アイスクリン強し 畠中 恵 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)公方《くぼう》様 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一発|拳固《げんこ》を [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から1字上げ]装幀/大久保伸子 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/01_000.jpg)入る] 〈帯〉 シユウクリーム危うし ワッフルス熱し 著者の魅力全開! 明治の築地居留地で、西洋菓子屋の若主人と元幕臣の警官達「若様組」が繰り広げる「スイーツ文明開化」騒動記。 [#改ページ] [#挿絵(img/01_001.jpg)入る] アイスクリン強し 畠中 恵 講談社   目 次  序  チヨコレイト甘し  シユウクリーム危うし  アイスクリン強し  ゼリケーキ儚し  ワッフルス熱し [#地から1字上げ]装幀/大久保伸子 [#地から1字上げ]装画/丹地陽子  [#改ページ]  アイスクリン強し         序  時が時代を連れ去って、『江戸』が『明治』という名に改まった。  すると頭に頂くお方が、公方《くぼう》様から天子《てんし》様に変わったからには、万事移り変わるのが世の習いと定まったらしい。世俗の町中においても、名や姿を改めるものが多々出てきたのだ。  町の空に電線が張られ、明かりが提灯《ちょうちん》から電気を使ったアーク灯に変わった。  駕籠《かご》も駕籠かきも姿を消し、誰も担《かつ》がぬ鉄道馬車が通りを走っている。銀座《ぎんざ》にあった木造の町並みは、洋装の者達が歩くに相応《ふさわ》しい、煉瓦《れんが》で作られた通りとなった。同心や岡っ引きのいなくなった世は騒然となったが、警察官を名のる者達が、今はその役目を引き継いでいる。  そして明治も二十三年のある晴れた日、その警察官である巡査達三人が、築地《つきじ》の居留地近くの店を訪れた。最近、新しき菓子である西洋菓子を売り始めたばかりの風琴屋《ふうきんや》で、巡査の長瀬《ながせ》は店奥に店主の姿を見つけると、にやりと笑いかける。 「ミナ、一見忙しそうだ。しかし客は一人もいないねえ。こりゃ、しばし喋《しゃべ》っていても大丈夫だよな」 「長瀬か。何度も言っているだろう、その呼び方は止《よ》せ!」  ミナという呼び名は、生まれ育った居留地で、皆川真次郎《みなかわしんじろう》という名の、姓から取って付けられたものであった。だが女の名のようにも聞こえる故《ゆえ》に、その名で呼ばれると、真次郎は相手に一発|拳固《げんこ》を見舞いたくなって困る。  だが親友の長瀬は人をからかうのが好きなのか、それを承知でミナと呼ぶ事が多かった。真次郎は口元を歪《ゆが》めつつ、長年の友を見る。 「どうした、仕事中だろ? 昼間っから菓子屋に顔を出してていいのか、巡査殿方」  だが怠《なま》け心を指摘されても、長瀬達は至《いた》って悠々《ゆうゆう》としており、平気な顔で笑っている。 「巡邏《じゅんら》は警官の職務だよ」  長瀬達はいわゆる士族であった。しかもそれぞれに旗本の跡取りであったのだが、御維新で禄《ろく》を失い、ご多分に漏《も》れず金に困っている。そういう、よくある過去を背負った若様達の、成れの果てなのだ。  江戸の世など覚えてもいない若い三人は、背に腹は代えられぬと、今は仇敵《きゅうてき》の明治政府に使われる身となっている。つまり、なけなしの教養を頼りに試験を受け、警官という官吏の身分の端に登用され、糊口《ここう》を凌《しの》いでいるのだ。  そんな徳川方の元ご身分高き方々は、警察で自然と集まり、一つの集まりを作っていた。長瀬達は僅《わず》かな皮肉も含め己《おのれ》達を、『若様組』などと内々で称しているのだ。 「ところで今日は一体何の用なんだ? 風琴屋は今のところ、予約販売のみ| 承 《うけたまわ》っている。何かを食べに来た訳《わけ》じゃあるまい?」 「ああ真次郎、実はお前さんに、これのことを聞きにきたんだ」  長瀬が奥のテーブルに置かれた、ワッフルスの試作菓子に目をやった後、懐《ふところ》から一通の手紙を出して見せてくる。明治の世になり、飛脚の届けていた文も、手紙へとその形を変えていた。 「おや、これは……」  まず表に目をやり、『若い御仁《ごじん》方へ』という妙な宛名を見て、真次郎は眉《まゆ》を顰《ひそ》める。中をあらためると、手紙の文字は達筆であったし文章はしっかりとしていた。封筒や便箋《びんせん》それに蝋《ろう》でされた封も、きちんとしたものであった。  だが手紙の内容は、思わず首を傾《かし》げるようなものだったのだ。 �手紙を受け取られし御仁方へ�  そういう書き出しで始まった手紙には、今より謎解きをすべしと書かれていた。 �この文を手にされた主には、以下のことを乞うものなり。  まず一つには、差出人が誰であるかを推測し、その者の姓名を知るべし。二つには、その差出人が今、何を一番に欲しているかを考察し、その『何か』を手に入れたまえ。  推察した差出人の名が当たっており、なおかつ、その住まいへ真に正しい『何か』を持ち参上した者には、差出人より満足すべき褒賞がもたらされんことを約す。  よって、諸兄には勤勉なる行動を取られんことを期待す。もし、その能力が貴兄にあらば�  手紙の送り主を探せとわざわざ書いてある位だから、勿論《もちろん》手紙には差出人の名などない。真次郎は片方の眉を引き上げた後、この手紙は三人の内、長瀬が受け取ったのかと問うた。すると園山《そのやま》と福田《ふくだ》が似た封筒を懐から取りだし、最初の手紙の横に並べる。驚いて三人を見ると、長瀬が口の端をつり上げた。 「実は今朝方、同じ内容の手紙が若様組の皆のところに届いた」 「は? 若様組の全員に、この妙な手紙が来たのか? 全く同じ内容か?」  思わず確認すると、三人は頷《うなず》いている。真次郎は呆《あき》れた。 「巡査相手に訳の分からぬ手紙を寄越すなんぞ、度胸のいいことだ。差出人は何を考えているんだ?」  若様組の面々は、腐っても生まれの良い士族であって、今でも剣の腕は皆なかなかであった。その上、巡査達は平素、サーベルを身につけている。気楽にからかうには、物騒な相手なのだ。長瀬は手紙に書かれた端正な字を、指でなぞる。 「俺たちにこんな手紙を送りつけて来るなんて、暇《ひま》な奴《やつ》っているもんだと思ってたよ。しかも一度に多くの者に出すなんて、どういうつもりなんだか」 「長瀬、若様組じゃない巡査達にも、この手紙は来たのかな?」  真次郎の問いに、長瀬が天井《てんじょう》を見る。 「確かなことは分からん。だが警察内では、妙な手紙が来たという噂《うわさ》はないな」  多分、他には来ていないだろうと言うと、真次郎が小さく苦笑を浮かべる。 「お前さん達は、あまり評判の芳《かんば》しくない巡査殿の一員だからなぁ。誰ぞにからかわれたんじゃないか?」  となると、その者は若様組のことを知っていることになるが、もしかしたら元徳川方の朝敵への、嫌がらせかもしれないとも思う。するとその時、長瀬がぐっと真次郎に顔を近づけ、驚くようなことを問うてきた。 「それでな、ひょっとしてミナも手紙を貰《もら》ってないか? そう思って確かめに来たんだが……」 「は? 俺は一介の西洋菓子屋だ。知らぬ者から、問題を問われる覚えはないぞ」 「おいミナ、謎かけの答えを見つけることは、巡査の職務でもないぞ。分かってるか?」  真次郎に手紙は来ていなかったかと言い、長瀬は何やら考え込んでいる。その事実を元にして、手紙の差し出し主が誰だか、推察しているのやもしれない。  誰ぞからの、若様組への挑戦か。それとも若様組の面々がときどき集まっていることを知っている、警察内部の者からの単なるからかいか。 「そこが、問題なんだよなぁ」  長瀬が困ったように独り言を口にするのを見つつ、真次郎は珈琲《コーヒー》くらいは出そうと言って、湯を沸《わ》かす。だが視線をテーブルに戻した途端、目を見開くこととなった。 「わあっ、いつの間《ま》に菓子に手を出してるんだっ」  見れば園山と福田が、店内のテーブルの上に置いておいた試作品のワッフルスを見つけ、遠慮もせずにかぶりついていたのだ。 「おお、こいつは何という菓子かな。甘い香りが広がる。ご婦人方をうっとりとならしめるに違いないな」 「ならば我ら男も、流行《はやり》の物に対する蘊蓄《うんちく》を口にする為《ため》、この西洋菓子を口にするしかないと思いましてな」  するとちゃっかり長瀬まで、皿の上の菓子に手を出すではないか。 「女子供のように甘いものに目がない訳ではないが、まあ流行とあらば知らねばならん」  三人は堂々と、嬉しげに菓子を賞味している。だが怖《こわ》い顔をした真次郎が直《す》ぐに、皆の前から菓子の皿を取り上げた。 「三人とも、菓子屋で金も払わずに何しやがる。大体、これは大事な試作菓子だ」  だが店主の言葉など意にも介さず、園山は手に残った菓子を食べつつ、拗《す》ねたような口をきいた。 「真次郎さん、けちくさいことを言わないで下さい。売り物じゃないなら、私たちに試食をさせて下さいよ」  風琴屋店主皆川真次郎と三人の巡査達は、共に武士の家の成れの果て……つまり士族の生まれな上、歳も近く気心の知れた友であった。つまり遠慮がない訳で、見目|麗《うるわ》しいが、その分性が凶暴だという園山に対しても、真次郎は遠慮なくものを言う。 「あのな、これはワッフルスという名の菓子で、試作の品だ。だからより美味《おい》しい品を作る為に、俺が食べなきゃならん。お前達に食べられたんじゃ、意味がないだろうが」  真次郎は居留地の育ちであった。それ故、その地で外国人の料理人から、外《と》つ国《くに》の菓子を習う機会があった。よってその経験を頼りに新しき味覚の世界を帝都で切り開き、士族の身から華麗なる転身をはかろうと、西洋菓子屋風琴屋を開店したのだ。風琴屋はこれから西洋菓子を広め、店を軌道に乗せようというところであった。  しかし店にはまだ調理用ストーブが一つあるきり、それも借りている有様で、商売道具である製菓用器具ですら足りぬ。帝都には居留地住まいの外国人達と、新しもの好きの人々が住んでいるのだから、先々は明るい……筈《はず》であったが、資金も馴染《なじ》み客もまだまだ足りず、人を雇う余裕もない。  外国人向けの予約販売をするだけでなく、いつかは店売りの菓子を置き、いずれはそれを帝都で広めたいと思っている割には、いささか心細き状況であった。 「菓子を食べるんなら買ってくれ。ここは菓子屋だぞ」  真次郎が園山巡査の綺麗《きれい》な顔の前に、掌《て》を突《つ》き出す。すると人当たりの良い福田巡査が、横から申し訳なさそうに言った。 「実はですね、最近仲間である小沼《こぬま》巡査のじいやが倒れたんです。医者代はかなり高くつきました。それで若様組の皆が金を工面《くめん》したんですが……皆|揃《そろ》って金欠になってましてね」 「だから今、俺たちに美味《うま》いものを喰《く》う余裕はない。今日など昼飯抜きだ。試作品くらい黙って喰わせてくれ」  ここで長瀬が開き直ってくる。 「全く情けないなぁ。まあ、お互い様だが」  真次郎は溜息《ためいき》をついたが、昼餉《ひるげ》を食べる余裕すらないと言われれば、大丈夫かとの心配が先にたつ。結局ワッフルスの皿を園山に渡し、おまけで珈琲も淹《い》れて出してやると、三人が子供のように嬉しげな顔をした。 「まあ、ワッフルスは美味しかったのだから、いいか」  すると長瀬が真次郎に感想を述べる。 「美味い。しかし、付けるジャムがもっと欲しいな」 「贅沢《ぜいたく》言ってんじゃねえ」  ぽかりと頭をはたかれ、不満なら菓子を返せと言われると、長瀬は慌《あわ》てて残りを口の中に押し込んでいる。隣で福田がワッフルスを味わいながら、しみじみと言った。 「それにしても、菓子は変わりましたよねえ。いや、饅頭《まんじゅう》や羊羹《ようかん》は昔と変わらず売っているし、あれも美味しいとは思いますが」  西洋菓子は、明治も始めの頃は海外からの輸入品ばかりであったのが、東京でも真次郎のように作る者が出てきている。真次郎も己に珈琲を淹れテーブルに座ると、客のいない日中の店では御維新後の変化について、ひとしきり話に花が咲いた。 「江戸の頃は、万事に物事はゆったりとしていたはずだ。それが御維新と同時に、時が別のものとなった気がしてならぬわ。にわかに速く流れだしたという気がしないか?」  まずは長瀬がこう言い出す。すると皆議論は好きであったにも拘《かか》わらず、珍しくも反対意見が出なかった。真次郎自身、昨今の時は恐ろしく早く流れると、そう感じていたのだ。 (世の中についていくのが大変になってるからなぁ)  散髪所でも風呂屋でも常に新しいものごとの話をしている。若い己らとて、移り変わりが早いと思う位なのだから、風呂屋の老人達など、溜息をつくしかなかろうと思う。 「これじゃあ、町の御老人達は大変だわな。古老の知恵を貸すと言ったって、そもそも話が噛み合わねえ。若いもんは聞きゃしないだろう」  ここで真次郎達は、御維新後に変わった物事を書き並べてみることにした。真次郎が、テーブルにペンと引き札の裏を置くと、思いついた者から、色々書き連ねてゆく。 「まず明治元年、今上《きんじょう》が江戸城に入られたな」  あれが諸事の始まりと、皆の声が揃った。 「七月だったかな、『自今《イマヨリ》江戸ヲ称シテ東京トセン』という詔勅《しょうちょく》が出たよ」  福田が言う。お江戸が日の本から消え、ひょっこり東京という場所が現れたのだ。まさに手妻《てづま》がなされた日であった。 「確か翌々明治三年に、乗合馬車が登場した筈だ」  江戸の頃は、どこへも歩いてゆくのが基本であったのが、変わったのだ。園山によると、英吉利《イギリス》より二階馬車を購入し走らせたものの、丈《たけ》高い形のためか不安定で事故多く、二階部分を外《はず》したという。 「そういえば前の年には、電報の取り扱いも始まってるな」 「電報は三年の開始じゃないか?」 「いや、二年だ」  長瀬が福田に首を振る。その年は、電話第一号たる実験も行われている。まだ江戸の世から、二年も経っておらなんだときに、電話とは! 江戸の頃ならば、伴天連《バテレン》の仕業《しわざ》と疑いを掛けられかねぬ、驚きの技であったに違いない。 「人力車の営業開始は、三年だったかな」  園山が紙に書き込む。人力車は後年大いに隆盛した。東京府下に牛鍋屋が開業し、牛の肉を庶民が大いに食らうようになったのも、同じ頃だ。牛鍋食らわぬ奴は時代遅れとまで言われ、こちらは今も繁盛している。 「散髪令が出されたのは四年じゃないか?」  真次郎が口にした。髷《まげ》から散切頭《ざんぎりあたま》へと変わっていったのだ。髪型は身分、年齢まで表しているものであったから、大いなる変化であったに違いない。  金銭単位の呼び方が変わり、一両が一円となった。東京、京都、大阪間で郵便事業が開始された。  五年、鉄道が開通している。ここで長瀬が紙を見て嘆息した。 「たった五年で、江戸はどこへいってしまったんだ?」  六年、太陰暦から太陽暦に変わった。なんと明治五年の十二月三日が、明治六年の元日となったのだ! 「年末がすっ飛んだ気持ちとなったに違いないな」  福田の言葉に、三人が首を縦に振る。  七年、東京警視庁が設置された。 「ちょいと戻るが、明治四年に東京の市中取り締まりのため、政府が採用した邏卒《らそつ》は約三千人だったはずだ」  ここで園山がにやりとする。 「江戸の町奉行所時代、町方の治安維持に当たった三廻《みまわ》り同心の数は、確か南北二十八人ずつだったよな」  当時とは比べものにならぬ程の、市中取り締まり要員が登場したことになる。多人数を採用するようになった故に、長瀬達三人も巡査になれたというわけだ。 「七年の十二月には、ガス灯が点火した」  八年、民は全て姓を名乗ることとなっていた。神社の神主《かんぬし》や坊主など、姓を付けてくれるよう頼まれ大忙しだったと聞いた。 「西南戦争が起こったのは明治十年だったな」  長瀬がこう言った途端、その場が寸《すん》の間《ま》静かになった。それは最大にして、最後の士族の反乱であった。  大名を主とした藩《はん》はとうになく、武士達は禄と権力を失っている。いにしえの下克上《げこくじょう》のごとき出来事が繰り返され、没落する者、成り上がる者の名が世の噂にのぼっては消えていた。果てにとことん困り果てた士族達が集まり、乱が起きたのだ。真次郎が静かにこう結んだ。 「八ヵ月後、西郷隆盛《さいごうたかもり》が自刃《じじん》し、終結したんだったっけ」  その乱のことすら、若い真次郎達はよく覚えていない。  十四年、神田《かんだ》に三省堂《さんせいどう》書店開業。  十五年、銀座二丁目に、アーク灯ともる。 「驚くべき明るさで評判だったと聞いたな。今では皆、あの明るさは当たり前のような顔をしているが」  園山がそう言い、笑う。同年、東京に馬車鉄道が開通した。  十六年、鹿鳴館《ろくめいかん》開設。ここは大層派手であったのに、数年ほどでその時代に幕を閉じた。ここで真次郎が、紙に新たに書き込みつつ、不満そうな顔付きをした。 「十八年、菓子に税が掛かるようになった」  勿論撤廃運動が起こったが、税はまだそのままだ。福田が慰めるように軽く、その肩を叩《たた》いた。皆が更に先へと書きつづる。 「今年、憲法が施行されるという話だな」 「帝国議会が召集されると聞いた」 「やれ、明治はまだ二十三年だというのに、何て色々あったことか」  生き方そのものまでも、変わってゆく時だということだろうか。物事の早い移り変わりに、居留地育ちで珍らかなものは見慣れている真次郎ですら、時折|目眩《めまい》がする。銀座の目抜き通りは、ここがお江戸であったのかと目を疑うような、煉瓦造りの町並みに変わった。明治になって作られた立派な道には、人が歩くのをもっぱらとする、歩道というものまでが付いている。 「築地の居留地へ行くと、外国人が住み、オルゴールが鳴っているものな。洋館の学校が並び、宣教師が歩いている」  しかし、と言って、園山がにやりと笑《え》みを浮かべ、長瀬を見た。 「東京や横浜、県庁がある辺り以外の日の本の地は、江戸の風景が色濃く残ったままだという話だが」 「当然だな。日の本全てが、二十年と少しの内に変わってしまえる訳もない」  そして街や物以上に、昔と大して変わらずにいるものがあった。  人だ。 「江戸に生まれて育ったものが、お上《かみ》が変わったからとて、急に近代人になれはしないわな」 「なのに、世の中のありようがさっさと変わっちまった。仕事自体が激変したんだ」  そんな中で、稼《かせ》ぐすべを失った者の何と多いことだろうか。貧民窟と呼ばれた地域が増大しているのも、そのせいに違いない。諸事、大変なことが多い……。  だが、と声が上がった。長瀬が空《から》になったワッフルスの皿を見てから、真次郎に目を向ける。 「新しい世になって、嬉しいことも少しばかり現れたよな」  駆け抜ける時の疲れを、癒《いや》してくれるものが出てきたのだ。 「例えば、新しい菓子だな」  皆が頷く。夢のごとき味の西洋菓子が現れたのだ。  外つ国から来た菓子は、南蛮菓子から西洋菓子へと呼び名が変わり、新たな品々が数多《あまた》姿を現してきていた。スポンジケーキ、ビスキット、ワッフルス、チヨコレイトと、アイスクリン、シユウクリーム、スイートポテトなどだ。  だが、まだまだ庶民に馴染みがないと言って、真次郎が少々|愚痴《ぐち》をこぼす。 「商売をするのは大変なんだ」  それでも開化の夢とも言うべき西洋菓子を作る職人らは、夢のある生き方があるだけ、ましかもしれない。時に取り残され、先の希望も持てぬ者も多いのだから。  ここで長瀬が、真次郎に空の皿を見せた。 「なあ、もう少し試作品を作らないか? 味見に協力してやってもいいのだが」 「俺の分まで食べておいて、何を言う」  長瀬が更に何かを言おうとしたとき、店に郵便が届いた。これ幸いと真次郎が席を立ち、長瀬が口元を尖《とが》らせる。だが受け取った真次郎が、短くひゅっと息を呑んだものだから、皆の目が集まった。  真次郎はその手に、どこかで見たような封筒を持っていたのだ。長瀬が片眉を大きく上げる。 「早く開けてみろ。何と書いてある?」 「いや、開けるまでもないようだ」  真次郎が封筒を三人に見せると、『若い御仁らへ』という妙な宛名が、その表にも大きく書かれているのが分かった。急いで他の三通と並べる。そっくり同じ四通を見て、部屋内の皆は目をあわせた。そろりと新たな封をあけると、やはりというか、全く同じにしか見えない文面が現れてきた。 「こりゃ警察相手のからかいじゃ、ないな」  巡査の集まりである若様組だけに手紙が来たとしたら、差出人は以前捕まった犯罪者ということもありえる。しかし真次郎にも手紙が来たからには、別の可能性を考えなくてはならないと長瀬の言葉が続いた。 「名無しの差出人は、若様組の皆とミナの、双方の宛名を知っていた。つまり共通の知り合いということか」  さぁて誰だろうかと、四人は手紙をまるで剣呑《けんのん》な果たし状ででもあるかのように取り囲む。これが江戸の頃のように飛脚が持ってきた文であれば、人を辿《たど》って差出人に行き着くことも出来ようが、この明治の世、手紙は書状集箱に投函《とうかん》されるのだ。 「差出人は顔無しで、姿が見えねえ」  真次郎が顔をしかめている横で、巡査達は何となく楽しそうにしはじめた。その顔がいささか強面《こわもて》に見えるのは、気のせいかと真次郎が尋ねると、返事の代わりに長瀬や園山の笑い声が返ってきた。 「さてさて、明治のご時世らしい話じゃないか。顔無しからの挑戦状とは、いや面白くなってきたな。差出人を知りたくなってきたねえ」 「知ってどうするかな。うん、まずはこんな手紙を出した訳を、しっかり聞かねばな」  その後は何とするかなぁなどと言って、園山が楽しそうにしている。真次郎が腕組みをして、巡査というには妙に物騒な雰囲気を身にまとっている面々に向け、溜息をついた。巡査というのは正義と法の味方であるはずなのだが……果たしてそれだけなのか、分からなくなってきたからだ。 「どうしてだろうなぁ。俺は、その差出人が気の毒に思えてきたんだが」 「そうかぁ? いやいや真次郎、お前さんも差出人と話してみたいだろうに」 「長瀬、皆も巡査なんだから、毎日忙しいだろ? 謎を追うのは隙《ひま》が出来た時にしろよ」  真次郎がそう念を押すと、またぱっと笑い声が上がる。横で肩をすくめた真次郎は、新たに珈琲を淹れ始めた。じきに巡査達の話題は、珈琲の素晴らしい香りと苦い味のことに移っていく。それで手紙の話題は、一段落したかに見えなくもなかった。  しかし。  風琴屋に満ちている、いささか怖いような、でも楽しげな雰囲気は変わらなかった。 [#改ページ]  チヨコレイト甘し         1 「鉄道馬車と競っている気かね、あれは」  賑《にぎ》わう日中、銀座の煉瓦街を走る鉄道馬車の車中から、しばし道を眺めていた皆川真次郎は、驚いたようにぽつりともらした。道の後方から、必死に馬車を追いかけてくる若者が目に入ったのだ。  もっともよく見ると若者は馬車と競いたいというより、人に追われ仕方なくの遁走《とんそう》をしているらしい。追う男の野太い大声が車中にまで聞こえてきたので、真次郎は走る若者の名を知ることとなった。 「相馬小弥太《そうまこやた》、見つけたぞっ。待てっ」 「うわあっ、拙《まず》い」  人や人力車を掻《か》き分け追ってきているのは、三人の壮年の男であった。皆足が速く、その上どう見ても親しくなりたくないご面相をしている。己の面食いを悟った真次郎は、いささか興味にかられ、その必死の駆けっこに見入った。  江戸から明治と変わり、既《すで》に二十三年となっている。諸事移りゆく世の中ではあるが、待てと言われて馬鹿正直に足を止める者は、明治の今でも居はしない。 (お若いの、助かりたきゃぁ何としても、前を走る馬車に乗るしかないな)  己も似たような若さであることを棚《たな》に上げ、真次郎は老爺《ろうや》のように重々しく頷いた。 (しかしあの追っ手の奴ら、しつこそうでいけないね。あれじゃあ女に持てなくなること請《う》け合いだ)  確信を持った考えが浮かんだが、鉄道馬車を降りてそれを三人に教えてやるほど、親切な心持ちにはなれない。見ていると、若者は不安にかられた顔で、急に懐に手をやっている。大事な品が無事であったのか、一瞬表情が緩んだ。 (何か、余程の品でも持っているのかね)  そう思った時、鉄道馬車が速度を落とした。窓からちらりと袴《はかま》が目に入ったから、誰かが乗るのだろう。「助かった」そういう声が若者から聞こえた途端、馬車はまた直ぐに速度を上げた。客は身軽にも馬車が止まらぬ内に、さっさと車内に乗り込んでしまったのだ。 「わあっ、ま、待ってくれっ」  そう言う若者の声は苦しそうで、息が切れてきている。御維新この方帝都は驚くほどに変わったというのに、いざとなった時の頼りは、やはり己の足だけらしい。このままではいずれ馬車から置いてきぼりを食らい、追ってくる者達に捕まってしまいそうだ。 (これでは江戸時代と、ちっとも変わらないじゃないか)  真次郎が口をへの字にしたとき、車両の中に、ふと花のような香りが漂った。すいと振り返ると、明るい笑顔が目の前にあった。 「あら真次郎さんだ。奇遇ね」  先程鉄道馬車に乗り込んだ客が、知り合いの小泉沙羅《こいずみさら》だったと知って、真次郎も笑みを浮かべる。沙羅が近くの席に座ると、車内の男達がちらちらと視線を送って来るのが分かった。 「そうだ、真さんおめでとう、菓子営業免許鑑札、取れたんですって?」 「耳が早いな。父上から聞いたのかい」 「これでパーティーとか、色々仕事ができるわね」  真次郎は、最新の甘味である西洋菓子を作る職人であり、帝都に『風琴屋』という店を構えたところであった。だが菓子税が出来てから後、西洋菓子屋を営むには鑑札が必要なのだ。つまり真次郎はまさにこれから、商《あきな》いの道にこぎ出すところなのだ。  真次郎はにやっと笑うと、黒いインバネスの脇に下げていた、風呂敷包みを掲げて重箱を沙羅に見せる。甘い香りが仄《ほの》かに漂った。 「しばらくは注文販売のみで商売する気だよ。店売りをするにゃあ、資金不足なんでね。でもさっそく、菓子の注文をとることが出来た。配達する途中なんだ」  知り合いの巡査|大熊《おおくま》が退任し家を継ぐので、同僚による慰労《いろう》の会が開かれる。そこに西洋菓子を届けるのが、店主となった真次郎の初仕事であった。 「重箱に入っているのはビスキュイ?」 「いや、今日はシユウクリームとエクレアだ」  エクレアは、シユウクリームにチヨコレイトを付けたものだ。真次郎の説明を聞き、沙羅の目が輝く。 「私、それ食べたことがない。ねえ真さん、慰労の会についていって、味見させてもらっちゃいけない?」 「俺は西洋菓子屋だ。客に洋菓子は届けるが、一緒に女学生を配達したりはしない。こら、若い娘が食い気に走るんじゃねえよ」  髪は『マガレイト』という流行《はやり》の束髪。淡|萌黄《もえぎ》の着物に臙脂《えんじ》の袴、ブーツを履《は》いた沙羅は、喋《しゃべ》らなければ麗《うるわ》しくも花のごとき女学生だと、真次郎は真面目に保証する。 「だから黙って、大人しくしていろ」  居留地育ちの真次郎は、婦人を褒《ほ》める言葉が華やかであった。もっとも一言多いというか、言葉に素直さが欠けるのは、日本男児のせいかもしれない。沙羅は頬を膨《ふく》らませた。 「どうせ長瀬巡査さんたち、若様組の集まりなんでしょう? 私が行ったって、怒ったりしないわ。食べずに皆と、お喋りするだけでもいいんだけど」  二人に共通の友の名を出してみても、真次郎は首を縦に振らない。 「つまんないわ。溜息の出るようなことばっかり」  沙羅が少しばかり頬を膨らませたとき、真次郎がすっと目を細めた。 「沙羅さん、その、最近何かあったのか?」 「え?」 「その、居留地のパーク先生が……」  首をかしげた沙羅が真次郎に目を向けた途端、背後の窓の外に向け声を上げる。 「あら真さん見て。外に、鉄道馬車と競走しているお人がいるわ」 「ああ」  道の後方に目を向けた真次郎は、小さく首を振った。若者はいよいよ追っ手の男達に、追いつかれそうになっている。沙羅は真次郎の問いなど忘れてしまったのか、ただその光景に見入っていた。 「まあ大変、あの若いお方、逃げているのよね? ねえ真さん、御者《ぎょしゃ》さんに馬車を止めてもらいましょうよ。あのお人を乗せてあげたいわ」  恐ろしげな追っ手に捕まっては、若者が可哀相《かわいそう》だと沙羅は言う。真次郎は口元を引き結んだ後、その言葉を遮《さえぎ》った。 「止めちゃ駄目だ!」 「どうして?」 「追っ手がすぐそこに迫ってる。馬車が止まってから乗車してたら、追いつかれるぞ」  両方乗ってしまったら、若者には逃げ場がない。そう言われ沙羅が眉尻《まゆじり》を下げた。 「じゃあ、どうすればいいの? 真さん、真さんは寂しがり屋でお人好しじゃない。あのお人を助けてあげてよ」 「誰が『寂しがり屋でお人好し』だ!」  真次郎が怖い顔をしたにもかかわらず、沙羅は気にもしないで、外の道を走る若者を見ている。真次郎は口元を歪め忠告した。 「なあ、どっちが悪者かなんて分からねえぞ。あの若いのが引ったくりで、それで追われているのかもしれねえ」 「そんな事情だと分かったら、後で真さんが伸《の》してしまえばいいじゃない」  沙羅はにこりとして、簡単に言う。 「やれやれ」  顔をしかめる。だが確かにここまで見ていたからには、見捨てるのも後味が悪い。こうなったら助けるしかないのだろうが、面倒なことであった。大きく溜息をついた後、真次郎は沙羅に重箱を持たせる。 「つまみ食いするなよ」  念押しした後、顔見知りの御者に声をかけた。 「北川《きたがわ》さん、ちょいと訳ありだ。合図を送ったら速度を上げて欲しいんだが」  沙羅との話を耳にしていたらしい御者が、思わずといった感じで聞き返してきた。 「上げる? 止まるんじゃなくて?」 「頼りにしてる。よろしく」  そう言うと、真次郎はさっと最後尾の乗り口に出て、駆けてくる若者との距離を測った。手を差し出すと助けが現れたと思ったのか、若者は必死に己の手を伸ばしてくるが、僅《わず》かながら届かない。面倒くさかったので「今少し速く走れ」と言ってみたが、若者の足はもつれ今にも転びそうで、一向に近寄って来なかった。 「やれ、手間なことだ」  言うなり、真次郎は乗り口の端にブーツの足先を引っかけると、倒れるように馬車から身を乗り出した。ケープの付いた黒いインバネスが翻《ひるがえ》る。車体ががくりと揺れ乗客らが声を上げた。  その時、真次郎の手が若者を掴《つか》み、思い切り良く乗り口の上に引きずり上げる。 「今だっ」  かけ声と共に、馬車がいつにない速度を出した。いい加減走り疲れていたらしい追跡者達はうめき声と共に、銀座の馬車道に取り残されていった。         2 『大熊巡査退任につき慰労をする会』は、銀座の有名所の牛鍋屋『いろは』の一室にて開かれていた。  店に顔を出した真次郎は、助けた相馬小弥太を連れ、賑わう店内を二階へと上がる。先刻馬車の内で、小弥太から、追われた大まかな事情を聞いたのだが、それはどう考えても西洋菓子屋がどうこう出来る話ではなかった。ならば、事件を扱う本職に相談するに限る。 「幸いというか、菓子の配達先には巡査さん達が山といる」  よって真次郎は小弥太をいろはに連れてきたのだ。すると次第を知りたいと言い、ちゃっかり沙羅がくっついてきてしまった。  三人が顔を見せると、牛鍋屋の二階に歓迎の声が上がった。 「おう、沙羅さんじゃないか。大熊、良かったな。最後にもう一度会えたぞ」  紺《こん》地に黄絨線《こうじゅうせん》の袖章《そでしょう》の入った洋装の巡査達は、真次郎をそっちのけにし、まず沙羅に笑みを向ける。 「沙羅さん、今日も花のごときお姿だね」  酒が入っているのか、中にはそろりと沙羅の手を取ろうとして、仲間に頭をはたかれる剛《ごう》の者までいた。巡査達に口々に優しい言葉を言われると、沙羅は嬉しそうに笑ってから、ちらりと真次郎を見た。 「あら、ありがとう。真さんも若様組の皆さんくらい、礼儀正しかったらいいのに。真さんたら、いろはには招待されてないから来ちゃ駄目だって言ったのよ」 「そいつはけしからん。沙羅さんは我ら若様組のマドンナではないか。こいつが今度馬鹿を言ったら、我らに言いつけなさい。懲《こ》らしめてやる故《ゆえ》」  集まった者の筆頭格、長瀬がそう口にすると、座にいた巡査らは頷き拳固《げんこ》を突き出してくる。真次郎は苦笑を浮かべ、ぼやいた。 「この面々が、元若様だっていうんだからねえ」  江戸の世の消滅と共に禄を失った元武士の中には、維新後巡査となった者が多くいた。その中で、元々禄の高い旗本の若様であった者達が自然と集まり仲間を作った。そして誰がつけたのか己達を、内々に若様組と呼んだのだ。  学があり腕っ節はなかなかで、様々な特技を持つ者も多い。ついでに行き場のない元家臣達を何人も、未だに側に抱える者も多かった。よって皆、常に金欠であった。  そして。 「時の流れと共に家が没落したせいかね。性格が破綻《はたん》した者が山といる、困った巡査達だ」  それが若様組長瀬の昔なじみで、彼らと仲の良い真次郎の意見だ。若様組のもう一つの特徴として、彼らは顔見知りである麗しの沙羅に、大層優しい。 「だが沙羅は、いろはの肉や皆の褒め言葉より、菓子に引かれて来たんだと思うがね」  巡査達に無視されていた真次郎がそう言って、注文の西洋菓子の箱を長瀬に差し出す。すると沙羅の目はあっさりとそちらに吸い寄せられ、巡査達に会ったときより大きくにこりと笑ったものだから、元若様達は一旦《いったん》静まり、悲しげになった。 「やれ、これでやっと話を聞いて貰えるかな」  ここが話し時と、真次郎が連れてきた小弥太を、並んだ鍋の脇から皆の前に押し出す。すると若様組の一同は沙羅から目を離し、新参を見つめた。真次郎の口から、見慣れぬ男を伴ったいきさつが語られると、居並ぶ巡査達に向かい、両の手を畳についた小弥太が深く頭を下げた。 「私は相馬小弥太と申します。某|松平《まつだいら》一万一千石の、元藩士の倅《せがれ》です」  小弥太は、突然の訪問の無礼を詫《わ》びた後、とことん困っているゆえ、相談に乗って貰いたいと口にした。そして懐から袱紗《ふくさ》包みを出すと、七輪《しちりん》の脇にそっと置いた。 「実は、私が男らに追われている訳は、これなんです」  長瀬が包みを手に取る。すると中から丸く薄い物が顔を出した。向かい蝶《ちょう》の透《す》かしが入っており、茶がかった鈍色《にびいろ》の品であった。 「刀の鍔《つば》だね。おや、大層なご紋入りだ」  小弥太が、鍔は祖父の形見なのだと説明した。そして追ってきた者達は、ただの強盗ではなかった。 「実は同じ藩にいた士族達なのです。彼らはその、旧松平藩の御|嫡子《ちゃくし》を捜しておりまして。お家再興を願って活動しているのです」 「はあ、御嫡子? お家再興? 今時?」  巡査達が一斉に呆然《ぼうぜん》とした目を、小弥太に向けた。江戸の世は二十三年も前に、消えてなくなっている。 「今は藩もへったくれもない時代だろうが」 「無茶を言うなあ」  皆、夢物語を聞いたような顔つきだ。 「ええ勿論、今更藩が蘇《よみがえ》る筈もありません。ただ彼らは殿のお血筋を見つけ、その方に華族となっていただきたいと思ってるのです」  元藩士達は、他の数多の士族達と同様に、新しい世で困窮していた。よって彼らは、頼れる大樹が欲しいのだ。元の藩の殿が華族であれば、藩士達の暮らしももう少しましになると思っているのだ。維新後、元大名達の多くが華族の称号をいただいている。よってそれは、あながち無体《むたい》な話ではない……筈なのだ。 「我らが松平家では、ちょうど御維新の前後、殿と世継ぎの若君が病で相次ぎ亡くなりました。跡目が決まらぬ内に、爵位をいただけぬまま松平家は消えてしまったのです」  その後、没落した元藩士達の心に、維新当時のことが、後悔の念を生んだのだ。 「ご側室が、身ごもっておられたそうで」  だが、あの混乱期、産まれてすらいない赤子では、役に立たなかったのだ。今では無事お子が生まれたのかどうかさえ、分からなくなっている。ご側室共々消息不明であった。 「そのご側室に殿は、ご愛用の品を与えたと言われております」 「もしやこの、向かい蝶の透かしが入った鍔は、殿様からの拝領品かい? じゃあ目の前にいる小弥太さんは、御|落胤《らくいん》様なのか」  ちっとも信じてはおらぬ顔で、真次郎が聞く。小弥太はきっぱりと首を振った。 「違います。鍔は祖父が当時の殿からいただいた褒美の品です。ただあの士族達は立派なご紋故に、これが殿のご愛用品だと勘違いしてるんです」  もっともさすがに、小弥太のことを御落胤だとは思っていないという。 「あいつらの中に、知り合いがいまして。生まれた年が違うのを知っていますから」  だが御落胤への手がかりは、殿の愛用の品だけだ。士族達は誤解したまま鍔に執着し、渡せと要求していた。小弥太が今、書生として世話になっている家にまで、何度か押しかけてきているという。 「これ以上その家に迷惑をかけられず、帰れないのです。あの、ご縁があったついでと言っては申し訳ないが、助けてもらえませんか」  困り果て泣きつく小弥太を前に、巡査達は顔を見合わせる。長瀬巡査が溜息をついた。 「同じ士族の窮地、力を貸したいとは思うが。だが、しかしなぁ」  帰る場所がないと言われても、警察署に泊める訳にはいかない。長瀬はしばし考え込み……真次郎の方を向くと、あっさり言った。 「なあミナ、助けたついでだ。ほとぼりが冷めるまで、小弥太くんをお前さんの店に置いてやれよ。お前の父上とて士族だったろ」 「……あの、ミナって?」  背の高い大の男が、いきなりミナという可愛い名で呼ばれ、小弥太は面食らった様子であった。巡査達や沙羅がその顔を見て、笑いを浮かべている。特大の苦虫を噛みつぶしたような表情になった真次郎が、説明をした。 「俺の名は皆川って言うんだよ。子どもの頃親が死んだんで、築地《つきじ》居留地にある宣教師の家に置いて貰い、下働きをして生きてきたんだが」  外国人には真次郎と呼ぶより、名字の皆川を縮めて言う方が簡単だったらしい。今ではすっかり、ミナという名が居留地で定着しているのだ。だが。 「舌っ足らずの外国人じゃあないのに、俺のことをミナなんて呼んだら、殴り飛ばすぞ」  小弥太にびしりと言ってから、真次郎は長瀬に目を向けた。 「俺には、この小弥太さんを引き受ける余裕がないんだ。今、パーティー準備で忙しい」 「ぱあてい? なんだ、そいつぁ」 「今更、鹿鳴館でもあるまいによ」  あれこれ言う巡査達に、ここで子細を説明したのは、エクレアをもそもそ食べ続けていた沙羅であった。 「あのね、真さんを育ててくれたストーン宣教師夫妻の結婚記念日パーティーを、居留地の異人さん達が開くんですって。その日の為の料理やお菓子を頼まれてるの」  そしてそのパーティーは、真次郎にとって特別なものになるかもしれないのだ。新米の菓子職人は知り合いの外国人達に、西洋菓子作りの腕をパーティーにて試されるのだという。  居留地にいる外国籍の者達は、日本で西洋菓子を求めるのに、未だに苦労することが多かった。よって居留地仕込みである真次郎の腕が本物と証明されたら、新しく開いた西洋菓子屋風琴屋で使う調理用ストーブや菓子型などを、援助してくれる約束なのだ。 「真さんは予約販売だけじゃなくて、いつか店売りもしたいんだけど、何しろお金がないの。だからそのパーティーには、風琴屋の将来が懸かってるのよ」  それで忙しい真次郎は今、小弥太を預かれないと言ったのだ。ところがそれを聞いた長瀬が、勝手なことを口にしだした。 「そういうことならば、手伝いが必要じゃないか。いや、ちょうど良かったな。小弥太くんが居れば諸事を頼めるぞ」 「うちは西洋菓子屋だぞ! 書生さんにお頼みするご用なぞ、ない」  巡査達が小弥太を押っつける気と見て、真次郎は思わず身を引き、咄嗟《とっさ》に助けを求め、沙羅を見た。だが何故《なぜ》だか沙羅にはいつもの元気がなく、先程のエクレアを食べ続けているばかりだ。  ここで真次郎はふと眉を顰《ひそ》め、沙羅が食べた菓子の数を目で数える。すると三つ目かと思ったエクレアを、まだ一つしか手にとっていないと分かって、大いに首をかしげることとなった。 「沙羅さん、どうした。今日は随分と食欲がないじゃないか。妙だな。元気一杯が取《と》り柄《え》の、お前さんじゃないみたいだ」  沙羅がぷいと横を向いた。 「別に。いつもと何も変わらないわよ」 「いや、ちょいと違いますよ、沙羅さん。妙にしっとりと麗しいというか……」  二人のやり取りに、巡査の福田が声を挟《はさ》む。普段なら�妙�などと言われたら扇子《せんす》で引っぱたきかねないのに、今日の沙羅は小さく溜息をつくばかりだ。これを見た真次郎は更に考え込み、横で長瀬も顔をしかめた。 「おやおや、どうした事だろうねえ。おいミナ、お前さんは沙羅さんの溜息の訳を、突きとめなきゃあならねえよ。幼なじみだろうが」  自分も幼なじみだということは棚に上げたあげく、ふっと笑うと、長瀬は親切そうに真次郎の肩を抱いてくる。 「でもミナは『ぱあてい』とかの支度に忙しいんだろう。用が重なって気の毒だ。だからさ、俺たちは小弥太くんを、お前さんの店にやるんだよ。色々手伝って貰え。うん助かったな」  これで三方丸く収まると、長瀬は嬉しそうに言う。そして眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた真次郎の返事より先に、さっさと小弥太に言葉をかけた。 「居場所が出来て良かったな。なあに、ミナは一見強面だが、こうみえて寂しがり屋でお人好しなんだ。大丈夫だよ」  皆が公認する『寂しがり屋でお人好し』は、怖い顔で言い返そうとして……口を閉じた。なすべきことは溜まっている。確かにこのまま独りでは、対処出来る筈もなかった。それに、頼ってきた者を放り出すのも不人情だ。こうなったら、小弥太を引き受けるしかないだろう。 (だが……何でこんなことになったんだ?)  いつの間にか蜘蛛《くも》の糸に搦《から》め取られていた、虫の気分だ。何かすっきりせず、真次郎は沙羅と小弥太と長瀬に目をやり……小さく首を振った。         3  数日後、パーティー料理の打ち合わせの為、居留地へ向かおうとしていた真次郎は、開けていない店からの物音を聞いた。首を傾げつつ菓子作りの作業場に行くと、部屋の内が見事な程粉まみれになっていた。 「……この部屋にだけ地震でもあったのか?」  小麦粉が減り砂糖が減り、大事な手作り牛酪《バタ》がすっからかんだ。台所の調理台の上には、作りかけの菓子種らしきものが入ったボウルと、小さな板きれのようなものが載っているではないか。  大分焦げているが、板きれからは食べ物らしき香がする。試しに欠片《かけら》を囓《かじ》ってみると、ごきりと大きな音を立て板が口の中で折れた。 「うへっ、こりゃ堅い……」  味以前の問題であった。歯が欠けそうだ。そのとき小さな声が聞こえた。 「あの、シッガルビスキットとやらを作ってみたんです。味、どうですか?」  小弥太が総身に粉をまぶした格好で、横の小部屋から顔を出してきた。そのまま天麩羅《てんぷら》にしたくなると、ふと思う。 「小弥太! 駄目だと言ったのに、勝手に店の品を使ったな!」  真次郎は大きく溜息をついた。一つには小弥太に腹を立てたから。二つには、真次郎が食べたのはビスキットらしいが、それをどうやったら食物とも思えぬ堅さに作れるのか、分からなかったからだ。一種の才能だ。  小弥太は頭を掻いて、紙を見せてくる。 「知り合いの書生に、分量書きを貰ったんです。それで作ってみたんですけど」  せっかく西洋菓子店に置いて貰ったのだ。手伝うつもりで、その製法通りにやってみたのだという。真次郎はその紙を読み上げてみる。 「小麦粉一|斤《きん》半、牛酪四十|目《め》、砂糖半斤、泡立ちたる米の粉《こ》半コールドをもって製するもの……米の粉? ビスキットに?」  一見まともそうで、しかし不思議な分量書きであった。おまけに最後まで読んでも、菓子を焼く時間が書いてない。 (この作り方を見ただけで、いきなり食べられる物を作れたら、手妻だな)  思わずこめかみに手をやる。実入《みい》りの少ない身に、予定外の出費が辛《つら》かった。 「とにかく、この板の親類は食えないよ。売り物にならん。小弥太、二度と作るなよ!」 「……済みません」  西洋菓子は種を作るにも焼くにも、それなりの腕がいる。真次郎は今、店で居留地の知り合いから借りた中古の調理用ストーブを使い、菓子を焼いていた。上に四つも鍋が掛けられたし、まん中では菓子を焼いたり、炙《あぶ》り焼き料理も出来た。銅壺《どうこ》があるので湯も沸かせる。  しかしストーブは、火力の調整が難しい。職人でも修業が必要であった。 (甘い物位、簡単に作れる気がするのかね)  小弥太は似たような年頃の真次郎に、ただ使われるのが、嫌なのかもしれない。もう一度溜息をつくと、真次郎は話を変えた。 「もう菓子のことはいい。それより小弥太、沙羅さんについて、噂を集めて欲しいと頼んどいたよな。居留地の女学校で、何か変わったことを聞かなかったか?」  居候に役立ってほしいのは、こちらのことであった。すると小弥太は大きく頷いた。笑みを浮かべ「まず最初に」と話を始める。 「とにかく気になるんですが、沙羅さんと真次郎さんは、好きあってるんですか?」  物も言わずに一発拳固を食らわす。小弥太は目に涙を浮かべしゃがみ込むと、素直に女学生から聞き込んだことを報告し始めた。 「学園での、ご学友だという方から話を聞きました。沙羅さんは最近失せ物をしたようです。それで、がっかりしているのかもしれません、と」 「ほお。もしやそいつは桃色の飾紐《かざりひも》、リボンのことかい?」  真次郎にあっさりと言われ、小弥太は眉を上げた。 「リボンの紛失、気づいてたんですか?」 「沙羅さんはいつも、同じリボンを付けてたが、この間はしていなかったからな。でもあれは、西洋菓子の箱についてきた安物だぞ」  沙羅の父小泉|琢磨《たくま》は、正真正銘の成金であった。江戸の頃は青戸屋《あおとや》という札差しの奉公人だったのが御維新の後独立し、まず兎《うさぎ》を飼う流行に乗って儲けた。次に金貸しとなり、今は貿易にも手を広げて大いに稼いでいる。  沙羅はお嬢様と呼ばれるようになり、欲しければリボンくらい、幾《いく》らでも買える身なのだ。なのにいつまでもあの安価なリボンを髪に結んでいる。一つの謎であった。 「大事にしてたのに、何であのリボンをなくしたのかな」  真次郎が他に何か聞いていないかと聞くと、小弥太が少々気恥ずかしそうにそっぽを向いた。それ以外に掴んだものはないのだろう。 (やれ、分かった事は一つだけだったのか)  書生は元々勉学に励む身で、警察ではないのだから仕方がない。真次郎は粉だらけの作業場を片づけるよう言ってから、店を出た。  今日の訪問先は、居留地に住む女学校教師、パーク先生宅であった。西洋菓子屋風琴屋は銀座の煉瓦街と築地居留地双方から、同じほど歩いた場所にある。その地の利が気に入り、真次郎は店舗を決めたのだ。  築地居留地は日本で最後に出来た、在日外国人達のための治外法権の地であった。小規模であった上に、開港を認められていなかった故、作られた当初は、今ひとつ外国人達に人気がなかったらしい。  しかし外交官達が領事館を作り始め、宣教師達が聖堂を建てると、やがて英語塾や女学校も作られ、ホテルが建ち商社が活発に活動するようになって、今では賑わいを見せている。  風琴屋からしばし歩いてゆくと、じきに東京の風景が一変する。堀の向こうに、煉瓦建ての校舎や洋館が並ぶ町が、忽然《こつぜん》と現れるのだ。聖堂の鐘が朝に夕に余韻と共に響き、まさに小さな西洋が現れたごとくで、東京の地にあるとは信じられぬ風景だ。この地と地続きだと思えるのは、帝都では銀座の煉瓦街くらいであった。 (堀の向こうに、外国の写真を嵌《は》め込んだみたいに見える)  そう感じつつも、真次郎には幼い頃から馴染んだ懐かしい地だ。橋を渡り広く真っ直ぐな通りを行くと、じきに蔦《つた》が絡《から》まる洋館が見えてきた。真次郎は迷わず足を踏み入れ、玄関のベルを鳴らす。 「いらっしゃい、ミナ。久しぶりね」  真次郎の顔を見ると、女学校で教えているケイト・パーク教師は、にこりと笑いかけてきた。  六つのとき、通事だった真次郎の父親は、突然居留地で亡くなった。孤児となった真次郎は、親の仕事先であった宣教師館や周りの洋館でお端《はした》仕事をしつつ、面倒をみてもらったのだ。  ストーン夫妻の宣教師館近くに住む外国人には、真次郎の親代わりを自任している者が何人もいる。パーク教師もその一人で、真次郎は学問とパーティーの開き方、それに悪さをしたらお尻をひっぱたかれることを、この教師から学んでいた。  街の皆のおかげで真次郎は無事に成長したが、当時の日常会話は英吉利《イギリス》語。学生達や日本人の使用人らが居留地に居なかったら、危うく日本語を話せなくなるところであった。 (ああ、この家はいつ来ても変わらないな)  勝手知ったる家の居間で、真次郎はパーク教師に、ストーン夫妻結婚二十周年を祝うパーティーでの料理リストを渡した。真次郎の腕試しの場だと分かっているから、菓子の品書きには気合いが入っている。 「牛肉のシチューに鶏の丸焼き、パイ、温野菜、マッシュドポテト、ソップ(スープ)、それに西洋菓子」  メニューを目にして、パーク教師は満足そうに頷いた。菓子は、レモンプリン、スコットランドショルドプレッケーキ、スポンジビスキット、アイリッシュシードケーキ、果物のゼリーなどだ。 「久しぶりに、ミナの手料理と菓子が食べられるのね。合格してね。ミナは帰国した菓子職人のジャンに、作り方を習ってる。私はいつでも美味《おい》しいお菓子が買えるようになる日を、楽しみにしているのよ」  明治となって二十年以上が過ぎた今も、居留地の住人達は、上等な西洋菓子を作る店がもっと欲しいと願っている。腕を磨くため洋行したり、日本にいる外国人に習う日本人もいるが、食べつけていない本格的な西洋菓子を習得するのは難しいのか、外国人が気に入る程の店はあまりない。海外に留学しても人種的差別や言葉の壁、国内では材料や機材の調達の困難など、修業の障害が山とあるせいかもしれない。  その点居留地で育ち、外国の料理人を手伝う事によって腕を磨いた真次郎は、恵まれていた。ただ知るのは西洋の甘味ばかり。真次郎には、日本人の口に合う菓子が作れるかという問題が生じてしまっていたが。 「でも、ミナだから採点を甘くすることはしないと、みんな言っているわ。だから頑張ってね」  ところでと言い、パーク教師は顔付きを少し堅くした。紅茶を出してくれつつ問う。 「先日頼んだ問題は、どうなりました」  真次郎が一つ息を吐《つ》いた。 「先生が気にしてらっしゃった通りですね。沙羅さんは、随分と様子が変だ」  沙羅は、パーク教師の女学校の教え子であった。少し前から、パーク教師の目にも分かる程に、悩んでいる様子なのだという。  沙羅は貿易商の父にくっついて居留地によく来ており、その縁で真次郎とも以前より顔見知りなのだ。沙羅の元気がないとなれば、真次郎とて気にかかる。 「それとなく聞いてみたのですが、何でもないと言うばかりなんです。今、知り合いに訳を調べて貰ってますが」  小弥太に助力を頼んだのではいささか心許《こころもと》なかったが、仕方がない。とにかく真次郎は三日後のパーティーをやり遂げ、沙羅の憂いを取り去り……ついでに小弥太の鍔を巡る困り事を、片づけなくてはならないのだ。  ここでパーク教師が柔らかに言った。 「ミナはお友達だから、沙羅のことはこの先も気にかけてあげてね。日本では、はっきり発言する女性は好まれていないわ。学校に来ているお嬢さん達は皆大人しくて、なかなか心の内が見えないの」  沙羅に、大人しいという言葉が当てはまるかどうかは別として……外国の婦人方に比べると、日の本の女性達は諸事窮屈そうであった。  真次郎は頷くと、ゆるりと紅茶を飲んでいたい気持ちを封じて立ち上がり、パーク教師に頼むと庭に出た。今日、居留地に来たのは、香草を摘みたかったからでもあったのだ。料理や菓子に使う西洋の薫《かお》り高い草は、町の八百屋ではなかなか手に入らなかった。  木陰で鋏《はさみ》を動かしつつ、空を渡ってくる懐かしいオルゴールの響きを耳にしている内に、真次郎は窓際のテーブルの上に置かれていた空の菓子箱が、ふと気になった。すると思い出した顔があったので、居留地を後にするとき貰って帰った。         4  風琴屋に帰り着いたら、コートの前あわせに二列の扣鈕《ボタン》を付けた、洒落《しゃれ》た姿の巡査達が作業場に集まっていた。見れば中の一人は長瀬だ。一人、袴姿の小弥太が、青い顔をして椅子《いす》に座り込んでいる。訳を聞き、真次郎は口元を引き締めた。 「例の士族達が、店に押しかけてきたって? 何故、小弥太の居場所が分かったんだろ」 「士族達は、偶然小弥太を見つけたんじゃないんだ。目を付けられたのは、ミナ、お前さんだよ」  長瀬によると士族達は、先日小弥太を鉄道馬車に拾い上げた男が誰かを掴んだのだ。世にまだ制服以外の洋装姿は多くない。若いのに、インバネスを肩で着こなしている真次郎の姿は、目立ったようだ。洋装姿の男が誰かを辿って、この風琴屋にまでやって来たらしい。 「幸い風琴屋はまだ店売りをしていない故、戸には鍵がかかっていた。小弥太くんは店内にいて無事だったが、あいつら、鍔を諦《あきら》める気がないようでな」  彼らは店の外から大声で怒鳴り、店主の真次郎に、小弥太の鍔を渡せと迫ったという。その時、風琴屋を脅迫《きょうはく》したので、近所の者に通報され巡査達が駆けつけることとなった。 「脅迫? 士族は西洋菓子を喰わぬことにするとでも言ったのか?」 「それは嗜好《しこう》の問題で、脅迫ではないよ、ミナ。あいつらは鍔を渡さねば、店の菓子営業免許鑑札を奪うと言ったのさ」 「は?」  真次郎の顔が一気に強《こわ》ばる。鑑札は菓子屋にとって、店の命であった。なければ無免許営業となって、菓子の代金を貰うと拙いということになる。居留地でのパーティーは三日後。真次郎には今ただで大勢に、菓子や料理を提供する余裕などなかった。 「長瀬、さっさとあの士族達を捕まえてくれ。菓子営業免許鑑札の強盗犯だ!」 「まだ盗《と》っちゃ、いないからなあ。無理」  頼りにならぬ友は、にべもない。仕方なく真次郎は、別口に訴えた。 「小弥太、鍔のこと、どうにかならんのか。パーティーの料金を貰えなくなったら、この店は本格開店前に潰《つぶ》れる!」 「でも……祖父の形見は渡せません!」 「風琴屋があの士族達に、何かした訳じゃないんだぞ!」 「お邪魔なら出て行きます。ああ、可哀相な私。どこにも居場所がない……」 「ミナ、小弥太、まあ待て。少なくとも、パーティーの日までは待てよ」  長瀬は若様組の巡査仲間で、三人の男を見つけ、説教してやると一応は約束した。 「そうか、長瀬は薄情な奴だが、少なくとも俺を友達だとは思っているんだな」  じゃあと言って店奥へ一旦姿を消すと、真次郎はじきに、薄べったい箱を抱えて戻ってくる。中には大事な鑑札が収まっていた。 「長瀬、暫《しばら》くこれを警察で預かっといてくれ。店売りはしていない故、こいつが一時店になくとも誰にも分からんだろう」 「おい、警察は保管庫じゃあないぞ」 「駄目だというなら、代わりに小弥太と鍔を警察で保護するんだな」 「……やれやれ」  今回の言い合いはとりあえず、真次郎の勝利となった。だが悩みが増えたという現実に、変わりはない。巡査が書類の保管庫代わりにしか役に立たないのなら、真次郎が事を片づけなくてはならない。頬を膨らませた。 「全く、俺は働き過ぎだ」  どうしてこう厄介《やっかい》ごとが次々起こるのであろうか。真次郎がこぼしたら、長瀬が妙な返答をした。 「そりゃあ江戸が明治に変わったせいさ。諸事忙しくなったからな。困り事だって、ゆっくり間を空けて起こっちゃくれないのさ」  妙な言い分だったが、当たっているとも思う。きっと三人の士族達も鉄道馬車に乗って、風琴屋へ来たに違いなかった。  世の中の定法《じょうほう》に従うと、生きるには楽だ。  つまり困ったことが三つあるのなら、常識としては、一つずつ片づけてゆくべきなのだ。 (分かってる……けどね)  しかし真次郎には今、その余裕が残されていない。よって、無茶と無謀を承知で突っ走ることにし、問題に次々と手を打ち始めた。  まず始めに鍔を挟んで、もう一度小弥太と話し合いをした。真次郎は鍔も暫く長瀬巡査に預けようと勧めたのだが、形見だからと言って、小弥太は首を縦に振らない。  そう言われても、じゃあ出て行けとも言えないから『寂しがり屋でお人好し』と言われた己の性格を、小弥太に見抜かれている気もする。うんざりして、勝手に鍔をいじっていたら小弥太に叱られ、鍔は店奥の棚に仕舞われてしまった。  二番目に、その腹いせという訳ではないが、断じてないが、真次郎は小弥太に菓子作りの修業をさせることを思い立ち、苦手なビスキットの種を作らせた。表面に塗る為のチヨコレイトまで用意したから、本格的だ。とにかくパーティーは近い。諸事頑張らねばならなかった。  次に真次郎は、そろそろパーティー当日に使う食材を仕入れることにし、朝から走り回った。丸焼きにする鶏や、粉、ハム、果物、牛乳等を集めたのだ。財政の危機は津波のように押し寄せ、真次郎のなけなしの財布は既にぺしゃんこであった。  忙しいと、時は早く経つことになっている。勝負を賭《か》けたパーティーも近くなってやっと、真次郎は手つかずだった四つ目の問題に直面する時間を持てた。自慢のシードケーキで釣《つ》って、沙羅を居留地のパーク教師宅近くにある小さな公園に呼び出したのだ。  シードケーキを作るには、まず新しい牛酪を良くすり混ぜ、砂糖を加え更に混ぜる。ここに卵を加えまた混ぜた後、小麦粉、煎《い》った茴香《ういきょう》を入れて、最後にストーブで焼く。香りの良いケーキであった。  公園に置かれた西洋風の椅子に座り、沙羅はケーキに笑みを向ける。 「美味しい。シードケーキは何度か食べたことがあるけど、真さんのが一番だわ」  そうは言うものの、沙羅は今日も胃の腑の具合でも悪いのか、以前よりゆっくりと菓子を食べている。沙羅がケーキを食べ終わったのを確認し、吸筒《すいつつ》から注いだお茶を差し出してから、真次郎は紅《あか》いリボンを臙脂の袴の膝《ひざ》に置いた。  沙羅の目が丸くなる。 「桃色でなくて済まん。紅のリボンが付いた菓子箱しか、パーク先生の所になかったんだ」  しかし前のと同じ会社の西洋菓子に付いていたリボンだぞと言うと、沙羅が最初はそっと……その内、嬉しそうに大きく笑った。 「私が髪に結んでいたの、お菓子の箱に付いてたリボンだって、覚えてたんだ」 「あの桃色のリボン、子供の頃、長瀬達と食べたあの菓子に、結んであったやつだろ。だけど沙羅さん、あのリボンのせいで女学生達に目を付けられ、何か言われてたんじゃないか?」  真次郎は沙羅の元気がない訳を、同級の女学生達にいじめられたからだと推測していた。お気に入りのリボンを廉価《れんか》な品と見破られて、誰かに取られ、はやし立てられたのだ。  今の時代、女学校にまで娘をやれる家は、まだまだ少ない。つまり沙羅が通っている居留地の学校に来ているのは、良い所のお嬢様ばかりなのだ。  そんな中で沙羅は、特大太鼓判付きの成金の娘だ。よって身分の高い家の娘達の輪には、入りにくい筈であった。おまけに家柄は良くとも、沙羅の家ほど裕福ではない者も多かろうから、下手をすると集団で嫌がらせをされかねない。 「沙羅さんが落ち込んでいたのは、そういう訳じゃないか?」  学校は狭い集団で逃げ場がない。それで苦しかったのだろうと言うと、沙羅はにこりと笑って髪にリボンを付け、立ち上がった。 「真さんは、察しがいいなあ。やっぱり『寂しがり屋でお人好し』だと、気がつく所が違うわね」  ちょいと生意気な口調で言う。紅いリボンのおかげか、元気が戻ってきた様子だ。  しかし。 「学校でいざこざがあったのは、大当たり。でも気分がぱっとしなかった理由には、真さんの推測以外のことも、あったんだ」 「は……? どんな訳だ?」 「教えなぁい」 「おい、沙羅さんっ」 「リボン、ありがとうね。それじゃ、また」  花柄|縮緬《ちりめん》の手提《てさ》げをひょいと手にすると、沙羅は女学校の方へ駆けだしてゆく。紅いリボンが翻り、居留地の西洋のような景色に映えて美しい。ふと見ると、道の先にも女学生がいて、そちらへ走ってゆく沙羅の姿が、まるで絵のようにも見える。真次郎は大きな声を出した。 「何がどうしたっていうんだ?」  だが沙羅からの返事はない。 「とにかくもう……大丈夫なんだよな?」  多分沙羅の悩み事は、概《おおむ》ね解決したように思えた。何やら不可思議な一言を残してはいたが、ぐっと元気な様子だったから。 「一つ、片づいたみたいだ」  ほっと息をついてからかぶりを振った。こうなったら考えを切り換え、早々に次の用事に移る準備をしなくてはならない。己の将来を懸けた居留地でのパーティーは、何としても成功させたいのだ。  でも。真次郎はちらりと、道の彼方《かなた》へ目を向ける。 「……気になるじゃないか。沙羅さんが、言いかけた言葉を途中で止《や》めるから」  ついぼそぼそと文句が口からこぼれ出る。今は先のことを考えなくてはならないのに、それでも未だ沙羅のことばかりが気になるのは、どうしたことであろうか。  何かが間違っている気がするのを振り切るように、真次郎は歩み出した。         5  結局、真次郎は、小弥太の鍔のことも沙羅が残した謎もすっきり出来ぬまま、明日はパーティーという日を迎えることとなった。  こうとなれば、もう調理に集中するしかない。真次郎は足元近くまである長い前垂《まえだ》れを身に着けると、小弥太にも支度をさせ、店の将来を懸けた勝負を始めた。煮込み料理や下ごしらえ、焼くのに時間のかかる菓子は、今日の内に済ませておくのだ。  店表の戸板を作業部屋に入れ、それを清めると臨時の置き台とする。小弥太に鶏の羽をむしってもらっている間に、己はまず牛肉のシチュー作りにかかった。ゆっくり煮込むつもりで塊肉《かたまりにく》を使う。野菜と、居留地の庭に生えていた香草の和蘭芹《オランダぜり》、月桂樹、阿蘭陀三つ葉、百里香《ひゃくりこう》を束にして入れ、一緒に煮込む。 「真次郎さん、何だか西洋菓子屋というより、料理屋みたいですね」 「まあな、注文を受けたのはパーティー料理全部だから」  次に骨でスープを取り、その横でパイに詰めるハムと茸《きのこ》を平たい鉄鍋で炒める。終わると鍋で馬鈴薯《ばれいしょ》を茹《ゆ》で、マッシュドポテトを作り器に盛る。米と粟《あわ》で作った鶏用の詰め物、サンドイッチ用のハム、牛酪、胡瓜《きゅうり》、麺麭《パン》も用意した。居留地に持っていく酒と紅茶も、戸板の上に並べる。  そして真次郎はいよいよ、西洋菓子屋としての将来を懸けた作業に入った。 「まずはスコットランドショルドプレッケーキから、焼くか」  大きなボウルを用意し、小麦粉二斤と干し葡萄《ぶどう》三十目を量り入れる。杏《あんず》の種四目を刻んで投入。牛酪一斤を溶かし荒熱を取り、入れてよくかき回した。それをのし棒で厚さ一寸ほどに伸ばす。  慣れた手つきで種を切りながら、真次郎は笑みを浮かべていた。菓子をたっぷり作れる事が、嬉しくて仕方がなかった。このパーティーが終わったら、借りているストーブを買い取ることが出来るかもしれない。店売りの菓子を作る為の大切な器具が、手に入るのだ。 (夢に一歩、近づくな)  店内では小弥太が、ボウル洗いや後かたづけをして、結構役立ってくれていた。今日裏方に徹してくれているのは、先に本人が作ったシッガルビスキットを、強引に味見させたせいかもしれない。 (裏方は面白くないから、菓子を作りたいとは言わなくなったもの)  真次郎はスポンジビスキット、レモンプリンと焼き、ゼリーを飾る果物も煮た。戸板の上には大皿が並び、甘い匂いが満ちる。ふと窓を見ると、いつの間にやら外はすっかり暗くなっていた。 「良い出来だ」  一日がかりでこしらえた料理を前にして、真次郎は長い道を走りきった後のように、妙に興奮していた。後は明日の午前中、調理用ストーブの真ん中で鶏を焼き、サンドイッチと温野菜を仕上げれば、パーティー料理は完成だ。  昼には届ける手筈であった。くたびれているのに、何故だか笑みが浮かんでくる。 「今日はこれまで。小弥太、ありがとうな」  声を掛けると、やはり疲れた様子の小弥太が、それでも嬉しげな顔をして頷いた。料理や菓子を眺めてから、横の小部屋に消えてゆく。  真次郎は一人今日の後かたづけをし、明日の支度をしてから床についた。時計の針は深夜をとうに過ぎていた。  翌日の明け方、店の板戸を外から叩く音で、真次郎は起こされてしまった。  部屋は二階で、降りるのが鬱陶《うっとう》しい。今少しだけ寝ていたい。するとありがたいことに、一階の食料品庫の隅で寝起きしている小弥太が起きたらしく、店先で対応している声がした。 (牛乳屋が早めに届けに来たのかな。沢山《たくさん》のクリームと牛乳を、注文しておいたから)  今日は特別の一日なのだから、奮発したのだ。ところが。  突然、真次郎は飛び起きた! 物凄《ものすご》い音が階下から響いてきたからだ。大声が聞こえる。 「ど、どうしたっ」  慌てて階段を駆け下りる。その短い間にも、心の臓が早く打ってきていた。不吉な音は続けざまに階下から響いてくる。止まらない。 (何があったっていうんだ?)  階段の途中から横手の作業場を見おろした途端、足が止まった。目を大きく見開く。  作業場と店先に置かれた戸板が、ひっくり返されていたのだ。信じられないことに、載っていた料理や菓子が、床に落ちている。その時、一段と物凄い音がした。袴姿の男二人が、視線の先に現れ、ストーブの上にあったシチュー鍋までひっくり返したのだ! 「えっ……」  そう言ったきり、声が出てこない。転がっていた麺麭《パン》や野菜の上にシチューが被さって、何もかもが汚らしい茶色に染まっていく。机の脚近くに落ちた肉の塊が、まるで排泄物《はいせつぶつ》のように見えている。  店を滅茶苦茶にしたのは、先日見かけた鍔目当ての士族達であった。 「止めてくれっ!」  その時聞こえてきたのは、小弥太の悲鳴のような叫びであった。士族達の暴走が続いているということは、こんな事態になっても、大事な形見の品だけは渡さないでいるのに違いない。 「何で……」  真次郎はゆっくりと階段を下りた。作業場に踏み込んだ足が、潰れ広がっていたレモンプリンを踏んづけ、べちゃり、という小さな音を立てた。士族達は不意に動きを止め、シチューの水たまりの中に立ちつくした。その横ではマッシュドポテトが崩れた山を作り、汁を吸った麺麭が不気味に膨れあがっていた。  真次郎は己の顔から、血の気が引いているのが分かった。既に昨日までの努力は塵芥《ちりあくた》と化し、店ごと残飯屋のごとき様子であった。 (なんてこった……)  六つで親が死んだ後、真次郎は一人で外国人ばかりの不可思議な街に放り出され、震えるほど心細くても、涙を見せる相手すらいなかった。居留地では、最初ろくに言葉すら通じなかったのだ。慈悲深い宣教師の館で雑用をし、衣食住全てを恵んでもらいながら育った。だから未だに服は、古着の洋服ばかり。日本人なのに着物は一枚も持っていない。  そんな中、仕事として西洋菓子の作り方を覚えたのだ。おかげでいつか店を開くのが、心細さの塊と化していた真次郎の、希望の灯火となってくれた。その夢があったから、一人きりでも生き延びてこられた気がする。  菓子作りを通して、徐々に人の好意を感じられるようにもなってきた。居留地の中に、東京の町に、友や知り合いが少しずつ増えてきている。全て西洋菓子のおかげだ。 (なのに……)  心を込めて作った全てが、壊滅状態であった。どうして今日までの努力が寸の間の内に、犬猫も食わない塵と化してしまわなければならなかったのだ? 真次郎が濡れた床の上を、士族達の方へ一歩踏み出した。頭の中が煮えている。 「……どういうことだ、おい」  踏んだ麺麭が、くちゃりと嫌な音を立てた。崩れたのは麺麭であるはずだ。それとも、己の頭がどうかなってしまったのか……。士族達が顔を強ばらせ、身を引くようにするのが目に入る。 「おい、返事をしろ」  壊れてしまった。料理が、菓子が、夢が壊れてしまった。このままでは……。  途端! 「わぁああああっ」  大声が口から出ていた。部屋の中の目が、真次郎に集まる。真次郎はもはや周りなど見もせず、突然部屋の隅にある食器棚に飛びついた。小引き出しを開ける。中から取りだした物を見て、驚きの声が上がった。小弥太までが、目を見開いている。  向かい蝶の透かしが入った、刀の鍔がそこにあったのだ。 「真さん、どうしてその鍔がそこに……」 「この鍔のせいだ。こいつのせいで、全部無茶苦茶になったんだっ」  わめき立てると、真次郎は鍔を持ったまま店の外に走り出ていく。顔色を変えた小弥太が、慌てて追ってきた。士族達の足音も聞こえてくる。絶叫した。 「こいつのせいだーっ」  銀座と居留地の間には、堀川が縦横に通っている。真次郎がそこへ突き進んでゆくのを見て、追いすがりつつ待ってくれと叫ぶ小弥太の声に、必死さが加わる。それに構うことなく、真次郎が鍔を持った手を堀に向かって振りかざすと、死にものぐるいの小弥太が、後ろから必死に飛びついてきた。袖を掴まれたせいで、急につんのめった。  そこへ士族達が追いついてくる。五人で揉《も》み合いとなった。 「ちくしょうっ!」  真次郎が大声を上げた。体のあちこちを引っ張られる。剥《は》がそうとし、わめく。のし掛かられる。真次郎はむちゃくちゃに暴れた。 「離せっ!」  言った途端、堀端に倒れ込んだ。大きく腕が振れて……鍔がすっ飛んでいた。 「駄目だっ!」  振り絞った声は、誰のものだったのか。鍔は主の掌から離れ、堀へと飛んでいた。水面に落ちたとき、微《かす》かな水音がしただろうか。直ぐに見えなくなった。 「ひいっ!」  息をのむ声がした。袴姿が三人、岸辺に這《は》いつくばって、堀川を凝視している。小弥太は一人、立ちすくんでいた。 「鍔が……鍔……」  真次郎は地面に転がって黙り込み、肩で息をしている。寸の間、誰も、何も、口にしない。真次郎と小弥太の目が合った。どちらからも逸《そ》らしもせず、睨《にら》み付けるように見合っている。しばし……そのまま。  その時。 「おーい、大丈夫だったかぁ?」  明け方の道を、真次郎達の方へ走ってくる者がいた。何と、巡査の制服を着ている。  若様組の小沼《こぬま》であった。  三人の士族達が、まるで見えない手に摘《つま》み上げられたようにして立ち上がり、慌てて堀端を逃げだした。店に押し入り、中を滅茶苦茶にしている。捕まればただでは済まないと、分かっているのだろう。 「ミナ、どうしたんだ。また騒ぎがあったようだと聞いて店を覗《のぞ》いたら、中が悲惨なことになってて……」  どうやら長瀬が用心して、若様組の巡査に交代で、風琴屋を見に来させていたらしい。とんと役には立たなかったが。  その時、不意に真次郎が立ち上がった。両の足を踏ん張ると、もう小弥太の方など見もせず、小沼の制服を掴み頭を下げる。 「長瀬を呼んできてくれ」  まるで病人のような、がらがら声で言う。 「他にも風琴屋に来て貰える巡査がいたら、声を掛けてみて欲しい。急いでくれ!」  小沼が踵《きびす》を返し、道を走っていった。         6  朝っぱらから風琴屋にかき集められた元若様達は、一目で大事があったと分かる悲惨な店の様子に、皆、目を丸くした。そして直ぐに、何かやれることがあれば協力すると言ってくれる。  だが。  パーティーは昼には始まる予定であったが、出せる料理も菓子も、既に風琴屋にはない。出来合いの西洋式パーティー料理を売っている店などないから、買って済ませることすら出来なかった。  皆の視線が、真次郎に集まる。 「どうする?」  園山が問うた時であった。長瀬が、遅れて店へ飛び込んでくる。見れば何と、沙羅を伴っていた。驚く真次郎に、長瀬が言い訳を口にする。 「この風琴屋の飛んでもない事態を沙羅さんに知らせなんだら、後で文句を言われる。だから遅れて……お前さんに文句を言われるとは思ったが、連れてきたんだ」  真次郎が長瀬の腕を掴む。口を開けた。 「……ありがたい!」  このいつにない素直な一言で、二人は真次郎の余程の苦境を察したようだ。ここで一番に先のことを口にしたのは、沙羅であった。 「それで真さん、今日のパーティーはどうするの?」  もし料理を届けられないのなら、早くに居留地へ知らせをやらねばならない。代わりの料理を少しでも、あちらで用意してもらうのだ。ストーン宣教師夫妻に取っては、大事な結婚記念日のパーティーであった。明日に、来週に延期出来るものではなかった。  ただしそうなると、風琴屋開店の夢は遠のく。居留地からの予約販売すら、減るかもしれない。 「ミナ?」  真次郎が顔を上げた。そして、沙羅の方を向いた。 「沙羅さん、済まないが金子《きんす》を貸してくれないか。急ぎ買い物をせねばならないんだが、全く持ち合わせがない。多分巡査達にもない」  正直に頼むと、沙羅は可愛い縮緬の布で出来た財布を丸ごと貸してくれた。 「全部使ってもいいわ。真さんには後で、働いて返してもらうから」 「……おいミナ、大丈夫なのか?」  その言葉を聞いた長瀬が、いささか不安げに聞いてくる。真次郎は溜息をついた。 「通事の仕事だろ。小泉商会は貿易商だから」  真次郎は以前にも、沙羅の父に通訳を頼まれたことがあるのだ。最近は職人としての仕事に忙しく、やっていなかったが。 「何だ、つまらない」 「おい長瀬、何が言いたい」 「なに俺が聞きたいのは、これから何をするかってことさ。金を借りて、どうする気だ?」  真次郎が皆の顔を見る。唇を歪め、いささか恐いような笑みを浮かべる。 「これからパーティー料理を、信じられない速さで作るつもりだ。今日の昼のドンが鳴る頃までが勝負だ」  皆にはその手伝いをしてもらうつもりであった。 「俺は」  部屋中にぶちまけられた料理の残骸を見てから、決意を込めて言い放った。 「俺は諦めないから!」  その一言を聞き、長瀬がにやりと笑う。 「よっしゃ。こんな事になっても、パーティーを成功させる気なんだな。分かった!」  直ぐにやるべき仕事が書き出され、分担が決められる。 「店の掃除だな。任せろ」 「小泉商会へ使い? ああ、欲しい品があるのね」 「鳳月堂《ほうげつどう》へ買い物に行けって? それと卵とお酢《す》って、何に使う気だ」 「……何で西洋のパーティー料理を作るのに、鮪《まぐろ》の刺身が要《い》るんだ?」  慣れぬ事ゆえ、皆が首をかしげていると、長瀬の一言が場を仕切る。 「喋るな! とっとと用を済ませに行け!」  その一言と共に、長瀬が見事な手際で金子を分けると、巡査達が道に散って行った。その間に沙羅が、無事だった酒瓶《さかびん》を数えている。その後、小泉商会にある缶詰、酒を持ち出して来ると、巡査一名をお供に出かけていった。  長瀬は残った二名の巡査と共に、床や台の掃除を始める。そしてこの先、店での雑事や連絡は長瀬が仕切ると言い出した。 「ミナは調理に専念しろや。お前の立つ場所くらいは、直ぐに綺麗にしてやる。出来る作業から始めてくれ」 「ありがたい。恩に着る」  真っ先に調理用ストーブの横を、立てるようにして貰った。火の入っていなかった中を確認して、真次郎が大きな声を上げる。 「助かった! 鶏が無事だ!」  ストーブで蒸し焼きにするものだとは、気がつかなかったらしい。真次郎は床に転がっただけで無事な野菜を洗い、鶏に詰める物を作り始めた。これで一品出来る。  その時、小弥太の姿が目に入った。戻ってきたらしい。鍔を失った衝撃が続いているのか、未だに呆然とした顔つきをしていた。その顔を長瀬がじろりと見たが、何も言わなかった。  小弥太からはまだ、店を騒動に巻き込んだ謝罪はなく、こちらも形見の鍔を、堀へ投げ捨てた反省は口にしていない。色々話すべきことはあったが、とてものこと、そんな暇はなかった。  時計を見れば、既に朝も早七時となっていた。残された時間が少ない! (決戦の時だ)  ストーブに火を入れた。 「海老《えび》と蛤《はまぐり》、あったぞ」 「卵、粉、手に入った」 「鳳月堂で麺麭を買ってきましたよ」  しばし後、次々と帰ってきた面々に、真次郎は感謝の顔を向ける。その頃には店の床も、沼から陸地に戻っていた。牛乳とクリームが届く。沙羅は輸入品の荷物を抱え、人力車で店の前に乗り付けてきた。 「お酒と缶詰とベーコン、商会から持ってきたわ。ハムは駄目だった。牛酪、缶詰のものしかなかったけど、この品で大丈夫?」  真次郎はさっそく缶詰の牛酪の味をみて……顔を顰《しか》める。やはり輸入物は塩辛《しおから》いのだ。 「牛酪を作っている暇がないから、仕方がない。けど、これじゃあサンドイッチに使うのは、きついか。いや、それより段取りをどうするかだ……」  料理のことは長瀬では分からない故、戻ってきた者や手が空いた者達には、真次郎自身が何をするべきか言わなくてはならない。真次郎は店の作業場で、一寸《いっすん》動きを止めた。  目を瞑《つむ》る。そして……直ぐに指示を出し始めた。 「じゃあまず小沼さん、そこに切ってある馬鈴薯と南瓜《かぼちゃ》を、ストーブで茹でてくれ。台所に立った事がない? 大丈夫、俺が湯から上げろと言ったら、笊《ざる》の上に出せばいい」  真次郎は指示をしつつ、酢に手を伸ばした。園山と福田には、ベーコンと野菜を細切りにしてもらう。二人は元若様のくせして、何故だか包丁の扱いが得意であった。 「大鍋でベーコンを炒めてから、六分目まで湯を入れてくれ。その後に、そこの香草と野菜を入れる。あくだけはこまめに取って。煮えたら、俺が味を調えるから」  もう、骨からゆっくりと出汁《だし》を取る間はないが、ベーコンと野菜でも美味しいスープは出来る筈だ。酢に卵と油を合わせると、マヨネーズとなってゆく。小鍋で別の卵も茹でた。 「長瀬、手が空いたのか? なら麺麭を切ってくれ。そこの箸《はし》くらいの厚さにだ。そんなに薄く切れないって? 泣き言を言うなよ。巡査は佩刀《はいとう》してる。刀は扱い慣れているだろ。包丁は同じ刃物だ」  長瀬が大工仕事のような素振りで切り始めた横で、今度は粉を量りつつ、真次郎は沙羅の方を向いた。 「福田さんと、シチューを担当してくれ」 「……シチュー? 作ったことないわよ」 「肉を止め、魚介で作る。魚介なら、肉のように長く煮込む必要がない。間に合う筈なんだ」  福田の方が料理に詳しく、二人は海老の支度にかかった。指示をしつつ、真次郎は牛酪と粉を指の先で摩《す》るように混ぜていた。もう折りパイの生地《きじ》を作る暇はない。ならばと簡単な練りパイの生地に変え、パイ型に貼り付ける。それをストーブの鶏の横、狭い場所に斜めに入れて焼いた。命令する。 「生地、頼むから皿から離れないでくれよ」  ハムの辛味パイの予定だったのを、材料があったからと、南瓜のパイに変更する。 「そろそろ南瓜と馬鈴薯、笊に上げて」  芋《いも》の具合を見ている間に、高木《たかぎ》に茹で卵を細かく潰しマヨネーズで和《あ》えてもらう。小沼が馬鈴薯の皮を剥《む》いている間に、己は南瓜を裏ごしした。途中ひょいとストーブの方を振り向くとスープの味を調え、ついでに鶏の焼き加減を確認する。長瀬が麺麭を切る包丁片手に、驚嘆の声を出した。 「ミナが、武道の達人みたいに見えてきた」  三ヵ所に同時に現れ、四つのことに対処する。馬鈴薯も卵も野菜も、真次郎の指示で見事に姿を変えてゆく。パイ生地がストーブから取り出され、スープが、サンドイッチが、皿の上に姿を現していた。剣舞のごとき食材の舞であった。 「料理作りが、格好良いなんて思えたのは、初めてだぜ。驚くじゃないか」  だが真次郎が次の指示をすると、長瀬の手が止まった。今の今、褒めていたくせに、友は一寸、真次郎の正気を疑った様子だ。 「鮪の刺身を、小鍋で……茹でろって?」  しかし。 「やれやれ、疑っている暇はないか」  皆が呆然とした目を向けてくる中、長瀬は煮え立った湯の中に刺身を投下する。じきに白っぽくなった鮪を、笊に上げた。 「粗熱を取ったらそいつを細かくほぐして、卵と同じようにしてくれ」  作業の途中で、手妻のように真次郎の手がボウルの上に現れ、鮪に塩と胡椒《こしょう》を振ってゆく。それと卵と胡瓜の薄切りとで、長瀬がサンドイッチを形成した。横で小沼がマッシュドポテトに挑戦し始める。  途中で長瀬が堂々と、つまみ食いをした。 「おお意外! こいつは美味じゃないか」  途端に頬を緩ませ嬉しげな声を出す。だが長瀬のこの声を聞いても、隣にいた真次郎が頷かない。 「どうした?」と問うと、真次郎は一寸手を止め溜息をついた。 「ストーブが、鶏で塞《ふさ》がっているんだ」  シチューの牛肉が駄目になったのだから、鶏の丸焼きが残ったのは、天の助けであった。しかし調理用のストーブは一つしかない。西洋菓子は鶏と同じく、ストーブの真ん中を使って、蒸し焼くようにする調理法のものが多かった。つまり菓子を焼く場所が足りないのだ。 「とにかく、ゼリーは作る。これで一品」  しかし今度のパーティーは、真次郎が菓子屋を開く為に、試される場なのだ。肝心の菓子が一品や二品では、どうにもならなかった。 「うーん……そうだ、麺麭があるな。パンバタプリンを作れるじゃないか」  それなら茶碗蒸しと作り方が似ているから、沙羅に作業を随分と任せられる。それに種を小分けにすれば、短時間で焼くことが出来るだろうから、鶏を焼き上げた後のストーブを有効に使えそうだ。分量書きを渡された沙羅達が、さっそく卵に向かった。 「しかしあと二品は欲しい。内一品はゼリーやプリンじゃなく、ちゃんとしたケーキが」  しかし、予定していたアイリッシュシードケーキを焼いている時はない。スコットランドショルドプレッケーキまでは、とうてい作れない。時間がない。ない! 「間に合うように作れるケーキはないのか?」 「……思い浮かばない!」  皆緊張した様子で、それでもゼリーを必死に作り続ける。その時、声がした。 「あの……手伝わせてくれませんか」  声の主は、小弥太であった。やっと心が落ち着いたのか、前掛けをしてストーブの側に来ていた。深く頭を下げてくる。 「今回の騒ぎは、私が原因です……済みませんでした」  お詫びをしたい。そして役に立ちたいと、初めて言いだしていた。 「板みたいなビスキットしか作れませんが、それでも少々経験ありです。手伝えます」 「……おうっ、そうだな。ありがとうよ」  振り向いた真次郎がビスキットとつぶやいたとき、顔を上げた。あと二品、何を作るか決心がついたと言い、大きくにやりと笑う。  すると何故だかその笑みが、何とも人の悪そうなものになってゆく。見ていた長瀬が一歩身を後ろに引いた。その時、真次郎が盆に、粉や卵や牛酪、砂糖、牛乳を載せ、ぐいと小弥太に突きだした。 「じゃあ小弥太、ビスキットを作ってくれ。分量書きは書いてある通りだ」  シッガルビスキットと似てるが、生地は伸ばさず匙《さじ》で落として形を作る、ドロップビスキットだ。 「簡単だし早く焼ける。お前さん一人で作れ」  作業場にざわりと低い声が上がった。小弥太が声を失う横で、真次郎は鉄の平鍋を手にした。己はこれで、新作のケーキを作ってみるという。 「ワッフルスの生地で、薄いスポンジを沢山、鍋で焼いてみるよ。後でクリームと缶詰の桃を挟んで、重ねるんだ。上手《うま》くいけば、一つの大きな丸いケーキに出来るだろうさ」  ワッフルスに、泡立てたクリームを付けた物は美味しい。だからこのケーキも、美味しく出来る筈であった。そこに必死の声がした。 「待って……待って下さい。私は先にビスキットを失敗してます。一人では無理ですよ」 「大丈夫だよ、小弥太。今から必殺技を教えてやる。だからお前さんのビスキットは、堅くはならない。上手く焼けるさ」 「おい、菓子作りに必殺技なんて、あるのか?」  長瀬の呆然とした声がする。 「はっきり言えば、邪道とも言うな。こんな変な作り方をする奴、俺は見たことない。人には言うなよ」  そう言うと、ボウルを引き寄せた真次郎は、手早く粉を計った後、中に少しばかりの曹達《ソーダ》を加えた。そして作り方を指示する。 「ビスキットはまず、牛酪に砂糖、卵の順で混ぜあわせるだろう? その時にな、種をすり混ぜるんじゃなく、泡立てるようにして十分空気を入れるんだ。ふわふわにしろ」  とにかくケーキ生地のように、攪拌《かくはん》するのが決め手らしい。下手をすれば分離する危ないやり方であった。だがそこが上手くいけば、匙で落として作るビスキットは、まず堅くはならない。  そう言うと真次郎は、後は小弥太に任せ己の新作に気を集中した。こっちが勝負の品となるのだ。 (初めて作るケーキ。巧《うま》くいくだろうか)  二人が一斉に、作業に取りかかった。         7  ざりざりざりざり……。小弥太は必死に牛酪と砂糖を混ぜている。卵も加える。しかしその種がどうしたらふわふわになるのか、理解の他だという顔付きのままであった。  そして真次郎も、眉間に皺を寄せている。ワッフルスと同じとは言っても、鍋で焼いて大きなケーキを作ったことはない。とにかく分量を必死に計量した。 「砂糖百|匁《もんめ》、水飴《みずあめ》七匁、卵三個、粉百十匁、牛乳三|勺《じゃく》、曹達茶さじ半分……」  小弥太に偉そうな事を言ったものの、己の方とてケーキが美味しく出来るか否かは、神様しか知らない状態であった。とにかく砂糖と卵をすり混ぜにかかる。  ここで時計を見た沙羅が、声を上げた。 「そろそろ昼が近いわ。真さん、居留地に運ぶために、料理を大皿に盛らないと」 「入れられるものは、重箱に詰めてくれ。皿だと、こぼすぞ。シチューやスープは鍋のまま持っていく」 「荷車でゆっくり運んでゆく間はないな。人力車を二台呼ぼう」  手の空いた長瀬が道に飛び出してゆく。真次郎がケーキを丸く焼き始めた。鍋を見つつ叫ぶ。 「鶏、もう大丈夫だ。小沼さん、出して」 「パンバタプリンを、ストーブに入れます」  さすがに鶏は重箱に入らず、皿に盛られる。プリンが焼けたら、直ぐにビスキットを入れなくてはならない。小弥太の顔が引きつっている。 「小弥太、ビスキットは同じ大きさに落とせよ。でないと、焼ける速さが違ってくる」 「分かった」  直ぐに薄いケーキが六枚焼き上がる。冷ます間に、缶詰を開け桃も薄く切る。ボウルでクリームを泡立て、砂糖で甘くする。バニラが落とされ、甘い香りが部屋に広がった。 「プリン、出します。ビスキット、入ります」  小弥太が隅にしゃがみ込んだ。 「焼き上がるまで気を抜くな!」  真次郎に怒鳴られて、飛び上がっている。 「人力車が捕まったよ」  表から声が掛かった。まずは料理の入った重箱が運ばれてゆく。熱いパンバタプリンに触れぬよう、笊で覆って持ってゆく。 「沙羅、先に宣教師館へ行ってくれ。道は分かるだろう?」 「俺が荷物持ちについてゆく」  長瀬が二台目の人力車に乗り込んだ。直ぐに出る。 「ビスキットは、そろそろ焼けるかも……」 「小弥太、未だ出しては駄目だ!」  びしりと止めつつ、真次郎は薄いケーキとクリームを重ねてゆく。載せている皿の方をまわすと、クリームが綺麗に丸く形を作った。 「……よし、もういい。ビスキットを出せ。小弥太、餅網《もちあみ》の上でちゃんと冷ませよ」 「ミナ、そろそろ行かないと……」 「分かってる。先に菓子を人力車に乗せてくれ」  小沼が重箱に、餅網ごとビスキットを入れた。ゼリーが人力車へと運ばれる。一旦奥へと行った真次郎が、コートと切った桃、それにケーキが置かれた皿を手に取ると、表へ出て行く。小弥太も重箱を抱え横に乗った。若様組の面々が店から出てくる。 「やることはやった。さあ、行ってこい」  見送りもそこそこに、人力車は居留地へ走りだした。真次郎は揺れる人力車の上で、桃をケーキに飾り付けるという離れ技を、やってのけたのだった。  宣教師館は、居留地の洋館の中では、取り立てて豪華な建物ではない。  それでも上げ下げ窓に、下見板張りの洋館だ。見慣れていない小弥太の目には、豪華なお屋敷と映ったようであった。  おまけに今日は、ストーン宣教師夫妻の結婚記念日のパーティーだから、中は花で溢《あふ》れている。そんな日を、わざわざ祝うという感覚のない元江戸っ子には、それがいささか奇異に映ったようだ。庭と一続きの客間に燭台《しょくだい》と一緒に置かれた料理は、一見大層豪華に見えた。  巡査達は帰ったが、宣教師夫妻の知り合いである真次郎は長瀬や沙羅、そして初めて見る西洋式パーティーに興味|津々《しんしん》な様子の小弥太は、許されて宣教師館に残った。小泉商会の酒が注がれ、パーティーがはじまる。鶏の丸焼きを、ストーン氏が切り分けた。あっさりとしたシチューが器に盛られた。  南瓜のパイやゼリーは、口に合っただろうか。プリンはうまくいった筈だ。しかし、ビスキットは心配であった。一つ味見したそれは、いい味だったが……。  いささか強ばった笑みと共に、真次郎は会の様子に目を配る。桃のクリームケーキと勝手に名付けた菓子が切られた。 「食べたことのない味だ。ミナ、これもジャンに習ったのかね?」 「いいえ、ストーン宣教師。これは……自分で考えたんです」  何度もパーティー料理は作ってきた筈なのに、今日ばかりは大層緊張していた。 (誰も味について話していない。どうなんだろう? 美味しかったかな? ケーキは?)  ふと、顔を上げる。  見れば客達がさりげなく、一ヵ所に集まっているではないか。するとまだパーティーは始まったばかりだというのに、突然改まった感じの声がした。 「ミナ、ちょっと来なさい」  話し出したのはストーン宣教師であった。 (あ、西洋菓子の合否が告げられるんだ)  客達の視線が真次郎に集まっていた。こんなに早く結論が出されると思っていなかったので、体が強ばる。長瀬は一見落ち着いている。沙羅は心配げな様子であった。小弥太がじっと、真次郎を見つめてきていた。 「ミナ、私たちは結論を出しました」  それで……それで? ストーン氏が片眉を上げた。 「ミナ、今回の料理や菓子は、前にパーク夫人に出したリストの品とは、違っているとか」  そのことが引っかかったのだろうか。やはり、やり直しは利かなかったのか。 「しかし新しいケーキとか、大層目新しかったです。あれは美味しかった」  よって。 「我々はあなたの新しい店に、いささかの協力と投資をさせてもらうことになりました。この料理と菓子の素晴らしさ故に」  結婚記念の思い出にもなると言って、ウインクしたストーン氏の隣で夫人が笑っている。長瀬が、横に立つ沙羅や小弥太に言った。 「合格なんだな」 「ええ、そうみたい」  真次郎は、皆をまじまじと見つめる。 (本当に……合格なんだ)  ふっと体が軽くなった。今朝は一時、もう駄目だとも思った。なのに今、足が地面に着いていない気持ちになっている。ただ嬉しい。大声を出したい位に嬉しい。  なのに気が付いたら、泣き出しそうになっていた。  真次郎は慌てて、育ての親たるストーン宣教師の腕に顔を沈めた。そんな情けない顔を、沙羅や長瀬には見せたくなかったのだ。  なんというか……凄く気恥ずかしかった。 「本当に良かったです。パーティーが成功しなかったら、謝っても済まないところでした」  小弥太が心底ほっとしたように言う。パーティーは終わり、夕刻四人は堀沿いの道を、ゆっくりと風琴屋へ向かい歩いていた。 「ところで、今日のパーティーの後には、一つ謎が残ったわね」  沙羅が笑いながら言う。小弥太が一人首を傾げた。 「えっ、何か謎かけがありましたっけ?」 「桃のワッフルスケーキの味よ。真さん、自分で、一切れも食べてなかったでしょ」 「好評に付き品切れだった。嬉しかったね」  真次郎は明るく笑った。今回の礼として、近々あの菓子を作って、若様組や沙羅たちに食べてもらうと言う。三人の顔に笑みが浮かんだ。ここで小弥太が思い出したように言う。 「そう言えば、私の作ったビスキットも、ちゃんと食べていただけたようです」  大層嬉しかったという。何だか、また菓子を作ってみたいと言いだしていた。今回の大騒動のおかげで、菓子作りに興味が出てきたというのだ。真次郎が笑う。 「ああ、そうだな。今更若様なんぞ探すよりも、新しい仕事を見つけた方が前向きだわさ」  だが、と言い、ここで真次郎が不意に堀端で立ち止まった。 「こいつはやはり、小弥太に返しておかなきゃなるまいて」  大事な品だからなと言って、コートのポケットから、何かの包みを取り出す。中身を出して見せたとき、皆の目が丸くなった。 「……向かい蝶の透かし入り鍔! え? 無事だったんですか!」  小弥太が歩み寄る。だが手を伸ばした途端、真次郎が鍔を、ぽきりと二つに割ってしまった。 「ひえっ!」  小弥太が叫び声をあげる。すると!  皆の目の前に、真次郎がまた新たな鍔を差し出したのだ。手の中に幾つも持っていた。 「……?」  三人が一つずつ鍔を手に取った。途端、甘い匂いが鼻をくすぐる。沙羅が鍔に齧《かじ》り付いた。直ぐに笑い声が立つ。 「匂いはいいけど、堅いっ。これ何?」 「小弥太が、前に作った種で焼いたビスキット。あまり食べるなよ、歯が折れるぞ」 「えっ? これ……鋼《はがね》の色をしてますが」  小弥太が鍔に見入っている。隣で長瀬がぺろりと鍔を嘗《な》めた。 「この甘さ!」  長瀬が事情を得心したらしく、頷いた。 「ビスキットにチヨコレイトを入れてあるんだな。表面に塗ってもあるみたいだ。そうか、それで鍔みたいに暗い茶色なんだ」  士族達への対処に困った、真次郎の策略であった。小弥太は鍔を手放せない。形見の品は大事だから、無理に捨てろとは言えない。しかし、このままでは士族らに店が狙《ねら》われ続ける。 「それで偽物を作って堀に捨てたのか。騒動を終わらせる為に、一芝居を打ったんだな」 「本物の鍔は、元の場所にあるはずだ」  真次郎の言葉に、小弥太が呆然とする。 「……こういう仕掛けをしたなら、何で今まで教えてくれなかったんです? 祖父の鍔を失ったんだと、落ち込みました」 「鍔のせいで色々壊されたから。小弥太への嫌がらせだ」  ぺろりと舌を出す真次郎を見て、小弥太が顔を赤くする。横を向くと、沙羅に尋ねた。 「こんな人が、『寂しがり屋でお人好し』ですか? 随分と違うような気がしますが」 「何言ってんだ、小弥太。忙しい中でも、こんな妙な品を作って、鍔を守ってくれたんじゃないか。馬鹿やってるなあとは思うがね」  返事をしたのは長瀬で、苦笑している。 「全く、甘いよなぁ。いけてるよ」  小弥太はふてたような顔で、黙ってチヨコレイトを嘗めている。真次郎はにやっと笑うとコートを翻し、堀端を弾むように歩いてゆく。まだ体が軽い。ひょいと小弥太を見た。 「お前さんの知り合いの士族達も、早く何かを見つけて、江戸を思い出に出来たらいいのにな」  ぽつりと言ったら小弥太が顔を上げ、ビスキットを握りしめる。  時代の波は、まだ若い真次郎にとってさえ、時に津波のごとくに思えるほど、早く大きく押し寄せてくる。誰も彼もが、それを乗りこなせる訳ではないだろう。時を味方に成り上がった沙羅の父などは、例外の一人なのだ。  だから今も、江戸を懐かしむ者がいるのは分かる。まだ武士の世が消えてから、二十年と少ししか経っていない故なのだ。 (俺の父とて武士だった。だからその気持ちは身に染みて分かるさ)  よって士族達にあれだけのことをされても、真次郎には不思議と怒りは残ってはいなかった。だが……それでも。 「万一、若様が見つかったって、江戸も藩も、安定した暮らしも、戻っちゃこないよ」  どんなに願っても、時は後戻りしてくれないのだから。腹をくくって、このくたびれる世を先に進むしかないのだろうと、本音《ほんね》を言ってみる。小弥太は口を引き結んで、黙ったままであった。長瀬は横で皮肉っぽく笑いつつ、その言葉を聞いている。  その時、沙羅が道の先を指さした。 「見て真さん。皆が待っているわ」  目をやると風琴屋の方角に、なじみの巡査達が顔を揃えていた。真次郎の勝負、結果が気に掛かって来たのだろうと思う。 「おう、皆、心配してくれてるんだ」  今朝方、大騒ぎをして菓子や料理を作っていたことが、今はまるで十日も前の事のように感じられる。  真次郎は大声を出し大事な仲間に手を振ると、手で頭の上に大きく丸を作った。 [#改ページ]  シユウクリーム危うし         1  上野《うえの》のステイションを下りると、正午を告げるドン前の空は、薄青く高かった。  駅から、長瀬達四人が道に姿を現すと直ぐに、人力車の車夫が声を掛けてくる。それも一台ではなかった。  明治十五年六月、鉄道馬車がまず新橋《しんばし》—日本橋《にほんばし》間に開通した。同年十月には浅草《あさくさ》—上野—日本橋間全線が開通して、庶民の足となっていった。今、人力車|稼業《かぎょう》は実入りが減っているとの噂であり、車夫は客を捕まえるのに必死なのだろう。  しかし、巡査の長瀬は人力車に目もくれず、仲間を連れ、さっさと駅から北東へ歩みを進めてゆく。浅草側に四、五町も行くと、何やら煤《すす》けたような沈んだ色合いの、軒低い町並みが姿を見せてきた。連れの皆川真次郎が、ひょいと片眉を上げた。 「おや、この辺は露店が多いな」  道沿いに、筵敷《むしろじき》や小さな屋台の店が出て、小商いをしている。だが己も商いを営んでいる真次郎は品物を目にして、少しばかり眉を顰《ひそ》めている。その訝《いぶか》しげな顔つきを見て、長瀬が唇の片端をくいと引き上げた。 「どうした、ミナ。露店が珍しいか?」  ミナというのは、真次郎が育った築地の居留地で、外国人から付けられたあだ名だが、そのおなごのような名を呼ばれて、真次郎が返事をする相手は多くない。親友の長瀬は、その一人であった。 「いや……そこの店を見て、何か変な気がしてな。その、露店だからという訳じゃないんだが」  ここで真次郎は、周りに聞こえぬよう声を潜める。 「あまり品が置いてない店が、多くあるじゃないか。どうして、あれっぽっちしかないんだ? あれでは全部売れたとて、ろくな商いにはならないだろう」  玉蜀黍《とうもろこし》を焼いたり、水菓子を切り売りしている店は、他の町の店と変わらぬようで違和感は少ない。しかし、余所《よそ》ではとんと見かけぬような商いもここには多かった。  見かけた魚屋では、干した鯖《さば》と塩鮭《しおざけ》しか置いていなかった。横の露店に並ぶ徳利《とっくり》や皿は、縁が欠けたまま直してもいない。空き瓶や燐寸《マッチ》のみを売る露店もあるが、どうにも商う品数が僅《わず》かだ。  その向かいでは、糸くずを集めたものだろうか、短く様々な色合いの糸を結んで長くしたものを、束にして売っていた。また赤子の手のひら位の布の端切れが、量り売りされている所もある。 「あれ……売り物なんだよな。何に使うんだろ?」  真次郎の戸惑う声に、同行してきた相馬小弥太も首を傾《かし》げている。小弥太は士族の若者で、元の主君、某松平家の若君がかかわる件で長瀬らと知り合い、今は真次郎が開いている西洋菓子店風琴屋の、押しかけ弟子となっている。  しかしもう一人の連れで、やはり巡査である園山|薫《かおる》は、妙な露店の品を不思議とも思わぬようで、苦笑のようなものを浮かべている。長瀬は真次郎の横で溜息をついた。 「やっぱミナは外国人が住み、洋館が並ぶ町、居留地育ちなんだよなあ。そりゃお前さんは親に死なれ、小さい頃から働いて苦労はしたんだろうさ。だがミナの苦労話をこの町でしたら、住人に羨《うらや》ましがられるな」 「……は? 羨ましがられる?」  真次郎が目を見開くのを見て、長瀬はにたりと笑った。その時、腰に素早く手をやる。 「おまけにミナは、間が抜けている」 「はあ?」  真次郎が驚きの声を上げたその時であった。長瀬は風のごとき素早さで佩刀を鞘《さや》ごと引き抜き、呆然とした真次郎に向かい、もの凄い突きを入れたのだ! 「ぎえっ」  途端、十三、四に見える子供が、真次郎の背から引き剥《は》がされるようにして、地べたに転がる。更にその横にいた子供が二人、足を薙《な》ぎ払われ地面に転がった。こちらは園山が足で蹴飛ばしたのだ。真次郎を背後から囲んでいた子らの輪が、さっと数歩退いた。 「い、いつの間に」  子供達に手荷物を狙われたと知って、真次郎は目を見張った。長瀬達巡査は、一目でそれと分かる洋装をしている。よって一緒にいたときに、持ち物を奪われたことはなかったのだ。それが。 「この町の餓鬼達は、どういう根性をしてるんだ?」  相手が四人連れの大人だろうが巡査達だろうが、お構いなしという訳だ。呆れた顔の真次郎に、園山が手をひらひらと振って、灰色っぽい町一帯を指し示した。 「ここいらは下谷《したや》区どころか、東京市中にその名を知られた貧民窟、万年町《まんねんちょう》ですからね。餓鬼共も根性が据《す》わってるという訳だ」  長瀬が、子供達をねめつけている。 「あんまり好き放題をすると、この園山って巡査をけしかけるぞ。こいつは麗《うるわ》しき見てくれに似合わず、至《いた》って凶暴だからな」  カッパライの足を蹴る位、序の口であった。話し合いとか取引とか、細かい事情とかを言い立てる間も与えず、相手を三枚おろしにしかねない。誠に物騒で困った巡査なのだと、長瀬が保証する。  するとこの言葉に驚いて、目を丸くし身を引いたのは、子供らではなく小弥太であった。慌てて園山巡査を見た後、横にいる真次郎にこっそり聞いている。 「あの、長瀬さんが言ったこと、本当なんですか? このにこやかな園山さんが、そこまで物騒なお人なんで?」  今日は風琴屋に、シユウクリームの注文が入っているのだが、弟子たる小弥太はまだその菓子が作れない。その為、早めに真次郎を店に連れ帰ろうと、付いてきていた。 「まぁな。園山さんが暴走したら恐いぞ」  園山は明治の世には要らぬほどの、剣の使い手であった。元々身分高き士族にして、変わり者巡査の集まりである若様組の中にあってさえ、腕前も気性も群を抜いて恐ろしい。一旦無謀な行いを始めたら止められるのは、剣の勝負で勝ったことがある長瀬と福田、二人だけなのだ。  よって周りが馬鹿をして、園山を本気で怒らせるやもしれぬ所へ行くときは、大概その二人が組んで共にゆく。園山が面倒を起こし、後始末が難儀になっては敵《かな》わぬからだ。 「だが今日は福田さんに用があってな。一人では不安なんで、真次郎に付いてきてもらったんだ」  長瀬の言葉に、小弥太が少しばかり首を傾げた。真次郎は確かに気は強いが、剣の腕はからきしだ。その真次郎がいると、どうして園山を押さえる助けになるのであろうか。  だがこの謎の訳を聞こうとして開いた口を、小弥太はつぐんだ。子供らと長瀬らの間に、割って入ってきた者がいたのだ。 「どうなさいました、巡査さん。町の真ん中で、餓鬼達と睨み合っておいでとは」  そう言って露店脇の小道から現れた者が、場を仕切り始めた。 「安野《あんの》の親分だ」  カッパライ軍団から緊張した声が上り、揃って二、三歩後ずさる。親分と言った割には、安野|一馬《かずま》と名乗った男と子供らは、あまり仲が良くなさそうであった。だが安野の方は、いっぱしに親分面だ。  長瀬が安野に渋い顔を向けた。 「あんたがここの親分か。おい、万年町じゃ巡査を、カッパライの的にするのかい」  この言葉を聞き、ご迷惑をおかけしたようでと、安野が頭を深く下げ、この場を収めにかかる。だがこの時、真次郎の背の方からまた別の声がかかった。 「おや、安野じゃないか。何でおめえが、俺らの子分の為に頭を下げてるんだ」  声の主は、どう考えてもわざと、親分と呼ばれた安野を呼び捨てにしていた。その声を聞いた先刻のカッパライ達が、新たに現れた男の背後に回り込む。  すると近くにいた、似たような年の子らが、今度は安野の後ろに集まった。道に立つ長瀬達を挟み、分かれて互いを睨んでいる。どうやら万年町には、二つの派があるようであった。  安野が男に顔を向け、にかっと笑う。 「何ね、古河《こが》の親分さんのところの餓鬼らが、巡査方にご迷惑をおかけしたんだよ。この町の者が巡査と揉めるのは、ご免だあな。だから代わって謝っておいたのさ」 「むうっ……」  安野に古河の親分と呼ばれたのは、四十がらみのいかにもな強面で、親分と言われれば誰もがそう思うであろう見てくれの人物であった。太い子持ち縞《じま》の羽織《はおり》を着て、三人の子分が付き従っている。  対して安野は、どう見ても親分というには若すぎる。まだ二十歳にもなってはおるまいと思われた。  しかしそのことを全く気にしておらず、対等に振る舞う様子が、古河にはしゃくに障《さわ》るようだ。古河が睨み付けても、安野は木で鼻をくくったような態度を見せ、取り合わない。真次郎達の方を向くと、古河とは縄張りが隣同士なのだと、あっさりと説明してきた。 「……貧民窟の縄張りねえ」  真次郎は眉間《みけん》に皺を寄せ、先刻のカッパライ達を見た。一見、ただのいたずらっ子のようにも見えるが、集団で獲物《えもの》を襲い、巡査の佩刀をも恐れない。 (先々が恐ろしい餓鬼らだな)  だが長瀬は一つ溜息をついた後、もう子供らに目もくれずに言う。 「まあいいさ。それより親分が二人も現れたのなら、丁度《ちょうど》いい。今日来た用向きを、済ませることにしよう」  長瀬は、笹本《ささもと》という男を捜していると説明をした。この万年町にいるらしいと、消息を掴んでいた。 「巡査さん、お手柄狙いですか?」  古河の問いに、首を振る。 「なに、笹本は罪人じゃない」  長瀬家は明治になってもずっと、先代当主のじいやである笹本という男を家に住まわせていたが、この者が病となり、容態が篤《あつ》くなってきている。息子がいたのだが、十年ほど前、商いをすると出て行ったまま、行方知れずであった。 「間に合わなくなる前に、じいやに息子の顔を見せてやりたいんでね」  そんなとき、笹本の息子を万年町で見かけたと、わざわざ知らせてくれたカッパライがいたのだ。巡査がその男を捜していると、噂に聞いたらしい。  この話を聞き、二人の親方は一寸《ちょっと》顔を見合った後で、ほっとした顔つきとなった。巡査の用は剣呑《けんのん》なものではなく、しかも仕事になりそうな話だ。ならば手下共を使って調べる故、手間賃の相談をしたいと長瀬に言い出す。しかしその話に、当の巡査は乗ったりしなかった。 「時がないとはいえ、巡査が幾ばくか払って乞食《こじき》に頼ったとあっちゃ、外聞が悪いんでね。だから金のやりとりはなしだ」  金が入らぬと聞いた途端、古河達がすうっと顔つきを硬くする。すると長瀬は、その顔前に、紙箱を差し出した。真次郎の手荷物で、先程狙われたものだ。 「こいつは、居留地で、外国人から技を習った職人が作った菓子だ。要するに、最新の西洋菓子ってやつだな」  紙箱の蓋《ふた》を開けると、途端に甘い香りが辺りに漂う。それに誘われ、親分達が箱を覗き込んできた。後ろから子分どもも、背伸びするようにして、中を見ようとする。 「こう言っちゃなんだが、この辺りの店じゃお目にかかれない、本格の代物《しろもの》だぞ」  別の時に欲しいと思ったら、銀座は煉瓦街近くの店にまで行かねばならぬと言われ、親分達は咄嗟《とっさ》に、己の恰好《かっこう》に目をやっている。あの街の、日本とも思えぬ洋式の建物と、洋装の人々が行き交う通りを思い浮かべ、気後れを感じたのかもしれない。  西洋菓子は、とろけるような味がすると言って、長瀬が唇の端を上げた。 「この品はシユウクリームって言うんだ。人捜しの手間賃代わりに、いらないか?」  二人の親分が思わず菓子に手を伸ばそうとして……一寸嫌そうに、互いの顔を見合わせることとなった。         2  安野と古河、二人の親分は互いの面子《メンツ》をかけ、己の手下が笹本を捜すと言い張った。しかし余程そりが合わぬらしく、協力するのはご免だという。  仕方なく長瀬は、それぞれの縄張りを捜してもらうこととした。笹本が見つかった方の縄張りの親分に、シユウクリームは代価として渡されるのだ。長瀬達|一行《いっこう》は万年町に入った所の、露店の辺りで待つこととなった。  すると驚いたことに、一時間もしないうちに、子分だという子供から知らせがもたらされてきた。笹本らしき男が、万年町の北にある長屋にいるという。長瀬達は二人の親分と共に、確認に行くこととなった。 「こいつは何と、手早い話だ」  ひょいと首を傾げつつ狭い路地に入ると、一行の目の前に、貧民窟は特徴のある町並みを見せてくる。戸口に板戸も障子もない細長い建物が、両側に現れてきたのだ。  それは江戸にあった長屋の、なれの果てのようであり、新しい東京という地に生えた、何やら奇怪で生臭い魔窟のようでもあった。  上がり端《はな》に水瓶《みずがめ》や竈《かまど》があるところを見ると、日々の暮らしをちゃんと営んでいるのが分かる。米や炭、古着や魚を売る店もあったから、とりあえず暮らしてゆくのに足りる程のものは、町の中であがなえるらしい。  家々からこちらを眺めてくる住人は、総じて継ぎの当たった、くすんだ色のなりをしていた。だがそんな一帯にも子供の姿は多く、元気に路地を駆け回っている。 「戸がないというのは、何だか迫力だ。ここいらは昔から、こうなのかね」  真次郎が、いまだ貧民窟を見慣れぬように言う。そこで長瀬が、晴れているのにぬかるんでいる湿気《しけ》った地面を気にしながら、貧民窟のことを語り出した。時の移り変わりに、まともに呑みこまれた元旗本の士族故、長瀬は世の変遷について詳しいのだ。 「お江戸は二十二年前に、東京と名を変えた。その時から、名だけじゃなく町の姿も変わっていったんだ。否応なく、な」  そもそもこの場の成り立ちは、御維新と関わりがある。貧民窟も真次郎が育った居留地も、時代の変わり目に登場した地域であった。居留地の方が、いささか先に現れている。 「居留地は真次郎も知っての通り、幕府が外国から開国を迫られて作った場所だな。江戸末期、まず長崎、箱館《はこだて》、横浜に出来た」  明治になってからも居留地は作られ、一番新しいのが築地にあるものだ。どこも外国人が住んでいる為か、まるで西洋が日の本に移植されたがごとき町並みをしていた。あの地は、日本にあると考えるのが時々難しくなる位に、広々として美しい。  他方貧民窟は、いつとははっきりと定められぬまま、維新後の混沌《こんとん》の中から、自然に発生してきたものであった。 「明治になり廃藩置県《はいはんちけん》となって、藩そのものがなくなった。つまり江戸から幕府や大名に仕えていた侍が、いなくなったのさ」  武家は後に、元武家である身分として、士族と呼ばれるようになる。当時、多くは幕府も参勤交代の義務もなくなった江戸から、国元へ帰っていった。江戸で七割を占めていた武家地がその用を失って、東京と名を変えた地に残った。 「勿論、俺達元旗本のように他に行く当てもなく、東京にいた士族もいたがな」  空いた土地の一部は、新たな政府が利用した。だが、いきなり東京の七割の土地を、使えた訳ではない。空き地が出来、人が減り、毎日の暮らしが目眩がするほどに変わっていった。維新後、東京では人口が半減したと言われ、一旦人口は九十万人を割ったのだ。そして時代の変化はじきに、藩が消滅した地方にも及んでいった。  すると人々は再び東京へ移ってきた。明治の二十二年、東京府の十五区が市制施行により東京市となる頃には、人口は一気に、百万人近くも増えたのだ。 「しかしね、健康ならば何とか仕事にありつけ、白いおまんまが食えた江戸の毎日など、新しい東京にはもうなかったのさ」  いきなり膨《ふく》れあがった多くの者達に供する仕事が、簡単に生まれ出る訳もない。また文明開化で、昔ながらの仕事では稼げなくなったものも出ていた。  そうした中、東京のあちこちに、食い詰めた者らが集まった地域が出来た。かき集められた他人の残飯を食らうような暮らし、糸くずを集め古布の切れ端を売って、本当に僅かばかりの金を手に入れるような毎日が、生まれていったのだ。  そいつが貧民窟だと言って、長瀬はひょいと友の顔を見る。 「貧民窟には、士族もいるそうだ」  武家でいる以外に、道を見つけられなかった者、商売を始めたものの失敗した者、困窮した理由は様々だろう。だが貧民窟に流れてくる程暮らしに困ってしまえば、士族であっても、僅かな銭を稼ぐのに汲々とするしかない。 「……笹本の息子も、今はその口かな」  ずっと宮仕えをしていた士族には、商いが苦手な者が多かった。さりとて雇い人となろうにも、使いづらいと言われた。日雇い仕事ですら歓迎されぬようだと、長瀬が口元を歪める。中には貧しさを恥じて、本名を隠している者もいるそうだ。  真次郎が眉間に皺を寄せた。 「貧民窟では残飯を食うのか……。それでさっき長瀬は、言ったんだな。俺の境遇は、ここじゃ羨ましがられるって」  少なくとも居留地で、残飯をあてがわれたことはなかった。そう言う真次郎を、万年町の親分である安野が横からじっと見ている。  その時、路地の先をゆく子供から、一行に声がかかった。長瀬がどぶ板を踏んで行き、傾いた戸口から子供が指さした長屋へと踏み込む。すぐに大きな声を上げた。 「笹本!」  三十代も半ばの痩せこけた男が、狭い家の内に座っていた。父親似の顔が何とも言い難い表情を浮かべ、突然現れた長瀬を見上げている。 「阿呆が。知らせくらい寄こせ。親が重病だわ」  長瀬がぺしりと頭をはたくと、笹本の顔が半泣きに変わった。背後から部屋を覗き込んできた真次郎が、ほっと息をついた。 「おや、捜し出すのに苦労するかと心配してたが、こりゃあ驚くほどすんなり見つかったもんだ」  その言葉を聞き、長瀬が一寸身を強ばらせた。そこへ古河の嬉しそうな声が聞こえた。 「うん、ここはうちの縄張りだな」  シユウクリームは、先日、風琴屋の料理を手伝った礼にと、真次郎から若様組にただで提供された品だ。それは結局、古河親分の手に渡ることとなった。  すると自慢の一品は寸の間の内に、親分と取り巻きの口の中に消えてしまう。珈琲や紅茶を添える間もない。取り合いになる前に、さっさと胃の腑に入れたのだ。 「もっと、味わってくれてもいいのに。シユウクリームは、そりゃあ火加減が難しい菓子なんだがな……」  真次郎の溜息に、小弥太と園山が笑う。そこに長瀬が、僅かな荷を抱えた笹本を伴い長屋から出てきた。ちらりと安野達を見る。 「ありがとうよ。とにかく帰るわ。これでじいやを安心させてやれる」  すると事は終わったとばかりに、菓子争いに勝って満足げな古河や子分達が、その場を離れてゆく。ただ安野だけが、上野のステイション辺りまで送ると言い、一行にわざわざついてきた。  貧民窟から表通りへ出ると、周りから付いてきていた子供らが消えた。ステイションが見える道の角まで来たとき、不意に長瀬が足を止める。振り返ると安野を見つめ、問うた。 「あのな安野親分。笹本のことをわざわざ巡査に知らせてくれたのは、お前さんじゃないのかい?」  何故なら、親分の指示でもなければ、この辺りのカッパライどもが巡査に協力するなど、考えられないからだ。 「そしてまさか、あの古河親分が、巡査に手を貸すとは思えないからなぁ」  もし協力してくれたのであれば、礼を言わねばならない。シユウクリームは、古河親分が食べてしまっている。そう言われると安野は、何故か一寸目つきを鋭くした。だがじきに、大層愉快そうな顔つきとなって長瀬を見てくる。 「おやあ、気が付いて下さいましたか。頭の良い御仁《ごじん》だ。使えそうな巡査が捕まったな。こりゃ嬉しい」 「つ、使えそう? 捕まった?」  真次郎と小弥太が、目を大きく見開いている。大層簡単に終わった笹本の一件は、何やら別の思惑へと繋《つな》がっていたらしい。安野はどうやら助力の見返りとして、巡査の力を求めているようであった。  すると園山が静かに刀へ手をかけた。それを素早く長瀬が止める。背後で笹本が身を震わせている。 「一体俺に、どんな礼をして欲しいんだ?」  さて、恐い恐いと言いながら、長瀬が問う。安野は殺気を漲《みなぎ》らせた園山の刀の前でも落ち着いた様子で、困っている士族の娘を一人、助けて欲しいと言い出した。 「士族の娘?」 「実は先月、母と娘が万年町に移ってきたんですがね。運の悪いことに先日|流行《はや》った麻疹《はしか》で、その母親が亡くなりまして」  娘は野々山《ののやま》かの子といって十四で、なかなかに麗しい。そんな歳の娘が、ろくに知り合いもいない貧民窟に一人残されたのでは、危なっかしいことこの上ない。縄張り内のこととて心配していたところ、さっそく事件が起こった。 「娘が誰かに売り飛ばされたのか?」 「いいえ。実はかの子さんの長屋に、泥棒が入りまして」 「……泥棒?」  この思いがけない言葉に、長瀬と真次郎が目を見合わせる。万年町は、まともな戸もないような所だ。独り暮らしの家から、物を盗むのはたやすいだろう。しかしそもそも、盗まれるような物などほとんどないはずだ。 「そいつが問題なんですよ。長屋には母親の残した道具が少しあったが、そいつは野辺送りの費用にと売っぱらっちまったんで」  確かにわざわざ盗むような品は残ってなかった筈と、安野が首を振る。 「わっちには泥棒騒ぎの訳が分からねえ。でも、何だか体がむずむずしましてね。放っておくのが嫌なんですよ」  縄張り内でのことは、ちゃんと掴んでおきたいのだという。悩んだあげく、安野は人様の手を借りることにしたのだ。 「それでですね、どうせ相談するなら、実際に毎日、事件を担当している巡査さんがいいと、そう思ったんでございますよ」  だがカッパライにボッタタキ、賽銭《さいせん》釣など、巡査に見つかったら逃げねばならぬ生業《なりわい》の子らをまとめているのが、親分というものだ。簡単に巡査を頼れる訳もない。第一、親分をまとめている大親分への外聞もある。安野は困っていたのだ。 「そんなとき、巡査の俺が笹本を捜しているのを聞きつけたのか。そのことを出汁に使ったんだな」 「出汁なんて滅相もない。ただ、人捜しに協力したら、万年町に巡査さんがおいでになる。そうすれば巡査さんは喜ぶし、わっちも話が出来ると思いましてね」  安野は実際、その手で長瀬と会えた訳だ。 「巡査の旦那、かの子さんを助けて、ついでに泥棒が入った訳を、わっちに教えていただけませんでしょうかね?」  だが安野の願いを聞いても、長瀬は渋い顔をしたままであった。泥棒といっても、被害はなかったのだ。かの子も無事だ。つまりまだ何も起こっていない訳で、どう考えても面倒くさい。 「巡査は、薄給な割に忙しい身なんだがな」  すると安野が一つの提案をしてきた。この件で協力してくれたら、この先、万年町の子供らが掴んだ色々な話を、長瀬巡査殿に教えるというのだ。 「良い話だと思いますが。世の裏の話まで知るというのは大切なことでございますから」 「ほうほうほう、安野親分、若いのに分かっているじゃないか」  長瀬の目が、急にきらりとした光を含む。それを見、安野がにやりと笑った。 「ただねえ、わっちが世話をしている縄張り内の子らの……小さな悪さについては、きっと憶えきれません。巡査さんに報告出来ないと思いますが」 「なあに、ここいらは俺の受け持ち範囲じゃない。餓鬼どものことなんか気にならねえな」  互いの、何とも人の悪そうな笑みを向き合わせて、二人が頷きあった。 「うへえ。巡査とカッパライの親分が手打ちとは、恐ろしき光景だな」  真次郎がぼやく隣の道端で、二人はさっそく、何やら話し合いを始める。  十分もしないうちに、長瀬は連れの方を振り向き、何故だか園山を呼んだ。何やら話をした後、その目を次ぎに笹本へと移した。         3  長瀬達は上野ステイションで二手に分かれた。その後万年町に戻り、かの子の住まいがあるという東端に足を向ける。長瀬と小弥太、それに安野と歩きながら、真次郎が低い声で長瀬に問いただした。 「どうして笹本さんを園山さんに託して、二人を先に万年町から帰したんだ?」  安野親分は巡査を頼りたいと言ったのだ。園山と共に、巡査二人でかの子の所へ行けば良いではないか。笹本は真次郎が送り届けるべきだったという言葉に、長瀬は首を振った。 「ミナが小弥太や笹本とここを離れたら、貧民窟の悪餓鬼どもの間を、園山と二人で歩くはめになるじゃないか。きっと園山は、あの生意気な餓鬼どもを二、三人、叩きのめすだろうからなあ」  安野と協力することになったからには、そういうことを止めねばならない。だが皆を帰し一人で事にあたるのは、どう考えても大変だと思ったから、真次郎を伴うことにしたというのだ。ところがその言葉を聞いて、真次郎はぽんと膝を打った。 「ああ、そうだった。物騒な園山さんが万年町から消えた今、もう俺の助力は必要ないよな」  それでは早々に帰らせて貰うと言い出す。長瀬が慌てて薄情な友を止めた。 「せっかくピストル銃を持ってきたんだ。いてくれたら何かと、役に立ちそうじゃないか。ミナ、話の源を獲得する好機だ。最後までつきあえ」 「は? ピストル銃? 真次郎さん、そんな代物使えるんですか?」  ここで思わずといった声を上げたのは小弥太だ。長瀬が小さく笑う。 「ミナのピストル銃の腕は、大したもんだぞ。半分お遊びみたいに、居留地の外国人商人から教わったんだと。銃は例によって、居留地で手に入れたお下がりだがな」 「何と……それで園山さんが、真次郎さんの言うことを聞く訳か」  呆然とする小弥太に、真次郎が懐に忍ばせてあった銃を、ちらりと見せる。 「こんなもの、下手に使ったら後の言い訳が大変だ。今日は巡査と一緒だから持ってきたんだ。長瀬、娘さんのことは、この地域の巡査に任せた方が、いいんじゃないか?」  まだ帰りたがっている真次郎に、長瀬は断固、首を振る。 「あのなあ、諸事を知るというのは本当に重要なことなんだぞ。知識は金にも物にも権力にも化ける。手にはいるとなったら、その機会を逃すべきではないんだ」  例えば真次郎や小弥太だとて、知りたいことはあるはずだ。その知識を有している者が、二人を好きに動かすことが出来る。長瀬いわく、知るとはそういうことなのだ。 「ほう。じゃあどういう話と引き替えになら、俺が長瀬に従うんだ?」  興味深げに真次郎が問う。その言葉に安野も、耳を傾けている。長瀬の着ている巡査の制服の故か、行き会った者達は足早にその場を離れてゆくから、昼間だというのに入り込んだ貧民窟の道は静かだった。  するとここで長瀬は、ちらりと小弥太に目をやってから、真次郎に言った。 「例えば、小弥太が捜している松平家の若君の行方が分かるとしたら、どうする?」  先日真次郎は、その若君探しに巻き込まれ、大いなる迷惑を被《こうむ》っている。横で真次郎の顔つきが変わった。真次郎はあっさりと降参する。 「その話、聞きたいぞ! 分かった、今日一日、お前さんとつき合う」  誰よりその報を求めていると思われる小弥太は無言であった。だが目だけが動いて、ちらりと真次郎を見ている。長瀬が唇を片方だけ、くいと引き上げた。 「違うな、小弥太。お前さんが捜してる松平家の若様は、ミナじゃない」 「えっ……?」 「はあ? 何で俺の名が出てくるんだ?」  小弥太と真次郎の声が重なる。長瀬は、二人の戸惑いには構わず、さっさと話を進めた。 「そもそも若様は、ミナより八ヵ月は生まれが早かったぞ。名は直道《なおみち》と言われたらしい。住んでいたのは神田《かんだ》で……」  ここで、長瀬は何故だか言葉を切った。真次郎と小弥太が戸惑いの表情を浮かべている。ちょいと言い辛いがと断ってから、長瀬はその事実を伝えた。 「実は既に三月ほど前、直道殿は亡くなっている。コレラだったそうだ」 「は……」  小弥太の声がかすれた。確かに明治の世、コレラは何度か流行している。しかしどうして、よりによって、捜しているその人が病に罹《かか》るのか、理解出来ないのであろう。  長瀬が、懐から取り出した紙に何やら書くと、小弥太の手に乗せた。そこには直道の生まれた年や場所、それに菩提寺《ぼだいじ》などが書いてあった。小弥太は茫然《ぼうぜん》自失といった様子で、それを見ている。真次郎はその隣で立ちすくんでいた。 「小弥太は……俺が松平の若様だと思ってたのか」 「助けて貰ったからとはいえ、いきなり見ず知らずの俺たちに、小弥太はあっさり世話になった。何かあるやもと一応調べたんだ」  すると驚いたことに、某松平家の者達が真次郎に目を付けているという話が出てきた。となると知りあいになったのを幸い、小弥太は真実を知る為、真次郎を探っていたと考えるのが正しいと思われた。  真次郎は呆然として小弥太の顔を見る。 「いくらなんでも、無謀な考えを持ったものだ」  早々に死んだとはいえ、真次郎は通事であった親の顔をはっきりと憶えているのだ。  その言葉を聞くと、小弥太は無言のまま、いきなりその場から一人離れていった。足早に立ち去ってゆくその首元が、赤くなっていた。長瀬が腕組みをしてその背を見送る。 「おや、どこへ行くのかね。元松平家の士族達に、このことを話しに向かうのかな」  元大名家の若君を華族にして、家臣であった士族達の安泰《あんたい》を願う。その夢に賭けていた某松平家|縁《ゆか》りの士族達にとって、頼りの若君死亡の知らせは一大事の筈であった。  これからどうするのであろうか。その背を見つつ、長瀬が一つ息をつく。 「かように、知識とは力を持つものなんだ」  その時、真次郎がにわかに顔をしかめると、長瀬の腕を掴んだ。 「おい長瀬、お前、あれこれ知ってて、今まで黙ってたな!」  若君の消息にいつ気が付いた、どうやって分かったのかと問う。溜息が返ってきた。 「その知らせは若君が亡くなってすぐ、つまり三月程前に、若様組が手に入れたんだ。うちの組に、遠い親戚筋に当たるやつがいたのさ」  だが松平家と言っても、大小|数多《あまた》の家が存在する。それ故、小弥太が関わった某松平家の話を聞いていても、当の巡査はぴんと来ていなかったのだ。 「だが最近偶然、小弥太の松平家と、うちの者の関わりが分かったんだ。そこで問題の若君が、既に死んでることを知った……」  あまり目出度い話ではなく、おまけに、直ぐに利となりそうなことでもない。 「実はその若様の親類も、元の藩士達には黙っててくれと言ったんでな」  だから口にしなかった訳だ。だがそう言った途端、真次郎がべしっと長瀬の頭をはたいた。 「いってぇ、何をする!」 「このろくでなし! 薄情者めが」  小弥太は必死であったに違いない。だから、さっさと言ってやるべきだったと真次郎は言うのだ。 「知るか。お前、調べられていたくせに、お人好しが!」  長瀬がそう言った途端、睨み合いとなった。横から安野が困った顔で止めに入る。 「お二人とも止めて下さいな。ここいらの餓鬼の喧嘩《けんか》じゃあるまいし。今日はかの子さんの問題を、片づけて下さる約束です」  かの子の長屋は目と鼻の先だと言って、安野は見えてきた長屋を指し示す。奇妙なほど静かな道に沿って建つその長屋には、珍しくも真っ当に戸があった。今はきちんと障子戸が閉まっている。  二人は身を離しはした。だが、物騒な身構えを解かないでいる。 「やれ、もう着いていたのか」 「あん? なんだぁ?」  長瀬と真次郎が、ここで不愉快そうに長屋を眺めた。その時すっと、長瀬がサーベル形をした佩刀の柄《つか》に手をかけた。すると真次郎も、懐からピストル銃を取り出したのだ。 「わっ、何すんですか。いい加減に止めて下さい!」  安野の声が悲鳴に近くなる。だが長瀬は、構わず刀身を抜き放った。それに対抗するかのように、真次郎が銃口を前に向け、構えたのだった。         4 「ひえっ。あ、あのっ」  安野はもはや言葉もない様子で、道に立ちつくしていた。だが、直ぐに、目を湯飲みくらいに大きくすることとなった。  長瀬は真次郎になど目もくれず、あっと言う間に、かの子のいる長屋に駆け寄ったのだ。次の瞬間、足で思い切り戸口を蹴倒した! するとかの子しかいないはずの長屋から、男が何人か飛び出してきたのだ。 「おっ……」  安野が立ちすくむと、その男達が、直ぐに長瀬を取り囲む。するとそれを見て、真次郎が男達に声をかけた。 「巡査に、三人がかりで刃物なんか向けるたあ、恐れ入る。おい、てめえら、これは何だと思う?」  その言葉は面倒くさそうであったが、男達は顔を引きつらせた。真次郎が構えている小型のピストル銃が目に入ったのだ。慌てて手にした長どすのような刃物を下ろすと、長瀬の脇をすり抜け逃げだそうとする。  そこへ長瀬が、思い切り打ってかかった。  三人いるというのに、男達は腰が砕けてしまい、長瀬の相手ではない。直ぐに全部の長どすがたたき落とされる。だがその後、三人が必死に逃げ出すのを長瀬は止めなかった。 「なんだあ、ありゃあ。士族じゃないな」  剣を腰に戻しつつ、走り去る男達を眺めている長瀬に、安野が声を掛ける。 「良かった、真次郎さんと喧嘩を続けるんじゃなかったんですね。でも今のあいつら、逃がしても大丈夫ですか?」 「安野親分、男達のことより、かの子さんの無事を、確かめるのが先じゃないかい?」 「いけないっ」  安野が慌てて戸口から中へ飛び込む。すると声が聞こえ、すぐに、まだいささか幼さの残った顔が表に出てきた。 「おやあ、本当に可愛い子だの」  継ぎの当たった着物を着ているが、かの子は士族の子らしく品もある。何とはなく安野が助力をする訳が見えたと、真次郎が笑ってピストル銃を洋装の胸ポケットに納めた。長瀬はさっさと広くもない長屋へ入り、僅かばかりの物がひっくり返された部屋の内を見る。何だか、少し傾いているように見える部屋であった。 「二度目の泥棒が入った訳か。で、今日は何を盗られたんだ?」 「また、何もなくなっていません」  かの子は戸惑っていた。長瀬がしかめ面を浮かべ、どすんと部屋の真ん中に座り込む。だがすぐ飛び上がるようにして立った。床を、ざわりと近づいて来る物があったのだ。 「ああ、この辺の長屋にゃあ、虱《しらみ》も南京虫《なんきんむし》もたっぷりいるんで、お気をつけになって」  安野が事もなげに言う。長瀬は天井を仰いだ後、しばし立った姿勢で考え込むこととなった。しかしあまり長く長屋にいると、足が南京虫と懇意になる。よって長瀬は頭を三倍ほど働かせ、今回の盗みについてさっさと完璧《かんぺき》な一つの結論を出したのだ。 「奴らの狙いは……形はないが、形があるものだな。きっと、それだと思う」 「長瀬、お前何を言い出したんだ?」  用心して、己も立ったままでいる真次郎が、正気を疑うような目で見てくる。長瀬は苦笑を浮かべ、それから己の言葉に説明を加え始めた。 「まず、二度も盗みに入られているんだから、そこなかの子さんが、誰かに何かを狙われているのは事実だ」  しかし長屋からは何も盗られていない。第一、高価な物など最初からなかったから、狙われたのは金目の『物』ではないのだ。 「そして、例えばかの子さんが知っていることを狙ってるのでもない。それならとうに当人を連れ出し、無理にでも聞き出した筈だ」  だから狙いは、ただの知識でもない。 「多分、盗人達自身にも、まだはっきりと分かってないんじゃないかな」  奴らはただ、美味しい話があるとの話を掴み、それを手に入れたくて、かの子の長屋へ押し入った気がする。 「じゃあ、その欲しいものとは、何なんだい」  真次郎に聞かれて、長瀬はにやりと大きく笑った。こんなことを思いつくなんて、我ながら大した一級巡査だと言うのだ。 「狙われた『何か』は、符丁《ふちょう》のようなものじゃないかと思う。どこかにある大金とか、貴重な知識へたどり着く為の『鍵』になるものだな」  それは知識ではなく品物だ。だが、金目の物でなくとも良い。盗人が目を付けぬ程の物でいいのだ。とにかく、これだけは大事にしろと、かの子が言われていたものだ。 「成る程……」  真次郎がうなり、皆がかの子に目を向けた。しかし、かの子は赤い顔で首を振る。 「そんなものはありません」  この言葉を聞き、長瀬は大げさな程に溜息をついた。そして、盗られる物がないなら安心だからして、帰ると言い出したのだ。何も狙われるものがなければ、怖がる事もない。  するとかの子が、直ぐに泣き出しそうになった。それでも男達が黙っていると、じきにぼそぼそとした言葉で、話し始めた。 「……母に、決して話さないと約束したの」 「かの子さん、おっ母《か》さんはもう、あんたを守ってはくれないんだ」  安野に促されると、やっと、かの子は頷いた。十四の子が独り残されたのだ。今は生きてゆく為、親分の安野が頼りなのに違いない。戸惑った様子を見せつつ、頭から木で出来た安っぽい玉簪《たまかんざし》を引き抜く。 「これだけは、なくしちゃ駄目だって言われました」  さあどうぞと簪を渡されたものの、二度目の閃《ひらめ》きは訪れず、長瀬は唸《うな》って口元を歪めた。それから簪を、ついと隣の真次郎に押しつける。こちらも困った顔つきを浮かべた後……ふと首を傾げた。それを、じっと安野が見ている。 「簪にしちゃ、変わった模様だな」  丸い木の玉に彫られていたのは、どう見ても麦の穂であった。それを聞いたかの子が、にこりと笑う。 「それは、私が生まれた所で作った麦です。今は同じ藩出身の士族が集まり、静岡の方で土地を耕していて……」  元々はかの子の家族も共に耕作していたのだが、父と兄を続けて亡くし、母とかの子だけでは、百姓を続けられなくなった。それで職を求め、東京に出てきたのだ。 「この麦は、静岡で栽培しているものです。麺麭《パン》や洋菓子向きの麦だそうで、これから増やすんだって聞きました」 「麺麭用? どんな麦なんだ?」  思わずといった様子で真次郎が聞くと、かの子が、僅かばかりの荷が入った行李《こうり》を開いた。中から古い巾着《きんちゃく》を取り出すと、一枚のあて布を取る。二重になっていた奥から出てきたのは、幾ばくかの麦粒であった。 「少し持ってきたんです。でも……ただの麦ですよ」  真次郎がそれに見入る。安野が急いで問いただした。 「この麦が泥棒の狙いかな? 真次郎さん、金になる何か特別な凄い物ですか?」 「……分からん。俺は菓子を作るのが専門だ。麦粒を見ても、判断はつかんよ」  安野と長瀬に渋い顔をされ、真次郎は苦笑を浮かべた。それから「ただ」といって、言葉を繋げる。 「麺麭や洋菓子用の麦について詳しい人がいるとしたら……小泉商会の番頭さんかな」  あの店は手広く貿易もしている。麺麭のように外国から入ってきた品のことなら、誰より心得ている筈であった。 「沙羅さんの家の店か。分かった、今から麦のことを確かめに行こう」  小泉沙羅は、真次郎とも長瀬とも親しい女学生で、親は明治になってから成り上がった正真正銘の成金だ。金と、政治的なつてと、頼りになる人脈を持っている小泉商会に、長瀬達は時々世話になっている。  だが勢い込んで出て行こうとする長瀬の制服を、真次郎が掴んで止めた。 「悪い、俺は行けん。長瀬達だけで小泉商会へ向かってくれ。今は……あそこへは顔を出せないんだ」 「あん? 今はって、何でだ?」  長瀬の顔にぐっと迫ってこられて、真次郎は顔を引きつらせる。 「だから、その……小泉商会から菓子の注文を受けてるんだが、まだ作ってないんだよ」  遅れた原因は今日の外出だ。だからシユウクリームが出来ていないのは、長瀬にもいささか責任があると、真次郎は言いだした。 「おんやまあ。俺たちよりは麺麭に詳しい真次郎が、行けないのか?」  一寸長瀬が黙り込む。すると安野が、何とかしてくれと、必死に頼み込んできた。ここで放り出さないでくれと言うのだ。 「困ったな……どうだ、一時かの子さんを風琴屋で預かろう。その内、泥棒も諦めるさ」  だが真次郎の提案は、あっさり拒まれた。若いおなごを、男の家に泊める訳にはいかないと、かの子ではなく安野が拒んだのだ。長瀬がすいと目を細める。 「じゃあ、どうしたらいいんだ? とにかくシユウクリームは、出来てないんだぞ」 「分かった。真次郎、こうしよう。俺が素晴らしい考えを思いついたぞ」  長瀬がその時、アーク灯のように目を輝かせた。 「これから真次郎は、かの子さんと安野を連れて、風琴屋へ帰れ。店に着いたらお前さんは、早々にシユウクリームを作るという訳だ。その間に俺は小泉商会へ向かう。番頭さんに事情を話し、風琴屋に行って貰おう」  そうすれば今から注文の品を作れるし、麦の話も、余人のいない場所で出来る。出来上がった小泉商会からの注文品、シユウクリームは、番頭が持って帰れる。 「我ながら何と良い案を思いついたものだ」  長瀬が自画自賛する。 「何だぁ? つまり俺は皆が一休みして話をしている間に、働くのか?」  どうしてそれが素晴らしい解決策なのかと、真次郎は問う。 「決まってるじゃないか。そうするしかないからさ」  注文の品を、作らない訳にはいくまい。そう言われ、真次郎は下を向いた。 「ああ、長瀬の誘いに乗るもんじゃないな。今日はうっかり出てきて、この始末だ」  深い深い溜息が、嘆きと共に口からこぼれ出ていた。         5  風琴屋に帰った真次郎は、かの子と安野を椅子に座らせ、己は厨房《ちゅうぼう》で必死の作業を始めた。とにかくまず、注文の品を作るのが先であった。  すると、じきに長瀬と番頭が風琴屋に帰ってきたが、思いも掛けぬ客を連れていた。 「沙羅さん、どうして……」  昼間だというのに、女学生である沙羅が番頭と共に風琴屋へ来たものだから、驚いた真次郎の手が一寸止まってしまった。 「たまたま、家にいたのよ」  おまけに沙羅は、明らかに機嫌が良くない。その理由は大層可愛い顔をして、部屋の隅にある椅子に腰を掛けていたが……長瀬は取りなす気など、さらさらない様子だ。  おかげでその後、真次郎は、長瀬への悪態をつきつつシユウクリームを作っている。 「ええと、小麦粉十六匁長瀬のあほうめ。牛酪は同じく。水が一合半で長瀬は強情で、卵が三個……」  鍋に牛酪、水、僅かに砂糖を入れる。ふつふつと沸いたら粉を一度に入れ、だまにならぬよう手早く混ぜる。しっかり火を通した後、熱を取ってから卵を一つずつ混ぜてゆく。 「くそっ、そろそろ小弥太にも、この生地の作り方を見せておこうと思ってたのに」  こうなったら、風琴屋へ帰ってくるかどうかも分からない。真次郎がぶつぶつ言いながら、手間のかかる作業に没頭している間に、長瀬は家中から椅子をかき集め、とりあえず皆を一ヵ所に座らせた。来る間に事情は話してあったので、小泉商会の番頭は、さっそく件《くだん》の麦を手に乗せた。 「麺麭用の麦とはねえ」  番頭と沙羅が麦粒を覗き込む。番頭はかの子に向き合うと、麦畑のことやら種麦のことやら、色々と質問をし始めた。それが終わると、しばし考え込んだ後で、沙羅とも話し合う。番頭は何やら頷いてから、長瀬達の方を向いた。 「面白いですねえ。どうやらこの小麦は、外国の品種と国産のものを掛け合わせた、新品種のようですよ」 「新らしく作った麦なのか!」  それでは、万年青《おもと》や朝顔の変異種のように、もの凄く高直《こうじき》で取引される代物なのかもしれない。そう言って安野と長瀬が沸き立つ。だがこの時、真次郎が、粉を振った天板に生地を絞り出しながら首を傾げた。 「おい長瀬、小麦は観賞用じゃあないよ」  いくら麺麭作りに向いていると言っても、そんなに値が張るとは思えないと言う。この意見に、番頭も頷いた。 「小麦は小麦ですからねえ。まあ麺麭に最適の、外国産の上等な小麦粉となれば、かなり高めですが」  しかし徒党を組んだ泥棒に狙われる程、高いとは思えない。大体盗品では、麺麭用の新種だと言っても、胡散《うさん》臭く見られて売れないかもしれないのだ。 「この小麦で一儲けするには、大量に、麺麭用の小麦を買ってくれるところが必要です。そんなところがありますかね」  洋菓子屋や麺麭屋が流行ってきたとはいえ、わざわざ特別な小麦を使う店は、まだ少ないだろう。番頭にあっさりそう言われ、長瀬も安野もがっかりした顔となる。 「簪の模様に気を取られたのは、考えすぎか? かの子さんが泥棒に狙われたのは、小麦のせいじゃあなかったのか?」  長瀬、安野、かの子、番頭、沙羅が、大きな調理用の机を睨みつつ、頭を抱え込む。 「小麦、小麦、小麦……」  その内、部屋に何やら香ばしい匂いが満ちてきた。シユウクリームの皮が、調理用ストーブの中で焼けてきたのだ。真次郎は今ストーブの上の鍋で、中に詰めるクリームを煮ていた。甘い匂いも漂ってくる。その時、不意に顔を上げた者がいた。  沙羅だ。 「あ……ビスキットだ」  その声を聞き、真次郎が片眉を上げる。 「沙羅さん、今日作っているのはシユウクリームだが」 「違うの。ビスキットと麺麭を作るのには、小麦がいる。そうだ、きっとそうよ」  部屋にいた者達は、訳の分からぬ沙羅の言葉に、寸の間ぽかんとした表情となっている。一番早くにその意味に気が付いたのは、一級巡査である長瀬であった。 「あ、成る程。ビスキットと麺麭か」  だが、直ぐに眉間に皺を寄せる。 「でも、まだ……」  つぶやいて、またしばし黙り込む。そして長瀬はその眼差しを、沙羅や真次郎に向けた後、じっと安野とかの子を見たのだった。  それから数日が過ぎた頃、万年町にある噂が流れた。町内に上手いことやって、大金を儲けそうな者がいるというのだ。  いわく、それにはどうやら麦粒が関わっているらしい。  いわく、儲けたらその者は、さっさと万年町を出て行くつもりで、もう引っ越す支度を始めているらしい。  そんな話が羨望の念と共に、木枯《こが》らしのごとき速さで貧民窟を巡った。だが景気の良い話題にも拘わらず、その話はごくひっそりと、人から人へと語られていった。  まるで大きな声で話し、その出来事と関わりになることを、恐れているかのようであった。だから表向き万年町の時は、いつものごとく静かに刻まれてゆく。  しかし、ある夜、密《ひそ》やかな足音が、そっと狭い路地を抜けていった。  いかに戸などない長屋でも、わざわざ道行く影を眺める者はいない。灯《あか》りを灯《とも》す金も惜しいから、ここいらの者達は、暗くなったらさっさと寝る。それだけは江戸の頃と、変わらない暮らしであった。  暮らしで大事なのは、明日一日どうやって食ってゆくかということだ。物騒な物事に己から首を突っ込んでは、生きていけないのだ。  どうせ狭い町内で何かが起これば、明日のドンが鳴る前に皆に知れ渡る。桑原《くわばら》、桑原。貧民窟にいるだけで十分であった。そのこと以上に重いものを受け止める余裕など、町の者には既にない。  桑原、桑原。そう唱える声すら、押し殺したものであった。  月は蒼《あお》く、天高くにその姿を現していた。こればかりは貧民窟にも平等に光を注いでくる。その明るさの下、万年町の東端にある、かの子の長屋の前では、数人分の影が地面に落ちていた。それは静かに長屋の戸に手を掛けると、慣れた手つきで戸を外す。誰も声を出していないのに、全員が揃って長屋の中へと消えた。  一寸の後。  夜の中に、わっと驚きの声が上がった。直ぐ、何かを打ち合う剣呑な音がする。だが長くは続かず、じきに声は途切れていった。  その内、地に響くような音と共に、入った人数以上の者達が、月下に顔を見せる。てんでに男を引きずっていた。 「おやあ、暗くてよく見えなかったが、俺が伸《の》したこの男、古河親分じゃないか」  長瀬が面白がっているような声と共に、後ろを振り向く。その顔を見てにやりと笑ったのは、鞘ごと佩刀を引き抜いていた園山であった。いささか暴れ足りないような顔つきをしている。 「こっちが片づけたのは、いつぞやも古河親分が連れていた子分です。良かったですね。一度にまとめて捕まえられたみたいだ」  井戸端の地面に、数名の男達が転がされた。それを見下ろしているのは、長瀬が率いる若様組の面々であった。本日は万年町へ、臨時の残業をしにきたという訳だ。 「古河の親分、ついに現行犯で捕まったな。言い逃れ出来ないなあ。何しろ若い娘の部屋に、盗みに入ったんだから。しかも三度目だ」  何を盗む気だったのかと、わざとらしく聞いても、古河達は黙っている。知らぬから言えぬのを知っていて、長瀬は片方の唇だけ上げた。それから、運がなかったなと古河に声を掛ける。 「まあ被害もなかったんだけど、繰り返しているからね。揃って暫《しばら》く牢屋《ろうや》に入らなきゃねえ」  ここで古河が、初めて口を開いた。 「そもそも万年町に来たのは……こうして俺達を捕まえる為だったのか?」 「まさか。ああ、人捜しのときは古河親分に世話になったね。あの時は、こんな夜が来るとは、思ってもいなかったよ」  これは本当のことだ。長瀬が小さく手を振ると、巡査達が一同をさっさと連行して行った。事はあっと言う間に終わり、ろくに騒ぎにもならなかった。大して遅い刻限でもなかったのに、辺りはひたすらに静かな月光の中にあった。闇に姿を沈めた今この時だけは、町も貧民窟とは思えぬ程に美しい。  古河達が去ってゆく影を、長瀬は一人残って見送っていた。すると、後ろから声が掛かった。 「長瀬巡査、凄い手際でありました」  近くの長屋の陰から現れたのは、安野とかの子の姿であった。長瀬が笑う。 「なあに安野親分が、上手い噂話を万年町中にばらまいたおかげさ。古河親分ときたら欲を出して、早々に盗みに入ってきたな」  今回のことは、万年町と古河をよく知っている、安野の勝利であったと長瀬は思う。本当に……苦笑が浮かんでくる程に、簡単な捕り物であった。 「古河の親分は子分共々、暫く牢に入って、この町を離れることになるだろうなあ」  時が移るのは早い。そして元々古河は、親分としては年がいった方であった。 「だから今回の件で、一気に親分の世代交代が進むさ。これで万年町はそっくり、安野親分の支配下に入ることになるな」  帰ってきても古河が、昔の縄張りを取り戻すのは無理に違いない。  月の下、長瀬がゆっくりと、安野とかの子を見た。二人にも白い光が降り注ぎ、まるで芝居の舞台にいるかのように、辺りから浮かび上がっている。上手い結果になったなと言うと、安野が大きく頭を下げた。 「偶然のこととはいえ、巡査さん達には感謝しております」 「偶然? そいつはどうかな」  ここで長瀬が安野に近づいていった。         6  大股《おおまた》で一気に間《ま》を詰め、安野の顔を覗き込む。目の前に強烈なまなこがあった。夜の中、光っているようにも見えるではないか。長瀬はその視線から目を逸《そ》らしもせずに、淡々と語りかける。 「最初にカッパライを使って、この万年町に俺達巡査を引き入れたのは、安野親分、お前さんだ」  確か理由は、かの子の長屋に泥棒が入ったからということであった。かの子を心配したのだ。だが長瀬はかの子の件にも、何か引っかかるものを感じていた。 「そもそもどうして泥棒に入られたんだ? その理由が今ひとつ、俺には分からねえ」 「えっ? それは古河の子分達が、かの子さんが持っていた麦を盗ろうとして……」  安野の言葉を、長瀬が途中で切る。 「おいおい、かの子さんは麦模様の簪のことを、内緒にしていた。亡き母上に話すのを止められてたんだからな」  だが実際、その話が外へ漏れた。かの子が金になるものを持っているらしいと、古河親分達の方へ伝わっていたのだ。  かの子しか知らない筈の麦のことが、どうして噂になったのか。 「そりゃ、当人が話したんだろうよ。かの子さん自身か、相談を受けた誰かが、わざと噂にしたんだ。それしかない。そうしておいてから、巡査を万年町に呼び寄せた」  長瀬が選ばれたのは偶然だ。たまたま人捜しをしていたから、目についたのだろう。 「長瀬さん、さっきから話がよく分からないんですが」  安野の話し方から、先刻までのもの柔らかさが消えている。長瀬が大きく溜息をついた。 「俺は、一連の出来事は、安野親分が作り上げたものだと思ってる」  ここで長瀬は、懐から覚え書き用に使っている紙を取り出した。そして今までの出来事を、起こった順番に書きつつ話をし始めたのだ。 「これは想像だが、親を亡くしたかの子さんから、安野親分が相談を受けたのが始まりだろう。その時、親分は新種の麦のことを知ったんだ」  それが全てのきっかけかもしれない。ここで安野は計画を立て、行動に出たのだ。  まずは万年町で、かの子が値打ちのあるものを持っていると噂を流す。この後かの子の長屋に泥棒が入る。  尋ね人をしている巡査のことを掴み、そのことを餌《えさ》に長瀬達巡査をかの子の持つ麦の話に巻き込んだ。  話がここまできたとき、書いたものを二人にも見せると、安野が口元を歪めた。 「こちらからの話の提供と引き替えに、巡査さんが自ら関わったんだと思いましたが」  すっぱりと言われたが、長瀬はそうだったかなと、とぼけて返す。  次ぎに、泥棒に入られてもかの子が何も盗られなかったのは、入られると分かっていたからだ。  かの子の持つ麦のことは、長瀬達が思いつかなければ、安野がなんらかの形で話題に出したことだろう。新種の麦を古河親分が狙っているという話が、あの時点で出来上がった。安野親分が支配下の万年町に、意のままの報を流すのは、たやすかった筈だ。 「巡査を操った安野親分は、欲を出した古河達を、俺たちに捕まえさせた。これで晴れて、万年町唯一の親分となった訳だ」  つまり一連の万年町での話は、安野がこの貧民窟全ての親分になるまでの出来事であったのだ。 「そういうことじゃなかったのかい?」  長瀬が問うと、安野の顔つきにふてぶてしいものが見えてきた。安野はふっと一つ笑うと語りを始めた。己は古河親分にうんざりしていたと言いだしたのだ。 「あの親分は、今の立場に満足してんだ」  子分の餓鬼達が持ってくる上がりをかすめ取れば、働かずに威張って日々を過ごせる。日頃励んでいるのは、そんな立場がなくならぬよう威張り散らすことだけだ。だが大分年上なだけに、安野は古河の存在を退けられなかった。 「でもな、それじゃあ……俺達万年町に暮らす者は、ずっと残飯を食って生きてゆくことになる」  明日も来月も来年も、十年先も、ずっと人の食い残しで命を繋いでゆかねばならない。そうと思ったら、吐き気がしたのだという。やけくそな気分にもなったのだという。  安野は明日を変える為、万年町を己一人の支配下に置くことにしたのだ。 「もう残飯を食うのは嫌だ! その残飯すら手に入らねえと嘆く声なんか、聞きたかぁねえや!」  安野が歯を食いしばった。総身が震えてきている。泣き出すかと思ったが……涙はこぼさなかった。  それは、親分がすることではない……。  そんな思いに駆られていたとき、食い詰めて万年町にやってきたかの子が、一人残された。新種だという麦を持っていたが、かの子一人では人に取り上げられるか、無駄になるか、どちらかだったろう。  安野はそれを使って、動いてみることにしたのだ。 「今はお前さんが頼りのかの子さんが、協力したんだな」  やれやれと長瀬は首を振った。己は巡査として、古河を逮捕する役を、安野から押しつけられた訳だ。むかつきはするが、泥棒は泥棒。捕まえた古河親分の処分は変わらない。 「古河親分も、今までの悪行のつけを、払わされたというところだな」  その時ふっと視線を安野から外すと、長瀬は月光に照らされた道の向こうに、目をやった。夜にしては大層明るい道を、灯りも持たずに歩いてくる姿があった。真次郎だ。 「おおい、頼んでおいた新種の麦のこと、どうなった?」 「長瀬か。ああ話はついた。あの麦は小泉商会が扱ってくれることになったよ」  ちゃんとかの子を通して、麦畑のある静岡の方へ知らせが行くという話になるという。上手くいけば静岡の士族達は、士族達の商売としては珍しくも成功した例となれる。 「おい、俺たちの麦で勝手に商売するなよ!」  安野が険しい表情を浮かべた。しかしそれを見ても、長瀬は平気な顔をしている。 「じゃあお前さん達に、売り買いする先を見つけられるのかい? 前に番頭さんが言ってただろう。あの小麦は大量に扱わないと、美味い話にならないんだ」  しかし、そんな取引をする相手は限られる。 「それに、あれは大急ぎで手放した方がいいと思ったんだよ。大体、あれを欲しがってる先と商売するのは、素人では無理だ。小泉商会のような、煮ても焼いても食えない会社に任せた方がいい」 「したたかな会社が良い? どういう意味です?」  また少し丁寧な言葉に戻って、安野が尋ねてくる。確かに安野やかの子には、露店での商いくらいしか経験がないから、不安はあるのだろう。  しかし聞かれた長瀬は、ここでぺろりと舌を出した。今まで利用されていた身としては、直ぐには訳を教える気になれぬのだ。意趣返しだと、正面切って安野に言った。 「三日くらい、己で理由を考えてろ」 「この……くそ巡査!」  初めて安野の口から、罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》が飛び出る。やっと万年町の親分らしくなった言葉遣いを聞き、長瀬は笑みを浮かべた。 「親分、万年町を手に入れたんだ。お前さんが皆を、まともに食える方へと導いてやるんだな」  それからこの先、若様組へ良き知らせをくれるよう、期待しているとも付け加えた。そして、いささか不安げな安野とかの子を残し、長瀬は真次郎と万年町から去っていった。 「そうだ長瀬、小泉商会から預かってきた物があるんだ」  月下の夜道を歩きつつ、真次郎が紙箱を差し出してくる。中には、先に風琴屋から小泉商会へ届けたシユウクリームが、幾つか並んでいた。新種の小麦という、思わぬ知らせをもたらしてくれた長瀬への、感謝の品という訳だ。 「取引が成立したら、若様組の方へちゃんと現金の礼をすると、番頭さんが言ってたぞ」  若様達はこういう余禄で、元の家臣や縁者達を養うだけのものを手に入れている。その為だとはいえ、長瀬は友をよくこき使うと長年の親友は横でこぼした。長瀬は笑って、紙箱の中を覗き込む。 「さっそくこんな物が届くということは……小泉商会は、本当にそろそろ多くの小麦が必要になると考えているんだな」  そう話す長瀬の声が、いささか硬い。その考えは沙羅が思いついたことであった。親の会社である小泉商会が扱う品で、大量の小麦の使い道といえば……軍用のビスキットや兵糧《ひょうろう》麺麭であったのだ!  かつて江戸から明治へと世が移るとき、戦闘があった。その折り、戦時にいちいち炊飯する労を省《はぶ》きたいと、軍人の為の兵糧麺麭が考案されたのだ。ビスキットも同じ用途だ。  それが今、再び脚光を浴びようとしていた。 「もしかしたら麺麭はまた、争いの場に持ち出されてゆくのかな」  戦争の二文字が頭を過《よ》ぎったのか、真次郎が顔をしかめている。そうなったら、麺麭作りに向いた国産の新しい小麦は、歓迎されるに違いない。 「だが小泉商会の番頭さんに、焦《あせ》って麦を手に入れようとする様子はなかったよ」  今日、明日の内に、世の中がひっくり返ることはなかろうと真次郎は言う。だが、二百六十年以上に及ぶ、江戸という太平から抜け出た先の明治という世は、諸事に突っ走ったあげく、何やらきな臭くなってきている。そのことだけは確かであった。 「安野親分もかの子さんも、まさか麦の話が戦争と結びついているとは考えてもいないだろうな」  万年町の皆は、とにかく毎日を食べてゆくのに必死なのだ。長瀬が歩きつつ、紙箱からシユウクリームを一つ取りだす。ちらりと友を見た。 「戦時となったら、西洋菓子屋は、こぞって軍用ビスキット製造にかり出されるのかな。もしそうなったら、どうする?」  甘い西洋菓子など贅沢品と言われて、販売禁止となるかもしれない。江戸が遠ざけてくれていた戦火が、また人々の身に降りかかってくるのだろうか。小麦は甘い菓子になるのか、兵糧麺麭に化けるのか。長瀬はいつになく真剣な光を、その目に宿していた。 「シユウクリーム危うし!」  長瀬はそう言うと、柔らかな香りの菓子を月にかざし、ぱくりとそれにかぶりついた。 [#改ページ]  アイスクリン強し         1  明治の世となって既に二十年以上が過ぎている。よってもう、御維新の折りの戦いは終わった筈であった。  道にはアーク灯が光り、鉄道馬車が行き交う世の中だ。銀座には西洋の街と見まごうばかりの煉瓦街が建ち、歩道を外国人が当たり前のように歩いている。  長きに亘《わた》り鎖国していた国は、今では海外との貿易に精を出し、強国の仲間入りを果たさんことを目指していた。昨年大日本帝国憲法が公布され、本年は第一回総選挙が行われ帝国議会も開かれる。清国との間にきな臭い噂もないことはなかったが、総じて世は平和であった。その筈なのだ。  だが、諸事例外というものはあるらしい。 「女学生の敵! 天誅《てんちゅう》っ」  大きな声がしたと思ったら、皆川真次郎に向け、振り下ろされたものがあったのだ。  その日、真次郎が座っていたのは、海外との貿易を行っている小泉商会の一室であった。真次郎はやたらと重厚な和洋|折衷《せっちゅう》の机の前で、英吉利からきた書類の説明を室長にしていたのだ。  しかし仕事中であっても、人は身に迫った危機を、不思議と感じ取れるものらしい。真次郎は突然、小麦と牛酪とチヨコレイトの輸入に関する書類を放り出し、襲ってきた棒をはっしと両手で受け止めていた。見れば凶器は何と箒《ほうき》であった。  すると、思うように打てなかったのが悔しいのか、襲撃してきた相手が目を三角にして睨んできた。 「沙羅さんじゃないか。何事だ」  真次郎は袴姿の女学生に向き合い、呆然とした声を出した。今日の沙羅は、紺《こん》の袴の上に桜色の小紋《こもん》を着ている。マガレイトに結んだ髪に紅いリボンを結び大層可愛いが……箒を長刀《なぎなた》のように構えるその姿勢は、誠に物騒でもあった。 「ふざけてるのか。この箒は上等の品だ。がっしりした竹の柄《え》が当たったら、ちょいと痛いというくらいじゃ済まないんだぞ!」  注意をし、箒を取り上げようと試みてはみたものの、当の沙羅は真次郎に瘤《こぶ》を作る気で打ち込んできたらしく、柄を離さない。その上室内にいた小泉商会の面々は、沙羅を止めることもせず、書類を抱え二人の周りの机から逃げ出す始末であった。 (ううむ、沙羅の父上は小泉商会の経営者、社主殿だ。家が成金だろうが気が強かろうが、沙羅さんは一応お嬢さんと呼ばれる身だからなあ)  加えて小泉|琢磨《たくま》は、大変沙羅を大切にしている。よって商会内に、その大事なお嬢さんの行いに文句をつける剛《ごう》の者はいないらしく、皆見事に事なかれ主義の神髄、知らぬ振りを決め込む構えと見えた。中には若い事務員|佐木《さき》のように、大いに面白がって二人の騒ぎを見ている者すらいる。 (やれ、沙羅さんは何で怒っているんだ? 勤めの初日に、土産としてシユウクリームを渡したよな。例えばあれを食べ損ねて、機嫌が悪いのかな)  真次郎は勝手な考えにふけりつつ、一寸力ずくで箒をもぎ取ろうかとも思った。だが沙羅は長刀の手練《てだれ》だから、そんなことをしたら本格的な喧嘩になりそうだ。おまけにおきゃんでもあるから、後で百回ほど文句を言われるに違いない。  真次郎は仕方なく、箒を握ったまま下手《したて》に出た。やんわりと無謀の訳を沙羅に問うたのだ。すると沙羅は剣呑な構えを続けたまま、何故だか反対に問うてきた。 「真さん、真さんは女たらしなの? 居留地で女学生に次から次へと手を出してるって、本当なの? 一体居留地へ何しに行ってるのよっ!」 「へっ? 女?」  予想外の質問に、真次郎は一寸|惚《ほう》けたようになり、箒を持つ手を離してしまった。 「何だぁ? 沙羅さんのことだから、どうせ西洋菓子のことか何かで、怒ってるんだろうと思ったのに」  言った途端、とんと小さな音がして真次郎は肩を押さえる。益々《ますます》怒った沙羅が箒を有効に使った。つまり突いたのだ。 (痛ぁ。ああこんなところ、悪友達には見られたくないな)  おなごに一撃食らったなど、例えば巡査である長瀬に知られたら後が怖い。互いがよぼよぼのじいさんになるまで、面白おかしい思い出として、繰り返し話をされそうであった。  だが、真次郎がまさにそう考えた途端、部屋の戸口の辺りから、今一番聞きたくない声が聞こえてきたのだ。 「ミナ、沙羅さんは、お前が女学生に手を出したと言ったんだぞ。思い出せよ。最近仕事で、女学校へ行っただろうが」  真次郎を、築地の居留地で付けられた『ミナ』というあだ名で呼ぶのは、ほんの一握りの人物だけであった。皆川という姓から付けられた呼び名はまるで女のようだと、真次郎が嫌がるからだ。  それを気にせず『ミナ』と呼び続けると、可愛いミナさんから拳骨《げんこつ》とピストル銃を突きつけられる羽目になる。よってほとんどの知り合いは、礼儀正しく真次郎の名で呼んだ。  しかし悪友の中には、意地でも真次郎を『ミナ』と呼ぶ酔狂がいた。その一人が今、入り口の扉の辺りで、大いに人の悪い笑みを浮かべている男であった。背の高い姿を制服である洋装で包み、物騒なサーベルを下げている一級巡査だ。 「うへ、長瀬じゃないか。何でここに……」  優しい友ときたら、勤務中であるべき日中に、わざわざ小泉商会へ顔を出したあげくに、真次郎への疑いが増すようなことを口にしているのだ。 「長瀬、何と言われようと、最近お前さんと居留地へ行ったことなどないぞ!」 「ミナ、甘いジャムだよ。先《せん》にそいつを持って居留地へ行かなかったか?」 「本当なの、長瀬さん? やっぱりあの話は本当なのね」 「話って、何のことだ?」  沙羅は益々疑いを増し機嫌を悪くしたようで、真次郎の話など聞きもしない。構えている箒が段々、木刀に見えてくるから恐ろしいことであった。 (くそ! いっそ相手が沙羅さんじゃなく長瀬だったら良かったのに!)  そうであればさっさと箒を奪い取って、打ち掛かって行ったのだ。真次郎は、余分なことを言った悪友を睨み付けた。 「妙なことを言うな! 何だよ、ジャムって……」  文句を言い出したその時、真次郎はふいに喋るのを止めた。重厚な洋風机の横で立ちすくむ。 「ジャム?」  ジャム、居留地、女学校という三つの言葉の組み合わせが、頭に引っかかったのだ。甘酸っぱい香りを思い出すと、何かが頭の底から湧き上がってきていた。真っ赤な甘味が混ぜられたのは、白くて甘くて冷たいもの……真次郎は一寸目を見開き、友を見た。 「そうか、苺《いちご》と居留地と女学生って、もしかして……」  真次郎はしかめ面の沙羅に、顔を向けた。 「待てよ沙羅さん、馬鹿なことはせずに聞いてくれ。分かったことが……」 「この上、馬鹿とは何よ!」 「わあっ、何の上だっ」  何気ない言葉が、水盤から水を溢れさせる最後の一滴となってしまった。いかなる説明よりも早く、沙羅が箒を振り下ろしたのだ。  真次郎は目の奥に、大玉の火花が散るのを見たと思った。それはアーク灯もかくやというほどに、明るかった。  そして箒の柄は堅く、打たれると大層痛い。真次郎はそのことも、ようく知ることとなった。         2  皆川真次郎は、東京は築地の居留地近くに、西洋菓子屋風琴屋を開いたばかりの、店主兼菓子職人であった。最新の西洋菓子を、居留地で外国人から伝授された者なのだ。  だが真次郎は最近、菓子を予約の注文販売のみにして、やっと始めた店売りを一時止めていた。夏を控え、風琴屋でアイスクリンを製造販売しようと計画し、その為の資金を得るべく、菓子屋とは別の仕事へ余禄稼ぎに出ていたのだ。  真次郎は幼少の頃、築地の居留地で親と死に別れ、そのままかの地で育った身だ。居留地の外国人宅へ置いてもらう代わりに雑用をこなし、長じては料理や菓子作りや立ち居振る舞いを身につけていったのだ。  そんな育ちだから、真次郎は外国語の読み書きが出来る。西洋菓子屋となった今でも、手っ取り早く稼ぐ必要が出来たときは語学の才に頼った。そして真次郎は、沙羅の父が経営する小泉商会によく世話になる。小泉商会は、成金と言われる程繁盛している貿易商で、真次郎なら何時《いつ》でも歓迎だったからだ。  もっともそこで働く時は、当人の意向に関係なく、品行方正かつ真面目に日々を送ることになる。要するに、遊ぶ余裕もない程忙しい職場であった。  だが、そうも生真面目かつ貧乏暇なしの日々を送っていたというのに、災難は遠慮なく出張してきた。真次郎が不埒《ふらち》にも遊んでいると、沙羅が怒って言った。そして箒を振り回す幻覚に襲われたと思ったら、何故だか花火が打ち上げられ、周りの景色が吹っ飛んで消えたのだ。  大層眠い時、人を呼び起こそうとする声は、憎々しげに聞こえるものだ。 「ミナ、いい加減に起きろ。刀で三枚おろしにされた訳じゃない。箒でぶたれたくらいで、いつまでも床と仲良くしているな」  闇の底から響く声は、真次郎の気にくわないあだ名を呼んでいる。 (誰がそんな女みたいな名で、俺のことを呼んでいいと言った?)  腹を立てた途端、目が覚める。すると側から、沙羅の声も聞こえてきた。 「良かった。真さん、ずっと目を覚まさないのかと思った」  真次郎が身を起こすと、室内にいた番頭や従業員らが、ほっとした顔つきを浮かべている。苦笑している者も多い。そして悪友長瀬ときたら、言いたい放題であった。 「さっさと起きろよ、ミナ。沙羅さんが心配するじゃないか」 「俺が倒れたのは、沙羅さんが箒で打ったからだと思ったがね。痛てぇ、何でこんなことをしたんだ?」  文句を言いつつ頭を触ると、案の定瘤が出来ている。口を歪めていると、長瀬が懐から何やら取り出し、真次郎と沙羅に見せてきた。 「多分沙羅さんは、これを見て怒ったんだな。違うか?」  すると横に来た沙羅が、小さく頷いている。真次郎は見慣れた紙の束に目をやり……首を傾げた。 「なんだ新聞じゃないか。どうしてこいつのせいで、俺が引っぱたかれるんだ?」  風が吹くと桶屋《おけや》が儲かるという。最近新聞を読むと、巡り巡って真次郎が打たれることに決まったのだろうか。ならば大層危険な話で、帝都から逃げた方がいいかもしれない。  真次郎は渋い顔つきで紙面を覗き込んだが、長瀬が眼前に広げたのは馴染みのない新聞だったので、どうも読みづらい。新聞名を確かめ眉を顰めた。 「沙羅さん、これ多報《たほう》新聞じゃないか。こんなもの読んでるのか?」 『多報新聞』といえば、近年創刊された新顔だ。書きたい放題で、恥ずべき内容多き昨今の新聞の中、少し前までは堅い記事が多いので知られていた。それが最近、売れれば構わないといった感のある記事が増えている。長瀬が言うには、最近の多報新聞の記事が真実となる為には、犬に空を飛んでもらわねばならぬらしい。  真次郎の言葉を聞いた沙羅が、膨れた頬をした。 「ええ私、多報新聞読んだわよ。でもね真さん、私はこの記事の中に、書かれたりはしてないわ」 「は? 書かれる?」  沙羅が新聞を広げ、その一ヵ所を指さす。真次郎は机の脇に座り込んだまま、思わず記事を拾い読みした。 「なになに……読者は楽土というものを、見しことがあらんや。常ならばこの世と別れ、三途《さんず》の川を渡りし先に見いだすものなれど、昨今は、さばかりとは云《い》えず」 (はて、何が言いたいんだろう)  新聞らしい文体の記事は、自己の主張を連ねていた。 �さて、読者は居留地という場所を存じおり候や。明治の世となりて後、横浜にも築地にも、ここは日の本の内でありしかと疑わん程の景色をなしたる町が、姿を現しけり。貧民街を抱えし街にあるとは、とてものこと考えること能《あたわ》ざる地なり。並びたる洋風の建物、どれもが華族様のお屋敷と見まごうばかりにて、絢爛《けんらん》たる作りなり。  その為であらんか、この地に来たれば楚々《そそ》としたるが本道のおなごまで、外つ国の風《ふう》を真似《まね》、男を真似、高等なる教育を得るべしと、親に教育費をば過分に出さしめる� 「おお沙羅さん、俺じゃなくて女学校のことが書かれているぞ」  その言葉に対する返事は、見事なばかりに短かった。 「先を読んで」 �そうも高直な教育費をかけたれば、女学生らは大層、世と人の為になりし学問をば修《おさ》めるものと思われしものなり。しかし実態はさにあらず、築地に居を構えたる英吉利人パァク女教師の女学校にては、日の本に伝わる伝統の料理なぞ眼中になく、西洋かぶれの料理を教えたる模様なり。  その上女の園に、わざわざ学外から臨時の教師、しかも若い男を呼びたるとは、いかなる考えのことにあらんや�  真次郎はここで、短く「えっ」と漏らした。思わず読むのを止めると、その先をさっさと沙羅が読み進める。 「講師は、西洋菓子店風琴屋主人、皆川真次郎と申す者なり。この若い男、数多の女学生のただ中に一人入りて、料理をば伝授せんと言う」  真次郎は思わず、新聞から身を離した。 「ひえっ、どうして俺の名が……」  一介の民である己のことが、いきなり新聞に載るなど、およそ理解出来ることではなかった。呆然として声を途切れさせた真次郎の向かいで、記事を読み続ける沙羅は、誠に不機嫌な顔つきだ。 「漏れ聞こえたるところによれば、先日皆川氏は、女学校で甘きアイスクリンを作りし模様なり。この時、氏は甘き物を特別に、アイスクリンに練り込みたる由。常にない品なれば、女学生個々に作り方を教えんと皆川氏は云い、まずは紫堂子爵《しどうししゃく》家にも繋がる麗しの女学生に寄り添い、その手を取るなり。  まさに立場を利用したる悪業なり。氏が手を取りし女学生は、幾人にも及びたりと噂立つ。皆麗しきこと、花の如き佳人《かじん》ばかりなれば、皆川氏は手を握りし折りに、何事かを耳元で囁《ささや》きたりと聞く。  ああ、日中の出来事のみに終わりしとは思えず、嘆かわしきことなり。居留地はいかなる者の為の楽土であらんや」 「なんと新聞の奴、とんでもねえ……ないことないこと書きやがって」  沙羅の目がつり上がって見えた訳が、ようやく分かった。知り合いである真次郎が、己の通う女学校で不埒な行いをしたとあれば、機嫌の良くなる訳がない。真次郎は苦しげな顔を周りに向け、言い訳を始めた。とにかく妙な振る舞いをした覚えは、全くなかった。 「沙羅さん、ここに書いてあるのは先日の菓子教室のことだ。居留地の女学校でパーク先生が臨時に開いた、菓子作りの授業だ。あれのことだよ」  沙羅も教室にいた筈だと言ったのに、聞く耳を持ってくれない。消えぬ疑いを感じ取って、真次郎は溜息をついた。 「アイスクリンの作り方を教えた時、苺のジャムを特別に混ぜ込んだだろう。あれは沙羅さんが、ジャムが好物だというから作ったんだぞ。日頃助けてもらっていることへの感謝だ。あの時ちゃんと、そう言っただろうが」 「……苺の、ジャム?」  沙羅は三回ほど首を傾げた後で、ちらりと新聞を見る。一寸の間の後、ようやくぽんと手を打った。どうやらやっと思い出したらしい。 「あら、この記事、あの時のことなんだ」  それから手の中の箒に目をやると、小さく舌を出してから着物の後ろに隠す。三角形の目は何とかまともな形に戻ったが、それでもまだ納得《なっとく》出来ないことがあるらしく、真次郎の方へ顔を向けてきた。 「じゃあ真さんは、紫堂子爵家の志奈子《しなこ》さんの手を、握っていない訳?」  もう一度記事に書いてあることを、確認してくる。真次郎は眉をひょいと上げた。 「志奈子さんて、誰だ?」 「ほう知らないのか。というか、覚えていないのかというか、ミナは間抜けだというか」  その時横から、長瀬が茶々を入れる声がした。ずっとにやにやしながら話を聞いていたのだが、ここで世間知らずな真次郎に、説明を買って出たのだ。紫堂家は元西国の小大名某家であるのだという。それ故今、子爵を名乗っている。紫堂志奈子はその当主の姪御《めいご》であった。  真次郎は立ち上がると長瀬を睨んだ。 「妙に詳しいな。どういう訳だ? 大体巡査のくせして、どうして長瀬が昼間っから、仕事もせずに小泉商会にいるんだ?」  それが理解出来ない。わざわざ真次郎をからかいに来たのであれば、承伏しかねることであった。真次郎が拳固を握るのを見た長瀬が、口元を歪め椅子《いす》に座った。 「けっ、馬鹿なことすんな。その志奈子お嬢さんの遠縁が、巡査の中にいるんだよ」  そう言った後、小泉商会に来た訳はこれだと、新たな新聞を一部取り出して見せる。日付は違うが、やはり多報新聞であった。新聞をめくると中の紙面に、士族について書かれているのが分かった。 �読者は御維新後、元武士たる士族の零落《れいらく》した状況を、いかにご覧あるや。中でも元旗本の若君や家老職の家の君など、半端に身分高き方々のなれの果ては哀れなり。商いには向かず力仕事はこなせず、いかにして暮らしを支えしことか、寒心を覚える程にてあらん。ああ、御維新なかりせばと元武家らは日々嘆き、帝都となりし地の空に、呪詛《じゅそ》にも似たる繰り言を吐き出したるなり� 「おやおや、凄い書きっぷりだ」  真次郎は一寸読むのを止め、沙羅と顔を見合わせる。記事はその後も、好き勝手な調子で続いていた。  士族は御維新後就職先に困ったあげく、身分に釣り合わぬ安月給の警察に入り、巡査となった者が多いという。けれども警察の幹部は薩摩《さつま》、長州《ちょうしゅう》出身の者が多いので、元の幕臣には出世栄達の望みはなく哀れだと続く。今更記事にするのも古い話を、多報新聞は書き連ねているのだ。 「確かに記者様から見りゃあ、巡査の給料は驚く程安いんだろうな」  長瀬は皮肉っぽく笑っている。 「養っている元の家臣もいるし、まあ貧乏なのは本当だ。だがなぁ、我らは何とか暮らしてゆくのを先決としてるから、少なくとも、遥か上にいる上司がどこの出身かなんてことは、構っちゃいねえよ」  嫌みを言われようが見下されようが、ここまでの記事であったら、長瀬は気にもしなかったのだ。だが。 「この記者、この後、鬱陶《うっとう》しいことを書きやがった」  そういう長瀬の目つきが、剣呑なものになっている。真次郎が再び記事に目を落とすと、『若様組』という字が目に入ってきた。 �それでも官吏となりし者は、困窮したる士族の内にては恵まれし身の上なり。元若様の警官連中は、下《した》っ端《ぱ》にて大して役には立たぬ身にもかかわらず、お上《かみ》の威光を笠に仲間を作り肩で風を切るなり。若様組などと古《いにしえ》の身分を名乗り、密かに様々に勤めの他に金を稼ぎしものなり。巡査が渡世者の如く振る舞い、庶民より金子《きんす》をかすめるとは悪辣《あくらつ》なり。ああ、今は末法《まっぽう》の如き世でありしか�  最後に署名はなかった。長瀬が渋い表情をして言う。 「書いた記者の名は分かってる。役立たずだと言われようが、巡査に隠し事をするのは難しいのさ」  書いた者は丹羽《にわ》という記者だと、長瀬は不愉快そうに口にした。 「しかしだ、この記事のおかげで暫く若様組で集まったり、内職をしたりするのを控えなきゃあならん。上の者達に、痛くもない腹を探られちゃたまらんからな」  だがそうなると減収間違いなしだ。おまけにこの記事を目にした若様組の園山巡査が、大層怒ったのだという。それを聞いた真次郎が、同情するように友を見た。 「園山さんは生まれと顔が良くて、気性がとんでもなく荒いからなあ。しかも武道の達人だときてる」  一旦怒りだした園山を止めるのは、大変なのだ。おかげで長瀬は今日、助っ人の欲しい用があるにもかかわらず、若様組の巡査達を誘う訳にはいかなくなった。手の空いた者皆で、園山を押さえているからだ。 「それで?」 「俺はこの記事を書いた記者に、どこから若様組の話を聞いたのか確認したくてね。今から記者に、会いに行く気なのさ。それでミナ、お前さんも同じく被害に遭ったようだし、同道しないかと誘いに来た」  長瀬は、これ以上若様組について書かれるのを、止めに行くつもりなのだ。ついでに憂さ晴らしもする気らしい。つまり多報新聞に押しかけるのだ。 「こういう、人の恨みを買うのに忙しい新聞社には、小一時間ほど説教を食らわしてやらねばならんと思わんか」 「おお、それは同感だ」  真次郎は大きく頷いた。新聞は昨今、どれも売り上げ部数を大いに伸ばしているという。相手が大物だろうが政治家だろうが、構わずその者についての記事を載せる新聞もあれば、すこぶる怪しい話が、恥ずかしげもなく大仰《おおぎょう》に書かれていることもある。熱気と根性と金が、紙面の裏に見え隠れしていた。  単に読む側であれば面白くもあろうが、無理矢理登場させられては敵わぬ世界だ。あげく箒で殴られても、沙羅に報復することなど出来ない。よって確かに、他の憂さ晴らしが欲しいところであった。 「とはいうものの、だ。長瀬、俺は今勤務中なんだ。出かけることは出来んよ」  するとそれを聞いた沙羅が、箒の柄を有効に使用したお詫びをすると言いだした。 「私が、半日の休みを真次郎さんに下さいって、お父様に頼んでみるわ」  沙羅はするりと事務室から消えると、幾らもたたぬうちに戻ってきた。何故だか急に、室内が静かになったので見てみれば、沙羅は後ろに何と父親を連れていた。 「これはこれは。本当に長瀬巡査が真次郎くんの所へ来ていたのか。二人とも久しぶりだ」  小泉商会を背負って立つ高名な社主は、四十代。精力的で世事に長《た》けた大男で、大層様子の良い風貌《ふうぼう》である上に、仕事をしている時は落ち着いた物腰だ。しかしその本性はといえば……金に厳しく娘に甘い、筋金入りの成金であった。 (琢磨社主ってば、沙羅さんが男の知り合いの為に休暇を願ったと知って、仕事を放りだしたな。急いで相手の男が誰か、確認に来たんだろう)  室内にいたのが知った顔で、既に身元を調べ済みの二人だと分かった為だろう、社主は目に見えて安心した顔つきとなった。沙羅は親のお節介が不満のようで、口を尖《とが》らせている。 「お父様、私はちゃんと、真次郎さんの休暇願いだって言ったわ」  だが真次郎と長瀬は、社主の心配を不満に思ったりはしなかった。小泉家には、ろくでなしから狙われるに足りる程の金がある。沙羅はその家の娘であった。  社主は不満顔の娘を宥《なだ》めつつ、ひょいと真次郎に問うてきた。 「で、早引けの理由は?」  横にいた長瀬が社主に新聞記事を示し、大まかな話をする。すると何が面白かったのか、社主はにたあと笑った。 「おやそうか。新聞社へ行くのか。そういうことならば構わない、休みなさい。何にせよ、娘の願いは聞いてやらねば」  簡単に、真次郎の早引けを承知してくれたのだ。 「沙羅さん、おかたじけ」  二人は新聞社へと向かうべく、早々に小泉商会の事務室から出てゆく。だが一旦事務室を後にした真次郎が、重厚な扉の外からひょいと振り返って、社主といる沙羅を見た。困ったように眉根を寄せ、問う。 「なあ沙羅さん。分からないことが一つ残ってるんだが」 「なあに?」 「紫堂子爵家の志奈子さんとやらは、どんなお人だったっけ?」 「……真さん、長瀬さんに置いて行かれるわよ」  沙羅は何故だか、志奈子のことを教えてはくれなかった。         3 「銀座に来ると、居留地のことを書いた多報新聞の記事を思い出すな。確かにこの地が貧民窟と地続きとは、どうも思えないや」  長瀬と銀座の煉瓦街へ着いたとき、真次郎が一つ息を吐いた。  両側にずらりと、二階建ての西洋風煉瓦建築が並ぶ十五間の通りには、人力車や鉄道馬車が行き交っている。日の本には珍しく歩道と車道が分けられた道には、柳《やなぎ》の木と街路灯が並び、そこを洋装の外国人婦人やら日本人婦女子がめかし込んだ姿で、店の内を眺めつつゆったりと歩いていた。  洒落ており、気取りも気概も感じる場所だ。貧民街のことも江戸の時代も、日本であることすら余り感じさせない裕福な光景であった。その中を歩く長瀬と真次郎もまた洋装であり、妙にしっくりと街に溶け込んでいる。世の中変わったものだと真次郎が言うと、長瀬が口の端をくいと上げた。 「ミナの西洋菓子店風琴屋だとて、江戸の頃には考えられなかった店じゃないか」  そう言われれば、頷くだけであった。真次郎達は間違いなく、江戸から生まれ変わった明治の世の一員なのだ。 「そういやぁ新聞もまた、明治の世に広がったもんだよな」  昔にもよみうりくらいはあったがと言い、長瀬は煉瓦街の外れにある建物に目を向けた。やや細い道沿いに、多報新聞と書かれた金字の看板が見える。大通りに面してないから、銀座にしては賃料が安めの場所であろう。だがそれでも、外見はなかなか凝っていた。窓は洋風の上げ下げ窓で、入り口には細いとはいえ円柱まであり、洒落ている。  だが正面扉から新聞社を訪ねた真次郎達は、驚きを浮かべ、直ぐに立ち止まることとなった。理由は室内の豪華さでも、机の上の乱雑さでもない。 「おやま、見ろよ長瀬、何と先客がいるぞ」 「ほう、こりゃ凶暴な御仁だなぁ」  畳の部屋ではないので、しかとは広さをつかめぬものの、新聞社の室内は結構広かった。今その職場の机の間を縫って、仕込み杖《づえ》から刀を抜きはなった袴姿の男が、洋装の若い男を追いかけまわしているではないか。室内には他に人が何人もいるのに、皆、刃物を自在に扱う暴漢を止めかねていた。 「おっ、巡査さん、来てくれたんですか、止めて下さい、助けて下さい。暴漢です」  長瀬の制服姿を見た新聞社の者が、引きつった顔で訴えてくる。追われている男の上司で、杉浦《すぎうら》だという。だが当の長瀬は誠に落ち着いた様子であった。 「日頃、人をあげつらう妙な記事ばかり書いていると、新聞社にこういう珍客が増えるのだろうなぁ」  ゆったりと腕を組み、頷いている。 「あの袴男、新聞にどんな記事を書かれたのかは知らぬが、気の毒なことだ。これは新聞社側が悪い。詳しいことは知らぬが、絶対にそうに違いない」  真次郎も勝手に断言する。 「うちは新聞社です。あれこれ書くのが商売。それをとやこう言われても……」  杉浦は抗議の声を上げかけ、ふと口を閉じた。記者は逃げまどっており、論議などしている時ではないと思ったのであろう。真次郎は杉浦の言葉に全く同意は出来なかったが、それでも友の方を向き、いかにも気が乗らぬ様子で言葉を付け加えた。 「しかしだ、長瀬は巡査なんだよなあ。ここであの記者を助けなんだら、至らぬ巡査の例として、また記事を書かれ非難されるな」  巡査というのは誠に厄介な立場なのだ。たとえ新聞記者であっても、斬《き》りつけられている者は、助けなくてはならぬと決まっている。 「不便なことだ」  さて今日はどうするんだと、真次郎が気楽に問う。長瀬はちらりと襲われている記者を見た後、何とも嫌々答えた。 「仕方がないなぁ、善行を積んでみるか。ミナ、居合わせたが不幸と思って手伝えよ」 「俺は巡査じゃないんだがなあ」  真次郎と長瀬がもたもた話しているうちに、室内では机が刃物傷を受け、書類が吹っ飛び、益々危うい状況となっていた。刃物を振り回す四十ほどの男は、ついに記者を壁際へ追い詰めていた。鰺《あじ》の代わりに三枚にされかけ、記者は顔をまっ赤にしている。この一件は今にも、次の新聞の一面記事になりそうであった。  ここで長瀬が、面倒くさそうに暴漢へ声をかける。 「おい、そこで暴れている袴姿のお前さん、ちょいと止まっておくれな。俺は巡査だ」  巡査たる者の立場を考え、悪行は一時待てと長瀬は言ったのだ。ふざけた言葉ではあったが、何しろサーベルを携《たずさ》えた制服姿の巡査が、目の前で止めているのだ。大概のことならば、それで事は収まるはずであった。  だが暴漢は一寸目を細めたものの、刃物を引っ込めなかった。壁際で見ていた真次郎は片眉を上げると、室内の隅へ目をやった。書類の束を抱え避難している新聞社の男に、素早く騒ぎの原因を問う。 「暴れている御仁は三津谷《みつや》と言うそうです。あらぬ事を新聞に書かれたあげく職を失ったと言い、新聞社に乗り込んで来まして」  まだ何時のどういう記事によるものか、確認は済んでいない。しかし振り下ろされる刃は、待ったなしであった。 「おやおや、そいつは全く新聞社の方が悪いな。おい洋装の記者殿。ええと、丹羽さんというのか。いっそここで、お詫びに斬られてみないか?」  真次郎が解決案を提示すると、丹羽は逃げまどいながら、「馬鹿野郎!」と言い放つ。 「文章は正義だ。俺は悪くない。同意出来ない!」  丹羽が大見得を切った途端、新聞社にいる正義の同志達は、丹羽から更に遠くへ逃げて行った。長瀬は大げさに溜息をつく。 「ああ面倒くさい。三津谷という御仁が初志貫徹してから、この場に来たかったな」 「巡査さん、それが警察の言うことかっ」  丹羽が走って逃げながら、顔を引きつらせている。その時、真次郎は急に、にっと笑うと、長瀬の肩に手を掛けた。 「おい、一つ貸しを作ってやろうか」 「おお、この場を収める方法を、何ぞ思いついたのか? 頼む。今月の末くらいまでは、借りがあることを覚えといてやるから」  友の確約を得ると、真次郎は机の上から一枚紙を拾い、大きな字で何やら書き付ける。それを前面に掲げ、走り回っている二人の横の方から見せた。そして記者の丹羽に、三津谷へ謝った上、もう馬鹿な記事は書かぬと約束するよう促したのだ。 「だがお前さん、意地っ張りみたいだからな。一方的に謝るだけでは面白くないだろう。素直に謝罪すれば、代わりに最新の体験をさせてやるよ。世の中の誰も、こいつは好きだからな」  紙を見た丹羽は思わず動きを止めた。興味津々なのか、一寸恐ろしさを忘れたかのように、目に光を宿している。真次郎がにやりと笑い言葉を重ねた。 「丹羽さん、面白い体験記事が書けるぞ。そうすれば新聞の部数が伸びるぞ」  その一言が場を動かした。 「分かった、謝る」  かくて丹羽は肩から力を抜き、笑みを浮かべて三津谷を見たのだった。まあ本音を言えば、記事のこと以上に、切っ先鋭い刃物から我が身を守ろうという本能も働いたのかもしれない。気が付けば今し方まで掲げていた正義の御旗は、いつの間にやら下ろされていた。 「いやその三津谷さん、申し訳ない。そろそろ謝らねば拙いと、思っていたところでした」  長瀬は真次郎が何で記者を釣ったのか、紙を見て確かめようとした。だが意外にも、丹羽がさっと真次郎に駆け寄ると、紙を取り上げ懐に隠してしまう。記事になる前に、その内容が噂になって流れたら困るというのだ。他紙に先を越されるのが心配らしい。 「やれ、こんな時でも、記者根性に溢れているんだな」  これでは謝罪に気持ちが入っているかどうか心許ないと、長瀬が口を尖らす。しかしとにかく、とんでもない記事を書いたことについて、丹羽が三津谷に謝ったのだ。 「ついでに多報新聞が、失業した三津谷さんに仕事先を見つけてやれば、事は終わるんじゃないか?」  ここで長瀬が勝手な意見を言い出した。 「何なら多報新聞が、三津谷さんを雇ってもいいぞ」 「何でうちが、こんな……」  尻込みする杉浦を、長瀬が睨む。たまには人助けをしろと言った。 「情けない記事を書いて、人に迷惑ばかりかけていると、そのうち警察で話を聞くことになるかもな」  そう言うと、まだ不満げな杉浦に、懐から新聞を取り出し見せた。 「実はな、俺が今日、この新聞社に来たのは、暴漢から諸君を守る為じゃあないんだ」  本当は新聞社に文句を言いに来たと真実を告げ、巡査についてあれこれ書かれている記事を、眼前で指し示す。杉浦の顔つきが強ばった。 「善行をなせば、いきなり怒らず、この下らぬ記事について、ゆっくりと話を聞いてやろうさ」  すると、その有り難い言葉が余程心に染みたのか、杉浦はちらりと三津谷を見てから、諦めたように溜息をつき頷いた。就職の相談となれば若い丹羽ではなく、上司の杉浦の役目だから、残業の覚悟を決めたのかもしれない。長瀬がにたりと笑った。 「おお、これで就職出来るだろう。良かったな、三津谷さん」  この一言で事が収まったとみたのか、室内の皆がほっとした表情を浮かべた。やれやれという言葉が漏れる。椅子に座る者も出てきた。すると長瀬が、いささか大仰に嘆いた。 「ああ、俺ときたら多報新聞の記者をやりこめに来て、当の記者を救ってしまった」  憎たらしい相手までも助ける己の器量の大きさが、嫌になると言う。善人なのが詰まらぬと首を振った。 「巡査として優秀すぎると、時々面白みに欠ける事態になるな」 「たわけたことを言う」  真次郎があっさりとその言葉を切り捨て、丹羽の方へ向かった。先程丹羽に約束した、最新の体験について話をする気だったのだ。  だがその時、壁際で突然、丹羽が顔を引きつらせた。真次郎が不意に丹羽の襟首《えりくび》を掴むと、もの凄い勢いで扉の外へと押し出したのだ。 「ひっ」  その時、真次郎達が今し方までいた場所に、何かが煌《きら》めいた。謝り、その上職まで差しだそうとしている相手に対し、三津谷が刃物を振り下ろしたのだ。 「何する気だ!」  長瀬が叫ぶ間に、三津谷は再び、逃れた丹羽へ猛然と突っ込んでゆく。悲鳴が上がった。咄嗟に真次郎が机の上にあった分厚い帳面を、三津谷に投げつける。それは腕に当たり、僅かに動きを止めた。その間に、立ちすくんでいる丹羽の尻を、真次郎が蹴飛ばした。 「戸口へ走れっ」  必死に駆け出す丹羽の背を、直ぐに三津谷が追う。刃が振り上げられていた。広く天井が高い西洋建築の内であったのが、災いとなろうとしている。真次郎が三津谷の足下へ、今度は椅子を投げつけた。それを三津谷は蹴飛ばし、強引に刃物を振り下ろした。  がきりと、不吉な音が響く。真次郎が息を吐いた。皆の目が、室内のほぼ中央に集まる。  長瀬がサーベルの鞘で、刃を受け止めていた。  傷ついた鞘を両腕で支えつつ、長瀬は目の前の男にきつい眼差しを向ける。力を込められた双方の腕が僅かに震えていた。 「三津谷さん、お前さん一体何の用で、この新聞社に来たんだ?」  今更とも思えるこの問いに、答えはない。しかしこれこそ肝要なのだと言い、長瀬はむき身の刃を押し返しつつ、三津谷を見据えた。 「あんたは馬鹿な記事のせいで仕事を失ったという。だから腹が立つ。そういう話なら分かる」  だが謝罪はなされ、給金の高い職が目の前にぶら下がっていた。なのに、その話を聞いた直後、三津谷はまた暴れ始めたのだ。 「妙だよなあ」  話がどうにも噛み合わない。ここで真次郎が壁際から、三津谷を鋭く見る。 「三津谷さんはさぁ、まるで事が収まっちゃ嫌みたいに見えるよ」  口の右端をぐっとつり上げる。 「もしかしたら端《はな》から、この記者を……丹羽さんを殺す気で新聞社に来たのかな」  三津谷は黙ったままであったが、腕に一層力が入った。それが答えと取ったのか、長瀬が眉を顰める。だがそれ以上の事情を知るには、三津谷の口から話をしてもらわねばならない。 「ここでこいつを押さえ込み、白状させるしかないかな」  そう言うと、長瀬は一旦刃を跳《は》ね返して間を取った。そして鞘からサーベルを抜き、構え直す。真次郎が猫のように静かに動くと、三津谷の背後に回り込んだ。二人は三津谷を挟《はさ》むように立ったのだ。  途端、三津谷の態度が変わった。  手妻のように短刀を懐から取り出し、それを左手で振り回したのだ。三津谷は悲鳴を上げた社員達の方へ突っ込むと、逃げ遅れた者を突き飛ばし一気に逃走にかかった。 「止めろっ」  長瀬はそう叫んだが、今まで三津谷から逃げ回っていた新聞社の者達が、今更暴漢に立ち向かう筈もない。三津谷はあっという間に戸口から煉瓦街に出ると、走ってきた馬車に飛び乗り去って行く。 「や……これは追いかねるな」  表に走り出た長瀬の後ろ姿に、真次郎が声をかける。悪友は面白くもなさそうに頷いた。華やかな通りには、騒ぎ一つ起こっていない。長瀬はそれからゆっくりと新聞社を振り返り、顔を顰めた。         4  それから一時間の後、長瀬と真次郎は新聞社を出て、煉瓦街の歩道を歩いていた。 「いや、新聞記者というものが、ああも奇妙な人種とは思わなんだ。多報新聞の記者だからか? それとも記者は皆、あんな風なのかね」  それが、今回初めて新聞記者とじっくり話した真次郎の意見で、隣で長瀬も頷いている。三津谷が逃げた後、事の真相を掴む為、長瀬と真次郎は新聞社の一室で、記者達にあれこれ話を聞いたのだ。だがその反応は、蒟蒻《こんにゃく》と戦っている心地がするものであった。 「三津谷さんに対し、多報新聞社の記者が謝り、かつ仕事を世話すると言ったんだ。なのに何故あいつは、記者を襲い続けたんだ?」  三津谷が去った後、新聞社へと戻り、長瀬は改めて問うていた。だが丹羽を含め多報新聞社の社員達は皆、分からぬの一点張りであった。 「三津谷さんは、一旦爆発させた己の癇癪《かんしゃく》を、抑えられなかったのでしょう」  これが杉浦の意見だった。 「あのねえ、そもそも私は、いい加減な記事など載せていませんからね」  丹羽が主張する。刃物が眼前からなくなると、記者達は急に元気になっていた。 「なるほどねえ。では三津谷さんの怒りを買った記事はどれなのか、見せてもらえるかな」  長瀬が聞くと、これには調査中という答えが返ってきた。 「調査中とは、どういうことだ? 人の人生を揺るがした記事がどれなのか、分からないとでも?」  長瀬と真次郎は顔を見合わせ、口元をひん曲げる。記者達は一寸黙り込んだが、そのうちいかにも不本意そうに、真実を口にした。 「多報新聞は以前、役人や成金の者の不正など堅い記事を、何回か載せている」  その間に三津谷のことも、記事になったのかもしれないと言い出した。 「いつの記事だ?」 「三月以上は前だな」 「おい、三津谷さんは何ヵ月も怒っていたっていうのか?」 「いや、最近の記事にも、怪しいものはあるんだが」  そちらは、三津谷との関係がはっきりしないのだと、記者は言い始めた。 「何故かというと、その……最近の記事の元になった手紙には、関係者の名が書かれていないことがあるのでな」 「は……、手紙?」  真次郎達が目を見開く。 「もしかしてこの新聞社では……匿名《とくめい》の手紙ってえやつを記事の参考にしているのか?」  それは己の名は伏せた上で、勝手な主張をした文を、新聞社へ送りつけてくるものだ。つまり送って寄越した人物の名は、新聞社でも分からないことになる。  勿論政府批判などをした場合、名を書いては身の安全をおびやかすことはある故、匿名という行為も有効なものではある。  だが匿名で個人のことをあれこれ言えるようになると、途端に胡散《うさん》臭い感が漂い出す。ここで長瀬が件の新聞記事を、杉浦に見せた。真次郎も己の名が出ている別の新聞を出し、指し示す。 「では、これらの記事も、匿名の手紙が元なのか? この記事は事実無根なんだぞ」  ひょっとしてこの多報新聞は、憶測で適当なことを書いているのかと長瀬が言いだし、誰がこの記事を書いたのか聞く。名乗り出たのは丹羽と林《はやし》という記者で、逃げ隠れはしなかった。しかしその言い分は納得出来ぬ、しかも頑としたものであった。 「事実無根な筈がない。ちゃんと若様組を名乗っている者がいると、聞き込んだぞ」  女学校で西洋菓子を作ったのも分かっている。それくらいは調べたらしい。 「それに、どうして手紙を疑うのだ。切手代がかかるのに、わざわざ新聞社へ知らせてくれた話だぞ」 「本人の言葉より、赤の他人の言うことが正しいっていうのか」 「誰しも、己の不利となる事は言わないものだからな」  この様子では、記者達は手紙で送られてきた話の裏付けを、簡単にしかしていないらしい。つまり記者は、名前も分からない者の意図のままに若様組や居留地の女学校について、紙面に載せたことになる。 「多報新聞は、恐っそろしいやり方をしてるんだな」 「何がだ? 新聞社へ送られてくる手紙は、どんどんと増えている。それだけ支持されているやり方なんだ」  杉浦は事の危うさへ、全く注意を向けていない。むしろ手紙が来ることを喜んでいるようであった。真次郎は深い溜息をつき、長瀬と目を見合わせる。 (一体誰がどんな考えを持って、新聞社へ手紙を送ったんだ?)  若様組の名や女学校の授業のことは、書かれた当人達にとっては一大事だ。だが、世間の目で見れば大した出来事ではない。しかしその割には、どちらも他人が知りにくいことでもあった。  なのにどうやって、その事実を掴んだのか。 「とにかく、匿名の手紙を見せてくれ」  長瀬が頼む。すると驚いたことに、杉浦がうんと言わなかった。 「新聞は、話を提供してくれた相手を、守るべきなのだ」  山のように柔らかき話題を提供しているにもかかわらず、新聞社というものは時に、お堅くなるものらしい。長瀬と杉浦は、ここで睨み合いとなった。長瀬がサーベルに付いた飾りを、ちゃらりと鳴らしてから迫る。 「巡査が出せと言っているのだ。出せ!」 「おう、脅《おど》す気か。巡査は権力を笠に着て威張っているという、あの匿名の手紙はやはり正しかったのだな」 「ふざけたことを言うな!」 「かくなるうえは、絶対に見せはしない」 「上司殿、アイスクリンの記事、連載にしてもいいぞ。部数増加間違いなしだ」 「いかにアイスクリンと言われても……ア、アイスクリン?」  杉浦が言葉を止め、声を挟んだ真次郎の顔を見つめた。真次郎はそこですかさず、事の次第を告げる。 「先程丹羽さんと、ある約束をしたのを見ていたよな。それは新作アイスクリンについての、独占記事を書かせるという話だったんだ」  世の中の者は新し物好きだし、ことにアイスクリンは好まれる。新作アイスクリンの記事が載るとなれば、好評を博すであろうと言って真次郎は笑った。すると杉浦の顔つきが、急にもの柔らかくなってくる。 「新作とは、どういうアイスクリンなんだ?」 「多報新聞に載った女学校の記事に、アイスクリンのことが出ていただろう? あそこで作ったような品だ。ジャムやチヨコレイトや、砕いた木の実などを加えてある」  ジャムは生の果実を店で煮て、特製の品となすつもりであれば、大層上等な冷菓となる予定だ。その品を広める為に、真次郎はいずれ試食会を開くつもりだと言った。その時、多報新聞の記者にも、味の感想を聞きたいと告げる。 「おい真次郎、それは風琴屋で今度売り出す、アイスクリンの宣伝じゃあ……」  長瀬が呆れたように小さく言ったが、誰もその言葉を聞いてはいなかった。  杉浦は、急に話の分かる者に化けた。真次郎がこっそり……そう、新聞社の立場を考え、内々に手紙を見せてくれるよう頼むと、静かに頷いたのだ。その顛末《てんまつ》を見て、長瀬が憮然《ぶぜん》とする。 「何か……納得がいかないな。サーベルよりもアイスクリンが強いのか」  真次郎はにやりと笑いつつ、杉浦が運んできた箱の中身に目を向けている。 「おい長瀬、この手紙の多さを見ろ。最近のものだけで、数十通もあるんだそうな」 「数十通!」  長瀬も事務用の机に目を落とすと、並べられた手紙は、封筒も字も様々であった。 「何でこんなに大勢が、新聞社へ手紙を書こうなんて考えついたんだろうな。多報新聞一社へ来たもので、これだけあるとは」  長瀬がぼやく。するとその時、真次郎がちょいと顔を傾げた。それから封書の表を確かめた後、消印が見えるように並べ始める。 「どうかしたのか?」 「見ろよ長瀬。こちらの手紙は、ここ三月の内に来たものだ。こちらはその前の一年のもの。数通しか来ていないんだ」  突然投書が増えたのは、三月前であった。 「杉浦さん、広く記事を募集する旨の広告でも、出しましたか?」 「まさか。そんなことをしたら、適当に創作した話を山のように送りつけられてしまう」 「三月前……何ぞあったかな?」  長瀬が首を傾げると、室内にいた記者達が見事な記憶力で、三月前頃の出来事を口にし始めた。 「神田の米屋が買い占めに走っているとの噂があり、その検証記事を書いたな」 「有名貴族院議員先生の金について、一言」 「新聞へ、上つ方から圧力がありしとの噂」 「一夫多妻を今の世に行いし、某有名社主の甲斐性と金の出所」 「軍の規律やいかに」 「慈善家を装いし男、実は鬼畜にて」  などなど多報新聞にしてはお堅いお題が並んでいる。この新聞の記事が柔らかくなったのは、投書を活用するようになってからなのだ。好評につき、その路線が増えているという。  すると長瀬が妙な顔で問うた。 「最初に投書を使ってみようと思った理由は、何だろうか?」  お堅かった新聞社が、信用のおけない話にのった訳で、どうもそこの所が分からないという。すると記者達がさっと視線を交わした。 「世間の耳目を集める事件は、毎日起こってはくれないんでね」  面白いことがない日もある。そんな時、多報新聞は、手にした情報が全くの空言でないかを聞き込み確かめた上で、投書を記事にしていたらしい。若様組も真次郎と女学校も、そのやり方に引っかかってしまったのだ。 「やれやれ」  真次郎は溜息をつきつつ、暫くの間封書を見ていた。すると、また気になる点が出てくる。 「これらの投書は、文体も字も違うから、ばらばらの人が寄越したんだよな」  一見|下々《しもじも》が、下らぬ出来事を面白おかしく書いたように見える。手紙の内に、長屋住まいをほのめかしているものすらある。だがよく見ると、文面には漢字が多用されていた。 「それにさ、妙なんだよ。長屋住まいで江戸を懐かしんでいる職人が、�社会の徳風、一男子の為に腐敗す�なんて言うか?」  言い回しといい文章力といい、どうも教養のある者からの手紙だと思われるのだ。横から覗き込んだ長瀬が顔を顰めた。 「確かに、的確なる罵詈雑言が書いてある」  つまり誰かが意図的に、他人を装って手紙を新聞社へ送ったのだ。 「しかし……そんなことをする理由は何だ」  世間的にはどうでも良いようなことを、新興の新聞社へ送ったのは、いかなる訳なのか。 「真実や主張を世に知らしめるためなら、送る先の新聞社が間違っている気がするなあ」  この長瀬の意見に、真次郎も頷く。多報新聞は後発というだけでなく、最近はやたらと派手な記事が紙面を賑わしている。これでは送った手紙が新聞に載っても、世間に真実だと認めてもらえる筈がなかった。 「ちょいと考えれば、誰でも分かるような理屈だよな。なのにどうして多報新聞社へ送ったのか」 「おい、言いたいことを言うな」  丹羽がしかめ面だ。構わず真次郎が続ける。 「もしかしてさ、他の新聞は手紙を受け取りはしたものの、握り潰したんじゃないか」  裏付けのない話であれば、大新聞の記事には出来かねると思われても不思議はない。 「他の新聞社へも、手紙が送られているか、確かめた方がいいな」  手元にある証拠の品が増えれば、見えてくる事実も多くなる。長瀬は一つ頷くと、これから若様組へ顔を出すと言い出した。 「そろそろ園山も、落ち着いただろうしな」  若様組の皆で確認のため、新聞社を回ってみるつもりなのだ。すると杉浦が横から、一つの申し出をしてくれた。 「ならば私が、他の記者への紹介状を書きましょう」  新聞記者は、警官に警戒心を持っている。紹介状があった方が話が早いとの言葉に、長瀬が苦笑を浮かべ礼を口にする。真次郎の方は、これから居留地へ向かうことにした。 「パーク先生宅へ行って、あのアイスクリンの授業について、問い合わせがなかったか聞いてみる」  手紙の主は、確かに特定の女学校の授業内容を知っていたのだから。 「やれ、新聞社へ文句を言いに来たあげく、奇妙なことに首を突っ込む羽目になった」  紹介状を待ちながらぼやく長瀬を見て、真次郎が笑った。 「聞き込みが済んだら、夜、長瀬達のたまり場へ行くよ」  二人は新聞社の社屋から煉瓦街の通りへと出た。銀座の通りはいつでも賑やかだ。  真次郎は懐かしい居留地へと歩を進めた。         5  一時間程の後、真次郎はパーク教師の洋館の居間で紅茶を飲んでいた。  最初真次郎は学校に教師を訪ね、アイスクリンを作った日のことを聞いたのだ。するとパーク教師はそのことならば、何やら噂話をしていた女学生がいたという。先に出た新聞のことをパーク教師も知っており、気に掛かっていたようであった。 「この機会ですから、聞いてみましょうかね」  だが教師は学校で女学生達に話を聞くことはせず、真次郎が来たから茶話会をするといって、三人ほどの女学生を家に招いた。 (おや、先生は慎重になっておいでだ。身分のある家の令嬢たちなのかな)  話をどう切り出すのか心配にはなったものの、女学生達と共に居間へと通された後では、うかつな質問をする訳にもいかない。仕方なく真次郎もパーク教師の家に伺うと、西洋風の居間は花とレースとウエッジウッドの茶器で華やかに飾られていた。掃《は》き出し窓の向こうには、黄色い花と緑に縁取られた庭が見える。風までが柔らかい。 (本当にここは、先日訪ねた貧民街とは違う。別の世の中にいるみたいだ)  猫足の椅子に座った、袴姿の三人の女学生までが絵のようだ。一人の娘が付けている桃色のリボンが、沙羅のことを思いおこさせた。 (この人達には、残飯すら喜ぶ貧民街の暮らしは、想像すら出来ぬだろうな)  ふとそう思う。女学生らは突然やってきた真次郎に視線を寄越すと、くすくすと笑い声を立てた。 「あの、お菓子作りの先生、お久しぶりです」 「あ、ああ、こんにちは」  胸がどきりと鳴った。そういえば三人とも、どこかで見た顔だと気がつく。先日の臨時授業で、一緒にアイスクリンを作った女学生に違いない。 (うーん、まずい。名が思い浮かばないぞ)  真次郎は僅かに顔を顰めることとなった。初めて女学校へ行った日、真次郎は何とか菓子作りを教えるのに必死で、女学生の名を覚えるどころではなかったのだ。  思い切り情けない思いをしつつ紅茶を受け取ると、その時ありがたいことに、パーク教師が全員の紹介をしてくれた。一つの名に聞き覚えがあった。 「志奈子さん……? 紫堂子爵家の志奈子さんかな」  そう言った途端、部屋の中にまた、きゃあっと明るい声が上がった。きらきらとした雪片でも交じっているかのような声だ。高子《たかこ》と梅花《うめか》という女学生達が、志奈子の名を口にした真次郎を見て、小声で何やら話している。するとそれをパーク教師に、ぴしりとたしなめられた。 「ひそひそ話は、マナー違反ですよ」  途端に口は閉じられた。しかし三人の笑みを浮かべた目は、どうして志奈子の名だけを覚えていたのか知りたいと、雄弁に語ってくる。真次郎は少し笑い、パーク教師をちらりと見た後、理由を示すことにした。  つまり先日の菓子作りの様子を誰かが新聞社へ投書し、何と新聞記事になったことを、女学生達に話したのだ。志奈子のことは、その記事に出ていたと告げる。 「まあ、その新聞持っていますか」  持参の記事を机に置いて見せると、教師と女学生四人の目が、丹羽が書いた記事に吸い寄せられる。真次郎は最近多報新聞社に、数多の投書が寄せられている件も口にした。 「あらまあ、志奈子さんのことばっかり、記事に出たのね」  高子が何となく口惜《くちお》しそうに言ったので、志奈子が笑い出した。真次郎が何気なく四人に尋ねた。 「あの、菓子を作ったあの日、誰ぞが授業を見学に来ていましたっけ? この記事を書いた人は、皆がどんなアイスクリンを作ったかまで、良く知っているようなんだけど」  学校へ授業のことを尋ねてきた者はいないと、パーク教師が首を振る。その横で梅花がのんびりと言った。 「あの苺ジャム入りのアイスクリン、美味しかったですわぁ。家で話しましたら、母や姉もいただきたかったと申しておりました」 「あら、うちの家族もそうなのよ」  高子も笑っている。これを聞いて真次郎が、急いで皆に確認する。 「あの……アイスクリン作りのこと、ご家族にも話されたんですか?」 「ええ、授業のことは、大抵《たいてい》毎日話していますから」  珍かな菓子の話題だったからか、父親や兄まで面白がって話を聞いてくれたと、高子が楽しそうに言う。真次郎がすいと目を細め、紅茶碗を置いた。  新聞に、思いがけず女学校の授業の様子が載ったのだ。しかも掲載されていたのは、派手な記事で名の知れた新聞であった。  なのに高子だけではなく女学生は皆、落ち着いて笑っている。いや、新聞記事のことを話す真次郎の様子を、興味津々な顔つきで見ているのだ。  真次郎の頭の内に、己でも驚くような考えが過《よ》ぎった。 (この三人……いや女学生達なら、あの授業のことは当然、詳しく知っているよな)  いきなり、あくの強い新聞へ投書するとは考えにくいが、ひょっとしたら以前より三人であちこちの新聞に投稿し、楽しんでいたのかもしれない。 (記事の元になった手紙を、女学生が出したかどうかを確認したいな)  しかしどうやったら、失礼にならぬよう話を聞けるのか分からず、真次郎はしばし眉間に皺を寄せる。  するとその時、急にパーク教師が女学生達に向き合った。そして、最近気になっていたことがあると、いささか厳しい声を出す。 「そして今、話を聞いていて、確かめたいことが出来ました。何だか三人は新聞社への投書のことを、知っているみたいに思えるの。どう? そうよね?」  そう言うとパーク教師は三人を……特に志奈子を真っ直ぐに見た。女学生達は首をすくめると、身を寄せ合ってしまった。         6 「ああ真次郎さん、こっちです」  小一時間程後、パーク教師の家を辞した真次郎は、居留地から出た所の橋の袂《たもと》で声を掛けられた。その姿に目を見張る。 「園山さん、一人なのか?」  大層綺麗な顔を巡査の制服の上に載せた元若様は、歩く凶器とも狂気とも呼ばれていて、剣呑なことこの上ない。園山がサーベルを身に帯びているときは、大概若様組の仲間が横にいる筈で、見れば今日も長瀬がひょいと顔を出してきた。 「今回の件を調べるのに手を借りたんで、若様組の連中にも、事の顛末を話しておきたい。皆で『いろは』に行くことに決めた故、お前さんを拾いに来た」 「おお、牛鍋屋か。いいな」  ちょうど真次郎の方も、話したいことが出来たところだ。  馴染みの店に着くと、巡査達が店の二階の奥の部屋を空けてもらっていた。他人に話を聞かれない用心だと見て、真次郎は口の端を引き上げる。八畳程の一間には既に若様組の面々が集まっていて、牛鍋が湯気を上げていた。  畳の上にあぐらをかいた長瀬は、まずはこちらが分かったことを言っておくと、鍋を放ったまま新聞社での顛末を語り出した。 「新聞社への手紙はこの三月、どこでも増えていたぞ。だがその増え方には、はっきりとした差があった」  福田巡査が懐から書き付けを取りだし、新聞の名を読み上げる。『東京日日新聞』、『東京朝日新聞』、『都《みやこ》新聞』、『讀賣《よみうり》新聞』、『多報新聞』、『国民新聞』などなど。帝都で発行されている数多の新聞の中で、投書は一部の新聞に集まっていた。 「理由は、巡査ならば直ぐに調べられることだったよ」  つまり、政府寄りの記事を書いているかどうか。手紙の数の差は、まさにこの一点に左右されていたのだ。 「政府に楯突く記事が多いと、嫌がらせで妙な投書が送り込まれるのか?」 「いや……ちょいと違う感じだったな」  若様組の話にしろアイスクリンの話にしろ、好評につき新聞社の利益になっているだけだ。 「お堅い主義主張を展開している新聞社へ、アイスクリンの話などの、身近で軽い話が送られてくるという風だな」  園山が報告する。 「手紙の筆跡からみて、あちこちの新聞社へ手紙を送っている者がいるようだ」  しかも何通りかの筆跡があったから、三月ほど前から投稿を開始した者は、一人ではないようなのだ。 「どうしてか、訳はまだ知れない」  だが発見もあった。福田巡査が、国民新聞に来ていた一通の手紙に目を向けた。筆跡に覚えがあったのだ。 「知り合いの筆跡だったのか?」  真次郎が問うと、福田が肉を食べながら頷く。 「癖のある字なんで、見間違いではないと思う。だが、新聞社へ投書するような人ではないので、少々戸惑っている」  誰だと問うと、「富士村《ふじむら》子爵」と短い答えがあった。とんと知らぬ身分の人物なので、長瀬に聞く。すると、四十代、大人しくて目立たぬ御仁だという。 「さて、何の為に手紙を出されたのか、どうも分からん」 「子爵様、か……」  ここで一旦、話が切れた。そこで今度は真次郎が報告を始める。 「居留地で女学校を開いているパーク先生の所へ行ったんだが、そこへ茶話会に来た女学生達に会った。一人は紫堂志奈子さんといって、紫堂子爵の姪御さんだ」 「おや、また華族様のご登場か」  鍋から立つ湯気越しに、巡査達が顔を見合わせているのが分かる。暴露話と品の良い華族。面白い繋がりであった。 「新聞を見せ、新聞社への投稿の話を聞いてみた。そのときね、皆の態度が妙だと、パーク教師が言い出したんだ」  女学生達は、学校での出来事が新聞に載ったのを面白がっていた。その態度から、パーク教師が事を見抜いたのだ。つまり、真次郎の名が出たあの記事は、菓子作りの授業に参加した女学生が書いたものであった。 「へえ」  座が沸いた。 「よっぽど授業が詰まらなくて、女学生達、隙を持てあましたのかな」  茶化すように長瀬が言う。真次郎はそれに取り合わず、志奈子が手紙を書いたきっかけを語った。 「実はな、伯父《おじ》である紫堂子爵が、こっそり新聞社へ手紙を出しているのを見たというのだ」  それを志奈子が面白がって、友達と一緒に真似してみたらしい。唯一採用されたのが、多報新聞社へ送った一通だったのだ。 「おやあ、今回の件の大本は、紫堂子爵なのか?」  巡査達がざわめく。紫堂子爵といえば、温厚であり、お堅くないとの評判を取っている華族だ。 「確かさっき名の出た富士村子爵とは学友であり、夫人同士が従姉妹《いとこ》の筈だな」 「さすが大いに腐っても元若様。上流の方々の関係に詳しいな、長瀬」  腐っていると言われた若様が、真次郎に拳固を振るう。その一撃から素早く逃げた真次郎へ、高木巡査が声をかけた。 「しかし妙ですね。確かに真次郎さんの名が出た記事は、志奈子さんが書いたのでしょう。子爵方は、投書に関係しているようだ」  だがその三人が、若様組のことまで投書したとは考えにくいと言い出したのだ。三人と若様組は接点がない。巡査達の内幕を彼らが承知していたとは、思えないのだ。 「うーん、そもそも何でお二方は、投書なぞしたのかね。ふざけて新聞社へ何ぞ言う御仁には、思えないんだがな」  新聞というものは、政治向きの記事も載せるものだ。身分高き御仁であればあるほど、下手なことをしたら世間の耳目を集め、書き立てられてしまう。なのに、どうして危険な行為に及んだのか。  若様組の面々が首を傾げる中、真次郎が突然変なことを言い出した。新聞とはとんと関係がないように思える話題であった。 「実は……パーク先生宅で女学生に会ったとき、気が付いたことがあったんだ」  紫堂志奈子が桃色のリボンをしていたのだが、それが誠に安っぽい品であったという。 「西洋菓子の箱に結んであるような、薄っぺらいリボンだ」 「それがどうかしたのか?」  園山は葱《ねぎ》ばかり食べつつ、訳が分からないという顔を真次郎へ向ける。だがその隣で、長瀬がはっとした顔つきをした。 「桃色のリボン?」  長瀬はあぐらをかいたまま腕組みをすると、考え込む。そしてぶつぶつと独り言をいいはじめた。 「リボン……女学校、紫堂子爵、富士村子爵、新聞、統率者」 「長瀬、何か気が付いたのか?」  若様組の福田が声を掛けるが、長瀬は返事をしない。真次郎もその顔を見つめつつ、黙ったままだ。福島《ふくしま》や高木、林田《はやしだ》などは早く話を聞きたい素振りを見せたが、長瀬はそれどころではないらしかった。 「そうか、分かった!」  長瀬が突然叫ぶ。 「それで桃色のリボンとなる訳か。面白くないね。どうして真次郎なんだ?」 「長瀬、リボンがどうかしたのか?」  園山がもう一度問うが、長瀬はまた畳の方を向くと、黙って己の考えに入り込んでしまう。すると『物騒で気短だ』と折り紙付きの園山が、その顔を険しくし始めた。  真次郎がその表情に気が付き、側の床柱に立てかけてあった園山のサーベルを、親切にもそうっと隅の座布団の下に隠す。もっとも喧嘩ならば拳固で十分に出来るためか、園山は素手のまま長瀬に寄ってゆく。  剣呑な雰囲気に気が付いたのか、福田が二人の間から、牛鍋を慌てて避難させた。質問に答えようとしない長瀬に対し、園山がいらいらを募らせているのが、見るだけで分かった。 「な、が、せ、さんっ」  じれたように言う園山の一言にも、長瀬は顔を上げない。途端、気の短い男の拳固が振り下ろされる。しかし長瀬がただ殴られる筈もなく、素早くかわすと拳固の応酬となる。  すると、それを面白がった他の巡査仲間も、楽しげに喧嘩へ加わった。いろはの二階は、一気に騒がしくなった。         7  翌日、真次郎は、また小泉商会で働いていた。そして昼休みとなると、半日の休みを貰った礼を言いに、社主室へ挨拶に向かった。何故だかそこに、同道した長瀬の姿があった。 「おや、お二人さん、今日は目の周りが派手な色になっているね」  社主は勿論、商会内では一番良き一室にいて、大きな机の向こうに座っていた。喧嘩の痕がはっきり見て取れる二人に、興味深そうな目を向けてくる。 「誰にやられたのかな」  笑顔で聞かれたので、真次郎が正直に言った。 「小泉商会の社主に」  その一言を聞き、側で書き物をしていた秘書が、思わず顔を上げ社主をみる。当の小泉琢磨は大層面白そうな表情を浮かべ、椅子にかけるよう若い二人に勧めた。  何か合図をしたのか、秘書が席を外す。動作の一つにも迫力があり、真次郎達が十分に圧迫感を受けたところで、社主は今し方の言葉の訳を聞いてきた。 「さて真次郎くん、どういうことかな?」 「あのですね、風が吹けば桶屋が儲かります。それと同じように、帝都で誰ぞが手紙を書こうと思い立ったが故に、俺たちが痣《あざ》を作る羽目になったんですよ」  真次郎と長瀬は、持ち歩いていた多報新聞の記事を、机の上に置いて見せる。二人が関わっている記事を表に出してあった。 「最近新聞社に、名の知れない誰ぞが、世間の出来事を手紙で知らせているんです。いえ、以前から投書はあったそうですが、その数が急に増えたんですよ」  投書を元にした記事の中で、長瀬のいる若様組と真次郎は、名前を世間に晒《さら》された。迷惑千万と、二人は多報新聞社へ向かったのだ。そこで投書の件を知ることとなった。  読者からの投書は、一見、ただ気が向いて書かれた手慰みのように見えた。しかし良く見ると、教養のある書き手の文であった。  おまけにある投書の字に、見覚えのある巡査がいた。記憶を辿り女学校を調べ、他の新聞社へ聞き込みをした結果、数多あった投書は気楽になされたものではなく、何かの意図があってここ三月の間、出されていたらしいと分かった。 「ほう、ほう」  社主は一段と楽しそうな顔つきになっている。だが真次郎が手紙を書いた者の一人として、富士村子爵と紫堂子爵の名を出すと、すっと顔つきが引き締まった。 「お二人とは面識があるが、どちらも真面目な上に、優しいお人柄だよ。ふざけて多報新聞社などに投書するお人達ではない」  するとここで長瀬が、にやりと笑い出す。 「社主、多報新聞がどういう記事を載せているか、詳しいですね」 「ま、私は成金だ。下世話な話も好きなのさ」  二人の記事も読んだと、社主は軽く話をかわした。真次郎は、その顔を真っ直ぐに見て話を続ける。 「ご心配なされずとも、私たちは子爵方が、事の首謀者だとは思っておりません」  新聞の意見を操ろうとする行為は、極めて危ないものを孕《はら》んでいるのだ。下手をすると華族であっても危険な思想ありと思われ、警察などに睨まれかねない。  今回の件は、そうなる事態をかわしつつ、記事を新聞に載せるということを、巧妙になし遂げていた。その為に、匿名の投書がなされたのだ。 「おや、君たちが登場したあの記事は、そんなに凄いものだと言いたいのかな。では、何の為にやったことだと思う?」  今や社主の視線は、真次郎達の目を貫かんと思える程に強い。真次郎は気力で負けぬよう踏ん張って、社主と話した。 「投書自体は、大したことのない話でした。いや、アイスクリンの話題のように、食べてみたいと笑って終わる頭に残らない記事、そういうたぐいのものだったんです」  そしてそれこそが、投書をした者の目的だったのではないか。 「目的?」 「新聞は今大層活発で、年々載る記事は、歯に衣《きぬ》着せぬものになっています。多報新聞も、以前はずっと堅い、危ない話題ばかり載せていたんです」  神田の米屋の買い占めの件。有名貴族院議員の金について。新聞への上からの圧力。某有名社主の話。軍の話題すらあった。 「このままだと、多報新聞は軍か警察から睨まれるかもしれない。いや、もう潰される危険が出ていた可能性もあります」  投書をした者はそれを避けるため、新聞にちょいと柔らかい味付けを加えたのだ。どうすれば新聞への風当たりが弱まるか、試してみたと言ってもいい。  その意見を聞いて、社主がゆっくりと真次郎に尋ねてきた。 「投書した者は、何故そこまで多報新聞を守ろうとするのかね」  真次郎は、顔をぐっと社主に近づけた。 「今日は社主に、それを伺いに来たんです」  何故なら。 「一連の件の中心にいるのは、小泉社主ですから」 「ほう」  社主が低い声を出した。長瀬が話を継《つ》ぐ。 「社主は投書をした二人の華族殿とお知り合いです。そうして、真次郎についての記事を書いたのは子爵縁りの志奈子さんだ」  わざわざ真次郎について書いたのは……菓子作りを教えた若い男が嫌いではなかったからだろうと、皮肉っぽく言う。桃色のリボンは、以前真次郎が沙羅に贈ったものと同じ色だ。 「志奈子さんは今、ちょいと目が曇っているんですな」  残るは若様組の投書を誰が書いたかということだが、注目すべきは若様組という呼び名であった。その名を知っている者は、本当に少ないのだ。ましてや若様組の出自や行動を承知している人となると、真次郎や長瀬の知り合いである確率が高い。  そして社主ならば、沙羅を通じて巡査達のことを良く承知しているのだ。 「ちょいとからかってやろうと、手紙を書くことぐらい、社主には造作もないでしょうから」 「それで我々は、沙羅さんに頼んで、投書と社主の筆跡を比べてみたんです」  長瀬と真次郎が、そう話を締めくくる。社主は暫くの間、黙って二人を見つめていたが……そのうち笑い出した。 「いやいやいや、巡査や菓子屋をやらせておくのは、惜しいな」  思い切り笑ったあと、社主はゆったりと椅子の背にもたれ掛かり、一つ頷いた。 「そうだね、私が投書を画策したんだ。さて、どれぐらい上手くいったかな」 「理由を伺えますか?」  匿名の投書は罪ではない。しかし、小泉家の主が関わったと知れたら、いささか拙い件ではあった。  すると社主が、いかにもあっさりと言う。 「別に、今時の新聞に拘泥《こうでい》している訳ではないよ。どちらかというと、沙羅には読ませたくないものが多いな」  ならば何故、仲間と共に行動を起こしたのか。社主は二人に理由が分かるかと、反対に尋ねてくる。  しばし黙っていた後で、長瀬が口を開いた。 「もしかして……新聞が大人しく黙ってしまうのを防ぐ為ですか?」  新聞社へ訪問してみて分かったが、記者達は反骨精神に溢れている。だが偉い人物に不利なことを書いたり、政府の施策に反対する態度を取った新聞が取りつぶされるかもしれない。壮士《そうし》が新聞社に乗り込んで来たりもする。  よって新聞全体として、どうしても危ない記事は載せなくなる。迎合記事が増えるのだ。 「社主はそれをさせたくないんですね」  その答えを聞いて、社主は頷き大きく笑った。 「誰も文句を言わない世になったら、拙いだろう? はっきりものが言える新聞を残しておきたい。その為、潰されぬよう軌道修正出来たらと、知り合いと話し合ったんだ」  富士村子爵と紫堂子爵を含めた何人かが、手分けして新聞社へ投書した。書きたい放題のきつい記事の間に、柔らかい笑みを挟みたかったのだ。そして実際多報新聞は今、お堅い政治色が薄くなったと思われている。  だが、新聞社には堅い考えを持つ記者達が、生き残っているのだ。長瀬が目を見開く。 「驚きました。正直な話、社主が世の中のことに、そこまで気を使っておいでとは思わなかったな」  成金と言われ、日々|桁《けた》の外れた儲け話に奔走《ほんそう》している男であった。だがこの正直な意見を聞いても、社主は怒るでもない。 「いやその通りだ。私は金儲けが大好きだし、政治向きのことには本来興味がない」  しかし、だ。どうしても譲れぬこともある。それで今回、社主が動いたというわけだ。 「譲れぬことって何ですか?」 「今度は真次郎くん、お前さんが答えなさい」  正面から問われた。するとその時、答えが真次郎の頭にすいと浮かんでくる。 「……シユウクリームの小麦粉の時と同じ、剣呑さですね」 「そうだ、正解」  小泉商会は貿易商なのだ。金の動き、買い付けられる品物をみていると、不安が足下から忍び寄って来ているのが分かるという。三百年近い平和な鎖国時代から抜け出たと思ったら、人はまた戦いの方へと顔を向けてきているのだ。 「戦争を始める奴は、勝てるとしか考えていない。戦時は儲かるという商人もいるが、私はご免だ」  この世には絶対はないのだ。負ければこの国が、根底から危うくなる。 「沙羅の先々が心配でなければ、こんなに手間で鬱陶しいことはしなかったんだが」  あっさりと言う社主に、二人はしばし言葉もなく、呆然とした目を向けていた。  やがて長瀬が社主に、多報新聞の記者を狙った暴漢に会ったと言うと、多報新聞ですら、そろそろ力ずくで抑えられようとしている証拠だろうと言った。  いらぬことを書いた記者に、怖い思いをさせておく。次からは少し、書くことが和《やわ》らぐという訳だ。 「剣呑なやり方はもう始まっている。今回、私たちがやったことくらいでは、大きな流れは止まらないかもしれない」  戦争が起きるとしたら、もう何年も先の話ではないだろうと社主は言う。 「いや、こうして話しているこの時、実はもう静かに、戦争は始まっているのかもしれないな」  国民が武力による開戦を知ったときは、多くのことが決定済みなのだ。 「ならばせめて、最初に首を突っ込む外国との戦争で、勝ったりしないよう願うよ」  社主がはっきりと言った。勝てば更に別の大きな戦争にのめり込んで行く筈という。その言葉を聞き、二人は唇を噛みしめるしかなかった。  すると寸の間の後、社主が不意に表情をゆるめた。そして再び真次郎へ問うてくる。 「ところで、新聞に投書する内容は、大したものでなければ、何でも良かった。何でわざわざ二人のことを書き送ったと思う?」  驚いて社主を見ると、思い切りにやにやしている。 (やれ、あの顔を見れば、理由の察しはつくな)  この立派な社主様は、思い切り出来る男であるのに、情けない程一人娘に甘いのだ。すると案の定というか、思っていた通りの答えが返ってきた。 「娘が、『寂しがり屋でお人好し』なんて言う男のことは、気にくわぬからな」  沙羅と一緒に牛鍋をつつく巡査達も、大いに苦労すべき男どもだと社主は言う。長瀬は一寸、げんなりとした表情を浮かべている。  だが真次郎はここでにこりと笑うと、一言社主へ返すことにした。 「社主はわざと今度の件へ、我ら二人を巻き込んでくださいました。その件が巡り巡って、昨日の喧嘩となりました」  そんな訳で先程、真次郎は社主が二人の痣を作ったと言ったのだ。だから。 「ですから今回のことは、社主への貸しにしておきます」  いつか倍にして返して下さいねと念を押すと、社主は目を大きく見開いた。そして一瞬の後、声を上げて笑い出した。 [#改ページ]  ゼリケーキ儚し         1  帝都が暑さに包まれた晴天の一日であった。  小泉沙羅は珍しく、成金に相応《ふさわ》しい豪奢な父親の書斎に呼ばれ、話を聞いていた。父、小泉琢磨はまだ四十代で、本日はすっきりとした細縞の洋装に身を包んで、臙脂のタイを付けている。娘の目から見ても、なかなかに冴《さ》えた見た目の父親であった。  だが寸の間の後、沙羅はその父を不審の目で眺めだした。父が暑気あたりを起こし、うわごとを言い出したかと思えたのだ。 「沙羅さん、この父はそろそろあなたに、縁談を勧めようと思っているんだ」  突然の父の言葉は、良く理解出来るものではなかった。 「お父様、私はまだ女学校に行っておりますが」 「そうだね、だがその内卒業する。次に考えるべきは縁組みだからね」  婚礼は卒業を待ってからすればいいと、琢磨は大変明るい調子で娘に笑いかける。だがその目出度い話に当の愛娘は、全く心を動かされなかった。沙羅は、仏蘭西からの輸入品である猫足の椅子に腰掛けたまま、父琢磨に不機嫌な眼差しを送った。  一人娘にそれはもう大変甘い父親は、一寸|怯《ひる》んだ様子を見せる。だがそれでも余裕のある表情を崩さぬまま、琢磨は見合い相手の名を告げた。 「西宮伯爵《にしみやはくしゃく》の弟君にあたる高浩《たかひろ》様の、ご次男だ。浩光《ひろみつ》さんといわれる」  今年二十七になると言われ、半眼になった沙羅が一言「年寄り」とつぶやく。琢磨は娘の言葉にまたまた眉尻《まゆじり》を下げたが、それでも良き相手だと娘に薦《すす》めるのを忘れなかった。 「沙羅さん、これから世の中どうなるか、私にも読み切れぬ程だからね。夫はしっかりした大人がいいのだよ」  そして沙羅は成金の一人娘だ。母さえ既にいない。だから琢磨が万一急死した時に備え、沙羅と商会を守ってくれる夫を早くに持って欲しいと言い出したのだ。  だが、その親心を聞いても、沙羅は首を縦に振らないでいる。 「その華族様の端くれ、浩光さんがいらっしゃれば、これからずっと私は安泰ですの?」  何だか怪しげな話だと、沙羅は唇を尖らせる。だが直ぐに、にこりと甘えるような笑みを浮かべ父を見た。 「お父様、とんと気が乗りませんの。今回のお話、何年か延期にしていただけません?」  そうすれば相手は諦めて、さっさと他の縁を探すに違いなかった。すると今度は、琢磨が眉を顰める。 「沙羅さん、せっかく来た縁談なのだから、一度会うくらいいいじゃないか」 「あら、その一度がくせ者なんですわ」  見合いなどというものは、転がりだしてしまうと、気が付いたときには本人の意向などでは止められなくなる。そうなったら次の日には、白無垢《しろむく》を着るはめになるのだ。 「これは、見てきたようなことを言う」 「女学校の先輩で、そういう話になった方が、何人もおられましたもの」  よって沙羅は頑として、父琢磨の言葉に頷きはしないのだ。するとここで琢磨は、沙羅の顔を覗き込んできた。 「何だい沙羅さん、それじゃあこの先、他にやりたいことでもあるのかな?」  琢磨は椅子から立ち上がると、見合いをして家庭を作るのが嫌なら、何をしたいのか問うてくる。おなごでもたつきの為、働く者はいる。だが沙羅は金持ちの娘故、日々の糧《かて》を稼ぐ必要はないのだ。さりとてこの明治の世の中、女が突き進める道は余りにも少なかった。  沙羅は小泉家の一人娘ではあるが、それでも娘故、跡取りとは目されない。官吏の妻にはなれても、高官にはなれない。家元の家に生まれたのならともかく、絵や芸事の世界でさえ、その分野で高名な女性というのはなかなかに聞かなかった。 「そのくらい、分かってますけど」  沙羅がこれという返事が出来ないでいると、琢磨はしばし困ったように部屋を歩き回った。だが晴れた窓の外を見た後、人の悪そうな笑みを浮かべ沙羅を見てくる。 「なあ沙羅さん。あなたはそうして眉間に皺を寄せた後は、いつも顔見知りの風琴屋店主や、巡査達に会いに行ってしまう。だが、そろそろ、そんなことは止めなくてはね」  妙齢の女性が、若い男と出歩くとは感心しないと言われ、沙羅は益々その表情を頑固なものにした。だが琢磨はそれに構わず、奇妙な言葉を付け足してくる。 「まあ今は、あの風琴屋の真次郎くんにも巡査達にも、なかなか会えまいがね」  何やら楽しげな父親の様子を見て、沙羅は首を傾げた。父の思わせぶりな言葉を無視することは出来るが、それだと心の底に引っかかりが残りそうであった。すると娘の心の内を見透かしたかのように、琢磨がまたうっすらとした笑みを向けてきた。 「ねえ沙羅さん、ここ二、三日、あの二人の顔を見てないんじゃないのかい? それを気にしているのではと思ってたよ」  分かり切ったことを、わざわざ素知らぬふりで聞いてくる父親が憎たらしい。ここで沙羅は父に確認を入れた。 「お父様、まさかと思いますけど、見合い促進の為、あの人達に何かしたんじゃないでしょうね?」 「おお、勿論してないさ。だってねえ、今はそんな必要もない状態なんだよ」  更に意味ありげな言葉が、また沙羅の心を乱す。確かに、親しい友である皆川真次郎と長瀬巡査の二人は、帝都からかき消えたかのようにその姿を見せない。それどころかここのところ、巡査となった元身分高き武家の跡取り達の集まり、若様組の面々の顔すら見ていない気がしていた。 (何があったのかしら)  確かに沙羅は、皆の消息を知りたくてしょうがない。その様子が気になる。沙羅が黙り込むと、案の定と言うべきか、琢磨が沙羅にある提案をしてきた。 「なあ沙羅さん、二人の様子を知らせるからして、一度見合いなど経験してみないか」 「その提案の仕方は、娘に対して卑怯《ひきょう》です」  沙羅は不機嫌に黙り込む。だが。 「真次郎くん達、かなり大変な目にあっているよ」  琢磨ときたら、そう断言して、また沙羅を覗き込んできたのだ。沙羅は赤くなり、頬を膨らませる。そして、きっと、父の顔を見返した。         2  全てが雨模様であった。  帝都に流行病があり、その対策に当たるため若様組の巡査達|殆《ほとん》どに辞令が下って、危険のある衛生警察へ配属されることとなった。  隙《ひま》もなくなり、皆の金欠状態は酷《ひど》くなったし、実際に雨が降っていて鬱陶しい。おまけにどうしたことか長瀬は今日、鍛冶橋《かじばし》の警視庁に呼び出されていた。  大層大きく横長な二階建ての洋館の前には、平屋が数棟建っている。長い門に囲まれた警視庁のその偉容は、そこら辺の家と変わらぬ下見板張りの巡査派出所とは、比べ物にならぬものであった。勿論、通された部屋内の調度には、見事な舶来物《はくらいもの》が使われている。  その部屋で大振りな椅子に座っている御仁も、身分といい見てくれといい、巡査とは大分違う者であった。 「これはこれは、長瀬一級巡査。わざわざ縁のない場所に呼び出して、済まんな」  皮肉とも言える言葉を口にした男は、制服に肋骨《ろっこつ》と呼ばれている胸飾りを付け、袖《そで》には渦紋《かもん》状の袖章を見せている。略日章を付けた主は、警視|大河出泰時《おおかわでやすとき》という名であった。  階級をはるか上まで昇ってゆくと、上司と言えなくもない相手ではあるので、長瀬も名前くらいは知っていた。しかし顔を見るのも口をきくのも初めてであれば、どうして大河出が一介の巡査の名を知って呼びつけたのか、とんと訳が分からない。  だが。 (どう考えても、良き知らせがあるとは思えないな)  大体明治の政府というのは、旧薩長両藩に肥前《ひぜん》、土佐《とさ》を足した四藩出身の下級士族で固められている藩閥政府だ。警視庁もまた然《しか》りであった故、要するに元徳川家の旗本であった長瀬など、敵方である身なのだ。組織の中でお先真っ暗なこと、保証付きであった。  では、どうして、元賊軍と言われた徳川方士族達が巡査に採用されたのかというと、訳がある。巡査の採用条件というものが、結構厳しいものであったからだ。  一つ、年齢は二十歳〜四十歳。  一つ、身の丈五|尺《しゃく》以上。身体強健な者。  一つ、刑法、治罪法、警察法規の大意に通ずる者。  一つ、文章の読み書きが出来る者。  一つ、日本の歴史の大略に通ずる者。  一つ、加減乗除の可能な者。  一つ、楷行書《かいぎょうしょ》を作りうる者。  おおよそこのような採用基準があり、作文も含め採用試験があった。文章の読み書きくらいはともかく、日本の歴史の大略とか、刑法、治罪法、警察法規の大意に通ずることをも求められたのだ。  この基準があった故に、ろくに学校も出ず早々に奉公に出されるような家の子では、採用はおぼつかなかった。簡単な文字が書けるくらいの知識では、試験には通らない。  それ故、禄を失い農民には向かず商売は苦手、だが教養だけはある武士の成れの果てが、巡査になっているのだ。 (でも試験が難しい割に、巡査の給料は気合いが入って安いよな。身分は下っぱだし)  長瀬は皮肉っぽく、口元を歪める。だが、とにかく安月給といえども、毎月決まった額を手にすることが出来る故、応募する士族は多い。長瀬達元旗本の若様なども、その内であった。  しかし。 (そんな取るに足らぬ身に、警視様が何の用かね)  長瀬は直立したまま、豪華な机の向こうで座っている男に、時々素早い視線を送る。するとその時、五十そこそこと思われる大河出警視が、その手に扇子《せんす》を一本握って立ち上がった。大河出は何故だか部屋にいた他の警官を下がらせると、長瀬に近づき、その扇子を長瀬の顎《あご》の下に当ててきたのだ。 (うっ……刀でも突きつけられた気分だ)  一寸、長瀬の手が腰の辺りを彷徨《さまよ》う。だが警視の前で抜刀すれば、それだけで明日から無職になることは請け合いだ。  ぐっと堪《こら》え、思わずその目を見返す。すると腹芸の出来る男と言われ、先々更なる出世が待っていると噂の大河出が、単刀直入にこう言ってきた。 「ぬし、内職をばしちゅうと聞くがの」  さて、巡査というものは大層忙しい身で、ろくに休みも取れぬという噂だ。なのに、そんな暇があろうとは面妖《めんよう》なことだと、大河出は続ける。 「元徳川方の幕臣達ときたら、寄って集《たか》って何やらしちゅうらしいの。噂がこの大河出の耳にも入ってきよったが」  にこりともせず、さりとて声を荒《あ》ららげるでもない。要するに大河出は、小泉琢磨にも劣らぬ迫力で、長瀬の様子を見ているのだ。そして長瀬に突きつけた扇子に、力を込めてくる。 (やれ、小遣い稼ぎがばれたらしい。こりゃあ、失職かな)  長瀬達などの元若様達は、頼ってきた以前の家臣達と己の食い扶持《ぶち》の為に、こっそり若様組なる集まりを作って、余禄を稼いでいるのだ。  巡査の給料は、日雇いの労働者と大差のないものであった。だからこの内職を止められ巡査の職に専念させられたら、若様組の巡査達は一族郎党を養いきれない。しかし巡査の立場を失うと、これまた明日からの暮らしが危ういものになる。 (くそっ、まずいな……)  長瀬が思い切り唇を引き結んだその時、大河出が、思わぬことを言い出した。 「長瀬巡査、最近コレラが流行っちょることを存じておるか」  思わぬ問いに長瀬は一瞬目を見開き、一拍間を置いてから慌てて首を縦に振る。今年のコレラは九州から上陸し、その感染者を増やしつつ関東でも流行をみせていた。東京市内至る所でコレラが発生しており、死者も多数報告されている。そして今、帝都の防疫《ぼうえき》活動を担っているのは、警視庁の巡査達であった。  ここで大河出が、扇子の先を長瀬に向けたまま言った。 「三日前辞令を出した。君以外の若様組の連中には、皆コレラから市民を救う作業に当たってもらっちょる」 「えっ、あの異動は警視が……」  長瀬が目を見開き、大河出と向き合った。確かに長瀬の友達は、揃ってコレラと向き合う任務に就いたばかりであったのだ。仕事が仕事なだけに、中には福田のように、長瀬と水杯《みずさかずき》を交わしていった者までいる。 (なんと……)  それが巡査の職務であることは間違いない。故に大河出警視の指示自体に、違法なことは何もない。  しかし。  しかし若様組の名と活動を知った上で、面々を丸ごと危険な職務へ向かわせた警視のやりようには、露骨な意図が感じられた。要するに徳川方の者が目立つことをするのは、明治も二十三年になってさえ許されないらしい。ここで長瀬は扇子の端を指で掴むと、ぐいと大河出の方へ押し戻した。 「それで? 何故私も一緒に、さっさとコレラ対策に向かわせなかったのですか」  わざわざ長瀬だけを外《はず》し警視庁に呼び出したのは、今回の防疫活動への参加が偶然のものではないことを、若様組に知らしめる為か。  すると、ここで大河出は、軽く長瀬の頬を扇子ではたいた。そして突然、全く防疫活動とは関係のない職務の話を始めたのだ。 「実は今、儂《わし》はある男を探しちょっての。先《せん》まで自由民権運動にのめり込んじょった、加賀三太郎《かがさんたろう》という若者だ」  今二十一歳で、東京専門学校へ通っていたのだが、最近姿を消している。大河出は、至急この若者の行方を掴みたいという。 「そこでだ、彼を探す仕事を長瀬くん、君に頼もうと思うきに」  君はあちこちに顔が利いて、そういう仕事が得意そうだなと言い、大河出の唇の端がにやりと笑うように上がった。若様組が何をしてきたのかも、ようく掴んでいる様子だ。人捜しをさせようというのだから、多分それ故に、大河出は今回若様組の面々に目を付けたのかもしれない。 「それでだ、もしこの探索が首尾良く、かつ早急に成し遂げられたら、長瀬くん、君に褒美を取らせにゃならん」  要するに、長瀬がこの自由民権運動の闘士をさっさと捕まえれば、若様組の面々は命の危険がある仕事から解放してもらえるらしい。大河出は部屋内を歩き始めると、事が成った暁には、他にも祝いをしようと気前よく言いだした。何と長瀬を、警部補に昇進させてくれるのだそうだ。 「もし警部補になれたら、随分な出世じゃきに。毎月の給料も暮らしも、今よりはぐっと楽になるぜよ」  そうなれば、上司に睨まれるような臨時の仕事など断ってしまえる。そう言った後、大河出はすっと声を落とした。 「この仕事は他言無用のことでな。よって直属の部下を動かす訳にもいかん。だから長瀬君が頼りぜよ」  大河出は友らの命をコレラ菌に晒しておいて、しおらしく頼むようなことを言う。だが今、長瀬に選択の余地はなかった。長瀬も大河出も、互いに嫌という程そのことは承知して、茶番なやり取りをしているのだ。  大河出は長瀬の返事など待たずに、加賀三太郎のことを書いた書類を渡してくる。驚いたことに、正面からカメラに視線を向けている写真まであった。 「他に欲しいものがあれば揃える。この男には、聞きたいことがある。必ずぴんぴんしたまま、儂の前に連れてきてくれ」 「この加賀というお人は、何をして警察に睨まれることになったのですか」  追われる元学生が哀れであった。自由民権運動に参加し、政府に都合の悪いことを言ったからと、闇から闇へ葬られるのではたまったものではない。しかし長瀬は調べの手を抜くことも、加賀を見逃すことも出来ないのだ。友の命がかかっている。  だが大河出から返事はなく、長瀬は溜息を押し殺しつつ、一礼して部屋から出て行こうとした。その時、背中の方から声がかかった。 「長瀬君、普段の勤務には出る必要はないきに。もっぱら目的の遂行に励んでくれ」  一瞬、長瀬は両の手を握りしめる。警視庁廊下にあったコンソールを、手刀でまっ二つにしたくなったからだった。         3  警視庁から退出した長瀬は、銀座煉瓦街に行くと、築地居留地の方角へ歩を向けた。  歩道には今日も、ドレス姿の婦人や帽子をかぶった洋装の男が行き来している。しかし何とはなしに、ゆったりとした風情が欠けている気がするのは、伝染病が流行している故であろうか。  街を南へ抜け西洋菓子屋風琴屋に顔を出すと、洒落た外観の店には客の姿がなかった。日中から現れた長瀬を見て、店主の真次郎が驚いた表情を浮かべた。長瀬は店の椅子に座り込むと、友が紅茶を出してくれるのも待たず、今起こっていることを一通り話し出した。  何しろ委細を話しておくべき若様組の友人達は、皆コレラ対策にかり出され、直ぐには連絡がつかないのだ。そこに長瀬自身が、大河出が絡んだ不穏な話に巻き込まれてしまった。誰が何時、命を落とすか分からぬ状態になったからには、今の状況全てを伝えておける者が欲しかったのだ。 「よって、今一番暇そうにしているミナに、言っておく。今日中に全部、書き留めておけよ」  友に勝手を言われても、『ミナ』という気に入らないあだ名で呼ばれても、今日の真次郎は怒らなかった。一つ首を縦に振ってから己の分の紅茶も入れ、友の顔を覗き込む。 「珍しく、追いつめられているなぁ」  真次郎は友に焦るなと言い、しかしその気持ちも分かるが、とも言った。 「とにかく長瀬は今、その加賀三太郎という男を追うしかないな」  自由民権運動など行っているのだ、捕えられる覚悟は出来ているだろうと言い、真次郎は唇を歪める。それよりも心配は、コレラと向き合う羽目になった若様組の面々のことであった。 「何か助けになることが出来ぬか」  しばし天井を見上げ考えた後、真次郎は一つ思いついたことがあった。 「確か……以前居留地で、伝染病への対処法を話していた医者がいたな。若様組の皆が病から身を守る方法がないか、詳しい者を探して聞いてみるよ」  もし何か分かったら、園山や福田ら若様組の者達を探して伝える。ついでに今回、大河出警視がやったことを、皆に言っておくと言うと、それを長瀬が慌てて止めた。 「おいミナ、仕事中だろう。無理はするな」  若様組の者達は今、コレラの流行地にいるのだ。そこへ行ったら、真次郎にも感染の危険が迫る。だが真次郎は笑っていた。 「心配すんな。コレラは口から感染する病だ。患者の近くを歩くだけじゃうつらねえよ」  そもそもコレラが流行ったものだから、アイスクリンや生の果物が載った菓子は、全く売れぬと真次郎は嘆く。その上季節柄、暑過ぎて、クリームも牛酪も持ちが悪い。 「この病の流行が収まるまでは、商売あがったりだ」  だから商いを休んでもかまわないと言う。そして溜息を付け足した。 「それにしても最近、本当に流行病が多いな」  明治の世になり、外つ国と関わるようになる前とて、日の本には様々な病の流行があった。疱瘡《ほうそう》と呼ばれた天然痘《てんねんとう》や脚気《かっけ》の蔓延《まんえん》などで、多くの命が奪われてきたのだ。  しかし幕末以降はそれに加え、人々は新たな病の流行に晒されている。赤痢《せきり》、腸チフス、発疹《はっしん》チフス、ジフテリア、コレラなどなど。赤痢や腸チフスの流行期には、何万人単位で罹患《りかん》し何千人単位で亡くなっている。  そして伝染病の中でもコレラは、伝染性が強く亡くなる確率も高い病であった。コレラに罹《かか》ると腹痛も発熱もないまま、突然の下痢《げり》や激しい嘔吐《おうと》にみまわれる。その後|痙攣《けいれん》を起こし、一日から二日でコロリと死ぬことも多かった故に、『コロリ病』などと言われ、恐怖を持って語られているのだ。 「とにかく、俺は必死に加賀を探す」  長瀬は強ばった顔で、立ち上がる。真次郎が眉を顰めた。 「長瀬、己の体調にも気を付けないと、病を拾うぞ」  一旦伝染病に罹ったら、命を失う覚悟をせねばならない。ここで長瀬が落命してしまったら、若様組の者達を大河出警視から救い出す者がいなくなる。そう言われて長瀬が、珍しくも頭を抱えた。 「分かってる。分かっているが……」  真次郎は、流行病とは無縁の安全な水を水筒に詰め、長瀬に持たせた。それからふと思いつき、貧民窟の親分達に相談してみてはどうかと言ってみる。若様組で内職をしている長瀬には、親分達とのつてがある。そして貧民窟は訳ありの人が隠れるのに、絶好の場所であった。 「だが貧民窟は、縄張りを持つ親分に話を通さないと、何も分からない所だ。今までに他の警察官が探していたとて、見つかってはいないよ、きっと」 「そうか……そうだな」  長瀬は頷くと、直ぐにも店を休むという真次郎と共に、風琴屋を出て左右に分かれた。長瀬は加賀を探しに、真次郎は伝染病の対処法を求めにゆくのだ。細い小道から煉瓦街へ抜ければ、長瀬の目に数多の人が行き交う表通りが見えてくる。それは一見いつもの銀座と変わりのない、華やかな光景であった。 (だけど、このままコレラが流行し続けたら、この通りにも病が紛れ込むかもしれない)  長瀬は知らぬ内にぶるりと総身を震わせ、それから先を急いだ。         4  屋敷の縁側に日が注ぐ、明るい午後であった。  庭には築山《つきやま》があり、手入れの良い松や躑躅《つつじ》が並んでいる。手前にある池を囲むようにして建つ左側の離れからは、水面を望むことが出来るようになっている。母屋は流行の洋館などではなかったが、広い室内には敷物が敷かれており、その上に猫足の椅子とテーブルが置かれていた。  沙羅の気が変わらぬ内にと、小泉琢磨は娘を早々に、根岸《ねぎし》の知人宅まで納涼《のうりょう》に連れ出したのだ。 「お父様ったら、とっくにお膳立てをしてたのね」  わずかな風が涼を運んできて、戸を開け放った部屋はなかなかに涼やかであった。しかし着慣れぬ大振り袖を着た沙羅は、髪をがっちりとした日本髪に結い上げられ不機嫌だ。 (腕一本動かすのにも、重いったらありゃしないわ)  金襴《きんらん》の丸帯に締め付けられた身には、普段馴染みの袴が懐かしい。しかし今日の納涼は、実質親に仕組まれた見合いであるからして、かくも大仰な格好も仕方のないところだ。  いくらもしない内に、若い男が家の主と共に現れ目の前に座った、素早く目をやると、おっとりとした顔が目に入ってきた。 (このお人が、ええと、西宮伯爵の弟君にあたる高浩様の……なんだっけ、とにかく浩光さんなのよね)  急な呼び出しであったはずなのに、浩光は意外と爽《さわ》やかそうな顔で笑みを向けてくる。短めの髪を後ろへ流し銀縁眼鏡をかけ、沙羅とは違って麻の洋装であった。 (洋装が羨《うらや》ましいわ)  すると、この家の主が仲人《なこうど》役と決まっているのか、場を仕切り沙羅に話しかけてくる。 「いやいや、今日は本当にお日柄も良く、さい先の良いことでございますな」  そう前置きすると、浩光のことを伯爵家縁りの者であるだけでなく、帝国大学を卒業しており、現在は大学で助手をしていると持ち上げる。身分があり名門大学の出で、その上、社会経験もあるのだと、まるで売り出し中の反物《たんもの》を説明する呉服屋のごとくなのだ。  仲人は饒舌《じょうぜつ》で、蝉《せみ》がひとしきり鳴いて終わっても、まだ話していた。直ぐに話に飽きてしまった沙羅は、扇子でぱたぱたと顔を扇《あお》いでいた。 (あぁ暑い! こんな着物姿だと、根岸にいてもちっとも涼やかではないわ)  だが、新たに別の蝉が鳴き出しても、話は終わらない。いい加減じれてきた沙羅は、話の僅かな隙間を突いて正面から浩光に問うてみた。 「あのぉ、どうして私と見合いなどなさろうと思われましたの? いわゆる、身分違いでしょうに」  すると、息を呑み黙ってしまった仲人に代わり、浩光があっさり答える。 「縁がありましたので」  人を食ったような返答をし、落ち着いて茶を飲んでいるその顔が、何やら面白がっているような笑みを浮かべている。沙羅はくいと眉を上げ、更に聞いてみた。 「正直なところ、やんごとないご身分のお方にとって当小泉家の魅力といえば、それは財力しか思いつきませんけど」  そのあけすけな言葉に仲人が慌て、沙羅の言葉を遮ってくる。 「沙羅さん、そんなことおっしゃっては……」  仲人は顔色を、何故だか段々と悪くしているようであった。しかし沙羅は臆せず言う。 「でもうちだって、没落の可能性はありますのよ」  沙羅には今でも父が何故、この見合いを強行したのか分からないでいる。沙羅は浩光に相応しくないし、生まれと学歴が自慢のおぼっちゃまでは、成り上がってきた小泉家は背負えないように思えるのだ。 (お父様は大学勤めのこのお方の、どこを気に入ったのかしら)  父琢磨は沙羅の婿《むこ》に、商いの実力がある男を求めていると思っていたのだが。 (そうでないと、小泉商会も先が危ういわよねえ)  そこに浩光の、のんびりとした声がした。 「沙羅さんはこの縁談、あまりお気に召さぬようですね」  とにかく会ったばかり、頭から婚礼をあげよと言われては戸惑うのも無理はないと、浩光は寛大なことを口にする。 「でも知っていますか。この縁談には沙羅さんが思っている以上の価値があるんですよ」  そう言って笑うと、浩光は瓜を皿に取り食べ始める。 「私は沙羅さんのお父上が、西宮家との縁を望まれたのには、訳があると思うんです」  沙羅自身が言ったように、小泉家には身分がない。それは爵位のあるなしだけではなく、財閥の後押しや横の繋《つな》がりが全くないということであった。つまり、地位と財産のある親戚身内がいれば得られる有形無形の利が、成金故にないのだ。 「だが西宮家には、それがあります。いえ、我が父も伯父の伯爵も大した者ではありませんが、叔母《おば》達が良き家に嫁《とつ》いでおりまして」  親戚の親戚という感じで、上流の者達は繋がっていることが多い。成金として大層大きくなった小泉商会は、今より上に行く足がかりが欲しくて、この見合いを行ったのだろうと浩光は述べる。  沙羅はちらりと父を見たが、琢磨はそっぽを向いている。それで仕方なく、沙羅はまた浩光に言葉を向けた。 「まあ。では浩光さんは、どうしてそんな見合いに来られたんですか?」 「それは……きっと私の本音を言った方が、話が進みますよね」  そう言うと、浩光は少し口元を歪めた。 「私はね、西宮家の一員と言っても、当主の弟の、そのまた次男なんですよ」  伯爵には、まずなれない。財産も引き継げはしない。大学を出たものの、助手として研究室に残るのが精一杯であった。そんな浩光にとって、もし跡取り娘と婚礼をあげ小泉家当主になれれば、たとえ身分が釣り合わぬ相手であっても、立身であるのだ。 「親戚達も、この縁に期待していますしね」  西宮家の資産は、小泉家のそれに遠く及ばないからだ。それにと、浩光は言う。己は大学時代、外つ国の経済学も修めた故に、仕事ではきっと役に立つ筈《はず》だと。 「この見合い話を聞いたとき、貿易という商売をするのも面白そうな気がしたんです。本音です。どうです、私は正直者でしょう?」  何だか自慢げに、浩光は言う。 「商売って……では外国語を自由に、お使いになれるのですか?」 「沙羅さん、その答えは否です」 「では、経理や貿易実務の専門知識を有していらっしゃる?」 「いや専門と言われますと、どうも……」  沙羅はこの太平楽《たいへいらく》な男を、草履《ぞうり》で蹴飛ばしたくなった。 (机上の学問で商売が出来たら、世話ないわよ!)  もし学歴が実力の物差しとなるのなら、学校もまともに出ていない父琢磨が、他の大学出を押さえ、成金と言われる程に成功する筈もなかった。沙羅は厳しい言葉を言いたくなって……ぐぐっと己の心を押さえ込む。 (駄目だ。私、今日は、どうにも気が立っているわ)  眉をつり上げる代わりに、沙羅はテーブルに出ていた葡萄《ぶどう》味のゼリケーキへ手を伸ばした。 (いらいらしてるなぁ。見合いをするのと引き替えに、真さんや長瀬さん達の、のっぴきならない状況を聞いちゃったからかな)  それでつい、暢気《のんき》な浩光と皆を比べてしまい、浩光に対し点が辛くなったのか。それとも二人が命懸けでコレラと向き合っているのに、彼らを助けることも出来ない己がはがゆくて、そんな時に見合いをしているのが嫌で、だから自分は浩光に八つ当たりをしているのだろうか。 (冷静に考えれば、これなる浩光さんは、そう悪い人ではないわよ。うん)  身分にこだわらず正直だ。たぶん良いお人なのだ。ただ気合い入りのおぼっちゃまで、世間知らずの塊なだけだ。  沙羅は、光を含んだ半透明のケーキを口に含んでから、ちらりと見合い相手を見た。 (参ったわ……)  幼い頃の、さして裕福ではなかった小泉家を、沙羅は知っている。成金という名が程遠かった頃の、商売の難しさも見ていた。身分も懐具合も大きく差がある世の中の、厳しさを感じて育ってきたのだ。真次郎から外国語を教えて貰い、帳面の付け方を番頭に習って父を手伝ったりもした。  商会と一緒に大きくなった沙羅ゆえ、浩光の考え方の緩さが見えてしまうのだ。 (目の前にいるこの方では、お父様の辣腕《らつわん》の半分も期待出来ないわね、きっと)  琢磨もそのことを分かっているだろうに、どうして浩光を婿にして、小泉商会の先々を託そうなどと思いついたのであろうか。それ程までに、上流との繋がりは大事なものなのか。ここに至っても琢磨は、隣に座ったまま何も言ってはこない。  するとその時、目の前にいた浩光が、さも面白げに低い声で少し笑った。 「実はね、沙羅さん。この度見合いをするつもりになった訳は、もう一つあるんです。西宮家の方の事情なのですが」 「もう一つって……?」  気になって、沙羅はゼリーを載せたスプーンを片手につい尋ねる。浩光によると、全ての始まりは父の妹、光子《みつこ》叔母だったというのだ。叔母が西宮家へ来たとき、浩光に似合いの娘がいると、そんな話をしたらしい。それで浩光の父がその気になった。 「西宮家の……光子叔母様?」  全く知らぬ相手であった。 「実は沙羅さんのことを光子叔母に教えたのは、従姉妹《いとこ》らしいんです。そして、その従姉妹にあなたのことを面白い方だと話したのは、その友達なんですよ」  話は巡って、浩光は沙羅に興味を持つことになったという訳だ。 「何だか伝言遊びみたいで、面白いでしょう? 私は不思議な縁を感じたんですよ」  笑う浩光の向かいで、沙羅はいささか不可思議な話に戸惑っていた。西宮家のご令嬢が沙羅のことを知っていたとは、どういうことなのであろうか。  沙羅はふと思いつくと、浩光の従姉妹の友達とは、いかなる人物なのかを問うた。すると浩光は、従姉妹とその友達は沙羅と同じ女学校に行っているのだと言う。 「女学校!」  何だか嫌な予感がして、沙羅はずばり名を聞きたいと言葉を重ねる。浩光は一寸「言ってもいいかなぁ」と漏らした後、その名を口にする。 「うちの叔母は、男爵家へ嫁いでおりましてね。親しくしていただいている家に、紫堂子爵家があります。沙羅さんの噂をしていたそのお人は、紫堂子爵家の志奈子さんです」 「まあ! 志奈子さん」  沙羅はその名を聞いた途端、ぴしりとその居住まいを正した。沙羅と志奈子はどう考えても、何遍《なんべん》思い返しても、友人とは言い難い間柄であった。その様子を見て、浩光が寸の間言葉を切る。 「おや……沙羅さんと志奈子さんは、その、お友達ではなかったんですか」  何を感じたのか、浩光はいささか驚いたような顔つきとなっている。隣で何故だか父琢磨が、声を殺して笑っているように見えた。         5  真次郎は、華やかな銀座の通りを抜けたときふと思いつき、煉瓦街の外に向かった。  じきに、細めの道沿いにある多報新聞と書かれた金字の看板が見えてくる。馴染みの新聞社であったし緊急時ということで、断りもなく洋風の上げ下げ窓の脇、洒落た入り口から入って行く。 (記者は物知りだが、話したくないことを最も聞きたがる人達だ。さてどうするかな)  遊びに来たと言い顔を見せれば、記者達が何人か、歩くアイスクリンが来たと顔をほころばせる。真次郎が愛想良く頭を下げた。 「お久しぶりです。済みません、最近怖い伝染病が流行ってるんで、菓子を作ってません。今日は土産がないんです」  頷く記者達に、真次郎はどんな仕事をしているのかと挨拶代わりに聞く。すると芝居や流行の店の話に交じって、丹羽がコレラに関する記事を書いているところだと口にした。真次郎の足は、丹羽の机に寄って行った。 「それは丁度いい。丹羽さん、コレラ対策で有効な手を知りませんか。それと衛生警察が、今どの辺にいるか分かるとありがたい」  その内の何人かと連絡を取りたいのだと話すと、丹羽は上司の杉浦と顔を見合わせる。口を開いたのは杉浦の方であった。 「何の用だか知らんが、今、彼らに近寄るのは止めておいた方がいい。何しろ彼らは始終、コレラ患者と向き合ってるからね」  感染の危険があると言うのだ。コレラは早い場合、うつってから数時間で発病、一、二時間で命を落とすこともある。簡単に考えてよい病ではないのだと、きっぱりとした声で止められた。 「分かってます。それでも急いで、彼らの居場所を知らねばならないんで」 「へえ?」 「ほう、それはまたどうして?」  すると記者達が、俄然興味をかき立てられた顔をして見てくる。真次郎は唇の端を引き上げ、何気ない感じで言った。 「若様組巡査の友達が、衛生警察へ配属になったんです」 「病に立ち向かう最前線へ向かったのか!」  丹羽は頷くと、直ぐに警察が顔を見せているおおよその場所を、簡単な手書きの地図に書き入れてくれた。だが、真次郎がそれを受け取ろうとすると、地図を差し出した丹羽の手を、横から杉浦が止めた。 「何だか急な配属のようだな。ところで若様組の巡査さんの内、何人が配属されたんだ?」  さすがは上司と言うべきか、杉浦は痛いところを突いてくる。相手は記者であるから、隠してもおおよそは後で分かる筈であった。真次郎は仕方なく、ほとんどの友が配属替えになったことを告げる。 「ほとんど全員? 一度にか?」  途端、新聞社の中の雰囲気が変わった。 「……真次郎くん、友達の誰ぞが、警察のお偉方の妾《めかけ》でも寝取ったのか?」  記者達の目が、輝きを帯びている。その内、余分な質問を始めるに違いなかった。 (こうなるかもしれないとは思ったけど……背に腹は代えられないしなぁ)  矢面《やおもて》に立たされた巡査が既に大分、コレラにやられたとの噂が流れていた。とにかく友を、コレラという恐怖から救いたい。  その時、黙り込んだ真次郎に、丹羽が妙に優しげな声を掛けてきた。 「なあ真次郎くん、事情を話してくれたまえよ」  この様子では真次郎が何か言った途端、それが新聞の見出しに化けるやもしれない。 �ああコレラの恐怖! 零落した元若様達に危機が迫る!�  恐ろしい想像をした真次郎が寸の間言いよどむと、益々記者達が意気込んでしまう。 「おお、真次郎くんが口ごもっているぞ。これは何としても、聞き出さねばならぬ話のようだ」 「話してくれるまでは、この地図、渡すことは出来ないな」  訳を話せ話せで、何ともかしましい。真次郎は記者達の興味を静める為に仕方なく、真実を……真実ではあるが、その一部でしかない話をしておくことにした。 「実は若様組の長瀬が、大河出という警視に睨まれたんだ。巡査でありながら家人を養う為に、せっせと内職をしているのを知られた。これは、記事にはしないで下さいよ」  すると、さすがは記者と言うべきか、真次郎はとんと知らなかったその警視について、皆詳しいことを口にし始める。 「大河出警視? おお、大河出泰時だね」 「旧土佐藩出身、中肉中背。五十代だっけか。まだまだ出世をしそうな御仁だな」 「結構金持ちで、財界にも顔が広い。投資が得意。その上料亭の遊び方も粋《いき》だとか」 「赤坂御門近く、元の松平|出羽守《でわのかみ》屋敷跡辺りに住んでいるぞ。確か今年、赤痢で奥方と息子さんを亡くした筈だ」 「何年か前に、娘さんも病死していたよ。もう親も亡くなっている」  記者達によると、腹が読めぬと評判の男は、家族を次々と失い、最近は生彩がなかったという。しかし、せっせと配下の下っ端達|虐《いじ》めを始めたのだから、どうやら大河出警視は回復してきたらしい。 「若様組を警視がいびる話、面白い読み物になるやもしれないが……」  だがしかし、と記者達は言う。 「下手にあの警視を突つついたら、我らが新聞の方が廃刊だ。こんな一件で騒ぐのは割に合わん」 「それにコレラと向き合うのは、警察の仕事だ。若様組の巡査がその役目を申しつけられたからといって、誰も大河出を責められん。記事には出来まいよ」  今回のことは、新聞社の将来を賭けるべき代物ではないと判断されたようで、あっさりと記者達の興奮が収まる。 「諸事あい分かった。つまらん。真次郎さん、この地図は持って行け」  丹羽が地図を手渡すと、横からのっぽの多賀村《たがむら》記者が、声をかけてきた。 「真次郎さん、コレラ対策も聞いてたよな。要は、医者で薬を貰っても安心しないこと。コレラの特効薬は、まだなかった筈だ」  他にも、この病に罹ったら手足を温めろとか、氷の破片を口に含ませろとか、様々なことが言われているが、信じないよう言ってくる。ましてや神社の護符《ごふ》やまじないなど、気休めにしかならぬと断言する。 「迷信は、どちらかというと邪魔になるな」  真次郎は流言のせいで、巡査達が困っているのだと訴えた。長瀬によると巡査達は、患者や家族の隔離や消毒、病院などへの移送、汚物の処理、患者が住まう付近一帯の消毒、監督まで行っているのに、悪者扱いされ妨害までされ、目が回る忙しさなのだそうだ。 「あげく活動中感染し、命を落とした巡査も出ているそうですね」  多賀村は黙って頷くと、紙切れに何事か書いて寄越した。 「真次郎さん、コレラに罹ったらお札やまじないよりも、これだ」  書き付けには、水に塩を入れる簡単な絵と、その割合が書かれていた。 「塩……?」 「これは横浜の居留地にいる医師から聞いた話だが、もしコレラに罹ったら、とにかく塩を入れた清い水を飲むのが良いという」  吐いたり下痢をしたりで体から出した水分を、同量の塩入水で補うことをしろというのだ。ただの水ばかりを飲むと、塩分が排出され足りなくなる。それでは身を損なうから、必ず海水を薄めたくらいの塩水を飲めと、多賀村は言った。 「勿論塩や水じゃ、特効薬にゃならない」  だからそれで病が治ることはない。しかしきちんと水分塩分を補っていれば、コレラの死亡率はぐっと減るのだそうだ。 「ただそうなると、患者へ塩入水を飲ませる為、口元へ何度も椀を差し出さねばならん。患者が吐いたものが、手にかかるだろうな」  コレラがうつる可能性が高まる。看病は命懸けとなるのだ。 「気をつけてな。もし本当にこの方法で患者を治せたら、知らせてくれ。記事にするから。きちんとした記録があれば、礼もする」 「分かりました。ありがとうございます」  地図と書き付けを手に、深く深く頭を下げる。そして真次郎はまた、銀座の華やかな通りへ出た。 「コレラ対策に出た衛生警察が、向かった先は……」  新聞社入り口近くで書き付けを見ると、場所は幾つもある。そして当然のことながら、人口の密集した地が多かった。貧民窟なども、貧乏人が多く日頃十分な栄養を取れていないせいか、コレラの流行場所となっていることが多いようであった。 「やれ、金がないと、命に関わる伝染病と向き合う羽目になるのかよ」  理不尽であった。しかし憤っているより、今はなすべきことをせねばならない。 「まず、どの町へ探しにゆくかな」  若様組の巡査が、全員同じ場所に配属されて居るわけではあるまいから、幾つか配置先を巡れば、誰かに会えるかもしれない。しかしいずこへ向かうにせよ、せっかく会うのならある程度の安全な水と塩を、手に入れておいた方が良さそうであった。  どこで塩と水を手に入れようかと賑やかな銀座の地を見回し、水は新聞社に戻って貰おうかと思い……新聞から、自由民権運動の記事を連想した真次郎はふと、気に掛かる事が出来た。長瀬の追っている、自由民権運動の闘士のことだ。 (自由民権運動に関わっている奴は多くいる。しかし大河出警視が、思い切った手段を取ってまで捕まえようとしたのは、加賀という人が初めてじゃないかな)  捕まえてこいと言われ、あの長瀬が驚いたくらいだ。前例があるとも思えない。加賀三太郎はどんな特別な理由があって、あの大物警視に睨まれたのだろうか。 (新聞記者達なら、もしかしたら答えを知ってるかもしれない)  真次郎は今出てきたばかりの新聞社へ、目を向ける。だが記者達は、事が自由民権運動絡みと知れば、今度はあっさりとは引くまい。真次郎は首を振ると、とにかくまず若様組の皆に会いにゆくことを優先した。         6 「自由民権運動の闘士、加賀はいずこ」  人捜しを急ぐ長瀬は、少々怪しげで口にするのを憚《はばか》られる人脈を駆使した。つまり真次郎に勧められたように、貧民窟の親分達へ自由民権運動に加わった人物がいたら、知らせてくれと頼んだのだ。  確かに手配の者が潜んでいるのは、剣呑で恐ろしく猥雑《わいざつ》、警察の手が及ばない貧民窟に違いない。流行病が怖くて、衛生状態が悪い貧民窟に足が向かない巡査も多いのだ。 (今、貧民窟には、ほとんど警察の目が行き届いちゃあいないだろう)  一方各貧民窟の親分達は今、巡査よりも流行病と縄張り争いとに気を尖らせているらしい。住人の把握に怠りないためか、長瀬の問いには早々に、返事を寄越してきた。驚いたことに、貧民窟に身を隠している自由民権運動の闘士は、存外多くいるようであった。 「やれやれ、どの町から調べるべきなんだ?」  仕方なく長瀬は、一番にまず上野近くの万年町へ向かうことにした。万年町の安野親分からの知らせによると、町にはずばり、加賀三太郎という名の男が住んでいたからだ。 (お上に睨まれている運動をやってて、本名を名乗るとも思えないが)  同姓同名だとは思うものの、迷っている暇があったら、調べを進めた方が早い。さっさと鉄道馬車に乗った長瀬は、上野のステイションで降り、人の流れと人待ち顔の人力車の間を抜けて行った。やがてその名を知られた貧民窟万年町に入り込むと、じきに親分、若い安野一馬の顔を見つける。親分はシユウクリームが絡んだ一件で、長瀬や真次郎と顔なじみとなっていた。 「安野が同道してくれるのか。それはありがたい。貧民窟の路地で、血気にはやったお前さんの配下に襲われずに済むからな」 「おや、長瀬巡査は、ここいらの破落戸《ごろつき》が怖いんですか?」 「血迷った連中を相手にしたら、十人程は殴り倒さねばならんじゃないか。面倒くさい」  正直に返答すると、隣で安野が豪快に笑う。共に万年町の奥へと向かいつつ、長瀬はこの町にいる加賀三太郎について尋ねた。すると安野は、薄笑いを浮かべ返事をする。 「はっきり言いまして、とてものこと政府や警察に楯突く人物にゃ見えませんや」  頭は悪くない。やや気が弱い。そしてどことなく、幼い感じのする男なのだそうだ。その言い様に、長瀬が苦笑を向ける。 「餓鬼扱いだな。もし加賀三太郎本人ならば、安野、お前さんより年上なんだが」  大河出警視を敵に回す剛の者としては、この町にいる加賀は気が抜けているようだ。 「やれ、別人かもしれんなぁ」  ぼやく長瀬の横で、安野が若いに似合わぬふてぶてしい顔つきをする。 「なに、すぐそこにいるんです。会って確かめればいい」  言っている間に安野は道を曲がり一層細い路地へと入った。傾いた建物の軒が両側から迫り、晴れているのに何やら薄暗い。おまけに戸もない長屋のいずこからか、長瀬達へ数多の視線が注がれて来る。 (この町の元締めと一緒でなきゃあ、背がひんやりする場所かもな)  長瀬が苦笑を浮かべた時、戸が半分程残った長屋の前で、安野が歩みを止める。直ぐに親しげな様子で、板戸の奥へ声をかけた。 「加賀さん、いるか? 安野だ」 「……これは親分さん」  見れば一応|布団《ふとん》らしき、煮染めたような色のものから、僅かに身を起こした者がいる。まだ若い男だ。見た途端、長瀬は立ちすくんでしまった。 「あ……加賀三太郎」  まさに写真で見た通りの顔が、こちらを向いているではないか。どうやら早々に、加賀を探し出せたらしい。加賀は潜伏している自由民権運動の闘士だというのに、本名を使い続けていたのだ。  長瀬にとって、これはいささか呆然《ぼうぜん》とする出来事であった。 「このくらいの調べで居所が分かるんなら、どうして大河出警視は、自分の子飼いの巡査にやらせなかったんだ」  大河出警視は若様組の面々をコレラと対峙《たいじ》させ長瀬を脅して、加賀を探させている。長瀬はそれだから、余程の仕事に違いないと思っていたのだ。するとその名を耳に挟んだ加賀が、長瀬に目を向けてくる。 「大河出警視?」  だが直後、加賀の顔が引きつった。よろよろと立ち上がると、土間へと降りる。だがそれから先、厠《かわや》へ行く力もない様子で、加賀は隅でバケツに用を足し始めた。  その様子を目にし、長瀬が顔を強ばらせる。 「排泄物が……白っぽい」  聞いた途端、安野の目もバケツに向けられた。目が見開かれ、両の手が握りしめられていた。それは最近、よく耳にする病の症状であった。 「……コレラか!」  見れば加賀は既に目がやや落ち窪《くぼ》み、コレラ患者特有の顔つきとなってきているではないか。加賀がコレラに罹っていることは、間違いないようであった。 「くそっ、事が簡単だったと思った途端、これだ!」  長瀬が、この家を隔離せねばならんと言うと、安野が険しい顔つきで頷く。 「近くに、似たような症状の者がいないか、調べなきゃな。それと、それと……」  下手をすれば、コレラが貧民窟のあちこちへ飛び火しかねなかった。一帯を預かる親分としては、何としてもそんな事態にだけは、なりたくないに違いない。 「親分、誰ぞを警察署へ走らせ、消毒用の一式を持って来させてくれ」  長瀬が頼むと安野は頷き、急いで長屋から走り出て行った。その時力なく煎餅《せんべい》布団に戻っていた加賀が、か細い声を出す。 「俺は……コレラなのか。死ぬのか?」  コレラはコロリとも言われる程、あっと言う間に命を落としかねない恐ろしい病だ。だが、ここで長瀬は加賀に向きあうと、死んで貰っては困ると、きっぱりと言い放った。 「お前さんが無事でないと、巡査達が迷惑をするんだ。さっさと治せよ。さもないと地獄の閻魔《えんま》に、ろくでなしだと言いつけるぞ」 「そんな……」  抗議する声が弱々しい。長瀬は唇を噛み、加賀の様子をもっとよく見ようと側に寄って顔を覗き込む。すると奇妙なことに気が付き、首を傾げることとなった。 「あれ加賀さん、あんた……大河出警視と、何だか似てるね」  写真では気が付かなかった。そう言えば先程、加賀は警視の名に反応をしている。長瀬はまさかとは思いつつ加賀に問うた。 「加賀さん、あんたは大河出警視と何か繋がりがあるのかい?」 「大河出警視は……どうして俺を探しているか言いましたか?」  加賀に問い返され、長瀬は急いで頭の中をさらってみる。だが、警視がそのことについて説明をした記憶がない。長瀬はてっきり自由民権運動の闘士を逮捕したいのだと思い込んでいたから、突っ込んで聞きもしなかったのだ。ゆっくりと首を振ると、加賀は寝たまま口元を歪めた。 「……何用なんだろう」  加賀は「でも」と付け加えると、もし己がコロリで死んだら、大河出警視に連絡をつけて貰わねばならないと言い出した。そして一つ息を吐いた後、静かに告げる。 「大河出警視は……母の兄です」 「お、伯父さん?」  長瀬が、思わず声を上げた。 「俺……自由民権運動をやってるもんだから、伯父とは仲が悪くて。おかげで、従兄弟《いとこ》や伯母の葬儀にも顔を出せなかった」  伯母亡き後、小遣いも貰えなくなったと小声で愚痴を言った後、加賀はまた用足しに起きあがった。長瀬がその姿を支えつつ、大きく溜息を吐く。大河出警視が、この甥《おい》っ子のことを周りに秘密にした上で、こっそり長瀬に探させた訳を悟ったからだ。 「確か大河出警視は最近家族を失い、一人になったんだっけ」  その衝撃から立ち直り、やっと落ち着いて考えてみたら、近しい身内といえば、自由民権運動などという厄介な代物に関わっている、甥っ子一人だった訳だ。 「警視の身内にそんな者がいると知れたら、拙いよなぁ」  長瀬は口元をひん曲げた。加賀は警視にとって、とても大切だが厄介な人間でもあるのだ。加賀のことが警察内部にばれたら、警視自身の出世に響きかねない。しかしそれでも、唯一の身内なのだ。早く家に連れ戻したいのだろう。  だが大河出家からの小遣いが途絶えた後、金の尽きた甥っ子は雲隠れしてしまった。下々と縁のない警視には、余人に知らせず一人で甥を探し出すのは困難であったのだ。 「それであの警視殿は、俺に甥っ子を探させたのか。事のついでに、目障《めざわ》りな元徳川方の巡査達を懲らしめようと、思いついたんだな」  長瀬は「くそぉ」と唸《うな》ってから、また横になった加賀に怖い顔を向けた。腹の立つ警視の甥っ子殿は、見つけたと思ったらコレラに罹っていて動かせない。流行病に罹った病人など、警察署には連れて行けなかった。 「全く、思い切り迷惑な伯父と甥だな! いいか、死ぬなよ!」 「そ……そんなことを言ったって」  力ない声を聞き、長瀬は眉間に深く皺を寄せた。とにかくこの男を治療しなくてはならない。加賀に死なれては、この先、若様組がどうなるか見当がつかないのだ。 「参った。この貧民窟へ来てくれる医者など、いるのかね。いや、そもそも医者を呼んだとて、コレラが治るもんだろうか」  残念ながら、医者が長屋へ駆けつけたらコレラが治ったという嬉しい話を、長瀬はまだ耳にしたことがない。 「どうしたらいいんだ?」  更に、運悪く加賀から病がうつれば、己の命も危うい。 「うーむ」  思わず薄く唇を引き結び、横たわる病人を見つめた。その時。  長瀬は不意に、貧民窟の細い路地へ顔を向け、眉を顰める。表から何やら騒がしい音が近づいてきていた。 「安野が手下を連れてきたのか?」  だが、何か感じが違う。思いがけない人数が、この長屋に向かって来ている様子なのだ。 「これは……足音だよな?」  しかし、その名を知られた貧民窟の奥に、団体でやってくる者などいるのだろうか。  長瀬は寸の間、崩れそうな長屋の一室で立ちすくんでいた。         7 「園山さん、小山《こやま》さん、ああ、高木さんも、ようやく見つけた。元気そうで良かった」  新聞社で貰った地図を頼りに立ち寄った三つ目の町、浅草の端で、真次郎はやっと若様組巡査の姿を見つけることが出来た。  以前行った万年町ほどではないが、いかにも貧しげな町並みの先で、洋装の巡査達は街灯のように目立っていたのだ。江戸を引きずるかのような作りの長屋は、狭い路地にのし掛かるように建ち、どぶ板がその真ん中を通っている。  だが。ほっとして駆け寄った真次郎を、園山が鋭い声を出し制止した。 「近寄るんじゃない! 真さん、この状況が見えんのか!」 「へっ?」  思わず間の抜けた声を出し、真次郎は足を止める。見れば園山達は、どうみても近所の住人達に見える一団と睨み合っていた。皆てんでに棒だの板きれだの物騒な代物を持ち、中には必死の形相《ぎょうそう》で、包丁を構えて巡査をねめつけている者さえいる。 「何があったんだ」  その時、園山の足下を見た真次郎は、驚きの声を上げた。 「何と、小弥太じゃないか!」  巡査三人の側で身を横たえているのは、暫く前に真次郎の店風琴屋を出て行った、士族の小弥太であった。園山達巡査は戸板に乗せられた小弥太を挟んで、大勢の者達と対峙していたのだ。  巡査に向かって町民が刃物を振りかざしたら、冗談では済まない。だがこの町の者達は、そんなことすら考えられぬ程に激高していた。声が飛ぶ。 「この巡査達は、病人を殺す。そこにいる小弥太だって、生きながら焼き殺すつもりなんだ」 「は? 小弥太を焼き殺す?」  益々訳が分からなくなった真次郎に答えたのは、サーベルに手をかけた小山であった。 「真さん、根拠もない流言ですよ。我らは知った顔の小弥太が、一人コレラで寝付いていたのを見つけた。それで治療しようと連れ出したら、騒ぎになったんです」  話しつつも、小山の目は用心深く貧民窟の一団に向けられたままであった。隣で園山がサーベルから僅かに刀を抜きつつ、吐き出すように言う。 「こいつらは大馬鹿なのさ。我々巡査がこの町に、コレラを持ち込んだと思ってるんだ」  巡査が井戸に伝染病に罹る毒を放り込んだとか、警察が秘密の実験を、貧乏人を使ってやっているだとか、山のように奇妙な噂が駆けめぐっているらしい。真次郎は、新聞社で聞いた噂話を思い出していた。 「それはまた、想像力が豊かなことで。医者でもないのに、どうやって巡査がコレラの菌を扱うのかね」  するとこの時、真次郎の疑問に答えたのは、鎌を構えた初老の男であった。 「こいつら巡査がいるとこにゃ、コレラが流行っとる。いつだってそうだぁ。だから、こいつらが病を広げた犯人なんだ!」 「我ら巡査は患者のいる町へ向かい、消毒し感染を防いでいるんだ。コレラの発生地にいるのは、当然の話だろうが!」  しかし園山が何と言おうとも、住人達は物騒な構えを解こうとはしない。それどころか、何とかして病人の小弥太を、巡査達から取り戻そうとしているのだ。 「こりゃあ、拙いなぁ」  真次郎は長屋の者達をというより、園山を止める為、この睨み合いに割って入った。ここでもし長屋の者達が包丁を手に園山へ打ち掛かったら、サーベルで体を二つにされかねない。この美丈夫の腕前は、それは大したものであるからだ。 「とにかく双方一旦、構えた得物《えもの》を下ろしてくれ。コレラについて話がある」  きつい眼差しが送られてくる中、真次郎は道の真ん中で仁王立ちし、肩から下ろした風呂敷から、白い紙包みを取り出して見せる。皆の目が、寸の間その包みに集まった。 「これから巡査さん達と、こいつを混ぜた水を、コレラ患者に飲ませていく。そうすれば、病が治る者がぐっと増える筈だ」  そう言った途端、住人の顔つきが変わった。 「薬か? コレラの薬を持ってきてくれたのか?」 「まさか毒じゃああるまいな。俺達を皆殺しにして、ここらの長屋を更地《さらち》にするってぇ話じゃあるまいな?」 「その薬くれっ。かかぁが死にそうなんだ」 「俺も欲しい」  凄い声が真次郎の右手、住人達から一斉に上がった。やはりこの辺りでは、小弥太の他にも、隠されている患者はいそうであった。サーベルを構えていた三人の巡査達も「ほお」と言って、真次郎が掲げた包みに目をやってくる。 「今朝方まで、薬の配布があるという話は聞かなかったが。真さん、そいつはどんな薬だ。効くといいが」  いささか不審げな様子で、園山が真次郎の横に来て包みを手に取る。そして一寸、口元を歪めた。 「何だか塩みたいな薬だな」 「ああ、当たりだ。これは塩だよ」  真次郎があっさり言った途端、ざわめいていた住人達の声がぴたりと止まった。それに構わず、真次郎が使い方の説明を始める。 「まず、きれいな水と塩を、たっぷりと用意してくれ。そして海水を薄めたくらいの濃さの塩水を作ってだな……」 「ふ、ふざけんな! 塩ときれいな水を沢山用意しろだって? 塩水でコレラが治るわけがねえだろっ」  この時、真次郎達と向き合っていた一団から、不機嫌な声が一つ上がった。すると、この声に合わせるかのように、一斉に不信一杯の言葉が沸き上がる。 「こいつ、俺達を馬鹿にしてんのか」 「塩水でコレラが治るんなら、皆とっくに元気になってらぁね」 「その男、巡査達を逃がす為に、嘘を言ってんじゃないかね。そうさね、誤魔化《ごまか》して逃げる気なんだ」  住人達は手の内の得物を握り直し、またじりじりと真次郎達に迫ってくる。こちらも構え直した園山達巡査の横で、真次郎は胸元に塩を抱えつつ、しばし呆然としていた。 「おいおい、何でこんなことになるんだ?」  真次郎としては、大層嬉しい話を持ってきたつもりであった。なのに、とんと歓迎されない。住人はろくに治療の話も聞かず、突っかかってくる。数多の棍棒《こんぼう》と包丁が、じりじりと間《ま》を詰めてくるではないか。 「何でだ? 園山、こいつで本当に病人を救えるかもしれんのだぞ」 「この辺りじゃ、もう大分死人が出てるからな。今更警察の知り合いの言うことなど、聞く気になれんのだろうよ」  その時、巡査は敵だと、一際大きな声が上がった。途端、園山は腰をすっと落とし、今にもサーベルを抜きそうになる。いよいよ拙い事態になってきたとみて、真次郎は眉間に皺を寄せる。 (あっぶねぇ。これじゃコレラで死ぬよりも多くの者が、斬られて道端に並ぶことになりそうじゃないか)  そうなったら真次郎は、この場に居合わせていたのに園山を暴走させたと、長瀬に責められるに違いない。何より騒動となったら、手当が遅れ小弥太が助からぬかもしれない。 「くそっ」  住人達に目をやり、次に園山と小弥太を見た後、真次郎は塩と水筒《すいとう》を落とさぬよう、素早く風呂敷にくるんで背にくくりつける。そして必死に、この場で死人を出さぬ方法を考える羽目になった。         8 「沙羅さん、どうかなさいましたか?」  見合いの席で菓子を食べて、しばし後。沙羅は何度か席を立つようになった。  庭を囲む建物の、瀟洒《しょうしゃ》な廊下を行き来するとき、居留地で求めたハンカチで口元を押さえている。それでも最初は早々に部屋へと帰り、浩光や仲人と話をしていたが、じきに声が途切れがちとなる。その様子を、小泉琢磨が気遣わしげに見るようになっていた。 「沙羅さん、具合が悪いのか?」  沙羅は小さく頷いた途端、今度は断りもせずに、さっと席を離れていった。  するとハンカチを使うその様子に、仲人が不安げな目を向けるようになった。最近帝都で流行っているのは、歌でも着るものでもなく、ひとえに病……コレラであった。  しばしの後、沙羅がテーブルに戻ると、父の琢磨は心配げな表情を浮かべ、浩光と仲人の顔はいささか強ばっていた。沙羅はここで帯に手を当て、苦しげな様子で言う。 「何度も席を立って、申し訳ありません。先程からこの辺りが苦しくて。少し痛みがありますの」  そう訴えると、仲人の体が僅かに後ろへ引いた。沙羅が目を浩光に向けると、こちらも顔から先程までの余裕が消えている。 「あの、沙羅さんの具合が悪いのでしたら、今日はこの辺で……」  ここでそう言い出したのは、仲人ではなく浩光であった。その時、沙羅が小さく「あっ」と言うと、よろめいて手を浩光の方へ差し出す。だが浩光は咄嗟に逃げ、その身に触れようとはしなかった。  沙羅は倒れず、すっと手を引っ込める。 「分かりました。では今日はこれまでに」  ここで座を終わらせたのは、琢磨であった。すると仲人と浩光は、早々に挨拶を終え席を立つ。走るように遠ざかって行く足音を聞きつつ、琢磨が娘に半眼を向けた。 「沙羅さん、本当に具合が悪いのか?」 「気持ち悪いんですの。あのゼリケーキ、ゼリーというより寒天なんですもの」  真次郎のゼリケーキの方がずっと美味しいと言うと、琢磨が溜息を吐く。 「仲人氏も浩光さんも、沙羅さんがコレラにでも罹ったと思ったようだったぞ」 「私はちゃんと、お腹が痛いと申しました。コレラに腹痛という症状はございません」  これ程流行しているのに、そのことを知らなかった浩光達が抜けているのだと、沙羅はあっさりと言う。その冷たい言い様に、琢磨が片眉を上げた。 「見合いは失敗か。まあ、よろけた沙羅さんの手も握れぬ男では、話にならん。ところで沙羅さん、先程の紫堂子爵家の志奈子さんのことだが」  名が出た途端態度が硬くなったが、含むところでもあるのかと問われ、沙羅は頷く。以前、志奈子に桃色のリボンを取られたことがあるのだ。 「桃色のリボン? 沙羅さんがよく付けていた、あの安物のことか?」 「あれは、真さんから貰ったものでしたの」  ここで沙羅は少し舌を出した。 「要するに志奈子さんは、真さんが好きなんだと思います」  女学校は居留地にあるし、真次郎はその地で育ったのだ。どこかで姿を見かけたのだろうと、沙羅は考えている。だから志奈子は真次郎と仲の良い沙羅に、別の男との見合い話が行くよう仕向けてきたのだ。 「そうか。それを気にしたということは、つまり……沙羅さんもあの男がいいのかね?」  貴族でもなく金持ちでもない男だ。浩光より、そちらがいいのかと正面から父に問われ、沙羅は父親に向き合った。涼しい風が通り抜けて行く瀟洒な部屋の中で、沙羅は、いつになく真剣な表情を浮かべる。  そしてはっきりと、己が意見を口にした。 「お父様、私は……私が小泉商会を継いではいけませんか?」 「は? いきなり何を……」 「お父様も浩光さんも、仲人さんまでも、私と結婚した夫が小泉商会を継ぐと決めているんです」  だから浩光と見合いをさせ、真次郎への気持ちを聞いてくる。だが。 「私はお父様の一人娘なのに、誰も私がお父様の仕事を引き継ぐとは、思っていないんですもの!」  同じ女学校で学ぶ志奈子ですら、学んだ学問を沙羅が社会で役立てるとは、考えていないようであった。会社などというものは、男が支配するものだと、そう決めてかかっているのだ。  時代が変わっても、文明開化と言われても、その旧弊《きゅうへい》なところばかりはとんと変わらないで、女の前に立ちはだかっている。年頃になれば結婚し、夫に全てをゆだねねばならない生き方が、沙羅には納得出来ないのだ。 「私は今まで一生懸命、外国語を習ってきました。帳簿だってつけることが出来ます。お父様にくっついて、商いの交渉ごとも見てきましたわ」  少なくとも浩光よりは、ずっと経験を積んできている。なのに女だというだけで、どうして沙羅は小泉商会を継げないのだろうか。 「見合いの相手など要りません。女学校を卒業後は、しばらく経営の勉強をさせていただけませんか。娘の私に商会の先々を託すのは、嫌ですか?」  それこそ一世一代、これ以上はないほど真剣に、父親に向き合った。沙羅は口だけでなく、今までちゃんと準備をしてきたのだ。  だが。 「沙羅さん、女が社主になることを快く思う商売相手は、帝都にいないと思うがね」  商いは一社だけでは出来ないのだ。父琢磨の返事は、どうにもつれなかった。 「それに、私は孫の顔を見たい。商いばかりに励んでいたら、あっと言う間に婚期を逃してしまうぞ」  その言葉は限りなく平々凡々で、今まで沙羅が他の人から、百万回程聞いてきたものと同じであった。真剣に話した後だけに、思わずこみ上げてくるものがあって、沙羅は下を向いてしまう。しかしここで泣いたなどと話したら、後で真次郎や長瀬にからかわれそうで、ぐっと我慢する。  しかし。 「だがまあ、とりあえず夫を社主に立て、お飾りとすればいいだけの話だな。沙羅さんが商会の運営をしたいと言うのなら、あなたが実権を握ればいい」  それに昔から、商家の家付き娘が金箱を握っているという話くらい、嫌というほどある。そういう形でなら、沙羅は商いの道へ入ってゆけるだろうと言い、琢磨は笑っているではないか。 「お父様、いいんですの?」 「その代わり、商売相手から胡散臭い目で見られぬよう、ちゃんと亭主を持ちなさい」  それにやはり、孫も欲しいと言う。そうして外面を整えても、沙羅が商いに口を出すと、やはり難しい局面にも出会うだろうと言った。それでも構わないと沙羅が答えると、琢磨は満足そうに頷いた。 「しかしなぁ、ならばあの浩光くんなど、扱いやすそうでいい相手かと思ったんだが」 「……お父様、お父様は最初から婿には、会社の実権を渡さないつもりでしたの?」 「あなたがその気になってくれたら、という考えではあったな。いやぁ、真次郎くんを婿に出来るなら何も要らぬと言われたら、どうしようかと思っていたぞ」  父から思わぬ本音が転がり出し、沙羅が目を見開く。  庭の美しい池で、魚の跳ねる小さな音がした。風が舞って、沙羅達親子の周りを過ぎて行く。父娘二人はしばし見合っていたが、やがてどちらからともなく、人が悪そうな笑みを浮かべ、やがて笑い出していった。         9 「真さん、一体我々は、何処《どこ》へ向かって走っているのだ?」 「万年町を目ざしてます。あそこには町を仕切る、知り合いの親分さんがいるんで」  真次郎と三人の巡査は、長屋の近くに止められていた大八車に戸板ごと小弥太を乗せ、逃げるように走っていた。サーベルで脅し、一旦は後ろに下がらせた長屋の住人達が、やはり追ってきているようであった。  とにかく今は逃げる。それが真次郎の立てた計画であった。 「何でだろう、あいつらしつこいなぁ。小弥太が心配でなけりゃ、あそこに残って本当に斬り捨てたところだわ」 「園山さん、万年町の親分の縄張りへ入れば、追っては来られないから大丈夫」  無理に入り込めば、気合いの入った万年町の破落戸と揉めることになるからだ。真次郎は大八車を必死に引き走った。 「ほら、もう万年町に着きます」  ところが。今は見慣れた有名な貧民窟に入った途端、真次郎達は足を止めることとなった。住人が大勢で、道を塞いでいたからだ。園山がその連中に、面倒くさそうに声をかける。 「おい、どかないか。コレラ患者だ。うつるぞ」 「ひっ」  一瞬で人波が両側に割れる。そこを突き進むと、急にぽかりと人がいなくなった。 「これは、どういうことかな」  後ろを振り向くと、まるで見えない壁でもあるかのように、一定のところで人が止まっていて、内には入ってこない。戸惑ったところへ、前から声がかかった。 「大八車に寝ているのは誰だ。ここには入って貰ったら困る」 「おお、安野の親分」  珍しくも眉間に皺を寄せている若い姿に、真次郎が声をかける。すると安野が、急いで近寄ってきた。 「真さんか。それに巡査さん達。消毒の道具を持ってきてくれたのか」 「は?」  聞けば万年町でも、コレラ患者が出たのだという。その最初の患者こそ加賀三太郎で、今長瀬が付き添っていると聞き、真次郎は口元を尖らせた。 「やれ間が良いというか、ひとつ所で煮詰まったというか」  コレラ騒ぎが起こった他の町の者に、病を持ってきたと言いがかりを付けられ、追われていると説明する。すると安野がその連中は、町には入らせないと請け合ってくれた。 「助かる。その代わりってぇわけじゃないが、コレラ患者の治療法を、新聞社で聞いてきた」  連れてきた小弥太と共に、この町の患者にも試してみようと言うと、安野がさっと顔つきを明るくした。 「本当ですか。どうやって?」  勢い込んで聞くので、山ほどの塩ときれいな水の用意を頼んだ。すると塩や水はいかほどいるものか、安野が聞いてくる。真次郎が首を傾げた。 「そりゃあ患者の数によるだろうさ」  だがコレラは流行っているのだから、塩も水も十分に用意して欲しいと言うと、安野が何故だか取り巻きの男達と、小声で話をしている。 (なんだ、塩など安いものだろうに)  するとそこへ、聞き慣れた声がかかった。 「ミナ、何でここに来たんだ」  現れたのは長瀬であった。園山達の姿をも目にし、痩せた小弥太が横たわっているのを見て、目を見開いている。 「小弥太の奴、思い切り困窮していたみたいだの」  食うにも困っていたのではと長瀬が言う。これでは水すら飲んでいない、日干しのようだとも言う。  その時であった。真次郎は目を見開くと、大きく溜息を吐いた。両の手で膝を打つ。大きな声を出した。 「あー、俺は間抜けであった」 「あん、ミナが抜けてんのは、今に始まったことじゃなかろ。今更どうしたんだ」 「小弥太が住んでいた町の住人に追いかけられてるんだが、その訳が分かったのさ」  別の町からこの万年町まで逃げて来たのかと、長瀬が驚いている。 「そうだ。病人が出て困っている町で、コレラに塩水が有効だと言ったんだ。なのに彼らは信じなかった。そして怒ったんだ」 「塩水! それがコレラに有効なのか? ならば直ぐに、加賀にも飲ませなくては」  詳しい説明より手当が先だと、長瀬が急ぎ小弥太を加賀の長屋へ寝かせた。治療するにしろ消毒するにしろ、患者を一ヵ所へ集めた方が、やりやすいからだ。そこに、とりあえず手元にあった分だと、塩と水が安野から届く。 「この量じゃあ……足りんな」  真次郎は咄嗟に、己の財布を取り出し中を見たが、商売を休んでいる身には余り持ち合わせがない。一つ首を振ると、園山に小泉家へ行ってくれるよう頼んだ。 「いつも沙羅さんを頼りにして悪いが、金子の持ち合わせがない。急いで小泉商会へ行き、幾ばくか借りてきてくれ」 「何だ? これから金がいるのか?」  頼まれた園山が高木と顔を見合わせ、眉を上げている。二人がためらうので訳を聞くと、今日、沙羅は社主と一緒に、根岸の里へ行っている筈だと言うのだ。 「詳しいじゃないか。沙羅さんから伝言でもあったのか?」  長瀬が驚いたように言うと、園山が物知りな訳を、あっさりと話してくれた。 「小泉家のご令嬢沙羅さんに、見合いの噂があったんだ。それで手分けして調べた。今日がその当日だ」  相手が伯爵家のぼっちゃんであることや、琢磨社主がお膳立てした話であることを、園山が報告する。真次郎は長瀬と、寸の間視線を交わしたが、直ぐに使いを急がせた。 「根岸なら銀座に出るより、遥かに近い。急いで行ってきてくれ」  園山は頷くと表へ出る。だが一寸止まると、にやりと笑って長瀬に問うた。 「ついでに、沙羅さんの見合いの席を、ぶち壊して来ようか?」 「早く行け!」  真次郎は見送りもせず、急いで塩水を作ると、それを入れた椀を、ぐいと友に差し出した。そして、どうして真次郎達が住人にしつこく追いかけられたのか、推察したその訳を語り出す。  二人は、塩と新聞社と大河出警視について、話すこととなった。         10  小泉親子はまだ根岸に留まっていたので、見合い情報を掴んでいた園山が二人を見つけるのは、比較的簡単であったらしい。  ただ問題がない訳ではなかった。今回は琢磨社主が同道しており、この父親が、沙羅が金子を用立てることを嫌がったのだ。 「うちの娘は、友人の財布ではない」  それが琢磨の言い分であった。対する園山の主張は、そういう話は長瀬や真次郎当人に、直接してくれというものであった。  園山が剣の達人で、物騒で切れやすい人物として知られていたせいか、この主張が通った。社主達を乗せた馬車は、上野近くを通ることになったのだ。おかげで真次郎達は沙羅に会えたが、金子を受け取るには、琢磨という障壁を乗り越えねばならなかった。 「二人ともいい年をして、いつも女友達の財布を当てにしているようでは情けなかろう」  琢磨の誠に正しい言い分には、返す言葉もない。だが長瀬が、今回は金子ではない対価を払うと言うと、琢磨が一応話を聞く姿勢を取った。 「財界にも顔が広い大河出警視のことはご存知でしょう? 彼の個人的な事情など聞きたくありませんか」  すると琢磨が頷いたので、長瀬が馬車へ乗り込んで小声で琢磨の耳元に囁《ささや》く。それは加賀と大河出の繋がりについてであり、大河出の隠れた行動の一切合切《いっさいがっさい》でもあった。 「大河出警視は、金儲けも上手というから、社主とも関係が出てくるかもしれません。知っておいて悪い話じゃないでしょう」  これが支払いだと長瀬が言うと、その肩に社主が手をかけ、己の金子を小袋に入れ渡してきた。いわく、 「誠に面白い話であった」  琢磨が知らせをどう使うか、いささか怖いが、興味深いとも真次郎は思う。 「取引成立だ。それで得た金を何に使う?」  そう問われ、馬車の外から真次郎は正直に答えた。 「コレラ患者に必要な、塩と水を買う金になります」  最初、塩や水ならば安いと思った。たかが塩だと、水だとそう思って、真次郎は長屋の者達に用意しろと言ってしまったのだ。  だがコレラ騒ぎで稼ぎの減った貧乏人は、ただでさえ残飯を食べるようなかつかつの暮らしが、益々|逼迫《ひっぱく》した状態になっていたのだ。きれいな水、たっぷり必要だと言われた塩をあがなう金子にすら、困る者が多くいた。真次郎はその事を、失念していたのだ。 「ですが命がかかっていることだから、では治療は要らないとは、皆言えなかったんですよ」  今回は病人が多いため、近所の皆から必要な金子を集め、一人の病人に提供するという手が使えない。無力感に腹を立てた住人が、巡査と真次郎に食ってかかったという訳なのだろう。 「それで真次郎くんが、その必要な金子を用立てしようという訳か。いや立派な心がけだな」  貧しき者達の為に一文にもならぬことをするとは、己も金欠なくせをして立派なものだと、琢磨は何か引っかかる褒め方をする。だが真次郎はその言葉を聞き、苦笑を浮かべた。 「褒めていただいたのに恐縮ですが、そんなに立派な行いでもないんで」  この言い分に、琢磨が馬車内で首を傾げる。 「さて、それはどういうことだ」 「出していただいた金子を使って、これから塩と水を患者達に与えてみます。そしてこの方法でどれくらい助かるものか、きちんと記録を取らせてもらいます」 「ほう」  真次郎は、もし芳しい結果が出た場合、その結果を新聞社へ渡す約束になっていると言った。幾つも噂があるコレラの治療法の内、実際に効き目を試したものの記事が載れば、その新聞は評判になる。小泉家の社主が、貧しい人々の為に金子を用立ててくれたことも、新聞記事に相応しい美談となるだろう。 「新聞は、それこそ飛ぶように売れますよ」  真次郎達はその知らせを提供した代価として、新聞社から十分に報酬を得るつもりなのだ。その金は、また塩や水を購《あがな》うのに使われる。そして暫く内職をしていない若様組の為にも、少々回してもらうつもりであった。 「俺も今、商売を休んでいますんで助かります。持ちつ持たれつということで」  真次郎がにっと笑う。長瀬も隣で口の端を上げている。琢磨は一寸眉を上げたが、その内大きく頷いた。良い計画だと褒める。 「だがその為には、まず、コレラの患者達が助からねばならない。二人とも、これからまだ、コレラと向き合うことになるな。気をつけることだ」  確かに真次郎達にとっては、今からが勝負の時であった。加賀が死んでは困る。小弥太にもさっさと治って貰い、新聞ねたになって貰わねばならない。浅草から来た者達も万年町の者達も、塩と水でなるだけコレラから遠ざけてやりたい。  吉と出るか凶となるか、これからが頑張り時であった。 「やれるだけやりなさい。結果を知らせてくれ」  琢磨が頷いて馬車を出す。だがその時、真次郎と長瀬には、まだ聞きたいことが残っていた。ただしその相手は社主ではなく沙羅だ。動き始めた馬車に寄り添うように走り、真次郎が問う。 「沙羅さん、それで……見合いはどうなったんです?」  沙羅は馬車内より二人に目を向けると、にこりと笑った。それから一瞬父親と目を合わせた後、「その内分かるから」と言ったまま、確たる返事をせずに馬車を先へやってしまう。  呆然とした顔つきで、後ろに残された二人は、遠ざかる馬車を見ながら文句を言い始めた。 「何ではっきりと言わないんだ。沙羅さんは、結婚を決めたのか?」 「だとしてもおかしくはないが。成金と華族の端くれ。うん、ない取り合わせではない」  しかし小泉家の二人が返事もしないのは変だと、長瀬と真次郎は不機嫌な顔色を浮かべている。真次郎も長瀬も、下手をするとコレラにかかり、あの世に行ってしまうやも知れぬのに、沙羅ときたら質問に答えてくれなかったのだ。 「不満だ。大いに不満だ」 「俺たちは死なぬと、決めつけているようじゃないか」  二人の言い分を聞いて、園山達が何故だか小さく笑っている。奥の長屋には水売りから買った大きな水の樽《たる》が、担ぎ込まれてきていた。 [#改ページ]  ワッフルス熱し         1  ある日、長瀬巡査が家に引き取っている元家臣のじいやが、病になった。  園山巡査のサーベルが、理由は不明なものの、ぽきりと折れてしまった。  西洋菓子屋、風琴屋店主の真次郎は、馴染みの薄い菓子が世に広まり売れるには、まだいささかの時が必要だと感じていた。  要するに皆、金欠であった。  すると長瀬が昼間から風琴屋へ顔を出し、以前届いた匿名の怪しげな手紙を、真次郎の前に持ち出してきたのだ。 「ミナ、こいつを覚えているか?」 �手紙を受け取られし御仁方へ�  そういう書き出しで始まった手紙は、しばらく前に真次郎と若様組の面々の下へ、送られてきたものだ。それは謎解きをすべしと、受取人達を誘っていた。  まず一つには、手紙の差出人が誰であるかを推測し、その者の姓名を知ること。二つには、その差出人が今何を一番に欲しているかを考察し、その『何か』を手に入れること。  最後にその何かを持ち差出人宅へ参上すれば、褒賞がもたらされることを約束していたのだ。 「差出人より満足すべき褒賞がもたらされん、という一文こそが大事だな」  長瀬はこの謎解きをすることで、今の重篤な金欠病を凌《しの》ごうと思い立ったらしい。 「ミナとて、店を続ける資金が早急に必要だろうが。共にこの手紙を解き明かして、報酬を貰おうや」  緊急事態につき、長瀬は巡査の仕事の方を、自主的かつ内密な有給の休暇にすると決めたようだ。真次郎はそんな友に向け、深く溜息をついた。 「やけに意気込んでいるじゃないか。もしや、もう手紙の差出人くらいは分かったのかな?」 「そりゃあ勿論、勿論」  長瀬はにやりと笑みを浮かべると、テーブルに置かれた手紙を指さし、自信満々で話し始めた。 「今朝方じっくりと手紙を見ていて、さっそく思いついた事があったのだよ。いいか真次郎、まずは封書の素材を見ろ。この差出人は裕福だと思わないか」  言われて真次郎は手紙に目を落とす。封筒と便箋《びんせん》は長瀬が指摘した通り、どちらも上等の洋紙で出来ていた。 「確かに懐具合の苦しい者が、戯《ざ》れ言《ごと》に使うような品ではないな」  印章のような模様が押されている蝋封《ろうふう》も、安物ではない。 「その上、差出人は、切手の代金とて気にならなかったようだ。金に苦労している身としては、腹が立つねぇ」  そう言いながら長瀬が、くいと口元を歪める。若様組全員と真次郎に手紙を出すとなると、結構な金が必要なはずなのだ。つまり差出人は急ぐ用でもないことに、金を使える立場の者となる。 「なるほど、送り主はかなり金持ちだな」 「それだけではない。他にも思いついたことはあるのだよ」  長瀬は真次郎に、整理した考えを順序良く披露した。それによると差出人は、  一、手紙に金子がかかるのを、気にしないでもいい者。  二、真次郎と若様組全員の住所、氏名を承知している者。  三、巡査相手の話であるからして、戯れ言ではなく、本当に褒賞を出せる者。  四、そして何より、差出人の名が分かったら、真次郎達はその者の住まいをも、分かるだろう者なのだ。何故なら、差出人が欲するものを持って来いと、手紙で催促している。しかし当然ながら、住所は書いていなかった。 「つまり」  長瀬はここで言葉を切って、真次郎としばしの間目を見合わせた。そして寸の間の後、どちらからともなく笑い出す。二人の共通の知人で、こんな条件に合う頓狂《とんきょう》な者は、一人しかいなかった。 「差出人は小泉家の御当主、小泉琢磨さんか」  真次郎がそう言うと、長瀬がワッフルスを食べつつ大きく笑う。  小泉琢磨は貿易商小泉商会の社主で、まさに明治という時代が生み出した申し子、筋金入りの成金であった。琢磨は、何故だか明治の初期に大流行したうさぎの売買で大金を儲け、それを元手に成り上がったのだ。  真次郎や長瀬の友である女学生、小泉沙羅の父親でもある。琢磨がまだ裕福ではなかった頃、真次郎や長瀬は沙羅と知り合い、その縁が今も続いているのだ。 「それにしても小泉商会御当主はとなれば、金は持っているが隙はなかろう。長瀬、彼は何でこんな阿呆な手紙を、わざわざ寄越したんだろうかね」 「それはなぁ、まだ分からないんだ」  だが、ただの悪戯《いたずら》にしては、金と手間が掛かりすぎていると長瀬が言う。 「とにかく小泉家御当主様には、今欲しいものがあるんだな。それだけは間違いない」  それは何らかの訳があって、簡単には御当主の手に入らないのだ。多分金で買う訳には、いかない代物なのだと思われる。 「そこで、その『何か』を手に入れる役目を、我らに押しつける気なんだろうさ」  己で何とかすればいいものを、成金になると努力と辛抱が足りなくなると、長瀬は独断で決めつける。だが日頃、己が人を批判出来るような日々を送っているかどうかは、考えないことにしているらしかった。 「でも不思議な事もあるな。何でミナにも手紙が来たんだろうか。これが未だに分からない」  確かに真次郎も沙羅の友達ではあるから、御当主とは顔見知りであった。しかし他人に調べ物をさせたいだけなら、捜査に慣れた巡査達にやらせれば事は足りるのだ。  長瀬の疑問に、真次郎は肩をすくめる。 「成金御当主様の考えなんぞ、俺には知れんよ」  真次郎があっさりそう言うと、長瀬がつまらなそうな顔を向けてくる。 「なんだミナ、気乗りしない言いようだ。お前さんは御当主の欲しいものを、探さない気か?」 「さて、どうするかな」  珈琲豆を挽《ひ》きつつ、真次郎はやっぱり気のない返事をする。手紙が求めるものを的確に探して行けば、確かに御当主はなかなかの対価をくれることだろう。嘘をつく人ではないからだ。 「でも俺は、小泉家の使用人じゃないしな」  御当主の意のままに動くのは、金持ちに顎で使われているようで面白くない。それに。 「今回のこと、何だか御当主の真意が見えなくて、関わるのが怖いんだよねえ」  真次郎がそう口にすると、長瀬が眉を上げ唇を歪めた。 「俺はじいやの医者代が欲しい。手紙の真意など、どうでもいいんでね」  さてさて、御当主は何を欲しがっているのかと言い出したから、長瀬はこの件でしっかり稼ぐつもりのようだ。  真次郎が一杯目の珈琲を淹《い》れると、そこで珈琲豆が品切れとなった。お代わりを飲み損ねた長瀬から、店屋なのに、商売で出している珈琲の粉が切れたのでは情けないと言われ、真次郎は溜息をつく。  本当に、余りにも情けない話だ。 「真次郎、お前さんにも金は必要だ。頑張って手紙の謎、考えてみちゃどうだい?」  長瀬は珈琲のカップを置きそう言い置くと、御当主の望みの品を突き止めるべく町へと出ていった。         2  ところが長瀬は程なく、呆然とする羽目になった。ついでに、謎解きどころではなくなってしまった。  京橋《きょうばし》北の警察署へゆくと、以前同じ手紙を受け取った若様組の面々が、暴走を始めていたのだ。勤務場所に残っていた若様組の巡査は、何と福田一人きりであった。 「長瀬さん、長瀬さんは今朝方、以前貰った手紙の謎を解くつもりだと言って、風琴屋へ行っただろう? その話を知ったら若様組の皆も、手紙のことを探ると言い出したんだ」  拙いことに、今はいささか隙であった。すると、長瀬と真次郎の二人が謎解きをするなら、我もしたいという者が、一斉に動きはじめたのだ。巡査の職務は気が抜けない上に、給金は安く人に恨まれる事も多い。その上元徳川方では出世の望みはないときているから、憂さ晴らしは大歓迎であった。 「そりゃ、気持ちは分かるがね」  しかし長瀬はここで、思い切り顔をしかめる。 「おい、まさか園山さんを一人で行動させちゃいないだろうな」  園山巡査という元若様は、大変麗しい見目形をしているのだが、中身は無謀と物騒という文字の塊であった。  よって若様組の面々は平素、職務中の園山を一人にはさせはしない。園山に二、三人斬り殺されては、後始末が大変だからだ。  園山の腕前は無駄にもの凄いので、暴走したら止めにかり出されるのは大概長瀬か福田であった。そして今、園山は一人だという。 「手紙の事を調べているだけでしょ。今日園山さんが、暴れる心配はないのでは?」  福田巡査はあっさりとそう言うが、長瀬は園山の素行に信頼を寄せた事はない。 「福田ぁ、あの、一緒にあいつを捜してくれないか?」  するといつもは気軽に、長瀬を助けてくれる気の良い男が、今日は首を縦に振らない。聞けば福田も既に、手紙の送り主が小泉家当主だと当たりを付け、これから彼が欲しがるものを探そうとしているのだ。  福田はそれを次に流行しそうなもの、つまり御当主が出世するきっかけとなった、うさぎのような流行物だと思いついたらしい。 「福田家も相変わらず金欠でしてね。何とか子供らの着物くらいは新しくしたいので、小泉家当主から金一封いただきたいんですよ」  そうと言われれば是非もない。それでも若様組の頭を自任する長瀬は、己だけは園山を捜すため、急いで警察署を離れた。  大通りを線路が横切り、鉄道馬車が行き交っている。既に江戸の世は遠いようにも思えるが、これで一歩郊外へ出れば、まだ錦絵の中の風景が現れて来るのだ。長瀬は時々、目眩にも似た気持ちになることがあった。 「いくら財布が軽くなったからって、小泉当主の手紙に関わったのは拙かったかなぁ」  早足で園山を探しつつ、長瀬の口からつい愚痴がこぼれ出る。この分だと手紙の件が解決し褒美の行き先が確定するまで、若様組の面々は、ろくに巡査としての仕事など出来ないに違いない。 「まあ安月給だし、そいつは構わないがね。だが若様組の内職が出来ないじゃないか」  巡査の所には、厄介事《やっかいごと》が多々持ち込まれてくるが、警官が全てに対応出来る訳ではない。特に江戸の頃は大家《おおや》や町名主《まちなぬし》が仕切っていたような、生き死にや大枚の絡まぬ話、身内や近所のいざこざなどは、己らで何とかしろと突っ返される事も多いのだ。 (でもそれでどうにか出来る事なら、誰も、わざわざ警察に泣きついたりしないよなぁ)  そう言うとき若様組は、陰で力を貸してやった。すると当然幾ばくかの礼金が、こっそりと支払われる。それが今若様組を支える、内緒の余禄となっているのだ。 (もしかして御当主は、若様組を引っかき回す為に、あんな手紙をくれたのか? 俺たちをからかうつもりか?)  長瀬はちらりと、目に物騒な光りを宿す。しかし直ぐに首を振った。  そんな馬鹿をしたら、あの園山が癇癪を起こしかねない。御当主は園山の事もようく知っているからして、サーベルを抜きはなった園山と屋敷で対面するのは、ご免蒙るだろう。 「ええい、それにしても美男子殿、どこへ消えたんだぁ」  煉瓦街に出た長瀬は街の中程に立ち、辺りを見回した。 (あいつも今、小泉家当主が欲しがっているものを、追っている筈だよな)  小泉琢磨が一番価値があると思っているものは、何か。園山の意見を思い浮かべつつ、長瀬は新橋の方へと歩を踏み出した。  長瀬が帰った後、真次郎はまだ店を開けていない風琴屋の店先で、己へ来た分の、例の手紙を取りだし睨めっこをしていた。長瀬の一言が気になっていたのだ。 「どうして当主は俺にも、こいつを寄越したのか。何故、長瀬達若様組だけじゃ駄目だったんだ?」  当主の考えが分からない。大体御当主は今や、真次郎達と縁があるのが不思議な程の、大物となっている。だから沙羅と知り合いであるとはいえ、真次郎に小泉琢磨から手紙が来ること自体、意外な感じがするのだ。  ここまで考え、真次郎はふと手紙から顔を起こした。 「あ、いけね。沙羅さんといえば、そろそろ誕生日じゃないか。三日後か」  日の本では数え年が使われており、正月を迎えるたびに、皆が一斉に一つ年を重ねる。よって生まれて一年目の祝い以外、特別に誕生日を祝うなどという話は聞かなかった。  ところが貿易商である小泉琢磨は、海外の誕生日の習慣を見聞きした為か、ここ数年真次郎達娘の知り合いも屋敷に呼び、沙羅の誕生日を祝っているのだ。  だが懐具合の寂しい真次郎にとって、この日は悩みの種でもあった。西洋式の誕生日には、贈り物が必要なのだ。小泉家の親馬鹿御当主は裕福であるから、毎年娘のために高価な着物や帯、西洋式のバッグ、日傘《ひがさ》など、立派な贈り物を用意している。客も手ぶらでは行けなかった。 「何年か前までなら、切り花で何とかなったんだが」  だがもう子供ではないのだ。部屋に山と花が飾られている中、似たような花を少しばかり持って行くのも気恥ずかしい。沙羅は高い物など要らないとは言ってくれている。だが。 「気の利かない物を贈ると知性が感じられないと言って、御当主がからかってくるからなぁ」  金額の問題ではないと言われるから、厄介であった。こうなると、パーティーなどという風習をもたらした文明開化も、善し悪しだという気がする。 「去年は……そう、雑誌にしたんだ。『国民之友』を贈ったんだっけ」  あれは好評であった。雑誌には、森鴎外などが訳した詩集『於母影《おもかげ》』が夏季付録として付いていたので、沙羅は大層喜んだのだ。御当主も後で娘に借りて、ローマンチックなオフィーリアの詩などを読んだらしい。御当主から娘への贈り物は、確か宝石の付いたブローチであった。 「せっかく西洋菓子を売っているんだから、それを贈ることが出来ればいいんだが」  しかし誕生会には、御当主が風琴屋に、山ほどの菓子を注文してくれる。つまり菓子では、沙羅への贈り物にならないのだ。  真次郎は大きく息を吐いた。 「俺の今の問題は手紙の謎より、沙羅さんへの贈り物だなぁ」  気の利いた代物で、しかも高直ではないものを、早急に探さなくてはならない。真次郎は客のいない店内を見回した後、溜息と共に休憩中の札を手に取った。 「やれ、世が移り変わっても、暢気《のんき》に暮らす訳にはいかないらしいや」  どんな時に生まれ、いかに金子を稼ごうと、たとえ御当主のように成金に化けようとも、満ち足りて日々を送ることは難しいようだ。 (あの金持ちの御当主だって、まだ何かを欲しがっているものな)  それは何なのか、ふと興味が湧く。しかし真次郎は一つ首を振ると、当面の問題を解決すべく、店から出かけて行った。         3 「おい、何をしているんだ」  堀川近くを探していたとき、長瀬は片眉をくいと上げた。川端の倉と舟の間で、若様組の高木が、見慣れぬ男と揉めていたのだ。  中年の男は荷運びをする人夫らしく、どういう訳か白い粉にまみれている。直ぐに男の襟首を、高木が押さえ込んだ。近寄って訳を聞くと、小麦粉盗人を捕まえた所らしい。 「あちらの川沿いの倉庫には、小泉商会へ納める小麦粉が積んであるんですよ」  捕まえた人夫は、いつもその倉庫で働いているのだが、一部を質の悪い米粉《こめこ》とすり替え、上等の小麦粉をかすめ盗っていたのだ。言われて見れば、岸の舟に沢山の粉袋が積まれていた。 「ほう、よく気が付いたな、高木」 「実は、最初すり替えに気が付いたのは、真次郎さんでして。菓子を作ったとき、小麦粉が妙だったと言うんです」  その粉は小泉商会の品で、品質が悪い筈がないのにとぼやいていた。よってその話を聞いた高木が、訳を調べていたのだという。  ただ最初は、小泉商会から調査を頼まれた事でなし、高木は至ってのんびり構えていた。しかし今回の手紙を読んだ時、御当主は商会の扱う品の、商品管理の事で悩んでいるに違いないと高木は確信をしたのだ。それで、張り切って商会の倉庫を見張り、こうして見事盗人を捕まえたのだという。 「これで御当主から、ご褒美が出ますかね」  高木は上機嫌だ。しかし長瀬は首を縦には振らなかった。 「勿論、金一封は貰えるかもな。だがあの手紙のことは、片が付かないだろうよ」  同じ手紙が、真次郎の所へも来ていることを、思い出せと長瀬は言う。つまり御当主は、巡査に盗人を捕まえて欲しかった訳ではなかろうと思われる。そう長瀬が告げると、高木はがっくりと肩を落とした。 「やれ残念、骨折り損の草臥《くたび》れ儲けかぁ。憂さ晴らしにこの人夫を簀巻《すま》きにして、目の前の堀川に突き落としてやりたくなりますね」 「ひええっ」 「後始末が面倒だ。やるなよ」  長瀬はわめき出した人夫に、米粉の没収を申し渡す。さて後は取り調べだと高木と話し始めたのだが、その時僅かに、首元を押さえつけていた高木の力が緩んだらしい。突然、人夫が必死の遁走を始めたのだ。 「あ、逃げた」  高木は一応後を追ったが、直ぐにさっさと一人で川岸に帰って来る。逃げられても、大して残念そうな顔はしていなかった。 「やれ、犯人が消えたんじゃ、犯罪があったと上司に言う訳にもいきませんね。あいつの名前も分からないし」  高木の言葉を聞き、長瀬が笑う。 「面倒がなくて良いわさ。今回の骨折り賃は、残された米粉だな。あの人夫、ここに戻っちゃ来まい。構うことはない、売っぱらっちまいな」  その代金は若様組の実入りとなるのだ。やれ副業が出来て良かったと笑った後、長瀬は園山を見なかったかと高木に尋ねた。 「園山さんは、居留地の方へ行った筈です。教会側の女学校がどうとか、言ってましたから」 「居留地? おや、探す方向を間違えたか」  小泉商会と居留地と園山。似合わない取り合わせに何か嬉しくないものを感じて、長瀬は早々にその場を離れた。  生まれ育った築地の居留地にある、パーク教師の館に顔を出した真次郎は、正直に今の悩みを口にした。  要するに女学生への気の利いた、しかも高額でない贈り物を思いつかないので、相談をしに来たのだ。居留地になら何か洒落た小物で、しかも真次郎にも手が出る品があるかと思ったと言うと、女学校教師であるケイト・パークは笑い出していた。 「何時になっても若い方の悩みというのは、変わらないわねえ」  もっともこの難問は、パーク教師が居間で真次郎にお茶を出したとき、雪が溶けるように解決した。テーブルの上にあった紅茶の缶に、レースで出来たリボンがかかっていたのだが、その色が、以前沙羅がなくしたリボンの桃色と良く似ていたのだ。  真次郎は一度沙羅に、なくしたリボンの代わりに紅いものを贈っていた。だが、やはり沙羅にはこちらの色が似合うように思う。 「まあ、気にいった似た桃色が見つかって良かったわねえ」 「我が悩みを、解決してくれそうな色です」  真次郎が重々しく頷く。  まだ小泉家がさほど裕福ではなかった小さい頃、長瀬や真次郎と共に空き地で遊んでいた沙羅の髪には、こんな桃色がいつも結ばれていたと言うと、パーク教師の明るい笑い声がした。 「ミナ、お代は西洋菓子でいいわ」  真次郎はありがたくリボンを頂戴し、巻いてまとめる。 「もっと高い物を買えると良かったんですが」  その言葉を聞き、教師がお茶を片手にまた笑う。 「あら高い物より、以前付けていたリボンの色を覚えていてくれた方が、女の子は嬉しいと思うわよ」  物そのものより、ずっと大事なことがあるのだ。あっさりと口にしたパーク教師の言葉に、真次郎が一寸目を見開いた。それからゆっくりと、手の中のリボンに目をやる。 「そうか……形のないものの方が、大切な事もあるよな」 「ミナも今、友人というお金には換えられない人の為に、店を閉めて、贈り物を探しに来たじゃない」  稼ぐことより優先する事が、誰にもあるのに違いない。 「そう、ですよね……」  真次郎がふと、考え込む。  その時外で大きな人の声がしたので、パーク教師が表に様子を見に行った。直ぐに帰ってきて言うには、近くで騒動があったらしい。 「窓から見ていた、お向かいの方が教えて下さったの。女学校の門近くで壮士のような男が、使用人の待遇のことでわめいてたとか」  すると男を追って来たらしい巡査が、それを止めたらしい。詳しい訳は分からないものの、二人は言い合いをした後学校の近くから離れたので、皆ほっとしているという。女学校近くに壮士がうろついていては、教師も女学生も不安に違いない。  ここでパーク教師が、笑顔を浮かべつつ片眉を上げた。 「あのね、向かいの娘さんアンナによると、見かけた巡査さんの方は背が高く、大層見目の良い方だったらしいわ。嫌ね、女の子はそんなことに、真っ先に目がゆくのだから」 「背が、高い?」  真次郎が目を見開く。巡査と言うからには日本人であろうが、日本の男は外国人と比べ一般的に背が低い、故に、外国人の女性がそんな事を口にするのは珍しかった。おまけに顔形が良かったという。巡査だという。 「きっと園山さんだ。まずい、一人なのか」  壮士と二人で居留地を離れたということは、今日は巡査仲間が一緒ではないらしい。真次郎は大いに不安になって、二人がどちらへ向かったのかを聞くと、早々に教師宅を辞した。  ただそのおり緊急時だからと言って、部屋を見回した後、教師宅の台所から一つ借り物をした。         4  長瀬は居留地に向かう途中、二人の若様組の仲間に出会った。だが小沼も林田も、園山の行方は承知していなかった。  二人は高木巡査同様、御当主の望みを叶えるべく、動いていたところであった。共に小泉商会内の心配事解決が、御当主の望みだと踏んだらしい。よってそれぞれの得た知識を元に、動いていたのだ。  まず林田は京橋を渡った先で、小泉家番頭の横領をあぶり出していた。次に会った小沼は、元の堀田|備中守《びっちゅうのかみ》の屋敷近くで、手代《てだい》による、小泉商会への付け届け強要を防いでいた。  どちらもこれで褒美は我のものと、満面に笑みを浮かべていた。ところが長瀬が、真次郎にも手紙が来たことを告げたものだから、がっかりした顔となる。ことに小沼は褒美に貰う予定であった金子で、家の修理を計画していたと口にした。 「まあいいじゃないか、小沼さん。今回もちゃっかり、余禄を手にしたみたいだし」 「えっ、ばれてましたか。いやぁ、助けた取引先の御仁が、くれると言うんで」  若様組の巡査は貧乏故、たまの寄付もありがたいと、小沼はしゃあしゃあと言う。 「違いない」  長瀬も口元に苦笑を浮かべた後、隙になった小沼と、川沿いの道を居留地へ向かった。そしてつい、今の給料ではやることを止められぬ、余禄稼ぎのことを思う。  確かに今、貧乏なのだ。 (だが不思議と、いけ好かない上司にへつらってまで、出世しようとは思わないねえ)  江戸の頃であれば、気持ちを曲げても本業での出世にかけるしかないが、明治という世は、そうとも言い切れなかった。  小泉家御当主のように、己で道を切り開いた者もいる。その姿が眩《まぶ》しく映る。  しかしまだまだ、官に食い込むことこそ生き残りと出世の早道であることは、確かであった。現に長瀬達も警察官となったからこそ、貧しいとはいえ、士族の中では安定した暮らしを手に入れている。その双肩に、頼ってきた者達を背負えているのだ。 「この先、どうやって生きていけば一番楽なのかね」  ふと、そんな言葉が口からこぼれ出る。すると横で長瀬のぼやきを聞いた小沼が、含み笑いをした。 「仮に、長瀬さんが楽な身になったとします。そうしたら困っている皆が、一層大勢で頼ってきますよ。そして長瀬さんは、お人好しにもその人達を無視出来なくて面倒をみたあげく、やっぱり金がなくて大変な毎日をおくっていると思います」  要するに、今と変わらないのではと言われて、長瀬が寸の間呆然とする。そして大声で笑い出した。 「そうかな……」  そしてしきりと首を捻《ひね》っている。  その時であった。二人の姿を見つけた者がいたのだ。道の向こうで大きな声を出した後、人をぬい駆け寄ってくる。 「長瀬、警察署にいないと思ったら、こんなところにいたのか」 「おんや、ミナじゃないか。どうした、さっき会ったばかりだろうが」 「真次郎さん」  小沼と長瀬の下へ、真次郎が駆け寄ってくる。真次郎は声を落とすと、居留地で園山らしき巡査の噂を聞いたのだと告げた。 「園山さんが、居留地で何かやったんですか?」  小沼が恐る恐る尋ねる。 「まだ、何もしてはいないよ」  真次郎は、そう言いはした。だが。 「これから、何かやらかしそうではあるな。居留地の女学校付近で壮士が騒いだ。その壮士を追って、園山さんはいなくなったから」 「げっ」  長瀬の表情が一気に硬くなる。 「心配が、いよいよ現実となりそうだな」  こうなったら一刻も早く園山に追いつき、何事か起こらぬ内に、彼を日常の勤務に戻さねばならない。 「園山さんと壮士は、京橋方面へ行ったらしいんだが」  その話を頼りに、真次郎はここまで来たのだ。だが、まだどちらの姿もない。 「真次郎、他に知らせはないのか?」 「そうだな……壮士は居留地で、使用人の待遇について、何かわめいていたらしい」 「使用人の待遇?」  長瀬が小沼と顔を見合わせる。壮士は総じてお上と対立する事が多いからして、奉公人達の味方を任じることは、珍しくはない。  しかしわざわざ女学校の側へ行き、使用人の問題を口にしたという話を聞くと、個人的な用件のようにも感じられる。 「身内の誰かが、女学校に来ているご令嬢の屋敷で、働いているのかね」  真次郎の言葉を聞いたとき、小沼が不意に目を瞬《またた》かせた。まさか、と口にする。 「まさかと思うが、その壮士、小泉家と関わってるんじゃ、ないでしょうね」 「そんな。女学生は大勢いるんだ。どうしてまた、沙羅さんが関係あると思うんだ?」 「真次郎さん、今回御当主から来た、あの手紙を思い出したんですよ。御当主が欲していることって、沙羅さんの安全だったりして」  小沼がそう言った途端、三人が目を見合わせた。長瀬が眉間に皺を寄せる。 「それは……あるやもしれんな」  成金もまた、壮士の攻撃の対象となりえるのだ。一人娘である沙羅の身を案じねばならぬ脅迫でも、あったのかもしれない。ならば御当主は今、一人娘の安全に不安を持っている筈だ。  だがこの意見に、真次郎が眉を顰めた。 「しかしなぁ、手紙が来てから随分日が経っているぞ。長瀬、未だにその心配が続いている訳があるかな?」 「しばらくは御当主が、沙羅さんを家でじっとさせていたのかもしれない」  警護の者を付けていたことも、あり得る。しかし沙羅は、大人しくしているのが得意な娘ではない。その為に御当主は、そばに居ることの多い娘の顔見知りへ手紙を出し、沙羅を守って欲しいと望んだのかもしれない。  しかしこの思いつきに、長瀬は少しばかり戸惑っていた。 「帝都で危険があるなら、御当主は沙羅さんを、暫く遠くへやればいいんじゃないか? 別荘へでもホテルへでも」  何しろ親馬鹿である。娘の為の費用は惜しまない筈であった。だがしかしと、これに小沼が言い返す。 「でも、学校がありますからねえ」 「それに長瀬、ほら、もうすぐ誕生会だ。沙羅さんは家を離れたがらないだろうな」 「あ、それは確かに」  既に招待状は配り終わっている。 「でもなぁ、何かしっくりこないというか」 「可能性があるんだ。小泉家の屋敷へ顔を出してみよう」  今、園山が野放しなのだ。どこかで大騒ぎが勃発《ぼっぱつ》しても、若様組の者達は僅かも驚かないという、そんな状況であった。 「まず沙羅さんの無事を確認しよう。それに越したことはない」  意見がまとまり、三人は鹿鳴館にもほど近い銀座の地を目指し、歩んでいった。         5  京橋から道を新橋の方へ歩んでゆくと、左側に立ち並ぶ背の高い電柱が見えてくる。十五間はあるという道幅は広く、人通りは少なくないのに、道は空いていた。その真ん中を鉄道馬車が通って行く。 「やれ、心配は皆、思い過ごしとなってくれればいいんだが」  真次郎がそうつぶやくと、二人の巡査達は横で首を振っている。 「園山さんがいるから、どうかねえ」  真次郎は園山への評価を聞くたび、どうやって警察官に採用されたのかと、いつも考えてしまう。  煉瓦街の景観は、銀座一丁目から尾張町《おわりちょう》にかけてが、ことに整っていた。その先は新橋が近づくにつれ、少しばかり簡略な感じになってくる。一丁目に並んでいる柳も、新橋付近には植わっていなかった。  小泉家の屋敷は、尾張町よりも少しばかり新橋方面、大通りからは幾らか鹿鳴館寄りに、建てられていた。銀座の地にあるから目立ちはしなかったが、洋風、二階建ての建物の奥には中庭もあり、贅沢な作りであった。  たどり着くと、顔なじみの三人はあっさりと中に通される。いつにも増して飾り立てられた室内の様子を見て、真次郎が足を止めた。 「おや、もう誕生パーティーの準備を始めているんですね」  運び入れられていた椅子や机の数に、目を見張ったのだ。使用具合を確かめているのか、広間の暖炉《だんろ》には火も入れられている。小泉家を切り盛りしている滝川《たきがわ》という使用人頭が、褒め言葉を聞き、にこりと笑って頭を下げた。 「何しろ、大がかりな会でございますから」  今回は沙羅の友達も多く招待されているという。今日とて沙羅の所に、二人ばかり遊びに来ているのだと言った。 「じゃあ沙羅さんは、もう帰ってるんですね。無事で何より」  ほっとして真次郎がそう口にすると、滝川がすっと眉を顰めた。そこに部屋の手前にある階段の上から、声がかかる。 「揃ってのお出ましだが、無事と言うのは、どういうことかな?」 「御当主」  現れた主に、長瀬が一通りのことを説明しようと顔を向ける。だがこの時、長瀬は何も言うことが出来なかった。二階奥から甲高い声が響いたと思ったら、幾つもの乱れた足音が近づいてきたのだ。 「沙羅さんっ?」  一緒にいるのは女学校の友達だろう、着物に袴を着けた、似た格好の娘達が廊下を駆けてくる。沙羅の顔が強ばっていた。 「いきなり男が、部屋に入ってきましたの」  その言葉を聞き、娘達を背に庇《かば》った御当主が、急ぎ階下へと皆を促す。階段を駆け下っているその時、長瀬よりも大きい姿が二階に現れてきた。  まだ若く、くたびれた縞の着物の中に駱駝《らくだ》色のシャツを着て髪は長め、袴は縞であった。腰に短めの刀を差し、いかにも壮士でございという出で立ちをしている。  おなごに対しては大層強く出られる男のようだが、階段の先に、真次郎達若い男が並んでいるのに目を向けると、止まって一寸腰を引いた。それでも階下を睨み付け、大声で怒鳴ることは忘れない。 「生まれをひけらかし、金を搾取《さくしゅ》する者に天誅を! 使用人を虐待する、人を人とも思わぬ冷血漢には、報復を!」  壮士が大見得を切って、刀を抜き放つ。  その時。乾いた金属音がしたと思ったら、壮士の手から刀が弾き飛ばされていた。 「おお、園山さんだ。現れたね」  やはり壮士と共にいたかと、長瀬が声をかけた途端、園山が無表情のまま、サーベルを再び振り上げた。壮士は寸の間、総身が凍ったかのように立ちすくんでいる。 「わあっ、園山さんが暴走を始めてるっ。壮士、逃げろっ」  階下から切迫した声が上がったその時、身を震わし上手く走り出せなかった壮士が、一寸がくりと膝を落とす。その髪をかすめてサーベルが空を薙《な》いだ。 「わっ、わわわっ」  その一閃《いっせん》を目にし、壮士が死にものぐるいで立ち上がる。そして目に涙を溜め、凄い勢いで階段を下り始めた。あげく階下の一団の方へ駆け込んで来たものだから、今度は娘達が悲鳴を上げた。 「壮士野郎、止まれっ。さもないと園山さんの方へ突き飛ばして、三枚下ろしにしてもらうぞ! 小沼さん、御当主、まずそいつを押さえて下さい」  長瀬の方は階段を途中まで駆け上がり、体当たりをして、壮士を追う園山を止めにかかる。 「園山さん、止まれっ。もういいっ」  一度切れたら園山は口で止めても、なかなか大人しくなるものではなかった。だが長瀬はそれを、強引に押さえつける。園山の手にはサーベルが握られており、物騒極まりないからだ。だが階段途中で足場は悪く、必死に力を込める。 「何でこうなるんだ、全く!」  そこへ、御当主達に押さえ込まれた壮士の声が響いた。 「畜生! 畜生! 悪いのはそっちだろうが。殴られたお夏《なつ》は入院したんだぞっ。その医者代、どうしてくれるんだっ」 「お夏って、誰ですの?」  声が交錯《こうさく》し、ホールの吹き抜けの天井に響く。壮士はわめき続ける。 「お前ら、虐待した使用人の名前も覚えておらんのか」  ここで返事をしたのは真次郎だ。 「そりゃ覚えてないさ。小泉家には確か、お夏なんて名前の使用人、いなかったよな」 「……は? 小泉家?」  寸の間、壮士が惚けたような顔になった。目がゆっくりと動き、沙羅の横に立っていた娘を捕らえる。やがてその顔に再び怒りを浮かべると、娘を睨み付けた。 「お前っ、女学校からこの屋敷に、真っ直ぐ帰って来たじゃないか。ここは楠田《くすだ》家じゃなかったのかっ」 「止しなさい。誰にせよ、力の弱い娘に襲いかかるなど、男のすることか」  ご当主が楠田|頼子《よりこ》の前に立ちはだかり、諫《いさ》めた途端、壮士の顔が怒りで歪む。押さえてくる小沼の手を肘《ひじ》で突き飛ばし、飛びかからんとする犬のように低く身構えた。 「うるせえっ。最初に暴力を振るったのは、金持ちの方だろっ」  壮士がそう吠えた途端であった。 「わあっ、園山さんっ」  声がしたと思ったら、階段を踏み外した長瀬を振り払い、園山が駆け下りて来ていた。一寸見とれる程の見事な所作で、サーベルを大上段に構えている。沙羅が息を呑んだ。小沼が咄嗟に女学生達を後ろに庇う。真次郎が、手に持っていた風呂敷を一振りで解いた。サーベルの刃を至近距離で見る羽目になった壮士の顔が、引きつって歪む。  その時。  クオォーン……。  小泉家のホールに、間の抜けた除夜の鐘のような音が、小さく響き渡っていった。  壮士が体をぴんと伸ばしたと思ったら、直ぐに崩れ落ちる。その瞬間、その身が立っていた所を、サーベルの一閃が薙ぎ払った。「むっ」園山が僅かな声と共にその動きを止めたその時、階段を滑るように駆け下りてきた長瀬の拳固が、園山の顎を捕らえる。体が吹っ飛んで、サーベルが階段から転がり落ちた。 「ふうっ」  長瀬と真次郎が、同時に大きく息をつく。真次郎はよく磨かれた片手の鉄鍋を持ち直すと、壮士を見下ろした。 「やれ英吉利製の鉄鍋は、やはり上等だね。頑丈だ」  この鍋はパーク教師が、西洋菓子のワッフルスを焼く時に使っているものだと、真次郎は一同に説明をする。故に底が歪んでは困るのだが、ありがたいことにびくともしていなかった。 「本来は、よく熱して使用する鍋だけど……殴る時に熱いと、火傷《やけど》するからなぁ」  とにかくこの鍋を使うのに、菓子屋に敵う者はいないと、真次郎が何とものんびりとした口調で言う。鍋の一撃は壮士を伸《の》し、それによってその身を救ったのだ。  鉄鍋は余程堅かったのか、壮士は暫く伸びたままであった。だが長瀬に一撃を食らった園山は、首を振りつつ早々に床から起きあがる。そして正気に返ったかのように、ふっと身から力を抜いた。  それを見て長瀬が大きく息をつき、その肩に手を置く。 「やれ、やっと捕まえることができた」  すると見目麗しい巡査は分からぬことがあるようで、首を傾げている。 「長瀬さん、私に何か用でもあったんですか?」  咄嗟に言葉に詰まっている長瀬を前にし、ホールの中には忍びやかな笑い声が響いた。         6  一旦は警察署に連行されそうになった壮士であったが、楠田家の頼子が止めに入ったので、こっそりと放たれることになった。  どうも、楠田家で使用人の娘が一人、酷く殴られたというのは本当らしい。しかもそんなことをしたのは、酔った楠田家当主、つまり頼子の父親であったのだ。  その入院費用に困ったあげくの所行だということで、頼子や沙羅達は、手持ちの金子を集め壮士に持たせてやっていた。娘に甘い親がいるおかげで、まとまった金額であったらしい。だが御当主は、今度女学生達の前に現れた時は、こんな温情など期待出来はしないと、きっぱり壮士に言い渡していた。  その後、壮士は鍋で殴られたからと、顎に拳固を喰らった園山と共に、一応医者に診て貰う為、部屋から消える。頼子はもう一人の友達と共に、馬車で送られていった。  一息ついた形となった小泉家では、御当主がお茶にしたいと言い出し、真次郎に菓子を作ってくれるよう注文を出す。せっかく片手の鉄鍋が活躍したところだからと、真次郎はその鍋を使い、ワッフルスを焼くことにした。  簡単にできて、ジャムや蜜などを付けると大層美味しい西洋菓子だ。しかも暖炉でも焼けるので、皆と話しながら作る事が出来るという優れた品であった。焼きたては、なお美味い。 「小泉家には、菓子屋より菓子を作る食材が、たっぷりと揃ってるからうらやましいですねえ」  思わず本音を漏らした真次郎は、あらかじめ台所にて生地を作ってから、広間の暖炉で焼くことにする。  牛乳一コールドを軽く暖め、牛酪十五匁を溶かす。砂糖を匙で二杯、塩を一つまみ入れ、ある程度冷ましたら黄身に小麦粉を混ぜ、どろどろにしたものを、先の牛乳と牛酪の中に入れる。その後泡立てた白身を加え、全てを混ぜたら生地の出来あがりであった。  真次郎が暖炉に鉄鍋をかけ、その側で使用人頭の滝川が、お茶や皿の用意をしている。横では御当主や沙羅、それに三人の巡査が暖炉を囲む椅子に座りくつろいでいた。 「じゃ、焼きますよ」  暖炉の前で片膝をついた格好で、ワッフルスの生地を鉄鍋に落とすと、菓子の甘い香りが部屋内に流れる。皆の顔に笑みが浮かんだ所で、木べらを手にした真次郎がさりげなく、椅子でくつろいでいる御当主に質問をした。 「御当主、いつぞや私と若様組の皆に、手紙を下さったでしょう?」  すると三人がさっと話すのを止めた。初耳だったのか沙羅が首を傾げ、真次郎に問うてくる。 「手紙って、何ですの?」  長瀬が謎の手紙を懐から出し、同じものだと言って沙羅にも見せた。要するに差出人の名と、その差出人が欲している何かを考察し、手に入れて届けろという指令だと説明をする。沙羅は頷いてから、さっと父親へ視線を向けた。 「お父様、何を探しておいでですの? それに満足すべき褒賞って、何かしら?」  差出人は父親だと、疑いもせずに沙羅が聞いてきたので、御当主が苦笑をしている。長瀬がここで、話を引き継いだ。 「実は手紙を手にした時、直ぐに差出人は御当主だと思いました。皆もその考えに、異論がなかったんですがね」  しかし、御当主が何を欲しがっているかについては、意見が割れたと正直に言う。 「ほう……で、どんな意見が出たのかね?」 「ああ、やっぱり手紙を下さったのは、御当主だったんですね」  長瀬は苦笑を浮かべると、長瀬が知っている限りの意見を披露していった。 「福田巡査はそれを、これから流行する物だと言ってました」  例えば御当主はかつて、流行もののうさぎで儲けたが、そういう金になる代物のことだ。高木巡査は、商会の扱う品の不正事件解決を望んでいるのではと思っていた。林田巡査は小泉商会番頭の横領阻止、小沼巡査は手代による付け届けの強要を防ぐこと、であった。園山巡査は、壮士から沙羅を守ることだと踏んだのだ。 「俺は一寸、ご当主が若様組の皆をからかって、喜んでいるんじゃないかと思ったんですが」  長瀬はそう言う。つまり御当主は、皆と遊びたかったのではないかと思ったのだ。しかしこの意見は若様組に園山がいる以上、無謀だとも考えた。  その言葉に、御当主が余裕の笑いを浮かべている。最後に、まだ何も言っていない真次郎に、御当主が目を向けた。真次郎は器用に鍋の中のワッフルスをひっくり返し焼き上げてから、御当主の目を見返した。 「実は俺、最初は手紙の謎解きに余り興味がなかったというか、やる気なかったんですが」 「おや、どうしてだ?」  御当主がつまらなそうな顔付きで問うてくるので、真次郎は正直に、金品で踊らされるようで面白くなかったのだと言う。すると笑い声が返ってきた。しかし。 「沙羅さんの誕生プレゼントを探しに居留地へ行った時、俺、何故だか答えが分かった気がしたんですよ」  皆の目が、ワッフルスを焼き続ける真次郎に集まる。菓子を皿に山盛りにすると、真次郎はそれにジャムを添え、滝川に渡した。滝川が盆に載せ熱い紅茶と共に差し出すと、皆の目がしばしそこに移る。真次郎はその間に、気楽な様子で己の思いつきを告げた。 「ご当主は、謎を示されたときの、若い者達の考えを見たかったんじゃないかなと」 「は?」  長瀬や沙羅が、ジャムをすくった手を一寸止めた。それから御当主に目を向けると、当人は笑みを口元に浮かべている。 「つまり、あの手紙に対する確たる答えは、ないんだ。そうでしょう?」  御当主は居留地のように、江戸の世から明治へ激変してきた中を生き抜いてきた。成金になり成功したと言われてはいるが、さりとて人生これで万事大丈夫という終着点など、生きている内に見える筈もない。金が出来、年を重ねた分、考えが堅くなってはいないかと気にもなってくる。  だから若い真次郎達が、謎を与えられたとき、実際にどう動くか見てみたかったのだろうと、真次郎は思ったのだ。自分の考えに近いのかとか、どれだけ行動に移すかとか。色々みたいものはあったに違いない。 「なんだぁ? それがご当主の真意なのか? だからミナにも手紙が行ったのか」  となると、褒賞という話は釣りなのかと、長瀬の顔付きが渋くなる。ここで真次郎が、御当主に焼きたての熱いワッフルスを差し出した。 「皆、大事な時間を割《さ》いて、謎の解明に向け頑張ったんです。えー、時には勤務時間を充てて」  よって確たる答えがないのなら、皆に幾らかでもいいから手当を出して欲しいと言い、真次郎がご当主を見る。すると御当主は笑い出していた。 「あのな、実はあんな手紙を出した訳が、己でもはっきりしていなかったんだ」  だから、皆が直ぐに行動に出なかったのに、御当主は暫く放っておいたのだ。  成金と言われる程になり、仕事も人間づきあいも、昨今、酷く忙しくなってきた。このまま突っ走っても良いものか迷いがあるのに、立ち止まることも出来ない。既に背負っている商いも雇い人の数も、それは大きくなっているからだ。思いも掛けぬ程の責任を、小泉琢磨は背負うことになっていた。 「それが不意に重く感じられた。歳を取ったのかもしれないな」  例えば目の前のワッフルスは、出来たて熱々が美味い。だが己の人生からは、そんな若さと熱さが、既になくなって来ているのかもしれない。 「そう思うことが、怖かったのだろうか」  傍目《はため》にはいくら大金持ちになったように見えても、若かった時代と同じように、己の芯の部分に危うさを抱えているのが分かる。いい大人になれば、迷わないものよと思っていた。嫌らしい程に強い『大人』になるものだと、勝手にそう思っていたのだ。 「だが実際歳を喰ってみれば、なぁ」  珍しくも少し力なく言う御当主に向け、真次郎が首を傾げる。 「菓子には、日を置いた方が美味しいものが、沢山ありますよ。出来たてばかりが菓子じゃありません」  御当主が、ひょいと顔を上げた。 「例えば餡子は、駄目になるのが早いがね。砂糖の打ち菓子などは気を付けぬと、直ぐに湿気る」 「思い出して下さい。味わいが増してゆく西洋菓子は幾つもあります。その名は、既にご存じの筈です」  ブランデー入りのケーキや、英吉利のティーブレッドの名を挙げると、御当主は一寸目を見開いた。それから、ゆっくりと笑みを広げてゆく。 「そうだった……そうだね」  さて、餡子になるかブランデーケーキとなるか。そう言いつつ、何となく子供のように明るい顔付きとなった御当主は、皆に視線を移すと、今回の手紙の謎解きを考えてくれたことに対し、礼を出すと言い出した。今日沙羅を助けてくれた事にも、別に一封包むと言ったので、園山が喜ぶと言って長瀬の顔が緩む。  ここで沙羅が、真次郎達の顔を覗き込んだ。 「真さんは何を貰うの? お金? 小麦粉の山?」 「俺はみんなのように、謎を解くのに頑張った訳じゃないんだが……」  だがこの言葉には、長瀬から格好を付けるなという意見が出る。真次郎は、ならば知りたいことがあると言いだし、沙羅に顔を向けた。欲しいものは、小麦粉ではなく質問の答えなのだと言う。  この言葉を聞いた御当主が、ひょいと片眉を上げて若い三人を見ている。 「沙羅さん、教えてくれないか。先日のお見合い、どうすることにしたんだ?」  嫁入りを決めたのか? その問いを聞き、長瀬も沙羅の顔を見た。しかし沙羅は、落ち着いた態度で少し笑みを浮かべる。 「今回のご褒美は、お父様が出すものでしょ? 私に質問をしても駄目です」 「そんな。では御当主、娘さんのお見合いの結果はいかに?」 「沙羅が話さないことを、口にしたりはせんよ」 「えーっ、じゃあ滝川さん、教えて下さい。知ってるでしょう」 「滝川、言っちゃ駄目よ。ねえ、それより真さん、さっき、今年の誕生日プレゼントの話をしてたわよね。何にしたか、教えてくれない?」 「駄目。当日確かめなさい」 「けち」  暖炉の前が、甘い香りと若い声で満ちる。新しき菓子と、時が移っても変わらぬ話題が、暖炉の前にあった。その様子を目の前にして、御当主の口元に、今度ははっきりとした笑いが浮かぶ。 「しかし褒美として、沙羅の見合いの結果を聞いてくるとは。若いねえ、参った!」  真次郎なら、店の回転資金を欲しがるかと思っていたと言うと、当人は憮然とした顔をし、長瀬はにっと笑って親友の背を一発叩いている。 「若い人というのは、いつの時代にも変わらないな」  思わぬ発想を見せ、意外なことを言いだす。いや、その突き進む強さは、何もかもが新しい明治の世にあって、一層際だち、きらきらしいのやもしれない。  だがこのつぶやきを御当主の横で聞いていた滝川が、主にワッフルスをもう一度勧めてから、少し遠慮がちに話し出した。 「そういえば、御維新の折りの御当主も、なかなかに凄いことをなさるお方でしたよ」 「あら、そうなの?」  沙羅や真次郎達が、一斉に振り向いた。皆、興味津々という顔付きをしている。 「ああ、滝川さんは江戸の頃から、御当主のことを知っているんですよね」  その滝川に言わせると、御当主のどこが歳を喰ったか……つまり落ち着いて思慮深くなったか、その、つまり、とんと分からないという。ここで御当主が、くいと顎を上げた。 「あれ、そうかね?」 「はい。滝川は御維新以来、ずっと心配のし通しであります」  実は、その行いには拍車がかかっていた。いい加減慣れている滝川さえ驚くようなことをすることはあっても、その行動が守りに入ったことなどないと、妙な保証をする。 「その、でございますね、旦那様、そろそろ少しはこの小泉家の御当主として、大樹のように変わらぬところをお見せになっても、良きお年頃かと」  すると。若い弾けるような声が、部屋内に満ちる。 「お父様、どんな若者でしたの?」 「ですから、今とちっともお変わりなく」 「ああ滝川さん、ご当主はとんでもない奴だったんですな。いやいや、周りにいる者は大変だったに違いない」 「長瀬、人に言えた義理か、お前」 「そうか。滝川が保証してくれるか」  身近な滝川の言葉をどう聞いたのか、御当主がここで、三人に向け破顔一笑する。そして、突然真次郎にこう告げたのだ。 「決めた。真次郎君、これからは小泉商会が風琴屋を援助しよう。いやなに、投資した分には利を付け、売り上げから払ってくれればいいからね」 「は?」  いきなり商売の話が顔を出し、真次郎が呆然とする。しかも風琴屋に嬉しい話ばかりではなさそうな雰囲気に、咄嗟に顔を堅くする。 「長瀬君の方は、せっかく煮ても焼いても何としても食えない、あの大河出警視と知り合ったんだ。暫くあのとんでもないお人との縁を、楽しんでみなさい」 「はあ?」  今回の礼として、小泉商会が側面から若様組や長瀬を援護するからと言われ、当人は顔を引きつらせている。御当主は、大河出と縁が出来れば色々警察関係の知識も入ってくると、早くも算段をしている。 「あのっ、一体どこからそんなことを考えついたんですか」  ここで沙羅までが、口を挟んできた。 「あらお父様、それは役に立ちそうなお話です。風琴屋のことだって、これから先、西洋菓子の分野は伸びて行きそうですものね。小泉商会の先々の為にも、その投資、有用ですわ」  ここで真次郎と長瀬が、顔を見合わせる。 「投資? 有用?」 「何で俺が、大河出とこれ以上……」  その内、風琴屋は、小泉商会に呑み込まれそうだなと長瀬に言われ、真次郎が表情を堅くする。御当主の指示の下、若様組はあの警視とやり合うのかと真次郎に聞かれ、長瀬が身を大きく引いた。  そして二人はそっと顔を巡らせると、横にある椅子の上で、あれこれ勝手な計画を立て始めた親子を見る。 「……どうやら沙羅さんは、見合いを断ったようだな」 「まあ、あの調子では、貴族のおぼっちゃまではとてものこと、歯が立たぬであろうさ」  いや、うかうかしていると我らも、あの親子の意のままに動かされかねぬと、真次郎達は気を引き締める。 「やれ、明治の世というのは、本当に……思いもかけぬようになってゆくものだ」 「だが負けるものではないさ!」  千変万化、明日は別の国かと見まごう世であっても、きっと泳ぎ切り、御当主以上に面白い人生をつかみ取ってみせると言い合う。その二人の方に沙羅が目を向け、そして明るく声を立てて笑った。 [#改ページ] 資料一覧 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※[#「麩」の「夫」に代えて「面」、第3水準1-94-80]「麩」の「夫」に代えて「面」、第3水準1-94-80 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71