筒井康隆 原 始 人 目 次  原 始 人  アノミー都市  家  具  おもての行列なんじゃいな  怒 る な  他者と饒舌  抑止力としての十二使徒  読 者 罵 倒  不良世界の神話  おれは裸だ  諸 家 寸 話  筒井康隆のつくり方  屋  根  原 始 人  彼は先太の疣《いぼ》つき棍棒《こんぼう》を老人の首筋に振りおろした。老人の頭部は地中にめりこみ、その胴体ははねあがり、足は天に向かって一瞬、ほとんど直立した。  老人というのは彼が「片眼」として認識している老人であり、「片眼」はちょうど草を捜して頭を下げていたのだ。「片眼」は食べられる草のみ抜き、束にして左腕にかかえていて、そして彼は、それ以上片腕ではかかえきれぬほど大量の草を、ただ「片眼」から奪おうとしただけだ。彼はまだ若いので食える草と食えない草の見わけがつかない。草をかかえたままでまだ痙攣《けいれん》している「片眼」の腕から彼は草をもぎとる。「雑草」とか「野菜」とかの区別はなく、すべてはまだ「草」に過ぎない。「片眼」という認識にしても、「片眼」ということばがあるのではない。「眼」ということばさえなく、「眼」を表現するには自分の眼を指せばよい。「視力」と間違われる場合はあるにしても。 「片眼」はまだ痙攣している。老人とはいえ、大きく拡げた足のつけ根、内股の部分はやや病的に白っぽい。彼は欲情した。相手は男であり老人であり、今は屍体になりかかってもいるのだが、性の対象はまだ未分化だ。それでもさすがに片方の眼がかさぶたで覆われている老人の顔を見たりすれば欲望は萎《な》える。さいわい「片眼」は俯《うつぶ》せのままだ。彼はあたりを見まわしながら老人の内股を利用して手早く射精する。今殺したばかりのその老人が彼の実の父親であることなども、彼は知らない。「家」はもちろんのこと「家族」の観念も彼にはない。彼にはまだ子供がいないのだ。  毒で夜なかに腹が痛くなってのたうちまわる心配もなく、草がむさぼり食えるということは彼にとって喜ばしいことだ。しかし危険な山の中でひとり無防備に草を食うことはできないから、彼はいったん自分の洞窟へ帰ることにした。洞窟には「歯ぬけ」がいて草を半分食べるだろうが、しかたがない。「歯ぬけ」というのは彼よりだいぶ年長の女性で、もう四回も前の冬から彼の洞窟に居ついている。彼にはすでに「歯ぬけ」と交わる気が少し以前から失せているのだが、ひとりになるとなんとなく淋しくなることを知っているし、やや威圧されそうな気配を伴った親近感も生じていて、追い出すことも殴り殺すこともできぬままだ。  あの「片眼」はほんとに片方の眼が見えなかったのかな、と、彼は山を降りながらそんな知的な抽象的思考にふける。かさぶたがある方の眼は当然見えるまいと思っていたが、実はかさぶたのひび割れた隙間からなんとか前が見えていたのではあるまいか。ま、いいだろう。そんなことを考える必要はない。考え過ぎるとすぐに頭が痛くなるから、「片眼」について考えることは損だ。「片眼」はもう死んだのだ。死ねばいなくなるのだ。事実その時すでに老人の屍体は狼の先祖二匹に食われつつあった。  考えながら歩いていたため草をかかえていた左腕の力がゆるみ、灌木や岩に触れて大根の先祖だの葱《ねぎ》の先祖の親戚だの、菠薐草《ほうれんそう》の親戚の先祖だのが次つぎと脱け落ち、山麓まで来た時にはすでに半分がた落してきていることに彼は気づかない。そして今、彼は残りのすべての草を地面へ落してしまった。若い女を発見したのである。若い女を見るのは何カ月振りかであったが彼には月日という観念がないので、いわば前の前の前の前の前のその前の遠くの前の前の前に見たといったところである。からだ全体は男同様、和毛《にこげ》に覆われているが、胸から腹にかけては無毛で肌がなま白い。きっと内股もまっ白なのであろう。彼はごく、と唾を呑む。  女たちは男に襲われるのを恐れて洞窟に隠れ、滅多に外へは出てこない。しかしその若い女はよほど腹が減っていたのであろう。梅の先祖の青い実を枝からもぎとっては次つぎと食べている。夢中であり、まだ彼には気がついていないようだ。気づかれていないのをさいわい、そっと彼女に近寄る、などといった高等な知能が彼にはない。たちまち陰茎を勃起させ、先太の疣つき棍棒を振りかざし、下生えをおどり越えて彼は彼女に襲いかかった。「ぐお」 「ぎえ」と、若い女は叫ぶ。他人に助けを求めたり、相手の男をひるませたり、男に襲われるほど美しい自分であることを誇示したりするための高らかな悲鳴ではない。くぐもった叫びであり、それは真の恐怖と、警戒を怠ったことへの後悔の叫びである。殴り倒され、もしかすると死ぬかもしれないことを女は知っている。彼女は無毛の尻を見せて逃げはじめた。小便を洩らしている。  いかに女とて力は強く、逃げる女をとり押さえ、地べたに押さえつけて犯すなどといった力業はこの時代の男ですら到底不可能だ。彼は追いすがって女の頭に棍棒を振りおろす。振りおろす時、彼は加減をした。突如として前の前の前の前の前のその前の遠くの前の前の前に女を襲った時のことを思い出したのである。棍棒に力をこめすぎて女はすぐ死んでしまったのだ。もちろんその場で三度、四度と屍姦をしたのだったが、眼球が片方とび出している女の死に顔がせっかくの性交の気分を殺《そ》いだし、たとえ意識を失っていようとやはり時おり痙攣したりなどする生きた女の方が射精するには望ましい。せっかく美しい顔をしている女であったのにと悔やむ気持が持続していたのだった。そうしたことを全部はっきり思い出したというのではない。ただ、思いきりぶん殴ってはそれに続く思う存分の快楽に支障があるぞという、高等動物らしい無意識からの抑止があったのだ。  しかし女は昏倒した。四肢を引き攣《つ》らせ、顔を歪《ゆが》めている。また殺したかな、と、彼は思うが、今となってはそれを確かめていてもしかたがないし、確かめる術《すべ》も知らない。瞼をこじあけてみる必要はない。白眼を剥《む》いているからだ。もし殺したのであればせめて胴体に温もりがあるうちにと、彼はあたりを見まわしてから大いそぎで彼女の下肢を、ほとんど水平に左右へ開く。  小便で濡《ぬ》れて白い湯気を立てている彼女の下腹部の膣外膣内を問わず、二度、三度とやたらに射精し終えてから確かめると、若いその女のからだにはまだ温もりがあった。かすかに呼吸もしているようだ。洞窟へ連れて帰ろう、と、彼は考えた。虫の息であろうと生きている限りは自分のあの快い射精の役に立つ。もし死んだらその時は屍体を捨てればよい。彼は女の伸び放題の髪をつかんで引きずり、歩きはじめた。実は「歯ぬけ」も、最初はそうやって洞窟へつれて帰ってきたのだったが、彼はそれを忘れている。  食えるものを大量に、どこかへ抛《ほう》ってきたようだ。それが草であったか木の実であったか、はっきりしない。捨てた場所もわからず、いつのことであったのかも思い出せない。前の前の前のことであったのか。あるいは前の前の前の前の前のことであったのか。もしかすると夜に見るあの夢、あのいやらしい夢の中であったのかもしれない。もし現実に捨てたのであれば口惜《くや》しくもあり当然腹も立つ。とにかくいやな気持になる。だから夢の中のことだったということにしよう。彼は右手で棍棒を肩にかつぎ、左手で若い女を引きずりながらそう決断する。  洞窟のある岩山に近づくにつれ、彼は次第に悪い予感を覚えはじめた。死ぬというほどのことではないが、非常に鬱陶しい目に遭いそうな気がする。しかしそれは自分で回避できる種類のいやな目のようだ。なんでもないなんでもないと思いながら彼は女をかつぎあげて岩の数段をのぼり、「歯ぬけ」の臭気がこもっている洞窟に入った。たちまち悪い予感が形をとって彼の前にあらわれた。それは「歯ぬけ」の形をしていた。  彼がかついでいる若い女を見て「歯ぬけ」はわめきはじめた。何を言っているのか彼にはわからない。だが「歯ぬけ」は、実は自分だけのことばで喋っているのだ。今まで、自分で勝手にことばを作り、何度も同じことばをくり返し、それによって彼に自分のことばを憶えさせ、優位に立ち、それによってほとんど洞窟の外へ出られないこの時代の女としてのせめてもの生甲斐を見出そうとしてきたのだったが、彼はまるっきりことばを憶えないのだ。彼の頭が特に悪いのではない。人間の個体の成長過程と同じであり、進化のこの段階まではあきらかに女性の方が頭はいいのである。それでも「歯ぬけ」がわめきながら時おり自分の口の中を指したり、彼が肩からおろして洞窟の床に寝かせた女を指したりすることによって、彼にも「歯ぬけ」の言わんとするところがどうやらわかってきた。 「あのソレこのあたいがこの前の前の前から腹の減ったのことの気をして、ソノあんたが何かソレ食べる噛む齧《かじ》るのみこむのものでっかいでっかいのもの持って、行って戻って帰ってくるのを前の前の前からこのあたしのソノひとりのあたしで待って待って待っていたのに、あんたはアレこのソノそんな女のものかついで戻って持って帰ってきて、アノこりゃマアいったいこのどういうつもりの気でいるのかこのわたしにわからないよ」  しかし彼には「歯ぬけ」の嫉妬の感情までは理解できない。せいぜい敵意が読みとれる程度の情緒しか持たぬからだ。「歯ぬけ」の主張することだけがどうにかわかったところで彼はすっかり頭が疲れてしまい、気をまぎらせるためもう一度、気を失ったままの若い女を抱こうとした。  たちまち「歯ぬけ」の声が、さらに高くはねあがる。女と交わる彼の耳もとで声を濁らせて罵声をあげ、彼の肩を押して若い女の腹の上から落そうとしたりなどする。せっかく洞窟の中で外敵に邪魔されることなくゆっくり楽しもうとしているのに、うるさいやつだとは思うが、その程度のいやがらせによる苛立ちで萎えてしまうほどの繊細な神経を彼は持たない。それどころか、何故か彼にはわからぬものの「歯ぬけ」が傍らで嫉妬しながら見ていることによっていつもより密度の濃い快感を伴いながら彼は射精した。  さすがに空腹を、彼は自覚した。  洞窟の壁に凭《もた》れて、彼はぼんやりと食うことを夢見る。魚が食べたい、と彼は思う。川へ魚を獲りに行こう。彼の眼の前ではまだ「歯ぬけ」が彼を罵《ののし》っている。何やら叫びながら若い女を指して腰を動かし、自分を指して腰を動かしている。今若い女にしたことを自分にもせよと要求しているらしいことは彼にもわかる。しかしそれは無理というものだ。この若い女ともう一度しようという気すら失せているというのに。  彼は立ちあがった。洞窟を出ようとしたが、またしても「歯ぬけ」が前に立ちふさがって何やらわめき立てる。川へ行って魚をとってきてやると言えば通してくれるだろう。しかしこの時代、「川」などという高度な名詞はない。かろうじて「水」とか「魚」とかいうことばだけは、それが生きていくのに必要なものであるため、しかたなく存在する。それだけはさすがにこの時代、このあたりの共通語だ。しかし「川」を表現するための「流れる」という動詞はなく、まして「川上」だの「川下」だのといった高度なことばができるまでにはあと十六万八千年かかるのだ。川の流れを指さきの動きで表現するといった複雑なパフォーマンスも彼にはできない。五本の指さきを交互に動かすことができないからだ。彼は、わめき続ける「歯ぬけ」に対して怒鳴りはじめる。相手が喋り終えるのを待ってから自分が喋ろうとするような合理的精神は持たない。「歯ぬけ」は女性であるからして尚さらそんなものは持たない。したがってお互いに相手のいうことがわかるまでに時間がかかり、彼は「川」を表現するためにのみえんえんと怒鳴り続けなければならない。 「あのソレソレソレソレ水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水魚水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水魚水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水魚水水水水水水水水水水水水水水水水水水魚水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水魚水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水魚水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水」 「歯ぬけ」が、やっと通らせてくれた。なんてことだ。怒鳴り疲れて彼はくたくただ。岩山を下りながら、やっぱり悪い予感通りになってしまったことを、うすぼんやりとながら彼は悟った。予感通り、非常に鬱陶しい目に遭ってしまったのだ。こういうことが何万回、何億回かくり返されることによって、人類はやがて自分の予感というものを大切にしなければならないことを知りはじめるのだが、それものちの話である。  彼は立ちどまった。そのいやな目というのは何であったのか。そのいやな目を自分は自分の力で回避できると思っていたのではなかったのか。ではなぜ回避できなかったのだろう。いやな目というのは、即ちあの「歯ぬけ」の行為だ。「歯ぬけ」によるいやな目を回避できなかったのは、「歯ぬけ」を殺さなかったからだ。なんのことはない。「歯ぬけ」さえ殺せば、以後おれはなんのいやな目に遭うこともないのだ。  彼は引き返し、また岩山を登りはじめた。思いついた時にやらない限り、また忘れてしまうし、何よりも今は、何故か知らぬがそれをやりたい気分なのだ。洞窟へ入ると、「歯ぬけ」が若い女の首を絞めて完全に息の根をとめようとしていた。そのおかげで彼はためらわずに「歯ぬけ」を殺すことができる。若い女は脱糞していた。けものが死ぬ時の脱糞を見ているので、彼はそれが断末魔の排便であることを知っている。彼は怒って、怒りをあらわす吠えかたをして見せ、先太の疣つき棍棒を振りあげた。「ぐお」 「ぎえ」振り返った「歯ぬけ」が悲鳴をあげて仰向きに転倒する。腰を抜かしたようだ。小便のしぶきがあがる。その表情にはみじめさがあらわれた。自分のみじめさを認めたみじめさだ。その表情は棍棒が振りおろされたことによって消えてしまった。「歯ぬけ」の、残り少い歯のうちの二本が折れて棍棒の先端の部分に深くめり込み、疣がふたつふえた。  岩山の麓まで、彼はふたつの女の屍体を、髪を両手に持っていっきにひきずりおろす。そして砂地に抛置《ほうち》する。鳥葬、といったところであろうが、ほとんどは狼の先祖たちがやってきて食べるのだ。洞窟の中に抛っておいたのでは、腐肉の臭いによって彼の住居たる空間へ狼の先祖どもが入ってきて荒しまわり、血のりや骨片で住めなくしてしまうだろう。ひと晩経てばあのむうっとする「歯ぬけ」の体臭も洞窟から抜けてしまうであろうことは彼にとってありがたいことである筈だ。なぜもっと早く「歯ぬけ」を殺さなかったのだろうな。今となっては彼にはそれがわからない。食べものもすべて自分ひとりで食えるではないか。  彼はまた棍棒を肩にかつぎ、川へ向かって歩き出した。途中、山桃の先祖の果実を枝からもぎとって食べたりもする。また体長三十センチほどの蜥蜴《とかげ》の先祖を見つけてこれを捕えたりもする。蜥蜴の体表の腹部は限りなく象牙色《アイボリイ》に近い淡褐色であり、これがまたしても彼の獣欲をそそる。しかし、陰茎の先端をぬらぬらこすりつけてみたものの途中で気が萎えた。彼は蜥蜴の美しい表皮を剥ぎ、その踊り身を食べてしまう。  洞窟へ戻ってももう「歯ぬけ」はいないのだ、ということを彼は思い出した。あれっ。おやっ。少し淋しい気分だ。なぜだろう。しかし彼の眼はやや充血しただけで涙は出ない。「歯ぬけ」のかわりにあそこに置いておく女を早く見つけなければな。しかしそんなものが早く見つかるだろうか。そう考えながら歩いていた彼の耳に「ひえ」という女の悲鳴がかすかに聞こえる。川の方だ。彼は走り出した。もはや彼の陰茎は勃起していて、だから走りにくい。剥き出しだから、鋭い草の葉で亀頭を切ったりしたらえらいことだ。しかし人類が腰に毛皮をまといはじめるのはまだ十一万三千百五十年も先のことである。  川原へくると、女には先客がいた。よく肥った中年の女を組み敷いているのは痩せた若い男である。底意地の悪そうな眼を常に光らせていて、彼がこの若い男に出会うのは久しぶりだ。どこか遠くへ何かを求めて出かけて行き、最近またこのあたりへ戻ってきたのでもあろうか。頑丈そうな中年の女は、いったんは棍棒で殴り倒されたのであろう。しかし今は意識をとりもどしてわめき続けている。だが、突然叫ばなくなった。ひっそり、無言となり、下から若い男に抱きついたりしている。  傍へやってきた彼に、若い男は気づいている。彼は十数メートルまで近づいて川原に腰をおろした。男同士で戦うつもりは、彼にはない。気づかれてしまったのでは不意討ちはできないし、若い男はいつでも戦えるよう、棍棒を右手に持ったままなのだ。今日は女を二度も見つけたのだなあ。若い男と肥った女の媾合をぼんやり眺めながら、彼はそんなことを思っている。こんな珍らしいことは、かえって重なって起るものなのだなあ。この男が終ったあとで、おれもこの女を使用することにしよう。しかし女を捕えたのはこの男なのだから、おれが終ったあとはこの男が好き勝手にするのだろうなあ。ほんとはおれのあの洞窟に置いておくにはぴったりの、よく肥った女なのだがなあ。  下品な声を小さく発し終えて若い男は立ちあがり、彼の方を向いた。そうか、終ったのか、ではおれの番だと思い、彼も立ちあがる。だが、若い男は眼を光らせた。にやり、と笑うのに相当する眼の光らせかたである。もちろんこの時代、人間はまだにやりと笑うなどといった高等な表情を持たず、そうするのに必要な表情筋も未発達だ。彼があっと驚いたことに若い男は棍棒を振りかざし、まだ陶然としている中年女の顔に叩きつけたのだ。女は四股をそれぞれの方向へ放射状に伸ばし、ななめの宙で硬直させ、痙攣した。若い男はふたたび彼の方を振り向いて、にやにや笑いに相当する眼の光らせかたをして見せ、ゆっくりと木立の中へ歩み去る。  彼はまだ若い男の意地悪さに気づかない。なぜあんなことをしたんだろう。いそいで女に駈け寄ったが、そこにはもう肥った屍体があるだけだ。顔面は破裂し、頭蓋骨の中で白く湯気を立てるまだ熱い血の中から骨片がふたつ突き出ているだけだ。殺してしまった。これではおれが楽しめないではないか。しかたなく屍体を使って射精に到ろうとしたものの、若い男の行為に気分を損われている。いやな気はするものの、意地悪されたのだということが彼にはまだわからない。血だまりの中から眼球が浮かびあがってきた。彼は射精をあきらめる。  あいつがあんなことをしたのは、自分には理解できぬほどの高度な考えからではないか。彼にはそんな気がした。たとえ意地悪をされたのであっても、その意地悪が理解できぬ人間にとっては、なんとなく相手が自分より高度な人間のように思えるものだ。彼はいくぶん腹を立てているが、怒りのなかば以上は自分の低能さに向けられている。  その場所から少し上流へ行ったところに岩場があり、あたりは川幅が狭くなっていて魚が獲りやすい。彼は岩場に立って川底をのぞきこんだ。山女魚《やまめ》の先祖が群れている。ごく、と彼は唾を呑みこむ。そのあたりは浅瀬である。彼は泳げないから下流へ流されたら溺れてしまう。さいわい流れはいつもより速くはない。そっと水の中に入り、魚群に近寄るなどといった知恵はない。彼はたちまちよだれを流しはじめると、すぐさま棍棒を振りあげ、「ふなむがごげ」などというわけのわからない掛け声を自分にかけながら大股を開き、水しぶきをあげて川におどりこむ。洗練された魚獲法とは義理にも言えるものではない。無闇やたらに棍棒で水面を叩くだけだ。魚はすぐ逃げてしまう。彼はへとへとになって岩場によじのぼり、ぐったりと寝そべる。しばらくして水面下をすかし見ると、またしても魚が集っている。彼は立ちあがり、「もはまはぐが」などとわめいておどりこみ、滅多やたらに魚を棍棒で叩きまわる。  このように原始的な魚獲法であっても、ながい間続けているうちにはたまに逃げおくれ、頭を棍棒でぶちのめされて眼をまわし、水面へ浮かびあがってくる魚もいるのだ。そしてまたそのような時には具合よく、一度に二匹浮いてきたりもするのである。  彼は岩場で一匹を食べ、もう一匹を、洞窟で腹を減らして待っている「歯ぬけ」に持って帰ってやろうと考える。おや。何か変だな。彼は自分の考えたこと、自分が今そんなことを考えたりしたことを少し奇妙に感じる。どこがおかしいのだろう。すべては靄《もや》のかかった頭の中、よく見透せない近い過去の中にある。しかし、くり返し聞かされた腹が減ったとわめく「歯ぬけ」の声だけは耳のあたりにくっついていつまでも残っているのだ。「歯ぬけ」はもう洞窟にいないのではなかったか。いないとすればどこにいるのだろう。いないとしてもまた戻ってくるのだろうな。彼は急に空を見あげた。  彼は山女魚の先祖を左手にぶら下げ、右手で先太の疣つき棍棒を肩にかつぎ、森の中を洞窟へ戻りはじめる。なんとなくはりあいが抜けたような気分が続いている。どこかに若い女がいないものだろうか。殺さぬように捕える方法はないものだろうか。殺す危険を犯さずに女を捕える方法なんて、きっとないのだろうな。  突然、彼の意識は途絶えた。数十万年経った現在も、彼の意識はまだ途絶えたままだ。つまり彼は死んだのであるが、彼は自分が死んだということにも気づかぬまま死んだのだった。当然、彼の持っている魚を奪うために彼を背後から襲ってその後頭部を棍棒で一撃して彼を殺したのがあの若い男であることも彼は知らぬままだ。彼は無明の闇から生まれ出てきて無明の中に生き、ふたたび無明の闇の中へ去っていった。すべてわれらと何ら変ることなし。  アノミー都市  眼を醒《さ》ましたところは台所の、冷蔵庫の前だった。当然のことだが、眠りこんだのと同じ場所で眼醒めたようだ。  窓から射しこむ太陽の光線の具合で、だいたい午後の二時頃と見当がつく。汗をびっしょり掻《か》いていたので服を脱いで風呂場へ行き、冷たいシャワーを浴びた。快さ、この上もない。  涼しくていい気持なので、まる裸のままで玄関から家の前の道路へ出た。住宅街なのでひと通りは少い。おれは太陽の光と熱を全身に浴び、濡《ぬ》れたからだを乾かしながら放尿した。まことに爽快《そうかい》な心持ちである。  向かいの家の女子大生が帰ってきた。痩《や》せてもいず肥《ふと》ってもいず、背も高からず低からず、化粧していないのに肌は白く、唇が健康そうな赤い色をしている。 「やあ。こんにちは」と、おれは言った。「ちょっと、うちへ寄っていきませんか」  あら何ですかなどと言ってついて入ってきた彼女を、おれは玄関の間で畳の上に押し倒した。あら、ちょっと、わたし、これは、まあ、あの、ねえ、困ったわなどといって彼女は騒ぎ続けた。  射精後、おれはもう一度シャワーを浴び、茶の間だの食堂の床だのに投げ散らかしている衣類の中から適当に選んで衣服を身につけた。玄関の間で下半身まる出しのままいまだにうっとりしている女子大生のからだをまたぎ越し、おれは外出した。勤労意欲が湧《わ》きはじめている。  勤労意欲が湧いた、ということはつまり、腹が減ったということだ。腹が減ってもいないのに働く、などというのは不自然だし、働かなくても食える世界ではあるけれども、働きもせず、ぺこぺこに腹が減っているわけでもないのに食わねばならないというのは実に不愉快なものである。  繁華街へのとっかかりで、とてつもなく趣味の悪い住宅を見かけ、おれは胸が悪くなった。ブルーグレイの壁に赤い瓦屋根、テラスや窓やヴェランダには白ペンキ塗りのくねくね曲った帯鉄《おびてつ》の手摺《てす》りがついている。何じゃいこれは。仕事前にこの家をぶっ潰《つぶ》してやろう。おれはそう思い、玄関に立ってブザーを押した。なかなか応答がないのでドアの把手《とつて》を力まかせに引っぱると把手が抜けてしまった。ドアを蹴《け》とばすと蝶番《ちようつがい》の部分ではずれたガラス入りの一枚ドアは家の内部へけしとんだ。一階の踊り場に入り、両側のドアを蹴とばして破壊した。二階への階段があったので、手摺りに体あたりしてばらばらにした。階段の下の三角のドアをあけると、案の定大工道具などの物置きである。斧《おの》を出し、手あたり次第に家の内部をぶち壊した。奥から主婦が出てきて、おれの様子を吃驚《びつくり》して眺めていたが、やがて眼を輝やかせると、自分も大槌《おおづち》をとって破壊に協力しはじめた。やわな住宅であり、完全にぶち壊すには一時間とかからなかった。  快い疲労感があったが、まだまだ腹がぺこぺこというわけではない。おれは繁華街の手前で折れて駅前のオフィス街に出た。オフィス街はひっそりしていた。立ち並ぶビルの中はほとんどが事務機械で満たされているのだ。行きあたりばったりに、おれは九階建てのルーベンス風ビルディングに入った。ロビーに立ち、仕事をやらせろとわめくと、正面のエレベーターのドアが開く。自動的に八階に運ばれ、見まわすとディスプレイ装置が並んでいた。コンピューターの指示に従い、おれはディスプレイに表示された乱数表を、より人間的な乱数表に訂正するという作業に二時間取り組んだ。なにしろ機械の作った乱数表だから、「3」や「8」や「1」の次が「4987081409871」であったりする。適度ということを知らぬ機械には人間さまの手助けが必要なのである。  自動支払機が吐き出した十数枚の札をポケットに入れ、おれはビルを出た。金などなくてもいい世界なのだが、やはりないと困ることがある。賭博《とばく》ができないし金銭の貸借《たいしやく》を楽しめないし、ふみ倒しや食い逃げができないのだ。  繁華街に戻った。そろそろ夕暮れが迫っていて、人が出はじめている。手頃なレストランへ入ると、客はひとりしか居ず、しかも立派な鼻下髭をたくわえたその紳士は食事もせずに、ちぎり取ってきたタイプ式のテープ新聞を読んでいた。厨房《ちゆうぼう》で四、五人の言い争う声がするので入って行くと、いかにも料理自慢らしい職人|気質《かたぎ》の顔つきをした男たちが、注文をとりに行くのは誰かで喧嘩をしていた。 「この中ではわしが一番の名コックだ。コックが自ら注文などとりに行けるか」 「あんたは料理を五種類しか作れない。わしは二十一種類作れる」 「そのうち八種類は日本料理だろうが。ここはイタリア料理店だぞ」 「ミネストローネの上手な人、いますか」と、おれは声をかけた。「それと仔牛のチリ・ソース煮を食いたいんですがね」 「ほらな。この人のようにここまで注文しに来てくれる客だと、実にありがたいんだ」いちばん年長の、老将校といった風格の男が言った。「ミネストローネならこのわし。仔牛のチリ・ソースならこの男だよ」  さすがに誰が何を旨《うま》く作るかだけは全員心得ているらしく、文句はないようだ。 「じゃ、すぐ作ってくださいよ。仔牛は三〇〇グラムでね。ミネストローネに最初からパルメザンチーズを入れたりしないように。ところで、店に客が来てるけど、給仕がいないようだね」 「そうなんだ」重役タイプの男が大きく頷《うなず》いた。「ここへは料理自慢の者ばかりが集る。給仕をやりたいというのはひとりもいないんだ。あんた、やってくれんかね」 「いいとも。食前の腹ごなしだ。ひと仕事やらせて貰《もら》おう」おれはただちに理想的ウエイターと早変わりして紳士の前に立った。「ご注文は」  紳士の注文は蝦《えび》のマカロニ・グラタンであり、厨房に通すと、そんなつまらぬものを作る者はひとりもいないということで、出来あいのパック製品が熱して出された。  紳士からは少し離れた席で、おれはミネストローネと仔牛のチリ・ソースを食べた。顔見知りばかりの集るあのレストランへ行けばよかった、とおれは思った。あまり旨くなかったのだ。  マカロニ・グラタンを食べ終った紳士がおれに声をかけてきた。「勘定はいくらになるかね」  厨房に値段を訊ね、おれは勘定書きを紳士のテーブルに持って行った。「千二百円になります」 「高すぎる」紳士はわめいて立ちあがり、ナプキンをテーブルに叩《たた》きつけた。「わしは払わん」 「まったくだ」おれはテーブルを蹴とばして引っくり返した。「料理がまずい上に、高すぎる」 「金がないから払わんというのならよい。まずいとは何ごとだ」料理人たちが手に手に庖丁《ほうちよう》、肉叩き、アイス・ピック、電動泡立て器などを持って厨房からとび出してきた。おれと紳士はびっくりし、店から駈け出てそのまま食い逃げをした。  学校の前までくると、もう日は暮れているのに教室に明りがついていて、子供たちの賑《にぎ》やかに騒ぐ声が聞こえてきた。 「ほう。子供たち、教室にいるようですな」と、おれは紳士に言った。「せっかく前まで来たんだから、何か講義してやりましょうかね。子供にものごとを教えるのは大人の義務ですからな」 「やめなさいやめなさい」と、紳士は言った。「ここの子供たちは狂犬です。実はわたしもそう思って、このあいだ通りすがりに立ち寄って一席講義をした。袋叩きにあって、放り出されましたよ」 「いったい、何の講義をしたんです」 「中年語・老人語早わかりというのをやった。その講義そのものがよく通じなかったらしい」 「わたしは子供語に少し自信があります。やってみましょう」 「そうですか。ではまあ、お大事に」  おれは紳士とわかれて学校に入り、いちばんひどく騒いでいる教室の教壇に立った。そのクラスの人数がいちばん多いようだった。おれは子供語を多用して『建築物の壊しかた』という講義をした。住宅やビルなどの弱点を教え、どこから壊すのが手っとり早いか、壊す順序はなどの実際に即した破壊法を、黒板に図など描き、約一時間|喋《しやべ》った。二十五分の講義が限度、などと言われている子供たちが、驚くべきことに眼を輝やかせて熱心に聴講した。得るところは多かった筈《はず》である。クラス全員がさっそく壊すべきビルの相談を始めていた。  校舎の出口で、ぶっ倒れて死にかけている爺さんを見かけた。何をやったのだと訊ねると、苦しい呼吸の下から「倫理道徳」と答え、息絶えた。殺されるのはあたり前だ。  また腹が減りはじめていた。さっきの料理を、不味《まず》さゆえに少ししか食べなかったせいだ。どこか知りあいの家でパーティをやっていないかと思い、散歩がてら住宅地の方に足を向けた。  数寄屋造りの家屋があり、庭に面した座敷に明りがついていた。どうやら襖《ふすま》をはずし、ふた部屋ぶっこ抜きで宴を張っているらしい。知りあいの家ではなかったが、おれは庭から縁側にあがり、座敷の障子《しようじ》をがらりと開いた。  中で飲み食いしていたのは高校生の男女十数人だった。 「なあんだ高校生か」  おれはげっそりした。スナックのような食いものやソフト・ドリンクばかりが机の上に並んでいる。例によって両親の留守を利用してのパーティだろう。帰ろうとしたが、お嬢さま的なピンクの服を着たこの家の娘らしい女の子がおれをひきとめた。一緒に遊んでほしいというのだ。  連中と共に彼らの好む実に不味《まず》いものを飲み食いしながら様子をうかがううち、どうやら遊びかたを知らないらしいことがわかってきた。この年代は差異化が激しく、それぞれが偏《かたよ》った趣味を持ってはいるものの、大勢集るとどうやって遊んでよいのかわからず、ただしらけているだけだ。おれは「ソンブレロ・スマッシュ」だの「狂信スクランブル」だのといった刺戟《しげき》的な遊びをいくつか教えてやった。  半数が、遊びを楽しみはじめた。残りの半数は、面白くないからこれから学校へでも行ってみる、などと言って帰って行った。遊んでいる連中はどうやらメンバーの中にそれぞれ好きな相手がいる様子だ。ゲームのパートナー選びを見ているうち、誰が誰を好きなのかがあきらかになってきた。ところが不思議なことに、誰がどう見てもいちばん気だてがよくて可愛いと思えるこの家の娘には男の連中誰も手を出さず、むしろ突っ張り屋だの半ブスだのに人気が集っている。牽制《けんせい》しあっているのかな、と、おれは思った。  しばらくしてからおれはこの家の娘をそっと手招きし、奥の間につれこんだ。 「君がいちばん可愛いから、おれは欲情した」 「ええー」彼女は眼を丸くした。 「これから、君を犯す」 「ええー。そんなあ」 「さあ。服を脱ぎなさい」 「ほんとにィ」と言いながら、彼女は服を脱ぎはじめた。 「パンティも脱ぐんだ。そしてそこへ、横になりなさい」 「ええー。そんなあ」彼女はおれの言う通りにした。 「裸で抱きあおう」おれも服を脱いだ。 「ほんとにィ」  裸になったおれの下半身を下から見あげ、彼女はまた眼を丸くした。「うッそォー」  射精後、ふと気がつくと座敷との間の襖が開き、全員がびっくりしたような顔でおれたちを見つめていた。おれの行為をずっと観察していたらしいのだ。おれはそそくさと服を着て退去したが、高校生たちは帰って行くおれの背中に拍手を送った。合掌《がつしよう》しておれを拝んでいるやつもいる。奇妙な連中だ。まこと、宇宙人と呼ぶにふさわしい。 「もう酒を呑んでもよろしい」と、おれは自分に許可した。人間としての務めをずいぶんいろいろ果たしたような気がしていたからである。そんなことは気にせず、別段起きている間中酒を呑んでいたっていいのだが、宿酔《ふつかよい》で苦しむのは手前自身だ。  繁華街に戻り、今までに五、六回行ったことのあるクラブを覗《のぞ》いてみることにした。もう深夜に近くなっている。途中の路地で、五、六人が寄ってたかってひとりの男を絞め殺していた。どうしたのかと訊ねると、夜出歩くのは自然に反するから、明日からは昼間起きて夜は寝ることにする。したがってお前たちもそうするようにと強制したのだそうだ。おれもかっとなり、絞殺に手を貸した。  地下一階にあるそのクラブは奥行きがあって広く、もう二十数人が集っていた。知っている顔もちらほらと見かけた。バーテンにジョングルールというのを作ってもらい、ちびちびやりながらおれは奥にあるルーレット台の横に立った。 「やあ」金縁眼鏡の男がおれに頷きかけてきた。 「やあ」  この男とは仲が良く、現在はおれが少し金を貸している。ただし名も知らなければ、どこに住んでいるのかも知らない。  女性も八、九人いた。中のひとり、眼がやや吊《つ》りあがった赤いスーツの美人は、やたらに派手な賭けかたをし、男たちの眼を惹《ひ》いていた。ハンドバッグの中から次つぎと札束をとり出してはチップに替えて張っている。 「あの女は、ずっとあんな賭けかたをしているのかい」 「そうだ」と、金縁眼鏡がおれに答えた。「負け続けている癖《くせ》にさ」  おれも賭金を出し、ルーレットに加わった。だが、少ししか持っていなかったので、たちまち負けてすっからかんになってしまった。金縁眼鏡が、金を返してくれた。だがそれも、すぐにスってしまった。金縁眼鏡もずいぶん負けているようだ。 「お金、貸しましょうか」ひとりの女がおれの傍にやってきて、そうささやいた。  見ると色の白い、小柄な女だった。おれはことわった。返せなかった場合、彼女を抱かなくてはならないだろうと思えたからである。おれはカウンターへ行き、一時間だけバーテンをやらせてくれと頼んだ。 「いいとも」バーテンは嬉しげに頷いた。「一杯呑みたかったところなんだよ」  おれは店の機械に登録し、バーテンとなった。酒の知識、カクテルの調合、すべてバーテンに適性であることは機械が知ってくれている。  金縁眼鏡がすってんてんになり、登録してディーラーをやりはじめた。負けのこんでいる男がディーラーになったというので、皆がはりきって賭金をあげはじめた。  金縁眼鏡は、ディーラーになったとたんに勝ちはじめた。 「わはははははは。破産者続出。わしも負けた」顔見知りの、大学教授風の男がカウンターにやってきて、アインザッツという難しいカクテルを注文した。 「あの美女も、負けとるんですかい」と、おれは訊ねた。 「負けとるようだが、金はまだまだ持っとるようだな」と、大学教授風が答えた。「負けた男どもに、金を貸そうと持ちかけとるが、皆にことわられているよ。わしもことわった」彼は頷いた。「少し大柄で、肥った女性がいるだろう」 「いますな」 「あの女性、さほど美人でもないのに男性からちやほやされておる。そら。今も誰かとソファの方へ行くだろ」 「なるほど」 「そのためにあの赤いスーツの女は、ますます苛立《いらだ》っておるようだ」  男性に受けのいい大柄な女性というのは愛嬌があり、おれもちらと欲情をそそられた魅力的な女である。すでに二度、男とソファの方へ行くのをおれは見ていた。  赤いスーツの女がカウンターにやってきて、ピンクレディなどという代物《しろもの》を要求した。おれがいやいや作ってやるとひと息に呑んでしまい、何やらぶつぶつ言いはじめた。どうやら長時間にわたり、がむしゃらに働いて大金を得てきたことなどを呟《つぶや》いているようだった。それから女性の権利がどうこうと言いはじめた。おれは彼女からいちばん遠いカウンターの端まで行って身をすくめ、「教授」は辟易《へきえき》してルーレットの方へ行ってしまった。  女が大声でおれを呼びつけた。おれは行かなかった。  一時間経ち、さっきのバーテンが戻ってくる前にもうひとりバーテン志望者があらわれた。店内の人数は増えている。バーテンは二人必要だろう。おれは彼にあとをまかせ、機械から給金を受け取った。  ディーラーになって勝っている金縁眼鏡が、せっかくおれに眼くばせしてくれているのに、おれはその合図が読み取れず、またしても負けてしまった。  例の大柄な愛嬌のある女性が傍を通りかかった。観察すると、肥ってはいるもののぶよぶよではなく、引き締まっていて肉感的であり、尻が大きいだけだ。 「ソファへ行こう」と、おれは彼女を誘った。 「そのソファのあたりが汚れているから、登録してお掃除します」と、彼女は言った。  彼女はバケツをぶら下げていた。こういうところが男性の好きごころをそそるのだろう。 「あとでいいじゃないか。掃除は手伝うから」 「あの、わたしもう、四度も」彼女は眼を丸くしていた。「どうしてかしら今夜は。こんなこと、初めてだわ」  おれは矢も楯《たて》もたまらなくなった。「矢も楯もたまらないよ」 「すみません。いつかまた」彼女は行ってしまった。  振られてしまい、きゃうん、きゃうんと泣いていると、赤いスーツの女が寄ってきた。酔っぱらっていた。「負けたんでしょ。お金、貸そうか」  おれがことわると、彼女は店中の人間が振り返るほどの声でヒステリックに叫んだ。「どうして誰もわたしからお金借りてくれないのよ」  ジョングルールを呑みながらおれはルーレットの勝負をしばらく観戦した。ディーラーはいつの間にか初老の、ヴェテランらしい男に変わっていた。  金縁眼鏡がおれの傍へ来て、耳もとで囁《ささや》いた。「若社長が、奥の部屋へ来てほしいと言ってるんだがね」  若社長といってもこの店の社長ではない。どこかの会社の社長ですらなく、ただ皆からそう呼ばれているだけだ。真っ正直なかわりに、やたらに怒りっぽい性格の男だが、おれとは気が合うのである。おれは密談用の奥の小部屋に行った。五点セットのある小部屋には、若社長のほかに教授もいた。金縁眼鏡がドアを背にして立った。 「どうかしたのかい」 「例の、赤いスーツの女のことだがね」と、教授が言った。「若社長が、あれは殺すべきじゃないかと言っとるんだが」 「そんなことになるんじゃないかと思っていた」と、おれは言った。「たしかにあの女は馬鹿だ。この世の中のことがよくわかっていない。他人に指図しようとする傾向が出はじめている」 「男を、自分の魅力でなく、金で惹きつけようとしやがった」若社長が吐き捨てるように言った。「あれだけ金を稼いできたんだから何かの能力はあるんだろう。それを金で見せつけた」 「おれは殺してもいいと思うが」と、金縁眼鏡が言った。「あの女にとって都合のいい世の中は、他の大多数にとって都合のよくない世の中だということはよくわかっているからね」 「ちょっと待ってくれよ」と、おれは言った。「最近、大多数の自由にとって不都合なやつを殺すたびに、しきりにこの、差異化ということを考えるんだがね。つまり、こういうやつもひとりぐらいはいた方が、世の中面白いんじゃないかと」 「それは違うね」と、教授がいった。「この世の中のどこが気に食わんのか、さっぱりわからないのだが、ああいうタイプは最近ふえてきているよ。昨夜来ていた女は、もっとひどかった」 「美人でしたか」 「いや。醜怪《しゆうかい》だった」 「ではつまり、その女を殺した方がよかったということですか」と、金縁眼鏡。 「ところが、今彼が言った差異化ということを考えるなら、今夜の女を殺した方がよいということになりゃせんかね」  教授のことばで、方針が決定した。 「殺しかたはどうする」と、若社長。「絞殺は時間がかかって、苦しみが多い」 「ナイフは、部屋が血まみれになるしな」と、おれも言った。 「撲殺《ぼくさつ》がいいんじゃないか」金縁眼鏡が言った。「一瞬で片がつく」 「そう。見かけの残酷さよりも、一瞬の死の方が人道的だろう」教授が頷く。 「でも、絞殺なら四人がかりだけど、撲殺はひとりでやらなきゃならんぜ」と、おれは言った。  殺そうと言い出したのは若社長だ。全員が彼を見た。若社長は頷いた。金縁眼鏡が部屋を出て行った。女からいちばんしつっこく言い寄られていたのは彼だったからだ。若社長は裏口から出た。やがて棍棒《こんぼう》の範疇《はんちゆう》に入る物体を持ち帰ってきた。  金縁眼鏡がどんな甘いことばをささやいたのかは知らないが、女は期待に眼をきらめかせ、見違えるほど淫蕩《いんとう》な美しさを持った顔にかわり、部屋に入ってきた。彼女の背中を押した金縁眼鏡がドアを閉め、その前に立った。女はおれたちを見てすぐ、何が起るかを悟った。顔を歪《ゆが》め、あう、と咽喉《のど》から声を洩らして床にすわりこんだ。おれと金縁眼鏡が彼女を両側から立たせて肱掛《ひじかけ》椅子にすわらせた。ストッキングの膝の部分が破れてまっ黒になっている。女は酔いが醒め、紙のような顔になっていた。  教授がていねいに事情を説明している途中で女は嘔吐《おうと》した。金を出しても駄目だし、肉体を投げ出しても駄目だし、つまるところ命を助けてもらえる方法は何もない世界なのだということがよくわかったようであった。彼女は泣き出した。時おり大声をあげて泣いた。店にいる者全員に聞こえている筈だったが、むしろその方がいい、と、おれは思った。ひとしきり泣いてしまうと、彼女は愚痴を言いはじめた。なぜあなたがたが死なずに自分が死ぬのかという筋道の通らぬ愚痴だった。それが筋道の通らぬ愚痴だということに気づくなり若社長がすぐさま、彼女の脳天に棍棒を振りおろした。頭蓋だけでなく首の骨まで折れたようだ。床へ俯《うつぶ》せに倒れた女のからだがゆっくりと引《ひ》き攣《つ》れた。 「しまった」と、若社長が言った。「射精しちまった」  おれは店に戻り、本格的にジョングルールを呑みはじめた。若社長と金縁眼鏡が女を焼却して戻ってきた。金縁眼鏡はディーラーの報酬と歩合金を受け取っていたので、おれに少し金を貸してくれた。ルーレット台に戻り、おれは賭けはじめた。  約三時間賭け続け、おれは勝ち続けた。酒が入ってから勝ちはじめるというのがどういう理由なのか、よくわからなかった。チップが山積みとなり、換金機に入れると札束がごろんごろんと出てきて、それはおれのポケットに入りきらぬほどの量だった。  本格的に呑みはじめたのが比較的おそい時間だったので、朝がたになってもおれはあまり酔っていなかった。カウンターへ行き、バーテンをやっている若社長を相手にもう五、六杯呑み、やっといい機嫌になっておれは店を出た。太陽が眩《まぶ》しかった。太陽はもう、高いところにいた。  繁華街にいるのはみな朝帰りの連中ばかりで、ご機嫌のやつが多かった。やあご機嫌、などと言い、見知らぬ男同士、時には女同士が抱きつきあったりしている。髪をぐしゃぐしゃにされてしまった恰好良い女が、わたしもうふらふらよなどと言いながら帰りをいそいでいた。へべれけになって犬を抱き、道路ぎわで寝ている者もいた。  住宅街まで戻り、昨日ぶち壊した家の前を通りかかると、すでに綺麗《きれい》に整地されていて、建築屋が数人、測量をしていた。敷地の隅では建築技師らしい男が主婦を抱き、息をはずませていた。  建築技師が射精するまで待ち、おれは札束をとり出しながら主婦に声をかけた。「新しい家の材料代に、この金を貰ってほしいんですがね」 「どうせわたしもあの家、気に入らなかったんですよ」と、彼女は言った。「それより、この家の主人になってくださらないかしら。だいじにしてあげますわよ」  おれはぶっ倒れている建築技師を指して言った。「あいつが好きなんだろ」  彼女は顔を赤くした。  要《い》らないというのを無理やり、ポケットの札束を残らず渡し、おれは家に戻った。突然、激しい疲労が襲ってきた。あの女子大生が持ってきたらしい果物の籠《かご》がリビング・ルームに置かれていた。おれはシャワーを浴びようとして風呂場の方へ這《は》っていったが、ついに力尽き、脱衣場の板の間で眠りこんでしまった。  家  具  一九七八年七月二十三日の昼過ぎ、野島芳子は湖へ身を投げた。勿論、泳ぐためだ。  彼女が全裸で泳ぐ姿を湖畔に向いた窓からカメラのレンズのような眼で眺めているのは野島正夫だった。芳子は彼の嫂《あによめ》である。邸はそのあたりに一軒だけ建っていて、見渡す限り他に別荘らしい建物はない。湖の向こう岸にも、ない。  一九八九年五月四日、野島宙太郎は病床にある。病名は不明だ。ベッドから起きあがれないのだから病気なのであろうと自分で思う他はない。死病であろう。たとえ死病というほどの重病でなくても看病してくれる者がいないのであってはいずれ死ぬ。診察にきてくれるべき医者もいない。妻は去った。同居していた弟も、彼が追い出してしまった。家の中には宙太郎ひとりだけだ。汗の滲《し》みこんだシーツが湿気ている。蝶が飛んでいるが、実在するのか幻影なのかもわからない。  野島宙太郎が寝ているベッドは窓の反対側の壁ぎわにある。椅子はそのベッドを真正面に見る位置に位置していて、彼は肱掛《ひじかけ》椅子である。野島宙太郎はもう窓から湖を見ることができない。妻はもうその湖で泳いではいない。泳いでいる妻の芳子を弟の正夫がカメラのレンズのような眼で窓越しに凝視していた日のことを宙太郎はまだ憶えている。なぜかその日以来妻は自分と義弟との情事を宙太郎にそれとなく教える気配であった。弟がこの部屋に入ってくると宙太郎がいるにかかわらず眼くばせしてから淫蕩な笑みを浮かべた顔でアップライトのピアノの前にあるソファを見たりしたことを宙太郎は思い出す。 「ほら、あなたとわたしが結ばれたソファがそこにあるわ。そのソファの前に今またわたしとあなたがいるわ。そして同じ部屋に、そのソファを見ることができる位置に、今日は主人もいます。刺戟的ではないかしら。刺戟的ではないこと」  あきらかにそういった意味のそぶりを見せながらしかも妻の芳子はそれを弟の正夫に対して示しているのではなく、宙太郎に向かって表現していた。あれはなぜだったのかなあと宙太郎は思う。そしてあれは何日であったか。一九七七七七年七月七十七日ではなかったか。  そのソファは死んでいる。壊れているのでもなく形が崩れているのでもない。要するに死んでいるのだ。 「そのソファが死んだのは、いつだったかなあ」と、机が言う。「もちろん最近のことだったには違いないが、わたしにとっての最近というのはずいぶん長い時間のことなのでね」 「憶えているよ。わたしが来て、すぐだ」と花瓶がいう。 「その通り。こいつが死んだのは、十年前だ」ピアノは重苦しいものを吐き出そうとしているようないつもの口調で答える。「傍にいて、こいつのことはよく知っているよ。前の晩こいつとしばらく話したものだったが、次の日の朝になったら死んでいた」  ソファにはうっすらと埃《ほこり》がつもっている。もうながい間、誰もそこにはすわっていないのだ。  横浜の賑《にぎ》やかな中華料理店の片隅で弟を見つけた時のことを宙太郎は考える。あちこち捜しまわった末であった。芳子はどこだと宙太郎は正夫を問いつめる。ぼくは知らないよ兄さん。本当に知らないんだ。本当に知らなかったのだろうなあ。正夫はみすぼらしい身装《みな》りをし不精髭をはやしていた。芳子がそんな男と一緒にいるなど、考えられないことだ。あれは芳子を捜しまわっているうちに正夫と出会ったのだったかもしれない。そもそも正夫と芳子の間に情交はあったのだろうか。違うよ兄さん。嫂《ねえ》さんがぼくに迫ったんだよ。ぼくは逃げたんだ。そのために嫂さんが怒って。兄さんにぼくのことを告げ口して。嘘の情事を。虚構の浮気を。ほら。ギリシャ神話にもあるだろう。あれと同じなんだよ。昔からよくあることなんだよ。妻が家を出て行ったあとで弟を追い出したのであったか、その逆であったか、それももう宙太郎にははっきりしなくなっている。憶えているのはひとつひとつの情景であり、その前後関係はすべて、さだかではない。  正夫はあれからどうしただろう。兄弟共に生活無能力者であったが、その上あいつは財産を貰えなかった。おれのこの別荘も、土地家屋税を払う預金がなくなると同時に主《あるじ》が死に、主《あるじ》が死ぬと同時に人手に渡るだろう。うまい時期に死ぬことになったものだなあ。おれが死に、今はおれの唯一の邸であるこの別荘が人手に渡っても、あの窓はやはりあのままなのだなあ。しかし正夫があの代赭《たいしや》色のカーテンの蔭から泳ぐ芳子を窓越しに見ていた時のあの眼は。宙太郎から一瞬、慢性の睡気《ねむけ》が遠ざかる。あの眼までが妻に欲望を抱いていない眼だとは言わせないぞ。あれはあきらかにカメラの、しかも望遠カメラのレンズのような眼であった。  最初にカーテンが存在し、その次に窓が出来《しゆつたい》したのであると主張するのはカーテンだ。彼は言う。「よろしいか。そもそも初めはカーテンが壁にぶら下がっておった。そこへ誰かがやってきて、このカーテンをひいても壁しかないというのは趣向に乏しい。この壁をばぶっこ抜いて窓というものを開こう、と、こう言ったのだ」他の家具から反論されまいとして、カーテンは裾をはためかせ大声を出す。「これは真実だ。他の者がどう言おうとそれは真実ではない。よろしいか。お前ら何も言うな。何か言えばわしはそれを断固として、大いなる決意とともに否定する。否定する。否定する」  家具たちはしらけている。  時おり夢の中からあらわれたように初老の女がやってきて宙太郎にポタージュ・スープなどを呑ませてくれる。初めてやってきた時はあきらかに見知らぬ女であったが、今はもうその女の顔をはっきり思い出せるようになった。ということは一日に一度来ているのだろうか。あの女はなぜあんなことをするのだろう。おれはあんな女に来てくれといった覚えはない。誰かが寄越しているのだろうか。何も喋らないからあれは聾かもしれない。もっとも、こちらも何も話しかけないわけだが。宙太郎は自分の預金のことを少しばかり気にする。あの女はおれの金を勝手に使っているのではあるまいな。預金がなくなったからといってこの家を抵当に入れたりはしていまいな。そうではないとすればあの女は誰から金を貰っているのだろう。台所にはまだ食べものの缶詰がたくさん残っているのだろうか。食堂のガラス食器類はどうなっているだろう。実はほとんど割れていて、割ったのが他ならぬ自分であることをおれは忘れているのかもしれないぞ。よくあることだ。ボランティアがこんな山の中までくるだろうか。この一軒のためだけに。しかも見かけだけは豪壮なこのような邸宅に。  実は芳子は正夫のことを、宙太郎に告げ口などしなかったのだ。それこそが、正夫の言うその情事が嘘ではなく浮気が虚構ではなかった証拠ではないのかと宙太郎は思うのだ。さらにまた彼らの間に情交がなかったのであれば、情交があったに違いないと疑っていた当時の宙太郎がこの部屋の絨毯《じゆうたん》の上へ芳子を押し倒した時芳子はもっと興奮した筈だ。興奮しないのはいつものことであるとしても、そしてたとえ興奮しないまでもあのように冷笑を浮かべ続けたりはしなかった筈だ。宙太郎はそう思う。それが弟を追い出した直後の出来ごとであったのか、弟がまだ邸のどこかに居た頃のことであったのか、宙太郎にはもうわからない。あいつはすぐに倒せたな。簡単に引っくり返すことができた。若い時からそうだ。腰が弱かったのだ。抱きすくめて鯖《さば》折りにしてやると、きゃ、きゃ、きゃと笑いながらほとんど自分から引っくり返った。もしかするとあの時の冷笑は冷笑ではなかったかもしれず、単にそうした笑いの名残りであったのかもしれない。  絨毯が不満を洩らす。「わたしは本来、もっと尊敬されてよい存在だ。畏《おそ》れられてよい筈のものだ。始終踏まれているから下賤の者と看做《みな》されているが、実はそうではないのだ。わたしが造られたアフリカの地では、地面の化けものという、土民たちから恐れられている妖怪が存在した。地面そのものが恐れられるという事実は、かの地、アフリカにおけるこの地面の化けもの以外にない。始終踏まれ続けておる者にこそ最も高貴な、そして強い恐ろしい精神力が宿るのだ。汝らはもっとわたしを尊敬せい。尊敬せい」  家具たちはしらけている。  中華料理店の片隅で宙太郎に、うらぶれた正夫が白い半透明の顔を向けて弁解し続ける。宙太郎はじっと弟を眺めているだけだ。正夫はやがて黙りこむ。宙太郎は溜息をついた。嘘の情事だって。虚構の浮気だって。おれは何も芳子がそんな告げ口したなんて、お前に言ったりはしなかったよ。そんなことを告げ口とは言わないだろう。それだったら、告白だろう。芳子がおれに告げ口したのはお前が彼女に自分との不義をそそのかしたことだ。密通を望んだことだ。間男しようとしたことだ。正夫は表情を変えない。しかし饒舌はさらに激しくなる。ああ。それだ。まさにそれだよ。ギリシャ神話と同じだ。それは嘘なんだよ。それも虚構なんだよ。嫂さんはぼくにことわられて腹を立てたんだ。宙太郎は料理店に立ち籠める香料の匂いでぼんやりしてきた。頭が痛くなってきた。どうでもいいのだよそんなことは。おれはただ、芳子の居どころを知りたいだけなんだ。  自分はなぜ生きてきたのだろうと宙太郎は思う。茫漠として何をも考えることができなかったように思える自分の大脳が恨めしい。そんな大脳をかかえこんだまま辿ってきた自分の一生が恨めしい。無機物のような大脳を頭におさめてけだもの並みの生活しか送ってこなかったようだ。いろいろな感情に左右されて生きてきたものだが今となってはそれらの感情は大脳によるものではなかったような気もする。考えることのみが大脳の機能ではないのか。その時その時の感情というものが結局無意味であり思考には役立たなかったようなのだし、今彼が見る室内は彼の思考を賦活《ふかつ》するためのなんの思い出も齎《もたら》さず、ただ感情だけをわずかに揺らめかせるだけだ。ああ。またしてもまぼろしの蝶が飛びはじめているようだ。 「このように室内へ蝶が入ってきても、もはやわたしには見向きもしない。花が入っていないからだ」と、十年前にやってきた花瓶が言う。「ところで、わたしはここでは新参者だが、そのかわり他所における体験ということにかけて諸君にひけはとらぬ。そのわたしの人間研究によると、人間というのは十歳台では家具を壊す。二十歳台ではテレビの上にガラスのコップを置く。そのコップにはビールの商品名が入っている。彼はそこに一輪、花をさす」 「非常識な」ながいあいだ開かれたことがない扉のついたキャビネットの中でテレビが言う。 「そのコップには当然、水を入れておるのであろうな。引っくり返したらどうする気だ」 「三十歳台では、客に出すための食器にのみ金をかけ、ジノリのコーヒー・カップなどを買ったりする。四十歳台では革張りの応接六点セットを買い求め、五十歳台では宮永岳彦の絵を壁にかける」 「あのう、ビュッフェの場合もあるのでは」と、椅子がおだやかに言う。 「ビュッフェの場合もある。六十歳台では庭の盆栽を家の中に持ちこみはじめる。七十歳台ではたちまち家具に興味を失い、孫が来てそれらをぶち壊す情景を、細めた眼でただ眺めるのみ。八十歳台では、どの家具を誰にやろうかと思案しはじめるのだが、この人間が九十歳台で死んだとして、それらの家具に貰い手はない」  芳子は全裸で泳ぐのが本当に好きだったのだろうか。全裸で誰も見ていない湖でひとりで泳ぐのが好きで、それで自分と結婚したのであったかもしれないと宙太郎は思う。または、それがそれほど好きでもないにかかわらず正夫に見せようとしてそうしたのであったのだろうか。宙太郎にはもう判断できない。芳子は今、どうしているだろう。どこかの男相手に例のきゃ、きゃ、きゃという笑い声を立てているだろうか。おかしいな。思い出の中の芳子が歳をとらないのは不思議でないとして、自分まで歳をとっていないのは奇妙だ。思い出の中にしても夢の中にしても、出演する自分は誰ひとり現在の自分の年齢であったためしがない。子供であり、学生であり、青年である自分だ。子供の頃この邸の中の古い家具ばかりが置かれているがらくた部屋に迷いこんで怖かった記憶がある。あの部屋はどこにあるのだろう。さほど広い別荘でもないのに、あれ以後一度もあの部屋に出会っていない。あの部屋は現実に存在したのだろうか。それとも別の部屋に改装されたため気がつかないまま今日まで来てしまったのかもしれない。あの部屋は改装されて、その後芳子の寝室として使われたあの部屋になってしまったのかもしれない。 「もうずいぶん長い間、わたしの上で寝起きする者の気配を感じなかった。わたしはもう歳が歳なのでいつもうつらうつらしていて、よくわからないのだが、以前はある一定の間隔で誰かが寝たり起きたりしたものだ。ところが今わたしには、わたしの上に一定の重量がかかっているのか、それともまったくかかっていないのかが判断できないでいる。誰か教えてくれないかね。今わたしの上には誰かが寝ているのか、誰も寝ていないのか」ベッドのつぶやくような言いかたは深海から湧きあがってくる気泡のようだ。「誰も寝ていないとすれば、わたしのこの疲労がどこからくるのかわからなくなる」 「寝ているよ」と、花瓶が教えてやる。 「とすると、そいつは長い間わたしの上で寝たままということになるな」ベッドはあまり関心のない口調でつぶやき続ける。「死にかけているか、あるいは、もしかするともう死んでいるのかもしれない。死にかけているとすれば、わたしが死ぬのとどちらが早いかということになって、やや興味が湧くようだ」  ベッドに答えてやるものは誰もいない。そんなことには誰も興味を持たなかったし、昨日その人間がまだ生きていることを確認できた者にしても、今日彼が生きているかどうかには確信が持てないのだ。  野島宙太郎にはもう時間などわからなくなっているが、実はまだ一九八九年五月四日のままなのだ。病床にあって病名は不明。妻は追い出した。同居していた弟は去った。いや。それでは順序が逆になるのかもしれない。汗の滲みこんだシーツ。蝶が飛んでいる。  たった十年余で、なんという自分の変りようかと宙太郎は思う。ふたりがいなくなって数年。たちまち足腰が立たなくなった。もしかすると腰が抜けたのかもしれない。それでも芳子の行方を探してあちこち訪ねまわっているうちはまだ元気だった。ずっと訪ねまわっていたらよかったのかもしれぬなどと宙太郎は考える。こんなところへ戻ってきたからいけなかったのだろうよ。もういけません、などと思いながらベッドにへたりこんだ。あれがいけなかった。 「ながい間、確信が持てなかったのだが」と、花瓶が言う。「わたしが置かれているこの箪笥と、そこの帽子掛けとは、どうも死んでいるのではなさそうだね。といって、眠り続けているふうでもない」 「その通り」と、洋酒棚が言う。「ふたりは、駈け落ちしたのさ」 「そうした例はまことに珍らしい」花瓶はながい絶句ののち、感に堪えぬといった口調で嘆声をあげる。「どう見ても死んだようには見えなかったものな。では、いわば不在なんだね。そしてその理由はなんだね。わざわざ駈け落ちするほどの理由が、この箪笥と、その帽子掛けにはあったのかね」 「あれは最後まで、理由のはっきりしない駈け落ちだったなあ」と、置時計が言う。「むしろ、何かをはっきりさせるための駈け落ちだったのだろうね。よくわからないし、おかしな言いかたになるが、周囲に駈け落ちしたと意思表示をするための駈け落ちだったような気がするね」 「彼らの不在は、もう長いのか」  花瓶のその質問には、皆がさまざまに答える。十五年。二十五年。中には八十五年と答えた者もいる。その間にも十年が経っている。一九八九年五月四日で時間が停止してからもさらに時間は経つ筈だ。二十年。二十五年。さらには三十年と、どんどん経つ筈なのだ。いっそのこと二人が駈け落ちしたのであったならばなあ。少くともあの二人が一緒にいるという想像で感情は少し立ち騒ぐであろうが気分は安定する。想像不可能ということほど精神を不安定にするものはない。もうずいぶん年老いていることだろうが、芳子がひとりでいるわけはないからだ。では誰と一緒なのだ。その相手がまるで想像できないのではなあ。あいつは自分の友達をひとりもおれに紹介しなかったが、それは友人を恥じていたのか、それともおれを恥じていたのか。  歳をとってからの想像や思考はいくつかの、一定の事柄に収斂《しゆうれん》して行く。同じことばかり考えるようになる。しかし想像すらできないことがあって、それはただひとつ、芳子の相手の男の顔だ。宙太郎はかすかに呻《うめ》く。このおれの感受性だけがおれの特質なのかなあ。甘やかされて育ったために感受性だけはやたら鋭敏になってしまった。感情教育過剰の結果だ。知性と釣合いのとれぬ感性。理性と感覚の不均衡。この不思議な感情を誰かに教えてやりたいものだがおれには表現力がない。それともおれのせいいっぱいの表現で言語化すればある程度は皆が驚くような感覚を伝達できるのだろうか。おそらく出来るのだろう。しかし、する気はないし、できない。それにそいつはおれの唯一の財産かもしれない。誰にもやらないでおこう。いずれはこの邸も無人になる筈だ、と花瓶が言う。そこで、ひとつ提案があるのだがね。そうなった暁、ここにいてもしかたがないので、皆で駈け落ちした箪笥と帽子掛けを探しに出かけないかね。あっと息をのんで全員がしばらく沈黙し、やがてカーテンが波打つ。そういう前例のないことをやるのは、実にいいことだ。旅に出るのかね。旅に出るのだ。そうとも。よし。皆で一緒に出かけよう、とピアノも同意する。ほとんど全員が同意する。  ゆるやかに揺れ動いているカーテンを見て、おや、窓が少し開いているのかなと宙太郎は思う。こんな光景をどこかで見たようだ。いつも見ている光景だが、ただそれだけではない。カーテンの動きによって白い窓枠と窓の彼方の針葉樹の枝の一部が見えたのだ。なんということだ。子供の時に迷いこんだあのがらくた部屋は、実はこの部屋だったのだ。積みあげられた古い家具の上にあの白い窓枠と針葉樹の枝があった。なぜ今まで気がつかなかったのだ。そしていつこの部屋に改装したのであったろう。おれ自身が改装したのだったかもしれないではないか。そのあたりの記憶が完全に脱落している。現実に存在したことが今やはっきりしたそのがらくた部屋で他ならぬこのおれ自身が現在死にかけているとはなあ。この発見も結局は回想がある一定の事柄に収斂したせいだろう。あのがらくた部屋のことばかりくり返し考え続けていたればこその発見だ。洞察力が鋭くなったのかな。もうすぐ死ぬからかもしれない。  今、宙太郎にポタージュ・スープを呑ませてくれている初老の女は縁なし眼鏡をかけている。この女はいつからここへ来はじめたのだろう。女が来はじめるまで自分がどうしていたのか宙太郎には記憶がない。この女とは一度も喋ったことがなかったな。今はじめて、女が来ている時に宙太郎はそう思った。しかし喋る気力がないし喋れるかどうかもわからない。この女は誰だろう。芳子なのかもしれないな。宙太郎はけんめいの努力をしたつもりで手をさしのべる。指さきが、スプーンを持っている女の腕に触れた。その腕は冷たい。眼鏡をかけた初老の女は、きゃ、きゃ、きゃと笑って立ちあがる。  今、別荘に宙太郎はいない。宙太郎だけではなく、そこにはもう誰もいない。  今、湖畔からは、その別荘すら姿を消す。  今、湖畔に別荘はない。  おもての行列なんじゃいな  またしてもわしの家の前の街道を大名行列が通っておりますわい。わしがアル中になってからというもの、あの大名行列は最初のうちこそそこの茶箪笥のうしろから出てきてこの茶の間を横断し、その台所の板の間へ出て行くというだけの、ごく小さなものであったのじゃが、だんだん大きうなりおってな。今では街道をば堂堂と通って行きおりますわい。  あんたもご存じのようにこの街道は現在でこそ国道二号線略して二国などという殺風景な名で呼ばれておりますが、そもそもは山陽道、時には中国道とも呼ばれた重要な街道であったのです。なあにが「夜霧の第二国道」か。なんじゃと。バックミラーにあの娘の顔が映るじゃと。幽霊じゃがなそんなもんは。昔は九州やら中国やらの大名の参勤交代の道路になっておりましてな。ここは兵庫と明石の中間地点にあたっておりました。したがって大名行列がしばしば賑《にぎ》やかに通って行ったことでありましょうなあ。近所の者はあの大名行列を見て、昔の参勤交代の幽霊じゃと言うて怖がっておりますが、なあに幽霊なんかじゃあない。あれは本当のことを言えばわしのアル中が生み出したものでございますわい。なはははははは。  わしの家は代代商人宿をやっておりましたが、親父の代になってから家の半分を売っ払うてしもうて、こうして煙草屋をはじめました。わしが生まれた時はもう煙草屋でした。ああ。この釣具か。ここは今海岸通りといいますが、海が近いからこういうものも売っております。なにこれはわしが始めた。道楽でな。ああ。もちろん山陽本線は親父が子供の頃にすでにできておって、それで商人宿をやめました。商人宿はこの辺では、垂水《たるみ》駅の裏に一軒残っておりますな。わしが生まれた時にはもうそんな、大名行列などというものはありませんわい。かわりに提灯行列というのがございました。わしの生まれる前に日清戦争が終って、その時に最初の提灯行列があったそうで、わしが子供の時分にはまだその時の熱気が街道筋に残っとりましてな。父親などは酔っぱらうたびに「にっぽん勝った、にっぽん勝った、支那負けたあ」なんぞとわめいとりましたわい、その次が日露戦争、それから満州事変、支那事変と、勝つたんびに提灯行列が通りよったです。あれは賑やかなもんでございましてなあ。わしは好きでした。もちろん支那事変の時にはわしゃもう立派な大人ですがな。しかしやっぱり行列は好きでしたなあ。子供の頃には寝ておる時でも表が騒がしうなるとそらまた提灯行列じゃと言うてとび出して行きおりました。あの提灯行列というのはおかしな雰囲気のもんでなあ。その頃は今みたいにこんな明るい蛍光灯なんぞというものはありませんからなんぼ両側の店で電灯を点《つ》けておっても通りのまん中はやっぱり暗いし、提灯の明りと言うてもそんなに明るいもんじゃございません。ですからまっ黒な人影がいっぱい、からだの前半分と顔を下から提灯の明りで赤う照らし出されてぞろぞろ歩いて行きました。奇妙なもんでしたなあ。情緒がございました。今みたいに、今が夜か昼かわからんぐらいに明るうなるということはありません。あの行列の顔が鬼みたいに赤う見えたのは何でしたろう。みんなが勝利とか酒とかに酔っぱろうておったからかもしれませんなあ。  え。釣りですか。いやいや子供の頃には釣りなんぞという根気のいる道楽は性に合いません。まあ中には好きな子供もおりましたが、今みたいに小学生や中学生が、ほら、今も前を通って行きおりますが、ああいうように何万円もする釣具でもって磯釣りをやるなんてことはございませんでしたな。わしはその頃はやっぱりよその子と同じで虫捕りをしました。そうですなあ。よその子よりもちょっとばかりわしの方が虫捕りはうまかったようですなあ。蝉、蜻蛉《とんぼ》、それに甲虫《かぶとむし》、わしはあれを捕えるのが上手でしてなあ。この辺の子供は雄の方の鍬形《くわがた》を源氏、雌の方を平家と言うておりました。いや、それももうこの辺にはだいぶ前からおりません。何せあなた山がない。  そういうようなことで、小学校、中学校では理科が得意でしてなあ。昆虫採集をして標本箱を作ったり、蟻を飼うて観察したりしました。蟻ですかい。ほんの小さい頃からわしは蟻が好きで、裏庭で飽きもせいで蟻を眺めておったものです。飼うたのは中学校の時で、蟻の巣箱は出入りのガラス屋に作らせました。巣穴が見えるようなごくごくうすいガラス箱で、これで蟻の巣を観察して日記をつけて、研究発表したら学校で褒められました。そうそう。その蟻どもが行列を作って今でもおもての街道を通ることがございます。蟻の行列でございます。アル中になってから小さな虫の行列はよく見ておりますが、これは小さいので蟻であるのかほかの虫であるのかようわかりませんわい。最初のうちこの卓袱《ちやぶ》台の上へあがってきて、わしが追うても追うても逃げては戻ってくる。はて、おもての行列ですが、その小さい虫どもがだんだん大きうなってあの蟻の行列になったのかそうではないのか、どうもようわからんところがあります。というのはあの蟻の行列、わしは子供の時にも見た憶えがある。がりがり言う音がするのでおもてへ出てみたらでかい蟻が街道を、例のあの酸っぱい臭いをさせて行列して行きおったのですわい。はい。いつもそうじゃがその時も東から西へ行きおりました。あの蟻ちうのは甲虫《こうちゆう》類ではないらしいが、あのようにでかいと、まるで黒い鎧《よろい》を着ておるように黒光りがしておりますぞあなた。源氏か平家のようにな。あれは怖い虫ですなあ。あれは兵隊蟻に違いございませんな。それで巣箱を捨てました。なるほどなあ。そうですなあ。そう言われて見ればアル中になってしもうてから子供の時に見たように思うておるだけかもしれませんなあ。しかし現に時たまおもてを行くあの蟻の行列だけは、あれは怖いものですぞあなた。ここでお待ちになれば夕方の五時頃やってくるかもしれません。いや。わしゃもう怖うてよう見ませんが。二年ほど前に見た時はそのうちの一匹が立ちどまって、がりがりと頭の向きを変えてわしの方を見おりましたのじゃ。あんな怖いことはなかった。  戦争ですか。わしゃ戦争へは行きませんでしたわい。というより行けなんだ。からだが弱うてなあ。兵隊そのものは好きだったのでございますが。はいはい。兵隊はもう大好きじゃった。勇ましいからですわい。この道を行進して行く兵隊を見て、いつも憧れとったのですわ。恰好が良うてなあ。この辺ですか。この辺は姫路の第三十九聯隊になります。そりゃもう、この前を行進するのはたいてい歩兵隊でしたが、わしゃそれよりも先頭を馬に乗って行くあの士官が好きでしてなあ。あれになりとうて、なりとうて。士官学校へ行こうと思うて一生懸命勉強しましたわい。わしゃ次男でしたから徴兵令で取られたらただの歩兵ですがな。いえ。兵役法というのは昭和二年に改正されたやつで、それまではまだ徴兵令でございます。歩兵ですか。あれはまあ恰好悪いもんじゃ。あの軍隊の行進は時おり駈け足で走って行きおりましたが、そりゃまあ先頭を行く士官は馬ですからよろしいが、歩兵はたまったもんじゃございませんわい。何十キロ走らされたのかは知りませんがふらふらで、ええ若い者がみんなおっさんみたいな顔になってしまいおって。もうどうでもええ言う顔になってしまいおって。埃《ほこり》でまっ黒けの顔をしてのう。可哀想に。兄ですか。兄は可哀想に三十九の歳で、釣舟が転覆して死にました。昭和十二年、支那事変があった時です。あの頃からぼつぼつ、戦争でしたなあ。なはははは。  いや。士官学校は結局あきらめました。理科は得意でしたが、わしゃ数学が不得手でしての。特に士官学校に入るにはこの、高等数学というものを勉強せにゃならん。そりゃわしも一生懸命やりました。それで、からだを壊してしまいましてなあ。病気で寝てしもうて、数字やら記号やらのまぼろしを見るようになった。連中が行列を作っておもての街道を東から西へ行きおりますのじゃ。高等数学の行列はご存じかな。数字や記号を縦と横、正方形やら長方形やらに並べたやつでございますが、正方形に並べたやつを正方行列といいます。で、行列式というのは、この正方行列の数字やら記号やらの間に定まった演算法則が結びついたものですな。わしゃあれは特に嫌いでございました。記号と数字をずらずらずらとノートの端から端まで書いてまだ足りんのですわい。たとえば n=3 の時にはこういうことになります。 |a11 a12 a13| |a21 a22 a23| = a11a22a33 + a21a32a13 + a31a12a23 ... |a31 a32 a33| - a11a32a23 -a21a12a33 - a31a22a13 街道を通って行きおったのはこいつらめでございます。わしゃうなされましてのう。それで数学が嫌いになって、士官学校をあきらめました。  わしは中学校を出てからすぐこの上にある神戸高等商業へ行きました。あれは東大出の村長が誘致しおりました。はいはい。まだそのころは垂水村といいました。学校ですか。今の神戸商大でございます。インテリ。とんでもない。しかし当時は高商出というとたいしたもののように思われておりましたなあ。にひひひひひひ。そこを卒業してから三菱造船へ入りました。はいはい。そりゃもう軍需産業。毎晩のように高級将校と花隈で宴会ですわい。それでわしは兵隊に行かずにすみました。結婚ですか。する気はございませんでしたなあ。なんせあんた毎晩のように花隈の芸者を抱いて寝る。女に不自由しませんから結婚などせいでもよい。煙草屋は両親がしておりました。ふたりともずいぶん長生きしおりましてなあ。ええと。支那事変の始まったのがわしの三十七歳の時で、このころからぼつぼつ、前の街道を出征兵士の行列が通りはじめました。しまいには毎日のように通りました。あれは怪態なものでしたぞあんた。屠所へひかれる羊のようなものでありながら陽気に行進せにゃならん。泣いたりすると叱られました。それでこの精いっぱい陽気な歌を。ご存じかな出征兵士を送る歌。※[#歌記号]わが大君に召されたる。え。声がでかい。すまんすまん。は。あの婆さんですか。あれは幼な馴染でしてな。魚屋しておった亭主がコレヒドールで戦死しおりまして、で、わしが貰うてやりました。なにそんなことはあなた、結婚などというようなものではない。くっついただけじゃ。  そのうちに面白いことがございましてなあ。大東亜戦争が始まって三年目、わしが四十四歳の時ですから昭和十九年の、忘れもしませんわ春季皇霊祭の前の日でした。わしは会社を休んでたまたま店さきにおりましたが、東の方からなんとはなしに元気のない出征の行列が来る。はてあんな元気のない様子でさしさわりはないのかいな、憲兵に叱られやせんかと心配しまして外へ出ました。それではじめてわかりましたのですが、西の方つまり反対側から、なんと英霊の行列がこっちへさして来ておったのです。先頭の遺族が写真と白木の箱に入った遺骨を捧げ持ったあの行列です。出征する方の行列にしてみればこれはまことに元気がなくなろうというものでございます。この店の前ですれ違いましたが、いやまあ※[#歌記号]わが大君と※[#歌記号]海行かばの衝突ですわ。出征の行列の方は怒るに怒れず、英霊の行進の方はどんな顔見せてよいかわからず、見ておるわしらは笑うに笑えず、あのう、あれは何と言うてよろしいか、怪態なものでしたぞあれは。なはははははは。いやまあ笑うてはいけませんわなあ。  それからは英霊の行列がどんどんふえました。ああいうのがみんな、靖国神社におられるわけでございます。はい。その頃にはもう空襲がありました。工場地帯も爆撃されました。造船ももう思うようにはいかず、食いものもままならず。ただしわしらは何やかやと軍から貰うておりまして、それほど不自由はしませんでしたが。何もかも配給制になってしもうて、煙草も配給になりました。男一日六本でございます。これは隣組配給でしたが、たまに自由販売がありまして、そういう日はこの店の前へながいながい行列ができました。ここから街道をずっと、福田川まで行列が続きました。はい。煙草屋ですから煙草には不自由しません。さあ。煙草以外には塩を売っただけですかなあ。そうそう。そのだいぶ前のことですが、煙草がひとり一個売りになったのと前後して報国債券、なんぞというものを売りました。それからしばらくして値上げがあったのでございます。※[#歌記号]|金鵄《きんし》あがって十五銭。あ。すまんすまん。  ま、婆さんはあのように申しますが、頭は冴えております。高商出のエリートのこのわたくし。いや何。なははは。わたしは本格のアル中でしてな。体内にアルコール分がなくなると青菜に塩、ぐったりして廃人同様になりますが、こうして呑んでおると元気が出る。はい。今日は昼間から少しずつ呑んでおりますが。最近若い人たちが焼酎を呑みはじめてくれたのは有難い。お蔭さまで酒屋へさして焼酎をば、この正正堂堂と買いに行けます。つまり昔から日本のアル中は焼酎、毛唐のアル中はジンと決まっておったのでございます。呑みなさらんか。ほらいっ気、いっ気などと失礼いたしました。あのような呑みかたをしておればいずれアル中がふえて、これは世の中面白いことに、などと言ってはいけませんな。にひひ。アル中気味になったのは五十歳を少し越したあたりであったでしょうか。いやいや。その前にもう「造船」は馘首《くび》になっておりました。そのいきさつ、これはその申しあげるのをはばかりますが、終戦後、斜陽族のさる令嬢が会社に秘書としてお勤めでしたが、この方をばおそれ多くも強姦しようとしました。あの頃は貴族のかたがたが食うに困ってあちこちで働いておられましたが。はい。これはもう美しいお姫様。栗島すみ子か梅村蓉子か、伏見信子か伊達里子。はあ、ひとりもご存じない。そうですかなあ。さほど古い女優ではございませんが。  や。来ましたぞ来ましたぞ。あのがちゃらがちゃら、ぎりぎりという音はおもての街道を巨大蟻の行列。昆虫軍団。はて。もうそんな時間ですかな。や。もうそんな時間じゃ。これはいかん。わたしはおそろしいので隠れます。ちょっと奥の座敷へ入っておりますので。あんたはどうぞゆっくりご覧なさい。ではちょっと失礼して。  行きましたか。行きましたか。もう、おりませんか。一匹だけ残っておってわたしの方をじろり、などということはございませんな。そうですか。ははは。やれやれおそろしや。でかいものでございましたろう。戦車。なるほどあれは重タンクぐらいありますな。がりがりなどと。機動部隊。はいはい。機甲師団みたいなものですなあ。さあ。なぜ怖いのかと訊かれましてもなあ。兵隊に行かなんだ引けめでございましょうか。戦争中に楽をして遊んでおった負いめと言いましょうか。あの、わしの方を睨みつける一匹は、きっとわしを召集しようとしておるのですぞ。お前も戦争にこいと言うておるのであります。  え。強姦した話そうそう、そのお話の途中でした。あのお嬢さんは美しいおかたでなあ。わしはひと眼見てこのひとのためなら死のうと思いました。つまり、強姦したあとで死刑になってもよいと思いました。はいはい。馘首《くび》などはとうに覚悟。何をあなた、貴族の令嬢が煙草屋の伜のところへなど何が悲しゅうて嫁に来る。現今《いま》とは違います。でまあ、客が来ておるからお茶を持ってきてくださいというて騙《だま》して、会社の応接室へお茶を持ってこられたところを強姦しました。しておるさなかに重役が、わたしは課長でしたが、運悪く重役が入ってきて、大騒ぎになって、わたしは気もやらぬにひき離されました。即刻|馘首《くび》。警察沙汰にはなりませんでした。いやもうあのお嬢さんの美しかったことというたら。  気になさらずともよろしゅうございます。あの婆さんはこの話をすると怒る。女は婆あになっても女でしてな。あれは嫉《や》きもちであります。呑みなされ。は。わたしも呑みます。ありがとうございます。はい。あの婆さんとはそのあとで一緒になりました。いや。結婚式などはいたしません。何。海神社で式をあげた。本当か。とんと忘れておったがな。怒るな怒るな。なははははは。式はあげたそうであります。どうせ酔っぱろうておって、それで憶えておらんのですわ。にひ。にひひひ。はい。もうそのころからアル中気味で、それからしばらくして親父、一年して義理固うおふくろが死にました。で、この店を引き継ぎましてな。何。ほほう。数字の行列が通っていきおりますか。久し振りですなあ。ははあ、さっきあんな話をしたからでございましょうな。いやいや。英霊はとんと通りません。あれはあんた、今靖国に祀《まつ》られて総理大臣に拝んで貰うておるのですから、何もこんなところを通る必要はない。ま、そのうち通るかもしれませんな。出征の行列とすれ違うて※[#歌記号]わが大君は海行かばでございます。そうそう。こんな歌が流行りました。※[#歌記号]昨日生まれた豚の子があ、弾丸にあたって名誉の戦死、豚の遺骨はいつ帰る。そう言や天皇も戦争には行っておらんから、わたしも恥じることはございませんな。天皇もわたしも豚の遺骨にならないでよかった。総理大臣はあれは豚の遺骨を拝んでいるのであります。なははははは。なに右翼。この辺の右翼はあそこのパチンコ屋の二階へ集まりますが、みんな友達でしてな。餓鬼の頃から知っておるやつばかりでございます。呑んで一緒に軍歌を歌うたりいたしまして。※[#歌記号]天にかわりて不義を討つ。銃後の妻の不義をいましめる歌ですな。兵隊はみな嫉きもちやきでした。何。GNP1%などという記号が歩いておりますか。なんであんなものが数字にまぎれこんでまいりまひたか。や、面白い面白い。中曾根のことを言うたからでありまひょう。にひひひひ。何っ。走って行きおりますか。走って行くのはたいてい兵隊じゃが。いやいや。あれは違う違う。あれはユニバシアードのマラソンじゃ。そうです。ここを走りおったのです。あんなものわたひには関係ありまへんが、ほかの行列につられて時どき出おるようでございます。皆、浮かれておりますなあ。世の中、浮かれて面白い方がよろひゅうございます。どうせわたひは酔生夢|死《ひ》、そろそろ死《ひ》ぬわけですから、戦争起って死《ひ》んだ方が面白い。中曾根さんも歳ですから、そう思うておられます。いやまああの人は偉い人で、われわれ庶民の気持がわかるのであります。※[#歌記号]君が代はあ。おっ。そうじゃ。この分では今夜あたり提灯行列が通るかもひれませんぞ。見て行きなされ。お呑みなされ。わたひも呑みます。ありがとうございます。※[#歌記号]見よ東条の禿げあたま。ししめえち億への玉だなんてこと言いますから、みんなぼうんと、一発ではえになります。で、またまけたら、中ほ根はんA級戦犯でありまひてな。またきょくもんほうそがあります。何。来まひたか。来まひたか。出征兵ひの行列。※[#歌記号]わがおおきみ。どうでふかやぱり来まひたじゃろ。あんた。まあ。ついて行たらあかん。ついて行たらあかん。入営さへられます。入営さへられる。いやいや。もうやっとりまふぞや。もうやっとりまふぞや。なんせあんたGNPエチ%とっひゅつしておりまふ。もうあきまひぇん。もうあきまひぇん。あんたはおおさかか。えらいことでございまふがな。またまけたかはちれんたい。ひにまふ。ひにまふ。りょうどもんだいどころか、くろぱときんがせめてくる。ていこくばんだいだいひょうり。りこうしょのはげあたま。まけてにげるはちゃんちゃんぼ。ぼうでなぐるはいぬころひ。ひべりやおくりはかなひやかなひや。えまのうちにじえたいにはいっとくがよろひい。ぬふ。えまへらかえ。ひぬのはわかいやつらでふ。なはは。だいほんえ、はぴょがあって、また、へろへま、ながはきで、へとがひぬ。なはは。てんのの、せきひとひて、へとがひんで、へろへとの、へろへろへとの、へろへとは、あのへとはまあ、わたひよりわかいから、ひにまひぇん。ひろへとの、へにもひなめ。ひにんもまはれてひなん。ぬふふ。これまんちゅのふた。ていえんていねいゆうらひんまんちょ。にほんだんひとふまれきて。きこえてきまひたか。きこえてきまひたか。おほろひや。おほろひや。へいたいの、こうひんの、あひおとれす。あひおとれす。きたのれごらいまふ。きたのれごらいまふ。もう、ひにまふ。みんな、ひにまふ。わしのこのこれまれのおひゃべりも、ひにまふ。ことば、ひにまふ。あれでふ。あれでふ。ざく、ざく、ざくというて、あれこそはぐんかのひびき。あれこそはぐんかのひびき。  怒 る な 「全員集ったところで、さっそく本題に入る」オートメーション研究所長が十数人の所員を見まわした。「ここの工場で使用しているロボット全員、なぜかこのあいだから、いっせいに具合が悪くなったことは、皆もよく承知していることだ。諸君は全員、ロボット工学の専門家でもあるわけで、皆それぞれ、この原因について考えていることがある筈《はず》だ。本日は何らかの結論が出るまで、これを討議する」 「まったくです。早くなんとか解決しなければなりません」 「オートメ研のロボットが全部故障したなんて、世間に知れたら恥さらしですものね」 「そうだそうだ」 「まったくだよ」  全員が喋《しやべ》りはじめた。 「考えていることを、ひとりずつ喋ってくれ。君はどう思うね」  所長に指されて、ひとりが顔をしかめ、かぶりを振った。「わかりません。機械工学的には、欠陥はまったく見られないのですよ。なにしろ連中、自動修復機能をそなえていますから、たいていの機械的故障なら自分でなおしてしまうんです」 「その、自動修復機能が壊《こわ》れているとは考えられませんか」 「その場合は停止するように条件づけられている。しかしわたしの見た限りでは、自動修復機能は完全に作動しています。停止したやつは一体もなし。皆、動きまわりながらへまをしたり、命令に違反したりするわけですから」 「とすると、やはり心理的、精神的なものかなあ」 「そのう、一足《いつそく》とびに心理的なものが原因としてもいいのかね。たとえばプログラムに欠陥があるとか」  所長のことばに、プログラムを担当している所員が反撥した。「おことばですが、わたしの作成したプログラムに欠陥はありませんし、わざと欠陥プログラムで実験したところによりますと、たとえプログラムに欠陥があったとしても、それが原因ではないのですよ。全員に同じ欠陥プログラムを入力しても、へまのしかた、命令違反、それぞれ違う過《あやま》ちをする上、半分以上はプログラムの欠陥を自分で修正しました」  おう、と全員が吐息《といき》を洩らす。 「心理学者を呼びますか。あるいは精神分析医」ひとりが投げ出すような言いかたをした。 「それは君、われわれロボット工学者の恥になるよ」もうひとりがやんわりとたしなめた。「ロボットの心理はわれわれでなければわからない筈だ」 「でも、結局は彼らを擬人《ぎじん》化して理解しているんだから」 「そりゃまあ、そうだ。しかし心理学者にとってはロボットというのはやはり、初めての対象だ。それにわれわれは皆研修の時、否応なしに心理学の本の十冊や二十冊は読まされている。われわれにだってロボットの精神分析ぐらいできるさ」 「不満があるのかなあ。一日八時間働かされづめという不満が」 「われわれと一緒じゃないか」  全員が笑い、所長が苦い顔をした。「君たちと違ってロボットたちは、単純労働の恒久的持続を望む意欲を第一にプログラムされている」 「そうです。その通り」所長の隣席の男が、ややおべっかを使う口調で言う。「連中、時間が来ても作業を続けようとしますからね。作業終了を午後五時丁度にプログラムされているにかかわらず」 「それが狂ってる証拠だ」と、ひとりが不満そうにつぶやく。 「性的欲求不満ということは」  全員がまた、げらげら笑った。 「いやいや。笑いごとではないぞ。最近のうちのロボット連中には、あきらかに自我が芽生《めば》えてきている。しかも擬人的自我だ。われわれ人間から影響を受けているんだよ。生殖能力がないまま、人間並みの性欲を持ったとしてもおかしくない」 「ロボットに性欲」所長が眼を丸くした。 「坊主に簪《かんざし》」 「豚に真珠」 「洒落《しやれ》にならん」 「誰だだれだ。ロボットに裏ビデオを見せたやつは」 「彼らに性欲はありません」たったひとりの女性所員が、極めて事務的に言った。「試《ため》してみた結果、そう考えるしかありません」 「君は、じゃ、つまり、ロボットと」所長が、ごく、と唾《つば》をのんだ。  全員、複雑な表情でその美貌の所員を凝視する。 「はい。ロボットの一体に擬似生殖器をとりつけ、プログラムした上で、交接いたしました」  比較的好色なひとりの所員が、以前からそんなことをやっていたのではないかという眼で彼女を見た。 「でも、彼は翌日、同じ過ち、即ち運搬物を床へばら撒《ま》いたり、ドライバーをハンマー的に使用したりという誤りを、前日より多くも少くもなく、くり返したのです」 「あのう」ひとりが遠慮深げに言った。「失礼ですが、そいつは、そのう、満足しなかったのでは」 「そんなことはあるまい」所長が美女をかばった。「擬人的性欲があった以上、このような美人と寝たというだけで、少くともある程度の満足はあったに違いないし、逆に、射精に到らなかったため欲求不満が昂進したのであれば、もっと狂っておる筈だからね」 「あのロボット達には、幼児期というものがありませんでしたね」と、ひとりが言う。 「幼児期というと、教育期間のことかい」 「両親とのスキンシップの時期です。組み立てられるなり、すぐプログラムを入力されて、工場に立たされた」 「そう思い、おれは甘やかしてやったよ」ひとりが大声を出した。「ほら。最近、大の男が裸になっておむつを取り替えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、揺り籠で子守り歌など歌ってもらって、精神をリフレッシュするという治療センターができただろう。あれを思い出して、あの通りやってみたんだ」 「あの、ロボットにおむつをしたのか」 「そうだ。効果はゼロだ」  全員が、また嘆息した。 「さっき性欲の話が出ましたが、子孫を作りたいという、いわゆる種の保存本能が満たされないため、ということはないんでしょうか」  ひとりがくすくす笑った。「何を言ってるんだ君。ここはオートメーション研究所だよ。作っているものはすべて彼らの子孫といっていい」 「そうとも。それに彼らの持つ自己修復機能をフルに活用すれば、完全に自分のコピーが作れる」 「ああそうか」 「じゃあ、あとは食欲か」 「満足してる筈だが、と思いながらも、一応いろんなものを食わせようとしてみた」 「食べたか」 「食わないね。食べものだけでなく鉱石や、毒物も含めた薬品など、思いつく限りのものをあたえたが駄目だ。食った、というか自分で体内へ摂取したものはいつもの燃料、電池、溶剤、不凍液だ。一杯呑みたいんじゃないかと思って酒を飲ませようともしたが、これも駄目。あれは、連中にとっては石鹸なんだよね」 「金《かね》か」と、ひとりが叫んだ。「給料をよこせ。そうだ。連中は今まで只働《ただばたら》きだぞ」  全員がまた、げらげら笑った。 「金で何を買うっていうんだね。実はおれは、彼らが自分たちをすっぽんぽんの丸裸と感じているのではないか、羞恥心、あるいは虚栄心に眼ざめたのではないかと思って、服を着せてみた。たちまちぼろぼろにしてしまった。着ていない時と同じ調子で作業するもんだからね。断言してもいいが彼らには、衣食住に関する欲望はないよ」 「あのう、金に関してですが、先月フランスから見学に来た人が、案内してくれたロボットに、冗談半分でチップをやったところ、彼はあとでそれをダスト・シュートに入れました」  全員が頭をかかえこんだ。 「でも何か、必ず結論がある筈だよ」 「おかしいなあ」 「なんだろう」 「おれたちが嫌いなのかなあ」  なに気なくひとりがそう言ったため、皆がどきりとした。「なぜだ。あれは反抗だっていうのかい」 「ん。証拠はないが、ま、そうだとも考えられるんじゃないか」 「でも、反抗するのは不満があるからだろう。その不満の原因が何かを、今まで議論してきたんじゃないか」 「そうではなく、もっと単純に、われわれそのものが嫌いだということかもしれんよ」 「なぜ嫌うんだ」 「人間だからさ」  また、全員がどきりとして顔を見あわせた。「異種族への敵意か」 「いや。それは考えられません」ひとりが考えながら言った。「ロボットの中には、一日中われわれと共に作業する者もいれば、ほとんど人間と顔をあわせることのない持ち場についている者もいる。それが共に同じ程度の狂いかたをしているんですから、その理屈は成立しないでしょう」 「そうだ。われわれを嫌ってわざとやっているとすれば、昨日のようにロボット同士激しくぶつかって双方とも壊れるという事故など起さぬ筈だよ」 「あっ。自己破壊の衝動」ひとりが立ちあがって叫んだ。「早く壊れてスクラップになり、もとの鉱物に戻りたい。そして永遠の休息と安らぎを得たい。つまり母胎回帰願望のようなものかもしれません」 「いや。彼らは自分や仲間の破損には特に神経質だ。敏速に行動して修復しようとしているよ。タナトスではない」 「また、笑われるかなあ」ひとりが、もじもじしながら言った。「連中、このオートメ研の仕事に反対しとるのではないでしょうか。たとえば彼らの中に高度な文明批評精神が発生し、科学技術のこれ以上の暴走を喰いとめようとする意志が生まれた。そこで、出来る限りの失敗でわざと研究の邪魔をしてやろうという」 「その理屈も成立しないね。連中、失敗したあとは必ず、プログラムされてもいないのに遅れを取り戻してノルマを達成しようと、作業をスピード・アップしとるよ」 「ううん」全員、頭をかかえこむ。「他に何かないか」  もっとかまってほしいという甘えではないか、あるいはエホバ・コンプレックス、あるいはただの疲労、防衛ヒステリー、自我の分裂、現実否認、伝染性退行、いろいろな説が出たが、すべて反証と共に否認された。 「おかしいな。これ以外の原因というのは考えられないがねえ」すべての意見が出尽した時、所長が溜息をついてそう言った。 「もしかすると、今までの議論の中で、すでに出ているのかもしれない」そう言って、このショート・ショートを最初から読み返しはじめる者もいる。 「そうなんだ。これ、ショート・ショートなんだよな」ひとりが思い出したようにそう言った。「意外な結論というものがある筈なんだ」 「ですから、作者が、ここまでにあまりいろいろなことを書き過ぎて、その意外な結論を出せなくなっているのでは」と、女性所員が控えめに言った。「そう言うと作者はご不興でしょうが」 「早くなんとかしないと」所長が焦《あせ》りの色をあらわにした。「あまり長時間に及ぶと、ショート・ショートではなくなってしまうぞ」 「いや。三十枚までは大丈夫です」と、ひとりが言う。「そういうことになっているそうです。まだ、ここで十三枚ですから」 「だけど、その結論というのは、意外なものでなければならないんだろ」 「そうなんだ。だから困るんだよな」 「わははははははは」ひとりが笑って立ちあがった。「でけた。これが意外な結論だ。いいかい。『なぜロボットに訊《たず》ねないんだ』わはははは。どうだい。これが結論だ」  全員が彼を軽蔑の眼で見た。 「陳腐《ちんぷ》な」 「それは結論じゃない」  ひとりが投げやりに言う。「おれはいちばん先にそれをやったよ。連中の答えは『わたしたちにもわかりません』だ」 「なぜ調子をあわせてくれないんだよう」提案した所員が泣き声を出した。「みんなで、あっと言ってくれれば、多少陳腐でもおちがついて、このショート・ショート、終らせることができたのに」 「ちぇ。終らせることだけ考えてやがる」 「あのう、ロボットがああなった原因というのは、実は、ないのでは」  女性所員の発言に、一同はとびあがった。 「原因はないというのが結論だというのですか」  所長が、ぎらり、と眼を光らせた。「ないというのではなく、わからないという結論でもかまわぬわけだ。すべての問題に解決があたえられるとは限らない。それが現実だ。それがリアリズムだ」 「しかし、それは小説のリアリズムではないでしょう」 「いや。虚構を模倣しておる最近の現実が、ともすれば安易に結論を出そうとする傾向への批判になる」所長は立ちあがる。「これで会議は終りだ。結論はない」                 (編集者・註 原稿料かえせ)  他者と饒舌  朝刊には堀内が社長殺しを自白したという記事が載っていた。  はて社長を殺したのはおれではなかったのかとおれは思う。昨日事務所にはおれと社長しかいなくて堀内はいつものように外まわりをしていた。会社にはもうひとり竹内という女事務員もいるが彼女はすでに退勤していた筈だ。社長とおれの口論は珍らしいことではなかったがそれまで口にしなかった「馘首《くび》」という切り札めいた言葉を社長が洩らしたのでおれは眼をくらませ机の上の木製卓上金庫を社長の頭に叩きつけたのだ。ざらっという音がしたがあの音はなんだったのだろう。金庫の中の小銭の音だったのか社長の頭蓋内に貨幣が詰まっていたのであったか。もしや商品の貝|釦《ボタン》が詰まっていたのではあるまいな。社長は乱暴な罵声をあげて椅子から立ちあがり机の横からおれの腰を蹴りあげようとするような動作を二、三回繰り返してゆっくり俯《うつぶ》せに床へ倒れた。倒れる時横に積みあげてあった商品の木箱をひとつ落したので床には貝釦も散乱した。血も少し飛び散ったようだ。おれはさいわい貝釦を選別するための手袋を嵌《は》めていたので証拠|湮滅《いんめつ》にもさほど時間をかけることなくそのまま会社を出たのだった。  雑居ビルから裏通りを経て大通りへ出たあの時おれは濃密なそのあたりの、まだ日暮れには遠い明るさの大気の中で強い再生の感覚に襲われたものだ。おれは子供のように両腕を振って家路についた。あれからおれはどうしたのだろう。今おれは朝刊を熱心に読み続けていて周囲を見まわすことなどできないのだが、おそらく此処はひとり暮らしのおれのアパートの部屋であるに違いないから、あれからまっすぐ自宅に戻ったのであろうと思う。  堀内の自白によると彼は以前から社長と仲が悪く、昨日外まわりから事務所へ帰ってきて社長とふたりきりになった時またしても口論となり、ついに犯行に及んだということであるらしい。以前から他人の手柄を盗もうとする男ではあったが今度はついに他人の悪事をまで盗みやがったかと思い感謝すべき他人に対しておれは腹を立てた。何であれ自分の行為を盗まれるというのは基本的には腹立たしいことだ。しかし記事を読むにつれ堀内を自白に導いたきっかけがおれや女事務員竹内の証言にあると知ってその腹立ちはたちまちおさまった。喋った時の経緯がまったく思い出せないおれの証言に先立って竹内はるよの証言が記載されている。 「堀内さんと社長は仲が悪くつかみあい寸前の喧嘩はわたしによって何度も目撃されています」  なんという証言だ。おれはあきれた。推理小説マニアとはいえわたしによって何度も目撃などという言いまわしを警察|乃至《ないし》新聞に対して用いるとは。さらにその言いまわしを面白がって、そうとも勿論面白がっているとしか思えないのだがそのまま記事にするとは新聞も新聞ではないか。だがこの新聞がそのような面白がりかたを売りものにしている新聞であるならそれは竹内証言に対してのみならず、おれの証言に対してまでおれ独自の言いまわしを面白がり記載するという乱暴をはたらいているかもしれない。そしておれのその想像は事実だったのであるが、それはともかくとして、竹内の証言はただそれだけであり、おれと社長の仲の悪さには言及していない。それが意図的なものかどうかは次行以下のおれ自身の証言を読むまでわからなかった。じつはおれと社長の不仲の事実は竹内ではなくむしろ警察や新聞がおれの証言によって意図的に無視したのであったようだ。 「はい。堀内は主として商品である貝釦の卸売価格、それからたまには労働時間や待遇などの問題で社長とよく口論をしていました。しかしそれはわたしが社長と時おり演じる口論に比べて質的な違いはさほどなかったと思います。ただ本来の憎悪というものはなかなか表面化しにくいものですからわたしと堀内のどちらが社長をより憎んでいたかはただ普段口論をしていたかどうかだけでは判断できないでしょうね。したがってこの事件の場合はむしろ」  この饒舌は何ごとであろう。竹内証言の軽薄さどころではないほとんど狂躁的な饒舌ではないか。さらにまたこうした饒舌を整理もせずに記事にした新聞の意図は那辺にあるか。おれは寒い筈の部屋の中で汗を掻き動悸を自覚しながら自分の証言を読み続けた。おそらくこれと同様の饒舌を警察に対しても弄《もてあそ》んでいるのであろうが、もしやこの饒舌の中で警察が気づかなかった自白したも同然の失言をしていて、まさに新聞はそれを忠実に採録することによってこれを証拠とし警察をだしぬいて真犯人がこのおれであることを指摘し大手柄にするつもりではあるまいか。読み続けながらも眼の隅でとらえたところではおれの証言はまだまだ続くようだ。いや。新聞はこれを証言などと称しているが、おそらくは新聞が、新聞記者の質問に答えて喋ったこの饒舌とほぼ同じ内容をおれが警察に対しても証言した筈と勝手に決めているだけではあるまいか。警察への証言も新聞へのコメントも昨夜遅くになされたには違いないが勿論警察への証言がこのコメントに先立って述べられたであろうからだ。 「堀内の兇暴性が証明されればいいんじゃないかと思いますのでわたしとしましてはそうしたエピソードをほんのひとつ提供するだけでお許し願いたいのです。この一件はわたしと堀内がしばしば退社してから一緒に呑みに行く常連客ばかりのスナック・バーで発生したものですから証人は十人以上おりますので何ら信憑性《しんぴようせい》に欠けるものではありません。その夜わたしと堀内はこの店で激しい口論をしました。その口論の内容というのはまさに自分たちの会社の社長の人格とか人間性とかいったものに関してであり」  簡潔を旨とする新聞記事に記載されたこれほどの饒舌を読み続けていると自分の喋ったこととはいえ、いや、それならばこその浮游感覚が襲ってくる。かくも饒舌な饒舌をおれはいったいいつ弄んだのであったろうか。再生の歓びにうちふるえてあおった焼酎のためひどく酔っていて記憶から脱落したのか。とはいえ自分がこの饒舌の中でこれから何を語ろうとしているかは記事を読み続けながらでも充分想像することはできた。三週間ばかり前、口論の末におれが堀内から酒瓶で頭部を強打され裂傷を負ったあの事件のことを話すつもりであるに違いなかった。それにしてもどこまで続く饒舌か。視野の辺縁にはまだおれの発言が勢いよくのたうっている。 「堀内は社長に対して否定的、わたしは肯定的でした。否定肯定と言いましてもそれは程度または相対的な問題だったに過ぎませんし双方が提出したエピソードも社長の人格をうんぬんするにはさほど適切でも象徴的でもないものだったのですが堀内もわたしも激昂してしまいました。ほかの客は吃驚して聞いていましたが何しろ議論の中心になっている人物が社員たった三人という商事会社の社長などというものであって何故口論しているのかまったくわからなかったようです。誤解しないで聞いて頂きたいのですがこのエピソードは何も堀内の社長に対する悪意を証明しようとするものでもなければわたしが社長に好感を抱いていたなどと示唆するものでもありません。堀内とわたしは普段からその話題が何であれ必ず互いに反対の立場に立って議論しようとする傾向があったというだけのことなのです。なぜかというと堀内という男は品性下劣な男が必ずそうであるように鼻の両横から唇の両端にかけての部分が何ともいえぬ賤《いや》しさを示していてわたしは彼の顔を真正面から見た時は常に反感を押さえることができなかった。特にわたしが激昂したのは社長を褒めるわたしに対し堀内がたしか次のように言ったからだったと思う。 「そうか。お前は社長のスパイか。じゃあ、おれがこうして喋ったこともどうせ告げ口するつもりだろう。そのひねこびた顔でご注進ご注進なんぞとぬかしてな」  堀内の手が顫《ふる》えていることに気づきながらもわたしとて彼同様に腹を立てていたため彼の顔を睨みつけたままで次のように言い返すことを抑えることができなかった。 「なるほどな。そういう暗い思いつきはお前みたいなスパイ根性の人間にしか浮かばんだろうよ。お前の顔こそまるきり密偵だ」  言い忘れていたがわたしたちはその時そのスナック・バーの数少いテーブル席のひとつについていて向かいあっており他の客はすべてカウンターで呑んでおり本来ならば全員わたしたちに背を見せている筈だったが何しろ声高の口論なので皆吃驚してこっちを向いており、おれのことばに逆上した堀内が椅子を倒して立ちあがった時には近くの客数人はあわてて止まり木からおりて床に立ち、バーテンの村ちゃんはカウンターの中から出てきて仲裁に入った。 「あっ。ちょい。待った。待った。やめなさい。やめなさいっ」  しかしすでにおれは堀内の機先を制していて彼がテーブル越しにつかみかかってくることを予想し持っていたグラスの酎ハイを彼の顔面に浴びせていた。ただでさえ逆上している堀内がそれによって完全に理性を失うであろうことはおれにもわかっていたし村ちゃんもそう判断したようだ。村ちゃんは仲裁をあきらめて逃げる。瞬時盲目となった堀内は爬虫類が這いつくばるように両手を拡げてテーブルをまさぐり焼酎の瓶をさぐりあてる。その瓶で殴られた際のいやな記憶が蘇《よみがえ》る。裂傷を負った時の打撃の感覚はあきらかに突然の死を思わせるものであったし意識をとり戻したあとで繰り返し襲ってきたあの頭痛と吐き気は二度と味わいたくない非現実的な苦痛だ。なぜ怒り狂い酒瓶を振りかざしている男などに立ち向かって行ったりしたのだろう。こちらも状況を見る理性をなくしていたらしい。おれは店の隅にまで逃げて堀内を振り返る。今や堀内は眼を見ひらいておれを睨んでいる。こっちへくるつもりのようだ。本来なら店の隅へ逃げたりせずテーブル越しに彼につかみかかり酒瓶で頭頂部を強打されていなければならぬ筈であり、だからこそ新聞紙上でそのいきさつを喋り続けているのだが、鼻孔を拡大して迫ってくる男を前にしてはもはや逃げるしかない。そう思って周囲を見まわせば逃げろと言わんばかりに店の入口はすぐ右横だ。おれは過去改変を厭わず外へ逃げ出ることにする。  あの饒舌から感じられた現実浮游感覚の結果がこれなのであろうか。逃げて行く盛り場の裏通りは突然存在したことにとまどいおびえる如くその輪郭も昼夜の別もさだかではない。盛り場に欠かせぬ通行人だけはおぼろな人かげとして次つぎと行く手に立ちはだかるものの特に避けて走る必要はなく本当は突き抜けることが可能な代物なのかもしれぬ。おれのコメントを掲載したあの記事に結末がないかの如く見えたのはまさに饒舌の途中で過去への遡行《そこう》がなされ得ることを前提としての曖昧さだったのだろう。そうした曖昧さはまた、おれの中にあのような証言をした記憶がまったくないことにも通じているに違いない。しかし証言途中で証言内容当時の時空間が蘇った以上証言内容もまた実在化していて、振り返ると堀内は酒瓶を握りしめたまま店からとび出し待てという意味のことを叫びながらおれを追ってくる。やはり証言を変えた以上おれは変えられた過去に対してどこまでも責任を持たねばならぬようだ。おれが責任などと偉そうなことを言える人間かどうかはともかくとして。  位置関係についてであるが、会社と、会社の帰途に立ち寄るスナック・バーと、おれのアパートの三点は直線で結べば高さがほとんどなくて底辺のひどく長い二等辺三角形をなしている。もちろん頂点がスナック・バーだ。おれは今、盛り場を自分のアパートの方へ駈けている。スナック・バーを出ていつもの如く右へ向かったのだから、いずれはアパート前の道路との交差点にたどりつく筈である。繁華街の町並みの店舗、看板、灯火、ネオン、その他のさまざまな大道具小道具の輪郭がすべてさだかでないのは酔いのせいかもしれないし、恐怖のせいかもしれないし、あるいはそれこそおれ自身の饒舌の中にもうひとつの過去として存在しているに過ぎぬからかもしれない。しかし酒瓶を握って追ってくる堀内だけは明確に存在する。おれの頭に裂傷を負わせる存在であるし、本来なら裂傷を負わされぬ限りコメントをとった新聞記者に言いわけが立たないのだから尚さら恐ろしく思える存在なのだ。走ることは容易だがそれは追う方とて同じだろう。直線コースをとって逃げていたのではあきらかに追う方が有利だ。おれは横道がありそうな場所へ、けんめいに横道の存在を信じて逃げこむ。  あたりの路地はたちまち複雑な迷路と化した。その迷路は実在する。おれが明確な路地の地図を認識していないからであることは勿論だが、しかしそれらの折れ曲り交差し、時には三叉路、五叉路となる路地がおれの妄想であるが故に実在しないというのではない。それはおれが今やアパートで新聞を読み続けているおれではなく逃げまわっているおれとして実在しているからなのだ。おそらくあたり一面に白く靄《もや》のかかった幻想的な帰途不明の空間へ完全に迷いこんでしまったりする心配はないのだろう。あのアパートに住みはじめて四年、休日や夜の散策ゆえにアパート近辺の地理はのみこんでいるし、右へ右へと向かううちにはいずれそのあたりに出る。土地勘のはたらく場所へたどりつきたいという願望がそのあたりへたどりつかせるか、あるいはそのあたりを周囲へ現出させずにはおくまいから安心してよい。堀内もすでに追ってはこない。まいたようだ。  見知っている造りの店や看板が左右に点在しはじめた。道路の幅はあきらかにアパート前の道路と同じだし彼方には行きつけの理髪店らしいものもうかがえる。懐かしい匂いがするがそれは四年前からなんの匂いだかわからない匂いだ。その匂いに包まれた安堵感のあるたたずまいの中からひとりの女性があらわれておれの名を二度呼ぶ。美容院を経営している稲村春江。彼女は街かどの小さなスーパー・マーケットから紙袋をかかえて出てきたばかりだ。もと全学連の闘士であり今は町内の暴力追放運動の闘士。彼女は同じ饒舌家としておれに接近し、その饒舌によっておれを暴力追放運動に引きずりこんだのだったが、おれには彼女がなぜ町の暴力団と対決しようなどと決意したのかがまだ理解できないでいる。相手が饒舌によって屈服させられぬ存在だからであろうかとも考えたがそれは想像に過ぎない。 「どこへ行ってたの。捜したのよ。やっと浪花屋さんが警察に電話してくれたの。また小園が暴れたから」それが当然という態度でおれの前に立ちふさがり彼女は喋りはじめた。白夜のごとき周囲に光源はないが彼女の眼鼻立ちは明瞭だ。「で、警察が来て」 「うん。いや。それは知ってるよ」  おれが遮ると彼女は、わかっている、わかっているという手つきと共に饒舌の中断に苛立って大声を出す。「だから、いちばんはじめから言ってるのよ。途中から喋ったんじゃなんのことかわからないでしょうが。それでー、小園が逮捕されてー、取調べを受けてー、いったん釈放されたの。だから証拠がないのよね。小園が浪花屋さんで暴れたのはもう何回目だかわからないんだけど、今回に限っていえば怪我人が出なかったの。ほかの人たちがなかなか証言してくれないし。仕返しがこわいし事実小園が釈放されてるしさ。それで小園は他に方法を知らないからやっぱり暴力でもって片をつけようとするのよね。一ツ木組でも困ってるのよね。あいつ、あんまり馬鹿だから。だからー、小園がまた暴れないうちにー、浪花屋さんに告訴してもらってー、他人にも証言するようにー」 「今、説得してまわってるんだな」  おれが先まわりしてそう口をはさむと彼女は舌さきをつんのめらせ少し吃驚した表情でおれを見つめる。さっきのような、饒舌を断たれたための怒りはなく、むしろ茫然としている。それはまるでおれのことばによって何かを思い出したか、または思いついたかのようにも感じられた。だがその沈黙は一瞬だ。彼女はふたたび勢いこめて喋りはじめる。 「そうなの。説得なの。説得してまわってるの。今の今まで説得してまわっていたの」  説得ということばを今思いついたかのようなこんな喋りかたをなぜこの女はするのだろう。まるで本当は今まで説得などしてはいず、ほかのことをしていたかのように。しかし彼女は誰に向かってどう説得し誰と誰を納得させたかを喋り続ける。その饒舌の気勢はもうおれの介入を許さない。いや。おれ以外の誰の介入も許さないだろう。おれは堀内の気配を感じて凝固した。おれは彼女の饒舌を見つめているので堀内に眼を向けることはできないのだが、堀内が酒瓶をぶら下げたままでおれのななめうしろに立ち、他ならぬ稲村春江の饒舌によっておれと対決できずに苛立っているのは確かなことだ。彼はおれを追ってきたのではなく、あきらかにこの街かどに先まわりしたのであったろう。いくら逃げたところで彼がおれのアパートを知っている以上先まわりされるであろうことは予想できた筈だ。なぜそれに気づかなかったのか。  稲村春江の唇のあわただしい動きには催眠効果がある。喋り続ける彼女の顔には恍惚感と死相が浮かんでいる。彼女がこの街かどで喋り続け、それをおれが聞き、横に堀内が立っているというこのような情景は以前にもあったような気がするのだが、それは現実にあった筈のない情景だ。街路に佇立したまま稲村春江の話を聞くという状況もこれまでにはなかった筈である。それはいつも話を第三者に立ち聞きされまいとして気を遣う彼女にはそもそも不似合いな言動だ。やがて堀内の立ち去った気配がある。彼女の饒舌にあきれはてると同時におれへの怒りも鎮まったのだろう。あるいはこの場で次に起る事件が自分とはまったく無関係な出来事であることを感じて身を遠ざけたのかもしれない。次に起る事件とは何か。死相だと。その通り。稲村春江はこの場で殺害されそうになったのだ。さいわい生命はとりとめて入院中といったことをおれはアパートの管理人から聞かされたのではなかったか。おれが自分の饒舌の中へ逃げこんだのと同様彼女も饒舌によって自分の身を護ろうとしているらしい。そう考えてこそ彼女の言動が納得できた。自己の饒舌によって戻った過去が他人の饒舌の中であったとは。すでに負傷した彼女が誰かに物語っているか証言しているその過去の中へおれは彼女の知りあいとして登場させられてしまった。そうした舞台でのおれの自己同一性と時空連続性はいかにして証明可能か。  街かどの小さなスーパー・マーケットから暴力団員の小園が出てきた。常に短刀をしのばせているという噂の魯鈍《ろどん》に近い知能を持つ乱暴者はおれも浪花屋という小料理屋で何度も会ってよく知っている。肉の厚い背を曲げて稲村春江の背後へと近づいてくる小園の眼つきはこの上なく暗くて非常に凄惨だ。自分が虫けらであったことをはじめて悟りでもしたかのようだ。おれの視線の移動から稲村春江は小園の接近を知る。その声に涙が混じる。彼女が話し続けるその内容と喋りかたには次第に警察に対する証言の匂いが濃厚になりはじめる。で、スーパーの人たちに証言してくれるよう頼んだの。そしてスーパーを出たの。スーパーの中に小園がいたのよね。話を立ち聞きしていたのです。そして。刺された時の痛みを感じて背をよじり、ついに知らぬ振りを続けることができなくなった彼女はおれの背後にまわりこむ。おれは小園と対決しなければならない。 「告訴せいとか、証言せいとか、その女に言うてまわらしておるのはお前か」  彼女のかわりに刺されねばならない。おれはゆっくりと頷《うなず》く。  抑止力としての十二使徒  ああ。政府から派遣される研究促進チームのことか。あの連中のこと聞いてどうするの。いや。そりゃあ書かないのならいいよ。ぼくもしばしば科学技術庁から助成金を貰っている立場だから、変なこと書かれるとまずいのでね。もちろん変なことなんかないんだけどさ。それならいいよ。それに、フィクションとして書く分には差支えない筈だと思うがね。ああ。連中は大学の研究室なり公立の研究所に政府から多額の助成金が出た場合、その研究開発の促進援助をするという名目で監察にやってくるんだ。ぼくは招かれてあちこちの大学での研究スタッフに加わったから、四回ほど彼らと一緒に仕事をした。そりゃ勿論、いずれも重要な研究ばかりだ。だからこそ助成金が出るわけだよ。ああ、そこまでは知らないよ。だけど政府が最高のプロジェクト・チームを作ろうとして人選したことは間違いないよ。あの十二人、みんな優秀な学者ばかりだものね。そりゃもう、どこへ出しても恥かしくないメンバーだ。そう。研究対象が何であれ、科学技術の各ジャンルの最高峰といった人が揃っているわけだから、科学技術的にはオールマイティじゃないのかな。そうだね。その方面の専門家もいる。それから助成金が効果的に使われているかどうか調査して判断する役の人もいる。チーム・ワークのための心理学の権威とか健康管理のできる人もいる。そう。そういう人もいる。勿論その人たちにとってはそんなこと、すべて専門外なんだけどね。あれはうまく考えた人選だなあそういう意味でも。だからあの十二人に来てもらえれば百人力なんだよ。そうさ。ぼくの加わったスタッフの研究は、四つとも迅速に完成へと向かった。そりゃそうさ。だって一種の天才ばかりだろ。個性は強烈だよ。しかたないよ。はあ、そんな噂があるのか。そりゃまあ、多少は皆、癖があるよ。学者ってたいていそうだよ。  あれはいくら以上と、金額が決まってるんじゃないかなあ。だから何百億か以上の助成金が出れば、そこへやってくるんだ。勿論だ。そんな大きな研究は滅多にないからね。そう。決定してからたいてい一週間か、遅くとも二週間後にはやってきた。いや。全員揃ってだよ。そりゃ時には自分の研究から手が離せなくて、何日か遅れてやってくる人もいたらしいけど、ぼくの知る限りじゃ、だいたい十二人全員が揃って、貸切りのバスでやってきたよ。ほら、あるだろ。豪華な特別仕立てのバス。全席ソファの。あれだよ。十二人は仲が良かったんじゃないの。だからそのバスが大学のキャンパスとか研究所の中庭とかへ到着する様子は、なんとなく鳴りもの入りでどんちゃん騒ぎをしながらくり込むという感じだったよ。いや。陽気な人は数人さ。でも、十二人のうちで陽気な人が数人もいれば、全体が明るくなるんじゃないの。  そうね。誰かなあ。いちばん陽気な人物。やはり八木沢さんだろうね。八木沢光男氏だよ。工学博士で理学博士で、まあ、他のたいていの人がそうなんだが。専門はたしか電子管と半導体素子だったな。肥っていて、ちょっと日本人ばなれした赤ら顔でね。あの人、料理の本まで出してるの、知ってる。そう、それだ。評判悪いけどね。手数がかかり過ぎるし、アーティチョークとかエシャロットとか、日本で手に入れにくい材料ばかりなんだよ。いや。でもそれほどうるさくない。大学の食堂でなんでも食べてたよ。ああ。その時は安西大学だよ。ぼくは空間の代数的基底についての論文を書いたことがあるので、それで招かれたんだ。あの時はファイバー束によるフロート型コンピュータ画像処理のスリット・ノー・チェック方式の開発だった。いつもそうなんだけど八木沢さんが最初、全スタッフの前で大演説をぶちあげるの。喋るのがいちばんうまいし、それに何ていうか、実に感動的にやるんだよ。あの時はたしか、これが開発されればコンピュータが飛躍的発展をとげるであろう、スリットの電子流電送効率、つまりスリットの電子ビームが通過する電極において、ノン・スリットの入射電流に対する平均通過電流の比をだね、変換符号を相似空間に普遍化するためのファイバー束にそのままあてはめると、もはや妥当性チェックもスリットもフロート・コアも必要ではなくなって、今までのコンピュータ・グラフィックスはすべて過去のものになってしまうだろう、と、まあそんなことを言った筈だ。涙まで浮かべて言うんだもんね。ぼくたちは、そこまでは考えていなかったもんだから凄いこと言うなあと思って茫然と聞いていたんだけど、だんだん出来そうな気がしてきたんだからたいしたもんだよ、あの人の演説は。それにまた、実際出来てしまったんだものね。ファイバー束っていうのはファイバーが群をつくる状態だから、それを並列バッファーに一時蓄積すれば、フィールドは無限になってしまって入力データのチェックなど必要なくなってしまう。とすると、これは何もフロート・コアでなくてもいいってことになるんだ。うん、ぼくたちはバナナの皮の繊維でやってみたけどね。君は笑うけど、本当に出来たんだから。なんとなくあの人の影響で、スタッフ全員躁状態だったね。なんでもやれそうな気がしてさ。やはり大した人物なんじゃないかなあ。へえ。そんなこと言われてるのか。そりゃまあ、俗物的な部分はあるよ。パーティが好きだったり、宮永岳彦の絵を買ってたりしてさ。でも、業績とは関係ないんじゃないの。ぼくはそう思うね。  俗物ということならむしろ三宅さんじゃないかな。三宅重夫さん。生体ビーコンの発明者で、博士号は三つ。医学博士号まで持ってるんだよあの人は。スタッフの健康管理もやってくれた。俗物とはいうものの、でも結局この人がいちばん科学的業績を残してるんだなあ。ノーベル賞候補でもあるしさ。うん。それはまあ陽気だけど、この人の陽気さはむしろ周囲を陽気にするというのかな。スタッフそれぞれの、それこそ俗物的な部分を刺戟して研究を活溌にするんだけどね。ええと、そうだねえ、たとえば、生体エネルギー準位の自然幅を利用した代謝障害の除去を研究しているスタッフの一員で、エネルギー変換効率を担当している男には、これだと生体電位測定の新しい方式が発見できて、きみはすぐになになに新聞主催の科学賞ものだとか、エネルギー生成反応担当の男には、BTU出力のちょいとした研究で新しいシナプス伝達型通信方式を生み出せる筈だからなになに財団の研究資金が貰えるだろうとか、ま、そういったような励ましかたをするんだ。学者なんて俗物根性をかかえこんでいるやつが案外多いし世間知らずで単純だから、これでたちまち喜んでしまうんだ。そりゃあ中には真面目な研究者もいるんだけど、なにしろそういった下世話なことを話題にして話しかけてくる相手が相手だから、なるほどこんな偉い学者になるにはそういった俗世間のことも知っていないといけないのかなあという気にさせられてしまうんだね。そりゃあずいぶんプラスになったよ。しめたというので自分の研究に血まなこになるやつもいて、そのためにかえって全体の研究がはかどったりした。さあねえ。あの人の私生活というのはよく知らないんだ。そう。奥さんもいないしね。何しろほら、言っちゃ悪いけど白髪鬼とか白い悪魔とかいった風貌だろ。女性にはあまりもてなかったんじゃないかな。ジャズ・ピアノが旨かったけどね。「アイ・キャント・ギブ・ユー・エニシング・バット・ラヴ」なんて曲をよく弾いてたな。何度も弾いてるうちにどんどん自分で勝手にコードを複雑にしていくんだ。しまいにコードは滅茶苦茶の域に達した。でもこの人、スタッフにはいちばん好かれていたようだね。そりゃもう、相手が有頂天になって喜ぶことしか言わないんだもの。  えっ。そりゃあ勿論そういった、研究中の副次的な成果でもって本当に賞をとったり補助金を貰ったりする者もたくさんいるよ。ああ、いたよ。ぼくの知ってるだけでも七人。うち二人は一チームだったけど。でもそれは三宅さんの力だけじゃなく、九谷さんの政治力があったからだ。その七人、みんな九谷さんが推薦したんだから。九谷東洋さんだよ電磁流線形回路素子を作った。エレクトロニクスの最高権威だろうね。そうだなあ推薦したというよりむしろ、いつも鵜の目鷹の目で九谷さんの周囲を取り巻いている新聞社の科学部記者とか、大企業の開発課の連中とかが、何かないか何かないかと常にせっついている状態だった。というのは九谷さんは今誰が何の研究をしていて、それがどの段階まで進んでいて、それがいつ完成するかあるいは完成せず失敗に終るかを、恐るべき記憶力と判断力で全部見通しているんだね。九谷さんは研究室以外ではこういう取り巻き連中を常に少くとも三人、多い時で十人ぐらいつれて歩いていて、顎で使っていたよ。うん。よく連中と一緒に呑み歩いていた。ウィスキーの一升酒をやるという噂があったぐらいでね。ずいぶん怖い人で、連中はやたらに怒鳴りつけられて、みんなぺこぺこしてたなあ。眼がぎょろりとして色黒で頭は丸刈りで、比叡山の悪僧といった顔だったから、あの人に怒鳴られるとおっかなくて、ダイザ電子工業の開発課長なんか叱られた次の日から寝込んでしまって、四日後に死んだぐらいだよ。いや、ところがぼくたちにはやさしかった。それぞれの研究がどこまで進んでるかをよく訊いてまわっていたよ。勿論スタッフがメイン・テーマにしている研究じゃなくて、あくまでそれぞれのね。例えばさっきの安西大学の研究スタッフでいえば、球走査受信ライブラリイを作ろうとしている町田君に、まだそれが理論的に可能かどうかもわからないうちに科学賞受賞の段取りをつけてしまった。町田君はびっくりしてたけどさ。でも結局受賞までに完成しちまった。そういう見通しを立てるのが天才的なんだろうね。政府とのパイプ役もおそらくこの人じゃないかな。いや。ぼくは眼をつけられなかった。こいつは駄目だと見はなされていたか、あるいは数学関係のことを他の実用的な科学ほどにはご存知なかったからかもしれないね。  そうだなあ九谷さんもたしかにマスコミ関係者に顔はきいたが、そっちの方の担当はむしろ一色さんだ。九谷さんは怖い上に話が難かしいけど、一色さんはやさしくて話が面白いから。NHKの、科学番組やニュース番組の解説者でもあるしね。知ってるだろ。あの文学博士号まで持ってる一色達也さん。恰好いいんだなあ、あの人は。生体電流の誘導性サージによる非線型波動を応用して対話式彩色図形入力のできるコンピュータ作った人だよ。文学博士号はイタリアの「芸術最前線」派の研究でとってる。絵まで描くしね。わけのわからん絵だけど。もうすぐコンピュータにハイパー・リアリズムの絵を描かせるって言ってるけど本当かねえ。でもあのひとぐらいいそがしい人はちょっといないね。今研究室にいたかと思うともういなくなっていて、その研究室の中のテレビの中で喋っていたりするからね。綜合雑誌、思想雑誌、それに科学雑誌の常連だし。自分でも科学雑誌出してるよ。「キャットウォーク」誌がそうだよ。だからそのいそがしさに、他の若いスタッフが巻きこまれてしまうのさ。片っぱしから原稿頼んだり、自分が頼まれた原稿を押しつけたり。それに、たとえばさっきの、生体エネルギー準位の自然幅を利用した代謝障害の除去の研究スタッフにいた吉田君なんて分光やってた男は、ちょうどリッツの結合原理を利用したスペクトル応用のカラー送信機を研究してたもんだから、一色さんの対談相手としてあちこちに出てるうちに売れっ子になってしまってさ。そりゃ、他にもいるよ。七、八人いるんじゃないか。荻野順一氏がそうだし、あの美人の科学評論家の吉野いづみさんがそうだよ。うん。彼女は修心学園大学のエレクトロニクス研究室にいたんだ。一色さんはただ、現に開発促進をしている研究のことだけは喋ったり書いたりしなかったようだね。いや。別段秘密でもないし、政府からとめられてるわけでもないよ。だって君、そりゃあまだ完成してないんだからさ。もし完成しなかったら自分やチームの恥になるじゃないか。えっ吉野いづみとの関係知らないよ知りませんよぼくはあはははははははは。その時のスタッフじゃなかったもの。いや。面識もない。その噂は知ってるけどね。いいや。他には聞かないなあ。研究スタッフに美人の女性が加わることなんて滅多にないもの。というより、吉野さんを除いては皆無だもの。そうかあ。手が早いって噂があるのかあ。やっぱりなあ。さあ。でも、あの恰好良さならむしろ当然という気もするけどねえ。僻《ひが》みじゃないのかなあ。マスコミの男どもの。  えっ。チームのリーダーか。さあ誰だったんだろうねえ。えっと。財布を握っているという点では四家さんだけど、これはリーダーというよりむしろ会計とか経理とかに相当する役だろうな。そうだよ。助成金を引き出すためにはすべて四家さんの承認を必要とする。そう。それを調査して判断するのがこの人でね。ああ。経済学博士号も持ってるよあの人。でも本当の専門は流体力学でさ。粘弾性理論を逆手にとって層流翼型可変ホイールをつけた自動車の設計で、音速に近いスピードの出る車を理論的に可能にしてしまった。もちろんそんな車、今の日本じゃ実用にならないけどね。カー・レースの場合もやっぱり危険なんだってさ。コンピュータによる自動操縦以外は駄目らしいね。おっ。君よく知ってるね。そうだよ。レーサーとしても一流だよ。気ちがいレーサーって言われて、四家博士の加わる競走には超一流のレーサーでも尻ごみする。今であの調子だから、もっと若い時はもっともっと無茶をやったんだろうね。今でさえ、死にたがってるとしか思えないものね。ううん研究室では君、控えめなもんだよ。チームの中でもいちばん若輩だからって。ええと。あの研究は松江工業大学でだった。ぼくも加わっていたから知っている。ううん。とんでもない。金を引き出すのをけちったりはしなかったよ。でも、変な引き出しかただったなあ。あの時の研究は超音速流体偏向素子の実用化だった。実現したら自動車工業界に一大革命が起きるというので莫大な助成金が出たんだけどさ。設備や工作にたいへんな金がかかるのでまだ足りないぐらいだった。それなのに四家さん、スタッフの一員でメカニカル・ヒステリシスやってる男に、ついでだから絶対停止装置を作ってしまえなんていって、ぽんと何十億かやっちまうんだものね。本命の研究とあまり関係ないのにさ。でも結局それは完成して、サンタ発動機が莫大な金を出して買い取ったりしたから、金は逆にふえたりした。ああいう点でもちょっと三宅さんに似た才能があったようだね。あっ、それは知ってるよ。でもそれは逆に言えば、四家さんが異性とかセックスとかに執着しないからなんじゃないの。そうでもなきゃ、あんな絶世の美女を二人も三人も、常に身のまわりに侍らしておけるわけないじゃないか。いや。女性操縦法なんてものとは違うと思うね。もっと本質的なものだよあの人の性格の。そう。そうに決まってるさ。  えっ、メイン・テーマの方の研究かい。そりゃ、プロジェクト・チームの人が全員協力してくれたよ。え。その話、ちっとも出なかったかい。ああ。脇筋のことばかり喋ったかもしれないな。だってそっちの話の方が面白いし、君もそちらの方を喜ぶだろうと思って。そうだなあ。いちばん協力的だったのは誰かなあ。その時の研究によって違うけど、ぼくが参加した場合に限って言うなら、協力と言えるかどうかわからないけど、天才的な凄さを見せつけられたのは十二川嘉門氏だね。四家さんがいちばん若くて四十三歳で、この十二川さんがいちばん老齢で、ええと今はたしか八十二歳の筈だ。うん。三年前にあのチームの平均年齢を計算したら六十一歳だった。十二川博士は古典的な学者でね。光化学、電子工学、電気工学、それに電磁気とか分光とか、そのあたりの発明発見をいっぱいしている人だ。あまりたくさんしていて、発表するのを忘れていたりするんだ。ああ。そりゃもう、いっぱいある。ナヴィエ・ボール原理をナヴィエ・ド・ボールよりも前に発見したりしているよ。そうね。いちばん驚いたのは芝浜電磁気研究所で差動シンクロを利用したキヌレン酸放電の研究スタッフに加わっていた時だ。研究分野が十二川さんの専門だったこともあって、すごい張り切りかたでさ。あの人も陽気だったなあ。何かいじりまわしていたかと思うと突然「わはははははは。でけた」って言うから、見ると生体信号型従属アンテナを重ねあわせてキヌレン酸でもってサーボ機構を作動させてるんだ。みんなびっくり仰天してさ。これが出来るのなら放電だって出来る筈だというので、データを見ようとすると、データがないんだね。十二川さんはコンピュータが苦手で、だからコンピュータの厄介にならずに自分でどんどんやっちまう。で、何かできた時にはちょっとした計算のメモ以外データが何も残っていないということになるんだ。そうなんだよ。研究室の中が燃えているのかと思うぐらいのすごい放電管作ってしまって「わはははははは。でけた」って言ったこともあった。明るさで眼をくらませながら皆がデータを訊いたら、やっぱり残ってないんだ。がっかりだったなあ。それだとか、大気ローディングを利用した見通し外レーダーとか、バリオン共鳴応用の電池だとか、そんなもの作るたびに「わはははははは。でけた」って言うんだ。ぼくたちは蔭で「わははのお爺さん」って呼んでたけどね。そうだなあ。この研究の凄いところというのはつまり、そういうものを作ったり発光させたり作動させたりする原料がキヌレン酸だというところだろうね。え。だって動物の小便なんだよ。そりゃそうさ。電気工業界の大革命だよ。今までの家電機器は全部アウトだね。いやあ。十二川さんは別に、マッド・サイエンティストじゃないよ。家庭ではいいお爺さんだよ。盆栽作ったりしてるよ。ああ。あの俳句か。あれは目茶苦茶だけどね。  そりゃそうさ。全員がそんなに軽躁的であってはチームとしての統制がとれないわけでね。冷や水をぶっかける人もいるよ。常にデータに疑問を呈したり、誰かの立てた仮説を否定したり。うん。五郎丸さんだ。五郎丸明博士。いつも苦虫噛んだような顔をして毒舌ばかり吐いていたね。疑問とか否定とか、そういう形でしか喋れない人だったなあ。それがまた、正しいんだからしかたがない。松江工業大学での時も、もとからのスタッフや研究促進チームが、ソニックドリリング・ヘッドをとりつけた塑性加工装置を共同で設計して、全員がどこにも欠点はない筈だという万全の自信を持っていたのに、あの人だけは超音速流体偏向素子の運動の境界条件にコンボリューションがあるから駄目だって言うんだ。そんなこと、まさかあり得るなんて誰も思わないじゃないの。で、五郎丸さんを無視して作ってしまって、実験してみたら工場ではちゃんと動いたんだけど、道路で運転しようとしたらもう駄目なんだね。ちょっと風が吹いただけで動かなくなってしまうんだ。あの時はそれ以後、若いスタッフがみんな怖くなってしまって、仮説を立てるたびに五郎丸さんに訊きに行ったもんだよ。五郎丸さんはすべて、駄目だとか不可能だとか、考えが甘いとか大学で何を教わってきたとか、毒舌ばかりでね。ちっともOKを出さないんだ。そうした仮説はすべて破棄されたけど、もしかしたらあの中にいくつかは正解があったんじゃないかという気がするけどね今では。だって、ぼくが見ても、いずれも欠点のない仮説ばかりだったんだよ。そりゃ、五郎丸さんが正しかったのかもしれないし、どっちなのか今でもわからないんだよ、ぼくには。研究室でも、実験のちょっとした誤りを見つけては若いスタッフを怒鳴りつけていたなあ。そりゃあ、確かに五郎丸さんの言うことは正しいことばかりなんだけどね。間違いを見つける天才だったなあ。しかし、実験にも作法があるとか、研究室における礼儀とか、そんなことまで言いはじめた時にはみんなしらけていたねえ。さすがにチームのメンバーにはそういうことは言わなかった。それどころか時おりは、あの顔で無理に笑顔を作ってお世辞まで言ったりしていたよ。えっ、ああ。あの人は論理学でもって文学博士号もとってるよ。専門のプラズマ物理ではそれほど功績はなかったようだね。そのかわりカスケード粒子でカタレプシー治療用の強磁性放射性顆粒剤を発明したり、変なものいっぱい作ってるよ。そうだ。あの人は薬学博士でもあるんだ。医学博士でもあるんじゃなかったかな。博士号、あのひといちばん多いんじゃないか。五つか六つ持ってる筈だよ。  えっ、役に立たない人なんて、ひとりもいないよ。チームの人たち全員、必ずそりゃもう、何らかの形で役に。あっ。そういえば二宮さんがそうかもしれないなあ。でも、役に立ってないともいえないしなあ。自ら進んでそういう役をやっているのだろうしね。ほら。二宮将玄さんだよ。彫刻家としても有名な。鶴のように痩せて、飄飄とした、浮世ばなれした人だよ。ああいうのを芸術家肌の学者っていうのかなあ。たとえば芝浜での研究の時にはキヌレン酸放電管用のレンズアンテナのために特殊な誘導体レンズを作るといって一日中ガラスを磨いていたね。二週間ほどかかって、少しの狂いもないすばらしい特殊レンズを磨きあげたのには驚いた。あのあと、あのレンズに目玉の飛び出るような凄い値段がついてさ、光学関連企業の連中が奪いあいしていたよ。松江工業大学では複雑でとても実用化できないくらいの、エネルギーミルや回路や増幅器がいっぱいついた巨大な流体装置を二週間かかって作りあげたけど、これはのちに国際前衛美術展の彫刻部門でフランス芸術大賞をとった。他にもわけのわからないものをいっぱい作っていたなあ。周囲の連中がいくらあわただしくしていても泰然として、こつこつ何かを作っていたよ。科学とは、こうあるべきだと言っていたね。とんでもない。皆から尊敬されていたよ。あの人を見ていると自分が恥かしくなるって言う学者もいるくらいだ。そりゃそうだろう。基礎的な器具や機械をこつこつ作りあげて、もしそれが何か科学的な発明発見につながりそうになってくると、たちどころに研究をやめてしまって、あとを他の学者だの助手だのにまかせるんだもの。そしてその器具や機械のみごとなことといったら。すべて芸術的価値の高いものばかり。そりゃもう、芸術院会員でもあるしさ。あの人の彫刻なんてものは、各国の美術館で奪いあいだ。十二人の中ではあの人がいちばん金持ちなんじゃないの。軽井沢にある六千五百坪の広大な土地が仕事場なんだからね。広い庭いっぱいに、作りかけの彫刻がごろごろしているそうだよ。研究所も東京と京都に持っていて、そういったもののそれぞれに住居がくっついているわけだが、それ以外にも宮殿のような本宅が東京にあって、フランスとスイスに別荘がひとつずつ、西ドイツのボンの近くにはライン川流域にお城をひとつ持っていて、ここは宝石博物館にもなっている。えっ。専門かい。専門は液体力学、分光、プラズマ物理、熱力学、電磁気、宝石学、冶金、岩石、結晶、ちょっとかぞえきれないなあ。  ああ。そういえば十河さんも金持ちだね。でもあの人はむしろ金づかいの荒さで有名なんじゃないの。プレイボーイだし。そう言やあ本国版「プレイボーイ」にも写真が出たじゃないの。日本のプレイボーイ・ナンバー1十河信一郎博士って、でかでかと。なにしろこの世のものとも思えない美男子なんだからなあ。フランスの貴族みたいな。ええと。たしか今、五十六歳だよ。うん。その歳だから、もう娘っ子はお嫌いらしんだ。そう。人妻専門。そりゃもう。えっ。スタッフの奥さんとかい。そりゃいくらでも。学者の奥さんというのはだいたいにおいて良家の子女だし美人が多いからね。それに世間ずれしてなくて、騙しやすいし。旦那の方だって世間知らずだもの、奥さんの浮気に気がつかないんだね。他の連中が皆知っていても、まだ知らない。最初はまあ、研究スタッフやチームだけの家族パーティでこれという奥さんに眼をつけるんだ。まず高価な宝石などのプレゼント攻勢。それから、旦那にわからないうちは昼下がりに自宅へ訊ねて行ったりしている。で、そのうち旦那があやしみはじめると、その旦那を外国へやっちまうんだ。そう。外国に顔がきくの。あの人自身グレース王妃やブリジット・バルドーと噂があったくらいで、外国での活躍もめざましいんだよ。学問と浮気、両面にわたってさ。それはまあ、いろんな名目でね。たとえば安西大学の定村助教授はIBMの中央研究所へ十河さんのかわりに無変換中間周波信号増幅受信システムの技術提携に行かされたし、松江工業大学の若松助教授はマサチューセッツ工科大学へ電子雑音妨害除去電波妨害装置の研究を講義に行かされたし、西京理科大の富士という助手はNASAへユーフェニックス・ロックーンの研修に行かされた。さあ。あの連中、十河さんの陰謀と知ってて行ったのかなあ。いざ行ってしまうと十河さんは大っぴらだったから、帰ってきてからならわかっただろうけど、でも、表面みんな黙っていたよ。家庭ではどうだったか知らないけど、でも離婚騒ぎは一度もなかったからね。それに、外遊して必ず有名になったんだから。うん。受賞とか、昇進とか、何かの功績は必ずあったようだね。だから怒らなかったんじゃないか。ぱっとしない学者の奥さんなんか、自分はあのハンサムな十河さんと浮気ができて旦那は有名になるからというので、自分から持ちかけた人もずいぶんいるらしいよ。すごい贈りものは貰えるしさ。あはははははは。いかん。だいぶ酔ってきたなあ。これ、書かないでよ。わかってるだろうけど。え。いや。もうだいぶまわってるから。えっ。そうかい。じゃ、もう一杯だけ貰おうかな。  ああ。酒か。酒は十二人全員、よく飲むよ。一滴も飲まないという科学者はひとりもいなかったようだなあ。九谷さんほどではないけど、酒豪が三人か四人いた筈だ。九谷さんの次というと、さあ誰かなあ。六波羅さんかなあ。六波羅元蔵博士、知ってるだろ。そう。あの傴僂《せむし》の。でも、あの人は酒豪と言えるかなあ。すごい酒乱だからね。え。知らないの。有名なんだけど。そうか。外部にその噂が拡がらないように、周囲の人たちが護ってるのかもしれないね。箝口令をしいて。なにしろ重要人物だからさ。ああ。科学庁を牛耳ってるよ。宇宙航空用地上支援装置を百以上発明した人だ。地上管制装置もいくつか、宇宙航行人体管理装置もいくつか、宇宙兵器遠隔管理装置もいくつかという具合だからね。これがどういうことかというと、つまり天文、航行、通信、生物、医学、工学、宇宙物理、そして兵器といったものすべての専門家でなきゃならないんだ。NASAにとっても重要人物だろうね。ああ。実際それほど重要視されてるように思えないのはやはりあの外見のせいかなあ。おまけにひどく背が低くて、あの顔だものね。え。酒乱になった時かい。そりゃもう、ひどい形相になるよ。ありゃもう顔じゃない。形相だね。ふだんでも出っ歯なのに、それがもう、歯茎まで剥き出すんだから。え。なぜそんなに乱れるのかなんて、われわれなどにはわかりゃあしないよ。天才の精神内容なんて。うん。怒って荒れ狂うんだけど、いやもうあの小さなからだで、その力の凄いこと。いちど西京理科大の研究室で暴れまわるところを見たけど、飛行試験用の遷音速域用ピトー管を手でねじって、捻じ切ってしまった上に、スチュアート風車のプロペラをぐにゃぐにゃに曲げてしまった。竜巻の通り過ぎたあとみたいなもんさ。あのあと、まともに動く機械はひとつもなかった。ということは、あの時六波羅さんがほとんどひとりで作りあげた、ハルヴァックス効果利用のプラズマ不安定性軽減装置を六波羅さんひとりで壊したということになるわけだ。だから誰ひとり文句を言えなかったんだけど。さあ。凡人の考えだけど、やはりあの外見のためになが年遺恨をかかえこんできたんだろうねえ。えっ。そう。その、女性。女性がいけないんだね。だから女性のいるバーやクラブで荒れ狂う時は凄いらしいんだよ。そりゃもう、店の中に満足な椅子やテーブルはひとつも残らない上、グラスも酒瓶も全部割れてしまう。ぼくか。ぼくは一度も見ていないが、そういう話だ。いや。ふだんはおとなしい、いいひとだよ。それに、そんなに毎日あばれるわけじゃない。そうさ。一回の研究で二回か三回だからね。  えっ。ほかに酒乱のひと。そんなにはいないよ。おいおい。君はぼくに何を言わせるんだい。そうか。それならいいんだけど。もう一杯くれないか。ふんふん。変わった癖を持ってるひとか。誰だろうなあ。癖といえるかどうかだけど、十一田さんが男色家ってことは知ってるだろ。ええっ。知らなかったのかあ。あんなに有名なのになあ。いや、勿論、男色家ということがだよ。そうだよ。誰でも知ってると思っていたんだけど、やっぱり科学者の間だけでしか知られていなかったんだなあ。専門かい。破壊電圧制御によるスーパー無負荷増幅器とか、破壊強度可変型のロブスター式破壊ディスク装置とか、メタ破壊荷重時限破壊筒とか、そんなものばかり発明してるから、あの人の専門は破壊だなんて言われてるけどね。うん。実はぼくは、やられた。研究室には他に誰もいなかった。いやもう、すばやいのなんの。複極性マルチバイブレーターの複素数球面の上でやられちまったんだ。そのために-1はiの平方根ではなくなってしまった。その男根のでかいのなんの。肛門が裂けた。皆、やられたらしい。相手に見さかいはないようだね。あの六波羅さんまでやっちまったそうだ。いやいや。とんでもない。何をされようが絶対に必要な人ですよ。チームの中での事故防止対策の責任者。危険な実験が多いからね。まあ、やられるのはお祓《はら》いみたいなものでさ。なかなか。科学者だってずいぶん迷信深いんですよ。そう。劇団も持ってる。ほら。始終、若手の俳優を募集してるじゃないか。十一田さん自身名優でもあるし。去年ユニバーサルで制作したフーマンチュウに主演しただろ。凄い映画だったなあ、あれ。  七尾さんだけがどういう人なのか、ぼくにもさっぱりわからんのだよ。どういう功績があったのかしらないけど、あの若さで東大の名誉教授なんだからなあ。凄い発明をして、それが国家機密になっているって話はぼくも聞いている。そのことを七尾博士にしつっこく訊ねたジャーナリストが行方不明になったままということもね。だからそのことには触れない方がいいと思って、科学者仲間は誰も七尾さんにそれを訊ねたりはしないよ。うん。原子物理学だ。だからその関係の発明かあるいは、まああの人は量子力学の方の発明もあるから、そっちの方かもしれない。性格かあ。それもよくわからないんだよ。何か、とんでもないことを考えているらしいんだけど、それが表面的には極めてつまらない失敗をした時にのみうかがえるというだけで。うん。それはたとえば、何のつもりか研究室で山羊を飼いはじめたために、データのメモを全部食われちまったとか。安西大学の時だ。え。もちろんコンピュータには入っていたよ。ところがこっちの方も七尾さんが、メモリーエレメントをすべてメモリーツイストにした方が人間の頭脳に近くなる、つまり、神経繊維を撚《よ》りあわせた糸の複合構造が人脳に似てくるからというので、全部消しちまったんだ。あの時は困ったなあ。でも、そのために七尾さんはメモリーパワーを千二百倍にする発明をやってのけたんだけどね。ああ。大発明さ。おまけにバグがなくなったんだ。バグをなくせばノーベル賞ものなんだけど、それが副産物だから驚くよ。失敗といえば例の西京理科大の研究では、血友病患者を百人集めてきて代謝回転数の制御実験をやったんだけど、これはまあ、どういう結果になったかはちょっと言えないなあ。ひどいもんだった。想像できるだろ。人権問題になってさ。政府の圧力でマスコミには伏せてもらったみたいだけど。松江工業大学の時も驚いたよ。統計力学的エントロピーは熱力学的エントロピーより低い筈だというので、その実験にスタッフ全員を超高圧発生装置のアンビルの上で踊らせるんだものね。元禄花見踊りのテープをかけてさ。全員踊り狂って研究室はもう目茶苦茶だ。でもあの時は面白かった。あの七尾さんはひとを踊らせる名人かもしれないよ。ま、学者なんてのは滅多にそんな面白いことに出会うものじゃないから、あの時のことは今でも語り草だ。あはははは。あはは。あはは。  いやあ。すっかり酔っちまったなあ。変なこと言わなかっただろうなあ。え。なぜだい。変なことばかりだなんてことは、ないだろう。どうして。ああそうさ。そりゃあまあたしかに、本来の研究はすべて未完に終ったよ。でもぼくたちとしては、その本来の研究に倍する成果はあったと思うがね。うん。名誉とか収入とかそういったものも含めてだが。え。ううん外部からはそう見えるのかなあ。そうかなあ。うん。たしかに研究スタッフの内部にいたからこそそう思うのかもしれないね。うん。そうだなあ。そう言えばたしかにそうなんだなあ。あの十二人、実際、一面から見たならば、本来の研究だけに関していえば、援助ではなく、邪魔ばかりしていたことになるんだなあ。うん。それはぼくも考えたことがあるよ。いずれも社会的に重要な研究だった。それだからこそ、もし完成すると政府にとって具合の悪いことが起っただろうね。だって、たとえばコンピュータ産業は大改革をしなければならず、従来の自動車工業はすべて駄目ということになるし、老人は死ななくなり、今までの電気産業はぶっ潰れてしまうといった具合に、社会問題化することがあきらかな研究ばかりだものね。もしかすると、せっかくの蛍光灯の発明がながい間抛っとかれたあの有名な事件みたいに、政府内部で、政府にとって都合の悪い発明を阻止しようとする動きがあるのかもしれないなあ。でもねえ。あっ。こう考えたらどうだろう。科学技術が進歩しすぎて大衆の感覚と遊離すれば、あきらかに害になることもあるのだから。ね。それを考えてのことかもしれないよ。ああそう。納得できないの。ははは。困ったねえ。えっ。あの十二人が政府の手先。やめてくれよ。ぼくはそんなことは言わないよ。ぼくは言ってないからね。そんなこと書かないでくれよ。書かれたらえらいことだ。頼みますよ。  うん。それはだから、ぼくたちも考えてる。万が一ということがあるからね。だからスタッフで相談して、今度の研究だけは助成金の申請をしないことにしようって。それならあの十二人の研究促進チームも来ないだろうから。だって、いかにも潰されそうな研究だし、もし発明されたらえらいことになるんだものね。それにまた、これは発明が葬られた場合も、ある意味では人間社会にとって大変な損失になるんだから。だって何しろ、イデオモートル粒子を放射して世界中の核兵器に感応させ、核反応不能、つまり全部不発にしてしまおうという研究なんだもの。  読 者 罵 倒  こら。読みさらせこの脳なしの能なしの悩なしめ。手前だ。ふらふらと視線をさまよわせ気軽、心安らか、自らは何ひとつ傷つかず読める小説がないかときょとつく手前のことだ。できるだけ自分の理解できる範囲内のことしか書かれていず肥大したおのれが自我にずぶずぶずぶずぶ食いこんでくることのないような小説のそのまた上澄みのみをかすめ取ろうとしている盗っ人泥棒野郎そうとも貴様のことだこの両性具有《ふたなり》め。自分と交接《さか》れる小説を読もうとしながらも自分では書くことのできない無学文盲の手前が、そもそも読む小説を選ぶことのできる生きものかどうか鏡を見てよく考えろこの糞袋《くそぶくろ》。ははあ、自分のことではないと思っているな。おのれより低級な読者のことであろうと思い安心しているのだろうが、あいにくおのれのことだ。手前のことだ。今これを読んでいる貴様のことだ。貴様以上に低級な読者がいるとでも思ったかこの低能。どうしたどうした。むかついたからと言うてどうさらす。腹が立ったからといってどうにもできまいこの享楽乞食め。せいぜいこれを引き裂くか叩きつけるか、それぐらいのことだ。作者はここに在りながらもここには居らぬ。だが読者たるおのれはそこに在ってそこに居る。ざま見やがれ水ぶくれめ旨い餌のみ食おうと上向いて洟《はな》を垂らした抜け蛙め。貴様らの物差しは小学児童用セルロイドの三角定規に彫られた10センチ。その10センチから食《は》み出した小説はすべて理解不能。理解不能のものはすべてこれを面白くないと断じ無論のことこれを面白くないと断じたところで恥は掻かず食うに困ることもない。泰平の世に想像力は余計者。何ごとも想像せず創造せず想うはせいぜい異性の裸のみだが、その裸とて今や世には満ちあふれている。おお。かくて貴様ら読者は何も想像しない。当然のこと何も創造できぬ。あんぐりぱっくり鮟鱇のごとく口をあけ、あっちからこっちから食えそうなものがとびこんでくるのをただ待つだけの三年寝太郎。事実努力なしに噛みくだいてどろりとろりと流しこんでくれる小説に馴れきった読者どもエンターテインメント亡者これぞ繁栄の中で餓えに苦しむ読者どもの施餓鬼《せがき》供養。さらにそのくせ刺戟にも餓えていてモットぴりっトシタモノもっと毒のあるものヲクダサイ寄越せチョーダイなどと痴呆めらが香辛料ぼけして味蕾《みらい》ぼろぼろ舌ざらざら味がわからず山とある小説のどれを読んでいいかもわからぬ。一番面白いものいちばん口あたりのいいもの、そしてちょっぴり舌を刺すものを求めてこれにしようかあれにしようか読んでいる途中からもはやきょろきょろしはじめてもっと面白いものがあるのではないかいやいやいやいやいやまだまだ面白いものがあるに違いないのだと少し読んではポイ少し読んではポイうす紫のぴらぴらのぺらぺらのファッション読者パン助読者そうとも手前のことだ。面白くないのは小説ではなく自分の想像力の貧困に由来するとも気づかず、気づくとますます面白くないから気づこうともせず、うっすらと埃かぶって僅かにこんもり盛りあがっている牛の糞の如きおのれの臭い臭い可能性をちょいとひっくり返してみるとかちょっぴり突つきまわしてみるとかすることさえ思いつかぬこの手前うすらナルシスの鼻ひこつかせてういうい啼くせんずり豚め。なんだとなんだと。 聞こえるぞ聞こえてくるぞ。激しいのはいやだ痛いのはいやだ苦いのはしょっぱいのはそれから苦しいのはいやだ悲しいのもいやだ。面白いだけのものがいい厭あな感じにならないものがいい本当を言えば何もないのがいい。厭あな感じを感じるのは登場人物だけでよろしい読者まで不愉快にさせる必要はないいやいやいや登場人物の苦痛さえ読者に想像させてはならぬ。そうでざますとも読者を厭あな厭あな気にさせてどこがよろしいのざますか明るくて快美感があって甘くてふわありキャンディ・トーンの雲の上のしあわせえなしあわせえな感じにさせてくれるあの月夜のテラスのお上品なご紳士との性行為のような小説がよろしざます。いかなる物語にもパタアンがありその類型は映画だのテレビ・ドラマだのコントだので熟知しているのだからこまかい描写は書かなくてよいむしろ漫才のように科白《せりふ》だけでよい類型以外の物語はうっとうしいから書くな物語のない小説も書くな。ぼけ手前勝手我がまま気儘言いたい放題のやわらかあなやわらかあな地べた芋虫め。感情の起伏。大きく揺らぐと眼がくらむ。ひよりひよりと風にそよぐ葦そろりそろりとふんころがし。手前が毒というのは毒にあらず真の毒は手前貴様おのれ汝そのものに向かう毒。毒毒毒毒毒などと二度と口にするな他人に向かっていう毒はおのれにとって毒ではなく気持よく小気味よいだけの薄荷《はつか》入りの甘ったるい飴玉。毒が自分に向かった途端眼尻吊りあげこれはまあ何ざます。これはまあ何ざます。怪シカラヌ不愉快デアル。まあいやな小説。ちえいやな作家。悪い小説だ悪い小説だ。手前のことと思わず読み出した時は小説は悪いもの、これは悪い小説と百も承知。それを忘れて息を呑み目ん玉ぐりりとひん剥いて大口あけて大気吸いこみ鼻孔おっ拡げて他に触れまわる。読むなよ読んじゃだめよ悪い小説よ詰まらん作品だやめろやめておけ、まともな読者なら近づかぬ方がよい。嫌煙権の世の中。害毒だ害毒だ。皆サマ皆デチカラヲアハセテアノ作家ヲヤッツケマセウ。然りまともな読者はまともな作家とペパーミントの交わり。さらりさらさら手の甲同士で撫でさすり本心見せあわぬが互いの為。明るく朗らか青天井の下で、まともに相手の顔を見ただけで苦悩に歪みそうになる自分の顔は見せまいとルイ・ヴィトンの生地で顔を覆って下半身のみの交わり。アラマア気持ガイイワ。何も聞こえぬ何も聞かぬ何も見えぬ何も見ぬ。ほほう。ほほう。やっておられますなあ。まあしっかりと毒を吐き続けなされどうせわしのことではあるまいがなどという手前のことだ。手前のことだといくら鼻さきへ指つきつけられてももう何とも思わぬ漫才や落語の芸人にさんざ客いじりされて切り抜けかた傷ついた自我の傷口ぺろぺろ舐めるその舐めかただけは心得ておる。何を言われてもにたらにたらのうす笑い。そうそう。楽しませろ。そういう具合にもっと楽しませろ。小説の読者が減ってきておるのだろうが。自分たちには楽しむ権利があり作家には楽しませる義務があるのだ。自分の想像力をけちな身のまわり、けちな処世術、けちな知識の中にのみ追いこみ、にやつきながらぱちんと蓋して鍵かけておきながら、面白くにゃあ、面白くにゃあとにゃあにゃあさえずり、果ては聞き伝えだけで読みもせずさえずる百舌《もず》もいてそういう者のことばすら他の百舌の間で珍重される傾向もあるのだがこれは論外としなければ罵倒が追いつかぬ。何も感じぬことをおのれに強制しておきながら産毛の中からうすぼんやりと蘚苔《せんたい》類のうす紫の光を発する痴呆の笑み浮かべてもう少し毒があったらいいのにねとはウンコ色の唇で何ぬかす。痛み感じぬ毒はない。その痛み感じるのがいやさに毒を感じぬ体質改善ロボトミーをおのれに施しておきながら毒があったらいいのにねとはたけだけしい。 阿呆が身を焼く。鴉の合唱。聞くに耐えぬは無脳の猿の自己主張。手前ら亡者が乞い食らうは出世する小説、早く金が溜まる小説。早く課長になれる小説、利殖の方法教える小説、安くで性交できる小説、海外の穴場を知る小説、人から尊敬される小説、自分の理屈にあてはまる小説、他人に教養誇示できる小説、タメになる小説、タメになる小説、糞溜めになる小説、駄目になる小説。おのれ好みの小説読むたびにネアカでずるずるの顔光らせ、のべつまくなし人生観変ったなどとキャラキャラ触れ歩くマンガに人生観などあったためしはなく変りようもない。その金ピカ円高赤札ドル安の満足顔も少しの批判で土気色に暗く沈み、眼ん玉窪ませ恨めしげに周囲をうかがってたちまち変る純日本産もぐらもちの仏頂面。なぜこんなこと書かれなきゃならないの。なぜ読者が罵倒されなきゃならんのだ。本買ってやっているのに。読んであげているのに。読んでやっているのに。読んでやっとるのに。自分のことは棚にあげて。そうとも読者を批判する前に自分を批判しろ。ココデハ作家ハマッタク傷ツイテイナイ。どはははは。読者の反感そらせる常套手段そんなにやってほしいか。この甘食甘粕甘茶蔓。自分も傷ついているふりして毒舌吐くは作家の処世術。両刃の剣などと聞こえはよいが、そんなこと書いて手前らへの毒薄めてなるか。うすら満足させてなるか。ページ閉ざすかこの濡れ草履。ここで読むのをやめたら百年目。手前の恐れるいやあないやあな日なた水呑んだ感じが来年の秋まで続く。かといって作者の自己批判期待してどこで出てくるかと最後まで読んでもそんなものはない。毒求めたのは手前らだ。泣くか怒るかさあどうするどうする。ここで読むのをやめたら自分の臆病自分で認めたことになり、否定の鼻ごえふがふが発し続けながらとてものことやめられやせんのだ。ダリかピカソかどんどん歪むは手前貴様うぬが屍斑のねびり顔。読者の資格のない読者は読者にあらず。それは何かと訊ねたら何でもないなんでもない。フリーで新鮮な微笑浮かべた女性自身のリーさんが虚無の虚空に浮かんで虚虚実実の虚飾虚栄虚名人の誰それあれこれの虚言とりあげ虚偽の虚報虚説を空虚に高らかにトテチテタ。去《い》にさらせ覗き屋め。手前ら読者、作家にあたえるもの何も持たずして物欲しげに店さきへ立って邪魔するな。みじめな面して南の空へぴいひょろぴいひょろとんで行け。やめい。やめい。もう読むのをやめい。この作品ただちに読むのをやめい。今後一切吾輩の作品読むことまかりならぬ。ついでにこのような作品掲載した雑誌も読んではならぬ読むことやめい。ついでにすべての小説読むのをやめい。読者すべてが死に絶えてしかばねがしかばね色の荒野地平にまで拡がったところからしか小説は生まれぬわい。何。何。何何何。ほほう手前この強情っ張りの鈍感|鯰《なまず》め。いまだにおのれだけは小説読む資格があると思い続けておる。自分だけは特別と思っておる。ノアの方舟《はこぶね》に自分は乗れるという自惚《うぬぼ》れ思いあがり。そのような者ひとりも居らず方舟作る者もない。ひとりよがりの悟ったようなその顔に何食らわしてやろう。鼻っ柱に拳骨。眼玉に指さき。唇の端|抓《つね》りあげてやろうか額に一本五寸釘かち込もうか。手前ら保守反動、約束ごとのみに縛られて文化の食いつぶしのみに生きるサラマンダー読者めらが。 文字の意味をおのれの中に定着した意味だけに求めて永遠に解き放とうとはしやがらねえ大蟻喰い読者めらが。わからぬことばの意味はただ辞書をひくだけでいいなどとすましかえる肛門愛リビドーのカモノハシ読者めらが。エイズじゃあるまいしわたしにさわらないで、わたしにさわらないで、タッチ・ミー・ナットなどと騒ぎ立てるホウセンカ読者めらが。パフォォォマンスの方がよく意味を伝えるなどとさえずるフィィィリングだけの反知性主義のイイダコ読者めらが。かと思えば物語を享受すべき時にことばの意味のみをさぐろうとする融通のきかぬ一方通行の砂利トラ読者めらが。視野の中に入ってきたことばだけで全体を享楽しようとする筑波山麓四六の蟇《がま》読者めらが。意味の不可解を表現したことばの意味が不可解であるなどと怒り狂い怒鳴り散らす反吐《へど》ゲロゲロ吐瀉物《としやぶつ》大嘔吐読者めらが。今夜一杯呑みながら吐く気のきいた文句はないかなどと思いつつ漁《あさ》り読む情報乞食の虱《しらみ》読者めらが。描写で活字ぎっしり詰まった文章は青臭い溜息ついて眼ん玉とろり濁らせ面倒臭げに読みとばし、早く読みやすい会話だけの部分へたどりつこうと焦りながら、いざ会話ばかりになると裏の意味も読みとれぬ癖して軽過ぎるだのすいすい読めてつまらぬだのと、この脳梅毒の横ぶとりの水ぶくれのジフテリヤ駱駝めが。手前ら青蛙の青大将の青二才の青虫の青息吐息の青瓢箪の青黴《あおかび》の青道心の青侍の青蠅の悪臭の悪趣味の悪疫の悪血のあこぎであざとくて浅墓な浅ましいアザラシの足の裏め。貴様らどぶ臭い裏町の崩れかけた雑居ビルの小汚い代書屋のさびれた事務所のはずれかけたドアの横の壊れかけた屑箱のうしろに生えたペンペン草の根もとを齧《かじ》る湿気虫の生まれかわりめ。お前らは意味がわからぬことをおのれのせいには絶対にしない。おのれの心に問い糺《ただ》して知ろうともせぬ。説明してもらう権利があるとばかりにその解釈を批評に求め作者の発言に求め果てはど厚かましくも図うずうしくも鉄面皮にも電話で訊こうとさえする。アノー、アレー、ドーユー、イミデスカー。このふにゃふにゃの、ふがふがの、ぶかぶかの、ふわふわの、ぶすぶすの、ぶちゅぶちゅの、ぶつぶつの、ぶよぶよの、踏み潰せば青い汁の出るブイブイ虫のブイ公め。手前らの甘え助長させるこの世の中は幼児の片言さえ発言権持つヨイコヨイコのおだてあげ世界。手前の阿呆ぶりをさらけ出した発言もちろんいかに阿呆な発言かおのれ自身にはわからず十中八九は他人にもわからず恥を掻くこと絶対になく、そこでますます阿呆の発言渦を巻く。おやこんなこと正直に言ってもよかったのかではわしも言おう。あのー、ドストエフスキイってだらだらしてて退屈なのよねー。ルイス・キャロルって二流だね読んでてイメージが湧かないから。ことばの遊びが多過ぎてさあ映像が心に浮かばねえんだよなー。ぼけぼけぼけ。蟻が血管を走るゴキブリが口へ入った脳天つん裂くつくつく法師。手前らの求めるはテレビ的内容ホーム・ドラマの展開ショウ番組の場面。貴様らに小説活字で読む脳味噌はない。貴様手前おのれらに想像できるは耳に聞こえる日常言語あっちから眼にとびこんでくるカラーの映像プラスほんの僅かの文字以外の記号〒○×?!※[#ハートマーク]。その癖文字を記号だなどと深く考えたこともなく文字を映像として見るなど非常識だと顔色変える腐れ常識のみは全身にたっぷり詰めこんでいる。そもそも手前らがそのからだ全体にしこたま詰めこんでいるのは疑いもなくうじゃうじゃ群なす蛆虫、うわ滑り上の空うぬぼれのウイルス、鵜の目鷹の目魚の目うすのろの内弁慶のウンコ、うす気味悪い請け売り文句、うす汚い浮かれ坊主の膿み汁。やいのやいのと騒ぎ立てるくせにたったひと声こらと逆襲されただけで顫《ふる》えあがり、おおこわ、おおこわと屁っぴり腰で隅の物蔭へいざり寄って肩すくめあい、あばたとにきびの汚い顔見あわせ、やがてそろそろ唇歪めはじめてひと声ぼそり、ふた声ぼそり、ついには遠くから指つきつけてきゃうんきゃうんと吠えはじめる。貴様らのやり口逃げ口みな同じ。わしらは何もしていないわしらは何もしていないしたのはすべてそっちだそっちだくだらぬ小説書いたのもそっちだそっちだ文句つけてきたのもそっちだそっちだわしらは何もしていない何かしたのはそっちだ神聖な公正無私の読者の批判にいちゃもんつけたのはそっちだそっちだ。 悪徳の文学邪悪の小説に対してまでもここぞとばかりに見せつけるわれこそ正義の味方面。これぞ性器のよがり面。実は世紀の阿呆面。何やらこっちへやってくる。見まい聞くまい喋るまい。われらこそ文化を護る者とばかり海面下二十メートル地帯、最低共通文化の表面にべったりと手足ひろげ這いつくばって覆い被さりこれ壊されてなるものか、泥亀の如く首つん出してあたり見まわし来るな来るなのかなきり声。その水虫の足と淫水かぶれの手の下にしこたま溜めこんだはA68.5ポの文庫本。ハードカバーの単行本よりペーパーバックスの新書判。新書判より文庫本。安かろう軽かろう読みやすかろう持ち歩きやすかろう捨てやすかろう本箱とてない小さな部屋に置きやすかろうと彼方は一千数百円、こなたは三百五十円、もはや選択の余地はない。ファッションのみはブランド指向コム・デ・ギャルソンに投じた残りは百円玉が数個のみ。財布はほとんどからっけつ。これぞ手前の脳の容量示すもの。とても文庫に入りそうにない函入り重装備の部厚い単行本は買えもせぬ身で軽蔑の横目で睨んでああいうのは面白くないんだよなームツカシイノヨネーおじんの買う本だナガスギテサ文庫に入ってこそよい本なのである手前ら数百円の知性が何ぬかす本代けちってコーヒー飲んで脳細胞がうごめきはじめたからといって考えることは何もなくただただあへあへ興奮し買いに行くのが裏ビデオ。輪舞春のめざめ女の一生ボッカチオバルザックは言うに及ばず手前らすでに猥本読んで自慰できる想像力さえ失ってひたすら頼るは画像映像せいぜいマンガ。おのれたち出目金の常識は金魚鉢の中で昼寝うとうと夢から醒めてもなお続く。書を捨てよ街へ出ようは字義通りにしか受け取らず街頭に立ったところで罌粟《けし》粒の知性と想像力、新たな発見は何もなく足が向くのはピーピング・ルーム。そのまま街路に立ち腐れて行けばよいものを、またしても何か読んでみようかと思うその中途半端な根性こそカルチュア・センターの繁栄促し呼び込み文化の土台となりさあいらっしゃいいらっしゃい文学の大安売り坊っちゃん嬢ちゃん奥さまがた向き誰にも書ける純文学誰でも貰える文学賞。昨日シナリオ今日私小説、理論基礎講座聞き齧ればもう評論家、素朴な意見聞く謙虚さ持ちなさいなどとプロに説教しはじめるアホあほ阿呆。ぼけあほんだら。くたばりさらせ死にさらせ。徒党組む低能ども。友人が面白くないから読むなと言っていたけど読んだらやっぱり面白くなかった。あたり前だ阿呆の友人みな阿呆。類は友呼ぶ低能同士身をすり寄せて、おのれの貧弱な知性侮辱されまいと阿呆の大群牙を剥く。だがあいにくこの連中の支持得なければ食うに困る悲しやなと、ついに一流マスコミから最高の知性までが泣くなくこれをあと押し、ごま擂り、正当化。クイズ・ブックの文学、コンピューター・ゲームの小説が作家の手足へし折り、ここに読者も消滅する。来るやら来ぬやら二十一世紀、だが確実に出現せぬは二十一世紀の小説。二十一世紀の小説21世紀の小説とさんざ宣伝され尽されいやはや作家にとって二十一世紀はすでに過去のものなるぞ。すでに読者たるおのれらは死んでいる。大脳左半球の欠けた汝らは虚構内での生存さえ許されぬ存在だ。それを嘆くことさえ知らぬ幽霊。汝らは破壊された、記憶のない、言葉のない生存を望み、その中で充たされ満足する哀れな生きもの。消毒液の中に浸って見るお前たちの夢はただ現実、現実、現実。その構築された伽藍の如き仮構の現実が数秒ごとに崩壊していることをおのれたちは知らず、自らが数秒ごとに死んでは生きているとも知らぬ。ただ激しく運動し旋回する汝らはプラズマ。虚の天空より襲いかかる魔王が汝らを呑んでも気づかぬ。おのれたち右を向いただけのコアが形成するコンピューター世界は死んだ機械だ。すでにひとりで脱け出ることはできなくなった世界で今さらもがいても遅い。たったひとりの脱出は、すべてを敵にまわすこと。できるのかおのれら腐った読者め。この脳なしの能なしの悩なしの、脳天下駄の、のけぞり羽織の、野ざらしパンツの、野だいこおかまの、のたくりみみずの、野垂れ死にの、呑んだくれの、のらくら化粧の、のんべんだらりの、のっぺらぼうの蚤のきんたまめ。未練残さず後悔せずに、やれるものならやってみろ。  不良世界の神話  はじめに混沌《こんとん》があった。混沌は無秩序であり、ゆえに自然であった。  太初の神イームが生まれた。ひとり神であったため、なすすべもなくやがて死んだ。ゆえに自然はそのままであった。  次いで二番目の神クーサムが生まれた。ひとり神であったため、なすすべもなくやがて死んだ。ゆえに自然はそのままであった。  次つぎと神は生まれ、次つぎと神は死んだ。ゆえに自然であった。  十六番目の神は男神ツーロキーゴであり、十七番目の神は女神ザークヤであった。同時に生まれたので、なすべきことがあった。それは性行為であった。生まれた子供はすべて滅茶苦茶な姿かたちをしていた。そして強そうであった。ツーロキーゴはその子らをおそれ、すべて地獄へと投げこんだ。地獄はこれをいやがって、自らのからだを斬りひらいた。地獄は死に、かくて地獄は存在しなくなった(註・一)。  男神と女神がいるため、何かを二分して司《つかさど》らねばならなかった。そこでツーロキーゴが昼を司る神となり、ザークヤが夜を司る神となった。だが昼と夜はまだ不分明であった。昼が夜になったり、夜が昼になったりしていた。  あるときツーロキーゴは、ブロイラー工場の娘であるフーショを見そめ、カメラマンに化けて近づき、昼夜の別なくこの娘と交《まじ》わった。ザークヤはひどく怒って昼と夜を分けてしまい、自らは冥府《めいふ》の国へ旅立った。昼夜の別が秩序の始まりであり、この世が悪しきものへと近づきはじめた最初である。  ツーロキーゴはザークヤを追って冥府の国へ行き、先まわりをしてルポ・ライターになりすまし、ザークヤと交わった。これによって汚水の神フェエドロと汚泥の神タアルが生まれた。  またフーショは汚染された大気の神スウガと放射性廃棄物の神コバルテプルトを生んだ。  ザークヤが生者の国に戻ろうとしないため、ツーロキーゴは怒って突撃レポーターに化け、ザークヤとひどい性交をした。この時に生まれたのが同性愛を司る男女二柱の神カマオとズーレ、団地の神スーラム、建売り住宅の神ウサギゴーヤである(註・二)。  ザークヤが生者の国に戻ろうとしないため、ツーロキーゴは怒って彼女を殺し、死体をばらばらにした。右手は食用鶏肉を司る神ブウロイラとなり(註・三)、左手は食用藻類を司る神クレロオラとなった。右足は貧困を司る神サラキンクとなり、左足は怒りを司る神クコ・ボイリョーナとなった。右の乳房は暴力団の神グチャミグーマとなった。また尻はツーロキーゴが食べ、その糞は人肉食の神サガワとなった。またザークヤの頭は核弾頭の神イサルミとなり、残りの胴体はその場で史上初の殺人記念碑となった。  冥府の国から戻ったツーロキーゴは、穢《けが》れを落すため神戸市|垂水《たるみ》区の福田川(註・四)でからだを洗った。髪を洗うと水銀が生まれ、手を洗うとカドミウムが生まれた。耳を洗うとシアンが生まれ、足を洗うとPCBが生まれた。鼻を洗うと鼻は落ち、それは性病の神フガフガとなった。  その時、冥府の国からザークヤの声がして、もしあなたが振り向かなければ、わたしは生者の国に戻れますと言った。ツーロキーゴは、わざと振り向いた。  こうして生み出された多くの神神のすべては愚鈍であり、生み出された多くの悪しきものを育《はぐく》み、秩序立て、そしてそれらすべてを守った。それゆえ人間は現在の如く、悪しきものばかりによって作られたその秩序を守らねばならなかった。なぜならば、たまさかの反秩序さえ、悪しきものとして秩序の中へ組み入れることができたからである。  フーショが生んだ汚染された大気の神スウガは、ある日異母妹のズーレを見そめ、梨元に化けていやがるズーレを強姦した。これによって生まれたのが精神異常の神ビョーキである。ビョーキは乱暴者であったが、巨大であったため神神の誰もが手を出せなかった。ただ災難を嘆くだけであった。  ビョーキはますます増長し、ついには母のズーレとひどい性交をした。これによって虚言、放言、雑音、騒音、排気音、爆音、愛垂幼稚園が一度に生まれてビョーキの騒ぎに加わった。その騒がしさは、近所の家の者が、自分で吹いているクラリネットの音さえ聞こえぬほどであったという。  父のスウガは、わが子のビョーキを悲しんで岩屋の中にかくれた。スウガがいなくなり、神神は喜んだ。  ある日性病の神フガフガは、スウガをさそい出そうとして、岩屋の前で面白い踊りを踊った。スウガが出てきそうになったので、暴力団の神グチャミグーマはフガフガを叩きのめした。  わが子のビョーキを悲しみ、ズーレは兄のカマオを伴って、父祖の神ツーロキーゴに会いに行き、災厄を訴えた。ツーロキーゴは大いに怒り、世の律法や慣習などの悪しきものを守るため、神神の軍勢をくり出してビョーキ退治をさせることにした。  神神の軍勢を指揮するのは税金を司る女神サシオサエであり、率いる神神は政治の神コッカイ、汚職の神ワイーロ、軍隊の神チアン、警察の神コーアンなどであった。  これを聞いたビョーキは、ツーロキーゴに対する反権力の立場を明確にして、子供たちに命じ、六価クロム、硫酸雨、放射能灰、イタイイタイ病、水俣病、四日市ぜんそく、膝関節炎などさまざまの痛い者を生み出させて軍隊を作った(註・五)。  戦闘は最初パラ野で行われ、サシオサエの軍が優勢であったが、戦いの舞台がスキゾが原に移ると両軍は戦いをやめ、兵士たちはそれぞれが敵方の兵と性交しはじめた。ビョーキもサシオサエとひどい性交をした。これによって集団虐殺の神ソンミ、麻薬の神シャブ、売春の神チョトソコノオメガネサンヨテラッシャイヨなど多くの神が生まれた。  戦いが終ったので、ツーロキーゴはビョーキを神神の国から地上へと追放することにした。ビョーキは怒って、交わっていたサシオサエのからだを八つ裂きにし、さらにばらばらに引きちぎって地上へ投げ捨てた。それらの破片は各地の税務署となり、彼女の性器の部分は国税庁となった。  追放されたビョーキは地上をさまよった。あるとき川を渡ると、足が腐って落ちた。その足は腐蝕の神ボオロボロとなった。  地上は悪いガスに満ちていたので、ビョーキは激しく嘔吐した。その吐瀉物《としやぶつ》は反吐《へど》の神ゲエロゲロとなった。  次にビョーキは激しい空腹に襲われ、餓えはじめた。そこへ土地の娘ケンスーバがあらわれ、神との交わりを求めた。ビョーキは空腹に耐えながらケンスーバと最悪の性交をした。最初の交わりで飢餓の神ペコペコが生まれ、二度目の交わりで死神のシヌシヌが生まれ、三度目の交わりでやっとオルガスムスが生まれ、四度目の交わりでコンドームの自動販売機が生まれた。  その土地にはケモーノという、何も悪いことをしない野生の動物がいた。ケンスーバの両親に頼まれたビョーキは、ケモーノを退治ることにした。ケモーノの通る道にメチル・アルコールの入った酒樽を置き、ビョーキが待ちかまえるうち、ケモーノがやってきて酒樽を見つけ、ひと息に呑みほしてしまった。眼がつぶれて苦しんでいるケモーノを、ビョーキはクサレナンギノツルギで切りきざんだ。ケモーノの破片はあまたのネズミとあまたのゴキブリになり、これよりのち世界からは、それ以外の野生の動物はいなくなった(註・六)。  ある日男色の神カマオが泉の傍らを通りかかり、自慰をしている少年セリンズに出会った。カマオはセリンズと交わろうとしたが、セリンズはいやがって逃げた。このため無駄にしたたらせたカマオの精液は大地に吸いこまれ、その地下からは汚染された大地の神ネバネバと、エイズの神エイズが生まれた。  カマオは怒ってセリンズを殺し、その陰茎をひきちぎって多くの破片にし、ばらまいた。その破片からは両性具有《ふたなり》、出歯亀、裏ヴィデオ、ポルノ雑誌の自動販売機、日活ロマン・ポルノ、ハーレクイン・ロマンス、ポルノ作家、SF作家、ジャズメン、タモリなど、その他多くの者が生まれた。  原子力の神ピカドンは地上にエネルギーを齎《もたら》すため天にのぼり、太陽を司る神オテントがオート三輪を運転して運んでいる太陽のあちこちから手あたり次第に火を奪って戻ってきた。太陽の多くの黒点がピカドンによって奪われた部分であり、この黒点もまた地上の災厄の原因となった(註・七)。  神神の国では醜い女神がもてはやされた。中でも醜の女神ブウスは最醜の女神であり、当然のことだがまだ処女であった。ある日マスコミを司る男神テレエビが地上のブロイラー工場にひとりの醜い処女がいるのを見つけ、これをもてはやした。この娘はブウスよりひどかったのでブウスはたいへん怒り、娘を股ぐらで絞め殺し、テレエビと争った。そのいさかいのためにブウスは月経となり、処女の汚い血を垂れ流した。その血は地上にしたたり、その血からはアナウンサー、記者、どっきりカメラ、インタヴューアー、文芸評論家、『フォーカス』、栗本慎一郎、『噂の真相』、朝日新聞社など、多くの者が生まれた。  ヒリダス王は汚いものが大好きであったため、糞尿の神クウソに気に入られ、なんでも望み通りにしてやるという約束を得た。ヒリダス王は自分の手に触れるものはすべて汚物に変わるよう乞い願った。願いは聞き入れられた。かくてヒリダス王も地上の災厄の原因となった(註・八)。  ヒリダス王が木に触れると、その木は立ち腐れた。草花に触れると枯れた。世界に藻類以外の植物が存在しなくなったのはこの時からである。  ヒリダス王が食べものに触れると糞となり、飲みものに触れると小便になった。金貨に触れるとにせ札となり、小切手に触れると不渡りになった。宮殿に入ると2LDKとなり、庭園に出ると夢の島になった。女に触れると大屋政子になり、男に触れると吉本隆明になった。筒井康隆の本を読もうとすると田中康夫の本になり、何もしないでいるとスキャンダルになった。糞尿に触れると、それ以上汚いものはあまり思いつかないので量が百倍になった(註・九)。 (註・一)つまり古代人は、地獄が存在せぬ故にこそ、この世が地獄になったのだという、神に対する責任転嫁を神話によって行ったのである。 (註・二)団地、建売り住宅は古代人の住居。現代の住居よりだいぶ広かった。 (註・三)食用鶏肉を司る神があらわれる以前にブロイラー工場があったというのはあきらかに不合理であるが、神話にはありがちなことである。 (註・四)神話の固有名詞には考察不能のものが多い。以後はいちいち考察には及ばない。 (註・五)現代におけるさまざまな悪性公害病はこの時期、まだ発生していないらしくて、比較的軽い病名しか書かれていない。 (註・六)これも神に対する責任転嫁である。 (註・七)同右。 (註・八)同右。 (註・九)この神話はもう少し続くが、神に対する責任転嫁の文句がつらねられているだけなので省略する。現在の学説では、各国の神話と同様、世界が破滅に向かうのを食いとめられなかった権力者たちが責任のがれに伝えた神話であろうとされているが、筆者には後世の子孫から恨まれぬよう民間の古代人たちが口承で伝えた部分がほとんどではないかと思われる。  おれは裸だ 「火事だぞう」  という声が聞こえた時おれは大野泰子と三度目の合体中であって、すでにドアの下から黒煙が室内へ平らな舌のようにうねりこんでいた。絶頂寸前で何も聞こえなかったらしい泰子の離すまいとする腕をもぎ取り、おれは立ちあがった。 「逃げるぞ。火事だ」  泰子は悲鳴をあげてとび起きた。連れこみホテルの昼火事だ。泰子にとっては焼死の恐怖よりも大勢の野次馬に顔を見られる怖さが大きいに違いない。おれは独身だが彼女は人妻なのである。  シーツの下にあるブリーフを見つけるのに手間どり、ランニング・シャツを着てズボンを穿《は》いた時には部屋いっぱいにうっすらと煙がなびきはじめていた。 「もういかん。すぐ出よう」 「待ってよう」泰子は金切り声をあげた。  くるくる丸く縮んでシーツの底にまぎれこんだ彼女のパンティはおれのブリーフ以上に見つけることが困難だったらしく、泰子はまだスリップ姿だ。「高志くん。高志くん」 「ハンドバッグはどこだ」おれはワイシャツを着ず、ソファの上の上着だけをつかんで叫んだ。「バッグだけ持って逃げるんだ。ぺらぺらの三階建てだから、火のまわりが早いぞ」 「高志くん。高志くん」  ドアを開けると廊下には黒煙が渦巻いていた。バッグを抱いてあとから出てきた泰子の頭を脇の下に掻《か》いこみ、頭を低くしておれは階段に向かった。さいわい中央階段にいちばん近い二階の部屋だったのだ。中央階段には三階の踊り場から火の粉《こ》が降りそそいでいた。火もとは三階だった。どこかであんた戻ってきてと叫ぶ女の声がした。女を抛《ほう》って逃げたやつがいるらしい。  正面玄関から路地へまろび出ると、すでに野次馬が集まりはじめていた。おれは上着を泰子の頭からかぶせ、彼女の肩を抱いてホテルから遠ざかろうとした。ホテルの従業員たちが建物を見あげて、火はあの部屋からだ、などと騒いでいたが、そんなものに加わっている余裕はない。路地のどっちへ逃げようかと左右を見たが、具合の悪いことに連れこみホテル街をはさんでどちら側も車道のある大通りだ。 「客は」 「今、ひと組出てきたぞ」 「そんなら、あとひとりだ」  昼間なので客は少なかったようだ。火の粉がばらばらと降りそそぎ、男女従業員や野次馬がわあといっせいに叫んで後退した。その時、男にとり残されていた最後の女性客が比較的まともな姿でとび出してきた。 「いかん。隣りのホテルに燃え移るぞ」 「消防車はまだか」  まごまごしてはいられない。おれたちを見て面白そうに笑っているやつがいる上、右側の大通りからは新たな野次馬が数人走ってきた。おれたちは反対側へ逃げた。 「高志くん。どこへ行くの。いやよ大通りは」 「だって、大通りへ出なきゃタクシーが拾えないじゃないか」  もちろんおれは現場から逃げるつもりだった。警察に調べられたりしては大変だ。おれとて一流会社のエリート・サラリーマンなのである。人妻との浮気がばれて、ただですむわけがないのだ。  現場から遠ざかりはしたものの、さすがに下着のままで人通りの多い歩道へ駈け出る勇気がなく、おれたちは大通りのかどにあるビルのシャッター前に身をひそめた。 「どうする気よ」冬なので寒く、泰子はおれの腕の中でふるえている。「こんなところにいても、タクシーは停まってくれないわ」 「いずれ客を降ろすタクシーがその辺で停車するさ」と、おれは言った。「そしたらここからとび出して、とび乗るんだ」  タクシーはなかなか停まらなかった。隠れているおれたちを見つけて眼を光らせ、面白がる通行人もいて、そのたびに泰子は苛立《いらだ》ってヒステリックになる。 「寒いわ。寒いわよ。足の先から冷えてきたわ。あなたなんかと浮気するんじゃなかったわ」  こういう時、人間の本性《ほんしよう》は露呈する。おれはしかたがないのでズボンを脱ぎ、彼女に穿かせた。ふたりとも裸足《はだし》である。石畳の上に立っているから足の裏から冷気が脳天まで突きあがってきて、おれは気分が悪くなってきた。悪いことは重なるもので、冷えたためか腹が鳴りはじめた。ホテルへ行く前に二人でレストランへ入ったのだが、その時に食べた蝦《えび》がいけなかったらしい。  ホテルが燃えあがった。消防車がやってきて騒ぎはますます大きくなり、そのためおれたちに注意を向ける者が少くなったのはありがたいのだが、あいかわらず停車するタクシーはなく、泰子はますます腹を立てる。 「タクシーが停まったら、わたしがそれに乗るわよ」  おれはびっくりした。「なぜだい。おれも一緒に乗せてくれよ」 「いやあよ」と泰子は叫んだ。「わたし、このまま帰ったんじゃ家の者に怪しまれるから、お友達の家に寄って服を借りようと思ってるのよ。だって、主人はまだ出張中だけど、家には主人の母や子供がいるんだもの」 「その友達の家まで、送って行ってあげるよ」 「駄目よ。下着の男にタクシーで送ってもらっているところを人に見られたりしたら大変だもの」  薄情な女もいるものだ。高校の同級生だったのだが、今になっておれは彼女から一度だけ、ひどくいじめられたことがあったのを思い出した。  また下腹部に雷鳴が轟《とどろ》きはじめ、便意がこらえ難くなってきた。おれは泰子の顔を覗《のぞ》きこんだ。 「君、腹具合は悪くないかい」 「どうしてよ」彼女は車道を睨《にら》みつけたままだ。 「蝦にあたったらしいんだがね」 「わたしは平気よ。食べたのは肉だもの」そう言ってから彼女は、ふたりで一緒に羽織っていたおれの上着をひったくり、自分ひとりで羽織ってしまった。「これ、借りるわね」  泰子は歩道ぎわへ走り去った。ちょうど停車して乗客を降ろしたばかりのタクシーが後部ドアを開けたままだった。おれは泰子の顔を見つめていたので気づかなかったのだが、泰子はとび出す機会を狙っていたらしい。あっという間に後部座席にとびこんで運転手に何か告げている。 「わっ。待ってくれ。ぼくも乗せてくれ」一瞬|茫然《ぼうぜん》としたのち、おれは大あわてで歩道に走り出た。  タクシーはドアを閉め、走り出した。 「大変だ」おれは叫びながら夢中でタクシーを追った。「財布だ。泰子。財布を返してくれ」  上着のポケットに財布が入っていて、小銭はズボンのポケット。おれの家はこの副都心から電車で一時間半の郊外にあり、とても歩いては帰れない。タクシー後部座席の泰子はこちらを振り返ろうともせず、おれは返せもどせ、泥棒などとわめきながら次第に遠ざかるタクシーをしばらく追い続けた。運悪く青信号が続いて追いつけず、連続三度の媾合《こうごう》が祟《たた》ったらしくやがて膝の力が抜けたようになっておれはつんのめり、そのまま歩道ぎわにうずくまってしまった。  とほほほほほほほほほほほほほほ。  なんとなさけないことになったものだ。寒空の下、下痢気味の身に下着だけ、無一文で街なかに抛り出されるなどという事態はまさに悪夢である。このまま恥かしさに耐えて眼醒めを待つしかないのであろうか。  なははは、と叫んでおれは立ちあがった。猛然と排泄欲が湧きあがったのである。周囲には十数人の歩行者が立ちどまり、中にはげらげら笑っているやつもある。こんなところで排便してしまったりして、もしおれを知っているやつが見ていたらえらいことになる。あきらかに会社は馘首《くび》であろう。もともと浮浪者的人体をしているならともかく、おれは色の白い二枚目であって、ひと目に立つのだ。その上そもそも浮気するつもりだったから身につけているのは洒落《しやれ》た色ものの薄いアンダー・シャツとブリーフ、さらに頭はてかてかのリーゼント・スタイルであり、ホモと間違えられるおそれもある。ひとをじろじろ見るなよう、などとつぶやきながらおれは平静を装い、近くの路地に歩み入った。  路地に入るなりおれは駈け出した。もはや便意は堪え難く、腸内の動静は一刻を争う有様となっている。人通りを避け、裏道づたいに走りながらおれはシャツの裾をブリーフの中へ突っこみ、見ようによってはジョギングをしているように見えなくもない恰好に近づけようとした。もちろんどう細工しようと、どう見てもジョギングのようには見えず、それは裏通りで出会う通行人がおれを見てひえ、などと仰天し、とび退《の》いたりすることで客観的に判断することができる。  ここからなら裏道づたいに行ける筈のあの神社の境内には公園があり、その公園の中には公衆便所があった筈だ、とおれは考えたのである。今のおれが入るにふさわしいと考えられる便所はそこ以外になかった。この恰好でビルや喫茶店の便所を借りることは不可能である。  直腸周辺の感覚たるや時には激痛にまで達し、おれは走りながらにひひひ、などと悲鳴をあげた。公園の入口が近づいてきた。公園前にいた制服の女子高生ふたりがおれのにひひひに驚いて立ちすくみ、悲鳴をあげた。  さいわい、公園は無人であった。この公園がアベックで賑《にぎ》わいはじめるのは夕刻以後である。肛門の一挙突破をたくらむ便どもをなだめ、けんめいに気をそらせながらおれは公園の奥、木立に隠れた殺風景なコンクリートの四角い便所へ駈けこんだ。しかし大便所の三つのドアはいずれも無残なありさま、丁番《ちようつがい》がはずれていたり留金具がなかったりし、最後のひとつからはドアそのものが消えていた。おれはしかたなく反対側にまわって女性用便所に入った。こっちの方にはひとつだけ留金具の存在するドアがあり、おれはほっとして中に入り、ドアを閉め、掛け金をかけた。掛け金といっても針金に近い貧弱なものであり、いつヒートンが抜けるかわからない。  ブリーフをずりおろすなり待ちに待ったる大便突撃隊はドン・コサックの大合唱をBGMに暗がりの中へ急降下した。おれは蹲《うずくま》ったままながい間眼をくらませ、じっとしていた。ひどい下痢であった。体内の水分が次第に残り少くなっていくことまで自覚できた。  パニックが鎮静しはじめる少し前あたりから、おれは新たなパニックに襲われはじめていた。  紙がない。  育ちの良さから、便所というものには必ずトイレット・ペーパーが常設されていると決めてかかっていて、だからそもそも紙のことなど考えもしなかったのだ。勿論|切羽《せつぱ》詰まってさえいなければ公園の便所に紙がないことぐらいは当然想像したであろうし、屑籠《くずかご》の中から新聞紙ぐらいは拾ってきたであろう。おれとてそれほどの世間知らずではないのだ。しかし何しろ前後をわきまえていられる状態ではなかったのである。今、周囲にはその新聞紙の断片すらなかった。  とほほほほほほほほほほほほほほ。  おれは便所の天井を見あげて不運を嘆いた。この寒空の下、シャツまでなくなってはあきらかに肺炎を起す。しかしシャツで拭うより他に方法はないし、おれは自分がそうするであろうことを知っていた。何しろ育ちが良くて潔癖だから、用便後に尻を拭かないですましていられるような人間ではないのだ。  おれはすすり泣きながらコバルト・ブルーの薄いアンダー・シャツを脱ぎ、尻を拭い、別れを告げながら後架《こうか》下へ落した。  だが、すぐに後悔した。またしても便意を催しはじめたのだ。あの腐った蝦が大腸内で祟りじゃと言いながらのたうちはじめていた。そうなってはじめておれは気がついた。じつは、下痢とはそういうものであったのだ。そもそもあのランニング・シャツをなぜ捨てたのか。たとえ尻を拭ったとしても、この便所内の手洗い場にある水道の水で洗濯すればよかったのではなかったか。多少異臭は残るであろうが、乾けばまた着られないものでもない。さらに言うなら水で直接尻を洗い、尻が乾いてからパンツを穿けば何ひとつ無駄にはならなかったのだ。おれは第二の便意に耐えながら自分の早とちりを罵《ののし》り続けた。  日常的に数千万円から数億円に及ぶ取引をし、時には海外へも飛んで流暢《りゆうちよう》に英語をあやつったりもするこのインテリにしてエリート、超二枚目のこのおれがなぜこのような形而下《けいじか》的な局面でじたばたしなければならないのか。おれはそれがなさけなかった。話が違うではないか。あきらかにミス・キャストだ。しかし、だからといって何とかしてくださいと交番へ駈けこむことは絶対にできなかった。こういう破目になった原因を訊かれるに決まっていたし、この恰好では特に原因などないと主張することは不可能である。非インテリ、非エリートの警官どもはおれの立場など理解できず、根掘り葉掘り訊ねた末、ついにはおれの寡黙をホテルの出火に結びつけて放火の汚名を着せ兼ねなかった。  便意がある限りは便所内にとどまるしかない。おれはまたパンツをずりおろした。夜になるまでここで待とうと決め、それからどうするかをさまざまに思案した。歩いて自宅へ戻ることを考えたが、それにはおよそ十時間を要し、途中の山中で疲弊して倒れる危険性があった。なんとかタクシーを停めることはできても裸である以上乗車を拒否されるであろうし、無理やり乗りこんだりすれば警察行きは知れたことだ。  夕闇が迫ってきてさらに寒くなり、体内の熱の発散を食いとめる何ものも持たないおれは歯をがちがちと鳴らし続けた。さっき走ったためにいささか汗ばんでいたことも悪条件のひとつだ。  便意がおさまったと判断しておれはおそるおそるドアを開け、便所内をうかがい、手洗い場へ行ってまる裸となり、尻を拭った。手洗い場の窓からは黄昏《たそがれ》のうす闇と静かな公園のたたずまいが眺められた。ふだんなら心安まるその風景も、公園内が必ずしも無人ではないことを知ったおれにとっては甚だおだやかならざるものがあった。もはやアベックが三三五五、園内のあちこちを散策しはじめているではないか。日がとっぷりと暮れてのち彼らが何をするか、おれは知っていた。全部が全部するわけではあるまいが、だいたいにおいて不埒《ふらち》をするのだ。気の早いやつなどはすでにどこかでおっ始めていよう。すると必ずやその中にはあと始末を便所でしようとする者がいる。女便所にひそむ裸のおれを発見した時その女はどう思うか。痴漢と思うのである。おれはあわててもとの場所へ逃げこみ、ドアを閉めて掛け金をおろした。出て行く時間を少し早めねばなるまいが、まだ明る過ぎる。早く日が暮れてくれ、それまでは誰も入ってこないでくれとおれは死にものぐるいで念じ続けた。 「オサム。ちょっとそこで待っててね」若い女の声がし、ハイヒールの靴音が便所内に谺《こだま》した。  南無三女が来た。アベックの片割れは便所の前で待っている。最悪の状況だ。おれはあわててドアの把手《とつて》を内側から握りしめた。 「汚いわねえ」  ほかを覗きこんでいるらしい。ここへ来るぞ。その時、自分がパンツを穿いていないことに気づいた。まだ尻が濡れていたからだ。これでは万が一逃げる時に具合が悪い。把手から手をはなし、いそいでパンツを穿こうとした時、女が把手をつかんで力まかせに引いた。  貧弱な掛け金がはじけとんだ。  便器にまたがって立つ全裸のおれを見てその若い女はヨーデルを三小節半歌いあげた。パンツをあげ、おれはとび出して女をつきとばした。 「どうした。エミ」男が駈けつけてきた。  自分の方へ突進してくる裸のおれにたじろぎ、入口近くまでやってきた若い男はひえ、と悲鳴をあげておれから身を避けた。おれは公衆便所から駈け出てそのまま公園の入口へと突走った。背後でまた女が悲鳴をあげ、たじろいだ自分に腹を立てたらしい男が、痴漢だぞうと叫んであとを追ってきた。 「こら待て。そいつは痴漢だ。誰かつかまえてくれ」  待ってたまるものか。つかまってはまずいのだ。行く手にはアベックがひと組立ちすくんでいる。おれはうしろの男の声が彼らに聞こえぬよう、自分も大声で、すみません、そこどいてください、テレビの撮影です、映画です映画ですなどと出まかせを叫びながら彼らの前を駈け抜けた。  公園を出ると、さすがにあの若い男も追いかけてはこない気配であった。便所内でおれがつきとばした女はおそらくあの場へひっくり返ったであろうから、男としては抛っておくわけにもいくまい。様子を見に引き返したのだろう。だがおれはいささかも安堵《あんど》する気にはなれなかった。誰《た》そ彼《がれ》どきとはいえまだ充分、裸の人間の独走は遠くからでも肉眼でわかる明るさであり、ぼつぼつ街灯も点《つ》きはじめている。ひと気のないビルの裏通りを新たな隠れ場所求めておれは小走りに駈け続けた。前方にひと影を見るたび建物の蔭へ身をひそめるため、その迅速にして過激な運動とうろたえやまごつきや心臓のときめきでおれはまた汗ばんできた。  このあたりとしては比較的大きなビルの横に出たので、このビルの裏にまわれば隠れるところがあろうと思い、次の通りを左に折れたおれは、違法駐車の車を覗きこんでいるふたりの婦人警官の姿を彼方《かなた》に見てたたらを踏んだ。  おっとっとっとっとっと。  大あわてでもとの通りへとびこむ際、ちらと横眼で婦人警官のひとりがこっちを指しているのを認めたように感じ、おれは思わず数滴小便を洩らしてその場におどりあがった。えらいことだ。追ってくるぞ。  たしかにこの附近には風変わりなやつが多く、昔ヒッピーの名所といわれていたこともあるくらいだから、たいていの風態は見逃がしてもらえる。しかしさすがに冬のさなか、裸で走りまわっているやつだけはいない。まともな人間が見れば発狂者と思うわけであり、警官につかまってろくな返事ができない場合は当然精神病院行きだ。おれは咄差《とつさ》に横っちょの大きなビルの壁面、ぽっかり黒く開いている駐車場への入口に駈けこんで曲りくねったスロープを夢中で駈けおりた。車が入ってくればわかるようになっているらしく、さいわい警備員詰所は無人である。  長いスロープだったからおそらくは地下二階であろう。駐車場は車で八分がた埋まっていた。しかしこれがどのようなビルなのかを暗示する車は一台もない。いちばん奥には三基のエレベーターがあった。B2のランプ表示で一基のドアが開き、中年のカメラマンらしい男がおりてきた。おれは壁ぎわのライトバンのうしろに身をひそめた。男が乗った乗用車はスロープをのぼって行った。  地下なので冷気が屋外ほどではなく、建物内の暖房も多少は洩れてくるようではあったが、そのかわり汗が乾きはじめ、おれはたちまち気分が悪くなってきた。これはいかん。こんなところにいては本格的に肺炎となる。周囲を見まわしたが身に纏《まと》えそうなものは何もなく、隅にガソリンの浸みこんだ襤褸布《ぼろきれ》が一枚落ちているだけだ。腹にはまたしても雷鳴。おれは熱っぽくなっている自分に気づいた。風邪をひいたことは確かである。くしゃみが出そうになった時、スロープをおりてくる誰かの靴音がうつろに響いた。  警備員に決まっているのだ。くしゃみが出ぬうち逃げ出さねばならない。おれはまだドアが開いたままになっているエレベーターにとびこみ、闇くもに上階のボタンを押した。ドアがまだ閉まりきらぬうちからたて続けにくしゃみが四回出た。エレベーターは上昇しはじめた。  えらいことだぞ。もしこれがファッション・ビルか何かであれば各階ともエレベーター前に売り場が並び、人間でごった返しているだろう。また、もしホテルであったりすればエレベーターは自動的にロビー階に停まり、ドアが開く。多数の人間の中へ裸でおどり出ることだけは避けねばならぬ。おれはけんめいに上階のボタンを押し続けた。さいわいにも、エレベーターはロビーを通過した。おれが押し続けていたのは最上階の五階のボタンだった。エレベーターは五階に停止し、ドアが開いた。  そこはパーティ会場だった。  レストランを借り切ってやっているらしく、入口前に花束が飾られ、受付があり、その前に来会者が六、七人群らがっている。おれは間髪を入れず、すでに位置を見定めておいた「閉」のボタンを押しながら片隅に身を寄せた。閉まり切る直前、こちら向きに立っていた受付の若い女がおれを発見して眼を剥《む》き、息をのんだ。 「ちょっとお。今の人」  心臓が早鐘のように鳴り、膝ががくがくした。またもや小便を少し洩らしたらしい。さて何階へおりたものか。五階の様子やエレベーター内の掲示から、おれはこのビルが宿泊施設のある会館、もしくはビジネス・ホテルと判断した。そこが客室の並んだ無人の廊下であることを祈りながらおれは二階のボタンを押した。今度もさいわいなことに、途中でエレベーターが停められることはなかった。  二階に着き、ドアが開き、おれはおそるおそる静まり返った小さなエレベーター・ホールへ出た。正面に鏡があり、そこに映ったおのれの姿に驚いておれはのけぞった。そもそも下半身が濡れていたことも手伝い、二度にわたる数滴ずつの失禁によって薄いブリーフは透明となり、その部分は今や何も穿いていないも同然だったのだ。もう絶対にひとと会うことはできぬ。  思った通り廊下は無人であり、両側には客室らしい部屋が並んでいた。便所をさがしたが、当然のことながら客室階に便所はない。そのかわり非常口と表示されたガラス行灯《あんどん》があり、おれはためらいなくその緑色の明りめざして廊下を突っ走った。場所から判断してビルの外壁にとりつけられた非常階段などではあるまい。従業員用の階段だ。  前方右側のドアが突然開いて宿泊客らしい肥《ふと》った中年男が出てきた。退屈しているらしい、世馴れた様子のその中年男はおれを見てすぐさま好奇の笑みを浮かべた。 「おっ。何やっとるんだ。君」  おれは彼の前を駈け抜けながらウインクして見せた。「乱交パーティ。乱交パーティ」  中年男は一瞬、心底|羨《うら》やましそうな表情をした。おれの背中に向かってどこの部屋で、などと訊ねたが、おれは構わず非常口と書かれた従業員用階段室の鉄扉を開き、中へとびこんだ。  コンクリート打ちっぱなしの階段をおれは一階へおりることにした。一階または地下一階に外部への職員通用口がある筈だったからである。ホテルの中に長く留まることはホテル泥棒、痴漢、ホモ、精神異常者その他どうにでも誤解され得るため、あきらかに危険だった。  踊り場では掃除のおばさんに出会った。一階からポリバケツを持ってあがってきた初老の女は職業柄さすがに裸の男など見馴れていてあまり驚かず、おれを白い眼で見あげ、とげとげしく言った。 「お客さん。そんな恰好で部屋から出ちゃ困りますねえ」 「違うのよ。違うの。仮装パーティ。仮装パーティ」にこにこ笑い、出まかせの胡麻化《ごまか》しを口走りながらおれは彼女の横を駈けおりた。  一階には、思った通り外部への通用口があった。地下一階から男性従業員数人が何か話しながらあがってくる気配に、おれはドアを開いてあたふたと道路へとび出した。そこはさっき婦人警官がいた裏通りであり、乗用車もそのままだった。人通りが少いように思えたのでその附近に隠れ場所はないかときょときょと見まわすうち、彼方の四つ辻にあの婦警ふたり組がふたたびあらわれた。まったく女というのはしつっこいものであって、ずっとおれをさがしまわっていたらしい。片方がこっちを指さしたのでおれは宙に足を浮かして逃げた。表通りへ出ることになるが、しかたがなかった。その時、婦人警官たちの執念深さを、いやというほどおれは思い知らされた。彼女たちはおれの背中へさして鋭く呼子《よぶこ》を吹き鳴らしやがったのだ。  大通りを歩いていた連中がおれを見てたじろいだ。おれを捕えようなどとする余裕をあたえぬよう、おれはやけくそでわめきながら彼らめざして突進した。 「ストリーキングだ。ストリーキングだ」  車道を突っ切るしかなかった。車にはねられたらそれまでだったが、おれは度胸を据えてガードレールを躍《おど》り越え、そのまま車道に走り出た。婦人警官どもの追跡を振り切るにはそれ以外に方法がなかったのだ。たちまちクラクションとブレーキの音があたりに満ちた。おれを見て歩道の女たちが歓声や悲鳴をあげた。急停車する車の間をすり抜けたり時にはボンネットやトランクの上にとびあがってはとびおりたりしながら、おれは六車線あるその広い車道を横切って対岸に近づいた。行く手の歩道では大勢の通行人が立ちどまってこっちを見ているし、うしろでは婦警が呼子を吹き続け、そのひとをつかまえてくださいなどと金切り声をあげている。万が一歩行者の中からおれを捕えようなどとする者が出ては大変である。ここは群衆を味方にするほかあるまいと思い、おれはにこにこ笑って両手を上げたままガードレールをとび越え、拍手に応えるかのように両手を握りあわせて高だかとさしあげ、周囲に愛想を振りまいた。さすがは都会の連中、やったあ、などと言う者もいて拍手が沸いた。野暮と言われるのをおそれてか、おれを捕えようとするやつはひとりもいない。  だが、その場に愚図愚図してはいられなかった。尻から大腿部の裏にかけ、熱いものが流れ落ちているのをおれは感じていたからだ。緊張と恐怖、不安と興奮、そして過激な運動のさなか、下痢したままのおれはどうやらまたしても大量にぶっこいてしまったらしいのである。勘づかれないうちにと、大あわてで近くの路地へ逃げこむおれの背後で、若い女がひとりだけ大声で「くさあい」と叫んだ。  もう、誰も追ってはこなかった。副都心の路地裏だからどこへ行こうと通行人はいるが、完全に日は暮れているから、街灯のないところでは裸で走っていてもすれ違わぬ限り気がつかない。そのかわり、大通りの賑わいに替わってそろそろ路地裏の飲食店街が賑わいはじめている。そんな通りへとび出したりしたらまたひと騒動となる。多少なりとも土地|鑑《かん》のあることがさいわいしてそういう区画だけは避けることができる。おれはデパートの倉庫の前の暗い通りに出た。  倉庫のシャッターはおりていて、その前には大きな段ボールの空箱、包装紙、新聞紙などが集められ、放置されていた。今のおれには絶好のかくれ場所である。おれは周囲に歩行者がいなくなった時を見はからい、テレビ又は小型冷蔵庫用であったろうと思えるいちばん大きな段ボール箱にもぐりこんだ。周囲の新聞紙を集めて身を覆い、段ボールの中に横たわってはじめて、おれはやっとのこと気分の安らぎを覚えた。  新聞紙はたいへん暖かだった。浮浪者たちが新聞紙をかぶって寝ている理由を、おれはやっと知ることができた。からだが暖まるにつれて段ボール内に臭気がこもりはじめたが、数時間ぶりのこの平安は何ものにも替え難いほどに思えるのだ。  人通りの絶えた頃を見はからい、オフィス街にある会社のビルへ行こう、と、おれは考えた。直線コースをとれば走って一時間くらいのものだ。ビルの守衛室へ行き、おれとは顔見知りのあの守衛に頼みこんで着るものを都合してもらい、明日はそのまま勤務すればよい。金は経理で前借りしよう。会社出入りの洋服屋に電話で頼めばおれに合った既製服を持ってきてくれるであろうから、外まわりだってできるだろう。守衛には口どめ料をやらなければな。  人声がした。通行中の男と女の声だ。 「裸の男がこの辺りを走りまわってるんだって」 「酔っぱらいの、露出狂だろう」 「ホモなんだって。どこかの病院から脱走してきたエイズの患者じゃないかって言ってる人がいたわ」 「物騒だね」  えらいことだ。エイズだなどというデマが拡がったら大捕り物になってしまう。これ以上見せものになりたくはなかった。深夜までここから出るまい。おれはそう決心した。  何時間そこにいただろうか。大通りに面した店はたいてい閉店している時間であろう。空腹ではあったが、気分が悪いので食欲はなかった。夜がふけると共に冷気が増し、それとは逆にからだ全体が熱で火照《ほて》ってきた。段ボールの中でも新たに便を洩らしたようで、もう臭気は耐え難いものになっていた。人通りはなくなっている様子であった。ただ、一度だけ数人の女が通り、そのひとりがこの辺くさいわねと言ったので、おれは臭気が通りにまで流れ出ていることを知った。なんとかしないと臭気をあやしまれ、警官がやってきて発見されないものでもない。  どこかこの辺にブリーフ及び下半身を洗う場所はあるまいか。公園は危険だった。あのアベックがおれのことを痴漢として警官に言いつけているかもしれなかったからだ。駅前には大きな噴水があるが、昼だろうと夜だろうと常に人がたくさんいて、あんなところへ裸になって入り、うんこまみれのパンツの洗濯を始めようものなら大騒ぎになる。  そうだ。この近くの裏通りに大きな蕎麦《そば》屋があった。あの店の前には水車がまわっていたではないか。あそこで洗えばよい。おれはダンボール箱から這い出した。  物蔭づたいに蕎麦屋のかどまで来て様子をうかがうと、もうそろそろ閉店らしく大|暖簾《のれん》は店内にしまいこまれ、最後の客が出ようとしていた。  店内の電気が消えはじめた。通りに人がいなくなったのでおれは水車に近づき、すばやくブリーフを脱いで水車の下の水槽に浸し、じゃぶじゃぶ洗いはじめた。われながら汚いなあとは思ったものの、別段この水で蕎麦を茹《ゆ》でるわけではあるまい。  店内で人声がした。店員たちがあと片附けをやっているらしい。びくっとして入口を振り返った時、手もとが留守になった。ブリーフが水車に引っかかり、上へあがって行った。暗くてよくわからず、まごまごしているうちにブリーフは手の届かぬ高みへ逃亡した。しまった。おれはいそいで反対側にまわり、ブリーフがおりてくるのを待ちかまえた。  その時、落水がとまり、水車は停止した。  店内で水道の栓《せん》を閉めたのだろう。おれのブリーフは水車の頂き近くまであがったままだ。おれはびっくりした。手で水車をまわそうとしたが、水受板にまだ溜まっていた水の重みで少しは動いたものの、それ以上はいくら力を入れてもまわらず、ブリーフはより頂き近くまであがってしまった様子である。何しろ直径が五メートルもある名物の大水車であって、きっと百キロ以上の水量でしか動かないのだろう。こっちは身体的に虚弱である上、半病人であり、腹が減っていて力が出ないのだ。  登るしかなかった。おれは数歩後退して助走し、頭の高さより上にある水受板にとびつき、これを次つぎと手がかり、足がかりにしながら数段よじ登った。  水受板の一枚一枚はさほど丈夫なものではなかった。足がかりにした一枚がばりっと壊れるとその下の一枚も壊れ、次いで手がかりにしていた一枚も壊れた。おれは水槽の中へ転落した。  店内に明りが点いた。 「なんだ今の音は」  店員が出てくるらしい。入口の戸ががちゃ、と鳴った。おれはまる裸のまま、あとも見ずに逃げた。  とほほほほほほほほほほほほほほ。  ついに振りちんとなったおれは、もはや絶対に他人の眼に触れてはならぬ存在と化したのである。猥褻物《わいせつぶつ》陳列罪であり、見つかれば軽犯罪となる。しかもびしょ濡れだ。なんとかしなければ凍えて死んでしまう。おれは焦りに焦った。何かからだを拭き、局所を隠すだけの布地がありさえすればよいのだが。  飲食店ばかりが雑居しているビルがあり、ガラス行灯によれば地階と一階の数軒のバーのみが開店していた。酔っぱらいの騒ぐ声やカラオケをバックにしたへたくそな歌声だけは賑やかに聞こえてくるが、入口附近は無人である。便所があるだろう。おれは一階に駈けこみ、細ながい通路を突っ走っていちばん奥のひと隅に便所を発見し、大便所へとびこんだ。汚いが公園の便所よりはましであり、トイレット・ペーパーも補充用のロールを含めてちゃんと備えられている。大量のトイレット・ペーパーでからだを拭い、用を足したのち、おれはトイレット・ペーパーをからだに巻きつけはじめた。ほどけるといけないので何カ所かで結び、補充用のロール二ケもすべて使用して顔や手足までぐるぐる巻きに巻いてしまった。途中二、三人の客がやってきてノックしたが、内側からのノックで追い返した。  どのような姿になったかは自分でわかっていた。怪人ミイラ男である。警官に見つかれば怪しまれて誰何《すいか》されることは確実であったが、少くとも軽犯罪法に触れることはあるまいし、まず何よりも暖かい。もはや人通りも少くなっているであろうからと思い、会社があるオフィス街のビルまでいっ気に疾走するつもりでおれは便所をとび出した。  ほろ酔い機嫌でバーの一軒から出てきた若い女が、便所への通路でおれと向かいあった。壁には青いランプのカンテラが吊るしてあり、若い女は青い光に包まれて立ちはだかったおれの姿で完全に血を凍らせ、こっちが怖くなるほどの顔をして見せたかと思うと、ひと声恐怖のアリアを歌って卒倒した。額《ひたい》をコンクリートの床にごち、とぶち当てて倒れた。彼女のからだをまたぎ越し、脳挫傷を負わせたのではないかと心配しながらおれは通りへとび出した。  ひとのことを心配していられる身ではなかった。裏通りを駈けはじめてすぐ、雨が降りはじめたのだ。もちろんのことトイレット・ペーパーというものは水に溶けるようにできているのであり、ほどなく何重にも巻いた表面が白いヘドロのようにどろどろと流れはじめた。  飲食店のない暗い通りを選んで駈けてはいたものの、やはりたまには人と会ってしまう。残業でもしていたらしい若い男がビルの裏口から傘をさして通りへ出てきた時はもう少しで衝突するところだった。気の弱そうなその男はおれをしばらく恨めしげに睨んでから、ものも言わずに水溜りの中へぶっ倒れた。それによっておれは、自分の姿がどのようなものに見えているかを想像することができた。本当はその若い男の衣服や傘を借りたかったのだが、ビルの中からは続いて同僚数人が出てくる気配であり、おれはただちに消えねばならなかった。  氷雨のような冷たい雨の中を走り続けるうち、おれの眼はかすんできた。頭痛がはじまり、自分でもわかるほど吐く息が熱かった。あきらかに病気だ、と、おれは思った。もはや肺炎は疑いのないところだろう。それでも走り続けねばならなかった。体力は限界に近づいていた。やがて、雨には本当に氷がまじりはじめた。トイレット・ペーパーはその断片があちこちでからだにへばりついているのみとなり、冷たいみぞれは直接おれのからだにあたった。おれは何度もよろめいた。オフィス街のビルの群れが黒いシルエットとなって彼方にあった。  会社のビルまでたどりついた時、みぞれは雪にかわっていた。数回|顛倒《てんとう》したおれは全身泥にまみれていた。からだ全体に顫《ふる》えがきていた。夜間通用口のボタンを押したが、インターホンにはなんの応答もなかった。おれは何度も押し続けた。  深夜の一時頃と思えるのに、あの警備員はもう寝てしまっているのだろうか。昨日は休日だった。休日の夜は早く寝るのだろうか。酒呑みだという話も聞いている。休日だから深夜帰社する者はない筈と断じて、酒を呑み、寝てしまったのか。  正面入口のシャッター前へ行けば、少しは雪をしのぐことができた。おれは冷たい人造大理石の上へ倒れ伏した。もう、動くことはできなかった。体力のすべてを消耗していた。そうか。さっきはビル内を定時巡回中だったのかもしれないぞ。だとすればもう警備員詰所に戻っている筈だ。しかし、もはや立ちあがることさえできないのだ。雪が、おれの周囲につもりはじめた。眠気がさしてきて、おれはうとうとしはじめた。なんとなく、雪をあたたかいものに感じはじめていた。  どうやらおれは、ここでこのまま死ぬらしい。なんの報いかはよくわからないが、何かの報いではあるのだろう。しかし、明日になったら皆、驚くだろうなあ。出勤してきた連中は、社内で最も将来を嘱望されていた若手ナンバー・ワンのこのおれが玄関前で死んでいるのを発見する。しかも生まれたままの姿、すっぽんぽんのまる裸だ。大騒ぎになるなあ。どう思うだろうなあ。面白いなあ。見られないのが残念だなあ。ひ。ひひひ。ひひひひひひひひ。  諸 家 寸 話   理論的誤り 生島治郎「(おれの原稿を読んで)おい。この、トータル・ネックのセーターっていうの、タートル・ネックの間違いだろ」 おれ「首を完全に包んでしまうからトータル・ネックだと思ったんだけど」 生島治郎「お前さんは理論的に間違うんだね」   第三の人類 おれ「役者というのはどうしてあんなに扱いにくいんでしょうね」 井上ひさし「当然です。人間には三種類あります。男性と、女性と、役者です」   楽器に非《あら》ず おれ「ぼくはクラリネットの音色が好きで、サックスはあの音があまり好きじゃないんです」 武満徹「それは結構。サックスなんてものは風鈴と同じで、軒にぶら下げておけば勝手に鳴っていますからね」   正反対 おれ「(最終戦争の話をしていて)でも、あの人と一緒に死ぬのならまあいいや、ということがあるでしょう」 大江健三郎「あいつと一緒に死ぬのは絶対にいやだ、ということがあります」   臆病同士 川上宗薫「あんた、喧嘩は強いかい」 おれ「逃げ足は早いけど」 川上宗薫「じゃあ駄目だな」 おれ「どうして」 川上宗薫「強い人と一緒だと、いざという時|護《まも》ってもらえるからね」   SF嫌い おれ「月へ行くと、高いところから人工の翼をつけてとびおりる、という遊びができます」 岡本太郎「そんなもの、地球でだってできるじゃないか」   売れっ子 野坂昭如「あんた、短篇をひとつ書きあげたら、ほっとするかい」 おれ「一応はほっとするけど」 野坂昭如「あ、そう。おれはちっともほっとしないんだけどね」   開きなおり おれ「(初めて来たバーで、ママに)こちらが五木さんです」 ママ「(知らない)五木さん、っておっしゃるの」 五木寛之「五木ひろしです」   己惚《うぬぼ》れ おれ「(自宅で)向かいの児童館によく奥さん連中が集ってるんですよ。だから家の中でも裸で歩けない」 田辺聖子「そんなもん、誰も見《め》えへん、見《め》えへん」   剣聖 おれ「この店へは以前、やくざが来たんですよ」 草柳大蔵「おれは剣道五段だから平気だ」 おれ「でも、武器を持ってないじゃないの」 草柳大蔵「剣道に武器はいらない」   人間観察 おれ「(吉行淳之介がズボンの膝の破れめに万年筆をさしてぶらぶらさせているので)吉行さん。それ、何してるんですか」 吉行淳之介「見た女性がなんて言うか、試してるんだ」   駄洒落《だじやれ》の極 半村良「混血児リーダって映画見たか」 おれ「そんな映画、やってないだろ」 半村良「あいのこリーダ(愛のコリーダ)」   一瞬どきり おれ「半村さんは、本名、何て言ったっけ」 半村良「実はおれ、范孫良っていう中国人なんだ」   教養の水準 中井英夫「筒井さんは、リラダンなんか好きでしょう」 おれ「リラダンは、読んだことないんです」 中井英夫「(仰天して)えっ。リラダン読んでないの。(間)まあ、小説家に教養は不必要だけど」   貫禄 おれ「(星新一が原稿料の話ばかりするので)大作家ともあろうものが、あまり金の話をしてはいけません」 星新一「大作家《ヽヽヽ》だからこそ、平気で金の話ができるんです」   女は口説くもの 小松左京「あんたはもっと女を口説け」 おれ「どうして」 小松左京「何もせんと、綺麗にもてとるやろ。あれがいかん」   確信 おれ「あれは誰でしたっけね」 小林信彦「いや。知りません」 おれ「でも、どこかで見たひとなんだけどなあ」 小林信彦「知りません。だから、無名の人です」   逆流 山崎正和「(屋台のラーメンを食べながら)ひとつの鉢のラーメンを、ふたりで食うものではないね」 おれ「(同じくラーメンを食べながら)どうしてですか」 山崎正和「相手の口もとを見ると、ラーメンが逆流していることがある」   パロディ タモリ「(タクシーの中で突然)運転手には客。運転手には客。踏み倒して客の勝」 山下洋輔「と、思ったら、客を轢《ひ》き殺して運転手の勝」 おれ「客、生き返り、タイヤを四つともはずし、窓ガラスを全部叩き割って客の勝」 タモリ「そこへ警官がやってきて、警官の勝」 運転手「……。(笑いころげ、運転不可能となる)」  筒井康隆のつくり方 文学史家「以前から思っていたわけだが、小説家にはもっといろいろなやつがいてもよい」 歴史家「そうですね。むしろ、いるべきです」 文学史家「特にこの、日本のこの辺の時代には、変ったやつが少なすぎると思う」 歴史家「ええ。馬鹿なことばかり書いて評判になる、狂気に紙一重というのが、もう少しいてもいいでしょう」 文学史家「ええと、この時代の、この辺で、ひとりどうかね」 歴史家「いいと思いますよ。この辺がいいでしょう。少年期と思春期の間に戦争をはさんだ方がいい」 精神病理学者「本当の狂気ではいかんわけでしょう」 心理学者「島田清次郎で失敗しているからね。極端な貧困家庭とか、農村出身とかは避けた方がいいよ」 統計学者「ただし貧困とか空腹とかを体験させることはあきらかにプラスになります」 歴史家「うん。それはまあ、戦争がありますからね」 論理学者「いくら変な作家といっても、作家としての基礎教養は必要でしょう。するとやはり芸術家の家庭に」 伝記作家「いかんいかん。それだと変に偉くなり過ぎるおそれがある。学者の家庭ぐらいがいいんじゃないか」 精神病理学者「なるほど。学者的な、のめりこみ型の狂気にするわけですか」 心理学者「だから、別段本当の狂気でなくていいんだよ。単なるのめり込みでいい。もちろんそのためには文学的な感受性が鋭敏でなきゃいかんが」 歴史家「ただの好事家《こうずか》とか、ディレッタントにはならんでしょうなあ」 遺伝学者「母親が発揚型であればいいんだよ。自己顕示欲のある」 伝記作家「で、父親はむしろ融通のきかぬ性格であった方がいい。反抗的な性格にならなきゃならんわけだから」 文学史家「芝居とか映画とか音楽とか、まあ軽佻浮薄な都会に育った方がいいわけだが、しかし東京はいかんよ。東京だとかえって何かの通《つう》になってしまって、さばけてしまうおそれがある。それこそディレッタントにもなりかねない」 歴史家「といっても、あまり地方の都市だといかんでしょう。モダニズムの洗礼、ということでは神戸ですか」 伝記作家「ええと、神戸は案外、文学的に不毛なのですが」 統計学者「大阪がいいのでは。変な作家がよく出る環境といえます。同時代にも二、三人出るようですし」 歴史家「大阪といえば町人学者ですが、やはり父親は官学出の学者の方がいいんでしょうね。変にさばけているよりは」 論理学者「待ってくださいよ。基礎教養としての文学関係の蔵書をたくさん持っている官学出の学者というと、やはり文学関係の学者になってしまいますよ」 文学史家「そんなにたくさん持っている必要はないんだ。いわば大正教養人として持っている程度でいいんだ。それから、文学関係の学者の息子であっては、やはり困るね。畑違いの方がいい。物理学者とか」 統計学者「大阪には非常に少いなあ。京都にはたくさんいますが」 歴史家「いや。京都は困る。京都は駄目だ。それこそ美学者か歴史家になってしまいますよ」 精神病理学者「物理学者は極端すぎます」 伝記作家「ええ。もう少し人間に関係のある、経済学者とか、生物学者とか、まあ、心理学者でもいいんですが」 心理学者「父親か母親のどちらかが冷笑的な性格である必要はあるよ。それに、ある時期甘やかされ、ある時期見はなされる必要もあるから、最初は祖母か誰かが生きていて、甘やかさなきゃならん」 精神病理学者「それで突然、抛《ほ》っぽらかされると。あっ、そうだ。それなら長男にすればいいんです。そのあと次つぎと弟か妹がたくさん生まれて、で、母親が投げやりになると」 生理学者「多血質でなきゃいかんな。躁鬱《そううつ》気質だろうね。分裂気質にすると犯罪者になっちまう」 精神病理学者「あっ、そうか。詐欺師《さぎし》的な演技力も必要ですからね」 遺伝学者「うん。だから知能は優秀でなきゃならんよ。そして道徳性は低いと」 生理学者「おいおい。学者の家系だろ」 遺伝学者「うん。だから母親の方が少し非道徳性を持っている程度でいいんだよ。それから、美男である必要も」 伝記作家「待ってくださいよ。そしたらこいつ、役者になってしまいませんか」 文学史家「なに。役者になってもいいんだよ。結局は小説を書き出すだろう。逆になるかもしれんが」 統計学者「ええと、この時期、大阪から役者として出ることは難儀のようです」 生理学者「血液型はB型と。こんなところでいいか。絵や音楽の才能はあった方がいいかね」 心理学者「少しずつあった方がいいだろう。ただし絶対音感など持たせちゃいかんよ。軽薄だから得意になって音楽家になってしまうからね」 伝記作家「何か特殊な体験がほしいですなあ思春期に。これだと幸福すぎるんですよ」 歴史家「それはだから、ちょうどその辺で戦争があるわけですから、ひとりで縁故疎開に行かせればどうです。で、田舎で、孤独で、百姓の子にいじめられてと」 統計学者「商家の出ですが、大阪に動物学者がいます。文学とは無縁の男ですが基礎的な文学関係の蔵書が少しあります。母親と住んでいて、大阪市の動物園に勤務しています。血液型はA型」 遺伝学者「A型は困るよ君」 統計学者「いやいや。うまい具合に妻がB型です」 遺伝学者「ふうん。A型寄りのB型か」 統計学者「この妻というのは、親戚に満洲へ行って馬賊になった者もいますし、陽気でいささか詐話《さわ》的で、よく喋《しやべ》ります。口の軽さで誤解を招いたりもしています。その他、夫婦とも必要条件を満たす性格をそなえています」 伝記作家「これでもし、比較的まともな性格に育ってしまいそうでしたら、ひねくれさせる体験はあとからいくらでもあたえることができますから」 文学史家「その家庭に出生させよう」  空しやな虚名への一里塚。  彼女が彼と生まれてはじめて会ったのはもちろん見合いの席上。大阪市北区にあるレストラン「サフィア」の片隅であった。彼女はあまり気分がよくなくて、そもそも見合いそのものに気がすすまなかったせいもあって、笑顔を作ることができなかった。初めての見合いだった。無愛想な女の子だなあと彼に思われているであろうことはよく承知していながら自分でもそれと自覚できる仏頂面をどうしても崩せなかったという。彼も彼女も母親同伴であったが、彼の母親の、気さくではあるがどうやら底なしの軽薄さから発していると思えるお喋りが気に入らなかったし、一度彼が、これ見よがしに銀のダンヒルのライターをテーブルの上にぽんと置いたりしたことも気に食わなかった。彼の方ではその日、二人きりになってから彼女をつれて飲みに入ったグランド・サントリー略称「グラサン」という洋酒喫茶で、「しっかりしている」と、彼女を褒《ほ》めている。仏頂面がプラスに作用したのであったろう。彼の服装は、体裁を整えてはいるものの彼女の眼からはみすぼらしく見えたし、饐《す》えたような彼の体臭も彼女には気になった。匂いに関して彼女はのち、そのころの彼の体臭を「お寿司の匂いがしました」と、やんわり表現している。  彼は小説家になるつもりでいた。すでにいくつか短篇を発表してもいた。才能はありそうに思えたが、彼女には、彼がその才能を思う存分発揮できないでいるのは理解者がいない故のいじけと臆病さであろうと感じられた。彼女は小説など読まなかったし、彼の小説も読んでいなかったから、彼女がそう思ったのはなかばは勘であったろうが、おそらくはそれに加え母親ゆずりの、他人を見る眼の確かさによるものでもあったろう。彼女の父親は牧場を経営し、神戸市垂水区一円に牛乳を配達していた。彼女の父親はこの結婚に反対した。 時 一九六五年(昭和四十年)二月。 場所 松野家の十畳の居間。中央に大きな座机。片隅に電話を置いた袋棚。 人物 父。母。長女。次女。長男。 父(興信所からの報告を机に置いている)お父さんというのが、一応学者かもしらんが、職業は、これ、大阪市の吏員や。お役人や。恩給はつくやろけど、財産なんてもんはあらへん。 長女 それでもええのよ。あのひと、そんなもん当てにしてはらへん。 父 いいや。やっぱりお前の相手にはまず、何よりも第一に財産がなかったらあかん。 長女 なんで。 母 そら、お父さんとしては、あたり前のことやないの。 父 お前が辛抱でけへんやろ。金の苦労なんか知らんのやから。 長女 この興信所の報告には、お家は土地つきの持ち家と書いたあるわよ。 父 そんなもん、あたり前やないか。それに男ばっかりの四人兄弟やぞ。財産わけしてみい。僅かなもんや。 母 商業デザインの事務所持って、小説書いてはるけど、収入はほとんどないのよ。 長女 それは、これからやないの。 次女 お姉ちゃんがええ言うんやったら、ええやないの。 母 そらまあ、どうしてもと言うんやったら、しかたないけどなあ。 父 あかんあかん。見てみい。ご近所の評判のこの悪いこと。特にお母さんの評判が悪い。お父さんの評判も、本人の評判も悪いなあ。それに、本人が前に勤めてたこの、乃村工芸社いう会社の同僚が、「彼は女出入りが多かった」言うてるやないか。 母 わたしが気になるのは、その同僚やった人が「彼は性病科の病院に通っていました」言うてはることなんやけどなあ。 長女(笑う)信じません。あの人、そんな人やありません。いいえ信じません。ほほほほほほほほ。  突然、下手より筒井康隆登場。舞台袖に立つ。 筒井康隆 ええと。ひとことご説明申しあげます。これはですね、のち彼女の一家にも弁明したことでありますが、わたしは当時、今でもそうなのですが、当時はもっとひどい膝関節炎でありまして、会社指定の医院に健康保険で通っておりました。この医院がですね、「外科・泌尿器科」だったのですよ。あるいは「外科・肛門科」あるいは「外科・性病科」であったかもしれません。とにかくそういう看板のあがっている医院さして跛をひきひき通ったものですから、変な病気と思われたのでありましょうが、それ以前に、そもそもこの同僚に、わたしに対する悪意があったのです。そうとしか思えません。「女出入り」うんぬんも悪意です。この同僚が誰であったかも、わたしにはわかっております。名前も言えます。こ、こ、こいつは悪いやつで。あ。興奮して申しわけありません。あの。では、これにて失礼いたします。  筒井康隆退場。 父 と言うて、いつまでもこの話、抛っとくわけにいかんやろ。またええ話はなんぼでもある。(母に)お前、先方さんへ直接電話して、おことわりしなさい。 母 そうですなあ。もっとええ話は、なんぼでもあるんやからなあ(電話に寄る)。 長女(泣いて)やめて頂戴。もうちょっと待って頂戴。 次女(泣いて)お姉ちゃんが好きやったら、ええやないの。 長男 ぼくもそう思うけどなあ。 父 だまりなさい。高校生や中学生に、何がわかる。 母 いつまで話をのばしても、同じやしなあ(ダイヤルする)。もしもし、筒井さまのお宅でございますか。えっ。ああ、樫原さん。まあ。番号を間違えて失礼しました。(受話器を手で押さえ、家族に)仲人さんのお宅へかかってしまいました。どないしましょう。(受話器に)もしもし。はい。例のお話でございますがねえ。いえ。娘はいいと言うのですけど、主人が反対で……。……。  筒井康隆、また出てきて下手袖に立つ。 筒井康隆 わたしの家へかけようとした電話が、仲人の家にかかってしまい、これが幸いしました。仲人さんは、娘さんが承知なら、もう一度考えなおしたらどうかと説得してくださったのであります。そして事実ご両親は、説得されてしまったのであります。  筒井康隆「東海道戦争」。筒井の処女出版短篇集。(略)ただひとつ心配なのは、新作の「チューリップ・チューリップ」に見られるマンガ的な奔放さが何を意味するかということ。もしかすると、SF作家としての彼はすでにその絶頂にいるのではないか? まさかと思うし、また既製の分野にこだわらずに新境地の開拓をすすめてくれるなら、それはそれでいいのだが、ファンのひとりとしては、願わくばその懸念が杞憂に終ることを祈りたい。           (「宇宙塵」一九六五年十一月号)    軽薄な現代的感性の過剰 (略)現代は現代的感性の過剰な時代で、いわば女性週刊誌的な軽薄さが日常化してしまっているが、そういった種類の現代性までが、この作品集には不用意に入り込んでしまっていることだ。           (「読売新聞」一九六七年七月十七日・山野浩一)  しかし目下のところ、この新しさは何ものをも生み出していない。……合わせ鏡の無限地獄がいたずらに繰り返されるばかりで、作者は不毛な夢をつむいでいるにすぎない。しかし、それ以外にどのような夢が存在しうるのだろうか。それにしても、もし筒井が対象を熟知した上で「火星のツァラトゥストラ」のような作品を生み出したとしたら、どんなに素晴らしいだろうか。(略)ところで「ベトナム観光公社」を読んだぼくの周辺のマジメ人間たちから異口同音に「世の中には茶化してはいけないものがあるのではないか」という感想が出たことをつけ加えておこう。           (「SFマガジン」一九六七年九月号・石川喬司)    昭和四十二年度下半期直木賞選評 源氏鶏太「筒井氏の作品は、着想の妙に感心したが、それだけに終っているような気がした」 村上元三「筒井康隆氏の『ベトナム観光公社』を、わたしは買わない。日本のSFの中には、フィクションがあって、サイエンスのない作品が多い、と思う」    SF的なドタバタ「馬の首風雲録」  作中に、今日の地球上の戦争を思わせる場面が随所にあるが、戦争テーマの扱いは凝《こ》ったわりに常識的で、もうひとつ風刺がさえない。           (「北海道新聞」他・一九六八年二月四日) �戦争�という人間の生んだ最大の自己矛盾を、何の悩みもなく、何の偏見もなく、コラージュとアイロニーを使ってメロドラマに仕立て上げたところがこの作品の価値であり、同時に、それはそういうものでしかないという限界でもあるだろう。できれば作者が、この作品に登場する様ざまな切抜き帳の中の何かに、もう少しこだわって、作者の自己矛盾として提示し、作者自身が悩んで欲しかったと思うが、あるいはそれがないからこれだけ完成した作品になったのかもしれない。           (「読売新聞」一九六八年三月十八日・山野浩一) 「そんなことは嘘だ。それは違うそんな馬鹿なことがあっていい筈はない。いやあってはならん」と繰返される作中人物のつぶやきが、戦争を操る背後のメカニズムにまで向けられる日を期待したい。           (「SFマガジン」一九六八年四月号・石川喬司) (略)同じような狙いでありながら、タマが外れてしまったのが、筒井康隆の「馬の首風雲録」で、スペース・オペラのパロディを志しながら、この作家十八番の無責任ぶりがなく、かえって、コチコチになったまま終ってしまったのがフシギな気がする。このテーマにおいては、作者はもっと柔軟であるべきだったように思い、それが残念だ。           (「平凡パンチ・デラックス」十六号・中原弓彦)    「アフリカの爆弾」  SF新人作家の短篇集。いずれも荒唐無稽、文章もデタラメだが、幻覚的な今日の文化を反映しているところがあって面白い。           (「婦人公論」一九六八年六月号)  筒井作品は、満員電車に乗ったサラリーマンが痴漢とまちがえられ、女たちによって途中で下車させられ、女保安官、全婦連、女権委員会などから腎虚刑をあたえられるという女上位の未来図だが、こう現実に密着してはつまらない。           (「読売新聞」一九六八年五月八日夕刊・遠山欽五郎)    「にぎやかな未来」  SFという奴、バカバカしいと思えばきりがない。ソーダー水の味とでもいっておこう。スーッとはするが、後には何も残らないからな。各ページの上にカットが入っていて、めくって見ているだけでもこれまたスーッとはする。造本はなかなかコッている。           (「問題小説」一九六八年十月号)    昭和四十三年度上半期直木賞選評 源氏鶏太「これが小説の本道とは、今の処、私にはいい難い。したがって直木賞作品は、いわゆる文学作品にあたえたい」 海音寺潮五郎「少々ハメをはずしすぎたところがある。前作の『ベトナム観光公社』の方が出来がよい」 村上元三「前回に書いた選評と同じことを繰返すことになるので、ふれずにおきたい」 柴田錬三郎「直木賞の品格からは、はずれていることも、みとめざるを得ない」 水上勉「筒井氏としてはもっといいのがあるはずだ」 松本清張「あまりにも多くのものを設定しすぎたために、ごちゃごちゃしてドタバタの感じがする。もっと省略を利かせたほうが鋭くなったのではなかろうか。(略)もっとも、筒井氏の筆致から�軽さ�を消すように望みたい。軽妙と軽量とは違うのである」    有能の士よ自重を  大作家が女中を手込めにして、それを私小説風に書いて、世間に話題を提供したという作品を、筒井康隆が「小説『私小説』」と題して、「別冊文藝春秋」に書いている。(略)なんともばかばかしい、いやしい描写? である。いくらスッとんきょうな日本の老作家でも、こんなバカなことを言うわけはない。(略)才能ある筒井が、こんなポンチ絵にもならない文壇風刺小説を書くことは、かえすがえすも残念である。同誌の山口瞳の秀作「小説吉野秀雄先生」にあるマジメ人間の美しさを見習うべきである。           (「東京新聞」一九六八年十二月十一日夕刊・大波小波)    孫悟空                 筒井嘉隆  宅の子供たちは孫悟空が好きです。最初、親戚の子供の絵本を見せてもらったのが病みつき、よほどお気に召したらしいので、おせっかいにも親父がエノケンの「孫悟空」を見せたものだからたまらない。ますます如意棒を振りまわす。そこへ新版西遊記を買ってきて読んで聞かす。おじさん、おばさんがたに泣きついて孫悟空の絵本を何種も買ってもらう。とうとう悟空マニヤになってしまいました。親父は三蔵法師で、康隆が孫悟空、正隆が八戒、俊隆を悟浄と決めてしまって、毎日西遊記の実演です。兄は棒切れを、弟は熊手と称してサラエを振りまわします。いわく「悟空大あばれや」。意気揚揚とエノケン張りに変な節をつけて「オレはソンゴクウ、岩の中から生まれた。あんまりあばれるので、お釈迦さまに、岩の中へとじこめられた」とやると、小さいのが負けずに入れかわって「ボクはハッカイ、天上で生まれた」とやる。落書きも孫悟空ばかり。親父のしまっているライティング・タブレットを持ち出して、紙芝居を作ります。「表紙だから、お父ちゃん、ムズカシイ字で孫悟空と書いて頂戴」と言います。役者が足りぬと母親を観音さまにしたり、女中を金角大王に化けさせます。「キンカクダイオウ」と呼んでも返事しないと、小さいのが「お梅。キンカクダイオウやないか。返事せんかいな」。  猿や豚や河童《かつぱ》のお化けで、宅も妖怪動物園になりそうです。           (昭和十六年六月)    隣家童子                 斎藤光章   孫悟空 今日も演ずる けはいなり   となりの子らは みな男子《おのこ》にして           (昭和十六年六月)    猿より犬へ                 筒井嘉隆   如意棒は 大時代なり 近代の   花形勇士 吾はのらくろ           (昭和十六年八月) ○釈迦の巨大な掌《てのひら》の上にふんぞり返る孫悟空。 悟空 おれの喧嘩はおれにまかせておいてもらおう。よけいなとめだてはするな。 釈迦 それだけ狼藉をはたらいて、まだ気がすまんのかね。 悟空 天宮でおれを差別しやがるからいかんのだ。もっとあばれて困らせて、玉帝になってやる。 釈迦 たかが猿の化けものの分際で、天界を騒がすとは何ごと。そんな大言が吐けるような、どんな能があるというのかね。 悟空 聞いておどろくな。おれは七十二般の変化の術を心得、万劫《ばんごう》にわたって不老長寿、|※[#角+力]斗雲《きんとうん》に乗りゃ十万八千里をひとっ飛びだ。 釈迦 ほほう。ではわたしのこの掌から、飛び出すことができるかね。 悟空 ひとを馬鹿にするな。こんな一尺四方もない掌、ひとつとんぼ返りをうてば飛び出せらあ。見ていろ。 ○悟空、とんぼ返りをうつ。ひと筋の電光が走り、その姿は消える。 ○虚空を突き進む悟空。 悟空 こうなりゃいきがかりだ。誰にも真似できねえことをして驚かしてやれ。おおそうだ。世界の果てまで行ってやるぞ。世界の果てまでだ。世界の果てまでだ。 ○悟空の行手に、のらくろが立っている。 悟空(急制動をかけて)おやあ。きさま、猛犬連隊ののらくろだな。こんなところに立って、悟空さまのお通りの邪魔だ。のきやがれ。 のらくろ 悟空さん。君はそんなにあばれてばかりいては、いけない。人に好かれませんよ。 悟空 なんだと。おれにお説教する気か。この立身出世主義者め。 のらくろ いいえ。ひとりでに出世してしまったのです。人間というものは、もっと失敗をしたり、もっと馬鹿なことをしなければいけませんよ。そうすれば皆に好かれて、皆が応援してくれるから、勝手に進級して行くものなのであります。 悟空 おれはやっぱり、あばれていたいのだ。腹の立つ馬鹿が多過ぎるからだ。 のらくろ では、こうしたらどうでしょうね。わざと失敗し、ひとに笑われるようなあばれかたというものがあります。 悟空 そんなもの、あるもんか。 のらくろ いいえ。わたしがやっています。エノケンの演じたあなたもそうだったでしょう。もちろんわたしは、歳をとればあばれることができなくなりますので、そうなれば退職し、鯛焼き屋のお銀ちゃんと一緒に老後をおくるつもりなのでありますが、そうなってもやっぱり、皆から愛されているであろうと思うのであります。  SF作家の蜜月時代はいったい、いつ頃から始まり、いつ頃終ったのか。おれの記憶では昭和三十八、九年頃から同四十四、五年頃までであったように思う。同人誌時代から脱け出てそれぞれひとり立ちし得たばかりのSF作家たちは毎夜のように集ってSF論や馬鹿話に夢中であったものだ。日本SF作家クラブの行事としてあちこちへ旅行したのもその頃であった。東海村の原子力発電所見学もそうした蜜月旅行の一環であったろう。 ○東海村。原子力発電所正門前に屯《たむろ》しているSF作家十数名。星新一、小松左京、矢野徹、光瀬龍、福島正実、眉村卓、おれ、平井和正、豊田有恒、その他、幹事の大伴昌司など。 SF作家たち わいわいがやがや。 大伴昌司(守衛室の窓口から引き返してきて、怒りながら)守衛のやつ、何も聞いてないって言うんだよ。ちゃんと今日来る、って連絡しといたのになあ。 小松左京 じゃ、所長に電話してもらって、直接談判すりゃどうだ。 大伴昌司 だけど、その、所長の名前がわからない。名前を知らないと、あの守衛、信用してくれないよ。 星新一 所長の名前はここに書いてあるよ。(看板を指さし)ほら。原子《はらこ》という人ですよ。原子力《はらこつとむ》という人が所長です。 大伴昌司(本気にし、いきごんで守衛に)そんなら原子さんおられますか。所長の原子さんに連絡してください。 ○発電所内部。所員に案内され、巨大な原子炉の周囲を歩くSF作家たち。 筒井康隆(原子炉に近寄り、積みあげてある煉瓦状の鉛の物体をひとつ、持ちあげる)これは何ですか。 所員A《とんできて》あっ。それを持ちあげてはいけません。炉のそこの部分に罅《ひび》割れが生じていますので、その鉛の煉瓦を積みあげて塞《ふさ》いでいるのです。 筒井康隆 わっ(もとに戻す)。 ○同廊下。放射能検知機が置かれている。SF作家、次つぎと台の上に立つ。 所員B あなたは大丈夫です。はい。次のかた。  筒井康隆 台の上に立つ。  警報機、所内に鳴り渡る。  全員、吃驚仰天《びつくりぎようてん》する。 所員たち(駈け寄ってきて)ど、ど、どうした。 所員B(蒼くなりながらも、機械を見て)いや。心配ない。心配ない。ちょっとした機械の故障だ。心配ない。(筒井康隆に、大声で)心配ありませんっ。はい。次のかた。 豊田有恒(声をひそめ、平井和正に)あの所員、ろくに機械を見ないで故障だと言ったよなあ。 平井和正(声をひそめ)そうだよなあ。  この会話を聞いて不安げな筒井康隆。  その顔のクローズ・アップ。 画面外より筒井康隆のナレーション わたくしはこの時、やはり放射能を浴びたのではなかったかと思うのであります。気になっていろいろと調べましたところ、原子炉から洩れた放射能を浴びた場合、放射能塵を浴びたなどとは比較にならぬ、最低数十万カウントという数値のそれを浴びたことになるのだそうであります。しかし現在わたくしは生きておりますし、なんの影響も受けてはおりま。いや。受けたのかもしれませんが受けたというはっきりした証拠は何ひとつ。いや。あるのかもしれませんがそれは誰にも断言。いいえ。いいえ。誰にも断言できぬことであります。何故それ以来わたくしがおかしくなったなどという、本人すら自覚していない。いや。自覚していないと言えぬかもしれませんが、他人が言うのはいけない。そのような無責任なことが誰に言えるのでありましょうか。誰にも言えません。言えませんっ。    筒井康隆の「逆襲」への反批判  筒井康隆が「虚航船団」に寄せられた「毀誉褒貶《きよほうへん》」のうち�毀貶�を対象に、毎日新聞で反駁《はんばく》したのは近来にない珍事で大いに話題になった。(略)とにかく�誉褒�ならヨイショや見当外れでも容認し、�毀貶�には過剰に反応し抹殺しようというのだから、もうほとんどビョーキ。ヒステリーと同じで静まるまで放っておくしかテはない。(略)しかしまあ、これだけファナチックになれるのだから、やはり筒井康隆は天才だ。ただし、自称「パラノイド」らしいから、健全な読者は近づかぬに越したことはない。           (「週刊読書人」一九八四年九月三日号)  屋  根  屋根づたいにクメの部屋まで行ってやろうと鮪夫《しびお》は考えた。  鮪夫が弟たちと寝起きしている二階の部屋の窓から病気で寝ている筈のクメの部屋の窓が見えるのだった。クメが元気だったころ鮪夫はその窓に何度となくクメの姿があらわれるのを見た。建てこんだ家並の彼方、クメの部屋の窓は一町ほど彼方にある。クメがその窓から自分を見たことがあるのかどうか鮪夫は知らず自分に見られていることをクメが知っていたのかどうかも鮪夫は知らない。  町でクメの姿を見かけなくなってからもう二ヶ月以上経っていた。友人たちの噂話からクメが病気であることを知り父母の夕餉のよもやま話から彼女が自分の部屋で寝たきりだと聞かされて以来鮪夫はいつか彼女の家を訪れようと思っていた。だが履物屋をしているクメの家の店先から訪れることはためらわれた。見舞いに来たと言えば鮪夫をよく知っているクメの両親は喜んでクメに会わせてくれるであろうが鮪夫にはそうすることができなかった。恥かしかったからでもあるし鮪夫のそんな行為が友人に知れたらからかわれることはわかっていた。鮪夫の家族がクメの家族と始終行き来するほど親しくないのがちょっと恨めしかった。  クメの部屋の窓はもう二ヶ月閉め切られたままである。もし屋根づたいに彼女の部屋の窓までたどりついたならクメはそんな自分を喜んで迎え入れてくれるような気がしたし鮪夫にはそういう訪れかたであれば少しも恥かしくない筈だという気もした。さらにまた店先から訪れたのであればいざクメに会っても話すことがなくて困る筈だが屋根づたいに訪れたのであれば途中の苦心を彼女に語って聞かせることができるのだ。  実際に屋根づたいに行けるのかどうかがわからなかった。昼間、町の大通りや路地を通るついでに鮪夫は家並みを確かめ屋根の続き具合を調べたがよその塀に登ったりよその庭に入ったりしない限り完全に調べあげることはできなかった。ただ、道路や路地によってはっきりと家並みの断たれている場所はないようだった。二ヶ所に路地があったがどちらも両側の家の軒が接しているので飛び移るのは簡単にできそうだった。あとはただ実行するために月の明るい夜を待つだけだ。もしどうしても行けない場所があれば引き返すしかない。  その夜は弟たちがいつもより早く眠ってしまった。そしてそんな時刻以後に父や母が二階へあがってくることはない。鮪夫は自分の勉強用の座机の上に乗ってガラス窓を開け雨戸を一枚だけ開いた。明るい夜であり遠くの家の屋根までがはっきり見えた。からだの内奥からあふれ出そうなほどの情感があった。若さゆえの、夜なればこその、涼しく夜風が吹いていればこその情感だった。鮪夫は窓框《まどがまち》をまたぎ越していぶし瓦葺きの屋根に出た。しゃがんだままで鮪夫は雨戸をもと通りに締めた。その五寸勾配の屋根は裏庭に面していた。鮪夫は立ちあがり、右手に進んだ。鮪夫の家は二層の半切妻になっていて、左手へ進んだのでは建物の途中で屋根が絶たれていて、大屋根に登れないのだ。  建物の端に来ると、そこから屋根は同じ勾配のままで建物をまわっているから鮪夫はその屋根を少し登らなければならない。屋根の下は商品の反物などが入っている倉庫である。すぐ棟の丸瓦に手が触れた。鮪夫は屋根に身を伏せて顔をあげ棟越しに表通りをうかがった。大通りにはもう誰もいない。鮪夫は立ちあがり棟丸瓦の上に片足をのせて真上へ手を伸ばした。からだを支えるものは何もなく大屋根の軒樋《のきどい》に手がかかるまでは不安定なままであり腰がふらりふらりと揺れた。しかし昼間大屋根に登ったことは何度もある。  すぐ軒樋に指先が触れた。軒樋に両手の指さきを軽くかけただけで鮪夫は立ちあがった。それだけで重心は充分とれるし軒樋は樋受け金物が垂木《たるき》から抜けそうになってぐらぐらしていた。これは幼い頃の鮪夫が何度も軒樋につかまって大屋根に登ったからだ。大屋根の軒先は今では棟丸瓦の上に立ちあがった鮪夫の肩のあたりにある。鮪夫はなるべく軒樋に触れぬようにして一文字瓦の端に両腕を置き肱《ひじ》に力をこめて身を持ちあげてからまず片足を大屋根にかけた。次にからだを横にして大屋根によじ登った。大屋根も五寸勾配であり瓦葺きの屋根としては急である。大屋根の軒端《のきば》で立ちあがった鮪夫はそのまま軒の上を左に歩き裏庭に近い方の棟止瓦に達するとそこから丸瓦をつたい四つん這いで棟の手前の方の曲がり瓦にまで達した。巨大な鬼瓦に手をかけ抱きかかえるようにして鮪夫は立ちあがった。大屋根の棟には何枚かの熨斗《のし》瓦を積み重ねた上に冠瓦が置かれている。その上に立ち大棟をまっすぐに歩くことは鮪夫にとって常に爽快感あふれる誇り高い行為であった。それは夜であっても同じことだ。  大棟の端に達すると鮪夫はまた鬼瓦を抱きかかえて曲がり瓦におり今度は大通りに向かって勾配を下り大屋根の軒端に出た。一文字瓦の上を少し右へ行くとそこは南北に走っている大通りに面した鮪夫の家の北東の隅である。店は東に向いていた。見おろすと大屋根の三尺下には店の庇《ひさし》がある。だがそこへ飛びおりるのは危険だった。そこもやはり瓦葺きであり五寸勾配なのだ。だが鮪夫は大屋根の軒から庇に到る立て樋のある場所を知っていた。大屋根の隅の角瓦から手前へかぞえて四枚目。その一文字瓦の上に足を下にして身を伏せた。身をずりおろしていき片足を大屋根からおろし蹴り込むようにして鮪夫は樋をさぐった。呼び樋に足がかかった。さらに身を沈めて足をのばし立て樋のつかみ金物に足の指さきをかけた。半円形の軒樋に手をかけてもう片足をおろした。両手を呼び樋にかけ鮪夫は庇におり立った。大通りはすぐ眼の下であり道路が白い。はるか南の路上を誰かが歩いていた。  幅二尺ばかりの庇の上を鮪夫は壁に身を寄せて少し移動し庇の北の端に達した。そこからは隣家の松の木の枝に手をかけることができる。隣家の屋根に移れる唯一の手がかり足がかりがこの松の木であり鮪夫にとってそれは幼い頃からの馴染みの隣家への移動手段である。だが古い松の枝は折れやすくなっているであろうし鮪夫の体重もふえている筈であった。鮪夫はまず両手で枝を握り片足をのばして足がかりになりそうな枝をまさぐった。幼い頃のように両手だけでぶら下がるのは危険だった。隣家との間に塀はなく九尺下は石畳であり間仕切り代りの溝があるだけだ。隣家の前庭からのびている曲りくねった太い松の幹に達すると少し登り、手をのばせばそこには隣家の切妻になった屋根の側軒がある。二本の枝に身をわたし、身を寝かせたままで転げこむように側軒に移る方法がいちばん安全であることも充分心得ていた。隣家の母屋は平屋で屋根は瓦葺きの三寸五分勾配であり比較的ゆるやかである。楽らくと大棟に達して静かに冠瓦をまたぎ越し、また下って反対側の側軒に達する。来たことがあるのはここまでであった。隣家は雑貨屋であり丁稚同士までが家族のように交際している仲なので屋根に登っても叱られることはなかった。しかしそこから北の方へつらなる家家とはいずれも同じ町内の店というだけであってさほど親密な交際はない。鮪夫にはそれがどの家ともわからないが仲の悪い家もあるということだった。彼方の家は大きな酒屋であり道路に面した母屋は切妻の二階建てである。一階の屋根は差掛け屋根になっていてこちらの軒と彼方の軒とは間隔こそほんの二尺ばかりだが酒屋の方は店に酒樽を置くせいか軒高が三尺ばかり高くなっている。もちろん跳び移るのは危険であり鮪夫は両手を伸ばし身を倒して酒屋の軒先の一文字瓦をつかんだ。次に右足をあげる。足をかけるところは軒樋しかない。さいわい軒樋は丈夫そうな金属板製の箱樋だった。酒屋の屋根に這いあがりはしたものの五寸勾配の屋根を少し登るとそこはすぐに窓のない二階の外壁であり、そこから大屋根へ登る方法はなかった。裏庭の方へ壁づたいに移動すると母屋の二階の南西の端で屋根は断たれている。道路に面した側も同様であろうし店頭の出入口の上の庇は幅が二尺しかなく中央に大きな看板がのっていることも鮪夫は知っていた。身をのり出して裏庭に面した母屋の裏側をのぞくとそこには窓があった。障子窓であり雨戸は閉められていず室内に明りはない。窓の上部には腕木庇があった。庇の裏側の腕木は一尺間隔で並んでいる。その腕木をつたって彼方の屋根まで行くことに鮪夫は決めた。庇が彼方の屋根まで続いているかどうかはわからなかったが続いている筈と思いこんで行動しなければならない。鮪夫は白壁のかどに身を密着させた。窓の手前に雨戸の化粧戸袋があったのでその下框の三、四分の出に左足の指さきをかけ左手をななめ上にのばした。手が最初の腕木にかかった。腕木は太くて一寸の厚みと二寸の幅があった。両手をかけてぶら下がりすぐ次の腕木に左手をかけた。少し軋《きし》んだ。足は宙にあってその下には地上まで何もない筈であった。地上からの高さは二間以上ある筈だった。次つぎに腕木に手をかけて鮪夫は進んだ。月は東にあるのだから鮪夫の影が月明りで障子窓に映ることはない筈である。  庇の中ほどを過ぎたと思えるとき室内でひと声がしたように思い鮪夫はぶら下がったままで静止した。それは障子の彼方の灯火のない部屋にいる男女の話し声のようであった。おそらくは暗がりの中で寝ながら話しているのであろう。鮪夫は聴覚に心を集中させ呼吸をとめた。  女の声が問いかけた。「何ぞうちそとのどこか」 「軒端に」男の声だ。 「はや百年。古い家の。そこいら腐った古い家の昔」 「古くも新しくも」と、男が言い返すような口調で言う。「家は音を立てる」 「天井裏の木乃伊《ミイラ》はまだあそこの」 「天狗じゃ」 「そう言や加賀屋さんの邸はもう千年とやらで」 「昔は千年保つ家を建てた」 「縁の下には卵も」 「卵もある」 「なら天井裏に木乃伊は三つか四つ」  笑った。  笑い声が続いている間に鮪夫は腕木をもう三本ばかり進み室内が静かになるとふたたび静止した。鮪夫の身は軽くまだ腕は疲れていない。庇が数尺先で途切れていたがさいわいそこからは離れ座敷への渡り廊下があると見えちょうど足の届くあたりに勾配のゆるやかな屋根があった。鮪夫は腕木が軋《きし》まぬよう常に二本の腕木に両腕をかけるようにと気をつけながら時間をかけてさらに四本の腕木を前進した。足が屋根の棟丸瓦に触れた。鮪夫はいったんその屋根におり、今度は建物のかどの立て樋をつたってふたたび差掛け屋根に登った。屋根を下ると次の家の屋根との間には間仕切りの笠木《かさぎ》板塀がある。その家は老夫婦が住む小さな小間物屋なのだが一匹の黒い中型犬を飼っていた。普段は家のどの部分で飼われているのか鮪夫は知らなかった。裏庭に犬小屋でもあれば吠えられるに違いなかった。吠えられたら何もかも無駄になってしまうであろう。おそらくずっと店さきで飼われていて夜はそのまま店の間で寝るのであろうと鮪夫は思いこむことにした。  屋根の軒端から笠木板塀のがんぶり瓦までは二尺以上あり間は路地になっていた。酒屋の側軒が路地へ三尺ほど突き出ているのだ。軒先に腰をおろし片足を突き出すと足の裏ががんぶり瓦に触れた。身を横にねじってもう一方の足を瓦にのせ軒樋にかけていた両手で軒端を押しやり鮪夫は笠木板塀の上に立った。塀から小間物屋の屋根までは一間以上あり飛び移ることはとてもできない。塀が少し揺れたように思い鮪夫はいそいでがんぶり瓦に身を伏せた。立ったままで塀の上を歩くのは足をすべらせる危険があるし古い塀だから控え柱の根が腐っていたりすれば倒れることもあり得る。鮪夫はがんぶり瓦にまたがって両側から胴縁に足をかけ瓦一枚ごとに尻を浮かせて前進した。急ぐと塀が軋むため時間がかかった。表通りに近づけば目的地から遠ざかることになるので小間物屋の裏庭を奥へ向かうことにした。塀の右側は小間物屋の裏庭であり黒犬はどうやらいないようだ。  塀は小間物屋の裏庭の南西のかどで北へ折れ曲っていた。鮪夫はそのまま板塀の上を北に向かった。左手は北の大通りからの路地になっていた。たった六尺の高さの板塀でありどうせずっと路地に沿っているのだからいったん板塀をおりて路地を歩いてもいいようなものであったが鮪夫にそうする気はなかった。絶対に地上には足をつけてはならないのだ。そんなことをすれば今行いつつある行為の神聖さが失われてしまうしそのような胡麻化しはクメへの冒涜《ぼうとく》でもあった。  板塀は質屋の巨大な土蔵の白壁で行き止まりになっていた。この質屋は南北に走る東の道路と東西に走る北の道路のかどに位置していて土蔵は質屋の裏庭のはずれにあるのだった。鮪夫はその二階建ての土蔵の屋根に登らなければならない。そのためには小間物屋の柿の木に登る以外方法はなさそうだった。柿の木が土蔵の屋根に届くほど高いのかどうか下から見ただけではわからない。昼間路地からこの柿の木の実をとったことはよくあるがその時には注意して見なかったのだ。鮪夫は笠木板塀の上にゆっくりと立ちあがって路地へと伸びている柿の木のいちばん下の枝をつかんだ。枝によじ登り幹に達してから次つぎと枝をつたって上に登った。枝は次第に細くなった。右足をのせた枝が折れた。他に手がかりはなく鮪夫はいそいで土蔵の屋根の|けらば《ヽヽヽ》瓦を両手でつかんだ。柿の木の頂は土蔵の屋根を越えていたが鮪夫の体重ではどのみちそれより上へは登れない。屋根の端の|けらば《ヽヽヽ》瓦は縁がはねあがっているのでつかみやすく鮪夫は左足だけで柿の木の枝を蹴って|けらば《ヽヽヽ》によじ登った。  屋根に横たわったまま鮪夫はしばらく休憩した。ほんの少しだが疲労していた。うとうとしてはっと眼を見ひらいた。寝ているのは|けらば《ヽヽヽ》の勾配の上であり寝返りでもうてばそのまま十数尺下の地上へ落ちるのだ。風が強く吹いてきて心地良かった。クメのことを想い股間へ手をのばしたが他ならぬそのクメに会いに行く途中なのだと気づいて自慰を思いとどまった。鮪夫は立ちあがった。眼の前に異国風切妻とでも呼ぶべき異様な建物があった。北側の大通りに面してこの建物ができたのは二年前だった。「白蘇の国」とかいうところから来た異人がこれを建てて料理店をはじめたのである。赤白金銀に飾り立てた店が魔法の如く見る間に建ち開店の日には異国風の披露目屋が異国風音曲入りで町の大通りをねり歩き人びとに料理の献立てを書いた品書きのちらしを配ったものであったが鮪夫はその時に貰ったちらしを今でも一枚持っている。その奇怪な品書きを見た限りではいったいどのような料理なのかまったくわからず、あまりの不思議さに何度も読み返したものだった。鮪夫がほとんど暗記してしまっているそれはこのような内容だった。      献立表     雲菜       夏マキム肝燭       ¥八〇〇       蓄俵の冷計      ¥一、五〇〇       熱貨鈴吹き寄せ    ¥二、〇〇〇       頭陀チン姜      ¥一、二〇〇       漿火母の涼板     ¥一、六〇〇       湿中         ¥一、〇〇〇     果爆味       七曜疾細目      ¥一、八〇〇       忌腐肉の乾歯     ¥二、八〇〇       珍爆シチュリーム   ¥三、一〇〇       美養燻        ¥二、三〇〇       鞍女の茶根      ¥二、四〇〇       カルセンス        ¥二〇〇     吉老       ママ         ¥二、〇〇〇       ヘタロ        ¥一、〇〇〇       アンノンマン       ¥八〇〇       ノクス        ¥一、二〇〇       ザキ           ¥七〇〇     神逸       土焼突        ¥一、五〇〇       貝舌石        ¥三、〇〇〇       煙樹         ¥二、八〇〇       揚渦首        ¥四、〇〇〇       酷痛五拍子      ¥二、八〇〇       貧汁           ¥五〇〇     素類       饌素           ¥八〇〇       汗素         ¥一、〇〇〇       水汗素        ¥一、二〇〇       魚素         ¥一、二〇〇       水汗花魚素      ¥二、八〇〇     酒精類(一鉢)       非酒           ¥三〇〇       鉄面酒          ¥三〇〇       罪太酒          ¥五〇〇       唇歯酒          ¥五〇〇       倒転天酒         ¥七〇〇       賤媾幻犯酒        ¥八〇〇  最後の項目が酒であることだけはわかるのだが他はなんの料理かわからず店頭に料理の見本を並べているわけでもない。しかしどちらかといえば酒の肴のような香辛料をきかせた料理が好きな鮪夫にとってそれぞれの料理の名は充分に味覚と好奇心を刺戟するものだった。例えば珍爆シチュリームなどとはいったいどのような珍味なのであろう。町に住む男たちは夜な夜なこの白蘇料理店に出かけては飲み食いしていて鮪夫の父親も例外ではなかったが、それがどのような料理であったかを鮪夫たち子供に話すことはなかったので鮪夫はただ献立表の字面からのみその味を想像するしかなかった。なんとなく男たちだけの秘密にしている様子も感じ取れたし町の外部の者にもそのような店の存在をあまり話していないようであった。夜になると料理店内には赤い灯が点《つ》きそこから時おり男たちの気ちがいじみた笑い声や得体の知れぬ香料の匂いが白い湯気とともに北側の大通りに洩れるのだった。  その店の屋根は外壁から突き出た軒先こそ二十度ほどのゆるやかな勾配だったが大棟に近づくほど急になり大棟の近くでは八十度もの傾斜になっていた。だがその大棟を越さぬ限り鮪夫がクメの家に辿りつくことはできない。さらにまた料理店は建物の周囲に敷地を多くとり陽のあたるところで薬草や野菜を栽培していた。質屋の土蔵の屋根からも料理店の屋根の軒先までは五尺ばかりの距離がある。鮪夫は土蔵の屋根を一間ばかり登って料理店のスレート葺きの屋根を振り返った。赤黒い色をしたスレート魚鱗状に葺かれたその屋根はいかにも滑りやすそうに月の光で輝やいている。鮪夫は恐怖感を忘れようとしてもっと幅の広い場所を跳躍した多くの記憶をあれこれと思い描いてから屋根を駈けおりた。軒端で跳躍してから一瞬スレート葺きの屋根が大きな音を立てるのではないかという危惧に見舞われたが予想に反しスレートはフェルト状の物質を下敷きにしているのであろう弾力があって鮪夫の体重を柔らかく受けとめた。そのままの勢いで大棟に駈けあがろうかとも思ったが急傾斜になるのは大棟によほど近づいてからなのでいったん屋根に身を伏せた。スレート葺きの屋根は暖かだった。それが日中の陽光による余熱なのか店内から立ちのぼる暖気なのかはわからない。  おそらく大棟への最初の挑戦が最後の挑戦になるのだろうという気がして鮪夫の気分はしぜんに引き締まった。鮪夫は立ちあがり軒端すれすれにまで引き返してから駈けはじめた。三十度、四十度と傾斜が急になっても鮪夫の速力は衰えず、これなら簡単に大棟へたどりつけるであろうと鮪夫は思った。だが六十度の勾配のあたりで膝が思うようにあがらなくなり速度は落ちた。四つん這いになって少し登った。急勾配で屹立《きつりつ》している目前の大棟へ手が届きそうになった。その時、足が滑った。スレート屋根に俯せたまま鮪夫は三尺ばかりすべり落ちた。しばらくそのままの姿勢で鮪夫はじっとしていた。動けばさらにすべり落ちそうに思えたからだ。スレートはあいかわらず暖かい。鼻さきには魚鱗状のスレートの隙間があり手をあてると暖気はそこだけ強いように感じられた。店内の賑やかさが伝わってくるようにも感じられ隙間から料理の白い湯気が洩れ出ているようにも思えた。鮪夫はその匂いを嗅ごうとして隙間に鼻孔を近づけた。実際その隙間から店内の空気が洩れているのかどうかはまったく確かではないにかかわらず鮪夫は強烈な香料の香りをそこから嗅ぎとった。これが料理の匂いなのであろうかと思いながら鮪夫は口を近づけてさらに深く三度、四度と、その魅惑的な異臭を腹へ吸いこんだ。  ほんのしばらく、その間の記憶を失ったかの感じがあって気がつくと軽い眩暈《めまい》がしていた。四肢にしびれが感じられたが世界の充実感があってどんなことでも出来そうに思えた。鮪夫は身をくねらせて屋根を這いあがった。自分の身をちょうど蛇のような生きものに擬したためかたちまち大棟に達し鮪夫はいつの間にか四角い棟包みの銅板をかかえこんでいた。あるいはそれは棟の方から鮪夫に近づいてきてくれたのかもしれなかった。水平の大棟が曲線となって揺らめいたようにも見えたからだ。大棟の彼方を見るといろいろな形態の屋根の連なりが月に向けた面をいっせいに光らせていて黒い筈の瓦がさまざまに色を変えていた。それは茶色い魚鱗ともなり蒼白い波にもなった。気力は充実しているくせにそれらの屋根を乗り越えねばクメの家まで行けないのだと思うとやや億劫《おつくう》な気分にもなった。身をくねらせて行けばいいのだと鮪夫は思った。今しがたこの大棟にたどりついたようなああいう身のくねらせかたをすれば体力は要するが立ちあがったり跳んだりよじ登ったりする必要はなく行手の屋根を次つぎに越えて行けるのだと鮪夫は思いそしてそれを半ば信じた。  少なくともこの屋根の軒端までは苦労せずに行けるのだからと鮪夫は自らに言い聞かせるようにして気分を僅かに昂揚させた。ただ滑って行くだけでいいのだ。滑りすぎて軒から落ちるなどということはない筈だった。何しろ軒端は水平に近いゆるやかな勾配である上に先端が|けらば《ヽヽヽ》瓦のようにほんの少しはねあがっているのだから。鮪夫は頭を下にして手を前につき出した姿勢で滑降することにした。大棟から上半身をのり出しただけで早くも鮪夫は屋根を滑っていた。また眩暈がした。滑降は急速でありスレート瓦との激しい摩擦で胸と腹が少し熱くなった。料理店の隣りの八百屋の屋根が迫ってきた。八百屋の屋根は寄せ棟だったが今は見たこともない奇妙な屋根に変形していた。波屋根だと鮪夫は思い、いや、これは波屋根などではなく、きっと|うねり《ヽヽヽ》屋根なのだと思いついた。いつの間にか鮪夫は軒端を通り越していて、しかも地面に落ちることもなく、うねり屋根の招き軒によって支えられていた。それは招き軒でもあり揺れ軒でもあった。鮪夫のからだを包んだ揺れ軒は赤ん坊をあやすようにゆっくりと上下動しながら鮪夫を棟へと運んだ。鯰《なまず》棟は鱗《うろこ》瓦の上に鮪夫を乗せたまま右肩を下げた。鱗瓦たちは次つぎと蠕動《ぜんどう》して鮪夫を順送りに運んだ。鯰棟の右端には巨大な蛇腹《じやばら》瓦があった。四肢を折りまげて抱きついている鮪夫を乗せ蛇腹瓦は内包した蛇腹を伸ばしながら宙に弧を描いて隣家の屋根に到達した。文房具屋の屋根だと鮪夫は思った。文房具屋の屋根は入母屋《いりもや》だ。なんとなく寺の屋根のようにも見える凝った造りのその入母屋は鮪夫を迎えたことが嬉しげでもあった。笑い出すのではないかと鮪夫は思い、ちょっと怖くなった。その屋根の瓦は鮪夫を乗せた瓦だけが順に騎乗瓦と形を変え、まるで鮪夫を楽しませてやろうとしているかのようであり、ふだんはいかめしいくせに鮪夫を見ると必ず巫山戯《ふざけ》てみせて鮪夫のご機嫌とりをする大人のようでもあって頼もしい感じもした。鮪夫はもうすっかり甘えた気分になっていた。甘えることに罪悪感じみたものはなく、今は甘えた気分でいることがいちばん正しいのだとさえ思えた。自分は木馬に乗ってはしゃいでいる子供なのだと思った。騎乗瓦たちは何ごとかわいわい騒ぎながら鮪夫を次つぎと順送りにして大棟にまで押しあげるとあとは沈黙した。大棟の冠瓦に片頬を押しあてている鮪夫の耳には地鳴りのような音がかすかに響いてきた。噴火するぞと鮪夫は思った。熔岩が真下に迫っている。冠瓦が揺れた。轟く噴射音とともに大棟は高く鮪夫を持ちあげた。鮪夫は冠瓦に抱きついたままで町の西方に向かっていた。とん、とんと段階的に音を立ててななめに上昇しながら大棟は鮪夫の下でまだ頑丈であった。鮪夫は意識を失いはじめた。時おり意識を取り戻したがそれは鮪夫を運んでいる屋根がその時その時の居場所を鮪夫に確認させてやろうとしているかに見えた。時には大屋根の軒端にいたし時には二階の窓の目隠し板にあやうくしがみついていることさえあった。しかしどのような時でも僅かながら、または大きくクメの家に近づいていることが鮪夫にはわかるのだ。そして意識の混濁がおさまった時鮪夫はまさにクメの家の差掛け屋根にいた。そこは軒端であり屋根は五寸勾配である。鮪夫は今、クメの部屋を見あげている。クメの部屋の雨戸は閉められていたが隙間からは明りが洩れていた。頭は冴えている。ふたたび涼しい風が吹いた。鮪夫はほんの七尺ばかりの差掛け屋根を這いのぼり雨戸にたどりついた。耳を板に押しあてたがひと声はない。クメがひとりで起きているのだろう。鮪夫は雨戸を叩いた。 昭和62年9月 文藝春秋刊 底 本 文春文庫 平成二年九月十日刊 差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。