[#表紙(img¥表紙.jpg)] 美藝公 筒井康隆/横尾忠則 [#扉(img¥扉.jpg)] [#挿絵(img¥005.jpg)]  郊外へ出ると鮮烈な黄緑色が車の両側に迫ってきた。おれは肱掛《ひじか》けについたボタンを押し、後部座席の横の窓ガラスを少し開けた。おれの肺臓を洗おうとでもするように窓の隙間《すきま》から澄んだ空気がたちまち勢いよく流れこんでくる。針葉樹のきびしい香りを伴ったその空気は殺菌力があるかと思わせるほど鼻孔に痛い。ラジオの音楽を低く流し続けていた車内のステレオ装置が今街で流行している「活動写真」というチャールストンをやりはじめた。おれは肱掛けのダイヤルをまわして音量をあげた。 「人生は活動写真  かげろうのように  ゆらめいて消えてゆく  あの人この人スクリーンのスタアよ  Poo-pop-a-du」  レコードは児島シスターズという三人娘が歌っているカモメレコードのもので、「活動写真」というこの曲は他にも姥桜《うばざくら》但馬いと子が情緒|纏綿《てんめん》と歌っているヌーベルレコードのものと、同じ会社から出た美藝公穂高小四郎自身が歌っているサウンド・トラック版がある。むろん「Poo-pop-a-du」のくだりは映画と同じく京野圭子が歌っている。 「想い出はフィルムの中に  わんぱく時代の  友達やいじめっ子  あの子もこの子もみな主役」  映画「活動写真」の人気は大変なものだった。東都劇場での二カ月のロング・ランが、一カ月前に終り、今あの総天然色ミュージカル映画のフィルムは各地方の二流館をまわっている。なにしろ東興キネマのオールスター・キャストだった上、美藝公が狂言まわしとして特別出演したのだ。しかも大いなる誇りと共に言わせて貰《もら》えるならば脚本を書いたのはおれだ。オリジナルだった。 「初恋はヴァニラの香り  暗い片隅で  手をにぎり見つめてた  あなたとわたしのミュージカル」  おれはいくつかの名場面を快く反芻《はんすう》した。ミュージカルの王者砂原一華とタップ・ダンスの女王龍美千子がボレロを踊る夜の庭園のシーン。東興キネマ若手ナンバー・ワンの国井雅英と新人三木矢州子がT・K・D三百人の踊り子を背後に従えて踊る華麗なコンガの場面。そして思い出すたびに胸にぐっとくる場面は美藝公が、スター志願の夢破れて郷里へ帰ろうとする京野圭子の田舎娘に、人生そのものが活動写真なのだといって慰め、そして主題曲「活動写真」を歌いはじめるラスト・シーンである。 「人生は活動写真  銀幕の中の  あのロマンこの胸に  抱いてゆくのさお墓の中まで」  児島シスターズの歌は三種類のレコードの中でもいちばん軽快で陽気なのだが、曲が終った時おれはハンカチを出し、お抱え運転手の磯村に見られないようそっと眼のまわりを拭っていた。ほんとに泣いたわけではないが、もしかすると涙が眼尻にじんわり滲《にじ》んでいるかもしれなかったからだ。 [#挿絵(img¥009.jpg)]  美藝公の邸宅に通じる私道は両側にアカシヤの植わった並木道である。十二年前のあの名作「アカシヤの秘密」に出てきた並木道だ。ほどなく高さ三メートルの門の鉄柵が見えてきた。門の横にはまるで城館の模型のような洒落《しやれ》た門番小屋があり、門の前で車が停まると中から仙蔵爺さんが出てきて顔見知りのおれと磯村にうなずきかけ、門を大きく開けてくれた。まだ五十歳を過ぎたばかりなのに彼は皆から「仙蔵爺さん」と呼ばれ、怒る様子も見せずいつもにこにこしている。  おれはガラスを全部おろし、窓から首を出した。「仙蔵爺さん。もう他の連中は来てるかい」 「来てるかいだなんて、まったく呑気《のんき》な先生だ」仙蔵爺さんは肩で重そうな鉄柵を押しながら答えた。「いつも通り先生はどん尻でさ」  磯村は運転席でじっとしている。以前一度、車をおりて鉄柵を押し開けるのを手伝おうとしたことがあり、仙蔵爺さんからどやされた経験があるのだ。 「運転手の分際で出しゃばるんでねえ」仙蔵爺さんは滅多に見せぬ鬼のような形相《ぎようそう》でそう叫んだのである。「門番はおれだ。門をあけるのはおれの役だ。すっこんでろい」  門から邸までは約二千三百坪といわれる前庭が拡がっている。中央には芝生に縁どられた大きな噴水が四メートルの高さに水を噴きあげている。人が泳げそうな大きさだが、むろんプールは別にある。邸の裏にはプールの他にもテニス・コートやクレー射撃場まであるのだ。この大噴水へは、この邸でパーティがあった夜など必ず誰かが酔っぱらってとびこむ。今年は誰と誰がとびこんだなどと、新聞が書き立て話題になったりする。  美藝公の邸はドイツ・ロココ調の建築で二階建て、正面玄関を中央に左右対称形をしていて東西にのびている。装飾はバロック建築に比べるとずいぶん女性的で感覚的だ。  玄関前でおれは箱型自動車から降り立った。ひとりで訪問した時など、美藝公がポーチまで出てきて迎えてくれたりもするが、今日はおれが「どん尻」なので執事の上田老人が出てきただけである。もう会議が始まっているのだろう。ロビーに入ると来客に気づいて記者室から出てきた六人の各紙美藝公詰め記者に取りかこまれてしまった。 「里井先生。次の作品の腹案はお持ちですか」 「持っているとも」おれは愛想よく答えた。「大木淳一郎という新人作家の『炭坑』という作品だ。社会劇でもありサスペンス小説でもある」 「なるほど。やっぱりあれですか」 「ねえ里井先生。美藝公は『活動写真』以後一度も主演なさっていないんですが、今日の会議で次回作品、決定するとお思いですか」 「するでしょう。おそらく。しかし問題は美藝公ご自身の」 「さあさあ皆さん」上田老人が声をはりあげた。「里井先生はすでに遅刻なさっておられる。一刻も早くここを通してあげていただきたい」  上田老人は今年七十二歳になる本ものの老人だが、威厳があるので記者たちも恐れている。  おれは上田老人に案内されて裏庭を見晴らす南に面した広いサロンに入った。会議といってもテーブルを圍《かこ》んだ堅苦しいものではなく、部屋のあちこちへ思い思いに散らばり、ソファに掛けたり揺り椅子に掛けたり、歩きまわったりしながらの談合である。美術監督の岡島一鬼などは丸テーブルに腰をおろして足をぶらぶらさせていた。 「今、どの企画も一長一短で、これぞというものはないというところまで話がすすんだところだ」美藝公穂高小四郎は、おれが部屋に入るなりそう話しかけてきた。他の連中におれの遅刻を詰《なじ》らせまいとする心遣いである。しかもおれが来るまで「炭坑」の話題を避けてくれていたらしい。「あとは君の提出した『炭坑』だけが問題なんだ」 「非常にいい作品だ」おれは監督の綱井秋星がさし出したワイン・グラスにかぶりを振ってから喋《しやべ》りはじめた。「新人作家が若さにまかせて書いた作品なので人物の性格描写も不徹底だし、言わんとするところの周圍《しゆうい》をどうどうめぐりしている。しかしそれにもかかわらず、いい映画になり得る作品だ」 「わしもそう思う」監督が言った。「最近はヴェテラン作家や中堅作家の原作ばかりに頼っていたが、この辺で新人の小説をとりあげてもいい」 「ひよっ子の生硬な文章で読むのに苦労させやがった」岡島一鬼がいつものように鬼瓦の表情をして見せ、吐き捨てるように言った。「しかしまあ、美術監督としてはやり甲斐のある仕事だ。おれは、やってもいいと思うよ」  気にくわぬ作品は絶対に手がけない岡島一鬼なので、その投げやりな言いかたとは裏腹に相当乗り気だとおれは睨《にら》んだ。 「君、本当に飲まないのか」世にも不思議、といった顔で綱井秋星がおれに訊ねた。 「コーヒーを頂く」おれは言った。「今、酒を飲むと眠ってしまう。昨夜『炭坑』をどうシナリオ化するかいろいろ考えはじめてしまって眠れなかったんだ」  おれ自身がシナリオ化するつもりでいることを知って老練の監督はにっこりした。 「脚本を君にやって貰えるなら安心だ」美藝公が小間使いを呼ぶ房のついた紐を引きながらおれに言い、音楽監督の山川俊三郎に訊ねた。「山川さんはどうお思いですか」  音楽家というよりは青年科学者といった風貌の山川俊三郎は例によって気まじめに答えた。「いろいろ問題があると思います。穂高さんとしては、坑夫などという役柄は初めてのことだと思うのですが」 「十二年前のC・P・Pの『鋼鉄の力』をあなたは見ていないの」監督が怪訝《けげん》そうに山川を見つめた。「穂高さんはあの頃まだ美藝公ではなかったが、配役序列《ビリング》四番目で重要な役を演じていた。労働者の役だ」 「あれはぼくも見た」おれは言った。「処女長編を書いたばかりの頃だったよ」 「ぼくは藝大にいました」山川俊三郎が顔を赤くした。「拝見していないのです」 「その上美藝公はぼくと同じ労働者階級の出身だ。実際に労働に従事したことはないが、生活感情はよくご存じだよ」  おれがそう言うと山川俊三郎はますます顔を赤くした。「そうでしたね。うっかりしていました」 [#挿絵(img¥013.jpg、横×縦)] 「山川さんの言う通りで、問題がまったくないわけじゃない。いろいろあると思う」美藝公が口をはさみ、山川俊三郎を救った。「この作品は作者が少年だった頃の、あの炭坑事故があい次いで起った時代が舞台だ。作者は炭鉱町の生まれだから、きっと自分の身近にあった事件をモデルにして書いたんだろう。ところが現在では炭鉱町というのは極めて少数だし、炭坑もほとんどが閉鎖され、廃坑になっている」 「石油や原子力をエネルギー源にしはじめたからだ。まだまだ良質の石炭がたくさん出るのにな」 「なにも石油の輸出国にばかり頼ることはないのになあ」と、監督がおれに調子をあわせた。 「輸出国ってものは、ずいぶん威張るもんだね。え」岡島一鬼までがそう言ってうなずいた。「このあいだやってきた、あのなんとか石油相というやつの威張りかたはどうだ。くそ、むかむかする。美藝公にまで威張りやがったぜ」 「よその国では石油《オイル》ショック、とかいうものまであったそうですね」音楽監督がそう言った。「石油の輸入がとまって、企業の倒産、そして不況、物資の不足や値あがりといったものがずいぶん」  小間使いが入ってきた。初めて見る娘だった。例によって藝大映画学部もしくは演劇学部の生徒だろう。美藝公はいつも前途有望な生徒を毎年数人選んで邸内に住み込ませ、小間使いをやらせている。礼儀作法を教える為であり、それが人間教育にもなっている。美藝公邸の小間使いを体験した娘は必ずといっていいほどいい女優になっているのだ。 「里井先生にコーヒーをお持ちしなさい」 「かしこまりました」  緊張のあまりかちかちにしゃちょこ張った彼女の動作がおれたちにまで感染し、娘が部屋を出て行くとおれたちは一様にほっとして肩の力を抜いた。 「ねえ穂高さん」監督は自分より二十歳も若い美藝公にていねいな言葉で進言した。「一度、大臣連中に連絡をとって、このことで閣僚会議を開いてもらったらどうだろうねえ。むろんあなたや里井君にも出席してもらって」 「そう。じつはわたしもそう思っていた」美藝公が、男のわれわれでさえ思わず見惚《みと》れるほどの優雅な動作で煙草に火をつけた。「もしこの映画を制作するのであれば、もういちど石炭鉱業を国家的に奨励するか、国管もしくは国営にするかして炭鉱町に繁栄をもたらし、あのさびれ果てて無人になった炭鉱町にふたたび灯をともすことが必要です」  部屋の隅で速記をしていた第二秘書の藤枝嬢が急に手の動きを早め、第一秘書の小町氏がいそいで立ちあがった。 「手配をいたしまして、よろしゅうございますか」  美藝公、綱井秋星、おれ、岡島一鬼、山川俊三郎の顔を順に見まわし、それぞれが頷《うなず》くのを確認してから彼は足早に隣室へ去った。 「カメラが問題だぞ。半分以上が炭坑の中の場面だ。当然モノクロだ。そうなるだろ」岡島一鬼がおれを睨みつけるようにした。 「ああ。この映画はモノクロだね」 「八木沼君では駄目かい」綱井秋星が残念そうに言った。「活動写真」で初めて一緒に仕事をし、イキが合ったらしい。 「奴さんはミュージカルを撮るには向いているがね」岡島一鬼はにやりと笑って牙を見せた。「あいつの軽薄さじゃあこういう写真はとれねえよ」  この美術監督は遠慮会釈のない発言をするので有名だが、われわれは悪役を引き受けてくれる彼に感謝している。彼がいないと会議が進まないのだ。美藝公自身、ひとを悪く言うことのまったくできない人物なので、われわれもその影響を受けてしまい、他人の仕事ぶりに対して批判的なことを口にしなくなってしまった。岡島一鬼だけが美藝公の影響下におかれることなく昔からの毒舌を振るい続けている。おれの観察したところでは、かれはその役柄を自分で心得、それを楽しんでもいるようだ。 「じゃあ、岡島さんは誰ならいいと思いますか」美藝公が考え深げにじっと美術監督を見つめた。 「まあ、広田俳幻しかいないんじゃないかねえ」  おれは美藝公と顔を見あわせ、綱井秋星と顔を見あわせた。 「広田俳幻さんは『鋼鉄の力』を撮った名カメラマンだが」美藝公はちらと眉を曇らせて皆に訊ねた。「あの人が今どうしているか、誰か知っていますか」 「C・P・Pをやめて、今は藝術写真をやっているんじゃないかね。たしかこの間デパートで個展を開いていたよ」と、監督はいった。 「いや。今でもC・P・Pの専属だ」岡島一鬼は言った。「いい仕事がないので藝術写真をやっているだけだよ」 「やってくれるだろうか」と、おれは言った。「ずいぶん気難しい人らしいが」  巨匠も気弱げに言った。「わしにだって、あんな偉い人を使いこなせる自信はない」 「仕事の鬼だ。乗り気になりゃ真剣にやるよ。おれが行って頼んでみようか」そう言った岡島一鬼は、全員が突然黙りこんで自分を見つめはじめたのに気づき、わめきはじめた。 「おれはそんなに信用がねえのかい。おれだって何も会う奴全部に喧嘩を吹っかけるわけじゃねえ。人に頭を下げることだってあらあな。おれが仕事をぶちこわしたことは一度だってねえ筈《はず》だ。いいよ。そんなに危なっかしく思うんなら行ってやらねえ」  美藝公がくすくす笑いはじめ、おれたちもげらげら笑った。 「わかったよ。そんなに怒るなよ岡島さん」おれは笑いながら彼に言った。「いざとなりゃあ、あんたがうまいことやってくれるってことぐらい、みんな知ってる」 「あの人が来てくれるなら最高の写真が撮れる」美藝公も言った。「ねえ諸君。そうでしょう」  おれたちは頷いた。  岡島一鬼にそれ以上|拗《す》ねる隙《すき》をあたえず、美藝公は訊ねた。「早い方がいいのだが、いつ行っていただけますか」  美術監督はちょっとまごついた。「え。いや何。そりゃあいつだっていいよ。これからだって行ってくるよ」 「いやいや。まだ会議は終っとらんよ君」テーブルからおりかけた岡島一鬼を綱井監督があわてて制した。  いつの間にか「炭坑」を撮ることに決まってしまっていた。ここがわれわれの会議のすばらしいところで、全員の合意を確認するまでもなくなんとなく結論が出てしまうのである。  小間使いのお嬢さんがおれのコーヒーを運んできた。皆の注視を浴び、彼女は緊張してコーヒー・カップをかたかた顫《ふる》わせた。おれは彼女に微笑みかけた。彼女もせいいっぱいのこわばった笑みを返してきた。美藝公の眼に狂いはなく、彼女は磨かれていないダイヤモンドだった。間違いなくそうだった。 「会社だが」小間使いが出て行くと監督は言った。「東興は『活動写真』をやったばかりだ。C・P・Pはどうかね。あそこは『鋼鉄の力』以来の伝統があるわけだが」 「広田俳幻をホしておいて何が伝統なものか」岡島一鬼が叫んだ。  山川俊三郎がいった。「C・P・Pは現在『今宵夢見る』という音楽映画に総力をあげています。『活動写真』の成功に刺戟《しげき》されたのでしょう。余力はない筈です。あそこは今、空いたスタジオさえない状態で」 「二番煎じではろくな音楽映画もできめえ」  岡島一鬼の毒舌に、山川俊三郎は少し気分を害した様子で小声で言い返した。 「二番煎じにはさせません。じつは音楽担当はわたしなのです」  しまったという表情すら見せず、美術監督はにやにや笑った。「そうかいそうかい。まあお手並拝見といくか」 「では、平野《ひらの》映画しかないな。あとの会社は『炭坑』向きではない。そういえば平野映画とはしばらくご無沙汰だったんじゃないかね」監督がそう言った。 「平野映画でもいいがひとつ条件がある。スタジオだけは栄光映画の第四を使いたい。この映画のセットはあそこでなきゃ組めないんだ」 「それは大丈夫」美藝公は岡島一鬼にうなずきかけた。「わたしに考えがある」  綱井秋星が山川俊三郎に訊ねた。「そうすると君はC・P・Pの仕事をやらなきゃいけないわけだね。『炭坑』はどうする」 「あの音楽映画を二番煎じにさせない為、全力を注いでいます。『炭坑』の方はお手伝いできません」まだ岡島一鬼のことばにこだわっている様子の山川俊三郎は、かたい表情のままで言った。「ぼくの軽薄さじゃ、『炭坑』の音楽はとても」  おれはびっくりしてコーヒーに噎《む》せた。「岡島君がさっき軽薄と言ったのは君のことじゃないよ」  聞こえぬようなふりをし、山川俊三郎は言った。「ぼくは『炭坑』の音楽監督に、波岡順を推薦します」 「ところが彼はもうすぐ渡米するんだ。ハリウッドで仕事をする」  おれのことばで、波岡順をあまり買っていないらしい綱井秋星が、あきらかにほっとした様子を見せた。 「波岡順では駄目だ」やはりほっとした様子の岡島一鬼がそう言った。「この映画には部厚い音がいるんだよ。いいか。部厚い音だ」  山川俊三郎はにやりとした。 「なんだ。何がおかしい」美術監督はまた怒り出した。「どうせおれは音楽には素人だ。変な言い方だってする。部厚い音なんて言いかたは、それはもちろん、たしかにおかしい」 「いや。ちっともおかしくない」山川俊三郎はとうとう笑い出した。「うまい言いかたをすると思って笑ったんです。ぼくもそう思っていましたからね。しかし」彼は全員を見まわした。「波岡順が駄目だとすると他に誰かいますか。ぼくには誰も思いつかないんだけど」  おれたちは誰ひとり山川俊三郎のことばを不遜《ふそん》とは思わなかった。山川俊三郎自身や波岡順以外にも天才音楽家といわれている人物は何人も、何十人もいる。しかしそれらの人物はすべて老大家であったし、映画音楽に関しては現代音楽をすべてからだ全体で理解できる若さが必要だった。映画産業のあらゆる部門に同じことがいえたが、特に音楽に関してはそうだった。 「いるじゃないか。あんただよ」岡島一鬼がそっぽを向いたまま、まるでさっきの山川俊三郎のことばを聞かなかったような調子で言った。 「え」困った表情で音楽監督は岡島一鬼を見つめた。「おことばは嬉しい。『今宵夢見る』を撮り終えてこちらの仕事にかかればよいとお考えなのでしょう。しかし残念ながら、それだと作曲している時間がない」 「作曲なら、もう出来てるじゃないか」 「え」海外の音楽賞をいくつもとっている天才作曲家が眼をぱちぱちさせた。困惑していた。 「お前さんの作曲で、まだ一般には知られていない交響曲がある」 「あっ」美藝公穂高小四郎が、白皙《はくせき》の額をぴしゃりと叩いた。「岡島さんはあなたの、卒業公演の際のあの交響曲のことを言ってるんです。たしかにあれはこの『炭坑』にぴったりだ。荘重で、力動感があって、そして」 「そして音が部厚い」にやりと笑って岡島一鬼が言った。 「そうですか。あれを聴いていてくださったのですか」いささか感激の面持ちで山川俊三郎がつぶやいた。 「藝大でテープを借りて聴いた。美藝公のブレーンとして一緒に仕事をするやつのことを全部知っておきたいと思うのは当然だろ」 「耳が痛いな。ぼくは聴いていない」おれは美藝公や岡島一鬼の勉強ぶりに心をうたれた。 「じつは、わたしもだ」巨匠が恥かしそうに言った。 「音楽室にテープがあります。お二人にはあとで聴いていただく」美藝公が満天下の女性を熱狂させたあの笑いを頬に浮かべ、そう言った。 「だいぶ手を加える必要がありますが」またしても赤くなりながら音楽家が言った。そのひとことで音楽に関しては結論が出てしまった。 「配役だがね」監督が言った。「いずれも演技者として高度に熟練していなければできない役ばかりだ。脚本になっていない段階でこういうことをいうのは里井さんに対して失礼極まりないが、小説を読んでいる途中から、わしの頭にはほとんどの配役が浮かんできてしまってね。だがうまいことに、わしの頭に浮かんだスタア連中は大半が平野映画専属だ」 「それはもちろん、平野映画としては喜ぶでしょうが、美藝公主演映画としては何も平野映画のスタアだけで脇を固める必要はない」と、おれは言った。「むしろ各社スタアの中からあちこち選んで出演してもらった方が美藝公主演映画を撮る意義があります。たとえば主人公の妻の役です。これは若くて演技力があって、あまり美貌であっては具合が悪く、しかも魅力的で、たくましさと野性味がなくてはならぬという大変な役です。これにぴったりの女優が平野映画にいますか」 「それだよ」綱井秋星が嘆息した。「そんな女優はいない。美貌でなくて魅力的、というのが困る。魅力的というのは非常に個人的な趣味の問題でね。美貌でない女性が萬人向きに魅力的にはなり得ないのではないかと思う」 「演技力で魅力を作り出す珍らしいタイプの女優がひとりいます」美藝公は自信ありげにそう言った。穂高小四郎が行きあたりばったりの思いつきを口にする男ではないことを知っているわれわれブレーンとしては、それだけでもうほっとしてしまうのだ。「もし監督さえお許しくださるなら、わたしは栄光映画の姫島蘭子嬢と共演したいのです」  おれは唸《うな》った。「彼女はいい。どうして思いつかなかったんだろう」 「美人じゃないから忘れていたんだろう」巨匠も言った。「端役《はやく》しかやったことのない女優だね。わたしは四、五回しか見ていない」  岡島一鬼や山川俊三郎にいたっては、まったく彼女を知らなかった。 「栄光映画が喜ぶな」そう言ってからおれは膝を叩《たた》いた。「なるほど。彼女と引き換えに第四スタジオの件を持ち出すわけか」 「さて、いそがしくなるぞ」岡島一鬼がそわそわしはじめた。 「だいたいのことが決定すれば、ちょっとご会見願いたいと記者たちが申しておりますが」第一秘書の小町氏がそう言った。 「まだ全部決定したわけではないよ。予定をトップ記事にされては困ることにならないかね」  しぶい顔をするおれに、美藝公は親しげな笑みを向けた。「彼らは信用できる。この邸に詰めているトップ・レヴェルの記者として誇りを持っているんだ。決定したことしか書かないし、どこまで聞くべきかのマナーも心得ていて、根掘り葉掘りは聞かない。わたしと監督と君と、三人で会おう」彼は小町氏に言った。「和《なご》やかな雰圍気で会った方がいい。テラスにシェリー酒と軽い食べものを用意させなさい」  記者会見が始まる前におれは大木淳一郎の家に電話をした。家といっても下町のアパートで、どうやらアパート全体で電話は一本しかない様子だった。老婆の管理人が出たからだ。 「淳ちゃんかい。ああ、いると思うよ。ちょっと待っとくんなさい」  ことばはぞんざいだが親切そうな管理人だった。きっとアパートの住民全員が家族的につきあっているのだろう。おれは少年時代、両親や兄弟たちと住んでいたあのスラム街の安アパートを懐しく思い出した。 「大木ですが」生真面目そうな青年の声だった。 「わたしは脚本家の里井勝夫です」  青年は絶句した。 「もしもし。実はあなたの小説、あの『炭坑』を、美藝公がぜひ映画化したいと望んでいます。お許しいただけましょうか」  ほっ、という吐息のような音がかすかに聞こえた。「夢のようだ」青年はそうつぶやいた。それから急に大声になり、どもり勝ちに喋りはじめた。「里井先生から電話があったというだけで夢のようなことなのに、あの小説が映画に。しかも美藝公主演で」胸に嬉しさがこみあげてきたらしく、彼はまたことばを途切らせた。 「もしお許しいただけるなら」 「許すなんてとんでもない」彼は叫んだ。「願ってもないことです。しっ。静かに。うん。そうだよ。そうだよ。あ、失礼」  家族やアパートの連中が彼のまわりに集ってきているのだろう。その様子が眼に見えるようだった。 [#挿絵(img¥023.jpg)] 「ついてはいろいろとお話をうかがいたいのです」おれは言った。「今夜はお暇でしょうかね」 「それはもう、いつでも」 「では、わたしの家へ夕食にご招待したいと思いますが、お受けくださいますか」 「喜んで。ああ、ちょっとお待ちください。わたしの父が、ぜひお礼を申しあげたいと言っておりますので」  大木の父親が電話に出て、嬉しさでうわずったしどろもどろの挨拶をはじめた。家族全員が次つぎと電話に出られてはたまらない。「あなたの息子さんはすばらしい作家です。おめでとう」おれは早早に電話を切った。  記者会見が終ると、夕食を一緒にしようという美藝公の誘いをことわり、おれは家路についた。早くもやる気になっていた。他の連中はともかく、映画はまず脚本ができなければ何も始めることができないのだから、おれの仕事がいちばんいそぐのだ。  車の中で少しうとうとした。夢を見た。モノクロの夢だ。少年時代のおれがアパートの隣りの部屋にいたあのでぶっちょのお留婆さんにつれられて、下町にある二番館「栄光キネマ」へ映画を見に行っている夢だった。映画が始まる寸前に、電話のブザーで眼をさました。後部シートの肱掛けの下にある受話器をとった。電話はC・P・Pの女優、町香代子からだった。 「お夕食をご一緒したいのです」 「何が食べたい」 「蝦《えび》などはいかがかしら。『メトロ』ってグリルの蝦料理がおいしいのだそうですわ」 「蝦の料理にかけてはおれの家のコック長にかなうやつはいない」と、おれは言った。「金丸君に電話で蝦を頼んでおく。つつしんでわが家の夕食に招待するよ」 「どなたかとご一緒ですのね」 「大木淳一郎氏を招待した」 「あら。じゃ『炭坑』に決まりましたのね」  少しがっかりした口調で彼女はそう言った。むろん、彼女の役がないからだ。女優特有のエゴイズムだが、おれには彼女たちのそれが実に可愛く見える。町香代子の場合は特に、ひたむきさだけがあって嫉妬など陰湿なところが少しもなく、さわやかなほどである。  町に入ると映画街のとっかかりにある帝国館で「女性の輝き」がかかっていて、町香代子が看板の中からおれに笑いかけてきた。おお恋びと、と、おれは思った。学生や若きインテリ会社員の恋びと。そしておれの恋びと。  俗に映画通りと呼ばれている並木のある広い通りは両側に映画関係者の集るカフェーやクラブ、洋画の配給会社、その他小さな映画関係企業の集るビルが並んでいて、おれの住居のあるビルはその通りのつきあたりの高台にある。東興キネマやカモメレコードの本社がある七階建ての瀟洒《しようしや》なビル。その屋上のペントハウスがおれの住居だ。窓からは映画通りが見おろせ、夜景のすばらしさたるやまさに百萬|弗《ドル》の値打ちがある。  夕暮れが迫っていた。黄昏《たそがれ》時の街をときおり眺《なが》めながら窓ぎわのテーブルでおれは仕事をすすめた。炭鉱のことで勉強しなければならないことはいっぱいあった。  六時を少し過ぎた頃、町香代子がお隅さんに案内されて部屋に入ってきた。洋装だった。その美しさは譬《たと》えようがなかった。見ているだけで胸が苦しくなってくるほどだ。 「すごいご本ですのね」机の周圍の本の山を見まわし、彼女は眼を見ひらいた。 「今回は『活動写真』のようにはいかん。なにしろ『炭坑』だ。調べなきゃいかんのでね」  おれと町香代子は応接セットで向かいあった。 「少し早く来すぎましたかしら」 「いや。そろそろ大木さんも来るだろう」おれは彼女が空腹時には飲まないことを知っているので酒をすすめなかった。「どう。『女性の輝き』の評判は」 「プログラム・ピクチュアとしてはよろしいようですわ」  むろん彼女がプログラム・ピクチュアを軽蔑して言っているのでないことは、おれにはすぐわかった。批評家の一部にはプログラム・ピクチュアを軽視する傾向がある。しかし大作主義に毒されては映画の真のよさが忘れられることになる。 「いい作品だよ」おれは言った。「小品だが真珠の輝きがある。あれこそ映画だ」 「皆さん、ほんとに一所懸命やってくださいましたわ」 「それでなきゃいけないだろうね。甘く見たり馬鹿にしたりして作っていると、その癖がなおらなくなる。突然超大作を作ろうとしても、ふだんの心掛けが悪いものだから魂のない見世物映画しかできない。そして観客にそっぽを向かれる。潰《つぶ》れたいくつかの会社はみんなそれが原因だよ」  お隅さんが大木淳一郎を案内してきた。彼は第一に町香代子に驚いて少しのけぞり、第二に窓からの眺望で驚き、眼を見はった。机の周圍の本の山は彼には第三の驚きでしかなかった。町香代子を紹介すると彼は顔を赤くした。まともに彼女の顔を見ることができない様子だった。おれは笑えなかった。おれもそうだったのだ。  部屋を出て行くお隅さんの方を振り返り、大木淳一郎は言った。「ぼくは彼女の機嫌を損ねたのかもしれません」 「そんな筈はないでしょう」お隅さんが怒る、などということは考えられなかった。「何か失礼がありましたか」 「いいえ。ぼくが彼女にお世辞めいたことを言ったんです。それがかえって気を悪くしたのかも」 「ああ。それは違いますよ」おれはくすくす笑った。「お隅さんはプロ意識が強いんです。自分は第一級の女中である、と思っています。事実そうですからね。したがってお客さんにも、一流の客であるよう求めるんです」 「わかりません」大木淳一郎は眼をしばたたいた。 「つまりあなたは彼女から教育されたんですよ。一流のお客さんは、女中に対して対等に話しかけたりするものではありませんという、お隅さん一流の、沈黙による教育です」 「でも、それでご自分をいやしめられることはちっともありませんのよ」町香代子が大木淳一郎に言った。「お隅さんはわたしにも、よくいろんなことを教えてくれますわ。もちろん、沈黙によって」  彼は吐息をついた。「ぼくはまだまだ世間知らずだ」 「いやいや。むしろ人からものを教わることを喜びにすれば、今すぐにも世間知らずではなくなるのではありませんか」おれは立ちあがった。金丸コック長がやってきたからだ。 「上等の蝦が手に入りまして」と、彼はいった。「腕によりをかけました。ソースは四種類作ってみましたが」 「ご苦労。さあどうぞテーブルにおつきください」  カーテンを開くと続きの間に小さな丸い食卓がある。用意は整っていた。夜景は食卓からの方がさらにすばらしく、眼鏡をかけた小柄な新進作家はまた溜息をついた。「こんなところで名脚本家や女優さんと一緒に食事ができるなんて」かぶりを振った。「どうもまだ夢を見ているようだ」 「今後しばしばご招待しましょう」おれはうなずいた。「あなたには教わりたいことがいっぱいありますからね」  白ワインを飲み、蝦を食べながらおれたちは話しあった。おれは作家に、小説には書かれていない部分のよくわからぬ点をいくつか質問した。彼は少年時代のことを思い出しながら答えてくれた。 「すばらしいよ」心配そうな顔で立っているコック長に気づき、おれはうなずきかけた。「よく身がしまっている。あんな時間にこんな新鮮な蝦がよく手に入ったものだ」 「秘密の入手経路がございまして」声をひそめてそう言ってから、コック長は大木淳一郎に一礼した。「あなた様が主賓《しゆひん》でいらっしゃいます。何かおことばを」 「申し訳ないが、まだ夢見心地でよく味がわからんのです」当惑げに作家は答えた。「もうしばらくすれば落ちついて味わえると思いますが」 「正直なかた」  町香代子が言い、おれたちは笑った。 「あなたのような立派な脚本家になるには、これからどんな勉強をすればいいのでしょうね」  大木淳一郎の質問に、おれと町香代子は顔を見あわせた。 「まあ。あなたがシナリオを書きはじめられるのでは、もうわたしたち、あの強烈で新鮮な情景描写に驚くことができなくなりますわね」  彼女の遠まわしな言いかたは、作家にはわからないようだった。「もちろん小説に比べればシナリオの方がずっとずっと難しいことぐらい、よく心得ています。しかし文学修業をしているあらゆる人間の最終目標は、やはり脚本家ですからね」 「そうとは限りませんよ」ことばを捜しながらおれは言った。いつも喋りかたに困る話題だった。「それはもちろん、小説はシナリオに比べて報われることが少いでしょう。それも映画になりにくい地味な小説や実験的な新しい小説ほど読者も少い。しかしそれだって立派な仕事ですし、それに打ちこんでいる文学者はいっぱいいます」  大木淳一郎はちょっと意外そうだった。「でも、大学で文学を学んでいるほとんどの学生は、みんな脚本家志望ではないですか」 「あなたの誤解は、脚本家以外の文学者はすべて脚本家になれなくて挫折《ざせつ》した人ばかりと思いこんでいるところにあるようですね」おれは微笑した。「人間の才能はひとりひとり違います。大学で学んでいるうちにたいていの人には自分が脚本家に向いているか、戯曲作家に向いているか、小説家に向いているか、詩人に向いているか、あるいはまた研究家に向いているかがひとりでにわかってくるものです。あなたはわたし同様大学へは行かなかったので、お互い自分の才能を早いめにはっきり悟る機会がなかった」 「その通りです。ともかく脚本家になるためには小説で世に出るしかない。そこで小説を書いたのです。たしか里井先生も最初は小説を書かれた筈ですが」喋りながら彼は次第におれが言おうとしていたことに気づきはじめた。「するとあなたは、ぼくが脚本家に向いていないとおっしゃるのですか」 「さっき彼女が言ったように、あなたの情景や人物などの観察力、描写力は小説家としての貴重な才能です。あなたがシナリオを書いたのではそれが失われる。ぼくはそれを惜しむのです」  大木淳一郎は賢明だった。彼はおれのことばで突然何かを思い出したように見えた。「今、小説の第二作目を書いているのですが」彼は考えながら喋った。「どうしてもうまく書けない。一作目の、小説としての成功で、欲が出た為でしょうか。今度は最初から映画化されやすい作品を書こうという意図が頭にあり、映画化された時のシーンや人物や台詞《せりふ》しか浮かんでこなかった。文章を読み返すと一作目のような調和と一定のトーンがない。原因はそれだったのですね」 「作品の映画化だけを望んで書かれた小説はたくさんあり、作品が映画化されることだけを望んでいる作家はたくさんいます」おれは特定の作品名や作家名をずらずら並べ立てたい衝動を抑さえながら言った。「しかしそうしたもののほとんどは映画化されていません。それは小説としてももちろん二流品だし、映画の原作としては本職のわれわれ脚本家が書いたオリジナル・シナリオに劣るからですよ」 「あなたにお会いしてよかった」さほど悄気《しよげ》もせず、彼は言った。「作家としても駄目になるところでしたよ。描写などの書きこみを怠ったビールの泡の如き小説をいつまでも書き続けていたかもしれない」何かを解決した時の学者のそれのような知的に光る眼で作家はおれを見つめた。「逆に言えば脚本家のシナリオには、台詞のひとつ、ひとつに、情景、性格、状況の描写が含まれているということになりますね」  勿論それはシナリオ作法のイロハなのだが、おれがそういったことを喋る場所は藝大での講座に限られている。 「この次の小説にはぜひ若い女性を登場させてください」  町香代子が無邪気な口調で話題を変えてくれたのでおれはほっとした。シナリオの難しさをそれ以上喋れば自慢になっていただろう。  作家は羞《は》じらいで赤くなり、彼女を見つめ返すこともできず、吃《ども》りながら言った。「女性を美しく描けるのは作家が若いうちだと言われていますが」やっと顔をあげた。「ぼくの周圍には、描きたくなるような女性はいないんですよ。特に、その、今、スクリーンでなく」彼は言葉に詰まってまた顔を伏せた。  特に今、スクリーンでなく実物のあなたとお会いしてしまった以上は、と言いたかったのだろう。おれはそう想像した。 「今度は栄光映画に出るんだって」おれは彼女に訊ねた。彼女にはずいぶん会っていなかった。 「撮影はもう始まっています」と、彼女は答えた。「三宅先生の監督で『曲馬団の殺人』って言うんです。網タイツをはかされてしまいましたわ」そう言って町香代子は顔を赤くした。  大木淳一郎も顔を赤くし、おれまでが赤くなってしまった。彼女が本当に、羞《はず》かしそうだったからだ。 [#挿絵(img¥031.jpg)]  書斎のソファに戻り、百萬|弗《ドル》の夜景を眺めながら食後のコーヒーを飲み、さらに映画の話に興じていると、お隅さんが入ってきて一礼した。 「ひとり暮しの叔母が」と、お隅さんは遠慮勝ちに切り出した。「加減が悪うございまして。もしおよろしければ、今夜、一緒にいてやりたいのでございますが」 「もちろんだ。早く行ってあげなさい」叔母さんがいるという話は初耳だったが、彼女が自分から申し出るくらいだからよくよくのことなのだろうと想像できた。 「明日はできるだけ早く戻ってまいりますので」 「いやいや。ぼくのことなら心配いらない。朝食ぐらいなら自分で作れるし、どこへも行く予定はない。一日中この部屋で仕事だからね」 「左様でございますか。ではおことばに甘えましてお昼前、午前十一時半ごろに戻らせていただきます」 「ああ。そうしなさい」なぜ彼女が帰宅時間にそれほどこだわるのか、その時にはまだわからなかった。  お隅さんが去ったあと、金丸コック長が服を着換えてあらわれた。彼はわれわれの讃嘆のことばを嬉しげに受け、一礼して帰っていった。 「ぼくもそろそろ」大木淳一郎が立ちあがった。 「あなたは、まだいいじゃありませんか」 「じつは親戚一同が集り、わたしの帰りを待っています」彼はちょっと照れくさそうにして見せた。「祝いのパーティを開いてくれるそうで」  おれも立ちあがった。「それは残念」  町香代子がもじもじする様子を見て、おれは大木淳一郎に気づかれぬよう、彼女に強くかぶりを振って見せた。今、彼女にまで帰ってしまわれては、耐えがたいほどの淋しさに襲われることがはっきりしていたからだ。  ふたりだけになると、町香代子はそっと、つぶやくように言った。「あのかた、わたしたちをふたりだけにしてくださるため、わざと早くお帰りになったのじゃないでしょうか」 「あるいは、そうかもしれないね」おれは笑った。「もしかすると新聞のごく片隅のゴシップ欄で、ぼくたちの噂を読んでいたのかもしれない。でも、そんなことよりも、重大なことは、ぼくと君とが一カ月半ぶりに、しかもふたりっきりで会えたということだよ」  彼女はまた顔を火照《ほて》らせ、おれはそんな彼女をじっと見つめた。 「お話ししたいことがたくさんあるのです」 「ぼくもだ。何か飲むかい」  ジンを少くしたジン・ライムが飲みたい、と彼女は言い、おれは部屋の隅のカウンターでジン・ライムとハイボールを作った。飲みながら、おれたちはながい間、ソファでぴったり身を寄せあったまま話し続けた。夜は更け、おれは話の途中でコード・ペンダントの灯だけを残し、室内灯を消した。おれはソファで町香代子を強く抱擁した。「日本の恋人」は今、甘い香りと共におれの胸の中にあった。いつまでも、どうしても離す気にはなれなかった。 「今夜はぼくと一緒にいてほしい」おれは言った。「独占できない人だということはわかっている。でもぼくは君を独占したい。今夜」 「あなたのものです」と、彼女は答えた。「今夜はあなたのお傍《そば》にいて、明日の朝はあなたの為に朝ご飯などのお世話をしてさしあげたいのです。でもあなたは、わたしをふしだらな女だとお思いになります」 「君はふしだらなことができるような性格じゃない」  そう言いながらおれはお隅さんの外泊が、じつはおれと町香代子にここで一夜を過させるための思いやりであったと気づき、感激していた。だからこそ帰宅時間にこだわったのだ。彼女は必ず、明日の朝十一時三十分きっかりに戻ってくるだろう。町香代子はそれまでおれと一緒にいることができる。午前十一時三十分。なんとよく考えられた時間であることか。 「みんな、やさしいと思いません」  町香代子がそう言ったのでおれはびっくりした。一流の女優は一流の心理学者でもあるようだ。 「本当のやさしさは、鈍感な人間にはなかなかわからぬやさしさだ」と、おれは言った。「うわべだけのやさしさ、実は気の弱さにすぎないやさしさ、そんなものはざらにあるが、本当のやさしさには、実はたいへんな信念が必要なのさ。それに観察力もだ。ぼくと君が切実に求めあっていることをお隅さんは見抜いていたんだ」  おれたちはお隅さんの好意に甘えた。おれと町香代子は、この上なく甘美な夜を過した。そんな夜を過した記憶が、ますますふたりを離れ難くさせるだろうことを承知の上で。  翌朝眼醒めたベッドの上に、町香代子はすでにいなかった。時計は九時前を示していた。調理場とは別に、寝室に隣接した小さなキチン・ブースがあり、そこから食器のふれあう音が聞こえてきた。 「おはようございます」顔を洗い終えたおれの傍へ町香代子がやってきた。「あなたがいつも朝ご飯をテラスで召しあがることは知っています」  ゴシップ記事を読んだのだろう。テラスから見おろす大通りは映画通り。逆に言えば、映画関係者の多くが下から、あるいは近くのビルから、おれのペントハウスを見あげ、朝食をとるおれの姿をいつも見ていることになる。 「今朝はどこで召しあがりますか」 「テラスで食べよう」おれは言った。「君も一緒にだ。とても気分がいいよ」 「きっと誰かが見ていると思いますわ」テラスのテーブルでおれと向きあって腰かけた町香代子が、映画通りをはさんで建っている大小のビルを見おろしながらいった。  朝の陽光。そよ風。コーヒーの香り。 「君とぼくのことはすでにたくさんの人が知っている」 「あのビルの中には新聞社の支局や映画雑誌の会社もあるのでしょう」 「心配いらないんだ」彼女を安心させるため、おれはわざと声を出して笑った。「あの新聞の片隅に載ったゴシップ記事のことを気にしているんだろうが、あれだって名前を出さず、遠まわしに、それとなく匂わせているだけだ。ああいうものこそが、微笑ましいゴシップというやつで、いいゴシップ記事の見本だ。新聞記者も雑誌記者も、ぼくたちのこの恋愛を祝福してくれている。あけすけに書いて映画の背後の神秘性や夢を壊すようなことはしないよ。そんなことをするのは映画産業の衰退につながる。報道関係者だってそれぞれが映画産業の一翼を担っている。不良少年少女相手の、場末に会社がある赤新聞ならともかく、映画のいちばん大切な、そして重要な観客である大多数の大人を相手にした一流の新聞、一流の映画雑誌が、自滅につながる悪いゴシップ記事を書いたりはしない。それ以前に、いちばんの理由は、そんな記事を書いても読者が決して喜ばないということだよ。うん。このべーコンだ。この焼き加減のこのべーコン。これを食べないと朝食を食べたような気がしないんだよ。このコーヒーはどうだい。ぼくがブレンドした。ブルー・マウンテンとモカだ」  陽気を装ったおれのお喋りを聞いているのかいないのか、町香代子は通りを見おろしたまま考えに沈んでいた。  やがて彼女は軽く吐息をついた。「大勢の人に愛されるということは、大変なことなのですね」  彼女の気持はすぐおれに通じた。 「君にはわかってもらえていると思っていた。君が女優でなければ、いや、もし君が『日本の恋人』と言われているトップ・スタアでなければ、ぼくはとっくに君に結婚を申し込んでいただろう。今だって君にプロポーズしたい気持は同じだ。でも君は、そんなこと、すでに知っているだろう」 「あなたのお気持は以前から、ずっと以前から」彼女はことばを途切らせた。泣いていた。 「君のその苦しみ、それから、ぼくの苦しみ、それを知っているからこそ、みんな、ぼくたちをいたわり、かばってくれているともいえる。ぼくたちはみんなの、そのやさしさにこたえなきゃいけないんだ」それ以上、喋ることはできなかった。胸がつまった。陽光が眼がしらの涙を乾かしてくれることを期待して、おれは空を仰いだ。  空は晴れ渡っていた。  彼女はぽつりと言った。「苦しいわ」  そしておれたちは黙った。黙ったままコーヒーを飲んだ。朝食が終ってもまだ黙ったままでしばらくはテラスにいた。  町香代子が空を仰いだ。彼女は苦しみに耐え、せいいっぱい陽気に言った。「わたしたち、いつ結婚できるのでしょう」スタアの表情をとり戻していた。  彼女は十一時過ぎに帰って行った。  昼からは大仕事にとりかかった。隙《すき》のない脚本でなければならなかった。隙を作る部分、いわゆる技術的なダレ場を除いてのことだが、隙があってはならなかった。人物の造形にはさほどの苦労はなかった。その点で原作の書きこみは十二分になされていた。プロット作りが大変だった。原作をまずプロットとして百いくつかのシークェンスに分け、重複する部分をひとつのシークェンスにしていった。不要なシークェンスがたくさんあり、それを省いてもまだ厖大《ぼうだい》なシークェンスが残った。クライマックスヘの伏線となる七つのエピソードのうち五つを省き、そのかわり原作にないエピソードをひとつ作ってテーマを強調した。  仕事を続けるうち、おれの頭にはとてつもない考えが湧き起ってきた。原作ではさほど活躍しない登場人物のひとりが脚本の中で急に重みを持ちはじめたのがきっかけだ。主人公の精神的教師となる老坑夫の役なのだが、これを演じ切ることのできる人物はただひとりしかいないのではないかと思いはじめ、書き続けるうちその人物のことしか考えられなくなってしまった。  これを解決しておかないと脚本が進まないということに気づいたのはもう夜がふけてからだ。美藝公に電話をして相談したものかどうか迷っているところへ、具合よく美藝公の第一秘書、小町氏から電話がかかってきた。 「先日お話のございました石炭鉱業のことについて、明日午前十時より閣僚会議が開かれます」小町氏はいつものようにわかりやすく、しかもきびきびと報告した。「里井先生にもぜひご出席願いたいと美藝公は望まれておられますが、ご都合はいかがでございましょう。日時の点で里井先生のご都合がおよろしくなければ、閣僚会議の日時を変更することも」 「いいえ。その必要はありません。必ず出席します」 「では明朝九時半、ご自宅に美藝公ともどもお迎えにあがります」  例の相談はその車の中でできるだろうと思い、おれは安心した。  美藝公の車はロールス・ロイスを改造した純白の箱型自動車で、運転席との間に間仕切りがあり、後部座席は六人が三人ずつ向かいあって掛けられる大きさである。翌朝ビルの前で待っているとチリンチリンと小さな鐘を鳴らしながら朝の光に輝くロールス・ロイスが映画通りをまっすぐおれの方へ登ってきた。当然のことだが周圍の車はみな遠慮して両側へよける。車の窓から身を乗り出し、ロールス・ロイスの中の美藝公を覗《のぞ》きこもうとする女性もいた。  後部座席には美藝公ひとりだった。  わざわざ迎えに来てもらったことに対して礼を言うと、美藝公はかぶりを振った。「礼を言われると心苦しい。実は君に話があった。車の中で話そうと思ってこちらへ寄り道したんだ」 「ぼくも実はあとで話したいことがある。そっちを先に話してくれ」  二人だけの場合、美藝公とおれは昔のままの言葉遣いで思ったことを遠慮なく話しあうことにしている。 「笠森先生のことだ」と、美藝公は言った。笠森信太郎。前の美藝公のことである。「美藝公をぼくに譲られてからもう二年になる。それ以後まったく映画には出演なさっていない。引退同様だが、ほんとは今まで笠森先生向きのいい役がなかったからだ。先生ご自身何もおっしゃらないが、いい役でさえあれば出演なさるお気持は今でもお持ちの筈だ。先生をもう一度スクリーンで見たいと望む国民の声も高い。しかし今までの例で言えば、前の美藝公に出演を乞《こ》うとなると、当然のことだがまず第一に主演でなければならない。第二に、藝術的な最高の脚本でなければならない。それが今まで出演して頂く機会がなかった理由でもある。いやしくも前の美藝公に対して、昔人気があった老優にあまりよくない映画のちょい出の端役を振り、それのくり返しでその人気を下落させるという、よくある例と同じようなことをしてはならないからだ。ぼくはずっと笠森先生のことを気にかけてきた。『炭坑』を読みながらそのことが頭にあったのだろうが、年|恰好《かつこう》が似ているということもあって、あの庄造という坑夫を次第に笠森先生にあて嵌《は》めて考えはじめたんだ。笠森先生ならこの役をどう演じるだろうかとね。しまいには笠森先生以外にこの役は出来ないとまで思いはじめた。ところがあいにくあの人物は小説では、重要な役ではあるが端役だ。ちょっとしか登場しない。しかし、どうだろうね君。あの役は主人公に匹敵する大きな役として設定できるのではないだろうか。いや。むしろその方がテーマを強調できるんじゃないだろうか」 「むろん、できるし、あきらかにそうした方がいい」と、おれは言った。「しかし、大きな役にした場合、あの役を笠森先生以外にできる俳優がいないのなら尚さらのこと、前もって笠森先生に出演をお願いしておかなければならないだろう」 「前例のない重要なことだ。ぼくが自分でお願いにあがるつもりだ。君も来てくれればありがたいのだがね」 「むろんだ。お供しよう。早い方がいいな」 「よし。行く日を早く決めて、いずれ電話しよう。ところで君の話というのはなんだい」 「いや。もうその話はいいんだ」おれはかぶりを振った。「する必要がなくなった」 [#挿絵(img¥039.jpg)]  美藝公が閣僚会議に出席するのはそれほど珍らしいことではないが、地味な取材活動ばかりの政治記者たちにとってはやはり、久しぶりで第一面に載るビッグ・ニュースなのだろう。総理大臣官邸の玄関前には四、五人のカメラマンと七、八人の記者が待ちかまえていた。むろん会議の内容は知っているし、あとで総理が会見して会議の結果を教えてくれることも知っているから、直接美藝公に何やかや質問してくるような記者はひとりもいない。いちばん年長の、美藝公とは顔|馴染《なじ》みらしい記者が代表で、「炭坑」に期待しますと挨拶しただけである。 「先日、フィルム・ライブラリイであなたが十年前に片桐|且元《かつもと》をなさった、あの『阿修羅城』を拝見しました」  会うなり総理が眼を輝かせ、美藝公に話かけてきた。「阿修羅城」は穂高小四郎が美藝公になる以前に主演した時代劇で、出世作のひとつである。美藝公が苦笑しているのも構わず五十六歳の総理は、専門外なので言いまわしにも馴れぬぎごちない言葉遣いながら感激した口調で褒《ほ》め続けた。比較的年輩の人たちがあの映画で感激するのと同じく、彼もやはり封建的なものが持つ例の古典的なロマンとセンチメンタリズムに強く胸を打たれたらしい。  閣僚は揃っていた。いずれも五十歳以上で、中には六十歳を越す大臣も三人いる。老齢だが、政治家の社会だけは技術以上に経験がものをいうので、これはしかたがない。そのかわりいずれもその道何十年という年季の入ったエキスパート揃いであり、みな年齢より若く見える。 「突然の申し出にもかかわらずお集りいただき、感謝します」さっそく美藝公が話しはじめた。「もう皆さんご存じと思いますが、わたしは次回作品として、大木淳一郎という新人作家の小説『炭坑』を映画化したいと考えております。で、この作品は」 「いや。ご説明には及びません。閣僚のほとんどにあれを読ませましたので」文部大臣があわてて口をはさんだ。「すごい作品です。今年度の新人賞は確実でしょう」 「炭坑」を読んでいないのは外遊していた外務大臣だけだった。 「この『炭坑』の映画化をきっかけに、ぜひ石炭鉱業を盛んにしたいものです。日本では今でもまだ節約の美徳が残っていますから、欧米ほど石油に依存してはいません。それでも今回の原油の値上げはずいぶんこたえる」と、大蔵大臣がいった。「現在のこの石油不足を、日本は自力で乗り切らねばなりません。他国のような憂き目は見たくない」 「現在調査委員会を設け、国管にするか国営にするか、検討させております」総理も言った。「いずれにしろ国家的事業として奨励しなくてはとても間に合わん。『炭坑』が封切られるまでに、昔切り捨てた非能率炭鉱も含めて、あちこちで炭鉱事業を再開し、どっと押し寄せるに違いない炭坑夫希望者をすべて受け入れられるように用意しておかねばなりませんからな」 「それだけ多くの労働力が集りますか」おれはいささか不安になって訊《たず》ねた。「今までの、流行の方向づけをする場合と違って、炭坑夫というのはつらい仕事です」 「現在の失業者数は、不完全就業も含めて二十三万人。そのうちの半数が炭坑夫を希望しただけでも現在の炭鉱労務者数は三倍になります」と、労働大臣はいった。「失業者用の無料食堂や無料宿泊施設がたくさんあるので、就業したがらない怠けものの青年が多い。この連中、必ず映画に刺戟され、労働の尊さに目ざめるでしょう」 「そうなってくれれば願ってもないことです」 「なりますとも。美藝公主演映画の影響力たるや大変なものなのですぞ」労働大臣は美藝公に大きく頷《うなず》いて見せ、笑いながら言った。「前の美藝公が『戦旗』に主演なさった時は大変だった。軍隊に入りたいという青年がどっと出ましてな。軍隊なんかないのに」  全員が大笑いした。  熱心さを眼にあらわし、通産大臣が喋りはじめた。「わたしどもでは以前から石油不足になることを予想して石炭液化、石炭ガス化の研究に取り組んできました。ここでぜひ石炭鉱業を国営化し、せめて百万キロワットのガス化発電、日産五十万バーレル級の液化プラント建設をめざしたいのです」  総理はにこやかに頷いた。「不可能ではない筈です。調査委員会も国営に傾いてきている。おそらく国営になるでしょう。むしろ石炭鉱業を続けている各社から国営にしたことを恨まれるかもしれない。社長連中だって『炭坑』は見るでしょうからね」  総理大臣のことだから不用意な発言をする筈がない。国営事業になるのだろう、と、おれは思った。 「こんなに速《すみ》やかに決定していただくことになるとは思いもよりませんでした」美藝公はやや驚いた表情で閣僚を見渡した。「ご協力を感謝します」  総理はかぶりを振った。「当然のことです。わたしどもは常に美藝公の一挙手、一投足に注意を向けています。映画産業立国である日本の政府は、政治、経済、さらに大きく社会、さらに大きく文化、それらすべての面にわたり映画と歩調をあわせ、時に応じて最も効果的な政策をとらねばなりません。むしろわたしどもこそ、このように事前にご相談願えたことを感謝しているのですよ」 「小説を読まれた皆さまがたならもうご承知と思いますが、この映画のテーマはいうまでもなく肉体労働の尊さです」美藝公にかわり、おれが言った。「脚本ではそれだけでなく、労働の歓びを謳《うた》いあげ、そして労働に従事する人びとが持っている高貴な人生観を強く訴えるつもりです」 「若者というのはいつの時代も、どこの国でも、反抗的で軽薄のように見えながら、じつはそういうものを常に、切実に求めておるのだと思いますな」文部大臣が言った。 「わたしは映画の監督になり、そういう映画を作りたかったのです」法務大臣が嘆息し、いつものくりごとを喋りはじめたので全員がいっせいににやにやした。「あいにく才能がなく、藝術大学を落第しましてな。しかたなく国立大学の法学部に入った」 「きっと名監督になられていたと思いますよ」美藝公は笑いながら慰めるようにそう言った。  会議は一時間で終った。  午後は藝術大学で講義をしなければならなかった。藝大には映画学部と演劇学部があり、おれの「脚本理論」は両学部の必須科目である。むろん美術学部、音楽学部からも、映画界を志す者が多数を占めている為に大勢聴講に来る。おれがただ美藝公のいちばん親しい友人だからというだけで聴講に来る者もいる。名監督綱井秋星の講義する「映画演出論」と並び、藝大では最も学生の集る講座だ。なにしろ男子学生、女子学生、共に日本一の狭き門を突破してきただけに優秀な頭脳の持主が揃っている。学費だけは高い地方の私立藝大の講義の如きお座なりなものであってはならない。準備にもずいぶん時間を必要とする。  自宅に戻って二時間あまり下調べをし、資料を集め、二時過ぎ、軽い昼食をすませてから磯村の運転する車でおれは藝大に向かった。  五、六十人しか入れない教室に九十数人が詰めかけ、満員だった。聴講するだけの他学部の学生はさすがに遠慮して壁ぎわに並んで立っている。事務局からは時おり教室を変えましょうかという問いあわせを受けるが、おれはこの教室が気に入っている。これ以上広くては学生に親しみが持てなくなる。  娯楽映画におけるシチュエーションの設定について、おれは四十分ほど喋《しやべ》った。一時間ほど喋るつもりだったのだが、学生はみな呑みこみが早く、質問も二つあっただけなのでやけに早く終ってしまったのだ。残りの時間は脚本全般に関する質疑応答に充《あ》てたが、学生たちがいちばん楽しみにしているのはどうやらこの時間であるようだ。脚本全般というのは建前で、たいていはそれ以外のとんでもない質問が多くとび出すから面白く、じつはおれ自身もひそかに愉《たの》しみにしている一刻なのである。 「脚本のことから離れた質問で申しわけございませんが」案の定、演技志望の女子学生が立ちあがって訊《たず》ねた。「里井先生は美藝公とたいへんお親しいようにうかがっております。それで、美藝公のオフ・スクリーンでのご勉強ぶりをうかがいたいのです」  皆が予想していた質問だった。全員が嬉しげに笑った。  背が高く、どちらかといえば技巧的な演技を得意としているらしく思えるタイプのその女子学生は、頬を染めながらも質問を続けた。「美藝公の演技はいつも魅力にあふれています。どのような役をなさっても、たとえ悪役であっても、その表情のひとつひとつ、動作の端ばしまでがわたしたち観客を魅了してしまいます。むろん美藝公がふだんから身につけていられる魅力的な表情や動作だと思うのですが、異性だけでなく同性までを魅了してしまう美藝公独自のあのような魅力を、どのような勉強で創造していらっしゃるのでしょうか。こっそりお教え願えませんでしょうか。それともそれは、美藝公の最も重要な秘密に属することで、わたしどもがうかがうのはたいへん失礼にあたることなのでしょうか」 「いえいえ。ちっとも失礼ではありませんよ」おれは答えた。「なぜかというと、そんな秘密などないからです。おそらくあなたは、美藝公が鏡を前にし、どのような表情・動作が魅力的に見えるかを研究し、レッスンしている光景か何かを想像されているのでしょうが、それはまったくの誤りです。たしかに自分をスクリーンの上で魅力的に見せるため、まるでチャーム・スクールで勉強するような方法で、先生についてレッスンを受けている俳優もいます。しかし、いざスクリーンでそういう俳優の演技を見せられる時、われわれ映画の玄人《くろうと》が感じるのは『見てくれ芸』だということです。どうです。わたしのこの片方の眉をあげた表情はすばらしいでしょう。どうです。このポーズはわたし独自のポーズなのですよ。恰好《かつこう》いいでしょう。こうした『見てくれ芸』は演技とはなんの関係もありません。わたしたちはAという俳優の演じているBという役、またはせいぜいBという役を演じているAという俳優を見る為に映画館へ来ているわけであって、Aという俳優そのものを見に来ているわけでは決してないのです。Aという俳優がBという役もCという役もすべて同じように、自分の魅力を見せる為にだけ演じ続けた場合、いかにその俳優に多くの魅力があろうと遅かれ早かれ観客から飽きられることは間違いありません。俳優にとって特に慎むべきことは、他の俳優がこういう場面で魅力ある表情を見せたからというので、自分にもあれくらいはできるという競争心から、似たような場面でその表情を真似て見せることです。言うまでもなく、演技というのは寄席の物真似とは区別されなければなりません。中にはそうした過去の名優の名演技の断片ばかりをぎっしり頭へ詰めこんだ寄せ集め演技の専門家までいます。これに限らず、そもそも似たような場面だからというので同じ演技をすることは避けるべきです。それは違う映画である以上同じ場面などというものはあり得ないからです。評判がよかったからというので同じ表情を何度もして見せる女優は、同じ演技をしつっこくくり返して笑いを得ようとする喜劇俳優同様、まずは大成しません。美藝公の魅力は、自分の魅力を見せようなどとは夢にも思わず、その役になり切って演じているが為の魅力といえます。その役になり切っているということは、物語に没入していることで、それは観客もまた物語に没入させ、それぞれのシーンでの彼の演技を、ここはこう演じる以外にないと観客を納得させることと同じです。それ故に観客は感動し、役の背後にいる美藝公そのひとに魅力を感じるのです。あなたがおっしゃったように、美藝公は昔、何度か悪役をやりました。あまりにも憎にくしげな悪役を美藝公がその悪人になり切って演じたため、彼の周圍《しゆうい》の人は人気がなくなるのではないかと、ずいぶん心配したものです。しかしこれは逆に美藝公の評判を高めました。悪役を演じる他の多くの俳優は、悪役をただ憎にくしく演じる為にのみ心を砕いたものですが、美藝公の考えは違っていました。現実に、悪役という肩書きのついた人物はいないのです。どのような悪人も、ある局面においての悪役であり、他の局面、たとえば現実の犯罪者がしばしばそうであるように、家庭においてはよき夫、よき父であるかもしれないのです。そしてまず第一に、その人物がなぜそのような悪事を行うようになったかという理由がなければなりません。美藝公はまず、悪役といえども独立したひとつの人格を持たねばならず、単なる無個性な『悪魔の化身』、平面的な悪人像であってはならないという考えから、それらの悪人像を立体的に創造したのです。他方にその悪人の苦悩、孤独があってこそ憎にくしさも際立ち、その悪人がのっぴきならず行う悪事、それによって必然的に起る善人たちとの対立によって、ドラマそのものにも迫力が生じ、魅力が生まれるのです。もしそれだけの裏づけがなければ、あれほど徹底した悪事を働く悪人像に、あれほどの際立った悪の魅力が生まれた筈はありません。悪役を演じる美藝公のあまりの魅力に抗しかねて真似をはじめる不良少年まで大勢あらわれたことは皆さんもご存じでしょうが、むろんそのような連中にあの悪人像の魅力が身につく筈もなく、世間の失笑を買い、少年仲間から馬鹿にされ、かえって不良仲間に睨《にら》みがきかなくなったそうです。このように、美藝公がオフ・スクリーンで勉強することの多くは、いかにして役を創造するかということなのです。個性的に創造されたその役の人物は、自然と魅力的な個性を持つ人物になっているものなのです。スクリーンで見る美藝公の魅力が常に新鮮なのはその為で、その魅力が美藝公の、その時、その時に演じるそれぞれの人物だけにしかない魅力である以上、これは当然のことなのでしょうね。皆さんは美藝公が四年前に孫悟空を演じたあの『西遊記』をご覧になったことと思います。ふつう今まで孫悟空は喜劇役者もしくは活劇俳優が扮するものと相場は決まっていました。そうした俳優が軽妙に演じてこそ面白いのであって、本来二枚目の演技派俳優が演じるものではないとされていました。そもそもそうした俳優の演技の見せ場がない上、批評家から演技をまともに評価されることもなかったのです。ところが美藝公はこの役を真正面から、まともに演じようとしたのです。孫悟空とはいうまでもなく、第一に猿であり、第二に化けものです。猿の化けものの演技を真正面からまともに研究しようなど、われわれに言わせれば正気の沙汰《さた》ではありません。しかし逆に考えてみれば孫悟空というのはそれほどの難役であり、喜劇役者がその個性だけで軽がると演じることができるようなものではなかった。わたしたちはそれを美藝公に教わったのです。美藝公はまず、京劇において演じられている孫悟空を勉強するために孫悟空の故郷である中国へ行きました。京劇の孫悟空はすでに、完成に近く形象化され、新しい解釈をする余地がないほど技が決定されています。しかしそこにはながい年月、中国のさまざまな名優たちによって研究されてきた伝統があります。孫悟空がどのような化けものであったか、どのような化けものでなければならなかったかを勉強するのはここ以外になかったでしょう。昔の人の知恵と知識の集積を学んだといえます。同時に美藝公は、のちの中国との新しい貿易のとりきめをこの訪問によって有利にしました。この『西遊記』をきっかけに、中国ではそれまで資本主義的だというのであまり上映されることのなかった日本の映画を大量に輸入しはじめたからです。また、この『西遊記』が本場の中国で、もう今後これ以上の『西遊記』はできないだろうと言われるほど高い評価を受けたことは皆さんもよくご承知ですね。さて、美藝公の勉強はそれにとどまりませんでした。京劇の孫悟空はあくまで中国の演技の伝統によるものです。美藝公はこれを日本人が理解し納得できる形にしなければならないというので、今度は歌舞伎におけるさまざまな化けものの演技を研究しはじめました。我国古来からの伝統的な化けものの演技の形態は、日本人の誰もに、たとえ歌舞伎を見ていない人の心にまでも浸透し、潜在的に記憶されていますから、それを触発しなければなりませんでした。一方で美藝公は、本ものの猿の行動、動作、表情を研究しはじめました。習性を知ろうとし、動物園の類人猿舎で一週間寝泊まりしたこともあります。ニホンザルの猿山を一日中眺め続けていたこともあります。自宅ではニホンザルの雄と雌を飼い、生活を共にしていました。また、とても人間にはできそうもない猿のアクロバット的な動作の訓練にも励みました。こうした努力の末に皆さんがご覧になったあの孫悟空が生まれたのです。美藝公が演じたあの孫悟空は、猿である以前、化けものである以前に、みごとな個性をそなえていました。統一的人格といってもいいでしょう。それがいかに魅力あるものであったか。つまり美藝公は猿の化けものになり切って演じていながらも、それは単に猿の物真似、京劇や歌舞伎の演技の模倣ではありませんでした。そこには猿の化けものが『西遊記』というシチュエーションの中でいかなる貫通行動をとるかという洞察がありました。美藝公はみごとに孫悟空という魅力ある『人格』を創造したのです。単なる猿の化けものにあれほどの魅力を持たせ得るとは、誰に想像できたでしょう。しかもその魅力はあきらかに、猿の化けものにしか見出し得ない魅力、おかしな言いかたですが孫悟空固有の魅力だったのです。美藝公の魅力ではありませんでした」 [#挿絵(img¥047.jpg)] 「あのう、里井先生。おことばですが」演出志望の男子学生が、おずおずと手をあげながら言った。おれが頷《うなず》くと彼は立ちあがりながら、あきらかに不満そうな表情を見せて反論しはじめた。「あの孫悟空が孫悟空固有の魅力をそなえていたことは確かだったと思います。それでもやっぱりあそこには、美藝公ご自身の人間的魅力が底の方に流れていたと思うのです。美藝公とて人間ですから、ご自分の個性を完全に殺してしまえるものではない筈です。ぼくは里井先生と違って美藝公ご自身に直接お目にかかっているわけではなく、あくまで美藝公が出演された他の映画を見ての比較になりますが、あの孫悟空にもやはり美藝公が他の役を演じられた時との共通する魅力が感じられました。それにぼくは一度だけ、遠くからですがオフ・スクリーンの美藝公を拝見したことがあります。この藝術大学の研究室に来られた時のことです。その時、美藝公のちょっとした動作に、はっとさせられるほどの美しさ、やはり魅力と言っていいかと思いますが、それを感じたのです。美藝公ご自身に魅力があることはあきらかで、それこそ美藝公主演の映画の魅力に共通するものではないでしょうか。さっき彼女も、そのことを伺いたかったのではないかと思うのですが」 「わかりました。わかりました」おれは学生たち全員のおれに向けられた不服そうな表情にいささか辟易《へきえき》して、笑いながら宥《なだ》めるように言った。「諸君の不満は、まるでわたしが美藝公はまったく魅力のない人物だと言ったかのように勘違いなさっているところから発しているのです。わたしは決してそんなことは言わなかった。それどころか美藝公は、同性のわたしの眼から見てさえすばらしい魅力を持っている人物です。あのような魅力ある人物をわたしは他にひとりも知らない、そう言っても言い過ぎではありません。つい数日前も美藝公を圍んでわれわれ美藝公専属スタッフが集った時、われわれ全員は美藝公の、彼が煙草に火をつけるという、ただそれだけの動作にこの上なく優雅なものを感じ、うっとりと見惚れたものです。そこには不自然さが見られなかった。その動作は演技ではなく美藝公が何か考えごとをしながら無意識的に行った動作であるが故に優雅だったのです。つまり美藝公自身の魅力は美藝公の全人格によるものです。いいですか。これは演技とまったく別のものです。映画俳優でない人の中にも映画俳優なみの、時には映画俳優以上の魅力を持った人物がいるのと同じことです。逆に、スクリーンでは常に名演技を見せながらオフ・スクリーンではまったく魅力のない俳優もいます。皆さん。ただの演技者と、いわゆるスタアと言われる人との違いはここにあるのです。スタアとは演技をする以前にその個性がそもそも魅力に富んでいる俳優のことで、まだ演技が未熟である頃からすでに多くの観客を惹きつけてしまいます。そしてしばしば、演技が上達しなくてもそのままで何年もの間多くのファンを持ち続けます。こうしたスタアがもし演技力を身につけた時には、いわゆる名優、名女優としてながく俳優としての生命を保ち続け、年齢に応じて大きな存在となりはじめますが、個性だけに頼りきって演技をまったく勉強しなかった場合、いずれは観客から飽きられてしまうことはさっきも申しあげた通りです。逆に言えば、演技者は自分の魅力というものを勘定に入れた演技をしてはならないということで、さっきわたしが演技に個性的魅力は不要とまで強調したのは、そこのところを間違いなく受けとっていただき、演技者志望の人たちに誤った道を歩んでほしくないと望むゆえの一種の極論でもあったのです。もちろん、映画俳優に個性的魅力がある方がよいかない方がよいかといえば、これはもうあった方がいいに決まっているのですが、さて、そうすると次に、個性的魅力とは何かということになります。個性の魅力というのは言うまでもなく他人から好かれる人格のことです。誰からも好かれる人格は、ことば遣いや身のこなしなどの瑣細《ささい》なことだけをいくら研究し強調したって生み出せるものではありません。また、意識的に人に好かれようとする言動をとり続けたところで魅力は生まれません。それどころか、いくら心の底から他人に好かれたいと思っていたところで、見る人が見ればそこにあらわれているのは愛情乞食めいたいやしさだけなのです。さて、それでは個性の魅力を生み出すものはいったいなんでしょうか。いろいろに考えられますし、さまざまに主張する人たちがいます。『生まれ』だという人がいます。血統を重視しているわけです。『育ち』だという人もいます。これは環境を重視する考え方ですね。『教養』だという人もいます。知性美のことでしょうね。たしかにそういうことが多くの人の個性的魅力の大きな部分を占めてもいるのですが、それがすべてではありません。特に高貴な血筋もひかず、悪い環境で育ち、ろくな教育を受けなかった人の中にもわれわれは多く個性的魅力を見出すことができます。美藝公とて工場労働者の家に生まれ工業専門学校しか出ていないのです。ならば美藝公の個性的魅力の本質を考えることによってこの問題の答が出るのではないでしょうか。わたしは『思いやり』であると考えます。そういうと、なんだと失望なさるかもしれません。ところがこの『思いやり』たるや、そこいら辺の人生雑誌、道徳教本などで誰にでも今すぐ実行できそうに安易に書かれている『思いやり』などとは違って、大変な技術と努力を要するものなのですよ。まず他人を思いやるにはその人がどう考えているかを知らねばなりません。心理学者でなければならないし、それ以前にすぐれた人間観察力を持たねばなりません。これにはたいへんな才能が要求され、生まれつきの素質にも加え、大きな努力と人間に対する長期間の持続的興味が必要なのです。しかもこの『思いやり』はいざ他人の前において意識的であってはならない。これっぽっちもわざとらしさがないということは無意識的であるということなのですからね。この点わたしは親友であることに甘えた厚かましさで美藝公に、わたしが美藝公を観察してきた結果思い到ったその結論を、直接訊ねることによって確かめてみたことがあります。美藝公は、それは単に『他人に不快感をあたえないようにしているだけ』と言いましたが、これはつまり『思いやり』ということになるのではないでしょうかね。そして美藝公は『むろんそんなこと、他人の前でいちいち意識してはいない。そんなことをしていれば自分が楽しくなくなるではないか。自分が楽しくなくては他人を楽しませることもできないよ』と答えたものです。この美藝公のことばで、『思いやり』を身につけ、さらにそれを無意識化できた時に本当の個性的魅力は生まれるというわたしの主張は証明されたも同然ではないでしょうか。さて、いろいろと偉そうにお説教じみたことをながながと喋ってしまいましたが、それではわたし自身はどうなのかというご質問がもしあったとすれば、これはもう顔を赤くして首をすくめるしかありません。『思いやり』の心など美藝公の十分の一にも及ばぬだろうことは確実です。なぜなら、すでに現在、個性的魅力を身につけることの難しさをさんざ並べ立てて演技者志望の皆さんがたをすっかり失望落胆させてしまっているからです。しかしわたしが申しあげたかったことは、むしろ皆さんがたは、ご自分の個性的魅力などにはこだわらず、ただあたえられた役の中から魅力を見出すことにのみ心を向けられるべきであろうということなのです。どうでしょう。ご納得いただけましたか」  最初に質問した女子学生が立ちあがった。「今、先生からうかがったことは、わたしたちが演技論や演技訓練など、本来の授業ではまったく教わらなかったことばかりでした。たいへん勉強になりました。と言うより、眼が開かれた思いです。ありがとうございました」  彼女が一礼して着席するなり、それを待ち兼ねていたらしい脚本家志望の男子学生が勢いよく立ちあがり、なぜかひどく焦った口調で質問しはじめた。「先生。あと、もうあまり時間が残っておりませんので、ひとことでお答えいただいて結構です。今までの質問に関連して、シナリオの勉強をしている者としてこれだけはどうしてもうかがっておきたいのです。今、先生は、俳優は自己の魅力の表現などに心を奪われるべきではないとおっしゃいましたが、それはシナリオを書く者にも言えることなのでしょうか。つまり、シナリオを書く者は、自分がその魅力の虜《とりこ》となっているある特定の俳優を念頭に置き、その俳優の魅力をより引き出さんが為に、彼または彼女を主役としてシナリオを書いてはいけないのでしょうか」 「たいへん面白い質問です」どう答えたものかと考えながらおれは言った。「これはもともと脚本理論の講義なのですから、たとえ時間がなくなってもあなたが納得するまでていねいにお答えすべきでしょうね。むろん、さきほどの個性的魅力と同じことで、建前としては、ある特定の俳優を念頭に置いてシナリオを書くべきではないと申しあげておきましょう。シナリオというものは原則的には、ある特定の俳優の魅力を見せる為に書かれるものではありませんし、そのストーリイの中に登場するのはその俳優自身ではなく、その俳優の扮している別の人物なのですからね。脚本家が創造すべきものは、魅力ある人物像であって、特定の俳優の新しい魅力ではありません。そして魅力ある人物像というのは、映画の場合脚本家と俳優が協力して造り出すものでもあります。まして『ある俳優の魅力』などというものは、もし生み出すにしても俳優が魅力ある人物像を造り出して行く過程で附随的に生まれてくるものであって、第三者である脚本家が生み出してやろうと思っても生み出せるものではなく、せいぜい脚本家自身がその俳優の魅力だと思いこんでいるほんの一部分の魅力をなぞるだけに終ってしまいます」  授業終了時間の鐘が鳴ったが、おれはかまわずに話を続けた。ちょうど前美藝公笠森信太郎氏のことが頭にあり、おれ自身にとっても解決をつけたい問題だったからだ。席を立つ学生はひとりもいなかった。 [#挿絵(img¥055.jpg)] 「わたしの体験から申しますと、たしかに脚本家も人間である以上映画俳優に好き嫌いがあり、そもそもが映画ファンである以上は大好きな俳優もいますので、わたしとてそうした俳優のあの魅力この魅力を散りばめたようなシナリオを書いた時もあります。また逆に、そろそろ観客に飽きられそうになったある大スタアから、自分の魅力を最大限に引き出せるようなシナリオを書いてくれと要求されたことすらあります。しかしこうした意図で書かれたシナリオが映画化された時、たいていは失敗に終るのです。さて、今までお話ししてきたことがすべて建前的な脚本理論であることに皆さんもお気づきでしょう。なぜなら現在の映画界はスタア・システムだからです。誰が主役を演じるのかまったく知らないで脚本家がシナリオを書くなどということは滅多にありません。そこで、ふたたびわたしの体験をお話ししましょう。脚本家になりたての頃、わたしの大好きな俳優、あの軽妙な都会喜劇の二枚目、島襄二氏の主演映画のシナリオを頼まれ、わたしはそれまでに何度も見ていた島襄二氏の魅力ある表情、魅力あるせりふまわし、魅力ある身のこなしのすべてを思い出しながら、これらのすべてをシナリオの中へ盛り込もうとしました。それによって島襄二氏主演映画に新しい魅力をつけ加える気でもいたのです。皆さんご覧になったでしょうか。『ラッシュ・アワー』です。この映画の出来は決してよくありませんでした」 「でもあれは傑作という評判でしたわ」演技者志望の女子学生のひとりが、驚いたような声を出した。「島襄二先生の都会喜劇の決定版と言われたのではなかったでしょうか」 「それは宣伝文句でしょう。心ある批評家からは酷評されましたよ。単なる集大成に過ぎず、新しいものは何ひとつ生み出せなかったとね。また島襄二氏にとっても、あの脚本はずいぶん演じにくかったそうです。つまりどのシーンも今までの映画のどこかのシーンと似ているので、同じことを演じるわけにいかず、ずいぶん困られたそうですし、また、わたしが勝手に島襄二氏の新しい魅力と思いこんでいたもの、たとえばあの早口の口説《くど》きにしても、ご本人にとってはすでに使い古したテクニックで、もう、いやでしかたがないものであったり、という行き違いがたくさんありました。このようにしてわたしは、脚本家ごときが名優の魅力を新しく創造しようなどとは思いあがりに過ぎず、脚本家はシナリオを書く時、誰が演じるかを忘れ、ただストーリイにのみ没入し、登場人物のみを創造すればよいのだということを学んだのです。たとえその個性が演じる俳優の個性から遠く隔《へだ》たっていても、それ故にこそいい演技が生まれる場合の方が多いのです。もちろん例外もあります。登場人物を創造しながら、それが俳優の個性をまざまざと思い出させる人物になってきた場合は、逆に、俳優の個性を利用して登場人物を創造したのだということがいえます。小説を書く時に実在の人物をモデルにすると同様、これはキャラクターを造形する際の基本のひとつでもあります。ただしこの場合も、脚本家がその俳優と個人的に親しくしていた場合に限られます。スクリーンでしか見たことのない俳優のオフ・スクリーンでの個性など、わかるわけがないのですからね。したがって映画界に長くいるプロにしか許されない方法と言ってもいいでしょう。決して皆さんがたのなさるべきことではない。つまり誰かの個性をモデルにして登場人物の性格を造形しようとする時、その誰かは実在の人物に限られるのです。決して決して、誰かの演じた人物をモデルにする、などということがあってはなりません」  おれは喋り続けた。  喋り終えた時には、すでに授業開始の鐘が鳴り、次の授業時間に五分足らず食いこんでしまっていた。  その日の朝刊の第八面、政治欄には、大きく炭坑国営化の記事が出ていた。同じ新聞の第一面、映画欄のトップは、栄光映画が「曲馬団の殺人」を完成したと報じていた。その記事の中で町香代子が撮影中に足を挫《くじ》いたことを知り、おれは心配した。足を挫いたことを軽く見て手あてを怠った俳優が、一生片足を引摺《ひきず》り気味にして歩かなければならなかったことを思い出したからだ。彼女に電話をしようかと思ったが、外出時間が迫っていた。美藝公穂高小四郎と共に前の美藝公笠森信太郎を訪問する日だった。  いくら前美藝公の前に伺候《しこう》するからといって、礼服を着ることもあるまいなどと思いながら仕立ておろしの四つ釦《ぼたん》の背広に着換えていると、電話がかかってきた。長電話になると困るのでお隅さんに出てもらうと、彼女は突然、受話器を耳にあてたまま直立不動の姿勢をとった。美藝公から直接の電話だった。 「驚いたことには、笠森先生がつい今しがたわたしのところへお見えになった」 「いったいどうして」 「今日お訪ねする旨、以前から申しあげておいたのだが、さっき突然お電話があって、来るには及ばぬわたしがそっちへ行くと申されて、一時間と経たぬ間にお越しになった。準備であたふたしていて、君への電話も今になってしまった。すぐに出られるかい」 「勿論だ」おれは大あわてで支度を終え、磯村の運転する例の箱型自動車で美藝公の邸宅に向かった。 「前の美藝公がお見えになっている」美藝公邸の門前に着くと、門番小屋から出てきた仙蔵爺さんは眼を丸くしてうなずきかけながら、おれにそう言った。 「ああ、知ってるよ。だから、とんで来たんだ」 「おれのことを憶《おぼ》えていてくださったよ」鉄柵を押し開けながら仙蔵爺さんは感激の面持ちで言った。「おれの名前をだ」  ロビーでは記者たちが集り、ひそひそ声で話していた。おれが入っていくと、上田老人の制止も聞かず、ひとりの若い記者が駈《か》け寄ってきてあれこれと訊ねはじめた。初めての顔だ。きっと新たに美藝公詰の記者として任命されたばかりで張り切っているのだろう。 「いったい何ごとが始まるのですか。前の美藝公がお見えになった。今度は里井先生だ。まさか美藝公が前の美藝公と共演なさるというのでは」 「ああ。そうだよ」 「ええっ」上田老人に案内されて応接室へ行こうとするおれに追いすがり、若い記者はいきごんでさらに質問した。「で、では、では、その、その脚本を里井先生が書かれるのですか」 「うん」 「ちょちょ、ちょっと待ってください。ちょっと」若い記者はとうとうおれの行く手をさえぎってしまった。「もちろん新しく書かれるんでしょうね。『炭坑』には、前美藝公が演じられるに足るような大きな役はない筈だし」 「里井先生をお通し願いたい」とうとう上田老人が声を荒らげた。「お話が終ってから必ず記者会見はなさる。いつものことではないか」 「聞く権利がある」若い記者は大声をだした。唇の端に泡を吹いていた。「夕刊の締切りに間に合わせるのだ」 「君。功を焦っちゃいかんよ」見かねた他社の老練記者が若い記者をたしなめはじめた。「こういうことはちゃんと話が決定されてから」  おれはその隙に応接室へ逃げこんだ。 「やあやあ。里井さん。とっつかまっていましたね」陽気な声で前美藝公笠森信太郎が片手をあげ、おれに笑いかけた。  彼は応接室の正面にある、背凭《せもた》れが二メートル近い肱掛《ひじかけ》椅子に腰をおろしていた。王様だ、と、おれは思った。まるっきり王様だ。陽気で温厚で、お人好しのように見えて実はなんでも知っている素晴らしい王様、それが笠森信太郎である。髪は黒ぐろとしていて色は浅黒く丸顔、頑丈なからだを派手な色のトゥイードの背広で隠している。どう見ても王者の貫禄は充分である。庭に面した窓際で、やや心配そうな表情をして佇《たたず》んでいる美藝公は、この、前美藝公の前ではたちまち線の細いプリンスに変ってしまっている。 「何か失礼がありましたか」いつも他の客の前ではそうするように、美藝公はいささか他人行儀な口調でおれに訊ねた。 「いえいえ。失礼など何もありませんよ」おれは笠森信太郎に近づき、一礼した。「ご無沙汰を、どうお詫《わ》び申しあげてよろしいやら」 「いやあ。ご無沙汰結構。あなたの仕事はあぶらがのりきっています。全部拝見しておりますよ。映画だけでなく、お書きになるものもほとんどな」 「おそれいります」  おれは笠森信太郎のななめ向かいにある、同じ高さの背凭れの椅子に腰をおろした。この応接室はこの前ブレーン会議を開いたサロンとは異り、どっしりした家具が置かれているチーク造りの部屋で、太い|※[#「木+垂」、unicode68f0]《たるき》の通った天井からは巨大なシャンデリアが下がっている。 「笠森先生から『炭坑』ご出演をご了承いただいたよ」話がどこまで進んでいるのかを問いかけるおれの表情を見て、美藝公がそう言った。「快くお引受けいただいた。ほっとしているところなんだよ」  おれもほっとした。 「なに、その話ではないかと、来る前からおよその想像はしていた。これは非常に楽しくて、非常にいい仕事になりそうだ。穂高君とは『オペラの怪人』以来の共演だね」笠森信太郎は愉快そうに言ってサイド・テーブルからシェリー酒のグラスをとった。「今、穂高君と乾杯したところですが、里井さんもいかがですかな」 「いただきます」 「わたしが『オペラの怪人』で笠森先生と共演させていただいたころは、まだ新人でした」美藝公は笑いながらかぶりを振った。「あの頃よりも、少しは熟達しているつもりです」 「わたしは逆に、体重を少し減らさなくてはな。第一線を退いてから、体重が四キロも増えてしまった。ところで」笠森信太郎は笑顔のままでおれにさりげなく訊ねた。「庄造は、小説のままの庄造でよろしいのかな」 「もちろんです」おれは不意を衝《つ》かれた為ちょっとうろたえてから、大きくうなずいた。「小説のままの庄造が、小説以上に活躍するとお考えください」 「早く脚本《ほん》を読みたいものですな。脚本《ほん》はいつ出来ますか」  すでに大きな役をさんざんやり尽《つく》した筈の笠森信太郎の、飽くことのない藝熱心におれは驚いた。小説もすでに読んでいるのだ。 「やあ。すまんすまん。急がせるつもりはなかったのですよ」ちょっと沈黙したおれに、笠森信太郎が大声で詫びた。それから彼は美藝公に向きなおった。「ひとつ提案があるんだがね」 「なんでしょう」 「現場から遠ざかって二年。『炭坑』に予定されているスタッフ、キャストのほとんどの人とは顔馴染みだが、なにぶん二年間誰にも会っていない。どうかね。『炭坑』関係者全員でわたしの別荘へ来て騒がんかね。わたしにとっては時間の空白を埋める意味もあるが、あなたがたにとっても初顔合せをする人たちの顔つなぎになる」 「それはもう。願ってもないことです。新しい映画にとりかかる時には、たいてい顔つなぎの小さな集りをやりますが、これはもう、ただ飲み食いするだけのパーティなので、お互い親しくなるという効果はあまりありません。で、別荘というのは例の」 「そう、箱根の別荘だよ。あの、湖畔にある」  別荘行きの日取りなどの相談がはじまったところで、おれは美藝公の邸を辞した。キャストの最後の大役が発表されたからには、脚本をいそがなければならない。  ペントハウスの住居に戻り、机の上に置かれている届いたばかりの夕刊を何気なく見ておれはあっと叫んだ。第一面最上段には「美藝公と前美藝公の共演決定」という活字が墨ベタの上の白抜き横書きで大きく浮かびあがっている。あの若手記者の仕業《しわざ》に違いなかった。 「ははあ。やりましたなあ。しかし、待てよ」  心配しながら、おれは記事を読んだ。心配した通りの文章がそこにあった。あの記者は自らが小説「炭坑」を読んだだけの判断に寄りかかり、二人が「炭坑」で共演することはあり得ないと勝手に断定していた。そこには、二人の共演は「炭坑」が撮り終えられた後に、おれのオリジナル・シナリオによって実現されるであろうと書かれていたのだ。 [#挿絵(img¥063.jpg)]  あの記者が社や読者からきびしく譴責《けんせき》されて自分を失うようなことにならねばよいが、とおれは思った。新聞は四紙とっていた。他紙の紙面を見たがもちろんそのような記事はどこにも出ていない。しかし、おそらく今ごろは記者会見によって正しい内容が発表されているだろう。あの若い記者が自分の山気と早合点をどれだけ後悔していることかと考え、おれは腹立ちも忘れて彼を哀れに思った。ノー・コメントと言ってもよかった筈の場合に、ただのお愛想でいい加減な返事をしたのだから、おれにも責任はある。まずいことになったぞ。このような大きな誤報は滅多にないことだし、大新聞ともなれば自社の大新聞社としての面子《メンツ》からも自社の誤報を絶対そのままにしてはおかない。大きな誤報であればあるほど誤報そのものが報道価値を持つのだから、当然報道義務も発生する。いったいどうするつもりだろう。  そんなことを考えている時、当の新聞社から電話がかかってきた。何度か顔をあわせたことのある社主からであった。「夕刊を、もうお読みになられたことと思いますが」 「うん。誤報をやったね。どうするつもりなの」  社主というのはおれとほぼ同年輩の男で、現場の記者から叩きあげた硬骨のジャーナリストである。「申しわけないことをしてしまいました。もちろん、このまま頬かむりなどいたしません。記事にして関係者と読者にお詫びします」 「あなたなら当然そうすることと思うが、ぼくの言うのはあの若い記者の処分なんだよ。あまり厳しく罰しないでやってほしい」 「というと、先生はあの男に対してそれほどお腹立ちではないのですか」 「わたしにも責任がある。怒ってはいないよ」 「それをうかがってほっとしました。あの男、勇み足をするので困りものですが、将来性のある優秀な男なのです。では、彼の処分をおまかせ願います」 「うん。それはもちろんだが」  社主があの記者の才能を認めている様子なので、おれは少し安心した。  翌日、自紙の誤報を詫びる朝刊第一面の記事を読んだあと、第二面を開いておれは唸《うな》った。第二面はほとんど全部が、あの若い記者自身の署名記事で埋まっていたのだ。それはまず自分の経歴の紹介にはじまり、ついに美藝公詰めの記者として抜擢《ばつてき》された時の喜び、必ずやビッグ・ニュースをものにして見せるぞという大きな決意に到るまでを、要領よく、ユーモアを混えた好感の持てる文章で綴《つづ》ったのち、いよいよ昨日の、誤報にいたる顛末《てんまつ》へ、みごとともいえる導入のしかたで筆を進めていた。功名心にはやる自分を底意地悪く描くかと思えば、口から泡を吹いて対象に追いすがる新聞記者の業ともいえる体質を戯画的に描いたりもし、その簡潔な文章の中には自分をさえ客観的に見つめようとする記者としての冷静な眼が光っていた。大笑いして読みながらおれは感動していた。これでこそ大新聞なのだ、と、おれは思った。この記事を読んで、「誤報をユーモアで胡麻化《ごまか》してしまった」などと怒るほど頭の悪い読者はまず現代にはいないだろう。現代の読者はすべて良識を持つ大人なのだ。逆に新聞の自由競争の焦点が厳然として速報性にあったことを思い出す人さえいるかもしれなかった。そしてこの若い記者がいずれベテラン記者となった時、人びとは彼の若い日の失敗をユーモラスな逸話として語りあうに違いなかった。このような文章が書けることを証明したあの記者がいずれ名記者になるだろうこともまた確実だった。なんたる英断か、おれは同年輩のあの社主の顔を思い出しながら感嘆していた。  他の三紙は、昨夕の発表を第一面のトップ記事にしたすぐそのあとで、誤報のことを小さく数行にまとめて報じていた。そこからは他紙の誤報ながら共に読者に詫びているような姿勢さえ感じられた。さらにまた、他紙の若手記者の勇み足を牽制《けんせい》できなかった自分たちの責任を感じている、あの老練な記者たちの人柄さえ感じとることができたのである。  スタッフと何度も討論を重ねながら、やっと、「炭坑」の決定稿が完成したのはそれから二週間のちのことで、その時にはすでにほとんどの配役が決定してしまっていた。全面的書きなおし四回、部分的書きなおしは記憶しているだけで十数回だが、むしろ数知れずといった方がいいだろう。シナリオは二百字詰の原稿用紙に書くのが普通だが、おれはそれを千数百枚破り棄てた勘定になる。小説ならこれほど書きなおすことは滅多にない。シナリオが小説に比べていかに労力を費す仕事かは、現場の経験のない者にはわかるまい。ぼくは小説の地の文つまり描写が下手なので、会話だけですむシナリオを書こうと思います、などという脚本家志望の若者があとを絶たないが、とんでもない間違いだ。描写が下手というのは作文が下手というに他ならず、小説を書くよりも楽をしてシナリオが書け、小説家よりも有名になり金持になれればこんなうまい話はないが、そうはいかない。  決定稿二百枚をかかえ、おれは磯村の運転する車で平野映画の撮影所へ出かけた。昼過ぎというのに広い撮影所の中は、現在撮影中の映画がすべてロケに出はらっていることもあり、いつになくがらんとしている。名監督綱井秋星は撮影所長室にいた。彼はひとりだった。 「おひとりですか」 「所長は自らスケジュールの調整にとびまわっている。炭坑ロケと政府の国営化事業の進行がぴったり一致しないとうまくないのでね。今、労働大臣や通産大臣と会議してる筈だよ」 「他のスタッフは」  監督はおれの原稿から顔をあげ、しげしげとおれを見つめた。「君は聞いていなかったのかね。ほとんどのスタッフ、キャストが決定したので、全員箱根にある笠森さんの別荘へ出かけた。顔つなぎのパーティだ。もう昨夜ごろから騒ぎはじめている筈だよ」 「昨日からでしたか」おれはにやにやした。おれを誘わなかったのは、脚本の仕事に差支えてはという美藝公の心遣いであろう。「監督は行かれないのですか」 「わたしにはここで君の決定稿を待つという仕事があった。これからこいつを読んで、それから君と一緒に箱根へ行くつもりだ。決定稿完成の祝杯は箱根であげようじゃないか。君、今日はこれから他に何か予定でもあるの」 「ありません」とおれは答えた。町香代子を見舞うつもりでいたが、足はもうとっくに治ったそうだし、前美藝公の別荘でのパーティとあらば行かぬわけにはいかない。「お供しましょう」 「では待っていてくれるかね。これを読むから」  監督はおれのシナリオを最初から丹念に読みはじめた。目の前で自分の書いたものを読まれるというのはいやなものだが、この監督の場合は第一稿から第三稿まですでに読んでくれているわけだし、いわば共同執筆者のひとりとも言える。彼は自分の思い通りに書かれている部分ではしきりにうなずいたり、時にはくすくす笑ったりしながら読む。おれの小説の読者もこういう人ばかりだといいな、などと思ったりしながらおれは彼が読み終えるまでじっと傍を動かなかった。いつ質問があるかもしれないからだ。だが、質問はなかった。 「傑作だ」小一時間かかって読み終り、監督は言った。「シナリオとしても傑作だが、映画も傑作になる。傑作にしか、なりようがない」監督はおれに握手を求めてきた。監督の掌は力強く、あたたかだった。  原稿を所内の印刷部に届け、おれと監督は撮影所の庭に出た。晴れ渡ったいい天気である。 「ぼくの車で行きませんか。ここからなら夕食に間に合うでしょう」撮影所は都心部から箱根への行程の途中にあった。 「それはありがたい。撮影所の車が出はらっていて、どうしようかと思っていたんだ。君の車は快適だからなあ」  箱根までのドライヴを告げると磯村は大喜びだった。パーティに加われる上、笠森別邸で一泊することになる。彼にとってもいい骨休めになるのだ。  車はのんびりと東海道を走りはじめた。車の数は少い。おれは車の中からお隅さんに電話をして今夜帰らぬことを告げ、冷蔵庫から飲みものを出した。驚いたことに綱井秋星は手まわしよく撮影所内の食堂で、きわめて豪華な弁当を作らせていた。 「申しわけないが、磯村君の分までは用意しなかった」と監督が言った。  磯村は運転を続けながら陽気に言った。「ぬかりはありません。さっきもう食べました。ご存じとは思いますが平野映画の弁当は、どの撮影所の食堂のものよりうまいんです。今日は蟹《かに》のコロッケがうまいですよ」  弁当を食べたり、景色を眺めたりしながらおれと監督はくつろいで話をした。 「里井君の仕事はこれで一段落したわけだが、次はどこの仕事をやるの」 「まだ決めていません」と、おれは答えた。「じつは藝術大学での講義が『現代シナリオ論』という本にまとまるので、速記録に手を入れねばならんのです。それが終ってからしばらく休養して、のんびりと小説の構想でも練るつもりです」 「小説」仕事熱心な綱井秋星の眼が、きら、と光った。「そうですか。小説を書くつもりですか」 「まだまとまってはいませんが」おれは苦笑した。「でも、ご心配なく。小説を書く限りは、すぐに映画にしやすいようなものは絶対に書きませんよ。小説独自の表現、小説でしかやれないことをやるつもりです」 「ううむ。それはわかるが」監督は考えこんだ。  弁当を食べ終り、サモワールで茶を沸《わ》かして飲み、さらにアイス・コーヒーを飲み終ってからも、綱井秋星は長い間窓外の景色を見つめたまま沈黙を続けていた。やがて彼はおれに向きなおり、誰に聞かれるという心配もないのにひそひそ声でおれに囁《ささや》きかけてきた。「映画にはとてもできないような小説と取り組んで名作を作るのが演出家の理想なんだよ。ねえ君。約束してくれませんか。その小説、書きあげたらぼくに一番先に見せてくれると。いや。ぼくだけでなくてもかまわない。美藝公と、美藝公のブレーンにだけ、原稿の段階で読ませてくれませんか」  そうする、と、おれは約束した。  湖が夕陽で赤く染まっているころ、おれたちは湖畔にある白亜《はくあ》の殿堂、前美藝公笠森信太郎の、ホテルかと見紛《みまが》うばかりの巨大な別荘に到着した。おれと監督の到着を知っていたらしく、玄関で待ちかまえていた小町氏と藤枝嬢がおれたちを大食堂に案内した。三組のシャンデリアがさがっている宮殿の一室の如き大ホールに、スタッフ、キャスト、その他合計三十人ばかりの面面が、すでに用意のできている料理には手をつけず、おれたちを待っていた。おれと監督の到着を小町氏が大声で告げると全員がいっせいに拍手をする。おれはたちまちメンバーの豪華さに圧倒された。  笠森信太郎、穂高小四郎にはさまれて、「炭坑」主演者のひとり姫島蘭子が晴れがましさに頬を染めていた。むろん岡島一鬼、山川俊三郎の顔も見える。その他名優がずらりと揃っている。 「こちらです」  おれの席へ藤枝嬢が案内してくれた。隣席はと見ると右側が「活動写真」で田舎娘を演じ大好評だった京野圭子、左側が「西遊記」で猪八戒を演じた名優浅間仙太郎である。久しぶりの対面をご両人と喜びあううち、前美藝公笠森信太郎が立ちあがって軽く咳《せき》ばらいをし、にこやかに一座を見まわした。ざわめきが一瞬、それはもう見ごとなほどにおさまり、一座がしんとする。グラスの音ひとつしない。 「紳士淑女諸君。里井勝夫氏、綱井秋星氏がお見えになり、われわれのパーティに加わって下さったということは、とりもなおさず『炭坑』のシナリオが今日、ついに完成したことを意味します。今夜はひとつ、おふたりの為に乾杯していただきたい」  近くのホテルから出張してきているらしい給仕たちの手によってシャンパンの栓が抜かれ、全員がシャンパン・グラスをさしあげる。 「では、おふたりの労を心から犒《ねぎら》いつつ、シナリオ完成、万歳」笠森信太郎の底力のあるバリトンにうながされ、全員が万歳を何度も叫ぶ。  そして豪華な晩餐《ばんさん》が始まった。 「向かい側の席にいる若い女の人たちは誰だい。女優さんのようでもあるが、スクリーンで見たことは一度もない顔ばかりだし」おれは京野圭子にそう訊《たず》ねた。 「皆さんお綺麗《きれい》でしょう」と彼女はくすくす笑いながら答えた。「あのかたたち、女優の卵ですわ。笠森先生が個人的に指導していらっしゃる若い人たちですのよ。今日は姿が見えないけど、他に若い男性も五人ほど指導なさっているそうですわ」 「ほう」おれは現役を退いてまだ後進を育ててやろうという意欲を失わない笠森信太郎の情熱にいささか驚いた。趣味やひまつぶしで出来ることではない。 「笠森さんの心遣いですよ」おれたちの会話を聞いていた浅間仙太郎が口をはさんできた。「なにしろ今回の『炭坑』は出演する女優さんが四人だけ。男性多数のパーティで彩りに乏しかろうと、笠森さんがご自分の秘蔵っ子であるあのお嬢さんたちも招待なさったのです。おっと。その鱈《たら》の切り身にそのソースをかけてはいけません。こちらのポロ葱《ねぎ》の入ったソースをお使いなさい」  さすが猪八戒を演じただけあって浅間仙太郎は食通である。それだけではなく食欲も凄《すご》い。食卓の中央に出ていた仔牛の心臓の焼いたものを三切れほどぺろりと平らげたのには驚いた。しかも彼は自分が食べて旨《うま》かったものを誰かれなくひとにすすめるのだ。 [#挿絵(img¥071.jpg)] 「ああ京野さん。その海老《えび》と米のサラダを食べてごらんなさい。このソース・ビネグレットをたっぷりかけてね。乙なもんですよ。君、君、君。その鴨はもう少し背中の方の肉をお取りなさい。固いように見えるが、そこがいちばん旨いのです。里井先生。このアンチョビ味のサラダは珍らしくバタビアですよ。お取りしましょう。たいていレタスで代用してあるものですがね。もっといかがです」といった具合である。おれとはそもそもからだつきの違う巨漢なのだから当然だが、底なしの胃袋だ。すでに満腹した女性たちは目を丸くして彼の食べっぷりを眺めている。さすがに気がひけたか、浅間仙太郎は両隣りのおれと大川儀一郎に気を遣いはじめた。「狭くありませんかな。わたしがどんどん肥るので」  全員が笑う。 「そんなことはありませんが、浅間さんにつられてわたしは食べ過ぎてしまった」「曲馬団の殺人」で主役を撮り終えたばかりの二枚目大川儀一郎が胸を撫でた。 「わたしもだ」と、おれは言った。 「それはいけません。これからいよいよ最後の大物、子羊の腿肉をウイスキーで煮たここのコックの自慢料理が出る筈です」と、浅間仙太郎は言った。「皆さん、それを召しあがらなくては」 「おう」と全員が感嘆とも悲鳴ともつかぬ声をあげる。 「わたしは頭痛がしてきましたわ」京野圭子が笑いながらおれに耳打ちした。  そもそもこの浅間仙太郎なる俳優、最初にデビューした、今から十年ほど前には、さほど肥っていなかったのである。出世作となった「料理人《コツク》長」の主役として料理の勉強をしはじめたのがきっかけとなり、とうとう料理研究と食道楽の大家になってしまったのである。出版社からは料理の本を書けとすすめられているらしいが、わたしは俳優であり料理についてはアマチュアであるといって頑として書かないでいるのも彼の偉いところである。  晩餐が終ると一同は食堂に続いているカクテル・ラウンジヘ移り、酒を飲みはじめた。カクテル・ラウンジは三段ほどの階段を中心にして二つの部分に分かれている。ラウンジはまた応接室とも接していて自由に行き来ができるようになっている。映画俳優たちのパーティだと歌ったり踊ったりの大騒ぎばかりと思われ勝ちだが、そんなパーティばかりではない。一同は応接室のあちらの隅に三人、カクテル・ラウンジのこちらの隅に四人と、三三五五小人数のグループに別れ、時にはメンバーの交代などをしながら、グラス片手に熱心な議論をはじめた。さすが「炭坑」のキャストや出演者として選ばれただけのことはあり、仕事熱心、藝熱心な人物ばかりである。  おれはカクテル・ラウンジの中央、純白のグランド・ピアノの横に立ち、美藝公、岡島一鬼、姫島蘭子、それに名カメラマン広田俳幻の四人を相手に、炭坑の落盤事故の場面の撮影をどうするかについて意見を戦わせていた。セットだけで坑内のリアリティが出せるかどうかを危ぶむ広田俳幻に、岡島一鬼が、むしろセットでなければリアリティが出ないと主張し、ちょっとした論争になっていたが、言うまでもなく頑固で強気の岡島一鬼が優勢に立っていた。その時、ラウンジの高い方のフロアーで話していた三人の男優が姫島蘭子を呼んだ。彼らは彼らでこの映画の演技について語りあっていて、主演女優たる彼女の意見が必要だったのであろう。われわれの会話を彼女はただ聴いているだけだったし、彼女はわれわれの議論に自分の意見は不必要と判断したらしく、軽く一礼すると白いドレスの裾をなびかせて階段をのぼって行った。  不思議なことに、その途端、広田俳幻の主張が優位に立ってしまった。なぜか岡島一鬼は急に気弱な表情になり、去って行った姫島蘭子の方をちらちらとうかがいながら、広田俳幻の意見をおとなしくうなずいて拝聴するばかりという態度に変ってしまったのだ。ははあ、と、おれは思い、やはり同じことに気づいたらしい美藝公と顔を見あわせた。美術監督岡島一鬼は、思いがけぬことに女優姫島蘭子を恋していたのだ。今までは彼女が傍《かたわ》らにいたため張り切って議論をしていたものの、その途中で彼女に去られてみると、自分のお喋《しやべ》りが彼女を退屈させたのではないか、もしや怒らせたのではといった心配が先に立ち、とても議論どころではなくなってしまったのであろう。そんなこととは夢にも思わぬ広田俳幻は生真面目に現場ロケを主張し続け、美藝公とおれはあまりにも意外な新発見になかば茫然《ぼうぜん》としていた。いったいいつから想っていたのだろう、と、おれは考えた。この強情一点張りの岡島一鬼が、ひそかに姫島蘭子を恋しはじめたのはいつ頃からだ。昨日、もしくは今日からだろう、きっと一目惚れだ、と、おれは判断した。ブレーン会議の席上で彼女の話が出た時、彼は彼女のことをまったく知らなかったではないか。  恋愛|沙汰《ざた》などとはまったく縁もゆかりもなさそうに見えるこの岡島一鬼が、あの姫島蘭子に純情一途の恋をし、打ちあけることさえできずにいる。そう思いながら眼の前にいる岡島一鬼のいかつい顔をあらためて眺め、おれは思わず笑い出しそうになった。美藝公も同じ思いらしく、けんめいに笑いをこらえている。 「ちょっと失礼」吹き出してはまずいので、おれはいそいでその場をはなれた。  応接室へ入ろうとしたおれは、うしろから大川儀一郎に呼びとめられた。栄光映画ピカ一の二枚目男優で今や人気絶頂。今まで遠慮しておれに話しかけてこなかったのはどうやら「曲馬団の殺人」で町香代子と恋人同士を演じた為の照れがあるからだろう。彼は話のきっかけを求めてしばらくもじもじした。 「ぼくがついていながら、町さんに負傷させてしまいました」彼はそう言った。「申しわけありません」 「もう、すっかりいいそうだよ」おれは彼に笑いかけた。「撮影中にはよくあることさ。ことにああいう映画じゃあね」  彼はあきらかに、ほっとした様子だった。 「それよりも」と、おれは言った。「栄光映画が、よく君の出演を許したもんだね」 「炭坑」出演者のほとんどは汚れ役である。二枚目で売っている大川儀一郎にとってはファンを大量に失うおそれもあり、たいへんな冒険なのだ。 「わたしにとってはいい転機になりますから」大川儀一郎は決意をこめてきっぱりと言った。「いつまでも二枚目だけをやっているつもりは前からなかったのです。この『炭坑』のお話があった時、わたしはちっとも迷いませんでしたよ。だって美藝公や前美藝公と共演できるなんて機会は二度とあるもんじゃない。それに比べればファンが減るくらいのこと、なんとも思いません。いや。それくらいのことで去って行くファンであれば、そもそもそれはぼくの本当のファンではなかったと思いたいのです」  おれはうなずいた。「うん。たしかに君はよく勉強しているし、今でこそ二枚目をやっているが、もともとは演技派だった。だからこそ君のファンのほとんどがインテリなんだよ。そう。君が『炭坑』で汚れ役を、しかも端役をやったからといって、逃げて行くようなファンはあまりいないだろうね」 「ありがとうございます。でも、端役とはいえ、あの久作というのはたいへん難しい役です。そのことで、ちょっとうかがいたいんですが」  役つくりのことで、大川儀一郎はおそろしく難しい問題を吹きかけてきた。彼がそこまで深く考えていることにおれは驚き、感銘を受けた。  久作の性格設定を二人で考え、話しあっているうちに、いつの間にか時間が過ぎたらしい。 「さあて諸君」前美藝公笠森信太郎がラウンジの階段に立ち、全員に呼びかけた。「今夜はパーティ二日めの晩です。疲労が溜まるといけない。特に俳優にとって続けさまの夜ふかしはよくありませんぞ。しかも今夜は綱井さん、里井さん、今朝がたまでわれわれの為にお仕事を続けてきてくださったかたがお二人お見えです。きっとお疲れのことでしょう。さらにまた明日は、早朝から湖に出て舟遊びをすることになっております。寝不足であってはなりません。この辺で散会にしたいのでよろしくご協力を。では諸君。よい夢をご覧になってください」  なにしろ王様のおっしゃることなので全員に異存はない。「まだいいでしょう」「もっと飲みたい」などと言う意地の汚い者はひとりもいなかった。 「里井先生。こちらへどうぞ。お部屋へご案内しますわ」藤枝嬢がやってきて、おれにそう言った。  おれが通された部屋は湖に面した三階の一室だった。藤枝嬢がシーツを整えてくれている間おれはもう一杯ウイスキーを飲みながら月光に映えている湖面を飽かず眺めた。一生の思い出になるような良い仕事、大きな仕事をやりとげたという満足感が、はじめてじわりと胸の内に湧き、おれは心地よく酔っていた。ベッドに入るなり、昨日からの疲れでおれはたちまち眠りこんでしまった。  遠くの方で若い女性のはしゃぐ声や男たちの笑い声がする。あの楽しそうな一団に加わりたい、切実にそう願った為か、おれはやっと眼が醒めた。疲労はすっかりとれている。たいへんだ。もう舟遊びが始まっているらしいぞ。まるで子供っぽく、浮きうきしながらおれは服を着た。あれに加わらずにおくものか。  おれが疲れていると思ってわざと誰もおれを起さなかったらしい。一階に降りていくと食卓はもう綺麗《きれい》に片づけられている。藤枝嬢が笑いながらトーストとミルク、それにコーヒーなどを用意してくれた。 「まだそんなにお急ぎになることはありませんわ。映画雑誌のかたが見えて、今、湖畔でグラビアの撮影中です」  なるほど湖畔に出てみると、昨夜のメンバーに加え、今までどこに身をひそめていたのか雑誌記者やカメラマン、それに各俳優のマネージャーや運転手などもあらわれてあたりは大|賑《にぎ》わいである。静かな湖畔が一夜にして花園と化したかに思える華やかさだ。豪華メンバーが揃っているのでカメラマンは被写体に迷っている。あちらでは美藝公穂高小四郎と姫島蘭子のボート遊び、こちらでは浅間仙太郎の珍ポーズ、ヨットの上では美女群にとり圍まれた前美藝公笠森信太郎の滅多に見られぬ姿、いずれの男優も女優も、珍らしいほどのサービス振りだから、カメラマンは狂喜して駈けまわっている。  撮影風景をしばらく見物したのち、おれはひとり湖岸づたいに静かな森の方へと歩き出した。綺麗な空気を吸いこんで都塵《とじん》にまみれた肺の大掃除だ。おれはこのあたりを背景にしたおれの出世作を思い出した。和製西部劇「湖畔の対決」だ。添え物のプログラム・ピクチュアだったが、厭《いや》がらず、馬鹿にせず、才能のありったけを注ぎこんで書いたおかげで思いがけぬ佳作になってしまった。あれからもう十年になる。その十年はまたたく間に過ぎた。映画にのめりこんでいて、時間が経つのを忘れていたのだろう。この辺で自分を、そして自分を取り巻いているこの世界を、じっくりと見なおすべきではないだろうか。  ひとまわりして戻ってくると、小町氏が大声で叫んでいた。「さあさあ。撮影はもう終えてください。記者やカメラマンの皆さんも、舟遊びに加わってください。湖の真ん中へ出ます」  ヨットや伝馬船、各種ペダル式ボート、それにさまざまな飾りのついた大型ボート等が十数隻、あるものは鏡のような湖面に浮かび、あるものは湖岸にひきあげられている。全員が思い思いの舟に、はしゃぎながら乗りこんだ。おれは浅瀬に浮かんでいた白鳥の頭を持つ大型ボートに乗った。あとから水着姿の姫島蘭子がやってきて舳先《へさき》に腰をおろし、次に浅間仙太郎がやってきて中央にいるおれを艫《とも》に追いやった。 「わたしが漕《こ》ぎましょう。里井先生」  大食相応の力持ち浅間仙太郎がオールを握ってくれるなら安心である。  そこへ岡島一鬼がやってきた。上は半袖、下は膝まである珍妙な縞《しま》の水着姿である。 「もう乗れませんわ岡島先生」と、姫島蘭子が言った。「いくら浅間さんが力持ちでも、四人は無理よ」  美術監督はしかたなく山川俊三郎や京野圭子の乗っているヨットに駈けつけた。だがそのヨットもすでに満員で、彼はしめ出されてしまった。 「おうい。岡島先生がはみ出しっ子になってるぞう」若い男優たちが騒ぎ立てた。「誰か乗せてあげろよ」  全員が笑い、はやし立てたので、浜でまごまごしていた岡島一鬼はたちまち顔に朱を注ぎ、鬼瓦のような表情になってわめきはじめた。「そうか。誰もおれを乗せねえならそれでいい。誰が乗るもんか」彼は砂の上にあぐらをかき、腕組みした。「おれは嫌われた」 「まあ。一鬼先生が赤鬼になってしまったわ」くすくす笑いながら姫島蘭子が言った。 「ぼくが片方、漕ぐことにしよう」おれは艫から浅間仙太郎の隣りに場所を移してオールを片方とり、岡島一鬼に呼びかけた。「おうい。もうひとり乗れるぞう」 「岡島さん。このヨットにも、もうひとり乗れますよ」美藝公も自分のヨットからそう叫んだ。 「いいや乗ってやらねえ」岡島一鬼はさらにわめき続けた。「おれはどうせ皆の嫌われ者だ。だから仲間はずれにされる」  美術監督の駄駄っ子ぶりに、とうとう全員が笑いはじめた。 「やいやい。何がおかしい」彼は吠《ほ》えた。「舟になんか、乗るもんか」  おれは笑い続けている姫島蘭子を振り返って言った。「岡島さんは、どうやら君が好きらしいんだよ」 [#挿絵(img¥079.jpg)]  姫島蘭子の顔から笑いが消えた。彼女はたちまち岡島一鬼の自分に対する今までの態度を思い返して、強く思いあたることがあるようだった。彼女はすぐにボートからとびおり、水しぶきをあげながら岸辺に駈けもどって美術監督の腕をとった。「岡島先生。そんなに怒らないで。さあ。わたしのボートにお乗りなさいな」  とたんに岡島一鬼は悄然《しようぜん》としてしまい、赤い顔をさらに赤くした。姫島蘭子に腕を引かれ、彼はしおしおとして、おとなしく歩きはじめた。その様子に全員はまた大笑いをし、はやし立てる。 「あの人は名優ですなあ」やってくる二人を見ながら、浅間仙太郎が感に堪えぬ口調で言った。「役者になればよかったのに。皆から愛される悪役なんて、滅多にいませんからねえ」  そうだ、ここでは皆が自らの役柄を心得ている、と、おれは思った。その役柄以上に出しゃばることなく、それぞれの役柄の中でその役柄を楽しみながらみごとにこなし、同時に他人《ひと》をも楽しませている。しかしそれは、たいへん難しいことでもあるのだ。それが可能なのは、おそらくここにいる人すべてが最高の人士ばかりだからであろう。みな、いい人ばかりであり、やさしい人ばかりなのだ。すばらしい世界に生きている我が身の幸福を、おれは讃《たた》えずにはいられなかった。  舟遊びは正午過ぎまで続いた。  その日の楽しかった思い出は、あと味をじっくり一週間ばかり、ひとりで楽しむことができた。他の連中はそうではなかっただろう。すぐに「炭坑」の撮影に入ったからである。脚本家というのは仕事を終えてしまうともうその映画とはほとんど関係がなくなってしまう。せいぜい俳優に支障ができて配役が変更になった時、科白《せりふ》の書きなおしの相談を受ける程度である。  藝術大学での講義を「現代シナリオ論」にまとめる作業は思いがけず手間どった。ただ喋ったことを文章になおすだけなら手を加えるだけですむが、「論」と名がつく以上は理論として首尾結構が整っていなくてはならない。ほとんど書きおろしと同じ、いや、むしろそれ以上の難しい仕事といえた。ただ、これは大学での講義を引き受けた際にも同様のことが言えたと思うが、自分自身の勉強にもなった。こういう仕事は首尾一貫性を持たせようとする為、書いているうちにともすれば考えかたがあるスタイルに徐徐にはまりこんでいき、ついには城壁のように強固で融通のきかない思想を作りあげてしまいがちである。それが正しいのならかまわないがもし間違っていれば大変だから、常にこれでいいかと自分を疑ってかかり、他の著作の中の思想を万遍なく眺めまわしながら作業をすすめなければならない。いわば自分との戦いである。自分自身の勉強になったというのはそうした意味なのだ。 「炭坑」の撮影状況は毎日朝夕の新聞の第一面で刻刻と報じられていたから、およそのことは知ることができた。なにしろ前・現美藝公の共演とあって報道価値、報道効果は抜群、政治欄にもこれと相呼応した政府の炭鉱政策が次つぎと掲載され、第八面としては珍らしく活気を呈していた。ロケ地には都から近距離にある常磐炭鉱の各所が選ばれ、ここはそもそも埋蔵量が多いにかかわらず北海道炭や九州炭に比べると発熱量の低い炭しか採れないといわれたために閉山したところが多かったのだが、国営化されて坑内労働が奨励されたこととロケ地に選ばれたことで昔以上の活況を呈しはじめていた。全国各地の炭鉱にやってくる坑夫志望者は一日に数千人ということで、おれはこの数字を新聞で読んで驚き、美藝公の影響力を再認識せずにはいられなかった。  おれの恋人、町香代子は、ふたたびホーム・グラウンドに戻り、C・P・Pで「宇宙武侠艦」という総天然色の空想科学映画を撮影中だった。 「女性の輝き」以来彼女主演のいいメロドラマの企画がないのでちょっと心配していたのだが、「宇宙武侠艦」で主人公の恋人役を演じたあと、正月用の大作、新聞連載で大好評だった文豪蔦見万丈の「鴛鴦物語」の女主人公《ヒロイン》を演じることになったと聞き、ひと安心した。しかしご本人にはさっぱり会うことができなかった。いつかの夜の思い出だけが切なくいつまでもおれの胸から消えることがなく、なさけない話だが夜など彼女のことを考えて急に孤独感に襲われ、涙をこぼしたりしたものだ。主演女優を恋人にしてしまった男の運命だと思い、彼女だって同じ思いに違いないなどとも思って、自分をなぐさめるしかなかった。 「宇宙武侠艦」完成試写会の招待状が届いた。当然町香代子も来るに違いない。場所はおれの書斎の窓から見おろせる、映画通りに面したC・P・P本社ビル内の試写室である。おれはその試写室がたいへん小さく、椅子がせいぜい四、五十席しかないことを知っていた。新聞記者等を呼ばぬ内輪の試写会なのだろうか。だとするとなぜおれなどを招いたのか。町香代子がおれを招待するよう手配してくれたのだろうか。それとも他の誰かが。おれは疑念を抱きながら当日、すぐ近くのC・P・Pビルまで徒歩で出かけた。それはあたりに薄闇が立ちこめはじめた黄昏《たそがれ》どきだった。  三階にある試写室に入ると、そこにいるのは案の定C・P・P関係者だけだった。本社の重役たち、宣伝担当者、そしてこの映画の主なスタッフと俳優たち。ほとんどの人物とは顔馴染みなのでやあ、やあなどと挨拶しながら、おれは最後列の椅子に腰をおろした。いちばん前の席にいる町香代子の横顔がちらと見えた。ほんの一瞬の印象ではあったが、元気のない様子が気にかかった。 「やあ。来てくれたね」この映画の監督、中山明峰がパイプ煙草の匂いをぷんぷんさせながらやってきておれの横にどっしりと腰をおろした。 「ぼくを招待してくれたのは君だったの」  おれの質問には答えず、中山明峰はおれの耳に口を寄せて囁いた。「町香代子嬢のことだがね。彼女、撮影中にだんだん元気をなくしていった。病気かと思って、われわれ皆ずいぶん心配したものだ。しかし、病気じゃなかった。あきらかに原因は、君にあった」 「なんだって」 「しっ。でかい声を出しちゃいかん。つまり彼女は君にまったく会えぬことで意気|消沈《しようちん》していたんだよ」  おれは顔を赤くした。「まさか」 「わしは映画監督だ」と、中山明峰は言った。「ほんとの病気と恋|患《わずら》いの区別がつかんと思うかね」  宣伝担当者の短い挨拶のあと、室内が暗くなった。  監督が、また囁いた。「さあ。彼女の隣りの席へ行ってくれ。ほんとはわしの席だ。空けてある。すぐ行ってやってくれ」  監督に追い立てられ、しかたなくおれは腰をあげて最前列へ進み、町香代子の左隣りの空席にすわった。町香代子の、はっと息をのむかすかな息遣い。わずかな気配でおれだということを察したらしい。 「ほんとに久し振りだったね」と、おれはささやいた。 「あ。ほんとに、あなたが。どうしてここへ」彼女は混乱していた。  豪壮な音楽と共に「宇宙武侠艦」が始まった。椅子の木の肱掛けを握りしめている町香代子の左手に、おれは右手をのせようとした。彼女は一瞬びくっとして手を引っこめたが、すぐに、けんめいさを手の動きにあらわしておれの右手をまさぐり求めてきた。おれはその手を握りしめたのち、彼女の手の甲をやさしく二、三度叩いてから手を引っこめた。上映中ずっと手を握りしめたままでいるというマナーはない。見ている映画に対して失礼になるし、殊《こと》にここは試写室、その映画を作った人達が集っているのだ。 「中山監督の招待だよ」タイトルが流れはじめた時、おれは彼女の知りたがっていることだけを耳打ちして、あとは沈黙した。彼女も一度小さくうなずいたきりで、何も話しかけてはこなかった。 「宇宙武侠艦」は楽しく、よくできた映画だった。単に冒険アクションだの特殊撮影の宇宙船や怪獣を見せようとする為だけに未来だの宇宙だのに材をとったという見世物映画ではなく、空想科学物語としての驚異と詩情があった。装置、小道具、共に未来世界をよく考えて工夫されたものばかりで、それを見ているだけでも退屈することはなかったし、俳優たちは主演者はじめ端役に到るまで誇張に陥ることなく、物語を荒唐無稽と馬鹿にすることもなく、それぞれが分を守って過不足なく演じていた。しかも彼らは空想科学物語の、作家にさえできない、演技者としての方法での創造に成功していた。彼らの演技にはあきらかに、未来社会や宇宙空間での人間の心理をけんめいに想像し勉強したと思える奥深さがあった。 [#挿絵(img¥085.jpg)]  映画が終るなり、町香代子はまたしてもおれひとりのものではなくなってしまった。映画の成功を喜び、重役連が次つぎと彼女のところへやってきて感謝のことばを述べはじめたからだ。おれが傍にいては彼女も気が散っていけないだろうと思い、おれはすぐ試写室を出た。試写室前のロビーでC・P・Pの宣伝担当者につかまってしまい、しきりに批評を聞きたがるのでやむなくおれはひと言、ふた言感想を述べた。しばらくしてやっと解放され、帰ろうとしながら振り返ると、あとから重役たち二、三人に圍まれながら試写室を出てきた町香代子が、おれの視線に気づいて立ちどまり、じっとおれを見つめた。おれも離れたところから彼女を見つめ返した。彼女に何か話しかけようとした宣伝担当者が、彼女の視線を追っておれの姿を発見し、気をきかしてさりげなくあさっての方角に立ち去った。おれは彼女に笑いながらうなずきかけた。彼女もにっこりして小さくうなずいた。その微笑はあきらかに満足感によるものだった。おれ自身もそれ以上のことは何も望まず、満足していた。なんといっても町香代子と隣りあわせで彼女の映画を見ることができたのだ。ながい時間、彼女と二人きりでいたのと同じことだ。おれは自分にそう言い聞かせ、C・P・P本社のビルを出た。  映画通りを自分の住まいのあるビルヘと戻りながら、おれは幸福感に満ちていた。すでにあたりは暗く、ビルの窓には灯が入り、カフェーやクラブのネオンサインや電飾看板が明滅し、並木の下の歩道では瀟洒な紳士や着飾った婦人たちがそぞろ歩きを楽しんでいる。こんなに幸福であっていいのか、などと、現金なもので恋人にひと眼会えた途端おれはもうそんなことを考えはじめていた。おれがこんなに幸福でない世界、いや、人びとがこんなに幸福でない世界だって、どこかにあるのではないか。あとで考えてみれば、おれがその「奇妙な」考えにとりつかれはじめたのはその時が最初だったようだ。  もしこの国が今のように、アジアのハリウッドと呼ばれる映画産業立国ではなく、したがって映画を中国や東南アジア各国はじめ世界各国へ輸出していなかったとすればどうだろう。おれは今のように幸福でいられただろうか。その場合、おれは何を職業とし、今ごろどうしているだろう。またこの国はその経済と文化の基盤をどこに置いていただろう。観光資源ならある。現在も世界に誇る観光国ではある。しかし観光は輸出できないから、あれだけではとても駄目だ。映画輸出国でない日本など、おれにはとても考えられなかった。戦前の、高い技術を欧米の映画から学んで繁栄した映画文化、そして敗戦後、娯楽に餓《う》えた国民に夢をあたえる唯一の産業としてさらに発展し、次第に巨大化した映画産業。まったく、観光以外他になんの資源もないわが国が繁栄できそうな産業としては、映画しかないではないか。  しかしおれはけんめいに他の可能性を考えた。なかばむきになって考えた。何か、奇怪なイメージに富んだ新しいアイディアが生まれそうな気がしはじめていたからだ。  その時、その空想はそれ以上ひろがらなかった。考え続けながらわが家であるペントハウスに戻ってくると、大事件が待ちかまえていたからだ。玄関ホールにはお隅さん、金丸コック長、それに運転手の磯村がいて、お隅さんは泣いていて、男たち二人は心配そうな顔でお隅さんをなぐさめていた。  おれはびっくりした。「ど、どうした」 「あ。旦那さま。大変です」お隅さんは泣きながらおれにとりすがってきた。「美藝公が。美藝公が」 「なにっ。美藝公がどうしたんだ」 「いえ。まだ美藝公がどうにかなられたというわけのものではないのです」磯村はおれを心配させるような言いかたをできるだけ避けようとしていた。「ロケ隊が行っていたのと同じ、その炭坑で、落盤事故があったのです」 「えっ」 「いやいや。お隅さんが、新聞社からかかってきた電話で聞いたことといっては、ただそれだけでございましてな」金丸コック長がいそいで横から言った。「それにもかかわらずこのお隅さんは、もはや美藝公の身を案じてこれ、このように泣いておるのです」 「いつごろだ」 「電話がかかってきたのはつい今しがた」すぐに冷静に戻ってお隅さんは言った。「事故が起ったのは五時ごろ。二時間ほど前だそうでございます」 「詳しいことがわからんかな。まだ新聞には出ていないだろうし」たちまちおれも、じっとしていられないほど心配になってしまった。「テレビを見よう。何か報道しているかもしれない」 「テレビ」コック長が目を丸くした。「テレビなどというもので、そういう報道をやっておりますかな」 「学校放送やスポーツ中継だけがテレビの役目じゃない」おれは居間兼用の書斎に入りながら言った。「こういう時の為のテレビでもある」お隅さんだけがついてきた。  だがテレビの画面は無言で株式市況の数字を流しているだけだった。 「現場へ行く」  新聞社や撮影所、その他あちこちに電話をかけたが、結局詳しいことは何もわからないのでおれはそう言った。 「あの、これからでございますか」お隅さんがたしなめるような口調で言った。 「そうだ。ぼくが行ったって何の役にも立たないことぐらいわかっている。しかし行かずにおれるもんじゃない。こんなところでじっと待っていることはできないよ。仕事など、とてもできないし」  お隅さんはしばらくおれの顔をじっと見つめてから、ゆっくりと頷《うなず》いた。「そうおっしゃるだろうと思っておりました」 「磯村に車を出してもらってくれ。徹夜でとばすことになるが」 「それでしたら」と、お隅さんは言った。「もう整備をはじめております。それからコック長も、お持ちになるお夜食の準備をいたしております。あと五分お待ちください」  言うなり身をひるがえし、彼女も台所の方へ駈け去った。三人とも主人の気性を知り抜いているのだ。  磯村の運転する車でおれは深夜の水戸街道を国鉄の常磐線沿いに常磐炭鉱へと向かった。撮影隊のロケ地は常磐炭鉱の西端にあたる日立市の北十数キロの川尻炭鉱である。  到着した時はすでに真夜中を過ぎていた。ロケ隊の大きな照明器具を利用してあかあかと照らし出されている現場の坑口附近では炭鉱関係者やその家族、さらに新聞記者やカメラマン等があわただしげに、ある者は救出活動で、ある者は報道や連絡で駈けまわっていた。どこにロケ隊の連中がいるのか、俳優たちまでが坑夫の恰好《かつこう》をしている為まったくわからない。車を降り、磯村と並んでこの有様を見ながら茫然《ぼうぜん》としていると、おれたちを見つけた綱井秋星監督が声をかけてきた。  おれはすぐ、噛みつくように訊《たず》ねた。「美藝公は無事ですか」 「無事だ」と、監督も怒鳴り返した。「いちばん大きな落盤は第二|立坑《たてこう》内の第一水平坑道《フアースト・ドリフト》で起った。原因は弱い地震だ。われわれは採鉱休止中の第四立坑で撮影していたので全員怪我はなかった」 「で、美藝公は今、どこに」 「救出作業に加わっている。他の連中もだ。みんな第二立坑へおりて行った」  おれは唖然《あぜん》とした。「大丈夫ですか。そんなことをして」 「事故はちょうど、一番方と二番方の交勤の直後に起ったから、一番方が帰ってしまっていて、救出活動の手が足りなかった。美藝公も、笠森さんも、みんな坑内に閉じこめられた坑夫を助けようとしてとびこんでいったんだ」 「笠森先生までが」 「ああ。笠森さんなどはさっき、負傷した坑夫を二人もかついで出てきたよ。それでまた、引き返していった」 「いったい、何人が入坑していたんですか」 「百五十一人だそうだ。坑口近い第一水平坑道《フアースト・ドリフト》での落盤だったから、全員が閉じこめられた。脱出口から自力で這い出てきた者九十人、今までに救出された者五十八人、あと三人が坑内にいる」 「死者は」 「わからん」監督は眉をひそめて坑口を振り返った。「今までのところは重傷者が二人だけだが、まだ行方不明のままのあとの三人が問題だ」  坑口附近に集っていた連中がわっと歓声をあげた。「出て来たぞう」  おれたちは坑口ヘ駈けつけた。本ものの坑夫たち、坑夫たちに扮装した俳優たちが坑道の奥を覗きこんでいる。やがて坑夫ひとりを背負って、われわれが鉄ちゃんと呼んでいる若いカメラマン助手がよろめきながら、防爆型蛍光灯の明りの下をこちらへやってきた。用意されていた担架に坑夫が移されると、またわっと歓声があがった。 「篠原だ」 「大丈夫か」 「たいした怪我はしていないようだぜ」 「いや。骨折しているんだ」  鉄ちゃんはそう言って負傷者を引き渡すと、まっ黒の全身を投げ出すようにして坑口近くの地面の盛りあがりにぐったりと横たわった。 「あとの二人はまだ見つからないのか」  監督に聞かれ、鉄ちゃんは上半身を起した。「いちばん危険な場所に生き埋めになっているか、その向こう側の左四片|切羽《きりは》に閉じこめられているか、どちらかです。今のひとは水圧鉄柱梁《カツペ》の下敷きになっていました」 「美藝公たちは」 「美藝公、前美藝公、それに浅間先生、大川先生たちは、その崩れたところを掘り返して、先へ進んで行かれました」  おれはまた、眼を丸くした。「危険なことを」  監督は心配そうにかぶりを振った。「そうなんだ。あの連中、坑夫さえやらないような危険なことを、平気で」 「危険さをご存じないのでは」いつの間にかおれたちの横に立ち、話を聞いていた新聞記者たちの中のひとりがそういった。 「いや。危険性はよくご存じだ。美藝公も。前美藝公も」と、おれは言った。  理由を説明しようとしている時、坑口から坑夫たち三、四人とロケ隊の若手男優二、三人が口ぐちに叫びながら駈け出てきた。 「全員救出されたぞ」 「担架の用意はできているか」 「担架だ。担架だ」 「二人とも怪我してるぞ」 「もう出てくる。そこまで来ている」  またもやわっと歓声があがる。死亡者なしとわかり、手をとりあって躍りあがっている炭鉱関係者たちもいた。  怪我人ふたりはそれぞれ浅間仙太郎、大川儀一郎の背中に背負われて出てきた。そのあとから美藝公穂高小四郎、前美藝公笠森信太郎が出てきたが、もちろんこうしたことは俳優たちと個人的に深くつきあっていてその身体的特徴を熟知しているおれだからこそすぐにわかったことであり、炭鉱関係者や坑夫たち、それに新聞記者など、他の者には顔もからだも炭塵でまっ黒、一様に坑夫の扮装をしている彼らがいったい誰と誰であるのかすぐにはわからなかったに違いない。 「美藝公だ」 「美藝公だ」 「それに前美藝公の」 「あれは大川儀一郎で」 「浅間さんも」  そうささやきかわすひそひそ声が次第にひろまり、それにつれて誰からともなく拍手をはじめ、ついには全員が拍手をはじめた。おれも知らぬ間に、力いっぱい拍手をしていた。怪我人が運び去られてしまってからも拍手はさらに大きくなり、ついには嵐の如き歓声とともに夜空に拡がった。口笛。万歳の声。名を呼びかわす声。 「よかった」 「よかった」 「全員助かったのだ」  炭鉱関係者たち、その家族、撮影隊の連中、新聞記者までが一緒になり、肩を叩きあい、抱きあっていた。笑っている者もいた。泣いている者もいる。この感動的な情景に、おれも涙をこらえることができなかった。ただ、カメラマンだけは職業意識に眼醒めていて、このまるで映画のクライマックス・シーンのような名場面をカメラにおさめようと駈けまわっている。 「先生」  うしろから運転手の磯村に声をかけられておれは振り返った。 「車の電話で長距離をかけてもよろしいのでしょうか」  磯村が誰に電話をかけようとしているか、おれはすぐに了解した。「そうだった。いちばん心配していた人にすぐ、美藝公は無事だと伝えてやってくれ」  磯村が車の電話でお隅さんを安心させている間も美藝公たち救出活動に加わった俳優が坑夫やその家族たちに取り圍まれて握手攻めに会い、揉《も》みくちゃにされているのを、おれはあたたかいもので胸がいっぱいに満ちてくるのを感じ、それを快く味わいながら、少し離れた場所からいつまでも見まもっていた。  それからの二、三日、新聞はこの落盤事故、そして美藝公たちによる救助美談、他の人びとによるエピソード、さらに後日談などを大きく報道し続けた。エピソードには、おれが事故の知らせを受けるなり都心から現地まで車をすっとばしたなどというつまらないことまでが載った。  しかしなんといってもニュースの中心は美藝公であった。新聞はいずれも坑口から出てくる美藝公たちの大きな写真入りで、彼らの勇気と人命救助への挺身、熱情を賞讃していた。また撮影隊の連中と一緒に坑内に入り、救出作業にあたった坑夫たちはいずれも、俳優たちが本職の坑夫に劣らず坑内のことに詳しかったこと、落盤がこれ以上起るか起らぬかの知識や判断、被害状態の推測についてはむしろ鉱山関係者以上に詳しかったことなどについて口ぐちに、大きな驚きをことばの端ばしにあらわしながら物語っていた。俳優たちの並なみならぬ勉強ぶりがはからずも知れ渡ってしまったわけである。また前美藝公笠森信太郎が両側にひとりずつ負傷者をかかえて坑口にあらわれた際の写真も、「豪勇」「怪力無双」「快傑」など、驚異の念をこめた大きな活字の大見出しと共に掲載された。  これらの記事は新聞を争って読んだ人びとに、驚きと讃嘆の念、そして大きな感動をあたえた。全国民のアイドルでありスーパー・スタアであると言われていた美藝公がその名に恥じぬ人物であったことをすべての人が確認し、それを知ることのできた喜びに全国がほとんど湧き返った。われらの美藝公が実は英雄でもあったという事実を誇りに思い、皆がその喜びを共有した。共感の渦が全国に拡がり、人びとに幸福感をあたえた。一方、そのような危険の待ちかまえている坑内で労働に従事している人びとの苦労を改めて知り、その尊さに打たれた者も多かった。坑夫希望者は激増し、熱血の若者たちの中には楽な職場を辞してまで、わざわざ苦労の多い炭鉱へやって来る者もいた。はからずも炭鉱事業と映画の双方の宣伝になったわけであったが、国民の炭鉱事業に注ぐ熱い目と、映画「炭坑」への大きな期待は、もはや宣伝が必要とか不必要とかを論じる段階をはるかに上まわっていたのである。  その間にも「炭坑」の撮影はゆっくりと時間をかけて、それでも着着と進行していた。現地ロケは終り、撮影はスタジオに移っていたが、その状況も毎朝夕の新聞で詳しく知ることができた。あの事件で救助活動に協力し、共に働いた俳優たちは、美藝公以下端役の無名俳優に到るまで全員が連帯感を強め、それは集団演技に欠かすことのできないチーム・ワークにまで昂揚《こうよう》し、いよいよ好ましい名演、熱演を生み、多くの盛りあがり、かずかずの名場面を作りあげていると新聞には報じられていた。  最初のうち難航していたおれの「現代シナリオ論」は、ある時期から突然面白いように進行しはじめた。思考の断片がそれぞれ適所におさまり、論理の流れを妨げることなくすべての主張が合理的に並んだ。原稿は完成した。それを出版社に渡したおれには、そのあと、ただ「炭坑」の完成を待つ以外にすることがなくなってしまっていた。  することがないままに次に書く小説の構想などをぼんやりとまさぐっているうち、おれは、以前ちらと思いついたことがいつの間にか自分の頭の中でまことに異様な考えとなってまとまりはじめていることに気がついた。町香代子に会うことができた試写会の帰途、ふと想像した、このように幸福ではないもうひとつの世界、歴史的に並行する、多元的な世界の中のひとつの世界のことである。その世界に肉がつき、骨骼《こつかく》が形成されはじめたのだ。だがそれは、あまりにも異様な、グロテスクな世界であった。おれはしばしば、それ以上考えることをためらった。だが、考えずにはいられなかった。  町では「宇宙武侠艦」が大ヒットしていた。連日大入り満員で続映に次ぐ続映、未来人に扮した町香代子のブロマイドは飛ぶように売れ、常得意の輸出先である東南アジア各都市でも大好評、巴里《パリ》や|紐 育《ニユーヨーク》や羅馬《ローマ》からも引き合いを受け、C・P・P重役陣は有頂天という、これらはすべて新聞記事によって知ったことだが、その他さまざまなエピソードとしてその人気はいやでもおれの耳に入ってきた。そのため町香代子は、各国各都市の公開レセプションのため今日は香港、明日はマニラ、その三日後はカンヌといった調子で世界各地をとびまわらなければならぬことになり、おれと彼女の会える機会はますます遠ざかってしまった。  秋が深まり、各撮影所では正月映画の撮影準備に入った。町香代子主演の「鴛鴦物語」も、多忙な彼女の出演しないシーンから撮影をはじめた。映画産業エリートたちは連日あわただしく働き続けている。ひとりぼんやりしているおれがなんとなく肩身の狭い思いをしなければならなかった。C・P・Pからはギャング・スタア総出演のギャング映画を、東興キネマからは京野圭子主演の田園ミュージカルを、平野映画からは「宮本武蔵」をシリーズで、栄光映画からは現在国立小劇場で大好評続演中のドタバタ喜劇「三月ウサギ」の脚色を、それぞれ依頼してきたが、おれは久し振りに小説を一篇書きたいからという理由ですべてことわってしまったのである。せめてどれか一本引き受けて自分を多忙にしておけば、肩身の狭い思いもせずにすみ、町香代子の多忙さを取り残されたような淋しい思いで見ることもなかったのにと思わないでもなかったが、それでは今までの日常と変るところがない。  十月になってすぐ、綱井秋星監督から電話がかかってきた。「撮影が終ったよ」  とびあがる思いだった。「編集は」 「今、やっている。明日は仕上がる予定だ。明後日、何か予定があるかね」 「ぼくならもう、まったく何もありませんよ」映画が見たくて浮き立つ思い、などという気分は何年ぶりであろう。  おれのはしゃぎようがわかったらしくて監督はくすくす笑った。「関係者だけで試写をしようと思う。夕方の五時、東興キネマ本社の応接試写室を借りているので来てくれたまえ」  東興の応接試写室というのは、椅子がすべてソファや肱掛椅子になっていて、テーブルには灰皿が置いてあり、コーナーには小さなバーまであるという日本一豪華な試写室である。 「各社重役連は呼ばない。主だったキャストとスタッフだけで見る。ああそれから、総理大臣から電話があって、自分だけ特にこっそりともぐりこませてほしいというので、彼にも見せることにした。封切りに先立って早く手を打っておくべき炭鉱政策を思いつくかもしれんというのでね。特例として認めてやってほしい」 「いいでしょう」 「ではわたしは、これからまたふた晩徹夜だ」  二日後、キャストとスタッフだけの内輪の試写会がひっそりと開かれた。まだ焼増ししていない、いわゆるゼロ号プリントによる試写だから、事故でもあれば大変なことになる。新聞記者たちはこの試写会のことをとっくに勘づいていたが、わざと知らぬ顔をして映画通りにある東興キネマ本社の近辺をぶらぶら散策していた。試写会が終って出て来た連中の顔色をうかがうことにより、出来の良し悪しを判断しようという魂胆であろう。あと二、三日もすれば招待試写会が開かれるというのに、よほど待ち切れないらしい。  五時少し前、おれが応接試写室に入るともう全員が揃っていた。中央のテーブルの周圍のソファや肱掛椅子には美藝公と前美藝公、それに監督と原作者大木淳一郎の四人がいて、大木淳一郎を中心に話がはずんでいる。大木淳一郎は名優にとりかこまれた形でややしどろもどろになりながら、興奮と晴れがましさとを隠しきれず、頬を上気させていた。このグループを圍んで立ち、浅間仙太郎、大川儀一郎等の男優連がそれぞれグラスを片手に思い思いの洋酒を舐《な》めながら雑談に加わっている。うしろの隅のテーブルでは名カメラマン広田俳幻と若手作曲家山川俊三郎が、お互い年齢の差も感じぬ様子で熱心に議論していた。どうやらタイトル・バックと音楽がうまく合っているかどうかに、二人とも不安を抱いているようである。女優連は、と見ると、驚いたことに姫島蘭子、京野圭子を中心とする四人の女優があの女嫌いの岡島一鬼をとりかこみ、笑いながら美術監督に何やかや冷やかし半分で話しかけ、美術監督はこの攻勢にたじろぎながら懸命に何ごとかを弁解していた。  おれはいちばん面白そうな女優グループに割りこむことにした。「何を話していますか」 「いじめられている」と、ふだん気難しい岡島一鬼がそう答えた。「助けてくれ」 「あら里井先生。いらっしゃい」女優たちが口ぐちに挨拶する。 「里井先生は何を召しあがりますの」と姫島蘭子が訊ねた。 「強くないお酒ならなんでもいいよ」 「じゃ、おいしいものを作ってきてさしあげますわ。ちょっとお待ちになってね」主演女優は気軽に立ちあがり、隅のバーへ去った。 「里井君。聞いてくれ。この女優たちたるや、まるでもう、男を男とも思っとらん」 「まあ」京野圭子がいたずらっぽく声をひそめて人差し指を立てた。「姫島さんがいなくなるなり、そんな強がりを。彼女に言いつけましてよ」 「な、何を、何を言う。わしはなにも」  岡島一鬼が一瞬四肢を硬直させたので、女優たちがくすくす笑った。 「ああら。また一鬼先生が赤鬼になっちゃったわ」  騒いでいるうちにいつの間にか五時は過ぎている。それに気がついた監督はあわてて立ちあがり、全員に静粛を呼びかけたが、話が弾んでいて鎮まりそうにない。ここで綱井秋星、活動屋の習性を利用し、大声で叫んだものだ。 「用意」  ほとんど全員が、続くスタートの声とカチンコの音を連想して、たちまち水を打ったように静まり返ってしまった。  にやにや笑いながら監督は言った。「いやまあ驚いたな。こいつは重宝。われながらいい手を思いついたものだ」  全員がどっと笑う。 「さて。いよいよ試写を行うわけですが、これは文字通りの試写であって、このゼロ号プリント、完成品とは思わないでいただきたい。編集をやりなおす時間はとってある。疑問のカットがあればどんどんわしの方へ持ちこんでほしいものです。徹底的に議論を行おうじゃありませんか」  おれはびっくりした。こんなことを言い出した監督は初めてだ。よほどの自信がなければ言えることではなく、キャスト、スタッフひとりひとりの才能と人格に対する全面的な信頼がなくてもまた、言えることではない。 「では、あと五分で映写します」  ファンの音が少し大きくなった。何も言われなくても全員が自席に戻り、それぞれ椅子の位置をなおし、心がまえに打ちこみはじめる。煙草が消される。新たに煙草に火をつける者はひとりもいない。室内の空気が澄み、暗黒となる。ファンの音が低くなる。やがてフィルムがまわり出すと、そのからからからという音さえ大きく響くほど、すでに室内は静寂に包まれている。  パン・フォーカスでボタ山をパンして行くタイトル・バックの上に「炭坑」の肉太の文字が浮かびあがった途端、おれは異様なショックに見舞われた。モンタージュ理論で言う対位法にぴったり当て嵌《は》まっている音響効果としての荘重な音楽のせいでもあるだろう。自分がこれから、何やら物凄い感動に襲われそうだという予感に胸苦しささえ覚え、ながい間映画に打ちこんできた人間にだけ感じられるあの予兆、これはもう、傑作に違いないという第六感に似た、しかも確実な第六感としての観念がその時すでにおれの中には確固として生まれていたのだ。それはあきらかにおれだけの感覚ではなかった。事実、そのタイトル・シーンがあらわれると同時に、うっと呻《うめ》くような二、三人の声を、おれは確実に耳にしたのだから。  物語が始まった。全員、まるで息をひそめてでもいるかのように、こそとの物音を立てる者さえいない。おれはせっかく姫島蘭子が作ってくれたうまい辛口のカクテルを飲むことさえ忘れ、全身全霊を打ちこんで映画に見入っていた。自分が脚本を書いたとはとても思えぬ世界がそこに現出していた。時おり、はっと我にかえり、これはおれの書いたものだと気づく時はたいてい、この科白の抑揚は少し違うのではないかとか、この科白はもっと大声で叫ぶべきものではないかとかいった疑念が生じた時に限られていた。だが、さすがに名優ばかりが出演しているだけあって、文字通り役者の方が一枚うわ手である。不自然に聞こえた科白はたいてい、その次に来る科白をより効果的にする為であったり、次のシーンの伏線や暗示の意味がこめられていたりするのだった。疑問を感じたカットもあるにはあった。カッティングが早過ぎないかとか、クローズ・アップが長過ぎないかとかいうものだったが、それとてどのような伏線になっているのか最後まで見ないことには判断できないわけである。むしろそうしたことに気づくのは、自分が全注意力を集中しているからこそであり、おれにそうさせることこそこの映画の迫力を証明するものでもあったのだ。事実まん中あたりの第一の山場にさしかかった時からは、そのようなことさえ忘れてしまい、ただただ主要人物たちの運命の成り行きを、それが必然とは知りながら、はらはらして見まもるだけだった。自分が書いた脚本に基づいて作られた映画に翻弄《ほんろう》されたのは初めてである。  最初の七巻が終って休憩となり、室内が明るくなった。たちまちあちこちで大声の議論がとび交いはじめた。美藝公は椅子の背凭《せもた》れ越しに振り返って監督に「休憩は六巻目の終りの方がよいか七巻目の終りがよいか」という議論を持ち出し、山川俊三郎は興奮して立ちあがり編集主任相手に「今さらのようだがあの場面に音楽は不要だった」などと主張しはじめ、前美藝公までがある場面の自分の演技が他の演技者のそれと「遊離しているのではないか」と気にしはじめて、浅間仙太郎からそんなことはないと説得されていた。隅の方にいた総理大臣はこの大騒ぎに眼を丸くしている。  十分間の休憩が終り、後半が始まった。  圧巻であった。前半で提出されていた疑問はたちまち氷解した。休憩は七巻目の終り以外のどこにもないことが明確になった。早過ぎるカッティングはそのシーンの人物がその直後に行った行為を伏せておくためであった。その場面に音楽が必要であったことは、後半、それと同じ場面が静寂で示されたことによって明らかとなった。その他、長過ぎるクローズ・アップにも意味があったし、「遊離」していた筈の前美藝公のそのシーンの演技も後半になって意味を持ちはじめていた。最後の三巻、おれは下半身が痺《しび》れでもしたかのような現《うつ》し身の脱力感を伴ったままで、完全に画面の中の世界に没入し切っていた。大きな感動が湧きあがってきた。自分がこの完璧《かんぺき》にして偉大な芸術作品の創造に一枚加わることができたという幸福感によって倍加された感動であり、それは他の連中も同様であったろう。クライマックス・シーンでは堪えることができずに洩らす嗚咽《おえつ》、すすり泣きの声が暗い室内のあちこちから聞こえてきた。もはやおれも我慢できなかった。しかし、ハンカチをさぐりながら、それでも涙でいっぱいの眼をかっと見ひらき、この偉大な映画のラスト・シーンだけは見定めずにおくものかという切迫した感情だけは最後まで保ち続けることができた。  エンド・マークと共に試写室が明るくなった時、泣いていない者はひとりもいなかった。しばらくは全員泣き続けていて、拍手も湧かず、話し声も聞こえなかった。 「どなたか、余分のハンカチ、お持ちじゃありませんかしら」京野圭子が泣きながら言った。「わたしのハンカチ、小さいので、もうびしょびしょ」  前美藝公が泣き笑いをしながら立ちあがり、全員に言った。「諸君。泣き給え泣き給え。ちっともはずかしいことはありませんぞ。このようなこともあろうかと思って、わたしはハンカチを四、五枚用意してきた」 「すみません」大判のハンカチを受けとり、京野圭子も泣き笑いをした。「わたし、困ってましたのよ。だって隣りで一鬼先生が、物凄い声でお泣きになるんですもの。笑いそうになるし、涙はとまらないし」  やっと笑い声が起り、全員の涙がややおさまった。  眼を泣き腫《は》らしているのでどうせしばらく外へは出られないし、立ち去り難い思いは誰しもだった。一同はしばらく試写室にとどまり、映画の出来ばえを反芻《はんすう》したり、感動の質をお互いに確かめあったりという、なごやかな、しかし熱のこもった雑談を続けた。この名作に自分がスタッフ、またはキャストとして加わることが出来たなど、とても本当とは思えないといった興奮が、みんなの表情にあらわれていた。この映画が公開された時の大きな反響を予想して見せる者さえいた。 [#挿絵(img¥101.jpg)] 「さて皆さん」美藝公が深い物静かな声で言った。「今夜はこれでお別れしましょう。皆さんいそがしい人ばかりで、しばらくはお互い、お眼にかかれないと思いますが、さいわい今年はあとひと月あまり、十一月に入ってすぐ、わたしの家で恒例のパーティを催します」  おう、という歓声があがった。年に一度の、美藝公邸におけるその豪華大パーティを、心待ちにしていない者はひとりもいなかった。 「いずれ招待状がお手許に届くと思います。じゃあ皆さん。その時にまたお会いしましょう。お元気で」 「さようなら」 「お元気で」  全員、口ぐちに別れを惜しみ、試写会が終った。 「炭坑」が、どうやら尋常ならざる傑作らしいという記事が、翌日の朝刊に出た。映画通りにいた記者連中がわれわれの出てくる姿を見てそのように想像したか、又は試写を見た誰かの口から聞き出したかしたものらしい。しかしそのようなことがなくてさえすでに「炭坑」の前評判は上乗だったし、試写が繰り返されるたびにそれはますます高まった。期待がふくれあがり、もはや誰もが待ち切れぬ気持を抑さえ難くなったころ、「炭坑」はその期待の重みでなだれ落ちるかの如く、全国各都市で一斉に封切られた。 「炭坑」は日本中に異様な感動と興奮を捲《ま》き起した。初日、都内各封切館の前には前日から徹夜で並びはじめていた者も含め開館時には多いところで五百人もの列が出来た。普段であればいい映画を見てきた者がその感動をまだ見ぬ者に話したり、見るようにすすめたりするのだが、この「炭坑」に限っていえば誰もが見たわけだし、まだ見ぬ者もいずれは見るに決まっているので、その感動は見てきた者すべての心にひっそりと沈潜した。「あなた、あの映画をもう、見ましたか」という、評判の高い映画が上映された時なら必ずあちこちで聞かれる筈のことばも、この映画に限ってはまったく聞かれなかったという。誰もの胸に深く感動を内向させた「炭坑」は、すべての人に、その感動を口に出すさえ馬鹿ばかしい、いや、むしろなんとなく恥かしいという気さえ起させたのであろう。映画という大衆藝術のみが持ち得る大きな影響力はそこに「炭坑」の文学性が加わったことによって、文学のみが個個の人びとにあたえ得る意識革命をすべての人に齎《もたら》したのだ。その結果は炭坑労務者数が三十五万人、つまり国営化以前に比べて約八倍に増加したことでもわかるだろう。世界各国の石油不足による不況などどこ吹く風、国営化一年目には以前の十倍近くの石炭の生産が見込まれるに到っていた。  そうした社会全般のことを六面、七面、八面で報じている新聞の一面、二面、三面では、「鴛鴦物語」の撮影が快調であることやその撮影状況などが写真入りで毎日のように掲載されていた。したがっておれは毎日のように恋人の写真を新聞で見ることができた。次第にやつれていく町香代子の面差《おもざ》しが単なるメーキャップによるものなのか、仕事の疲れによるものなのかおれにはわからず、心配した。町香代子に確実に会える日が近づきつつあり、その日まで倒れてくれるな、元気でいてくれとおれは願わずにはいられなかった。いうまでもなくそれは美藝公邸での大パーティの日である。その日には映画界の大立者、大スタア、人気スタアは言うに及ばず、京都からも時代映画八社の主だった連中、そしてアメリカでいうならばブロードウェイに相当する演劇の中心地・大阪からも古典劇、新劇の名優連がどっとやってくる。美人女優として人気ナンバー・ワンの町香代子も、当然招待されて来る筈であった。おれはその日を待った。  ひと月がまたたく間に過ぎた。そしてその日の朝八時半、町香代子がまだ寝ているおれに電話をかけてきた。「あの、わたしです。慎みのない女だとお思いでしょうね」 「香代子さん」おれはベッドの上でバネ仕掛けのように上半身を起した。「君なのかい。本当に」たちまち眼が醒めてしまった。 「お起ししてしまいましたでしょうか」 「いや。いいんだ」 「今夜の美藝公邸でのパーティでは、お眼にかかれるのでしょうか」 「もちろんだとも。君に会えるのを楽しみにしているんだ」 「お会いできますのね」小さな声で、しかも喜びをこめて彼女は言った。「嬉しいわ」  何を着ていくつもりかと彼女は訊《たず》ねた。黒いタキシードだ、と、おれは答えた。彼女はおれの着ていくものにあわせ、衣裳を選ぶ気でいるようだった。では今夜、といって彼女は電話を切ったが、電話の声だけでは元気なのかどうかわからず、気になった。もう、眠ることはできなかった。  すでにお隅さんも金丸コック長も、家にはいなかった。朝早くからふたりは誘いあわせて美藝公邸へ手伝いに行ったのである。コック長が用意しておいてくれた朝食を、例によって映画通りを見おろすテラスで食べ終った時、珍らしくも美術監督岡島一鬼から電話がかかってきた。彼の消え入りそうな声を聞き、おれはびっくりした。 「どうした。気分でも悪いのかい」 「そうじゃない。実は頼みがある」まるで人が変ってしまったかのように彼は吃《ども》りながら言った。「じつはその、今度、そのう」突然、破れかぶれのような大声で彼は叫んだ。「結婚することにした。姫島蘭子とだ。それで仲人を頼みたい」  おれは絶句した。さまざまな思いが頭の中を駈けめぐった。この男、いったいどういう言い方で姫島蘭子にプロポーズしたのか。あるいは彼の気持を知って姫島蘭子の方から結婚話を持ちかけたのだろうか。仲人とは言うもののおれはまだ結婚していないではないか。なぜおれに仲人などを。おれと町香代子のことを知らぬわけではないだろうに。  また気弱げな、蚊のなくような声に戻って岡島一鬼は心配そうに訊ねた。「なぜ黙ってるんだ」 「驚いてるんだ」おれはくすくす笑った。「おめでとう。ところで姫島蘭子はカソリック教徒だった筈だが、君がおれに頼むのは仲人ではなく、介添人ではないのかい」 「そう言うのか。よく知らんが、とにかく頼むよ。式はまだ先だが、婚約発表は今夜のパーティの席上、美藝公立合いの上ですることになった」彼は急にしんみりとした。「おれも覚悟を決めたよ」  彼女はきっといい奥さんになるだろう、おれはそう言って介添人の役を引き受けた。岡島一鬼がつくづく羨ましかった。  夕方の六時、磯村が迎えに来た。 「お出かけの時間です」彼も浮きうきしている。彼らは彼らで邸内のどこかに集ってパーティを楽しむのであろう。「ご用意は」 「もう、できているよ」  彼は怪訝《けげん》そうな顔をした。「あのう、着換えのタキシードは」 「なぜ着換えなど要《い》るんだ」 「はあ、あの」彼は少しどぎまぎした。「噂によりますと、今年のパーティで噴水にとびこむのは旦那様だという、もっぱらの」 「そんな噂がとんでいるのか」おれは苦笑した。とびこむつもりはなかったが、そのような噂がひろまっているとすればその期待に応えねばならぬ破目に立ち到るかもしれない。おれはもう一着、タキシードを用意した。  黄昏《たそがれ》の並木道。アカシヤの植わっている美藝公邸の私道まで来ると、すでに片側には乗用車がずらりと並んでいた。さすがに職業柄磯村は、あれは誰の車、あれは誰の車、誰それももう来ていると順におれに教えてくれる。町香代子はまだ来ていないのだろう、と、おれは思った。彼女の車があれば磯村は必ずおれに教えてくれた筈だから。  門は開放されていて、仙蔵爺さんは手持無沙汰だった。赤いウール地に金ピカ筋の入った衣裳を着せられ、毎年のことながら彼は照れていた。門の横にかしこまって立ってはいるものの、そもそも今夜、彼に誰何《すいか》されなければ入れないような人物はひとりも来ないのである。  車から降りると、玄関前のポーチには新聞社のカメラマンが二人いて、おれにレンズを向け、ストロボを光らせた。玄関ロビーではいつも通りの執事の制服に身を包んだ直立不動の上田老人から大声で名を報じられ、周圍の人たちから拍手を受けた。「炭坑」の脚本家として、おれは自分の名声がいつの間にかあがっていることを自覚させられた。晴れがましさを感じながら見まわすと、おれ同様今来たばかりと思える連中が挨拶を交しあっている。おれも「活動写真」を撮った名カメラマン八木沼善次、「炭坑」に出演して演技力を高く評価された栄光映画のスター大川儀一郎、「ラッシュ・アワー」以来のつきあいになる都会喜劇の二枚目島嚢二、「宇宙武侠艦」の監督中山明峰といった旧知の人たちと挨拶を交し、再会を喜びあった。  例の巨大なシャンデリアの下がったチーク造りの応接室に入ると、手に手にカクテル・グラスを持った顔見知りの連中が大勢集り、談笑を交していた。藤枝嬢やお隅さんが盆にグラスをのせ、配って歩いている。おれは美藝公を中心とするグループに歩み寄り、美藝公はじめ綱井秋星、京野圭子、広田俳幻といった人たちに挨拶した。大木淳一郎も特別に招待されていた。  ひとり、眼のさめるようなういういしい美女が美藝公の横にいて、どこかで見た顔なのだがどうしても思い出せなかった。はてこのような美人、会っていれば記憶している筈だが、スクリーンの中ででも見たのだろうかと考えているうち、視線がばったりあってしまい、彼女はおれに、にこやかに頷《うなず》きかけてきた。やはりどこかで会っているらしい。  おれのとまどいに気づいて、美藝公が笑いながら言った。「里井先生もおわかりにならぬご様子ですな。彼女を改めてご紹介しましょうか」  あっ、と思い、おれは眼を見はった。この前のブレーン会議の席で、おれにコーヒーを運んできてくれたあの小間使い、藝大の学生だった女優の卵ではないか。 「彼女は来年、栄光映画からデビューするんだよ」綱井秋星も笑いながら言った。 「お見それして、ご無礼した」おれはしどろもどろで頭を下げた。すっかり落ちつきはらって女優らしくなり、とても同じ女性とは思えなかった。  お隅さんからバカルディを貰って談笑に加わっていると、うしろから軽く背中を叩かれた。振り返ると「女性の輝き」や「鴛鴦物語」で町香代子の相手役をしているC.P.Pの渋い二枚目男優、東童三郎だった。古くからの顔馴染みでもある。大川儀一郎の時もそうだったが、おれと町香代子のことを知っていながら彼女の相手役をつとめた男優はみな、なんとなくおれに対して具合が悪いといった様子をして見せる。おれにしろ彼女にしろ仕事と割り切っているし、男優たちにしてもその筈だから、具合などまったく悪くないのだが、そうして見せるのが礼儀だと考えているのかもしれない。 [#挿絵(img¥109.jpg)] 「『鴛鴦物語』の撮影は」と、おれは訊ねた。「もうすっかり終ったのですか」 「あと少しです」と、東童三郎は答えた。なぜか、心配ごとがありそうな表情だった。「今日だけは特別の日なので、撮影を午前中で切りあげたのです。それよりも、実は町香代子嬢のことですが」  突然、こみあげてきた不安がおれの胸を締めつけはじめた。「どうかしたのですか。彼女とは今朝、電話で話したばかりですが」 「特にからだの具合が悪そうだとか、そういったことではありません。ああ、こんなことを申し上げて先生を心配させたりして、まことに申しわけありません。どうぞあまりお気になさらぬようにして聞いていただきたいのです。『鴛鴦物語』の相手役をつとめていて感じたのですが、彼女の演技は、まさに、迫真の名演技といってよかったと思います。監督の方針でわたしたちはストーリイ展開に沿って撮影を続けていったのですが、ヒロインの不幸な状態の進行とともに、彼女はまるで作中人物に憑依《ひようい》したかの如く、やつれて行ったのです。それに伴って演技にも熱がこもり、わたしたちはまるで神秘的なものを見るかの如く彼女の演技を見まもり続けずにはいられませんでした。ただ、それが彼女の、ヒロインに対する感情移入によるものか、それとも彼女自身の苦悩に発するものか、わたしたちにはその判断がまったくつかなかったのです」  以前「宇宙武侠艦」の監督中山明峰から聞かされたのと同じことを、またしても東童三郎から教えられたことになる。おれはかぶりを振った。 「それは、そのようなことをわたしに尋ねられても、わたしにだってやはり判断はつきませんよ」 「そうですか」東童三郎はやや失望したらしく瞼を重たげに下げて視線を落した。「先生にうかがえばわかると思ったのですが。というのは、わたしたちは二週間ほど前、三浦賛太郎監督と相談して、彼女の為に、あなたと会えるよう、休暇を作ったのです。といっても、たった一日ですがね。彼女ほどスタッフや他の俳優たちから愛されている女優は、いや、女性は、いないんじゃないでしょうか。皆が心配したのです。あなたと会いさえすれば彼女の元気が回復するのではないかと思いましてね。では彼女は、あなたに会いには行かなかったのですね」 「ええ。ここ何カ月かは会っていません」答えながらおれの心臓は不安で今にも停止しそうになってきた。彼女の苦悩の原因はおれ以外にあるのではないか。それはどのような心配ごとか。又は病気で、せっかく休暇を貰っていながらおれにも会いに来られないぐらい悪化しているとも考えられる。  おれの顔色の変化に気づき、東童三郎は心から申しわけなさそうに頭を下げた。「こんなお話を申しあげてすみません。先生にご心配をおかけするつもりは毛頭なかったのです。ただ、お願いしたいことは、もし彼女が今夜このパーティに来たら、ひとつ彼女の心配ごとを聞いてやってはいただけないだろうかということなんです。つまり先生ご自身の口から彼女の悩みの原因を尋ねてやっていただきたいというのがわれわれの願いなのです。話すことによって彼女の悩みが軽減されればこの上ないことですし、もしかすると先生がほんのひと言で彼女の悩みを拭い去ってやってくださるかもしれない。われわれはそう考えたのです」  できるかどうか、とにかくやってみましょうとおれは彼に答えた。  新しい招待客は次から次とやってきたが、町香代子はなかなか姿を見せなかった。やがて藤枝嬢が入ってきて食事の用意が整ったことを大声で告げ、一同は大広間に移った。こちらの食卓、あちらのソファ・セット、二十数カ所のテーブルに豪勢な料理が並び、料理人《コツク》長以下あちこちから呼ばれてきた選《え》り抜きの料理人やボーイが整列し、入って来る一同を迎える。シャンデリアのすべてに灯が入り、中央のデコレーションは巨大な花束である。歓声があがり、賑やかな宴会が始まった。片隅の壇上ではC・P・Pオーケストラの演奏が始まり、さらに次つぎと運びこまれてくる美味・珍味に新たな歓声があがる。料理の解説に熱弁を振るう浅間仙太郎の周圍はやはり人が多く、ときおりどっと爆笑が起る。さすがに名優と名士の集《つど》い、ホールの中のどの一部の空間、どの片隅の空間を切り取ってもすべて名画の如く、ちゃんと絵になっていた。だが、おれの気持は弾まず、食欲も起らなかった。あとで考えればいろいろな人がおれに話しかけてきた筈であったが、どんな返事をしたかも記憶していない。頭には町香代子のことしかなかったのである。  憂い顔を拭いさる自信がなくなりはじめ、せっかくの楽しいパーティを台なしにしてはと思い、おれはテラスに出た。庭園への階段をおりると、おれは林や小川のある広大な庭園の中をひとり、一定の間隔で立っている庭園灯に照らし出された小道づたいにしばらく歩き続けた。  脚本家相応の思考力であれこれ想像しながら歩きまわっているうち、こういう場合の常として想像力は悪い方へ、悪い方へと膨《ふく》れあがっていくのだった。東童三郎は「もし彼女が今夜このパーティに来たら」と言った。「もし」などというところから想像して彼女の元気のなさは他人の眼からもよほどのものに映るらしい。招待されていながら来ない人間がいるなど考えることもできないこのパーティに、とても来られそうにないほど彼女の病気は重いのかもしれない。今日の電話の彼女の声も小さく、頼りなげであった。自分の病気が重く、とてもこのパーティには出席できないとわかっていながら、出席したい、おれに会いたいという切実な願望から、ただそれだけで、気力を奮い起してあの電話をかけて来たのではあるまいか。もしかすると彼女はすでに自分の病気が重くてとても。いやいや。そんなことを考えてはいけない。だが、もしそうだとするとすでに彼女は。まさか。そんな筈はない。しかしよく聞く話ではないか。あれが彼女の最後の電話で、彼女は実は今ごろ。まさか。まさか。まさか。  じっとしていることができなくなり、不安に司《つかさど》られた薄暗い精神の片隅から脱け出そうと|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》くかのように、おれは急ぎ足で今来た小道を引き返しはじめた。たとえうわずった慎みのない行動だとひとに笑われてもかまわない、彼女の邸へ行ってみよう、と、おれはそう決心した。もし何でもなかった場合は彼女の家の人たちを驚かせ、迷惑をかけることになるだろうが、今はとてもそのようなことまで気にしてはいられないとおれは思った。このままでは気が狂いそうになり、精神の均衡が保てず、たとえ我慢してこのままパーティに出席していたとしても何かおかしなことを仕出かしてしまうに違いない。そうだ。彼女に会いに行った方がいい。今のおれはあきらかに、そうした方がいい。おれはさらに足を早めた。  小道の突きあたりに庭園灯があり、そこからは道が左右に折れていた。おれは立ちどまった。庭園灯の下に美しい花が咲いていた。赤い、華麗な、そして懐しい花だった。彼女は庭園灯の下に佇み、おれに笑顔を向けていた。華やかに笑っていた。見る者のどのような固い心をも溶解させずにはおかない、あの花のような笑顔だ。 「香代子さん」  おれは駈けつけ、遠慮がちに手をさしのべようとしている彼女を抱きすくめた。「もうどれだけ心配したかわかるかい。君の家へ行こうとしたぐらいだ。東童三郎氏に話を聞いて、ぼくの心臓は今にも破れそうだったんだよ。それじゃ君は、病気じゃなかったんだね」譫言《うわごと》のようにそう喋り続けながらおれは掌、腕、指さきで彼女の肉体の実在感を確認し続けた。彼女のからだは温かく、冷え切ってもいなければ熱っぽくもなかった。 「ご心配をおかけして」彼女の声は顫《ふる》えていた。「あなたのことばかり考えて、お会いできない辛さのため、わたしはたしかに元気をなくしていました。でも、皆さんから休暇をいただいたからといって、すぐあなたにお眼にかかるため、とんで行くようなことは、わたしにはできませんでした。どうご説明していいか。それだとわたし、あの、あまりにも幸福過ぎるんですもの」 「なんだって」おれは少し驚き、思わず問い返していた。こんなに幸福であっていいのかという自省は、そもそもおれのあの奇妙な幻想の源となった、おれが日常的に自覚しているものとまったく同じではないか。 「じゃ、君もやはり、幸福過ぎる自分がこれ以上、好きな時に恋人に会いに行けるような幸福を持つことはできない、そう思ったのかい」 「女主人公《ヒロイン》に悪い、と、そうも思いました。『鴛鴦物語』のあの不幸な女主人公に」 「そこまで感情移入していたのかい」彼女はしんからの女優だ、と、おれは思った。迫真の名演技と、東童三郎が評したのも当然だった。自らを少しでも女主人公と似た立場に追い込むことで、彼女は自分の、女優であることの不幸、大いなる幸福の中のただひとつの不幸を正当化してしまったのである。 「でも、ぼくたちはもう、幸福になってもいいんだろ」と、おれは訊ねた。「そうだろ。だって『鴛鴦物語』はハッピー・エンドだった筈だ」  彼女はおれの胸の中でおれの顔を見あげ、ふたたび花のように笑った。「そうですわ。あなた」  おれと町香代子はふたたびお互いの存在を確かめるためにしっかりと抱きしめあった。不安は消え、不安があったればこそと思えるこの大きなしあわせをおれは暖かさとして胸で味わった。その時からおれは幸福に身を浸し、のめり込み、酔った。酔ったさなかの出来ごとを、おれはきらびやかな画面として断片的にしか記憶していない。  大広間に戻ると料理の席はすでにサロンや応接室に移されていて、そこは大舞踏会場になっていた。オーケストラの伴奏で歌うヌーベルレコードの但馬いと子、カモメレコードの児島シスターズ。踊っているのは、ミュージカルの王者砂原一華とタップ・ダンスの女王龍美千子、東興キネマの国井雅英・三木矢州子の名コンビ。ミュージカル映画「活動写真」の再現だ。やがて拍手に迎えられて登場したのは、このようなパーティに出席するのは何年ぶりという前美藝公笠森信太郎。さらに美藝公穂高小四郎によって、壇上に立たされた美術監督岡島一鬼と女優姫島蘭子の婚約が披露される。割れんばかりの拍手。  オーケストラがふたたび「活動写真」の曲をスロー・フォックス・トロットで演奏しはじめた時だ。片隅でひっそり、シャンパンで再会を祝いあっていたおれと町香代子に美藝公が壇上から声をかけた。踊れというのだ。この名優名女優環視の中で誰が踊ったりできるであろう。それは狂気の沙汰だ。尻ごみするおれを町香代子がフロアーに無理やり導いた。拍手が起り、美藝公が歌いはじめる。パーティには盛りあがりの為のプロセスがある。その進行を中断させるよりは下手な踊りであっても踊らぬよりはいいわけで、美藝公も、おれがその辺のところは充分心得ている人間だと知った上で踊らせようとしたのであろう。しかたなくおれは不馴れなステップを踏んだ。映画界の人間としての心得がないわけではなく、下町のレッスン場の教師程度には踊れる。しかし、とてもではないがわれこそは日本一という名手が何十人もいる前で披露できるような代物ではない。それでもなんとか醜態を見せずに踊ることができたのは町香代子のリードがよかったからかもしれない。シャンパンと幸福と、その双方に酔って夢見心地であったことがかえってステップを軽くしたのかもしれない。おれたちはにこやかに笑いながらおれたちを祝福し、見まもってくれている皆のやさしさに甘え、広いフロアーをふたりで独占した。美藝公が歌い終り、おれたちが踊り終ればふたたび拍手の嵐。  さほど酒は飲まなかった筈なのに、それからの記憶はさらにうろ憶えである。フロアーいっぱいに踊りまわる群舞の中に町香代子とふたりで加わっていたことをおぼろげに憶えている。あの人、この人、あの名優、あの女優、知った顔にかこまれて、笑いながら話しあっていた記憶もある。皆で手をつなぎ、歌いながらぞろぞろとサロンを抜け、開け放たれたテラスの扉から前庭へ出て行ったことも憶えている。だが常に町香代子の可愛い顔はおれのすぐ傍らにあり、彼女はいつもおれの隣りにいて、おれと手をつないでいるか、さもなければおれに寄り添っていた。おれは彼女を見失うまいとしたし、彼女は常におれから離れまいとしていて、それをすべての人が微笑ましく眺め、容認してくれていた。誰もがおれたちに、ほんとうにやさしかった。そこではもはや、いつものおれの「これほど幸福であっていいのか」という自覚は忘れ去られていて、|ちら《ヽヽ》ともあらわれてはこなかった。  結局、前庭の噴水へとびこんだのは、おれと岡島一鬼であったらしい。しぶきをあげているおれにはもうカメラマンのフラッシュと夜空の月の光の見わけさえつかなかったであろう。周圍ではやし立てる人びとを、おれは水の中から祝福していたのではなかったろうか。毎年噴水に、自らの幸福の大きさがどれほどのものかを証明して見せるためとびこんだ多くの名士たちと同じように。  翌朝の新聞の第一面には美藝公邸でのパーティの模様が大きく報道され、メインの写真はいうまでもなくおれと岡島一鬼が前庭の噴水にとびこんでいる情景であった。今のおれはその写真を、もう、違和感なしに眺めることはできなかった。疑惑がふくれあがっていた。幸福すぎる、と、おれは思った。おれのような人間が仕事で成功し、世界一の恋人を手に入れ、名声を得るというようなことがあっていいわけがない。おれよりも才能に恵まれ美貌に恵まれた人間は大勢いる筈だ。なぜこんなおれが、世界一の果報者なのだろう。それともこうした疑惑は、世界一の果報者ということにされてしまった人間なら誰でもが抱く疑惑なのだろうか。この世界は本当ではないのではないか。本当の世界はどこか別の宇宙にあり、この世界はその別の世界に住む本当のおれの夢と願望だけで作りあげた世界ではないのだろうか。おれは不安であり、それはおれの考えた「本当の世界」の方にこの世界以上の整合性とリアリティがあるからだった。誰かにこの疑念を話さずにはいられなかった。話すことによってその疑念は薄らぐ筈だとおれは思った。ただしそれは聞き手にもよるだろう。おれのことをよく知っていて、そのような馬鹿げた話でも笑わず真剣に受けとめてくれる種類の知性の持主でなければならない。考えられる人たち、おれの中でその人たちは決まっていた。美藝公、及び彼のブレーンだ。  次回美藝公主演作品を企画する為のブレーン会議の日が迫ってきていた。前回「炭坑」の原作を提出したのはおれだったが、今回はなんの準備もしていず、小説もあまり読んでいなかった。自分の奇妙な想念のとりこになってしまっていて、おれにとっては美藝公がどのような映画に出演してくれることが望ましいかという、いつもなら必ず二つや三つはあるアイディアさえ今回はまったくなかった。小説に書いてやろうと考えている自分の奇怪な思いつきを中心にしたストーリイにしても、美藝公主演映画としてとてもではないがふさわしいものとは思えない。ただ、以前綱井秋星監督からどのような実験的な小説のアイディアであっても一応はまず美藝公のブレーンに話してほしいと乞われていたことに甘え、彼らに聞いてもらうつもりではいた。変な話なので聞かされる方も苦痛であろうから、ただで聞いてもらうつもりはなかった。おれの家に皆を招待し、金丸コック長の自慢料理を出し、その席でいわば座興として聞いてもらおうと考えたのである。おれは美藝公に電話してそう伝えた。 「たまには場所を変えるのも気がかわっていいだろう」 「それはもちろん、金丸コック長の腕はよく承知しているから、ご招待はありがたくお受けする」美藝公はそう言った。「皆にそう伝えよう」 [#挿絵(img¥117.jpg)]  ブレーン会議の日、わが家は朝から大騒ぎだった。美藝公がお見えになるというのでお隅さんはいつにない興奮ぶり、日ごろは温厚な金丸コック長までが、他家から応援に頼んできたらしい料理人を叱りつけたりしていて、その声が居間にまで届いてきた。  夕刻、ブレーンが次つぎとやってきた。まず美術の岡島一鬼、次いで音楽の山川俊三郎、最後に美藝公穂高小四郎と綱井秋星監督が美藝公第一秘書の小町氏を伴って一緒にあらわれた。まず居間で食前酒をやりながら岡島一鬼の結婚式の打ちあわせ、そして食堂では、金丸コック長が腕によりをかけた「ほろほろ鳥の詰め物とキャベツのアルマニャック蒸し」や、お得意の珍料理「つぐみの巣ごもり」に舌鼓《したつづみ》を打ちながら「炭坑」の思い出話に花が咲く。 「さて、今日は里井君が新しいストーリイのアイディアを話してくれるそうだが」居間に戻り、酒を飲みはじめてすぐ、綱井監督がそう言っておれを促した。  全員の期待の眼がおれに向けられ、おれは困って溜息をついた。「そう言われると弱ってしまう。実は非常に奇妙な考えにとりつかれてしまって今悩んでいるんだ。新しいアイディアということではなく、ひとつ笑い話として聞いてほしい」 「あなたの思いつく奇妙な考えは、いつもわたしたちを刺戟してくれる」美藝公が優雅なポーズでお隅さんからグラスを受け取りながら、おれを励ましてくれた。「失望したためしは一度もありませんよ」  しかしおれは笑われるのをおそれる気持がどうしても拭い切れず、おずおずと呟《つぶや》くように言った。「つまりそのう、敗戦後、もしこの国が映画産業立国ではなく、経済立国として繁栄していたとしたら、現在どういう有様になっているだろうかと考えたんだ」 「経済立国とはどういうことだい」岡島一鬼が怪訝そうな顔をして質問した。「日本には資源がないぜ。あの頃ちょうど成長していた世界経済の中で、資源のない国が経済立国としてどうやって成立する」  経済問題に詳しくないおれが口ごもっていると、また美藝公が助けてくれた。「それはもしかするとそうなったかもしれませんよ。戦後政府が石炭産業などに設備投資金融を行ったでしょう。もしあれと同時に貿易金融や、輸出向けの産業への設備投資金融を行っていたとしたら、輸出入がもっと活溌《かつぱつ》になっているから」 「そう。外国からもっと技術の導入があったろうし、日本には労働力がある。日本人は勤勉だからね。教育水準も高いし」と、監督も言った。 「つまり、原料を輸入して、それを加工して輸出するわけか」と岡島一鬼。 「そうだよ。それは何でもいいわけだ」おれはほっとしてそう言った。「自動車でも、船でも」 「うん。あの辺の技術は戦前戦中から高かったからね」と、監督。「それから、日本人はカメラとかテレビとかを作るのが得意だと言われているけど、ああいうものを大企業として生産しているかもしれない」 「しかし、何のためにそんなことをするんですか」山川俊三郎が不思議そうに訊ねた。「それだと日本は、単に利益の追求というか、富の追求だけが国家目的になってしまった社会ということになりますが、日本人全体がそんな国家目的に同調しますか」 「現在の西ドイツみたいな国家を考えてるんだけどね」  おれがそう言うと美藝公が大きくうなずいた。「そう。経済体制が復興していく過程はああいうものになるでしょうね。ただまあ、あのようにインフレや、国家の経済過程への介入や、独占資本による生産の集積や、あの辺が問題だけど」 「まさに、そうなるんだよ」おれは力をこめて言った。「あれ以上になっちまうんだ。つまり富の追求が国家目的どころか国民すべての、個人的な目的となった社会を考えてるんだ」 「しかし戦争中あれだけの窮乏生活に耐えてきた日本人が、一転してそんなに急に金の亡者になりますか」山川俊三郎は首を傾《かし》げながら疑わしげにそう言った。 「だってそれは君、逆に国家目的がそうだから日本人全体の指向が利益追求という点で一致するのだとも言えるよ。戦争中は一億一心なんて言ったもんだ」監督は笑った。「日本人はすぐ右にならう」 「それはそのう、もしかしたらたいへん陰惨な社会ではないかね」岡島一鬼が何ごとか考えながら言った。「一種の全体主義的な」 「しかしその社会では、個人所得はのびているわけでしょう」美藝公も考えながら言った。「個人個人の消費生活はむしろ盛んになる筈だ。だとすると必ずしも陰惨とは言えないのでは」 「それなら、例えばだよ、そのう」岡島一鬼は考え続けながら首をのばし、おれを見つめた。「たとえば新聞だが、あれの第一面が経済的な情報ばかりで、映画なんてものの記事はまるで載らないという、そういうことになるのかね」 「いや、経済ではない。むしろ政治欄になってしまうでしょう。金を持っている実業家が政治の実権を握るでしょうからね」と、おれは言った。「経済欄は第二面かな。いや。第二面は外交とか貿易とかいったものになるかもしれない。どっちにしろ第二面か第三面だ」  岡島一鬼は眼を剥《む》いていた。「すると何かい。新聞の第一面に、今みたいな美男美女の写真が載るのではなくて、ああいった政治家だの実業家だのの、皺《しわ》だらけの、老いぼれの、老人斑の浮き出た、骸骨みたいにがりがりの、かと思うと肥満してでぶでぶの、貧乏神じみた、死神じみた、あの醜怪な連中の不吉な忌わしい写真がでかでかと載るわけかい。毎日のように」 「外国の新聞はそうですよ」岡島一鬼の言いかたにくすくす笑いながら、山川俊三郎は言った。「もっとも欧米の政治家はそれなりに好男子が多いようですがね。アメリカなど、わが国と同じ映画産業国だけあって映画スタアが政治家になったりしていますし、ヨーロッパには女性の首相もいます」 「では、そういう経済優先の社会では、映画なんかなくなってしまいますね」美藝公が悲しげに言った。  岡島一鬼がとびあがって美藝公に反論した。「どんな社会になろうと、映画だけはなくなりゃあしませんぜ。常に最大の大衆藝術じゃないですかい。映画がなくなるなんて、とんでもねえこった」 「でも、西ドイツを見たまえ」おれは言った。「戦後は国民の関心がすべて経済復興にのみ移って、映画産業は荒廃した。わが国のように大きな映画会社が二つも三つも残っていなかったせいもあるだろう。戦前の大ウーファが解体させられてしまっていくつかの小さなプロダクションになった。かつてのウーファの生み出したような名作群はもはや望み得べくもない。戦後、見るべきドイツ映画があったかい。二、三の前衛的な作品があるが、大衆藝術としての傑作は一本もない」 「すると、日本もああいう風になっていたかもしれないとおっしゃるのですか」山川俊三郎がほとんど身をよじらんばかりにして訊ねた。「いや。里井先生のお話のように、日本があれよりももっとひどくなっているとすると、つまり日本も小さなプロダクションばかりになって、作られる映画はといえば、ああいう、ええと、なんといいましたっけ」 「ポルノです」おれは吐き捨てるように言った。「やはり、当然そうなるでしょう。製作資金に乏しくて、しかも経済優先社会で観客動員をはかろうとすれば、エロチックなものか見世物映画を作るしかない」 「金をかけて見世物映画を作ろうとする大企業はあるかもしれませんね」美藝公は言った。「もっとも、あくまで大きな企業のひとつの部門としてですが」 「そうですね。あくまで商売としてね」監督が同意した。 「ろくな映画じゃねえよ」美術監督の声はほとんど怒鳴り声に近かった。 「そんな映画、見る気もしないね。ど素人の作った映画なんか。いいかね。たとえばセットひとつ作るにしろ、美術学校を出ていたり、絵が日展に入選したりするだけじゃ駄目なんで、まあそういう基礎を持っている人間が、さらに現場で十年以上勉強してやっとそれらしいものが作れるんだ。それで、それはどのジャンルについても言えることだ。いったい映画のプロデュースにどれだけの教養と経験と知識が必要とされるかはあんたがたも知っとるだろうが。いくら金をかけようが、大企業の会社員なんかに映画のプロデュースなど出来るわけはねえよ」  喋り続ける岡島一鬼の顔をぼんやり見つめながらおれは、この連中の頭の回転の早さに感嘆していた。おれがたったひとこと言っただけで全員が議論によってそれを発展させて行く。架空の設定を、まるで現実ででもあるかのように真剣に検討し、細部を作りあげていく。討論し馴れたメンバーであるだけに、相手の主張や疑問を相手以上に理解してしまったりする。おれは問題提起をするだけで、あとはただ暴走を食いとめる役に甘んじていさえすればよかった。これ以上のスタッフがあり得ようか。 「ぼくはこう考えるんだ」おれは議論をあと戻りさせた。「経済優先社会では、情報の急速な、しかも大量の伝達が重要視される。それは国民に文化的な作品をじっくり鑑賞するような精神的余裕を持たせ得ないのではないか」 「つまり精神の荒廃じゃないか。そりゃあ、そんなエロ映画だとか、金だけをやたらにかけた映画の脱け殻みたいなものを喜んで見に行くような連中は精神が荒廃してしまっているに決まっておるよ」  岡島一鬼はまだ映画にこだわっていた。やはり議論は映画を中心に進めて行くよりなさそうである。 「でも、戦前からいい映画を作ってきた玄人のスタッフは、そんな社会でもやっぱり存在しているわけでしょう」山川俊三郎が言った。「そうした連中が本当にいい映画を作った場合、やっぱり国民はその映画を」 「見に行かないでしょうね」おれはかぶりを振った。「昔から名作や大作の宣伝には金をかけたものだが、この社会では宣伝にますます金がかかるような仕組みになっている。しかもそれは他のさまざまな大量の商品と宣伝競争ができるような桁《けた》違いの金だ。大金であり、この社会では国民は宣伝に金のかかった映画しか見に行かない」 「待ってくださいよ。すると映画関係者の中では、金を持っている者ほど大きな発言権を持つことになりますね。つまりプロデューサーの発言権が一番で」  美藝公の言葉をおれは訂正した。「いやいや。発言権どころか、社会的地位そのものが、プロデューサーというか、むしろその大企業の重役はトップになります」  美藝公の眼が知的に光った。「そしてスタアの地位がいちばん下にくる。わかりましたよ。君はつまり、現在われわれの住んでいるこの社会の完全な裏返しの社会というのを何かの、ひとつのモデルとして考えたわけですね」  美藝公の呑みこみの早さにおれはびっくりした。「その通りです」 「映画界において、スタアの地位がいちばん下にくるとはどういうことかね」監督は首を傾げた。「観客の大多数はやっぱり、スタアを見に来るんだろうが。どんな社会になろうと、それは変らん筈だが」 「そこのところが難しいんです」おれはちょっと言葉に詰った。「いやいや。もちろん頭の中で整理はできています。ただ、ひとことでは説明しにくいんです。つまりこの社会は映画が衰退しているだけあって、映画の固定観客というものはないわけですね。大人はよほどのことがない限り映画を見ない。しかし若者にとってはやはりアイドルというものは必要で、そのためのスタアというのはいるわけです。だけどそれはそのう」  監督はうなずいた。「いわゆるスタアではない、と」 「そうです。どういう呼びかたをしているかはわかりませんが、要するにそれぞれの年代の若者達と同じ年頃で、可愛くて、歌も人並みに歌え、何かを演じる仕草もちょっと可愛いという」 「しかしそんな若い男女なら、その辺にざらにいるだろう」と、岡島一鬼。 「うん。だからいくらでも代替がきく。したがって盛衰もはげしい。商品と同じで、地位だとか発言権だとかは問題外なんだよ」 「しかしそういった、演技も素人、歌もお座なりという連中の出る映画は、バラエティの一部としてならよかろうが、いつもそればかりじゃ興行にはなるまい」 「興行形態も当然変化してくる。情報が重視される社会では、大勢いる若い男女のアイドルの中に特にこういうアイドルがいるぞということを強調する手段として、映画などというものは芝居やレコードと同じで最も効率の悪い宣伝手段だ。そうした手段としてはむしろラジオ、テレビの方を多く利用することになるだろう。そう。この社会では映画はもはや藝術ではなくて、半分は何かの宣伝の手段になっているんだ」 「ではもう、滅茶苦茶じゃねえか」岡島一鬼が悲鳴のような声を出した。「音楽も映画も宣伝も、何もかも区別がなくなって、それぞれのプロがおらんのだ」  山川俊三郎があいかわらず真顔で訊ねた。「つまりそういったアイドルたちは、特に藝術大学の映画学部を出たとかいった人たちではないわけですね」 「そうでしょうね。それに、映画学部なんてものもできてはいないと思いますよ」 「ではそうした若いアイドルたちは、つまりもう、きちんとした俳優ではなく、歌手でもなく、つまり子供の一種として、その社会の一般の人たちからは無視されているわけですか」 「ほとんどは名前も知られていないでしょう。むしろ軽蔑されているのではないかと思いますね」 「そんな社会だと、真面目に映画俳優を志す人はいなくなるんじゃないですか。だって、アイドルになると一般の社会人から軽蔑されるというのでは」 「そうですよ。したがって女優さんにしても、きちんと演技の勉強をしてきた人だの、良家の子女、深窓の令嬢などという人は映画女優になりたがらなくなるでしょう。だってポルノに出なければならないんだから」  美術監督が椅子の上で大きく足をはねあげた。「ははあ。わかったぞ。つまりそういった俳優が一般社会人から軽蔑されるというのは、彼らがもともと頭の悪い不良少年少女だからだ。つまりこの社会でいえば下町の貧しい家庭の子供で、なんの職にも就《つ》かずに自分たちだけで勝手にグループを組んで芝居をしたり、歌ったり踊ったりして騒いでいるあの連中なんだ」 「ああした連中そのものではないけどね」おれは訂正した。「社会そのものが違うんだから。それに呼びかたも不良少年とか不良少女とかは言わんだろう」 「岡島君のいう、下町のあの不良連中なら、なかなか可愛いところもあるんだよ」綱井監督が弁護した。「あの年頃のあれは一種の熱病で、いずれは自分に才能があるという錯覚から目醒めて、必ず家業を継ぐことになるんだから」 「ではその社会での青年の理想像、その社会の青年が第一目標とする職業、両親だの一般社会人だのによって期待されている青年像というのは、いったいどのようなものですか」今度は美藝公が訊ねた。 「それは経済社会なのだから、やはり大企業の社員でしょう」 「なんと」また岡島一鬼が叫んだ。「サラリーマンになるのが若者の第一目標だというのか」 「その社会ではサラリーマンという呼びかたもしていないんじゃないかな、きっと」次第に呑みこめてきたらしく、山川俊三郎が言った。「特に大企業の社員の場合はね」 「それはもう、陰惨な社会に違いないぞ」岡島一鬼が呻《うめ》くように、またそう言った。「そういう連中から見れば映画に出演している人間なんてものは、その経済社会とやらからの落伍者ということになる。そうじゃないかね」 「そうだろうね」 「それに、情報が重要性を持つ社会であるとすると、新聞記者などもそうした大企業の社員並みに青年の第一目標」山川俊三郎がそう言ってからのけぞった。「あっ。すると記者にしても藝能記者より政治記者の方がいわば格が上ということに」 「当然そうなりますよ」美藝公が悲しげにいった。「したがって社会部記者の方が藝能記者よりもずっと格が上ということにもなるでしょう」 「へええ」監督が驚いて美藝公を見つめた。「社会部はむしろ新米記者の修練の場だが、それがなぜ経験の必要な藝能部よりも格が上に」  美藝公は考えながらゆっくり言った。「いいですか。まずその社会は、いわば大衆社会なんです。いわば大衆消費社会であり、ということはつまり、いわば大衆情報社会ということにもなる。その代弁者、もしくは大衆の指向操作役が新聞ということになる。そうではないですか」  おれはうなずいた。「そうです」 「なんですかいその大衆情報社会というのは」岡島一鬼は眼を丸くしていた。  おれは答えた。「大衆の支持がなければ何もできない社会だ。つまり消費者が王様という社会だよ」 「ああそうか。それで宣伝が必要になってくるわけだな」綱井秋星がうなずいた。 「しかし大衆というのは、それぞれの事象に関しては素人でしょう」山川俊三郎が怪訝そうにそう言ってから、またのけぞった。「あっ。だから、それで、演技者だの歌手だの、プロデューサーだのが、全部素人でもいいということに」 「むしろ玄人《くろうと》であってはいけないんです」と、おれは言った。「勿論その社会にも玄人は存在しますよ。たとえ本格的な教育を受けていなくとも、立派な生まれつきの才能を持った人間はどんな社会にでも必ず出現する。天才というやつです。しかしそういう人間に対して経済社会はどう報いると思いますか」  綱井秋星が考えながら推測しはじめた。「ええと。つまりその社会には、すでにスタアはおらんわけだろう。雲の上の人がすでに存在しなかった場合、一般の社会人の心からは次第に大スタアヘの憧憬の念が失われて行く、あるいは逆に憧憬の念がないからこそ大スタアが出現しないということになるね。そこへ天才的な、大スタアの素質を持った人間が登場した場合は」 「藝術、学術、スポーツ、すべての場合にあてはめて考えた方が簡単でしょう」おれは暗示した。「いいですか。経済社会なんですよ。事実は資本主義社会だ。しかし国民の大多数は、系列化された企業のサラリーマンです」 「平等主義なんだ」岡島一鬼が叫んだ。「実際にはそうでないにかかわらず、全国民が同程度の生活水準を持っていなければならんとされている社会なんだ。だから金持を許さぬ社会になる。やっぱり一種の全体主義じゃないか。金持を許さんだけではないんだ。天才だって許さないんだ。才能だって、皆、同じ水準を保っていなくちゃならんわけだものな。階級さえ、ないようなふりをしなければならんのだ。そうだ。ずば抜けた美貌だって許さんに違いないぞ。だからこそスタアが生まれないんだ。その辺にざらにころがっている程度の美貌しか許さんのだ。きっとそうだ」  岡島一鬼のあまりの飛躍に驚いた様子で、美藝公が茫然とした顔を美術監督に向けた。「そうなるでしょうか」 「そりゃもう、そうなりまさあ」岡島一鬼は一瞬にしてすべてを見たとでも言いたげに大きく叫んだ。「すべての人間が子供の頃から、単なるサラリーマンになるための単なる学習競争をしている社会でしょうが。だとすると、そんな競争に加わりもせず、生まれつきの天分や美貌だけで幸運を得ようとする人間を許しちゃおくもんですか。いやあもう、これは陰惨な社会に違えねえ」 「許してはおかないといったって、才能や美貌を持っていればこれはもう、ある程度は認めなきゃしかたがないんじゃないですか」美藝公が首を傾《かし》げた。「それを許さないとおっしゃるが、いったい、どういう具合に許さないんですか」  美術監督がそれはと言って口ごもると、綱井秋星が大きくうなずいて横から言った。「その場合はですね、美藝公自身がさっきおっしゃったじゃないですか。これはもう新聞がひきずりおろすでしょう。いやいや。新聞だけじゃない。情報が重要視される社会なんだから、雑誌もそれに加わる。つまり大新聞や大雑誌は経済社会では大企業のひとつであり、その記者連中だってもはやサラリーマンなんだからね。彼らは国民大衆の代弁者でもあり、サラリーマンとして経済社会の競争に加わって大企業に属することのできた人間なんだから、世論の指導者として容認されてもいる。どちらかといえば彼らこそ、たとえば藝能人等を最も蔑《さげす》もうとする人種の尖兵《せんぺい》ではないでしょうかな」  音楽監督は驚いて腰を浮かした。「しかし新聞雑誌にとって藝能記事は、そりぁあいくら藝能記事そのものの相対的価値が下がったとはいえ、やはり売りもののひとつでしょう。藝能人を蔑んだりすればますます藝能人からそっぽを向かれて、いい記事が書けなくなるじゃありませんか」  監督は突然、その社会の一般人の代弁者、または新聞記者に変身したかの如く、意地悪そうな笑みを浮かべた。彼が昔、演技者でもあったことをおれは思い出した。「その社会の藝能人はね、いくら悪口を書かれようが、新聞雑誌に対してそっけなくするわけにはいかんのさ。そっけなくすればまた悪口を書かれたり、報道してもらえなかったりするからね。自分の専門だけにいくら打ちこんでいたって、それを報道し宣伝してくれる者がいないと、情報社会では誰も彼を知らないってことになる。こいつは藝能人にとって致命的だ。だから記者連中にはぺこぺこすることになるだろう」 「それだとしまいには、われわれ藝能人を取材する人間が、われわれに対して、極端に言えばその、取材してやるのだという態度をとることになりはしませんか」美藝公が不審そうに訊ねた。 「極端にではなく日常的に、まさにそうなるんです」と、おれは言った。「何もかも逆なんですよ」 「そんな態度で取材して、いい記事が書けますか」 「記者が藝能人を蔑んでいることのありありとわかる記事ほど、その社会では面白い、いい記事ということになるんでしょうね」 「そんなものを、大衆が読みますか」 「読み、そして信じるわけですよ。やっぱりこいつらは落伍者だ。不良青少年男女だ。われわれとは種類の違う人間だ」 「その藝能人のファンが怒りませんか」 「その怒るファンもまた、落伍者扱い、不良青少年扱いするわけですよ。彼らの同類だというので」 「よくまあそんないやらしい、陰惨な社会を、しかもこまかい点まで考え出したもんだ」岡島一鬼が呻《うめ》くようにそう言った。  おれと美藝公の問答を悲しげに聞いていた音楽監督が、反論し返されるのをおそれてでもいるかのようにおずおずと口をはさんだ。「しかしですね、いくら蔑んでいようと、抜きん出た才能、たいへんな美貌に対してはどうやって悪口を書くんですか。書きようがないじゃありませんか」  綱井秋星が立ちあがり、あたりを歩きまわりはじめた。「いいや。いくらでも悪口は書けるぞ。うん。もしわたしがその社会における藝能記者ならだな」彼の口もとにふたたびあの毒どくしい笑みがあらわれた。「いいや。藝能人だけの問題じゃない。科学者であろうが、監督であろうが、野球選手であろうが、天才的であればあるほど奇妙な癖を持っている。それを書き立てるだろう」 「天才的才能には犯罪者的素質や風変りな性格がつきものですよ。それは誰でも知っています」美藝公がびっくりしたような表情で言った。「まさかその社会の一般読者に、そうした常識が欠けているとも思えない。天才的才能の持主がたまたま犯したそういう過ちなどを大新聞や大雑誌ともあろうものが書き立てますか。もしそんなことを書いて、まるでその人の天才までを否定しているように読者に受けとられたらどうしますか。その新聞や雑誌の良識が疑われる。いや、それ以前に、そもそも、だからこそ彼は天才なのだという当然の反論を受けたらどう答えるつもりですか」 「ええと。その場合はこういう論じかたになるでしょうね。つまり、なるほど彼は天才かもしれない。だがそれによって周圍の凡人が受ける迷惑はどうなるのか、と」 「なんて陰惨な社会だ」岡島一鬼は頭をかかえた。「そんなことは彼の仕事と関係ないじゃないか。せいぜいユーモラスな逸話相当の奇行が、その社会の場合は中傷記事になってしまうのか」 「そう。しかもそれを機会に、それまでは単にユーモラスな逸話だったその人物の過去の数かずの過ちを、犯罪的行為として書き立てることになるね」綱井秋星はそう断言した。 「じゃ、奇癖を持っていない天才の場合は、どうやって悪口を書くんです」突っかかるように山川俊三郎が言った。「そんな天才だってたくさんいますよ」 「言っときますがね」おれは口をはさんだ。「その社会ではきっと天才なる言葉も禁句に違いないですよ。天才などと言い出せばたちまち拒絶反応があるに決まっている。天才など認めたがらない社会だから」 「たとえ奇癖を持っていなくてもですな」と、監督が喋りはじめた。「その場合は天才に限らず、誰にだって私生活がある。その私生活の、誰もが持っていながら誰もが最も隠したがる部分、つまり性生活、夫婦喧嘩、恋愛、親子兄弟など家庭親族関係のもめごと、そういうものをほじり出して書き立てるでしょう」 「たとえば、自分のことを例にあげて恐縮だが」と、おれは言った。「その社会では、ぼくと町香代子のことなど、たちまち槍玉《やりだま》にあがるでしょう。彼女は日本一の人気女優なんだから」 「だけどそもそもそんな社会じゃ、町香代子のような女性は女優になっていないだろうし、日本一の人気女優、などという言いかたにふさわしい女優も出現していないよ」岡島一鬼はかぶりを振りながらそう言った。 「恋愛などというものは誰でもするものだし、特に俳優などは藝術家であるだけに情熱的だから、恋人がいない、などという人の方がむしろ珍らしい例である筈です」美藝公がじっとおれを見つめてそう言った。「俳優の恋の相手をいちいち報道していたのでは、夢がなくなってしまう。ファンも減る。それは藝能界の衰退にもつながるし、そんな記事を書けば藝能記者自身の自滅にもなるでしょうに。すでに衰退している藝能界をさらに衰退させるような、そんな愚かな報道をする記者はいないと思いますがねえ」 「その社会においては、彼らはそのような考え方はおそらくしないでしょう」監督が言った。「藝能界が衰退しているとも思っていない。さっき言った若者のアイドル的藝能人がいっぱいいるわけだから。そういう連中に対して彼らは、いや一般社会人さえ、自分たちだけが秘密のヴェールに包まれていたいと思うのは特権意識である、思いあがりである、または甘えているという考えかたをするでしょうな。俳優に限らず、名の売れた人間には、名が売れていることによる反感からそうした私生活の秘密の公開を要求するに違いありませんよ。そうか。この社会ではむしろ名の売れた人間というのは政治家や実業家でしたな。では彼らに対してもきっとそういう態度で」 「政治家ですって」山川俊三郎が衝動的に大声で訊ねた。「美男美女というわけでもない、あんな人たちの私生活などを記事にして誰が読むんですか」 「経済社会。経済社会」と、おれは社会設定を彼に思い出させた。 「ああそうか。国民全体が彼らに関心を持っているわけですね」山川俊三郎がうなずいた。「それにしてもいったい、彼らの私生活の何を記事にするんですか。ああいう人たちはむしろ一般社会人の典型でしょう。そんな人たちの夫婦生活とか恋愛とかを書いてもしかたがないでしょう」 「そう言やそうだ」監督は考えこんだ。「その場合には何を書くだろう」 「こだわるようですがね里井君」美藝公は言った。「たとえば戦前のハリウッドの中心的スタアであった美人女優たちは秘密のヴェールに包まれていたが故に人気があがり、ハリウッドは映画産業王国として世界に君臨できた。君のいう社会のそうした藝能記者たちは、昔のことを知らないという設定になっているのですか。たかだか数十年前の映画史の事実にも無知なのですか。とてもそうとは考えられませんね。それなのに、君のいうその社会の記者たちであれば、たとえばグレタ・ガルボ嬢のように秘密のヴェールに覆《おお》われていることによって有名な女優がいたとしたら、その私生活を競争であばき立てて、もとも子もなくしてしまうという愚行さえし兼ねぬように思えますね」 「まさにそれをやるのです」おれは言った。「いわば自分たちの財産を争って食いつぶす愚行をやるわけですな。取材だって自由競争だからどんどん荒っぽくなり、しまいにはその女優の家のゴミ箱まで漁《あさ》るでしょう。つまり経済社会では藝能人も商品である。ということはつまり、消費社会では藝能人もまた消費すべき消耗品である。藝能人も食べものも一緒くたにして、文化の蓄積ということを考えず、ただ消費して行く過程を寄ってたかって皆で楽しむのです」 「では、グレタ・ガルボ嬢どころの騒ぎではありませんね」美藝公は額を押さえた。 「どういうことですか」と、山川俊三郎が訊ねた。  美藝公の考えていることを悟り、おれは戦前のハリウッド・ゴシップに詳しくない音楽監督に、そういう話をするのが嫌いな美藝公にかわって説明した。「戦前のハリウッドでは、破滅的な愚行をくり返しながらも他方では数多くの名作に出演した俳優がたくさんいたのです。この世のものとも思えぬ美貌の持主キャロル・ロンバード嬢のひと前でも平気で排尿する奇行、フランチョット・トーン氏の刃傷《にんじよう》沙汰、リリアン・ロス嬢その他多くの俳優のアルコール中毒、モーリン・オハラ嬢の場所を構わぬ荒淫、有名なゴシップはいっぱいあります。しかしこれらは映画通と自讃するファンの間で、まさにその映画通であることを証明するが為の話題として囁《ささや》かれたことこそありますが、よほどのことでない限り大新聞、大雑誌に載ったりはしなかった。赤新聞、赤雑誌でさえ、ハリウッドから締め出されるおそれがある以上おいそれとは書かなかった。それによってハリウッドの夢を護《まも》ることができ、それら名優による名作が次つぎと生み出された。もしこれらがその経済社会で起ったことであればどうでしょう。たった一度の過ちで破滅です」 「そりゃもう、当然そうだろうさ」岡島一鬼はまた、吐き捨てるように言った。「恋愛まで記事にするような社会じゃあな」 「そうだとも。そして大雑誌には俳優の私的な行動を隠し撮りした写真だの、美人女優のヌード写真だのが出る」と、監督が笑いながら言った。 「女優さんの裸体の写真が雑誌にですか」山川俊三郎がまた大声を出した。「しかし、女優さんのヌードを見る為にはちゃんと映画というものがあるわけでしょう。映画の観客が減るのも承知で、雑誌などになぜヌード写真を載せるのですか。その、別段、藝術的な必然もないのに」 「藝術的必然がないからヌードにはならないなどという女優がいたら、たちまち生意気だというので記事でやっつけられるだろうね。藝術などということばを藝能人が口にしただけで反溌《はんぱつ》を受け、拒否されるだろうよ。そしてついには藝術ということばを使うことがなんとなくうしろめたい気持になるような、いやいや、むしろ自分のやることはどうせ藝術なんかではないという開きなおった言いかたの方が好感を持たれるような文化的情況を作りあげてしまう」監督はほとんどサディスティックなほどの笑みを浮かべていた。「ヌードになった女優に対しては、読者たちは腹の底で蔑みながらえらいえらい、大胆であるなどといって褒《ほ》める。しかし一方、一般の社会人からは、あの女はすぐヌードになるといって蔑まれることになる」 「どっちにしろ蔑まれるわけですか」山川俊三郎はいったん苦笑してから、真顔になり、反論しはじめた。「しかしもしもその世界に、この美藝公がいたらどうなりますか。身辺にはもちろん淫蕩《いんとう》さの影もないどころか、これはぼくも不思議なんだが浮いた噂はまったくない。人格高潔。演技力は言うに及ばずですが、どこからも文句が出る筋あいがひとつもない。こういう大スタアを、どうやって藝能記者たちは悪く書けるでしょうか」  照れくさそうにしている美藝公を、綱井秋星は底光りのする眼でじっと見つめた。「その場合にはだな」舌なめずりをした。「その社会の記者たちは、美藝公のような大スタアに限らず、恋愛していない俳優、または自らの恋愛感情をまったく他人に悟らせない藝能人に対しては、性欲の処理をどうしているのかだとか、そういうことを平気で訊くだろう。いや。むしろそういう露骨なことを平気で訊ける人間でないと記者にはなれない社会だ。あなたは性欲がないんですか。自己性欲ですか。自慰ぐらいはなさるでしょう。一週間に何回なさいますか。もしかするとあなたは同性愛ですか。女性よりも男性の方がお好きですか」 「と、とんでもない」それまで隅にひきさがってわれわれの話を聞いていた小町氏が突然立ちあがり、激昂して反駁《はんばく》しはじめたのでおれたちはびっくりした。「美藝公はそんな人じゃありません。同性愛などとんでもない。美藝公に浮いた噂がないのはあたり前です。美藝公の恋人はとりもなおさずお仕事なのです。映画です。そのことは始終お傍《そば》についているわたくしがいちばんよく存じあげて」 「まあ、まあ。まあ」全員が立ちあがり、笑いながら小町氏を宥《なだ》めた。 「小町君。これはただの話に過ぎん」 「架空の設定なんだよ」 「虚構の社会での取材記者の発言だ」  小町氏はすぐ、悪夢から醒めたような顔つきになった。「これは。わたくしとしたことが」笑い出した。「監督のお話しぶりがあまりにも迫真的だったもので」彼はすぐ、部屋の隅のスツールに戻った。「申しわけありません。とんだお話の邪魔をしてしまいました」 「しかし、よくまあそこまで、陰惨な社会のことを、こまかい点まで想像できるもんだ」岡島一鬼が綱井秋星に驚嘆の眼を向けた。「さすがは監督だ。それもやはり人間に対する洞察力ということになるんだろうね」 「さっきの山川氏の質問に対する答を、今思いついたよ」監督は今や、おれの想像した社会へ完全にのめりこんでしまっているらしく、さらに喋り続けた。「これは美藝公のような、人格高潔にして何のスキャンダルもない人物に対すると同様、政治家の私生活に対する、そうした社会での代表的な貶《おとし》めかた、蔑みかたになるだろう。つまり記者たちは、社会的成功者の資産、つまりその人たちが金持であることに対して攻撃することになるだろう。美藝公の場合ならあの豪邸を、奢《おご》りの象徴として悪しざまに書き立てるだろうし、政治家に対しては資産の公開を求めるだろう。そしてその資産を、まるで悪事によって得たかのように書き立てるだろう」 「それは逆ではないでしょうか」美藝公がいささか憮然《ぶぜん》として反論した。「経済社会なのに、なぜ金持が蔑まれるのですか」 「だからそれは、平等主義だからでさあ」岡島一鬼が叫んだ。「天才と同じように、金持だって存在してはならない社会なんでさあ。そうだろ。ほとんどの人間がサラリーマンなのだから、その社会では金持は少数派だ。これはいじめられるよ。サラリーマンでない職業だっていじめられる。特に自営業の医者など、ちょっと金を貯めたら悪徳医者にされてしまう」 「じゃあ、たとえば貧乏な家庭から身を起して土蔵《くら》を建てた、などという話も美談にはならない社会なんですか」と、山川俊三郎が訊ねた。  綱井秋星はうなずいた。「ならないならない。金持になれたのは何か悪いことをしたからだと囁かれ、名が売れたのは売名行為をしたからだと耳打ちしあう社会だ。殊《こと》に、貧乏な家庭の生まれであったりしようものなら、なにしろサラリーマン家庭が大多数なんだから、育ちが悪いとささやかれる。どちらにしろ蔑まれるんだ。悪いことをした政治家や医者がいたりすると、たちまち政治家全員、医者全員が悪いのだと思わせる報道で、一般社会人の彼らへの反感をさらに煽《あお》り立てる。そもそもそんな社会では、美藝公などという貴族趣味的な呼称などもたちまち悪評を買うだろうよ。本当は大臣という呼称だって封建時代からのものだから、そのせいで政治家が反感を持たれたりもするだろう。なになに長官、などという呼びかたに移っていくだろうね」 「よくまあそんなに、陰惨な社会のことを、隅ずみまでこまかく考えられたもんだ」美術監督がふたたび綱井秋星に驚きの眼を向けた。「やはり監督だけあって、人間への洞察力が」  監督はくすくす笑った。「そんなにたいしたことじゃない。じつは、わたしは子供の頃、女生徒の数が男子生徒の二倍近くもある小学校にいた。そこでは当然女生徒の力が強くてね。われわれ男子はよくいじめられたもんだ。特に可愛い男の子や優等生ほどよくいじめられた。わたしは別段可愛くもなしさほど成績も優秀ではなかったから直接の被害はあまり蒙《こうむ》らなかったが、傍で観察しているうち、女の子たちの中に、天才的ないじめかたをする数人を発見した。その手段たるや底意地が悪いどころではなく、卑劣というか残虐というか、人間の悪意の行きついた果ての凄さというものをつくづく思い知らされるほどだったね。さっきからわたしがその架空の社会に適用したものは全部彼女たちのやりくちの応用なのさ」いささか乾いた声で綱井秋星は高笑いをした。  山川俊三郎は笑いもせず、悲しげに監督を見てから他の全員を見まわした。「悪夢のような社会だと感じたのも当然ですね。そこはつまり、残虐性、残酷さが幅をきかせる子供の社会と同じであり、女性の底意地の悪さで成立している社会というわけだ」 「いいところのまったくない社会だな」と、岡島一鬼が言った。 「いや。ところがもし、その社会にいる人たちがわれわれのいるこの社会を見たとしたら、やはり同じことを言うかもしれないんだ」と、おれは言った。「封建制そのままの社会だといって罵《ののし》るかもしれない」 「それは、わかるような気がしますね」美藝公がおれの言葉にいささか驚いたという表情で反応し、喋りはじめた。「わたしも時おり美藝公という地位に安住している自分に対して、これでいいのかと思いますからね。それぞれ自分の生まれながらの家業だの、辛く苦しい労働だのを続けている人と、現在のこの自分の身をひきくらべて、すまない、有難いと思う気持でいっぱいになります。それどころじゃない。自分の好きな仕事だけをし、華やかにもてはやされている自分をずいぶん妬《ねた》んでいる人もいるだろうと考えて、ぞっとする時もある」 「それはだって、それだけの努力をされたのだから」と、山川俊三郎が言った。「生まれつきのいいご身分、というわけじゃないんですから」 「いやいや。じつはぼくも、自分がこの世界であまりにも幸福だから、これは真実だろうかと考えた。それがそもそも、今までの話の発端なんですよ」と、おれは告白した。 「そりゃあ、今のこの社会だって完全じゃない。貧困があるからね。餓えこそないが、失業がある」監督は言った。「しかし、さっきからの話を聞いた限りでは、幸福な人間はこの社会の方が多い筈だよ」 「そう思いますね」山川俊三郎はうなずいた。「その、あり得べきもうひとつの社会の方では、辛く苦しい労働をしている人はもちろん、平均以下の生活をしていると自覚している人はすべて不幸だと思いますよ。中流以上の人にだって、常に不満があると思う」 「そうだ。その社会にだって、やはり労働者や、農民や、貧しい人間や、失業者や、それから大多数の、家業を継いでつつましく生活している人間だっている筈だぞ」岡島一鬼が身をのり出した。「サラリーマンだけじゃ社会は成立しないものな。すると、そういう人たちの夢は何かね。つまり夢をあたえてくれる藝術や娯楽は何かということだ。人間、それなしに生きて行けるものじゃない。まさか権力者や金持をひたすら憎み、蔑《さげす》んでいるだけというわけじゃあるまい」 「ええ。それは何かある筈ですね。わたしとしては映画しか思いつかないが」美藝公が言った。「映画にかわる大衆的なものというと、どういったものなんでしょう」 「ぼくは、テレビじゃないかと思うんです。映画なども、すべてテレビで各家庭に放送してしまう」  おれの言葉で全員が部屋の隅の、小さなテレビの、今は何も映し出されていない画面を見た。 「映画をテレビで、ですか」美藝公は不思議そうにおれに訊ねた。「あんなものに、映画が映りますか」 「まあ、画面はもう少し広くなっているかもしれませんがね」 「いくら広くしても、臨場感が出るほどではないでしょう」 「臨場感があったとしても映画の臨場感とは異質なものでしょうね」 「しかし、暗いところではなく、明るいところで見るわけでしょう」 「ええ。家庭ですから」 「そのう、つまり家族が何人かで、明るいところで映画を見るのでしょう」 「そうですね」 「しらけませんか」  おれたちは美藝公の言う意味がわからず、しばらく彼の顔を見つめた。 「つまり、その」美藝公はさっきから、珍らしく言葉に詰って言い淀んでいた。「映画の場合は暗いところで見るから観客相互の交流もなく、画面以外は何も見えないわけだから没入できますね。ところが家庭で見た場合、一緒に見ている人の反応がわかる上、家庭なのだからラジオと同じで上映中の私語による会話も可能ですね。たとえひとりで見ていたとしても画面から眼をそらせばそこには現実がある。いや。わざわざ眼をそらさなくても、常に現実を意識しながらテレビを見ていることになる」 「そうだ」山川俊三郎が膝を叩いた。「眼をそらすどころじゃありませんよ。ラジオを聞くのと同じで、家庭内の用を足しながら画面を見ることになる。つまり立ったり歩いたり」 「ラジオならともかく、それでは画面が見えませんよ。まあ、ものを食べながら映画を見ている人なら映画館でもたまに見かけますが」と、美藝公。 「つまり、食事をしたり立ったり歩いたりしながらでも見られるような映画がテレビで放送される、ということになるんでしょうね」 「ちょっと待ってくれ。すると何かね。さっきから映画映画と言ってるのは、映画館用に作られた映画じゃないのかい」 「まあ、そういう映画が放送される時もあるだろうがね。でもほとんどはテレビ用に作られた映画だと思うよ」 「待ってください」山川俊三郎が言った。「するとそれは国営放送ではないわけですか。だって、そういうものを作るにはやはりそれ専門の」 「もちろんそうですよ」 「それはつまり、映画人が作るわけかね」と、監督。「映画が振るわなくなった為に没落した映画人が」 「そりゃあ、そういう人も駆り出されるでしょうね。しかしもともとはそうしたテレビ制作でさえ大企業として成立するからこそ民間のテレビ放送局がいくつも出来るわけで、スタッフの中心はやはりそうした大企業の社員でしょう。ただ、毎日違った映画を放送しなくてはならないから、やはり人手不足にはなるでしょうし、当然昔からの映画人を駆り出すということも」 「民間のテレビ放送局がいくつも出来るだと」 「そうだよ。放送会社、と言うべきかな。十も二十もできるかもしれない。経済の自由競争だ」 「経済だと。文化ではないのか」 「つまりその、文化とか、そういう水準のものではないのだ」 「たとえ娯楽であるにしろ、テレビ放送会社が十も二十も出来て、そのひとつひとつが、たとえば毎日違った映画を何本か見せるわけだろう。そんなにたくさん映画が作れるのか」 「無茶だ。作れるものじゃない」監督はかぶりを振った。「映画産業の繁栄しているこの社会でだって、全力をあげて作っても、C級映画を含め週に五本か六本がせいぜいなんだよ。毎日十本とか二十本の映画など、とてもではないが」 「いやいや。この社会での感覚で映画を考えるからおかしいことになる。そういうものではないと思います。つまり食事をしたり、立ったり歩いたりしながらでも見ることのできる映画なのだから」 「ははあ。水増しされた映画か」 「水増しというか、テレビで放送するに適した作り方というものが開発されると思う」 「大量生産方式か。ではつまりその社会の人間は、文化的素養も何もなく、そういう機械的に作られた、面白くもなんともない映画を毎日見て喜ぶという、つまりアホか」 「いやいや。それはいくら何でも面白くなくては誰も見ない。面白さだって経済競争のひとつの要素だ。つまり情報社会なんだから、見てくれる人の数が多ければ多いほどそのテレビ会社は経済競争に勝つわけだ。やはり面白くなくては」  監督が口をはさんだ。「ということは、逆に、できるだけたくさんの人間を喜ばせるような種類の面白さだけを追求するということになるね」 「ええ。したがっていずれも内容はよく似てくるでしょうし、高度なもの、つまり藝術的なものは放送しないでしょうね」  美藝公がまた首を傾《かし》げた。「高度な藝術がいささか難解で理解できる人が少いのは当り前ですが、それはしかし、人間の社会である限り、まったく作られないということもあり得ないのではないですか」 「それはたまには作られるでしょうが、やはり、そもそもは平等主義の社会ですから、そういう作品を理解できる少数の人間がいてはいけないのですね。みんなが同じような家庭で、同じテレビを見なければいけない。さもないと文化的に不平等になりますから。まあ藝術的なものが作られたとしても、他のテレビ会社の作品と競争できる範圍内で」 「その、競争というのは何ですか。家庭からの収入の競争ですか」 「いえいえ。それは大企業などからの収入があるわけです。宣伝費として」 「なんの宣伝費ですか」 「商品のです」 「ははあ。映画の中でタイアップするわけか」監督がうなずいた。 「映画の中へさりげなくその商品を出すとか、俳優が商品名をちらりと言うとかいった、われわれのこの社会でやっているようなタイアップではないでしょうね。むしろもっとはっきりと独立した宣伝の形になるでしょう」 「えっ。それじゃ映画に関係なく、その商品を持った人間が出てきて、これはいい商品ですとか、これを買いなさいとか、そういう厚かましいことを放送で言うわけかい。臆面《おくめん》もなく。そんなもの、誰も見やしねえだろう」 「いやいや。情報社会だから、そうした宣伝もひとつの情報になるわけだ」 「だって、それは情報じゃあるまい。製造元が金を出して宣伝しているんだ。悪い宣伝をする筈がない。そりゃまあ、情報と言えぬことはないが、嘘の情報だろう」 「話を戻しますが」と、美藝公が言った。「すると家庭では、テレビを無料で見るわけですか」 「そうですよ。そのかわり大企業の宣伝も見なければならないわけです」 「いくら何でも、その設定だけは無理だ」美術監督は固執した。「そんなもの、いくら無料だって、見やしねえったら」 「たとえば」と、音楽監督は言った。「自分のすでに持っている品物を宣伝しているとすれば、それは見ないでしょう」 「いや。それはわれわれの、この社会にいる人間の考え方です。消費社会の基本的性格は、限度がないということなんですよ」 「ははあ。ではやっぱり、すべての人が常に不満を」 「だいたいだな、映画を見るためにテレビをつけたのに何かの宣伝をしていれば、これは誰だって怒るぜ。そんなテレビ、消しちまうだろう」 「いやいや。そういうことにはもう馴れっこになっているし、テレビ会社の方だってテレビを消させない工夫をするだろう。たとえば映画の途中で宣伝をはさむとか」 「なんだと。映画を中断してか」 「ああ。それなら続きを見たいものだから、宣伝だって見る」 「そりゃ見るかもしれないが」監督は苦笑した。「映画の流れがズタズタだ」 「だからして、そもそも流れが中断するとかいった種類の映画ではないわけですよ」おれは辛抱強く説明した。「何しろ家庭で見ているんだから、どうせ映画館でやるような長時間のものは駄目でしょうね。どうしてもコマギレになる」 「じゃ、連続活劇とか、シリーズとかいったやつだな。それじゃ、藝術的なものはとても無理だな」 「映画といっても、劇映画ばかりじゃないし、もしかするとスタジオの中で全部やってしまえるようなものかもしれない」 「じゃ、芝居を同時放送するわけかい。ま、あれなら流れやテンポもゆっくりしているし」 「芝居に似てはいるけど、同じものじゃないでしょうね。クローズ・アップもできるし、映画とうまくつなぎあわせたりもできるわけだし」 「ああ。連鎖劇か」 「バラエティ・ショウのようなものになるかもしれませんね」と、美藝公が言った。「スタジオでやってしまうとすれば、芝居よりも歌や踊りの方がいいわけでしょう。途中で宣伝が出てきても、ドラマほどには腹を立てずにすむでしょうし」 「だけど、どの道宣伝で腹を立てることには違いなかろう」と、美術監督は言い続けた。「金を出して、腹を立てられてまで宣伝するのかね。商品が買ってもらえなくなるぜ。えらいマイナスだ」 「そうじゃない。消費社会というのは、宣伝に馴らされた社会なんだ。むしろ宣伝がないと物足りないぐらいに思うという社会なんだよ」 「オーケストラの演奏会などというのも、テレビで見せたりするでしょうね」と、音楽監督は言った。「ラジオで聞くよりはいいかもしれない。楽団員ひとりひとりの演奏ぶりもクローズ・アップで見られるわけだし」 「オーケストラというのは、やらないんじゃないかな」おれは首を傾げた。「やったとしても、ポピュラーな曲ばかりをショウ的にやるでしょうね。本格的な交響楽というのはやはり特殊なもので、一部のインテリのための藝術とされているだろうから」 「しかしそれだと、オーケストラとはこのようなものだという誤解が拡まりませんか」 「当然拡まるでしょう。つまり文化というのはすべて面白おかしく、やさしく、娯楽的でなければいけないとする社会ですからね」 「交響楽をショウ的にやったり、劇の途中に宣伝をはさんだりして、本当に怒るやつはひとりもいないのかねえ。信じられねえよ」 「そりゃ、いるだろうさ。でもそういう者は頭が固いとか、考えが古いとか言われて笑われることになる。だから怒らなくなるよ。つまり平等主義の社会だから、自分だけ違ったことを言ったりしたりしてひとに笑われるのを最も恐れるんだ」 「なんてえいやな社会だ」 「落語、漫才などという寄席藝もやるようになるだろうね」と、監督が言った。「あれならたいして時間はかからないから、宣伝でぶった切られるということもあるまい」 「でも、渋い藝は嫌われるでしょうから、じっくり聞かせる落語《はなし》は演じられなくなりますね。前後を縮められて、サワリだけを瞬発的に聞かせるということに」 「じゃ、その場合にもやはり、寄席藝とはこんなものかという誤解が」 「ええ。当然そうなりますね。寄席好きの人間だけに独占させてはならないわけだから、ぐっと一般的で、誰にでもわかるものでなければならないのです」  美藝公が珍らしく、居ても立ってもいられないという素振りをした。「寄席がさびれませんか」 「なくなっていきます」と、おれは言った。「映画館と同じ道をたどるでしょう」 「いいところのひとつもない社会だ」美術監督がまた顔を歪めた。「つまり何もかも、そのう、本来の文化ではなくて、いわば最低共通文化とでもいうべきものにまで落ちるわけだな」  おれは思わず手を打った。「まさにそうだと思うね。そうだ。テレビだけではなく、新聞や雑誌など、あらゆる情報機構によって、すべての文化が、その最低共通文化にまで落ちるんだ。映画や音楽だけじゃない。文学も、科学も、歴史もだ」 「どういうことだね」 「第一流の文学者や科学者が、テレビに出て、自分の文学観だの、発明発見だのを、やさしく喋るわけだよ」 「しかし、今までの話を聞いたところじゃ、テレビそのものが巨大なバラエティ・ショウなんだろう」監督が言った。「そんなところへ文学者だの科学者だのを持ち出したって、誰にも話がわからないし、誰も聞こうとはしないだろう」 「そうか」山川俊三郎が膝を叩いた。「その社会では、文学や科学も、消費の対象なんですね。自分たちの手の届かないところで何かやっているのはけしからん。それがどんなにすばらしいものなのか、われわれにも平等に分配しろ。わかちあたえよ、わかちあたえよというわけですね」 「その人たちは実際には、テレビでどういうことをやるわけですか」美藝公が訊ねた。「具体的にはどういうことを喋るんですか」 「そうですね。たとえばある作家がいい小説を書いたとしましょう。文壇で評判になります。どこがそんなにいいのかと、みんなが知りたがる。ところがその小説は、小説を読む訓練をしていない人が読んだって、難解でよくわからない。そこでその作家をテレビに引っぱり出して解説をさせるわけですが、ただその小説の内容だけを解説させたってやっぱり難解だろうから、三面記事的にインタヴューするわけです。つまり書いた動機は、とか、どういう反響があったか、とか。しまいには、こういう作品を書く人は家庭ではどういう生活をしているのかなどと訊ねる。あるいはまったく別の話題を喋らせるため、ただ単に今評判になっている人物だからというので引っぱり出す。作家の方だって、ふだん喋るときは日常言語で喋るわけだし、書くのが専門だから喋るのはうまくない。そして自分の文学を最低共通文化、つまり日常言語の水準にまで貶《おとし》めてしまう。これではその小説の本当の面白さはもちろんわからないわけですが、テレビを見た方では、なんだ、その程度のことだったのか、この程度の人間なのか、われわれや、われわれの考えていることとたいして変らぬではないかと納得し、安心する」 「ははあ。さっきの藝能人の場合と同じだな」岡島一鬼がうなずいた。 「違うところといえば、文学者や科学者は、藝能人のような派手な私生活もなければ、スキャンダルもない。あったとしたところが、そんなものをばらしたって一向に面白くもなんともないので、貶めることができない。そこでかわりに、彼らの功績を貶めるわけだ」 「しかし作家たちがそうしたことを何度もくり返しているうちに、彼らの本は売れなくなるでしょう」美藝公が心配そうに言った。 「しまいには藝能人視され、蔑まれ、本は売れなくなる。つまりさっき山川君の言った消費というのは、そうした人物までが消費の対象になるということではないでしょうかね」 「もうひとつ心配がありますね」と、美藝公が言った。「そのテレビを見た人たちが、こんな人物でも小説が書けるのなら自分も、などと思いはじめないでしょうか。つまりこれは、文学の質の低下につながる問題ですが」 「むしろテレビが、あなたたちにも簡単に小説が書けますよと煽《あお》り立てるでしょうね。やさしい文学講座などというものも催すかもしれません。『やさしい』とは言わず『婦人向』とか『青年向』とか言うでしょうし、そもそも名誉や教養も平等でなければいけないわけですから。余暇というものは盛大に消費しなければならないので、ここへ主婦や学生が殺到する。名誉と教養を、わかちあたえよ、わかちあたえよと叫びながら」 「教養の大安売りじゃねえか」岡島一鬼が笑った。「教養なんてものは、本をたくさん読んで、自分で身につけるもんだ。どうして本を読まないんだね。その方が手っとり早いし、深く理解できるだろうに」 「つまりそこへは、本を読む能力や根気に欠けた人たちが来るんだ」 「講師がいますか」美藝公は言った。「そういう人たちに小説を教えるというのは大変な作業ですがね。藝術大学にさえ小説学部という独立したものはない。それほど難しいのに。さらにまた、講師にしても、喋るよりは書いて本にした方が自分自身の勉強にもなり、時間の節約にもなるでしょう」 「つまり、文化の切り売りの時代なんですよ。それにこの社会であれば、むしろそうした主婦や学生層の中から本当に作家があらわれたりもし兼ねませんからね。水準が落ちている上に、そうした人たちならテレビの需要にも応じられるでしょうし、そもそも作家だって消費物資なのだから」 「学者もかね」 「たとえば一流の学者が何かを発見したり、発明したり、論文を書いたり、世界的な賞を受賞したりすれば、たちまち寄ってたかって」おれがそこまで言うと、みんなが笑い出した。 「科学と名誉を、わかちあたえよ、わかちあたえよというわけですね」山川俊三郎が言った。 「その理論を、無理やりやさしく解説させられるんだ」げらげら笑いながら美術監督が言った。 「つまり消費社会というのは、政治も、科学も、文化も、あらゆるものが三面記事にされてしまうんです。尊敬すべき人物はひとりもいない。みんな平等なんです。大科学者も、大藝術家も」 「そうするとその社会では、新しい本当の文化は生まれないわけですか」 「それは生まれるでしょうが、たとえば今話したようなテレビ文化を考えてもわかるように、文化というものが伝統として残ることを前提にして創造されるような社会ではないと思うんですよ。むしろ後世に残るような文化を創造しようなどという行為は、いやらしいものとして」 「ではそれは文化じゃねえな」 「文化ということばの意味がこの社会とは違うわけだよ」  美藝公が何か変なことを考えついたらしく、くすくす笑いはじめた。期待をこめたおれたちの眼をひとつずつ見返し、彼はしかたなく、といった様子で喋り出した。「今まで聞いたところでは、その社会では藝能人も半分素人なら文学者も半分素人、それならいっそのこと、ふだんその半分素人の登場するテレビや新聞や雑誌を見たり読んだりしている完全な素人さえ、テレビや新聞雑誌に登場する、ということにもなり兼ねませんね」  おれはぴしゃりと額を打って叫んだ。「そうだ。どうしてそこまで考えつかなかったのだろう。そうですとも。当然です。さっき、一般の社会人に夢をあたえてくれる娯楽は何か、って美術監督が言いましたね。それこそがつまり、テレビや新聞雑誌などへの大衆の参加だったのですよ。これは現実の、われわれのこの社会ではまずあり得ないことでしょうが、そもそもが半分素人の藝能人や藝術家ばかりの社会なら、あれぐらいなら自分にもできるという素人がいっぱい出てくるのは当然だし、テレビ局の社員や新聞記者もサラリーマンとしての鑑識眼しか持っていないわけだから同じように考えて素人を登用する。つまりこの社会での娯楽性は、一般社会人個個の人たちに、自分もいつかはという期待を抱かせるが故の娯楽性といえますね」 「素人をテレビに出して何をさせるっていうんだね。ラジオの『インフォメーション・プリーズ』みたいな番組の解答者かね」 「いやいや。そればかりじゃないでしょう。藝能人並みにきちんと歌をうたわせたり芝居をさせたりするでしょうし」 「水準が、がたんと落ちませんか」 「まあ、すでに落ちてるわけだから」  全員が大笑いした。 「失敗しても、それはそれで面白いわけだから」 「まるで動物ドラマじゃないか。あの、チンパンジー主演の何とかいう」 「するとテレビでは、そうしたいろいろな番組を並列的にやるわけですね。広告を挿入しながら」 「広告も、その並列的な番組のひとつと考えた方がいいんじゃないですかね」 「ニュースもやるんでしょうな」 「つまり何もかも、テレビという巨大なバラエティ・ショウの中へ挿入するのに都合のいいものにされちまうわけだな」 「そう。だから内容も、それぞれの番組の価値を、広告も含めて、ほぼ等しいものにされてしまう。つまり全部平均化されてしまう。どれが必要、ということはなくなるんだ。テレビだけじゃない。新聞でも雑誌でも、あらゆる情報の価値がすべて等しいものとして羅列されるようになる」 「ほう」美藝公は大声をあげた。「とすると、その結果は、テレビも新聞も雑誌も、内容は全部同じになってしまいますね」 「なるでしょうね」 「クラシック音楽、ビッグ・ニュース、車の広告、ドラマ、三面記事的ニュース、食堂の宣伝、コント、素人演芸、海外ニュース、映画、教養講座、すべてが同じ比重で並ぶわけだね」 「とすると、今やっている番組が何だか、わからなくなってしまいませんか。つまり、ニュースだと思っていたら広告だったり」 「あっ。それはあり得ます。つまりこの社会だと、新製品の発売、レストランの開店など、広告でありながらも出来事《イベント》として、当然ニュース的に扱われますよ」 「そのう、テレビの広告にこだわるようだがね」岡島一鬼が髪を掻《か》きむしりながら言った。「じゃ、そのテレビの広告を、皆が怒らずに見るとしよう。しかし、そんなに商品を買うだろうかね。テレビでは常に新製品の広告をやっとるわけだろう。しかしそんなに次から次へと新製品を出したって。ああそうか。経済社会なんだからそれはしかたがないよな。しかし、新しい商品を一般大衆がそんなに次から次へと買うだろうか。そんな必要があるのかね。いったい何を買うんだね。そんなに次つぎと買わなきゃならんものが生じるとはどうしても思えないんだよ。いったいその社会の大衆は、どういう考えかたをする連中なんだね」 「考えかた、というのは特にないんじゃないかな」おれは答えた。「ただ、広告によって消費生活の訓練というか、消費のしかたの学習というか、そういうもので消費に馴らされているわけで、消費しなければならんという確固とした信念で消費しているんじゃないと思うよ」 「その方が恐ろしいですね」音楽監督は言った。「消費が無意識的に義務化されてしまっているわけだ。とすると節約なんてものは、反社会的行為になってしまいますね」 「節約ということばだけはあると思いますよ。もしかすると節約しよう、なんて言ってるかもしれない。ただ、いくら平等だ平等だと叫んでも階級的差別がなくならないのと同じで、実際に節約なんかしたらやっぱり社会の敵だから大っぴらに馬鹿にされることになる」 「節約しないといったって、限度があるだろう」監督が眼を丸くして言った。「買うだけ買ってしまって、それ以上買うものがないという場合は」 「そういう場合の為にこそ、広告宣伝による大衆教育というものがあるんでしょうね。それに、役に立ちそうなもので実際はほとんど無駄というものがいっぱい売られるんじゃないですかね。または、同じ機能を持つものでも、新しいデザインとか、奇想天外な恰好のものとか、やたらに宝石などの装飾品をいっぱいくっつけたものとか」 「それだと漁色家が女をあさるのと同じだな」 「そうですね。商品の、その道具性への道徳心はなくなるんです」 「でも、家具などは、そんなに簡単に消費できるもんじゃないぜ」 「消費社会というのが存続するにはね、その道具を使っているといった程度の消費のしかたじゃ駄目なんだよ。ほとんど破壊に近い消費でなければ」 「その盛大な消費はどこでやるんですか」 「もちろん日常生活でですよ」 「ゴミが出るな」  また全員が笑った。 「その問題を考えるべきでした」おれは言った。「そうだ。ゴミの処理をどうしているんだろう」 「あのう、それだとつまり、日常生活までが見世物じみたものになりませんか」 「なりますなります。機能よりも、これが見世物的価値があるかどうかで商品を買う」 「しかしその商品が大量生産された場合、これはどこにでもあるものだということになって、見世物的価値はなくなるぜ。売れ残らないか」 「もちろん。売る時は山積みにされて売り出されるから、ほとんど売れ残る。つまりこの社会というのはね、われわれのこの現実の社会のような、単なる豊かさじゃないんだ。食うに困らぬ社会であれば豊かだというのはわれわれの考え方だ。この社会の人間は、ありあまる豊かさでなければ豊かな気がしないんだ」 「その社会をよく考えてみたんですが」しばらく黙りこんでいた美藝公が、かぶりを振って言った。「そのような状態であれば、やはり、たとえどのようないい政治をしようと、必ず貧乏な人が存在し続けます。まず二十パーセントから三十パーセントは確実だと思いますが」  おれはうなずいた。「階級社会ですからそれは必ず存在します。ぼくもそれ以上のパーセンテージで存在し続けると思います」 「すると、そういう人が存在するにもかかわらず、やはり平等社会であると言われているわけですか」 「そうですよ。そういう人たちに対しては、消費社会の外へ、ある種の理由で、はみ出している例外に過ぎないという考え方をみんなが持っていると思います。時には極めて稀《まれ》にニュースとして、また事件としてそういう人たちの存在をとりあげて、それもバラエティの一部、見世物のひとつにしてしまって、もしかするとその人たちのことは誰も考えようとはしないかもしれません。また、大多数の人はその存在を知らんのではないでしょうか。何らかの、自分たちに関したことに夢中で」 「平等社会であるとされていることが、かえって気ちがいじみた消費を生むんだろうなあ」監督が悲しげに言った。「商品への欲求じゃなくて、それは結局社会的階級への欲求なんだよ。ところが建前的には平等主義と言われている。しかし社会的階級はなくなりゃしないからね」 「社会的階級を悪い制度としている社会ですからね」と、おれは言った。「そのかわりに消費をしているんだから、今度はその消費の欲求もとどまるところを知らない」 「社会的階級は役割、職業は役柄と考えてそれを楽しむことが、どうしてできないのかな」と、美術監督も悲しそうに言った。「スタッフ、キャストのない社会じゃ、救いようがない。どうせ『人生は活動写真』なのに、ほとんど全員が自分の役割を不満に思っていては、いい映画は作れねえよ」 「不満社会だな」 「悪口の投げつけあい、罵《ののし》りあいの社会ですね」 「他人のしたことの欠点をあばき立てるだけで、それを絶対に認めないという社会だよ」  全員が急に黙りこんでしまうと、室内の明りまでがなんとなく暗くなったように感じられ、重苦しい陰鬱な空気があたりに満ちた。おれたちはしばらく考えこんでいた。  やがて岡島一鬼が、突然明るい表情で立ちあがった。「やあ。みんなどうしたんだ。今の話が現実だとでも思ったか。わははははははは」  綱井秋星も、夢から醒めたように周圍を見まわした。「やれ助かった。フィクションだったか。いやまったく、すっかり現実と混同していた」 「実はおれもそうだったんだよ。監督」  岡島一鬼と綱井秋星は笑い出しながらよかった、よかったとでもいいたげに手を握りあった。 「すばらしい悪夢をありがとう、里井君」話が終ったことを悟り、美藝公がおれに手をさし出した。  おれは美藝公と手を握りあった。「とんでもない話で時間を潰《つぶ》させてしまった。すまない」 「なんの」と、監督が言った。「久しぶりで知的興奮を味わった。リアルで、しかも奇想天外な設定だ。もっとも、やはり映画化は無理だろうがね」 「無理ですかねえ」山川俊三郎が首を傾《かし》げた。「陰惨な話だが、魅力があるなあ」 「小説になった時には、当然傑作であり、問題作でしょう」美藝公は断言した。「太鼓判を捺《お》してもよろしい。映画化のことはそれから考えてもいいんじゃないでしょうか」 「こんな話を映画にしちゃいけねえ」岡島一鬼が眼を剥いた。「小説の読者と映画の観客とは違うんだ。この話にはロマンがないし、この話に無理にロマンを加えると気が抜けちまう。それに、刺戟的過ぎて悪影響が大きすぎる。もしそんな映画を美藝公主演で撮ってみろ。成功するに決まっているから、真似をして似たような映画が次つぎに出来る。すると今の話の社会みたいになっちまうぞ。映画人がみな良識人だというのがおれたちのこの社会ではないのかい。ま、そんなご立派なことでなくとも、おれはだいたいあの『今週はお子達見られません』というのが大嫌いなんだ。お子達に悪けりゃ大人にだって悪いんだよ」  監督がうなずいた。「うん。わたしもそう思う」 「ぎゃっ」岡島一鬼が懐中時計を見てとびあがった。「おい。もうこんな時間だぜ」  山川俊三郎が晴れやかな顔で立ちあがった。「里井さん。こんなにながい時間、われを忘れて話しこんだのは初めてです。ありがとうございました」 「すごいご馳走でしたよ」と、美藝公も言った。「もっとも、香辛料が強過ぎて当分頭がぼんやりしたままかもしれませんがね」  全員が、口ぐちに讃辞を述べながら帰り支度をはじめた。  玄関ホールヘ出た時、音楽監督山川俊三郎は突然立ちどまって凝固《ぎようこ》し、喋りはじめた。「もしですよ、もし、その社会が現実で、われわれが逆に虚構の中の存在であるとしましょう。そして、その現実の社会の人間でわれわれの如く空想好きの何人かが集り、われわれと同時に、つまり現在、このわれわれの社会設定を空想していたとしましょう。彼らはなんと言っているでしょうか。今彼らはどういうことばでわれわれのこの社会を批評しているでしょうか」  監督が眼を丸くした。「馬鹿にしているに決まっとるよ山川君。そうして笑いものにしとるだろう。人間っていうのは環境に順応していればしているほど、他の社会を自分たちの社会同様に良きものとして認めるということは絶対にない。そして彼らはわれわれ同様、話し終って、今ごろはきっと、いやもう、まるで悪夢のような社会だ、われわれはそんな社会に棲《す》んでいなくてよかったと」 「やめてくれよ監督」泣き出しそうな声で美術監督が叫んだ。「もう、やめようじゃないか」  全員がどっと笑った。  暗い話ばかりしたのに、なぜみんな、帰って行く時はあんなに機嫌がよかったのだろう。おれは皆を送り出したのち、そんなことを考えながら書斎に戻り、窓際に立って街の夜景を眺めた。やはりこの話を思いついた時のおれ同様、この世界に生まれた幸福感にあらためて浸ることができ、喜びに身を包まれていたに違いない。だから機嫌がよかったのだ。おれはそう思った。やはりみんなに話してよかったと、そうも思った。最初のうちおれは、みんなに話したら最後、小説を書く気がしなくなるのではないかとおそれていたのだ。だが、そんな心配はまったく不要だった。なんてすばらしい連中だろう。なんと想像力にあふれた藝術家たちなんだろう。むしろ彼らに話したためにおれの想像力は次から次へと触発され、空想は高く飛翔《ひしよう》したのだ。おれは猛然と書く気を起していた。どちらかといえば怠惰なおれにとって、それは珍らしいことだった。だが、待て待て。おれは自制した。酒に酔い、議論に酔い、興奮した頭で書き出しても駄目だ。もっともっと力を蓄え、プロットを練らなければならない。透徹した頭脳が必要だ。想像力を矯《た》めるのだ。書き出すのはそれからなのだ。あと四、五日してからだ。  おれはガラス戸を開けてテラスヘ出た。澄んだ夜の空気が快かった。懐しい曲、あの「活動写真」がはるか眼下の街から流れてくる。 「人生は活動写真  かげろうのように  ゆらめいて消えてゆく  あの人この人スクリーンのスタアよ  Poo-pop-a-du」  真下に見おろすのは映画通りである。通りの両側の店には明りが点《とも》り、それぞれの窓からは暖かそうな室内の光が洩れている。歩道を行く人びとは皆幸福そうだ。 「想い出はフィルムの中に  わんぱく時代の  友達やいじめっ子  あの子もこの子もみな主役」  チリンチリンと小さな鐘を鳴らしながら、美藝公の乗った純白の箱型の自動車が映画通りを坂下へと下って行く。監督たちも同乗しているのであろう。なにしろ運転席との間仕切のうしろの後部座席には六人がたっぷり乗れるという車なのだ。おれは帰って行く彼らに手を振った。彼らがおれの方を振り返り、この七階建ての屋上のペントハウスを見あげているかどうかはわからない。彼らは彼らで、歩道から手を振る通行人に手を振り返さなければならないだろうから。それでもおれは手を振り続けた。 「初恋はヴァニラの香り  暗い片隅で  手をにぎり見つめてた  あなたとわたしのミュージカル」  この世界に生まれた幸福をおれは満喫していた。町香代子とは、おそらく結婚できないだろう。そしておれは、おそらく一生、独身で終るだろう。町香代子以外の女性の誰とも、おれには結婚する気がないからだ。それでもかまわない、と、おれは思った。それがこの世界での、おれにあたえられた役割であり、そしておれが自分で決定した役柄なのだ。そして事実そうすることが、おれにとっていちばん幸福なのだ。他のどのような生きかたも、おれのあらんかぎりの空想力で想像できた限りでは、すべて不幸に結びついていた。町香代子にもそれはわかる筈だ。彼女は大スタアであり、そして賢明な女性だからだ。おれたちの自制心はとりもなおさず映画界の歴史から学んだものであった。華やかな映画界のながい歴史の上に見られるさまざまな不幸な出来ごとはおれたちに映画人としての自制心を持たせずにはいない。さもなければなんのためのながいながい映画の歴史であろう。町香代子の恋人でいられることだけによっておれは幸福だった。是が非でも彼女と結婚したいなどという考えは、幸福を追求しようという人間の当然の権利のように見えてそうではなく、ただのエゴイズムである。その種のエゴイズムの蔓延《まんえん》した社会をおれは今空想したばかりではないか。そういったものは自分を不幸にさせずにはいないのだ。もちろんそんな人間の存在を許す世界だって、あってもかまわない。だが、おれはおれだ。そしてこれはおれの世界なのだ。おれは夜霧の中に消えて行く美藝公の車に向かって、「活動写真」の最後の一節を大声で歌った。 「人生は活動写真  銀幕の中の  あのロマンこの胸に  抱いてゆくのさお墓の中まで」  左記の各著作を参考にしました。  デヴィッド・リースマン「孤独な群衆」加藤秀俊・訳(みすず書房)  ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」今村仁司・塚原史・訳(紀伊國屋書店)  岡本博・福田定良「現代タレントロジー」(法政大学出版局)  デヴィッド・リースマン「何のための豊かさ」加藤秀俊・訳(みすず書房)  初出誌 「GORO」昭和五十五年一月一日号〜十月二十三日号  単行本 昭和五十六年二月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年五月二十五日刊