秋津温泉 藤原審爾 [#表紙(表紙.jpg、横90×縦130)] 目 次  第一章 花風月雲  第二章 春夢深浅  第三章 流水行雲  第四章 煩悩去来  第五章 蜜夜夢幻   あとがき [#改ページ]   第一章 花風月雲  秋津温泉は単純泉だから、とりたてた薬効もなく、土地も辺鄙な山奥にあるので、あまり人に知られていない。湯宿も山峡のせまい土地へわずか一町たらずあるきりで、別府や伊東のように、温泉客めあての遊び場やバアーなどもない。温泉町というはなやいだところが少なく、——山峡の谷間を拓いた町にしては広過ぎる表通り、その表通りの両側へ軒々を並べた宿という宿が、一様に広い格のある古びた庭と、厚味のある白壁の多い、棟の巌丈な家なので、——むかし城下町であったような、ものさびた落着をもっていた。  その、町を縦に、坂となって通っている広い表通りは、農閑期になると、附近の農家から骨休めに来た人々の往来で、いくらかごみごみする。しかし、その季節が過ぎれば、その広い通りに人影も稀れになり、宿々の門さきの打水の濡れあとが、いつまでも乱されず残った。打水へ山国の柔かい光りがとどいている日など、秋津という湯の町は、澄んだ水底のようになった。  人どおりも少なく町が閑散であったが、湯治の客がないわけではなく、ただ、この町にほどよい客しか滞在していないのだった。ほどよい客の数で、秋津の生計はなりたって行くらしく、年ごと、町のどこかでぽつぽつ増築された、新しい屋根が見うけられた。  表通りは古めいた造りの宿が多かったが、通りから裏筋へぬけると、直ぐ迫ってきている山裾の杉林の中に、赤瓦緑瓦の瀟洒な洋館が散在している。古めいた表通りとこの瀟洒な洋館の別荘は、かけはなれたものながら、澄んだ山の気の中でみょうにしっとりと調和していた。それは、なにか秋津という湯の町がその深い教養で、二つの逆な世界のものを、静かにかき抱いているようだった。  この、秋津がもっている深い教養のような落着いた気配に、一度この町を訪れた人々は誰も魅せられてしまうらしかった。だからふりの湯治客より、例年冬を越しに来る画家とか、夏の盛りに子供連で訪れる語学教授の一家などという、この温泉そのものより町の気配のよさに惹かれて訪れる人々が多かった。  この秋津の町へ私は十七の初夏、伯母に連れられはじめてやって来た。  双親のない私を引きとったばかりの伯母は、判事の夫を亡くして間もない頃で、独り身のあじきなさに苦しめられると、この秋津へのがれて来ていた。渓流ぞいの、赤い土肌のひろびろとした前庭をもった、秋鹿園という温泉宿の一間で、子の無い伯母は旬日あまりを静かに過すならいであった。そこで——人の入浴《はい》って居ない食事どきとか、午睡の時間、伯母は長い廊下を、気の遠くなっている足どりで、混浴の湯室へ下りて行った。人の気のない湯室の中で、五十にまだ間のある美しい肌の伯母は、堰きとめている女だけの想いを慎しく展げてみるらしかった。まるで秋津の不思議と澄んだ気配が、独り身のさがない嘆きや、女の生身の憤りをも、清浄な一つの祈りにするように、湯音も立てず伯母はひっそりと、永い間ひとり湯にひたっていた。——  私たちの泊った別館は滞在客も少なく、伯母のこの独りの時間は、乱されず続けられた。まこと、別館の数少ない泊り客は、——肺尖カタルの、縁なし眼鏡の痩せた女専の学生、この町はずれの禅寺の仏像を刻んでいる四十過ぎの仏師も、大阪の乾物問屋の隠居夫婦、その孫娘のカリエスの少女も、まるで古くからここに住みついている人々のように、別館の閑寂な気配へ、しいんと身を沈めていた。三度の食事時、母屋から食膳をもって女中のお民さんが、調子のある、はずんだ跫音で別館を賑わすほかは、静まりかえった気配へ、笑い声一つひびかず夜に入るのであった。夜へ入ると、瀬音にまじり、さっ、さっと、仏師の鑿《のみ》の音が、寝静まり、湯の香のこめた別館へ流れわたる。それがまた、格別深く別館を閑寂にするのであった。  よそ目には秋の夕暮のような、暗い冷いものを覚えさす人々であったが、その人たちのなかにまじって、澄んだ秋津で暮しだすと、それなりの明るさ、清さ温かさが稚い私にも判ってきた。カリエスの痩せた孫娘をいたわりながら三人寄り添い、長い廊下を話声も立てず、ひたひたと湯室へ下りて行く大野屋さん一家のうしろ姿、夜ふけ仕事が一段落ついたのか、湯室の中で童謡をのどかなどら声で口ずさんでいる日頃は唖のような四十過ぎの仏師、そんなありふれたものの時間がここ秋津の気配のなかでは、不思議と清浄な色を加えて、ふいに幼い私の胸をつまらせたりするのだった。  この秋津の深い気配が、旬日たらずの滞在で秋津の山を下りた私へ、強く尾をひいてはなれなかった。伯母の家で変化のない日をくり返す私の胸で、秋津の清浄であったそれらの時間が、いつまでも揺れやまず、——六歳のおりから双親を失い、縁者の手を転々と育った私に、それは夢の国とも映ってきた。一季節がめぐり冬休みになるなり、伯母にせがみ私たちは冬の秋津へ登った。  冬場の秋津は、湯の温度がいくらか低いため、この季節はわけて湯治の客が少なかった。母屋へは、附近の農家の人々やふりの客が、日ごと一泊どまりで出入したが、十部屋あまりの別館は、大学の講師という五十過ぎの板野さんと私たちだけで、——絶えて物音のない別館の一間で、伯母と私は口かず少なく火燵にあたり、湯の香も冷たく冴えた気配の中で、それぞれの時間を、倦みもせず過しはじめた。  伯母と一言も話さぬような日中が静かに終り、やがて伯母が寝床で眠ったあとも、よく私はひとり背を丸めて火燵にうつ伏したままでいた。そこで私は、冬の夜が次第と更け、電燈の光りも仄暗む静けさのなかで、夜の気息が凍てて行くのを、なにがなし身にうけてみる。縁者の家で育ち、いつも遅疑して自分自身の時間の持てなかった私は、山峡の夜が音もなく更け、部屋の気息が次第と冷えこみ、やがては火燵によせた心のあたりにしかあたたかさのなくなるおり、ようやく私は私自身の時間をとり戻す。山峡の寂寥と寒気に圧しつめられたその時間、私の生命が、過ぎ去っている分秒の流れの唯中へ、箭のように消えて行くのを静かに見守るのだった。  時おり母屋から重い柱時計の鳴る音が、夜の底を流れて来る、板野さんの部屋から霜柱を踏みくだくような頁をめくる音が聞えてくる。——私は箭のように死へ近づかねばならぬ私の生命への、果しない哀惜に澄みかえり虚しくなりながら、五十を過ぎた板野さんの、暁方ちかくまでつづくその音を、その余生の努力を、うつつに聴きながら「時間」の鞭に追いたてられ生涯を送らねばならぬ人間が、あわれにはかなく思われ、力のない涙があふれてならなかった。  夜ごと暁方ちかくまで著述に追われている、五十過ぎのその板野さんは朝食をすまして湯室へ下りてみると、いつも湯舟につかっていた。 「先生はおやすみにならないのですか?」  五十を過ぎて白髪の目立つ板野さんの、営々とした努力に疲れた身体の衰えが、秋津の不思議と澄んだ朝の気配のなかで、みょうに虚しいようだった。 「暁方眠りますよ、三時間か四時間ほどね。——私のように齢をとると、眠られなくなるものです。」 「——」 「若い時に私は怠けましたから、こんなになって仕事が出来て困ります。」 「そんなにお大切なお仕事ですか。」  さあ?——立ち罩めている湯気を梳きながら、射し込んでいる朝の陽をうけて板野さんは、少し迷っている顔をした。陰翳のある顔の、強い意志で深い光りをたたえた目を、しばらく板野さんは私の肉づき薄い体の中へむけていたが、「体は大切なものですよ。」とふと優しい声をかけて笑顔になった。  そして私の問いに答えず、 「Boys, be ambitious!」  そう、明るく言って板野さんは、急に思い立ったように湯舟から出て行った。仕事をおはじめになるのであろう。  正月の二日の夕方、大野屋さん一家が厚い冬衣裳で登ってきて、絶えて物音なく冬の深まるにつれ、凍てはてそうな別館は、やや人の気が濃くなった。しかし、その夜半急に冷え込んで雪になり、冬枯れた秋津の山々へさんさんと降りしきった。  降りしきる雪は、秋津の山々を屋根屋根を白く埋め、広い前庭の赤い土肌を蔽い、葉の無い樹々の枝をつつみながら、別館の全ての窓の外へ終日白い幕を垂れていた。白く冷たい雪に閉じこめられ、人の気少なく沈んだ別館の空気は、日ごとに冷え込みながら気重くこもってきた。  気重い部屋に閉じこめられ、澱んだ空気につつまれると、五十に間のある伯母の独り身の肌色は、なにか、妖しく濡れているような美しさを見せはじめた。そんな身の内の変化に追いたてられるように、日に幾度となく、妖しく美しくなった伯母は湯室へ下りて行った。湯の中へ、永い時間ひたりぐったり身の内の力をなくして、伯母は目もとを仄あからめながら戻ってくるのだった。  戻るなり、次の部屋の朱い鏡のまえに、湯疲れした体をもてあましてべったり膝を崩して坐りこみ、気遠い目色で化粧をする。澱んだ空気の中では、その伯母のもてあましている生身の、あまりの生々しさのほどに、居たたまれず、そんな化粧がはじまると私はすぐ、伯母の傍から離れて縁側へ出た。冷えた廊下から曇ったガラス戸越しに、雪景色を眺めながら、女の独り身のあじきなさを救うとも見えぬ化粧に耽る伯母への情愛が、そこでしきりと高まるものであった。降り下りるだけへ、いっさんにあてもなく時間を急ぐ雪を、佇みながら永い間茫然と眺めていると、やがては、この雪の如くに、救われもせぬに化粧に耽る伯母の如くに、あてもなくいっさんに時間を過すことこそ、私たちの生涯だと、はかなく思われたりするのだった。  雪は二日の間降り止みして一尺たらず積って晴れた。雪が止むと空の色は急に深まった。  晴れて薄い冬陽が射してくると、朝から、大野屋さんの痩せたわりに豊かな髪の孫娘は、白い猫のように跫音たてず長い廊下をわたって、渓流の上のサンルームに出て行った。私と一つ二つ年下のこの頬の蒼白い少女は、いかにも山峡の湯の宿の澄んだ気配を乱さず、ひっそりと、サンルームの片隅の籐の寝椅子の上で静臥した。そこで少女は黒い瞼をとじ、秋津の澄んだ気配の底へ、一途に身をよせかけ、永い間、身じろぎもしなかった。  その、深い気息に沈んでいる少女へ、肥って小柄な大野屋の老妻さんは、長い廊下をせかせかと、お菓子や果物を運んで来る。滋養物を、栄養を、と言う祖母をいつも少女は、寝椅子から動かず、無口に白い顔をふって避けていた。自分の生きて行ける雰囲気をひとり創るほかは、なんの興味も少女にはわかないらしかった。その度、小柄な老妻さんは所在な気に、傍の白いペンキ塗りの木卓へ、色彩の強いそれらの品々をのせてから、少女の世界へは入れず、そのままあじけなさそうにサンルームを出て行った。  生命をおびやかされ深く沈んだ気息の中で、自分だけの時間をかたくなに生きようとする、そんなカリエスの少女を、遠くの木卓から私たちは何気なし吐息するようにして、よく眺めていた。時に、伯母はたまりかねたように、私の耳へそっと、 「——鍵のかかった白い筐みたいだねえ——あの子!」  子供を生んだことのない伯母には、なにかじれったくもあるものだろう、あんなに綺麗で可愛いのにと、囁いたりした——。  晴れた日がつづいて、雪で通わなかったバスが動きだした。  学校のはじまっている私と伯母は、その日、雪どけの明るく光る道を秋津から下った。お民さん大野屋さん一家に送られてバスの停車場へ行く途中、坂になっている道を下から、秋鹿園の白いクミを連れて細身のステッキをつきながら板野さんが登ってきた。独身とは思われぬまで身じまいのよい和服姿の板野さんを、伯母は見ながら何を思っているのか、 「板野さんお独りって、ほんと?」  お民さんにふと身をよせて訊いた。  遠くからお民さんを見つけたクミが雪解けの道の上を、舌を出しながら走って近づいてきた。 「大学お卒業なって間もなく一度おもらいになったのですけれど、二年目にお亡くなりになって、それきりだそうで、——お優しい方ですわ。」  腹まで泥をつけたクミが走ってきて、そう言っているお民さんにじゃれついた。泥まみれのクミの足に悲鳴をあげて、叱りながらお民さんは、まだ遠くの板野さんへ、 「先生、口笛、口笛!」と甘えてみせた。  口笛をすぐ吹いてクミを呼びながら、近づいて来た板野さんは、伯母へ会釈してすれ違いざま私へ笑いかけ、さようならの代りのように、私にだけわかる小さい声で、 「Boys, be ambitious!」  そう言って坂をのぼって行った。  板野さんとすれ違ってしばらくしてから、伯母は防寒コートの上のアストラカンの肩掛をあげながらふりかえって、板野さんを眺めて、 「ほんとかしら?」  大野屋さんたちが居るのもかまわず、若やいだ声で伯母はまた言った——。  私と伯母が乗りこんですぐバスは動きはじめた。窓の外の雪解けのよく光る道からお民さん大野屋さん夫婦が、さよなら、さよならと声は聞えず冴えた空気の中で手を振った。  四人のなかで紫紺のオーバーの少女一人だけが、手もあげず細い眉や薄い脣を静まりかえらせ、斑雪の上に立ちつくしていた。沈んだ目だけが常になく大きく見ひらかれ、しいんとそこで定まっていた。  少女の背のほうの山々は、まだ一面の雪景色であった。  春の秋津は山々の緑の底に埋もれていた。  山国の春陽の光りの中へ、山々の緑が映えていて、山峡の春の空気は、日中少し私には重すぎるようだった。  私たちが登って行くと、もう大野屋さん一家、板野さん、画家の岡田さんも来ていて、はや山峡も緑の色に染っていた。私たちが別館に着くなり大野屋さん老夫婦がやって来て、今年はもうやかましゅうて、あきまへん、と常に似ぬことを言った。  大野屋さんの言葉通り、春先きのその季節は客がたてこみざわめいていた。それも湯治客より遊山に来る人々が多く、別館もいつもの沁み入るような閑寂な気配がなかった。夜になっても、花がるたやトランプ、麻雀などに興ずる客がいて、別館の夜は暁方までその人々のあたりかまわぬ声々にざわめいて、いねかねるほどであった。湯室も日中あいていることなく、伯母は暁方や夜ふけに湯室へ寝巻に羽織をかけて出かけて行った。三四日もたつと、伯母はみょうに心をそがれて生気がなくなり、落着かぬのか帳場から雑本を借りてきては読み散らしていた。  そんな気配に私は暁方起きるなり、秋鹿園から脱れ、秋津の町の裏筋をぬけて、まだ寝静まっている別荘の白い柵のほとりを通り、杉林の奥へ次第に細く坂になってゆく小径を、日ごと夜露を踏んで登って行った。  亭々と幹立ちのよい杉林の中の小道だけには、秋津の晴々しい落着いた気配がしっとりと佇まっていた。その小道を私は朝の食事までの時間、深い気配を呼吸しながら、佇みがちに往きつ戻りつして過すのだった。時には、その杉林の中の小道の消えかかる山の奥深くまで、白い朝靄のなかを登りつめる。灌木の露に濡れて肌のじめじめしている私は、その杉林の繁みの中で、ひとりひっそり、白い濃い朝靄につつまれ、息を細めながら、朝陽の射しはじめるのを心静かに待つ。少し冷たく見透しの利かぬ杉林の朝靄のなかで彳みながら朝陽を心待つ私の胸はかすかに鳴って来る。やがて、朝陽が山の峯を越えると、私の棲家は、一瞬に烈しい時間をはじめるのだった。木の間がくれの朝陽の初光の幾条もの線に、白い靄の縞目はあざやかに浮きたち、数知れぬ夜露はいっせいに輝きはじめる。と、杉林の暁方の静謐の果より、名状し難い生の階調が私の心の耳へひびいてくる。心の耳を澄ましながら、その階調に胸をおさえて静かに跼まる——烈しいこれらの時間のうちで、私に見覚え薄い父母の姿が戻って来る。そして、慈愛に満ちた声で囁いてくれるのだ。 「もっとしっかりしておくれ!」  緑の気の強い昼間は、頭が重く外出するはずんだ力が私にわいて来ず、読書に耽る伯母の横で寝ころび、壁をぼんやり眺めながら、懶怠な時間を過していた。日がたけて、滞在客がざわめきだし、別館に居つき難くなるとサンルームへ出て行った。  ガラス張りのサンルームは、整頓された丸い白塗りの木卓と籐椅子が、ほどよい間を保って並び、瀬音のほかは物音もなかった。春陽の陽射しが木卓へ届き、その白を光らせた明るいサンルームは、明るさなりに静かな気息が小さいながら立っていた。  別館がざわめきだすと、私と板野さん岡田さんも、言い合せたように相次いでサンルームへ現れた。そこでそれぞれの好みの木卓にもたれ、私たちは日中を過しながら、お互いに心をよせあってこの小さな気息を乱すまいと努めた。小さな気息ではあるが、これを奪われては行く処もなくなる怖れが、誰の胸の底にもあって、わけて私たちはこの静かな小さい気息を育てようと努めていた。  ふりの客が時おりそうしたサンルームへ入りかけたが、読書に余念なく澄んだような板野さん、眉をひそめてカンバスの前で絵筆を握って一心な岡田さん、あのいつも深く沈んだ目を黒々ととじて寝椅子の上でしいんと静臥している少女、——そうした気配に気臆れされたり、遠慮したりして、入りもせず帰って行った。  サンルームの私たちの創った新しい別館で、渓流とその向うの杉林とを描いている、浅黒い角ばった顔の岡田さんは、絵筆が渋ってくると、少女に無理を頼んで、少女のスケッチをはじめる。静臥した少女の傍へ、絵具まみれのルパシカを着た岡田さんは籐椅子をよせ、目を細めながら幽かに鉛筆の音をたてた。開け放した窓からは、少し冷たい風が流れこみ、絵になっているそんな少女の胸の白いリボンをゆらめかすのだった。  時には、岡田さんはどこからか、鋭い線の百合のような花を持って来て、少女に籐椅子の上で目をつむり花を匂う姿をしてもらい、「ドガという人の作品に少女像ってのがあってね、——それが直子さんに似てる——目をつむるとね。——眼があいてると、直子さんは冷たい感じになり過ぎるよ。」  静かな小さい気息にふさわしいように、岡田さんはぽつりぽつり少女に話しかけては、それで心を静めていた。  目をつむり細い眉をあげ、美しくとおった鼻を春陽にくっきり浮きたたせながら花へ近づけている少女は、岡田さんの言葉でそうした透明な姿になっているのだが、言葉のままとは信ぜられぬ自然さであった。素晴しい保護色でも有っているように少女は、自分を生かす雰囲気の中へなら、いつでも体ごとに入って透明になれる、そんな強い芯をもっていた。  岡田さんから解放され、自由な時間のおりは、紫外線よけの眼鏡を頬へかけ、白い木卓にもたれて、少女は小説を読み耽っていた。しかし、すぐ読みつかれるらしく、幾度となく少女は、春陽につつまれながら、心もちうつぶしたカリエスの背を、深い呼吸とともに苦し気に延した。そうした孫娘の姿をたまに大野屋の老妻さんが見つけては、 「なんや! ほんまにがんこな子や、こないにうちら心配してんの判らへんのやろか。」  肥った体つきに似合わず敏捷に、小説を孫娘の手からさらった。素直に小説をとりあげられた少女は幽かな笑い顔で、いとしいばかりの声をしぼる祖母を仰ぎ、そこでいつも束の間その目を大きく見ひらいた。老いた祖母の齢には通じない、瑞々しい嘆きと諦めに溢れた目であった。  そんな少女にかまいもせず、 「ちっと、河崎のぼん、直子を散歩に連れて行っておくれへんか、ね。」  平然と、居合した私の前におしだしたりした。  美しいが、重い心の鏈のような直子さんを誘って、日の落ちるのが早い山峡の道を、私たちは連れ立ちながら、一言も話さず町をとおりぬけ、町はずれのほうまで歩き廻った。  秋津の町の、町はずれの谷ぎわの、背高い青萱の群っている崖道まで来て、ようやく私たちは立ち止まれる。——そこからは、あたりの山なみから吹き下りる夕風の行方が一目で見渡せるのだった。私たちの背の上の杉林の梢をざわめかし、目のまえの萱を靡かした夕風は、遥かな谷底におち、谷ぞいの田畑の青を波打たして、遠く山裾の彼方へいっさんに消えて行くのであった。  その夕風につつまれて直子さんは、身じろぎもせず、深い虚ろな眼色で、遥かな谷底を見下して永い間あかなかった。そのうち背からの風が強く吹きつけて、さっと直子さんのふさふさした髪をあおると、ふいに二三歩直子さんは崖ぶちへよろめいた。はっとそこで自分を抑えて立ち止まり、谷底から誰かの声でも聴くように、小首をかしげたまま、いつまでも直子さんは動かなかった。  直子さんのその上で日が暮れて行った。  夜になっても、その直子さんのすさまじい気息が、私の胸に重苦しくもたれていた。  寝床の中で気持が冴えて眠られず、燈の消えている気安さに、ふと伯母へ口をすべらすと、 「綺麗さが普通でないから、——早死するかもしれないね。」  そう言ったなり、しんと伯母は想いに沈んでいった。外には月が青く出ていた。 「おまえもすこし——」  変だよと言いたかったものか、そこまで言ったが、あとは口にせず、伯母は寝返りうって私に背をむけた。 「明日は発ちますよ。」  障子をすいた月の仄白い光りの中で、みょうに伯母の襟足が若々しく見えた。この春、伯母はこころもち肥ってきているようだった。  夏が来ると、休みにならぬまえから、私の受験勉強を口実に今年は秋津へは行かぬと、伯母はみょうに幾度も固くなって私に言い聞かせた。  間数も多く庭も広いわりに、伯母の家は風通しが悪く、夜半むし暑くなかなかに寝つかれなかった。離屋の私の部屋から見える母屋の縁側へ、夜更け寝つかれぬままに伯母は、寝巻姿でぼんやり出てきて、身をもてあましたように、薄暗い闇の中で蚊を追いながら団扇をつかっていた。  夏休みになって暑さは一層酷しくなった。裸になって離屋で汗をにじませて勉強している肋骨の浮いた私を見ると、やはり肉親の情でほっておけなくなったようだった。 「今度はサンルームへばかり出てぼんやりしちゃいけませんよ、おまえにはほんとに大事な時なんだから——」  そう、暗に直子さんのことでも言っている口ぶりで、一応の釘をさし、それから伯母は私を連れて秋津へ登って行った。  秋鹿園は夏らしく、廊下のガラス戸がはずされ、まだ青い簾がかけられていた。客も大野屋さん一家と板野さん、それにこの山裾の若い地主の瀧さんしかなく、春の季節と異り、いつもの山峡の湯の宿の閑寂さが、風と光りと蜩の音のなかにもめげず、明るい別館にたっていた。  赤い土肌の前庭から風と光りと蜩の音が、日中澄みかえった平明さで、開け放たれた別館の閑散な気配へ流れこみ、私たちの部屋の奥の丸窓と廊下の側の二つの障子をあけ放しておくと、終日涼しい風が床の軸物を鳴らして通りぬけた。  夜になり、風に揺れる青麻の蚊帳の中で、別館の人々も眠りについたあと、湯の香のただようあたりが一入閑寂になり、やがて別館の中は風の音だけになる。そんな時刻、いつも私は眠りにおちる前の、ひろくふかい安息に身をゆだねながら、息を細めて体を澄ます。そして独り耳を深く傾け、強い夜風を心待ちにするのだった。  強い風が暗い前庭から樹の小枝をざわめかして私の部屋へ吹きこみ蚊帳の裾をあおりたてるおり、その風の底から、大野屋さんの縁側に吊した風鈴の遠い音が、消え入りながら鳴って来る。——日中、部屋で卓子を机がわりに勉強して、外出もせぬ私は、秋津に登った夜から、その音色へ心を寄せて行っていた——夜風の底から消え入るように鳴って来る風鈴の音を聞く、その束の間、私に今日の一日を終えた安堵が体の隅々から満ちあふれ、今日を生きた疲れを洗って行くのだった。——強い夜風を待ち待ち、その音色にゆられ、私は夜ごと生への希みも死への憧れも覚えず、懶怠に眠りのなかへおちて行きながら、ふとほのかに直子さんが偲ばれたりする。眠りにおちかけ気儘になった私の心は、好ましい色々の直子さんの姿をさまよってみる。そのうち日頃は遠い直子さんが、いつか一つのイメイジのなかにまとめられる、半ば眠りながら心のなかで〔月姫、いや、月の精、いや月の光りのような直子さん、いや嵐の夜の月、いや、荒れた夜の、いや強い風の夜の月の光りのような直子さん〕とりどりにつぶやきながら、いつの間にか、そんな直子さんのイメイジを創っては夢みるまで眠りおちながら、幾度となく呪文のようにつぶやく、〔強い風の夜の月の光りのような直子さん〕——そして、そんな夜があけると伯母の言葉の通り、外出もせず、終日平明な風通しの良い部屋の中で、机にむかって私は勉強する。伯母のつくってくれた枠の中で、私はひっそりと、従順に自分の自由を抑えて日々を過すのだった。  そんな私が秋津の平明に澄んだ気配のなかでは、いかにも陰鬱に見えるのか、またしても伯母は散歩をすすめたり、万燈ケ原へ私を誘いだしたりした。  万燈ケ原の花野は、サンルームの下の渓流ぞいに一里たらずのぼると、川沿いに茫々と展けている。晴れて空高く風の強い日、私たちは大野屋さん一家と板野さんを誘って、暑い日射しのなかを川沿いに上流へのぼって行った。  よく走るクミを先行に、一時間あまり川土手をのぼると、茫々たる万燈ケ原の花野が、青く高い空の下で、川を距てた向うに展けてきた。山峡のものとは思われぬまでひろびろとした花野は、日射しに光りながら、ゆるやかな斜面をみせ、遠くかすんだ山なみまで続いていた。咲き残った淡紅の蓮華躑躅が日射しに輝き、川土手から万燈ケ原一望を埋めつくして、いまだに見事であった。  土手ぶちの栴檀の樹蔭に入り、暑さに疲れた私たちはぐったりそこへ腰を下した。胸をはだけた大野屋さん、それを横からあおいでいる老妻さん、白い服と麦藁帽子の直子さんも、伯母も板野さんもその樹蔭から、茫々と展けた花野の斜面を仰ぎながら、ものうい嘆声を口々にあげた。  強い風が遠くの山なみから、花々の上をふき下り、私たちをつつんで通り過ぎては、また帰って行った。その度、自然の巨大な美しい花野の肌は愛撫されるように、万燈ケ原の幾千万の花々はいっせいに靡くのだった。  嘆声をあげて一入ぐったりした人々の中で、伯母だけは疲れもみせず、冴え冴えした心ばえで、包みのうちから、お菓子や果物を出して、板野さんにすすめ、大野屋さん老夫婦、直子さんへ分けながら、しきりにハンカチをかざして顔の汗を拭いた。  その伯母の上の繁った樹の葉蔭では、羽衣蝉が姦しく鳴きたてていたが、その蝉の声も耳に入らぬふうに、伯母はしいんと心を澄まして、開襟シャツと麻服の板野さんへ、 「夜になって月が出ますと、あの花は黄色く光るのですって、燈が集まっているように見えるとお民さんも言ってました。ほんとうでしょうかしら——」  少し少女めいて言っていた。その少女めいた伯母は、汗で化粧がむれていて、日頃になくみにくく見えながら、そうした化粧を越えて伯母の張った音のするような心が、みょうに伯母の感じを美しくしていた。  私は伯母の美しい肌理の頬へ、横から伯母の心をさわがせぬように指先をかるくあててそのまま、 「——墨みたいだよ、ここ。」  澄んだ伯母は濁りもせず、素直にコンパクトを出して、むれている化粧をそこで静かになおしはじめた。伯母が顔をなおし出すと、私は軽い安息につつまれ、その伯母からそっと離れて、跫音をしのばすようにして、下の川原へ下りて行った。暑い日射しを受け、川原の石のほてりの立つ浅い瀬のほとりでうずくまり、川土手の伯母と板野さんとの声を聞きながら、晴々となる心をもてあまし底の澄んだ水を覗きこんだり、小石を投げたりした。小石は浅い瀬の清澄《きよら》かな水を散らし、踊りたわむれているように、転々と瀬の上を飛んで行った。それを、白いクミがまた、瀬水を散らし軽い足どりで追って行った。  伯母と板野さんの声の外から、 「こりゃ、夕立ちが来るかもしれまへん。雲ゆきがよろしゅおまへん。」  昔は船に乗って北海道くんだりまで、商売に出かけていた大野屋さんが、厚味のある声で言った。  浅い瀬のほとりに跼まった私は、その声に下の水面の私の影の中を見た。仄黒いその影の水面の中の空に浮いた千切れた白い雲足は疾かった。  風が少し涼しくなり蜩の音がなくなった。  雲足の疾さに見入っている私へ、いつ近づいて来たのか、見下している私の影の水面へ、流れてわずかにゆらめきながら白い服と麦藁帽子を脱ぎ、日射しに白い頬を光らしながら、その帽子を私に黙ってあずけ、それなり水辺へしゃがみこんだ。そこで、ためらっていたが、ふいにカリエスの背を曲げ乱暴な身ぶりでふさふさした黒い髪を、清冽な渓水へつけた。深くつけて息をとめていた。  瀬のほとりで二人並んだ私たちが、上の川土手にいる人たちには、いかにも親しく睦まじく見えたものであろうか、 「似合のめおとや。」「ほんとに。」  止絶えた話声のあとの静けさのなかから、低い女同士の言葉が、私たちに届いてきた。ちょうど、水面から髪を双手で絞りながら上げかけていた直子さんが、その声に躯をびくりと、見えるほど慄わせ、はっとまた渓流へ髪をひたした。それきり身を固くして動かぬ直子さんの、その細く蒼白いうなじが、真昼の夏の太陽の熱を沁み込ませて、燃えているようだった。 「おや、ほんとうに雲の様子がよくないですね——」  板野さんは物静かな情厚い声で、人々の心をそこで私たちからそらしてくれた。  空を仰ぐと、万燈ケ原の果の山なみのうしろから、黒い密雲が激しい勢いで空へ拡がっていた。  あすこの家の軒を借りましょう、あの納屋のほうが近うおまっしゃろ、と浮足だった人々をよそに、髪を逆手に白い両掌でしめて水を絞り、直子さんはようやく立ち上った。そこで、直子さんは血の気ののぼった頬をそむけ、じっと躯のなかの動揺を抑えようと、立ちつくして努めていたが、不意に、 「嗟々!」  と小さい声をあげるなり、靴も脱がず、浅い渓流の中へ、美しい火だるまのように突き入って行った。火花のように光るしぶきをはねながら、一息に川を渡りきり、向いの土手へ上っても、直子さんはふりかえらず、そのまま、万燈ケ原の花々の間を登りはじめた。大野屋の老妻さんが狼狽して、その直子さんを呼んだが、聞えたか聞えぬものか、立ち止りもせず直子さんは、果しもない万燈ケ原のゆるやかな斜面の中の、あるかなきかの小道を、群がる花々に肩まで埋めながら、思いつめていちずに花野の奥深く登って行った。私の横で舌を長くして寝そべっていたクミが、まるで私の心のように、いきなり私から川瀬の中へ飛び出し、花野に埋もれかけている直子さん目指し、疾風のように駆け出した。  黒々とした夕立雲は、はや万燈ケ原の果から、激しく花々の上へ雨を降りつけながら、私たちへ、直子さんへいっさんに迫って来ていた。  一つの季節が直子さんに訪れて来たようだった。  その日からの直子さんは、急に私から遠のいて行った。深く沈んだなりに、様々の意味を見せていた直子さんの心は、ぴたりと私へ閉ざされてしまった。躯のどの部分にも私を寄せつけまいとする、かたくなな躾けが行き届いた。廊下ですれ違っても私を見ず、固く伏せ目になって、直子さんは通りすぎるのだった。  季節のようにやって来て花ひらきかけたものに、戸迷い羞いして直子さんは、そんな心の移りを抑えようと、繊細な躯を固くしめつけた。まるで花ひらくまえの蕾のような努力を絶え間なく、直子さんは重ねるのであった。しかし、そうした生々しい心の移りや、それから戸迷う娘の羞恥は、抑えようとすればするだけ、日々に深まり直子さんを苦しめていた。その苦しみを、病弱な躯にもてあましながら、直子さんという人は、あきらめず全能をかけて抑えようと努力するのだった。娘の生理を、全能をつくして必死にうけとめている、直子さんの烈しさは、秋津の澄んだ平明な気配の中で、その病弱でみのりうすい躯をば、日ごと氷のように冷たく透明に見せていった。日中もさりながら夜は夜でいねかねるらしく、夜更け直子さんは、閑寂な夜風の音だけの前庭へ、白いパジャマのまま出かけて、サンダルの音を淡い月の光りの中で幽かにひびかせたりした。庭の樹々の蔭に見えつかくれつして歩き廻る直子さんの、思いつめた姿が時には、はっと月の光りの中に立ちつくして、そのままいつまでも動かず、蒼い月光のまにまに、いつか消えはてるかとあやぶまれるまで、冷たく透ってゆくのだった。  そんな、十七の齢とは思われぬまで、大人の隈をつけた直子さんを、蚊帳の内から蚊帳の揺れる裾をおさえて伯母は眺めながら、 「直子さんこのごろいいねえ——すっかり娘らしくなって。——」  吐息するように嘆声をあげた。  その直子さんの冷たさに、あおられた如く一度は激しく思慕の情を募らした。しかし、すぐ私は気力なく静かに一足身を退けた。そうした心の烈しい直子さんと、人手を渡りながら気弱く育っている私とは、追いつき難い距りが自らあるのであった。離れてみて判る情愛を抑えながら、日ごと私は直子さんを無縁の人と定めていった。稚い頃から新しい境涯へ順応してばかりいて、転々と育った私には、直子さんのように、全能をかけてものへ対って行く気魄もなく、一つの枠を自ら設けその中へ自分自身をうち沈めて行った。枠の中での哀惜や思慕は、時とともに心の底ヘ日々沈潜して、いつかそんな気弱な私自身への新しい哀愁が起ったりするのだった。——一夏、殆んど口も利かず、一つの垣を距てて、直子さんをかいま見るような、そんな日々が私で明け暮れした。  直子さんの私を寄せつけぬ、その冷たい一つの季節は、冬がやって来ても直子さんから去らなかった。  老夫婦の失うものを吸って育ったように、一思いに背高くなりながら、秋を過しただけで色に目色へ娘の気が濃くなりながら、直子さんは秋津へやってみえたが、やはり私から心をそらし、相変らず口も利かなかった。そして例年の通り晴れさえすれば、クリーム色の毛布をもってサンルームへ出かけた。その片隅の寝椅子で仰向になり、少しふくらみをもってきた胸をうごかし、ひっそりと静臥した。  その直子さんへ、めっきりと白髪の目立った大野屋の老妻さんが、長い廊下をのろまにわたって来て、菓子や果物を盆にのせてサンルームへ入った。  山国の冬のうすら陽のこもったサンルームで、以前のように無口に顔をふるだけで祖母を断ることなく、直子さんは気軽くそれを受けとった。そのまま帰りかける祖母を時には、ひきとめて、籐の寝椅子の上へ坐らし、つつましく祖母と並んで、うすら陽に肌を光らせながら、ひっそりとむつまじく食べあった。  たまにサンルームへ出て、気兼して遠くの木卓から、そんなむつまじい二人の姿を見ていると、双親の無い憾みや、冷たい直子さんへの憾みなどが入り乱れ、はげしく胸がつまり目頭が熱くなった。——  その春さき私は中学を卒えた。東京の新しい学校への入学も定まり、東京の縁者のもとへ日用の品々を送ったあと、二日の暇をみてはじめて独り秋津へ発った。  乗客の少ないバスは、秋津の山なみにかかると、急に冷え込んできた。そこからはや秋津の気配が始まっているのであった。螺旋状に秋津の山々の肌を登るにしたがい、次第と狭くなる道で、道へ延びた樹々の枝葉が時折、バスの背を虚しい音をたてて撫でた。その音が、縁なき人と決めながらも直子さんを忘れ難い私の心に、ひどく沁み徹るのだった。  気臆れして秋鹿園に着くと、大野屋さん岡田さんが連れだって部屋へ来て、新しい学校への入学を案じてくれた。合格だと笑って告げると、それなり小宴を催すことに決った。  山峡の湯宿の夜、大野屋さんの部屋で、私を祝う酒宴が、板野さん岡田さんを招いてはじまった。秋津のその夜は思いもそめぬ花やかなものになった。  お民さんが長い廊下を幾度となくわたって、調理の品々を運びこんで来る、明るい電燈の下の大きな朱の卓子へ、それが並べたてられる、とりどりの色彩が、燈に映え、部屋をわけて飾って行く。——閑寂な別館の春宵、湯の香をつけた人々が、日頃になく浮立った。  去年と違いまだ遊山客もたてこんでいない別館で、気のおけぬ人々の言う、おめでとうに、私は少しはずんできた。  秋鹿園の女主のお谷さんから、祝いのビールが半打熨斗つきで運びこまれ、酒が幾本となく卓子に立ち、心を許した酒にすぐ人々は酔い、その人柄のよさをあたたかくむき出しにして、これからの私を祝福してくれるのだった。  そうした常になく浮立ってくれる人たちのなかで、私の横の、赤のしぼりの花模様の羽織の直子さんだけが、盃も手にせず、相も変らぬ冷たい身じまいであった。カリエスがよくなり、肌の色艶も頬のふくらみも出来て、躯の隅々から娘の匂いをたてている。そんなあたたかい直子さんが、その美しさに似ずとりつくしまもなかった。  そこだけ歯の抜けて風の冷たく通るような直子さんに、気臆れしだした私を、横から岡田さんが、 「疲れてるかい、え、——元気になっとくれよ! ね、ふくらんだ蕾みたいにさ。」 ——みんな、君の若さを羨ましがるという言葉に、板野さんはめずらしく声を立てて笑いながら、ふとその深い表情の顔を私に見定め、 「あなたは東京のような処へ行ける人ではないと思いますよ——繁雑なものに巻きこまれたら、逃れられなくなる人だという気がしますよ——年齢がそうですし、不意に変った人物になったりするような——ね、あなたは東京へ行っても、休暇にはまたここへ来ますか?」 「——」 「それでは、ここに来ずにはいられないと思いますか?」  板野さんの逆の言葉で私を追いつめ、私自身の力を励ましてくれた。  相も変らず私に冷たい身じまいの直子さんへの憾みもこめて、私は板野さんに、来ませんと言いきってしまいたかった。喉までこみあげて来たが胸が先につまって、それが言えず、うつむいて小さくなった。その小さくなった私のまわりで、大野屋さん老夫婦も岡田さんも、手をとめて親身な目で私をいたわりながら見守り、当然の私の返答を待って静かになっていた。  そうした静かさのなかで、いつまでも返事をせぬ私に、いつかその親身な静けさが気まずくなりかけたおり、 「あ、雨ですわ——」  不意に直子さんの美しく冴えてほとばしるような声が、私をつつんでいる空気をさらって徹った。私ばかりでなく板野さんもその声音に救われたように、日頃の物静かに締った口ぶりから浮いて、 「春雨ですな。」  私から目をそらして深く閉ざし、耳を澄ます容子を見せた。  人々が耳を澄ましたあとの、山峡の夜の閑寂な時間の底で、戸外の闇の中の雨は、風の音にも消えるばかり細く絶え入りながら、遠くから近づいて来ていた。  雨の音は、耳は澄ましたなかで次第と高まって来た。  急に冷え込んだ部屋のなかで、私は虚しい哀愁に追いたてられた——あの幽かに降りそぼった音さえ気付くまで、それまで直子さんの心は私から離れたところに居たものだろうか。 「来られなくなりそうです!」  思いつめ、心の糸をぷつりと切って、私は言いかけた。その瞬間急に雨の音が激しくなり、私の全てをこめた言葉は、もろくその雨音にうちのめされてしまった。  激しい村雨がその夜、幾度も秋津の町を濡らして行った。  雨の夜があけると、秋津は一入春が立ってきた。  前夜、部屋に戻って、暁方近くまで涙を流していた私は、それなりに落着いて、朝から誰にも会わずに帰る心を決めていた。  午が過ぎ、陽射しが柔かくなると、やはり故意に張りつめた心が疲れ、昨夜の白けた小宴からの激しい愧《はじ》らいもふやけてきた。バスの出る一二時間まえの頃から、体の芯が熱ぽくほてり、耳鳴りがして部屋に居たたまれなくなった。  宙気になってやはりふらふらと臆面もなくサンルームへ私は出て行った。  思いがけなく人の気がなく、明るい室の空気は、春陽にむれながらも静かに沈んでいた。朝から訪れた人もない如く、木卓と籐椅子の一組一組が、程よい間をあけて整頓されたままであった。片隅では、いつも直子さんをのせている籐の寝椅子が、肢を投げだしていた。  私は急に生き生きした跫音をたてて、木卓の間をぬけ、その寝椅子に近よった。明るい春陽をうけた寝椅子は、古びて色あせ、籐の表皮も剥げかけていた。あの直子さんをのせていたとは思われぬくたびれようだった。  そこで私はこころもち細い呼吸になって、寝椅子へ仰向けに転んだ。——急に瀬音が椅子の足を伝って体へひびきはじめた。  そこで静かに目をとじると、無際限に重なり合い纏れ合う瀬音の底深くに、不思議と大きい安穏がひそんでいた。何気なく気遠く瀬音へ身を沈めると、瀬音はいつか数限りない言葉に変って行った。そこで独り静かに、願事《ねぎごと》を深い瀬音のなかへ語れば、山彦のようにその瀬音の底深くから、美しい言葉の答が、心のままに帰ってくるのであった。永い歳月ここで直子さんがひとりで語った秘かな言葉が、この無際限な瀬音のうちぶかくに残ってもいるのであった。  サンルームのドアが、そのおり、静かに開いた音が流れ、低い跫音で女の人が入って来た。  深く冷たく忍んだ跫音は、私の傍まで近づいて、そこで途絶えた。私はふと目をあけかけたが、すぐその心を虚しいことと抑えた。深く冷たい跫音の人の、冷たい身じまいが、あけかけた瞼裏にあらわに泛びたって来たのだった。  途絶えた跫音は、やがて静かに私の横の木卓へ椅子を寄せた。そこで、日頃になく落着かぬ気配で、本の頁のあちこちを読みもせずに、しきりとめくっていたが、そのうち、その音も途絶えて静かになった。束の間、美しい吐息をのこしてその人は立ち上り、本を私の耳もと近くの木卓の端へ、音高く投げ置いた。そして、聞き違うまで落着いた跫音で、ゆっくりサンルームを出て行った。  直子さんが出て行くと、急に疲れを覚える心を弛めて、私はぼんやり目をあけた。その目先へ、眩しく春陽に光りながら赤い部厚い本が、白い木卓の上で背文字を見せていた。 〔チャタレー夫人の恋人〕  寝椅子の上で身を起し、それをとりあげると、その拍子、赤い本はその重みだけで、私の掌の上で二つに展いた。春陽に光るその白い頁のなかには、まだ青い四つ葉のクローバが挿んであった。クローバの青が白い頁の行間へ淡くしみていた。  何気なく拾い読みしはじめた私の、肉づき薄い頬があからむようだった。あまりにはげしい求愛のくだりへ、クローバの青がしみているのだった。——  一瞬、私は冴えかえる冷静な心をとり戻した。直子さんのたった今の日頃にない焦立しい頁をめくる音、日頃に似ず乱暴にわざと本を私の耳もとへおいた、合図とも思われる音、それらのものにつつまれた直子さんが、俄かに鮮かになった。なにかいかにも直子さんらしい求愛のような錯覚が、私を虜にしはじめた。  しかし、すぐ私は虚しい手つきで、赤い部厚い本を木卓へ投げ出して立ち上った。  その正面のガラスの向うの川土手へ、いつ出て上ったものか直子さんはつっ立って、こちらを見ているのだった。もう永い間そこで佇んでいたあとを見せた直子さんへ、私がそれと気づくなり、緑の服の直子さんはそこで手を挙げた。私がひきこまれるように一足踏みだすと、澄んだ空気の中ですらりと背高い直子さんは、一層はげしく手を振った。白い指へ明るい春陽がまとわりつき、まるで指はよく光る石のようだった。——そこで、直子さんは踵をかえして私へ背をむけた。そして、そのまま静かな自信に満ちた容姿の足どりで、川土手の向うの傾斜へ、次第と躯を足から消して降りて行った。バスの出る二十分まえのことであった。  はかり難いその直子さんの振舞が、東京へ出た三月あまりの間も、鮮かに瞼裏へのこって消えなかった。  夏の休みが来ると合宿へも出ず、伯母の家に帰り、宿題が多いと口実をつけ、新しい制服で独り秋津へ登った。二月からの日々秋津で待ち侘びたが、大野屋さん一家はやって来なかった。  気持を憔悴さして伯母の家へ帰ると、行水のあと化粧していた伯母は、 「大野屋さん亡くなったんだよ——」  いかにも人ごとらしく冷淡に言って、黒塗の鏡台の抽斗から、黒枠のついた葉書をぽいと私のまえに投げ出した。  夕暮の少し暗い部屋で、もしやと思って葉書の裏を返してみた。筆で美しく書かれた宛名の文字は、直子さんの齢では書けぬものとも思われるのだった。  少し顔を伏せ、とりとめなくなって葉書に見入っている私を、伯母は二度三度ふり返って見てから、いぶかった声で言った。 「おまえ、なんだか少しやせたようだよ——」  ——あきらめがつかなくて、次の季節の正月、また伯母を誘って秋津へ出かけてみた。やはり大野屋さんの一家はやって来なかった。  秋津は冴えて澄んだ気配をもってはいたが、底の冷たい淋しい町だった。  それきり私は秋津へ登らなくなった。  私が休みになり伯母の家に帰る季節になると、永年の習いで秋鹿園から、秋津の絵のついた葉書で部屋の問合せが、舞い込んで来た。グラビヤではあるが、ひどく粗末で、見るに耐えられぬほどの絵葉書であったが、私も伯母もなつかしがってそれに見入った。 「板野さんは今頃いらっしゃってるだろうね——」  秋津の思い出があふれている伯母の声をききながら、絵葉書を見ていると、そのあくどい風景の色彩のなかからでも、直子さんの気配が、樹間の白い朝靄のようにその風光から流れ出て、静かに私を濡らして行くのであった。—— [#改ページ]   第二章 春夢深浅  明るい燈の下の玄関の、花樟の衝立の前に出てきた、見馴れぬ若い女中さんへ、あまり広くない部屋をと頼んだ。美しい髪を内巻きにした女中さんは、束の間新しい背広の私を吟味する目で見てから、先に立ってくれた。私のボストンを携げて、私の知らぬ母屋の奥ぶかくへ、幾度も廊下を折れながら、角々でスイッチを入れながら、薄闇のこめた長い廊下を若い女中さんは案内した。広い廊下は人影もなく冷えかえり、三年ぶりの秋鹿園は相も変らぬ沁み入るような閑寂な気配につつまれていた。  案内された、母屋の奥ぶかいなかの部屋は、茶室風にしつらえられて、別に天井の低い二畳の次の間がついていた。潜りになった一枚きりの襖をあけて部屋へ入ると、壁に、紅がらが塗りこめられていた。その紅が秋ぐちの部屋のしっとりした気配へ映え、ふと胸をつかれるようだった。  浅い床の軸物は、富士を右手に見晴し、牛の背へ横ざまに乗って揺られている若い女の旅姿を、肉感をさぐった気軽い筆致でかかれたものであった。  鴨居の額はと仰ぐと、これは寂巌らしかった。『酒中味』とある。  その酒中味の文字が仰ぐなり、紅がらのしっとり映えた秋ぐちの部屋で、どうしたはずみか、『色中味』と私は読み違えた。  若い女中さんからすすめられ、丹前に着替えながら、そんな色づいている自分に、私はひとり面はゆくなってきた。秋津の鏡のように澄んだ気配へ訪れてみて、はじめて三年近い私の成長が判るようだった。  若い女中さんはこまめに、脱いだ私の服をうしろからとり、静かな部屋へ、少し冷たい衣紋器の音をたてて吊していた。  なまめいた部屋の気配に、二十歳を越えたばかりの私は照れてきて、 「——こういう部屋で眠るのなら、按摩でもほしいけど、疲れてるし。」  しかし、私の声が聴きとれなかったらしく、白い固い足袋で爪立ちして服を吊していた女中さんは、その背を見せたまま、ええ? とききなおした。 「なにね、こういう粋な部屋で、独り寝るのはかなあない、按摩がほしいんだよ。」  帯を締めこみながら、ぞんざいな口を私が利いたその途端、はじくように、 「こちらどもではそんなこと! お断りしています!」  若い女中さんはそこできっぱりした頬になった。斜めにしているその頬へ燈の光りをうけ、二十歳になるやならずの女中さんは、意外に美しい面立ちをしていた。眉が濃く睫毛が長く、小麦色のすべすべした形のよい頬を、清らかな線がすっとつつんでいるのだった。  静かな部屋に女中さんの声は、少しはげし過ぎたようだった。すぐそのはげしさが木魂のように、また、思いつめている女中さんの心へ帰って行った。その木魂に美しい女中さんはかならず、固く私へそむけていた顔を、肩でする深い息をしてがくりと伏せた。言い過ぎたと悔んでいるとも見える、その風情に娘の齢の真剣さが斬れるほどひそんでいて、それが、女中さんの心根まで美しく見せるのであった。  湯室へ匆々に出かけ、湯舟の中で仰向けになり、天井の杉板の水気で洗われた、瑞々しく正しい木目を眺めているうち、きつくはねつけた女中さんの声が、その木目から蘇ってきた。杉板の瑞々しい縞目の正しさが、女中さんのきよらかな頬の線に似合っているようだった。  山峡の落着いた湯宿の湯室で、静かにひとり体をのばし清々しい女中さんを偲んでいると、按摩という言葉を秋津ではそういう意味で話すのかもしれなかったが、そう考え違いした齢の頃の女中さんの、女のあやうさが、あのきついきっぱりした声音を、あれまでに美しくしていると思われてきた。遠くの直子さんの芯の固い身じまいも偲ばれ、直子さんの女中さんの体ぎりのものと違う、心の上の固さであったが、あのなかにも、女のあやうさがあったものだろうか——。  爽やかになって湯室から戻ると、女中さんが変って、古い馴染のお民さんが来ていた。  朱塗りの卓子を明るく燈の真下で拭いていたお民さんは、あら! ぼっちゃんなの、お久しぶりですわ、何年ぶりかしらと、大きな目になって、 「背広なんか着てるから、誰かと思いましたよ。——ほんとに大きくおなりになって、」  大きくなってなんてごめんなさい! と自分の言葉で、昔通り少しも変ってない大柄なお民さんは、もううちとけて吹き出した。吹き出して笑い顔になりながら、卓子へ近づく湯上りの私の背丈を、なでるように見つめた。 「そんなに見るもんじゃないよ、年とって憂鬱になってんだから、今日は!」 「だってすっかり坊ちゃん、大人ですよ。——」 「さっきの女中さんもそう思ったんだろう、——あの人に叱られちゃった。」 「まあ!」  お民さんの出す茶碗の蓋をとり、一口のむと梅茶であった。淡い辛味酸味がやわらかく入れまじって、湯づかれした私の舌の上を、涼しく洗っていった。 「勘違いして、すごいけんまくさ、あの人!」 「お嬢さんにですか?」 「お嬢さんって、ここの?」  髪を内巻きにした人でしょうと、手をあげ髪の恰好をしてお民さんは、それから声を落した。あのお嬢さんは、おかみさんの連れっ子で、横浜のほうの専門学校に行っていたのを、おかみさんが中風で去年の夏亡くなるまえ、こちらへ連れもどしたのだそうだった。 「おかみさんがここへ跡入するおり、養女にして他家へやられてるでしょう、いまさら病気だって、それじゃ世間の義理が許しませんからね、それにもう一年で学校も終る時でしたから、帰るの帰らないのって、ずいぶんもめましたよ——」  もともとこの秋鹿園へ私が来そめた頃は、黒繻子の襟のかかった半纏のお谷さんが、玄関の左手の帳場にいつも坐っていた。客にはとりたて愛想のない人であったが、人使いが上手で、乙な口ぶりで気軽く女中さんなどを働かせていた。その頃もう四十近い齢であったろう。別段くせはなかったが、酒好きで晩酌をかかさなかった。亡くなった主人が酒で死に、お谷さんの酒はその主人の死後から始まったとかで、飲みぶりが主人そのままだという噂であった。  そういう噂のせいか、酒をのんで面長な白い頬へ、ほんのり酔をうかべたお谷さんの美しさは、並のものではなく、酒の中にまるで女を捨てきったような、透明な美しさで、女の生身からのものが、みょうに感じられなかった。気が向くと、三味線をもって岡田さんや滞在客の酒席へ出て、主人の惚気を言いながら、泥酔してしまうのだった。綺麗な惚気で、それがまた有名だった。女中にかかえられてよろめきながら、帳場の横にある部屋へ戻っても、呂律のあやしいお谷さんの常磐津が、夜更けまで別館へ流れてきていた。伯母などそれに聴きほれて、 「私も三味線でも習ってみたらどうだろうねえ——」  そんなことを寝床の中で言ったりしたこともあった。 「——あのお谷さんが亡くなったの——」  はかなくなつかしくお谷さんの声音が、耳底から幽かに蘇って来る、そんな私のかもす沈んだ気息に、 「昔は昔、今は今。坊ちゃん、あたしも三十ですよ——」  ご飯もって来ますわ、とお民さんは私を大人にあつかって立ち上った。  お谷さんの娘は、私が食事をすませて、お民さんに茶を入れてもらっているところへ、女按摩の手をひいて、詫びかたがたやって来た。  中年の、美しく開いて澄んだ目の、それで盲の按摩を部屋へ入れ、潜りの襖をしめ、そこで膝をそろえて坐り、 「新子と申します、先程は——」  終りまで言えずに小さくなった。着物もこの家の娘らしいよい品に着替えて、風呂も浴びてきたものであろう、肌が匂うように艶々しくなっていた。なにもかにもが眩しいように赤い着物のお新さんは、顔を伏せたきり黙り込んだ。そんな袂の端でもいじりかねぬ風情のお新さんに、何んとはなく私が笑うと、それにさえくすぐられるように、そこでお新さんは匂うような体を、もじもじさせた。  そのうちお民さんが敷寝《しきね》をのべてくれ、糊の利いたシーツの上にうつぶさり、按摩をはじめると、私の顔が見えぬせいか、お新さんは次第と落着をとり戻して、母からよくお噂うけたまわっておりましたと、娘らしくなくなって話し出した。  秋の永夜、紅がらの映えた部屋で、ほどよい按摩で疲れをいたわっているうち、秋津を離れていた二年以上の時間の距りが、次第と私からとりのぞかれはじめた。直子さんのことから、秋津の不思議と澄んだ気配へかたくなになっていた心も、軽い按摩のまにまにいつかときほぐされ、素直に秋津へ訪れたよろこびが高まって来るのだった。  夜の更けるままに不思議と美しく澄む秋津の気配に、私は身をよせかけながら、三年近い時間のうち、心の底に沈んでいた秋津そのもののような人たちを、想い出しては、その慈愛ぶかかった気息を呼び戻すように、一人ずつ名をあげてお民さんにたずねて行った。  板野さんは一昨日まで泊っていらしったのに、惜しいこと、学校が始まりますから、あら! 学校もう始まってんでしょう、サボってるのねえ。——岡田さんは夏さきみえて、秋の展覧会のお仕事されて、お帰りになりました、坊ちゃんのことずいぶん気にして、東京へ行ってボケたのだろうなんて、ごめんなさい、そう仰言ってました。瀧さんはもうおみえになる頃ですわ——  更けて行く秋の閑寂な夜の中で、そうお民さんが気さくく話す声を聞きながら、網の緒をしめきったように、それでもさり気なく、大野屋さんの話も出してみた。 「おや、おや、——大変な廻り道!」  私に釣りこまれて静かになっていたお民さんが、急にそこから跳ね出した。 「お嬢さんでしょう、お見えになりましたとも!」 「いやだよ、お民さん?」  弛めていた心をつかれて、私は弱くなった。そんな私へ、お民さんお新さんが肌で笑う声をあげた。静かな部屋へ愉しい笑い声がひびくと、お民さんは少しはずんで来て、去年の夏と春ひとりきりでおみえになりましたと、ひとりへ力を入れた。  ——春は女学校をお卒業なってすぐ、素敵な服でおいでになりました、十日あまりお泊りになって、習いたてだって仰言って琴をおひきになっていられました。夏は八月中一杯いらっしゃいました。おかみさんの亡くなって間なしにおみえになったのです、女学校をおすみになると、女はすっかり変っちゃうものですねえ——  春先に秋津へ帰ったお新さんも直子さんを知っていて、お民さんの言葉に心もちうなずきながら、 「お綺麗でしたわ。」  瞼裏にのこった姿を追うような声でお新さんが言った。平凡なその言葉が、秋津の澄んだ気配のなかでは、逆に美しい数多くの言葉にもまして、私の展いている心へ徹った。ほんとうに美しく育った直子さんの姿が、そのお新さんの声の徹ったあとから、ありありと泛びたってきた。 「でも、お淋しい方ですわ——」  夏には直子さんと親しくなってお新さんは、よく誘われて町はずれの崖道や、杉林の中の小径を散歩したそうだった。お発ちになるまえの日は、万燈ケ原へ出かけました。花はみんな落ちていましたけれど。 「髪を洗ってくれと仰言って——」  とてもやわらかい髪で、とても渓水が冷たくてと、お新さんは飾り気のない短かい言葉で話してくれた。  その飾り気ない言葉のまま、村はずれの崖道や、杉林の中の小道を、母親を失くしたばかりのお新さんとなにか不幸な直子さんが、きらきらする木の間がくれの光りを浴びながら、お互いの心の傷をあたためあっている姿が、まことせつなく私に迫ってきた。——きらきらする光りと風に、はかなく揺れているような直子さんの情は、仮りに一つの娘の齢の感傷としても、まこと誰にむけられたものだったろうか。 「あれっきり、お見えになりませんけれど、どうしてらっしゃいますかしら——」  やがて、按摩が終り、お新さんお民さんが帰ったあと、燈を消した部屋の中で、闇へ目をあけたまま寝つかれなかった。  町はずれの崖道で嘯々と吹く風にあのふさふさした髪を靡かせ遠くを望んでいる直子さん、杉林の中の細道で突然跼まって小さい胸をおさえて動かぬ直子さん、万燈ケ原の川原でお新さんに髪を洗ってほしいとせがむ直子さん、二つの季節ひとりきりでなにしに秋津へやって来たというのか直子さん、——綺麗であったという直子さんの様々の姿が、寝つかれぬ私の心へ冴え冴えとしきりに去来してならないのだった。  暗い部屋は渓流とは余程離れているらしく、瀬音も聴えず、湯の香も流れてこなかった。中窓の外の庭から流れてくる、幽かな秋虫のすだきのまにまに、部屋の気配は私をつつみながら、津々と沈んでいた。  底冷えして更けて行く夜の部屋で、その直子さんと私をめぐり合せなかったものを、はかなめば、秋津の秋ぐちの夜は、不思議に妖しく美しくなるのであった。美しく妖しくなる秋津の気配へひたり、私たちの信じやすく多くを知らなかった心と魂を、露ほどのとがめもないと思い耽っていると、なにか、人間の運命のはかなさを過ぎて、秋津の不思議と美しく澄むせいとも思われ——秋津の不思議と美しく澄む気配の、その不思議さこそは、私と直子さんのあわれ、数知れぬ人々のあわれを、血肉として生きているゆえとも思い惑われてくるのだった。——  一夜があけたあとも、直子さんの美しくなった姿をしらぬあわれが、醒めもせず私の体の中で息づいた。三年近い歳月、縁なき人と定めて、心の隅へおしこめていた憾みが、時とともに心のなかで拡がって行くのだった。  紅がらの塗りこめられた部屋で、終日、中窓の下へ寝ころび高い秋空を眺めて過した私を、夜、寝床をのべに来てお新さんが、 「いっこくなかた!」  笑って慰めてくれた。まだ点していない燈へ、お新さんは白い腕の肌を薄暗の中でのばして、スイッチを入れ、体に毒だとも言うのだった。そして、寝床をのべたあとも、そのまま私独りをのこしてすげなく帰る気になれぬのか、私の枕もとに坐り、眠るまえのわけてもの想いがちになる時間を、板野さん岡田さんの噂話でもてなしてくれた。直子さんへの思慕で気重い私の心のほどを知り抜いていて、わざと私の心へふみこまず、遠くからあたたかくもてなしてくれるのだった。やがて、仄かに私へ安息な時間が戻ってくると、よく働く勘でお新さんはすぐそれを見つけ、燈を消して静かに帰って行った。その呼吸が、まこと清潔で美しく、あとに残された私に気持のよい余韻がのこり、眠りにおちるまで消えなかった。  翌朝、頭がからりとして覚めると、朝食のあとクミを連れて、杉林の中の小道を登って行った。早い紅葉や落葉が、小道にもう始まっていた。曇った空から陽射しもなく、夜露がしっとりと落葉を濡して、夜の時間がまだかすかにのこっているようだった。  その、早い紅葉と落葉の山道を、白いクミは一息駆けぬけては、また戻って来て私の歩度をせかした。  杉林の中の小道が細くなり、やがて少し冷たく暗い木立ちの繁みのあたりまで登ると、私は落葉に埋もれた小道にうずくまり、心を放して動かなくなった。クミの立てる時には軽くひっそりと、時には荒々しくなる灌木の葉摺れの音のように、激しくなり弛くなりながら、私の心は直子さんの気配を探しまわった。  やがてクミがそうした私をもてあまして帰ったあとも、永い間、そこから動かなかった。心を放し直子さんの残した気息を探したが、昔のままの杉林の中の静謐に仄かにも直子さんのかげはないのだった。及び難い虚しい過ぎ去った時間のうちの、私自身のはかなさが燃えたつばかりであった。  二年という歳月、私はそれまで秋津を憎悪したものであろうか——秋津の深く澄んだ気配は、白々しく鏡のように、その歳月のうちに失った私の数多くの瑞々しい魂を虚しく写すに過ぎなかった。——  永い間、出たきり帰らぬ私を、お新さんがクミを先登に、杉林の中の道をのぼって来た。一足さきに小道を駆け登って私へやって来たクミを、幾度も呼ぶ澄んだお新さんの声が、その度近づいて来た。  やがて、曲り道の灌木の蔭から、山の色に映えて薄紫の着物のお新さんが登って来て、そこで、 「ご飯ですよお——」  白い手と薄紫に紅の縞の袖を振った。  精根を使い果したように、体から芯の力のなくなった私は、その声に立ち上り、とぼとぼお新さんのほうへ下りて行った。  笑顔で待っていたお新さんは、私が間近くなると、急に清らかな頬の線を固くして、睫毛の深い目をたじろがした。 「真蒼よ!」  さっと、それきり背をむけ、小道を静かに下りだした。  クミがそのお新さんの横を駆けぬけて行ったあと、お新さんは真蒼よと言った複雑な響のなくなった声で、うしろの私へ話しかけた。 「あまり怠けるものじゃないですわ——学校はじまっているのでしょう。」  虚しい努力を私にお新さんはすすめながら、木立ちの小枝を折って、それをまた小さく幾つも折って、それを落葉の小道へ捨てていた。 「早くお帰りになったほうがよいですわ——」  心とうらはらの声音でいうお新さんの言葉を、気疲れで遠くなった心のままぼんやりうけて、 「明日でも帰ろう。」  想っても居なかったことを言うと、みょうに帰ってもよい心が立ってくるのだった。  それなりお新さんは少し私から心をそむけ、無口になって足をいそがせた。杉林の木立ちがまばらになり、やがて秋津の家並みが間近くなったところで、ふいにお新さんは立ち止った。 「あたし、昨日ね、おばあさんになってる夢を見たのよ、あくせく働いてんの、今のとおり、——いやんなったわ!」  急に明るく花やかになってふりかえり、私を仰いで小さい笑声をたてた。そこでまた私に背をむけ、しいんとなって、 「たよりなかったわ!」  小さい掌で胸をたたいていたようだったが、いきなり、「先に帰りますわ!」と言うなり小走りに駆けだした。  つい先から左に折れ、別荘の白い柵のまえを、お新さんは薄紫の袖を飜しながら、杉の木立ちの蔭に見えかくれして小走りに帰って行った。そのお新さんを山の気を透して見ている私へは、夢かと思われるまで跫音も聞えず、まるで水底のお新さんを眺めているようだった。そんなに遠い淡いお新さんの小さい体の、二十歳という生身の清潔が、慾得なく秋鹿園を切り盛りしているのだった。美しいが、いつか歳月のうちに失わねばならぬ、生身のあわれを、「たよりない!」とお新さんは言ったものであろうか。  やがて、お新さんの水底に映っているような姿が、杉林から出て見えなくなると、私はひとり小道を下りはじめた。生彩のない講義を、ふと頭へ泛べながら、私もやはりあすこへ帰って行くべきものだと、明日発つ決心がはっきりそこで定まった。  秋津から帰り一月たらずのうち、風邪がこじれて、肺炎になった。東京の縁者の世話で入院して十日あまり経つと、高熱はひいたが微熱がとれなかった。レントゲンをとると右の肺尖が黒く犯されていた。  入院していた大学の附属病院では、病棟の端に、よく徹る音色の鐘が吊られてあった。時々、その鐘はほんのしばらくであったが、昼夜をわかたず鳴ることがあった。哀々とした音色で、その鐘が鳴るごと私は不思議と直子さんを思い出した。白いドレスに身をつつんだ直子さんの冷たく透る膚の手が、その鐘をならしているふうな幻覚が浮んだりするのだった。或日、病院の看護婦に注射されながら、その鐘のことを訊くと、病棟で誰か亡くなると病科の看護婦が代表で鳴らしに行くのだそうだった。  その日からその哀条とした鐘の音を聞くと、生き死にの想いを越えて、伯母への情愛が高まり、そのまま入院していられなくなった。微熱のある体を、伯母への想いだけで猛らし、私は無理やり退院して、伯母の家へ戻って来た。  むきになって帰って来た私が、伯母はわけていとしいながら、肺尖という病への怖れがぬけきれなかった。怖れる自分自身をもどかしがりながら、伯母はどうすることも出来ず、日ごといちずに気弱くなった。怖れている自分を私に気づかれまいと、心を砕いて伯母は見る見るうちに憔悴してきた。その伯母が有難いながら、その暮しに気疲れして、伯母へ秋津へやってほしいと頼んだ。  そんな私の心がすぐ判るのか、いたいたしいほど自分を小さくして許してくれた伯母は、その日から老眼鏡をかけて、老婢と二人で新しい蒲団を作りはじめた。  伯母の心づくしの新しい夜具を送り出してから、私は自動車で温かい日和を選んで秋津へ出かけた。  伯母は手紙を出しておいてくれたらしく、秋鹿園に着くと、お新さんはすぐ裏庭の中にある、八畳と三畳の離屋へ、火をもって連れて行った。  清潔で不思議に明るい律動のある身ぶりで、お新さんは火燵をつくってくれながら、伯母の筆蹟が美しいと羨ましがって、 「もっと甘えなくちゃいけませんわ——」  伯母がそれではお気の毒だとお新さんは言った。お新さんには甘える人もなく、こんな私の我儘がじれったくもあるのだろう。  裏庭の中の庭樹に囲まれた小亭で、落葉した樹々の蔭に母屋はなっていて、人の気が覚えられず、どうかすると、その離屋は山の中の一軒屋とも思われるようだった。南に広い縁がつづいていた。風が無ければ、そこでひっそり晴れた日は安静時間も守れると見えた。湯殿も小さいながらついているし、その上帳場へ通じる電話があった。ことさら人目にあって気臆れしなくとも、部屋へ籠ってすべてのことが出来そうだった。体より気持の衰えている私には、ほどよい棲家と言ってよかった。  寝床を枕一つの置き方にまで、その清潔な気性を映えさしてのべると、私をせきたてて寝かしつけ、 「新鮮な空気と光りと栄養ときちんとした時間と——」  縁側に出て秋陽をうけながら、そこで足ぶみして言っていた。寝床の私から、秋津の日和よい青空へ浮んだふうに眺められるお新さんは、もう、そこで自分自身の苦しみなど、少しも考えぬ、手厚い親身になってくれるのだった。  新鮮な空気と光りの秋津での、その日からの私の生活は、まこと手厚いお新さんの親切のなかで明け暮れた。  朝、目を覚ますと枕元でお新さんは、私を見つめて笑顔になっているし、湯殿ではちゃんと洗面の用意がととのえられているし、痩せ細って食事のすすまぬ私の体のため、特別皿数を多くしてくれたり、食器の類にまで心を配って、日ごとめずらしい小皿など使ってくれた。鉄瓶の湯がきれたり、火燵の火がぬるくなったりすることがなく、中床の軸も時々かわり、離屋の二間がいつもお新さんの心づくしを漂わして、あたたかかった。それがまた、お新さんの好みによらず、まるで永年の知り合いのように、私の気持や癖をあざやかに忖度してあるのだった。夜は夜半で、帳場の仕事が終り寝るまえの時刻、遠い廊下をわたり、暗い庭を石づたいに跫音低めて、お新さんは離屋へやって来て、そっと夜具の裾をおさえて、また暗い庭の樹々の間をぬけ、時々小枝を撥ねながら帰って行った。  その深い心づかいが、ありふれた発情からではなく、日頃の客あしらいの一つのように、深くもならず、浅くもならず、さらっとあとに軽い余韻をのこし、いかにもお新さんという人の人柄の暖かさになっていた。  そうしたお新さんに日々もてなされていると、あまりの不変な親切に、逆に私は見境もなく焦躁を覚えたりした。たまりかねて、或る朝、狭い湯殿で顔を洗っている私の袂を、いつものようにうしろから寄りそって持ってくれているお新さんへ、体のよりそった安堵から、 「どうしてそんなに親切なのさ?——」  お新さんの心へ入ろうとすると、 「商売熱心なのよ!」  私の背のうしろから、こだわりなく、小鳥のように笑うだけだった。——  そんなお新さんの笑い声を聞いていると、なにがなし、秋津の不思議に冴えて動かぬ初冬の気配のなかで、お新さんのような人となら、直子さんとの場合と違い、安息な私自身の時間を守りながら、静かにともども暮して行けると思われた。直子さんとのように、陰翳の濃い豊かな、それで切実な一瞬一瞬の火のように生命を燃焼させる生活は希《のぞ》めないにしても、ほどよい倖せと清潔な日常をお新さんはもたらしてくれるだろうと想われるのだった。  秋津で二十日あまりして微熱がようやくとれた。微熱がとれて一週間あまりあとの朝方、お新さんがタオル地の寝巻姿で、あらあらしく離屋へやって来て、 「戦争がはじまったのよ! 戦争よ!」  私を揺り起しながら、ぽろぽろ綺麗な涙を、私の頬へ脣へおとした。  その昼過ぎ往診に来た、秋津の町医者の岡崎さんは、痩せた老人のわりに似合わぬ、はげしい声で、 「微熱もとれたし、あんたも早よう、お役に立つ体になりなさらんと、おえませんぞな!」  首を振り振り私を励まして帰って行った。  その日からお新さんは小さいラジオを離室につけてくれた。  微熱に永い間苦しめられて、崩れかけていた気持が、棒を入れられたように、私の体の中で不自然に張りつめ、またその夜からひどい寝汗がはじまった。  冬休みの頃になり、寝汗もとれ気分ももちなおしてくると、例年の通り戦争のその冬も板野さんが登って来た。  お民さんの案内で三年ぶりに、私を見に来た板野さんは、あれこれ私の病状を聞いてくれたあと、部屋にいつの間にか高く重った書物を見ながら、昔と変らぬ落着いた身じまいで、火鉢によりかかり、 「一年休んだら、一年長生をすればよいでしょう。しかし、時間をブランクにしてはいけないと思いますね。——これはあなたにとってよい時期と言えるかもしれませんよ、広い視野をもつために、いままでの勉強を消化するためにです。」  やはりまたここへやって来ましたね、伯母さんよい方でしたが御元気ですか。  殆んど白髪になった板野さんは、折目正しく坐りながら、慈愛ぶかい目で私を見守ってくれるのだった。そんな板野さんに、独りでここ二十日あまりもちこたえた、戦争からの心の動揺を、私は思わずさらけ出してしまった。 「戦争については、おたがいの生きた時代が違いますから、話しても語りつくせないでしょう。——しかし、あなた、簡単に言えばです、人間を罰するものは社会とかその文化文明などと種々その権利をもっているものはありましょうが、人間の生死を司る権利の所有者は、自然だけです、或いは時間と言っても、神と言ってもよいでしょう。」  その日、そう言ったきり板野さんは、二度と戦争の話はしなかった。一日一度は日課のように顔を覗けて、私の読んでいる本の感想を語らしたり、十年あまり行っていた欧洲の話など、静かに聞かせてくれた。時に、お新さんも来て三人になると、伯母をまだ見たことのないお新さんに、美しく伯母を語ってきかせたりするのであった。  そんなによくもありません、と私がまぜかえすと、 「身近い者は馴れて判らぬものです、親とか妻の愛というものは、亡くなられてようやく判るようになっているものですねえ——だから、人間はいつまでも同じ過誤を繰返して生きて行けるのでしょう。——」  一度、奥さんを亡くされたきり、六十近くまで独りで過している板野さんは、私やお新さんの若さを、意志強く光った目をやさしくして見くらべ、さとすように言ったものであった。  正月が終って伯母がはじめて秋津へ登って来た。  離屋の中床にお新さんが飾った餅や干柿などを、伯母は眺めながら、正月はひとりで淋しかったと、みょうに老い込んで肩に力がなくなっていた。  別館のいつもの部屋へ泊った伯母は、翌日朝から白いエプロンをつけ、甲斐甲斐しい姿で、離屋へやって来た。私を世話しているお新さんに感謝していながら、その並々でない親身さに、伯母は追いつき難い焦躁や不安を覚えるらしかった。心をふるいたたして来たものの、やはり病への怖れがぬけきれず、三十分もすると気を詰らせて黙りこみ、次の三畳の火鉢へもたれてばかりいた。時には、小皺の多くなった目もとへ涙をにじませ、追いたてられるように別館へ帰って行った。帰っても、すぐ私があわれになってまた、離屋へ来たり、日中を別館と離屋の往き帰りで終らせた。  一旬あまりして、そうした気苦労に張った心も折れ、帰ると言いだしながら、 「あ、おまえはあんな気性の強い子が好きなんだね、直子さんもそうだったし——。お谷さんもそうだったけど、あの子も気性ものだねえ。——ああいう子がいると家の中がきちんと片付いて——だらしのないおまえには、ちょうどよい人だよ——寝相もよいだろうしねえ。」  次の三畳の火鉢にもたれて、清潔で伯母の心の配りようもない部屋を、気おされた目ざしで眺めながら、そんなふうにお新さんのことを言った。  その伯母を停車場まで送って来たお新さんは、淡い冬陽の斜めに射した障子の外から胸のふくらみの判る声音で、 「いい伯母さまね、板野さんの仰言る通りの伯母さまね、あなたは倖せだわ!」  縁側へも上らず庭先へつくなり言って、それなり、はずんだ足音で帰って行った。  冬がれていた裏庭の樹々の枝に新芽がふいた。やがて、梢のほうからそれらの樹々の新芽がひらいてくると、嫩葉の匂いが離屋の中に流れこんできた。  医者の岡崎さんから散歩の許しも出て、少々肥ってきた私を、梅見に行こう、万燈ケ原へ行こうなどと励ましたり甘えたりしてお新さんは、しきりに運動させようとしたが、一冬部屋にとじこもっていた惰性で、億劫がって断わり、終日、晴れさえすれば日当りのよい縁側に寝そべり、生気の無い時間を過した。気怠く春陽に体を熱ぽくして、永い時間、縁側で過していると、みょうに老い込んだ伯母や結婚している直子さんの姿が、凹レンズの底に映るように、なんの実在感もなく泛び上ったりした。愛着も思慕も覚えられず、まるで私は全てのものから隔絶された独りの世界に、堕ち込んで行くのだった。  そうした、過ぎ去った時間を待ち侘びているような、いたずらな私を、お新さんはもてあましながらもあきらめず、はては小唄を教えると言い出した。  赤い鹿の子で包んだ三味線を抱いて、嫩葉の蔭からお新さんは縁側へ上って来て、縁側へ座布団を出して行儀よく坐り、 「お師匠さんによっては、びんほつなんか教えるけど——あなたにはお伊勢参りが似合うわ——」  そこで、そう決めて音じめを合せた。  縁側から部屋の日蔭へ片臂ついて横になった私をすぐまえに、お新さんは明るい縁先でよく胸をはり、少し固苦しい姿勢で三味線をひきだした。羞しいものか目をつむり、三味線の張った切れ味のよい音色に似合わず、小さい声音で、いちずに身を澄ましてお新さんは唄いはじめた。その娘の固苦しさ稚さがお新さんの背のうしろに繁った縁ぞいの蜜柑の固い青葉と調和して、私への思いやりに心を澄ましたお新さんを、まこと瑞々しくしているのであった。  長い睫毛をとじ、三味線の音色に合わせたお新さんの清潔な声が小さいまま春の中空へ、温和なしかももの侘しい階調にのって、生気をこめながら流れていた。  背からの蜜柑の葉漉しに射す春陽のなかで、よく動くのびた指や、階調のままにわずかに動くお新さんの顔の、清らかな頬の線が、時おりかすかに光った。時には小さいお新さんの心のような耳朶が、通っている血を見せて、葉漉しの春陽に透るのであった。  そうしたお新さんの清々しい生気を、寝そべりながら仰いでいると、気怠く動かぬ体の奥底深くから、瑞々しかった昔の時間が、幽かに泛び上るようだった。数々の稚い私の瑞々しい記憶たちは、心の襞々へはねかえり呼びかわして次第次第に鮮かになって、と、私に囁きかける。  ——おまえはそこで、なにを待ってるの!  すると私も急に、身を澄してとりどりの唄を口ずさむお新さんに、直子さんと違い心の底にまでなやみのない、透っているようなそれで素晴しく生きている目の前のお新さんの、その体へ、 「いったい、なにを待ってるの?」  お新さんの小さく丸い肩へ手をかけて、振って、その清々しい生をたしかめたい衝動にかられてくるのだった。  そんなお新さんは日ごと、お谷さんの三味線をかかえて来て、離屋の縁側で小唄の稽古をはじめた。  お伊勢参り、舟に船頭、雪のだるまと進むその小唄の、古めかしい情緒の中には、ものさびた深い諦観がこもっていて、疲れた私の気息にほどよい休息を与えてくれるようだった。秋津の不思議と澄んだ気配のなかで、日々に深くそうした情緒の襞へ、おちこんで行くと、直子さんへのはかない追慕も、清浄な祈りのように、遠くから倖せを願うゆとりさえも持てはじめた。所詮は始終中、夢まぼろしの生涯ゆえ、浪風の荒れぬ道を静かにわたりたいとも希われてくるのであった。  そうした稽古の途中で、或る日、帳場から電話で呼ばれて中途していたお新さんが、しばらくして急ぎ足で帰るなり、静かに気弱い諦めに沈んでいる私へ、 「途中で用事に立つと、お父さんいやがって——」  と私に初めての実の父の淋しい話を聞かせてくれた。胸が悪くて二年から就床していたお新さんの父は、お谷さんが働きに外へ出かけた留守、焦立って来ては、十二三歳のお新さんにお谷さんの三味線をひかしたそうだった。夜が更けてもお母さんが帰らないと、お父さんの横で、あたしはよっく三味線ひきました、お母さんがなかなか帰ってくれなくて——ふっとそこで声を消した。 「——体のつきが、あなたそっくりよ——」  そこで私の肩を見つめて、またお新さんは三味線をもちなおした。勢いのよいながら哀愁のひそんだ音色が流れだした。 「手当が行き届かなかったから、駄目でしたわ——。」  なにがなく、お新さんの私への親切のほどのありかが、そこから判ってくるようだった。それと早計に決めてしまうわけにはいかぬが、胸の患いで亡くなった実父への、行き届かなかった世話の心のこりが、そのまま私に移っているのではないだろうか。深く身をよせもせず浅くもならず、縹眇としたお新さんの情愛こそは、実の父への限りなくあわれな執着とも見え、それがまたいかにも、清々しいお新さんにふさわしかった。  そう思いきめて、陽射しにまぶしく光るお新さんを見ると、秋津の不思議と澄んだ気配のなかで、これはまた、神々しいばかりに美しかった。  桜の蕾がつく頃から、例年のように湯治の客がふえ、庭の樹々の蔭の母屋から、ざわめいた人の気が流れてきた。  体をもちなおし、汗ばむほどの運動も出来るようになった私は、気臆れしながらもみょうに人恋しさがつのっていた。  やがて、岡田さん板野さんが別館へみえると、少しお新さんにさからって、私も別館へ移って行った。  別館は思ったほどは客もなく、瀧さん夫婦と、板野さん岡田さん、それに秋津の山裾にこの頃出来た航空機の部分品工場の家族が、三人の男の子を連れて出かけていた。しかし、三人とも小学生の男の子たちが、終日、跫音をはげしくたてて廊下を走り廻って騒ぎ、ガラス戸の揺れる音にまじり、姦しい声音が別館へひびいた。あきれて私たちがサンルームへ出て行くと、すぐ追いつけるようにやってきて、嬌声をあげながら、白い木卓の間を走り廻った。体の丈夫でない瀧さんの色白い顔や、蒼白い私を見て、面と向い、オッサン肺病じゃろなどと言ったりする。素直なくせに芯の荒い子供たちだった。たまに、色の黒いずんぐりと骨組のよい母親が出て来て、その子供たちを上品らしい口ぶりで勉強しろと叱りつけた。叱られても子供たちは一向に平気で、逆に母親の上品らしい口ぶりに似合わぬ野鄙な言葉で、 「少年航空兵になるんに、なんが勉強やこしとれるか!」  母親を鼻であしらって散華じゃ散華じゃと、歌まじりにせせら笑って、また走り廻った。  そんな子供たちにさえ、私たちはみょうに気おされて、サンルームへも出かけなくなった。瀧さん夫婦は気弱く部屋から出るのもはばかり、私や絵をかく気も起らぬ岡田さんは、なんとはなく、板野さんの部屋へ集まり、ぼんやりした日中を過した。  どうせこの仕事も出版出来るかどうか、判らないのですからかまいませんと、気持よく私たちをもてなす板野さんの部屋へ居ても、子供たちのあまりに晴々しい非常時だとか散華という言葉が耳に入り、暗い穴におちこむように、黙りこむことがよくあった。秋津の空にも時おり爆音がひびいたりして、その春は不思議に深く落着いた気配へ、誰も身を沈められないのだった。  永い間、爆音の遠ざかるのを聞いていたりして、黙りこんだまま気詰りになると、岡田さんはよくいきなり立ち上って、 「ええい! 一杯飲むべえか!」  などとおどけて、帳場へ不自由な酒を無理に頼んで来た。  そんな酒の度合が重なると、お新さんははらはらしてやってきて、 「酒なんか、そんな体で飲んで——どうするのよ、また悪くなったら!」  板野さん岡田さんのまえをかまわず、私をきめつけた。  一冬の習いでお新さんになにを言われても、口ごたえも出来ぬ親身が身に沁みている私は、ちっと笑ってみたりして、そんなお新さんから体をかわすと、 「あたしのほうが病気になりそうだわ!」  と余計にお新さんはじれったがって、板野さんに岡田さんへ、見境もない、それだけ素直な愚痴をならべたりした。  そのお新さんの親切だけの情が判っていながら、秋津の落着いた深い気配へ身を沈められず焦立ちまぎれに、岡田さんは、 「なにをさ、そうがみがみ言いなさんな、まるでお谷さんそっくりだい! ねえあまり、可愛がって元気にすると、兵隊へもってかれちゃうじゃないか!」  象のような目を、お新さんの情からそらして、そんなことを言ったりした。  子供づれの一家が、ようやく発って行った次の朝、誰か玄関へ自動車を乗りつけた。玉砂利の敷きつめた前庭の道へ、無謀に自動車を乗り込ましたことは、それまで記憶になかった。  自動車が止ると急に帳場のあたりがざわめき、朝の気配を乱しながら、別館の私までひびいてきた。しきりなく出入する足音や人の気が立っているのに、話声が聞えて来なかった。何気なく廊下へ出るなり、私は佩剣の音を聞いた。  帳場をのぞきに歩きかけると、母屋と別館との十文字になった廊下の右手から、お新さんを中に三四人のカーキ色の服の将校が、部屋部屋の検分をしながら歩いていた。  肩をいからせ大袈裟に頷きあっていた連中は、母屋の奥へ曲る角の、私から見えなくなる処で、猪首の肩幅の広い一人の将校が、ふいにお新さんの肩をたたいた。声は遠くて聞えず、それだけわけて淫らに想われる笑い声が流れて来た。その淫らな笑声のなかのお新さんは、肩をたたかれたきり、日頃の勝気に似合わず、そんな悪戯をまともにうけて小さくなっていた。  体の芯へ火がついたように、いきなり不快に私はなりながら、帳場へ少し荒々しく出て行った。玄関の横の八畳あまりの帳場の中で、お民さんはじめ三人の女中さんたちが、板前の六さんをとりまき浮腰で火鉢を囲んでいた。 「あれや、なにさ——」不快になってあたり散らすような声をかけながら、お民さんの横へ割り込む私へ、お民さんはあわてて口へ手をあてて、言うなという顔をした。それからその口へあてた手をのばし、玄関を指さした。  帳場の中から少し体をのりだして見ると、玄関のつい先によく磨かれた自動車が、こちら向きに止っていた。その先で金色の星が、春陽をうけて光っているのだった。  それを見つけている私へ、お民さんが低い声で、 「日赤の軍医さんですって。」  陽が急にかげって、金色の星から束の間、光りが落ちた。 「なにしに来たの、朝っぱらから?」 「徴用、というものですって。」  もうおどおどした声に乱れて私に言ってから、お民さんは先刻のように、首に手拭をかけた六さんに、 「そいじゃ、あたしたちはどうなんのさ、お払い箱かい?」 「だけどよ——まさかおめえさんが看護婦にもなれめえじゃねえかよオ——」  湯が三度の飯より好きで、秋津へ流れて来た左足の踵の動かぬ六さんは、お民さんをすぐそうつっぱねた。つっぱねたその声の底に、秋鹿園で二十年を過した五十近い六さんの、雑ながらえも言われぬ哀感がこもっていた。  誰一人笑いもしなかった。 「おや、雨だよ。——」  ぼんやり中窓のほうを眺めていた一人の女中さんが、ぽつりそれだけ言って、またぼんやり沈みこんだ。  雨は向いの山の上の空から、山の若葉を銀色にいぶしながら近づいていた。  やはり徴用になるのだった。午、食膳をもってきたなり、背をむけるようにして坐ったお新さんが、はっきりそう私に知らした。  日赤の分院を秋津に建てるので、軍医の宿舎になるのだそうだった。一週間したらその設営にやってくるのだと言いながら、 「でも、うちの者みんな徴用してもらったことにして、ここに居られます。——助かりますわ。」 「それやそうでも、兵隊の中で、——今までみたいな調子には行かないだろうし、大変なこったよ——」 「——お国のためですから。」  肩をまたおとして、それなり顔を上げなかった。そんなお新さんから離れて、奥の丸窓をあけに私は立った。  外では糠雨が降りしきっていた。  折角こんどは板野さんも岡田さんも瀧さんだってみえているのに、明日は帰っていただかなくてはならない—— 「——どう言ったら、いいのかしら——」  日頃の気性者ではなく、所詮は女の涙声になって、お新さんは私に心をあずけに来た。 「——」  糠雨が降りしきっている向いの川土手の上を、一緒に散歩に出かけていたものか、六十近い板野さんと四十まえの岡田さんが、一枚きりのバアバリを頭へかぶりあって、縺れ合いながら、小走りに急いでいた。六十近くいまだ独身の板野さんのそうした姿は、秋津の不思議な気配につつまれ、わけて人間の情愛の深さのほどを、そこで見せていた。秋鹿園が始まって以来の常連の板野さんの、古い想いの数々をこめた棲家が、今日で終ってしまうのだった。 「なにか、別れの会でもしたいね——」  心を開いて待っていたお新さんは、すぐあわれに、藁でもつかむ人のようにその言葉にすがりついて、わずかに浮き立ち、 「そうね、いいわ、いいわ、それがいいわねえ。」  本気でそれを言っているとは思われず、それで気の晴れ落着ける筈もないのに、お新さんはしきりに、ひとりいいわいいわと繰返した。それがまた、格別お新さんのあわれを深くするのだった。  それでもお新さんは立ち上り、わざと力を体へみせて、ひわのように部屋から出て行った。  その夜、母屋の一間で小宴をお新さんが催した。泊り客の部屋部屋へ特別の配膳があり、常連の板野さん岡田さん、瀧さん夫婦と私、それにお民さんが酌方で、板前の六さんも向鉢巻を締めて、部屋の隅で揚物の調理をやってくれた。  泊り客のすべてへ挨拶に廻り、やがてお新さんは淡紅の地へ総漆の花模様のある着物に帯をしめ、現れるなり部屋の下手で行儀正しく坐った。 「永々とお世話さまになりまして——」  好まぬ人へ嫁つがなくてはならぬあわれな娘のように、固い言葉でそう言って、そこで見事な格調のあるお辞儀をお新さんはした。いよいよ一人になって辛苦を忍ばねばならぬ心を、それで決めているお新さんの、その稚さが、みょうに脆く見えるのだった。 「ああ——」とそのお新さんを手招きながら嘆声をあげて板野さんは、「お母さんにそっくりですよ、お母さんがここへみえたのも春でしたが、私は常連だというので、挨拶に見えました。三十過ぎでしたね。意気なかたでしたが、その時は丸髷が重そうで、いたいたしいようでした。」  お新さんの脆い稚さには、やはり情が先に立つのか、今日の板野さんはみょうに、情に流れているのだった。 「時間が全てを解決すると誰でも言う通りです。じっと生きて行けばよいのです。あせらず悩まずに——」  そのお新さんをまじえて、安息な棲家を失う人々の、憑かれたように勇しくもある宴がはじまった。  百燭光の電燈を二つ点した明るい部屋で、見るうち銚子が林立して行った。別離の傷心を酔で抑えて、人々は肌身を陰している衣裳を脱ぐように、全ての垣を捨てて一つの雰囲気をつくった。言い合せたように、戦争の話はせず、故意に昔話に耽っていった。誰の胸底にも、自分自身の運命のいわば象徴とも見えるお新さんへの、親身な思い遣りがひそんでいて、それを語らせないのだった。  ひとしきりお谷さんの話がはずみ、常連でいつか秋津へ登らなくなった人たちの噂が登るうち、大野屋さんの話が出た。  板野さんの出ている神戸の大学の仲間に、その近所に住んでいる方がいるらしく、誰も知らない家庭の事情などを話しだした。大野屋さん老夫婦の独り息子は、カリエスでもう二十年近く寝たきりで、家の采配は直子さんの母親があたってきたそうだった。その母親も去年から胸を患い、直子さんと番頭を一緒にさせたそうだった。 「無理な結婚ですから嫌だったでしょうが、いまはうまく行っているようです。——エキゾチックなよい子でしたね——」  ここ数年いつも結婚しているに違いないと決めて、そんな姿の直子さんを描いていながら、やはりいちずに虚しい感慨が私を濡らしはじめた。 「やはり女ですものねえ——」  お民さんの真面目な言葉を聞きながら、私は暗くおちこみだした。秋津と別れる哀愁を堰きとめるに精一杯の心が、そこから急に崩れて行くのだった。  そんな私を向いの席から岡田さんは目敏く見つけて、 「君も、あの直子さんをずいぶんあれしたが——」  酔って肌理の粗い声の裏に、深い情愛がこもっていた。 「おやおや、とんだとばっちり!」  甲高い声でお民さんがさわぎたて、「あれってなあに?」などとからんで来た。俄かに賑やかに浮き立つ人々の心が、私にあつまりかけ、あわてて、濡衣ですよと逃げかけると、 「知ってるぞ、ちゃんと!」  調子はずれな大声を岡田さんがあげた。一瞬、人々の笑声のわきたったなかで、岡田さんを見ると、酔っている浅黒い顔の象のような目が、電燈の灯影のせいか、心なくうるんでいた。 「ちゃんとぼくは知ってるんだ、ね、三年まえ、いや四年かな?」どっとそこでひとしきり笑い声の立つなかで、岡田さんは手をふりふりして、 「——ともかく、春のことなんだ。ぼくはね、君、サンルームの向いの土手の先の、杉林で仕事していたんだ。するとだ——直子さんがエメラルドグリンの服で土手へ出て来た。そこでつっ立ってサンルームをじっと見ているのだよ、ね、サンルームの中じゃ君が一人赤い本を読んでいた、ね、しばらくしてからこういうふうに——サンルームへ手を振るのだ、直子さんが。——ところでだ、直子さんは手を振るとだ、土手の下へ降りて、しゃがんでね、君を待ってるのだ。——ところがです、みなさん! 一時間しても二時間しても彼は来ないのです。日が落ちて薄暗くなっても来ないのです。——直子さんはしくしく泣いていたよ、ずいぶん泣いていたよ、君——」  ざわめきたっていた人々が、次第に澄んできた。山峡の春の夜のあたたかく静かな気配が、しっとりと部屋をつつむなかで、うなだれてしまった私に、まだ岡田さんは言うのだった。 「——ね、しくしく泣いていたよ、あの人は、ぼくは気の毒で杉林の中から出られなかったよ。——どうしたって出られないじゃないか!」  閑静に澄んだ部屋で、人々は呼吸さえひそめて、こまやかな情愛をうなだれた私へ送ってきた。  こまやかに移ってくる、そんな有難いあたたかさにつつまれながら、信じられぬことに私は、まるで夢の中にいるようだった。春陽のサンルームで私の耳もとへ本を音高く置いた直子さん、春陽を指先にからませながら澄んだ空気の中で手を振った直子さん、入学祝いの宴の最中問いつめらせた私を冴え冴えしい声で救ってくれた直子さん、数知れぬ直子さんの面影が、一度に心の奥底から舞い立って来て、竜巻のように、夢の中にいる体のうちで激しく廻りつめて、意識さえ遠のくばかりだった。あたりから、どうして行ってあげなかったのか、とそれぞれの言葉で責めたてられても、一言も答えられず、うなだれて放心してしまった。そんな私のたわいなさが、どうあったものか、銚子と杯をもって向いから膳をまたいでひょろりと岡田さんがやって来た。板野さんと私の間へ坐るなり、銚子も杯も投げ出して、ねえ、どうして行ってやらなかったんだい、ねえと、温かい声をあげて私の肩を抱くようにして、私を揺するのだった。私を抱きしめて私を揺すりながら、 「いくつだい、え、二十三かい二かい——あああ、小さい肩をしてやがる!」  こんな温かい声で心を揺すられ、岡田さんの掌の甲へ涙を思わずふりかけた。 「なにをくよくよと、ね、——秋津はせつないところだよ! ねえ、人間は、さ!」  素直に心を展いている私へ、岡田さんは杯を握らせた。日頃は酒をのませぬお新さんが、横から思い込んですぐ銚子をとりあげ、思い込んだだけ酒をその杯へあふらせた。あふれた酒が久留米絣の膝へはらはら落ちたのを、白いハンカチで声もあげずにお新さんはすぐ拭いた。ふっとたつ髪の香のなかで、 「大野屋のお嬢さん、あたしにも——」  肌身を見せるように思いきった調子でお新さんはそこまで言った。目をあわすと、酔であからみ匂うようになった頬の目もとを、はっと光らせ私を見据えたが、すぐそっけなく目をそらし、一言も話さず、お新さんは板野さんへ立って行った。もと岡田さんの居た席へ坐ったお新さんは、そこで、少し調子はずれに、似合気もなく、 「先生、あたしは酔っちゃうかもしれませんわ!」  下手な台詞のようにまで、そんなことを言わねばならぬまで、そんな熱いことをお新さんは知っているものであろうか——高まって来る疑いが、急にはげしく直子さんへ、私の生酔の心を煽って行った。  親身な情愛をこめて私の若さを祝福してくれている人々のなかから、私の心はひとり急に遠く離れて行った。  ああ、フランスにでも行ってしまいたいと、繰返し私の横で言っている岡田さんの声からも、 「岡田さん、あなた、あの子がお好きだったのですねえ。」  そう言う板野さんの声からも、私は虚しくなりながらはるかなところへ遠ざかった。 「好き? 好きだったかもしれませんよ——あんな絵になるひとはいませんし、——しかし、肉体のないひとですよ、生理のないひとですよ、抱けないひとですよ、いつまでたったって——」  そう答えているはげしい筈の岡田さんの声音さえ、遠い山の上から谷底にわたってくるほどの、そんなかすかにしか、もう私に入ってこないのだった。  直子さんと別の道を歩んでしまったはかなさ虚しさに、私の意識はいちずにかすかになって行った。虚しくかすかになる、私の心の、はるかな記憶の一群だけが、わずかな光りをうけながら佇まっているのだった——万燈ケ原の花野の中の登って行く直子さんの、あの花々へ消え入りかけるもどかしさへ、私は次第と深く引き入れられ、とめどがつかなくなった。  じっとりと背を濡らした寝汗で目が覚めた。あたりはまだ薄暗く、夜の底冷えが残っていた。昨夜、とめどのつかぬ直子さんへの愛惜から、思いがけぬ泥酔で、途中からの記憶も途絶えている私は、重痛い目であたりを見廻した。酔がまだ醒めてなく、仄白んだ障子の桟が揺らめいて見えた。体の芯が酒の酔で燻っているようだった。記憶もないほど泥酔しながら、私は私の部屋へ戻っていた。  背すじを濡らしている寝汗に、体の位置を向きかえようと、寝返りしかけたが動かなかった。横にやはり泥酔した誰かが寝ていて、私の着物の裾の上に腰をのせているようだった。岡田さんがここまで来たかと、向きをかえると、思いがけなくお新さんであった。  仄暗い暁方の部屋のうちで、黝みながら淡紅の着物が、浮きたっていた。緑の帯と真紅の帯上げが、お新さんの枕元に重ねてあるのだった。  寝返って斜めに私はお新さんへ背をむけた。体の酔った芯が冴えかえり、底冷えした部屋のなかの寝床で、私は昨夜の記憶をたぐりだした。あやふやな記憶の中で別館に帰ると立ち上ったおり、誰かがここへ泊れとすすめた声と、母屋から別館への渡廊下を誰かの肩で助けてもらっていた感触が、かすかに残っているようであった。あの肩がお新さんのものであったのだろうか——急にはげしくそこから動悸がうちだした。  そのおりお新さんが、私の背のうしろで目を覚したようだった。  閑寂に沈んだ湯の宿の気配へ、寝息もたてず眠っていたお新さんは、目覚めるなり、はっと乱れた息をした。やはりお新さんも泥酔して知らずに私の寝床で眠ったものであろう、その一瞬、さっと底冷えした風を夜具の中へ入れながら、寝床から抜けかけた。しかし、起きかけ膝を立てたきり、お新さんは動かなくなった。  束の間、思いがけなく、また、夜具の中へお新さんは身を入れた。私の背のうしろの狭い敷寝の上で、小さくなりながら、しばらくお新さんはたかぶった呼吸をするのだった。そのうちそれなりに、心の静まったらしく、固くちぢめていた肢をのばし、そっと私の体へ体を寄せかけ、斜めになっている私の、二の腕と背の狭間へ、ひっそり頬をよせかけてきた。  ひっそりと寄せかけた頬の重みに、私の体ははげしく燃えたち困ってきた。そんなお新さんへ寝返って抱きしめたくなる衝動が、はずみきり息をとめながら私は、きりつまって行った。  そんな時間、息を細めてしいんと身を弛めていたお新さんは、流れかけた心のたけを引締め、そっと頬を放し夜具から、冷たい風を入れてぬけ出した。脱け出たお新さんは、その静かな気息をいきなり破って、帯をかかえこむなり荒々しい足どりで、閑寂に沈んだ部屋を次の三畳まで、思い乱れて行くと、そのままがらりと体で障子を引きあけた。  引きあけられたまま障子は、そこで永い間そのまましまらなかった。  あれほど荒々しくそこまで出たお新さんが、なにをそこで迷っているのか、衣ずれ一つたてず、部屋の入口でしいんと静まりかえっていた。  やがて、お新さんは肩でする深い息を吸いこんだ。  深い息を吸いこんだお新さんは、たったいまあらあらしく引きあけた障子をいかにも去り難く気遠く心を部屋に残したように、静かにひっそりとしめはじめた。しめ終った障子の外で、またお新さんは動かなくなった。  そこでしばらく佇んでいたが、想いのたけを捨てきったのか、やがてお新さんは影のように、跫音もなく衣ずれだけ幽かに立てて母屋へ帰って行った。——  その昼のバスで、まだ酔って熱ぽい身体の私は秋津を発った。お新さんは見送りはつらいと、お民さんに私へ言づけさして、帳場の横の部屋の襖をしめて閉じ籠ったきり、出て来なかった。  昨日とうって変り、空に一点の雲もないよい日和であった。山国の澄んだ山の気の中を柔らかい春陽が清々しく流れ、格別、秋津の今日は美しかった。清浄であった。  お民さん六さんはじめ秋鹿園の人々に送られ、バスの走り出した窓から、春陽に輝く秋津の湯宿の、見馴れた表通りを眺めていると、とある白壁の倉の蔭から、櫺子格子のうちのほの暗い中から、幹立ちのよい樹蔭から、私を見つめて放さぬ視線を、しきりと感じてならなかった。不思議と澄んだ秋津の気配のなかで、まだ酔の醒めぬ私の心の目に、それがお新さんのようにも、また直子さんの目ざしのようにも思われるのであった。 [#改ページ]   第三章 流水行雲  離屋の二階の出窓へ、仰臥椅子を持ち出し晴れさえすればそこで私は静臥した。秋津から帰って来ると、寝汗が夜ごと出はじめ、少しつきかけていた肉がまた衰えて行った。  一月あまりした日の午後、伯母が岡田さんからだという茶赭い渋紙につつんだ小包を、母屋から持って来た。  出窓で渋紙の包みをほどくと、十枚あまりの素描と紙片が一枚入っていた。   五月一日、小生入営いたします、お別れのしるしに。   よい日をお送り下さい。  小さい純白な紙切れに、岡田さんは絵のような字で走り書していた。 「あの方は体格がよかったからねえ——」  伯母は私にひきくらべて、そんなことを言いながら、それでもすぐつけたした。 「ご苦労なこったね。」  十枚あまりの素描は、全て直子さんのものだった。籐の寝椅子の上で静臥している直子さん、白百合の花弁に頬をよせ瞼をとじ花の香をにおう直子さん、頬を双掌でおさえて遠くをいどむ如く目を見ひらいた直子さん、——空間の多い、マチスに似た線の、そこに、数々の直子さんがいるのだった。  伯母はちょっと嘆声をあげ、私の横からその一枚一枚をとりあげ、目の前で静かに遠くしたり近くしたりした。  私は出窓から下りて、壁にかけたデュフィの風景の複写を入れていた白い額縁をはずして直子さんの素描を飾ってみた。  出窓へまた戻って、私と伯母は並びながら、しばらく黙ってそれを眺めていた。 「——直子さん、およめにいったろうかねえ——」  伯母が静かな小さい声で囁いた。——  中庭の泉水からの、春陽の反射が、その額縁へ明るい日だまりを移して来た。音もなく直子さんのうえで、明るく漣のように揺れつづけていた。  日だまりのなかになって、なにをそれまでゆらめくのか、直子さんの花をにおう顔は、頬を浮き上らし淡紅《うすあか》らめさし、思いなしか、その息づかいのほども乱れているようだった。——やがて、伯母も一枚選んで母屋に帰ると、日だまりはいつか額縁からはずれ、急に直子さんは絵だけになった。  日が落ちあたりが仄暗むまで、仰臥椅子の上で、ぼんやり私は眺めてあかなかった。幽かな線が薄暮に溶けはじめると、岡田さんの心に深い調があるのか、直子さんにそれがあるものか、生きている私の生命や生涯を、それはたくみに大きな諦めのなかへ誘って行くのだった。二度と登る日はあるまいと思われる秋津の、不思議と深く澄んだ気配が偲ばれ、その気配の花とも思われる直子さん、お新さんに、ふたたび会う日の無い予感が、ありあり定まり——まこと、私の行末の時間とは約束のないはるかな人たちになるのであった。  戦争が永くなり戦局が切迫してくると、日ごと物価が騰りはじめた。家の構で割付けられる戦争のための出費に、私たちは川添いの小さい家へ移って行った。庭が広く風通しもよく、眺めのよい家だった。伯母と私に、ついそのまえの頃からあずかっている、双親ともなく独りの兄は応召してよるべのない晴枝との、三人の暮しにはほどよい家であった。  少し造作をして綺麗に壁も塗りかえ、夏の盛りに私たちは移って行った。荷馬車へ品物を積む指図をして、夏の暑い日射しをうけながら一週間あまりも体に無理をかけた伯母は、新しい川ぶちの家につくなり寝込んで、それきり恢復しなかった。  秋が立って日ごと寝やすくなるなかで、伯母は衰え込むばかりであった。 「おまえは私が死んだら大変だよ。きっと大変だよ。——この世の中で、私ほどおまえを可愛がったものはないのだから——」  亡くなる少しまえから、伯母は覚悟を決めながら、しかし私だけがあきらめられず、よくそう言って泣きじゃくった。  亡くなる二三日まえ、伯母は枕元で沈んでいる私に、目の上にかけてある素描の直子さんを仰ぎながら、 「——せめて、おまえにお嫁をもらってあげるまでと思っていたのだけど——」  そう、涙のもう出ないまで衰えた目をしばだたせ、乾いた脣を噛んだ。  それきり口が利けなくなって二三日あと、ほんとうに私をのこして伯母は亡くなった。  伯母が亡くなったあと、気の抜けたような家の中で、私と晴枝はひっそり二人きりで暮して行った。  晴枝と一緒に暮しはじめると、私は縁者から急に見すてられた。訪れる人とてない暮しを、一つ年下の晴枝はさみしがりながらも、必死に守って行った。 「どんなに見捨てられても、神さまだけは見守って下さるわ。」  晴枝はひとりでそう決めて、ささやかな生活をこまめに切り盛りするのだった。  年が明け、急に戦局が悪化して、先々の生活の目安が立たなくなると、みょうに心が追いたてられ休まらず、秋津の澄んで落着いた深い気配が、みょうになつかしまれてならなかった。  火燵の中から、壁に吊した白い額縁の直子さんを仰ぎながら、私の傍で赤ん坊の服にミシンをかけている晴枝に、 「秋津はもう梅が咲いてるだろうねえ——」  などとうつつのような声で話しかけたりした。  秋津へは出かけたことのない晴枝は、ミシンを踏む肢をとめ、そんな私にわずかに心をあらだて、私と同じように素描の直子さんをしばらく仰いでから、 「直子さんってかた、お目にかかりたいなあ——」  そう言って、少し荒くミシンをまた踏みだすのだった。  それでも、空襲が激しくなると、色々の恩怨を越えて単純になって行くものであろう、大阪の空襲のたび、新聞やラジオの状況をたよりに、あれこれ晴枝は直子さんのことを案じた。 「ねえ、焼けてるかしら、——焼けてても怪我なんかなさってないわよ、きっと。——こんなに私たちまで心配してんですもの——」  神戸が焼かれ、私たちの岡山もほどなく焼ける日が近づき、街は疎開の荷車でごったかえした。私たちの家から見える市外へぬける橋の上を、朝から夜更けまで、荷物を満載したトラックや荷車が切れ目なく続いていた。  そうした風景を、二階のヴェランダの籐椅子の上で、私と晴枝は日中、黙り込んで見入っていた。  勝手に晴枝と一緒になってこのかた、往来の絶えた縁者からは、葉書一つなく、親しい友だちもない私たちには、荷物一つ預ける先もないのだった。子供を生んだばかりの晴枝は、当歳の蕉子の行末を想ってじっとして居られなくなり、私に留守をさしては、初夏の日射しのなかを蕉子を背負って、近在の遠い馴染を探しに連日出かけて行った。ぐったりして夕方帰って来て、私の不安な目を見ると、 「明日は、きっと、どっかいいうちをめっけてくるわ!」  わざと明るい調子で言いながら、秋津でも徴用されてなければみんなで出かけて行けるのに、などと私の気をそらすのだった。  やっと大伯父になるという、四里あまり離れた山裾の村の百姓家の納屋を借りて来て、その夕方から晴枝は荷作りしはじめた。  蕉子の物、日用品、私たちの生涯の記念の品や、私の父祖の愛品などを、どこにそんな力があるかと思えるまで、てきぱき晴枝は荷作りしながら、直子さんの素描の疎開をも、しきりと私にすすめた。 「家が焼けて、あたしたちが残った時、また、淋しくなるでしょう。」 「焼ければ焼けたで——きりのつくものさ、人間は——」  などとその場きりのことを言って、私は疎開させなかった。どうせ永くないと寿命を諦めている私は、片意地に晴枝の言葉をうけつけなかった。残り僅かな日々を、私は私の雰囲気の中で暮したいとばかり希っていた。  案じていた空襲は、その四五日あとの夏の美しい星夜、私たちへやって来た。  数時間のうちに、疎開半ばの家は焼きつくされ、私たちは当歳の蕉子と着のみ着のまま暁方の雨の中を裸足で、晴枝の大伯父の家へ落着いた。  借りた部屋は六畳で電燈もなく、三方が荒壁で、一方は大伯父たちの部屋へ通じた襖であった。西側の荒壁に高い小さな窓が一つあるきりで、昼さえ薄暗く、さながら小牢獄であった。裏がすぐ深い竹藪になっていて、風が出ると、私たちの屋根に垂れかぶさった竹の梢の笹が、不気味な音を立てて屋根を撫でた。  空襲の夜の過労と暁方の雨で風邪がこじれて、微熱が出はじめ、食慾もなくなった私は、どうせ間もなく死なねばならぬと心を決めながら、やはり、 「あの絵を疎開させとけばよかったねえ——」  めっきり暮しで色艶を奪われた晴枝に、あてもないことを思わずこぼしてみたりした。 「父ちゃんのわるいくせね——」  眠っている蕉子を相手に、顔も私に見せず気弱く晴枝は言ってみて、またしてもこの頃のひどい暮しを直子さんに淋しいと思うのか、 「あればあったで、また淋しいわ——」  日頃になく深い言葉を言うのであった。  思いがけぬ終戦が二月たたぬうちにやって来た。  予期してなかった終戦で、明日のことも考えず、その日のままの生計をたてて暮していた私たちは、逆に狼狽しなければならなかった。どうせ死なねばならぬものと決め、遠くないその日までどうにか暮せればと、そう考えていた私たちは、その日からの永い年月の世過しにおののかねばならなかった。空襲で多くのものを失い、その上少し体も悪くなっている私は、働く術《すべ》もない身であった。僅かに疎開していた品々を手放して暮す日にも自ら限りがあった。  次第と世の中は明るくなっているというなかで、日ごと私たちの一家は暗くなるばかりだった。ぼんやりとなす術もなく気弱くなる私を、晴枝は気をふるって明るく、 「いざとなったらミシン売ってね。」  親子三人くらいは生活出来ると、はげましてくれた。  年があけ、やがて陽射しがあたたかくなった頃、日暮になると出来る、高窓からの西陽のたまりで、借りた新聞を蕉子を抱きながら読んでいた晴枝が、甲高い声をあげた。 「秋鹿園の広告が出てるわ!」  晴枝が指でおさえた新聞の記事中に、「秋津温泉、秋鹿園、新装いたしました、おまちいたしております、高崎新子」お新さんの昔の名がのっていた。——  ここ数年の暗い時間を梳いて、次第とあざやかに遠くから秋津の記憶が、私に息づかいをあらだたせながら戻ってきた。秋津の町はずれの崖道、杉林の小径、直子さん、お新さん、板野さん、岡田さんと、閑寂な秋津の気配のなかの慈愛ぶかかった人々が、私をはげしく揺りはじめた。あの人たちにめぐり逢えば、優しく励まされれば、なにか、新しく世過しする術の力が私の体に出来てくる予感が、しきりと私の心をゆすって来た。  しかし、今の身に過ぎたこととすぐ顧みられて、私は虚しくなって、新聞を裏返した。そうした私がすぐ晴枝には判るらしく、 「ただの一週間でも出かけてらっしゃいね、父ちゃんに元気になってもらわなくては、蕉子ちゃん困ります——ね。」  乳を飲んでいる蕉子にまぎらしながら、外出着の一枚もない晴枝がそう言うのだった。  秋津へ登るバスの中で日が落ちた。  ルームランプも点らず、窓ガラスも破れたままの、いかにも敗戦した国らしい投げやりなバスは、山峡の坂道で故障をおこし、夜になって秋津へようやく着いた。  月のない暗い広い表通りの坂を登り、秋鹿園に近づくと、前庭と表通りの垣になっていた、長い檜葉の籬がなくなり、白塗りの木柵が闇の中へ仄白んでいた。前庭の繁った樹々を透かして仰ぐと、やはり間違いもなく秋鹿園の巌丈な造りの母屋の屋根が、星夜空を背景に浮び上っていた。  前庭の間の玉砂利の道を玄関へ近づくと、樹蔭の下の闇から綿のような白い塊が、私の足もとへもつれて来た。クミが私を覚えているのであった。  そこまで抑えていた感慨が止らなくなった。玄関の明るい燈が洩れたところまで来て、私は胸つまってしゃがみ込んだ。山峡の春先のまだ冷たい庭で、深い毛並みの頭から首筋を撫でると、すぐクミは軽い唸声を鳴らして、私の袴の上へぐったり身をよせかけてきた。五年の歳月が、クミの体からすっかり若さを奪い去って、老い込みひどく気怠い身ぶりになっていた。 「クミ! クミ!」  お民さんの声だった。明るい玄関の燈の下に、髪をアップにして若つきに見えるお民さんが、仄暗い私のあたりへ目を細くこらしていた。昔どおり大柄で派手なお民さんは、若つきながら、もう三十五六になっている筈だった。 「クミ!」  また呼びながら、そこではじめてお民さんは、クミをかかえた私の笑顔に気がついた。 「あら、河崎さん、ああら!」  伯母の姓で私を懐しい声音で高く呼ぶなり、矢絣の緑の袖を派手に飜えしていきなり花樟の衝立の蔭へ走り込んだ。お民さんの跫音が母屋の奥へ入ったかと思うとすぐ、もつれ合った二人の跫音になって、玄関へお民さんお新さんがやって来た。お民さんは明るく、お新さんは胸つまったふうに固くなりながら、花樟の衝立の前で燈を浴びた。 「ね、やっぱり河崎さんが一番だったでしょう——」  お新さんの肩をふるようにうしろからお民さんは抱いて、「ね、賭をしたのですよ、板野さんと岡田さんとの三人のうち、誰が一番に見えるかって!」  体をゆすられると、それでまた想いの密度が濃くなるように、お新さんはそこで果しなくしいんと澄み返った。肉づきがよくなり、稚い感じからすっきりと抜けきって、お新さんの空色に赤い小花模様の着物のうちの体は、まるで熟れているようだった。それがお召のしなやかな着物の上の線に滲み出ていた。しかも、そのあふれるものを、見事に、清潔な心ばえでうけとめて淫らさがなく、格別お新さんの人柄を想わした。——永い戦争にめげていない美しい姿であった。 「新聞を見てたまらなくなった。」  式台へ上りながら、私の言う言葉をお新さんは頷いてうけて、すぐ案内にたった。  母屋には客がたてこみ、どの部屋からか乱暴な文句の俗歌がひびいていた。別館への廊下は、五年ぶりのせいか、昔の閑寂なものと余程離れた気配が流れているようだった。  一足まえをお新さんは口も利かず、長い廊下をわたり、昔泊り馴れた部屋へ私を案内した。部屋の中へ私を先に入れ、お新さんはうしろ手で障子をしめた。そこで、はじめてほっとお新さんは私の背へ声をかけた。 「生きてらっしゃったら、きっとおみえになると待っておりました——」  部屋の中は塗り終えて日も浅いらしく、壁土の匂いがかすかに残っていた。襖、畳は新しく入れかえられていたが、鴨居や柱のあちこちに、釘あと、すり傷が生々しくついていて、部屋がみょうにいたましかった。  お新さんの歳月には、生身には、こんな傷はつかなかったものであろうか。——ふりかえると、三尺と離れぬところで、まだお新さんは障子によりかかったまま、静まりかえっているのだった。  遠くから小さい跫音が廊下をわたってきて、障子の外から声をかけ、火をもった小女が入って来た。お新さんの手をかけず小女が火燵をつくると、私は袴だけとって火燵へ足をのばした。  床柱へ背をあずけて、私の袴を畳む斜めに燈をうけたお新さんの、みのりよいすっきりした姿を私は、素直な心で眺めながら、 「ああ、お新さんは変ったよ、とても立派になって!」 「——」  私の言葉にお新さんは答えもせず、静かに袴を畳み終え、火燵へにじって来た。そこで、思いつめていた心が打れたように、ふらりと胸から火燵へ体をあずけ、お新さんは息をも疲らせて目をとじた。 「ああ、いいおかみさんだ?」  わずかな戦争の歳月のなかへ、いたずらに若さをすりへらし、生気のなくなった体の晴枝をいとおしみながら、お新さんのその歳月守り通した美しいものをも、私は素直に見とれて言った。そうした私を、お新さんは目をつむって少し伏せがちのまま、 「いやです、いやあ!」と低い小さいながら、体の言う声ではねつけた。 「そんな仰言りかた、いやですわ——」  言いなおしてお新さんは目をあけて、見るうちそれへ涙をにじました。射すくまされて私は口ごもりながら、 「——子供も出来たし、あれてきてるかもしれない。」  暮しが苦しいからと言いかけて、やはり言えずに目を伏せた。見栄ではなくそれを言葉にすると、貧しく悴れた晴枝の姿が、かくれもなくあらわになる気がするのであった。 「お民さんからききました。」 「——」 「心配しましたわ、生きていらっしゃるとは思いましたけれど、焼あとには移転先もなにも書きのこしてないし、近所でたずねても判らなかったって、お民さん言いますし——」  岡田さんは復員したと葉書が来たし、板野さんは神戸の大学よして姫路にいらっしゃるし、判らなかったのは私だけだったと、それでもそのあたりから明るくなり、 「お帰りなったきり、お手紙もお書きにならないし、——とてもこんなに早くおみえになると思いませんでしたわ!」  一番に来ると決めていた心を、裏へしのばした声音でお新さんは言うのだった。  心を展いて私によっているお新さんは、 「五年ぶりなんだわ!——」  気の遠くなる声で言いながら、またそこで目をとじ、身を澄して昔を偲びだした。  昔の濃い眉を細くそりこみ、長い睫毛を浮び上らしたお新さんの、そんな気遠い心のたけを見ていると、もてあますほどありあり、お新さんの心の気息が判ってくるのだった。——五年ちょうど前、この部屋の仄暗い暁方、そっと私に頬をよせかけたお新さんの、その束の間の想いが、戦争にめげずに美しい、目のまえのお新さんの体にそのまま残っているのであった。あの夜のことを生涯の出来事と、ためらいもせず、お新さんは決めて、そこから私に心を展いていた。子供も出来、泥酔すると体が駄目になり、あやまちのない自分を知って来ている私に、そのお新さんのいちずさは、まことあわれに美しかった。  目をとじ身をすまし、まるでなにかを待っているようなお新さんを眺めながら、熟れきった体へそんなささやかな想いを、ひっそり秘めて、五年の歳月、気性一つでそれを守って来た、その素直さに、次第と私は胸がつまって、 「また勘違いしてる!」  そう言いきって知らせたい言葉をかける隙のないまでに、お新さんは想いに身を澄みかえらしているのだった。  そうしたお新さんの情は、空襲からこの世の手痛い人情に、気弱く涙もろく心を裂かれている私に、なににも増して得難いものだった。世過しする術の力もなく、日々堕ちこむような私は、前後も思わず、そのまま勘違いしたお新さんの情のなかへ、溶け入りたくもなった。ぐらりと傾く心を絶え絶えに引きとめながら、 「お新さん、おなかがすいたよ。」  心にもなく私はそんなことを言った。 「あら、ごめんなさい!——自分のことばかし考えてねえ——」  急に明るくなって、目をぱちりとあけたお新さんは、そこで体の奥深くから流れているような、幽かな美しい笑い声をたてた。笑いながら、急に目もとへ涙を溢らせ、それをまた、よくのびた白い指で抑えて立ち上った。  お新さんが部屋を出て、ひたひたと跫音が廊下の遠くへ消えると、私は湯室へ出かけて行った。廊下の半ばから胸が詰って来て、湯室へ向って子供のように私は駆け下りた。着物を乱雑に脱ぎ捨て、湯室の湯気の中へ入るなり、涙がはげしく流れだした。あのお新さんにも、私の晴枝にも、なに一つ酬いられそうもない自分が、あわれに虚しくとめどがつかないのだった。  湯室で湯へも入らず、片隅の蛇口のまえで、冷たい渓水を流しながら、幾度も涙のあふれた顔を洗った。渓水の冷たさが、柘榴のように裂けた心の赤肌へ沁み徹り、その束の間、私を痺らして行くのだった。  湯室の外から浪花節が流れてきてドアが開いた。襟元から上は赤く日焼した中年の男が、二人あらあらしく湯舟に飛びこむのと、みょうにずるい二人の目つきに、私は心を見透かされるようで入れ違いに湯舟にも入らず、そのまま湯室を出た。  二人きりになったみょうにずるい目つきの男たちは、酒気のこもった大声で、お新さんの乱暴な話をするのだった。 「ほんとにひとりものかよお?」 「気にするない、あれがおめえの柄か!」 「けつかれ! おい、ひとりものかよ?」 「ひとりものならどうした?」 「言わずとしれた、このおれが、」 「このおれの手にあうしろものか!」 「ふん!」 「あきらめたか!」 「——したが、ちょっとふめるじゃねえか、——汁がたれてそうじゃねえか!」  朝食をお新さんがひとりで運んで来た。  昨夜と違い濃い目な化粧をしたお新さんは、眠りたらず少し瞼を腫らした眼で、食事をする私を見ながら、食事のしかたが昔と違ったと、少し淋しく言いながら、 「おやさしいかたでしょうねえ——」  ふと晴枝のことを訊いたりした。 「さあ、どうだか、——いつか板野さんも仰言っていらっしゃった、ね、身近いもののことは判りにくいって。——そうね、着物で謂ったら、木綿のような女だよ、苦労するのにむいてってね——」 「そう。——木綿のようなおかたですの。」  お新さんは言葉からではなく、私の声音のなかから、私の倖せ不倖を案じて、遠い目になりながらしいんと、永い間身じろぎしなかった。  食事が終っても帰らず、日中ずっと私の部屋でお新さんは過した。伯母の亡くなったことや空襲の夜のことを、私の暮しを案じて、遠まわりにお新さんはしきりに訊くのだった。青い畳の上に紫紺のしぼりの羽織のお新さんは、身じろぎもしないで坐っているのだが、みょうに綱渡りでもしているようなあやうさを、——私が手を展げさえすれば、一筋の綱の上から、すぐ落ちてくるような、そんなあやうさを、その体に見せているのだった。 「——それでも、人間というものはみょうなものだねえ、——色んなものが足りないんだけど、この頃はみょうに苦にならなくて、おかしいようだよ。——もっとも、時間のほうが勝手に過ぎてくれてんだろうけどね、——」  お新さんの情へ、泣きじゃくって憂を晴したい希いに憑かれながら、やさしいと晴枝を決めてそれだけで身を守っているお新さんを、お新さんの描いた晴枝を、私とてもこわせはせず、やはりうらはらなことを口にするばかりであった。——  夕食のあと湯室から部屋へ戻ると、お新さんがお酒の用意したからと誘いに来た。お新さんのうしろから廊下をわたり、帳場の隣りの、昔はお谷さんの部屋だったところへ出かけて行った。  部屋は入口の三畳と、その奥の六畳の二間であった。入るなり化粧とお新さんの匂いが、春の夜の気配のなかから私にたって来た。  部屋には丸窓が一つしかなく、気配がこもって落着いていた。  調理の品をのせた紅い蒲団の火燵へ入り、うしろの壁へもたれると、欅の小さい長火鉢から、お新さんは銚子を白い指先であげてやってきた。  酒は地酒で辛口だった。 「つきすぎてるでしょう、ねえ!」  昼間の思いにつきつめたところをお新さんは匿して、明るくなっていた。明るくなって、小さい脣をつぼめて一杯飲んでみて、 「五年ぶりね。」  またそれを言いだすのだった。  山峡の夜の静けさのなかで、母屋からも人声が聞えず、六畳の部屋では片隅の長火鉢の湯が沸っているだけであった。しっとりと落着いた日が、空襲の夜からはじめて私に訪れた。なにがなし、生きのびたことの安息が、酔にまじってほのかに私の体をあたためて行った。  酒の酔がほっと目頭に覚えられると、五年の歳月がなかったように、私は稚くなってきた。色々の人間の慾情なしに、気軽くお新さんと心をあたためられる、不思議な団欒の気配が部屋に濃くなるのだった。 「覚えてるかしら?」  瞼から頬へかけて紅らんできたお新さんは、ふと立ち上って、鏡台のうしろの壁から三味線をはずして来た。 「覚えてる?——」 「どうだか、あれきりだし、——」  火燵の向うで音締を合わせて、それを膝にのせると、 「ほら、」  と軽い爪びきをお新さんははじめた。桐一葉だった。沈んだ気配の部屋だけにひびくその音色に、私が唄わず聴きこんでいると、あからんだ白い頬の、酔で潤いの出来た目で私の目をとらえながら、独り低い声で——虫の音を、とめてうれしき庭づたい、あくる柴折戸桐一葉、ええ憎らしい……と喉を細めて唄っていった。昔、固い蜜柑の青葉を背に、その固さに映りよかったお新さんの声にくらべ、艶深く、節に情がこもっていた。  落着いた静かな部屋で、心づくしの酒に酔い、満ち足りた心で深く女の情愛の出来た、お新さんの喉に聴き入っていると、  ——ほどよい倖せを!  そうした希いが胸をほとほとたたいてならなかった。なにがなし、この上の情をお新さんから受けては、身の法を越ゆるとも思われるのであった。  次の夜から、私は夜ごとお新さんの部屋で、心づくしの酒を飲みながら、おさらいを始めた。お新さんの爪びきで、お伊勢参り、雪のだるま、舟に船頭などと口ずさんでみると、遠くからすぐそれらのものさびたリズムが、私の声に戻ってきた。 「あら、覚えてるわねえ!」  お新さんはわが身のことにして欣ぶのであったが、そんなお新さんにどうしてそんなに親切なのさと、素直に問いかけるあの昔の蕾のような時期は帰って来なかった。  静かな部屋で、お新さんのしっとりした爪びきに耽っていると、時おり、滞在の酔客が夜更けの廊下を、わめきよろめき帳場へお新さんを探しに来た。そんなおりきまってお民さんがどこからともなく現れて、廊下の酔客をなだめた。 「三味線の音がしてたじゃねえか。」 「……来てるのよ!」  部屋の私たちにはとどかぬ小さい声で、お民さんは酔客を手速くなずけて帰らした。  そんなおり、そんなに探されるものを持っているお新さんは、いやなやつ! 闇師のくせに! と斬るように口では言いながら、呼声や足どりが近づくほど、目色の艶を妖しく輝かすのだった。爪びきをやめて、目色を妖しくたかぶらせているお新さんの、体のみのりを眺めていると、その肌の美しさは、五年の歳月の成熟というより、なにか、男の心や肌で磨きたてられたもののようにしか思われなかった。 「お新さんも、ああやってずいぶん来られたことだろう——」  軍医の宿舎になった五年の歳月の中のお新さんを想ってみて、口をすべらすと、いきなりお新さんは私を睨んで、袋に入ったバチを投げつけた。バチは途中で飛びながら袋をぬけ、私にあたらず、むなしい音をたてて畳へ落ちた。  睨んでも睨みきれぬふうにお新さんは、あきらめて私から顔をそむけ、がくりと張った心を体からぬいて、畳へ崩れて片手をついた。 「あたしだって変な気になることあるわ——」だけど、気が強いので金の力や目上の人が好きになれない、いつも弱い資力のない人ばかりが好きになるという意味のことを、細く心の痛んだ声音で、お新さんは繰返して言うのだった。 「だから、いざとなると、駄目なの、うちの身代のことが気になって、——意気地がなくて慾張りなのねえ。——あたしは、この家のものじゃないでしょう、あたしは、お母さんのあの人だって見たことないのよ、——あずかりものみたいで——どうしても駄目なの——」  紅い火燵蒲団の向うで、片手を畳についたお新さんのうつむけた横顔に、涙が流れだした。永い間、そのまま顔もあげず、身じろぎもしなかった。——お新さんがお新さんの生身と女のいのちをかけて守っていたものは、まことはかないものであった。私への情と謂い、この家を守る心と謂い、まことあまりにはかない想いにお新さんは全てのものをかけているのであった。お新さんの美しくなまめいた体のあやうさは、まるで虚しくはかない生き方のためであろうか、始終中夢まぼろしのような人間の生活の中では、虚しさはかなさこそが、全てを美しく飾るものとも思われてくるのだった。  永く胸にもちこたえたものを吐き出したあとの、はげしく虚脱した心と体を、永い間そこで片手を畳について支えていたお新さんは、ようやく気をもちなおし、 「いや、こんな話。」  深い諦めのこもった口ぶりで決めて、体をもちなおし、涙のまだあふれる目をはにかませながら、 「ごめんなさいね、あたしはこのごろよくこんなになるの、かっとしたら無茶をしてしまうのよ、——戦争中はそうでもなかったけれど——」  虚しくはかないほど美しい、そんな人間の悲しみを、お新さんはまともに生身で受けて受けきれず、火花を散らすというのであった。 「いやあよ、あなたは。——もっとお酒を召しあがって!」  永い年月の秘めごとを口にして、お新さんは肌身をそらしたように、素裸でぶつかって来るようになって、しきりと私に酒を急がせだした。  みょうにはずんで酒を飲むお新さんに、かけて慰める力も言葉もない私は、次第と深酒におちて行った。  素裸のように肌身の緒を解いたお新さんが、見るうちに酔って来て、目もとを頬を心のほてりのように赫々と赤らめた。みのりよい体を妖しくなまめかし、荒い色づいた呼吸をはずませ、あの別れの夜の、私の忘れはてたことなど語り出した。 「ほら、あの時は、とてもあなたがあばれたのよ、覚えてる?——秋津は冷酷だとか、なんだとか言って!——岡田さんは、日本がいやだフランスへ行きたいって言いだすと、あなたは、ほら、なんとかof the worldって、」 「Any where out of the world.」 「そうよ、そう言って、——あたしは覚えてるわ! 泣いたのよあなたが、ぽろぽろ涙を出して泣いたわ、——今度は、岡田さんが泣き出して、あなたと岡田さん抱きあって——」 「会いたいねえ!」 「あたしはなんだか淋しくなっちゃって——ずいぶんお酒のんじゃったのよ、板野さん心配してらしたわ——」  そういうふうに、あの夜のことを忘れもせず、ありありと語ってくれるお新さんを見ると、私はあの夜お新さんとはなにごともなかったと決めているのに枕元にきちんと畳んであったお新さんの帯と真紅の帯あげの、そのきちんと畳まれたことに気が曳かれてきた。前後のわきまえもないまで酔っても、お新さんには畳めるとも、お新さんとても畳めぬようにも思われてくるのだった。酒が過ぎると体が利かなくなる自分を知りながら、色づいた呼吸をはずませたお新さんが目の前で決めているように、お新さんのその体を抱きしめたふうな覚えがよみがえってきたりした。  酔うほどに肉感の濃くなるお新さんを、そんな気持で眺めていると、綸子の淡紅の着物にくるまった、熟れたお新さんの体のつきのほどまで知っているふうに、私はなるのだった。 「酔ったわ、酔ったわ——お母さん毎晩お酒のんで、こうだったのね、きっとこう酔ってたのよ——」  そう気の行く声で言うお新さんをまえに、私は掌を瞼の上へ横に蔽って抑えてみた。その掌が、お新さんの肌のしまりやなめらかさを知っていると私に言うのだった。瞼へきつくのせた掌は、酒気で汗ばみ温かく、酔で熱っぽい脈搏がその掌から高く瞼へひびいた。それさえもなにかあの夜のお新さんのときめきのように思われるのだった。  寝静まった母屋の小さい部屋で、とりとめなく乱れて行く自分をあやぶみ、私は立ち上った。 「どうしたの?」 「頭が痛くなったの、帰って寝るよ。」 「いやよ、いやあ、この部屋でいま独りになったら、あたしはまた泣いちゃうわ、ね、——ね、もう少しいて——」 「また、その時こまっちまう、いまがほどよい時だよ。」  これがあなたにはほどよい時なの、目を据えて、お新さんが急に弱くなって言う声へ覆いかぶせて、 「また明日の晩、稽古してね、おやすみなさい。」  おやすみと私は想いをこめてお新さんへ言って、部屋を出た。  横の帳場を覗くと、お民さんは机に片臂ついた姿で、もう私を待ち構えていた。日頃にないお民さんの心の張りかたに、その胸の私に言いたいことが判るようだった。 「お新さん今夜すこし飲み過ぎた、ぐでんぐでんだから、寝かせてあげてね。」  かかりあいもない人のことのように私は言うなり、帳場を離れかけた。 「坊ちゃん!」  強い声で呼び止めてお民さんは、跫音早く帳場から追いかけて来た。ふりかえると、言いたい言葉を喉まで出してお民さんが、近よっていた。 「お民さん、頼んだよ!」  出鼻をくじいて、そのまま足早に暗い廊下をふりむかず部屋へ戻って来た。  障子をしめるなり、そのまま畳の上へ仰向けに寝転んだ。  山峡の底冷えしている部屋の空気が、巨大な波のように私を覆って行った。  夜鳥の烈しい鳴声が流れた。  永い間、畳の冷たさを背から沁み徹らせながら、私はそこで動けなかった。お新さんの生身の、いまにも崩れかけていた姿が、そこまで追いつけて離れず、逃げ帰った自分がもどかしがりながら、晴枝や蕉子への情愛が高まって来るのだった。  やがて、部屋の冷たさに、酔が私から消えて肌寒くなると、私は独り永い廊下のしじまを踏んで夜更けの湯室へ下りて行った。  ひろい湯舟の湯に独りつかり、このまま居れば身の法を越えた振舞におちかねぬ自分と、そこで私は向きあった。目もとや頬の酔を心のほてりのように見せ、色づいた呼吸をはずませて体をあずけてくるお新さんの姿を、はげしく鮮かに私は泛べて、その情へ堕ちて行けぬ私の、生きることの権利や義務のほどを、静温な湯の中であえぎながらうけとめていた。  夜更けの湯室は深く沈み、湯舟からあふれている湯だけが、幽かな音をたてて床の小溝を流れていた。幽かなその音の静穏な気息へ、心を溶け込ましていると、なにとはなく、歳月の手を思うのであった。秋津の湯宿の清澄で限りないその気配のせいか、お新さんのそうした生身を崩すものは、人の力というより時間のもののふうに思われてくるのだった。まして、私のように、晴枝の忍苦のうちで生きている身に、それが許されてよいものではなかった。気持をひたすら湯の中で定めながら、ただに倖せなよい日が、そのお新さんまで一時なりとも早く訪れるよう、私は静かになって祈りはじめた。祈りながらその私は、  ——ほどよい倖せを!  つつましい衣食住と、外から荒く乱されぬ小さい時間を——いつ私に訪れてきてくれるかも判らぬ、晴枝と蕉子の上に餓えや夜寒を見舞わせぬ力を心小さく希うのだった。  気遠く私が心をよせている幽かな湯の流れる音に、廊下をわたる足音がまじってきた。消えつ高まりつしていた老人のような跫音はやがて定って湯室へ近づいた。  ドアの外で衣ずれの静かな音がして、すぐドアがあいて、お新さんが入りかけた。入りかけた裸のお新さんは、はじめて湯室の人の気を知って、はっと身をひいた。束の間、私だと判ったらしく、閉めかけたドアをまた押して湯室へ入って来た。 「酔のさめかけって寒いものね。」  紅い格子縞のタオルでまえを覆い、白い躯を明るい燈の光に浮きたたせたお新さんは、斜めに背をむけている私の横へ入ってきて、湯の中へ躯を沈めた。  単純泉の底まで澄み透った湯の中で、躯を沈めて、お新さんはタオルをなよやかにゆらめかした。 「心配して——酔って、頭がいたいと仰言ってたでしょう、——お部屋を覗きに行ったの——」  紅い格子縞のタオルは、ほどよくぼけて白地を淡紅に染めていた。そのほどよさがみょうに色っぽく、煽るようなやわらかいなまめかしさを見せていた。  そのタオルを、密度の濃い湯と燈の光で太くデホルマションされたお新さんは、いかにも肉感の浮いた躯へぴたりと巻きつけていた。その手の届く処にいるお新さんに、気持はたしかながら、体が困って来た。 「髭でもそるかな!」  少しうろたえて私は湯舟から出た。  湯舟の正面のタイルの、横に長い鏡の前へ湯桶をふせ、お新さんを背に腰を下した。  レザーを出して、目の前の鏡の曇りを拭うと、またその中に湯舟のお新さんの躯が入って来た。  別館の部屋から離れた夜更けの湯室は、なにか切迫して、一言でも声をたてると、それだけお新さんと私の心の距離が短かくなるようだった。そうした怖れを気にすれば、またそれだけ深く湯室の気配は切りつまってくるのだった。  生えもしていない髭へ、レザーをあてながら、鏡を覗いていると、拭ったところの上の曇りから、水気がたまっては水玉になって時おり流れおちた。たまに、気遠くなった姿で湯音をたてて首筋を流しているお新さんの、映っているあたりを水玉が流れおちると、鏡の中で、その一瞬、お新さんの躯が激しく揺らめいた。その束の間の揺らめきが、なにか、お新さんの生身がもだえているようにも、心の情の焔のゆらめきとも見えるのだった。  次第と切迫して行く時間のなかで、私は燃えだしそうな体をもてあましだした。  お新さんも少し焦立っているのか、せわしく湯音をたてて躯を流しはじめた。切りつまってくる気配を破りたく、あれこれと静かな言葉を探してみたが、もう切りつまり過ぎて、どのような一言でさえ、お互いの情感を表わす言葉にしかならなかった。  そうした気配が、夕暮からの気疲れした私には、はげしく過労だった。重苦しく毛穴のふさぐような気配を、受けとめられず、私は投げやりになった。 「お新さん! ほんとに——」耐えきれなくなってたかぶり焦立った私の声が、せまい湯室の四壁をたたいて激しく木魂し合った。 「ほんとにそれでいいの! お新さん!」  その途端、首すじを流していたお新さんが、湯舟の中ですっくと、胸の下まで見せて立ちあがった。鏡の中でそのお新さんは、私を見据え、きっと息をとめ、動かなかった。言い過ぎてしまったのだった。  お新さんのたてていた湯の音がなくなり、夜更けの湯室は一層静かにきりつまった。あふれている湯の小溝を伝う音が急に高くなった。天井から落ちて来る水玉が、湯舟の湯の上で小さい音をたてた。  鋭かった静かな時間のなかで、きっと動かなかったお新さんが、ぐらりと湯の中で揺らめいて、湯舟の白いタイルの縁を手をのばしてつかんだ。そこで、よろめいて白い縁へ躯をあずけて行ったお新さんは、鏡と反対の私の背から口をきった。 「——やせてるわ、やせてるわねえ——」  思いがけず優しい情をこめた遠い声で、お新さんはほっと言った。もう他人でないという心が、その声音の裏にうっていた。  その情愛深く優しい声が、体の困っていた私を、逆に静めてくれた。痩せたという体の上の憾みや悲しみが、体だけでお新さんを見ていたような私のたけりを鎮めさすようだった。 「——ここから背骨が、かぞえられるのよ——」  お新さんのその情愛は、人間のものを超えた清澄さのようだった。 「お新さん、暮しがひどいんだよ。」  ひきつった、ひからびた声で、はじめて私はお新さんに本当のことを言った。ただのその一言で、空になったような心へ、こみあげてくるように世帯やつれした晴枝や蕉子が大きく浮び上った。  片隅の蛇口へ立って、顔の石鹸を渓水で洗って、一足さきに私は湯室を出かけた。涙がとまらなくなった。  お新さんへふりむかず声もかけず、そのまま色ガラスのドアをおして外へ出た。脱衣場の底冷えして少し暗いなかで、体も拭かずに私は、しばらく彳みなやみした。一と思いにまた湯室のお新さんのもとへ行こうかと、肢がふるえたが、私はそれでも動かなかった。 「明日発ちます!」  心のたけを踏みにじり私は湯室の中のお新さんに言った。  内からは返事もなく、お新さんはどうしているのか、しんと静まりかえり物音もないのだった。——  一夜中眠られず枕が濡れていた。  湯室へ下りて顔をあらって戻る頃から、ようやく部屋が仄白んだ。朝靄がたちこめていた。  部屋で着替えて、庭先から前庭の樹々の間をぬけて行くと、帳場からは昨夜のままの電燈の光りが洩れて、朝靄の庭へ流れていた。クミが白い躯を怠るそうに運んで調理場の蔭から出て来たが、気重い表情の私に、尻尾を靄の中で二三度振ったきり、寄って来なかった。  暁方の表通りを歩きながら、私は幾度も空を仰いだ。朝靄は暁方近くなるほど深んでいるのか、中空に立ちこめられていて見晴しがなかった。いつまでも心の窓が開かぬようだった。  庇重たく寝静まっている宿々の通りを過ぎると、すぐ山峡の道になる。巨大な幹立ちのよい杉の大樹が、深い朝靄につつまれ浮き上っている中を、私は下駄音をひびかせ、町はずれへひとり出かけて行った。  片側の山が終り、崖ぞいに道が下りかけるところで、私は立ち止った。  崖下のはるかな谷底も、たち渡った朝靄は見せず、すぐ道がその靄の中へ続いているとも思われる深さであった。深く遥か一望にたち込めて見晴さぬ朝靄は、まるで歴史の歩みの如く着実な足どりで、次第に動いているのだった。  秋津を覆いつくした深い朝靄の前で、私は茫然とたちすくみ動けなかった。お新さん、直子さんはもとより、数知れぬ不幸を人々の上にもたらした五年にわたる戦争さえも、この巨大な自然のまえには、いかにも些事に過ぎないようだった。この一こまの動きにさえ五年の人間同士の殺戮は起り、この一こまの動く時間に、私の生涯は終るのだった。  巨大な朝靄をまえに果しもなく小さくなりながら、私はそこで立ちつくしていた。  私に覆いかぶさり、その微粒子の一粒のように私をつつみながら、私へ君臨してくる自然のなかで、直子さんへのかすかな追憶や、お新さんのあたたかい情愛や、晴枝のあわれな忍苦を、私は胸をしめつけながら、わずかに守っていた。巨大な自然のまえでは、あまりにはかなく小さくなるそれらの人々を、私は奪われまいと、なにがなし、朝靄の巨大な深さへ憎悪を覚えてくるのだった。  突然、私はかるい目まいを覚えて、そこでしゃがみこんだ。  ——おまえはそこで何を守ろうというのか!  深い濃い朝靄の中から、そんなあざわらう声がひびいてくるのだった。誰をも傷つけまいと努力している私に、つつましい餓えのない生活と夜寒や病のない日常を約束もしないで、私をあざわらうのであった。 「私はあなたを憎悪します!」  いきなり身もだえして叫んだ私の声は、なんの余韻もなく力もなく、巨大な朝靄に呑まれて、あえなく消えた。  それきり私はそこで声もあげず独りきりで泣いていた。  やがて、少しずつ谷底から風が登って来て、双腕へ顔を伏せ跼まっている私をのこし、朝靄は晴れ上って行った。晴れ上る朝靄のあとから、根もない希望を、生きる力を、不幸を見違えさす、明るさがやって来るのだった。  私たちを惑わす明るさに、昨夜から疲れきっている私は、またしても浅慮にかすかな希望をとり戻しはじめた。うつつに、晴枝やお新さん直子さんの呼声を聞くように、ふらりと私は立ち上り、また重い足どりで杉の大樹の間の広い表通りを帰って行った。私は私よりもっと不幸な晴枝のもとへ帰ろうと、はっきり心が定まった。  気遠くなった足どりで、前庭の中の玉砂利の道から玄関に上って行った。  お新さんも起きたらしく、帳場の隣りの部屋の襖が開いてあった。立ち止って覗くと、奥の襖もあけ放し、お新さんは化粧をしに鏡台のまえに坐っていた。化粧しかけたその手をとめ、鏡の中へ顔を入れ、おはいりなさいな、と虚しくなっている私を呼び込んだ。  いつものように壁を背に、紅い火燵へ冷えきった躯を入れてぐったりなると、朝化粧を人間の不幸を守る術のように、お新さんは始めながら、 「今日、お発ち?」 「あ、しかたがないよ。」  化粧の手をふっとお新さんはとめて、しいんとした。 「——そうかもしれないわ。」  あきらめ深い人間の声であった。 「これから、度々出来れば出かけて、来たいけど——そんなに、来られそうも、ない、——手紙をかこうね。——手紙がいいねえ、——これだけは——」  人間だけのものだから、言いかけたが口にしなかった。丸窓がめずらしく開かれていて、山峡の朝の気が、静かに部屋をめぐっていた。 「そうねえ。——赤ちゃんの写真送ってね。」 「——」  丸窓の向うの私の泊っている別館の廊下へ、部屋から障子をあけ、蕉子ほどの子供を抱いた若い女が出て来て、沈んだ気配で赤い土肌の前庭を見つめはじめた。朝の少し重い空気の中を、子供の鳴らす玩具の音が、かろりん、かろんと、いかにもゆるやかな調べでわたってきた。かろりん、かろんとわたるそのゆるやかなひびきに、不思議と人間の哀愁がこもって疲れた私に聞えるのだった。人間と生れた不幸をまぎらわすための、人間の祈りが、その音のなかにこめられているようだった。 「いい音色だねえ——」  化粧をすまして向いへ入って来たお新さんは、火燵の紅い蒲団のまえで、すぐうしろをふりむいて丸窓の外を眺めながら、 「ゆうべみえたのよ。」  お新さんは言った。その声に、焦点のあってなかった目を、別館の廊下の若い女の人に定めると、直子さんだった。  虚しく動かなかった私の心が俄かに荒化《あらけ》てくるようだった。  しかし、すぐ私は虚しいもとの目になって、ぐったり力を心からぬきながら、さりげない口ぶりで、 「大野屋さん来てんだね。」 「ええ、ゆうべ——」  やはり淋しい声になってお新さんは言ったが、また心を張って悪戯っぽい目で幽かに笑って、火燵の中の私の足の先を握りしめ、それへ丸い膝をおしつけてきた。 「好きだったわねえ——」 「うん、——ちょっと。」  お新さんのつつむような情の声に、うなずきながら、私は身をのせて行った。 「御主人が戦死されたのですって、公報は入ったのに御主人が生きてるって、きかないのですって。——それや、そうでしょうね。——それを御隠居さんが養子を貰えって責めてらっしゃるのだわ、——ほら、ね——」  お民さんが言っていました、昨夜着くなりその話がはじまったそうですわ。  縁側で立ちつくしている直子さんのうしろの部屋の障子の間から、右に琴が見え、左に大野屋の老妻さんの膝が見えていた。老妻さんは障子の蔭からちらちら、覗きながら追いつめるような懇願するような声音を流しているのだった。  静かな朝の秋津の気配へ、身を澄まして直子さんは、昔のように無口で祖母を受けつけなかった。あれから七八年の歳月の中でも、あの深く沈んだ自分だけの時間を生きようとするかたくなな心が、寸毫も変ってなかった。ふさふさした断髪が、美しい内巻きの髪になったことと子供をのぞけば、八年という時間の距りがないようだった。  永い間かたくなに心を閉じて動かぬ直子さんに、老妻さんは焦立って縁側へ追いつけて出て、そこで躯をふって声を大きくした。 「——お店がどないにもならへんやないか!」  声に子供がおびえて玩具の音が高く乱れた。その子供を直子さんは抱いた腕だけであやし、ますますそこで澄んで来た。すっかり老い込み髪も少なくなり、痩せて昔の面影のない老妻さんが、また、なにか喉まで声を出して一足つめよると、直子さんは静かに、静かな無関心を見せた邪慳さで、くるりとその祖母から離れて部屋に入った。  琴の前へいかにも悠然と坐り、子供を横へ置いて、琴のじを動かし調子を合せ、身を凝らして黒髪を弾きはじめた。琴の音色で、直子さんは心を守っているのだった。  日々の生活にことかかず、いつでもすぐいちずに純粋なものへ身を沈めて行ける直子さんは、美しく羨ましかった。  そんな孫娘がいとしく、老妻さんはしばらく縁側で彳みながらなやんでいたが、また焦立たしく足音荒げて部屋に入って行った。  琴の横へ祖母が坐り込むなり直子さんは、片手でさっと子供を膝に抱きあげ、片手で黒髪からチッチッパッパを自暴になって弾きだした。少し重い空気の中を調子はずれな音が荒々しく流れた。抱き上げられた子供は、直子さんの想いをこめた力に締められ、膝の上でもがいて足を振って琴を蹴った。——思い込めば身も心も捨ててかかって守る直子さんが、女のいのちのいちずさが、そこで、眩しいまで輝いた。  と、目のまえのお新さんが、火燵の上へばったり突然顔と胸を伏せ、私の足を痛いほど握り締め、伏せた化粧あざやかな顔を紅い蒲団に埋めてもだえさしながら、 「ああ! あたしはどうしたって! あんなになれやしないわ! あんなに!」  どうしたって! と烈しく血の吹くように肌を掻きむしる声をあげた。お新さんの痙攣した白い頬が裂けるようだった。紅い蒲団のその紅の中で、化粧したばかりの美しい血の気の引いた顔が、女の生身が、ああ、ああ! とひきつりながら、裂けんばかりに身もだえするのだった。  お新さんの、老妻さんの、直子さんの、人間の苦しみが、秋津の朝の不思議と深く澄んだ気配のなかで、いま、火のように燃えさかっているのだった。  家を守るため残り少ない生涯を託している老い痩せた老妻さん、一つの想いを守るため女のいのちをいちずに焼きつくしている直子さん、女の生身をもてあまして身を裂くようなお新さん——所詮五十年の生涯の中で、それぞれのはかない小さな祈りに生きようとする努力を私は凝視《みつめ》ていた。無限の時間の中では、烈しいだけ虚しく見える努力を目の前にしていると、逆に私は、そのあまりに虚しい努力をつづけるしか私の生涯が許されぬなら、むしろ、ただに火のような時間におち、私の寿命をひたすらに焼きつくすだけに努めることこそ、まこと私たちの道のように思われて来るのだった。  お新さんの身もだえを見ながら、直子さんの荒々しい琴の音色を聞きながら、次第に私は、晴枝や蕉子のなかで小さい生活を祈る自分のゆとりが耐えられなくなって来た。  不意に私は、お新さんの火のような生身へ私をひきとめて行かせぬ、晴枝や蕉子の私の心のはしを握りしめている手を、ふりきった。  そしてそのまま目をとじ、妖しい燃えしきっている、紅い蒲団の上のお新さんの丸い肩をおさえて、そのひきつった白い頬へ顔をのせて行った。火のような頬だった。  お新さんはその私にはげしく涙を流して身もだえしながら、とりとめもないことを意味なく口走るのだった。 「いいのよ、あたしはいいのよ——」  その声に私は、浮木が引き込まれるように、一入深くお新さんの情愛の中へ吸いこまれて行った。  火のような頬へ顔をよせた私の、すべてをこめた浮木は、一息深くお新さんの気息のうちへ吸いこまれたなり、ふとそこで底へも届かず、静まって動かなくなった。しばらくそこで息をとめていた浮木は、そのまま静かにそこから次第と浮き上りはじめた。  お新さんの涙に濡れた頬へぴたりと頬をよせながら、またしてもそこで私は心にもなく虚しくなって行くのだった。  私からお新さんがはるかになるような名状し難い焦躁に、お新さんの頬へよりそう力をはげましてみた。しかしその私の努力にゆらめきもせず、真一文字に浮木は次第と浮き上るばかりであった。  お新さんの燃えしきっている情愛に、すべてをかけて、それだけへ火になっている私へ、ひしひしと、深く澄んだ秋津の気配の不思議な冷たさが迫り、数知れぬ人々の不幸を血肉として不思議に冷たく澄んだ、その秋津の気配が私を次第とむげに虚しくして行った。秋津の気配の底から、また新しい一入深い虚しさがやって来るのであった。  巨大な朝靄のように次第と深く、私を包んでくるその虚しさは、ただに火のような時間の中で寿命を焼きつくすことだけにはげむ私の、人間の外で私たちのいかなる努力にもかかわらず、ゆるぎなく在るのであった。限られた時間の中で如何にか生きようとする、私たちの虚しいあがきの外に、生きていること自体の虚しさが——自然の君臨からのがれられず人間の生きている自体の虚しさがあるのだった。  ——おまえはそこでなにを守ろうとするのか!  暁方、深い濃い巨大な朝霧の中から、私をあざわらった声が、耳底からかすかに大きくなりながら、私に戻って来た。と、お新さんはまたしてもみのりよい躯の、虚しい声で言うのだった。 「いいの、あたしはこれでいいの! ほんとうにこのままでいいのよ!」 [#改ページ]   第四章 煩悩去来  秋風が立ちはじめたころ、別れてはじめてお新さんから便りが来た。秋陽の高く澄んだ清々しい日の午過ぎである。  その午過ぎ、私はめずらしく秋さきの明るい畑に出て、背の丸みへ秋陽を浴びながら、畑中の雑草を※[#「てへん+劣」、unicode6318]っていた。その私の黒土にまみれた掌へ、黒色の詰襟服の老配達夫が、思いもかけぬお新さんの便りを、一葉のこしてふらりと帰って行った。  泥に汚れた掌の中の、こころもちふくらんだ白い封筒の、お新さんの筆のあとを見るなり、畑中に立ってそのまま私は息を細め目の遠くなる思慕におちた。しばらくは身じろぎも出来ない想いの私の上の、晴れた中空で、秋風がひとながれ渡って行った。背の裏山の樹々の繁みの中から、その秋風の流れのうちへ、小鳥が二羽三羽翔び立った。幽かな羽搏きの音がおちて来た。  春さきお新さんと別れて帰るおり、断ちがたい愛憫の情のまま私は約束したが、いずれは越え難いお互いの身のほどを想い、やはり手紙は書かなかった。お新さんの倖せな日の訪れを祈って、約束した子供の写真も送らず、はるかな想いで真夏の日月を過してきた。時に、貧しい日常のくらしの苦しさ、うら淋しさに追いつめられ、よりどころのないままお新さんへ手紙をかきかけもした。しかし、そのたび一入深くお新さんの倖せを希って、こみあげてくる心のたけを抑えて私は筆をなげた。その私の沈めた心を、まるで見ているように、また気づきもしないように、お新さんからもうち絶えて便りは来なかった。  秋さきの陽射し明るくあふれた畑中へ立ちつくしている私の、その沈めていた心を、お新さんの初めての便りは、いかにもたあいなく呼び起してきた。匂うような筆あとが、手痛く胸に沁みてきて、百五十日という日月、ひたすら抑えていた慕情を煽ってくるのであった。  明るい畑中で次第と湧きあがってくる想いは、やがて胸からあふれて俄かに熱く私の躯を追いたてて——心を宙にしながら、菜畑の柔かい黒土の上から一足外に出た。庭面の土の固さが麻裏草履を徹って、一瞬、私の躯へひびいてくる。それが晴枝の嫉心の象徴のようにもなって、そこからあわただしく私は裏山を目指し、菜畑ぞいの小道を辿りはじめた。乱れた私の跫音は、閑散な午下りの田畑の青の上を、秋陽に溶けて流れて行った。  菜畑を過ぎ小道が茂った竹藪の蔭へ沿いはじめ、秋陽は竹の枝笹に遮られて、あたりは急に暗く冷たくなる。その暗さ冷たさまで辿りついて、漸やく私の足どりは弛んで来た。なににもまして近しくあたたかく、山の気配の暗さ冷たさが心へ躯へ忍び寄って来るのであった。  ——なにが、お新さんのうえに訪れたというのだろうか  歩度をゆるめ、次第と嶮しくなる山道を登りながら、木洩れ陽を頬に肩へうけながら、幾度となく胸苦しさに樹々の梢の上の秋空を仰いで見た。その度、足もとが乱れ、山道の赤い面の小石が崩れては、坂下遠くころげ落ちて行った。小さい石のたてる音が閑謐な山道で不思議と切なく迫り、ひどくお新さんの便りの吉凶が案じられるのであった。  楢、松、樫の樹々に狭められた嶮しい山道を、山の濃い匂いに包まれながら、汚れた掌にお新さんの便りをにぎり、私はひっそりどこまでも登って行った。やがて、中腹近くなるあたりから、聳え繁っていた樹々は次第とその幹立ちの間をまばらにし、山道は山を横に登りはじめてなだらかになる。秋陽も明るく山道へ射しこみだし、静かに呼吸もととのって来た。  山の中腹のなだらかな斜面が、低い小さい赤松と青萱や小笹、歯朶の青草になり、秋陽がいちめんに照ったあたりまで登って、私は山道から少し離れた青草の茂みのうえに臥ころんだ。薄い着物をとおして、青草のあたたかさの奥の山肌の冷たさが、束の間、背にじっとり移って来る。火照っている想いにまで沁み入ってくるその冷たさを追いながら、私はしばらく秋陽射しの中へ白い封筒をかざして瞶めていた。秋空は高く動かず、山の静謐が次第にふかぶかと、その私の心と時間をひたして行った。  気遠く山の静謐に身を寄せながら、杳く漂って来る秋津の不思議に深く澄んだ気配を幽かに覚えながら、封を切り、白い便箋を展げるなり、花粉のようにお新さんの化粧の香が、仰向いた私の顔へ降り落ちて来た。降り落ちて、はげしく私の心を揺って行った。  お新さんの肌の仄かにあまい匂いのなかで木魂のように蘇って来るお新さんの、そのなつかしい便りをものの半ばと読まぬうち、ふいに私は目眩むようだった。——お新さんが迷っているという、結婚しようかどうかと迷っているという。あなたも御存じの青洞寺の次男で、神戸の商大を出た三十二のお方なのです、シベリヤからこのほど帰っておみえの健康なかたです……  お新さんのよくのびた文字は、なんのわだかまりもないお新さんの声ともなって、遠くから胸つまった私の耳底へひびいて来るのだった。俄かに心の張りも崩れ、そこから私は白い便箋で顔を蔽って目をとじた。蔽えばまた、一入お新さんの肌の香は烈しく、情厚かったお新さんのとりどりの姿が色濃く泛び、そこで私の想いは千々に乱れてはてしもなくなった。私は、山のなだらかな斜面の青草のうえで、息を乱しながら、心をととのえようとつとめながら、大きな祝福をお新さんに贈らねばならないのだった。——  かすかな風が起って、緩やかに山肌の青草をそよがせ、お新さんの便箋をあおっては、山の斜面に沿って流れて消える。 「今年はまだ早いのかしら、こんなに紅葉しているのに——」  少し離れた山腹の繁みのむこうから、葉ずれの音にまじって、茸狩りの娘の声がふと流れて来る。若やいだそんな人間の声がひどく私の力をうばって行く。はるかな山裾の田畑からは、稲をこぐ長閑な音が小さくひびいてくる、気遠く力ない私の耳をかすかになでて過ぎてゆく。ふいに山ぶよが私の耳もと近くを舞いながら、うなりはじめる。そんな、いかにも秋めいた肌合いの気配のうちで、私の想いはもの憂く深みに沈んで行った。  ——清澄な秋津の、秋鹿園の、初春の冷え冷えした廊下へ、よろめくように私はお新さんの部屋から出たものであった。別館までの長い廊下を目もあけず私は辿って行った。幾度となくこみあげてくる底熱い情にからまれ、肢重くなっては立ち止まりかけた。しかし、瞬きするほどの間でも立ち停れば、一入深くのしかかるに違いない想いを惧れて、私は私をはげまして立ち止まらなかった。よい倖せがいつかはきっとお新さんにやって来るのだと、私は思ってみては歩いていた。  佇みがちの重い足どりで、廊下を折れ漸やく、別館の広い廊下へかかると、そこから風が変った。開け放した廊下のガラス雨戸の間から、嫩葉の匂いをふくんだ少し肌寒い風が流れこんでいた。その風の中を過ぎって、また、あの玩具のがらがらの音が聞えて、そこまで辿りついた私は、直子さんをはじめて想い出したものだった。  そこで立ち停り、もの憂い目をあげるとやはり、私の廊下の先で庭に向った姿で、直子さんは子供を胸に抱いたまま立ちつくしていた。広く明るくよく磨かれた廊下の端で直子さんは、昔サンルームで真下を流れている渓川をいちずに深い眼色で瞶めていたあの心の固い姿で、前庭の赭い土肌をじっと眺めているのだった。瞶めて見じろぎもしなかった。  嫩葉の匂いを幽かにふくんだ風の流れている廊下で、八年ぶりでの相会う機会が私にやって来た。八年という歳月に私の恋慕の情は、笛の音のように消えうせてはいたが、なにがなし名状しがたいものが、仄かに胸底に動きはじめてくるのだった。秋津という湯の町の不思議と清澄な朝の光を斜めにうけ、繊細な背高い躯を淡紅の薔薇模様の羽織につつんだ、透るような直子さんを見ると、——相も変らず自分の生きて行ける雰囲気しか創ることに余念のない直子さんを、独り近々と目にすると、私は鵺であろうか、いまの今までお新さんの情で胸を乱されていながら、また直子さんへ親しさなつかしさがあふれて来るのだった。一瞬冴え立ってくる心のうちで、箭のように私は八年という歳月の距りを超えようとした。しかし、そこまで燃え上りはしたが、また私の心は冷たく衰えて行った。「いいの、あたしはこれでいいの! ほんとうにこのままでいいのよ!」そう躯を軋ませて言ったお新さんの傷つき易い心が、そこで俄かに鮮かに蘇って来るのだった。(前庭を距てたお新さんの部屋の丸窓の中で、八年ぶりもの私たちの再会をじっと息をこらして見ているお新さん。愛恋とは程遠い私たちの再会でも、幾様にもとれてならないお新さん。それも、わずかに眼だけ丸窓から覗かして、盗視しているお新さん。ふいに直子さんと目が合って、紅い袖裏を飜して部屋隅へ匿れるかもしれないお新さん。)お新さんにかぎってありようもないことだと信じながら、そんなあわれな姿が私に数限りなく泛んでも来るのだった。束の間は離就の念をゆらめかしたが、私は息を抑えて静かに踵を返した。跫音を忍ばし、肩と心をおとしてサンルームへ出かけて行った。所詮はお新さんとも、直子さんとも共々暮せる日はないのだ、所詮は夢幻の世界なのだからと思いながら。  サンルームの春陽にむれた中へ一足ふみこんで、私は戸惑った。昔と変らぬ位置に木卓と木椅子が十組あまり並んではいたが、見違うもののように真新しく白のペンキが塗り改められているのだった。その春陽に照り輝やいている見知らぬ白が、ひどく空々しく私の心をつきはなした。なにがなしものおじてくる跫音を一層私は忍ばして、人の気配のないあたたかなサンルームの中を、白塗りの木卓の間を縫って片隅の籐の寝椅子へ近よった。それさえも昔直子さんがカリエスの痩せた躯を横たえていたあの古びた日焼けまみれの、しかもあちこち皮さえ剥げた寝椅子ではなかった。まるで誰一人乗せたことのないように籐の網目の張りつめた真新しいものだった。昔私にささやかな安息の時間をかもし出してくれた、無造作な調度の中の気配がもうサンルームには見あたらなかった。これはむろんお新さんの手でなされたものであるけれど、その転変はまたしても五年という永い歳月のあとを見せて迫ってくるものであった。どのように美しくつつましくお新さんの心が五年の歳月を通して守られていようとも、やはりお新さんにもこうした超え難い変化が潜んでいるに相違なかった。  籐の寝椅子へ私は静かに躯をのせて仰向いた。小さく網目の軋む音がたち、急に瀬音が耳について来た。寝椅子の足を伝ってひびいてくる瀬音へそこで、私は次第に引き込まれて行った。無際限に畳《かさ》なり合い縺れ合って流れるその瀬音にだけは、昔ながらのつつましい安息をもたらすものがある。瞼を閉じ、心持耳を瀬音に澄ましながら、ようやく間違もなく過ぎてくれたこの一日を、ありのままの私の人生として私は静かに偲びはじめた。恐らく再びこの秋津へ登って来る折もないであろうと危ぶむ心が、わけてお新さんの情愛を避けるべきだと納得させてくれる仄あまい感傷ともなって、昔日の翳をしきりと甘く蘇えらしもするのであった。  遠い昔、このサンルームでいま私の横わっているあたりの古びた仰臥椅子へクリーム色の毛布にくるまって静臥していた直子さんの透明な寝顔、その寝顔の美しさを幾つも白塗りの木卓を距てた片隅から、秘かに小さい胸をおどらしながらあかず眺めていた稚い私。いつもサンルームの窓辺によって端然と読書していた板野さんの、理智のひらめきをたたえた陰影のある横顔。誰もが慎み深く守っているお互いのつつましい安息の時間を、その静けさを乱すまいと遠慮がちに絵筆を運んでいた岡田さん。五年という永い歳月秋毫の衰えさえもない情愛で私を待ってくれていたというお新さんの美しくみのりのよい躯——それら様々の親しくあたたかいものが、ほどよい諦観をまといながら、無際限な瀬音の底深くからほのぼのと浮び上り、やがて、あきらめているつもりでしかもお新さんの情愛から脱れがたい私をあやしはじめてくれるのであった。  永い間、無際限な瀬音のまにまに深く沈み、気遠く薄れている私の意識の端へ、突然、玩具のがらがらの音が触れて来て私は蘇った。——背のほうのサンルームのドアのノブが鳴り、静かにドアが押され、幽かな衣ずれの音と冷たく忍んだ跫音が、サンルームの気配をゆらめかして入って来た。そのまま跫音は玩具の小さい音色を立てながら、ためらいなく木卓の間を抜け、一息のように私の寝椅子まで近よって立ち止った。束の間玩具の音も絶え、冴え冴えしい静謐がサンルームの白昼にたちこめた。  八年という歳月の距りがよしやあろうとも、その幽かな衣ずれの気配のほどにも、忍んで冷たい癖の跫音にも、涙ぐましいまでの生々しい覚えがあった。直子さんなのだと判ったその心が、俄かになつかしさ親しさをはげしく呼び起し、そこで私は逆に戸惑いひどくときめいて目もあけられなかった。果ては昔どこまでも身じまいのつめたかった直子さんの気配が、まるでそのまま今のこととして覚えられて、私は心を固くつめはじめた。息づまって重苦しい時間がのしかかって過ぎるそのうち、直子さんの締った腕の中から、子供のもがく小さい声がして、一瞬、一際高い玩具の音が起り、切りつめた気配を掻き乱してサンルームへ流れわたった。  玩具の音が静かなサンルームへ立ちはじめると、直子さんは三歩、五歩、私の寝椅子のもとから遠のいて、サンルームの端のガラス窓へ近づいて行った。そこでまたひっそりと立ち停って、絶えて物音のないサンルームの閑謐な気配へ溶けこみかけたが、ふいに寄せ返す波のうねりのように高まったものを、 「——しばらくでした。」  じっと静かな声音の中へころして、直子さんは私に声をかけて来た。  まるで私の心を見透しているような、そんな相も変らず強い性格からの言葉であったが、それにもまして八年ぶりの直子さんの声は、一切の想いを抑えて私の心を稚くした。 「しばらくでした。」  思いがけぬまで素直に私は答えながら、はじめて寝椅子の上へ半身起して直子さんを見た。  直子さんはつい四五歩前で、私に背を見せ、真下の渓流を眺めた姿で、いちめんに春陽をうけていた。艶色よい髪をアップに結い、目に沁みるほど襟足の白さを春陽に光らせているのだった。  美しく成熟した襟足の肌、女の色香を見せている繊細ながらなだらかに流れている双つの肩、幽かに力をにじませている柳腰、まぎれもなく直子さんの分身である縞のジャケツの男の子、それらのものへ八年という歳月が明らかに映ってはいるが、それらの変化を超えて昔ながらの直子さんの心の気配が私を圧しつつんで来る。真昼のガラス窓の透明の中に、淡く映っている直子さんの影が、まるで昔日の稚い直子さんともなって私に迫ってくる。 「あなたは少しも変ってらっしゃらない!」  とりどりの想いが胸からあふれて私は直子さんの背へ声をかけた。 「そうでしょうかしら、」  はずんだ明るい声が直子さんからすぐ戻って来た。少し直子さんは小首をかしげて、そこで小さく喉で笑いはじめた。笑いながら次第と嫣然となって、目の前のガラス窓を斜めにあけた。冷たい風が、直子さんの声にあやされかけた私の顔を撫でて行った。  冷たい風の流れの中で直子さんはかすかな笑声をたてながら、 「あなただって、」笑声をふくんで明るい直子さんの声は悲しいほど透明になった。 「あなただって、ちっともお変りになってらっしゃいませんわ! 相変らずおねんねがお上手で!」  その透明な気配のまま直子さんは、薔薇模様の淡紅の袂をゆらりと振って、私へ向きなおった。そこでいかにも直子さんらしく幽かな微笑の目をひるまず私に据えて、次第と大輪の花弁が咲きひらくように、微笑を無言のうちで大きくして行った。  流れ込む風に立つ直子さんの化粧の香に、私は俄かに戸惑った。八年前、やはりこのサンルームで直子さんを避けて眠ったふりをしていた中学生の私、その私へなにか一つの暗示のように残して行った、赤い部厚い(チャタレー夫人の恋人)、そして向いの川土手で私を招いて手をふったお河童で緑の服の直子さん、いつまでもその川土手の蔭にしゃがんで泣いていたという直子さん。そうした様々の心惜んでいた想い出が、寝椅子の上の私をふいにはげしくとらえて来た。  ——あまりに私は稚な過ぎたのです!  ——岡田さんが川土手の下で泣いてらっしゃったあなたを見たと、四年も経ってから私に教えてくれました。  激しい言葉が胸底からどよめくように湧き上ったが、私は直子さんのいくらか潤んでいるような眼や微笑から目を伏せて寝椅子から離れた。 「私はいま小説書きです、」  直子さんの横を廻って開いたガラス窓の傍まで歩いた。目の下で渓流が白い冷たい瀬を無数につくっていっさんに流れていた。 「やっとこのごろチャタレー夫人の恋人も読みましたが……」  その私の声を、不意に背からドアの開く音が荒くさらって行った。それへまたおっかぶさって、 「あら、ここでしたの!」  お新さんの少し蓮っ葉に上ずった声が甲高くとんで来た。と、直子さんは冷たい風でも立てるように私の傍らでいきなり気配を固くした。人の気のないサンルームの中での私と直子さんの八年ぶりの再会が、お新さんの心へどう映っているか判りもしないのに、直子さんの一瞬凍りついたような気配にあおられ、視野が乱れて霞むほど私は狼狽した。狼狽しながらお新さんのほうへ振り返った。霞んだ視野へ茫と入って来たお新さんの姿は、入るなり白足袋と赤いスリッパの足が木卓の端につまずいて、くらりと宙で揺らめいた。平然とそれでも頬笑んでお新さんは白い木卓の間を、私たちのほうへ近づいて来ているのだったが、つまずいて乱れた足のさまが、そのまま私にはお新さんの心の乱れとなって射込んで来た。胸をつかれて一層私は狼狽しながら、戸迷った目をお新さんからまたそらし、真下の渓流を覗き込んだ。そこで、 「きっとお帰りになりますよ、そんな気がします。公報があっても遺骨が戻っていても、元気で帰って来た方もあるのですから——」  まるで今までの話のつづきのように、私は直子さんの心へ、お新さんの耳へ、話しかけた。そんな不意の、しかも残酷な話の運びを直子さんはなんのためらいもなく受けとって、 「ずいぶんお口がお上手におなりですこと!」小さい皮肉と強い情を私にだけきらりと閃めかせてから、直子さんは急に笑声をたてながら、「新子さん、どうかしら?」  近づいて来たお新さんを素早く話題へまきこんだ。 「あら、あたしなんか、」  私たちの心のうちをつい知らないふりでお新さんは、なごやかに話へのって来た。そこで、そのまま直子さんの抱いた子供へ顔を寄せ、 「お可愛いわね!」小さい歎声をあげて子供へ愛想をしたり、玩具を振ってよろこばしたりしながら、「こんなにおとなに待ってんですもの、お父さまにお帰りになっていただかなくては、こまりますわ——」  お新さんの何気なく言った子供というくさびが、俄かに話題を暗くした。 「あたくしはもう帰ってこないと決めておりますのよ——」  直子さんはそれとなく話題を軽くしようとつとめたが、もう声音の調子が破れていた。重苦しいものが私たちを包みはじめた。それを咄嗟のうちにお新さんの明るい声が、突き破って流れた。 「周作さんは何時のバス?」 「そうね、三時のにするかな、四時でもいいし、終列車に間に合えばね。」  お新さんの明るい声へのって、はじめて振りむいて目を合わせると、お新さんはついとその私の目をはじいてから、 「お茶の支度しておきました。」  すげなく私にいって、それなり直子さんへ少し甘える仕草でお茶に誘いかけた。  お嗤いになってはいやよ、などと明るい調子に直子さんもつり込まれ、 「あら、もうお別れのお茶——」  相変らずあっけないのを裏へこめて、私へ話をむけ、笑顔の底で目だけ直子さんはじっと光らせた。束の間、気ぜわしく直子さんらしくなく瞬いたが、子供を抱きなおすとお新さんにせかされるまま少し荒い跫音で歩きはじめた。  お茶の用意というのは庭の中の離屋《はなれ》らしかった。サンルームを出ると別館への廊下を折れず、庭ぞいの廊下をお新さんは直子さんと縺れ合って歩きながら、みょうにはずんではしゃいだ。四五歩遅れた私をお新さんは、まるで念頭にないようにも、ことさらすげなくするようにも、振り返らず口も利かなかった。それが秋津の不思議と澄んだ気配へ程よく調和して、ひどくお新さんは初いういしいのだった。  母屋の廊下の半ばのあたりで、青葉若葉の樹々の散在した古びた庭へ、直子さん、お新さん、私と一列に下りて春陽の中へ入った。そこから話も絶えて、玩具の音と苔むした庭石をわたる庭下駄の音だけが、閑静な樹々の蔭を、青葉の匂いの中を流れて秋津の空へ消えて行った。樹々の蔭を、青葉の青を襟足に映しながら、不思議と清浄な気配でここ秋津の湯の宿の古びた庭を、直子さんもお新さんも黙々と歩くのであった。やがて、離屋の屋根が見えるあたりで、踏んでいる庭石の道を、木犀の繁った枝で遮切られ、程よい三人の間隔が俄かにつまってきた。直子さんは立ち止って一度子供を抱きなおし、子供をかばって斜めになって枝と青葉を抑えた。昔はついぞ見かけなかった母なる女の無造作で、二の腕のあたりまで白い肌がすらりとのぞかした。くらりと春陽がまとわりついた。それをためらいもせず直子さんはそのまま枝を抑えて通りぬけ、そこでお新さんの手を待って振り返った。木犀の繁みのもとで幽かにその緑の映えをうつした直子さんの顔が、ふいにお新さんの肩越しに私の目へ迫って来た。気のせいかその顔の眼色が潤んで見えた一瞬、直子さんはお新さんに青葉の枝を手渡し私へ背を向けた。私に手痛い感動をのこしたまま、直子さんはむきな姿で庭石をわたって行った。その手痛い感動で戸迷った私の目先で、お新さんも素早く木犀の枝を抑えて傍を過ぎ、手の届くなかでくるりと振り返った。浮き立つように近々と迫ったお新さんの白い顔は、白い顔の眼は、突然嶮しく色づいて、のめるほどの強さで私を射竦めた。息詰るその束の間、ふっとお新さんは胸の想いの重みに崩れ、眉を弱めて瞼をとじた。そこでさまざまの想いをこめて、撓め抑えていた青葉の枝を飆と放した。青葉の枝は空をきってぴしりと私の胸を打ち、一瞬木犀の青葉の香はお新さんの心のたけともなって私に沁みた。  それなりお新さんは踵を飜して、庭石の上をたくみに軽々しい下駄音を立てて走った。走りながらいかにも心の重苦しさを晴らしたように、晴々しく直子さんへ声をかけた。 「お湯沸いてますかしら!」  清々しいそのお新さんの声は、秋津の透明な光と風の中を遠く木魂のように流れて行った。  古びた庭の上に小さな影をおとしながら、木犀の青葉のほとりで、お新さんの心で胸を打たれたまま、しばらく私はそこから動けなかった。とりとめもない愛怨の情にしか過ぎないお新さんの仕打ちなのであったが、ここ秋津の透明な気配の中では、人間の清浄な祈りの一つともなって私に迫ってくるのであった。  立ちつくした私の前の、木犀の青葉を漉して束の間お新さんの私の名を呼ぶ声が届いて来た。抜けるほど明るくなったその声音から、一入深くお新さんのあまりとたあいなさすぎる心を覚えながら、なにがなし高まって来る想いで荒々しく木犀の枝の青葉を、肩で押しのけて私は歩きだした。木犀の青葉の枝がうしろへ葉|摺《ず》れの音をたてて流れると、視野が展けて離屋が目の前に近づいて来た。  障子をあけ放った離屋の縁側でお新さんは遅れた私をいらだって待っていた。 「のろまねえ周作さんは!」  強い語調の中でもうお新さんは一つの想いにとりつかれたような躯になって、縁の上から白い腕をのばして、その指さきを気ぜわしく振りながら、 「ほら、お部屋がすっかり変ってるでしょう!」  まるでさっきまでのすげなさは忘れたようにも、また直子さんへの女のあらがいに煽られているようにも、お新さんはひどく明るくなっているのだった。  延ばしたお新さんの白い手にせかされて縁側に上ると、蹠に縁の春陽のあたたかさが沁みた。蹠からの幽かなあたたかさが、忘れず昔この離屋での療養の日々を私に次第と蘇らして来はじめた。目を細めるような想いで縁のあたたかさを追いながら蹠を弛めて、私は離屋の中を静かに眺めながら、明るい庭の春陽に馴れた目には少し薄暗い離屋へ入って行った。  離屋の中床の前に新しく炉がしつらえられて、茶室風になっているほかは、何一つこの六畳の部屋には変化がなかった。古びた中床の竹柱にも襖の汚れにも、天井の雨滴れのくすんだ跡にも、そのまま昔の古い記憶が残っていて、俄かにそこで色づき私の心をあたためてきた。背を向けて子供に茶菓子を食べさしている直子さんのうしろで、その白い襟足の肌を見てから、湯音に私は耳を傾けて言った。 「炉が出来たのだねえ。」 「ええ、今年のお正月に思いきってつくっちゃったの、いけなかったかしら?」  こだわりもない、いけなかったかしらというお新さんの私と一つになろうとする心が、私をまたしても熱くつつんで来た。一足そのお新さんから、私は離れながら、 「ここだけは馬鹿に変ってないのだねえ。」  つとめて気軽な声で言うそれへ、お新さんは不思議としつこくからみ寄って、はずんだ調子で、 「ええ、あたし、ずっとここに臥起きしていたのですもの、帳場は受付になっちゃうし、あなたがお発ちになった翌々日よ、ここへ移っちゃったの! 匂いがのこってた!」  お新さんは話しながら、前へ廻って来て笑顔を声もなく大きくした。直子さんに見えないところだという心がひどくお新さんを大胆にさせるのであった。笑顔のままふっと仆れるように肩の豊かなものを、私へあずけて、 「終戦になって、またいまの部屋へ移ったでしょう、だから、思いきって、あたしここ茶室にしたの、——」  そんなお新さんの情愛を、躯の重みを私はうけとめられず、底熱い目で瞶めてくるのを避けて顔をそらし、またお新さんから離れた。お新さんの情愛がはげしいほど、不思議に心は固くなり直子さんへの気兼が強く覚えられてくるのであった。お新さんからさり気なく身を退いて歩きながら、不意に私は次の間との境の柱に古い傷をみつけて近よった。  檜ではあるが黒くなったその柱の目の高さほどへ、横条の刃物のあとが細く印されてある。目を近づけてみるとまぎれもなくその細い横線の端に、幽かながら周という私の名のひと文字が誌されてあるのだった。 「おや、こんなものまで残っている!」  永い歳月を貫いて不変な一つのものを見つけた小さい感動が、一切の胸のわだかまりを忘れさし、私は指さきでふっと柱を抑えた。その私の声をまるで小鳥の嘴のように敏捷にとらえてお新さんは、さっと一層明るくなって纏りついて来た。 「ほら、戦争が始まった日よ、五尺四寸八分、」 「ああ、覚えている。」 「ほら、これがあたしよ、五尺二寸かっきりだったのよ、ね、ここに新しいのがあるでしょ、五尺二寸三分、これはね、終戦の日に印しつけといたの!」  白い小さい人差指が黒い柱の上の刃物のあとを、ここ、ここと押えてよく撓んだ。はずんだ調子の声が目の前の横顔の紅い脣から飛び出し、古びた柱から撥ね返って幽かに息の熱さを私に伝えて来た。終戦の日に思い立ってまた新しい横すじを柱に入れたお新さん、私が療養していた離屋をそのまま自分の部屋として使っていたというお新さん、私には身に過ぎたお新さんのそれらの好意が、触れ合った腕からじかに私の体へ沁み入ってくる。いじらしいまでの愛憐と感謝の心が、俄かに胸底に沸って来て、つんのめるようにお新さんの頬へ仆れかけた。その束の間、隙間風のように、玩具のがらがらの音が流れて、私の心を引きとめた。振り返ると、玩具のがらがらは直子さんの膝から落ちて畳の上へ投げ出されてあった。玩具の主の縞のジャケツの子供は、直子さんの膝の上でもう深い眠りにおちているのに、玩具は誰の手で鳴らされたものであろうか。直子さんの襟足から肩にかけての線が、固くぎこちなくなっているのだった。とりのこされた直子さんの心が、そのうしろ姿を見るなり、残酷なまでにありあり私の目に映った。所詮は、お新さんとも直子さんとも共々暮せぬ身であれば、せめても共々つつましく美しい記憶の中に住みたいと日頃念じている想いが、情愛の沸りのまま流れかけた私の体を、そこでようやく堰きとめた。  急に冷たく沈んで行く私にお新さんは、サンルームから今まで抑えていた愛怨の狂いをいきなりそこで撒き散らしだした。まるで身悶えして自ら葩を散り落す花のように、とり乱れて、甘い声をふるって、私へ絡みつきはじめた。 「ねえ、周作さん、周作さんってば、」  うしろから私の手をとってお新さんは私を柱のもとまで引き戻した。そのまま私の体の向きを強い情の昂った手で、くるりと変えて背筋を柱へ押しつけた。左の手で私の胸を抑えて横合でお新さんは私の心へ乳房をおしつけるように背のびして、 「あら、高くなってるわ! なってるわよ! 六分くらい。あなたは高くなったのねえ、踵ちゃんとつけてんの? ほら、やっぱり高くなってるわ!」  夢中なことに、とりとめもないことを、子供のように甘えて言うお新さんの、そうまで故意な仕草に耽らねばならぬ、底に直子さんを意識している心が、私へまじり気なく通じるのだった。しかし、目の前で眠った子供を膝の上へ抱きしめながら、固い昔ながらの心で振り返りもせず話の仲間にも入らない直子さんへは、お新さんの声はなにより苦しいものとなって射込んで行っていた。甘い、甘えた声のたび目にこそ見えぬが、固く冷たくなる直子さんの心がありありそのうしろ姿へ滲んで来た。もとより私に直子さんへの恋情があるわけでもないが、直子さんの置きどころもない心のほどが、火のように燃え上って流れ私へ焼けつく。六畳のお互いの体のあたたかさまで伝わり合うような閑静な部屋の中で、お新さんの狂ったような甘い声音と、一声も立てず冷たく膝を小さくする直子さんの心が、からみ合い縺れ合い重なり合って私の胸を苦しくする。追いつめられるまで追いつめられて、咄嗟にお新さんの小さい手をとって、軽く私は両掌でそれをつつみながら、直子さんの背のうしろでそっと頬を押しつけて行った。お新さんには申し訳ないみじめで賤しいてだてではあったが、そうした興奮とも愛情のあかしともつかぬものへ、お新さんの心を捲き込むより、お新さんのいまの募った心は抑えようもないのだった。  咄嗟の思いがけない官能の穽の中へ、まるでいとしいほどたあいなくお新さんは陥ち込んで来た。つけた私の頬へ身も心も奔流のように流れ込まして、お新さんは吐息を荒々しくはずませ、胸をふくらましてそのまま打ち絶えて静かになった。嵐がおちたあとの喘ぐような静けさの底へ、お新さんの気息がおちた一瞬、お新さんの手へ頬を押しつけた気配を直子さんに気づかれないような、そんなさり気なく道化じみた声をつくって、 「お手前を、いい加減に、ご披露してほしいね、坊やはくたびれて眠っちゃったよ!」  一度強くお新さんの手をふってから、お新さんの躯を両手で前へおしだした。その歯の浮くような私の醜い言葉を、振舞を、お新さんは夢にも気づかず、 「あら!」と甲高い声をあげて、「とんまね、あたし!」  また振り向いて紅くそめた笑顔を私に見せた。もう茶の湯どころでなく、別れるまでの僅かな時間を、募った情感のまにまに過したいばかりの心が、そのお新さんの紅潮した肌へむき出しに浮き上っているのだった。  袖を返して、直子さんへ詫びて沸った湯音を前に端坐すると、お新さんの胸は急にのびて、今までの単純なお新さんの甘い姿がなくなった。張りつめた呼吸感が湯音のまえのお新さんの躯へこもって来た。湯の沸る音が俄かに冴えて、乱れた私たちの心をともども洗って行った。やがて諸々の調度の品が各々その処を得て並び、静かな気配を部屋に満たしながらお新さんの御室流だというお手前がつつがなく進んで、沸った湯が白い湯気を登らせつつ茶柄杓に掬まれて平口の茶碗のうちへ、小さい音をたてて流れおちた。棗の漆黒、抹茶の濃緑、沸る湯が薄茶色の茶碗へ流れおちる音、美しい配色と優軟なお新さんの白い手の小さい器物の立てる音が、閑静な部屋を一層閑謐にして行った。一つの深く吟味された形式の綾の中で、お新さんの静かな気息のかもしだす気配にあやつられ、私も直子さんもいつか温和なものを心にあたためはじめた。と、今が今まで思いつめてきびしい目と心で、お新さんの横顔を眺めていた直子さんが、がくりと肩から力をぬいて、横手の私へふらりと顔を向けた。そこで部屋の閑謐な気配をためすように、私の心を量るように、しばらくためらっていたが、思いもかけぬしみじみした口ぶりで、直子さんらしくもなくなって、 「あたくしの夫は、」突然な話題を静かな声で話しはじめた。「——殆んど家に居たこともございませんのよ。こんなに静かに話の出来る人でもありませんし、いつも商売で旅に出たり、遊びに行ったりばかりして——」  直子さんは瞬きもせず、私とお新さんを交互に眺めながら、 「あたくしは不幸でございました。——あたくしは、愛情のない結婚は不幸だなんていう言葉を内心軽蔑していましたのよ。なんて言いますか、愛情の持てる方と結婚出来ることなんか、よくよくの偶然だと思って——あたくしにそんな偶然は訪れて来ませんでしたし、もうこれからも訪れないだろうと決めて結婚を親まかせにしたのです、」 「——」 「この子だって、お恥しいけど、生れる約束の出来た夜が、ちゃんと判っておりますのよ!」  不幸でしたとそれほどまで数少なかった同衾の夜のことを、直子さんは精一杯の目ざしで私をとらえて言いながら、見るうち頬を赧くして行った。頬をあかく羞らいで染めて束の間直子さんは、いつもの冷たい強い性から遠くなってうつむいた。  そこまで話されてはじめて直子さんのその話題の意味が漸く私に判って来た。直子さんはお新さんのつい先刻の数々の仕草の中から、直子さんらしい一徹な潔癖で、私とお新さんの仲から、もう自らを放してしまっているのであった。一切の自らの想念を断ち切ろうとつとめながら、一方私たちへ精一杯の祝福を送ろうとしているのだった。 「新子さんはこれからのことなのよ、——きっと一度だけはそんな機会がまいりますわよ、その時、お迷いなっちゃ駄目よ、しっかり掴えてお放しにならないことよ!」  しばらく美しい余韻をのこして直子さんの声は部屋のうちを漂った。出来た子供の結実した夜が判るまで淋しい閨だったという直子さんは、その淋しさにも負けずこの上永い歳月、潔癖な魂で自らの女のいのちを守って行こうとしているのだった。しかしまた私たちへ大きな祝福を送ろうとしている直子さんの姿は、すべての論議を超えて一つの宿命の道を辿る悲しさ美しさとなって私の胸を激しく揺り動かして来た。鳴りどよもすような哀感が、秋津の不思議と清澄な気配にのって、茶の湯の音のみの部屋にたちこめると、お新さんの手から極った心のたけを映して茶筅が畳の上へ落ちて転がった。のめるように横へ顔をそむけたまま、お新さんも深く哀感のこもった部屋の気配のうちへ溶け沈んで行った。溶け沈みながら女のいのちの虚しさ切なさに息をもころしたお新さんの頬を、これはまたいかにもお新さんらしい瑞々しく豊かな粒の涙が、ほろほろと音もなく流れ落ちていたのであった。——  それら直子さんお新さんのあたたかい心情が、やがて秋津から去らねばならぬ私の身の内で、妖しく鳴りどよもしていつまでも消えなかった。再び秋津へ登る日の訪れ難い私の生活の苦しさが、それをまた一層切ない想いとして私へ覆いかかって来るのであった。離屋から心もち目をそらし羞らいあって直子さんお新さんと別れて別館の部屋へ帰り、中食も終えたが、いっかな爽々しい別離の感情は、私へ訪れて来る気配もなかった。閑静な別館の一間で、床柱を背にしてぽつねんと火燵へ深く入っている私に、秋津という山峡の湯の宿の不思議に澄んだ気配のうちから、清々しい心のお新さん直子さんの綾なす美しい和音が、しきりなく漂って来るばかりであった。かりに青春と名付けられ得る一つの時期があるならば、その華やかなうねりの頂上に、いま私は立っているのだろうか。生涯の最も輝しい時間が、火燵へぽつねんとあたって床柱へ靠れた私の上を過ぎて行くのを、私はひっそり息を鎮め、声も立てずに見送っていた。所詮は儚ない哀別離苦の情と嗤いながら、そこでそのまま私は一時のバスも二時のバスをも見送った。  三時が過ぎ、思い立って私はお新さんを誘い、お新さんの母親のお谷さんが眠っている青洞寺へ出かけて行った。この日かぎり再び相会う機会とてもなかろうお新さんの行先の倖せを、離苦の情にもなやまず、そこでなら恬淡な心で祈れるふうにも、また言葉静かに語れるふうにも思われた。お谷さんとは生前さして親しい間柄でもなかったけれど、共々心から清浄にお新さんの倖せを祈れる人は、まことお谷さんのほかこの世には誰一人ないのだった。  誘われてお新さんは、ついの間のうち、裏庭へ走り一束の供花やら、供米、真新しい水柄杓、線香やらを携げて玄関へ出て来た。水桶を私があずかり、お新さんは花の束を携げて、打水のあとのまだ瑞々しく残っている表通りの宿々の門さきを抜けていった。山国の午後のやわらかく衰えた初春の陽を、背へ肩にうけて歩きながらお新さんは、別離までの分秒をいとおしむようにも、別離の傷心に耐え難いふうにもなっていつまでも深い無言の底へ沈んでいた。  表通りを抜け町はずれの巨大な幹立ちのよい杉の大樹に挟まれた道を過ぎ、崖沿いの道を暫く下りたところから、道は二つに岐れて、岐れた松並木の道が青洞寺へ登っていた。岐れて松並木の道を山腹の青洞寺へ登りかけて、お新さんは心もち上気した躯を、ひっそり私の肩へよせて来た。そこまで来て、お新さんの小さい心が次第と煽られはじめたようだった。  松の並木道が終り、道は展けて山腹に相応しくない蓮池のある広場になる。丸味のある石橋を渡りきるとその向うに、見上げるほど高い石段が、両側からの松の枝々の下を苔むしながら、遥かな厳めしい山門に続いている。 「直子さんの、坊っちゃんのこと、ほんとかしら?——」  高い石段の麓でお新さんは低い稚い声ではじめて口をきった。振り向いた私の目をついとそらして、白い美しい耳もとの肌を見せた。その肌の白が見るうち苦しいほどいちずに紅く染まって行った。  耐えながらも火をふくような、お新さんのその声の心が深く私にひびいて来て、私は石段のもとで立ちどまった。  生涯秋鹿園から脱れられぬ宿命を信じながら、しかもまた直子さんの言葉一つにさえお新さんは、風の中の燈ほどに乱れるのであった。女の生身の切なさが、強い愛恋の情を私の胸底でかき立てたが、それを抑えて、私はお新さんをそらした。 「この石段、幾段あるの?」 「百八十八段——」  百八十八段あるという石段の前で、その苔むした石へ斜めに落ちた私の黒い影を、私はちらりと見て、お新さんの乱れた心をつきはなすように、端の手欄に掴まりながら、一足さきに一段、一段登って行った。閑散な山腹へ私の下駄音とこまかいお新さんの駒下駄の音が交わりあって流れだした。  苔むした石段の両側に聳えた松柏の影を、私の影を踏みながら、むきに想いを抑えて石段を登って行った。初春の松の枝ごしの陽をうけ、登りはじめると、激しい疲労が股間から躯へ、いちずに拡って来た。勾配の強い均衡のとれ難い石段の不安定さが、そのままお新さんの情愛をうけかねて迷う私の心の不安定へのしかかり、次第と名状し難い異常な昂奮に憑かれはじめた。激しい疲労感の底から、思いかけず、妖しい蒼艶な情火が燻り立って来るのだった。  思いがけなく、白昼の石段の勾配の途で燃え上って来た情感に私は、はげしく戸惑った。お新さんとのここ幾年かの親しい交りの中でも、私にこのような情火のみが露わに燃え上ったことは絶えてないのだった。醜怪な感情を羞らい私は一層お新さんから離れるよう足を速めた。一息もつかず八合目のあたりまで登ると、脇下から冷たい盗汗が流れ、温感が疲労した体を熱く火照らして来た。  手欄に掴まり、突然私は立ち止った。抑えていた情火は、疲労の激しさのまま燃えしきり、そこまで登ってとどめなくなった。立ち止り一度ためらったが、私は一瞬抑えていた手綱を断ち切って、ぎらりと振り返りお新さんの、目を見た。お新さんの女を見据えた。  二段あとを遅れまい一心で登っていたお新さんは、振り返ったあまりに近々しい私の顔に、私の身の内で燃えているものの烈しさに、いきなりのしかかられて、はっと激しく顔色を乱して目をそむけた。  不安定な石段の上で、そのはずみにぐらりと躯が浮いて、お新さんはのけぞるふうに揺らめいた。一瞬、手欄を抱き込んだ。目の下遥かな蓮池の広場が、仆れかけたお新さんのあとの空間へ、ぐっともり上るように入って来た。  仆れて手欄へ抱きついたお新さんは、そこでしばらく息をひそめて動かなかった。私の烈しさを享けきれない心の乱れをそのまま、赧い目もとに泛べて、その目をいっかな開けなかった。そして供花の花束を片手に握りしめ、心もち強く胸のふくらみを手欄へおしつけながら、 「五月になると、この石段は大変ですのよ、松の花粉で、目もあけられない日がありますわ——」  まるで譫言のように、遠いことを、乾いた声であえぎあえぎ言った。  妖めいた陶酔に気遠くなっているそのお新さんを眺めていた私に、そのおよそ縁遠い言葉が、異常に清々しいものとなって私の心を吹きぬけた。一瞬、目のあたり、お新さんの美しい顔を霞ますほどの、濛々たる松の花粉の微塵が風にのり春陽に輝いて流れる壮大な幻影が泛び上った。泛び上った風に流れる花粉の蠢動は、忽然として自然の巨大な性の営みの象徴と化して、脆弱な私の性感をみじめに飜弄しはじめて来るのであった。  急勾配の石段の上で、私は深い吐息を落して、お新さんの躯を避けてまた石段をこつこつ登りはじめた。  異常な昂奮のあとの虚脱感に一層疲労を深くしながら、石段を登りきり平地へ出ると、視野へ古びた風蝕された山門が迫り入って、風景は一変して厳めしくなった。  厳めしくなった風景の中で、胸苦しかった呼吸から解き放たれて、私は山門の仁王像へ何気なく近よって行った。一間四方ほどの狭さの中で格子を嵌められながら裸身の仁王は、両肢をしっかと踏んまえ立ちはだかって、いきなり私を睥下した。泥絵も古く全身いたるところ剥げて木地を露出している仁王は、四肢の筋肉を空間に隆起させ、炯々とした眼光を放ち、叱で口辺をゆがめて私の心の弱味へ迫り、仏法護持という枠を超えて、私の懶怠をそこで責めはじめるのだった。お新さんの情愛にかまけ、束の間の感傷に溺れている邪な私の時間への悔恨が、仁王像の前の初春の陽をうらうらと浴びている私を、次第と足もとから浸して行った。日々の生活にさえも苦しみ窶れた晴枝や蕉子のみじめな姿が泛び、この世で私の立つ位置はやはり晴枝たちの中にしかないのだと、泥絵の古りた仁王像が諭してくれるようであった。  一方、お新さんは石段を登りきっても、いま享けたばかりの私からの情火のほむらから脱れられないのか、石段のほとりで音もなくしばらくの間立ちつくしていた。お新さんの気配へ耳を澄ますと、その耳へ松籟の幽かな風が流れた。躯のほてりをそこでお新さんは鎮めようとして、遂にその深みに堕ちて行っているようだった。やがて小石を軋ませしきりと駒下駄をにじらしはじめていたが、俄かに色めいた下駄音をたてて、一気に私へ近づいて来た。うしろから私の脇うらへ寄って来て、私と同じ姿で仁王像を眺め入った。束の間お新さんは、 「あら!」  蝶がいると一度私の体を肩で押してから、白い手を押して仁王像の下のあたりを指さした。指の先の、格子の中の仁王像の股間の裏へ、漆黒の揚羽蝶が凝然と翅を合せて止っていた。 「ほらあそこよ!」  一足踏み出して二度目のお新さんの声で、黒揚羽は一瞬股間の裏から離れて舞い上った。舞い上った黒揚羽は、脱れ口を求めたのだが、格子の外に立ちはだかった私たちに気圧され、一散に仁王像の顔へ向って翅搏いた。顔のあたりへとまりもせず、戯れかけるように纏り狂い、仁王像の肌に触れては翅粉を、格子の影と初春の光の中へ撒き散らした。 「どこから、入って来たのかしら?」  お新さんの不審の通り、翅搏いている黒揚羽はそれと気づいて見れば、格子の枠目より遥かに、不気味に大きかった。それが一入黒揚羽の乱舞を妖しく見せて来た。再び自由の天地へ翔び出ることも出来ない中で、いっさんな黒揚羽の乱舞の翅搏きは、それなりお新さん、私、人間の、抜き去り難い煩悩の深みに溺れた者の一つの象徴ほどの切なさを見せていた。  ——柳は緑、花は紅  仁王像の前から、なにがなく心を締めつけられて私は離れ、山門をくぐりながら静かなその言葉を反芻した。しかしそれもまた、揺ぎない自然の前で、あまりにも儚ない人間の嘆きともなって、私の心を一しきり沈めてくるのであった。  山門をくぐるなり寺間の抹香の匂いが風にのって漂って来た。箒の正しい目跡のある境内を歩きはじめると、追いつけてお新さんはやって来て、私の手から水桶をとり、横手の仁和桜のもとへ小走りに水を掬みに出かけた。桜の樹のもとへ小さい溜池があり、そこへ筧水が流れていた。半開の桜の花の下で、お新さんは袂を片手で抑えて片手の水桶を筧口に差しのばし、水の溜るのを待ってしばらく身動きしなかった。差し伸した手へ時折花びらが三ひら五ひら散りかかっていた。  ——柳は緑、花は紅  いくらか落着をとりもどしながら、預けられた供花の花束を持って、私はそのお新さんに眺め入った。よしんばこれからの後、相会う日とてなかったとしても、この日のお新さんの一こま一こまの風姿が、情厚かったお新さんの清々しい気配への、こよない追憶の扉ともなるよう、小さい祈りをもこめて私は、お新さんの桜の樹のもとの姿を瞼裏へ焼きつけていた。  やがて、水が桶に満ちたらしく、水桶を携げた肩をあげ、心もち頬を傾けて桜の花の下から、お新さんは戻って来た。水桶を私が持つと、手をのばしたがお新さんは聞入れず、目色を凝らして私を仰いであとしざりしながら、 「あの蝶、あの極楽蝶はまるであたしみたい、淋しくなっちゃって——」 「——」 「——出られやしないし、きっとあんなに狂いまあって、死んじゃうのね。」 「入って来たのだし、出口はきっとあるだろう。」  しかし、お新さんはなにかすべてを決めたように、いっこくになって私の言葉を聞かず、私の先にたって歩きはじめた。 「名前なんて変なものなのね、あんなに苦しんでいる黒い蝶々が、極楽蝶で、——こんなに古いあたしが、新子で。」  喉の奥で、そこまで言ってお新さんは、淋しく笑ったようだった。笑ってから、気持が柔らいで母親の基が恋しくなったふうに、また一層切ない想いをつのらせたようにもなって、いちずに駒下駄の音を高くして墓へ急ぎだした。水桶の中の水が激しく揺れ、飛沫がお新さんの腰下のあたりを時折濡らした。急げば急ぐほど、お新さんのうしろ姿はひどく艶っぽく色づいて来るのであった。  本堂の横手へ廻り、廻廊の下をくぐって裏手へ出ると、木蓮の花の咲いたほとりに庵があった。その庵から左手へ折れた崖縁近くに、十五六基の苔むした墓があり、その十坪あまりの木柵のうちが、お新さんの家の墓地だった。  墓地の墓々には、先頃の彼岸にお新さんが供えた|しきみ《ヽヽヽ》の青葉が、半ば茶褐に枯れ春陽射しをたたえながら凋んでいた。  お新さんは袂を折って、無言ですぐそれらの枯葉を捨て、新しい供花の束をほどいて、春花を墓前の竹筒に供えて廻った。私は線香に火を点し、高い匂いの煙の立つそれを、中央の一際大きい、高崎家代々之墓と銘のある墓前から、墓々の前をわたって供えて行った。墓地のうしろは雑草の延びた崖になっていて、斜め下の深い竹藪の梢の葉が波うって風に揺れていた。その風はそのまま崖上の私たちの墓地へ吹きぬけ、墓前の香煙は登らず、火もとから地面を這って消えうせた。  供物も終り水桶の水もきれるとお新さんは、お谷さんの納骨されてある中央の大きな墓前へうずくまって掌を合した。私もお新さんにならって、お新さんのうしろに立ち、瞼をとじた。お新さんの、お新さんらしい倖せな日の訪れを、つとめて素直な心になってお谷さんへ祈った。  誰一人私たちのほかはいない山腹の墓地へ、そこから沁み入るような閑静な気配がしばらく流れた。遠い松籟の音しかないその閑静な気配の中で、お新さんはなにを哀願し祈ったものであろうか、ふっと絶え入るような一瞬をつくって、胸の想いのたけを流す音ほどの幽かなむせび哭きをはじめた。むせびながら、そのむせび声にさえも耐えられぬようにお新さんは燃えて、いきなりすっくと立ち上った。そこでそのまま私へ振り返りもせず、墓に向って、 「直子さんだって掴えられなかったのにどうして、あたしなんかに掴えられるものですか!」  強く初めは口をきったが、半ばからその声は落ちて諦め深いものをにじませて行った。  閑静な墓地を哀条と流れたそのお新さんの声は、真うしろに立ちつくしている私を、逆に激しいお新さんの情愛の網となって宙を拡がりながら捉えてきた。しかし私はそれを抑えて、お新さんから離れ木柵のもとまで黙って歩いて行った。わざとさり気もない気配を立てては、煙草へ火を点そうとした。崖下からの風が急に強く流れはじめ、マッチの火は煙草の先へ届かず消えた。あせるほど指さきはこまかくふるえはじめて、いっかな火も点らなかった。  流れる風の中で、わざと聞き流した私の言葉をいつまでも待って、お新さんはおくれ毛を風にさらわれながら、身じろぎもせず肩をかたくしていた。深い緊張から身を澄していたが、いっかなその心の張りも保ちきれなくなって、お新さんはまた音でも聞えるほどの淋しさでがくりと肩を落した。そして、項を少したれ、風にあらがって崖縁へ歩いて行った。墓地の端のその、萱やいたどりの雑草の叢近く立ち、吹き上げる風をまともに受けて崖下を茫然とのぞんで動かなくなった。——  山腹の古寺の墓地の中で、いま直子さんが私にお新さんに教えた、あの偶然をお新さんは掴もうといちずにつくしているのであった。力なく肩を落し項を伏せたそのお新さんのうしろ姿から、陽炎のように登るお新さんの心の乱れやいらだちが、手ひどく私の愛恋の情を煽って来る。  ——柳は紅、花は緑!  お新さんの足もとの深々と繁った青草が吹き上げて来る風に靡いて、いっさんにお新さんの肢のあたりの着物へからんで行くのを眺めながら、体の浮立つようにまで煽られる情感を、じっとこらえて私はお新さんへ近づかなかった。ともども抱合って崖下へ転落したい衝動を抑えて、お新さんの行先の倖せを祈りつづけていた。と、お新さんは、 「あなたは、直子さんがお好きなのね——」  木魂のように声音のうつろな声を、ものさびた静けさへのせて、私に話しかけてきた。 「——」 「——でしょう!?」 「なにも、ぼくは直子さんに会いに来はしない、」「いいのよ!」突然高い声にお新さんはなって私の口を遮った。そしてまるで崖下へ転落しているように、そのまま一層甲高く乱れながら、 「いいのよ! ほんとにいいのよ! そんなふうに仰言っていただかなくたって!」  強いすさまじい勢いで言い切って、喉の奥底から名状し難い笑声を立てはじめた。叢の上で春空を背景にくっきり浮き上っている躯まで、おかしみに耐え難いふうにくねって、次第とその笑声をけたたましくして行った。しかし、その狂気じみた異常な昂奮は、のしかかる哀しみに束の間うち落された。お新さんは虚しく笑声を絶えとめて、くたくたと崖縁でよろめき蹲った。閑静な山気がそのお新さんの躯をおしつつんで行った。なおもお新さんは、その蔽いかぶさって心に沁みてくるものを、最後の力を搾りつくすような烈しさで払って、石くれを握りしめたまま立ち上った。そこで想いのたけを石くれと力にこめて、虚空めざしてさっと投げつけた。お新さんの手から放たれた石くれは春陽に黒く光りながら、弧を描いて崖下の深い竹藪の幹立ちへと、飛んだ。と思いがけなく、強く固い竹を打つ石くれの音が高く崖下からはね返った。清々しく高い竹の音は、かつ、かつと三つ四つ中空へ遠く流れ、私とお新さんの魂の契りの瞬間の静謐を創って行った。——  夜に入って雨になった。  晴枝と蕉子が三方荒壁の灯のない部屋の中で、疲れた寝息を立てはじめたあと、戸外ではひどく風が募ってきた。裏手の竹藪から私の部屋の屋根へ垂れかぶさっている笹々が、闇の中で無気味な音をたててざわめいては、屋根の上を撫で廻っていた。風は裏山から吹き下りて来るらしく、樹々の梢の遠い唸りを運んで来て、また田畑のはてへと流れて消えた。一しきり風は募っていて、ふいに途絶えると雨になった。  ——お新さんが結婚するという、私はそれを祝福しなければならぬという。  日頃念じていたその身の法《のり》が、思いがけず重苦しい首枷となって私の胸へのしかかり、いつまでも私は眠られなかった。お新さんの行先の倖せを祈って、結婚をすすめねばならぬと決めながら、祝福の文字一つさえ泛ばなかった。冴えて苦しいほどの頭の中へ、いたずらにお新さんの華やかな花嫁姿や新しい、私の知らぬ日々のお新さんの愉悦のさまが去来し、私を惨めな煩悩の淵間の底へ堕して行った。お新さんが結婚すると思ってはじめて、お新さんへの、お新さんのみのりのよい躯への愛執が、私を戸惑わせるまで炎々と燃えしきった。はては見も知らぬ相手の男が、父の住持の顔そのままのものとなって、闇の中に浮び上り、とりとめもない憎悪の念を煽った。また逆にその憎悪は流れ春さき木蓮の白い花の見える庵へ、墓参帰りの私たちを招じあげた住持へものしかかって行くのであった。——  六畳の簡素な作りの庵に招じあげられて、目のあたりに見た五十過ぎの住持は、およそ寺内の清浄な気配から縁遠い、俗気たっぷりの男であった。日焼けして労働者のような皮膚の顔は、齢に似合わず脂ぎり首は太い猪首で、いかにも貪婪な皺がそれへとぐろを巻いていた。茶を立て、酒毒で赤い鼻頭をうごめかしては、うとましいほど墓参に来たお新さんの心懸けを追従した。そして鈍い眼を据えながら、なめるようにお新さんの躯の出来を眺めて、 「ええ加減に、ええお聟さんをあてがわにゃならんの。」  言ってから、とってつけたような濁った高笑いをした。そこへ奥の庫裡から大黒が渡り廊下を踏んで出て来て、私とお新さんの前へ苺を盛った小皿を配った。大黒は三十そこそこの酌婦じみた女で、肌の色あいや話しぶりが、淫らでねつかった。恐らく後妻であろうが、脂ぎった住持と並んで坐ると、そのまま不潔な閨房の気配が匂うようだった。それがひどく生理へこたえて眼をそらし、膝まえの苺を見ると、またその苺の赤さが異様なまで赤いのだった。——  その異様などぎつい苺の赤が、淫らなものをこめて一夏を越えた今もなお、私の心の隅にわだかまっていた。わだかまっていたそれらの印象の一つ一つが、雨の降る真夜中の床の私の心の底から、あくどく粉飾されて浮び上っては、お新さんのみのりのよい躯へまとわりついて行くのであった。  暁方、仄かに小窓が白むまで、ともすれば憎悪の念にかられてくる心を、もてあましつづけて床の中で私はもだえていた。雨がおち暁方の一入冷え込む時間が来ると、その深さに追われて床を出た。燭台の蝋燭へ灯を点し、小窓の下の、壁際の小机で、お新さんへの返事を私は書きはじめた。灯の焔は私の明暗する心をうつして、しきりなくゆらめき、その底を私の心もつゆ知らぬ晴枝たちの寝息が流れていた。  沸っている愛執の念を、もはや私は抑えようとはしなかった。神を信じず因縁を怖れず自らの感情のみを信じようとした。私は私の祈願に拘らず流動して行く、多くの事実を想い描き、人間の善意の外を歩む人間の生涯の道を、不動の実存として考えようとした。どのような言辞を弄そうとも、お新さんもまたお新さん自身の心にもそわぬ道を歩まねばならぬのだ。行末どのような羽目になろうとも、お新さんの心をまたしても煽ったとしても、それはひどく私から遠いものとしか思われなくなって行った。我執だけが焔のようにゆらめきながら、唯一つの光明となってくるのであった。  雨に濡れた小窓の下で、森閑と冷えこむ部屋の気配からもとりのこされ、我執にとりつかれ物狂おしく、私はお新さんへ縷々と結婚をはばむ手紙を書きつづけた。  分刻もためらわず、激越な言葉を連らねて書き終えると、そのまま三町ほど離れたポストへ私は、憑かれたように出かけて行った。  表の庭へ出ると、白じらと明けた地面に、名残りの雨気が低く流れていた。藁屋根の並んだ狭い表通りへ出て、寝静まった家や厨の物音をひびかせている家を過ぎ、広い境内のある神社のほとりまで、一気になって私は歩いた。雨で弛んだ田舎道のぬかるみをそこまで来ると、徹夜で温感の漲った底熱い体へ一時に疲労がのしかかり、想い徹した我執の味気なさが私の肢を重くして来はじめた。私は次第と衰えて行く力を見送りながら、片側の土塀へ身を匿さんばかりに寄せて、とぼとぼ坂道になった地面を辿って行った。雨で弛んだその地面へ、昨夜の雨と風で吹き落された柘榴の花が点々と散っていた。  柘榴の樹の下の土塀ぞいに歩くと、落ちた地面の花は私の下駄に踏み砕かれては、ぴしっ、ぴちっと小さい声をあげた。夜の明けたばかりの閑寂なあたりへ、花の音は生きもののような清冽な悲しみを撒き散らした。その悲しみに胸を衝かれて立ち佇み、足もとの花を見ると、柘榴の落花は私の下駄の歯跡の窪みで、踏み砕かれ平たくつぶれていた。  と、閑寂な朝の道の半ばの私へ、それはお新さんの無惨な行先の姿の、輝くほどの象徴となって映って来た。  実も結ばず散れとお新さんへ私はまこと伝えて悔いないものであろうか。僅かな落花のあわれにさえも、夜を貫いて決めた心を、そこであえなく私は突き崩されて動けなくなった。  ——順逆二門無し!  迫った無形の壁を額へ感じながら、目を閉じ心を奮って一歩踏み出しかけたが、その一瞬渡って来た風が、落ち残った柘榴の雨だれを、いっせいに私の頭上へ降り落した。落ちた雨だれはすかさず背筋へ流れこみ、悪寒をまき起して私の心の猛りを俄かに冷え氷らせて行った。  柘榴の樹の下で、しばらく私は立ちつくして、土塀の白く走った道の遥かの、岐道の角にある雨に洗われた瑞々しいポストの赤を眺めていた。しかし、故意に我執で猛らした心は、激しい悔心のみが滾々とあふれはじめるのだった。そこから一足も肢は進まず、一層私はうらぶれ疲れて、よろめくほどの足どりで、三方荒壁のさながら小牢獄のような部屋へ帰って行った。—— [#改ページ]   第五章 蜜夜夢幻  一日おいて私は直入と蓮月の半折を売った。その金を旅費にして秋津へ発った。お新さんの相手だという青洞寺の次男を、お新さんのために私の目で見極める心を決めた。その身の相応しからぬ道しか、お新さんへの私のつとめはなく、またその道しか私の心を素直に諦観へ誘ってくれないのだった。  四時間汽車に揺られ、汽車からバスに乗り替えると、バスは農繁期のせいかめずらしく乗客が少なかった。湯治客らしい女連の中年の商人と、湯宿の女中らしい三人、それに私も見覚えのある秋鹿園の隣りの宿の番頭、私を合せて七人の乗客だった。運転席近くへかたまった女中と番頭たちから離れて私は、日の当っている側の最後部の席へ独り坐った。女中風な二十前後の女たちは、一泊どまりで昨夜からこの町へ芝居見物に来たらしく、バスが動かぬ前から、嬌声をあげて見たばかりの役者の品さだめをはじめた。それへまた横から四十男の番頭が猥雑な半畳を入れて、一層騒々しく車内へ嬌笑をあふらした。若い女たちの品さだめの言葉は、浮わついてとりとめのないものであったが、ひどくそれが私の気持を惹きつけた。女たちの何気ない言葉もそのまま、未だ見ないお新さんの相手の男への品さだめとなって刺って行くのであった。そんなたあいもない自分を私は故意になおざりにして、バスの車窓の外で廻る風景をぼんやり眺めていた。  バスが町の家並みを抜けて、刈入れまえの稲田の中を走りはじめると、豊饒な土の香を交えた風が間断なく窓から流れ込んだ。その風のうちに幽かな覚えが匂っていて、それが次第と私の心をなごやかに揺り、次第と車内の嬌声から離れて、私は私ひとりの想いの中へ落着いて行った。——十七歳の春、伯母に連れられ秋津へ登って以来、秋津は私のこの世での夢の国ともなっていた。ここ十年あまりの歳月の間、悲しみ悩み苦しみを幾度となくその不思議と透明な気配の中へ持ちこんだことであろうか。透明な不思議と深い秋津の気配へひたれば、もろもろの悩みも哀しみも、人間の清浄な祈りとなって閑寂な四辺へ霧消してくれたものであった。稚くして双親に別れ、肉親の縁《えにし》薄い私の孤独な魂は、幾たび秋津の風光の中で慰められ休められたことであろうか。温雅な板野さんの人となり、岡田さんの美しい激情、大野屋さん老夫妻の平穏な生活を楽しむ心、秋鹿園でのそれらの親しかった人々の、私の成長へ培ってくれた情愛の深さが、いまなお私のうちで息づいているのだった。そして、直子さん、お新さんと私の青春を飾ってくれた清々しい人たちの中を、さまよいつづけた私の魂の求め探しつづけたものは、それをこそ神とよぶものであろうか。私の孤独を等しく味わってくれた、あきらかな数多くの瞬間を、直子さんお新さんの想い出の中に見出しつづけて来た。しかし直子さんも私の世界から遠ざかり、今またお新さんも私の孤独から離れて結婚しようかという。やがては、お新さんとも別れ離れの日月が永く私へ訪れてくるであろう。さすればここ十年の私の神を探しつづけた努力は、泡沫の如く虚しいものであったものだろうか。私の孤独を等しく味わい苦しんでくれる神は、所詮この世に在さぬものであろうか。すべてを虚しい夢のさすらいと思えばまた、余りにも生々しく美しくお新さんのみのりのよい躯は、近々と車窓によって揺られている私に迫ってくるのであった。  バスがぐらりと傾いて道を折れ、秋陽が逆の窓へ移って行った。秋津の山裾へかかって、風が冷たくなった。私は秋陽をしたって左の窓際へ移りかけ、俄かに車内の話題へ耳をそばだてた。 「秋鹿園のおかみさん、養子とんなはるって、ほんとかな?」  入口の横の年嵩の女が番頭へ躯を乗り出して訊いた。乱杙歯をつつんだ金が光った。 「うちの旦つくの世話や。」 「やっぱり青洞寺の息子さんかえ?」 「あら!」中の年若い洋服の女が口をはさんだ。「あのシベリヤから還った、男前の息子はんか?」 「なんや、おまえ岡惚れかいな、」 「だって! ねえ、ちょっといいわね、男らしくて!」 「決ったの?」また別の女もその話題へのって来た。 「なあにね、おかみはんもあれでなかなかしっかりもんや、青洞寺のケチ蛸があとにひかえとるよって、なかなか首をうんとふりはらん。」 「だって、おかみさんは恋人があるいう噂じゃないの!」  山際から道へ伸びている樹の枝が、ざっとバスの屋根を撫でた。 「なんでもさ、戦争中泊っていた若い軍医さんだっていうわよ——」  その辺りから螺線状に山腹を登る道は狭くなって、山際の樹々の枝がひっきりなしに、バスの窓へ激しい葉摺の音をたてて番頭も話をそこで打ち切って、私の坐った窓辺へ移って来た。それが潮で話題が変り、私はほっと固くなっていた体を弛めた。弛めたあとの気怠い心へ、若い女の男まえと言った次男の風貌が重くこびりついてはなれなかった。なにか重苦しい敵対心をそこまで来てまたしても私は覚えはじめた。出来る限り自然な気持で、なんらの葛藤もない邂逅を得たいと希って出かけながら、青白い焔のような闘志めいた感情がふつふつ燃えて来はじめるのであった。  秋津の一つ前の停留所をバスが過ぎかけ、 「降ります!」  私は自身で想像もしない言葉を叫んで、最後部の席から立ち上った。高い金属音を軋ませてがくりとバスが急停車する、そのはずみにのって入口へつんのめって出た。そこで降りれば、青洞寺は終点の秋津との中間になるのだった。  バスが木炭ガスの強い香を残して、がたがた阪道を登ったあと、私は秋の山道を独り黙然と足を速めて歩いて行った。二町あまり紅葉まじりの山を仰ぎながら、大きく曲っている道を登ったところで、苔むし埃を被った石標を見つけた。  青洞寺是より三町  三尺あまりの細い急阪な道が、バスの通りから岐れて、密生した松の木々の間を山腹へと上っていた。その道は初めてのものであったが私は、袴の腿立ちとって、木の根、木の枝に掴まりながら、遅々と登って行った。深い山の匂いに噎せては立ち止りして二町あまり登ると、そこからいくらか広い横道になった。その道の先の樹間に青洞寺の本堂の屋根の峯が見え隠れしていた。  あかい土肌の横道を歩きかけて、間もなく寺内かららしい鍬の土を斬る音が、正確な間隔を置いて樹間を貫いてひびいて来た。山腹の森閑とした山気へそれは発止と力強く流れて、不思議に私の耳底をかっし、かっと打つのだった。異常に私の神経へ触れてくるのであった。  やがて青洞寺の全貌が横道から臨めだし、行手を遮っている土塀へ近づくと、鍬の音は俄かに鮮かになって中空へ響いて聞えた。音は土塀のすぐ向うから、正確に健康にわたってくるのだった。  土塀を距てて、内なる菜園の人が見えもしなかったが、私はそこでお新さんの相手だという次男の姿を、まざまざと感じとった。急に私はまた右手の山へ登る小径へ、そこから跫音を忍ばして入って行った。斜めに山を高く登り、土塀の横裏へそそり立っている崖の上へ出ると、寺内の菜園が目の下へ展けてきた。その秋陽に明るい菜園の中に、半裸の見るからに逞しい青年が鍬を振っていた。  上半身裸の軍服ズボンの青年は、三ツ目鍬を振りかぶり、かっと荒れた菜園へ打ちおろす。渾身の力をこめて打ちおろす、均斉のとれた体へ美しい律動が浮び、汗に濡れた皮膚が秋陽に輝き、瑞々しい男の性が瞬間凜と匂う。かっと地中へ鍬が深く刺り、荒れた菜園の土が盛り返されると、再び鍬は宙を走って頭上に振りかざされる。無心にしかも正確な律動をかもしてまた鍬を打ちおろされ、刻一刻菜園は耕されて行く——それらの清々しい力のうちから、いかにも健康な男の性の強靱な匂いが発散しては、鍬の土を斬る音にもまして、私の胸底をえぐって来るのだった。お新さんの倖せが、肉情の悦楽のみで定まる筈もないのに、目のあたりのこの凜々しく勁い男の風姿を眺めていると、なにがなし次第と私は、私の貧弱な体はお新さんのみのりよい躯から、遠く突き放されて行った。理智の力でとどめがたい、いのちの根もとを揺り仆すような悲哀の激情が、崖縁に立ちつくして見とれている私をおし包みはじめた。深い霧のように、漆黒の闇のように私の心を、あまりに深々と包んだ激情は、私を苦しませる段階を遥かに超え、激情そのものの盲点の中へ私を溶して行った。そこで私は、声もなく目にも見えず、気遠い虚脱の底へ沈みはてたようだった。——  突然、 「わかだんなあ——」  山の上から叫び声が起って、永い虚脱から私を救いあげた。 「これから、檜にかかりますけん、検分してつかあせえ——」  声は私の直ぐ上のあたりから菜園へ届いて、青年の鍬を振る手を休めさした。振り仰ぐと樹間から見える、つい半町たらず先の、一際聳えた古い檜の大樹の下で、木樵風体の四人の男が叫んでいるのであった。  菜園で手を休めた青年は、やはり私の思っていた通りの次男であった。彼は山の上からの呼声で、鍬を土塀へもたせかけると、 「よおし、直ぐ行くよお——」  邪気の無いむしろあどけないほどの明るい返事を叫んで、きさくに半裸の姿のまま土塀の外へ、まるで撒水車が通り過ぎたあとのような涼しさをあふらせながら走り出た。そこから私の立っている山道を、よく伸びたフォームで一息に駈け上って来た。若々しい弾力のある跫音で私の横を走りぬけるおり、ちらりと私へ彼はうさんくさそうに目を向けた。瞬間まともになった彼の父親似の鼻が、ひどく醜悪な淫らな印象を私へ刻みつけた。不意に私は彼の本然の性格を見極めたような名状し難い昂奮にとり憑かれた。それは俄かに今までの数多い彼の凜々しさ逞しさを打ち破るなによりのよすがとなって、思いがけぬまで深い現実の憎悪の籠った闘志を、崖縁の私に捲き起して来た。お新さんの清々しい心とみのりよい躯を、お新さんの行末の倖せをもたらさぬ決定的なあるものを、無形のものながら、確然と私はつかんで、逞しい彼の背幅の幹立ちの中へ入って行くのを見送っていた。  彼の姿が繁った灌木の蔭へ消え、ふたたび檜の大樹のもとへ現れてから、私は少し歩を移して一層よく眺められる位置をつくった。松の幹立ちの間から見える木の少し疎らな斜面の檜のもとで、彼が近づくなり歓声をあげて、四人の木樵は上衣の半被を脱ぎ捨て仕事にとりかかった。檜の向うの紅葉を背景にして荒くれた男たちは二手に別れ、鋸と斧で両側から一時に檜を切りにかかった。高い斧の木魂が閑謐な秋の山腹にひびき、鋸の音がその間を条々と流れはじめた。古びて太い幹と鋸の間から白い木粉が散り、斧では白い木肌が見るうち幹を斜めに切って行った。  荒くれた山の男たちが、二人は鋸を、あとの二人はめいめい斧を振って働きはじめると、黒々と陽灼けした体が紅葉を背に躍動し、猛々しい力感が檜のもとで秋陽へ発止と匂い立った。と、今まで私を圧倒していた彼の逞しさは、あとかたもなく覚えられなくなった。四人の荒くれた山の男たちの中へ交じると、むしろ、あわれなまで彼の体躯は見劣りしてくるのであった。しかも、その半裸の体はいかにも無意味な肉塊としての量感しか放たなくなった。致命的なまで精神の陰翳は見えず、次第とお新さんとは縁遠いただの男となって行くのであった。  やがて、鋸と斧で必要なだけ切り込まれると、四人の男たちは幹から離れ、二人は梢に結びつけられたロープを握って下手へ走り、二人は檜の上手へ廻って、檜の大樹を揺りはじめた。中天へ聳えている檜の梢が風をよんで激しく騒めき揺れる下で、彼は一人、下手へ走り、また檜のもとへ駆けより、徒らな奇声をあげ続けていた。半裸の彼の打ち振る腕は一層彼を惨めな肉塊に堕して、なにがなし私に淡い安息の時間を作りはじめてくれるのであった。  檜の梢の動揺が大きくなり、一瞬、彼の一際甲高い奇声が上ると、檜の大樹は激烈な裂木音を軋ませながら、暮近い山腹の静寂を破りながら、壮快な動揺を下手へ定めて、大きく大きく中天を傾いて行った。——  前庭の樹々の間の、玉砂利の道を玄関へ近づくと、まだ明るい玄関に燈が点った。秋鹿園はもうその燈から夜に入るのであった。  花樟の衝立の前に立つなり、すこし冷えびえする気配の中へ、奥から、 「いらっしゃいませ——」  声をながくひいて二十歳まえの、見知らぬ女中が出て来た。頬の色のよい体のしまった清潔な娘で、いかにもお新さんの好みにはまって見えた。帳場にはお新さんもお民さんの姿も見えず、意気込んだ娘に少し私は照れながら式台へ上って行った。  女中は私の上るのを待ってから、振り返って調理場のほうへ、 「ねえさん! 奥の梅の間、いいの?」  高く張った調子の声で訊いた。 「いいんだろ、仙ちゃんが掃除してったから。」  覚えのある、歯切のよいお民さんの声が聞えて来た。懐しさがついと胸に高まって、調理場のお民さんへ挨拶の言葉をかけようとした。しかし、一層その懐しい想いを高めるように、私は胸の半ばでそれを抑えて歩きだした。 「別館の南天の間がいい。」  勇んで先に立ちかける女中に言った。そこで急に常連と判ったらしく、勇んでいた女中は見るうちその勇んだものをなくして、意気地がなくなった。それがひどく娘の良い心根を私に風のように送ってくる。やはり来てよかったとあたたまって行く心を、もうそこから私はもてあまし、 「お新さんは?」  母屋の広い廊下を歩きながら、女中へ声をかけた。ぎくりと廊下の半ばで女中は振り返って、ひどく胡散臭い目で私を足もとから顔までじっと見た。そしてぶすりとした声で、 「——踊りのお稽古です。」 「踊り?——どこで?」 「別館の応接間です。」  踊りと聞いて眼の奥に、お新さんの白い肌の足が、寄木細工の床の上をなよやかにすべるさまが美しい情緒をこめて、私を戸惑わせるほど鮮かに映って来た。別館の応接間というのは、母屋から別館へ入るその入口にある。十坪あまりの板敷の部屋で、三組のソファと電蓄が備えられてあった。この春、お新さんがそれをホールがわりにしたいと言っていたのを想い出しながら、母屋から別館の廊下へ私は折れた。それにしてもレコードの音も聞えないのをいぶかり歩くうち、休んでいたらしい三味線の音が、足もとから立つ鳥のように俄かに、応接間から起って来た。踊りはダンスでなく日本舞踊なのであった。  応接間のまえまで心もち忍び足になって来て、そこで私は立ち止った。窓のガラス越しに、ソファを片寄せて作った奥の広場で、お新さんは上気しながら三味線と唄声にあやつられて、踊っていた。  三味線と唄声の主は、見かけたことのない五十過ぎの、何処となく粋な着附けの女であった。ソファの肘へ腰をかけ、胸を張って撥を動かしながら、渋い低い唄を口ずさんでいた。その声に、手振り足ぶりのしめしをつけられお新さんは、狭い応接間の一隅で、印度更紗の壁飾りの渋茶色の模様を背景に、金扇を飜し袖を波うたせては、白い二の腕の肌をちらつかせていちずに舞う。ととんと白足袋が紅い裾裏を蹴って床を鳴らせる。ゆるやかな時間の流れを見せ、無限の空間を描きながら、お新さんは心と躯を一つに凝らして舞っていた。いくらか肉づきもよくなったのか、匂うように豊かな色香をお新さんは撒きつづけているのであった。  印度更紗を背景に舞いながらお新さんのいちずになった目が、廊下の外の私をやがて見つけた。一瞬舞いのさす手もとが狂い、唄をうたっている老女から、しめしをつける高い掛声が立った。目をしばたたかしたお新さんは、ついの間その高い厳しい声に打たれて、再び舞いだけの世界へ入って行こうと、心を励ました。励まして舞いながら、そんな夢中のうちで、お新さんの目もとは次第と潤んで来はじめるのであった。波間に消えつ浮びつするようなお新さんの心が、ガラス窓を漉して、三味線の急調子になって行くなかで惻々と私に移って来る。それはまた、結婚に迷っているというお新さんの心の乱れともなって、私の心を哀々と打っても来るのであった。  急調子の乱舞が、三味線の音と唄声の余韻の中で、ぴたりと終り、張りつめていた気配が尾を曳きながら崩れた。日昏れが急に深くなるような静かな時間が、別館の応接間を包んでくるなかで、お新さんは少し汗ばんだ額を拭いながら、健康な微笑を泛べてしばらくまた師匠の注意の言葉を聞いていた。五十過ぎの女の腕とは思われぬ敏捷さで、二つ三つ師匠は舞いの手ぶりをお新さんに見せた。それを子供のように頷いてお新さんは聞き終えると三味線をさげて師匠を送り廊下へ出た。若い女中に三味線を手渡してから、愛想のよい会釈で師匠の疲れをねぎらい廊下で師匠と別れた。垢抜けした師匠が齢に似合わぬ粋な足どりで、母屋の方へ独り歩きだすと、はじめてお新さんは私へまともに顔をむけた。心もち頬の紅潮した瑞々しい顔を、甘く羞かんで、 「ああ恥しかった!」  少しおどけて甘えた声なのであったが、一別以来の懐しさがあふれるまでにその声音に溶けこもっていた。 「いつからはじめたの?」  訊きながら私は廊下を歩きかけた。 「あら、離屋に用意してありますのよ!」  その声でまた向きを変えながら、用意というお新さんの言葉で、ざくりと私は胸を斬り込まれた。私があの手紙を見さえすれば、必ず来てくれるものと決めているお新さんの、思いつめた情愛がもてあますほど大きく私の胸へ仆れこんでくるのであった。結婚を迷っているというお新さんとは、およそ縁遠い心ばえを、そこで私は目のあたりに見て、ふっと無言の中へ落ち込んだ。お新さんと肩を並べ離屋のほうへ歩きだしながら、思いあぐねて一息にここまで来ただけに、肩すかしされたような戸惑いを私は覚えた。覚えながらなにか待ちかまえていたような安心も快くまた私をつつんで来るのだった。しかもまたその底深く、なにか抜き差しならない綱が、お新さんと私の間に作られてしまう、不安めいた予感も起って来て、不思議と妖しくそれらが交錯するのであった。お互いの体温のほてりが移りあうように、肩を寄せて歩きはじめると、お新さんは今日の日まで抑えていた心の、奔りだすままに流されて、もう自分ひとりの切ない感情のなかへおちて行った。私の妖しく倒錯した心にも気づかなくなって、お新さんはまた目もとを濡らしてくるのだった。 「京都のお方なの、この夏おみえになったもんだから、お稽古お願いしたのよ、子供の時に踊っただけでしょう、すっかり躯が固くなっていて、駄目ね——」  言葉と心は、もう遠くかけ離れているのだった。心はもう庭を越え離屋の一間に走っていて、数々の想いをそこで募らせているのであった。 「ただ、じっとしてられないのよ、このごろ。商売にも身が入らないし——」  そこまで言うと、お新さんはあおられる心のたけの激しさに打ち負けて、しいんと無口に沈んで行った。一層、足どりだけ強くなって、裏庭を、苔むした庭石の上を、下駄音をはげしくして離屋へむきな姿で出かけて行った。  一足さきに部屋の中へお新さんは駈け込んで、まだ明るい部屋へ燈を点した。黄色の電燈の光をうけて逆に昏れなずんできた部屋は、春さき訪れた折とそのまま、炉に茶釜がかかり湯が沸っていた。湯音のなかをかすかに香の消え残った匂いが細く漂っていた。  部屋へはいると、まるで遠い旅から帰って来た人を迎える女のように情を細くして、 「汗を流して、温まってらっしゃいね、そのうち夕飯の支度も出来ますから!」  みのりのよい躯をこまめに働かせて、中床の下の袋戸棚から、白い紙包みを出して私の掌へ握らした。包みの白い紙の上に、  周作さまのぶん  お新さんのよく伸びている筆の字が、黝々と情をこめて誌されてある。包紙の上から抑えると、やわらかいタオルと石鹸箱の感触が指裏へじっとり伝った。その手ざわりはまるでお新さんの情厚い心の感触となって、またしても私の心へ深く刺って来た。お新さんから私は目をそらしすぐ背をむけ、 「ひと風呂浴びるかな。」  ぎごちなく汗を流そうと言いかけ、はっと、つい先刻見たばかりの青洞寺の次男の汗にまみれた逞しい半裸が浮び立った。ふいにはげしい狼狽が私の体を襲って、私はそのままはじかれるふうにお新さんから離れ次の三畳へ入って行った。その私のうしろへお新さんは追いつけて迫り、スイッチを鳴らして、離屋の小さい湯殿へ燈を入れた。  三畳の部屋で上衣を脱ぎはじめると、お新さんは私の足もとへ坐り、脱ぎ捨てる服を拾っては衣紋器に吊して行った。些細なそんな仕草がいかにもお新さんの募っている心を慰めるのか、お新さんは平穏な息づかいになってくるのであった。次第とその平穏な仕事のなかへ沈んで行くお新さんを残して、私は裸になり、湯殿の扉をあけた。高い音をたてて扉が開き、裸の私が内へ消えるとすぐお新さんは、扉の外から、 「バス混んでたでしょう!」 「湯加減どう?」  などとしきりなく声をかけてくる。満ち足りたような、のどかで今まで覚えのないほど平和なお新さんの声であった。 「お背、流しましょうか?」  とも言うお新さんを私は断って、少しぬるめな湯舟の中へ体を沈め、手足をゆったり伸した。厚いガラスの扉でお新さんのいる部屋から区切られた、白い輝くばかりのタイル張りの湯殿には、家を出て以来はじめての不思議な自由があった。その自由な気配のなかで、気持が湯の温かさにほぐされて行くと、お新さんの、お新さんだけの想いに落ちている、それほどまで私を待ちあぐねた心が、静かに私の目の前で燃えしきって見えはじめるのだった。手紙を見れば必ず私が来るものと決めて待っていたお新さんの、結婚へ託さねばならぬほどつきつめた心が、なにがなし私を圧倒しながら蔽いかぶさってくる。このごろじっとしていられないと言うお新さんの躯のみのりのほども、切ない人間のあわれをこめて、ひどく私に偲ばしはじめるのであった。  果しなく拡がる想いを断ち切って、湯舟から私は飛び出した。新しい香の強い石鹸とタオルで体を洗いはじめると、 「ごゆっくりね!」  扉へ一足近づいてお新さんは言ってから、六畳へと歩き、障子の開けたてする音と庭下駄の音をのこして、離屋から帰って行った。庭下駄の音が消えると、夕暮の広い庭の中の一軒家の離屋は、急に森閑とした気配にとざされた。私の使う湯の音が俄かに高く流れだした。  離屋から母屋へ出かけたお新さんは、閑静な時間が暫く経ったあと、湯音の流れ消える果から、賑やかな下駄音を立ててまた戻って来た。お民さんと二人連れらしく、離屋へ上ると、卓子をいそいそ出す音や、器物をその上へ並べる音の中から、お民さんの明けっ放しの声が浮き立って聞えてきた。やがて、夕食の用意が終ったらしく器物の音が絶え、ふと静かになった間を、跫音が一つ湯殿へ近づいた。ノックもなしに扉を勇しいほど強く開けて、 「坊っちゃん! 今晩は、」  途方もない大きな声でお民さんが顔を覗けた。 「また迷惑かけにやって来た。」 「おやおや、世間ずれしたこと仰言るわねえ、」お民さんは昔通り私を子供あつかいにして笑いながら、「ねえ、坊っちゃん!」  一睨、笑顔のまま大きな目で私を見据えた。 「今度は、お嬢さんをいじめちゃ駄目よ、あたいがきかないわよ!」  途中から優しい眼色になってそう云うなり、がらっと扉を閉めてお民さんは、地響たてるような跫音でお新さんの居る六畳へ駈け帰った。その跫音の消えぬうちに、 「いやだよ、お民さん!」  お新さんの狼狽しながら明るく上ずった紅い声色が立って、私の肌へ届いて来た。 「——じれったくて!」  お民さんは、まるでお新さんと抱き合っているような親しさで笑い声をたて、それから一言二言お新さんに低い声で話してから、またはずんだ鼻唄でも歌うような跫音で離屋から出て行った。  夕立のようにひと流れお民さんが荒して帰って行くと、湯殿の私の裸の膚に雨あとのほどに当惑を残され、しばらく私は湯殿から出られなかった。お新さんお民さんの情愛が判れば判るほど、私は次第と冷静な落着をとりもどして、お新さんの行先の倖せをいのる心が湧き上ってくるのだった。お新さんの鉾先を避けねばならない心と、受けとめてみたい慾とが入り交り、ひどく私を当惑させてもくるのであった。  体拭き終って、ようやく、当惑のまま湯殿から私は出た。湯殿から出ると足もとには、洗いたての糊の幽かに利いた寝間着と丹前が揃えてある。すがすがしく湯上りの膚へ触れてくる寝間着をつけ、その上へ丹前を着かけると、丹前は真新しく、しつけの白糸が胸へ一糸※[#「てへん+劣」、unicode6318]り残ってあった。ここまで心を配って丹前をつくっているお新さんの姿が、尊い得難い情愛を漂わしながら、私の体から心へ徹ってくる。鼻と目へつんと抜ける感謝の心を私はそらし、故意にそれへ気づかぬ顔で六畳へ戻っていった。  明るい燈の下には、朱塗りの小さい食卓が置かれ、その上に山峡とは思われぬほどの調理の品々が燈に輝いて並んでいた。横手の炉ばたでは、お新さんがまだお民さんに囃された心のときめきをもてあまし、私からついと顔を斜めにした。白い手をそのまま延して炉の鉄瓶の中から、小柄な格子模様の銚子をつまんであげた。卓子の前に敷かれた座布団へ私が坐るのを待って、 「お飲みになるでしょ、」  銚子を少し傾けながら私のほうへ酌をしに手をのばした。伏せた盃を取って酒を受けようとすると、小さい器物は心と魂のふうに触れあって、冴えた音を火花のように立てた。一口飲むと辛口の酒は湯疲れして乾いた舌の上を素早くひろがり、芳醇な味をのこして喉もとへ沁みて行った。 「美味しい?」  お新さんはまともに私の口もとを見ながら、紅い脣を自分で飲んでいるふうにつぼめて、盃があきさえすれば、まるで心のたけを移すように酒を盃へ注ぐのだった。自らの想いのたけに煽られむきに情愛の穂先を向けるお新さんを見ると、結婚の話などいかにもそらぞらしく口の端にも登せ難かった。ひどく私はものおじて、 「さっきの踊りなんていうの?」  心にもなく話は遠まわりにとなって行くのだった。 「静御前、——あたしこのごろ静御前に凝ってんの、随分読んで見たわよ。ほら、あの軸だってそうよ! ちょっと趣味が悪いけど、我慢して掛けてんの。」  中床の軸も言われて見れば、静のおだまきを舞う静御前の姿であった。お新さんは真実心がそこへ動いているのかどうか、極彩の舞姿の軸を見ると、読んだという静御前の生涯を、不思議と簡潔にまとめて私に語りはじめた。その生い立ちから、神泉苑での雨乞いの舞、義経との出会いから、みちのくへの旅の半ばで、義経の死を知って自刃しはてた十九の静御前、いちずに女のいのちを燃焼さしている静御前の姿を、お新さんは胸底のある想いと溶けあわし、美しく織り出してくるのであった。 「そしてね、静御前は自刃したのだけど、その時は、義経は、まだ生きていたのよ、つまり頼朝の追手を逃れるために、そんな噂を立てたわけなの、それに静御前は迷っちゃったのね、もう苦労が背負い切れなかったのよ、愛し過ぎていたのね、幾年も会ってないのだし、胸の幻が消えたのね、そこで、丸一年ほど前に自刃した静御前が、あたしはとてもたまらないの、そんな人生ってあるかしら、あんまりみじめでしょう! 人生ってそんなものかしら?」  お新さんは炉の鉄瓶から、そこで銚子をつまみあげた。永い話のうちに銚子は熱くなっていたらしく、卓子の上へさっと置くと、つまんだ白い小さい指を、耳朶へお新さんはあてた。あててそのまま小首をかしげて目を遠くして、はじめて言いたかったことを、少しふるえた細い声にした。 「——だけど、あたしは静御前のその自刃しなければならない気持が、よっく判るわ! でも、あなたが亡くなったって聞いて、あたしも、死ねるかしら?」 「——」  そのままお新さんはまるで話の主の幻のように、しいんと静まり返って息を細くした。死ねるかどうかを自らの心にためしてみながら、そんな想いのまにまに深く心を遊ばしているのだった。それらの現実ばなれした話も、お新さんの感傷も、ここ秋津の深い夜の気配の中では、不思議と透明純粋の人間の祈りとなって縹渺と私をつつんでくるのであった。  閑静な夜の気配のまま、絶えて身動きもせずお新さんはそこで透明になっていたが、やがてふっと色づいて来て、 「あたしらしくもないかしら?」  小さく喉で笑って立ち上り、次の間の三畳へ出かけて行った。茶棚から何か探し出しながら、 「今夜は見せたくなかったのよ、でも、しかたがないわ!」  茶棚から離れると私の卓子の前へ、葉書を一枚のせた。静御前のなにかと覗き込むと、いかめしい候文の活字で刷り込まれた、それは思いがけない直子さんの結婚の挨拶状なのだった。結婚という文字が一瞬幾倍にも目の前で拡大されて私へ激しい力をこめて迫って来た。酔いで高くなった動悸が俄かに荒れてきはじめる。 「怨まないでね、」  お新さんの声の淋しさが、その私の動揺をそこから鎮めて、閑静な部屋を流れて行った。 「怨むどころか、」 「——」 「倖せになってもらいたいと祈っているほどだ——」  六月八日という、秋津から下りて間もない日付が、思いつめて結婚への道を選んだ直子さんを、哀愁でつつみながら、私の胸に伸びあがってくる。所詮はめいめいとりどりの道を歩まねばならぬのだと、それをじっと抑えて私はお新さんへ応えた。応えながら、呼吸がひどく細く絶え入りがちになって行った。 「直子さんも結婚なさったし、お民さんも結婚しますのよ、」 「お民さんもねえ?」  お民さんの結婚という新しい話題が、深い感慨に落ち込みかけた私を引きとめた。明るい賑やかなお民さんの性格が、そのまま私の気持を救いあげてくるのであった。 「誰? 相手は、」  はじめて落着いた目でお新さんを私は見た。 「料理場の六さんですの、」 「六さんか! そりゃいい!——」  足の悪い六さんの向う鉢巻の姿を私は、お民さんと並べて泛べながら、いかにも相応しい愛情の結びつきを見る想いだった。足の悪い六さんにはお民さんの明るい性格はなによりだし、六さんの情脆さはお民さんをなにより倖せにするふうに考えられるのであった。私は急に仄かな安堵を覚えながら、 「これは、きっと倖せだな、きっとね、」 「あたしだけがいつまでも残っちゃうのねえ——」  明るくなった私が、こんどはお新さんが見ていられないように、ついと顔をそむけた。 「でも、なんだか、ほんとうに戦争が終ったって気がしますわ、どんどんみんな結婚するでしょう、倖せになって行くでしょう、あたしは考えててね、ああ平和だなあって思うのよ、——あたしはこれでいいのだけど、」  いいのだと声を落すと、お新さんはじっと目に涙を滲ませた。滲んでくる涙を白い指で拭いてお新さんは小さく淋しく笑うのだった。  その小さい笑い声は、胸底を突かれた私が息をのんだあとの、閑静な部屋の夜に思いがけないまで切々と流れて行った。流れた切々たる寂寥なものは、狭い部屋の冷たい壁からはねかえり、気息の弱まったお新さんの心へいちずに刺って、一瞬、そこまで耐え耐えつとめていた哀愁の堰を突き破った。笑いながち見るうちお新さんの涙はとめどなく頬を流れはじめたと思うなり、くらりとお新さんは卓子へのめって波うたして声を耐えていたが、耐えきれず、そこでお新さんは身もだえながら欷り哭きはじめた。白いうなじの肌が紅潮して燈に光り、苦攣のまにまに青い血管が耳朶の下で浮き上るのであった。 「そりゃ、ひどいよ、哭くのはひどい、お新さん!」 「——」 「結婚するより女は道がないのだよ、」 「いいのよ、あたしはこれでいいのよ!」  一層激しく身もだえしてお新さんは、つきつめた声をしぼって言うのであった。その言葉のままお新さんに幾歳月も変りなく暮してほしい希いが、見境もなく募るのを、私は息を殺してしばらく突き破ろうとした。お新さんの行末の倖せをひたすら願い祈りして、私は息をもとめた。嵐のように、お新さんの哭声にのって私の体を心を、その希いが荒れ吹き過ぎるのを、私は待った。ひとしきり荒れ狂って嵐が衰えかけると、声をはげまし心にもない言葉をお新さんへ話しかけた。 「青洞寺の次男のひとだって、健康で、いいし、お新さんがその気になれば、」  そこまで話し進まぬうち、不意にお新さんは颯っと、風を捲き起して顔と胸を卓子から放した。涙でべっとり濡れた顔の、潤んだ目をきっと血走らして、今にも飛びつかんばかりに私を睨みつけた。火達磨のように、炎え上った。奥歯がぎりりと鳴った。 「そんな事を! ここまで、あなたは、仰言りにいらっしゃったの!」  いきなり卓子の上をさっとお新さんは激情に憑かれて払って立ちあがった。大皿が二つ三つ強い腕に薙ぎ飛ばされ、宙に撥ねて壁へ衝り、銚子は炉の鉄瓶へ喝っと砕けて、瞬間、凄じく灰神楽を湧かした。音の中でお新さんはつんのめって、障子の桟を握るなりさっと引いて離屋を出た。庭の夜へ白足袋を閃めかして降り、 「お新さん!」連呼した私の声に束の間もひるまず、白足袋のまま母屋のほうへ駈けだした。木の間の闇が直ぐその深みのなかへ、火のようなお新さんの躯をのんで行った。——  夜が更けて若い昼間の女中が新しい食膳を運んで来て、給仕をつとめながら、 「旦那さんはうちと親類ですか?」  親類だろうと決めて、寝床をのべて帰って行った。  燈を消して寝床へ入ると、涙があふれていつまでも眠りに落ちられなかった。女は結婚より他に幸福は得られないと言い切った古めかしい言葉が、お新さんの力を無視したものとも危ぶまれ、またやはり真理はそんな女の地位を無視したところにこそあるとも想われてくるのであった。心にもない術を試みただけ深い不安と苛責が、寝つかれぬ私のなかで跳梁して離れなかった。お新さんの激怒だけが、更けて行く底冷えする夜の中で、次第と鮮かになって私を苦しみさせつづけて行った。風が流れると夜の底で、お新さんの怒りのままの指で破られた障子の穴が、蜂の翔び廻る翅音のように唸った。  やがて遅い月が登り、蒼白い月の光が障子を仄あかるくした。夜は一層冷えこみながら、山峡の広い庭の中の一軒家の離屋を、閑謐な気配でおしつつんで行った。  十二時が過ぎてから、庭の遠くで低い下駄音が二つ縺れあって起った。閑謐な夜の底をざわめかして次第と庭をよぎって離屋に、その下駄音は庭石を踏まず近づいた。寝床のなかで急に冴え冴えと澄んで来た私の感覚へ、庭木の葉摺の音を時々たてる二人の姿が鋭く伝ってくる。と、その跫音は庭の最中でしばらく揉みあいはじめたが、ふいにお民さんの低いながら厳しい叱責の声が起り、揉み合った下駄音は夜の静謐の中へ沈み消えた。しかし、次の瞬間ふたたび跫音は一つになって夜の底から浮び上り、真一文字に離屋に近づいて、縁先の踏石へ固い下駄音をたててあがり、そのままとんと縁を踏んだ。お新さんの影が斜めに、月光に蒼白く輝く障子へぽっかり映って来た。映りながら揺れて障子へ迫ると、お新さんは静かに障子を開け、一瞬流れこむ月光の道を辿って部屋に入った。うしろ手で障子を閉めると、そこでお新さんは息をはずませながら、いつまでも立ちつくして身じろぎしなかった。お民さんに劬られ励まされそこまで来たが、稚い心は絶え入り、ついさきの激情もあとかたなくお新さんの躯から消え失せているのであった。  やがて外の庭でお民さんの咳が一つ流れ、満ち足りた下駄音でお民さんが帰って行った。下駄音が消えて夜の静謐が浮びあがると、俄かに部屋の気配は切りつまってくる。激しく胸がときめいて、お新さんの気息にだけ意識を残し、私の心は次第と霞んで行きはじめた。重苦しくなる呼吸に耐えかね、顔をそむけてお新さんから目を放すと、放したその幽かな気配にさえも、びくりとお新さんは追いたてられ、まるでもう目の前を見えぬほどよろめきがちに押入れへ近より、あわただしい手さぐりで枕を出し、一気に強く衣ずれの音を立て、着物を脱ぎ捨てた。捨て散らした着物を袖畳みしてから、お新さんはまたそこで想い乱れて息をはげしくつめ、冷たく淀んだ部屋の気配に纏われ動かなくなった。  初秋の山峡の湯宿の底冷えする夜の、閑謐な気配の中で、お新さんの生身が思いつめてここまで忍んで来た心と、お新さん自身の手にあまるほど抗うのであった。息を乱してつめているそんなお新さんの無垢なものは、秋津という不思議に深い気配と調和して、限りもない清純なお新さんの魂の象徴となり、醜く胸ときめかしている私へ迫ってくるのだった。ここ幾歳月の日々、お新さんの倖せを祈り、お新さんとの久遠の情愛を希ってお新さんの生身から離れようとした私のはげみが、一瞬蘇って私は私の情感を抑えた。虚しい人間の生涯への、憎悪と愛執がすべての肉体の繋を怨嗟して私の祈りを確立させようとあがくのであった。  乱れつまるお新さんの気息で次第と切りつまってくる時間、燃え上る情感を抑え、私は寝返ってお新さんへ顔を向けた。 「いけないお新さん、いけないことだ!」  しかし咄嗟のその言葉が声にならぬうち、お新さんは最後の生身の抗いやら羞恥を踏み越え、緋縮緬の長襦袢の胸へ枕をかかえ、私の寝床へよろめき込んで来た。湯を浴びて来たらしく、洗いたての冷たい水気の残った垂れ髪が、お新さんの心のように私の首すじへ乱れかかった。洗髪の香と肌の匂いが瑞々しく、私の情感へ沁みた。しかもなお、私はそのお新さんの生身を拒もうとすべての力をはげました、その瞬間、いつお新さんが己が身への餞けに投げ入れたのか、炉辺でたつ薫物の官能を煽る香が、強く私を搏ってすべての力を去勢して行った。  蒼白い月光に仄白んでいる部屋の寝床へ入ったお新さんは、入るなり私へ背を向け、夜具の襟へひたと顔を埋め、息をも絶やしてみのりのよい躯を心を顫わした。私の目の前のそこで、豊やかな襟足の肌の白が、薄闇の夜具のうちで白じら泛んでいた。肌のその白を戸惑い鳴りをひそめた情感のまにまに瞶めていると、いかにもひろく深く、掬めどもつきぬ情緒が漂い、なにがなし雪景色のようだった。雪の冴えた白は沁み入る音をたてて私の膚へ徹り、やがてまた哀しいような情感を燃え上らせて来た。つきあげるまで体の底から燃え上ってくる情感に煽られ、私は手をのばしてお新さんの肩のまるみへ触れた。と、お新さんは、その私の腕だけがこの世での頼りのように、束の間半転して私の腕の中へ躯を心を投げ込んだ。  ついの間、激しく匂う化粧の香のうちで、目を閉じ息を顫わすお新さんのみのりよい肩を抱き寄せると、思いがけなく可憐に肩は小さかった。思いがけず小さかった肩が、男の匂いと胸の中で一層せつなくはげしく顫えるのであった。肢と足、乳房と胸、頬と頬を寄せ合い夜具のうちで抱きからまっていると、むせぶように、喘ぐお新さんの息の焔が胸へ熱くふきつけて来る。胸の、心のときめきが伝って来る。腹部の波のようなうねりが移ってくる。それらお新さんのおののきの真底から、いま、かすかに燃えつき、やがてはみのりのよい躯の隅々をあますところなく焼きつくすものが、ありあり私の意識に覚えられるのであった。その単純な官能の中で、私たちは永い間、抱きあってお互いの情火を煽りつづけていた。深い夜がその私たちをつつみながら、底冷えして更けて行った。  やがて高まる情火につれ、お新さんの顫えは絶え消えて、しばらく安息を得たように身動きも乱れた気息も鎮めていたが、次第にまた躯へ力を漲らしうって変って切なく官能の責苦に喘ぎはじめた。緩慢ながらそれは着実な足どりでお新さんのみのりよい躯の隅々へわたりとどいて、お新さんの呼吸を熱くせわしなくして行く。じっとりと肌へ汗を滲ませて行く。肌のすべての部分が一様に展き爛れて、分秒のうちもゆるめずお互いの情火のたぎちを吸い込もうとするのであった。  夜鳥の啼声が夜空をつんざきながら離屋の屋根の上を東へ翔んで行った。けたたましいその夜鳥の啼声がお新さんの官能を激しく刺戟して、遠く夜空の果へ消えると、秋の夜の部屋は一層静寂の底で、お新さんの生身の情火はお新さんの生娘の心へ一瞬燃え移って焔をあげた。俄かに私の腕の中のお新さんの躯は熱くなり、熱く燃え立つ躯をお新さんは私の体へ一つに溶け合わさんばかりに、身もだえてはげしく強く押しつけはじめた。しかしお新さんの官能はそのはげしい身もだえでもいっかな満されず、満されぬ焦躁と官能の猛りのままお新さんは、ふいに生身の悲鳴のように欷り哭き、一層はげしく私の男へ躯を溶け込まそうと身もだえしながら、 「どうするの! よお、どうするのよ!」  魂の飛ぶような譫言を叫び、とよやかな腕へ満身の力をこめて私を揺りつづけた。揺りながらお新さんのみのりよく白い躯は、すべてあまさず極度の緊張を漲らせ、美しく限りなく充実して行った。息を深く吸い込んだままとめ、烈しい勾配を一気に上昇して充実をして行ったお新さんは、充実の極限の中でわが身を焼きつくした。 「嗟々!」  充実したお新さんの躯から、火花のような声があがって夜の部屋の閑謐をつらぬいた。と、お新さんは突然陶酔と恍惚の時間に襲われ、 「濡れる、濡れる、濡れちゃうわ!」  すべてを絞りつくすように叫びながら、私の胸から大きく反り返り、わが身を私から放して夜具の端へ投げ出した。水気をふくんで重いお新さんの髪が、夜の畳の表でばさりっと鳴った。  濡髪の畳を搏つ冴えた官能の音に瞬間私は捲き込まれた。射精まえの快感が火柱のように私の体の中を走った。咄嗟にそれを避けて夜具の中から冷たい畳の上へ転がり出て私は、お新さんとの繋を一層強くするために、お新さんが行末倖せになれるために、すべての祈りをこめて声をはげました。 「それだよ、そんなたあいもないものだよ、それっきりのものだよ!」  虚しいものから脱れよとはげます声を、蒼白い月の映えた畳へのり出たお新さんはうけとめて、豊かな乳房の胸で喘ぎながら、はげしくうなずきながら、 「これなのね、たったこれきりのことなのね!」  かすれたその声が、不思議に清浄な余韻を残して、薫物の香の淡くこめた閑謐な気配のなかへ溶けて行った。たなびくその清浄な余韻にあやされ、すべての力をかけてたたかったあとのような、安息な虚脱感の深みへ、私もお新さんもしばらく昏々と沈んで行った。  暁方、夜が明け障子が白んでから、秋津の空を遠くから秋雨がひとながれわたって来た。風が庭の樹の梢をざわめかして通ったあとを、秋雨はやって来た。樹々を、屋根の瓦を、庭石を、苔の上を濡らして過ぎて行く秋雨の音を、夜具の中で抱きあったまま私とお新さんはじっと耳を澄して聞いていた。一つの祈りを守り通したあとの安息のなかへ、身を横たえながらすべての想念から解き放たれていた。雨の音のかすかな気配のなかへ溶けこんで、私たちは夜から朝への時間を気遠く過して行った。  秋雨がやがて通り過ぎてから、私たちは起き上って湯殿へ入った。湯舟の中へ身を沈めてみて、ようやく深い疲労が体の隅々から泛びあがってくるのであった。重く、なにか晴れやらぬものをこめて、じっとり私の心へもたれかかるのだった。  所詮いつの日かはお新さんとても結婚し、やがては別れ離れのまま幾歳月を送らねばならぬ身を思い、生身の繋によらずひたすら心のものに勤めた、その祈りにもやはり心つきせぬものがあるのだろうか——重く深い疲労が、心つきせぬ想いのたけともなって、湯舟の私に迫ってくるのであった。  一坪たらずの白いタイルの湯舟へ、お新さんと共々近しく入りながら、またしても名状しがたい不安が募ってくる、そんな私の移り心をお新さんは露知らず、いかにも満ち足りた気配につつまれ、白いタイルより白いみのりよい躯をながながと湯舟へ沈めているのであった。と、お新さんは湯舟の中で背すじを伸ばし、その背を私に向けて、 「まあ、綺麗!——」  倖せのこぼれるような、陶酔に気遠くなった美しい声をたてた。お新さんの目の先の小窓の、湯気に濡れたガラス越しに、山の峯の空いちめんの朝焼けが瑞々しい淡紅の色をたたえているのであった。 「朝焼けはその日の雨。あなた、雨が降って、どんどん降って帰れなくなるわ、あなたが。」  稚くはしゃぐお新さんの斜めになってきた肩の白いまるみへ、淡紅の花びらが散っていた。目を近づけると花ではなく、かすかにあかい掌がたなのであった。掌がたがつくほど抱きしめた昨夜の激情が、俄かに蘇えって晴れきらぬ私の心を煽って来た。 「雨なら一日のびるのね、——」 「きっと雨よ、雨になりますように!」  ほのあかく湯に洗われて泛んだ私の掌あとを見ながら、やがて、——燃えかけた情感も晴れ残った心の澱みも、次第と透明に大きな諦観の中へ流され消えて行った。 「祖母がねえよく言っていたね、朝焼けはその日の雨——」 「あたしはお母さんからよ——」  昨夜よしんば激情のままお新さんと交り合ったとしても、所詮それもこの淡紅の掌あとのように、たまゆらの時間のうち、お新さんの躯からあとかたもなく消え去るものでしかないのだった。  ——心へ掌あとを、魂へ心あとを、  自然と時間の君臨のままの人間の、悲しい倒錯した想いが、ここ秋津の不思議に清澄な気配のなかで、切実な人間の祈りとなって迫って来るのであった。 「あたしはこれでいいのよ、これで倖せだわ、あたしは死ねるわ、あなたが亡くなったって噂で死ねるわ、……」  お新さんは独り裸のままとめどもつきぬ話題の中へ、日頃になく饒舌になりながら、いかにも倖せそうに、真一文字に入って行った。  そのお新さんの純白な裸身の遥かで、朝焼けはその紅いを映えかわし、その紅いの色を深めながら、次第と秋津の空へ瀰《ひろ》がって行った。 [#改ページ]   あとがき  秋津温泉は昭和二十三年秋、流水行雲の章までを創り、今春、蜜夜夢幻の章に到る後半を終えた。上梓にあたり、ふたたび、之を補筆した。  後半よりの著述は、昨夏来病床にあるため、病床においてなされた。その日々の難渋はいまも尚、記憶にあらたなところである。  秋津温泉は、戦後第五冊目の著作である。最初の長篇小説である。意の満つところも、種々の意味にてあり、ここに形ばかりの後記を附した。  秋津温泉の完結並上梓にあたり、尽力を頂いた文藝春秋新社、新潮社の方に、厚く謝意を表したい。 この作品は昭和二十四年十二月新潮社より刊行された。 表記は新字新かな遣いに改めた。