[#表紙(表紙.jpg)] 生き屏風 田辺青蛙 目 次  生き屏風《びようぶ》  猫雪  狐妖《こよう》の宴 [#改ページ]   生き屏風《びようぶ》  皐月《さつき》はいつも馬の首の中で眠っている。  そして朝になると、首から這《は》い出て目をこすりながら、あたかも人が布団を直すかのように、血塗《ちまみ》れで地面に落ちている馬の首を再び繋《つな》ぐ。その後で馬体を軽く叩《たた》いて、「おはよう」と言ってから朝食の準備を始める。  馬の名は布団と言うらしい。そのまんまだ。  そんな皐月が、餅《もち》の入った味噌《みそ》汁を朝食に摂《と》っていた日の事だった。 「ちょっとお邪魔しますよ」  近所の酒屋の小間使いがやって来た。  皐月が、「ツケのことだったら、もう少し待ってもらえないか」と言うと、そのことではないそうだ。 「ちょっと皐月さんにお願いがあるんです。それが、変わったお仕事をしていただきたいって話なんですが……」  まどろっこしい話し方は好きではない。 「前置きは別にいいから用件に早く入って欲しい」 「味噌汁をちょっと戴《いただ》けますかな」  小間使いは、小さな猪口《ちよこ》と酒瓶をどこからか出して、へへっと笑いながら語り始めた。 「一昨年《おととし》うちの旦那《だんな》様の奥方が亡くなられたのですが、その霊が店の屏風《びようぶ》に憑《つ》いたのか、夏の頃になると屏風から奥方が喋《しやべ》るんです。  去年は屏風が、やれ珍しい物が食べたいだの、裸で踊って目を楽しませろだのと色々と要求をしまして、秋の仕込み前で人手が足りない時期に、元女房とはいえ何事ぞと旦那様が仰《おつしや》いましたら、あの世は退屈でせめて夏の時期にしか帰って来られない。  だから、その間連れあいを楽しませるのが夫や店の者の務めだと言い出すしまつでして、全く大変でした。  それで今年もお盆の時期を目前にして、また屏風の我儘《わがまま》に付き合わされては敵《かな》わないと、旦那様が道士をお呼びになったんです。  すると、道士は『無理に祓《はら》おうとすると、悪鬼になる可能性がある。それよりも誰か適当な人に相手をさせて慰められたほうが良い』と言いまして、その相手は出来れば独り身の女性で、県境に住んでいる方が良いとか。  しかも妖鬼《ようき》ならなおいいとのことで、その条件に見合うのは貴方《あなた》しかいらっしゃらなかったわけでございます。謝礼はもちろん致しますので、どうかお引き受け下さいませんか?」  皐月は少し考え込んでから、「気が向かないので嫌だ」と答えると、相手は「おやおや困ったな」と懐から紙片と塩を出して、「それじゃしょうがない」と黄色い乱杭《らんぐい》歯をにっと見せた。  そして更に小さな香木のような木片を取り出すと、「これがおわかりですか?」と訊いた。皐月が素直に「解らない」と言うと、小間使いはくすくすと笑った。 「馬の首を寝床にする有名な妖鬼が、自分が嫌う物をご存じないとはおかしなことだ。これはその時に来た道士が置いていった品でして、あなたのような妖鬼を封じる呪《まじな》いの道具ですよ。この香木を焚《た》いてその煙に塩と札を翳《かざ》すと、あなたは石のように動けなくなります」  別に動けなくなるくらいはいい。どうせ始終この県境で、余所《よそ》の土地から好《よ》くないモノが来ないように守っているだけだもの。昼間、飯を食いに行ったり、気まぐれに畑をいじりに行く以外は普段から動かずにいるし、それに一月か二月ほど飯など摂らずとも余り困ることはない。人と違って、食事はどちらかというと嗜好《しこう》品に近いのだから。 「それが、どうした」と落ち着き払って味噌汁をずずっと啜《すす》りながら答えた。 「あなたは困らないかも知れませんが、その間あの馬はどうするんですか? そもそも飼い葉をやる人が居なくなれば、馬は痩《や》せて自分を支えられなくなる。骨の折れた馬がどうなるか、あなたはご存じですよね? やっと見つけた寝心地の良い馬だとあなたが何年か前に言ったのを、あっしは覚えていますよ」  脅しは嫌いだったし、この依頼人が最低な人間だということは今のことで十分過ぎるほど解ってしまったが、布団のことを言われてしまってはどうしようもない。  皐月は可愛い布団のためを思って「受けますよ」としかたなく呟《つぶや》いた。 「さて、それじゃ行きましょうか」  小間使いはとても満足そうな顔で猪口の中身をぐっと干した後、立ち上がった。  皐月は早速簡単に手荷物を纏《まと》めて、酒屋の屋敷へと向かうことになった。  だが、土間から外に出ると、皐月は、くるりときびすを返して、馬小屋の方へ足を向けたので、小間使いが、「あれ、何かお忘れ物で? 屋敷の方向はそっちじゃありませんよ」と声を掛けた。  酒臭いその相手の息までもが憎らしく思える。  これからの屋敷での生活を考えて、ここで嘗《な》められては敵わないと皐月は瞳《ひとみ》の色を少し青白く光るように変えてから、きっと睨《にら》み付け、押し殺したような声で言ってやった。 「布団も一緒に連れていきます。あなた達なんかに絶対に世話を頼みたくないんですから。それに屋敷内で寝床がないと困ります」  小間使いはさっきの睨みが利いたのか、少し視線を宙に浮かせると「そりゃ、もっともで」と擦《かす》れた声で答えた。  蝉が一斉にやかましく鳴きはじめた、布団の首には汗が浮いている。  空は青く高く、今日も暑い日となるだろう。  その後、皐月は布団の背に跨《またが》り、風のように駆けて颯爽《さつそう》と屋敷へ向かった。  もちろん、一緒に乗せた小間使いが自分を脅した事に対するささやかな復讐《ふくしゆう》として、思いっきり馬体を揺らしながら。  布団の背が激しく揺れるたびに「ひあっ、ひあっ」と小間使いが情けない声を上げてくれたので、皐月の気は少しばかり晴れた。 「旦那様──県境の妖鬼を連れてまいりましたよ」  小間使いと共に門を潜った皐月は、屋敷の皆からおそるおそる見守られながら部屋に入った。目の下にクマを拵《こしら》えた主人から、言葉遣いに気をつけること、この家の中で怪しい術を一切使わぬこと等を約束させられてから部屋に通された。  襖《ふすま》を開けると、天井に届かんばかりの大屏風が、目の前一杯に広がっていた。  ──屏風の色は赤かった。  いつも布団の血肉の中で眠っている皐月が見ても、それは鮮やかな色だった。  赤い屏風の中の人物は皐月と目が合うと、鴉《からす》を取って持ってきてくれないかと突然言い始めた。何故かと問うと、鴉の煮込んだのを食べてみたいのだそうだ。 「こう張りついてちゃ暑くってね。暑気払いには鴉の汁が良いと聞いたのよ」  屏風絵の中の奥方は、赤い色に浮くように白く、対比するかのような漆黒の髪を片手|髷《まげ》に結い上げ、その中で硝子《ガラス》製の煙管《キセル》を時折吹かしている。  透明な細長い管の中をぷわぷわと色の付いた煙が通り抜けていく様が面白く、皐月は少しそれが欲しくなった。 「鴉の汁ですか、私はそんな話聞いたことありません。何処でそんなことをお聞きになったのでしょうか?」  白い顔に浮かぶ形の良い赤い唇から、赤と紫の煙がぶわっと吐き出された。  一体どんな銘柄の煙草なんだろう。  煙の匂いは少し甘く、鼻腔《びこう》を擽《くすぐ》り肺に煙《けむ》る。 「あそこよあそこ、黄泉《よみ》の国さね。ところで、あんた妖鬼なんだって? 形《なり》も小さいし、目も針で開けた穴みたいじゃないの。  もっとギラギラした妖気を滾《たぎ》らせた凄《すご》い女が来るかと思って、楽しみに待ってたってのに何ってこったない、普通の人とどこも変わらないじゃないの。せめて銀色に光る大きな鋭い角だの、目が三つだか、八つ程もあればもっと面白かったものを」  皐月は、自分がそんなに恐ろしい姿に生まれていたら、それはそれで楽しかったかもな、だけど目が多くあったらどんな気持ちだろう。あちこち見えるのは良いかも知れないが、きっと、視野が定まらず酔ってしまうのではないかと考えた。 「奥方様は、私を今まで里で見かけられた事は御座いませんのでしょうか?」 「ありゃしないよ。あたしは元々足が悪くてね、県境になんざ一度も行ったことはありゃしない。  そう言えばすまなかったね、一度もあんたにお供え物を持ってったことがなくて。  県境の妖鬼は、異界や近隣の土地から魔がやって来ないように番をしてるんだろう。  ところで、その番を離れていて今は大丈夫なのかい?」  他所《よそ》から何か嫌なモノが来る時は決まって変な胸騒ぎがする。風は嫌な味がして、首筋の辺りにぞぞぞっと怖気《おぞけ》が走るのだ。  皐月はそれを今まで全身全霊をかけて追い払ってきた。  それが何かは、判らない時のほうが多い。  時折気がつけば小さなモノがそっと忍び込んでいる時もある。  どうもそれは飢えであったり病ではないかと皐月は考えている。何故ならその気配を感じたときは実りが悪く、病の者が出るのも多かったからだ。  そして、皐月は自分自身が追い払えるモノとそうでないモノ、追い払わない方がいいモノの存在も知るようになっていった。だけど、ここ数年はそんなモノもさっぱり来なくなった。 「いえ、今はこちらの方がお仕事ですから。それに、ここ最近変なモノが外からやって来たことはありません」 「ふうん、そういうものなのかい」  小間使いは随分手を焼いていると言っていたが、屏風《びようぶ》の中の奥方は、多少気難しくはあるけれど、それほど気が合わない訳でもないなと皐月は感じはじめていた。  さっぱりとした受け答えの口調も悪くない。  ただ気ままで我儘《わがまま》そうなので、人によっては疲れてしまうかもしれないけれど、と皐月は心の中で付け加えた。 「あんたさ」  奥方は皐月を指差したあと、再び手を屏風の中に戻して煙管を手に取った。 「なんでございますか?」 「面白い奴が来ると思ってたのに、あたしの期待外れなのかい。これだったら小間使いに頼んで旅芸人でも連れてこさした方が良かったかも知れない」  奥方は片|肘《ひじ》を突いて、丸い輪の形の煙を吐いた。  その言葉にはさすがにちょっとムッとしたので、皐月は声を荒らげて反論した。  皐月は昔から何故か、人に甘く見られるところがあり、とてもそれを気にしていたからだ。 「先ほど奥方様は私に銀色の角があればと仰《おつしや》っていましたが、角なら私にだってあるのですよ。鬼の子だからこそ、県境の妖鬼《ようき》と呼ばれているんです。ほらっ、その証拠にこれをご覧下さい。昨日だって米のとぎ汁を含ませた布で角を磨いていたんですから」  皐月は切りそろえた前髪を片手で持ち上げて、額の中心に盛り上がった小さな白い小指の先ほどの角を奥方に見せつけた。  乳白色の小粒の角は、自分の体の中で一番自慢できる部分だった。  毎日念入りに磨かれて、真珠のような艶《つや》を放つ角は、どんな宝石を身につけているよりも誇らしい。  だが、人である奥方には皐月のその気持ちが伝わらなかったようで、軽く茶化されてしまった。 「まぁ、なんだいそれが角なのかい? あんたにゃ悪いけど、ただのちょっと変わった色したこぶか、オデキにしか見えないねぇ。  うちで飼ってる牛の方があんたの何倍も凄い角を生やしているから、別に珍しいとも思えない。赤子の歯だってもっと立派だろうに。まぁいいさ、髪を下ろしてしまいな、大事なお角様なんだろう」  煙管を手に奥方はとても愉快そうに笑っている。 「からかわないで下さい。これでも私の父は、とても大きな雄々しい角を頭から生やしていたんですからね。それに奥方様はご存じでないのかも知れませんが、女の鬼は角があまり大きくならないものなのです、それに……」 「角については解ったから仕舞いなと言っているだろうに。ところで退屈でしょうがないよ。折角だから何か妖鬼らしいことをもっと見せてくれないかい? さっきの角みたいに今度はあたしをガッカリさせちゃあいけないよ」  少し気分を悪くした皐月はむくれて答えた。 「妖鬼らしいことと言われても困ります。奥方様は人であられるので、人らしいことをして見せてくれと言われたらお困りになりませんか」 「屁《へ》理屈をお言いでないよ、あたしは今あんたの雇い主だからね。妖術とか使えるだろうに。何か、あたしが目で見て面白いという事をやっておくれ。だからといって家の中のものが壊れたり、燃えたりすることはやっちゃあいけないよ」  ふぅっと硝子の煙管から今度はにび色の煙を吐き出すと、奥方は近くにあった煙草盆に軽くコンッと当てて置いた。屏風から白い紙のような手だけが出るのを見て、皐月は、奥方を見る方が妖術なんかよりもずっと面白いのではないかと思った。 「家の中では妖術は使うなと旦那《だんな》様と約束させられてしまったので使うことが出来ません。私は約束させられた事は、人と違って破ることが出来ないのです。たとえ私が破ることを願ってもです」 「そうかい、つまらないことを勝手に約束させられてしまったもんだね」  急に屏風の中から良い香りがしはじめた。  見ると、奥方が壺《つぼ》の中から梅の実の砂糖漬けを取り出して頬張っている。  一体、物はどこから出しているのだろう。  あの屏風の中は黄泉の国にでも通じているのだろうか。そうならば、黄泉の国にも梅の木が生えているのか。  ごくりと自然に喉《のど》が鳴った。  それもそのはず、甘い梅の実は、皐月の何よりの好物だったのだから。  ここの県境に住む前、それは遠い昔、まだ両親と皐月が一緒に住んでいた頃、梅雨の合間に梅を干す人々の家を見て、皐月は良い香りがするのであれをくれと親によくねだったものだった。  梅は妖《あやかし》の腹を冷やすから、人の口には良くても、好むのはよくないと窘《たしな》められていたのだが、ある日梅の香りの誘惑に勝てず、小さな鳥に姿を変えて実を啄《つい》ばみに行ってしまった。  あのときは小さくて、体が軽かったから鳥になることが出来たのだ。  今でもその時の、塩を吹いた黄色く色づき始めた梅の味を覚えている。  しかし、家に帰るとなぜか母親に梅の実をこっそり啄ばんだことがバレていて、尻《しり》が真っ赤になるまで打《ぶ》たれて、泣き喚《わめ》いて詫《わ》びた。だが、それからしばらく経つと、家から随分と離れた場所に父親が梅の木を植えてくれた。 「私たちはその実に触れることさえ煩わしいと思うのに、変わった子だこと」と母はよく言っていた。 「梅の木は埋めの気に通じるとも言うぞ、この子は私たちとは違って、土の気を強く持って生まれてきた子なのかも知れないな」  父の声が耳によみがえる。 「何をそんなに、人が梅を齧《かじ》るのをじろじろと眺めてるんだい、もしかしてこれが欲しいのかい?」  皐月は目を丸くして、まるで幼子にでも戻ったかのように、こくんと大きく頷《うなず》いた。  奥方は「ほほっそうかい、欲しいんなら一つあげよう」と薄っぺらい白い腕に汁気をたっぷりと含んだ甘い梅を載せて皐月の前に突き出した。皐月が青梅を受けとると、奥方は手をすっと屏風の中に戻して、ため息を吐いた。 「全く、煙草と食べ物だけじゃ退屈も募るばかり。妖術が駄目なら何か妖として面白い話を聞かせてくれないかい。このままじゃ退屈で退屈で、屏風にびっしりと苔《こけ》や黴《かび》が生えてしまいそうだよ」  こるこると甘く、冷たい青梅を口の中で噛《か》み締めながら皐月は頷き、現金なものでさっき自慢の角を茶化されたことも忘れて、この青梅を種までしゃぶって味わい尽くしてから、美味《おい》しい梅のお礼に、自分の中で面白かった話を奥方にしようという心持になっていた。  皐月は色々な思い出を頭の中に浮かべ、その中の一つを掴《つか》んだ。 「私と、私が寝床に使っている馬の布団との出会いを話しても宜《よろ》しいでしょうか」  種をどうしたらいいのか分からず、飲み込んでしまったせいか、少し上擦った声でそう尋ねた。  奥方は、「何でもいいよっと。どうせ最初から退屈なんだし」と言いながら硝子《ガラス》の煙管《キセル》に刻んだ煙草を詰めていた。 「前に私が寝床にしていた蝋《ろう》という名の馬が死んでしまったので、私はずっと新しい馬を探していました。  人と違って私は馬の首の中でないと、本当の意味での睡眠は得ることが出来ません。ある日、西の森で黒い野生の馬を見たという話を聞いて私はすぐにそこへ向かいました。  ぬるかみに付いた蹄《ヒヅメ》の跡に、食い荒らされた根っこに馬糞《ばふん》。  そこに馬がいるというのは誰の目にも明白でした。それもかなりヤンチャな奴ですね。  馬はすぐに見つかりました。  木立の間に立ってこちらをじっと見据えていたからです。  白い湯気が黒く光る馬体から立ち上がっていて、私は一瞬|見惚《みと》れました。  何よりも好きな、馬の臭いと生暖かい鼻息。  速く走る為に形作られている四肢《しし》はとても美しい。  私は我に返ると、後ろ足にぐぐっと力を入れて跳躍して、迷わず馬に飛び掛かりました。馬を寝床にするのには自分の力で捕らえて馬を服従させなくてはいけないのです。私は布団を強く噛みました。  布団は私を蹴《け》り上げようと、激しく頭を上下に振って暴れました。私は振り落とされて懸命に体をかわしたつもりだったのですが、みぞおちの辺りを強く蹴られてあばらの骨を何本か折ってしまいました。  目から星が出る程の痛みでしたが、私は耐えて布団に再び飛び乗って、歯を立てて噛み付いて放しませんでした。そしてやっとの思いで、耳と目を布で押さえて、布団が疲れて大人しくなった時に噛み付いた傷跡に、私の唾液《だえき》を塗りこんで呪《まじな》いを唱えました。これで馬はやっと寝床になる準備が出来たことになります。  人より傷の治りは早いとはいえ、あばらの痛みは辛《つら》く染み入るものでした。県境の家に帰ったとき、私は熱があって一刻も早く休みたかったので、馬を部屋の中に呼びました。  私の布団よ、来いと。  その時初めて口にした呼び名が、馬の名前になっています。  妖が寝床に使う馬は、普通の馬よりもずっと長生きもしますし、知恵も付きます。だから妖鬼《ようき》の中には、何頭もの馬を従えて順番に寝て、馬を賢くして高値で売ったり、馬を捕まえるのが下手な妖に、売るのを商いとしている者もいるんです」 「馬の首の中で眠るってのは、一体どんな気分なんだい?」 「布団の鼓動や、息遣いが聞こえます。それにとても温かくて、守られているような安心感に満たされます。  実際、布団は眠っている間、無防備な私を気遣ってくれているんですよ」 「ようするに、思い人との閨《ねや》のようなものなんだね」  皐月は曖昧《あいまい》に微笑んで、開け放たれた戸の外を見た。遠くでごろごろと雷が唸《うな》っている。土と湿気の匂いが部屋に満ちている、もう直ぐ夕立が来るのだろう。 「雨が降りそうだね。あたしは雨が好きだったよ、外に出られないってことを気にしないでもいいからね。それに、雨粒の音は聞いているだけで心が休まる気がするんだよ。  だから、生まれ変わったら紫陽花《あじさい》の花にでもなって、葉っぱの上で蝸牛《かたつむり》なんぞを遊ばせてやろうと思っていたのに因果なもんだねぇ、何にもなれやしない」  ふぅっと煙が揺れて、皐月の目の前を泳いでいった。  ため息の色のようにも見える。  雷の音が、少しずつこちらへと近づいて来ている。ぽつぽつと大粒の雨が葉を打ち、地面を濡《ぬ》らす音がする。  外からわいわいと、何やら騒がしい声が聞こえる。雨から逃れようとする人達だろうか。 「どうかしたのかい?」  座布団の上で体を少し強張《こわば》らせた皐月を見て、奥方が声をかけた。 「いえ、別に。ただなんとなく一度に色んなことを思い出してしまって、少しぼんやりしていただけです」  部屋の中が急に薄暗くなったと感じた途端、滝のような雨が、空から落ちてきた。  ざざざざざざざ……と激しい雨に打たれて、中庭の木々が全て頭《こうべ》を垂れているように見える。 「急に雨が降って参りましたね」  すっと襖《ふすま》を開けて、下女がやって来た。  下女と言っても、普段は近所で畑仕事などをしているのだろう。 「失礼致します、麦湯と西瓜《すいか》でございます」と側に寄った時に見えた手や顔は、屏風《びようぶ》の中の奥方とは違い真っ黒に焼けて肉付きも好《よ》かった。  下女はチラリと皐月を見ると嫌悪とも恐れとも何とも言いがたい複雑な表情をして、湯のみと西瓜の載った皿を置いた後、部屋から出て行った。 「あたしは煙草をやっているから、あんたが先におあがりよ。それとも妖鬼は西瓜なんか食べないのかい?」 「いいえ、ただちょっと高価なものが出たので驚いているだけです」 「別に遠慮することないよ、萎《しな》びてしまうから早くお食べ」と勧められたので、皐月は迷わず「いただきます」と手に赤い実を取って、しゃむしゃむと食べ始めた。  種を一つ、二つと口から取り出しては皿の上に置く。  縁側の向こうで激しく降る雨を奥方とともに眺めながら、西瓜を食《は》む音だけが部屋に満ちている。 「西瓜を食べながら聞いとくれ、あたしはその実のねぇ、赤い色が好きなんだよ。血みたいだからって、忌む人もいるけどね。赤い色って華やかな感じがするじゃないか。だからあたしは一日の中でも、黄昏《たそがれ》時が何もかもが赤く染まって、一番好きなんだよ」  一瞬、真っ白な光が走ったかと思うと、一際大きな雷鳴が響き、屋敷が揺れた。きっと近くに落ちたのだろう。 「雷は別に怖いもんじゃないけど、ああ大きくて地面が揺れてしまうのは、ちょっとばかり驚いてしまうね」  屏風の中で肘《ひじ》を突いて、閃光《せんこう》を見つめる奥方の横顔は、少しだけ自分の母の姿に似ていると感じた。 「今降っているのは通り雨だと思うので、夕方頃にはきっと、止むかと思いますよ」  鳥が雨の中、騒がしく鳴いている。 「暑くってしょうがないから丁度、打ち水代わりの雨と思えばいいやね」 「そういえば、雨の日だけに現れる妖《あやかし》というのがいるんですよ」  奥方は長い睫毛《まつげ》を伏せている。「ふぅん、雨の日だけにねぇ、妖にそんなに種類があるとは思わなかったよ」鼻や口から今度は違う草を詰めたのか朱鷺《とき》色の煙を出しながら、皐月が西瓜の赤い実を食むところを眺めていた。  徐々に雷鳴は遠のいて行ったが、まだ雨足は強く、辺りは八ツ半時頃にしてはとても暗い。  西瓜を食べ終え、皐月は肘に垂れた赤く甘い汁を舌先でなめとった後に指を舐《ねぶ》った。  本当は皿に溜《た》まった赤い汁も飲んだり舐《な》めたりしたかったのだが、ここは布団と自分しかいない小屋ではなく、妖がみんなそういう作法だと奥方に思い込まれても困るなと思って、皐月は我慢した。  赤い実の部分は柔らかくて甘かったが、西瓜の底の部分は瓜《うり》のような味だった。  一番外側は硬くて渋い味がしたので残したが、西瓜は種と皮は食べないと誰かから聞いたような気がするので、多分間違った食べ方はしていないだろう。  この集落では西瓜は育てられていないので、きっと行商が、遠くから運んできたのを買い求めたのに違いない。  皐月はあまり食べなくても平気な性質だった為か、普段も少しばかりの味噌《みそ》や塩や酒を求める以外は、外から特別な物を買うということは無かった。  庭の小さな畑と、時折|貰《もら》うお供え物以外の食べ物は、とても貴重だ。  しかも供えられるものは皆、自分の畑や田で穫《と》れるものか近くで獲《と》れる物なので、遠方から来た行商から買った日持ちのしない青物の味は格別に感じられた。  指を鼻先に当てると、舐った後もまだ、西瓜の匂いが残っている。 「食べ終えた後の種と皮だけど、そんなに西瓜が好きなら下げられてしまう前に、庭に投げておしまいよ。  縁側から外に景気よく飛ばしておくれ、もしかしたら来年になったら庭に、西瓜が生《な》るかも知れないよ。そうでなくったって、鳥の腹くらいは満たせるかも知れないだろう」  名残惜しそうに指をもう一度舐った後、皐月は言われるがままに雨に煙る庭に向けて、皮と種を放り投げて捨てた。 「種はわかりませんが、皮はきっと泥に塗れて腐ってしまうだけですよ」 「別に構いやしないよ、蠅に感謝されるかも知れないからね。庭師か誰かが片づけてしまうかも知れないけどさ……」  皐月の頭の中で、次の夏に大小の実を眺めながら、奥方と二人でどれを口にしようかと悩む自分の姿がぼんやりと浮かんだ。 「雨が止んだら、ちゃんと埋めておきますよ。そしてここから見えるように小さな畑を作ってもよろしいでしょうか」  紙縒《こよ》りでヤニを取った煙管を布で拭《ふ》いてから、奥方は煙草盆の中にしまい込んだ。  そして、三段になっている引出の一番下から小さな手に載るくらいの琵琶《びわ》のような楽器を取り出して爪弾《つまび》きはじめた。  さっきよりも小降りになってきた雨音に混じって、弦を弾《はじ》くビンッという音が響いて耳に心地よく残る。 「これはね、足の悪いあたしに、父が職人に頼んで拵《こしら》えてくれたもんなんだよ。小さい頃からこれで遊んでいるのに、ちっとも上手《うま》くなりやしない。  畑は別に作ったって構いやしないけれど、この庭は夏場は日が差さないように作られているからね。それでも西瓜は育つもんなのかい。  で、話しかけた話題を途中で切るのはよくないよ。さっき言ってた雨の日の妖の話を続けておくれ」  指先で遊ぶように弦を弾きながら、奥方が皐月に振った。 「初めて作る物なので、育つかどうかは判りませんが、雨が上がって地面が乾けば明日にでも小さな畑を作ってみます。それに別に失敗したっていいんです。さっき私が口に含んで皿に置いた種の数を、奥方様はご存じでしょうか? 六十八もあったのですよ。  蒔《ま》く時期や育て方を変えて、これだけの数があれば、一度や二度の失敗は物の数に入りません。雨が上がって土が乾けば種を拾いましょう。私の目は人よりいいので土に塗れてたってちゃんと黒い種を見つけてみせます。  雨の妖の話ですが、あいつは変わった奴でした。  と、言っても私はそんなに沢山の妖と出会ったわけではないので、妖全体から見るとあれも普通なのかも知れません」 「そいつとはどこで、出会ったんだい?」 「もうずっと昔の事です。  この集落に来る前に、私は白馬の蝋と旅をしていました。  峠を越える途中で夜になってしまい、お互い疲れていたこともあってここで休もうと蝋を繋《つな》いでから首の中に入り、私は顔を出して眠っていました。  やがて、夜更け過ぎに雨が降り始めたのか、杉葉を伝って落ちてきた雨粒が、顔を打ったので私は目を覚ましました。するとそこに、口から赤くて長い舌を三枚伸ばして、くるくると踊っている格子柄の褌《ふんどし》を締めた子供がいました」 「暗闇の中で見えたってことは、そいつは光でも放っていたのかい?」 「私は夜目がとても利くんです。  最初はあまりにもその様子が奇妙に見えたので、狐か狸が私を馬鹿にして、からかっているのではないかと思ったほどでした。子供に何をしているんだと訊《き》くと、雨が降っているから舌で雨を飲んでいるとだけ答え、その後は何度話しかけても私の問いには一切答えてくれずに赤い舌を振り乱してずっと独楽《こま》のように回り続けていました。最初はちょっと面白いなと様子を見ていたのですが、ずっと同じ動作を繰り返しているだけで、旅疲れもあったので、私は眠ってしまいました。  朝、目を覚ますとその妖はおらず雨は上がっていました。  その時は変な妖を見たくらいで済んだのですが、それ以来、雨の日のたびに行く先々で何度もそいつを見るようになりました」 「で、どうなったんだい?」 「ある日、蝋と街道を歩いていると、雨が降ってきました。またあいつが来るなと思っていたのですが、現れなかったのです。それ以来、私はその妖に会っていません。  今もどこかにいて、雨の中、くるくると回りながら踊っているのかも知れません」 「その旅をしていた蝋ってのは、良い馬だったのかい?」 「ええ、とても」 「布団がいても、あんたはその馬のことを思い出すことがあるのかい?」 「いつもきっかけは些細《ささい》なことなのですが、蝋が好きだった野草を見つけた時か、かつて旅をしていた所と似た景色を見た時に、ふっと思い出すことがあります」  ビンッと手元にあった小さな楽器の弦を爪弾き、「雨が随分と小降りになってきたようだね」と奥方がぽつりと呟いた。  蝉が再び大きく鳴きはじめた。  雨が止んだ頃に、小間使いが「旦那《だんな》様がお呼びですぜ」と、皐月を部屋の外へと呼び出しにやって来た。  皐月は、せっかく雨が止んだので、あの奥方と夕焼けに染まった庭を、共に眺めることが出来るのになと文句を言いながら、小間使いの後ろを付いていった。  薄暗く長い廊下を抜け、庭を抜けて、皐月が案内されたのは、薄暗い酒蔵の中だった。 「旦那様、県境の妖を連れて来ましたよ」 「あいつと何か問題は起こしてないだろうな」 「いえ別に……」  会ったときから数刻しか経っていないというのに、旦那の眉間《みけん》に刻まれた皺《しわ》は一層深く濃く、ずっと年老いて見えた。 「そうか、それならいい。もう少ししたら飯の時間なので、小間使いの半兵衛《はんべえ》に言って膳《ぜん》を用意して貰うといい。ただ妖鬼《ようき》と食事をすることに慣れていない連中が多いから、飯は他の使用人とは違う場所で摂《と》ってくれ」 「あの、奥方様のお部屋でいただいても宜《よろ》しいでしょうか?」とおずおずと訊《たず》ねると、主人は表情を更に翳《かげ》らせた。「あいつは俺と食べたがるんだ。何だってあんなに俺を苦しめるのかが解らない」  主人は蜘蛛《くも》の巣が張った高い酒蔵の天井を仰ぐと、皐月に訊ねた。 「県境の妖《あやかし》よ、死んだものを無理やりにでも送り返すすべは無いのか。返さなくても消滅させる方法とかは有りはしないのか、もしあったら俺に教えてくれ」 「あるかも知れませんが、あっても私は知りませんし、魂のやりとりをする術には大きな危険が伴います。それに、旦那様と約束させられてしまったので、私はこの屋敷の敷地内では何があっても、術を使うことは出来ないんです」 「そうか……」  顔の皺を一層濃くして主人は頷《うなず》いた。  しばしの沈黙の後、早く出て行けと促されて皐月は酒蔵を後にした。  その晩のご飯は漬物と、刻んだ葱《ねぎ》と酒粕《さけかす》の入った汁だった。  米は酒を造っているだけあって、麦や粟《あわ》は少ししか混ざっていないようだ。  酒粕も香りがよくて、入っていた具はふの欠片《かけら》だけだがとても美味《おい》しそうだった。  皐月は言われたとおり、皆が食事を食べる場所を抜け出して、布団のいる馬小屋の側で汁を啜《すす》り、暮れ六ツの鐘の音を聞きながら、「人の縁ってのは解らないもんだね、布団」と語りかけた。  布団は鼻息を吹き出し、そっと長い鼻先を皐月の頭の方に寄せた。  母屋ではまだ、他の人たちが食事を摂っている最中なのだろうか。  あともう少し布団とこうした後、食器を返しにいこう。  薄桃色の夕焼けに染まったこの風景を、あの奥方と主人は、一体どんな顔をして眺めているのだろうか。  群青色の空で金星が強く輝きを増す頃、皐月は食器を返しに行ってから、小間使いに奥方と主人の食事も終わっていることを確認して、部屋へ戻ろうとした。  だが、慣れぬ屋敷内で、酒蔵の中で聞いた主人の言葉もあり、他の人となるべく顔を合わせないように移動している内に迷ってしまった。  ここは屋敷の中のどのあたりだろう、誰かに次会えば奥方の部屋を尋ねてみることにするか。何、いくら私が妖だからと言ってもこの村には誰よりも長く住んでいるし、別に外見は、髪の下の角と目の色を除けば人とそれほど変わりはしないのだから、不必要に恐れられることもないだろう。いや、それでもやはり怖がられてしまうのだろうか……。  暗く長い廊下を思案に暮れながらひたひたと歩いていると、襖《ふすま》の向こうからひそひそとした声が漏れ聞こえた。 「……いっそあの屏風《びようぶ》を燃やしてしまってはどうなの……」  それを聞いて皐月は、襖の前で金縛りにあったように動けなくなってしまった。 「あれは魂が宿っているだけだと道士が言っていた。物を消してもそれが解決になるとは思えない。それに悪鬼になってしまったらどうするんだ? それにあの屏風は……」  もう片方の声はこの屋敷の主人のものだった。 「じゃ、ずっとあのままだって言うの、一体いつまで我慢すればいいのか見当も付かないじゃないの」 「俺だって考えているんだから少し静かにしてくれ、いずれはあいつも帰るだろう。この世にい続けることが出来ない定めなのが、死人なのだから……」  無意識に握った拳《こぶし》の内側で、じわっと汗が滲《にじ》む。 「祟《たた》られちゃ敵《かな》わないって言いますけどね、私の気持ちはどうなるんですか。今日だって化け物と奥方が向かいで喋《しやべ》ってる姿を見て、本当にゾッとしましたよ。今度麦湯や水菓子を持っていく時に、毒でも盛ってやろうかとさえ、真剣に思っているんですからね」 「そう聞き分けの無いことばかり言わないで、もうしばらくだけ我慢しておくれ。俺もあいつには辟易《へきえき》してるんだから」  皐月は耳を塞《ふさ》いで、足音を立てないようにして、そっとその場を後にした。 「おやっ、もうご飯は済んだのかい?」  見当違いの部屋の襖を五、六度開けてから、やっと皐月は奥方の部屋にたどり着くことが出来た。 「今日のあんたの話しっぷりはなかなか悪く無かったよ。馬はあたしは一度も乗ったことがないけれど好きなんでね。うちにも何頭かいるけど、あの目が、黒い宝石のようじゃないか。ところで、あんた酒は飲めるくちかい?」  皐月はさっき廊下で聞いたことを振り払うように勢いよく「もちろん」と答えた。 「それじゃここに何本かあるけど、ただ飲ませるだけじゃあたしが面白くないからそうだね、あんたあたしと賭《か》けをして勝った方が一杯飲めるって趣向はどうだろう。ここにサイコロが一つあるから、目が三より大きいか小さいかを当てるってのをやってみようじゃないか。それじゃ最初はあたしが振るけど、あんたは大きい数の目にするのかい、それとも小さい目にするかい?」 「あの、もし三が出たらどうするんでしょうか」 「その時はそうさねえ、振り手が飲むってのはどうだろう。それっ」  ころころと畳の上をサイコロは転がり、出た目は四だった。 「あ、そういえば私も奥方様もどちらの出目にかけるか、言い忘れていましたね」 「それじゃ最初の一杯は、お互い一緒に飲むことにしようか、あんたが酌をしておくれよ」  久々に飲んだ酒はじんわりと、腹の底からきゅっと、染み入るほど美味しかった。 「そうだ、あんたは今まで人を喰《く》う化け物って奴には会ったことがあるのかい? そいつはどんな姿をしていたか、教えておくれ」  奥方はサイコロを放り出して、皐月に空になった盃《さかずき》を差し出した。  とくとくと徳利《とつくり》から、酒を注ぐ音さえも美味しそうだなと、口の中に生唾《なまつば》がじわっと湧いた。 「もう賭けは無しで、今夜はあんたの話で飲むことに決めたよ。あんたは手酌でお飲み」  皐月は大喜びで再び空盃を満たし、手に垂れた酒までも行儀悪く西瓜《すいか》の汁の時のように、ぺろっと舐《な》めてしまった。 「本当にあんたは美味しそうに酒を飲むねぇ。遠慮はいらないから、好きなだけおあがりよ」  奥方が手を叩《たた》いて小間使いを呼びつけ、酒をもっと持ってくるようにと伝えた。  それから運ばれてきた酒を飲み干して、頬を赤く染めた皐月は「とても昔の話なんです、私がここに来る前、そうですね、子供の頃の話です。一度だけ人を食べるという山の神に出会ったことがあったのです」と、語りはじめた。  奥方は半身を屏風から乗り出して話を聞いている。酒に酔っているので皐月と同じように頬が赤いが、色が白いので、まるで白玉に紅を垂らしたようだ。 「私が両親と共に住んでいたのは山間《やまあい》の小さな開けた土地で、人が住んでいる里からは少し離れていました。その年は何時《いつ》もよりずっと雪が早く、父と母の小さな畑の実りも少なくて食べるものが何日もなく、毎日雪をかきながら、残念な気持ちで過ごしていました」 「あんたは何日も食べなくても平気なのかい?」 「飢えるのは辛《つら》いことですが、人のように飢えだけで参ってしまうことはありません。  そんなある日、父と私は山に薪を集めに行ったんです。  寒さの厳しい日で、粉雪が舞って、耳や顔に張り付くのが嫌でした。  指をふぅふぅと息で暖めながら父の背中を追って、山の奥へ行き、薪を集め籠《かご》の中に詰めると雪が急に激しくなって吹雪《ふぶ》いてきました。父の顔が急に険しくなり、これはまずいなと作業の中断を呼びかけました。  どさっと木から雪が落ち、風が吹いて葉を落としていない木々がざわざわと揺れて、私は何か背後に気配を感じました」  皐月はそこで、大きく息を吸い込んだ。 「父の足にひしとしがみ付いて見たそれは、真っ黒な墨に、黄色い切れ目を二つ入れたような姿をしていました。そして、トンッと跳躍して私と父の前に来ると、真っ黒な体の中心が割れて赤い大きな切れ目が覗《のぞ》きました。私は青白い父の顔を見つめながら、これはなに? と訊《たず》ねました。すると、父はこれは人を取る山の神だ、嘘や偽りを持てば体を半分にトンと薪のように割られてあの赤い口で喰われてしまうと言ったので、その黒いモノの赤い部分が口だということが解りました。父は私の頭に手を置き、出来るだけ平常心でいろと言いました」  奥方は半開きの唇に煙管《キセル》を押し当てて聞いている。 「この神は冬の山そのもののような存在だから、心を乱すと喰われずとも、命を吸われるというのです。私は、再び山の神の姿をまじまじと眺めました。黄色い切れ目の部分は左右対称に付いていたので、目のようだと思いましたが、そこからは何の感情も表情も感じ取ることが出来ませんでした。父が目を閉じろ皐月、それから心の中で自分の名前を十回唱えろと言ったので、その通りにしました。名を唱え終えてから、目を開けるとそこにはもう黒くて赤い口をした山の神はいませんでした。神の立っていた木立の前の枯れた草原の間に、凍った苺《いちご》が生《な》っているのを見つけたので、それを無邪気に口にいれました。凍っていたので冷たく、表面は乾いていましたが、小さな苺は空《す》きっ腹にはとても美味しく感じました。私は思わずさっきの恐ろしい気持ちも忘れて笑顔になり、父に山の神は、これを私たちに言いたかったんじゃないかと伝えたのですが、父は私に返事もしないで、厳しい顔のまま、付いて行くのもやっとの速さで、黙って山を降りていきました。あんまりにも父が急ぐので、もしかして後ろから山の神が追いかけているのではないかと何度も振り返ってしまったほどです。  そして、家に着くと父は雪を落として笠《かさ》と雪蓑《ゆきみの》を取り、しばらく山へは入らないようにしようと母と私に告げました。  あとで知りましたがその神の名は『スイトン』と言って、冬の山に入ってスイトンと出会った者は、その時心に偽りや動揺が走ると、食べられてしまうそうなんです。  そのせいで冬の山に入る人がいなくなってしまった時期もあったようです」 「その食べられた人はどうなるんだい?」 「私にはその基準がわからないのですが、春になると時折戻ってくる人もいたそうです。  ただ、こんな恐ろしい神なのに、言い伝えでは、山で子供を遊ばせたという話も残っているんですよ。だからあの時、父と私の前に現れたのも、子供の私に苺を見せて本当に喜ばせたかっただけかも知れません。これが、私が人を食べると言われたモノとの、唯一の出会いとなります」 「ふぅん、この土地にも山の神はいるだろうけど、そいつも同じような姿なのかい?」 「いいえ、ここの土地の山の神様は、私や奥方様と同じ、女で人とよく似た姿をしています。時々お祭りの時に紛れて里に下りてらっしゃいますよ」  人の年でいうと十三か四ばかりに見える山の神、人と混じっている時に皐月と目が合う時はあるが、言葉を交わしたことはほとんど無い。  神は妖《あやかし》や人と比べて存在が希薄なのは、こちら側にあまり興味が無いからだろうか。 「祭りの時ねぇ。あたしは人ごみも外も苦手だから行った事はないけど、化け物たちの間でも祭りはあるのかい?」 「妖は人より気まぐれなのが多いので、里の人のように毎年は行《おこな》ったりはしないと思います。この土地には妖の数が少ないので、祭りはありませんが、過去に旅をしている途中で妖の祭りを見たことがありますよ」 「それは人の祭りとはどう違うんだい?」 「あまり差異はありませんね。飴《あめ》売りなんかの出店や、見世物《みせもの》小屋があります」 「へぇ、見世物小屋もあるのかい? 全く化け物が化け物を見ても面白いもんなのかねぇ」 「私が見た見世物小屋の中にいたのは人間でしたよ」 「人なんて数も多いし、どこにだっているから、見ても面白いもんじゃないでしょうに、おかしなもんだね」 「厳密にいうと、人であって人でないモノでした。そこで見たのは硝子《ガラス》になった子供でした」 「何だねそれは、親の因果が子に報いってやつかい?」 「いえ、本人から聞いたわけではありませんが、確か小屋をかけていた妖の説明によると、自分の意思でそうなったんだそうです。赤い着物から出た手足は透き通っていて、髪は白く輝いていました」 「拵《こしら》え物だろう、どうせ」 「いえ、瞬《まばた》きもしていましたし、時々退屈そうに辺りを見渡したり、手遊びをしていたので生きていたと思います。見ていると何だかどこか可哀相な気がして、その子があとで火を使って芸をするというのがありましたが、私は見ないで小屋から出ました」 「今その子はどうしてるんだろうねぇ」 「解りません。まだ小屋にいて、今も何処かで妖の集まる祭りに出ているのかも知れません。それとも、元の体に戻ったのか……」 「もしかしたら割れちまってるかも知れないね、だって硝子だったんだろう?  何だってそんな壊れやすいもんなんかになってしまったんだろうねぇ。ただでさえあたし達は脆《もろ》いもんなのにさ、あたしなんざ、二年前にちょっと風に当たっただけで病んでしまってころりさ。でも、その子は割れてなければ化け物の祭りを巡ってるんだろ、あたしはこの四角い部屋の中が殆《ほとん》どというか、全てに等しいわけさ。生きていても、死んでいても代わり映えしないったりゃありゃしない、全くあたしは一体なんなのかと時々思うよ」 「奥方は物に憑《つ》いた霊です。その屏風《びようぶ》には、何か思い入れがあるのでしょうか?」  奥方は長いまつ毛を伏せて、どこか遠くを見るような表情を浮かべた。 「この屏風はねぇ、あたしの旦那《だんな》の若いときの贈り物だったのさ。こんな大きい変な物をと最初は思ったんだけどねぇ。理由を訊いたら、あたしが赤い色と夕焼けが好きだってことをあの人が覚えていてくれててね、それで部屋にいたままでも何時でも赤い色が見えるようにってことで選んでくれたってのさ。空は切り取れないからって気障《きざ》な台詞《せりふ》まで付けてくれたのにさ、いつの間にか、お互いそんな日が遠くに感じるようになってしまったよ。ま、これもしかたないことさね。あたしは生きがいもなく、ズボラで我儘《わがまま》なもんだから仕事も人任せで好き勝手やってきたからね。  もっとあの人の側で、尽くしていたらまた、違った夫婦になってたんじゃあないかって思ったこともあったけど、それさえも昔の事となってしまったよ。  ところで、あんた今日食べた西瓜《すいか》のお味はどうだったい?」  皐月は急に訊《き》かれて虚をつかれたように、何も答えることが出来なかった。 「不味《まず》くはなかったと思うけど、あたしはあの女が運んできたものだと思うとどうもね。  食べなかったのは実を言うと、煙草のせいだけじゃなかったのさ。  尻《しり》のどんっと大きいあの女はねぇ、今は旦那のなんだよ。  あたしは鬼籍に入った身だから、今更相手を責める気はさらさらないけどね。  だけどそう解っていても、少し面白くないのはどうしたもんなんだろうねえ……。  別にあの人のことなんぞもう何とも思ってないってのにさ、それともこれが男女ってもんなのかねぇ。  あたしの旦那はあたしが一人娘だったから、入り婿だったけれど、母はこの家に嫁に来た人間でね。  夜になるとあたしの枕元に幽霊のように立って、あたしの父が浮気するのを知って悔しい、悔しいって言ったのを覚えているよ。あたしはあんな風にはなりたくはないと思ったね。あたしの場合、好き勝手してきたのはお互いさまで、こちらも決していい妻だったとは言えやしないしさ、また子供でもいりゃ違ったんだろうけどねぇ。  あんたみたいなへちゃむくれじゃなくて、あたしの子なら、かなりの美人だったろうに。  こればっかりは、授かりものだからしょうがないけどさ。  ああ、さっきあたしは一人娘って言ったけど、正しくは一人になってしまった娘でね、かなり年の離れた姉さんがいたのよ。もしかしたら、あんたは姉さんが小さい頃に会ってるかも知れないね、何度か県境にお餅《もち》を持っていったって聞いていたから。  姉さんは里の中で一番|綺麗《きれい》な人だったと今でもあたしは思っているよ。  外に出ているのに、あたしよりもずっと抜けるような白さで、綺麗な涼しげな目をしていてねぇ。  お稽古事《けいこごと》も何をやっても筋が良いって褒められてて、あたしの自慢の姉さんだったよ。  だから、姉さんが十二になった時に、行儀見習いの奉公に上がるって聞いた時は、とても悲しんだよ。そして四年後、奉公先のお武家様が、姉さんを見初めて嫁に貰《もら》いたいって来た時はやっぱりと思ったね。  誰だって姉さんを見れば、ずっと側にいて貰いたいと思うはずだもの。  あたしは行けなかったから、白無垢《しろむく》姿の姉さんを見ることは出来なかったけど、父と母が言うには天女様になったみたいに綺麗で、角隠しの下の顔が初々しくてとてもいじらしく見えたそうだよ。  それから半年くらい経った頃だったかね、夏の今日みたいな夜だった。  あたしを縁側の障子の向こうから呼ぶ声がしてね、それがか細い女の声だったんで、『誰だい?』と布団の中から半身を起して尋ねると、『ワタシだよ』と言ってやつれて陰火のような青白い顔した姉さんが立ってたんだよ。  あたしは最初これは、姉さんの幻だと思ったね。  だって姉さんの嫁ぎ先のお屋敷は、馬でも三日はかかる場所にあるってあたしは聞いていたからね。  青白い顔した姉さんは『あんたにはこれをあげる』と言って、今持ってる硝子の煙管《キセル》をまだ頑是無い子供だったあたしにくれてね。 『それじゃまたね』って蚊帳《かや》から手を引っ込めて立ち上がると、縁側を歩いて行ってしまったんだよ。  月が照ってて黒い影が、姉さんが去った後も残っているように感じた夜だった。  あの時あたしが大声をあげるか、這《は》ってでも姉さんの着物を掴《つか》んで付いて行けば、違った結果になったかも知れないんだけどねぇ。  その夜にね、外の井戸に飛び込んで姉さんは死んだんだよ。  たまたま使用人の中に飛び込むのを見たって人もいてね、朝に男衆が縄を下ろして冷たい水の中から姉さんを引き上げたのさ。  あたしは姉さんの死体を見たくはなかったし、もしかしたらあの月夜に煙管をくれたのは姉さんによく似た人で、飛び込んだのも別の人で、みんなが見間違えたんじゃないかと考えたこともあったけれど、しばらくするとやっぱりあれは姉さんだと納得したよ。  遺書も見つかってしまったからね。  今も井戸から姉さんが化けてでるって噂が、この屋敷の中にはあるけど、あたしは一度だって見たことありゃしない。  だいいち姉さんは、あたしみたいに未練たらたらのおこがましい女じゃなかったからね。  きっとこの世の物とは全てすっぱりと縁を切るつもりで、井戸に飛び込んだんだと思うんだよ。死んだ理由だけどさ、遺書に書かれてて解ったことだけど、どうやら姉さんはこの里に思い人がいたみたいでさ。ま、もっとも姉さんの思い人の名前はその人に迷惑をかけたくなかったからなのか、書かれてなかったけどね。まったく馬鹿だよねぇ、自分を騙《だま》して一緒にいればそのうち別の相手にも情が移ったかも知れないのにさ、まぁ姉さんは強情なところがあったから、そこが命を縮める原因になってしまったのかも知れないねぇ」 「そんな事があったのですか……」 「こんな狭い土地じゃあ騒ぎになりそうな話だけど、父と母が色々と口止めさせて噂に上らないようにしたらしいから、県境に住んでるあんたが知らなくても、別に不思議じゃないけどね。  だからさ、どうしてか解らないけど、姉さんと同じで、もしかしたらさっき聞いた硝子の子は壊れたくてそんな物になってしまったのかもねぇ。わざと、壊れたいから脆いもんになって、化け物と共に色んな土地を巡る生き方ってのも、思えば悪くないかも知れないやね。姉さんが死んだのが堪《こた》えたのか母さんはその後を追うように亡くなってね。次は母が呼んだのか、父も翌年に持病の心の臓の発作でころりさ。両親が死んでから、幸い杜氏《とうじ》があたしのことを可愛がって面倒を見てくれたんで助かったけどね。杜氏は粗野な男で、里の外れに住む狐妖《こよう》に鼻の下を伸ばしてた、なんて情けない噂もあったけど、腕は確かだったよ。今の蔵の味はその杜氏の息子が守ってる。飾らなくて、酒造りの事ばかり考えている男だったから、あたしの躾《しつけ》は二の次で、こんな口調で煙草を吸う女に育ってしまったけどね。その杜氏が従えていた弟子の中にいたのが、あたしの旦那なのさ」  チリンと風鈴が悲しげな音を立てて揺れていた。 「ところであんたの家族はどんな感じだったんだい? あんたにも姉妹はいたのかい?」 「私には姉妹はいませんでした。父は炭色の皮膚をした大きな鬼で、母は花塊《かかい》という妖《あやかし》でした」 「妖の種類の名前なんて言われたって、あたしにはさっぱり分からないよ。そういえば最初にあんたの父親は、大きな立派な角があったと言ってたね。  鬼は人を食べるっていうけど、どうしてあんたの父親は食べなかったんだい?」 「全ての鬼が人を食べるわけではありません……例えば私は人を食べることはありませんし、食べたいとも思いません」 「まぁ、あんたは鈍そうだし人を捕まえて食べるって顔はしていないねぇ。でも鬼といえば人喰《ひとく》いってよく言うじゃないか」 「実を言うと、父は人肉を口にしていてもおかしくない種の鬼でした。だけどそれを父が知ったのはずっと後でしたし、知ったところで食べたいとは全く思わなかったと言っていました」 「どうしてそういう事になったんだい?」 「それには理由があって、父は人と一緒に育った鬼だったからです。  父が自分以外の妖というものに会ったのは、成人してから何十年も経った頃でした。  父の育った土地に、妖は全くといっていいほど居《お》らず、周りの人間も話では知っているが妖というモノとは接した事がないという人ばかりだったそうです」 「それじゃ、あんたの父親はそこで苦労しただろうね」 「いえ、父の話ではそうでもなかったようですよ」  皐月はずずっと酒を啜《すす》るようにして飲んだあと、目を細めてかつての父と母との生活を思い出しはじめた。  父は一人で小屋の中でいつも寝ていたが、皐月は幼い頃は母と共に馬の首の中に入って眠っていた。長い冬も母と共に眠る馬の中はとても暖かく、母は色んな遠い世界の物語を話してくれた。  しかし、かつて父が若かった頃の話はあまり家で語られる事はなく、外で母のいない場所でのみ、父は語ってくれた。  その理由は父も母も亡き今、知る事が出来ないが、性質的に二人はかなり異なる妖だと言っていたから、もしかするとそれが原因だったのかも知れない。  父は人と一緒に育ったからか、皐月や皐月の母よりも、人に近い生活を送る事が出来た。  だが、皐月は馬がいないと眠る事が出来ないし、母は毎日|手桶《ておけ》いっぱいの水を三杯飲まないと弱ってしまうという性質を備えていた。  人の世界から離れて、ひっそりと生きる事を望んでいた母と、時折里に下りては人の世界と交わっていた鬼の父。  自分はどちらにより似ていただろうか、やはり角があるから父親似なのだろうかと、そんな事を考えながら話し始めた。 「春先の話だったそうです。もうずっとずっと昔の事、一人の男がいたんです。  男の職業は大工の棟梁《とうりよう》で、仕事仲間と共に花見に行った帰りのことでした。  男は家の近くで、小さな木箱を見つけたのです。  気になって立ち止まって覗《のぞ》き込むと、箱の中には裸で、二本の角を頭に載《いただ》いた鬼の赤子が入っていたのです。  鬼を見て、みんないっぺんに酔いも何もかもが覚めてしまったと、父は後々まで聞かされたと言っていました。  何人かの大工見習いや手伝いは、虚勢をはってか、鬼は人を喰うというから殺してしまおうとか、その肉を食うと力が出るそうだから、大工道具を使って膾《なます》にして余った酒のつまみにしてしまおうと言ったそうです。  でも、鬼の子がここにいるということは親が近くに居るかもしれないと諫《いさ》める人もいたそうで、その人たちはもし、鬼が後で子を取り返しに来た時に、我々が逆に喰われてしまったらどうすると言って、殺そうという人たちを止めました。  他にも色んな意見が出たそうなのですが、纏《まと》まらなかったので、その場は最終的に棟梁に決めてもらう事になりました。  ちらほらと桜の花びらの舞う宵に、棟梁はもう一度箱の中を覗き込むと鬼の赤子を拾いあげてこう言ったそうです。 『こいつは俺が育てよう。  なぁに鬼なんて俺は怖い事は何もありゃしねぇさ、でなきゃ背中の俺の彫り物の鍾馗《しようき》様が泣いちまうだろう。それに鬼を従えた組というのも、面白そうじゃねぇか。鬼なんて怖くはねぇさ、俺だっておめぇらろくでなしに陰で鬼と呼ばれていることなんざ百も承知の助よ。丁度俺の家《うち》は母《かか》ァとの間に子供もいないし、今日の花見にいいみやげ物が出来た。  ははっ、母ァの奴めぶったまげるかな。よし、こいつに名前を付けてやろう。  俺の名の五郎二《ごろうじ》から取って、鬼だから鬼五郎《おにごろう》。いい名前じゃないか、なぁ鬼五郎?』  そう棟梁は赤子の鬼に笑いかけたそうです」 「ちょいとお待ちよ、あんたの話し方だけど、まるで講談師みたいだねぇ。県境に住んでぼやっとしているよりも、話をしてあちこちの家を廻《まわ》った方が向いてるんじゃないのかい?  ああそれにお酒がまた無くなっているじゃないか、誰か冷《ひや》でいいからそのまま沢山持ってきておくれよ」  奥方はパンパンと手を叩《たた》くと、小間使いがガチャガチャと音を立てながら沢山の徳利《とつくり》とぐいのみを持ってきた。  そしてそれらを置くと「ごゆっくり」と黄色い歯をニッと剥《む》いて去っていった。 「さっきのあたしの脅しが効いたのかね、あれも要領がいい方だから本当はもっと仕事は速いはずなんだよ。さっ、酒も来たことだし続けておくれ」  奥方は置かれたぐいのみの中から、涼しげな水色の物を選んだ。酒を注いで唇に当てて、陶器の冷たさを味わった後、酒を一気に呷《あお》った。 「私は父の話し方を真似て言っているだけですから、そうからかわないで下さい。  五郎二という男は変わっていたと、父はよく言っていました。もし生きていれば私の祖父代わりになっただろうに、最後に父が五郎二の元を去ってからもう随分と経つから今はもうこの世にいないだろう。全く人の寿命は短すぎる。  父は五郎二から貰《もら》ったという、鍾馗の根付《ねつけ》をとても大切に持っていました。  それは黒檀《こくたん》で出来ていて、私は人の世界の物の価値については疎いのですが、とても高価な物だと教えてくれました。  鍾馗の根付は手に剣を持って、足の下に鬼を踏んづけている鍾馗の絵と同じ形に彫られていました。父は、この鬼は自分だ、いつまで経っても五郎二には頭が上がらないと言っていました。  父を拾った夜、酔狂にも程があるとその場にいた大工連中は全員五郎二に意見したらしいのですが、『俺が全部責任を取る』と五郎二は赤子の鬼を抱いて、さっさとその場を立ち去りました。  父を連れ帰った五郎二は妻のさやかに『花見弁当の残りよりも気の利いた土産を持って帰って来てやったぜ』と懐に抱いた父を見せました。  父を見たさやかは、『あんたこの子ったら裸じゃないの! 春の夜は冷えるんだよ、全く気が利かない男はこれだから駄目だね』と湯を沸かして父を入れて、体を拭《ふ》いてから子供用の衣が無かったから木綿の布を切って急遽《きゆうきよ》縫い合わせた物で包んだそうです。  そしてそこまでやった後に、初めて『で、お前さん、この頭に妙な物を付けた赤ん坊はどこの子なんだい?』と五郎二に尋ねたそうでした。  五郎二は、妻が鬼の子を受け入れてくれるかどうかが、弟子達に言い含めるよりも、よっぽど骨なんじゃないかと心配していたそうです。『拍子抜けだったよ、あと母ァが俺の子じゃないかと疑ったりしないのが良かった。もしそうだったら母ァの顔が般若《はんにや》になってそれこそ鬼になっていただろうな。お前も好きなのが出来ても相手を鬼にしちゃあいけないよ。って言ってもお前は最初から鬼だから鬼の母ァを貰うことになるのか』そんな冗談を父が大きくなった頃によく聞かせたようです。  父は、人の子と比べてかなり成長が早かったので、五郎二夫婦は子育ての経験はありませんでしたが、『手が掛かったとか困った事なんか一度もなかったよ。貰い乳《ぢ》をしたかったんだが、鬼五郎が鬼だって理由で断られてばかりでね、だけど拾われてきて数日後にはもう歯が生えてたし、しばらくするとたいがいの物は何でも食べた。  風邪だってひかないし、這《は》ったかと思えばもう歩いた。  三つになった頃には庭で鉋《かんな》をひいてるところをじっと見てたんで、教えてみたらすっすっとこれまた器用に削るんだよ』とそんな具合で不都合は無かったみたいです。  でも、それは家の中だけで、壁にここは人喰い屋敷だと書かれたり、血肉を鬼に与えるのを見たという風評が立ったり、鬼がいる所に頼む仕事なんて無いなどと言われたり、苦労も随分とあったらしいですけどね。  だけど中には変わった人もいて、ある日|大店《おおだな》の主《あるじ》という風格の男がやって来て五郎二に『鬼の子を育てている大工の家はここかい?』と訊《き》き、五郎二が『そうだが何の用だ、鬼と言っても俺と母ァの息子よ。退治しようとか何か悪いたくらみがあるなら金槌《かなづち》と鋸《のこぎり》でテメェの頭を解体してやらぁ』と言ったそうです。すると相手の男は『早合点してもらっちゃあ困るよ。こちらは桃太郎でもないし、鬼の子を退治すればアッパレと褒めてくれるような時代でもなし、そんな変な事はせんよ。一度その鬼の子に頼みたい大工仕事があるのだよ』と言いました。五郎二は仕事と聞いて目をぱっちりと大きく見開いたそうです。 『仕事? 一体あの半人前に、どんな仕事を頼みたいんで?』 『申し遅れましたが、私は興戸屋《こうどや》という宿の主人でございます。  早速、ご依頼したい内容のお話に入らせていただきますが、その鬼の子に、何か驚くような物を拵《こしら》えて貰いたいのです。何故かと言いますと、私の庭にはそれこそご神木にしたっていいような、大きな樹齢数百年と言われる赤樫《あかがし》の木がありましてな。  それに先日雷が当たって、倒れてしまいました。立派な木だったんでそのまま腐らせるのも薪にするのもどうも勿体《もつたい》無い気がしまして、それなら私は宿の名物になるような物を誰かに作らせたいと思い立ちまして、何人か職人を呼んでみたのですが、赤樫の木は硬くて歯が立たない。  それでも、何とか出来るいい職人はいないかと情報を集めていましたら、鬼の大工の話を小耳に挟んだわけです。私はこれだ! と思いましてね。鬼が拵えた物というだけで人を呼びますし、鬼は人よりも力が強いといいますでしょう。私は今まで鬼というのを見たことが無くて、正直申しますと興味本位でお頼みしたいのですが、この仕事引き受けていただけますかな』  父はいたってのんきな性格で、力は強かったですが、どちらかというと他の大工仲間と比べて臆病《おくびよう》でした。例えば父は高いところが苦手で、大工にとってはこれは致命的です。  屋根の上にも上がれず、木を組む時も足が震えて五郎二に怒鳴り散らされたので、いつか平気になってやろうと思って、父はこっそりと誰もいない時に物見櫓《ものみやぐら》に上ったり、梯子《はしご》を高いところにかけて昇ったそうですが、やはり怖いものは怖いということで、高い所とは無関係の木彫りの仕事の依頼は、父にとって丁度良かったそうです。  興戸屋の仕事の後、父は細工物の仕事に没頭したそうなのですが、それでも力があるし、勘は悪くないといって他の大工仕事を仕込むのも、五郎二は忘れなかったそうです。  父はあまり修業時代の事や大工仕事の事は恥ずかしい思いもあってか、語ってはくれませんでしたが、この興戸屋の赤樫の木の話は何度もしてくれました」 「あんたのおとっさんは、何をその木で作ったんだい?」 「父は木を使って大きな閻魔《えんま》像を彫ったのです。鑿《のみ》で削った荒々しい像でしたが鬼の仕事らしいと、宿の主人は大いに気に入ったそうです。  その後、閻魔像は大変評判になり、父にはあちこちから木彫りの像を作る依頼が来たので、五郎二が寺に連れて行って過去の名人といわれるような人の仏像を見せてくれたりして、色々と説明してくれたのがいい勉強になったし、楽しかったようでした。私も旅をしている間に、父の作った像を見かけないかと探した事があるのですが、明確な場所を教えてもらっていなかった事と、もう相当昔の話だったこともあってか、一度も見つけられませんでした。閻魔像の顔は、五郎二の顔を参考にして作ったと父が言っていたのでとても見てみたかったんですけどね。赤樫の木は硬いし燃えにくいというから今もどこかにあると思うのですが……」 「あんたの父親が生きてたら、一度会ってみたかったね。ところで棟梁《とうりよう》とあんたの父親が別れた理由はあんた知っているのかい?」 「ええ知っていますよ。と言っても一度しか父は話してくれなかったので、うろ覚えのところもあるかもしれませんが。  ある日のこと、五郎二が『ちょっとお宮を直さなきゃいけねぇ、小さいお宮なんだが、山を二つほど越えて急|勾配《こうばい》のその先にあるんだ。荷物持ちがいるから弁当を持って明日の朝行くから用意しな』と父に言ったそうです。  次の日の朝、大工道具と五郎二の妻さやかの作った弁当を持って、父と五郎二は修理に向かいました。  険しい山道を登り降《くだ》りし、やがて、二人はお宮に辿《たど》り着きました。  小さな、何が祀《まつ》られているのかも定かでないようなボロボロの社だったそうです。  父は手際よく、五郎二に指図されるがままに、道具を出したり釘《くぎ》を打ったりしました。そしてお宮を直し終えると、『ちょっと座れ、そしてこれでも飲めや』と、五郎二は父に竹筒に入った酒を勧めました。 『ここで俺はお前と別れようと思う。今日渡した大工道具はおめぇにやろう。それとこれもだ』と言って紅《あか》い紐《ひも》のついた鍾馗の根付を渡しました。 『母《かか》ァとも随分話しあったんだが、お前はあんな狭い所でずっと木彫りをし続けているよりも他所《よそ》も見て廻《まわ》った方がいい。  本当にいい大工になろうと思ったとしても、木彫り職人になるにしても、色んな名人がいるだろう。そいつに弟子入りしてもいいし、技を何とかしてそいつらから盗む努力をしてもいい。  俺には予想がつかねぇが、他の鬼や化け物と出会って、そちらの世界に行ってもいい。  だけど何かあったり、やっぱりこの里で俺の手伝いがしたいと思ったらいつでも戻って来い。鬼の寿命は長いそうだが、俺はそれ以上長生きしてやらぁ。俺の母ァも見た目からしてちょっと化けもんみたいなところがあるから、俺と一緒に長生きするだろうしな。  だからお前はこの先の道を歩いて、一人で山を下りろ。  先には鬼が住むという噂の峠もあるし、先の町には俺の親戚《しんせき》もいるからそこを頼ってもいい。去年来ただろ、坂本という俺の背中に昔彫り物を入れた刺青《いれずみ》師さ、あいつならお前も気安いだろう。先の町の入り口に住んでるからすぐに判るさ。  俺は今からちょっと後ろを向いて、一服しているからその間に鬼五郎、お前は行っておくれ』  そして父は言われるまま、貰《もら》った大工道具を手に走っていったそうです。  途中一度だけ振り返ると、五郎二が背中を向けてじっと座っているのが見えました。  何かよっぽど最後に言おうかと思ったそうですが、父は何も言わず頭を下げてから背を向けて山を下っていきました。  それが、私の父と五郎二との別れになります」  皐月は語り終えた後、ふぅっと息を吐き、手酌で飲もうとしたら置いてあった徳利の中身は空っぽだった。  手を伸ばして幾つか他の徳利も持って振ってみたが、どれもこれも中身が入っていない。  どうやら奥方と二人して、飲んでしまったようだ。  そういえばさっきから少し動悸《どうき》がするし、奥方の顔など耳まで赤い。 「ふぅん、そうかいそうかい、わかったよ。さて、もう遅いようだしあたしも随分と酔ったことだし他の話は明日また聞かせておくれ」  皐月は「そうですね、では続きはまた」と言って立ち上がって襖《ふすま》の所まで歩いた。  そして振り返り一言「奥方様、それではおやすみなさいませ」と伝えると、灯火に妖《あや》しく彩られた屏風《びようぶ》の中で奥方はほつれた髪をかきあげ、「今日はあんたのおかげでそれほど退屈はしなかったよ」と微笑んだ。  その顔は何故かひどく儚《はかな》げで寂しそうに見えた。  この人は死霊で、今ここにあるのはしがみついた思い出の幻影のようなものなのだから。 「それでは失礼します。奥方様、また明日に……」  すっと襖を閉めて布団の待つ馬小屋へと歩いていくと、廁《かわや》にでも行って来た帰りなのか人影が見えた。  かなり酔っているせいか、視界がはっきりしない。 「そこにいるのは、誰なんだ?」  急に影に声をかけられたので皐月は「この里を守る県境に住まう者です、わけあって今このお屋敷に滞在しております」と名乗りをあげて、その後しまったと思った。もしかすると妖鬼《ようき》と知って相手を驚かせてしまったかも知れない。  だがその心配は取り越し苦労に終わった。 「誰かと思えばなんだお前か。と、いうことはこんな遅くまであいつの部屋に行っててその帰りなのか」  声の主は屋敷の主人だったからだ。今夜は月が照っているせいか、手には提灯《ちようちん》を持っていない。  皐月は、「旦那《だんな》様……」と言いかけると、「まあいい、今はそれがお前の仕事だからな、あいつが面倒さえ起こさずにいてくれれば俺は満足なのだからな、早くお前は寝床の馬の首の中に入りに行け、今まで蔵がふと気になっていたから見に行っていた」馬小屋のある暗がりの方を指差した後、主人は屋敷の中へと消えて行った。皐月はさっきの高圧的な主人の物言いへのささやかな反抗心からか、屋敷の周りを少し歩いてから布団の元へと帰ることにした。  すると、ぱたぱたと草履の音が蔵の方から聞こえてきたので、目を凝らしてみると、昼間見た下女の肌を火照らせた姿だった。体の線が浮き出るほど、汗でべったりと寝間着が張り付いている。  女の姿を見て、ああ、そういうことなのか……と皐月は気づき、なんともいえない気分で布団の首の中に入った。  目を閉じると布団の鼓動が伝わってくるのがよくわかる。  そういえば、父と山に二人で入った時に空を見上げて、父がこんなことを言っていたな。嫌な事を追い払うには、楽しかった時を思い浮かべるに限ると。  父が五郎二の事を話すときは、何時もとても嬉《うれ》しそうで、それでいて誇らしげだった。  そんな父が皐月も好きだったが、父は何故母の前では人と共に過ごしていた時の話をしなかったんだろう。  父の顔も随分とおぼろげになってしまったが、声だけは今もなお皐月の中に残っている。  その言葉の一つを思い浮かべて、皐月は目を細めた。 「今思うとめちゃくちゃなことも多くあったし、他にも大変な事が山ほどあったが楽しい暮らしだった。俺を拾った日の事をよく話してくれた五郎二に、こう訊いたことがある。  鬼の俺を育てていて、親の鬼が来たりして怖い目にあうんじゃないかと思わなかったのか? とな。で、五郎二の答えがこれだ、 『子供を置いてどこかへ行く親なんていねぇ、あれは何か理由があって育てられなくなってあそこに置いたんだと俺は思うのよ。  正直に言わせて貰えば、俺はお前を抱いた時には何も考えてなかったな、他の奴らは鬼のお前の姿を見て酔いが覚めたとか言ってたが、俺にはあの時まだ花見酒が残ってたのかも知れねぇなぁ……お前を拾った時も、気安く犬の子を拾って抱いたような気分だったさ。  だってお前ときたら、俺の腕の中に納まる位に小さくて、俺の指を吸ったり笑ったりしやがった畜生め。それにさ、拾ってきた次の日から母ァが、もう可愛くて可愛くてしかたがないと言い始めるしまつで、お前が粗相をしでかしても逆に俺を叱り飛ばすと言った有様だったんだぜ。と言ってもお前がおしめをしていた期間は短いもんだったがな。  今でも寝しょんべん垂れたって構わねぇよ、その方が愛嬌《あいきよう》があっていいかも知れねぇ。さぁ冗談はそれくらいにして仕事に戻るか。  最初は犬の子だったが、今はすっかりお前は俺の息子じゃねぇか』  そんな風に豪快に笑ったんだよ。  こういう人に育てられたせいか、自分の産みの親がどんな鬼だったかとか何故自分を置いていったかを気にした事は殆《ほとん》ど無かったな。  皐月も将来もしこの場所よりも外を見たいと思ったら、妖《あやかし》の中で生きるのもいいが、人と接する生活も経験した方が良いと思う。  母さんはきっと反対するだろうが、もしそう思う時が来れば父さんに相談しておくれ。  かつて俺の仲間だった奴らは、みんな本当にいい奴だったから」  人との世の中は父の言うとおり確かに楽しい。だけどその中にずっぽりと入ってしまう気にもなれない自分がいるのを皐月は知っている。 「今の住まいのように、狭間《はざま》に住むのが私にとって、一番性分に合っているのかも知れないね」  地面に敷かれた藁《わら》の上で、静かな寝息を立てている布団の顔に、呟《つぶや》きかけた。  夏の星は湿気を含んで、潤むように白く光っている。  皐月が去った後、奥方は一人で物思いに耽《ふけ》っていた。  小さな籠《かご》の中の鳥のような一生だった。  庭と部屋の天井と、家族と使用人の顔だけ、他に見た風景なんて殆どありもしない。  今年の夏の夜も、去年と同じように蒸されるように暑い。  ジージーと名も知らぬ虫が庭で、鳴いている。  いや、あれは誰かが言っていた気がするのだが、蚯蚓《みみず》の鳴き声だとか。  色々と思いを巡らせている最中に「ギッギッギ」と廊下が甲高く鳴る音が耳に届いた。  誰かがこちらに向かっているようだ。  この部屋は突き当たりにあるので、あまり人が通ることは無い。  音が止み、やがてすぅっと襖が開いた。 「誰だい妖鬼かい? 眠れなかったのかい、お前の馬の首は……」  そこまで言いかけて、相手が妖鬼で無かったことに気が付いた。  旦那が手をつけた女中の……、名前は確か「おとよ」とかいう女だったはず。  女は、手に赤い蝋燭《ろうそく》を持って、こちらを見据えていた。  もう片方の手に持っているのは、どうやら行灯の油の入った皿のようだった。  奥方は火に照らされた女の顔を見て、なんだあたしと比べてずっと器量が悪いとばかり今まで思っていたけれど、そうでもないじゃないか、と少しばかり感心して相手を見つめ返していた。  女は聞き取れぬ、蚊の鳴くような声でぶつぶつと何かを言いながら蝋燭を置いた。  そして、奥方の宿っている屏風の脇に立ち、油の入った皿をゆっくりと傾け始めた。  油がぴちょぴちょと音を立てて、目の前の畳にゆっくりと注がれる。  奥方はその様子を、声もあげずにただじっと眺めていた。  別にそれはそれで構わないと思っていたからだ。  今、煙草盆から火打石を取り出して、火花を散らせば、火が自分とこの女の両方に燃え広がることになるんだろうか。  だけどそれはしないだろう。この女もこの女で苦しんだに違いない。  屏風が燃えると、一度死んだ自分は何処へ行くのだろう。どうせ再びあの霧の深い常世に帰るというならば、煙草を一服してから戻りたいなと思った。  赤い屏風《びようぶ》が赤い炎に包まれてそのまま常世に戻るのもなかなかいい演出かもしれない、ただ、観客がこの女一人というのが少し寂しい気もするが……。  色々と無駄な事を考えてしまうのは性に合わない、早くあの蝋燭を油の上に倒してくれないだろうか。色んな意味でそのほうがずっと、清々するだろうに。 「早くおしよ」  少し挑発的な響きを含んだ声でおとよを急《せ》き立ててみたが、相手は何も聞こえていないかのようにゆっくりと油を畳に注ぎ続けている。  すると突然、半開きの襖《ふすま》が乱暴にバンッと音を立てて開けられた。「おいっ!!」と、大きな声がして今まで無反応だった、おとよの体がびくりと活《い》きの悪い魚のように震えた。  同時に、皿を手から落としてしまい、残った油が零《こぼ》れて、黒ずんだ染みが大きく畳の上に広がっていく。 「何をしてるんだ!!」  声の主は主人だった。  固まっているおとよと、燃える赤い蝋燭と、畳の上に広がる蝋燭の光を映している黒い油の染みに目をやると、主人はどかどかと足音を立てながら部屋に立ち入ると、おとよの髪を掴《つか》んでバシッと音が出るほど大きく頬を張った。 「屋敷が火事になったらどうする気だ! ここで寝ている者も大勢いるし、煙で死人が出る可能性もあるんだぞ! それに、お前も火付けの罪の重さがどのようなものか重々承知だろうが! まさか本当にこんな馬鹿げたことをお前がするとは思わなかった。今夜のことは俺の心の中に秘めておくが、二度とこのようなことは仕出かすんじゃないぞ、解ったか!」  女は小さく「あぃ」と消え入るような声で答えた後に、大粒の涙をぽたぽたと幾つか流して、顔を押さえて駆け出して行った。  暗闇の中で主人は一際大きなため息を吐くと、屏風の方に向かって「早く寝ろ」と言ってから、ゆっくりとした足取りで部屋を後にした。  全く、折角いい気持ちでまどろんで考え事をしていたというのに、さっきの騒動で完全に目が覚めてしまった。  気が付けば捨て鉢の気持ちも何処かへと失《う》せていた。  どうせ部屋から出た後、主人はあの女を慰めに行くつもりなのだろう。 「難儀なもんさね……」  屏風の中で呟いた己の言葉は、誰に対してだったのだろうか。  夏の夜の時間は、ゆっくりと纏《まと》わりつくように過ぎていく。  今の季節は夜が明けるのが早いことだけが慰めだが、それでもまだ朝は遠く感じる。  畳の上に零れたままの油の匂いが、部屋に満ちていた。  明日の朝早く、妖鬼《ようき》が部屋に来る前に小間使いを呼びつけて畳を替えて貰《もら》おう。  蚊が耳障りな羽音をさせながら、屏風の前を横切って飛んでいった。  死者には得られる血が巡っていないことなど、ちんけな羽虫でも承知とでもいうように。  蚯蚓か、虫かわからない生き物が低い声を上げて鳴いている。  それは誰にも知られる事もなく、押し黙ってすすり泣く、女の声のようにも聞こえた。  次の日の朝、部屋に入ると、皐月はピリピリと首筋の辺りに何か良くないモノの気配を感じた。 「何か変わった事はありましたか?」と尋ねると、昨日と同じように硝子《ガラス》の煙管《キセル》から変わった色の煙を吐きながら奥方はただ一言「何も」と答えた。  麹《こうじ》を蒸している甘ったるい匂いが、風に乗って運ばれてくる。皐月はちょっと照れくさそうな顔で、奥方の目の前でもぞもぞと小さな巾着《きんちやく》袋の中から黒い木片を取り出して見せた。  一寸ほどの大きさの木片には、幾つかの切れ目や削った跡が付いている。 「なんだいこれは?」 「これは、昨日私がお話ししましたスイトンを模して作ったんです。ただお話だけだと伝わり難《にく》いかと思って、拵《こしら》えてみたんですが思ったよりも難しくって。色も炭で塗っただけで黒いだけですが、どうでしょうか」  奥方が眠れぬ夜を過ごしている間、皐月は闇の中、手探りの作業で木片を削り出してスイトンを作っていたのだった。 「あらやだ、人を喰《く》う山の神もこんな姿だと思われちゃ心外なんじゃないかい。あんたは父親と違って不器用なんだねぇ、これはまるで小さい出来損ないの黒犬のようじゃないかい。でも、可愛らしいもんだねぇ」 「ありがとうございます。山の神の姿を模したものは魔除《まよ》けにもなるそうなので、好《よ》かったら持っていて下さい」  奥方はほほほっと笑って白い手を伸ばして、木片で出来たスイトンをころんと皐月の手から受け取ると、「今日も何かあんたの話をしておくれよ」と催促をした。スイトンを嬉《うれ》しそうに受け取ってくれたことで少しはしゃいだ様子の皐月は「そうですね、何のお話が良いでしょうか」と訊《き》いた。 「なんだっていいさ、化け物の世界の話はどれでも人のあたしにとっちゃ珍しいもんだからね。特にあたしみたいな人間の世界もろくに知らないようなのなら尚更《なおさら》だよ。  そうだ、旅の話がいいね。なるべく遠くの世界の話を今日はしておくれ。それにしても今日はいつもより蒸すねぇ、暑いったらありゃしないよ」  皐月はちょっと考えてから手を叩《たた》き「それではまた、昨日のスイトンとは違いますが冬の山のお話をしましょうか。寒い場所の話をすれば少しは気分だけでも涼しくなるかも知れません」と淡い緑色の混じった目を輝かせた。  布団とは人馬一体とも言えるほど通じあっていたし、仲も良かったが会話をすることは出来ない。  皐月の人よりも長い生において、死霊とはいえ、人というものと家の中で寛《くつろ》ぎながら雑談を交わすという体験はそれほど多くはなく、皐月は奥方とのやりとりを気がつけばかなり楽しんでいた。  小さく息を吸ったあと、ゆっくりと皐月は今まで生きてきた時間のほんの一部を話し始めた。 「耳が痛くなるような、冷たい風が吹きつける冬の日のことでした。  両親がいなくなった家で、馬の蝋と何日もの夜を過ごし、私はその土地にいることがどうしようもなく寂しくなってしまったので、旅に出ようと決心をしたんです。  それから蝋と一緒に旅をしてから、かなりの月日が経ちました。  色んな土地を見て廻《まわ》って疲れたこともあって、そろそろ何処か一つの場所に落ち着くことが出来ればいいなと考えていた時のことです。  私は鳥の脚に縛った一通の手紙を貰いました。  手紙に書かれていた内容は、自分はかつて私の両親と懇意にしていた妖《あやかし》で、理由があって守っていた里からしばらく去らなくてはならなくなった。新しい守りがいるので里に来てくれないかというものでした」 「それがここの県境だったのかい?」 「ええ、そうなんです」 「あんたはあたしが生まれた頃には既にあそこに住んでたけど、前に県境を守っていた妖ってのはいったいどんな奴だったんだい?」  皐月は奥方の問いに少し戸惑った表情を浮かべると、「その妖は私のように住まいを構えて守っていたわけではありません。未《いま》だにその妖については私も判らないことだらけなのです。  山深くに両親と住んでいた時に、その妖には何度か会っているのですが、両親が死ぬしばらく前から会うことも見かけることも急になくなりました。  なのに私が旅をしていることをなぜ知っていたのか、両親の死をどうやってその妖が知ったのかは相手が教えてくれないのでいまだにわかりません。  とにかくなんというかよく説明の出来ない相手です」と前任の妖については曖昧《あいまい》な答えを返した。  この里の守りの役を渡してくれた妖は、昔から皐月には測りかねるところがあった。  今考えればわざとではないかと思うのだが、手紙に描かれていた里の位置が記された地図が間違っていたのだ。  そのおかげで皐月は大きく街道を外れて冬山に迷い込み、そこで大変な目にあった。  散々な目にあったあげく、山から下りてやっとの思いで里にたどり着くと、その妖は自分の描いた地図は間違いではなかったと主張して、皐月が来るのが遅かったと怒り出した。  皐月が同じように怒って反論すると、急に相手は萎縮《いしゆく》して謝ったかと思うと、拗《す》ねたりしだして気持ちと行動がよくわからない。  最初は前任者ということで、頼りにもしていたのだが、肝心な時にはいなかったりして助けにはならなかった。 「前任の妖に私が初めて会ったのは、生まれてから二度目か三度目の夏のことでした。  私は家の軒先に置かれた盥《たらい》に水を張ってその中に浸《つ》かって行水をしていました。  井戸の水をくれないかと頭の上の方から声がしたので、見てみるとそこには太った一匹の猫がいたんです。  猫は『にゃー』と鳴いたかと思うと再び口を開いて、私に話しかけてきました」 「ってことは前任の妖は猫の化け物だったのかい?」 「それとは少し違うかと思います。多分、他の種の妖が猫の姿をしているのが正しいんじゃないかと」  初めて猫の妖に会った時、相手は皐月を見るなり「あまり器量は良い方じゃないな、お前の母はあれだけ器量の良い水妖で、父親も色男なのに残念じゃな」と言った。  あまりにも失礼な言葉に、さすがに幼いながらも皐月はムッとしたので、その言葉のお返しに盥の中の水を猫にめがけてかけてやった。  すると猫はひょいっと水しぶきを避《よ》けたかと思うと後ろ足で立ち上がって、スタスタと歩くと皐月の浸かっている盥の縁に前足をかけてこう言った。 「おいおい、こいつが消えたらどうするんじゃ。ワシはこれを求めて旅に出て帰って来たところなんじゃよ、お前には特別に見せてやろう」  白い毛を掻《か》き分けて、猫は首に下げていた小さな袋を見せてくれた。  袋の口をあけるとそこには小さな光る虫が入っていた。 「これはな、火食い虫と言って火の山の麓《ふもと》にわずかばかり棲《す》んでいる虫で、寒さと水に弱いのじゃよ。竃《かまど》の火を時々与えたりしながら、人の家の中でも飼う事が出来る生き物なんじゃが、綺麗《きれい》じゃろう。夏場は大変だが、冬にこいつを食うと体が温まるという噂なので、夏に捕まえに行ってみたんじゃよ。ワシは暑さは苦にならんのだが、寒さが苦手でな、ちょっと冬までこいつを飼って寒くなれば食ってみるつもりなんじゃよ」  喋《しやべ》る猫は虫の入った袋を毛の中に仕舞い込むと、肉球のある前足で角のある額をぺたぺたと撫《な》ぜてくれた。  あの前任の妖は、今どこで何をしているだろうか。  夏はあまり集落で見かける事はないから、小さい頃に見せてくれたあの虫を捕らえに今も冬に備えて、火の山という場所に行っているのだろうか。  気ままな前任の妖の思い出に耽《ふけ》っている皐月に、奥方が言葉をかけた。 「どうしたんだいぼけっとして、暑いから言葉が出てこないのかい? そうだちょっと喉《のど》が渇いたから飲み物でも持ってこさせようか。ちょっと誰かいるかい」  その声を聞きつけて、ドタドタと騒がしい足音をさせて「へぃ、何かご用でしょうか、へへっ」と、昨日の西瓜《すいか》を持ってきた女ではなく、例の黄色い歯をした小間使いがやってきた。 「何か飲み物でも持ってきておくれ、出来ればあたしがなるべく面白いと思うような飲み物じゃなきゃあいけないよ、わかったね」 「珍しいお飲み物ですか、承知しました。で、横にいる県境の妖鬼《ようき》にも同じものをお出ししなきゃならないんですかね?」 「うちの都合で来てもらってる客人なんだから当然だろうに、気が利かないもんだねぇ。  何かこの妖に粗相があっちゃ家の恥になるから、くれぐれも大切に扱うんだよ。  それじゃさっさと何か飲むものを持ってきておくれ、喉が渇いてしょうがないよ。  あんたもここに来て長いんだから、それくらいわかって当然だろうに、遅く持ってきたらあたしは承知しないからね」 「へぃへぃ全く、奥方は早朝から人使いが荒いこって……」 「いらないことは言うもんじゃないよ、二度返事もするんじゃないって前にも注意しただろう、今度は無いと思っておきな」  小間使いが消えた襖の向こうに、大きく張り上げた声を飛ばした後、奥方は薄い蝉の羽のような色の扇子を使って自分を扇《あお》ぎはじめた。  ただそれだけでは満足のいく涼が得られないと見て、着物の襟を抜いてはだけさせてから更に扇いだ。  顔よりもまだ白い襟下の肌に、浮いた汗が伝う。 「さぁぼやっとしないで、早速涼しくなるかも知れない話とやらをしておくれ」  皐月は奥方に思わず見入っていた自分に気が付いた。 「それではさっきの続きですが、私は貰《もら》った手紙に描いてあった地図の里を目指して悴《かじか》んだ手を摺《す》り合わせながら、蝋と雪の道を進みました。  灰色の重く沈んだ雪雲を見て、延々と続く当ての無い道中の先に、やっと目的地となるような場所が見出《みいだ》せたことが私はとても嬉《うれ》しかったので、草の少ない季節に蝋と食べ物を分け合いながら空腹に耐え続けるような旅でしたが、今までとは違う気力のようなものが体に満ちているのが感じられました。それも、自分が道に迷ったと雪の積もる深山の中で気が付くまでの話でしたが……」  皐月が少し言葉につまった時に、小間使いが大きな手桶を持ってやってきた。 「奥方様、お飲み物を持ってきましたぜ、へへっ、言われた通り急いで廊下を韋駄天《いだてん》のごとく突っ切って参りました」  手桶の中に、見たこともないような形の容器が二本入っている。  容器には頭のところに変わった形の金具が付いていて、胴体の部分は凹凸があった。  透けているので材質は硝子《ガラス》だろう。  小間使いはどうやら本当に奥方の言うような、珍しい飲み物を持ってきてくれたようだ。  中に入っている液体は少し白く濁っている。 「前に頼んだときは無かったのに、鉄砲水を持ってきてくれたのかい。今度はちゃんと味の付いたのだろうね」  奥方は屏風《びようぶ》の中からぴらぴらと手を出して、小間使いから濡《ぬ》れた硝子の容器を受け取ると、頭のところに付いた金具を細く長い指でこじ開けるように外した。  するとポンッ! と何かが割れるような音がしたので「わわわっ」と皐月は思わず声を上げてしまった。 「おやおや、鉄砲水を開ける音に県境の妖鬼は驚きで?」  小間使いも奥方も驚いた様子がなく、鉄砲水が何か知らない皐月は恥ずかしいやら、小間使いの指摘が悔しいやら、腹立たしいやらで俯《うつむ》いてまた赤くなってしまった。 「県境の妖《あやかし》に昔っから供えるのはお餅《もち》かお酒と相場が決まっていたし、あたしもちょいと前まで知らない飲み物だったんだから驚いてもおかしくはないよ。それよりあんたはここで油売ってないで持ち場にお戻り、ただであたしの肌をここでニヤついて眺められると思ったら大間違いだよ」  奥方は小間使いを追い払うと、桶に入った残りの一本をあたしに渡しておくれと皐月に頼んだ。そして「別に大したもんじゃないけど開ける時にこれは音がするんだよ、怖いなら耳を塞《ふさ》いでな」と言って金具を弄《いじ》るとさっきと同じようにポン! と大きな音が鳴った。 「あんたが住んでる県境の反対側に山があるのは知ってるだろう? そこの手前の辺りに草も木も生えてない窪地《くぼち》があって、噂じゃあそこにゃ狐妖《こよう》が住んでて男をたぶらかすって話だけど、その近くに湧き出る泉から取れる泡を含んだ水を鉄砲水っていうのさ。  辺りの草木が枯れてたことと、近くで虫なんかが死ぬって話があったから、ずっとこの泡を含んだ水は毒水だと思われていたんだけどね。誰だかがどうやって調べたのか、そこの窪地の周りで毒が出ているだけで、湧いている水は毒じゃないってことがわかったのさ。  だから窪地の穴を土で塞いで、別のところに穴を空けてそこから毒を逃す工事をしてね、それから泉の水を汲《く》んで味を付けて特別なこの容器に入れて売ってるんだよ。  だけど作るのに随分手間が掛かるらしくってね、泡を含んだ水は特別なこういう入れ物じゃなきゃ保管できないそうなんだけど、この町じゃ入れ物を作ってないもんだから、わざわざ窪地から汲み取った水を、他所《よそ》に一旦《いつたん》持っていって、この入れ物に詰めてるそうさ」  毒水という言葉に少し皐月は反応したが、そういえば昔この里の外れに住む狐妖がそういう水があると言っていたことを思い出した。  狐は飲めることを知っているのに、人間は毒だと信じているとか何とか語っていたので、それならば教えてやればいいのにと言ったら、教えると沢山の人間が汲みに来て面倒だから教える気が無いといっていた。  皐月と語りあったあとに、煙と共にどこかに消えていったあの狐妖とはもう随分と会っていないが元気なのだろうか。 「まぁ、あんたの口に合うかどうかは分かんないけど飲んでみな」  皐月は恐る恐る鉄砲水を口に入れた。  さわさわと泡が口の中で弾《はじ》けて舌を刺す。味は薄荷《はつか》で付けてあるようで飲むと喉がスッとした。 「口の中が水の泡で少し痛みを感じますが、面白い飲み物ですね。それに飲むと暑さが紛れるような気がします」 「それは良かった」 「それでは鉄砲水を飲みながら続きをお話ししましょう。  本当にあの道中は大変だったのです。  冬に旅をしたことはそれこそ何度もありましたが、好き好んで山の深くに自分から入っていったことは一度もありませんでした。  山を越えれば里だと思って登っていたら、いつまで経っても山が続いていたんです。  しかも途中に宿場があるとその地図には描いてあったのに、そんなものは深い山の中、一向に見えて来ませんでした。  それでも地図を信じ続けて、新たに山を越えて見えたのは更に高い山で、引き返す道は雪で完全に消えてしまっていました。  私一人なら沢を探ってそれに沿って下ってしまえばいいことですが、蝋がいるとなるとそれは出来ませんし、行き来できる道も限られてしまいます。  冬場はただでさえ蝋が口に出来る草も少なく、お互いすっかり弱ってしまいました」 「ちょっと訊《き》いていいかい? 前々から不思議に思ってたんだけどあんたたち妖も死んだりすることってあるのかい?」 「そりゃあありますよ。そうでなければ妖の数が増えすぎて、困ってしまうじゃないですか。  妖は人よりも長く生きられる種類の者が、沢山いますが、不死という者には一度として会った事がありません」 「そうだったのかい、それじゃ雪山であんたと馬は本当に大変だったわけだね」 「ええ、だから蝋と寄り添って、地図を何度も見ながら、あちこち歩き回ってみましたが、それはかえって疲れるばかりでした。  なので諦《あきら》めて一度、街道まで蝋と共に私は戻ることにしました。  雪の吹き付ける中、蝋に触れるといつもより体が、冷たいことが分かりましたが、私は何もしてやることが出来ませんでした。  ふらふらになってやっとの思いで街道まで戻り、最寄の集落まで行こうと道を行くと途中にあった石に刻まれた地名が、地図のと全く異なる事に私は気づきました。  それだけでなく、距離も異なっていたのですが、ともかく弱った蝋を牽《ひ》いて人のいる場所にたどり着けたのは次の日の昼時でした。  私が妖ということで気味悪がる人に、家から持ってきた紅玉と引き換えに、何とか蝋を廏《うまや》で休ませて貰《もら》うことにしました。  蝋は随分と衰弱していたので、私は雪の中での旅を後悔しながら、付きっ切りで世話をしました。蝋が回復するまで首の中で休めなかったので、不眠不休の看病となりました。  数日後、蝋が回復したので、前任の妖から貰った地図を廏を貸してくれた家の人に見せました。  するとこの地図は出鱈目《でたらめ》で、この通りに行くと目的地の里には到底たどり着けないと、目の前で山を指差しながら正しい方角を教えてくれました。  次の日に蝋への飼い葉を分けてもらい、私は人に教えて貰ったとおりの道を行き、四日後にここにたどり着くことが出来ました」  皐月はそこまで語り終えて屏風を見ると、奥方は鉄砲水の入った瓶を手にしたまま眠っていた。  その日から毎日、朝、布団の世話をした後に、食事の時間以外はずっと、皐月は奥方に色んな話を語り続けた。  両親が他界した日のこと、はじめて里で何か正体のよく判らないモノと対峙《たいじ》したことや、狐妖のことに、普段の日常の何気ないこと。奥方はそれを、何時も硝子《ガラス》の煙管《キセル》や扇子なんかを片手に、茶々を入れながら聞いていた。  話のネタもおおよそ尽きた頃、奥方は急に「海に行きたい」と言い出した。 「絵でも見たことがあるし、話にも何度も聞いたことはあるけど、あたしは一度だって本物を見たことがないんだよ。水が見渡す限りあるっていうんだろ? 凄《すご》いじゃないかい、お願いだから海にあたしを連れてっておくれ」  その事を主人に伝えると、「またあいつの我儘《わがまま》か……」と再び眉間《みけん》に、谷のように深い皺《しわ》が刻まれるのを皐月は見た。 「庭の突き当たりにある台車に括《くく》りつけて、連れて行くといい。それならあの大きさの屏風《びようぶ》でも運ぶことが出来るだろう。あいつは生きている時から、なんでも自分の思い通りにならなきゃ気がすまない性質だった、それがやっと……」と言いかけて、凄い顔で皐月が睨《にら》んでいることに気がついた主人は口を噤《つぐ》んだ。  次の日、朝の飼い葉をたっぷりと布団に与えた後、皐月は屏風を細心の注意を傾けて台車の上に載せた。奥方が日差しが厳しいと言うので、竹ひごを編んでその上に布をかけた急ごしらえの幌《ほろ》を被《かぶ》せた。  海までの道のりは、なだらかな坂を下るだけだったので、それ程苦にはならなかった。  皐月は奥方の希望を聞いては、立ち止まって花を摘んだり、団扇《うちわ》で屏風をあおいだりしながら進んだ。  今まで外に出ることが非常に稀《まれ》だったという奥方は、些細《ささい》な風景の変化にも興味を示し、皐月は彼女が望む限りそれに応《こた》えた。  途中暑さに参ったと奥方が言い始めた時に、ちょうど水売りが来たので、冷や水を買って飲んだ。  奥方はかなり喉が渇いていたのか、冷や水を三度もお替りした。  そこからは急な坂で道も岩が多かったので、皐月は紐《ひも》できつく屏風を縛って固定した。  ガタガタと車の軋《きし》む音がする。皐月はなるべく揺らさないように注意を払ったつもりだったが、あまり効果は無かった。  揺れた車の上で奥方が声を出すと、震えて奇妙な反響を伴って聞こえた。  空高いところでは、鳶《とび》が鳴いている。  坂を下りきると、風の香りが変わった。  潮騒《しおさい》と、人々のざわめく声がする。  ──海だ。  砂浜では台車の車輪が取られて進みにくかったので、皐月は近所の家に頼み込んで古い茣蓙《ござ》を借りて、それを敷きながら進んだ。 「ああ、きらきらと光っていて綺麗《きれい》だね。こんな風景がこの世にあるなんてねぇ、これが波の音かい、なるべく波打ち際に寄せておくれ。  そしたらもっと海がよく見えるように、今みたいに斜めじゃなくて、海に向けてちゃんとあたしを立てかけておくれ」  茣蓙を敷きながらだったので少し時間がかかってしまったが、波打ち際まで進むと皐月は簡易幌を外した。  落ちてしまわぬように台車に固定していた紐を解《ほど》き、台から大きな屏風を抱えるようにしてそっと下ろした。  奥方は、夏の日に眩《まぶ》しそうに目を細めると、こんなことを言い始めた。 「ここまで、連れて来てくれてありがとう。本当に海が一度だけでいいから見たかったんだよ。それでだけどね、このまま、あたしをいっそここで流してくれないかい? あの人もやっかい払いが出来たと思うだろうしお願いするよ。こんな広くて綺麗なものの一部として、沈んでいけるのなら、あたしも本望なんだよ」  皐月は緑色の眼を見開いて、「そんなこと出来ません」と答えた。 「何故だい? あんたの雇い主の願いだよ。死んでしまったあたしが言うのも何だけど、一生一度の、最後のお願いだから聞いておくれ」  皐月は下唇をぐっと噛《か》んだ。 「奥方様の屏風無くして、私は屋敷に帰るわけにはいきません。それに私の雇い主は旦那《だんな》様でもあります」 「なら、旦那の許しがあればいいわけだろ。ここなら家の中でないから、妖術《ようじゆつ》を使っても問題ないだろうし、鳥を寄せてくれないかい。そしたら鳥の脚に文を付けて返事を貰えるから」  海辺のカモメの脚に奥方が書いた文を結んで、屋敷へと向けて放つ。  しばらくして、カモメは返事の文を結わえて戻ってきた。  内容は、奥方の宿る屏風を海に流すことを許可するというものだった。 「ほら、見たでしょ。最初から、こういう人なのよ。元々あんたを呼んだのも道士に祓《はら》えなくて祟《たた》られるのが怖かったから……」  皐月は何も答えず、ざばざばと屏風を背にしたまま海の中に進むと、そっと背中に廻《まわ》していた手を離した。  すると、ふわっと屏風は水面に浮かんだ。  振り返ると、屏風の中の奥方は皐月を見つめて微笑むと小さく手を振った。  泳いで屏風を追おうとした皐月を奥方は「これでいいんだよ」と言って止め、屏風は波間をしばらくのあいだ漂い、やがて沖で見えなくなった。  皐月はしばらくの間、じっと海を見つめ続けていた。  もうすぐ、日が沈もうとしている空は既に秋の色をしている。  この夕日の色にも似たあの赤い屏風は、やがて暗い海の底で、徐々に朽ちていくことだろう。  水底であの人は一体何を思うだろう、それとも黄泉《よみ》の国へと帰ってしまうのだろうか。いや、またあの人なら屋敷へと帰って来るかも知れない。確か帰って来たのも今年が初めてじゃないと、皐月を呼んだ小間使いは言っていた。  海鳥が高く舞い、波の音は止むことも無く、砂浜を打ち続けている。  日もすっかり暮れ、空に砂を撒《ま》いたような星が輝きはじめた頃に、皐月は屋敷へと帰った。  荷が空っぽになった台車を見て、旦那も小間使いも誰も何も言わなかった。  皐月は庭の隅にゴトリと台車を置いてから、皆の方に向き直ってペコリと頭を下げると布団を連れて家に帰った。  次の日、あのいやらしい黄色い歯をした小間使いが、酒を持って勤めの礼をしに来たが、皐月は相手にただ一言、「帰れ」と伝え、置いて帰った酒樽《さかだる》の中身は庭の土にぶちまけた。  何とも言えない嫌な心持のまま、布団の毛を長い時間|撫《な》で続ける。  こうすると、怒りや言葉に出来ないような気持ちの塊や滓《おり》のように沈んだ感情が少し紛れるような気がしたからだ。  その後、酒屋の主人は年の暮れに再婚をしたが、婚礼の日に一つだけ奇妙なことがあった。  金屏風がみんなの前で、一瞬だけ真っ赤に染まったように見えたということである。  皐月は相変わらず県境に、布団と共に住み続けている。  ある夏の日のこと、ガキ大将が三、四人の子分を引き連れて、肝試しに県境の妖鬼の家を覗《のぞ》きに行くことを提案した。  普段は外から悪いモノが来ないようにと努めているという噂の妖鬼だが、その実態は子供の塩漬けの尻《しり》の肉を好むという。  子分の一人がそんなことを言い出したので、何人かは青くなったが、ガキ大将はそれなら俺がやっつけてやると勇んで、夕暮れ時に県境の家に行き、戸板の隙間に目を当てて中を覗き見た。  すると、そこでは血のような色の屏風《びようぶ》と向かい合わせで、妖鬼は笑いながら酒を飲んでいたという。 [#改ページ]   猫雪  里の中心部から少し離れた所に一軒の大きな家があり、そこには一人の男が住んでいた。  名は次郎という。  長男なのだが、自分が生まれる前に流れてしまった兄が実はいたとかで、親から次郎という名を与えられた。弟の名は三郎と言い、彼は遠国で商売をしている。  次郎は今日もこれといって何もやる気がおきず、胸の上に手を乗せて、眠っているような気持ちで庭を眺めていた。  暑くも寒くもない秋の日に、庭では萩の花が咲き誇り、草の中にはちらちらと赤い彼岸花が見える。  しまい忘れた風鈴がチリンと、迷い込んできた風に揺られて鳴った。 「ああ、いい気持ちだ」  そう声に出して欠伸《あくび》を一つ。  ふと、縁側越しに庭にある池の方を見ると、猫がいつの間にかそこに居た。  きっと、池の中を泳ぐ鯉たちを狙っているのだろう。  賢い猫は前足でぱしゃぱしゃと水面を掻《か》いて、餌が撒《ま》かれたと鯉に勘違いを起こさせて岸に寄せてから捕らえようとするのだ。  だがその猫はそうせずに、ただじっと池の水面を見るばかりで、何もしようとはしなかった。  臆病《おくびよう》な猫なのか、それとも腹が膨れていてただ鯉や亀を眺めているだけなのか。 「変な奴だなぁ、池ばかり眺めていて面白いのか? それにしても猫というのは羨《うらや》ましいばかりだ。囚《とら》われの無い象徴のような生き物ではないか。先代からの蓄えを食い潰《つぶ》しながら、煩わしい家業は腹違いの弟にやってしまった私のような奴には言われたくないかも知れんだろうけどね。一度、お前のような猫になってみたいよ」  次郎は余りにも長い時間猫が池をただ眺めているだけなので、寝転がったまま、そう呼びかけてみた。  すると、猫が「そうか」と奇妙な伸びのある声で返事をしたのだった。 「なるとしたら、おぬしはどのような猫になるというのだ?」  夢うつつだったせいもあり、猫に問いかけられていることもあまり不思議に思わずに、次郎は受け答えをしてしまった。 「お前と同類の姿になれるとでもいうのか?」  大きな欠伸をかみ殺す。目からだらだらと、大粒の涙が伝って降りる。 「なれる、そして、それは思うだけでいい。  おぬしはどのような毛色がいい? 目の色は? 肉球の色は? 柔らかさは? 撫でられたときの鳴き声は? 毛の硬さは? 長さは?」  次郎は、まず毛の色を瞑《つぶ》った瞼《まぶた》の裏に思い浮かべ、次に瑠璃《るり》色の縦の瞳《ひとみ》と、長いふっさりとした尻尾《しつぽ》に白い柔らかな毛足を思い浮かべた。  肉球は柔らかな桃色がいい、にゃんと甘い声で鳴こう。するとふふふっと口元に笑みが浮かび縁側で丸めた背が揺れる。このまま、すっかり本当に猫になってしまうのは、きっと凄《すご》く良い気持ちなんだろう。  けれど、その時ふとした疑問が頭をよぎり、言葉が出た。 「猫じゃなきゃ、いけないのか?」 「猫が嫌というのならば、何を望む?」  猫の低い声は頭上からした。  どうやら猫は家の中に上がりこんでいるらしい。  目を瞑っているので、声だけで次郎はそう判断した。  何を望む……猫も確かに悪くないのだが、どうせ異形のものに本当になれるというのならば、空を翔《かけ》る事の出来る鳥はどうだろう? いや、今なったとて不器用な自分のことだ、最初から飛べるとは限らないか。それに誤って撃たれて鳥鍋《とりなべ》にされても困る。  それでは……。 「雪に、雪になることは出来るだろうか?」 「雪か?」 「空から降りてみたい。  風に乗り天をさすらい、地を見下ろしてやがてそっと地と一体に溶け行く気分と言うのを味わってみたいのだが。出来るかな?」  猫はぐるる……っと、低い声で唸《うな》ったような音をさせた。もしかしたら非生物ということで思い悩んでいるのかも知れない。  そして、しばらくしてから「この庭程度なら、あるいは」と言った。 「そうか、この庭くらいならか。それじゃ、宜《よろ》しく頼むよ」  早速そう答えると、猫は白い尾を左右に振って頷《うなず》いた。 「にゃあ」と甘い鳴き声が部屋の中に響き、頭の奥がねったりと重くなって、次郎の意識は混濁して眠りに落ちた。  ほんの僅《わず》かな空白の時間があり、気が付けば次郎は柔らかく、そして脆《もろ》く儚《はかな》い無数の雪片となっていた。  雪になるというのが、まさかこれ程素晴らしいとは思わなかった。  やはり素直に猫になどならずに良かった。あの時の思いつきと機転に感謝しよう。  体と意識は風に乗り、ふわふわと頼りなく散華する。  ただそれだけのことなのに、あとからあとから、雪になった次郎の上に自身が重なり、少しばかりの熱で溶け合っていく。  ありとあらゆる角度から、庭を眺め、思い思いの場所に気まぐれで降り立つのも気分が良かった。  白い穢《けが》れのない雪片となり、風に乗り、次郎は空を思うがままに彷徨《さまよ》う。  愉快だ、これはとても愉快だ。  気まぐれに、自分でも思いもせぬような風に吹かれて動くさまは、今まで味わったどの感覚とも異なっていた。  小さな雪片となった次郎は葉の上に、時には土に吸い込まれ、やがて何もかもが溶けて行った。  疲れ果てた後に、眠りに落ちるような心地の良いまどろみが全てを包む。  己の意識の上に冷たい自分自身が重なって溶けていくのもまたとても心地が良い。  気がつくと、いつもの次郎の見知った縁側と座敷があった。  庭に面した戸が開け放してあるので、冷たい風が直《じか》に次郎に吹きつける。 「寒いな」  次郎は目をごしごしと擦《こす》ってから、目やにを指先で取ったあと起き上がり、首と顔をいかつい手で揉《も》みながら庭を見た。  首が痛い。  どうも寝違えてしまったようだ。顔に違和感があるので、板張りの木目の跡でも付いているのかも知れない。  どれくらい長い間ここで横になっていたのだろう。  体を起こして見ると、池の縁にはほんの申し訳程度の雪が残っていた。 「なんだ、本当に雪になってしまっていたのか」  季節外れが何よりの証拠、さきほどの猫との対話と雪になった体験はどうやら夢でなかったらしい。  次郎は何がなんだか自分でも訳がわからぬほど、それを見て楽しい気持ちが体のあちこちから湧き上がって来るのを感じていた。  そんな時、くしゅんとくしゃみを一つ。背筋を何かが這《は》い上るような感触。  どうやら、風邪をひいてしまったらしい。  ガタゴトと外の戸を閉める。  いつもより少しばかり体が軽くなった気がする。  まさか、庭の残り雪の分量だけ体が減ったということだろうか?  今夜は秋の初めにしては冷えることになりそうだ。  庭からにゃぁんと猫の声がした。  あの猫かと思いあちこち見回してみたのだが、猫の姿をどこにも見つけることは出来なかった。  下駄《げた》を履いて、次郎は庭に下りて雪に触れてみた。かなり溶けかけていたが、それは紛れも無い雪であった。  庭の外に出ると地面は濡《ぬ》れてさえおらず、どこにも積もった跡を見つけられない。  小さなこの庭だけに雪が降ったとは考え難《にく》い。やはりあれは実際にあったことなのだろう。  空は茜《あかね》色に染まり、風がひゅぅうと音を立てて吹き始めた。  ふふふふふふっと口に含んだ笑みを漏らしつつ部屋に戻り、しばし夕餉《ゆうげ》までの時間を過ごす。何度触れてみてもやはり雪は雪だったからだ。 「おこんばんは」と玄関の方から声がした。  どうやら通いの手伝い女、お妙《たえ》が来たらしい。 「門は開いてるから勝手に開けて入ってくれ、晩飯の準備をお願いするよ」  不精な性格の次郎はいつもと同じように座敷で寝転がったまま、お妙にそう告げた。  戸が開けられると、玄関の方ではなく直《す》ぐに竃《かまど》のある台所の方にお妙は向かったようだった。  台所から葱《ねぎ》の香りがする。今夜は何が出るのだろう。  冷えそうな夜は、なるたけ温まるものを口にしたい。  今日は久々にあまり飲めぬ酒を口にするのも悪くないかも知れない。いや、そうだそうしよう。 「お妙、お妙や」と呼んで、酒はあるかどうかと、今夜は何が出るのかということを尋ねた。  お妙は、台所から大げさなくらい大きな足音をどたどたさせて次郎のいる所までやって来た。「まぁお酒とは珍しい、家には料理用に取ってある物がほんの少ししかありませんから、小僧に言って買いに行かせなくてはなりませんよ。今晩は湯豆腐と貝を蒸した物ですが、ようございましたかね」  お妙はいつも少し次郎を責めるような口調で物を言う。まるで子供を叱るようだが、お妙は次郎とさほど年が離れていない。これは子供を産んで母となった者と、いつまでも家の財を使ってただゆっくりと無駄飯を食いながら趣味に時間を費やしているだけの怠け者との意識の差が、口調に、表れてしまっているのかも知れない。 「今日は何か良いことでもございましたか? 少し様子がいつもと違うような気がしますね、全くニヤニヤして気持ちがわるい。ところで献立はこれで文句はありませんか」 「結構、結構。文句なんて何もないよ、飯さえうまいものが食えればこちらはいつだって満足だよ。わはははは」  膝《ひざ》を叩《たた》いて上機嫌で笑う次郎の顔を不思議そうにお妙は眺めている。 「いや、なに。ちょっとばかし今日は面白いことがあったので、とても機嫌がいいのだよ。早く小僧に酒を買いに行かせて夕餉の準備の続きをしておくれ」  怪訝《けげん》そうな顔で立ち去るお妙の背を見送った後、次郎は再び横になった。  目を閉じて猫になりそうになった時のことを思い出す。  また今度、雪になることが出来るだろうか。  尾や肉球を思い浮かべている内に再び眠くなってしまった。  酒を持った小僧と小鍋《こなべ》を用意したお妙に揺り起こされたので、目を覚まして手足を見てみたが、いつも通りで何も変わったところが無かった。 「全く、そんなところで寝ていてはお風邪を召してしまいますよ」  テキパキと膳《ぜん》を用意してから、小僧に酒を燗《かん》にするようにお妙は命じた。 「わかったよ、それにしても腹が減ったな。少しでも早く食べさせておくれ、このままじゃ飢えて体が干物にでもなってしまいそうだよ」  また伸びと欠伸《あくび》を一つ。  それを見て「まぁ、猫のような欠伸だこと」とお妙は少しだけ笑った。  その言葉を聞いて次郎はもしかしてと思い、鍋の中で煮えている湯豆腐に手を出すのを躊躇《ためら》ってしまった。  湯気を立てている豆腐は見るからに熱そうで、もし猫舌になってしまっていたらただじゃすまないだろうと思ったからだ。 「燗はぬる燗でいいぞ」  台所の小僧に向けて次郎は声を放ち、「今日は少しばかり妙な心地なんだ、鍋を火から外しておくれ、そして冷めるまでこうしていて欲しい」と次郎はお妙にひざ枕をねだり、空腹を抱えながらしばし目を閉じた。  皐月《さつき》の元に喋《しやべ》る猫が再びやって来たのは四日後だった。 「お前の親は殆《ほとん》ど変化《へんげ》の出来ない妖《あやかし》だったな」  猫の尻尾《しつぽ》がふわふわと揺れている。  皐月は、他の生き物に姿を変える術のコツや応用のしかたをこの猫から習ったのだった。  きっとこの猫の形も、本来の姿では無いのだろう。 「初めて、変化したお前を見たときの事を未《いま》だに覚えているよ、確か緑色の太った雀に化けていたよな」 「あの時は死ぬかと思いました。だって、猫先生が口を大きく見せて私を食べるふりをして、驚かしたんですからね」  猫は、はて? そんなことしたかしらんとでも言いたげな素振りで首を軽くかしげた後、 「まぁ、だけどワシが助けてやったこともあるじゃないか。  お前が悪戯《いたずら》心を起こしてこっそり金魚に化けてトコロテンの中を泳いでいた時に、猫に狙われたのを助けてやったのは、誰だ? 鳥は飛ぶのに体力が要るのを忘れて食事を摂《と》るのを怠って、飛ぶ途中でバテて落ちた時に介抱してやったのを忘れた訳ではあるまいて」  カッカッカと愉快そうに笑う猫を、皐月は返す言葉もなく黙って睨《にら》みつけていた。 「先日、お前よりも変化の才がありそうな人間が居たので、声をちょっとかけてみたら、驚いたことに雪になんぞなりたいと言う。あれにはさすがのワシも手助けするのに骨が折れたが楽しかったな。まず雪という発想がいい、盗み食いの為ばかりに変化の術を覚えた誰かさんとは大違いだ」  さらに大きな声を上げて笑う猫に耐え切れないように、皐月は「一体猫先生は、何の用で私のところへ来たんですか?」と問うと猫は「にゃぁん」と答えたっきり霧のように体を飛散させて、消えてしまった。  気まぐれな猫先生は、いつも唐突に現れては突然去っていく。  皐月がこの里に来たのは、旅先で猫先生から間違いだらけの地図付きの便りを貰《もら》ったのが、思えば切っ掛けだった。  一部の里の人以外には明かされていない、里の守りをしていた前任の妖である猫先生は未だに皐月にとってよく解らない存在だ。  昔この集落の長老に訊いたところ、もうこの里は、いつからあの妖に守られているか分からないと言っていた。  だがその話をしてくれた長老も、亡くなってから何年が経っただろう。  自分の中での時間というのは曖昧《あいまい》で、いつも何が起こったかという出来事だけを朧《おぼろ》げに覚えているだけだ。  気が付けば実りの季節になっており、今年ももう少しで秋祭りがはじまる。 「お祭りがはじまるね、布団」  馬の首のあたりを何度かさすって頬をそっと擦り寄せた後、皐月はすっと馬の体から首を外して、やわらかい藁《わら》の上に置いた。  そしてひょいっと軽やかに飛び上がると、馬の首のあった赤い部分に足元から滑り込み、顔だけ出して藁の上の首に「おやすみなさい」と声をかけてから眠りに落ちた。  屋根の上からとたとたと足音がする。  どうやら、猫先生は馬小屋の屋根の上にいるらしい。  もしかしたら猫先生は蜥蜴《とかげ》でも取るつもりなのかも知れない。  猫先生は蜥蜴を捕らえて遊ぶのが好きなのだ。  さて、明日の朝に備えて今夜は眠ることにしよう。  少し寒さが感じられる夜は、布団の中がいつもより一層心地よく感じられた。  昼過ぎに目覚めた皐月は、家の中で赤く熟れかかった柿をボリボリと齧《かじ》りながら、風に乗って外から聞こえてくる女達の話に、耳を澄ましていた。  どこそこの家に子が授かっただの、今年の米の出来栄えや、ご近所の痴話|喧嘩《げんか》、女達の話は尽きることがないようだ。  皐月は基本的に、呪術《じゆじゆつ》的な事や外から妖が入ってきた時以外に村人との交流はないのだが、夏と秋の祭りだけは、客人としての扱いを受けることになる。  とは言っても、土地神とは違う守り人なので、祭り自体に招かれるわけではない。  県境の家に、お供え物と称したお裾《すそ》分けのお餅《もち》や酒を、村人から貰うことになっているだけである。とにかく祭りの時というのは、心がはやる。  夕焼けの薄い桃色に赤い色、熟れた柿の実に、黄金色の大地。村中がいつもより華やいで見える。  祭りの日には、恋の鞘当《さやあ》てもあるので、男はこっそりと贈り物の髪飾りを買ったり、女たちも男たちからの言葉にあれやこれやと、思い巡らせているのだろう。  川魚も肥え、実りの豊富なこの季節を、皐月は一年の中で最も好ましく感じていた。  そんなある日のこと、皐月は祭りの前に、来るべき冬を思って雪囲いの為の薄《すすき》と、干し肉にする為の兎を取りに山へ入った。  山の木々は燃え上がるような赤と、金色に覆われている。  白い綿毛のような種子を髪や顔にいっぱい引っ付けながら、自分の背丈の倍ほどもある薄を採っていると、耳慣れぬ歌が何処からか聞こえてきた。 「ああや、せけてわ、ならもし、かりて、あわや、にしべに、せしべや、あわし、あわし」  歌詞の意味は分らないし、この辺りのわらべ歌ではないように思える。  声は重なって聞こえてきた。小さな子供のような声だ。村の子供等がアケビや梨を目当てに山に入って遊んでいるのだろうか。  空はゆっくりと薄墨色へと変化しつつあった。  秋の日はつるべ落とし。日が暮れぬ内に、子らに帰るように伝えようと、あたりの薄を薙《な》ぎながら進むと、髪も服も何もかも白い娘が二人しゃがんで手遊びをしていた。  片方の娘が皐月の方を向くと、目の縁が黒いだけで、あとは全てが白く彩られている。この子等は人の子でなく、妖であったかと皐月は思い声をかけた。 「私はこの集落の県境守りの皐月と言うけれど、同じ妖として問うが、あなたたちの所在を教えてくれませんか」 「姉さまは無口だから、私が答えるわ。私たちは妖じゃなくて、花精なの。もうすぐ菊の節でしょう。あなたは県境守りにしては、生臭いわね。もしかしてお肉を食べてるの?」 「確かに私は肉を食べているし、今日だって薄と兎を狩りに山に入ったのだけれど、菊の花精には初めて会ったので、失礼があったら許して下さい。あなた達のような清らかな花精にとっては私の体は生臭いかも知れませんが、これでも時々は身を清めているのですよ」  菊の精は白い衣の裾を唇の端に当てながら話した。 「別に失礼ってことはないけど、姉さまを怖がらしたりはしないでね。  私達は霜が降りるまでここにいるだけだけれど、菊花も邪を除《の》けることが出来るのよ。  あなたは私達を見つけることが出来たのだから、臭いけれど悪いものでないってことは知っているわ。  だけど、昔会った狐妖《こよう》みたいに綺麗《きれい》じゃないのね。  私はあなたを見るまでは、妖って美人揃いだとばかり思っていたのよ」  皐月の頭の中に、秋の大地のように黄金色に光る美しい髪を流す狐妖の姿が浮かんだ。  狐妖は村の外れの穴に住んでいる。  時折人を化かしたり、男衆をたぶらかしたりしていると噂の妖なのだが、その姿はいつ見ても艶《あで》やかだ。 「狐妖と比べられちゃ立つ瀬がありません。あれは妖の中でも美しい生き物ですからね。ところで訊きたかったのだけれど、さっきのあなた達が歌っていた言葉の意味を私に教えてくれませんか?」 「あれは、姉さまの千代見《ちよみ》の歌よ」  受け答えをした娘の隣を見ると、同じような白い娘が俯《うつむ》いていた。  目の周りに白い布を巻いている。目を病んでいるのだろうか。 「千代見の歌?」 「千代先を見るって意味の歌よ、これはたとえだけど、ようするに長生きを願う歌のことなの。姉様の歌を聞いて祝福を受けた人は、その年は病気にならず健やかにすごす事が出来るのよ」 「なら、姉さんを私が背負って里まで降りてあげるから里の人の前で歌って下さい。  そうすれば、もし私が邪気を見逃していたり、風邪の神がそっと里に来ていたとしても私は安心して眠れます」  菊の精は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて厳しい口調で答えた。 「駄目よ。毎年菊花の祝福を与えられるのはたった一人だけと決まっているの。  もし、あなたかあなたの大切な人が祝福を得たいと思うならば、来年また私達が咲くのを待って、一番先に姉様の歌を聴きに来るしかないの」 「それならば、今年歌を聴きに来た人はどんな姿をしていたか、教えてくれませんか?」 「あなたは県境の守り人なのに、何も知らないのね。  背の高い、お直衣《のうし》を着た麗人よ。あの方も人間じゃないようだったわ」 「そう」  皐月は目を細めて、二人の菊の姉妹を見た。  その麗人というのが誰だか確信は持てなかったが、少しばかり心当たりのある者がいたからだ。 「県境の守り人よ、もう直ぐ日が暮れるから、帰った方がいいわよ。  昨日の夜この近くに狼が水を飲みに来たのを私は知っているんだから」  菊の精のよく喋《しやべ》る方の妹がふぅっと喋り終えると、菊の青臭い匂いの息を吐いて口から白い花びらを宙に浮かせた。ぽぅっと光って、花びらは散華する。  香りに惹《ひ》かれたのか、秋の蝶《ちよう》がひよひよと優雅に羽を靡《なび》かせて飛んできた。  すると、菊娘達は揃って硝子《ガラス》を割ったような悲鳴を上げはじめた。  目に布を巻いた方の姉は声をあげながら震えて妹にしがみついている。  姉を庇《かば》うように妹は姉の背に手をまわして皐月に叫びかけた。 「県境の妖《あやかし》よ、蝶々を追い払って。私の姉さまの目の部分の花弁を食《は》んだのは、その蝶の子よ」  姉に当てた指先を震わせながら蝶を指すのを見て皐月は、狼を恐れないのに、蝶一匹を怖がるというのも妙なものだなと苦笑しながら、薄狩りに持ってきた鎌《かま》をはらって、蝶を追い払った。辺りは気が付けば少しずつ藍《あい》色の闇が濃くなりつつある。 「蝶の子はどこかへ行ってしまいましたよ。もう秋も深いので虫もこれからは数が減って行くと思います。だからそんなに震えないで下さい」  白菊の姉妹は顔をあげて皐月の方を見た。  気丈な方の妹の目の縁には真珠色の涙の粒が二つ程付いていた。清らかな花精は人や妖と比べると、あまりにも儚《はかな》い存在なのかも知れない。 「ありがとう。私達は羽虫や青虫の類《たぐい》が大嫌いなの。お礼にこれをあげるわ、尤《もつと》もあなたには必要の無いものかも知れないけれど……」  小さな白い手から皐月に差し出されたのは、葉っぱの上に載った菊の香りのする水だった。 「本当かどうか知らないけど、人間達が飲むと病気にならず、長生きをするっていっている菊花水よ。私と姉さまの香りを封じてあるの。姉様の歌のように効果がちゃんと保証されている物とは違うけれど、良かったらお酒に混ぜてお祭りの日に飲んでみて」  皐月は、そっと零《こぼ》さないように水の載った葉を受け取ると、礼を述べて家へと帰った。  そして後で、兎も薄も持ち帰らなかったことに気がついて苦笑した。  菊花の精から貰《もら》った水は今、瓢箪《ひようたん》の中にしまってある。  祭りの日に、大事な馬の布団とで分け合って飲もうと思いながら。  あの花の精たちは今、白い月の浮かぶ空の下で、山の奥で狼が水を飲む音を聞きながら奇妙な先見の歌を唄《うた》っているのだろうか。  次の日の朝、皐月が瓢箪を振ると、菊花水は干上がってしまったのか、それとも瓢箪が飲んでしまったのか、空っぽになっていた。  どうせ青臭い汁だし、別にいいかと思いながら皐月は今日も冬への備えを行っていた。  漬物を漬けたり、川へ行って魚を捕ったりと晩秋の日々は何かと忙しい。  風に乗って、時折練習中の祭囃子《まつりばやし》の笛や太鼓の音が聞こえる。  皐月はふと目を閉じて秋の音と空気を味わった。この瞬間と時間が永遠に続けば良いとでもいうように。  しかし、秋風は早くも冷たく、冬の予感を微《かす》かに含んでいた。  数日間風の冷たい日が続いていたが、今日は風も無く日差しも暖かだった。  雪になった男、次郎はいつもとさほど変わりも無い日常を今日も送っていた。 「お妙、窓も開けるのか」  次郎の寝床をあげて、「少し部屋に風を通さなきゃいけませんよ」とお妙は布団を干して、部屋を掃除している。  次郎は相変わらず何をすることもなく、手伝う気もないので、薄荷《はつか》を噛《か》みながらまるで気力の無い老人のような気持ちで、動くお妙の尻《しり》なんぞを横目で盗み見ていた。 「そういえば、お妙が主人と知り合ったのは秋祭りでだったか」  お妙は雑巾《ぞうきん》で廊下を拭《ふ》きながら答えた。 「この集落に住むほとんどの人間が、秋祭りを切っ掛けにして結婚していますよ」 「そう言えばそうだな。ここいらで知っている奴らのほとんどが、思い返せば秋祭り後に付き合いを始めて結婚しているな」  頭の中に小さい頃から見知った顔が幾つか浮かび、それぞれの集落での営みを思い浮かべた。 「お妙は秋祭りで夫から何を貰ったのだ?」 「内緒ですよそれは、あの人と私だけの物ですから。あなたも誰かに贈り物をあげたり、貰ったりはしなかったのですか」  次郎は、「昔一度だけ贈り物を用意していて人に渡そうと思ったのだが、渡せなかった。それ以来、俺は祭りはちょっと杏飴《あんずあめ》を買うくらいで敬遠しているよ。踊りの輪に入るのも苦手だし、練習に出ていない負い目があるってのもあるけどな。だから贈り物も貰った事が無いよ」と投げやりに答えてごろりと寝返りを打った。  お妙は雑巾をぎゅっと絞っている。「勿体《もつたい》無い、里のうちではあなたの事を噂していた娘もかつては結構多かったのですよ」他の場所の掃除に取り掛かるつもりなのか、お妙は廊下の奥へと消えていってしまった。 「贈れなかった贈り物か」  それをしまってある天袋は、お妙は開けた事があるかも知れないが、次郎の手ではもうかれこれ十数年は開けてみていない。 「掃除が終わって、飯が出来たら起こしてくれ。  小僧が来たら菓子を買いに行かせておくれ、駄賃は渡し過ぎないようにな」  再び次郎は、座布団を折って枕代わりにして、本格的な午睡を味わうことにした。  その昼寝のせいか、翌朝、次郎は珍しくとても早い時分に眼が覚めてしまった。  おかげで家には酒を出してくれる小僧も、膝枕《ひざまくら》をしてくれるお妙もまだ来ていない。  時々金の無心の便りしかよこさない弟が、数年おきに家にやってきては、無用心だから住み込みの使用人を入れろと次郎に忠告してくれるのだが、今のところ物盗《ものと》りが来た事もないので忠告には従っていない。  それに物盗りというのも、見てみたい気がする。  と言っても、出会いがしらに切り付けられたり殺されたりするのはとても嫌だけれど。  昔、何かで読んだのだが、盗みに入った家の主人に、盗賊が弟子入りしないかと持ちかける話があった。  そういう事になってくれるのならば、物盗りにあうのも面白いんじゃないだろうかと次郎は思っている。  盗賊に弟子入りして色んな国を巡りながら財宝を漁《あさ》り、町に着けば盗賊の大将と一緒に散財をする。そして貧しくて顔の綺麗《きれい》な女には遠慮なく金を恵んでやる。 「親分、北国の家の蔵も女もいいもんですなぁ、だけどこんどはちょっと東の方に働きに行きやしょうか」 「そうさなぁ、この辺りの大きな蔵は大方荒らし尽くして警備も厳しくなった事だしそうするか」  実際の盗賊はそんなもんじゃないですよと、弟が聞いたら呆《あき》れた顔で次郎を見ることだろう。だけど次郎はこういう他愛《たわい》のない空想のやりとりが好きだった。きっと毎日何もやる事が無いからだろう。幸い親が残してくれた財産は、結構なものだったから、次郎一人でちょっと遊んだくらいでは減りようが無かった。  博打《ばくち》にでも手を出したりすればこの減りも激しかっただろうが、次郎は変なところで小心なところがあったせいか、賭《か》け事には興味が持てなかった。大きな買い物をしたり、連日町に繰り出して大きく遊ぶ事もしなかった。  ただ、女だけはどうしようもなかったが、これも工夫次第で安く遊ぶ事が出来たし、特定の女に深く嵌《は》まり込んだ事は今まで一度としてなかった。  だからこそ、この年齢でも独り身なわけだが、別段さびしいと思った事はない。 「ああそうか、なんだそうだったのか」  次郎はまだ薄暗い部屋の隅に向かって、そう呟《つぶや》いた。 「一人でいる時間が、一日の中に必ず無いと嫌だから、両親が死んだ後に誰も家の中に住まわせず、弟にも遠国で商売に就くように薦めたのか」  自分の事ですら、こんな風にずっと解らない事ばかりで後で気が付くほどだから、他人の心の内などは解り様がないだろう。  こんなんじゃ盗賊の弟子にはなれないな、なんたって大将と旅をするのが嫌になってしまうだろうから。それに旅もきっと途中で飽きてしまう事だろう、独り身の家が恋しくて……。  まだ外は暗く、火を付けた灯芯《とうしん》がゆらゆらと動いて次郎のぼやけた影を障子に映している。「つい最近まで、暖かい日が続いていたというのに、全くなぁ」  火鉢に火を入れて温まろうかと思ったが、面倒くさいので布団の中に戻ってお妙が来るのを次郎は待つ事にした。  それから四半刻《しはんとき》(三十分)程経って、ようやく布団が体温で暖かくなり、丁度良い具合になって来た頃に「門を開けて下さいな」とお妙はやって来た。  次郎はしぶしぶと、ぬくもった布団を名残惜しげに這《は》い出て、寒い寒いと何度も呟きながら門の戸を開けてお妙を中に入れた。  お妙は白い息を吐きながら、朝焼け色に頬を染めて次郎の横を歩いている。  ざくざくと霜柱を踏みながらお妙に話しかけた。 「今日も思いっきり、体が温まるような朝飯を拵《こしら》えておくれ。  それから酒も頼む。ぬる燗《かん》なんて言わない、思いっきり熱くしたのに炊きたての飯に漬物に……おや、お妙、その手に持っているのは何だい?」  お妙が片方の手に小さな巾着《きんちやく》を提げているのに気が付いた。 「これは、銀杏《ぎんなん》ですよ。去年庭に埋めたのを掘り出して実を取り出したんです。しかし最近急にお酒をよく召し上がるようになりましたが、体に悪くありませんかね」とお妙が言った。 「心配いらないよ、酒は百薬の長と言うだろうに。  それにお妙、銀杏があるなら朝から茶碗蒸《ちやわんむ》しを作ってくれないか、まだ卵はあっただろ」 「あれ、そのような豪勢なものを朝から召し上がっては、バチが当たってしまいますよ」 「いいんだよ。それに多めに作って一つか二つはお前の家族に持って帰っておやり。きっと喜ぶだろうし、この間お前の亭主から貰《もら》った魚は美味《うま》かった」  お妙は手拭《てぬぐい》で頭を包むと、台所で朝食の支度をはじめた。  次郎は「出来上がったら呼んでくれ」と言って二度寝を決め込もうと思ったが、何故だかいつもと違って今日は目が早く覚めたというのに、眠気がさっぱりと訪れない。  なので二度寝は諦《あきら》め、硝子《ガラス》戸を開けてうっすらと氷の張った池のある庭を眺めることにした。  昨年の秋だったか、奇妙な喋《しやべ》る猫がここに来て、自分を雪にしてくれた事があったな。今思えばあの猫は何だったのだろうか。きっと妖《あやかし》の類《たぐい》に違いないが、禍々《まがまが》しいモノには思えなかった。  そういえば、あれは何だったのだろうかというので思い出してしまったが、先週久々に町へ行って買った女は酷《ひど》かった。  いい素人娘がいるよと聞いて、後に付いて行ってみれば、納屋の陰から出たのは手拭《てぬぐい》で顔を隠した女だった。  顔を見せておくれと言うと、何も言わずに頭《かぶり》を振る。 「素人娘なんで顔を見せると色々と問題ごとがあるんでっさ、顔など見なくとも十分に楽しめる事は保証しやすぜ、体はそりゃあ折紙つきですから。  それじゃあ、この先に話を付けてある茶屋があるんで、ごゆるりとお楽しみを」  女を見ながらあれやこれやと淫《みだ》らな空想に耽《ふけ》って、茶屋へと向かった。  何度も指を折りながら、一人一人、自分が肌を触れた女のことを思い返してみる。  やたら柔らかいのや、骨ばって痩《や》せていたのと色々いたっけか。  さて、これから手合わせを願う女の肉付きはどうなのだろう。  案内してくれた男は、次郎から手間賃を茶屋の前で受け取ると、風のように消えうせた。 「こちらからどうぞ」  訳知り顔で出て来た茶屋の女将《おかみ》は店の脇にある細い階段を指差してそう言った。  ミシミシと音を言わせながら上がる階段は薄暗くて、埃《ほこり》っぽい。  階段を上がると、寝具の敷いてある四畳程の狭い部屋。  なるほど、素人女を抱くにはこういう場所の方がいいかも知れない。  気がつけば次郎は羽織を脱ぎ捨て、女の上に馬乗りになって帯に手をかけていた。  そして女の着物を剥《は》いで現れたのは、白い粉こそ吹いていなかったものの、天日に幾月も晒《さら》したのかと言いたくなるような干し柿のような肌だった。 「お恥ずかしゅうございます」  肌を晒しているのが恥ずかしいのか、それともこんな年でこんなことをしていることが恥ずかしいのか次郎には分からなかったが、老婆は皺《しわ》だらけの肌を仄《ほの》かに染めてそう言った。この体は四十、五十どころの年増《としま》ではないだろう。  さすがにこれはいくらなんでも……と興がそがれてあっけに取られていると、手拭で顔を隠したまんまで体を晒した婆《ばばあ》が、とつとつと哀れな身の上話を語りはじめた。  なんでも息子夫婦が揃って病で高価な薬が必要なので、哀れな婆が一人で恥を忍んで体を売っていかないとにっちもさっちも行かないと言う。 「お客様にはまんずすまないが、こんな婆の体でも若い娘には味は負けていないつもりだから好きにしてくれろ。これも人助けだと思って、婆と息子夫婦の下がった木などお客さんも見たくもなかろうて」それはそれとて到底抱く気にはなれない。 「もういいから、いいから」  次郎は財布から無造作に金を抜き出して老婆に渡すと、一人布団の上で大の字になって眠った。  今思えばあれは、年を取っても客を取らねばならぬ私娼《ししよう》の手だったのかも知れない。  だからと言って、自分の母親よりも年上ではないかと思われるような女を抱くような趣味は、残念ながら持ち合わせていない。あの時は老婆が哀れだと思ったが、今思えばしてやられたという気もしないでもない。 「お食事の用意が出来ましたよ」  台所からお妙の声がしたので、布団から虫のように体をよじりながら這い出て、座敷に向かった。こんな寒い日なのに、竃《かまど》の火のせいかお妙の額には汗の玉が滲《にじ》んでいる。 「銀杏入りの茶碗蒸しと、芋を入れた味噌《みそ》汁にご飯に、鰯《いわし》を炙《あぶ》ったものを今日は用意しましたよ。お酒も一緒に置いておきますからね」 「ああ、どれも美味そうだ、ありがとう」  朝の食事は行儀悪くゆっくりと、一人で時間を掛けて食べるのが習慣となっているのを知っているので、お妙は「それじゃ、また夕方頃に来ますから」と言って家に帰って行った。  お妙が去った後、湯気を立てる食卓の前に座り、次郎は茶碗蒸しを漆を塗った匙《さじ》で掬《すく》い取り、上から落とすように口に少しずつ流し込んだ。  銀杏は好物なので一番最後に、薄い皮を口の中で剥いでから、飴《あめ》玉のようにして転がしながら噛《か》んで食べる。白い飯には汁を注ぎ、ほぐした干し鰯を載せてから口に入れる。  酒をちろちろと舐《な》めながら、長い朝食を終えて次郎はごろりと横になった。  お妙が熾《おこ》してくれた炭が赤くカッカと燃えている。酒のせいか、火鉢のおかげか体がじんわりと暖かい。  本当は膳《ぜん》を台所に持っていって、椀《わん》や皿を洗い用の桶《おけ》に浸《つ》けて置かなくてはならないのだが、満腹になったせいか急に眠くなったので次郎はそのままにしておくことにした。  眠いな……。  目を閉じると、もう瞼《まぶた》を開ける気がしない。  穴にでものったりと落ちるように、次郎は眠りについた。  もやもやと頭に浮かび上がってくる風景に身を任せ、空想とも夢とも思い出ともつかない所を彷徨《さまよ》い、時折ぶつぶつと寝言を吐いた。  ──ここはどこだろう。  次郎の知っているようで、知らない場所にいる。  見知った顔が皆若い、お妙の年などまだ十かそこいらという位だろう。  ああ、そうか今、自分は子供のころの思い出を旅しているのだ。ここはそういう夢なのだ。  ふと、酒で熱っぽい額の下にある二つの瞼の内側に誰かの姿が浮かんだ。  光の加減によっては藍《あい》に見える髪の色、時折赤を含んだ碧《みどり》に変わる瞳《ひとみ》。  あれは、県境に住む妖鬼《ようき》。  彼女との初めての出会いは六つか、七つの時だっただろうか。  確か子供の間で囁《ささや》かれていた噂では、自分たちの姉とさほど年の変わらぬように見える妖鬼の実際の年は、この集落に住むどの婆さまや爺《じい》さまよりも上らしいということと、夜な夜な血を啜《すす》ったり、子供の尻《しり》を好んで食うということだった。  夏の暑い日、蛍狩りの帰り道に誰かが一人、肝試しにあの女鬼の所へ行ってみないかという提案をした。  人一倍|臆病《おくびよう》だった次郎は、幾つかその案に対して異を唱えたのだが、面白そうじゃないかと子供の大将が言ったので、しょうがなく渋々と付いていく事になった。  夜とは言ってもまだ宵の口で、暑い日に皆と一緒であったので、足早に歩きながら高揚感で怖さを紛らわそうかと努力している最中に、妖鬼の家に着いてしまった。  木枠の窓から、灯《あか》りが漏れている。  お化けでも火を焚くんだなと思って中を恐る恐る覗《のぞ》き見ようとすると、「何をしている」と、妖鬼と思《おぼ》しき主《あるじ》の声が何処からか聞こえてきて、子供らは脱兎《だつと》のごとく家へと逃げ帰った。  それから数日後、次郎が蜻蛉《とんぼ》を追いながら、枝を持って道を小走りに進んでいるときに、草に蹴躓《けつまず》いてしまい、膝《ひざ》や肘《ひじ》を地面に強《したた》かに打ちつけてしまった。  しかもそれだけではなく、手に持っていた枝の棘《とげ》が手のひらに深々と刺さり、次郎は痛くて痛くてしょうがなかった。  たまたま一人で遊んでいた時だったので、側に介抱してくれるような人も励まして傷に手を当ててくれるような人もおらず、ただ痛い、痛いとわあわあと泣き喚《わめ》いているしかなかった。  すると、どこからとも無く女の人が駆け寄ってきてくれて、濡《ぬ》れた手拭《てぬぐい》を傷に当てて泥を拭い、棘を指先で器用に抜いて、その上に懐から出した軟膏《なんこう》を塗ってくれた。  女の人の手際が鮮やかだったせいか、それとも人が来てくれたという安心感からか、痛みは気がつけば体のどこにも残っていなかった。 「ありがとう」と、手当てをしてくれた女の人に告げると、相手は次郎の顔を覗き込んで「もう大丈夫ですかね」と訊《き》いて来た。  その時、一陣の風がさっと吹き、女の人の額に掛かった髪を持ち上げた。  人ではありえぬ色をした瞳と白い小さな角を見て、次郎は自分の手当てをしてくれたのが、県境の妖鬼であったことを知った。 「うわっ、うわっわわわわわ……」  驚いて、口をパクパクしている姿を見て妖鬼は傷が痛むと勘違いしたのか、まるで薪か何かのように次郎を背にひょいっと乗せると家に連れ込んで、藁《わら》を敷いた床の上に寝かせた。  妖鬼は次郎の傷に奇妙な匂いのする、見たことも無い葉っぱを当てたり、甕《かめ》から甘梅を取り出して勧めたりと、色々な世話をしてくれた。  世話の様子が余りにも仰々しかったので、次郎は少し照れくさく思って「もう平気だよっ」と言うと妖鬼は「それは良かった」と、とても嬉《うれ》しそうな顔をした。妖鬼の名は皐月ということを教えてくれた。  眼の色が人とは違い、碧色の光を帯びているから、新緑の季節の名を付けられたそうだ。  次郎が、皐月に全ての鬼がそういう眼の色なのかと尋ねたら、皐月は他の鬼には殆《ほとん》ど出会った事がないから知らないと答えた。  皐月の家の外には大きな白色の蝋《ろう》という名前の馬がいて、「私はいつもこの中で眠っているんですよ」と指差して教えてくれた。  蝋は長い舌でぺろぺろと次郎の顔を舐《な》めたので、皐月は「これだけ蝋が初対面の人間に懐《なつ》くのも珍しいのですよ。気に入らない人だと蹴飛ばそうとしたり噛もうとする事だってあるんです」と優しい笑顔を見せてくれた。 「そんな危険な馬に会わせたなんてひどい」 「別に気に入られたんだからいいじゃないですか」  次郎はもうちっとも、この鬼が怖いと思わなかった。  そして、自分の不注意で怪我をしたという後ろめたさもあって、この日の皐月との出来事は親にも友達にも話したことは無かった。  懐かしい夢だ。  眼が覚めると、いつも通りの見飽きた天井が自分を見下ろしている。  あの時次郎の顔を舐めてくれた蝋の潤んだ目や、皐月の笑い声がまだ耳に残っている。  数年後、時々悪所で会う同じ里の人間に、県境の妖《あやかし》の蝋という名の白い馬は亡くなり、今は布団という名の馬を飼っていると聞いた。  なんでもあの種の妖は我々人とは違い、馬の中でしか安息を得られないので、馬が死ぬとすぐに次のを見つけないと弱ってしまうということだった。  県境の妖の皐月は蝋を埋葬したのだろうか。時折家の外で聞く蹄《ひづめ》の音は、彼女と新しい馬のものなのだろうか。この集落で馬を持っているのは皐月と造り酒屋の主人くらいなのだから。  次郎が夢で思い起こされた出来事を一つ一つ頭の中で考えていると、庭から「にゃぁっん」と声がした。  見ると次郎を雪にしてくれた、あの猫だった。  県境の妖の夢が妖を寄せたかなと思いながら、「入って来いよ、そこの硝子《ガラス》戸は開いてるぞ」と猫に言うと、猫は、そんなことは既に知っていたという風に器用に前足で戸を開けて、素晴らしい跳躍力をもってして、横たわる次郎の元へと飛び乗った。  そして尾を二振り、三振りしながら体の上を歩き回った。  猫は前足をぺろぺろと舐めてから、頭の毛をぺたぺたと撫《な》で付けた後にこう言った。 「久しぶりだな、暇をもてあましていた最中に、ふとお前の事が頭に浮かんだので訪ねて来てやったのだが、お前は朝から酒を飲みながら惰眠を貪《むさぼ》っておるのか。  良い身分ではないか、ちと見習いたいので少しワシにもそこにある酒を注いでくれんか。うんうんそう猪口《ちよこ》の半分位でいい。そんなにワシは酒には強くないんでな。  ところでここに来る途中、女を見たがあれはお前の女房なのか?」 「いや、あれはここに通いで手伝いに来ているだけだ。  しかも人妻ときているからおいそれと手は出せないんだよ。名はお妙って言うんだが、旦那《だんな》はこの集落でも有名な素もぐりの名手でね。あいつに手を出したらきっと俺は銛《もり》で突かれて海の底だろうな。  でもあの尻やももを見ていると、変な気持ちになる時もある」 「そういう時、おぬしはどうするんだ?」 「膝枕をねだったり、軽く柔らかい肌に触れたりする。それだけで満足だし、こちらがそれ以上のことをしないのを知っているからお妙も何も言わない」 「若い男がその程度で満足出来るとは、ワシには到底思えんがな」  猫は酒を桃色の短い舌で、ぴろぴろと舐めながらそう言った。 「自分は臆病な人間でね、若い頃にした火傷《やけど》の痛みが未《いま》だに忘れられないから、無体なことや手近なところで面倒なことをしたくないだけなんだよ。  昔、男がいたってのに砂糖屋の娘に手を付けた時は馬鹿げた理由からだったが、あれは楽しかったな。でもやっぱり後で、その娘の男が出てきて、私を怒鳴ったりしたもんだからあれはいけないと思った、それに拳骨《げんこつ》で二度三度と殴られてしまった。  未だにあの砂糖屋の娘に色っぽい眼を向けられる事があるが、もうあんな事はごめんだよ、何もかも」 「その娘に手をつけた理由というのは、娘の体も砂糖のように甘いかどうか確かめたかったからか?」  尾を大きく振りながら猫は愉快そうだ。 「そうに決まってるじゃないか」と言い掛けた途端、次郎はごほごほと急にむせて咳《せ》きこんでしまった。  どうやら余り下手な冗談は、言うもんじゃないらしい。 「この年で隠居同然の暮らしをしているせいか、誰かと張り合ったり他人の物を奪ったりする気には全くなれなくってね。  祭りの時も誰かに贈り物を渡した事もなかったし、誰かから切実に貰《もら》いたいと思った事も無かったな。  弟に商売を譲って本当に良かったと思うよ、こういう気性じゃ商いには向いているとは到底思えないからね。だけど全く欲が無いわけじゃないんだ、ただ……」  その時ふいに思いついた事があった。 「そうだ、もう一度だけ自分を雪にしてはくれないか、そして、風に飛ばしてこの村中を旅させてはくれないだろうか。今なら季節外れではないし、前ほどには骨が折れないんじゃないか」  猫は、「なんでまたお前さんは、再び雪なんぞになりたいと言うのだ?」と言って縦の瞳《ひとみ》をすっと窄《すぼ》めた。  次郎は手を軽く上下に振って、何かを振り払うようにして答えた。 「面倒事は嫌いだとさっき言っただろ、でも女の肌身に触れるのは好きなんだ。  だから、雪になればそれが皆、それが誰かとは気が付かないだろうし、思いもよらないと思う。  それに色んな女の肌身に、それこそ比喩《ひゆ》じゃなくて、本当に溶け込む事が出来る。  そっちも退屈だと言っていたし、丁度いいじゃないか。  雪になって、村中の女の肌に触れてみるのは、どんな気持ちなのか知りたいんだが、あんたなら出来るんだろう?」  猫は「ま、そりゃ出来るが今日はもう酔ってしまったので具合が悪い。では明日の朝に」と、どこかへと行ってしまった。  その夜、今まで生きてきた中で、一番期待に満ちた時間を過ごし、やがて朝が来た。  庭に朝霧が煙《けぶ》り、日が差している。  しかし、次郎の体には何も変化が見られず、猫の化生は約束など忘れてしまったんだろうなと、軽い失望を味わっていると、「すまんな遅れて」と声がして、池の側に猫がいた。 「それじゃ、遅れた分、望み通り、前よりも広い範囲でお前を降らしてやろう。丁度良い風も吹いている」  この言葉を聞き終えるのと同時に、体がくらっと浮き上がるような感覚がして、次郎の意識は冷たく冴《さ》えた天の中にあった。  纏《まと》わり付いているのは雲だろうか。前にも体験したのと同じように意識が拡散し、飛散していく。  意識が意識と出会い、溶け合い、やがて消えていく。  一陣の強い風が来た、さらに高く次郎は浮かび上がり、目には多くの物を映す。  あれは、懐かしい水車に、かくれんぼで遊んだ社に、首の欠けた地蔵様。  ああ、高い、高い、本当に色んなものがよく見える。  次郎はゆっくりと、後から後へと村の草の露の一つに、刈り取ったあとの稲藁《いねわら》の上に、降り立っては溶けていく。  次郎の家に向かう途中のお妙の姿もあった、彼女の上気した白い頬に次郎の欠片《かけら》は張り付いて彼女の体温で溶けていった。  砂糖屋の娘や、次郎の初めての女、肌身を合わせた時のことを少し不謹慎かなとも思いつつ彼女達の手拭《てぬぐい》いや肌を次郎はそっと濡《ぬ》らして消えた。  若い艶《つや》やかな肌、老いをまだ知らぬ柔らかい臀部《でんぶ》、水仕事に荒れた乾いた痛々しい手。  畑仕事で光る甘酸っぱい汗に、外で夫の網を編む女の塩辛い指に、額に、色んな肌身や衣服の上に降り降りて行く。  やがて雪となった次郎は、県境に住む皐月も見つけることが出来た。  彼女はどうやら、外に出て川魚の干物を作っているようだ。  次郎の中の幾つかは、その川魚の鱗《うろこ》や目に染み付いて行った。  彼女は覚えているのだろうか、次郎の傷に手を当てたことを、次郎が時折彼女を見ていたことを。  その髪に、肩に、指先に、その目睫《もくしよう》に、降りて溶けて行く。  雪となった体はもう残り少ないようだった。  冷たい北風が吹きつけて枯れた葦《あし》の葉が乾いた音を立てている。  次郎は胸の内にあった言葉の代わりに、そっと偶然唇に当たった結晶に思いを込めて水の小さな玉となって消えた。  人の姿に戻って座敷で眼を覚ました次郎は、さっき雪になった時のことを思い出しながら、県境の妖《あやかし》に対して最後に抱いた思いについて考えていた。  猫の妖は次郎を雪にして疲れてしまったのか、座布団の上ですやすやと寝息を立てている。こうやって見ると、どこも普通の猫と変わったところが無い。  猫の頭を軽く撫《な》ぜながら「ありがとうな」とお礼を言うと相手は低くごろごろと喉《のど》を鳴らした。  県境の妖に対して抱いた思いについて再び考えながら、天袋に十数年ぶりに手をかけてみる。  意外なことに、そこはすっと開き、中も埃《ほこり》っぽくは無かった。  やはりお妙がここも掃除をしていてくれたようだ。  そこにある小さな箱を手に取り開く。  中には川原で拾った小さな翡翠《ひすい》の石が一つ入っていた。  傷の手当てをしてくれたお礼に、子供だった次郎は秋祭りの日に県境に行って、餅《もち》と共にあの妖の目の色に似たこの石を渡すつもりだったのだ。  翡翠の石は、県境の妖と同じように色も形も何もかも、かつて次郎が水の中から拾い上げたときと何も変わり無いように見えた。 「ただ、これを手にしている自分が変わってしまっただけか……」  次郎は石を仕舞い天袋を閉めると猫を持ち上げて膝《ひざ》の上に乗せた。 「また時々、遊びに来てくれよ」  猫にそう呼びかけると相手は「にゃん」と鳴いた。 「よしよし、色|好《よ》い返事をありがとう」  猫を腕の中で撫ぜるとごろごろと喉を鳴らし始めた。  それからしばらくすると、ドンドンとお妙が門を叩《たた》き、小僧が今日はするめが安かったので買って来ましたという声が次郎の耳に届いた。 「お前にも今日のお礼をしたいから、飯を一緒に食べようじゃないか。  飯を作った後に、お妙も小僧も帰るから。何も心配いらないから遠慮するなよ、今日はするめだ、猫の好物だろうから豪勢に行こう」  そう呼びかけたのに、さっきまで次郎が腕の中で撫ぜていた猫は、もうそこには居なかった。 [#改ページ]   狐妖《こよう》の宴  皐月《さつき》が裏庭の畑で種を蒔《ま》いていた時だった。 「あの……」  年のころは、十五、六だろうか。若い娘に声を掛けられてしまった。  同じ里に住む誰かだと思うのだが、名前は何だっただろう。  若い年頃の娘の顔や姿は、全て同じに見える。 「何か?」  皐月がそう言うと、娘はおずおずと真っ赤な顔をして俯《うつむ》きながらこう言った。 「県境の妖《あやかし》よ、あのっ、惚《ほ》れ薬を作ってくれませんか」 「惚れ薬?」  思わず少し上擦った声を出してしまった。  皐月は父親や、変化の方法を教わった猫の先生から多少薬の調合は教わっていたが、その中に惚れ薬の作り方は含まれていない。 「私はそんな薬の作り方なんて知りませんけれど」  そう言うと、娘は急にわっと泣き出してしまった。 「あたしはいつだって一人なのよ、去年の秋祭りの時だって、あたしの思い人は友達に贈り物をあげてこっちには見向きもしてくれなかった。  同い年の子はそりゃ、あたしと同じように今は恋人のいない子はいるわ。  だけどね、生まれてこの方ずうっと誰ともお付き合いをした事のない女はあたしだけなの。  ねぇ県境の妖よ、あたしってそんなに魅力の無いつまらない女に見える?  別に惚れ薬じゃなくてもいいのよ。  もし惚れ薬じゃなければ何か良い人が見つかる呪《まじな》いを教えたり、お守りを作って頂戴《ちようだい》よ」  ぐずぐずと泣きながら一気に捲《ま》くし立てられ、皐月は面くらってしまった。  そして、ため息をはぁっと吐き出すと皐月は喋《しやべ》りはじめた。 「思い人への思いが実らぬ気持ちは分からなくは無いけれど、私だって一人で布団とずっと暮らしているだけで、男の妖と添ったことなど一度もないのですよ……」 「どうりで頼りにならないと思ったわ、勇気を出してあたしよりもずっと長生きで色んなことを知っているからと思って、あなたを訪ねて来たってのに酷《ひど》いわ」  皐月は困ったなと思いながら頭を掻《か》いてみせた。  娘はまるで、恋人が出来ないのは皐月のせいだと言わんばかりに、ずっと喋り続けている。 「去年の秋祭りの時に、お供えのお餅をあなたにあげたのを覚えてないの?  それなのに惚れ薬も作れないし、恋も知らないなんて、妖が人よりも物知りだなんて出鱈目《でたらめ》もいいとこだわ。  あたしが本当にここに来るまでに、どれだけの勇気を必要としたのか、異性との思いも知らないあなたには想像も付かないでしょうね。  貰《もら》うものだけ貰って、人助け出来ない存在を県境に住まわせているなんて絶対に間違ってるわよ!」  一方的に言われっぱなしのそんな皐月の頭に一人、いや一匹が浮かんだ。  恋多き存在だと昔から何度も聞いていたし、それは今も変わらないだろう。 「ちょっと待って」娘は延々と続けていた愚痴を止めた。 「狐妖《こよう》の家を訪ねに行きましょう。  あの人なら色恋|沙汰《ざた》に詳しいし、あなたの助けになるかも知れません」  狐妖の住む家は里の外れにあり、小さな塚が目印の穴の中にある。  昔は泡を含んだ不思議な水の湧き出る窪地《くぼち》の側に住んでいたのだが、そこが騒がしくなったので別の場所に狐妖は引越ししたのだ。 「お久しぶりです。県境守りの皐月ですが、狐妖の銀華さんはご在宅ですか?」と声をかけると、穴の奥から、「わたしはどちらかというと、夜行性なのよ、もう」と声がし、白い煙がもくもくと穴の中から立ち昇って狐妖が出てきた。  玉を薄く削ったような衣を何重にも纏《まと》い、肌は玉か陶器のように艶《つや》やかで、結い上げた髪からは桃のような甘い香りがする。  紅《あか》い唇に、吸い込まれそうな瞳《ひとみ》に、丸みを帯びた体。  絵巻から抜け出たような、現実味のない佳人の姿がそこにはあった。 「で、何の用よ」  小さな狐火を長い指の間に出して、遊ばせながら狐妖は言った。 「銀華さん、この娘が思い人と一緒になりたいということで惚れ薬を私に所望したのですが、私が薬の作り方を知らないうえに、色恋沙汰に疎いと知って随分がっかりさせてしまったのですよ。そんなわけでここへと連れて来たのですが、どうか力になってくれませんか?」 「惚れ薬ねぇ……」  妖艶《ようえん》な狐妖は、にやにやと笑みを浮かべながら、皐月たちを見ていた。 「あのねぇ、そもそも人間の雄なんて薬なんて使わなくったって簡単でしょ。  でもどうしても惚れ薬を使いたいってんなら、ヤモリの黒焼きはどう?  聞いた話だけどね、ヤモリが炭化するまで黒く焼いたのを粉にして、意中の相手にかけると恋が実るんだってさ。でも、ちょっと気のあるフリしてしなを作れば、大抵の相手は落ちると思うんだけどねぇ……」  皐月はどうしようかと横にいる娘の顔を見ると、娘は目を輝かせながら狐妖の顔を凝視している。どうやら作る気満々らしい。 「ヤモリなんか、何処でもいるからね。  それじゃ、わたしは少し穴で眠りたいからヤモリを捕ったら戻って来て知らせて頂戴よ。面白そうだし、その薬の効果と顛末《てんまつ》を見てみたいからね」  そう言って、どろんっと煙となり狐妖は穴へと消えていってしまった。 「県境の妖よ聞いた? ヤモリですって、早く捕まえに行きましょうよ」  ヤモリの身になれば迷惑この上ないが、まぁそれでこの娘が満足してくれるならばと思い、皐月はヤモリ探しをすることにした。  薄暗い路地や軒下を廻《まわ》りながら、娘と皐月はヤモリを探し回ったので、里の人々皆はそんな二人の姿を見て怪訝《けげん》そうな顔をしていた。  県境に住む怪しげな妖鬼と若い村娘が壺《つぼ》を抱えて村の中をうろうろする様子は、彼らにとってさぞや奇異に映った事だろう。  皐月は草陰に見つけた一匹をひょいっと摘《つま》み上げて、壺の中へと入れた。  壺の中では五、六匹のヤモリが飴《あめ》色の体をくねらせている。  だが娘の方は、さっきから目を皿のようにしてあちこち探しているのに、まだ一匹も見つけられていないようだった。  皐月は娘に「ヤモリの匂いを手繰ると見つけやすいですよ」と親切な助言を与えたのだが、相手に「そんなの判るわけないでしょ!」と、一蹴《いつしゆう》されてしまった。  人間というのは鼻が利かないのだったなと思いながら、また一匹見つけたので捕らえて壺の中へ入れてから「一体、その思い人ってのはどんな人なのですか?」と娘に尋ねてみた。  すると娘は途端にうっとりと目を潤ませた表情になり、「体が大きくて、力があって優しくて素敵な人よ。それに声がとってもよくて楽の才もあるの」と答えた。  そんな男がいたかな、普段集落の人間とはそれ程交流がないからしょうがないかと思いながら、皐月はそのあとも引き続きヤモリを探し続けた。  それから半刻《はんとき》ほど、ヤモリを娘と皐月は探し続け、やがて壺一杯になったので引き上げることにした。  そして壺を大事そうに持って、二人並んで狐妖の住む穴へと再び向かった。 「あらまぁ、随分と一杯捕ったのねぇ。  あんたさ、おぼこそうな顔して村中の男を意のままにするつもりだったの? 全く凄《すご》い量じゃないの」  壺の中身を見て素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げる狐妖の横には、見慣れない男が座っていた。  狐妖の恋人なのだろうか、別に珍しいことじゃない上に紹介もされなかったので、皐月は気にしないことにした。  それに黒焼きの用意をせっせとしている最中に、男はいつの間にか帰ってしまったようだった。  油を塗った小枝にヤモリを尾から頭まで一直線に刺して、焼く。  生命力が強いのか、枝に刺されたままで火に翳《かざ》しても、ヤモリはしばらくの間動き続けていた。  うねうねと動きながら炙《あぶ》られるヤモリに、辺りは嫌な臭いに包まれたが、恋にあこがれる娘は別に気にならないらしかった。  皐月は片手で鼻を押さえながら、涙目でヤモリの枝を二本ばかりやっとの思いで火に近づけているというのに、娘は真剣な顔で、両手に持ちきれないほどのヤモリの刺さった枝を持って、笑みさえ浮かべながら火に翳している。  ヤモリの肉は予想以上に火の通りが悪く、黒焼きが完成したのは夕方頃だった。  娘は枝に刺さって炭化したヤモリの持ちきれない分は、皐月にあげると言い、自分は幾つかを大切そうに布に包んで満足そうに帰った。  恋が実るかも知れないと思ってか、黒焼きを持った娘の足取りはとても軽やかだった。 「銀華さん、あれ本当に効くんですか?」  皐月が不安そうに、狐妖に訊《たず》ねた。 「さあね? そもそもわたしには今まで惚《ほ》れ薬なんて必要なかったもの、面白そうかなと思って作っただけだからね。効くかどうかまでは、責任取れないわよ」  次の日の朝、あの娘はどうなっただろうと思いながら、種まきの続きを行っていると、娘が凄い形相で赤い目をして皐月の家にやって来るなり怒鳴り始めた。 「全く効かなかったじゃないの!! 折角気持ち悪いのを我慢してヤモリを探したり粉にしたりしたのに、相手に振りかけたらなんだよって言われて怒られてしまったのよ。  これがきっかけで嫌われたら、あなたのことを一生恨むから!  県境の妖《あやかし》がどんな災厄から里を守っているのか知らないけれど、そんなのどうだっていいわ。あたしの一番大切な思いを踏みにじったんですもの、考え付く限りの嫌がらせをしてあなたをあそこから追い出してやる。  たとえ神罰が下ったとしてもあたしは絶対に後悔なんてしないから!!」  皐月が、狐妖《こよう》に頼んだのがまずかったかなと、娘の言葉を聞きながら考えていると、金色の大きな尾を持った狐が屋根の上からぱっと舞い降りて、艶《あで》やかな天女のような衣を纏った女の姿となった。 「あっはっはっは。あーおかしい。  全く惚れ薬の効果は無かったわけね、面白かったわ。  でも、このままあんたをからかったままじゃ、後味が悪いのも分かってるから、良いこと教えてあげる。わたしの言うことを聞きなさい、きっと悪いことにはならないからね」  狐妖は娘をちょいちょいと指で招くと、皐月に「家の中と井戸の水を少し借りるわよ。あんたは庭の畑の種まきの続きでもしてなさい。その代わり野菜が実ったらわたしの家にも持ってくるのよ。それもちゃんと美味《おい》しい奴を選《よ》ってからね」と言って家の中に入ってしまった。  何なのだろう、大丈夫かなと思って皐月がそっと裏口の戸を開けて中を覗《のぞ》き見しようとしたら、何らかの狐妖の術が掛かっているのか開けることが出来なかった。  しかたなく種まきの続きをして一段落した頃に、皐月の家の中から明るい笑い声が聞こえてきた。  そして、戸が開く音がして娘が外に出て行った気配がして、それからしばらくすると娘が家に戻ってきた。  再び中からは娘と狐妖の笑い声がする。  それからまた戸が開いて娘が出て行き、そして今度は帰って来なかった。  また皐月が戸に力を込めるとあっけなく開いた。  中では狐妖が茶を飲んでくつろいでいる。 「銀華さん、あの娘は一体どうなったのですか?」 「全て終わったのよ。ぜーんぶ上手《うま》く行ったのよ。わたしは、県境の妖と違ってとても賢いからね」  皐月がその言葉を聞いてきょとんとしていると、狐妖は説明しはじめた。 「わたしが、あの娘に化けて意中の男に声をかけたのさ、それにしても冴《さ》えない男だったわねー。まぁこんな集落だからしょうがないのかも知れないけど、面白みの全くなさそうな男だったわ。  それはさて置き、今朝妙なことをしたお詫《わ》びを言ってさ、もじもじしたフリして今年の秋祭りの贈り物をあなたから欲しいって素直に伝えたのよ。  すると男がまんざらでもなさそうな顔をしたから、わたしは顔を赤く初心《うぶ》なフリしてここに駆け戻って来たわけ。  そんで娘に化けていた術を解いて、わたしが少々着飾らせたあの娘を化粧させてから、男の家の近くに行かせて、秋祭りまで返事が待てないとか何とか言わせておいたら、まぁ相手の男の方が良い返事をあの娘にくれたってわけよ」  皐月は「それだけで、うまく行ったのですか?」と信じられないというように声をあげた。  狐妖は愉快そうにふふっと忍び笑いをもらした。「さて、人間の小娘と男はくっついたけど、あんたはどうなのよ?」  皐月は、少し眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、答えた。 「私は布団がいればまだ十分ですし、銀華さんのような策略家になれそうにもないからいいんです。それに去年の秋口に菊の精に、狐妖ほど美人じゃないのねと言われてしまいましたしね」 「まぁ、菊の精にそんなこと言われて言い返さなかったの?  菊の花よりも綺麗《きれい》な花なんて幾らでもある、くらい言ってやれば良かったのに。  好みと美的感覚の差なんだから、気にしちゃ駄目よ」 「結局ヤモリもイモリも、必要ありませんでしたね」 「あら、必要よ。もし余っていたら一|串《くし》ちょうだいさ、今夜のわたしの晩酌のあてにするからさ。珍味って興味あんのよ、美容にもいいかも知れないし。  あのねぇ、あんた。所詮《しよせん》人間なんて、そんなに相手の選り好みなんてしてないのよ。  でなきゃ、相性悪いとかあれじゃだめこれじゃだめじゃ、添って子孫が繁栄できないでしょ。  それに大体がとりあえずでいいのよ、よっぽど酷《ひど》いことがなきゃね」 「銀華さん、酷いことって何です?」 「あんたじゃ分からないだろうけどね。さて、酒の肴《さかな》も貰《もら》ったことだし、そろそろ穴ぐらに帰るわ」  白い煙が立ち昇り、気まぐれで恋多き狐妖は風に乗って去った。  あとには甘い香りだけが残され、皐月は「確かに、さっぱりわからないな」と笑ってから外に出て、春の陽気に包まれた空を見上げた。  夜明けから少し経った時分のこと、その桜の下で白い式服を着た男がひとり座して桜を眺めていた。桜の咲きは七分程で、まだ固いつぼみもある。  淡い花々を映している男の瞳《ひとみ》の色は藤色で、そこから彼が人でないことがわかる。 「あら、珍しい恰好《かつこう》じゃないの」  赤い口をした大きな狐が、式服姿の男に木の上から声を掛けた。 「お前さんが獣の姿をしている時の方が珍しいと思うがな。  折角それ程綺麗な毛皮と尾を持っているのだから、もっとその姿を見せてくれてもいいのではないか」  狐が銀毛の尾を振ると、木の上の花が揺れて、薄い花びらが何枚か零《こぼ》れ落ちた。 「あんたが人の姿をしている方が珍しいと思うけどね。  なんでまたその姿になる気になったのよ?  それにあんた寒いの苦手なのに随分と寒そうな恰好してるわねぇ」 「ん、寒さが平気になる虫を冬場は食っているので大分平気になった。  人の姿になったのはな、たまにここの桜をワシは見たくなる事があって、それでなんじゃよ」 「それってどういうことよ?」 「桜は木としての寿命が短いのが難点でなぁ。  花を付けなくなる前に植え替えをしとるんじゃが、あの姿では木を掘り返して埋めるのは不便じゃろ? だから人の姿に戻っておるわけじゃよ」 「ああ、そういうわけ。  里の桜の木が時々新しいのに代わってると思ってたけど、あんたの仕業だったわけね」 「そう頻繁ではないがな、これ等の木の寿命は七十年から八十年といったところじゃろうか」 「ふぅん」  狐は木から飛び降り、地に足を着けた時には、薄い緋《ひ》色の衣を纏《まと》った人の姿となっていた。 「ところで先日の事だけど、出来の悪いあんたの後任者の妖鬼《ようき》がわたしの所に来たわよ。  惚《ほ》れ薬を作って男を落としたいとかいう悩みなんだけど、あんまりにも馬鹿馬鹿しいと思ったから少しからかってやったの。  正直言って、かなりあの子は頼りないみたいだけど、県境を守る役目に就かせて大丈夫なのかしらねえ?」 「大丈夫じゃろ」  式服の男は間を開けずにそう答え、視線を狐妖《こよう》から桜に移した。 「花が盛りになるのはあと、三日程かのう。ワシが植えた木が全てここに根付いてくれるといいのじゃが……あの妖鬼はこの里に根付いて随分になるから、このままよほどの事が起きない限り県境守りとしては問題は無いと思う」  桜のつぼみが朝焼け色に染まり、風に重たげに揺れる。 「むかーし、むかしの事じゃが、ワシに師と呼べる人がおった時に惚れ薬の事を教えてくれた事がある。  もっともワシは一度として使った事は無いがな」 「惚れ薬なんて本当にあるの?  良かったら作り方を教えて頂戴《ちようだい》よ」 「その師匠がワシに教えたのは、おなごの目を見据えて口を吸ってやれ、すればたちまちおなごは術に掛かったように落ちるというふざけたもんじゃよ。  まぁワシも同じような頼み事を昔、若い男からされた事があってな、その時に師と同じことを言ってやったら相手に何故か、泣き笑いのような妙な顔をされてのう。  駄目だったら酒でも飲んで忘れて、他のおなごに声をかけるようになと言って、ワシはその場から立ち去ったんじゃが、あの男はあの後どうしたんじゃろうなぁ」 「あんたの容姿なら大抵の女に、その薬とやらも効いた事でしょうね」 「おいおい狐妖よ、さっきも言った通りワシは一度として使った事が無い」 「へぇ、どうだかね。わたしはあまり色男の言うことは信用しないことにしているの。  ところで何であんたは後任者にあの子を選んだのよ。  あの子はここの生まれじゃなくて、他所《よそ》から来たんでしょ、あの子とは一体どこで知り合ったのよ?」  式服の男は細く長い蜘蛛《くも》を思わせるような指で、あごの下を掻《か》きながらこう答えた。 「んー、昔あの妖鬼の父親が職人としての武者修行をしていた時に、偶然この里を通りかかってな、その時に会ってから長く手紙のやりとりしておった。あの妖鬼のことは生まれて間もない頃から知っておる。  あやつは山奥で育ったせいか、あまり他者とは接した事がきっと無かったんじゃろうなぁ。とても人懐っこくて、ちょっと鈍《どん》くさそうなところは今とさほど変わらぬよ」  どこから来たのか、鶯《うぐいす》が飛んできて桜に止まり「ぽけっきょ」とへたくそに鳴いた。 「もう少しすれば鶯どもも鳴くのが上手《うま》くなる。あの妖鬼は昔と比べるとあれでも進歩しとるんじゃよ」 「そうなのかしらねぇ、あの子の場合一緒に連れ添っている馬の方がずっと利口そうな顔だと思ってるんだけど、あんたが見つけたんだからきっと何か見所があるんでしょうね」  鶯が薄い緑の羽を羽ばたかせて木から飛び去り、あとには揺れ動く花と枝だけが残った。 「ところでわたしが漬けた酒があるんだけど、どうかしら?」 「勧められた酒を断る理由が見つからんよ。少ししか飲めんが、喜んでいただくとしようかな」  狐妖は木の虚《うろ》の中から小さな瓶と椀《わん》を取り出して、中の赤い液体を椀に注いで男の前に置いた。 「酒の色が赤いのは、一緒に漬けた桜の実の色が移ったからよ。瓶に入れている時に水あめを足したから味は甘いけど、言っておくけどとても美味《おい》しいからね」  置かれた椀の中に、白い桜の花びらが一枚落ちて浮かんだ。  男は椀を口に運ぶと、「なるほど、確かに甘い」と頷《うなず》いた。 「これだと何か塩気のあるつまみが欲しくなるな」 「残念ながら、ここには肴は無いわ。  だけどつまみの代わりと言っちゃなんだけど、余興を見せてあげる」  狐妖は指の間から幾つもの小さな青や緑の炎を出して、鱗《うろこ》のように重ねるのを何度も繰り返し、とうとう龍の形を作り上げた。  そして、「久々だとこんなもんよね」と言って、自分で作り出した炎の龍と共に、狐は舞い始めた。  二人ともずっと口を利かず、男は甘い酒を口に運び、女は静かに薄い衣を翻しながら踊っている。共に身をくねらせる龍は、光る鱗を散らせたかと思えば一つの塊になったり、狐が手を伸ばせば鱗を扇の形に変えたりした。  龍は体と同じ色をした影をあちこちに落とし、狐の銀とも金とも付かぬ細く長い髪は錦《にしき》の糸のように輝く。  舞をじっと見ていた男は、ふいに体をピクリと震わせた。  その様子を見て狐妖も舞を中断して、男の側に歩み寄って座り込んだ。 「どうしたのさ、何かに気が付いたの? ねぇちょっと、疲れちゃったからお酒を頂戴よ」 「残りは手酌でやってくれ、ワシはどうやらもうすぐ元の姿に戻らねばならぬようじゃな、そろそろここに奴が来る」 「今の姿が元の姿じゃないの、折角の色男なのに勿体《もつたい》無い」 「おぬしの方が勿体無い」  男は両の手を前に突き、獅子《しし》のような恰好をすると、瞬く間に猫の姿になった。 「やはりこちらの方がずっと落ち着くもんじゃな」  猫の姿に戻った男は体をぷるぷると震わせた後、前足で顔を洗う動作を繰り返した。 「あんたが猫の姿を好む理由を知らないけどわたしはね、こういうことがあってから、あまり男の前ではあの姿には戻らないと決めたのよ。あんたにも昔話さなかったかしら」  狐妖は薄い衣をはだけて、背中に走る桜色に引きつった傷跡を見せた。 「わたしもこの里の生まれではなく、ここにはあちこちを彷徨《さまよ》ってやっと辿《たど》り着いたでしょ。  海も山もあるし、ここは死ぬのに丁度いいと思ったのよ。  でね、昔人間と一緒に見た芝居の影響でさ、毒を飲んで死のうと思ったの。  それでこの里の外れに湧いてた毒水と噂される気泡の浮いた水を飲んでみたんだけど、一向に死ななくてね、でもそれで何だか吹っ切れたのよ」 「ワシは、そういう類《たぐい》の話を今までおぬしから聞いた事は無いが」 「あら、そうだったっけ。  男がいてね、よくある話だけどあの時は初心《うぶ》だったから騙《だま》されたのよ。  それが悔しくて、悔しくてね、寝ている間に獣の姿で噛《か》み殺してやろうかと思ったんだけど、どうしようもなく酷《ひど》い男なのに男の寝顔がね、あまりにも穏やかだったから殺せなくって。  だから獣の姿のままでじっと男の顔を眺めていたのよ。  そして、もう帰ろうと思ったらどうやら狐の前で狸寝入りだったみたいで、後ろ姿を見せた途端に後ろからズバッと斬り付けられたの。  わたしも殺すつもりだったから、お互い様だったかも知れないけどね」 「過去は忘れることじゃな」 「もう殆《ほとん》ど覚えちゃいないわよ、ところで飲み残しを貰《もら》うわね」  狐妖は椀に残った酒を干すと口の端から零《こぼ》れた酒を手で拭《ぬぐ》い、赤いしずくを口の端で舐《な》め取った。 「あまり男運が無くってね、今は割り切ってあっさりした関係に留《とど》めているからいいけど、昔はどうしようもない人に限ってこの人と決めて熱くなってしまってさ……。  最初の男はわたしと同じ狐妖《こよう》で、いっしょに人に化けて町に出てね二人で商いをしようとか言われて人として働きながら金を貯めてたんだけどね。  ある日その金を根こそぎ持って狐だけにドロンされたのよ。これもまぁよくある話よねぇ。  他にも騙された男の数なんて、足の指を入れても足りないくらい。  長く生きているおかげで、殆どの仕打ちは忘れたけれど、それでもたまに思い出すのよ。  そう考えると、色気の無い県境の妖鬼は幸せかもね、あの子は今のところ男で苦労したこと無さそうだもの」 「あやつは、まだ自分ひとりで生きるのが精一杯じゃからな」 「ところであんたもそういう話はないの?」 「別に隠すような話ではないが……。  昔ワシは流れの道士でな。  道士になった切っ掛けは、子供の頃に部屋の中でムササビになって遊んでおったら、この子は妖《あやかし》の気が出たとか言われて親元から引き離されて、道士の元に無理やり弟子入りさせられてしもうたことだ」 「その道士の師匠とやらに、さっき言ってたふざけた惚《ほ》れ薬の処方とやらも教えて貰ったわけね」 「まぁな。  で、あの頃の道士は今と随分違う事もあって、その違いを細かく説明する気はないが、ただ妖を追い払ったり、呪《まじな》いを行うだけの仕事ではなかったということだ。  長い話になりそうなので途中は端折《はしよ》るが、ここの辺りには昔小さな小屋があってな、盲目の娘が一人で猫と共に住んでおった。  小屋の横には大きな姥桜《うばざくら》が植わっていて、当時ここの里には守り人がおらんでな、その代わりに木が邪気を祓《はら》ってくれると言われていた。  だがその木は枯れかけていてな、それが原因だったとは今も思えないのだが村は病や餓《う》えに苦しんでおった。  山に入っても何故か獣が一匹もおらず、海もそれは同様だった。  ワシも頼まれた加持|祈祷《きとう》をやってみたり、呪いをやってみたが効果は全くないと言って良く、里の人々から報酬を貰った手前、気恥ずかしさを抱きながら頭を悩ましていた。  かつてここにあった小屋に住んでいた盲目の娘は痩《や》せた体で、邪気を祓うという噂の姥桜の木の世話を誰よりも一生懸命にやっておったんじゃが、木は世話の甲斐《かい》なく枯れてしまってのう。  おまけに娘にとって運の悪いことに、枯れたとわかった日に、枯れ草から火が出たのか、里の食糧が納めてあった納屋が焼けてしもうた。  他にも臥《ふ》せっておった病人や子供が同じ日に急に死んだり、災難が次々と起こったのでこれはあの娘が木を枯らしたせいだということになった。  そして皆が集まって、ワシの所に娘を使って地鎮の人柱を立てるから、その儀式を執り行ってくれと言いに来おった。  そこでワシは、初めから半分枯れかけた木にそこまでの力は無いじゃろうし、あくまでこれは偶然だと言って、人を寄せてから手斧《ちような》を使って、皆の目の前で木を切ってやった。  したら中からばぁーっと、白い羽蟻が出て来てのう。  あれは虫が気持ち悪ぅて、衣にひっついて大変じゃったわい。  で、皆でこれからどうしようか考えようじゃないかと提案したら、盲目の娘はワシが木を切り倒したのが悪かったのか、半狂乱になって取り乱し、笑ったような泣いたような妙な顔で獣のような風のような声を喉《のど》から出しながら暴れ始めた。  それから村の若い衆が大人しくしろと取り押さえたんじゃが、娘とは思えん力で彼らを振り払い、訳のわからぬ事を言いながら、半ば這《は》うような恰好《かつこう》で駆けて山の方へと消えていってしもうた。  後にはその場におったワシと村人と、娘の飼っておった猫だけが残されてしもうてな。  山の祟《たた》りじゃとか、獣|憑《つ》きになったんじゃないかと娘の狂った姿を見て言う者が大勢おったが、ワシがそうではないと言い含めて娘を捜す事を提案した。  当時の道士は今とは違ってまだ言葉に力があったんじゃな。  後日、ワシの呼びかけで村人と共に山狩りをしたんじゃが、何度呼びかけても娘は戻って来なかった。  人の気配を恐れて、娘が姿を現さないのかも知れないと思ったワシは、村人達が捜索を打ち切った日の夜からこっそりと獣の姿になって娘を捜しはじめた。  昼間は知識を用いて里の者と共に地を豊かにするべく話し合いをし、畑を弄《いじ》り、夜は誰にも気が付かれんように獣になって娘を捜す。  そんな生活を一年程続けておったよ。  ある日ワシはふと思い立って、娘が飼っておった猫を連れて山に人の姿で捜しに行ってみることにした。  するとな、今まで一度として山で感じた事が無かったというのに、娘の気配を感じたんじゃよ。  どうして獣の姿をしていなかったワシが、娘の気配に気が付けたのかは未《いま》だに解らんが、とにかく娘の気配がしたんじゃよ。  気配を辿《たど》って行くと、そこには新しい山の神が、自分の骸《むくろ》を抱いて白く濁った目で宙を見ておった。  ようするに娘が山の神になっておったわけじゃが、神になると人としての思いは胡乱《うろん》になるからかのう。ワシの呼びかけには何も答えてはくれんかった。  だが、ワシの腕の中におった猫の声には反応してくれてな、娘が猫の方を見ると猫はワシを引っ掻《か》いて腕を抜け出して娘に飛びつきおった。  娘は己の骸を手放して、猫を腕に招き入れると同時にその場から消えてしもうた。  あの娘にとって、この世の未練は残してしまった猫だけだったのかも知れん。  ワシはその娘の骸を埋めて、そこに手向けの代わりに菊の苗を二つ植えた。  それから神になったものと関わったせいか、それとも元々そういう性質だったせいか、ワシは年を取らなくなった。  ワシは文献の中で見た、県境の守りになろうと決意したんじゃよ。  全ての選択はワシ自身が決めた事じゃし、後悔は無い」 「猫の姿でいるのは、その子が猫を愛《め》でていたからなの?」 「いや、特に意味はないが、楽なんじゃよ、この恰好がな。ただそれだけじゃよ」 「どうして娘が山の神になったってわかったのよ?」 「人と神は気配が全く異なるから会えばわかる。あやつは時折里に下りて人に混じっておるよ。異形の気配を纏《まと》った娘がおれば、それは山の神じゃろう」 「私は人が多い所がそれ程好きじゃないから、ここに長くいるのに会ったことが無いのかしらね」 「さぁなぁ。  ただ、神にはあまり出会わぬ方が良い。  彼らは妖よりも気まぐれで、それでいて強い力を持っておるからなぁ。  さて、酔いも覚めて来たことだしこの話題はここまでじゃよ」  山から一陣の風が吹き、桜の木々を揺らしたので、二人の妖はしばし口を閉じて沈黙を味わった。 「さて、なんだかお互いに昔の話ばっかり語って湿っぽくなっちゃったから、お詫《わ》びに一曲吹こうかしら」 「そうじゃな、一曲お願いしようか」  狐妖《こよう》はどこから取り出したのか、長い横笛を手にしていた。  狐妖が笛を口に当てると細く高く、澄んだ音色が辺りに満ちた。  やがて、曲の流れが速くなると狐妖は立ち上がり、力強い音色に足で地面を叩《たた》いて拍子を取りはじめた。  猫の姿に戻った男は尾で狐妖と同じように拍子を取り、三角の耳で音色に耳を澄ます。  そこに、小走りで皐月がやって来た。 「先生、あ、それに銀華さんまでこんな所にいらっしゃったのですか。  あ、お酒の瓶があるのに中身が殆《ほとん》ど空っぽになってる。  酷《ひど》いじゃないですか二人で花見をして、しかもお酒を飲んでいるなんて。  私を一言誘ってくれたって罰は当たらないと思いますよ」  狐妖はよほど夢中になっているのか、県境の妖《あやかし》の皐月がやって来たことなど目に入っていないかのように、舞いながら笛を吹き続けている。 「ああ、すまんかったな。だけどワシが今朝ここに来たら、たまたま狐妖がおったんで、物の弾みで花見の宴となっただけなんじゃよ。  ま、花の盛りはこれからだし、お前はお前でまた楽しめば良かろうて。それに酒は控えたほうがいい。  おぬしは昔酔って、ワシに散々迷惑をかけた事が過去に何度もあったではないか」  猫の言葉を聞いて舞いを止め、狐妖は笛を口から離して言った。 「その話面白そうだから教えてちょうだいよ」 「ん、何こやつに初めて酒の味を教えてやったのはこのワシでな。  止《よ》せと何度も言ったのにこやつめ高価な酒を全部干してしまいおって、それで馬に戻って寝に行けと言ったら気分がいいのでこのままでいたいと聞き分けが全くなかった。  それからお前は、みょうちくりんな豚の足を持った魚のような獣に化けて、あやうく陸の上で窒息しかけたではないか、他にも嵐の日に……」 「先生、もう私を虐《いじ》めるのはそれくらいにして下さい!」  皐月は思わず大きな非難の声をあげた。  すると猫はその話題を切り上げてふと、何かを思い出したかのように皐月に言いだした。 「そういえば、いつ頃だったか覚えておらぬが、お前の家に忍び込んだときにちょうど喉が渇いておったので、家の中に下がっておった瓢箪《ひようたん》を見つけてな。  その中身が水か酒かと思って飲んでみたら、青臭くて飲めたもんじゃない汁が詰まっておったが、あれは何か意味があったのか?」 「瓢箪の中身ですか。  私はてっきり朝になる前に干上がってしまったのかと思っていたら、先生が飲んでしまっていたんですね。あれは山に住む菊花精の姉妹から貰《もら》った菊花水ですよ。  飲むと病に罹《かか》らないで過ごせると聞いていたから、布団と一緒に飲むつもりだったのに酷い」 「酷いも何もあるものか、それだけ大切なものであるのならば、もっとワシに見つかりにくい場所に隠すか、飲むなと札にでも書いて瓢箪に貼っておけばよかったのではないか」 「先生は反省とか謝るということを、あまりご存じでないようですね」 「はて、そのような蔵の銘柄の酒があったかの?」 「とぼけないで下さい」 「あんた達、本当に平和ねぇ。あんたらがそんな感じで、この里は本当に大丈夫なのかしら」 「さぁな。  ワシもやれる範囲でしかやらんし、この任は何があるか解らんのが常だからな。  昔ワシが、県境に立っていた時に出会った蝗《いなご》の大群……あれは今でも夢に見る。  長い年月の間に、どれだけのワシが防げなかった災難があったことか……だけどワシ等は山の神とは違って、完全にこの地に結び付けられている訳では無い。  おぬしはどうかは知らぬが、ワシは程ほどに楽しんでやって来たつもりじゃよ。  昨日赤子だと思っていた者が、いつの間にか長老になっておる。  人とワシ等の時間の流れはあまりにも異なる。  だからこそ見過ごしてしまったこともあるし、だからこそ出来た事もあった。  この里に何がこれから起こるかは解らんし、それにこの先そのことを考えなければいけないのは、ここにおる妖鬼じゃよ。  皐月、おぬしはわかっておるのか?」  皐月は、「先生、時々|凄《すご》く不安になるんです」と猫の先生の問いに答えた。 「無理をするなとだけは、とりあえず言っておこう。出来る範囲でワシも手伝う」 「猫の手なんて借りたって当てになんないわよ」 「さて、それじゃ花見の続きでもするか。ワシの秘蔵の酒があるから持って来よう。  妖鬼よ付いておいで、ワシの手では重くてここまで持って来られんからな」  皐月は「わかりました先生」と言って猫の後を歩き始め、狐妖は再び笛を吹き始めた。  笛の音は春の歌を奏で、太陽の日差しは暖かく、小さな里を照らしている。  酒を取りに行く猫先生の後を歩いていくと、途中で先日|惚《ほ》れ薬を求めに皐月の元にやって来た娘が、一人の若い男に寄りかかっている姿を見つけた。  男は女の肩を抱きながら髪を撫《な》ぜている。  その様子をじっと皐月が見ていたので、猫の先生が「あの二人がどうかしたのか?」と問いかけてきた。  皐月は恋人達から目を素早く逸《そ》らしてその問いに「いえ、ちょっと……」とだけ答えた。  猫先生はとことこと尾をあげて、足早に歩きながら皐月に言った。 「なかなか似合いの二人ではないか。  あの二人の関係がこの先も上手《うま》く行くかどうかはワシにも解らんが、もし上手くいけば子供を持ち、その子と共にお前に供え物を持っていくかも知れない」 「そうですね。それは凄く先の話に聞こえるけれど、きっと振り返るとあっと言う間なんでしょうね、先生」 「まぁ、先のことばかりを考えてもどうしようもないがな。  とりあえず今日は、ワシとお前と狐妖の花見の宴を楽しむ事だけを考えようではないか」  寄り添う新しい恋人同士は、息吹《いぶ》き始めた春を楽しんでいた。 「ぽけきょっ」とまたどこかから、下手糞《へたくそ》な鶯《うぐいす》の鳴き声がした。  蜜蜂《みつばち》が花の蜜を慌《あわただ》しく運んでいる。  妖《あやかし》達に守られている小さな里の時間は、今日も平和にゆっくりと流れている。 [#地付き]了   角川ホラー文庫『生き屏風』平成20年10月25日初版発行