが離婚のきっかけだったんだ。恋人に抱かれても、夫には抱かれたくないという、まあ、本気の恋愛の証拠だったんだろう」  とっさにどう対応していいのかわからなくなったらしく、挑発しておきながら修子は気まずそうに黙りこくった。  望月が同情と好奇心のないまぜになった目つきで、せわしなくたずねた。 「お前、じゃあその三年間、そっちのほうはどうやって処理していたんだ? おなじみの風俗の世話になったのか」  言ってしまってから、あわてて前言を取り消した。 「あ、ごめん。女性の前でする話題じゃなかった」 「でも、私も聞きたいな」修子がワイングラスを目の高さにかかげ、見あげながら、いたずらっぽくつぶやく。さらに佐代子にも振ってきた。 「佐代子も今後の参考のために知っておきたいよね」  和解を求めるニュアンスも、かすかにこめられていた。 「私? いえ、私は別に。ごくプライベートなことだし、言いにくいだろうし……ただ、修子の言うように、今後の参考になるかもしれないし……」  しどろもどろになりながら、佐代子は顔が赤らんできた。知りたくもあり、知りたくもなし、というのが偽らざる本心だった。  加賀美は相変わらずなんの動揺も見せない。以前から、けっしてあたふたした挙動にでる性格ではなかったものの、離婚をへて、もう一枚、何かを突き抜けてしまったのかもしれなかった。 「風俗の女性たちに世話になるも何も、情ないことに、女房に恋人がいるとわかってからというもの、性的不能になってしまったよ。多分、精神的なショックからだろうな」  ふたたび三人は息をのむようにして沈黙する。沈黙のうらには、三人共通の疑問がひかえていた。それは、いまだにつづいているのか。  読心術を心得ているかのように、加賀美は言いそえた。 「もうとっくに正常にもどったつもりではいるけれどもね」  正常であると確信したのはどんなときか。  別の女性の裸を前にしたからか、と佐代子は一瞬、その光景を思い描き、胸苦しい心地におちいった。この前、望月が臆測《おくそく》を働かせていたように、加賀美には現在つきあっている女性がいるのかもしれない。  佐代子の心中を代弁するみたいに望月がつっこんできいた。心のなかの疑問が思わずすべりでてしまった、といった勢いだった。 「正常だってどうしてわかった?」  そう言ってから、立ち入りすぎたことを後悔する表情になった。が、加賀美は気分を害したふうもなく淡々と答えた。 「それこそ風俗のお世話になってね。しかし、店に足をふみ入れるまで恐ろしかったよ。まだ回復していなかったらどうしようか、と」 「うん、わかるなあ、男ならではのその恐怖心。男でありながら、もう男ではなくなったのかもしれないっていうあれ……そうか、加賀美は、おれたちの知らないところで、ここ数年のうちに、そういう苦労をしてきたのか」 「よせよ」  加賀美はきまりの悪そうな笑《え》みを口もとに刻む。 「そんなだいそれた苦労ってほどのものじゃない。要するに、おれがだらしのない男なだけさ」 「しかし、つきあっている女はいるんだろう」 「いるわけないよ」 「でも、ここ立てつづけに、おれとの約束を破ったろうが」 「すべて緊急の仕事が入ったからだ。だからといって、そのたびに正直に仕事のせいだ、といったなら、望月はばかにするにきまっている。お前は仕事中毒とか称して」 「まあな。口を開けば、仕事、仕事といっているやつは野暮というのが、おれの持論ではある」  ふたりのやりとりを聞きながら、佐代子は不安を取りのぞかれた晴れやかな気分を味わっていた。少なくとも加賀美には、今つきあっている女性はいないようだ。 「話が横道にそれてしまったけれど、望月と修子がそういう関係だというのは、それはそれでいいじゃないか。おれはそう思う」  とっさに見返した佐代子に、加賀美は目だけでうなずいてきた。望月や修子にはさとられない、あきらかに無言の合図だった。  佐代子は狼狽《ろうばい》し、どぎまぎしながら、やはり目で応《こた》えた。わかったという意味をこめて。  加賀美はわだかまりのまったくない、ほがらかな調子でつづけた。 「望月が打ち明けたからいうけれど、うすうす気づいてはいたんだよ。多分、そうじゃないか、とね」 「そうか。勘づいていたのかあ。いやあ、さっきおれたちのことがばれたとき、佐代ちゃんがえらく感情的になったものだから、お前にも軽蔑される覚悟はしていたんだ。そうか、知っていたのか」 「軽蔑なんか、するはずないだろう。佐代ちゃんにしても、びっくりしただけじゃないのか」  そうだろう、というふうに加賀美に見つめられ、佐代子は反射的に小さくうなずいた。  修子がふたたび挑戦的に声をとがらせた。 「当り前でしょ。私とモッちゃんの仲を、あれこれいう資格なんて、だれにもないもの。私たちはどちらも独《ひと》り者、何をしようと非難されるすじあいはない。どういうつきあい方をしようともね」  理屈は、確かにそうだった。  ただ佐代子は修子をいちばんの親友と思い、だからこそ、だれにも打ち明けられない失恋について洗いざらい語ったり、相談にも乗ってもらってきた。修子もそういうつもりであり、おたがいに、かくし立てのない信頼関係だと信じていたのだ。  もちろん、修子にも佐代子の前で話したくない過去の出来事とか、家族のこととかはあるだろう。そのたぐいの秘密や内緒ごとなら、佐代子にもいくつもある。  けれど、望月が一枚からんでいる。十年のあいだ気心の知れた、仲のよい四人できたはずなのに、実際は佐代子と加賀美の知らないところで、修子と望月は通じあい、四年間もかくしつづけてきたのだった。  だまされていた、という感情的な反発は、どうしても佐代子の胸に、しこりとなって残る。理屈では割り切れなかった。  特に修子の理由のない挑戦的な口調は、佐代子の反発心をあおってくる。そのたびに、ほぐれかけた感情は、またもや、こわばる。  だが、佐代子は今夜はもうこれ以上あれこれともめたくはなかった。一日ぶんのエネルギーを使いはたした疲労感が後頭部と両肩にのしかかっている。  修子がどのような言い方をしようとも、加賀美は冷静さをくずさなかった。 「おれも佐代ちゃんも非難などしていないし、するつもりもないよ。修子の言うとおり、これは望月と修子の問題だから」  それには答えず、修子はふてくされた態度で立ちあがると、ドアのむこうのトイレへと姿を消した。  望月がやや声をひそめた。冷静さ、といえば、彼もまた加賀美と同じく、一貫してふだんとさほど変わっていなかった。 「修子があんな態度を取っているのは、不安だからなんだ、わかるだろう? おれとの仲がばれて、加賀美や佐代ちゃんがはなれてゆくのじゃないか……だから、わざと強気のふりして、つっぱっている」 「望月」  加賀美も声を低めた。 「本当にお前たちは恋愛関係じゃないのか?」 「違うな。修子のことは好きだけれど、別れろ、とだれかから命じられたら、そう悩まずに別れられるからな」 「修子のほうはどうなんだ」 「つねにおれよりも仕事のスケジュールを優先している。つまり、そういうこと」  修子がもどってきて五分ほどたった頃、加賀美は屈託なく告げた。 「佐代ちゃんもおれも、あすの朝は早いのでそろそろ失礼するよ」  そう、と短く答えただけで修子は、グラスのなかのワインをひと息にからにした。  望月は見るからにほっとした顔つきになり、ふたりを見送るために、だれよりも率先して玄関先へ進んでいった。  時刻は十一時になりかけていた。  修子の部屋をあとにし、地下鉄駅までやってきて、加賀美は数メートル先にあるファミリー・レストランを指さした。 「三十分だけお茶につきあってくれないか」  店内の奥まった窓際のブース席に案内され、注文書きを取りだしたウェイターに、ふたりはアイス・コーヒーを頼んだ。 「佐代ちゃんは相当にショックだったみたいだね、望月と修子のこと」 「……修子とはなんでも打ち明けあう仲だったから」 「おれも驚いたよ」 「でも以前から知っていたのでしょ?」 「いや。あの場合はそう言ったほうが、あのふたりの気持がらくになるだろう、と。しかし四年前からとは、おれと佐代ちゃんがそれだけ鈍感だったのか、望月たちが用心深かったのか」 「四人ともそれぞれに仲がいいから、あのふたりが親密にしていても、少しもおかしくなかった。きょうは、いやに気があっている、話が盛りあがっている、ぐらいにしか思わなかったもの」 「うん、そうなんだよな」  ふっと気をゆるめると、視線は加賀美にはりついて、そしてはなれなくなりそうで、佐代子はいそいで店内へと首をめぐらせた。  深夜のこの時間帯、家族づれの客はひと組も見当らず、つれもなくひとりで食事をかきこんでいる若い男性客が三人、学生同士らしき男女のカップルがそれぞれ四つのブース席にちらばっていた。  四組のカップルが、すべて恋人関係にあるのかどうか、佐代子には見当がつかない。  しかし、かつて、ほかの三人としょっちゅういっていた酒場のママは、ふたりづれの男女を見ると、その仲がどの程度まで進んでいるか、たいがい判断がつくと、こともなげに称していた。ふたりがかもしだす雰囲気で、おおよそ察しがつくのだという。また、たがいに相手にむけるまなざしや、ちょっとした仕草、言葉づかいにもあらわれるらしい。  会社の同僚たちにこの話をした際にも、佐代子よりうんと後輩の女性たち数名に、そんなことは当然だ、という顔をされてしまった。むしろ、そうした面にはうかつすぎる佐代子の観察眼のなさが意外だとも言われた。  だが、佐代子の知る範囲では、男女間のこういった見分けにより敏感なのは若い女性たちで、彼女たちと同年輩の男性たちはほとんどが無頓着《むとんじやく》だった。  もしかすると、女性のほうが一生のパートナー探しに必死なため、おのずと自分にも可能性のある男性か否かのセンサーが、つまり彼と彼女の仲がどの程度のものかという見きわめが、無自覚に働くのかもしれない、とそのとき佐代子は漠然と思ったものである。センサー装置が、あたかも遺伝子のように体内に組みこまれているかのように、ごく無自覚に。  注文したアイス・コーヒーが運ばれてきた。  ストローは使わずに、グラスをつかみ取ってひと口飲んでから、加賀美が言った。 「望月と修子のこと、このままそっとしておくしかないだろうな。だいいち、おれたちが横からとやかく文句をつけたってはじまらない」 「うん、私もようやくそう思えてきた」  加賀美に迎合するのではなく、佐代子は素直に同調できた。 「さっき望月も言っていたけれど、修子もかなりバツの悪い気持になっているんだよ。あの強ぶった態度は、いつもの修子らしくなかった」 「ふたりともセックス・フレンドを強調していたけれど、実際にそれだけなのかしら」 「微妙なところじゃないのかなあ。本人たちも意識していない心の動きがあるのかもしれないし、あるいは、どちらもセックス・フレンドに徹しきって、それだけで十分に満足しているのかもしれないし」 「くり返すけれど、でも、本当にびっくりした」 「おれだって同じさ。あの口の軽い望月が、よく四年間も秘密にしていたこと自体、驚きだよ」  そこでふたりは目をあわせ、はじめて余裕ある微笑をかわしあった。  が、佐代子は余裕と見せかけるのが精一杯、内心は胸の高鳴りを加賀美にさとられまいとして全身に不必要な力がこもっていた。 「でも、望月がおれにまでずっと黙っていたことは、あいつの修子に対する誠意のあらわれだと思うよ。修子を大切にしたいから」 「つまり恋愛感情が少しまじっている?」 「いや、友だちとして。セックス・フレンドをやめたとしても、友だちとしてつきあってゆきたい、だからしゃべらなかった」 「じゃあ、修子が私に黙っていたのは……」 「望月に対する誠意、と言いたいけれど、修子の場合はそれだけではないだろうな」 「うん、私もそんな気がする」  佐代子に軽蔑されたくなかった、というような修子の言葉が思い返されてくる。  だが望月の口からは、加賀美や佐代子に軽蔑されるのを怖《おそ》れる、といった台詞《せりふ》はひと言も吐かれなかった。  ふと唐突に加賀美が話題からそれて、別れた妻について語りだした。 「結局、彼女にとっては浮気じゃなく、本気の恋愛だったわけだけれど、それを告白された瞬間、おれは心のなかで叫んでしまってね。女のくせに浮気とはなにごとか、夫のおれが浮気ひとつしてこなかったのに、先に女房が浮気するとは生意気じゃないか……」  佐代子は困惑気味に見つめつづけた。話の落ち着く先が読み取れなかった。 「そのときのおれは昔ながらの、古典的な男のエゴのかたまりになったよ。浮気は男のするもので、女はするものじゃないという、いたって身勝手な男の側の言いぐさ。あやうくそのまま口にしそうになった」 「…………」 「こういう世のなかになっても、まだまだ男には都合がいい言葉、女性には似つかわしくないとされる言葉があるんだよな。まあ徐々にそのボーダー・ラインはくずれていっているけれど。セックス・フレンドも女性がまだ堂々と平気で言えないひとつかもしれない。といって修子がこういった理由から、佐代ちゃんに話さなかったとはかぎらないけれど」  セックス・フレンド関係というものへの、あたまごなしの嫌悪や不快さは佐代子にはなかった。  ただ自分にはむりだとは思う。心と体は別、と割り切れる自信がないからだ。  また、修子のセックス・フレンドが、望月ではなく、佐代子が名前を聞いた記憶があるといったぐらいの相手なら、あそこまでショックは受けなかった。  相手がごく親しい仲間の望月であったからこそ、しかも四年前からという、きのうきょうのかかわり方でなかったからこそ度胆《どぎも》を抜かれ、うろたえた。  さらに修子が望月と関係してしまった四年前の時点で打ち明けられたなら、ああも愕然《がくぜん》とせずにすんだに違いない。  そういったことを佐代子は加賀美に語った。  加賀美はいちいちうなずき返してきた。 「おれも佐代ちゃんの気持と同じだ。望月のセックス・フレンドが修子ではなく、ほかの女性なら、さほど驚かない。望月にそういう相手がいても不思議じゃない。というより、なるほど、やっぱりな、と納得するもの」  それと同様に自分がひそかに加賀美を想っていると知ったとき、修子も望月も、当の加賀美さえも、裏切られたような驚愕を味わうのかもしれない、と佐代子は複雑な思いを噛《か》みしめた。  だが、この想いは四年も前からではなく、ほんの数カ月前からはじまったものだった。 「しかし」  と、言ってから加賀美は急に冗談めかした口調になった。 「今夜はああいう展開になってしまって、おれはせっかくの鉄板焼きを食べそこなってしまったなあ。期待していったのに」  とっさに佐代子の脳裏に誘いの口実がひらめいたが、それを口にするまで数秒かかった。下心があまりに見えすいていて、自分で自分に照れていた。 「それじゃあ日をあらためて……」  言いかけたものの、自分の所には鉄板焼き用の電気プレートはないことに気づき、声はしりすぼみになってしまった。  だが加賀美は意図することを汲《く》んでくれた。 「そうだな。どうもしゃくだから、おれたちだけでおいしいものでも食べにゆこうか。いつにしよう?」 「私はいつでも」  答えながら予想外のなめらかななりゆきにどぎまぎしていた。  加賀美が背広の内ポケットから手帳を取りだした。 「今週の土曜日の夜は?」 「ええ」 「金曜の夜にもういちど電話するから、それまでに何が食べたいか考えておいて」  すかさず佐代子はたたみかけた。 「金曜の夜のなん時頃に電話してくれるの」  金曜日の夜などという大ざっぱな約束は罪つくりだった。いつ電話がかかってくるか、不安と心配で、身動きひとつできなくなってしまう。かつて、つきあっていた男性で懲りていた。夜といっても、それは六時から夜というのか、七時すぎからなのか、そこにもたがいのズレが生じてくる。そして、夜の終り[#「夜の終り」に傍点]は午前零時をもってなるのか、午前一時、二時までの幅があるのか、時間の感覚はひとそれぞれだった。  ふたたび手帳に目を走らせていた加賀美が、なぜ? と問い直さずに答えた。 「そうだな、九時に。そっちの都合はいい?」  加賀美の実直さがうれしかった。佐代子ともうひとりの女性のふたまたをかけていた四年前の彼は、こうした場合、いつも、うるさげに言い放ったものだ。 「あしたの夜といえば夜だ。こまかい時間なんて、その日になってみなければ約束できない。男にはいろいろとつきあいがあるからな」  電話する時間を約束できないほど重要なつきあいなら、もう何日も前から予約されているはずだ、と勤務先の男性たちの段取りを思い浮かべつつ、当時の佐代子はそのようには言い返せなかった。たえず相手の顔色をうかがっていた。念頭に、結婚という言葉をちらつかせながら。 [#改ページ]     7  修子と望月の四年来にわたるセックス・フレンドの関係が露見した二日後の金曜日の夜、加賀美は約束どおり電話をかけてきた。  しかも、九時といったん口にした時刻から、五分と遅れていなかった。  佐代子には彼のそうした律儀さが、ただそれだけで、とてつもなくうれしく感じられた。  会ったときだけの大仰なほめ言葉や心をくすぐるささやき、甘い台詞《せりふ》などといったものよりも、三十二歳になった今は、ささいな約束でもしっかり守ってくれる男性のほうが魅力的だった。  一事《いちじ》が万事《ばんじ》というけれど、会社の男性同僚たちを見ていても、それは実感させられた。もちろん、数多くのなかには例外もあるけれど、仕事上の基本的な決まりごとにルーズな人間は、仕事をはなれた場所でもしまりがない傾向があった。とりわけ時間にだらしのない者は、信用問題にもかかわってきて、いくら口先でそのつどあれこれ弁解や釈明をしても、結局はまわりから信頼されなくなる。  加賀美の時間への几帳面《きちようめん》さは、それがそのまま仕事にも反映されているように想像され、佐代子は二重のうれしさをかみしめた。  といっても、彼のすること、なすことのことごとくを、好意的にとらえてしまう状態の現在の佐代子だった。 「あしたの約束は大丈夫かな」 「ええ。私もそのつもり」 「何を食べにいこうか」  加賀美と一緒なら、何を食べてもおいしいだろう。 「加賀美さんのご希望は?」 「おれは昔から好ききらいがなくて、何を食べてもうまいと思う性分だから」 「そういえば私と同じだったわね」  たわいのないやりとりが、なんということもなくつづいていった。  長話にひたっていられるのは、彼も自宅から電話をしているからだろう。また、ひとり暮らしの夜の話相手が、ちょうど欲しかったのかもしれない。  せっかちな人間なら我慢がならないだろう、とりとめのない会話が、しかし、佐代子は楽しかった。加賀美が相手だからなのは、いうまでもない。  だが、受話器から伝わってくるその声を聞きながら、ふいに佐代子は、これまでの独身生活の夜の淋《さび》しさを、心の奥底に押しやられていたその感情が、生なましくこみあげてくるのを感じた。  淋しさなど忘れきっていたはずだった。  また、ここ数年は、淋しいと意識したことさえない。それが当り前の暮らしだったからだ。  それなのに加賀美の、いそがない、ゆっくりとした間《ま》を置いた話し声を耳にしながら、自分はこれを求めていたのではないか、とあらためて気づかされていた。  夜の時間に語りあえる相手。のびのびと胸を開き、自分のすべてをさらけだし、それでもなお、きちんと自分を受けとめてくれる相手。  修子とも、ときたま、このような、これといった用件のない長電話をする。  しかし、そこに淋しさはからんでこない。  ただひたすらストレス解消の、明るい方向にむかってのおしゃべりが展開される。  加賀美の声が、自分の内側に閉じこめていた淋しさを引きだしてきたことに佐代子はひそかにうろたえると同時に、さらに唐突に、結婚、のふた文字が脳裏に浮かんできた。  もしかすると、ふたたび私なりの適齢期がやってきたのかもしれない……。  そして万が一、加賀美以外のだれかにプロポーズされるというチャンスに見まわれたなら、そして、その相手が、好きというほどでもなく、かといってきらいなタイプでなければ、あるいは、あっさりとOKしてしまうのではないか。  たとえ加賀美に想《おも》いを残していても、想いがみのらないとわかったときは、意外とあきらめも早く、結婚を望んでくれる男性のほうへ流れてゆくかもしれない……。  佐代子の夢想を、加賀美の声が打ち破った。 「ごめん、長々としゃべっちゃって」  佐代子も壁の時計を見あげる。四十分がすぎていた。 「話をもとにもどして、あすはどうしようか」 「わがままを言ってもいい?」 「ああ」 「お店選びはそちらにまかせるわ。本当にどこでもかまわないの。だから、今夜は待ちあわせ場所だけを決めておくというのは?」 「いいよ、それでも」 「それから、どういうお店へいっても支払いは割りかんにしましょうね、あらためて念を押す必要はないと思うけれど」  最後は冗談めかして言ったのを、加賀美も同じ調子で答え返してきた。 「いや、念を押してくれてありがたいよ。その点がはっきりしてさえいれば、店の選択もしやすくなるからね」  そしてふたりはあすの晩の六時に、街中の大きな書店の一階で落ちあう約束をかわした。  電話をきり、冷たい飲みものでも、と思って冷蔵庫に進みかけた瞬間、またもや電話が鳴った。  受話器を取ると、修子のつっけんどんな声が聞こえてきた。 「ずいぶん長電話だったじゃないの。何回かけても通じないんだから」 「あら、ごめんなさい」 「だれと話してたのよ」 「…………」 「まあ、それはいいけれど、ね、あした一緒に夕ごはんを食べない?」 「あしたはちょっと用があるの」  ごくなにげなく返答したつもりだったが、つかのま修子は黙りこんだ。 「……佐代子、まだ、つむじをまげているの?」 「……つむじ?……」  加賀美との電話の余韻が頭のなかを甘やかなモヤのように漂っていて、佐代子はとっさには修子の言っている意味がはかりかねた。  数秒後、ようやく望月と修子の関係を思い出し、あわてて返答した。 「あの晩は私も少し感情的になりすぎたと反省しているの」 「佐代子が反省することないわよ。もちろん、私自身も反省するつもりはない。ただね、佐代子に打ち明けなかったのは、やっぱりマズかったなあって……でもモッちゃんと四年もつづくとは思っていなかったから、打ち明けるタイミングをのがしつづけていたわけでもあるの、正直なところ」  佐代子は加賀美と電話でしゃべっていたさなかに突然こみあげてきた淋しさを思い返した。  同じではないかもしれない。  けれど修子も、そのときどきに、とてつもない淋しさにおそわれ、だれかに身近にいてもらいたい衝動にかられ、その相手が望月だったのではないのか。  だれか、といっても、手当り次第にだれでもかまわないのではなかった。ある程度は心を許すことができ、たくさんの説明なしに共通の話ができ、肩ひじ張って身構えなくともいい相手、となると望月以外には考えられない。というより、身近には彼しかいなかった、ともいえる。修子のうちにひそむ気むずかしい一面を理解し、上手にあやし、なだめられるのは望月ぐらいのものだろう。 「でも、修子、いくらセックス・フレンドとはいっても、四年という年月はけっこう長いわ。あ、誤解しないでね。責めてるのではなくて、感心しているの」 「だからさ、私もモッちゃんも、そこは計算外というか、先が読めなかったわけよ」 「四年のあいだには、モッちゃんにも心動かされる女性があらわれたというのに、そっちはダメになって、修子との仲は残った」 「あのね、あのとき私は負け惜しみじゃなく、モッちゃんとは手を切るつもりだった。モッちゃんにもそう言ったんだから。それなのに、もどってきちゃったのよ、あのモッちゃんは。私がかわいそうだとか、勝手なことぬかしてね。まったく何を考えているのだか」  望月は、あるいは修子のかかえている淋しさの質を、彼なりに見きわめていたのではないのか。  だから修子をほうりだせなかった。  相手がかわいそう、それだけの理由でも、男女の関係は持続してゆく。いや、つきつめてゆけば、かわいそうとしか表現できない相手への愛情やいたわり、思いやりが、男女関係を支えているのかもしれない。  かわいそう、この表現不足なひと言の裏には途方もない想いがひしめいているのだろう。 「修子はモッちゃんをかわいそうと思ったことはないの?」 「かわいそう? それ、どういう場合のかわいそうなのよ」 「漠然としたかわいそうよ」 「うーん……そうだなあ……ないこともない。だって、モッちゃんて、一見、軽薄そのものに見られるキャラクターでしょ。あれって損してる。私や佐代子、それに加賀美さんは、そのへんきっちりとわかっているけど、初対面の相手からは、たいがいまともに相手にされないみたい。そんな男じゃないのにねえ。あれはかわいそうだな」  やはり修子と望月のあいだには、友だちをこえた愛情が通いあっているのだろう。佐代子はそう思ったけれど、口にはださなかった。言ったとしても、修子はあたまから否定し、それを認めないに違いない。  もしかすると、四年の歳月は、ふたりに愛だの恋だのといった言葉を、もはや気恥かしくさせているだけなのかもしれなかった。結婚して何年もたったカップルが、 「夫(妻)を愛してますか」  と問いかけられ、すぐさま「愛してます」と答える前に、困惑の照れ笑いを浮かべるのと同じ心理から。  修子がいぶかしむ口ぶりできいてきた。 「どうしたのよ、佐代子。なんだか、いつもと違うよ」 「何が?」 「へんにしみじみした言い方をしてるもの」 「そうかしら」 「あやしいなあ。さっきの長電話に、あしたの晩はすでに予約済み、というのも、ちょっと引っかかるな」 「偶然がかさなっただけよ」 「でもさ、佐代子はここもう何年も私の誘いを断わったことがないし、私以外に長電話する相手なんて、いなかったじゃないさ」 「だからね、さっきの電話も、あしたの約束も会社のひとなの」 「男のひと?」 「いえ、女性」 「じゃあ、最初からそう言ってくれればいいでしょうが」  それから修子は、やや声のトーンを落として加賀美の名前を口にした。 「この前の夜のこと、彼、佐代子になんか言ってた?」 「ううん」  すかさずそう答えてから、佐代子はにわかに誇らしげな気持でつけたす。 「加賀美さんは私たち四人のなかで、いちばん大人だから、何を聞いても、私みたいに逆上などしないのね。平静そのものだった」 「確かに彼は大人よね。以前からそうだったけど、離婚してからは、もっと動じなくなった感じがする」  佐代子はいそいでかばうように補足した。 「でも、あれは鈍感とか、もったいぶっているのじゃないのよ」 「当り前でしょ、彼は鈍感とは正反対のタイプよ」  修子のその言葉を耳にして、佐代子はしぜんに頬《ほお》がゆるんできた。  一瞬、修子に彼への想いを語りたい衝動にかられたが、かろうじて自制心を取りもどした。  翌日の土曜日の夜七時、佐代子は加賀美と並んで串揚《くしあ》げ専門店のカウンター席についていた。  テーブルをはさんでむかいあうのとは違い、まともに視線をかちあわせないですむぶん、カウンター席はくつろいでいられる。  ふたりの手もとにはビールのジョッキが置かれ、注文した串揚げはどちらも肉や魚介類より野菜が多かった。  六本目のシシトウの串を手に、佐代子は、昨夜の修子との電話のやりとりを、加賀美に話して聞かせた。 「……なるほど、おたがいにかわいそうと思いやっているのは、すでに愛情がある証拠か……」  加賀美はカウンターの上のジョッキを握りしめ、その表面についた水滴を見つめながら、ひとり言のようにつぶやいた。 「証拠とまではゆかないけれど、私はそんなふうに感じたの。特に日頃からモッちゃんも修子も、やたらと感動したり感傷的なことを言うひとたちじゃないし、むしろ、そういった気持を大げさに、むきだしに表現する人間を、うさんくさい目で眺めるほう。だから、あのふたりが口にする、かわいそうのひと言って、妙に重味があるの」 「そうだな」  加賀美はジョッキにむけてうなずく。 「あのふたりはどちらもセンチメンタルな性格とはいえないな」 「ただ、ふたりだけのときは、こっそりセンチメンタルな一面を見せあっているのかもしれないわ」  ふいに加賀美はほがらかな笑い声を立てた。 「おもしろいな、佐代ちゃんのその見方」 「そうかしら」  佐代子はシシトウを食べ、ビールを飲む。 「おれはセックス・フレンドという説明をうのみにしていたけれど、佐代ちゃんはそれ以上の精神的な結びつきのほうにこだわっていたんだ」 「こだわってはいなかったわ。ただ、きのうの修子の電話で、かわいそうってモッちゃんが言ったという話に、おや、と思って、それで……」 「だから、その、おや、と感じる佐代ちゃんのアンテナがあったということだよ、聞き流さずにね」  多分、それは加賀美と四十分にわたる電話のあとだったからかもしれない。自分の心の奥にひそんでいた淋しさを自覚した直後だったからだろう。  心の淋しさは、単なるセックス・フレンドではいやされない。精神的な結びつきを、接点を、どうしても求めてゆくものではないのか。  しかし、そういった内容は加賀美には話せなかった。説明の仕方によっては、遠まわしに想いを伝える結果になるおそれがある。  いや、あるいは、そんなふうにしてでも、それとなく加賀美にこちらの気持を告げ、それに対して、彼からのそれとない反応を待って、見こみがあるのかないのか、とりあえずさぐってみるのも悪くない……。  そう考えてきて、佐代子は急に落ち着きなく心をざわめかせた。  見こみがありそうな反応なら大喜びする。  けれど、まったく見こみがないということがわかったなら、そこで加賀美をきれいにあきらめられるのだろうか。想いをたち切れるのか。  たち切れる自信があるのならいい。  もし、それができそうもないのなら、今のところは、あくまでも十年来の友だち顔を装いつづけているほうが正解だった。  ネギの串揚げを手にしている加賀美の横顔を見ながら、佐代子はたずねてみた。 「ひとり暮らしになって、淋しいと思うときはある?」  串揚げを頬張ってから、彼は造作もなく返答した。 「あるよ、しょっちゅうだ」 「……そう」 「もっと最悪なのは、ふたりでいても淋しさを感じるような状況だろうな。ひとりでいて淋しいのは当然の話、ところが好きで一緒になったはずの相手がそばにいるというのに、やりきれない孤独感を味わう場合もあるからね」  破綻《はたん》した結婚生活について語っているのだろう、と佐代子は黙ってカウンターの一点に視線を押し当てていた。 「おれはね、望月たちの関係も、じつを言うと、そんなに悪くないと思っているよ。おれにしても、あのふたりがセックスだけでつながっているとは考えていない」 「話を聞かされたときから?」 「うん。だってセックスだけ[#「だけ」に傍点]で四年もつづかないだろう。気持のうえでの何かはあるはずだから。そう思わないか?」 「いくらふたりが否定してもね」 「そう。そしてセックス・フレンドとして四年つきあっているのと、結婚して四年一緒に暮らすのと、どっちもたいした差がない気がするんだ。それぞれのメリットとデメリットを比較すると」 「私は結婚したことがないから、そのへんはよくわからない」 「うん、おれもうまく説明はできないけれど」  加賀美は苦笑した。自分にむけての苦笑のようだった。 「でも、好きなときだけ会うのとは違って、ひとつ屋根の下で寝起きをともにするのは、おたがいの妥協やら忍耐、折りあいが必要だからね。で、一生懸命にそうやって波風を立てないようにしても、ダメになるときはなる」 「セックス・フレンドでも、それは同じでしょう。別れがくるときがあるのだから」 「一生懸命さが、いや、その質が違うと思うよ。だからダメになったときのダメージも異なる。離婚するまでに使うエネルギーには、すさまじいものがあるからね」 「やっぱり、そういうもの?」 「おれはそうだった。あのエネルギーを思い出すたびに、もう二度と離婚はしたくないと痛感する」 「そう、そんなに大変なの……」 「未婚の佐代ちゃんにこんなことを言うのもなんだけど、こうなってみて、結婚がすべてじゃないと、おれはしみじみ思うよ。いろんなつきあい方が男と女にあっていいと思う。いわゆる従来の結婚にむいていない男や女もいるはずだしね」 「加賀美さんはむいてなかった……」 「いや、おれは結婚むきの男だよ。残念ながら、むこうはそうじゃなかったみたいで」 「私はどっちかしら?」  そう口にしたとたん、佐代子は自分の口調が加賀美におもねるような、媚《こ》びる気配を漂わせたことにとまどった。 「そうだなあ、昔の佐代ちゃんは、このままごくふつうに結婚するのが、いちばんあっていそうな印象だった。でも今はどうかなあ。むずかしいな、判断は」  淡い落胆が胸をよぎってゆく。  といって、結婚むきと言われたかったのか、不むきだ、と言い切ってもらいたかったのか、佐代子は自分でも判然としなかった。 「ただね、佐代ちゃんに結婚したい気持があるのなら、そういうチャンスにはどんどん積極的になったほうがいいのじゃないかな。悔いを残さないためにも」 「あら、結婚がすべてじゃない、と言ったばかりなのに」 「そう、矛盾しているな。離婚してから、相反することを同時に考えるくせがついちゃってね。人生は一本道でなく、これもあり、あれもありって感じで」  そこでひと息つき、加賀美はカウンターの内側にジョッキのおかわりを、佐代子のぶんもふくめて頼んだ。 「もっと串揚げは?」 「そうね、串揚げじゃなく、口直しに枝豆でも」 「じゃあ、枝豆と冷ややっこを」  ふたりは、しばしカウンターのなかで立ち働く四人の男性の動きを無言で眺めやった。  佐代子は加賀美に対し、緊張感を張りめぐらすことなく、以前の友だち感覚でしゃべっている今夜の自分に安堵《あんど》していた。そして、つかのま、あの恋心はいっときの気の迷いでしかなかったのかもしれないとも思った。  恋をしていたはずなのに、一瞬どこかにそれを置き忘れてきたような奇妙な安らぎ、これは、かつてつきあっていた相手にも感じたおぼえがある。  関係がおだやかに、うまくいっている時期だった。恋によってえた幸せが、平穏《へいおん》な幸せであればあるほどに恋のときめきを失ってゆく皮肉なからくり。そして関係がぎこちなくなりだすと、ふたたび恋心が実感されてゆく。  こうして加賀美のそばにいて、佐代子はこれまでになく、くつろいでいた。それは友だちとしてしか意識しなかった頃のなごやかさと、ほとんど変わりがなかった。  やはり、昨日まで彼にいだいていた感情は恋ではなく、友情のやや変形したものだったのだろうか。  あらたなジョッキがふたりの前にさしだされた。 「さっきの話にもどるけれど」  加賀美が冷たいビールで喉《のど》をうるおしてから切りだしてきた。 「もし、きみが本気で結婚を考えるのなら、ぜひ紹介したい男がいるんだ」  口に近づけたジョッキが、佐代子の胸の高さでとまった。  激しいショックを受けた。  紹介したい男?  顔面をやわらかくほてらせていた血液が、一挙に下降してゆく。 「会社の同僚で、おれよりひとつ上。いい男だよ。内気というわけじゃないけれど、これまで、あまり女性と知りあう機会がないままにきたらしい」  加賀美の口調は落ち着いていて、あくまでも屈託がなかった。  佐代子の自分への想いを知りながら、といったふくみのある口ぶりではない。  想いは気づかれていないのだ、とほっとする反面、なぜ少しでも気づいてくれないのか、といった理不尽《りふじん》な腹立ちと、一抹《いちまつ》の落胆につつまれた。  いや、気づかれては困る。  困るけれど、しかし何も自分の同僚を紹介することはないだろう。だいいち頼んだわけでもない。  それにしても加賀美に、こんなおせっかいな一面があったとは。こんなぞんざいなやり方で他人同士を引きあわせる趣味があったとは。  ジョッキにもう一方の手をそえて口へと持ちあげながら、佐代子はそっけなく返答した。 「気持はうれしいけれど、結婚相手ぐらい自分で見つけるわ」  その口調に耳ざとく反応して、加賀美はすかさず佐代子のほうへむき直る。 「おれ、怒るようなこと言ったかな? 何か気にさわったみたいなようだけど」 「いえ、怒ってはいないし、別に気にさわったのでもないの、ただ……」  ほんのいっとき遠のいていたか、つかみどころがなくなっていた加賀美への想いが、急速に胸にもどってきた。涼風のようなせつなさが肋骨《ろつこつ》のあいだを吹き流れてゆく。 「……ただ、加賀美さんから、そんなふうに男のひとを紹介されたくない……」  それはひどすぎる、という言葉はのみこんだ。 「なぜ、おれからの紹介はだめなのかなあ」  つぶやくように言ってから、彼ははっとして表情を硬くした。  やがて、とてつもない失態をやらかしたかのように眉間《みけん》をゆがませ、うつむきがちの姿勢となった。 「ごめん、結婚に失敗したばかりのおれが、他人の結婚の世話をやくなんて、ばかげた話だった。そう、あまりにもばかげていた」  佐代子はあわてて否定した。 「違うの、そうじゃなくて」  けれど次につづく説明が、とっさには思いつかなかった。 「いや、すまない。今の話はなかったことにしてくれ。まったくおれも度しがたいな。つい調子にのってしまったよ、その同僚ってやつが本当に珍しいぐらい性格がいいもので」  三十分後、きまずい雰囲気を修復できないまま、ふたりは串揚げの店の前で別れた。  マンションの部屋に帰ってからも、佐代子のふさぎこんだ気持は、いっこうに晴れなかった。  加賀美が本気で結婚相手を紹介したがっていた事実。それを拒否したことが、すなわち彼の離婚を間接的に非難しているかのように受けとめられてしまった、とんでもない誤解。  どちらも思いがけなくも最悪の展開だった。  自分の想いを知られては困る、そう身がまえながらも、佐代子はやはり心のすみで、ほんのわずかな期待をかけていたのだろう。いつか、何かのきっかけで、加賀美が友だち以上の関心を自分にいだいてくれはしまいか。  だが、まったく見こみのないことが、結婚相手を紹介うんぬんの言葉から、よくわかった。  加賀美の離婚については、気の毒とは思っても、非難めいた感情はこれっぽっちも持ってはいない。だいたい、離婚のどこを非難できるというのだろう、部外者にすぎない自分たちが。  後味の悪さをかみしめつつも、佐代子は今夜のゆき違いとそこから生じたほころびを、すぐにも建て直そうと考えをめぐらす余力は残っていなかった。  外出着のまま、キッチンわきの小テーブル前の椅子《いす》に腰かけ、しばらくは、みじめさに身をひたした。  加賀美にとっては、自分はまったくの友だちにすぎないのだ。この十年間たがいにそのつもりですごし、ここにきて突然にひとりの異性と見なしてもらいたいというのは、結局は虫のよい話なのかもしれない。自分だって、つい半年前までは、彼に異性は感じなかった。どうやら、秘密のうちにはじまった恋は、だれにも気づかれずに今夜ひっそりと失恋を迎えた。そう、失恋したのだ……。  しばらくして体をねじって壁時計を見あげると、十時になろうとしていた。一時間近く椅子の上でぼんやりしていたらしい。  佐代子は紺色のワンピースの前ボタンをはずしながら、のろのろとした足取りでベッドのある隣室へむかった。  シャワーを浴び、シャンプーをし、今夜の外出の匂いはすべて洗い流してしまおう。  串揚げ専門店の油のにおいが、かすかに髪にからみついていた。換気は十分にされていた店内だったが、どうしても空気にまじり、こもってしまうのだろう。  ワンピースをぬぎ、バスローブに着がえ、鏡の前で軽くブラッシングしていると、電話が鳴った。  修子からかもしれない。しかし、今はだれとも口をききたくない気分だった。  電話は十回ほどで鳴りやんだ。佐代子はすかさず留守番用のボタンを押しておく。  やがて洗った髪をタオルでつつみこんで浴室からでてきてほどなく、ふたたび電話が鳴りはじめた。呼びだし音の二回目のあとで、留守番電話に切りかわる。 「ただ今、留守をしております。メッセージをお願いします」  合図の金属的な音がひびき、ひと呼吸の間《ま》で相手はしゃべりだした。 「加賀美です……じつはさっきのことですが……」  彼の声を聞き、思わず佐代子は受話器を取りあげてしまっていた。 「もしもし、加賀美さん?」 「あ、いたのか」 「ええ、お風呂に入っていたので、それで」 「……いや、ちょっと佐代ちゃんの様子が気になってね」  その言葉だけであっけなく慰められている自分を、佐代子は感じた。 「さっきのおれたち、もしかしたら妙な誤解というか、思い違いがあったのじゃないかと……それで、こうして電話してみたんだ」 「私も言いたりなかったと反省しているの。加賀美さんの離婚だけど、私はまったく色メガネで見ていないのよ、本当に」 「うん、わかっている。あのときのおれは、自分でもびっくりするくらい卑屈になっていた。そこに勝手にきみも巻きこんでしまって。謝るよ」 「謝るのは私のほう」  そう言ってから、佐代子はめいっぱい強がってみせた。 「男のひとを紹介してくれるというのに、あんなヒステリックな断わり方をして。なんか恋人がいないのを同情されているみたいで、それで弱点をつかれたようで、あんな高飛車な口調になったみたいなの。せっかくの好意からだったのに、ごめんなさいね」 「いや、あれは好意ではなく、どう考えてもおせっかいだった。軽率だったよ、おれのしたことは」  そして加賀美は一瞬の沈黙ののちに、苦笑まじりの声でつけたした。 「本心はまだまだ佐代ちゃんに嫁にいってほしくないのになあ。望月と修子の関係を知ってから、なんだか、きみがたったひとりの心を許した友だちのような気がしてね。これで佐代ちゃんに結婚されたら、おれひとりだけ取り残されるみたいで……ごめん、また勝手なこと言っている」  佐代子は思わず嬉々《きき》として答えていた。 「私は当分だれとも結婚しないわ。ずっとあなたの友だちよ」 [#改ページ]     8  佐代子が加賀美となんということもなく十日に一回ぐらいのわりで夕食をともにするようになってから四カ月がたち、カレンダーは十一月も下旬にさしかかっていた。  だからといって、ふたりの関係が一歩先に進んだとか、新しい展望がひらけてくる予感があるわけではなかった。  文字どおり、そとでの食事を一緒にするだけのことである。  しかも会うのは必ず平日の晩、いきつけのおでん屋か居酒屋のどちらかにきまっていた。  あらかじめ電話で落ちあう時間を調整して、別々にその店に直行する。いったん店のカウンター席に腰を落ち着けると、ほかの店をはしごすることはほとんどなかった。  そして遅くとも時計の針が十時を示す頃には店をあとにし、それぞれの帰路につく。  たがいに口裏をあわすよう言いかわしたのではなかったけれど、こうして、たまさかふたりで会っている事実は、望月と修子には、いまだに伏せていた。  自分が望月と修子に打ち明けないのは当然だとしても、と佐代子は一時期くり返し加賀美の気持を推し測ってみたものだった。なぜ、彼までもが、かくしておこうとするのだろう。  疑問のかげには、ひそかな期待もゆらめいた。あるいは加賀美にしても、佐代子を友だちというよりも異性として意識しはじめたからではないのか。意識しているがために、またそれを悟られないために、望月にさえ黙っている……。  しかし、実際におでん屋や居酒屋で会っているときの加賀美の言動は昔ながらのものだった。佐代子を見るまなざしにも変化は生じていない。信頼する友だちに対する親しみはこめられてはいても、恋愛感情を宿す光は、いつだって見当らないのだ。  今夜こそ、いや、この次にこそ、と佐代子は加賀美と夕食の約束をかわすたびに、胸を高ぶらせ、ときめかせて店におもむく。けれど、結局のところ、いつもながらのありきたりな会話に終始する。加賀美はつねにおだやかで、思いやりにあふれ、たまに仕事上の相談を持ちかけても、面倒がらずに親身になってアドバイスしてくれる。  だがそれ以上でもそれ以下にもならないままだった。  疑問と自惚《うぬぼ》れまじりの期待がないまぜになった悩ましい一時期がすぎて、佐代子はようやく自分をなだめるようにして納得した。  加賀美が佐代子とふたりだけで会っていることを、望月と修子にしゃべらないのは、こちらが考えているほどに深い理由はないからだろう。単に、勘ぐられるのが面倒だからかもしれないし、友だちの佐代子と夕食をともにしていることなど、しいて口にするほどの出来事ではないからかもしれない。  とどのつまり、彼にとって佐代子は気軽に、なんの気がねもせずに食事に誘える女友だちのひとりというわけなのだ。  性懲りもなく何十回とない自問自答の挙句、その結論にゆきついた佐代子は、ふたたび加賀美への想《おも》いを、心の奥に折りこめた。 「会社の同僚をきみに紹介したい」といった七月の一件は、むし返されることもなく、うやむやに終ってしまっていた。  十一月も末の、激しい雨の水曜日の夜だった。夜がふけるにつれて風も加わり、ベランダのガラス戸にたたきつけられる雨の勢いはテレビの音量さえかき消してしまう。  風呂あがりのパジャマ姿で、十時からのニュース番組を観《み》ていた佐代子は、途中で数回リモコンのボタンを押し、音量を大きくした。丈の低いテーブルの上には、このところくせになっている就寝前のホット・ミルクのマグカップが置かれていた。カップ一杯の温めたミルクを飲むと、気のせいか、寝つきがよく、さらに熟睡できるみたいなのだ。  飲みさしのマグカップに手をのばしたとき、電話が鳴った。まだ留守番用には切りかえていない。 「はい、室伏《むろぶせ》です」  返答はなく、もういちど佐代子はこちらの苗字《みようじ》を告げた。  相手は押し黙ったまま、しかし、受話器を置く気配もなかった。いたずら電話かもしれない、そう佐代子は判断した瞬間、ようやく声が聞こえてきた。 「……もし、もし、佐代子?」  ひどく沈みこんだその声が修子だとわかるまで、数秒かかった。別人みたいに暗く、陰気なしゃべり方で、とっさに佐代子は風邪で喉《のど》をやられてしまった修子を思い描いていた。 「風邪でも引いたの?」 「どうして?」 「すごい声だから」 「ふうん、そんなふうに聞こえるんだ、今の私の声。まあね、風邪ならまだましなんだけど……」 「風邪じゃないのなら安心したわ。今年の冬の風邪はたちが悪いそうだから。うちの会社でもたてつづけに何人も風邪で休んだもの。かなりの熱がでるらしいわ」  いつもの夜の電話の調子で世間話をしはじめた佐代子は、修子のあいづちがいっこうに返ってこないことに、ようやく気がついた。 「修子、元気がないみたいね」 「そういうわけでもないけど」 「仕事で何かあったの?」  それとも望月ともめたのか、とききたかったが、立ち入りすぎるようでひかえた。 「ねえ、佐代子、自分でまったくどうしたらいいのかわからなくなるって状況になったことはある?」 「そうねえ、最近はないけれど……」  言いつつ、加賀美の顔が脳裏をよぎってゆく。そくざに、彼のことは違う、と強く否定する。どうしたらいいのか、といった迷いはない。どう考えても、現状を維持してゆくほかにやり方はないのだから。 「……ほら、四年前に失恋したときは、そういう状態だったと思う。修子にはずいぶん力になってもらったり、助けてもらったわよね。今までで、あれが最悪だったんじゃないかしら」  そう屈託なく答える一方で、修子の悩みとはなんだろう、といそいであれこれ想像をめぐらせた。めったに弱音を吐かない修子のため、よほど気持がめげているに違いない。 「そんなに最悪なの? 修子が今おちいっている状況って」 「多分、ね」  ため息まじりの修子のつぶやきだった。 「口にだすのもつらい?」 「うん……といっても、こうして佐代子に電話しているんだから矛盾してるよね」 「つらいときって、そういうものでしょ。しゃべりたいことだけ、しゃべればいい。私も余計な質問はしないから」  言ってから、ひと呼吸置いて修子が何か切りだしてくるのを待ったが、相手は口をつぐんだままだった。  やむなく佐代子は修子の気分を引き立てるために、取りとめのないおしゃべりをしはじめた。職場で話題になっているさまざまな流行《はやり》もの、佐代子の所属するG食品・広報室での人間模様、消費者から食品開発部にもたらされたアイデアや、とっぴな希望、そして苦情のかずかずなど思いつくにまかせて、そのじつ内心ではひと苦労しながら話しつづけた。  懸命に休みなく言葉をつむぎ口を動かしながら、佐代子は無性に喉が渇き、唇がかさついてきた。次第に息も乱れてくる。途切《とぎ》れなく、ひっきりなしにしゃべることが、これほどエネルギーを使うとは思いもよらなかった。  喉の渇きがいっそうつのり、やがて佐代子は軽く咳《せき》こんだ。咳が一段落したあと、ようやく修子が重たげな調子で口を開いてきた。 「……あのね、佐代子……」 「うん、何かしら」  かろうじて、そう問い返したものの、まだ喉はいがらっぽい。 「……じつは私、子供ができたの」  とっさに意味がつかめない。  修子が言い直した。 「私、妊娠したの」 「…………」 「ね、佐代子、聞こえた?」  受話器を握りしめたまま、佐代子は動転していた。  カッと頭に血がのぼり、それと同時にいくつもの質問がせわしなくとびかいはじめる。  相手はだれ? モッちゃんなの?  どうして突然に妊娠なんて、それとも計画的だったの? 仕事のほうはどうするつもり? 結婚は? 相手はなんて言ってるの? うむつもり? うまないの?  口からやつぎばやにたたみかけそうになるのを、かろうじて押しとどめ、佐代子はつとめて平静さを装った。 「そう、妊娠……」 「どう考えてもへんだから、アトリエの定休日のきょう、思いきって病院へいってみたら、予感が的中したってわけ。三カ月目に入ったばかりとか。つくるつもりじゃなくて、失敗したの」  さっきまでの口調とはうらはらに、修子の口ぶりには、どんな感情もこめられていない。  佐代子は怖《おそ》るおそるたずねてみた。 「で、そのう、父親はだれなの?」 「もちろん、モッちゃんよ」 「モッちゃんは知ってるの、今の話」 「ううん。まだ言ってない」 「早いとこ報告したら?」  つかのまの無言のあと、修子は歯切れ悪く返答した。 「モッちゃんには言いにくくてさ」 「どうして?」 「じつは佐代子や加賀美さんには内緒にしていたけど、私たち、ひと月前にセックス・フレンドの関係を解消しちゃってね」 「なんでまた……」  二度目の驚きにとらわれた。  修子と望月が四年前からセックス・フレンドだったとわかったのは七月だった。それから三カ月後には、ひそかに関係に終止符が打たれていたとは、おそらく加賀美も知らないだろう。知っていたなら、佐代子と会ったときに、必ず話題にしていたはずだった。 「なんで、と言われても」  修子は一瞬、口ごもった。 「しぜんの成りゆきとしか。ほら、佐代子たちに私たちの関係がバレてしまったじゃない。あれから私とモッちゃんの仲が妙にぎくしゃくしてきて。いえ、佐代子や加賀美さんのせいじゃないよ。私たちふたりの問題」  佐代子は握っていた受話器を反対側の耳もとへと持ちかえた。  解消の原因は佐代子や加賀美とは無関係、と修子は言うけれど、はたしてそうなのだろうか、といそいで七月上旬のあの夜の一連の光景をよみがえらせようとする。  だが、そうするひまもなく、修子の説明はつづく。 「それにモッちゃんには、現在つきあっている彼女がいるはずだから、今さら私がどうのこうのしたって話は持ちこみたくないって気持もあるわけよ。なにか、こう、モッちゃんと新しい彼女に対するいやがらせ、というか、当てつけに聞こえるじゃない」 「そんな当てつけだなんて。修子がそういうことをするような性格かどうかは、モッちゃんは十分にわかってるはずよ」 「…………」 「修子はどうしたいの?」 「どうしたいのか、自分でもわかんなくなって、こうして電話した……」  だしぬけに佐代子はたずねた。 「うみたいの?」 「うん」  つりこまれるように、そう答えたものの、修子はあわててつけたす。 「だって、ほら、私、もう三十二だし、少しでも体力的なことを考えると……いや、やっぱり、うむのは大変で、仕事のスケジュールとか、モッちゃんの立場とか、それに、父親のいない子は何かとつらいだろうし、で、また未婚の母っていうのも相当の覚悟がいるのは目に見えているから……とにかくね、きょう結果がはっきりして、私としては混乱しているってこと」 「修子、私からモッちゃんに打ち明けようか」 「でも、そういうのって、ちょっとずるいような気がして……」 「そういうことじゃないでしょう。修子の迷う気持はモッちゃんも理解してくれるわよ。迷うからこそ直接言いにくいってことを」 「ただね、モッちゃんを追いつめるような言い方はしてほしくない。私が知りたいのは、モッちゃんの反応だけ」 「そうね、いちばん最初の反応が大切かもしれない。とっさにでる本心というのが」 「ごめん、佐代子。やっかいな話を頼んじゃって」 「何がやっかいな話なのよ。この際おかしな気がねなんてしないで。修子のこれから先の人生にかかわることなんだから」  できるだけ大らかに屈託なく会話をしめくくって電話をおえた。神経をとがらせ、張りつめている修子を少しでもいたわり、これ以上の刺激は与えたくなかった。  しかし受話器を置いたとたん、佐代子は深々と肩で息をついた。  修子が望月の子供を妊娠した、この事実と、それからもたらされたショックを、今ようやく佐代子はかみしめる。  複雑な心境におちいった。  すでにふたりはセックス・フレンドの仲を清算し、しかも望月には新しくつきあっている女性がいるという。  修子には励ますしかなかったけれど、望月にすれば迷惑としかいいようのない自分たちの不始末ではないのか。佐代子から事情を知らされたときの望月のにがりきった表情が、なんとなく目に浮かんでくる。彼のそうした反応を折り返し伝えた場合の修子の顔つきは、おそらく本心を抑《おさ》えこんだ、強がった、不機嫌としか見えないものになるだろう。想像しただけで佐代子はつらさをおぼえた。伝言役を買ってでたことを後悔はしないまでも、ふさぎこむ一方の気持は理屈ではどうしようもなかった。  壁の時計を見あげる。十一時半をすぎている。  加賀美はもうベッドに入ってしまっただろうか。寝入りばなを起こしたのなら申し訳ないけれど、とすでに謝りの言葉を用意しつつ、佐代子は彼の電話番号を押しはじめた。  三回目の呼びだし音で、加賀美は受話器を取り、その声には眠気まじりのくぐもりはなかった。 「ごめんなさい、遅くに」 「かまわないよ、まだ起きていたから」  佐代子は、修子の妊娠の件と、現在の望月との間柄について、先刻、聞かされたとおりの内容を語った。 「そういうわけでね、モッちゃんには私から打ち明けると修子に約束したの」  めったに取り乱しはしない加賀美も、さすがに驚きの声をかくせなかった。 「そうか」  とため息をひとつついてから、加賀美は声のトーンを落とした。 「修子自身はどうなのかな。うみたいのか、うみたくないのか」 「どっちつかずの状態みたい。だから私としても、どちらかの肩を持つというのではなく、とりあえずモッちゃんに報告するだけの役目でいるつもり」 「望月とはいつ会うの?」 「あすのお昼休みにでもモッちゃんの携帯電話を鳴らそうと思っているけれど」 「会う日時が決まったら、おれにも連絡してもらえないかな。都合をつけて、おれもその場にいたいから。いや、なんだか、その役目を佐代ちゃんひとりでやらせるのは酷なようで。それに望月もきみと一対一でむきあうのより、気がらくになると思うしね」  ふいに佐代子の心ははずんだ。 「酷なようで」という加賀美のいたわりがうれしかった。  が、一瞬後には、浮かれた自分を恥じる。修子と望月の置かれた状況を考えたなら、その状況をだしにして気持をはずませたり、浮かれたりするのは、無神経このうえない。  そう自省しながらも、電話をきったあともなお、佐代子の内側では快いリズムが刻みつづけられていた。  皮肉なことに、加賀美をひそかに想う佐代子と彼のあいだには、なんのドラマも生じてきてはいない。ドラマは修子と望月の上にばかりふりかかる。そのそばにいて、ドラマの余波を受けるようにして、佐代子と加賀美の身辺も小さく揺れる。  加賀美と月に三回ほど夕食をともにするようになったのも、修子と望月がセックス・フレンドだったのが露見してからだった。  異性感覚の入りこまないはずだった四人グループが、実際はそうではなかった、とわかったとき、佐代子が味わった一抹《いちまつ》の淋《さび》しさを、多分、加賀美も感じたに違いない。それが、ふたりを、なんということもなく近づけた。はぐらかされた者同士の、慰めあいにも似てなくはなかった。  翌々日の夜七時半、佐代子と望月、加賀美の三人は、喫茶店「コーヒー堂」の奥まったテーブル席についていた。  テーブルをはさんで望月と加賀美が並び、反対側の席を佐代子がしめた。  注文したブレンド・コーヒーが運ばれてきて、それぞれひと口すすったところで、佐代子はなにげなく切りだした。 「修子のことなんだけれど」  望月は心得てるとばかりの顔つきで無造作に答える。 「ああ、わかってるって。心配かけたけど、おれと修子は円満に決着つけたから。だからさ、あのときも言ったように、おれと修子っていうのは、まるでベタついた恋愛関係じゃなかったことが、これでよく理解してもらえたろう?」 「そうじゃないのよ、モッちゃん」 「あれ? 別件なの」  きょとんとしたまなざしで、しかし、望月はコーヒーカップを持ちあげる。 「なんか、きょうのブレンド、やけにうまいな。それとも、おれの体がコーヒーを求めていたのか」 「その前に断わっておきたいのだけれど、これは修子から頼まれたのじゃないの。私が勝手にこの役を引き受けたいと言いだしてね」  佐代子の安定した口調はそのままだった。加賀美がいてくれることが、思っていたよりもはるかに心強く、支えになっていた。 「おいおい、佐代ちゃんにそんなふうにあらたまられると、おれ、妙に照れちゃうよ。悪いけど、手早く、さっさと用件を言ってくれないか」  呼吸をととのえ、佐代子はごくおだやかに告げた。 「あのね、修子が妊娠したの。三カ月目に入りたてですって。相手は、もちろん、モッちゃんよ、疑問の余地なく」  コーヒーカップを手にしたまま、望月の動きはとまった。呆《ほう》けたみたいに視線は佐代子に釘《くぎ》づけになっている。  それにはかまわず、佐代子は、うむことに関しての修子の迷いや、望月へのいやがらせと思われては、といった修子の危惧《きぐ》などを、誇張や粉飾が加わらないよう用心しながら語り伝えた。 「要するにモッちゃんの男としての責任うんぬんといったことではないの。修子にしても、今はまだ混乱と狼狽《ろうばい》のまっただなかで。でも、一応、このことはモッちゃんに知らせたほうがいいと思って、私が修子にそうすすめたの。修子には抵抗があったみたいだったけれど」  そこで、ようやく加賀美が口をはさんだ。 「望月には新しい彼女がいるから、修子はその点を気づかったというか……」  それに対しても望月はひと言も返事をしない。  ただひたすら佐代子のベージュのニットワンピースの、襟《えり》もとにとめた金色のブローチを注視しつづけていた。  予想外のショックを受けたのだろうか。  あるいは、ここでうかつな受け答えをして言質《げんち》を取られては、と身構えているのか。  それとも、修子の妊娠相手は、自分であるはずがない、とそれを証明する言葉を探しあぐねているのだろうか。  佐代子と加賀美はそれとなく目をあわせた。加賀美のまなざしにも、とまどいが宿っている。  ややしばらくの沈黙ののち、コーヒーを飲みほすのと同時に、ふたたび加賀美が口を開いた。 「なあ、望月、お前が驚くのも当然とは思う。思うけどな、それよりもっと途方にくれているのは修子だぞ。結果はどうなるにせよ、修子の立場を考えてやれよ」  望月の表情は動かない。  佐代子も言いそえた。 「加賀美さんの言うとおりじゃないかしら。とりあえず修子に会ってみて。話しあってみてよ、モッちゃん」  ようやく望月がわれに返ったように上体をのばし、佐代子と加賀美へ交互に視線をむけた。だが、まだ現実味をおびていない目つきだった。 「すまない、心配かけちゃって。いや、おれもあんまり突発的な話なもので。それに修子とこれまでの四年間、妊娠なんてことはいちどもなかったし、まあ、用心はしていたんだけど、しかし、いっぺんも失敗なしで、いっぺんも」  そして望月の顔がふいに活気を呈してきた。瞳《ひとみ》も輝きだす。 「そうか、子どもができたか、おれの子が。そうか、そういうことか」  まるで、うわ言のような口調で、だれにともなくそう言ってから、望月は横にすわっている加賀美を肘《ひじ》で小突いた。 「おい、加賀美、信じられるか、おれが父親になるなんて、いや、まったく、世の中なんてわからんもんだよなあ」  あっけに取られているふたりをよそに、望月は佐代子にむかって椅子《いす》の上で居ずまいをただした。 「佐代ちゃん、すまなかった、ありがとう。教えてもらった礼を言うよ。修子のことだから、へんにつっぱって、最後の最後までおれに内緒にしていたかもしれないからな。うん、そうとなったら、すぐにでも修子と会おう。会って今後のことを相談しなくちゃな」 「おい、望月、相談というのは……」  加賀美を振り返る望月の表情は、一点のくもりもなく喜びにあふれていた。 「籍だよ、入籍、おれと修子の婚姻届け。うまれてくる子どもへの、まず親としての責任をはたさなくちゃあな」  望月の決断のすばやさに、佐代子は面食らう。 「入籍って、モッちゃんは修子と結婚してもいいの?」 「当り前だろう、子どもができたからには一刻も早く形をととのえなくては」 「だって、新しい彼女がいるんでしょ?」  望月はまるで意に介さなかった。 「適当につきあっていただけだから、あっちは問題ないさ。あすにでも手を切る」  加賀美も望月のせわしなさに困惑している様子だった。 「しかしなあ、望月、結論をだす前に修子と会ってみるべきだと思うんだ」  あっさりと望月はうなずき、次に佐代子をせき立ててきた。 「佐代ちゃん、悪いけど、修子に連絡してくれないか。今夜なん時になってでもいいから、おれが部屋にいきたいって。ぜひとも話がしたいって。ほら、あそこに電話があるから頼むよ」  望月にせがまれるまま、佐代子は出入口そばの電話ボックスへ進む。  修子は自分の部屋に帰っていた。 「修子? 今モッちゃんに伝えたところ。で、どうしても今夜中に話しあいたいのですって。どうする?」 「……わかった。これからくるように言って」  おとといの夜と違って、修子の声は淡々として落ち着いていた。  望月のはしゃぎぶりとは対照的なくらいだった。  修子に会いにゆく望月をその場で見送ったあと、佐代子と加賀美は、ふたたび「コーヒー堂」のテーブル席の椅子に体を沈めた。女子学生のアルバイトのウェイトレスを手招きして、それぞれ二杯目のコーヒーを注文する。  ウェイトレスが去っていったとたん、佐代子と加賀美はときを同じくして嘆息をついていた。顔を見あわせ、苦笑をかわす。 「モッちゃんの反応は意外だったわ」 「おれも。ああも手放しで有頂天になるとは」 「あんなに子ども好きとは知らなかった」 「あれを見ると、望月はずっと修子が妊娠するのを待ち望んでいたようにも思えてくるよ」 「結局、セックス・フレンドというのは、単に恰好《かつこう》をつけていただけなのかしら」 「いや、それはそのとおりだったんじゃないかな。でも、おれたちも、もう二十代も前半じゃなく三十二だから、それなりの心境の変化はあるよ。子どものひとりやふたり、いたっておかしくはない年齢だもの」  コーヒーが運ばれてきた。  ミルクも砂糖も加えずに飲みだす加賀美とは反対に、佐代子はそのどちらもいくらか多めに入れた。疲れているのだろう、体がしきりと甘味を求めている。  加賀美がひとり言めかしてつぶやくのが聞こえた。 「これで一件落着か……まずは、めでたいしめくくりってことだな」  佐代子は気が抜けたみたいな心地で、閑散としはじめた店内に目をやった。  腕時計は八時半をまわり、営業終了まで残すところ三十分もない。  カウンターの内側では四十代なかばの店主が、例によって不機嫌そうな気むずかしい顔つきで黙々と立ち働いている。いつきても、どんな時間帯でも、ひと休みしている姿を見かけたためしのない店主だった。  一件落着でめでたいしめくくり、と加賀美はつぶやいたけれど、佐代子は、今夜の結末を、はたして自分が祝福しているのかどうか、いっこうに判然としない。  あやふやな気持ばかり残っていた。  もとより哀《かな》しんではいない。といって、喜んでいるともいいがたい。  奇妙な感情だった。  その奇妙さを、本心をおおっているいくつものベールをそっとはぎ取ってゆくと、羨望《せんぼう》、のひと言がむきだしになりそうで、あわてて佐代子はそこから引き返す。  しかし、ひとたび自覚したものは胸のなかでゆらめき、消えはしなかった。  羨望……うらやましさ。それが昂《こう》じて嫉妬《しつと》とまでなっているのだろうか。  いや、なってはいない。そう見きわめて、自分自身でほっとする。  修子の妊娠がうらやましいのではなかった。修子の妊娠を知らされた望月の反応、あの、いっさいの思考が停止したような一瞬と、その次にどんな夾雑物《きようざつぶつ》もまじえずに彼をまるごとおそってきた至福感。修子の妊娠に小躍りせんばかりの喜びをあらわした望月という相手がいることが、うらやましいのだ。  恋人が身ごもったと知って、つかのまの翳《かげ》りもなく、そくざに喜びはしゃぐ男性は、そう多くはないのではなかろうか。ほんのわずかなためらいとか、複雑な心中をかいま見せるのが、いわゆる男心というものではあるまいか。  だが望月の反応には、そういった男性側の身勝手さをほのめかす言動なり態度は皆無だった。先刻の彼の呆けたみたいなたたずまいの内側に、身勝手な逡巡《しゆんじゆん》がひそかにかくされていた、と想像するのは、うがちすぎだろう。  さらに佐代子の二重の意外さは、これまでの望月は、修子のほかにも何人もつきあってきた女性がいて、けっして身持ちの堅い、生まじめな男性ではないことだった。ルーズと称してもいい。事実、彼はひと月前に修子とのかかわりを清算するのと前後して、もしくは重複して、すかさず新しい彼女をこしらえている。  にもかかわらず、修子の妊娠を知るやいなや、望月は、まさしく手のひらを返すようにして、長年にわたって恋人との絆《きずな》を深めることを切望してきた、実直いっぽんやりの男性に変貌《へんぼう》しきった。  それは佐代子にとっても、うれしい変貌ではあるけれど、またひとつ、人間の不可思議さや不可解さにたじろがされた思いがした。 「さて、そろそろおれたちも帰ろうか」  加賀美にうながされ、佐代子もうなずきながらバッグを引き寄せる。  気のせいか、加賀美の声にも、そこはかとない淋しさとも、むなしさともつかないひびきが感じられた。 [#改ページ]     9  十一月も末になると、札幌の街は冬を迎える不順な天候が飽くことなくつづく。  初雪がぱらついてから、街ぜんたいが雪一色におおわれるまでの約ふた月、空模様は気まぐれとしかいいようのない小刻みな変化を、一日のうちに何回もくり返す。  まぶしいほどの陽《ひ》ざしが、たちまちに曇ったかと思うと、小雨が家々の屋根をぬらす。が、三十分もたたずに雨はみぞれに姿を変えている。みぞれが雪になり、今夜こそ積もりそうだ、と待ちかまえていると、夜ふけてから、ふたたび雨にもどったりして、まるで予測がつかない。  特に今年は夏が長く、九月の末になっても暑さを感じるような有様だったため、秋と呼べる時期は、ほんのわずかだった。  残暑から一足とびに荒あらしい季節の冬支度に突入した印象を受ける。 「コーヒー堂」で望月に修子の妊娠を打ち明けてから三日後の月曜日、佐代子は五時の終業時と同時に会社をあとにし、地下鉄で修子の勤める服飾アトリエ店「由良《ゆら》」にむかった。「由良」は、自宅マンションとはまったく正反対の方角に位置する。だから、これまではほとんど店を訪ねたことはなかったのだが、今回ばかりは、とにかく修子に会わずにはいられない一念につきまとわれていた。  前もっての電話も、わざとアトリエにはかけなかった。  気むずかしいところのある修子だから、佐代子が電話で、まどろっこしい様子うかがいの問いかけなどしているうちに、つむじをまげて、「こないで」と拒否しないともかぎらない。  以前に修子は、具体的な体験を匂わせる口ぶりで、しきりと嘆いていたことがあった。 「ひとって自分にかかわりがないと、どんなトラブルでも、すぐにおもしろがるんだよね。大半のひとがそう。口では心配しているような台詞《せりふ》をまことしやかに吐いてるくせに、実際は成りゆきがどうなったかという好奇心だけ。本心から気にかけて心配しているのなら、ああいう言い方ってしないはずだもの。人間のそういった面を目にすると、浅ましさを感じちゃうな」  望月からの連絡もあの日以来たえていた。  ない、ということに佐代子はひっかかるし、加賀美も同じ思いでいるらしい。昨夜の電話のやりとりで、ふたりのその見方は一致した。  もし修子との話しあいが彼の望むとおりに進んでいるのなら、また、その見通しがついたのなら、望月の性格上、必ず加賀美か佐代子にはずんだ声で報告してくるはずだった。あんなにも修子の妊娠を有頂天に喜んでいた望月ではなかったか。  しかし、何ひとつ言ってこない。佐代子の留守番電話にはもとより、加賀美のそれにもメッセージは吹きこまれてはいないという。 「おそらく、ふたりの話しあいは、もめているのじゃないだろうか。そんな気がしてならないんだ」  加賀美の、いつもより低めの口調に、佐代子も受話器を耳に当てたままうなずいた。 「修子は佐代ちゃんに何か?」 「ううん、あれっきり音さたなし。でも、いくら女同士とはいえ、電話をかけて、結論はどうなったのかってきくのも、事柄が事柄だけに、なんか無神経すぎるようで」 「そうだよなあ。むこうから言ってきたのならまだしも、こっちから電話してたずねる内容ではないものな」 「加賀美さんもモッちゃんには電話してないみたいね」 「佐代ちゃんと同じ気持からできないんだよ」 「そう、わかるわ」  らち[#「らち」に傍点]のあかない会話を、しかし、しないよりはましといった、たがいの慰めのようにかわしてゆくうちに、佐代子は、ふいに修子にじかに会ってみようと思いついた。すかさず、それを加賀美に告げてみると、彼もいくらか口調に明るさをにじませてきた。 「そうしてくれるかい、それだとおれも少しはほっとするよ」  地下鉄をおりて階段をのぼり地上にでると、大気は夜の色を均一に溶かしこんでいた。この季節は日没時が拍車をかけたように日ごとに早くなる。  気温はぐんと下がり、地下鉄駅の周辺にひとかたまりになっているコンビニエンス・ストアや飲食店の電飾看板が、寒気をおびて、冴《さ》えた彩りを放っていた。  小雨がふっているようなので手持ちの傘をさして路上に立ち、ふたつめの信号を目印に西に歩きだす。  歩いている途中で小雨はあられに変わり、音も激しく傘にたたきつけてきた。トレンチコートを着こんだ佐代子の、薄い茶のタイツにつつまれた足にも、あられはななめに打ちつけ、それは針の先ほどの痛みを感じさせた。  今年もあとひと月で終る、歩きながら毎年この時期になると胸をよぎってゆくため息と感慨の入りまじった感情を佐代子はまたしても味わった。そしてきまって翌年に何歳になるかを、わかりきったそれを念頭にのぼらす。来年は三十三……あせりとも、後悔とも、淡い苦々しさともつかない気持で、その年齢をかみしめる。  十代の後半の頃、三十代の女性と聞いただけで気の遠くなるような、はてしない距離を感じた。二十代になっても、まだ前半であった時分は、三十代の独身女性を見るたびに、なぜ結婚しないのだろう、とわけもない憐《あわれ》みとうさんくささをおぼえた。二十代なかばすぎの一時期は、女性の三十歳に短い憧《あこが》れをいだいた。三十歳がいたく安定した調和のとれた、女性として脂ののりきった年代に思われたのだ。  が、三十二歳の現在、かつて自分が三十代の女性にむけたまなざしは、すべからく錯覚だったと実感する。  十代の後半の当時と、どれだけ精神的に成長したか、分別にとんでいるかを考えたとき、答えはひとつだった。「さほど違わない」  だが外見はあきらかに二十代には見なされない。外見の容貌《ようぼう》は着実に年齢を刻み、だから周囲のひとびとはその年齢にふさわしい対応をし、だけれども心では、その対応のされ方にどこかでとまどっている。それが、気の若さ、というものだろうか。あるいは、たいがいのひとが、これと同じとまどいを感じながら、黙っているだけなのだろうか。  二十六歳の頃、佐代子は三十前には結婚したい願望を持っていた。  けれど二十八で失恋したあとは、三十二、三でパートナーにめぐり会えたら、といった、ひそかな目安を立てた。  しかし、どうやら目安は夢物語に終りそうだった。  地下鉄駅からふたつめの信号が青に変わるのを待ちながら、加賀美の顔を漠然と脳裏に浮かばせた。  見こみはなかった。歩み寄る気配も、可能性もゼロに等しい。  ただ、ささやかな願《がん》をかけたい気持が働いた。  佐代子が独身のあいだは加賀美にも独り者でいてもらいたい。再婚しないでほしい。それだけが、わずかな慰めになる。いや、心の支えかもしれなかった。  アトリエ「由良」のドアを押して入ってゆくと、ヨーロッパ風の家庭の居間を連想させるベージュ系で統一された店内から、修子と、従業員らしい二十代とおぼしき女性ふたりが、そろって佐代子へと視線をむけた。  客はなく、ファッション雑誌をめくりながら談笑していたらしい。  修子はべつだん驚いた表情ではなかった。 「あら珍しいわね、佐代子がくるなんて」  こともなげにそう言って、ふたりの女性が椅子から立ちあがりかけたのを手で制した。 「いいの、彼女は私の友だち」  女性たちは躾《しつけ》のゆきとどいた笑顔と会釈を返してきた。 「ちょうどひまなところだったの。オーナーも出張中だし……ちょっと奥にゆこうか」  栗色《くりいろ》の、ドレープのたっぷりしたベルベットのカーテンの奥は、一転して無機質な雰囲気の事務所になっていた。ミシンなどを使う作業場はこの建物の裏の別棟だと、佐代子はかつて訪れた際に聞かされた記憶がある。  ストレートのジーンズに、やはり無地の紺のトレーナーを着た修子は、デスクの前の椅子を指さして佐代子をうながし、自分は部屋のすみから合成皮革とスチールでできた丸椅子を持ってきて、そこに腰をおろした。  そして、投げやりに口を切る。 「佐代子、かくさなくたっていいよ、モッちゃんから頼まれたんでしょ」 「モッちゃんから? ううん、モッちゃんは関係ないの。あれ以来なんにも言ってこないしね」 「ほんと?」 「そんなことで嘘《うそ》つかないわよ。ついたって、すぐにばれるだけだもの」 「まあ、それはそうだ」  言いながら修子は、佐代子に横顔を見せるようにしてデスクの上にころがっていたボールペンを片手に取りあげ、指先でもてあそぶ。 「要するに、心配してきてくれたってわけか……」 「余計なことかもしれないけれど、やっぱり気になって……」 「ごめん、佐代子まで巻きこんじゃったね。私もばかだった、佐代子に言う必要はなかったのに、つい動揺して。これは私とモッちゃんだけの問題……というより私が決めることだった、だれにもしゃべらずに。すごく反省してる。私もだらしない人間だった、と」 「…………」 「私、子どもはうまない」 「……そう……モッちゃんは承知したの?」 「承知するもなにも、これは私が決めること。モッちゃんの子どもだからというのじゃないんだ。今の私は子どもより仕事、いや、仕事における自分をもっとためしてみたいからね。こう見えても、私は野心家だから」  修子の横顔は閉じられていて、言葉以外のものはいっさい読み取れなかった。  ややしばらくの沈黙のあと、佐代子は修子の反応をうかがいながらたずねてみた。 「……その結論は、もう変わらないの? たとえばモッちゃんの気持も汲《く》んであげるとか……」  やはり修子は佐代子から視線をそらしたまま答えた。 「もう決めてしまったよ。こんどの定休日に手術を受ける予約もすませて」 「手術の予約って、修子……」 「モッちゃんとは、この件ではいくら話しあってもむだ、並行線をたどるだけだもの。どうあっても、うませたい男と、うみたくない女、どちらも頑として妥協の余地なしってこと」  本当にそうなのだろうか、佐代子は望月の、あの、ほとんど狂喜と称したい三日前の態度を思い出していた。  あれだけの喜びようを、はたして彼は修子に伝えたのだろうか。加賀美や佐代子の前で、あられもなく手放しで笑みくずれ、全身からうれしさをほとばしらせていた望月。彼は修子の目の前でも同じように表現してみせたのか。  他人事《ひとごと》ながら、佐代子はあのときの望月には感動した。彼を見直すほど、その喜びはまじりっけのない、そして、修子もうまれる子どもも引き受けて悔いはないといった決意をみなぎらせていたのだ。  あのときの望月を思うと、修子の育児と仕事の両立にも理解を持ち、その子育ても分担してやってくれそうな確信がするのだが。  おせっかいと自覚しつつも、佐代子は言わずにはいられなかった。手術日を予約したと聞いて、せめてこれだけは言っておきたい、というせかされた心地になったのだ。その一方では、修子のためには聞かせないでおくべきではあるまいか、とつかのま自分を修子の立場に置きかえてもみた。  が、結局のところ、佐代子は、その一瞬、望月の側に立っていた。 「モッちゃんが私や加賀美さんの前で、どれだけ喜んだか、修子は知ってる? あんなモッちゃんは、はじめてだった。恥も外聞もなく、というのは、あのモッちゃんの姿のことをいうのね」  だが修子は耳に入らなかったかのように話しだした。 「モッちゃんは私にうませようとして、いろんな口約束を、例によって例の軽さで、どんどん言ったよ。仕事はつづければいい、育児の手伝いは自分もする、夫婦別姓を名乗るのもよし、一般的な結婚形態にもこだわらない……とにかく、私の考えを優先するようにって。ひどく物分りがいいんだよねえ、よすぎるんだ。そのうち私は気づいた。この言い方や調子のよさは、モノにしたい女を口説くときとそっくりじゃないのかって。要は、いったんモノにしてしまえば、約束なんか、どんなふうにも変更しちゃえるからね。モッちゃんが今モノにしたいのは、私に子どもをうますこと。それだけしか頭にない。そのためには、どんなふうにでも私の機嫌を取ることぐらい平気なんだ」 「でも、あるいはモッちゃんは本気でそう言ってるのかも……」 「いや、違う」よどみのない即答だった。 「モッちゃんは昔から何かあると口ぐせみたいに言ってた。私も何回となく聞いてるよ。彼の家は金物屋さんで、両親とも商売に忙しかった。だから、モッちゃんは子どもの頃、それが淋《さび》しかったんだって。それで自分が結婚して親になる場合には、子どものそばに母親がぴったりいるような家庭をつくりたい、専業主婦の女房が望みだ、と」  望月のそれらしき台詞は、佐代子もおぼろげながら記憶にあった。 「だから、モッちゃんは自分の願いどおりに私に子どもをうませたあとは、きっと、子どもがかわいそうだからという理由をたてに、私を家庭に縛りつけようとする。今からその光景は目に見えるんだ」 「そう決めつけなくても」 「へらへらしているようでも、モッちゃんは芯《しん》は頑固だからね、私と同じくらいに。彼の本質は保守的な男。四年のあいだセックス・フレンドでいて、そのへんはよくわかってるんだ」 「ねえ、修子、もういちどモッちゃんと話しあってみたら? 仕事をつづけたいという修子の気持を理解してもらえるように」 「むりだよ。デザイナーって仕事を、私は育児の片手間にやりこなせる自信がない。反対に仕事を持ちながら、きちんと子どもを育てられる自信もない。今のままだと、おそらく、どっちも中途半端におかしくしてしまうと思うよ、この点だけは自信があるんだ」  てこでも動かない決意の固さなのか、依固地《いこじ》になっているのか、修子には佐代子がつけこむすきはなかった。  思わず大きくため息をつきそうになったのを、あわてて抑え、佐代子はできるだけ事務的な口調でたずねた。 「手術のこと、モッちゃんは知っているの?」 「内緒にしている」  いったんそう返答してから、修子はにわかに気色ばんで見返した。 「佐代子、モッちゃんには教えないでよね。もう、これ以上ごたつくのはまっぴら。この三日間ずっとモッちゃんがやいの、やいのと言ってきて、私、もう、うんざり。私を言い負かそうとするのか、モッちゃんは喧嘩腰《けんかごし》なんだから、まいっちゃうよ」  一体、何をしに修子に会いにきたのだろう、佐代子は自分を役たたずに感じながら、アトリエ「由良」をあとにした。  あられも小雨もふりやみ、ただ路上はその痕跡《こんせき》を残してぬめっていた。  地下鉄駅に引き返す途中、電話ボックスが目にとまり、吸いこまれるようにして足をむける。  予想どおり加賀美はまだ帰宅していなかった。留守番電話がそれを告げた。次に会社のほうの番号を押してみる。  期待の半分は捨てていたのが、送受器から彼の声が聞こえてきたとたん、佐代子は以前の気楽な友だち関係だったときの口ぶりで誘っていた。妙にすがりつきたい心地だった。 「ね、これから会えない?」  言ってしまってから、急にどぎまぎした。ひどく大胆なことをしでかしたような狼狽《ろうばい》におそわれる。  が、加賀美にしてみれば、それは聞きなれた佐代子や修子からの言葉のはずだった。そして、彼もまた気やすく答え返してきた。 「うん、おれも佐代ちゃんからの電話を待っていたんだ。修子に会ってきたんだろう?」  三十分後、ふたりは、望月が立ち寄りそうな「コーヒー堂」を避けて、その近くの小さなホテルのティー・ルームで落ちあった。  修子がすでに、あさって手術の予約を入れている、と知って、加賀美も暗い顔つきで、一瞬、黙りこんだ。 「……しかし、望月には内緒か……」 「モッちゃんは修子にうんでもらいたいと、やっきになっているのに」 「わからないなあ。こういう場合はだれに決定権があるのか。やはり、女のひとの意志にゆだねられてしまうのか……しかし、そうなると、男ってのは無力なものだな」 「修子の手術のこと、あとで知ったらモッちゃんはなんと言うか」 「あれだけ喜んでいたしな」 「修子にきつく口止めされたけれど、ほんとに私たち、このままじっとしているべきなのかしら」 「そこだよな。おれも考えていたところなんだ」 「修子がモッちゃんになんて説明するかによっては、私たちまでがモッちゃんをだましていたように思われるかもしれないわ」 「望月がそう思っても仕方がないだろうなあ。あいつの今のせっぱつまった気持からすると、修子と一緒におれや佐代ちゃんがぐるになったと誤解しかねない」 「とにかく時間がないわ。手術はあさっての水曜よ」  ふたりの目の前に置かれたコーヒーは手つかずのまま、ゆらめいていた湯気もとうに消えてしまっていた。  加賀美がツイードのジャケットのポケットからメンソールのたばこの箱を取りだした。  おや、と視線をむけた佐代子に、彼は苦笑を浮かべてみせる。 「ふだんは喫《す》わないんだけど、ときどき無性にほしくなってね。それも、なぜかメンソール味のが」  ガラスの灰皿のなかにあったマッチで彼がうまそうにたばこを喫うのを眺めながら、ぼんやりとしているこの瞬間そのものが、佐代子の一服のかわりになっていた。  考えてみると、修子の妊娠の件を聞かされてからきょうまで、佐代子は自分にふりかかった問題のように気の休まるときがなかった。へんに神経が立っているし、われに返るたびに、このことを頭のすみにはりつかせて思いあぐねている。自分がどうこうできるわけでもないのに、どうすべきか、と解決策に真剣に心をくだいていたりもする。  そして、その気持の奥にひそむものをたどってゆくと、望月と同様に修子に母親になってもらいたがっている自分がいた。  手術をするのは体によくない、とか、子どもの生命を親の都合でつみとってはならない、とかいった倫理観《モラル》にからむ発想はなかった。ただ単純に、同時にまったく無責任に、修子のうんだ子どもを、この手に抱いてみたいといった願いがふくらんでゆく。  だが、こうした本心は口にはできなかったし、自分の第三者的な立場を考えたなら、すべきことでもなかった。  修子に出産をすすめても、では現実にどんな手助けができるかというと、ほとんど何もできはしない。やれるはずもないのだ。  とどのつまりは、自分の実現できそうにもない願望を、一方的に修子に託しているにすぎない。  しかし、当の修子は断固として母親になるのを拒否している。  アトリエ「由良」で示した修子の強硬な態度を思い返すにつれ、佐代子は自分が彼女に会いにいったことが、かえって修子にふんぎりをつかせる結果になったのではなかろうか、と疑わずにはいられなかった。  望月の代理で佐代子がきた、と修子は最初のうち早とちりしてそう決めつけていた。誤解がとけてからも、修子はどこまで信じてくれたか、今となっては、はなはだ心もとなかった。  佐代子を望月のかわりに見立て、だから、修子はああまで強く、迷いなく言いきれたのではあるまいか。佐代子の背後に望月の影を感じながら。  冷えてまずくなったのを承知で、佐代子はコーヒーをすすり、唇をしめらせた。 「やはり、手術の件は、モッちゃんに教えたほうがいいのかしら」 「……うん、いずれ、わかることかもしれないし……」 「でも、もしモッちゃんが荒れて、修子の部屋に怒鳴りこんでゆくようなことになったら」 「いや、おれがあいつのそばについてるよ。そんなことはさせない」 「知らせるとしたら、いつモッちゃんに?」 「うん。あした教えて、あさって手術というのも……そうなると今夜中か」  そして加賀美は、しばし天井を見あげていたが、ふいに視線を佐代子にもどし、いたわるような口調をむけてきた。 「望月にはおれから話すから、佐代ちゃんはうちに帰っているといい」 「でも……」 「男同士の慰め方というか、そういうのがあるから心配はいらない。佐代ちゃんも修子と会って重大なことを打ち明けられたせいか、疲れているみたいだからね。望月はおれが引き受けるよ」  口ぶりは柔らかく、おだやかだったが、その底に有無を言わせないひびきがはらまれていた。  もしかすると、加賀美は、修子の手術の件がどれだけ望月に残酷な打撃を与え、そのとき望月がどんなすさまじい反応をするか、予測がついているのかもしれなかった。そんな望月の姿を佐代子の目にさらしたくはないし、その場にいさせたくないという彼なりの思いやりと配慮かもしれない。 「そう。じゃあ、私は帰らせてもらうけれど、何かあったら、必ず電話をかけて」 「ああ、そうする」  椅子の背にかけてあったトレンチコートを取りあげ、ふと佐代子はききそびれていた質問を思い出した。 「いまさらたずねるのもおかしいけれど、加賀美さんは修子が妊娠したのを、どう思ったの?」 「どうって?」 「深い意味はないの。ほら、単にうれしい、とか、その反対に、まずいことになったな、とか」 「……うれしかったよ、じつを言うと」  ちょっと照れくさそうな答えが返ってきた。 「特に望月の子どもで、しかも、あの望月があれほど喜ぶのを見て、感動というのは大げさだけど、少しじんとした」 「私もそうだったの」 「同時におれたちの年齢を感じたな。親になって、なんの不思議もない三十二だ、と。でも、おれたち四人とも、今まで何をしてきたのかって……いや、これはおれ自身についてだけどね」  離婚をほのめかしているのだろう、そう察知して、すかさず佐代子は言い返した。 「今まで何をしてきたのか、と自分に言いたいのは、加賀美さんじゃなくて私。四人のなかで、いちばんなにもしてこなかったと思うわ。そして、むざむざ三十二になって、この先の見通しもない」 「うまれたての赤ん坊には過去がなくて未来しかない。それってすごいことだよな、すばらしいというか、救われた気持になるというか。だから、おれは修子の子どもに期待したのかもしれない。その子が間接的にしろ、なんとなく、おれを励ましてくれそうで」 「もう自分では自分を救えない、ということ?」 「自分ひとりだと堂々めぐりになってしまう。考え方もワンパターンにおちいりがちだし。自分の限界を感じるよ、つねにひとりでいるとね。まあ、ふたりでいても同じなんだろうけど、ひとりよりまだましだという錯覚が、錯覚と知りつつも人間を救ってくれるのじゃないかな」 「……そうかもしれない」  佐代子は唐突におそってきた背すじの疲れをはらいのけるようにして、意味もなく加賀美にほほえみかけた。  錯覚、のひと言が妙に心をけだるく刺激した。それを言ってしまうと、すべてが色あせ、つまらなく見えてくる。修子に子どもをうんでもらいたい、という佐代子のひそかな願いも、結局は、何かに対する錯覚にすぎないのだろう。  佐代子の微笑に応《こた》えて、加賀美も口もとをほころばせた。 「望月のことは必ず報告する。今夜十二時までに電話できなかったら、あすにはきっと」  マンションの部屋に帰り、夕食はまだだったのを思い出したが、空腹感はなかった。時刻は八時半になろうとしている。  疲れをほぐすために、通勤着をぬぐと、すぐさま浴室にいってシャワーを頭から浴びた。  体の疲労ではなく気分的な疲れなのは、はっきりしているけれど、自分の気持次第で解消できるストレスとは違い、これは修子の問題がおさまらなければ、癒《いや》されないのだろう。  背すじに熱めのシャワーをたっぷりと当て、パジャマを着て浴室からでると、肌にクリームを塗るのさえ億劫《おつくう》だった。冷蔵庫に近づき、ドアを開ける。やはり食欲はない。  いつ買ったのか忘れていた缶ビールと缶入りのトマト・ジュースが目に入り、それを半々にまぜてグラスにつぐ。この飲み方には一応「レッド・アイ」というカクテル名がついているらしい。カクテルの色あいを表現する名前であると同時に、二日酔いの迎え酒として知られていて、その二日酔いのときの赤くなった目にもひっかけているという。  カクテルの知識はまったくないといっていい佐代子が、この「レッド・アイ」を知っているのは、四年前に失恋した相手が好んで飲んでいたからだった。だから当時、部屋の冷蔵庫には缶ビールとトマト・ジュースがつねに買い置かれていたものである。  口当りのよい「レッド・アイ」をソファに腰かけて飲みながら、ふたたび、錯覚、という言葉を念頭にのぼらせていた。  俗的なむなしさを、いっときのそれを伴う言葉だった。  すべては錯覚、こう言ってのけた瞬間、ひとはつかのま達観した境地を味わう。自分に言い聞かす言葉としても最適だ。  だが真にこの世のひとの行為のことごとくが錯覚だと胆《きも》に銘じたとき、はたして人間は生きてゆけるのだろうか。  ゆけない、と佐代子は思う。  口先だけの、錯覚、なのだった。  恋愛は錯覚、とはよく言われる台詞だけれど、これだけくり返し言われつづけ、ひとびとの頭に浸透しているはずなのに、それにもかかわらず、ひとはあちらでもこちらでも性懲りもなく恋愛する。恋愛し、それが破局を迎えた段になると、またしても、ひとは訳知り顔で、恋愛は錯覚さ、と言い放つ。  錯覚だと熟知しているのなら、どうして恋愛をするのだろう。いや、熟知などしていない。していないから、ひとを愛したりするのだろう。  佐代子は四年前に自分を捨てて、他の女性を選んだ彼のことを、とりとめもなく思い返した。友だち以上に進展するきざしもない加賀美への想《おも》いも反芻《はんすう》してみた。どちらも錯覚のひと言でくくられるかもしれないけれど、相手を好きだという気持は、まぎれもなくあるのだった。  先刻、加賀美は錯覚という言い方をした。彼がどういうニュアンスで口にしたのかは、わからない。  が、佐代子は具体的にどういうふうにという考えはないものの、彼と錯覚について話してみたいと思った。議論ではなく、世間話の軽さで。そして加賀美の胸に宿っているむなしさの度合いを、それとなく探りだしてみたい。  錯覚を口にしたさっきの彼の表情が、佐代子の脳裏にやりきれなくはりついていた。加賀美は自覚していなかったのかもしれないけれど、あの一瞬、彼はだれも寄せつけないし信じない、とでも言いたげな冷たさを漂わせたのだった。  しかし……と佐代子は「レッド・アイ」を飲みほしながら、しいて自分に苦笑してみせた。  あれも私の目の錯覚だったかもしれない。  修子の妊娠の件で、いつになく神経質になっているのは確かなようだった。 [#改ページ]     10  修子が出産を望まず、あさって手術を受ける手配をしてしまっている……この件を加賀美が望月に会って伝えることになっていたが、その夜、約束の十二時になっても、佐代子のもとに報告の電話はかかってこなかった。  望月はつねに携帯電話を持ち歩いているから、連絡がつかないはずはない。おそらく、ふたりは会いはしたものの、話を聞いて望月が手のつけられないほど荒れたのではなかろうか、佐代子はしきりにそんな想像を働かせながら、十二時すぎまで電話を待ちつづけた。  翌日の夕方の四時すぎ、ようやく加賀美から佐代子の勤務先に電話がかかってきた。 「きのうは大変だったのでしょう?」  職場である手前、やや声をひそめた。 「うん、それが……」  加賀美は歯切れ悪く、口調をにごした。 「きのう佐代ちゃんが修子に会ったあと、望月も修子の部屋にいったとかで、おれと会ったのは十一時近くになってからでね」 「そう」 「おれの部屋にきてもらって話をしたんだ。ところが、あいつは知っていたよ、修子の手術の件」 「修子はいつモッちゃんに?」 「きのうの晩。だから、おれと会うほんの二、三時間前」 「それでモッちゃんはどうだった?」 「どうって、ひと口にはうまく言えない……」 「かなり落ちこんでいたのでしょう」 「それが……つまり、修子はこう言ったらしい。子どもの父親は望月じゃない、自分の勘違いだった……」 「まさか、そんな。だって」 「とにかく今夜七時ぐらいに会えないかな。会ったときにくわしく話すよ」  そして加賀美は、これまでにも佐代子と何回かいったことのあるおでん屋の名前を告げ、そそくさと電話をきった。忙しい仕事の合い間をぬって電話ボックスから連絡してきたらしい。  佐代子はキツネにつままれたような心地だった。  相手は望月ではない、とは今さら修子は何を言いだしはじめたのか。  別の男性? しかし、修子には、それらしき人物とかかわっていた様子はなかったではないか。  だが、気がかりな記憶もよみがえってくる。  七月にふたりで鉄板焼きをした夜、修子は「この十年のあいだ恋愛はなかったが、ひと夜かぎりの火遊びの相手は何人かいた」と打ち明けた。  佐代子はそれはてっきり望月とセックス・フレンドになる前の話だと勝手に決めつけていたのだが、もしかすると、それは望月と並行していたのかもしれない。  望月が修子とかかわりながらも、他の女性とつきあいがあった事実を、修子は知っている。  望月がそうなら自分も、そう修子が割り切って考え、実行していたとしても意外ではなかった。たとえ当てつけがましさや負けん気からだけであっても、修子の性格なら、やっても不思議はない。  しかし、子どもの父親は望月だ、と修子はあれほどはっきりと言いきったではないか。確信があるからこそ、あそこまで断言できたとしか、佐代子には思えない。  それなのに、今になって否定するとは、一体どういうことなのだろうか。  消費者アンケート・カードの集計をするかたわら、佐代子は頭のすみで修子の気持なり思惑なりを推し測りつづけた。  自分が修子の立場なら、妊娠が判明したときどうするか。  子どもの父親が望月であるかもしれないし、ないかもしれないといった不確かな状況にもかかわらず、望月が父親、とあえて名ざしするとしたら、そこにかくされている企《たくら》みは、望月との結婚だろう。結婚したい一念で、子どもの父親としての責任を強調する。  が、修子はそれはまるで望んではいない。  すると、修子は口ではそんな嫌がらせめいたことはしたくない、とは言っていたけれど、やはり、単なる望月への脅《おど》しだったのだろうか。  修子とセックス・フレンドの関係を断ち切って、新しい彼女とつきあいだした望月への、精一杯の腹いせ。修子の妊娠を知った彼の反応がどんなものか、ひと目見たかったというのが本心なのか。  しかし、この十年のあいだ佐代子なりに理解してきたつもりの修子は、いい意味で誇り高く、ときには痩《や》せ我慢といいたいぐらいに矜持《きようじ》を保っていた。そうした修子がささやかな腹いせのために、自分のプライドを捨て去るとは、とうてい考えられなかった。  だが、もしも、である。セックス・フレンドと、わざと軽く言ってのけつつも、修子が本気でしんそこから望月を愛していたら、愛情の深さの裏返しとして、彼を恨むようになることもありえるだろう……。  あれこれ推測を働かせるうちに、五時の終業時は、またたくまにやってきた。  加賀美との約束は七時、会社を六時半にでても十分にまにあう。帰り支度をするひとびとの話し声や動きで、にわかにざわめき立ってきたフロアのなかにいて、佐代子は作業の手は休めず、それでいて頭のすみでは修子について、せわしなく想像をめぐらせていた。  おでん屋は勤め帰りのサラリーマンやOLで、ほとんど満席に近いにぎわいだった。  加賀美は先にきていて、カウンター席につき、佐代子のために隣りの椅子《いす》を確保しておいてくれた。まるめた自分のコートを椅子に置く、といった見方によっては野暮ったくも気恥かしくもなるやり方である。  しかし、佐代子の姿を目にして、にっこりと笑いかけながらコートを持ちあげた彼の表情にしみだしてきた、なんともいいようのない朴訥《ぼくとつ》さに、ふいに胸をつかれた。何ごとにも落ち着きはらったように見える加賀美にも、こんな一面があったのか……。このところ修子の件にまぎれて二の次になっていた想《おも》いが、ふたたび急速に息づいてきた。と同時に、彼にほほえみ返そうとしたものの、唐突におそってきた緊張感に頬《ほお》がぎこちなくこわばるのを感じた。  おでんの定番ともいうべき大根、卵、がんもどきの三つを注文し、飲みものは加賀美と同じ壜《びん》ビールにする。  そして、さっそく佐代子は本題に入った。横に並んですわるカウンター席の、まともに視線をかちあわせずにすむ気楽さが、ことのほかありがたい。 「子どもの父親はモッちゃんじゃないって、本当に修子はそう言ったの?」 「ああ、そうらしい」 「で、モッちゃんはなんて?」 「へんに興奮しているというか、はしゃいだような態度で。いや、あれはやっぱりショックなんだろうな、修子にまんまと一杯食わされた、してやられた、と何回もくり返していたよ、大声で」 「怒ってた?」 「いや。怒るよりも前に、修子にハメられた自分を、すっかりその気になっていた自分を笑いとばそうとしているかのようだった」 「修子にかつがれた、モッちゃんはそう解釈しているのね」 「おそらく」  おでんを盛った皿が佐代子の前にさしだされ、ビールのグラスと壜ビールも並ぶ。 「どう想う? 加賀美さんは」 「何が?」  問い返しつつ、加賀美は壜ビールをつかみ取り、佐代子へと傾けた。あわててグラスを手にし、佐代子はよく冷えたそれを両手で受ける。 「修子の言ったふたつのことの、どっちが本当なのかってこと」  ひと呼吸の間を置いて加賀美はひとり言のようにつぶやいた。 「おれは女のひとの気持がよくわからない男だから」 「私、修子はモッちゃんをあきらめさせるために嘘《うそ》をついたと思う。子どもをうんでくれ、とか、すぐにでも結婚しようと迫るモッちゃんに手こずるあまり、父親はモッちゃんじゃないと言うのが、いちばんいい方法だと考えたと思うの。きのうも話したでしょ、修子はモッちゃんとの結婚観の違いが決定的だとみなしている。モッちゃんが今いくら修子のご機嫌を取るような約束をしてくれても、それはけっして信用はできない……」 「女のひとが、さんざん迷った挙句に、こうだ、と決めたことは、いい加減じゃないものな……おれの奥さんもそうだった」 「でもモッちゃんは、そうした修子の気持は想像もできないかもしれない。自分の子どもじゃなかった、修子にだまされたというぐらいで」 「うん、ありうると思うよ」 「修子の手術はあしたよ」 「そうなんだよなあ」  会話はそこでとぎれた。  ふたりは、それぞれの手もとの皿にかがみこみ、しばらく黙々と、けれど気のない手つきでおでんをつつき、ビールを喉《のど》に流しこむ。  自分たちは何もできない、いくら心配してもこの事態を変えるすべはないのだ、という無力感がふたりのあいだに流れていた。  皿のなかの三品のおでんを時間をかけてたいらげたのち、加賀美は軽く吐息をついて、ジャケットのポケットからたばこの箱を取りだした。昨日と同じメンソール味のたばこ、マッチもきのうの喫茶店のものである。 「どうだろう、期待はできないけれど、望月を呼びだしてみようか。何かをどうしようなどという自信はないにしても、修子の本心を多少は伝えられるんじゃないかな。それぐらい、おれと佐代ちゃんがやってもいいと思う。きのうきょうの友だちじゃないんだし」 「そうね」  答えながら、佐代子は大根を半分残して箸《はし》を置いた。胸がつかえて食欲がなかった。 「よくよく考えれば、私たちには何を言う資格もないのかもしれないけれど、といって、このままほうって傍観しているのもつらいのよね」  おでん屋から望月の携帯電話に連絡し、一時間後の九時、三人は望月が指定した酒場で会う段取りになった。  夜の空を、色とりどりのネオンサインが、まるで抽象画のように塗り分けているようなススキノの一画のビルのなかに、その酒場はひっそりとドアを閉ざしていた。  ほの暗い間接照明と、黒っぽい無機質のテーブルや椅子、そのあいだを音もなく立ち働く若いウェイターたちも、そろって黒っぽい服装だった。カラオケのない広い空間は、酔うためよりも話しこむためにやってきた客たちが、そこかしこに物静かな談笑の輪をひろげている。  すでに望月はボックス席に陣取り、彼の名前のプレートをさげたスコッチのボトルを前に、オンザロックのずんぐりとしたグラスを握りしめ、ふたりを見ると弱々しくほほえみながら、グラスを軽くかかげてみせた。 「なんか、すまないとしか言いようがないな。おれと修子のことで、ふたりに心配かけちゃって」  近づいてきた二十代のウェイターに加賀美は水割りを、佐代子はやや薄めの同じものを頼む。 「しかし、話はとうに通じてると思うが、結局は、つまり、そういうことでね、佐代ちゃん。おれのでる幕じゃないんだ。おれがとやかく言える立場ではないってことさ」 「モッちゃんは全面的に修子の言いぶんを信じているの?」 「修子は嘘をつく人間じゃない」 「これまではね」 「おれさ、つきあっていた彼女と別れたのが早すぎたと後悔してるよ」  望月は自嘲《じちよう》の笑みを口もとに刻んだ。 「こんな逆転が待ちかまえているのだったら、もう少し時間稼ぎをしておくんだった」 「あのね、モッちゃん、私はどうしても修子があなたをからかったとは思えないの」 「ああ、修子はからかってはいない。試してみただけさ、おれの反応を」 「そうじゃなくてね……」  佐代子は自分の想像を望月に語ってみた。彼の子をうむのを拒否しているのは、結婚観の違いが大きすぎ、それが修子を不安におとしいれているのだろう、と説明の途中で、くり返し力をこめた。  望月は床に視線を落とし、耳を傾けつづけた。 「……だからね、私は、もっとあなたたちがおたがいの考え方を歩み寄らせるというか、その点をどうにかできないかって。修子の手術はあすに迫っていることでもあるし、で、こうして、おせっかいを焼いてるのだけれど」  加賀美も口をそえた。 「修子と話しあう余地はないのかな、望月」  望月からの返事はなかった。  しばらく寒々しいような沈黙がその場にはりついた。そこだけ室温がさがったような、そんな感じがした。  望月がグラスの残りを一気にあおり、あらたな一杯をみずからこしらえながら、ようやく口をきった。 「修子は基本的に、おれという人間を信用してないんだ。これは前々からわかっている。だから、おれが結婚して、物分りのよい、協力的な亭主になるといくら強調しても、その根っこの部分で疑ってかかる。おれと修子の話しあいが堂々めぐりで、らち[#「らち」に傍点]があかないのはそのためなんだ。そう、おれが心を入れ変えた、改心したと言えば言うほど、眉《まゆ》つばものに聞こえるらしい」  佐代子にかわって加賀美がたずねた。 「どうして修子はお前を信用してないって言えるんだ。そうじゃないか。だって、修子とは四年間もセックス・フレンドでいたんだろう? 四年間もだぞ。だったら、そんなはずないじゃないか」  オンザロックのグラスをつかみあげ、氷とスコッチの琥珀《こはく》の小さな海にむかって望月は低く答えた。 「だからなんだ」 「だからとは?」 「四年ものあいだセックス・フレンドに徹しきっていられたおれを知ってるから、修子はおれと結婚したがらない」 「言っている意味がわからないな」 「セックス・フレンドの四年間、おれはいっぺんも修子に惚《ほ》れなかった、それどころか、ほかに彼女をこしらえた、要するに、修子はおれの性欲の対象にすぎなかった、と修子は思いこんでいる」  佐代子と加賀美は慎重に口をつぐんでいた。 「ところが子どもができたとたん、おれの態度はがらりと変わった。しかし根本は変わっていないんだ、と修子は指摘したよ。性欲の対象から、おれの子の母親[#「おれの子の母親」に傍点]に移行されただけだって。もしくは、子どもの母親と家政婦をかねた存在……おれの女房である前に、おれの子どもの母親……ほら、腹は借り腹っていうひどい言い方があるだろう? 子孫を残すには母体などは単なるいっときの仮のものという。おれの考えは、せんじつめれば、それと同じだ、と。これは修子が言ったんだ」 「それで、お前は?」 「もちろん、ひとつひとつ反論したり、否定したさ。でも、修子はセックス・フレンドとして四年もかかわってこられたおれを責めてくる」 「しかし、修子だってセックス・フレンドの関係は納得ずくだったんだろう?」 「おれもずっとそう思っていた。が、そうじゃない時期があったらしい。くわしくは言いたがらなかったが、そのとき、おれは、まるで無神経で鈍感なふるまいをして、修子を傷つけたらしいんだ」 「そういう時期は、お前にはなかったのか?」 「おれも振り返ってみたよ。そうするとだ、おれは四年のあいだ、修子に甘えっぱなしだったな、と。惚れたはれたを、いちいち口にする前に、修子がおれのそばにいて当然という感覚だったと気づいた……いつも、どんな場合も、修子はおれのすぐそばにいてくれた。面倒な手順をふむ必要もなく、会いたいときに会える相手として」  望月と修子の四年にわたる感情のずれや交錯、しぜんと彫りこまれた溝や亀裂《きれつ》などが、いま一挙に表面化し、ほとんど修復できそうにもない恐れが、佐代子の直感をおびやかしていた。四年間、それは、あらゆる角度から、しつこく、念入りにくり返されてきたに違いない。アトリエ「由良」で会った修子の強硬な物腰が、そこに結びつく。  望月と加賀美のやりとりに、佐代子もいそいで割りこんでゆく。 「修子に甘えっぱなし、というのは、言葉をかえれば、修子を愛していたという証拠じゃないの?」  望月は気弱さをにじませたまなざしで、佐代子を見返した。 「おれはわからない。そうかもしれないとも考えた。しかし、修子の見方によると、それはおれの身勝手さのあらわれだ、と。修子に対しては、どんなことも何をやってもかまわないと見くびっていた、というんだ。昔ながらの男の発想だって。女を自分より一段下に見おろすことによって成立する男ならではの愛情の持ち方。対等の愛じゃなくて」  そこまで望月を非難し攻撃するのなら、修子はなぜ四年もセックス・フレンドに甘んじていたのだろう、佐代子は同性ながら、その気持がとっさには理解できなかった。  が、数秒後には、その疑問を訂正した。  修子は迷ったり、揺れたり、憤ったりしながらも、望月に何かを期待し、それがまったく見こみがないと自分のうちで決着をつけるまでに四年の歳月がかかったのかもしれないのだ。  そして、皮肉にも、きれいに心の整理がつきセックス・フレンドを解消したとたんに、妊娠が判明した、ということではないのか。  ただ、修子はとうに望月との関係に見切りと見きわめをつけ、それは妊娠の事実によっても、ひるがえすことが不可能なぐらい強固なものに練りあげられていた……。  望月が手にしたグラスを手首を使って軽く回転させた。氷の音がカチカチと小気味よく鳴る。 「いま話したようなことは、この数日間、いやになるぐらい修子とやりあっていたよ。その結果、はじめて修子の気持や何を考えていたか、わかったようなわけで。おれたち逃げていたんだよな。ふたりでいても、話題はもっぱら仕事や加賀美や佐代ちゃんについてで、自分たちのことは、なるたけしゃべらなかった、しゃべらないようにしていたんだな、核心をつくような話は」  やや間《ま》を置いて、加賀美がたずねた。 「望月、これから修子に会いにゆく気はないかな」  瞬間、望月がかすかにつらそうに顔面をゆがめたのを、佐代子は見のがさなかった。 「修子とは、もうめいっぱい話しあったと思うから、別に……」  ほとんど絶望的な心境になりつつも、佐代子は言わずにはいられなかった。 「子どもの父親は九十九パーセント、モッちゃんのはずよ、いえ、百パーセントそう」  意外にも望月は深々とうなずき返した。 「ああ、おれもそう信じている。修子はどたん場にくると、ぜったいに嘘のつけない、本心をさらけだす性格だから」 「だったら、モッちゃん、修子に会ってみて」  望月は、心中の苦痛をゆらめかせた視線を、佐代子と加賀美へ交互にむけた。 「いったんおれの子だ、と言ってきたのに、次は、そうじゃない、と頑固に言い張る修子の態度が何を伝えようとしているのか、おれだって少しはのみこめるよ……修子はさ、徹底して、おれを拒否しているんだ、おれの子ども、もね」  一瞬、望月はきつく目をつむり、そうやって呼吸をととのえるようにしてから、ふたたび話しだす。 「これこそがボタンのかけ違いってやつだな。もし仮に、おれたちがまだ、セックス・フレンドの間柄でいたのなら、こういう結末にはならずにすんだかもしれないな。しかし、今さら、こんな愚痴をこぼしてみたところで……おれが修子にまんまと一杯食わされた、だまされた、といったことにしておくほうが、まだ救いようがあるだろう? おれらしくてさ」  最後の台詞《せりふ》を、望月はわざといたずらっぽい口調で語ったが、佐代子と加賀美の表情はほぐれなかった。固さをはりつけていた。  もうしばらく飲んでゆく、という望月を残し、ふたりはススキノの路上にでた。  十一月もあますところ数日となった夜の気温は氷点下になっているらしく、ウールのライナーつきのトレンチコートを着ていても、冷気がどこからともなくしのび入ってくる。  ススキノの地下鉄駅へと並んで歩きだしながら、佐代子も加賀美も押し黙りつづけた。  ゆきかうひとびとの、いかにも屈託のない笑顔や高らかな笑い声が、いつになく目と耳に強烈にとびこんできて、佐代子をとまどわせた。  ここ久しく思いっきり笑ったことがないような錯覚をいだかせたからだ。  しかし、実際は修子の妊娠の件が持ちあがってから一週間もたっていない。それなのに、そのわずか数日間のうちに、相当のエネルギーを消耗していたらしい。  歩きながら加賀美がどうにでも取れる問いかけをしてきた。 「どうする? 佐代ちゃん」 「……どうするって?」 「うん、つまり、修子に対して、とか、今夜これから、とか」 「なんだか、いまは何も考えられない気分」 「じつは、おれも同じ気分でね」 「そう、加賀美さんも……」 「妙に後味が悪い。いや、むなしいといったほうがいいかもしれない。でも、そのむなしさの正体がわからないんだな」 「だれかにむかって、まっすぐ腹を立てられるのなら、まだすっきりする。へんに理解できてしまうのが、いっそうむなしい。修子の気持もモッちゃんの気持も、そこそこにわかっちゃうところが、やりきれないみたい」  地下鉄の乗り場につながる地下の階段口まで、あと数メートルだった。  佐代子の視線は、その降り口の手前に並ぶ四台の電話ボックスに吸い寄せられた。四台のうち三台がふさがっている。  ネオンサインのあかりを頼りに腕時計をのぞくと、十時はとうにすぎ、しかし十時半にはなっていないのが、小さな文字盤のなかに確かめられた。 「私、ちょっと電話してみるわ」 「修子に?」 「ええ。予定どおりにあす病院にゆくかどうか、もういちどきいてみる」  修子は帰宅していた。その声はいつもよりさらに無愛想で、こまかい苛立《いらだ》ちがザラつく砂のようにふくまれ、つかのま佐代子をひるませた。それでも、佐代子はあえてたずねずにはいられなかった。 「やはり、あしたは病院へゆくの?」 「キャンセルするつもりはない」 「何時?」 「午前中」  ふいに佐代子は自分でも予想外の言葉を口走っていた。 「修子、私もついてゆこうか。会社は休めるわ」 「いらない」  そっけない返答だった。 「ついていってもらいたいときは、こっちから頼むよ。いちいちおせっかいしないでくれない? 加賀美さんとふたりで、私とモッちゃんの仲を取り持つような動きをしているらしいけれど、あのね、佐代子、そういうのって、私はいちばん頭にくるんだ。説明しなくてもわかるよね、言ってる意味は」 「……修子、私はそんなつもりでは……」 「そんなつもりも、こんなつもりも、佐代子は当事者じゃないんだから、とにかく黙って見ているだけにしてよ」  佐代子の応答を待たずに、荒あらしく電話はきれた。  受話器を手に呆然《ぼうぜん》と立ちつくし、やがて佐代子は自分に言い聞かす。修子は手術のことで気が立っているのだ、八つ当りしてきたにすぎない……。  電話ボックスをでると、加賀美が眉間《みけん》をくもらせて、すかさず声をかけてきた。 「どうした? 何かあったのか」  ううん、という答えのかわりに、佐代子は首を振った。  言葉がでてこない。なぜか胸がしめつけられるようで息が乱れた。  つい先刻の望月の話、たったいまの修子の対応が一緒くたになって、佐代子の感情のバランスが大きくくずれだした。 「それじゃ、これで」  そう言って別れるつもりで、加賀美を見あげたとたん、佐代子の目のなかにたまっていた涙がこぼれ落ちた。 「ごめんなさい、もう大丈夫。さっきの私はどうかしていたの」  タクシーはもうじき佐代子の住むマンション前に到着しようとしていた。  佐代子の涙を見た加賀美が送ってゆくと言い張り、根負けしてタクシーに同乗したものの、数分後には佐代子は自分の失態がきまり悪くて仕方がなかった。 「修子におせっかいだと怒られたわ」  と、タクシーに乗ってから加賀美に事情を語った以外は、車窓のそとに視線をむけつづけていた。  修子のきつい口調は今回だけではない。八つ当りされたのも一回や二回の話ではなかった。自分の神経がいり立って、それが頂点に達すると、修子は見境いがつかなくなって、そのときもっとも身近にいる人間に感情を暴発させる。そして、あとになって身をよじるほどに修子は後悔する。謝りの電話をかけてくる。  それは十分に知り抜いているはずなのに、今夜にかぎって、平然と受け流せなかった。多分、望月の打ち明け話が、自分で思っていた以上に心にこたえ、衝撃をもたらせていたのだろう。まわりの者はもとより、本人にもどうすることもできない、つらくて、哀《かな》しい内容が。  タクシーの後部座席に並んですわっていた加賀美が唐突につぶやいた。 「おれは役立たずの男だと、つくづく感じるよ」  佐代子が車窓から目をはなして振り返るのを待つように、彼はつけたした。 「佐代ちゃんがあれだけ真剣に修子と望月のことを心配しているのに、男のおれは何ひとつ役立てない。ふたりを説得する言葉もなく、同じ男として望月にアドバイスすることも」 「違うわ。何かできると考えていた私が思いあがっていたの。傲慢《ごうまん》だったのよ」 「弁解にすぎないけれど、こわれかけた男女関係をもとどおりにする力はないと、自分であきらめているところがあってね。おれがあれこれやっても、ぜったいにうまくゆかないんだ、と」  タクシーは表通りの角をまがった。 「運転手さん、あのKマンションでとめてください。ひとり、おりますので」  佐代子が指示し終ると同時に、加賀美が遠慮がちに言った。 「もう少し話したいんだけれど、佐代ちゃんの都合はどうだろう」 「じゃあ、部屋でコーヒーでも飲みましょうか」  とっさにそう返答し、あっけらかんとした口調に佐代子自身が驚いた。そこには想いがからんでいなかった。昔ながらの仲間の口ぶりにもどっていた。  望月と修子の件に振りまわされるうちに、加賀美への想いはわきにどけられ、恋の意識は希薄になっていたらしい。  それとも、現実の出来事に没頭するにつれて、想いはしぜんと消えていってしまったのだろうか。  支払いをしている加賀美より一足先にタクシーをおり、佐代子は凍《い》てついた空気のなかで小さく深呼吸した。冷気が肺にまでしみわたる。  加賀美とはじめてふたりだけでデートをした五月の土曜日が思い返されてきた。  そとで食事をしたあと、万が一、彼が部屋に立ち寄った場合を想像し、胸をときめかせ、不安につつまれながら、デートの直前まで掃除に励んでいたあの日。結局、そういう事態にはたちいたらなかった。  加賀美がタクシーからおり立つ気配を背中に感じながら、佐代子はマンションの共同玄関へ足を進ませる。  きょうの部屋の様子はどんなふうだったろうか。くわしくはよみがえってはこない。  ただ、ここ数日間は修子のことに取りまぎれ、整理整とんがゆきとどいていたとは、とうていいえなかった。もしかすると、他人の目には、ひどい有様とうつるほどかもしれない。  佐代子は振り返り、事前に告げた。 「ものすごく散らかってるかもしれないわ」  加賀美が白い歯をのぞかせた笑顔になったのが、外灯のあかりに照らしだされた。 「おれの所よりすさまじいかどうか楽しみだよ」 [#改ページ]     11  加賀美をともなって自分の部屋のドアの前まできた佐代子は、やはり室内の散らかり具合が気になりはじめた。  修子の件で頭がいっぱいな状態でいたため、今朝、出勤前の部屋のなかが、どんな有様だったか、ひとつも思い出せない。  テーブルの上に汚れた食器がのっていたり、床に何日ぶんもの新聞が投げだされていたりする程度なら、まあ、かまわないだろう。しかし、気がかりなのは衣類、特に下着類である。まさかとは思うけど、あちこちに、ぬぎちらかしてはいまいか。浴室に洗った下着がほしたままになっていないだろうか。  ドアの鍵穴《かぎあな》に鍵をさしこみながら、佐代子は横に立つ加賀美に苦笑を浮かべてみた。 「ちょっとここで待っていてね、ほんの一分だけ。見られたくないものがあるかもしれないから」  開けたドアのすきまに体をすべりこませ、室内にかけこんだ。  すばやく視線をめぐらせ、下着は落ちていないか、とチェックする。  キッチンづきの部屋と寝室は大丈夫そうなので、浴室にむかう。  やはり下見をしてよかった、と胸を撫《な》でおろす。シャワーカーテンの上に、ブラジャーとパンツ、ストッキングが、それぞれ二枚ずつほされていた。入浴するたびに、その日使った下着を手洗いするのが習慣になっていたのだが、今朝の記憶と同じく、昨夜の自分のこまかい行動は、すべてあいまいで心もとなかったのだ。  乾いている下着をレールからはずして寝室のタンスの引きだしに押しこみ、佐代子はふたたび急ぎ足で玄関へもどる。 「お待ちどうさま。どうぞ」  部屋に招《しよう》じ入れられた加賀美は、コートもぬがずに物珍しそうに室内を見わたした。 「ここが佐代ちゃんの住まいか……」 「あんまりじっくり見ないで。ボロが見えてきちゃうわ」  床に散乱している数日ぶんの新聞を一枚ずつ拾い集めながら、佐代子の気持は不思議と落ち着いていた。加賀美への想《おも》いは影をひそめ、昔ながらの友だち感覚でいられる落ち着きだった。  ドア一枚へだてたうちとそとの変化なのだろうか、と佐代子は自分でもいぶかしむ。  そとで彼と会っていたときは、意識せずに気取りや構えが働いていたらしい。それをいまになって自覚する。けれど、自分の生活そのものの場に、こうして彼を踏みこませてしまうと、奇妙に肩の力が抜けた感じだった。気取っても構えてもはじまらない、といった、くつろいだような、同時に開き直った心境だけがひろがってゆく。 「コーヒーとか紅茶しかないけれど、何がいいかしら」 「それじゃあ、おれはコーヒーを」  遠慮がちにコートをぬいだものの、どこに腰かければいいのか、ととまどっている加賀美に、佐代子はキッチンわきのテーブルの上の食器を片づけつつ、壁ぎわのこぶりのソファを指さして示す。  パーコレーターでいれたコーヒーをテーブルに置く頃になっても、加賀美はまだ興味深げなまなざしを、部屋のあちこちにそそいでいた。 「本当にそんなにじろじろ眺めないで。ここ数日はお掃除もしていないのだから」 「ここには何年ぐらい住んでるの?」 「ええと四年かしら」 「四年にもなるのに、見事なほど余計なものというか、ごちゃごちゃしたものがないんだな。ほら、だれかからもらった観光地のみやげのコケシとか、古雑誌のたぐいとか」 「以前はそうだったわ。捨てたくても、どうしても捨てられずに、ただなんとなくとっておいて……でも、あるときから使わないと思ったものは、どんどん処分するようになったの」 「へんな執着心を持たなくなった……」 「というより」  一瞬、佐代子は自分の心をのぞき見るように、両手につつみこんだコーヒーカップに目をむけた。  あるとき、ふいに訪れたあの心理をどう説明したらいいのだろう。四年前の失恋のあと、ある日いきなり長く着こんでいた愛着の衣《ころも》をぬぎ捨てるように、なんの未練もなく思い立ったのだ。 「私、思い出だけに囲まれて暮らすのはよそう、いやだと思ったの。過去形のなかに生きるのじゃなくて、つねに現在進行形で生きようって。たとえ、それが味気ない、おもしろ味のない現在進行形であろうともね」 「……だから思い出の品は処分する」 「ただ目に見える品物は処分しても、思い出は心に刻まれるという事実も、そのおかげで、いやというほど教えられたわ、くやしいけれど」  佐代子の口ぶりがおかしかったのか、加賀美は楽しげな笑い声をあげた。 「ようやく昔ながらの佐代ちゃんらしいしゃべり方になってきたね」 「そうかしら」  佐代子も小さく苦笑を返す。 「おれのいまの住まいも、ここと似ているよ。彼女との生活を思い出させるものは、いっさいないから。もしかすると、ひとは、一緒に暮らさないまでも、その住まいに出入りする相手があらわれるのと同じくして、いわゆる余計なもの、余分なものが、またたくまにふえてゆくのかもしれないな。ふえたのは、その相手ひとりじゃなくて、その相手とかかわる、もうひとりの新しい自分のぶんも。それでいて、これまでどおりの自分もいる。だから、あっというまに余計なものが山積みになる」  佐代子の脳裏に、つかのま放念していた修子の姿が再度よみがえってきた。  あすの午前中、修子は手術を受ける。  望月との関係で「ふえたもの」を、みずからの意志で、望月の猛反対にもかかわらず、切り捨てようとしている。 「……でも、いまの加賀美さんのたとえでいうと、当事者の知らないうちに、あっというまにふえてゆくこと、現実に押し切られ、流されることも、もしかすると、ひとつの幸せかもしれない……」 「どういうこと?」 「私にもうまく語れないけれど、現実の出来事に、きちんとひとつずつ冷静に判断し、行動してゆくのも大切とは思うけれど、ときには、冷静じゃなく、流れにのみこまれてしまう自分がいてもいいじゃないか、というか、自分の計算外のことに身をゆだねるのも貴重じゃないかしら、という……」  佐代子の言葉から、加賀美も修子を連想したらしく、彼はふっつりと口をつぐんだ。  なんということもなく、佐代子はつぶやいていた。 「かわいそう」  修子だけではなかった。望月に対する同情もこめられていた。  双方の言いぶんを聞かされたいま、よりどちらの側につくという発想は持てなかった。  修子の気持もわかる。  しかし、望月にしても彼なりに、めいっぱい努力したのだ。 「ひとの心のむずかしさを、あらためて、しみじみ感じるわ」 「ああ」  加賀美がコーヒーカップを持ちあげ、それにむかってうなずく。 「けっして簡単なものじゃない」 「ね、もういちどくり返すけれど、私たち、こうして黙って見ているしかないのかしら」  軽く眉間《みけん》を寄せ、加賀美はコーヒーをすする。返答はない。 「修子の手術はあすなのに」  壁の時計に目をやると、十一時になるところだった。  佐代子が時刻を確かめた仕草を勘違いしたらしく、加賀美はコーヒーカップをテーブルにもどし、ソファの上で姿勢をあらためた。 「じゃあ、そろそろ失礼するよ。夜遅く押しかけてきてすまなかったね」  思わず佐代子は言っていた。 「あら、もう、帰ってしまうの」  想いのからまない友だち口調ではあったけれど、どことなく恨みっぽいひびきが自分でも意外だった。  友だち感覚と異性意識が、ごちゃまぜになっているらしいとは思うものの、自分でも判然としない。  判然としないまま、さらに佐代子は口走っていた。 「まだ帰らないで。ここにいてもらいたいの」  加賀美のまなざしに、かすかな動揺の気配を見て、ようやく佐代子は自分のいまの言葉が微妙なニュアンスをおびていたと気づく。  あわててつけたした。 「修子のあすのことを考えると、今夜は眠れそうにないの。それに、なんとなく心細くて、ひとりになりたくない気分なもので」  そう言ってから、またもや、いそいで補足した。 「いえ、むりに引きとめはしないけれど。加賀美さんはあすも仕事が忙しいのでしょうし……ごめんなさい、私、勝手なこと言ってしまって」  ふいにわれに返り、佐代子は加賀美とむきあっている息苦しさから逃げるように、キッチンへと立った。  何か、まったく別のことを言わなくては、とあせる。 「コーヒーのおかわりは?」  ひと呼吸あと、背中に加賀美の返事を聞く。 「そうだなあ、それじゃあ、もう一杯」  保温にしておいたコーヒーポットを手に、テーブルに引き返した。加賀美と目をあわせるのを避けつつ、彼のカップにつぐ。 「おれも今夜は眠れそうにないんだ」 「……そう」  ふたりはそれぞれ二杯目のコーヒーを黙って飲みはじめた。  佐代子は、ついいましがたのバツの悪さを心のすみに残しながらも、加賀美がこうして一緒にいてくれることに、ひどく安らいだ心地になっていた。  十年来の友だちならではの安らぎなのか、心|惹《ひ》かれる異性によってしか与えられない甘さと潤いのまじりあったそれなのか、ここでも佐代子は区別がつかなかった。  と、同時に、これは区別がつくことではなく、むしろ、ふたつの要素があわさっての安らいだ気持ではないのか、とはじめて思いいたる。  修子と望月が四年間もセックス・フレンドの関係をつづけられていた理由が、ようやく理解できたような、そんなひらめきが胸をよぎっていった。  ふたりはおたがいに気心の知れた居心地のいい相手だったのだろう。  たがいに十分に男であり、女でありながら、性別をこえた親友であったに違いない。  佐代子と修子が親友であるような、加賀美と望月が親友であるみたいな、そういう親友よりも、もっときれいごとではない、弱点をさらけだしあい、ときに腹を立て、ときに許せないと敵対するような、そういった親友。  恋人同士だから、夫婦だから、当然、親友でもある、というわけではなく、男性の側の都合と女性の側の都合のみで結びついているカップルも少なくはない。そこでは、金銭をはじめとする利害関係が結びつきのかなめになっていたりする。  それとも、こうした見方は、やはり佐代子の買いかぶりにすぎないのだろうか。  実際、修子は望月の子どもをうむのを拒否している。この点からさかのぼってゆくと、結局、ふたりを結びつけていたのはセックスだけなのか。  考えている途中で混乱が生じてきて、佐代子はすべての想像を念頭から払い落とした。  目の前に加賀美がいる。  ただそれだけで自分は安らいだ心境になる。  少なくとも自分はそうなのだ、と佐代子は、修子と望月の関係を自分に引きつけて解釈しようとしたむりを悟った。  沈黙を破って、加賀美が口をきった。 「つきはなした言い方かもしれないけどね、修子と望月に対して、やっぱり、おれたちは何もできないんだと思うよ」  佐代子は膝《ひざ》の上のコーヒーカップに視線をそそぐ。 「佐代ちゃんとおれがふたりについて心配するのは、所詮《しよせん》、おれたちの勝手な、一方的な心配で、あのふたりからすると、余計なおせっかいかもしれない。ふたりから相談を受けたのでもないのだからね」 「それはそうだけど」 「おれたちにできるのは、たとえ修子と望月の仲がどんなふうになろうとも、これまでどおりに、それぞれに対しては友だちでありつづけることぐらいじゃないかな」 「もしかすると、この先、四人そろって会う機会はないかもしれない……」 「ああ、淋《さび》しいけれど、仕方がないんだろうなあ」  唐突に佐代子は自分でも予期していなかった質問を発していた。 「加賀美さんは、いまでも別れた奥さんに会いたいと思うときはある?」  明らかに彼は面食らった顔つきになった。だが、考えこむ様子もなく、すみやかに返答はもどってきた。 「いや、ないな」 「そういうものなの?」  詰問《きつもん》口調の自分に佐代子はたじろぐ。先刻、望月と別れ、修子に電話をかけたあと、いきなりおそってきた感情の高ぶりが、いったんは鎮《しず》まったとみせて、心のすみでくすぶっていたらしい。  そう自覚しながらも、佐代子は自分を抑《おさ》えきれなかった。 「ね、本当にそういうものなの?」  非難めいた口調に、さすがの加賀美も気分を害した気配を見せた。目もとに、かすかなけわしさが刷《は》かれた。 「一般的にはどうなのか、おれは知らない。しかし、おれの場合は、彼女に会いたいとは、まったく思わない」 「奥さんが現在どういう暮らしをしているか、確かめたくはない?」 「確かめるまでもなく予測はつく」 「予測がはずれているかもしれないじゃない、そうは思わないの?」  次第にエスカレートしてゆく自分をとめようがなかった。  何を、どうしたいというのか。  なぜ、加賀美につっかかる口ぶりになるのか。彼を責める根拠も、その必要もないではないか。  けれど、いったんつっ走りだした佐代子の感情はブレーキがきかなくなった。 「どうなのよ? 加賀美さん」 「やめよう、佐代ちゃん。今夜のきみは少しおかしい」  加賀美が引きしまった表情で、軽くいさめた。いつもの佐代子らしからぬ言動を、彼もようやく察知したらしい。 「修子や望月の件で、きっと佐代ちゃんもまいっているんだよ」  だが、なおも佐代子はしつこく食いさがった。 「どうして奥さんについて確かめたくないの? 別れた男と女って、そういうものなの?」 「頼む。落ち着いてくれないか」 「私はまだ返事を聞いてないわ」 「どうして、そんなに聞きたいんだ?」 「わからない。わからないけれど、とにかく聞きたい」 「なんのために?」 「私のためよ、これからの私のため」  一瞬、加賀美は虚《きよ》をつかれたまなざしになり、やがて、その視線はベランダのチェック柄のカーテンへむけられた。 「佐代ちゃんの言っている意味が、おれにはわからないが、でも、そんなに聞きたいのなら……彼女は、恋愛の相手だった男と幸せにやっているはずだ。おれと離婚して、ふたたび独身にもどって。だからだよ、おれが確かめるまでもないと思うのは」  佐代子の内側でざわめいていたものが、急速に凪《な》いでゆく。 「……そうだったの」  加賀美の返答の内容がそうさせたのか、あるいは彼がきちんとまともに答えてくれたのが、佐代子の気持を晴らしてくれたのか、よくわからなかった。その両方かもしれない。  けれど、凪いだと感じた心の状態はいっときで、またもやバランスを欠きはじめた。ざわめくのではなく、重苦しく沈みだした。 「加賀美さん……」  佐代子は泣き笑いのような表情になった。 「今夜の私、やっぱり、おかしいみたい。自律神経のどこかが故障したのかしら……」  言い終らないうちに、なんの感情もわかないまま、佐代子は涙をこぼしていた。  なぜ泣いているのか、自分でも困惑する。  哀《かな》しいとかつらい、やりきれないといった、まとまった気持はないのだ。  むしろ、感情は不思議なくらい麻痺《まひ》している。  それなのに気分はなだれるように沈みこみ、ひたすら落ちこみはじめ、ただ涙だけが流れでる。 「疲れているんだよ、きっと」  加賀美がテーブルの下からティッシュペーパーの箱を拾いあげ、佐代子のほうへさしだした。  一枚抜き取り、佐代子は頬《ほお》の濡《ぬ》れをぬぐう。 「……そうね、それ以外に原因は思いあたらないし」 「ここ数日のあいだ、修子と望月のことでばたばたして、佐代ちゃんは自分で思っている以上に、精神的に疲れていたのじゃないかな」 「私、そんなにヤワな人間のつもりじゃなかったのに」 「わかんないさ、人間なんて。おれも離婚でもめていたときは、拒食症と過食症に交互におちいって、自分でもどうしようもなかった。そして思ったよ、自分ひとりでさえままならないのだから、他人をどうこうできるわけがないんだ、と」  それから加賀美はおもむろにソファから立ちあがった。 「眠れなくてもベッドに横になって体を休めたほうがいい」  引きとめたいのと、このまま見送りたいのとに佐代子の胸は半々に引き裂かれた。  想いからではなく、今夜はひとりになるのが不安で、だれかにそばにいてもらいたい。  しかし、何も言いだせずに、佐代子は玄関先にむかって歩きだした加賀美のあとをついてゆく。  彼が靴をはきかける段になって、ようやく佐代子は口を開いた。 「あのう、加賀美さん……さっきはごめんなさい。奥さんのこと、むりやりきいたりして……」 「いや。かえってよかった気がする。あんなこと、だれにも言えなかったんだ。言ってみて、なんか、こう、すっきりしたよ」 「今夜の私、ひどかったわね。軽蔑したでしょう?」 「軽蔑はしないが」  加賀美が振り返り、その勢いで彼のコートの一部分が佐代子の顔面をかすめた。 「けど、コワかったな」 「悪かったわ、本当に」 「女のひとは、たいがいああいうコワさを持っているよ」  加賀美との距離が近すぎた。  そっとあとずさる佐代子に、加賀美が心配声でたずねた。 「大丈夫か、佐代ちゃん」 「ええ、もう」 「もし、なんなら、おれ、いようか?」 「……いいの?」 「うん。これ以上、身近な人間を失いたくないよ。これで佐代ちゃんが病気にでもなったら、おれは立ち直れなくなる」  その言葉が佐代子の構えを一挙に解いた。  はじかれたように、そして、子供にまいもどったような衝動にかられて、佐代子は彼にむしゃぶりついていった。  涙がふたたび勢いよく噴きだしてくる。それも、やはり子供じみた、気取りも恥じらいもほうりだした泣き方だった。 「修子にも、モッちゃんにも、なんにもしてあげられなかった……だれも悪くない……でも、どうしてこうなってしまうのよ……」  抱きとめる加賀美の腕もまた弱すぎず、強すぎもしない力を返してきた。  翌日は早朝から悪天候だった。  いつもと変わらぬ時間に出社し、仕事についたものの、佐代子はひんぱんに手をとめて、視線を窓に投げかけてばかりいた。  会社のビルの窓は、雨とみぞれと風にさえぎられ、まるでよじれたビニール・シートでおおわれているようだった。空の色も識別できない。  修子は予定どおり病院にでかけたのだろうか。しかも、望月の同伴も拒んで、たったひとりで。  正午になる一時間前、佐代子はトイレに立つついでに、一階のフロアの公衆電話におりて、修子の部屋の番号をまわしてみた。  聞こえてきたのは留守番用に録音された、修子の事務的な口調だった。  どうやら修子は予約をキャンセルせず、このどしゃぶりのなか、手術を受けにいったらしい。  昼休みは、毎日定時にあらわれるお弁当屋さんの女性からサンドイッチを買い、混みあう休憩室ではなく、机の前で包みを開けた。  朝と同様に食欲はなく、ハムと卵のサンドイッチをひと切れ食べると、もうそれだけで胸がつかえた。紙パック入りのジュースで流しこもうとしたが、どうしてもふた切れ目に手がのびなかった。  修子について、あれこれ想像をめぐらせ、しかし、ふっと気をゆるませると、加賀美との昨夜の出来事が、そこだけ彩色したようなあざやかさでよみがえってきて、佐代子をたじろがせた。あわてて記憶をむこうに押しやって、思い出すまいとつとめる。  結局、加賀美とはあれ以上のことはなかった。  一種のヒステリー状態におちいり、それを彼がなだめてくれた、という説明はつく。彼にしても、あの状況をそのように受けとめているに違いない。  しかし、佐代子は、自分のあのときの気持は単にそれだけではなかったのをおぼえているだけに、きまりの悪さだけでは片づかなかった。  しかも自分でも不可解なのは、加賀美の別れた妻の現在について、あれほどしつこくこだわったことだった。  日頃は考えさえもしなかったのだ。一応、離婚という決着がつき、それはもう加賀美にとっても終ったこと、という割り切った見方をしていたはずなのに、それとは正反対の言動にでた自分が意外であり、まったく違う自分の一面をつきつけられた心地がする。  確かに昨夜は精神的に疲れていた。  だが、加賀美がそばにいなかったら、それは自分なりに処理してきた疲労感だった。  彼に甘えたかったのだ、と佐代子は胸のなかで、うつむくようにして思う。  甘えたいという気持が、あのような取り乱した態度を羞恥心もなく引きだしてきたのだ……わがままをしてみたかったのだ……。  午後になっても、雨とみぞれと風の荒れ模様はつづいた。  みぞれが、ときおり、しめった雪片に変わったりもした。  天気の悪さが日没を早めた午後の四時すぎ、加賀美から電話がかかってきた。 「調子はどうかな? いや、きのうのきょうだから、ちょっと気になってね」 「……迷惑をかけてしまって」 「それはいいんだけど。で、修子から連絡とかはあったの?」 「ううん、何も」 「いまはそっとしておくほうがいいのか、それとも様子ぐらいはきいたほうがいいのか」 「私も迷っているの」 「そうか」  と、ため息まじりにつぶやいてから、彼は、 「あとでもういちど電話するよ」と言って電話をきった。  昨夜にこだわる気配のない加賀美の口ぶりに、佐代子はほっとすると同時に淡い物足りなさも感じた。  が、彼がこだわりのある口調であったなら、いたたまれなさにおそわれ、しどろもどろの対応になっていたに相違ないのだが。  終業時の三十分前、ふたたび電話を取りつがれ、加賀美だろう、と思いこんで受話器を耳に当てると、相手は望月だった。 「佐代ちゃん、頼みがあるんだ。きょうこれから、おれにつきあってくれないか」 「つきあうのはいいけれど、でも……」 「時間は取らせない。会社の前まで車で迎えにゆくし。頼むよ」 「どこへゆくの?」 「文句はつけないでくれ、もう決めたから。修子の見舞いにゆきたいんだ」 「モッちゃん、気持はわかるけれど、ただ、修子にしてみれば……」 「とにかく今回だけは、おれのやりたいようにやらせてくれないか。頼む」 「修子に会って、面倒なこと言いだすのじゃないでしょうね」 「もう何も言わないさ。修子の体だけが心配なんだ」 「修子の所にお見舞いにゆくかどうかはあとで決めましょう。わかったわ、じゃあ五時すぎに通りの反対側に車をとめておいて」  望月は車の後部座席に、すでに籐《とう》の器にアレンジメントされた小さな花籠《はなかご》を用意し、佐代子を助手席にすわらせると、すぐさま車のアクセルを踏んだ。 「いき先はどこなの?」 「当然、修子の部屋だよ」 「まだ病院から帰っていないかもしれないじゃない」 「いや、四時前にもどっている」  確信にみちた言い方に、思わず佐代子は望月を見返した。それに対して、望月は横目で応《こた》えた。 「修子の行動は朝からすべて把握しているよ」 「じゃあ、修子と仲直りしたのね」  勢いづいて問い返す。胸のくもりが一気に払い落とされた気分だった。  だが、望月は歯切れ悪く答えた。 「いや、そういうことではなくて……誤解しないでくれよ、佐代ちゃん。おれは修子をほうっておけなかっただけで。それで、朝っぱらから、この車であいつの動きを見張っていたというか、つまり、そういうことで」 「見張り?」 「ああ。万が一、何かあったらと思ってさ、きょうは仕事もほったらかして、ずうっとこの車のなかにいるよ」  仲直りではなかったと知ってがっかりしたけれど、佐代子は望月の「見張り」を、とがめる気持にはなれなかった。かえって、そうしてくれたことを、ありがたくもうれしく感じた。 「しかし、おれが部屋にいっても、多分、修子はドアを開けてくれないだろう。それで佐代ちゃんにこうしてきてもらったわけなんだ。言っとくけれど、おれは、この目で修子の様子を確かめたいだけ、それだけなんだ」  夜になって天候はやや回復してきたのか、風のなかからみぞれは消え、フロントグラスは雨の渦状の模様だけをひろげていた。 「それと、佐代ちゃん、頼まれてくれないかな」  言いながら、望月はツイードのジャケットの内ポケットから封筒を抜き取ると、佐代子の膝の上にのせた。 「これ、修子に渡してほしいんだ。手術代。きょうでなくてもいいから」 「その話は修子とついているの?」 「ついていないから、こうして佐代ちゃんに頭をさげている。いや、話をそこまで持ってゆく時間がなくてさ。とにかく、おれたちは、うむ、うまないでもめていたから……あいつ、そんなに金を持っていないはずなんだ。デザインの勉強とかで、自腹を切って東京のファッション・ショーを観にいったりしてたからな。おれもうかつだった。もっと前にこの金を渡しておけば……」  ふいに望月は口をつぐんだ。こみあげてきたものを必死にこらえている横顔だった。 [#改ページ]     12  夕方五時台の帰宅ラッシュに巻きこまれ、望月の運転する車が修子の住むマンションにたどりついたのは、ほぼ一時間後の六時すぎだった。  日中だと、佐代子の勤務先から三十分とかからない距離である。  あと二日でカレンダーが十二月にかわるその日、ふたりが車からおり立つ頃には、とうに陽《ひ》は沈み、四階建てマンションのベランダのいくつかには、あかりがともっていた。部屋の間取りは、すべて1DKとなっている独身者むけのマンションのため、建物の壁面が窓あかりでにぎわうようになるのは、夜の九時をすぎてからだった。四階建てだが、エレベーターはない。  望月は籐《とう》のバスケット盛りの花籠《はなかご》のほかに、大ぶりの紙袋をさげ、そして、佐代子の申し出をことわって、三階の修子の部屋までそれらをかかえて階段をあがりだす。  玄関のチャイムを押し、留守なのだろうか、とふたりが不安げに顔を見あわせたほどの時間を置いてから、インターコムから修子の応答が聞こえてきた。 「……はい?」  かろうじて声になっている、といった弱りきった発声だった。 「ごめんなさい、連絡もせずに。佐代子です」  それに対する反応はなく、数分後、玄関のドアがカチリとあけられた。鍵《かぎ》をはずすと同時にドアの重味だけで開いたような、そんなあき方である。  ドアのすきまからのぞいた修子の顔は、まったく血の気がなかった。ふだんから血色がよいとは言いかねる顔色だったけれど、今夜は、玄関先のほの暗さのなかで、そこだけ卵型にくり抜いたような白さを浮かべていた。 「……ああ、佐代子、きてくれたの……」  力なくそう言ってから、修子は、佐代子の背後にたたずむ望月の姿を認めた。 「……モッちゃん……どうして……」  だが、佐代子と望月の予想に反して、修子はそれ以上ひと言の拒否の台詞《せりふ》も口にしなかった。そう簡単に望月は部屋に入れてもらえないだろう、とここにくる道すがら、ふたりは車のなかで検討し、そうなることは十分に覚悟していた。その場合は、望月は修子にさからわずに退散し、佐代子がもどるまで車で待っている、ということも。 「とにかく、あがって」  佐代子と望月を部屋に招《しよう》じ入れながら、修子はふたたび寝乱れたベッドの毛布の下に体を横たえた。 「悪いけど、あまり気分がよくないから」 「もちろんよ、そうしてちょうだい」  佐代子はベッドに近づき、修子の顔のまわりの毛布を引きあげ、肩をすっぽりとつつみこむ。 「気分が悪いって、どんなふうになの? 吐き気とか、痛みがあるとかなの?」 「めまいだけ。きっと軽い貧血状態じゃないかな。大丈夫、心配しないで。こうしていれば治るから」 「そうだといいけれど……」 「本当に心配ないって」  佐代子と修子のやりとりを黙って見守っていた望月が、おずおずとたずねた。 「修子、食欲はどうだ?」 「あるのか、ないのか、わかんない。麻酔をかけるために、朝から何も食べるなと言われて、で、ずっとそのままだし」  それを聞いたとたん、望月は手にしていた紙袋を修子へとつきだした。 「多分、そうだろうと思ったんだ。とにかくな、なんでもいいから、少しでも口に入れてみるべきだよ。食べ残したっていいんだ。おれ、修子の好きそうなもの買ってきたからさ」  言いつつ望月は佐代子を押しのけるようにしてベッドの手前の床にすわりこみ、紙袋の中身を次々と取りだしはじめた。 「ほら、修子がうまいと喜んでいたK鮨《ずし》の太巻きだろ、こっちは鰻《うなぎ》弁当、ほら見ろよ、T軒のシュウマイもあるし、この包みは、ひと晩おいても味の変わらないカツサンド。そして、これはカツサンドと一緒に買った野菜サラダ……修子、とりあえず、どれを食べてみる?」  望月のまわりは包装をといた食べものの容器がずらりと並び、あとは修子が食べたいものを指さすだけの状態だった。  すでに望月は割《わ》り箸《ばし》を握りしめ、修子のさしずを待つばかりの態勢をととのえている。 「ちょっと、モッちゃん、こんなに……」  呆《あき》れはてた口調で制し、だが、修子の視線は佐代子をとらえる。  そこに泣き笑いの表情がかすめすぎてゆくのを、佐代子は感じ取った。 「なあ、修子、ほんの少しでも食べてくれよ。そうでなきゃあ、おれは心配でたまらんよ。いてもたってもいられないってのは、こういうことだったのか、とはじめて知ったわけで……頼む、修子、せめてひと口でも。何が食べたいか言ってくれよ」  ベッドの上で修子は目をつむっていた。  つむったまま、弱々しく唇を動かす。 「モッちゃん、怒ってないの?」 「何が?」  まさしく怒ったように望月がきき返す。 「私のこと。私がこういう結果にしてしまったこと」 「いまさら仕方ないだろうが」  乱暴な望月の口ぶりに、佐代子は、それとは正反対の彼の心中をかいま見る思いがした。 「おれはこう見えても、わりとさっぱりした性分の男だからな。すんだことを、あれこれほじくり返す趣味はないんだ。おれのこんな一面、佐代ちゃんも修子も、ぜんぜん気づいてなかったろう? いつだって、おれを見くびっていやがっただろうが、ふたりとも」  悪ぶった、ふざけた言い方のかげに、望月の照れがあった。 「過去は過去、いまはいま。で、いまのおれの課題は、修子に食わせることさ。ほら、修子、どれを試してみるか言ってくれ」  修子は目をとじたまま、ようやく答えた。 「……太巻き」 「よっしゃ。ようやく言ってくれたな」  望月の箸が器用に太巻きのひと切れをつまみ取り、修子の口もとへと近づける。 「よし、口をあけて」  修子はひと切れの半分だけを口中におさめた。ゆっくりと、ひどくゆっくりと咀嚼《そしやく》しはじめる。 「どうだ、うまいか? 少しでも食べれそうか」  望月の問いかけに、修子はうなずく。  とじた目じりからこめかみに涙がひとすじ流れ落ちた。望月にわからないように、修子は手の指先ですばやくぬぐい去る。しかし、佐代子は見のがさなかった。  それとは知らずに望月はいちだんと陽気に声を張りあげていた。 「そうそう、忘れていた。修子の好きな塩タンの焼きたても買ってきたんだ。食べてみろよ、この店のはうまいぞ」  それから、はっとわれに返ったように佐代子のほうにむき直った。 「ごめん、佐代ちゃんもよかったら遠慮なく食べてくれよ。ほら、これなんかどうだ」  佐代子の目の前に串《くし》焼きの牛タンがぐいとさしだされ、佐代子も反射的に受け取っていた。 「あ、ありがとう、いただくわ」  二十分後、修子のもとに望月を残して、佐代子は帰途についた。  望月に車で送ってもらうまでもなく、修子の住まいから地下鉄でたったふたつ目で下車するだけだった。  その夜九時すぎに加賀美から電話がかかってきたとき、佐代子は夕刻の一件をこと細かく語らずにはいられなかった。  先のことはわからない。わからないけれども、棘《とげ》とげしかった修子と望月の関係が、あきらかになごみだしている事実を、うれしさとともに加賀美にも伝えたかった。 「あのままふたりが仲直りしてくれたらいいのだけれど。モッちゃんは……本当に、どう言ったらいいのか、なんか、こう……リッパだったの。人間がリッパに見えたのよね」 「そう。佐代ちゃんの期待どおりに一件落着となってくれると、おれもひと安心だな」 「修子の体調が回復して、四人そろってクリスマス・パーティーをやれたら、もう、何も言うことがないわ」  それには返答せず、わずかな間《ま》を置いてから、加賀美はふいに高ぶった調子で語りだした。 「この電話の前に、別れた女房の近況をきいてみたよ、東京の友だちに電話して。友だちの話によると、まずまず元気でやっているらしい。それを聞いて、想像は当っていたとはいえ、なんだか、あらためて肩の荷がおりたというか、ほっとした気持になったよ」 「……そう……よかった……」 「ああ。ばかげたことだけど、おれのほうが彼女に見切りをつけられたはずなのに、順調にいっているかどうか、別れてからずっと気になって仕方がなくてね。でも、きのう、佐代ちゃんにたずねられたのがきっかけになって、思いきって東京に電話してみてよかったよ」  加賀美の口ぶりの上《うわ》っ調子なのが、言葉どおりに安堵《あんど》感からくるものなのか、別れた妻の現在を知って感情が千々《ちぢ》に乱れた挙句の、単なる興奮状態によるものなのか、佐代子には見きわめがつかなかった。  別れた妻は「恋愛関係にあった男性と幸せにやっているだろう」と、昨夜の彼は淡々と語っていた。  だが、加賀美の本心は、離婚した妻の幸せなど願ってはおらず、むしろ、相手の男性との関係が破綻《はたん》するのを待ちわびていたのかもしれなかった。別れた妻だけが幸せになるのは許せない、といった一種の復讐《ふくしゆう》心や依固地《いこじ》さから。  しかし、もちろん、佐代子はそうしたことにはふれず、とにかく、やたらに明るい加賀美の声に調子をあわせた。 「これで加賀美さんも心おきなく第二の人生に踏みだせるってわけね」 「うん。離婚はしても、まだ妙におさまりの悪い心地がつづいていたけれど、これでふっきれたと思うよ、きれいにね」  加賀美の口ぶりは、依然として、高揚感につつまれていた。 「これからは、おれはばんばん遠慮なくやってゆこうと思うんだ」  何に対して、だれに対して、どうして遠慮していたのか、と問いただしたかったけれど、佐代子は口にするのはひかえた。気のせいか、いつもの加賀美の雰囲気ではなかった。 「考えてみると、おれは独身にもどったのだから、だれに気がねする必要もなかった。おかしなことだけど、ようやくその事実が実感されてきたよ」 「まだ結婚しているような錯覚があったの?」 「いや、錯覚はしていない。ただ、自分のうしろに何かの影がまとわりついているような、そんな感じかな」 「それが消えた……」 「彼女が元気でやっているとわかってね」 「元気がないよりもいいでしょう」 「ああ。もしそうなら、あれこれ考えてしまうだろうし、心配になるし」 「でも、もう心配しなくてもいい……」 「そういうことなんだろうなあ」  話しながら、加賀美が言外に告げている声にならない言葉を、佐代子は聞いていた。  いまだに彼女を愛している……。  結局は、そういうことだった。だから、別れた妻を心配する。  しかし、佐代子は自分でも意外なぐらい、それを冷静に受けとめていた。  加賀美への想《おも》いを胸に宿したときから、承知していたことだったと、いまになって思う。  そういう彼の一本気な、実直さに惹《ひ》かれ、加賀美の心には、別れた妻以外の女性が入りこむすきはないのかもしれないと予測したからこそ、ひそかに想いをつのらせてゆけた。  あきらかな失恋を、佐代子は怖《おそ》れていた。  だれにも知られず、自分さえも言いつくろってしまえるような、ひそかな想い。それだけを胸にあたためていたかったのではないのか。  けれど、そう思う一方では、昨夜の彼の腕の力強さとぬくもりの記憶が、佐代子の自己満足を打ち破ろうとする。  ひそかな想い? それだけで十分だ?  すると、きのうの夜、加賀美にあきらかに甘えかかっていったことはどうなるのか。  つかのま上の空になっていた佐代子の耳に、加賀美の高ぶったままの口調がとびこんできた。 「……だから、この際、思いきって、おれも三十すぎのオジサンに徹して、うんと若い子とつきあってみるのもテ[#「テ」に傍点]かもしれない」  冗談なのか、本気なのか、その前の言葉を聞きもらしていた佐代子は、とっさに判断がつかなかった。  だが、いずれにせよ、加賀美のその言いぐさは、ひどく佐代子を傷つけた。  彼にとって、自分は関心外なのだ、と。女性として見なされていないのだ、と。  そっけなく答えた。 「そうね、若い女性とつきあうと、気分が若返るらしいわね」 「しかし、齢《とし》がはなれすぎると、話が噛《か》みあわなくなるとも聞くし」 「可愛がるぶんには、いいのじゃない」 「それだけじゃ、つまらないな、おれは。やっぱり対等に話せる女性でないと物足りない」 「じゃあ、若くて、頭のいい、うんと齢下の女性を探せば?」 「探すチャンスがないよ」 「そんなこと言っていると、この先ずっとチャンスになんか、めぐりあえない」 「ひどいなあ」 「本当のことを言ったまでよ」  その裏に何かしら歯切れの悪いものをかくしたような、そしてズレの生じた会話は、そのままずるずると一時間近くもつづいた。  もうしゃべりたくない、そう思いつつも、佐代子は受話器を握りしめ、自分から話を打ち切ることはできなかった。  加賀美の口ぶりも、後半は惰性で電話をしているといった気だるさをにじませてきた。しかし、彼もまた受話器を置こうとはせず、とりとめのない言葉を引きだしてくる。  しゃべりながら、あいづちを打ちながら、佐代子は少しも楽しんではいなかった。  いま、加賀美は友だちではなく、想いを寄せている相手ではなく、らち[#「らち」に傍点]もない長話の、しかも、切りたくても切れない電話の相手になっていた。  加賀美のほうから、電話をおえてほしかった。  それなのに、彼もまた同じことを佐代子に望んでいるのか、いっこうにキリをつけようとしない。  十時になる頃、ようやく加賀美のもとに、ほかからの割りこみ電話がかかり、佐代子はそれを口実にそそくさと電話を切った。同時に大きくため息をつく。  その瞬間、加賀美に対する想いが急速に色あせてしまっているのに気づいた。  むしろ、うんざりした気持だった。  自分と同じ齢の佐代子にむかって、平然と「若い子とつきあいたい」と言ってのける彼のデリカシィのあり方。  くだくだとした長電話。  心の整理もつかないままに、別れた妻についてしゃべりちらす往生際の悪さ。  だが、こうした加賀美への不平不満は、おそらく友だち関係の感情のままでいたなら、気にもとめなかったことだったろう。彼はああいうひとだから、のそっけないひと言でやりすごしてしまったに違いない。  うんざりした気持になった自分を、その夜しばらくたってから、あらためて、佐代子はいぶかしんだ。  たったひとりだけの胸にしまっておいた想い。それなのに、まるで加賀美と恋愛関係にあったかのような、そして、たいがいそうした関係につきものの倦怠《けんたい》期を迎えたような、相手の欠点ばかり目につく、そんな状態にそっくりだった。  カレンダーは十二月にかわった。  だれからの連絡もとだえて一週間がすぎ、二週間もすぎようとしていた。  修子はどうしているのだろう、望月との仲はどうなったのか、としきりに思い出しながらも、佐代子はあえて電話はしなかった。  修子と望月からも何も言ってこない。  とはいうものの、ふたりがむつまじさを取りもどしたあの日の光景が目に柔らかく焼きついていて、佐代子は楽観視してもいた。しばらくは、はたからとやかく言わずに、そっと見守っておくほうが、ふたりの関係はうまくゆくかもしれない。  何も言ってこないのは、ふたりのよりがもどりかけている前兆で、その照れくささのため、とも想像できたのだ。  加賀美からの音さたもなく、こちらは、いくらかの腹立たしさを、佐代子に与えていた。  十二月の忘年会シーズンやクリスマス・パーティーを利用して、若い女性と知りあう機会をねらっている彼の姿が、ことあるごとに脳裏にちらつき、そのたびに憮然《ぶぜん》とした心地におちいってしまう。  気ままな独身にもどったからには好きなようにやればいい、そう突きはなした心情が働く一方では、三十二歳という自分の年齢を、みじめな落ちこみとともに噛みしめる。少なくとも、加賀美が口にした「若い女性」の範疇《はんちゆう》からは、確実にはみだしている。  が、別の日には、彼への想いなど、きれいさっぱりと断ち切り、さばさばした心持ちで仕事に励んでいる自分がいたりもする。  そんなくり返しのなかで、佐代子は、はたして自分がどこまで加賀美に恋愛感情をいだいているのか、よくわからなくなっていった。  想いは一定の位置におさまっていない。  小刻みに、不安定に揺れつづけ、いつまでたっても、自分のうちで確固とした手応《てごた》えのあるかたちにまとまってこないのだ。  それを自覚するたびに、佐代子は四年前の失恋の相手を反芻《はんすう》した。振り返ってみると、その相手に対する想いの度合いは、いま加賀美に寄せているそれとさほど違わない。  しかし、本当に好きなのかどうか、と自問したためしはなかった。そこまで本心を追求する前に、このひとと結婚したい、という明快な目標があり、その目標がすべての迷いや疑問をすくい取っていたからである。  言いかえれば、結婚という目標のために、その他の雑念など気にとめなかった。  けれど、なぜか加賀美と、結婚のひと言は結びついてこない。  彼への想いと結婚が同一線上に並べて考えられないのだ。  というよりも、佐代子の側に以前ほど結婚へのあせりがなくなっていたし、また、あせってもろくな結果にはならない、という考えにゆきついていたためもあった。  そうすると加賀美と友だち以上のかかわりを持とうとする意味も失ってゆく。  このままの状態でも十分ではあるまいか。  結婚という目標を持たない男女関係のあやふやさ、もろさ、はかなさを、佐代子は漠然と感じつづけた。  結婚が男女関係のすべてではないとは思っているけれど、しかし、いざそれについて正面きって問いかけてゆくと、結婚でもしなければ保《も》たない男女関係もありうるのだった。法的に認知された結婚ではなくとも、結婚形態に近いかかわり方であろうとも。  また、結婚に近いかたちとは正反対に、月に一、二回だけ会い、たがいに、ときめく時間をすごすという男女関係もあるけれど、そういうやり方なら、別に男女関係になる必要もなく、単なる友だちづきあいであっても、たまに会うとそれなりの高揚感はえられる。  三十二歳になって、佐代子は、はたちの時分よりもっと男女の関係がわからなくなっている自分に困惑する。  はたちの頃は、もっと決めつけや思いこみが強く、そのぶんだけ感情も行動もシンプルだった。知らないがゆえに、大胆になれたし、自己暗示もかけられたし、まわりからの影響や感化も、それとは意識せずに受けていた。いわゆる世間というものと、ほぼ一体化していたといえる。  しかし、年齢を追うにつれて、ますます世間と密着してゆく人間もいるけれど、佐代子の場合は、自分の地声や直感に耳を傾けるようになり、そうすると「必ずこうせねばならぬ」といった発想はほとんどなくなり、同時に、寄りかかる世間がないため、困惑のかずはふえてきた。  いちがいに何が正しく何がまちがっているかの判断はできない、という意味の困惑である。あるいは、白と黒のどちらも認めてしまう、という区別のつけられなさへの困惑である。  加賀美への想いを、あれこれ考えてゆくと、とどのつまりは、いまのままでいいではないか、となってしまう。  ただ、佐代子は、彼の腕にすがって泣いた夜を思い出すたびに、あの甘えだけは、友だち関係に持ちこめない、持ちこんだとしても、せいぜい許されるのは一、二回ではないか、と顔が赤らんでくる。  しかし、加賀美にああして甘えたときの、つかのまの心の解放感は、ほかではえることのできない独得のものだった。  自分の半身を彼にゆだねきったような、自分を支えてくれる者のいる途方もない安心感と心地よさ。  また、それはクセになりそうな予感がする。  その心地よさが忘れられず、クセになってもかまわないと思い切ったとき、ひとは想いのたけを、相手にぶつけてゆくのかもしれなかった。  こういったことを、佐代子が折あるごとに胸のうちでころがしているあいだにも日々はすぎ、クリスマス・イブまで、あと数日となっていた。  相変わらず三人のだれからも連絡はない。  加賀美が東京に住んでいた昨年をのぞいたこの十年間、多少の日にちのずれはあっても、毎年四人そろって、忘年会をかねたささやかなクリスマス・パーティーを開いていた。  三人ともどうしたのだろうか、そう首をひねりつつも、佐代子はいつになくねじれた気持が働き、自分からは電話をしなかった。  修子と望月は関係を修復させた記念にふたりきりのクリスマスを祝いたいのかもしれなかったし、加賀美は念願の「若い子」と出会い、そちらに目がむきっぱなしなのかもしれない。  佐代子ひとり取り残されたみたいな、ひがんだ心境に沈んでいた。  イブの日の夕刻だった。  会社の仕事机にむかっていた佐代子に電話が取りつがれ、受話器をつかんで耳に当てると、久し振りに修子の声が聞こえてきた。  が、修子とわかるまでに二、三秒かかった。口調が別人のように活気をなくした一本調子で、そのため、ひどくよそよそしくひびいた。 「元気だった? 佐代子」 「ええ、いつもどおりよ」  故意に明るく返答しながら、きょうは修子の勤めるアトリエ「由良」の定休日ではないと思いいたった。勤務時間中に修子が電話をかけてくることは、ほとんどない。 「修子、いまどこから?」 「うち」 「うちって……アトリエは休んだの?」 「ううん、早退」  新年をまぢかにひかえ、しかもクリスマス・イブの当日、アトリエは洋服やドレスの受けわたしや仮り縫いなどで、例年、大忙しの状態ではないのか。 「早退って、修子、どうかしたの、何かあったの」  勢いこむ佐代子の質問に、修子は面倒くさそうに短くそっけなく答えた。 「少しめまいがしただけ」 「早退するぐらいなら、少しじゃないでしょ」 「それよりも、今夜はもうとっくに予定が入ってるよね、きくだけ野暮《やぼ》と思うけど」 「予定はゼロ、ひとつもなし。修子には見栄《みえ》を張っても仕方がないから、正直に打ち明けるとね」 「じゃあ、佐代子の所へ遊びにいってもいいかなあ」 「……かまわないけれど、でも……」  望月と会う約束はないのか、とたずねようとして言葉を喉奥《のどおく》に押しやった。 「……でも、イブらしい食事の用意はなんにもしていないし、それに、めまいがするようじゃ、外出はよしたほうがいいんじゃないの」 「心配ないって。めまいは、もう、おさまったし、ここしばらく佐代子の顔も見てないし」  そして修子はクリスマス・ケーキとロースト・チキンを近くのスーパーで買ってゆくから、余計な気づかいはいらない、とぶっきらぼうにつけたした。  修子らしい口ぶりにもどったのを感じ、佐代子は、やはりそこで望月の名前をださずにはいられなかった。 「モッちゃんは?」 「知りあいのパーティーに招かれているらしいよ。私も誘われたけど、断わった」 「加賀美さんも一緒かしら」 「知らない。きっと違うんじゃないかな。そんなことは言っていなかったもの」  数時間後の七時すぎ、ふたりは佐代子の部屋のテーブルを囲み、ささやかなイブの夜を迎えていた。  テーブルには小さなケーキと、一羽まるごとのロースト・チキン、ハーフサイズの赤と白のワイン壜《びん》などが並び、どれも修子の持ちこみだった。ミニチュアのビニール製のクリスマス・ツリーもケーキの横に置かれ、それも修子が買ってきた。  ワインがフルボトルでなく、ハーフサイズなのは、修子が「最近はまるでアルコールを受けつけない体質になった」からで、佐代子のためだけのワインだからである。  赤ワインとウーロン茶の決まりきった乾杯のあと、修子がナイフを使って、またたくまにロースト・チキンを食べやすい大きさにさばいてゆく。  その手際のよさを感心して見つめながら、佐代子はまっ先にたずねずにはいられなかった。 「めまいはしょっちゅうなの?」 「ときどき」 「だってアトリエを早退するぐらいじゃあ……」 「めまいのほかにも、いろいろあるんだ」  他人事のように言いながら、修子は切り取ったチキンをふたりの皿へ移しかえる。 「いろいろって、どういうことよ」 「体のあちこちにガタがきてる。もっとも、おもに婦人科のほうだけどね」  とっさに思い浮かんだ問いかけを、しかし、佐代子はすぐさま口にはできなかった。立ち入ってきいてもいいのかどうか、一瞬、迷いが胸に走る。  それを見すかしたように、修子は、またもや、ぞんざいに言い放った。 「例の手術が引き金になったらしいよ。あれ以来、あの病院に通っているんだ。だらだらと出血してて、とまらなくてさ。いいよね、女同士だから、こんな話しても」  ひと息にそう語り、修子はむしり取った肉片を、指先で口に運んだ。  佐代子はどう慰めたらよいのか途方にくれ、ワイングラスの柄《え》の部分に指を遊ばせた。 「佐代子、私ね、決めた。正月があけたら、とりあえず郷里《いなか》に帰って、しばらく静養するよ」 「……帰るの?……実家に……」 「仕方がないもの。このままの体じゃ、悪くなる一方だし、人並みの働きもできないし、アトリエにも迷惑かけるだけだから」  天井のあかりを受けた修子の表情に変化は見られない。  もっとも苦しみ悩んだ時期はとうにすぎた、と告げている無表情さだった。 「モッちゃんには、そのことを相談したの?」 「まだ。モッちゃんに話すときに、私、泣くかもしれない不安があって、で、こうして、まず佐代子に打ち明けてみて、自分で自分の反応をためしてみてから、なんて、ずるいこと考えたわけ」 [#改ページ]     13  正月休みの五日間のほとんどを佐代子は修子と一緒にすごした。  といっても正月らしい、のどかで、のんびりとしたすごし方ではなく、健康をそこねて郷里《いなか》で静養する修子の荷造りを手伝ったり、押入れのなかを片づけたりといった雑用についやされた五日間だった。  これまでなら、すべて「自分でやる、なんとかする」と強情を張る修子だったが、さすがに体調の悪さには勝てず、かんねんしたかのように佐代子の言うがままになっていた。  そういう修子の姿を見ているのも、また佐代子にはつらかった。だから修子のぶんまで明るく元気よく振るまおうとし、しかし、自分の部屋に帰ってくると、その反動のように気が抜けたみたいに椅子にすわりこんでしまう。  以前の修子なら多少の困難にぶつかっても、むしろ、それがいっそうの励みのように、肩を怒らせ、挑みかかる言葉を口走ったものだった。 「このぐらいのこと、どうってことないよ、負けるものか」  しかし、今回はそうした台詞《せりふ》は、いちどもでてこない。言葉少なに黙って作業の手を動かし、ひんぱんに疲労のため息をつき、そして、佐代子と目があうたびに、弱々しくほほえみ返してくる。 「ごめんね、佐代子。私のことで正月休みまでつぶさせて、引越しの手伝いなんかさせちゃって」  体調が回復したそのときには、という意気ごみのほどもいっさい語らず、それも修子の気持の弱りようを示しているかのようだった。  もしかすると修子はこのまま郷里に引っこんでしまうつもりなのかもしれない。健康への自信をなくし、同時にデザイナーとしての自分へも見切りをつけ、もうこの街にもどってくる意欲も意志も捨ててしまったのだろうか。  だが、佐代子はそういった質問は避けた。いまの修子のいちばんの課題は健康を取りもどすことであり、将来に対する問いかけなどは、心の負担と焦燥感《しようそうかん》につながる結果しか生みそうになかったからだ。  正月休みの五日間で、修子の部屋の片づけは、おおよそ終了した。郷里の実家に送りつける荷物はダンボール箱六個になった。そのなかの一個は「本来なら処分して当然なのだが気分的に処分できない」品々を詰めこんだ。そうするようにすすめたのは佐代子である。惜しかったとあとになって悔やむくらいなら、とりあえず郷里まで持ち帰り、あらためて検討すればいい。  処分しきれない品の大半は、修子の手造りの古い服と、おそらく望月からのプレゼントだったのだろうと佐代子が推測した目覚し時計とか、はしのすり切れた円型のクッション、ありふれた安物のコーヒーカップや皿だった。  荷造りがすみ、部屋の掃除もすんで、佐代子がマンション内のゴミ置き場からもどってくると、修子が彼女らしからぬ折目正しさで礼を言ってきた。 「本当にありがとう、助かりました。佐代子がいてくれたおかげで、こんなに早ばやと整理がついた」  ふいに佐代子は涙ぐみそうになった。十年間の記憶のなかの楽しかった部分だけが、すばやく脳裏をよぎってゆく。 「よしてよ」  手の仕草も加えて冗談っぽく言い返した。 「修子からそんなふうに他人行儀に言われると、なんだかドキッとしてしまう」  このままの別れになりそうで、という言葉はいそいでのみこんだ。 「そうか、私に似あわないか」  そうつぶやく修子の横顔は見るからに疲れ、やつれていて、佐代子はまたもや胸をきしませつつ目をそらした。 「とにかく佐代子、ちょっとひと休みしようよ。いま、正月でもやっているお鮨屋《すしや》の出前を頼んだから。せめてものお礼にと思ってさ、バンと張りこんだよ、特上を」  アトリエ「由良」への辞表は十二月末日をもってだされてあった。  修子と十年ものあいだ苦楽をともにしてきたオーナーで、デザイナーでもある女主人は、いつでも好きなときにもどってくるように、と言ってくれたという。その言葉を佐代子の前で反芻《はんすう》してみせたときだけ、修子は満ちたりた明るい表情になった。  あすの一月四日の午後早い列車で、修子は郷里へ帰る。特急とはいえ片道五時間の距離だった。  加賀美と望月には、結局、事前に知らせないままになっていた。最初は修子もふたりに報告するつもりでいたらしいが、佐代子と話しているうちに、急に気持を変えた。 「もう愁嘆場はこりごりだよ。ひっそりとこの街をはなれたい、とりあえずは、それだけ」  佐代子はそれに対して強く反対した。加賀美とは会わないにしても、望月には修子からきちんと話すべきではないのか。残された望月の心情も、少しは思いやってはどうか。  だが修子は聞き入れなかった。 「私ね、いまはすごく疲れてんだ。モッちゃんに会ったら、またドッと疲労感がまして、余計なことまで言いすぎちゃう不安がある……。わがまま、自分勝手、水くさい、どう言われてもいい。ただ、これ以上、自分にむりをしたくないんだ。わかってよ」  望月は、こうして修子と佐代子が正月に荷造りしていることは、まったく知らない。暮れも押し迫った二十九日に、望月からふたりそれぞれに電話がかかってきて、正月休みの予定をたずねられたが、佐代子と修子は口うらをあわせて「実家に帰る」と返答したのだ。  三十分後、出前の特上鮨がとどけられた。  その鮨がうまいのか、まずいのか、佐代子は味の判断がつかなかった。  二、三個つまんだところで、修子がひとり言めかしてつぶやいた。 「いま頃モッちゃんはスキーを楽しんでいるんだろうなあ。加賀美さんは東京へいったらしいし」 「東京?」  加賀美とはひと月近く会っていなかった。 「うん、モッちゃんから聞いたよ。なんでも別れた奥さんに会うとか」  鮨の味がいっそうわからなくなった。  加賀美への想《おも》いは日ごとに薄められていっているはずなのに、修子の話を聞いて、胸がつかえたようになったのは、どうしてなのだろう。 「別れた奥さんにどんな用があるの?」 「さあ。慰藉料《いしやりよう》とかの問題でも起きているのかも」 「かれこれ一年もたって?」 「そういうこともあるんじゃないの……。それとも、もしかしてより[#「より」に傍点]がもどったのかなあ。復縁とか、ないわけじゃないもの」  復縁、のひと言を修子の口から言われてみて、佐代子は、ふいに、すとんと胸のつかえが取れた。  十一月の末の電話で、加賀美は別れた東京の妻が元気でやっているらしいと友人から聞いて肩の荷がおりた、と妙にうわずった、はしゃいだ口調で告げてきた。彼にしては珍しく冷静さを欠いた、また彼に想いを寄せる佐代子にしてみれば、耳ざわりとでもいいたくなる内容だった。しきりに「若い女の子とつきあいたい」と口走り、間接的に佐代子を傷つけ、しらけさせもしたのだ。  だが、あれは突然につきつけられた現実にどう対処していいのかわからない、混乱した昂奮《こうふん》状態だったのかもしれない。別れた妻との復縁のきざしや感触をえて、日頃は取り乱すことのない加賀美ではあっても、いっときわれを忘れた無防備さをさらけだしても不思議はなかった。  離婚の原因は、妻の恋愛問題だった、と加賀美は佐代子に打ち明けた。妻の側にそうした事態が生じなければ、結婚はつづいていた、という意味もふくまれていなくもない。  胸のつかえが取れたのは、しかし、一瞬の錯覚だった。つかのまの奇妙な安堵《あんど》感の次に、佐代子は痛切な淋《さび》しさにおそわれてきた。  修子はいつもどる当てもなく郷里に帰ってゆく。加賀美は妻と復縁するかもしれない……。     それはいっぺんにふたりを失うのではなく、佐代子みずからも加えて、十年来のグループ四人をもなくすことに等しかった。 「どうしたの、佐代子? 急に元気がなくなって」 「みんなバラバラになるなあって思って」 「そうかな。これがふつうだよ。いろんな出来事があって当然な二十代からきょうまで、私たち四人がつねに友だち関係でいられたことのほうが特殊じゃないのかな。四人がふた組のカップルならともかく、たいがいは、ほかに彼氏なり彼女ができて、バラバラになっちゃうもの」 「そうすると、私たち四人が一応まとまっていられたのは、修子とモッちゃんのひそかなカップルのおかげってことかしらね」 「ただし、ひそかな[#「ひそかな」に傍点]カップルってところがミソだよ、きっと。公然としたカップルになっていたら、佐代子ひとりだけ仲間はずれになってたかもしれない。加賀美さんも女房持ちだったしね」  ふいに佐代子は、ひらめくように思った。  私はほかの三人からずっといたわられていたのだろうか、三人三様のやり方で。 「……そうか……」と、つぶやいたきり、望月はしばらく身じろぎもせずに、テーブルの上に視線をとめた。  修子が札幌を去った翌日の夜、「コーヒー堂」のすみのテーブル席だった。 「私も修子とは三日の晩に別れたきりで。ぜったいに見送りにはこないでって、きつく念を押されたもので」 「修子らしいな」  テーブルを見つめる望月のまなざしが、遠くを眺めやるようなそれに変わった。 「モッちゃんにはあとで手紙を書くからって」 「書くわけないよ、あの筆不精が」 「でも、一応はそう言ってたわ」 「おれも当てにしないで待ってるさ」  望月がどれだけのショックを受けたのか、その顔つきからはうかがい知れなかった。  ただ、いつもの彼らしくもない口かずの少なさや表情のとぼしさから、自分を抑えこんでいるに違いない、とかろうじて佐代子は臆測《おくそく》を働かす。  佐代子がコーヒーを半分ほど飲んだところで、望月がテーブルのはしに置かれてあった伝票を引き寄せた。 「いや、佐代ちゃんには修子とのことで、いろいろと面倒をかけてしまった、世話をかけた。本当にすまないと思っている」  椅子から腰を浮かせかけた望月を引きとめるにふさわしい言葉が思いつかないまま、佐代子はほとんど反射的に言っていた。 「このままにしておくつもりなの? 修子を」  望月の表情が激しくゆがんだ。ほんの一瞬の、それだけにいまの彼の心中が凝縮されたようなゆがみだった。 「……もはや、おれがどうこうして、どうにかなる話じゃないよ……。これで終りだ、おれと修子は終ったんだ」 「でも……」 「ごめん。これから寄る所があるから」  足早にドアに進んでゆく望月の背中を、佐代子はなすすべもなく見送った。  会社と自宅を往復するだけの単調な日々のなかで一月はすぎていった。  佐代子はことあるごとに修子を思い出し、それと同時に三回に一回は望月に連絡をとってみようと思い立っては、そのたびに妙な気後れが働いた。  望月が言ったように、ふたりの関係はもう修復できないのかもしれなかった。望月も修子もすでにそれを見きわめていて、だから、こういう結末を迎えたのではないのか。そして、ふたりはそれぞれに新たな生活にふみだし、もうあとを振り返りたくないのかもしれない。  そこに佐代子があらわれ、過去をちらつかせるような言動を取られるのは目ざわり、そう望月が感じることのほうが多いのではあるまいか。  修子への手紙も当分はひかえるつもりだった。健康をそこね、何かと過敏になっているに違いない修子の神経を想像すると、しばらくはそっとしておくのがいいような気がした。こちらは当りさわりのない近況を伝えているつもりの文面でも、修子のそのときの体調や気分が、それをどう読むかは別だった。  加賀美については、できるだけ意識にのぼらせないようにしていた。脳裏にその姿が浮かんでも、すぐさま払い落とす。  正月休みを利用して、別れた妻に会いに東京へいったらしい加賀美。  彼にとっての離婚は、いまだに紙面上のものでしかなく、その心は別れた妻からはなれさってはいないのだろう。決着がついていないに違いない。  だれにも気づかれずにはじまった片想いは、だれにも悟られず終りを告げようとしていた。  そのやるせない淋しさはあるものの、心の一部をもぎ取られるような痛烈感は不思議となかった。失恋にともなう喪失感もない。  加賀美とは、これまでどおりに友だちではいられる、という逃げ口のせいだった。幾重にも自分をごまかせたし、ごまかせられるそこに救いがあった。  加賀美には修子の件が伝わっていないのか、佐代子の勤務先にも自宅にも、いつまでたっても電話がかかってこないままに、カレンダーは二月にかわっていた。  天気予報の「大雪注意報」がやたらと的中する今年の一月だった。そのため佐代子は三年ぶりにブーツを新調した。黒いスエードの、膝《ひざ》までの長さのものだった。  二月三日の木曜日の夜、思いがけず修子から電話がかかってきた。 「そのせつは何かとお世話になったね」 「そんなことよりも体調はどうなの?」 「うん、順調みたいだよ。立ちくらみもめまいもしなくなったし、食欲もあるし」 「そう。よかった」 「それで、私、あした札幌へゆくから」  通院していた病院で検診を受けるのだという。 「こっちでもかかっているお医者さんはいるのだけど、念のため診てもらうことにしたんだ」 「五時間も列車に揺られて疲れるでしょうに」 「体力的な自信もついたし、病院の先生も大丈夫だろって……。でさ、あしたの晩、会えるかなあ」 「会えるも何も、もし予定が入っててもキャンセルするわ、修子がくるんだから」 「じゃあ、あすの夕方に会社にもういちど電話するよ。会う場所とかを決めてから」 「楽しみにしてる。でも体の具合が悪そうだったら、遠慮なくそう言ってよね」 「わかった」  電話をきってから、あすの二月四日は自分の誕生日だったと、佐代子はつかのまの失念を取りもどした。  もうじき三十三になるのか……。数日前から浮かない心境になっていたのだが、修子に会えるとなって、にわかに気持は晴れやかになってきた。  修子の声が以前の張りと元気さで耳に快くひびいたのも、ほっとするようなうれしさだった。  小雪がふりしきる翌日の午後四時すぎに修子から勤務先に連絡があり、修子の宿泊している街中のAホテルのロビーで、とりあえず落ちあう段取りをつけた。  約束の六時ちょうどに佐代子はAホテルについた。  修子はすでにロビーで待っていて、相変わらず愛用のジーンズでつつんだ脚で大股《おおまた》に近づいてきた。ざっくりとした編み目の紺のセーターも、修子らしいいでたちだった。 「本格的にふってきたみたいだね」  佐代子が手にしている傘と、コートの肩にかかった雪片を見くらべながら、ぶっきらぼうにあいさつがわりに言う。 「検診はどうだった?」  昨夜の電話で聞いていたとおり、修子の顔の色つやはよく、心持ち頬《ほお》がふくよかになっていた。 「ばっちり。驚くほどの回復力だって先生にほめられたよ。思いきってアトリエを辞めて、静養していたかいがあったみたい」 「じゃあ、もう仕事に復帰できるの?」 「いや、そこまでは。多分、本調子になるまでは半年ぐらいかかるんだってさ」  それから修子は、食事はこのホテル内の中華料理ではどうか、とたずねてきた。  もとより佐代子に異論はない。今夜は第一の目的が修子に会うこと、食事はつけたしのようなものだった。  二階の中華レストランにつながる階段を連れ立ってのぼりながら、修子がなにげなくきいた。 「そういえば、佐代子の誕生日、きょうだったよね」 「おぼえていてくれたの?」 「家にいてもすることがなくて、ほら、引越しの際に、佐代子が処分保留にしてくれたダンボール箱を引っかきまわしていたんだ。昔のアドレス帳とか。そうしたら、佐代子と知りあった頃の手帳がでてきたりしてね。はたち前後の私はいまほどズボラじゃなくて、友人知人のこまごまとしたデータを、ちゃんと書きつけていたんだってわかったよ」  レストランに入ると、すかさず蝶《ちよう》ネクタイと黒スーツの男性が会釈とともにあらわれた。 「おふたりさまでしょうか」 「予約を入れてあるはずですが」  修子が苗字《みようじ》を口にすると、ぶ厚い絨毯《じゆうたん》の通路を、さらに奥へと案内された。個室らしいドアの前で立ちどまる。 「こちらをご用意させていただきました」  開かれたドアの内側には先客がいた。  佐代子はとっさに目を疑った。  彫りや飾りのほどこされた大きな円卓には、望月と加賀美が着いていた。  横あいで修子が小声で言った。 「お誕生日おめでとう」  望月が張りこんだというシャンパンで祝杯をあげたあと、佐代子は、三人あわせてのプレゼントを贈られた。  箱の中身は、札入れと小銭入れ、キーホルダーの三点セットだった。グレーがかったグリーンの革製である。 「ありがとう。大切に使うわ」  あらかじめ注文されてあった料理が次々と運ばれはじめた。  修子は文句をつける。 「モッちゃん、あれほど言ったのに、自分の好みばかり優先したみたいだね」 「そんなことないって。修子や佐代ちゃんの好きそうなのも、ちゃんと頼んであるさ。なあ、加賀美」 「いや、望月が支払ってくれるぶんには、お前の好み優先でも、おれはいっこうにかまわないよ」  そうした会話だけを聞いていると、昔にもどったかのようだった。  佐代子は予想外のセッティングに、なかば胸がつまっていた。誕生日をこうして祝ってもらっていることだけでなく、ふたたび四人が顔をそろえられる状態が、こんなにも早く訪れるとは想像もしていなかったからだ。  修子が炒《いた》めたものを頬張りながら説明したところによると、修子の検診の予定がまず最初にあり、カレンダーを眺めるうちに、佐代子の誕生日を思い出してきたのだという。 「で、これまでなら、まっ先にモッちゃんに相談するはずだけど、ほら、今回はあれこれあったから、モッちゃんは腹が立つからわざとパスして、加賀美さんに電話したわけ」  加賀美はふたつ返事で話にのってきて、彼から望月へと連絡がいった。 「いやあ、おれも佐代ちゃんには、今回の件でかなりの借りがあるし、それをどうしたものかと考えていたからな。こりゃあ、いいチャンスだ、誕生祝いをすれば、ここで一挙に借りが返せるな、と」  つづいて加賀美が話を引きついだ。 「望月にそう言われて、おれも佐代ちゃんに力になってもらったとあらためて、思ってね。佐代ちゃんに言われたことがきっかけで、ようやく別れた女房にじかに電話をして、で東京でもういちど会うこともできた」  正月休みに東京へいったのは、離婚した妻の相談にのるためだった、と加賀美は三人を交互に見やりながら話しだした。  望月はすでに聞かされているらしく、料理をぱくつきながら、無言のあいづちをしきりと返す。  加賀美のかつての妻は、それが原因で離婚にいたった相手の男性と、このところもめごとがたえず、精神的にまいっていた。電話での話ではらちがあかず、それで加賀美は東京へでむいたのだった。 「皮肉なことだけど、別れた女房が自分の恋愛問題を、もっとも心を開いて語れるのが、夫であったこのおれだっていう事実があってね。その恋愛の過程を、つぶさに知っている第三者は、おれをおいてほかにない……。あれはへんな気持だったなあ。女房の愚痴や不満に耳を傾けてゆくうちに、元・女房というより、どんどん友だちというか、親友みたいに思えてきてね。それに比例して、夫婦だったとか、離婚したとかいう生ぐささを引きずっていた見方が変化してきたよ。まる三日がたって東京を発《た》つ頃には、彼女とおれは最高の友だちになっていた。彼女のいまの相手の男とも、冗談を言いあう仲にまでなって。三日間、おれたちはしゃべりっぱなしだった」  そこで加賀美は視線を佐代子へとすえた。 「別れた女房と、こういう間柄になれる日がくるとは思いもしなかったよ。佐代ちゃんにはっぱをかけられたおかげだね」  佐代子は、加賀美のいまの言葉を胸に刻みこんだ。  はっぱをかけ励ましたのではないことは、佐代子がいちばん知っていた。  想いのせいだった。想いが、そのじれったさが佐代子をヒステリックにさせ、加賀美にぶつかってゆかせた。  加賀美と、別れたその妻の関係を、よりよくしようなどという殊勝なもくろみなどなく、佐代子自身の苛立《いらだ》ちが、告白する勇気のなさへの怒りが、そして嫉妬《しつと》が言わせた台詞が、とどのつまりは彼を動かしたにすぎない。  それを加賀美は、友だちとしての忠告や助言だと錯覚していた。  加賀美の思い違いを、この場で訂正しようか、とつかのま佐代子は思った。  しかし、軽口めかして、皆の笑いを誘うような口調では、まだ言えそうにもない。自信がなかった。  加賀美への想いは薄められているとはいえ、やはり友だちにいだく情愛とは趣きを異にしていた。  彼の胸に抱きしめられた記憶は、友だち同士のそれなら簡単に意味など持たせずに口にできる。  だが、佐代子はそれもまた修子にも語れなかった。語りたくない。 「そんなの、よくあることじゃないの、どうってことないじゃないの」  というふうには言われたくないのだ。  あの夜の加賀美の心理を、あえて謎《なぞ》のままに残し、ささやかな甘美さにひたっていたかった。それが思い出というものの、からくりだと承知しながらも。  食後、四人はホテル最上階のラウンジに席を移した。  佐代子の隣りには望月がすわり、テーブルの反対側に修子と加賀美が並んだ。  ウィスキーの水割りのグラスが三つ、ジュースのグラスは修子のである。 「へえ、わりといい見晴しなんだ、このホテル」  修子は疲れた様子もなく、ガラス壁のむこうへと目を見はる。雪はふりつづいていた。 「ここはわりと穴場らしい。うちの会社の女性たちがそんなこと言ってたな」 「加賀美さんはここはじめて?」 「うん。ひとりでくるような場所じゃないし」  ふたりのやりとりを小耳にはさみつつ、佐代子は望月に話しかけた。 「よかったね、修子、元気そうで」 「ああ、今回でしみじみ思ったよ。とにかく、おたがいに元気でさえいればいい」 「仲直りできたの?」 「だめさ。口を開いても喧嘩《けんか》腰だもの」 「本気で腹を立ててるのかしら、修子は」 「どうかな。あいつのことだから、照れもあるんだろ」 「モッちゃんはどうするつもり?」 「わかんないな……。わかるだろ? 修子相手じゃ、先が読めない。こっちの計画も立てられやしない」 「……でも、修子のそばにいたいのでしょ、モッちゃんは」 「どうなのかなあ。でも、あいつが思いっきり八つ当りできるのは、おれしかいないような気もするし」 「私もそう思う」 「佐代ちゃんも頑張れよな」  いささかあらたまった望月の口ぶりだった。声はひそめられていた。 「加賀美が好きなんだろ?」 「……好きって……モッちゃんも好きよ」 「とぼけたってだめだ。あいつに惚《ほ》れてんだろ?」 「…………」 「これは修子とおれの、かず少ない一致した意見だ」  佐代子はかろうじて言い返す。 「でも、だって、どうして突然にそんなこと言いだすのよ」 「突然じゃないさ。前々から感じていた。あいつを見る佐代ちゃんの目があやしいって、修子と話してたんだ」  助けを求めるように佐代子は修子を見た。  が、修子は加賀美の肩に片手を置き、夜景を眺めながら楽しげに語りあっている。 「十年来の友だちの目はごまかされないぞ。な、佐代ちゃん、やってみろって」 「……何を?……」 「もう、あいつとはさんざんお話しあいとか、お食事とか、デートめかしたことは、ひととおりというより、めいっぱいやってきただろうに。あとは、いわゆる大人のおつきあいしかないだろうが」 「よしてよ、モッちゃん。からかわないで」 「からかってないさ」  そのとき、ふいに加賀美が困りきった顔つきで望月へと首をむけた。 「おい、望月、修子の口をふさいでくれないか。バカなことばかり言うんだ」 「バカなこと?」  わざとらしくきき返す望月に、加賀美は一瞬、伏目がちになる。 「おい、修子、加賀美に何を言った?」 「別に」  修子も振り返った。その口調はそう邪険ではない。 「ただ、もうそろそろ本気で佐代子を口説く時機じゃないかって、すすめただけ」 「うむ」  望月は深々とあいづちを打った。 「おれもそう思うな」  言ってから望月は立ちあがった。 「修子、部屋まで送ってゆく。体にさわるから、今夜はもう休んだほうがいい」  数分後、席に残された佐代子と加賀美は、たがいに正視できないまま、グラスを口に運んでいた。  やがて沈黙に耐えきれなくなったかのように加賀美が口をきった。 「修子と望月、どうなってるんだろう」 「昔からあのふたりはああだったわ」 「そう、昔からな」 「昔からよ、ずっと」 「ああ、ずっとだったな」  話はそこでふたたびとぎれた。  なぜか、こんどは気まずさをおぼえずに沈黙にひたっていられた。  少し酔ってきたのだろうか、と佐代子は思った。  加賀美もしいてしゃべろうとはしない。  ラウンジのガラス壁一枚をへだてたそとは、雪がふりしきっていた。  風をまじえて、雪片は踊るように宙をまいつづける。おしゃべりな雪だった。  何年も前に、加賀美とふたりでこれと似たような状況で雪を眺めていた、おぼろな記憶がある。  しかし、あれは一体いつ、どんなときだったのだろうか。  いくら考えても、佐代子には思い出せなかった。  この十年のあいだに共有してきた思い出は多すぎた。 「……それで、と……どうする? 佐代ちゃん」  加賀美が正面を見たままきいてきた。 「何を?」  佐代子も問い返す。 「おれと佐代ちゃんのこと」 「そうねえ……どうしたら、いちばんいいのかしら……」  だが佐代子は、もうしばらく加賀美とは現在のままの間柄でいたかった。友人関係と恋愛関係の、どちらともつかない、あいまいで、それでいてスリリングなときめきが漂う関係……悪くはなかった。  そういう関係があっても悪くはない、とこの一年近くの想いのなかで、佐代子は今ゆったりとそう思う。  加賀美がやや笑いをにじませて言った。 「もうしばらく友だちごっこ[#「友だちごっこ」に傍点]をしているか」 「うん。それがいいな」  そのとき、ふいに佐代子はひらめいた。  もしかすると望月と修子も、かつて、こんなふうな冗談めかした口調で、セックス・フレンドとなる取り決めをかわしたのかもしれない。かわりに自分たちは「友だちごっこ」の取り決めをしている……。  唐突に、佐代子はこの一点だけは加賀美に言っておきたいという気持にせかされた。 「加賀美さん。あのね、私、あなたのこと好きだから。友だち以上に、ひとりの異性として」  加賀美は声をださずに笑った。 「おれも好きだよ、佐代ちゃんが。友だち以上に」 本書は '96年4月角川書店より刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『やさしい関係』平成10年10月25日初版発行