筒井康隆 48億の妄想 目 次  プロローグ  第一部 報道  第二部 海戦  エピローグ  プロローグ  午後七時五十分。テレビはコマーシャルを含めて五十分間のミュージカル・ドラマを終えた。 「あまり面白くなかったな」十秒スポットを次つぎに流しているスクリーンを横眼で見ながらタバコをくわえ、サラリーマンの父親がいった。 「僕は面白かった」椅子をずらせて背のびをしながら、大学生の次男がいった。 「おれは面白くなかった」父親がいった。「理屈が多すぎる」 「そう、ちょっとね」母親がいった。 「あの、会話のややこしいのがいいんだ」次男は食物を探してテーブルの上を眺めまわした。「あの会話がなけりゃ、ふつうの音楽番組と同じだもん」 「でも、お父さまは面白くなかったって、いってらっしゃるのよ」長男の嫁がいった。「みんなが面白いような番組でなきゃ、だめだわ」 「あの会話をぜんぶ、歌詞にしちまえばよかったんだ」長男が、今年四つになる女の子を膝の上であやしながらいった。「音楽劇なんだものな」 「でも、それだと、いってることがよくわからなくなる」次男が砂糖菓子を食べながらいった。「テーマがよくのみこめなくなって、ストーリイの面白さもなくなってしまう」 「おれは面白くなかったな」父親がいった。 「それは、わからなかったからだろ?」と次男がいった。 「だから、誰にでもわかるようなミュージカル・ドラマを放送するべきだわ」長男の嫁が、夫の月給袋をもういちどのぞきこみながらいった。「わかりやすくして、そしてもちろん、もっと面白くして……」 「面白くなかった」父親はうなずいた。「うん、絶対に、面白くなかったぞ」 「そうですね。面白くなかったですね」母親が茶碗の底を眺めながらいった。 「投書すればいい」長男はコーヒーを飲んだ。  テレビは、国内ニュースを始めた。  奥行二十・五センチの二十一インチ・カラーテレビのスクリーンは、完全自動調整になっていた。画面は室内の明るさにより、自動的に調節された。  家族は喋るのをやめて、ふたたび画面に見入った。やや薄暗い室内照明の中で、家族の十二の瞳は、スクリーンの光を反射して光っていた。画面に向けて大きく見開かれた彼らのその眼は、まん丸くもなく、楕円形でもなかった。四隅がこころもち角ばっていて、いわばテレビ・スクリーンに近い形をしていた。 「……このため、協定有効期間も切れた日韓漁業問題は、相当難航するのではないかと見られています。浅香外相はこの件につき、十三日午後四時、首相官邸に宇留木首相をたずね……」  スクリーンには外相のにこやかな顔が映し出された。 「この人、いつ見ても好男子ね」長男の嫁が長男にささやいた。 「うん。テレビ・フェイスがいいんだ」 「外相じゃ惜しいわ。首相にしたいくらいだわ。首相の選挙も、国民投票にすればいいのに……」 「じゃあ、そういって投書すればいい」 「好男子だわ。あそこの郵便局長さんに、ちょっと似てるわ」 「そういえば、そうだな」 「好男子だわ」 「おやおや」母親が嫁にいった。「咲子さんは、あそこの郵便局長さんが好きなのかい?」 「あら、いやだわ」ちょっと笑った。  母親は嫁を見つめた。「おかしいかい?」 「いいえ、何も」 「でも、笑っただろ?」真面目な顔で、彼女は嫁を見た。「おかしければ笑ってもいいんだよ」 「何もおかしくございません」 「そう」茶を飲んだ。「わたしがいるために、笑いたい時にも笑えないなんていわれるといやだからね」 「どうも、よくわからん」父親がタバコをもみ消した。「政治なんて、むずかしいものは、もっとわかりやすくして、それから、もっと面白くして見せなきゃいかん」 「ドラマにすればいい」と長男がいった。 「ミュージカルにすればいいわ」嫁がいった。 「マンガにすりゃいいんだ」次男はそういってから急に笑いだした。椅子の凭《もた》れの上で、身をのけぞらし、笑い続けた。  父親はあきれて次男を見つめた。「気ちがいだ」ズボンのポケットをさぐった。「タバコが切れたな」母親にいった。「お前、店へ行って、とってこい」 「売りものですよ」母親はしぶしぶ立ちあがった。「お父さん、喫い過ぎじゃありません?」彼女はそういって、昼間彼女が店番をしている店の間のカウンターから、フィルター・タバコを一箱持って戻ってきた。  そのタバコ屋は舗装道路の交叉する街かどにあった。車の流れも、この時間には絶えていた。ほんの時おり、深夜運転で貨物を運ぶトラックが短い警笛をあげて通り過ぎていくだけで、あたりは静かだった。ビルもあれば住宅も商店もある、都心から少し離れた、くすぶった街かどだった。  家の中では、父親がまだ、むくれていた。 「どうも、面白くないニュースばかりだな。もっと突拍子もない、途方もない大事件というのはないのか。けしからん。放送局というものは、もっと面白いニュースで、われわれを楽しませてくれなきゃ、いかんのだ」 「選局が悪かったのかもしれませんな」長男がリモコン・ボックスのチャンネル・セレクターをまわした。  海外ニュースをやっている局が出た。  東南アジアの局地戦の様子が紹介されていた。原住民のゲリラ隊員が、アメリカ兵に拷問されていた。ゲリラ隊員は足の裏に鉄板を押しあてられるたびに、悲鳴をあげてとびあがった。 「あの鉄板、電流を通してるのかしら?」 「いや、まっ赤に焼けてるんだ」 「悲鳴が、よく聞こえないわ」嫁がいった。 「録音が悪いんだ」長男がいった。 「もうすこし、オーバーに悲鳴をあげればいいのに。そしたら、よく聞こえるのに」 「テレビ・カメラを向けられていることを知っている筈だから、いつもよりはオーバーに悲鳴をあげてる筈なんだがな」 「じゃあやっぱり、演技力不足なのね。あのアメリカ兵、もっとよく焼けた鉄板をくっつけてやればいいのに」  次男が身をのり出した。「アメリカ兵だって、テレビ向きに、ふだんよりは鉄板をよく焼いてる筈だぜ。だいいちカメラマンが、いろいろ注文をつけてる筈だ」 「ちっとも熱そうじゃないわ」嫁が不満そうにいった。「表情がなってないわ。それに、もっと怖そうにしなくちゃ。ドラマの方がうまいみたい。本当みたいじゃないわ」 「あの土人は」と父親がいった。「鉄板を当てられてない時は、キョトンとして、テレビ・カメラの方を見るな。あれはいかん。出演者というものは、カメラを見ちゃいかん」 「投書すればいい」 「盗み撮りや、かくし撮りよりは、画面がはっきり見えてていいな」次男がいった。「あれだと木の葉や壁が画面に入ってきて見にくいからね。それにタレントが、いつ撮られてるかわからないものだから演技が間のびして、見てる方じゃ退屈でしかたがない」 「拷問する方も、もっと獰猛《どうもう》な顔つきの奴の方が迫真力があるのに。このアメリカ兵は若すぎるよ。せめて髭でも生やせばよかったんだ」と長男がいった。  画面が変わって、戦闘場面になった。  砲弾が畠の中で炸裂《さくれつ》した。小銃を構えて走っていた土民兵が、棒のようにぶっ倒れた。 「簡単に死ぬのね」嫁がいった。「もう動かないわ」 「もっと、苦しむところが見たいですね、ねえお父さん」母親が父親に同意を求めた。 「味もそっけもない死に方だ」父親がいった。「撃たれた時の顔がもっと見たいな。見せるべきだ。苦悶してる表情をな。うん、見せなくちゃいかん、絶対に」 「そうですよね、放送料払ってんですものね」母親がうなずいた。  スクリーンの中で、米軍側の土民兵が、捕虜を銃の台尻で叩きはじめた。捕虜は土の上を、頭をかかえて転げまわり、身をよじった。 「もっと、頭を、頭を!」嫁が身をのり出して小さく叫んだ。  兵は捕虜の頭を踏んづけた。 「そうよ! あ、もっと、ええい、もっと、もっと」嫁は口の縁に泡をふいていた。こぶしを固め、胸の前で振った。  兵の銃剣が、捕虜の咽喉を刺し貫いた。 「……あ」  部屋の中が一瞬しんとした。  次男がゴクと唾をのみこんだ。  兵は死体の首を切りとった。毒々しい血の色がスクリーンにあふれた。  嫁が、クククと咽喉を鳴らした。  首がコロコロと地面を転がった。  嫁が、歓喜の色を一瞬眼に浮かべた。彼女の口の縁に泡が、顎をつたって流れ始めていた。  母親がふらふらと立ちあがり、台所へ去った。  画面が変わり、一九七六年型テレビつき小型乗用車のコマーシャルが始まった。最新流行のパゴダ型髪型のコマーシャル・ガールが、車の性能そっちのけで、附属品を賞讃しはじめた。 「あら、もう終り?」嫁が不満そうにいった。「ひどいわ、あんなに唐突に終るなんて」 「投書すればいい」 「そうね。投書してやるわ。あの番組、いけないわ。そう、第一に残酷すぎるわ。茶の間向きじゃないわ。不愉快だわ」 「でも、喜んでたじゃないか」と次男がいった。 「だって、この時間なら、まだ食事してる人だっているのよ。絶対、いけないわ。よし、投書してやろう。あなた、はがき持ってない?」  スクリーンの中ではコマーシャル・ガールが、車を買ったというマイクロ・スキャナー社の社長に、乗り心地をインタビューしていた。社長が夢中で喋り続けていると、母親が台所から戻ってきた。 「気分が悪くなってね」 「ほら、気分が悪くなった人もいるのよ」嫁が勝ち誇っていった。「あなた、はがき持ってない?」 「ないな。明日でも、モニター・ステーションへ電話したらいい」長男はまた、リモコン・ボックスをとりあげた。「他の局にしてみよう」チャンネル・セレクターを、ひととおりまわした。 「だめだ。この時間はどこもかもニュースだよ」  昼間、十三歳になる男の子を川で溺れ死にさせた婦人が、インタビューされていた。 「はい、急流だったもので、橋脚に衝突しましたのです。それで転覆してしまったのです」  アナウンサーは携帯マイクを更に婦人の口もとに寄せた。 「橋本さんの坊っちゃんとご一緒だったのですけど、橋本さんの坊っちゃんは、ボートの底板の上にお乗りになって助かりました。だけど、健夫はとうとう……」絶句して、涙を拭った。  アナウンサーは沈痛な表情をして見せた。このアナウンサーは、そんな表情のもっともよく似合うアナウンサーだった。「で、お母さまとしては、今度のこの事故を、どうお思いになりますか?」 「せっかく苦労して育てましたのに。今朝もね。私にね、こういったんですよ……」しゃくりあげた。「今朝も私に……」 「いつも同じようなことばかり、いってるわ」嫁が腹立たしげにいった。「どうしてもっと、悲しさを違うことばで、いえないのかしら」 「悲しみ方が足りん」父親もうなずいた。「本当に悲しいのなら、その悲しさをもっと表現すべきだ。われわれにわかるように、その悲しさの特殊な点を、もっと強調すべきだ。これじゃ、表現力ゼロだ。なってない」 「バカだ」と次男がいった。 「誠意がないわ」嫁もいった。「この人だって、ふだんテレビを見てるでしょうに……。どうして表現のしかたを知らないのかしら。視聴者に対する誠意が……ううん、それ以前の問題として、サービス精神が不足してるわ。こんな人からは、罰金とればいいのよ」 「本当だ。せっかくテレビに出してもらっていながら……」長男が惜しそうにいった。 「バカだ」 「こんな母親の子供は、可哀そうだね」母親がいった。「溺れ死んでも、浮かばれやしませんよ」  アナウンサーが、画面の中でいった。「で、他にお子さんは?」 「健夫ひとりでございました」鼻をすすった。「どうして……どうしてこんなことになったのか……」また、しゃくりあげた。「あそこには都の水道局の取水所があって、川を一部せきとめてあるんです。だから流れが急なんです。あんなものは、あんなものは壊してしまってほしいと思います……」 「でも、今はことに梅雨期だから、ボート入るべからずという文句が、橋脚にちゃんと書かれていたんじゃ、なかったんですか?」  そのアナウンサーのことばに、母親はちょっと困り、黙って眼を拭ってごまかした。アナウンサーは、してやったりという表情で、ちらとカメラの方を向いた。 「そうとも。そんな女は、ちょっと困らせてやれ」次男がいった。「あのアナウンサー、人気が出るよ、きっと」 「いや、駄目だな」父親が次男を横眼でちらと見た。「このアナウンサーは、まだ突っ込みが足らん。まだまだ綺麗ごとだ。もっともっと、この女に悲しがらせる訊ね方がある筈だ。もっと泣かせるように誘導しなきゃいかん。もっとマイクを近づけるべきだし、カメラも、もっと前進すべきだ。アップにしなきゃいかん。もちろん、女だってもっと泣き叫ぶ方がいい。日常的な災難だからといって、自分で分をわきまえて、控えめに泣く必要はないんだからな。こんなにあっさり処理したんじゃ、マンネリズムだ」 「この女《ひと》きっと、ディドロ薬品の感情昂揚剤を服《の》んでこなかったんだわ、きっとそうよ。常備薬なのに」嫁が口惜しそうにいった。 「大衆を馬鹿にするのもはなはだしい。タレントとしても、もちろん落第だ」 「この女《ひと》、もう二度と、どんなことがあってもテレビに出演できないわ。可哀そうだけど」 「アナウンサーもだな」長男がいった。「どうせこんな役をするんだから、あとでマスコミの殺し屋とか何とかいわれる筈なんだ。どうせそういわれるのだったら、殺し屋なら殺し屋らしく、もっと残酷に訊けばいいんだ」 「とにかく、面白くないな、うん」 「本当にそうですね」 「バカだ」 「投書すればいい」 「投書してやるわ。はがき持ってない?」  外の舗装道路では、一台のダンプカーが、タバコ屋のある交叉点に向かって、時速八十五キロで走ってきていた。運転手は一人だった。他に誰も乗っていなかった。積荷は建築用の型鋼だった。  二十三歳の運転手は、不機嫌だった。誰でもが家でテレビを見ている時間なのに、自分だけが仕事をしなければいけないというのは、実に不公平だと思って、心底から腹を立てていた。朝の四時から運転し続けていて、疲れていたし、眠くもあった。さっき、腹立ちまぎれに、自動販売機のビールを一杯飲んだのがきいてきて、よけい眠かった。  少しうとうとした。  タイヤが歩道に乗りあげた衝撃で、眼を開いた。板戸をおろしたタバコ屋が鼻さきにあった。反射的にブレーキペダルを踏んでハンドルを切った。  車は店さきをわずかにそれ、家族六人がテレビを見ている居間の洋壁をぶち破った。窓ガラスが砕け、テレビが爆発した。父親は倒れてきたまばしらで頭蓋骨を砕かれた。母親の心臓にきずりの折れ口が刺さった。長男はタイヤの下敷きになり、肋骨を二本残して全部折った。彼が胸に抱いていた四歳の娘も、皺くちゃになって紙のようにへしゃげた。長男の嫁はワイヤーラスを貼った壁土で、蛙のように叩き伏せられた。運転手はフロントガラスを破って全裸で飛び出し、居間を通り抜けて台所の反対側の壁のタイルに頭を叩きつけ、頭部を肩の間へめり込ませた。  最初の野次馬が走ってきたとき、生きていたのは、右肩甲骨と鎖骨をぐじゃぐじゃにした次男だけだった。  第一部 報道     1  もう何十年も前から、そしていつの世でも、マス・コミュニケーションの第一の理想と、大衆の第一の要望とは、不思議に一致していた。それは事件と報道との同時性だった。ただそれが、タバコ屋一家の惨劇のように、事前に予期することのできなかった事件のばあいは、媒体の中で最も報道性の総合得点が高いテレビですら、「同時性」ということばを「速報性」にすり替え、そのかわりに「詳報性」「現実性」「表現性」「正確性」などのおまけを、ワンサと盛り込まなければならなかった。ただし詳報性だけは、今でも技術上の限界として、マイクロ・テレ・ニュースなどの活字報道に劣っていたのだが。  だから朝の六時、「長部久平ニュース・ショー」の担当ディレクター折口節夫がスタジオ入りして、深夜組のD・D浜田から仕事の引継ぎを終った時、32スタのフロアーには、ニュース工芸社が徹夜で作ったタバコ屋のセットが、ちゃんと出来あがっていた。 「隣家の人の話だと」と、浜田が説明した。「衝突する音と、ガラスの割れる音、まばしらと大柱の折れる音、テレビのブラウン管の爆発音、断末魔の悲鳴が一度に、こう、底の方から持ちあがるようにウワッと起って、約五秒で静かになったらしい。E・Eにそういって、作らせておいた」  折口は感謝の意をあらわすために、ほんの少し微笑してから、すぐ真顔に戻った。「それをいちど、聞いてみよう」  折口はいつもの、活気に満ちあふれた踊るような足どりで、第一副調整室に入った。痩せて小柄な浜田が、せかせかと彼に続いた。  折口はインターフォンで効果係を呼んだ。「E・E、どうぞ」  効果主任が出た。「こちらE・E」 「効果音、できたか?」 「それらしいものができた」 「自信がありそうだな。聞かせてくれ」  きっかり五秒、副調整室は轟音に満ちた。 「どうだね?」心配そうにE・Eが訊ねた。  折口は、細長く白い指さきで、しばらくコントロール・パネルの表面をコツコツ叩き続けながら考えた。それからいった。「断末魔が聞こえにくい。もう少し大きくしろ」 「あんた、直接聞いたわけじゃあるまい?」E・Eが不満そうにいった。 「だけど、誰だってそれをいちばん聞きたいんだぜ」折口はインターフォンを切った。 「じゃあ、僕はもう帰る」浜田があくびをした。「お手並を、女房や子供といっしょに、家のテレビで拝見するよ」  浜田はD・D歴十五年で二人の子持ち。折口はD・D歴五年で三十二歳の独身である。 「お疲れさま」  折口は浜田と別れ、スタジオに出てセットの出来具合を見た。  去年大学のテレビ科を卒業したばかりの、背のひょろ長い演出助手がやってきて、折口にいった。「D・D、これが現場写真、それからこっちが家族の写真です」 「家族の写真はプロジェクターにかける。投写室へ持っていけ」現場写真をセットと見くらべた。「美術部さん、どこだ?」 「いません」そういって、代りにニュース工芸社の社員がやってきた。事務服を着てはいるが、ひと眼で大工あがりということのわかる中年の男だ。「何ですか?」 「この張りものの色だが」折口はセットの壁を指した。「写真の通り、いちおう灰色にはなっているが、もう少しおどろおどろしくしてほしいんだ」 「お言葉をかえすようですが」彼は眼を丸くした。「参考のために、その、おどろおどろしい灰色という色の具体的な例をお示し願えませんか?」 「考えろ」 「壁で思い出しました」まだ横にいたA・Dが折口にいった。「現場の近所の人の話だと、ダンプにぶち破られた外壁にはポスターが貼ってあったそうです」 「じゃあ、同じものを貼れ」 「それが、どんなポスターだったのか憶えていないらしいのです。何を貼りましょう?」  プロデューサーの石神がやってきて、うしろから折口の肩を、七センチはありそうな厚い掌で叩いた。「おはよう」  折口は振り返った。「ちょうどよかった、P・P、この番組のスポンサーの、何でもいいから商品ポスターを一枚、このA・Dにやってくれ。あの壁に貼るんだ」 「よかろう。営業の吉田のところで貰え」  A・Dが眼をしばたたいた。「そんなことをして、いいんですか?」  折口はニヤリとした。「ポスターを貼ってないと、嘘になるからな」 「でも、違うポスターを貼っても、やっぱり嘘になります。ことに、スポンサーの商品なんて、あまりにも宣伝臭が……」 「おい、A・Dさん」折口は笑いながら、P・Pと眼くばせしあった。「どんなポスターが貼ってあったか調べていると、番組に間にあわない。速報性と正確性の問題だ。どちらが大事だと教えてもらった?」 「わかりました」A・Dはスタジオを駈け出た。 「じゃあ、この問題にも答えてくれ」P・Pが笑いながら折口にいった。「正確性と迫真性の問題だ。どちらが大事だ?」  折口は、うさん臭そうにP・Pを見た。「何を言いたいんだ?」 「ダンプカーをチャーターしてきた。ところが事故を起したのと同じ車が見あたらないんだ。やっとそれらしいのを見つけはしたが、車輛総重量が約一トン多い。だけどD・D、こいつの方が」彼は折口に顔を近づけた。「ずっと、憎らしい面構えをしている」  折口は少し考えてからシュラッグした。「しかたがないな」  ニュース・コメンテイターの迫力が、以前の倍以上も重要な条件とされている現在、迫真性の名のもとに事実の歪曲がたくみに行われだしたのも当然だった。報道競争は、人びとの関心と興味をよび起すニュースを作るために、あらゆる手段を試みた。民間放送局間の競争が、この傾向に拍車をかけた。ひとつの事件を報道するにも、できるだけ受け手に深い印象をあたえるような内容を盛り込む、はげしい競りあいが生じた。また、刺戟の強い報道の大量性に慣れてきた大衆の側でも、より強い刺戟を含んだ報道でなければ、反応を示さなくなった。こうしてニュースの送り手と受け手のあいだの悪循環が、報道コミュニケーションの全体にひろがり、今では報道の同時性、迫真性、新奇性の範囲をこえた刺戟性だけの追求が始まっていた。 「ダンプカーに誰か乗せたいんだが、乗り手がいない」折口がいった。「リモコンで操作する」 「うん、しかたがないな」P・Pは下唇を突き出して、不満そうにいった。「この間の三重衝突事件のニュース・ショーで、実際の事故以上の怪我人が出たばかりだから……」 「おうい、L・L!」折口は照明主任を呼んだ。「いいな、車のヘッドライトをきかせるから、ロー・キー・ライティングだ。コントラストを強くするからフィル・ライトはない方がいい」  10キロワットのソーラー・スポットの仕込みを手伝っていた照明主任が、立ちあがって答えた。 「わかった、D・D」 「みんな聞いてくれ!」折口は怒鳴った。その声は天井高40フィートの32スタ中にひびきわたり五十人あまりの人間がいっせいに彼の方を見た。「今日はテストはやらない。各自打ちあわせてくれ。わからないことがあればA・Dの誰にでも聞いてくれ。A・Dにもわからなければ、おれは第七会議室にいる」  折口は、P・Pと共にスタジオを出て、会議室へ歩いた。長身の折口に歩調をあわせようとして、肥満体のP・Pは赤ら顔に汗を浮かべた。 「もう長部の旦那は来てるかな?」 「うん、さっき来た」P・Pが答えた。「今日はすごくご機嫌がいい。今週号の3Dフォ卜・オールラウンドを読んだか?」 「いや、まだだ。何が出てるんだ?」 「草月弘子が長部をひそかに想っているという記事だ」  草月弘子は、ニュース・ショーで長部のアシスタントをしている女性アナだった。 「それは事実なのか?」 「でたらめに決まっている。あの子はE・Eの舟越と婚約してる筈だ」 「今日、長部の機嫌がいいのは、そのためか?」 「そのためだ」P・Pは確信に満ちてうなずいた。 「じゃあ、おヒロは怒ってるだろう?」 「どうしてだ? あの子はそんな馬鹿じゃない。逆にいつもより愛想がいい。特に長部にはな」 「そこでますます長部の相好がくずれるというわけか?」 「馬鹿だなあ。長部の商標はプレイボーイだ。愛想よくしてくる草月弘子に、わざと冷淡なそぶりをしている。だけど内心ワクワクに決まっている」 「そうか。だがそんなことは、おれにはわからん。わかりたくもない」折口はきっぱりとそういった。 「まだ、女よりテレビが好きか?」 「昔の女はウェディング・ドレスを着たいために男と結婚した。今の女は『今日の挙式』でテレビへ出たいために結婚するんだ」  モニター・クラブの婦人部長が、通りすがりに愛想よく、二人に一礼した。彼女は最初、常連投書家としてデビューした、五人の子供のある主婦である。今ではこのテレビ局の社員のように得意顔でスタジオやロビーをうろつきまわっていた。  彼女だけではなかった。すべての人間が投書家となった今では、マスコミの受け手がすなわち送り手の一部でもあった。大衆はすでに、自分たちを特殊な作り手のひとりとして意識していた。もちろん彼らは、はじめのうちマスコミに対して、何らかの抵抗するものを持ってはいた。だが、やがてマスコミの中に巻きこまれ、今はすでに自己訓練も成長も止まってしまっていた。  第七会議室の正面には、長部久平の生白いのっぺりした顔が、螢光ウォールの照明でハレーションを起していた。彼はまだメークアップをしていなかった。折口はさっそく彼に声をかけた。 「長部さん」そういってから、あわてて言いなおした。「いや、長部先生。今日のインタビューは、昨夜事故のあったタバコ屋の次男なんですが、まだ病院で手術を受けているので、オン・エアまでには来られないと思うんです。それで、ぶっつけ本番でお願いします」 「いいでしょう。その方が面白い」彼は愛想よく答えた。「そのかわり、インタビューが本当のぶっつけだということを、前もってアナウンスしてくださいね」  ぶっつけ本番はよほど応急の場合だから、それだけでニュースになるし、インタビューアーの名もあがるわけだ。  草月弘子は、いつもの通り誰にでも愛想よく接した。だが折口は、彼女が時おりちらちらと長部をうかがう眼の中に、青白い憎しみの火を見た。  こまごました打ちあわせが、一時間ほど続いた。自分が何を言おうとしているのか、まだわからないうちから喋り出す者や、自分の声を聞きたいために喋り出す者までいて、会議は長びいた。  A・Dが知らせに来た。「本番三十分前ですよ」  それほど急ぐ必要はなかったが、局に来る見学者の手前、スタッフ連中は大あわてで各自の持場へと廊下を走った。折口も携帯テレコールを右手に構え、お得意の静かな駈け方で32スタへ走った。ぶつかりそうになった女子高校生があわてて身を避け、駈けて行く折口のうしろ姿を惚れぼれと見送った。  スタジオにはすでに問題のダンプカーが到着していた。折口は遠隔操縦係の男と手早く打ちあわせた。 「いいか、時速90キロであっち側の仮想歩道の前の仮想の中央線を越えて、交叉点をこの歩道の曲りかどへ驀進、店さきでちょい右へそれて居間の外壁へぶち当る。手加減はするなよ」 「するものか」彼は面白がっていた。  折口は副調整室に戻り、全回線イヤホーンのヘルメットを被った。三人のテクニカル・ディレクターが、十四人のカメラマンと、ものすごい早口でカメラ割りの打ちあわせをしていた。 「8カメさんはそこで、ダンプの右うしろへくっついてフォロー、4カメはダンプが歩道へ乗りあげてから右へトラベル・ショット。望遠レンズでなく、できるだけくっついてくれ」  テレビ・カメラはすべて速隔操作になっていた。カメラマン・ステーションと呼ばれている第四副調整室にずらりと並んだ十人以上のカメラマンの操作によって、数年前までは「邪魔な尻尾」だったケーブルのないカメラが、スタジオの中央部を静かに移動した。衝突防止装置などもつき、人間が動かすよりもずっと安全に、そして滑らかに動いた。 「破片がとんできて、カメラを壊すかもしれない」4カメがいった。 「かまわん」折口は口をはさんだ。「二、三台の故障は覚悟の上だ」 「本番十分前です」第三副調整室にいるA・Dのひとりが告げた。  出演者たちがスタジオ入りした。  第一副調整室にたったひとりきりの折口、第二副調整室の三人のT・D、第三副調整室の五人のA・D、第四副調整室のC・Cたち、第五のL・Lたち、第六のE・Eたち、フロアーのF・Dたち、そして出演者──全員の緊張が高まった。  E・Eが折口に話しかけてきた。「D・D、いるかい?」 「何だ?」 「さっきの効果だが、エコーをかけた方がよくはないか?」  折口はにやりと笑った。「そう言おうと思っていたところだ」  彼はヘルメットの中の、スタジオ側の回線を入れた。ライト・オペレーターが草月弘子に注文をつけていた。彼女は言われた通りに化粧をなおした。彼女の今朝の服は、薄い水色の地に濃紺の横縞のスーツだった。痩せぎすの彼女にはよく似合っていた。  そのような縞の服は、昔ならよく横の線がブラウン管の走査線と一致して、テレビで見ると線が流れ出したりしたものだが、今ではこのようなストリーキングと呼ばれる現象は、カメラが自動的にアングルをずらすように改良されていることで防げた。  この他、テレビ・カメラはさまざまの細かい点が改良されていた。例えば、動きの少ない被写体を長時間うつしてから、別のものをうつしても前の像の反転した形の残る焼付きなどは、撮影最中でも古いイメージ・オルシコンをカートリッジ式に新しいものに取り替える自動装置がついたためになくなったし、ダイノート・スポット、ブラック・ボーダー、ゴーストなども、イメージ・オルシコンそのものの改良で一掃されていた。 「本番一分前!」  折口は姿勢を正し、几帳面にケースを出し、灰皿を引きよせた。タバコを宙でひと振りして点火し、喫った。ネクタイを直した。  昔風に、コーヒーをガブガブやり、口の端っこにだらしなくタバコをくわえ、ネクタイをゆるめて腕まくりしたスタイルの好きなD・Dもいたが、ほとんどお払い箱になっていた。  タバコ屋一家の次男が、A・Dに案内されてスタジオに入ってきた。彼の右腕はなくなっていた。顔色は蒼黒かった。足もとがふらついていた。彼は出演者たちに紹介され、エメラルド・グリーンのバックの前の小さな椅子に腰をおろした。 「次男が来たぞ」P・Pが第一副調整室へ入ってきて、折口にいった。  折口はうなずいた。「うん、来たな」 「今日はここで見せてもらうよ」P・Pが折口の顔色をうかがいながらいった。「いいだろう? 邪魔はしないから」 「話しかけさえしなけりゃ、いい」折口は顔をしかめながらいった。P・Pは興奮すると場所をわきまえずに喋り散らすのだ。 「あの子はまだ出演できる状態じゃなかったんだ」P・Pが喋りはじめた。「手術を済ませたばかりだから貧血を起すかもしれん。医者は動いちゃいかんといったけど、あの子はテレビと聞くと、ぜひ出たいといって泣きわめいた」 「本番五秒前」 「医者はしぶしぶ承知したが、今度はここまで運ぶのに……」 「もう黙ってくれ」  P・Pが黙り、長部久平が喋りはじめた。 「皆さん、やあ皆さん、おはようございます。長部久平です。今日もやっとスタジオ入りに遅れないですみました。いやあ、うちの電光タイム・サインが壊れていて、チャイムが鳴らなかったんですよ。ハハハハ。では何故眼が醒めたかといいますと、キリストが……ほら、皆さんもご存じの、私の飼犬のキリストが私の鼻を……」 「今日は奴さん、いつもより浮かれているな」とP・Pがいった。「ふうん、これはいかん。草月弘子が今日はあまり笑わないぞ。いつもなら横から、惚れぼれするように長部を見つめているんだが、今日は知らん顔をしている。やっぱり怒っているんだな」 「頼むから黙ってくれ」 「オーケー、黙った」  長部がガラリと表情を変え、沈痛な声でいった。「……ところで皆さん、今日のニュースです。皆さんももう、昨夜のニュース・フラッシュや、今朝一番のテレビ速報でご存じでしょう。昨夜午後七時五十九分、都内目黒区清水町で、大事故が起りました」  画面が変わり、現場附近の街並みを鳥瞰したスチール写真に重なってショッキングな音楽が流れた。  視聴者の期待を裏切らず、長部の声が叫んだ。「そうです、タバコ屋一家の惨劇です!」  驀進するダンプカー、バックを霧のように流れる白い建物、地ひびき、揺れる画面、エンジンの音。  突き進み、画面に迫るダンプカーの|いかつい《ヽヽヽヽ》表情、光る眼、むき出した歯、唸り声。  鼻さきに迫ったタバコ屋の店さき。恐怖に顫《ふる》える哀れな犠牲者。歩道に乗りあげた怪物。そのショックで、またもガクンと身を落す画面。  激突! 爆発音! 断末魔!  壁は粉ごなに砕け散り、大柱は宙にまいおどり、店の板戸ははね飛び、車のエンジンは火を噴き、屋根は崩れ落ちた。 「家がなくなっちゃった!」P・Pは驚いて叫んだ。「跡形もなくなった。これはひどい。屋根が落ちた」 「しまった。オーバーにやり過ぎた」折口はうわべだけ後悔の表情をして見せながら、P・Pの方をうかがった。 「車の速度が早すぎたんだ」P・Pも、しまったという表情だったが、それも見せかけだけらしいことは、折口にもすぐわかった。「車の速度を、実際の時より落すべきだったんだ。セットは実物よりも、ずっと|ちゃち《ヽヽヽ》だったんだものな」 「弱ったなあ」折口も、弱ってみせた。「また、実際と違うという投書が来るぞ」 「もう、どうしようもないな。放送されちゃったんだから」P・Pが、あたり前のことをいった。  番組の方は、おかまいなしに進行していた。  長部久平と草月弘子が、タバコ屋の次男にインタビューしていた。 「いったい、どうしてこんなことになったのでしょう!」長部久平が、被害者そっちのけで興奮していた。「われわれは、夜も安心して眠れないのでしょうか! ねえ君、どう思います!」詰問していた。 「こんなことがあって、いいんでしょうか!」次男も次男で、額に青筋を立てて怒鳴り始めた。 「昨日は家族全部が揃っていたんだ! 頑固者の親父、気の弱いおふくろ、とぼけた兄貴、おしゃべりの義姉《ねえ》さん、歌の好きな兄貴の子供、それが今は、僕だけなんだ! 僕ひとりなんだ!」 「なかなか、やるじゃないか」P・Pが、ちょっとあきれたようにいった。「熱演だ。近ごろ若い奴は皆、うまくなった」 「もちろん感情昂揚剤を服んできたんだろうが」折口もいった。「ただ、せりふを憶えてきたことが判然としすぎるな。もっと吃《ども》ったり、つっかえたりしなきゃあ……」 「その上僕は、こんな片輪になってしまった!」次男はうっかりして、切断したばかりの腕のつけ根を押さえてしまった。「ああっ!」激しい痛みに彼は呻《うめ》き、身もだえた。 「だいじょうぶですか? あなた……」おろおろ声で草月弘子が、心配そうにいった。彼女は眼を、まっ赤に泣きはらしていた。 「やっぱり彼女、うまいな」P・Pが満足そうに唸《うな》った。「さすが草月弘子だ」  次男は、痛みで涙が出てきたので、チャンスとばかりに号泣しはじめた。その後も涙が切れると、わざと傷口を押さえて涙を出した。しまいには、わけのわからないことをわめきちらした。 「もう、これ以上、何も訊かないでください! もう泣かせないでください! ああっ! 僕はこれから、どうしたらいいんだ!」  E・Eが気をきかせて、チャイコフスキーをバックに流しはじめた。 「こんなことがあっていいのか! くそ!」  彼は顔中を涙で光らせながら、椅子をフロアーへ叩きつけた。 「すごいサービス精神だ。若いくせにえらい。たいしたもんだ」P・Pが折口に向きなおっていった。「こんどまた、何かの時に使おう。君、おぼえといてくれ」  番組が終ってから調べると、時価五千二百万円のカメラ四台が壊れ、A・Dのひとりが全治三週間の重傷、フロアーの隅にいた女美容師とコマーシャル・ガールがそれぞれ一週間の軽傷、バンク・ライト五個とストリップ・ライトの電球八個が割れていた。タバコ屋の次男は番組が終るとすぐ貧血を起して失神、一時は重態に陥った。     2  しばらくぶりに外務大臣室に落ちついた浅香外相は、傍受マイクのコードも、テレビ・アイのスイッチも切り、タバコを喫いながら、ほんの五、六分ひとりきりでぼんやりした。  当分ここにこうして、じっとしていたい──外相は心からそう思った。彼は疲れていた。若くは見えるものの、そして彼自身も若い気ではいるものの、五十五歳の身体は、やはり彼の心のままにはならなかった。疲労が手足のさきにまで拡がっていた。四日間にわたる、箱根での漁業関係者との会談、続いて首相官邸での報告と会議──だがそんなことが何になるのだ──と外相は思った。──一方的に協定を条文化したところで、ますます韓国の反感を買うばかりではないか。  デスクの上の、ながい間会っていないひとり娘のポートレートをじっと眺めながら、外相は絶望的にそう思った。  首相はじめ農相、運輸相、官房長官など、報告会の出席者たちが自分に対してあらわに見せた非難と不安の表情を外相は思い出した。みんなわしに、責任を押しつける気なのだ、会談決裂を見越して──外相は嘆息した。宇留木首相──間にあわせの平和論者だ、彼の韓国大統領に対する、そして韓国国民に関する侮辱的発言が、そもそもの始まりではなかったのか、それが韓国の学生デモ、そして韓国政府の、わが国に対する公海自由の原則をそこないかねぬ注文にまで発展したのではなかったのか、今になってこのわしに策を求めたって駄目だ、そんなことは総理自身、よく承知している癖に──それから農相と運輸相──やはり頼りにはならない、あれは傀儡《かいらい》だ、官房長官──あれは閨房長官だ、総理と男色関係があるという噂がとんだほどの、薄ぎたない、底なしの助べえ爺いだ──。  だが、そう思いながらも外相は、自分にしたところで、テレビ・フェイスがいいだけの陣列用大臣に過ぎないことを、ひしひしと感じた。外相は馬鹿ではなかったから、外交に関する自分の無能さをある程度知ってはいた。だが、任期中にこんな問題が起ろうなどとは、彼は想像もしていなかったのだ。組閣後一年めに、国会に彼の不信任案が上程されたことがあったが、浅香外相としては、その時むしろそれが通過してほしかったくらいだった。  外相は、閣僚中もっともよくテレビでの雑談やコマーシャルにひっぱり出される大臣だった。そんな番組なら、外相は臆さず出演した。ただ、彼が困るのは、全国に中継される、今ではなかばショー化した定例の記者会見、政見発表などの番組だった。だが、出ないわけにはいかなかった。首相でさえ、これに出演しないわけにはいかなかった。マスコミの力が憲法の一部だといわれていた時代はとっくに過ぎ、今ではそれは憲法を越すものだった。首相は、意見を異にする衆・参議院議員には会わなくてすむが、記者会見を拒否することはできなかった。もし拒否したりすれば、それがまた重大なニュースになった。  マスコミでは、「ノー・コメント」という言葉は、重要な事柄を間接的に表現するひとつの方法と見なされていた。浅香外相はこの言葉を乱発したが、それは意見を持たないからであることが多かった。それが大衆をして彼のことを、口のかたい、真に政治家らしい大臣として称賛せしめる結果になった。難解な政見を喋りまくる政治家は、「むずかしいことばかりいって、ちっとも面白くない人」とされ、無視されたのだった。  卓上の省内電話が鳴った。外務審議官の深井からだった。彼は投げやりな口調で外相に訴えた。 「大臣、何とかしてください。記者クラブ代表が、話を聞きたいといって帰りません」  外相は苦しげに唸った。「君、何とか適当な返事をして帰らせてくれ」 「今度ばかりは駄目のようです。日韓会談の詳細を前もって知りたいといって、もう四時間もねばっているんです」深井は恨めしげにいった。「それに、大臣。テレビ・アイのスイッチをお切りになりましたな! それがよけい、彼らを怒らせたようですぞ」 「だが、テレビ・アイをつけたって、今はわしは何もしとらん。そしてこの部屋にはわしひとりだ。わしがひとりでぼんやりしとるところをテレビ中継したって、しかたがあるまい?」 「それは大臣のお考えでしょう? ところが彼らとしては、目前に迫った日韓会談に関して、外相がひとり頭を痛め、悩んでおられる情景が、映像として欲しいのです」 「そんなことまで、してやらなきゃならんのかね……」外相は哀れっぽい調子でいった。  深井はさすがに気の毒になったのか、少し黙った。だが、すぐ意を決したように断固としていった。「そうです、大臣。大臣は、そんなことまでしてやらなければならないのです」ちょっと間をおいてから、深井は外相をなだめすかしはじめた。「おわかりでしょう、大臣。今では、公職にある者にプライバシーはありません。でもそれだって、閨房の秘事まで開陳しなくちゃならない芸能人にくらべたら、ずっとましなんです」  外相が黙っていると、深井審議官はとどめを刺すようにいった。「では、代表者を接見室へ行かせます」  外相が悲鳴まじりに待て待てと叫んだとき、電話が切れた。  浅香外相は助けを求めるように、あたりを見まわした。何もなかった。彼のデスクの抽出しの中には、彼の苦しみを和《やわ》らげてくれそうなものがひとつだけあった。テレビでは、拳銃という名で通用しているドラマチックな小道具──しかもそのほんものの方だった。だが外相はそれを使う気にならなかった。また、自分がそれを使う勇気がないことも知っていた。  当然のことだが、外相は、日韓会談そのものよりも、会談に関する記者たちの公開質問の方がずっと怖かった。会談に関しての公開質問が、会談後に行われるのならまだよかった。会談が平穏裡に和解へ一歩前進したにしろ、また決裂したにしろ、その通りを喋ればよいからだ。だが今度だけは、外相はもちろん、他の誰にも会談の見通しはつかなかった。おそらく決裂であろうことは、誰にでも予想できた。しかしそれがどの程度かわからないのだ。だいいち外相の口から今回の会談は多分決裂でアルなどと言えるものではなかった。だがマスコミは予想どころか、当日の会談がどのように進行するのかを知りたがっていたのである。  官房長官や各大臣の秘書は、毎日マス・メディアに「発表用原稿」として大量のニュース・リリースを配布していたが、この目的は、まだ起きていない政治的な出来ごとを、前もって明示することにあった。だから記者は、重大な議事や会談の行われている場所へ息せき切って駈けつけ、あわてて報道するという必要をなくしていた。記者のすべき仕事は、前もって、いかにその出来ごとを劇的に盛りあげるか、いかにセンセーショナルに演出するかを考えることにあった。  宇留木首相がテレビ番組「朝の総理」の時間で、すでにリリースで発表されていた彼の演説原稿から離れ、突然韓国の悪口を喋り出したのは、ただ単に、すごく耳の中が痒《かゆ》かったのに、あたりに耳|かき《ヽヽ》あるいはその代用になるものがなかったからである。この時のマイクロ・テレ・ニュースは、彼が実際に行った演説と、実際には行わなかった演説の原稿とに、同量のスペースをさいて報道した。しかしその際、もっとも報道価値があったのは、そのどちらでもなく、総理が予定通りの演説をしなかったことと、その理由は何かということだった。理由としては、韓国の学生デモで日の丸の旗が焼きはらわれた何年か前の些細な事実がふたたび掘り起され、ニュースとして蘇った。  大衆のほとんどは、何が本当の出来ごとの原型なのかを、あまり知りたがらなかったし、ニュース・バリューのある出来ごとは、ますます劇的演技になった。議事や会談では「話題の人物」というタレントたちが、あらかじめ用意されたせりふを語りあうにすぎなかった。成功した政治家──それはマスコミに利用されながらも、巧みにマスコミを利用した人間たちのことだった。浅香外相もそうだった。だが今、彼はとうとう意に反してマスコミを裏ぎる結果になってしまい、マスコミはそれに気づいて彼に牙をむきはじめていたのである。  接見室との境のドアを開けて、記者代表の隅の江が入ってきた。牙はむいていなかったが、外相は、あわてて言った。 「君、ここへ入ってきちゃいかんよ。隣で待っていてくれたまえ」  いかつい顔をした隅の江は、眼のふちを皺だらけにし、浅黒い頬を顫わせて、ドアの前で立っていた。しばらくして外相は、彼がせいいっぱいお世辞笑いをしているのだということに、やっと気がついてびっくりした。 「外相。テレビ・アイは、まだお切りになったままでございましょうか?」隅の江は馬鹿ていねいに訊ねた。  外相はいった。「ああ、まだ切ったままだ」 「そうですか」  隅の江の態度ががらりと変わった。ひどい|がに《ヽヽ》股でデスクの前へずかずかと近づき、ポケットからタバコを出して宙でひと振りした。 「君、無礼な……」外相は腰を浮かせた。 「他人に無礼さを指摘する方がよっぽど無礼だ」隅の江は外相に顔を近づけた。「あなた個人の内容の貧しさを、今まで宣伝でカバーしてきたのは誰だか知っていますか。われわれだ。あなたは、われわれだけじゃなく、大衆をさえ侮辱しようとしているんだ。ほんとにあなたは、無礼な人だ」 「出て行ってくれ」外相の声は顫《ふる》えた。 「それは誰にいってるんだ」隅の江は静かにそういったが、彼の身体も怒りで小きざみに顫えていた。「わたしを誰だと思っているんだ。わたしのいうことをきけ!」  どうしてこんな奴に、罵られなければならんのだ、どうしてだ──外相はそう思った。わしは大臣だ、この男はただの記者だ、わしは五十五歳だ、この男はどう見ても三十五、六歳だ、それなのにこの男は、わしが当然自分のいうことを聞くべきだと思っている、これはどういうことだ──外相はそうも思った。わけがわからなかった。 「外務大臣がいやになったのなら、やめても構わない。だが、やめたいのならなおさらのこと、日韓会談だけは、どうしてもあなたが出席しなくちゃいけない。この意味がわかりますか?」 「そりゃ、日韓会談の重要性は誰にだってわかる」と、外相がいった。「しかし、漁業問題がこれだけこじれた今、どうしてわしだけが苦しまなくちゃいけないんだ? どうして他の誰かに外相という肩書きをつけてやって出席させてはいけないんだね? わしはもういやだ。だいたいこの問題がここまでこじれたのは、わしのせいじゃないんだ。十年前のあの基本条約がいかんのだ。いや、だいたいその前の交渉がいかん。日本政府は、李ラインというのは韓国の一方的な宣言なのだから、日韓交渉の議題じゃないといって、まともに取りあげようとしなかった。あれがいかん。だいたい李ライン撤廃というのは、当時でも国民にとってはいちばん身近な問題だったんだ。それなのに池田さんの頃から、請求権優先、李ラインあとまわしの奇妙な形で交渉が進められた。アメリカの言いなりになったからだ。そりゃそうだろう、アメリカにとっちゃ、李ラインや竹島問題なんか、本当はどうでもよかったんだものな。アメリカが期待したのは日韓の政治的結合度の増加と、ドル危機防衛にともなう対外援助の削減をある程度日本に肩代りさせることだったんだ。だから李ラインや竹島などの個別的な問題には、ぜんぜん利害関係がなかった。そこで、解決の|しかた《ヽヽヽ》なんかどうでもいいから、とにかく早く解決しろ国交を正常化しろと日本政府の尻をひっぱたくだけだった。どう転んだところで苦しむのは日本の零細漁民だけなんだからな。だから政府はろくに審議もせずに、社会党や学生の猛反対にかかわらず強行可決で案件を通してしまった。漁業問題をほとんど未解決のままでな。今、こんなことになるのはあたり前だ。だからわしが悪いんじゃない」 「だけどそれは、しかたがないね」と、隅の江がいった。「あの頃はちょうど他にニュースがなかったんだからね。日韓条約案件が国会へ出ればひと波瀾あるのに決まっている。マスコミはそれを期待したわけだ。案の定大さわぎになり、デモがあった。強行採決があるかと思うと、社会党の委員長が愚連隊を一個小隊引きつれて夜の夜中に首相の私邸へ押しかけ、総理出てこいとわめきちらしたりもした。その他いろんな、大衆にわかり易いニュースが出て来てマスコミは喜んだ。条約審議そっちのけの与野党のかけ引きを面白おかしく報道して、新聞は紙面をかせいだ。それに第一、あの時のスローガンは自民党の方がずっとよかった。一部の人間を除いた大衆にとっては『隣の国と仲よくするのが何故悪い』という簡潔な方がピンとくる。とにかく大衆に対しては理屈の単純な方が勝ちなんだ。それが漁業問題とどう結びつくのかなんてことは知っちゃいないわけだ。とにかく日本人のそれまでの韓国に対する関心度は台湾よりまだ低かったくらいなんだから無理ないさ。外相のあんたがあの時のことを恨むのはおかしいぜ。あの時はあの条約が批准されるムードがちゃんとあったんだから、今さらどういったって始まらない」 「いや、あの時は漁業問題だけを切りはなして、別にとりあげるべきだったんだ」と、外相はいった。「国交正常化そのものは、わしは悪かったとは言ってない。請求権だって文句はない。竹島はうやむやのうちに韓国領みたいになっちまったが、あんなものはどうでもいい。日比谷公園くらいの島だものな。ただ漁業問題だけは、もっと強く押すべきだった。あの時すでに韓国政府は、いくら漁業協定が発効になったって日本漁船が重大な違反を犯せば、これまで通り厳重な取締りをするってくり返し言っとったじゃないか。重大な違反がどんなものか、明らかじゃなかったわけだ。いわば李ラインが復活するのを承知で批准したわけだ。無茶苦茶だ。だからそれからあとが大変だった。韓国では五年間の有効期間が切れるなり、たちまち協定を廃棄した。韓国政府は国内世論を気にして、なるべく早く改定の権利が持てるように暫定協定にしておいたんだ。だからこうなることは、あの時日本でもわかっていた筈なんだ」 「いや、簡単にそう言い切れないんじゃないか?」立っているのが疲れてきたらしく、隅の江はデスクの端に尻をのせ、角張った横顔を外相に向けて喋り続けた。「現在の漁業問題のこじれはあながちあの時の政府の責任ばかりでもあるまい? 韓国政府だって悪い。李ラインに面した零細漁民に、補償などぜんぜんせず、漁港整備だとか冷凍施設の建設ばかりやっていたからな。おかげで漁民はすごく苦しんだ。しかし韓国政府にしてみりゃ、何とか漁業を近代化して日本に追いつこうと努力したわけなんだから、そんなに責めるわけにもいかない。悪いといやあ、日本の零細漁民だって無茶はやった。条約が批准されるなり、それ李ライン撤廃だといって彼らの漁場へわっとなだれこんだ。もともと韓国漁民の操業レベルは原始的で、ひどいのになるとワラナワの網を使ってる奴までいる。だから漁獲高はすごく低い。そこへもってきて日本の優秀な漁船が漁場を荒らしたものだから、李ラインに面した漁民は年間所得一戸平均三万五千円ということになってしまった。われわれには想像もできない窮乏ぶりだ。李ラインが復活される直前の一九六九年の春あたりには、すっかり生活に行きづまっていたんだものな。反日感情が高まるのも当然だったわけだよ」 「だけど、その時の日本政府も悪い!」外相は次第に声をうわずらせながら反対した。「なぜ、規制水域を違反する日本漁船を取り締らなかったんだ! ただ頭を痛めているだけだったじゃないか。あれを取り締らなかったために韓国では李ラインを復活しろというデモが盛んになったんだぞ。ソウルに建てられた日本大使館は、何かのたびに反日デモ隊の攻撃目標にされるし、塀を高くして窓に防弾ガラスを入れたものの、館員は何度も怪我をした。いちばんひどかったのは一九七〇年一月のデモだ。釜山大の学生がわざわざソウルにまでやってきて延世大や京畿大の学生といっしょに大使館の前で日の丸の旗を焼いた。そして館員五人に重傷を負わせた。韓国政府が世論に負けて李ラインを復活したのも、もとはといえばあの事件からなんだ。それに加えてこの間の総理大臣の悪口雑言だよ。今まではアメリカの手前韓国に対して腫れものにさわるようにぺこぺこしてきたのが、とうとう我慢できなくなったらしい。先だってのテレビの演説で突然気ちがいみたいに興奮して、恩知らずめ無償供与の三億ドルを返せなんてわめきちらした。そのおかげで、予定されていた今度の会談は十中八九決裂だ。それに出席するのがこのわしなんだ! いったいぜんたい、何の因果で、全部の責任をわしがひっかぶらなきゃならんのだ! どうして会談に出るのが、このわしでなきゃいかんのだ!」 「教えてあげようかね?」隅の江はいった。「今度の会談に出るのがあなたでなくちゃならない理由──。これは今までの日韓交渉史をふりかえってみて、いつの時代でも、もっともマスコミに喜ばれ、大衆に人気のあった問題は何だったかということをちょっと考えれば容易に想像できる筈だ。一九五一年にGHQの斡旋で第一次予備会談が開かれて以来のことだ。あれからすぐ、第三次会談が、有名な久保田発言で決裂して物議をかもした。日本の朝鮮統治は必ずしも悪い面ばかりじゃなく、日本が朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成して開発したのは朝鮮の経済に役立っているといったんだ。この頃はちょうど韓国では学生デモを戒厳令で処理しなくてはならなかったほど反日感情が高まっていたし、日本の大衆にしたって李ラインを固執して日本の零細漁民を苦しめる韓国政府に感情を昂ぶらせていた。だから久保田代表も、その国民感情を別な形で表現したのだろうが、とにかくこの発言はすごく問題になった。その次は一九六二年だ。小坂外相と崔外相が東京で会談した時、やはり喧嘩になった。すごい口論だったという話だ。当時の記者の話によるとこの時、崔という外相は名演技を見せたらしい。今みたいに、スタニスラフスキイ製薬の貫通行動剤もなかった時代なのに、外務大臣接見室のドアの把手が怒りに顫えて握れないという器用な真似をやった。それが受けた。これと前後して、東大の田中直吉が久保田発言と同じヘマをやって、高麗の大学生たちをカンカンに怒らせた。さて、そのつぎがぐっと近づいて、この間の総理の、テレビでの悪口雑言だ。いくら国内向け放送とはいっても、韓国じゃあ、日本に近い釜山あたりだと、NHKテレビはもちろんのこと、民放各局の電波が充分キャッチできる。その上新聞は書き立てるわ、週刊誌は『首相暴言全集』と銘うって、今までの総理の韓国に対する悪口を、私的な会話の中からまで抜萃して全部掲載した。これには韓国のマスコミ大衆はもちろん、韓国政府までが無茶苦茶に腹を立てた。怒るのはあたり前だ。しかし国内では、総理は男をあげたってわけだ。大衆は、えらい人である筈の首相が、自分たちと同じ汚ない言葉を使うことを知って大喜びしたし、譲歩外交に歯がゆく思っていたから、首相を自分たちの代弁者のように思いこんだ。さて、ここまで言えばわかっただろう? 今、マスコミ大衆が期待しているのは、十中八九決裂に決まっている次の会談──大詰の場なんだ。つまり浅香外相、あなたが韓国外相と、つかみあいの大喧嘩をするのをね」 「君は政治を何と心得とるんだ」外相は唇を顫わせて立ちあがった。「わしに、喧嘩しろというのか、馬鹿な!」 「馬鹿とは何だ。人の言葉を早合点して馬鹿と罵る奴こそ馬鹿だ。まだ喧嘩しろとは言ってない。最後まで聞きなさい。だいいち政治のことなら、あなたよりはよく知っている。だいたい政治家よりも政治を知らないような人間が、政治記者なんかになれる筈はないだろう」隅の江は哀れむような眼で、ふたたび腰をおろした外相をじっと眺めながら、また新しいタバコを出し、宙で振って口にくわえた。「喧嘩は望ましくない。それはわたしもあなたと同じ意見だ。ただ、どうせ決裂するとわかっている会談を喧嘩もせずに終らせたのでは、われわれの無能を批判されることになる。われわれにとって、大衆の批判ほど恐ろしいものはないんだ。あなたも現代人なのだから、このくらいはおわかりでしょうな」 「わたしに、どうしろというんだ」外相のその声は、およそ大臣らしくない、哀れっぽくか細いものだった。 「道化をやるのだ」と、隅の江がいった。「韓国の各放送局・新聞社に問いあわせたところ、金外相は、今度の会談では徹底的に、昔からの憤懣をぶちまけるということに決まっているそうだ。これは外務省の方へもすでに内密に連絡があって、あなたももうご存じの筈だ。さてそこであなたはどうすればいいか。あなたは金外相の罵詈雑言に、ただなすすべもなくおろおろとし、見当ちがいのお世辞をいって彼をいら立たせる。ごますりをやるつもりが失言ばかりしてますます彼を怒らせてしまう。つまり、今まで大衆があなたに対して抱いていた期待を、とんでもない方向にすっぽかしてしまうのだ。大衆が持っていた『度胸のある、温和な大臣』というあなたのイメージを、あなた自身がぶち壊してしまうのだ」 「あなたにさからうようで悪いが……」外相は気弱げに口をはさんだ。「それだって結局、大衆の期待を裏ぎることになるのじゃないかね?」 「まだわからんのか。あなたは救い難い阿呆だ」隅の江は豚を見る眼で外相を見た。「大衆はなにも、喧嘩だけを期待しているんじゃない。要するに大詰の見せ場を期待しているだけだ。だから活劇のかわりに、喜劇をあたえてやればいいんだ。喜劇というものは大きなどんでん返しのある方が効果的だ。あなたの男らしいイメージは別のものにガラリと変わり、あれよあれよという間にとてつもないシチュエーション・コメディがテレビの画面に展開される。大衆は腹をかかえて笑いころげるだろう。笑いながら彼らはいう──何てえ馬鹿な大臣だこんな奴はやめさせてしまえそうだそうだやめろやめろ──だが彼らは、自分たちを楽しませてくれたマス・メディアに対してはそれで満足し、感謝するんだ」 「わしはどうなる」外相はおろおろ声で、デスクの上に視線をさまよわせた。「わしは外務大臣をやめなきゃならなくなる。いや、それはかまわん。もう大臣はいやだ。やめたい。以前から辞任したかった。しかし恐らくそれだけではすむまい。外務省からも放り出される。政治的生命もおわりだ」 「当然だ」隅の江は平然としていった。「だけど心配しなくていい。ふつうのタレントなら使い捨てになるところだが、あんたはまだしばらくは使えそうだ。ポリティック・ショーや人気対談番組へ出演して、当分は道化を続けることができるからな。もちろん、そんなに長い間ではない。だが、あんたはすでに、あんたの才能の貧弱さにくらべれば多すぎるくらいの資産を蓄えた。もうそろそろ、隠居したらどうだね?」隅の江はゆっくりとデスクの横をまわって外相の傍に立ち、大臣の出っぱった下腹部を平手で二、三度叩いた。「だいぶ肥ったようだな、え?」  酸っぱいものでも食べたように、外相の表情が子供っぽく歪んだ。彼の閉じた瞼から、その周囲の深い皺の中に涙がにじみ込んでいった。「ウ……ウ……」と泣き声が洩れた。 「どうした? いやなのか? 不満なのかね?」 「君、わしには女房も娘もいる。この歳になってそんなことをして、軽蔑されたくないのだ」  隅の江はわざとらしく、意外そうな顔をして見せた。「そうか、あなたにも、亭主や父親としての権威を保ちたい気持が少しはあったんだな。忘れていた」うなずいた。「そりゃそうだ。あんただってやっぱり人間なんだものな」にやりと笑い、彼は外相に顔を近づけた。「そうそう、あなたの奥さんって人は美人だったな。若い頃は有名なデザイナーで……」 「もう、やめてくれ」外相は泣きながら身をよじった。「君、そんなことは関係ないじゃないか……」  隅の江は鋭い横眼で外相を見ながら、背をしゃんとのばした。「なるほど、関係はなかったな。たしかにそうだ」彼はいきなり、外相が椅子の上で二十センチもとびあがったほどの大声で怒鳴り出した。「だからあんたはどうするというんだ! 何の見通しもないくせに大きな口をききやがって。いいか、勝手な真似はさせないぞ。多分あんたは今度の会談でも、大臣らしく振舞いたいんだろう。和解はできないとしても、せいいっぱい貫禄のあるところだけは見せたいんだろう。そうすれば、たとえ会談が決裂しても、外務大臣の不信任案が国会を通過するだけで、自分の権威は完全に地には堕ちず、女房や娘からは不運でしたと慰めてもらえる──そう思っているんだろう。だがな、そんななまぬるいことでは現代《いま》の外務大臣は勤まらないんだ! 大衆は納得しないんだ。何故だかわかるか? パンチがないからだ。ドラマの主役ってものは、ラストシーンで、はなばなしい成功をおさめるか、はなばなしく死ぬか、さもなければ英雄という仮面を投げ捨てるか、この三つのうちのどれかでなければならないんだ。あんたには、このうちの三番めの道しか残されていないんだ。そしてあんたは、いやだとはいえないんだ。ドラマの途中で演技者が勝手に筋書きを変え、脚本《ほん》にないせりふを喋り出したりしようものなら──どうなるかわかるだろうな? 現代は情報社会だ。その中でのマスコミの恐ろしさ──これもわかるだろう? マスコミから捨てられるということは、社会生活ができなくなるということなんだぜ」隅の江は歯を見せて笑いながら、デスクの上のポートレートをとりあげて、つくづくとながめた。「いい娘《こ》だ」彼は外相の背を小突いてうなずいた。「今年、いくつだ? ええ?」 「……」 「二十二歳……もう少し上かな? 美人だな。髪の生えぎわが、おふくろさんそっくりだ」 「おねがいだ」外相はしゃくりあげた。「もう、やめてくれ」  隅の江は不思議そうに外相に訊ねた。「なにをやめるんだね?」また、写真を見た。「しかし美人だ。われわれは、あんたの返事次第で、この娘《こ》を世間に顔向けできないようにすることができるんだ」  外相は身を顫わせた。「デマをとばすとでもいうのか?」 「おやおや」隅の江はあきれ顔で、デスクの上に手をのばし、書類を丸めて握った。「時代おくれの大臣だよこの人は」彼は丸めた書類で、禿げかかった外相の頭をポンと叩いた。「デマをとばすだと? それは大昔のマスコミのやったことだ」ポンと叩いた。「今のマスコミはな、事実をつくるんだ。比喩でも強調でも反語でもない、本当に事実が作れるんだ。わかるかね、爺さん」ポンポンと叩いた。  外相は声をあげて泣いた。子供のように、頬を涙でびしょ濡れにして泣いた。隅の江は面白がっているような表情で、なおも外相の頭を叩き続けながら喋った。 「みっともない顔だ」クスクス笑った。「爺さんの号泣なんて、前代未聞のビッグ・ショーだ。どうだね? おれひとりが見るんじゃ惜しいから、このテレビ・アイのスイッチを入れようか? あんたの女房や娘が見たら、どう思うだろうな? 自分の亭主、自分の父親が、実に|うすら馬鹿《ヽヽヽヽヽ》だったと知ったら、首を吊って死んじゃうんじゃないか?」  浅香外相は、グググと咽喉を鳴らしてのけぞった。「たのむから、そ、そんな冗談はいわないでください」 「ほほう、冗談だと思うかね?」隅の江は、テレビ・アイのスイッチに手をのばした。  ワッと叫んで、外相が勢いよく立ちあがった。「死んでやる、わしは死んでやる」彼は泣きわめきながら抽出しから拳銃を出し、わななく手で撃鉄を起した。「今すぐ死んでやる」  隅の江はあわてて外相の傍を離れ、デスクの正面の応接セットに腰をおろして拍手した。「いよう、待ってました、大芝居!」新らしいタバコを出した。「こいつは見ものだ」  外相は銃口をこめかみに当て、眼を強く閉じて歯をガチガチと鳴らした。 「やらないのかね?」待ちくたびれた様子の隅の江がいった。「まあ、死ぬ死ぬという奴にかぎって、死んだ奴はいないからね」 「死んでやる! 死んでやる!」 「いや、あんたは死なないね。賭けたっていい」隅の江は、愛想が尽きたといった声を出した。「あんたに自殺なんか、できる筈がないじゃないか」  浅香外相は椅子にくずおれた。だらりと垂れた右手から、拳銃が重い音を立てて人造マホガニーの床へ落ちた。彼は頭部をデスクに乗せて俯伏せた。 「そう、その方がいい」隅の江は立ちあがりながらいった。「そのおもちゃを、早くしまってな。夕方、もいちど来る。その時までに返事を考えておけ」ドアに近づいた。「わかったのか? わかったのなら返事しろ」  返事はなかった。  隅の江はまたデスクの前へ引き返し、残り少ない大臣の頭髪をわし掴みにして、ぐいと顔を持ちあげた。  隅の江の頬に引き攣《つ》りが走った。彼は大臣の頭から手をはなすと、省内電話をとりあげた。 「もしもし、深井審議官を……。ああ、隅の江です。ええ、大臣室から……。大臣が、おなくなりになりました……ええ、本当です。惜しい人でした。……死因は、そうですね、心臓麻痺だと思います」  済州島南方、もとの共同規制水域ライン上で、日本漁船が韓国船に銃撃を受け、二人の死者を出したのは、浅香外相が急死した数日後──日韓会談がある筈だった日の夕刻だった。     3  スポーツのショー化、娯楽化が、プロ・レスのテレビ中継で飛躍的にすすんで以来、武士道から出発した日本スポーツの厳粛主義は無残に破壊された。大画面のカラーテレビは、ボクシングのリングサイドにすわって試合を見るようなスリルを味わうことを可能にした。この「臨場感」は、マスコミの発達で、スポーツ以外の娯楽にひろがり、やがて政治社会の出来ごとにも及んだ。  政治の分野では、国会の乱闘だけにとどまらず、選挙の予想と勝敗が、競馬なみにスポーツ化され、党首会談はショー化された。  裁判さえショー化された。  今、テレビ・ホールでD・D折口が演出中の「ジャッジメント・ショー」なども、この番組のために現行憲法や裁判所法が一部改修されたことでもわかる通り、文字通りの出張法廷だった。決して私設法廷だとか模擬裁判ではなく、裁判長から書記官まで全部本ものばかり、裁判所と違う点は、中央にある円型の法廷がターンテーブルで回転し、その周囲にオーケストラボックスがあり、法廷を見おろす階段式の傍聴席がさらにその周囲を取り囲んでいるという点だけだった。  今、法廷では民事訴訟が進行中だった。原告はハイ・ティーンの女事務員、被告は彼女の上役である中年の課長代理だ。彼は結婚するといって彼女をだまし、彼女の身体を慰んだ。彼女は彼に精神的損害に対する賠償、つまり慰藉料を要求していた。すでに訴状と答弁書の陳述は、バリトンの魅力たっぷりの人気弁護士が、オーケストラの伴奏でカンツォーネ調に歌い終っていて、被告が証言台に立たされていた。 「えー、さて」裁判長は、自分を三枚目に見せるための鼻の横の|つけぼくろ《ヽヽヽヽヽ》が落ちないかと心配しながら、せいいっぱいおどけた調子で被告にいった。「槇弁護人の、あいかわらずの声量のある名調子、よかったですね。さて、次はあなたです。いいたいことは思う存分主張する、いいですね? 口頭弁論主義なんですよ。いいですね? やりにくいでしょう、わかります、わかります。でも、しっかりおやりなさい。あなたは今朝、ベルタス飲んできましたか?」彼はスポンサーの製品を宣伝した。「そう、飲んできたの。それなら大丈夫だ。では、どうぞ!」裁判長は、オーケストラに合図した。  こういう、いわば現代の権力者といった役柄は、威厳と三枚目的要素の均衡がむずかしい。大衆は、権力者の威厳が何かのはずみで損われることを無性に喜んだが、そのためには権力者は普段|しかつめらしく《ヽヽヽヽヽヽヽ》構えていなければならないのだ。ところがこの裁判長は、自分がさっきの弁護士のようにうまく歌えないことを気にしていたため、かわりに三枚目的演技でサービスにこれ努めたのだが、これはかえって逆効果だった。 「ダイコンめ」折口は第一副調整室で呟いた。「大昔のテレビのギャグだ」  こういった番組の本番では、カッティングはほとんどT・Dにまかせてあるから、D・Dは何もしなくていい。  下腹部の出っぱりかけた三十二、三歳の被告が、恥辱に染まった頬を顫わせながら、それでもけんめいに自己弁護をはじめた。きっと何日もかかって作詞作曲をし、出演決定以来今日まで練習を続けたのだろうが、生まれつきの音痴だけはどうしようもないらしかった。しみじみとしたスロー・バラードで悲哀こめてうたいあげるべき歌を、彼は、なにわ節とアフリカ土人の民謡をごっちゃにして吹きこんだレコードをさらに逆回転させたようにしか歌えなかった。 ※[#歌記号]会わねばよかったあの時に、魔性の女に魅入られし、男ごころの悲しさよ……。  観客席でプッと吹き出す声が二、三聞こえた。会社では威張り散らしている彼も、ここでは嘲笑の対象でしかなかった。歌詞を書きこんだ紙きれを掌の中で皺くちゃにしながら、しどろもどろで歌い続ける被告の眼には涙が光った。家では妻や子供が、父親であるこのおれの醜態を茫然として見ているに違いない──彼はそう思った。子供たちは明日から学校へも行けまい──これが裁判か、死刑になった方がよっぽどいい!  嗚咽《おえつ》で歌が途切れ、野次が飛び、裁判長の木槌がそれを制した。 「駄目だ。今日のは面白くない。失敗だ……」折口は投げ出すようにいった。「先週みたいに、死刑まちがいなしの強盗殺人犯の方が、破れかぶれでずっと面白かった。こいつは白痴だ」  放送ジャーナリストにとって、歌や芝居の下手な者は、博士であろうが大臣であろうが、また大文豪であろうが、すべて白痴だ。 ※[#歌記号]誰も知らぬと思うたに、天知る地知るテレビ知る、病の床の妻が知る。妻よ許せやわが過失……。  歌詞は泥臭く、陳腐で、しかも作詞者の意図に反して充分とぼけているのだから、そのまま歌えば哄笑の渦になる筈だった。だが被告は咽喉をつまらせ、歌詞を不明瞭にしか発音できなかった。 「べそをかくならかくで、思いきり、ぶざまに顔を歪めりゃいいのに……」折口は歯噛みした。「そうすりゃ少しは見られるんだ」 「何をブツブツいってるんだ?」深夜組のD・D浜田が入ってきた。「今日のは盛りあがらないな」 「何とかしなきゃあいかん」折口はいら立ちを押さえていった。「この番組、そうでなくても視聴率が下向きなんだ」 「この次の歌は何だ?」 「原告の陳述だ」 「歌詞を見せろ」  折口は浜田に歌詞を見せた。  楽譜をしばらく睨んでから、浜田は顔をあげていった。「この曲も、しみじみとやるのか?」 「歌謡曲調にやるんだ」 「そりゃいかん。ガバガバでやれ」  ガバガバは、流行しはじめたばかりのリズムで、二拍めにはねあがるようなビートをきかせた曲である。 「そうだな」折口はちょっと考えた。「打ちあわせと違うから、原告がとまどうんじゃないか?」 「あの娘《こ》は若いから、やるだろう」  折口はコントロール・パネルの上のマイクをとりあげ、オーケストラの指揮者にいった。「次の曲、ガバガバ・リズムに変更。原告が立ちあがるなり、イントロを始めてください」 「了解」  折口はマイクのスイッチを切り、振り返って浜田にいった。「すまん、先輩」  浜田は照れて、手をはらった。「馬鹿だな」  折口は訊ねた。「出勤が早いじゃないか」 「至急早出しろと連絡があったのだ。君のかわりに、一日天皇の予選はおれがやる」 「じゃあ、おれはどうなるんだ?」 「君はこの番組が終り次第、浅香外相の私邸へ行って、葬式のナマ中継をやるんだそうだ」 「でも外相私邸には、テレビ・アイが数十台ある筈だろ? 中継車を出さなくても、局のサブ・コンでカッティングすればいいんじゃないか?」折口は不満そうにいった。「そのための|アイ《ヽヽ》じゃないか」  有名人の邸宅や庭には、かならずテレビ・アイ──取付自在の小型無線テレビカメラが配置されていた。極小のイメージ・オルシコンを内蔵したテレビ・アイ、略して|アイ《ヽヽ》と俗称されているこのカメラは、奥行8センチ、レンズの直径5センチの、円錐台形をした精密な機械である。それらはすべて四六時中、局の副調整室の|アイ《ヽヽ》・センターへ、それぞれ一定の視野を持つ映像に構成されるべき電子ビームを送り続けていた。  このアイは、日本国中のここぞと思われる場所には洩れなく配置されていた。ある場所には大っぴらに据えつけられ、ある場所では巧妙に人眼を避けて仕掛けられていたのである。邸内に設置されているアイの数は、有名人の人気のバロメーターだった。 「でも外相邸のアイの半分は、庭や木や塀の中に埋め込んで隠してある」と浜田がいった。「やはり誰かが現場へ行って、演出してやらなけりゃ駄目なんだ」 「また遅くなるな。定時までには終らんだろう」折口は溜息をついた。「今日は早く帰って眠ろうと思っていたんだ」 「そうか、君は昨夜も遅くまでやったんだな」浜田は気の毒そうにいった。「例の、第一回月面探険宇宙船の備品競売ショーで」 「あれには泣かされた」と折口はいった。「ジャリSFファンの頭のおかしいのがワンサときやがって……」  スタジオでは被告の陳述が終り、原告の女事務員が立ちあがった。彼女は今日は事務服ではなく、背なかを思いきってあけた派手な色のブラウスに、フレアーたっぷりのスカートをはいて、色っぽくめかしこんでいた。眼が大きく、口もとがあどけなく、いかにも中年男の好きごころをそそりそうな顔だちの娘だった。イントロが終ると、いきなりエレキ・ベースがものすごいビートをまくし立てはじめたので、彼女は一瞬、証言台で立ちすくんだ。しかし、ハイティーン特有の鋭いカンで、すぐにディレクターの意図を悟ったらしく、証言台から二、三歩離れると、ぴったりとリズムに乗せて腰を振りはじめた。歌い出す前からワッと拍手が湧き起った。 「Oh oh oh yea……、冷えちゃったのね、あなたのハート、愛するあなたの Cha la la la……心がわり、かえらないのね、あなたのハート……」  副調整室で折口と浜田は握手をかわし、弁護士と裁判長は、ここぞとばかりに席を立ち、おどけて踊りはじめた。それを見て陪席裁判官や判事補や、書記官までが浮かれ始め、廷内で踊っていないのは被告だけになった。被告は大判のハンカチで顔を覆って泣いていた。こうなってはすでに彼の敗訴は確定的だった。  被告が席でうなだれているのを見てあわてた折口は、すぐにマイクで被告人席を呼び出し、彼に、立ちあがっていっしょに踊るよう指示した。これ以上観客から反感を持たれてはたまらぬ、少しでも愛嬌をふりまいて憐れみを買った方が有利だと判断したらしく、彼はすぐに立ちあがり涙で光らせた顔を歪め、ぶざまに腰を振りはじめた。リズム感も何もない、無茶苦茶な腰の振りかただった。 「泣いてやがる!」折口は舌打ちした。「どうしようもない人種だな。会社の課長とか係長とかいう奴らは。もっとニコニコできないのか」 「まあ無理だろうな、奴らはたいてい白痴だ」浜田がいった。「あんな奴は、死刑にすべきだ」 「おいおい、これは民事訴訟だぜ」 「じゃあ慰藉料だ。一千万円、いや、三千万円だ」 「あいかわらず、金のことを知らない」折口は苦笑して、むきになって怒っている浜田にいった。「一千万と三千万じゃ、たいへんな違いだ」  慰藉料の額は五百万円だった。判決がいい渡されると、ファンファーレが鳴り響き、ショーは終った。 「さてと」折口は小型ラジオにもなる腕時計を見た。「葬式は何時からだ?」 「四時からだ」浜田がいった。「あと一時間だ。もう中継車の用意もできているだろう」  インターフォンの呼び出しブザーが小さく鳴った。折口は通話スイッチを入れ、マイクに顔を近づけた。「こちらD・D」 「おれだ」P・P石神だった。「外相の葬式のことは聞いたな?」彼はあわてていた。 「聞いた。あんただな? おれに残業させるよう小細工したのは?」 「おれだ」彼は笑った。「許せ。君じゃないとできん仕事だ。おれもつきあう。正面のロビーで待ってるぞ」  手早く浜田に仕事の引継ぎをすると、折口は携帯テレコールを抱いてロビーへ駈けおりた。P・Pはスポンサーにつかまって閉口していた。スポンサーというのは、ネプチューン製菓の宣伝部長で、何かくどくどとP・Pに愚痴をこぼしていた。 「十五分ものでいいんですよ。買い切りでお願いします。何か企画を……」  P・Pは出っぱった腹に食いこむベルトをゆるめながら、迷惑そうにいった。「おれにそんなこといったって駄目だよ、あんた。おれは編成制作の人間だ。そういうことは業務営業へ行って……」 「駄目なんですよ、それが」まだ三十歳前後の宣伝部長は、泣くような声でいった。「これ以上娯楽番組が増えると、電波監理局指定のパーセンテージをオーバーするといって……」 「それじゃあ尚更駄目だな。今だってあんた、規定されてる社会教養報道番組を、いかに娯楽化して放送するかに、みんな頭を痛めているんだ」 「でも、優秀な企画さえ、あなたの方から出してもらえれば……」  P・Pは傍に立った折口に気づいて、うなずき返してから、ふたたび宣伝部長に向きなおり、少し声を高くした。「企画企画っていうけどね、あんた。三年前に、ここにいるこの折口君の企画を蹴ったのは誰だい? これは企業イメージに合わない、購買者層にアピールしない、その放送時間の視聴者の層に合わないなどと勝手なことをいって圧力をかけて、こっちの編成方針を狂わせたのはあんたんところじゃないか」 「だって石神さん、多少はこっちの宣伝方針に合わせてくださったって、いいじゃありませんか。圧力だなんて、そんな……。こっちだって今ではある程度、テレビに対する経験を積んできているんですから……」 「こっちは専門家だよ、あんた。番組の編成権はあんたの方には全然ないんだ。それがまだ、わかっとらんようだな。あんたたちには未だに、この時間は自分が買ったものだという考え、つまり自分の思うままにできる時間だという意識があるんだ。慢心だよ、あんた。スポンサーの、つまり素人の干渉や番組内容への介入が、どれだけ制作者や演出者の企画提出意欲を失わせたことか。あんたたちは企画研究会だの、脚本検討会だの、番組批判会だの、わけのわからん会を開いては一方的に発言して局の編成方針を踏みにじり、優れた企画を中止させた。そんなにわれわれ専門家を信用しないなら番組から降りてもらおうじゃないかという話になった。これは当然の成り行きなんだ。ふくれっ面をすることはあるまい?」 「だからもう、どんな企画でもいいとまで、いってるんじゃないか!」若い部長はヒステリックに叫んでしまってから、あわててあやまった。「すみません。お願いしますよ。あなたがたに見はなされたら、もう、どうにもならないんです。テレビに出してもらえないことには、商品はぜんぜん売れないし、会社の株は下がるし、私は社長から……」彼は横の折口にとりすがった。「ねえ、あなたもひとつ……」  折口は冷笑を浮かべ、自分と同じ年頃の宣伝部長の顔をじっと眺めながらいった。「他局《よそ》へ行ってみたらどうだい?」 「駄目駄目」P・Pが笑いながら横からいった。「ネプチューン製菓は、どこの局でも鼻つまみだ。未だにスポンサーはなやかなりし頃の夢を追い、よき時代のまぼろしを捨てきれずにいるんだから」ラジオ時計を見た。「いかん、遅れてしまう、さあ行こう」彼は折口をうながした。 「待ってください」  部長はあわててP・Pの二の腕を掴んだ。それを振りはなそうとしたP・Pは、部長がすばやく自分のポケットに札束を落し込んだのを見て、そのままの姿勢でしばらく考え込んだ。  部長は小声でいった。「頼みます」それから折口のポケットにも札束を押し込んだ。「お願いします」  P・Pはその札束をポケットから出し、人眼もはばからずにパラパラとめくって枚数を推し量った。「三十万はあるな」にやりと笑った。「せっかくくれたんだ。余分な金らしいからもらっとこう」  彼は札束の表面をポンポンと叩きながら玄関の方へ歩き出し、案内嬢のいる受付のカウンターに投げ出すと、聞こえよがしにいった。「それ、お茶代だよ」  折口も真似をしてその隣に札束を置いた。「口紅でも買いな」そしてP・Pのあとを追った。  案内嬢──人気番組「ブレイブ・キャット」の主人公に似た受付の娘は、眼をぱちくりさせていた。  中継車には、すでに三人のアナウンサーと二人のスイッチャーとタイムキーパーが乗り込んでいた。カメラを持って行かないので、C・C・Uやマイクロ係はいない。車の中には外相邸にある|アイ《ヽヽ》の数だけのモニターブラウン管が、副調整室と同じように配置されていた。アイ・センターでC・C・Uによって画質を調整された映像がここへ送られ、車内で編集された映像はふたたび局の主調整室へ送られるのである。つまり映像は局と現場を二往復するのだ。このような場合のナマ中継ディレクターは、現場の演出をやりながら編集をやり、編集をやりながらアナウンサーやスイッチャーと次の場面の打ちあわせをするという、超人的な才能を要求される。完全にこの曲芸のできるD・Dは、日本には折口の他に二、三人しかいなかった。  中継車は小さな電源車をしたがえて外相邸へ出発した。  すでにアイ・センターから送られてきている外相邸内の様子を、車内の四十三の小型スクリーンで観察しながら、折口はP・Pに訊ねた。「放送開始は何時だ?」 「五時だ」 「葬儀は四時からじゃないのか?」 「ああ、読経や、会葬者の弔辞、弔電の披露を省いて、焼香から始める」 「焼香だけしか放送しないのか? 退屈な番組になるぞ」 「うん、だから近親者と重要会葬者の焼香が終ってから、コマーシャルと、ありし日の外相の姿──つまり外相の出演したショー番組の中から、受けた部分だけを編集したフィルムを局の方で流す。それが終ってから出棺の場面を中継する」 「出棺まで現場に残らなきゃならんのか? すごく遅くなるな」 「まあ、我慢してくれ」  大臣その他各界名士たちのためにだけ作られたような、広い、高級住宅地へのハイウェイをすっとばして、車はのべ三千坪もある豪華な外相私邸へ四時半に到着した。門をくぐって玄関の真正面ぎりぎりいっぱいに車を停めさせると、折口は、自分の制服を見て丁寧に頭を下げる受付には眼もくれず、すぐ式場にとび込んだ。  すでに読経が終り、弔辞が始まっていた。  正面の祭壇には、大臣が生前もっとも得意だった表情──テレビで国民がさんざん見せつけられた、「何もかもよくわかっとるんだよ」とでもいいたげな、おおらかな微笑を浮かべた馬鹿でかい写真が飾られていた。  名士が読み続けている弔辞を無視して、折口は大声でいった。 「銀河テレビです。五時から中継ですからよろしく。二つ三つ、前もってご注意をしておきます。時間がないので一度しか喋りません。よく聞いておいて下さいね。あ、あなたはどうぞ、そこでそのまま弔辞を続けてください、打ちあわせの邪魔にならないように……」そして祭壇の右側の遺族・親戚、左側の知人たちに、演出プランを説明しはじめた。  弔辞を続んでいた友人代表は、誰も聞くものがないままに、だらだらと投げやりな口調であとを続けた。彼は不服そうだったが、それは聞く者がいないからではなく、自分がテレビの打ちあわせに加われないからだった。  遺族や親戚は、眼をかがやかせて折口の注意に聞き耳を立てていた。彼らが素直で従順なので折口は満足した。坊主まで傍にやってきた。 「いいですね。途中約十五分間の録画放送とコマーシャル・タイムがありますが、この時間を除き、出棺が終るまでずっと泣き続けていて下さい。どこに|アイ《ヽヽ》があるかご存じの方もですよ。アイの前でだけオーバーに泣いたりしないように。不自然になりますから」  遺族の二、三人が、いきごんで深くうなずいた。その時、ふと折口は、祭壇の方をじっと見つめたままで、自分のいうことをぜんぜん聞いていないらしい、喪服を着た一人の娘に気がついた。外相のひとり娘だということは、すぐわかった。折口は彼女に、自分のいったことがわかったかどうか念を押そうとした。その時坊主が訊ねた。 「わたしの顔もカメラに入りますか?」 「ああ、あんたはもちろん入る」そう答えてから、折口はあわてて注意した。「でも、あなたは泣いちゃだめですよ」 「へえ」坊主は不満そうな表情をした。「わたしゃ、泣くのがうまいんだがなあ……」  時間が迫ってきたので、折口はそそくさと中継車に引き返した。  やがてコマーシャルにWって五時の時報が鳴り、タイトルが出た。  モニターブラウン管を眺めていた折口とP・Pは、葬儀参列者が、本番に入るなり咽喉も裂けよとばかり大声で泣き叫びはじめたので、とびあがるほど驚いた。 「な、なんだこれは」P・Pが眼をしばたたいた。「破れかぶれの絶叫だ。泣き女よりひどい」 「しまった、オーバーにいい過ぎた」  折口はあわてて、手の空いているアナウンサーに、現場にもぐりこんで泣き声をセーブさせるよう指示した。アナウンサーがころがるように式場へ走るのを見送ってから、折口は舌打ちした。 「これはひどい。顎がはずれるほど口を開いて、涙とよだれの垂れ流しだ。腹芸ってことを知らないから始末が悪いな」 「節操のない奴らだ。近ごろじゃテレビ・タレントも、嗚咽なんてことを知らないくらいだものな。今笑う芝居をしていたかと思うと、突如として馬鹿みたいに大口をあけて泣きわめく。またそういう奴の人気があがるんだから……。現実だって次第にそうなってきてはいるものの、こんな番組でそれをやられちゃあ……」  泣きながら焼香を終えた外相夫人が席に戻った。次に立ちあがった娘を見て、折口はまた驚いた。彼女は泣きも笑いもせずまるで無表情だった。端正な顔立ちなのでよけいそれが眼につき、周囲の泣き方がはげしいだけに、無感動さはよけい際立っていた。 「この子はまた、極端だな」P・Pがあきれて呟いた。「外相がいちばん可愛がっていた娘──そうだ、ひとり娘じゃないか。暢子とかいったな」  彼女は無表情なままで焼香をはじめた。 「もう無茶苦茶だ」折口は絶望していった。「今日は悪い日だ。昨夜、自分のミイラを作っている夢を見た。あの夢がだいたい、いけなかった」  遺族と親戚の焼香に続いて、知人の焼香が始まった。大臣と喧嘩ばかりしていた代議士までが涙腺《るいせん》を全開にして身をふるわせていた。  コマーシャル・タイムになり、折口はまた式場へ戻った。一同はすでに涙を拭い、けろりとしていたが、入ってきた折口を見て、心配そうに彼の顔色をうかがった。折口はしぶい顔で暢子に近づき、きょとんとしている彼女にいった。「あなた、歳はいくつです?」  失礼を咎《とが》めようともせず、彼女は答えた。「二十一よ」  皮肉が通じないので折口はいらいらした。「どうして泣かないんです?」  彼女は不思議そうに折口の眼をじっと見た。彼女の澄んだ眼の中には、悪いことをしたという気持も、ディレクターに咎められておびえた様子も、ぜんぜん見られなかったので、折口はあべこべにたじたじとなり、それから少しぞっとした。精神異常かな──彼はそう思った。 「どうもすみません」外相夫人が横から折口にあやまった。「この子はちょっと、変わっていまして……」  折口はもういちど暢子をじろりと睨んでから、下っぱタレントにいうよりも、もっと乱暴な口調でいった。「とにかく、出棺の時には泣いてくださいよね」そして車にひき返した。 「さあ、出棺の場面の編集がむずかしいぞ」折口は二人のスイッチャーにいった。  焼香の時は式場の四台のアイによる映像の切換えだけでよかったのだが、出棺となると邸内のほとんどのアイをフルに使わなければならない。つまり三、四人で四十三のスクリーンを見張っていて、その中のどの映像を選ぶかを臨機応変に決定し、すばやくスイッチングし続けなければならないわけだ。  VTR放送が終り、中継に切りかえられると、参列者はふたたび、おいおい泣きはじめた。 「あれだけ泣いたのに、まだ流す涙が残っていたんだな」P・Pが感心したようにいった。  正面玄関から運び出される棺を追って、二人のスイッチャーの指さきがコントロール・パネルの無数のボタンの上ではねまわりはじめた。  折口は疲労で充血した眼を、四十三のスクリーンに走らせ続けた。やがてそのひとつが、棺に続く遺族をクローズアップした時、折口は思わずググッと咽喉を鳴らしてのけぞった。そこには暢子の、あいかわらず無表情な顔が映し出されていた。折口は怒りで身体を固くし、声をうわずらせ、叫ぶようにスイッチャーにいった。「画面に遺族を出すな!」 「そういうわけにもいくまい?」P・Pが困ったように、折口と同じ画面を睨みつけながら呟いた。  やはりこの娘は精神異常だ、正気でない──折口はそう思った。  その時、暢子はこちらを見た。つまりアイの方を向いたのだ。彼女はあきらかに、アイのある場所を知っていて、その方を見たのだ。そして笑った。 「笑ったぞ!」折口は悲鳴をあげた。  精神異常なんてものじゃない、これは悪意だ、あきらかに悪意でもって、彼女はこの番組をぶち壊そうとしているのだ、何故だ、何のためだ──折口は眼の前が赤くなるほどの怒りと驚きに襲われながら、おろおろと考え続けた。理由らしいものは、何も思いつけなかった。気分が悪くなった。ひどいことになったと思った。昨夜の夢見が悪かったとも思った。 「もういかん」彼は泣きそうな声でいった。  P・Pも茫然としていた。  しどろもどろの中継が終ると、折口はすぐに外相邸内のトイレットに駈けこんだ。胸がむかついていた。彼にとっては、今まで考えたこともない、えたいの知れぬ怪事件だった。水でも何度もハンカチを濡らして額に当てた。ながい間、彼は洗面所の中でぼんやりしていた。  隣の婦人用トイレから、化粧板の仕切り壁越しに、女の泣き声がかすかに聞こえてきていた。本番で泣くだけでは気がすまず、トイレの中でまで泣いている女さえいるというのに、あの娘は──あの暢子という娘は──折口の胸に、また怒りがよみがえってきた。  女の泣き声は次第に大きくなった。そして、しゃくりあげるあい間あい間に、いまははっきり「お父さま、お父さま」と口走っていた。  外相を「お父さま」と呼ぶ女といえば、ひとり娘の暢子以外にはない筈だった。 「あの娘だ、あの娘が泣いている!」  彼女はアイの前で笑い、アイからかくれて泣いているのだ。折口には理解できない行為だった。  彼は凝然として立ちすくんだ。     4  折口節夫が浅香外相のひとり娘暢子と会う約束をした場所は、都心にある公園の、小高い丘の上だった。そこはひと晩中にぎやかで明るい放送局周辺の町並を、はるか下に見おろすことのできる、ひっそりとした場所だ。テレビ局ができてから、にわかに新らしい繁華街になったその町の夜景に向かって少し突き出た丘の頂きには、一本の街燈の下に、インスタント・ダンボール社提供の鉄パイプ製ベンチがひとつ、三方をまばらな木立に囲まれて置かれてあった。それらはどことなく舞台装置じみていて、いかにもここで、ロマンチックなラブシーンを演じて下さいといわんばかりのたたずまいだった。  にもかかわらず、ここへやってくるアベックの数は少なかった。その周辺に、アイがないからだった。  恋人たちは、アイのある場所を探し求め、その前でのみ、これ見よがしにラブシーンを演じた。恋人たちに限らず、今ではすべての人間が、家から一歩外へ出さえすればアイを意識して行動していた。大っぴらにアイが設置されていなくても、どこに隠してあるかわからないのだ。人びとの行動をアイが捕えるのではなく、アイに捕えてもらい、あわよくば放送してもらうために人びとが行動していた。アイが設置されているかどうか、わからないような場所へ行く人間は、よほどの秘密を待った者か犯罪者以外になかった。  だから誰も、丘の上に来なかった。  だが実は、丘の上にはアイがあった。  町並をバックにしてベンチを真正面に捉えた角度に広い視野を持つそのアイは、一本の松の木の幹に埋め込まれ、巧妙にカムフラージされていた。折口はそれをアイ・センターのスクリーンで発見し、暢子と会う場所をここに決めたのだ。何とはなしに彼は、ここが適当だと思ったのである。暢子が今までにしばしば女性雑誌やテレビでとりあげられたため、町なかの喫茶店やレストランでは邪魔が入りそうに思えたからでもあった。彼としては、特にアイを意識してそこを選んだわけではないのだが、アイのない場所で人に会うなどということは、彼には考えられもしなかったのである。  午後九時、彼は局を出て丘に登った。  恰好のいい横顔をアイに向けて彼はベンチに腰をおろし、恰好よく膝を組んで、タバコをひと振りした。  黄昏《たそがれ》が街に強い陰影をあたえていた。  タバコをふかしながら、折口は暢子を待った。暢子は来る筈だった。  折口はD・Dになって以来今まで、会いたいと思った人間に会ってもらえなかったためしがなかった。誰でも彼には喜んで会ってくれた。だから暢子が電話での約束を破って、ここへ来ないなどということは考えてもいなかった。電話で彼女に会いたいといったとき、彼女はあっさりと承知したが、それも折口にとっては当然のことだった。その上暢子が女で彼が男なのだから、なおさら当り前のことであった。  テレビ局員は女性の憧れの的なのだ。局員と結婚すれば「今日の挙式」でテレビ出演させてもらえるだけでなく、自分の意見が番組内容を左右できるほどの権威を持つことになるかもしれないのである。他の独身局員と同様、折口も若い女性に追いまわされたことは何度もあった。彼が女性を少なからず蔑視するようになったのも、そんな経験からだった。女というものは欲しいときにはいつでも手に入るのだという考えが彼を安心させ、彼を仕事に打ち込ませ、彼に独身生活を守らせたのである。折口が自分からすすんで若い女性と会う約束をしたのは、これが初めてだった。 「おそいなあ」彼は声に出してそういうと、タバコを投げ捨てた。  折口は、なぜ自分が暢子に会いたいと思ったのか、よくわからなかった。わけもなく彼女のことが気になった。昨夜、くたくたに疲れている筈なのによく眠れなかったのも、彼女のことを考え続けたためだった。  彼女は精神異常なのか? 神経症なのか? それとも、彼女自身のもっと深いところにある本能ゆえに、あのような神経症の徴候を示すのだろうか? もしそうとすれば、その本能とはどんなものか?──折口は、何となくそれがどんなものかわかるような気がした。だが思い出せなかった。思い出したくないのかもしれなかった。もし思い出したら、自分も彼女と同じような不適応者になりそうな気がした。そうだ、彼女は不適応者だ、彼女の行動は社会的ではない、だから彼女はあきらかに社会に対立した存在なのだ──折口はそう思ってから、ふと自分が、自分の心の中で彼女と彼女以外のあらゆるものを画然と区別していることを知った。それは同時に、現在彼の心の中で暢子の占めている部分がいかに大きいかをも示していた。  今までのところ、折口にとってこの世界は、まず整然とした場所だった。だが暢子という一人の娘が、ほんのちょっとした行動で、折口の内部へとてつもない混沌《こんとん》を持ちこんできた。不合理で不穏な混沌だ。現実に眼を向けなおすことによって彼女を無視することもできただろう。だがこれから先、彼女はいったいどうするのだろうと考えると、折口は彼女を放っておけないような気がした。  ──実力者である父親が死んでしまった以上、彼女はこれから母親とともに自力で生活して行かなければなるまい、だが彼女は社会に適応できるのか、彼女の若さから判断すれば、おそらく彼女の内部には葬式の際に示したような不合理性と無秩序がいっぱい詰まっているに違いないのだ、今までは父親にかばってもらうこともできただろう、いや、きっとかばってもらったのだ、事実雑誌社やテレビ局での彼女の評判はとりたててよくも悪くもない、だがこれからは──あのように非現実的な、よそよそしい態度で社会へ出たらどんなことになる、皆から無視されて、最後には彼女は社会から孤立するか、あるいは自我の分裂を起して精神病になるのではないか──そう考えると折口は、他の人間のようには彼女を無視することのできない自分だけが、彼女の未来に対して責任があるように思えるのだった。彼女の突飛な行動の原因が、何となくわかりそうな気がするのも、おそらく自分だけではないか──そうも思えた。 「こんばんは」  背後で暢子の、若さに似合わぬ低い声がしたので折口は振り返った。彼は立ちあがって暢子を見た。昨日父親が死んだばかりというのに、彼女の服装はびっくりするほど派手だった。大柄なプリント地のカクテル・ドレスを着ていたのだ。 「こんばんは」折口はやわらかくそう挨拶を返し、ベンチを指した。「掛けませんか?」 「はい」彼女は素直にうなずき、スカートをパッと拡げてベンチの片側寄りに腰をおろした。  ここにいるのは美しくて健康で、物怖じしない若い女性だ──折口はまずそう思った。タレントをテストするような眼は、こんな時でも彼の感じ方を支配した。いや、むしろそれは、アイに支配されている大多数の人間たちの感じ方だった。  折口の演出者としての注意力は、次にこの場のセットと相手役に移った。セット──公園、夜の公園、街の夜景をバックに丘の上、ロマンチックなラブロマンスに最適の場所。そして相手役──それは折口自身だ。三十二歳、独身、背は高く好男子、そしてテレビ局員でしかもD・D──。誰が見ても、当然このシーンに不可欠のものは恋愛だった。それ以外の設定は常識的には考えられなかった。  彼女にやさしくすべきだろうな──折口はそう思った。そして彼女の気持を自分の方へ引きつけるようにすべきだ、そうだ、この場面は当然彼女に、自分に対して好意を持たせるように仕向けるべきだ、そう演じるべきだ──そうも思った。  一人の男と一人の女がいた、最初に会った時、二人は理解しあえずに別れた、だがお互いに相手の存在が気になって、ふたたび会った、そして二人は理解しあった──単純な筋立てだが、複雑なシチュエーションやサイド・ストーリイで飾り立てれば、いくらでも面白くなる──折口はそう思い、少し乗り気になってきた。  彼は、腰が触れあうほど暢子にぴったりとくっついてベンチに掛けた。暢子はすぐに、はずかしそうに身をくねらせながら彼から少し身体をひき離そうとする筈だった。彼女がそうしさえすれば、折口は逆に彼女の肩をぐいと自分の方へ引きよせることになる筈だった。だが暢子はじっとして動かなかった。むしろ、きょとんとして折口の顔をまともに見た。彼女の眼は大きく見開かれていた。その瞳の中には何の邪念もなさそうだった。  折口はとまどった。咳ばらいをした。 「私に何か、お話があるんですってね」と、彼女はいった。「どんなお話?」 「ここは、いい場所だ」折口は町の灯を指していった。「眺めも綺麗だし」 「そうですね」暢子は、ちらとそっちを向いて、すぐまた折口を見た。「なんのお話?」  折口は、ちょっといらいらした。「あなた、何か急ぎの用でもあるんですか?」  彼女は、びっくりしたようにいった。「どうして? 何もないわ」 「あなたに訊ねたいことがあったんです」折口は、彼女に演技を強いるのをあきらめた。  しばらく二人は平行線をたどる、いつになったら抱きあうのかと視聴者はもどかしく思う──うん、それもよかろう──折口はタバコを出した。「お父さんのお葬式のとき、あなたは笑いましたね?」  暢子は、すまなさそうな顔でうなずいた。 「お父さんの死んだことが、面白かったんですか?」 「ちがいます」暢子は答えた。「棺について歩いているとき、アイに気がついたんです。わたしはあの時、泣いていなかったでしょう? だからあなたが、あのアイで私を見て、きっと怒っているだろうと想像したら、急におかしくなって……」彼女は頭をさげた。「ごめんなさい」 「僕の怒った顔は、そんなにおかしいのかな」折口はそう呟いてから、また暢子に向きなおった。「しかし、笑うにしたって、場所を考えるべきじゃないかな? あれがもし、中継されたとしたら、知らない人は、あなたがお父さんの死んだのを喜んでいるのだと思いますよ」 「だから、喜んでいるのじゃないの。あなたの怒った顔を想像したら急におかしくなって……」 「いやいや、それはもう、わかっています」折口は、ちょっと閉口した。「僕のいいたいのは、つまり……。どういったらいいか……」しばらく考えた折口は、説明のしかたをひとつも思いつけない自分にびっくりした。 「お父さまが死んじゃって、悲しかったわ、だから泣いたわ」暢子が喋りはじめた。「だってわたし、お父さまが好きだったんですもの」 「じゃあ、どうしてお葬式の時に泣かなかったの? テレビ中継してる時に……」 「あらあ、だって……」彼女はちょっと絶句したが、それはどういって折口に説明しようかと迷っているのではなく、そんなことがわからない折口にあきれて、とまどっているように見えた。 「だって、お父さまの死んだことと、お葬式とは関係ないでしょう? まして、お父さまの死んだことと、お葬式の中継放送とは、ぜんぜん関係ないじゃないの」  折口は唸った。──この娘の頭の中はどうなっているのだ、個々の事象がすべて相互関係のないものとして孤立し、ばらばらに転がっているのだろうか──折口には想像できなかった。「じゃ、あなたは、バケツと水とは関係ないと思いますか?」  暢子は眼を大きくしばたたいた。「それ、どういうこと?」 「い、いや、何でもありません」折口はあわてて質問を引っこめた。「僕のいいたいのは、いくらあなたが悲しくても、あんなことをすれば、あなたの悲しみが、誰にもわかってもらえないだろうと……」そこまでいってから、折口は暢子を見た。  暢子は不可解なものを見るように、折口を見つめていた。 「駄目だ」折口は絶望した。「あなたの悲しみと、あなたの悲しみが他人にわかることとは無関係だ──そういうつもりでしょう?」  暢子は微笑した。折口を哀れんでいるかのような微笑だった。「そうよ」  折口は、また唸った。「いいですか。社会生活をしようと思えば、自分の意志や感情を、はっきりと他人に伝えなければならないんです」 「だから私、いつもそうしてるわ」彼女は不服そうだった。「だからお葬式で、あなたの怒った顔を想像して笑ったし、何故笑ったかということを、今あなたに伝えたわ」 「葬式で笑っちゃいかんのだ」折口は悲鳴まじりに叫んだ。頭がおかしくなりそうだった。「僕の怒った顔のおかしいのと葬式と無関係だ」自分でも何をいってるのかわからなかった。彼は頭をかかえこんだ。  折口の肩に、暢子の白い、やわらかい指さきがかかった。 「からかったりして、ごめんなさい」  折口が一瞬身をかたくしたほど、暢子のその声は大人びていた。 「あなたが今おっしゃったようなこと、私、今までに、いろんな人から聞かされたわ」暢子はゆっくりと喋りはじめた。「どうしてなのかしら? 私、今の社会って、お芝居みたいな気がしてしかたがないの。いつからそんな気がしはじめたのか、自分じゃぜんぜん、わからないのよ。本当の社会生活ってものが、別のどこか遠いところにあって、現実の社会生活は、本当の社会生活をカリカチュアライズしたものに過ぎないという気がするの。人間的なものがなくて、皮相で、嘘みたいに思えるの。あなたはそんな気しない? 一度も、そう感じたことない?」  そういえば、そんな気がしたこともあった、と折口は思った。 「ほとんどの人が、そんな気持を、一度くらいは味わったことがあるんじゃないかと思うわ」彼女は喋り続けた。「でも、他の人たちは、自分に対しても、他人に対しても、偽装するのをやめないでいる、それが文明的で合理的だと思いこんでいる──そんな気がするわ」 「じゃあ、あなたは今の社会を認めないのですか」 「社会生活があることは認めてるわ。認めないのは、社会生活の価値なのよ」  折口はうなだれたまま、小さな声でさらに訊ねた。「それじゃ、人生も認めないのか」 「認めてるわ。だけど、人間が今の人間社会の中で営んでいる人生は認めないわ。だって、夢みたいな気がするんですもの。テレビ・ドラマのような、現実じゃないような気がするんですもの。実体がなくて、ぜんぶスクリーンの上の出来ごとのような気がするんですもの。愛も憎しみも戦争もよ」 「あなた自身はどうなんだ。そんな非現実感の中じゃ、愛は不可能じゃないだろうか?」 「だから、お父さまを愛してたことに初めて気がついたのは、お父さまが死んでからだったわ」  折口はとっくに、この場の筋書きを忘れてしまっていた。そして今、名状しがたい衝動が彼を襲っていた。それは危険な衝動だった。意志に関係なく、彼の心は大声で叫びはじめていた。  ──彼女のいうことは、ぜんぶ本当だ! 本当だ!  今までにも、時として青天の霹靂《へきれき》のように折口を襲ったことのある、ふだんは忘れていたその非現実感を、彼は今、まざまざと胸に甦らせた。  ──あれが本当だったのだ! あの吐き気のする、つかの間の精神的破産状態の正体こそ、これだったのだ!  しかし折口は、彼女に賛成したくなかった。それがどんなに危険なことなのか、ジャーナリストとしての彼には容易に想像できたからである。この世界が無価値と知っていて、どうして生きて行ける──折口はそう思った。 「だけど人間は生活して行かなけりゃならない」彼は弁解するような口調でいった。「認めていない社会の中でだって、やっぱり生活して行かなけりゃならない。あなたは、これからどうやって生活して行くんだ? 生活して行けると思ってる?」 「生活して行けるわ。生活なんて、マスコミがかわりにやってくれるじゃないの」暢子はあっさりと、そういってのけた。  ふたたび折口の心に、大きな楔《くさび》が打ち込まれた。だが彼は大声で否定した。「無茶な!」 「ごめんなさい、怒らせる気はないのよ」彼女はいった。「でも、すでにある程度、わたしたちは世の中のことを経験しなくてもすむようになってしまってるじゃないの、テクノロジイによって──。だから、今にマスコミは……」彼女はいい澱んだ。折口がマスコミ関係者であることに気づいた様子だった。「もうやめましょう。いったところで……」そして黙ってしまった。  折口も、暢子に話を続けさせるのが恐ろしかった。彼女がこれ以上どんなことを喋り出すか、想像できなかった。想像しようと思えばできるかもしれなかったが、それを想像するのさえ怖かった。だがすでに折口の胸には、彼女の言葉によって受けた傷が、大きく口を開いていた。  そうだ、これは傷だ、と折口は思った。彼女の言葉が真実であろうがなかろうが、反社会的であることにかわりはない、そう思った。今の社会のどこが悪いのだ、どこも不都合なところはない、だから悪いのは彼女の考えかたの方なのだ、そうも思った。そしてそれを自分に納得させようとしたが、うまくいかなかった。 「帰ります」暢子が立ちあがった。  考えてみれば、もう何も話すことはないのだから、彼女が帰ろうとするのは当然なのだ──折口はそう思うと同時に、また別のことを考えてもいた。──かくして二人は、二度めに会った時も、お互いを理解することはできなかった、できないままに、二人は別れたのだった──と、そこまで考えて、折口はやっと気がついた。そうだ、彼女が言いたかったのは、この、あらゆる行動をドラマチックに仕立てあげなければ気がすまない、現代の人間の考え方だったに違いない、しかし──折口はまた反撥した──しかし、図式的、類型的な対人関係をそれぞれの人間が自分に強制することによって、すべての社会問題は簡略化され、個人と個人の胸のむかつくような厄介ないざこざ、個人対社会のいらいらする葛藤などがなくなるのだ。進歩的な社会学者から情報社会と呼ばれているこの社会のどこが悪いというのだ──そうは思ったものの、それを暢子に説こうとすることの無意味さも、折口は知っていた。彼はあきらめた。 「さようなら」と、折口は答えた。「僕はまだ、もう少しここにいます」  彼がそういって振り返ったとき、すでにそのあたりには暢子の姿はなかった。  折口は、ほっと溜息をついた──彼女にとっては、自分が彼女を理解しようがどうしようが、そんなことはどうでもよかったのだ。暢子と話しあう前に抱いていた彼女に対する期待、そして自惚れ、それらがどんなに子供っぽいものだったか、折口ははっきりと思い知らされた。  彼はもう一本、ケースからタバコを出した。その火のつけ方、くわえ方、それが自分でたとえようもなくいやだったが、すでに身についてしまっているアイを意識した仕ぐさ・身ごなしは、急に変えることはできなかった。彼は、わざとぎごちないそぶりでタバコをふかし続けた。  彼女と話したのは、ほんの十分足らずだった。しかし折口はすでに暢子から深い影響を受けてしまっていた。ひとまわりも年齢の違う娘から──そう思って折口は苦笑した。彼は彼女の喋った言葉よりも、むしろ彼女のごく些細な振舞いから感銘を受けた。彼女の振舞いによって彼女をとり巻いていた異様な雰囲気は、彼女のひとつひとつの言葉が、本当に彼女自身の本能あるいは衝動から出たものだということを、はっきり示していた。  折口はさらにタバコをふかし続けた。いつの間にか膝を組み、ながい足を片方、恰好よく前へつき出した彼の得意のポーズをしているのに気がつき、あわててその足をほどいたりした。最後にひと息、嘆息といっしょに大きく煙を吐き出すと、折口はゆっくりと立ちあがり、木立を抜けて石段を降りはじめた。軽い靴音がまばらな木立の中に響いた。その靴音が聞こえなくなってからも、アイはやっぱり、無人のベンチを凝視し続けていた。  ベンチの少し上の空間には、折口が最後に吐き出した煙がまだ漂っていた。街の灯に赤紫色に染められたその煙は、地上約2メートルの宙で気圧の抵抗を受け、それ以上昇ろうとせず、平面的な渦状運動を始めた。アイの方からは、その煙は単に水平面を左右に拡がっているようにしか見えなかったが、最後にその渦状運動の先端の部分は、二定点からの距離の和がほぼ一定になるような軌跡を描き、長軸の長さを約1メートルにとどめて五秒ほどの間、静止した。それから徐々に、アイの方から眺めてベンチの左側へと、やはり水平に移動し始めた。煙でさえ、アイを意識して漂っているのではないかと思わせるような、メロディアスな、スマートな動きだった。     5  テレビ局のロビーや廊下には、奇妙な顕花植物が繁茂している。タレントでもなく、スターの付人でもなく、見学者でもない若い娘たちだ。中には男もいる。彼らはスターたちには親しげに挨拶し、時には家族か恋人ででもあるかのように気易く手を振り、衣裳をつけた下っ端タレントにはじろじろと白い眼を向ける。この壁の花たちは、どんな役でもいいからテレビに出してほしいという連中だ。有名人の紹介状を持たず、群小プロダクションで入社を断わられ、素人出演の公募に何回も落ち、特技のひとつもない、しかもタレントになる夢だけは捨てきれない若者たちだ。  折口は毎朝の出勤時に、必ず彼らの最敬礼を浴びせかけられることになっていた。  暢子と会った次の日の朝も、折口はやはり彼らの、無器用な媚《こび》の一斉射撃を受けた。昨夜暢子と別れて以来、わけのわからない焦燥感に悩まされていた折口は、彼らを見てはげしい吐き気を覚えた。やめろと怒鳴りつけてやりたいほどだった。  放送開始以来二十三年、カラーテレビは普及し、人間にとってテレビは、空気や水と同様の生活必需品になっていた。そしてテレビを見ることは、呼吸や食事同様の自然な生存方法だった。五百六十万台のアイが日本全国にばらまかれた。しかし、だからといって、テレビに出たいという人間の数が低下することはなかった。逆に、さまざまな生活条件の中でテレビを見るいろいろな人間たちが、自分の仕事や趣味からの延長で、テレビ出演したいという願いを、ますます大きく拡げていったのである。彼らにとっては、出演に必要な特技、つまり演技力などは、どうでもよい問題だった。出演するために、利用できるものは何でも利用してやろうと、眼を血走らせているだけだった。  特別なスケジュールの何もない日で、折口はめずらしく暇だった。デスクで最新版の「現代美術全集第一巻」を見た。新・新古典派及び新旧浪漫綜合派及び商業派及び舞台派篇である。酒を飲んでから見ろという絵や、この音楽を聞きながら見てほしいといってソノシートをはさみ込んである絵まであったのでおどろいていると、P・Pがやってきて、例のぶ厚い掌で力まかせに折口の肩を背後から叩いた。他人《ひと》の機嫌も気にせずに叩くので、彼を嫌う者もいる。 「D・D、明日の朝のニュース・ショーはこれで行く。眼を通しておいてくれ」彼は折口に企画書を渡した。 「ほう、もう決まったのか?」折口は気乗り薄に、パラパラと企画書をめくった。「紫竜丸の船長というのは、この間韓国の警備艇に銃撃を受けた船の船長か?」 「そうだ。東京へつれて来た」 「あれはもう、五日も前の話じゃないか。ニュースとして古いぜ」 「うん、だが魂胆があった。今まで君にいっとかなかったのは悪いが、実は事件直後、すぐ彼を東京につれて来ていたんだ」 「へえ、何故すぐ出さなかった?」 「彼に方言を喋らせようとして、教育していたんだ」  折口は不思議そうに訊ねた。「何故そんなことをした? 彼はもともと方言を喋れるんだろう?」 「おいおい、この、テレビの普及した時代に、まともに方言なんか喋れる奴はいないよ。彼は標準語を喋るんだ」  折口は冷たい眼でP・Pを見た。「どうしてわざわざ、方言を教えたんだ?」  P・Pは折口の眼つきに驚いた様子だった。「君に似合わんことをいうんだな? 方言のほうが本当らしい雰囲気が出るじゃないか!」 「本当らしい? だって、それだと嘘じゃないか」 「おい、D・D」P・Pは気味悪そうに折口を見つめた。「今日は君、ちょっとおかしいぞ? 何かあったのか?」 「そうかもしれん」折口は苦笑した。「たしかにおかしい。自分でもそう思うよ」 「方言で喋らせた方が迫力が出るんだ」P・Pは弁解するようにいった。 「そのかわり、微妙なニュアンスが失われるな」折口が間髪を入れずにいった。 「いつから君は、倫理委員会へ入った?」P・Pはむっとしたようにいった。「本当にどうかしてるぞ。どうして微妙なニュアンスなど必要なんだ?」 「そうだったな」折口は乾いた声で笑った。「たしかにそうだ」  P・Pは幽霊を見る眼で折口を眺めた。「何かあったんだな? え? そうに違いない。お前はそんな笑いかたを今までしたことはなかった。言えよ。どうしたんだ?」 「何でもないさ」 「いや、そんな筈はない。お前のことなら、親兄弟よりもよくわかるつもりだ」 「ところで」折口は話をもとに戻した。「たった五日で、よく彼に方言を仕込めたもんだな」 「うん、それがうまくいったんだ」P・Pは乗り気になって、傍の椅子に腰をおろした。「方言といっても、本当の方言はとても難かしいし、正確に喋れる奴は地方にだって少ない。だいいち聞いてる方で何をいってるのかわからない。そこで標準方言を教えたんだ」 「標準方言?」 「言語学者と民俗学者に共同で作らせた架空の田舎言葉さ。これだとほとんど語尾の変化とアクセントを教えるだけですむ。それに加えて、今流行の催眠教育って奴を実験的に使ってみた。いやあ、うまくいったね、こいつは。これからは、アナウンサーの教育なんて、ぐっと簡単になるぜ」P・Pは、あわててラジオ時計を見た。「しまった。アナウンサーと今夜の『ちびっ子ロマンス大合戦』の打ちあわせをしなきゃあ……」彼は立ちあがり、行きかけて、また折口を振り返った。しばらくためらってから、小さくいった。「なにか困ったことがあるんなら、相談にのるぜ。いつでも」 「ああ、いいんだ、大丈夫」折口は手を振った。  P・Pはまだしばらく疑わしげに折口を眺め続けてから、あきらめたように肩をすくめて去った。  折口が企画書を読んでいると、受付のブレイブ・キャット嬢から電話がかかってきた。 「お客さまです」 「誰だ?」 「堀江とおっしゃる、中年のご婦人です。お子様づれの……」 「知らないな」 「折口さんの高校時代の先生の奥様です」 「ふうん。用件は?」  ブレイブ・キャットは急に小声になっていった。「それを聞いたら、こわい眼でわたしを睨んで、お会いしてからお話しするんですって。だけど、だいたいわかるわ。子供の売り込みよ」  折口は眉をしかめた。「僕がいることを、いってしまったのか?」 「ええ」 「じゃ、しかたがないな。こっちへ来てもらってくれ」  堀江というのは、折口が高校二年で教わった、生徒に年号や人名の暗記を強制する日本史の教師だった。折口は、数字や名前は、わからない時には辞典を見ればいいという考えだったので、成績は悪かった。その通りのことを教師に面と向かっていったため、怒鳴りつけられたこともあった。 「ごめん下さいませ」着飾った堀江夫人が、十二、三歳の少女をつれて折口の横に立ち、馬鹿ていねいに頭を下げた。  折口は傍らの椅子をすすめ、用件を訊ねた。こんなことは、早くすませてしまってほしい──彼はいつもそう思うのだが、ことに今日は、初対面の挨拶、紹介者からの伝言、べたべたしたお世辞を聞くのが特に苦痛だった。  肩と背中を思いきり露出した衣裳を着て、ふくらみのない胸にパットを入れ、ウエストをしぼった娘の頭を、堀江夫人はやさしく撫でながらいった。「この子が、歌が好きでミュージカル・スターになりたいといいますので、折口先生にお願いしてと思いまして……。本当なら、主人にご挨拶に伺わせなきゃいけないんでしょうけど……」 「でも、僕は音楽家じゃないから、お嬢さんに歌を教えるなんてとても……」 「あら、そうじゃございませんの」堀江夫人は、しなをつくりながら否定した。「この子の才能を見ていただくために、とりあえず、『ちびっ子ロマンス大合戦』にでも出していただけたらと思いまして……」 「とりあえず?」折口は聞き咎めた。「あの番組に出るのだって、大変な競争なんですよ」 「だからそこは、折口先生のお力で……主人もよろしく申しておりました」 「申込受付の後、第一次第二次の予選があるんです。まず、ハガキで係の方へ……」 「何ですか、あの番組、あまり歌の上手なお子さんは、出ないようですわね」 「申込用紙がありますから、それに名前と、できたら写真を……」 「うちの子の方が、ずっとましだと思いますわ。何でしたらいちど、先生だけにでも、この子の歌を聞いていただけましたら……」  折口はふたたび、はげしい吐き気に襲われた。彼は、母親の傍らに立っている少女をつくづくと眺めた。彼女は口紅をつけていた。そして折口に色目を使いさえした。母親の前で、未熟な媚をあらわにして、しなをつくった。折口は頭痛がした。この場を切り抜けるために折口は、今でもしばしばお眼にかかれる、小役人たちのよそよそしい態度を借用することにした。彼は電話で係に申込用紙を持ってくるようにいった。  堀江夫人は、まだくどくどと喋り続けた。「でも、ふつうの手続きでは、よほどのことがない限り、出していただけないのでしょう?」 「なあに、お嬢さんは歌がお上手だそうだから、大丈夫ですよ」 「ふつうの手続きをしようかとも思ったのでございますよ。でも主人が、せっかく折口先生を存じあげているんだから、そんなことは必要ないだろうと申しまして……」 「所定の手続きをとってください。ああ、来ました。これが申込用紙です」 「さようでございますか? あの番組は面白うございますわねえ。うちでも、お宅のテレビは毎日のように拝見しておりますんでございますよ。この子もあの番組を喜んで見ておりますのに……」堀江夫人は、しばらくもじもじしてからいった。「実は……いちど、第一次予選で落されたことがあるんです。でもあの時は、ディレクターのかたが不親切で……それにこの子も調子が悪くて……」 「そうでしたか。ま、しかし今度は大丈夫でしょう。ね、君」折口は、まだ白眼をむいてウインクし続けている少女にうなずいて見せた。  堀江夫人はいった。「やはり、主人に来てもらった方がよかったかも……」 「それは関係ないですね」折口は冷たくそういって机に向かうと、ふたたび企画書を開いた。  堀江夫人はじっと折口の横顔を眺めた。その頬に、ヒステリックな引き攣りがピクピクと躍った。やがて彼女は、せいいっぱいの皮肉な笑いを浮かべて立ちあがった。捨てぜりふを思いついたらしかった。「じゃ、おいそがしいところをたいへんお邪魔いたしました。でも、何でございましょうね、こんなお仕事をなさっていると、いろいろと役得がおありのことでございましょうね。ホホ」  折口は企画書を閉じると、堀江夫人に向き直っていった。「よく気がおつきですが、何なら試して見られたらいかがです。あなたの眼の前でもって、その役得とやらでハナをかんでお見せしましょう」 「まあ!」堀江夫人は眼鏡の奥の細い眼を見ひらいた。「何てことを!」そして、部屋中に響きわたるような、かん高い声をわざとはりあげた。「|ワイロ《ヽヽヽ》を持ってこいとおっしゃるんですね、|ワイロ《ヽヽヽ》を! 主人が教師で貧乏だと思って馬鹿にして! ようござんす、モニター・クラブへ行って、このことを話してきます!」 「あなたがいい出したんだ」 「あんたみたいなディレクターがいるから、番組の質が低下するんです。何ですか、ずうずうしい、若い癖にもうちゃんと役職をカサに着ることをおぼえて! |ワイロ《ヽヽヽ》を持ってこいだなんて」  部屋中の局員の視線が、彼女と折口に集中した。堀江夫人が娘の手をとり、毒づきながら部屋を出ていってからも、皆は折口の方を見続けた。  折口は閉口して、席を立つと廊下に出た。出勤してきたばかりなのに、彼はすっかり疲れていた。  局員たちが仕事に疲れ、上役の眼を逃れてしばらく休憩したい時いつも行くのは、局の地下三階にあるアイ・センターだった。折口もひとりきりになろうとした。彼がこんな気持になったのは、入社直後の、誰にでもあるあの懐疑的な一時期以来のことだった。  だが折口は、エレベーターの前で、28スタから出てきた二十二歳のミュージカル・スター、ジョージ・小野に腕を掴まれた。色白で黒眼がちの二枚目は、女のように身をくねらせながら折口に訴えた。 「D・D、おれもういや! あの希望対談て番組グッと苦痛。さっきだって、おれのファンという女子高校生《コメジラ》ワンサときてニキビの台風グッとおれその圏内、そいだけならまだ辛抱すっけど、主役《スタ・プレ》のおれ押しのけてカメラの鼻さきでダチ公同士押しくら饅頭、あの娘《メロ》ども、おれに会いたくて来るんでないの、テレビ出たくてくんの、グッとあべこべのコントラリのさかさま、だからおれグッと寂莫心の沙漠。もっとインテレゼンスのあるファンに会いてえや」 「お前さんにインテリ・ファンなんているのかね」 「侮辱凌辱おれ恥辱!」 「よしよし、わかったよ、何とかするよ」 「本当! 欣喜雀躍神社仏閣!」  ジョージから解放されて、折口はひとり、アイ・センターの中央へ降りた。  ここには碁盤の目のように細い通路が拡がり、都道府県の数だけの各部屋がある。つまり四十八室あるわけだ。どの部屋も、四方の壁には二十五段四百列のアイ受像器が埋め込んであり、部屋の中央には両面に五千台のアイ受像器を埋め込んだキャビネットが、多い部屋で六列、少ない部屋で三列並んでいる。もちろん、それぞれの段の下にはコントロール・パネルがついている。ひと部屋平均二万五千台、地下全部で約百二十万台のアイ受像器が置かれているのだ。日本中のアイの約五分の一が映像を送ってきているここは、日本一のアイ・センターである。  折口は「東京都」というプレートのかかった、いちばん大きな部屋に入り、キャビネットの間の細い通路へしのびこんで、コントロール・パネルに向かった椅子のひとつに腰をおろした。その附近の受像器の数台のスイッチを入れ、画面をぼんやりと眺めながら、彼はタバコをくゆらせた。スクリーンには、都心から少し離れた高級住宅街の景色が映し出された。芸能人や作家やプロのスポーツマンの多いその辺りの家は、いずれを見ても奇抜なデザインの建物ばかりだった。折口は、その左右にあるもう数台のスクリーンのスイッチも入れてみた。人気女優の寝室と、小説家の中では昨年の最高額納税者だった流行作家の書斎がスクリーンにあらわれた。どちらの画面にも、人の姿は見られなかった。  折口は欠伸《あくび》をした。眠れぬ夜がふた晩続いていた。だが折口は、自分をこれほど疲労させた原因である、あの暢子という娘に対しては、腹をたててはいなかった。あの娘と、このテレビ局にくる人間たち──何という違いだろう、折口はそう思っていた。彼の怒りは今、有名人になりたいために自分を悩ませる人間たち、スターの座を維持したいために駄々をこねる有名人たちに向けられていた。  どうしてみんな、有名人になりたがるのか──今まで考えてみたこともなかった問題を、折口は自分に課した。  彼は考えた。  過去百何十年かの間にマスコミは、平凡な人間を有名にしてしまう新らしい力を持った。いやむしろ情報社会の大衆──テレビの視聴者や活字報道の読者である大衆が、マスコミと協力して名声を製造する方法を発見したといってよい。大衆はそれらの有名人の名前で頭の中をいっぱいにしたうえ、さらに有名人を求め続けた。だが大衆は、彼ら有名人への自分たちの賞讃が、人工的に作られたものに捧げられているのだということを信じようとはしなかった。人工的合成物に過ぎない有名人を、真の英雄だと思いこんでいた。いや、思いこもうとしていた。ちょっと深く考えれば、誰にだって、有名人が大衆の飽くことのない期待によって作られた情報社会の産物だということはわかるはずだった。有名人とは売り物になる人間的モデルだ。大きく拡がり続ける市場を満足させるため、やすやすと大量生産され全国的に広告される商標であり、商品である。それは過去の歴史にはなかった、新らしい種類の人間的空虚さだ。その証拠に、有名人は特質を欠如していなければならなかった。個性の些細な表現だけで分化していなければならなかった。巧みに自分の個性を他と異った方法で区別するだけで、本質的には同じでなければならなかった。善人でもなければ悪人でもなく、道徳的には中性でなければならなかった。グラフ雑誌などに載る彼らの伝記や日常は「ためになるもの」とはみなされていず、しかもそこには、ごくわずかの事実しかふくまれていなかった。何故なら、そもそも彼らはマスコミの作り出した虚像にすぎないのだから。彼らは大衆と同じ性格を持っていなければならなかったのだ。そして今、大衆の視界は、わかりきった男女の姿でいっぱいになっていた。現実の知人とまちがえられて話しかけられるテレビ・タレントほど、人気があった。自分たちの空虚さを反映しているだけのイメージにとびつく大衆は、大衆自身の影をふやし、拡大させているだけだった。有名人は今までにない速さで毎日のテレビから生まれ、今までにない速さで忘れ去られ、消えていった。一世代前の有名人のほとんどが忘れられていた。そして大衆は、過去の有名人がいかに早く忘れ去られたかという報告──「だれそれは今、どうなっているか」という番組を、実に面白がって見た。にもかかわらず、有名になりたがる人間は、あとを絶たない──何故だ? 折口は考え続けた。  彼らには自信があるのだ──折口はそう思った。自分の才能に自信があるのではない。いったん有名になりさえすれば、常に自分を宣伝して、いつまでも忘れられることのないように、始終ニュースやゴシップを作りつづけて見せるという自信だ。自分の個性的な、すぐれた伝記をでっちあげて見せ、それを読者に信じこませてやるという自信だ。毎日のテレビのニュース種になるほどの、さまざまなスキャンダルにまきこまれて見せるという自信だ。しかもそのためにマスコミから消されないよう、片方ではちょっとした善行もして見せてやるという自信だ。無意味な流行語を、次から次へと作ってやるぞという自信だ。他の有名人をほめてやることによって自分もほめてもらい、また彼ら同士の相互関係がニュースになることによっても、ますます自分のイメージを確立させてやるという自信だ。有能な自分の宣伝係を多数手もとに引きつけておいて、あやつって見せることへの自信だ。おそらく大衆のひとり、ひとりが、そんな自信を持っているに違いない──折口はそう思った。どんな人間でも、いつ、どんな事件にまきこまれるかわからず、いつアイにキャッチされるか知れず、したがって、いつ有名人の仲間入りをすることになるかわからないのだ。考えてみれば、大衆のすべてがそんな期待を持ち、そして自信を持つのも当然だった。  静かな室内に靴音が響き、折口のいる方へ近づいてきた。アイの見まわり係だ。彼らは数人で各室を巡回していて、どの受像器も一時間に一度は必ず眺めるようにしている。何かニュースになりそうな画面を発見すれば、洩らさずアイ担当D・Dに携帯テレコールで連絡するのである。  やがて、キャビネットの角をまがって姿を見せたのは、折口のよく知っている若い局員だった。 「おや、折口さん、珍しいですね。あなたがこんなところへ……」 「おれだって、たまには息抜きしたくなるさ」折口は苦笑していった。  若い局員がみな自分のことを、まるで機械のように仕事熱心で、かみそりの刃のように頭の切れる、非人間的な秀才タイプだと思っているらしいことは、折口もうすうす感づいていたのである。  係員は、コントロール・パネルのスイッチを順に入れては画面を眺めながら、次第に折口の方へ近づいてきた。「何か、いやなことでも、あったんですか?」 「どうしてそう思うんだ?」 「だって、いいことなんて滅多にないでしょう?」  折口は笑いながら、操作盤上に靴のかかとを乗せた。その時彼は、さっき自分がスイッチを入れたスクリーンのひとつに、何か動くものを発見した。 「おや?」彼は足をおろして、眼をこらした。  そのスクリーンは、あの、流行作家の書斎を映し出している受像器のそれだった。その画面の中──まるでアトリエのような明るい造りの洋間に、どうやら開け放されたままのヴェランダから忍びこんできたらしい、ひとりの薄ぎたない少年が立っていた。彼は落ちつかない様子で、書類棚や机の抽出しをひっかきまわしていた。十六、七歳に見えるその少年は、流行の薄っぺらな上衣を着ていて、油気のない頭髪を額に垂らしていた。 「君っ、ちょっと見ろ!」  折口は画面を凝視したまま係員に叫んだ。係員は、切迫した調子の折口の声に驚いて、すぐに走ってきた。そして折口と同じ画面を眺めた。 「こそ泥らしいですな」 「小説家の鹿田新平の書斎だ。君、すぐに警察に連絡しろ」折口はそういいながら、係員の携帯テレコールをひったくり、スイッチを入れた。  係員は部屋の隅にある外線電話の方へ走り去った。 「もしもし、こちらはアイ・センター。担当D・Dどうぞ」  折口の呼び出しに応えて、アイ担当D・Dののんびりした声が聞こえてきた。「こちらD・D。なにか面白いものを見つけたのか? どうぞ」 「見つけた。今、鹿田新平の家にこそ泥がしのび込んで、書斎を荒らしている。どうぞ」 「それは本当か。そ、そいつは面白いな! 家のものは誰も知らないのか? どうぞ」 「うん、知らないらしい。どうぞ」 「よしっ! アイ・ナンバーを教えてくれ。副調整室へもらおう。今ちょうどコマーシャルを流しているから、緊急アイ情報に切り替える。どうぞ」 「東京都第五区AFの63Bだ」折口はそういうとテレコールを投げ出し、コントロール・パネルの上のサウンド・スイッチをさがした。アイの取りつけられている附近には、たいていマイクも仕掛けられているのだ。「どれだ、音のボタンはどれだ!」勝手がわからず、折口はうろたえた。  だが、違うボタンを押して妙なことになってもいけないので彼は音をあきらめ、無言の画面を見るだけで我慢することにした。すぐに係員が戻ってくる筈だし、彼に訊けばわかる筈だった。  書斎の壁にかかっているモンドリアンの絵に眼をとめた少年は、額縁の裏をのぞきこんだ。そして絵を壁から取りはずした。隠し戸棚があらわれた。少年は戸をあけ、中へ腕をつっこんだ。  食いいるように画面に見いっていた折口は、グッと咽喉を鳴らした。  書斎のドアを開け、和服姿の鹿田新平が入ってきたのだ。中年肥りで下腹部のでっぱった流行作家は、少年の姿を見て立ちすくんだ。そして金歯だらけの口を大きくあけた。声なく息を吸っただけで、叫んだのではないらしかった。それは、少年が作家に気がつかず、まだ戸棚の中に腕をつっこんだままでいることでわかった。やがて戸棚から抜き出した少年の手には、皺くちゃになった紙幣や証券の束が握りしめられていた。流行作家、鹿田新平は、一瞬、救いを求めるようにアイの方を見た。泣きそうな顔をしていた。だが彼は、すぐに気をとり直し、落ちつきはらって胸をはった。アイに見られているかもしれないという考えが、いつもの彼らしいポーズをとらせたに違いなかった。泥棒ひとりにびくびくしたのでは、その小説の中に何人もの英雄を登場させている大衆作家としての彼の面目が失墜する。彼は逃げ出すことも、大声で悲鳴をあげることもできなかった。彼はあきらかに虚勢と思えるポーズ、つまり、腹をさらに突き出し、ふところ手をした、いつも人前に出るときの、あのポーズをして見せた。  人の気配を感じ、少年は身体をびくっと沈め、鋭い眼でドアの方を振りかえった。  作家と少年の眼があった。どちらも、互いに相手を恐れながら、それを隠そうとしていた。  しばらく睨みあっていた。  やがて、肥った中年男の見せかけの押し出しが、痩せこけた少年の虚勢を圧倒したらしく、少年は視線を床に落した。作家が何か喋りはじめた。  折口はやきもきして、整った頭髪を掻きむしった。「声だ! 声が聞きたい!」  彼はたまらなくなって、さっきの係員の名を大声で呼んだ。返事がなかったので、折口は受像器を離れて駈け出した。  キャビネットのコーナーで鉢あわせをしそうになった係員の腕をひっぱって、折口が受像器の前まで駈け戻ってきたとき、作家と少年は部屋の中央の応接セットに向きあって腰をおろし、何か話しあっていた。作家が喋り、少年はうなだれて、作家の言葉にうなずき返していた。 「早く! 早くマイクのボタンを!」  折口が叫び、係員はサウンド・スイッチを入れた。その途端、感度のいい受信機が最高のヴォリュームで叫び始めた。 「だまれ! 何も知らねえくせしやがって!」 「わ、わっ! な、何をする!」作家が悲鳴をあげた。  少年がポケットから、小さな切出しナイフを出し、作家に切りつけたのだ。作家は傷口を押さえ、壁ぎわへとび退いた。壁に背を押しつけ、恐怖に眼を見ひらき、大きく口を開いてあえいだ。それから掌についた少量の血を眺め、裏声で絶叫した。 「うわーっ、ひやーっ、血、血だ!」  少年はその声で、さらに逆上した様子だった。彼は作家の傍へ駈けより、さらにナイフを突き出した。 「ひやーっ! だ、誰か来てくれ!」作家は危く身をかわし、床に転倒し、また起きあがって肘掛椅子の背の凭れにしがみついた。眼鏡がだらしなく歪んで、鼻さきにひっかかっていた。「き、君はさっき、わしに一度、あ、あやまったんじゃないか!」 「よけいな説教なんかするからだ! お前みたいな奴は殺してやる!」 「助けてくれ! わしが悪かった!」作家は泣いていた。「殺さないでください。女房がいます。子供がいます」彼は恐怖のあまり、すごい早口で喋りまくっていた。  少年も泣きわめきながら、床の上を這いずりまわって逃げる作家を追いまわした。「みんな同じだ! どいつもこいつも、同じだ!」  作家は逃げまわり、部屋の壁ぎわを一巡した。また壁に背を押しつけて立ちあがった。少年は作家を睨みつけ、ナイフの握り方を変えて逆手に持ち直した。それを見て、作家はヒイと咽喉を鳴らした。彼の顔から、たちまち血の気がひいた。 「これは嘘だ」彼は首を左右に振りながら、弱々しく呟いた。「嘘にきまっている。わしが人から、こ、殺されるなんて……」  二、三度、息をゼイゼイいわせてから、彼は眼球をくるりと裏がえした。白眼になった。そして失神し、床にくずおれた。  少年はナイフを持った手を、だらりと垂らした。その時、ヴェランダとドアから警官がとび込んできて、少年を捕えた。少年は少しもがいたが、すぐおとなしくなった。  折口はドアの方へ歩き出した。 「あ、D・D、どこへ?」  係員の問いに折口は振り返りもせず言った。「警察だ。あの少年と話がしたい」     6  局の制服を着た折口が、警察署の正面玄関に横づけした局の車から降り立ち、入口のドアをあけると、受付の警官が立ちあがって丁寧に敬礼した。事務をとっていた者も二、三人立ちあがり、折口が、声をそろえていらっしゃいませというのではないかと思ったほど、にこやかに挨拶した。 「鹿田新平の家へ泥棒に入った少年に会いたいのですが」と、折口はいった。 「は、今、取調べ中でございます」受付の若い警官は今にも揉み手をしそうな様子だった。「私がご案内申しあげましょう」 「君は受付だ。持場を離れちゃいかん」横から出てきた中年の警官が、若い警官を押しのけた。 「どうぞこちらへ」  若い警官は一瞬打ちのめされたような表情になった。彼にとっては、テレビに出ることのできる、一生にただ一度のチャンスを逃がしたのかもしれないのだ。泣き顔になるのも無理はなかった。  折口は取調室への廊下を、中年の警官のあとに続いて歩いた。  中年の警官は歩いている間中、何かにせき立てられてでもいるかのように、のべつまくなしに喋り続けた。「この建物は三カ月前に完成したばかりでさあ。だけど、ごらんになっておわかりでしょうが、とても新築とは見えねえでがしょ? この壁やこのドア、あの天井、それから床、こいつらをこの通り古ぼけて見えるようにするのに、署員全員がまる二日かかったんすよ。いや、テレビ局の旦那になら、その苦労はわかっていただけるでしょうがね」 「何故そんなことを?」 「何故ですって? いやあ、こいつは旦那もお人が悪い」彼は歯槽膿漏らしい歯ぐきを見せて笑った。「だってあなた、警察署の中がホテルみたいじゃ、警察という感じがしねえでしょうが。第一、しょっ引いてきた容疑者が怖がらねえ。それより何より、報道陣が厭がりまさあ。ここからニュースの中継をやるにしろ、ドラマの撮影をやるにしろ、天井から床までまっ白けのピッカピカじゃあ、視聴者が病院か何かと間違えちまう」 「すると、部屋の中までわざと薄汚なくしてあるの?」 「へえ。まあ取調室へ行ってご覧になればわかりますがね。冷暖房装置のダクトなどは、できるだけ見えねえようにして、暑くもないのに旧式のガタガタ扇風機、寒くもねえのにブリキ張りの火鉢と、まあそういった具合でさあ。机や椅子なども、大時代な木製の奴を、わざわざ古道具屋を探しまわって、新品よりゃかえって高いくらいの値段で……」彼は、あわてて口を押さえた。 「いけね。こいつは口をすべらせた。今のはご内聞に。都民はうるさいからねえ」  もちろん彼が親しみを買おうとしてわざと失言したのだということは、折口にもわかった。  取調室は、三坪ばかりの小さな部屋だった。  少年を訊問していた二人の刑事は、折口を見ると、急に眼を生きいきさせて立ちあがった。 「これはこれは。さ、どうぞどうぞ」白髪の混った年上の方の刑事が、いそいそと折口に内臓のはみ出た椅子をすすめた。 「この少年に会いたいとおっしゃいますので、お連れ申しあげました」折口を案内してきた警官はそういって、まだ名残り惜しそうに折口をじろじろと見続けた。 「ご苦労さま。もういいよ」若い方の刑事が、警官の肩をぽんと叩いていった。  中年の警官は噛みつきそうな顔で若い刑事を睨みつけた。 「ご苦労さま」と、初老の刑事もいった。  警官はしかたなくドアから出て行きかけたが、急に振り返って、折口にさもなれなれしくウインクして見せた。「旦那、さっきのあれは秘密ですぜ」ニヤリと笑い、出て行った。 「あいつ、何を喋ったんです?」若い刑事が心配そうに折口に訊ねた。 「どうでもいいでしょう。さあ、どうぞ訊問を続けて下さい」折口は心もち顔をしかめてそういった。  だが、二人の刑事は少年の方を振り返ろうともせず、折口と向きあって腰をおろしたまま、じっと彼に眼を注ぎ続けた。 「どうしたんです? 取調べ中だったんでしょう?」 「ええ、でも……」初老の刑事が何かを折口に訊ねようとして、言葉を思いつかぬままに、若い刑事の方へ助けを求める眼を向けた。  若い刑事は訊ねた。「どういうふうにやればいいんでしょうか? つまり、その、あなたの演出意図ですが……」  折口は、ふたたびあの乾いた笑いが出てくるのを止めることができなかった。「そんなもの、ありませんよ。さあ、続けてください」 「すると……」初老の刑事は、部屋の壁に埋めこまれているアイを指していった。「あいつで中継してられるわけじゃないんで?」 「そうです。それほどの大事件でもありませんからね。最近は有名になろうとして有名人を襲う奴がやたらに増えたから……」 「僕はそうじゃない!」少年が吠えるようにいった。 「うるさい!」若い刑事は凄い眼をして少年を怒鳴りつけ、また折口に向き直った。「すると……」彼は警戒するような眼になり、少年の方を顎でしゃくった。「お知りあい?」 「とんでもない」折口は苦笑した。「単なる見学ですよ」  二人の刑事は、ながい間とまどった表情のままで、ぎごちなく椅子に掛けたまま、ぼんやりと折口の顔を眺めていた。 「そうですか。見学が駄目なのなら……」  折口が出て行きかけると、二人の刑事は感電したように椅子からとびあがった。若い方はドアへ突進し、年寄りの方は折口を引きとめた。 「いえいえ、そんなあなた」初老の刑事は顔を皺だらけにして愛想笑いをした。「なるほど、見学! そうですか! きっとドラマで警察の場面があるわけですな? その見学ですな? いや、そうでしょう、そうでしょう。いいですとも、結構ですとも、そうと決まれば私たちも、熱を入れてやりますよ。ハハ、ハハ。決してあなたに時間の損はさせません。さ、さ、どうぞ、どうぞ」  手とり足とりしかねぬ様子で、二人は折口をもとの椅子に無理やり掛けさせた。そしてふたたび、少年と向きあって腰をおろし、訊問をはじめた。  少年は浅黒い、健康そうな顔色をしていて、整った顔だちをしていた。眼つきや唇から、彼がきかぬ気らしいことは容易に想像できた。 「さてと」初老の刑事は書きかけの調書を見た。「金が欲しかったから盗みに入ったといったな? なぜ金が欲しかったんだ?」  少年は白い眼を刑事たちに向けた。「答えなくちゃいけないんですか?」 「生意気な口をきくな!」若い刑事が頭ごなしに怒鳴りつけた。彼は張りきっていた。 「学生服を買いたかったからです」と、少年が答えた。 「学生服だと?」年上の刑事が訊ねた。「お前の学校じゃ、制服でないと通学を許されんのか」 「いいえ」 「じゃあ別に学生服を買わなくったって、いいんじゃないか」  少年は投げやりな口調でいった。「欲しかったから、欲しかったんです」 「嘘をつけ!」若い刑事は立ちあがり、腰に手をあてて部屋の中を歩きまわり始めた。あきらかにテレビの「暗黒街シリーズ」に出てくる刑事の真似だった。「そんなもの買うつもりだったんじゃあるまい。正直にいうんだな。何に使う筈だったんだ?」 「僕は本当のこと言ってるんです!」少年は握りこぶしで机をたたきながら、泣き声でいった。「僕に嘘をつけというんですか?」 「ふふん」若い刑事は薄ら笑いを浮かべていった。「近頃じゃ、そんなひねくれたいい方を学校で教えるのか」  少年も、せいいっぱい反抗的な笑いを浮かべた。「テレビに教わったんですよ。あなたのその喋り方と同じようにね」 「なにを!」若い刑事は蒼ざめた。 「まあまあ」初老の刑事は彼を制した。「何故学生服が欲しかったか、納得できるように説明できるかね?」この刑事の方は、あきらかに人気対談番組の、ものわかりのよい老タレントの影響を受けていた。 「僕の家は貧乏だから、学生服を買ってもらえないんですよ」 「そんなことはわかってる!」若い刑事が吠えた。「何故欲しかったかと聞いてるんだ!」  少年は吠え返した。「これから喋るところなんだ!」大きく息を吸いこんでから、初老の刑事に訴えた。「どうして僕がまともに喋ろうとするの、邪魔するんですか。この人がいちゃ喋れません。出てもらってください!」 「なにを!」若い刑事は少年に詰めよった。 「ここを何処だと思ってるんだ! 手前の家とでも思ってるのか!」 「君、やめたまえ」初老の刑事がたしなめた。「わしに質問をまかせなさい。でないと、ほんとに出ていってもらうよ」  若い刑事は蒼くなり、充血した眼で少年を睨みつけた。そしてゆっくり腰をおろした。くやしさに、唇を顫わせていた。 「学生服を着ていないと、テレビに出られないんです」と、少年はいった。 「ほう、何のテレビにかね?」老刑事がちょっと眼を輝かせた。 「学校音楽の時間です。僕は音楽部にいるんだけど、僕だけ制服がないから出られないんです。僕は歌が下手じゃない。僕だって皆よりはうまく歌える自信があるんだ。本当なら僕も出られるんですよ」少年はそういって、恨めしそうな眼でちらと折口を見た。 「あの番組はうちの局の制作だが」折口は少しあわてていった。「制服じゃないといけないなんて制限は、してない筈だ」 「ええ、そうです」少年はうなずいた。「でも、音楽部の方でそういうことに決まってしまったんです。いくら音楽番組といっても、やはり、テレビに出演する者はすべて視聴者の眼も楽しませなければならない、だから服装は統一されるべきだというんです」 「正論だ」と若い刑事がいった。 「でも本当は違う」少年は身をのり出した。「それは出演する部員を制限する必要があったので、その言いわけなんです。音楽部にはテレビ・タレントの息子が三人いて、そいつらが部内で幅をきかしていて、しかもそいつらは音痴で……」  若い刑事はまた笑った。「それはお前の僻《ひが》み根性でそう思ってるだけだろう」 「ちがいます!」  老刑事がいった。「まあいい。でも制服ぐらい、音楽部以外の友達に借りたらいいじゃないか」 「友達ですって!」少年は吐き捨てるようにいった。「みんな自分がテレビに出たがっていて、出られそうな者への嫉妬なんて、そりゃもう、すごいんですよ。どうして、僕に貸してくれたりするもんですか」 「頼んで見たのかね?」 「いいえ。だって駄目に決まっています」 「だってそりゃ、君の早合点かもしれないよ」 「あなたには、わからないんだ」少年はそういって横を向き、黙ってしまった。 「理由はどうあれ、学生服がほしいというだけで盗みに入ったんだね?」  少年はそう訊かれ、急に俯向いた。「はい、悪いことをしたと思っています」 「しおらしげな様子をするな。盗もうとしただけじゃない。お前は鹿田先生に発見されると、ナイフを出して先生を殺そうとした!」若い刑事がとどめを刺すようにいった。 「そうじゃない」少年は若い刑事に向かって首を左右に振って見せた。「見つかったから殺そうとしたんじゃないんだ」 「また言いのがれする気か?」彼はちらと、年上の刑事を見た。「他の人はごまかせても、おれはごまかせんぞ」 「わかりゃしない、誰にもわかりゃしないんだ」少年は机に俯伏せた。 「わかるかわからないか、まあ言ってごらん」老刑事がいった。  少年は俯伏せたままでいった。「僕は見つかったとき、いちどあやまったんだ。悪いことをしたと思った。本当にそう思った」顔をあげた。「だからあの人に、素直にあやまったんだ!」 「また出まかせを……」若い刑事は頬を引き攣らせた。彼は今度は本気で怒っていた。怒鳴りつけた。「そんなこと、信じてもらえると思っているのか!」 「それは本当ですよ」折口が二人の刑事の背後から口を出した。「僕は偶然、一部始終を局のアイ・センターで見ていた。この子は本当に、一度はあやまったんだ」  二人の刑事は振りかえって折口の顔をぼんやりと眺めた。折口がうなずいて見せると、刑事たちも口を半開きにしたままうなずき返した。  折口はゆっくりと立ちあがり、少年の傍に歩み寄った。「僕がここへ来たのは、君が、一度はあやまっておきながら、どうして鹿田新平を殺そうとしたのか、その理由を聞きたかったからだ」彼は二人の刑事に顔を向けた。「物好きな奴だと思うでしょうね?」  二、三秒の間をおいて、若い方の刑事があわてて首を左右に振った。  折口はまた少年に訊ねた。「どうしてだ? 教えてくれないか? 君の行動には常識的でないところがある──いやいや、盗みに入ったことをいってるんじゃないよ。盗みというのは法律に反する行為ではあるが、われわれの常識に反する行為ではない」  二人の刑事は驚いて眼を丸くした。 「見つかって、すぐあやまった──これも常識的な行為だ。常識的でないのは、そのあと君のやったことだ」 「それを聞いてどうするんです?」  少年は白い眼を折口に向けた。これも常識に反する行為だ──折口はそう思った。彼に敵意を示す人間は、彼にとって非常識的な存在だった。 「どうするかは、聞いてから決める。だけど、それは僕の問題だ」そういってしまってから折口は、すっかり暢子の口調に影響されている自分に気がついて苦笑した。 「何が面白いんです!」折口の口もとを見て少年がわめいた。 「君、このかたはな……」年上の刑事が身をのり出して、ささやくように少年にいった。「いいか。君が鹿田先生を、なぜ殺そうとしたか。それを訊ねてられるんだよ」 「教えてやる!」少年は両腕を机に突っぱって、いきなりわめき出した。「奴が説教を始めやがったからだ!」彼は立ちあがり、折口にいった。涙を流していた。「いいですか、僕が振り返ったとき、あいつはドアん所に立っていた。あいつはびくびくものだった。本当に怖がっていた。そりゃ、一生けんめい腹を突き出していましたよ、えらそうにね。だけど怖がってることは僕にだってはっきりわかった。僕はその様子を見て、本当に悪いことをしたと思ったんですよ! 本当なんですよ! だからあやまったんだ。すると奴は、急に尊大になりやがった。どっかと椅子に腰をおろすと、金歯だらけの汚ない口の中を見せて、説教を始めやがったんだ! 勝ち誇った顔つきをして! 嬉しそうにして!」彼は立ったまま机をどんどん叩きながら叫び続けた。「その説教の内容といったら! どうして奴ら、あんな言葉をいいと思ってるんだ! 使い古してボロボロになった封建思想の骸骨みたいな、論語、聖書、ことわざ! 古人いわく! 師のたまわく! 主いわく! それを臆面もなくやりやがったんだ! はずかしそうな顔ひとつしないで! どうして自分が君子で、僕が小人なんだ! そんなこと誰が決めた、いつからそんな風に決まってるんだ!」彼は机に突伏した。声をあげて泣いた。ながい間、茫然としている三人の前で泣き続けた。  さっき折口を案内してきた中年の警官が、また入ってきた。「失礼します」 「何だね?」若い刑事がうるさそうに、白眼で彼を見た。 「その子の高校の先生が、その子に会わせてくれといって来てるんですが」と、警官がいった。「生徒も、五、六人いっしょです。学友だといっています」 「帰ってもらってください!」少年は叫んだ。「会いたくない! 僕はいやだ!」 「どうしてかね?」と初老の刑事がいった。「うん、そりゃあ、会いたくないというお前の気持もわからんことはない。しかしだな、みんなお前のことを心配して、わざわざ来てくれたんだ。ちょっとだけ会ってみたらどうかね?」 「心配ですって!」少年はとんでもないという顔つきで、はげしく首を左右に振った。「心配なんかしてるもんか、あいつらはみんな、面白がって僕を見に来たんだ!」 「何てことをいう!」初老の刑事は語気を強めていった。「みんな、君のためを思ってくれてるんだぞ! わざわざみんないっしょに、こんな所まで来てくれたのを、ありがたいと思いなさい。友情を踏みにじっちゃいかん」 「いやだ! あんたたちには、わからないんだ! 教師だって今まで僕に、声ひとつかけてくれたことはないんだ。友だちなんか、僕にはいないんだ! みんな、自分のことだけに一生けんめいで、他人を押しのけようとしていた奴らばかりなんだ! あいつらはみんな、捕まった僕を見て優越感を持ちたくてやってきたんだ!」 「お前は何という根性曲がりだ!」初老の刑事が、とうとう大声で怒鳴った。「そこまで根性が僻んでるのか! ひねくれた奴だ!」 「ひねくれてるのは、あいつらなんだ!」少年は、けんめいに叫んだ。「あいつらは学友たちを代表して僕を見に来て、心配したり同情したりするふりをして、学校へ帰ってから自慢たらしく僕に会ってきたことを喋りまわるに決まっているんだ! 僕には、わかってるんです!」 「どうしますかね?」中年の警官がもう一度訊ねた。 「そうだなあ」二人の刑事はちょっと考えてから、指示を仰ごうとするかのように、折口の方を見た。  折口はいった。「すみませんが、しばらくこの子と二人だけにしておいていただけませんか」 「ああ、そうですか。いいでしょう。じゃあ、わたしたちはあちらへ……」  刑事たちは、そそくさと部屋を出て行った。  折口は、さっきまで若い刑事が腰をおろしていた椅子に掛けて少年と向かいあい、タバコを出した。 「僕にも一本くれませんか?」 「ああ」折口は少年にタバコをやった。  少年はタバコをくわえ、反抗的な笑いを作っていった。「僕は未成年者ですよ。タバコなんかくれてやっていいんですか?」  折口はいらいらして、荒い口調でいった。「そんなことはどうでもいい。僕なんか十五の時から喫ってる」  少年はちょっと驚いて、折口の顔をぽかんと見つめた。やがて気をとりなおしてにやりと不敵な笑いを浮かべ、生意気な恰好で机の上に身をのり出し、折口に顔を近づけた。「あんたもやっぱり、お説教ですか? 僕を救いたいってわけですか?」 「君を?」折口は不思議そうに少年を眺めた。「君ならもう救われてる。むしろ僕が君に救ってもらいたいくらいだ」 「僕が救われてる?」 「そうとも、救い難いのは他の連中だ。ところで君は、ここを出て早く家へ帰りたくないか?」  少年は折口をじっと見つめながら、ぼんやりとうなずいた。  折口はいった。「ところが君は、家へ帰してもらえないようなことばかり、さっきから言ったりしたりしてるじゃないか。それが君の救われてる証拠だ」 「何をいってるのかわからない。僕は頭が悪いんだ」 「いや、僕の睨んだところでは、君は頭がいい。よすぎるくらいだ。だから僕のいうことがわかる筈だ。いいか。君はせいいっぱい反抗してる。反抗するのがあたりまえなんだ。君くらいの若さで、反抗しない奴のほうがよほどおかしい」 「僕もそう思う。だけど僕は罪を犯したんですよ」 「犯罪とこれと、どういう関係があるんだ? そんなことはどうでもいい。とにかく君は反抗的でまともだ。そのために家へ帰れない。これをどう思う?」  少年はしばらく考え込んだ。「わからない」 「盲人の国では、片眼の者が王様ということを知っているか?」  少年はまた考え込んだ。「知らないけど、意味はわかります」 「王様──だけどそれは、淋しい王様だ。孤独で悲しい王様だ。何も得をすることのない王様だ。税金を徴集することさえできない王様だ。その王様は何ものをも支配しない。いかなる権力も特権も持たない王様なんだ。病におかされていることを自覚しない世界の中で、自分が半病人であることを自覚しているというだけの意味での王様なんだ」 「それじゃ、僕は家へ帰れないんですね?」少年は泣きそうになっていった。「家に帰りたいんだ。ここは嫌いだ」 「まあ待ちたまえ」折口はいった。「ひとつだけ、ヒントをあげよう。いいかい。盲人は片眼にはなれない。だけど片眼は、盲人の真似をすることはできるんだよ」  少年はじっと折口の眼を見つめた。彼の頬が赤くなった。「わかりました。先生と友だちに、会います」  折口はにやりと笑った。「うん、そうしたまえ」立ちあがって廊下へ出た。  少し離れたところにあるソファの附近に、学生たちや刑事が集って何か喋りあっていた。  折口は彼らに、少し大きな声でいった。「来てください。会うそうです」そしてすぐ部屋の中に引き返し、少年にうなずいた。「しっかりやるんだな。お手並を拝見するよ」  彼は今まで掛けていた椅子を部屋の隅に引っぱって行き、腰を落ちつけた。  折口が開けたままにしておいたドアから、刑事二人を先頭に、若い神経質そうな男の教師、そして二人の女生徒を混えた六人の高校生が入ってきた。 「菊池君!」教師は壁ぎわにいる折口の制服にちらと眼をやってから、前へ進み出て、机の上に両手を置き、背をかがめて少年の顔をのぞきこんだ。「詳しいことは、今刑事さんから聞いた」ちょっと言葉につまり、しばらくしてから小声でいった。「会いたかったよ……。会えてよかった。よく、会ってくれた」それから柄もののハンカチを出した。だが、まだ涙は出ていなかった。彼は涙を出そうとするかのように、自分のハンカチを見つめた。「心配したんだよ、みんな……」やっと涙が出てきた。彼は突如として泣き叫び始めた。「先生が悪かったんだ! 君のことに気がつかなかったなんて! 僕は君と、打ちとけて話しあったことは一度もなかった……でも、でも、君は、そんなに悩んでいたのなら、どうして僕に相談してくれなかったんだ! どうして、ひとこと……ぼ、僕に……」おいおい泣き続けた。  教師に習って、生徒たちもいっせいに泣き始めた。女生徒たちは、眼に押しあてたハンカチの下から、時おりちらちらと折口の方を盗み見ながら泣いた。  教師はわめき続けた。「気がつくべきだった、君のことに……。ゆ、許してくれ、菊池君! 僕は教師として落第だ!」 「菊池君!」 「菊池さん!」  泣きながら学友たちが、一歩ずつ前へ出た。  女生徒のひとりが、嗚咽しながら喋り出した。「私たちも悪かったわ! そのくらいのこと、とっくに気がつくべきだったのよ! 毎日いっしょに合唱練習していながら……。でも、でも、学生服がないくらいのこと、どうしてわたしたちにいってくれなかったの! そんなこと……どうして……」 「き、き、菊池君!」色の白い学生が、さらに一歩前へ進み出た。ミュージカル・コメディの人気タレントの息子であることは、その顔つきや表情から、折口にはすぐわかった。 「僕は残念だ! 僕と君とは、中学の時からの親友じゃないか! 君が学生服を持っていないことくらい、僕は知ってたんだよ! 君をほっといて、僕だけテレビに出たりするもんか! 僕はあの番組に出る日には、わざと病気になって休んで、君に代ってもらおうと思ってたんだぜ! 上着も、君に貸してやるつもりだったんだ! 本当だよ!」彼は学生服を脱ぎはじめた。「さあ、着てくれ! 君がこんなことになったのは僕の……この僕の責任なんだ!」  彼は少年の背後にまわり、上着を着せかけてやってから、その背中に頬を押しあて、号泣した。父親の演技を真似ていた。じっと俯向いていた少年は、突然がばと机に突っ伏してワーッと泣き始めた。そのはずみでタレントの息子は床の上へひっくり返って頭を打った。だが、あわててすぐ立ちあがった。 「僕は馬鹿だった!」少年は叫んだ。「先生やみんなが、こんなに僕のことを思ってくれているなんて、ちっとも知らなかったんだ。僕は悪いことをしてしまったんだ。僕はひねくれていた! 許してくれみんな! 先生! ゆ、許してください!」  一同の号泣がさらにはげしくなった。刑事たちまで貰い泣きをしていた。 「何をいうんだ、菊池君!」教師はあわてて少年の背後へ駈けよろうとして、そこに立っていたタレントの息子の頭に強く鼻柱を打ちつけ、眼鏡を落してしまった。彼は片手で鼻を押さえながらおろおろして眼鏡を拾いあげ、少年の背に抱きついた。「わかってくれたのか。わかってくれたのだね。ありがとう、ありがとう」  何がどうわかったのか、折口には少しもわからなかった。  少年は顔をあげ、わあわあ泣き続けた。「僕は悪い奴なんだ! 僕はこんなにみんなからかまってもらえる人間じゃないんだ!」 「そんなことないわ!」さっきの女生徒が、涙で充血した眼球を突き出し、叫ぶようにいった。「あなたは、いい人なのよ!」 「そうとも。君がいなけりゃ僕たちの仲間はバラバラなんだ!」  タレントの息子が、刑事たちの方に向き直っていった。「刑事さん、菊池君を許してやってください! お願いです!」 「ううん」初老の刑事は、ちょっと困っていった。「さっき、鹿田先生の方からも、勘弁してやってくれという電話があったんだが……」 「それならいいでしょう、お願いします。菊池君を、僕たちといっしょに、帰らせてやってください」  教師もいっしょになって、一同はまるで小学生のようにぺこりと頭を下げ、学芸会のように声をそろえた。「お願いします!」 「ありがとう、みんな、ありがとう」むせび泣きながら少年がいった。「だけど、僕はやっぱり罪を犯したんだ。人を殺そうとしたんだ。僕は犯罪者だ。僕は罰を受けるべきなんです。罰を受けて、心を入れかえてきます」 「いけない! 君はもう、充分罪を悔いているじゃあないか! 責任は僕にあるんだ!」タレントの息子は刑事に向き直っていった。「刑事さん! 菊池君よりも僕を……この僕を罰してください!」 「あなたたちの気持はわかります」初老の刑事は白いハンカチで眼を拭いながらいった。「しかし、やっぱりこの子は、一応殺人未遂なんだし……」  折口は吐き気をこらえながら、ゆっくりと立ちあがった。「僕からも、お願いします。この子を許してやってください」  一同はいっせいに折口の方を見た。どの眼も希望に満ち、異様に輝いていた。  刑事たちは、折口のその言葉を待っていたらしく、ほっとしたようにいった。「あなたがそうおっしゃるなら……」二人の刑事は顔を見あわせ、うなずきあった。  初老の刑事がいった。「では、わたしたちの独断で、この子を帰します」彼は独断という言葉に力を入れた。「ただ、あとで私たちは、署長から小言をくうかもしれないが……」さすがに、あとの面倒を見てくれとは頼みかねて、彼は語尾をにごした。  折口は彼の方に掌を向けて押しとどめた。「そのことは、またあとで……」 「そうですか?」二人の刑事は、露骨に嬉しそうな表情をした。  生徒たちは、羨ましそうな顔つきで刑事たちを見た。  若い刑事が、ちょっと見得を切り、それから大声でいった。「では、お引きとりください。この子をよろしくお願いします」  わーっと喜びの声をあげ、生徒たちは少年の周囲に駈け寄った。そして手をとりあい、嬉し泣きに泣きはじめた。  やがて幕切れ近くのクライマックス・シーンも無事に終り、一同はラストシーンを演じるために警察署の玄関を出た。刑事と折口も、助演者として玄関まで見送りに出なければならなかった。  生徒たちは、去って行きながら何度も振りかえり、頭を下げた。刑事たち二人も、玄関の石段の上に並んで立ち、いつまでも手を振り続けた。教師と学生たちは、少年を中心にして一列横隊になった。そして小学生のように肩を組んで、合唱しながら歩いていった。その歌は今流行している「若い仲間の歌」だった。  もう、誰もこちらを振り返るものはいないのに、刑事たちは少年たちのうしろ姿にまだ手を振り続けていた。もちろん、折口が傍にいるからだった。  折口はふたたび署の中にひき返すと、手洗所へ駈けこんだ。便器にかがみこんで、はげしく嘔吐した。朝食を少し摂っただけだったので、胃には少量のものしかなかったが、彼はいつまでも吐き続けた。しまいには吐くものがなくなって血を吐いた。     7  D・D折口が警察でヘドを吐き続けている頃、局では、P・P石神が突然重役会議に呼び出され、面くらっていた。 「どうしておれが、そんな会議に出なきゃならんのだ」P・Pは電話をかけてきた社長秘書に訊ねた。 「知らないわ」秘書嬢はそういって首をすくめたが、もちろんそれはP・Pには見えなかった。 「社長も知らないのよ」 「何、社長も知らない? じゃあ、おれを呼び出した重役は誰だ?」 「外部の人らしいのよ。新しい企画を発表するんだって。だからP・P代表をひとり、D・D代表をひとり、会議に出席させろっていうのよ」 「外部の人?」 「そうよ」  P・Pには見当がつかなかった。「D・Dは誰が出席する?」 「浜田さんよ」 「彼は深夜組だろ?」 「ええ、でも少し早出してもらったの。他の人は仕事中だったり、行方不明だったりして、手の空いている人は彼だけなんだもん」 「おれは仕事がつかえてるんだぜ」P・Pは、これ以上新らしい仕事を貰いたくなかった。 「あなたの場合は、局いちばんの腕っききだというので、その外部の人のご指名らしいわ」 「それは誰なんだ? まさかスポンサーじゃあるまい?」 「知らないわ。日本記者クラブのバッジをつけた人よ」 「誰だろうなあ」やはり、わからなかった。  P・Pが第一会議室へ行くと、そこには五人の重役と、D・D浜田がいた。社長はまだ来ていなかった。  P・Pは重役のひとりに訊ねた。「何ごとだ? 社長や重役が企画会議をやるのか?」  その重役は眼をしばたたいてP・Pに訊ね返した。「ほう、企画会議をやるのか?」  この重役も何も知らないらしかった。  P・Pは浜田の隣席に腰をおろし、全員に聞こえよがしにいった。「けしからん。おれはいそがしいんだ」  常務の石原が苦笑していった。「すまんすまん。だが、緊急会議なんだ」 「説明してくれ」  P・Pがいうと、石原常務は眼鏡をはずして拭きながら、ひとりごとをいった。「この部屋は湿気てるな。レンズが曇ってしかたがない。ワイパーつきの眼鏡がいるぞ」  P・Pはもう一度いった。「説明してくれ」  石原常務は立ちあがって窓ぎわへ行き、眼鏡をかけて、八階の高さから街の通りを見おろした。そしていった。「わしにもわからん。社長が出席するまで待ったらどうだ」  社長が出席した。  社長はつれて来た記者クラブの男と並んで上座に腰をおろした。浅黒い、いかつい顔をした男だった。  石原常務が立ちあがり、彼を紹介した。「日本記者クラブ委員長の隅の江氏です」  隅の江は立ちあがり、会釈した。 「隅の江氏は」石原常務がいった。「記者クラブを代表して、緊急提案をお持ちになりました。それを発表していただきます。その内容については、社長はじめ私ども重役の誰ひとりとして、予備知識をあたえられてはおりません。なお、隅の江氏のご希望で、今日のこの会議にはP・Pの石神君と、D・Dの浜田君に特に出席していただきました。その理由も……」彼はちらと社長を見た。「少なくとも私は知りません。ではどうぞ、隅の江さん」彼は歌うようにそういってから腰をおろし、また眼鏡を拭きはじめた。  隅の江はふたたび立ちあがり、一同をぐるりと見まわして、何故かしばらくの間、顔をしかめ続けていた。やがてP・Pは、彼が笑っているのだということに気がついて、とびあがるほど驚いた。 「みなさん」隅の江は喋りはじめた。「私が持ってまいりました提案は、そのまま申しあげると恐らく突拍子もないものに聞こえるでしょう。そこでまず、何故記者クラブがこのような提案を作成したか、その理由を、順を追ってご説明いたします」  彼はここで、思わせぶりな咳ばらいをした。 「ええ、現在、日本と韓国との国交は、過去にその例を見なかったほど悪化しています──いや、悪化していると伝えられています。つまり、過去にそれほど悪化した例が見られなかったというのは、われわれマスコミ関係者の、いわば独断──ひとりぎめであります」  二、三人の重役が小さく笑ったが、P・Pと浜田は笑わなかった。 「……。これはかまわないと思います。その独断が正しかろうと間違っていようと、この言葉が日本人の関心を多少なりとも韓国へ向けることになるでしょう。そして現在、まだまだ日本人の韓国に対する関心は稀薄なのです」 「こいつは共産党員かい?」P・Pはそっと浜田に訊ねた。 「それはともかく、ではその国交悪化の第一の原因は何かと申しますと、いうまでもなく漁業問題です。これは先日の紫竜丸事件で、皆さんも納得されることと思います。十年前、アメリカに尻をひっぱたかれた両国が、民衆と離れた支配層だけで、日韓会談を急速にまとめあげたことがありました。その時にも問題になったのは、例の李ラインでした。というよりも、実質的には日本が李ラインによってすべてを譲歩させられた形でした。あれほど不法不当なラインはないわけで、当時の日本政府もそういっていました。にもかかわらず、結局最後まで、李ライン撤廃の条件として、さあ請求権ではいくら出せ、在日朝鮮人の法的地位の問題ではどうしろと|からめられた《ヽヽヽヽヽヽ》形になったのです。会談終了後、日本側では、一応李ラインが撤廃されたと発表しました。しかし韓国では国民感情を恐れて、まだ撤廃されていないという説明がされたままだったのです」 「共産党でもなさそうだぜ」浜田がP・Pにささやき返した。 「当然紛争は続きました。対馬海峡は、日本にとってと同じように、韓国にとっても伝統的漁場でした。おまけに我国と韓国の、漁業水準の極端な差というものがありました。韓国の漁民は必死の抵抗をこころみ、あらんかぎりの術策を弄して生命線を守ろうとしました。韓国の学生は漁場の死守をかかげて日本大使館へデモをくり返しました。アメリカと李承晩とが李ラインで企図したものと、韓国人民の漁業権、生活権擁護の問題が、生命線を守れという形で、偶然一致したわけです」こういってから隅の江はにやりと笑ったが、この皮肉は重役連にはあまりよくわからないらしかった。 「やっぱり共産党臭い」と、P・Pがつぶやいた。 「さて、一方日本では、李ラインが撤廃されたとあって、大規模な独占漁業が一挙に対馬海峡へ乗り出して行きました。このため、韓国の漁民はおろか、日本の中小漁業まで残飯あさりの状態に追い込まれてしまったのです。それでもなお、日本の中小漁業は、はげしく出動しました。ところがその中小の水あげ分も、独占資本は買い占め買いたたいた。悪循環です。中小漁業はより必死になって、略奪漁業を開始した。会談でどんなに漁獲高や漁船の隻数の規制・限定をやったって、生きるか死ぬかだから、略奪する方も決死の覚悟です。もちろん、略奪の先頭に立ったのは常に中小漁業でした。韓国の領海に入りこんだ日本漁船に、カンカンになって怒って抗議にやってきた韓国漁船が体当りをくらわされて沈没するという事件も、数回ありました。あれをやったのも、すべて零細漁民でした。その背後に独占漁業のあと押しがあったかどうかの問題はさておきましょう。この事件の問題や、漁業協定改定の話しあいをする筈だった日韓会談は、外相の急死で中止になってしまいましたが、この日に紫竜丸事件が起ったのです。韓国の領海に入りこんだ紫竜丸に、韓国の警備艇が銃撃を加え、乗組員が二人死んだ──ところがこの事件は、日本のマスコミでは、申しあわせによりそれほど大きくとりあげられませんでした。何故かと申しますと、韓国警察が日本漁船を拿捕《だほ》するのは、たいてい両国間で重大な会談が行われたり、日本の大臣が韓国を訪問したりする時にそなえてであることが多かったのです。そしてその時が来ると、日本外交官の機嫌をとり、会談をスムーズに進行させるため、拿捕した漁船と船員を小出しに送還したのです。つまり彼ら抑留されていた船員たちは、外交手段に使われたわけです。だから、外相の急死で一応中止にはなったものの、すぐまた会談が開かれる筈だという時に、韓国現政府の統帥権下にある警備艇が、なぜ日本漁船を追い、しかも銃撃まで加えたのかという疑問が当然生まれてきます。そんなことは起り得ないことだからです。そこでわれわれはこの件を韓国の新聞社──東亜日報、韓国日報、朝鮮日報、統一朝鮮新聞、他三社など、それに放送局──ソウル放送、文化放送、東亜放送、他一局など、またテレビ局──東洋テレビ、新国民テレビの民放二局の他国営テレビなどとも協力して調査しました。その結果、意外な真相を発見したのです。紫竜丸を攻撃したのは、与党の民主共和党、すなわち現政府とアメリカの評判を落し、日本との会談を決裂させる目的で、野党である民衆党があと押しし、警備艇に偽装させた漁船でした。そしてそれに乗っていたのは、漁民ではなく、釜山大の学生三名、ソウル大の学生一名、梨花女子大の学生二名だったのです」  一同は少し驚いて、しばらくの間黙った。 「梨花といえば、日本でいうと聖心に相当する女子大ですな」石原常務がぼんやりと、あまり意味のないことをいった。  隅の江がいった。「私たちは、この真相も、発表することをさしひかえました」 「どうしてですか?」P・Pが訊ねた。「記者クラブは、民衆党に味方するのですか?」 「おことわりしておきますが」隅の江は、ちょっと眉を寄せてP・Pに答えた。「われわれ記者は──あなたたちだってそうだと思うが、右翼でもないし、もちろん左翼でもありません。現代日本のマスコミ関係者としては、それが理想なのじゃありませんか? もちろん個人的立場はそれぞれ違うでしょうがね。私個人としていうなら、私は……そう、プチ・ブル的自由主義者とでもいいましょうか……」 「わかりました。しかし、その事実を発表しないと、結果としては民衆党に味方することになりますよ」 「いやいや、発表しないとはいってません。発表するのです。もっとセンセーショナルに」 「というと?」 「報復攻撃の企画が完全に出来あがって、それと同時に発表できるようになるまで待つわけです。その方がずっと、報道効果があります」 「報復攻撃!」石原常務がびっくりした。「戦争かね?」 「いやまあ、お静かに」隅の江は苦笑していった。「戦争じゃありません。少しばかり大がかりな喧嘩《でいり》ということになりますかね。政府はノー・タッチなんですから、戦争じゃない」 「でも、喧嘩することを発表すれば、政府は介入してくるでしょう?」  石原常務の質問に、隅の江はうなずいた。 「そこが難かしいところなんですね。如何にして政府を黙視させておくか。しかしこれは裏面工作で、できないことはない筈です。どちらの政府も、民間で勝手に喧嘩している限りでは、むしろこの喧嘩を喜ぶ筈なのです。韓国のマスコミ関係者に訊ねたところでは、韓国政府としては、野党や学生たちの抗議や非難が日本漁船に向けられている間は現政権を維持することができ、安泰でいられるわけですし、その間の国民の攻撃衝動とエネルギーを、デモや地下運動から喧嘩の方へ転じさせておくこともできるわけで、おそらく大喜びだろうということでした。また、わが国の政府にしたところで、大衆の関心が韓国に向けられることに対しては異存はないのです。中小企業を大資本の先発隊として韓国へ送り込むことに躍起になっていますからね。この喧嘩がもとで、ひとつ韓国へ出かけて行って低賃金で奴らを支配してやれという気持を大衆に植えつけることができるかもしれないのですから。それに海の上で漁船同士が小ぜりあいをやる分には、ある程度は、予知することができなかったといって、とぼけることもできるわけです。いざとなれば、とにかくこっちにはすでに二人の死者が出ているわけで、先制攻撃をかけたのは向こうですから、むしろ弱味は韓国政府にある。だから暗示をあたえてやって、政府同士傍観していようと話しあわせてやることも可能でしょう。また、アメリカは、日本人の敵意や攻撃欲が韓国に向けば、それを利用して経済侵略ができる」 「そしてマスコミは」P・Pがにやりと笑っていった。「それを材料にしてニュースが作れるというわけですな?」 「そうです」隅の江はいった。「韓国のテレビ、ラジオ、新聞、いずれもこの喧嘩には大賛成です。最近、あっと驚くような大事件がなくて困っているという点では、むこうもこちらも同じでしたからね。それにだいたい、あっちのテレビはいつも日本の真似ばかりしています。人気番組はほとんど日本の模倣ですな。ずっと前からアベック歌合戦や私は誰でしょうなんてやっていたし、東洋テレビのグッド・イブニング・ショーなんて、こちらのニュース・ショーやモーニング・ショーそっくりそのままです。去年出来た新国民テレビでも同じことです。国営テレビにしたって、NHKと違ってやっぱりCMを流すから、スポンサー獲得のために面白いものをやらなきゃいけない。当然こちらのテレビ局とも、意見は一致する筈です。釜山の人なんかみな日本のテレビばかり見ているくらいで、子供が忍者ごっこをやって怪我したりなんかしています」 「で、その喧嘩は、どのくらいの規模でやるんですか?」 「大きくなり過ぎて大海戦になっても具合が悪いし、小さ過ぎてニュースにならなくても困ります。韓国からの情報では、民衆党は、日本漁船の反撃にそなえ、学生たちに命じて、新らしく漁船二隻に武装させているという話でした。だからこちらも漁船二隻に、機関銃やバズーカ砲を積んで出かけて行けばいいでしょう。敵の武装も、その程度だそうです」 「何人くらいで?」 「一隻にせいぜい七、八人。二隻で十五、六人というところでしょうね」 「待ってください」P・Pがいった。「韓国側では日本漁船に腹を立てている民衆党員の学生たちが乗り組むわけだが、こちらでは誰が乗るのですか? 零細漁民たちが、二人の死んだ仲間のとむらい合戦に出かけて行くという形になるわけですか?」 「それでは面白くないだろう」石原常務がいった。「やはり有名人を乗せて行かなくちゃ、ニュース・バリューがない」  隅の江は、顔をほころばせていった。「もうおわかりでしょうが、実は提案というのは、この海戦の企画のことなのです。これをこちらの局で検討していただき、番組を編成していただきたかったのです」  社長が皆の顔を見まわした。「どうだね? みんな」 「賛成だが……」重役のひとりがいった。「報道を、わが社だけにやらせてほしいものですな。よその局が加わると、話がややこしくなる」 「そのつもりでした」隅の江がいった。「テレビ報道は、銀河テレビだけでやってもらった方がスケジュールやプログラムを作るのに便利ですからね。だから他局には話はしていません。民間放送でいちばん大きいのは、この銀河テレビですから。ただし、条件がひとつあります。活字報道陣を代表して、私を海戦に参加させていただきたい」  糞度胸のある奴だな──名前を売るつもりだとわかってはいたが、やはりP・Pは感心した。──おれにはそんな度胸はない。だいいち、おれは泳げない──。 「それは、構わないでしょう」石原常務が身をのり出して社長の顔をのぞきこんだ。「社長、面白いですな。やって見ますか?」 「面白いな」と、社長がいった。首をゆっくりまわして石原常務に顔を向けた。  二人はしばらく表情を読みあっていた。  社長はうなずいた。「よし、やろう」 「いかがなものでしょう」隅の江が腕時計を見ながらいった。「まだ時間もあるようですから、この場で、この企画のアウトラインだけでも決めていただけませんか? 私は局外者で、本当なら社内のこんな会議に加わるのはおかしいんでしょうが、何しろ時日が切迫しておりますので、いそいで準備しないと間に合いません。また、政府との折衝など、私もいろいろとお役に立てると思いますし……」 「それは、構いません」石原常務は断定的にそういってしまったから、あわてて社長に訊ねた。 「ねえ社長、それは構わないんじゃないですか?」 「いいだろう」と、社長がいった。 「切迫しているといっても、海戦の日どりは誰が決めるんです? まだ決まってないんでしょう?」D・D浜田が訊ねた。  隅の江が答えた。「韓国のマスコミと、打ちあわせをして決めましょう。韓国側の戦闘員もやはり、マスコミの言いなりになりますからね。だから、まず、こちらの希望する日を決めてください」 「早い方がいいな」重役のひとりがP・Pに訊ねた。「何日で準備できる?」  P・Pは視線を宙にさまよわせた。「うう……まず十日かな」 「遅い」石原常務がいった。 「うん、遅いな」社長がいった。「一週間で準備できんか?」 「一週間じゃ無理だろうなあ。漁船二隻を改造しなくちゃならんし……」P・Pは腕組みした。「しかし、やれないこともなさそうだ」腕組みをほどいた。「うん。出来そうだ。やってみます」  P・Pは、この海戦の企画に自分がすごく乗り気になっているのを感じた。だが一方では、何かしら気になることがあった。何が気になっているのかは、まだ、わからなかった。 「漁船には、アイをいっぱい取りつけましょう」石原常務がいった。「どんなシーンでもテレビ中継できるように……。そう、一隻に二十台ぐらい取りつければ完璧だ」  重役たちも、急にワイワイ喋りはじめた。 「そうだ。船室にも、甲板にもな」 「甲板には望遠レンズのアイもいるぞ」 「乗組員の眼からは、アイを隠しておいた方がいい」 「二隻で合計五十台もつけときゃ、文句なしだ」 「この企画を一般に発表するのは、いつにしましょう?」D・D浜田が訊ねた。「やはり、海戦の準備ができてからにしますか?」 「いや、それは早い方がいいのじゃありませんか?」隅の江が口を出した。「大衆に期待を持たせて、前人気をあおった方がいい。海戦の起りそうな日──つまりこちらの予定日だけ教えておいて、しかし、いつ起るかわからないということにしておいた方が……」 「で、実際にはいつ起すんです? 韓国側は一週間さきということを諒承すると思いますか?」D・D浜田がまた訊ねた。 「するでしょう」と、隅の江が答えた。「あっちの方が、ずっと早くから準備していたんですからね。ただ、その予定の日に、他に大きなニュースがあったり、雨天だったりした際は、順延ということにしておいた方が……」  P・Pが苦笑して呟いた。「雨天順延の戦争か」 「ちょうどよかった」D・D浜田が手を打った。「明朝のモーニング・ショーは、紫竜丸の船長とのインタビューです。韓国の船に銃撃された時の様子も、スタジオに漁船のセットを組んで、再現することになっています。それが終ってから、すぐに海戦のことを発表すればどうでしょう?」 「うん、それがいいな」石原常務がいった。 「それがいいそれがいい」と、重役たちが声を揃えた。 「明日のモーニング・ショーの担当D・Dは誰だね?」 「折口君です」 「よし、君、そのことを彼とよく打ちあわせておいてくれ」 「はい」D・D浜田は几帳面に携帯テレコールを出して復誦し、それを録音室に録音させた。それから、また顔をあげた。「明日、どの程度発表しますか? つまり、今日ここで決定していただかなければならないものは、何と何ですか?」 「そうだな。海戦予定日と、船の名前と、乗組員と、それから……」  重役のひとりがそこまで言ったとき、石原常務が立ちあがった。「では、便宜上私が議長になって議事を進行させましょう。まずこの海戦の名称ですが、どう呼びますか?」  重役たちが喋りはじめた。「日韓海戦では?」 「呼びにくい」 「大時代だ」 「古い」 「それだと、本当の戦争になってしまう」 「ただの海戦でいいんじゃないか?」 「アサ公撃滅作戦」 「これはひどい」 「また時事評論家から、程度が低いとか、民族的偏見に満ちた日本人のきたなさをむき出しにしているとかいわれるぞ」 「資本主義の毒素に染まった命名だという投書がくるよ」 「韓国人全体を刺戟するような名称はやめた方がいいな」 「K作戦というのはどうですか?」D・D浜田がいった。 「海戦のKかね?」 「それと、韓国のKです」 「ふん、いいね」 「なんとなく、曰くありげだし、簡単だ」 「では、K作戦と命名します」石原常務がいった。「次にK作戦の予定日。これは、今日から一週間さきですと、五月の十九日になります。とりあえずこの日を予定日とし雨天順延、また突発事故や他に大きなニュースがあっても順延とし、この日を目標に、早速準備にとりかかります。それから、このK作戦の担当は、私の権限でもって、P・Pでは石神君、D・Dでは浜田君ということに決定したいと思います。次に船の名前ですが……」彼は一同の顔を見まわした。 「紫竜丸の乗組員のとむらい合戦ということだから、やはり紫竜丸にしたらどうだ? あの紫竜丸という船を改造してもいいじゃないかね」 「二隻なんだよ。もう一隻は?」 「第一紫竜丸と第二紫竜丸にするか」 「面白くないな」 「とむらい合戦だろ? もっとおどろおどろしい名前がいい」 「死んだ船員の怨霊が乗り移っているという意味で、怨霊丸はどうだ?」 「これはすごい」 「これはいい」 「もう一隻は?」 「疫病丸はどうだ?」 「乗る奴がいるかね?」 「いるさ」 「怨霊と対で、生き霊丸というのは?」  一同はゲラゲラ笑った。 「霊柩丸というのはどうだ?」 「いや、それなら棺桶丸の方がいいぞ」 「そうだ、その方がいい」 「では船の名前を、棺桶丸と、それから、ええと、怨霊丸と命名し、早速漁船二隻を買い、部分的に改造を始めます。次に、乗組員ですが、これは現在決定しているのは日本記者クラブの隅の江博氏だけです」 「誰がいいかなあ」 「とにかく、水先案内として紫竜丸の船長にはどうしても行って貰わなきゃなるまい?」 「そう。これは絶対だ」 「紫竜丸の船長、脇田秀造、決定」 「漁船の操船だが、船員は何人ほど必要なんだ?」  隅の江が立ちあがった。「二名いれば充分と思います。死んだ船員の友人を、二隻にそれぞれ二名ずつ選んで乗せればどうでしょう。その人たちに交代員の教育をしてもらう」 「なるほど」 「では、その四名の人選は、船長と打ちあわせた上で決定します。これで六名。あと十人ほどを決定しなくてはなりません」 「スポーツマンも乗せよう」 「誰がいい?」 「東神ヒポポタムスのピッチャーの国木がいいぞ」ヒポポタムス・ファンの重役がいった。 「いやいや、あんな奴は駄目だ」東神嫌いの重役が大声でいった。「やっぱり、南急ホメーロスの松井だよ。ホームラン王だから、子供の人気は絶対だ」  二人の重役は、しばらく言いあっていた。毎度のことなので、他の重役たちはにやにや笑いながら傍観していた。やがて石原常務が、そっと社長に耳うちした。社長はうなずいて、咳ばらいをしてからいった。 「国木もいいが、やはり南急はわが社のスポンサーだ。松井に決めてはどうかね?」 「松井伸二、決定」石原常務が間髪を入れずにいった。 「軍事専門家も要るぞ」 「そうだ。自衛隊の若い将校もひとり加えよう」 「そんなの入れちゃ大変だ。問題になる」 「やはり民間人にしぼろうよ」 「なあに、自衛隊を辞めさしゃいいんだ」 「やめるか?」 「そりゃ、やめるさ。金と名声が手に入るんだからな」 「じゃあもうひとり、警察機動隊から誰か引き抜けばどうだ?」 「いい考えだ」 「では、自衛隊員一名、警察機動隊員一名、決定。この方の手配は、言い出しっぺの辻[#底本では2点のしんにゅう]専務にお願いしましょう。これで九名、あと六、七名ですが……」 「剣豪作家はどうだ?」 「さあ……。一流の人はみんなお爺ちゃんばかりだからなあ」 「じゃあ、ミステリーかSFの作家はどうだ?」 「やはり若手で一流というのはいないな」 「女をひとり乗せよう」 「どうかなあ。これは男性向きの番組だぞ」 「ひとりくらい、いいさ。戦争映画にだって女優は出るものな」 「そうだ。売れっ子のミステリー作家で、柴原節子という、いい度胸をした美人がいるぞ」 「交渉次第だな」 「行くさ。テレビにもよく出るしな」 「じゃあやはり、SFの方からも誰か行かせよう」 「星慎一」 「もう少し若けりゃねえ。五十歳だろ?」 「若手で、後藤というのがいます。SF界のホープとかいわれています」 「そうだ。あいつがいいぞ。おっちょこちょいで面白い」 「では柴原節子、後藤益雄、決定」 「ルポ・ライターは?」 「これはいいのがいるじゃないか。ほら、この間東南アジアの局地戦をルポしてきた奴……」 「ああ、村越均か? 現代には英雄はいないとか何とか偉そうに、自分ひとりだけ英雄のような顔してる奴だな?」 「あの男、本当は最前線までは行かなかったという話だが」 「まあいいじゃないか。あのルポはベスト・セラーになってるし」 「じゃあ、村越均、決定」 「一般からも募集したらどうだ? ひとりだけ代表として」 「それは君、大変だよ。大勢来るぞ。選考がむずかしいしな」 「もう日にちも、あまりないことだし」 「じゃあ、コンテストを公開してやればいいじゃないか? 英雄コンテストって奴を」 「どうだろう?」石原常務がD・D浜田に訊ねた。「金のかからん、手っとり早い方法でコンテストができるか?」 「できると思います」浜田は答えた。「何とか、やって見ましょう」 「では、一般代表の英雄は君にまかせる。P・P、コンテストのスポンサーをさがしておいてくれ。海戦の方のスポンサーはいくらでも出てくるから、あとまわしだ」 「了解」 「ジョージ・小野を行かせよう。あいつはミュージカルをやっていて身軽だから、戦争をやらせると面白いぞ」 「いいね」 「歌手の人気投票でも、一位だったしね」 「では、ジョージ・小野、決定」 「えらいことを忘れていた。アナウンサーが要るじゃないか」 「誰がいいかな?」 「長部久平だろう、やっぱり」 「でもあいつは、わが社のアナウンサーじゃないだろう? フリーだ」 「いいじゃないか。すごい人気だし、中年婦人層を掴んでる」 「他には、いないんじゃないか?」 「決定しましょう。長部久平」 「待てまて、そうなると、わが社を代表して行くのは誰だ? ひとりもいなくなるぞ」 「そうね。誰か乗せよう」 「誰かいないかな」 「今、こうして、決定した人たちの名前を見て行きますと」石原常務が喋りはじめた。「みんな体型的には痩せ型の人ばかりです。視覚効果を面白くするために、でっぷり肥った人もひとり、乗せなくちゃいかんと思いますので、社内からは、百貫デブをひとり……」  皆、いっせいに笑った。笑いながら、一同はP・Pの方を見た。  P・Pも笑いながら、皆の顔を順に眺めた。笑いながらいった。「なぜ、おれを見る」  一同は、まだにやにやしながら、P・Pの顔を眺め続けた。  P・Pの顔から笑いが消えた。「おれを見るな」  それから立ちあがってわめいた。「いやだ! おれは行かんぞ! おれはプロデューサーだ。他の仕事がある」泣きそうになっていった。「おれは泳げないんだ。船が沈んだらどうなるんだ。おれはいやだ。誰が何といおうといやだ。おれは行かんぞ!」     8 「どうしておれが戦争に行かなきゃならないんだ」  その翌朝、P・Pが泣きそうな顔で折口に訴えた。「おれは泳げないんだ」 「まあ、死ぬなんてこともないだろうさ」折口は苦笑していった。 「長部久平ニュース・ショー」の本番三十分前、32スタのフロアーには、紫竜丸のセットができあがっていた。ローリング・フロアーの上に吃水線から上の部分を組み立てた船の甲板では、船員の役をやるタレントたちがF・Dと演技の打ちあわせをしていた。  D・D浜田がやってきて折口にいった。「紫竜丸の船長がやってきた」彼は疲労で眼を血走らせていた。ワイシャツが汚れていた。 「まだいたのか? もう帰って寝たらどうだ?」  折口がいうと、浜田は首をはげしく左右に振った。「まだ帰れない。これから英雄コンテストの段取りだ」  そこへ船長の脇田秀造がやってきた。彼は折口と同じくらい背が高く、しかも堂々たる恰幅をしていた。日に焼けて色が黒く、眼がぎょろりとしていて唇が厚く、胡麻塩の頭髪を丸刈りにしていた。彼は紹介されるなり、折口に訴えた。 「おら、戦争にはもう、行きたくねえだ」おろおろ声だった。「あんな恐ろしいことは、もう、やめにしてもらいてえですだよ」  彼はすでに、日常会話まで標準方言になってしまっていた。物ごとを考える時さえ、この、現実にはない、架空の標準方言で思考するのではないかと折口が思ったほど、その言葉は彼の口からすらすらと飛び出してきた。 「僕が決めたんじゃないよ」折口は少し困っていった。  だが船長は、なおも折口にくどくどと訴え続けた。 「おおい、F・D!」  折口の声に、F・Dのひとりが傍に来た。  折口は船長を指していった。「やっと船長がきた。セットの方へつれて行って、タレントたちと演技の打ちあわせをやって貰ってくれ」 「わかりました。こちらへどうぞ」  折口が第一副調整室に入ると、そこには、さきに入っていたP・Pが椅子にうずくまって、頭をかかえていた。折口は、ここぞとばかりに、彼の肩をうしろから平手で力まかせに叩きかえした。 「しっかりしろよ。P・P」  P・Pはなさけない眼で折口を見あげていった。「この間からの夢見が悪かった」 「どうした。自分のミイラを作っている夢でも見たか?」  P・Pは妙な顔で折口を見た。「どうしてだ? そんな夢じゃないよ」しばらく考えこんだ。それから突然身を顫わせて絶叫した。「おかしなことを言うな!」 「すまんすまん」折口は笑いながら、コントロール・パネルの前に崩れた姿勢で腰をおろした。 「音楽学校へ行ってりゃよかった」と、P・Pがいった。 「何の話だ」 「おれは音楽学校へ行きたかったんだ。何のつもりでテレビ大学へなんか入ったんだろう」 「今さら何をいってる」  折口は全回線イヤホーンのヘルメットを被った。  P・Pがいった。「おれは泳げないんだ」 「おれと交代してほしいんだろうが、おれは替ってはやらないぜ。戦争なんて願い下げだ。それにおれは、肥っちょじゃない」  P・Pは弱々しく視線を下げた。「肥ったのは、おれのせいじゃない。女房のせいだ」と、彼は弁解した。「栄養学なんて、余計なものを憶えてきやがって……」  折口はフロアーを見おろした。出演者は、長部久平をはじめとして全員揃っていた。いつもの倍ほどの数のF・DたちとA・Dたちが走りまわっていた。みんな、興奮していた。ある意味では彼らも戦争の参加者なのだ、無理もない──折口はそう思った。だけど、これは、から騒ぎだ──そうも思った。思ったとおりP・Pにいった。「から騒ぎだ」  P・Pは驚いて折口を見つめた。「何がだい?」  折口は投げやりに手を振ってフロアーを指した。「この騒ぎさ」  折口は苦々しげに顔を歪めていた。P・Pは、そんな表情の折口を見るのは始めてだった。 「こいつらはみんな、大衆の期待に振りまわされているんだ」折口は喋りはじめた。「出来ごとのない時に出来ごとを作り出す能力が、マスコミにはあるはずだという大衆のとほうもない期待にな。しかもその大衆は、国民的自己催眠にかかった大衆なんだ。奴らは現実が自分たちにあたえることができる以上のビッグ・ニュースを期待し、それがマスコミによってでっちあげられると、さらにそれ以上のものを期待し、しかもそれらが、自分たちの要求によって作られたものなのだということを知ろうとしない。その事件が幻影であることを認めようとしない。本当にそんな風変わりな多くの事件が、全世界で起っているのだと信じようとしている。それが本当の事件なのかどうかはそっちのけだ。その事件が面白いかどうかだけが問題なんだ。最近じゃ、空想の方が現実より現実的だ。マスコミは常に新らしい疑似事件をでっちあげなければならなくなり、しまいには、取材しにくい本物の出来ごとを贋造の出来ごとの彼方へ追いやってしまう。もちろん、マスコミの作る事件なのだから、それは報道や再現メディアに都合のいいように準備されるわけだ。ニュースはほとんど、いわゆる軟派のニュースだけになる。硬派のニュースさえ、軟派にされてしまう。テレビでいえば、視覚効果があるようにされてしまう。百貫デブのあんたが、K作戦に参加させられるのもそのためだ」  P・Pはあきれて、しばらく折口をじっと見つめ続けていた。それからぽつりといった。「君は変ったな」うなずいた。「別人のようだ。何だか、世界が終末に近づいてきたような気がするぞ」 「おれのいってることは本当だぜ」折口は欠伸まじりにいった。彼の顎には鬚がのびていた。 「君だから教えてやるんだ。眼をそむけちゃいけねえな」  P・Pは首を左右に振り続けた。「おどろいた。おどろいた」  折口がスタジオ側の回線を入れると、脇田船長の怒鳴る声が聞こえてきた。折口は携帯テレコールを出して、船長といい争っているF・Dに訊ねた。「何の騒ぎだ?」  F・Dは困っていた。「船員になるタレントの演技が、実際と違うっていい出したんです」 「あたり前だ。いくら役者でも、本職よりうまくやれるわけはない」 「そうでねえだ!」船長が、F・Dの持っているテレコールに叫んだ。「あいつら、こんな殺され方はしなかっただ。あいつら、胸と腹をやられて、まだしばらく生きていただよ。今の、人間とすり替えられた人形が、五体ばらばらになって花火みてえにとび散るなんてこたあ、なかっただよ!」  折口は苦笑して顎ひげをなでた。D・D浜田の案なのだ。彼は、20ミリ・バルカン砲にやられると人間はとび散るという理窟でこの場面を演出したのだが、船員が実際にやられたのは、ただの小銃だったらしい。 「どうしますか?」  F・Dの問いに、折口はぶっきらぼうにいった。「じゃあ、人形を使うトリックをやめろ。タレントに、胸と腹を押さえて倒れる演技をやらせろ」 「面白くなくなるなあ……」F・Dは不満そうに呟きながら、タレントたちに演技をつけた。それから船のセットを降り、ふたたびテレコールで折口を呼び出した。「ねえD・D、今は時間がないから、船長をなだめておいて、本番の時だけ人形に変えましょう」  折口はまた、投げやりにいった。「ああ、もう、いいようにしろ」  F・Dはびっくりして、第一副調整室を見あげた。「D・D、今喋っているの、たしかにあんたですか?」 「ああ、おれだ。どうかしたか?」  F・Dはしばらく絶句してから、ゆっくりといった。「いえ、別に……」 「本番五秒前」と、第三副調整室のA・Dが告げた。 「皆さん、やあ皆さん、おはようございます。長部久平です」と、長部が喋りはじめた。  彼は、今日は浮きうきしていた。彼は自分がK作戦の戦闘員に選ばれたことを喜んでいた。このスタジオの中で、長部がK作戦に参加することを知っているものは、まだひとりもいない筈だった。その全参加メンバーを最初に発表するのはこの番組であり、それをアナウンスするのは長部久平なのである。彼は、自分の名前を読みあげた時に、視聴者やこのスタジオの連中が示すであろう反応を想像して、ひとり嬉しがっていた。ことに彼は、自分──つまり長部久平が雄々しくも戦闘に加わるのだということを知った時の多くの女性たちの驚き──中でも特に、今自分の横にいる草月弘子の反応を想像し、有頂天になっていた。彼女はきっと大声で自分の名を呼び、あなたはそんな危険な場所へ行かないでと泣きそうになって頼むだろう──彼はそう思い、ひとり悦に入っていた。いや、本当に泣き出すかもしれない、ひょっとすると、自分の胸に武者振りついて泣くかもしれないぞ、もしそうすれば、自分は、例のよそよそしい微笑を浮かべながら、やさしく彼女の肩を撫でてやろう──そう思って彼は、ぞくぞくするほど張り切っていた。  あいかわらずの罪のない前説を喋り終ってから、長部はちょっと咳ばらいをし、声の調子を変えた。「さて、今日のニュース・ショーは、皆さんも先日来、マイクロ・テレ・ニュースなどでご存じの筈の、紫竜丸事件の全貌であります!」  画面が切り換えられた。日本海を西に向かう二隻の漁船のフィルムが流された。 「去る七日の夕刻、長崎県福江島、大瀬崎の燈台を出発した東邦水産の漁船二隻は、北緯三十二度五十分、東経百二十六度五十分の海上を、10ノットの速さで真西に進んでいました。主船は栄光丸で80トン、副船は紫竜丸でこれも80トン、いずれも二隻びき機船底びき網漁船としては小型の船でした」  画面はスタジオ内の漁船のセットに切り換えられた。番組は台本通りに進行した。  フェイド・イン──。  M(牧歌的なもの)       シーンは紫竜丸の船尾のデッキ。ロング。かすかに靄がかかっている。       船艙の揚げ蓋の上に腰をおろし、二人の船員がタバコを喫っている。 ナレーター 悲劇の起る一分前、副船紫竜丸の後甲板では漁撈長の相川悟と、船員の藤野栄三がおだやかな海を眺めながら、世間話をしていました。       カメラ、二人にドリー・イン。 藤野(二十二歳の青年。背後の海をふり返ってから)相川さん。おら、さっきから気になってるだが、栄光丸の姿がちいとも見えねえだよ。このくらいの靄なら、いつも|ぼう《ヽヽ》とかすんで、あっちの方に見えてるだがね。 相川(四十五歳)先に行っちまったんでねえか? なあに、ブリッジにゃレーダーがあるし、無線室の受信機は30マイルまでは確実に入るだから、迷うなんちゅうこたあねえだよ。心配するには及ばねえだ。 藤野 ふうん。そうかね。       船長、脇田秀造(自役自演)ブリッジより出て、後甲板に降りてくる。 船長 相川さん、どうしたのか、おらにはよくわからねえが、レーダーで見ると栄光丸が急にどんどん先へ先へと行っちまうだ。何かこっちへ送信してるらしいけど、送受信装置の故障で、何いってるかよくわからねえだよ。 相川(立ちあがり)ふうん、どうしてそんなに急ぐのかな。おらには心あたりは何もねえだが……。(船長に向き直り)レーダーには入ってるのかね? 船長 レーダーには入ってるだ。そうそう、レーダーには別の船も入ってるだ。この船のあとからついてやって来るだよ。第七管区の巡視艇だと思うがね。 相川(うなずいて)それとも、水産庁の監視艇かもしれねえな。 藤野(立ちあがり)まさか韓国の船じゃねえだろうね?       相川と船長、ギョッとして顔を見あわせるが、すぐ笑い出す。 相川 まさか。こんなところまでは、やって来ねえだよ。 藤野(船尾の方を指し)ほら、見えて来ただ。 相川(眼をこらし)何だか見なれねえ船だぞ。       バック。スクリーン・プロセスの海面に、靄を抜け出てぬっとあらわれる韓国警備艇。 船長(とびあがる)ふわあっ! ありゃあ、韓国の船だ!(ブリッジのほうへ駈け出しながら叫ぶ)全速力だ! 全速力で逃げるんだ!  ノンフィクション・ドラマがここまで進行した時、カメラは船橋へ駈け登って行く船長の後姿にパンし、相川役と藤野役のタレントの姿を一瞬画面から消した。その隙に二人のタレントはセットからとび降り、待ちかまえていたF・Dが甲板上に二体の人形を置いた。       船尾、フル・ショット。 S・E バキューン! バキューン!       相川、藤野、赤い破片となって飛び散る。       船長、銃声におどろいて、ブリッジからとび出してくる。二人が死んでいるのを見て、デッキの手摺りに駈け寄り、韓国船に向かってにぎりこぶしを振りまわしながら叫ぶ。 船長 くそ! お前たち、何ちゅうことやるだ!  ──しかし、演技は、シナリオ通りには進行しなかった。船長は手摺りに駈け寄ろうとも、叫ぼうともせず、そのままデッキに、へたへたとすわりこんでしまった。彼は茫然として、あたりに砕け散ったゴム人形の破片と、その人形の腹につめこんであった赤インクが飛び散った痕を見まわしながら、力なく首を左右に振り続けた。「うそだ」彼は弱々しく呟いた。「これは嘘だ」  セットの蔭のF・Dは眉をしかめ、舌打ちした。だが、第一副調整室にいる折口の眼には、船長のその動作からは、偶然この残酷な情景にぴったりの、なまなましいほどリアルな迫力を感じとることができた。  彼はカメラマン・ステーションに指令を出した。「切り替えるな。そのまま船長にドリー・インしろ」  船長は両手を顔にあて、慟哭《どうこく》しはじめた。本当に泣いていた。これもシナリオにない演技だったので、セット裏のF・Dは静かに地だんだを踏んだ。「大根め。大根め」 「この紫竜丸事件をきっかけに、その後数回にわたり、日本漁船が韓国警備艇に銃撃を受ける事件が起ったのであります」画面は、怒りに眼をきらめかせている長部久平のアップに切り換えられた。「このような無法なことが、現在起っているのであります。ではなぜ日本政府は、これについて韓国政府に抗議を申し込まないのか? なぜ日本漁船の安全操業を確保するため、自衛艦を出動させないのか? 私のこの質問に対する政府の返答は次の通りであります。抗議はしばしば申し込んでいるが、最終的な抗議──どういうことかよくわからないのですが──最終的な抗議は、近日のうちに迫った日韓会談の際、漁業協定以外の諸問題もまた、わが国に有利に解決しなければいけないから、それまで待ちたい。また自衛艦が安全操業のために出動することは、韓国側の国民感情を刺戟し、国際的に見ても好ましいことではない。さらに今回の紫竜丸事件に限っては、これは韓国の野党が仕組んだ罠である──つまり民衆党が、日韓会談を決裂させる目的で、警備艇を装った漁船に党員たちを乗せ、日本漁船を襲わせたのであるというニュースが入っている。だから、さらに確実な情報が入るまで、日本政府としては静観し続けるつもりである──こう言っているのであります」 「まあひどい」草月弘子がややオーバーに顔をしかめた。「それじゃあつまり、日本政府は、この事件については当分何の手も打たないってわけなの?」 「そうなんだよ!」長部久平は、いきごんで彼女にうなずいた。 「やっぱり浅香さんが死んじゃって、外務省は駄目になったのね」 「うん」長部久平は、また正面に向きなおった。「さて皆さん、われわれはこの際、いかなる態度をとるべきでしょうか! 皆さん、われわれは、同胞である零細漁業関係者の窮状を……」 「あいつ、いやに張りきってるなあ」P・Pは、不思議そうにいった。「戦争に行けるのが嬉しいのかな?」 「なあに」折口はにやりと笑っていった。「奴の腹は読めてる。作戦参加ということになれば、また自分の株があがるから嬉しいのさ。それに戦争になったって、奴はアナウンサーだ、直接戦闘に加わるわけじゃない」  P・Pは嘆息した。「音楽学校へさえ、行ってりゃなあ」  折口はまたP・Pの背中を力まかせに叩いた。「もうあきらめろ」  P・Pは眼をぱちくりさせて、折口を見た。「ガ、ガムをのみこんだ」  折口は笑っていった。「ポリエチレンの袋に入った糞が出るだろう」 「D・D、君はいったい、いつからそんなになった? どうしてだ?」 「下品になったというのか?」 「そうじゃない。そんなことじゃなくて……。君は本当に折口か?」 「オリオン星人に脳侵略されたんだ」そういって折口は、乾いた声で笑った。 「……であるため、私たちは義勇軍を──つまり民間自衛船を出動させようという結論に達したのであります」長部は、汗を拭いながら喋り続けていた。「ではこれから、このK作戦の詳細を発表いたします。まず出発の日は、五月の十九日、今日よりちょうど一週間後であります。なお、信頼すべき情報が入っております。これによりますと、韓国民衆党でもこの日、新らしく漁船二隻を武装させ、木浦附近の漁港を出発するそうでありまして、したがってこの日──あるいはその次の日の二十日──済州島沖において両軍の対決ということになるのは必至であると予想されます! 我が方もやはり漁船二隻に武装させるわけですが、現在福岡で改装中のこの二隻の船は、すでに『怨霊丸』、『棺桶丸』と命名されています。大きさはどちらも80トンで、近海用の、以東底曳き網漁船であります。乗組む人員は怨霊丸に七名、棺桶丸に八名です。では只今より、このK作戦参加メンバーを、現在決定している分だけ発表いたします。まず最初は怨霊丸ですが、この方には……」長部久平は、自分以外の者の氏名と年齢と職業を次つぎと読みあげた。「以上が、すでに決まっている棺桶丸の乗組員であります。あ、そうそう、ひとり忘れておりました」長部は、片方の眉をぴょこんとはねあげて見せる、お得意のおどけた表情をしてから、ちょっと胸をはり、ゆっくりといった。「棺桶丸には、私、長部久平も乗ることになっております」そしてにやりと笑った。  草月弘子も、にっこりと笑って、長部久平の得意そうな顔を横から眺めた。「よかったわね」  よかったわね! よかったわねとは何ごとだ──長部の舌の縁に苦い怒りの唾がわいた。頬が少し引き攣った。  くそっ、馬鹿女め! 何故泣かない、なぜわめかない、サマにならないじゃないか、何のためにおれが自分の名をいちばん最後に残しておいたと思うのだ! 救いがたい白痴女め!──長部の頭の中にはオレンジ色の怒りの火花がとび散った。  彼はながい間絶句した。それからまた喋りはじめた。しかし、しどろもどろだった。しまいには何を喋っているのか、自分でもわからなくなってきた。彼は自分の自尊心が、草月弘子によって完全に破壊されたと判断した。彼は憎悪に膝を顫わせていた。  K作戦のニュースを長部久平が喋り終ったとき、急に草月弘子が、長部にことわりもせず喋りはじめた。 「もうひとつ、ニュースがございます」彼女は微笑を浮かべ、ていねいにカメラに向かって一礼した。「わたくし、このたび結婚することになりました。このニュース・ショーに出るのも、これが最後でございます。皆さま、どうもながい間、この不束《ふつつか》なわたくしを……」  長部はしばらく、ぽかんとして彼女の顔を横からながめていた。最初は、彼女の冗談だと思った。次に、これは嘘だと思いこもうとした。  ──これは嘘だ。彼女は本気じゃない。  だが、彼女は本気だった。長部はそれを信じることができなかった。何故なら、彼女が愛しているのは自分──プレイボーイ長部久平の筈だったからだ。長部ファン、草月ファンのすべてがそう思いこんでいるからだった。  ──だから彼女は、おれよりも先に結婚してはいけないのだ。彼女はおれが他の女と結婚した時にはじめて、泣く泣く他の男と結婚しなくてはならないのだ。週刊誌や新聞が書きたてたではないか。草月弘子は長部久平をひそかに想っている、しかし長部が彼女を冷たくあしらうので、夜ごと彼女は淋しさにもだえ、むせび泣いていると。なぜその通りに独身生活を守らないのだ。これではまるで、今まで彼女はおれを好きでなかったように見えるではないか。これはおれに対する裏切りではないか。マスコミに対する反逆ではないか。しかも、そんな重大なことを、何故またこんな時に発表するのだ。おれの喋ったK作戦のニュースがかすんでしまう。おれ自身の存在がかすんでしまう!……。  しばらく茫然としていた長部は、草月弘子が自分に向かって何か喋っているのに気がついた。 「……長部先生、どうも今日までのながい間、わたくしをお引き立てくださって、ありがとうございました」  長部はしぶしぶ彼女と握手した。「いや、どうも、おめでとう」  長部は腹立ちまぎれに、指も折れよとばかり彼女の手を握りしめたが、彼女は逆にもっと強く力をこめて握り返した。彼女は浮きうきしていた。  ニュース・ショーが終って出演者がロビーに出ると、待ちかまえていた芸能ニュースの記者たちが、長部久平には眼もくれず、わっと草月弘子の周囲をとり巻いた。彼らはK作戦のニュースはすでにパンフレットの配布を受けて知っていたが、草月弘子の結婚のことは、彼女の口から今はじめて聞いたのである。彼らは口ぐちに質問しはじめた。 「相手の男性は誰ですか?」 「この銀河テレビのE・Eの舟越さんです」 「結婚式はいつ?」 「十五日の晩よ」 「式場は?」 「銀河グランド・ホテルですわ。大広間に大勢の皆さんをお招きして……」 「大勢って、何人くらいですか?」 「三千人ほどになるかしら」 「ど、どうしてそんなにたくさん……」 「わたくしのファン・クラブの方や、一般の希望者にも入っていただきますの。会費制にして……」 「かわった披露宴ですね! 会費は?」 「一万円」 「画期的な結婚式だ! 誰の案ですか!」 「彼の案よ」  草月弘子にひととおり質問し終った記者のひとりが、長部久平の方へやって来ようとした。  ──おれの感想を聞くつもりだな。それも、K作戦参加のことじゃなく、彼女の結婚についての感想を聞くつもりだ。きっとそうだ──長部は咄嗟《とつさ》にそう判断してあわてて局をとび出し、自分の車に乗ると、無茶なスピードで近くのホテルに向かった。その時になってやっと長部は、草月弘子が自分を愛していることを、彼女自身の口からは一度も聞かされたことがなかったのに気がついた。 「おれは利用されたんだ」長部は吐き捨てるようにいった。「彼女の陰謀にひっかかった!」  長部は、自分が以前から彼女を熱烈に愛し続けていたことに気がつきたくなかった。そのためけんめいになって彼女への憎悪をかき立てようとした。彼女への愛を自分で認めることは、マスコミ公認のプレイボーイである長部久平の誇りが許さなかった。  ホテルの一室に入ると、ボーイに命じてウィスキーを運ばせた。酔いつぶれるつもりだった。午後からは、K作戦参加者全員がライフルの射撃演習をすることになっていた。しかし長部は行かなかった。酔いつぶれた。  眼ざめたのは夜の七時だった。彼はホテルの部屋から、知りあいのテレビ女優に電話して、すぐ来てくれと頼んだ。彼はいま心理的に至急女を抱く必要に迫られていた。  彼女はいった。「でも、今夜はこれから、徹夜で稽古なのよ」 「そんなもの行かなくていい。稽古とおれと、どちらが大事だ?」 「無理いわないで。明日本番なのよ」 「来てくれ。来い。命令だ。君をタレントにしてやったのは、おれだぞ」 「酔ってるのね?」 「そんなことはどうでもいい。来るのか来ないのか?」 「残念だけど」 「おれを利用しやがったな!」 「冗談じゃないわ!」 「じゃあ、いい。他の女を呼ぶ」  彼女は怒って叫んだ。「勝手に呼んだらいいでしょ! コール・ガールでも、洋パンでも!」電話を切った。  長部は電話を粉ごなに叩きこわし、ホテルを出た。知りあいのバーやクラブを五、六軒飲み歩いた。なかなか酔わなかった。最後のバーにいた、厚化粧の肥った女をホテルにつれて帰った。彼女を裸にしてはじめて、三十を過ぎた年増女だということがわかった。長部はその夜、徹夜で彼女の身体を責め苛んだ。     9  ファンファーレのトランペットと太鼓がぴたりとやんだ。 「特別番組、K作戦ビッグ・ショー!」  日本最大のテレビ・ホールを埋め尽した二万人の観衆が、いっせいに立ちあがった。音響効果のよい場内に喊声《かんせい》がうおう、うおうと響き、津波のような拍手がとどろいた。  K作戦マーチがはじまった。  大太鼓が会場の空気を顫わせた。サスペンション・ライトを浴びて、舞台中央の高い階段の最上段にジョージ・小野があらわれた。  アナウンサーが叫んだ。「怨霊丸戦闘員、ジョージ・小野!」  ハイティーンの娘たちがキャアと叫び、また拍手が起った。国籍不明の海兵隊の服装をし、手にライフルを構えた人気絶頂のミュージカル・スターは、K作戦マーチを歌いながら階段をおりはじめた。階段の下に一列横隊に並んだ三十人ばかりの男性コーラス・グループが、足踏みしながら、それに和した。彼らもすべて海兵隊の服装をしていた。   平和の理想 ふみにじる   不法不当の 境界線   李ライン越えて われら行く   今ぞ正義を 守るとき   (コーラス)       トラ、ラ、ラ、トラ、ラ、ラ       トラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ       漁船火を吐く ああK作戦  階段の最上段には、ジョージ・小野につづいて、次つぎと作戦参加者があらわれ、階段をおりた。アナウンサーが彼らの名を順に叫んだ。 「怨霊丸戦闘員、松井伸二!」  南急ホメーロスのホームラン王松井は、ライフルを右腰上に構え、にこりともせずに階段をおりた。少年たちの「松井! 松井!」と叫ぶ黄色い声が、舞台の方へつっ走った。 「怨霊丸戦闘員、柴原節子!」  うわあという男たちの笑いを混え、拍手が起った。軍服の左肩に自慢の長い黒髪を流した女流ミステリー作家は、嫣然《えんぜん》と笑いながら段をおりた。 「怨霊丸戦闘及び機関部交代員、村越均!」  小柄なルポ・ライターは、壇上にいったん立ち止り、会場を見まわしてから、おれにまかせておけというように、ゆっくりとうなずいた。すごい拍手だった。 「怨霊丸戦闘及び操舵交代員、石神吾文!」  P・Pがライフルを不恰好に持ち、泣きそうな顔であらわれた。彼の重量で、壇上が少し揺れた。彼は階段をおりはじめ、五段目を踏み抜いた。どっと爆笑が起った。 「くそ、ニュース工芸社め!」P・Pは太股を引き抜こうとあせりながら、小さく罵った。「また手を抜きやがったな!」  この事故で、肥ったP・Pは子供たちからすごい人気を得た。   公海自由の 原則を   無視するやから 何ものぞ   手当り次第の 銃撃に   怒れるわれら 今ぞ立つ   (コーラス)       トラ、ラ、ラ、トラ、ラ、ラ       トラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ       漁船火を吐く ああK作戦 「怨霊丸機関部員、大村常次! 怨霊丸操舵員、尾藤典夫!」  この二人は紫竜丸の僚船栄光丸に乗っていた本職の船員だった。 「棺桶丸戦闘兼務参謀長、隅の江博!」  彼はあいかわらず、しかめ面をして笑いながら階段をおりた。 「棺桶丸戦闘兼務報道員、長部久平!」  ぎっちょの彼だけが、ライフルを左腰に構えていた。 「棺桶丸戦闘員、後藤益雄!」  この、子供に人気のあるおどけたSF作家は、片手を振りながら階段をおりる途中、P・Pの踏み抜いた穴へまた落ちこんだ。   済州島の 沖あいに   わが同胞の 苦難あり   漁業協定 何のその   われら自衛の 義勇軍   (コーラス)       トラ、ラ、ラ、トラ、ラ、ラ       トラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ       漁船火を吐く ああK作戦 「棺桶丸戦闘兼操舵交代員、君塚[#底本では「土へん」+「冢」。以下すべて]竜吉! 棺桶丸戦闘兼機関部交代員、木田治!」  君塚は前警察機動隊員、木田は前海上自衛隊員である。さすがに銃の持ちかたは恰好よく、当然のことながら軍服も似合っていた。 「棺桶丸機関部員、大野田英一! 棺桶丸操舵兼務船長、脇田秀造!」  前紫竜丸船長の脇田秀造は、前をおりて行く前紫竜丸機関長の大野田に、小声でぶつぶついった。「おらあもう、こんなこたあ、やめにしてもらいてえだよ」  舞台にはK作戦参加者十四人が、ずらりと横に並んだ。 「こうして並んだのを見ると、やはりちょっと壮観だな」副調整室の折口が、D・D浜田にいった。 「だけど、P・Pが可哀そうだ」浜田は心配そうにいった。「あいつきっと、一番さきにやられるぜ」 「P・Pは石原常務と仲が悪い。きっと常務の陰謀だよ」と、折口はいった。  舞台の天井から、漁船を型どった巨大な吊りものがおりてきた。と同時に、舞台上の大階段は奈落に沈み、かわってもう一台の漁船がせりあがってきた。戦闘を象徴するカプリッチョ形式の音楽が突然はじまった。シンバルの響きにつれ、暗黒に近い舞台をエフェクト・マシンの閃光がとび交った。二隻の漁船は大揺れに揺れ、そして火を吐いた。耳をつんざく轟音とともに、一方の漁船が屋台くずしでばらばらになった。鬨《とき》の声。喊声。  暗転ののち、ふたたびK作戦マーチがはじまり、舞台は明るくなった。舞台上の十五台のターン・テーブルが回転し、そのうちの十四台の上にはK作戦参加者が一人ずつ立ち、ライフルを構えていたが、右端の台の上には誰も乗っていなかった。  アナウンサーが説明した。「右端の台の上には、明十五日夜、一般のかたの中から、ある方法で選ばれた一人の英雄が立つことになるのです! その人には怨霊丸戦闘員として、K作戦参加の資格があたえられます!」  やがてショッキングな趣向をさまざまにこらした三十分間のショーは終った。出演者たちはグリーン・ルームで化粧を落し、普段着に着かえた。部屋には、ちょうどこれから十五分間のワンマン・ショーに出るという、歌手の秋園かおりがいた。彼女はジョージ・小野にいった。 「ねえ、私のショーが終るまで待っててくんない? 今夜私んちでパーティやるの。いらっしゃいよ」 「そいつはおもしれえな」ジョージ・小野がいった。「ちょうど今夜おれ何もないの。雑誌のインタビューふたつあるけど、マネージャーに断わらせよう。何しろ戦争に行くんだしよ、ちっとは面白えめにも会わなけりゃな」 「ねえ、飲みに行かない?」柴原節子が村越均の背中を突っついた。「家に帰るとまた、亭主がうるさいのよ。つきあってよ」 「サラリーマンなんかと結婚するからいけないんだ」村越が苦笑した。 「でも、結婚したときは、わたしまだただの女事務員だったのよ」 「君もいっしょに行かないか?」村越が横にいたSF作家の後藤益雄にいった。 「ああ、いいね」  局を出てはじめて、三人とも車をもっていないことがわかった。お互いに、誰かが車を持っているだろうと思っていたのである。タクシーを呼び止めようとしているところへ、ホームラン王松井伸二が中型車に乗り、局の駐車場から出てきた。  彼はドアをあけて三人にいった。「乗りませんか?」 「あら、私たち、飲みに行くのよ」 「じゃあ、僕の知ってるとこへ、ご案内しますよ」  三人は松井の車に乗りこんで、盛り場へ向かった。松井の横の助手席には、松井のガール・フレンドらしい、パゴダ型の髪をしたコマーシャル・ガールがすわっていた。彼女は、車がインターチェンジに入ったとき、坂下の市街の夜景を見て歓声をあげた。 「まあ! わあ! まるでカラー写真みたいだわ」 「君のルポを読んだけど」後藤が村越にいった。「戦争になると誰でもあんなにまで人間性をむき出しにするのか?」 「ああ、誰でもだ」 「だけど私たちだって、むき出しの人間性の中で生活してるわ」柴原節子がいった。「マスコミの中でもまれていると、むき出しの人間性なんて、しょっちゅうお眼にかかれるわ。あれよりもはげしくて、いやらしくて、むき出しになった人間性なんて、考えられないくらいよ」 「いや、人間性じゃない。おれたちのいうのは、獣性のことなんだ」村越が唸るようにいった。 「それだって、しょっちゅうお眼にかかってるわよ。わたしは美女なのよ」柴原節子はそういってクスクス笑った。  松井の知っているという豪華なクラブにやってくると、CM嬢は眼を見はり、カラー写真のようだというのを連発した。テーブルにつくと彼女は、壁の方を指して叫んだ。「まあきれい! まるで絵みたいだわ!」  松井は眉をしかめた。「あたりまえだ。これは絵だ」  五人が喋りながら飲んでいると、ぐでんぐでんに泥酔した評論家の佐藤新がやってきて柴原節子に抱きついた。 「いやよ、先生!」 「お一人ですか?」村越が訊ねると、彼は顎で部屋の彼方を指した。そこでは作家や文芸評論家や雑誌の編集者たちが、またひと組のグループを作って騒いでいた。  ちらと彼らの方を見た後藤が、村越にそっとささやいた。「河西俊作がいるぞ」  村越も、彼らの方をうかがってからうなずき、後藤にささやいた。「うん、いるな。君、何か具合の悪いことでもあるのか?」 「今、おれたちの方を見てるだろ?」 「うん」 「こっちへくるぞ。きっと」 「どうしてだ?」 「あいつの小説が二十版を突破した。あいつはそれを、誰かに喋りたくてしかたがないんだ」 「それはうるさいな。まだ、こっちを見てるか?」 「うん。あ、こっちへやってきた」 「きっとまた、そのことを喋るつもりだ。おれはもう、二度聞かされた」  河西俊作がやってきた。「やあ」 「やあ」後藤と村越は彼にうなずいた。  河西は二人の横に立って、しばらくもじもじしていた。両手を握りしめたり、ほどいて両側でぶらぶらさせたり、またこすりあわせたりした。それから下を向き、やがて、ちょっと顔をあげた。「おれの書いた『アンテナ娘』だけど」と、彼はいった。「二十版を突破したよ」 「ほう、それはよかったな」村越はいった。「おめでとう。ほんとによかった」 「うん、よかった」河西は二人の横に腰をおろして、うなずいた。「二十版を突破したんだ」 「珍らしいことだ」と、後藤はいった。「このテレビ・エイジに、小説がそんなに売れたなんて珍らしいよ。五、六年ぶりじゃないかな?」 「そうかもしれない」と、河西はうなずいた。「そうだろうな」 「それに君は、歌がうまい」と、村越もいった。「やはり、歌がうまくなくちゃ、駄目だよね」  河西は当然だというようにうなずいた。「作家の絶対必要条件だものな」 「先生、やめて」柴原節子がくすくす笑いながら、佐藤新にいった。 「心配するな」佐藤は柴原節子の尻をなでまわしながらいった。「このクラブにはアイはない」  他の作家たちもみんなやってきて、ひとつのテーブルの周囲に、十二、三人が集まった。後藤は星慎一を見つけて席をはなれ、このSFの大家に、さっそく胡麻をすり出した。  シャンパンを飲みすぎたCM嬢が酔っぱらい、部屋がぐるぐるまわっているといって、ひとりけたけた笑いはじめた。 「どこかへ行こう」と、星慎一がいった。「何か食いに行こう」 「ねえ、みんな、私んちへ来ない?」佐藤にまといつかれて閉口した柴原節子が、立ちあがっていった。「パーティをやりましょうよ」 「ご亭主がいるだろ?」村越が心配そうに訊ねた。 「平気よ!」彼女もだいぶ酔っていた。 「そうだ、行こう!」佐藤が大声をはりあげた。「亭主なんぞはかまうものか」そういっては、赤いふかふかしたカーペットの上に仰向けに寝そべった。松井の太い腕に助けられて立ちあがった彼は、こんどは松井を口説きはじめた。「よう、ホームラン王。お前さんと寝たい」松井の首ったまにかじりついた。「おかまを掘らせろ」  一同は騒ぎながらクラブを出て、松井と河西の車に分乗した。さっきと同じ顔ぶれが松井の車に乗ると、佐藤が無理やりわり込んできた。 「駄目だよ」松井が苦りきっていった。「この車は五人以上乗れないよ」 「かまわん、出発しろ!」佐藤は怒鳴った。「進めや進め、K作戦だぞ」  松井はゆっくりと車を走らせた。 「若けりゃ、おれだって参加してる」佐藤は柴原節子の膝の上に頭を乗せていった。「朝鮮なんか何だ」  次の交叉点の手前で、松井は車を停めた。「警官がいる」 「じゃあ、僕がおりよう」村越がいうと、いきなり佐藤が車の外へとび出した。 「よしっ! 訊問される前に、こちらから頼めばいいんだ」彼は近くへやってきた警官を呼びとめて訊ねた。「この車に六人は乗れませんか?」 「乗れませんねえ。これ、中型でしょう?」 「われわれは六人いるんですがね。でも、離れたくないんですよ」彼は頼みはじめた。「お願いですから、乗れるといってくれませんか?」 「無理ですなあ」警官は車の中をのぞきこみ、テレビで知っている顔ばかりなのでおどろいた。彼は怒ることができずに、頭をかかえた。 「乗れるでしょう? 乗れるといってください」佐藤はおいおい泣き出した。「ねえ、乗れるといってください」本当に泣いていた。 「なぜそんなに、私を困らせるのですか」警官も泣き出した。二人は抱きあって泣いた。 「この人は、いい人なんだ」と、佐藤が泣きながら皆にいった。「この人も乗せてあげよう」  警官はおどろいて逃げようとしたが、佐藤は離さなかった。人だかりがしはじめた。  車から降りた村越と後藤が、やっと二人をひきはなし、まだ泣き続ける警官をなぐさめている間に、佐藤は千鳥足で歩道を五、六メートル歩き、パーキング・メーターを口説きはじめた。 「あれ置いて行きましょうよ」柴原節子が松井にいった。村越と後藤はあわてて車に乗り込み、松井は佐藤を抛って車をスタートさせた。  佐藤はそれに気がつかず、パーキング・メーターに抱きついたままわめき散らした。やがて、あたりを見まわし、松井の車が見あたらないのにやっと気がつき、何かぶつぶつ呟きながら、車道へ出た。車道の筋むかいには、彼の顔馴染みのバーがあるので、そちらへ行こうとした。耳もとの警笛で、彼は足をもつれさせ、舗道の上にひっくり返りそうになり、あわてて身体をたて直した。 「ねえ、あの酔っぱらい、佐藤先生じゃない?」真紅の大型コンバーティブルの助手席に乗っていた秋園かおりが、運転席のジョージ・小野にいった。 「やあ、佐藤先生だ。酔っぱらってるぞ」後部席の男女の若手タレントたちが、わいわい叫んで佐藤をはやし立てた。カー・ラジオが、FM放送でガバガバを絶叫していた。  佐藤は車道のまん中に立ちどまってふりかえり、停車した騒がしいコンバーティブルに、据わった眼を向けた。それからよろよろとやってきて、運転席のドアに身体を凭《もた》せかけた。 「先生、乗りませんか?」ジョージ・小野がいった。「これから、かおりんとこでパーティやるんです」 「そうか」佐藤はうなずいた。「乗せてくれ」彼はドアをまたぎ越し、後部席のタレントたちの膝の上に倒れこんだ。女歌手のひとりが青臭い嬌声をあげた。「酒はあるんだろうな」 「もち、あるわよ」 「ようし、進めや進め、K作戦だ」佐藤は女の膝がしらを抱きながらいった。「若けりゃ、おれだって参加してる。ああ、そうとも」  車はインターチェンジから山手に入った。デラックス・マンションがそびえ立ち、その一階の洋装店やレストランが電飾看板を鳴りもの入りで明滅させていた。このあたりは有名人たちが夜のウィンドウ・ショッピングをする新らしいプロムナードになっていた。車道は水銀燈で、昼間のように明るかった。一同は地下の駐車場からエレベーターに乗り、十八階建てのマンションのペントハウスに入った。  広い豪華な応接間に一同が落ちつくと、秋園かおりの父親が、色が黒くて背の低い彼にはぜんぜん似あわない金ぴかのガウンをまとって、奥から出てきた。 「これから、まだ遊ぶというのか? こんなに遅く帰ってきて」彼は娘の友人たちを見て、顔をしかめた。「鈴江、もう寝なさい。明日は学校じゃないか」 「鈴江なんていやな名で呼ばないで! わたしはかおりよ」彼女は貂《てん》のコートを脱ぎながら反抗的にいった。 「鈴江! なぜ親のいうことを聞かん!」ひと前で有名な娘を叱りとばすのが、彼の趣味らしかった。 「まあ、いいから」ひとりのボーイ・タレントが父親の肩を押さえた。父親は怒って、その手をはらいのけた。 「酒だ! 酒をくれ!」ソファに俯伏せに寝そべった佐藤が叫んだ。 「はい、先生。すぐ」かおりはホーム・バーに駈け寄った。「あら、お酒がぜんぜんないわ」 「わしが、全部隠した」父親が勝ち誇ったようにいった。「まだお前たちは、酒を飲んじゃいかん」 「でも、先生にあげるのよ! 佐藤新先生よ」  父親はそっぽを向き、小声でつぶやいた。「そんな奴、わしは知らん」 「佐藤先生ですって?」やはり不似あいな金ガウンをまとい、金歯だらけの母親が出てきた。「まあまあ、先生!」彼女は寝そべった佐藤に近づいていって、ていねいに一礼した。「いつも娘が」 「ママ、お酒どこ?」 「はいはい。すぐに持ってきてあげますよ」彼女は夫に怒鳴った。「あなた、佐藤先生よ! かおりさんを新聞でほめてくださった佐藤先生よ!」 「ふん」父親は頬に皺をよせ、また小声でいった。「なんの先生かわかるもんか。酒なんか出しちゃいかんぞ」 「何いってるの。あんたのお金で買ったお酒じゃないでしょ」母親は奥の部屋へ去った。 「ほう、でかい壺があるなあ」ジョージ・小野が、マントルピースの上の京焼きの茶壺をかかえあげた。 「それは仁清だ。さわっちゃいかん!」父親は声をうわずらせ、ジョージの方に駈け寄って壺をとりあげようとした。  ジョージは手をすべらせ、茶壺をフロアーに落した。 「割ってしまった!」父親は気がくるったように床にすわりこんで、破片をつなぎあわせようとした。「お前たちは値うちをしらん! これは九千五百万もする!」 「こっちにも、何かあるぜ」もうひとりのタレントが、飾り棚の上の楽焼きの皿をとりあげた。 「いかん! いかん!」父親はわめき散らした。「それは常慶だ。七千九百万円だ!」 「ここんとこにも、あるわよ」ガール・タレントも、赤絵の鉢を抱きあげた。  父親はふるえあがった。「柿右衛門だ」  タレントたちは、わざとよろめいて常慶と柿右衛門をぶつけた。皿と鉢は粉ごなになった。他の連中も真似をして、焼物を割りはじめた。父親は、それは万暦赤絵だマイセンだ、乾山だ奈良三彩だとわめきながら、スリッパをとばして部屋中を走りまわった。 「ああ……ああ……」最後に父親は床に這いつくばい、口をあけて泣きわめいた。「こんなことは嘘だ。悪い夢だ」 「およしよ、パパ。みっともないわね」かおりは眉をひそめていった。「どうせみんな、偽物にきまってるわよ」 「ねえ、面白くないわ」ガール・タレントが鼻を鳴らした。「どこか他所へ行きましょうよ」 「そうだ、行こう!」佐藤がふらふらと立ちあがっていった。「柴原節子の家へ行こう。パーティをやってるぞ」 「あら、それならすぐ近くよ!」かおりが立ちあがって叫んだ。 「よし、すぐ行こう」と、ジョージ・小野がいった。「パパさんは、ひとりで泣きたいそうだ」  一同は、またエレベーターで駐車場へ降りた。佐藤は、ブランデーのポケット瓶が背広から出てきたので、コンバーティブルに乗るなり、ひと息に飲み乾した。「それ、進めや進め」  柴原節子のアパートは、そこから2ブロック離れたマンションの十二階だった。十坪は充分あるリビング・ルーム兼応接室から、幅の広いバルコニーへ出ると、都心の繁華街を一望のもとに見おろすことができた。ジョージたちがなだれ込んだとき、一同はすでに、したたか酔っぱらっていた。さっきの顔ぶれに、柴原節子の夫で、商事会社の課長をしている成田も加わっていた。彼は、はしゃぎまわる妻の方をちょいちょい心配そうに眺めながら、皆に酒を注いでまわっていた。 「よう、来たな」女が少ないので手持ち無沙汰だった作家たちは、ガール・タレントたちを見て歓呼の声をあげた。佐藤は、なぜ逃げたといって、さっそく柴原節子にからみはじめた。  村越はハイボールを飲んでは便所へ行き、ときどき思いついたようにピアノを弾いた。彼がピアノを弾きはじめると、ジョージが傍へきて叫んだ。「ようし、K作戦マーチだ!」  村越はK作戦マーチを弾きはじめた。一同は列を作り、大声をはりあげて部屋をぐるぐるまわり出した。  若手SF作家後藤益雄は行進の仲間に入らず、ひとりソファでウィスキーを飲み続けていた。行進して部屋をぐるぐるまわらなくても、酔いのまわっている後藤にとって、この部屋はとっくにぐるぐるまわっていた。  これは何の騒ぎなんだろう?──後藤は思った。──子供の頃、大人たちのどんちゃん騒ぎを見て胸をむかつかせ、大人を軽蔑した経験がある。しかしその後小さな会社に入ってさんざこき使われ、その憤懣も手つだって社員同士で思いきりどんちゃん騒ぎを演じたことがあった。あの時は気分も爽快だった。だが、今は? そんな気分は、どこを探してもない。あの時のどんちゃん騒ぎは本物だった。このどんちゃん騒ぎはにせものだ──彼はそう思った。──ここにいる男や女は、昼間だって仕事のために、にせもののどんちゃん騒ぎを演じている。仕事が終ってからも、やはりにせもののどんちゃん騒ぎを演じている。今、おれの眼の前で派手に演じられているこのどんちゃん騒ぎは、昼間彼らがテレビで演じたどんちゃん騒ぎの模倣だ。どんちゃん騒ぎの幽霊だ。だから、テレビで演じたのと同様の騒ぎ方をしている。有名人たちの甘い生活として週刊誌に書き立てられた記事の真似をして騒いでいるのだ。おれにしたってそうだ。昔は不満を爆発させ、発散させてしまうためにどんちゃん騒ぎをやった。今はどんちゃん騒ぎをしていないと自分を見失っている自分を発見するのではないかという怖れからどんちゃん騒ぎのためのどんちゃん騒ぎをやり、それが生活になってしまっているんだ──そうも思った。  彼は自分が酔っぱらっている時の方がよく考えをまとめることができるのを、ちょっと不思議に思った。もちろん、考えがまとまったからといって、彼は自分をどうすることもできなかった。騒ぎにまきこまれてぼんやりしているだけだった。しかしそんな時の自分の方が、後藤は好きだった。  柴原節子の連載原稿をとりにきた雑誌の編集者は、このどんちゃん騒ぎを見て眼を丸くした。それから節子に原稿の催促をした。原稿はまだできていなかった。「弱ったなあ。編集長に叱られるんですよ」 「あら、可哀想ね。一杯飲まない?」 「明日はできますか?」 「できると思うわ」 「戦争に行く前に、仕あげてくださいね」  節子はグラスのブランデーを彼の顔にひっかけた。「何よ! わたしが戦争で死ぬとでもいうの?」  河西はソファの上に立ちあがって演説をはじめた。茶川賞や直本賞の選考は、その作家の歌や演技力などの点も考慮すべきだといってわめいた。  村越は、松井がつれてきたCM嬢に眼をつけて追いまわし、何とか話しかけようとしたが、うまくいかなかった。しかたなく、柴原節子と踊り、秋園かおりとガバガバを踊った。頭痛がしてきたのでバルコニーに出ると、そこではCM嬢と後藤が抱きあっていた。「やられた」彼は腹立ちまぎれに部屋にとって返し、そのことを松井に告げた。松井は笑っただけだった。村越は大きな声で、誰かさんと誰かさんがバルコニーであやしいとわめいたが、誰もバルコニーへ出て見ようとはしなかった。  タレントたちが腹をへらしてやってきたため、食べるものがなくなった。 「何か食いにいこう」と、星慎一がいった。「ピッツァを食いに行こう」  応接室の隣の寝室のドアをあけて中を覗きこんだジョージが叫んだ。「すごいぞ。みんな来てみろ」  五、六人がわいわい言いながら寝室のドアを開け放して中を見た。ベッドの上で、素裸の佐藤新と柴原節子が抱きあっていた。 「こんなものは、まあ、どこでだって見られる」皆の頭ごしに中を見た星慎一がいった。「何か食いにいこう」  バルコニーの後藤とCM嬢が部屋に戻ったときは、酔いつぶれた二、三人を残し、全員が帰ったあとだった。CM嬢は松井がいないので、あわてて後を追って帰った。後藤は肘掛椅子に腰をおろし、飲み残しのウィスキーをひとりで飲んだ。やがて、帰ろうとして立ちあがりかけたが、足がきかなくなっていた。ひとり、けたけた笑った。そしてまた肘掛椅子にひっくり返った。眠った。ネズミの大群の夢を見た。  後藤が眼ざめた時、部屋には誰もいなかった。バルコニーからの陽光が、部屋いっぱいに散らばったグラスや食器の上に埃を舞わせていた。午後の二時半だった。  ガウンをはおった柴原節子が、寝室から出てきた。「あなた一人?」 「そうらしい」  彼女は後藤の正面のソファに腰をおろし、あくびをした。「何時かしら?」 「まっ昼間の二時半だ」  二人はバルコニーに食卓を出し、トースト、コーヒー、ベーコンエッグの簡単な食事をした。真昼の光が二人に照りつけていた。 「今夜、草月弘子の結婚式だったわね。あなた行く?」 「ああ、行くつもりだ」 「また、たいへんな騒ぎになりそうね」 「そうだね」  柴原節子はぼんやりと下界のたたずまいを眺めながら訊ねた。「あなた、成田を知らない?」 「ご主人? さあ……。昨夜みんなといっしょに出かけたままじゃないかな?」 「そう」  彼女は、不味《まず》そうにタバコを喫い続けた。それから指先に力をこめ、灰皿の底でもみ消した。そしていった。「もう帰ってこないんじゃないかしら」  後藤は立ちあがった。「じゃあ、僕は帰る。また今夜」  柴原節子は立とうとせず、あいかわらず街を見おろしながら、うなずいただけだった。彼女は泣いていた。  後藤は部屋を横ぎり、廊下へ出た。     10 「壮観だ」P・Pが、折口にいった。「各界の代表者が、ぜんぶ集まったようなものだな」 「そうだ。みんな、大衆そのものだ」と、折口もいった。「有名人も来ているが、これだけ有名人が濫造されてるんだから、結局彼らも大衆だ」  二人は自分たちの席から、草月弘子の結婚披露パーティに集まった大勢の人間たちを眺めまわした。正面の席には、新郎の舟越と、百二十万円のウェディング・ドレスに包まれた草月弘子が並び、その両側には媒酌人──銀河テレビの石原常務夫妻が腰をおろしていた。P・Pと折口の席は比較的上座だったので、この銀河グランド・ホテルの大広間全体を、ひと眼で見わたすことができた。 「そうでもないだろう?」P・Pが白葡萄酒を飲み乾していった。「会費が一万円だろ? ふつう一般の大衆には、ちょっと無理だろうな」 「そんなことはない」折口はかぶりを振った。「金のあるなしにかかわらず、テレビに出たい大衆なら、借金してでも必ず来るさ」  会場内のあらゆる場所には、テレビ・アイがとりつけられていた。普段でもニュース・バリューのある集会がよく開かれる場所なので、常設のテレビ・アイは相当数あったが、今日はその数が三倍ほどにふやされていた。 「つまり今の大衆というのは」と、折口は続けた。「テレビに出たいと思っている大衆、あるいは自分がテレビに出て視聴者を満足させることができるという自信を持っている大衆に限られるんだ。今は情報社会なんだから、それ以外の人間は大衆じゃない」 「三千人という話だったが、五千人は来ている」P・Pは会場を眺め続け、嘆息した。「よくまあ、一万円も出してこんなに大勢……」 「長部久平が来ていないな」 「うん、どうしてだろう? たまには失恋の役をやっても、同情されて人気が出るのにな」  他のテレビ局員に混って、折口もよく知っている銀河テレビのD・DやA・Dが、いそがしそうにとびまわっていた。有名人たちが次つぎに立ち、祝辞を述べていた。  宴たけなわだった。  さて、その次の瞬間に起った事件をあとで、その時その場にいた誰に訊ねても、正確に思い出し満足に説明できる者はひとりもいなかったのだが、とにかくその事件は起った。  たとえば、草月弘子の衣裳を全部受持っている女性デザイナーは、その時の状況を説明してこういった。「いきなり、新郎新婦の背後の衝立てのうしろから、ピストルを構えた十人たらずの兇暴な男が会場にあばれ込み、ピストルをポンポンぶっぱなしてわめき散らしながら、あたりの人たちに乱暴を始めました。石原常務さんは胸を射抜かれてバッタリ倒れました。悪漢たちは約十分間、さんざんあばれまわった末、失神した草月弘子さんを四人がかりで抱きあげ、また衝立てのうしろに消えました」  若い詩人はこう語った。「十五、六人ほどの囚人服を着た脱獄囚は、まず会場の中央に手榴弾を投げつけ、あたりの人が五体バラバラになって飛び散ると、恐怖に顫《ふる》えて声も出ないわれわれの眼の前で、悠々と若い女の人たちを強姦し、草月弘子をさらって逃げました」  さらに、高校時代の草月弘子に華道を教えたというヒステリー気味のオールド・ミスはこういった。「一小隊ぐらいの軍隊がきて、部屋のまん中で大砲をうちました。阿鼻叫喚の中で、途方もない大|殺戮《さつりく》と落花|狼藉《ろうぜき》が一時間以上続きました。いいえ本当です。現にこの私が、もう少しで処女を失うところでした。ええっ! 草月さんがいないんですって! たいへんだわ! あの人はきっと軍隊の慰安婦にされてしまいます」  最初折口は、余興だろうと思って気にもとめていなかった。衝立てのうしろから出てきた四人の男のうちのひとりが、左手に拳銃を構えながら右手で花嫁を抱きすくめるまでは笑っていたのだが、他のふたりが、抵抗しようとした舟越と石原常務を殴り倒し、最後のひとりが会場に発煙筒らしいものを投げたのを見て、あわてて立ちあがった。  たちまち会場全体が、収拾のつかない混乱に陥った。これがもはや余興や見世物でないということは、会場の全員が一瞬のうちに悟っていた。発煙筒の黄色い煙は客の眼をしくしくと痛め、そのような苦痛にあったことのない女たちは、声をあげて泣き出した。舟越が口から、石原常務が額から、赤インクではない本ものの血を流していることを知った時には、男たちまでが悲鳴をあげた。折口はちょっと立ちすくんだ。しかし、数人の男たちが新婦の方へ駈け寄ろうとしているのを見て、彼の四肢に、えたいの知れない快感が走った。  上座へ駈けつけようとする折口に、背後からP・Pが叫んだ。「よせ、D・D! 奴らは拳銃を持っている!」  折口が人波をかきわけて新郎新婦の席に駈けつけた時はすでに草月弘子の姿はなかった。折口の他に十人あまりの者が、衝立てのうしろの、従業員用のドアから廊下へ、男たちを追って駈け出た。草月弘子の鼻にハンカチを押しあて、あばれる彼女の四肢をしっかりかかえた男たちは、廊下の突きあたりの、従業員用のエレベーターに乗りこみ、ドアを閉めかけていた。 「階段だ! 階段で追っかけろ!」 「階段はどこだ」  やはり従業員用の階段室が廊下の右手にあった。折口は四、五人の男たちのあとから、その階段を駈けおりた。折口の背後では、誰かが階段を踏みはずしたらしく、転げ落ちた四、五人のわめき声が聞こえた。エレベーターの階数表示盤は、彼らが地下一階へ降りたことを示していた。  階段を駈けおりてゆく折口の内部で、だしぬけに現実感と非現実感が裏がえった。あまりにも非現実的な日常を過してきた折口にとって、この誘拐という大時代な、野性的な、そして現代にとっては非常識的な事件は、なまなましい迫力を持っていた。これは彼の住むマスコミ社会から遠く離れた世界に起るべき事件だった。  この事件は──と、折口は思った。おれが|とことん《ヽヽヽヽ》まで深入りして然るべき事件だ!  折口たちが一団となって、地下一階の駐車場におりた時、四人の誘拐者は草月弘子を、そこに停めてあったプリンス・グロリアに引きずり込み、今まさに発車しようとしているところだった。  エンジンがかかった。  折口の前を駈けていた二、三人が、えいとばかりに、動き出したプリンス・グロリアの屋根や、トランク・リッドにとびついたが、すぐに振り落された。  追跡者たちは、誘拐者を追おうとして、それぞれ自分の乗ってきた車の方へ駈けつけた。車のない者は、誰かの車に同乗した。折口も、局から乗ってきた大型車に乗りこみ、勢いよくスタートした。  地上への細いスロープを、十二、三台の車が連なり、すごいスピードで誘拐者の車を追った。スロープを降りてきた肉屋のオート三輪が、最初の車にはねとばされたらしく、壁ぎわで横倒しになっていて、運転手が巨大な骨つきロースの下敷きになって叫んでいた。  車道へ出ると、さながらオートレースのような有様になった。  他の追跡者たちに、折口は、まるで生死を共にしている兄弟のような親近感を持った。  折口のすぐ前を、四、五台が、信号を無視し、猛スピードで飛ばしていた。折口も彼らと同じスピード──時速80キロほどで、車を飛ばした。あたりはオフィス街なので、車の数は多かった。前の赤いスポーツ・カーが、センター・ラインを越えて、二重追越しをしようとした。前に車がつかえていたので、折口もやむなくそのあとに続いた。前方からタンクローリーがやって来た。赤いジャガーはタンクローリーと正面衝突をして破裂し、乗っていた若い男は折れたハンドルを握ったまま、タンクローリーの横を走っていたリンカーンの屋根の上にとび乗って逆方向へ行ってしまった。タンクローリーの横を危うくすり抜けた折口は、他の追跡車とともに、交叉点を次つぎと信号無視で走り抜けた。背後からパトカーがやってきて、折口のうしろの車に追いつきそうになっていた。  誘拐団の車が右折したらしく、追跡車も次つぎと同じ交叉点を右折した。折口の前を走っていたオールズモビルF85が、右側から来たホンダと激しく接触し、煙を吐きながら右前方の歩道に乗りあげ、火災報知器の柱を倒してから消火栓にぶつかって転覆し、火事を起した。折口のうしろでは、パトカーが都電の横腹にめり込んで火を吐いていた。燃えながらサイレンを鳴らしていた。  次の交叉点近くでは、車がぎっしりとつまって信号待ちをしていた。折口は警笛を鳴らしながら都電の安全地帯へ車をあげてつっ走った。電車を待っていた人間たちは、肝をつぶして線路の上へ避難した。歩道側の車の屋根にとび乗った男もいた。車止めの手前で安全地帯から線路側に降りた折口は、赤信号もかまわず次の交叉点を渡った。前方に、誘拐団の車が見えてきた。  これは何だろう? 折口は思った──この、今おれの身体の中をつっ走っている快い興奮は何だろう? テレビの演出に意欲を失って以来、これほどわれを忘れて物ごとに熱中したことは、なかったのではないか? 今おれは、自分が物ごとに熱中できることを知って興奮している。──だが折口は、それ以上考えるのをやめた。余計なことは考えず、もし考える暇があるなら、むしろこの状況の中に自分の全精神、全能力をぶち込むべきだ──そう思ったからである。彼はこの事件が起ってくれたことを感謝していた。  誘拐者を追跡している車は折口の前にまだ二台、うしろに三台いた。そのさらにうしろから、もっと追跡してくるのかもしれないのだが、折口には見えなかった。一番先頭の車から、さらに20メートル前方に、誘拐団のプリンス・グロリアがいた。  追う車と追われる車は、オフィス街を通り過ぎ、商店の多い住宅街を抜け、とうとう繁華街へやってきた。もう高速で走ることはできなかった。プリンス・グロリアが通行中の男を一人はねとばして突然左折し、裏通りへとびこんだ。折口の前を走る二台も、タイヤを軋《きし》ませて角を曲がろうとした。そのうちの一台は、ハンドルを切りそこねて路地の手前の洋品店の中へ駈けこんでいった。折口も左折して路地へ入った。とたんに洋品店の裏口から、店内を通り抜けたらしいさっきの車が、車体に婦人肌着をいっぱいくっつけて飛び出してきた。折口はあわててハンドルを切った。フロント・ガラスにネグリジェを貼りつけた車は、狭い路地で態勢をたて直し、ふたたび、折口の前を走り出した。  その時、銃声がひびいた。続いて二発、さらに二発。先頭の追跡車がタイヤを撃ち抜かれたらしく、急停車した。肌着の車がそれに追突した。折口は肌着の車すれすれに停車した。車から出ようとした途端、後続の車が折口の車に追突し、ショックで折口は路上に転がった。立ちあがった時、プリンス・グロリアがさらに次の路地へ右折するのが見えた。折口は駈け出した。肌着の車からおりた会社員風の男が折口と並んで駈けた。通りすがりに、パンクして停車している先頭の車の中を覗くと、運転手の若い男がガタガタ顫えながら血だらけの掌にハンカチを巻いていた。折口と会社員のあとから、後続の車からおりた三人が走った。  五人が一団となって次の路地を右へ入ろうとすると、待ち構えていたらしい誘拐者たちのうちの三人がおどり出てきた。折口は髭|もじゃ《ヽヽヽ》の男に組みつかれた。会社員は野菜屑の入ったポリバケツを頭からかぶせられ、さらにバケツの上から足蹴にされてひっくり返り、動かなくなった。折口は髭|もじゃ《ヽヽヽ》の後頭部を建物の柱型に押しつけ、彼の両顎を力いっぱい殴りつけた。髭|もじゃ《ヽヽヽ》は顎をはずし、路上にくずおれた。  髭|もじゃ《ヽヽヽ》に体あたりされたため、折口の肋骨がひどく痛んだ。彼は唸りながら路上に蹲《うずくま》った。唾を吐いた。最近味わったことのない、激しい痛みだった。なまあたたかいものが咽喉にこみあげてきていた。だが彼は苦痛に耐えようとした。苦痛に耐えている自分に、折口は満足していた。だから苦痛さえ快かった。  誘拐者の他の二人は、追跡者の他の三人に組み伏せられそうになっていた。  こちらが大勢と悟って、ひとりが組みついている大学生をはねのけ、逃げ出した。折口はすぐ立ちあがり、男を追った。色の浅黒い大学生が、折口のあとから追ってきた。大学生は折口を追い越した。  逃げる男は振り返り、こちらへ拳銃の銃口を向けた。 「危い、伏せろ!」  折口は前の大学生の背中にとびつき、共に路上へ倒れ伏した。  男は弾丸を一発だけ撃って、また逃げ出し、右手にある小さなビルの社員通用口へ駈け込んだ。その裏口の前には、誘拐者たちの乗っていたプリンス・グロリアが、からっぽで乗り捨てられていた。 「奴ら、あのビルの中だ」と、折口がいった。  折口と大学生は、ためらわずに立ちあがり男を追ってビルに入った。右側にある守衛室には、誰もいなかった。廊下では二人の女事務員が抱きあって顫えていた。  折口は叫んだ。「どっちへ行った!」  彼女たちは階段を指した。「地……地……地……」  折口と大学生は、地下への階段を駈けおりた。  薄暗い地下室には廊下がなく、倉庫に使われているらしい大きな部屋の入口が、ぱっくりと黒く口を開いていた。二人は中へ入って行くのを少しためらい、顔を見あわせた。大学生がポケットから万能万年筆を出し、点燈して部屋の中を照らした。梱包された大きな木箱が両側に置かれていた。その間を、二人は奥へ進んだ。 「おかしいな」手さぐり同様の恰好で、だいぶ奥まで来てから、折口は首を傾げた。「このビルは、こんなに大きい筈はないんだが……。おれたちはもう、20メートルは奥へ来てるぜ」 「そうですね。ほんとなら、もうここは車道のま下あたりになる勘定ですよね」と、大学生もいった。「だからこの地下道はきっと、車道を隔てた向かい側のビルの地下にまで続いてるんですよ。そういう地下道は、よくあるでしょう?」  二人の話し声は、広い倉庫の中でうつろにこだました。その時、急に二人の頭上にスポットライトが点いた。折口は一瞬くらくらとして眼をしばたたいた。大学生がわっと叫んであとずさりした。木箱の間から、背の高さ2メートル以上はありそうな大入道があらわれた。折口は眼を疑った。それはどう見ても怪物だった。真紅のパンツをはいただけの裸身は、油で黒くギラギラ輝いている。禿げ頭だ。  怪物は筋肉のもりあがった両腕を胸の前で組み、火傷で醜く爛《ただ》れた顔を二人に向け、吠えた。「来るな。帰れ」  折口は必死の頭突きを試みた。巨人の腹は意外に柔らかかった。怪物はグッと息を吐き、腹を押さえた。 「こいつは見せかけだけだ! 弱いぞ」折口は、はねとばされて倒れながら大学生に叫んだ。  大学生は眼鏡をはずして、上着のポケットに入れ、折口といっしょに怪物の腹へ体あたりをした。怪物はひっくり返り、口から茶色い液を出しながら、また立ちあがった。二度、三度、折口と大学生は交互に頭突きをくり返した。  折口は何となく、あまり頭のよくないらしいこの怪物が可哀想になってきた。肋骨の痛みを耐えながら頭突きをくり返している自分に対しても、一種の馬鹿らしさを感じた。しかし──と、彼は思った。──これがきっと、現実の事件というものの馬鹿らしさなのに違いない。その馬鹿らしさを、この怪物も知っているのだろうか?──。  折口はこのプロ・レスラーに、その鈍重さに、奇妙な親近感を持ちはじめている自分に気がついたが、胸の激しい痛みで、いつもの苦笑は湧いてこなかった。  折口と大学生は、力をあわせて最後の頭突きを試みた。これで効果がなければ、二人とも逃げ出すつもりだった。だが、ゲッと叫んで倉庫の奥へ逃げ出したのは怪物の方だった。  二人は怪物を追った。暗いので、すぐにその姿を見失った。やがて、奥の壁に突きあたった。 「行きどまりだ」折口はその壁を強く拳固で叩いたが、間仕切り壁でないらしいことは音でわかった。 「ここに穴があります」万能万年筆で壁のあちこちを照らしていた大学生が、壁の一部に直径1メートルあまりの穴があいているのを見つけていった。「下水道へ通じる穴らしいですね」 「入ろう」折口はためらわずに入った。大学生も彼に続いた。  穴は急|勾配《こうばい》のスロープになっていて、周囲の壁には水蘚《みずごけ》が生えていた。大学生が足をすべらせてひっくり返った。滑り出し、折口にぶつかってきた。二人は倒れたまま、水蘚のすべり台をずるずるとどこまでも滑り落ちた。加速度がついて、もう停まらなくなっていた。 「どこまで落ちるんでしょう?」大学生が、恐怖のあまりに声をうわずらせて折口に訊ねた。 「そいつは君、興味津々たる難問だね」折口はひどく楽しそうに答えた。  突然ふたりは、オレンジ色の常夜燈が光る広い場所に投げ出された。遠くに重苦しい轟音が聞こえ、レールが光っていた。 「地下鉄のレールの上だ」大学生がびっくりして叫んだ。 「奴、どっちへ逃げたのかな?」折口はあたりを見まわした。レールの向こう側に、小さな鉄扉があった。開きっぱなしになっていた。「あそこらしい」  二人は集電靴に触れないよう注意しながらレールをまたぎ越し、鉄扉の奥を覗いた。四周をコンクリートで荒塗りされた細長い通路が、まっすぐに奥へ伸びていた。大学生は、もう戻りたいような素ぶりだったが、折口がどんどん入って行くので、しかたなくついてきた。ところどころに常夜燈が点《つ》いているので、お互いの顔はよく見えた。大学生は寒さに唇を顫わせていた。天井から冷水が滴り落ちてきて、折口の首すじに入った。  こいつは強烈な経験だぞ──と、折口は思った。──小説、テレビドラマ、どれもこんな現実の強烈さには触れていない。あれは何かが間違っているんだ。作りものにしたって、もっと強烈な印象をあたえる作り方がある筈だ。いや、そればかりじゃない。おれのいた社会の現実さえ、まるで作りもののように強烈さがなかったぞ。しかし、待てよ──と、折口はまた思った。こんな経験にしたって、くり返しているうちには、最初のような実感が湧かなくなるんじゃないだろうか? だけどやっぱり、この不可解な謎めいた世界の方が、おれには合理的なように見える。何故だろう? そうだ、これはこの間から日常の生活におれが感じている、あの、出口もなく廻り路もなく、抜け道もないといった気分をそのまま象徴しているような世界だからじゃないだろうか? とすると、おれは、こんなことをしていたって、本当はしかたがないのかもしれないが……。  いや、いや違う!──折口は否定した。しかたがないことはない。おれには目的がある。誘拐された女を救うという目的だ。たとえ草月弘子が、自分とあまり関係の深くない女であろうとかまわない。その目的のために、機械のように動くことが、おれには必要なんだ。この大学生だって、おそらくそう思っているに違いない……。  だいぶ歩いてから、折口がいった。「もう、どのくらい歩いたかな?」 「1キロくらいは歩いたでしょうな」と、大学生は心配そうにいった。「途中で、横道があったんじゃないでしょうか?」 「いいや」折口はかぶりを振った。「そんなものはなかった」  水音が聞こえてきた。やがて二人は、幅3メートルほどの排水溝の上に出た。その上にかかっていた筈の細い鉄橋は、取りはずされて向かい側の通路に置かれていた。 「このくらいなら跳べる」と折口がいった、「天井が高いから、頭をぶつけることもあるまい」  大学生は溝をのぞきこんだ。下水は2メートルばかり下を流れていた。  折口も覗きこんでいった。「浅そうだ」うなずいた。「底のコンクリートの地肌が、ところどころに見えている」  大学生はポケットから眼鏡を出してかけ、もういちど底を見た。「いや、あれは底じゃない! 動いてる」それから彼は、その場にへたへたと腰を抜かしてしまった。「あれは鰐《わに》だ」  十匹あまりの鰐が、うようよと底を這いまわり、うずくまっていた。 「もういやだ」大学生は顫えあがり、首を左右に振った。「僕は帰る」 「だって、跳べるんだものな」折口はそういって、難なく溝を跳び越し、振り返った。「ほら」 「あんたは気ちがいだ」大学生は泣きわめいた。「ひとりで行ったらいい!」 「ああ、そうする」言うなり折口は大学生を無視して、さらに奥へ歩き出していた。  しばらく行くと彼方に、常夜燈に肌を照らされて、ゆっくりと大股に奥へ進んで行く怪人のうしろ姿が見えた。折口は駈け出した。怪人は靴音にふり返り、折口を認めると、眼を見ひらいて奇妙な声をあげた。折口が自分をここまで尾《つ》けてきたことが信じられないといった様子だった。彼はすぐに逃げはじめた。通路は次第に上り坂になった。怪人は通路の途中にかかっている鉄梯子《てつばしご》を登りはじめた。折口もそれに続いた。円筒形の竪穴《たてあな》を5メートルほど登りつめると、マンホールらしい鉄蓋があり、いくつかの丸い穴から電燈の光が洩れていた。折口は、どうせ上に何か載せているだろうと思ったので、力まかせに鉄蓋をはねあげた。鉄蓋は簡単にはねとび、彼は地下室らしい狭い部屋に出てきた。十五、六人の、兇悪な顔をした男たちが、縛られてソファの上に横たわっている花嫁衣裳の草月弘子をとりまいていた。彼女は気を失っていた。折口の背後にいた例の怪人が、マンホールの鉄蓋をもと通りにしてその上に立ち、腕組みした。 「よく来たな」横たわった草月弘子の足もとに腰をおろしている、背広を着た肥った男が折口にいった。「お前は、命が惜しくないのか?」 「草月弘子をどうするつもりだ?」  折口の問いに、肥った男はうす笑いを浮かべていった。「おれの女房にする」 「馬鹿野郎!」折口が彼におどりかかろうとすると、他の男たち全員が折口につかみかかり、床の上に組み伏せてしまった。 「そいつを水槽室へつれて行け」と、肥った男が、ソファの上の草月弘子を抱きあげ、部屋を出て行きながらあざ笑っていった。「水責めだ」  折口は両腕のつけ根をふたりの男に両側からつかまれ、その部屋から薄暗い廊下へつれ出された。廊下の両側にはベニヤ板が貼られていて、天井のところどころには10ワットの螢光燈が器具むき出しで点いていた。吊りあげられるような恰好で、折口は廊下を歩かされた。左側にドアがあった。そのドアをあけようとして右側の男が手をゆるめた瞬間、折口は両腕を振りきって、左側の男の顎に拳骨を喰わせた。と同時に、左手で腹を一撃した。左側の男は眼をまわし、ドアをあけようとしていた男はびっくりして、廊下をもと来た方に逃げはじめた。折口は彼を追った。男は複雑に折れ曲がった廊下を逃げまわり、狭い階段を登った。折口も続いて登った。男は登りきった正面のドアをあけ、中へとびこんでまたドアを閉めた。折口は足でドアを蹴りあけた。部屋の中は暗黒だった。何もわからぬ闇だった。さっきの大学生に万能万年筆を借りてこなかったことを悔みながら、折口は手さぐり足さぐりで中へ入った。手には何も触れなかった。床は木材らしく思えた。空気は、やや熱っぽく感じられた。ゆっくりと、折口は奥へ進んだ。  いきなり、太陽があらわれた。  だしぬけにラッパが鳴った。  テレビ・ホールのあらゆる照明が舞台中央に立ちすくんでいる折口の姿を浮き立たせ、二万人の観衆がわっといっせいに立ちあがり、割れんばかりの拍手と喝采を彼に送った。  D・D浜田と草月弘子がにこやかに笑いながら、茫然と佇《たたず》んでいる折口の傍へ、握手を求めてやってきた。 「おめでとう!」D・D浜田がいった。「君の今までの行動は、ぜんぶアイで全国に中継放送されたんだ」  舞台正面には、巨大なテレビ・スクリーンがセットされていた。  アナウンサーがマイクに叫んでいた。「英雄コンテスト第一位の方が、ただいま決定いたしました。その人は、なんと、当銀河テレビD・Dの折口節夫氏であります!」  第二部 海戦     1  昭和五十一年五月十九日、午後一時三十分、ともに80トンの以東底びき網漁船、主船「棺桶丸」と従船「怨霊丸」は、各船長の「巻け」の命令で同時にストックレス・アンカーを揚げ、三万人を越す歓送者の声援と、軍楽隊の演奏する「K作戦マーチ」に送られて福岡漁港を出航した。船の後甲板には各船の操舵、機関部員を除いた全員が整列し、旧海軍式の敬礼で歓呼に応えていた。  両船には、それぞれライフル銃を十二挺、一挺が百五十万円ほどする新・新国産型機関銃を四挺、オネスト・ジョンを真似て作られた三十型ロケットの発射砲を二門、地対地用のラクロス・ミサイルを1セット、75ミリ自走無反動砲、自走迫撃砲、105ミリ自走榴弾砲を各一門、その他にも爆雷三十個、手榴弾百五十個などを積んでいた。甲板上に設置された各砲は、防水布や漁具などで巧妙にカムフラージされ、弾薬類は前部船艙、後部船艙にぎっしり積みこまれていた。主従二隻の漁船は、さながら海を行く弾薬庫だった。もちろん船橋には、レーダー、ロラン受信機、方探と呼ばれている電波方向探知機などがあり、船橋操舵室下部の無線室には、無線送受信装置があった。また、両船にはそれぞれ、五十あまりのテレビ・アイが取りつけられ、あるものには望遠レンズが嵌込《はめこ》まれていた。それらは、ある場所には大っぴらに、ある場所には隠されて設置されていた。船橋の上には、無線電話のアンテナや、ゆるい弧を描いたレーダー・アンテナ、二つの輪を組みあわせた方向探知機のループなどと並んで、テレビ・アイの送信装置が高くそびえていた。  二隻は博多湾から玄海灘に出て西に向かった。そこで各船は名簿と照らしあわせ、あらためて人員の点呼をした。全員が揃っていた。  船橋の前窓上につけられているスピーカーから「K作戦マーチ」を流しながら、二隻はなぜか浮きうきした様子で戦場へ向かっていた。このあたりは国定公園で景色はすばらしい。前方はるかにかすんでいた壱岐の島が、次第にはっきり見えはじめた。  快晴で、波はやや高かった。     2  折口は舷側の手摺りに凭《もた》れて、ぼんやりと玄海灘を眺めていた。海の色は、彼方が紺青、手前が緑だった。日本人の喜ぶ箱庭的な小島の景色は、折口にはあまり興味がなかった。さんざ絵に描かれたそれらの風景は、今となってはあまりにも人工的な雰囲気に包まれ過ぎていた。波うち際の白砂と松林も、まるでカラー写真に撮られたくてうずうずしているといった様子だった。彼らは観光客への媚を露骨に見せていた。  折口は、SF作家の後藤益雄が、船に乗るなり風呂はないのかといって失望した表情をして見せたのを思い出し、苦笑した。怨霊丸の方でもきっと、柴原節子が大騒ぎしていることだろう。シャワーがない、三面鏡がないとわめき散らして……。彼らにとっては、どんな冒険旅行も、快適な冒険旅行でなくてはいけないのだ。戦争も、快適な戦争でなければならないのだ──折口は苦々しくそう思った。たとえ戦場のど真ん中であっても、金さえ出せば冷暖房完備のホテルで風呂に入り、シャワーを浴びることができるようでなければならないのだ。彼らは全世界が──いかなる奥地、たとえ火星であろうと──自分たちの快適な旅行のための、快適な冒険のための舞台でなくてはならないと思い、そう期待している。  大昔は、旅をするのは死地に赴《おもむ》くことだった。そしてそこから不穏な思想を、自分たちの安定した社会に持ち帰り、それによってその社会を進歩させた。だが今では、戦争に行くのさえ観光気分なのだ。観光旅行社のクーポン券さえ買えば、エキゾチックな局地戦の光景が簡単に楽しめるはずだとさえ思っているのだ。現代では旅行者はいない、あるのは観光客だけだ──と、折口は思った。割引価格でエキゾチックなものを求め、そのエキゾチックな性格を失うことなく、日常的な快適な経験に変えたいと思っている者ばかりだ。エキゾチックなものも、見なれたものも、すべて注文通りに作ることができると期待している者ばかりだ。また、現代に冒険はない──そうも思った。仮にあるとしても、何万円か出して買い求めることのできる、絶対安全保証付きの冒険なのだ。彼ら情報社会の大衆は、一生かかってやるような冒険を三時間でやることができ、生命の危険を冒《おか》して初めて味わえるようなスリルを、危険を全然冒さないで味わえると信じているのだ。  折口は、ついこの間の誘拐団追跡レースのさ中に自分がいかに生甲斐を感じていたかを、なまなましく思い出した。あれは眼のくらむような恍惚たる狂躁、無我夢中の歓喜だった。だが結局、それさえ作られた事件だったのだ。おれはだまされたんだ──折口は、あれからずっと怒っていた。おれはマスコミのペテンに引っかかったのだ! そして今、またも作られた事件──疑似イベントの渦中に叩き込まれてしまった。なぜならこれは、作られた戦争だからだ。ニュースに餓えた大衆の期待に応えるため、マスコミのでっちあげた戦争だからだ。しかしおれは、何のために彼らの期待に報いてやらなければならないのだろう? 何のために奴らの幻影に登場してやらなければならないのだ? もちろんそうしてやれば、彼らは喜ぶだろう。だがそれだけでは済まない。また次の、より大きな出来ごとを期待するに決まっている。そして彼らは、ますます白痴化していくのだ。今では全世界の人間精神が、衰退の方向に向かっている。おれはそれに拍車をかけようとしている者のひとりなのだ。  逃げ出すか? だが、どこへ逃げる。逃げ場はない。どこへ行っても同じだ。世界中が大衆の飽くことなき疑似イベントへの期待に埋まり、四十八億の妄想は作られた事件が真実なのだと彼ら自身に教えている。──そうだ、逃げ場はない。どこにもない。お前が自分で作らなければ、どこにもない。自分で作る? だが、どうやって?──折口は考え続けた。  前自衛隊員の木田と、前警察機動隊員の君塚が、何か話しあいながら折口の方へやってきた。見るともなしに彼らの方を見た折口は、図体の馬鹿でかい木田に、ふと何処かで会ったことのあるような親近感を覚えた。じっと彼の方を見ていると、木田も折口を見て笑いかけた。「やあ、あんたはおれのことを、どこかで見た奴だと思ってるんだろう?」  彼の無作法な言葉づかいは、折口には気にならなかった。「うん」 「おれの顔一面に、やけどがあるつもりで見なおしてみろ」 「やあ、あんたは例のプロ・レスラーか?」 「そうだ」怪物はこの男だったのだ。  折口は訊ねた。「じゃあ、禿頭のかつらを被っていたんだな?」  木田は急に不機嫌な顔になっていった。「おれは禿頭だ。今被っているのはかつらだ」  君塚が横からいった。「あのプラスチックの鰐を、陰からリモコンで動かしていたのはおれだよ」  三人はしばらく雑談した。  君塚が訊ねた。「ところで、おれたちは何のために戦争に行くんだ? あんた、わかるか?」 「わからない」と、折口は答えた。「だけど、おれにとっちゃ、何のための戦争かなんてことはどうでもいいんだ」 「考えてみりゃ、おれもそうだな」君塚はいった。「第一に金だ。前金として二千万円もらった。帰ったらもう二千万円貰える。第二に、やはり戦争そのものの魅力だろうな。一度は実戦を体験したい」 「こちらの戦闘員は、ぜんぶ金と名声が目的だろう」と、折口はいった。 「でも、韓国の方はどうなんだろうね。奴ら本当に、そんなに日本人が憎いのかな?」 「あっちは本気だ」と、木田が君塚にいった。彼は長身の折口さえ肩までしか届かないほど背が高く、折口が見あげると、彼の大きな黒い鼻の穴が見えた。「殊に、韓国人で、日本語教育を受けた中年以上の人間たちは、皆日本を憎んでいる。子供の頃、朝鮮語を使うと罰金をとられたり、板の間に正座させられて、ジンム、スイゼイ、アンネイと百二十四代の天皇の名前を暗記させられたり、つらい経験ばかりしてきているからな。おれの友人で、やはり韓国人がいる。そいつは戦争中、日本の唱歌や軍歌を歌わされて学生時代を過した。やはり日本人をすごく憎んでいた。ところが朝鮮戦争で北上して塹壕《ざんごう》の中で故郷をしのんでいるとき、いつの間にかウサギオイシ、カノヤマ、コブナツリシ、カノカワと歌っていたというんだ。ひどく口惜しく感じたというんだ。この気持はわからないことはない。われわれだって子供の頃、頑固者の父親から、ぜんぜん意味のわからぬ論語だとか中庸だとかの中の文句を無理やり叩き込まれ、大人になってから、そういった思想を忌《い》み嫌いながらも、何かのはずみでふいと口をついて出ることがあるものな。そういう時おれたちは、自分たちにそんな教育をした父親がすごく憎くなる」 「おやおや」折口は、意外に知的な木田の言葉に驚きながらいった。「それじゃあ、韓国人の反日感情は、エディプス・コンプレックスのはげしい奴だというのか?」 「似ていると思うね。しかも、子供に対する愛情がひとかけらもない、サディストの父親に対する、母親のない子供のはげしいエディプス・コンプレックスだ」  こいつはわりとインテリだな──折口はもう一度木田の顔を見てそう思った。と同時に、鹿田新平の家へ泥棒に入って捕まった、あの少年のことをちょっと思い出した。──あの少年は──と、折口は思った。──人間性を無視した無意味な思想に毒されることなく、反抗しながら強く生きて行くだろうか? それとも、おれが教えてやったように、仮面の芝居を演じ続けるだろうか?── 「のどが渇いた」君塚がいった。「コーヒーを飲みに行こう」  三人が後甲板から炊事室兼食堂へ入ると、小さな木机を中にして隅の江と長部久平が話しあっていた。 「でも、私は報道担当者なんですよ? どうして私まで戦わなきゃならないんですか?」と、長部が馬鹿ていねいな口調で隅の江に訊ねていた。 「あなたは報道担当者であると同時に、戦闘員でもあるんです。いざ戦闘となれば、やはり銃をとってもらわなきゃなりません」言葉はていねいだが、隅の江の口調には有無をいわせぬ威圧感があった。 「困りましたねえ」長部はあきらかにアイを意識した笑いを片頬に浮かべた。「戦闘の際の報道こそ、テレビ・アナウンサーの見せ場聞かせ場なんですよ?」子供にさとすような調子で、長部はいった。「わたしまで戦闘に加わったら、面白くなくなるでしょう」 「いや、面白いかどうかの判断を、あなたがしちゃいけない」と、隅の江がいった。「全員がそれをやり出したら、統一がとれなくなりますからね」 「弱りましたなあ」長部はわざとらしく困った表情を作って笑い、この頑固なわからず屋を何とかしてくれというふうに折口のほうをちらと見た。それからまた隅の江の方へ身を乗り出した。「じゃあ、こうしましょう。局へ無電でも何でもして、私がアナウンスしなくていいかどうか、視聴者の意見を聞いてもらっては……」 「なるほど」隅の江は牙をむき出して笑った。「あなたは視聴者が、あなたのアナウンスを聞きたがっていると思ってるんですね?」彼はズバリと言った。  長部は大袈裟におどろいて見せた。「おやおや。それはだって、あたり前じゃありませんか。いえ、何も私がうぬぼれて言うんじゃありませんよ。私はアナウンサーなんだから、視聴者が私にアナウンスを期待するのは当然でしょう?」 「その判断は私がする」隅の江は、相手の頭の悪さに、議論を投げ出した様子だった。彼は投げやりにいった。「戦争に解説はいらない。必要なら局の方で、別のアナウンサーがするだろうからね。この話はこれで打ちきりにしよう」隅の江は立ちあがった。  長部は少しあわてた。ここでこの話を打ちきりにされては、もしこの情景が中継放送されていた場合、彼の面目が失墜する。「待ちなさい!」長部は険しい表情で隅の江を呼びとめた。「あんたがどう言おうと、視聴者に関して詳しいのは、あんたなんかより私の方なのだから、どうせ私は勝手にアナウンスをするつもりだ。だけどその前にひとこと言っておく。あんたは……」 「あんたの方が何に詳しいんだって?」隅の江は振り返り、ちょっと笑った。「馬鹿いっちゃいけない。あんたには何もわかってないじゃないか。さっきからの私の話が、ぜんぜん理解できていないらしいな」  長部は顔色を変えた。「私を侮辱するのか?」 「あんたなんかを侮辱して何になる」隅の江はもういちど椅子に腰をおろしながら、嘲笑を浮かべた。それから急に眼を据わらせ、低い声でいった。「おれは参謀だ、いいな。だからおれの命令を守ってもらうぞ。戦闘の際は銃をとるんだ。わかったか。わかったら復誦しろ」 「復誦だと」長部は立ちあがった。恥辱に手をふるわせていた。「この私に命令するのか……この長部久平に……」 「そうだ。人気アナウンサーの長部なんとかに命令するのだ。あんたは、全女性が自分の味方だと思っているんだろうが、ここは戦場だ。勝手なことは許さん。命令違反者は処罰する!」  長部は唇を顫わせ、じっと隅の江を睨みつけていた。やがて自分の不利を悟ったらしく、急にがらりと態度を変えた。彼は、この情景は間違いなくテレビ中継されていると判断したらしく、いちばん近くにあるテレビ・アイの方に向かって、おどけて肩をすくめて見せた。「おやおや皆さん。こういうわけで私は、戦闘開始と同時に持ち馴れぬ銃を持たされることになってしまいました。いやはや、まったく無茶な命令ですね? そう思いませんか? もし私が死んだら……」 「もしあんたが死んだら」と、隅の江が横からいった。「ライフルの射撃演習をサボったあんた自身の責任だ」ふふんと鼻で笑い、首を傾げて聞こえよがしにいった。「よっぽど戦争が怖いらしいな」  長部は蒼ざめて振り返った。「わたしに勇気がないというのか!」  隅の江は虫けらを見る眼で長部を見て、ゆっくりと喋った。「さっきからのあんたの言うことを聞いていると、そうとしか思えないね。これがテレビ中継されているとしたら、視聴者だってそう思っているだろうよ。アナウンスにこじつけて、戦闘に加わるのを逃がれようとしているってな。事実その通りだ。あんたは救い難い臆病者だ。だからこそおれは、あんたに戦闘をやらせたいんだ。あんたが、どんなぶざまな殺され方をするかと思ってな。視聴者だって、あんたのアナウンスなんか、ぜんぜん期待しちゃいないんだ。そんなものは毎朝のニュース・ショーでお眼にかかっているんだものな。視聴者の興味は、女たらしの長部久平がもし戦争に行ったらどんなことをやるだろうというところにあるんだよ。わかったか? おれは戦争に関する参謀であると同時に、この番組の演出家でもあるんだ。だから、できるだけ視聴者に楽しみをあたえてやらなきゃならない。あんたが敵の砲弾で腰を抜かすところを、ぜひとも報道して、皆を楽しませてやりたいんだ。わかったか」  長部はしばらく激しい怒りにがたがた顫え続けたのち、意を決したように椅子にかけ直して足を組んだ。それから憎々しげに隅の江を睨みつけていった。「おい、貴様はどこの馬の骨か知らねえが、このおれ様にそんな口をききやがると、あとが怖いぞ」 「おれが馬の骨ならお前は豚の骨だ」うんざりした様子で隅の江はいった。「命令にしたがうのかしたがわないのか、どっちだ?」 「馬鹿野郎。そんな言い方までされて、したがえるか。お前は参謀なんて柄じゃない。掃除係にでもなりゃあ、よかったんだ」 「その不良っぽいところが、また主婦たちの人気を得るってわけだな」隅の江は苦笑した。「チンピラじみた凄みはその辺でやめろ。戦闘に加わらないのか?」 「意地でもするもんか」 「よし、じゃあ勝手に与太っていろ。いざ戦闘になって命令に背いた時は、お前は銃殺だ」隅の江は腰のリボルバーを取り出して机の上で手入れを始めた。  長部は泡をくって立ちあがった。「お、おれはこの船を下りる。き、き、貴様が気に喰わん!」 「下船するんだと? やって見ろ。脱走兵として射殺する」 「そんなこと、できるもんか」長部は乾いた声で笑った。 「そう思うか?」隅の江は血走ったすごい眼を光らせて、じろりと長部を見た。「じゃ、ためしに船をおりて見ろよ」  折口は隅の江の眼を見て、背筋が冷たくなるのを感じた。──こいつは大変な男だ。サディストだ。あの眼は偏執狂の眼じゃないか!  長部は唇を噛みしめ、何か捨てぜりふを思いつこうと焦っていた。だが、あまりの怒りに何も思いつかなかった。彼は足音高く甲板へ出て行った。 「脱走するだろうか? しばらく見張っていましょうか?」と、君塚が隅の江に訊ねた。  隅の江は笑った。「ほっとけ。あいつにそんな度胸はない」  折口は、この喧嘩の原因は長部の虚栄心と隅の江の加虐的性向以外に、船室内にとりつけられたテレビ・アイにもあると判断した。そう思うと同時に、彼はひとつのすばらしい着想を得て、ひそかに眼を輝かせた。 「そろそろ交代の時間だろう?」隅の江が木田と君塚にいった。  コーヒーを飲んでいたふたりは、時計を見てあわてて立ちあがり、君塚は後甲板をまわってブリッジへ、木田は部屋の隅のせまい階段をおりて機関室へ去った。機関室は無線室のさらに下、船体中央部の最下層にあるのだ。  やがて、君塚と交代した脇田船長が入ってきた。彼は眼をまるくしていた。「さっきから上で、飛行機やヘリコプターがブンブン飛びまわってるだが、あれは何だね?」 「ああ、あれか」隅の江はコーヒーのカップをもてあそびながらこたえた。「あれは外国の報道陣だ。船じゃついて来られないので、上から見てるんだろう」 「取材と報道は、銀河テレビ独占じゃなかったんですか?」と、折口が訊ねた。 「国内に関してはそうですがね」と、隅の江がいった。「外国からは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ソ連の五カ国が取材に来ることになったそうです。ただし、戦争の邪魔にならないよう、上空からの取材に限られています」 「海外に対しては、この戦争は漁民同士の喧嘩《でいり》というふうに報道されているんでしょう?」と、折口はいった。「国連などでは、何て言ってるんですか?」 「一応話には出たらしいが」と、隅の江は答えた。「みんなが面白がり過ぎて、どうするかという結論までは出なかったらしいですな」 「ねえ、隊長さん」船長が泣き声でいった。「この戦争がもとで、もっとでかい戦争になるんじゃないかね? おらもう、心配でしかたがねえだよ」  隅の江は笑わずに答えた。「うん、案外、第三次大戦の口火を切るきっかけになるかもしれんな」  平然と言ってのける隅の江を見て、こいつの頭はどうなってるんだろうと折口は思った。 「おら、やっぱりこの騒ぎに、ついて来たくなかっただ」船長は帽子を脱ぎ、胡麻塩の頭を掻きながらぶつぶつ言った。「金をたくさんくれるちゅうから、ついに来ただけど、やっぱりこんなこたあ、わしにゃあ向いてねえだよ」  船は西浦崎を通って、そこから羅針進路を西南西にとり、四時きっかりに姫島、四時半には呼子《よぶこ》を通過した。そこで針路をある時は真西、ある時はウエスバイサウスに変えながら波止崎にやってきた。さらにウエスバイサウス又は西南西に向かって田助を七時に通過、七時半に生月《いきつき》に到着した。以西底びき網漁船が漁場へ向かう場合は常に、ここからさらに五島列島の南端、大瀬崎燈台まで行って、そこを基点とするわけだが、済州島方面へ行く場合は、たいていこの生月を基点にする。  二隻は針路を変えず、そのまま西南西に直行した。彼らは紫竜丸が襲われたところ、済州島の真南の農林漁区第二六五区内に向かっていた。  波は静まり、月は明るく、船の速度は10ノットだった。     3  艫《とも》の最下層部、後部船艙のま下にある船室《ハウス》は定員六名だった。せまい通路の両側に、戸棚のようになったベッドが三段ずつあり、折口は右側の最上段に寝ていた。  午前五時半、ベッドにいる者は折口を除いて全員、ぐっすり眠っていた。機関室には木田がいた。ブリッジでは君塚が操舵していた。見張りには後藤が立っていた。見張りは二時間交代だったが、長部久平が船酔いで眼をまわしてしまったので、折口と隅の江と後藤の三人が、かわるがわる甲板に立った。折口は三十分ほど前に、後藤と交代したばかりだった。  寝ている他の四人の鼾《いびき》と歯軋《はぎし》りを聞きわけ、皆が熟睡していることを確かめてから、折口は静かにベッドから抜け出た。階段を登り、炊事室の隅に出た。流し台の下の戸棚には、大工道具があった。その中のペンチとスパナを取り出し、ベルトにさし込んだ。コーヒーを沸かして一杯だけ飲んだ。それから、月の光ですべてが蒼白く見える後甲板に出た。船尾には、手摺りに凭れライフルを構えた後藤の姿があった。  折口は彼の傍に近づいた。「やあ」 「まだ起きていたんですか?」 「ええ、眠れないんですよ」折口は後藤と並んで、黒い海面をながめた。それから彼にいった。「コーヒーを沸かしましたよ。飲んできたらどうです? 僕がここにいますから」 「それは、ありがたいな」じゃあ頼みますほんの二、三分といって後藤は、炊事室へ入っていった。  折口は舷側に沿ってブリッジの横まで、甲板をゆっくりと歩いた。海を見ながら、また後甲板へ引き返した。彼は突然走り出した。顔色を変えて、炊事室へとび込んだ。 「どうしたんです?」コーヒーを飲んでいた後藤が、折口の顔色を見て、あわてて立ちあがった。  折口は、あまり大きくない声で切迫した調子を出し、低く叫んだ。「操舵室で君塚さんがぶっ倒れている! 誰かに殴られたらしい」おどろいて甲板へ駈け出ようとする後藤を、折口は押しとどめて言った。「あなたは皆を起してきてください」そして自分は、救急箱を担《かつ》ぎあげた。  後藤はあわててハウスへの階段を降りて行った。折口は炊事室の屋上甲板に登り、そっと救急箱を脇へ置いてから、足音を忍ばせて操舵室に近づいた。中をのぞきこむと、君塚は舵輪を握ったまま舵角標示機と羅針儀を交互に見くらべていた。折口はベルトからスパナを抜き、おどり込んで君塚の後頭部を一撃した。君塚は声も出さず、エンジン操作機の上に倒れ伏し、さらに床へ転がった。折口はレーダーの表面のガラスを叩き割ってから、スパナを床に投げ出し、操舵室を出てブリッジの屋根へ登った。ペンチを出し、アイのアンテナをへし折って海へ抛り投げ、さらに無線電話のアンテナをねじ切った。  これでおれは、自分を隔絶させた──折口はそう思った。──おれはマスコミから隔絶した。  後甲板から隅の江の緊迫した声がとんできた。「どうしたというんだ!」  折口は振り返り、炊事室の屋上甲板に登ってきた隅の江と後藤に叫んだ。「大変です! アンテナ類が無茶苦茶に叩きこわされています!」 「何だと!」隅の江は悲鳴まじりに叫び、屋根へ登ってきた。へし折られたアンテナ類を眺め、彼は大きく口を開いた。唸った。それから、落ちていたペンチを拾いあげ、じっと眺めた。疑わしげな眼つきで、じろりと折口を睨んだ。やがて肩を落し、深い溜息をついた。 「敵がしのびこんだのでしょうか?」と、折口は訊ねた。 「まさか……。これは内部の奴の仕わざだ」 「どうしましょう?」折口がおそるおそるいった。  その時、操舵室から駈け出てきた後藤が屋根を見あげて叫んだ。「レーダーがこわされています!」  隅の江と折口は屋根を降り、操舵室に入った。 「これが落ちていました」後藤がスパナを隅の江に渡した。  隅の江は倒れている君塚を顎でしゃくった。「傷はどんな具合だ?」 「たいしたことはありません。頭のうしろに、でかい瘤《こぶ》がひとつ……」後藤が救急箱をあけながらいった。 「どうしたのかね?」船長と大野田が服のボタンをとめながら入ってきた。 「船長、レーダーが壊された」隅の江は吐き捨てるようにいった。「とにかく、操舵を頼む」  船長は眼を丸くしたまま、舵輪を握った。 「こんな馬鹿なことをした奴は誰だ」隅の江は苦々しげにいった。 「この男が息を吹き返せば、わかるかもしれませんな」機関長の大野田が君塚を介抱しながらいった。 「犯人を見つけてやるぞ」と、隅の江がいった。「きっと見つけてやる」彼は部屋の隅にぐったりと腰をおろした。「レーダーがないから、敵船がやってきてもわからん。無線も通じない。僚船とも連絡できなくなってしまった」 「スピーカーがあります」と、後藤がいった。「あちらからもスピーカーで返事してもらったらどうですか?」 「そうだな」隅の江はのろのろと立ちあがり、マイクをとってスイッチを入れた。「怨霊丸、怨霊丸、こちらは棺桶丸だ。無線電話が壊れた。スピーカーで応答してくれ」  三分ほどしてから応答があった。「こちら怨霊丸」村越均の声だった。「何が壊れたって?」 「村越さんか? こちらは隅の江だ」 「どうしたんですか?」 「レーダーと、アイと、無線通話が駄目になってしまった。そちらで責任を持って、レーダーに注意していてくれ。敵船を発見したら、すぐスピーカーで連絡してくれ」 「了解」 「針路は変更しない。このまま直進する。危険でない程度に、こちらにくっついてきてくれ」 「了解」 「今はそれだけだ。またスピーカーで連絡する。以上」 「了解」  君塚が息を吹き返し、呻き声をあげた。 「しっかりしろ、どうしたんだ?」大野田が彼の上半身を抱き起した。「誰にやられた、え、誰に殴られたんだ?」  君塚は首をゆっくり左右に振った。「わからん。羅針儀を見ていたら眼の前がピカッと光った。それから暗いところへ落ちた。冷たいところだ。川が流れていた。舟があった。亡者どもが舟に乗っていた。おれもそれに乗ろうとしたら、誰かがうしろからおれの名を呼んだ。それで気がついた。あれが三途の川か?」 「知るもんか」  夜が明けてきた。  一同は不味い朝食をとった。気分のよくなった君塚が、ふたたび船長と操舵を交代するため、炊事室を出て行った。朝食を終えた折口、隅の江、大野田の三人は、前甲板の舳先、前部船艙の上に登って寝そべり、しばらくぼんやりした。長部久平は、まだ寝ていた。やがて八時になろうとしていた。  君塚と交代した船長がやってきて言った。「第二五五区へ入っただよ」 「戦場の一歩手前だな」隅の江がいらいらした様子で立ちあがり、あたりを歩きまわった。それから急に立ち止った。「怨霊丸にばかり頼ってもいられない。こちらでも見張りを立てよう」 「どうやって?」と大野田が訊ねた。  隅の江は船長にいった。「双眼鏡はあるか?」 「そんなもの、ねえだよ」 「ないって? 船乗りが双眼鏡を持っていないのか? なぜ持って来なかった!」  隅の江の詰問に、船長は少し困って答えた。「レーダーがあるだから、双眼鏡なんて大時代なものは、持たねえだよ」  隅の江はまた唸った。彼自身も、双眼鏡を忘れてきたことを悔んでいるらしかった。しばらく歩きまわった。やがてまた立ちどまり、眼の前のメイン・マストの頂きを見あげた。そして皆の方を振り返って訊ねた。「視力が両眼とも一コンマ二以上ある者は手をあげろ」  馬鹿正直に手をあげたのは脇田船長だけだった。  隅の江はいった。「よし、あんたが見張りをやれ。このマストは10メートル以上ある。この上へ登って……」 「とんでもねえ!」船長は悲鳴をあげた。「このマストへかね! こんな高いマストへ、登れねえだよ! もっと若い人にやってもらってくだせえ」 「あんたが登るんだ。命令だ」隅の江は船長を睨んでいった。「登れなければ、ロープで吊りあげてやる」  みんな隅の江の剣幕に押されて、船長をかばってやろうとする者はなかった。  船長はなさけなさそうな顔で、恨みっぽく言った。「わしを登らせるのは、わしが双眼鏡を持ってこなかったからかね? それとも、わしがいちばん命令しやすいからかね?」 「眼が良いからだ」隅の江はそういって、折口と大野田に、船長を吊りあげるよう命令した。それから船長に訊ねた。「合図の笛はあるか?」 「そんなもの、ねえだ」船長は泣きそうになっていた。 「めそめそするな! 何か、音の出るものはないのか!」 「ラッパなら、あるがね」と、大野田がいった。「おれが機関室で練習してるコルネットだが、もう壊れかかっていて……」 「それを持ってこい」隅の江がいった。「音さえ出りゃいいんだ」  大野田はラッパをとりに行った。  隅の江は船長にいった。「敵船を見たら、ラッパを吹くんだ。いいな。それから、船が一隻なら、両手を上にあげ、下に振りおろす。二隻なら、それを二回やる。いいな。わかったか?」  船長は涙声で復誦した。「船が見えたら、ラッパを吹くだ。船が一隻なら、手をあげて下におろすだ。二隻なら、それを二回やるだ」 「よろしい。忘れるなよ」  大野田がラッパを持って戻ってきた。折口はロープの端を船長の胴にくくりつけた。大野田はもう一方の端をベルトに結び、帆綱を伝わって身軽にメイン・マストの頂き近くまで登り、索具に引っかけておりてきた。  折口は短いロープを船長に渡していった。「上へ行ったら、これで身体を帆柱にくくりつけなさい」 「ああ、これで身体をくくるだ」船長は泣いていた。  折口たちは、えんやこらといいながらロープを引いて船長を吊りあげた。船長は片手にこわれたラッパをぶら下げ、哀れな恰好で吊り上げられていった。  彼が頂き近くまで登った時、隅の江がいった。「ようし、その辺でよかろう!」  下では折口たちがロープを索具にくくりつけ、上では船長が苦心して帆柱に身体をくくりつけた。 「可哀想だ」と、折口がいった。 「それなら君が登るか?」隅の江が、じろりと折口を見ていった。  ハウスから出てきた後藤が、マストの頂きを見てとびあがった。「船長が首を吊った!」 「あれは見張りだ」と、大野田がいった。  後藤に続いて、起きたばかりの長部久平が、蒼い顔でげえげえ吐いていた昨夜とはうって変わって、元気のよい笑顔をまき散らしながらやってきた。「やあ、どうしたんだね、みんな、浮かぬ顔をして」それから海を眺め、深呼吸をし、体操をした。「いい朝だ」 「ちっとも良い朝じゃない」と、隅の江が顔をしかめていった。「あんたがいくら恰好よく体操して見せたって、誰も見ていないよ」 「どういう意味だね?」長部はまだ笑いを消さず、隅の江に訊ねた。 「もう、アイはない。アンテナが壊れた。レーダーも壊れた。無線電話もこわれた」 「ああ?」長部の顔が、二、三寸がた長くなった。ぼんやりと口をあけ、しばらく一同の顔を眺めまわした。それからブリッジの屋根を振りかえり、アンテナ類の残骸を見て叫んだ。「だ、誰だ、誰だ。あんなことをした奴は! 何故だ!」  折口がいった。「悪い奴がいて、あんなことをしやがった。犯人はまだわからない」  長部はゆっくりと隅の江の顔に視線を移した。長い間、彼の顔を眺め続けた。眼が血走ってきた。彼は低い声で呟いた。「こいつだ……」それからゆっくりと手をあげ、隅の江を指した。「犯人はこいつだ」そして絶叫した。「こいつが犯人だ!」いきなり隅の江にとびかかった。  隅の江も叫んだ。「やめろ!」  二人は揉みあった。他の者はあわててふたりを引きはなした。  引きはなされながら、長部はわめき散らした。「こいつはおれがアイに話しかけるのを厭がって、あんなことをしたんだ。おれが人気者なのを妬みやがったんだ!」 「馬鹿、よせ!」折口の手を振りきった隅の江は、長部を殴りつけた。  長部は甲板に転がり、頬を押さえながら、信じられないといった口調で呟いた。「殴ったのか……この長部久平を殴ったのか……」 「いい加減にしろ」隅の江は怒鳴りつけた。「おれがどうして、そんなことをする。アイだけじゃない。レーダーも、無線電話も壊れたんだぞ。おれがどうして、そんなことをする!」  長部は、何も聞いていなかった。甲板に横たわったまま、うつろな眼で空を見あげ、呟き続けた。「おれは殴られた……おれは殴られた……」  隅の江は顔をしかめて黙り、腰をおろした。  また、各国の飛行機とヘリコプターが数台ずつやってきて、船の上空を旋回しはじめた。  後藤がいった。「ねえ、隊長、この人、怨霊丸の方へ移ってもらったらどうでしょう? あっちにならアイもあるし……」  隅の江は、かぶりを振った。「今となっては、この男にアナウンスさせるわけにはいかない。何を喋るかわからんからな。こいつは気が変だ」それから立ちあがった。「そうだ。それで思い出した。こうなってくると、怨霊丸の方にも隊長が必要だな。副参謀として、あちらの指揮をとって貰わなきゃならん。誰か指名しよう」  後藤がいった。「ルポ・ライターの村越均はどうですか?」  隅の江は後藤を横眼で見ながらいった。「いや、松井伸二の方がいいだろう。君、すまないけどブリッジへ行って、スピーカーでそう言ってくれ」 「わかりました」後藤は船橋へ行き、スピーカーで、50メートルばかり離れた海上の怨霊丸に呼びかけた。「怨霊丸、怨霊丸。応答してください」 「怨霊丸です」今度は、ホームラン王松井の声だった。 「ああ、松井さん。怨霊丸の隊長として、あなたに副参謀を命じます。そちらの指揮をとってください」 「了解。こちらの指揮をとります」  後藤が船橋からおりてきた。彼は隅の江に近づいていった。「隊長。操舵を誰に交代させましょう? 君塚が、時間になっても交代が来ないといってむくれていますが……」 「そうだなあ」隅の江は少し困って、マストの上の船長を見あげた。「舵のとれる者は、他にいないわけか……。まあしかたがない。もう少し君塚に頑張ってもらおう」  大野田が立ちあがった。「おれも木田さんと交代しなくちゃ……」彼は機関室へ去った。  しばらくして、大野田と交代した木田が甲板へ出てきた。彼はメイン・マストの船長を見て泡を吹いた。「せ、船長が、船長がっ!」 「あれは首吊りじゃない」と折口がいった。「あれは見張りだ」  甲板にうずくまったまま何か考え続けていた長部が、急に立ちあがり一同に向かって言った。 「私は怨霊丸に移ります。私はアナウンサーだ。アイやマイクのない所では、生きていけないように出来ている。私はまた、情報担当官でもある。あなたたちは、私を、アイのある場所へつれて行く義務がある」  隅の江が低い声でいった。「おとなしくして、この船にいろ」 「あんたの言うことは聞かん!」長部はわめきはじめた。「あんたは私を殴った。私の人格を無視し、私の人間性を抹殺しようとした。他人を抹殺しようとする者は、自分も殺されていいと自分で認めた者に限られる。それのわからん奴は野獣だ。けだものだ。あんたはけだものだ! けだものの命令が聞けるか!」 「黙れ! 黙らんか!」隅の江は顔色を変え、腰のリボルバーを抜いた。手が顫えていた。  本当に撃つかもしれない──と、折口は思った。  その時、マストの上で小さくラッパが鳴った。 「来たっ!」一同があわてて船長を見あげた。  マストの上の船長は、壊れかかって鳴らぬラッパを、力いっぱい吹いていた。だが、むなしく空気ばかり洩れて、なかなか鳴らない様子だった。やがて彼は大きく両手を肩の上に振りあげ、振りおろした。 「一隻!」と隅の江が算えた。  甲板上の五人は、息をつめてメイン・マストを見あげながら、次の合図を待った。  しばらく間をおいて船長は、また手を振りあげ振りおろし、もう一度手をあげ手をおろした。 「二隻! 三隻!」と、隅の江が算えた。 「三隻だって?」後藤が悲鳴まじりにいった。「敵は二隻じゃないのか? 約束が違うじゃないか、こちらより一隻多いじゃないか!」 「合図をまちがえたんじゃないかな?」と、折口がいった。  その時、突然船長が羽ばたきをし始めた。片手にラッパを握ったまま、滅茶苦茶に両手を振りあげ振りおろした。それはまるで、マストの上にくくりつけられているのが苦しくてたまらず、青く晴れあがった朝空はるかに飛んでいってしまいたいと願っているかのように見えた。 「な、何だと!……十一隻……十二隻」隅の江は大きく眼を見ひらきながら、船長の腕のあげおろしを算え続けた。  折口も算えつづけたが、さすがに、あまりの驚きで十八隻以上は数がわからなくなってしまった。 「大船団だ……」腕をだらりと垂らしてしまい、ぐったりとなった船長を茫然と眺めながら、隅の江はいった。「そんな筈はない……話がちがう……打ちあわせと違う……」  他の者も、びっくりして口がきけず、ただぼんやりと隅の江の顔を見つめていた。  隅の江が、躍りあがって叫んだ。「おれたちを負けさせる気なんだ! おれたちに黙って、マスコミ同士、約束を変えやがったんだ! きっと政府の注文を受け入れたに違いない。韓国のご機嫌とりに、奴らに勝たせる気なんだ! そうだ、きっと知識人たちが、政府やマスコミをけしかけて、おれたちだけを犠牲にして、自分たちの未整理のくだらん罪障意識を、一挙に解決しようとしやがったんだ! 糞! 負けてたまるか! さあ何を愚図愚図してる! 戦闘準備! 戦闘準備だ!」彼は怒鳴り続けた。  一瞬にして甲板上は、たいへんな騒ぎになった。迫撃砲の防水布をめくる者、弾薬の箱を出す者、機関銃を銃架に設置する者、手榴弾を配る者……。  メイン・マストの上では、この甲板の騒ぎを見おろしながら船長が泣きわめいていた。「おらをおろしてくれ! おらをおろしてくれ!」  水平線近くには、点々と韓国武装漁船団の黒い影が見えていた。それは静かに、こちらに近づいてきていた。     4  ジョージ・小野は、怨霊丸の船橋の屋根に寝そべり、歌を歌っていた。歌いながら彼は、この戦争が終って帰った時のはなやかなパレードのことを想像していた。彼はテレビ・ニュースで見た、いろいろなパレードの情景を想い返して、自分がどのようなポーズで歓呼に応えようかと考えていた。どうせディレクターが教えてくれる筈だが、たまには自分の意見も主張しないと馬鹿にされるかもしれない──と、彼は思った。おれはもう、チンピラ・タレントじゃないのだから、ディレクターとも多少は喧嘩した方がいい──そう思った。有名なタレントほど、より多く自分の主張を押し通していることを、彼は知っていた。ディレクターはそれほど反対はしない筈だ、何故ならおれには、それだけのネーム・バリューがあるからだ──そうも思った。それからライバルの、二、三人のミュージカル・スターの顔を思い浮かべた。ジョージがまだ、少し人気が出てきたばかりだった頃、彼はその中のひとりの大先輩に、頼まれもしないのにサインしてやろうかと持ちかけて怒鳴りつけられたことがあった。だが彼らはすでに二、三年前、いずれもジョージにトップ・スターの座を奪われていた。パレードの先頭で歓呼を浴び、堂々と大通りを行く自分の姿を見て、彼らは口惜しがるだろう羨やむことだろうと思い、ジョージはいい気持だった。だが肝心の、パレードでとるべきポーズは、なかなか考えつかなかった。それで考えるのをやめた。次に彼は、この戦争のことを考えた。勝つだろうか負けるだろうかと考えた。勝つだろうと思った。なぜなら、おれは今まで負けたことがないからだ──彼はそう思った。──それに第一、おれが主演するミュージカルは明るいものばかりだった。悲劇などはなかった。おれの役は常に成功者あるいは勝利者だった。この戦争だって、おれが出る番組なのだ。負ける筈がない。どうせ勝つのだ。そうだ、だから勇気を持ってはなばなしく戦わなけりゃいけない。時にはおどけて見せた方がいいな。それからまた、一度か二度は、危機一髪の場面を作ってファンの手に汗を握らせ、ひやひやさせてやらなくちゃいけない。どうすればいいだろうな? どうやればいいかな。わからないぞ。あとで考えよう。おれの受持ちは何だっけな? そうだ機関銃だ、機関銃を撃つのは恰好いいぞ。どうやって撃ってやろう? 顔をしかめて撃ってやろうか。またファンがきゃあきゃあいって喜ぶぞ──。  彼は、足もとに据えられた機関銃の銃身を、靴さきでなでてみた。そして寝そべったままごろごろ転がって行き、機関銃の覆い布をはずした。──ちょっと、ポーズして見るかな。どこかの隠されたアイが、おれの方を見ているはずだ──。彼は上半身を起し、機関銃床を引きよせて銃把を抱いた。海上はるか水平線に照準を保ち、引金に指をかけた。それから銃口を、水平線に沿って甜《な》めるように、横に移動させていった。  突然、彼は屋根の上に起きあがった。べったりと尻を据え、あぐらをかいたまま、彼はぼんやりと海上を見た。そこには韓国漁船の大船団がいた。実際は二十三隻だったが、ジョージ・小野の眼には、百隻以上の大艦隊として映った。彼はぽかんと口を開いた。うつろな眼で、しばらく敵の大艦隊を眺めつづけた。彼は茫然としたままで呟いた。「ノー」かぶりを振った。「ノーノー」とびあがった。「ノー!」悲鳴をあげた。ブリッジからおりようとして、屋根の低い手摺りに足をとられ、彼は舷側の通路へ転がり落ちた。「て、敵だ! 敵がいっぱいいるぞ!」落ちる途中で作業用サーチライトにはげしく脇腹を打ちつけた彼は、通路にひっくり返ったまま、咽喉も裂けよとばかりにわめき散らした。  炊事室を抜けて、ハウスから副参謀の松井がとび出してきた。彼は敵船団をちらと眺めてからブリッジに駈け登り、操舵中のP・Pに怒鳴った。「石神さん! どうしてレーダーに注意していなかったんですか!」  P・Pは泣きそうになって弁解した。「舵をとるだけで、せいいっぱいだったんですよ。わたしゃ素人なんだ!」  ホームラン王松井は、操舵室正面のアイに自分の横顔がうまくおさまるよう苦心しながら、拡声器のマイクを掴んで叫んだ。「全員に告ぐ! 右舷後方に敵船約五十隻発見! 戦闘態勢をとれ! 持場につけ!」それから機関室へのマイクを握った。「機関室! 減速! 村越さんは大村さんと交代して、すぐ戦闘準備にかかってください!」マイクを置き、P・Pに叫んだ。「あなたもです! 操舵を尾藤さんと交代してください。戦闘はすぐ始まりますから」  P・Pは唇をわななかせて呟いた。「おお神よ」  船長兼操舵員の尾藤が駈けこんできて、P・Pと交代した。P・Pと松井は後甲板に出た。  炊事室から、ヘルメットの紐を右耳下でむすびながら柴原節子が出てきた。彼女は敵船団を見た。「たくさん来たわ」最船尾の船艙の上に腹這いになり、彼女はライフルを構えた。  ルポ・ライター村越均とP・Pは、あわてふためいて、へまをくり返しながら三〇型ロケットに取り組んでいた。松井が僚船棺桶丸の方を眺めると、その後甲板でも、こちらと同じような大騒ぎが演じられていた。  操舵していたはずの尾藤が、松井の傍に駈け寄ってきて叫んだ。「隊長! 今、魚群探知機を見ましたら……」 「馬鹿!」松井は尾藤を怒鳴りつけた。「漁に来てるんじゃないんだ、魚群探知機なんか、関係ないじゃないか!」 「まあ、聞いてくださいよ……」尾藤はおろおろ声でいった。「何気なく、ひょいと魚群探知機を見たら、この船の真下あたりに、すごくでかものが泳いでるんです。鯨よりでかい奴です」 「鯨だと? こんなところに、鯨が来るのか?」 「来ません」尾藤は、はげしくかぶりを振った。「そこで、私が思うのに……あれは……私が思うのに…………あれは」彼はぜいぜい息をはずませた。 「何だと思うのだ、早くいえ!」 「あれは潜水艦です」  松井はあんぐりと口を開いた。今度は息をぜいぜいいわせるのは松井の番だった。松井と尾藤はしばらくの間、馬鹿みたいな表情のお互いの顔を茫然と眺めながら、息をはずませ続けた。  やがて松井はいった。「韓国に潜水艦があるわけがない」 「でも」 「わかったぞ!」松井はおどりあがった。それから尾藤の両肩を握ってゆすりながら早口で喋った。「それは取材に来た外国の船だ。海上から取材できないので、潜水艦でやってきたんだ!」 「おやーっ! あれーっ!」柴原節子が、ライフルを投げ出して駈け戻ってきた。左舷後方、怨霊丸から10メートルと離れていない海上に、いきなり小型潜水艇が浮上したのだ。 「アメリカの潜水艇だ。申しあわせを無視して取材するつもりだな」松井は舌打ちした。  浮上した潜水艇のハッチから、カメラを抱えた男が一人と、その助手らしい男が二人、甲板に出てきて怨霊丸にレンズを向けた。  松井は舷側の手摺りに寄って大声を出し、下手糞な英語で彼らに叫んだ。「Don't take TV on the sea!」  カメラを抱えたアメリカ人が、にやにや笑いながら手を振り、叫び返した。「We'll dive as soon as the war starts!」 「馬鹿野郎! 勝手にしろ!」松井は罵り、振り向いて尾藤を怒鳴りつけた。「何してるんだ、君は! 操舵室にいなきゃ駄目じゃないか!」  村越は、P・Pといっしょに、今度は自走迫撃砲の防水布をめくり始めながら、わめき続けている松井を横眼でちらと見て思った。──あいつは怒鳴りちらすことによって、怖さをまぎらせているんだ。そうに違いない──。村越は自分の四肢が、自分ではどうしようもないほどがくがくと揺らいでいるのを、P・Pに感づかれまいとして苦心していた。彼は松井がうらやましかった。怖さをまぎらそうとするために、その声はいやが上にも甲高くなり、荒っぽくなる。しかし第三者には、それは味方を叱咤激励している英雄の声に聞こえるのだ。だがおれには──と、村越は思った──恐怖をまぎらす手段が何もない。不様にあせって、へまをやるばかりだ。アイを意識しているため、おれは余計そうなるのだ。今度はおれも助からないかもしれないな。以前、東南アジアの局地戦をルポした時にはアイなどはなく、誰も見ている者はなかった。だから戦争から帰ってきた奴を誰彼なしに捕まえては話を聞き、さも自分が直接見聞してきたかのように書いて評判を得ることができた。だが今度はアイが見ている。おまけに戦闘に参加しなけりゃいけない。そうしないことには、殺されるのは自分なんだからな。前と比べたらプラスマイナスえらい違いだ。助からないかもしれない!──さすがに村越は、他の者に比べれば戦争の恐ろしさをよく知っていた。それだけに恐怖もひと一倍大きかった。  一方ジョージ・小野は、彼としてはせいいっぱいの努力で脇腹の痛みを耐え、ふたたび自分の持場に戻ろうとしていた。鉄梯子を一段一段、歯を喰いしばりながら、機関銃のある船橋の屋根へよじ登った。あと二、三段という時だった。彼の眼の前に白い閃光が散り、轟音で耳がピーッと鳴った。すでに30メートルの近くにまで迫っていた、敵船団の先頭の船から発射された最初の砲弾が、船橋の屋根のレーダー・アンテナに命中したのだ。ジョージは爆風でふたたび甲板に転落した。立ちあがって見あげると、すでに船橋の屋根には何もなかった。レーダー・アンテナはもちろん、スピーカーも、ジョージの機関銃も、他のアンテナ類も──アイ送信装置も含めて全部吹きとばされ、影も形もなくなっていた。 「ひやあ!」ジョージは恐ろしさのあまり、またその場にすわり込んだ。「あそこに登っていたとしたら、おれ今オシャカだ!」 「て、て、敵は砲撃を開始しましたっ!」別に言わなくてもわかっていることを、P・Pは恐怖のために大声でわめいた。 「ようし、迫撃砲発射用意!」と、舷側で機関銃を構えながら松井が怒鳴った。「よく狙って撃てよ」  アメリカの潜水艇は、男たちをコマ落しで昇降口から吸い込むなり、あたふたと潜航した。P・Pと村越は、迫撃砲の砲門を、さっき大砲を撃ってきた先頭の船に向けた。 「発射!」  松井の号令で、照準台のP・Pが迫撃砲を撃った。しかし砲弾の狙いは大きくそれた。弾丸はヒュルヒュル唸りながら敵船の右舷約10メートルの海上に落下した。 「よく狙えといっただろ!」松井が癇癪を起して叫んだ。  その時、いきなり海中から火柱が立った。それは青天井が粉ごなに砕け散ったかと思われるほどの轟音と閃光だった。大きな火玉が、海中から四方八方へ花火のように飛び散った。 「アメリカの潜水艇に命中した!」村越が腰を抜かしそうになり、あわてて砲身にとりすがりながら叫んだ。「たいへんだ。アメリカと戦争になるぞ!」 「協定を無視したアメリカが悪いんだ」と、松井がいった。  松井は敵船を見た。今の爆発のために、突然舷側に大波をかぶった40トンあまりのその小漁船は、みごとに転覆していた。棺桶丸の方でも、迫撃砲や無反動砲を撃ちはじめていた。後続の敵船は、それ以上こちらへ近づいてこようとせず、大砲も撃たなかった。 「敵には砲弾が、あまりないらしい」と、松井がいった。「怖がっているんだ。ようし、当らなくてもいいから、撃て撃てっ! 撃ち続けろ!」  村越は砲弾一個が何十万円もすることを知っていたので、もったいないとは思ったが、命令だからしかたなくP・Pといっしょに撃ち続けた。耳がガンガンし、しまいには頭までガンガンしはじめた。  松井が機関銃を、柴原節子もライフルを撃ち始めた。ジョージは舳先の甲板にある機関銃を右舷側へ持ってきて、めくら滅法に撃ちまくっていた。連発の震動と断続音のため、普段から脈絡のないジョージの思考は、より寸断されていた。  ガガ、ガガガガガガガガ、ガガガ、ガ、ガガガガガガガ、ガガッ、ガッ、ガガガガガガガガ! ガガガガガガガガガ……。 「こ・こ・こ・これを喰らえ・こ・こ・これを喰らえ敵め・死ね死ね・パレードで凱旋おれは英雄だファンが・死ね死ね・ディレクター死ねおれは勝利が英雄が秋園かおりがおれの首ったまにこ・こ・これを喰らえ・ママ見てるかおれを見てるか・これは本当の戦争おれは英雄敵め・死ね敵め」  ガガ、ガガガ、ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ、ガッ! ガッ! ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ!  敵船団は後退しはじめた。  主船が追撃しないので、松井も追うのをやめるよう尾藤に命令した。それから、後部船艙の甲板で、弾薬の入った木箱のうしろから首だけ出して彼の方を見ているジョージに怒鳴った。「こっちの損害を調べてくれ!」 「もう、わかっています!」と、ジョージは叫んだ。「機関銃一挺とアンテナ全部が破損! 死者ゼロ! 軽傷者ゼロ! 重傷者一名であります!」 「なにっ! 重傷者とは誰のことだ!」 「はいっ! 自分であります!」ジョージは自分の手で、身体を隠していた前の木箱を脇へどけた。  柴原節子が悲鳴をあげた。ジョージには下半身がなかった。上半身だけが甲板の上に載っていた。村越が、急にゲラゲラ笑いはじめた。  松井はジョージのトリックを見破って苦笑した。「馬鹿な真似をするなよ。出てこい」  ジョージはにやにや笑いながら、船艙の丸いハッチの下に隠していた下半身を抜き出した。 「やめてよ、もう、そのゲラゲラ笑い!」柴原節子が眉をしかめ、まだ笑い続けている村越に叫んだ。  村越はいつまでも馬鹿笑いをし続けた。彼は白眼をむき、泡を吹いていた。完全に発狂していた。     5 「怪我した奴はいないか?」  棺桶丸の方でも、隅の江が船内を訊ねまわっていた。最後にもう一度、後甲板へ出てきていった。「長部の馬鹿がいないな。あの馬鹿、どこへ行った! 誰か知らないか、あの馬鹿を」  空になった弾薬箱を整理しながら、折口が苦笑していった。「ハウスにいませんでしたか? あいつ、ズボンをびしょ濡れにしたから、きまりが悪くてすっ込んでるんでしょう」 「腰抜けめ」隅の江が吐き捨てるようにいった。  後部船艙の上では、後藤と木田と、それに船長と操舵を交代した君塚の三人が腰をおろし、弾薬箱に凭れていた。三人とも、疲れきった様子だった。 「あんたたちは、よくやったな」隅の江が、君塚と木田にいった。「さすが本職だ」  二人は照れ臭そうに笑った。  木田がいった。「あれだけ撃って、一発も命中しなかった」  君塚もいった。「敵は怨霊丸に向けて一発砲弾を撃ちこんだだけで、こちらには全然、音沙汰なしでしたな」  隅の江と折口は、迫撃砲の砲座に腰をおろした。 「奴ら貧乏だから砲弾を節約してやがるんだ」と、隅の江はいった。「こちらが弾薬を使い果した頃に一斉攻撃をしかけてくるつもりなんだろう。ところがこちらには、弾薬はいくらでもある」 「あの、轟沈したアメリカの潜水艇のことですがね」と、折口がいった。「アメリカとまずいことになりませんか?」 「なるもんか。奴らが悪い」隅の江はいった。「おかげで韓国の船が一隻だけ転覆した。あんなに簡単にひっくり返るとは思わなかったな」 「造船技術が悪いし、おまけにトン数はこちらの半分です」と、木田がいった。 「何人くらい乗っていたんだろう? 皆、死んだかな?」と、後藤が呟くようにいった。彼はまだ膝がしらを顫わせ、唇を紫色にしていた。「まだ耳が痛い……。つぎからは脱脂綿でも詰めよう」 「そうだ。まだ溺れている奴がいるかもしれんぞ。拾いあげて捕虜にしよう」隅の江は立ちあがり、舷側に寄って海上を見まわした。  後藤がその傍に行き、並んで手摺りから身を乗り出した。「あれは違いますか?」 「いや、あれは木箱だ」 「あれは?」 「あれも箱だな……待てっ! あれに掴まって泳いでる奴がいるぞ」隅の江はいそいで船橋に登り、操舵室へ入って船長に命令した。「取舵《とりかじ》だ。引き返せ。左舷のずっとうしろに泳いでる奴がいる。あれを助けあげて捕虜にする」  船長は、マイクをとって機関室に連絡した。「小回りする。全速!」  隅の江はスピーカーのマイクをとり、怨霊丸に呼びかけた。「怨霊丸、そちらの状況を報告しろ」  松井が報告してきた。「こちら、アンテナ類が全部破損、使用不可能になりました。死者なし、行方不明者なし、重軽傷者なし、発狂者一名」 「なにっ! 気違いが出たのか。誰だ」 「村越さんです」 「ううん、あっちにも腰抜けがいたか」隅の江は、ちょっとぶつぶつ呟いてから、またマイクにいった。「こちらは敵の捕虜を拾うために旋回する。停船して待て」 「了解」  棺桶丸は、空の弾薬箱につかまって漂流している男に近づいた。 「イージーヘルム。回頭停止」 「ようそろ」  タイヤを投げて救いあげて見ると、意外に年老いた男だった。 「この男、日本語が喋れます。さっき、助けてくれと叫びました」後藤がそういいながら、船橋からおりてきた隅の江の前に、かついだ男を投げ出した。  男は甲板に仰向けに横たわり、肩で息をした。転覆した時にだいぶ水を飲んだらしく、何度も吐いた。  話ができそうな状態になった頃、隅の江が訊ねた。「お前は民衆党員か?」  彼はいった。「チカウ。ワタシ、センチョダ」 「船長か。どうして日本語が喋れる?」 「コトモノトキ、ショーガッコテナラタ。コトモノトキ、ニポンチンノ、ヘイタイ、ケイカン、タクサンチョセンニイタ。ガッコノセンセモ、ニポンチンダタ。サーペル、ツタ、コワイセンセダタ。ワタシ、タクサンタクサン、ムチテタタカレタ。ナントモ、ナントモ、タタカレタ。ソレテ、ニポンコトパ、オポエタ」 「訊きたいことがある、知っていることは全部喋るんだ。いいな。おれたちは、戦闘に参加する韓国の武装漁船は二隻と聞かされていた。ところが二十三隻もきた。どうしてだ?」  男は喋りはじめた。「ワタシ、クワシイコトシラナイ。テモ、ワカル。コノセンソー、カンコクノヒト、ゼンプ、カチナサイ、ユッタ。カンコクノフナノリ、ゼンプ、ニカンカイタン、ハンタイ。タカラ、コノセンソー、ニポンニカツ、ニポンオコル、ニカンカイタン、ケツレツスル。タカラ、コノセンソー、カツヨウニ、ユッタ。ダケド、ニポンフネ、オオキイ。カンコクフネ、チイサイ。哀号《アイゴー》。カンコク、マケル。ニポン、マスコミ、タマセト、カンコクヒト、ミナユッタ。タカラ、カンコク、フネ、タクサンキタ。ニポン、タイホー、プキ、タンヤク、タクサンタクサン、アル。カンコク、タイホー、スクナイ。プキ、タンヤク、タクサンタクサン、ナイ。カンコクマケル。哀号。ソレテフネ、タクサン、キタ。カンコク、ミンシュートーノヒト、ニポンノ、マスコミヲ、タマシテヨロシト、ワレワレニユッタ。ワレワレ、ニポンヲ、タマシタ、テモソレ、アマリ、ワルクナイ。ニポンイママテ、チョセンチン、タクサン、タクサン、タマシタ。カンコク、マダ、ニポン、タマシタコトナイ。イペンクライ、タマシテモ、カマワナイ。ニポンチン、イママテ、タクサン、チョセンチン、コロシタ。カンコク、ニポンチン、チョトクライ、コロシテモ、ヨロシ」 「この男の話だと」と、後藤がいった。「日本のマスコミは、関係ないようですね」 「そんなことはない。この男は知らないんだ。民衆党では、マスコミと連絡をとっていることを韓国の国民に知られたくないんだ。だからそう説明しているんだろう」隅の江は考えながら言った。「あっちの事情は日本より複雑だ。民放テレビ二局以外に国営テレビと米軍向けテレビがある。国営テレビでは、この戦争を取材したいんだが、政府というものがある以上、戦争にはノー・タッチというたてまえをとらなきゃならない。ところが民放二局では、その国営テレビの手前、自分たちだけがあまりにも戦争に関係しすぎると政府に睨まれるからこわい。といって、スポンサーを獲得するために報道だけはじゃんじゃんやらなきゃいけない。だから表面的には、民衆党と何らの事前連絡もしていないという風に見せなきゃいけないわけだ。おかしな話だよ。あっちの政府だってこの戦争は喜んでいるんだがね。国民の鉾先が自分たちにでなく、日本に向くことになるんだから……そして駐韓米大使は……」彼は苦笑した。「おっちょこちょいだから、もうすぐクビになることも知らずに、この戦争を面白がっている」 「この男、どうするか?」自分まで妙な言葉づかいになって苦笑しながら、君塚が訊ねた。 「炊事室の横に小さな倉庫があったな。あそこへ閉じ込めておけ」 「あの、すごいほこりだらけの物入れへ? 少し可哀そうだな」 「他に閉じこめるところはないだろ? 船艙へ入れて弾薬に火をつけられちゃ困る」  君塚は男を立たせ、炊事室の横の一平方メートルの物置きへ押し込み、ドアを閉めた。  男は中で、猛烈に咳きこんだ。「ホ……ホ、ホコリ! |1《エチ》メートル2メートル」 「我慢しろ」  操舵室の船長が、スピーカーのマイクに叫んだ。「隊長! 左舷後方を見てくだせえ! 船がこっちへ来るだ!」  甲板上の全員が左舷側の手摺りに駈け寄って東を眺めた。 「あれは銀河テレビの快速艇です」折口が、白波をけたててやってくる小型快速艇の船首の旗を見ていった。「両船ともアイが壊れたので、きっと決死の覚悟で取材に来たんです」  カメラを積み、三人の局員を乗せた銀河テレビのランチは、怨霊丸の方へ近づいていった。 「どうしてあっちの船を取材するんだろう?」後藤が不服そうに言った。「こちらが主船なのにな」  折口がにやりと笑っていった。「あっちには女性が乗っていますからね」 「それに、ホームラン王や、ミュージカル・スターも乗っている」と、隅の江もいった。  後藤が苦笑した。「やっぱりSF作家じゃ駄目か」 「取材に来たんだって!」新しいズボンにはき替えた長部が、眼の色を変えてハウスからとび出してきた。 「おあいにくさま。怨霊丸を取材するらしいですよ」後藤が冷やかすような調子でいった。  長部は手摺りをしっかり握りしめ、血走った眼で、怨霊丸に乗り込んでいるテレビ局員たちをしばらく凝視していた。やがて声をかぎりに絶叫した。「おうい! こっちへ来てくれえ!」  一同は失笑した。「みっともない、やめなさいよ」 「俊寛みたいだ」 「呼ばなくても、次にはこちらに来るに決まっている」  だが長部は、叫ぶのをやめようとしなかった。涙を流し、涎を垂らしながらわめきつづけた。 「こっちへ来てくれえ! こっちへこうい! 助けてくれえ! 助けてくれえ!」     6 「ひどいことになってますね」銀河テレビから取材に来たD・Dとカメラマンは、怨霊丸の船橋を見あげていった。「これじゃあ、アイで受像できなかった筈だ」  後甲板には怨霊丸の戦闘員が集まっていた。操舵しているP・Pと、機関室の大村と、発狂してハウスに閉じこめられている村越均を除いた四人が、甲板に設置されたテレビ・カメラの前に立った。  派遣されて来たアナウンサーが松井にマイクを向けて訊ねた。「これで全部ですか?」 「あと、操舵員がいないだけです」 「ほう、そうすると、午前中の戦闘では、怪我人はひとりも出なかったわけですか?」  ジョージ・小野がプッと吹き出して、横からいった。「アナさん。それがケッサク。まあ聞いてよ。怪我人は出なかったけどさ、ひとりだけ……」 「ひとりだけ、気分の悪くなった者がいまして」松井がジョージを横眼で睨みつけながら、あわてていった。「今、船室で寝ています」 「他の方も、顔を見せてもらえませんかねえ」アナウンサーがいった。「停船さえすれば、機関室の人や舵をとっている人も、ここまで来てもらえるんでしょう? 全員揃ったところをカメラに納めたいんです」 「そうですか。じゃあちょっと停船しましょう」松井は尾藤船長に、P・Pと大村をつれてくるよう命じた。 「すごい戦闘だった! ねえよう、そうだろ、柴原の姐さん!」ジョージ・小野が、自分の方に向けられているカメラを意識しながら、浮き浮きした様子で柴原節子にいった。  柴原節子は気のない様子で答えた。「そうね」彼女はさっきから月経が始まっていたので不機嫌だった。  機関室から大村が、船橋からP・Pがやってきた。  P・Pは同僚に手をあげて挨拶した。「やあ、ご苦労さん」それから、自分の方にレンズを向けているカメラマンと、その傍にいるD・Dと、松井と話し続けているアナウンサーを見て、ちょっと首を傾げた。「ええと、君たちはどこの班だったかな?」  その時、アナウンサーが舷側の方へとび退きながら、何かわけのわからないことを叫んだ。  だしぬけに、テレビ・カメラから長く突き出た望遠レンズが火を噴いた。カメラを構えていた男は、中に仕込んであった自動小銃を撃ちまくりながら叫んだ。「内地鬼《ニイチンギ》! |※[#ハングル文字]御馳走※※[#ハングル文字]《イーケージヤルモツコー》!」  D・Dとアナウンサーになりすましていた男たちも、ポケットから小型のコルトを出した。 「|皆殺※※[#ハングル文字]《ターチヤムヌシオ》」  松井と大村と尾藤は、たちまち心臓を撃ち抜かれ、もんどりうって甲板に倒れた。  ジョージ・小野は悲鳴をあげながら舷側の廊下を舳先の方へ逃げ出したが、追ってきたアナ役の男に腹を撃ち抜かれた。「イエーッ、おれはやられた!」彼はまだカメラに撮られているように錯覚していたので、できるだけ派手に倒れた。  柴原節子は舷側にいたので、手摺りを飛びこえて海にとびこんだ。  P・Pも彼女に続いてとびこんだ。深く沈み、ガブガブと苦い水を飲んで、始めてP・Pは自分が泳げなかったことを思い出した。  柴原節子は海面に浮かびあがり、棺桶丸の方へ泳ぎ始めた。女と思ってか、男たちは彼女を撃たなかった。  テレビ局員に化けていた三人の民衆党員は、怨霊丸の船上で、あちこちに火をつけてまわっていた。「|※※※※※※※[#すべてハングル文字]《ハツスムシダタナンダ》!」弾薬に火がつかぬうちにと、三人は大あわてでランチに乗り、やって来た方へ引き返した。  ジョージ・小野は、炎に包まれた甲板の上で、苦しみながら這いまわっていた。発狂しそうな苦痛だった。これほどの苦痛が、この楽しい便利なテレビ時代に有り得るなどとは、彼には信じられなかった。彼はすでに暗黒となった自分の周囲の世界を見まわしながら、むなしくステージ・ドアを探し求めていた。そのドアさえ探し当てれば、このひどい苦痛から逃れることができる筈だと彼は信じていた。この広いスタジオの中でいかに彼が苦痛に耐え抜く名演技をし、いかに汗と血にまみれてのたうちまわる熱演をしようとも、そのステージ・ドアを開けさえすれば、そこにはやさしい笑顔のステージ・ママが待っていて、まあ可哀そうにといいながら彼をいたわってくれる筈だった。取り巻き連中や付き人や記者が大勢いて、彼の演技を賛嘆してくれる筈だった。だがそこには、いくら探してもステージ・ドアはなかった。テレビ・アイのないそこは、戦場だった。そしてジョージにとっては、見知らぬ場所だった。ステージ・ドアは、今はもう彼から、あまりにも遠く離れたところにあった。彼はついに泣き叫んだ。「痛いよう! ママ! 苦しいよう! 助けてくれ、誰か助けてくれよう! おれ、死んじゃうよう!」  怨霊丸の船艙にぎっしり積まっていた弾薬に火がつき、大爆発が起った時、四周の水平線には二十二隻の韓国漁船の黒い影があらわれた。彼らは棺桶丸を完全に包囲していた。  すでに日は沈みかかり、夕靄が立ちはじめていた。  柴原節子は声のかぎりに助けを求めながら、棺桶丸の方へ泳ぎ続けた。二時間後、彼女はやっと折口の投げたタイヤに救われた。  気を失って海面を漂っていたP・Pは、韓国漁船の一隻に拾いあげられた。恐怖で気絶したため、彼はあまり水を飲んでいなかった。げえげえと海水を吐き続けながらP・Pは、甲板に横たわった自分の周囲を取りまいて立っている韓国戦闘員が、すべて女性なのに気がついた。  梨花女子大の生徒たちだな──P・Pはそう思った。──荒くれ男たちの船に拾われなくてよかった。女の子たちなら、きっと介抱して、いたわってくれるだろう──。P・Pは安堵の溜息とともに再び気を失っていきながら、朦朧とした意識の底で、ちらとそう思った。だがP・Pは、自分が大変な考え違いをしていたことを、あとになって厭というほど思い知らされた。生娘たちの男に対する残虐性に比べれば、荒くれ男のそれなどは問題にならないことを──。  次に気がついた時P・Pは、自分が生まれたままの姿に衣類を剥ぎとられ、大の字にされて、両手両足を帆綱にくくりつけられていることを知った。彼の意識が甦ったと知ると、P・Pを取り囲んだ処女たちは、たちまち眼を吊りあげ、前後左右から笞《むち》で彼を責め苛みはじめた。ほんのしばらくでP・Pの身体の柔らかく白い皮膚は破れ、血がとび、脂がこぼれ、肉がむき出しになった。P・Pには、今自分の身の上にふりかかっているとんでもない災難が、どうしても信じられなかった。苦痛に呻き、叫び、吠え、泣きわめきながら、彼はこの美しい乙女たちのどこにこのような獣性がひそんでいたのか、どうしても理解できなかった。梨花女子大の才媛たちは、興奮で完全に吊りあがってしまっている眼をぎらぎら光らせ、思いきり汚ない言葉でP・Pを罵りながら、狂ったように笞をふるい続けた。 「豚《ドヤジ》!」 「内地鬼《ニイチンギ》!」 「豚《ドヤジ》!」 「豚《ドヤジ》!」  彼女たちの物の怪に憑《つ》かれたようなその様子は、彼女たちが美しいだけに、一層の凄みがあった。  P・Pはすでに苦痛を通り越し、一種の恍惚境に陥っていた。彼は自分が、この激しい苦しみの中にすばらしい快感を見出しているのを知って驚いた。おれはマゾヒストだったのか、今までちっとも知らなかった──P・Pはそう思った。おれは河馬だ──そうも思った。美しい令嬢たちから責められている醜い哀れな河馬だ。おれは凄く可哀想だ。だが、何故この種の快感を、おれは今になって発見したのだろう? そうだ、性文化の退化した社会にいたため、おれは今までこの快楽を知ることがなかったのだ。そうに違いない。都会のマスコミ文明のお上品なPTA的性教育は、おれにこんな歓喜をあたえてはくれなかったじゃないか。するとこの戦争は、おれにとっては、自分の本質を知る機会をあたえてくれた、すばらしい良い戦争だったな!  P・Pは何度も気を失った。そのたびに女子大生たちは彼の身体に海水を浴びせた。濃い塩水はP・Pの全身の傷口から浸透し、栄養の満ち足りた彼の肉体を激しく痙攣させた。彼はのけぞって黒い舌を出し、夕闇のせまる空に向かって何度も絶叫した。  おれは鰐だ──P・Pはまた、そうも思った──背中の骨板を剥ぎとられ、むき出しの白い肉をアルコールで洗われている、すごく可哀想な鰐なのだ……。  やがてP・Pに叫ぶ気力がなくなった時、ひとりの背の高い女子大生が、短槍を持って彼の前に進み出た。  彼女は同級生たちを振り返って叫んだ。「|※[#ハングル文字]捕虜《イーポロ》、|妾※[#ハングル文字]殺[#ハングル文字]《ナーカチヨキンダ》!」  他の女子大生たちがいった。「|※※※※※[#すべてハングル文字]《クマンドアラ》!」  彼女は短槍をP・Pに向けて構えた。「|慈親※[#ハングル文字]怨讐《ジヤチニワンシユ》、覚悟《カクオ》!」  槍の穂さきがP・Pの柔らかい下腹部を突き抜けた時、彼はオーガズムに達し、寒鴉のように弱よわしく啼いた。     7 「完全に包囲された」停船した棺桶丸の艫の甲板で、隅の江は水平線を見まわしながら歯噛みをしていた。  そこは農林漁区第二五六区、北緯三十二度五十分、東経百二十六度五十分、ちょうど紫竜丸が銃撃を受けたのと同じ場所だった。 「もう駄目だ……もう駄目だ……」長部久平は、彼と隅の江の受持ちの三〇型ロケット発射砲の砲身に抱きつくような恰好で、歯をガチガチ鳴らしながらいった。「隊長、逃げましょう! これではとてもかないません。ねえ隅の江さん。敵は二隻という約束を破って二十三隻もやってきたんですよ。だからこっちは、なにも無理をして奴らと戦わなけりゃならん義務はないんです。おまけに怨霊丸が敵の計略でやられて、こっちは一隻だ。逃げましょう。約束が違う。そうでしょう、参謀!」 「馬鹿。戦争に約束や義務があるか。だいいち逃げ場がない。退路を断たれた」 「それでは、降参しましょう」長部は泣いていた。「このままでは殺されてしまう! 殺されてしまう!」 「なんというなさけない声を出すんだ。それでも男か」  乗組員の全員が背にライフル銃をくくりつけ、ポケットにぎっしり手榴弾を詰めこんで、それぞれの持場で待機していた。  前甲板では、呼吸のあった二人の軍事専門家、君塚と木田が、真西に向いた船首に自走迫撃砲と機関銃、前甲板右舷に普通弾頭のラクロス・ミサイル・セット、同じく左舷に自走無反動砲という派手な配置の中央で、積みあげられた弾薬箱の上に腰をおろし、比較的のんびりと戦闘開始を待っていた。二人とも、もちろん実戦は始めてだったが、周囲に設置した最新兵器の性能を信じきっていたため、戦争にそれほどの恐怖心は抱いていなかった。  船体中央の右舷には、折口と脇田船長が三〇型ロケット発射砲と機関銃を据え、緊張して彼方の韓国船を睨んでいた。海面は黒く、波はなかった。夜空には星が見え始めていた。 「おら、もう、こんなことはやめてもらいてえだ」船長はときどき、思い出したようにそういった。「おら、故郷《くに》に帰りてえ」  その反対側の左舷側には、さっき海から救いあげられたばかりで、まだ疲れが回復しないままの柴原節子と、後藤益雄が、一台の機関銃を受け持たされていた。二人は咽喉がしびれるほど、たてつづけにタバコを喫い続けていた。  艫では長部、隅の江、大野田の三人が、三〇型ロケットと自走榴弾砲と機関銃を受け持っていた。長部はあいかわらず、とめどもなく泣きごとを喋り続けて、隅の江を苛立せていた。  各国取材班の飛行機やヘリコプターは、例の米潜水艇がくらったような巻きぞえを恐れて、すでに日の暮れ方から姿を消していた。  二十二隻の韓国武装漁船は、棺桶丸を中心に包囲した輪をじりじりと狭めてきつつあった。  午後七時四十分、戦闘は開始された。  砲火と閃光と火花で、たちまち世界は明るくなり、轟音と硝煙が海を覆った。  まず南側の韓国船が、最も手薄な左舷の船腹に砲弾を撃ち込んだ。船体は大きく揺らいだ。柴原節子と後藤は機関銃を投げ出し、悲鳴をあげて舳先へ逃げようとした。同じ船から発射された次の砲弾は船橋に命中した。後藤は爆風で吹きとばされ、危うく手摺りに掴まりながら舷側にぶらさがった。  もういやだ──と、後藤は思った。こんな滅茶苦茶に凄い戦争なんてあるものか。余裕も何もない、たて続けの砲撃じゃないか! もっと落ちついて戦争できるんでなくちゃいやだ。こんなのはテレビで見たことがない。恰好よく戦うことなんて出来っこない!  甲板に這いあがった後藤は、さっき飛んできて自分の首に巻きついた、マフラーのように柔らかいふさふさしたものをかなぐり捨てようとした。見ると、1メートルは充分ある柴原節子の頭髪だった。しかもその端には、彼女のちぎれた首がくっついていた。蒼ざめた彼女の首は茫然と宙を睨んでいた。そして何か意味のないことを呟いた。あまりの物凄さに、後藤は悲鳴をあげてそれを海へ叩きこんだ。  砲弾は続いて二発、左舷側に命中した。後藤の腰から下は海の中に吹きとばされ、上半身だけの後藤が手摺りにひっかかった。下半身のとんで行ったほうを眺め、一瞬彼は恨みをこめて思った。  ──しまった。おれはまだ童貞だったのに……。  東側と西側の韓国船も砲撃を始めていた。船尾にも敵弾は炸裂した。 「だ、誰だ、誰だ! 敵には砲弾は|ない《ヽヽ》なんていったのは!」  長部はそう叫びながら三〇型ロケット弾の砲身を投げ出して舷側に駈けつけ、タイヤを持って海に飛び込もうとした。隅の江は躊躇なくリボルバーで彼の胸を背後から撃ち抜いた。長部は甲板に倒れ、船の揺れるままに炊事室の方へ転がって行った。  大野田と隅の江は、榴弾砲を撃ち続けた。いずれも狙いは外れ、弾丸は海面に水柱を立てるだけだった。それでも東側の敵船は後退しはじめた。 「おれは、左舷を見てくる」と、隅の江はいった。「あそこは手薄だ」  隅の江が去るなり、大野田は炊事室の横の倉庫から捕虜を出してやった。「早く逃げろ」大野田は彼に、長部が持って行こうとしたタイヤを渡した。「殺されるなよ」捕虜はタイヤを持ち、海にとびこんだ。 「こっち側には、ぜんぜん攻撃をしかけてこないな」右舷側で、折口が脇田船長にいった。「おれは船首へ行って、ちょっと様子を見てくる」 「早く帰ってきてくだせえ」船長は歯の根もあわぬほど顫え、機関銃の銃把に抱きついていた。  舳先では、君塚が木田に怒鳴っていた。「おい! さっきからぜんぜん命中しないと思ったら、貴様、わざと狙いを外しているんだな?」  木田は君塚を振り返り、にやりとして言った。「ああ、その通りだ」  君塚はちょっと唖然《あぜん》とした。そして叫んだ。「何故だ!」  木田は軍服の上着を脱ぎながら、舷側に近づいていった。「もう、こんなことが厭になったんだ」 「なにっ、貴様、脱走するというのか!」君塚は彼にライフルの銃口を向けて叫んだ。「貴様、退役したとはいえ、一度はいやしくも大日本帝国の兵隊だったんだぞ!」  木田は靴を脱ぎ、手摺りを跨ぎ越しながら、君塚をふり返った。「おれは朝鮮人なんだ」と、彼はいった。「おれはインテリだった。だけど日本じゃ、せいぜい名を変えて自衛隊にもぐりこむのがやっとだった。やはり日本は、おれのようなインテリには向いていない。以前から帰りたかった。だが、まともな手段では帰り難かったので、この戦闘に参加し、捕虜になって帰るつもりだった」  君塚はライフルの銃口を下げた。「やっぱり、そうだったのか」笑った。「お前の様子を見ていて、そんなことじゃないかと思っていたよ。じゃあ達者でな。無事に郷里《くに》まで帰れよ」  木田は、かつらをかなぐり捨てた。「ああ、無事に帰ってみせる」海へ飛び込んだ。「郷里《くに》へ帰る」  暗い海面に浮かびあがった禿頭の巨人は、周囲に水しぶきをあげて砲弾の落ち続ける中を悠々と韓国船めざして泳ぎ始めた。彼は朗々と白頭山の詩を唱っていた。君塚はひっきりなしに船腹で砲弾が炸裂している船首に身を乗り出し、木田に手を振った。  傍にやってきた隅の江は、彼方に泳いで行く木田を見てリボルバーを構えた。「くそっ、脱走兵め!」 「撃っちゃいかん!」君塚は隅の江におどりかかった。  隅の江は君塚に組みつかれ、甲板に押し倒されながら、彼の心臓に銃口を押し当てて発射した。君塚の背中から鮮血が宙に舞いあがった。隅の江はすぐに立ちあがり、すでに船からだいぶ遠ざかった木田に、機関銃の銃口を向けた。  隅の江の背中に折口が躍りかかった。「この人殺しめ。何人殺せば気がすむんだ!」  二人は抱きあったまま、甲板を転げまわった。 「はなせ! おれは参謀だぞ」 「お前にはもう、部下はひとりもいない」と、折口はいった。「戦争は負けだ」 「馬鹿野郎。おれたちにはジャーナリズムがついているんだ。負けちゃあいない!」 「そのジャーナリズムが気に喰わん!」折口は叫んだ。「そのジャーナリズムがこの戦争を起した。そのジャーナリズムが皆を殺した!」折口は組み敷いた隅の江の首を締めあげた。「貴様は殺し屋だ。マスコミの殺し屋だ。貴様はジャーナリズムの化け物だ。殺してやる!」  隅の江は折口の胸を、足をあげて蹴とばし、起きあがった。折口を睨みつけた。眼の中に憎しみの炎が燃えていた。牙をむいた。顔をしかめ、頬に皺を寄せていたが、今度は笑っているのではなかった。 「アンテナを壊した犯人はお前だな?」  折口も隅の江を睨み返した。「そうだ、おれだ」  隅の江は、人間のものと思えない唸り声をあげた。甲板を焦がす炎に照らされ、返り血を浴びた彼の顔も人間のそれではなかった。悪鬼だった。突き出した両手の指さきを曲げ、彼ははげしい勢いで折口にぶつかってきた。  その時、すぐ傍の甲板に砲弾が落ちた。折口は吹きとばされた。  周囲から近づいて来た韓国船が、一斉に砲撃を始めた。船橋は砕け散って跡かたもなくなり、艫の部分はスクリューごと爆砕した。大野田は腹に砲弾を受けて粉微塵になった。棺桶丸は燃えあがり、船首を夜空に向け、艫の方から沈みはじめた。  これは嘘だ。こんなことは嘘だ──長部は炎に包まれた甲板で、絶え間なく血を吐き続けていた。──こんなことがあっていい筈はない。この長部久平が殺されるなんて……。しかも味方の隊長に脱走兵として射殺されるなんて……。誰も見ていないところで死ぬなんて……。そんなことは、あっていいことじゃない。これは嘘だ。この戦争は本当の戦争じゃない。本当の戦争というのは、もっとおれが活躍する戦争なのだ。おれが隊長になり、おれが号令をかけ、この長部久平がその英雄ぶりを発揮する戦争なのだ。そうでなければ本当の戦争じゃないのだ。だからこの戦争は、いつわりの戦争なのだ。虚偽の世界の、架空の戦争なのだ。……。彼はまた、大きく血を吐いた。  ──だから、この虚偽の世界よ、現実ではない世界よ、早く消えてなくなれ。おれの世界に戻れ。でないと、おれは死ぬ。大変だ。おれが死ぬ。アイも、マイクも、何もないところで死ぬ。いやだ。マイクをくれ。アイをこちらへ向けろ。喋りたい。おれはもっと喋りたい。マイクを! マイクを! おれはもっとすばらしい放送をして、まだまだファンを喜ばしてやりたい。おれの姿を、おれのファンたちに、女たちに、もっと見せてやりたい。おれは重要人物なのだ。ああ苦しい……何故おれが……他の誰でもないこのおれが……苦しまなければならないのだ……何故だ……この……重要な人間である……この……おれが……おれが……。  棺桶丸がその姿を海面から消す直前の約五分間、長部はズボンの上から両手で自分の勃起した陰茎を握りしめておいおい泣いた。     8 「助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ」脇田船長は油のようにどろりとした黒い海を無我夢中で泳いでいた。背後には、燃えあがり、時どき小爆発を起しながら徐々に海面から没して行く棺桶丸の姿があった。その炎は海に照り返っていた。その炎がこの油の海に燃え移り、自分の周囲に突如火の海が出現するのではないかという恐怖が、船長の手足をすくませていた。あまりの恐ろしさに、彼は水を掻きながらのべつまくなしに、あらぬことをわめき散らしていた。「助けてくれ。おらあ、もうこんなことはいやだ。もう、こりごりだ。おら、故郷《くに》に帰りてえ。もう、いくら金をくれようが、戦争なんちゅうもんはいやだ。助かりてえ。誰かおらを助けてくれ、神様、おらをお助け下せえ。神様、おらの命を救い給え。願わくばおらを、この恐ろしい火の海から逃がれさせてくだせえ。お願いしますだ。願わくばおらを、無事に故郷《くに》まで帰らせ給え。また願わくばおらを、女房子供に会わせ給え。ついでに願わくば、もう二度とこんな恐ろしいことに、おらを引きずりこまねえでほしいだ。おら、郷里《くに》に帰っておとなしくして、もう二度とテレビには出たがらねえだ。テレビも、なるべく見ねえようにするだ。だからおらを助け給え」  すでに砲撃はやみ、棺桶丸も沈み、韓国船はひきあげていた。上空に避難していたらしい取材班の飛行機がまた降りてきて、あたりを飛びまわっていた。  だしぬけに、船長の背後から声がとんできた。「おいっ! そこを泳いでるのは誰だ?」  ひいと悲鳴をあげ、船長は振り返って泣きさけんだ。「助けてくだせえ! おらには女房子供があるだ」 「なあんだ。あんたか」折口はクロールで船長に近づいた。 「折口さんかね。おらまた敵に見つかったと思っただ」船長は泣き笑いをしながら折口に近づいた。 「助かってよかったな」と、折口はいった。「怪我はないか?」 「どこにもねえだ。あんたはどうだね?」 「すぐ傍へ爆弾が落ちたのに、全然なんともない」折口は船長と並んで泳ぎながらいった。「不思議なくらいだ」  泳ぎながら折口の方を見た船長が、あふと息をのんで、彼の背を指した。「あんた! その、背中にくっついてるものは何だね?」  折口は立ち泳ぎをしながら上衿からぶらさがっている重いものをねじ取ろうとした。 「ひやあ! それは腕だ!」船長は海の中で腰をぬかしそうになり、あわててばしゃばしゃ水しぶきをあげた。  肘から先だけの腕が、折口の軍服の衿をしっかりと掴んでいた。 「これは隅の江の腕だ」折口は、やっとねじとった腕を、月の光でつくづくと眺めながらいった。「奴、ここまで追って来やがった」彼は腕を、力いっぱい遠くへ抛り投げた。「さらばだ」  いつのまにか、無数の星が天を満たしていた。 「すごいなあ」折口は空を見あげていった。それからくすくす笑った。「プラネタリウムを思い出した」彼は船長を振り返って訊ねた。「あんたの郷里はどこだね?」 「佐賀県の、福島というところですだ。そこには女房子供がいますだよ」  折口は背泳ぎをして、星空を眺めわたしながらいった。「方角がわかるかね?」  船長も、星を見あげた。「わかりますだ」 「じゃあ、そこへ行こう」折口は陽気にいった。「泳いで行こう」 「でも、泳いでだと、まず二週間はかかるだ」 「かまうものか。本番はもう終った。時間の制限は、ぜんぜんないんだ」  ふたりは、ゆっくりと泳ぎ始めた。  エピローグ  五年ののち──。  夕闇のせまる初冬の公園を、まるで二十歳も老けこんだかに見える折口節夫が、背を丸めて歩いていた。  彼の服装は五年前とくらべて、おどろくほどみすぼらしくなっていた。最近とくに熱意のこもらなくなった折口の仕事ぶりに愛想をつかし、局では彼からD・Dの仕事をとりあげ、アイ・センターの見まわり役にしてしまっていた。そのため収入も半分ほどに減っていたが、折口の服装や様子が見すぼらしくなった原因は、それだけではなかった。彼は仕事だけでなく、すべてのことに熱意を失ってしまっていた。冒険も恋も旅行も、そしてお洒落も、もう彼には何の値打ちもなかった。彼の顔にはめっきり皺が目だち、頭髪は半分以上が白髪になっていた。  折口は、アイ・センターの見まわりという単調な仕事を、不平も言わずに続けていた。以前の彼を知っている者にとって、折口のその変りようはひどかった。彼の行動力のあまりに急激な涸渇《こかつ》ぶりと、信念の喪失ぶりに気を揉み、心を痛めたのは、局内ではD・D浜田だけだった。しかし浜田にも、折口のその原因不明の強い孤独への意志を理解することはできなかった。  折口が歩き続けている公園は、五年前に彼が、浅香外相のひとり娘暢子と会ったあの公園だった。彼は今、ふたたび彼女と会うために、あの小高い丘の上へといそいでいた。彼女と会うのは五年ぶりだった。  もっとも、戦争から帰ってきてから一度だけ、折口は彼女の行方をさがそうとしたことがあった。なんとなく彼女の姿を見たくなり、以前の外相邸のアイを受像してみたのだが、そこはもう人手に渡り、住む人も変っていた。外相の義理の弟である衆院議員の浅香十二郎にも電話で訊ねたが、彼女と彼女の母親の引っ越しさきはわからなかった。折口はすぐにあきらめた。  しかし今日、折口は、アイ・センターの見まわり中に、見おぼえのある丘の上のベンチに腰をおろしてぼんやりしている彼女を、アイ受像機の中に発見した。折口はすぐさま仕事を抛り出して局を出ると、タクシーをこの公園の入口にとばしたのだった。  彼は丘への石段を登った。  町を見おろす丘の上のベンチ──そこにはまだ暢子がいた。彼女は五年前と、あまり変っていないように見えた。  折口はゆっくりと彼女の背に近づいた。声をかけた。「やあ、こんにちは」  暢子は折口を振り返った。微笑を浮かべていた。その微笑は、折口がやってくる前から、ずっと浮かべ続けていた微笑のようにも思えた。  彼女は腰をおろしたまま、ゆっくりと頭をさげた。「こんにちは」  昨日別れて今日会ったかのような挨拶だった。だが折口はそれを不自然には感じなかった。  折口は暢子の横に腰をおろした。そして訊ねた。「いつも、ここへ?」 「いいえ」暢子は答えた。「通りがかりに来てみたのよ」 「そうですか」  折口は不思議な心の安らぎを覚えた。暢子の声も、態度も、顔も、何ひとつ以前と変わったところはなかった。それなのに、折口が以前彼女と会った時に感じたあの苛立ちは、今はもうなかった。折口は落ちついた気分になっていた。話すことは特に何もなかった。しかし折口は、彼女の声を聞きたいために、ありふれた質問をしなければならなかった。暢子にもそれがわかっているらしく、すらすらと彼に答えた。 「まだお父さんのことを思い出しますか?」と、折口は訊ねた。 「あれからすぐ、忘れちゃったわ。わたしたち、あの家を出たの」 「知っています。お母さんは?」 「元気よ」  訊ねることも、これでもう、なくなってしまった。  少しの沈黙ののち、暢子がいった。「あなたの書かれたルポ、買って読みましたわ」 「ほう、そうですか」  それは折口が、局の命令で、郷里にいる脇田船長に手紙で協力してもらって書いたK作戦始末記だった。 「あの本は売れなかった」と、折口はいった。「出た直後の二週間だけはベスト・セラーになりましたがね。しかし、すぐに面白くないという評判が立って……」 「あら、面白かったわ」暢子はいった。「きっと本当のことをありのままに、あなたの主観をぜんぜん混えずに書いたからじゃない?」 「そうかもしれない」  折口と暢子は、乾いた声でゆっくりと笑った。  しばらく黙ってから、暢子がいった。「あの戦争は結局、何にもならなかったのね?」 「そうです」折口は、のんびりした口調で話し出した。「あの直後に開かれた日韓会談にとっても、何の役にも立たなかったんです。日本は韓国に勝利を譲ったわけですが、韓国人の反日感情は、そんなことぐらいじゃおさまらない。彼らの求めていたのは、あんな表面的な罪障意識や同情ムードじゃなく、人間としての連帯感だったわけでしょうね。あんな浪曲的解決法を押しつけられては迷惑だったのでしょう。ところが日本政府は、その浪曲的解釈で会談を有利に進めようとした。喰いちがうのはあたり前です。それから今まで、あいかわらず蜒々《えんえん》と喧嘩したり仲直りしたりをくり返しています。漁場では、漁船同士の小ぜりあいがあとを絶たないし……」 「せっかく、たくさんの有名人が命を無駄にしたのに……」 「犬死にだったわけです。もっとも、人間どんな死に方をしたって、わあわあいうほど大して変りゃしないけど……」 「死んじまえば同じですものね」  二人はまた笑った。 「あの連中の弔い合戦をやれという声もあったけど、結局知識人たちの罪障意識を持てという呼びかけに応えて、これで|おあいこ《ヽヽヽヽ》という、すごくわかり易い解釈をしてけりがつきましたよ」 「負けてやったのだという、親分的優越感かしら?」 「そうでしょうね、日本人独特の……。今はもう、マスコミ大衆の関心は戦争から一転して平和的な──オリンピックや博覧会なんかの行事に移っています」 「でも、韓国じゃ時どきデモをやってるんじゃないの? あの、十五年前にあわただしく妥結された日韓条約を全部認めないという、知識人や学生たちのデモが」 「日本でも、時たまやってますよ」と、折口もいった。「だけど韓国のデモと日本のデモじゃ、意味が違う。性格も異っている。過去のデモなんかより、さらにはっきりとね」 「喰いちがいばかりね」 「戦争がどう終ろうと、会談がどうなろうと、国民感情がどうあろうと、結局はアメリカの思い通りですね。韓国に対する資本主義の経済侵略は、韓国政府がそれに対する自主性を持たないものだから、どんどん進行し続けています。プラント輸入にともなう原資料の市場への横流れ、アフター・サービス──技術提携──合弁会社というおきまりのコース──韓国国会で外資法案が否決されたから、もうあれをくいとめることはできない」  黄昏が西に去り、灯が見えはじめ、折口節夫と浅香暢子は並んで腰をおろしたまま、町の夜景を眺め続けた。  何故彼女が、通りがかりにこの丘へ登る気になったのか、折口は訊こうとはしなかった。訊いたところで、そんなことを彼女が完全に説明できるとは思わなかった。また自分が、彼女のその気分を理解できるとは思わなかった。自分も含めて、折口には、人間の行動や気分というものがどれだけ説明不可能なものか、いやというほどわかっていた。  折口は暢子の横顔を見て、ちょっと、美しいなと思った。彼女は黒いベレーを被っていた。  だしぬけに折口は彼女と寝たくなった。彼女より美しい女は何人か知っていたが、折口はやっぱり彼女と寝たかった。  折口はいった。「貴女と寝たい」  暢子は驚きもせずに折口を見ていった。「あなたは私が好きなの?」視線をそらせた。  折口は、暢子がそんなことを訊ねたのを不審がりながら、彼女を見つめた。  暢子は折口の視線を感じたらしく、わざとらしい溜息をついた。「五年前ならね……」  ──五年前? 五年前だとどうだというのだろう? 今の彼女は、五年前の彼女とは違うとでもいうのだろうか?──折口は、ちょっといらいらした。──そんなこと、今は関係ないじゃないか──そう思った。次に、自分が暢子を好きなのかどうかと考えた。わからなかった。だいたい、そんなことは関係ないことじゃないかと思った。どうでもいいじゃないかと思った。  ひと昔前の折口なら、このような場所に異性といっしょにいれば、やはりまず疑似ラブシーンを演じることを第一の行動目標にしただろうし、時には相手に対する礼儀として、その女性との情事を想像することもあっただろう。だが今の折口は、自分が暢子を好きなのかどうかと長い間考え続けているだけだった。  さんざん考えた末、折口はいった。「よくはわからないが」ちょっと絶句した。そしていった。「好きなのかもしれない」  ──なぜならおれは、彼女の姿を見て、話すこともないのにここへやってきたからだ──そう思ったが、それは言わなかった。  暢子も、何もいわなかった。  折口は努力して何かを知ろうとすることを、だいぶ前からやめてしまっていた。何かを垣間見た結果、かえって面倒なことになるのが実に多いということを、彼は知っていた。  彼は暢子に要求したことを忘れてしまい、急にコーヒーが飲みたくなった。コーヒーを飲みに行くつもりで立ちあがった。暢子がついてくると言うかもしれないが、べつにかまわないと思った。  彼はいった。「これからコーヒーを飲みに行きますが……」 「私は飲みたくないわ」と、彼女は振り向かないでいった。 「じゃあ、さようなら」 「さようなら」  折口は、またゆっくりと丘をおりた。ゆるやかな石段をおりて、丘の麓を迂回した。  彼女は黒いベレーを被っていたな──と彼は思った。──会ってる時は何とも思わないで、別れてから思い出すことが多いというのはおかしなものだ。彼女はさっきあんなことを訊いたが、彼女はおれが好きなのだろうか? あれは、五年前は好きじゃなかったが、今は好きだという意味だったのだろうか?  そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。だが、もしそうだとすると、好きだとはっきり言った方がよかったかもしれない。彼女がおれを好きでなかったとしても、やはりそう言った方がよかったのかもしれない。どうせどっちでもいいことなのだから……。  それから彼は、今夜の晩飯をどこで食べようかとちょっと考え、また暢子のことを考えた。──おれは今、彼女のことを考えている。おれは彼女が好きなのかもしれない。どっちでもいいことだが……。  彼は、自分があまりコーヒーを飲みたくなくなっていることに気がついた。──それなら戻って、彼女にそのことを言った方がいい──そう思った。  彼は立ちどまり、ちょっと考えてから、今迂回してきた丘の麓の小道をゆっくりと引き返しはじめた。  彼女があの公園に、通りがかりに一度だけ立ち寄り、それをおれがアイで見つけたというのは、あまりにも偶然すぎないだろうか?──と、彼は思った。──彼女は時どき、あそこへ来ていたのかもしれない──。  やがて、彼女が去ってしまうと戻ったのが徒労になると思い、折口は小走りに駈けた。石段を登った。  丘の上の公園に出た。  ベンチには、誰もいなかった。あたりにも、彼女の姿はなかった。  折口はまた、ゆっくりとベンチに腰をおろした。  彼はしばらく、とまどった様子でぼんやりしていた。彼女がここに居なかった場合のことを、彼は考えていなかった。  しばらくしてから、折口はタバコを出し、宙でひと振りした。タバコを喫った。タバコの煙は折口の頭上で、平面的な渦状運動をはじめた。  その途端彼は、五年前と同じように、今でもやはりアイが自分の方を見ている筈なのに気がついた。彼は自分がいつの間にか、長い足を恰好よく組んでいるのに気がつき、あわててほどいた。 「こんなことはいやだ」と、折口はいった。「これではまるで、メロドラマのラスト・シーンじゃないか! そんなのじゃない、違うんだ」  折口はタバコを投げ捨て、靴の先で踏みにじった。できるだけ、不様な恰好をしてみた。  しかし折口が、どんなにおかしな、この場にふさわしくない様子をして見せたところで、なんとかしてこの幕切れの構図を崩そうとやきもきしたところで、そこは町の夜景を背景にした丘の上──終幕に最適の場所だった。 「ちがう」折口はあわてた。「まだ終りじゃない。この話はまだ終らないんだ」  だが、じたばたし続ける折口にはおかまいなしに、夜は、ゆっくりと緞帳をおろしはじめていた。 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年十二月二十五日刊  差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。