百万の手 畠中 恵 [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(裏表紙.jpg)] 目 次   プロローグ  第一章 燃える  第二章 現れる  第三章 出会う  第四章 飛び込む  第五章 追う  第六章 知る  第七章 話す  第八章 死ぬ  第九章 探る  第十章 迫る  第十一章 願う  第十二章 思う   エピローグ   贅沢な物語   坂木 司 [#改ページ]    プロローグ  夕暮れ時、確かにその場所には誰もいはしなかった。  にもかかわらず一軒家の庭先、並んでいる焼き杉プランターの脇から、突然小さな炎が立った。  ちょうど庭に来ていた三毛猫が、しつぽを使い込んだブラシのように逆立てて、低い唸り声をあげた。火はしばらく同じ場所で揺らめいていたが、やがて転がっていたごみや枯れ草を燃やしながら、静かに移動し始める。  地上五センチで起こっている緊迫した場面を、見つけた者はまだいない。日は落ちきっておらず、炎は目立たなかった。住宅街の各家の敷地は広く、塀も表からの視界を遮っている。何より働いている者が帰宅するには少々早く、主婦たちは夕飯の支度にかかりきりの時刻だった。  小さな火はあるかなしかの風に追われるように、ゆっくりと庭に黒い筋を残してゆく。それは奇妙に直線的な軌跡を描いていた。真っ直ぐ家の壁に近づくと、しばらくコンクリートの基礎部分を焦がしていたが、やがて姿を消していった。  しかし炎自体がなくなったわけではなかった。  最初に火が立った場所付近から枝分かれしていたものが、今度はプランターと平行に延焼してゆく。しばらくはまた直線的に進んでいたものが、小さな枯れ葉に燃え移った拍子に、家の端の方に進む先を変えた。  その方向には日曜大工で作られたかのような、小振りな物置小屋があった。中にはガーデニングのための一式が収められており、扉の下には地上数センチの隙間がある。  そろそろと近づいていった炎は、その隙間を潜《くぐ》ると中へ消え、見えなくなってしまった。 [#改ページ]    第一章 燃える       1  その日、四神《よがみ》市の夕刻の空は、目に染み入るほど鮮やかな朱の色で覆われていた。しかし自宅から真っ直ぐに友人の家へ向かっている音村夏貴《おとむらなつき》の元には、華やかな夏の気配も、夕餉《ゆうげ》のカレーの匂いも届いていなかった。  住宅街の道をひたすら前に突き進んでいく。顔を紅潮させ、母への怒りを抱いて。 (薄気味悪い。どうやったら、息子にあんな態度がとれるんだ? いい年してさ!)  彌生《やよい》との言い合いは、ここのところ珍しくなくなってきている。その中でもひときわ大きかった今日の揉め事の原因は、下校時に出会った髪の長い女生徒にあった。  中学校の校門のところで、夏貴が通りかかるのを一人の女の子が待っていたのだ。手にしているラッピングの花柄が何ともかわいらしく、女の子の方も負けずに綺麗だった。  贈り物を差し出してきたとき、色白の顔に、はにかみと期待の表情が浮かんでいた。包みにはピンクの封筒が添えられていて、後日返事が欲しいという心が、手紙の上から透けて見えるようだった。 「あの……」  すぐには言葉を返せず、顔が赤くなる。情けないことに咄嗟《とっさ》に浮かんだのは、 (鬱陶《うっとう》しいことになった)  という後ろ向きな感情だった。 (かわいい子からプレゼントを貰ったのに、何でこんなことを思わなきゃならないんだ)  惨めな思いが胸にこみ上げてくる。女の子の笑顔は甘いお菓子のようだ。それでも、いやだからこそ、防衛本能が頭の中で、甲高い警告音を鳴らし始めている。 (よく考えて行動しないと、後で厄介《やっかい》なことになるぞ)  ふと周りを見れば、門の脇に立つ二人を囲むように、生徒たちの輪が出来上がっていた。にやにや笑いが夏貴たちの周りを飛び跳ねる。小さなドラマの成り行きを、やっかみ半分、興味津々眺めているのだ。  選択の余地はなく、夏貴は「ありがとう」と小さな声で礼を言い、包みに手を伸ばした。周りからの視線が期待の度合を高める。かわいい子じゃないか。どうするんだ? うらやましい、ねた妬ましい、早く続きを見せろよ、と。  首筋が熱くて、笑い出しそうな気分だった。もちろんそんな態度をとるべき時ではない。 「ごめん、今日は用があるから」  夏貴は小声でそう言うと、さっさと校門を後にした。背中越しに女生徒が反対方向に歩み去る気配を感じる。これで今回の一幕はお終《しま》いだと分かったのか、二人を囲んでいた生徒たちの輪も崩れて散ってゆく。 (やれやれ)  学校を出て小川一本越せば、すぐに住宅街だ。歩きながらプレゼントのラッピングを見て、夏貴はもう一度ため息をついた。貰ってしまったものはしかたがない。紺色の手提げかばんに乱暴に突っ込んだ。ふにゃりとした手ごたえで、大きさの割りにすんなりと中に入る。 (何だ? セーターかマフラーかな。もうじき夏になろうって季節に、手編みの品か?)  親友の正哉《まさや》に喋ったら、ひとしきり笑いの種にしそうな話だ。バレンタインデーにでも渡すつもりが、大幅に遅れたのかもしれない。 (顔は、ちょっと好みだったけど)  本来ならうれしいはずなのに、贈り物の入った手提げが、ずしりと重く感じられる。ここ最近、女の子がらみの件は、夏貴にとって、ピンを抜いた手榴弾と同じ意味を持っているのだ。渋い顔で似たような家が続く中の一軒、我が家に帰宅する。 (僕は何も悪いことは、しちゃいないのに)  そう思ってはいる。だが自室に入るなりラッピングを箪笥の奥に隠しているのも、やはり自分自身なのだ。やっとほっと息をつき、クラブ活動の汗をシャワーで流すために階段を降りた。だが二十分ほどしてタオルで頭を拭きながら二階の部屋に戻ると、母が花柄のラッピングの前に座り込んで、青いセーターを睨みつけていた。 (どうやったらこうも早く見つけられるんだ?)  いかにも苦労したという感じの不揃いの編み目に、思わず笑みが浮かぶ。 「やっぱり手編みの品か」  夏貴がベッドの上に腰掛けると、床に座った母が下から見上げるようにして、不機嫌な顔を向けてきた。 「どういう子からの贈り物なの?」  口調の中に、鋭い棘《とげ》が無数に漂っている。夏貴はいささか疲労を感じながら、タオルを机の上に放り投げた。こんな会話を、もう何回繰り返してきたことだろう。 「知らないよ。下校時に突然押しつけられたんだ」 「まあ、まだ中学生のくせして、色気づくのが早い子ね!」 「母さん、今どき普通だよ、これくらい!」  女の子から電話がかかってきたりすると、母はいつもぴりぴりする。まるで、己のライバルを敵視しているみたいだった。 「何が普通だって言うの? あなたまさか、誰かとおつき合いしているんじゃないでしょうね。お母さん、承知できないわ。そんな……男好きの女の子なんて」 「ガールフレンドはいないよ! 大体僕が誰とつき合おうが、母さんが口を挟むことじゃないだろ?」 「何を言っているの。お母さんは嫌だわ。嫌よ。いやっ……やめてちょうだい。あなたのことはお母さんがいちばんよく分かっているんだから、妙な子を割り込ませないで」  眉が釣り上がっている。そんな顔は見たくなかった。 「気味悪いこと言わないでよ。あのね、僕は死んだ父さんじゃないんだよ」  また今日も、同じ台詞の繰り返しになってゆく。うんざりだった。 (三日前にも同じことを言わなかったか?)  父、音村|始《はじめ》が交通事故で死んでから、すでに三年。背が高く、子供の目から見ても格好よかった父は、勤め先の女性に人気があった。母はそのことが気に入らず、バレンタインデーのチョコレートですら、絶対に父には食べさせなかったのを覚えている。 (父さんは母さんの焼餅を笑って受け止めてたっけ)  頼りがいのある夫だったのだろうと思う。その夫を急に失ったのだ。母は、ただただ呆然としていた。当時小学六年生だった夏貴は、これからは自分が母を守っていくんだと、子供ながらに思ったものだ。  しかし。大きくなるにつれ、母の態度の変化を感じずにはいられなかった。 「あなたは本当にお父さんに似ているわ」  というのが母の口癖になった。父と同じ髪型をさせたがり、父の好みの色が夏貴にも似合うと勝手に決めて、服を買ってくる。 「夏貴、デートしよう」  休日に息子と渋谷へ行って、二人で店を回る。それでもそのあたりまでは、寂しさを紛らわしているのだと思っていた。だが夏貴が子供の外見から卒業してくると、母の向けてくる感情が、そんな生易しい言葉でつづれるものではないと思い知らされた。  クラスで回した伝言が、女生徒から電話であったりすると、夏貴を質問攻めにする。親友の正哉に、女の子とつき合っていないか確認する。手を握ってくる。ぺたりと顔を近づけてくる。髪を切ったことに気がつかないと拗《す》ねる。口紅の色の違いを分かってほしいという。  今年の正月、風呂に入っていたとき、脱衣所から声をかけられた。磨り硝子に映った影が甘えた調子で喋った。 「ねえ、久しぶりに親子水入らずでお風呂に入りましょうよ」  上着が上半身から離れて落ちた。  久しぶりに一緒に入浴、一緒に入浴、一緒に入浴……さあ、お母さんと一緒に!  気がついたら母親を突き飛ばして、部屋に飛んで帰っていた。服を着るより先に、本棚を必死にずらしてドアを塞ぐ。その姿が滑稽だと感じるゆとりもなかった。  ほどなくドアの向こうから、傷ついた調子の母の言葉が聞こえてきた。ドアノブがむなしく動く。 「夏貴、どうして突き飛ばしたりしたのよ。いいじゃないの、お母さんなんだから。ねえ、そうでしょ。ねえ、ねえ、ねえ……怒らないで。お願いよ。どうして嫌なの? お母さんがあなたをいちばん愛しているのに……」  翌日にはドアに鍵を付けた。簡単な、部屋の内側に取り付けるタイプのものだが、安いし、とにかくすぐに取り付けられることが大事だった。夜目覚めたとき、母がベッドの脇に立っていたら……抱きついてきたら、のしかかってきたら! 自分がどういう行動に出るか、分からなかったからだ。  父が亡くなった頃から始まった過呼吸の発作が、急にひどくなったのも今年に入ってのことだ。一体自分たち母子はこの先どうなってゆくのだろう。この間題を突き詰めようとすると、決まって発作が起こる。今も……。 (ひくっ)  思う端から息が速まってきた。 (こんなことばかり考えてちゃだめだ! 落ち着かなきゃ)  この発作はストレスが関係していると、医者に言われたことがある。事の大本を解決しない限り、過呼吸は治らないのだと。 (正哉に電話しよう。そう、それがいい)  いつも頼りになる親友。あいつの声を聞けば大丈夫だ。携帯電話はどこだっけ?  そのとき不意に、じゃきりという音が足元からあがった。ふっと我に返る。 (そうだ、母さんとセーターの話をしていたんだっけ)  ゆっくりと音の方へ視線を落とすと、母がペン立てにあった鋏で、青いセーターの胴にぱっくりと大きな切り口を開けていた。自分の顔色がセーターのような色になるのを感じる。 「やっ、やめてよ! いいかげんにしてくれっ」  他にも言葉が口から飛び出した気がしたが、覚えていない。腕ずくで母をセーターごと部屋から追い出し、すぐに内側から鍵をかけた。 (女の子からのプレゼント。切り刻む母親がどれくらいいるんだ?)  ぺたりと肌に張りつくような、母親の独占欲に身震いが走る。呼吸がどんどん速くなる。携帯電話を急いで手に取り、すがるような気持ちで正哉にかけた。だが通じない。 (あれ、通話中だ)  このまま一人で部屋にいれば、発作を待つだけという気がする。夏貴は上着をはおると、二階のベランダから庭の桜の木に足をかけ、下に降りた。部屋の鍵を開けて外出したくなかった。家に帰ったら、母が部屋で待ち受けているなんて破目になるのは願い下げだ。 (こんなときに限って何で正哉は電話に出ないんだ? いつもは気味悪いくらいぴったりなタイミングで連絡くれるのに)  自分でも勝手な考えだとは思うものの、何となく腹が立ってくる。そんな荒れた気分のまま、夕暮れの道を友人宅の方角に向かって突き進んでいった。       2  新宿から快速で三十分と少しの位置にある四神市は、新四神駅を中心に東西に長い形に広がっている。駅の北側には商業ビル群や大病院があり、商店街が長いアーケードでつながっていた。南側は一戸建てを中心とした住宅街や学校が目立つ。  近年改装された駅前は、明るい色のレンガと花で装飾され、いかにも整然としている。東京に勤めている夫婦がローンを組んで家を建て住み着く、綺麗でまだ歴史の浅い新興の街だった。  夏貴の家は駅の南口を降りた後右に曲がり、住宅街の中を十分ほど歩いた先の二階建てだ。正哉の自宅は同じ南口側だが反対方向にあったから、歩くと二十分近くかかった。  ワウゥゥーーゥ……。  不意に脇にある家の犬が、遠吠えを始めた。びくりとして足を緩めると、さらに何軒かの飼い犬が、次々に空に声を張りあげている。すぐ近くの、線路沿いの大きな通りを走っているらしい消防車のサイレンに、声をからませているようだった。 (火事か)  今度は救急車のサイレンが近づいてきた。夏貴と同じ方角へ向かっているようだ。しかし、大して気にも留めなかった。サイレンなど、毎日聞いているものだからだ。  だが……ほどなく奇妙に落ち着かない気分になってくる。何かがいつもと違っていた。辺りの臭いを嗅いでみる。首を傾《かし》げていたとき、足が止まった。風向きが変わったのか、はっきりときな臭いにおいが漂ってきたのだ。 「近い!」  消防車のサイレンが次々に集まってきている。まだ火の手も見えないのに、臭いはどんどん濃くなってつんと鼻を刺激する。急いで歩き出した。何かが足を急《せ》かしている。正哉に携帯電話がつながらないせいだ。 (まだ話し中だ。長い……)  馴染みのコンビニの看板が見えてきた。あと百メートルほどで正哉の家だ。いつものように角を曲がり、友人宅の方を向いた夏貴の顔が強張った。住宅街の狭い道に、消防車と野次馬が層になっていた。これ以上進めそうもないほど集まっている。 「邪魔だ! どいてっ」  消防士が物見高い連中に下がるよう怒鳴っている。消防車の脇腹から何本もの白い管が伸びて、暮れかけた時刻の道路の上に白くうねっていた。夏貴の位置からは、人と車で下半分が切り取られていたにもかかわらず、燃えているのは正哉の家、日野《ひの》家だと分かった。  どす黒く分厚い巨大な煙の塊を押し上げて、二階の窓から炎が天に向かって噴き上がっている。火が渦巻いているのを初めて見た。頭の中から思考が吹き飛ぶ。 「正哉っ」  大人の脇の下をかいくぐって、必死で家に駆け寄った。 「こらっ、近づいちゃいかん。危ないだろ!」  すぐに大声を降らせてきた消防服の人物にしがみついて聞いてみる。 「正哉は? おじさん、おばさんは無事?」 「君、この家の人のこと、知っているのか?」  ひときわ大きな体の消防士から声がかかる。山のような野次馬のせいで、消防署の方では表札に出ている日野家について、よく知る人物を捉まえ損ねていたらしい。 「三人家族で、現在の居所は知りません」  喉が渇く。舌がもつれて上手く言えない。でも……。 「でも最近、おばさんは寝込みがちで……外出は少なかった」  そう言うと消防士の顔が曇った。すでにあちこちの窓から、鮮やかな朱色の火の手が見えている。今日の夕焼けのように綺麗な色だった。太い水の束をぶつけているのに衰えもせず、ひらひらと軽やかに舞う。バレエダンサーの腕を見ているようだ。 「正哉……」  あの火の中にいるのだろうか。日野家はすでに特大の炉のようになっている。こうして野次馬の最前列に出ただけで炙《あぶ》られて皮膚が熱く、思わず一歩下がってしまった。怖い。 (僕……僕っ……) 「消防士さん、何か手伝わせてっ」 「引っ込んでろ! 子供が邪魔をするなっ」  ヘルメットの下、銀色の防火服の隙間から険しい顔が覗いている。返す言葉も見つからない。火に向き合ってただ立ちすくんでしまったとき、夏貴はその声を聞いた。 「父さん、まだ大丈夫だね? 無事? 今、どの部屋にいるの?」  振り返るとコンビニの角に正哉の姿があった。携帯電話に向かって死に物狂いで呼びかけながら、こちらに向かって走ってくる。一瞬、笑みが浮かぶほどほっとした。 (良かった。まだ帰宅していなかったんだ!)  それからじわりと言葉の意味が頭に染みてくる。 (家の中におじさんたちが、まだいる……) 「正哉……」  思わず声をかけたが、電話に夢中で夏貴には気がつきもしない様子だった。強引に野次馬の間を突き抜けてくる。そのまま全速力で夏貴の前を走り過ぎようとした。  自宅へ。火の中へ! 「止まれ。もう……崩れるっ」  叫び声と共に、その体を掴まえようとした。夏貴の手は空を泳ぎ……かろうじて携帯電話のストラップに引っかかる。引っ張られて初めて正哉は夏貴の方を向いた。目が合う。 「無茶するな! 消防士に任せろ!」 「大丈夫だ。父さんたちを連れ出すんだ。すぐそこの部屋にいるんだよ」 「正哉っ」  冗談ではない。せっかく火事に巻き込まれずに済んだ命を、捨てさせはしない。夏貴はストラップを思い切り引いて友を引き寄せた。反対の手で正哉の服を掴もうとし……腕がまた空をきった。動きを読んでいたらしく、友はするりとかわしていた。顔に服に炎の朱色が映っている。 「大丈夫だって言ってるだろ」  家の壁に当たって跳ね返ってくる水しぶきの下で、睨み合いになった。夏貴の全身は細かく震えていた。 「無茶だっ」 「行くんだよっ」  どう言われようが引けない。この際綺麗事は抜きだった。火の中に飛び込んだら、帰ってこられるとは思えない。唯一の幼馴染みを失いたくない。絶対に嫌だ。 「もう家はいくらも保たない。死にに行くようなもんだ!」 「それならなおさら、急がなきゃ」  その言葉と共にふわりと右手が軽くなった。 「えっ?」  手の中に携帯電話が残っている。持ち主はすでに目の前から走り去っていた。己の間抜けさに震えが走った。会話している間に、足にすがりついてでも止めておくべきだったのに!  家の方を向いた時、友の後ろ姿が真っ直ぐに、火の横をすり抜けて玄関から飛び込んでいくのを見た。それを見つけた消防士から短く「ひっ」という声があがる。慌てたように、ツートンカラーの手袋に振られたホースで、玄関に水を集中させる。 (今にも焼け落ちそうだ。早く出てきてくれ。正哉!)  己の息が速くなってくるのが分かる。過呼吸の前兆だ。早く体を楽にして落ち着かないと、痙攣が走るかもしれない。だがそうと分かっていても、夏貴はこの場から離れられない。煙と火にあおられ細かく震えながら、最悪の事態と真正面から向き合っているしかなかった。  文字通り焼けつくような一秒一分が過ぎてゆく。息が苦しい。 (……思っていたより、家が保《も》っている。もう少しの間なら大丈夫かもしれない)  正哉はすぐそこの部屋に両親がいると言っていた。 「これなら……運が良ければ、もしかして」  淡い期待が頭を持ち上げてきた。今、右手の窓の奥に何か影が動かなかったか? 声は聞こえなかったか? 消防士も人影に気がついたのか、不意に屋根に向けていた放水をぐっと下げた。右手の部屋に勢いよく水が向かう。やはりそうだ。あそこに見えた影は幻ではなかった。  助かるかも……!  そう思った瞬間。放水されていた窓が火に包まれていた。 「えっ……?」  言葉一つ、思いつく間もなかった。見る間に部屋は赤一色になる。 (何もかも焼き尽くされてしまう)  庇《ひさし》が焼けて崩れ落ち始めた。瓦《かわら》が地面に降り注いで、堅く高い音と共に割れる、家は形を留める努力をやめて、火の中に崩れ落ちてゆく。樋《とい》がずり落ち、火の粉が思いもかけないほど遠くまで舞い散る。雨のように辺りに水しぶきをまき散らす放水の下、転がってきた半焦げの木片が思いがけずまた燃え出し、野次馬たちが悲鳴をあげて一斉に後ろに下がった。消防士の怒鳴り声が混じる。 「大丈夫だって……言ったのに」  正哉は出てこない。出てこられない。もう。  手の中にある携帯電話が重い。正哉のお気に入り、漫画雑誌の読者プレゼントで貰ったストラップの付いた銀色の品。これでいつも喋っていた。いつも、いつも、いつも……。もう今日限り、二度と話せないのか。つい今しがた会話したばかりなのに。  何で火の中に飛び込ませたりしたのだろう? この結果は目に見えていたはずだ! (夏貴、お前のせいで、お前がちゃんと……)  体に大きく痙攣が走った。震えてしゃがみ込む。地面に新しく出来た浅い水たまりが赤い。  目に焼きついていた炎の色は、ほどなく黒一色の世界に変わっていった。       3  風呂上がりだった夏貴は、身分を示すようなものを何も持っていなかった。火事場から病院に搬送した救急隊員はどうしたものかと、困っていたらしい。本人は気を失っている。  しかし四神病院に救急車が着くと、この心配はあっさり霧散した。夏貴はここで生まれたのだったし、過呼吸の持病もちで、医師や看護師と馴染みの患者だったからだ。診察室のベッドで目を覚ます頃には身内への連絡も済み、顔馴染みの医師が夏貴を見下ろしていた。  四神病院は総合病院で、この辺りでは一番の規模の医療施設だ。中でも特に産婦人科は全国的に名が通っていて、他県から来院する者もいるほどだった。病院の第一別館は産婦人科の入院患者専用棟に当てられている。  夜間の出産に備えて産婦人科ではたいがい毎夜、何人かの医師が交代で詰めている。救急指定病院として急患が運び込まれ忙しくなった場合、その医師たちが駆り出されることも多かった。おかげで四神病院の産婦人科医は、外科医のように傷の手当てや怪我の縫合がうまいと評判が立っている。  時間外に病院に駆け込むことの多い夏貴は、そんな理由で柴原《しばはら》医師をよく知っていた。専門馬鹿と噂されている産婦人科医師は、四十過ぎの独身で、ひょろりと背が高い。幼い頃からのかかりつけの医者の一人だ。  柴原も夏貴の発作には慣れていて、収まってしまえば後は、薬一つ出すでもない。唯一差し出したのは温めた牛乳だ。自分の分が入ったカップには半分ほど、煮詰まったコーヒーメーカーの残り物を足して旨そうに飲んでいる。何やら疲れた様子だった。 「あれ、音村君だ。また発作かい?」  ドアが開いて医師が一人、小さな手提げかばんを手に部屋に入ってきた。こちらも産婦人科医で、柴原と同年輩だがぐっと若々しい感じだ。 「赤木《あかぎ》先生、やっと来てくれたか。今日は忙しくてまいったよ」  柴原の言葉に赤木が驚いた顔をしている。夏貴は黙って堅いベッドの上に身を起こし、牛乳のマグカップを手に取った。飲みはしない。今は胃が何も受けつけそうもなかった。ただその温かさが、湧き上がってきそうな震えを抑えてくれる気がしたのだ。  そのときまた部屋に人が入ってきた。病院長の大竹《おおたけ》で、三十八歳、病院を親から受け継いで程ない医師兼理事長だ。将来のために他で経験を積んでいたということもあって、病院に戻ってきて二年ほどにしかなっていない。病院内での評価も患者の信頼も、まだまだ他のベテラン医師には及ばなかった。 (本人もそのことが分かっているのよね。やたらと年上の先生方を顎で使いたがるのよ)  看護師長の小畠《おばた》の観察によると、今の四神病院はそういう状況らしい。 「火事があった。怪我人が運ばれてくる。手を貸してくれ」  院長は短い指示を出し、柴原たちについてくるよう促す。鋭い声でそこに割って入った。 「怪我人? それは誰? 生きている人がいるの?」 「どうしたんだい、夏貴君」  切羽詰まった聞き方に赤木が問い返す。返事をする前に、一回つばを呑み込まなくては言葉が出なかった。 「さっき、正哉の家が火事になったんだ。そのとき、おじさんたちも正哉も……家の中にいた」 「お前さん、火事場にいたんだな」  柴原は眉間に皺を寄せると、大股で夏貴の傍に歩み寄る。心配そうに顔を覗き込んだ。額に一房細く流れる茶髪に触れる。 「それで過呼吸になったのか」 「正哉だけは巻き込まれていなかったのに! 正哉はおじさんおばさんを助けるんだって言って、火の中に飛び込んでいったんだ」 「なんと……日野君が」  赤木医師も日を見開いている。正哉もこの町この病院の生まれで、ここの患者だ。一人話の見えない院長が、面白くなさげな顔つきで事実を述べた。 「運ばれてくるのは消防士が二名、火の粉をかぶって火傷した者が三名だそうだ。皆、大した怪我ではないらしいが」 (じゃあ、怪我人は正哉たちじゃない。自分をごまかしても駄目だ。あの状況で助かるわけがない)  うなだれる夏貴の横に立っていた柴原が、ぼさぼさの髪の毛をかきながら、困ったような顔を大竹に向ける。 「もう発作は収まりましたが、俺はもう少しこの子の傍に付いていたいんです。駄目ですか」  院長はドアの方に顎をしゃくった。 「必要ない。廊下にご家族の方たちがおいでになっているよ」 「ご家族の方たち?」  夏貴の顔が上がった。そのままベッドの端に座り込んでいると、院長らが部屋から出ていった。入れ替わりにドアから母が入ってくる。見たことのない派手な男が付き添っていた。 「夏貴、大丈夫なの。救急車で運ばれたって聞いて、お母さんびっくりして……」 「ご覧の通りだよ。もう平気だ!」  自分でも返す言葉がきついのが分かった。正哉のことを母はまだ、知らないらしい。いつもと変わらない母の声が、妙にたまらなかった。 「おい、心配してくれている母親に、その態度は何だ」  横から低い声がかかった。グレイの地に紫のストライプというスーツを着た人物が、眉間《みけん》に皺を刻んだ顔を向けてくる。母より少しばかり年下だろうか。金ぴかの時計をつけた男は、病院の清潔でそっけない建物の中で、どうにも収まりが悪く浮いている。 「ご心配をかけました。すみませんでしたお母さん、と言うべきだろ?」 「あんた誰?」  鋭い視線を向けると、男からは思いもかけない返事があった。 「俺は東省吾《あずましょうご》、爾生《やよい》さんの婚約者だ。つまり君にとって、将来の義父というわけだな。爾生さんが気が動転しているようなので、ついてきたんだ」 「……義父?」  そろりと診察室の中を見回した。気がつかなかったが、また過呼吸の発作を起こして、おかしくなっていたのかもしれない。母に目を向けると、おどおどとした顔をして下を向き、言い訳するように話し出した。 「今日言うつもりだったのよ。あのセーターのことがあったから、何だか話しそびれてしまって」 (驚いた。本当に婚約したのか。誰かとつき合っている素振りなんか、なかったのに)  今日も夏貴に絡んできていたこの母が、いつの間に恋人を作っていたのだろう? 大体、こういう�婚約者�がいるのなら、何故息子への過干渉が止まないのだ?  普通に祝福するような話なのだろうか。突然現れた、派手で母にはどうにも不似合いな恋人。なにか現実のこととは思えなくて、すんなりと話が頭に収まらない。 (ああもう、勝手にしてくれ。何もかも……たまらない!)  今日は色々ありすぎた。女の子からのプレゼント。母の暴走。火事。未来の義父の出現。  なのにもう相談にのってくれる正哉はいない。だから、だから……。  ベッドから立ち上がると、半ば捨て鉢ぎみに、 「そりゃ、おめでとう」  と、何とか一言だけ口にした。帰途、車を運転しながら、自己紹介を兼ねて饒舌《じょうぜつ》さを披露してきた男には、 「疲れたから」  そう言って、家にたどり着くまで口をきかなかった。       4  夜が深く更けてゆく。  帰宅後、未来の義父と母を振りきり、すぐに部屋に鍵をかけ、ぐったりとベッドに沈み込んだ。もう立てない気すらした。なのに目が冴え、何時間|経《た》っても眠れない。不思議と涙は出てこなかった。まだ、正哉の死を納得出来ていない。  横になりながらずっと、親友の携帯電話を握り締めたままでいた。気がつくと持ち主のいなくなった機械相手に暗い中で、今日一日のことを話し始めていた。 「何だか雑巾になったような気分だ。けちのつき始めは校門で出会った、あの女の子だよ。あれから調子が狂いっぱなしだ。きっと疫病神《やくびょうがみ》の従姉妹《いとこ》か何かだったんだ」  いつもこうして、寝る前にその日のことを互いに報告した。それは小学六年生のときに父が亡くなり、心配性になった母が夏貴に携帯電話を持たせてから、ずっと続いている習慣だった。  二人の母親は産婦人科で知り合って以来の友人だ。自分たちは一週間違いで生まれ、兄弟のいないまま二卵性の双子のようにして育った。嘘をついても家族経由でばれてしまうから、隠し事もない。離れて暮らしている一週間分だけの兄。それが正哉だった。 「今日湧いて出たあの未来のお父様、東省吾って言うんだ。派手な奴だと思ったら、六本木や渋谷で、ホストクラブやキャバクラを経営しているらしい」  いかにも堅気でないあの男と母が、どうやって知り合ったのかはまだ謎だ。母は未亡人になってからまた勤めているが、近所の会社の事務員であり、夜のネオン街とは縁がないはずだ。 「あいつ、若いお姉ちゃんたちに囲まれて暮らしているはずだろう? 何で自分より年上の母さんと結婚する気になったんだ? 根性の悪いシェパードみたいな顔してたけど、店のオーナーともなればもてるだろうにさ」  東は未来の息子に対しては、大いに気を遣っている様子だった。 「まあ、結婚すれば母さんはあいつの方を頼るようになるはずだ。それは歓迎だけどね」  自分にばかり向いている執着心が他に逸れる。過呼吸の発作も少しは治まるに違いない。夏貴としては大いに期待すべきことだ。これからは心の内を聞いてくれる相手がいないのだから、なおさら。 「……正哉、今日の火事のことだけど」  このことを話さなくては、一日の話に大穴があくのは分かってはいたが、正哉の最期を思い出すのはつらかった。 「思ったより火の回りは遅かった。僕はこれなら助かるかもと思ったんだ。消防士だって必死に放水してくれたのに、何で火の勢いが収まらなかったんだろう」 「あの火事自体変だったんだ。炎の中で母さんに聞いた。火の気のない家の横手から出火したって」  不意に自分のものでない声がした。一瞬夏貴は夢を見ているのかと思った。いつの間にやら寝込んでいたのだ。疲れているし無理もない。 「母さんは具合が悪くて横になっていたし、父さんは心配性で、きちんと火の始末をする人だ。誰も煙草は吸わないし漏電するほど古い家じゃない。どう考えてもおかしいんだよ」  もう一度聞こえてきた声は、疑いようもなく正哉のものだった。急いで携帯電話の画面に目をやると、そこに懐かしい親友の顔が映っていた。 「正哉! 無事だったんだ!」  夕方別れたばかりなのに、ひどく長い間顔を見ていないと感じた。涙が出てくる。夏貴はベッドの上に飛び起きた。 「よかった、よかった! 何で、助かったって誰も知らせてくれなかったんだろう。本当に息が止まるくらい心配したんだよ」  暗い中、上掛けの上に座り込み、電話に顔を近づける。小さな長方形の画面の中の正哉が、何とも言いがたい苦笑を返してくる。 「そりゃあな。部屋の中で火に包まれて、上から燃えた屋根が落ちてきたんだ。記憶はそこで途切れているが、あれじゃ助かるわけがない」 「は? 何言ってるんだ?」  現に正哉はこうして自分と会話しているではないか。なのにまるで、自分は死んでいると言っているように聞こえる。 「ふざけるのはやめろよ。今日は本当に疲れてるんだ」 「俺はあのとき……家に飛び込もうとして夏貴に止められたとき、一瞬、ほっとしたんだ」  正哉はそのまま話を進める。不安が置き去りになっているようで、暗い中で淡く光る画面に、夏貴は不機嫌な顔を向けた。 「携帯電話を掴まれたから、家の中に飛び込めなかった。そう自分に言い訳が出来るからな。火事を間近に見たのは初めてで、俺は怖かった。あんなに恐ろしいものとは思わなかったよ」 「そんなの当たり前じゃないか」 「そんな風に思ってしまった自分が惨めだった。その気持ちを無視するために、無理やり突っ込んだんだ。気持ちが半分、この携帯電話に残ったままだったんだろうな。電話と一緒に留まりたかった自分がいたんだよ、確かに」 「正哉……」  短い言い合いの最中、そんな思いが目の前にぶら下がっていたとは、思いもよらなかった。夏貴自身はあのときただただ、親友を失いたくないという考えの塊だった。 「だから体をなくしてもこうして、携帯電話越しに夏貴と話せるんだろうか。それとも心残りがあるから、この世にこんな形で残ったのかな、俺は」 「いい加減に、脅かすのはやめてくれ!」  部屋に響いた叫び声に、電話の中の正哉が言葉を切った。一瞬の間の後、聞いてくる。 「俺が怖いか?」 「違うよ。正哉は自分が死んだと言う。その言葉が恐ろしいんだ。せっかく助かったんだとほっとしたのに、僕を追い詰めて何が楽しいんだ?」  情けなくも涙が浮かんできている。それでも画面の正哉は、期待した言葉を返してはこなかった。正面から夏貴を見つめたまま黙っている。 (正哉、もう冗談を終わらせる頃合だぞ。そろそろ言ってくれよ。�ばれたか。引っかからないんだもん、つまらないよ夏貴�ってさ) 「夏貴、頼みがある」 「何……?」 「まず明日、家の焼け跡に行ってくれ。そこで確認すればすぐ分かることだ。日野家の人間が火事で死んだかどうかなんて」  そう言われると、携帯電話を持つ手が震えてくる。 「俺の死が納得出来て、その上で話を聞いてくれる気になったら、頼みたいことがある」 「何だよ。何を頼むって?」 「俺も……要するに携帯電話も忘れずに持っていけよ」  その言葉を最後に、正哉の姿は画面上からふっと消えた。淡い光もそれを追うように薄れて、ほどなく部屋は元の闇につつまれた。一人取り残された夏貴は、しばらくの間、動くことが出来なかった。       5  結局眠ることが出来ず、午前三時前には着替えを済ませてしまった。携帯電話の画面を百回は覗き込み、部屋の中をぐるぐると回り続けた。六月の朝は早い。空が少しばかり明けてくるとすぐ、例によってベランダから桜の木を伝って外に出た。 (こんな時間でも、新聞配達や犬の散歩中の人がいるかもしれない)  これ以上わけの分からない状態で待っていることに耐えられなかった。大気の中に薄墨を流したような、はっきりしない明け方の町を早足で突っ切る。いつの間にやら歯を食いしばって歩いていた。そのせいで、いつもよりずっと早く到着した。昨日まで日野家のあった場所へ。 「あっ」  思わず声がこぼれた。あれほどの火災だったにもかかわらず、両隣の家は、壁が少しばかり煤けたくらいで何の被害もなかったからだ。日野家のあったところだけ、歯を抜かれた後のように欠けている。黒焦げになった柱が何本も、家の骨格見本のような感じで立っていた。立ち入り禁止の黄色いテープが回し掛けてある。強引にまたいで入った。  地面一面に砕けた瓦が散らばり、その間に焼けて一部が溶けた椅子や、元はドアだったものの残骸があった。砕けた食器、捻じ曲がったフレーム、外壁のタイルの一部等々、焼け残りの柱を囲むように、地面から盛り上がって重なっていた。  もう昨日の喧騒の名残さえなく、ただ全てが失われて静まり返っている。しゃがんで焼け残った目覚まし時計の残骸を見ていると、後ろでかさりと小さな音がした。振り返ると敷地の端、黄色いテープの外側に、先ほどまでなかった大振りの百合の花束が一つ供えられていた。  顔が引きつる。故人のために誰かが、朝早く祈りに来たのだ。ズボンのポケットの中に忍ばせた携帯電話を握り締めた。急いで花束のところに行くと、目の隅に動く人影があった。ちらりと見えたその顔に驚いた。 「正哉っ」  声をあげると人影は隣家の塀の陰に消える。 「やっぱり僕をからかってたんだな。思い切り文句を言ってやる!」  急いで後を追ったが、まだ視界がはっきりとしない中、消えた人影はすぐには見つからない。闇雲に二回路地を曲がったとき、道の先の方を走り去る小さな姿が見えた。 「あれ?」  思わず足が止まる。見間違えたのだろうか。何十メートルか先を駆け去ってゆくのは、白い制服姿。明らかにスカートをはいている。 (なんだ、女の子じゃないか)  いくら正哉が冗談好きでも、あんな格好はしない。 (雰囲気が似ていただけか……)  親友に生きていてほしいと願う余り、都合の良いように想像してしまったのだ。ため息が出てくる。唇をかみ締めて戻ると、近くで小さく犬が吠えた。  鳴き声の方を向くと、犬の散歩帰りらしい男の人が、向かいの家に入ってゆくところだった。玄関から奥さんが顔を出し、焼け跡の前に立つ夏貴の姿を見て、「あら」と声をかけてくる。 「あなた、正哉君のお友達でしょう。よく遊びに来ていたものね」  ぺこりと頭を下げる。緊張していた。話を聞くために来たというのに、聞きたくない気がする。 「お気の毒よね。一家全員が亡くなるなんて。火事って怖いわ。うちも気をつけなくっちゃ」  主婦はさらりと友の死を告げた。 (やっぱりあのまま、死んだのか。屋根が落ちたあのときに。僕の目の前で) 「何でも検死があるらしくって、お通夜は今日じゃないらしいの。でもこの陽気だから、あまり引き延ばせないでしょうね」  向かいの住人なのだから日野家ともつき合いはあったろう。だが悲しそうというよりは、興味が勝っている様子だ。人間日々、生活していかなくてはならないのだからしかたがないとは思う。  でも! (正哉は……)  うなだれた夏貴の様子を見て、向かいの夫婦はそそくさと朝の忙しい時間の中に戻っていった。早すぎる時刻の住宅街に、夏貴は一人ぽつんと残された。焼け跡の百合と一緒に。  そのときポケットの中で携帯電話が震えた。ゆっくりと取り出し、画面に向き合う。そこに、もうどこにもいないはずの親友がいた。確かに夏貴の方を向いている。喋った。 「納得したか?」 「……したくない気持ちで一杯だよ」  焼け焦げた瓦礫の上に立ち、ややそっぽを向いたまま答える。 「俺だって死にたかったわけじゃないよ」  正哉はそう切り返してきた。 「だから、こんな風に焼け死んだ理由が納得出来ないんだ。ただ運が悪くて火事に遭ったのならしかたがない。でも、どう考えても違う気がする」 「正哉が言いたいのは、例えば放火とか、そういうことかい? 家の中に火の気はなかったって言ってたよね?」 「そのこともだが、他にもある。例えば昨日《きのう》の火事のとき、消防車のサイレンがたくさん聞こえた。放水も多かったはずだ。なのに、何で火に包まれてしまったのか。妙だった」  夏貴は前夜の不可思議な火事場を思い起こしていた。確かに土壇場で、炎が壁のように立ちはだかっていた。正哉は逃げられなかった理由、火事の理由、死ななければならなかった、そもそもの原因を知りたがっているのだ。分からないでいるうちは成仏出来ないらしいと、画面の中で腕組みをしながら言う。 「だから夏貴、俺の代わりに調べてくれないか」  頷いた。 「心当たりはあるのか?」  日野家の家族に限って、そんなものはないとは思うのだが。 「それがな……」  正哉は言いよどんでいる。 「お前に言っておこうと思ってたことがあったんだが……死んじまったせいかな、思い出せない」 「それは放火に関することかい?」 「いや、全然別の話だったと思うんだが」 「それならとっくに話しているはずだよ。毎日嫌と言うほど喋っているんだから」  正哉は首を傾げている。 「そうだよな」  と言ってはいるものの、納得出来ていない表情だ。 「こうしてお前と話は出来るが、俺は他には何も出来ない。よろしくな、夏貴」 「あ、ああ……」  一応そう返事をするよりない。ただ頭の中を巡っていたのは、 (これって、正哉が帰ってきたことになるんだろうか)  そのことばかりだった。  親友を失わずに済んだのか? 夏貴にとっての一番の問題とは、そのことに尽きるのだから。 [#改ページ]    第二章 現れる       1 (ああ、僕は今夢を見ているんだ)  学校から帰宅したとき、自室で夏貴はふとそんな思いに駆られた。 (変だな。何でそう思うんだろう)  変わりばえのしない金曜日の夕方だった。早番の母が帰宅しているのはいつものことだし、今日正哉が泊まりに来る予定なのも、珍しい話ではない。首を傾げながら居間に降りてゆくと、台所から母が、おやつの団子とお茶を盆に載せて現れた。 「あら、正哉君は一緒じゃなかったの?」  その一言で、理由も分からない気がかりよりも、目の前のやり取りに集中する。話題が剣呑な方向に向かいそうな気がしたからだ。 「正哉は塾が終わってから来るよ」  短い返事をした途端、おやつをテーブルに置いていた母の顔が曇った。夏貴はそれを見て、早々に臨戦態勢を取る。母が言い出したのは案の定、いつもと同じ話題だった。 「ねえ、夏貴は正哉君と同じ高校を受験する予定よね? あなたも塾に通ったらどうかしら」 「通信教育をやってるよ。十分だと思うけど」 「でも……前回の模試、正哉君の方が成績良かったんでしょ? なのに夏貴が塾に行かないんじゃ、ますます差がついちゃうじゃないの」 「頑張って勉強しているから」 「もし同じ高校に行けなかったら、あなたショックを受けるんじゃないの?」  痛いところを母に突かれ、ソファの上で黙り込むと、さらに言いつのってきた。 「ねえ、塾へ行けば成績だってぐっと良くなるわ。高校だって大学だって選び放題よ」 「そして父さんと同じ大学に行けって?」 「そう出来たら、素敵だと思わない?」  母のうっとりとした顔を見て思い切り肩を落とし、食べかけの団子に向かってため息をついた。亡くなった父は、何と東京大学出身だ。夏貴は父の子なのだから、勉強すれば同じ大学に入れるものと、母は勝手に思い込んでいる。だから塾へ行けとうるさいのだ。 (だけど、東大合格なんてなあ。空を飛べと言われている気分なんだけど)  夏貴が頑として塾へ行かない理由の一つは、この大学問題だった。母の言う通りにしていたら、本気であの大学を目指すはめになりかねない。 「いくら親子だって、頭の中まで同じ出来とは限らないよ」  以前あっさり降参の声をあげたとき、母に睨まれていた。夏貴の成績は悪いものではない。四神第一高校だったら合格出来るはずで、正哉と一緒に楽しい高校生活が送れそうだ。その後は無理せず入れるレベルの大学に行って、公務員かサラリーマンになる。そういう将来で十分だと思っていた。 (でも、そんな都合のいい未来は来はしない。だってこれは夢、夢、夢なんだから)  ふっとまた、くらくらとする思いにかられる。ソファの上で夏貴は額に指を当てた。 (どうして今日はこんな風に感じるんだろう。何が引っかかっているんだ?)  真剣に夢のことを考えようとしたとき、母が何やら紙を手にして隣に座ってきた。 「ねえ、夏貴、これを見てほしいんだけど」  まだ言い足りないことがあるらしい。息子の欲のなさが歯がゆく、物足りないのだ。父は良い大学に行った。そして研究職についていたのだから。  その張りついてくるような物言いに危険信号を感じて、夏貴は一瞬ソファの上で母から身を引いた。もっとも、いくらも逃げられはしなかったが。 「実は近所の方から、評判の良いという学習塾を教えていただいたの。それでね、怒らないでね、申し込んでみたのよ」 「は? 何を?」 「来月からの入塾」  団子の串を放り出し、物も言わずにパンフレットをひったくる。週に三日もあるという塾は、授業料月額六万円と書いてあった。自分の顔が赤くなるのが分かった。 「どうするんだよ、このお金! 今だって通信教育の分払っているのに。贅沢だよ!」 「お金のことは何とかするから。お前はお父さんの息子だもの、すごく頭がいいはずなの。だから——」 「無理してどうするんだよ。うちは母子家庭なんだよ。母さんの給料が頼りの生活で、僕はその手取り金額を知っている! 経済状態自覚しなきゃ!」  母の顔が曇った。湯飲みをテーブルに置いて、ため息をついている。 「そうだったわ。母子家庭! このことは夏貴が大人になる前に、いえ、なるべく早く解決しておいた方がいいわね」  不思議なことに、奇妙に話がずれてしまった気がした。 (ど、どう解決するっていうんだ?)  母の頭の中に見たくもないものが詰まっている気がして、夏貴は怯《ひる》んだ。だが母は黙ってはくれない。 「進学にしろ就職にしろ、金銭面だけじゃなく家庭環境が重要視されるところもあるわ。きちんと両親が揃っている家庭が必要かしら。収入の安定した人と再婚した方がいいかもしれないわ」  いつものように母の中で、夏貴を中心に据えた独善的思考が塔を作り始めている。夏貴は声が震えてくるのを感じた。 「いい加減にしてくれよ。何でもかんでも僕のためにっていうの、やめてくれない? それに僕は父さんじゃない。父さんと同じ大学には行かない。同じ職につく気もないよ!」  だんだん自分の声が大きくなっていくのが分かる。  父のように、頭が良いはず。  父のように、世間に認められるはず。  父のように、母を守るはず。  母の思考は終始一貫しているので、手に取るように分かるのだが、これではまるで呪文だ。最近、二人で話していると、最後にはつい声を荒らげてしまう。そんな自分にうんざりしてもいた。 「母さん、お願いだから少しは放っておいてよ。僕はもう十四歳なんだからさ」  必死に自分を抑えながら頼んでみる。母だとて息子のことを理解し、上手くやりたいと思っているはずなのだ。きっと、たぶん……、普通ならば! 「まあ……そうよね、そう思う年頃なのね、夏貴も」  母は優しげな顔を傾げている。少し戸惑っている様子だ。 (やっと自分が産んだ男の子が、いつまでも赤ん坊じゃないって気がついたかな?)  わずかばかり期待感がこみ上げてくる。母に向き合うと、笑みが返される。つられて夏貴の口にも笑いが浮かんだ。母は両腕を伸ばして息子の頬を包み込み、当然のことのように告げてきた。 「あなたが大きくなったことは分かったわ。だけど、この塾にだけは行ってちょうだいね」  それで話は決まったとばかり、夏貴にぺたりと触りながら、嬉しそうな表情を見せている。 (一体今、何を聞いていたんだ?)  気がついたら、思い切り母の手を払っていた。ソファの端で、母が目に涙を浮かべて座り込んでいる。 (何でこんなことをするの?)  そう、無言で息子に聞いている気がする。 (私ったら何てかわいそうな母親なんでしょう。こんなに息子のことを思っているのに。こんなに、こんなに、こんなに)  叫び出さなかったのは、過呼吸の発作が起こりかけていたからだ。また自分の呼吸をコントロール出来なくなりそうだ。(まずい……)そうは思っても、既に息が速くなってきている。どうしようも……。 「ゆっくりと呼吸を整えるんだろう? 一から五十までを小さな声で数えて。さあ」  ドアの方から突然降ってきた言葉に、夏貴は素直に従った。その声自体が薬だったかのように、発作は急速に静まっていく。 (た、助かった……)  振り向くと、正哉の顔がそこにあった。 「こんばんは、おばさん。勝手に上がらせてもらってます。今日もお世話になります」  いつもの明るい声に、母の方も日常を取り戻したようだった。 「何だか気恥ずかしい親子げんかを見られちゃったわね」  ソファから立ち上がり照れ笑いを浮かべると、 「今日はシチューよ」  そう言い置いて台所へ戻ってゆく。夏貴はようやくほっと息をついて、正哉と二階の自室へ避難したのだった。       2 「このところ、おばさんとの喧嘩、増えていないか?」  ソファ代わりにベッドの上に座り込んだ親友が、部屋に入るなり指摘してくる。夏貴は椅子の上でしかめ面を作った。 「今日揉めた原因はこれだよ!」  持ってきてしまった塾のパンフレットを正哉に渡すと、にやりとした笑いが返ってきた。 「おやぁ、いよいよ夏貴も塾通いか」 「笑いごとじゃない、値段を見てみなよ。家のローンだけは父さんが死んだとき、保険が降りて払い終わっているけど、うちには余裕なんかないのに……」  月に六万円の月謝を確認して、正哉が唸る。 「おばさん、相変わらずお前に入れ込んでいるみたいだな」  言葉もなく頷いた。母親が時々、まるで恋人を見るような目つきで息子を見ているなどとは、どう考えても気恥ずかしく惨めで、誰にも言えたものではなかった。だが兄弟同然に家庭に出入りしている正哉は、その事実を知っていた。 「正哉にだけは母さんのことを相談できるから、助かってるよ」  ため息の中に泣きそうな響きを含ませて、白状する。一人でため込んでいたら、死ぬことはないと言われている過呼吸の発作で、器用にもあの世に行っていたかもしれない。 「だから以前おばさんが勧めたときに、俺が行ってる塾へ入っていればよかったんだ。あそこなら週に一度だし、月に二万円で済むのに」 「それで? 母さんの希望通り、次は東大を目指すのか? 誰が勉強するんだ?」 「夏貴には無理かなあ。でも今時大人気の市役所職員になりたいなら、東大くらい出といた方がいいかもしれないぞ」 「模試でちょっと僕より成績が良かったからって、言うじゃないか」  立ち上がって腰に手を当て、むっとした顔でベッドの上の親友を見下ろした。正哉はにたりと笑うと、夏貴の顔を正面から指さし、冷静に言葉の間違いを指摘してくる。 「その言い方は誤解を生むな。模試の順位、俺は一桁、夏貴は二桁だったろうが」 「随分と大きな差に聞こえるところで、切ってくれるじゃないか! 十番と違わなかったのに!」  癪に障って、正哉にタックルをかます。一緒にひっくり返った。 「勉強は負けたが、喧嘩は五分五分。いやそれ以上だ!」 「弱いくせに嘘をつけ!」  正哉に思い切り羽毛の枕でぶたれる。負けずにやり返した。 「足の速さなら負けない。百メートル走は、正哉より僕の方が速いぞ」 「それならバスケは? シュートは俺の方が得意だ!」 「お前、球技はうまいけど、それ以外のスポーツはからっきしじゃないか」  お互い小さい頃から知っているから、始末が悪い。相手を押さえ込んだり、馬乗りになられたりしているうちに、だんだんと言い合いは昔のことに遡り、小粒な思い出の投げつけあいになっていく。 「家庭科で作ったかぼちゃクッキーを女子から貰って、へいこらして喜んでいたくせに!」 「夏貴のクラスで作ったんだよな。お前の作ったものを貰おうとしたら、黒こげで食べられなかったんだ」 「学芸会で馬の脚をやって、転んだのは誰だ」 「ぬかせっ。『猿その三』だったくせに!」  言いながら正哉がのしかかってくる。夏貴は這って逃れようとしたが、ベッドから落ちてひっくり返ってしまった。どん、と大きな音を響かせた直後、正哉もタオルケットと共に夏貴の上に転げ落ちてきて、さらに二階の床を揺らした。 「やった! 押さえ込んだぞ」  その勝利宣言に、階段を上ってくる足音が重なった。思わず顔を見合わせた二人は、慌てて起き上がると寝具をかき集めて、部屋の中を取り繕った。 「どうしたの? 凄い音がしてたわよ」  心配げな母の声がドア越しに聞こえてくる。いつものように、いきなりドアを叩き続けないのは、部屋に正哉がいるからだろう。 「ごめん、おばさん。夏貴とプロレスごっこをしていたんだ」  あっけらかんとした口調で、正哉が言い訳をする。母の細い声が続いた。 「二人とももう、子供じゃないんだから、危ないことはやめてちょうだい。怪我するわよ」 (ふん。こういうときだけ、大人扱いするんだから)  口をゆがめている夏貴にかわって、愛想の良い正哉がその場を如才なく収めた。母が再び降りていくと、友人は猫のように思い切り伸びをした。 「あーあ、久しぶりに一発食らったぜ」  正哉はそのままごろんとベッドに横になる。寝たまま夏貴の顔を見上げてくると、眉間に皺を寄せてぽつりと漏らした。 「最近おばさんと話した後、そんな顔をしていることが多いな」 「そんな顔?」 「大丈夫かなこいつ、って思わせるような顔だ」上目遣いにそう言われ、顔を赤らめた。母は正哉の方が成績がいいと気にしているが、学業やスポーツでは親友とほぼ互角だと思っている。だが、夏貴自身の目から見ても、はっきりと差がついていることがあった。一週間違いの生まれにもかかわらず、正哉の方がぐっと大人びているのだ。友達の間でも、正哉は『頭一つ抜きん出た頼りになる奴』で通っていて、相談事を持ちかけられることも多い。 (真剣に僕に相談してくる友達なんかいやしない)  正直な話、(くそっ、同じ十四歳なのに)という気持ちがある。しかも他の誰よりも、夏貴が一番正哉を頼っているのだ。 (この差はどこから出てくるんだ?) 「お前さぁ、一人しかいない親と、こう頻繁にやりあってちゃ、落ち着かないだろ。だから過呼吸の発作が治らない。この先どうするんだ?」 「何とか大人になるまで切り抜けるさ。大学生になれば、もっと母さんと距離も置けるし」  母一人子一人だが寮に入るなどして、将来は一人暮らしをするつもりだ。 「それまでの間くらい、大丈夫だ。正哉もいてくれるから」 「もし、俺がいなくなったら?」  ぽん、と返された言葉に、瞬間、思考が追いつかなかった。すぐに顔が真っ赤になる。 「同じ高校に受からないとでも思っているのか?」  思っている以上に、言葉がきついものになっている。おまけに声が震えた。 「この間のテストで、ちょっとばかり僕より成績が良かったからって、しつこく威張るなよ!」 「そういうことを言ってるんじゃない。話を逸らすな」  うつぶせになったまま真面目に喋っている親友が何故だか怖くなって、夏貴は思わず後ずさった。大して広くもない勉強部屋の壁が、背中に当った。 (正哉はひどく勘の良い奴だ。どういうことだ。僕はこの先、親友と一緒にいられないのか?)  声が出てこない。またぞくりとする感覚が戻ってくる。 (だって今は夢を見ているんだから。これは夢で、昔の思い出で、だからもう正哉は)  正哉がどうしたというのだろう。いつものように自分の部屋でくつろいでいるだけなのに、何があるというのだ?  それは……。  体がまた、震えだした。記憶の奥に追いやって見ないようにしてきたものが、ひょっこり顔を出してきている。それは、それは……。 (夢だから分かっているじゃないか火事でどうして今さら自分をごまかしてこんな夢夢夢……)  叫ぼうとしたつもりなのに声にならない。ただ正哉の目が怖くて、それでも悲鳴をあげ続ける。黒くて深くて底の見えない目、よく知っているはずなのに、赤の他人のものに見える目だ。 (奥を見てしまってはいけない。だって……正哉は……正哉……)  一体どうしたと、何を知っていると、自分は何を……何を。       3 「夏貴っ、おい、返事をしろっ」  その呼びかけは妙なところから聞こえていた。ベッドの真下辺りから湧いているのだ。頭を起こすと自室にいる。朝の七時だった。焼け跡から帰ってきたあと、二度寝してしまったらしい。 「大丈夫か。寝ながら悲鳴あげてたぞ」  起き上がると夏貴はしゃがみ込んで、携帯電話を下から掴み出した。画面に心配げな顔の正哉が映っている。 (正哉は携帯電話の中に戻ってきた……そう、こっちが現実か)  親友とじゃれ合っていた記憶。あれは二カ月も前の話だ。楽しかったはずの思い出は、今現在の記憶を学んで、ホラー映画の序章みたいなものに化けていた。 「夢の中で正哉と、取っ組み合いをしていた。今学期初めの模試の成績のことで」 「懐かしい話だな」 「そのあと正哉に、いつまでも側にいられないと突き放された」  ベッドに座り込んだ夏貴の体にまた、震えが走る。歯を食いしばった。 「その時の正哉の顔が怖くて、悲鳴が出たんだ」 「まったく情けない奴だな。お前がそんなだから、心配であの世に行けなかったのかもしれないぞ」  友の声は苦笑ぎみだ。 「ずっと……親友として近くにいてくれるものだと思っていたのに」 「けっ、甘ったれが」 「何だって? そんな言い方することないだろう」 「事実だろうが」  夢の中の喧嘩がぶり返したかのような、言い合いになった。お互いにパンチを繰り出す体勢を取る。だがそもそも殴り合いなど出来るはずもなく、夏貴はその手をゆっくりと下ろした。正哉もまた、苦笑いをしている。 「まいったな。またお前をぶん殴ってやれないのが残念だよ。そうしたら痛さと怒りで、涙なんか乾いちまうだろうけどね」 「……くそーっ」  殴れないことが、再び涙を誘った。 「これが喧嘩か? おまけに一緒の高校へ行けない。宿題を聞くことも出来ない!」 「そういう問題かよ」  携帯電話の中で、友が笑っている。 「しょうがねぇなあ。俺は当分ここにいるから、それで我慢しろ」 「ああ」  返事をして肩の力を抜いた。 (そうだよ、正哉は消えてなくなったわけじゃない。どんな形であれ、こうして話が出来ているじゃないか)  一度は失ったと思った親友が、戻ってきてくれたのだ。これは夢ではない。現実だ。 (よかった!)  いったん正哉との会話を終え、一階に降りた。いつものように母が朝食の支度をしている。夏貴はテーブルの上に学習塾のパンフレットがないので、心底安堵した。日常が戻ってきて動き始めていた。食事を終えて早めに家を出ようとすると、母に遠慮がちに引き留められる。 「日野さんのお通夜のことだけど」  大層気を遣っている様子だ。 「明日以降になるみたいなの。場所や時間、決まったら夏貴にも知らせるから」 「うん」  どういう顔をしたらいいか分からなくて、すぐに玄関を出た。鋭い悲しみが湧いてこない。自分でも戸惑っていた。  正哉の両親は亡くなっているし、あの火事で衝撃を受けなかったわけでは、もちろんない。しかし今、正哉は携帯電話の中にいる。その奇妙な現実に慣れてくると『親友を失ってしまった』という気持ちを持つことは、だんだん難しくなってきていた。 (まずいな。これじゃあ学校に行ったとき、変に思われてしまう)  夏貴と正哉が兄弟同然だというのは、皆が承知している。相棒に死なれて平気な顔をしていたら、薄情者と言われてクラス中から思いきり反発を食らいそうだ。 (気をつけなきゃ)  朝の住宅街は一昨日《おととい》より涼しかった。その道をいつもとは違う方向に進む。前方にコンビニエンスストアーが見えてきたところで正哉に声をかけ、火事場への供え物は何がいいか聞いた。 「約束だ。今度の火事について僕、調べるよ。でもその前に、焼け跡に手を合わせに行く」 「そうか、俺は死んだんだから、花や食い物をお供えされる身なんだな」  正哉が驚いた顔で、画面の中で腕を組む。 「僕だって当人に、供物の希望を聞くなんて奇妙な気がするけど、おじさんたちのこともあるから」 「……父さんたちも助からなかったんだよな」  小さなため息が漏れる。正哉はすぐにいつもの明るい顔に戻ると、缶ビール、女性週刊誌、特大サイズのメロンパンを指定してきた。 「変なお供物だなぁ」 「家族の一番好きなものだ。喜ばれることを本人が請け合うぞ」 「しかし、ビールねぇ……」  眉間にしわが寄る。 「制服姿で酒を買えるかな」  希望の品をカウンターに並べると、案の定店員は渋い顔をした。 「日野さん家《ち》の火事場にお供えするんです。おじさん、ビール好きだったから」  駄目で元々、お願いしてみる。すると五十がらみの店長らしき人物が、奥のドアからのそりと出てきて、「売ってあげなさい」と言ってくれた。 「お前さん、日野の息子さんと時々この店に来ていただろう。覚えてるよ」  こういう特別扱いをされると、日野家の皆は死んでしまって、もう戻ってこないのだと思い知らされる。焼け跡に行くと、手前の電柱の脇に、早くもいくつかの花束が供えられていた。 「日野家の皆は人気者だったらしい」  携帯電話の画面を花に向けると、正哉はおどけたように言った。複雑な心境なのだろう。中に、中学の同級生や近所の知り合いが買うには、どう考えても高価すぎる感じの花束があった。大振りな百合の花を使ったアレンジメント。火事場にはいささか不似合いな華やかさだ。買ってきたものを花の横に置き、正哉の父のためにビールのプルトップを開けておいた。 「そういえば今朝、お前の安否を確かめにここへ来たとき、他に人が来ていたよ。あんな早朝にそれと同じ百合を、ここに置いていった」 「ふーん、誰が来てくれたのかな。その百合、カサブランカって名前だ。結構高いよ」 「女の子だぜ」  にやりと笑って正哉の方を見る。 「かわいかったか?」  余裕で切り返してきたので、尋ね返す。 「お前自分のこと、女顔だと思うか?」 「どういう意味だ」 「つまりさ、正哉と似ていたんだ。その女の子を見たとき、僕はやっぱり正哉の言葉は冗談で、生きているんだと思ったよ」 「そうだ、お前あのとき、俺の名前を大きな声で呼んでたっけ。何事かと思った」 「だけど、その子はスカートをはいていたんだ」  さすがに別人だと分かったと笑う。少しして自分しか笑っていないことに気がつくと、夏貴は画面を覗き込んだ。 「どうした、正哉?」  真面目な顔が見返してくる。 「思い出した。それだ」 「何がそれなんだ?」 「忘れていたことだよ。両親がこっそりとしていた話だ。火事が起こる少し前の日だった」  そういえば正哉は思い出せないことがあると言っていた。それが花を供えていた女の子と、どうつながるのだろう。 「その女の子、俺の妹かもしれないな」 「はぁ? 妹?」  突然の言葉に、夏貴は画面を覗き込んだ。正哉には確かに、妹がいたらしい。しかしその子は死産だったと母から聞いている。 「正哉、お前……」  言いかけて言葉を呑み込んだ。ちらりと視線を後ろに走らせた後、携帯電話を素早くポケットに滑り込ませる。 (大事な話の途中なのに)  しかめ面を無理やり引っ込め、ゆっくりと夏貴は背後からやってきた級友の方に顔を向けた。       4 「信じられないよ、日野が死んだなんて。どこかにまだ、いるような気がする」  かわいい花束を持ってきたのは、同級生の景山《かげやま》だった。その言葉を聞いて、夏貴は思わずポケットの中の携帯電話に触れる。 (同感だ)  級友とはいえ、景山はさして正哉と親しくはなかった。その彼が、こんな早朝から焼け跡に来たことが夏貴には意外だった。こうなったら正哉と話すことも出来ない。この場にいる気も失せて、 「僕はそろそろ行くけど」  そう景山に言った。級友は立ち尽くしたまま、この場を離れがたい様子だ。 「あの、音村、ちょっと聞いてくれないか」 「何?」  緊張が顔に浮いているのを見て、ふと気づく。景山には話したいことがある。今日ここに来た理由があるのだ。 「僕の家はさ、ここから割りと近いんだ」  少しおどおどとした感じで、景山は喋り始めた。 「だから昨日火事があったとき、すぐ駆けつけたんだ。�火事だぁ�っていう誰かの叫び声で、部屋を飛び出した。まだ消防車も来ていなかった」  景山によると、近所の人たちが消火器で火を消そうとしたが、間に合わなかったと言う。 「その時、火事場に妙な感じの奴がいたんだよ。夕暮れ時なのに帽子を目深に被っていてさ」  夏貴の心臓がどくんと鳴った。ポケットの中の携帯電話も震えた気がする。 「帽子? あの時間に?」 「消防車のサイレンが近づいてきていた。普通の野次馬なら、今から放水が始まるっていうときに、火事場を離れたりしないだろう? なのにそいつは大急ぎで帰ったんだ」 「男? 女?」  勢い込んで聞く夏貴に、景山は自信なさげに答えた。 「たぶん、男。背が高かった」  ただ自分は火事に見とれていたし、薄暗がりだったしで、顔は見えなかったという。  分かっていることはそれだけ。だが日野家全員が亡くなり、どうやら放火らしいとの話を耳にしたとき、景山は自分が見た人物のことを忘れられなくなったのだ。 (それでこの場所に、花を持ってきたのか) 「警察に行くほどの話じゃないよ。何の証拠があるわけじゃなし。でもね……」  心に引っかかるのだ。夏貴にはその心境がよく分かった。 「学校へ行って皆にも聞いてみよう。他にも怪しい奴を見た人がいるかもしれない」  そう提案すると、景山は少しばかりほっとした様子になった。 (火事場から逃げた男……)  思いもかけない情報だった。 「あっ……」  学校に着き、景山と二人で教室に入ると、正哉の机の上に白い花束が飾られていた。 (正哉はまだ死んじゃいない。ちゃんと僕と話しているのに)  級友たちの優しい気持ちの表れと分かっていても、何となくいい気持ちがしない。しかしそのことを顔に表すのはいかにもまずく、夏貴はうつむきながら席についた。  正哉と話せば気持ちが落ち着くのだろうが、教室の中で突然亡くなった者の声がしたら、幽霊騒ぎが起こる。とにかく皆に声をかけて、火事場に行った者がいないか確かめようと席を立ちかけた。ところがそこへ早々に、担任の内田《うちだ》が教室に来て連絡事項を伝え始めた。数学教師の内田は生徒を甘やかしたりしない堅物で、余分なおしゃべりは出来ない。何とも都合の悪い話だった。 (うーん、どうしようか)  顔をしかめていると、ポケットの中の夏貴の携帯電話が震えだした。景山からのメールだった。 『内田先生、今日は来るのが早かったね。皆にどういう風に聞けばいいと思う?』  口がきけなければメールで、というわけだ。周りを見回せば、何やら細かい動きをしている手がいくつも見て取れた。 (そうでした。メールならいつでも使える)  内田の話そっちのけで、さっそくやり取りを交わす。日野家の火事のことや不審人物について、知っている情報を皆に聞いてまわる。クラスメートから返ってきたメールの内容は、見事にばらばらだった。 『おそろしく野次馬が多かったって』 『火事場から逃げた人物? 見てないし、そんな話も聞かないよ』 『朝早く、向かいのおばあさんが知らない男の人を見たって』 『若い男の人が犬に吠えられてたって』 『女の子よ。いとこの友達が言ってたわ。ちょっとかわいい子がいたって』  不審者の情報は、それ以上集まらなかった。他にも目撃者がいたと知って、景山は何となく落ち着いた様子だったが、期待した分、夏貴の方はため息ものだ。一息ついているとその間に、思いもかけない人物から、新しいメールが入ってきた。 『帽子の男も気になるが、俺は女の子っていうのが引っかかるな。火事場にいた女の子。焼け跡でカサブランカを供えていた女の子。俺の妹候補の女の子』  夏貴は携帯の画面に向かって目を見開く。 『正哉! メールも使えるのか』  正哉の携帯へメールを送ると、あっという間に返事があった。 『どうやらそうらしい』  画面に笑顔の絵文字が十くらい、ぱっと並ぶ。意思の疎通にメールを使えることは、誠にもって好都合だった。学校内でも授業中でも、正哉が相手だと気がつかれずに会話出来る。  授業の開始を告げるチャイムが鳴った。今日も空は晴れ渡っている。暑くなりそうな気配に、教室の窓は全部開けられていて、数学の授業から生徒の気持ちを屋外に逸らす。しかし夏貴の関心は、数学にも窓からの心そそる風にもなかった。ただ一つ、正哉に聞きたいことがあった。 『妹って、誰のことを言っているんだ?』       5 『死産だった妹がいたことは知っている。けど、それ以外のことは、僕は聞いていないよ』  夏貴の指がダイヤルボタンの上を滑るように動く。不機嫌な調子の文に、正哉が謝ってきた。 『怒るな。火事騒ぎでころりと忘れていたんだ。親の話を立ち聞きしたのは火事になる二、三日前だったかな。そのときは夏貴に言いそびれていた』  正哉によると、最近両親は大変機嫌が良かったという。母親が寝込むようになって以来、滅多にないことだった。理由を正哉が聞くと二人で嬉しげに笑いながら、 『まだはっきりとしていないことだから、もう少し待ってほしい』  そう答えたという。 『興味をそそられたよ。だから父さんたちが二人だけで話しているときに、こっそり立ち聞きしたんだが……その中身が変でな』 『変?』  画面に文字が並ぶ。夏貴は目を見張った。 「何だぁ? 幽霊が帰宅する? 墓の中からか?」  頭に拳骨をぐりぐりと押しつけられた後で、夏貴は自分が大声を出していたことを思い知った。 「音村! 何を寝ぼけている」  背後にいつの間にか内田が立っていた。 「すみませんっ」 「真面目に授業を受けろ」  その言葉と共にさらに拳固が頭に押しつけられる。大柄な内田の拳は重くて結構痛かった。教室内に笑いの小波《さざなみ》が流れる。 (くそっ)  授業が再開されるのを待って、机の中から携帯電話を引っ張り出した。そこには『死んだはずの妹が戻ってくると、両親が嬉しそうに話していた』そんな一文が書き込まれていた。  画面上の文が、『大丈夫か?』というものに変わる。夏貴は不機嫌そうな顔の絵文字と共に、『続きを教えろよ』と書き込んだ。 『死人の帰還。俺は両親の正気を疑ったよ。そんな気にもなる話だろう? ところがその後、立ち聞きを続けていて驚いた。戻ってくる妹の名前は、和美《かずみ》というらしい』 『死んだ正哉の妹の名は?』 『菜々子だ』  まったく違う。正哉の両親は別人の話をしていたのだ。 『昔養女に出した和美という妹がいたりして。正哉が知らないだけで』 『残念でした。俺、前に戸籍謄本見たことがあるんだ。うちにはそんな妹はいないよ。第一菜々子が死んだのを、両親はずっと悲しんでいた。娘がいたら養女に出すはずがない』  いるはずのない妹。夏貴はふと、焼け跡から走り去る女の子を思い出していた。一瞬正哉と見間違えた白い姿。 『その和美という子のこと、他に何か分かっているか?』 『いや何も。家が燃えてしまったし、メモ一つ残っていないだろう』  夏貴はその一文に目を見開く。 (そうだ、あの火事で家の中にあったものは、全部燃えてしまったんだ)  誰かがそのために日野家に火を放ったということはありえるだろうか。知られたくない書類などを消すために、例えば焼け跡で見た女の子が……。  夏貴は厳しい顔を画面に向けた。 『和美という名前の子を知らないか、皆に聞いてみるよ。私立に通っている中学生を調べたら、案外簡単に分かるかもしれない』 『どうして私立なんだ?』  正哉の問いに、火事場で目撃した正哉似の子のことを話した。公立とは明らかに違う白い制服を着ていた。この辺りで私立中学は四神学園一校しかない。 『ところで正哉』  書きかけたそのとき、先生の視線が自分の方に向いたので、夏貴はちょっとばかり身を縮こまらせた。今、黒板の数式を解けと指名されたら困る。火星の古代文字を解読せよと言われた方がましだろう。危ない状況だったが、それでもメールを打ち続けた。 『警察は実況検分したはずだ。本当に放火かどうか、そうだとしたら、どうやって火を点けたのか、とか、もう分かったのかな』 『放火犯が捕まってニュースにならないと、俺らには分からないぜ』 『言えてる』  夏貴は、�和美�という名の、私立に通う中学生を知っている者を、メールで探し始めた。級友たちからの反応の良さを考えると、今黒板に書かれている公式を生徒が覚えているかどうか、怪しいものであった。 [#改ページ]    第三章 出会う       1  日野家の通夜は、葬儀社のセレモニーホールで行われた。  場所は新四神駅北口にある五階建てのビルの中だ。普段は視線が通り過ぎて、葬儀社があるとは気がつきもしなかった場所だった。夏貴が到着したころには、三階の第一会場なるところに祭壇が作られ、三つの遺影が白い花の中に並んでいた。  気がつくと夏貴は視線を足元に向けていた。心の底には、いまだに正哉が死んだことを認めたくない気持ちがある。祭壇の遺影を見たくないと、本音の自分がそっぽを向いているのだ。  会場最前列に太りぎみの体を喪服に包んだ男がいて、女性と話していた。喪主は正哉のお父さんの兄だという話だ。彼がそうなのだろう。 (正哉たちと、あまりつき合いはなかった人だよな)  夏貴はその伯父の話を、親友から聞いたことがない。遠方に住んでいる縁者では分からないことも多いらしく、日野家と親しかった母が頼まれて、夫人の知人、正哉の友達のことなど、喪主に話している様子だった。それでなかなか隣の席には帰ってこられず、おかげで東とスチール椅子に座っている破目になってしまった。  東もさすがに今日は紫の縞柄でなく喪服だ。だが黒一色だとかえってホストそのもののように見え、やたらと目立ってしまう。焼香に来ている近所の主婦たちが、生き生きとした視線を送ってくるのが分かった。 (まいったな。これじゃ明日から近所の噂話の種になるぞ)  まあ、母は東と正式に婚約したようで、関係を聞かれても困りはしないだろうが。  ほどなく派手な袈裟を着た僧侶が現れ、場の空気が少し引き締まる。ところがその説教ときたら、僧侶の家族の自慢話が混じったありがたみの薄い代物で、夏貴は日野家の三人が気の毒になってきた。焼香はしたものの、火災で亡くなったからという理由で、故人とは会わせてもらえなかった。奇妙に悲しみの感覚が薄い式となった。 (遺体と対面すれば、正哉の死を納得出来るかもしれない。そう思ってたんだけど)  結局心の整理がつかない内に型通りのことは終わり、参列者は隣の畳敷きの広間に導かれる。寿司やビール、ジュースなどが細長いテーブルの上に用意されていた。  こうなると、形ばかりでも存在していた緊張がほぐれていく。最初こそ列席者の話し声は低かったが、酒が回ると噂話が飛び交いはじめた。だんだんと盛り上がって、まるで宴会のようだ。 「放火だったんだって?」  ジュースを手にした夏貴の耳に入ったのは、喪主の大きな声だった。どこの言葉なのかイントネーションが耳慣れない。飲み始めていくらも経っていないのに、その人はもう顔が赤かった。 「なんで付け火なんぞされたのかね。誰かに恨みでもかっていたのかな」 「怖いわねぇ」  答えたのは奥さんのようだ。 「日野さんは、どちらの出なんですか?」  会社の部下だろうか、若い男が親戚の者に聞いている。 「うちは福岡の者だよ。弟だって一回は地元に家を建てたんだ。あのまま暮らすかと思っていたのに、急にこの町に越してきてな」 「転勤ですか」  喪主は首を横に振った。 「会社を変わり、家を売ってわざわざ引っ越したんだ。変な話だとお前も言っていたよな」  話を振られた妻は、大きく頷いた。 「普通じゃなかったわね。まるで何かから逃げているみたいだった」 「女に恨みでもかったんだったりしてね」 「旦さんの浮気? それとも奥さんが遊んでいたのかしら」  隣から別の縁者が口を出す。酒が入っているとはいえ、親戚連中の言いたい放題には腹が立った。しかし日野家が九州から引っ越してきたという話は、初耳だ。 (確かに珍しいことだよな。おじさんたちはどうして、この町に来たんだろう)  酔った面々の噂話がすべて真実だとは思わないが、転居には何か理由があったはずだ。夏貴が首をかしげていると、酒のせいか喪主たちの口がさらに悪くなってきた。 「なあ、もしかしたら焼け死んだ原因は、死んだ正哉にあるかもしれんぞ」  酔っ払いはさも上等な考えを思いついたと言うように、にやりと笑いを浮かべた。 「十四歳だったろう? 家庭内暴力だよ。あいつが暴れまわっていて、将来を悲観した弟夫婦が、自分たちで火を点けたのかもしれん」  たいした悪意すらなく、ただ楽しそうに皆の前で大声で、妄想を喋り散らしている。 「それとも正哉が事件でも起こして、賠償金の大きさに頭を抱えたかな。一回会ったことがあるが、変に大人びた感じの、かわいくない子供だったしな」  亡くなったばかりの親戚のことを、どうしたらここまでひどく言えるのか、夏貴には分からない。ポケットの中の携帯電話を握り締めた。 (これじゃ妙な噂話が広がりかねない。正哉は、おじさんたちは、焼き殺されたのに!)  唇を噛みしめ、ビール瓶を手に取った。立ち上がって喪主の席に向かう。横に立つといきなり瓶を真下に向け、上機嫌の喪主の薄くなった頭に注ぎかけた。 「なっ、何しやがるっ」  平手で張り飛ばされた。夏貴は灰色の座布団が積まれた座敷の隅にひっくり返る。さらに向かってこようとする喪主を、横から出てきた手が止めた。 「うちの息子に何するんだよ」  家庭的なその言葉がおそろしく似合わない東はしかし、喧嘩の方は手足《てだ》れの雰囲気だ。たとえ喪主の方が三十キロは重そうでも、気弱になる様子もない。全身から�相手を殴り倒すのが大好き�という無言の威圧が感じられた。 (未来のおとーさまは、どういう毎日を過ごしてきたのかね)  頬の痛みも忘れてその姿に見入った。気圧《けお》されたのか喪主が一歩下がる。だが一段と赤くなった顔は、収まりがつかないと語っていた。濡れた服の端をつまんで指さしてくる。 「見ろよ、あんたの息子のせいだぞ。どうしてくれるんだ」 「喪主さんが、心ないこと言ったからですよ」  別人からかかったその声の方に、視線が集まる。部屋の隅に柴原の姿があった。患者と診察する側のつき合いではあるが、長い期間の馴染みだ。焼香に来てくれたらしい。 「夏貴君は亡くなった正哉君の親友なんですよ」 「何が心ないって言うんですか」  言い返してきたのは喪主の妻の方で、他人が口を挟んできたことが気に入らない様子だ。柴原は、ややゆったりとした口調で話し始めた。 「ご親戚の間で色々憶測が飛んでいるみたいですがね、日野さんがこの町に越してきた理由は、はっきりしてますよ」 「柴原先生、ご存知なんですか」  思わず夏貴が声をかけると、医者は笑って頷く。 「体の弱い奥さんのためだよ。通院のことを考えて、日野さんは転職して引っ越したんだ」  四神病院は全国的に名前が知れてるんだと柴原は言って、ちょっと照れくさそうに笑う。 (通院て……おばさん、そんなに昔から体が悪かったんだ?)  驚いた。転地するほど虚弱なのに、よくも正哉を産めたものだと思う。 「病院のために転居するなんて、驚く人もいるだろうけど、結構そういう患者さんいますよ」  柴原の言葉が噂話を蹴っ飛ばす。通夜の席の言い争いは親戚に不満顔を残したまま、その結末で落ち着くこととなった。       2  しかし夏貴の方には、その後少しばかりおまけがついた。喪主にぶたれた頬が真っ赤になって、母親が顔を引きつらせたのだ。目の前に医者がいて、 「大丈夫でしょ」  と言っているのに、涙目になって心配している。結局すぐに帰宅することになった。それは嬉しいくらいだったが、東がついてくることになったのは誤算だ。母が請われて通夜の席に残ったので、少しだけほっとしたが。 (おっさんがいたんじゃ、正哉と話が出来ないじゃないか)  楽しくない気分でビルの外に出ると既に薄暗い。涼しい風が駅前のロータリーの上を吹いていて過ごしやすい夕べだ。東が声をかけてきた。 「なあ夏貴君、彌生さんは遅くなるだろうし、君、ろくに食べていないだろう。何か食っていかないか」 (夏貴君ときたもんだ)  どうにもまだその声に馴染めない。「結構です」と、にべもない返事をして、先に歩いてゆく。妙にべたべたした言い方が気に食わなかった。そんな口のきき方は、母だけで十分すぎるほどだ。 「まいったなあ。俺とは反りが合わないか?」  口ほどには気に病んでいる様子もなく、横に並んだ東が顔を覗き込んでくる。 「彌生さんにさ、結婚の条件を出されてるんだ。つまりだ、息子とは仲良くしてほしいと」 「なるほど」  それでシェパードが猫なで声を出しているみたいな様子で「夏貴君」となるわけだ。目標は母との結婚なわけで、東の行動は単純、さっぱり、はっきりしている。 「理解は出来る」 「おっ、応援してくれるのか」  嬉しそうな顔に向かって、夏貴はしかめ面を返した。 「母さんに言いなよ。いい年をした親父志願者なんて迷惑だって。僕の返事は、勝手にしろ、だ」 「……このガキ」  東の表情が険しくなった。しかしそれはすぐに引っ込むと、いかにも愉快そうな、大人のにやにや笑いが取って代わった。 「まあ、俺は新人ホストのお守りには慣れている。ゆっくり無理やり仲よくなろうな」 「やってられないよ」  この東の態度は、変に機嫌を取ってくるよりも接しやすい。しかしいいかげんにしてほしかった。自分は今、放火事件と�和美�を追っているのだ。東と遊んでいる暇まではない。 「僕さ、正哉の家の焼け跡に行ってくる。おっさん、先に家に帰ってくれない?」 「馬鹿言うな。一人で行かせたら後で彌生さんに泣かれる。おい、夏貴」  呼び捨てにされたのを無視して、さっさと踏み切りを渡り南口の住宅街へ抜ける。夜は濃さを増し、街灯には明かりが灯っていた。東はぴったりと夏貴の後ろをついてくる。二十センチ以上は背の高い大人相手に、走って逃げても振り切る自信がない。一人になれない苛々がつのって振り向いた。 「あのねえ、おっさん」 「うそつきっ」  暗い住宅街に、甲高い少年の声が響いた。夏貴と東は声もなく顔を見合わせる。 「うそつき……?」 「ぼ、僕じゃないぞ、今の声」  その言葉と重なるように、夜の中を駆け抜けてゆく足音が、かすかに聞こえた。 「なんか切羽詰まった声だったな」  東の顔が街灯の下、喧嘩直前のような鋭さを帯びた。 「おっさん、ここは六本木や渋谷の盛り場じゃないよ」  いちいち夜、叫び声が聞こえたからと気持ちを逆立てていては、塾にすら通えない。大体まだ、そんなに遅い時刻ではない。夏貴としては当然のことを言ったつもりだったのだが、東の意見は違った。 「いまどき日本で、ここだけは安全だって場所があるのかね。現にお前さんの親友の家だって、この近所だが放火されたんだろ?」  痛いところを突かれて、夏貴は膨れ面で歩を進める。東はやっぱり離れない。 (これじゃ、家に帰って部屋に鍵をかけたほうが、正哉と早く話が出来るな)  左に折れると、足を線路と並行して延びる道に向けた。四神の町は新しいので、区画が綺麗に整備され、道路はまるで京都のように直角に交差している。  南口方面は一軒家が多いが、さすがに駅周辺には商店やマンションが混在していた。どれもせいぜい六、七階建てで、高層建築などは見かけない。近所なのに、いつもと違う道を通っただけで、見慣れない光景が広がっていた。夏貴の足が不意に止まる。 「えっ……」  今、前方で聞きなれない音がしなかったか? 人の声ではなく、聞き逃してしまったかもしれない音。しかし、それは肌を粟立たせるものだった。 「ぼうず、ここで待っていろ」  東も何かを感じたのか、さっと前に出て進む。ポケットの携帯電話が震え、手に取った。 「妙だ、東さんについていけよ」 「あ、うん」  東が辺りの薄暗がりに視線を走らせながら歩いている。この辺りにしては背の高いマンションの横に出ると、立ち止まった。 「おっさん、何か見えるの?」  東の顔が向いている方を見た。暗いマンションの駐車場に、ひときわ黒っぼく見える部分があった。そこに東が向かう。慌てて後を追った。  目前のコンクリートの上に男の子が横たわっていた。夏貴といくつも変わらない年頃に見える。 (様子がおかしい。体の下の染みは何だ? あれは……)  つばを呑み込んだ。東は男の子の傍に近づくと、しゃがみ込んで口元に手を当てている。小さく首を振ると、隣に建つマンションの屋上を見上げた。携帯電話を取り出し、どこかにかけている。たぶん一一九番ではなく、一一〇番だ。 (さっきの音、あれがそうか。あのときこの子は……)  正哉を失った夜のことが脳裏に浮かんで、こぶしを握り締めた。震えが体を走る。そのとき振り向いた東が鋭い声を出した。 「ぼうず、しばらくはここを離れられない。発作を起こすなよ」  東は、母から夏貴の病気のことを聞いているらしい。意志一つで過呼吸がどうとでもなるかのような言い方に腹が立った。 「大丈夫だよ!」  はっきりと言い返すと、不思議と震えが治まってきた。遠くにパトカーのサイレンが聞こえる。その音は嫌でもまた、日野家の火災を思い起こさせた。 (今週だけで四人、僕の周りで死んだ)  何故こんなことを考えたのか自分でも分からず、夏貴はぶるりと肩をゆすった。       3 「まったく夏貴はついてないよな。自殺に行き合ったって?」 「中学生だと聞いたぞ。ビルの屋上から飛び降りたんだって?」  同級生の市川《いちかわ》と多田《ただ》はさかんに一昨日の事件を聞いてくる。夏貴は携帯電話片手に頷いた。 「田崎《たざき》っていう中学一年だって。南中の生徒だそうだ」 「へえ、何で自殺したんだ」 「そこまでは分からないよ」  三人の会話は自殺のことばかりだったが、目は校門に釘付けになっていた。視線の先にあるのは私立四神学園。下校直後から皆で、向かいにあるコーヒー店に陣取っているのだ。女子校の登下校が眺められるこの場所は学校でも有名で、座れたのは大幸運だった。コーヒーとケーキ、プラス、社会のノートを見せるという条件で、夏貴は�和美�を教えてもらいに来たのだ。 「来ないな……」  市川の妹が三人、多田の従姉妹が三人、四神学園の�和美�を知っていた。市川たちは写真を見せてもらって、彼女らの顔を覚えてきていた。 「あ、あの子だ。三年二組、生田和美《いくたかずみ》」  市川が指し示した先に、夏貴よりも背の高い姿があった。携帯電話が震える。 「違うな」  あっさり言う夏貴に、多田が聞いてくる。 「お前、正哉の知り合いの和美という子を、探しているんだよな?」 「そう、渡したい形見があるんだ」  しれっと大嘘を言うと、多田がうらやましそうに言った。 「いいなあ。正哉の奴そういう子がいたんだ」 (�和美�は本当に正哉の妹か? そして放火犯なのか?)  夏貴がそっとメールを送ると、正哉が落ち着いた返事を返してきた。 (とにかくカサブランカの主が、和美かどうか確かめるのが先だ) 「あ、あの子。二年生の和美ちゃんだ」  多田が指差す二人目はなかなかかわいかったが、正哉には全く似ていない。 「彼女でもない」  ため息をつき時計を見る。思いがけない予定が入ってしまい、もうすぐ帰らなくてはならない。 「自殺した子の通夜、そろそろか?」  市川の声に頷く。第一発見者だし家もそう遠くないため、東と一緒に田崎という少年の通夜に顔を出すことになったのだ。忙しいときに限って別のことをしろと言われる。 「おっさんは店のオーナーなんだろ。毎日四神市に来ていて、仕事やっていけんの?」  この予定が決まったとき、皮肉っぼく東に言ってみた。 「もともと店は三軒あって、毎日必ず全てに顔を出しているわけじゃないからな」  返事は余裕の代物だった。全てがままならない中学生には、何か面白くない。 「あ、出てきた。二年二組、久保《くぼ》和美ちゃん」  長い髪が目に入る。思わず立ち上がった。友達と話していて、彼女の顔がはっきりと見えない。髪をかき上げ、こちらを向いた。その顔は……。 「違った」  残念だったがもう、残りの三人を確認する余裕がない。夏貴は唇を噛むと、コーヒー代を払い、今週二回目の通夜に向かった。       4  田崎|亮《りょう》の通夜は、日野家のそれとは比べようもない緊張感に包まれていた。  四神会館という式場には、夏貴と同じような年代の制服姿が多く訪れている。菊で飾られた祭壇の中央に今日は一つだけ、年若い写真があった。最前列の椅子席に、弔問客の方には視線を向けず、ひたすら足元を見続けている着物姿の女性がいた。亡くなった少年の母親だろうか。 (母さんより少し年上かな)  端の方の椅子に腰掛ける。日野家の通夜みたいに、腹が立つほどあっけらかんとしているのも問題だが、今日のようにぴりぴりと空気が張り詰めているのにも驚かされる。式の規模は日野家のものと大差ないのに、雰囲気が重すぎて息が詰まりそうだ。  僧侶がまだ到着していなかったので、東を隣の席に残して、夏貴はトイレに立った。ところが一息入れて正哉に連絡を入れようとしたとき、個室に先客がいることが分かった。震えるような大人の男性の声がする。 (私のせいだ……)  思い詰めた口調に、思わず聞き耳を立てた。 (あれを……知られてしまった)  切れ切れに声が出ている。泣いているのかもしれなかった。 (いいや皆、あいつのせいだ。あいつさえ余計なことを言ってこなければ、こんなことには……)  抑えた怒りが感じられる。聞いてはいけないことのような気がした。無神経な対応をすると、感情の爆発に巻き込まれそうな、そんな危うさが男の言葉にはある。  夏貴はそっとその場を離れてホールに出た。ここなら大丈夫と、ポケットから携帯電話を取り出す。喋ろうとしたら、今度は病院の医師を見かけた。 (そうか、亡くなった少年も近所に住んでいたんだよな。四神病院の先生とつき合いがあっても不思議はないか)  素早く連絡方法をメールに切り替える。やっと話せると思えたとき、式場に入ってゆく僧侶の姿が目に入った。 (ちぇっ)  しかたなく急いで戻り、空き席に腰掛ける。読経もすすり泣きも、相変わらず何とも言いようがなく重い。親しい間柄ではないので、長居はせず帰ると東が決めていて助かったと思う。  順番が来て焼香のために立ち上がったとき、少し離れた席に座っていた少女の姿が目に入った。白い制服を着ている。カサブランカの花を思い出す。 (あの子だ)  思わず言葉が口から出ていた。 「和美ちゃん。和美ちゃんでしょ?」  長い髪の少女がこちらを向く。目が合って、彼女の顔が引きつるのが分かった。いきなり立ち上がり、部屋から飛び出してゆく。 「和美!」  隣に座っていた夫婦が驚いて声をあげた。夏貴は急いで後を追い部屋を出る。しかし今日の式場は一階だった。ホールの先はすぐに玄関で、表の道は三方に延びている。夏貴が外に出たときには少女の姿はどこにも見えず、どちらに走り去ったかすら分からなかった。 「和美、どうしたんだ」  先ほどの夫婦も式場から出てきた。一人立ちつくしている夏貴に、きつい視線を向けてくる。 「あんた、娘に何か用かね」 (娘……?)  この人たちはあの少女を娘だという。正哉の両親もまた、和美という娘がいると言っていた。 (二人の和美は同じ人物? それとも別人?)  同じ�和美�という名前の、正哉によく似た女の子。 「すみません。知人と似ていたもので、間違えました」  そう言って謝ったが、夏貴は和美を本名で呼んでいたわけで、何とも理屈に合わない言葉だった。だがこの返答に、相手が何故か怯んだ。「そう」と小さな声で言い、そのまま娘の後を追うのか、二人とも帰ってゆく。  夏貴はその場に残った。すぐにポケットの中身が震える。携帯電話を取り出すと正哉が、あせった顔をして急かしてきた。 「何故追わないんだ?」 「明らかに胡散臭《うさんくさ》い目つきで僕を見ていたからね。今、夫婦の跡をつけたって、まず気づかれるよ」 「でも、やっと和美を見つけたのに!」 「大丈夫、他に確認の手があるから」  大いに不満だという友を、そう言ってなだめた。携帯電話片手に受付に向かう。喪服姿の女性に、取って置きの笑顔を向けた。 「お姉さん、友達がもう来たかどうか確かめてもいい?」  記帳されたものを指差すと、簡単に見せてくれた。同じ名字の三人連れの一人が�和美�という組み合わせは一組しかない。片岡和美、片岡|義信《よしのぶ》と片岡|明子《あきこ》の娘。住所も分かった。 「すごい。やるじゃないか、夏貴」  正哉の機嫌がころりと直る。 「これで�和美�がどこの誰かは特定できたね。問題は、彼女が本当は誰の娘かということだな」  その言葉に正哉が頷く。片岡夫妻の実子であれば、夏貴たちの疑いはただの妄想だ。万一、正哉の両親が言っていたように、本当に彼女が日野家と血がつながっているのなら、それを隠すために放火をしたという可能性が思い浮かぶ。 「片岡和美が犯人だろうか? それとも怪しいのは彼女の両親か?」 「血のつながりの確認が先だよ、正哉。でも僕らがどうやって調べる?」  顔を見合わせる。 (問題解決への道のりは長いな)  今さら元の席に戻る気にもなれず、夏貴はそのまま斎場を後にした       5  帰り道、二人の話題は正哉が抱えていた疑問に集中した。 「片岡和美が本当に妹だとしても、うちの親が彼女を娘だと思ったきっかけって、何だと思う?」 「おばさんに似ていたからじゃないかな。街で見かけたんだよ」 「世の中には他人の空似という便利な言葉がある。多少似ていたって、他人の娘を自分の子だとは思わないぞ、普通」 「ごもっとも」  正哉の両親の不可解な発言の理由が分かれば、取るべき対策も見えてくる気がした。 「両親が生きていて聞くことが出来れば、何てことのない話なのに」  考えながら商店街を抜けてゆく。大通りを南に歩いてアーケードから出たところで、北口に建つ四神病院の建物が目に入ってきた。最新設備を持つと言われている、産婦人科で全国的に有名な巨大私立病院。夏貴が生まれる前からあり、たびたび増築、改装されていた。インターネットのおかげで知名度が上がったせいか、近年さらに儲かっているという噂だ。 「病院か。あそこで調べてもらえば、血のつながりくらい簡単に分かるだろうけど」  医学的な確認が取れれば、正哉の妹だと確信できるだろう。しかし赤の他人との血縁鑑定を、どう頼めば病院でやってもらえるというのだろう。 「無理だよなあ。だけど何らかの方法で、調べたのに違いないんだ」  悩みながら家に帰り着き、部屋に上がろうとして、まず居間にいた母に呼び止められた。 「夏貴、一人で帰ってきたの? 東さんは?」 「知らない」  正直に答える。二階への階段へと続く居間のドアを開けたとき、突然大人の腕に進路を塞がれた。東が帰宅したのだ。大きな声でまくし立ててくる。 「このガキ、女の子を追っかけて通夜から逃げ出すとは上等だ。お前、連れがいることを覚えていたのか、おい……」  息が乱れている。よせばいいのに、葬儀場から大急ぎで戻ってきたらしい。後ろで母がおろおろしているのが分かった。夏貴は軽い調子の言葉で切り抜けようとしてみた。 「悪い、おっさん。忘れてた」  ところが東は承知しなかった。 「常識知らずな息子に育てたら、世間様に申し訳ない」  そう言うと夏貴を居間のソファに無理やり座らせる。爺臭い言葉に逆らえなかったのは、東の放つ物騒な雰囲気のせいだ。 「別におっさんが僕を育てたわけじゃないんだから、誰にも引け目を感じなくていいんじゃない?」  この発言は失敗で、 「これからは俺の責任だ」  勝手に宣言してくる。早くも父親気分の男に、母は嬉しさを抑え切れない様子だ。 「夏貴のこと、よろしくお願いします、省吾さん」  勝手に頼まれた方はたまらない。それから小一時間、夏貴は常識と礼節について説教を食らう破目になった。 「俺が育てるからには、きっちりと仕切らせてもらう」  うんざりしたものの、これ以上説教を長引かせるのが嫌で黙っていた。東は見た目で人を判断してはいけないという見本のような人間だった。こういう人間がいるのだ。 (やっぱり似ているから娘、と思うのは、かなり無理がある話だよなぁ)  夏貴はふと思いついて、東に聞いてみる。 「ねえ、相談があるんだけど」 「おっ、何だ」  試しに聞いてみると、頼りにされたと思うのか明らかに嬉しそうだ。 「最新の情報を調べたい場合、どうやったらいいの?」 「何を知りたいんだ?」 「色々だよ。宿題、レポート、趣味」 「本や新聞、あるいはインターネットかな」 「例えば僕たちは血がつながってないよね。それを証明したいとき、どうすればいい?」 「DNA鑑定でもやれば分かるが、やめておけ。金の無駄だ。血のつながりはないからな」 (なるほど)  聞いてみるものだと思う。夏貴は東の説教が中断したその一隣を捉え、「反省してるから」の一言を残し立ち上がると、二階の部屋に逃げ込んだ。 「まいった」  鍵をかけほっとしたら、全身から疲れが滲み出てきた。やっと携帯電話を取り出すと、画面の中で正哉が笑っていた。 「東さんて、思いがけない性格しているよな」 「おっさんいわく、血縁関係を知るには、DNA鑑定だって。確かによく聞くよね、最近」 「でも、うちの親は医者じゃない。一般人だぞ。サスペンスドラマじゃあるまいし、どうやってDNAを調べたんだよ」  正哉は納得しかねる表情だ。夏貴は「うーん」と唸ったが、この案を捨てきれない。 「僕らが最新のことを知ろうと思ったら、頼りはやっぱりこれかな」  机の上のパソコンを立ち上げ、ディスプレイが見やすい位置に携帯電話を置いた。検索サイトを開く。 「DNA鑑定。出てこい」  キーワードを打ち込むと、一秒もしないうちにお目当ての情報が現れた。二万件以上の結果が示されている。クリックを続けて、各団体や会社のホームページを見た。 「これは……凄いな」  正哉は最初驚いた顔をし、やがて呆れた表情に変わっていった。医学論文を載せたページもあった。だが、DNA鑑定を前面に押し出している多くの企業のホームページは、正哉と夏貴にとって驚くべきものだった。いわく、 (当社だから実現可能となった、スペシャルな適正価格) (ほぼ百パーセントの確率の親子鑑定結果を得られます) (スピード鑑定サービスあり) (秘密厳守) (お支払いは現金振り込みで) (消費税五パーセント別途いただきます)  思いもしなかった言葉が並んでいる。 「僕の想像より安いや。親子鑑定は八万二千円から、だって」 「綿棒で口の中をこすって、会社に送るのか。特殊鑑定っていう方法もある。毛根つき髪の毛でも、普段使いの歯ブラシでもDNA鑑定OK」 「ヘー」  二人は次々に現れるカラフルなページを驚きの眼差しで眺めていた。どこもきちんとDNA鑑定について説明し、分かりやすい表で価格を示してある。申し込み方法、よくあるQ&A、質問コーナー、会社案内などが示されていて、バーチャル市場のお中元コーナーにでも来ているような気分だ。 「こんなに……簡単ていうか、身近になっているとは思わなかったよ」 「俺もだ」  正哉が鑑定にかかる日数を画面上で確認している。普通の検査で一週間ほど、特殊鑑定で三週間。支払う金額次第で、思い切り急いでくれるコースもあるらしい。 「この金額なら、電化製品を買っている感覚に近いかも」  子供でもこのくらい貯めている子は多いだろう。 「髪の毛だけでもDNA鑑定が出来るということは……つまり相手の同意がなくても、髪の毛さえ手に入れば親子鑑定は可能だってことだよね」 「父さんたちが俺に時間をくれと言ったのは、鑑定を依頼していて結果を待っていたからかな」 「それは……勝手にしてはまずいことだよなぁ」 「やれるけど、やってはいけないことがある。でも興味津々だ。そういうとき人間がそこで、踏みとどまれると思うかい?」  話し合うまでもなく、答えは一致していた。 「いいや。突っ走るね」  夏貴はいったんパソコンを閉じた。 「これからどうする?」  この問いに、正哉はしばし考えていた。親たちが辿ったかもしれない道が見えてきたのだ。問題はこの先だ。どうやったら知りたい真実にたどり着けるか。 「片岡和美に連絡を取ろう。DNA鑑定結果を彼女に突きつけてみるんだ」 「彼女の髪の毛を手に入れるの? 随分と用心される気がする。厄介だよ」  夏貴は賛成しかねていた。 「そこまでやる必要はないよ。すでにうちの親が調べている可能性があるから、封筒だけでっちあげて、片岡和美にDNA鑑定の結果は燃えなかったって言うのさ」 「なるほど」  その時の和美の態度で真実が見えてくるはずだと、正哉は言う。 「片岡和美が俺の妹ではなく、事件とも全く関係ないとする。彼女は言われていることが分からないから、説明を求めてくるはずだ」  これが一つの可能性。 「じゃあ、彼女は焼け跡や葬儀場で、何で僕から逃げ出したんだ?」 「焼け跡には初恋の相手の俺に花を供えに来たんだな、きっと。その様子を見た夏貴に、色々聞かれるのが恥ずかしくて、通夜から逃げ出した」 「なるほどねぇ」  話は作れるものだ。 「もう一つの可能性は、彼女が本当に俺の妹で、その結果を受け入れたくなくて、全てを隠すために火を点けたという話だ。この考えが当たっていると……」  正哉が言いよどむ。 「何だよ」 「和美が放火犯だった場合、夏貴は口封じのために襲われるかもしれない。何しろ終わったはずの事件の真相を、全て知っている人物ということになるんだから」 「えっ……真相を全て知る?」  顔が引きつってくる。その様子に悪いと感じたのか、正哉がしきりと詫びてきた。 「すまん。夏貴にばかり負担をかけるな。でも俺は和美に会いに行けないんだ。ごめんな」 「あ、ああ」 「もう少しで全てが分かるかもしれないんだ。それまで頼む」 「……」  指先まで震えてくるようだった。夏貴は携帯電話の画面から顔を逸らす。しかしそれは、年下の女子中学生に襲われるかも、という恐怖が理由ではなかった。  じわりと湧き出してくる黒い感情があった。その恐れの元は、いま携帯電話の中にいて、夏貴を心配している人物だ。 (放火事件、もう解決しかかっているのか?)  正哉が思い描いた話の筋は、こういうものだ。十何年か前、四神病院内で、何らかの理由により日野家と片岡家の赤ん坊が、入れ替わっていた。日野家の赤ん坊は死産とされたが、それにどういうわけか気づいた正哉の両親が、DNA鑑定で和美が娘であることを証明し、片岡和美に突きつけたのだ。その事実を嫌った和美が証拠を隠滅するために日野家に放火し、一家三人は死亡した。  もしかしたら火を点けたのは和美ではなく、和美を失うことを恐れた片岡家の両親かもしれない。配役は変わるが、あまり筋書きは変わらなかった。一件落着、事件は解決。警察がどう考えるか、裁判まで持ち込めるかは関係ない。正哉が納得するかどうか、それが肝心だった。厳密な証拠は必要ない。 (そんな理由で死ななくっちゃならなかったと知れば、正哉はきっと腹を立てる。和美にわめき散らす。両親の分まで)  しかし。それでも恨みを長くは引きずらない気がした。理由と動機、それに放火の方法さえ聞き出せば、他に追求すべき事柄はなくなる。事件の理不尽さに怒るだろうが、しかしほどなくしてそれを受け入れていくだろう。正哉は人の気持ちの分かるいい奴だ。それに、どれほど怒り続けたところで、正哉は生き返らないのだから。 (もし、放火事件が解決したら……どうなるんだ?)  心残りがあるから、携帯電話に留まったと言っていなかったか? 大体こんな形でこの世に残っていること自体、不可思議でありえないことなのだ。 (正哉、消えてしまうかもしれない)  この考えが夏貴を震わせる。  事件の解決と共に、今度こそ場所も分からないどこかに行ってしまうのだろうか。日野正哉は既に故人なのだから。いったんはルール違反の荒技で戻ってきた親友。 (またあんな涙も出ない思いをするのは、耐えられない) 「夏貴? 聞いているか」  呼びかけにはっと顔を起こす。正哉が不思議そうな顔をして夏貴を見ている。 「片岡家に連絡をつけなきゃな。ダミーのDNA鑑定の封筒もいる」 「ああ、すぐやるよ」  二人で考えることは出来ても、正哉が文房具屋に買い物に行くわけにはいかない。まさにこれから、いちばんやりたくないことを夏貴自身の手で進めていかなくてはならないのだ。  放火事件を解決する。そして親友を失う……。 (どうしたらいいんだ)  進みだした事態を止める言い訳すら思いつかない。住所と名前から簡単に片岡家の電話番号も調べられた。準備などすぐに終わる。夏貴は心を揺さぶられたまま、最初に正哉に約束したとおり、放火事件にけりをつけるべく、片岡家に電話を入れた。 [#改ページ]    第四章 飛び込む       1  四神神社の境内に一人立っていると、夜がいつもより暗く底がないように感じられる。  新興住宅街が広がる四神市の中でも、この場所にだけは、自然が豊かに残っていた。広大な敷地を誇る神社には、別格に古い歴史がある。元々市の名前の由来も、ここから来ていると聞いたことがあった。参拝者用の入り口からは、木々に遮られて本殿が見えない。祭りや正月には露店が参道沿いに並び、人の波で埋まる、市民に広く親しまれている場所だ。  しかし本殿手前、砂利の敷き詰められた広い空間は星空の下、ひたすらの静けさの中にあった。  神社は夜でも開いていて、入るのに不自由はなかった。だが、参道に明かりはなく、心細いことこの上ない。境内は静まりかえっていて、正面の拝殿も扉は閉まっている。 (ここなら少々の声がしても、周りに気がつかれずに済むな)  和美に会いたいと電話した。日野家の知り合いだと名乗り、そちらが都合のいい日、場所でかまわないと伝えた。謎を追究しているのは自分の方だが、彼女が犯人だと分かり、事が解決されるのが怖かった。 (なのにあの子の返事は……)  夏貴は顔をしかめる。 (真夜中の神社境内で会うという。しかも僕が一人で来るか確認してきた)  これでは人に聞かれたらまずいことがありますと、大声で叫んでいるに等しい。 (何で嘘でもいいから、自分は何も知らないと、電話で突っぱねてくれなかったのかな)  そう言ってくれたら、今の夏貴なら騙されているのを承知で、その答えにすがったかもしれない。ため息がこぼれた。 「そろそろやって来る時間かな」  木の下から星が明るい空を見上げる。今日これから和美と、どんな話をすることになるのだろう。上着のポケットを押さえた。最近その場所が、正哉の携帯電話の指定席だ。和美、正哉、夏貴自身がどうなってしまうのか、想像が追いつかない分、怖い気分が募った。 「だからあんなことに……」  そのとき、不意に夏貴は振り返った。明かりがなく一面の闇になっている参道の方から、かすかな足音が聞こえたのだ。 「和美ちゃんかい?」  返答はない。足音は一層密やかになって方向が掴めない。どんな話をするにしろ、全く相手の様子が分からない闇の中で喋るつもりはなかった。彼女が来たのだろうと見当をつけ、夏貴は星明りがある広場の方に歩きだす。すると思いがけない近さに人の気配を感じた。振り返った夏貴の頭よりも高く、黒い影が振り上げられていた。       2 「夏貴、今何て言った?」  神社に向かう三十分ほど前、そろそろ日付が変わろうという時刻に、夏貴は自室で正哉と喧嘩をした。本気の言い争いで、正哉と携帯電話越しに話すようになってからは初めてのことだった。正哉の噛みつきそうな顔が、画面の中から飛び出してきそうに思えた。 「だから、今日の片岡和美との対面にはお前を連れていかない。つまり携帯電話は持っていかないって言ったんだ」 「なぜだよ。今日、放火事件の真相が分かるかもしれないんだぞ。自分と家族の死の原因が」  だから正哉は何としてでも、自分の耳で二人の話を聞きたいのだ。当然の話で、正哉にはその権利がある。そのためにこそ正哉はこの世に留まったのだ。分かっている。 (でも……嫌なものは嫌だ!)  夏貴は自分のエゴがむき出しになるのを、止められなかった。 (正哉が事実を知って、納得してしまったら、今日限りあいつと会えないかもしれない)  約束の時間が迫ってくると、今日が正哉との別れの日になるかもしれないという考えが、頭の中に居座り始めた。 (僕一人になったら、母さんやあの婚約者の東に、どう対応していけばいいんだ?)  毎日話を聞いてくれていた親友が消えると思っただけで、震えが体に走る。他にもたくさん、正哉に消えてほしくないわけがある。要するに、だから……。 (くそっ)  理由など、どうでもいい。ただ、親友と別れたくなかった! 代替えのきかない一番の友達なのだ。それで自分でも屁理屈と分かっている話を、正哉に押しつけた。 「お前さ、前に、和美が僕を襲うかもしれないと言ったよな」 「えっ? ああ」  正哉は不機嫌な顔のまま、夏貴の話を警戒している。 「親の片岡夫婦が出てくるかもしれない。もし僕が襲われて命が危ない状況になっても、黙ってただ、ポケットの中にいられるか?」 「……何が言いたいんだ!」 「どういうことになっても、正哉は力ずくで相手を止められないだろ? 出来るのは声を出すことだけだ。本当に静かにしていられるか? 声を聞かれたらまずいんだよ」 「和美が俺の声を、知っているとは限らないじゃないか」 「家の場所は知っていた。僕たちが和美を探し出したように、正哉のことを調べたかもしれない」  とにかく正哉のことがばれるとまずい、だから今日は携帯電話を持っていかないと、夏貴はそう話を進めた。だが後で報告すると言っても、それで正哉が納得するものではない。どうしても連れていけと言う。話は平行線をたどるばかりだ。  出かける時間になって、夏貴は最終手段に出た。ポケットから出した携帯電話を勉強机の端に、わざと置いたのだ。置き去りにされることが分かったのだろう、正哉が大声を出した。 「俺は知りたいんだ! 夏貴っ」  聞こえないふりをした。いつものように二階のベランダから桜の木に手を掛ける。  背中越しに斬りつけるような声が聞こえた。 「今置いていったら、二度と画面には現れない!」 (こいつ本気だ)  そうと分かって、踏み出した足が動かなくなる。 (くそっ、本気で喧嘩したときは、いつも最後には僕が負けている!)  悔しかった。腹が立った。情けない。 「二度と喋りたくないなら、この場で携帯電話を壊してやろうか」  そう脅してやればいいのだ。だが……。喧嘩別れになると思っただけで息が苦しくなってくる。やっと出てきたのは長いため息で、啖呵ではなかった。  ゆっくりと振り返った。机に手を伸ばし、いつもの胸ポケットに友を収めた。       3  目の前にゴルフクラブを振り上げた和美が立っている。夏貴より少し背が低い。今日は四神神社の闇に溶けるような黒い上下を着ていた。 「DNAの鑑定書はどこにあるの?」  声が揺れている。 (人を脅しているのに、自分の方が震えていやがる)  妙にそのことがおかしかった。 (まいった。無関係ならこんなことはしない。やっぱりこの子、正哉の妹か)  日野家との血縁は、何人も人を殺すほど隠したいことなのだろうか。胸ポケットの正哉からは一言もない。夏貴は懐から大振りな封筒を取り出すと、「ほら」と、差し出した。和美が飛びついてきたとき、代わりにゴルフクラブをひったくった。どうも気分がすぐれないのに、殴られてはかなわない。 「何よ、これっ」  封書の中身を確認した和美から悲鳴があがった。元より正式な鑑定書など入ってはいない。入れてあったのは、プリントアウトしたDNA鑑定のホームページだった。 「本物はどこ?」 「さあ。火事で燃えてしまったんじゃないかな」 「持っていないの? 嘘ついたわね。引っかけたんだ!」  凄い目つきで睨みつけてくる。夏貴が鋭くそれを見返した。 「僕は友達を焼き殺した放火犯を探しているんだ。和美ちゃん、君、この書類を始末したかったんだろう? そのために日野家に火を点けたの?」  単刀直入に切り込んでみた。早めに知りたいことを聞いておいた方がいいと、そんな予感がしたからだ。家で言い争いをしてきたせいか、時々目の前が揺れるのだ。 (まずいな、過呼吸の兆候か?) 「ば、馬鹿なこと言わないで」 「日野家の皆は人に恨まれる人たちじゃない。唯一君には、放火をする理由がある!」  ゴルフクラブを眼前に突きつけると、和美の顔が引きつってきた。話がこんな方向へ向かうとは、思ってもいなかったようだ。 「わ、私は火なんか点けてない。DNA鑑定書が欲しかっただけよ。自分の両親だという人を、殺してなんかいない!」  最後は叫ぶように言う。胸の携帯電話がわずかに揺れた。 「本当に正哉の妹だったのか!」 「日野さんは……学校帰りに声をかけてきたの。あの人、私のこと娘だと言ったわ。会えて嬉しいって」  だんだん口調が弱くなってくる。 「びっくりしたわ。からかわれているんだと思ったの。そんなはずはなかった。両親は私をとてもかわいがってくれてるもの」  日野の話を何回も否定した。それでは証拠を出すと言われて、初めて不安に駆られた。 「最近はDNA鑑定が、簡単に出来るんですって。私の遺伝子を調べたって言うの」  泣き声が混じってきた。 「だから間違いないって」 (おじさん、いきなりこの子に、今の親と血がつながっていないって言ったのか)  正哉の父にすれば、娘が見つかった嬉しさを隠しきれなかったのかもしれない。はっきり言わなければ、和美も納得しなかったのだろう。しかし言われた方にとって、その言葉は地震そのものだ。 「日野さんは、私に迷惑はかけないと言ったの。今の生活を壊すつもりはないって。でも、日野のお母さんは病気がちだから、たまには会いに来て喜ばせてほしい。だって本当の母親なんだからって……」  聞きながら、夏貴は顔に苦いものを浮かべていた。 (それは大人の都合だよ、おじさん。いくら事実として正しくったってさ)  十二、三の子供に、世の中かく在るべしを押しつけたとて、そうそう大人の希望通りになるわけがない。初対面の大人の爆弾発言で、自分の家族、自分の居場所が、お湯の中の入浴剤のように消えてゆこうとしていたのだ。 「初めて会って親だと名乗ったときに、親孝行のご注文? 冗談でしょ、だよな」  和美の俯いていた顔が、ぱっと上がった。すがるような目で夏貴を見てくる。今まで一人で、のしかかるような思いに耐えてきたのに違いない。 「君さ、本当に日野家に放火していないんだよね?」  夏貴の言葉に、和美は何度も首を縦に振る。 「火事のあった日は塾があったの。学校から友達と一緒に行って、十時過ぎまで塾で勉強してたわ。週に四日は、塾や習い事に行っているの。疑うなら確認して」 「そりゃ凄いスケジュールだね」  日野家が燃え上がったのは夕刻だ。言っていることが正しければ、和美には放火の機会はなかったことになる。 (どうやら放火魔はこの子じゃないな)  その時初めて携帯電話を持ってきて良かったなと、ちらりと思った。 (まだ片岡和美の両親が、火を点けた可能性が残っているか……) 「和美ちゃん、確認だけど、ご両親は今回のこと知らないんだよね?」 「言っていない」  小さな声が聞こえた。ほっとする思いが夏貴の胸を過る。 「だって……お父さんやお母さんに、私が本当の子供じゃないって知られたくなかった。もう和美のこと、かわいいと思わなくなるかもしれないから」  和美は半泣きになっていた。放火犯を捕まえに来たはずなのに、いつの間にか同年輩の中学生から、悩みを打ち明けられている。何となく息苦しさがあるのは、その現実のせいかもしれない。 「私、日野さんが火事で亡くなったって聞いたとき……思わずほっとしたの。酷い話だよね。でもこれでもう、私が片岡の子供じゃないって言う人は、いなくなったと思った」  だけどね。そう言った和美の目から涙がこぼれ始める。心の中に、重石《おもし》があるのだ。おんぶお化けのように、日々重みを増していることが。 「私、これからずっと両親を騙し続けることになるのかな。きっと病院で赤ちゃんのときに取り違えられたのよね。お父さんやお母さん、自分の子じゃない私のために、お金払ったり苦労したりするんだろうか」  溢れ落ちる涙に返す言葉がない。 (正哉だったらうまく話せるかも)  そうは思っても、携帯電話を取り出すわけにもいかない。そのとき。後ろの闇の中から、足音がした。二人の方に近寄ってくる。夏貴はゴルフクラブを振り締める。和美が小さな悲鳴をあげた。 「あ……」  参道脇、木立の闇から姿を現したのは、通夜で見かけた片岡夫妻だった。       4  和美は境内に現れた両親に驚いた顔を向けたが、夏貴はすぐに事情を呑み込んだ。 (つけられたな)  先日、通夜から逃げ出したことといい、最近和美は様子が変だったはずだ。親としては心配だったに違いない。夏貴のように、日頃二階から木を伝って出入りする習慣があればともかく、中学生が夜中に玄関から外出したのでは、見つかってもしかたがない。 「話は聞いていたよ」  片岡がそう切り出してきた。 「和美、心配しなくていいんだよ」 「ちゃんと話しておかないといけないことがあったの。ごめんね」  片岡夫妻は、目の前で娘の出生の秘密を聞いていたと言う。なのに驚いている様子がない。それどころか和美に何やら謝っている。 「とにかくもう、帰りましょう」  呆然としている娘を促して、連れて帰ろうとする。そのときポケットの携帯電話が激しく振動した。夏貴は慌てて片岡夫妻を止めにかかった。 「知っていることがあるのなら、ここで話してくれない? 片岡家は怪しまれているんだよ」  鋭い言葉に、片岡は振り返った。態度は落ち着いている。これが大人の年季というものかもしれなかった。 「興味半分で人の家庭のことを聞いてどうする?」 「あなたたちが正哉を焼き殺していないと確信したいんだ。僕はあいつの親友だからね」  正哉自身が問いただすわけにはいかないのだから、代わりに頑張って質問しなくてはならない。疑問符の付く話が多すぎた。 「お父さん、何かあるのなら、ここで話してよ」  思いがけず和美が促した。秘密をぶちまけた夏貴になら聞かれてもいいと思ったのか、自分も早く知りたかったのか。両親の打ち明け話を、一人、家で聞くのが怖いのかもしれない。  片岡がため息を一つ、つく。星の下で始まった話は、思いもしない出だしをみせた。 「私たちは放火などしていないよ。和美、お前のことだがね、病院で取り違えられたわけではない。日野さん夫婦に出来た女の子は死産だったそうだし、一つ年上だ」 「えっ?」  和美がぽかんとしている。夏貴の眉間の奴は深まった。 「あの頃、私たちは子供が欲しくてね。四神病院へ不妊治療に夫婦で通っていたんだ」  十三年以上前の片岡夫婦の毎日。夜の闇の中で、中学生二人はそれを聞くこととなった。       5 「AID(非配偶者間人工受精)という方法ならば出産は可能ですか?」  片岡夫婦は四神病院、産科の診察室で医師に向き合っていた。  不妊治療で全国的に有名なこの病院では、患者のプライバシーがきちんと守られていた。柔らかなクリーム色で統一された診察室には、看護婦や担当外の医者ですら勝手には入室できない。そうでなければ片岡夫妻のように、話をするのにもストレスがかかる場合があるからだ。 「お子さんを持つのは……なかなか難しいですね」  医師はどうもいい顔をしない。 (やっぱり)  その反応に夫婦は黙り込む。繰り返される現実に二人とも、もう慣れていた。一人の医師から無理だと言われると、子供を諦めきれない夫婦は別の不妊治療で有名な病院に通った。四神病院でもう三カ所目だ。 「片岡さんの場合子供が出来にくい原因が、ご夫婦両方にあります。AIDで精子の提供を受けても、妊娠に至る可能性は低いかと」  いつも医師たちの話は同じところに行き着く。 「卵子の提供も受けるわけにはいかないのですか?」 「他の病院でも言われたと思いますが、今現在、国内では不妊治療目的の卵子の提供は認められてないんですよ」  夫婦の口からため息が漏れた。もう何回ついたか自分たちでも覚えていない。 (この医師でも駄目かもしれない)  もう一度病院を替わることになるのか。それとも自分たちは、治療に行き詰まってしまったのだろうか。基礎体温、フーナーテスト、卵巣機能低下、黄体機能不全、排卵誘発剤、カウフマン療法。子供が出来ないばかりに覚えてしまった言葉が頭の中を巡ってゆく。  片岡の横で、明子がため息をつき続けている。気がつけば、体まで震えだしていた。 「片岡さん、どうかしましたか」 「明子?」  すぐに明子は静かな病室に寝かされた。清潔で広くて、有名病院にふさわしい部屋だ。聞くところによると病院は病棟を新築中だという。そこは産婦人科専用棟になるらしい。 (不妊治療に通う患者が、それだけ多いってことだな)  子供、子供、子供。患者たちは何カ月も何年も病院に通って、赤ん坊をこいねがう。いつになったらこの腕に抱けるのだろうか。いや、本当にそんな日が来るのか。自分たち夫婦には越えねばならない壁が多すぎる……。 「目が覚めたか。気分はどうだ」  片岡義信は目を覚まし、ベッドの上に起き上がった明子に、ほっとした顔を向けた。 「飲むかい」  意識して出した明るい声をかけ、買ってきたミネラルウォーターを、ベッド脇の小テーブルに置く。そのとき小さなノックの音と共に、ドアが開いた。人影がするりと入ってくる。顔は知っていたが名前までは分からない、まだ若い医師がそこにいた。夫婦の担当ではなかったので話をしたこともなかった。 「大丈夫ですか、片岡さん。不妊治療は長くかかる。疲れたんでしょうね」  医師はいかにも人のよさそうな笑顔を見せて、話しかけてきた。 (様子を見に来てくれたんだ)  片岡は好意を感じて、笑みを浮かべる。 「愚痴が言いたくなったら聞きますよ。よそでは喋れないことも多いでしょうからね」  その言葉に、思わず医師の顔を見つめた。治療を続けていく上で、どうしても知りたいことがあったが、治療効果があがっていない現状では、担当医には聞きづらかった。 「あの、先生、お聞きしたいんですが」 「はい?」 「もしAIDのような治療を行うと決めたとしたら、何か書類に署名が必要ですか。いや、私どもはAIDをやらない、というより、出来ないと言われてはいるんですが」 「手術の前に同意書に署名捺印をするでしょう? ああいうものをお願いすることになります。もっと細かく説明が書いてありますが」 「まあ……」  明子が硬い声を出した。もちろん病院側は承諾書を取る。当たり前のことだ。だがそれを聞いた夫妻は、顔を見合わせていた。 「私たちはもう、子供が持てないかもしれない……」  いきなり目の前で明子に泣き出されて、若い医師は驚いた顔になる。 「あの、署名するのは妙な書類ではありませんよ。一般に使われているもので、秘密厳守です」 「私たちに子供が生まれたら、親戚たちは色々な手段で調べるに決まってるんです。血のつながりがあるかないか」  片岡には秘密厳守という言葉は、信じられなかった。 「病院には四神市出身の看護婦もいるし、医者の数だって多い。書類が残っていたら、その人たちからいつかきっと、真相が漏れてしまう気がする。金がかかっている話だから」 「金? ですか」  医師が二人の前の椅子に座り込んだ。 「本当にもう諦め時なのかな」  声が小さくなってきた片岡に、 「話してくださいませんか。医者ですから秘密は守ります。力になれるかもしれませんよ」  医師の柔らかい声が誘う。そろそろ駄目だと思う気持ちと、それでも諦めたくないという心が、打ち明け話をさせていた。 「片岡家は四神市に昔から住んでいます。農業をやっていて、土地は結構持っていた。名家でもないのに、バブル期に土地を手放して金が出来てから、やたらと跡取りだとか家系だとか言う親類が多くなりまして」  財産や残っている土地は片岡の父、巌《いわお》のものだ。片岡には妹が一人いるのだが、子供のいない妹夫婦が先年、夫の姪っ子を養女にしようとして、騒ぎになった。 「騒ぎ?」医師は首を傾げている。 「つまり一滴も片岡の血を引いていないその姪っ子が、片岡家の財産を将来引き継ぐことになるのは、許せないと言う親戚がいたわけです」  妹もその夫も要らぬ口出しに怒ったが、親戚たちは巧妙な手に出た。父、巌をたきつけて、そんな孫など認めないと言わせたのだ。 「もちろん法的には無視できますが、親と喧嘩することになります。金銭的援助も止められかねない。無理に引き取っても、近所には親戚連中が住んでいる。四神市で暮らすことになる子供が、いじめられるかもしれない」  結局妹は姪を引き取ることを諦めた。すると親戚連中は�片岡の血を引く�自分たちの子供を養子に勧め始めた。財産の二分の一がかかっている。うんざりするような親戚間の争いになり、妹夫婦の意向を無視したまま、いまだに続いているという。 「その親戚たちの目が、私たちにも向いているんです。通院して不妊治療をしてることも、ばれていますよ。もし子供が生まれたら、粗探しが始まること請け合いだ」  それでも遺産などいらないと、子供を取ることはできる。しかし親戚連中は既に、片岡夫妻が始めて、順調に大きくしている切花のチェーン店にまで興味を示していた。�片岡の血を引かない孫�が生まれた場合、口を挟んできそうな気配だと言う。 「要するに財産狙いですか」  金がらみと聞いてあっさり納得する医師に、片岡が苦笑した。 「治療が上手くいって子供が生まれたら、自分たちで作った財産ぐらい、親戚たちにどうこう言われずにその子にやりたい。だから……証拠を残したくないんです」  思い切り身勝手な主張だと分かっている。だが自分たちも、結婚前に思い描いていたような、ごく普通の幸せな毎日が欲しい。真面目に働いて、子供がいて、親が近くに住み、時々土産を手に家を訪ねてくる。そんな平凡で楽しい日々を夢見ていた。 「AIDを希望されたということは、遺伝的につながりがなくても、お子さんをかわいがっていけると、考えておいでなんですね?」 「それはもちろん」  夫婦揃って答える。長期間の不妊治療を体験してきた。もし親になれたら、その子は神様からの授かりものだ。そう思うようになるほどの、長い、ため息が出るような年月が経っていた。 「いやー、いいご両親になれそうですね」  嬉しそうに小さく笑う医師に、片岡は眉をひそめる。 (何が面白いんだ?)  その不機嫌さなど気にもならない様子で、医師が質問を繰り出してきた。 「お二人の血液型は何ですか?」 「A型とB型です」 「これもいい。全ての血液型の子供が生まれますね。はっきりとした遺伝的特徴はありますか? 例えば片岡家の者は皆、八重歯だとか、人差し指がやや長いとか」 「……そんな話は聞いていませんが」  若い医師は片岡夫婦に、担当医を自分に替えるよう、突然指示してきた。 「治療は成果が出ていないし、見通しも明るくない。別の医師の診断を希望すれば、通ります」  そう言って自分の診療日を二人に教える。 「へえ」  片岡が皮肉交じりの言葉を医師に向けた。 「先生にお願いすれば、子供を授かることが出来るんですね?」  椅子から立ち上がると、医師は顔を片岡の耳元まで近づけてくる。優しげな声が事実を告げた。 「実は今、不妊治療用に用意された凍結受精卵を持っています。受精卵を体内に戻し、母親は妊娠に成功しましたが死産でした。彼女には既に一人、人工授精で産んだ子供がいます。もう次の妊娠は無理だろうということで、残った卵は廃棄処分が決まっています」 「廃棄処分!」  片岡夫婦がゆっくりと顔を見合わせた。 (そんな、もったいない)  正直な気持ちがあった。 (その受精卵さえあれば、自分たちは親になれるのに)  医師がにこりと微笑んでいるのが分かる。 (あ……先生は私たちの目の前に、望んでいたものを差し出しているんだ)  もう生まれる予定のない子供。貰い受け、この世に送り出して、何が悪いのだろう。 「はっきり言いますが、他人の受精卵を使うことは認められていません」  それでもかまわなければ、自分が妊娠に協力しましょうと言う。 「まあ、子供も生まれたくない、このまま捨ててくれとは言わないだろうし」 「本当ですか。本当ですか!」  明子の顔が紅潮していた。片岡の方は、まだ信じかねている感があった。 「これは違法行為ですよ。でも良い面もあります。規則に従って書類を書く必要がない」 「そうか。そうですね」  この医師の一言で片岡も話に乗った。この方法で子供を授かったらすぐ、もう不妊治療はやめると言って、夫婦で病院からいったん遠ざかることにする。 「諦めた途端、子供を妊娠するという話は、よくあることで」  計画が具体性を帯びてくると、片岡はやさしく語る医師の頭から、後光が差して見えた。その後妊娠が確認できたら、明子はまた四神病院に戻ってくる計画だ。今度は妊婦として。  そして三月後に、それは現実となっていた。       6 「受精卵を貰い受けた……」  暗い神社の境内、星明りしかない場所でも、和美が両親の話に呆然としているのが分かる。夏貴も思いもかけない真実に、砂利の上で立ちすくんでいた。 (廃棄処分されるはずだった受精卵。生まれた子供の親は誰になるんだ?)  DNA鑑定で血のつながりを調べれば、日野家の娘ということになる。しかし、この世に生み出してくれたのは片岡の親だ。この夫婦がいなければ、和美は�処分�されていたのだ。 「私、あの……」  泣きそうな顔で和美が震えている。その体を明子がしっかりと抱き締めた。 「お母さんは和美が生まれてくれて嬉しかった。神様が下さったの。私たちは親子で、家族でしょ。そうだったでしょ?」  和美の震えが徐々に止まってきた。この夫婦には家族を作っていくにあたり、腹をくくってやってきたことがあったのだろう。娘と血がつながっていない分、なあなあでは済まされなかった何かが。片岡が二人をかばうように立って夏貴に向き合った。 「和美は私たちの娘だ」  平凡な言葉だった。何としても引くつもりのない力がこもっている。 「僕がどうこう言うことじゃないよ。正哉の両親も、もういないんだし」 (正哉、それでいいよね?)  選択の余地は消えている。だからこそ夏貴は最後に確認を入れた。 「片岡さん、本当に日野家に放火していませんよね? 全ての証拠を消すために」 「私たちの切花の店は、会社帰りの人をターゲットに、小さな花束を売っているの。閉店は夜の九時。店を出るのは九時半にはなるわ。店員さんも一緒にいたから、調べてみてもいいわよ」 「そう……」  アリバイの主張よりも、不安のかけらもないその態度から、夏貴は片岡夫妻の潔白を感じ取った。何よりもし放火をして夫婦が捕まったら、和美が一人残されることとなる。そうなったら血のつながらない、どう考えても和美の誕生を歓迎したとは思えない親類たちのところで、世話になるしかない。それだけはしたくないだろう。  これで和美と片岡夫婦という、二組の犯人候補が消えた。だが代わりに、新しい問題が顔を出してきていた。 (受精卵の流用とは……)  放火事件は、単純なもので終わる気配がなくなってきている。 (正哉ともう一度話し合う必要が出てきたな)  どうも調子が悪くて、少し咳き込む。ゴルフクラブを杖代わりにして、体を支えた。 「どうしたの、大丈夫?」  和美が心配そうな顔で、覗き込んできた。 (やっぱりこの子、正哉と似てるよな) 「十何年か前は手軽にDNA鑑定など出来なかった。こんな世が来るとは思ってもいなかったよ」  片岡が苦笑を浮かべている。夏貴はふと思いついて、和美に質問を向けた。 「正哉のお父さんは、何で和美ちゃんのDNA鑑定をする気になったんだろう。顔が似ているからって、普通しないよね。何万も費用がかかるのに」 「私、気が動転していて、はっきりと覚えてないんだけど……日野さん、人から聞いたって言ってたような」 「誰かが受精卵流用の一件を、調べている?」  この話には片岡の方が青くなる。夏貴の眉間には皺が寄っていた。 (もしかして、過去に使われた受精卵は、一つではないのかもしれない)  考えてみれば、限定する方が妙だった。子供を欲しがる夫婦は多い。片岡夫婦が試して、上手くいったのだ。また別の卵を使うことが、あったのではないだろうか。許されていないこと、そうは分かっていても。  関わっているのはより多くの両親たちと子供。四神病院の中で秘密は生まれていたのだ。 (誰かがその事実を知り、調査しているのか)  気がつけば事件は放火殺人から、禁止されている受精卵の流用という、よりワイドショー向きで派手なものに姿を変えてきていた。 「片岡さん、この話……」  また話せないかと持ちかけようとした、そのとき、星がまたたく澄んだ夜空が、何故か揺れだした。 (あれ……?)  すぐに理由が思い当たる。 (まいった、過呼吸の発作だ。大きい!) (君? 大丈夫か?)  声の主は片岡氏だろうか。返事が出来ない。どんどん呼吸が速くなって、止まらなかった。 (僕は……片岡さんに聞きたいことがある……)  だが、今は話をするどころではない。体が震え、痙攣の兆候が襲ってくる。 (大事な問いだったのに)  片岡が大急ぎで走っていくのが見えた。明子がどこかへ連絡している。痙攣が走ったとき、 「大丈夫か、夏貴!」  胸元から正哉の声がした。黙ってはおれなかったのだろう。夏貴の横で、和美の目が大きく見開かれている。 (ねえ正哉、だからまずいって言ったじゃないか……)  思う端から考えが、四肢の感覚が吹っ飛んでゆく。夜がただ黒一面の闇に変わる前に、小さな悲鳴を聞いたような気がした。 [#改ページ]    第五章 追う       1  気がついたとき、夏貴は四神病院の診察室にいた。  久しぶりに酷い発作が起こったようだ。片岡夫妻が病院まで運び込んでくれたらしい。 「夜、受験勉強の気分転換にジョギングをしていて、過呼吸になった」  夏貴の言い訳は柴原医師たちに、どうにか通った。だが、夜中に駆けつけてきた母の気持ちをなだめるため、三日間の検査入院をする破目になった。 「一度きっちり診てもらった方がいい」  電話で母にそういう助言をしたお節介がいたのだ。その張本人は翌日検温中に見舞いに来た。 「夜中に病院に担ぎ込まれたって聞いたぞ。なんだ、ぴんぴんしているな」  そう言いながらも、今にも発作が起きるのではないかと、恐る恐るといった感じで話しかけてきたのは東だ。 (忘れてた。今はおっさんが母さんの後ろについているんだっけ)  東は店のオーナーである上に、他にもアパートを持っていて裕福なのだ。婚約者にいいところを見せたいのだろう、金は惜しまず出してくれるらしい。 (入院とはまいったな)  病室で夏貴はまず、携帯電話を隠そうとした。病院ではたいてい使用禁止だからだ。ところがハンガーに掛かった服の内にはない。ベッド脇のテーブルの上にも置かれていない。東に聞いてみたが、知らないという。 「彌生さんが家に持って帰ったんじゃないか?」 「えー、困るよ。おっさん、持ってきてよ」 「使っちゃいけないものだろう? 退院まで家に置いておけ」  取り合っても、もらえない。 (そんな。三日も放っておいたら、正哉が何て思うか……)  眉間に皺が寄る。東はそんな事情など知るはずもなく、たかが三日の入院予定なのに、 「病院食ばかりじゃ飽きるだろう」  そう言ってお気楽にも、渋谷の有名洋菓子店のゼリーを、何十個も買ってきた。 (わあ、誰がこんなにたくさん食べるんだ?)  病室の小さな冷蔵庫内が菓子で埋まったのを見ると、ため息が出てくる。しかし今はうんざりしている場合ではなかった。受精卵流用の事実を知ったのだ。たまたま入院した今が、調べる好機に違いなかった。放火犯につながる情報が手に入れば、家に置かれているはずの正哉とて、放っておかれたのを忘れて喜ぶかもしれない。 (産婦人科の噂を聞いてみるのも手だよな)  片岡夫妻にも連絡をつけたい。だが急な入院で、電話番号の控えがなかった。しかたなく、取りあえず検査をこなしていると、昼過ぎ東が昼食に出た間に、一組の見舞い客があった。 「片岡さん。来てくださったんですか」一家は、明るい黄色でまとめた花を持ってきてくれた。 「商売物で悪いけど」  今日は三人とも敵意のかけらもない。助けてもらった礼を言う夏貴に、今日は学校を休んだのだという和美が笑顔で見慣れた携帯電話を差し出してきた。 (正哉!) 「昨日、夏貴君が倒れたところで拾ったの」 「ありがとう……家にあるんだと思ってた」  では一晩、兄妹は一緒にいたわけだ。何やら和美の顔つきが気になったが、今正哉と話すわけにはいかない。ポケットに携帯電話を収めると、ほっとした気分になった。  お礼に東のくれたゼリーを勧めてみる。作った店の名前を見て、和美が嬉しそうな顔をした。何でもこの洋菓子屋は有名な行列が出来る店で、限定品を買うのは大変なのだそうだ。 「午前中に行列に並ばないと、すぐに売りきれちゃうらしいんだ」 「へえ」  そう言われると興味が湧いて、夏貴も自分の分を取り出して手に取った。ゼリーの入った白い箱には日付と時間が記されていて、確かに正午前に買った品だと分かった。 (おっさん、わざわざ僕のために早起きして、買いに行ってくれたのかな)  だとしたら、少しは感謝しなくてはならない。東の店の中には、閉店時間が夜明けを目指しているところがある。そこから帰ってから寝るのだから、正午前の東とは話が出来ないと、母が笑っていたことがあった。連絡がついても半分死んだような状態らしい。 (そんな生活習慣のおっさんと母さんが、どうやって出会ったのやら)  相変わらず解けない疑問だ。  和美と二人、ベッドを椅子代わりに座って、小さなプラスティックスプーンを使っていると、当の東が病室に帰ってきた。花と片岡夫妻に目をやって、まずは常識的に見舞いの礼を口に乗せる。だがそれが済むと、東は口元に、にやりとした笑いを浮かべた。夏貴が、かわいい女の子と並んでベッドに腰掛け、おやつを食べていたからだ。 「素敵な娘さんですね。お嬢さんですか」 「はあ、和美といいます。その、夏貴君とは……お友達のようで」 「なるほど。そうですか」  餌を見つけた肉食獣のような笑い方をしている。入院中この話題で、夏貴をからかえると踏んだのだろう。 (ふんっ。和美ちゃんはゴルフクラブで僕を殴ろうとしたんだ。二人はそういう仲なんだけどね)  だがそれを口に出すことは出来ない。片岡と早く話をしたくて、夏貴は空になった容器を手早く片付けると、散歩に出ると東に告げた。病室にはいつ、看護師や清掃員が入ってくるかもしれないし、東に話を聞かれるのもまずいのだ。 「次の検査の時間までには帰ってくるよ」 「はいはい。ゆっくりと行っておいで」  腹の立つにやにや笑いを無視し、胸ポケットの携帯電話を確認すると、パーカーをはおって、片岡一家と庭に出た。  各病棟や研究棟から直接出られる中庭は、ペチュニアやマリーゴールドが花盛りで、赤レンガの散歩道に沿って植えられている木々の陰には、座りやすい木製ベンチが一定間隔で置かれている。さりげなく金がかかっている場所だ。薄曇で午後の日差しはとろりとしていた。 「夏貴君、日野さんの家は、間違いなく放火されたのかい?」  周りに人気《ひとけ》がないのを確認すると、片岡が先に話し始めた。このことを確認したくて、今日やってきたのかもしれない。何となく口が重いのは夏貴が中学生だからだろう。放火という刑事事件、つまり『大人の領分』の話を、子供とすることに抵抗感があるのだ。 「それは確かです。通夜の日に親戚の人から聞きました。正哉は焼け死んだんです。火を点けた奴は相手が中学生だからって、特別優待してくれる気はないみたいだ」  夏貴は真っ直ぐ片岡の顔を見る。 「だから子供扱いはやめてくれませんか」 「……そうだな」  ため息をついている。 「それで片岡さん、昨日聞きそびれたことが一つあるんですが……」 「何かね」 「片岡さんに、受精卵を貰い受ける話を持ちかけてきた医師は、誰です?」  倫理上の観点やその他の意見から、許されていないことだ。それを十何年か前に行った医者がいたのだ。そいつは今もまだ勝手にやっている可能性がある。  事がばれそうになって、不安から暴走したとは考えられないだろうか。証拠とそれを知る者を、その医師が火事を起こして根こそぎ焼き尽くしたのかもしれない。犯人に最も近い人物だ。  片岡の口が、ゆっくりと開いた。       2 「柴原先生だ」  一瞬夏貴は聞き間違えたかと思った。この名前が出てくるとは全く想像していなかった。胸の携帯電話がびくりと動いた。 「柴原仁先生。産婦人科の医師だ。今でもこの病院にいるよ」 「……知っています。あの先生に診てもらうことがよくあるから」  つい今朝方も会ったばかりだ。温厚で、専門馬鹿と言われていて、病院では名の知れた医師の一人だ。院長の大竹よりもずっと信望が厚く、焼餅を焼かれているとの噂だ。 (先生が暴走していた? そんな……)  自分の顔が強張ってくるのが分かる。小さい頃から馴染みの、あの柴原が……。 「でもね、日野さんの家に火を点けたのは、あの先生じゃないよ」 「えっ?」  片岡の意外な言葉に目を見張る。 「どうして? 誰より受精卵の秘密を知っているいちばん怪しい奴だよ?」 「私たちもそう思ったんだ」  片岡は夏貴の肩に手をかけ、ベンチに座るよう促してきた。周りに人はいない。昼間の庭は密やかな話のために、時間と空間が一時切り取られているみたいだった。 「君を病院へ送り届けたあと、私たちは震えていたんだ。もし受精卵流用の話が放火事件と関係あるのなら、次に放火されるのは、自分たちの家かもしれないと思った」 「そのときすぐに浮かんだのが、柴原先生の名前だったの」  柴原は片岡夫婦にとっては恩義のある相手だが、夏貴以外では今のところ唯一、和美の秘密を知っている人物でもある。 「遠慮はこの際抜きにした」  大事な娘の命がかかっている。とにかく火事の日、柴原がどこにいて何をしていたか、調べたのだという。 「割と簡単に分かったの。知り合いの娘さんが、お産のためここに入院しているから」 「柴原先生は火事のあった日、病院にいたそうだ。それだけでなく、午後からお産が重なったのに、非番の他の医師が捉まらなくて、若い研修生と、てんてこ舞いだったとか」 「火を点けに行く暇はなかったわけだ。放火犯じゃないんですね」  足から力が抜けた。胸の鼓動が強く感じられる。それともこれは正哉の携帯の震えだろうか。 (犯人かと疑った人物が、次々に潔白になってゆく)  これがテレビドラマなら、柴原は思いもかけない手段で短時間病院を抜け出し、放火したという筋書きになるのだろう。しかし現実には、予定外の出産を前にしての、手品のような細工など、夏貴には思いつかなかった。病院から日野家まで、歩いて往復で四十分ほどかかる。いつ容態が変わるかもしれない妊婦を一人ならず抱えて、そんなには病院を空けてはおれないだろう。  では車を使ったらどうか。 (それはないな)  まだ暮れきっていない時刻だった。人通りもある道だ。だが住人以外が通りかかるような場所ではなく、火事のあった時刻に見慣れぬ車が近くに来ていたら、絶対に既に噂になっている。 (分からない……)  中学生が警察の手に余る犯罪者を探し出せるほど、現実は甘くないということか。 「私たち、これからどうすべきか分からなくて、不安なの」  そう切り出した明子の声が、少し震えている。和美の顔も固い。 (和美ちゃんが次に狙われているという確信はないけど)  和美は秘密を抱えており、神経質になるなという方が無理だろう。 「おじさん、僕、入院している間に、この病院にいる関係者を調べてみるつもりです」 「四神病院の誰を?」 「理事長、医者、看護師、事務方。病院が不妊治療で暴走したと世間に知れては困る人たちを」  大人数になるがしかたない。 「事がばれて、この病院が傾くとしたら損する人がきっと出る。就職先考えなきゃいけない人、ローンの予定が狂う人。こう考えると、放火犯候補は多いかも」 「犯人候補は他にもいるよ」  和美が話に加わってきた。この話題に怯む様子は見られない。 「私と同じようにして生まれた子供たちとその家族。もし私のことが公になれば、マスコミは他にもそういう子がいないか探すかもしれない。それが嫌な人たち」 「なんかどんどん人数が増えているような……」  元患者たちの行動も確認が必要なようだ。だが彼らの名前は伏せられている。知っているのは、柴原医師だけのはずだ。 「真正面から先生に聞いても、元患者の名前、教えてはくれないでしょうね」 「それは無理だ。先生は十三年以上ずっと喋らず、患者を守ってくれた」  暴走する研究心と、医師としての律儀さ。柴原の頭の中はどうやって、この相反するものの折り合いをつけているのだろう。 「とにかく出来ることから調べるしかないですよね」  夏貴の言葉に、片岡も何か分かり次第知らせると約束をしてくれる。雲が厚くなってきた。散歩があまり長いと、東が様子を見に来るかもしれない。病棟に戻り、エレベーター前でもう一度、夫妻に見舞いの礼を言っていたとき、すぐ側の受付前で騒ぎが起こった。 「医者を出せっ」  初老の男が、声高にわめいている。一声ごとに音量が増していた。 「亮が自殺したのはこの病院のせいだ! 息子を返せっ。返事をしろっ」  事務職員になだめられても、男は顔を真っ赤にして同じ言葉を繰り返している。カウンターの上の案内札が弾き飛ばされ、周りにいた患者たちから小さな悲鳴があがった。 「何をするの。やめなさい」  受付の者に強く言われても、男の耳には入らない様子だった。午後になっていて、外来患者はあまり残っていない。おかげで混乱は少なくて済んでいる。 「まあ、田崎さんだわ」  片岡明子が驚きの声をあげる。夏貴もその男の顔に見覚えがあった。 (和美ちゃんに初めて出会った、あの通夜の喪主じゃないか)  死んだ男の子はビルから飛び降りたのだ。それが何故、病院のせいになるのだろう。 (もしかしてあの子が自殺した原因が、この病院に関係あるのかな)  子供が自殺する少し前、夏貴たちは『うそつきっ』という言葉を聞いていた。子供をビルの屋上に走らせた『何か』は、ひょっとしたら一連の事件と関係あるのだろうか。 (あの子も受精卵を貰い受けて誕生した子供の一人だとしたら)  それが分かって、衝撃を受けた子供が命を絶ったのだとしたら、親はどうにもならない怒りを、病院にぶつけてくるかもしれない。 「あの人の息子さんのお通夜に出ていたでしょう? お知り合いなんですか?」  片岡夫婦に尋ねると、夏貴は他人に話が聞かれない隅に、そっと連れていかれた。そうしている間に警備員が出てきて、田崎は押さえつけられ、引きずられるようにして奥へ連れていかれた。その姿が消えると、周囲にはほっとした雰囲気が広がる。明子が口を開いた。 「田崎さんご夫妻とは、産婦人科の不妊治療を受けているときに病院で知り合ったの」 (やっぱり)  夏貴の考えが推測できたのだろう、明子はすぐにそれを否定してきた。 「田崎さん夫婦は結局、不妊治療はしなかったの。通院中、奥さんが自然に妊娠してね」 「えっ? じゃあ今度の件とは関わりないんだ」  ため息が漏れた。 「やだね。全てが放火事件に関係があると思えちゃう」  夏貴はぺろりと舌を出した。 「なら田崎さん、何で病院に怒鳴り込んできたのかしら」  和美の疑問に片岡が、気の毒そうに答えていた。 「一人息子をあの年で失って、考えのたがが外れているんだろう」  ため息をつくと、ではそろそろ帰ると言って、会釈をした。 「じゃあ、またお見舞いに来るね」  和美はそう言って手を振ると、両親と帰っていく。だがどういうわけか急にとって返すと、夏貴の耳元に口を寄せ、にっこり笑って小声でささやいた。 「正哉君と話をしたの」 「えっ……」  頭の中が真っ白になる。返事を思いつかない内に、片岡一家は帰宅してしまった。       3  東が帰った後の病室で、夏貴は携帯電話に向き合い、正哉を質問攻めにしていた。 「どういうことだ? どんな状況になっているんだ、今は!」  友は画面の中で、舌を出している。 「悪い。お前が発作を起こして倒れたとき、俺やっぱり黙っておれなかったんだ」  その声を和美に聞かれた。携帯電話を拾われ、和美と話をすることになった。 「俺たち似ているし……ごまかせなくて。それに聞きたいこともあったしな」  正直に話してみると、和美は驚くほどあっさりと事実を受け入れたという。 「生前の俺を知らなかったことが、幸いしたのかもしれない」  バーチャルな存在の正哉に、抵抗感がなかったのだ。 「おかげで夏貴の容態を聞けて、安心出来たよ」 「……そう」  夏貴は全身の力がこぼれていく気がしていた。 (もうなるようになれだ!)  そう言うしかないではないか。女は強いということか、あきれると言うべきか。正哉の方はすっかり彼女に馴染んでいる様子で、事件のことを和美とも話し合いたいという。おまけに早くも次の一手を提案してきた。まず看護師たちから話を聞くべきだという。夏貴はまだショックでぐったりしていて力が湧かなかったが、確かに入院期間は短いのだ。 「分かったよ。やるよ」  正哉の指示に従い、まずは冷蔵庫の中のゼリーを箱に入れ直す。夏貴はずしりと重くなったそれを持ち、スタッフステーションに向かった。笑顔を作ると、看護師にゼリーを差し出す。 「これ、東さんに貰ったんだけど、結構おいしかったんだ。看護師さんたちも食べないかなって思って」  こういうとき、ブランドの力は偉大だというのが正哉の意見だ。話を始めるきっかけに、二人は貴重なお菓子を利用させてもらうことにしたのだ。思った通り看護師たちは、しっかりと洋菓子店の名前を知っていた。  だが予想外なことに、看護師たちの興味を、有名ゼリーよりも強力に集めたものが別にあった。いわゆるワイドショーねただ。 「ゼリーをくれた東さんて、夏貴君の病室に来ていた人よね。かっこいいなあ。背も高いし」 「夏貴君とどういう知り合いなの?」 「実業家っていう噂は本当? 指輪をしていないわ。独身なの?」 「彼、ホストだって話を聞いちゃった。ねえ、そうなの?」  ホストという言葉が出るとスタッフステーションの中に明るい嬌声が響いた。ゼリーとスプーンを持ちながら皆目を輝かせている。 (凄い情報収集能力。母さんは積極的に話す方じゃないし、どこから聞き及んできたのやら)  驚きながらも愛想よく質問に答えた。東を出汁《だし》に聞きたい話が手に入るなら、二番出汁でも三番出汁でも取らせてもらう。胸の携帯電話が笑うように震えた。 「東さんは、母の婚約者。もうすぐ結婚するんだって」 「えー、そうなの?」  この答えで、ハイテンションだったスタッフステーションの雰囲気が、少しばかり落ち着いた。 「何で東さんがいいのかなあ。この病院て、独身の先生も多いって聞いたよ。東さん水商売やっているんだ。お医者さんの方がよくない?」  水を向けると、 「まあ、中学生になると生意気言うわね」 「夏貴くんだっていけているわよ。なかなかハンサム。あと十歳年上だったらねえ」 「あら、たった十でいいの? 足らないんじゃない」 「言ったわね。二つしか違わないくせに」  話が看護師たちの間を、ピンポンだまのように跳ねてゆく。 「誰が独身の先生なの。素敵な人はいる?」 「独り者は、内科の飯田《いいだ》先生と内山《うちやま》先生。外科の浜西《はまにし》先生。放射線科の杉浦《すぎうら》先生。眼科の北野《きたの》先生。産婦人科の柴原《しばはら》先生。あ、赤木《あかぎ》先生も離婚なさったんだっけ」 (凄いなあ。全員頭に入っているわけ?)  ひたすら感服する。 「赤木先生は素敵よね。ちょっと年上だけど」 「自分でかっこいいと意識しているところがマイナスかなあ。それに何もかもきっちりと、パソコンで管理しているでしょう? マニュアルがないと駄目なタイプかも」 「患者さんには、計画的だって好評だけどさ」  なかなかに厳しい。 「でも医師と看護師とはねえ、お互い近くにいると見え過ぎちゃうことも多くって。ロマンティックな方には話が行きづらいわね」 「ほんと、そうよね」  結婚は医者同士と決めている者の名前とか、逆玉の輿を狙っている医師の見合い武勇伝とか、 (どこから仕入れた話なんだ!)  思わず呆れるほど、看護師たちの情報は具体的で詳しい。 「でも先生たちも結婚はしたいんじゃない? 柴原先生なんか独り者だからって、しょっちゅう当直を割り当てられているって聞いたけど」  疲れたからと奥の椅子に座り込むと、夏貴は強引に話を知りたい方向に軌道修正した。急患が入ったら、看護師たちは一斉に消えてしまいかねない。のんびりとは構えておれなかった。 「あの先生は仕事が生き甲斐だから。今の勤務体制で不満はないんじゃないかな」若い看護師の言葉に他の者も頷く。何となく看護師たちの声に、不満が滲んでいる感じがした。どうも過去に何人か、柴原の気を引こうとして玉砕した者がいたらしい。 「柴原先生、いつも働いているよね」  片岡が言っていたアリバイの確認を取りにかかった。あっさりと返事を貰えた。 「火事のあった日の柴原先生? あの日は特に忙しそうだったわ。昼から予定外のお産が続いて。本当に先生たち大変だったのよ」 「夏貴君が担ぎ込まれたとき、ちょうどお産が終わった後で、診てくださることが出来たの。けどすぐに火事の怪我人が来て、ゆっくり診察する余裕がなかった。先生それを気になさっててね」  だから今でも夏貴の様子をちょくちょく見に行くのかなと、別の看護師が言う。その話を聞いて諦めの気持ちが湧いてきた。 (やっぱり柴原先生に日野家の放火は無理、と)  そうとなれば後は病院関係者の情報を、なるだけ看護師たちから集めなくてはならない。  夏貴は笑顔を振りまいて、驚くほど情報通の看護師たちから、せっせと話を集めて回った。       4 「それで何が分かったの?」  翌日の夕方、学校帰りの片岡和美が病室に訪ねてきていた。親が心配するので病院まで友達に付き添ってもらい、帰りは母親に迎えに来てもらう約束だという。東は一度顔を出した後、東京の店へ戻っていた。母は今日は来ていない。隣のベッドは空いていて、腰掛け代わりだ。まだ当分暮れそうもない六月の空を窓に映した病室は、誠に都合が良い三人の密談の場所と化していた。 「僕らはさ、問題が発覚して四神病院がなくなったら、関係者はみんな大変な目に遭うと思っていたんだ。でも大人の世界の現実は、そう単純なものじゃないらしい」  昨夜の、正哉との話し合いを書きつけたノートを、小机の携帯電話の前に置いた。それから、東が差し入れてくれたさくらんぼを和美にも勧める。真っ赤な大粒の実は、箱に奇妙なほどきっちりと並べられていたので、夏貴は値段を聞かなかった。食欲が失せそうな気がしたからだ。 「まず看護師さんたちだけど、彼女たちは放火の一件に関係ないみたいだ。この不況でも看護師の求人はしっかりあるんだって」  話しだしたのは正哉だ。それをすんなり受け入れている様子の和美に、夏貴はこっそり感嘆のため息をこぼした。 「事務方の人に、人殺しをしてまで続けたいような、仕事熱心なのはいないらしい。そりゃ四神病院の給料は安くはないらしいけど、それでも引き合わないものね」 「お医者さんたちは?」  和美の問いに、正哉は目の前のノートを指さした。 「医者は二つのグループに分けられる。第一は、他の科のお医者さんたち。もし病院が潰れるかもしれないような不祥事を知ったら、不快だろうね。でもそのときは、犯罪者になるよりさっさと辞めて、別の病院に移ればいいと思わないか?」 「自分たちが責任問われることは、ないものね」 「残りの犯人候補はそんなに多くないんだ」  夏貴がノートをめくった。数人の名が丸やばつを付けられている。 「まず院長である大竹医師。病院が潰れたら困る人物の筆頭だ。オーナーだからね」  だが大竹はずっとよそに修業に出ていたはずで、戻ってきたのは二年前だという。十何年も前からあった、受精卵の不正流用に関わっている筈はない。 「それでも大竹医師が犯人だと仮定してみる。すると動機として考えられるのは、柴原先生の不正を大竹先生がどこかで知ったという可能性だ。病院経営のため、その事実を隠そうと事に及んだのかもしれない」 「院長に暴走行為がばれていたら、柴原先生、とっくに首になってるはずじゃない?」  今もまだ勤めているよと和美に指摘され、「確かに……」夏貴はため息と共にさくらんぼを口の中で転がした。正哉は話を続けていく。 「次は産婦人科の先生たち。問題が発覚した場合、全く知りませんでしたじゃ、済みそうにもないんだよね」  卵の不正流用は柴原一人の独断らしいが、医師たちが使う部屋は共有部分も多い。 「一番怪しいのは柴原先生だ。だけど時間的に無理ということで、放火は不可能なんだ」 「あの先生がいなかったら、私、生まれてこなかったんだよね」  和美がノートの字を見つめている。第三の親とも言うべき柴原を悪く考えることは、どうにも難しいようだ。 「あと、産婦人科の医者は四人。その内いちばん偉いのは大島《おおしま》先生。この先生はもう六十四歳で、来年には引退して故郷に帰るんだって。土地も買ってあって晴耕雨読の予定とか」 「病院でまずいことがあったら、放火なんてするより、退職金貰ってすぐに辞めそうね」 「やっぱりそう思う?」  と、夏貴。残り三人の内、小泉《こいずみ》医師は女性で結婚間近。再来月には新居に近い病院に移るという話で、この医師も犯人候補から外される。看護師の情報によると、火事の日に非番だった彼女が呼び出せなかったのは、遠方の婚約者の家に挨拶に行っていたからだそうだ。  あと二人。 「赤木先生は火事の日の昼間、一人で釣りに行っていたんだって。夜勤に入ったとき夏貴が姿を見ている。犯行は可能かも。ただこの先生、よそから移ってきてまだ四年なんだよね」  この人も事件に関係しにくい立場だろうと正哉が言う。 「四神病院にだって、そんなには執着を持ってないわよね」  潰れたらさっさと他の病院に就職しそうな、割り切った雰囲気が赤木にはある。 「残りは井上《いのうえ》先生だけなんだけど」  夏貴の声が小さくなる。 「先生はまだ研修医でさ。火事の日は柴原先生と一緒に、お産にかかりきりだったって」 「柴原先生と一緒に病院にいたってわけ? まあ……」  和美が目を見開いている。 「じゃぁ犯人はいないの? あっ、まだ別口がいたっけ。受精卵を貰い受けた患者たちよ」  夏貴の指がノートをめくった。次のページには真ん中に�患者たち�と書かれていて、そこに大きくばってんが書き込んであった。 「どうして?」  和美が最後のさくらんぼを手に聞いてくる。真っ赤な一粒は、口に入れられることもなく、くるくると忙しげに宙に円を描いている。携帯電話から答えが返った。 「和美ちゃんは自分以外の、治療を受けた人たちの名前を知らないだろう? それと同じように、他の患者さんも和美ちゃんの名前を知らないはずだ。そうじゃないの?」 「ええ。柴原先生は秘密を守ってくれたって、両親が言ってたわ」 「知らない相手は狙えないよ。その上、俺の家と和美ちゃんの関係が分からなければ、日野家に放火する意味もない」  言われてみればその通りだ。しかし和美が納得したかとなると、それは別の話だった。 「調べたらどこにも犯人がいないって言うの? おかしいわ。日野さんが私を訪ねてきたのは事実なのよ。私が日野さんの娘だって」  唇を噛んでいる。 「誰かが私のこと、調べて喋ったのよ!」 「もちろんどこかに犯人はいるはずだ。正哉が焼け死んだのは現実なんだから。僕らは何かを見落としているんだよ。今までに挙げた人物の中に、きっと放火犯がいる。そうでなくちゃおかしいんだ」  中学生三人の目を逃れたものとは何なのだろうか。見て、聞いて、感じたものの中で、うっかり見逃してしまった大事な鍵。  不意に、何かが夏貴の頭を過《よぎ》った。火事場で目に映った奇妙な光景だ。日野家が燃えたときの話だった気がする。変だと思ったのは……何だった? 直接犯人を示すものではないかもしれない。でも妙だと思ったものは、何一つ逃したくなかった。 (あれは……)  そのとき、突然携帯電話の明るいメロディーが病室に響いた。和美が急いで電話機をポケットから取り出している。流行のポップスと共に消えたものがあった。 (駄目か……)  電話してきたのは和美の母親で、そろそろ迎えに行くとの連絡だった。窓を見れば、いつの間にやら西の雲が朱に染まっている。一階のロビーで待つことにして、ポケットに携帯電話を入れると、夏貴と和美は病室を出た。 (もう夕食の時間かな)  配膳が始まったのか、おいしそうな匂いが五階の廊下に漂っている。エレベーターの前に立ち、ボタンを押した。 「今日はさくらんぼをご馳走様」 「また来る?」 「うん、明日は早い時間に。正哉君もまたね」  いつもと何も変わらない夕刻だった。夏貴は明日、退院だ。 (この後は正哉と、今日の話し合いの整理だな)  相棒はもう、考え始めているかもしれない。 (エレベーター、来ないなぁ)  何かが動くのが夏貴の目の端に入った。ゆっくりと振り返る。 「和美っ」  叫んだときは、スチール製のごつい大型ワゴンが斜めから二人にぶつかってきていた。転んだ和美の足が、背の高いワゴンを蹴る。金属製のバットや硝子の器が天辺に見えた気がする。積み重ねてあった容器ごと、ワゴンが二人の上に倒れてくる。 「ひいいっ」  不意に頭が思いきり後ろに沈み込んで、天井が目に入る。金属が床に突き当たる、鋭く重い音が廊下一杯に響きわだった。悲鳴が聞こえた。人が集まってくる。だがその光景はすぐに閉まってきたエレベーターの扉で切り取られ、体はそのまま下がってゆく。 「おい、二人とも大丈夫かっ」  ポケットからの叫びと共に一階に着き、扉が再び開いた。  あの一瞬、たまたま夏貴たちの背後でエレベーターの扉が開いた。背中から転がり込んで助かった二人は、散乱したスチール容器や硝子の破片の中で、呆然としていた。       5  二人の怪我は、ありがたいことに大したものではない。病院関係者はそう口を揃えた。エレベーターの中に転がり込んだおかげで、二人はスチールワゴンに、押しつぶされずに済んだのだ。事故の知らせに飛んできた片岡夫婦は顔色を青くし、診察室の和美に付き添っている。大竹院長が大きな声で詫びを言いながら、その部屋に入っていくのが分かった。  夏貴の方は母が捉まらず、東は東京の店にいたので、隣の診察室で一人おとなしく、研修医に手当てを受けていた。こちらの部屋には、何人もの医者や看護婦が、噂を聞きつけて見舞いに来た。というより、話の種を拾いに来たのかもしれない。  赤木医師など、ざっと怪我を確認すると、夏貴の髪に細く一房だけある茶髪を引っ張っただけで出ていってしまった。後でパソコンに、事故と怪我に関するデータを打ち込むために、様子を見に来たのかもしれない。気がつくといつの間にやら、治療に柴原が加わっていた。  四神病院の産婦人科医は急患の扱いに慣れていて、怪我の治療が上手い。打撲や切り傷の多さに顔をしかめていた若い研修医は、ベテランの登場にほっとした表情を見せていた。 「夏貴君、体を大切にするよう言っただろうが」  柴原は横手に座り、手際よく傷の手当てをしながら、硬い表情を見せている。 「好きで怪我したわけじゃないのに、どうして僕が怒られなくっちゃいけないんだよ」  夏貴がむくれたものだから、困った研修医と看護師が話題を変えた。 「それにしても何でワゴンが勝手に動いたのかね。配膳用のものだったんだろ?」 「ストッパーがしっかりとかかってなかったらしいの。それで何かの弾みで動いたんだろうって」 「災難だったね、音村君」  看護師たちは慰めるような顔を向けてくる。夏貴は心の中で首を振った。 (災難? 違うと思うけど)  四神病院の入院棟は皆似ていて、一階は入り口正面のホールを抜けた左手に、エレベーターが四基並んでいる。二階以上はエレベーターの向かいにスタッフステーションや受付がある。病室は受付前から左右に延びた廊下の両側に並んでいる。医療機器やワゴンを運び上げるためには、荷物専用の大型エレベーターが、病室の先にあるはずだ。 (何で配膳用のワゴンが、エレベーターホールに現れるんだよ)  あんなところにあるべきでないものが、ぶつかってきたのだ。 (もっと大怪我をしたかもしれない。打ちどころが悪ければ死んでいたかも)  誰かがそういう本心を抱いてワゴンを押したのだ。相手の死を願うには可能性に頼りすぎる計画だが、この方法ならばしくじっても大騒ぎにはならない。ただの事故だと誰もが思う。 「音村さんはもう見えていますか」  診察室のドアが開き、疲れた顔をした大竹院長が顔を見せる。夏貴と医師たちしかいないのを確かめると、 「後でご両親がおいでになったら、挨拶に伺います」  そう言ってすぐに消えてしまった。 「おやおや」  このあまりにも露骨な院長の行動に、不機嫌だった柴原の口から苦笑が漏れている。夏貴は閉まったドアをしばらく見ていたが、不意に上着を手に取り、立ち上がった。 「まだ治療は終わっていないよ」 「すぐ戻ってくるから。院長先生が隣の部屋から出ていったから、和美ちゃんたち、そろそろ帰るところかもしれない。見送りに行く」  そう言ってドアから飛び出た。 「全く、大人好みの返事をしたな」  ポケットの携帯電話から聞こえた声に思わずにやりと笑い、一瞬だけドアの外で立ち止まる。診察室の中では、夏貴たちが考えていた通りの反応が起こっていた。 「あら、一緒に怪我をした和美ちゃんて、ガールフレンドなのかしら」 「髪の長い、かわいい子ですよね」 「へえ夏貴君、女の子とつき合う年頃になったんだね」  柴原の楽しげな声を後に、正哉とこれから片岡に切り出す話を確認しながら、出入り口に向かう。暮れかかった薄墨色の駐車場の景色の中、親子三人の姿があった。和美が少し足を引きずっているのが分かる。 「もちろん和美ちゃんと話をしたいさ。でも」  夏貴の顔が引き締まる。 「色っぽい話じゃないんだよ、先生たち」  三人に声をかけ、話がしたいと小声で言うと、片岡が車の中を示す。ゆったりとしたセダンの後部座席に収まった途端、助手席に座った片岡明子が先に質問してきた。 「夏貴君、本当は何があったの? 和美は背よりも高いスチールワゴンに、突然潰されそうになったと言うの。院長先生は軽い調子で事故だと話していたけど……」  心配が言葉を震わせている。夏貴は先ほど正哉と話し合った内容を口にした。 「すぐ四神市から出ていくことが出来ますか。一時的なことではなく、引っ越しです」  片岡が運転席から振り向いてきた。 「出来たら自然で目立たない理由で、この土地から消えるのが良いと思います。お台場の高層マンションに引っ越すとか、和美ちゃんが都内の有名高校に進学希望なんで転居するとか」  しばらく車内に声はなかった。片岡がゆっくりと口を開く。 「つまりただの事故ではなかったと思っているのだね? 四神市を離れれば安全だと?」 「今日の一件を起こしたのは、あの場にいた人間です。絶好のチャンスを見つけたので、思わずやってしまったんだ」  犯人はまだ、殺人が必要だと思っているらしい。 「やはり犯人は病院に日頃勤務している誰かなんです。遠くにいれば、より襲われにくい」  狙う相手が四神市にいなければ、少なくとも勤務時間後にちょっと立ち寄って、家に放火するなどということは出来ない。それに。 「万が一この先放火犯人が捕まり、事件が受精卵不正流用に関係あり、などということになったら、個人の名や病院名がマスコミに流れ出ないとも限らない。四神市にいないほうがいいです」  片岡和美という名前は珍しいものではない。四神市という地名がくっつかなければ、たとえ事件で名前が出ても、同名は珍しくもないと笑って終わらせてしまえる。 「なるほど。随分よく考えたんだね」 「頭の上から金属製の凶器が降ってくれば、誰でも保身の方法を探しますよ」  片岡は妻に視線を送っている。何かを決めたようだった。この両親には決断力がある。事業で成功しているのも納得できた。 「うちの切花チェーンは、常々都内進出を目論んでいたんだ。すぐに実行に移そう」  新しい店に力を注ぐため、片岡家は都内に引っ越すことにする。店舗と家を探すために、明子と和美は明日から都内に移る。 「こんな計画でどうかな」 「寂しくなりますね」  その言葉に片岡は少し笑ったが、すぐに顔を引き締める。 「夏貴君はどうするんだ? 君も色々と知っている人間なんだよ」  今日、狙われたのが和美だけだという保証は何もない。 「僕は中学生だし、簡単には転居できませんよ」  夏貴は首を振った。 「今すぐ四神市を出ていきたいと言ったら、親に理由を説明する必要があるでしょう」  母や東に、受精卵不正流用の話をする気はなかった。必要だからと喋ってしまうと、その話は波のように遥か先まで伝わっていく。それは友達の噂話で身にしみていた。 「一人で出られないのならうちに来る? 下宿すればいいわよ。ねえ、お父さん」  和美が親切に申し出てくれる。夏貴はその優しい顔の中に、友達の影をつい見てしまう。 (僕が止めきれなかった親友)  火の粉が降ろうがスチールワゴンが襲ってこようが、今、夏貴は四神市から逃げる気はなかった。そんなこと、口が裂けても正哉に言えないではないか。 「先日僕の病室で会った東という人、覚えていますか?」  不意に話題を変えられた気がしたのだろう、片岡は少し首を傾げて夏貴を見てくる。 「あの背の高い、都会的な人だね」 (都会的とは! まあ、水商売風とは言えないもんなぁ)  東が聞いたらしかめ面をしそうで、笑いが口に浮かぶ。 「あの人は母の婚約者なんです。入籍したら、僕も新しい父のところに引っ越すことになりそうです。だから心配しないでください」 「そうなの。良かった」  明子がほっと息をついた。中学生一人見捨てて、自分たちだけ逃げ出すのでは寝覚めが悪いのだろう。 「じゃあ、お元気で」  夏貴が車から降りると、急いで和美が窓を開け、聞いてくる。 「様子が気になるの。連絡していい?」 「電話かメールにしてくれる? あいつも様子を知りたがるだろうから」  頷く和美の前で窓が閉まった。家へ、そして四神市以外のどこか安全な場所へと、車は去っていく。  人気のない駐車場に立っていると、宵の口の明るさが消えていくのと引き換えに、心細さが募ってくる。これから中学生だけで犯人を相手にし、今回の一件を解明しなくてはならないのだ。 「子供の頃から、テレビのヒーローに憧れたことなんかなかったのになぁ」  そうぼやくと、ポケットから正哉の声が聞こえた。 「事件に関わるのに、うんざりしてきたか?」 「必ず解決出来るという自信がない。それがたまらないのさ」  正直に答えた。昔、ファンタジーの世界に住みたいとは願ったし、遠くへ旅する物語の中の子供に、自分をなぞらえたこともある。しかし怪獣をやっつけることに興味は湧かなかった。まして地球を守る使命が自分にあると思った記憶はない。  それでも頑張るしかないのだ。しばらくの間駐車場に正哉と突っ立っていた。ほどなく街灯が、夜に明るさを運んでくる。そのときまで動くことが出来なかった。       6  無事退院すると、母子家庭の一員には事件の調査の他に、毎日の雑用が待っていた。 「出かけるよ。用は銀行振り込み、頼まれた買い物。あとは本屋へ」  夏貴が携帯電話をいつものポケットに入れようとすると、待てよと声がかかった。 「和美からメールが入っているよ」  正哉の声は、�和美�というところに力が入っていた。 「随分夏貴のことを心配しているぞ。早く返事をした方がいいんじゃないか?」  からかいを含んだ言い方に顔が赤くなってくる。和美から連絡が入るといつもこうで、正哉は楽しんでいる風だ。夏貴は乱暴に携帯電話を机の上に置くと、 「すぐ戻る」  そう言い残して部屋を出た。 「何だよ、置いてきぼりか? おい、メールは読まないのか?」 「後で!」  そのままさっさと外出する。しばらく顔が熱かった。  正哉と離れたのは本当に久々だった。住宅街を抜け、商店街の店先で頼まれた品物を拾っていく途中、気がついたら大きく一つ、ため息をついていた。ショーウィンドウに映った己の姿を見て、ふと思う。 (もしかして僕は、たまに一人きりになりたかったのかな)  そうかもしれないと思う。ここのところ正哉と二十四時間一緒だ。そうしてずっと側にいると、嫌でも見えてくる事実があったから。 (あいつが事を仕切っていて、僕はそれを手伝っている)  正哉がホームズで自分はワトスン役だ。それが悔しくて、ちょっと惨めなのだ。 (同じ歳なのに)  もちろんそんなことを言っている場合ではない。二人が関わっているのは放火殺人事件なのだから。それでも気になってしまう自分が確かにいて、そのことにうんざりしていた。 「あ、新刊が出ている」  書店に寄ったとき、正哉もお気に入りの漫画を見つけた。これを二人で回し読みすれば、胸に溜まった情けないもやもやも晴れてくるだろう。 「ラッキー」  やっと軽い足取りを取り戻して外へ出た。そのときふと、南の空に視線を向けた。 「火事?」  確かにサイレンの音が商店街の空を渡ってゆく。いくらも経たないうちに、不吉な事触れは数を増し、消防車が姿を現すと、連なって大通りを走り過ぎていった。救急車が続く。 「住宅街に向かってるよね」  しかも四神神社がある南西方向ではなく、反対側、夏貴の家の方角みたいだ。 (考えすぎだ。まさか……そんなことがあるはずがない)  正哉の家が火事になっているから、つい疑り深くなっているのだ。そう、自分に言い聞かせる。しかし心の中から、もの凄い不安が湧き上がってきていた。 (携帯電話! 家に置いてきちゃった!) 「帰らなきゃ!」  過呼吸になったときより目の前がふらつく気がする。知らず知らず走り出していた。 「持って出るんだった。今日に限って、何で…」  人をかき分け、駆け出してゆく。頭はただただ、不安で一杯だった。友を置いてきてしまったから。ひどく嫌いになってしまった消防車のサイレンが、こんなに間近に聞こえるからだ。  家が近づいてくるにしたがって、その不吉な音はますます大きくなってくる。夏貴にはその事実が信じられなかった。 (うちのはずがない)  どうしてもそう考えてしまう。何故なら、 (いつも火の始末はきちんとしている。家は古くもないし、母子二人暮しで、煙草を吸う人もいない。火事になる理由なんかない)  この考えが浮かんだとき、そっくりな言葉をいつか聞いたことを思い出した。日野家の火事について、正哉が同じようなことを言っていなかったか? (放火されたとしたら……うちも)  受精卵流用事件に関わったからか? 走り続けていた足が急に止まる。目の前に赤い風景が再現されていた。数台以上も止まっている消防車の色が壁を作っている。濡れた道路に、白く太いホースがう 揃ねり、銀色の防火服にオレンジの蛍光色を貼りつけた消防署員が走っている。金属の梯子を消防車から二人がかりで降ろしていた。煙と水しぶきで空気が別物になっている。 「下がって!」  消防士の声が響く。野次馬の雰囲気が殺気立っている。屋根の上にも、鮮やかに炎が立ち上り、桜の木が火を映して紅い。濃い煙が風下をかすませている。数秒間、頭の中が真っ白になった。 (あ……あ……)  自分の心臓が燃え上がって締めつけられている気がした。夏貴の部屋の窓も既に赤い。あの窓の横に勉強机がある。その上に、正哉を置いたままで出てきてしまった! 「正哉っ」  走り出していた。二度は失えない。あんな思いはもうごめんだった。まぶたの裏に、今日とよく似た火事の風景が蘇る。  あのとき火が怖かった。立ちすくんでいる間に友を失ってしまった。絶対に取り返しがつかないこと、そういうことがあるのだと、後から思い知らされた! 野次馬をかき分ける。 「夏貴っ。大丈夫だったのね」  母の声が耳を通り過ぎて消えた。ホースをまたぎ、「君っ!」という声を無視して桜の木に駆け寄る。いつものコースを一気に登ると、二階のベランダに下りた。 「おい、何をしているんだっ」  怒声が下から聞こえる。それを気にしている暇も余裕もなかった。 (熱いっ)  服に守られていない顔や手が炙られる。歯を食いしばって、窓サッシに手を伸ばす。「ひっ」素手では触ることもできなかった。部屋の中に火の手が見えた。早くしないと携帯電話が燃えてしまう。ベランダにあった木のサンダルを掴み、両手で思い切り窓硝子に打ちつけた。硝子が部屋に吸い込まれる。煙と熱気が噴出してきて顔を殴った。 「正哉っ」  自分でも正気じゃないと思いながら、残った硝子を蹴り割って部屋に飛び込む。 (机はすぐ側のはずだ)  六畳しかないはずの部屋なのに、煙で前が見えない。熱い! 「ぐほっ、げっ、はあ、はあぁっ」  気が立っているせいか呼吸が乱れてくる。 (冗談じゃない。過呼吸にはなれない。今だけは駄目だ!)  闇雲に前に出たら、椅子にぶつかった。 (痛ぁっ)  机は横だ。手で探った。 「わっ」  机上で燃えていた何かを叩き落としていた。 「正哉、返事をしてくれ。どこだ」  机の上にあるのだ。何故見つからないのだろう。息が苦しい。見えないのは煙のせいか? 火事のためか? 過呼吸なのか煙に巻かれているのか、もう自分では判別もつかない。指先に硬いものが触れた。 「あったっ」  すぐに飛びついた。 「わ……あぁっ」  声が絞り出される。脳天を突き抜ける熱さ。掴んだものが指に張りついていた。もし振り払ったとしても、離れなかっただろう。 (溶けかけている?)  震える手を左手で押さえて、電話機の様子を見る。煙の中、画面が暗いことだけは分かった。 「正哉。聞こえているか、正哉!」  返答がない。何も聞こえない! (どうしよう。どうしよう、どうしようっ)  何度も馬鹿みたいに繰り返し呼んだ。信じられない。反応がない。 (ドウシテへンジガナインダ)  煙のせいだろうか、何も見えなくなった。涙が溢れてきている。これもきっと煙のせいだ。立っていられない。こんなところで座り込んでいる状況ではないと分かっていても、力が湧いてこない。ただ震えが走っていた。 (どうしよう……) 「いたぞっ」  窓の外に大きな影が映った。全身防火衣に包まれた者が、炎の色を服に映しつつ煙の中に飛び込んでくる。しゃがんでいた夏貴をグローブの手で掴み、引きずり起こすと、ベランダに掛けられた梯子で待っていたもう一人に、力業で渡した。 「水っ」  叫ぶ声が聞こえた。そのとき自分の服に火がついていたのを知った。夏貴は放り出されるように地面に転がされ、水浸しにされる。水は家の一階にも散った。 (アレ?)  地面すれすれの位置に、鮮やかに炎が立っているのが見えた。放水の真正面に置かれているガーデニング用の木鉢が燃えている。 (ナンダ? アレハ)  かすかに頭に引っかかった。以前にも見たことがあるような……。しかしすぐにそんな考えは消え散って、頭はただ一つの思いに占領されてゆく。 (今度こそ正哉は帰ってこない)  間違いない。どうしようもない。 (お前が置いていったからだ!)  夏貴の手に張りついた携帯電話は、ボタンが溶けて固まり、押すことも出来なくなっている。滑らかだった銀色の本体表面が、粟立っているような小さな粒を浮かべて黒っぼく煤けていた。 (お前のしわざだ……)  母の叫び声が聞こえた気がする。体が持ち上げられ運ばれてゆく。また救急車に乗ることになるのだろう。家はまだ燃えているようだ。きっと全焼だ。正哉の家のように。 (オマエハマタシッパイシタ)  ストレッチャーごと救急車に乗せられたとき、振動で吐き気がした。天井に大きなネットと、点滴用のボトルらしさものがぶら下がっているのが見える。 (ここには煙がない)  こういうときに限って過呼吸にならない。いっそ気を失えば楽だと思うのに。  病院へ運ばれていく間中、手に張りついた携帯電話がずしりと重く感じられて、夏貴は目を見開いたまま泣き出しそうだった。  ただ、涙は流れてくれなかった。 [#改ページ]    第六章 知る       1 『音村夏貴』という名札が四神病院第三病棟五階、三五〇二病室の外にかかって、一週間経っていた。  夏貴の焼けこげた髪の毛は短く刈られてしまい、手の包帯が白く目立っている。携帯電話がベッドサイドの机に置かれていた。ただ置かれているだけだ。溶けかけて煤けた携帯電話は、誰が見ても使い物にならない代物だ。それでも捨てられずにあるのは、夏貴が、 「これは正哉の形見だ」  と言って離さなかったからだ。  大人たちはその一言で、火事場での夏貴の無謀さを理解出来たと思った様子だ。正哉が死んでから、まだいくらも経っていない。親友の形見の品をなくすことに耐えられなかったのだろうと。  それらの声を聞きながら、夏貴はただ黙りこくっていた。 (正哉が携帯電話の中にいたと言っても、もう和美ちゃん以外は誰も信じないだろうな)  中学生の法螺話と片付けられるだけだ。焼き殺された正哉がその理由を知りたくて、この世から離れないでいたなんて、ありえない話なのだから。 (でもそれが事実なのに)  そして今度の火事で、正哉は本当に消えてしまった。 (あいつ、どうなっちゃったんだろう。成仏したのかな? それともただ、話が出来なくなっただけで、幽霊みたいにこの世をさまよっているんだろうか)  死に切れないほどの心残りが、そのままになっている。今、正哉が安らかな状態だとは、どうしても思えなかった。 (僕のせいだ)  何故あのときに限って、携帯電話を持って出なかったのだろう。同じ考えが頭の中を駆けまわり続ける。解決するすべもないまま居座る……。その思いに、軽いノックの音が重なった。 「夏貴君、具合どうだい?」  病室に入って来たのは柴原医師だった。後ろに母と東の姿も見える。火事の後、口をきく気持ちにはなれず、黙《だんま》りを通している夏貴を診てくれるよう、母が頼んだに違いなかった。柴原が夏貴の右手の包帯に触れた。 「無茶をするなぁ」  溶けかけた携帯電話は手に張りついてしまい、剥がすのにひどく手間取ったらしい。右手はしばらく使い物にならないようで、今は白いグローブみたいになっていた。他にもあちこちに火傷の跡が地図を描いている。幸いだったのは、体の火傷がそれほど深くはなかったことだ。 「もう一週間は入院しなくちゃいけないよ。その後もしばらくは通院が必要だ」  柴原は、今日は怒ったような顔をしている。 「それで済んだのが幸運だったと、看護師さんたちが話してたぞ。簡単に捨てていいような命じゃないだろ? そんな軽いものを、せっせと長年治してきたわけじゃない」  もっともな意見だったが、今の夏貴の頭には入らない。黙ったままそっぽを向き続ける。  すると、柴原が静かにベッドの脇に立った。不意に、ごんっ、という硬い音がして、夏貴の目に涙が滲む。日頃温厚な医師が、母が顔色を変えるような拳固を食らわせてきたのだ。 「痛あっ……」  思わず左手で頭を抱え、情けない調子でうめく。 「おや、喋れるみたいだね」  医師は、いつもの優しげな笑顔を浮かべた。 「とにかく助かって良かったですよ」  呆然とする母と、口をへの字にした東の前を通って病室を出ていった。 「何だぁ、あの医者は。怪我人の頭を殴っていきやがった」  未来の息子に、己より先に手を出したのが気に食わないのか、閉めたドアを見る東の目つきは鋭い。母が涙目で夏貴に話しかけてきた。 「心配したのよ。突然燃えている家に飛び込んでいくんだもの。いつまでも出てこないし、今にも家が焼け落ちそうで」 「全く、火の中に突っ込むなんて、お前何考えてるんだ?」  東が怖い顔で壊れた携帯電話を睨みつける。夏貴は反射的に電話機を守ろうと、包帯で巻かれた太い手を伸ばし、掴めずに弾き飛ばしてしまった。 「あっ」  慌てて拾おうと立ち上がる。パジャマが擦れてあちこちが痛い。顔をしかめている間に、仏頂面の東が先に携帯電話を拾い上げ、ため息をつきながら机に置いた。 「いいから横になっていろ。でも話は聞けよ。急いで決めなくちゃならないことが多いんだ」  残ったのは銀行預金くらいで、何もかも燃えてしまったわけだ。衣食住全てにわたり、手配すべきことが山となっているのは、夏貴にも理解できた。 「金や生活のことは、俺と彌生さんで決める。大人の仕事だからな。夏貴、お前さんが関わるのは、住む場所のことだ」 「アパートか何か?」  これも中学生には手に余ることに思えて、ベッドの上で首を傾げる。東は思いもかけない提案をしてきた。 「どうせ住居《すまい》を変わらなくてはならないんだ。彌生さんとの結婚予定を早めようと思う。都内の新しい家に、家族で住むんだ」 「結婚? 引っ越し?」  目が丸くなる。言われた内容は理解出来たが、現実だという気がしない。 (考えてみれば、当たり前に出てきそうな話だよな。母さんは再婚するんだし。でも……)  四神市を出ていくなんて、想像したこともなかった。この土地で生まれ、育ち、自宅があった。父が死ななければ、東京に勤めることはあっても、一生をこの地で暮らしたと思う。 (それが今や……)  親友が死に、家が焼け、夏貴をこの町につなぐ太い綱だと思っていたものが、解けて細い糸となり、切れてゆく。転校してしまえば通り一遍の友人とは、疎遠になってゆくだろう。四神市に来ることも、きっとほとんどなくなる。 (……あ……)  夏貴は中学生なのだ。家を変われば時間や交通費が壁になって、四神市に来ることすら、ままならなくなるだろう。間違いない。 (そうなったら、どうやって放火事件を調べるんだ?)  顔を上げた。 (寝ている場合じゃない。落ち込むのは先延ばしだ。時間がない。この放火事件だけは、真実を突き止めなくっちゃ!)  そうでないと正哉は永遠に口もきけないまま、どこかをさまようことになる。夏貴自身、携帯電話を家に置いて出たことに、一生囚われてしまう。痛みに何度も顔をしかめながら、ベッドの上に座りなおした。 (それに……絶対に放火犯だけは許せない)  夏貴の目の前で、二度も正哉を焼き殺した奴! 何が何でもそいつだけは! 「どうした? 起き上がったりして」  返事をする前に呼吸を整える。とりあえず目の前にいる、この手ごわい未来の父に対し、時間稼ぎをしなくてはならない。まずは母に尋ねた。 「僕、転校することになるんだよね?」 「ごめんなさいね、三年生なのに。本当は高校入学に合わせて転居する予定だったのよ」 「僕だけでもこっちに残っちゃ駄目? 卒業するまで」 「駄目だ」  間髪を容れず、東から制止の声が入る。 「一人でこんな物騒なところに置いておけるか。俺が顔を出すようになってからでさえ、二軒家が燃えて、四人死人が出ている」 「いつもは静かな普通の町だよ」 「今は違うようだな。駄目だ」  東は腕を組み、頑として承知しない。いかにも喧嘩慣れしているこの男は、危険に対して勘が鋭いようであった。 「せめて夏休みまで待ってよ。転校してすぐに期末試験じゃ大変だよ。手もこんな具合だし」 「それはそうね」  この言葉には、母の方が頷いた。 「しばらくこちらにいるとしたら、二回引っ越すことになるよ、彌生さん」 「でもどうせ、火事の始末やら色々な手続きやらで、当分四神市での用事が続くし」  東は夏貴には強く出られても、母には弱いようだ。結局夏休みまで、母子でアパートを借りて過ごすという話にまとまる。それが残された時間だった。 (あと一カ月もない)  その間に音村夏貴十四歳は、二件の放火事件の真実を探り出し、正哉に報告しなければならない。しかもこれからは相談相手もいない。 (謎は増えてゆく。時間はわずかしかない)  随分と分の悪い勝負だ。ありがたくないことにこの戦い、夏貴には逃げ出す権利がなかった。       2 「退院したと思ったら、すぐに火傷を作って帰ってくるんだもんなぁ」  次の日の夕刻も、病室で柴原がぶつぶつと不満を述べながら、夏貴の火傷を診ていた。 (文句を言うなら、放っておけばいいのに)  本来なら産婦人科医には専門外のことだ。しかし自分が診てきた患者だからと、柴原はこまめに診察に来た。夕食時で動ける者は食堂へ行っているらしく、廊下を歩く足音も聞こえない。 「すみません」  素直に謝って上着を脱ぐ。柴原の手当ては担当の医師よりも、いささか乱暴な気がする。しかし夏貴の顔色は良かった。 (ドアは閉まっているな)  思いがけなくも柴原と二人きりの時間が訪れていた。 (今なら受精卵流用について問いただせる。先生の口は堅いというけれど、駄目で元々だ)  一か八か、そのものずばりと言葉を切り込んでみるのだ。 「先生、ちょっと聞いていいですか?」 「何だい」 「片岡和美ちゃんは、日野夫妻の受精卵を使って生まれたんですよね。先生はそのことを、誰かに話しましたか?」  医師のピンセットを持った手が止まった。 「おいおい、何の話だ?」 「和美ちゃんのところに、正哉のお父さんから連絡があったんです。彼女は自分たち夫婦の娘に違いない。これから時々会いたいって」  柴原が黙った。 「おじさんは誰かから、受精卵流用の話を聞いたみたいだった。出処《でどころ》は確かめられませんでした。日野家は放火されて、全員が死んでしまったから」  振り向いて医師の顔を真正面から見る。 「その放火事件を調べていた僕の家も、放火されました。おまけに先日は、僕と和美ちゃんの頭の上に、金属のワゴンが降ってきた」 「危なかったね」  さらりと受け流す柴原に向かって、思い切り顔をしかめた。 「何か知っているんでしょう? だって大本になっている受精卵流用は、先生がしたことだ」  食い下がる。医師の苦笑が目の前にあった。 「知らないなあ。そんなこと」 「僕は、片岡さんから直接聞いたんです!」 「声が大きい。確証もないことを言うもんじゃないだろう」  柴原はぴしゃりと言い返してきた。 「片岡さんは、絶対に公の場で受精卵流用を認めたりしない。和美ちゃんとの血液鑑定もやらない」  そう断言すると、柴原はいつもの優しい笑いを夏貴に向ける。 「ほら治療を続けるよ。あと少しだから」  小さい子供に言い聞かせる口調で言い、反対側を向かせる。 「ねえ夏貴君、何だか知らないけど口は堅いほうがいい。下手に事をつついて、いらぬお世話と思う人が出てきても困るだろう?」 「興味半分で調べているんじゃありません。正哉が死ななかったら首を突っ込みはしなかった」 「日野君か。君の親友。彼も俺の患者だったね」  その言葉に、思わずまた振り返った。 「まさか正哉も、誰かの受精卵を貰って……」 「そのことは知らないと言っただろう。日野君は俺が、人工授精でこの世に招いた子だ。ご両親の子供だよ」 「人工授精……」  近年、様々な不妊治療が行われていて、夏貴にはその違いも分からない。人工授精などはもう、一般的な治療になっているのかもしれなかった。 「はい、終わりだ」  その切るような口調の一言で、これ以上聞いても情報は取れないと分かった。ぽんと肩が叩かれ、ガーゼを持った柴原の手が引っ込む。 (くそっ。やっぱり真正面から聞いたって駄目なんだ。一言も喋りやしない)  しかめ面を浮かべつつ夏貴は上着をはおり、ボタンをかける。不自由な右手のおかげで例によって、手際よくいかなかった。 「それじゃ夕飯を食べる時間がなくなるぞ。歩けるから、食堂で食べているんだろう?」  一緒に部屋を出る気なのだろう、柴原がしゃがんでシャツに手をかけてくる。幼稚園児にでもなった気がして、おもしろくない。口をへの字にしてそっぽを向いていると視線を感じ、ふと前を見た。 (えっ?)  大きく目を見開く。真正面に見たことのない柴原の表情があった。 「……先生、どうしたの。何だか」  怖いんですけど。  その言葉を呑み込んだ。うっかり口にしたらボタンにかかっている手が、喉元に伸びてきそうな気がする。 (どうして……いつも温厚な先生が、こんな顔するんだ?)  きつい表情をしているわけではなかった。ただ、表情がない。やると決めたら人殺しさえさっさとやりそうな、静かな不気味さ。 (やっぱり柴原先生が放火犯だったりして。それで、僕の言葉を聞いて……)  聞いて、どうしようというのだろう。 (今なら僕を殺せるよな)  ありがたくもない考えが浮かんできて、頭の中を飛びまわる。目撃者はいない。おまけに夏貴は発作持ちだ。だから最後に一緒にいたのが柴原でも、何もおかしくない。 「傷の手当てをしている間に、いつもの過呼吸が起こったんです」  警察と両親にはそう説明すればいい。 「大したことはないと本人が言ったものですから、先に部屋を出てしまったんです。夏貴君はもう少し、休んでいくと言ったので」  その後、発作が大きくなって死んだという筋書きが書ける。大竹院長は病院内での不審な死亡事件など歓迎しないだろうから、そんな説明でも受け入れるかもしれない。  そう思っている間に、柴原の両手が動いて、夏貴の頬をはさんだ。 「いつも体を大事にするように言っているだろう、夏貴君」  柴原の無表情な顔が向き合ってくる。震えがきて目を逸らしたかったが、大人の両腕は夏貴の力では頑として動かない。こういうとき、自分がまだ中学生なのだと思い知らされる。 「正哉君の死は残念だ。でもそのことを追いかけるのはもう止めなさい。怪我だらけだぞ。命を落としたらどうするんだ」  助言しているのか、脅しているのか。何を知っている? どこまで関わっている?  腕を外そうともがいた。本当に発作が起こりそうだ。柴原はただ押さえつけているだけで、このまま夏貴を殺してしまえるかもしれない。 「俺は君に長生きをしてほしい。そうだろう?」  返答すら出来なかった。つくづく自分は探偵向きでも、英雄向きでもないと思い知る。 (どうしよう……)  そのとき、ゆっくりと足音が近づいてきた。柴原が手の力を抜く。ほっとする思いが発作の兆候を押さえ込んだ。 「夏貴、いるか?」  聞きなれた声。軽いノックの音と共にドアが開く。東京にいるはずの東が顔を出した。  病室の真ん中に突っ立っている二人を見て、片眉だけ吊り上げる。店から直接来たのか、茶系統の派手な縞のスーツを着て、光り物のタイピンをしていた。 「今、治療が終わったところなんですよ」  柴原が笑いながら椅子から立ち上がった。 「もう食事に行っていいよ」  その声を最後まで聞かずに、夏貴は病室から小走りに出ていこうとした。 「夏貴君」  医者から声がかかった。ゆっくりと振り向くと、医師の口元に、にやりとした笑いが張りついているのが見えた。 「和美ちゃん、元気にしているの?」  自分の頬が赤くなってくるのが分かった。 (先生は何で僕のところに、彼女から連絡があるのを知っているんだ?)  返事をせず、そのまま振り向かなかった。       3  東はエレベーターホールの手前で夏貴に追いついて、話しかけてきた。 「彌生さんに聞いたんだが、あのワゴン事故のお詫びにと、病院から品物が届けられたんだってな」 「うん、お菓子の詰め合わせだった」  火事の前の出来事は、奇妙に遠く感じられる。 「院長が謝るのは大人だけだ。僕自身には、一言も悪かったって言わないんだから」  自分の声が、上ずっているのが分かった。まだ心臓の鼓動が速い。柴原の手の感触が顔に残っている……。エレベーターが扉を開き人を吐き出した。わずかの間、二人は黙った。 「お前、何か隠していないか?」  先に話し出したのは東だ。相変わらず勘が鋭い。 「秘密にすることなんかないよ!」  つっけんどんな返事でやり過ごし食堂に行こうとしたが、未来の父親は腕で前を塞いで、夏貴を通さなかった。 「どうも妙だなぁ」  東の顔は不機嫌だ。 「腹が減った」  夏貴は強引に歩き出す。東が後ろからある提案をしてきた。 「なあ、夏貴。家に帰らないか。元気そうじゃないか。アパートの用意も整ったから、このまま荷物をまとめたらいい。送るぞ」 「何? 担当の嶋《しま》先生が、もう退院していいって言ったの?」 「誰もそんなことは言っていない」 「退院まであと六日。何で急ぐの?」  東はすぐには返事をしなかった。食堂が見えてくると口を開く。 「またワゴンがぶつかってきたら、怖いだろ。今度は誰かが誤診でもするかもしれない」 「誰かって、どの先生のこと?」 「例えばの話だよ!」  大人が時々する、すっきりとしない言い方だった。これが嫌いで言うことを聞かないでいると、東は食事の間中、側で不機嫌そうに茶を飲んでいて鬱陶しかった。病室に戻ると今度は、いらついた動物園の熊のように、部屋をぐるぐると回り始める。 (何考えているんだか)  どうして急に退院などと言い出すのだろう。相変わらずこの男からは、妙な印象が拭えない。突然母が連れてきた風変わりな婚約者。今回の事件とは関係がないから放っておいているが、分からないことを背負っている点では、柴原と競えるかもしれない。夏貴には帰宅を急ぐ理由はなかった。もう一度柴原と話をして、何としてでも事件を解き明かすきっかけを掴まなくてはならない。医師は宿直が多い。夜病院にいる方が捉まえやすいのだ。 (今のところ、突破口は先生しかないもんな)  問題はただ闇雲に柴原に立ち向かうだけでは、これ以上話が進みそうもないことだ。夏貴はベッドの上で、枕を抱えて考えに集中した。 (先生しか知らなかった事実が、よそに流れているんだ。柴原先生が犯人か、それとも誰かに喋ったか)  二つに一つだと思う。だが柴原は、受精卵流用の話をすることすら拒否している。どう持っていけば、柴原は夏貴に真実を話すのだろうか。  必死に考えながら、夏貴は口をへの字にしていた。ほどなく歯をくいしばり始める。東が依然として病室の中を歩き続けているからだ。東の全身からいらいらが噴出していて癇に障った。 (全く大人というのは勝手さ。自分の意の通りにならないと、あの態度だもんな)  ふとベッドから首を持ち上げた。大人の目線で見たら今回の問題がどう見えるか、聞いてみたくなったのだ。東は前に一回、看護師たちから噂話を聞き出すとき、良い出汁《だし》昆布になっている。もしかしたら、二番出汁が出るかもしれない。  もちろん具体的な名を出すわけにはいかない。夏貴は忙しく頭の中で言葉を組み立てた。 「ねえ、おっさん」 「なんだ」  歩きながら返事をしている。 「大人が秘密を抱えているとするよね。その人が隠し事をしているのは分かってるけど、証拠がない。真実を知りたいとき、どうやって相手から答えを引き出したらいい?」  東の足が止まった。目が見開かれ、真っ直ぐに夏貴を見ている。顔が明らかに硬い。 (あれ?)  これは意外な反応で、こちらの方が戸惑ってしまう。 (単に東から意見を聞こうと思っただけなんだけど)  この態度はどう見ても、東自身がまずいことを抱えている感じだ。自分の足が止まったことに気づいて、狼狽している。 (しまった)  と顔に書いてある。 「あれれ、何か知られたくないことでもあるの? 僕は喩《たと》え話をしただけなんだけどな」  面白くなり突っ込むと、ますます顔が白くなる。だが夏貴が(おおっ)と思ったのは、そこからの東の反応だった。ものの数秒で立ち直ると、近寄ってきてベッド脇のスチールの椅子に、背もたれを前にして座り込む。 「まいったな」  そう漏らした声は小さな笑いを含んでいる。 「ばれているとは思わなかった。彌生さんには内緒だぞ」 「内緒?」  そう言われても、何を秘密にすればよいのか夏貴には分からない。返事をしないまま向き合っていると、東の眉毛が下がって、情けない顔になってゆく。 「そんなに突っ張るなよ。たかだかゼリーのことだろう?」 (ゼリー?)  先日ありがたくも差し入れてくれた、限定品のことだろうか。ますます謎が手をつないで増えていく。 「自分で買った振りをしたのは悪かったよ。でも俺は朝が弱くてね。人気商品が売り出される時間には、とても渋谷には行けなかったんだ」 「ヘーっ」  それは初耳で、自分の目つきが悪くなってくるのが分かった。  しかしそれしきのことで、この東がここまでうろたえるだろうか。母に言わないでくれと言うのもおかしい。夏貴は上目遣いに東の顔を覗き込んだ。 「それで誰が買ったの?」 「従業員にお願いした」  明後日《あさって》の方向を向いたまま返事をしている。その態度で答えが分かった。 「店のキャバクラ嬢に頼んだんだ。その人、美人?」 「子供が余計なことに気を回すんじゃない!」  怖い顔をしている。 (華やかな美人なんだね、きっと)  それで母には秘密にとなるわけだ。きっとそのキャバクラ嬢の方は、独身で、不機嫌なシェパードのような顔のオーナーを、憎からず思っているのだろう。そうでなかったらわざわざ菓子を買うために、午前中に起き出すはずがない。その女性だとて、夜働く仕事なのだから。 「浮気はしていないぞ」  東が座ったまま念を押してくる。しかし、それでも絶対に母には内緒だという。 「何で? やましいことはないんでしょ?」 「お前も男ならこれは覚えておけよ」  東は一層身を乗り出し、確信を持って話を続けた。 「女や世間は……特に女はな、直感で物事を判断するんだ。証拠なんかなくとも、小指の先ほどの小さなことを頭の中で奇妙な形にこしらえて、それが現実だと思い込む」  力の入った話し方だった。大いに経験ありといった感じだ。 「いったんそうなってみろ。後はこっちの話なんか、みんな疑ってかかってくるぞ。マスコミに記事が出ると、世間では真実だと思い込む。女の思考はそれと似ているんだ」  その言葉の何かが引っかかった。頭の中で繰り返してみる。東への返事が上の空になった。 「そりゃ大変だ。じゃあ、言わないよ」 「今日はいい子じゃないか」  東がほっとした顔をする。夏貴はその顔の前に左手を差し出した。 「お小遣いが不足中なんだけど」 「近頃の中学生は!」  じいさんのような繰言《くりごと》と共に差し出されたのは一万円。なかなか太っ腹だ。  そのとき顔をドアの方に向けると、夏貴はその札を大急ぎで財布にしまい込んだ。東の方は噛みつきそうな表情を、二秒で笑顔に修正する。  足音が近づいてきていた。二人の準備がぎりぎり整ったところで、母が病室に顔を出した。       4  夜半過ぎ、隣人のいない二人部屋の病室内は、静けさの中にある。夏貴はベッドヘッドに明かりを点けて、せっせと書き物に励んでいた。母は東が送り、とうに帰宅していた。 (母さん、最近少しだけ変わってきたかな)  書きながらそんなことを考えていた。 (やっぱり東と婚約したせいかな)  これなら夏までの間、鍵の掛かる部屋のないアパートで暮らせるだろうと思う。母は元々、誰かに頼っていなくては不安でならない、大人しい女らしい性格の人だ。父亡き後一人で幼い子供を育てなくてはならず、神経がささくれ立っていたに違いない。 (自分の子供にべったりと寄りかかってしまうほどに)  一方、東の方はどう考えても親分タイプだ。 (結構似合いの二人だよな)  二人の結婚が上手くいってくれることを、今は心の底から願っていた。相手の男が水商売をしていようが、光り物が大好きでシェパードのような顔つきだろうが、構いはしない。 (そうしたら母さんの過干渉が減って、僕の発作も、少しは治まるかもしれない)  先に希望が出てくる。母が結婚し、今度の事件さえ解決すれば。 (正哉とはもう……会えないけど)  左手に持ったボールペンは、不器用にゆっくりと字を綴ってゆく。本当はワープロソフトで書いて印字したいところだが、入院中の身だ。 (まあ、何とか読めればいいや。どうせ見せる相手はただ一人だ)  レポート用紙を埋めている内容は、夏貴が見て、聞いて、知った、一連の事件の全てだ。 (もちろん、証拠なんかどこにもないけど)  日野家の火事。突然現れた正哉の妹。夏貴の家の火事。DNA鑑定の話。片岡から聞いた受精卵流用の話。柴原の名前。スチールワゴンの事故。夏貴はそれらを組み立てて、想像で話を作っていった。全部をつなげると、自分でも驚くとんでもないフィクションとなってゆく。  全くの空想物語と言われれば、その通りだ。だが四神市で実際に何人もの死人が出ているのは事実。今書いているのは、一見ノンフィクションに見える、はったりだらけの物語だった。 (これは発表されたら、マスコミ受けするぞ)  もちろん大手の新聞や名の知れた雑誌に載ることはない。確証がないことだから。  でも今はインターネットがある。匿名で体験談として流すのは簡単だろう。雑誌の中にはいかがわしい話を載せているものだってある。だから柴原にこれを突きつけて、こう言うのだ。 (僕の質問に答えなければ、これをマスコミに渡すよ! 先生の名前も書いてある。受精卵流用の一件、誰に話したの? 答えてください)  柴原がその言葉を信じるよう願うしかない。書きはしたものの、この書き付けは本当に発表できる代物ではないからだ。名は書いてないが片岡和美のことも、話の中に出てくる。絶対に世間に知られてはいけないものだった。 (今日中にこれは書き上げてしまおう。話をつけるチャンスは、そうはないだろうし、早く使って、さっさと書き付けを廃棄したいからね)  退院まであと数日。その間に一日くらい柴原は夜勤をするだろう。そこを捉まえるのだ。もっと良いのは、一人で別棟の研究室にいてくれていることだ。あそこならきっと人気《ひとけ》がなくて、話がしやすいだろう。 (柴原先生から話を誰に漏らしたか聞き出せたら、次はその人物が放火犯かどうか、確かめなくっちゃね。動機も知る必要があるな)  正哉の墓に何もかも報告するつもりなのだから……。  不意に手が止まった。かすかな音を耳が捕らえていた。 (部屋の外。廊下だ。誰かいる)  それは密やかなものであるが故に、ぞわりと夏貴の皮膚を粟立たせた。夜勤の看護師たちは、あそこまで気配を殺して廊下を歩きはしない。患者がトイレに行っている様子でもない。  あるかなしかの音は病室の方に近寄ってきていた。夏貴は何とはなしに、ベッドの上で身を硬くする。今夜夏貴が暴露話を書いていることは誰も知らない。母も東も、柴原さえも全く予想もしていないはずだ。 (だから誰かがいきなり夜中に、この書き付けを奪いに来ると思うのは妄想なんだ)  人に見せられないものを書いているから、そんな不安を抱くのだ。小さな音の中にも不吉なものを感じてしまう。何もあるはずがなかった。足音がドアの外を通りかかる。  そのとき、音が消えた。しんと静まりかえっている。一秒、二秒……。音は戻ってこない。ボールペンを持つ手を、動かせなくなった。そのまま待って、待って……冷や汗が出てきた。 (そういえばこの書き付けがなくったって、とんでもないことが起こる可能性はあるんだよな)  家は放火されたのだ。スチールワゴンは夏貴たちに向かって、ぶつかってきた。夏貴に死んでほしいと思っている誰かが確かにいるのだ。  それでも巨大な病院内で、これ以上正面きって襲われると考えたことはなかった。病院関係者全員が犯人などということは、この規模ではありえないからだ。しかし……。  病室のドアに目が吸いつけられる。それは今にも小さな音をたてて動きだしそうだ。 (ここは安全じゃないのか?)  東が退院を勧めていたことを思い出した。あの男は何を感じていたのだろう。 (ふっ……うっ)  気持ちが追い詰められると息があがってくる。体に震えが走る。 (この頃減ってきたと思ってたのに)  だめだ! 発作を覚悟したとき、ドアの外で足音が復活した。小さな音はきちんとした歩を刻みながら遠ざかり、そのまま廊下の先に消えた。       5  その夜、足音はあと二回、聞こえてきた。そのたびに神経が逆立ち、眠るどころではない。六月の早い夜明けが来る頃になってやっと寝ついたので、寝坊して朝食を食べ損ねた。 (またあの足音は来るのかな)  今病室には暴露話が置いてある。こうなったらなるべく早く、出来れば今晩にも、柴原と話をして、あの書き付けを捨てたい。昼食後夏貴は、夜に備えて眠りこけた。  夕飯の後、一階に降りると、白衣を着た柴原の姿が廊下にあった。後をついていくと、病院内にあるコンビニに入っていく。インスタントコーヒーとカップラーメンを買っているのが見えた。支払い時に、レジにいるパートのおばちゃんに説教を食らっている。 「こんなものばっかり買って、医者の不養生だわよ、先生」 (売っておいて、その言葉はないよなぁ)  そうは思ったものの、笑みが浮かんできた。この時間にラーメンを買うということは、柴原は今日も病院に遅くまでいるつもりなのだ。隣にいた顔見知りの看護師に声をかける。 「柴原先生、今日当直だから夜食を買っているのかな」  答えたのは別の産婦人科の看護師だった。 「今日は赤木先生と研修医の前田《まえだ》さんの番よ。先生はきっと、研究棟の方にご用なんじゃない」 「へーえ」  思わず笑みが浮かんでくる。あとは急な呼び出しがないことを祈るだけだ。 (よし、今夜話をつけるぞ)  夜はゆっくりゆっくりと更けてゆく。  八時半に母から電話があった。九時に消灯してからも、廊下の足音は絶えない。気持ちがあせってベッドの上で右に左に転がっていた。今夜は忙しいのか、東は顔を見せなかった。  十一時。病室から抜け出すのは、もう少しだけ待つつもりだった。せめて日付が変わるまで。  時計の針が午前零時を指すと、もう我慢出来ずに上着をはおる。あえて着替えなかった。深夜に普段着姿で警備員に見つかったら、不信の念を込めて名前を聞かれること請け合いだからだ。ポケットに、溶けた正哉の携帯電話を入れる。先刻コンビニで買った薄いファイルに書き付けを挟み、廊下に出る。ほの暗い照明の下、心臓の音が聞こえてきそうだ。エレベーターで一階に降りた。  研究棟へ行くには、外来用の中央棟を通らなくてはならない。だがいったん中庭に出れば、そこから直接各病棟に行ける。木の陰を伝いながら人気のない真夜中の庭を、早足で歩いた。綺麗な星空が見えている。和美と四神神社で会った日のことが頭を過った。 (無事に暮らしているだろうか)  病院では携帯電話は禁止だ。気になりながらも最近連絡を取っていなかった。  研究棟の入口が見える。心配だったのは、入り込めるかどうかだった。建物に侵入出来ても、その先の各科研究室へ行くには、さらにカードキーが必要だった。  何年も前のこと、夏貴は診察室で、ぼんやり者の柴原がキーを研究棟に忘れてきてしまい、大島医師にドアを開けてほしいと、電話で頼んでいる場面を見たことがあった。その頃は病院の研究室に、何でそんなに厳重な防犯システムが必要なのか、全く理解出来なかった。 「薬品が盗まれたら困るから鍵を閉めているの?」  小学生の考えなどそんなもので、柴原に明るく笑われた記憶がある。もちろん薬品の盗難は困るだろう。しかしもっと大切なものは、パソコンの中にある情報に違いなかった。  とにかく運よく建物に入り込めたら、産婦人科の研究室に近づいて、物音でも立てるつもりだ。柴原がその昔を聞きつけて、出てきてくれることを祈るしかない。どうにもならないときはさっさと病室に戻って、計画の立て直しだ。成功したら自分でも驚くような気がする。 (我ながら大雑把な計画だなぁ)  研究棟の正面のドアにはさすがに鍵がかかっていた。だが、側面脇にある小さな出入り口は、あっさり開くではないか。 (ついてる)  中に入るのは初めてだ。常夜灯の光しかないことを差し引いても、患者が立ち入る場所とは明らかに雰囲気が違う。壁に絵一枚掛かっていない。天井近くに太いダクトが何本も走っている。一階カウンターの横に、各階の部屋割りと、使用状況を示すボードがあった。 (これは、これは……)  中学生の夏貴が見ても、一目で病院内の勢力図が分かる面積配分になっていた。はっきり言えば、研究室の内、半分が産婦人科の領地だった。 (露骨だなぁ)  病院の収入源はどの科なのかを、端的に示しているわけだ。産婦人科の研究室は、地下一階から地上二階まで。地階を示すボードの横にだけ、使用中を示すランプが点いている。 (こんな時間に研究しているなんて、柴原先生くらいのもんだよな)  さっそくホール正面の扉に向かう。左手の壁にカードキーを挿入する場所が見える。 (地下とは随分離れているんだな。どうしよう)  ここで小さな音を立てたところで、研究室の柴原が気がついて上がってくる可能性は薄い。それではと大騒ぎをすれば、間違いなく警備員が先に飛んでくるだろう。 (引き返すしかないか)  諦めかけ、恨めしい気持ちでドアの方を見る。目が大きく見開かれた。 (誰かがドアストッパーを使っている!)  誰か、とは言ったものの、今研究棟にいるのは柴原一人だ。いちいちカードキーを差し入れるのが面倒くさかったのだろうか。夏貴はそのずぼらさに顔をしかめた。 (これじゃ、せっかくのセキュリティーシステムが台無しだ)  それでもありがたい状況なのは間違いなかった。そっとドアを通り抜け、後で閉じ込められないように慎重にストッパーを嵌《は》め直す。階段を下った先にさらにもう一つドアがあった。そこにもドアストッパーが挟んであった。  地階フロア内はただ静かだった。真っ直ぐに一本廊下があり、先でコの字に折れ曲がっている。両側に研究室が並んでいた。  柴原のいる部屋は簡単に分かった。薄暗がりの中、唯一小さな嵌め殺し窓から光が漏れていたからだ。近づいてブラインドの隙間から覗き込む。何故だか柴原の姿は見えなかった。 (どこへ行ったんだろう。急患で呼び出されたかな)  すぐ戻ってくるつもりで、ドアストッパーを使ったのだろうか。思い切ってドアノブを回すと、すんなりと開く。中は診察室が三つ合わさったくらいの広さだ。壁際にファイルを入れてあるスチール棚がずらりと並んでいる。部屋中央の机には、パソコンが二台置いてあった。うち一台が立ち上がったままだ。 (あんまり研究室っていうイメージじゃないよな、この部屋)  思わず興味が湧いて、パソコンを覗き込んだ。画面に名簿が並んでいる。全て家族単位で分けられている。氏名、年齢、性別、職業、学歴、住所等、ぎっしりと書き込んであった。スクロールするといくつかの名前が通り過ぎた後に、見覚えのある字を見つけた。 (片岡義信、片岡明子、片岡和美……)  何の名簿か、突然分かった。 「これは受精卵を流用した家族の名簿……」  そのとき、突然パソコンの画面が暗くなった。 (うっ)  背中に人の気配を感じる。振り返ると予想した通り、柴原の笑顔があった。引っこ抜いたプラグを、片手にぶら下げている。 「覗き見なんていけないなぁ」 「そんな電源の落とし方をすると、コンピューターの調子が悪くなりますよ」  言い返すと、ゆったりとまた笑われた。 「大丈夫。もう中身のバックアップは取ってあるから」  プラグを放り出し、片手にまとめて持っていたカップの一つを差し出して、夏貴に勧めてくる。 「ミルクコーヒー。これなら入院患者さんでも飲めるだろ」  二つあるということは、目の前の分は夏貴のためにいれたものらしい。 (僕が来ることを、予測していた?)  机の上に置かれたマグカップを睨みつける。柴原はすぐ近くの椅子に座り込むと、旨そうにインスタントコーヒーを飲み始めた。 「今日コンビニで俺の予定を聞いていただろ? 来てくれると思ったよ。助かった。話があったんだが、病室でするのは嫌だったんだ。これからする話だけは、誰かに聞かれるわけにはいかないからね」 「……もしかして、ドア、わざと開けておいたんですか?」  今頃になってそうかと思い当たる。厳重な防犯システムに守られているドアのところに、ドアストッパーが置いてあるはずがないのだ。あれはわざわざ誰かが、あの場所まで持っていったものだ。 (馬鹿だ。入るとき、気がつくべきだった)  唇を噛む。柴原の笑い声がした。 「いくら俺でも、ドアを開けっぱなしにして外出はしないよ。知ってる? 研究室のドア、閉まると自動的に鍵がかかるんだ」  夏貴の方は必死で行動しているのに、それをからかわれている気がして面白くない。歯を食いしばり仁王立ちになると、柴原の目の前に、用意したファイルを突き出した。 「これは今まで僕の周りで起こったこと、全てについて書き記したものだよ。日野家の火事。突然現れた妹。音村家の火事。DNA鑑定の話。片岡さんから聞いた受精卵流用の話。柴原先生の名前。病院名。スチールワゴンの事故! 全部だ」 「ほう」  柴原から声があがる。相変わらず楽しんでいる風情だ。 「今夜ははぐらかさずに、僕の質問に答えてもらいます。そうでなかったら、このファイル、インターネットとマスコミに流すよ!」  精一杯厳しい口調で話したつもりだった。なのに柴原は、 「やるなぁ」  と妙な感心の仕方をしていて、困った様子がない。 「こんなことをするようになるとは、夏貴君も大きくなったな。背も高くなってきたし、何年もしない内に、大人の仲間入りだ」 (何故こうも余裕があるんだろう)  顔が嬉しそうに笑っている。ファイルのことは気にする様子もない。理解できなかった。 (僕が本心ではこれを発表する気がないと、見抜いているんだろうか)  ファイルの中身は、世間に知れれば警察沙汰になりかねない代物なのだ。そんな爆弾を握っていながら、夏貴は手も足も出ない状態に陥っていた。相手が恐れを感じないのではどうしようもない。立ち尽くしたまま手が力なく下がって、ファイルが机の上に落ちた。  そのとき柴原がカップを置いて立ち上がった。夏貴に近寄ると、脇にあった先ほどのパソコンの本体を手に取る。ルーフカバーを外すと、引き出しからドライバーと千枚通しを探し出し、それを梃子に使って中身を解体し始めた。 「先生、何するの?」  思わず声が出たのは、それがどう見ても発売一年未満の機種に思えたからだ。柴原はかまわずばらしてゆく。その内に本体の中心部が見えてきた。その部分を床に置くと、柴原は机にあった重い本を金槌代わりにして、千枚通しをパソコンの心臓部に打ちつけた。 「えっ?」  硬い音と共に部品が砕ける。さらに細かく叩き壊される。素人目にもパソコンが、二度と使い物にならなくなったのが分かった。 「このパフォーマンスは何?」  柴原が不可解な部分をどんどん増殖させていって、理解できない何かに化けてしまいそうだった。優しげな医師はしかし、今回は素直に理由を聞かせてくれた。 「パソコンに入れた情報を完璧に廃棄したいと思ったら、こうして心臓部を壊すしかないのき」 「えっ。初期化するとか、上書きすればいいんじゃないの?」 「残念ながらそれだけでは不完全なんだ。今のところ、この方法がいちばん信頼できる。何としても情報を流されたくない会社では、こうやってパソコンを廃棄しているところも多い」  そう言うと柴原は部屋にあった二台目のパソコン本体も解体して砕いてしまう。残骸をビニール袋に放り込むと、ポケットからDVDを取り出して夏貴に見せた。 「情報は皆ここに移したんだ。夏貴君が先日警告してくれただろう。誰かが俺の持つ受精卵流用のデータを掴んで流したと」  ため息が聞こえる。 「まさかとは思ったが、確認してみた。パソコンに入り込まれた形跡があった」  夏貴は驚いて目を見開いた、柴原は泥棒に情報を盗まれたと言っているのだ。 「受精卵流用は認めるんだ。でも情報が流れたのは、自分のせいじゃないと言いたいわけ?」 「秘密にしていたデータを見られたのだから、俺にも責任はある。悪かったよ。パソコンに入り込むためのパスワードを、誰がどうやって知ったのか……」  呆然とした。柴原にとって都合が良すぎる話に思えて、疑う気持ちが湧いてくる。しかし真実のようにも聞こえた。 (先生はずっと口が堅かった。急に正哉のお父さんに、和美ちゃんのことを喋る理由がない)  誰かが柴原のパソコンから事実を知り、動いたと考える方が自然だった。 「先生、もしかして、さ」  夏貴はふと思いつき、恐る恐る聞いてみる。 「パスワードに産婦人科で使う専門用語を使っていなかった?」 「……どうして分かったんだ?」  柴原が驚いた顔を向けてくる。 (この先生を知っている人間なら、試してみそうなパスワードだよな)  学術用語。仕事馬鹿で研究熱心な産婦人科医が最も使いそうな言葉だ。 (どうしてそんなものにしたんだ!)  唇を噛んだ。手が震える。受精卵流用の事実を柴原に認めさせることが出来たのに、事態は一向に進展していないということになってしまっている。 「なんだよ! ファイルを盾にしても無駄ってこと? 僕が聞きたいことを先生は知らないんだ。流用受精卵の情報を知った人物は誰なんだ。正哉のお父さんに連絡した奴の名前は何!」  ミルクコーヒーのカップを掴んでがぶりと飲むと、少しぬるくなっていた。 「それにしても先生、今日は大サービスで色々と話をしてくれるんですね」  いらいらついでに、皮肉っぼい言葉を向けた。柴原はDVDの入ったケースを、二本の人差し指で挟んで、器用にくるりくるりと回している。 「実は夏貴君には、他にも聞いてもらいたい話があるんだ。このDVDには、俺の研究成果が入っているんだが……」  柴原が一呼吸置く。夏貴はこの言葉で、画面上で見た片岡和美の名前を思い出した。彼女は柴原に感謝している様子があるが、自分のことを研究成果だと言われたらどう感じるだろうか。 「日頃使う必要のないデータは、家にあったから誰にも見られてはいない。でも今度のことで不安を感じたので、データは全部このDVD一枚に入れて、家のパソコンも壊したよ。買い替えた品が届くのは明日だ」  インターネットが使えないと不便だよとこぼしている。夏貴は柴原がこんな話を、どうして聞かせ続けているのか分からずに、眉をひそめた。 「盗み見されたパソコンには、受精卵流用者の名簿が入っていた。だが書いてあったのは、それだけじゃなかったんだ。正直に言うと、そちらを見られた方が大問題だった。何故なら」  言葉を切った。暢気《のんき》な柴原にして、大層言いにくい様子だ。ちらりと視線を寄越す。 「それは、クローン人間研究の記録だったんだ」 「はあっ?」  思わず頓狂な声が出た。柴原が医学に熱心なことは知っていたが、そんなことにまで手を出していたとは知らなかった。 「最近外国の医師が、アラブのお金持ちのクローン人間を作ったらしいと話題だけど。先生、もしかしてその研究に加わっていたの?」  日本人夫婦にも、クローンの子供を持ちたいと希望している人がいると、インターネット上に流れていた。四神病院でクローンを生み出せるとなれば、お金を積む者が出てくるかもしれない。 (でも確か、日本政府も医学会も、倫理上問題ありとしてたよな)  日本人医師が関わっているとばれたら、マスコミ沙汰間違いなしだ。 「幸いと言うか、病院のパソコンにあった情報は一都だけで、子供たちのイニシャルはあっても詳しいデータは添えていなかった。だから名前は、ばれないと思っていたんだが」 「えっ? 子供たちの名前? クローン人間て、何人もいたっけ」  どうも先ほどから話がかみ合っていない気がしている。 (でも、どこが?)  分からない。 「俺がこの病院で生み出したクローンたちは、一人、二人じゃない。皆知らないだけだ。クローンを作ったと人に喋ってはいないからね」  柴原はあっさりと喋った。あまりにも何気なく、淡々と。耳から入ってきた言葉が形になり脳みそに染み込む。事実を納得してくると、夏貴の心臓はどんどん鼓動を速めてゆく。 「世界中のどこよりも先に、この日本でクローン人間が誕生していたの?」 「そうだ」 「何故誰にも言わなかったの!」 「クローンを誕生させたと分かってしまったら、医学会から必ずストップがかかる。間違いなかった。せっかくの研究を潰される。だから秘密にしておいたんだ」  いかにも当たり前だという調子で、柴原が話す。夏貴は眩暈《めまい》を感じて机の端を掴んだ。 (柴原は他人の受精卵を勝手に使ったときも、躊躇しなかった。片岡さんがそう言っていたっけ)  願望の塊を抱えていて、それを可能にする実力もあったとしたら。 『やれるけど、やってはいけないことがある。でも興味津々だ。人間がそこで踏みとどまると思うかい?』  かつて正哉とかわした会話を思い出す。話し合うまでもなく、答えは一致していた。 『いいや。突っ走るね』  柴原は実行してしまったのだ。 「夏貴君は受精卵流用を問題にしているけどね。卵子の提供は日本でもそのうち、合法になるよ。まあ、勝手に使ったのはよくないが、子供たちが特別視されることは、先々なくなるだろう」 「……じゃあクローンは? 先生、何人も生み出したって言ったけど、その子たちは?」  思わずにじり寄ると、力のない返事が返ってきた。 「存在が知られると、騒ぎになるかもしれない。だから秘密にしておいたんだがな」  静かな地下の研究室で、夏貴は沸騰しそうな頭を抱えて立ち尽くしていた。火事から始まった一件は、親友の死、携帯電話の奇跡、いるはずのない友の妹の出現、受精卵不正流用の話、自宅の全焼へと次々に姿を変えたあげく、とんでもない怪物に化けてしまった。 (事件の解決を目指していたんだけど、これは……)  下手に触れると、収まりがつかなくなるかもしれない。大体事件そのものの存在が、誰かに知られてはまずいのではないか。 (マスコミが嗅ぎつけたらどうなるか、考えるだけでも怖い)  人は問題が起こっても、はっきりと自分たちが正義の味方だと認識出来れば、後は戦うだけで迷いはしない。相手が絶対的悪者。それならば話はすっきりとする。  しかしクローン人間問題では、生まれてきた子供たち自身には罪はない。それ故に排除は出来ないが、その存在が日常からはみ出していることに変わりはなかった。問題は日常の中に深く潜んで、陰湿なものになりそうな気がする。事がばれれば、追いかけまわされるのは柴原だけでは済まないだろう。興味半分の噂話を伴って、四神市一帯で大規模なクローン人間探しが始まりそうだ。 (あの人は四神病院の産婦人科にかかっていたのよ)  片親だけによく似ている子供が槍玉に上がるだろう。相続や人間関係でもめるケースも生まれてくるに違いない。 (DNA鑑定会社が、大儲けしそうだ)  マスコミはスクープを求めて、クローン人間を捉まえようとするかもしれない。今は本当に簡単に、親子鑑定が出来るのだから。 (テレビでも、クローン人間の存在が許せるかどうかの議論が始まるよ、きっと。皆がさもその権利があるかのような顔をして、その話題を喋り、出演料を稼いでいく。既に生まれていて、育って、普通に生活している誰かのことを話して)  柴原の持っているクローンのデータ。欲しがる人間の数は、こうなったら想像もつかない。 (マスコミか、医者か、警察関係か。子供を欲しがっている金持ちか)  ここまで考え、確信した。 (火事の原因は……受精卵流用の一件じゃない。クローン問題の方だ!)  柴原は、受精卵を不妊治療に使う方は、そのうち合法的に出来るようになると言った。ニュース価値としては、クローン問題の方が格段に大きい。医師が手に持つ薄いディスクケースを見つめた。安売りの店なら一枚わずか三百円足らずで買える品だ。それが情報を呑み込んで、とんでもない代物に化けていた。 (あ……)  医者の手の中にある情報に向かって、白い手が伸びてくる幻影を見た気がした。地の底から、天から、壁から、ありとあらゆるところから湧き出てくる。DVDを掴もうとする。 (欲しい、欲しい、欲しい、欲しい……)  名誉のため、探究心のため、正義感から、好奇心から、百万の理由を欲望という煩悩に絡みつかせて、無数の手が部屋一杯に現れて蠢《うごめ》いていた。 (ワタシニオクレ……)  その無数の手に向かって、柴原が優しい顔で微笑んでいる。罪よりも、喜びや誇りすら感じている顔だ。 (どうして責められなければならない? 皆の心からの希望を叶えているのに)  医師の微笑がそう告げている。夏貴にはその顔が、部屋を埋め尽くす白い手の願望だけを、器用に見つめている気がした。人の形を取って生まれてきた子供たちの姿は、決して見ていない。それは実験結果であって、データそのもので、だから成長が気になる。  笑って怒って、毎日を生きているその子供たちを、本当に人だと思っているのだろうか。手の幻から逃れるために、首を強く振った。夏貴は側に座っている柴原に目をやった。 「ねえ、先生」 「何だ?」 「どうしてクローンのことを僕に喋ったの? 今度の件から手を引かせるため?」 「いや」  柴原が立ち上がった。顔から笑いが消えている。表情のない顔で手を伸ばしてくる。両の肩を掴まれた。 「君に自分の身を守ってほしかったからだ。火事のことといいワゴンの事故といい、明らかに夏貴君は狙われている。誰の仕業かは分からないが、調べがついているのかもしれない」  能面に似た顔が目の前にある。こういうときの柴原は怖い。 「調べ? 何の?」  必死に会話を継ぐ。その返事はとんでもないものだった。 「夏貴君、君が俺の作った、世界最初のクローン人間だということだ」  時の流れが突然止まった気がした。 [#改ページ]    第七章 話す       1 「クローン……?」 (何を冗談言ってるんだ?)  夏貴は大きく目を見開いて、ただ柴原を見ていた。声一つ出てこなかった。頭が考えることを拒否している。医者のあまりにもいつもと変わらない優しげな笑顔が怖くなって、思わず一歩身を引こうとした。だが柴原の両の手が、がっちりと肩を掴んだまま放さない。 「少し震えているかい? どうして怖がるかな。俺が君を傷つけるわけがない。大事な大事な最初のクローン体だ」  ここまで育つのに十四年かかっていると、笑顔で言う。この男の目には、自分が有名な世界初のクローン羊のように映っているのではないか、という気がした。めえめえ鳴いている実験動物。 「……証拠はあるの」  正哉の両親に娘と呼ばれたとき、血縁関係を否定した和美の気持ちが分かった。柴原はこの言葉を聞いて、面白がっている様子だ。 「もちろん君のお父さんの組織サンプルは取ってあるし、二人のDNA検査もしてある。だが俺から示された検査結果じゃ、納得出来ないだろう?」  柴原は少しの間考えると、 「お父さんのへその緒が家にあれば、自分でDNA鑑定を業者に依頼出来るよ」  そう提案してきた。 「でも、もっと手っ取り早いのは、アルバムを見ることかな。お父さんの若い頃と自分を比べてみれば分かることだ。自分自身が写真の中にいる気がするかもね」 「似たもの親子だっているじゃないか」  反論したものの、声に力が入らない。そういえば、父のアルバムを見た記憶がなかった。 「夏貴君は額に一房茶髪があるけど、お父さんも同じところにあったよ。いや、それよりも……」  間近にある柴原の顔が、かすかに歪んだ。 「お母さんが、何で君にあれほどこだわるか考えたことがあるかい? 最近、君はますます似てきているからね。お母さんの思い出の中にいるお父さんに」  母はよほど亡くなった父のことが好きだったのだろうと、柴原は言う。目の前でゆっくりと再現されてゆく自分の夫の幻に、心が揺れるのだろうと。  夏貴の顔が真っ赤に染まった。 (先生は母さんの、僕への執着を知っている?)  柴原はずっと他の人とは違う目で、二人きりになった家族を見てきたに違いない。夏貴が父のクローンだとしたら、母との間に遺伝的なつながりはないのだ。 (これが……母さんが僕にまとわりついている理由か)  普段は自分が産んだ子供として夏貴と接し、ときにその顔形に亡くなった夫の影を見る。母は何もかも承知の上で、なお揺れ動いているのだ。目の前に夏貴がいるから。 (ひくっ)  大きく引きつれたような息をついた。呼吸が速くなっていた。体に馴染みの痙攣が走ってゆく。 (父さんにも過呼吸の症状があったんだろうか)  足元から震えが上がってきた。 「夏貴君?」  柴原の声が遠い。ひどい発作になりそうな予感がした。痙攣症状が起きると柴原が夏貴の体を抱え上げ、急いで隣の部屋にあった医療用ベッドに寝かせた。その間にも呼吸は速く荒くなる。 (過呼吸で死ぬことはない)  分かっていてもパニックが起こる。目の前のものが爆発して片端からはじけていきそうな、そんな恐怖。痺れが手足に走る。 「炭酸ガス! ちっ、ここにはなかったか」  眉をひそめた医者が、手近にあった紙袋を夏貴の顔の上に被せてきた。鼻と口がしっかりと塞がれる。そのとき。 「おい、人の息子に何をするんだ!」  二人きりのはずだった部屋に、思いがけない声が響いた。隣の部屋から飛び込んできたのは、こんなところにいるはずのない東だった。 「こいつを殺す気なのか。保身のためか!」  東が大急ぎで紙袋を、夏貴の顔からむしり取る。それを柴原が必死で奪い返した。 「慌てるな。過呼吸の発作を抑えるために時々使う方法だ。袋の中で呼吸させて、二酸化炭素の量を調整するんだ」  紙袋が行ったり来たりしたせいで、今日はなかなか上手く息が吸えなかった。それでも一定の間隔で口に袋を当てて数分すると、呼吸が落ち着いてくる。痙攣が収まってくると共に、東も冷静さを取り戻してきた。医者の皮肉っぼい声がする。 「驚きましたよ。夏貴君のために鍵を開けておきましたがね。まさか新しいお父さんまで現れるとは思わなかった。東さんでしたっけ?」 「このところ何かと物騒なんでね。病院にはあんたがいるし、こいつを一人には出来んだろうが」  ベッドを挟んで二人がきつい視線を交わしている。夏貴はまだ体に力が入らないまま、薄暗い照明の下、二人を眺めていた。 (一人に出来ないって……)  東は夏貴を見張っていたのだろうか。病室からずっと後をつけてきたのか。 (じゃあ夜、病室の前を行き来していた足音の主は、おっさんか)  東は夏貴にさかんに退院を勧めていた。病院は危険だと本気で思っていたのだ。 (先生がいるからって言ってた)  倒れた夏貴を治療しようとした柴原にさっき、食ってかかった。 (何故だ?)  医者のことを、そこまで不信に思う理由。考えられるのは……。 「おっさんは知ってたんだ。僕のこと」  細い声に、二人の大人の視線がベッドに集まる。 「母さんが話していたんだ。……僕がクローンだって。柴原先生が作り出したんだって! そうだろ」  声が上ずった。 「知っていて、僕には黙ってたんだ!」  何かが体の中で破裂しそうだった。それを吐き出すこともなだめることも出来ず、ただかすれた声で東に食ってかかっている。いっそ大声で泣き出せばいいのに、それすら出来なかった。見事なばかりに涙腺が乾ききっている。どうしてこんなときに、使い物にならないのだろう。  湧き上がってくるのは涙ではなく、別の記憶。今は思い出したくもない会話だった。 (そうだ……以前病室で東が、うろたえたことがあった)  秘密を抱えた大人の話をしたときだ。あのとき東は明らかに、クローンの秘密を聞かれたと思い狼狽したのだ。すぐにゼリーを買ったキャバクラ嬢の話に切り替えて、ごまかしたが。 (間違いないんだ。僕は……父さんのクローン……)  自分は亡くなった父親の何にあたるのだ? 子供? 年の離れた双子の兄弟? 「これはこれは。こんな一大事を結婚前に聞いているとは。音村さんとは、それは信頼し合っているんですね」  柴原の驚きを含んだ声がした。あまり嬉しそうではない。 「でもせめてこのことぐらいは、息子のために黙っていればいいのに。一人に喋ると、秘密はあっという間に広がってしまう」 「人に説教できる立場じゃないだろう。あんた、パソコンからデータを盗まれたようじゃないか」 「……聞いていたんですか」  二人の視線が互いを刺し貫く。 (東は僕のすぐ後から、地下に来てたんだな)  夏貴たちがしていたのは、余人の立ち入る隙間のない話題だ。首を突っ込まずに、ただ部屋の外から見ていたのだろう。夏貴の口が紙袋で塞がれるまでは。 「柴原先生、あんた今までのことは他の奴の仕業だと言うんだな。お前さんがしたことではないと」 「もちろん」 「ただ、その原因を作っただけだよな。後先考えずに興味本位で始めたクローン研究の結果を、誰かに盗み見されたことによって」  いつもは温厚な柴原が、東を睨み返す。この二人、どうにも相性が最悪のようだった。 「俺の研究を悪《あ》し様《ざま》に言わないでくださいよ。まるで未来の息子さんが、生まれてこなければ良かったみたいじゃないですか」  その言葉が終わらないうちに、東の体はベッドの上を飛び越えていた。着地する前に平手が医師の頬に飛ぶ。いかにも喧嘩なれした男の一発が、小気味よい音を地階の部屋に響かせた。 「言って良いことと、そうでないことの判断もつかないのか。あんたエリート医者なんだろう!」  睨み合う二人を前に、夏貴がベッドの上で笑い出した。いささか調子の外れた震えた声だった。 「馬鹿みたいなこと言うなよ、おっさん。先生にそんな常識があったら、僕なんか作り出しちゃいないって」  笑って笑って笑って、笑い続ける。東が軽くその頬をはたくまで止まらなかった。 「これだけ元気なら十分だ。荷物は明日取りに来る。さあ、退院するぞ」  東に腕を引かれて立ち上がる。自分では何も判断が出来ず、ただ人の言いなりだ。出ていく二人の後ろから柴原の声がした。 「そんなにぴりぴりする必要はないよ、夏貴君。今のところ君は、自然出産の子供と何の差異もない」  振り向けば薄暗い照明の中、柴原がいつもの落ち着いた顔をして立っている。 「君には別段、遺伝子操作はしていないしね。それに医者がどんな前衛的な考察を持とうと、現実はなかなかそれについてきてはくれないものだ。患者の中で、今までこれといった能力を俺に示してくれた子供はいなかった」  肩にかけられていた東の手に、力が入るのが分かった。 「あんた、頭は良いかもしれないが、人間の落ちこぼれだ」  それが義父の返答で、柴原は口元を歪めている。夏貴に向かって医師はもう一声かけてきた。 「君が持ってきたファイルは、俺が責任持って処分するよ」 「ファイル? 何のだ」 「息子さんに聞いたらいい。そうだ、出てゆくならドアストッパーを捨てておいてくれないか」  返事代わりに、東は乱暴に研究室の部屋の戸を閉める。大きな音が無人の地階に響いた。 (そういえば、出鱈目なノンフィクションを作ったんだっけ。真相を確かめたくて)  夏貴が手に入れたものは答えではなく、思いもよらない深い穴だった。探偵気取りで前をよく見もしないで突き進んで、頭から転げ落ちてしまったのだ。 (正哉。これから僕はどうしたらいい。お前だったらどうする?)  ポケットの中の電話を握り締める。第二の扉をくぐると、東はドアストッパーを蹴飛ばした。三角柱が階段の隅に転がる。背後で扉が閉まり、がちりと鍵のかかる硬い音がした。もう二度と夏貴たちをこのドアから通す気はない。そう宣言しているような重い響きだった。       2 (正哉はとても勘が良かった)  連絡を欲しいと思ったときは、必ずと言ってよいほど正哉の方から電話があった。そういうことがあった回数は、覚えているだけで両手に余る。友達の間でも察しの良い奴で通っていた。直感の鋭さを感じていたのは、夏貴だけではなかったのだ。それに。 (死んだはずの正哉は、携帯電話の中に現れた)  あんなこと、普通なら出来るわけがない。いくら心残りがあったとしてもだ。 (正哉は人工授精で生まれた子供だという話だったけど)  その誕生に、神ならぬ柴原の手がこっそり加わったのだろうか。 (先生は正哉に、どんなことを試したんだ?)  その何かは、柴原ですら気がつかない程ひそかに正哉の中に現れ、人知れず消えていった。  普通の人とは違う『何か』。 (僕たちは人のDNAの海の中に現れた、異分子なのかな)  ゆっくりと目を開ける。気がつくと車の助手席から見える風景が、見慣れない夜のきらめきになっていた。 「少しドライブすることにしたんだ」  東が隣から声をかけてくる。 「蒲生さんが借りたアパートは、病院のすぐ近くだ。でもこんな夜中に突然帰って退院してきたと言ったら、後の説明が大変だからな」  母が夏貴に今日のような形で、クローンであることを告げる気だったとは、とても思えない。パニックになった母親と対面する気力もなく、東の言葉に素直に頷いた。 (どこに向かっているんだろうか)  母は免許を持っていないから、ドライブの記憶は遠い昔のものとなっている。周りの景色を見ても、夜の中、自分がどの方向に走っているのかすら分からない。店の明かりや街路灯が、近づいたと思うと後方に消える。オレンジ色のライトで照らされたトンネルを潜っていくと、いつもの時間が後方に吹き飛ばされてゆくようだった。 「おっさん」  声を出してみた。ちゃんと出る。 「何だ」 「おっさんは携帯電話でメール送れる? メル友たくさんいる? いなきゃ駄目なんだよ。みんな持っているんだから」 「はあぁ?」  東は夏貴が何を言いだしたのか、測りかねているみたいだった。かまわず話を進める。 「今時皆、口を揃えて個性が大事とか、人と同じものは嫌だとか言うけど、でも大抵の人は、周りと全く違ったことがしたいわけじゃないんだ」  夏貴は外の景色を見ながら喋った。 「同じブランドのバッグを持って、希少性や新しさを見せつけ合う。カラオケは歌えるのが当然、常識、義務。今の日本ではさ、他人と大きく違うということは、危険なことなんだよね。異分子はあっという間に見つけ出されてしまうから」  発覚してしまえば、周りがその存在を許すかどうかは運しだいだ。 「アイドルやアーティストなら、却ってもてはやされる。ホームレスは今や、凶暴化した一部の子供たちから逃げ回っている。クローン人間はどうかな」  東は真っ直ぐ前を見て慎重に運転している。その顔が険しかった。夏貴はさらに質問を重ねる。 「ねえ、母さんは何で僕よりも先に、おっさんに僕の出生のこと、話したんだと思う?」  言葉が車の中に小さく響いた。東の素早い視線が夏貴の顔をかすめる。  しばらくして、ほんの三十センチばかり隣から、長いため息が聞こえた。 (理由、話してくれそうだな)  だが東もまた、こんな風に問い詰められて白状することになろうとは、思いもしなかったに違いない。 「要領よく話をまとめられん。だから彌生さんとの出会いのきっかけから、いっぺんに話すぞ」  そう断ると、道なりにゆっくりと大きくカーブを曲がった後で、東の声が静かに語りだした。       3  東の経営する店は渋谷と六本木に三軒ある。キャバクラが一軒、ホストクラブが二軒。東自身ホスト上がりで、時々オーナーとして自分の店に顔を出していた。  そこに、ある頃から、東目当てのひどく熱心な客が通いつめ始めた。ガーデニング会社社長、四十そこそこの阿木《あぎ》という客は、着ている服も払いも良かった。ホストの給料は売り上げに連動する。皆、景気よく高級な酒を注文してくれる阿木の、ご機嫌取りに走った。  つまりオーナーがうんざりぎみなのを承知で、店に顔を出す日時をこっそり阿木に教えたり話すしたのだ。おかげで東は頻繁に、阿木と店で鉢合わせする破目になった。 「私はお客よ。もう少し愛想良くしたら?」  閉店まで粘ったあげくに、何としても家まで送れという阿木を、とにかくタクシーに放り込むために、早朝の六本木の町に連れ出す。未明の路上で、見た目より酔っていない様子の客は東に絡みつき、頭痛を起こさせるようなことを言い出していた。 「ねえ、私、子供が欲しいんだ。オーナー、子供の父親になってくれない?」 「思い切り酔ってますね」  すげない口調で返答をしても、阿木は諦めない。 「何も結婚したいって言ってるわけじゃないのよ。私もう、年齢的に出産できるかどうか、ぎりぎりなの。どうしてもすぐに子供が欲しいのよ」  そのための父親候補が東というわけだ。はっきりと首を振った。だが女は後に引かない。 「妊娠、急いでいるんでしょ? 他の男を捉まえなよ」 「だって、子供の父親を選ぶのよ。種馬なら誰でもいいってわけじゃないもの」  しごくごもっとも。 (だけどねぇ。それなら何故、ホストクラブで相手を探すんだ?)  六本木の薄闇の中、女の寂しさが透けて見えてくるようで、散らばったごみの横に立った東は、少しだけ表情を和らげた。地下鉄の始発前で、なかなかタクシーは捉まらない。阿木のほうに不意に顔を近づけると、東は小声ではっきりと言った。 「俺じゃ父親にはなれない。医者から子供を持つのは無理だと言われているんだ」  女が酔いが飛んだという顔で見上げてくる。 「あんたが真剣だと思ったから、告白するけどね」  わざと軽い口調で締めくくったが、阿木は真剣に受け取った様子だった。衝撃を受けた表情を浮かべると、それ以上話しかけてこない。交差点で客を降ろした車を、東が上手く捉まえた。阿木はそれに乗り込むと、軽く頭を下げ、無言で帰っていった。  ところが。一カ月ほど後に阿木はまた店に現れると、東と昼間にどうしても会いたいと言う。その晩は大枚を散財してくれたので嫌とも言えず、翌日の午後渋谷で待ち合わせた。ハチ公前の交差点から数分、東急方面に歩いたところにある喫茶店に、阿木は音村彌生という女性を連れてきていた。  彌生のことを、不妊治療の名医とつながりがある人と紹介してきた。どうやらこの一カ月、彼女のような人物を探して、つてのつてのつてを手繰《たぐ》っていたらしい。 「音村さんの知り合いのお医者様は、本当に素晴らしい腕をお持ちなんですって。そのせいでお忙しくて、なかなか診療の予約が取れないってお聞きしたの」  そこで彌生の登場となる。個人的に頼んでもらえば、特別に診てもらえるというわけだ。東は歯を食いしばり、深いため息をついていた。 (これ以上不妊治療なんていう言葉を聞いているのはごめんだ)  目の前のコーヒーには手もつけず、立ち上がった。きっぱりと阿木に告げる。 「どんな名医を連れてきても同じだよ。俺には精子がない。全くだ。治療不可能。了解したかな?」  それだけを言うと、言葉をぶつけられたみたいな顔をしている阿木を置いて、さっさと外へ出る。久しぶりに思い出されることが山ほどあった。多すぎて、砂を噛んでいる気分だ。しかめ面のまま人の流れに乗り、駅への坂をただ下っていく。しばらく歩いた後で、後ろから彌生がついてきていることに気がついた。 「連れを放っておいていいのかな」 「もう用は済みました。初対面ですし、これ以上お話はないでしょう」 「俺のほうもないんだがな」  そう言っても彌生は首を縦に振らず、妙に思いつめた顔をしている。それから駅に着くまでのわずかの間に、何度も話をしたそうに顔を上げては、また思い直して下を向く。  その真剣な迷いが、東の興味を誘った。 「話があるのなら、聞くよ」 「人前では……ちょっと」  真昼の渋谷駅前の雑踏の中なら、人っ子一人いない公園よりも、人に話を聞かれる心配が少ないと思うが、彌生は話しにくいのだろう。手招きをすると、スクランブル交差点を渡り、駅から十分ほどの場所にある自分のホストクラブに、彌生を案内した。  最後の客を送り出してから数時間経っている店には誰もおらず、夜は照明と着飾った客で派手な店内も、今は奇妙に広い空間を抱えている。ソファに座らせて話を促す。返ってきたのは、 「やっぱり帰ります」  というわけの分からない言葉だった。 「あのさ、あんたが話があるというから、ここに連れてきたんだ。どういうつもりなんだ?」  さすがに不機嫌な顔を作ると、彌生はまた座り込んだ。 (この女、何をこんなに迷っているんだろう)  少しばかり好奇心さえ湧いてきていた。そこでホスト業で鍛えた人当たりの良さを駆使し、彌生の緊張をほぐしにかかった。優しい言葉を使い、会話の内容は必ず秘密にすると約束する。しばらくすると、女の口から思いもかけない発言がこぼれ出てきた。 「もし……真剣に子供が欲しいのなら、赤ちゃんを授かるのは可能かもしれません」 「はあぁ?」  彌生は先ほどの東の言葉を、確かに聞いていた。そのはずだ。 (俺は無精子症だと、はっきり言ったよな)  どう対応していいか分からず黙っていると、彌生はその言葉を口にしたのだった。 「クローン技術で……赤ちゃんが持てます。あなたが望めば」 「クローン? 人間の?」  一瞬、笑い飛ばしそうになった。ところが彌生の顔は真剣そのものだ。 (ク、クローン人間……?)  驚いて声もなかった。彌生をただ、見つめ返す。すると、当の女が大粒の涙を流し始めた。       4 「やっぱり言うんじゃなかった」  泣き顔のまま、彌生は再び立ち上がった。そのまま店を出ていこうとする。ここで姿を見失ったら、見ず知らずの女性と二度と会えないのは確実で、東は急いでその腕を掴んだ。 「いきなり驚くようなことを言ったり、帰ると言い出したり。きちんと説明してくれないか」  彌生からはそれ以上、言葉が出てこない。 「それとも阿木さんとか他の人間に、クローンのことを聞いて回れって言うのか?」  その一言が効いた。彌生はそんなことはしないでくれと、強い口調で喋りだす。クローン技術で生まれた子供たちの一生に関わることだからと。 (もう既に、クローン人間がこの世にいるのか?)  西暦二〇〇二年の今、まだクローン人間は存在していないはずだ。そろそろ技術的に可能らしいという話は聞こえてくるが、いまだ確たるものではない。だが、クローン動物は既にあちこちで誕生している。クローン技術とは、そういう段階のものだと思っていた。 (これは子供が持てる見込みのない人間に対する、新手の詐欺なんだろうか)  信じ込ませて費用名目の金をむしり取る。荒唐無稽な話だが、大金を取るにはこういうやり方のほうが向いている。東はまた椅子に座り込んでしまった彌生に、さらに疑問を投げかけた。 「無精子症の俺に声をかけてきたのは分かる。真剣に自分自身の子を持とうと思ったら、その方法しかないだろうからな」  しかし。 「本当にクローンが作れるのなら、なんで話の途中で帰ると言いだしたんだ」 「だって……」  彌生の体が小刻みに震えた。また涙を溜めてきている。それでも……話しだした。 「つまり……最初のクローンが誕生したのは、もう随分前の話なの。ある夫婦に、夫のクローンで子供が生まれた。それで……」  声が途切れがちだ。 「どうしたんだ?」 「両親は初めは喜んだの。やっと一人前の親になれたんだもの。人並みの家庭を持てたと、大喜び。幸せになるはずだったのよ」  ところが子供がまだ小学生の内に、夫が交通事故で急死する。 「私は呆然としたわ。そんなことが起こるとは、考えてもみなかった。私一人であの子を育てることになるなんて。どうして?」  彌生は声を震わせている。 (『私は呆然とした?』この話、目の前にいるこの人自身のことなのか)  いつの間にか、自分のこととして語っている事実に気がついていないのだろう。それが話に一層の現実感を加えていた。 「それでも一生懸命子育てをしてきたし、働いたわ。息子はいい子なのよ。夫の小さい頃の写真そっくり。あの子の成長が生きがいだった」  当時は、問題が出てくるとは思ってもいなかったという。 「あの子は中学に入って、背も伸びてきたわ。だんだん昔の写真じゃなくて、夫自身に似てきた。当たり前よね。夫のクローンなんだから」  このあたりで、東にも話の先が見えてきた。大人になってゆく『息子』は、失った夫そのものになってゆく。夫は彌生を愛して守った。しかし同居しているのは、自分が産んだ息子であって夫ではない。いくらそっくりでも違うのだ。 「朝、玉子焼きを焼いているときとか、通信簿を確認している間とかは、母親の顔と感覚でいられるの。でも最近あの子に女の子から連絡が来たりすると、思わず嫉妬の心が湧いてくる」  また涙が溢れて落ちる。 「自分で自分が気持ち悪いと思う。母親のやることじゃないもの。あの子も……最近、部屋に鍵を付けたの。私が近寄らないように!」 「子供は今、いくつだ」 「十三歳……」 (そんなに以前から、クローン人間の技術は出来ていたのか)  東はしかめ面を作った。子供は難しい年頃に差しかかっている。生まれながらに支えきれないほど重い問題を抱えていたら、ぐれるくらいでは済まないかもしれない。 「息子さんは自分がクローン技術を使って生み出されたことを、知っているのか?」  彌生は首を振る。 「こんなはずじゃなかったの。子供さえ出来れば後は治療のことなんか忘れて、家族で幸せになれる予定だった。なのにどうして……」  また泣き声になり、顔を覆った。 (人生が自分の予定通りに運ぶものか)  そう思いはしたものの、泣いている女にきついことを言う気はなかった。幸せは注文出来るものではない。考えが甘かったと、今は誰よりも本人が自覚していることだろう。 (初めは喜び、後で悩みの中に叩き落とされた。それでクローンを簡単には勧めないのか)  だが子供が欲しいという気持ちは、理解できるのだろう。だから渋谷に来た。 「俺は自分のクローンを作る気はないよ」  カウンターに持たれかかってはっきりと言うと、彌生は涙を止め、顔を上げた。 「全くないのですか」 「俺が無精子症なのは、生まれつきらしい。もう一人同じ悩みを抱えた人間を作るのはごめんだ」 「強いんですね。私たち夫婦は、自分たちを止めることが出来なかった」 「生まれた子供には、異常はないんだろう?」 「夫は小さい頃の病気で、子供が出来なくなったんです。だから息子は、身体的には問題ないと思います。でも……」  それでも他の問題が起こっていると、彌生の声が小さくなる。どう考えても大きな秘密を抱えて生きてゆくには、あまりにも雄々しさに欠けている女性に思えて、東はつい慰めの言葉をかけていた。  その日からずっと、彌生を慰め支えるのが東の役割となっている。       5 「お優しいことで」  助手席で大人しく経緯を聞いていた夏貴は、締めくくられた話にそっけない感想を漏らした。その反応に、東が皮肉っぼい笑みを返す。 「きっと俺自身、自分の役目、居場所が欲しかったのさ」 「何言ってるの。あんたは三軒店を持っている。他にもアパートだって貸してるんだろう?」 「詳しいな、ぼうず」  話が終わるしばらく前から、車外の風景は都会の様相を帯びてきていた。もう終電も終わった時刻なのに、車もネオンも光を撒き散らしながら、通りに溢れている。  車が交差点でやや細い道に入ると、周りからぎらついた照明が消えた。さらに二度ほど曲がると、大きな一戸建て住宅や、低層マンションの建つ落ち着いた町並みが現れる。わずかに表通りの賑わいから外れた先に、毎日をそこで暮らしている人たちの日常があった。  東は車をとあるマンションの地下駐車場に入れる。エレベーターで最上階の四階に上がると、大変豪華な部屋……になるかもしれないスペースが、眼前に現れた。  はっきり言えば、部屋だけあって中身は空っぽなのだ。照明すら裸電球が生成り色の壁に一つ、いかにも臨時という感じで、くっつけられているだけだった。 「何だよ、ここは」  さすがに驚いて聞くと、 「夏からの新居だ」  という答えが返ってきた。音村家が燃えたので、急いで買った家族用の住居だと言う。だが夏貴の我儘で部屋に主はおらず、まだ閑散としたありさまなのだ。カーテンすらなく、大きな窓の向こうに黒々とした夜がある。 「とりあえず、水道と電気は来ている。休んで朝になったら、彌生さんに連絡を入れるさ」 「休むって、どうやって」  ベッドも布団もソファすらない。フローリングの床に立って呆然とするばかりだ。そこに東は、どこから取り出したのか、毛布を一枚投げてよこした。 「ミネラルウオーターだけは、たくさん置いてある。欲しければ飲め。あとはそこら辺で寝ろ」 「へっ? そこら辺て」  驚いている間に、東は適当に寝転がると毛布を被ってしまった。妙に物慣れた様子だった。理解出来ない金持ちの酔狂だ。しょうがなく夏貴も体を横たえた。 (クローン)  静かになると、柴原の声が耳元に蘇ってくる。(クローン……)ひどく疲れていた。指の先がずぶずぶと、木の床にのめり込んでいきそうだ。でも。 (いくら寒くもない季節だからって、床の上で、毛布一枚じゃ寝られやしない)  東の背中を睨む。 (クローン)  その言葉が体の中を駆け巡っている。一人きりだったら、叫びだしていたかもしれない。そうしている内に、母が泣いている姿が思い浮かんだ。声さえ聞こえてきそうだ。 (泣きたいのは僕の方だ!)  夏貴が叫ぶと彌生は逃げてゆく。後を追い外に出た。いつもの商店街を歩いていて気がつくと、道を歩く人の視線が昨日とは変わっていた。  珍しいものでも見る目つき。おぞましいことを忌み嫌う態度。複雑に混じり合った感情が押し寄せてきている。逃げれば追いかけてくる。振り返ると人々の足は止まって、さっと夏貴との間に空間を作った。 (何なんだ? 僕にどうしろって言うんだ!)  声を限りに叫んでいた。 (クローン……クローン、クローン!)  目を開けたとき、既に世界はまぶしかった。  顔を起こすと、とっくに起きていた様子の東が、三メートルほど先で手紙のようなものを読んでいた。脇に新聞もある。 (朝だ……僕、寝ていたんだ)  あんな知らせを聞いた後でも、人とはしぶといもので、日々の営みを続けていけるものらしい。もっとも見た夢は、保証付きの悪夢だったが。 (手紙がマンションに来るということは、東は既に転居届けを出しているのかな)  それなら最低限の家具ぐらい入れればいいのにと思う。母が用意した仮住まいだとて、こうは生活離れしてないだろう。経営の手腕以外、東は意外とぶきっちょな人間なのかもしれない。手紙を読んでいる顔を見る。夏貴が目を覚ましたとは思っていないせいか、感情むき出しだった。 (不機嫌というか……泣きそう?)  まさかと思って、そのまま見つめる。その時視線に気がついたのか、東はすぐにいつもの皮肉っぼい顔に戻って、夏貴の顔を覗き込んできた。 「寝られたみたいだな」  頷く。体を起こすと、ミネラルウオーターのボトルが転がってきた。朝食は隣のマンション一階にある、カフェで済ませるという。 「おっさん、聞いていい?」 「何だ?」 「誰からの手紙?」  東にあんな顔をさせた主が知りたかった。答えはあっさり返される。 「実家からだ。死んだ父のことでな」 「あのっ、お父さん、亡くなったの?」  死という言葉に顔を強張らせると、「去年の話だ」そう言って東は水を飲んでいる。 「遺産相続の手続きがあるみたいでな。相続放棄の判が欲しいらしい」  夏貴が首を傾げる。 「なにも貰わないつもり?」 「分けられるようなものじゃないんだ」  話によると実家は窯元だという。結構古くから続いている家で、遺産には窯場の土地や建物が含まれる。家業を継いでいない者の手に、一部が渡ってしまっては困るのだ。 「家はどうなっているの?」 「弟が継いでいる」 「……何でおっさんじゃないの?」  質問をしたときには既に、夏貴の中に答えがあった。苦い味が口の中に広がる気がする。 「実家には一子相伝《いっしそうでん》の釉薬《ゆうやく》とかあってな、親から跡継ぎだけに教えられてゆく。俺に伝えても、その後が続かないからな」  無精子症だと分かったのは、高校のときだったという。高熱を出して入院したことがあり、心配した親が調べた。病気と関係なく、元々子供が望めない体だと分かった。 「俺はあのとき、意味を実感していなかったよ。高校生だったしな。でも周りは変わっていった」  それまで自分だけが親に教えてもらっていた仕事を、弟も習い始めた。気がつけば人が跡取りとみなしているのは、弟の方だと感じるようになった。 「腹が立ってお定まりにぐれたよ。そうしたらあっという間に、家の中にいる場所がなくなった。そこにいるのを誰も認めない幽霊状態だ。もう出ていくしかないという雰囲気だったな」  家人も無理やり東を放り出すことはしなかった。でも跡目は弟が継ぐ。だから東が家出でもしてくれれば、ありがたかったのだ。そうなれば皆、自分を責めずに済む。 「意地で都内に出たものの、家出人の高校生じゃ職にはありつけない。年を誤魔化してホストになれたのは、運が良かったさ。稼げるようになったしな。今じゃ結構金も溜まった」  それでも、と笑う。実家ではいまだに幽霊なのだ。 「どうして?」 「存在を無視している、いてもらっては困る長男だからな。この後、祖父や母が亡くなったときに、また遺産放棄の判を押させなければならない、めんどくさい相手さ」 「ねえ、自分も法律で保証された分の、遺産が欲しいと言ったらどうなるの?」  毛布の上に座り込んだ夏貴の言葉に、東が笑うように唇を歪めた。 「親戚中が集まってきて、山ほどの嫌味な言葉が降ってくるだろうさ。自分が子供が出来ない、�欠けた�人間だと思い知らされる。その会合も一回や二回では済まないだろう。お前、そういうこと体験したいか?」  首を振ると、「そうだよな」と言ってにやにやと笑い出した。 「それに金ならもう随分持っているし、これからも稼げる。俺は金もうけ以外にやりたいことが、やっと出来たところだ。遺産の件、実家のことはもういい」  水のボトルを、どんと床に置いた。 「それは母さんとの結婚?」 「幽霊脱却。妻を持ち家を持ち、子供がいる暮らし。頼って頼られて、ほっとしてみたい。腐乱死体になる前に、支え合う人が出来ることだ」  それは金じゃ買えんと口にすると、真っ直ぐに夏貴を見据えてくる。 「やっと俺の世界が変わろうってときに、お前さんに死なれたら全部が吹っ飛んじまう。親父になれない。彌生さんも結婚どころじゃなくなるだろうしな。絶対死なせたりせんからな」  だから早く引っ越せと言っているのにと、未来の義父は毛布を畳みつつ、ぶつぶつ言っている。転居を勧める理由は、和美の場合と同じものらしかった。姓が変わり住所が変わり、問題から遠ざかればより安全になる。さっさと逃げるが勝ち。そういう解決方法を狙っていたのだ。 「そろそろ朝飯に行くか」  皺の寄った服から埃を払い、東が立ち上がった。その後ろ姿に声をかける。 「おっさん、昨日柴原先生が言っていたファイルのこと、暇なとき聞いてくれる?」 「珍しいな。お前さんの方から、自分の秘密を打ち明けるのかい」  意外そうな顔で夏貴を見てくる。 「全部話すことにした」  そう告げると、東は少し顔を強張らせた。 「僕が何で今、四神市を離れられないか、その理由も分かってもらえるかもね」 「やっぱり試験や夏休みは関係なかったか」  床に座りなおす。 「カフェで話すようなことじゃないんだろう?」 「うん」  夏貴は一切を話そうと決心していた。正哉が携帯電話に現れたことを除いて、全てを。 (おっさんに打ち明けても大丈夫だろうか)  そういう迷いはある。 (最悪、僕一人が死んで片がつくのなら、黙り通したかもね。でも)  クローン人間。夏貴の前に出てきた問題は、己の想像と責任能力を超えていた。調べにしくじって、自分の存在が世間に知られてしまえば、いくつもの人生を巻き込んでしまうだろう。夏貴が最年長ということは、クローンたちは全員まだ子供なのだ。 (怖い……。これからは小指の先ほどの失敗も許されない)  その緊張が頭を下げさせる。夏貴の行動が正しいかどうか、確認してくれる者が必要だった。 「始まりは、正哉の家が燃えたことだ」  長い話になるのを承知でそう切り出す。東はその一言で顔を曇らせた。 「こだわっているのは、死んだ親友のことか。まさか天に代わって正義の味方になるつもりじゃないだろうな」 「おっさん、大人しく聞きなよ。十四にもなる男の子は元来、煩《わずら》わしいものなんだよ」  東が黙る。 「だから父親業をする気なら、鬱陶しいことが起こっても親が我慢するのが筋なんだ」  誠に理路整然たる言いように対して東は、 「馬鹿言ってるんじゃない!」  そう言って、夏貴の頭をはたいてきた。 「ふんっ」と言い返す。東は希望通り、これから本格的に、父親業を始めることになるわけだ。 (ただあんたの息子は、他の子供よりも何倍も厄介な存在だというだけさ)  そのことを義父がどう思っているかは……不明だった。 [#改ページ]    第八章 死ぬ       1 「それにしても、最近二人は仲がいいのね。お母さん嬉しいわ」  家賃八万二千円。市内のアパートの狭いダイニングで、夏貴たちと東は、今日も朝食の席を囲んでいる。一連の事件の経緯を告げた日から、未来の義父は頻繁にアパートを訪れるようになっていた。 (鬱陶しいなあ。何でこっちの狭い家に泊まるんだよ)  わざわざ都内から通っては、一緒に朝ごはんを食べていく。確かに東を取り込んだのは夏貴自身だ。しかしこの義父がいるという環境は、思ったよりもはるかに煩わしいものだった。 「貸せ! 見てられんわ」  そういう言葉と共に、東が夏貴から取り上げたのは、茶碗としゃもじだ。 「まだ右手は治らないのか。大体お前が無茶をするから、こんな怪我をするんだ」  お代わりをよそう手つきが危なっかしいだの、飯はもっと食べろだの、煩《うるさ》く言ってくる。やっと食事が終わると今度はゴム手袋を出してきて、躾だと称し夏貴に皿洗いをさせる。  母が家にいる間の家族ごっこだ。母は単純に喜んでいるが、夏貴は時々全部の食器を叩き割りたくなる。何枚か東にぶつけることが出来たら、すっとするに違いなかった。大して数のない食器を洗い終わる頃、母が出勤してゆく。それから夏貴が学校に出かけるまでの間が、事件について考える時間だ。その後、東は二度寝をしてから店へ出てゆくという毎日だった。 「おい夏貴、昨日の内に事件経過をまとめておいたか?」  二人になるとすぐ、東から命令口調の声がかかった。夏貴はむっとした顔のまま返事もせず、昨晩書いたノートを、ダイニングテーブルに広げる。  正哉を焼き殺した放火犯を突き止め、犯行の理由を知る。出来れば犯人に罰を受けさせたいと思っている。それがこうして調査を進める第一の目的だ。自分がクローンだと告げられても、その思いは変わらなかった。姿勢を曲げずにいられたのは、正哉の死があったせいだ。 (ここで逃げ出すわけにはいかない。何としても!)  だが事件はクローン人間と絡んできた。問題はどうにも、ややこしくなってきている。 「この先放火の証拠を掴んでも、もう警察に知らせることは無理な相談だな」  テーブルに座った東は、面白くなさそうに、そう言った。夏貴は首を縦に振る。�何故事件が起こったのか�という原因が、クローン人間問題と一つの根につながっているとしたら、表に出せるものは何もなかった。 「どこからどんな情報が、漏れてしまうか分からないし」  単純に放火犯人探しをしているはずだった。悪い奴を捕まえればいいと、そう思っていた。しかし気がつけば、夏貴はいつの間にやら、事件そのものを隠そうとする側の人間に、化けてしまっている。 「くそっ」  湯飲みを二つ、乱暴にテーブルに置いてから、ノートの上のへたくそな字を東と追う。そこには日野家の火事から始まった各事件と、その日時が書き込んであった。 「出来事を日付順に整理してみたんだ。最初に起こったのは火災じゃない。柴原先生のパソコンデータが盗まれたことだよね」 「それが発端だな。一部しか手に入らなかった内容を補うために、犯人は端から子供たちを調べた。データのどの部分が目当ての情報か、確信がなかったんだ」 「犯人の目的は、柴原先生の不正行為追及じゃないよね」  ノートを見ながら、東が怖い笑みを浮かべる。 「あの医者の罪を問うつもりならば、受精卵流用の件でもOKだからな」  今、より衝撃的な情報と言えるのは、クローン人間問題の方だろう。 「何故だか今のところ、犯人はこの間題をよそに漏らしたくないみたいだね」  まだ全容を掴んでいないせいなのだろうか。東がノートに話し合いの結果を書きつけてゆく。夏貴の右手の火傷はよくなってきていたが、まだ早くは書けないからだ。 「だが犯人は調べを進めるうちに、都合悪くも予定外の人物に、事実の一部を知られてしまった」 「正哉のお父さんたちが、DNA鑑定で和美ちゃんを娘だと確認し、彼女に会ってしまったんだね。こっそりと調べていた犯人は、あせっただろう」  そうして事件へのレールは敷かれてゆく。 「だから放火して全ての証拠を消したんだろうか? 日野一家のDNAごと」  震える声が夏貴の口から漏れる。  クローン人間のデータはあの火事の当時、柴原のパソコンの中にあった。受精卵流用の件が片岡家から漏れて警察が病院に立ち入ったら、あっさりと見つかってしまっただろう。 (そうなっていたら、今頃事件は終わっていたかも。代わりに大騒ぎが起こっただろうけどな)  日野家の起こした問題は、放火で闇の大穴に一掃されたはずであった。ところが犯人にとって都合の悪いことに、死んだ子供の友人が、しつこく事件を追い始める。  東はそれからのことをこう推論した。 「犯人はあせった。とうとう音村家にも放火する。前回同様、皆焼け死んでくれれば、問題は消えるからな」  ところが今度は偶然、誰も死ななかった。 「ねえ、おっさん。僕が正哉の事件を追っていると、犯人はどうやって知ったんだろうか」  この質問に対して、テーブルの向こうの東は不機嫌な顔を向けてくる。何でそんなことも分からないのかと、顔に大きな字で書いてあった。 (やはり午前中は、機嫌が悪いや)  それでも頭の方はまともに働くから嫌味だ。湯飲みを手に取ると、東は夏貴自身がころりと失念していた、ある出来事を口にした。 「自殺した田崎亮という子の通夜だよ。お前さんあの日片岡和美を見つけて、大声をあげて彼女を追いかけていったじゃないか」  その一件を犯人が知れば、夏貴に疑いを持つこと請け合いだと保証してくる。 「それじゃあの場に犯人がいたというの?」 「研究棟の厳重な防犯システムを潜り抜けて、柴原のパソコンデータをこっそりコピーできる人物は誰だ? 俺は病院関係者だけだと思っている」  こう指摘されて、夏貴は目を見開いた。  思い出したのは田崎家の通夜の風景だ。あの日、ホールで携帯電話の正哉と話そうとしていて、慌ててメールに切り替えた。四神病院からの弔問客が目に入ったからだ。 「そうか……病院関係者が何人か通夜に来ていた。あれなら通夜への出席の有無に関わらず、病院内の人はあの一件を知っているよな。皆、噂が好きだし」  たぶん犯人も。 「それにしても、病院にいる犯人とは誰なんだ。以前に犯人探しをしたときには、結局誰の名前も残らなかったのに」  とにかく病院に、目指す犯人がいると確信したそのとき、突然鳴り始めた目覚まし時計の音に、二人は飛び上がった。       2 「わあ、八時を回ってる。早く出かけなきゃ」  夏貴は慌てて鞄を小脇に挟む。ここのところ朝の話し合いについ熱が入りすぎて、遅刻が続いてしまった。このままだと学校から母に連絡が入る。それだけは避けたいので目覚ましを使うことにしたのだが、事件に夢中な二人は、ベル音がするたびに驚いて顔を引きつらせていた。 「おっさん、帰るときは戸締り忘れないでね」  声だけ残して、体は既に玄関から飛び出していた。学校まで歩いて二十五分だ。 「おいっ、弁当忘れているぞ」  まだ右手が使いづらい夏貴は、毎日お握り弁当を持参している。残っていた包みを持って東がアパート二階の外階段に現れた。呼ぶ声に振り向く。東よりも、狭いアパート前の小道を巨体で埋め尽くしながら走ってくる、白っぽい大型車が目に飛び込んできた。 (何でこんな路地に、でっかい車が入ってくるんだ?)一瞬立ちすくんだあと、夏貴は顔を引きつらせた。車は速度を落とさない。すり抜ける幅も残さずに、道幅一杯に陣取って迫ってくる。 (このままだと……)  そこに、問答無用の東の声が響いた。 「走れっ!」  突き飛ばされたかのように死に物狂いで駆け出した。大通りへ。逃げる場所のあるところへ。  しかし緊迫した場面がいつまでも続く、映画の見せ場と現実は違う。あっという間に車は迫ってきた。ごみ回収日なのか、目の隅にプラスティックのバケツが見えた。登ったら簡単に壊れそうだ。 (だめだ、轢《ひ》かれる!)  とっさにバケツを足場にして飛び上がる。蓋が割れる音と共に、背の高い塀の天辺に、必死にすがりつく。左手の力で体を引き上げた。制服のすぐ下を車体の白い色が走った。 「うへっ」  片手では塀に登りきることも出来ず、そのままぶら下がっている。するとすぐ先で車が止まった。 (引き返してくるか?)  胃にじわりと痛みが走る。そのとき後ろから、水色の包みを抱えた東が走ってきた。 「大丈夫か?」  声とほとんど同時に車は走り去った。出来損ないのなまけものになるのをやめて、地面に飛び降りる。息があがっていた。ポケットの中の携帯電話を握り締める。 「車のナンバー、見た?」  東は首を振る。険しい顔をしていた。 「泥をつけてあった。計画的だよ。わざと轢こうとしたんだな」 「何で。僕が事件をまだ調べているから?」  これで死に損なったのは三度目。そろそろ体が半分幽霊になって、透けてきそうだ。 「そんなこと、一体誰が知っているんだ? 片岡一家はもう四神市から逃げ出した。お前は怪我人だ。親友のためにまだ調査を続けているなんて、どうやったら分かる?」  この問いには、はっきりと答えることが出来た。 「柴原先生なら知っているよ」  つい先日脅した相手。アリバイを持つ、放火犯人ではありえないあの医師なら分かっている。 「あのいけ好かない医者か」       3  医者と会うには、患者として病院に行くのがいちばん手っ取り早い。診察開始時間前に東と病院に駆けつけると、過呼吸の発作を口実に、柴原を無理を言って呼び出した。 「おやぁ。元気そうで何より」  診察室に入ってきた医師は、しゃんとしている患者の姿を見て面白そうに笑う。朝の診察時間直前で、忙しそうな看護師たちは側にいない。それを確認すると、東は医者の目の前にすりむいた夏貴の左手を突き出した。 「先刻、こいつは車に轢き殺されそうになった」  柴原の笑顔が引っ込んだ。押し殺した声で話しかけてくる。 「誰に? 確認しましたか?」 「分からん。逃げられた。ただ夏貴が、かなり危なかったのは事実だ」  東の顔つきが怖い。 「こいつはいまだに日野家の放火事件にこだわっている。それを知っているのは、お前さんだけだ」 「俺はこの子を殺したりしない! 今日も病院に泊まっていた。外出はしていないよ」  話し合うというより、噛み合いをしているみたいだ。夏貴が割って入った。 「柴原先生、最近誰かと僕のことを話題にしたことありますか? 僕はまだ、正哉の事件から立ち直れていないとか、探偵ごっこが好きだとか」 「いや、そんなことはしていない。これでも口のつぐみ方は心得ているよ」  柴原は強く否定してくる。医師の前の丸椅子に腰掛け、夏貴は言葉を続けた。 「先日盗まれたデータのことですけど、盗んだ犯人は、もう見つかったんですか?」 「それは……まだ」 「あの研究室に入るには、三カ所のドアを開けなくてはなりません。警備も厳重だ。どう考えても盗人は病院関係者ですよね」  そう突っ込むと柴原は黙り込んで、夏貴の手の擦り傷を消毒し始めた。研究第一の医者は、しばらくしてから「分からん」と、短く口にした。 「誰が、というより、何故、なんだろうか」 「先生、それはどういうことですか?」  気になって聞くが返事はなく、どうやら独り言らしい。愛想の良い医者らしくなかった。 「はい、お終い」  怪我の手当てが済むと、柴原は席を立ってしまう。そろそろ外来患者の診療開始時間だった。医者をそれ以上引き止めることも出来ず、夏貴たちは病院を後にするしかなかった。  翌朝も東と犯人探しを続けた。わずかの間しかいない予定のアパートに冷房はない。季節柄だいぶ蒸し暑くなっていて、病室の温度管理されていた環境が恋しくなりそうだ。  今はとにかく犯人の名を、病院関係者の中から絞り込んでいくしかない。透かしの入った扇子を使いながら、東も真剣な顔で書き込みの多いノートを見ている。 「最初にこの書き付けを作ったとき、病院の者だけでなく、柴原の秘密の患者にまで可能性を広げて考えたのに、犯人が見つからなかったんだ」  ノートには柴原をはじめ、大竹、井上、赤木、小泉、大島など大勢の医師と、看護師や事務員の名前が連なっていた。その全てに、ばつ印が打たれている。 「どうやって犯人じゃないと、見定めたんだ?」  夏貴は三人での会話を思い出しつつ、名前の横にゆっくりと理由を書き出していった。 「犯行が時間的に不可能だとか、動機がないとか、色々だった」  病院にいるに違いない殺人犯。病院内の人間は、誰一人犯人だとは思えなかったという事実。何故こんな結論に達するのか、考えた本人も不思議だ。 「一見全員が無実に見えるが、犯人は存在する。つまり書き付けは間違っているんだ。そうだろ?」  夏貴は少しばかりふくれた顔になる。 「僕の考えが足りてないと思うの?」  その問いかけに、扇子を扇《あお》ぐ東の手が止まる。 「きちんと考え過ぎたのかもしれない」 「はぁ?」 「そもそも常識の枠内で考える奴が、人を焼き殺したりすると思うか? 誰か分からんが犯人は、俺たちの�普通�とは違う考えの中で生きているのさ」 (そうだね。クローン人間に関わろうとする奴なんだから)  まったく何でそんなことがしたいのか、夏貴にはとんと理解出来ない。 「そういえば昨日柴原先生が、�誰が、というより、何故、なんだろうか�なんて言ってたね」  事がクローン人間に関係するとなると、理由は山のように考えられる。それで夏貴たちは、犯行の理由を突き詰めていなかった。 「あの医者、何であんなことを言ったんだ?」  東が指先で湯飲みをもてあそんでいる。暑い季節だが、東は熱い茶を好んだ。 (おっさん、危ないよ。お茶がこぼれる)  夏貴が向かいで気を揉んだそのとき、「あっ」鋭い声と共に東が椅子から立ち上がり、湯飲み茶碗がひっくり返った。 「布巾、いやタオル! おっさん、熱くないの?」  慌てる夏貴をよそに、東は服を濡らしたまま突っ立っている。その顔が興奮していた。 「夏貴、犯行の理由だ。それを先に考えなくちゃならなかったんだ」 「考えたじゃないか。数え切れないくらい可能性があった」  呆れ顔でタオルを渡し、テーブルを拭く夏貴の横で、東が喋り続ける。 「それは犯人が絞りきれていないときの話だろう? マスコミ関係や、警察、患者、その他まで含まれていたときのことだ。今残っている犯人候補は、病院関係者だけだ」  台拭きを手にしたまま、夏貴は東の顔を見つめた。 「犯人はそもそも、何が欲しかったんだ?」  問いかけられて、すぐに答えが出てこないことに気がつく。犯人がマスコミ関係者だったら望みはスクープだ。警察の場合は事件解決の手柄か、真実の追究か。クローン本人が欲しいのは心の安泰と静けさだろう。  人を救うために働いている病院関係者が、何人殺してでも欲しがるもの。それは何か。 「クローンの作り方かな?」 「それは人殺しをしなくちゃいけないほど、秘密のベールに包まれたことか?」  聞かれて夏貴は首を振った。基本的なことは、最近は新聞にすら載るようになっている。インターネットを調べれば、図解解説付きで、山のような関連ページが出てくる。クローン問題は今や、夏休みの自由課題に選ばれてもおかしくないメジャーな話題なのだ。  医者ならばもっと専門的な文献も読める。柴原以外にも、たくさんの専門家がいるはずだった。倫理的に問題ありと叫ばれている割には、世界中からクローン人間の話題が湧き出してきている。  もちろん柴原は実際にクローン人間を作ることに成功しているのだから、取って置きの経験的情報を担っているのかもしれない。だが現在、クローン人間誕生のニュースが、いつ外国から聞こえてきてもおかしくない状態だ。実際に生まれたとなれば、ほどなく成功談が論文という形で世に出されるだろう。 (大体技術的な問題が目的なら、柴原先生が真っ先に狙われているはずだ) 「他に何かないか。医者が憧れてやまないことは何だ?」  医療関係者の夢。人殺しの代償ならば、どれほどか光り輝くものなのだろう。なのにそれが、目に映ってこない。 「柴原が疑問に思ったのは、このことか」  東が椅子に座りなおした。答えを導き出せないことが悔しそうだった。 (欲しいもの、欲しいもの、欲しい……何なんだ)  夏貴にも解答は浮かばない。 「くそっ、最終日的じゃなくて、今いちばん犯人が欲しがっているものなら分かるのに」 「本当か?」  東が身を乗り出してくる。 「う、うん。ほら、きっとあれだよ、地下の研究室で柴原が持っていたDVD。クローン研究の全てが収まっている、あの薄っぺらな一枚だと思う」  犯人は柴原のデータを、一部しか手に入れていないのだ。 「目的がクローン人間とお友達になることじゃないなら、犯人は全てのクローン研究の記録を欲しがっているはずだろ?」  元から全データを盗んでいれば、犯人は放火に繋がる不手際をしなかっただろう。柴原のパソコンを犯人が盗み見たとき、全てが入ったDVDはなかったのだ。柴原がデータを集めたのは、音村家の火事の後だ。 「もしかして狙いは金かな。データが手に入れば、クローン人間技術のスペシャリストを名乗れる。色々な引き合いがありそうだ。儲かるかもしれん」  東のこの言葉には、夏貴は半信半疑だ。 「四神病院て全国的に有名で儲かっているから、看護師さんや事務職まで給料いいんだって。お医者さんたちなんか、飛びぬけて高収入って話だよ。本を書いている先生や、テレビに出ている人もいるって」  タレント並みで、がんがん稼いでいるというわけだ。もっと儲けたければ、自分で開業するのも簡単だろう。 「幾ら稼げるか分からないDVDのために、人を殺すかな」 「もっともな意見だ」  目的は謎のままだ。しかし、DVDの名前が出たことで、先に進む手が打てるかもしれないと、東の顔が明るくなった。 「DVDを餌に、犯人をおびき出せるかもしれん。どう思う?」 「そうか」  夏貴も笑みを浮かべる。犯人ならば食いついてくるに違いない。この計画には、相手の名前が分からなくても、実行に移せるという利点があった。だが。 「問題はそのDVDが僕らの手元にないことだね」  二人は情けない顔で見合うことになった。地下の研究室でほんの数十センチ先にあったときに、あれを手に入れていればと後悔が募る。しかしあのとき、夏貴はクローンであることを告げられたばかりで、何か出来る状態ではなかった。 「要求したら、柴原がDVDを渡すと思うか?」 「先生は絶対にくれないよ」  夏貴は請け合った。あの中身が世間に漏れれば、柴原は今のように平穏無事に暮らすことは出来ない。DVDは強力な爆弾と同じ威力を秘めているのだ。 「こっそりDVDを盗めないかな」 「簡単に盗《と》れるものなら、俺たちより同じ病院にいるはずの犯人の方が、チャンスが多い。だが柴原の様子を見る限り、まだDVDは盗まれていないぞ」  柴原はデータを盗み見られたことに衝撃を受けていた。自分のパソコンを全て処分するほどに。集めたデータが再び狙われることは想像出来る。必死になって隠したはずだ。 「どこへやったんだろう」  東と真剣に顔を見合わせたとき、今日の時間切れを告げる目覚ましが鳴った。シンデレラタイムの終わりだ。夏貴は慎重に玄関から顔を出した。右を見て左に目をやり、アパートの階段にまで気を配る。白い車はいない。見知らぬ男の影はない。それでも大通りに出るまでは駆け足で行く。後ろ姿を東が見送っているのが分かった。 (僕たちは犯人を追っているのかな。それとも追われてるのかな)  姿のない影と、互いの首に手をかけ取っ組み合っているみたいな気がした。螺旋《らせん》階段の上で眩暈がしているような気分だ。バス通りにたどり着く。 「はあっ」  安堵の気持ちがため息となって、外に転がり出た。ポケットの中の壊れた携帯電話に触る。  今朝は無事に学校へ行けそうであった。       4  夏貴も東も感覚と考え方が真っ当なせいか、人殺しの頭の中とは同調できず、犯行目的はそれからも、とんと分からなかった。犯人の名前も特定できない。ないない尽くしで手も足も出ない二人は、唯一の希望であるDVDを求めて病院に通った。  当初東は、犯人がいるであろう病院へ、夏貴が行くことにいい顔をしなかった。だが夏貴は、その考えを笑い飛ばした。 「家にいたって同じだよ。向こうから轢き殺すために、出張してくるんだから」 「確かに犯人は勤勉な奴だな」  他にも夏貴には、病院へ行きたい訳がある。東と柴原医師が、とことん気が合わないからだ。東だけに任せていては、DVDは来世紀まで手に入りそうもない。 「どうしたんだい? よく来るね。和美ちゃんが引っ越して、寂しくなったの」  今日も診察室で柴原は、東を無視しながら、いつもの笑顔を夏貴に向けてきた。 (何で彼女に会えないからって、代わりに先生のところに来ると思うんだ?)  確かに朝顔を合わせるのは、その週三回目だったが。 「放火犯をどうしても捕まえたいので」  夏貴がそう言って笑いかけると、柴原は大げさに驚いた様子を見せる。 「だけど俺は犯人じゃないよ。通ってきても無駄なんだが」  楽しんでいるような柴原の顔つきが変わらないよう、東をドアの方に押しやりながら、子供が親に甘えるような口調で頼み込んでみた。 「それは分かっているんだ。僕たちが欲しいのは、犯人をおびき寄せる餌なんだ。ねえ先生、例のDVD、コピーしてくれないかな」 「駄目だ」一刀両断、断固とした返事で取りつく島もない。 「何で?」 「噂話と同じだ。複製すればそれだけ情報が流れ出る危険が増す。俺は秘密を誰にも口外しないと、患者の皆に約束したからね」 「でも、一部が流れたよ。それが元で正哉はこの世から消えたんだ。先生、責任とってよ!」  心にもないことを言ってみる。こと正哉に関しては、悪いのは夏貴自身だと思っている。その思いは胃壁を削り取る感覚を伴ないつつ、夏貴の体に、頭に、刻み込まれていた。  それでもこの言葉は診察室の中を跳ねまわって、柴原の表情を曇らせた。 「責任は感じているよ。だから尚さら危険は冒せない。君たちも俺と同じ人間だから、どんな間違いを起こすか知れないしね」  DVDが手に入れば、罠を仕掛けるのは簡単だ。だが犯人に出し抜かれて、大事な情報を盗まれてしまう危険性は確かにあった。 「柴原先生、その意見は正しいかもしれんが、でもそれじゃあ事が進まないんだ」  形勢不利と見たか、今まで黙っていた東が、なるだけ抑えた口調で喋りだした。 「どうしても危険なことがしたいなんて、子供の我儘と同じですな」  柴原の方は遠慮なしだ。勢い、東の返す言葉もきつくなった。 「あんたは焼き殺されたり轢かれそうになったわけじゃないだろ。夏貴は死にたくないならどうしても、事を解決させなきゃならない。そうだろうが」 「俺は残念だが、引っ越すという手もあります」 「それで必ず安全になるという保証はないだろう。俺が心配しているのは、そのことだ。まさかこいつに一生、逃げまわれとでも言う気か?」 「駄目なものは駄目です!」  そろそろ二、三発殴り合いをしかねない段階だとみて、夏貴が間に入り、二人を引き離す。 (DVDで犯人を釣る作戦は、使えないか)  しかたなく帰ろうとすると、柴原の声がかかった。 「もし……俺が死ぬようなことがあったら、DVDは夏貴君に託そうか。いちばんの関係者だからね」 「えっ?」  希望が湧いてきて、思わず振り返る。だが残念なことに、そこには当分死にそうにもない柴原の元気な姿があった。 「えーっ、先生、すぐにはあの世に行きそうにないんですけど」  思わず本音が転げ出ると、柴原が椅子の上で声を詰まらせて笑い出した。 「俺のことが気に食わなくても、そうすぐに死ぬのを願わなくてもいいだろう」 「ぼ、僕は別に! もうどんな奴だって、死んでほしくなんかない」  慌てて言う。本気だった。目の前を火で覆われた光景が幻のように走った。火事に呑み込まれてしまった正哉。あんな体が吹っ飛ぶような衝撃は、二度とごめんだ。 「僕は正哉を助けることが出来なかった。もう人が死ぬのを見るのは……嫌なんだ」 「すまない。軽く言っていい言葉じゃなかったね」  すぐに柴原が眉をひそめ謝った。それからゆっくりと顔つきを和らげると、こう告げる。 「DVDを探すときが来たら、俺の言葉を探してほしい。品物を追いかけては駄目だよ。そこにはないから」 「? 先生、自分が何を喋っているか分かって、発言してる?」 「まあ、先の話だ」  柴原は笑い声をあげた。楽しそうなのは医者だけで、夏貴も東もしかめっ面だ。 「それじゃ気が向いたらまた明日、来てくれ」       2  そろそろ診察時間だと医者が部屋を出た。ホールの自動受付機前には、受診登録のため既に長い列が出来ている。たいがい朝八時過ぎには患者が集まることを、最近の夏貴は知っている。外来患者が医者を占領する時刻の到来だ。しかたなく二人は廊下を遠ざかる柴原の背中を見送った。  そのとき、患者の列がたわんでちぎれた。一人の男が走り出てきて、奥の産婦人科へ行こうとしていた柴原の前へ立つ。医師がその人物を避けて歩もうとすると、さらに横に動いて遮った。 「何か?」  柴原の問いに、男は黙っている。その顔は唇も眉毛も歪んでいた。怒っているようにしか見えない。今にも中から爆発しそうだ。 (あれ……)  一度ならず見た顔だった。夏貴より先に、東が男の名を思い出していた。 「あいつ喪主じゃないか。えっと、田崎って名前だ。自殺した男の子の父親」  確かにあのときの顔だった。重いまでの緊張を学んでいた葬儀だった。トイレの洗面所にいて聞こえてきたのは、呪詛のような繰言《くりごと》。亡くなった子供は一人っ子だと、誰ぞが言っていたが。  あれからしばらくの時が流れているが、田崎には癒された様子がない。子供を失ったときのまま、葬儀場からいきなり、この病院に飛んできたかのようであった。 「お前が悪いんだ……」  つぶやきが男の口から漏れた。柴原が目を見張っている。産婦人科医である柴原の患者は、当然ながら女性ばかりだ。男に恨み言を言われる覚えはないだろう。 「分かってるんだぞ。お前のせいだったんだ」  田崎はさらに言い募る。声は低かったが、その言葉には緊張感があった。男も柴原も騒ぎ立てていないので、周りの患者たちはまだその差し迫った様子に気がついていない。しかし。 (警備員さん、呼んだ方がいいかな) (俺が行く)  東が受付に向かって移動しかけたその時。田崎が懐から手品のように刃物を取り出してきた。刃渡りが二十センチ以上もありそうだ。 (一体どこに、あんなに大きなものを隠していたんだ?)  柴原は口をきかなかった。 (そうだよ、刺激しない方がいい。警備員が来るまで)  田崎は向き合ったまま、ナイフを担った手をかすかに震わせている。 (まだ来ないのか。早く……)  待っていると時間は引き延ばされ、長く長く感じられる。しばしの後、急ぎ足の革靴の音が聞こえてきた。(来た!)ほっとしたそのとき、向かい合う柴原たちの間にわずかに空いていた場所に、バギーを押した若い親子連れが分け入ってきた。 (何で……この緊張した光景が、見えていないのか!)  母親は右手ばかりを見ながら、しきりと指を動かしている。どうやらメールを打っているらしい。バギーの中から子供が光る刃物の方に手を伸ばした。嬉しそうな赤ん坊の声で横を向いた母親が、全ての沈黙と、静止していた場を打ち破る金切り声をあげた。 「きゃああっ」  かん高い声だった。母親というよりも、助けを求める子供のような頼りなげな悲鳴。それに背中を押し出されるかのように、田崎が動いた。バギーになぞ目もくれずに、真っ直ぐに突き進む。バギーごと蹴飛ばされた赤ん坊が、床に転げ落ちる。その姿に、柴原の目が一瞬引き寄せられた。 「先生っ」  声をあげたときには、田崎の姿が柴原の懐に吸い込まれていた。母親は急いで子供を抱き上げている。視線はそちらに集まっていて、誰も柴原たちには注目していない。夏貴以外は。 「柴原先生っ」  思い切って大きな声を出すと、田崎の体がいったん離れた。柴原が声もあげずに床に転がる。そこにめがけてさらにナイフが振り上げられる。今度こそ周囲から悲鳴や驚きの声があがった。 「やめろ!」  叫んだ。だがナイフが刺さらなかったのは、声のせいではない。東が手近にあった絵を壁から引き剥がして田崎に投げつけていた。床に落ちた血まみれの刃を、田崎の伸ばした手の先から夏貴が蹴飛ばす。凶器は深緑の床の上を回転しながら滑っていった。  もう刃物を取り戻すのは無理と判断したのか、田崎は素手で倒れている柴原を殴り始めた。 「お前のせいだ。お前さえいなけりや……」  ただただ、同じ言葉を繰り返す。床に血の染みが形を取ってきていた。 「やめないか!」 「警備員、何しているんだよ! 素手の相手にびびるなんて根性なし!」  東と夏貴が田崎に飛びつく。刃物がないと分かったせいか何人かの男性患者も加わり、羽交い絞めにした田崎を引きずって、柴原から引き剥がすことが出来た。 「今のうちに、早く!」  いつの間に来ていたのか、看護師らしい声が後ろからかかる。魔法のようにストレッチャーが現れて、柴原の血に染まった体を受け止め、すぐに病院の奥に消えていった。  その姿が見えなくなると、もがいていた田崎から体の力が抜け、その場にへたり込んだ。体が小刻みに震えている。その顔が何分かの間に年を取っていくように見える。うつろな目が穴みたいに見える。前を向いているのに何も見ていないかのようだ。 (玉手箱を開けてしまった人間みたいだ)  田崎が何としても欲しがっていたのは、柴原の命。何故なのかは想像もつかない。 「おじさん、田崎さんでしょ? 確か前にも病院で騒いでたよね」  そう呼びかけると、青黒い顔が夏貴の方を向く。 「何で柴原先生を襲ったりしたの。どうして?」  急いで聞く。警察がほどなく来るだろう。その前の僅かな時間が、真実を知る大事な機会だった。 「あいつのせいで……あいつが息子を殺したんだ!」  再び口調が強くなる。その声を東が遮った。 「おい、あんたの息子さんは、マンションから飛び降りたはずだ。柴原には関係ないだろうに」 「あいつのせいだ。あの医者が診たから、余分な電話をかけたから……息子は……」 「電話? 誰が何を喋ったって? 先生は口が堅いので有名だよ」  その言葉に田崎の顔が上向いて、夏貴の顔を見つめてくる。 「あいつだって聞いたんだ。柴原が……」 「先生は患者の情報を漏らしたことはないよ。おじさんの方こそ確かなことなの、それ」  田崎の顔からまた表情が消える。  警察が乗り込んできたので、慌てて口をつぐんだ。連れていかれるとき、田崎はうなだれて大人しいものだった。ホールで一度だけ振り向いて、その場にいた看護師に聞いていた。 「あいつは……柴原はどうなった?」 「まだ分かるわけないでしょ」  つっけんどんに言葉を返されて、うつむく。後は警官二人に囲まれ、素直に連行されてゆく。その姿が正面玄関から出て、窓の外から見えなくなったその直後。大きな声が病院ホールの中にまで聞こえてきた。 「逃げたぞっ」  声に足音が続く。その後サイレンの音が響いた。何が起こったのか、病院内に知らせに来てくれた者はいなかった。東がこっそりと話が出来る隅に夏貴を連れていく。 「おい、自殺したあの子も、柴原が不法に生み出した患者だったと思わないか。そのことがばれて、あの子は自殺したんじゃないか。それで田崎は医者を恨んだんだろう」 「あのさ、おっさん。田崎の死んだ息子さんのことなんだけど、自然妊娠した子供だって、以前片岡のおばさんが話してたよ。田崎夫人と一緒に産婦人科に通院していたから、確かだって」 「はぁ? いつの間にそんな話題が出たんだ?」 「前にも田崎はここの病院のホールで、暴れたことがあったんだ。そのときたまたま、見舞いに来てくれてた片岡さんたちが一緒にいたんだよ。僕が入院していたときのこと」 「じゃあ、田崎は何で、柴原を恨んでいるんだ? あの言葉……どう聞いても、今回の事件がらみだと思ったんだが」 「そうだよね」  一つ一つ、必死の思いで疑問を減らしていくと、気軽な感じで新しい謎が顔を出す。ため息が小山のように積み重なりそうだった。  病院の中は、平静さを取り戻してきていた。病気を診てもらいたいためだろう、患者たちは 平素の行動に戻るのが早いような気がした。血だまりのある廊下だけは、警察の手で通行禁止にされた。ホールに残ったのは、多少興奮を含んだ噂話だけだ。 「もう俺たちには何も出来ん。帰るか?」 「柴原先生の容態だけは知りたいんだけど」  そう言うと、東が看護師を捉まえて聞いてくれた。馴染みの顔で、夏貴の心配に頷いてくれたが、まだ治療中で自分たちにも様子は分からないという。 「悪い。帰れないや」  待合室に座り込むと、「馬鹿な奴」という言葉が連れから降ってきた。そうは言ったものの、東も隣に突っ立ったままだ。一階ロビー先の廊下が、青いシートで区切られ見えなくなった他は、いつもの風景が周りにあった。各科で内待合に入るよう、アナウンスが流れている。会計には列が出来ていて、その横で処方箋が渡されている。ひたすら待った。一時間を優に超えても、何の音沙汰もない。待合にいる患者の姿は入れ替わり、噂話も徐々に聞かれなくなっていく。  ふと気がつくと、夏貴の背後に人が立っていた。産婦人科看護師長の小畠だった。 「柴原先生が襲われたとき、助けてくれたんだってね。大丈夫? 怪我しなかった?」  今さらとも思ったが、素直に頷いた。小畠の顔が、声が、硬かった。 「柴原先生ね、駄目だったの」  つい先ほど亡くなられたと、看護師長が告げる。東が鋭く息を呑んだ。夏貴は頭の奥から血の気が引いていくのを感じていた。 (もうどんな奴だって、死んでほしくなんかない)  柴原本人にそう言ったのは、今朝方のことだ。 (僕をこの世に生み出した専門馬鹿。どう見たって、殺しても死なないような、瓢々とした感じだったのに)  なのに、医者はあっという間にこの世から去り、正哉のように、二度と夏貴の前に現れることが出来なくなっていた。 [#改ページ]    第九章 探す       1 「このところ、しょっちゅう葬式に出席している気がする」  病院が喪主と一緒に執り行ったという、大がかりな柴原の葬儀会場で、制服姿の夏貴は母と東にそう言っていた。喪服を着た東は今日も玄人の雰囲気で、弔問に来た人たちから浮き上がっている。  ただ今回の葬式は、最近行ったものとは規模を異にしていて、人の山に埋もれた東はいつもより目立たなかった。  寺には大きな花輪が並び、列席者の数は桁違いに多い。開け放たれた広い本堂の正面に、何人もの僧侶が並んでいた。テントの受付で参列者に応対しているのは、病院関係者のようだ。積み上げられている香典も、庶民の葬式のときとは額が違うのだろう。 (さすがは全国に名の知れた病院の、看板医師の葬式ってとこかな)  亡くなった柴原は研究に貪欲で、ときに暴走してしまうほどだった。だが真面目な働き者でもあり、自分自身のことは一向にかまわなかった。  以前夏貴が診察室でミルクを貰ったとき、柴原が自分の分に煮詰まったコーヒーを加えて、旨そうに飲んでいるのを見たことがある。着ている服だとて似たり寄ったりなものか白衣で、医者にしては貧乏くさかった。 (それが死んだ途端、こんなに大仰で金ぴかな葬式を出されて。先生今頃、棺桶の中で目を回しているんじゃないかな)  夏貴の小声を聞いたらしく、隣で東が笑い出しそうな顔をして、唇を噛んでいる。焼香に行くと、見知った顔があった。院長の大竹や、飯田医師、赤木医師、大島医師。  寺は四神病院から程近い場所にあるので、交代で顔を出しているのだろう。祭壇の手前に頭を下げている着物姿の女性がいた。身内の者なのか、医師と面影が似通っていた。 「妹さんだわ、きっと」 (よく知っているな。母さんは柴原先生の患者だったから、色々世間話をしたのかな)  亡くなった柴原医師を、母は今どう思っているのだろうか。生まれるはずのない子供を授けてくれた、神ならぬ医師。夫でも肉親でもないけれど、普通のかかりつけの医者とは、明らかに違う存在なのだろう。  夏貴は人が行きかっている本堂前に目をやった。 (この葬式には、柴原先生にゆかりの子供たちも来てるんじゃないかな。流用受精卵を使って生み出された子供とか、僕みたいなクローンが)  普通の子供と変わりなく、ただの元患者として参列しているのだろう。悲しげな顔をして。 (二十歳になっても僕たちクローンは、普通の人間と変わらないでいられるだろうか。若いうちから老け込んで、人の半分くらいの歳で死ぬのかな。それとも突然、やたらと太りだしたりして)  柴原に告げられたあと、気になってクローンのことを調べてみたら、山のように不安材料が噴出してきた。親にも相談出来ず、壊れてしまった携帯電話に向かって、夜、一方的に悩みを吐き出している。専門家たちが口を揃えて言っているのは、クローン技術自体、二〇〇三年の今、完全に確立された技術ではないということだ。 (それでも僕たちは生まれてきてしまった)  将来いちばんありそうなのは、ある日善人面の研究者が現れて、笑顔で人をモルモット扱いしてくることだ。初期段階製作クローンから、貴重なデータを収集するために。 (研究に協力することで、人類と日本の未来に、多大の貢献をなさりたいとは思いませんか?)  なさりたくない。  ただ普通の人間として生きたい。はっきりそう言ったら、研究者の顔は夜叉に化けるかもしれない。  気がつくと、母は受付前で誰かと話をしていた。夏貴と東は大人しく庭の隅で待つ。東が彌生の方に時々目を配りながら、軽い調子で話しかけてきた。 「なあ、夏貴。田崎は確かに人殺しだ。だが俺にはあの男が全ての犯罪を、やったとは思えない。お前さんはどう思う?」  問われたから、あっさりと返答をした。 「あいつじゃないよ。あの男は病院関係者じゃないもの」 「やはりそう思うか」 「田崎は被害者でもあると思えるんだ。証拠があるわけじゃないけど」  夏貴は周りに目を配った。人の姿は多いが皆知らない者ばかり、庭に立つ二人は時の動きから取り残されているみたいだ。内密な話をするには、ちょうど良い機会だった。 「正哉のお父さんたちと同じことがあったんだと思う。きっと田崎の家にもある日突然、見知らぬ誰かから息子の出生について、電話がかかってきたんだ」  パソコンデータを盗んだ犯人は、データに名があった子供たちの家に探りを入れていた。 「田崎の奥さんも以前、不妊治療で通院してたから、受精卵を貰う予定でデータリストに名前があったのかも」  この考えは推測だと、分かっている。だが田崎夫婦が長年子供を持てなかったのは事実だ。  不妊治療から十年以上も経ったある日の思わぬ電話は、日野夫妻の疑問を生んで、片岡和美へとつながっでいった。田崎の方は電話に振り回されたあげく、最終的には息子を死なせてしまったのだ。美しく整えられた寺の庭先で、落ちつかなげに身じろぎをすると、夏貴は隣に立つ東を見上げた。 「ねえ、おっさん、田崎の子供が自殺した理由だけど……」 「何だ」 「例えば今日この寺に、美人の元ホステスさんがおっさんを訪ねてきて、あなたの子供がいるって言ったらどうする?」 「この馬鹿息子。何を言い出す!」  俺の子供であるわけがなかろうと、東は鼻先で笑う。 「疑うんだね」 「当たり前だ。調べればすぐ分かること」  そのとき、あっと小さな声をたてると、東は夏貴の顔を覗き込んだ。 「田崎は……自殺した息子が自分の子かどうか、鑑定したんだな。妻がこっそりと貰い受けた受精卵で、妊娠したのではないかと疑って」 「僕たちは彼が自殺した夜、『うそつき』って叫びを聞いているよね? 誰に言ったんだと思う?」 「父親か!」  言い合いをした後父親は、取り乱している息子を見失ってしまったのだ。 「自殺の原因は……親に血のつながりを疑われたからか!」  東が硬い顔をしている。 「でもどうしてあの子にばれたんだ?」 「DNA鑑定を依頼していて、結果を息子に見られたとか、血液型検査をして連絡間違いがあったとか。予定外の落とし穴は、あちこちに開いてるよ」  夏貴も知りたくないことに直面した記憶がある。穴の一つに落っこちたのだ。 「本当に実子かどうかは関係ないと思わない? ある日突然親が、今までのようには自分と接しなくなったらどう感じる? おっさんには……分かるよね」  義父がそっぽを向いている。唇を噛み締めている様子だった。 (ドコニモジブンノイバショガナイ)  立っていられるところを失って、田崎家の息子はマンションから飛び降りたのだ。  東の視線が、本堂の方をさまよっている。重苦しかった田崎亮の通夜か、自分の若かった頃を思い出しているのだろうか。 「息子の通夜の日、田崎はトイレで何かを呪っているみたいに呟いていた。あれは事のきっかけを作った電話に対して怒っていたのかな。それとも自分を責めていたのか……」  どちらにしても子供は帰ってこない。 「だが、それなら何で田崎は柴原を殺したんだ? 電話をしたのは柴原じゃない。あいつにはそんな必要はなかった」  なのに田崎は柴原を恨んだ。 「誰かがそう仕向けたんだよ」  そいつは田崎の悲しみを知って、親切ごかしに嘘の連絡を入れたのだ。二人は口を揃えた。 「放火犯の奴だ」  田崎は以前病院で騒ぎを起こしている。激高しやすい性格を知って、けしかけたのだ。 「筋は通る話だ。だけどなぁ」  例によって、解決された問題は新たな疑問の弟を連れてきている。それは犯人が何故そんなことをしたのかという謎だった。 「犯人が田崎に、柴原を殺させたかった理由は何だ?」 「それは……」 「……」  二人とも相手の顔を覗くばかりだ。 「まいったな……」  事件の解決に近づいているのか、ますます事を複雑にしてしまっているのか、意見が分かれそうな成り行きだ。考え込んでいる間に、何やら寺の内がざわめきだした。見れば僧侶たちが祭壇の前から立ち上がっていた。       2  参列者の人数が、だいぶ減ってきた。東はそろそろ帰宅しようと、母を呼びに行った。  東と事件について話をしている間は、気持ちがそちらに集中していて良かった。一人になると、ここが寺で、今が柴原の葬儀の最中であることが思い出されてくる。  寺の内を見ると、人の減った祭壇前に、柴原の入ったお棺が見えた。夏貴は庭を離れて側に向かった。お棺は花だらけの部屋に置いてあるのに、不思議と線香の匂いばかりがした。  もう柴原と話をすることはないのだ。改めて遺影を見ると、それが身にしみて感じられる。 (先生が最後に言った言葉って、何だったっけ。明日も来いっていう一言かな。それとも刺されたときに、何か喋ってたか……?)  思い出せない。それがひどく悪いことのように思えた。 (先生、まだ死にたくはなかったろうな)  研究に明け暮れていた毎日を、手放すのは嫌だったはずだ。 (また次の日も、お互い会う気でいた……)  柴原の都合も考えず、DVD欲しさに夏貴たちは時間外に押しかけていた。医者は最近、そのことを何だか楽しんでいるみたいに見えた。一粒二粒、涙がこぼれ出てくる。柴原は研究を最優先にして、クローン人間を作ってしまった。そのおかげで夏貴たちクローンは、明日の見えない不安の海を泳がされている。  しかし、彼がいなければ、生まれてはこなかったのだ。  その事実に打ちのめされている。柴原のために遺影の前で一人泣いている自分に、驚いていた。ただただ、涙がこぼれて止まらなかった。 (僕はもっと先生に対して、怒っていいはずだ)  もっともな考えが浮かんでも、それでも涙は続く。惨めな気分が押し寄せてくる。泣き止むことを頭が嫌っているかのようだった。ハンカチを使わず、手で涙を拭いもせず、声を殺して泣いていると、母と東が傍に戻ってきた。東の方が声をかけてくる。 「あいつは医者としては一流だったが、後先考えずに行動してしまった。身勝手な奴だ。そうだろう?」  東の言う通りで、反論の余地はない。 「いい給料貰っていて、患者にもちやほやされていた。なかなかの人生を送ったとは、思わないか?」 「そうだね」  誠にごもっとも。そう思っても止まらないこの涙腺は、どうなっているのだろう。  泣いて泣いて泣いて泣いて……。 (だってあの馬鹿先生、戻ってこないから)  少しばかり疲れて、しゃくりあげる声が小さくなってきたとき、東の手が夏貴の頭の上に伸びてきて、整えてあった髪の毛をぐしゃりとかき回した。 「やめてよ、おっさん」  その声に押し出されて、また涙が落ちる。母は夏貴の隣に立ち、静かにその様子を見ている。東が口の端を歪め、何とも皮肉っほい笑いを浮かべた。 「まいったなあ。おい、夏貴。俺が死んだらそんなに泣くのか、お前さん」 「泣かない!」  確信があったので、泣きべそをかきながらはっきりと言う。東は明らかに不満そうだ。 「おいこら、俺は義理の親になる人間だぞ。何で俺の方が粗略に扱われるんだ!」  それに答えたのは夏貴ではなく、何と母だった。 「あなたは父親になる人だからいいの。この先夏貴と長くつき合って、死んだらしみじみ思い出してもらえばいいのよ。それは泣くことじゃないでしょ」  通夜の後、酒を酌み交わす夏貴たちに文句を言われるのを、棺桶の中で聞く運命かと、東は唸っている。そういうことも親の勤めと、母は割り切って笑う。  親が死ねば悲しいには違いない。それでも家族として共に過ごした時があれば、中には腹の立つ記憶も思い出されてくる。涙も浮かべるだろうが、あとは思い出を語ることで皆、悲しみを癒してゆくのだ。  でも柴原には子供がいない。たくさんの命をこの世に送り出しはしたが、医師自身の子は存在しなかった。 「だからかな。柴原先生のおかげで生まれてきた子供たちは、少しばかり泣くんでしょう」 (たとえ先生のせいで、とんでもない目に遭わされても、か)  三人はお棺の方に歩み寄った。最後の別れとして丁寧に頭を下げていると、傍に人影が立った。 「あのう」  遠慮がちに声をかけてくる。見れば着物姿の婦人は、先ほど見かけた喪主だった。 「これを」  差し出されたのは葬儀にふさわしい白いハンカチで、受け取った夏貴はいささか気恥ずかしかった。小さな子供のように泣いていたのを、見られたのだ。 「私は柴原の妹で、泉《いずみ》と申します。あの、兄と親しかった方でしょうか。差し支えなければ、生前の兄のことを聞かせていただけませんか。長年離れておりまして、最近の様子を知りません」  久しぶりに聞いた消息が訃報だったと、女性は下を向いた。 「四神病院の方々には大変よくしていただいているのですが……皆さん、兄は素晴らしかったとおっしゃるばかりで。何か昔の兄とは違う人のことを聞いている気がして」  祭壇の前で臆面もなく泣いている者を見て、柴原と近しい人物だと思ったのだろう。 (正解だけど、どんな親しさなのかは想像もつかないだろうな)  母が名乗って泉に笑いかける。 「病院の方々が何て言われたのか分かりませんけど。柴原先生は、本当に勤勉で人気のあったお医者様だったんですよ」  その言葉は嘘ではない。でも泉が知りたがっていることとは、ずれている気もする。彼女の方を向くと、夏貴はずけずけと知っていることを語りだした。 「柴原先生は研究熱心だった。そう言えば聞こえはいいけど、しょっちゅう研究棟に泊り込むんで、ご飯はカップラーメンが多かったし、服はいつも埃だらけだったよ」 「まあ」  泉の驚いた顔を前に、夏貴は話を続けた。独身だったので、看護師たちに人気があったこと。でも家族がいないせいで、病院でこき使われていたこと。 「だけど長時間勤務を、楽しんでいたみたいだったな」  コーヒーはブラックでは飲めなかった。研究に夢中になりすぎて、自分の歳も忘れているみたいだったし、ボタンをかけ違える癖があった。 「変わっていなかったみたいね」  泉はそう言うと少し泣きそうな顔になる。  あちこちの鍵を、そこら中に忘れてしまうので、柴原は丸いチェーンにまとめて通して腰のベルトにつないでいた。それでも自宅の鍵を失くしたことがある。どうやったらそんな離れ業が出来るのかと、看護師たちの間で話題になっていたと言うと、今度はかすかに笑いを浮かべる。 「兄は子供のまま、大きくなった感じの人だったわ。そのままだったんだ」  妹が懐かしそうに語るのを聞けば、柴原という人は純粋な、夢を追う大人に思える。だが、ただのよい人だったのなら、夏貴は生まれてきたりしなかったはずだ。  話し続けることで夏貴の涙は乾いていた。泉は本当に、兄の思い出話を聞くのが嬉しそうだ。話に区切りがついたところでそろりと近寄ると、夏貴はあるお願いを切り出した。 「実はですね、僕、先生からDVDを貸していただく約束をしていたんです。差し支えなかったら、いつか貸していただけませんか? すぐに返しますから」 「まあ、そうだったの。兄と音村君は親しかったみたいですものね。いいですとも。それ、貸すんじゃなくて形見に貰ってちょうだい」  気軽にあげると言われたものが何か、東にも分かったのだろう、目を見張っている。 「このガキ、さっきまでべそべそ泣いていたくせして」  夏貴を、知らない深海生物でも眺める目つきで見ている。  ほどなくして寺の奥から、四神病院の者が泉を呼びに来た。喪主だからこの葬儀を豪華にしてくれた病院のお偉方に、色々挨拶をしなくてはならないのだろう。葬儀が終わった翌日に、DVDを貰うため故人のマンションを訪ねる約束を泉として、夏貴たちは寺を後にした。       3  柴原のマンションは、駅北側の商業地の外れに建っていた。十数階の高さはあるだろう。煉瓦張りの外観で、広いロビーがある。いかにも裕福な医者が住んでいそうな豪華な場所だった。 (先生のイメージと合わないなぁ)  柴原がちゃんと毎日帰宅しなかったのは、住まいが気に入らなかったせいかもしれない。今日は黒いパンツ姿の泉と東の三人で、七階に上がった。 「ここね。七〇二号室」  全室角部屋の作りであるらしく、同じマンションの人の姿を見ない。泉がドアを開けると、三人は息を呑んだ。 「まあ……」  玄関先から廊下まで、床は本で埋まり盛り上がっていた。泉は体が固まってしまったかのように、動けないでいる。 「おやまあ。最近地震でもあったかな」  わざとだろう、東がのんびりと喋った。その声を聞いて、泉が落ち着きを取り戻した。 「まあ……廊下の片側が全部本棚になっているわ。兄さんたら、これじゃ暮らしていたのか、本に埋もれてたのか分からないじゃない」  泉の小言を背中に聞きながら、二人は本を脇に寄せつつ奥に入ってゆく。獣道を作って居間にたどり着くと、そこも地震の後のようなありさまになっていた。  居間の広さは二十畳くらいだろうか、家具は小机と、窓寄りにさっぱりとした応接セットが置いてあるくらいだ。窓を挟んでの両側、ドア以外の部分は全て、白い作りつけの本棚になっていた。落ちている本の数は、凄かった。 (柴原先生がこのマンションを購入したのは、本棚のスペースがたっぷり取れたからかな)  それが理由なら納得できる。東が素早く各部屋の戸を開けて回った。驚いたことに、普段使っていない様子の和室の畳まで、持ち上げられていた。 「……泥棒が入ったみたいね」  泉が二人の背後から部屋の様子を見て、気味悪そうにつぶやく。 (先生は、病院で自宅の鍵を失くしたことがあるな……) 「何か取られたものがあるか、泉さんに分かりますか?」 「貴重品は置いていなかったはずです。病院の事務の方が言っていました。宿直が多かったので、兄は銀行に貸し金庫を借りて、大事なものは入れていたって」  通帳や印鑑、権利書などはそこにあるはずだという。 「変な泥棒だわ」  泉がしかめ面をして、台所を見ている。流しの中には、破かれた袋や中身が出された広口壜が転がっていた。独り者のせいか、たいした数ではなかったが。 (ただの泥棒じゃないな。物取りなら冷凍食品の袋まで開けたりしないもの)  夏貴が解けたシユウマイを指差すと、東も黙って頷いている。これだけ荒らされている割には、妙なものが盗られずに部屋にあった。  机の上には最新型のノートパソコンが置かれていた。立ち上げてみたが履歴はあまりない。一度中身をコピーされている柴原は、懲りたのだろう、何も情報は入れなかったようだ。他にも高価そうな置物や、携帯電話、使った様子のないゴルフセット、ブランド物の時計が残っていた。 (泥棒ならこんなものを放っておくはずがない。誰かがDVDを探しに来たんだ) 「あの、警察を呼んだ方がいいでしょうか」  泉の言葉に東は頷かなかった。 「何か盗られたことが、はっきりしたら呼びましょう。警察を呼ぶと、色々聞かれるだろうし、煩わしいですからね」  片付けるのを手伝いますよと言うと、ほっとした顔が返ってくる。 「助かります。あの、夏貴君。この山の中からDVDが見つかったら、持っていってね」 「はいっ」  その重要な言葉に励まされて、二人は本の山を整理していった。 「本棚って、見た目よりずっとたくさん収納できるんだなぁ」 「同感だ」  西側の棚に本を戻した頃には二人共筋肉痛になっていた。絨毯が見えてきたのはいいが、発見出来たのは、ひっくり返ったごみ箱だけだった。 「一休みしますか?」  泉が声をかけてくる。片付けた台所で、彼女はお茶をいれてくれたらしい。 「収蔵本は専門書がほとんどですね」  湯飲みを手にし、台所の対面式カウンターに座った東が、ほっとした顔をしている。 「そういう本を扱っている専門の古本屋を呼んで、引き取ってもらったらいい」 「そう言われても私、この辺りの者じゃないもので……分からなくて」 「たぶん、都内の業者に来てもらうことになると思いますが」  夏貴には何だか、東が本の後始末を引き受けることになりそうな気がした。案の定、ほどなく東は携帯電話で古本屋と打ち合わせを始め、あげくに他の荷物の売却や、梱包の手配までしている。 (まったく、東は面倒見が良いというか、おせっかいというか)  そんな性格のせいで、夏貴という厄介者を背負い込んでしまっている。 「色々すみません。助かります」  泉は感激の面持ちだ。 「夏貴君、DVDあった?」 「いえ。まだあれだけしか片付けてないし」  居間は半分、本に埋まったままだ。 「全部片付けるには、しばらくかかりますね」  東の指摘に泉は一瞬うんざりした表情を浮かべた。だがすぐに笑顔に変わると、急いでポケットから鍵の束を取り出し、一つ外して東に差し出した。 「できましたら、この後古本屋さんに来てもらって本を運び出す作業、東さんに仕切っていただけませんか。私はなるべく早く帰らなくてはならないので。息子さんがお探しのDVDも、本を運び出せば出てくるでしょうし」 (えーっ、DVD一枚を餌に、すべての厄介事を、昨日出会った他人にやらせる気?)  真に虫のいい話に思えてしかめ面を作る。しかし気がつくと隣に座った東の手が、カウンターの下で㈸サインを作っていた。 (そうか、考えてみれば、願ったり叶ったりの申し出なんだよね)  鍵があれば、このマンションに自由に出入り出来る。好きなだけDVDを探せる。誠に大人の考えはあざとく、狐と狸の化かし合いという感じだ。結局二時間後に来てもらった便利屋が、主な飾り物やゴルフバッグなどを運び出すと泉は帰って、後は夏貴たちの天下となった。 「古本屋に来てもらうなら、本を棚に戻すことはないな。どうせ運び出すんだから」  二人は都合の良いように納得し、後はDVD探しに専念する。 「全ての本を落として確認しているんだから、本の間にDVDは挟まっていなかったんだよね」  犯人が先に本棚と台所と納戸を調べ尽くしている。探す場所は多くは残っていない気がしたのに、薄さ数ミリの品はなかなか出てこなかった。あちこち探してくたびれきったころ、夏貴がふと、柴原の言葉を思い出した。 『DVDを探すときが来たら、俺の言葉を探してほしい。品物を追いかけては駄目だよ。そこにはないから』 「なんだぁ? 品物を追いかけるな? そこにはない? マンションにDVDはないっていうことか?」  それを聞いた東が、こちらも疲れているのか、明らかに不機嫌な声を出した。 「何で今まで、その言葉を思い出さなかったんだ」 「おっさんもあのとき同じ部屋にいて、先生の言葉を聞いていたよね」 「……そうだったかな?」  二人は愚痴をやめ、現実問題に考えを戻した。半分だけ空いている居間の床に座り込み、残された言葉の意味を考える。 「先生の言葉を探せ、とはどういうことかな」 「夏貴、あの医者はお前さんには甘かった。他に何か言われたことないか?」 「うーん……」  覚えがない。 「言葉を探す。言葉……」  とにかく言葉に関係があるものを、片端からもう一度確認した。テレビ、やや旧型のCDコンポ、手紙の束まで見てみる。 「あれ、こんなところに!」  思わず声が裏返ったのは、寝室の本棚のいちばん端、映画パンフレットの後ろに、何枚かのDVDが見つかったからだ。 「すぐに中身を見よう……あ、便利屋さんがパソコン、持っていっちゃったんだっけ」  DVDを紙袋に入れ、急いで部屋を出る。気がつけば二人とも、昼ごはんも食べていなかった。       4  アパートに持ち帰ったDVDは、全部で八枚ばかり。夏貴のパソコンで再生してみると、中身は画像付きの単なるポップスだった。既製品もあったが、誰かが自分の好みで選曲したらしいものが多かった。 「看護師さんからのプレゼントかな」  がっかりした夏貴の声を無視して、東は隠された情報が入っていないか、もう一度中身を確認していた。だが、無駄だったらしい。 「紛らわしいものをマンションに置きやがって。柴原のかわいくない性格が表れているぜ」  東は怒っているが、柴原はDVDを隠したかったのだから、簡単に見つかるわけがなかった。 「この分じゃきっと犯人も、DVDをまだ手に入れていない。それだけが救いだな」  犯人に先を越されたら、奴が次に何をするか、夏貴たちには想像がついていない。身を守るためにも、何としてもDVDは渡せないのだ。 「このポップスのDVD、どうしようか。くれるって言ったんだし、貰っておこうかな」  マンションに戻してもあの泉のことだ、まとめてリサイクルショップにでも売り払うに違いない。だがその言葉を聞いた東が、パソコンから目を離し、怖い顔を向けてきた。 「よせよ、柴原の遺品なんか抱え込むのは!」 「だって……」 「お前、死んだ友達の携帯電話も、まだ持ち歩いているだろうが」  過去を全部ポケットに突っ込んでいると、そのうち重みで歩けなくなるぞと、硬い声が飛ぶ。正論、至論、硬論で、夏貴に返す論法はない。 (だけど)  DVDは東の傍らにまとめて置いた。携帯電話は何としても守りきるつもりで、ポケットから出さなかった。畳の上に積み重なった薄っぺらなDVDを、夏貴はしばらく無言で眺めていた。ただの音楽しか入っていなかった、期待外れの品。 (これが本物だったら!)  そのままDVDを見つめ続けて数分後、夏貴の口から小さく笑い声がこぼれ出た。 「おい、どうした。大丈夫か?」  東がかなり本気で聞いてくる。 「いいことを思いついたんだ」  心配をよそに、夏貴はしごく上機嫌だ。 「これがいいかな」  ポップスの自選集から飾り気のない一枚を選び出すと、東に差し出してこう持ちかけた。 「これで犯人をおびき出せると思わない? これは間違いなく柴原のマンションにあったDVDだよ。見ただけじゃ、中身は分からないだろうし」 「あっ……」  問題のDVDは、マンションからは見つからなかった。犯人があれだけしつこく調べていた理由を考えると、四神病院の研究室やロッカーなどにも、置かれていなかったのだろう。もしDVDが夏貴の手元にあると分かれば、犯人は狙ってくるはずだ。 「うん……いい案だ、夏貴。きっと犯人は現れる。名無しの権兵衛の正体を掴めるぞ!」  珍しく東から褒め言葉が出た。 「だけど誰だか分かっても、警察には突き出せないし……」  唇を噛みしめる夏貴に向かって、東が凄みのある顔で笑う。 「なに、相手の名前さえ分かれば、色々打つ手はあるさ」 (……東の仕事は、水商売だったよね)  夏貴は口をへの字にした。渋谷や六本木で酒を扱う仕事をしていれば、強面《こわもて》の暴力団関係者と係わりがあってもおかしくない。 (まさか知り合いに頼んで、犯人を簀巻《すま》きにして、本当に海に放り込むなんてしないよね)  正哉を殺し、日野夫妻を殺し、他にも何人も狙った犯人に、同情を感じることは出来なかった。法の手が伸びてこないのをいいことに、いつまでも殺しを続けている。だが、これから母と結婚する予定の東が、殺人罪で塀の中に入ってしまうのはまずい。顔を強張らせている夏貴の背中を、東が笑いながら叩いた。 「心配するな。警察に出てこられたら都合が悪いからな。慎重にやるさ」 「やるって……何を?」 「そこから先は、大人の仕事」  そう言って、東はにやにやと笑う。後は病院にいる犯人に、DVDの情報をどうやって伝えるかだった。二人は慎重に計画を立てていった。       5  金曜日の午前中、夏貴は病院へ行った。過呼吸の診察を終えると、産婦人科のスタッフステーションを訪ねる。いつもお世話になっている看護師さんたちへ、東から最新流行スイカゼリーをことづかったから、という理由がついていた。 「かわいい。この容器、スイカ柄になっているのね」 「東さんて、本当に女性の心を掴むのが上手いわよね」  相変わらずの東の人気が何とも不思議だ。大好評のゼリーを自分でも食べながら、夏貴は噂話に加わった。看護師たちの話は苦労して誘導しなくても、すぐに盛大に執り行われた柴原の葬儀のことになった。 「大げさだったわよね」  あの派手な葬式は、全員に好評だったわけではないらしい。 「僕、お葬式で柴原先生の妹さんに会ったよ。ちょっと先生に似ていた」  夏貴が水を向ける。 「ああ、泉さん。私もご挨拶したわ」 「顔は似てるかもね」  返ってきたのはそっけない反応だ。ちゃっかりしている妹への看護師たちの評価は、今ひとつのようだ。 「妹さん、僕に柴原先生が残した秘蔵のDVDをくれたんだ。貰っておいていいよね?」  看護師たちの顔を窺うように聞く。これにはあっさりお許しが出た。 「夏貴君は先生と親しかったものね。あの泉さんが持っているよりも、いいんじゃない」 「ちょっと聞いて。泉さん、院長に投資コンサルタントを紹介してほしいって頼んだみたいよ」 「柴原先生の遺産? そんなに貯めていたのかな」 「先生、身なりにはかまわなかったし、お金を使う趣味なんかなかったからね」  噂話はこれから一層盛り上がりそうだったが、おやつを食べ終わったところで、夏貴は挨拶をして帰った。東からなるだけ病院にいる時間を減らすように言われていたからだ。 (これで話は伝わってゆく)  病院内の職員へ、医師たちへ、そして犯人にも。どうしても欲しかったDVDの在処《ありか》が分かったら、犯人はどうやって手に入れようとするだろう。 (強引に奪い取りに来るかな。それとも中身など知らないふりをして、騙して入手しようとするか)  それは怖いようで楽しみな瞬間に違いない。いよいよ正哉を殺した敵と対峙する時が近い。夏貴は腹の底に力を入れつつ、一人病院からアパートに帰っていった。  土曜日の朝が来ても、誰からも何の連絡もなかった。母はいつも通り出勤だ。東は朝飯を食べた後、今日は店には顔を出さず、このままアパートに留まると言った。 「泥棒が入るということも、考えられるからな」  それがいちばんありそうだというのが、東の意見だ。夏貴の方は、片岡家や田崎家のときみたいに、犯人が電話での接触を試みてくるだろうと踏んでいた。  何もないまま昼が過ぎ、夏貴が作ったそうめんを二人で食べた。風呂を洗い、新聞紙と雑巾を使った完璧版窓掃除が終わっても、平穏そのものだった。 「僕たちの考えに、何か間違いがあったのかな。犯人は病院関係者じゃないんだろうか。それとも単に、DVDの話題が噂になっていないだけだろうか」  いらついてもどうしようもなく、とにかく相手からの連絡待ちだった。気持ちを抑えるために、暑い日だというのに、東の指導で手間のかかるシチューを作り始める。家にあった材料だけで作っているのに、やたらと本格的な味になっていく。香草の爽やかな香り、香ばしいような肉の風味。夏貴は目を丸くした。 「おっさん、何で料理が出来るの?」 「料理も、だ。俺は家出人だからな。盆や正月でも帰る家はないから、一人で過ごすよりましだと、ホテルや旅館で雇ってもらっていた。泊まり客が多くて忙しい時期だ。厨房にも入ったよ」  この話だけなら、東の若い頃の苦労を思って、胸が熱くなったかもしれない。しかし東が嬉しそうに余分なことを言い出したので、反発心が喉元までこみ上げてきた。 「これからの男は料理が出来ないと、もてないぞ。しっかりと教えてやるからな」  これ以上、良き父親ごっこを続けられてはたまらない。 「母子二人暮らしだ。料理くらい、多少は出来るよ!」 「あのそうめんを、料理とは呼ばないぞ。インスタントの汁じゃないか」 「何だって!」  言い合いをスパイスに、とにかくシチューは出来上がり、つけ合わせに豆と人参のサラダも作った。その後焼きプリンも仕上がって、東が無理やり夏貴に簡単なパン作りを教え始めたときは、既に夕暮れになっていた。 「遅いな……」  夜となり、パンも焼き上がる。だが母がまだ帰宅していなかった。 「いつもこんな時間になるのか?」  東の問いに夏貴は首を振る。母は母子家庭を理由に、なるべく早く帰宅する習慣だった。東が母の携帯電話に連絡を入れる。つながらなかった。すぐに会社にかけた。もうとっくに退社した後だと言う。二人は顔を見合わせた。 「まさか……彌生さんに手を出したんじゃないだろうな」  直接DVDを狙うのは危ないと判断して、母を人質に取ったのだろうか。帰宅途中という可能性もあるので、東が駅まで見に行くと言う。問題は夏貴と偽物のDVDがアパートに残るかどうかで、夜出かけるのと一人残るのでは、どちらがより危ないのか、東に見当がつかないことだった。 「一緒に行くよ」  自分でそう決め、腰を上げる。そのとき、今日初めて電話が鳴った。  東がボールペンと筆談用の紙を用意する。二人で会話を聞くために、夏貴がスピーカーホンのスイッチを入れた。電話から、故意に変えられたらしい耳障りな声が聞こえてきた。 「柴原は本当に君にDVDを残した。信じられないよ」  何の前置きもない会話が始まった。夏貴は目を見開く。病院では看護師たちに、柴原の妹である泉からDVDを貰ったと言ってあった。 (こいつ、僕と柴原先生の会話を、立ち聞きしていたのか?)  柴原がその言葉を言ったとき、部屋の中に自分たち以外の姿はなかったはずだが。 「DVDと君のお母さんを交換だ。今夜、指定された場所に来るように。時間は……」 「待てよっ」  大声で会話を止めた。母を人質に取られている以上、犯人に逆らうのは危険だが、手元に本物のDVDがないのだからしかたがない。盗むのなら、犯人はDVDを盗ってすぐに逃げるだろうが、人質との交換だとすると、中身を確認してくるだろう。 (なるべく人質との交換日時を、先延ばしにしろ!)  東が紙に大きく書いて指示してくる。今晩、今すぐでは対処のしようがない。夏貴は慎重に会話を続けた。 「急には動けないんだ」 「親の命がかかっていてもか」 「今……あれは手元にないんだ。盗まれると危ないと思ったから、遠くにしまってある」 「今から取りに行け。時間は夜中の十二時過ぎ、場所は……」 「もうその場所は閉まっているんだ。週末は開かないんだよ!」  そんな場所があるかどうかも分からないまま、叫んでいた。すると、鋭く舌打ちする音が、電話から漏れてきた。 「ちっ、貸し金庫に放り込んだのか!」  犯人は勝手に納得したようだった。とりあえず今日、明日の猶予が生まれていた。 「月曜になったら、真っ先にDVDを取り出しておけ。また連絡する」  自分の方が優位に立っていると分かっている人間が出す、ふんぞり返った声がした。夏貴は母の声を聞かせてほしいと訴えた。 「母さんの無事を確認できなければ、DVDを千枚通しで叩き割るよ」  二、三秒の沈黙が流れた後、突然母の声が電話から流れてきた。 「夏貴。あなたは無事なの? 大丈夫?」 「それはこっちが言うことだよ。怪我してない? 今……」  言いかけたところで、母の気配が消える。変わって例の機械的だみ声が、短い交渉の終わりを告げてきた。 「それでは月曜日に」  それまでに今度こそ、DVDの本物を手に入れなければならない。  失敗すれば、二度と母には会えないのだ。 [#改ページ]    第十章 迫る       1 「結局、自分たちでDVDを探し出して、母さんと交換するしか方法がない、ということだよね」 「ああ……」  土曜日が過ぎていこうとしていた。アパートで東と話し合い、誘拐犯への対処の方法を検討して数時間。電話や知人を使い母の行方を探ってみたが、無駄に終わった。その上で出した結論は、あまりにも癪に障る内容だったがしかたがない。一日半のうちに母の居場所を見つけ、助け出せるという確信が持てなかった。DVDと母と、両方追う余裕がない。警察に訴えることすら出来なかった。DVDの中身を教えるわけにはいかないからだ。東が吐き捨てるように言う。 「犯人はもう三人焼き殺している。田崎の息子と柴原だって、あいつが殺したようなものだ。彌生さんの安全が最優先だ。犯人のイカレ野郎、殺人行為にためらいが感じられない」  一体どうやったらこんなに簡単に、人を殺せるようになるのだろうか。 (殺人が止まらない自分のおぞましさに、震えたりしないのかな)  犯人は究極の自己否定につながる行為を、いとも簡単にやってしまう人物だ。話し合いでどうこうできる相手ではないだろう。 「DVDを追うには、柴原が残した言葉がある。こっちのほうが、探し当てる可能性が高いはずだ」  東の考えが正しいと分かっていても、夏貴は落ちつかなかった。月曜日、銀行が開く時間まで、三十三時間しか残っていない。夜の間にもう一度柴原のマンションに、DVDを探しに行くことにして、東は近くの駐車場に車を取りに行った。夏貴はその間に窓の鍵を閉め、プリンやサラダを冷蔵庫に放り込む。 (無駄にしやしない。母さんと一緒に食べるんだ)  母は一体、どういう場所に閉じ込められているのだろうか。 (ねずみやゴキブリは、我慢できない人なんだけどな)  犯人がそこまで気を遣うはずもなく、せめてお腹を空かせていないように、祈るばかりだ。 (だけど……)  小さな鞄を肩から下げたところで動きを止めた。こんなに母親を心配している自分がいる。そのことが信じられなかった。 (母さんがいるだけで、発作が起きそうだったのに)  血がつながっていないと分かった母親だ。もし無事に全てのことが済んだら、またぶり返す問題があるのは目に見えている。だけどやはり、ただ一人の母なのだ。誘拐されればひどく心配だし、何がなんでも、取り戻す決心でいる。 (不思議だ……)  今、アパートの前に車をつけ、下から夏貴を呼んでいるあの頓痴気のことですら、もし人質になればやはり心配に違いない。一生懸命探すことすらするだろう。 「何なんだろうね」  口にしてみても答えは出てこない。 (とにかくDVDを手に入れるのが先だ)  二人が車で出かけたときには、既に日曜日になっていた。  北口にある柴原のマンションでは、相変わらず他の住人の姿を見なかった。 「あれから誰も、中に入ってはいないな」  東が工夫して塞いでおいた本の獣道は、寸分違わずそのままだ。居間に行くと、二手に分かれて再度探し始めた。 「あのひねくれ者は、一体どこに大事なデータを隠したんだ?」  今日の捜索は気の入れ方が違った。タイムリミットまであと三十二時間と少しだ。数字が頭の中で点滅している。可能性は少ないと分かっていたが、本の山も整理し始めた。 『DVDを探すときが来たら、俺の言葉を探してほしい。品物を追いかけては駄目だよ。そこにはないから』  確かにDVDはどこにもなく、気ばかりあせってしまう。 (あと三十一時間。いやもう三十時間と半か)  結局明け方近くまで、本と格闘することとなった。他の場所は、調べつくしてしまったからだ。白み始めた空を見た東が、しばしの休息を告げ、本の脇に転がった。 「まだ頑張れるよ」  そう言うと、寝ろと返事が来た。 「ぼけた頭じゃ使い物にならない。これからDVDの在処を考えるんだからな」 「……うん」  小さく答えた覚えがあった。二人とも、もう動くことが出来ず、毛布も被らずにそのまま絨毯の上で、死体の親戚になった。       2  夏貴は携帯電話をかけていた。手にしているのはメタルグレイの馴染みの機種で、ボディには傷一つない。画面にはいつもの顔が現れていた。大事な大事な、一番の親友だ。 「なあ正哉。DVDはどこにあると思う? 急いで探しているんだ。母さんが危険だから」  正哉はそれは勘が良い奴だから、こういうときには頼るに限る。いつだってそのやり方で、上手くいってきた。友が画面の中でしばし考え込むと、ぽんと手を打つ。 (何か浮かんだのかな)  期待を持って覗き込んだ。正哉が口を開く。 「……何を言っているんだ?」  画面の中から親友がしきりと話しかけてくるのだが、言葉が聞こえてこない。 「携帯電話の調子が悪いのかな」  こんな大事なときに! 夏貴は電池の残量を調べ、それでも上手くいかないので、軽く叩いてみる。相変わらず聞こえない。 「何なんだよ。頼むよ。母さんの命がかかっている」  大声を出すと突然携帯電話の画面が暗くなり、友の姿が消える。似たような場面を以前見た気がして、夏貴は顔を引きつらせた。 「どうしたんだ? 何故だ? やめてくれよ。僕今へとへとで……こんな冗談につき合っていられないんだよっ」  最後は叫んでしまった。自分の声が部屋の中で反響し、全身に突き刺さってくる。 「どうしてなんだ、正哉っ」  これではまるで、この電話機は壊れているかのようだ。まるで、まるで、そう、壊れていて……。だってもうすでにとっくにこわれてこわれてこわれていて……。  着信音が鳴っている。 (やっと直ったんだ)  素直にそう思った。 (何が壊れていたんだっけ?)  思い出せない。携帯電話を取り出し、いつものようにボタンを押した。 (んっ?)  手ごたえが違った。恐る恐る手の中を見てみれば、そこにあったのは全部溶け、互いに張りついた携帯電話の表面。焦げて粟立ち、崩れかけている。真っ暗な画面が夏貴の方を向いて 「うわあっ」  思わず取り落とす。すぐに慌てて拾った。 (正哉っ)  隣で寝転がっていた東が頭を上げた。寝不足の、不機嫌の極みという顔を向けてくる。 「早く取れよ、携帯電話!」  催促してきた。 (あれっ?)  言われてみれば、まだ鳴っている。(そうか)鞄の中から自分のを取り出した。 「もしもし……」  夏貴の電話の着信音だった。気づくべきだったのに、どうかしている。 「やっとつながった。夏貴、体の調子はどうだ?」  級友の山之内からだった。 (やっぱり……正哉じゃない)  このところ学校をさぼる日が増えている。親切な級友はプリントが溜まっているから、月曜日に学校に来ないようなら、持っていこうかと聞いてくれた。 「あ……の、月曜日は病院へ」  何とかそう言うと、ではアパートのポストにプリントを届けておくと、明るい声が請け合った。 (届ける?)  何かが引っかかった。とにかく礼を言って電話を切る。 「九時か。目が覚めて助かった」  東は立ち上がり、顔を洗いに行った。電気や水道はまだ通っている。夏貴も台所で頭から水を被った。今頭の隅に引っかかったもの。それを寝ぼけた頭の中から、引きずり出さねばならない。 「これはまた、派手に洗顔したな」  びしょ濡れの夏貴を見て呆れ顔の東が、部屋に残っていたタオルを取り出し、放って寄越した。 「今の電話でさ、あっと閃いたことがあったんだけど」  でも、どうもはっきりしないと言う夏貴に、東が怖い顔を向けてくる。 「何だ? 役に立ちそうか? 思い出せ。時間がないんだ」  期限まであと、二十四時間だ。 「そんなこと言ったって」 「思い出せ!」 「強制されると、よけい分からなくなるよ」 「夏貴っ」  怒ったような顔と声が迫る。 (だってっ)  思わず後ろに下がったとき、携帯電話の着信音が鳴った。さっきと同じ音だ。受信ボタンを押す。山之内は何と言っていた? プリントをアパートにわざわざ届けてくれると。そう、届けてくれると。 「分かったぁ!」  通話状態の携帯電話に思わず怒鳴った。「ひっ」東が耳を押さえて短い悲鳴をあげる。どうやら夏貴に着信音を聞かせ、記憶を掘り起こしたのは、東らしい。 「あの……ごめんなさい」  東は急いで電話を切り、うめいている。 「くそガキ! 何を思いついたんだ。さっさと話せ」 「つまりさ、盗まれたくないものを保管しようと思ったら、僕なら自分の陣地には置いておかない。柴原が品物を追いかけても駄目だと言ったのは、既に誰かのところにDVDを送った後だからじゃないかな」 「なるほど、あのひねくれ医者にはありそうな話だな」  だが、と東は言葉を続ける。 「誰のところに?」  間違っても情報を盗んだ可能性がある病院関係者には送らなかったはずだ。頭の上十センチまで、医者としての暮らしに浸かっていた柴原が、仕事を離れて全幅の信頼を寄せた相手とは誰か。 「それは分からない」 「役に立たない思いつきだな」  独特の嫌味な口調が返ってくる。 「でもその相手の名前を、どこで探せばいいか、僕には分かっているんだけどな」 「あと二十三時間と半。もったいぶるな!」 「先生の携帯電話の中。電話番号が登録されていて、先生が最近電話をかけた人物だよ。�俺の言葉を探してほしい�通話履歴のことじゃないかな」 「そうか携帯電話か! 柴原のものは……」  東と目を合わせる。希望に満ちた確信の後に、冷や汗をかくような気分が待っていた。 「携帯電話! あの妹、この部屋から持ち出してないだろうな」  二人で部屋の隅、小机の辺りに走り寄る。 「確かこの辺に転がっていたはずだ」一緒にあったはずのゴルフバッグはない。置物もない。携帯電話は……。 「あった!」 「助かった。あ、これPHSだ。そうか、お医者さんたちは、こっちを使っているんだっけ。それで泉さんが持っていかなかったのかな」  売っても幾らにもならないから。大幸運だ。 「アドレス帳を見てみろ。どうだ?」 「わあ、さすがに医者だね。たくさん入っている」  本を払い落としてソファに座った二人は、名前の中からまず四神病院関係者を外していった。それから妹の名や明らかに医者と分かる者、飲食店などを除く。 「残りは、十数人ていうところか」 「これからどうしたらいいかな。これ以上絞り込めないよね」 「知れたこと。正面突破さ」  たぶん関係のない友人に、中身を知らせないまま保管を頼んでいるのだろうと東は言う。 「きちんと名乗って、誠実な対応をしろよ。DVDのことは人には話さないでくれ、くらいは頼んであるだろう」  二人でリストアップした電話番号に端からかけていった。すぐには目指す相手に行き当たらない。連絡はもうずっとないという者や、死んだことすら知らなかった人もいた。 「もしもし。僕は柴原医師の知り合いの者で、音村と申しますが」  三分の二くらい電話を済ませたときだったろうか、夏貴は電話に出た女性に、柴原とのかなりの親密さを感じ取った。 「柴原医師のアドレスから電話番号を見つけて、かけさせていただいています。�愛�さんでいらっしゃいますか」 「音村さん? あなたの名前を彼から聞いたことがないわ。柴原とどういう関係の方?」  医師のことを呼び捨てにした。夏貴の名前を自分が知らないと言って、こちらを警戒している。夏貴は急いで東を手招きして、電話の内容を二人で聞いた。 「僕は先生の患者なんです」  正直に話す。 「柴原先生が生前、DVDをくださると約束してくれたんです。それが見つからないので、必死に探しているんですが」 「証拠は? 持っているの?」 「はっ? 何のことですか」 「柴原があなたにDVDを譲ると書いたものでもあるの」 「それは……」  口頭での約束だったし、その直後に柴原は殺されてしまった。 「ありません。でも緊急事態なんです。実はですね」  そこまで話したとき、一方的に電話を切られた。 「この女で当たりだな。話だけ聞いていると、柴原の奥さんかと思うぜ」 「先生に、親しい女性がいたんですね」  四十を越した独身の医者に、つき合う相手がいてもおかしくはない。しかし噂がなかっただけに驚きだった。とにかく�愛�と話さなくてはならない。ところがそれきり電話は通じなくなった。 「くそっ。用心深いな」 「分かっているのは電話番号だけ。これで相手の住所、調べられない?」 「時間があれば、その道に詳しい探偵に調べてもらうんだが」  東が唇を噛んでいる。一応残りの候補も確認したが空振りだった。 「やはりこの電話に出ない�愛�がDVDを持っていそうだ」  このままではらちが明かない。電話番号から住所を突き止めるべく、東はどこかに電話をかけ始めた。夏貴の方は鞄を肩に掛けると、外出してくると東に断りを入れた。行き先は病院だ。 「何しに行くんだ?」  電話をかけながら、東が横目で見てくる。 「噂話を拾ってくる。�愛�が柴原先生の恋人なら、看護師さんたちの誰かが、彼女のことを知っているかもしれない」 「そう上手くいくかな」  半信半疑の様子だったが、東は行ってこいと、手で促した。とにかく打てる手は全て打たなくてはならない。  残りは二十二時間だ。       3  病院に着いた夏貴は、真っ直ぐに産婦人科のスタッフステーションに向かった。今日は口実になるお菓子の持ち合わせもなかったが、笑顔で顔を出すと、ちょうど午後からの出だった看護師長の小畠に出くわした。 (ラッキー。いちばん病院の噂に通じている人に会えた)  さっそく声をかけ、勤務時間までの間、一階の中庭に来てもらう。 「今日はなんなの、夏貴君」  ベンチに座るとすぐ聞かれて、おずおずとDVDを鞄から取り出した。柴原のマンションにあった、ポップスが入っていたものだ。 「実はこれ、柴原先生の妹さんからいただいたものなんです。先生が生前くださるって言ってたので」 「ああ、聞いてるわ。形見分けでしょ。大事にしなさいね」 「それがですね、中に……�愛�へ、って書いてあったんです」  インデックスに名前を入れたのは夏貴だから、ちらりと見せるとすぐに隠した。柴原の字でないことが、ばれないことを祈った。 「この�愛�さんて、誰なんだろう。僕、DVDをこの人にあげた方がいいのかな」  遺品だから、どうしていいか分からなくてと、戸惑った声を出す。小畠は一瞬驚いた様子だったが、 「そんな人は知らない」  とは言わなかった。 (いいぞ、さすがは看護師一の古株。何か知っているね)  小畠は少し困ったような顔をしていた。 「まいったなあ、柴原先生ったら」  しばらくDVDを眺めてから、夏貴に答えてきた。 「それ、そのまま貰っておいてもいいと思うよ」  小畠はこれで問題解決と思ったようだが、夏貴の目的は�愛�の名前や住所を知ることなので、ここで引き下がるわけにはいかない。ベンチの上でにじり寄った。 「あのう、気になるんですけど」 「子供に話すことじゃないのよ」  また困った顔になる。その言葉に夏貴が反応した。 「もしかしてこの�愛�って人、先生の浮気相手?」  言ってから矛盾点に気がつく。手の中のDVDをくるりと回した。 「あれ? 先生は独身だったっけ」 「……先生は、ね」  元々噂好きの上に、夏貴に半ば真実を悟られたことで、小畠の口が開いた。それによると、�愛�とは間違いなく、伊吹愛子《いぶきあいこ》という人のことだという。もう十数年以上前に、都内から四神病院にわざわざ通っていた、柴原の元患者。不妊治療をしていたのだ。 「不妊治療っていうことは……」 「彼女には夫がいたわけ。旦那さんは貿易会社社長とかで、身なりも派手だったわよ」  彼女には長年子供が出来なかった。病院で不妊治療をしている間に、伊吹氏が浮気をしてよそに子供を作り、それが元で離婚したようだという。 「柴原先生は自分の力不足のせいだって、随分同情していたわ。それがきっかけで……愛子さんとつき合うようになったのね」 「ならなんで、二人は結婚しなかったの?」 「愛子さんの方が、元の生活に未練があったのよ。伊吹さんと離婚したのに、切れなかった。いずれ元夫は子供の母親とは別れて、自分と復縁すると思っていたみたい」  小畠の口調が厳しい。そういう女は概して同性に評判が悪いのだ。それとも独身のこの看護師長にも、人に伝えていない思いがあったのだろうか。 「復縁を待つ気ではいても、愛子さんが離婚されたのは事実で、一人暮らし。優しくしてくれる男は手放したくない。利用されたのは柴原先生で、結局お独りのまま亡くなられてしまったわね」  ここでまた、夏貴の知らなかった柴原の顔が見えてきた。 (本当に人ってプリズムみたいに、色々な色を見せるんだな) 「その人の住所分かりませんか? やっぱり一度これ、見せておきたい」 「そんな手間をかけなくても。伊吹さんがDVDを欲しがるかどうか分からないわよ」  それでもと言うと、小畠は病院の昔の記録から、こっそりと住所を書き出してきてくれた。都内、渋谷区になっている。渋谷なら東が詳しいだろう。夏貴は小畠に深く頭を下げ、病院を出た。 (あと二十一時間と半)  東に連絡を入れると、すぐに迎えに来るという。二人でDVDがあるはずの、柴原の恋人の家へ向かうのだ。       4  伊吹愛子の住所はすぐに分かった。離婚後どうやって暮らしを立てているのか分からないが、高級感のある白いマンションの一室に、今も一人暮らしでいるらしい。 「あと二十時間以上ある。よかった。楽に間に合ったな」  マンションの一階にたどり着いたとき、東は楽観していた。ところが肝心の愛子は外出しているのか、インターフォンを鳴らしても反応がない。二人は一階のオートロック扉を開くことすら出来なかった。相変わらず携帯電話は切られたままだ。他にどうしようもなく、マンションの入り口近くで、夏貴たちはただ待つことになった。 「どこへ行ったんだ。早めに帰ってくるんだろうな」  一時間経ち、二時間過ぎる。東のいらいらは、どんどん募っていくが、待ち続けることしか出来ない。そのうち日差しが傾いてきて夕刻になってきた。 「いっそ脇の非常階段から侵入して、鍵を壊して入った方が早いかな」  東が物騒な意見を持ち出し始める。 「このクラスのマンションなら、警備会社と契約しているよ。DVDを見つけないうちに、捕まること間違いなしだ」  その言葉で東はこそ泥の真似を思いとどまったが、愛子は夕飯の時間になっても帰ってこない。 「あと十四時間しか残っていないじゃないか。今日中に帰ってくるんだろうな」  しかたなく近くのビストロで夕飯を食べた。スパゲッティをこねくり回している東の落ち着きなさが、伝染してきそうだ。カレーを頼んだ夏貴は、アパートに置きっぱなしにしているシチューのことを思い出していた。大きな鍋を冷蔵庫に入れるわけにはいかなかったのだ。 (三人で食べるはずだったのに)  このところ東が家に入り浸っているせいで、すっかり三人で暮らすのに慣れてきている。不意に一人いなくなると、指が欠けるみたいにひどく違和感があった。 (早く母さんを取り戻さなきゃ)  食事が終わりマンションに戻っても、まだ愛子は帰宅していなかった。 「ババァ、どこをほっつき歩いてんだ!」  いらつく東の言葉は酷いものだ。ただ待つしかない中、夏貴も切れそうになってくる。 (間に合うだろうか)  一分時間が過ぎるごとに不安が増す。腹を立てて過ごした夜が更け、そのまま深夜に突入してゆく。信じられないことに、愛子はそれでも帰宅してこなかった。 (もしかして……旅行に出かけたなんてことはないよね)  冷や汗が出てくる。それでも入り口のタイル張りの壁にもたれかかり、待ち続けるしかない。  不安と先の見えない恐れを抱えたまま、ずっと……。  伊吹愛子が戻ってきたのはすっかり夜が明け、二人の顔がひきつり、怖い表情が張りついた後だった。玄関で待っていた人影に、驚いたのか愛子の足が止まる。 (柴原先生と同年輩かな。朝帰りが平気とは、歳の割には体力があるじゃない)  若い頃は濃いピンクの薔薇のように美しかったに違いない。その濃厚な麗しさを好むかどうかは、人それぞれだろう。今は疲れた顔を朝の光が照らして、皺が目立ち老けて見える。  東の方はさすが元ホストで、一瞬で眠そうな顔を変えた。初対面の女性を驚かせないように、物柔らかな笑みを浮かべている。時間がない。今は口が勝負を決めるときだった。 「私たちは昨日電話をした者です。柴原先生のことで、少し話をさせていただけないでしょうか」  愛子はわずかばかり、体から緊張を解いた。 「まあ……もっと若い方だと思ってましたけど」 「音村というのは、こいつのことでして。息子です」  東が夏貴を前に押し出す。 「こんにちは」  硬い挨拶が夏貴の口からこぼれた。 「こいつは柴原先生の患者だったんです。生まれる前からお世話になってましてね」  愛子の口から小さく「ああ」という言葉が出た。何か態度が変わっていた。 「帰ってくださいと言っても、無理なんでしょうね。朝早くから待ち構えていたんですから」 「ええ、そうなんです」  さすがに前日からいたとは言わなかったが、愛想の良さはそこまでだ。ずうずうしく頑《かたくな》な態度で押してゆく。 (あと一時間半!)  諦めたのか、愛子がようやくマンションのオートロック扉を開いた。 「わあっ」  夏貴の口から小さなため息が漏れたのは、愛子の部屋が正真正銘、豪華だったからだ。少なくともそう見える。家具はクラシックなマホガニー色で統一されている。壁面中、本棚だらけだった柴原のマンションや、見事に何もなかった東の住まいとは、比べ物にならなかった。 「どうしました?」  愛子の問いに、つい柴原の家との差を語ると、笑いが返ってきた。 「あなた、彼の家に本当に行ったことがあるのね」  もう一段、警戒が解かれた。熱い紅茶が薔薇柄のティーセットで出される。うっかり壊したら、茶器代も絨毯のクリーニング代も飛びぬけて高そうで、手に取れなかった。夏貴はアールデコ調の椅子に座った愛子に、単刀直入に申し入れた。 「あの、柴原先生はあなたに、DVDを預けていませんか。それがどうしてもいただきたいんです。先生は確かに僕にくれると言いました。嘘じゃありません」  しかし愛子はきっぱりと首を振ってきた。機嫌は悪くない様子だ。だが拒否されたことに変わりがない。 「柴原が私以外の人に、あれを渡すわけがないと思うの。だから差し上げられないわね」 (DVDはここにありそうだ)  これは吉報。だが簡単には手に入れられそうもない。夏貴たちは顔を厳しくした。 「あなたたち、DVDの中身について知っているの? そんな気がするんだけど」  この問いに、東が「クローン」とだけ短く答えた。愛子の反応を窺うと、驚いた様子がない。彼女もまた、事情を心得ているようだった。 「そう……」  愛子は眉を寄せると夏貴に顔を向け、聞いてくる。 「歳はいくつ?」 「十四です」  大きく目を見開き、愛子は声を震わせてきた。 「……あの、柴原の患者だと言ったわね。あなた自身も関係あるのかしら。もしかして……」 「それは答える必要ないでしょう」  東が止めに入る。 「何も興味本位で言うわけじゃないのよ。だって、その」 「駄目です!」  東の顔が怖い。 「あのね、ちょっと聞いて」  愛子が姿勢を正した。ティーカップをテーブルに置き、意を決したように喋り始める。何かを期待しているようでもあった。 「私は……昔、柴原の元で不妊治療を受けていたの。そのままだと離婚されそうだった。どんな方法でもいい、赤ん坊が欲しいって彼に願ったわ」  柴原との昔話。しかし何故夏貴たちの前で話すのだろう。 「柴原は泣いて頼んだ私の願いを叶えてくれた。彼はまさに天才だったわ。もう十七年も前に、クローン人間を誕生させる技術を完成させていた。私のために! 私は妊娠出来たの」  突然の告白に、夏貴の全身に震えが走る。 (この女のために柴原は最初の一線を越えたのか。これがクローンが生み出された理由?)  愛子はどうやらその行為を、自分に対する崇拝の表れとでも思っている様子だった。顔が紅潮し、声にうっとりとしたものが混じっている。自慢げな響きさえある。 (男を偉大な業績に動かした、美しいマドンナの気分か?)  久しぶりに呼吸が速くなってくる。歯を食いしばった。 「でも私のその子供は生まれなかったの。夫が浮気をして、相手の女に先に子供が出来たの。ショックで流産してしまったわ。夫は私にも子がいたのを知って後悔していた」 (クローン体は流産しやすいんだ。知らないのか?)  話を聞いていると、腹の底からこみ上げてくるものがあったが、指を握り締め、我慢して告白を聞いた。ここで言い合いをするわけにはいかない。今はDVDを手に入れることに、集中しなければならない。 「もちろん夫はあんな教養もない女なんて、本当は好きじやないのよ。でも子供は嫡出子にしたかった。私は一時身を引くしかなかったの。柴原はそんな私を慰め助けてくれたわ」  でも突然頭のおかしな人間に、刺し殺されてしまったと、愛子はため息をついた。 「これから誰が私を守ってくれるの。夫は子供のために、まだ今の妻と離婚は出来ないって言うし。もう待ちくたびれちゃった」 (先生は一体何でこんな女に引っかかったんだ?)  彼女の言葉の中に、失ったばかりの柴原への思いが見つからない。どうにもいらいらしてくる。夏貴は肘の下にある金モールの付いたクッションを、引きちぎってやりたくなった。派手だが肌をちくちくと刺すし、一向に心地がよくない。 「それでね、私、考えたの。ここにいるあなたが、何で柴原が残したDVDを探しているのかなって。もしかしたら、この子もクローンで……」  体に緊張が走った。東の顔が奇妙なほど冷静に見える。 「DVDから、自分のルーツを探そうとしているんじゃないかって」 「はぁ? ルーツ?」  頭の中に疑問符が十個くらい浮かんできた。夏貴は東と顔を見合わせる。 (僕の遺伝子は父親と同じ。産んでくれたのは母さん。この世に送り出したのは柴原先生だ。ついでに義父は東で、これ以上何を見つけろっていうんだ?)  二人の戸惑った雰囲気など気にもかけず、愛子は言葉を続ける。 「柴原は私のために、あの技術を完成させたの。あの後生まれた全てのクローンの子供は、私のおかげでこの世界に生まれてきたのよね?」  念押しをするような、べたりとした口をきいてくる。 「分かったのよ。あなた、私を探していたんじゃないの? 柴原に代わって私を支えに来てくれたのよ。私って、あなたにとって、出産してくれた母親と同じくらい重要な存在じゃない?」  全身から期待をみなぎらせて愛子は見つめてくる。思わず椅子の上で身を引いた。 (どう考えたら、そんな話を作れるんだ?)  女の思考回路は、常識と理性を三段跳びで超えていた。自分だけを見つめた、自分だけに都合のいい考えに飛びついて、何の疑問も湧かないその感覚に冷や汗が出る。  ふと、そんな考えの持ち主が他にもいたことを思い出した。 (一連の事件の犯人!)  一瞬、愛子に疑いを向ける。しかしとっくにDVDを手にしていたこの女性が犯人なら、母を誘拐する必要など、どこにもない。 (この人じゃないんだ)  小さく息をついた。それは理解したものの、もう我慢の限界だ。早くこの何かが歪んだ絢爛たる部屋から消えたかった。夏貴はことさらきちんとした口調で愛子に話しかける。 「伊吹さん、僕たちがDVDを探しているのは、母を誘拐されたからなんです。あのDVDを犯人から、身代金代わりに要求されています」  だから何としても必要なのだと訴えた。四角四面の硬い言葉。もちろん、 「あなたを母とも思っています」  などという言葉はない。愛子はむっとした顔を向けてきた。 「何でその誘拐犯は、DVDを欲しがっているの?」 「理由は犯人に聞いてください。ただ奴は僕があれを持っていると、思い込んでいるんです」 「私からDVDを取ろうとする前に、警察に通報すべきだわ」  あれは柴原の形見だから渡せないと突然言い出して、愛子はそっぽを向く。気に入らない返事に対する明らかな嫌がらせだ。そこに、黙っていた東が口を挟んできた。 「もういい。そろそろ帰ろう、夏貴」 「あら、お母様を助けなくていいの?」  愛子が口の端をひん曲げて聞いてくる。よけい皺が深く目立った。 「心配しなくてもいい。DVDの在処は分かったからな」  東が言い捨てる。 「人質と交換に、犯人にDVDの在処を教えてやればいい。この女のところに取りに来るだろうさ」  愛子の顔から笑いが消える。自分が巻き込まれるとは、思ってもみなかったのだろう。 「言っておくが柴原を殺した犯人は逃亡中だ。誘拐犯が誰だか、まだ分かっていない」  人殺しがこの部屋に押し込んでこなければいいなと言って、東はきびすを返した。 「すぐに警察に通報します。それで安全になるわ。そうですとも!」  愛子の言葉に、振り返った東は凄みのある笑いを返した。 「警察に何て説明するんだ? 人質を助けたいからDVDを譲ってくれと家族に言われたが、惜しくて渡さなかった。そうしたら誘拐犯に狙われたって? 同情してもらえそうだな」  おまけにと、愛子には面白くもない言葉が続く。 「DVDは警察で中身を調べられる。あんたが妊娠していた子供が、クローンだったとばれるかもな。元の旦那は何て思う? 旦那の一家も騒ぎに巻き込まれるだろう。歓迎するかな」  聞いている間に、愛子の顔色が悪くなってきた。元夫の名が出たのはこたえた様子だ。もしかしたら、いまだに生活費の援助を受けているのかもしれない。  東はさっさと部屋を横切って、重厚なドアの向こうに消える。夏貴も急いで後に続いた。マンションの外に出ると、愛子が三階のバルコニーから二人を見下ろしてきていた。前置きもなくその手が振りかざされ、きらめくものが宙に放り投げられる。 「DVD!」  慌てて取りに走ったが、間に合わずに落ちる。幸い割れてはいなかった。 「助かった」  見上げたときにはもう愛子の姿はなかった。気がつけば、時刻は朝の八時を過ぎている。 「あと四十分」  急げばぎりぎりでアパートにたどり着けるだろう。寝不足の東の顔に、やっと柔らかい表情が浮かぶ。 「間に合ったな」  今度こそ犯人の顔を見て、名を知る瞬間がやってくるのだ。       5  驚いたことに九時が過ぎ、十時となり、昼が来ても犯人からの連絡はなかった。 「どういうことだ! 貸し金庫が開く時間になったら、すぐにでもDVDを要求してくると思ったのに」  二人とも徹夜あけで疲れている。それでも今にも電話がかかってきそうで、アパートに帰ってからも、交代で寝ることさえ出来なかった。この先体力が必要だからと、夏貴は昼食の用意にかかった。一昨日仕込んだシチューは、温めなおせば十分食べられそうだ。台所に立ち、上に散らすパセリを刻みながら、畳の上で横になっている東に話しかける。どうせ他にすることもない。 「ねえ、おっさん」 「あん?」 「犯人がDVDを欲しがっている理由だけどさ、一つの可能性を思いついたんだ」 「何だ?」  動機は何か。思いつきのきっかけは、先刻の愛子の態度だ。クローンを生む原因になった女。あの自分勝手な願望が元なのでは、クローンについて論争が起きても、しかたのない話かもしれない。 「犯人はクローン人間の存在自体を、倫理的に否定しているのかもしれない。つまりこれから生まれることに賛成できない。既に生まれているという事実は、何としても許せない。何人いるのか分からないけれど、皆この世からいなてなってほしいのかも」 「おい……クローンというだけで、そこまで忌む者がいるかね。いくら何でもそれは」  東が否定したのは、夏貴に遠慮があるからだろう。かまわず先を続けた。 「犯人は病院関係者だと見当をつけたよね。そういう人ならば、一般人よりもクローンに対する知識も深い。つまりクローン人間の問題点も、分かっていると思うんだ」  やりたいことを成し遂げる技術があったとき、止まれないのが人間であった。常にそうだった。その例の一つが核爆弾で、世界中に地球を何十回も破壊できる核弾頭を抱えたまま、人々は毎日を送っている。手違いから、破滅をもたらす最初の一発が発射されないことを祈りつつ。今日を無事に過ごせたのだから、明日も大丈夫かもしれない。だから。 「クローンを受け入れない感情は、一種自然に湧いてくるものだという気がする。異質だからね。まずクローンには、親の存在の喪失という問題がつきまとう」 「お前には両親がいる。三人もだ!」  東が起き上がった。不安げな顔がちらりと見えた。 「クローンは遺伝子を片親だけから受け継ぐんだ。元々二人の親、という存在が遺伝的に欠如している。それだけじゃなく、片方の親にしたところで、遺伝子だけを見てみれば、時間的差異のある双子の兄、もしくは姉なのかもしれない。じゃあ親はどこにいる?」  研究テーマみたいな堅い話だが、この際だからしておこうと思った。母がいたら口に出来ない気がする。喋ることで自分自身に、確認しておきたい気持ちがある。 「お前の母親は彌生さん。父親は音村始さん。今は俺だ!」  東が怖い顔で断定してきた。 「そうだね」  夏貴の場合は、それでいいのかもしれない。 「ねえ、おっさん。最近知ったんだけどさ、猫でもクローンが誕生したこと、知ってる?」 「あ、ああ。新開で読んだ気が」  生まれてきたのはかわいい子猫だった。しかしテレビで見て驚いた。 「そのクローン子猫、元になった親と模様が違ってたんだ」 「えっ?」  普通一般の人がクローンに持っているイメージとして、そっくりな複製の誕生、というものがある気がする。そんな中で生まれてきた、似て非なる子猫の存在。 「クローンは遺伝子の働きが、元の個体とは違うことがあるんだそうな。だからDNAは同じなのに、縞のある猫のクローンが白黒のぶちになる、なんていうことが起こるらしい」  これ以上の詳しい説明は、夏貴には無理だ。しかし、何が起こったかは分かった。 「あの子猫は、大事なクローン猫一号で、研究施設で大切に扱われると思う。でももし、�失ったかわいいペットのクローン�を望んで注文されたものだったら、どうなっていたかな」  遺伝子は同じだ。しかし見た目は違うペットが出来上がった。愛情を注げるか。それとも違和感を拭いきれないか。どちらにせよ予定外の存在が生まれたのだ。 「人間でこの間題が起こったら、どうなるだろう。起こるかもしれないよね。アクシデントで失ったかわいい子供のクローン体とか、一般的にクローン人間が可能となったら、真っ先に生まれそうだと思わない?」 「猫の子みたいに、どこか違ってくるというのか」  その問いに、夏貴は問いで返した。 「おっさん、一卵性双生児の親しい友達、いないの?」 「いるよ。男も女も」 「そっくりだよね。でも友達も親も二人を間違えたりしないよ。そうでしょ? 死んだ子供のクローンだって、似ていれば似ているほど、違いが際立つと思う」  違う人間だ、と認識してしまったそのとき、親たちはどうするのだろうか。  さらに、クローン体が遺伝上親と同じだという事実は、様々な可能性を認める心を、親から奪い取りそうだ。クローン体が、自分が興味のあったことへ関心を示さなかったり、同じだけの実績が上げられなかった場合、例えば合格すべき大学に入れなかったりしたとき、親は簡単に納得するだろうか。 「他にも、ね」  子供はある時期、親に反発するものだ。それが自然の営みで、昔から繰り返されてきたことだ。自立への第一歩でもある。しかし親と同じ脳みそ、感覚を持っているべきクローンの子供の反抗は、自分自身への拒否という感覚を親に生むかもしれない。 「まだあるよ」  話しながら夏貴は、シチュー鍋を焦がさないよう慎重にかき混ぜた。二晩寝かせた鍋からは、おいしそうな匂いがする。 「クローンは存在のコピーという面を持つ。これもまた問題なんだ。なぜなら金と時間さえあれば、量産できるから」  新興宗教家が信者のクローン人間を量産するなんて、SF小説みたいなこと言ってるんじゃないよと笑う。可能性は否定しないが、さらにありそうなのは代替えへの誘惑だ。 「代替え?」  この言葉の先にあるものを、東は想像出来ない様子だ。不思議そうな表情を浮かべている。 (おっさんは健全だ)  分かっている。クローンと承知で夏貴の親になろうというのだから、この男は腹がくくれる者なのだ。しかし子が欲しいという自分たちの望みを最優先にした親たちのうち、どれくらいの人が東のようでいてくれるだろうか。 「生まれた子供が問題を示したとき、親たちはどうするのかな。羊のドリーのように、若くして老化を示したら? ねずみの子みたいに突然呼吸障害が出て、医療費が大変になるかもしれない。子供が家庭内暴力に走ったら? 親の自分は違ったのに、暴走族になったら?」  注文した通りの幸せな家族が築けなかったとき、クローン人間の親たちの前には、可能性が転がっている。 「つまり、同じ遺伝子を持つ、もう一人のコピーを生み出すことは可能なんだ」 「あっ……」  こんなはずではなかったという面白くない現実を、修正してくれる者を生み出すのだ。金さえあれば代理母を立てられるから、歳をくつていても大丈夫だ。きっと今度こそ上手くいくに違いないと、思ったりしないだろうか。きっと、次こそはと! 生まれてくる子供は、親と同じ遺伝子を引いているのだから。 「そんなことされたら、最初のクローンはどうなるんだ!」 「全存在の否定。僕だったら、そう感じるな、きっと」  そう言うと、シチューを睨みつけた。 「やれるけど、やってはいけないことがある。でもまたコピーを作りたい。今度こそ、理想的な家庭が作れるに違いない。人間がそこで踏みとどまれると思う?」  今までに何回もなされてきた問いを、今度は東に向ける。東は……黙っていた。 「コンビニでコピーをし損ねたときみたいだね。またやり直す、簡単な話だから」  だからクローン人間は忌み嫌われるのかもしれない。人を代替えが可能な生命体にしてしまうから。たった一つの綺羅星のような存在から、人間を引きずりおろす……。  話をそこまで進めたところで、シチューをかき混ぜていた夏貴は、突然口元を捻り上げられた。 「ふえっ。いひゃい!」  いつの間にか側に立っていた東の顔が怖い。思い切り不機嫌だった。 「黙れ!」  短く夏貴に命令すると、さらに頭を拳固で小突いてきた。 「ごちゃごちゃ言わんでいい! お前はお前だ。全世界の倫理を一人で背負う必要もなし! そんなことは神様にでも任せておけ」  いいか、と、真正面十五センチのところから睨んでくる。迫力があり過ぎて、涙が出てきそうだ。 「お前は一人の人間だ。それだけだ。一生懸命生きていればいいんだ。そうだろが!」  単純明快で泣けてきた。 (そうかもしれない)  そんな風に思うことが出来たら、自分を否定せずに済む。 「おい、飯は?」  鍋を温めだしてから、大分時間が経っているのを思い出す。鍋の中のシチューは、泡を浮かべて煮えたぎっていた。 (大丈夫……なんだろうか)  自分は親友にめぐり合えた。死んだ父はかわいがってくれたし、問題はあっても、確かに愛情を持ってくれている母親がいる。東が新たな父親に名乗りを上げている。  この世に神様はいるのかもしれない。  生き延びていくことが、出来るかもしれない。 (僕は……僕……)  東が目前に突きつけてきた皿を受け取って、夏貴はシチューを入れる。煮込んであるはずのたまねぎが、不覚にもひどく目に染みていた。 [#改ページ]    第十三章 願う       1  結局、犯人からアパートに連絡が入ったのは、夜の十一時を過ぎてからだった。 「誘拐犯の奴、夜勤でもしていたのか」  東は待ちくたびれて、不機嫌に低い声を出していたが、事実は案外その言葉通りだったのかもしれない。 「思っていた通り、犯人は病院関係者だな」  母とDVDの交換場所へ向かう途中の車中で、東がそう断定した。犯人が指定してきたのが、四神病院内の研究棟だったからだ。地下一階に来いという。つまり犯人自身、あそこに入れる手段を持っているのだ。 「おい夏貴、犯人は誰だと思う?」  聞かれて咄嗟に、赤木医師だろうかと思った。疑ったのは、病院関係者であるし、時間的に犯行が可能だったからだ。だが東に名を告げなかったのは、動機を思いつかないせいだ。 「誰にせよ、もうすぐ分かるよ」  病院近くの閑散とした駐車場に車を止める。降りたあと、二人が車のトランクから取り出したのは、木刀と金属バットだ。気持ちの支えとしてバットを持ってきた夏貴に比べて、東の方は木刀がいかにも手に馴染んでいた。ポケットにDVDを突っ込み、病院内部に乗り込む。研究棟の非常用ドアは今日も開けられていた。 「夏貴、そのドアノブ、バットで壊しておけ」 「えっ?」  どうしてと聞きかけて、問いを呑み込んだ。 (そうか、犯人がここを選んだのは、鍵をかけられる場所だから、と考えられるものね)  帰るときのために、障害はなるだけ減らしておきたいのだと分かって、早々に金属バットを振り下ろした。ノブがへし折れて曲がる。さらに狙いをつけてもう一度殴ると、完全に用をなさなくなった。中へ踏み込む。 「静かだな」  一階ホール正面カウンターにも、天井にダクトが走っている廊下にも人の姿はない。夜間に使用する者は、柴原くらいだったのかもしれない。非常口を示す常夜灯しか明かりがないホールは、物音一つしなかった。  夜中の研究施設は、すぐ近くにたくさんの人たちがいる病院敷地内に、ぽっかりと出現した無人の穴だった。中で多少の騒ぎが起こっても、厳重に秘密が守られるべき探究の場から、音は漏れにくいはずだ。町のど真ん中にいることが、信じられないほど静寂な空間だ。 (犯人にとってはありがたい話だよな)  カウンター右奥にあるドアの前に立った。壁側面の機械にカードキーを入れなければ、開けることは出来ないはずだ。試しに手を伸ばして押してみると、いとも簡単に開いた。 (犯人が招待状代わりに開けておいたのかな)  中に入った後、自動的に閉まりかける扉を東が慌てて手で止めた。夏貴が近くから植木鉢を持ってきて、ドアストッパー代わりに挟み込む。二人は静かに地下への階段を下りていった。突き当たりに第二のドアが現れる。ところがこの扉が開かない。押しても引いても駄目だった。 「くそっ」  東が毒づきだした。 「たぶん、最初のドアを閉めないと、こっちは開かないようにしてあるんだ。考えたね」 「柴原先生がドアストッパーを使ったときは、両方開いていても大丈夫だったのに、何で?」 「犯人は俺たちを閉じ込めたいらしい。セキュリティーの大本の設定を変えたんだろう」 (地下に招いたからには、そう簡単には日の下に戻さないというわけか)  しかたなく夏貴はまた上に戻り鉢植えを外す。だがドアの外には戻さず、そのまま手に持った。出入口が目の前でゆっくりと閉じてゆき、かちりと小さな金属音を立てる。拒絶の音だ。 「おい、開いたぞ」  下にいる東からの声に、急いで階段を下った。せめてこちらだけは開けておこうと、第二の扉を持ってきた鉢で留めた。だがこの扉も、帰るときに自分たちを通してくれるとは、何故だか思えなかった。 (どうしてだろう。どこからか見られているような気がするせいかな)  見渡しても誰もいはしない。気が立っているせいなのだろうか。そう思いたかった。  薄暗いので、地下は以前と別のものに見えた。真っ直ぐに延びた廊下は、突き当たりで左に曲がって、先へ続いている。愛想のない雰囲気の研究室が、両脇に整然と並んでいた。各部屋、廊下側に窓はあったが小さな嵌め殺し窓で、ブラインドが下りていて中は窺えなかった。一歩踏み出すと、靴音が大きく響いてびくりとした。心臓の鼓動さえも、壁に反響して端の研究室にまで届きそうだ。 (母さん、どこの部屋にいるんだ)  数多い研究室のうちのどれかに、声を立てぬようにして押し込められている可能性が高い。今頃犯人の方も、廊下を行く夏貴たちの足音に耳を澄ましているだろう。  そのとき、小さな小さな音が、離れた場所からした。東と顔を見合わせる。指で右、左と交互に部屋を指したが、二人とも音のした方向を判断出来ず、首を振るしかなかった。 (くそっ)  さらに慎重に歩みを進める。唯一の光源である非常灯は、廊下の向かいの端にある。その淡い明かりは隅までは届かず、却って暗さを強調されているようだ。  そのときまた密やかな音がした。今度は、はっきりと右側からだった。 (柴原先生の部屋辺りか)  主がいなくなって、まだ次の使用者が決まっていない部屋に、母を押し込めたのだろうか。普段医師たちは忙しく、この金のかかった研究棟に長くいる様子がない。彼らはたいがい、診療や手術に明け暮れており、なけなしの残り時間は家族のために使っている様子だった。柴原のように独り者で泊り込みでもしなければ、なかなか研究する時間は作れないのだ。  東が柴原の元研究室を指す。二人でそっと近づき中を窺おうとした、そのときだ。 (あっ、また音がした?)  後ろを振り向いた。通り過ぎてきた部屋のどれかから、今、物音がしなかったか? (うっかり体が椅子とか机にぶつかってしまったような、柔らかい音)  気になった。 (何故後ろなんだ?)  後方の廊下の先は暗く霞んで、闇に溶け込んでいる。心臓が一回、飛ばして打った気がした。冷や汗が出てくる。 (おかしい。二度目の音は、確かに前の方から聞こえていた)  そのはずだよなと、自問自答する。 (もしかして犯人は、一人じゃないのか?) 「どうした、夏貴?」  東には後ろからの音は聞こえなかったらしい。首を傾げ、小声で聞いてくる。 (このまま前を探るべきか。それとも後ろに戻って確かめるか?)  考え始めると、背中に視線を感じる気がしてきて、足を踏み出せなくなった。 (それとも母さんは、犯人がいるのとは別の部屋に閉じ込められているのか)  だが、これから人質とDVDを交換するというときに、母をわざわざ遠くの部屋に置いておくだろうか。 (どうしよう……)  三度目の音がどこから聞こえてきたのか、いや、本当に聞こえたのか。突き詰めて考えるほど、確信が薄らいでくる。 (迷っている場合じゃないのに!)  首を振ってためらいを振り切った。 「ごめん、何でもない」  東と共に柴原の元研究室に目を向けた、そのときだ。声は突然聞こえてきた。 「ドアに3と書かれている部屋に入って、正面の机の上にDVDを置くように」  くぐもった男の声だった。静寂が裂かれて、薄暗い地下が別の場所に変わったかのようだ。 (犯人だ!) 「すぐに実行しろ。分かったか」  命令してくる。二人は全神経をそのしゃべりに集中させた。  声が途切れた後、互いの手がせわしなく動き始める。指が方向を示し、手振りが意思を伝えた。静かに頷くと東は身を屈め、木刀と共にしなやかにその場から移動した。残った夏貴が、はっきりと大きな声で返事を返した。 「あんた、阿呆じゃないの。僕は母さんとDVDを交換しに来たんだ。交換だよ。一方的にこれを手放すわけないじゃん」  ポケットから五ミリ幅のプラスティックケースを取り出す。見せびらかすようにそれを振ると、DVDはわずかな光を反射して瞬いた。 「こちらには人質がいるんだぞ。指示に従え」  声は怒りよりも戸惑いを含んでいるようだった。人質を確保している方が当然優位に立つべきであり、命令に楯突かれたことが信じられないのだ。 「まず、母さんの声を聞かせてよ。無事でいるんだよね」 「早く机にDVDを置け!」  犯人の声のトーンが跳ね上がる。それでも夏貴は自分の主張を繰り返した。 「母さんの元気な様子が確認されるまでは、DVDは渡せない。声を聞かせろ!」 「お前、自分の立場が分かっているのか。人質がどうなってもかまわないのか!」 「もちろん母さんは助けたい。生きているならね」  何が何でも折れる気はない。それが犯人の癇に障るのか、低い唸り声のようなものが聞こえてくる。 (やはり柴原の部屋からだ)  小窓のブラインドの隙間から動くものが見えた。夏貴はまた廊下で声を張りあげる。 「たいした手間じゃないでしょう。それともあんた、母さんに何かしたの? だから母さんは口がきけないの? このDVD、叩き割るよ!」 「やめろ! お前、自分の立場が分かってないんだ。そうか、母親が生きていることを知りたけりや、耳でも切り取って見せてやる」  犯人はだんだんいきり立ち、言葉に抑えが利かなくなってきた。 「流れる血でも見れば、納得するだろうさ」  声が嫌な笑いを含む。 「お前が素直にDVDを手放さないから、こんな……」  その喋りが突然切れた。大きな物音が部屋の中から廊下まで届く。 「母さんっ?」  さらに硬い音が薄闇に響く。 「ああっ……!」  悲鳴があがり、すぐに途切れた。事の次第を確信して、夏貴は柴原の部屋に飛び込む。  計画通り、東が犯人を木刀でしとめていた。男が床に伸びている。夏貴が会話で犯人の気を逸らしている間に、続き部屋から東が研究室に入り込んだのだ。  椅子の上に、母がぐったりともたれかかっていた。怪我はなく、どうやら薬で眠らされているらしい。手の戒めを解き、東が頬を叩いて呼ぶと、ぼんやりとした声が返ってきた。 (大丈夫だ)  ほっとして、ゆっくりと息を吐くと、目をよそにやる余裕が生まれた。仰向けにして確かめるまでもなく、側に転がっている男の姿を、夏貴はよく知っていた。唇を噛む。 「赤木先生……」  四神病院の有名医師の一人。勤勉で、柴原とも仲は良さそうに見えていた。彼なら確かに時間的にも犯行が可能だ。しかし。 「何であんたが、皆を殺さなくちゃならなかったんだ」  こうして本人を目の前にしても、まだ理由は見えてこない。立ち尽くす夏貴の前で、東が母から解いたビニール紐で、赤木の両の手をしっかりと縛り上げていた。       2 「何かまずいんだよなぁ」  母の奪還は、これ以上ないほど上手くいった。それなのに東は、赤木を前にどうにも不機嫌だった。 「まずい?」 「こいつがなあ、顔を全く隠していなかったっていうのが、気に食わない。脅迫相手は知り合いなんだ。隠すだろう、普通」  喧嘩慣れした感覚が警告音を鳴らしているのだ。東はじろりと床の上の犯人を睨みつけた。  赤木は机の脇にもたれる格好で、そっぽを向いて黙り込んでいる。母はまだぐったりとして独りでは動けない。夏貴たちは犯人を捕まえはしたものの、問題を抱え頭を沸騰させていた。 (赤木をどう処分するか)  それを決められなければ、この地下から外に出ることも出来ない。 (警察にはこいつを突き出せない。だが……どうすればいい? 何が正しい道なんだろう)  これ以上犯行を重ねることだけは、やめさせなくてはならない。それは分かってはいるが、方法を思いつかない。本当に東に任せきりにするのは、何か恐ろしい気がする。 「赤木先生。何で一連のことを起こしたんですか」  殺されかけた身としては、これ以上ないほど丁寧に医師に聞いてみるが返事がない。赤木の顔を見下ろしているうちに、夏貴は手がポケットの中の、壊れた携帯電話を握り締めていることに気がついた。大分、凶暴な気分になってきている。 (こいつが正哉を殺した……)  信じられないくらいの猛火で、親友とその家族を生きながら炙《あぶ》った。なのに今、この男を罰する手段を見いだせずにいる。 「赤木先生。このままで済むと思ってる?」  柴原の机の引き出しを開けると、中から以前見た千枚通しを探し出して、手に取った。 「免許があったら、あんたを道の真ん中に転がしておいて、撥ね飛ばしたかもしれない。そして、ただの交通事故だと言い張るんだ。それなら別件は表に出ないからね」  そのやり方なら、正哉の復讐が出来る。ただ、百パーセント確実に赤木を殺せないのが欠点だ。万に一つ救急病院で救命されては、後に大問題を残してしまう。  自分を見下ろしながら死の話題を口にする夏貴を、赤木は睨み返すだけだ。  夏貴の手がひらりと宙を一回舞う。すると無から取り出したかのように、一枚のDVDが指に挟まれていた。途端に赤木の目が、それに吸いつけられる。 「赤木先生が欲しがっていたDVDだよ」  ゆっくりとそのケースを机に置き、千枚通しをケースの上に立てる。それから手近にあった本を金槌代わりに手に取ると、思い切り叩きつけて切っ先を打ち込んだ。 「やめろ——っ」  赤木の悲鳴に似た大声が、部屋に響き渡った。医者は、机に飛び散った細かいプラスティックの破片を凝視している。 「壊したのか。もう駄目か?」  顔が青くなって引きつっている。夏貴は落ち着いて、真ん中にひびの入ったケースを顔の前にかざし、状態を確認した。 「まだ中身までは割れてないみたい。でも、次で粉々だ」  もう一度千枚通しを構える。赤木が顔を前に突き出し、必死に止めてきた。 「なあ待ってくれ。それは大変貴重な記録なんだ。人類にとって、だ。クローン人間が生まれて今に至るデータが、全て納まっているんだぞ。お前にも関係があるっ」  もし己の出生を知らなかったら、これは衝撃の言葉だったろう。しかし夏貴はじろりと赤木を呪んだ後、再び本を手に取った。 「待て、待て、千枚通しを立てないでくれ!」  叫ぶような声で哀願する。 「そうだ……私は告白するよ。今回の件の全てだ。知りたいだろう?」  自ら喋るという言葉に、夏貴の手が一時動きを止めた。それを見て赤木がさらに言い募る。 「なあ、話を聞いてくれ。その間くらいはそいつを壊さないでくれ。いいだろう?」 「何もかも喋るの?」 「もちろんだ。嘘は抜きで」 「本当かね」  東の声にも、今ひとつ信用の響きが欠けている。  だが、さすがにこの話を聞き逃すことは出来ない。部屋の内の全てが動きを止めた。東の目も医者に注がれている。赤木の話し声だけが流れ始める。  四神病院に赤木が初めて来た、その日からの話が。       3 「私がこの病院に引き抜かれたのは、四年前の春のことだ。産婦人科で有名な大病院。自分のキャリアなら、そこでも評価されるはずだったし、事実そうなった。ところが、妙に超えられないものがあったんだ」  赤木によると、四神病院では不妊治療にとことん行き詰まると、患者が柴原医師を指名することが、ままあったという。柴原は世間に疎い研究馬鹿だった。だが絶大なる患者からの信頼と支持で、病院内で別格に扱われていたらしい。もちろん給料も研究費も破格だ。 「同じくらいの年齢で同じ分野が専門だ。何故実績に差がつくのか、疑問に思うのも当然だろう」  調べると柴原を指名してくる患者には、不妊治療が大変難しい者が多いのが分かってくる。しかもそんな患者たちの治療実績が、信じられないくらい良かった。そこがまた悔しい。医師として腕が違うという事実を、見せつけられたのだ。  しかし、この神がかりな医師は秘密を抱えていた。 「私はある日、柴原が消し忘れたパソコン画面を見たんだ。そこにあったのは凍結受精卵の流用を示す文章だった。驚いて読み進むと、クローンの字まで出てきた。既に人間への応用に成功しているという。信じられなかった。これなら妊娠率が高いわけだ」  咄嗟に一部のデータをDVDにコピーした。邪魔が入ったのでその日は諦め、後でもう一度パソコンに侵入を試みたが、パスワードがネックになって、再び入ることは出来なかったという。 (あれ?)  夏貴は少しばかり首を傾げた。 (柴原はパスワードが破られたと言ってたよね。それでデータを見られたと確信したって。学術用語を使ったことを、僕に言い当てられて驚いていた。何で分かったんだって……)  二人の医者の、どちらかの記憶違いだろうか。ありえない話ではない。赤木の話は続く。だんだん独り言のようになっていった。 「コピーしたデータだけでは、どうしようもなかった。クローン人間に関する肝心な研究資料が、すっぽりと抜け落ちている。何としても全部を見たいという感情が、日々募った。まだ誰も成功していないことをやり遂げているのに、何故柴原が公表しないのか。信じられなかったよ」  羨望と妬ましさ。そんな中である日、世界に衝撃が走った。イタリアの医師が、クローン人間の妊娠を発表したのだ。 「覚えているかい? CNNが、ロイターが、世界中にそのニュースを発信した。多くの国の報道機関が、この衝撃を国民に伝えたんだ。インターネット経由でも、話題は世界を回った。論文も発表されていなければ、検証も済んでいない話だったのに。それでもあの騒ぎだ」  世界中の日を集めたのは、不妊治療で高名なイタリアの医者だ。記者が追いかけ、インタビューが殺到した。だが。 「最初のクローン人間は、これから誕生するのではなく、この日本で既に生まれている。それどころか死なずに成長していて、年齢も十代の半ばに差しかかっているんだ」  パソコンから手に入れたデータはイニシャルと年齢らしい数字。当初はクローン体の子供を特定できなかった。しかし重度の不妊治療患者記録を丹念に調べてゆき、年齢と照らし合わせたとき、音村夏貴の名が浮上してきたという。 「柴原はずっと夏貴君のことを、特別扱いで診てきたしね。必ず成長記録も取ってあるはずだ。世界初のクローン人間の、誕生と成育の全記録。イタリア人医師の発表など、消し飛んでしまうだろう。分かるかい? 本物の初のクローン人間と、それを作り上げた医師の名だ。これはもう書き換えられる恐れのない、ずっと残っていく名誉なんだ!」 「……名誉?」  興奮した赤木の口から出てきた言葉は、薄気味悪く、理解できないものだった。 「そうだろう。偉大な実績だ。そして柴原は何故か結果を表に出さないでいる。それならば、私がその栄誉を引き受けよう。そう決心したんだ」 「偉大? 引き受ける?」  いよいよもって夏貴には分からない。  クローン人間を作ったと、イタリアの医師が発表した後、どれ程拒否反応が出たか赤木は知らないのだろうか。許されざる者としてたくさんの国で法律の下、作り出すことを禁止されていった。宗教家たちからも、否定のコメントが出されている。 (非難の的になった存在だ。それを生み出すことが、そんなに嬉しいのか)  体が震えてくる。赤木の脳みそはどういう作りになっているのだろう。夏貴の嫌悪感など露ほど感じた様子もなく赤木は先を続ける。 「成果を私のものとする方法は簡単だ。データを手に入れて、私の名で発表すればいい。親子の組織サンプルはこの研究棟に凍結保存してあったよ。この計画の障害は、二つだけだ。一つはどうやって柴原から完全なデータを手に入れるか、ということ。二つ目は、人の問題だ」  ここで赤木が、ちらりと母の方へ視線を向けた。 「私が最初のクローンの生みの親でないことを知っている人間が、三、四人はいた。一人は柴原自身。次にクローンの両親だ。もう一人は確信がなかったが、クローン本人。どうやら自分の出生について、君は心得ている様子だね」  つまり全部で四人。この者たちに赤木は偽者だと、声高に言い立てられてはまずい。 「他のクローン体の関係者は、考えなくともよかった。私の研究成果を利用して、柴原が患者の役に立ったのだと言えばいい。肝心なのは最初の一人。夏貴君、君のことなんだ」  赤木の目が、わずかに興奮を帯びて夏貴を見てくる。人に向ける眼差しではなかった。酸っぱいものが胃からこみ上げてくる。思わず金属バットで殴りつけたくなる。  理解出来ない名誉を求めて、赤木は医者であるにもかかわらず、人を殺した。いや医者ゆえにと言うべきだろうか。 「聞いているとまるで、邪魔な四人だけを狙ったように聞こえる。けど、他にも人を殺しているよね。覚えているんだろうね。日野家の一家三人。和美ちゃんも狙った。それに……田崎亮もあんたが殺したようなもんだ! 余計な電話をかけたのは、あんただろ」 「田崎の息子は自殺だ。他の者は、首を突っ込んでくるから悪いのさ」  世界を舞台にした大事の前の小事だ、というのが赤木の考えらしい。この男は今はただ、妄想の先にある輝きの方にだけ目を向けている。光に目がくらんで、他は何も見えていないのだ。 「だから私は……」  赤木の声がかすれて、言葉が途絶えた。 「水をくれないか。机の上にペットボトルが置いてある」  こんな男に使われるのはひどく嫌だったが、話はまだ続きがありそうだ。夏貴はボトルの蓋を取ると、手を縛られて使えない赤木の口元に差し出した。  その時、赤木の顔が急に横を向き、そのまま勢いをつけて、思い切り顔でペットボトルを叩き落とした。 「あっ」  短い声と共に、中の水がこぼれて飛ぶ。それが降りかかった床の上の何カ所かから、突然火の手が上がった。 「えっ? 何っ?」  驚く間もなく炎は小さな柱になった。慌てて東が母をまず避難させる。夏貴が上着で炎を叩いて消していると、体の横に手がにゅうと伸びてきて、机の上のDVDを掴んだ。 「赤木!」  赤くなった手首に、焦げたビニール紐の切れ端をぶら下げている。火にかざして戒めを焼き切ったらしい。取り戻そうと出した夏貴の腕をかいくぐって、赤木が部屋から飛び出した。すぐに懐から鍵を取り出すと、研究室のドアを施錠してしまう。 「おっと、さっきお父さんが、隣から入ってきましたっけ」  先に隣室のドアも塞がれた。地下の部屋には他に出入り口がなさそうだ。ブラインドを上げてみると、小さな窓越しに、夏貴たちを眺める赤木の顔があった。余裕の笑みが浮かんでいる。 「DVDを手に入れるだけなら、もっと安全な方法があったんです。郵便で送らせるとかね。この地下にあんたたちを呼び出し、木刀で殴られたり火傷をする危険を冒したのは、先ほど言った理由のせいです。つまり、私には柴原の他に邪魔な人間があと三人いる。分かりますか?」  家族なら一カ所に呼び出せば、一気に始末してしまえる。DVDも手に入る。今日のやり方は上手かったと、赤木は自画自賛だ。 「もうすぐ私は世界中から注目される。尊敬を集める。不安要素は排除しなくては」 「何が尊敬だ! 意味が分かって言っているの。あんたのは中身のない嘘じゃないか!」  窓越しに怒鳴った夏貴の言葉に、赤木の顔が歪む。だがすぐに、嫌な笑い方に変わった。 「あなたたちがいなくなれば、そんなことを言う人はいなくなります」  それからね、と、親しい者と内緒話をするような調子で伝えてくる。部屋の中でくすぶっている火は、早く全部消した方がいいと。 「うっかり燃え上がらせてスプリンクラーが作動したら、部屋中火の海です。今、見たでしょう。私がそこいら中に撒いておいた物質は、水気を含むと発火する」 「水で燃え上がる? そんなものがこの世にあるのか?」  信じられないといった顔の東の疑問を、赤木は鼻先でせせら笑う。 「夏貴君なら納得するかな。以前、燃えるところを見たでしょうからね」  Ca3P2[#「3」と「2」は下付き文字]、リン化石灰。赤木に言われた物質はまるでぴんと来なかったが、空気中から水分を吸っても自然発火するという説明だけは、ずしりと頭に引っかかった。  思い出したことがあった。二度と見たくないあの火事の場面。 「自然発火……水で燃え上がるだって? これだ。同じもので正哉の家にも火を点けたな!」  あの日の日野家の異様な燃え方。正哉たちが、もう少しというところで家から出てこられなかったのは、この薬品が撒かれていたせいだったのだ。助けるつもりで三人の方へ注がれた水。それが火の束となって、正哉たちを呑み込んだ……。 「うちが燃えたときも同じだったんだ」  夏貴は火事場で不可思議なことを目撃していたのだ。火傷を負い、庭でひっくり返っていたときのことだ。消火のための水が庭先にかかったとき、ぱっと火が立っていた。 (忘れていた……今まで色々ありすぎて) 「この部屋だけでなく、地下のあちこちに火災の元は撒き散らしてあります。そのうちに空気中の湿気を吸って自然発火しますよ。早く逃げないと、今度こそ日野さんたちと同じ運命を辿ることになる」  赤木はさらに声を潜めて、楽しそうに語った。この化学物質は物騒な品だけど、結構身近なものにも使われているんですよと、その製品の名前を挙げる。夏貴たちがそれを聞いて驚いた顔をしているうちに、医者は研究室の前から姿を消していった。 「どうしたらいい?」  東と火を慎重に揉み消しながら、必死に考える。赤木はこの研究棟ごと、夏貴たちも柴原の研究結果も、焼き尽くしてしまうつもりなのだ。すぐに火を点けなかったのは、自分が無事に逃げ出し、アリバイ作りをするための、時間の確保が目的だろう。  火を消した後、窓に向かって椅子を投げつけてみた。だが特殊素材でも使ってあるのか、嵌め殺し窓は丈夫で、ろくにひびも入れられない。 「しかたない。夏貴、金属バットだ。ここのドアも壊せるか?」 「やってみる」  ドアも窓に劣らず頑丈そうだ。しかし脱出方法を選んでいる暇はない。どこかで薬品が発火して、それがスプリンクラーを作動させてしまったら、地下は間違いなく火の海になる。正哉たちを逃がさなかった、あの業火に。       4 「うわあああっ……」  奇妙に高く外れた悲鳴が、薄暗い地下の緊張を逆なでする。その時夏貴はバットを、ドアに向かって、まだ二回しか振り下ろしていなかった。 「なに?」  窓を見ると、赤木が奥に走り去る姿が一瞬だけ見えた。 「どうして戻ってきたんだ?」  驚いて呆然としている間に、次の姿が窓を横切った。誰かが赤木を追っている。確かにそう見えた。 「あ……やっぱり他に人がいたんだ!」  先ほど感じた薄闇の中の気配は、気のせいではなかったわけだ。 「お前のせいだったんだな。お前が息子を殺した。その上罪を他人になすりつけたな!」  廊下に響くその声を聞いて、夏貴は東と驚いた顔を見合わせる。 (田崎だ!)  柴原医師を殺した殺人犯。今まで警察に捕まりもせず、どこに隠れていたのだろう。 「貴様がここにいるなんて……どうやって入った。何故なんだ。上手くいっていたはずだ。こんな、こんなことが起こるわけがないっ」  赤木の声が上ずっている。二人の足音は、駆けては止まる。繰り返しの間に、短い悲鳴と哀願が混じる。明らかに赤木の方が一方的にやられているようだった。 「赤木、ここを開けろ!」  東が大声をかける。 「とにかく間に入ってやる。この部屋のドアを開けろ!」 「やめてくれっ」  短い悲鳴が上がった。返事ではない。赤木は自由に動ける状態ではない様子だ。 「ひいいいっ」 「どうした?」  声をかけるが、その後は声が聞こえてこない。東が唇を噛んだ。母から一時離れると、夏貴からバットを受け取り、大人の力でドアを打ち壊し始めた。 「まったく、赤木に閉じ込められたせいで、赤木自身を助けられないなんてな」  田崎に襲われたことに同情なぞ感じないが、こちらは赤木のような神経の持ち主ではないから、放ってはおけない。 「ちくしょう、しぶとい扉だ」 「わあっ」  東が悪態をついたとき、廊下からまた、短い声があがった。大して大きい声でなく、今までのものと何が違うとは言えない。しかし……。 「急がなきゃな!」  田崎には人を殺した経験があるのだ。一回、もう一回と、バットを打ち下ろす。 (足音が聞こえなくなった。間に合うか?)  夏貴はバットの一撃と共に、ドアに体をぶつけ始めた。 「せーのっ」  三回目の突撃で、開いたドアと共に体が転がり出た。つんのめって廊下に肩から当たる。 「痛あっ」  振り仰ぐと部屋のすぐ内で、東が肩で大きく息をしてバットを握り締めていた。すぐにものも言わず部屋の奥へ行き、担ぐようにして母を連れ出してくる。  地下内では、この先何時どこで火災が起こるか分からない。逃げることも満足に出来ない状態の母を置いて、行動することは出来なかった。だが、これでは素早い動きはとれない。とにかく夏貴が先に、赤木を探してコの字型の廊下の先に向かう。 「気をつけろよ」  東の声に頷く。刃物が振り回されているところに出くわすかもしれないのだ。足音を潜めて廊下の突き当たりまで行き、角の壁に張りつく。ゆっくりと首を伸ばし、曲がった先を窺った。しかし、何の騒ぎも見当たらない。  顔を向けた先には、非常灯の明かりが届かないせいか、さらに暗い感じの薄闇が広がっていた。乱闘する姿はない。刃物のきらめきも目に飛び込んでこない。 「赤木……どこだ?」  さすがにもう先生とは呼べず、名前を呼び捨てる。返事はなく、用心しながら前に進んだ。いくらもいかないうちに、数メートル先の床の上に、動かない黒い塊があることに気がついた。思わず急いで近づく。 「赤木! 田崎も!」  二人は折り重なるように倒れていた。赤木の上に田崎の体がのしかかっている。体の下から、ゆっくりと血が染み出してきていた。 「な、なんでっ?」  どうして二人とも倒れているのだろう。田崎が赤木を殺してしまったというのなら、分かる。返り討ちだとてないとは言えない。しかし両方倒れていようとは、想像もつかなかった……。  追いついてきた東が角から顔を出した。夏貴が立ち尽くした姿を見てから、その足元に視線を落とす。驚きと共に、息を短く吸い込むのが分かった。  そんな音が聞こえるほどこの地下が静かだったことを、夏貴は思い出していた。 [#改ページ]    第十二章 思う       1 「死んでいるのか?」  地下の薄闇の中、倒れている赤木たちを目にして東が聞いてくる。しかし夏貴には判断がつかなかった。  ただ赤木たちが刺されてから、さほど時間が経っていないことだけは確かだ。携帯電話を取り出し一一九番にかけたが、圏外らしくつながらない。東と顔を見合わせた。  いつ火事場になるかもしれないこの地下に、母を残しては動けない。絶対だ。しかし夏貴だけでは、一人運ぶのも無理だろう。こっそりと怪我人だけを助けて、自分らは現場から逃げ出すという選択は、出来ないようだ。 「人を呼んでくるしかないな。幸いここは病院の敷地内だ。夜中でもすぐに医者は捉まるだろう」 「事件になる。何故こんなことが起こったか、僕らも警察に色々事情を聞かれるよね」  クローン問題が浮き出てくるかもしれない。僅かにためらう夏貴の顔を、東が睨みつけた。 「人の生き死にがかかっている。迷う余地がないだろ。こら息子! こんなときに四の五の言っていると、張り飛ばすぞ」  その明快な態度がありがたい。 「分かった」  腹が決まると、夏貴はすぐ、赤木の懐を探りカードキーを見つけ出した。階段を挟んで二つあるドアのうち、上の方は閉まっているはずだからだ。ついでにDVDも回収した。 「先に行くよ」 「俺は禰生さんをまず、外につれてゆく」  その声を背後に聞きながら廊下を走った。 「あ……れれ?」  薄暗い中で足が止まる。目の前のドアを見て、目を見開いた。入ってくるときに、観葉植物の植木鉢で開けておいたはずの扉だ。 「閉まっている!」  見れば植木鉢が脇にずらされていた。呆然と立ちすくむ。 (田崎がやったことなのかな)  そうかもしれない。彼しかいないではないか。しかし、違うという気もする。 (自分自身を閉じ込めるようなことを、何で田崎がするんだ?)  この鉢をドアストッパー代わりに使ったとき、嫌な感じがしなかったか。まるで誰かにこっそりと見られているような……。 (いけない)  夏貴は強く二、三回首を振った。 (駄目じゃないか。こんなこと考えている暇はないんだ)  瀕死の人間がいるのに、何をやっているのだろう。急いで赤木のカードキーを、ドアの右壁面にある機械に通した。一気に駆け上がるつもりでノブを回す。ごきり、と硬い音がしてつっかえた。 「えっ?」  力を込めても開かない。もう一度カードキーを入れなおす。それでも出口はびくともせず、夏貴の前に立ちはだかった。 「何なんだ!」  思い切り蹴ってみたが、大きな音がしただけで扉は開かず、しびれた足を抱えてうずくまってしまった。後ろから東の声が尋ねてくる。 「どうした? 今の音は何だ?」 「ドアを蹴飛ばしたんだ。赤木のカードキーじゃ、この扉は開かないんだよ!」 「何言っているんだ。あいつはそれを使って、ここへ入ってきたはずだぞ」  指摘はもっともだが、現実に使えないものはしかたがない。つい今しがたまで使用できたものが、急に役に立たなくなった。そのわけは……。 「僕たちが入った後で、誰かがオートロックのデータを変えたんだ。そうとしか思えない」  やっぱりかという気持ちがあった。地下に降りてきたとき、視線を感じた。誰がたてたか分からない音を聞いた。植木鉢が動かされていた。 「知らない人間が地下に入ってきているんだ。その誰かさんも、僕たちを外へ出したくないみたいだよ」  夏貴たちがここに来たときとて、既にドア開閉の設定が以前とは変わっていた。やり方が分かっていれば、変更は簡単なのだろう。しかし、病院関係者でない田崎にそんな芸当は無理だ。 (誰なんだ? 目的は何だ? やはりクローン人間の情報狙いか)  一体何人がこの薄っぺらなDVDを欲しがっているのだろう。開かないドアを睨みつける。血まみれの赤木の生死を気にしないところをみると、その誰かは彼の仲間ではなさそうだ。 「おっさん、どう思う?」  顔をしかめながら東に聞いてみる。この鍵が使えないのは、別の意味でもまずかった。自分たちが脱出する手段もなくなってしまったのだ。 「おっさん、聞いてる?」  待っても、返事がない。 (どうしたんだ?)  こんな緊迫した状況なのに、東が何故、黙ったままなのだろう。廊下を見ても、近くまで来ているはずの姿が見えない。 (奥に引っ込んだままなんて……)  夏貴は唇を噛んで引き返した。不安がじわりと湧いてくる。 (今、この地下には誰かがいる。そして母さんもおっさんも出てこない!)  廊下の突き当たりに行き着き、角から首を出して先を窺う。赤木たちが倒れている場所には……。 (あっ!)  息を呑んだ。血溜まりのすぐ手前に、東が母を庇うようにして座り込んでいたからだ。その横に立つ人物の白衣が見えた。 (出てきたか……)  少し離れてもう二人いた。薄暗い中でも、男が手に持った何かを、東の首筋に当てているのが分かる。それは薄く鋭く輝いていた。 (あの人なら、ドアを閉ざすのは簡単だろうな)  顔を見て、納得した。地下への出入りも自由。何しろ責任者なのだから。廊下の真ん中に歩み出ると、よく知っているその人の名を、夏貴は呼んだ。 「大竹院長」 [#改ページ]    第12章 思う       1  白衣姿の全員が夏貴の方を振り向く。大竹の後ろにいる二人は産婦人科の医師、大島と小泉だった。  東一人だったら、多少切り刻まれようが相手が三人だろうが、絶対に大人しくはしていなかったはずだ。しかし今は、まだぼうっとしている母を連れている。そこを突かれたに違いない。 (まいったな。僕たち、ここから逃げられるのかな)  足元から震えてくるような、やけくそで笑い出したいような、奇妙な気持ちがする。 「産婦人科の先生方が、皆地下室にいていいんですか。お産の患者はどうするの」  皮肉を込めて聞くと、 「今日は柴原医師の代わりとして、二名応援が来ている。研修医もいる」  にこりともしないで、院長が現実的返答をしてきた。その常と変わらない事務処理能力と、目の前で東の首にメスを突きつけている姿が、妙にそぐわない。まるで絵空事か戯画のようだ。 (これのせいか……)  懐に入れた固いプラスティックケースを、そろりと服の上から指でなぞる。 「院長も世界初、クローン人間を作った医者、という肩書きを目指しているんですか?」  核心に切り込んだつもりだった。だが夏貴を横目で見た院長は眉をひそめている。 「私は赤木とは違う」  あっさりと言い返された。 (院長は、融通のきかない、くそ真面目な奴と言われてたっけ)  親しみは持てないが、確かに的外れな名誉を詐欺で獲得する人間とは思えない。 「じゃあ、どうしてそんなことをするの。赤木の手から僕たちを、助けに来てくれたわけじゃないですよね」 「こんな予定ではなかったんだ」  院長自身にとっても、現状はお気に召すものではないらしい。メスをしっかりと持ったまま、うんざりとした顔つきで、ため息をついている。 「我々は、柴原、音村一家、赤木を、一気に始末するつもりだった。予定では君たちも、もう死んでいるはずだったのに」  あまりにも静かに言われたので、却って夏貴は戸惑った。薄暗い廊下で立ち尽くしたまま、どう言い返したらいいのか、咄嗟に思い浮かばない。 (始末する?)  薄気味悪いものでも見るような目つきを、東が傍らの院長に向けている。 「なぜ……」  やっと夏貴の口から、それだけの言葉が押し出される。院長は倒れている赤木に目をやってから、話し始めた。 「私たちはずっと、赤木の行動を追っていた。私が見ていた柴原のパソコンデータを、目を離した隙に彼が盗み見たからだ。中身をコピーしたのを知っていたからね」  院長は喋り続ける。メスを首に当てられている東の顔に、一層の緊張が走ったのは、持論のせいに違いない。 (顔見知りに対して、話し過ぎる犯人というのは危険だ)  それでもこのわけの分からないことだらけの状況下で、物騒な院長のおしゃべりは一種の消化剤にはなった。 (柴原先生のパソコン、パスワードを破ったのは院長だったのか)  赤木はそのおこぼれにあずかったのだ。 「赤木には、何でも書き留めておく癖があってね」  受験勉強の頃の習慣が抜けていなかったらしいと、院長は少しばかり口に笑みを浮かべた。 「彼のパソコンのパスワードはすぐに分かったから、やっていることは筒抜けだったんだ。クローン人間第一号を作り出した医者? 名誉? あいつの考えにはついていけん」  一体どういう神経の持ち主だったのだろうと、院長の口から、またため息が漏れる。 「だが私はその行動を、利用させてもらうことにした。赤木は�名誉�欲しさに君たちを早々に始末し、DVDを手に入れる予定だったからね」  ちらりとこちらを見てくる。薄暗い廊下で光っているメスと、よく似た目つきだ。 「後はあなたたちを殺した赤木を、息子の復讐に凝り固まった田崎が殺して自殺する。その場から私たちがDVDを回収。これで柴原、音村一家、赤木と始末できる。そういう計画だったんだ」 (なんと……)  己の手すら汚さない殺人計画だ。目の前の医者が、顔だけ同じな別人のように感じられた。 「あの……柴原先生が殺された後、田崎を匿っていたのは院長なの?」 「そうだ。田崎は自殺したかったようだね。我々は彼に、いらぬ電話を入れたのは、柴原ではなく赤木の方だと教えてやったんだ。田崎は自殺する前に、赤木をも殺す気になったようだ」  それで二人とも倒れていたのだ。今度こそ子供の敵を討ったと満足して、田崎は死んでいったのだろう。そしてそれは院長の計画にとって、好都合だったのだ。 「上手く進んでいるように見えたのに、物事とは都合よくはいかないものだ」  まだ半分も予定が済んでいないと言いながら、院長はひらひらとメスを振る。 「まずDVDを手に入れるべきだったのか。夏貴君、それも必要なんだ、寄越しなさい」  不意に薄闇の中から白い手が差し出されてきた。どこまでも長く長く伸びて、喉に絡みついてきそうで、夏貴は思わず一歩下がった。 「こちらは三人だ。いざとなれば、力ずくで取り上げることもできるよ」 「近寄らないでよ。割るよ!」  千枚通しで傷ついた表面を見せつける。院長はそのありさまに驚いたようで、少し引いた。 (きっとこれが僕たち一家の命綱なんだ)  院長はさっき、夏貴たちが死ぬ予定だったと言わなかったか? DVDを渡してしまったら、三人共殺されてしまう気がする。 「今の話では説明不足だよ。院長、赤木とは違うというなら目的は何なの?」  あっさりと五人を殺すという理由。やはりDVDが要るというわけ。問い詰める夏貴の言葉は寂しいことに、いささか震えていた。院長はちらりと側にいる小泉に目配せをすると、ゆっくりと言葉を選んで口にした。 「そうだね。それも話しておくべきか」  妙に物分りの良いその声と前後して、小泉が静かに背後の研究室に消えた。秘密を聞かせ夏貴が話に夢中になっている間に、背後に回り込みDVDを取り上げるつもりなのだろう。 (僕と東が、赤木に使った手と同じだな)  考えることはクローンでも普通の人間でも、似たり寄ったりらしい。しかしここで院長が、 「事の最初から話そうか」  そう言い出したのは意外だった。地下はいつ、とんでもない火災になるのか分からない状態なのに、驚きの余裕だ。 (もしかして、赤木の計画を知ってはいても、使った薬品の性質までは分かっていないのかな)  パソコンに化学式は書かれていたかもしれない。しかしそれを見ただけでは、あの火だけでなく、水でも燃え上がるという薬剤の特徴は分からない。 (それなら火の手が上がったとき、逃げ出す機会が生まれるかもしれない。だけど……僕たちも焼け死ぬかもね)  喜ぶべきか、怖がるのが普通か。この状況でいったん火災となれば、スプリンクラーは巨大な凶器と化す。だが、院長たちとて、人殺しをしている場合ではなくなるのも事実だ。 (どっちに転ぶか……)  院長の話が始まる。       3 「私は元々産婦人科の医師だ。だが病院の経営を継ぐための修業として、よそで経験を積んでいた。戻ったのは二年ほど前の話だ」  元々四神病院は、普通の地方都市の総合病院だった。院長が帰ってきたとき、不妊治療で全国的に有名な病院に化けていた。実際に勤務してみて驚いた。看板の産婦人科の医師たちは、患者からまるでスター扱いだったからだ。他病院からの引き抜き話も多い。 「隠居だという大島先生にも、結婚で転居する小泉先生にも、好条件でいくつも誘いが来ていますよね。このままクローン人間問題が表に出なければ、お二方には約束された将来が待っているわけだ」  やや皮肉めいたその言葉を聞いて、大島は首を振る。 「私は再就職はしませんよ」 「最初に言っておこう。夏貴君、私は君のようなクローン人間を作ることに反対なのだ」  院長の言葉は、一言で端的に彼の立場を表していた。それが彼の信条なのだろう。珍しい意見ではなく、今さら驚くにはあたらない。しかし、思わぬところからこの言葉に反発が出た。 「何を……言い出すの? 人の息子を、クローンだなんて」 「母さん!」  母の目が大きく見開かれている。まだふらふらとしながら、それでも明らかに興奮して、院長に掴みかからんばかりだった。 (そういえば、クローン体だと聞かされた後も、この話を母さんとしたことがなかったな)  血のつながりがないことを、ことさら言い立てるようで、口にしにくかったのだ。いっそ東のように、赤の他人の方が話しやすかった。 「何でそんなことを言うの。何を証拠に……」 「禰生さん! 夏貴はもう知っている」  東が母を引き止めている。既に柴原医師から、夏貴に真実が告げられていると教えられると、母はまた薬を飲まされたかのように、急に大人しくなって廊下に手をついた。 「私……このことだけは言わないで、墓の中まで持っていくつもりだったのよ」  話す言葉が震えている。だんだん弱々しくなってゆく。 「柴原先生には、喋らないでくださいってお願いしたのに。何で……」 「クローンであることを理由に、夏貴が狙われ始めた。どうして身を守る必要があるのか、わけを知らなければならなかったんだ」  あの常識外れの柴原なりに、夏貴のことを心配していたのだと東は言う。そこに乾いた笑い声が廊下を走った。院長だ。 「あの柴原が親心で夏貴君の体を心配したと、本気で思っているのかね。今まであいつが何人にクローンの子供を妊娠させようとしたか、知っているか。そのDVDを見ていないから、詳しいデータは分からないが、妊娠率はわずか数パーセント前後だろう」  母がその数字を聞いて、驚いた顔を浮かべた。 「無事に生まれてきた人数は、きっと、さらに半分にも満たないな。クローン体は流産しやすい」  その厳しい現状を乗り越えて、生まれてきたクローン人間たち。しかしどういうわけか、見ることのできた柴原のデータによると、その子供たちは死亡率が高いという。突然の発病。突発死。死亡理由が分からなかったこともあったようだ。 「我々が知る限りでは、生き残っているのは五人ほどのようだ。名が分かったのは夏貴君だけだが、唯一の十代らしい。柴原はそれは丹念な夏貴君の成長記録をつけていたんじゃないかな」 (今さらなんだ!)  そっぽを向いた夏貴は、研究室の小窓に映り込んだ動く影を見て、身構えた。院長の声だけが、ゆるぎない平静さを持って暗い廊下に響いてゆく。 「数字の話をしたが、私がクローン人間作りに反対しているのは、生まれにくい、育ちにくいといった理由ではない。はっきり言えば倫理面での理由ですらない。つまり……」  顔が硬くなる。物凄い意志の力がそこにあった。 「皆は分かっていないんだ。私には見えている。クローン人間が人類の遺伝子に、とんでもない災いをもたらす可能性があることを」 「災い? 何か知らんが、大げさだな!」  思わず抗議の声をあげた東の首から、細い血の筋が滴った。 「クローンのDNAは、成長した体からとられるので、遺伝子のスイッチの入り方が親とは違ってくることがある。そこに問題があると私は思っている」 「スイッチの入り方?」  夏貴の表情が固くなる。この話は初耳だった。 「DNAは確かに親と同じなのに、その遺伝子が親のもののようには働かないんだ。クローンと一般人では、遺伝子が違う働き方をしてしまうことがある」 (あ、以前に聞いた、違う模様で生まれたクローン猫の話と同じかな)  遺伝的双子の親と、違う柄で生まれてきたクローン体。 (あれは単なる模様の問題だったけど……)  動物実験では、突然呼吸が出来ずに死ぬ個体が出るなど、クローン体にはかなりの異常が出てきているという。 「原因は推測出来ても、解決方法はまだ見つかっていない。そもそも異常の原因が、完全に特定出来ていない。正直に言えばクローン技術には、まだあまりにも解明しなければならないことが多すぎるということだ。しかし、君たちは見切り発車で作られてしまった!」  クローン体は親と同じ存在のはずだと、そんな楽観的な期待の下で。しかし生まれてみれば、予定外なことに、違う顔が見えてきたのだ。院長の声が夏貴を捕らえていた。だんだん大きく頭の中に響いてくる。何だか体がふらつく……。 「君の中にある遺伝子もそういうものなんだ。私はそれが地雷に近いものだと思っている」 「……地雷?」 「運が良ければ異常は全く出ないか、君一代に現れて終わる。最悪の可能性は、人類にとって災いとなる遺伝子が、君から出て、人から人へともたらされてしまうということだ」  様々な異常が出る可能性があるのだ。それを院長は無視できないという。 「君はそろそろ十五歳なんだよ。それが今私が動いた理由だ。もう待てなかった。夏貴君の体はほとんど大人だからね。君を生かしておいたら、未知数の遺伝子が君から流れ出る危険性がある。もうガールフレンドが出来ているようだしね」 (ガールフレンド? 和美ちゃんのこと?)  なんと院長は、今にも夏貴が子供を作るのではないかと、心配しているのだ。 (それが全ての理由か!)  そのために事を起こした。人殺しに化けた。夏貴の遺伝子故に! 「君一人、一代のことで終わるなら、私も今回のようなことはしなかった。説得して、子供を作らないという選択をしてもらうという手もあったんだ。でもね、柴原が今まで作り出したクローン、これからも生み出したであろうクローン全員に、一切セックスをしないでくれと言っても無駄だと思った。二十四時間見張っているわけにはいかないしね」  生かしておけばいつかどこからか、危険な遺伝子が漏れ出てしまう。クローン体のDNAが人を変えていくかどうか、大博打を打つことになる。未来を賭けて。 「もっと技術が進んだ後ならば、どうにかなった問題かもしれない。でも十数年前、まだクローン動物によるデータすら蓄積されていないときに、もう話は先に進んでしまったのだ! あまりにも未知数のままに。許されないほどに!」  見切り発車のつけ。災厄がもたらされるその前に、すべてを排除しなくてはならない。 「子供に手を下すことになるが……私は正しいことをしている。人間の未来のために、柴原とクローン人間を消さなくてはならない。四神病院から未知の遺伝子を流出させるわけにはいかない! 絶対にだ!」  暗い廊下に響く院長の声は、確信を秘めてゆるぎなかった。それは薄闇の中を響き渡り、神託のごとき重みを持って、夏貴を打ちつけてきたのだった。       4 (僕は生きていちゃいけない者で、息をすることも認められない存在というわけ?)  いきなりそんなことを言われて、脳みそが、はいそうですかと納得するわけもない。視線を院長の隣へ向けると、白髪が増えた気がする大島医師は、つと夏貴から目を逸らせ、言い訳を口にした。 「私が診ていた患者のうち、何人かが柴原先生の治療で妊娠している。私は彼の方が治療実績があがっているからと、難しい患者を回したんだ。それがクローン人間問題につながっていくとは思いもしなかった。クローン人間の中に、私の元患者の子供がいるかどうか分からないが、結果に責任を取るつもりだ」  大島も彼なりの考えから、クローン人間を誕生させることには反対だという。なのに、いつの間にやら参加した形になっていたのだ。 「さあ、夏貴君、そのDVDを寄越しなさい。他のクローンの名や年齢、住所等、知るべきことがそこに載っている」  再び院長の手が伸びてくる。 (確認してどうするんだよ。その子たちを殺すのか)  思わず後ろに下がった。そのとき背後から手が伸びてきて抱え込まれる。部屋の内にあるドアを通って回り込んできた小泉が待ち構えていたのだ。 (いけない。分かっていたのに、本当に忘れてた)  夏貴は必死に手を振りまわして抵抗した。 (これを取られたら……何人も子供が狙われる。僕たちも始末されてしまう!)  まだ十四歳とはいえ男だ。簡単に押さえ込まれたりはしない。女医がしかめ面を浮かべた。 「手間をかけさせないで。DVDを寄越しなさい」  小泉に加勢する気なのだろう、大島が夏貴の方へ動いた。皆の目が夏貴に集まる。首を狙うメスが一本になったとき、東の足がしたたかに院長の向うずねを蹴飛ばした。 「うわっ」  その小さな悲鳴を合図に、母が赤木たちの体の向こうに転げるようにして逃げ込む。東は肩口を少々切られながらも、院長のメスの下から抜け出して、夏貴たちのもみ合いに凄い勢いで参戦してきていた。 「女でも大人だ。子供をいたぶると、こうなる!」  大声と共に小泉の足元を払う。「あっ」大きくしりもちをついた女医は、慌てて廊下の隅の方へ逃げた。一対一で東に睨みつけられた大島は、すぐに腰が引け、夏貴たちから離れてゆく。  院長がゆっくりと、こちらを睨みつけながら立ち上がった。その皮膚を突き通すかのような視線に、夏貴の側に立った東は、皮肉っぼい薄ら笑いを返していた。 「院長さんよ、あんた一見頭が良さそうなのに、見かけによらず、やぶだね」 「……何が言いたい」  こういうときに真面目に返答を返してしまうようでは、院長は喧嘩が弱そうだ。その伝法な口のきき方に、妙に頼もしいものを感じ取りながら、夏貴は東の言葉に聞き入った。 「ごちゃごちゃうざったい理由を述べて、悦にいっているんじゃない! この世に生まれた者はな、一生懸命生きていいんだよ。全員だ。誰に断りを入れる必要もなしさ」 「君には私の話が理解出来なかったのか。クローン体から遺伝子が……」 「うるさい!」  ぴしゃりと言葉を途中で切られて、院長は顔を赤くしている。その顔を覆ってきた怒りの炎に、東はせっせと油を注ぎ始めた。 「あんたの論理は一見、筋が通っているみたいに見えるさ。不安を煽られてお前さんに従う奴すら出てきそうだ。でもな、俺の住んでいる世界じゃ、このやり口はよく目にするんだよ」 「やり口? 私は何も仕組んではいない。事実を述べただけだ」  噛みつくように言う院長を、東がせせら笑う。 「あんたはご大層に、クローンの遺伝子に危険な遺伝的欠陥があるように言い立てている。けれどな、それは自分で言ったように証明されたことじゃない。かもしれない、可能性があるというばかりの、想像の世界の中のことだ」 「実際に病気の動物がいる! 実験が危険を示している!」 「今どき入院すれば、身内に癌や高血圧や糖尿病、肝臓疾患などを患った者がいないかを病院から聞かれる。そういうよく耳にする病気にも、なりやすい遺伝子っていうものがあるそうじゃないか。人は皆自分の中に、リスクを抱えているんだ。一切の遺伝的病気と無縁な奴なんているのかよ」  遺伝する病気は数多くある。近年遺伝子について色々なことが分かってくるにつれ、新たに遺伝子と病気との関係が見えてきたものもある。 「それともあんた、全ての遺伝的欠陥を持った人間を、殺してまわる気かい? そんなこと出来はしないだろうが」  東は吠えた。 「それなのにことさらにクローンの疾患だけ、大仰に言い立てる。まだはっきりしていないことへの不安を煽る。昔からのやり口だ。俺は何回も見てきたぜ。町のいかさま占い師から、新興宗教の教祖様や独裁者まで、似たような手口を使うのを!」 「そんなことをして私に何の得がある。私は殺人鬼ではない。なのに人を殺さなければならなかったんだぞ」  その抗議を夏貴は納得できた。安楽に暮らせるはずの大病院の跡取りが、薄暗い地下で破滅と背中合わせの行為に及んでいるのだ。とてもいかさまとは思えない。この一件で、院長個人には何の利益もないように見える。 「神様ごっこさね」 「えっ?」  思わず東に聞き返したのは、夏貴の方だった。 「己にうっとりとしているんだ。自分が皆を、世界を危機から救う。この考えは麻薬より強い誘惑かもしれない」  ひたすら尊敬され、敬われる存在となるのだ。 「もちろんやっている本人は真剣だ。騙しじゃない。そこがいちばん問題なんだ」  大真面目に、自分で考えついたことを自身で信じきってしまう。 「己を世界の救世主になぞらえる。我こそは世俗の利益を捨てて、破滅に導く遺伝子から人類を守る者、と思うのさ。スーパーマンかモーセか。この気持ちの高揚が人を殺す」  我が正しい。  我こそが正しい。  我の意見のみが正しい!  なぜならこんなにも素晴らしい目的を持っているのだから。  我の意見に従わないのなら、世界は破滅の淵の前に立たされるであろう。予言する者の恍惚と使命感に、浸りきっているのだ。  そうなると、もう他の意見は議論の対象ではなく、頭の中で己への中傷誹謗に化けてしまう。世界は善と悪の二極に集約され、院長はもちろんのこと正義の側だ。人の喉元をかき切るメスは、破魔の剣と化し、人殺しが止まらなくなる……。 「私じゃなく、自分こそ善なる象徴だと言いたそうだな」  睨みつけてくる院長に、 「噛み合わねぇ奴」  東は言葉を吐き出した。 「俺はただの俺自身だ。自分と折り合いをつけるために、人生の半分くらいの時間をかけちまった凡人だ。お偉い者にはなれないよ。……ああもう、こいつには言葉が届かねぇか」  最後の方はくたびれたようにつぶやくと、夏貴の方に話しかけてきた。 「おい、息子。言っておくことがある。ちゃんと聞いておけ。頭の中からこぼすなよ」 「何?」 「こういう院長のような奴の言葉は、人の心に食いつくんだ。カリスマ性というものがある。だからここにいる医者たちみたいに、信じる奴が出てくる。教祖さまになれたりもする」  だが、と言葉を切った。 「どんなにもっともそうな意見があっても、他人の言葉を鵜呑みにするんじゃないぞ。人間なんだからな。誰かの頭を自分の脳みそ代わりにしては駄目だ!」  夏貴の顔を見つめて、はっきりとした声で聞いてくる。 「親父と医者の意見は対立しているようだ。息子、どっちを信じる?」 「親父!」  自分でも驚くほど、間髪容れずに返事をしていた。声は廊下に響いて、東が破顔一笑する。否定された院長は、ものも言わず体の向きを変えた。母の方へ。 「母さんっ」  声をあげるのと、院長が田崎の体を掴んで廊下の隅にどけるのが、ほぼ同時だった。院長が赤木の体をまたぎ越してゆく。東が母の元へ駆け出す。続こうとした夏貴の体を、後ろから飛びついた大島が引っ張った。  そのとき。 「ああっ」  夏貴は目を見開き悲鳴をあげた。記憶が蘇って顔を引きつらせる。廊下の隅、母と院長からほんの二メートルほど離れたところから、火柱が明るく周囲を照らしていた。       5 (田崎の血だ。あの水分が火をつけた)  廊下の隅には、たっぷりと薬品が撒かれていたのだろう。炎は見る間に大きく育ってゆく。院長は急な展開に、顔も体も強張らせて立ち尽くしていた。予定外のことを受け入れられなかったのかもしれない。 (やっぱり薬品の特徴、分かってなかったんだね)  夏貴は振り向くと、己の腕を掴んでいる大島に警告した。 「早く逃げて。赤木が水分で発火する薬品を、この地下にばら撒いたんだ。スプリンクラーが作動する前にここから出て!」  目を丸くして聞いていた大島の体が、少しずつ震えてくる。手が夏貴から離れ、一歩、二歩と、後ろに下がってゆく。東が母を抱えるようにして炎から引き離し、白衣で炎を叩き消している小泉医師に、すれ違いざま怒鳴った。 「薬品が燃えているんだ。無駄だ。逃げろ!」 「何を言っているの。初期消火が大切なのよ!」 (僕も逃げなきゃ)  そう思ったとき、小泉の白衣の先に小さな火がともった。火は服の表面をなぞるように走ると、あっという間にズボンに燃え移ってゆく。 「ひゃああっ……」  悲鳴はかすれたものだった。 (小泉先生はさっき廊下の隅に座っていた。あのとき服に薬品が付いたのかも……)  薄暗い中でさえ、炎は、はっきりとは見えなかった。ただ、小泉の体の周りに薄い明かりが踊っている。意味のない声を出しながら、小泉は気味悪くも緩やかに動きまわっていた。 「先生、床に転がって! 火を叩き消すから。早く!」  夏貴の声が聞こえないかのように、ふらふらと遠ざかってゆく。そのまま廊下の角まで行き着くと、突き当りの壁にもたれかかるように崩れ落ちた。 「先生っ」  側に寄ったが、どうやって火を消したらいいのか分からない。腕で払ってみたが、ものの役に立たなかった。近くの研究室に飛び込んで、消火に使えそうなものを探した。 (院長はすぐ側にいたはずなのに。何で小泉先生を助けに来ないんだよ!)  クッションや膝掛けなど、とにかく体を包んで火を消せるものを引っつかむ。部屋から出ようとして顔が引きつった。小泉がいた場所は、既に大きな火柱になっていた。壁の周辺にも薬品が撒かれていたのだろうか。 「小泉先生っ」  叫んだとき、一斉にスプリンクラーが作動した。 「うわあああああっ」  廊下に悲鳴が木霊した。 「誰の声? 母さん、おっさんっ」  目の前が一面朱の色で染まったかと思うと、一気に白と黒の混じった煙が湧き立った。研究室の中にも凄い勢いで入ってきて、夏貴はその煙に煽られしりもちをついた。視界がただ、灰色一色に塗りつぶされてゆく。 (いけない。廊下に出なきゃ)  脱出路は非常階段か、開かなくなってしまったドアしかない。すぐに自分のいる場所すら、煙で分からなくなりそうだ。手にしていた膝掛けで顔を覆い、床すれすれに這いつくばる。 (火事の死亡原因で多いのは、煙を吸い込んだから、だったっけ)  とにかく廊下に顔を出し、非常灯の方を向いてみて……低くうめいた。 「チクショウ、赤木の仕業だな」  誰も地下から逃がさないつもりだったのだろう、非常階段とおぼしき付近は、特に激しい火と黒煙に埋まっていて、どう考えても抜けられそうもない。 (それに……母さんたちは、さっき降りてきた階段の方に向かっていったよな)  あちらのドアの方が、逃げやすいという保証はなかった。鍵がかかっている上に、カードキーが使えない。どちらを選んでも丸焼けという可能性がいちばん高かった。 「ええい、迷っていてもしょうがない」  左へ。家族の後を追う。 (せめてスプリンクラーだけでも、止まってくれないかな)  全身が濡れていくのが怖かった。うっかり薬品を服に付けたりしていなかったろうか。実はもう足元が燃えているのではないか。目や喉にしみる煙で咳き込みながら、必死に這って進む。薬品は水を得て、大仕掛けのアトラクションのように、あちこちで燃え上がっている。遊園地と違うのは、火が燃え移っても煙を吸い込んでも、中にいるものは死ぬということだ。 「母さん、おっさん、どこ?」  一本道だ。すぐに見つかるはずだったのに、声を出しても返事がない。喉が焼けるので、繰り返し呼ぶわけにはいかなかった。 (思ったより僕が進めていないのか。それとも二人は、研究室に避難しているのか?)  部屋に逃げ込んでも、火が回れば逃げ場がなくなるだけだ。東がそんな判断をしたとは思えない。這って、ただ這って、先へ歩む。  体の周りを全て煙に囲まれ、火に追いたてられ、だんだん感覚が麻痺してくる。 (僕は本当に、前に進んでいるんだろうか)  必死に体高を低くし、肘を前に出す。その手が、不意に何か柔らかいものに乗り上げた。 (えっ?)  廊下のど真ん中に、なぜ障害物があるのか分からない。煙をかき分けるように、顔を思い切りその�何か�に近づけてみる。独特の焦げた臭いが鼻をついた。黒と灰色でまだらになった表面に、小さなネームプレートがついている。 (緑色の枠……)  見覚えがあった。さっき腕を掴まれたとき、大島医師の胸元に同じものがなかったか? 「うわあっ」  悲鳴をあげて焼死体から飛びのく。体が起き上がった瞬間、強烈な熱さと喉を焼く濃い煙をあびてひっくり返った。必死に呼吸を整える。このまま起き上がれなくなりそうだった。体が震えてきている。震えて、震えて……何故だか収まらない。 (まさか……)  こんなときに過呼吸の発作が起きたのだろうか。母との関係を納得するようになって、現れなくなってきていた。それなのに! (駄目だ……)  歯を食いしばる。体に痺れがきていた。 (発作を起こしては駄目だ! まだ正哉の墓に全てを説明していない。事件を解決したと言ってから、謝るんだから。今は……)  常にポケットに入れている溶けた携帯電話を、必死に掴んだ。 (正哉が前に、呼吸の整え方を教えてくれたじゃないか。そうだよ、確か)  いったん息を止める。それから目をつむり細い声で数を数え始めた。 (一、二、三、四……)  これで大丈夫だと自分に言い聞かせる。そう思い込むと、不思議と呼吸が落ち着いてくる。床に突っ伏すようにしながら、息を整えた。 (二十、二十一、二十二……)  五十まで言った後、肩の力を抜き、ゆっくりと目を開けた。大島の遺体をちゃんと見ることが出来た。 (助かった……)  安堵の笑みが、口元にわずかに浮かんでくる。それと共に思いついたことさえあった。 (そうだ! 大島先生ならカードキー、持っているよね)  焼けた体を探るのは正直な話ぞっとしなかったが、とにかく懐に手を突っ込んだ。 「これだ!」  手探りで見つけ出したのは黒革の財布だ。中のカードは一見無傷に見えた。 (使い物になるかどうか分からないけど……)  とにかく希望が出てきていた。顔を上げる。 (あ……れ?)  表情が引きつった。えぐい味の煙の只中で、夏貴は方向が分からなくなっていたのだ。       6 「ええと、大島先生の体がここにあるんだから……ドアの方向は……」  必死に思い出してみる。しかし前後どころか、左右もはっきりとは分からない。煙はそれだけ濃くなってきていて、逃げ出すための時間が、あまり残っていないことを示している。自分の手すら霞んでくる。目の前の遺体も、どんどん見えなくなってゆく。 (まずい。息が……本気で苦しくなってきた)  それなのに、どちらに進んだらよいのか分からないときている。 (時間切れか? 僕は、正哉に謝ることができなくなったのか?)  まったく、最後まで頼りにならない奴だったというわけだ。もう一回大事な親友の形見を取り出した。正哉の携帯電話を見るのもこれで最後かもしれない。 (……あれ?)  電話機の画面が、煙の中でぼうっと光っているように見えた。 (そろそろ目がどうかなってきたのかな)  さらに間近から見つめる。やはりわずかに発光して見えた。 「正哉?」  声をかけたが返答はない。ただ何かの形が浮かび上がっていた。はっきりとはしないが、確かに指のように見えた。大島の体がある方を、真っ直ぐに指し示している。 「正哉だ!」  周りにある火が濃い煙越しに反射して、そんな風に見えたのかもしれない。あるいは火事場の有毒ガスを吸った頭がいかれて、幻覚を見たという方が当たっていそうだ。だが、夏貴は最後の馬鹿力を発揮し、思い切って指の示す方に突き進んだ。 (正哉だ。僕が困っているとあいつはいつも、手を貸してくれた。奇跡的に勘のいい奴なんだ)  友のことを信じてきた。今もそうするつもりだ。火と煙の中、文字通り命をかけて。  ひたすら肘を出し膝を進める。しばらく夢中で進んだところで、いきなりまた、柔らかいものにぶつかった。 「ぐえっ」  煙を吸った喉から、潰《つぶ》れた声が飛び出る。その情けない声は、意外なほどの大歓迎を受けた。 「夏貴っ。お前か!」 「おっさん」  煙で視界のきかない中、母たちも行くべき方向を見失った様子だった。夏貴は説明抜きでベルトの端を握らせて、強引に二人を自分に従わせた。 (絶対にドアに行き着ける。正哉がついているんだから!)  携帯電話からの仄かな光のいざないのままに、ただ真っ直ぐに進む。自分が感じている確信がありがたかった。少しでも不安を抱いたら、前も見えない煙の中、恐慌状態になって立ち往生しそうだ。  ただ、先へ、先へ、先へ。東からも母からも、泣き言も疑いも出てこない。ベルトの端から伝わる力が、二人の存在をずっと感じさせている。三人で助かるために、先へ進んだ。  前に突き出した手が、今度は硬いものに突き当だった。 (痛ったぁ)  顔を擦《こす》りつけるほど寄せると、陶器の器だった。手で探ってみる。植物が植えられていた。 「植木鉢だ!」  ドアストッパー代わりに持ち込んだ観葉植物。ドアはすぐ脇にあるはずだ。 「これからどうする?」  心配げな東の問いに、夏貴は新たなカードキーを取り出してみせる。息子への評価は一気に上昇した様子だった。 「二人とも絶対手を離さないで」  この煙の中で立ち上がったら、もう呼吸は出来ない。ドアの向こうに駆け出すしかない。 (鍵が使えますように!)  三人で息を止めた。 「行きます!」  カードキーを機械に通した。       7  ノブが、軽い金属音をたてて回った。 「開いた!」  その言葉以外何もいらなかった。三人で地上への階段に飛び出る。空気が冷たい。ゆっくりと背後でドアが閉まっていった。仕切られていた空間にはまだ酸素が格段に残っていて、ほっと息をつけた。一緒に出た煙が静かに晴れていくまでは。 「あ……」 「おや、ま」  階段の途中に、院長が待ち受けていた。先ほどまでよりぐっと明るい光源の下、院長の白衣が奇妙に白く見えた。夏貴の姿を認めると、立ち上がって三人を見下ろしてくる。 「ここで待っていれば、君が外へ出るのを確実に防げると思ってね」  院長によると、たぶん赤木の仕業だろう、非常階段の方は出られないよう、あらかじめ塞いであったとのことだった。 (なんと。迷ったとき右へ行ってたら、今頃焼け死んでたということか)  相変わらず院長の喋り方は丁寧だ。だがやることは、念入りで常軌を逸していた。 「私は間違ってはいない。この遺伝子を外に出すことは出来ない!」  繰り返される同じ言葉。もうここまで来ると、この考えにすがっているようにも見えた。 「あんた、今火事の最中なんだぞ。分かっているのか?」  東の呆れ顔を気にする様子もない。その姿に今回は、夏貴がきつく向かっていった。 「院長、さっきはどうして小泉先生を助けなかったの?」  真っ直ぐに睨んでゆく。 「すぐ側にいたのに。何で?」  まったく焼けた跡のない白衣。びしょ濡れの三人に対して、染みの跡すらない。院長は最初に火を目にしたとき、すぐに地下室を脱出したに違いなかった。 「私にはどうしても成さねばならないことがある。赤木が何を仕掛けたのかは知らないが、あそこで私まで焼け死ぬわけにはいかなかったんだ」  つまりは仲間を見捨てることで、危険を避けたわけだ。夏貴は顔を大きく歪めた。 「そんなんでよく、人類の未来について語る気になるね。あんたは救世主じゃない。夢想しているだけの、只の小心者の人殺しだ!」  院長の顔が引きつった。ものも言わずに階段を駆け下りてきて、夏貴に手を伸ばす。 「馬鹿はやめろ! 今はあんたの方が一人なんだ」  東がその体に組みついた。夏貴も今度は負けずにやり返すつもりで、院長の手を払う。  その瞬間、火が立っていた。  三人の呆然とした視線が一点に集まる。白衣の裾から、静かな炎が燃え上がっていた。 「何で……」  言いかけて気がつく。院長の白衣には、赤木が撒いた薬品がくっついていたのだ。全身びしょ濡れの夏貴たちから、水分を吸い取って燃え始めたに違いない! 「脱げ! すぐにだ!」  咄嗟に東が院長の白衣を剥ぎ取る。夏貴は危険で院長には近づけなかった。小泉のように、ズボンにも薬品がかかっていたら、うっかり触ったら発火を招いてしまう。東が白衣を階段の隅に放り投げた。その間にまたも院長が、必死の表情で夏貴に掴みかかってくる。 「何をするんだよっ。死にたいの?」 「やめろ!」  二人の言葉が届かない。院長は死にものぐるいで組みついてくる。手が夏貴の首にかかった。 「DVD! DVDは? どこだ? どうしてもそれだけは……」  夏貴の懐を院長の手が探り、薄っぺらいケースを掴み出した。そのとき! 火が院長のズボンを焼いていた。 「院長!」 「あ、あ、あ……」  炎は走るように上へ、全身へと広がった。燃え上がった院長の口から聞こえたのは、音程の外れたような声だった。  夏貴たちは側にいながら、ろくに手を出すことも出来ない。火を叩き消そうと体に触れれば、自分たちが纏《まと》った水分でますます炎を立ててしまう。火を消そうと、東が落ちていた白衣の燃え残りを使ったが、白衣の方が燃え上がっただけだった。消火器はない。燃える院長を助けようにも、この階段には濡れていない布一枚なかった。 「上へ……一階に行ったら、消火道具が何かあるかも」  母がカードキーを持って、精一杯急いで階段を上がってゆく。しかしその姿が上のドアに行き着く前に、院長の体は階段の途中に崩れて落ちていった。  その手から、命がけで取ったDVDが転げ落ちる。ほどなく体は動かなくなった。 (院長……)  目の前での焼死。すぐには声も出てこない。 (何でこんなことに……)  どうしてそこまでDVDにこだわったのか。 (一体何故……!)  理由が分かっていても納得できない。普通に生きてゆくだけの毎日が、どうしてこんなにも悲惨なことに化けなくてはならないのだ? (何でだよ)  何故、何故、何故! 人に聞けば百万の理由が示され、きっとどれ一つ納得出来ないに違いない。 (ちくしょう……)  ドアの向こうで、硝子が割れる音が続いた。隙間から不吉な色の煙が漏れ出てきている。 「早く外に出よう。火の勢いが激しい。研究室にどんな薬品が置いてあるか分からん。通風孔やダクトを伝って、建物中に火が広がるかもしれない」  東が促してきた。母が上で待っている。サイレンの音が聞こえていた。 「もう俺たちに、ここで出来ることはない」  後はただ口をつぐむだけだ。このDVDが人目につかないように。  三人は研究棟を出ると、広い四神病院内を駐車場の方へそっと逃れていく。やがて夜の闇の中、研究棟は巨大な松明《たいまつ》と化していった。 [#改ページ]    エピローグ  夕刻、夏貴は正哉の墓の前に来ていた。  四神霊園は古い木立に囲まれた、広くて近代的な場所だった。ここも外れとはいえ四神市の内だから、正哉はこの市内で生まれ、同じ地に眠っているわけだ。真新しく濃い灰色の墓石の前には、花とメロンパン、週刊誌、ビールが供えられている。  季節は夏で、遅い時刻まで西日が明るかった。夏貴の足元にも日野家の墓にも、長い影がある。結婚して夏貴の父親になった東と母は、先に車に戻って待っている。夏貴は一人でゆっくりと、あの音村家の火事の日からの経過と、一連の事件のことを正哉に話していた。 「正哉の家と同じく、僕の家も全焼だったよ。おじさんたちや正哉だけじゃなく、田崎や柴原先生、小泉や大島や赤木、院長も、皆亡くなってしまった」  火は研究棟の中を駆け巡り、建物は巨大な火柱となって焼け落ちた。出火原因は、正気を失っていた田崎がどうやってか研究棟に入り込んで、火を点けたのだとされた。あの状況では、そうとしか説明がつかなかったのだろう。  院長以下医師たちは職務中の事故死とされ、立て続けに看板の産婦人科医師を失った病院は、大打撃を受けたと言われている。長年の実績も多くが火の中に消えてしまった。秘密を抱いたまま。 「正哉、これが皆が追いかけていた、クローン人間のデータが入ったDVDだよ」  墓に向かって、真ん中にひびの入ったケースを見せる。この薄さ五ミリほどの一枚が何人もの人の運命を握り、奪っていった。 「中を見ずに今度こそ本当に割ってしまおうと思う。二度と狙われないように。おっさんが言っていた通り、どんな生まれだろうが、誰でもせっせと生きていく権利があると思うからな」  だから。 「だから僕も何とか生きてゆくよ。なかなか大変そうだけどな。もう……正哉はいないし」  間抜けなことをしても、上手く助けてくれていた親友はもういない。正哉は不安定で不確かな自分を、誰より理解してくれた奇跡の友達だった。震えるようなため息が漏れる。正直に言えばいささか……かなり不安だった。 (大人になったら、結婚して子供を作る気になれるだろうか)  そんな問題を抱えている。だが、今は頑張っていくしかない。今回の事件だとて無茶苦茶な展開にはなったが、とにかく真相には行き着いたのだ。 (でも……)  夏貴はもう一度真正面から墓を見ると、深々と頭を下げた。 「ごめん……」  胸が締めつけられる。正哉も日野夫婦も、クローン問題さえ絡まなければ、死なずに済んだはずだ。つまり、夏貴という存在がなければ。そのことについては、事件後東と話し合っていた。 「確かに夏貴は問題の中心にいたかもしれない。でもな、お前が事件を起こしたんじゃないんだぞ!」  東は夏貴の目の前、十センチのところまで自分の顔を近づけると、断言してきた。 「だから全ての責任が自分にある、なんてうっとりとした考えには浸るなよ。それじゃぁ全世界を救う気でいた院長と、似たり寄ったりになっちまうぞ!」 「うん……分かった」  それは理解できた。少なくとも頭の一方の端では。 (だけど……でも……ね)  心が締めつけられるのだ。多くの人が死んだから。友が帰ってこないからだ。たとえ自分自身ではどうにもならなかったことが原因にせよ。  おまけにいったん死んだ正哉が携帯に戻ってきてからは、ずっとただ、正哉を失いたくないとだけ思っていた気がする。事件解決よりも自分の気持ちが優先だった。親友を裏切っていたのだ。  そして結局、一人取り残された。 「正哉、実は僕……」  墓に向かって、情けない己の心模様を事実のまま白状する。言いながら、気がつけば涙がこぼれていた。 (こんな話を聞いて、泣きたいのは正哉の方だろうに。涙をこぼすなんて卑怯だ)  そう自分に言い聞かせても、止めることができず次々とこぼれ出てくる。 (どうしてもっと強くなかったんだろう。どうして……生まれてきてしまったんだ?) 「ごめん、ごめんな……」  恥ずかしくなるまで泣いていた。そのうち、 (ちっ、泣き虫め)  正哉にそう言われている気がして、泣き笑いのような笑みが浮かび、落ち着いてきた。 「やっと、報告出来たんだよな」  ゆっくりとポケットに手をやる。ずっと持ち歩いていた正哉の携帯電話を取り出した。 (いつまでもこれを持っていちゃ、いけない気がする)  正哉は電話機でも、電脳空間のキャラクターでもないのだ。早く行くべきところで休んで、それからまた生まれ変わってきた方がいい。もし魂というものがあるならば。  近くにあった石で、墓の脇、メロンパンの横に穴を掘る。携帯電話は小さくて、それを埋めるための穴はすぐに出来てしまった。ハンカチに包んで埋め、こんもりとした小さな塚を作った。  出来た小さな土の山を見て、不覚にもまた目元がうるんでくる。 (携帯電話だけは……持っていたかったな)  自分はいつもこうだ。己の感情を優先してしまう。だからあの日、携帯電話を持って出られなかったのだ。  DVDを取り出すと、今度こそ砕く気で石を手に取った。すると足元から、周りの空間から、十も千も百万もの白い手の幻影がまた現れ、DVDの方に手を伸ばしてくる。その数の多さに、夏貴は思わず怯《ひる》んだ。 (くれよ、ちょうだい、私はこれが欲しい、俺のものだ、だってだってだってこれさえあれば、私は俺は幸せになれるなれるなれるなれ……)  その手を死にものぐるいで振り切って、石を振り下ろす。本当に小さな堅い音が、一連の事件の最後を告げて消えた。  DVDを小さく砕くと、破片をケースに入れ、もう一回墓に向かって深々と頭を下げる。  そして夏貴は西日のあたる墓前を後にした。 「もういいのか。今度いつ来られるか分からないぞ」  戻った夏貴に、運転席から東の声がかかる。母が再婚したので、今は夏貴の姓も東だった。 「うん大丈夫だ、父さん」  もうおっさんと呼ぶわけにもいかず、こう返事を返すと、東が少しばかり驚いたような照れたような顔をした。母も助手席から、ちらりと夏貴を見ている。 「そうか。うん、そうだよな」  東は何やら分からない言葉を言っているが、まんざらでもなさそうだ。  ただ夏貴の手の中のケースに目を止めると、「砕いたのか」と、小さくつぶやいた。そのまま前を向きシートベルトをして、夕暮れの道に車を出す。一家は四神市を出てゆくのだ。母の再婚に伴う目立たない形での転居だ。姓が変わり住居が変わり、新しい親が出来た。一切のしがらみから抜け出して、三人で新しい生活を作っていくのだ。未知数というものが先にあった。 (僕は……生き延びてゆけるだろうか)  車窓を飛んで過ぎる夕刻の景色を、ぼんやりと眺める。いよいよ暮れゆく道沿いに橋が見えてきた。夏貴は急いで窓を開けると、ケースを開けて砕けたDVDを川に放り投げた。一日の最後の残照を受けて、何十個もの破片が一瞬川面に姿をきらめかせ、すぐに見えなくなる。やっと手の中に、何もなくなった。 (願わくば、普通に暮らしていけますように)  川の流れが視界から消え去る。窓からの風が髪をなぶる。刻々と夜に変わってゆく風景を見ている内に、祈るような気持ちが湧いてきていた。 (一生懸命生きてゆけますように。真面目に頑張るから、だから……)  明日、何が待っているだろうか。 (きっと、不安と希望が先にある。他の人たちと同じように)  それを願って、明日に踏み出してゆく。  車は三人を乗せて、夜の顔を見せ始めた東の空の下に向かい走っていった。 [#改ページ] [#ここから2字下げ] 参考資料[#「参考資料」はゴシック体] 『クローン人間』粥川準二 光文社新書 二〇〇三年 『クローン人間』響堂新 新潮選書 二〇〇三年 『クローン動物はいかに創られるのか』今井裕 岩波科学ライブラリー(56)一九九七年 『クローン人間の倫理』上村芳郎 みすず書房 二〇〇三年 『危険物用語辞典』危険物用語辞典研究会編 ダイゴ 一九九六年 社団法人日本不妊学会ホームページ  http://www.jsfs.jp/jsfs.htlm 帯広畜産大学ホームページ内「生命を考える」  http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms/ 文部科学省ホームページ内 ○クローン技術 参考資料「クローンって何?」(平成11年科学技術庁資料)  http://www.mext.go.shingi/kagaku/klon98/index.htm [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]     贅沢な物語 [#地付き]坂木 司    私はなぜこの世に生まれてきたのか。そして一体、私とは何者なのか。思春期につきまとう普遍的なテーマを扱った本作『百万の手』は、ファンタジックな時代小説で知られる畠中恵が初めて世に送り出した現代の物語である。  主人公の音村夏貴は十四歳の中学生。父親を三年前に交通事故で亡くし、現在は母一人子一人の母子家庭に暮らしている。しかし父を失った悲しみのあまりか、母は次第に息子に執着するようになり、それにつれて夏貴の持病である過呼吸の発作もひどくなってゆく。そんな中、唯一の拠り所であった親友の日野正哉が原因不明の火事で焼死してしまうが——。  さて、ここから先は作品で楽しんでいただくとして、この物語の導入部を読んだだけで本作の贅沢さが否応なしに伝わってこないだろうか。十四歳という、身体と心のバランスがあやふやな年頃。それに加え、母親からもたらされる性の不安。さらにそれによって引き起こされる主人公の過呼吸は、読者に同じような息苦しさと閉塞感をもたらす。これだけでも、青春小説としては充分すぎるほどの設定である。しかし畠中恵は手を緩めず、その上からミステリとホラーとファンタジーという要素をこれでもかというほど積み上げて見せた。そのおかげでこの 『百万の手』は、多くの小説ジャンルに対応する不思議な作品に仕上がっている。  ところで、畠中作品には身体的に問題を抱える主人公が多く登場する。本作の音村夏貴を筆頭に、『しゃばけ』の若だんなこと一太郎は生まれたときから病弱で成人できないかもしれないと医師に宣告され、『ゆめつげ』の川辺湯月もまた占いによって気を失い、たびたび生死の境をさまよう。しかし彼らはその身体的不調を補うかのように、皆心が強くまっすぐな感性を持っている。生物としての弱さ、そして物理的に不利な状況に置かれた主人公たちは心、ないしは人格といった部分で勝負に出るのだ。それはまさに、「人が人としてあること」の証明にほかならない。知恵と勇気と心意気。人としての強さと正しさこそが、彼らの武器になる。だからこそ読者は恐ろしい事件の起こる物語でも、さわやかな心地で読み進むことが出来るのだ。  そんな人々の登場する畠中作品には、穏やかで優しい作風の陰に、いつでもひっそりと死の気配が漂っている。それは若だんなが飲む漢方薬の香りであり、夏貴が慣れ親しんだ病院の匂いでもある。アイデンティティの喪失どころか、常に自己存続の危機にさらされ続ける彼らは、作中の誰よりも死に近い場所に立っている。その不安。自分は一体どうなってしまうのか、一人だけ先に旅立たねばならないのか。どんなに考えても答えのでない問題は、冒頭に書いた思春期の悩みに酷似してはいないだろうか。だからこそ彼らは、誰よりも生のきらめきを求め、手を伸ばし続けずにはおれないのだろう。  そしてさらに身体的に弱い主人公たちと切っても切れない関係にあるのが、薬や病院といった医療関連の事柄である。本作では現代が舞台となるため、夏貴が病院を訪れる場面が数多く出てくるのだが、この病院という場所もまた意味深い存在のように思える。  昔と違い現代では、多くの人が病院で生まれ、病院で死ぬ。中には青井夏海の助産婦探偵シリーズのように、自宅出産を経験する人もいるとは思うが、それはあくまでも少数派の話だ。さらに医療技術の向上に伴い、老衰による突然死は減り、家族との最後の別れも病院でというケースが増えている。生と死を一手に引き受ける場所。本来ならばそれは『ゆめつげ』の舞台である神社のような、宗教的施設であったはずだ。生を言祝《ことほ》ぎ、死を悼む。そんな原始的な祝祭から遠く離れた場所で、科学的に生死と対時させられる現代人は一体、何を拠り所にして生きていけばいいのか。畠中恵の切っ先は、そんな根元的な問題を読者の眼前に突きつけている。  話は変わるが、人生のスタートとゴールを同じ場所で迎えるということに、私はときたま強い恐怖感を覚える。生まれるときは皆同じでも、いつどこでどうやって死ぬかわからない。それこそが人生の面白味であり、個人が辿《たど》った道のりの果てなのだと私は考えていたからだ。しかしどんな道を辿ろうが、行き着く果ては同じ白い病室、同じ布団の中なのだとしたら、それはあまりにも恐ろしくはないだろうか。もちろん病院の存在意義が本来、傷や病気の治療が目的だということは重々理解している。しかし伏せった若だんなや夏貴にとってそこは、また戻ってきてしまうかもしれない、けれど戻りたくはない場所である。熱に浮かされ、病と闘う彼らが見つめ続けた天井もまた、同じ恐怖を孕《はら》んでいたはずだと私は思うのだが。  しかしそんな死の気配を振り払うかのように、畠中作品にはイキの良い脇役が主人公に寄り添っている。『しゃばけ』では手代の仁吉が、『アコギなのかリッパなのか』では議員の加納聡が、そして本作では夏貴の義理の父親になる予定の人物、東省吾がそれに当たる。彼らは皆美形の上になかなかの武闘派で、主人公を助けるために正義の暴力を行使する。妖怪である仁吉だけはその行動のイデオロギーが違ってはいるものの、彼らは皆迷いのない視線を持っている。現実と現状を冷静に見極め、すみやかに行動を起こす姿は読んでいてとても清々しく、作品の中に吹く一陣の風のように感じる。生や死について思い悩むことも大切だが、今、目の前にあるものをきちんと見据えろ。そんな声を彼らから聞くと、観念的になりがちな頭が上手くリセットされる。これもまた、畠中恵が仕掛けた巧妙な隠し味である。  できることなら、本質的な悪人などいないと思いたい。しかし世の中には残酷な事件が溢れている。では人間とは本質的に悪の要素を学んでいる存在なのか。そして何故罪を犯すのか。ミステリの根幹に関わるこの間題に関して、畠中恵は本作で一つの解答を提示している。ここでそれを明かすわけにはいかないが、作中では夏貴が印象的な台詞を残している。 「本当に人ってプリズムみたいに、色々な色を見せるんだな」  白と黒、善と悪。世界を二元論で断ち切るのは簡単で気持ちがいい。しかし、それは子供のすることだ。子供から大人へと向かいつつある夏貴は、徐々にそのことに気づいてゆく。イエスとノーの間に横たわる微妙な感情。生と死の間にある人生。そして人間という多面的な存在が見せる、瞬間のきらめき。その美しさと醜さを理解するとき、少年はまた一歩大人へと近づいてゆく。  生きていくということは、変化し続けるということだ。人体の細胞はほぼ三ヶ月で入れ替わるのだと聞くし、物理的な言い方をすれば「永遠」などはあり得ないはずだろう。誰も永遠には生きられないのだから、出会った人とはいつか別れなければならない。しかしそれでも私たちは甘い夢を見ようとする。親はずっと元気でそばにいて、友達もずっと友達のまま。なにより自分がいなくなるなんてこれっぽっちも考えない。けれど夏貴は、弱冠十一歳にして父を失い、さらには母親との正常な関係をも失ってしまう。そして十四歳で親友を永遠に失った彼の立つ地面は、あまりにも不安定で頼りない。めまぐるしく変化する状況の中、それでも夏貴は「謎の解明」という杖を頼りに歩き続ける。その懸命な姿は、読者にもまた生きる意味を問いかけ続けるのだ。  最後に、苦言ではなくちょっとした不満を記すことをお許しいただきたい。本作をすでにお読みになった方ならお気づきだと思うが、『百万の手』はあまりにも贅沢なガジェットが詰め込まれすぎていて、勿体ない状態になっている部分が多々ある。どの部分を膨らませても違う話が一本書けそうなほどのエピソードに満ちた本作は、だからこそ続編を読みたいという読者の欲求を強くかきたてるのだ。なのに、今のところ続編の予定はないという。これはなんというか、つらい。少なくとも私は、夏貴と東のその後をぜひとも読んでみたいと思う。なぜならこの物語は、夏貴が本当の意味で生まれるまでを描いたものだからだ。新しく始まった彼の人生、そして彼の物語は一体どんな道を辿るのか。それが気になってしょうがない。  かように、畠中作品は物語の力に満ちている。人物造形の見事さと流れる水のように自然な文体は、読者の視線を一度備らえたら離さない。これからどんな作品が紡がれてゆくのか、一読者として期待せずにはおれない作家である。 [#ここから2字下げ] 追記 ところで、私が初めて畠中さんにお会いしたのは東京創元社のパーティーの席上でした。「同じくらいの時期にデビューされた方です」とご紹介いただいたときは、まさか解説を書かせていただくようになるとは思いもよりませんでした。時が経つのは早いものですね。 [#ここで字下げ終わり] 本書は二〇〇四年、小社より刊行された作品の文庫化です。 著者紹介  1959年高知県生まれ。名古屋造形芸術短期大学卒。88年に漫画家としてデビュー。2001年『しゃばけ』で第13回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。時代物の書き手として多大な支持を集める。最新刊は『うそうそ』。