田辺 聖子 源氏紙風船 目 次  「源氏」は面白い小説か?  源氏という男  女は布帛《きれ》を愛す  女は什器《じゆうき》を愛す  女はセレモニーを愛す  紫の上という女  埋める作業  私の好きな文章  紫式部という女 [#改ページ]   「源氏」は面白い小説か? 「新源氏物語」は、三年半、週刊誌に連載したものである。はじめ編集部としては、適当にダイジェストして、と考えていられたようであるが、「源氏」というのはダイジェストしにくい物語で、「宇治十|帖《じよう》」まで書かずに三年半もかかり、本にして五冊分にもなってしまった。  ダイジェストしにくい、といっても、かなりわかりやすい「小説」に仕立て上った、と私は自分で思い、知人に批評をもとめてみた。  この際、友人はことさら男性の知人をえらび、また職種はともかく、なるべく文学的識見を固執《こしつ》しないと思われる人をえらんだ。なぜ男性かというと、女性は「源氏好き」や「源氏狂い」が多い。「源氏酔い」というのもあり、「源氏」という言葉だけで酩酊《めいてい》状態になる人も少くなく、女性ならたいていの人は、「須磨《すま》」ぐらいまでは知っているものである。更によく知っている人は、「源氏」の女君たちの人物評論などを好むものである。  そこへくると男性は、入試用のテキストでしか知らない、という人が多いから、「源氏」については白紙の状態で接してくれるであろうと思われた。  また、文学に縁遠い生活の人をえらんだわけは、口語訳についての見識(偏見といってもよい)を持たないだろうという、私の心だのみのせいである。文学的見識のある人は、「『源氏』は原文でよまなければ真の面白さは分らない」と固執される向きが多いのだ。それはむろん、そうに違いないが、原文の精緻《せいち》な文法に通暁するばかりでなく、当時の習俗、文物に肌なれし、作者のおびただしい教養の蓄積に見合う用意が、こちらになければならない。千年をへだてた読者としては、一般論として、かなりむりである。尤《もつと》も、いちいち注釈を覗《のぞ》き、欄外の校注を頼り、うしろのページの解説にたすけられれば完読することも不可能ではないが、それをやっているとスピードがおちる。小説をよむ面白さよりも「学業成就の喜び」になってしまう。刻苦精励してとりついていると、モーパッサンのいい草ではないが、私には、 「年をとってから、字を習おうとする老人の情熱」  といった情景が髣髴《ほうふつ》として、小説としてよむたのしみから遠くなる。(いや、原文をよんで「源氏」の面白さを知るというのは、まことにうれしいことで、その恍惚《こうこつ》の境地の万分の一は、私もうかがい知った気がするが、それは多くの口語訳で、原典のオリエンテーションを与えられたのちのことであった)  小説(「源氏」を小説として私は見て、いうのだが)をよむ楽しみの中にはスピードが大きな要素を占める。もし、現代の私たちも、かの「更級《さらしな》日記」の少女のように、息もつかせぬスピードで読めれば(つまりあの、「源氏の五十余巻、櫃《ひつ》に入りながら」得た文学少女が、「得てかへる心地のうれしさぞ、いみじきや。はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳《きちやう》の中にうちふして引き出《い》でつつ見る心地、后《きさい》の位も何にかはせむ。昼は日ぐらし、夜は目のさめたる限り、火を近くともして、これを見るよりほかのことなければ……」という、あの陶酔と狂喜のスピードをわがものとできれば)どんなに楽しく面白いことであろうと思われるが、現代ではその幸福は望めぬことで、我々は更級少女の昂奮《こうふん》をうらやましく想像するほか、ないのである。  それが口語訳であると、読むスピードが出て、「更級少女の楽しみ」の幾分かは自分のものとすることができる。それは幸わせではあるものの、そこに訳者に対する信頼がなければ、楽しみはかなり削減されるわけである。然《しか》り而《しこ》うして、大抵の文学的識見を有する人は、他を信頼することなき自負家が多いから、 「原文でなければ面白くない」  と、口語訳をおとしめる、という段取りである。  ところで、そういう知人たちに聞いてみると、一人は(四十代後半。マスコミ関係勤務)、 「本はたしかに送ってもらいました、大きに。いま女房《よめはん》よんどりますワ。僕?——いや、読まな、いかん思うのやけど、中々、ヒマ無《の》うて。週刊誌に載ってるときは、本になったら読も、思《おも》てたけど、本になったら、アンタ、五冊もあるねがな、ビックリしてもた。どッから手ェつけてええやら分らへん」  もう一人の男は(五十代半ば。自営業)、 「読みました、有名なわりに、『源氏』ちゅうもんについて何も知らんよってね、いっぺん読んどかな、いかん思うて、全巻、よみました、ちゃんとていねいに五巻よみましたで」  面白かったか、と聞くと、 「そやなあ——。(しばし絶句)まあしかし、あら、オナゴのよむもんでっしゃろなあ。あんなもん、ほんまに千年もよみつがれたんでっか。千年のあいだ、オナゴだけよんでたん、ちがいますか、男はあんまり、おもろうないなあ……」  という評であった。私にはこの二つの評がたいそう象徴的に思える。更にもう一人、これも日頃、小説とか文学に関係ない生活を送っている中年男、(年齢は聞いていないが、尋常高等小学校一年生の国定教科書、国語読本は冒頭、「サイタサイタ サクラガサイタ」だった、といっているから、やはり昭和初年生れであろう)サラリーマンの男に「源氏」を読んでもらって聞くと、彼はわりに粘着力のある男で、通勤のいき帰りに五冊を読んだ、といい、 「男が女々《めめ》しいてねェ」 「男て、光源氏ですか?」 「そう。せんでもええことして、あとで後悔する。わかってることして、あとでくしゃくしゃ考えて苦しむ。読んでて、こっちまでくしゃくしゃする。——それから女も、そうですな。何や、幽霊に魘《おそ》われてヒキツケおこすのんおまっしゃろ、夕顔、いいましたか、あれやら、朧月夜《おぼろづくよ》やら、いやもう、たより無《の》うて、スカ屁《べ》みたいで、自主性あらへん」  私はそうは思えないのだが、そういわれると、そんな気もする。かつ、「源氏」を貶《おと》しめられると、私のことを悪くいわれた気がする。 「そこへくるとあの、早口の娘が面白い、それから鼻の赤い、末摘花《すえつむはな》がおもろい、しかし、紫式部いうのは用捨《ようしや》ない人やねェ」  用捨ない、というのはどういうのを意味するのか、というと、醜貌《しゆうぼう》とか迂愚《うぐ》とかいうものを手きびしく嘲笑《ちようしよう》する、あるいは下人《げにん》、大衆、などというものをバカにしてはばからない、という。そんなことを気にしていたら王朝文学は読めない。 「それから、うんざりするぐらい着物の話ばっかり出るのに、食うもんの話がない、そのへんも退屈します。やっぱり、女の書いたもんですな」  では全く、いいところがないかというと、たとえば長いこと紫の上と結婚して安定しているのに、女三の宮との縁談が持ち上ると、またぞろ興味を寄せるという男性心理、それから、「初音《はつね》」の巻、このへんは冗長でだれるところだが、ふしぎにこの男性は面白いという。それもただ一個所、 「正月に、あちこちの女のところをまわって、夕方、明石《あかし》の上のところに来ますな、明石の上は、手許《てもと》から離した子供の手紙が来たというので昂奮して目が輝いてる、それが魅力にみえて源氏は泊っていく。泊ったけれども、明方、すぐ帰るという、このへんが男の本性をまあよく捉《とら》まえてて、面白かった印象がありますな」  そこは実は、私の口語訳に色がついているからかもしれない。尤も、そうはいっても、決して原文の意と品を曲げたつもりは、自分ではないのであるが。  たとえば原文ではこうなっている。源氏が訪れてみると明石の上の御殿は優雅で、本人はいないが、手習いの反故《ほご》などとり散らしてあり、娘の手紙をうぐいすの初音によそえて喜ぶ歌が書き散らされてあったりする。明石の上の生んだ姫君はこの正月、八歳、紫の上に引きとられているのである。源氏がほほえみつつ、それらを見ているところへ、明石の上がにじり出てくる。 「ゐざり出でて、さすがにみづからのもてなしはかしこまりおきて、めやすき用意なるを、なほ人よりはことなりと思《おぼ》す。白きに、けざやかなる髪のかかりの、すこしさはらかなるほどに薄らぎにけるも、いとどなまめかしさ添ひてなつかしければ、新しき年の御騒がれもや、とつつましけれど、こなたにとまりたまひぬ。なほ、おぼえことなりかし、と、方々に心おきて思す。南の殿《おとど》には、ましてめざましがる人々あり。  まだ曙《あけぼの》のほどに渡りたまひぬ。かくしもあるまじき夜深さぞかし、と思ふに、なごりもただならずあはれに思ふ」  この個所は、私は、 「……明石の上が、いざり出て来た。  豪奢《ごうしや》に住みなし、気位たかい女《ひと》であるが、明石の上は源氏に傲《おご》った態度はみせず、つつましく控え目であった。愛に狎《な》れて無遠慮になったりしない聡明さに、源氏はやはり心ひかれる。  源氏の贈り物の、唐綾《からあや》の白い袿《うちぎ》に、黒髪があざやかにかかっている。裾《すそ》がすこし薄くなっているのもなまめかしかった。明石の上の瞳《ひとみ》は、今日は輝いていた。小さい姫君の可愛らしい返事が、心の奥に灯をともしたように、つつましく気位たかいこの女《ひと》に、華やぎを与えていた。 『年を重ねるにつれ、あなたは美しく魅力的になるね——思ったとおり、その白い唐綾は、あなたによく似合う。今夜はこちらに泊まるよ』 『……新年早々では、対《たい》の上《うえ》はどう思し召すことやら……』  明石の上は源氏の腕の中で絶え絶えに答えたが、切れ長の瞳はつややかな情感にうるんだ。  源氏は、明石の上のもとで泊まるつもりで来たのではなかったが、艶《えん》な情趣に負けてしまうのも楽しかった。明石の上とのあいだが、そういう緊張した関係であるのも源氏には面白かった。  紫の上の不快を思わぬでもなかったけれど——。  それでもさすがに、まだ明けきらぬころ、南の対に帰っていった。明石の上は、こんなに早く帰らないでも……と、源氏の去ったあと、よけい物思いが深まる気がした」  という書き方をした。なんで長々と引用したかというと、素人の「源氏よみ」に面白がられる個所、というのは、私の口語訳がかなり原典を曲げた舞文《ぶぶん》を弄《ろう》しているのではないかと疑われる向きもあろうからである。原文の前後を更にお読み頂くと、「明石の上の瞳は、今日は輝いていた」という挿入がべつに私の恣意《しい》的な修飾ではないことがお分り頂けると思う。その明石の上の華やぎに源氏が魅力をおぼえ、予定外の行動として泊ってゆく、そのあたりが、 「男の心理、よう捉えとって」  面白い、とこの男性はいうのであって、これは私の口語訳が面白かった、ということではないのである。作者、紫式部の男性観察の一端が、千年をへだてたのちの男性読者の共感をよんだわけである。  しかし、そういう片々たる興味はあるものの、私が聞いたかぎりでは、全く白紙の状態で、「源氏物語」に生れてはじめて接した男性読者の印象としては、 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 1 とりとめなく厖大《ぼうだい》であった。 2 ほんとにこんなものが、千年もの長い間、もてはやされ、よみつがれてきたのか? 3 オナゴのよむもの、もしくは玩弄《がんろう》するものではないか? 4 男がよんではあまり面白くなく、たまに面白いのは、男の心理(女性に対する)が描破されているところにすぎない。 5 登場人物の男は女々しく、女は頼りない。 6 食べ物の話は出ない、総じて下賤《げせん》なる日常次元の話がない。 [#ここで字下げ終わり]  というような感想に集約されるらしい。これは私がことさら、文学に縁遠い日常生活者の意見ばかり徴《ちよう》したせいもあるが、現代人は要するに、「源氏物語」よりも「今昔物語」の世界の住人なのであろう。かの「今昔」の中にある、女《おんな》盗人《ぬすつと》が手下を鞭《むち》うつ話や、蛇を捕えて刻んで焼き、魚と称して売りつける話、などをよませれば、いたく面白がるのかもしれない。  あるいは、ダイジェストしやすい「落窪《おちくぼ》物語」のようなもの、起承転結があって「大団円」でしめくくられる話、ドラマ的起伏の目鼻だちがはっきりしているものであれば喜ばれるのかもしれない。  しかし現代の小説はむしろ、ほとんど「今昔物語」風である。さすれば、現今はやりの小説などであれば、彼らの嗜好《しこう》にかなうのであろうか?  そこで私は二、三のベストセラー小説を挙げてきいてみたら、彼らはその中のいくつかを読んでいて、格別に面白がってもいなかった。私は彼らを文学的識見を持たない人、という風に考えていたが、それがどうやら誤まりであるらしいこともわかった。彼らは文学的というより、人生的識見によってある作品は「文章が粗雑で好みに合わない」とか、ある作品は「紙芝居のようだ」とか形容した。結局、「男がよんでおもろい」ものは、この世にはあんまりなく、もはや期待もせず、その渇望はもっと現実的な形のあるもので充《み》たしている、そんな風であるらしい。たぶん「今昔物語」の中の登場人物自体、平安末期の実生活の中では「男がよんでおもろい」というよみものに遭遇せず、生を終ったのかもしれない。 「源氏」は千年のあいだ、所詮《しよせん》、生活者としての男たちからは無縁に、女たちと知識階層のものとして生命をとどめたのであろうか?  ある知人の男性は夫婦そろってお茶を習い出し、半年になるが、彼はおよそお茶などというものに縁がなさそうな蕪雑粗笨《ぶざつそほん》な人間である。  それがどういう風にかしこまって茶席に並んでいるのかと、想像するだけでも私には興味あるが、彼にいわせると、 「おばはんが、やかましィにいいまッさかい」  ということで、むりやり細君に引っぱられたのであるらしい。それは私にはさながら、戦国時代の荒大名が、仕様ことなく茶席に引きすえられている光景を聯想《れんそう》させる。つまりお茶というものを「源氏物語」に置き換えてみると、兵馬倥偬《へいばこうそう》のうちにあけくれて、どの時代の男たちも、それどころではない、(現代も男社会には干戈《かんか》のひびきは絶えないわけである)しかし、ともかく「源氏物語」というオナゴ文化の流れがあることは、知らないではない、なぜ知らされるかというと、 「おばはんが、やかましィにいいまッさかい」  教えこまれたのだが、それは、オトコ文化の流れとは別ものである、そういう認識があるらしい。  女・子供というが、「女・インテリ」が、千年のあいだ「源氏物語」係りになって、それ専門に守ってきた、という気がされる。私は「新源氏物語」を書いて、ことさら男性によんでもらおうと意図したわけではないのだが、「『源氏』みたいなもん、この忙しいのに」という反応が強かったので、さまざま考えさせられるところが多かったのである。彼らは「おばはんが、やかましィにいいまッさかい」に、「源氏」を抹殺したり否定したり、することはないが、ともかく「源氏」は、その係り、その専門にあずけておけば無難で、まあ触らぬ神に祟《たた》りなし、と考えている、というところかもしれない。「おばはん」というのは、無論、ここでは、オナゴ文化、武に対する「文」的発想のすべての象徴である。「源氏」に数しれず出てくる、「あはれ」「をかし」「美し」「涙」「恥づかし」「悩まし」などの言葉、それらが醸し出す気分、さらには嫋々《じようじよう》たる、切れそうで切れぬ文体、どれが主語やら述語やら分らぬうちに、おのずと状景が炙《あぶ》り出されて来、さらに水のように次の行へ流れてゆきつつ、この上なく明確に文意が把握されてゆく、あの得体のしれぬ幻惑の文章、そんな、あやしの魔的存在である。  また、さらにいえば、「源氏」がダイジェストしにくい、というのは、「源氏」がただごと小説だからである。波瀾万丈《はらんばんじよう》というドラマでは割りきれない、「ただごと」を細緻綿密に描いて、一見、何の奇もないようにみえながら遠くはなれて一瞥《いちべつ》すると、思いのほか奔放な絵柄を構成していたことに気付き、おどろくというようなもの、それからまたさらに、一種の編年体小説で、(女流の物書きはしばしば、この形を好む)長い年月の間に、出没明滅しつつ、輪廻《りんね》して変貌を遂げてゆく一人の人間を、さまざまな角度からライトをあてるという、こういうつかみどころのない巨《おお》きな物語、その中で、人生や歴史や、親子夫婦という関係について省察するという、悠揚迫らない、干戈のひびきとは異質の旋律が奏でられている、そういうものをすべてひっくるめて、「源氏」は「おばはん」的存在であるのだ。  男たちは、「おばはんがやかましィにいいまッさかい」に、「源氏」を「文」の象徴にまつりあげて、自分をその「文」的発想で陶冶《とうや》しようとは思わぬまでも、いちおう、「やかましィに」いう「おばはん」の存在には敬意を払ってきたのである。いや、厳密には、それは徳川期までの男たちであったように思われる。  明治期からの男性文化、ことに昭和初年の軍国時代は、「源氏」文化を排除することに情熱を持ったように思われる。その尾がいまもかなり男たちの間では残っているのかもしれない。  ところで、女には「源氏狂い」や「源氏酔い」があるといったが、私自身、「源氏」は質量ともにたっぷりと満腹できる、たいそう面白い小説だと思っている。  その大きな、第一の理由は、テーマがつかみきれない、ということである。年齢により、時代により、「源氏」のテーマは万華鏡《まんげきよう》のように変り、そのどれも真実に思われる。ただひとつ、いつも、この小説を読んで感じるのは、(知るのではなく、肌に照り映える熱によって、感じられる、というほうが正しい)人間の「女々しさ」の市民権、といったようなものである。男性読者が読んで「女々しいのが耐えられない」といった、その女々しさが人と人の距離や、社会との関係を裁量する、大きな、大切な感情になっている。女々しさは思いやりを生み、意地悪を生み、迷いを生み、傲りを生み、やがて昏《くら》きより昏きへの道を辿《たど》りつつ、音もなく幕はおりる、「ただごと」の人の世のたよりなさとはかなさをあますなく描いて、この物語宇宙は完結する。  これはやはり、おどろくべきことである。  女々しさがついに民族の一方の大きな精神的本流となって、千年の長きにわたって涸《か》れず、「おばはんがやかましィにいいまッさかい」と顧慮される存在、となったのは。     ***  なぜ女性に「源氏酔い」や「源氏狂い」が多いのであろうか? 実は私自身もそうなのであるが、「源氏物語」というのは、ほとんどの女性にとっては、「すみれの花咲くころ」なのである。あの宝塚歌劇のテーマソングが千年にわたって鳴りひびいているのだ。  「すみれの花咲くころ     はじめて君を 知りぬ    君を想い 日ごと夜ごと     悩みしあの日のころ   すみれの花咲くころ     今も 心ふるう    忘れな君 われらの恋     すみれの花咲くころ」              (白井鉄造作詞)  この歌詞の行のあたまを、凹凸ふぞろいにしたのは、昔の旧制高等女学校の女学生たちが卒業の際、美麗手帖《びれいてちよう》とでもいうべきものに、各自、いろんな文句や絵を、かたみに書き交したりした、そのスタイルを踏襲しているのである。この歌を、こういうふうに書いたとしたら、きっとそのページの片隅には、色鉛筆で、すみれの花など描き添えてあったことであろう。  たぶん読者の中には、神聖にして不可侵《ふかしん》の名作「源氏物語」に卑俗なる宝塚歌劇を結びつけるさえあるに、大衆向き軽音楽の「すみれの花咲くころ」など聯想するとは何ごとと、憤慨される向きもあるかもしれない。  しかし「源氏物語」と「宝塚歌劇」は、かなり大きい共通項をもっている。  つまり、両者とも、「愛」や「恋」の専売局なのである。そして愛と恋の専門家は女性で、どちらも女性の活躍が大きいことがあげられる。「源氏物語」の巻名の、字面《じづら》の美しさも、いうなら女性好みに出来ており、   「桐壼《きりつぼ》      帚木《ははきぎ》        空蝉《うつせみ》      夕顔    若紫」  などと戯むれ書きしてみると、これもさながら、戦前の女学生の愛玩手帖のページをみるようである。 「源氏物語」のテーマカラーが紫であるから、すみれの花と洒落《しやれ》たわけではないのだ。  私はスポーツ音痴で、まことにスポーツに縁遠い人間である。虫明亜呂無《むしあけあろむ》氏のすぐれたスポーツ小説の名作群によって、はじめてスポーツのもつ一面に開眼《かいげん》させられた気がしたが、それはちょっと措《お》くとして、それまで私がスポーツに対して抱いていた印象は、ほとんど恫喝《どうかつ》的なまでの専断・強引な風土というものであった。  テレビでみるスポーツの試合や、選手たちの風貌・挙措《きよそ》、種類によっては応援団というのがでてくるが、その人々のファナティックな陶酔やむきだしの闘争本能、それらに私はある種の恐怖感なしには接することができなかった。それから、時として報道される大学生たちの|しごき《ヽヽヽ》と称する野蛮な虐殺やリンチ、さらにはそこからひろがってゆく軍隊とか戦争とかいう、途方もない狂気の輪、そんなものを考えるたび、全く反対の文化がこの世にはあり、それが「源氏物語」と「宝塚歌劇」だと、痛感しないではいられないのである。  それらのオナゴ文化は、宝塚用語でいうと、 「夢々《ゆめゆめ》しい」  というようなものであり、勝敗、黒白のつかない世界の「愛」と「恋」の専門書なのである。明治以降、昭和の敗戦までのオトコ文化、軍国政府が「源氏物語」を排斥し(「源氏」の劇化上演や口語訳に際して干渉したのはよく知られるところである)宝塚歌劇を女子供のオモチャと貶しめたのは当然である。  薩長《さつちよう》政府の剛直文化が、軟弱文化、女々しさ文化、纏綿《てんめん》文化を圧迫排除したといってもよい。いや、それは明治から以降のみではなくて、江戸時代の儒家もそうだったし、「源氏物語」文化擁護の家元であるはずの天皇家からも、オトコ文化推進者は出ていた。  オトコ文化は結論する。結論文化といってもよい。結論、断定する。断定、専制がなければ軍隊は一歩も動かせない。人間を規矩準縄《きくじゆんじよう》でただそうとする儒家や、天皇家の威勢復興をはかろうとする天皇が、結論文化に執《しゆう》するのは当然かもしれないが。 「源氏物語」には、結論はないのである。  おのずからなる起承転結はあるが、さながらそれは一匹の巨大な美しき錦色《にしきいろ》の蛇であって、虹《にじ》のような鱗《うろこ》をきらめかせつつ、のたりのたりと千年の歳月を匍《は》い|もこよ《ヽヽヽ》っているのだ。あたまもなく尻尾《しつぽ》もなく、それでいて人はその玄妙の瘴気《しようき》に中《あ》てられて斃《たお》れてしまう。  その口から吐く息がつまり、「すみれの花咲くころ はじめて君を知りぬ」のテーマソングなのである。  どこからともなく、ちろちろと仄《ほの》見える舌は、   「生者《しようじや》必滅 会者定離《えしやじようり》    かなしい恋の 花吹雪……」  と唱《うた》っているようでもある。これは実は西条八十《さいじようやそ》氏の詩の一部で、氏は戦前、婦人雑誌のカラーページに名作ダイジェストを詩にして発表されたことがある。少女の私は、母の取っている雑誌のそのぺージを愛読していたが「源氏物語」のダイジェストをはじめてよんだのは、実に西条氏の詩によってであった。たしか岩田専太郎氏の華麗な挿絵《さしえ》があったように思う。婦人むけの滑かなやさしい詩で「源氏」の概略がのべられてあったが、四十数年たつとすべて忘れ果て、記憶に残っているのはやっとこの、右の二節のみである。しかしこれはなかなか「源氏物語」の特徴をいいあらわし得て妙というべき、すぐれた詩句ではあるまいか。数千枚におよぶ大長篇も、煎《せん》じつめれば、この二行になってしまう。  だから「源氏」のテーマは何ですか、とかりに問われたとしたら、この二行を咏誦《えいしよう》すれば、まるきり的はずれということにはならないであろう。しかしながら、それは「結論」ではないのだ。この世に終りのないごとく、この小説「源氏物語」は、いわば永久に未完なのである。  そういうことに堪えられない、結論をいそぎ、黒白・結着をつけたがる人には「源氏物語」は好まれないかもしれない。  それからまた、夢々しいロマンや、抽象的で流麗な文体を空疎とみるリアリスト、「愛」や「恋」の専門書に抵抗を感じる、乾いた知性主義者は、「源氏物語」に拒否反応を示すかもしれない。それらもいうなら、オトコ文化の一部である。オトコ文化日本国にはリアリストや乾いた知性讃美者、ロマン拒否者がみちみちている。日本は経済大国などではない、くそリアリズム大国なのである。近代小説愛好者は、ロマンの美しき巨蛇《きよだ》が、のたりのたりと匍いまわって、幻惑の霧を吐きかけるのを忌むのである。  物語(小説)というものは女・子供の好むものだ、と作中人物の源氏でさえ、いっている。史書は人生の一側面にすぎず、物語にこそ真実はある、といいながら、その口の下から源氏は、物語に身を入れてころりと欺《だま》される女・子供を嗤《わら》っている(「蛍」)。しかしその嗤いは憫笑《びんしよう》・嘲笑というよりも、物語のつくり手と受け手の緊密な関係、蜜月《みつげつ》の幸福のめでたさに悦に入っている、そのための軽侮をこめた親しみの笑い、といったらよかろうか。  物語——つくり話に酔う幸福、その蜜月時代は、王朝のいっときをピークに、死に絶えてしまった。  しかし女たちは死に絶えず、連綿と生きのびている。そうしていまなお、死に代り生れ代って生きつづける、美しき巨蛇に愛恋しているのである。  現代も、折々にこういう物語が作られて女・子供の熱狂的支持を受けるのである。たとえば少し前になるが、原田康子氏の「挽歌《ばんか》」などそうであった。男たちに、 「あなむつかし。女こそものうるさがらず、人にあざむかれむと生まれたるものなれ。ここらのなかに、まことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて……」(「蛍」)  と嘲笑されながら、(この場合は全く嘲笑である)むさぼり読んだのであった。  ところで、「とりとめもなく厖大な」「源氏物語」の中で、この小説を象徴するような人物として、私は「朧月夜の内侍《ないし》」をあげたいと思う。ご承知のように、朧月夜は、源氏の政敵・右大臣の娘で、源氏の兄・朱雀院《すざくいん》の寵妃《ちようひ》であるが、入内《じゆだい》以前に源氏と交渉があり、入内後もその関係がつづいていたのが発覚して源氏は都落ちの悲運を味わう。朱雀院はそれでも彼女を思い切れないで、(このへんの話の呼吸も面白いところである)愛しつづけている。そののち源氏は都へ帰り、朱雀院は譲位、出家し、朧月夜は捨てられる。  源氏はまだ朧月夜に未練があって、再び忍び逢《あ》うのであるが、朧月夜は、この小説では男になびきやすい、情にもろい性格に描かれていて、一たんは拒むが、いざ近くへ寄ってこられると「かたみにおぼろけならぬ御みじろきなれば、あはれも少なからず」互いに知りぬいた仲なので、ほんの少しの身じろぎの気配にも、心が動揺するのである。そうしてその恋は再燃した。源氏はいう、 「『ただここもとに。物越しにても。さらに昔のあるまじき心などは、残らずなりにけるを』  と、わりなく聞こえたまへば、いたく嘆く嘆くゐざり出でたまへり。さればよ、なほけ近さは、とかつ思さる」  そこは東の対であった。 「辰巳《たつみ》の方《かた》の廂《ひさし》に据ゑたてまつりて、御障子《みさうじ》のしりは固めたれば、『いと若やかなる心地もするかな。年月のつもりをも、まぎれなく数へらるる心ならひに、かくおぼめかしきは、いみじうつらくこそ』と恨みきこえたまふ。  夜いたく更けゆく。玉藻《たまも》に遊ぶ鴛鴦《をし》の声々など、あはれに聞こえて、しめじめと人目少なき宮の内のありさまも、さも移りゆく世かな、と思しつづくるに、平中がまねならねど、まことに涙もろになん。昔に変りておとなおとなしくは聞こえたまふものから、これをかくてやと引き動かしたまふ。 (源氏)年月をなかにへだてて逢坂《あふさか》のさもせきがたくおつる涙か  女、 (尚侍《ないしのかみ》)涙のみせきとめがたき清水にて行き逢ふ道ははやく絶えにき  などかけ離れ聞こえたまへど、いにしへを思し出《い》づるも、誰により多うはさるいみじき事もありし世の騒ぎぞは、と思ひ出でたまふに、げにいま一たびの対面はありもすべかりけり、と思し弱るも、もとよりづしやかなるところはおはせざりし人の、年ごろはさまざまに世の中を思ひ知り、来し方くやしく、公私《おほやけわたくし》のことにふれつつ、数もなく思しあつめて、いといたく過ぐしたまひにたれど、昔おぼえたる御対面に、その世の事も遠からぬ心地して、え心強くももてなしたまはず。なほらうらうじく、若う、なつかしくて、ひとかたならぬ世のつつましさをもあはれをも、思ひ乱れて、嘆きがちにてものしたまふ気色など、今はじめたらむよりもめづらしくあはれにて、明けゆくもいと口惜しくて、出《い》でたまはん空もなし」  昔、私は「源氏物語」を谷崎潤一郎氏の口語訳で読んだのであるが、途中からどうにも興味がうすれてしまい、完読したのはただ義務感からだけであったから、このあたりは飛ばし読みだった。やっと味読したのは円地文子氏の口語訳によってである。また、たとえ読んだとしても若年《じやくねん》のころは、このあたりのしみじみした情趣は解しにくいところであろう。源氏はすでにこの時点で、夕霧を結婚させ、娘も東宮に入内させ、養女格の玉鬘《たまかずら》も人のものになっている。中年の人生は安泰である。少し前に女三の宮を迎え、最愛の紫の上の傷心に心責められ、いつまでも絶えぬ人生の苦渋を味わってはいるが、すでにもう、若き日の恋の冒険の華やぎは遠くなっていた。  そういう中年の源氏の、人生最後の打ち上げ花火が朧月夜との再燃の恋である。中年の恋は謳歌《おうか》することなく、後悔にまみれ、背徳に沈湎《ちんめん》して、さらにそのうしろめたさを共有することで惹《ひ》きあう。  私は口語訳の場合、歌を会話体に組み込んでしまったのが多い。「若菜上」のこのくだりは、私も興をそそられて訳したので、ちょっと紹介する。  東南の廂の間に源氏の座が設けられてある。障子の裾だけ掛金をかけてあって、朧月夜はその向うにいる。 「『長の年月、あなたのことを忘れたことはなかった。あなたのために逆境に落されて、あなたのために世間から非難の石つぶてを受けたのに、あなたが忘れられなかった。そんな私を、なぜこうも疎々《うとうと》しくお扱いになる』 『お開けできませんわ、わたくしには。わたくしたちは今ではもう、何でもないのですもの』 『昔、あなたは』 『昔のことは忘れてしまいました』  夜は更け、池の鴛鴦の声がものあわれにひびくばかりである。  しめっぽい邸《やしき》のうちは人かげも少なく、さびれている。かの弘徽殿《こきでん》の大后《おおきさい》が、ご威勢盛んだった頃のおもかげはもうこの邸にはない。  移り変る世。  移り変る身の上。 『しかし、私の心は変っていない。この障子を、閉めたままで帰すつもりですか』  源氏は障子を引き開けようとする。 『とんだ逢坂《おうさか》の関だな。しかし、心は関でとどめることはできないよ。それは、あなたも知っているはず』 『いいえ。心も関所でとどめていますわ。わたくしたちの間はもう、みんな、ぷっつり切れたのですもの』 『心も涙も、堰《せ》きとめることはできないよ……』  源氏の声も朧月夜の声も、ひめやかに低くほとんどささやきにちかくなる。  源氏のいう通り、朧月夜は涙に白い頬を濡《ぬ》らしている。言葉では拒みながら、心も涙も言葉を裏切って、はかなく弱く、聞き分けなく、うなだれ、力を失ってゆく。自分との向う見ずな恋のために、源氏は都を追われ、辛《から》い目に会った。あのころの世のさわぎ、朱雀院の悲しみ。  なんという罪ふかい身であろうか。人の心を傷つけ、裏切り、それでも源氏と別れることができなかった、無分別な若い日の恋。 『そうですよ。……私とあなたは無分別に身を過《あやま》った。輝やかしい、あやまちの季節を共有した。その共有の記憶を、忘れたとはいわせませんよ。二人の仲が切れるわけはないのだ。……わかりますか? もう一度だけ逢って下さい。もう一度だけ』  朧月夜は気強くふりすてることができなかった。彼女は震える手で、掛金をはずしたのである。 『何年ぶりだろう……』  源氏は朧月夜を夜もすがら手離さない。 『いまはじめて逢う気がする……』  それは背徳の匂い濃い、成人《おとな》の恋である。  世間を憚《はばか》らねばならぬ故に、いっそう愛執の強い、ひめやかな恋である。  愛の動作は言葉なく、声は音もない接吻《くちづけ》に封じられて、妖《あや》しい、淫《みだ》らな静けさだけがある。  朧月夜は、深い悔恨にしたたか鞭打たれて涙ぐんでいる。  その姿は、源氏には愛らしい。  昔の、若かったときのこの女《ひと》より、いまの陰影ふかい中年のこの女《ひと》のほうが、ずっと美しく、愛らしい。  恋の嘆きと悔恨に、心|蝕《むしば》まれ、辛《つら》がっている、そんな女のすがたは美しい。  源氏は、彼女の黒髪を撫《な》でて、なぐさめの言葉を並べている。心ひかれ、あわれにもやさしい情趣に魅力を感じて。 (だめだ……とても、これ一度きり、というわけにはいかない……)  と思う。  朧月夜は、昔から、意志強固という女人ではなかった。情にもろく、男に迫られるとあえかに崩れてしまう。それはいまも変らないが、さすがに、それに嘆きが加わって、躊躇《ちゆうちよ》し、なやみ、つれなくしつつ、やがて、あらがいがたく崩折《くずお》れてしまう、その風情が、源氏にはかぎりなくいとしく、好もしい。 『もう、手離せなくなった、あなたを』  と源氏は、朧月夜の耳にささやく。  夜は明けてゆく。」  長い引用で恐縮だが、あとの項で、源氏の人物像や、歌の処理についての考えを書きたいと思うので、その参考のためにも書きうつしてみた。  私の口語訳では、原文の流麗にむろん、及ばないが、こうして、朧月夜は源氏と逢った。  原文ではこのあとに、 「朝ぼらけのただならぬ空に、百千鳥《ももちどり》の声もいとうららかなり」  と対照的にさわやかな晩春の早朝の描写になる。視点が一転して見送りの女房から見た源氏になるので、私は切ってしまっているが、ともかく、源氏はこのあとも朧月夜に逢っている。しかし女三の宮が柏木《かしわぎ》とひそかに通じたのを知り、それからは朧月夜との秘めた情事がいとわしくなる。朧月夜はそれを察したかのごとく、ひとあし先に世を捨て、仏門に入ってしまうのであった。  源氏の数多い情事の中でも、朧月夜とのいきさつは、派手派手しい。兄帝《あにみかど》との三角関係である上に政争に直結している。そういうかかわりに加え、花の宴の出あい、雷鳴の夜の騒動など、物語の中でも極彩色《ごくさいしき》の主人公である。まさに、「夢々しい」ヒロインであるのだ。  それが、おとなの恋のにがさを知り、やがてこの世を捨てる。女・子供ごのみの華やかなつくり話のヒロインが「すみれの花咲くころ」を唱う、波瀾の恋物語に酔い痴《し》れているうち、いつか読者は、中有《ちゆうう》の闇から吹きおろす、凜冽《りんれつ》な無常の風に巻かれるのである。  葵《あおい》の上、六条の御息所《みやすんどころ》、藤壺の宮、夕顔、そして最後には紫の上まで先に死んでしまった。空蝉も朧月夜も、世を捨ててしまった。  ひとりとり残された源氏。あんなに作者にも読者にも愛され、傲っていた驕慢《きようまん》な美貌《びぼう》の貴公子は、完膚なきまでうちのめされるのである。「幻」まできて、読者は巨大な蛇のあたまと尻尾を、やっとかいま見たのである。  人生や人間の生き死に、あるいは人生いかに生くべきかという問題は、夢々しいオナゴ文化では手に負えないもの、とされていた。それらのテーマはオトコ文化、士大夫《したいふ》のものであったのだ。しかし「源氏」は「愛」と「恋」の専門書で、女々しいオナゴ文化の代表でありながら、繊手《せんしゆ》よくそれを描き得たというべきか、女臭|芬々《ふんぷん》のロマンの奥に、生と死の深いブラックホールをしたたか、のぞかせてくれるのである。  なつかしく、永遠にあたらしい恋物語のかずかずを集めた、愛の小説の総集篇、こよない慰さめの女・子供むけのつくり物語は、全篇、美しい旋律の「すみれの花咲くころ」を歌いつつ、その低音部に、人間の生き死にや、人生無常の不気味なメロディをひびかせているのだ。その渾然《こんぜん》とした融合のしかたが、私には面白く思われる。  そして更にそのテーマを一身に具現した、というのが朧月夜の君ではなかろうか。この人は、六条御息所や紫の上ほどにも、読者の支持を受けること少いが、このヒロインの人生の軌跡を辿ってみると、まさにそれは「源氏物語」の濃密なエッセンスである。 [#改ページ]   源氏という男 「源氏物語」を私が口語訳するときの最大のたのしみは、二つあった。  一つは、原作の脱落部分を「埋《う》める」作業である。  この脱落は、錯簡《さつかん》や散佚《さんいつ》によるものではなく、原作者が故意におとし穴をしかけたものである。  たとえば源氏と藤壺の最初の機会の劇的瞬間は描写されていない。「若紫」の巻で、二人の逢瀬《おうせ》のシーンが出るがこれが最初ではないと書かれているから、読者はそれと知るわけである。しかもその「最初の機会」は、たんに源氏が言い寄ったというだけのものではないことも、このくだりの重量感のある文章で暗示されている。  あるいはまた、玉鬘《たまかずら》という姫がある。この姫君が誰と結婚するか、(というより、この物語の意識の流れでは、誰に手折《たお》られるか、誰のものになるか)ということは、読者の興味をそそる部分である。それは「藤袴《ふぢばかま》」の終りまでわからない。  しかるにページを繰って次の「真木柱《まきばしら》」の巻へ入るや、冒頭、読者はあっといわされる。すでに玉鬘は髭黒《ひげくろ》のものになっているのだ。読みすすむにつれ、庇護者《ひごしや》の源氏も、いや、当の本人の(原文風にいえば正身《そうじみ》の)玉鬘でさえ、ことの意外ななりゆきに茫然《ぼうぜん》としている始末だということが、読者にわかる仕掛になっている。  それでも源氏は男だけに、また家父長でもあり、親権者でもあるだけに、すばやくたち直って事態の収拾に努力する。自分の茫然自失ぶりをさらけ出すような愚《ぐ》はしないが、若い玉鬘は、いつまでもショックから立ち直れない。  読者はそれによってさらに、むくつけき武官、髭黒の大将と玉鬘の劇的な一夜を「あり難き世語《よがた》り」として心おどらせて想像し、「ささめく」のである。「藤袴」の巻と「真木柱」の巻の間の欠落部分を、各自それぞれ恣意《しい》的な想像で埋めてゆくわけである。  これはベタ書き込みの近代小説様式からいうとルール違反であるが、肝腎《かんじん》のところをポカッとぬかす手法は、いかにも物語的で、私には新鮮にうつる。このあたりを勝手に嵌《は》めこんで書く楽しみが、私にはあったわけである。紫式部はおそらくあの世で、 〈何もそう、はしからはしまで書けばいい、ってもんじゃないわ〉  と苦笑するかもしれないが。  この「埋める」作業については、あとでくわしく、べつに取り上げて考えるとして、「源氏」を私なりの口語訳で書く楽しみの二つめは、主人公の「源氏という男」に顔を与えることである。 「源氏物語」を若いころ読んで、最大の不満は、「源氏という男」の顔がつかめないことであった。「いとめでたし」とか「女にて見たてまつらまほし」という讃辞が臆面もなく出てくる。それは若年の頃から老齢にいたるまで、とぎれることがない。小説を書くものの側からいうと、近代小説風に洗練された心理描写と、こういう蒼古《そうこ》のおもむきを湛《たた》えた草子地《そうしじ》とが混同しているところが面白いのであるが、しかし読者の側からすれば、「いとめでたし」という風采《ふうさい》讃美は、物語への没入をさまたげてしまう。  昔、私は旧制女専の国文科で行なわれる「源氏物語」の講義が退屈でたまらなかった。「源氏物語」とは何と面白くないよみものだろうとうんざりした。あれはテキストのせいではないかと今になって思う。戦前のことなので、源氏と藤壺の密通は一大不敬罪であるから、そのくだりが教科書やテキストに載るはずはない。夕顔、空蝉《うつせみ》などは短篇としてもよくできている章であるが、およそ色めかしいところは一切|御法度《ごはつと》でテキストからカットされる。無難なところというと、「桐壺《きりつぼ》」の序章部分、その次は靫負《ゆげい》の命婦《みようぶ》の見舞、「若紫」の少女登場の場面、なかんずく面白くないのは、瘧病《おこりやまい》の養生に北山へ来た十七歳の源氏を、都から頭《とう》の中将らが迎えにくる、せっかくだから花見の宴といこう、というので、一同は山蔭《やまかげ》で風流な宴となる。「源氏物語」には宴会の描写がたびたび出てくるが、これが一、二を除きつまらぬ場面が多い。この北山の宴会などつまらなさの最たるもので、こういう部分をテキストなどに使うと、学生はみな「源氏」嫌いになってしまう。  源氏は若くて美しい盛りにはちがいなかろうが「御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに」などという讃辞が、手放しで出てくる。「たぐひなくゆゆしき御ありさま」、つまり神が魅入りそうな美しさ、源氏の君をいったん見たら、ほかには視線もうつらない、「この世のものともおぼえたまはず」とみんな涙をぬぐう、こういうのを読むと、若い読者は、ますます源氏という男が思い描きにくくなって途方にくれてしまうであろう。  小説をよむたのしみの中には、主人公に惚《ほ》れるたのしみもあり、たぶん十世紀、十一世紀の頃は少女でも、充分に源氏の魅力を思い描き得たのであろうが、現代の若者には、男の主人公の美しさを手放しでほめる小説に同調できにくいであろう。——ただしかし、これから将来はわからない。たとえばある若い女性は、沢田研二《ジユリー》の美しさを、ほんとうに、千年昔の少女が光源氏を讃《ほ》めたように讃美していた。「とにかく綺麗《きれい》な男なのよね」と、うっとりしているのである。私はジュリーの美しさは嗜好《しこう》の外なので、そういう陶酔ぶりをうらやましく思ったものである。尤《もつと》もそういううちこみかたは、江戸の娘も歌舞伎役者に陶然となったのだから、いつの時代もあることであるが、何しろ、オトコ文化のまっただ中のことで、「女にて見たてまつらまほし」というような男の美しさは、日の当るオモテ街道へ出せないたぐいのものであったのだ。  それが昨今では、オモテ街道も裏も抜道もなくなった。ジュリーの美しさは「女にて見たてまつらまほし」と大っぴらに鑽仰《さんぎよう》されている。やがて小説や物語の中で、女の美を描くように、女にみまほしい男の美、というものも、描かれるかもしれない。読者のそういう要求にこたえた作品もあらわれるかもしれない。  容貌《ようぼう》風采が思い描きにくいばかりではない。源氏の性格も、前半はとらまえどころがなく、読者は巻を逐《お》うにつれ、彼の性格の多面性につきあわされて疲れてしまう。  源氏はもともと、まめやかな性格、ということになっているが、一面、わがままで強引でもある。少女の紫の君を、父の兵部卿《ひようぶきよう》の宮が引き取ろうとする、その寸前に、鼻先から拉致《らつち》してしまう、これなどもずいぶん強引で乱暴なやりかたである。若いときに読むと、納得できない、というより反撥《はんぱつ》を感じてしまう。また、かなり「心おごり」のある男で、父帝《ちちみかど》の寵《ちよう》をたのみ、権勢をかさにきて、傲慢《ごうまん》でもある。たとえば空蝉が、二度と源氏の求愛に応じないで、衣を男の手にのこして逃げてしまう、そのため源氏は人|違《たが》えして軒端《のきば》の荻《おぎ》と契るのであるが、それならそれでよいと居直るのも太々《ふてぶて》しく軽はずみである。  しかものちに軒端の荻は蔵人《くろうど》の少将と結婚する。少将は、軒端の荻がすでに男を知っているのに気付いたろうか、どう思っているのだろうと源氏は女の様子をさぐるため、たよりをする。  この文を万一、少将がみつけたりしたらどうなるのか。しかし源氏は「われなりけりと思ひあはせば、さりとも罪ゆるしてむ」などと考える。  源氏だと分れば、少将も、〈仕様がないな〉と大目に見のがすだろうというのである。作者はそのあとへ、「御心おごりぞ、あいなかりける」全く、この傲慢はこまったもんだ、とつけ加えて源氏を甘やかしている。そういう鼻もちならぬところがいっぱいある青年だが、藤壺への思慕は純粋である。そうして「恋する若者」のいじらしさのようなものを持っている。  傲慢と純情は交互にあらわれる。藤壺との恋の場面においてシリアスな貌《かお》をみせる源氏はまた、末摘花や|源 典 侍《げんないしのすけ》を対手《あいて》のときは、オッチョコチョイといってもよく、道化者になっている。  色好み婆さん・源典侍のもとで、頭の中将と鉢合せをした源氏は、着物もほころびやぶれ、帯ひろはだかといっていい姿で引きあげてゆくという、滑稽《こつけい》なていたらくである。  これでみると源氏は、巻々によって貌がちがう。  源氏は神出鬼没といっていい。 〈源氏の人格が、もひとつ、よくつかめないから魅力を発見するまでに至らない〉  という人もあるが、私も若い頃はそう思っていた。  またこの源典侍のもとでは、源氏と頭の中将は(むろん冗談ごとではあるが)刀を抜いて渡りあう。この長篇小説中、白刃《はくじん》をふりかざす場面は、たしかここ一個所である。(夕顔の死の直前、物の怪《け》を払うのに源氏が刀をぬくところがあるが、それは別として)やさ男の典型である源氏が、刀を抜いてふりまわす、というのも若い私にはぴったり来ないユーモア感覚であった。  さらにいえば、この源氏は、いたる処《ところ》で女にぶつかり、そのたびに、そめそめとくどいている。はじめて会った女にも必らず「年ごろ思ひわたる心のうち」ともちかける。  作者は「さしも思《おぼ》されぬことも、情々《なさけなさけ》しう聞こえなしたまふ」とちゃんと指摘している。  それほど思ってもいないのに、言葉の蜜《みつ》をやさしくかけるのは、源氏の「恋する男」の能力にほかならぬというのである。  若い時分に、うかうかと、こういう場所を注釈たよりによんでいると、まことに源氏が手応えなく、いよいよ、その姿は遠くへ霞《かす》んでゆくのであった。  ところが、中年になって読むと違った。私ごときは中年になっても、物ごとの洞察力はそんなに深くなったとも思えないが、少くとも「源氏という男」に違和感はおぼえなくなった。いたるところで女をくどく源氏には、現代日本男性にない、まるでイタリー男のような爽快《そうかい》な小気味よさをおぼえる。  恋や情事に溺《おぼ》れていた若年の頃の源氏を、作者と同じように、「御心おごりぞ、あいなかりける」といいながら、許すようになってくる。  源氏の傲慢も思い上りも自負も、いまの私には面白いのである。  源氏が、かなり、なま身の肉体と肉声をもって紙の上から起《た》ち上ってきた。「源氏物語」というのは、中年になってから読めば面白い小説なのかもしれない。  前半で、さまざまな貌を源氏がみせるのも、それはそのときどきに配偶される女性により、さまざまな角度から光が照射されるためである。そうしていろんな性格が源氏のうちに芽生えてはいるものの、さすがに若さのため、どれもきわだってまだ露呈していない、大胆でもあり小心でもあり、慎重でもあり、軽率でもある。深刻でもあれば滑稽でもあるのだ。  そういう若者が、中年に達した私には、いかにもあるらしい性格のように思われてきた。  源氏が末摘花の姫君に、自分勝手な幻影の恋を抱いて、無体《むたい》に言い寄る。手折ったあとで思いのほかの、興ざめな、殺風景な姫君に失望して、それに、身辺多忙のせいもあり、すっかりご無沙汰してしまった。  仲をとりもった命婦が源氏に泣きつきにくる。あんまりお見限りなので、周囲も辛くて、と訴える。源氏は〈忙がしいときなんでね、悪いけど〉と嘆息しつつ、 〈あんまり姫君が物分りがおわるいのでね、こらしめてさし上げようと思うんだよ〉  などといって、にっこりする、それが、まことに愛嬌《あいきよう》ある、若々しい可愛いらしさで、命婦も思わず微笑しないではいられない、この命婦はかなり情理《わけ》しりの女で、「いといたう色好める若人にてありける」源氏も命婦の多情を知っていて、命婦が源氏の夜あるきを笑うと、 〈君こそ何だね〉  といい返してからかう、といった、そのへんの呼吸をのみこみ合った仲である。この命婦は源氏の乳姉妹でもあるので、ただの女房ではない親近感があるのだが、彼女は源氏を見て、 「わりなの、人に恨みられたまふ御齢や、思ひやり少なう、御心のままならむもことわり」(「末摘花」)  と思うのである。 〈むりもないわ、女に恨まれるお年頃だもの。恨まれざかりというのかしら……女に思いやり少なく、わがままなのもしかたないわ〉  と命婦は甘くなる。まさしく命婦でなくても、女ならこういうときの源氏にはつい点が甘くなるのであって、それはのちの朱雀院《すざくいん》の述懐にも、〈あんなに愛嬌があってみんなに愛された男はなかった〉とあるから、女ばかりでなく、男にも魅力ある性格だったとわかる。  頭の中将はことごとにつけて源氏と張り合い、突っぱっているライバルだが、源氏が須磨《すま》へ退居したときは、弘徽殿《こきでん》の大后《おおきさい》側の思惑もかえりみず、はるばる会いにくる。頭の中将はライバルを失って、これまた途方にくれ、われながら心もとないのである。  いつも横目で様子を探っていた好敵手が落目になれば、思う壺であるはずなのに、むしろとりのこされた感じになって、頭の中将はおちつきを失う。そうなると須磨にいる源氏の動静が気になり、なぜか源氏の謫居《たつきよ》生活までゆかしく心にくく由《よし》ありげに思えてくる。  頭の中将が陸路わざわざ源氏を訪れたのは、友情のあかしでもあるが一面、頭の中将の自信のなさ、源氏の吸引力に対抗できない弱さ、源氏のあらがいがたい魅力に負けたのかもしれない。  源氏の舅《しゆうと》になる左大臣も、若年の頃から源氏を愛して、娘との不仲を知ってはいるが、庇護を惜しまない。男性の身内に縁うすい源氏だが、妻の身内によってかなり心なぐさめられるのである。  男をも女をも惹《ひ》きつける源氏のよさ、というのは、第一に、「かわいげ」のようなものではないかと思われる。  いったん契った女性は向うが去るならともかく(中川の女のように)こちらからは決して切らない、というのもその「かわいげ」であろうけれど、ともかく心づかいがこまやかである。  葵《あおい》の上が死んだあくる年の正月、源氏は舅と姑《しゆうとめ》のもとへ早々とおとずれる。姑の大宮は果して例年通り、源氏の春着を新調して待っている。もし源氏が年賀に訪れなかったら、大宮はどんなに淋しく思ったことであろう。  あるいはまた花の宴のあと、源氏は左大臣と宴の話をしていて、何よりもまず頭の中将の舞をほめる。左大臣は長男の頭の中将を愛し、自慢にも思っているので、源氏はそれを察してやるわけである。そういう気くばりは迎合というものでなく、ごくしぜんに身についたもので、どうすれば相手を喜ばせ、相手が欣然《きんぜん》と返事できるかを、天賦の才で知っているとしか思われない。  むろんそういう才能が、プレイボーイとしての資格をかたちづくっているにちがいないのだが、源氏のやさしさは、彼がお婆《ばあ》ちゃん育ちであることにもよるような気がされる。  源氏は六歳まで祖母に育てられたせいか、老人には格別の親和力を発揮する。朝顔の宮をくどくために、同居している女《おんな》五の宮にまず挨拶にゆく、これも将を射んとせば馬を射よというだけではない、源氏の身についたものとしかいいようのない性癖である。  花散里《はなちるさと》を訪れるときには、これも同居している麗景殿《れいけいでん》の女御《にようご》、父帝の妃にまずご機嫌うかがいをし、やさしい言葉をかける。姑の大宮が歿《な》くなったときも、実子の頭の中将(このときは内大臣になっている)より心こめた法要をするのである。  夕顔とめぐり逢《あ》うきっかけになったのも、重病の乳母《めのと》の見舞いからであった。源氏が見舞うと、老いた乳母は涙を浮べて喜ぶ。源氏のやさしい言葉に、もういつお迎えがきてもよいという。源氏は義理や厄介で見舞いにきたのではなく、しんそこ乳母を思って、下町の家をお忍びでたずねてきたのであるが、しかしそのすぐあとに、女世帯の隣家が気になって、 〈誰が住んでいるのだ、調べてみろ〉  と血の気の多い男なのである。乳母の息子の惟光《これみつ》が中《ちゆう》っ腹になって、 〈知りまへん〉  とむくれているのも尤《もつと》もであるが、しかし年老いた乳母にやさしい言葉をかけるのも、ゆえありげな女の館《やかた》が気になるのも、その根は同じで、ともに天与のやさしさのせいである。人間の心と心の関係に深い関心と興趣をもつせいである。  源氏のそういうやさしさは、至るところに金砂子《きんすなご》のように細緻《さいち》綿密にばらまかれている。  明石《あかし》の上に子供が出来、源氏は遠くはなれたその子を案じて、京から乳母を送ってやる。  そして明石の上へのたよりの端《はし》に、 「乳母はどうしていますか」  と一、二行書き添えるのである。こういうのを人間のかわいげといわずしてなんといおうか、乳母は明石で、明石の上|母子《おやこ》となじみながら、なお、都を長くはなれて物寂しかったのであるが、源氏のひとことで、なぐさめられ、心なごむのである。  あるいは、女三の宮に不義の子の薫《かおる》が出来る。源氏は表面上、いうまでもなく実子として育てている。源氏の邸には、明石の女御の生んだ匂宮《におうみや》らも共に育てられており、本来なら、薫は臣下であるから匂宮と同じ扱いをしてはいけないのであるが、差別をすると、心の鬼に責められる女三の宮が、あらぬ気をまわしてひがむかもしれない、それがあわれで、源氏は敢《あえ》て、薫も匂宮も同じように分けへだてせず扱うのである。  そのへんの心くばり、気づかいのこまやかさは、これはもう、女の気苦労の世界である。——いうなら、女ばかりの世界の中で、心を磨《す》り減らし、気を使って生きぬいてきた女の苦労人の考え方である。  そういうやさしさ、かわいげを持つ一方で、源氏はなお、やはり悍馬《かんば》のような男である。  肝《きも》を冷やすような、政治生命を賭《か》けるほどの恋にはことさら心そそられる。藤壺といい朧月夜《おぼろづくよ》といい、「道ならぬ恋」にばかり情熱を持つ。求めて得た苦労だから誰も怨《うら》もうすべもないのだが、そういう、「しなくてもいい苦労」をするところが、男の業《ごう》のようで面白い。  女の苦労人のようなやさしみをもちながら源氏はやはり男だと思うのは、紫の上をなぐさめるのに、彼はしばしば、 〈どの女よりも、あなたを愛している〉  という言葉を洩《も》らす。  これは男の発想で、女にとっては、そういう言葉はなんのなぐさめにもなりはしない。  女は、ただ一人の女として愛されるのでなくては充《み》たされない。しかし、あまたある女の中で、一ばん愛されている、というのこそ、女の幸福ではないかと、源氏はけげんに思う。紫の上はそれに対して複雑な微笑で酬《むく》いるばかりである。女の発想との違いは平行線であって、それはついに交わることなく終る。そのへんも面白い。  須磨から還《かえ》って昔にまさる威勢を振う源氏は、政治家として、田中角栄ばりの策士ぶりをみせてくれる。これもめざましい変貌である。 「源氏物語」は源氏が登場してこその小説で、源氏の出ない「源氏物語」は私にはクリープのないコーヒーと同じである。「宇治十帖」よりも、源氏の出る巻々はやはり線が太くて手ごたえがあっていい。     *** 「源氏物語」を小説として読むとき、——いいかえれば、主人公の源氏という男に近代小説風な魅力を発見したいと思うとき、邪魔になるものの一つに敬語がある。「源氏物語」を美しくもし、わずらわしくもさせているのは敬語である。敬語は文中に蝶のようにおびただしく乱舞して、誰もかれも(本当は敬語で飾られている人と、そうでない人とは、劃然《かくぜん》と分けられているのであるが、読み手の印象としては、やたら敬語が目につくのである)敬語まみれになっている。  主人公でさえ「君は……したまふ」と敬語の鱗粉《りんぷん》を浴びせられ、それらは現代人のわれわれの目にはまことに異風にうつって、作者と読者との蜜月を妨げてしまう。だから草子地の体裁を解体して、敬語の鱗粉をとっ払ってしまうと、かなり「源氏という男」がハッキリ見えてくるのであった。〈源氏は……した〉と読むと、(あるいは書くと)急に靄《もや》が晴れて、源氏の顔があらわになってくる気がする。源氏や、それに近い周囲の登場人物なぞは、中古の迷妄とでもよぶべき美しい靄、敬語を吹き払って読んだほうがいい。  ただ、皇族、それに近いすじは、血や身分の高貴を重んじた王朝の薫《くゆ》りに身を浸すために、敬語をそのままに読むほうがいい。更に、あの精緻で正確で流麗な敬語が、身分たかき女人たち、藤壺の宮や六条御息所たちに、幻妖《げんよう》な光耀《こうよう》を与えていることも、見のがしてはならぬ。彼女らは敬語にまつわられるとき、一層神秘な窈窕《ようちよう》の美女に昇華する。  敬語の次に当惑するのが冒頭の「桐壺」の巻である。  物語は必らず、主人公がいつ、どこで、どのようにして生れて、ということから説きおこされるのだから、「桐壺」は一大長篇のプロローグとしてなくてはかなわぬ巻であるが、しかし老い馴《な》れた平板な叙述がつづいて、退屈な巻だ。  源氏の生い立ちに読者は必らず立ち合わねばならず、しかもその薄幸な生い立ちが、人間形成の過程や人生の節目ごとに透いて、二重うつしになるのであるから「桐壺」は重要な巻にはちがいないのだが、まことに気ままな読者たる私は、子供時代の源氏に興味がないのである。鴻臚館《こうろかん》の観相のくだりは、中世の読者たちの興味をそそったかもしれないが、現代のわれわれは、天中殺《てんちゆうさつ》や血液型分類など雑多な知識をあたまの物置に抛《ほう》りこんでいるので、相人がいかに源氏少年をほめちぎろうとも、それで以て、未知の運命の神秘におののく、という気にはなれないのである。  桐壺帝と更衣《こうい》の悲恋が、玄宗《げんそう》と楊貴妃《ようきひ》になずらえて語られるのも、紙の上だけのかなしみで、いかにもよそよそしい。(たとえばこれを「幻」の巻の、紫の上を失った源氏の、身も世もない悲嘆と慟哭《どうこく》にくらべてみるとよい。「幻」の巻でもここと呼応するごとく、「長恨歌《ちようごんか》」が出てくるが、そのくだりの哀切は、まことにぴったりと適合している)  三十数年前、女専国文科で「源氏」の講義をされた先生は篤学の温和な国文学者であられた。もうかなりのご老齢で、テキストをお読みになると、入れ歯がカクカクと鳴り、髪も眉も白く、お声は震いがちであった。  それが、より一層、講義に荘重味《そうちようみ》を添えた。 「野分《のわき》だちて、にはかに膚《はだ》寒き夕暮れのほど……」  ではじまる、靫負の命婦の訪問のくだりである。私は桐壺帝の涙にも、母君の涙にも共感できなくて、テキストの蔭で欠伸《あくび》をかみころしていた。先生の荘重な震え声と、カクカクと鳴る入れ歯の音を聞きながら、(まあなんと「源氏物語」とは退屈な小説であることか)と痛感したものだった。「枕草子」には「はるかなるもの」というくだりに、「陸奥国《むつのくに》へいく人、逢坂《あふさか》こゆるほど」とか「うまれたる乳児《ちご》の、おとなになるほど」というのがあるが、「源氏物語」を読了しようという殊勝な心がけをおこした現代人が、意気ごんでとりかかった「桐壺」の巻を、読みすすめば読みすすむほど、心持がいつしか萎《な》えて、まだあとどのくらい読まねばならぬのかとうんざりし、残りのページをながめやって、 〈はるかなるもの——『源氏物語』の一の巻をよむほど〉  という感懐にうちのめされるであろう。  まことに横着な私は、「新源氏物語」を書くとき、「桐壺」の巻は省略してしまった。  現代小説として読むために、冒頭はやくも颯爽《さつそう》たる恋の狩人《かりゆうど》として、源氏を登場させたかったのである。  これはしかし、あながち私の不遜《ふそん》な削除ともいえず、次の巻「帚木《ははきぎ》」へすすむと、すでに源氏は十七歳の恋多き青年貴公子として登場している。われわれは、三つで母に死に別れ、その意味も分らず無邪気にきょときょとしている幼児の源氏、六つで祖母に死に別れ、物心ついて泣いている源氏、十二の初元結《はつもとゆい》にはにかんでいる少年の源氏を見てきた。  退屈ではあるが、それはさながら、絵本を繰って場面のうつりかわりを追うように、納得できる成長ぶりであった。そしてその背景に、淡彩で、藤壺の宮への思慕や、弘徽殿の大后の憎しみなどが点綴《てんてつ》され、書きこまれている。  すべて、平面的な絵本である。  そこでは、桐壺院と母君の悲恋も、絵本の一隅に、ぼかして描きこまれている。  ところが、次のぺージ「帚木」へくると、突然、すべては変貌する。ページから風が吹き、めくれ上り、人物たちは起き上って話し、あるきはじめる。  人々は、絵本の額縁《がくぶち》からぬけ出てきたのである。  源氏はにわかに変貌し、この巻では驕慢《きようまん》で放縦《ほうしよう》で、女を扱い馴れた青年になっている。  源氏にはかの、「伊勢物語」の筒井筒《つついづつ》のくだりにみられるような、ほほえましい少年少女の初恋の思い出はなかった。(それは息子の夕霧がひきうける役廻りとなっている)  後宮《こうきゆう》の年長の女人のあいだで揉《も》まれて、源氏は義母に想いをかけるという変則的な恋を強いられる。稚《おさ》ない淡味《うすあじ》の恋を知らないで、はじめの出だしから、濃密強烈な恋の美禄に中《あ》てられてしまっている。そういう青年源氏が、突如、登場してきて、読者は俄然《がぜん》、緊張するのである。  現代風嗜好からいえば、その時点から物語が展開してゆくほうが面白いわけである。  源氏は、方違《かたたが》えにいった紀伊の守《かみ》の邸《やしき》で、歓待を受けながら、「女遠い」不満を仄《ほの》めかして、 「とばり帳もいかにぞは。さるかたの心もなくては、めざましき饗《あるじ》ならむ」  と暗示している。源氏は独り寝を「いたづら臥《ぶ》し」と表現し、〈女の用意はできていないのか〉と冗談をいってあるじを困惑させている。  冗談のようでもあり、本気のようでもあり、読者はまだ、源氏という青年がよくわからない。  ただ、こういう、いっぱし遊蕩《ゆうとう》の手だれらしい挙措《きよそ》やら、それに宮仕えするはずだった空蝉が、伊予介《いよのすけ》の後妻になったことについて、 〈男女の縁《えにし》というものはわからないものだな〉  などと、若いくせに老成した知ったかぶりの口を利く、世故《せこ》たけた早熟さやら……そういうものが、なんとなく源氏の〈背伸び〉を思わせるところがある。  そしてそれは、源氏の高い身分や位と、無関係ではないらしく思われる。源氏はやんごとない公達《きんだち》の躾《しつ》けを受け、早熟・老成を強いられる。  したがって、雨夜《あまよ》の品定めで、中の階級の女に興味を抱き、空蝉や夕顔と交渉をもつ源氏は、かなりまだ背伸びしているところがあり、傲慢もエゴもむきつけである。  ところで、われわれ読者が、変貌した源氏の姿に初めて接して衝撃を受けるのは、暗い室内へ踏みこんだ彼が、「ものにおそはるる心地して」おびえている空蝉を、 「年ごろ思ひわたる心のうち」  と口から出まかせの常套《じようとう》文句でくどき、 「人|違《たが》へにこそはべるめれ」  とかすれかすれの声で拒む空蝉を抱きあげて奥の寝所へはいってしまう、障子をひきたて、おろおろとついてきた女房の中将の君に、 「暁に御迎へにものせよ」  と言い捨てる後姿である。読者は中将の君と共に瞠目《どうもく》したまま、茫然自失して、障子の向うに去った源氏の後姿を見ている。絵本の中の可憐《かれん》な小萩《こはぎ》の少年は、かくて完全に変貌した。  さあ、はじまるぞ。 「はるかなる道」とうんざりしていた「源氏物語」は、やっとスイッチがはいりモーターが唸《うな》り、電灯があかあかとついて作動しはじめたのである。  私にとって、このときの源氏の、人もなげなる振舞の後姿は、象徴的でもあり、ショックでもあって印象深いのである。このときの源氏は年立《としだち》では十七歳であるが、かなり遊びなれた印象である。ついでにこの物語の人々のトシについて思うことがある。 「源氏物語」を読むとき、いちいち、そのときの年齢をたしかめるのは無用のことだと思う。作者は、必然性のあるときは、ちゃんと年齢をしるしている。歴史年表ではないので、ただ物語の流れのままに、前後の雰囲気からおぼろげに想像するのが、ふさわしいような気がされる。 「源氏物語」の中の人々の年齢は象徴的な年齢ではないだろうか。研究によって年齢を割り出すことはできても、王朝の年齢感覚は現代とむろん違うのだし、それは小説を味わう上には直接的に必要でないように思われる。  作者が明示した以外は、漠然としたそのあたりの年齢を思い浮べればよく、明確にしている年齢だって、想像の一つの目安にすぎない。たとえば六条《ろくじようの》御息所《みやすんどころ》は、十六で前坊と結婚、二十で未亡人となり、三十で「今日また九重《ここのへ》を見たまひける」となっている。御息所のこの年齢は、古来、計算が合わないとて研究者を苦しめてきたものの一つであるが、十六、二十、三十というのは、女の半生の歴史を連想させる象徴的な数字ではなかろうか。その数字にまつわる、さまざまな思い入れを読者それぞれの人生キャリアでふくらませて読むべきであって、作者の紫式部は数字に合せようと心を用いたとは思えない。御息所が、もっとも哀切に、もっともたおやかに、薄命の佳人らしくみえる距離を測定して、とりあげた数字のような気がする。  さて、源氏は色好める貴公子として、華やかに、颯爽と躍り出た。「帚木」の巻で私ははじめて子供でない源氏を見たのであるが、源氏のなま身の体躯《たいく》を感じさせられる個所も、この巻にあった。  源氏は空蝉に二度の逢瀬《おうせ》をせまり、その弟の少年・小君《こぎみ》を籠絡《ろうらく》して、手紙をやりとりしようともくろむ。空蝉は拒み、弟を叱りつける。 「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」  ませたことをいいなさるな。もう源氏の君のおそばへ上らないでおおき。空蝉は弟を牽制《けんせい》するが、小君は源氏に召し寄せられて、〈待ち暮らしたよ。姉上の返事は〉と聞かれる。  小君は姉に叱られて、手ぶらで帰ってきている。源氏は怨《えん》じて、 〈なんだ、貰ってきてくれなかったのか、がっかりだ。頼み甲斐《がい》のない子だな。君は知らないだろうけど、私は、あの伊予介の爺《じい》さんより先に、君の姉上と愛し合っていたんだよ。でも私のことを、あの人は頼り甲斐のない、頸《くび》の細い若僧だとみくびって、あのたくましい頑丈な中年男の方にのりかえて、私を馬鹿にしていられるらしい。でも君は私の子供のつもりでいておくれ。どうせあの爺さんも行先長くないだろうからね〉  源氏は口から出まかせをいう。小君はそれとも知らず、へーえ、そんなことがあったのかあ、と感じ入って目を丸くして聞いている。  源氏はおかしくてならぬのであった。そののちも、この子をつれ歩いて、文使《ふみづか》いにし、あわよくば、と思っている。 「たのもしげなく、頸細しとて」  という言葉はここしか出てこないが、「頸細し」という形容は、いかにも非力、羸弱《るいじやく》な若者を彷彿《ほうふつ》とさせる。王朝の男たちは頭髪を頂《いただき》にまとめて頸すじを露出している。老いは、後から見た頸すじに顕著である。若者は、肥痩《ひそう》にかかわらず、何となく心もとないほっそりとした頸すじをみせており、中年になるに従い、風雪に堪える一つ松の如き頑丈な頸すじになったにちがいない。紫式部は当時の若者たちをつぶさに見る機会があったのだろう。若い源氏は頸がほっそりしているばかりではない、体躯も贅肉《ぜいにく》がついていず、すらりとしていたのである。  このときから十五、六年のちの、三十をすでに出た源氏の描写が「松風」の巻にある。  源氏は明石の上を上京させ、大井川のそばの邸に、明石の上を訪れる。久方ぶりの再会に、男も女も感慨が深い。源氏からみる明石の上は女ざかりで、 「たをやぎたるけはひ、皇女《みこ》たちといはむにも足りぬべし」  しなやかに美しく、皇女といってもいいくらいの品のよさであるが、明石の上からみる源氏も、男ざかりの美しさにあふれている。 「いたう、そびやぎたまへりしが、すこし、なりあふほどになりたまひにける御姿など、かくてこそ、ものものしかりけれと、御指貫《おんさしぬき》の裾《すそ》まで、なまめかしう愛敬《あいぎやう》のこぼれ落つるぞ、あながちなる見なしなるべき」  源氏は、昔はすらりとして痩《や》せて、丈《たけ》ばかり高くみえたが、中年を迎えたいまは、丈に釣合うほど、肉付きがゆたかになっている。これでこそ、貫禄がでてきたといってもよく、指貫の裾まで、男のなまめかしい魅力がこぼれ落ちそうだ、そう明石の上は思ったが、それは贔屓《ひいき》のしすぎというものであろう、と作者はつけ加えている。  源氏の中年の魅力を汲《く》み取れるのは、三年会わなかった明石の上であった。そしてまた、明石の上も、いまは子持ち女になり、中年の領域に足をふみ入れようとしている。明石で会った若年の「頸ほそき」源氏と、いまの肉付きのいい源氏の変貌《へんぼう》に、歳月のうつり変りを見ている。  読者の私達には、源氏の肉体を目《ま》のあたり見、捉《とら》えるような心地がして、かくて源氏のイメージが定着し、生きて動き出すのを思い知るのである。現代のわれわれは、「いとめでたし」と形容される美貌は思い描きようがないが、「頸ほそし」といわれた若者の、たおやかな細い躯《からだ》を、年上の御息所がどんなに愛したか、「賢木《さかき》」の巻の二人の風趣ふかき別れに、御息所はどんなに心乱したかを読みとることができるのである。  折しも道は露けく、風冷やかに松虫の鳴きからす秋である。月光に仄見た源氏のおもざし、まだただよう残り香《が》、それらに心しめつけられる思いの御息所は、いつまでも、「頸ほそき」源氏のうしろ姿を思い浮べていたにちがいない。  そして中年になり、丈と肉づきと釣りあう恰幅《かつぷく》をそなえた源氏は、また、若年のころと全くことなる反応を、周囲の女性たちから引き出すのである。  りっぱな堂々とした貫禄の源氏は、明石の上にとって、慕わしくも憎らしい存在になっている。子供を奪われた明石の上の怨みは深い。紫の上に子供を托《たく》したのは明石の上の心からのことであった。納得して渡したのであるが、女人は、ハートで考えることと、あたまで考えることはちがう。あたまでは納得しているのだがハートは納得していないのだから、さしもに聡明な明石の上も、いつまでも鬱屈《うつくつ》するものをもてあましている。それをぶっつけるのに、肩幅もがっしりし、胸腔《きようこう》が発達し、頸すじの太くなった中年の源氏は打ってつけなのであるが、たしなみ深い明石の上は、あからさまに拗《す》ねたりふくれたりすることができない。しかし声にもならぬ声で訴え、恨む。  尽きせぬ怨み、辛《つら》み、言葉に出し得ない重苦しい痛みを、中年の源氏は全身で感応《かんのう》して堪える。若年の頃の源氏であれば、この重さに辟易《へきえき》したであろうが、貫禄のついた源氏は、足をふんばって堪え、全力をあげて明石の上を包みこもうと努力する。「薄雲」の巻の明石の上は、そういうやるせなさを忍びかね、堪えかねて重いため息のみ洩らし、源氏を悩ます。 「つらかりける御契りの、さすがに浅からぬを思ふに、なかなかにて、慰さめがたきけしきなれば、こしらへかねたまふ」  源氏は言葉をつくしてなだめるのであるが、明石の上のふかい怨みは解くよしもないのである。明石の上は、手応えのありすぎるたくましい、どっしりした中年の源氏につきぬ恨みをうちつけるのである。  そういう源氏は、また、別の女人、たとえば、もっと若い玉鬘、秋好《あきこのむ》中宮らにとってはいかばかり威圧感にみちた、巨《おお》きな存在であったろうか。玉鬘も秋好中宮も、若い時の源氏を知らない。自分たちの前に現われたとき、すでに源氏は親に代る位置にあり、はるかに年長で、はるかに人生を生き|すれ《ヽヽ》ており、抵抗できない、運命そのものの存在のようにみえたかもしれない。源氏の挙措進退はおもおもしく、微笑をたたえたその顔の奥には、玉鬘など若い女の思いもよらぬ佶屈《きつくつ》した感情がかくされている。どっしりした中年の源氏の体躯は、若い玉鬘にはむしろ畏怖《いふ》をさえおぼえさせたであろう。  源氏をそういう風に捉えて、はじめて私は身を入れて「源氏物語」を読むことができたのであった。小説を読む場合、私は何か、非常に印象的なシーンとめぐりあってはじめてその物語世界の中へ没入できるくせがある。  そのシーン、あるいは、一つの言葉、ひとくだりの会話は、物語宇宙へのドアを開くキイである。たとえば「風と共に去りぬ」の世界へ私を誘《いざな》ってくれるのは、パーティに出ようとするスカーレットが、黒人女中のマミイにぎゅうぎゅうとスカートの腰を緊《し》めあげさせている場面である。私だけではなく、かなり多くの女性読者はこのくだりからあらためて、「風と共に去りぬ」の中へ引きこまれてゆくのではあるまいかと思われる。 「源氏物語」を読んで、源氏が肉体をもった男として、たちあがってくるそのキイワードは、私の場合、「帚木」の巻の「頸ほそし」と「松風」の巻の「ものものしかりけれ」であるのだった。うかうかと読みあさっていた若い頃は、源氏といえば、プレイボーイらしく、若いときから死ぬまで、ただ、「いとめでたし」という一本調子の美男であるように想像していたが、源氏は年を加え、年代の銹《さび》を加えて、その折々の男性美を見せるのである。  紫式部は、若い男、中年の男、老年の男の美のそれぞれに敏感な女であったように思われる。ある意味での「好き者」で、彼女はあったのだろう。     ***  源氏を恋の狩人、と私は書いたが、しかしそれは粋人《すいじん》ということではない。源氏は生涯、悟ることはなく、恋の諸訳《しよわけ》を知ることなく、無明《むみよう》の煩悩《ぼんのう》地獄をさまよう。昏《くら》きより昏きうちに生を終えてしまう。  源氏はあまたの恋を経験しながら、ついに粋人にはなれなかった。彼は、一大|野暮《やぼ》の骨頂なのである。勿論《もちろん》、そのゆえに「源氏物語」をよむ楽しみがあるのだから、当然であるが。  粋人は小説の主人公にはなり得ない。  粋人たらんとしてのたうちまわりながら、どこかで粋人への道をまちがえてしまい、迷路をぐるぐるまわっている、源氏はそういう男である。 「源氏物語」をよんでいて、私が、粋人と思うのは、父帝《ちちみかど》の桐壺院である。桐壺院は研究書によると実在の醍醐《だいご》天皇に擬《ぎ》せられているようであるが、「常にゑみてぞおはしましける」といわれた柔和な醍醐帝と「なつかしうなまめきたる方《かた》は、延喜《えんぎ》(醍醐帝)にも優《まさ》り申させ給へり」(「大鏡」)と世人の評したという寛仁《かんじん》の君、村上帝との双方合せたイメージがある。ことに村上帝は「いと色なる御心|癖《ぐせ》」であった。后《きさき》の安子《あんし》の妹にしてわが弟の妻なる登子《とうし》に忍び逢い、安子も登子の夫も死んだのち、登子を貞観殿《じようがんでん》の尚侍《ないしのかみ》として寵愛《ちようあい》する。また絶世の美女といわれた芳子《ほうし》女御を愛して「生きての世死にての後の後の世もはねをかはせる鳥となりなむ」女御のかえし、「秋になることの葉だにもかはらずばわれもかはせる枝となりなむ」と「長恨歌」をふまえて唱和する人でもあった。  また優にやさしき歌人であった斎宮《さいぐう》の女御|徽子《きし》からも「さらぬだにあやしきほどの夕暮に荻《をぎ》ふく風の音ぞきこゆる」と恋われ、〈哀切のおもい堪えなかった〉という人でもあった。その一面で、中宮安子の、嫉妬《しつと》ぶかくも愛すべき人柄のよさを見ぬく力ももち、安子を理解し愛して、二人のあいだにおびただしい皇子皇女を儲《もう》けた。  村上帝は〈自分のことを、人はどう評しているか〉と侍臣に問う。 〈ゆるやかな君でおわしますと、世は申しております〉と答えると、 〈それなら褒《ほ》めているのだな。君たるものが厳しいという評判をとったら、世の人はたまらぬだろうからな〉  村上帝はなつかしい逸話のかずかずに飾られる人である。安子中宮が恋多き村上帝に嫉妬して、帝が訪れても格子をあけぬことがあった。帝は格子を叩き煩らって〈なぜあけぬかと問え〉と殿上童《てんじようわらわ》にいいつける。童はあちこちめぐるが、戸という戸はすべて閉《た》てられている。細殿《ほそどの》の入口だけあいていて人の気配がするので、童が寄って仰せ言をつたえると、いらえはなくて、ただ女たちがどっと笑う声がする。仕方なく童はたちかえって、帝にそう報告すると、 「帝も打笑はせ給ひて『例の事なり』と仰せられてぞ、帰り渡らせおはしましける」(「大鏡」師輔伝)  安子中宮のわがままを笑って興じられる大人なのでもあった。清涼殿《せいりようでん》の梅の木が枯れたとき洛中《らくちゆう》に代りの木をさがし求めた。西の京のある邸に、色濃く咲く美しい梅をみつけた使者は、勅命なればと掘り取るのである。家の女あるじは「勅なればいともかしこしうぐひすの宿はととはばいかが答へむ」の歌を木に結びつけて奉る。帝が調べさせると、貫之《つらゆき》の娘の家なのであった。帝は心いたみ、 「遺恨のわざをもしたりけるかな」  と恥じ入る、風雅を解する君であるのだった。  それゆえ、村上帝が崩御し、狂疾の君・冷泉帝《れいぜいてい》の御代《みよ》になったとき人々は「世はくれふたがりたる心地」がした。崩御の翌年、小野宮実頼《おののみやさねより》の邸で宴会が開かれたとき、催馬楽《さいばら》を謡いながら、宴の興がたかまるほどに、 「あはれ先帝のおはしまさましかば」  と笏《しやく》もおき、あるじをはじめ人々は袍《ほう》の袖を濡らしたということである。 「何事も聞き知り見分く人のあるは甲斐あり、なきはいと口惜しきわざなり」(「大鏡」昔物語)  村上帝はよく聞き分け見分け、分別裁量し、鑑賞し、賞玩《しようがん》し、物のひびきに応ずるごとく、感動を共有してくれる稀有《けう》の名君であった。「大鏡」の作者は、村上帝亡きのち、世の秩序はめちゃめちゃになった、といっている。社会的秩序と共に美的節度もともに崩壊した。村上帝のもとでは、何をしても映えた。帝の褒め言葉、帝の感動、帝の哀傷、すべてが尽きぬ逸興の源泉であった。人々は、帝に傾倒し、心服し、帝は世のすべてのものの頂点にあって、光りと栄えを鍾《あつ》め、敬愛を捧げられた。  その記憶は、そのまま「源氏物語」の桐壺帝にあてはめられているように思われる。桐壺帝の印象は、情理《わけ》知りの垢《あか》ぬけた人である。  桐壺帝のもとでは世は泰平におさまり、帝は世の鎮めであった。次の朱雀院の時代は右大臣が政権を執り、朱雀院は全く実権がない。かつ朱雀院は優柔不断で弱気で、劣等感にみちみち、到底、世の鎮めとなる力量はない君として描かれている。  その次の冷泉院、実は源氏の子は、栄華の時代をもたらすが、それは背後に、政治家・源氏の後楯《うしろだて》があってのことである。朱雀院も冷泉院も、「すべてのものの頂点」にあって、世の光となることは、もはやできない。それは桐壺院の時代で終ってしまった。  実在の村上帝は、あまたの女御《にようご》・更衣をよくとりさばき、恥をかかせたり不面目な衝撃を与えたりすることがなかったといわれる。孫にあたる花山帝が常軌を逸した君で、女御を一時期、熱愛するかと思うと数カ月のち、ばったりと寵が衰え、手紙すら書かなくなり、その女御は宮中に居辛くなって泣く泣く退出した、という、そういう無残|放埒《ほうらつ》の振舞いは絶えてなかった。色好みの熱い血を持ちながら、感情は平衡を保ち、捌《さば》けて、練れた人柄であった。  桐壺院は、桐壺の更衣を熱愛し、藤壺を寵愛するが、弘徽殿の大后にもつねに配慮をわすれない。大后をさしおいて、若い藤壺を中宮に立てたときも、言葉を尽くして大后を慰撫《いぶ》する。〈東宮《とうぐう》の御代も近いことです。そうなればあなたは皇太后ではないか。お心安い日々が待っているのですよ〉と、大后の顔を立て、その怒りを柔げようと努めるのである。  桐壺院の君臨する宮中は華やかであった。 「帝の御年ねびさせたまひぬれど、かうやうのかた、え過ぐさせたまはず」(「紅葉賀《もみぢのが》」)  お年たけていらしたが、女性に関心や興味をお持ちで、お食事がかりの采女《うねべ》や、雑役の下級女房である女《によ》蔵人《くろうど》に至るまで、美貌で才気のある女性を喜ばれ、目をかけられたから、「よしある宮仕へ人多かるころなり」桐壺院の宮中にはセンスのある女房が多かった。桐壺院はかつて更衣を熱愛するあまり、ほかの女人たちの妬《ねた》みそねみを買って、更衣を死なせてしまったのであるが、この頃の院はバランスのよくとれた、老練|暢達《ちようたつ》の粋人として描かれている。  源氏が葵の上と不仲で、左大臣邸に寄りつかぬのを、〈左大臣が気の毒ではないか。分別もつかぬ頃からそなたを心こめて後見し、けんめいに世話してくれたその志のほどを、わからぬ年頃でもあるまいに、どうしてそう薄情な仕打ちをするのか〉と訓戒する。更に源氏が六条御息所を、軽々しく扱うのについて「御けしきあし」く、叱るのである。 〈そなたはあの方をどんなつもりで扱っているのか。あの方は私の弟の亡き東宮がこよなく愛された人だ。そなたが軽々しく、なみの女人と同じように扱っていい人ではないのだ。私も、忘れがたみの斎宮をわが子と同じように思っている。どちらの縁からいってもあの方をおろそかにしてはならぬ。男というものは、女人に恥をかかせたり、悲しい思いをさせたりしてはならぬ。誰をもやさしく扱って、女の恨みを買うようなことをしてはならぬ〉  ——「人のため、はぢがましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の怨《うら》みな負ひそ」  この粋人で情理《わけ》知りの帝は、ともに愛していた藤壺の宮と源氏の秘めた愛を、いつ知ったのであろうか?  桐壺院にとって、藤壺と源氏は右ひだりに併せ持つ二つのよろこびであった。桐壺院は宮に皇子が生れたとき、抱いて源氏に見せ、そなたによく似ている、小さいときはみなこんなものだろうかな、とただもう皇子の可愛いさに目を細めていう。源氏は、 「面《おもて》の色かはるここちして、恐ろしうもかたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがたうつろふここちして、涙おちぬべし」  という、極限状態のような苦しみに追いやられる。藤壺の宮は「お心の鬼」に責められて「わりなくかたはらいたきに、汗も流れてぞおはしける」  桐壺院は、この時点までは全く悟っていないように思われる。譲位し、病いに臥してのち、朱雀新帝に東宮(のちの冷泉院)と源氏のことをくりかえし、遺言する。桐壺院は崩御するまで一貫して源氏のたのもしい庇護者《ひごしや》であり、あたたかな後楯である。終生、源氏をやさしくいたわり、それのみか、源氏が須磨で天災に遭《あ》い、命をおとしそうになったときにも夢枕に立って、冥界《めいかい》から護《まも》ってくれるのであった。  読者は桐壺院を、どこか一点、コキュとして軽《かろ》んじおとしめる気がぬけない。藤壺は「心の鬼」に責められ、以後二度と源氏に許そうとしない。出家を敢行したのも、幼い東宮の地位保全ということもあるが、藤壺の罪の意識におののきふるうあまりの決断にちがいない。けれども、それで以てしても桐壺院の「お人よし」の印象を改めることはできないのである。  冷泉院が即位し、源氏の栄華の時代がはじまる。桐壺院と罪の記憶は、源氏の裡《うち》から、忘れるともなく薄れてゆく。源氏は多忙なのである。読者も、めまぐるしく変りかわる物語世界に心を奪われてしまっている。かの、情理《わけ》知りの、人情家の、センスのいい、だが肝心のところで迂闊《うかつ》だった桐壺院は、読者のうちに〈おめでたき人〉という印象をのこして、記憶の底に埋没してしまう。  ところが「若菜下」にきて、女三の宮と柏木《かしわぎ》の恋を知った源氏が憎悪と憤怒《ふんぬ》にわれを忘れながら、昔の罪をふと思い出し、ついで故院の桐壺院に思いを連ね、愕然《がくぜん》とする。 「故院の上も、かく、御心には知ろしめしてや、知らず顔をつくらせたまひけむ。思へば、その世の事こそは、いと恐ろしくあるまじき過ちなりけれ」  桐壺院はこうして源氏の苦しみと呼応してよみがえる。院は果して源氏と藤壺の道ならぬ恋を知っていたのであろうか。いつ、どうして、そして、どのように煩悶《はんもん》し、苦悩し、恕《ゆる》したのであろうか。故人となった今は、もはや解くすべもない謎《なぞ》である。しかし、知っていたことは、もはやまちがいない確信として源氏のうちにある。源氏はなぜか、父院が知っていたと思うようになっている。自分が女三の宮と柏木のことを知ったのは、偶然やら洞察力のせいではなくて、「薄雲」の巻にある「天の眼《まなこ》」とでもいうようなもののせいである。されば、自分と藤壺の宮の密事も、「天の眼」によって桐壺院には明白に察知し得たであろう。  源氏は柏木と女三の宮に対する難詰の言葉を、飲みこんでしまう。〈恋の山路《やまじ》〉に踏みまよう人間のおろかしい弱さを、裁くことなどできなくなってしまう。弾劾するために挙げた手のやりばがなく、知らず知らずその手はおろされてしまう。いったんは怒り、 「かかることはさらに、たぐひあらじ、と爪弾《つまはじ》きせられたまふ」  のであるが、いつか爪弾きするわが手を、源氏はじっと凝視している。  故院は重い秘密をかいまみて一ときはいかばかり憤怒に爪弾きされたことであろう、と思うと、爪弾きの爪は、いつかかたく握りしめられて掌《てのひら》の肉を破るのである。故院は秘密を知り、ついで、藤壺の自責の苦しみを知り、源氏の畏怖、懼《おそ》れを知った。故院はそのため、「知らず顔をつく」って、腹中にすべてを呑みこみ、終生、やさしく、いたわって下さった。  源氏は二重の衝撃を受けている。  源氏はそこへたどりつくまでに、ずいぶんくだくだしく、女三の宮と柏木を非難している。柏木の手紙の書きかたまで気に入らない。宮仕え中の不祥事の場合とか、後宮の女人の場合とか、いろいろ情状酌量の余地ある場合など並べたて、女三の宮はそのどれにもあてはまらぬ、つまり情状酌量の余地が全くない、肝太き姦通《かんつう》というべきだと憤っているのである。このあたりは全く、取り乱した愚痴というべきで、他人が聞いても源氏になんの同情もおこらない。  源氏は女三の宮を元来、愛してはいないのだから、このへんの源氏の愚痴や憤懣《ふんまん》は、面目を潰《つぶ》された怒りにすぎない。読者は源氏がくだくだと、 (宮をこれほど大事に扱っているのに……)  と怨んでも、それに共感することはできにくいのである。女三の宮は積極的な女人ではないので、その忍んだ恋も、いわば受動的な、災厄に遭ったようなものなのであるが、あまり源氏が文句を並べていると、(その文句に心打つ切実性がないだけに)女三の宮がむしろ可哀想になるくらいである。  しかし、源氏が、はたと故院のことに思いをいたしたとき、情勢は一変する。故院は知って知らず顔をつくっていられたのであろうかという源氏の想像に、読者もともに肝を冷やさずにいられない。  故院にとっては、藤壺の宮も源氏も、ともに愛してやまぬ存在であったから、秘密を知った苦しみは、源氏より数倍、強かったかもしれない。  しかし故院はそれを胸ひとつにおさめて、色にも出すことはせず、温順で寛容な印象のみを人々に与えて逝《い》った。〈おめでたき人〉は、実は濃い陰翳《いんえい》にくまどられ、心の奥行のみえぬほど深い人であった。  もしかして源氏が、女三の宮と柏木の密事を知ることなく、あるいは二人のあいだに何ごともなく過ぎたなら、生涯、故院の心の奥深さに、気付くこともなかったかもしれない。  桐壺院は、「若菜下」まで読みすすんできて、やっと、全くちがうイメージを与えられる。すると、生前のさまざまのこと、折々の言葉が、濃い色合いで顕《た》つのである。故院は人の世の調和、「なだらか」なたたずまい、柔媚《じゆうび》な肌ざわりを愛し、生きる喜びを知る人であったから、調和と平安を重んじて、自分一個の苦しみを自分で堪え、墓の下へもっていってしまった。  それは故院の美意識といってもいいかもしれない。故院に、〈粋人〉のイメージがまつわりつくように私が思うのも、そのせいであろうか。  源氏は故院にくらべ、ずっと未完成の、荒々しいエネルギイにみちた男で迷妄もふかい。この年、源氏はすでに四十七、八であるが、まだ枯れていないで煩悩《ぼんのう》の闇の中を手さぐりでもがいている。昔の恋人朧月夜に再会して、彼女の女臭いなよやかさを愛しながら、やや軽んずる思いもあったのだが、そういう朧月夜でさえ、彼に先んじて出家してしまう。紫の上は病いを得て久しい。源氏の身辺は落莫《らくばく》の思いが深い。そういう中で源氏は鬱屈が内攻して、けわしくも腥《なまぐさ》い心境になっている。  到底、故院のように洗練された粋人として身を処し、調和を第一に重んずることなど、出来はしない。  源氏が、薫を生んだ女三の宮に、ちくちくと真綿に針を含んだような皮肉を放つのは、読んでいてもいやみである。女三の宮は物の怪《け》のせいか、それとも自身の苦悩で鍛えられたのか、いつになくしっかりと大人《おとな》びて、〈出家したい〉という希望を洩らす。  源氏はそのときはじめて周章狼狽《しゆうしようろうばい》する。  山の帝、すなわち女三の宮の父である朱雀院は、今まで何かにつけて不面目に、源氏の下風に立ち、挫折《ざせつ》ずくめの人生で、何一つ身の栄えあるときはなかった人であるが、女三の宮が落飾《らくしよく》を願い出たとき、珍らしくはっきりとした言葉遣いをしている。 「弱りにたる人の、限りとてものしたまはんことを聞き過ぐさむは、後の悔《くい》心苦しうや」  こう弱っている人が、これを最後と頼むのですから、聞いてやらないとのちのちまで、悔いをのこすことになりませんか。  そうして朱雀院は、うろたえさわぐ源氏を制して、ついに女三の宮に五戒を受けさせてしまう。源氏は堪えられずに、〈せめて健康が回復してから〉とくどくのであるが、女三の宮は、 「頭《かしら》ふりて、いとつらうのたまふ、と思したり。つれなくて、恨めしと思すこともありけるにや、と見たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり」 (そんなことをおっしゃるのは、うわべだけのみせかけのお優しさ。すべて、世間態《せけんてい》をつくろうためのつれないお言葉。|しん《ヽヽ》から、わたくしの出家を惜しみ、わたくしをいとしんでくださるのではありますまい)  という無言の抗議である。子供っぽい宮ながら、さすがに心のうちでは、自分の仕打ちを冷酷な、と思っていられたのかと、源氏は今さらのように宮がいとおしくなる。  ここでは完全に、宮と源氏の位置は逆転してしまい、源氏が宮の顔色をうかがっている。  のみならず、美しく若き宮をあたら尼にしてしまって、あとで残念でならず、仏罰もあたりそうな欲望を、あらためて今になって宮に抱いたりする。まことに支離滅裂といおうか、源氏はどこまで生きても深い迷妄の霧が晴れそうにない。  柏木に対するときはなお一そうひどい。  源氏は柏木を満座の中で、それとなく諷《ふう》してするどい視線をあてる。そうして余人には分らぬようにしながら、柏木を徹底的にいためつけてしまう。  源氏は若いころ、政敵のために不如意な生活に苦しめられたことがあったが、それは源氏を粋人にする契機とはならなかったようである。源氏はついに生涯、右往左往し、怒り、悲しみ、女々しく泣き昏《く》れ、とり乱し、後悔にさいなまれる。源氏は野暮な男なのである。  洗練からほど遠い男なのである。  永劫《えいごう》につづくその迷いが、私には何と近しく思われることか。「源氏物語」の「幻」にいたるまで、つまり源氏の最期にいたるまで、われわれ読者は気を安んずることができない。源氏がどんなふうに精神の平安を得るか、予測もつかない。作者は出離を思い立って古い手紙を破り棄《す》てる源氏の姿に、あらたなる旅立ちを暗示して筆をおいている。  源氏はかわいげのある愛すべき青年としてわれわれの前にあらわれたが、晩年は、いたましいおろかしさを持つ老人として、われわれの共感を強いる。源氏の自信たっぷりな青年壮年期をみてきたわれわれには、いっそう興ふかい小説の結末である。     *** 「源氏物語」のあらすじを知っていますか、と私がごくふつうの人——OLやら主婦やらに聞くと、「知っている」と答えた人も、たいてい、「須磨《すま》」「明石《あかし》」までの源氏である。  いわゆる「須磨がえり」で、そこから先のことは、まずたいていの人が知らない。  ただ、あいだをうーんと飛ばして「若菜」の巻の、かの女三の宮と柏木の密通事件、(こういう言葉はいかにも戦前の、淫靡《いんび》なタブーのようで、私は使いたくないのであるが)裏切られた源氏の傷心、というのは知っているようだ。  つまり源氏は、若い日のあやまちをそのままの形で裏切られる、という、因果応報の物語の主人公として、まず位置づけられている。  それから、さまざまの女君との遍歴、恋の渉猟者としての使命をもつ者、女の生涯のすがたを反映する鏡、女の種々相の変貌《へんぼう》を惹起《じやつき》する触媒、そんなものであるところの源氏、として捉《とら》えられている。  そのうちの、どれを強く、ということではなく、なんとなく漠然と、右の感じの存在として源氏は印象づけられているらしい。ただしこれも、私がはじめに書いたように、「ごくふつうの」男たちはちがう。それすら知らない、そもそも「源氏物語」のあらすじなど想像もできないし、源氏という主人公の輪廓《りんかく》さえつかめないのが、大多数の男性である。「須磨がえり」て、なんですか、という男たちが多い。私が野球のことを知らないのと同じく、彼らが興味のない「源氏物語」を知らないのは、べつにあやしむに足らない。マスコミ関係の仕事をもっている人でも、「源氏物語」を、 「いやァ、あっちの方は、弱いんですワ」  ということですんでしまう。  ところで、こういう男たちに無理に「新源氏物語」を読ませてその批評をきいたうちの印象ふかかったものをもう一つ紹介すると、 「源氏いうおっさんは、色ごと師や、思《おも》てたら、あんがい田中角栄みたいな政治家やったんですな」  という感懐があった。 「わりあい、黒幕みたいな策士家でもあるんですなあ」  と感心していた。  まさしくそうで、「源氏物語」というのは一種の政治小説でもある。恋の裏には必らず政治的陰謀が張りめぐらされ、美女たちの蔭《かげ》には男の権力の確執《かくしつ》がちらちらする。源氏はつねに政敵との緊張関係を強いられる。若い頃は弘徽殿の大后と右大臣だったが、中年以後は昔の頭《とう》の中将、のちの致仕太政《ちしだじよう》大臣という、年来の旧友が、そのまま宿敵となっている。源氏はこの友人と、ことごとく張り合い、勝ったり負けたりしつつ、年を加えてゆく。長距離ランナーとして二人とも生きのこり、抜きつ抜かれつの政争をくりかえす。そして人生の終りには、政争は象徴的なものにすりかわり、おのおのの運命とのせめぎ合いになってしまう。  大臣は最愛の長男・柏木を喪《うしな》い、源氏は心の支えであった妻の紫の上を失なう。政治小説は、運命小説に昇華されてゆくのである。  それはともかく、「須磨がえり」で、読むのをやめた読者は、源氏という男の片面しか見ていないことになり、まことに片手落ちで残念であるといわなければならない。  須磨(正確には明石)から帰ったのちの源氏は、いままでの読者に与えた印象とはまるでちがう一面をみせる。権力を手に握った源氏は、その帰趨《きすう》を満天下に注目される「一《いち》の人」になっている。  源氏の一挙手一投足に、人々は一喜一憂する。源氏が動くと人々はさざめき、拱手《きようしゆ》して黙すると、また、 「いかがしたまはむとすらむ」(「澪標《みをつくし》」)  と人々の気を揉《も》ませる。  源氏は流謫《るたく》以来、人が変ったように傲慢である。世の中のことは、源氏と舅《しゆうと》の太政大臣の心のままであるが、太政大臣は高齢でもあり、実質的には源氏の采配《さいはい》のままである。  その源氏は、流浪から帰り権勢を手にすると、兵部卿《ひようぶきよう》の宮を宥《ゆる》そうとしない。この宮は紫の上の実父であるのに、源氏が須磨流謫のあいだは弘徽殿の大后側の目をおそれて、紫の上を庇護せず、「年ごろの御心ばへのつらく思はずにて」と源氏に恨まれている。  源氏は、藤壺の宮の縁からも、紫の上の関係からいっても、かねて兵部卿の宮には好意を寄せていた。しかし兵部卿の宮は、その好意に鈍感というよりも、時流のほうに鋭敏な人で、世間の評判ばかり気にしていられる。かつ、人と人との交わり、心の交流について一個の男としての見識がなく、時勢に引きずられるままである。  それは人間の弱さであるから、保身の欲を悪とはきめつけられないことを、源氏は知っている。だから、たいていの人間はゆるしてきた。時流に阿諛《あゆ》して源氏を裏切った、かの空蝉の弟をも、昔にかわらず可愛いがってやり、責めたり皮肉をいったり、しない。  源氏は人間性をそこまで洞察しながら、兵部卿の宮だけはしぶとく宥さない。自分が心底、信頼していた人間に裏切られたとき、源氏は、手を返したように冷酷な一面を見せる。  そして、二度と心をひらかない。  峻烈《しゆんれつ》な男なのである。  それは裏返せば、朝顔の宮への恋のように、何年にもわたって慕いつづける執念深さにも通う。そういう根深い執着は、息子の夕霧にも受けつがれていて、夕霧もまた、雲井雁《くもいのかり》や落葉の宮への愛をしつこく求めつづけるが、人を憎悪したり譴責《けんせき》したりする役割は、彼には与えられていない。  源氏は、冷泉帝の後宮に送りこむ持駒《もちごま》を持っていなかった。親友の頭の中将はこのとき、娘の新・弘徽殿の女御を納《い》れ、兵部卿の宮もまた王女御《おうにようご》を送りこまれる。源氏はこの王女御に対して甚だ冷淡で、兵部卿の宮一家の怨みを買っている。  これ以後、兵部卿の宮はことごとに、源氏一家に苦汁を飲まされる羽目になる。源氏が養女とした玉鬘《たまかずら》のために、髭黒の大将に嫁いだ上の姫君は離縁されるし、冷泉帝の中宮には、源氏が斡旋《あつせん》して納れた斎宮の女御が立たれ、王女御や弘徽殿の女御はその争いにやぶれる。  のちに、源氏はやっと兵部卿の宮に対する怨みを解いて、五十の賀の宴に協力する気になるが、それも決して自身の発案ではなく、紫の上へのおもんばかりのためである。  読者は、源氏の青年の頃の、かわいげがあり、人がよくてやさしい面に狎《な》れ、その片面の骨の硬い、しぶとい、肚《はら》黒さを知らなかった。中年の源氏に、はじめてそれを見て、あらたな興味をかきたてられる。そうしてわれわれもまた、源氏の一挙手一投足に「いかがしたまはむとすらむ」と注目せずにいられない。  執念ぶかき人である源氏は、まして愛を裏切り、面目を潰した柏木を恕すはずはないのである。「源氏物語殺人事件」なる探偵小説が昔あったが、これでは、柏木は源氏に毒を盛られることになっている。しかし源氏の言葉の毒と強い視線は、純粋で良心的な青年を一瞥《いちべつ》一語で斃《たお》すのに充分であった。  源氏はおそろしい男なのである。  そしてそれは、源氏が自分の弱さを暴露していることにほかならないと、私には思える。  源氏は自分で自分の執念ぶかさ、執拗《しつよう》な煩悩を鎮めきれないことを恥じ、苦しんでいる。  憎悪、嫉妬《しつと》は、しばしば、あらゆる感情を慴伏《しようふく》させ、制覇してしまう煩悩である。人は憎悪、嫉妬の感情にひとたび捉われると、これをのがれることはむつかしい。源氏は若い日、愛欲の煩悩に苦しんだのと同じく、中年には憎悪嫉妬をもてあまし、それを克服できない自分を恥じている。  もっとも、政治家としての源氏は、それを表面に出すことはない。  |六 条 御 息 所《ろくじようのみやすんどころ》の遺児たる前斎宮には、源氏自身も仄《ほの》かな思いをよせているが、朱雀院がとくに熱心に望んでいられる。しかし冷泉帝の時世に持駒のない源氏が、この姫君を利用しないはずはない。  冷泉帝は源氏のひそかな実子であるから、政権は安泰とみえるが、実はこの時代が、源氏にとっての政治的危機である。源氏はそれを、斎宮の女御を立て、しかもその立后を押し切ることによって、危機を脱出する。女御に納れるについては、帝の母后である藤壺の宮と結托《けつたく》し、手を組んで朱雀院の熱望をしりぞけてしまう。辣腕家《らつわんか》なのである。  絵合せのときにも、源氏は計算して、中宮方に勝利をもたらす。あらゆるところに手を廻し網を張りめぐらして源氏は権力の中枢に居坐ろうとしつづける。それは力社会の中で生き残る実力を息子につけさせようとする、源氏の教育的見識にもあらわれる。 「なほ才《ざえ》をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるるかたも強うはべらめ。さしあたりては、心もとなきやうにはべれども、つひの世のおもしとなるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむのちも、うしろやすかるべきによりなむ」(「少女《をとめ》」) 〈身分の高い家の子に生れますと、官位も思うままで、栄華に奢《おご》る癖がつき、学問などに身を苦しめることは思いもしないようになります。そうして、遊び事にふけりながらも位ばかり高く昇りますと、世の人は、陰でせせら笑いながらうわべでは追従《ついしよう》をし、お世辞をいって従います。そんなありさまのうちは自然、ひとかどの人間とみえ立派にはみえますが、いったん時勢がうつり、頼りになる人々にも死におくれて、権勢も衰えてしまったのちは、人に軽蔑《けいべつ》され、おちぶれてしまうものでございます。男子たるもの、やはり学問教養を基本としてこそ、処世の才能や、良識など、大人の能力を発揮できるのです。もどかしいようでも、当分は学問に専心させてやりましょう。将来、国家の柱石となるべき教養を身につけさせておきますと、私の亡きあとも安心でございます〉  夕霧は、父親のこういう見識により、低い位を与えられて一介の学生《がくしよう》となる。源氏はこれでみても単なる権力亡者ではなく、理念を持って権力を握っている。源氏は野心に燃える壮齢の政治家であるが、それは天下のためである、と思っている。自分を措《お》いてこの国を保つ者はいない。自分以上に、一国の執政たるにふさわしい器《うつわ》があるか、と確信してゆるがないわけである。  すでに源氏は、世の調和と平安の担い手であった桐壺院の崩御を見ている。そのあとの朱雀院の御代の乱れ、右大臣と弘徽殿の壟断《ろうだん》による政情不安を経験した。源氏は深く心に期する所がある。それが、息子に対する公的人間としての教育理念になっている。  自負と自信に支えられて、権力の中心の座を死守する源氏は、また、人間性研究家でもある。源氏の致仕太政大臣観は、まことに犀利《さいり》である。  私は、源氏にも興味があるが、この致仕太政大臣、むかしの頭の中将の性格にも興味が尽きない。いや、源氏から見たこの人の性格分析に興味があるというべきだろうか。  頭の中将は、青年時代から源氏の親友である。恋の冒険に芸術の道に、出世競争に、好敵手の位置にあった。たまたま源氏が失脚したとき、中将は政敵の思惑をかえりみず、須磨まで訪れて慰さめた。それは友情のあかしでもあると同時に、中将の自信のなさ、源氏の吸引力に対抗できない弱さのため、ということは前に書いた。  帰京以来、源氏と共に、中将も、どんどん昇進する。「少女」の巻では内大臣になっており、その性格が簡潔に紹介されている。人柄は剛直で派手ずき、才覚もある。学識ふかく、政治家としての能力にも秀で、老練である。  いったい「源氏物語」は、女々しい小説であるはずなのに、 「男々《をを》しう」  という形容がつけられている個所は、この人がほとんど一人じめしている。葵の上の死後、四十九日までの間、悲しみに沈む源氏を見舞う頭の中将の姿は、 「鈍色《にびいろ》の直衣《なほし》、指貫《さしぬき》、うすらかに衣がへして、いと男々しうあざやかに、心はづかしきさまして参りたまへり」(「葵」)  という姿で、女に見まほしい源氏と対照的に描かれている。  そして壮年の内大臣となった彼は、いまも「男々し」と形容される心情の人である。母たる三条の大宮にあずけておいた姫君、雲井雁と、源氏の息子夕霧が、幼ない恋を育てていると知って、カッと怒ってしまう。内大臣は、弘徽殿を中宮に、というもくろみのはずれた今、雲井雁にさまざまの夢を賭《か》けている。それで監督不行き届きとばかり、大宮にどなりこむ。内大臣の怒りは、母親に向けられる。 「御心動きて、すこし男々しくあざやぎたる御心には、しづめがたし」  腹が立つとぐっと抑えることができない。いっこくで剛情で利かぬ気である。  かくて少年少女は仲を裂かれるが、やがて内大臣が折れ、めでたく夕霧と雲井雁は結ばれる。すでに夕霧は青年となっている。  結婚の翌日、源氏は夕霧をほめ、 〈長い間、よく辛抱しておちついて待ったのはよかった。聡明な男でも恋愛問題ではつまずくものだが〉  とやさしくいって、例により、教え聞かせる。 〈内大臣があんなに強硬になっていたのに、自分から折れたことは、世間の噂《うわさ》になるだろうな。かといってお前が得意顔になってはいけない。まして、いい気になって浮気心などおこしてはならないよ。あの内大臣は寛大なようにみえるが、本当は男らしくないところがあって、つきあいにくい方なのだ。気をつけなさい〉 「(内大臣は)さこそおいらかに、大きなる心おきてと見ゆれど、下《した》の心ばへ男々しからず癖ありて、人見えにくきところつきたまへる人なり」(「藤裏葉」)  ここでは源氏は、「男々しからず」と看破している。  一見、「男々しく」みえる内大臣は、実は「男々しからぬ」人であるのだ。  男々しい、ということを源氏は美徳としてここでは使っているらしい。心に癖をもたぬ男、ねじけたところのない男、執《しゆう》しない、清廉な、直情な性格を、「男々し」と認識していたのではないだろうか、してみると、源氏は自分の性格も「男々し」くはないことを分別していたのかもしれない。しかし源氏は人を愛し、人の美点を見ぬくのに特殊な才能をもち、その故に、人生を生き渡ることを、こよなく愛する男である。源氏は、内大臣が、そういう点に乏しいところを、遺憾に思っている。  内大臣の美点をかずかず知りつくしていながら、しかもなお、あきたりない一点をよく知り、それをもふくめて、内大臣を旧友として愛している。そういう間柄は、離れて噂をきくときには、ときに悪意の芽も生れるが、しかし互いに面と向えば、悪意よりも強い友情がいきいきと脈打つのをおぼえる。  そうして、互いの美点のみが、目につく、といったものであろう。  内大臣の方でも源氏の性格を知りつくしている。源氏が玉鬘を邸内ふかく養って、結婚させるのも惜しく、わが恋人にするのも憚《はばか》られ、進退きわまって考えあぐねた末、宮仕えに出そうとした、そのへんの屈折した心情を、たなごころを指すごとく解いてみせる。  源氏は、 「かしこくも思ひ寄りたまひけるかな、とむくつけくおぼさる」  見抜かれていい気はしないのであった。  源氏は玉鬘をあれこれ政治手段で守ってきた。求婚者たちを焦《じ》らし、世間に好奇心を持たせ、自分でも心の迷いをひそかに娯《たの》しんできた。このあたりの源氏は、政治家としての自分の手腕に誇ってうぬぼれているかのようである。  ところが、政治手腕を、更にうわまわる情熱が源氏をだしぬいてしまった。髭黒が無鉄砲に玉鬘を自分のものにしてしまったのである。源氏にとっては計算外であるが、これは政治家としての失点で、内大臣に一点を稼がせたことになった。内大臣は、かねて玉鬘と髭黒の結婚を望んでいたのだから。  源氏は明石の姫君を入内《じゆだい》させ、その腹の皇子を東宮にして、かくて一世の政治的野望は果された。ことごとくの野心は成った。しかし政治では解決できない人生の重い問題があとへのこされた。愛する者との死別である。  それは内大臣も同じである。彼は息子を、源氏は妻を。  現実の次元の中ですさまじい角逐《かくちく》を演じた二人は、大いなるものの前ではともにあたまを垂れて、自分がいかに矮小《わいしよう》な存在であるかをしたたか思い知らされる。こういうときでも、なお源氏は内大臣の性格への配慮を忘れず、ともすれば悲傷に破れてとめどなく崩れようとする自分の心を引きしめている。  紫の上を喪った源氏を、この旧友は心こめてなぐさめる。その言葉に嘘《うそ》はないであろう。  しかし源氏はそれに甘え、狎れ、溺《おぼ》れることはしない。旧友の胸に身をなげかけ、せきあえぬ涙を拭いてもらうという、女々しいことはしないのである。男の節度や貴族的美意識というより、この旧友は、心弱りした源氏を見ると、 (何という女々しいことだ)  と半ば軽蔑の眼を呆然と瞠《みは》るにちがいないからだ。自分は最愛の息子を死なせたとき、茫然自失し、伏しまろんで悲しみながら(事実、葬儀の指示も下せなくなって、柏木の兄弟たちがとり行なった、ということになっている)同じ悲しみを味わった源氏に手をさしのべ、共に受けた死別の業苦《ごうく》の傷口に涙をそそぎ合おうとはしない。その悲しみはどこまでも自己中心的なものであって「男々しくあざやぎたる御心」には、他人の悲しみもわが悲しみもひとしく海のように呑《の》みこんで、人の世に受ける業苦として堪えようという心は生れないのである。彼はタダの、一介の政治家にすぎない。劃策《かくさく》したり、暗躍したり、煽動《せんどう》したり、牽制《けんせい》したり、……そういう世俗の次元では辣腕の政治家であった内大臣(致仕太政大臣)は、ついにそのまま、世俗の人で終っている。  源氏はちがう。政治家として中年を過した源氏は、晩年、それらのキャリアが「大いなるもの」のおん前では全く役に立たぬことを知った。世俗の野心や野望、自負、そこばくの憎悪や嫉妬は、「死別の業苦」の前には片々たる塵《ちり》あくたにすぎない。源氏は若いときは蕩児《とうじ》として、中年は政治家として、晩年は宗教人としてわれわれの前にあらわれる。  しかしそういう源氏にして、なおやはり、「女人《によにん》」を洞察することはできなかった。紫式部は、女と男は究極において分り合えるものではない、と深い吐息をついているかにみえる。そんなことは政治に比べると重要なことではないと考えるのは、内大臣風な「男々しくあざやぎたる」心の人々である。源氏は政治ルールでは、女人の謎《なぞ》は解けないと知った。源氏は紫の上に幾度も誓う。数多《あまた》の女人の中で、あなたを一ばん愛している、と。紫の上は複雑な微笑で酬《むく》いるのである。女性ののぞみは、数多の中で一ばん、というのではない。ただ一人の女として、ただ一人の男に愛されたいのだ。永遠の食いちがいである。源氏ほどの洞察力ある男が、ついにそれを悟りえないところに、私は「源氏物語」のおそろしい深淵《しんえん》をみる。 [#改ページ]   女は布帛《きれ》を愛す 「うんざりするくらい、着物の話ばかり出る」  というのが、はじめて「源氏物語」の口語訳を読んだ男性読者の感想の一つであったが、王朝小説から、キモノの話を抜くわけにいかない。  そういえば、この頃の小説には、着るものをことこまかに描写する風潮は失なわれた。硯友社《けんゆうしや》の小説には、お納戸《なんど》色がどうの、半衿《はんえり》がどうのと、じつに微細に書いてあるのが多いが、あれはやはり、テレビや映画のない時代のものである。  王朝時代は男女を問わず、貴族たちは着ることが人生の大きな楽しみの一つなので小説の登場人物が何を着ているかというのは大きな問題である。  これは男性が書いたとおぼしい「大鏡」でもそうで、その折かの折の人々のたたずまいに、これこれの色の着物に雪が散りかかって美しかった、とか、くわしくのべられる。  女性の書き手なら、なお更のことである。  女は着物、布帛《きれ》類に愛著《あいちやく》があるものなのだ。  ことに王朝では、各家庭で染め、裁縫したので、ことさら関心が深いのも当然である。 「落窪《おちくぼ》物語」などを見ても、地方から帰京してきた国守たちは、顕官《けんかん》の家への贈り物に、絹や綾《あや》の布地に、糸、それに染料の草を添えて献上している。  それを好みの色に染めるのは、各家庭の主婦の腕次第であって、むろん、貴顕の家の夫人みずから手を染めるというのではないだろうが、少くとも、「源氏」では、紫の上は染色技術にたけ、そのセンスがいい、ということになっている。  王朝の女たちは布類の手ざわりや、染め上った色合い、仕立て上った着物に、現代の人間の何倍かの愛著をよせたにちがいない。  そういえば昭和三十年頃の大映映画、「新平家物語」には、若い日の清盛に扮《ふん》した市川雷蔵が、手を染め物の染料で汚した久我美子《くがよしこ》扮する時子姫を見て、新鮮な感動を受けるというシーンがあった。「枕草子」には、打たせにやった絹が、うまく出来上ってくることはめったにない、とこぼしている個所があるから、打つのや染めるのが職業的な人もいたかもしれないが、しかし日常生活の中での染め縫いは、かなり普遍的な主婦の手仕事であったのだろう。 「源氏」に、キモノの話が多い、といっても、まだ「栄花《えいが》物語」に比べれば少いほうである。 「栄花」はよく、ページの半分くらい、ベタに着物の色合や地質の説明で埋《うま》っていることがある。何しろ「栄花」というのは、抑制のない冗長な文章で、それがわかりにくい王朝の衣服の話をダラダラとつづけるのだから、男性読者でなくてもうんざりしてしまう。  その代り考証的には適切な資料で、私は学生時代、服飾史の時間に、よく「栄花」から試験問題を出されて往生した。 「樺桜《かばざくら》、皆織物なるが裏打ちたる六つばかり、御裳唐衣《おんもからぎぬ》奉りておはします御有様、えもいはずめでたくみえさせ給ふ」「菊の折枝、かづらのもみぢ、鏡の水など押したるが、薄物より透きたる、打目に輝き合ひたる火影《ほかげ》、いみじうをかし」——これらを説明せよ、というのであって、それは江馬務《えまつとむ》先生の時間であった。  大体の着付けの順とかきまりがわかれば、その様子もおぼろげに想像できてくるが、女たちの衣裳《いしよう》は奢侈《しやし》を競い合って、やがて突飛もないものへエスカレートしてゆく。裳着《もぎ》とか、大饗《だいきよう》とかのセレモニーがあるたび、 「若き人々はまして物狂ほしきまで心のままにしたり」(栄花、御裳《おんも》ぎの巻)  というありさまで、その意匠はすでに頽廃《たいはい》的といえるまでに手がこんでゆく。唐衣や裳には刺繍《ししゆう》・金箔《きんぱく》はもとより、青貝を綴《と》じつける螺鈿《らでん》、あるいは珠、鏡を縫い留め、蒔絵《まきえ》をほどこすなど、こうなると凝りすぎて「こちたき」までになってしまう。先の文章のも、薄物の下から、鏡が透けてみえている、という趣向らしく、鏡の水とあるから、秋山の水に見立てたのであろうか。現代のスパンコールのようなものかもしれないが、薄物を透かしてそれがキラキラし、更に砧《きぬた》で打ってつやつやした衣の地が火影にかがやいた、というのである。  それを読んでその美しさを、王朝の女たちはうっとりと思い浮べることができたのだろうか、どうも「栄花」は私には難解で、にが手である。 「栄花」にくらべると、「枕草子」の着物、布帛に関する記述は、はるかに私には説得力がある気がされる。「枕」も、こと着物に関しては舌なめずりせんばかりの熱意で書いているが、清少納言はかなり描写力のある人であるから、わかりやすい。  有名な、梅壺に於《お》ける頭《とう》の中将・斉信《ただのぶ》のたたずまい。清少納言は斉信を招いて、〈こちらへどうぞ〉という。斉信はやってくる。 「ここに、といへば、めでたくてぞ歩み出《い》でたまへる」  斉信はそのとき三十前後、壮齢の才子で、評判の切れ者の能吏、清少納言も緊張する大物である。  彼がこちらへやってくる姿に、まず清少納言は「めでたくてぞ歩み出でたまへる」と衝撃的に印象づけられている。「めでたくてぞ」と強意しているので、 〈まあ、そのキマッてることったら!〉  というような語感であろうか。 「桜の綾の直衣《なほし》の、いみじうはなばなと、うらの艶《つや》などえもいはずきよらなるに、葡萄染《えびぞめ》のいと濃き指貫《さしぬき》、藤の折枝おどろおどろしく織りみだりて、紅《くれなゐ》の色・擣《う》ち目など、かがやくばかりぞ見ゆる。白き・薄色など下にあまた重なりたり。せばき縁《えん》に、片つかたは下《しも》ながら、すこし簾《す》のもと近う寄り居たまへるぞ、まことに、絵に描き、物語のめでたきことにいひたる、これにこそは、とぞ見えたる」  斉信の容貌《ようぼう》や体つきには一言《ひとこと》も触れず、もっぱら着るものばかりを書いているが、しかしこの花やかな描写で、我々は何となく、自負心強き、気宇高邁《きうこうまい》な、登り坂の男を連想させられはしないだろうか。  私はここを若いころ読んだせいか、斉信を颯爽《さつそう》たる美男と思いこんだ。どこにも美男とは書いていないが、しかしここに匂い立つのは斉信の軒昂《けんこう》たる意気と男ぶりである。王朝の人間には、服装は自己表現の手段でもあったから、そういう印象を受けるのは、まんざら的《まと》はずれの効果でもないわけだ。  斉信は、桜の綾の直衣《のうし》、というから、表は白で裏は赤、その赤が上の白から透いてみえて「えもいはずきよら」なのである。指貫は赤紫、それには藤の折枝が、「おどろおどろしく」織りこまれている。打った紅の下着、更にその下に白・薄紫の衣を重ね、それが直衣の裾からこぼれるといった、あでやかな装いである。 「枕」にくらべて、「源氏」はいっそう、洗練された書きぶりである。「源氏」は女の酔う小説ではあるが、ことに女が読んで面白いのは、「玉鬘《たまかづら》」と「野分《のわき》」ではなかろうか。  なぜかというと、「玉鬘」の巻では、年の暮に、新春用の晴着を女たちのために源氏が見立てるくだりがある。ここでは着物の色や柄で、それぞれの女の容貌・個性・雰囲気が暗示されていて、布帛や着物に関心のある女には魅力的であろう。  また「野分」は、八月の野分のあくる朝、源氏が女たちの部屋を見舞いにあるくのだが、夕霧がそのお供をしてまわって、各御殿の女君たちのつくろわぬふだんの姿をぬすみ見るという設定である。それまでは、女君たちが毎日、結構な六条院で何をしてくらしているのかと読者は思うが、この巻で、はしなくも日常生活の一端をかいまみることができる。巧みな趣向である。  しかも野分の朝の霧たちこめるかわたれ時、源氏と紫の上の閨《ねや》の語らいさえ、仄《ほの》きこえる。  源氏の冗談に紫の上の返事はきこえないが、「ほのぼの」と仲のよさそうな応酬の気配、艶《えん》な風情である。夕霧は紫の上の美貌を、その直前にかいまみているので、よけい憧《あこが》れ心をそそられる。  中宮の御前では童女《わらわべ》を庭におろして虫籠《むしかご》の虫に露を与えていられる。その衣裳が折からにふさわしく、紫苑《しおん》、撫子《なでしこ》、女郎花《おみなえし》などの、色合である。  明石《あかし》の上は琴を手すさびに弾《ひ》いている。源氏は端近く、ちょっと坐って見舞をいってすぐ立つ。明石が源氏を見送る目つきは、いつもうらめしげである。  玉鬘は、ゆうべの嵐《あらし》にまんじりともしなかったので、明けがた、つい、とろとろと寝すごして、いま化粧の最中であった。源氏が玉鬘に冗談をいったり、抱き寄せたりするのを、夕霧はうかがい見て、 「いであなうたて、いかなることにかあらむ」  と驚愕《きようがく》する。この時点では、夕霧はまだ玉鬘が、源氏の実の娘と信じているからである。  夕霧の見るところ紫の上は「春の曙《あけぼの》のかすみの間より咲き乱れた樺桜」というところであるが、玉鬘は、「八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露かかれる夕ばえ」といった風情である。  花散里《はなちるさと》は、野分で肌寒くなったので気が忙《せ》くのか、女房たちに針仕事をさせている。彼女は源氏の着る物も扱うとみえ、近頃摘んだ露草で、いい色に染めている。  ここで面白いのは、 「細櫃《ほそびつ》めくものに、綿引きかけてまさぐる若人もあり」  真綿を引っかけて、綿入れの衣服をつくる用意をしたり、している若い侍女もいるのである。花散里は、紫の上に劣らぬ染色ディザイナーであって、 「いときよらなる朽葉《くちば》の羅《うすもの》、今様色(濃い紅梅色)の、二なく擣《う》ちたるなど、ひき散らしたまへり」  この花散里が、色や布地のセンスがいい、という設定が、私にはたいそう興ふかい。色のセンスなどというものは教えて会得されるものではなく、後天的に開発できない憾《うら》みがあって、私にはどうしても天賦のもの、としか思えないのである。私は色のセンスというのは全くないが、私の友人の主婦に、美事《みごと》な感覚をもつ人がいて、あり合せの布ぎれ、クズのような残り糸で、すばらしいアップリケや刺繍をしあげてしまう。同じことをやっても、ほんのひととこ、ふたとこ、彼女が手を加えると、ぐっと垢《あか》ぬけてしまう。フランス刺繍のコツなどは全く、色糸えらびに尽きるといってもいいので、彼女の作品を見るたび私は天性の才というものはあるものだ、という思いを深くする。  それで、紫の上の染色の巧みさ、美的センスを、つねづね源氏は讃《たた》えているところから、たぶん、紫の上の手にかかると、みるみる垢ぬけて洒落《しやれ》てめざましい美しさに変貌してゆくのだろうかと、思いやったり、した。また、花散里の方は美人ではないと書かれているし、決して出しゃばらないつつましい性格に描かれている。そんな彼女に、色のセンスがあるのはおもしろい。しかし性格が消極的一辺倒ばかりなのではなく、源氏が、夕霧や玉鬘の世話を母代りにたのむところをみても、良識あり、明るく、均衡のとれた、温良な人となりが想像できる。純真な女性なのである。  更に面白いのは、温良ではあるが、何もワケの分らない無智の純真さとちがって、批判能力のあることだ。批判能力と純真さが抵抗なく同居していることはむつかしいが、花散里はそういう稀有《けう》な女人なのである。彼女の御殿で、若殿原《わかとのばら》の騎射がある。その夜、源氏は彼女のもとに泊って、今日の客の噂《うわさ》をとりとめもなく言い交す。源氏の弟君たちのことが話題にのぼる。花散里は夕霧の母儀《ぼぎ》となっているので、夕霧が友人を引っぱってくるのはさもあろうことであるが、栄《は》えある催しをこちらでしてもらったと、花散里は無邪気によろこんでいる。  兵部卿《ひようぶきよう》の宮を拝見したか、と源氏が聞くのへ、 「御弟にこそものしたまへど、ねびまさりてぞ見えたまひける」  あなたの弟宮さまですが、あなたより老けておみえになりますわ。花散里はそういうのだった。  その弟の帥《そち》のみこについては、 〈どこかお品《しな》が下《くだ》って、親王というより、諸王のお一人、というようにお見受けいたしましたわ〉  源氏は花散里の洞察力にふと微笑される。源氏も同じことを考えていたのだ。花散里は無垢《むく》なだけに、物ごとの本質をするどく看破するのだろう、と思う。しかし純真な花散里が天衣無縫にいい放つ言葉には毒がなくて、人を傷つけるものではない。私は紫式部が、源氏と花散里の、そういう会話を、ここへ入れたのを、たぐいなく面白いと思うものだ。  このあと、二人は別々の茵《しとね》にやすんでいる。嫉妬《しつと》も怨《うら》みごともいわぬ花散里は几帳《きちよう》を二人のあいだに立て、その方が自然なのだと思うらしい。  そういう間柄の男と女にして、はじめて純真で直截《ちよくせつ》で的確な批評が、ふっと口にのぼるのである。  もう共寝しなくなった、それでいて心は結ばれているといった、古い夫婦の仲。花散里の自由な無垢な心は何ものにも妨げられず、のびやかに飛翔《ひしよう》する。  そういう女人が、色についてすばらしい感覚をもち、美事な衣裳をつくり出すというのはわかる気がしないでもない。花散里は、明石の上のように理性的な女人ではなく、感覚、情感の人、天啓に狎《な》れた人だからである。  作者の紫式部は衣裳の色目、材質、折と場所についての見識もきむずかしくあって、それだけに、衣裳については楽しみつつ筆を運んだにちがいない。 「玉鬘」の巻の、新春の晴着など、書く筆致までたのしげである。  源氏は六条院の婦人たちに晴着を贈ろうとする。紫の上は源氏の撰《よ》るのを見ていて、 〈お召しになるかたのお顔によくお似合いになりそうなのを見立てて、おあげなさいまし〉  というのである。源氏は、 「つれなくて人の御かたちおしはからむの御心なめりな」  知らぬ顔で、着物の色や柄から、人々の器量を推察しようという気持だね。  六条院の女人は、(物語のその時点では、まだ)互いに逢《あ》うことはないのである。  紅梅の模様がはっきり浮いた葡萄染(赤紫)の小袿《こうちぎ》、それに、いま流行《はや》りの濃い桃色の、下にかさねる袿は紫の上のために、源氏はとりのける。赤紫と濃い桃色とでは、花やかな上にも花やかである。女ざかりの紫の上の艶麗さにふさわしいといえよう。紫の上は二十八位である。  桜襲《さくらがさ》ね(斉信と同じで、表は白、裏は赤)の細長に、つやつやと光沢のある、練って柔かい薄紅の袿。これは明石の姫君、八つばかりの童女には可愛い。  薄い藍《あい》色の地に、海賦《かいふ》を織り出したもの、——つまり、波や貝、藻、松など海辺の風物を模様に織ったもの、これは上品で優美だがすこし地味すぎる嫌いもないではない、これに濃い紅の掻練《かいねり》を添えたものは、花散里の君に。  あざやかな赤い袿に、山吹襲ねの細長——表が赤っぽい黄色、裏が真っ黄色、という色——は、玉鬘の姫へ。  紫の上は、見て見ぬふりをしながら、その色合を観察している。玉鬘の父、内大臣は花やかな人だが、繊細な優美さ、という点はない。その娘でいられるから、玉鬘の姫も、陽性のぱっと派手なだけの美人なのかしら、と紫の上は推察する。源氏が玉鬘に寄せる並々ならぬ思いを知っている紫の上は、平気で見すごすことはできないのである。  末摘花《すえつむはな》には柳の織物に、唐草を織ったものをえらぶ。ひどく優美なので、着手《きて》との対照を考えると源氏はおかしくなって独り笑いせずにいられない。  明石の上には最も高雅(と紫の上には思われる)な衣裳がととのえられた。  白と紫の衣裳である。唐風の白い小袿には、梅の折枝や蝶、鳥が織ってある。それに濃い紫を重ねて、あでやかにも上品であるのを、紫の上は見てとって、この衣裳が似合うのならば、どんなに趣味よく洗練された佳人であろうかと、心はただならぬものがある。このときは明石は二十七ぐらい。  空蝉《うつせみ》の尼君は青鈍《あおにび》の織物に、梔子《くちなし》(黄色)の袿、これはいかにも尼らしい装い。  ——と、ここまで来ると、男性読者はもう、つき合い切れなくなるのではなかろうか、しかし着物の柄の意匠、色目は、まことに登場人物の個性にぴったり適合していて、ここの記述は、「栄花」のように無個性ではない、試験問題の資料だけではないのである。  源氏がえらんだ柄も色も、すべてヒロインたちの性格なり雰囲気なりの象徴である。(末摘花だけは、そうともいえないけれど)  紫式部は、衣裳にも趣味をもち、色についての一家言も持っていたとみえる。ことに紫の上や明石の上に着せようとする衣裳の、何という人柄とのつきづきしさ。  また、物語の前半に出てきた夕顔にも、はかない運命の美女らしく、白と薄紫の着物を着せている。  尼にならない前の空蝉は、濃紫の単《ひとえ》がさね、尤《もつと》もこの女人は、紫式部のヒイキのヒロインであって、着る物も容貌も、ことさらみすぼらしく描かれる。表面的な飾りの助けなしに、発散する生《き》のままの女の魅力、式部は、それを空蝉の上に書きとどめたかったのだろう。  衣裳の嗜好《しこう》、趣味をたっぷり持ち、それを物語に悠々と書き楽しんでいる紫式部は、かなりの快楽主義者なのではないかという気がする。  一体に、諸家の描かれる紫式部像というのは、うっとうしいオバハンであることが多い。あれは「紫式部日記」の印象からきているのではあるまいか。土御門《つちみかど》邸の栄耀《えいよう》のただ中に身をおきながら、   「水鳥を水の上とやよそに見む      われも浮きたる世をすぐしつつ」  というような、自嘲《じちよう》・厭世《えんせい》的な歌をよむ、陰気くさくて寡黙で理性的で、歓楽の波に洗われながらひとり苦渋の渦に引きこまれ、その持ち重《おも》りする宿業《すくごう》を、我とみずからもてあましている、近代的憂愁にみちた作家、というようにうけとられている。しかし「紫式部日記」の彼女の声はあれはどうも作り声である気もされる。式部は物語作家なので、彼女の本音はむしろ、「源氏物語」の方に多く出ている。  式部は「水鳥」の歌に表象されるような内省的な沈鬱《ちんうつ》な女人として朝顔の姫君を書いた。  式部の裡《うち》に棲《す》む、これもまさしく式部ではあるが、決して式部のすべてではない、という女人を創造した。式部は美しいものを着、それを賞《め》で、撰《えら》ぶ、そうして人生を心ゆくまでたのしむ女性であるにちがいない、衣裳や布帛を愛する女が、うっとうしい一辺倒のオバハンであるはずがない。どうもあの「水鳥」の歌の陰気なしらべが、世の人々を惑わしたように思われる。  ——ところで、朝顔の宮に着せるとすればどんな衣裳がより似つかわしいであろう?  私にはどうしても、この人が、長い毛糸ズロースをはいた、冷え症の老嬢のように思えてならぬのであるが……。 [#改ページ]   女は什器《じゆうき》を愛す  京都御所の清涼殿へ私は昇らせてもらったことがあった。三十分ばかり、殿上人《てんじようびと》になったわけである。そうしてそこに置かれた調度——几帳《きちよう》、御厨子棚《みずしだな》、冠箱《かんむりばこ》、|※[#「さんずい+甘」]坏《ゆするつき》、そういうものをみて、それらがむろん王朝時代から連綿伝えられた伝世品ではないこと、また、王朝そのままの形でもないかもしれない、王朝|写《うつ》しとでもいうべきものかもしれないのはわかっているのだが、それでもやはり、その調度、道具に心おどった。何とも優美繊細で、その美しさがそのまま、使い勝手のいい実用性になっているといった、慕わしいおちつきがあった。  王朝の人々は、身のまわり手まわりの美術工芸品をどんなに愛したことだろうか。紫式部もそれら美しき日常調度の品のかずかずを力こめて詳述している。着物、布類に愛著《あいちやく》する彼女はまた、一級の工芸美術品を愛してやまないものの如くである。  鏡筥《かがみばこ》、櫛《くし》筥、硯《すずり》筥、香壺《こうご》、それから楽器、室内遊戯の道具類のさまざま、それらは蒔絵《まきえ》や螺鈿《らでん》で飾られ、金銀で加工される。「枕草子」にも、 「硯の筥は重ねの蒔絵に雲鳥《くもとり》の文《もん》」 「櫛の筥は蛮絵《ばんゑ》、いとよし」 「火桶《ひをけ》は、赤色、青色。白きに造り絵も、よし」  火桶は「枕草子」の「宮にはじめてまゐりたる頃」によると、定子《ていし》中宮の御前のものなど、 「沈《ぢん》の御火桶の梨子絵《なしゑ》したる」  という豪華なもの、これは中宮のお輿入《こしい》れのときの調度でもあろうか。父・道隆が全盛のころに入内《じゆだい》されているので、さぞ善美をつくした調度類であったろう。そしてまた、その規模を更に上廻るのが、道長の女《むすめ》、彰子《しようし》中宮のそれであったにちがいない。入内する姫たちは、それぞれ一族の政治的期待を担って送りこまれるが、絢爛《けんらん》たる嫁入道具はまた、一族のデモンストレーションでもある。「栄花《えいが》物語」の「かがやく藤壺」の巻には彰子の入内支度の「いみじうあさましう様ことなるまで」のありさまがのべられている。几帳・屏風《びようぶ》の縁の木まで蒔絵・螺鈿がほどこされてあったそうである。一条帝はそれらの贅沢《ぜいたく》な調度に心そそられ、「をかしうめづらかなる物ども」の有様を楽しまれて、ほとほと政治も忘れそうだと述懐された。  それらを彰子中宮に仕えた紫式部も拝観したであろうか? そしてそれらほど豪華でなくとも、それに似た二、三の諸道具を自分も持ち、ひそかに愛玩《あいがん》することはなかったであろうか。  香壺とか、硯筥、櫛の筥、とか……。  漆塗りの筥の、ひんやりと滑らかな感触をいとしみ、指の腹に触れて浮きあがる、うすい指紋の照り映えに豪奢《ごうしや》なときめきを感じたことはなかったろうか。  当時の最高の品が、彰子中宮の手廻り身廻りを埋めていたにちがいない。ニューモードの作品から古い書画|骨董《こつとう》にいたるまで。 「源氏物語」にはくりかえし、名筆名画の具体的な美事《みごと》さが語られるが、そういう書画のほかに、何のなにがしと名ある職人のつくった古い調度も珍重されたろうことは、「蓬生《よもぎふ》」の巻にもみえる。零落した常陸宮《ひたちのみや》家に、「いと古代になれたるが昔やうにてうるはしき」調度を買おうといってくるものがある。亡くなった宮が「わざとその人かの人にせさせたまへる」——特別に名ある者に命じて作らせたというのである。末摘花《すえつむはな》は、 「などてか軽々《かろがろ》しき人の家の飾りとはなさむ。亡き人の御本意|違《たが》はむがあはれなること」  と拒絶して米塩の資とすることを肯《がえ》んじない。そのためいよいよおちぶれる、というくだりがある。  しかし無論、現実では、こういうとき、それらの美しき古き道具類は、名家の零落によって世間に流出し、好事家《こうずか》の手から手へ渡ったにちがいない。おちぶれて鏡を売る女の説話もあり「落窪《おちくぼ》物語」にも、石山|詣《もう》での折、鏡を買ってきた話があるから、市《いち》では、新しい品に加え、古い調度類も商われたであろう。  私は以前、「壇の浦」という滑稽《こつけい》小説を書いたが、それには抜け目ない雑兵《ぞうひよう》の一人が、戦いをよそに、流れてくる都ぶりの調度品を拾いあげるというシーンを想定した。  平家方は長い船暮しであるが、安徳帝はじめ、建礼門院ら上臈《じようろう》女房たちのあまた居られることとて、美しい手廻り道具類もさぞかし積みこまれていたにちがいない。  これが男の集団であれば、公卿《くぎよう》たちでも簡素かもしれないが、何しろ女性のあつまりなので、愛玩|賞翫《しようがん》の手廻り品を手放しかねてはるばる西国の海まで携えてきていたにちがいない、というのが、私の想像である。  平|知盛《とももり》は、今は最後、というときに、船上の見苦しいものを取り片づけろと、どんどん海へ抛《ほう》りこんでいる。女たちの愛執の膏《あぶら》が沁《し》みついた道具も投げられたにちがいない、波間に浮ぶそれらを、雑兵が熊手で引っかけて上げているというのが、私の趣向である。雑兵はそれらを売って小遣い銭をせしめようとしているという、けちな庶民の小説であったのだが、しかし私は、それらの道具類が波間を沖へ漂ってゆくありさまを思い描いて、うっとりせずにはいられぬのである。  事実、このとき三種の神器も海底に没し、総大将の義経《よしつね》は必死に督励して捜させている。  平家貴族たちが財を傾むけて作らせた名宝|珍什《ちんじゆう》のかずかず……高蒔絵の筥、金銀をちりばめた細工物、波間にゆらぐそれらに、寿永四年三月の春の夕陽はいかに燦爛《さんらん》とかがやいたことであろう。  流されゆく花の如き人々を憐《あわ》れむのはまずおいて、私はその諸道具類にこだわっている。都を焼いて退いた平家貴族であるが、その中で女性たちは「これだけは」と携えたお気に入りの工芸品があるにちがいなかった。  女は布帛《きれ》を愛すると同時に、美しき工芸品、芸術品に眷恋《けんれん》する。紫式部もことさらに、それらに心寄せたであろう。彼女の育ったのは学者文人の家で、そこには精神教養の豊饒《ほうじよう》はあったが、暮しは質素だったろう。  紫式部はたぶん、夫の藤原|宣孝《のぶたか》と結婚して、美しい奢侈品《しやしひん》がもたらす逸楽に開眼したのかもしれない。宣孝は上流社交界の贅沢の香気を式部に教えた。  しかし、宣孝と長く添い遂げていれば、あるいは式部は宮仕えに出なかったかもしれず、そうすると、「源氏物語」の「贅沢の香気」を描き切れなかったかもしれない。  当代最高の贅沢を、式部は宮仕えの間に目《ま》のあたり見た。美しいものに朝夕、手馴《てな》れる悦《よろこ》びを知り、鑑識眼を養った。  もし彼女が、現在伝えられる国宝の「片輪車螺鈿蒔絵手箱」の如きものを、常に賞翫しむつびなれていたとしたら……。流水に洗われる螺鈿と金蒔絵の片輪車、華奢《きやしや》で高雅なその形と意匠、彼女がそういうものを持っていたとしたら……。  あるいはまた、これも数少い王朝伝世品の逸品の一つとして、金剛峯寺《こんごうぶじ》に伝わる「沢千鳥《さわちどり》の小唐櫃《こからびつ》」、あれを私たちは写真で見て知っている。やはり螺鈿蒔絵の、やさしくも気品たかい品、小鳥や草花が夢のように描かれている。贅沢ではあるが、決してけばけばしくなく、それを見るたび人の心は深い感動でふるえ、自分の人生とかかわりあい、めぐりあったことを悦ばずにいられぬような美しいもの、もしこのような小唐櫃(小さい脚付きの箱)を、紫式部が、彰子中宮から下賜《かし》されるとか、購《あが》なうとか、譲られるとかして、それに触れるたび、ほとんど肉感的な悦びを知ったとしたら……。  私は、これにちかい感動が紫式部にはあったのだ、と思う。彼女は衣裳《いしよう》や布帛《きれ》(布帛《きれ》、とわざわざいうわけは、「源氏物語」中に反物《たんもの》何十反、というのがじつにしばしば出てくるからで、それらは当時の貨幣代用、という以上に、女は、布地の手ざわりや風合《ふうあい》をたのしむからである)を愛すると同じに、調度道具をも淫《いん》するごとく愛したにちがいない。 「枕草子」は主観的な文章なので、先にあげたごとく、直截《ちよくせつ》的にその愛執ぶりをメモしている。それで思いだしたのだが、「枕」の「心ときめきするもの」に、 「唐鏡《からかがみ》の、すこしくらき見たる」  とある。唐鏡は、新潮社刊の古典集成によれば、舶来の貴重な鏡、ということだそうで、「これに曇りが出はじめた。やがてひどく銹《さ》びついてしまうのではないかと、未来は絶望につながって、胸もつぶれる思い」という注釈がほどこされている。  小学館の「古典文学全集」では「大切な鏡にくもりを発見した時、と解するのが穏当であろう」とある。岩波書店の「日本古典文学大系」では、「上等で高価な舶来の鏡がすこしかげりをもっているのを見た感じ」とあり、補注に「鏡に曇りを発見して驚く心は『心ときめき』よりもむしろ『胸つぶる』の語で表現されるべきであろう。かつて私見として、上等な鏡だというのに曇りが出ているのを見た時は、思わず苦情をいいたくなって自制できないとの解釈を提出したが、なお考えるのに、『くらき』を陰翳《いんえい》をおびた状態と解し、上等な鏡への心ときめきととることもできるように思う」とある。解釈というものは、全巻をくり返しくり返し読んで、作者がどういうときどういう用法、どういう口吻《くちぶり》でその言葉を使うかがわからないと解釈できにくい。不勉強の私には「心ときめき」「すこしくらき見たる」という個所を、清女がほかではどういうところで洩《も》らしている口ぐせか充分には分らないのだが、この一行の前には、 「よき薫《た》きものきて、ひとり臥《ふ》したる」  とあり、そのあとは、 「よき男の、車とどめて、案内《あない》し、問はせたる」  とある。さらにその次には、 「頭《かしら》洗ひ、化粧《けさう》じて、かうばしう染《し》みたる衣《きぬ》など着たる。  ことに見る人なきところにても、心のうちは、なほいとをかし。  待つ人などのある夜、雨の音、風の吹きゆるがすも、ふとおどろかる」  これが「心ときめきするもの」の例としてあげられ、通して読むとさながら、一篇のストーリイになっている。されば鏡の「すこしくらき見たる」は、鏡のくもっている面《おもて》にうつるわが影を、じっと見入る妖《あや》しいナルシシズムの口吻ではなかろうか。鏡は時々磨かなければ曇る。しばらく磨いていないので、やや暗くなっているそれをのぞくとき、見なれたわが面影も、欠点は隠されて、おぼろに美しく浮び上り、思わず心ときめくのではなかろうか。銹を心配して、というものではあるまい。  清女は自分のことを「いとさだすぎ、ふるぶるしき人の、髪なども我がにはあらねばにや、ところどころわななき散りぼひて」と自嘲《じちよう》しているが、しかしこの自嘲はほんとの自嘲ではなく、攻撃することで防禦《ぼうぎよ》しているたぐいである。まして自己卑下の傷み、コンプレックスなどではない。清女は才智を恃《たの》んで容貌の欠点をまで武器にしているのである。  それでいて、明敏な彼女はそれを自分でわきまえている。だからこそ、ひとり居のつれづれ、ひとりで臥してよい薫《くゆ》りを身にしめ、暗い鏡を見入る。ひとり化粧して、鏡をみつめるとき、あまりに明るい鏡は無残にあらわでいとわしい。すこし仄暗《ほのぐら》い鏡は、女の顔を美しくみせ、ふと心ときめきさせる。うぬぼれ鏡、というものがあるが、これはそういうものではあるまいか。余の鏡よりも、その「唐鏡」にうつる清女自身の面影は、彼女を心ときめきさせるのである。  清女はその唐鏡を愛撫《あいぶ》し、心こめて拭《ぬぐ》うたであろう。清女の人生と唐鏡はわかちがたく結ばれてしまったであろう。女が手道具に執するさまは、まさに、女の膏《あぶら》で固めるといったおもむきがある。  なおまた、ついでにいうと、清少納言のことを紫式部が「日記」に容赦なく酷烈にけなしつけている、その理由として研究家の中には、清女が「枕」で、紫女の夫、宣孝のことを嘲弄《ちようろう》したからだ、といわれる向きもあるが、宣孝のことは、読めば分るが多分に好意的に紹介されており、悪意はないようである。  私が思うのに、紫女と清女は文学的資質を異にしているので、そのための宿業的な反撥《はんぱつ》ではないか、紫女が清女のワルクチをいうのは、その才をみとめていることにほかならない。  清女のスケッチの面白さ、一場面を的確に描写する力量というのは、むしろ、紫女より上であろう。しかも清女の作品の方が先行している。その独創力は何びとも異をとなえられない。紫女はそれを知っているわけで、そのせいでよけいに、清女の構成力のなさをおとしめ、見くだしているに違いない。清女は瞬発力だけで、そのエネルギイをしぶとく燃やしつづけ、更に大いなるものを構築する才には恵まれていない。  紫式部からみると、清女の作品は断片的ですべてコマギレの小才のよせ集めであるように思われたかもしれない。なけなしの才をぶちまけて男たちに対抗しようとする、その「したり顔」が片はらいたく、憫笑《びんしよう》されたかもしれない。  しかし「人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし」(「紫式部日記」))——他人からぬきんでることが好きな人、出しゃばりはかならず見劣りする。それは紫女の処世の嗜好《しこう》からくる偏見的断定である。それを他人に強要するほうがさしでがましいというものであろう。  清女は、自分を表現する方法として、出しゃばりが適切だったわけである。 「そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍《はべ》らむ」  という紫女の言葉には実人生の運命と共に文学的な評価も含まれているように思われる。  しかし私は、紫女の排斥にかかわらず、「枕草子」も「源氏」に負けぬ、渾沌《こんとん》たる人生|曼陀羅《まんだら》を織りあげたと思う。日常スケッチ、警句、感懐、雑文、評論、小ばなしなどを螺鈿してそれはまことに瀟洒《しようしや》たる、一個の美しき手筥となった。紫女がなんと貶《おと》しめようとも、私は「枕草子」を愛さずにいられないのである。  そして、清女を苛烈に断定しないではいられなかった紫女の心持にも、微笑を禁じ得ないわけだ。  清少納言のはしゃぎぶりを憎む紫式部には、そんなことができるタチの人間に、複雑な羨望《せんぼう》があるのではなかろうか。よく知らぬくせに一知半解の才学をひけらかして、と白眼視する紫式部は、一という字さえ知らぬふうをみせるのを女の美意識だと思っていたが、それを心から信じていたのでもないのは、「源氏物語」の中で紫の上に、女ほど生きにくいものはない、と嘆かせていることでもわかる。 「女ばかり、身をもてなすさまもところせう、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、をりをかしきことをも見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経《ふ》るはえばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。おほかたものの心を知らず、言ふかひなき者にならひたらむも、生《お》ほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらむや」  ここはむつかしい言葉はないが、逐語訳するとかえってややこしくなる、という微妙な言い廻しである。私はこういうふうにいってみた。 〈女ほど、生きにくいものはないわ——人生の深いたのしみ、尽きせぬ面白みなんかを大きな顔で味わうこともできないんだもの——。女は自分の自我を出してはいけないといわれ、自分を殺すように、しつけられてしまっているのだもの……そんな人生に、ほんとうのたのしさや生き甲斐《がい》があるかしら。人のいうままに自我を殺して生きてると、やがて物の道理もわからず、かたくなで無感動な女になってしまうのだわ。まさかそんな女に育てようとは、親も思いもしないだろうに〉  作者は更に、「あしき事よき事を思ひ知りながら埋もれなむも、言ふかひなし」とつづけている。判断力も批判力もありながら自分を抑えているなんて、なんと辛い、苦しいことでしょう……。(このへんの呼吸をみても、「源氏物語」は、作者が女性、それも決して複数ではあり得ない、個性ある一人の女流がものした作品、という気がされるのだが)  紫式部は、清少納言が、「身をもてなすさまもところ狭《せ》う」しないで、やりたい放題やり、言いたい放題いい、しかも書きたい放題に書いているのが、ことごとく美意識に逆らって目ざわりなのであるが、しかし自分のやりかたもいいとは思えない、女が人間らしく生きる道を本能的に探しているとき、清少納言の生きざま、たたずまいはある暗示でもあったろう。ただ、そういうかけはなれすぎた資質は、示唆《しさ》よりも反撥が先立ってしまう。  私は紫式部が、例の口迅《くちど》の姫、近江《おうみ》の君に活躍する場を与えなかったのが、たいそう残念である。  もし紫式部が、清少納言に対し、真の優越感をもっていたなら、作品の中で、清少納言風の女を造形し、一つの典型を創造できたであろう。だが、清少納言は、式部の筆で描く円周からは、ともすれば躍動してはみ出してしまうに違いない。  かなり男・女の典型を捉《とら》え得た式部も、清少納言のタイプだけは自家薬籠中《じかやくろうちゆう》のものにできにくかったのであろうか。それやこれやの一端が、酷烈な批評となって迸《ほとばし》ったのであって、夫の宣孝のことを嘲弄されたから、というような単純なものではないであろう。男性の張り合いも女流の張り合いもみな同じで、相手の才能を認めればこそ、のものである。女流のワルクチは、と嗤《わら》う男性は多いが、古代も現代も人情にかわりはなく、男流同士も、相手の才能をひそかに認めているときほど貶しめ痛罵《つうば》するものである。  さて、話が逸《そ》れたが、女は道具を愛し、身辺にまつわらせて置くのを愛する。当代最高クラスのそれらにはじめて接した紫式部は、また、彼女のやや偏執的な性格からいっそう身に沁みてそれらをいつくしんだのではあるまいか。 「源氏物語」にはそれらの諸道具に対する偏執的な、物狂おしいまでの愛が、ことこまかにつづられる。現代の読者は、あまりにこまごましい即物的説明に退屈をおぼえるほどである。何しろその実物が現代生活、日用必需品からあまりに遠いので……。「絵合」の巻の、絵巻物の結構なる体裁。紫檀《したん》の軸に赤紫の表紙、紙屋紙《かみやがみ》に唐の綺《き》の裏打ち、それらの絵巻物は沈香《じんこう》の、透し彫の箱に入れられ、箱には優雅な心葉《こころば》(造花)がつけられる。  それをのせる机は浅香《せんこう》。机の下の敷物は青地の高麗《こま》の錦。机の足には飾り紐《ひも》が結び垂らされて、それを捧げる女童《めのわらわ》も、揃《そろ》いの衣裳。 「梅枝《うめがえ》」の巻の、香壺のさまざま。  沈の筥に、瑠璃《るり》の坏《つき》二つすえ、練香《ねりこう》はそれぞれに大粒に丸めて入れてある。二種の薫香が、朝顔の宮から贈られたのである。  紺瑠璃と白瑠璃の香壺。これは舶来のものでもあろうか、紺のガラスの壺と、白いガラスの壺なのである。紺のには、飾りの造花に五葉の松がついていて、白い壺には梅の花、これは注釈によれば、松の方は黒方《くろぼう》、梅は梅花という香であろうとある。源氏はたった一人の姫のため、入内の調度は善美をつくしたいと思っているが、ことに香壺の筥など、趣向を変えてすぐれたものをつくらせようとしている。それに応えて人々は苦心の作品の香を献上しようというわけである。朝顔の宮は「まめやか」な人柄なので早速、調合して届けられたが、その入れ物もまた、心にくく優美なのだった。心葉にむすびつけられた飾り糸も女らしく優婉《ゆうえん》だったとある。  更に「若菜上」の源氏四十の賀の折の、道具調度のいろいろ。螺鈿の御厨子、椅子、紫檀の挿頭《かざし》の台。黄金《こがね》づくりの鳥が、銀の枝に止まっているという趣向の細工もの。  紫式部は精力とあこがれをこめて描出する。  それらの美術工芸品を肌でぬくめ、愛する人の、熱っぽい筆致で。  式部は美しいものを愛し手馴れて悦ぶ人であるから、必然的に華々しいセレモニーも愛する。花の宴、紅葉の宴、藤の宴。式部だけでなく、女は宴が好きである。式典、祭り、晴れの場を好みがちである。 [#改ページ]   女はセレモニーを愛す 「新源氏物語」を週刊誌に連載しているとき、「初音《はつね》」「胡蝶《こてふ》」の宴の個所ではしばしば、「適当にはしょって下さい」だの、「もうこのへんで切り上げて頂いて、もう少し早いスピードでその、波瀾万丈《はらんばんじよう》というふうにできないですか?」だのといわれて、大いに難儀した。 「源氏物語」はゆるやかに、あるときは冗漫に、のたりのたりとすすむ小説なのである。内的緊張はあるが、一見、野太く悠々と物語はすすめられてゆく。「初音」の正月風景、「胡蝶」の春の宴などは、なるほど「適当にはしょって下さい」とせかされそうな、のんびりした部分であるが、しかしこの花やかな部分をはしょることはできない。  これは、のちの悲劇への伏線ともなっている。「まねびたてむも言の葉たるまじく」(「初音《はつね》」)という、この世の極楽のような六条院の栄華があってこそ、あとのその崩壊のかなしみはいっそう強まるのである。  紫の上が、「胡蝶」の春の宴を心からたのしめばこそ、そのあとにつづく源氏の背信に苦しみ、(女三の宮の降嫁による)源氏の方はまた、紫の上の死に遭って、救いのない苦悩を味わう。  人間の運命は明日知れぬものと知らぬ人々は、「初音」「胡蝶」で、わが世の春を謳歌《おうか》しているのである。  私は宴会のくだりは、いつもあまり面白くないのだが、この「胡蝶」の宴とそののちに出てくる、「藤裏葉《ふぢのうらば》」の宴は好きである。 「藤裏葉」は夕霧が晴れて雲井雁《くもいのかり》を許されるときの宴である。藤の花はいまどきの都会の若い人ではどうかすると、知識として知っていても、情感では分らないかもしれない。 「花屋に売っていないので、手にとって見たことがないんです」  という若者もいた。  あの藤の花は、たくさんの花房がしだれる下に立つと紫の雨につつまれたよう、風がわたると、えもいえぬ芳香を放つ。私は藤の花の匂いというのを、九州の唐津の城の藤棚ではじめて知った。甘くすずやかな香りである。  紫式部の頃も、藤棚は作られたのであろうか。この巻では、風情のある姿の松に、藤の花がかかっていたとあるので、ことさらに棚などつくろわず、自然のままに松にまつわって咲く藤を賞美したのかもしれない。松と藤は、そのまま、夕霧と雲井雁の似合わしい新婚のカップルによそえてながめられる。頃は四月七日の夕月夜、藤の花も「暮れゆくほどのいとど色まされる」折からである。内大臣と夕霧の長き確執《かくしつ》も氷解し、今宵こそ晴れて雲井雁と会うことを許されると思う青年は、美しく上気している。内大臣は「春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ」と誦《しよう》して心をひらいたあかしとし、その息子で、夕霧の親友なる柏木《かしわぎ》は、紫の色のひとしお濃い、房の長い美事《みごと》な藤の花を折って、 「客人《まらうど》の御|盃《さかづき》に加ふ」  藤の花を夕霧にさし出したことで、雲井雁を許す、という意味になった。盃はめぐり人は酔い、好もしく座は乱れて、やがて花婿は、   「たをやめの袖にまがへる藤の花      見る人からや色もまさらむ」  と祝福されつつ、花嫁の新床へみちびかれる。このあたり、ページから藤の花の芳香が馥郁《ふくいく》とただようような場面である。  これらは私宴であるが、このほか鈴虫の宴だとか、「梅枝《うめがえ》」の宴、だとか、徹宵、酒と音楽に人々は酔い痴《し》れてゆく。ほのぼのとあけゆく空に、鳥は啼《な》き、それがやっと宴のおひらきの合図となる。  物語のはじめの頃にある「紅葉賀《もみぢのが》」の宴や、「花宴《はなのえん》」の桜の宴は、帝《みかど》の出御《しゆつぎよ》のもと、百官のつどう、半ば公式行事であるが、折々につけてプライベートな宴を人々は催して倦《う》まない。あの王朝の華麗|豪奢《ごうしや》な衣服は、公式行事や私的宴会がしばしば行なわれたことによって、奢侈《しやし》の度を加えたのではあるまいか。せっかくのファッションを晴れのパーティで競い合うというたのしみ、王朝にあっては、宴と衣服美の盛行は相乗関係にあったであろう。  それで思い出したが、以前あったテレビドラマの「源氏物語」がつまらなかったのは、王朝の行事や宴がほとんどないのである。思わせぶりなベッドシーン、帳内シーンがえんえん続くだけで、「源氏物語」の世界の香気も、王朝の豪奢も感じられない。更に不足をいうと、原典の「源氏物語」はおそるべきユーモアにみち、骨太の皮肉をも包含している小説である。たとえば、父を裏切った源氏が妻に裏切られたり、浮かれ男《お》のくせに子供の少い源氏に対し、息子の夕霧はまじめな堅物で、律儀者《りちぎもの》の子沢山というべく数多の子女に恵まれるとか、誰のものになるかと興味をそそる玉鬘《たまかずら》が、思いがけず髭黒《ひげくろ》の手に落ちるとか、源典侍《げんないしのすけ》や近江の君のおかしさは措《お》くとしても、惟光《これみつ》という存在も、巻により、ずいぶんサンチョ・パンサ風である。「帚木《ははきぎ》」の雨夜《あまよ》の品定めには、のちの「今昔物語」につながるような、人間への肥大した好奇心があって、作者がユーモア好きの、人間好きのタイプであることを思わせる。  そういう朗々たる大どかな味わいが、あのテレビドラマにはなく、何やらいじけて陰惨な王朝ドラマになってしまった。  それは主演のジュリーや脚本・演出に責任があるというものではなかろう。原典のユーモアやある種の明るさがドラマにない、という以上に、ドラマに使う製作費が少なすぎる、ということではなかろうか。「源氏物語」には本来、ふんだんに季節の情趣、年中行事のかずかず、宴の逸楽が出てくる、それらはそのまま、そのシーンの人物の心理と匂いうつり、人物はその季節の、その情景・自然によってより雄弁に心理を語るのである。  私は、べつのテレビ関係者に、「源氏を撮るときは最低一年はかけ、専従チームを編成して作って下さい」といったことがあった。大徳寺や嵯峨野《さがの》で数カ月の撮影でそそくさとすませるのではなく、せっかくのカラーテレビであるなら、春の桜、秋の紅葉、夏の若葉と四季のうつろいの中で芝居を作ってほしい。してまた、賀茂祭《かもまつり》などの実写を挟《はさ》んでドラマに利用するというぐらいの執念もかけてほしい。現在の葵祭《あおいまつり》も、上賀茂の社頭で舞われる「求子《もとめご》」の舞など、全く「源氏物語」そのままの世界である。あれをドラマにとり入れない手はない、と思うのだが……。  あるいは奈良の「春日《かすが》若宮おん祭」のとき、夜に入って行なわれる舞も、燃える篝火《かがりび》のもと、舞人《まいびと》はさながら源氏か頭《とう》の中将か、というところである。石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》の神事にもそういう情景が拾えはしないだろうか、王朝ものといっても京都にかぎらず、奈良の町はずれあたり、いかにも王朝趣味の場所もあるのであって、それらを拾いあるくための専従班を、私は作ったらいいと夢想するのである。  王朝びとは人工文化の中にどっぷりと浸っているように思われるが、本来は自然とともに生きる人々である。「源氏物語」は、スタジオの中でのみ作られるべきではないと思う。もっと時間と手間と費用をかけて、贅沢《ぜいたく》に作られなければならない。  なかんずく「源氏物語」のドラマに、厚みと奥行を添えようとするなら、どうしても宴会やセレモニーのシーンがふんだんに挿入されなければならない。男も女も、あの物々しい第一種の礼装が映えるのはそういう場に於《おい》てであって、「源氏」はそれらを背景に、季節の美を存分に満喫し、生きる喜びを謳歌する小説でもある。  その喜びをとりあげないで、ただ深刻そうな愛欲シーンだけでつないでゆくとなれば、それは陰惨でいじけたものになるのは仕方ないであろう。 「源氏」というと愛憎劇としか反応しない人が多いが、この小説は日本人の美意識の原点で、四季の自然の享受のしかたを教えてくれるもの、自然と人間がともに息づき、人間は自然の中によく消化《こな》れてむつみ合っている、春夏秋冬の移ろいの中で、人間は歓楽にふけり、悲哀に号泣し、怨念《おんねん》に慟哭《どうこく》、咆哮《ほうこう》するのである。自然にまみれ、四季にまろぶのである。春の桜や秋の紅葉、冬の雪景色を背景にしない、セットの中だけの「源氏物語」など存在するだろうか、私が「最低一年はかけて下さい」と哀願する所以《ゆえん》である。  さて、そういう自然の楽しみかた、かつ、自然にちなんだセレモニーの楽しみかたは、「源氏物語」の中にさまざま出てくるが、藤の花の宴とともに私の好きな「胡蝶」の巻の春の宴、これがまた豪奢ですばらしい。  栄華の絶頂の六条院は、今しも春|爛漫《らんまん》である。三月の二十日すぎのこと、紫の上のいる南の一|区劃《くかく》は「常よりことに尽くしてにほふ花の色、鳥の声」、源氏は女房たちのために、かねて造らせていた龍頭《りようとう》鷁首《げきす》の船を、いそいで艤装《ぎそう》させ、池におろして船楽《ふながく》を催す。  この宴が私にはことさら印象的なのは、女性が楽しんでいるのである。紫式部はそれまでに、初めのころの「花宴」や「紅葉賀」で公式行事としての宴における源氏の美しさを描写しているが、宴の歓楽は書かれていない。 「源氏物語」を、紫式部はいつ書いたか、という推理は、菲才《ひさい》の私の手にあまることだが、物語の後半になるに従い、豪奢や贅沢の雰囲気が〈板についてくる、〉という感じで、初めのころの平面的描写から脱却する。それはやはり、式部自身、彰子《しようし》中宮の後宮に身を置いて、この世ならぬ歓楽の火照《ほて》りを知ったからであろうか。 「胡蝶」の花の宴では、船に乗ることを許された中宮方の若い女房たちがはしゃいで、喜びにどよめくのであるが、このあたりは、女人たちの嬌声《きようせい》がきこえそうなうららかなシーンである。  船は池をめぐる。私はこの庭や池のくだりを読むとき、京都御所の中の、仙洞《せんとう》御所の庭を思い浮べる。私は二度ばかり拝観させてもらったことがあった。市中にこんなにも広大で幽邃《ゆうすい》閑雅な場所があろうとは信じられないくらいで、ことに磯浜と呼ばれる南池のそばに立つと、中島から汀《みぎわ》の松、丸い石の渚《なぎさ》など、「源氏物語」の六条院の庭はこうもあったろうかとうっとりさせられてしまう。一般公開されていないのは惜しいが、しかしこの清浄と美しさを保つためには、拝観者を限定した方がよいかもしれない。それも、優美な中に雄大さがあって、決してこせこせとまとまっていない景観である。王朝の庭も、こんなふうにのびやかな豪宕《ごうとう》な眺めであったのだろうか。何しろ六条院は思い切って大きいのだから(四町《よまち》、約六万平方メートル、という広大なもの)。  折しもこの春、中宮は里下りしていられる。  六条院は四季に応じて好みのままの庭に作られているが、中宮は秋を好まれるとて西南の中宮御殿の庭は秋向きに作ってある。東南は紫の上の御庭で、池のさまも面白く、春の花の木や草花をたくさん植えてある。  六条院に移った年の秋、中宮は紫の上に、   「心から春まつ園はわがやどの      紅葉を風のつてにだに見よ」  と春秋いずれか優れると挑まれる。このお歌は、折からの紅葉につけてもたらされた。  そのさまは、硯箱《すずりばこ》の蓋《ふた》に、とりどりの秋草の花や紅葉を入れたのを、美少女が捧げ、廊《わたどの》、反橋《そりはし》を渡って、紫の上の御殿へ参るのであった。秋に心寄せられる中宮の挑みはあえかに美しい。  紫の上はそれに対し、その蓋に苔《こけ》を敷き、岩に見たてた小石に、造りものの五葉の松などあしらい、歌をつける。   「風に散る紅葉はかろし春の色を      岩根の松にかけてこそ見め」  こういう繊細なやりとりも、いかにも女性的趣向である。「源氏」や「枕」などを読むと、造花というものが大いにもてはやされているが、その技術はかなり高度なものだったようだ。私は薬師寺の花会式《はなえしき》の造花などがそのはじまりかと思っていたが、薬師寺のそれは、堀川天皇の嘉承年間にはじまるという。それならば「枕草子」や「源氏物語」に始終出てくる造花の方が古い。贈り物につける造花は前に書いたが、その造花も次第に手がこんで「枕草子」などをみると、かの定子《ていし》中宮が二条の里邸へ下られたとき、御階《みはし》のもとに満開の桜が植わっていたという。時は二月二十日ばかり、梅なら盛りの頃だが、さても早咲きの桜よと清少納言がよく見ると、それは造花なのだった。花の色合い、形、実物そのままで、どんなにこまかい手間をかけたことだろうと清少納言は感心している。高さ一丈ばかりだったというから、大変なものである。  しかし造花の悲しさ、露にぬれると色がまさるどころか、あべこべに萎《しぼ》み、日に当ると色変りし、おまけに雨さえ降ってきたので全く見どころがなくなってしまった。侍たちは中宮の父・道隆にいいつけられて、あわてて桜を引きぬき、かついで去ったという。それほどの造花をつくる技術とセンスがあるのだから、さぞ日常社交の応酬にも美しいものが使われたことであろう。薬師寺の造花は象徴的で上品な、簡素な花だが、王朝のそれは、布や紙を染めた、かなり写実的な、ほんものにまがう精緻《せいち》なものであったろう。紫の上が秋好《あきこのむ》中宮に返したものも、 「この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬ作りごとどもなりけり」(「少女《をとめ》」)  とあるから。私は造花に関心があるので、こういうくだりを読むと、つい、千年昔のデリケートな美しい作り花を慕わしく想像する。  源氏は紫の上に、この勝負、春まで待ちなさいと示唆する。いまは秋のさかりゆえ、いかに春の肩を持っても勝ち目はないであろう、と。そんな勝ち負けを楽しむほど、只今の六条院は平和なのである。  そうしていよいよ、六条院に春が来た。中宮にさきのお返しをするときがきた。  折から中宮は六条院にお里帰りなさっている。紫の上はいまこそ、秋よりも春の情趣がまさるのではありませぬかと優雅に返したいと思い、源氏も花ざかりの美しさを中宮にお目にかけたいと思うが、中宮はご身分がら、同じ邸内といってもかるがるしく花見にこちらへお出ましになることができない。その代りに中宮は源氏の招きに応じ、若い女房たちを寄《よ》こされる。  彼女たちは好奇心いっぱいで、美しいもの、花やかなもの、楽しいことに感動しやすい、情緒過多な女房たちである。彼女たちを乗せる龍頭鷁首の船は、派手やかに唐風《からふう》にしつらえられ、楫《かじ》取りや棹《さお》さす少年たちは、髪をみずらに結い、唐風の身なりに仕立ててある。  その船が、花のごとき若き女房たちを満載してゆるゆると池へ漕《こ》ぎ出してくるさまは、さながら動く絵のようであったろう。  池は中宮御殿から紫の上の御殿に通じている。小さい山が間にあって隔ての関となっているが、船はその山を漕ぎめぐってくるのである。源氏は彼女たちを花見とともに船遊びにも招いたわけであった。  船は中島の入江の岩蔭《いわかげ》に入る。石のたたずまい、あちこちに一面に霞《かすみ》たなびく梢《こずえ》は錦をかけわたしたよう、紫の上の御殿の庭がはるばると見わたせる。  船から見る彼方《かなた》の岸は、まこと、春の御殿とよばれるにふさわしい眺めであった。中宮御殿の女房たちは、はじめてみるこの景色に目を奪われてしまう。柳の色は緑を増してしだれ、桜は今をさかりとほほえみ、廊をめぐる藤の花、池水に影をうつす山吹は、岸に咲きこぼれている。水鳥はひとつがいで泳ぎ、あるいは細い枝などくわえて飛びちがう。  女房たちは「行く方《かた》も帰らむ里も忘れぬべう」あまりの美しさ、楽しさに呆然《ぼうぜん》とする。ここは蓬莱山《ほうらいさん》の仙境ではあるまいかと感動するのである。   「亀の上の山もたづねじ船のうちに      老いせぬ名をばここに残さむ」   「春の日のうららにさしてゆく船は      棹のしづくも花ぞ散りける」  などというのが、若い女房たちの感懐であるのだが、私はこのあとの歌をはじめて見たときびっくりした。女学生愛唱歌の「花」の一節は、ここから採られたのであろうか。  やがて長い日も暮れかかると|皇※[#「鹿/章」]《おうじよう》という楽の音が面白く聞え、女房たちの心をいっそう、そぞろにしてゆく。船は釣殿《つりどの》にさし寄せられて、彼女たちは下りた。  釣殿は簡素に、しかし趣きふかく部屋を飾ってある。ここには、かねて源氏が集めておいた紫の上付きの女房たちがいる。それぞれわれ劣らじと美しい衣裳《いしよう》をまとい化粧している。池につき出て建てられたこの釣殿、高欄《こうらん》の下の池水に、彼女たちの衣裳や篝火が照り映え、どんなに美しかったことであろうか。  源氏は彼女たちのために、舞や音楽を用意して見物させるのであった。  夜に入れば、いよいよ興は増し、楽しさは飽かず、尽きない。御殿の前に篝火をともし、遠くで演奏していた楽人《がくにん》を、正面の階段のそばまで近く召して、いまは上達部《かんだちめ》、親王たちもそれぞれの楽器を奏しはじめる。兵部卿《ひようぶきよう》の宮はおもしろく歌い、源氏もともに唱和する。  それを御殿の御簾《みす》のうちで紫の上はま近く聞くわけである。若き女房たちに劣らず、紫の上は心に沁《し》みて歓を尽くしたにちがいない。中宮はまた、遠音にきこえる楽のしらべを、うらやましく聞かれたにちがいない。  その明けの日は、中宮の御読経の初日である。人々は今度は西南の中宮御殿へ、衣服を更《か》えて参上する。  紫の上からの供養として仏に花を奉ることになった。その趣向の、なんというあでやかさ、みやびやかなこと……。  鳥と蝶の装束をした美少女八人が、それぞれ花を捧げて船に乗り、池を漕ぎめぐって霞のあいだからこちらの岸へさしてあらわれるのである。鳥の装束をした少女たちは銀《しろがね》の花瓶《はながめ》に桜をさし、蝶のよそおいに仕立てた少女たちは黄金《こがね》の花瓶に山吹の、ことに美事《みごと》な花の房をさして、それを捧げている。船は紫の上の御殿の前の、山際《やまぎわ》から漕ぎ出《いだ》す。中宮御殿の前へ、鳥蝶のよそおいをした少女たちが現われたとき、風がすこし吹いて、瓶の桜が「すこしうち散りまが」うたという。  快晴の日であった。うぐいすのうららかな音に加え、御階のもとに寄った少女たちは花を供え、鳥と蝶に分れて番舞《つがいまい》を奉る。秋に心寄せられる中宮も若女房たちも、この繚乱《りようらん》の春の奢《おご》りに心ときめいて、かぶとをぬぐのであった。  紫式部はこのたぐいの華麗なセレモニーに肝《きも》たましいを奪われたことがあるにちがいない。あるいはこういう宴の演出にも立ち合ったかもしれない。色彩感覚に富み、音楽・舞のわかる、バランスよき教養を具えた紫式部は、陰の演出者として自身、宴のめでたさ美しさに、陶酔|恍惚《こうこつ》となったかもしれない。女はこういう宴やセレモニーが大好きで、それは生きている喜びを存分に享受することである。現代のどんなイベントもセレモニーも、この千年前の、紙に描かれた宴に比べれば色あせて貧弱である。式部は生の歓喜を声あげて謳《うた》う人である。 [#改ページ]   紫の上という女 「源氏物語」が千年来、愛読されつづけてきた理由の一つに(尤《もつと》も、愛読といっても、ほんとうに現代的意味でのそれは、「源氏」が世に流布《るふ》して人々を熱狂させた王朝の同時代と、近代に入って庶民の誰もが口語訳を手にできるようになったいまと、であろう。そのまん中をつなぐ、中世・近世の時代は、「源氏」は愛読されるというより、むしろ教養のシンボルだから)女主人公《ヒロイン》が誰であるか、というたのしい論争のたねを提供してくれた、それがあるのではないかと思う。  また、それに関連して、登場人物の女性たちの、誰にいちばん魅力を感ずるか、また、誰を贔屓《ひいき》にするか、というのも、女のサロンの活気ある話題である。  全く、紫式部という人は、よくもこんなに小説好きの人間たちを楽しませてくれることだ。多分、それはこの先、ずうっと将来もそうであろう。  小説のたのしみというのは、短篇長篇、どちらも同じようであるが、ただしかし、長篇の場合は、人生の鳥瞰図《ちようかんず》とでもいうべきものになるので、その点は長篇ならではの強味でもあり、面白さでもある。 「源氏物語」はさまざまの女性たちの典型が描き分けられているだけでも面白いのに、しかもその生涯を辿《たど》るうちに、一人一人が面《おも》がわりしてゆく、その面白さも味わうことができる。  性格の中の、ある部分は生来のまま、終生もちつづけ、ある部分は変容してゆく、登場人物たちのどれもが、巻を逐《お》うにしたがっていかにもそれらしく自然にトシをとってゆき、かわってゆく、そこに少しも不自然な作為のあとはみえない。  彼ら彼女らは、歳月と運命の大河《たいが》に押し流され、浮き沈み漂いつつ、明滅しつつ、面がわりを遂げる。それとつきあううちに、いつしか読者自身、物語時間に生きていて、巻をおおうと共に、しみじみ我ながらトシとった、長い生涯を生きた、という気がするのである。  その思いは、紫の上の死によって、ひときわ深くなるような気が、私にはされる。  私は若い頃は、紫の上という女に魅力をおぼえなかった。あまりに円満具足してケチのつけようのないところが、いかにも不自然に思われ、作為的にすぎるようにみえた。私は若いころは明石《あかし》の上が好きであった。理智的で気位たかく、聡明な美女、というのにあこがれていた。空蝉《うつせみ》を好む友人もあった。若いときは理性的でシッカリした女性像に共感するらしい。  そんな話をしていたのは、空襲のため退避した防空壕《ぼうくうごう》の中であった。私たちは旧制の女子専門学校の国文科二年生だった。昭和二十年の三月から八月終戦までのあいだである。学徒動員であちこちの工場へやられたが、学校の中に工場が作られてから午前中だけ講義が再開された。それもしばしば空襲警報で中断された。工場で軍服を縫っている間も、同じであった。  そうして校庭に掘られた防空壕へクラス別に入って、警報解除を待つ間、暗闇の中でそんな話をしていた。  そのころの女専の教授がたは、老齢の先生が多くて、よく、紫の上のよさを語られた。  私たちはそれを、ヒトゴトのように聞いていた。十七、八からハタチぐらいまでの少女には、物心ついてからずうっと叩きこまれてきた良妻賢母教育の、その具現者が、紫の上であるように受けとられて、心を動かされなかったのであろう。むしろ反撥《はんぱつ》を感じていたにちがいない。私のいた女専は大阪の樟蔭《しよういん》で、これは「楠《くす》の葉蔭《はかげ》の教えをば……」という校歌にあるように楠公《なんこう》夫人にあやかって生徒を薫育しようという、(あるいはこれは戦時中の軍部に対するポーズだったかもしれない。実際はかなり、オールドリベラリズムの校風だった)建前だったから、よけいに淑徳のほまれ高き紫の上を、若い娘が共感できるはずはないのであった。  しかし中年になった私は、紫の上が好もしくなった。そして、かの日の老教授がたも、決して良妻賢母の具現者としてでなく、実際に血の通《かよ》った女として、紫の上を好まれていたのではないかと思うようになった。  中年男性の友人たちで、私の「新源氏物語」を読んでくれた人々に、紫の上をどう思いますか、と聞くと、 「あらァ神サンですな」  という答えが返ってきた。この人は自営業の五十代半ば、私が強《し》いなかったら、およそ一生かかっても「源氏物語」などに縁なき衆生《しゆじよう》で終っただろう男である。「源氏物語」をちゃんと終りまで読んでくれたが、結論として、 「まあしかし、あら、オナゴのよむもんでっしゃろなあ。男はあんまり、おもろうないなあ」  といった男である。紫の上については、 「理想的すぎま。リッパすぎて男は手ェも握られへん気ィになる。あら、神サンです。神サンとは寝られへん」  というのが彼の感懐であった。  もう一人のサラリーマンの中年男性は(男の心理がよく描かれていて、そこだけ面白い、と「源氏」を評した男である)、 「紫の上という女は、欠点がなさすぎますな、そこが困る。どこか欠点あってほしい」 「しかし嫉妬《しつと》した、とあります。源氏の君も、紫がよく嫉妬するのが玉にキズ、というふうにいってひやかしてます」  と私はいった。 「いや、そういうものは女らしい暖《ぬく》さであって、欠点ではないでしょう。しかし、もし欠点が書かれてると、ハラ立つ、というふうな矛盾した気持です。それから、いつも綺麗《きれい》ごとで、身も世もなく取り乱すとか、あられもない、という面がまるで書かれてない、そこが物足りない、しかしそれは、もしほんとうにそういうことが書かれてたら、紫の上のために作者に文句いいたい、という、気持ですな。欠点ないのが不満で、また嬉しいです」  といった。矛盾しているが、わかる気もする。昔の老教授がたの一人が、 「紫の上にもし子供があったら、それはもう天女《てんによ》であって昇天するだろう」  という誰かの評を教えて下さったのを思い出す。  もう一人の新聞記者の中年男は、私がこの連載をはじめて数カ月になるが、まだ読んだ気配はない。「あら、オナゴのよむもんでっしゃろなあ」という感懐は、新聞記者において殊に強いのかもしれない。  私は「源氏物語」の女主人公はやはり、紫の上だと思う。我々は紫の上の生いたちから死までを、ていねいにつき合わされる。その成長と変貌《へんぼう》を見届け、その死とともに物語宇宙も完結し、崩壊するのを眼《ま》のあたりにする。  源氏が紫の上の死によって、生きる意欲すら失うのを見て、読者は感慨をもつ。紫の上は源氏によって育てられ、作られた女であるが、次第に巨《おお》きくなり、やがて源氏を超えて鬱然《うつぜん》たる存在となった。源氏はいつか紫の上を生の拠《よ》り所としていたのである。  そういえば男たちの評のなかに、 「源氏と紫の上みたいに、小さいときから女を思うように育て、妻にするというのが、男の最大の夢ではなかろうか」  というのがあったが、こういう設定は、清水好子氏の指摘されるように、作者の紫式部のファザーコンプレックスに根ざしたもののようだ。源氏と玉鬘《たまかずら》との関係にも見られるが、しかし女は教育や躾《しつ》けによって果して矯《た》められるものであろうか。男の掌上に舞うようでいて、実はいつか知らず、男が女の掌上に乗せられるというものではなかろうか。  少女の紫を北山ではじめてかいまみるシーンは、日本人の心に、少女の愛らしさを絵のようにとどめた。更に少女を二条邸に源氏が引きとってのちのスケッチ。正月、姫君は人形を部屋じゅうに並べて、 「そそきゐたまへる」(「紅葉賀《もみぢのが》」)  いそがしく、そわそわとままごとをしている。三尺の御厨子一対《みずしいつつい》に、道具や人形の御殿を並べたて、あたり狭いまで引き散らして遊んでいるのである。〈鬼やらいをするといって、犬君《いぬき》がこわしてしまったのよ、いま直しているのよ、〉と「いと大事とおぼいたり」というありさまで、少女は源氏に告げる。可愛いく口とがらせたさままで、想像されるようである。また同じ巻に、源氏が音楽の手ほどきをする場面があるが、夕方になって源氏が外出しようとすると、姫君は萎《しお》れてしょんぼりしてしまう。うつむいている姫君が源氏は可愛いくて、黒髪のこぼれるのをかきあげてやりながら、 〈私がよそへいっていると、寂しいの?〉  ときくと、姫君はこっくりとうなずく。源氏は、 〈私もだよ。私も一日でもあなたを見ないと寂しいのだけれど、あなたがまだ小さいから私は安心して置いて出られる点もあるのだ。よそには意地わるで気むずかしい人がいてね、まずその人たちを怒らせないように、今のうちはこうして出あるくのですよ。あなたがおとなになったら、私はもう決して、よそへなんかいくものか。ほかの人の恨みを買うまいと思うのも、みなひとえに、あなたと共に長生きして、幸福になりたいと思うからですよ。わかってくれるね……〉  と、情理そなえた弁解を、噛《か》んでふくめるようにいう。少女は源氏の言葉の意味を全く解しない。その証拠に、いつか青年の膝《ひざ》によりかかって寝入っている。源氏は「こまごまと語らひきこえたまへば」とあるように、一人前の女にいうように、まじめに心こめて言いきかせている。源氏はボキャブラリイが多く、言葉の蜜《みつ》で蕩《た》らすのが巧《うま》い男であるが、ここのセリフは、たぶん本音であろう。  寝入ってしまった姫君を見ると源氏もさすがにいじらしくて、置いて出かけられない。どこかの女のもとにゆく予定だったのを取りやめ、〈今夜は出かけないことにした〉と、姫君を起していう。少女はご機嫌を直して共に夕食をとるが、源氏が気を変えて、あるいは少女の寝入ったあとで、また出かけないかと、少女は不安である。心もそぞろに、しるしばかり食べて箸《はし》をおき、〈ではおやすみあそばせ〉と源氏をうながす。源氏は、 「かかるを見捨てては、いみじき道なりとも、おもむきがたくおぼえたまふ」  こんな可憐《かれん》な人を見捨てては、たとい死出の道であろうとおもむきがたいだろうと思うのである。外出しようとすると追い慕ってきて少女は泣く。外へ泊る夜を重ねると、どんなに寂しがっているかとおちつかない。これではまるで、母のない子をもったようだ、と青年の源氏は苦笑する。  読者の胸には、少女・紫の可憐さが強くとどめられる。いったいに紫式部は、子供の描写に、重い手応えがあり、的確である。のちに出てくる、乳幼児のころの薫《かおる》の描写もそうだが、少女・紫などもまるで私たちが、少女を育てているような、濃い実在感がある。賢子という娘を持った実人生の重みが、描写の裏打ちをしているのかもしれない。それに比べ、私はかねがね思うのだが、清少納言は「枕草子」で見るかぎり、どうも子供を持たなかった女のようにみえる。息子も娘もいたようだ、というのが研究者の示唆されるところであるが、子供の愛らしさを活写する、そのさまは好奇心にみちみちて、子供珍らしい人のものである。  清女が子供に愛憐《あいれん》するさまは、ことごとく表面的な情景描写に尽きている。例の有名な、 「二つ三つばかりなる稚児の、いそぎて這《は》ひ来るみちに、いと小さき塵《ちり》のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指《および》にとらへて、大人毎に見せたる、いと愛《うつく》し」  も、 「八つ九つ、十ばかりなどの男児《をのこご》の、声はをさなげにて、書《ふみ》読みたる、いと愛し」 「稚児は、あやしき弓・笞《しもと》だちたるものなどささげて遊びたる、いと愛し。車などとどめて、抱き入れて見まく欲しくこそあれ」  などもそうである。 「大きにはあらぬ殿上童《てんじやうわらは》の、装束《さうぞ》きたてられて歩《あり》くも、愛し」  これらは、小さな葉っぱ、人形あそびの道具、鶏の雛《ひな》、雁《かり》の卵、瑠璃《るり》の壺などとひとしい次元での愛くるしさ、かわいらしさであって、子供は、小さく繊細で、羸弱《るいじやく》もの、可憐なものとして鑑賞したときに、清女の感動を喚《よ》びおこすのである。  だから子供たちが、自我をもち、あるいは大人の鑑賞から逸脱したときは、「愛しきもの」の中には入らない。 「にくきもの」の中に、 「ものきかむと思ふほどに、泣く乳児《ちご》」  というのがある。 「人ばえするもの」(人前で調子づくもの)  の辛辣《しんらつ》さはどうだろう。 「ことなることなき人の子の、さすがにかなしうしならはしたる」 〈大した身分でもない人の子が、甘えて調子づいているのなど〉と彼女は挙げる。  また、ききわけのない四つ五つの駄々っ子が、いつもやってきて物を散らかしたり壊したりする、それを平生《へいぜい》は叱って制しているのだが、母親がいると勢づいて調子づき、〈あれ見せてよ、ねえ、お母さあん〉とゆすぶる。母親は大人同士のおしゃべりに夢中である。その子は勝手に引っぱり出してそのへんへ引き散らす、その憎らしさったら。それを制しもしないで母親は笑いながら〈そんなことしちゃだめ〉ぐらいしかいわない、母親まで憎たらしい、見ているこちらは強くもいえず、はらはらする、という段もあり、これも清女らしく、いきいきした一章なのだが、これなど全く、子供のない人間の爽快軽躁《そうかいけいそう》な切り口である。 「むつかしげなるもの」(うっとうしくやりきれぬもの)には「ことなることなき人の、子などあまた、持てあつかひたる」大した身分でもない人の、子だくさん。 「さかしきもの」(小ざかしく口達者なもの)に「今様のみとせ児」(近頃の三つ四つの子)というのをあげている。 「かたはらいたきもの」には、ぶさいくな幼児を、親は自分が可愛いいと思うままに、いつくしみ、その片言をまねて人に聞かせたりするの、などとあげている。「見苦しきもの」の中には、気のおける、なみなみならぬ人の前に、子供を背負って出てくる人、というのがある。この無残なまでの明快な論断。  これらは子持ちの人間の感覚ではない気がされて仕方ないのだが。「おぼつかなきもの」(気がかりで不安なもの)のくだりに、 「ものもまだいはぬ乳児の、そりくつがへり、人にも抱かれず、泣きたる」  とある、これも幼児が病んだときの、母親の物狂おしい不安と心配から、かなり距離がある口吻《くちぶり》である。「羨《うら》やましげなるもの」に「よき子ども持たる人、いみじう羨まし」とある、それを措《お》くとしても、清女が書く子供は、大人の視点の高さから見|下《おろ》した子供である。  しかし紫女が子供を書くときは、彼女はしゃがんで同じ身の丈になって向きあっているように思われる。しかもその子供たちと血肉がつながっている、一種の野太さがある。  鈍重といってもいいような、おちつき払った的確さがある。清女の鋭敏な第三者的な軽《かろ》やかな描写に比べ、紫女のそれは、日常、乳幼児を抱きとり、あやし、その重みを知った人、胸乳《むなぢ》を吸わせ、肌と肌を密着させ、日々に体重の増《ふ》えてゆくのを実感する母親の感覚が、まぎれもなくあるように思われる。童女の日常をあけくれ観察した人の、描写である。  少女・紫はかくして、我々読者に、少女というものの愛らしさを強く印象づけた。他のどんな女性像よりも、紫の上に親近するのは、こうして生いたちをこまやかに知ったからである。ほかの女たちは、その少女時代が分明でない。どんな風にして生い立ったのか、素性が知れぬところがある。紫の君は、これより前、祖母にも死に別れ、半ば拉致《らつち》されるように源氏の邸に引きとられてゆくが、脅《おび》えて惑うているそのときの少女の美しさも、ちょっとほかに類のない個所である。 「若君は、いと恐ろしう、いかならむとわななかれて、いとうつくしき御肌つきも、そぞろ寒げにおぼしたるを、らうたくおぼえて」  美しい少女の肌は、惑乱と寒さのため、そそけ立っている。源氏はそれが可愛いくて、単《ひとえ》の衣で少女を押しつつんでやりつつ、われながら、 (何をやろうというんだ、おれは)  と思うが、やさしく、〈二条の邸へいらっしゃいよ。ままごと遊びもできるし絵本もありますよ〉などといいこしらえる。少女はおびえは去ったが、夜ひと夜、源氏に抱きよせられて、眠れもせず、もじもじしているのである。  少女・紫が源氏の妻になったのも二条邸においてであった。紫の上は六条院へ移るまで、つまり十か十一ぐらいから、二十七、八のころまで、ずっとこの二条院で住む。この邸にいるとき、彼女は源氏と一体であった。源氏が須磨《すま》へ下ったときも、この邸を守って過した。二条で成長し、二条で妻となって、紫の上にとってはこの邸こそ、青春の思い出ある場所で、彼女はこののち六条院へ移って対《たい》の上《うえ》、といわれても、六条院に所詮《しよせん》、馴染《なじ》むことはできない。  六条院には女三の宮はじめ明石の上やら秋好《あきこのむ》中宮がひまなく住んでいられる。紫の上にとっては、自分の邸という気がせず、祝宴を催すにつけても「わが御《おん》わたくしの殿《との》と思《おぼ》す」(「若菜上」)二条院を使う。この言葉は、死に近き「御法《みのり》」の巻にも、もういちど出てくる。紫の上は、六条院の春の御殿の女王であったが、心によぎるのは、つねに二条院での、愁《うれ》いを知らぬ明るい少女時代である。この邸を源氏に譲られた、というよりも、ここは彼女の人生の郷里であるからなのだろう。しかし源氏は、彼女が二条院に、それほどの思いを寄せているのを知っているであろうか。私たち読者は、二条で生い立った彼女を見ているので、のちの巻に、どんなに六条の栄華に身を置こうとも、紫の上が二条を、 「わが御わたくしの殿と思す」  心根に、あわれをおぼえずにはいられない。  源氏にもいえない、さまざまななやみを、二条の古やかたは知っている。紫の上がついに六条院におちつけず、つねに二条の古やかたを心に持ちつづけた、そのあわれに共感せずにいられない。それは、紫の上と読者だけが知る秘密で、そのとき、我々は源氏に対して共犯者となるのである。  読者は、源氏を主人公として物語をよみすすみつつ、しかしひそかに心かよわせ、すすんで共犯者の位置に並びたがるのは、紫の上の方である。二条院の古やかたとともに、読者は紫の上の喜びも悲しみも知っている、という気にさせられる。     ***  紫式部はなぜ、ヒロインたる紫の上に子供を持たせなかったのであろうか。  それは紫の上を救いのない愛憎ドラマの煉獄《れんごく》に堕《おと》すため、いいかえれば、「男と女の愛」専門という役目を振りあてたためであろう。愛や憎しみに疲れた女は、子供に逃げ道をもとめて、歪《いび》つな安堵《あんど》や救いを得ようとする。実際、太古から女はそうやって救われることが多かったのだから。  紫の上は養女を愛し、それにできた子供を愛して救われようとするが、しかしそれは真の救いにならない。擬似的な救いであって、苦悩はいささか薄められるが、決して消滅しない。義理の親と子の関係というのは形而上《けいじじよう》的な愛だから、決して真の逃道にはなり得ない。女は観念愛では救われない。  紫の上は退路を断たれているのである。  となると、「男と女」の修羅場《しゆらば》の嵐《あらし》に身を打たせて堪えているほか、ないのである。  それは六条《ろくじようの》御息所《みやすんどころ》もそうであった。しかし御息所は退路を断たれて、手負い猪《じし》のような荒れかたをみせる。  我執の火で焼き尽くそうと反逆するのであり、紫の上はそれと反対に、退路を断たれて苦悩に全面的にたちむかうことによって、いつしか、苦悩を併せ呑《の》んで、自分と同じ色に染めあげ、広い世界への窓をあけ放って、我執を昇華させてしまった。しかしそのとき、紫の上は現《うつ》し身《み》の終焉《しゆうえん》を迎える。  そういう役割をふりあてられている以上、現実の子供を持つということは、物語をすすめる上で不都合である。  そちらの方面の、親子の愛、現実的な、形而下の愛、という役割は、明石の上に振りあてられている。明石の御方《おんかた》という一段下に落ちた呼称を用いられて、ただ気位の高さでやっと自分を支えているようなこの女人は、他のどの女性も持つことができなかった源氏の子供を与えられて、男女の愛憎ドラマから、いちはやく離脱してしまう。  親子の愛にくらべると、男と女の愛はずっと観念的で、はかなく捉《とら》まえどころなく、手応えがない。明石は手応えのない愛にみるみる関心を失い、ひたすら、手応えのある親子の愛に情熱を示すのである。  産んだ娘が、紫の上に養われるべく、手もとから|※[#「手へん+宛」]《も》ぎとられていったあと、明石の御方は源氏に尽きぬ怨《うら》みを抱きつづけている。それだけに、その娘が東宮の女御《にようご》として入内《じゆだい》し、その後見を紫の上から托《たく》されたときは、飛び立つばかりの思いで、 「いみじくうれしく、思ふことかなひ果つるここちして」(「藤裏葉《ふぢのうらば》」)  喜ぶのである。彼女はその後は全人生をあげて、女御の後見をつとめる。 「年ごろよろづに嘆き沈み、さまざま憂き身と思ひ屈《く》しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、まことに住吉《すみよし》の神もおろかならず思ひ知らる」(「藤裏葉」)  という狂喜のていである。明石の御方はその持てる教養、才気、思慮、情操のすべてを動員して、ひたすら女御を守り立て補佐し、この上なき後見役となる。そういう役割に没頭してしまった上は、もはや源氏と明石の御方の人生は、男と女として交叉《こうさ》することはない。  明石の御方は愛の煉獄から、 〈一、抜けた——〉  になったのである。  我々は子供という退路を断たれて、やむなく戦いのまっさかりの場へ、すごすごと引き返してゆく紫の上に、かぎりない愛憐を寄せないではいられない。 「源氏物語」を読んだ女性の中には、 〈紫の上は、男には絶望したけれど、やはり母性愛で救われたのですね。しかも義理の娘への愛という、崇高な愛によって、母として人生を生きたのですね。妻として夫に絶望した分、母としては完成された人生だったと思います〉  という人もあった。どのように読むのも自由で、そこに小説の面白さはあるのだが、作者の紫式部は、義理の親子の愛などというものに幻影を抱いていない。式部はリアリストであるから、何ものを以てしても埋まらぬ穴を知っている。紫の上は何年も手塩にかけて明石の姫を育てながら、真実を見通す眼は、情緒で曇っていない。 「つひにあるべきことの、かく隔たりて過ぐしたまふを、かの人も、ものしと思ひ嘆かるらむ、この御心にも、今はやうやうおぼつかなく、あはれにおぼし知るらむ、かたがた心おかれたてまつらむもあいなし」(「藤裏葉」)  一緒にいるべき母娘《おやこ》が別々に過していられるのを、明石の御方もひどい仕打ちと恨んでいられるだろう、姫君もだんだん、本当の母親でないといえないことが出来てきて辛く思われるかもしれない、母娘にとって、自分の存在が重苦しく思われるのも辛い、と紫の上は考える。そうして明石の御方を女御の後見にと、みずから推挙する。  紫の上自身が好むと好まざるによらず、自分の人生に逃道がないと見据えたのは、このときかもしれない。  しかしそれかといって、私にはある種の女性読者たちのように、紫の上が男に絶望したとは思えない。源氏とわかりあえない、ということを知るけれども、それで以て源氏に絶望したというには、末期《まつご》の彼女の眼は澄んでいる。  死に近き紫の上は、かつてあれほど許さなかった明石の上に、死期の遠くないことを心細がる、率直な弱りかたをみせる。花散里《はなちるさと》に長き友情を感謝する。そのやさしさが、どうして源氏に向わぬことがあろう。源氏によって奇《く》しくも結ばれた、ほかの女人との絆《きずな》を、しみじみと思い返す紫の上は、そのもととなった源氏にいっそう深い思いを持つのである。露のように消えた美しい紫の上の死に、絶望や敗北や憎悪はないのであって、それを暗示して、作者は、死顔の美しさを強調して倦《う》まない。  私は、紫の上は源氏への絶望から、それを足がかりに、暗箱《あんばこ》をつきぬけた、というふうに感じている。彼女は今までの生涯を圧縮した以上の濃密な愛を、新しく源氏にそそぎかけながら死ぬ。  犀利《さいり》な源氏はそれを悟った。  そのゆえにこそ、紫の上の死は、彼には二度と起《た》てない打撃となった。男と女はわかりあえない関係だが、しばしば、死の釉薬《ゆうやく》で窯変《ようへん》をおこす場合があり、源氏も、紫の上の死で、彼女の愛を思い知らされたのではないか、——というのが、私の読後感であった。少くとも私は、紫の上が源氏を見放し、静かな絶望に包まれて死んだとは思えない。源氏の(男の)迂遠迂愚《うえんうぐ》をさえ、紫の上はほほえみを以て大きな愛で包んでしまっている。(いいのです、それでいいのです。かまいません)というように。  ところでそういうリッパな女がいたら、それは男性読者のいう「神サン」であって、全く実在感なく魅力に乏しいはずであるが、紫の上は、女としての出発点からして、どきりとするほど色っぽい。 「源氏物語」の中でもちょっと衝撃的な場面だが、「葵《あおい》」の巻の、紫の上と源氏との実質的な結婚のシーン。まだ少女の気持の抜けない紫の上は、源氏が「けしきばみたること」を折々いって気をひいてみるが、まるで無垢《むく》でさっぱり気がつかない。といって少女は、源氏が世間でいう「男君」、婿の君、夫というような存在であるらしいことはわきまえている。周囲の女房たちの夫が、いかにも無骨、ぶざまであり、年齢も加えているのに、源氏は同じ「婿の君」といっても若く美しいのをふしぎに思う、それほどにも世間知らずの|ねんね《ヽヽヽ》である。ただ、この二条邸へ引き取られてのちは、御帳台《みちようだい》の中で源氏とずうっと共寝している。乳母の代りに源氏が寝ているというような、幼な子の扱いで、姫君もいつかそれに慣れて、そういうものだ、と思っているらしい。  しかし正妻の葵の上を失っていまは独り身の源氏は、現在ただいま、紫の姫君を得ようと思いつめて余裕がなくなっている。まだ子供だと思って可愛いがっていた姫君は、いつしか妻にしたいと思うほど魅力的な成長をとげているが、源氏の心を攪乱《かくらん》させながら本人は全く気付かない。面《おも》ざしも心も、まだ少女期のままに稚《おさな》いのに、肉体は一人前の女に熟れようとしている、あのあやふやなアンバランスの季節である。源氏は、 「しのびがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝《あした》あり」(「葵」)  およそ、閨《ねや》のシーンでの具体的表現がないのが「源氏物語」の特徴だが、その折々に印象的な描写があって、しかも、それぞれ心にくいものが用意されている。「夕霧」の巻で夕霧と落葉の宮が契るくだりは、何しろ落葉の宮がかたくなに夕霧を拒みつづけて涙、涙のありさまなので、夕霧は強行して宮のそばに近づく。そこは塗籠《ぬりごめ》で暗いが、朝日の光が一条さしこむ。夕霧は宮の被《かぶ》っている衣《きぬ》を引きのける。そして乱れた髪をかきやって、はじめて宮の顔を見る。これは交情の成立したときに用いられる描写であるが、このときの一条の朝日の光がよく効いている。  朧月夜《おぼろづくよ》と源氏の密会が露顕するのは、源氏の帯によってである。父大臣が雷鳴を案じて娘の部屋へくると、朧月夜は惑乱して帳台から出てくる。その顔が「いたう赤みたる」というのもなまなましく面白いのだが、彼女の着物の裾《すそ》にまつわって、薄二藍《うすふたあい》の男帯が引き出されてくる。それに源氏の手の手紙が落ちており、大臣が呆《あき》れて帳台をのぞくと、男が臆面もなく臥《ふ》していて、わざとらしく、今ごろ顔を隠したりしている、そういうあたりの筆使いは悠揚迫らぬながら、たっぷりとエロチックである。  女がかぶっている衣をとりのける、女の髪をかきやる、という男の動作は、愛を交《かわ》し合った男女の仲の、よくあるしぐさであるが、源氏と藤壺の密会の場面は、ただならぬ状況を反映して、めざましく烈《はげ》しく情熱的で、さすがに、これほどの緊迫した閨のシーンはない。  源氏は里居している藤壺の宮のもとへ忍んでいく。帳台に入って、宮の衣の褄《つま》を引く。「あさましうむくつけう」思った宮は、つっぷしてしまうが、〈せめてこっちを向いて下さい〉と源氏は恨んで宮を引き寄せる、宮は男の手に衣を脱ぎすべらせて退《の》こうとすると、男は女の髪を手に巻きつけて離さない。長い髪だから当時はそういうこともあったであろうが、このへんの、自棄的な源氏の情熱をたたみかけて叙してゆく筆は、むしろ男性的ですらあって、的確である。このときの藤壺の宮の長い髪の扱いはめざましい。ここは、 「心にもあらず、御髪《みぐし》の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世《すくせ》のほどおぼし知られて、いみじとおぼしたり」(「賢木《さかき》」)  とあるだけで、源氏がどういう髪の握りかたをしたかは読者の想像に任されているが、「取り添え」というから、衣ごと髪を抑え、つかんだのであろうか、「心にもあらず」というのは宮にとっての意味で、まさか髪をつかんで身の自由を奪われるとは、宮の思ってもいないことであったのだろう。〈のがれられない宿世か〉と惑乱したのは宮が窮したときにあたまにまず浮んだ思いである。  このシーンなどは、かなり強いタッチでぐいぐいと書き込んでいるが、紫の姫君と源氏の、はじめての明けの朝に、印象的に使われているのは、〈美しい汗〉である。  ある朝、男君(源氏)は早く起き、女君(紫)は一向に起きてこない朝があった、というあたり、さりげない書きぶりながら、さすがに王朝の他の凡百の小説を蹴落《けおと》す暢達《ちようたつ》の筆である。  作者はこの大長篇のヒロインを愛し、その女の生涯の誕生(生物的誕生ではない)に充分な用意と蓄積をもって、ほほえみつつ立ち合っている。  周囲の女房たちは、姫君が幼いときから源氏と一つ帳台のうちに臥しているのを見ているので、いつ「若草の新手枕《にひたまくら》をまきそめ」たのか、分明でないのである。だから女房たちは、女君が一向に起きてこないある朝、 〈どうなさったのかしら、ご気分がわるいのかしら〉  といいあっている、源氏は早く起きて東の対へいってしまうが、そのとき硯《すずり》の箱をさし入れてゆく、姫君が人のいない間にやっと頭をもたげてみると、引き結んだ文に源氏の歌がある。   「あやなくも隔てけるかな夜《よ》をかさね      さすがに馴れし中の衣《ころも》を」 (今までなんというよそよそしい二人の仲であったことか。あんなに馴れ親しんだようにみえながらね。……これでやっと、二人のへだてはなくなったわけだよ)  物なれたよみぶりで、調子もなめらかであり、さすがに恋の手だれにふさわしい、場かずを踏んだ男の歌である。  姫君のほうはそれどころではなくて、こんなひどい人とは思わなかった、なんで今まで頼っていたのかしらと、なさけないやらくやしいやらで惑乱している。源氏は昼ごろにやってきて、しれしれとしていう。〈気分が悪いって? どうしたの、今日は碁も打たないで淋しいじゃないか〉とのぞくと、姫君は、 「いよいよ御衣《おんぞ》ひきかづきて臥したまへり」  女房たちは遠慮して向うへいってしまう、源氏がそばへ寄って、〈なんでそう怒ってるの? あんがい、ふくれ屋さんだね、女房たちもへんに思うだろうから、さあさあ、起きなさい〉といって、 「御衾《おんふすま》をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪《ひたひがみ》もいたう濡れたまへり」  源氏が衾をひきのけてみると、姫君は汗びっしょりになって、額髪もひどく濡れていた。 〈いや、こりゃ大変だ。そうご機嫌悪くては困ってしまう〉と何かといいなだめても、姫君は心からひどい人だと怨んでいて、ひとことも返事しない。源氏は、 「よしよし。さらに見えたてまつらじ。いとはづかし」  よしよし、それじゃ私はあなたの前から消えるよ、こっちの方がきまり悪くなってきた、という。源氏の憎らしいまでの落ちつきと対比して、惑乱する少女の清らかな汗が強調される。このかがやかしい汗のエロスによって、紫の姫君は、少女から「女君」へと美しい蝶に変身したことを、読者は見とどけるのである。  それにしても、この少女の玉の汗ほど、美しく清らかな汗があろうか。人妻の恋、浮かれ女《め》の恋、貴婦人の恋、老女の恋、とさまざまの女たちの恋の諸訳《しよわけ》を書き分けてきた作者は、いちばん愛情こめて、「少女」が「女君」になる変身の恋を書いた。  源氏はこうしてついに紫の姫君を妻にしたが、そのころは彼の生涯でもっとも多事多端な時代で、六条御息所との別れ、桐壺院《きりつぼいん》の崩御、朧月夜との密会などが重ねてつづく。藤壺の宮のもとに忍んで、髪の一端を捉《とら》えたのもそのころである。  宮は源氏の恋を斥《しりぞ》けようとして、出家の決心をかためているが、源氏はまだそれを夢にも知らない。  事件の多い、源氏二十三歳のころのこのあたりは「賢木」の巻だが、紫の上は十五ほどになっていようか、多難な源氏の運命のかげにかくれて、読者の前には姿をあらわさない。  ただ、藤壺の宮に拒まれた源氏が、拗《す》ねて雲林院に籠《こも》るくだりでやっと出てくる。秋色深い頃で、源氏は勤行《ごんぎよう》に励みながら宮のことを思い出したりする。絶望的な恋へのつらあてにいっそ、出家しようかと考えつつ、そうなると紫の上が気にかかる。ほかの女君はともかく、源氏にとって紫の上は唯一人の「扶養家族」なのである。源氏がいなければ、寄るべのない紫の上はさすらわねばならない。  源氏と紫の上の関係は、こうしてみると他の女君たちのように対等ではない。紫の上は無力で、源氏の庇護《ひご》によって生きている。源氏は最後まで、紫の上を自分で育てあげた、と思いこんでいたし、紫の上も、後年、(それはもう、ほぼ二十年のち)女三の宮が降嫁したとき、あるいは朝顔の宮に源氏が懸想《けそう》したとき、顧みてそれを自分の負《ひ》けめとしている。紫の上には実家もなく後楯《うしろだて》もない。源氏によって食べさせてもらっている女で、いま風にいえば、「自立していない女」である。  ほかの御息所にしろ、朝顔の宮にしろ、(末摘花《すえつむはな》でさえ)自分の財産なり、所領の邸なりがあって、源氏を迎え、あるいは拒む、自由意志を発現するてだてがあった。しかし紫の上にはそれがないのであって、このへんの事情をあたまに入れて、二人の関係をよみすすむと、いっそう興ふかいのである。  源氏は雲林院から紫の上に手紙を繁くやる。   「浅茅生《あさぢふ》の露のやどりに君をおきて      四方《よも》の嵐ぞ静心なき」  紫の上は「こまやかなる」書きぶりに「うち泣き」返歌をする、それは源氏の心がわりを案ずるものである。浅茅の露にかかる蜘蛛《ささがに》の糸のようにはかないわが身をたとえて。  紫の上は、御息所、朧月夜、藤壺の宮、とあちこちに心を置いて右往左往している源氏の後姿を、心ぼそくみつめている。   「風吹けばまづぞ乱るる色かはる      浅茅が露にかかるささがに」  少女はしばらくのうちに、「色かはる」と男心を察知する女の本能を、磨《と》ぎすましている。いや、それは、男によって磨かれたのである。紫の上には、むろん、そのころ源氏の心の中でもっとも大きな割合を占めていた、藤壺の宮との恋の紛糾は、知るよしもないのだが、怜悧《れいり》なその心には、源氏の悩乱が感光されている。それが彼女を女にしてゆくのだろう。  女君はもう昔のように、はしゃいだりふざけたりすることはない。「ねびまさり」「いたうしづまり」大人っぽく、しっとりした物腰の淑女になっている。そうして「須磨」の巻では、源氏との生別という異常な事態に向きあって、頓《とみ》に艶冶《えんや》な若妻という風情をみせて読者をおどろかす。紫の上は、この頃はすでに十八歳ばかりである。  ヒロインの変貌《へんぼう》の曲りかどに、作者は源氏の運命的な出来ごとを慎重に設置する。ヒロインはそのたび、それに触発されて、面変《おもがわ》りしていくのである。  紫の上は、源氏についていきたいと思うが、それは許されないことである。  源氏もそれを心もとなく思う。紫の上に実家はあるのだが、実父は冷淡だし、継母《ままはは》は紫の上の不運を喜ぶような人である。(温順な紫の上も、この継母の言動を噂《うわさ》できくときは、さすがに女らしい反撥《はんぱつ》の反応をみせていて、このへんが〈神ならぬ女の身〉の、女臭|芬々《ふんぷん》たるおもしろいところなのだが)源氏のほかに頼る人はない。源氏としても〈自立していない〉紫の上のことが、いちばんの浮世のほだしとなっている。 「なほ世にゆるされがたうて年月を経《へ》ば、巌《いはほ》のなかにも迎へたてまつらむ」  と約束するが、紫の上はひたすら、源氏との別れを悲しみ、泣き沈む。惜しからぬ命にかえても、目の前のわかれをしばしとどめたい、と源氏にすがっている。源氏によりすがらないといきてゆけない、可憐《かれん》の若妻に、源氏もうしろ髪引かれる思いである。源氏のいない世は考えられないような女に、紫の上はなっている。その彼女が、「自立する女」になったのは、いつのころからであろうか。     ***  須磨|流謫《るたく》事件までの紫の上は、可憐ではあるが、まだオトナの女の魅力を発揮するまでにはいたらない。そうして源氏にひたすらよりかかっている人形妻である。いわば「源氏物語」の中の女、というより、「平家物語」のヒロインたちに近い。——というのは、いつだったか、円地文子氏が、 「『源氏』の女君たちとちがって『平家』の女人たちはたよりなくてちっとも魅力がありませんね、何かというと『衣《きぬ》ひきかつぎて泣きたまふ』というのばかりだから」  と諧謔《かいぎやく》的にいわれたことがあって、実際そうだと私は興ふかく思ったものだ。吉屋信子氏の「女人平家」はそれぞれ鮮烈な性格を与えられた女性が登場するが、「平家物語」の女人たちは没個性的なのが多い。  それはともかく、美しき人形妻の紫の上が、生命を吹きこまれて、なま身の人間となった契機は、嫉妬《しつと》である。嫉妬は子供のない紫の上が源氏とのあいだに生んだ私生児であった。源氏は紫の上が藤壺の中宮に似て、めでたく生いたったことを喜びつつ、なお嫉妬深い一点だけが困りものだといっている。 「君こそは、さいへど、紫のゆゑこよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気《け》添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや苦しからむ」(「朝顔」)  あなたは中宮のお血筋を引いてよく似ておられるようだが、少々面倒な点があって、才気走りすぎていられるところが困りものだ。「わづらはしき気《け》」というのは、ここでは嫉妬して拗ねたり、あてこすったり、恨んだり、ふくれたり、という態《てい》を指すのであろうが、源氏は、嫉妬が紫の上を艶冶な女にし、奥ふかくさせたことに気付いていない。全く、源氏という男は、こと紫の上に関して、ほとんど何もわかっていないのである。のちに女三の宮と比較して、やっと紫の上の美点を(あらためて)思い知らされるが、それさえも自分の教育のせいだと思い、 「我ながら生《お》ほしたてけり、と思す」(「若菜上」)  のである。自分ながら、よくもこうみごとに育てあげたものだ、と満足している。源氏は老獪《ろうかい》な政治家であるくせに、そして恋の手だれであるくせに、最も身近の、最も大切な人間の心がわからない。政治家といい、恋の手だれ、というも、その方面の才能は、いわば瞬発力を要求されるもので、臨機応変に対処できれば、かなりの点は稼げるのである。  しかし一人の人間と長い人生を共棲《ともず》みし、双方、幸福な気分を手の中に捉えていようとするには、洞察力や思いやり、ユーモアや自尊心などの手綱をゆるめたり強く引いたりして、息のながい緊張を持続する力がなくてはならぬ。男と女の長い人生は、洞察力や思いやりや、愛やユーモアやプライドの多頭立ての馬車である。手綱をとり捌《さば》く能力が双方になければ馬車は疾走しないのである。  源氏には、持続能力が欠けている。その能力を育てるのは愛と嫉妬なのだが、そもそも源氏が、(相手が紫の上であれ、誰であれ)真に嫉妬したことがあったろうか。  女三の宮と柏木《かしわぎ》の密通で源氏がしたたか味わわされたのは、嫉妬というよりむしろ、自尊心や体面を踏みにじられた憤怒《ふんぬ》である。藤壺の宮との恋については、呵責《かしやく》の念のほうが強くて、父帝《ちちみかど》に嫉妬するという対等の立場に立てない。源氏がはじめて嫉妬を知ったのは玉鬘をさらった髭黒《ひげくろ》の大将に対してであろう。しかし玉鬘は源氏にとって唯一の対象だったわけではなく、源氏自身、玉鬘の処遇について、〈紫の上以上に愛することもできないし、さりとて、他の女人たちなみの地位におくのも玉鬘にとっては気の毒な話だし〉と迷っているくだりがあるから、その玉鬘を思いもかけず、目の前で拉《らつ》し去られても、全人生をねじまげられるほどの嫉妬ではないわけである。  ところが紫の上はちがう。  紫の上が生涯に味わった深甚な嫉妬の対象は三人あった。  明石の上と朝顔の宮と、女三の宮である。  そのどれのときも、紫の上は生の根柢《こんてい》を問い直されるほどの衝撃を受ける。とくに、まだ若く、幸福の安逸に狎《な》れて人生に無防備だった時代に味わわされた、明石の上に対する嫉妬は、見るも無残な、いたましいものである。  そのあと、朝顔の宮に源氏が眷恋《けんれん》していたとき、女三の宮が源氏のもとへ降嫁したとき、それらは、紫の上がやや人生の情理《わけ》知りになっていた時ゆえ、〈どんな顔をしていたらいいか、〉紫の上の裡《うち》に、その心準備と防塁ができているのだった。  それでもおのずから憂悶《ゆうもん》の色が面《おもて》にあらわれ、もの思わしげな風情になってゆくので、源氏はそのときどき、心つくして慰さめる。女の心をときほぐすボキャブラリイとテクニックは、彼の長年の修練でますます巧緻《こうち》になっているが、しかし、それがどれほどの効果を上げたであろうか。  いや、嫉妬を知らない恋のプロ、などというものが果して存在するであろうか。源氏はあくまで恋の渉猟者、瞬発力の人であって、愛のさまざまな要素を馭《ぎよ》しつつ、長い行程をもちこたえられる、というような馭者ではないわけである。源氏は、自分が嫉妬を知らない人間だ、ということを知らない。  恋するということの熟練者は、恋と嫉妬を同時に知る人であるのに、それからいうと源氏は、失恋は味わったが、嫉妬に心|煎《い》られる苦痛は知らないので、恋愛認識においていささか偏頗《へんぱ》な点がある。嫉妬に理解がないため、源氏は紫の上の深い微笑や、あるいは辛そうな沈黙、洩《も》れる言葉のはしはしから、何とはない不安感を誘われている。紫の上は嫉妬で成長し、源氏と別次元の世界へ昇華していくのに、源氏はそれが洞察できず、ただ漠然とした不安を感じて狼狽《ろうばい》している。だから〈われながらよくもああ美事な女性に育てたことだ〉と思いながら、そのあと、妙に根拠のない不吉な思いに胸しめつけられる。紫の上への愛が深まり、一夜はなれていてさえ気になってならず、こんな愛情は、もしや紫の上を早く喪《うしな》う前兆ではないかと心配になってくるのである。  嫉妬といえば、六条御息所の嫉妬は、能動的で形になって現われるだけに明快で、男に畏怖嫌忌《いふけんき》の念をおこさせ、男を遁走《とんそう》させてしまう。それを放しもやらず追うところは、冥界《めいかい》のイザナミがイザナギを追う説話の記憶が投影している気もされる。また、ひとたび嫉妬すると足摺《あしず》りも荒らかに怒罵《どば》したという嵐のような悪妻、イワノヒメの大后《おおきさい》の影も透けてみえ、御息所の嫉妬は、本来、かなり抽象的な、説話的な性質のものに思われる。  それに、これは清水好子氏の指摘であるが、のちに、女三の宮が出家したときにも、紫の上が息絶えたときにも、六条御息所の霊があらわれ、心地よげにあざ笑う。それについて、 「葵の巻での御息所の出現が印象的で、読者に好評だったので、作者はその要望にこたえ、くり返し登場させたのではないか」  といわれていた。対談の席でのご発言だったので、いくらかはちがうかもしれないが、趣旨としては、概略そのような意味であったと思う。  御息所の霊は、読者が忘れたころにも執拗《しつよう》に出て来るが、その現われかたに、かなり取ってつけたような部分が少くなく、かつそれが物語の構築に必然性があるとも思えない。  それにくらべると紫の上の嫉妬は、具体的で近代的でもあり、極めてリアルな内面劇である。男への怨みつらみがそのまま愛になるという自家撞着《じかどうちやく》で、紫の上はそのたびに、ほとんど生命を削るような苦しみで痩《や》せてゆく。  終焉《しゆうえん》の紫の上が源氏を恕《ゆる》し包んで愛することができたのは、その生命と引きかえに得た、新しい境地で、心を解き放ったからである。  六条御息所の嫉妬には男は堪えられても、紫の上が嫉妬を発酵させ、芳醇《ほうじゆん》な美酒に変えてそれを撒《ま》きつつ天界へ去ってしまうと、あとにのこされた男は、その薫染《くんせん》のしぶきに中《あ》てられて、もはや身のおきどころもなくなってしまう。源氏は、御息所の出離や死を悲しむことはできるが、紫の上に死なれたあとは、そのまま、自分の消滅につながるほどの打撃を受けてしまうのであった。  もちろん、紫の上がこうなるまでには、ずいぶん長い嫉妬の苦しみの歴史がある。私たちは、その歴史にいちいちたち合い、彼女の「面がわり」を見とどけつつ過すことができるので、決して「神サンのようなオナゴ」が現実ばなれした作為的な人物でないこと、その「永遠なる女性」が、苦しみに裏打ちされてたしかな手応えとして存在することを知るのである。  紫の上の試練は、明石に謫居している源氏の手紙からはじまった。源氏はすでに明石の上を得ている。風の便りに紫の上がそれを聞いて恨めしく思うよりは、むしろこちらから打ちあけたほうが、「心の隔てありける」とうとまれるよりはいい、と思って、 「またあやしう、ものはかなき夢をこそ見はべりしか」(「明石」)  と告白している。紫の上はそれへの返事にこだわりなく愛らしい言葉をかきつらね、その終りに何げなさそうに、おっとりした怨みごとを仄《ほの》めかす。——〈あなたのお帰りをひたすら待っている私は、まさか波が、末の松山を越そうとは思いも染めぬことでした〉  しかもその物思いは、ほんの序の口であった。明石の上に姫君が出来、源氏はそれを紫の上に告げて〈憎まないでやっておくれ〉という。紫の上は顔を赤らめて〈いやですわ、いつもそんな風にいわれる私のことが、われながらいやになります。もしそうなら、私にもの憎みや嫉妬を教えたのはどなた?〉と怨《えん》ずるのである。源氏は笑って、〈誰が教えたのだろう、しかし、私が思ってもいないことを気を廻して怨んだりなさるから悲しくなるよ〉  源氏は二人のこれまでの仲、離れている間の手紙、愛と信頼を思い返すと、 「よろづのこと、すさびにこそあれと思ひ消《け》たれたまふ」(「澪標《みをつくし》」)  明石の上のことも、女の子ができたことも、紫の上との愛にくらべれば、いっときのすさび、たわむれに過ぎないと思われる。明石の上の人柄が上品で、趣味がよく思われたのも、〈あんな淋しい荒磯の田舎でめぐりあったせいかもしれないね〉と話す。話しつづけるうちに源氏は制御できなくなって、明石の上との別れのあわれをこまごまとしゃべってしまう。こういうときの源氏はかなり紫の上に甘えていて、紫の上が自分と等質の感動をもつと信じ切っており、女の嫉妬についての省察能力が全くない。明石の上と別れるときにかたみに詠んだ歌などを軽率にも披露してしまう。源氏の歌は、   「このたびは立ち別るとも藻塩《もしほ》焼く      煙は同じかたになびかむ」  という纏綿《てんめん》たるものであった。明石の上はこれに対して、   「かきつめて海士《あま》のたく藻の思ひにも      今はかひなきうらみだにせじ」  という哀切な歌で、その折の彼女の面輪《おもわ》、なまめいた琴の音、まで源氏は口をすべらしてしまう。  はじめ、別離のあわれに共感していた紫の上の心は、みるみる化学変化をおこして、さま変りしてくる。明石と源氏の唱和をきいたら、おのずと三年前の自分と源氏との別れの歌をそれに重ねずにはいられないし、一人ですごした心淋しい日々のそれを、源氏と明石の二人暮しの歳月に透かしてみないではいられない。別居時代、「われはまたなくこそ悲しと思ひ嘆きしか、すさびにても心を分けたまひけむよ」と思うと恨めしくてならない。 〈どうせあなたはあなた、私は私。別々なんだわ〉と背を向けて〈昔は愛し合った二人なのに〉と嘆くのである。源氏と紫の上の間に、明石の上が影を落しているいま、もう決して、元通りの仲にはならないわ、と思いこむ。   「思ふどちなびくかたにはあらずとも      われぞ煙にさきだちなまし」(「澪標」)  という紫の上のひとりごとは、むろん、さきの源氏の歌への痛烈な皮肉である。源氏が明石の上に向って、〈同じ方向に煙はなびくだろうよ〉と慰めたのを諷《ふう》して、〈あなたがたお二人は愛し合っていらっしゃるから、同じ方向に煙がなびくんでしょ、私は一緒の方向へなびきはしませんけれど、私の方が先に煙になって死んでしまいますわ〉  源氏は事態が意外な方角へ転回したのに狼狽し、あわてて機嫌をとる。源氏としては、紫の上が、源氏に同調して明石の上のことを追体験してくれ、情趣を共有してくれるとばかり、考えていたのだ。虫のいい話だが。 〈情けないことを今さらいうんだね、誰のために私が今まで海山をさすらって苦労したと思うのだね。みな、あなたのためじゃないか、どうしたら私の本心が分ってもらえるのかね、つまらぬことで人の怨みを買うまいと気をつけているのも、ただあなたと末長く幸福に暮らしたいと思えばこそ、じゃないか〉  と大わらわで心をほぐそうとする。箏《そう》の琴を弾きすさんでごまかし、紫の上にもすすめるが、前に源氏が明石の上の琴をほめたので、「かのすぐれたりけむもねたきにや、手も触れたまはず」というエスカレートぶり、紫の上の嫉妬は本式になってしまう。はじめは、 「もの憎みはいつならふべきにか」  と「面うちあかみて」いうような、可憐な紫の上が、話が具体的になるにつれて、だんだんカッとしてくる、このあたりの女の嫉妬の様相は、うまい呼吸で捉えられている。だいたい紫の上はおっとりと愛らしくて、素直な人柄なのだが、こと明石の上に関しては、執拗な恨みや嫉妬をすてきれない。 「さすがに執念《しふね》きところつきて」  と、六条御息所なみになっている。源氏は二十八、紫の上は二十ばかりだろうか、はじめて大人の女の嫉妬を正面からぶっつけるようになっているが、それは源氏には一面、新鮮な魅力でもあって、嫉妬している紫の上が可愛いいのだった。  明石の上が大井に住むようになっても源氏は紫の上の気色を憚《はばか》って、たやすく出られない。やっと出かけても匆々《そうそう》に帰らねばならない。紫の上は「心とけず」というさまなので〈あなたとはくらべることもできないような人を、競争相手に考えるのはよくないよ。自分は自分、と思い上っていられればよい〉といいきかすのであるが、そういいつつ、大井へ手紙を書く、そのさまは、傍《はた》で見ていても情こまやかである。あいにくその返事は紫の上がいるときに返ってきた。特別に困るような点もないので、紫の上に、 〈これはあなたが破り捨てて下さい、面倒な。こんな女手の手紙が身辺に散っているのも、今では似合わぬ年頃になってしまった〉  と、わざと拡げたままいう。  しかし脇息《きようそく》に寄って、明石の上のことをぼんやり考えつづけ、灯をながめて口少なになってゆく源氏なのであった。その気配を知って紫の上はつんとして、手紙はわざと見ない。 〈ほらほら、見て見ぬふりをしていらっしゃる、その目つきは〉  と源氏がからかう、そういうときの源氏は愛嬌《あいきよう》こぼれるばかり、というのか、男の愛嬌で、その場の空気がぱっと明るくなる、源氏はすかさず紫の上のそばへ寄って、 〈実はねえ……あちらで可愛いい子を見てきたんだよ。前世の縁、ということも思われてしみじみした思いに打たれてしまった〉  紫の上は、源氏から、女の子ができたことは知らされている。同じことなら、あなたに出来てほしかったのに、世の中はうまくいかないものだ、という言葉も聞いていたから、突然ではないのだが、しかしその子が三つになっていて、「らうたげなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを」(「松風」)と源氏の口からいわれると、にわかに嫉妬の対象が拡大されて身近に接近してきた気がし、動揺を抑えきれない。明石の上に対する嫉妬は、子供がふえたことで、いまは憎悪とよんでもいいようなものにふくれ上っている。  源氏はそれをかわして、 「ここにて、はぐくみたまひてむや」  あなたが育ててくれないか、と紫の上の心を攪乱《かくらん》する。子供好きな紫の上の心理を知りぬいていて、そのへんの緩急自在なかけひきは老巧である。果して紫の上は、〈姫君を自分が育てる〉というオモチャにとびついて、たちまち心はそれに奪われてしまう。 〈お小さいかたには、きっと私は気に入って頂けると思いますわ、どんなに可愛いいでしょう〉  とたやすく有頂天になり、 「すこしうち笑みたまひぬ」  という素直さである。もとより源氏のもくろみは、出自《しゆつじ》の低い小姫君を、紫の上の養女とすることで世間|体《てい》をつくろい、将来の布石とするためであるが、紫の上にとり入るおもんばかりがないとはいえない。源氏は紫の上の性質が子供好きで世話好きなのを見ぬいている。  源氏のもくろみは図にあたり、小さい姫君を得た紫の上は、 「今はことに怨《ゑ》じきこえたまはず、うつくしき人に罪ゆるしきこえたまへり」(「薄雲」)  というたわいなさである。小姫君の愛らしさに免じて源氏に嫉妬しない。源氏が大井を訪れるときは、さすがにおだやかな気持ではないが、源氏と紫の上に無邪気にまつわりつく小姫君を見ると、自分でもこう可愛いいのに、手放した明石の上は、どんなに恋しくこの姫君を思っているであろうかと、思いやってしまう。その贖罪《しよくざい》に似た思いが紫の上の嫉妬を長閑《のど》め、かつ、源氏が大井で過す時間にも寛容になっている。紫の上にとって、かつて源氏がそと歩きしている時間は、すべて空虚なのだった。少女のころ、夜になると外出する源氏の裾《すそ》を握ってあとを追ったように、妻になってからも源氏の留守の夜は、ただならぬ思いであったが、今は、こよなく、気のまぎれるもてあそびができ充実した時間をすごす。  また小姫君の愛らしさに触れ、小さい子供と日夜くらすことによって、紫の上の心に暢《の》びやかな平安がもたらされ、その幸福が彼女を巨《おお》きくした。源氏と明石の上の仲を嫉妬することは、以前と変らず、どうかする拍子にそれに対する恨みや皮肉は出てくるが、そのたびに小姫君のことを思い、こういういとしいものをもうけた二人の浅からざる因縁を思うと、紫の上は素直になってしまう。自分の嫉妬など物の数でもない、何か巨大な、あらがいがたい宇宙の大いなるものの力によって、人間は生きているのであるという感動に打たれる。愛くるしい小姫君を、日夜、目の前に見ていられる幸わせを思うと、その幸わせを奪われている明石の上の心を察しないではいられない。  それでも明石の上の出自は低かったから、まだ紫の上のプライドは保たれていた。朝顔の宮への源氏の恋愛は、紫の上にとって恨みというより、絶望である。     *** 「万葉集」のアサガオは、こんにちでいう桔梗《ききよう》だということであるが、「源氏物語」の朝顔は、いまの朝顔と同じものだそうである。  朝顔は萎《しお》れやすい花で、活《い》けることはできない。盛りのころに勢ある美しい花を朝々咲かせるが、何日かすぎると、静かに勢を失って、花が小輪になり、絶え絶えに思い出したようにひらく。そのころにはすでに秋、清涼たる水のような大気の中で、籬《まがき》にかれがれと朝顔の蔓《つる》は「むすぼほれ」、花は「あるかなきか」の風情になってゆくのである。  紫の上は、源氏と朝顔の姫君の、そもそものいきさつ、なれそめを知らない。紫の上は源氏について知らないことが多すぎるのである。——つまり、源氏と葵の上のように、少年少女のカップルとして人生のスタートを切った間柄ではないわけ、紫の上とめぐりあった頃の源氏はすでに恋にかけては百戦練磨の手だれであって、したたか恋の手傷を負う人でもあった。人妻の空蝉と逢い、夕顔を死なせ、末摘花に言い寄り、藤壺の宮のもとへ忍んでいる。また六条御息所との関係も、紫の上を識《し》る前からのことであって、紫の上にとっては、源氏は年上だけに過去の多い男なのである。  朝顔の宮はそのうちの一人である。この人の名がはじめて出てくるのは、かなり早い頃の「帚木《ははきぎ》」の巻で、源氏が十七歳、偶然に泊り合せた邸《やしき》で、空蝉のもとへ忍ぼうとして、ふと女たちのささやきごとを聞く。女たちはひそひそと源氏の噂をしている。そのとき、式部卿《しきぶきよう》の宮の姫君の名も出てくる。源氏がこの姫君に朝顔を贈ったときの歌などを、すこし間違えていったりしている。源氏の一挙手一投足が世間の注目の的になっていたらしく、贈った歌、贈られた人の地位、境遇なども噂好きの人々には好餌《こうじ》となったのであろう、物語好きな女たちは、ほしいままに自分で尾鰭《おひれ》をつけて創作し、楽しんだに違いない。美貌の貴公子・源氏は恰好《かつこう》の素材なのである。  源氏はひそひそ話を聞いて、あまりいい感情を持たない。暇をもてあまして噂好きの、何かというと知識教養をひけらかしてすぐ歌を口にのぼせる、こういう女たちは、逢ってみるとがっかりするような連中だろうな、と思う。そういう反撥は、朝顔の宮への歌を間違えて噂していることに、拠《よ》っているかもしれない。朝顔の姫君は、源氏にとってつねに手を触れられない高嶺《たかね》の花で、遂げられぬ思いの象徴であり、女性の尊厳と神秘を一身に具現している、高貴な美女である。  この朝顔の姫君とのなれそめは、紫の上ばかりでなく、読者にも知らされていない。ただ、のちのちにちら、と出てくる個所から類推すると、源氏が十七歳のときか、あるいはそれ以前に、同年輩の姫君に言い寄っているらしい。姫君の父・式部卿の宮は、桐壺院の弟君だから、源氏と姫君はいとこ同士である。  あるいは少年少女の時期に、仄かに会ったことがあるのであろうか? のちの源氏の歌に「見し折のつゆわすられぬ朝顔の」とあるので、美しき従妹《いとこ》の面影を、源氏は長年、胸に抱いてきたのかもしれない。  この姫君はのちに賀茂《かも》の斎院《さいいん》となるほど、世間に重く思われている人である。斎院は内親王でなければなれないのに、孫王の姫君が立つというのは、よくせき、母君の出自が尊いのであろうか、姫君には異母兄弟はたくさんいるらしいが、それらとはゆき来せず、父君の亡《な》いのち、その邸の桃園の宮に、叔母の五の宮と住んでいるところを見ると、正室の北の方の一人娘かもしれない。  格式あり、身分たかく、かつ経済基盤もたしかな、誇りたかき貴婦人で、姫君はあるのだ。朝野《ちようや》に敬意を払われ、それにまたふさわしく、挙措進退の重厚な人で、そのへんも、紫の上とはちがう。同じ皇族の姫といっても紫の上は、源氏の庇護《ひご》がなければ世に数まえられぬ無名の人である。  朝顔の姫君の父・式部卿の宮は、姫君と源氏を結婚させる意志があった。しかし姫君が承知しなかった、とかなりあとになって事情がわかるようになっている。  姫君についての予備知識が全くないままに、読者は「葵」の巻で、突如、姫君の心理を説明せられておどろく。作者の紫式部は、いずれ朝顔の姫君を登場させるべく心用意していたのであろうが、この姫君のときは、ほかの女人たちとちがって、ドラマチックな出逢いを準備していない。そのくせ、いつも源氏の人生の水底に映って、ゆらゆらと揺曳《ようえい》しているが、しかしそれは所詮《しよせん》、水にうつる月影で、実態は手にとれないのである。  作者は姫君に肉体を与えず、精神だけをひとり歩きさせている。精神の高貴を失なわないため、肉体を与えない。ちょうど紫の上に恋愛のプロの役割りを振りあてるため、子供を与えなかったように。  朝顔の姫君は、精神ばかり高く飛翔《ひしよう》し、それゆえかえって、他の女人たちに劣らぬ濃い実在感をもつことになる。  読者に、朝顔の姫君がまず印象づけられるのは、源氏と六条御息所の葛藤《かつとう》を噂で聞く姫君の反応である。姫君の源氏に対する心理はかなり屈折して面白いのだが、分析してみると、源氏に悪感情は持っていない。折々の源氏の手紙を好意でもって受け取っている。のみならず、葵祭に、父君と共に桟敷《さじき》で源氏を見て「かうしもいかでと御心とまりけり」(「葵」)なんて美しい男《ひと》だろう、と心を惹《ひ》かれている。  源氏は例の癖で、道ならぬ恋とか、靡《なび》かぬ女とか、そういうひとひねりした、「あやにくな恋」に熱情を燃やす性質なので、もう何年も姫君に手紙を送りつづけている。その根気よさが女性の心をゆさぶる上に、源氏の手紙は手蹟《しゆせき》といい歌といい、情趣ふかいもので、四季《おり》につけて興を催させる。教養ある姫君にとっては、たぐいなく好もしい趣味人同士の交際であるのだ。源氏は、朝顔の姫君を、情緒のわかる人、と認めているが、姫君のほうでも相手にとって不足ないと、源氏を評価しているのであった。だから幾年も、このいとこ同士のあいだには、恋とも友情ともつかぬ一種の親愛感の絆《きずな》がむすばれている。——源氏は恋文めいて書くけれども、若い頃の源氏は、もっと大きな渇仰《かつごう》の対象があって、(それは藤壺の宮である)姫君に積極的な行動は起していない。  姫君が、源氏の人生でにわかにクローズアップされ、紫の上を不安がらせたのは、藤壺の宮が亡くなったのちであった。姫君は宮の代償に擬《ぎ》せられたのである。  それはずっとのちのことであるが「葵」の巻での若い頃の姫君は(源氏が二十二歳なので、その前後の年齢であろう)源氏の手紙にはさりげなく返事をして、さらりとかわしている。きっぱりと、すげなく拒絶して男に恥をかかせるような仕打ちはしないので、その洗練された、趣味のよいあしらいに、源氏はいっそう心惹かれる。姫君のほうはしかし、六条御息所の轍《てつ》を踏むまいと決心していて、 「いとど近くて見えむまではおぼしよらず」(「葵」)文通以上に、親しく逢うということなど考えてもいない、という警戒ぶりである。  育ち、環境によるのか、朝顔の姫君にとっては、何より貴重なのは品位と名誉であるらしい。怜悧《れいり》であるので、先が読めすぎるということもあるだろう。源氏の愛を受け入れたら、六条御息所の二の舞だと自戒している姫君は、ひとときの愉悦《ゆえつ》をぬすむような、波瀾《はらん》多い男女関係よりも、才気に敬意を表しあう友人関係を撰択する。肉体をとじこめて精神を解放し、そのことで源氏にとって今までの女人とは全く異質な、精神風土における伴侶《はんりよ》の位置を占めてしまう。いや、伴侶というより、一種の拠りどころであろう、源氏は何かあるたびに朝顔の姫君を思い出して依存している。葵の上を死なせたときも、「今日のあはれ」はあの人ならば分って頂けようかと、文を遣《や》る。   「わきてこの暮こそ袖は露けけれ      もの思ふ秋はあまたへぬれど」(「葵」)  妻を喪った悲愁を共有することを、相手に強いるのは、現代感覚では甘えのようであるが、この時代の人々にあっては、ものの情けを解する人への敬意というものかもしれない。姫君も果してその手紙に感動して返事を遣る。   「秋霧に立ちおくれぬと聞きしより      しぐるる空もいかがとぞ思ふ」  姫君の歌は全巻中、どれも距離を保ちつつ、しかも心やさしい詠みぶりであって、決して冷くはない。死別の悲愁を物のあわれの感動に昇華させようという源氏に、姫君は間髪を入れず手を藉《か》している。そういう点、二人は打てばひびくような、イキの合った情緒的パートナーである。  その呼吸のあいかたを、源氏はめでたく思う。長くつきあえばつきあうほど、よさが出てくる。つれないようにみえながら、しかるべきときには情趣を解して、やさしみを示してくれる、得がたい女人と思う。  源氏が不遇のあいだ、姫君もまた、斎院として神に仕えていて、交情は一時中断される。とはいっても、不逞《ふてい》な源氏は神に仕える姫君ということで、あらためて愛執の念を発し、紫野の雲林院に籠《こも》っているときですら、昔のよしみを仄めかすような、ことありげな手紙をおくるのである。  姫君の在任期間は長く、花の盛りを神に仕えて過ごし、父君の逝去《せいきよ》で退下《たいげ》したのは、もう三十すぎた頃であったろう、源氏も三十二になっている。しかも藤壺の宮に逝《ゆ》かれたあとの源氏は、身分高いあこがれのマドンナとしては朝顔の姫君しかいないのであった。それはしかし、藤壺の宮の形代《かたしろ》でもあるらしいのは「朝顔」の巻が、藤壺への追慕の歌で閉じられているのをみてもわかる。  中年の源氏は、なお秋好中宮や玉鬘へも想いをかけているが、それらは隠微に人目を憚る恋である。しかし朝顔の姫君を得ることには何の障害もなく、姫君の周囲も、むしろその結婚をすすめる気運が生じている。源氏は思いこむと、他のことを瞬時忘れる癖があって、しばらくは朝顔の宮にうちこみ、人の思惑もかえりみない。  姫君はといえば「世づかぬ御ありさま」で、「もの深くのみ引き入りたまひて」(「朝顔」)取り合わない。一般教養や趣味としての交際にとどめて、それを色めかしい境界にまですすめない。引っこみ思案に、つつしみ深い。  情趣を解する、情理《わけ》知りの柔媚《じゆうび》な心がそのまま、色好みにも通ずる当時の慣習としては、朝顔の姫君の身の処しかたは風変りである。源氏が、   「見しをりのつゆ忘られぬ朝顔の      花の盛りは過ぎやしぬらむ」(「朝顔」)  といいやると、姫君も、   「秋果てて霧の籬にむすぼほれ      あるかなきかにうつる朝顔」  私にふさわしい喩《たと》えです、とかえすのも艶《えん》で「はかなき木草《きくさ》につけたる御返りなどのをり過ぐさぬ」風趣と才覚はありながら、源氏の誘いにのらない。姫君の一種の美意識で、地上的なエロスを拒否することで、天界の愛を完《まつと》うしようと思う。若い日の姫君が六条御息所の轍を踏むまいと決心したのと同じで、それはいかに源氏に拘泥しているかということの証左であろう。  紫の上はこのころ、二十四、五になっていようか、世間が、似合いのご縁組と噂《うわさ》しているのを、最初はまさかと信じられない。明石の上のことは、子供を引きとって一件落着といかないまでも、いくらかは嫉妬《しつと》から解放されたのであるが、この姫君には深刻な脅威を与えられずにいられない。姫君と源氏の仲は紫の上よりも古く、しかもこの姫君は肉体を拒否して飛翔する精神で源氏を魅了している。姫君の容姿の描写は一切なく、すべて読者の想像に任されているのだが、それも心にくいことに、源氏は少年の日、姫君をちらと瞥見《べつけん》していて、年とともにあこがれと期待は培養され、ふくらんでゆく。  聡明な姫君はそのへんの機微にも通じているのかもしれないし、のちに出家するほど、宗教的感性のするどい人であるから、限りある現《うつ》し身《み》よりは、精神の交情に重きをおいていたのであろう。  それはそのまま紫の上を苦しめる原因となっている。肉体を持たず精神のみひとり歩きしている恋人には、うち克《か》ちがたいからである。  源氏と紫の上との仲は、このころ、誰よりも緊密なはずであった。だから噂を聞いたときの紫の上の反応は、〈そんなはずないわ、私にもおっしゃっていないのに〉というものである。源氏は、明石の上のときでもそうだが、自分一人の胸にしまっておけないで、紫の上に何もかもしゃべってしまう。女の嫉妬への省察能力がない、と私は先に書いたが、これは自分の分身と見做《みな》して、放恣《ほうし》になっているのかもしれない。  しかし源氏の様子には、上《うわ》の空のような、ただならぬものがある。物思いがちに、内裏《うち》に泊ることが多くなり、することといったら姫君に手紙を書くだけ、紫の上はすっかり変ってしまった源氏に失望する。朝顔の姫君の身分や声望からみても、自分に勝目はないと、ここでも紫の上は、源氏に養育庇護され、源氏に食べさせてもらっている、自立していないわが身を卑下している。自分が育てた、というので、源氏は私のことを軽視しているにちがいないというひがみがある。紫の上はその懐疑で源氏を信じられなくなっている。なみの浮気沙汰なら、怨《うら》みごとをいったり、可愛いく拗《す》ねたりする紫の上なのだが、今度のことは本心からこたえているので、かえって顔色にも出さない。  このあたりの紫の上の嫉妬は、現し身のなまなましい体温をよく伝えて、姫君の霊的愛との対照がおもしろい。  源氏は「雪うち散りて艶なるたそかれ時に」また姫君を訪れようとする。なつかしく着馴《きな》れた鈍色《にびいろ》の着物に香をたきしめ、念入りに身づくろいして出てゆくが、さすがに紫の上に声をかける。紫の上は見もしないで小姫君をあやしている。源氏は紫の上のご機嫌をとり、心を残して出てゆくのであるが、その鈍色の衣の色合い、濃く淡き重なりが雪の光に映えて、内大臣という位にふさわしからぬ、いまもなまめいた美しい男なのである。  紫の上は源氏の美しさに目をとめ、こういう姿を見ることも、これより離《か》れ離《が》れになるならば、どんなに辛いことだろうかと思わずにいられない。源氏のこのときの弁解は、〈あまり見馴れすぎると見映えがしなくなるかと気を遣《つか》って、わざと御所で泊ったりして離れているのを、あなたは邪推しているんじゃないか〉というものであるが、紫の上には一面の真実である。彼女は源氏を見馴れて、ことさらその魅力に気づかないが、他の女性のもとへいく源氏を見たときに、源氏の魅力に目を奪われ、それがより痛烈な嫉妬をひきおこす。明石の上のもとへ出かけたときも、それは春のころであったが、桜の直衣《のうし》に、色あざやかな袙《あこめ》を重ね、香をたきしめている源氏は夕日のなかにひときわ美しい。紫の上は「ただならず見たてまつり送りたまふ」(「薄雲」)  明石の上は日蔭《ひかげ》の女人であるが、朝顔の姫君が源氏の正妻ということになれば、紫の上は「人に押し消たれ」てしまう。生れのよさや親の後楯《うしろだて》、一門の後援が、正室には必要であるこの時代に、世間は、紫の上の幸運をもてはやすものの、正式な北の方とみとめているわけではない。それはのちの女三の宮の降嫁について人々が論議していることでわかり、かつ源氏自身も、そのことに少しこだわっている。  要するに紫の上は、源氏の正妻的権力と地位は与えられているが、それは内実的な部分で、形式としての格はないわけである。源氏の正室は葵の上が死んでから空席のままで、形式好きの世間は、そこへ朝顔の宮を擬したがっている。紫の上は、自分の邸もなく地位もなく、ただ源氏の愛だけをたのみに生きている身で、その地位は甚だ不安定なものといわねばならない。紫の上は絶えず緊張を強いられ、妻の座にいつまでたっても安住できないでいる。  男の愛情だけをたのみに生きている彼女は、男の心移りに敏感にならざるを得ない。源氏の夜離《よが》れがつづくと、辛い試練を与えられる思いである。  源氏は雪の日の訪問にも、姫君につれなくあしらわれている。源氏は、自分も姫君も中年を迎える年頃になってこそ、物の情けを知ることができるのです、と求愛するが、姫君は「さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ」若盛りをすぎて、色めかしいことは似合わぬ年輩になってしまった、源氏と一声を交すさえ気はずかしい、と思いこむ。中年になったからこそ、求愛に応えられないと、かたくなな態度でいる。そして、もしや女房の手引きで、源氏が強《あなが》ちに忍んでくることはないだろうかと警戒しているが、そのへんも源氏の心とくいちがう。源氏は昔のような無分別はしない。誠意をつくして姫君の心の溶けるのを待つつもりでいる。姫君はいくら怜悧であっても世間知らずなので、いくらか、頭でっかちであり、肉体をそなえた人間の洞察は不得手なのである。  源氏はついに靡かない姫君に手を焼いていたが、紫の上にも気遣いしないわけではない。 〈どうしたの、ご機嫌が悪いようだが〉  と紫の上の額髪をかきあげてやって、彼女の傷心をあわれむ。 〈仕事が忙しくてあなたのそばにいるときが少いのを、今までにないことと疑うのも尤《もつと》もだけれど、そんな心配は要らないよ。もう今となってはいくら何でも安心していらっしゃい。あなたはおとなになられたのに、まだ少女めいたわがままが残っていて、考えかたが浅いよ。ちっとも私の心をわかろうとしない、尤もそこがあなたの可愛いらしいところだけれど〉  と源氏は涙にぬれてもつれた額髪をかきやるが、紫の上は「いよいよ背《そむ》きてものも聞こえたまはず」  源氏は〈おやおや、子供みたいに聞きわけない。そんなに拗ねるなんて誰のお躾《しつ》けなのだろう〉と喃々《なんなん》と紫の上のご機嫌をとりむすぶ。そのとき、何を武器にするかというと、他の女人の月旦《げつたん》であった。朧月夜の尚侍《ないしのかみ》のこと、藤壺の宮のこと、明石の上、花散里、それらの話をして、更にそれらの女人たちにくらべられないほどの評価を、あなたに与えている、と源氏は暗示する。これは源氏の常套《じようとう》手段で、紫の上を籠絡《ろうらく》するときのくせである。のちの女三の宮の降嫁のときも「若菜下」で、他の女人の噂をしている。  そうすることによって紫の上へのことさらな愛を際立たせ、人生の伴走者の地位に引きあげ、紫の上の心をなだめる。  紫の上は、二度めはともかく、このときは源氏に乗せられて心|和《なご》み、尚侍のことを聞いたりしている。このときの童女の雪まろばしのシーンも美しい。二人はそろって雪の深夜、冴《さ》えわたる月光のもとで物語は尽きず、紫の上はやっと心を解くかにみえる。  しかし源氏はその夜、藤壺の宮を夢にみてうなされる。胸がさわぎ涙を流している源氏を紫の上は不安に見守る。心が一つに結び合ったと信じた途端に、この男にはまだ明かさぬ秘密のあることを知らされる。紫の上は緊張の解けるひまがないのである。     ***  私は紫の上という女の性格を考えるとき、作者の自信のようなものを感じないではいられない。  紫の上は、元々の性質は溌溂《はつらつ》快活である。  源氏に引きとられた少女時代から、さかしくて反応がすばやくて、喜怒哀楽の表現が率直で、源氏を喜ばせている。その記憶があるため、源氏は女三の宮を手許《てもと》に迎えたとき、あまりの手応えなさに失望するのである。  紫の上が嫉妬によって、なま身の女に成長したことは前にも書いたが、彼女に芸術的センスが附与されているのも、大きな魅力である。染色縫物などに上品な嗜好《しこう》をもち、絵も描き、仮名手《かなで》もよくする、とある。仮名の書の当代の名手は朧月夜の尚侍と、朝顔の斎院と、紫の上だと、源氏は挙げている。この仮名書きの手蹟で、女たちの性格をなずらえるのも、女性読者には興ふかいところで——全く、作者は読者心理をよく捉《とら》えている——源氏の評によると、  六条御息所——何気なく走り書きしたような一行などは絶妙としかいいようなく、筆蹟に惚《ほ》れた。  その娘、秋好中宮——こまやかで上品で美しい字だが、才気に乏しい。  藤壺の中宮——趣むきふかく優雅だったが、弱々しいところがあって花やかさがなかった。  朧月夜の尚侍——当代の名手だが、あまりしゃれて癖がある。  というものである。(「梅枝《うめがえ》」)  紫の上の字は物やわらかに、なつかしげな字だと源氏はほめている。美意識の水準がたかくて、趣味のよい紫の上は、人柄もかどがとれ、周囲の人々の人望を集める。紫の上の周囲には、もとからの女房たちのほかに、元来は源氏の女房で召人《めしゆうど》(情人)でもあった中務《なかつかさ》や中将の君、といった人々もいる。彼女らは源氏の須磨退去に際して、散り別れずに紫の上の方へ仕えることになったのである。彼女らはすっかり紫の上に傾倒して、源氏が帰京し、六条院を造営しても、そのまま紫の上づきの女房になっている。そして女三の宮が降嫁したときは、紫の上の味方になって、共に嘆いたりする。(「若菜上」)  だいたい、そういう、人柄のいい女、対人関係の距離感覚、平衡感覚に恵まれている女は、いちめん趣味的には凡庸で鈍いところがあるものだが、紫の上は美についても一家言もち、日常身のまわりのものすべて、社交からセレモニーまで、美的センスあるポリシーをうち出す。私たちが平常、人生で会う、「美について一家言」ある人は、その美に固執するあまり、円滑な対人関係を持ちにくい人が多いものである。反対に誰にも好かれる人、というのは、あまり自分の趣味に固執しないことが多いもののようだ。  紫の上はこの矛盾する性向を折合わせて一身にそなえているが、このあり得ないような性格が、実在感をもって理解されるのは「梅枝」の巻である。明石の姫君の裳着《もぎ》にそなえ、源氏は香の調合を人々に依頼する。この香によっても、六条院の女人たちの性格がうかがえるのだが、紫の上のは三種あるなかに、梅花香が「はなやかに今めかしう、すこしはやき心しらひを添へて、めづらしき薫《かを》り加はれり」とある。  花やかで当世風《モダン》で、すこし強いタッチも添えられているという。だいたい「今めかしう」ということは、保守尚古の上流貴紳のとらぬところであるが、紫の上は今風で鋭い工夫を凝らすのである。「今めかしう」と形容された部分はまだある。「若菜下」の巻、女楽《おんながく》の場である。美しき女人たちがそれぞれの楽器をとって合奏する、ここはあたかもぺージの間から管絃《かんげん》のひびきがたちのぼるような美しいシーンであるが、紫の上の和琴《わごん》は「なつかしく愛敬《あいぎよう》づきたる御|爪音《つまおと》に、掻《か》き返したる音の、めづらしくいまめきて」とある。やさしくて愛嬌こぼれるような爪音(左手の弾奏)に、かき返す(右手)音色が珍らしく斬新《ざんしん》だったという。そして、近頃の評判高い上手な人たちがものものしくかきたてる調べや調子におとらず派手やかに聞え、大和琴《やまとごと》にもこういう弾き方があったのか、とおどろかれるばかりであったという。明石の上の琵琶《びわ》がきわだって巧みで「神さびたる手づかひ澄みはてて」などと形容されているのにくらべると(明石の上は「梅枝」の香の調合でも「世に似ずなまめかしさを取り集め」たとされる)紫の上の音色は、珍らしく・いまめいて・花やかに・派手やかなのである。  斬新大胆、モダンを愛する心が、紫の上にある。 「いまめかしう」と形容される人、モダンで「めづらし」いものを愛する人は、新しもの好き、挑戦好き、新奇なものに目をみはるのが好きな人である。斬新なものを受け入れ、そのよさ面白さを発見し、開眼する、柔軟な心がある。おどろかされることを好み、おどろかせることを興がる、生の弾《はず》みがつねに心にある。  紫の上は挑戦的でお茶目な女なのである。しかも社交感覚にも恵まれた彼女は、その弾みをそのまま出してもいい場所と時をさかしく弁別する。端正な儀軌にのっとって行なわるべき法要や、公人の参集する宴会では、まことに適切な差配ぶりを示して、「今めかしさ」で人をおどろかすことはしない。しかるべきオトナの器量をそなえているが、しかし元々は「今めかし」い人なのである。そういえば私の記憶しているのにもう一個所、「若菜上」で、源氏が女三の宮を迎えたあと、今さらのように紫の上の魅力を発見するくだりで「いまめかしく」と形容されている。  紫の上は、女三の宮に、自分から挨拶にゆく。六条院では「我より上《かみ》の人やはあるべき」と自負していた紫の上も、降嫁した皇女という身分の前では一歩譲らざるを得ない。不本意ながら、自分の方からまかり出なくてはならないのであった。そういう紫の上の悩みをいとおしく察するせいか、源氏の目には紫の上が比類ない美しさにみえる。 「あるべき限り気高う恥づかしげにととのひたるにそひて、華やかにいまめかしくにほひ、なまめきたるさまざまのかをりもとりあつめ、めでたきさかりに見えたまふ。去年《こぞ》より今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に目馴れぬさまのしたまへるを、いかでかくしもありけんと思す」  何もかもすべて——紫の上の姿かたち、容貌《ようぼう》から、立居振舞、もののいいざま、心もち、すべて上品に、こちらがはずかしくなるほどととのっているが、それに加えて、花やかに現代的なセンスがあり、優美で典雅な美しさもとりあつめ、女ざかりのきわまりとみえる。去年より今年はまさり、昨日より今日見る方がめずらしく、いつもはじめて見るような、新鮮な感動を受ける。どうしてこう、すばらしい女《ひと》なのだろうと、源氏は紫の上を讃嘆する。  紫の上は「若菜上」の巻、つまり、女三の宮を迎えたころは、三十歳をすでに一つ二つ過ぎている。当時の常識からいえば、すでに「さだすぎ」た年頃である。しかし作者は紫の上に現代風な魅力を与え、「めでたきさかり」という讃辞を与えている。女の美しさを「さだすぎ」た年頃の紫の上に与え、そのとき十四歳の、常識的には美しいさかりであるはずの女三の宮より優位に立たせたのは、作者の自信であり挑戦であったろう。作者は、いつまでも若い紫の上の美しさが、「今めかし」い部分にあることを意図している。  紫の上は、物理的な年齢を加えても、いっこう神寂《かみさ》びたりせず、しめやかに心にくく、という一方でなく、いつまでも「今めかし」く花やかなのである。  新奇なものを喜ぶ、若々しい心の弾力のある人は、また、どんな人間からも、何かよいところを発見しよう、面白いところをみつけようという、好奇心がある。周囲の女房たちを心服させ、味方にさせてしまう紫の上は、そういう人であるにちがいない。人のよさ、人の愛すべきところ、人のユーモア(本人は気付かなくても)を見ぬく天賦の才に恵まれ、それゆえに、どんな人にも好奇心をもち、人間が好きであったにちがいない。  私が学生時代、紫の上を退屈な貞淑な人妻、良妻賢母とのみ思っていたのは、考えてみると何という浅い読みかたであったことか。  作者の紫式部が、紫の上を「今めかし」く花やかな女人、と繰返しいい、またそれにふさわしい言動や心理を描いてあまりあるのに、若い日の私は、どこを読んでいたのであろうか。  そういうお茶目な、向日《こうじつ》的な、現代風な女人を、深刻に悩ませ、「出家したい」と思わせるにいたるのであるから、「源氏物語」というのは、おどろおどろしくも怖い物語なのだ。  朝顔の宮への源氏の恋は一方通行に終り、紫の上につかのまの平安が訪れる。このあと夕霧や玉鬘といった若い世代が擡頭《たいとう》し、六条院は栄華のさかりを迎え、源氏と紫の上は「ゆるびなき御仲らひ」(「野分《のわき》」〈水も漏らさぬご夫婦仲〉(「新潮日本古典集成・源氏物語四」の訳)である。紫の上も、いや源氏自身も、このあと女三の宮が自分たちの人生に投影するとは思ってもいない。 「野分」の巻は、息子の夕霧の視点から、六条院の女人たちを観察した、珍らしい章であるが、そこに描かれる紫の上の幸福は印象的である。この長い物語を終りまで読みおえた読者なら、紫の上の幸福が、「野分」の時点を最後として、ついに再び以前のようには戻らないことを知っている。それだけになお、その巻の紫の上は美しく描かれる。夕霧の憧憬《どうけい》と期待に彩られていっそうそれは、この世ならぬ夢のように、読者の胸底に影を落す。  はげしい野分の通りすぎた朝、夕霧は源氏のもとへ見舞いにゆく。嵐《あらし》の最中《さなか》、紫の上をふとかいまみた夕霧は面影が身に沁《し》み、物狂おしく呆然《ぼうぜん》としている。そうして、源氏と紫の上の寝所《しんじよ》の前の高欄《こうらん》によりかかって青年は、全身が耳になったように、建物のうちの物音にきき耳をたてている。 〈中将が来たようだ、夜明けにはまだ間があるだろうに〉  と源氏の声がして起きるらしい。紫の上が何か答えているらしいが、それは夕霧には聞えない、源氏が笑いながらいう声がする。 〈昔でさえ、あなたに味わわせなかった暁の別れですよ。今朝はじめて経験なさるのは辛いでしょう〉  などと、二人でそめそめと語り合っているらしい気配。夕霧は心をそそられずにはいない。紫の上の返事は聞えないのだが、仄々《ほのぼの》と睦言《むつごと》の気配はして、夕霧は全神経を集中させるのである。「ゆるびなき御仲らひかな」というのは夕霧の感懐であったが、紫の上自身でもその幸福に浸り切って、このまま、ずうっと人生を終るものだという心持があったであろう。だから当面の嫉妬の対象はまだ明石の上で、夕顔の忘れがたみ玉鬘が発見されたとき、はじめて源氏から昔の夕顔のことを聞くが、夕顔が今もよし生きていても、 〈明石の御方と同列にはお扱いにならないでしょうよ〉  と拗ねて、やっぱり明石の御方を目の敵《かたき》にしていた。  しかし嫉妬も反感も、やがて氷解するときがきた。  養育した明石の姫君が女御《にようご》として入内《じゆだい》する。  それを機会に紫の上は明石の御方と会い、互いに相手の美点をみとめあう。まして、女御に若宮が生れた。それは紫の上と明石の御方の心を結びつけずにはいない。愛着の対象がふえたことと、明石の御方が女御の付添いとしての人生を撰択し、男と女の愛執の世界から一歩退いたこととで、紫の上の心はなだめられた。  まさにそういうとき、女三の宮の降嫁問題がもち上る。作者は、女三の宮の源氏降嫁という不自然な設定を、現実的にみせるために、長々と朱雀帝《すざくてい》やその側近の議論や策謀を叙しているが、何よりその撒《ま》き餌《え》の一つに、女三の宮が故藤壺の宮の姪《めい》である、という設定を用意している。  今もなお藤壺に見果てぬ夢を追う源氏はその撒き餌に惹《ひ》かれ、関心を寄せずにいられない。源氏の好き心が——それも責められぬ男性心理の正直さで——招いた悲劇、としてみれば、女三の宮の登場は、充分なリアリティを帯びるのである。  源氏は朱雀院の強い要請で、親代りに女三の宮を引き受けることにした、と紫の上にうちあける。言葉は飾っても、それは降嫁ということにちがいない。源氏が紫の上にそれを伝えるのをどんなに逡巡《しゆんじゆん》したかは〈心をへだてることは互いになくなり、むつまじい仲になっているので、かくしごとをしておくのは気がかりなのだが、どうにも言い出し得ず、その夜はそのまま寝てしまって夜あけを迎えた〉とあることによってもわかる。翌日は雪がちらつき、空のけしきも物思わしげだった。源氏の心理をそのままうつしたような重苦しい日である。源氏は世を捨てようとされる朱雀院への同情を表に出し、ねんごろなご依頼を楯にとって、姫君をここへ迎える了解をもとめる。〈あじけない思いをなさるだろうけれど、私の立場を理解してほしい。姫宮がこの邸《やしき》へ来られたにしても、あなたへの気持が変ることは決してない〉と極力、弁解し、紫の上を慰めるのにつとめる。  紫の上はそれまでは、源氏のちょっとした軽い浮気心にも面白くない顔で拗ねる人なので、どんなに思うだろうかと源氏は予想していたが、案に相違して、平静で色にも出さず、 「あはれなる御譲りにこそはあなれ。ここには、いかなる心おきたてまつるべきにか。めざましく、かくてはなど咎《とが》めらるまじくは、心やすくてもはべなんを、かの母女御の御方ざまにても、疎《うと》からず思《おぼ》し数まへてむや」(「若菜上」) 〈おいたわしい院のお頼みですわね。私がなんで宮さまをうとましく思いましょう。ここに私がこうして住んでいるのを、宮さまがお目ざわりにお思いにさえならなければ、私も気持よくここにおりますわ。宮さまと私は縁つづきのいとこ同士、私と仲よくして下されば嬉しいのですけれど〉  紫の上の言葉は皮肉や厭味《いやみ》ともとれるが、今まで読んできた限りでは、紫の上は、「はかなき御すさびごと」の時は、皮肉もあてこすりもいうが、こういう、のっぴきならぬ大きな運命については皮肉をいう人柄ではないのである。ここではむしろ、源氏とともに、朱雀院の優柔な性質のあわれさ、親心の哀切に共感するほうに、比重がかかっている。それほど、事態の把握力があって、客観的発想ができる聡明な人なのであろう。しかし、女のハートは女の理性に馴化《じゆんか》されない。源氏をあべこべに慰めたのは、紫の上の理性からであって心の中ではむろん、納得しようとする心と、烈《はげ》しく反撥《はんぱつ》する妬《ねた》み心がせめぎあっておだやかではない。 〈これは天から降ってわいたようなことで、あの方《かた》も逃げられないことだから、恨んだり憎さげなことはいってはいけないわ。宮さまもあの方も、双方、恋して結婚なさるというものではないんだもの〉  と思いながら、継母《ままはは》の式部卿の宮の大北の方が、それみたことかと手を打たれるであろうとか、女くさいひがみっぽい心情にも足をすくわれる。世間の思惑やら自分の身の不安定を自分一人思いつづけている間は、まだしも苦しみは浅かった。現実に女三の宮が降嫁し、盛大な結婚式が行なわれて、新婚三日間は夜離《よが》れなく源氏が宮へ通うことになると、紫の上は慣れないこととて、こらえようとしても物思いの色がしるくなる。源氏の衣に香をたきしめながら(それは宮のもとへゆくための身支度を手伝っているのである。ほかの女のもとを訪れる男の衣に、香をたきしめて身支度を手伝ってやる妻の描写は、「真木柱《まきばしら》」の巻の髭黒の大将の北の方にもある)紫の上はぼんやりしてしまう。それを見る源氏は自責の念に駆られずにいられない。あまりに幼稚な女三の宮に失望したこともあって、こんどのことを後悔する。朱雀院の要請もさりながら、それを拒否できなかった自分の心弱さと、好色心のせいだと、「我ながらつらく思いつづけ」るのである。源氏は涙ぐみ、 〈今夜だけはやむを得ないとお許し下さいよ。これからのちはあなたをおろそかにするようなことは決してしないから。あちらもあまりなおざりにすると、朱雀院がどうお思いになるかという気がねがあってね〉  と煮えきらない。紫の上は微笑する。 〈ほら、ごらんあそばせ。ご自分のお心でさえ、きめかねていらっしゃることを、私がなんで『やむを得ない』かどうか、わかりましょう。私はしまいに、どうなるのでしょう〉  とすこし、つんとする。紫の上は源氏の言葉の矛盾を嗅《か》ぎつけ、そこにユーモアを見つけ、それが「すこしほほ笑みて」になっている。紫の上は、どんなときにも、源氏の前でよよと打ち伏して泣くとか、目を吊《つ》り上げて火取りの灰をぶちまけるとか、指に噛《か》みつくとか、する女人ではないのである。「今めかし」く花やかで、斬新なものがわかる紫の上は、そういう形での発散を採らないのである。源氏の苦悩や逡巡に、むしろ、ユーモアをみつけ、それを諷刺《ふうし》することで、品よく収拾しようとする。源氏がぐずぐずして宮の方へいかないのを、〈さあ早く。私が引きとめたようにあちらで思われては、みっともないんですもの〉とせきたてて出してやるのである。  もとより心中は平静ではないが、女房たちが〈意外なことになりましたわね〉〈どなたもこちらの上のご威勢には一歩譲って遠慮なさっていられますのに〉〈どうでしょう、宮様のあの威張った出かたは〉〈こちらが負けていられることはないと思いますわ〉などというのを聞き苦しく思う。紫の上にとっては嫉妬というのは、そういう表現方法をとるべきものではないのである。だから機嫌よく、 〈殿には女君は多くいられるようでも、殿のお気に召すような、花やかなご身分のかたはいらっしゃらなくて物足りないと思っていらしたのよ。そこへお生れもよくお若い姫宮が正式にお輿入《こしい》れなすってほんとによかったと思うの。私は子供っぽいのかしら、宮さまぐらいの年頃の気持が残っていて、お遊び友達に加えて頂きたい気持よ。目下の人ならわるくいうこともできるけれど、宮さまは院のお頼みで、殿が引きとられたとうかがっています。仲よくしてさし上げなければ〉  と自分の余裕を誇示する。  紫の上はあまり夜ふかしするのも「人やとがめん、と心の鬼に思して」ひとり臥床《ふしど》へはいるが、源氏のいない夜に慣れていないからめざめがちである。久しぶりに須磨と京に別れていたころのことが思い出される。あれはもう、十四、五年昔のことであった。あのころ、紫の上は十九だった。遠く別れているといっても、ただこの同じ世の中で無事で生きていらっしゃるとお聞きするだけでいい、とわが身は忘れ、源氏のことばかり悲しく思って辛《つら》い月日を送ったものだった。 「さてその紛《まぎ》れに、我も人も命たへずなりましかば、言ふかひあらまし世かはと思しなほす」(「若菜上」)  これが、独り寝の床に呻吟《しんぎん》する紫の上の述懐の結論である。「言ふかひあらまし世かは」というのは須磨|流謫《るたく》の頃の騒ぎに紛れて、紫の上も源氏も悲しみに堪えきれず命を落していたら、という仮定をうけている。もしあのとき死んでいたら、今更、なんの甲斐《かい》もない二人の仲であったものを。このへんの口吻を、私はこう訳してみた。 〈いいえ……でもやはり、あのとき死ななくてよかった。私たちはあれからどんなに楽しい人生、生きて甲斐ある愛の生活を送ったことか。それを思えば、こんどのことの嘆き苦しみも、何でもないわ……やっぱり、生き甲斐ある生活なのよ。生きていたいわ……〉  紫の上は「思しなほす」、思い直すのである。心をとり直すのである。風が烈しく吹き、衿《えり》もとは寒く、紫の上は眠れないが、近くに侍っている女房たちが心配するであろうと、身動きもできない。苦しい夜である。夜深いのに鶏の声がきこえるのも物悲しい。 「今めかし」く若やいだ心の紫の上は、源氏との二人の愛の人生を思い返し、苦悩に堪える力をとりもどす。嫉妬を克服する、というよりも、ここで嫉妬と死の重さを計量しくらべている。女三の宮が二人の間に登場してきたとき、紫の上は、愛と矜恃《きようじ》の重さを計ったものであるが、いまは、嫉妬と死を計りくらべ、〈生きていてよかった〉〈生きているほうがいい〉と思い直すのである。     *** 「今めかしい」紫の上、憂愁を知らぬ子であった明るい紫の上が、出家を願うようになってきたのは、むろん女三の宮の降嫁以来であるが、そのへんのゆくたてにも微妙な陰影がある。紫の上は今では女三の宮とむつまじくゆき来するようになっており、女三の宮と会いもして、幼稚未熟な人形妻ぶりを熟知するようになった。女三の宮は、紫の上に対抗できるような人ではなかった。  また、長年のライバルで、どうしてもゆるせなかった明石の上は、いまは女御に生れた第一皇子、第一皇女(つづいて第二皇子も生れる)たちを挟《はさ》んで、もっとも親しい友人となった。嫉妬は昇華されて敬意を伴った好もしい友情に変化した。紫の上は今はもう、当座の憂いがなくなった。女三の宮は帝《みかど》のご配慮もあり世間の尊敬も重い人であるが、それでもなお、 「対《たい》の上(紫の上)の御勢にはえまさりたまはず」(「若菜下」)  というありさま、紆余曲折《うよきよくせつ》を経てなお、紫の上が最終的に源氏の愛を独占したことを、紫の上自身も世間もみとめるに至る。 「年月|経《ふ》るままに、御仲いとうるはしく睦《むつ》びきこえかはしたまひて、いささか飽かぬことなく、隔ても見えたまはぬものから」(「同」)  原文はこのあとへすぐ、紫の上の出家を願うことばへつづけている。こんな、ふつうの生活でなく、静かに仏道修行するくらしに入りたい。 「この世はかばかりと、見はてつる心地する齢《よはひ》にもなりにけり」(「同」)  紫の上は、源氏の愛を疑わなくなって安心し、それが出家へのスプリングボードになる。〈この世の中はこんなもの、とわかったようなとしになった〉というのは、今まで築いてきた愛の生活を、有終の美で、自から完結したいと願うことであろう。紫の上は、〈愛されている〉と確信したから出家を志したのである。愛されている、と思うと別れられる恋人たちのように。  愛されているかどうか、確信のもてないとき、人は別れないものである。「見はてつる心地する齢」というのは、紫の上は三十八、源氏は四十六、七になっていようか。  源氏との長い愛を、自からの手で完結させたいと願う紫の上は、愛のほかに何の絆《ほだ》しもこの世に持っていないからである。女御にできた第一皇女を手もとにひきとって愛しているが、もとよりそれは骨肉の愛ではないので、純粋な、人間的なやさしさからの可愛いがりかたである。明石の上が、娘の女御や、孫の第一皇子にかける執念とは性質がちがう。怜悧《れいり》な紫の上はそのへんも察して至らぬ隈《くま》はないのである。  紫の上にくらべ、いまや明石の上はいよいよ野心にみち、たくましい生命力をもつ鬱然《うつぜん》たる後宮政治家に変貌している。明石の上の生んだ女御はすでに十八歳、帝寵《ていちよう》あつく、次々にお子を儲《もう》けて、東宮の母としてゆるぎない地位にある。明石の上にとっては、もう源氏との愛情生活の完結よりも、出家よりも、野望の実現の方が緊切である。女御の初産《ういざん》のときは、ただ安産をのみ願う、世の常の母親らしさがあったが、世代りして今上《きんじよう》の世となり、所生の皇子が東宮となると、今度は女御が国母となる日を夢みる。それは父|入道《にゆうどう》の立願《りつがん》により、極上の栄華を娘の上に思い描くからであるが、住吉|詣《もう》での折にも、彼女の心に秘めた野望がちらりとこぼれたりする。 「もし思ふやうならむ世の中を待ち出でたらば」  娘が中宮となり、国母となる日を不遜《ふそん》に夢み、それこそがわが人生の完結と信ずる明石の上は、自分自身の愛も苦悩も、みな、その一点に封じこめ、すべてのエネルギーをそこへそそぐ、現世的欲望の権化《ごんげ》になっている。最も精神的愛から出発した明石の上は、人智ではかり知られぬ超越者の操る運命の糸に動かされ、いまは最も地上的な野心に生きる人となっていた。  彼女の思慮分別はとぎすまされ、ひたすら娘のゆるぎない地位めがけて、わきめもふらずつきすすむ。出家どころではないのであった。  六条院ではこのあと、願ほどきの住吉詣でやら、女楽《おんながく》やらと、華やかな行事がつづくが、さながらそれは明石の上ひとりを深い満足感で充足させるためのもののようである。  住吉詣では明石の入道の、身に不相応な立願が、ことごとく果されたため、その願ほどきのためであった。しかし表向きは源氏の物詣でということになっている。源氏は自分自身の繁栄の、神に対するお礼として、このたびは紫の上をも伴うが、内実は、明石の入道のかけた願を果し給うた神への願ほどきであるから、明石の上をもその老母の尼をも連れてゆくのである。住吉詣では、明石一族の勝利の凱歌《がいか》なのであった。  明石入道は身にあまる傲慢《ごうまん》不遜の大望を抱いたが、娘は源氏の妻となり、そのできた子供が更に国母となる、一族の大望が、殆んど果された。住吉詣での一行の美々しさ、にぎにぎしさ「響き世の常ならず」「めづらかによそほしくなむ」つき従う人々の美をつくした行装「ととのへ飾りたる見物《みもの》またなきさまなりけり」  明石の上と尼君は一つ車に乗って従う。源氏は、明石での記憶を共有するこの二人に、 「たれかまた心を知りてすみよしの神代を経たる松にこと問ふ」  といいやらずにはいられない。それに答えられるのは、入道の悲願、娘の悲しみ喜びの歴史を知っている尼君のほか、誰があろうか、 「住の江をいけるかひある渚《なぎさ》とは年経るあまも今日や知るらん」  と尼君は返す。  紫の上は、源氏と明石一族が、住吉の神の効顕《こうげん》を讃《たた》え、一家の繁栄を寿《ことほ》いでいる浮いた気分から、疎外されている。明石での体験を共有しない紫の上は、神の摂理のめでたさよりも、はじめて邸外の珍らしい風物に接した心はずみを興がる。それは同車する、年若い女御も同じである。紫の上らが風景を無邪気に賞美しているあいだ、つき従う人々は、この神詣での意図を明察していて、明石の尼君のことを、 「目ざましき女の宿世《すくせ》かな」  と耳打ちし合うのであった。幸《さいわ》い人《びと》のためしには「明石の尼君」と人々がいうのが口ぐせになり、物質的現実的な成功の見本になる。  現実的野心や成功にはここまでという充足がなく、それを信ずる人は永遠を信ずる人である。  紫の上は愛という捉まえどころのないものに拠《よ》る人だけに、永遠をむしろ信じられない。 「わが身はただ一所《ひとところ》の御もてなしに人には劣らねど、あまり年つもりなば、その御心ばへもつひにおとろへなむ、さらむ世を見はてぬさきに心と背《そむ》きにしがな」  と紫の上は考える。〈私はあのかたお一人の愛情だけを頼みに、人に負けない暮しをしているけれど、醜く年をとったら、いつかはそのご愛情もさめてしまうわ。そんなさびしい目にあうより前に、自分から世を捨てたいわ〉そう思っているが、それを自分からいうのは「さかしきやうにや思さむとつつまれて」——いかにも人の気持をさきくぐりしてこざかしいように思われはすまいかと、遠慮されて、紫の上は自分からはそうと口に出しかねるのである。  それは紫の上の美意識でもあるが、源氏への愛情でもある。源氏は、幾度、紫の上が出家を願っても極力制止してきたが、紫の上はそれを押して強行するということはしない。源氏の衝撃と落胆を想像する能力があり、かつ、強行する心にはやさしみも美しさもないことを知っている。それは紫の上が希求する真の安心立命《あんじんりつめい》の境ではないわけである。よりすがる子を蹴落《けおと》して出家するという、荒武者西行《あらむしやさいぎよう》の世界は紫の上からもっとも遠いものといわねばならない。紫の上は調和と安定をよしとする人であり、他人の傷心に敏感な女人で、その責任の一端を自分が負うことに、罪悪感をもつ性質である。  愛すればこそ永遠が信じられない嘆きを、紫の上はいつも負う。しかしそれを自分一人の心のうちにとどめて、ことあり顔に外に出さない。紫の上の嘆きは、抑えかねた折、ちらと外へ出るたぐいのものであるが、その契機は、たとえば女楽のあと、などである。  六条院の女人たちが集って、女性ばかりの音楽会を催す。男性は源氏と夕霧のみ、ここでも「野分」と同じく、夕霧が(体は御簾《みす》の外にあり、洩《も》れてくる楽の音を、耳に捉えるばかりであるが)第三者的立場で、六条院の女人を月旦《げつたん》しているのが興ふかい。その音色からまたしても夕霧は、紫の上の爪音《つまおと》に聞き惚《ほ》れている。とりどりに美しい女人たちが、なつかしく、あるいは神さびて、あるいは愛嬌《あいきよう》ある花やかなさまに弾きならすのであるが、そういうときにさえ、明石一族は物の栄《は》えとなる。元来、この一族は音楽的素養ふかく、女御の生まれた二の宮が、今から音楽の才能の萌芽《ほうが》がみえる。源氏がそれを指摘したので、 「明石の君は、いと面《おも》だたしく、涙ぐみて聞きゐたまへり」  若宮の栄えは、実母の明石の女御よりも、むしろ、祖母の明石の上の名誉であった。女楽のたのしみは、まるで明石一族を引きたてるためのもののようになってしまった。また、源氏が手をとって熱心に教えた甲斐あって、女三の宮は、かなりの技倆《ぎりよう》を習得して、「いとおもしろくすまして弾きたまふ」ので、源氏は面目をほどこし、女三の宮をいとしく思う。夕霧はひそかに、紫の上の爪音を、誰よりもゆかしく賞《め》でているが、もとより紫の上はつゆ知らぬことである。  そんなわけで、世にも花やかな女人たちの女楽も、源氏一人の自己満足に終った気味がある。そのあけの日、三たび紫の上は出家のゆるしを願うのであるが、三たび源氏は制止する。  このときの紫の上と源氏の対話は重い。この夜から紫の上は発病し、やがて「わが御《おん》わたくしの殿《との》と思す」二条院に移り、寝込んでしまうのであるが、その悲劇の前夜、したたかに手ごたえある会話を、主人公たちはさりげなく交す。  女楽に一人満足していた源氏は、あれこれと過去のことなど紫の上に語りつづけ、紫の上との長い暮しをかえりみる。不吉な予感が云わせるのであろうか、今年は紫の上も厄年《やくどし》なれば、例年よりつつしみも祈祷《きとう》も特に重くしてほしいと、ふと口へ出てくる。紫の上を失うことでもあれば、源氏の不幸は決定的になる。そのおそれが、必ずしも幸福でなかった自分の前半生を源氏に回顧させることになった。人より重んぜられ恵まれて育ったようにみえながら、また、 「世にすぐれて悲しき目を見る方も、人にはまさりけりかし」  いつくしんでくれる肉親に次々に先立たれ、そしてこれは紫の上にも明かせぬことであるが、藤壺の宮との遂げられぬ悲恋も、憂恨《ゆうこん》の一つであった。それを源氏は「飽かず悲しと思ふこと多く、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくもの思はしく、心に飽かずおぼゆること添ひたる身にて過ぎぬれば」とおぼめかしている。  悩み多く、憂い深い身の上であったればこそ、それとひきかえに、思いがけず長生きにも恵まれ、こうして今まで無事にこられたのかもしれない、と源氏はいう。  源氏は自分の憂悶《ゆうもん》の生涯にひきくらべ、紫の上のそれを、はるかに軽くみている。人間心理の洞察にかけては、かなりするどい源氏が、いちばん身近の、いちばん大切な人間の心理には疎い。紫の上が、その美的節度と源氏への愛情から、調和と安定を重んじて、表面なよやかに、はればれと装っているのを、本心からのように甘えて見誤ってしまう。 〈私に比べるとあなたは幸福といってもいいのじゃないか。須磨の別れのほかは、辛い思いをしたことはないでしょう。帝のお妃《きさき》になっても気苦労は絶えないし、それにくらべれば、こうして親もとにいるようなあなたの境遇はずっと気楽なものといっていい〉 「その方《かた》、人にすぐれたりける宿世とは思し知るや」(「若菜下」)  その点、あなたは人よりすぐれた運命だとお分りになっているだろうかね——と源氏は念を押して、紫の上の幸福を押し売りする。 〈女三の宮がお輿入れになったのは、あなたにとって心外だったかもしれないが、しかしそれ以後、あなたへの私の愛情は、以前の何倍にも深まった。あなた自身は、自分のことだからそうも思えないかもしれないけれど、しかし、頭のいいあなたのこと、そのへんのことはようく知っていて下さると思うのだけれどねえ……〉  紫の上は、源氏のひとりよがりな言葉に答えて、 「のたまふやうに、ものはかなき身には過ぎにたるよそのおぼえはあらめど、心にたへぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さはみづからの祈りなりける」  といって「残り多げなるけはひ恥づかしげなり」  ここの「祈り」という言葉の現代語訳が、ちょっとぴったり、くるのがない。源氏が憂悶の代償に、現世の栄華と長寿を手に入れた、といったのに照応していることはまちがいないが、私はこう訳してみた。 〈おっしゃる通りですわ。よるべのないわたくしを大切に扱って下さって、身にすぎた幸わせとよそ目には見えましょうけれど……心ひとつに包みかねるさまざまの思いが、ないわけではありませんわ。その物思いが、かえってわたくしを支えて、生かせてくれたのかもしれませんけれど……〉  そういって、言葉を言い残し、あからさまに言い尽くさない。そのさまは、相手が気おくれするほどおくゆかしく、凜《りん》としているのである。谷崎訳も円地訳も「祈り」という言葉をそのまま生かされているが、「心にたへぬもの嘆かしさ」——心ひとつに抑えかねる苦悩や憂愁が、身に添うて、それが〈気の張り〉になった、むしろ〈人生の支え〉〈生かせてくれる力〉となった、というようなひびきであろうか。「さはみづからの祈りなりける」というのはその背後の深淵《しんえん》を思わせる告白である。  万巻の経文よりも、紫の上を支えるのは苦悩である。それにつけても、紫の上は出家のゆるしを乞うが、源氏は肯《がえ》んじない、そうして葵の上、六条御息所、明石の上らについて批判し、明石の上については紫の上も知っているので、二人で意見が一致する。「いとうちとけにくく、心恥づかしきありさましるき」明石の上、と、二人とも同じように見ていることを確かめ、会話は一見、順調に交されていつもの仲のよい夫婦の語らいにもどる。心を振盪《しんとう》させる恐るべき告白は、ちらりとかすめられただけで、またもや注意ぶかくおさめられ、日常次元の中に埋没してしまう。しかし「祈り」という言葉をいったん聞いた読者は、もう忘れられないのである。  源氏はそれにとくに注意を払った風はない。  しかし、紫の上がなみの女人でないことはよくわかっている。 「君こそは、さすがに隈《くま》なきにはあらぬものから、人により事にしたがひ、いとよく二筋《ふたすぢ》に心づかひはしたまひけれ。さらに、ここら見れど、御ありさまに似たる人はなかりけり」  心に物思いがないわけではないが、人により事柄により、うまく心づかいをし分けて、円転滑脱な発想に長《た》け、せっぱつまったり、深刻に陥ったりするのを避ける聡明さに富む。ほんとうに、ずいぶんたくさんの女人を私は見てきたが、あなたのような人柄の女人は知らないよ——源氏はそう讃辞を呈するのであるが、何しろ「祈り」という言葉の深淵に気付かないのだから、紫の上についてよく知っているとはいえない。このへんはむしろ、源氏の迂遠《うえん》というより、男性そのものの根源的な迂愚といえよう。  私はこういう微妙なくいちがいを書き分ける筆使いを見るたび、作者は女性だという感慨を深くする。男性作家が、男女のくいちがいを描写するときは、男性の目から見た差異であり、それは透徹し、整理されている。視点が男性的観点ひとすじに絞られており、そのため、女性的なものがかえって分明に浮び上る、ということがある。  しかし才能ある女流が、男女の差異について書くときは、必らず男性女性の複眼的観点から書く。二つのレンズが交叉《こうさ》してとらえた影は複雑で、そこに浮び上る差異は立体的である。  その夜、紫の上は女房たちに物語をよませ、物思いにふけっている。物語の男たちは色好みも二心あるものもいろいろいるが、物語宇宙に結末あるごとく、主人公たちは、どこかの女へおちつく。しかし現実では永久に結末はない。わが身の物思いも、結末がつかないのである。紫の上はそんなことを思いつづけているうち、胸いたんで発病する。それは正月の二十日すぎであったが、春たけ、夏に小康を得はするが、すでにもう、もとの健康な体には戻らない。  源氏はその間、女三の宮と柏木のことがあったりして、多事多端である。紫の上はいったん、物の怪《け》によってにわかに絶え入ることがあって、源氏の心を乱す。夕霧と女二の宮の事件は紫の上の嘆きを深める。女ほど身のもてあつかい方のむつかしく、窮屈なものはない、と思うのであるが、しかし、そう思ったとき、世に生きている時は短かかった。すでに終りのときは近づいている。紫の上の方は、この世にもう思い残すことはなく、心にかかる子供もいない。強いて長生きしたいとも思わないが、ただ、 「年ごろの御契りかけはなれ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れぬ御心の中にもものあはれに思されける」(「御法《みのり》」)  年来の源氏との縁《えに》しを思えば、源氏をおいて死ねない。源氏に悲しい思いをさせるのは辛いと、人しれず心の中で悲しんでいるのである。  二条の邸で法会《ほうえ》を行うときも、これが最後と紫の上は思う。「何ごとにつけても心細くのみ思し知る」紫の上は、その心細さを、いまは古い友となった明石の上にうちあけるのである。法会の舞いも音楽の音も末期《まつご》の目には美しかった。 「残り少なしと身を思したる御心の中にはよろづの事あはれにおぼえたまふ」  誰もみなゆく道であるが、「まづ我独り行く方《へ》知らずなりなむを思しつづくる、いみじうあはれなり」花散里にも長い友情を感謝する。 〈さようなら、私はひとりお先に〉  と世の中を見まわす紫の上は、「よろづの事あはれにおぼえ」ものみな美しく映る。私が死んだらこの人はどんなに思い嘆くかと、まず紫の上は源氏のことを思いやらずにはいられない。「祈り」が紫の上を支え、源氏を「あはれ」と思う境地にまで到達した時、紫の上は自立する女になったのだった。 [#改ページ]   埋める作業 「源氏物語」の原典になお、なにがしかをつけ加え、補うということは、屋上《おくじよう》、屋を架す徒労である以上に、原典への冒涜《ぼうとく》であるかもしれない。  しかし現代語訳をしていると、その誘惑に何としてもうち克《か》ちがたい点があって、これはもう、現代語訳という作業における役得とでも思っていただいて、黙許してもらうほかない。  実際問題としても、「源氏物語」には、いろいろと飛躍がある。肝腎《かんじん》のシーンが、ぽかっと脱落して、章がかわるや否や、既成事実として扱われ、事態は一変している。読者は、 「あっ」  と思い、何か、自分が一ぺージ読みそこねたかと思って、前のところをあわてて繰ったりする。  先にも触れたが(「源氏という男」)、たとえば玉鬘《たまかずら》の姫が髭黒《ひげくろ》の大将のものになる、その情景描写は一切ない。「藤袴《ふぢばかま》」の巻の終りまで玉鬘は誰のものになるか、読者にはわからない。風流男《みやびお》、兵部卿《ひようぶきよう》の宮か、ぶこつな髭黒の大将か、それとなく言い寄って、中年の恋と分別のはざまで我ながらおぼつかなく揺れ動いている源氏か……玉鬘はおぼこの世間知らずの姫とはいい条、すでに年齢も二十二、三であり、当時の感覚からいうと、青臭みはなく、熟れた女ざかりである。かつ、聡明で思慮に富む、手ごたえある女人なので、それぞれ中年の男たちを向うに廻して、その貫禄は釣合って遜色《そんしよく》ない。だから玉鬘が誰の手に落ちるかということは、たいそう読者の興味をそそるのだが、作者の紫式部は、「藤袴」までそうやってひっぱっておきながら、次の巻ではたちまち冒頭、 「内裏《うち》に聞こしめさむこともかしこし。しばし人にあまねく漏らさじ、といさめきこえたまへど、さしもえつつみあへたまはず」(「真木柱《まきばしら》」)  源氏が髭黒に注意している。〈このことが帝《みかど》のお耳に入るのは畏《おそ》れ多い。しばらく内密にして世間に言いひろめないように〉というが、有頂天の髭黒は隠していることができない。 〈このこと〉というのは、髭黒が弁のおもとという女房の手引きで、玉鬘を手に入れたからである。読者は意外ななりゆきに茫然とする。  しかも、もっと茫然としているのは、当の本人の玉鬘である。「思はずに憂き宿世《すくせ》なりけりと、思ひ入りたまへるさまのたゆみなきを」で、玉鬘の意を無視してそういう運命にねじまげられてしまったから、玉鬘は、ひたすらなさけなく、くやしいと思いつめて、髭黒に心を開かない。  髭黒はというと、見れば見るほど美しい玉鬘なので、よくこんな美女を、あやうくほかの男に奪われるところだったと「思ふだに胸つぶれて」石山の観音さまと弁のおもとを並べて拝みたい気持、というのである。玉鬘がふさぎこんでいるのもかまわず、並々ならぬ縁の深さを、男は、「あはれにうれしく思ふ」のである。  源氏も不本意で残念である。しかし、こうなったからにはどうしようもない。今さら許さぬといってももとへもどるものではなし、さすがにおちついて養い親の立場から、髭黒を鄭重《ていちよう》に婿としてもてなす。  世間はびっくりする。あまたの競争者をだしぬく結果となった髭黒の行動力に瞠目《どうもく》し、あらためてその劇的一夜に興味をかきたてられずにはいられない。 「人のをかしきことに語り伝へつつ、次々に聞き漏らしつつ、ありがたき世語りにぞささめきける」  世にも珍らしい物語と人々は思う、玉鬘と髭黒の運命。その真相は永久に語られることなく、謎《なぞ》である。物語の中の玉鬘と髭黒ふたりだけの胸にあり、それは読者の想像に委《ゆだ》ねられている。作者は皮肉な笑いをすこし洩《も》らして、故意に陥穽《おとしあな》を設け、 (どうぞ、いかようにもご想像を……)  と後世の口語訳志望者(あるいは大衆小説的興趣を小説の面白みの一つに数える読者)を挑発する。  この「藤袴」と「真木柱」の間に、別の巻が欠落しているとは考えにくい。「真木柱」の冒頭も、すっきりした出だしで、最初は(あっ)と思わされた読者も、次第にことの真相を知らされる仕掛が、現代小説から見ると新鮮でいいし、前巻と無理なくつづいている。だから、原典のままが何といってもいちばんいいのだが、しかしやくたいもない大衆小説的興味の持主たる私は、ここを自分なりに埋めて、「劇的一夜」を書かずにいられないのである。  そういえば、ある中年男性が、これは職業上の必要があって、私の「新源氏物語」を読んでくれたのであるが、 「あの玉鬘と髭黒の出逢《であ》うシーンが面白かったですな」  と批評した。全く、こういうときの、抑えようとしても抑えきれない私のニヤニヤ笑いは、まあどういえばよかろう! ここは私の創作部分なのに! これが味わいたくて、たぶん、このあとも「埋める」作業を恣意《しい》的にやる口語訳者が頻出するかもしれないが、ただその作業は、できるかぎり原典の口吻に注意ぶかく、冷静で、忠実であらねばならない。  ほんのひとこと、あるいは一行二行の示唆暗示から、何ページもの場面を書き埋める、というのは、あくまで原典の意図に添い、その香気を失なわず、物語の流れをかき乱すことないよう、そして面白さと品位を更に増幅するというていでなければならない。その気負いと自信がなくてはやたら埋める作業をやってはならない、ならないのであるが、しかし時には原典を読んでいて、菲才《ひさい》をもかえりみず、むずむずと書き埋めたくなる、屋上、屋を架したくなる、という、その誘惑に負けたのが、私の口語訳「新源氏物語」であるといってもいい。近代人の感性では、ここがもう少し読みたい、というところを、原典はさらりと流すが、それでは近代小説として読んだときに、どうも食い足りない、欲求不満になってしまう。  私にとってそういう欲望を挑発されるのは「源氏物語」と「落窪《おちくぼ》物語」である。  それはとにかく、私は玉鬘と髭黒の劇的一夜を書き埋めたくてならなかった。「行幸《みゆき》」の巻に髭黒の右大将は、 「色黒く髭がちに見えて、いと心づきなし」  と形容されている。玉鬘はほかの男たちの美しさに目を奪われ、むくつけき武官の髭黒を、 「若き御ここちには見おとしたまうてけり」  好感をもてないのである。髭黒は、 「いとまめやかに、ことことしきさましたる人の、恋の山には孔子《くじ》のたふれまねびつべきけしきに愁《うれ》へたるも、さるかたにをかし」(「胡蝶《こてふ》」)  と源氏に揶揄《やゆ》される。実直|朴訥《ぼくとつ》な中年男のくせに、「恋の山には孔子もつまずく」という諺《ことわざ》そっくりに泣き言をならべているのが、これはこれでまた面白いじゃないか、と源氏は髭黒の、玉鬘にあてた恋文を読んで嗤《わら》うのである。本来、髭黒は有名な堅物《かたぶつ》で、「年ごろいささか乱れたるふるまひなくて」(「真木柱」)女性関係の風聞はかりそめにもない人であったが、それが打ってかわった色男ぶり、満悦して玉鬘のもとへ通う、ところが玉鬘の方は反対に、生来の陽気もかげをひそめ、 「いといたう思ひ結ぼほれ、心もてあらぬさまはしるきことなれど」  すっかりふさぎこんでしまう。自分から髭黒を受け入れたのではないことは、はた目にもしるき有様、源氏もどう思うであろうかとはずかしく、この不本意な結婚に鬱々《うつうつ》とたのしまないのである。たった一夜を境に、性格も運命も激変してしまう、ここはやはり、書き埋めて物語の橋渡しをした方が近代の読者へのサービスであり、原作者に対してもその敬愛のしるしとこそなれ、決して非礼にならぬ、といったものではあるまいか。  原作には欠落といわぬまでも、表現不足、言葉惜しみ、といった部分がたくさんある、わずかの暗示をパンだねに、会話や状景を醗酵《はつこう》させ、ふくらませることも、口語訳には必要で、かえって原典の面白さを鮮明にし、理解をたすける場合が多い。厳正な口語訳と別に、「私訳」とでもいうべきものも輩出してしかるべきではないだろうか、時代によってどんどん変ってゆくのを見るのも面白いだろうし、紫式部はそれを歓迎するかもしれない。  ふくらませたところは、私の「新源氏物語」の場合、ずいぶんたくさんあった。  朝顔の姫君も唐突に出てくる人で(あまりにその出かたが唐突なため、「かがやく日の宮」の巻の存在を唱《い》う人がある)この姫君もかなり書き加え、近代小説に慣れた私たちにとって違和感なく紹介、登場させなければならない。何しろこの姫君は肉体感をもたない存在なので、原典の通りに訳しているとますます現実ばなれしてしまう。 「葵《あおい》」の巻、これは例の、葵の上と|六 条 御 息 所《ろくじようのみやすんどころ》の車争いの巻であるが、この祭見物に、式部卿の宮と朝顔の姫君は父娘《おやこ》で来ている。 「式部卿の宮、桟敷《さじき》にてぞ見たまひける。いとまばゆきまでねびゆく人の容貌《かたち》かな、神などは目もこそとめたまへと、ゆゆしくおぼしたり。姫君は、年ごろ聞こえわたりたまふ御心ばへの世の人に似ぬを、なのめならむにてだにあり、ましてかうしもいかでと、御心とまりけり。いとど近くて見えむまではおぼしよらず。若き人々は、聞きにくきまでめできこえあへり」  ここは、私はこう「私訳」してみた。 「折しも、式部卿の宮が、朝顔の姫君と共に桟敷から行列をごらんになっていらした。 『年を加えるにつれて、ますますすぐれた風采《ふうさい》になられる人だな』  と姫君に仰せられ、 『あの源氏の大将の君は、そなたに長らく思いをかけて文《ふみ》をよこすと聞くが……。こんな、美しい公達《きんだち》ぶりを見ては、さしもに物堅いそなたの心も、とけるのではないか』  とたわむれられた。 『ほんとうにりりしい殿方ぶりですわ……変らぬお心で、長年、お文をお寄せ下さるまめやかさも、もったいのう存じますが、でもわたくしは、それゆえにこそ、あのかたと、現《うつ》し身《み》の上で、愛を契ったり恋をささやかれたりするのは避けよう、と決心いたしましたの。……こんな、男女《おとな》の愛もあるのですわ。……わたくしは充分、あのかたと愛を交しあっていますの。お文のやりとりで……。心のうちで……。わたくしは生涯、それを貫きとうございますわ』  朝顔の姫君は、ものしずかに父宮にそう答え、けがれを知らぬ聡明な、澄んだ瞳《ひとみ》を、去りゆく源氏の行列にあてていた。」  あるいは人によっては、右の「私訳」の中の、「けがれを知らぬ」とか「澄んだ瞳」とかいう通俗臭のある陳腐な用語を、一大芸術作品たる「源氏物語」に持ってきて嵌《は》めこむとは何ごとかと、顰蹙《ひんしゆく》なさる向きもあるかもしれない。しかしこの部分は原文の、「若き人々は、聞きにくきまでめできこえあへり」という文章に対応する意訳である。姫君のおそばについている若い女房たちは聞き苦しいまで源氏を讃美し、うっとりと見とれてぺちゃくちゃとさえずり交すのである。原文も通俗的に書いているので、その口吻を引きうつすと、「けがれを知らぬ聡明な、澄んだ瞳を、去りゆく源氏の行列にあてていた」とやっても、あながち不当ではあるまい。  この「葵」の巻は後半、六条御息所の生霊《いきりよう》が現出して葵の上はそのため出産後、死ぬという、緊迫した面白い巻であるが、葵の上と源氏の仲の変化も見どころの一つである。源氏はこの正妻との仲がしっくりしない。うちとけない端正な姫君で、親しめずよそよそしい。源氏はこの妻にあきたりぬ思いでいるのだが、さすがに危篤を脱して小康を得た妻に、今までにない情愛を抱く。葵の上はいつものように、物越しに夫に会おうとするが、源氏の切なる願いで、やっと「臥《ふ》したまへる所に、御座《おまし》近う参り」、臥床《ふしど》のそばへ源氏を寄せる。源氏は病む妻のそば近々と寄り、葵の上も、源氏にときどき返事をする。手ずから薬湯をすすめたりして、かつてない、こまやかな夫婦の情味を味わう。こんなに夫と妻が近しく心を寄せあったことは、今までなかった。源氏はあらためて妻を美しくも、いとしくも思う。このあたりの原文は、 「いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかのけしきにて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦しげなり。御髪《みぐし》の乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、年ごろ何ごとを飽かぬことありて思ひつらむと、あやしきまでうちまもられたまふ。『院などに参りて、いととう、まかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらば、うれしかるべきを、宮のつとおはするに、ここちなくやと、つつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強くおぼしなして、例の御座所《おましどころ》にこそ。あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ』など、聞こえおきたまひて、いと清げにうち装束《さうぞ》きて出でたまふを、常よりは目とどめて、見いだして臥したまへり」  というものである。源氏の性格のやさしさがくまなく出ている会話で、女がいじらしく「らうたげに心苦しげ」にみえるとき、源氏の愛と庇護《ひご》本能はかきたてられ、本然のやさしさが湧《わ》き出ずにいられない。ましてそれが、今まで気位たかく、気強く、突っぱってみえた妻なら、なおさらである。のみならず妻は、このたび、男の子を出産したばかりである。源氏は情人をくどくとき巧者であるばかりでなく、妻をいたわる言葉も豊富に持ち合せている。世間には、そのどちらかに得手な男はいるが(どちらも不得手、という男もいるのはむろんである)双方とも得手、という男は珍らしい。  源氏は妻の美しさ、いじらしさを、いま発見したような気がして、今までなんでこの人をあきたりなく思ったのだろうとふしぎなほど、じっとみつめつづける。妻に、いつもこんなふうにへだてなく会いたいね、という。あなたの母宮がいつもおそばにいられるから遠慮していた、元気を出して、いつもの居間にもどれるようにしなさいよ、という。このあたり、こういう風に「私訳」しても、まるきり見当はずれというのではないと思うが、どうであろうか。 〈美しい人が、ひどく弱ってやつれ果て、消えそうな露といった風情で臥しているさまは、源氏には痛々しく、いじらしくみえた。  髪は乱れた筋もなく、はらはらと枕にかかっている、その美しさ。なぜ自分はこんな美しくしおらしい女《ひと》を、長い年月、あきたりなく、不満に思ったのだろうと源氏は思った。  妖《あや》しいまでに心はひきつけられ、源氏はじっと妻をみつめる。 『院などへ参って、すぐに退出してくるからね。こんなふうにして、いつも気兼ねなく会えるのなら私も嬉しいのだが。母宮がずっと傍《そば》につき切りになっていられるのに遠慮して、私は離れて気をもむばかりだった』  源氏が妻にささやくと、葵の上はほほえんだ。 『あなたのお気持は、わかっていましたわ、わたくしにも』 『私の愛を知って頂けたか……あなたに、もしものことがあったらどうしようと、私は生きた空もなかった。あのとき、心から思った。あなたは私の妻だ、と』 『気を失っていたときに……』  と葵の上はとぎれとぎれだが、ぜひこれだけは言いたい、というふうなひたむきさでいった。 『気がつくと、まっさきに、あなたが目にはいりました。あのときはうれしゅうございました。わたくしはあなたに守られている、とわかったからですわ』 『私たちは遠いまわり道をしてきたね。……でも、これからは新しい人生がはじまる気がする。かわいい子供も、私たちの間にはいるのだし。以前とはもう、ちがうんだよ』 『ほんとうに……あの子は、あなたそっくりですわ。色ごのみの点も似るかしら』 『おやおや。すこし快《よ》くなると、もう耳痛いことをいうんだね。意地悪さん』  こんな楽しい妻との会話は、はじめてであった。源氏はいまやっと、妻と心が一つに溶けあう気がする。 『早く快くなっておくれ。いま、はじめてあなたと結婚した気がする』  源氏は妻の耳に口をよせて、 『はやく、お前を愛したい』  とひめやかにいう。——はじめてそういう、うちとけた呼ばれかたをした妻は、やつれた白い頬に、いきいきと血の色をのぼらせた。 『自分でも気を強く持って、私たちの居間へ早く移って欲しい。ここではいかにも病人らしく、薬臭くなってしまう。母宮が子供扱いなさるので、あなたもつい、甘えが出るのだよ』 『ええ、……早くなおるようにしますわ。なんだか、張りが出てきたような思い……』 『病気になったことで、かえってよかったのかもしれないね、私たちの仲にとっては……』  葵の上は、疲れたのか、だまってうなずきつつ、微笑している。  源氏は清らかに装束をととのえて出てゆく。ふだんよりは、葵の上は心をとめてじっと見送った。  源氏がふりかえってほほえみつつうなずくと、妻は寝たまま、視線をあてて、 『いってらっしゃいまし』  といった。それは源氏が耳にした女の声のうちで、もっとも深い、やさしい声だった〉  実際のところ、葵の上に〈いってらっしゃいまし〉といわせるのは、「源氏物語」を劇画風に潤色することでもあるが、しかしふしぎにこうやっても、ほかの文章と抵抗なく、なだらかに同質化してしまう。原典を忠実に口語訳した部分との継ぎ目が均《な》らされて、見分けつかなくなってしまう。「源氏物語」の物語細胞はいまも生きて活動をつづけており、補足部分、ふくらまし部分、埋めた部分を貪欲《どんよく》に吸収し、同化してしまう。私は原典の(葵の上が)「常よりは目とどめて、(源氏を)見いだして臥したまへり」という一行から、どうしても〈いってらっしゃいまし〉という現代語を思いつかないではいられなかった。源氏のその場での心理描写からすれば、その葵の上の言葉は、それまで〈源氏が耳にした女の声のうちで、もっとも深い、やさしい声〉であらねばならなかった。「源氏物語」を近代小説として味わおうとすれば、この不壊《ふえ》の白珠ともいうべき原典をうんと噛《か》みくだき、その美しき細片を、ひろく敷きつめ、ちりばめてしまう、そういう「私訳」もあっていいのではないかと思うのだが……。  こういう風に書いたくだり、ほかには、紫の上との新枕《にいまくら》、御息所との秋の別れ、明石の上と源氏、さらには柏木《かしわぎ》と女三の宮などについても書いた。しかし、なんといっても書き埋め欲をそそるのは、藤壺と源氏のくだりで、ここは私訳者の腕を問われるところである。     ***  藤壺の宮と源氏との逢瀬《おうせ》は「若紫」の巻に唐突に出てくる。  いや、唐突というのは当らないかもしれない。藤壺に対する源氏の慕情はすでにそれまでも折々、暗示されていて、伏線はちゃんと張られている。  尤《もつと》も、「若紫」の巻より以前の、「帚木《ははきぎ》」「空蝉《うつせみ》」「夕顔」は、いわば短篇連作といったもので、「源氏物語」の序曲でもあり、食欲を更に刺戟《しげき》する、愛すべくかぐわしき食前酒でもある。真の長篇的展開は「若紫」からはじまるのである。  それ故、藤壺の宮への慕情も、この物語的時間から、源氏にはいっそう切ない、さし迫ったものになってきている。  源氏はこの巻で、北山の庵《いおり》にいた美少女を見染める。 「限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる」(「若紫」)  限りもなく慕う人——藤壺の宮——に、少女がたいそうよく似ているので、それで目がはなせないのだ。そう思うにつけても、源氏は涙が落ちてしまう。それまでは宮のことを思うにつけ「いとど胸ふたがる」(「帚木」)人が、自分の噂《うわさ》をしていても、もしや、あの人のことに言及しないかと「まづ胸つぶれて」というありさまであったが、その恋しい人の面影を宿す少女に会うと、もう耐えられなくなって源氏は、涙を落してしまう。〈わが盃《さかづき》はあふるるなり〉、源氏の恋心はあふれて、もはやとどめられなくなった、少女との出逢いは、藤壺の宮との罪ある逢瀬を必然的にみちびき出さずにはいられない。もはや源氏の心にゆとりはなくなっている。恋心は沸騰点に達したのである。北山から戻ったあとの源氏が、やみくもな情熱で、藤壺との密会を強行するのは自然な成行きである。  ただ、作者はここで心憎い技巧で、読者を焦《じ》らしている。この逢瀬が最初ではない、と暗示して、読者に衝撃を与え、物語的緊張を増している。それが唐突感を与えるのである。  藤壺はかるい病気で宮中を退下《たいげ》して里にいる。帝のご心配を、源氏は「いとほしう見たてまつりながら」こういう折をはずしてまたと機会があろうかと、 「心もあくがれまどひて、何処《いづく》にも何処にも、まうでたまはず、内裏《うち》にても里にても、昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば、王命婦《わうみようぶ》を責めありきたまふ」(「若紫」)  このへんの筆づかい、呼吸のうまさは、私は「源氏」独特のもの、というより、〈女の話しかた〉の流れ、といったものを感ずる。論理的な展開ではなく、情緒でおぼめかせて突如、「王命婦」という、読者にとっては寝耳に水、初耳の人名が挙げられ、それによって一挙に具体的事実をつきつけられる。女性の話は、往々、こういう形ですすめられることが多い。  王命婦は最初の機会のときにも恋の仲介者になったらしい。作者が最初の逢瀬を記述しなかったことにより、読者はよけいに、事件の重大さ、罪の深刻さを(読者の人生キャリアにより、また物語の読み巧者《ごうしや》かどうかの度合いによって)推しはからずにいられないのだが、書きとどめられた二度めの逢瀬も、言葉かずとしてはたいそう短い。  どんな注釈書をみても、この部分、せいぜい二ページまでである。  ただその内容は重く、かつ、甚だ暗示的で、一語一語の粘稠度《ねんちゆうど》は異常に高い。そうして言葉の背後にうずくまる主人公二人の意識は圧力を増して、いまにも炸裂《さくれつ》しそうになっている。その頂点に達したのが、源氏と藤壺の唱和である。   「(源氏)見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに      やがてまぎるるわが身ともがな」   「(藤壺)世語りに人や伝へむたぐひなく      憂き身をさめぬ夢になしても」  このくだりは「伊勢物語」六十九段の、伊勢の斎宮が「むかし男」のもとをおとずれる段を意識しているといわれるが、「伊勢」の象徴性をそのまま踏襲している。藤壺は、以前の逢瀬を悪夢のように思っている。「世とともの御もの思ひ」で、せめて、あのとき一度かぎりのことにしようと、かたく決心していたのである。だからこういう仕儀になったことを情けなく思い、辛《つら》がっている、しかしそうはいいつつも、 「なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深うはづかしげなる御もてなし」  藤壺は生来のやさしさで、源氏を峻拒《しゆんきよ》しない。しかしかるがるしくうちとけるというのではなく、思い屈し、なげきながら運命に身をゆだねている、そのさまが気品たかく奥ゆかしい、しかしその具体的な細部の記述はない。  作者は「くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜《みじかよ》にて、あさましうなかなかなり」と読者の想像力に一任しながら、不意に、「命婦の君ぞ、御《おん》直衣《なほし》などは、かき集め持て来たる」——源氏の脱ぎ散らした衣類を命婦が持ってきた、という、なまなましい即物的記述で、濃い輪廓《りんかく》を一描きし、追い打ちをかける。要所要所の墨が濃いので、おぼろに描かれているようでありながら、たいそう印象つよいシーンなのである。  だから、このままで、もう、つけ加えることは要らぬのであるが、しかし、あえていうと、「源氏物語」の扇の要《かなめ》というべきこのシーンに、「くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど」という抽象的形容詞が、私には物足らないのである。「新潮日本古典集成」の訳によれば〈暗いという名のくらぶ山にでも泊りたいところだけれども。くらぶ山ならば、いつまでも夜が明けないだろうから、という気持。〉とある。くらぶ山は歌枕であるが、ここでは源氏の歌の、〈こうしてお逢いしてもまたお目にかかることはむつかしい。ああいっそ、この身は夢のうちに消えたい〉という切ない嘆きと呼応し、暗い煩悩の闇を聯想《れんそう》させ、据《すわ》りのよい言葉が選択されている。藤壺と源氏の恋には未来がなく、あるのは罪過のおののきだけである。あたりを掩《おお》う夜の闇と罪の色は相似している。  まさしく、「くらぶの山」は象徴的な、畏怖《いふ》さるべき語なのである。  しかし、現代の読者にとっては、もう少し「くらぶの山」の闇と、主人公たちの心の闇について饒舌《じようぜつ》な説明があってもよいのではなかろうか?  そしてまた、私は、口語訳を考えたときに取り上げた方法なのだが、歌を会話に引きうつすということをやってみた。物語の中で唱和される歌は、感情の昂揚《こうよう》、増幅の表現と思われるので、それを会話に引きうつすことも許されるのではないかと思われる。厳密な口語訳の場合は、それは妥当ではないだろうが、一切、頭註や脚註、系図を用いない「私訳」なら、むしろその方がスムーズに滑脱に原意を伝えるかもしれない。  それこれをひっくるめ、私は、藤壺と源氏の第一回めの逢瀬と二度めのそれを、原典の二倍くらいに書きこんだ。  藤壺は、三度めのときは、源氏を拒み通している。そのときの彼女の意識の中には、わが子の東宮のためという思惑《おもわく》があったからだが、まだ年も若かった、最初の機会の頃は、打算も思惑もなく、源氏にふと足をすくわれる、ということがあったにちがいない、〈青海波《せいがいは》〉を舞う源氏に見恍《みと》れる藤壺は、うたがいもなく、深層心理に青年を恋している。それが二度めの逢瀬のときも「心|憂《う》く」「いみじき御けしき」ながらも「なつかしう」「らうたげ」な態度をとらせるのであろう。そこから二人の間に交される会話に、〈死にたい〉〈いや、生きたい〉という言葉が出なかったろうか、また〈地獄〉というイメージも。  さてまた、青年は、忍んで三条の宮にくる途中、何を考えていたろうか、考えあぐねて見上げる夜空に、銀漢が白くかかっていなかったろうか、大屋根の上をわたる風の音は、「おぼし乱れたる」藤壺の宮が「世語りに人や伝へむ」と恐れた、世間の人々のごうごうたる非難弾劾の嵐のように、青年の耳にひびき、年わかい恋人をおびえさせはしなかったろうか。そんなことを思いめぐらし、原典をふくらませて書くことは、〈私訳者〉の怪《け》しからぬたのしみであった。  私訳者のたのしみは、前にもいったようにこのほか、「賢木《さかき》」の巻の、六条御息所と源氏とのわかれ、「葵」の巻の、紫の上との新枕のくだり、「明石《あかし》」の巻の明石の上との出逢い、それから、「若菜下」の女三の宮と柏木の逢うシーン、といろいろあって事欠かないのだが、私は、厚顔《こうがん》に「源氏」を書きふくらませて気付いたことは、作者はあまたの女人像を描きながら、一ばん愛したのは紫の上で、書くのを一ばん好んだのは六条御息所ではないかという気がする。  藤壺は、「源氏物語」の軸となる存在であるが、意外にこの人物造型は曖昧模糊《あいまいもこ》としている。(そのぶん、私訳者としていろいろ余剰な贅肉《ぜいにく》的説明が加えやすいわけだが)物語後半の、国母となってからの藤壺は、まるで簾中《れんちゆう》政治の中枢というべき存在で、青年と密会したころの若き日の「なつかしうらうたげ」といった面影はみじんもない。  そういう後宮政治家と、不義の恋人とのイメージの落差が烈《はげ》しすぎ、原典を読んでいて、私などは、顔がつかめなくて大いに難渋してしまう。  作者の紫式部自身、藤壺の宮のイメージはつかみきれなかったのではないだろうか。少くとも、道ならぬ恋に踏み迷う女の脆《もろ》さとあぶなかしさが、充分描かれ切っているとはいえない。  それに比べると、御息所は、はじめから終《しま》いまで一貫していて、作者はこの女人を掌握しきっているといえそうである。生霊になるすさまじさも御息所にふさわしいし、(それで思い出したが「落窪物語」に憎まれ役・仇役《かたきやく》として出てくる継母《ままはは》の北の方も、気性が激しくて、怨《うら》む相手に対して、〈生霊になって取りついてやる〉と叫んでいる。当時の世間常識として、鮮烈な強い個性と自我の持主の女性は、しばしばそういうことがあると思われたらしい。生霊は「源氏」の作者の創作ではないようだが、それにしても、なんとまあ、御息所の性格にふさわしい、自我の発現であろう)源氏との秋の野の宮のわかれも、筆を惜しまず、描き切っている。 「賢木」の巻のこのくだりは文章もとりわけ優婉《ゆうえん》で「くらぶの山」という一語で象徴するような重さはない。 「遥《はる》けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅《あさぢ》が原もかれがれなる虫の音《ね》に、松風すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、ものの音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶《えん》なり」(「賢木」)  と、舞台装置、音響効果も満点である。作者は御息所との秋の別れを書かんがために、御息所を創造したのではないかという印象さえ、与えられる。作者自身、「ことさらにつくりいでたらむやうなり」というほど、秋の一夜のあわれは、恋人たちの離別にふさわしい。  それも、ただの離別ではない。紫の上が、須磨《すま》へ退居する源氏と別れたような、相愛の二人の別れではなく、御息所と源氏の間はもっと複雑である。御息所はいったん源氏を思い切り、源氏も心変りを自分で意識している。御息所が去るのを引きとめもしないが、しかし自分を薄情だと思わせたままにするのも気の毒だし、且つ、人からも冷淡な男と思われはすまいかと、源氏はいわば重い腰をあげて御息所を訪れる。御息所の方は、まだ源氏に未練があり、会えばまた物思いに心乱れるであろうとわかっているから、会いたくもあり、会いたくもなく、女房たちの手前も心苦しい、という、年たけた教養ある貴婦人らしい迷妄《めいもう》を示して、女らしい。源氏はいったんは冷めた恋なのに、こうして会っていると、「あはれにおぼし乱るること限りなし」  女に伊勢|下向《げこう》を思いとどまるよう、いったりする。 「思ほし残すことなき御かたらひに、聞こえかはしたまふことども、まねびやらむかたなし」  このときの、「聞こえかはしたまふことども」を、現代小説として「まねびやらむかた」はないものであろうか? 「やうやう明けゆく空のけしき、ことさらにつくりいでたらむやうなり。   (源氏)暁の別れはいつも露けきを      こは世に知らぬ秋の空かな  出《い》でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。風いと冷やかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、をり知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞き過ぐしがたげなるに、ましてわりなき御心まどひどもに、なかなか、こともゆかぬにや。   (御息所)おほかたの秋の別れもかなしきに      鳴く音な添へそ野辺の松虫  くやしきこと多かれど、かひなければ、明けゆく空もはしたなうて出でたまふ。道のほどいと露けし。  女もえ心強からず、名残あはれにて、ながめたまふ」  という、物語中、屈指の名場面、大人の恋の場面で、作者の力倆《りきりよう》を示して余りある。ここでは象徴的な暗示は一切なく、そのまま近代小説の体臭を持っているが、「出でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし」という源氏の心うごきを、私は会話にうつしとってみたかった。  このときの二人の歌は、情景負けして、あまりいい歌ではない。「くらぶの山」の場合のほうが切実である。あるいは、須磨へ去るときの源氏と紫の上の歌のほうが、緊張と哀傷にみちた絶唱であって、この「暁の別れ」の歌は平凡といってもいい。作者もそう思ったのか、 「わりなき御心まどひどもに、なかなか、こともゆかぬにや」  悲しさに心みだれて、うまく詠めなかったのであろうか、といっている。その「こともゆかぬ」歌のかわりに、二人の間にもっと突っ込んだ会話があったら……「賢木」の巻は、もっと魅力を増すかもしれない。たとえば……「源氏物語」のさまざまな楽しみかたの一つとして私は次のように私訳してみた。すこし長いが引用してみる。 〈斎宮の伊勢下りが近くなるにつれて、御息所は心細さが増すのであった。  世間では、左大臣家の姫君亡きいまは、御息所こそ、源氏の君の北の方よと噂し、邸《やしき》に仕える人々も心ときめかせていたのに、却《かえ》って源氏のおとずれは、ふっつり絶えてしまった。  余人は知らず、御息所自身は、源氏が冷たくなった原因を知っている。それで、ただもう、ひたすら未練をたちきって、伊勢へ下ってしまいたかった。  源氏の方では、いよいよ御息所が去るとなると平静でいられない。しんみりした手紙を送るのだが、御息所は返事もせず、逢《あ》いもすまいと心にきめていた。逢えばまたもや心乱れるのはわかっていた。  御息所の住まいしている野の宮は、神事のための潔斎《けつさい》の宮で、けがれを忌むところだから、男が情人をたずねていくというような場所ではなく、源氏も気にかかりつつ、そのままになっていた。  それに近頃、桐壺院《きりつぼいん》が、折々ご健康をそこねられることなどもあって、源氏も心安まらない。そんなこんなで、日はすぎてゆくが、 (あのひとは、私を怨んでいるだろうなあ)  と、心やさしい青年は気になってならないのだった。 (自分の冷淡な仕打ちは、あのひとを世の物笑いにするのではあるまいか)  とも思うと、御息所がいとおしい。足は重いが、気を引き立てて野の宮を訪れることにした。  九月七日の頃なので、伊勢下向はもう今日明日に迫っている。御息所は心あわただしくおちつかないのだが、 『ほんのちょっとだけでもお目にかかりたいのです』  という青年の手紙にやはり迷った。  御簾《みす》をへだて、それとなく逢おうと思う。  これで最後。これであのひとともお別れ。  そう思いきめると、はや、御息所の心も身も、恋人をまつ情念に濃く染まって、痺《しび》れてゆくようだった。  源氏が広々した嵯峨野《さがの》に分け入ると、秋のあわれは野にみちていた。花はすでに散り失せ、浅茅の原も枯れ枯れに、とだえがちの虫の音、松風の音も荒々しい。  その中を、野の宮の方から風に乗ってきれぎれに、楽《がく》の音色が聞こえてくるのは、やさしい風趣があった。  源氏は少ない供人《ともびと》に、忍び姿の外出だったが、心を用いた装いで、それは折からの秋ふかい野の景色に、いかにも似つかわしい。  源氏自身も、(なぜもっと、しばしばここへ訪れなかったのか。いい風情のところなのに)と残念に思った。  野の宮は、はかない小柴垣《こしばがき》をかこいにして板葺《いたぶき》の家があちこちに建っている。黒木の鳥居も神々《こうごう》しく、神官たちがたむろして、咳払《せきばら》いしたり、話し合ったりしているさまも、神域らしい、よそとは全くちがう趣きである。  神に捧げる供物《くもつ》のための、神聖な火を守る火焼屋《ひたきや》のみ、ぼっと明るい。  あたりは人けもなく、しめっぽく、身のひきしまる感じだった。女のもとへ忍んできた身には、おのずと気の負《ひ》ける思いである。  こんな淋しい所に、あの女《ひと》は物思わしい日を送っていたのかと、源氏はあわれで、胸がしめつけられるようだった。  北の対《たい》のものかげに源氏は身をひそめておとなうと、音楽の音色がはたとやんで、女房たちのひそやかな衣《きぬ》ずれの気配がした。  御息所は、女房たちを取り次ぎにして、自分は会おうとしない。源氏は語気を強めた。 『今の私の身の上では、世間へのはばかりもあって、こういう忍びあるきはできないのです。それを無理して、やってまいりました。どうかよそよそしいお扱いはなさらず、直接お目にかからせて下さい。今宵《こよい》こそ、ゆっくり、日頃の思いをお話ししたいのですよ』  源氏のまじめで思い迫った態度に、女房たちも心打たれた。 『ほんとうに、大将の君を、ああして外へお立たせするなんてお気の毒でございますよ』  御息所はまだ迷っていた。この野の宮では人目も多く、また斎宮であるわが娘にも思惑があった。年甲斐《としがい》もなく、若い恋人を引き入れたと思われはせぬかという気はずかしさ、さりとて、つれなくあしらうこともできない。  例の、屈折した重苦しい思いにうちひしがれ、なげきつつ、ためらいつつ、ため息をつきつつ、しずかに膝《ひざ》をすすめる御息所のたたずまいは、やはり源氏にとって魅力だった。 『この宮では簀子《すのこ》(縁)へ上ることはせめてお許し頂けますか』  と源氏は上って坐った。  花やかな夕月夜となった。しかし二人の恋人は胸迫ってものがいえなかった。  青年は、折って手に持っていた榊《さかき》の枝を、御簾の下へさし入れた。 『この榊の葉の色のように私の心は変っていませんよ。だからこそ、こうして神聖な場所をもはばからず訪ねてきたのだ。それをあなたは、冷たくあしらわれる』 『榊は、神さまの木ですわ。あだめいて、お手折《たお》りになるなんて……』  と御息所はつぶやいた。 『あなたのいられるあたりに、ゆかりのものはみな、なつかしいんですよ』  野の宮の雰囲気は、神事の場所だけに重々しく、源氏は気押《けお》されつつも御簾の中へ身を入れ、長押《なげし》に寄りかかっていた。  久方ぶりの逢瀬は、青年の心を昔に引きもどしていた。  思えば——青年がいつも欲するときに御息所に逢うことができ、御息所の方が、彼をよりふかく愛していたときは、青年は彼女の愛に慢心して、かえりみなかった。そうして、彼女のすさまじい嫉妬《しつと》や怨念《おんねん》の本性をかいまみてからは心冷えて、青年は離れていった。  しかしいま、こうして向きあってみると、昔の愛はまざまざと立ち戻ってくる。  この年上の恋人の、深い愛に気付かず、それに狎《な》れ、心|驕《おご》った日のことが、くやしく思い返される。 『ほんとうに、伊勢へ下られるのか。私を捨てて行けると思われるのか』  この女《ひと》に心ひかれた昔の日の恋は、まだ源氏には強い力をもっていた。この女《ひと》を失ってしまったあとの空虚をどうしよう。良くも悪《あ》しくも、この貴婦人は、源氏の青春を埋めた重要な恋人だった。 『思いとどまってほしい。私はあなたを失うのに堪えられぬ』 『わたくしは、あなたには、もう過去そのものですわ……何をしてさしあげることもできないのでございますもの』  御息所は堪えかねて顔を掩った。 『いいや、そんなことはない。もし私が、力ずくでもあなたを伊勢へ遣《や》らぬ、といったら——』 『考えてもごらんなさいまし』  御息所は必死に涙をこらえ、微笑を浮かべようと努めていた。 『あなたとわたくしの仲が終ったいまは、もう、人に笑われるだけなのですわ、未練がましいそぶりは。……恋の邸は空家《あきや》となり、人手に渡ったのでございます。わたくしたちはごきげんようと言い合って、おだやかにたのしく、お別れするのですわ』  いううちに、彼女の言葉を裏切って涙はひまなく流れおちた。それを見る青年も胸がせきあげて思わず御息所のそばに迫り、抱きしめてささやいたのだ。 『もういちど、やり直したい、すべてを水に流して、一から手習いをはじめよう、あなたも私も、ともにはじめからやり直すのだ、あの恋のはじめの日をおぼえていられるか?……はじめて会った日のように私たちは……』 『取り返しのつくことと、つかぬことがございます』 『いや、取り返しはつく』  青年の涙に御息所の涙がまじりあった。彼女は青年の頬を撫《な》でて静かにいった。 『あなた……。あなたには新しい運命が待っていますわ。運命に、待たれておいでになるかたですわ。……もうわたくしではお役にたてないのです』 『あなたは強い女《ひと》だ』 『すべてを失うと、人は強くなりますわ。……さあ、月も落ちましたわ。やがて夜があけます』  それでも青年は恋人の躯《からだ》を離すことはできなかった。二度と恋人として逢う日がないとは信じられなかった。愛の日が終ったとは思いたくなかった。今は源氏の方が、御息所に執心して焦《こ》がれていた。 『あの昔の恋の日々を、まぼろしにしないでくれ』  青年は悲鳴のようにいった。この美女の中の美女、よき趣味人であり、当代きっての教養ある淑女、気位たかき貴婦人、愛執《あいしゆう》が凝《こ》って物の怪《け》となるまで青年を恋してくれた女《ひと》、その人を失うというのは、一つの世界が潰《つぶ》れるようにも、青年には思われた。 『さようならは、おっしゃらないで下さいまし』  御息所は低く哀願した。 『それから、お帰りのとき、こちらをお振り向きあそばさないで下さいまし。いつものように、明日か明後日とおっしゃって下さいまし……明日か明後日、また来る、と』  御息所はほそい指に力をこめ、青年の躯にすがっていた。 『さよならという言葉を、あなたからうかがうのが辛くて怖くて、わたくしはおびえておりました。こんなになった今も、その言葉をおそれております……』  御息所の胸から、この年月、つもりつもった恋のうらみは消えていた。青年の真率な悲しみと懊悩《おうのう》をみると彼へのうらみつらみも溶けた。その代り、別れの決意もゆらぐようで、彼女は思いみだれ、よろめいた。  空は、いつか夜明けの色に変りそめ、風が出ていた。虫の音も秋のやるせなさを添えるかのようである。 『離したくない、あなたを手ばなせない』  青年は御息所の手をとって、にぎりしめ、口づけする。 『私はおろかだった、あなたと別れるときに、どんなにあなたを愛しているかがわかった。もう、永久にあの楽しい日は去ったのか』 『いいえ。あの日は去ったのではございません。生きているかぎり、忘れはいたしませんもの。あの恋はまぼろしではございませぬ』  青年は夜明けにうながされて去るとき、約束どおりふりむかず、『さよなら』ともいわなかった。しかし悲しみに茫然として涙ぐみ、秋の野をやみくもに踏みしだいて歩いていた。  御息所の方も、心まどいはなおさらだった。(彼を失った、彼を手放した、ついにそのときが来たのだ)源氏のわかい唇、熱っぽい細い躯、彼のやさしさ、彼のわがまま、彼の身勝手、彼の笑い、彼のあの男の動作、あれらを永久に失うのだ。なんと年上の女は、失う能力に(不幸にも)多く恵まれていることか。  部屋にまだのこる青年の衣の香り、月かげにみた姿が目にのこって、御息所はしばし、秋の未明の空へ物思わしげな視線をさまよわせていた。〉  歌を会話に引きうつす、あるいは独白にするという恣意《しい》的な方法も、自由な私訳ではゆるされてもいいのではないかと私は思っている。  たとえば「少女《をとめ》」の巻、少年の夕霧と、少女|雲井雁《くもいのかり》は内大臣に仲を裂かれ、少女は内大臣の手もとに引きとられようとする。稚《おさ》ない恋が大人の恋のあいだに挟《はさ》まれて、一点|灯《ひ》がともったように清純なぺージであるが、雲井雁の乳母も内大臣に同調して、夕霧と少女の恋に反対している。それもこれも夕霧がまだ元服したばかりで、六位という低い位だからである。  夕霧は少女とやっとこっそり会い「かたみにものはづかしく胸つぶれて、ものも言はで泣きたまふ」(「少女」)という不器用な恋人たちである。〈別れてもぼくのこと恋しいと思ってくれる?〉というと少女はこっくりとうなずく、それも「幼なげ」なさま、そこへ内大臣が戻ってきて、邸中、それお帰りだとおそれている。少年は〈どうなろうとかまうもんか〉と少女を抱きしめて離さない。少女の乳母がそこへ来て、そのさまを見て驚き、やっぱりこの二人はこんな仲でいらしたのかしら、〈情けないわ、殿さまのお腹立ちはもとよりのこと……花むこが、六位の下っぱ役人なんて〉とあてつけがましくいう。  少年のプライドは傷つけられる。  位のない身を乳母にまで侮られたかと思うと、世の中もいやになって、恋もさめる気もする。夕霧は少女にいう。 「『かれ聞きたまへ。    くれなゐの涙に深き袖の色を        あさみどりとや言ひしをるべき  はづかし、』とのたまへば (雲井雁)『いろいろに身の憂きほどの知らるるは        いかに染めける中《なか》の衣ぞ』」  この歌の心を、こういう風に〈私訳〉するのは見当はずれであろうか。 〈『あんなことをいっている……。きみを愛しているぼくの心は、身分や位では、はかれないのに……。あんなことしか、大人は考えられないのかしら。くやしいよ』  少年がいうと、少女はいそいで慰めた。 『あたくしだけは知ってるわ。……あんなこと、いうひとには言わせておけばいいわ。あなたはあたくしにとっては、大臣や大将よりすてきな人よ』〉  雲井雁の歌は正確に訳すると、〈いろいろのことで、わが身の不幸を思い知らされるのは、どんな定めの二人の仲なのでしょう〉という意味であるが、前後の口吻から推して、前記のように受けとってもいいように思われる。  少女は連れ去られ、少年はあとに残って、人の手前もはずかしく、悲しみに胸はいっぱいで、自分の部屋で横になっている。その耳に、少女の乗せられた車が邸を出てゆく物音がきこえる。傷心の少年を案じて、祖母の大宮がこちらへおいでと招くが、少年は寝たふりをして身じろぎもしない。涙がとまらず、夜を明かす。 「源氏物語」には男性が涙を流す個所がたいそう多く、現代感覚からいうと、あまりに柔媚《じゆうび》で、その通りに訳すのがためらわれるような気がする。それほどの必然性がないのに、たいそう、オーバーなと受けとられる、あるいは浮き上ってしまう描写が多いが、それに比べると、このときの少年の涙はいかにもつきづきしく、清純である。 「うちはれたるまみも、人に見えむがはづかしきに、宮はた、召しまつはすべかめれば、心やすき所にとて、急ぎ出でたまふなりけり。道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、空のけしきもいたう曇りて、まだ暗かりけり。    霜氷うたてむすべる明けぐれの       空かきくらし降る涙かな」  このシーンも、人物の心理描写と自然が密着していて印象はあざやかである。少年は泣き腫《は》らした顔を、人に見られるのがいやさに、それに祖母の大宮がおそばをお離しにならぬだろうと思われたので、朝早く、二条の学問所へ帰ってゆく。甘いお祖母《ばあ》ちゃまに、雲井雁のことをなぐさめられ、失恋をいたわられるのはいやだった。いま少年に心やすまるところといえば、殺風景な学問所しかない。  夜はまだ明けきっていず、霜氷に閉じられた寒い朝だった。 〈ああ、この寒さも暗さも、ぼくの心そのものだ。しかしこの苦しみは、人に強いられたものではない。おのが心から求めて得た結果の苦しみだ。あのひとを恋すればこその苦しみなのだから、逃げてはいけない。空をかきくらして降る涙に堪えよう……ぼくは男なんだ〉 「人やりならず、心細く思ひ続くるに」というくだりが私は好きで、右のように訳してみた。実母の顔も知らぬ少年には、ほんとうに泣きにゆくところはない。しかし学問所を「心やすき所」と思う孤独な少年の心理には、人に泣き顔を見られたくないという、男のプライドがある気がする。それで〈ぼくは男なんだ〉という〈私訳〉をしてみた。これも要らざる説明かもしれないが。 [#改ページ]   私の好きな文章 「源氏物語」を原文で読んでいると、 (あれ——誰かに似た文章)  と思うところがしばしばある。それは樋口一葉の文章に似ているのである。もとより、一葉が「源氏物語」の口吻をとり入れているのであるが、双方ともリズム感のある美文調が、散文の間になだらかに混淆《こんこう》して、誦《しよう》して耳に快く、目で見て美しい文章となっている。たとえば「源氏」の「末摘花《すえつむはな》」の冒頭—— 「思へどもなほ飽かざりし夕顔の露におくれしほどのここちを、年月|経《ふ》れどおぼし忘れず、ここもかしこもうちとけぬ限りの、けしきばみ心深きかたの御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに似るものなう、恋しく思ほえたまふ」  源氏は夕顔を失った悲しみを、年月|経《へ》ても忘れることはできない。だいたい源氏の周囲の女人は気位たかく身構えているタイプばかりなので、夕顔のように人なつこく素直で親しみ深かった人柄が、源氏には恋しくてならなかった——ただそういう意味にすぎないのだが、よく消化《こな》れて何とも流麗な文章で、私は一葉の「たけくらべ」などを思い出さずにいられないのである。 〈廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝《どぶ》に燈火《ともしび》うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、明けくれなしの車の往来《ゆきき》に、はかり知られぬ全盛を占ひて、『大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町』と住みたる人の申しき〉  これは名高い冒頭だが、龍華寺《りゆうげじ》のなまぐさ和尚《おしよう》を活写した九の巻などもいい。 〈如是我聞《によぜがもん》、仏説|阿弥陀《あみだ》経、声は松風に和《くわ》して、心のちりも吹払はるべき御寺《おてら》さまの庫裏《くり》より、生魚《なまうを》あぶる烟《けぶ》なびきて、卵塔場《らんたふば》に嬰児《やゝ》の襁褓《むつき》ほしたるなど、お宗旨によりて構ひなき事なれども、法師を木のはしと心得たる目よりは、そゞろに腥《なまぐさ》く覚ゆるぞかし、龍華寺の大和尚、身代と共に肥へ太りたる腹なりいかにも美事《みごと》に、色つやの好きこと、いかなる賞《ほ》め言葉を参らせたらばよかるべき。桜色にもあらず、緋桃《ひもも》の花でもなし、剃《そ》りたてたる頭《つむり》より顔より首筋にいたるまで、銅色《あかゞねいろ》の照りに一点のにごりもなく、白髪もまじる太き眉をあげて、心まかせの大笑ひなさるゝ時は、本堂の如来さま驚きて台座より転《まろ》び落給はんかと危ぶまるゝやうなり〉  このあたりの緩急自在な、的確でいて流麗で、鋭いくせに艶冶《えんや》な照りのある文章は、その源流をたずねるとやはり「源氏物語」である。西鶴の暢達《ちようたつ》に似ているが、その上に女人ならではの口吻が加わっていて、たとえば「玉鬘《たまかづら》」の巻、かのむくつけく恐ろしい土地の有力者、大夫《たいふ》の監《げん》が、流浪の姫君玉鬘に求愛にくる、あの大夫の監が活写されているくだりとよく対応する。「玉鬘」の巻はドタバタ大衆小説のようだと貶《おと》しめる人も多い。大夫の監の戯画的描写から、長谷寺《はせでら》での右近《うこん》との奇《く》しきめぐり合い、とんとん拍子の好運、と大衆小説、通俗メロドラマのもつ快適なスピードで話は運ぶが、しかし文章の品位と優婉《ゆうえん》さがその古《ふる》物語的通俗臭を救っている。何をかくそう、私は「玉鬘」の巻が好きなのである。  大夫の監という有力者の武士は「むくつけき心のなかに、いささか好きたる心まじりて、容貌《かたち》ある女を集めて見むと思ひける」、それで玉鬘の姫に強引に求婚しにくるのだが、 「三十ばかりなる男の、丈《たけ》高くものものしくふとりて、きたなげなけれど、思ひなしうとましく、荒らかなるふるまひなど、見るもゆゆしくおぼゆ。色あひここちよげに、声いたう嗄《か》れてさへづりゐたり」(「玉鬘」)  三十ぐらいの男で、背が高くがっしりして思ったよりは醜くないが、強引そうで、荒々しい振舞に女たちはおびえてしまう。血色はつやつやと栄養もみち足り、力の強そうな男で、濁《だ》み声でよくしゃべる。  この男「言葉ぞいとだみたりける」で、ひどいお国なまりの言葉だが、恋文などよこすのに「手などきたなげのう書きて」「われはいとおぼえたかき身と思ひて」つまり、地方の光源氏気取りである。侍だから実力行使の恫喝《どうかつ》を仄見《ほのみ》せつつ求愛するのだが、帰りがけに歌を詠もうとして「やや久しう思ひめぐらし」「君にもし心たがはば松浦《まつら》なる鏡の神をかけて誓はむ」と詠み、 「『この和歌は、つかうまつりたりとなむ思ひたまふる』と、うち笑みたるも、世づかずうひうひしや」  むくつけき武士も、恋の道には不案内、うぶでどぎまぎしている。恐ろしがる乳母は平仄《ひようそく》の合わぬ返歌を詠み、監は、 「待てや。こはいかに仰せらるる」  と不意に寄ってきたので乳母はおびえてしまう。娘たちが必死でうまくとりなすと、監は「おい、さりさり」なるほど、なるほどとうなずき、拙者らとて田舎者《いなかもの》とはいえ、風流が分らぬというわけではござらん、都人だとて何ほどのことがありましょうや、歌ぐらい拙者どもでも詠めまするぞ、「なおぼしあなづりそ」、このへんは肥後の地侍《じざむらい》というから私は、 〈そぎゃんばかにしなったもんでも、なかですばい〉  と訳したのだが、このあとつづけて、 「また詠まむと思へれども、堪へずやありけむ、去《い》ぬめり」  またもう一首、詠もうとしたらしいが、うまくいかなかったとみえ、帰っていった。ここは私の私訳をよんだ人が、「面白いね」とほめたことがあり、その人は私の潤色と思ったからなのだが、ちゃんと作者の紫式部は、「また詠まむと思へれども」と観察を意地わるく働かせているのであって、私の恣意《しい》でつけ加えたものではない。  優婉な口吻の裏に躍動する、生気にみちた揶揄《やゆ》的描写、千年をへだてて式部と一葉をつなぐ脈々たる女流文学のながれがあるといえようか、「源氏物語」はサロンで口誦《こうしよう》、朗読されたのかもしれないが、一葉のほうも、たぶん朗読したほうがいいに違いない。「たけくらべ」の末尾も、 〈聞くともなしに伝へ聞く、その明けの日は信如《しんによ》が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ〉  と「草子地《そうしじ》」になっていて、物語らしい体裁がととのい、しっとりした女の声で読み上げるにふさわしい、そしてそのあと聴衆の(できれば、十人ぐらいまでの小人数がいい)ほうっ、というたおやかなため息が聞えそうな終りかたである。  むしろ、私など「源氏物語」のほうがずうっと散文的、近代的文体に思われる。「源氏」には「なり」で終る文章のうちどめが多いが、これが乾いた説明調で、本質が情緒過多に溺《おぼ》れて流産するのを防いでいる。一葉は「なり」の説明調を過敏にきらったとみえ、「き」「ぬ」の過去形やら名詞どめやら華麗繊細な技巧を凝らして、苦心を払っているが。  総体に「源氏」は流麗な名文、といってよいのではなかろうか。緩急のテンポが快く、折々に暗誦に堪える愛すべき美文が挟《はさ》まれていて、印象的シーンによくマッチし、二度三度読むうちに、慣れも加わっていよいよ、その口吻に飜弄《ほんろう》される妙味が味わえる。  私が特に好きな文章、というのは(それはまた印象的シーンということにほかならないのだが)なぜか、わりにほんのちょっとしたところに足を掬《すく》われる気味が、私にはある。 「夕顔」の巻、源氏は夕顔に返歌を与えたまま去ってゆく。まだ相手の女の身許《みもと》も分らぬ最初の出逢《であ》い、源氏は乳母の家から帰ってゆくのであるが、 「御|前駆《さき》の松明《まつ》ほのかにて、いとしのびて出《い》でたまふ。半蔀《はじとみ》はおろしてけり。隙々《ひまひま》より見ゆる火の光、蛍よりけにほのかにあはれなり」(「夕顔」) 「小学館・日本古典文学全集」には、 〈先ほどの女の透き影を求めて、源氏の目はまず半蔀へ。『下してけり』で、なにがしの失望と未練が残る。その余韻が次の詠嘆的な文になる〉  と委細をつくした説明がある。「蛍よりけに」は「夕されば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき」(「古今集」紀友則)から取っている。  松明《たいまつ》のほのかな灯《あか》りが、車の簾《すだれ》を通して源氏の目に映る。車が進むとき、気になる女のいる隣家を、源氏は車の内から横目で見ずにいられない。さっき来たときは半蔀四五|間《けん》ばかり吊《つ》り上げて、簾も白く清げにかけ、美しい額ぎわを見せて女たちがのぞいていた。源氏は関心を寄せて歌をやりとりしたのだが、それはいまはおろされている。その隙間《すきま》からまたたく灯かげが蛍火のようだった、という。源氏の心は半蔀のかなたの、「蛍よりけにほのか」なる灯りに吸い寄せられている。そして読者もまた、おろされた半蔀のかなたに関心を奪われずにいられない。半蔀から洩《も》れるほのかな光によって、読者は全く源氏と合体して、作者の掌中に運命を握られてしまったのである。  こういう文章を読むと、私は作者の強靱《きようじん》な肉体リズムを感ずる。作者はこのあたり自信をもち娯《たの》しんで、ひとくぎりごとに物語世界から日常生活にもどってゆくような想像をかきたてられる。紫式部はここまで書いて筆を擱《お》いて、下世話《げせわ》な想像を逞《たくま》しく(あるいは愉《たの》しく)すれば、 〈賢子や、もうおねんねしなさい。  あなた、そこの格子を閉めるように、いいつけて下さらない?〉  などといっているような気がする。この、はじめの短篇的巻々は、いかにも余裕があり、作者の腕力(文学的ではなく肉体的)が感じられ、若々しさがみなぎっていて、若い物書きの弾みがある。ずっとあとの巻に見る苦渋や推敲《すいこう》のあとが感じられない気がするのだが。  女の容貌《ようぼう》、というのは女流の描写したがるところだが、一葉などはかなり登場人物に美男美女を呼んでくる。しかし紫式部は、この若書きのころ、空蝉《うつせみ》や末摘花、源典侍《げんないしのすけ》といった醜貌の女を登場させ、その描写に熱意をこめている。物語後半には、内面ドラマの葛藤《かつとう》・錯綜《さくそう》がはげしくなり、作者の関心は外観描写をつきぬけて、ついに作者自身でも予測できなかった大きな超越者の歯車に噛《か》まれてしまうという様相をみせるが、しかし「空蝉」あたりの初期の文章は、作者の愉しいほくそ笑みが伝わって、なかなかいい文章である——少くとも私には空蝉の容貌描写など好きな部分だ。  源氏は紀伊《き》の守《かみ》の邸《やしき》に泊って、一夜だけでもじっとしていられない。空蝉の噂《うわさ》をきいたことがあるので、ここかしこ、そっとたずねあるく。 「思ひあがれるけしきに聞きおきたまへるむすめ」(「帚木《ははきぎ》」)  気位たかく身を持していた娘、と源氏は噂に聞いている。亡き親は宮仕えさせようと、心づもりしていたくらいであるから、最高の教養と気位(気位と教養は王朝にあっては同義語といってもよく、しばしばそれが美人の条件とも形容ともなっている)を身につけさせたであろう。それほどの女なら容易に近づけない深窓に養なわれているものであるが、空蝉はこと志と違って中流の家の妻になっている、そのへんも源氏の好き心を誘っている。  空蝉は一度は源氏の「あながちなる御心ばへ」に屈したが、次の機会にはとりあわない。失意の源氏は懲りずまに忍んでゆき、空蝉が継娘《ままむすめ》と碁を打つところをのぞき見る、作者は空蝉の容貌を紹介したくて、この場面を設定したにちがいない。円地文子氏が、空蝉は作者の紫式部その人の容貌ではあるまいかといわれたのは実に卓見で、式部は、空蝉を美人でないと書きながら、内面美を強調し、それとない〈われ讃《ぼ》め〉をしている。女が読むとそういう息づかいがよくわかって面白く、しかも同じ容貌描写でも、末摘花や源典侍のときのような軽侮は匂わない。その人は、 「濃き綾《あや》の単襲《ひとへがさね》なめり、何にかあらむ上に着て、頭《かしら》つきほそやかに、ちひさき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、さし向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩《や》せ痩せにて、いたうひき隠しためり。……(中略)……たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、(源氏が)目をしつとつけたまへれば、おのづからそば目に見ゆ。(空蝉は)目すこし腫《は》れたるここちして、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず、言ひ立つれば、わろきによれる容貌《かたち》を、いといたうもてつけて、このまされる人(軒端《のきば》の荻《おぎ》)よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり」(「空蝉」)  紫式部は清少納言を口をきわめて罵倒《ばとう》しているが、それはプロフェッショナル・ジェラシイであろうけれど、両才女は申し合せたようにどちらも同じことを書いている。あるいは一歩先んじた清少納言を、式部は踏襲している。清少納言が自分の容貌をみずからのエッセーで「いと、さだすぎ、ふるぶるしき人」と明快に自嘲《じちよう》する(それは攻撃することで防禦《ぼうぎよ》しているたぐいのもの、というのは以前に書いた)のと同じく、式部もわが愛するヒロインにそれとなく自画像の匂いをうつし、コンプレックスを昇華して、自負としている。「言ひ立つれば、わろきによれる容貌《かたち》」ながら、一見ぱっと目にたつ美貌の軒端の荻という娘より、おくゆかしげにみえる、というのは、まことに女の、〈われ讃め〉の匂いがする。  濃い紫の単衣《ひとえ》、その上に何か着て、かしらつきほっそりと小柄で、手の恰好《かつこう》も痩せている。(碁を打っているから石を置く拍子に、いつもは袖のうちにかくれている手も、手首も見えたであろう)手の痩せている、というのが、すでに一種のムードをもたらす。それをあらわにならぬよう、袖口をひきつくろってひきかくしている。全体の様子は「ものげなき姿」——「新潮日本古典集成」によれば、〈見ばえのしない姿〉、つまり、人生キャリアのない男・女がみれば、〈ぱっとしない女〉と見くびって、一べつを与えるのみで歯牙《しが》にもかけぬ、そういう目立たぬ女であるのだ。これと反対に一見して皆が美人という女の形容には、暴走族用語だと「マブい」「ハクい」など世の中にいっぱいあるが、見ばえのしない女の形容語は、俗世には全くない、そのへんが、いくら粋《いき》がってもたいていの男が光源氏になれぬ所以《ゆえん》である。源氏は「ものげなき姿」の女にもじっと目を凝らし、ほっそりしたあたま、小柄、痩せた手つき、そのしぐさに、独特の風趣があるのをみとめる。  袖で口もとを隠し、はっきりと顔を見せないが、まぶたの腫れぼったい、鼻すじもすっきり通っていない。「ねびれて」というのはどういうのだろうか、ふけて、老成《ひね》たかんじをいうのであろうか、ぱっと派手に艶《えん》なところなど、全くない。地味な女人、どっちかといえば不器量な女《ひと》であるが、趣きありげな、しっとりした風情、そういうヒロインを式部は熱情こめて書く。  このあたりの文章など、古来、どれほど女性読者のひそかな共感と愉悦を誘ったであろうかと思われる。自分のことを不器量とわきまえている女性は、空蝉をわがことのように思い、「言ひ立つれば、わろきによれる容貌」の女人に関心と恋ごころをかきたてられる源氏に熱い喝采《かつさい》を送ったにちがいない。また自信ある女性読者は、余裕と優越感で、空蝉の章を読んだかもしれない。  若書き、というついでにいうと、紫式部は活劇的な筆致も得意な作家である。緊急の事態を描写するのに巧みで、「源氏物語」は冗漫な恋愛小説ではなく、実にそれを語る地の文は、劇画風といってもいいくらい、きびきびとたたみかけて達者である。  夕顔が物の怪《け》に魘《おそ》われる夜の息詰る文章なども私の好きなくだりだ。源氏は夕顔と共寝してとろとろと眠りに落ちた頃、枕上《まくらがみ》に魔性《ましよう》の女がたつ。物に魘われた心地で、はっと目ざめると、 「火も消えにけり」  室内は黒闇々《こくあんあん》、 「うたておぼさるれば太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近(女房)を起したまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。『渡殿《わたどの》なる宿直人《とのゐびと》起して、紙燭《しそく》さして参れと言へ』とのたまへば『いかでかまからむ。暗うて』と言へば、『あな稚々《わかわか》し』とうちわらひたまひて、手をたたきたまへば、山彦の答ふる声、いとうとまし」(「夕顔」)  息もつかせぬ文章で、読むものも背すじが氷《こお》るのである。夕顔は「わななきまど」うて、「汗もしとどになりて、我彼《われか》のけしきなり」はや、正気を失ったさま、源氏は〈よし、私が人を起して来よう、手を叩くと山彦がかえってくるのが煩わしい、右近、そばへきてついていてあげてくれ〉と、 「右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押しあけたまへれば、渡殿の火も消えにけり」  室内のみでなく、戸外も真の闇になっている。このへんの呼吸もいい。「風すこしうち吹きたるに、人はすくなくて、さぶらふ限りみな寝たり」やっと起き出た召使いの男が弦打《つるう》ちしたり、灯をもって来たりする、しかし夕顔はすでに息絶え、右近は泣き臥《ふ》す。頼りの惟光《これみつ》はいない、 「おほかたのむくむくしさ、たとへむかたなし。夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして松のひびき木深《こぶか》く聞こえて、けしきある鳥の嗄《か》ら声に鳴きたるも、梟《ふくろふ》はこれにやとおぼゆ」  右近も源氏により添い「わななき死ぬべし」という有様、正気でいるのはこの廃屋に源氏一人という恐ろしさ、「火はほのかにまたたきて、母屋《もや》の際《きは》に立てたる屏風《びやうぶ》の上《かみ》、ここかしこの隈々《くまぐま》しくおぼえたまふに、ものの足音ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来るここちす。惟光|疾《と》く参らなむとおぼす……」  実際、「源氏物語」というのは、裃《かみしも》つけて読むものではないのであって、こういうページに胸おどらせ「からうじて、鶏《とり》の声はるかに聞ゆるに」で、読者は源氏とともにホッとする、こういう弾力ある、目鼻だちのくっきりした文体と、波瀾万丈《はらんばんじよう》のアバンチュールに身をゆだねる快感も、「源氏物語」の身上である。こういう活劇調は「須磨《すま》」の巻の嵐《あらし》の描写にもあって楽しませる。  うらうらと「凪《な》ぎわた」れる海が、急転して「にはかに風吹きいでて、空もかきくれぬ……さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。波いといかめしう立ち来て、人々の足をそらなり。海の面《おもて》は、衾《ふすま》を張りたらむやうに光り満ちて、雷鳴《かみな》りひらめく」(「須磨」)人々は大願を立て祈るが雷は、 「いよいよ鳴りとどろきて、(源氏の)おはしますに続きたる廊《らう》に落ちかかりぬ。炎燃えあがりて廊は焼けぬ。心魂《こころだましひ》なくて、ある限りまどふ。後のかたなる大炊殿《おほひどの》とおぼしき屋に移したてまつりて、上下《かみしも》となく立ち込みて、いとらうがはしく泣きとよむ声、雷《いかづち》にも劣らず。空は墨をすりたるやうにて、日も暮れにけり」(「明石」)  教科書にのせる「源氏物語」はたいてい「須磨にはいとど心尽くしの秋風に」から家来たちとの唱和などを載せるが、あんな抽象的で退屈な文章より、なぜこういう嵐のシーンや夕顔のシーンの躍動的、活劇風な部分から初心者を誘《いざな》ってやらないのであろうか、やがてそののちに、「初音」の男踏歌《をとこだふか》の美しい冬景色、「若菜上」の艶麗な蹴鞠《けまり》の場面の文章の甘美をたのしむことができるのだ。そして更には源氏晩年の迷妄と悲愁を映して、文章も、一見美人よりは「ものげなき姿」の、苦渋にみちた、しかし底光りする美しさに色を変じてゆく、その楽しみを味わうことができるのだ。     *** 『源氏』の文章は優婉流麗な部分や、躍動感のある部分など、多様な味がたのしめるが、その中にさらりとした瀟洒《しようしや》なスケッチも折々挟まれていて、これがいい。 「末摘花」の巻、源氏は末摘花の醜貌をはじめて雪明りの中で見て「胸つぶれ」る思いをする、その朝の出がけ、あたりは一面の雪である。夜目にはかくれていた中門の「いといたうゆがみよろぼひ」たるさまも、今朝はのこりなく見えて、邸は荒れ果てている。庭の木々は雪に埋もれている。 「御車出づべき門《かど》は、まだあけざりければ、鍵《かぎ》のあづかり尋ね出でたれば、翁《おきな》のいといみじきぞ出で来たる。女《むすめ》にや、孫《むまご》にや、はしたなる大きさの女の、衣《きぬ》は雪にあひて煤《すす》けまどひ、寒しと思へるけしき深うて、あやしきものに、火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえあけやらねば、寄りひき助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞあけつる」  源氏は正門から出入りするので、使用人たちにとっては厄介な客である。たぶんそれはいつも閉め切ってあるらしい。女あるじはめったに外出せず、かつ、交際も少いので、正門から入るような客を迎えたためしがないのであろう。「朝顔」の巻にも、「雪うち散りて艶なるたそかれ時に」朝顔の宮を訪ねるくだり、西の正門に車をつけておとなうが、「御門守《みかどもり》、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえあけやらず」とある。「ごほごほと引きて、『錠のいといたく銹《さ》びにければ、あかず』と愁《うれ》ふるを、あはれと聞こしめす」  簡略な描写で、朝顔の宮の生活が、世に出て人交わりせぬ、ひっそりと物寂しいものであることを示唆する。  ところで末摘花の邸の門番も、風変りな女あるじに相応しているといおうか、平仄が合うといおうか、ずいぶん見苦しい風態《ふうてい》で、「鍵のあづかり」、門の鍵の管理者は、大層、年をとった爺さんである。爺さんだけでなく、もう一人、その介助者というべきか、女が出てくる。これが爺さんの娘なのか孫なのか、「はしたなる大きさ」、どっちともつかぬ年頃、雪の中で、その衣の、汚れすすけているのがよけい目立つ、しかもひどく寒そうで、何やら不恰好な入れ物に火を少しばかり入れて、袖で囲うように持っている、というのは、懐炉《かいろ》のような風のものを指すのであろうか。爺さん一人の力では門をあけられないので、女も手伝うのだが、見ていても不器用である。  このへんの、懐炉やら点景人物のあしらい方が垢《あか》ぬけていて、小説をよむ楽しさを満喫させてくれる。あってもなくてもいいような人物であるが、この爺さんの、娘とも孫ともつかぬ年頃の女、という、この使い方もいい。  世評にたかいところでは「花宴」の、朧月夜《おぼろづくよ》のくだりであろう、源氏が弘徽殿《こきでん》の細殿にたち寄ると一つの戸口が空《あ》いていて、人の気配もないので「やをらのぼりてのぞきたまふ」  すると、向うから、 「いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、『朧月夜に似るものぞなき』と、うち誦《ず》して、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ」  女は若く美しい声、しかも、並の身分とは思えぬ声で「朧月夜に似るものぞなき」と歌を口ずさんで、こちらの方へやってくる。並の身分と思えぬ声、というのは、品のいいこともあろうけれど、あたりに気兼ねせず、のびのびと奔放に、感興に身をゆだねてはばからない、そういう育ち方、おそれるものなく放恣《ほうし》に暮らしている若い女の、おのずからなる鷹揚《おうよう》さ、そういうものを指すのであろう、源氏はそののびやかに放恣な若い女に忽《たちま》ち心ひかれる。「こなたざまには来るものか」は、〈なんとまあ、こっちへ向ってやってくるじゃないか〉という口吻だが、それでもまだ足らない、このくだりの「か」にはもっと強い感嘆があって、源氏の弾んだ浮かれ心を的確に射止めた「か」である。 「朝顔」の巻の月夜の美しさの描写もいい。作者は冬の月の情趣を愛するらしい。冬の夜の冴《さ》えた月に、雪が積って照り映えている、そんな風景は「この世のほかのことまで思ひ流され」、花やかさはないものの、面白さもあわれも身に沁《し》むという。  月は隈なくさし出で、庭は雪の白一色、前栽《せんざい》の木は淋しく冬枯れ、遣水《やりみず》も凍り、池の面は氷が張っている。  そういう中へ、 「童女《わらはべ》おろして、雪まろばしせさせたまふ」  その美しいイメージは鮮烈で、ここでは少女たちが、冬枯れ、雪景色の中の活《い》きて動く花々である。私は〈女はセレモニーを愛す〉という章で、春の宴の豪奢《ごうしや》を紹介したが、ここでは、冬の夜の奢《おご》りが描出される。月明の雪の夜、あざやかに浮ぶ少女たちの黒髪、色とりどりの袙《あこめ》、「帯しどけなき宿直《とのゐ》姿なまめいたる」少女たちの美しさは、春の桜に劣らぬ風趣で、月と雪と少女たちの取り合せのよろしさは、『源氏』独特の発見である。月明の雪の夜には成人女性はふさわしくなく、少年たちでも適切ではない、まさに少女たちが元気に跳ねて歓声をひびかせる、それがいちばん、月と雪にふさわしい、似合いものであることを源氏は知っている。  荒涼とした寒々しい景色の中に、少女たちを置いてみると、じつにいい風情なのだ、と源氏の美意識は冴えるが、そればかりでもない。  これは、源氏が朝顔の宮に懸想《けそう》して、紫の上にとっては夜離《よが》れがつづき、二人の仲がややよそよそしくなったころのこと、源氏は紫の上のご機嫌をとり結ぶのにけんめいである。少女たちの無心の姿は月と雪の風趣を一層増し、二人の間の凍《い》てついた空気をほぐす。そして自然に二人の心は歩み寄り、「昔今《むかしいま》の御物語に夜ふけゆく。月いよいよ澄みて、静かにおもしろし」  少女たちの動きと、拗《す》ねて口少なの紫の上を交互に点描しつつ、月と雪と鴛鴦《おし》の鳴声で仕上げる、この巻は秋から冬への寒い頃の巻であるが、朝顔の姫君のかたくななまでの矜恃《きようじ》をさながら象徴しているように思われる。 「篝火《かがりび》」の巻はごく短いが、捨てがたい情景が一つ、芯《しん》になっていて、読者はへんにこの巻の印象が強い。  源氏は玉鬘を引き取るが、彼女に思いを寄せるようになっている。  初秋、夕月はすでに入って、「すこし雲隠るるけしき」、源氏は「いと涼しげなる遣水のほとり」に風情ある枝ぶりを張った檀《まゆみ》の木の下に、篝火をたかせる。  その明りは仄かに室内にも及ぶ。源氏は琴を枕に、玉鬘と「もろともに添ひ臥し」ている。それでいて、それ以上のことは二人の間に進展しない。玉鬘も身を固くしてうちとけないが、さりとて、あながちに拒むというのでもない。 (いったい、こんな仲が世の中にまたとあるだろうか)  と源氏はためいきをつきつつ、夜は深沈と更けてゆく。夜風は涼しい。篝火の、 「をかしきほどなる光に、女の御さま見るにかひあり」  玉鬘は美しい姫君で、この初秋の夜、女の髪は冷たい手ざわりなのである。 「御髪《みぐし》の手あたりなど、いと冷やかにあてはかなるここちして、うちとけぬさまに、ものをつつましとおぼしたるけしき、いとらうたげなり。帰り憂《う》くおぼしやすらふ」  恥ずかしそうにしている姫君の姿がたいそうかわいらしく、源氏は帰りにくい。篝火にわが思いを托《たく》して、人目を忍んでくすぶる、苦しい下燃えであると仄めかした歌をよみ、ますます玉鬘を窮せしめる。  篝火の仄明りと、琴を枕の添い寝、という情況は、これは絵になるというよりも、文章力のもつ面白みである。作者は絵になりそうなシーンは「絵に描かまほしげなり」と指定したり、あるいは「若菜上」の蹴鞠のくだりのように、絵巻物風に力をそそいで描写する。  しかし「篝火」はごく短い文がことごとく陰影を帯びて活きており、遠い庭に爆《は》ぜる火の粉は、さながら源氏の心のうちなる煩悩そのものである。風に吹かれ燃えつき、くすぶる火は更に風に煽《あお》られて、消えんとしてまた燃え爆ぜる。  そして掌《てのひら》には、女の冷い黒髪の感触がある。  源氏はすでに中年で、若い頃のように、我意を通すことはできなくなっている。源氏は人目を憚《はばか》り、玉鬘の心を忖度《そんたく》し、斟酌《しんしやく》し、やみくもに行動する、ということはできない。「下燃え」の切なさ、やるせなさを訴えるばかりである。「篝火」の巻は、進むにも退くにもたゆたいがちな中年の恋の心情が悠揚迫らず書けていていい。 「若菜上」の蹴鞠の場面は、はじめて『源氏』を読む読者には、たいそう楽しみな場面である。桜の下で蹴鞠を競う貴公子たち、猫がうまく使われて、柏木《かしわぎ》は女三の宮をかいま見ることができる。女三の宮の描写も、まるで今までと違う人のように清新である。それは柏木の心はずみを反映している。しかも、あり得ないことに、 「まぎれどころもなくあらはに見入れらる」  読者も柏木と共に、視線は「几帳《きちやう》の際《きは》すこし入りたるほどに」釘付《くぎづ》けになってしまう。女三の宮は御簾《みす》も几帳も一瞬、彼女の姿をかくすことはせず、外からあらわになったのも知らないで、そこに立っていた。紅梅襲《こうばいがさ》ねの袿《うちぎ》、濃い色から薄い色へと幾重にも重なった裾《すそ》や袖口の色合いの美しさ。  髪は糸をよりかけたようで、身丈《みたけ》に七、八寸も余っていた。小柄でほっそりとした姿、上品で可愛いらしい顔や身ごなし、夕方の光なのではっきりしないが柏木は心を奪われて、じっと見入る。  柏木が、三の宮のもとへ忍んだときの言葉は条理をつくし情をつくしたものであるが、それに答えるには三の宮は稚《おさ》なすぎて、ろくに返事もできない。わなないて、水のように汗を流しているばかり、柏木は自分でつくった幻影にみずからが恋しているのである。 「つゆいらへもしたまはず」(「若菜下」)  という女三の宮に、柏木はなおも綿々とかきくどく。「若菜下」の作者は、もはや、昔の作者よりひとまわりもふたまわりも巨《おお》きくなっている。柏木はみずからが仕掛けた陥穽《おとしあな》におちた。人やりの道ではなかった。 「あはれとだにのたまはせば、それをうけたまはりてまかでなむ」  どうか、あわれな、と一言《ひとこと》だけでもお言葉を下さい。それだけを唯一つの喜ばしいなぐさめとして、退出いたします。——青年はそう嘆願するが、動転した女三の宮に何がいえようか、そればかりでなく「やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、あてにいみじく」て、青年のさかしらな分別心など押し流してしまう。そうなっても女三の宮は幼い子供のように泣くばかりで、読者から見ると何とも歯がゆい、人形のような女性なのだが、柏木は気もつかず、〈一声だけでもお声を。生きている甲斐《かい》もありません。捨てがたい命と思えばこそ、今まで生きてきたのですがそれも今宵《こよい》限りです〉と脅しても、よけい宮はびっくりして畏《おそ》れるだけである。柏木は判断力も失ってそれ以後もしばしば現われる。そうして、源氏が宮のもとへ来ていると聞くと、身のほどもわきまえず、筋違いの嫉妬《しつと》に燃える。  宮の懐妊につづいて源氏はすべてを知るのであるが、源氏が宮に訓戒する言葉の、なんと苦渋に満ちていることだろう。諄々《じゆんじゆん》と長い言葉は、しかし心幼ない宮の耳にどれほど入ったろうか、どのへんまでわかっているであろうか、宮は涙ばかり落ちて、どこか上《うわ》のそらの様子で、しかしわが身を責め、源氏におじていられる。等質の会話ができない人に向けて話す言葉は、あてどのない矢のように力ない。それでも源氏はいわずにおれない。抗《あらが》いがたい運命の前に無力感にうちひしがれながら、宮に話しつづける源氏の姿は、もはや老いの繰《く》り言《ごと》をいう「古人《ふるひと》のさかしら」にすぎない。  その省察は、源氏を自己嫌悪におちいらせる。 「いたり少なく、ただ、人の聞こえなすかたにのみ寄るべかめる御心《みこころ》には、ただおろかに浅きとのみおぼし、また、今はこよなくさだ過ぎにたるありさまも、あなづらはしく目馴《めな》れてのみ見なしたまふらむも、かたがたにくちをしくもうれたくもおぼゆるを、院のおはしまさむほどは、なほ心をさめて、かのおぼしおきてたるやうありけむさだ過ぎ人をも、同じくなずらへきこえて、いたくな軽《かる》めたまひそ」  という源氏の言葉は、かえって源氏自身の自尊心を傷つけることになる。 〈——深いお考えもなく、甘い言葉に釣られやすいあなたのお心には、私の態度が情うすいように思われたかもしれぬ。また、年のいった私など、若盛りの青年にくらべられると見劣りして、軽《かろ》んじ侮られるかもしれぬ。あれこれ思うと私は口惜《くちお》しくも不愉快にも思うのですが、どうか、院のご在世の間だけでも、せめてお身をつつしんで下さいよ。そして院がおきめになったこの縁を重んじて、私をも軽んじないで頂きたい——〉  源氏は若さに対する嫉妬に、われから向き合せられることになった。あの誇りかに驕《おご》りたかぶった蕩児《とうじ》の源氏が、こんなことをいわねばならぬ日が来ようとは、かりそめにも思ったろうか。  源氏は情けない気持にうちひしがれてしまう。 「人の上にても、もどかしく聞き思ひし古人のさかしらよ、身にかはることにこそ。いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心添ふらむ」  ああ、人のことでもくどくどしいと聞いていた年よりのくりごとを、いま、自分がいうようになったか。あなたも、うるさい説教をする老人よと、いっそうお嫌いになるだろうね。自嘲する源氏の索莫《さくばく》たる心情は、もう何を以てしても、昔のように満ち足ろうことはない。この忌わしい出来ごとは、さすがに紫の上にさえ打ちあけることができない。宮の身分が高いので、別れることもできない。源氏の陰湿な怒りと嫉妬は、無力な柏木に向けて奔出する。このあたりから、「柏木」の巻にかけて不吉な低音部が鳴りひびき、文章は緊迫感をもつ。柏木は呵責《かしやく》の念に苦しめられ、宮は源氏を怖れ、源氏は罪業《ざいごう》の因果におののき、三者が三様に苦しんで、それが解決への力とならない。  試楽《しがく》の日、源氏は柏木をそれとなく暗に諷《ふう》する。〈年をとると酔って涙のこぼれるのは抑えがたいものだね。おや、衛門督《えもんのかみ》が私を見て笑っている。気がひけることだ。だが君の若さもほんのひとときだよ。さかさまに流れぬのが年月というもの、老いからは逃れることはできないのだ〉  柏木は気分がわるくて舞も見ていられぬ状態なのに、わざと名指しで、空酔いした風をみせ、源氏は冷いあてこすりを浴びせる。  読者の同情は、ここに至って源氏よりも、自責に身も世もない青年柏木に向けられる。やがてそのまま発病してしまった柏木は、死病の床で、たぐいもない悲恋物語の美しい主人公に変身する。  こうなったのも自分の宿命なのだ、どうせ限りある命なら、このまま死んでもいい、あの人(宮)が自分をあわれに思ってくれるであろう、もしこの上生きながらえたら、きっとあの人との浮名もいまわしく世上に流れるかもしれない、死はすべてを浄化する。けしからぬ者よとお憎しみであろう源氏の院も、死ねば許して下さるかもしれない、……柏木は思いつづけ、宮に手紙を書く。   「今はとて燃えむ煙《けぶり》もむすぼほれ      絶えぬ思ひのなほや残らむ  あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇にまどはむ道の光にもしはべらむ」(「柏木」)  という哀切なものであった。〈私の命終る日、なきがらは燃えても、あなたを思う心はいつまでも燃えつきません。永遠にくすぶりつづけることでしょう。あわれとだけでもひとことを。そのお言葉を私は、ひとり赴く死の闇の道の光として逝きます〉  これに対する宮の返事は、   「立ち添ひて消えやしなまし憂きことを      思ひ乱るる煙《けぶり》くらべに   後《おく》るべうやは」  ——私も一緒に煙になりとうございます。苦しい思いはどちらがまさるかとの煙くらべに。……あなたに後れて、生きていられるとも思いませぬ。  女三の宮は男子を出産して出家するが、柏木を愛していたという心の動きはみられない。しかし柏木の悲愁は読者の共感を得て、読者は心ゆくまで紅涙を絞ることができる。不倫の恋は涙に洗われて、清らかな悲恋に昇華した。 「いかなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」 〈どうした前世の因縁《いんねん》で、かくも苦しい恋に捉《とら》えられてしまったのか〉  柏木の恋と死を、作者は声高く謳《うた》いあげる。  不吉な不協和音を低音部にひびかせつつ、柏木の旋律は甘く悲しく美しい。  やがて、不吉な不協和音がたかくなり、それがとってかわって主旋律となる。それは、紫の上と死別する源氏の虚無感である。  柏木の恋と死は、花々で飾られ、謳い上げられたが、紫の上の死に遭った源氏に、もはや飾るべき花はない。  源氏は「臥しても起きても、涙の干《ひ》る世なく、霧《き》りふたがりて明かし暮らしたまふ」(「御法《みのり》」)  この悲しみは、もはや謳い上げることはできない。  ただ、うつろな放心があるばかりである。  紫の上の死後、一年はすぎる。放心した目にうつる季節と行事の、いたずらな美しさと虚《むな》しさ。  源氏は人にも会わない。 「柏木」の巻の流麗な、美しい感傷は、「御法」「幻」の虚しい沈静を引き立たせるように思われる。  追懐と未練と悔いの涙にあけくれ、季節の移ろいに身を置いているうち、やがて次第に静かな諦念《ていねん》と静穏な世界が源氏にはひろがってくる。七夕《たなばた》、雁《かり》の翼につけても、たぐいて居るべき人のいないのが悲しまれるが、次第にその悲しみは沈澱《ちんでん》し、紫の上からの手紙もみな焼かせてしまう。  十一月の五節《ごせち》のころは、世間が何となく浮き浮きするころで、夕霧の小さい息子たちが童殿上《わらわてんじよう》をしたというので、源氏のもとへも来る。頭《とう》の中将、蔵人《くろうど》の少将という縁戚《えんせき》の青年たちもさっぱりした装いでやってくる。世間は悲嘆にくれる源氏をおいてどんどん変ってゆく。舞台は廻っているのだ。若い人々は、 「思ふことなげなるさま」(「幻」)  もの思いのたねもなさそうな、はれやかな様子なのであった。現世に背を向けている源氏の、〈現在位置〉を知らせる文章が、ぽっと投げ出されてあるのも周到な心くばりである。  この巻は、私は若いころ読んで、退屈な一巻だと思ったが、源氏の心の静まりを平静な筆で叙し、最後に源氏の出家、あるいは遠い道への旅立ちを暗示する、冥《くら》いおだやかな歌で結んだ巻は、やはりなくてはならぬ締めくくりだと思うようになった。その歌はこうである。   「もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間《ま》に      年もわが世もけふや尽きぬる」 [#改ページ]   紫式部という女  近世女流の中で、紫式部と「源氏物語」の、最初の嫡出子といえば、まず、与謝野晶子《よさのあきこ》であろう。  晶子は国文学者ではないが、資質的に王朝文化に近かったので、独学で古典に読みふけり、心酔し、それによって「日本文学の何物たるかを解しえた」(「読書・虫干・蔵書」——『光る雲』所収)といっている。 「紫式部は私の十一、二歳の時からの恩師である。私は二十歳までのあいだに『源氏物語』を幾回通読したか知れぬ」  それだけに晶子の古典鑑賞や研究は国文学史的にもすぐれた業績をあげている。  今日《こんにち》の研究からいえば、彼女の主張に独断や偏見、誤謬《ごびゆう》が間々あることは否めないけれども、大正末・昭和初期の国文学界にあっては、素人ながらにめざましい発見や指摘がいくつもあって、専門家たちに好個の叩き台を提供したといってもいいだろう。晶子は学問的|研鑽《けんさん》によって到達したのではなく、古典を少女時代からの栄養素として貪婪《どんらん》に摂取しつづけた人の「直観」で、王朝文化の核心に触れたのである。  王朝文学、ことに「源氏物語」骨がらみというべき愛好者の晶子からみれば、二十世紀初頭の日本の殺伐たる男性文化は苛立《いらだ》たしいばかりである。  また、「源氏」がなおざりにされ、「万葉集」が重視される風潮にも、やるせない憤懣《ふんまん》を抱かずにいられない。彼女は「源氏」や「栄花」を愛し、その現代語訳に精魂を傾けるかたわら、古典の評論やエッセイを精力的に書いて、男たち(ひいては彼らにリードされる女たち)の蒙《もう》をひらくことにつとめている。  それらの男たちはともすると、軍靴《ぐんか》のひびき・硝煙の臭いに気をとられがちであったり、または欧米崇拝のあまり、自国の文化遺産を捨ててかえりみない男たちなのであった。 「近頃の歌人たちがまず『万葉集』から国文に指を染められたりするのは、あるいは損な方法ではないかと考えている。いずれかといえば『万葉集』などは疎枝大葉の文学です。ああいう容易な文学から入門すると、平安朝の精緻幽婉《せいちゆうえん》な感情がめんどうになり、どうかすると、『源氏』や『栄花』の妙味が解らずに終わることになる。日本の古典文学は決して『万葉集』に尽きるものではなく、平安朝の文芸復興が新しい創造の花実を豊かに示したので、後の江戸文学をも発生せしめ、その他の芸術がことごとく平安朝に影響されて起こったのである。……(中略)明治大正の文学が空前の立派な開花を示したのは、主として欧州の文学の刺激によるのであって、もし国文の影響があるといえば江戸文学以上に出ていない。紅葉、露伴、鴎外、逍遙、漱石、藤村、鏡花の諸大家にしても、江戸文学には造詣《ぞうけい》を持たれたが、平安朝文学の教養については大してその力を用いられなかったように見受けられる。概して自国の文学が軽視せられ、たまたまこれを研究する人たちがあっても、奈良朝の『万葉集』に偏するか、江戸文学に偏するかである。この偏頗《へんぱ》な読書法は、必ず矯正されねばならないであろう」  右の文章には、大正十五年七月二十日の日付がある。 「翻訳文学というものは原作そのものでなくて、原作を他の国語で模写した別種の創作である。国語を異にして書く以上、たとえ同じ作者が書いたにせよ、原作と同一のものが出来ないことは言うまでもない。  そうであるから、英国のウェレェの訳した『源氏物語』を近ごろ読んで、それが面白く書かれているからといって、初めて原作の『源氏物語』が解ったように言う人のあるのは大変な間違いである。文学は意味だけを読むものでなくて、特種な言語に即して読むものであるから、紫式部の言語の美を離れて『源氏物語』は存在しない」 「古文と現代文の遠近法を無視し、現代文のように安易に読めないからといって、『源氏物語』を悪文のように言う人のあるのは、そそっかしい独断である。一体に、日本人にして日本文学を論評する人には、何をおいても、『源氏物語』を精読しているだけの造詣があって欲しい。文学らしい文学は、この物語によって初めて我が国に起こったのであり、これが後世にも比類のないほどの偉大な価値を国文の上に持っているのみならず、我が国のどの芸術にも、また我が国の趣味生活一般にも、この物語が直接間接に影響しているのである。『源氏物語』を読まないというのは、日本人にして日本精神の大きな本源の一つを知らないことであり、英人が沙翁を読まないのと同様に愧《はず》かしいことなのである」  これらは昭和九年四月に発表された「冬柏亭《とうはくてい》雑記」にある。晶子はまた上海《シヤンハイ》事変・満州事変と、中国大陸に露骨な野望を押しすすめてゆく日本の軍部や政治家の肚《はら》の底に、日本の文化も中国の文化も、ましてや両国の歴史的交流関係など一顧もしない、それらを愛着する心の毫《ごう》もない、殺伐たる、文化軽視の考え方を悲しんでいる。 「支那の古典学と支那の現代語の必要を唱道」したいと彼女はいう。 「支那人も満州人も、その感情と思想の根底に支那の古典がある。彼らの精神生活を理解するにも、彼らと心からの親善融和を計るにも、支那の古典を研究し、支那の現代語を語りえないでは不可能である。  現に満州国に官吏となっている日本人は、すべてが本国の高等教育を受けた者ではあるが、全くこの最も大切な教育が欠けている。殊に満州の諸県に必ず一人ずつ配属されて、官名は参事ながら知事に代わって県政を執っている日本人は、たいてい青年学士であって、満州語に通じたものさえ皆無であるから、支那の古典などはその断片をも知っていない。今は別の力に威服されているから、支那満州の知識階級の常識から見て無学無智なその青年日本人の参事の命令に従ってはいるが、いわゆる面従腹背で、かの国の長官も部下も決して心から敬重《けいちよう》し服従しているのではない。これを思うと、日満、日支の精神的な親善は容易なことでなさそうである。  こういう点からいっても、漢文学を軽視せしめた明治以来の教育は誤っていた。また日本自身の古典を読み自国の伝統精神を知るためにも、その栄養となった支那の古典研究が絶対必要である。すなわち国語教育には、必ず支那の古典的知識が伴わねばならない。」  私個人でいえば、まさに晶子の憂慮した時代に学生時代を送ることになった。昭和十年代、それから二十年代の初めにかけての学生であったが、戦後は別として、十年代のあいだ中、「万葉集」の全盛時代で、見るもの聞くもの「万葉」一色、「万葉」学者の黄金時代だった。晶子の啓蒙にかかわらず、時代はますます男臭|芬々《ふんぷん》、「精緻幽婉な感情」からはほど遠くなり、「容易な文学」「疎枝大葉の文学」に就き、それも戦意|昂揚《こうよう》のために、あえて「万葉」と「日本精神」の蜜月《みつげつ》を意図して利用されたかに思われる。私は「万葉」中の武張った歌ばかりを教えられてきたので、「相聞《そうもん》」や「防人《さきもり》」のあわれな歌を、学校外ではじめて読んだときはびっくりしたものだ。  王朝文化の優越を信じていた晶子にとって、戦うべき敵は多かった。 「国粋」という名をかかげながら、「日本の伝統文化の真実の精粋については、ほとんど何事も知るところがない」(「古典の研究」)人々、中でも、 「雲右衛門という浪花節《なにわぶし》語りの唱えた〈武士道〉をもって〈国粋〉だと激賞した陸軍大将」 「〈茶の湯〉の遊びをもって〈国粋〉だと、パリの真中で紹介した日本大使」  らを嗤《わら》い、武士道などは、 「日本人の名誉となるものでないことは明白です。武士道ほど皇室を凌辱《りようじよく》し奉るとともに、日本人を虐待した階級思想はないのです」  といっているのは大正十四年である。鬱然《うつぜん》たる王朝文化を民族の巨大な遺産として与えられながら、その価値に気付かず、浅薄皮相低次元の国粋主義、武士道精神を鼓吹する男たちに、晶子は絶望的ないらだちをおぼえたにちがいない。  そしてまた、皇室や天皇に対しても、やるせない絶望の視線をあてていたと思われる。  晶子は元来、社会主義者でも無政府主義者でもなく、王朝文学愛好者として、あるいは畿内《きない》に長年住む人間の血、王城を去ること遠くない上方人間の血が呼ぶ宿命として、素直な尊崇心を皇室に抱いていた。その皇室は、元来が王朝文化の示現者、擁護者であるはずなのに、「国粋主義」や「武士道」に擁せられ、まるで正反対の弓矢取りの道へ拉致《らつち》されている。晶子は直観的に、日本のあやうい「偏頗」を危惧《きぐ》し、日本丸が右舷《うげん》に傾むいて、今にも顛覆《てんぷく》しそうな危険を察知していたのである。  まさに運命は晶子の洞察した通りになってしまったが。  晶子の文章は、(小説でもそうだが)歌の流麗繊細と打って変って、乾燥した文体で、朴訥《ぼくとつ》で無技巧で粉飾なく、気取りがない。それだけに啓蒙的情熱がそこへ加わると、一種の緊迫した生理的リズムが生れ、筆に勢がつくようである。  ところで晶子によれば「源氏」は前後二人の作者の手に成ったものだ、といっている。 「藤裏葉《ふじのうらば》」、つまり源氏が太上天皇になり夕霧も結婚し、めでたしめでたしになったところで、作者の紫式部は筆を擱《お》いたのだ、と考えている。後《のち》の作者(晶子は女《むすめ》の大弐《だいに》の三位《さんみ》に擬している)が「若菜」以後を書き、それもこれも、ひたすら後の主人公|薫《かおる》大将の出生のために筆を起したという。紫の上の死も、女三の宮の物のまぎれもそうだという。可否はともかくとして大胆な提起である。私としては、やはり紫式部が全篇を通じて執筆した、というふうに考えているのだが。 「源氏」の作者を論ずるときに、文体の変化、ということを重視されるが、文体は同一人でも変化するもので、私はむしろ散文よりも和歌の口吻に注意を払いたい。晶子は「源氏」後半の歌は「少く」「佳作はきわめて少数である」(「新新訳源氏物語」あとがき)といっているが、私には、前半同様の口吻の歌に思われる。私は、紫式部は、紫の上を失ってのちの源氏を書き終えたことで、源氏の生涯をみずからの手で完結し、喜びと悲しみ、奢《おご》りと失意のふたおもての人生を合せ見ることによって、「生きることの何たるか」「人間の何たるか」を把握しようとしたのだと考えている。  めでたしめでたしで終るつもりだったとは、式部の性質上、考えにくいのである。めでたき源氏に「悲しみと失意の美しさ」はない。光と影を描くことで、美しさのきわまりの哀《かな》しさが抽《ひ》き出されてくる。式部ははじめから意図してこの大長篇にとりくんだわけではなく、書きすすめているうちに、主人公たちが動き出して、おのずと筆を奔《はし》らせたにちがいないだろうけれど、光を描いているうち、おのずと影も描かざるを得ないように人生観照が深まったのであろう。  私は「宇治十|帖《じよう》」も、晩年ちかき紫式部の手になるものと考えているのだが、これは悠々たる遊びの筆である。この巻々では作者自身はもはや現世に生きるよりも、物語世界の彼岸に身を置いている余裕とやさしみが感じられる。式部はこれを書き終えると、火が燃え尽きたように死んでいったのではあるまいか、この「宇治十帖」にみなぎる静穏な無常感は、「源氏物語」という華麗|豪奢《ごうしや》な物語世界を経てきたあとのものである。死にちかき式部の心の薄明の中に浮ぶ哀しみは、こういう恋のかたちをとるのであったか。  私は、この「宇治十帖」を、女《むすめ》の賢子、のちの大弐の三位が書いたとはどうしても思いにくい。賢子は母に似ず父親似で、何人もの名門の貴公子と浮名を流し、現世に適応力があり、向日的に生きたらしく思われる。後冷泉帝《ごれいぜいてい》の乳母にえらばれ、従三位、典侍《ないしのすけ》という高位にすすみ、女の身で宮仕えの栄華をきわめた末、大宰《だざい》大弐|高階成章《たかしなのなりあき》と結婚し、物質的にも不自由ない、恵まれた晩年を送っている。夫は「欲の大弐」といわれていたというほどだから蓄財の才に長《た》けていたろう。  現世的に充《み》たされれば、物語は書けないというのではないが、賢子の生涯の軌跡を眺めてみると、どうも母の仕事のあとをついで書きつづけるという文学的希求や渇望は感じられない。  もしそれをするなら、母の仕事をのりこえられるという自信や、母の業績に対する反撥《はんぱつ》や不満がバネになるであろうが、次々と恋人たちをとりかえ、その子を産み、生きることが即、自己表現になるような賢子には、あのうすら明るい闇の中を手さぐりで迷うような、重い、悲しい「徒労の恋の物語」が書けるであろうか。 「宇治十帖」の歌には佳品や絶唱がいくつかあって、それも賢子に詠めるものとは思えない。しかし、「宇治十帖」については、私は稿を改めて書くつもりなので、ここではくわしく触れないことにする。 「桐壺《きりつぼ》」はあとからつけ加えた、という晶子の説には私も賛成である。私はかなりの短篇を、式部は若い頃から書きためていたと思う。そのうちのいくつかが世に散ってもてはやされ、やがてシリーズとなって、次第に連作長篇の体を成し、そうなると序章が必要となって「桐壺」が付け加えられたように思われる。  このように晶子の説には、同《どう》じかねる点も、賛同する点もあるのだが、紫式部その人についても同様である。  晶子は式部を讃美する点で、安藤為章の「紫家七論」さえまだ言い足りないといっている。音楽論、絵画論、歌論に見識あり、漢学仏典、有職故実《ゆうそくこじつ》に通じ、美術、工芸、四季の風景について高雅なる趣味と見識をそなえていた式部であるが、 「さらに驚かれることは、彼女の思想の超凡なること、直覚の鋭くて正しいこと、同情の遍《あま》ねくして繊細にかつ深きこと、僻《ひが》んだり意地悪く考えたりするところのないこと、恋愛を幾様にも書き分けて、いずれにも人情の真実を描き、無稽《むけい》と空疎との跡のないこと、人間性の内部に徹して観察しながら、それを客観的に肉づけて描写する筆力の精確なること、創造力も旺盛《おうせい》であったが、記憶力も勝《すぐ》れていたことなど、一々にいえば際限がない」(「紫式部新考」)まさしくそうなのであるがそういう教養をいかにして得たかということにつき、晶子は式部の天才をまず挙げ、さらに父や兄、伯父といった学者芸術家からの「美しい感化」があったろうといっている。  紫式部がどんな風にして、誰の影響を受けつつ、その資質を磨いていったかを想像するのは、各人各様で、そこが楽しいところであるが、清水好子氏は「紫式部」という好著で、「式部集」をもとに、珍らしい式部の少女時代、娘時代のおもかげを再現してみせていられる。少女たちの交遊がのべられている点は「同時代の女流には類を見ないもの」(「同」)であり、女友達と交した歌のために、「式部は女学生のように爽《さわ》やかで、時には少年ぽく見える」(「同」)  そういう青春時代があってはじめて、多感な娘時代へとすすむ、今まで知られることのなかった式部の若い日の姿が示唆されているのは興ふかい。 「紫式部日記」にも「紫式部集」にも母のことに関してはほとんど載っていないので、母を早く亡《うしな》っていたろうと思われているが、姉はいた。しかしその姉も早くに亡くなっていて、父親と兄の寂しい家庭である。惟規《のぶのり》を弟と見る説もあるが、漢学者の父の藤原為時《ふじわらのためとき》が惟規に、漢籍を教えているのを横で聞いていて兄よりも早く覚えてしまった。父親は「口惜しう、男子《をのこご》にてもたらぬこそ幸《さいはひ》なかりけれ」(「紫式部日記」)  とつねに嘆いたと式部自身いっているが、惟規が弟だとしたら、年長の姉のほうが早くおぼえるのは当然で、ここはやはり、「童《わらは》にて書《ふみ》読みはべりし」惟規よりも、さらに年下の、いとけない童女であったればこそ、兄より先におぼえてしまう怜悧《れいり》さを、父親は嘆いたのではないだろうか。もっともこれは私の勝手な想像で、資料的根拠あっていうのではない。  式部には娘時代、仲のよい女友達があって、その娘が父親(あるいは夫)につれられて任地へおもむくのを淋しがり、かたみに歌をやりとりしているが、あるいはこういう人たちに習作の短篇の物語なども見せたりしたかもしれない。そういう想像は私にとってたのしいことなので、つい考えてしまうのだが、そこも、やくたいもない物書きの常であろう。  そういえば後年、式部が藤原|宣孝《のぶたか》と結婚してのち、「文《ふみ》散らしけりと聞きて」——宣孝が彼女の手紙を人に見せたので、式部が怒って、私のあげた手紙をみな集めて返して下さらなかったら、もうお返事は書きませんと口上でいわせたところ、宣孝は、それじゃみな返すよ、といって怨《うら》んできた。その「文」を与謝野晶子は、短篇小説と推理しているのも面白い。宣孝には、式部との結婚当時、数人の妻があったので、彼女らに見せ廻ったのかもしれないが、それが手紙ではなく、物語とすると、よくわかるのだ。  それはともかく、少女時代に女友達と交際はあったとしても、式部をとりまく環境は、以前にもいったように、精神生活の充実こそあれ、物質的には質素だったにちがいない。父の為時は学者詩人としての栄誉こそあれ、官吏としてはほぼ十年ちかく失職していて、はなやかに時めいた家ではなく、時流にとりのこされる、ひっそりした家だったにちがいない。式部はそういう家に少女から娘の時代をすごし、父や兄の影響で、漢籍や仏典を読破し、物語や歌に心をうちこみ、同好の文学少女を求め、親しみ、姉と呼び、妹といい交して、文学への傾斜をふかめたのかもしれない。  そういう家庭に生い育った式部だから、のち宮仕えに出るようになって、(世の中にはかくも豪奢《ごうしや》な生活があるのか)と瞠目《どうもく》し、やがてその陶酔に我を忘れ、心を奪われたのかもしれない。おびただしい贈り物のかずかず、豪華な衣服調度を詳述する「源氏」の筆致には、(あれも)(これも記しとどめたい……)という快いいらだちが感じられる。  ところで、私が紫式部のことを考えるとき、どうしても二重うつしになって面影に顕《た》つのは、谷崎潤一郎「細雪《ささめゆき》」の中のヒロインの一人、雪子である。雪子は日本風、というより畿内《きない》風な女人に描かれているが、おそろしくシャイで人見知りし、物つつましく、意思表示もしないが、芯はひどくするどく強く、そして派手やかなことが好きである。  式部も私の印象によれば、表面は「ほけ痴《し》れたる人」(「紫式部日記」)にみせながら内心はぱっと華やかなことが好きな女人だったのではなかろうか、「一見陰気風の派手好き」というものではないかと私は推理する。そしてその派手好き、美しいもの好きは、堅苦しい漢学者の父らが「美しい感化」を与え得たとは思えない。私は晶子の解釈に賛同できない。  式部を派手好きに使嗾《しそう》したのは、夫の宣孝ではあるまいかと、私は考えている。     ***  紫式部という女を想像する手がかりとしては、「紫式部集」と「紫式部日記」がある。 「紫式部集」はどうやら作者自身が編んだとおぼしく、歌の配列順序もかなり意図的で、式部の生涯がおのずと浮き上るようなしかけになっている。  私は、紫式部の歌はそれほどうまいとは思わない。保守的というか守旧派というか、「古今集」の伝統にのっとって、いかにもあたまのいい女が詠みそうな歌で、和泉《いずみ》式部《しきぶ》の主情的な、情熱的な歌にくらべると、屈折した深みはあるものの、人を搏《う》つ力はない。和泉式部の歌のように伝統も法則もふみにじった地点で、千年のちの我々の心臓をしぼり上げてしまうような歌をよむことはできない。  愛する夫の死をかなしむ歌でさえ、紫式部は悲しみの修羅場から一歩も二歩も退いて、悲嘆をいったん理性で濾過《ろか》してから、きちんとした歌の約束ごとにしたがって詠む。そこではなまなましい感情は、はしたないとしてしりぞけられている。 「紫式部日記」(以下はただ「日記」と呼ぼう。「紫式部集」は「集」と呼ぼう)には当代有名女流への評論があるが、和泉式部、赤染衛門《あかぞめえもん》の歌について論じ、赤染衛門に軍配をあげているのは、紫式部自身の資質と相似しているからであろう。  和泉式部の折々の天才のひらめきは、さすがに認めながらも、 「口にいと歌のよまるるなめり」  感情が流露するまま、ひょい、ひょい、と歌が唇へのぼってくるだけなのだろう、とおとしめている。  しかし「源氏物語」の中の歌には、「集」の歌よりすぐれた歌がいくつも拾える。紫式部は徹頭徹尾、物語作家なのであって、物語宇宙の中でのみ、現実の和泉式部と同じように不覊奔放《ふきほんぽう》に感情の手綱《たづな》をとき放って天駈《あまか》けることができるのである。  かの光源氏が須磨《すま》へ退居するときの、紫の上との唱和、源氏が、   「生ける世の別れを知らで契りつつ      命を人に限りけるかな」(「須磨」)  と詠めば紫の上は、   「惜しからぬ命にかへて目の前の      別れをしばしとどめてしがな」  なども絶唱といっていいであろう。柏木が死に瀕《ひん》して女三の宮に、   「あはれとだにのたまはせよ」(「柏木《かしはぎ》」)  とて贈る歌、   「今はとて燃えむ煙《けぶり》もむすぼほれ      絶えぬ思ひのなほや残らむ」  に対して女三の宮が、 「後《おく》るべうやは」とて返す、   「立ち添ひて消えやしなまし憂きことを      思ひ乱るる煙《けぶり》くらべに」  も哀切である。これほどな悲傷の歌を、現実の紫式部は、夫の死にも、愛児の病臥《びようが》にも詠んでいない。現実では絶えず自己規制する彼女は、絵空ごとと現実をきびしく劃《かく》している。紫式部にとって物語宇宙こそは、いきいきと感情が解放される世界だったのだ。紫式部は断じて私小説作家ではないのであって、その点、現実も虚構もごたまぜに、なかば酔生夢死のうちに恋し、死に別れ、哀傷の歌をよみつづけ、撒《ま》き散らしつづけた和泉式部とは、棲《す》む世界がまるでちがう。  また、ふかくおのれの中へ中へと還《かえ》り、はいりこみ、そのことで、とてつもなく広大な世界を把握してしまうに至る、「蜻蛉《かげろう》日記」の作者ともちがう。「蜻蛉日記」は私小説・私短歌に徹して、〈私〉との格闘の苦しみにまみれるのであるが、紫式部は「源氏物語」にすべてを吸い尽くされて、あとに残るのは〈静謐《せいひつ》な残滓《ざんし》〉ともいうべき虚脱である。「源氏物語」はいわば、紫式部の生涯のブラックホールとも謂《い》うべく、すべてをその中におそるべき吸引力で吸い込んでしまう。  彼女は「源氏物語」という巨大な虚構の真実を創《つく》りあげた以上、現実は急速に色褪《いろあ》せてゆく。和泉式部も右大将道綱の母も、それぞれの現《うつ》し身《み》で、それぞれの物語を書くことになったが、紫式部だけはまさしく〈うそ〉の物語に真実を賭《か》けた。〈うそ〉の世界の歌がつややかに息づいて現実性を獲得すればするほど、彼女の現実生活の歌は蒼《あお》ざめて生気をうしない生硬《せいこう》で儀軌的になってゆく。  だから「日記」における支離滅裂ぶりも当然のことといってもよい。「日記」というのに消息文が混入されたり、冗長平板な記述がながながつづいたり、錯簡竄入《さつかんざんにゆう》があるのではないかと疑われるほど、前後が連結していない、いうなら、取材ノート、作家の手帖、といったおもむきを呈している。その混乱不統一ぶりが、かえって、いかにも「源氏物語」の作者らしく、私には彼女の「日記」がたいそう興味ある。  原型そのままをとどめているかどうかは、新発見の決定的な資料でもないかぎり分らないことだから、一応は現在流布されているかたちの「日記」から考えてみることにしよう。  まず、「集」によって紫式部の少女から娘時代、結婚生活、とあざやかに再現してみせられたのは清水好子氏であったが(「紫式部」)女友達との交渉が、式部の人生にとって——少くとも若いときは——大きい意味をもっていたらしい。 「童《わらは》友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、七月十日のほど、月に競《きほ》ひて帰りにければ」  という詞書《ことばが》きで、有名な、   「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に      雲隠れにし夜半《よは》の月かげ」  という歌を、「集」の冒頭にかかげている。  その女友達はまた「遠き所へいくなりけり」、たぶん「父の赴任と見てよい」と清水氏はいわれる。式部はそんな女友達を幾人も持っていた。彼女らは式部の文学グループだったのではないか。〈美しき感化〉を与えたのは、その中の誰かであったかもしれない。  式部は文学グループの中心だったのではなかろうか、のちに「日記」にも、物語について鑑賞能力のある人と思えば、未知の人にもつてを求めて「言ひけるを」——文通し、交際を求めた、とあるから、すでに娘時代から、当時流行の物語についてあれこれと話し合える仲間を持っていたらしい。そのもっとも手近な友人は、年のあまり違わぬ姉であった。  この姉と寝ている部屋に、方違《かたたが》えに来た男が、どうやら忍んできたらしい。まだ少女の式部は、朝顔の花につけて歌をやって詰問している。「なまおぼおぼしきことありて」というのだから、忍ぶ真似ごとといったふうな、若い娘がいるとみてちょっかいを出しかけたぐらいのところであろう。式部の咎《とが》めに、男はしゃあしゃあとして、〈あれは姉さんか妹さんか、どっちなんですかね〉と逃げている。  諸家のいわれるように、男のこの図々しさからみて、すでに当時中年に達していた、のちの夫、藤原宣孝とみていいだろう。  式部はかなり婚期をすぎて宣孝と結婚している。父の為時に従って越前へ下っているが、そのときですら、はや、はたちすぎである。いまかりに天延元年(九七三年)生れとする説に従うとすれば、すでに二十三歳である。当時としてはかなり嫁《い》きおくれの娘を連れて任地の越前へ、為時が赴いたのは、為時の妻がいなかったためだろうか。当時の娘は十五、六で結婚したらしいのに、二十三まで式部はなぜ結婚しなかったのだろうか。  小説風に空想すれば、式部は宣孝の現れる前に、ある男を恋人にもつか、ともかく何らかの交渉があったのかもしれない。その男はのちに「集」に出てくる「西の海」の男かもしれない。彼は夫の喪に服している式部にはや言い寄って、家の門を叩くのである。式部が開けないで拒みつづけたので「世とともに荒き風吹く西の海も磯辺に波は寄せずとや見し」と怨みごとをいっている。  西の海を比喩《ひゆ》に持ち出してきているところを見ると、九州方面の受領《ずりよう》あがりであろうか、「源氏」の玉鬘《たまかずら》は九州をさすらい、大夫《たいふ》の監《げん》という肥後の地侍にむくつけく言い寄られて難渋するが、「集」にみる「西の海の男」は、もしやそのおもかげを宿してはいないだろうか。その男かそれとも、そのほかの男との恋が破れ、式部は、父に連れられて赴任先へいったと、私はたのしく想像する。父は傷心の式部をなぐさめるつもりであったのかもしれぬ。式部もいたましい思い出の多い都を離れたかったのかもしれぬ。折しも都は驚天動地のさわぎのただ中だった。  あれほど威勢ならぶものなかった中の関白家が、関白没後、道長に圧《お》されて、伊周《これちか》・隆家という貴公子兄弟は、急転直下、一介の流人《るにん》となって流されてゆく。(なんとそれは光源氏の運命に似ていることか)京中の人々は、悲運の公達《きんだち》を見んものと人垣をつくってどよめいた。それは長徳二年(九九六年)の夏であった。一栄一落はこれ春秋、といいながら人の世のはかなさ、有為転変《ういてんぺん》、おのが恋の失えるさまとなんと同じであることよ、と式部は若い心に感慨をもったにちがいない。  越前にいた式部には、珍らしいその地の風物に心うごかされ、自然の美しさを賞玩《しようがん》した形跡はない。式部は都恋しかったにちがいない。都の恋や物語の中にこそ、自然の美しさがよみがえると思っていたにちがいない。  そういう、ややトウのたった娘、漢籍仏典に通じて教養のありすぎる、物語好きな、風変りな娘、——ふつうの若い男には荷の勝ちすぎる娘に、うってつけの男が現われる。  かねて昔から、気を引いていた男、年齢《とし》のほどは、父とあまり変らぬという、昔は父の同僚だったこともあるという中年の宣孝である。「枕草子」にもエピソードがあるが、奔放で派手好きで、容姿端麗、おしゃれな伊達男《だておとこ》で、四十四、五だというのに、心も身も若々しい、女に人気のある男、道長にかなり近くいて、権勢のあり場所にも敏感な、つまり相応に有能で出世もする役人、そういう、やりての男である。  宣孝は、彼女の破れた恋を見守り、理解していたかもしれない。〈あなたには私が必要なんですよ。わかりませんか。あなたにふさわしい男は、私しかいないんですよ〉という強引さで求愛する。そのやりとりは、全く、やんちゃなだだっ子をなだめ、言い賺《すか》しながら、〈よしよし〉とこっちの方へ向かせる|てい《ヽヽ》のものである。突然にそんな態度がとれるわけではなく、両者の間には長い心の交流が、それも底流があったと見るべきであろう。式部が失意を抱いて都を去ったとき、宣孝は、〈いよいよ、おれの出番か、世話のやける子だ〉という感じでやおら攻めはじめる。いったん攻撃しはじめると、もうねらいははずさない。つるべうちである。式部に「うるさくて」などいわれながら、手紙の上に朱を点々と散らして〈これが涙の色です〉などと書いてくる。大らかで線の太い、あつかましい男であるが、なぜか抵抗しにくい魅力にあふれている。  ついに式部は結婚を決意し、まだ任期の終らぬ父をおいて単身帰京する。  宣孝は式部の書く物語、つれづれをなぐさめる習作などを読んでいたのかもしれない。  式部の手紙を妻たちに見せた(宣孝には数人の妻と子女があった)ので、式部が怒ったということが「集」に見えるのも、与謝野晶子のいうように、あるいは物語めいたものであったかもしれない。だがもしそうなら、人に見せたと怒ることもないであろう。  結婚当初の二人は明るくのびやかな歌の応酬をしている。「今はものも聞えじ」と腹立ててみせたり、また降参したり、宣孝の、娘のように若い新妻をあやすテクニックは多彩で巧妙である。女を扱うのに慣れた宣孝は、式部からさまざまな反応を引き出して娯《たの》しんでいる。式部は宣孝によって自分を発見し、男を発見した。与謝野寛の前妻であった林滝野に、次の歌がある。 「尺水《せきすい》は衆《おほ》くの象《かたち》映すなりこの身|女《をみな》のよろづを含む」  紫式部は、わずか二年余の結婚生活で〈男のよろづ〉を示唆されたのかもしれない。しかし一女賢子が二つになるやならずのころ、長保三年(一〇〇一年)都に荒れ狂う疫病に宣孝は突然死ぬ。疫癘《えきれい》は都の貴顕をも次々に襲っていたが、式部に夫との死別の覚悟ができていたろうか、どうだろうか。  私は、いかに聡明で学識ある式部でも、突然の別れという心のそなえは出来ていなかったろうと思われる。式部と宣孝の夫婦仲は冷えていたと、「集」中の夜離《よが》れを嘆く歌から推察する向きもあるが、数人の妻をもつ上に公人としても多忙な宣孝のことであるから、つねに式部のもとにいるわけにいかないのは当然である。しかし「集」中の屈托ない応酬からして、並みの夫婦仲にない理解と共感が二人をむすびつけていたと私は見たい。男性なみの教養のある式部はたぶん、宣孝にとって手応えのある話し相手であったろうし、男社会の角逐《かくちく》、なかんずく道長と中の関白家の争覇《そうは》戦の内幕を(宣孝は道長陣営であるから、道長色の濃い解説であったろうけれど)式部に話して聞かせたかもしれない。宣孝の死の前年、すなわち長保二年(一〇〇〇年)の暮れには悲劇の皇后、定子は崩御しているが、遺児敦康親王を擁して伊周兄弟は次第に旧位に復しつつあり、まだまだ天下の形勢は予断を許さぬところである。  そういう緊迫した政治状勢を、宣孝は理解力すみやかな若妻に語るのをよろこんだかもしれない。「源氏物語」の背後に周密に張りめぐらされた政治環境は、かなりの政治的感受性をもつ作者でないと構築できない|てい《ヽヽ》のものであろう。  また、上流社会の派手な暮らし、生活の豪奢の一端を宣孝は彼女にかいま見させた。大人の社交・交際の手引きもし、主人筋の上流貴顕の家の婦人たちとも引き合せたにちがいない。「集」にみられる、宣孝亡きあとの、社交的な弔問歌の応酬や、継娘《ままむすめ》との唱和によれば、式部は、宣孝と結婚後、交際範囲もひろまり、新経験も多く得たにちがいないと思われる。式部にとって宣孝は、さながら、紫の上や玉鬘における源氏のように、父とも兄とも夫とも、その三つを兼ねたような巨《おお》きな存在だったかもしれない。私は「蛍」の巻における物語論のはじめ、 「あなむつかし。女こそものうるさがらず、人にあざむかれむと生《む》まれたるものなれ」  という源氏の問題提起は、宣孝の言葉だったのではないかと、たのしく想像する。それに答えて式部が、反駁《はんばく》した言葉が、 「日本紀などは、ただかたそばぞかし」 「よきもあしきも、世に経《ふ》る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後《のち》の世にも言ひ伝へさせまほしき節々《ふしぶし》を、心に籠《こ》めがたくて、言ひおきはじめたるなり」  ではあるまいか。  宣孝の男性的発想と、式部の女性的発想の摩擦が、やがて物語世界の豊饒《ほうじよう》なみのりをもたらしたようにも思われる。  そういう存在の宣孝の突然の死は、式部の人生観を変えてしまう。人間存在のはかなさは、それゆえになおいっそう、現世の美しさ、たのしさ、あわれ、おかしみを際立たせずにいられない。生きること、愛することの何たるかを、宣孝はその死で彼女に教えた。たぶん、式部は宣孝と死別することがなかったならば、「源氏物語」も書かなかったかもしれない。式部は人生の深淵《しんえん》をついにかいま見た。 「日記」にあらわれる式部の顔は、もはや「集」にみられる、若い娘時代、そして新婚時代の暢達《ちようたつ》さはない。いつも「身を憂し」と思いつづけ、苦渋にみちている中年女の顔である。 「日記」は中宮|彰子《しようし》の父・道長の慫慂《しようよう》によって、彰子に仕える女房たる式部が、中宮御産という一大慶事を記録してさし出したもの、といわれている。私も、「日記」の冒頭の格調たかき書き出しからして、諸家のいわれるその説を信じたいと思う。  ただ、先にもいったように、御産の記録かと思って読みすすむうち、いつしか消息文の文体となり、女流の評論、朋輩《ほうばい》女房の月旦《げつたん》に筆が及び、対抗する社交サロン、斎院宮家との比較論になる。そしてやがてあの、「日記」を読む人すべてが嬉しがる、清少納言への辛辣《しんらつ》なワルクチになる。  それは措くとしても、くり返しくり返し、自身の憂悶《ゆうもん》が執拗《しつよう》に語られる。その中身には触れずに「嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき」「あらぬ世に来たるここち」「ものうければ」「心にもあらず」「うとましの身のほどや」などと内省的、あるいは自己嫌悪の文章をいたる所に拾うことができる。  それらは裏返せば、めでたき中宮・彰子への讃嘆、つまり憂愁に沈む人間も、栄華のまさかりの中宮に仕えれば、おのずと「まぎれぬべき世のけはひ」——個人的苦悩、憂愁も忘れてしまいそうだと、中宮のめでたさを誇示する意図にほかならぬ——そういう説がほぼ定まりかけている。それもあろうが……私は、式部が自身の憂愁を誇示したのは、清少納言の「枕草子」に対抗する意識からではないかと思っている。「枕草子」には手放しの定子《ていし》皇后への讃美があり、中の関白家の人々をとめどなく美化している。そして皇后の悲運をつぶさに見たはずの少納言が、そのことに関してぴたりと口を緘《かん》して語らない。  少納言自身、人生や人間について暗く考えるとか、思いを深くひそめるとか、来世を希求するといった言葉は毫《ごう》も洩《も》らしていない。人も自然も動物も、そこではまばゆく美しく明るい。清少納言は憂愁を知らぬ子であったように見える。(実際はそうではなく、中の関白家の悲運を書きとどめなかったのは、彼女の鮮烈な批判精神による選択からであるが。)  紫式部が「日記」を書くとき、絶えず意識しないではいられなかったのは「枕草子」ではなかったろうか、どんな形の「枕草子」が当時流布されていたのかわからないが、現存のような大部のものでなくても、かなり早くからそのうちのある部分は世に出ていたように思われる。式部はそれらを目にして、強烈なライバル意識をかきたてられたにちがいない。……人生の憂愁を知らぬげな、誇りかな少納言のイメージに反撥して、いっそう「身の憂さ」に拘泥するポーズをとったのではなかろうか。人生の深淵を示唆したかったのではないか。  式部がたびたびあげている「身の憂さ」の実体が何であるか、ということも研究者を困惑させるところのものである。文章の口吻から察すると、漠然とした無常感より、もっと密度のたかい、即物的な苦悩が暗示されているように思われてならない。ある人は出家の欲望、と表現しているが、むろん、決定的な事実がわかるわけではない。  実をいうと、私はここで式部を憂愁にうちのめされた女としている理由は、「原稿の締切」、といいたくてならない、その誘惑とたたかうのに必死なのであるが——冗談は措くとして、式部はそのころようやく源氏の出る物語を書き終え、「宇治十帖」に手をつけていたのではないか。物語作者の業苦《ごうく》はこれが終局というわけにいかない、因は果を生み、果は因を生む、式部の目には運命の輪廻《りんね》が見え、歳月の宇治川に浮き沈みする人々の姿が見える。見える以上は書かなくてはならない。書くことは骨身を削ることであるのに、なおそれに憑《つ》かれて、やめることはできない。ほかの人間のように、この浮世を生きることで表現する人生とちがい、筆先で物語宇宙を創造する式部には、永劫《えいごう》にやむときない業苦に苛《さいな》まれつづけなければならないのだ。  私は和泉式部と紫式部の人生の終りをよく考えることがある。  和泉式部はその生をおわるとき、遍歴した恋、先立たれた子、去っていった男たちを思い、人生に未練も執著《しゆうちやく》もなまなましく抱いて逝《い》ったのではなかろうか、自分の生涯で自分のドラマを創って来た人間は、心ならずも超越者の手でそのドラマを閉じられることに執念《しゆうね》き未練がありはしなかったろうか。  紫式部はみずからの手で宇宙を完結した。私はほんとうは、「宇治十帖」は未完なのではないかと思っているのだが、式部はそこまで書いて命終えたのである。命終えることによって、物語宇宙は静かに完結したのである。命が終らなければ物語もまた終らなかった。物語作家の業《ごう》というべきであろう。そのかわり式部は、その死によってすべて解き放たれた。式部の死顔には静かな微笑が浮んでいたにちがいない。 この作品は昭和五十六年十月新潮社より刊行され、昭和六十年十二月新潮文庫版が刊行された。