深い河 田久保英夫 [#表紙(表紙.jpg、横180×縦252)] 目 次  深い河  遠い夏から  水いらず  樹蔭 [#改ページ]   深い河     ㈵  冷たい朝露が、草原一面に降《お》りていた。  暁の菫色の光に山襞が黒く巨きく浮びあがり、原生林に沿ってひかる裏手の有刺鉄線は、鋭い刃物のようだ。夏の終り。風が露の香りをふくんで肌寒い。コンクリート二階だての本廠舎前にならぶ五台の米軍用輸送車の大きな幌も風に膨らみ、後尾の貨物車が向きを変えると、ヘッドライトの眩い光芒が、ぎらりと僕の目を射てきた。浮き出る人影。小きざみなエンジンの唸り……。 「Hey, set'ou on goods?(オイ、貨物ハ積ンダカ)」  前の車の運転席から、黒人兵の大声がする。幌口へよじ昇りかけた学生の一人が、手を振って答えたとたん、危く荷台から落ちそうになり、剽軽《ひようきん》な動作で支柱へつかまった。  幌の中から、口笛や笑い声が起る。四台の幌の中は、僕の仲間の学生たちでいっぱいだ。みな、一カ月の作業で汚れた要員用服を脱いで気ままな軽装、うきうきと解放感に溢れた声だ。僕は一人、幌のそとに立って、その若々しい、汗と脂《あぶら》の混った体臭を嗅ぎながら、急に彼らとの隔たりを感じた。それは夏期休暇中、この米軍キャンプで一緒に働いてきた学生仲間が引揚げるのに、自分だけ監督《チーフ》の松岡に頼まれて残るせいだが、またそれ以上に、自分でもよくわからない他人との疎隔感だ。八月じゅう、僕らはこの高原の駐留地で、まるで集団旅行にきたように快適に、陽気にアルバイト生活をしてきたが、そういう自分までなぜか白けた目で眺められる気持だ。 「さあ、スタート。」  貨車の扉口から、先頭車の方へ走っていった長身の松岡が、運転席に手でサインすると、突然エンジンの音が高まり、大きな幌の影が揺らいだ。車に分乗した三十人近い学生たちが、別れの声を挙げる。米軍サプライの食堂要員だった三人の女子学生の声がひときわ高く響き、そこへ走りよって握手するのは、松岡の助手《アシスタント》で、僕と同じ残留組の女子学生大原順だ。さっき笑わせた学生がまた幌口に立って、 「さらば、雲仙、御機嫌よろしゅう。」と雪山讃歌もどきに叫んだかと思うと、急に僕へ、「よろしくやれよ。」と大原順の方を頤でさした。  それは僕に愉快でなかった。大原順は、その名前の通り外見も動作も男みたいな上、長く松岡のアシスタントをしているせいか横柄で、僕らに好かれない女子学生だ。今の言葉は、あきらかにただの揶揄でしかない。  早く行け、この道化野郎。僕は心で言いながら、それでも笑顔で手を振った。性能のいい大型軍用車は、まだ起床時間前のカマボコ兵舎をヘッドライトで照らし、あざやかな緑草地を照らし、裏門へ走る。そして専用道路へ折れたと思うと、たちまち最後部の貨物車の赤い尾燈が見えなくなった。  あとは草地一面、いっそう虚しい薄闇だ。  僕は今の函型貨物車《ワゴン》に積んだ十何組もの作業道具——馬用ブラッシュとか、糧秣《りようまつ》容器とか、採草用具とかを思い浮べ、それが遠ざかるのを、自分の休暇が終ったように感じた。それらは米軍(正式には国連軍)の徴集馬の手入れにつかう作業具だ。要するに僕らは、松岡という米軍雇獣医の下で働く、≪馬丁≫だった。しかしこの仕事は比較的楽なうえ、報酬がよく、僕らはだから真夏中、この清涼な雲仙高地へ避暑にきたような気分になれたのだ。  だが、僕は今仲間を送って、一人になると、自分たちがひどくエゴイスティックな集団心理のなかにいたことに気づいた。僕らは米軍キャンプで割のいい稼ぎをし、気楽な学生生活を愉しんでいたが、キャンプの米国兵たちは戦争のさなかにいたのだ。僕らはこの駐留地でも、ひと月前集結した佐世保市内でも、(僕自身、東京芝浦の恤兵部《サルベージ》から、要員不足のため特に廻されてきたので、その芝浦でも)戦争に血走ったGIの顔を見てきた。ここも佐世保も、地理的に戦場|朝鮮《コーリア》への最先端だ。朝鮮戦争は、開始以来一年あまり、やっとこの七月開城休戦会談が開かれたものの、戦局はかえって苛烈な陣地戦に入っていた。  勿論、僕ら学生もこうした状況に無関心ではなく、ついこの間板門店銃撃事件で会談が中絶した時も、皆が色めきたち、再び北朝鮮・国連両軍の血みどろなシーソーゲームが始まるのではないか、と議論が湧いた。が、それは議論であって、夜兵舎内でするトランプ遊びと大して変りない。しかし戦争の中には前線で死の危険に自分を晒す者もいれば、僕のような者もいる。僕は今、不意にそういう自分が、奇異にも不安にも思えたのだ。  要するに、俺たちは≪馬丁≫だ、と僕は思った。厩務要員として、役目はきちんと果してきた。ただ馬は朝鮮の難民や負傷兵用に不足した血清を採るため、いずれ病菌を移植され、血を絞りとられてしまうのだから、一応の健康と体格に注意すればいい。僕は破傷風、腸チフス、赤痢など人間用の血清を馬から採取することを、この仕事について初めて知ったが、馬の買附けと健康管理には、松岡獣医がいっさい責任を負っていた。この雲仙北東部は、有名な馬産地・使役地で、松岡は山裾の農牧場を初め、近隣からもう数カ月で二百頭余りの馬を買い集め、サプライの厩舎へ収容してきた。そこで四、五十頭ずつまとまると、担当将校が検査して、輸送車で佐世保へ送り出す。佐世保からどこへ送られるか、僕らにわからないが、船で釜山へ行くとも聞いた。 「佐世保に着くのは、何時頃かな。」  松岡が近づいてきて、人を送る感傷もない、さばさばした声で言った。 「お午《ひる》までに着くでしょう。」  女子学生が面倒臭そうにこたえた時、古いモルタル壁の廠舎や、兵舎の扉口から、GIたちが起き出してくるのが見えた。モルタル壁の廠舎は、まわりを≪OFF LIMITS(立入禁止)≫の金網で仕切られ、その敷地内に銀色の小型レーダー塔がたっている。本来、この高地キャンプは、5thFRC(Far-east Radar Corps)というレーダー支隊が、山間の醸造工場跡を接収したもので、そこに佐世保からの米軍サプライが同居しているのだ。 「あ、起床時だ。」松岡獣医はせわしなくあたりを見廻して言った。「畜生。あの|石あたま《ヘツドストロング》の将校、起きたかな。行ってみるかな。」  彼は一瞬迷うように、大原順の方をみたが、女子学生は知らん顔している。石あたまの将校とは、買附け馬の検査を担当している検査将校《インスペクター》で、ときどき馬を厳しくチェックして、松岡を嘆かせる相手だ。元来、サプライの任務は、山裾の有明海を経て、他県から集積する特需物資を佐世保へ送ることが主で、検査将校は馬に素人なのだが、いかにもアメリカ人らしく、馬の体格や健康状態に合理的な基準があって、それに充たないと格外馬としてチェックしてしまう。現に今も四頭の格外馬が残されており、それらは別の日本人獣医を呼んで、目の前で診察させ、健康証明の出ないかぎり通らない。通らないと、馬の買附け料が支払われないので、松岡獣医は非常に困るのだ。もっとも学生仲間によると、松岡は馬の買附けと引き渡しとの間に、一頭あたりの歩合《マージン》が認められていて、すでに別府の家に大きな診療施設が建つほど報酬をえたという話だ。 「そう。やはり、会ってこよう。君たち、さきにロッカー室へ行っててくれ。」  松岡は自分で頷き、大股に二階建の本館の方へ歩いた。僕はその後姿を見送りながら、そうだ、早く結着をつけてくれ、と心に思った。僕自身、今学生の仲間たちが引揚げたあと、自分だけ残るのはひどく重い気持だ。ことにこの変り者の女子学生と二人では。女子学生は獣医の助手役だから、残るのは当然としても、松岡が四頭の馬の世話のために、僕の残留を頼んだのは、多分僕がこれまでも駐留軍アルバイトをつづけて、ブロークンな英語も話せるからだろう。しかし、僕には迷惑だった。ほかの大部分の学生は、比較的近い地方の者だからいいが、僕は遠出の人間だ。しかも僕ら厩務要員は、最初夏休みひと月という契約だったのに、八月末に突然延期、今日まで十日も余計に働いてきた。休戦会談中絶のせいか、急にサプライに朝鮮前線へ移動の命が出て、厩舎の馬も作業具も、全部佐世保へ送ることになり、その輸送と後片づけに時間がかかったのだ。 「ああ、空が明けてきたな。」  僕は思いなおして、歩きながら朝空を見上げた。肺いっぱい深呼吸すると、爽涼な大気に心がひと息に晴れる思いだ。湿った夏草の匂い、露の匂いが鼻腔へ流れこむ。遠く雲仙主峰は、夜から目醒めたばかりの嬰児のように清々しい稜線を現し、山襞が雄大な懸崖状に目に迫ってくる。微かに朝陽に紅らんだ山頂の原生樹林。うすい翅《はね》のように暗く透いた空。その暗い空は東方へいくにつれ蒼く変り、有明海の上あたりか、小さな真白い雲だけが陽に眩くかがやいている。僕はこの海抜七百メートルの高地の朝が好きだ……。  木造の要員宿舎だけは兵隊がいず、がらんとしていた。床に厚く毛布を敷いて、僕らが雑居していた二つの大部屋。ロッカー室……。ロッカーの前は学生たちが残した紙屑が散乱し、まだ埃っぽい空気が籠っている。僕が窓を幾つかあけていると、 「さあ、支度しようか。」と早くも松岡獣医が戻ってきた。 「どうです? 検査将校《インスペクター》。」 「うん。地元の獣医の健康証明を見せるだけで、いいことにしたよ。将校自身、立会うったって、移動で忙しいんだ。この際、この位は大目にみてもらわなけりゃ。」  松岡の表情が真剣なのは、もし三日後のサプライの出発までに、馬を引き渡さないと、買附け料の給附が受けられないからだろう。しかも、今四頭の格外馬は、裏屋《うらや》と呼ぶ兵站《へいたん》倉庫へ移してあるが、その不要な馬を彼自身が抱えこむことになる。 「じゃ、地元の獣医が馬を診《み》るの?」女子学生が言った。 「ああ、あとで俺が呼びに行くよ。しかしむこうも都合があろうから、今日中にはどうかな。とにかく俺が獣医と巧く相談して、遅くも明日には始末つけるさ。さあ、荷物。荷物。」  松岡は将校との折衝に満足したのか、上機嫌に自分のロッカーをあけ、ぎっしり詰った荷物を鞄へいれ始めた。今度の移動でFRCの方は増員され、この宿舎も新しい兵隊が入るため、僕らは裏屋へ移るのだ。食糧や炊事道具などは、昨日馬といっしょに、松岡と僕とで裏屋へ運んでおいた。僕と女子学生は他の学生と同様、今日限り要員ではなく松岡獣医の個人的な雇なので、キャンプで食事がとれないのだ。松岡はサプライ移動日まで正式な要員だし、顔もきくから、作業上不便はないが、僕らは営門の通行証《パス》も回収されていた。その厳格さはやや意外だが、多分FRCの任務上、情報管制に気を配ったのだろう。 「どうも俺の荷物、一度で運びきれんな。残りはまた後にしよう。」  松岡はロッカーの上に積んだ木函や皮トランク、床の薬品函を、持てあましたように言った。 「一つ持ちましょう。」僕は自分の荷物が旅行鞄だけの身軽さなので、片手に獣医の大きな薬品函を提げた。  僕ら三人が宿舎を出た時、外にはすでに眩い陽が射していた。僕は表門の方へ歩きながら、心のすみで、さっきの松岡の言葉へ微かな懸念を感じた。彼は地元の獣医を呼ぶというが、格外馬のうち三頭は、体重不足が理由だからいいとして、あとの一頭は、健康状態があまりよくない。元気がなく、毎朝の検温でも発熱気味だ。多分専門家なら、それを見のがさぬ筈だが、松岡はなぜ楽観していられるのだろう。僕には松岡の「巧く相談して」という言葉が、相手と話しあいで便宜的な健康証明を書かせるという意味にもとれた。以前に、前例があったのかも知れぬが、そう都合よくいくだろうか。  表の営門から、専用道路へ出ると、檜の苗木林の柔かな緑が目に滲みる。道路はゆるく蛇行して、≪北目≫と呼ばれる群落や漁港の方へくだるが、裏屋は苗木林の中へそれた、小道の奥だ。狭い庭をかこんで、燻んだ木造の小舎が二棟。一つは元の醸造用樽置き場、もう一つは穀物庫だったのを、兵站倉庫に改良したので、昔の麹《こうじ》の匂いが鼻に漂う。ちょうどキャンプの崖下にあたり、裏手の斜面から、屋外流し場へ真新しい給水パイプが伸びている。 「どうだい、ちょっとした別荘だろう。」  松岡獣医は、ここが初めての女子学生を案内して言った。ひろい土間と閂戸《かんぬきど》で仕切って、馬を入れた大部屋。廊下の右側に大きな土竈《どがま》のある元醸成室。サプライが特需品倉庫に使っていたのを、移動で不要になったので、松岡がひとまず借りた舎屋だ。 「今日からここで、飯盒炊さん[#「さん」に傍点]だ。」松岡は土竈を指して、女子学生に言った。「君は料理得意か。」 「やったことないわ。」 「頼りないな。」獣医は苦笑したが、「まあ、いいや、どうせ長いこっちゃない。この通り、軍用罐詰も米もたっぷり運んであるから、とにかく炊事を頼むよ。それから、君は女性だから下士官《サージアント》の部屋を使え、俺たちはこっちだ。」  彼は野戦用の組立ベッドが一つある個室を指し、自分は隣の部屋へ荷物を抛りこんだ。そこは汚い円卓と木椅子を囲むように、組立ベッドが三つ、窓べと壁際へ置かれた詰所で、僕もベッドの一つへ自分の鞄をなげ出した。松岡は手速く荷物を、片隅の戸棚や寐台下へ押しこみ、 「じゃ俺は、早いところ北目の獣医へ連絡に行くからな。」と、もう作業帽をかぶり直した。「ここが片づいたら、馬に朝の飼葉《かいば》たのむよ。」  松岡の仕事への判断は、いつも合理的で要を得ていて、僕は嫌いでないが、そのスマートさを衒《てら》うようなポーズや、医者特有の気どりが厭味だ。僕は一人になると、部屋を見廻した。ベッドわきの板壁には、外人女のヌード写真や佐世保のバーのコースター、ハート形に彫った楽書などが残り、何となく毛唐の体臭が匂うようだ。僕はそういう室内に息ぐるしくなり、庭へ出て、葭簀《よしず》棚の下の椅子へ腰かけた。  その日除け棚も、布張りの寐椅子も、真夏に兵隊が作ったのだろう。葭簀ごしに、陽をうけた針葉樹林の梢が動いている。僕はそれを見ていると、またさっきの心の重さが甦った。もう九月、大学の新学期も始まっている。僕はこの休暇の働きでえた経済的余裕で、今度の学期の講義に出たいと思っていたので、帰りの遅れが非常に苦痛だ。僕は東京で母は何をしているだろう、と考えた。父は五年前に死んで、僕は母と二人きりの暮しだ。母は現在、工場の寮の管理人をし、僕らはその管理人室に住んでいる。今日のようすを、すぐ葉書で知らさねばなるまい。母のくぼんだ皺深い目。六十すぎても、そこだけ赤く膨らんだ掌……。突然、背後の土間のおくから、異様に高い、溜息のような啼き声がして、僕は椅子からとび上るほど驚いた。  舎内にいる四頭の馬のうち、一頭の声だ。僕にはそれがどの馬かわかった。昨日、松岡獣医と馬をここへ移した時も、同じような啼き方をしたからだ。松岡は遠い仲間を呼ぶのだろう、と言ったが、実際餌を欲しがる時の短い啼き声とちがい、妙に深く切なげな声だ。僕は正直言えば、馬という動物が好きではない。人間の三倍もある大きな草食獣、その獰猛さを秘めた脚力、啼き声——殊にそれが何十頭も追込み厩舎にいるのを見ると、僕は内心、恐怖を押えられないのだ。が、今の声に、僕はそれを感じなかった。むしろ僕は、ふとそこに自分と似たもの、何かから遠く隔てられ、訴えている存在を感じた。     ㈼  翌日の午《ひる》、地元の畜産組合の嘱託獣医がやってきた。僕は朝から、いつもの習慣通り一日四回分の飼葉づくり、馬房の掃除をすまし、午頃には女子学生と、草刈りに出ていた。馬の飼料は最初、キャンプ裏の牧草地へ馬を放ち、生草を食《は》ませていたが、農牧場主から牧草畑を荒すと苦情が出て、切藁、食塩、米ヌカなど配合の飼葉にきり替えた。しかし藁は消耗がはげしく、蓄えが心細いので、僕らはときおり生草刈りに行くのだ。  だが、この火山地形の高地では、馬の食糧になる草の採集場はすくない。すでにキャンプの頃、学生仲間と刈りつくしていたり、栽培主がいる葛畑だったり、熔岩谷の底で手が届かなかったりする。そのため、僕と女子学生は大きな竹籠を背負い、専用道路をかなり下《くだ》って、やっと灌木林の奥に恰好な草地を見つけ出した。狭い斜面だが、息をのむほど眺望が開けて、遠く水銀色に燦めく有明海までみえる。銹色の北目の漁港。段々畑。うねる道路。広大な緑草の放牧場。真夏の間、中腹に放牧されていた牧馬の群も、秋近く麓側の柵へ追われたのか、その数が減っている。  僕らは急斜面に、足が滑らぬよう気をつけながら、鎌で草を刈った。野草にも馬の好むもの好まぬもの、なかには有毒草もあって、僕自身ようやくその区別がつくようになったが、ときに有害なアセビなどを刈る。すると、目ざとく女子学生が「アセビよ」というように、僕の方へ視線をむける。厭なやつだ、と僕はそのたびに思った。この大原順が学生たちに不人気だったのは、こんな風に、他人を冷やかに観察する態度のせいだ、と初めて納得した。しかし、くろく陽灼けした皮膚に、男同様の作業服を着ていても、よく見ると、目が窪んで大きく、端正な少年みたいな顔をしている。その上、いまいましいことに、草の選び方も刈り方も僕より機敏だ。 「あら。」僕らの籠に草がほぼいっぱいになった時、女子学生が遠い道路の方へ目をやった。専用道路を幌附きジープが一台登ってくる。それは午前中、松岡が借りて、北目の獣医を迎えにいった車で、運転席に松岡の顔がみえる。その隣に小肥りの男がかけており、二人は何か笑って話しあっている様子だ。松岡がこっちへ気づかぬうち、車は鈍くエンジンを軋ませて、天人草の葉蔭へ消えた。 「行こうか。」  僕は裏屋へ戻りたくなって、女子学生に言うと、相手もすぐ頷いた。  帰りは登りの上、草籠を背負っているので、少しきつい。九月とはいえ、南国の日盛りはまだ暑く、この円錐火山《コニーデ》特有のうす緑の路面は、トラックの車輪の幅だけ白く乾いている。足もとをよくみると、うす緑色は細かい熔岩粒を青苔が蔽っているのだ。  三十分ほどで裏屋の庭へ入った時、その木蔭にさっきのジープが停っていた。庭は人影がなくひっそりし、土間口の戸が明け放してある。僕が穀物庫の前へ籠を下ろしながら、耳をすますと、舎内から微かな話し声が聞えた。しかし、その声には何か言いあうような異様な気配があって、僕が土間口へいくと、急に馬房の閂戸から北目の嘱託獣医が出てきた。  彼は診察していたらしく、黒皮鞄へ聴診器や開口器を片手で押しこみながら、庭まできて、今度はステンレス容器から酒精綿を出し、手指を丁寧に拭きはじめた。その神経質な動作は、初老の獣医のずんぐりした風貌とひどく不似合だが、僕はそれ以上に、後からきた松岡の顔つきに驚かされた。その顔はさっきの笑顔とうって変って蒼ざめ、昂奮で唇の端だけぴくぴく顫えた。松岡が黙っているので、一瞬獣医が手指を拭く間、妙に静かな沈黙が流れた。 「とにかく。」嘱託医は落ち着いた声で言った。「スワンプかどうか、血液を調べりゃわかるよ。血液検査することだよ。」 「そんな必要ない。スワンプじゃない。」  松岡は僕らの目を意識してか、つとめて冷静に言ったが、その声は喉の奥でかすれた。 「しかし、あんなに貧血しとるじゃないか。さっきも言うたが、口粘膜に血色はないし、脚に浮腫がある。熱発も相当だし、心音の分裂も聞える。俺はこの病気には前にえらい目にあってるから、馬がぼんやりつっ立ってるのを見りゃ、ひと目で見当つく。こいつだけは、いい加減で見過せんよ。とにかく血液を調べることだ。」 「調べるったって、こんな小舎で何ができる。」 「佐世保の軍病院なり、家畜検査所なりへ持ってったらいいだろう。」  獣医は脂《やに》だらけの竹パイプを出し、ゆっくりと巻煙草をつめこんだが、その動作に松岡はいら立ったように声を強めた。 「そんな必要はない。俺だって医者だ、馬がどんな症状か、わからなくてどうする。一度ばかりの診察で、変な言いがかりをつけやがって。これは米軍の徴集馬だぞ、責任がとれるのか。」 「米軍。」嘱託医は煙草の火を指でにじり消し、初めてつよい反感をむき出して言った。「そうか。じゃ、勝手にしたらいい。俺はそっちに頼まれたから、来てやったんだ。米軍で、りっぱに処置しろよ。ただ断っとくが、地元側に迷惑かけんでくれよ。これ迄も、いろいろ迷惑うけてるんだから。今度だけは他のことと違い、なま易しい問題じゃないぞ。」  獣医が鞄を抱えなおし、足速に庭を出ていくのを、松岡は瞬きもせず見まもった。僕は松岡がこれほど昂奮したのを、初めてみた。日頃、流暢な英語や医者らしい知的な顔つきで、隙をみせないこの中年男が、頬を青白く、鼻の下まで水洟《みずばな》のような汗をかいているのは、どこか滑稽だった。 「どうしたの。スワンプってなに?」  女子学生が聞くと、松岡獣医はようやく我《われ》に返ったように僕らをみた。 「病気の名だ。スワンプ・フィーバー。日本語で普通≪伝貧≫と言うが、伝染性の貧血だ。しかしそんなものじゃ、絶対ない。」松岡はひと息に喋って、庭の布張り椅子に腰かけたが、すぐまた立上り、女子学生に「私の部屋から、診察鞄持ってきてくれ。」と言いつけた。  女子学生が舎内へ入ると、松岡は急いで土間口へ歩んだ。僕もついて行くと、彼は半開きの二枚の閂戸を、左右へあけ放す。天井まである大きな閂戸の空間から、白昼の光が馬房内を照らし、獣と藁の蒸れた臭いがした。床板の中央に、元の樽棚の支柱が二列ならんで、馬はその柱へ手綱を結ばれている。僕が入ると、手前の鹿毛《かげ》馬が、飼葉をくれる人間と知ってか、催促するように前肢で寐藁を掻いた。  それは昨日、異様な啼き声をあげていた牡馬だ。松岡によると、アラブの純血種で、本来なら乗馬か競走馬用に飼育されるが、この馬には鼻に≪大流星≫とか≪サク≫とか言う不吉な白斑があって、まだ四歳なのに、血清馬に出されたのだそうだ。たしかにその鼻一面、白ペンキをべったり流したような無様《ぶざま》な白斑は、いつ見ても気味悪く、またユーモラスでもある。  その隣にやや離してつないだ一頭は、この地方で農耕や車輓《くるまび》きに使う土着種で、かなり老いた牝馬。もう一頭は同じ農輓用の、どこかスネ者みたいに癖のある栗毛馬だ。病馬だけは麻縄で区切って、一番奥の敷藁に離してあるが、松岡獣医はその馬へ近づくと、乱暴に鼻づらをつかみ、指で口腔をこじあけた。馬は尾を力弱く垂れて、少しも逆らわない。集団厩舎にいて、どの馬も汚れているが、殊にこの馬は黒鹿毛の被毛も汚く、光沢を失っている。外国のノルマン馬に似て、鈍重な荷役馬だが、いかにも使い古された感じだ。  松岡は女子学生が持ってきた皮鞄から、ペンシル型の懐中電燈を出すと、馬の瞼をてらして、仔細に眺めた。口の粘膜も瞼のうらも、あの嘱託医の言うように貧血しているのか、黄ばんで白い。顔をよせると、熱く生臭い口臭が匂った。松岡は藁の上へ蹲《かが》んで、馬の脾腹を手でさぐりながら、 「今計ったら、熱が九度もあるぞ。」と僕に言った。  馬の体温を毎朝計るのは、僕の日課で(馬の肛門へ体温計をつっこむのは不愉快な仕事だ)、けさの検温は他の三頭がほぼ平熱の三十七度半ば、この馬が八度四分だったから、また熱が上ったわけだ。が、そんな発熱は僕のせいでないのに、松岡の声はまるで咎めるように不機嫌だ。 「≪伝貧≫っていうのは、高い熱が出るの。」女子学生が聞いた。 「ああ、高熱が出る。それも最初は高くて、これどころじゃない。」獣医は蹲んだまま言った。「不整回帰熱と言って、高熱がしばらくつづいてから、下るが、また不定期な間をおいて出る。これをくり返すうち、熱も低くなる代り、貧血がひどくて衰弱するんだ。余病で死ぬ奴はまだいい、たいてい慢性的に元気をなくし、ぼんやりして働かない。そのくせ、食欲だけあるし、食べ物や蚊の媒介で他の馬へ感染《うつ》るから、農牧場じゃ『倒産病』、つまり家をくい潰すと怖がるんだ。病源体はビールスらしいが、免疫法もまだないしな。」 「じゃ≪伝貧≫なら、ほかの三頭にもうつってるわけ?」 「冗談言うな。≪伝貧≫じゃない。さっきから、俺が違うと言ってるじゃないか。」松岡は憤然としたように立って、鞄から注射器の容器や薬箱をとり出した。 「こいつは一種の失調馬だよ。動物には集団的な雑居生活させると、必ずスポイルされる奴が出てくる。年寄りとか、ひ弱な者が、その環境に適応できず参ってきて、血色も悪く、細菌への抵抗力もなくなる。人間だってそうだろう。こいつは人間で言や、そうした細菌感染、肺炎みたいな症状を起してるんだ。今までもキャンプでこんな失調馬が出てるが、あの田舎医者にはそれさえわからない。」  松岡獣医は、大小二つの注射器をそろえて女子学生に渡すと、まだ感情の高ぶった動作で馬の手綱をつかみ、部屋の中央へひき出した。そうして床に転がった麻縄で、馬の後肢を柱にしばりつけた。僕は女子学生の指が、驚くほど手ぎわよく注射器の一つへ白い抗生物質の薬液をつめるのを、感心して見まもったが、急に、 「君、何ぼやぼやしてる。」と獣医に背中をこづかれた。  獣医は馬の鼻を指し、麻縄を一本、僕の方へさし出している。僕は咄嗟《とつさ》にその意味をさとった。キャンプの厩舎では、馬の治療用に枠場という四本の支柱ができていて、注射の際は支柱に馬の四肢をしばりつける。そして鼻さきへ綱を巻いて、捩《ねじ》り、しめつける。鼻の粘膜は馬の神経の最も敏感なところで、その痛みに注意を奪われている間に、注射するのだ。  僕はいわばこの≪鼻栓≫の役目を、自分が命じられているのだとさとって、一瞬|躊《ためら》った。キャンプでこの役は、特に膂力《りよりよく》のつよい学生が受持っていたので、僕自身やったことがない。第一僕は、自分の手で馬を痛めつけることはどうも苦手だ。  だが、この場合、そうも言っていられず、僕は麻縄を馬の口へ噛ませ、鼻がしらへぐるっと巻きつけた。ちょうど糸をよる要領で、縄の両端を合せて捩るのだが、ここは枠場とちがい、馬の後肢二本しか縛ってないので、僕は前肢で蹴られそうな気がして、なるべく体を後へひいた。すると、そのヘッピリ腰を嘲笑《あざわら》うように、女子学生が目で笑った。畜生。僕は恥で顔に血がのぼり、思わず綱に力をこめた。 「そう、もっと締めて。」  獣医が注射器を持って、馬の臀《しり》の方へ蹲んだ時、突然僕の腕は激しい力でひかれた。今まで尾も頸も、力なく垂れていた馬が、ぐっと頸をそらせ、敵意に満ちた目を剥いたからだ。病馬とは思えないつよい力に、僕は前へのめり、振り廻されそうになって、懸命に踏んばった。馬の熱い喘ぎ。乱暴に床を掻く前肢。僕は冷水を浴びたような恐怖に襲われたが、今鼻栓の痛みを弛めては、かえって馬に跳びかかられそうで、渾身の力で綱を捩った。まるで馬との格闘だった。 「よし。」獣医の声がかかるまで、長い間《ま》があった。反射的に綱をはなし、目に流れこむ汗を拭くと、松岡も顔を脂汗でてらてらさせて戻ってきた。彼の手には、さっき薬液をいれた注射器のほかに、黒ずんだ液体の入った太い注射器が見えた。どうやら馬の血液のようだ。 「血をとったの?」女子学生が聞いた。 「うむ。検査施設へ持ってって、調べるんだ。≪伝貧≫かどうか、血のなかの担鉄細胞《ジデロチーテン》のあるなしで、すぐわかる。」  松岡は血液をガラスの滅菌容器へあけ、栓をして言った。「科学的な結果で、あの医者の言いがかりなど一遍に潰してやる。あいつや地元側にしろ、米軍にしろ、そんな確かな証明なら文句はない筈だ。」  獣医はそう言ったものの、落着きなく床を歩きはじめた。薄暗い舎内をいつまでも無言で、五、六歩行ってはひき返す。僕はそれを見て、しだいに怪訝《けげん》に感じてきた。何を考えているのか。彼の言う通りなら、別に深刻に考えこむ必要はないではないか。だが、松岡は何か心で、僕の理解できない闘いをくり返すように、幾度も顔の脂汗を手で拭い、重い皮靴で床を軋ませた。 「よし。」彼はやっと意をきめたらしく言った。「これから、私が血液を持って佐世保の米軍病院《ネイビイ・ホスピタル》へ行くからな。後をたのむよ。」 「佐世保へ?」女子学生がびっくりした顔をむけると、 「ああ。急がないと、血液が保《も》たんし、君たちも早く片づかなけりゃ、困るだろう。今からサプライの貨車便に乗せてもらえれば、あすには帰れるよ。午後の便があるかどうか、ちょっと見てくる。」  松岡はいつもの機敏な動作に戻って、注射器や血液の容器を診察鞄へつめ、手にさげた。「≪サク≫、お前のお蔭で、どうも運がついてないぞ。」と、彼は鹿毛馬の鼻づらを軽く叩き、土間へ出ていった。  僕と女子学生は二人きりになると、思わず目を見合せた。妙なことになった、という気持が、一瞬お互の心に共通に流れあったように思えた。大原順は日頃になく真剣な目を病馬へむけた。それから馬へ近づき、指で口腔を開かせた。その血の気ない粘膜をのぞきこむ動作が、専門家のように器用なので、 「どうなんだ、≪伝貧≫か?」と僕が聞くと、女子学生は返事もせず他の馬の前へ行った。三頭を順次、同じように調べるが、こっちの馬の口唇は、どれもほぼ健康な肉色だ。 「少くとも、まだ他の馬には変りないわ。」女子学生は言った。「でも、獣医さん達にはっきりしないものが、私にわかるわけがない。」  僕は相手がわざと意地悪く、曖昧に言っているような気がした。少くとも≪伝貧≫かどうか、自分の見当ぐらいはつく筈だ。僕自身すら、漠然とだが、≪伝貧≫のような気がしていた。それは事態の悪い方へばかり、想像が働きがちな心理にもよろう。だが、もし≪伝貧≫であれば、どうなるのか。他の三頭にも、うつっていることになるのか。その馬たちをどう処置するのか。  僕らが舎外へ出て、流し場で手を洗っている時、松岡が戻ってきた。 「四時のトラック便《びん》があるそうだ。」  彼は早くもロッカー室で着換えたのか、作業服から半ズボン、開襟シャツの姿に変り、手に萎れたザックをさげている。「まだサプライに、事情を話す段階じゃないから、佐世保へ医療品をひき揚げると言って、乗せてもらうことにした。それらしい支度をしなけりゃならんので、厄介だよ。」  彼はザックの底から、何やら罐詰らしいものを五つ六つつかみ出して、葭簀棚の椅子へ置くと、急いで土間口を入った。  僕らは獣医が部屋で支度する間、布張り椅子に腰かけて待っていたが、彼は室内から、 「その罐詰、パイナップルだ。食堂のGIから徴発してきたよ。留守番の合間に食べたまえ。」と、どこか僕らに阿《おもね》るように言った。彼が戻ってきた時、その手はかなり膨らんだザックのほか、縄でからげた薬品の段ボール函を吊している。 「もし何か出費があるようなら、俺の部屋の戸棚に入ってるからな。じゃあ、よろしく頼むよ。」  松岡は忙しげに腕時計を見ると、肩へザックを揺すりあげ、林の道の方へ歩き出した。その半ズボン、白ストッキングの粋な後姿は、まるで昆虫採集に行く大学教授のようだ。僕が学生仲間から聞いた話では、松岡は本来別府から佐世保にきて、米軍将校ハウスのテリヤとかプードルを診察して廻るうち、買附け馬の仕事を任されたそうだが、それも彼の風采と英会話が力になったのだろう。  しかし、獣医の足どりと反対に、僕の中には暗い胸ぐるしい気持が残った。それはいつここから解放されるのか、という不安のせいでもあった。椅子へ背を沈めながら、女子学生が意外に平静な顔で、黙々と罐詰を手で弄《なぶ》っているのを、不思議な思いで見つめた。 「君、早くここをひき揚げたくないのか?」僕は聞いた。 「ここをひき揚げたって、どうせ大学の寮へ帰るのよ。私、大学をあまり好きじゃないの。」大原順は、細めた目を僕へむけた。「今さら、あせったってだめよ。男性らしく胆《ガツト》をすえることよ。」  何がガットだ。相手の冷笑的な視線は、僕の内部の一番過敏な皮膚を傷つけた。自分こそ、中性の化け物みたいな恰好しやがって。僕は女子学生の雲脂《ふけ》っぽい浮浪少年頭、日灼けの皮がむけて斑らな桃色の頬を、嫌悪をこめて眺めた。これからひと晩、この相手と二人で過すんだ。もし別の≪女性≫と二人きりで、こんな山間に夜を過すなら、刺戟的な冒険を感じることもできたろう。  僕は椅子の上で、気だるい瞼を閉じ、夏の東京の街路を思い浮べた。熱帯魚のようにスカートの裳裾を翻して行く若い女。プールサイドで長々と濡れた腿を乾かす娘たち。構内《キヤンパス》の石段を、白い踝《くるぶし》をみせて昇る女子学生……。そうした彩りや匂いや感触が、遠い夢幻のように僕の瞼の裏を通りすぎた。     ㈽  翌る日、僕は朝から獣医を待ちつづけた。  毎朝日課の飼葉づくり、馬具や舎内の清掃、クラッカーとチーズのまずい自分たちの朝食などを、僕らはいつもと変らずすませたが、その後は何となく用事に身が入らない、手持ち無沙汰な時間になった。  午後、僕は馬を運動につれ出すことにした。キャンプの頃は、馬の運動に、週二度構内の空き地へ野放しにしていたが、この狭い庭ではそうもいかぬし、暗い舎屋へ入れっぱなしでは、元気な馬も病気になってしまう。僕はまず病馬以外の三頭を庭へひき出した。馬を一列に歩ませるため、最初に≪サク≫の背中から下腹を麻縄で縛って、そこへおとなしい老牝馬の手綱を結ぶ。同じように老馬と、一番後尾のクセ馬の栗毛をつなぐ。僕が馬を運動させている間に、女子学生が寐藁を日に干し、日光消毒することにした。(新しい寐藁ととり替えてやればいいが、藁は今では貴重品だ。)  僕は≪サク≫を先頭に、三頭の馬をひいて、苗木林の小道を下《くだ》った。むこうに、緑門《アーチ》のように光る、日溜りが見えたからだが、歩いてみると意外に遠く、足もとの羊歯《しだ》の湿気で、馬の蹄が辷る。その繁みをぬけた時、ぱっと一面|紅《べに》色に燃えたつ拡がりが僕の目を射た。太陽の下に咲き群がる薊《あざみ》の花だ。薊はこの草地の縁《へり》から谷へ、紅紫の天鵞絨《ビロード》の裳をひろげ、風になびく。いわゆる薊谷の群落で、早くもここは秋の開花のまっ盛りだ。  しかし僕は、この草地が意外に狭く、野草も少いのに失望した。草地というより棚地で、樹林の両側を苔むした安山岩の壁が狭めている。僕は馬の運動場にはならないが、少くとも日光浴はできると思いなおし、馬を一頭ずつ離して、立木につないだ。だが、最後に栗毛の手綱を、幹にしばりおえた時、傍の草むらから妙に冷たい風が流れてくるのに気づいた。繁みをわけてみると、その蔭の安山岩の壁に、高さが人間の腰ほどの洞穴があいている。洞の奥は闇が深く、附近の灌木の後にも、ひと回り小さい洞がもう一つある。  僕はこうした岩穴を見るのは初めてだが、話だけは前に獣医から聞いた憶えがあった。≪鳩穴≫といって、むかしこの火山帯の噴火の際、熔岩流によってできたもので、真夏でも奥は万年氷が張りつめているそうだ。僕は馬を曳いた後の暑さで、洞の冷風が快く、しばらくその前にたたずんだ。洞口は水滴でぬめ[#「ぬめ」に傍点]り、不気味なほど暗い奥に、微かに光るのが氷柱らしい。僕はそれを見て急に、以前父が作業していたという隧道《トンネル》口を思い出した。  父は生前、鉄道局の工務部で働いていて、病気で死ぬ頃は軌道敷設の工事現場にいた。母の言葉によると、工務主任だそうで、僕は一度、父が完工させたという隧道《トンネル》を見にいった。一昨年、僕が大学へ入りたての夏で、僕はやはり立川の米軍施設にアルバイトしていたが、ある日の帰り、ふとその隧道が、さほど遠くない下《くだ》り沿線にあることに気づき、行ってみたくなったのだ。しかし、実際目でみたものは、何の変哲もない小さな隧道だった。暗い坑内の赤茶けた標識燈、剃刀のように光る四本のレール——それだけだ。しかも帰りは駅から遠いため、秩父丘陵の線路端を一時間近く歩かねばならなかった。  だが、僕はその途中、貨物の引込み線を通った時、「ええい、よう。ええい、よう。」と歌うような男たちのかけ声を聞いた。五、六人の保線工夫が、夕闇のなかで鶴嘴《つるはし》をふるいながら出す声だが、僕はそれを耳にした瞬間、不意に父の肉声を聞く気がした。工夫たちのかけ声にはまるで素朴な俚謡《りよう》のような、あるいは謡曲の≪破≫調のような力づよい音律があり、かつて父も同じものを歌っていたからだ。いや、それは僕が聞いたことのある、ただ一つの父の音曲だった。無口で、不器用な父は僕が幼い頃、よく僕の体を抱えて宙へ抛るようにしながら、そんな作業唄を口ずさんだ。僕は長い間線路端に立ったまま、この日わざわざここまできた自分の気持が、初めて報われる気がした。父の煙草の脂《やに》くさい息。肉厚の剃刀痕だらけの頤。深く包みこむような頑丈な両腕。そういう生《なま》の肉体の感覚を、僕は全身に甦らせた。父は芸も道楽もない人間だが、何よりがまん強かった。僕の小学生時代、四年間戦争で南支へ応召して、腰椎銃創で内地へ送還された。元の鉄道へ復職した時も、まだ腰の傷はなおりきらず、仕事と闘病をつづけたが、その間痛いとも言わずに耐えた。  僕は鳩穴の氷柱が、隧道の鉄路のように光るのを見ながら、その闇の奥から「ええい、よう。ええい、よう。」と父の声が聞えてくる気がした。それはなぜか、鞭のように僕の背すじをひきしめた。僕はこの数日、今の仕事を離れたいとばかり考えている自分が、急に腑甲斐なく思えた。なぜ、現在不可能なことに未練をもつか。他人をたよらず、黙って自分のできることに力をつくせ、と父に言われるような気がした。  僕は立木につないだ馬を見廻した。三頭がこうして陽を浴び、草を食《は》んでいる間に、自分のすることはないかと考えたのだ。僕は当面、サプライへ行ってみることにした。移動間際のようすも気がかりだし、獣医から何か連絡が入っているかも知れない。  苗木林の小道をぬけて、営門前へくると、僕は自分がもう通行証《パス》をもってないことに気づいた。だが、幸い衛兵が顔をよく知っているGIなので、笑いかけると黙って通してくれた。傾いた陽が本廠舎のコンクリ壁に照りつけ、その長い影のなかで大勢の兵隊たちが、車へ荷物を積み下ろしている。僕はそれが佐世保からの到着便ではないかと、近づいてみたが、どうやら輸送車は三台これから出発するようだ。しかし米兵たちの間で、一人の若い将校が積荷を指揮していて、僕をみると、 「What's the matter?(ドウシタ。)」と声をかけた。  かねて僕ら学生に馴染みあるクレイヴン少尉だ。クレイヴンはポートランド大学を出たばかりという、まだ学生気質のぬけない将校で、気楽に日本人学生に話しかけ、たまには宿舎へ遊びにきた。米国兵には日本人要員を尊大に見下すタイプと、好奇的に親しんでくるタイプと両方いるが、クレイヴンは後の方の素直な西部青年で、青臭い議論などしても、僕のブロークン英語でけっこう通じた。 「Arrived the trucks from Saseho? that must get'n our Docter.(佐世保カラノ便ハ着イタダロウカ。獣医ガ同乗シテル筈ナノダガ。)」 「アア、佐世保カラ?」クレイヴン少尉は気忙しげに言った。「午後ノ便ガ十五時ニ着イタバカリダ。シカシ獣医ハ、見カケナカッタナ。」 「ソウ、アリガトウ。」  僕は獣医が午後の便で着かなければ、今日は帰れないわけだ、と落胆した。僕は咄嗟に≪伝貧≫のことを、クレイヴンに相談しようかと考えたが、しかし松岡も言ったように、まだ何の確証も出ないうちは話す段階でないと思いなおした。その代り、サプライが移動したあと、残った買附け馬はどうするか、と質問した。すると、クレイヴンは解りきったことだと言わんばかりに、次のキャンプの責任者に申し送っていく、とこたえたが、突然、 「Now,」と、昂奮して叫ぶような声をあげた。「Now, I'll cross over the deep river, Remember? Deep river.(オイ、イヨイヨ俺ハ深イ河ヲ渡ルヨ。憶エテルカ、深イ河ダ。)」 「Deep river?(深イ河?)」  僕は思わず相手の真《ま》っ赧《か》に上気した童顔を見つめた。それはいつか、彼が僕らの宿舎へきて、議論をした時使った言葉だ、とすぐ思い出した。僕ら学生が、作業後の宿舎で交す文化論や政治論など、旅行中に楽しむカード遊びのようなもので(少くとも僕自身はそうだ)、そこへクレイヴンが加わると、言葉が不自由なためもっと雑駁《ざつぱく》になるが、彼はいつも生真面目で、熱心だった。学生のなかには、自分が米軍の仕事を手伝い、寄食しているくせに、口さきの思想だけラディカルな反米革新派がいて、九月に締結される日米講和と安保条約への批判や、米国による基地化への抗議を、クレイヴンにむけると、彼はムキになって反論した。  その言い分は、アメリカが大国の資力と軍事力で、アジアを共産侵略から守っているのだから、当然日本はそれに協力する義務があるという、ごく常套的な主張だが、彼がいかにもアメリカ青年らしい大らかな真率さで言うので、僕もつい口をはさんだ。僕は大勢のアメリカ人が、まったく他国である朝鮮の南北の争いに命を落すことに——あの第八軍司令官ウォーカー中将や、母国で平和な家庭が待つ無数の市民まで、死んでいくことに、何の抵抗も感じないかと聞いたのだ。すると、急にクレイヴンは雀斑《そばかす》の浮いた白い頬を硬くし、長い間黙りこんだ。それから、口のなかで|Deep river《デイープ・リバー》, |Deep river《デイープ・リバー》と呟いた。彼は言うのだ。正直なところ、俺は戦っていない。俺はこの日本の安全な兵站にいるので、今戦場で刻々血を流している同僚との間には、朝鮮海峡より広い、|Deep river《デイープ・リバー》がある。だから、俺は本当をいえば、戦うのが恐いし、その意味を疑うし、いろいろなことを考える……。 「Oh, cross over! when depart'ou here?(ソウ、イヨイヨ。出発ハイツ?)」僕は言った。 「Tomorrow, tomorrow morning.(アスダ、アスノ朝ダ。)」  クレイヴン少尉は大声で、兵隊の荷積みに指図し、突然、発情した獣のように充血した顔でふりむいた。「佐世保サルベージノ有様、知ッテルカ。揚陸スル死傷者ハ会談前ノ倍ダヨ。畜生。俺ハ闘ッテヤル。ソウ、ヤット深イ河ヲ渡ルンダ。イヤ、ソンナモノ、初メカラ存在シヤシナインダ。俺ハ今、ドンナ人間モ殺セルゼ。イクラデモ血ヲ流シテヤル。俺ダケジャナイ、アソコニイル部下ダッテソウサ。誰ダッテ、ソウナルサ。オ前ダッテ、ソウナルサ。」  彼は自分の言葉で感情がかき立てられたように、地上に高く積んだ木函のところへ飛んで行き、煙草を二、三カートンつかんでくると、|G'bye《グバアイ》と言って、僕の手へ押しこんだ。 「サヨナラ。武運ヲ祈ル。」  僕はあわててそう言ったが、クレイヴンはちらと白い歯を剥き、また兵隊の方へ大声でわめいて走り去った。  僕は煙草の函を腕に抱え、一瞬ぼんやりと彼らの作業を眺めた。それから営門へむかって歩き出した。あいつ、戦場へ行くんで、うろたえてやがる。そう思ったが、僕の中には奇妙な淋しさ、羨ましさが襲ってきた。それは一つのつよい疎隔感でもあった。この構内の人も車も移動のあわただしさに満ちていて、自分だけがその圏外で、とり残されるような気持だ。殊にクレイヴンは急に僕の理解を阻む、別の生き物に変ってしまった。僕自身に較べれば、彼は生命ごと何か切実な形で、祖国の現実と深い関わりをもちはじめ、そこへ食《くら》いこんでいる気がした。僕には彼の紅潮した雀斑づらや、ぎらぎらした青灰色の目が、羨望をそそるほど美しく見え、自分を空虚に感じた。  僕は芝浦の恤兵部《サルベージ》でかい間みた、兵隊の揚陸屍体を思い浮べた。それらは釜山や仁川から、船のハッチで冷蔵輸送され、僕の仲間や芝浦の沖仲仕たちが、襤褸《ぼろ》をつくろうようにそれを縫い合せる仕事をしていた。事によると、クレイヴンもああなるだろう、と僕は思った。あの若いヤンキーは、襤褸のように死ぬだろう。いやあの金色の産毛《うぶげ》のはえた腕で、黄いろい皮膚の東洋人を殺すだろう。  苗木林へきた時、木立のあいだを、女子学生が小さな運搬車を曳いていくのが見えた。陽なたに干しておいた藁らしく、元醸造樽の手押し車に堆《うずたか》く寐藁がつんである。 「どこへ行ってたの。」大原順は無表情に言った。 「キャンプだ。」 「ちょっと来て。黒鹿毛が悪いのよ。」  大原順は裏屋の庭へ、運搬車を曳きこむと、藁を両腕いっぱいに抱えあげ、土間口へ入った。いつもの馬房へ行くつもりで、僕もついていったが、相手は土間の反対側の空部屋へ藁を抛りこんだ。そのなかにはすでに干しおえた寐藁が敷かれ、すこし狭いが、麻縄で馬三頭のスペースを区切ってある。きれいに掃除もすんで、消毒の石炭酸の匂いまでするのは、いかにもこの女子学生らしい手際だ。 「こっちへ移すのかい。」 「黒鹿毛の方を移したいんだけど、とても動かせる状態じゃないのよ。」  僕は前の馬房をのぞいた。三頭分の馬具が片づけられて、だだっぴろい暗がりに、黒い臥牛のような影が蹲っているが、それは黒鹿毛だろうか。僕が電燈をつけ、近づいてみると、馬はもはや立つ力を失い、寐藁の上へ脚を折って、跪坐《きざ》してしまったのだ。鼻を藁のなかに埋め、腹が異様な風船のように膨れて、波うっている。鈍く開いたままの目。びっしり水滴をふき出した口唇。失禁でもしているのか、あたりに生温い尿の匂いが漂い、僕は憐むより嫌悪にかられて、その場にたたずんだ。 「多分、もうだめね。」大原順が背後で言った。  僕はその声に微かな感情の動揺を感じて、ふり返ると、相手の目には恐れに似た色があった。 「何の手当もしようがないかな。」 「むだでしょう。でも、何か応急の薬あるかどうか見てみる。一緒にきてよ。」  大原順が居室の方へひき返すので、僕もついて行きながら、確かにこの馬は助かるまい、と思った。むしろ、この疑伝貧馬は今のまま死んでくれた方がいい……。  獣医と僕の共同の居室へ入ると、大原順は壁際の戸棚をあけ、なかの大きな薬品函を乱暴に手でかきまわして調べた。それから寐台の下の包装函をのぞいたりしたが、 「獣医さん、医療品を運ぶ口実にしたそうだけど、診察鞄や大半の薬までほんとに持ってったのね。今日もまだ帰らないし、どういうつもりかしら。」と首をかしげた。  僕も戸棚をみると、なるほど松岡の大きな皮トランクのほかに、注射剤の空罐とか、使いかけの薬品函があるばかりだ。 「佐世保へ行くついでに、実際に医療品から先へひき揚げておくつもりかな。」僕は言った。「いずれにしろ、今日はもう輸送便がないから帰れないよ。」  米軍の便に乗れない場合、山間の専用道路は通行できないが、北目の漁港まで、有明海沿いに鉄道を乗りついでくる方法がある。  しかしそれは大変な迂路で、時間がかかるし、第一北目の港からここまで、遠い登り道を歩くのでは、とても今日中に間に合わない。 「考えてみれば、佐世保への往復と血液検査を、一昼夜でやろうというのも、むりなんだ。もう一日待つほかないな。」  しかし大原順は、返事もせず寐台の端へ腰をおろし、何か気にかかるように黙りこんだ。あまりそれが長いので、 「何を考えこんでるんだ。」と僕が聞くと、一瞬暗い、不機嫌な顔でこっちを見た。 「獣医さんの立場を考え直してるのよ。」大原順は言った。「私、あの人が佐世保の将校ハウスを回診してる時以来、アルバイトで看護婦役やってるから、少しあの人のことわかる気がしてたのよ。つまり松岡獣医というのは、外見が垢ぬけてて、仕事がアメリカ風にやり手で、誠意がある。あなたもそう思わない? でも私、あの人が診察してる時、その指の長い女みたいな掌をみて、急に厭な気がすることがあるの。何かそこだけ、女性的な陰湿な感じがして厭なのよ。誰でも、そんな他人にわかりにくい人間の一面や、理解できない立場があるんじゃない?」 「理解できない立場?」  僕はなぜ相手が、そんなことを急に言い出したのか訝《いぶか》った。 「多分あなただって、松岡獣医の立場を正しくわかってないと思うの。例えば質問するけど、もし黒鹿毛が≪伝貧≫だったら、次にどういう結果がくる?」 「それは当然、他の三頭にも、うつってることになるだろう。同じ厩舎にいたんだから。」 「それが、わかってないって言うのよ。」  女子学生は僕をやり込めるというより、陰気な独り言のように言った。 「同じ厩舎にいたのは、三頭だけじゃないわ。一昨日《おととい》まで追込み厩舎で、延べ百頭近い馬がいっしょにいたのよ。その馬たちにも、うつってると見なけりゃならない。どれも発病の可能性がある馬なんて、使いものになると思う? サプライにわかれば、勿論すべて松岡獣医の責任だし、アメリカ式の弁済を負うなら、これまでの獣医の報酬全部でも足りないわ。あなたがその立場なら、どうする?」  僕は自分の迂闊《うかつ》さに、心の中で唸った。なるほど、そういうわけか。僕は松岡の立たされた非常な窮地に、初めて実感で触れた。きのう、彼が馬房で脂汗を垂らし、長いこと歩き廻っていた気持も、やっとわかる気がした。 「僕がその立場なら?」僕は言いよどんだ。「佐世保の軍病院へ行く以外、方法があるというのか。」 「さあね。」  大原順はそれきり陰鬱に口をつぐんだ。  何を聞いても、かたくなに沈黙しているので、僕はしまいにいらいらした。この強情者。僕はこの大原順の方が、よほど理解しにくい人間だと思った。本来は≪女性≫の筈なのに、一人で獣医の助手なんかして基地めぐりしてるし、大学が嫌いだというくせに国立大学生だし、態度が生硬なくせに、恐しく感受性がつよそうだし……。僕は二人でしばらく黙り合っていると、自分の不快がつのりそうで、居室の外へ出た。  庭の陽は、すでに冷たい夕方の檸檬《れもん》色を帯びていた。僕は急いで薊谷へ、三頭の馬をひきに降りて行った。     ㈿  翌朝、僕はクレイヴン少尉の出発を見送ろうと、起床後すぐキャンプへ行った。  しかし表門の有刺鉄線ごしに見ると、幌附輸送車の数は少く、構内も閑散として、すでにサプライが発ってしまったとわかった。衛兵も見知らぬ顔と変っている。僕はそのまま寐起きの放心に似た気持で、しばらく構内を眺めた。  天空が深い海溝のように碧く明けそめて、雲仙の尾根を縁どり、そこから吹き下す肌寒い大気が、体をひき締める。雲を透した朝陽は、兵舎まえの草原につよい条《すじ》になって降り、その光のなかをFRCの米兵が歩いている。彼らは今度増員されたとはいえ、サプライがいた時に比べると、ずっと小規模な感じだ。兵舎にも、僕らのいる裏屋のような空き棟が幾つもできている。僕は元の要員宿舎の戸口に、組立寐台が幾つも積まれているのをみた時、そこに松岡獣医の荷物が、まだ一部残っているのを思い出した。あれは抛っておいて失《な》くならないだろうか。僕は人ごとながら、急に気にかかった。  だが、構内へ入るにも通行証《パス》がないので、僕は思いきって衛兵に近づき、正直に事情を話した。多分、前に要員として支給された草色の作業服が、役に立ったのだろう。衛兵は頷き、荷物をもってすぐ戻ってこい、と言った。  元の宿舎の戸口を入ると、廊下で兵隊が三、四人、寐台や椅子を運びこんでいた。僕らが起居していた大部屋にも、そんな用度品が並んでいるが、奥のロッカー室は以前のままだ。僕はロッカーの列の間を歩いて、すぐに松岡の所持品を見つけた。彼のロッカーの上には、一昨日運びきれなかった大きな木函があったからだ。僕はそれを両腕で抱え下ろしたが、中身は意外に軽い。蓋をあけてみると、錆びた膿盆とか空《から》の金属容器とか、半ぱな医療具ばかりだ。ロッカーの扉をあけると、なかに獣医の要員服、雨ゴート、古手拭などがつり下っているだけで、目ぼしいものは何もない。僕は不審を感じた。たしか、一昨日までロッカーの上に、もう一つ皮トランクが乗っていた筈だ。獣医はあれに主な品物を入れていったのだろうか。そう考えた時、突然僕のなかに、衝撃に似た疑念が閃いた。獣医は、帰らぬつもりで出かけたのではないか。  容易に信じられないことだった。僕はまさか、という疑いと、もしそうなら、という思いが入り交り、混乱してそこに立っていた。が、その時、 「Hey, what're doing?(オイ、何シテル。)」  廊下で作業中の兵隊たちのなかから、大声がこっちへ飛んできた。みると、彼らの頭株らしい黒人|軍曹《サージアント》が、大股に歩いてきて、 「Who? For wha' purpose cam' here?(オ前ハ誰ダ。何ノ用デココニイル。)」 「I'm an employee(私ハ日本人要員デス——)」  僕は咄嗟に口ごもったが、それでも衛兵に話したのと、ほぼ同じことを相手に説明した。すると、黒人軍曹は乱暴に手で遮って、いやいや、ここには要員《インプロイ》は一人もいない。このFRCキャンプに日本人は入《はい》れない、と言い、僕の袖をつかんで廊下へつれ出した。そのまま戸口を出て、営門の方へつれて行こうとするので、僕は待ってくれ、と頼んだ。僕ら元要員のことや、徴集馬四頭のことは、サプライから誰か上官へ申し送りがいっている筈で、聞いてみてくれ。そう言うと、軍曹は急に眉墨色に光る顔をむけ、目を剥いた。Sure?(ホントカ。)彼は僕の腕を放し、FRC廠舎の方へ歩みを変えた。  僕は黒人軍曹について歩きながら、まだ頭を松岡獣医のことで占められていた。もし獣医が帰らないとしたら、今彼らに≪伝貧≫のことを話した方がいいのではないか。米軍側に、適当な処置をしてもらうためのいい機会ではないか。僕は自分の惑いをふっ切って、一瞬心をきめた。  本廠舎のコンクリート壁の脇をぬけて、FRCの金網塀へ出た時、黒人軍曹は塀と遠くの有刺鉄線を指して、何か言った。それはあまりに早口で、訛りがつよく、意味がわかりにくいが、相手の指が以前〈OFF LIMITS〉(立入禁止)のプレートのあった塀をさすのを見て、僕はほぼ推察がついた。どうやら、そのプレートの禁止区域は、今度有刺鉄線にまで拡がったのだから、お前たちはキャンプに立入りできない、と言っているらしい。  金網のすぐむこう側、暗緑色の迷彩を塗ったFRCの建物のまえで、十人近い米国兵が何の器械か、見あげるような大きな白木の梱包の枠を分解しており、その殺気だった甲高い声が耳をうった。黒人軍曹は金網の出入口で、僕に待ってろ、と言い、自分だけなかへ入ると、兵隊たちを指揮している将校に律義な敬礼をした。  軍曹がその将校と話しはじめるのを、僕は落着かぬ気分で見まもった。今度の移動で着任した指揮官だろうか、大尉の襟章をつけた、僕の見慣れない将校だ。米国人にしては小柄な、頬や目じりの皺の深い、老大尉《オールドキヤプテン》といった感じで、おそらく僕のことを話している筈だが、こっちへ目もくれず、兵隊たちを見つめている。  しかし黒人軍曹はこっちへ戻ってきながら、先刻より表情を柔らげ、頷いてみせたので、僕はやや安堵した。確かにサプライから、徴集馬のことは聞いてる、と彼は言った。医者の適格証明がとれたら、すぐ幌附輸送車《ワゴン》のあるうち馬を連れてこい。二三日なら、まだ補給本部のワゴンがあるから、佐世保へ輸送する。  適格証明はないのだ、と僕は言った。それから足もとの深い亀裂を飛びこえるような思いで、つけ加えた。馬の一頭に、≪伝貧《スワンプ・ヒーバー》≫の疑いが生れた。≪伝貧≫とは、他の馬にうつる貧血病で、すでに輸送ずみの馬にも感染の恐れがある。  僕がそれを大尉に伝えてくれ、と言うと、黒人軍曹は|Hoa《ホウ》、|Hoa《ホウ》と肉厚な唇をまるめて、驚いたように、腑に落ちぬようにこっちを見たままだ。僕は相手の医学的無知と、自分の英語の無力に空廻《からまわ》りしながら、何度も説明すると、やっと軍曹はわかったらしく、急いで金網のむこうへ戻って行った。  老大尉は軍曹の話を、前と同じ無表情さで聞いていたが、今度は一度だけ僕の方へ目をむけた。それから、ギスギスした厳《いか》めしい歩みで、こっちへやってきた。 「Swamp-fever?(≪伝貧≫ダト?)」彼は作業を見やすいように、出入口の手前から話しかけるので、僕らは刑務所の面会のような金網ごしの対話になった。 「It's certain?(確カカ?)」 「Yes.」  僕は言ったものの、一瞬躊った。確かかどうか、調べるため松岡が佐世保へ出かけたのではないか。その実証がない限り、断定はできないのではないか。そこで僕は、松岡獣医がそれを確かめに佐世保へ検査に行ったが、いっこうに帰らない、と言うと、老大尉はそれなら検査の結果を待て、と即座に告げた。病気の疑いについては、自分からも佐世保の補給本部へ連絡するし、何かあればこのカーター軍曹をそっちへ知らせにやる。だから、許可なくして構内へ立入るな。  大尉がせかせかと気短かに言うので、僕はそれ以上獣医のことを話す隙がなかった。また話したところで、その面倒な成行を相手に理解させえたか、疑問だったろう。何より僕は、大尉が佐世保の本部へ連絡すると言ったことに、満足していた。計らずもキャンプの指揮官と直接話ができて、一抹希望が見出せた気がした。  老大尉がすぐ兵隊たちの方へ戻ってしまうと、カーターと名を呼ばれた黒人軍曹は、僕が構外へ出るのを見とどけるように、門まで一緒についてきた。僕は先刻、軍曹が二、三日うちなら、佐世保行のワゴンがあるといったのを思い出し、万一必要な時、自分をそれに乗せてもらえれば、と考えて、軍曹に聞いた。すると、「|No《ノー》」とカーターは言った。サプライが去って、便《びん》が非常に少くなったし、第一お前はいま正規な米軍要員でないから、という返答だ。  苗木林をぬけて、裏屋へ戻ると、大原順が庭の流し場で、飼料桶を洗っていた。大原順は眉をしかめ、 「黒鹿毛が死んだわよ。」と僕に言った。 「死んだ?」 「夜中のうちらしいわ。」  予期しないことではなかった。しかし、いつも死[#「死」に傍点]という事実に触れた時の、昇降機《エレベーター》が無限に降下するような感覚が僕を襲い、それから急に重荷がおりて、ほっとした気持に変った。黒鹿毛は死んだ方がいい、あいつこそ、すべての災いの根源なのだ、と僕は思った。 「キャンプへ行って、要員宿舎をのぞいて見たけど、松岡獣医、自分の荷物をほとんど運んじまってるぞ。」 「ほとんど?」  大原順の血の気のない顔が、突然まっ赧になった。その唇は何か言おうとして、開かれたまま、小さく動いた。 「やはり。やはり、そうなの。」女子学生の手が、われを忘れて濡れた飼料桶を二度三度たたくので、冷たい飛沫が僕の顔へかかった。僕はそれほど感情をむき出した大原順を初めて見て、びっくりし、僕自身、相手に感応したように、怒りが熱い驟雨《スコール》のように湧いてきた。 「何て卑劣なの。ちょっと部屋を調べてみるわ。」大原順が土間口へ走りこむので、僕もついて行くと、部屋へはいり、獣医の皮トランクや薬品のがらくた函を、乱暴に床へひきずり下ろした。薬品函のなかのガラス瓶が音たてて、毀れた。大原順はトランクの蓋をあけながら、その外ポケットからはみ出した褐色の古封筒を手にとった。そこにローマ字で僕と女子学生の名が走り書きしてあるので、なかを見ると、何枚も日本円の札が入っている。 「これ何のつもり?」  大原順はまるで僕を詰《なじ》るように言った。 「何か出費があれば、ここにあると言ってたが。」 「なぜ、二人の名前が書いてあるの。これは私たちへの報酬のつもりなのよ。」大原順は汚れた靴下や下着類が入っているトランクのなかへ、封筒ごと投げこんで、ばたんと激しく蓋をした。その中身は多分、僕らの日給のひと月分ぐらいはあるだろう。報酬にしてはかなり過分な金額だ。 「あの人らしいやり方だわ。合理的に、報酬だけははらって行く。これだけやれば文句はあるまい、君たちも好きなようにし給え、そう言ってるみたい。」  女子学生は声を顫わせて言った。 「こんなことするところを見ると、やはり≪伝貧≫だったんだな。」 「そうとも言えないわ。あの人、初めからこれだけ準備して出かけた以上、きっと佐世保の軍病院へ行ってないわ。もし行って、≪伝貧≫という結果が出れば、自分から米軍へ知らせて、わざわざ騒ぎを起すようなもんですもの。検査の真実の結果で、万一ひどい目に遭うより、すべて曖昧に蓋をしとく方がいいと、多分思ったのよ。サプライの馬が全部海輸され、自分が遠く別府へでも行ってしまえば、このままうやむや[#「うやむや」に傍点]にすむ可能性がある。あとは私たちに充分報酬を出して、病馬を委せればいい。そんな計算よ。卑怯に真実へ目をふさいで、にげたのよ。腐った米軍の寄生虫よ。戦争寄生者よ。」  大原順が顔をまっ赧にして怒るのに、僕は圧倒された。僕はこの相手が、これほど女らしく感情を露骨に喋るのを初めてみたが、その紅潮した目もとには、今までにない奇妙な女性的魅力さえ見えた。 「私にがまんできないのは、こんな報酬を置いて、あの人が自分の行為を合理化してることよ。あの学生たちには、するだけのことはしてやった。あとは馬をどこかへ処分しようと、おき去りにしようと、学生たちの自由だ。そう考えて、きっと大して自責も感じてないのよ。いえ、まだ心のどこかで、≪伝貧≫でないという自分の見方に固執して、俺は不運な被害者だぐらいに思ってるかも知れない。それががまんできないの。どうやったら、あの人に自分の行為の非を教えられるの。私は厭よ。あの人と同じ真似はできないわ。」  そうだ、同じ行動はできない、と僕自身思った。自分と大原順は、一瞬共通な衝動に支配され、二人の間にいや応なく身近な連帯感が生れかけていた。しかし相手があまりに感情が激しているため、かえって僕の方が冷静に覚めた。自分たちのこの衝動は、何なのか。その意志が憤りから出ていれば、危険なものではないか。たとえ男みたいな大原順でも、そういう女性の衝動は、あとで弱さを現しはしないか。  少くとも、僕自身のこの意志は、モラルのような高級なものではない、と考えた。僕はいつも他人を裁きうる正当性を望んでいるが、それを見出せたことがない。松岡獣医を戦争寄生者というなら、米軍の仕事で学費をかせぐ僕自身も正にそれだ。いや、佐世保や芝浦の異様な活気をみると、日本全体がそうではないかと思えるくらいだ。僕はアルバイトの仕事でも、要領よく振舞うから、獣医の要領よさを咎める権利はない。ただ、今この瞬間、獣医と同じ行動がとれないという気持ばかりが、強く、確かなだけだ。僕のこの意志には、何の理由もなく、どんな言葉にもできない。僕はむしろ、そこに倫理的な理由のないことを無念に思った。  この何かしらの欠如感。僕は中学生の時、敗戦直後の晴れた蒼空を、うっとりするような空虚で見上げたことがあるが、この感覚はあの空の眺めに似ていた。あの蒼空には、どんな言葉も観念も撥ねのけてしまう深い虚ろさがあった。 「僕らは、とにかく馬をきちんと処置するまで、ここにいよう。」僕は言った。「それにしても、キャンプで将校に会えてよかったな。」 「将校?」 「ああ。」僕は女子学生に、先刻キャンプでのいきさつを語った。死んだ黒鹿毛を別にして、三頭の馬の処置は米軍か、あるいは地元に頼むしかないが、当面老大尉が佐世保へ連絡すると言った以上、それを待つのが最良だと、僕らは結論した。 「馬房へ行ってみよう。」  僕は一応の話がきまると、急に黒鹿毛のことが心にかかってきた。まず大原順と、三頭の馬の部屋をのぞいたが、どの馬も別に変りなく元気だ。≪サク≫はいつの間にか、女子学生になついたらしく、そばへ寄ると白い鼻面を無心に摺りよせた。  黒鹿毛の馬房へ一歩足を踏みいれた時、僕はその広い暗がりに、早くも甘い花芯ににた死の匂いを嗅いだ。狭い通気窓から弱々しい光が床に這いより、そこに黒鹿毛は四肢を行儀よく伸ばして、横たわっていた。かたく閉じた両目。溺死した鼠のように黒く寐た被毛。うき出した肋《あばら》……。  こいつをどう始末したものか。僕は嫌悪をこらえて、見下ろしていると、後で大原順の大きな吐息がした。ふり返ると、相手の顔に日頃にない怖じ気が見える。僕はこの屍体の始末は自分の役目だ、と思った。 「君はさっきの飼料桶を洗っててくれ。」僕は土間口へ降りながら言った。 「これをどうするの?」 「埋めるほかないな。俺がどこか適当な場所を探して、片づけるよ。」  そうは言っても、馬の体は大きい。健康な馬なら、体重は四百キロもあるし、あの病馬でも多分三百キロは下るまい。とても遠くへ移せないし、第一僕自身運べるかどうか。  僕は庭や附近の樹林を物色して、結局庭のいちばん奥、崖下の土の柔かい場所にきめた。秋とはいえ、日中はまだ暑く屍体の腐敗も速いから、ぐずぐずしていられない。僕は元の穀物庫から、昨日女子学生が寐藁を運ぶのに使った小さな運搬車や、銹びたスコップを探しだした。だが、墓穴を掘るのもひと苦労だ。馬の体を入れるには相当大きな穴が必要だし、なるべく深く埋めたい。  僕はスコップを使って、掘り出したが、表面柔かそうな土にみえても、下の方は熔岩塊などが混って硬い。僕はすぐ汗と泥に汚れて、掘り進めながら、父も一生の大部分、こういう単調な、筋肉的な作業をしつづけたのだ、と思った。鉄道の工務主任と言っても、晩年のことだし、母のつくり話らしい。母がそんな風に、父を少しでもえらく見せようとする気持に、僕は頬笑ましさを感じた。年老いた母を、今も寮で働かせている僕は、他の学生とはちがう。母の期待や願いに、応えねばならない。そこには何の理窟もない。そう思う僕が在るだけだ。だから、僕は少しでも大学の新学期の時間を、のがしたくない。 「まるで、塹壕掘りみたいね。」  女子学生が洗った馬具を、日なたへ干しにいきながら、土の上から言った。 「そうさ。黒鹿毛も一種の戦死者だよ。」僕は言った。「でも、人間って奴は、なぜこうも飽きもせずに戦争できるんだろう。つい五、六年前、大戦争が終ったばかりなのに。多分、十年後も戦争をやってるよ。核兵器ができて、全面戦争ができなけりゃ、今度みたいな局地戦を。アフリカか、中近東か、インドシナか。いつも地球のどこかで、人間の膿《うみ》みたいに戦火を吹き出している。その代償で、他の国々は平和らしいものに浸れるんだ。」 「でも男の人って、不思議ね。家庭では子供が膝をスリむいても心配する父親が、戦場へ出ると、顔も知らない相手を何人でも撃ち殺すんだから。男性の潜在的な衝動に、原始人の血を好む狩猟本能みたいなものがあるのかしら。」  女子学生が、こんなに言葉を喋るのはめずらしかった。先刻以来、やはり昂奮しているのだろう。  僕が墓穴を掘りおえた時、午過ぎになっていた。二時間はかかったろう。僕は黒鹿毛の大きな屍体をどうやって運ぶか、思案した末、木製の運搬車を持って、舎内へ入った。  馬房の床へ、運搬車をおき、そこへ黒鹿毛の体を積むつもりだが、いざ馬の屍体を前にすると、容易に手で触れかねた。異臭の漂う黒いかたまりが、何とも忌わしく、重そうに思えた。僕は車に乗せるために、前肢の蹄をつかんで曳いたが、動かない。思いきって、馬の頸を両腕で抱えおこし、渾身の力で、車の方へひき摺ったが、荷台が小さい上、車が動いてしまって、うまく乗らない。  一瞬、進退極まっていると、硬直した馬の胴体が不安定な軸のように廻り、僕は屍体もろとも床へ倒れた。太腿で胸をうたれ、息がつまった。立上ろうとしても、物干竿みたいにつっ張った後肢の重さで、体が起せない。乾いたざらざらの被毛。甘酸っぱい臭気。いったい、こいつは何だろう、と僕は疑った。ほんとうに、こいつは生命を失ったものだろうか。生命のないこの体は、確かに物体なのだろうか。物体とはもう少し輪郭が鮮明で、整然としたものではなかろうか。これは何とも名づけようもない存在、われわれの生命の上にのしかかる闇のような、根源的な存在ではなかろうか。  僕は床から起上ると、今度は運搬車が動かぬように、麻縄で柱へ固定した。それから、また馬の頸を車の上へ抱えあげ、荷台から辷り落ちる臀や四肢をおし上げて、悪戦苦闘の末、やっと麻縄で馬体を車に縛りつける作業をおえた。  その体に莚をかぶせ、車をひいて舎外へ出た時、日盛りの日光が眩く目を射た。太陽の下では、黒鹿毛の被毛も貧しげなものにしか見えず、僕は太陽がこれほど素晴しく力強く思えたことはなかった。  壕の中へ、荷台から馬の体を滑りおとし、莚で蔽った。そしてかなり長い時間かかって、その上へ土を被せると、ちょうど円形古墳のような土饅頭になった。僕はその頂上へ、崖下に咲く黄菊を一本挿した。眠れ、この醜く名づけがたきもの……。  僕は筋肉作業で、海綿のように脹れた体を外流しへはこび、思いきりよくシャツもズボンも脱いだ。そうして冷たい水を頭からかぶり、泥と汗を洗い流した。     ㈸  次の日から、僕らはキャンプの連絡を待った。僕は例えば、老大尉から連絡をうけた佐世保の補給本部が、急きょ検疫の車をここへ廻し、馬を調べに連れさってくれることも、あり得る筈だと期待していた。それが最も理想的な処置として、また充分可能性あることとして、僕は望みをかけた。  だが反面、二日たっても、いっこうカーター軍曹がやってこないと、果してあの将校は佐世保へ通報してくれたのだろうか、と心細くなった。≪伝貧≫という事実にたいして、僕らが抱く重さと、彼らの感じ方にひどく差があるのではないか。僕の言葉の至らなさもあって、そうした理解が外国人同士不充分なのではないか、と疑われた。  しかし、その間にも僕らは、けっこう多忙だった。毎朝、かならず三頭の馬の体の状態を調べ、異常がないとわかると、飼葉や水をやる。ただ、何より藁の不足が深刻になってきたので、飼料へ入れる切藁をやめた。その代り、つとめて生草を食べにつれ出した。しかし薊谷の乏しい草も、じきに食べつくしてしまい、僕らは毎日遠くまで生草探しに行くことが、大事な作業になった。寐藁も何度も日に干して使うわけにいかないから、大原順の発案で、適当な草を刈ってきて、太陽に長く乾燥させることにした。  だが、食餌の問題は馬ばかりでなく、僕ら人間にもあった。食糧そのものは獣医がたっぷり運んでおいたので、当分こと欠かないが、それらは米のほか、軍用罐詰のコンビーフ、玉蜀黍《とうもろこし》、マッシュポテトばかりで、三度々々同じものに僕はうんざりしてきたのだ。キャンプにいた頃は、何人か女子学生の給仕もいる米兵食堂で、人並の食事ができたのに、今は大原順が炊事に関してまったく無能だ。一応、炊事の役をつとめているものの、食事に細工を施す芸も材料もないので、本人も黙って食べているのだろうが、内心は僕以上に食欲を失っていることが見てとれた。僕はこの状態が長つづきするだろうかと心配した。  こういう心配は、共同生活の一種の連帯感なのだろうか。しかし、獣医がいなくなっても、大原順の他人行儀は相変らずで、例えば下着など洗濯して、自分の部屋へ干しているようすだが、僕のシャツを洗おうとは一度も言わない。馬のことや多少議論めいた話はしても、冗談とか自分の家庭の話などほとんどせず、晩飯がすむと、さっさと自分の部屋へ入ってしまうのに、僕はいっそ爽快さを感じるくらいだ。にも拘らず、僕らの間には一種の連帯が生じていた。それは一つの共通な目標をもっているせいでもあるが、また同じ舎屋に二十四時間暮して、お互の皮膚に滲みこむ生活の臭い——同じ食べ物の滓《かす》の臭いとか、手足につく同じ汚れとか、排泄物の臭いとか、どの≪家庭≫にも生れる肉感的なつながりだ。  もう一つ、僕に困った問題があった。それは自分の性欲だ。大原順と二人でくらして、相手になお妙な性癖があるとわかったのは、ほとんど羞恥心がないことだ。一度、二人で生草刈に行った時、帰ろうとすると、急に「ちょっと待って」と言って、そばの繁みに入った。思わずみると、作業服のズボンをひき下し、蹲んで気持よさそうな音たてて放尿した。繁みといっても、あまりに距離が近いため、いや応なく小さな尻が僕の目に映り、僕はその部分だけ陽灼けしない皮膚が白いのに、びっくりした。  僕らはいつも厩務の作業で汚れるから、夕方めいめい勝手に屋内の流し場で、体を洗う。いわばそれが入浴がわりだが、ある時水洗場の戸があいているので、うっかり僕が通りかかると、薄暗い流しに大原順が裸で立って体を拭いていた。驚いたように口をまるくあけて、こっちを見たが、一瞬白く透くような腹、小さい乳房、そこだけ豪奢な黒い陰毛が、僕の目に入った。しかし体をすこしも隠そうとせず、すぐ平静な顔で拭く手をつづける。それは故意に僕を刺戟しようというのではなく、どうやら僕の視線に石のように無関心らしい、と咄嗟《とつさ》に思えた。しかし僕の方は無関心ですまなくなり、昼間いっしょに作業していても、ふと相手になまなましい≪女性≫を感じたりした。  三日目に、天候が崩れた。夜明けから、屋根をたたく雨の音がしていたが、朝食頃にはかなり強くなり、風も出てきた。僕は窓ごしに、激しくそよぐ樹林の梢を見ながら、九月が颱風の月だと思い起した。しかもこの地方は例年、颱風をまともに食う。ラジオもないので気象はわからないが、颱風でなければいいがと、僕は考えた。 「干し草がみんな濡れたわね。」  大原順も窓べでもの憂そうに言った。  確かに寐藁の代用にと日光乾燥させてある草は、水びたしになってしまったろう。しかも予期しない雨で、飼葉の生草もあまり刈ってない。僕は土間に飼料桶を並べ、一日の飼葉づくりをはじめたが、手持の生草を庖丁で刻み、米ヌカ、食塩を混合してもいつもの半分の量になった。今日は馬にやる量を減らさねばなるまい。明朝は雨でもどこかへ生草探しに行くほかない。  僕が馬房へ飼料桶を運びこむ間に、大原順は検温をおえていた。馬たちは僕らが首を傾げるほど熱も貧血もなく、まずまずの元気さだ。飼葉と水の桶の音がすると、老牝馬と栗毛が、待ちきれぬように激しく首をふり、蹄で床を掻いた。 「≪サク≫は私たちが生草で苦労してるのを、知ってるのよ。」大原順は≪サク≫の鼻を撫でながら言った。「昨日から、すこしも飼葉の催促しない。ほら、お腹がすいてるのに。」  確かに≪サク≫は、若々しく健啖で、食べっぷりがいい。まだ磨耗もしていない白い歯で、みるみる桶の中の飼葉を食《は》んでしまう。しかし隣の馬のように、がつがつと床を蹴って催促することは近頃なく、実にしずかだ。 「≪サク≫は利口よ。さすがに純血種よ。」  大原順が頸を優しく叩くと、≪サク≫ははげしく顔をその手にこすりつけた。  僕は馬の体が汚れてはいるが、やはりアラブ特有の強くひき締った筋骨と、落着いた気品を≪サク≫に感じた。なぜ、これだけの馬が、血清馬にまぎれこんできたのか。まだ三、四歳なら、北目の放牧場のようなところで母親と一緒に暮すか、りっぱな厩舎で大事に飼育されたろうに。僕はこの馬の運命を決してしまった無様な鼻の白斑と、大きな黒い目を眺めた。  午後になると、案じたほど風は出なかったが、雨が強まった。舎屋が古いせいか、元のひろい馬房に雨が漏り出し、僕らは馬のいる部屋を何度も見廻った。しかし夕方には、庭側の僕らのふた部屋に雨が随所に漏り、僕と大原順はいそいで荷物と組立ベッドを、廊下ごしの元醸成室へ移さねばならなくなった。土竈《どがま》のあるその部屋は狭く、雨で湿った建物の麹かびの匂いがつよくした。  僕らは少くともひと晩、そこで過すほかないが、僕は降りこめられた暗鬱と、同じ部屋の女子学生を意識して、すっかり心が重くなった。その上、相手が鋭くこっちの心を察しているように、日頃以上に寡黙になっているのに、いっそう救われぬ気分になった。大原順は黙ってさっさと荷物や寐台のまわりを片づけ、寐支度した。僕は相手が上着をぬいで、襟に紐飾りのついた白いシャツと、尻にぴったりついた木綿のジーパンで寐るのを、初めて知った。いつもゴロ寐の僕は、相手のシャツが真っ白なのに感心した。  だが、薄暗い電燈の下で、終始僕を無視して横になっている相手をみると、僕は胸がかっとなり、そのジーパンとシャツを剥ぎとって、赤裸の鳥をひねるように、締めあげたい衝動を感じた。日頃こっちを見下す、意地悪い相手を、完膚ないまでにたたきのめしたい……。  しかし、それより先に、大原順はゆっくり上半身を起して僕を見た。 「ね。私を、乱暴したいと思ってるんでしょう。」ひくい、憂鬱そうな声で言った。「だったら、好きなように……。私、一度基地で、乱暴されたことあるけど、大したことじゃない。相手は私の体の上で、溜息ついてたけど、私はそんなやり方に何も感じないの。」  その言葉は、濡れ雑巾のように僕の頬を打った。一瞬、僕の中の衝動も熱気も、すべて萎《な》えた。僕には厭でも、自分が相手の体の上で、冷やかに観察されているさまが想像された。しかも滑稽なことに、僕自身頭の中は性的な知識や想像がいっぱいな癖に、実際の経験は皆無だった。僕に比べれば、相手はどんな「やり方」か知らないが、数段経験が上らしく思えた。 「君は、いつから基地のアルバイトしてるんだ。」  僕は力なく寐台へ横になって言った。 「高校の時からよ。」 「よく家で許したな。君の家はいい家庭のようだし。」 「いい家庭? なぜそんな勝手な想像するのよ。」女子学生は肘で体を起して言った。「私は家が嫌いだから、大学の寮に籍をおいてるのよ。第一、母はとうに死んじゃったし、父は判事で家庭ごと転任ばかりしてきたし、家庭なんて言えるもんじゃない。それに、私こんなに醜いでしょ。小さい時からお祖母さんがお前はみっともないって、妹ばかり可愛がるのよ。妹はほんとにきれいだけれど。」  僕はこの女子学生が醜いとは思わなかった。ただその素顔が、女の化粧や整髪などの粉飾をいっさい捨てたため、埋れてしまっただけだ。(以前と比べ、何という自分の認識の違いだろう。)この相手は女性にめずらしく性でも、体力知力でも傷つかないが、自尊心が深く傷ついたらどうなるだろう、と僕は思った。そういうひりひりと感じやすい孤独な心を、僕は相手に感じた。  僕らはそのまま黙って、屋根を叩く雨音を聞いていた。激しく樹林がそよぎ、轟々と山全体が雨に鳴っているような気がした。生暖かい湿気、古い醸造物の臭いで、皮膚から体内が腐蝕されるようだ。僕はこの鬱陶しさを忘れようとして、母のことを思い浮べた。母は今頃、工場寮の雨戸を締めているだろうか。毎晩、(雨の時はもっと早く)母は寮の廊下や玄関の雨戸を締める。長い廊下の戸は年よりでは重いので、自分がいる時はかならず手伝ったものだ……。と、その時、雨の音を過《よぎ》って、ひと声高く、長く尾をひく馬の啼き声が聞えた。≪サク≫の声だ。そこにも哀れな帰巣の願いに駆られる、一つの存在がいたのを僕は思い出した。  翌朝、さいわいに雨はやんだ。  薄い雲はあるが、その裂け目から柔かい陽が濡れた樹々の上へ射し下した。僕は息をふき返すような思いで、庭へ出ると、今日はもうキャンプからの連絡を待つまい、と思った。自分から出かけて行って結論を出そう。  この朝は、馬に飼葉をやるにも、生草がないので、寐藁用の干し草のなかから、馬の食べられそうなものを選び、一回分だけ作った。その施餌を大原順にまかせると、僕は営門への坂を昇っていった。  有刺鉄線ごしに見る構内は、今日はことに静かだ。サプライがいなくなって、もう大型輸送車の影はなく、ジープだけが二十台余りも本廠舎前にプールされている。GIの姿は二三人みえるが、その動きはせわしげで、むしろ構内全体が緊張したような異様な静かさだ。  僕はこの前以来顔だけ馴染みの衛兵に、カーター軍曹に会いたいと言った。内心、通してくれることを願ったのだが、相手は営門《ガード》ボックスの中の構内電話で、カーター軍曹を呼び出した。  黒人軍曹は、白目を剥いたようなかたい顔で、小走りにやってきた。どういうわけか、手に白金線に似た針金の輪をもっていて、僕を見ると、「Oh, horse!(アア、馬カ。)」と言った。  僕が早速、佐世保へ通報してくれただろうか、と聞くと、カーターは「Ye' Ye'」と頷いて、佐世保では輸送中の馬に今のところ異常がないそうだ、調べて異常が出たら知らせるから、もう少し待て、と言った。  いや、もうそんな余裕がないので、むしろこっちの馬を調べてもらえまいか、と僕はさらに聞いた。すると、軍曹は一瞬目を据えて考え、さあ、それは佐世保の当事者がきめることなので、われわれには答えられない。われわれに判断できる問題ではない。むこうへ連絡しておくから、返事を待て、と早口に生唾を飛ばしてくり返した。それから、彼は不意にジープ溜りにいるGIに目をとめて、手にした針金を差しあげ、「Hey!」と呼んだ。相手が気づかないでいると、急いでそっちへ走って行った。  僕はやむなくひき返した。何かもどかしさが、胸いっぱいに去来した。なぜ、うまく意志が疏通しないのだろうか。≪伝貧≫の疑いときけば、即座に検疫にきていい筈だと思うが、相手に別の判断があるのだろうか。やはり外国人相互の理解の差だろうか。カーター軍曹らが間に介在しているせいか。しかし本来、職務のちがう彼らに、それを要求するのは無理とも言える。彼ら戦争当事者は、それぞれ別の、切実な任務を抱えている筈だ。僕は自分たちや馬が、そうした米軍の厚い組織、戦争のメカニズムにおし出されてしまったように感じた。そしてこれ以上、それに依存せず別の手段を講じようと心にきめた。  裏屋へ帰ると、濡れた干草を日なたに拡げている大原順に、これから地元へ馬の処置を頼みにいく、と話した。 「地元へ。一人で?」  大原順は突然でびっくりしたように眉をあげた。僕はカーター軍曹とのことを説明した。 「いつかの嘱託医か北目の家畜検査所にひき渡して、調べてもらおう。その結果で、処置を任せればいい。もし馬に≪伝貧≫の菌がなくて、地元に寄附すれば喜ばれるだろう。」 「今から? 勿論、≪サク≫も。」  大原順の顔に、躊躇の色がうごいた。僕はそれが≪サク≫への愛着のように思え、その感情を危険なものに感じた。 「でも、もし今日ひき渡すとしたら、せめて生草をお腹いっぱい食べさせてやりたいわ。どこか草地へつれて行ってからじゃいけない?」  僕は咄嗟に考えた。すべて速く運びたいが、昨日の雨で馬たちは半量の飼葉しか食べてない。万一、≪伝貧≫に汚染されていれば、屠殺されるだろう。最後に好きな草ぐらい、たっぷり食べさせてやるべきではないか。 「じゃ、こうしよう。どうせ僕は北目へ降りるから、途中まで二人で馬をひいて行こう。どこかいい牧草地を見つけて、食べさせてる間に、僕は行って戻ってくるよ。」 「いいわ。」  僕らはすぐ三頭の馬を、馬房からひき出した。老牝馬と栗毛を縦につないで、手綱を僕がもち、≪サク≫を女子学生がひいた。  朝からの雲が拭われて、蒼い天空が出ていた。雨後の、水晶のように透明な蒼空だ。南国の陽射しはつよく、専用道路も乾きはじめて、馬の蹄の下から柔かな湯気がたっている。青苔の熔岩粒に辷らぬように、ゆっくり道を降《くだ》ると、眼下に雨で洗われた鮮烈な緑の放牧場がひろがる。遠い放牧馬。北目の漁港のかすかな白い船影。その背後に、有明海が銀色の気流のように流れている。  このへんは急斜面でない限り、僕らが草を刈りつくしたので、思いきって崖ぎわの狭い道を入った。笹と深山《みやま》霧島の繁みが両側から蔽って暑く、僕らは馬をひく気づかれもあって、すっかり汗ばみ、喉が渇いてきた。 「あら、沼よ。」  かなり道を降った時、女子学生が突然ゆく手を指した。なるほど、鈍く翡翠《ひすい》色に光る水面が見える。鬱蒼とした闊葉樹林に囲われて、水辺が小さな草地をつくり、その草の葉尖《はさき》が一つ一つ針のように陽光をてり返している。 「生草があるな、行こう。」  僕が勢いづいて、足をいそぐと、意外にそこは広い草原で、野生の葛《くず》や苜蓿《うまごやし》など牧草の繁みが一面にあり、僕らの足音に野鳥がぱっと飛び散った。その羽音が大きく響くほどあたりは静かだ。 「まあ、馬より人間の方がありがたいわ。」  大原順がめずらしく歓びも露わに、≪サク≫を曳いたまま走っていき、水面に片手を浸した。  多分それは、何世紀か前噴火でできた原生沼だろう。岸べを濃緑の苔をつけた大小の熔岩塊がとりまき、その岩間から清冽な水が湧き出している。湧き水は、ひろい浅瀬のような熔岩礫の上を流れて、沼へそそぎ、苔と水の匂いがさわやかだ。 「ほら、≪サク≫も気持いいのよ。」  大原順は背や腹の被毛に汗をふき出している≪サク≫へ、手で水を撥ねかけながら言った。≪サク≫は長い道程で唇へ白い泡をためて、いかにも水を喜ぶように尾を高く振り、頸をそらせた。大原順は馬を浅瀬へひき入れて、足を水に浸してやる。僕もまず栗毛を岸べの雑木につなぎ、老牝馬を浅瀬に入れた。自分も跣《はだし》になって熔岩礫を踏むと、水の冷たさが体へ這いあがる。僕は湧き口から水を掬って、かわいた喉へ流しこみ、馬にも飲ませた。 「そうだ。体を洗ってやろうか。」  僕は持っていた手拭を水に浸し、牝馬の脚から拭き出した。馬用のブラッシュをもってくればよかった、と思った。牝馬を栗毛と交代に、雑木につなぐため連れていくと、栗毛は夢中で足もとの草を食《は》んでいた。水辺へ移すと、がつがつと自分から水を飲んだ。僕は癖の悪い栗毛だけ、水へ入れずに洗った。  その間に、大原順は≪サク≫の体を念入りに洗ったと見え、僕はあまりにきれいになったのに驚いた。厩舎では充分体も洗えず、汚れきっていたのが、≪サク≫の若さはわずかな手入れでも映え、かがやいた。黒く豊かなたてがみ、滑かな光沢ある琥珀《こはく》色の被毛。小型ながら、均斉のとれた筋骨。あの不恰好な鼻の流星まで白く冴えて、コッケイにも見えない。僕が手拭をかたく絞って、雫を拭いてやると、≪サク≫は快さそうに鼻翼を開いて、ふ、ふん、というように顔をよせてきた。その動作で、昂奮気味だとわかったが、≪サク≫は急に前肢で水を撥ねて、二三歩あるき、「あら、だめ、だめ。」と女子学生が手綱を押えるといっそう歩度を速めた。  はっ、と思った。しかし≪サク≫は岸から草原へ、前肢で小さく跳びはねながら、女子学生が怪我しないように心得ているらしい。心配ないと思ったが、大原順が叫び声をあげるので、追っていって頸を抱え、「オーラ、オーラ」と鎮めようとした。ところが逆に、≪サク≫は頸をぐっとひいて、僕を引きずった。反動で、女子学生が手綱を放したから、馬は撥ねるように疾走した。僕は鬣《たてがみ》にしがみついたまま、一瞬恐怖に打たれた。何とか脚を馬の背にかけると、目の下に地表が流れる。獣の熱い匂い。筋肉の律動。≪サク≫は風を切って、草原を大きく回り、僕の恐怖は急に不思議な快感に変った。僕の目のなかで、雲仙高原のまばゆい空、燦めく太陽、緑の原生林が弾けた。その自然と馬と僕自身が、一つの生命的リズムで溶けあっているようだった。まるで、自分が原始の素朴な汎神論的世界にでもいるように……。  女子学生が馬を制止する声が、しきりに聞えた。その声のせいか、あるいは馬が疲れたのか、≪サク≫の脚が遅くなった。僕はつかんでいた鬣と頸を離し、草むらに転がり落ちた。女子学生が急いで≪サク≫を追っていき、手綱をひろうと、雑木に縛りつけた。  僕の目のなかに、まだ太陽が爆《は》ぜていた。胸の奥で心臓が外の世界へ熱い鼓動を送り、呼吸が大気と力づよく通いあっている。僕は汗ばんだ全身に、草の葉の冷たさが快く、そのまま体を長々と横たえた。 「大丈夫?」大原順が戻ってきて言った。 「大丈夫だよ。≪サク≫の奴、上機嫌なんだ。」 「きっと野原に帰ったからよ。」大原順は僕の隣へ、勢いよく脚をなげ出した。「馬だって、あんな黴臭い馬房より、自然の野にいた方が嬉しいにきまってる。私だって、ここにいると、朝鮮戦争とか佐世保|基地《ベース》とか、みんな遠く思えるもの。」  僕はむこうの立木に結ばれて草を食べる≪サク≫を、女子学生が優しい目でみるのを見まもった。僕はこの大原順がどこか変ったと思った。かつての外見の生硬さも見られない。僕はこの優しさ、殊に≪サク≫に対する優しさを、危っかしく感じた。 「≪サク≫に感情的に深入りしない方がいい。」僕は言った。 「感情的?」 「同情や愛着することだよ。こうしてみると、僕らにはあの馬が≪伝貧≫と思えないけれど、どっちにしろ本来血清馬なんだ。僕ら人間に病菌を移植され、血を絞りとられ、死ぬ馬なんだ。僕らはたくさんの動物を、そんな風に使ってる。同情しても意味ないよ。」  大原順は黙って日光に目を細めた。 「たしかに≪サク≫は可愛いけれど、僕らは動物を自分の都合のいいように理解してやしないか。動物が喜んだとか甘えたとか、僕らが言っても、それは人間的な感情や心理をそこへ投影させただけで、ほんとうは動物自身知ったことじゃない。人間と動物の間には、どうしても越えられない断層があるんだ。言葉のない沈黙の闇が。ただ一つ確かなのは、人間の方が日常は強者で、相手を自分の世界の虜《とりこ》にし、勝手に生かしたり殺したりする、こういう関係だけだよ。」 「いつの間にか、強くて冷酷になったじゃないの。」大原順が鼻に皺をよせて、笑った。「前は馬をひどく恐がってたようだけど。」  その皮肉に、僕は一言もなく苦笑した。すると、僕の表情がおかしかったのか、相手は声を出して笑った。僕も自分のおかしさが怺《こら》えかね、二人は草原の明るい開放感に浸って、笑いあった。女子学生の目は陽に潤《うる》み、肘杖ついたシャツの半袖から、上膊の白い皮膚がみえる。僕はこの真昼の草の上で、相手に≪女性≫を感じて弱った。今なら、昨夜のように痛烈なことを言われまい、と思った。深閑としたあたりに、遠く杭をうつ音だけが響き、野鳥の影が僕らの上をかすめた。 「あら。」突然、大原順は半身を起し、樹林の方へ目をこらした。みると、ひろい草地をこえた闊葉樹林の隅に、一人の麦藁帽の男がたって、じっとこっちへ目をむけている。僕らの視線に気づくと、無言で手招いた。  咄嗟に僕は躊躇したが、相手がなぜかつよい動作で二度三度招くので、起き上った。垢じみた帽子、旧軍隊のシャツの中年男で、地元の人間らしいが、いつからそこに立っていたのか。僕が近づいても男の表情はけわしく、不審に思った時、もう一人、その背後の林の小道から若い男がとび出してきて、 「お前。」といきなり、僕の胸をついた。驚いてみると、さっき杭を打っていたのはこの男らしく、樹皮のついた細い丸太を二本腕に抱えている。黄ばんだ前歯から、すうすう息が漏れるほど昂奮しているのを、麦藁帽の方が待て、というように抑えた。 「お前ら、米軍の雇い学生だろう。」中年男は訛りのつよい声で言った。「なぜ馬をこんなところへ連れてくるんだ。お前らの厩舎に、伝貧馬が出たろうが。その厩舎の馬を、こんな牧草地まで降《おろ》してきて、いったい他人の迷惑考えんか。見ろ。」  男は僕の作業服をつかんで、小道の奥へひっぱって行った。その気勢は激しくて、僕がこれから地元へ相談に行くつもりだったと言う隙もなかった。まずいことになった、と僕は思った。  小道の途中に麻縄が一本、横に張ってあり、白木の板切れが下っていた。僕の後からついてきた大原順が、素速く手にとって見ると、〈これより登行禁止、防疫区域〉と赤く書いてあった。 「見ろ、ここは放牧場だぞ。」  麦藁帽の男が、樹林の外れで僕の服を離した時、僕は自分たちが意外に放牧場の近くまできていたのに驚いた。道沿いに高さ一メートルほどの土塁ができ、そのむこうは重畳と緑草の波、小さな森、牧区区分の長い柵のうねりだ。放牧馬は低地へ追いやったのか、一頭もいない。  ただ道の下方から、喘ぐような音たててスクーターが一台昇ってきた。運転しているのは、噴霧器《スプレーヤー》を背負った若い男で、その後にもうひとり乗っているのは、いつかの畜産組合の嘱託医だ。どうやら、噴霧器の男が急きょ獣医を呼びに行ったらしい。 「こんな牧区の近くへ、馬を連れてきてどうする気だ。」中年男は不精髭を顫わせて言った。「伝貧は食い物だけじゃない、血を吸った虻からだって、うつる。他の馬のために、隔離するぐらいお前らは知らんのか。」  確かに、最後に生草を食ませてやろうとしたのが仇になった、と僕は悔んだ。かといって、こじれた彼らの感情を、今どう収めたものか、見当がつきかねた。 「あの馬は、まだ伝貧ときめられませんよ。」僕は言った。「少くとも今は、そんな徴候がない。」 「徴候がない?」相手の男は声をたかめた。すると、嘱託獣医が初老の肥った体を揺すって、スクーターから降りてきた。 「伝貧と言えんて、あの馬は同じ舎内にいただろう。」嘱託医の声は、誰より落着いていた。「いったい採血検査したのか。」 「いや。ですから、あなたの方で検査して頂けませんか。」 「あなたの方?」医者の顔つきが急にけわしくなった。「それは君らの獣医の役目だろう。今ごろまで、そんな処置もとらんで何してるんだ。何かといや、米軍、米軍と笠にきやがって、俺の言うことなど問題にせん癖に。俺はこの前、そっちでりっぱに始末して、迷惑かけるな、と言ったろう。これまで買附け馬にしろ、牧草畑にしろ、地元がどれだけ迷惑うけたか知ってるか。今度のことだって、この辺一帯の消毒撒布から、立入り禁止、放牧馬を麓へ帰すやら、近隣の畜産組合へ知らせるやら、並大抵じゃないんだ。俺の管轄なら、一刻だって馬を放置せん。帰って、君らの獣医にそう言え。」 「いや、獣医を呼んでこい。」杭打ちの青年が言った。 「獣医はいないんです。」女子学生がたまりかねたように、話し出すと、 「言い抜けをいうな。」と青年はまた激情で、前歯からすうすう息を吐いた。「お前らはこっそり馬を連れてきたり、牧草畑荒したり、大体が狡《ずる》い。いいか。もう二度とこの北目の放牧区に近づくな。馬でも人間でも、道の張り縄をこえてきたら、俺らはどんなことしても止めるからな。伝貧馬は殺処分が相当だ。どうしてもお前らが降りたけりゃ、屠殺してこい。」  女子学生の顔がまっ青になった。それから、急に肩を返して、元きた道を歩き出した。振り返りもせず、恐しく速く歩くので、僕は後から追った。足もとで黝《くろ》い土がたえず流れるように、僕の中に何一つまとまらぬ思念が動いていた。胸を噛むみじめさ。何にともつかない憤り。北目の人びとの、米軍キャンプや獣医への反感のつよさを、今いや応なく知らされた思いだ……。  大原順はひと言も喋らず、草原の雑木につないだ≪サク≫の手綱を解いた。僕も他の二頭を立木から離し、来る時と同じようにつないで、笹の斜面の小道を昇った。  帰途の昇りが、急に足へ負担となってかかってきた。草いきれが熱く顔にかかり、裏屋まで遠く思われた。     �  夜明けが長くなった。  真夏の間この高原では、朝四時には白夜のように明けてくるが、今は五時すぎても暗く、薄明《トワイライト》が長い。しかも日ざかりの太陽の強さに比べて、暁の冷気はきびしく、肌寒さをました。  そのせいか、馬よりも僕ら人間の体調がくるった。何より食欲が落ちた。単調な罐詰の食事のせいもあるが、女子学生など、晩飯にまったく手をつけないこともあった。顔色が悪く、笑うこともないので、僕が病気ではないかと聞くと、「フレンドのせいよ」とこたえる。(フレンドとは、女性の生理的訪問者のことだろう。)必要な用はさすがにきちんとやるが、些細な物音にもひどく怯えた顔をするのは、この間の痛手が心に拭えないのか、とも思えた。  だが、僕らは再び、カーター軍曹が待て、というのを頼りにするほかなかった。軍曹からの連絡を待つ生活が、また始まった。日に一度、僕はキャンプの前へ行ってみないと気がすまなくなり、馴染みの衛兵が立哨する時間まで憶えた。しかし、このどこか心もとない方法のほかに、自分が直接佐世保へ行くとか、北目以外の遠い地区の畜産施設へ出かけるとかの手段を、くり返し考えた。北目の漁港まで降りれば、有明海沿いの鉄道があるが、途中で必ず誰かにつかまるだろう。キャンプの裏門から出る山間の専用道路を、仮に一人で歩くにしても、徒歩で何日かかるかわからぬし、途中FRCのジープに会えば立入りを咎められるだろう。道のない山の樹林を、盲目的に歩くことは不可能だ。そして何より、今の状態では、女子学生を一人きりでここに残しておけないだろう。  結局、僕は自分たちが、米軍と日本の地元との間に裂けた深い谷間へ、落ちこんでしまったように感じた。しかも僕は、この間の嘱託医たちへの反感もあって、馬が≪伝貧≫でないと自分で信じはじめていた。≪伝貧≫なら、なぜ今も≪サク≫が元気でいられるのか。たとえ何日か潜伏期間があっても、もう症状が現れていい筈ではないか。松岡が言ったように、黒鹿毛は≪伝貧≫ではなく、他の病気で死んだのだ。≪伝貧≫とはあの嘱託獣医の誤診、あるいは米軍や松岡への反感がつくり出した嘘、幻なのだ、と……。  そう考えると、僕は幻に苦しめられている自分の状態に、いらだった。真夜中、目が醒めてそれを考え出すと、わあと叫んで山間の闇を走り廻りたい衝動を感じた。だが、かろうじてそれを抑え、待つことだと、自分に思った。待つこと。当面希望がなくても、ただ待つこと。父も多分、四年間南支へ応召した時、こんな風に待たねばならぬことがあったろう。塹壕の中で、飢餓の底で、父らしく蹲って耐えたろう。鉄道の工事作業でも、腰椎の痛みと長年つき合い、それに馴れるのを待ったろう。待つことだ。そうすれば、いつか道が開ける。  しかし、僕らが一番悩んだのは、飼葉の生草が不足したことだった。附近の生草はとりつくしてしまい、遠くへ刈りに行かねばならないが、そうすると北目の牧草地へ入りこむ。事実、僕らは何度か、思わぬ小道のおくに、張り縄を見出して、あわててひき返した。大原順はそういうことに神経が傷つくらしく、いっそう寡黙になった。  僕は大原順を、草刈りにつれて行くまいとも考えたが、遠出して、禾本《かほん》科や菊科の野生地を探すので、一人では時間がかかり、いくらも運べないため、つい一緒に行くことになる。それに女子学生自身、前と同じ人間と思えないほど、独りを厭がり、僕について行きたがった。  その日の午後、僕らは専用道路からわずかにそれたばかりの、意外に近い場所に葛の繁みを見つけた。かすかに紅葉した楓の若木の間に、野生の葛が小さな蝶に似た紫の花を咲かせており、僕はとびつく思いで、それを刈った。最初、楓の下にひと茂りと見えた葛は、思わぬ蔓《つる》を四方にひろげ、僕の背中の籠もすぐいっぱいになったが、僕はふとこの葛は誰かの畑ではないか、と疑いをもった。急いで楓の枝の下を出てみると、果して傾斜地一面に葛の葉が人工的な配列で繁っている。小道の側には針金の柵さえできていた。  えい、もう刈ったんだ。僕が居直った気持で、さらにひと蔓ふた蔓、籠へつめこんだ時、 「あら、ここは葛畑よ。」と大原順が驚いた声をあげた。僕が頷いて、まだ半分しか入ってない相手の籠へ、素早く葛を刈ってつぎつぎ抛りこんだ。大原順は厭、厭と言うように体をふったが、その顔が急に怯えをうかべて、道の方を見た。 「車だ。」僕も遠くに単車のような鈍いエンジンの音を聞きつけると、反射的に女子学生の肩を抱え、楓林のなかへ逃げた。女子学生の動作は、いつもに似ず緩慢で、すぐ僕より遅れてしまい、僕が走りながら手をかそうとすると、切株につまずいて転んだ。そのまま両膝をつき、顔を地に伏せて起き上ろうとしない。背中の籠から葛の紫の花があふれて、体を埋めた。その背中がひくひく顫えている。  遠いエンジンの音はジープだったのか。僕はそれが専用道路の辺で、通りすぎたのを聞きとると、「さあ。」と大原順を抱え起そうとした。だが、その途端、相手は「厭よ、厭。」と激しく手で地面をたたいた。腕をとって、ようやく立たせると、顔が涙と泥で汚れ、嗄れた声で泣きじゃくった。「なぜ私たち、こんな牧草盗みしなけりゃならないの。犯罪人みたいに、いつもびくびくしなけりゃならないの。何も悪いことしないのに。もう厭。もう、もう……。」喋るたびに、涎《よだれ》が口から銀糸のように垂れた。  こういう人目に追われる行為が、この大原順の自尊心に一番こたえるのだ、と僕は、相手を支えて歩きながら思った。以前の大原順のはりつめたような強さが、今まったくなくなっていた。その人間を支える核心がすっかり崩れ、どうにも始末悪いところへ落ちこんでしまった。近ごろ、食事もろくにとってないせいもあるが、僕の腕の中にあるのは、ぐにゃぐにゃ柔かい皮膚と粘膜だけのようだった。  僕はこの大原順を軽蔑するより、身震いを感じた。自分自身、同じ状態になることは時間の問題だった。この生活は、あきらかに限度にきていた。僕はもはや一日の猶予もなく、何とかしなければならぬ、と思った。  裏屋へ帰ると、大原順をその居室のベッドに寐かせた。青い顔から汗の粒を噴いており、このまましばらく寐ているように言うと、黙って頷いた。僕はこの無防禦な女性にむける自分の優しさを訝った。僕が他人を庇護しなければならぬという、優しさを感じるのは初めてで、この感情を何と名づけてよいかわからなかった。  僕は庭へ出て、先刻下ろした籠から、葛を三つの飼料桶に移し、馬房へはこぶと、馬たちにあたえた。それから、また庭へ戻り、キャンプの方へ歩いていった。もう一度だけ、カーター軍曹に会い、ようすを聞こうと考えたのだ。  キャンプの構内は、めずらしく車の出入りが多かった。しかし今日のように騒然とした時も、この間のように深閑とした時も、どこか同じ緊迫が感じられた。僕は顔見知りの衛兵に、カーター軍曹を、と頼むと、彼は黙って営門《ガード》ボックスの構内電話をとりあげた。だが、コールした相手とのやりとりを、二、三耳に聞きとった時、僕は軍曹に会えそうもないと感じた。果して衛兵は電話をおくと、カーターは任務中で来られない、とやや気の毒そうに告げた。僕は礼を言ってひき返そうとしたが、その肩を後から、彼は軽く叩き、これをやる、と言った。見ると、汚れた英字新聞だった。  僕が坂をおりながら、新聞の小さな折畳みをひらいた途端、一面の見出しが目に入った。≪Bombing at Najin.(国連軍、羅津爆撃)≫≪Grand battle within two weeks, said General Ridgeway.(二週間以内ニ大戦闘、共産軍ガ戦場デ引金ヲヒク準備ヲ了エタト、リッジウエイ司令官言明)≫それは米国の都市新聞で、八月二十七日附だ。  僕はその記事に、いや応なくクレイヴン少尉のことを思い出した。彼もその朝鮮《コーリア》の戦線で闘っているだろう。板門店で休戦会談が開かれて、かえって前線の陣地戦が激化、死傷者が倍加していることは、僕自身芝浦で身近に見ていた。彼らはアメリカが、朝鮮で戦うどんな意味があろうとなかろうと、戦わねばならない。クレイヴンも、カーターも、あの衛兵も戦争の当事者だ。目のまえの有刺鉄線の内と外とでは、世界がまったく異質だった。彼らは戦況に応じて、それぞれ切実な任務をもち、元日本人要員の僕のことなど、もはやとるにたらないと言えた。多分衛兵は、それを伝えるためにこの新聞をくれたのだろう。  僕が坂下まできた時、一台のジープが道路を軋むようにカーブして、営門へ昇っていった。僕は瞬間、運転席の小型受信機から鳴る音楽を聞いた。音楽を聞くのは何十日ぶりだろう。モーツァルトの室内楽だった。その音楽は透明な蜻蛉の羽根のように、一瞬宙に流れ消えた。それでも僕にとって、都会で聞いたさまざまな音楽、雑沓の靴のひびき、大学構内の噴水の静かな水音、などを甦らせるのに充分だった。僕は喉が渇いた者が、がつがつ水をあさるようにそれらを求めた。そこへ早く帰りたいと思った。そこへ帰る自由を、もう一度とり戻したい。だが、どうやって。  裏屋の庭へ戻ると、僕は日除棚の下の椅子に腰かけた。女子学生は眠っているのか、舎内から物音もなかった。頭上の空から、萌黄色の黄昏が降りようとしていた。僕は実に長い間——針葉樹林の梢が、夕陽で金泥に染まり、その葉群が空の翳りを映し、すべてが暗い空に溶けこんでしまうまで——そこにすわり、ただ一つのことを考えつづけた。どうやって。どんな方法で。  僕の中には初めから、その答えになる言葉が存在していた。ただ自分自身、それが存在すると感じるだけで、身顫いが出るような言葉だった。僕はまるで紙にくるんだ危険物を、恐る恐る触る子供のように、それを開くか開くまいか思案することに、長い時間を過した。しかし開くほか方法がないと、考えつめた時、僕は思いきってそれを開いた。それは「屠殺」という言葉、あの北目の青年が「屠殺してこい」といった言葉だった。だが僕に、どうして馬を殺せるか。殊にあの≪サク≫を殺せるか。  僕は昏れきった庭の椅子で、何度もその言葉に馴れようとした。そのたびに、体の芯に顫えが走りぬけた。しまいに、臆病な自分にとうていそれを実行する力はないと考えた時、思わず、父よ、あなただったらどうする、と夜の空間に問いかけた。あなただったら待つか、それともどこかへ逃げるか、それともやはり自分の手でやる[#「やる」に傍点]か。しかし山の静寂からは、何の答えも返ってこなかった。  肌寒い夜気が体をとりまき、星明りがつよくなるまで、僕はじっと目の前の樹林を見つめていた。するとその幹と幹の間の奥深い闇から、「ええい、よう。ええい、よう。」とあの俚謡のような、謡曲の≪破≫調のような作業唄が聞えてきた。少くとも僕の耳には、たしかに響いた。僕はその声に体の根柢から揺すりあげられ、からくも力が甦ってくる気がした。やる[#「やる」に傍点]んだ、と僕は自分に言った。馬を自分の手で殺すんだ。それが自分の一番誠実な方法だ。しかし馬は自分より遥かに力がつよいし、簡単に斃《たお》せるような薬物もここにはない。どんなやり方で。  僕はその方法を考えているうち、少し落着いてきた。僕は椅子から立上り、庭に面した女子学生の居室の窓ガラスを少しあけて、なかを覗いた。大原順はふかい寐息をたてて眠っていた。星明りに透して、よくみると、その顔は発熱したのか上気し、唇の間から歯が白く光った。  僕はそれから、元の穀物庫へ入り、しばらく中をあさって、結局、醸造樽を明けるのに使ったと思われる、長い柄のついた鉄ハンマーと、麻縄をひと束拾い出した。それを持って、馬房へ行った。  僕は三頭のうち、≪サク≫の手綱をとって外へ連れ出した。そうして庭から、苗木林の小道へ入り、薊谷へむかった。僕が薊谷をえらんだのは、鳩穴が幾つかあって、黒鹿毛の場合のように、後始末の穴を掘らないですむからだ。≪サク≫を最初にえらんだのは、一番愛着のある馬をやれ[#「やれ」に傍点]ば、あとが楽になると思ったからだ。  しかし僕は、暗い樹間の道を下りるにつれ、悪寒のような恐怖に駆られ出した。しかも≪サク≫が柔順に手綱をひかれ、顔を摺りよせてくるのに、僕は思わず大きな喘ぎをあげ、地面に膝をついてしまいたくなった。これは戦争なんだ、と僕は、自分に言いきかせた。この自分も一種|無様《ぶざま》な形の戦争にまきこまれたんだ。自分や松岡のような戦争寄生者でも、いつか手を血に汚し、闘わねばならない時がくる。それが今なんだ。にげ道はなく、生き物同士殺すか殺されるか。戦争の中で、自分の自由を血によって贖いとるんだ。「深い河」を渡るんだ。血腥《ちなまぐさ》い未知の深淵を。この位の殺戮をしとげなくて、いつか自分の祖国をまもるような戦争にも、闘う力はないだろう。  薊谷は月光が射して、仄白く明るんでいた。僕はその棚地のいちばん太い、しっかりした立木に≪サク≫の手綱を結んだ。さらに用心に、持ってきた麻縄を、手綱と二重に巻きつけた。できれば、何本も縄で、四肢を縛りたいほどだが、それは不可能だった。≪サク≫は月明りの下で、静かに立っていた。僕はそれをみると、人間の智慧は狡いが、無心の動物は気高い、と思った。  だが、僕が槌の長い柄を握って、距離を計るように歩くと、馬の気配はがらりと変った。鋭敏な≪サク≫は、何か危険をさとったのだろう。僕が横に動くと、耳をぴっと伏せながら後肢で廻り、尾をたえず振った。しかしこの馬の反応は、僕にとっても躊躇や恐怖を一擲させた。僕は重い槌をひと撃ちで、眉間に当てなければならない。もしやり損えば、馬は猛然とあばれ、前肢をあげて跳びかかり、後肢で蹴るだろう。もし蹄があたれば、僕の貧弱な頭や胸などひとたまりもない。  一瞬、僕と馬は生物本来の殺意をむき出して、対いあった。だが、僕はそれが相手の防禦を強めるだけだとさとって、横へ廻り、馬をつないだ立木にすぐ避けられる位置で、突然槌を振りあげた。一刹那、僕は≪サク≫の大きな黒い目が哀しげに自分をみつめたように思った。が、僕の槌は眉間をそれて、馬の側頭部に当り、傾いた馬の前肢が空を切って、僕の髪をかすめた。馬が片方の前膝をおり、立木に頸がひっかかったのが、幸いだった。一瞬、馬が立上ろうと、四肢で激しく土を掻き、僕はその間《ま》にもう一撃、≪サク≫の眉間の白斑めがけて打ちおろした。 ≪サク≫の頸が前へのめり、四肢のもがきが急速に弱まると、色こい血が鼻腔から土の上へ、ゆっくりと拡がった。  どれほどの時間か、僕は虚脱したように立っていた。僕は気がついて、槌を投げすて、馬の二重の手綱を立木からはずした。それから、馬の屍体を全身の力で、少しずつ鳩穴の方へ摺《ず》っていった。≪サク≫は若いだけに、黒鹿毛より重く、僕は肢や頸を交互に抱えてわずかにひき摺るだけで、背骨が折れそうになり、服も体も血にまみれた。僕は苦労の末、馬を大きな鳩穴に押しこむと、入口を薊や笹の枝葉でふさいだ。  再び小道を裏屋の方へひき返す時、僕は体の力を根こそぎ使い果した気がした。あと二頭の馬のことなど思いもよらない、地底へひき込まれるような無力感が、僕をとらえた。  庭へ入った時、僕は女子学生の居室に、電燈がついているのを見た。窓のガラス戸をあけて覗くと、大原順はどこへ行ったのか、寐台にいない。僕が手足を洗いに行こうとした時、土間の奥で物音がするので、戸口へいくと、大原順が馬房から出てきた。 「≪サク≫は? ≪サク≫はどこ?」  大原順は不審の露わな顔で、僕へ聞きかけて、突然土間の途中で停った。土間も庭も薄暗く、僕の体がよく見えるはずはないが、咄嗟に相手の鋭い感覚が、すべてをさとったらしい。大原順の病的にくぼんだ目が、大きく見ひらかれ、その顔がくしゃくしゃに歪んだ。かと思うと、急に肩を返して、廊下から自分の居室へかけ込んだ。  僕があとからついて行くと、寐台の脇に膝をついて、毛布を拳でたたき、「可哀想に。可哀想に。」と喘いでいた。  僕は後に立って、これからもう少しで自分たちがここを引揚げられるのだ、と話しかけたい言葉を、喉の奥で抑えていた。すると女子学生が、不意に顔をあげ、 「寄らないで。」と、僕へ憎悪をこめて言った。「汚い、出て行って。血の匂いがする。」  僕は庭へ出て、外流し場へ行った。自分の中の言葉を、誰にも語ることのできない、孤独な気分が襲ってきた。確かに僕の手足も服も血の匂いが、生臭く染みつき、胸のおくで小さな嘔き気を誘い出した。僕は不意に、この血のため、自分の果した殺戮のために、誰とも疏通しあえない場所——夜の闇と沈黙の底へ墜ちこんでしまったような気がした。僕はそれをはらい落すように、蛇口から激しく水を出して、手足の血を洗った。  その時、僕の頭上の空に、かすかな、鈍い音が聞えた。見上げると、漆黒の澄んだ星空に、小さな紅い燈が動いていた。その光、その響きが、僕の凍るような心を和めた。僕の目にその虚空の紅い燈は、人間の世界のものでない美しさに見えた。それは自分が今とり戻しかけた自由の曳光のように思えた。あと、二頭だ、と僕は思った。自分のなかに、新しい力が満ちてくるような気がした。  その遥かな紅い燈——米軍機の特徴ある尾燈は、有明海の反対の西の夜空をゆっくりと辷って行った。多分、朝鮮半島へ行くのだろう。 [#改ページ]   遠い夏から  ご迷惑ですって? いや私もほんとうは申訳なく思ってるんです。でもこれは、自分の意志でどうにもならない。私だってまだ二十代の若者ですから、君たちの仲間入りしたい、スキーでもボーリングでもダンスでも、人並みに愉しみたいし、女友達も欲しい。こう思うから、会社の君たちのサークルへ性こりなく入りもするのです。  多分私ほど、仲間を求めている者はいません。孤独は嫌です。日頃会社の仕事では、人一倍快活なつもりですが、いざ私が君たちに加わると、どうも迷惑らしいのを知っています。私が何となく座を白けさせ、君たちの貴重な愉しみに水をさしてしまうことも。でも、この白けた気持は自分でもどうにもならないんです。それは災難みたいに、突然襲ってくるんです。私は戦争中、まだ日本領土だった台湾で育ちましたが、子供の頃よく生蕃人の踊りをみました。今君たちと例えばツイストなんかしていると、そんな原始的な踊りが目に浮び、急にすべてがツマラなくなってしまう。  これは性分でしょうか。幼時の体験が、その人の性格を支配するという考えを、私はあまり信じませんが、自分が仲間外れだと感じる時、この性分がどこからくるのか考えないわけにいきません。そうすると、嫌でも自分が陰気な孤独の中に沈んでしまい、その奥から一つの音が聞えてくるのです。その音だけが確かで永遠なもので、他の何もかも仮初《かりそめ》のくだらぬことに思えてくるんです。  そう、音です。乾いた遥かな音。夏の朝空に爆《は》ぜた小さな音。  その頃、私は小学校二年生でした。  台湾東部の山間、当時の名称でいう国民学校で、生徒は日本人が大部分、ほんのわずか部落で富裕な中国系の台湾現地人が混っていました。その部落は私の祖父が内地のN県から開拓民をひきつれて移植したので、祖父の死んだあとも私の父が村の助役を勤めているのです。  山峡《やまあい》と言っても、州道が通っているので、しだいに部落に薬局や雑貨屋もでき、終戦前には対空哨所に陸軍の一分隊も入ってきました。しかしその南国の眩ゆい太陽、水牛の遊ぶ大水田、鬱蒼とした樟脳林など、子供の私にとって、そこは異教の神々の園のように住み心地よい逸楽的な世界でしかなかったのです。  こんな私に、終戦は洪水みたいにやってきました。それまで私たちは、台湾人を多少軽蔑し、なかには奴隷並に扱う者もいたのですが、敗戦直後の茫然とした状態がすぎると、その立場が逆転しました。私は当時詳しい事情が理解できない齢なので、あとで父に聞いたことを綜合しますと、ちょうど二十キロ離れた花蓮という縦貫鉄道駅まで、米国兵や中国兵が進駐してきたという知らせが伝わる頃、現地人はいばり始めたそうです。その鉄道駅へ他の部落の内地人が集結しているらしいと噂が入り、ようすを見に哨所の将校や村役場の幹部が出かけていきましたが、それきり帰ってこず、駐留軍につかまったとか、台湾人の仕返しを恐れてにげたとか、さまざまにいわれました。  その間にも、一部の現地人は不穏になり、日本人の家をおそって家財を奪ったり、家族に危害を加えるので、父や小学校の老校長は部落民を校舎へ避難させました。しかしそれがむしろ相手に幸いし、今まで下層に虐げられていた若い台湾人は、原地人自治会とかいう組織をつくり、哨所から三八式銃や弾丸を手に入れると、私たちを学校から一歩も出さなくしました。内地人は三十年四十年と培った田畑財産をいっぺんに失いましたが、同じ年月耐えてきた現地人の野狼のような怨念がむき出しになったのです。  あの校舎の床の藁や脂《あぶら》の匂いを、よく憶えています。私たちはわずかな荷物と食糧を持って三つの教室へつめ込まれ、床の藁の上へごろごろ寝起きしていました。母がとうに死んで、父と姉と三人家族の私は、素速く一番いい窓際の場所をとり、初めは団体旅行のように昂奮していましたが、やがて校庭を元巡査が現地人に銃でこづかれて歩いたり、遠くから爆竹に似た響きが聞えると、怖しさと空腹でぐったりしてきました。 「いいや、そんなそんな。嘘だ。」  四五日目、私はみなの世話焼きに忙しい父を探しに廊下へ出た時、元理科室から、こんな大声を聞きました。燻んだ木造校舎のはずれの元理科室は、「裁判」が行われているとかで、私たち子供は近づくのをとめられていましたが、声を聞いた途端、あの人だ、と思いました。しかしあの人[#「あの人」に傍点]が誰か、あまり不意なので咄嗟に頭へ浮ばず、私は足だけ反射的に廊下の通行止の張り縄をくぐらせ、理科室へ入りこみました。  室内は暑さと大人の汗の匂いで、幾日も竜眼《りゆうがん》の実ばかり食べた私の胃は、たちまち嘔きっぽくなりました。部屋の中央をUの字形に仕切って、まわりに立った内地人の背が埋めているため、私には何も見えず、先刻の男の声が早口に聞えるばかりです。私はやっとその声の主が、自分の担任教師の加津《かつ》だと気づくと、もう居たたまれず、目の前の脚の間にわりこみ、床に這ってまえへ出ました。 「抗弁やめて。抗弁をやめる。」  私の耳に中国訛りの強い日本語がはいり、教卓に三十ぐらいの、目の細い台湾人が見えました。台湾人は戸口にも銃を握って立っていて、教壇の下には若い女が二人、その蔭の木椅子に、加津が開襟シャツを汗でぐっしょり濡らし腰かけています。私は教卓の男が、薬局に傭われていた薬剤師だと気づきました。薬科学校を中途退学したとかで、弁舌がうまく、原地人と日本人のもめ事には、いつもこの男が丁寧に話合うのですが、私は見慣れたその顔がまるで皮膚をくるっと剥いだように、冷たく獰猛に変っているのにびっくりしました。 「あなた、あなただ。」男は鋭く叱るように、加津に言いました。 「自分に犯意がないというが、これだけ証人いるでしょう。」 「い、いいや、この人は。」加津は唾のたまった唇を震わせました。 「あなたは足が遅い。木橋の向うから、この人に見られてる。にげても、この人よく憶えてる。」  教卓の男が二人の原地人の娘のうち、髪を香油で濡らし、唇が鼻につきそうに厚い女をふり返ると、 「見たよう。」娘はちょうど授業中、直立して答えるように天井をみつめ、「この子を草んなかへ倒して、ここをよう。」と隣の娘の服の裾を手でぱっと剥ぎます。  内気そうに脅えた相手の娘はまだ十六、七で、どうしてかお祭みたいに牡丹色の支那服に着飾っていましたが、あわてて浅黒い顔を赧くし、腿まで捲れた裾を手で押えました。 「違う。……違う違う。」加津が椅子から立って、もどかしそうに掌を振ると、 「ああ?」唇の厚い娘は、支那服の娘に念をおし、相手は大きな目で頷きました。  一瞬、加津はふとい眉をよせて、夢魔の中にいるように少女を見つめましたが、すぐその口から、 「でも、合意です。合意の行為です。」という呟きが洩れ、急に部屋の内地人たちの間に、驚きとも嘆声ともつかない声が響きました。 「合意なら、なぜにげたんです。」教壇の台湾人が言いました。「この子の泣き声きいて、この娘が甘蔗小屋から橋の上駆けて、あなたをつかまえたら、あなたにげました。なぜ、にげました?」 「にげません。」加津は唇の厚い娘を指し、「私はこの人なんかに、つかまりません。この人に、会いません。仮にこの人が駆けてきても、男の私の足はつかまるわけがない。」 「あなたの足迅くない。それにあなたは婦人犯しただけじゃなく、教師として原地人の青年に何しましたか。」 「私は犯さない。何もしない。」  私は加津のむき出した目のまわりが、小さく痙攣するのを見ると、自分まで喘ぎそうになって、傍の部落民の脚につかまりました。その時、窓側に父が緊張した肉厚の顔を、隣の老校長の方へよせ、何か言っているのが目に入りましたが、突然私の襟くびは誰かに押えられ、後へずるずる曳き出されました。 「見ちゃだめ。見るんじゃないの。」  姉でした。十七のくせに、甘蔗割りで鍛えた姉のつよい両腕に抱えられると、その躰も微かに震えているのがわかりました。 「合意、ってなに?」私は廊下へつれ出されながら、訊きました。 「何でもいいの。」 「犯すってなに?」 「うるさい。」  教室の窓べの藁の上へ戻っても、私の頭は加津のことでいっぱいでした。一年に入学の時から、担当教師の加津を、私は好きなのです。この辺鄙な小学校には、教師は校長と加津しかいませんが、若い加津は内地の師範学校を出たそうで、傍によるといかにも遠い土地からきたらしいクリームのいい匂いがし、私の見たこともない内地の話を山ほど知っていました。東京には地下をモグラみたいに走る電車があって、どんなに速く走っても上から土が落ちてこないとか、なぜ潜水艦が海へ潜っても、人間の息がとまらないかとか、加津の話を聞くと、私自身未知の海や地の底へ入って行くようにうっとりしてしまうのです。体操の時だけは、生徒が腕を横へぴんと張れるのに、加津の腕は鳥の羽根のように曲っているので、少し軽蔑しますが、それでも躰は頑丈で背がすらっとし、すぐ戦争の話をしては、私たちに勝つために我慢しろとか、勝利を信じてりっぱに戦死した兵隊を思えとか、言うので、本名の島津のかわりに、私たちは「加津」と呼ぶのです。  私は姉からもらったナッポイの実を噛みながら、加津はどうなるだろう、と思いました。それを考え出すと、ナッポイの甘酸っぱい汁も何の味もしないのです。 「加津は、どうなる?」私が姉に訊きますと、 「さあ、俺《うら》にわかるかよ。」姉はいつも脹《は》れぼったい、不機嫌そうな目を、深い脅えでひそめました。「昨日《きのう》、巡警さんが、あの門から連れてかれたけど。」  私は窓ごしに見える校門から、元巡査が半裸体で原地人に銃でこづかれ、連れ出されたのを思い起しました。この教室にいる部落民たちは、そうして銃で連行されることは、射たれることだと噂していましたが、私は急にあの爆竹に似た音が銃声のような気がして、恐ろしくなり、大声で叫んで校門からとび出したくなりました。外には祖父の墓があり、重い棕梠《しゆろ》葺きの自分の家や、大事な母の形見の金の入れ歯や、朱と藍を彫りこんだ古い椰子の面があり、水牛や黒豚がいます。しかし私は何か巨きな不可解な力によって、自分とその世界がひき離され、二度と戻れないことを感じました。そうして窓ごしの、亜熱帯の夏特有の美しいオレンジ色の夕陽と、黒い山影を長い間見つめました。  夜になると、加津への悲観的な情報が教室に広まってきました。この日裁判になった者には、ほかに護謨《ゴム》園の中年の女|主《あるじ》と、十八歳の日本人と台湾人の混血もいたそうですが、女や混血のせいか制裁は軽く、ただ加津だけは、明日の朝、あの巡査と同じ目に遭うというのです。私の父は校長と、夕方から加津の赦免の交渉に行ったきりでした。 「どうしたろ。」私は燈油の赭茶けた光が照らす藁の上へ寝そべり、父を待ちかねて、姉に訊きました。 「カバヤスに頼んでるんだよ、きっと。」  カバヤスとは生蕃の言葉で友達のことで、父が懇意な台湾人に頼みこんでいると姉は言うのでしょう。しかし私には、なぜ加津が明日射たれねばならないか、どうしてもわからないのです。加津は娘のことのほかに、戦争の悪口を言った原地人青年を擲《なぐ》ったと言うのですが、それが命に関わる罪かどうか、私は何度も考えこんでしまうのです。  私はいつか日曜日に、友だちと加津の下宿の部屋へ行った時のことを思い出しました。それは水田の渠水に沿った、老人の家の裏小舎で、私と仲間が不意うちに加津を驚かしてやろうと、開いた窓の下に隠れ、わっと叫んで顔を出した時、加津は一人机のまえで、何か紅い布を鼻へおし当てていましたが、あわててそれを机の下へ隠しました。いつも血色いいその顔は妙に赧黒くなり、気味悪いほど微笑して、私たちを部屋へ招くと、普段より愛想よくザボンとかナッポイとか果物をとり出して、食べさせました。  私には今、あの紅い布は原地人の娘たちが炎暑の時、髪や裸の胸へまく布切れのような気がしてきました。すると、さっき理科室で、ぱっと支那服の裾を捲られた少女の、飴色のつややかに弾けそうな腿が目に浮び、加津はほんとにあれ[#「あれ」に傍点]をしたのだろうか、と思いました。あの娘を倒して、肢を出させたのだろうか。ただ肢を出させただけで、殺されるのだろうか。  私は突然、藁の上からはね起きました。自分も以前、似たようなことをしたのを思い出したのです。それが同じ重い怖しい罪に思えてきたのです。  その相手は生蕃の少女で、私は偶然崖すその榕の樹かげで会いました。生蕃たちは昔首切り蕃人といわれ、山奥のあっちこっちを、竹で組んだ家をもって移住していて、ときに籠を頭にのせて部落へ物売りにきたり、物々交換にきたりします。生蕃の老人や男たちは子供の目には今でも無気味で、私は出会うとたいてい逃げますが、その時は相手が七つ八つの可愛い女の子なので、黙って立停りました。彼女は長く編んだ髪を背中へ垂らし、耳たぶの穴に通した銀の輪を、きらきら光らせています。珈琲色の下ぶくれの顔。いつもガムみたいに檳榔《びんろう》の皮を噛んでいるので、いきいきと紅い唇。細い頸から腰の方へ巻きつけた、粗織りの麻布。ながい腕に嵌めた木製の金色の輪。私にはそれらの一つ一つが神秘な上、少女の目じりの吊り上った眸に、首切りや人喰いの血に渇いたものさえ見える気がして、たまらない魅力なのです。私は崖の日溜りに、いつまでも黙っているのがくるしくなり、  ——カバヤスになろう。そう言いました。  ——ああ、カバヤス、カバヤス。  少女は頷きました。しかしその魅力の豊富さに較べ、私は自分に何一つ相手の心をそそりそうな取柄がないのが残念でした。このままでいると、相手が退屈しそうで不安ですが、少女は日本語を片言しか知らないし、何の喋りようもないのです。私はじりじり陽が射つける真昼の沈黙におし潰されそうになり、咄嗟に自分のズボンの皮紐を解き、下着《パンツ》ごと膝へずり下げました。  なぜ、そんなことをしたのかわかりません。しかし私の生白い下腹にある小さい尖端は、あきらかに相手の興味をひいたらしく、少女は妙に生真面目な目でそれを見つめていました。が、急に彼女は何を感ちがいしたのか、自分も腰にまいた麻布を両手でたくしあげ、その褐色の、蛙のお腹みたいに出っぱった下腹をむき出しました。  私たちはかなり長い間、奇妙な恰好で、眩ゆい陽に照らし出されたお互のお腹を見つめていました。少女の華奢な両肢のつけ根には、当然のことながら、私の下腹の先のようなものはなく、そこだけ肉を上へ撮《つま》みあげたように、翳《かげ》った皺ができていました。私はそれを見ていると、顔に血が昇って、動悸がつよく打ち出し、自分のむき出したお腹が急に羞かしくなってきました。そしていそいでズボンをずり上げ、手で押えたまま、榕の樹かげを駆けだしました。  私は教室の暗がりで、あの時のことを思い出すと、そこには不思議な血のさわぎ、後めたい陶酔があって、深い罪に似たものを感じました。やはり加津はあれをしたのだ、と思いました。あの誰にも言えない、快い罪を味わったのだ。 「先生、どうなった?」積藁に凭れた姉が、こう言った時、私は初めて父が戻ってきたことに気づきました。 「ああ。」父は骨の張った頤をひき締め、しばらく黙ってから、 「あの先生、ほんとうに足迅いか?」 「足迅いって、なんでよ。」 「足迅けりゃ、木橋から駆けてきた娘に、つかまるわけないと言うんだ。娘のいうことが嘘んなる。」  私は父の皹《ひび》われた唇を見つめました。 「迅い、遅いで埒《らち》があかん。あすの朝、どのくらい迅いか走って試すというんだ。黄牛《こうぎゆう》の仔と一緒に走ってみるんだ。」 「黄牛の仔?」姉は目をみはって、「なぜ黄牛の仔なの。黄牛より遅いとどうする?」 「射つんだと。」 「そんな。」姉は分厚い瞼をあげ、声を顫わせました。「そんな酷い。それ、試すんじゃない、弄《なぶ》るのよ。巡警さんを裸にしたみたいに、俺《うら》たちに見せつける気よ。」 「だが、黄牛より迅けりゃ、たすけると言ってる。俺《うら》たちがやっとここまで、頼みこんだんだ。」  私の肢は自分が走るように、熱く硬ばってきました。まだ満足に肩の隆起も角も伸びない黄牛。柔かい黄毛の牛の仔。私はそれを頭に描いても、仔牛がいったいどれ位走れるか見当がつきません。四つ足の獣だから、やはり人間などより迅いかも知れないし、いかにも牛らしく鈍重かも知れない。しかし私にも、人と獣を一緒に走らせるという、冷たく異常な原地人の怨念が、肌を刺すように感じられました。私は加津にどうしても走りかってもらいたいと願ったものの、あるいは加津はこの侮辱を受けいれないかも知れないと思いました。加津は走ることを拒むかも知れない。いやきっと、そうするだろう。 「うちの荷物から、黒砂糖を出せ。」  父は教室内にざわめく部落民から、わずかな煙草や甘藷などを集めてくると、姉に言いました。 「どうするの?」 「これから先生に会いに行く。俺《うら》だけ会うのが許されたんだ。」 「俺《うら》も行く。」私が思わず言うと、父はびっくりしたように、振り返りました。 「俺《うら》も行く。加津は俺の先生だ。」  私は姉が木綿袋からとり出した黒砂糖の一片を、手を伸して横どりしました。 「行ったって、お前は部屋へ入れんぞ。」  父につづいて、廊下へ出ると、暗い床板を燈油ランプが黄ばんだ黴《かび》のように点々と光らせ、昇降口の土間に麻服の台湾人が二人、鳳梨《アヤナス》の団扇をもって涼んでいました。  加津が入れられている部屋は、コンクリの湯沸し釜のある用務員室で、戸口には顔見知りの若い台湾人が立っており、父はその男に鍵を開けてもらうと、私に目もくれず、一人で部屋へ入りました。私は何とかなかを覗こうとして、壁の下の小さな掃き出し窓を見つけましたが、番兵役の目が邪魔になるうち、すぐ父が出てきました。しかし父は番兵役と中国語で何か喋りはじめたので、その隙に廊下へ這いつくばり、小窓の戸をすこし開けました。  室内は意外に燈油があかるく、加津は釜の焚き口の椅子に、じっと腰かけていました。今父にもらった煙草なのか、指に挟んだまま口にくわえ、小さな赤い火がせわしなく鞴《ふいご》のように明滅します。私は何か考えをこらして微動もしないその横顔の異様さに、うたれました。加津の顔は昼間とすっかり変り、皮膚が褐色に干涸びたように目ばかり大きく、灰いろのズボンの腿から、水滴がぽたぽた垂れて床に拡がっています。小便を漏らしてる、と私が気づくのにしばらく時間がかかりました。しかし加津はそれも意にとめないらしく、蹲んで自分のズック靴を脱ぐと、一心にその紐を結びかえたり、足に履きなおしたりし始めました。私はその動作に、咄嗟にあした加津は走るんだ、とさとりました。走るために、ああして靴を直してるんだ。  私は自分のなかに不可解な熱い衝動がたかまり、声になりそうなので、急いでその場を離れました。私は父も置いて、夢中で一人昇降口の土間まできましたが、やっとそこで自分の恐怖とも悲哀とも似た兇暴な発作が、少し鎮まると、今加津の上に襲い、彼が闘っているものが何か、わかりかけてきました。  それは死でした。しかしそれは私自身、これまで経験のない、まったく未知なもの。今これほど身近なくせに、私がかつて悪戯で何匹も殺してきた蜥蜴《とかげ》や蝸牛や蛾虫の死とまったく異う、不可知なものでした。私は土間の戸口で、鳳梨《アヤナス》の団扇を使う男たちのむこうに、亜熱帯の漆黒の天空が拡がるのをぼんやり眺めました。すると突然、自分もいつか死ぬのであって、あの闇の荒野にやがて吸いこまれてしまうのだ、という気がし、心細さに、急いでまた父の方へかけ戻りました。  翌朝、私は藁の上で重い眠りから、醒めました。加津のことを考えて、けさは早く起きようと思ったのに、目醒めると隣に姉が眠るだけで、部屋には誰もいないのです。私はあわてて姉を揺り起し、廊下の反対側の教室へ行きました。その裏手に面した窓べを、部落の女や子供、老人が大勢占めていて、私がすり寄っても外はよく見えず、仕方なく片隅から机をひきずってきて、姉と二人その上へ乗りました。  開け放した窓から、朝露を含んだ快い大気が流れこみ、私は思わず深々と息をすいました。晴天の柔かい陽をうけて、目に滲みるような緑草が一面、校舎裏の柵から遠く濃密な檳榔樹林の方へひろがり、二三百メートルほどゆるく迫《せ》りあがる草丘になっています。その頂きの方へ、三八式銃を提げた原地人が三人ゆっくりと歩き、手前の柵内に、そこで見ることを強いられたらしい父や部落の男たちの姿がみえます。柵の外には昨夜の若い台湾人が、細い皮鞭をもって立ち、わきに襤褸《ぼろ》のような袖なしチョッキをきた中年女が、黄牛の鼻づらをとっていました。 「なぜ銃をもって、あっちへ行く?」  私は三人の男が草丘のむこうへ消えたのが怪訝《けげん》で、姉に訊きますと、窓側の部落の女がこたえました。 「あっちで鉄砲構えて、待ってるよ。草山の上まできて、仔牛より遅かったら射つと。」  その時、柵の外へ加津が連れ出され、私は緊張のあまり胸が痛くなりました。加津は昨日のズック靴をはき、足どりは平静でしたが、一晩のうちにひと廻り体躯が小さくなってしまったようでした。若い台湾人は、それを合図に走れというのか、皮鞭を二三度、草丘の方へ鼻をむけた黄牛へ振ってみせると、加津は頷いて、膝を大きく屈伸させたりします。私は黄毛も黒く汚れた稚い牛が中途で走りやめるか、わき道してのんびり草でも食い始めるように何度も心で願いましたが、その瞬間、あたりに凍りついたような静寂が占めました。 「一《いい》、二《ある》……。」黄牛の背へ、鞭がぴしりと搏《う》ちおろされた途端、私の目に白い星が閃めき散って、何も見えなくなりました。  気がつくと、黄牛は加津よりかなり先を跳ぶように走っています。だが、頂きまではまだ距離があり、鞭の衝撃もさめて仔牛の足もゆるむので、何とか疾走すれば、追いつけないこともなさそうでした。しかし両手を無様な水鳥のように拡げる加津は、歯がゆいほど足が遅いのです。  黄牛が草地のどこへもそれず、ゆっくり頂きへ去り、その後から加津の細長い影が万歳でもするように消えた時、私は思わず息をのみました。  乾いた銃声が一発、二発。まだ暑気もない澄んだ碧空を慄わせ、その音は私の鼓膜から未来の時間へ、永遠に消えることがないように貫いて、何度も木霊《こだま》しました。私が姉と腕をつかみ合った時、銃声に驚いたのか、黒い仔牛がまるで死そのものの影のように、草原のとんでもない方向へ駆けさって行きました。  私は目をみはり、まだ何か走り戻ってくる期待をこめて、草丘を見つめました。  しかしそこからは、もう何も駆け戻ってきませんでした。 [#改ページ]   水いらず  夏草の繁る池のほとりに、その白色レグホンはゆっくりと土を啄《ついば》んでいた。柔かい被毛。薔薇色の鶏冠。尖った蹴爪で、静かに草を踏むその脚はこびは、ちょうどひさ子が素足でハイヒールをはいて歩く時と似ている、と彼は禽《とり》のそばに跼《かが》んで思った。レグホンは華奢な喉を宙へそらし、それから胸の方へ曲げて素速く嘴《くちばし》で白い毛を噛む。その動作はまるで女が歯で愛撫するようで、彼は不意にある疑問に捉われた。彼はそっと手をのばして、禽の頸に触れた。やはりそうだ。やはりひさ子だ。彼が思わず両掌で押えようとすると、一瞬禽ははげしく羽搏いた。そうして大きく羽根をひろげ、池水の遠いかなたへ舞い揚った……。  ——彼は転寝《うたたね》していることに気づいた。真夏の昼下りのつよい陽が相変らず、畳の同じ場所へ射しているから、ごくわずかな間だろう。彼がその陽差しに目を細めると、躰じゅうに三日間妻のひさ子を待ち、探しつづけた疲れと空虚がまた浸してきた。朝から牛乳を一本飲んだきりで空腹だが、自分で午飯《ひるめし》をつくって食べるのも面倒だ。足もとの卓上に、会社からPR雑誌の校正刷をもち帰っているが、それに手をつける気もしない。彼がまだ現《うつつ》に醒めきらない目で、部屋を見まわすと、急にくっ、くっ、と小さく鳴く禽の声が庭に聞えた。養鶏場から届いて、運搬用の金網小舎へ入れたままの六羽のレグホンだ。彼は突然、躰を起した。頭のなかに、不意に突ぴな、常軌を逸した考え、——常識の世界の厚い壁のむこうから、ふっと湧くような気味悪い考えが浮んだからだ。(ヒサ子ハ禽ニナッタンダ。)  彼は自分の妄想じみた頭を、ふり払おうとした。これは睡気のせいだ。いや俺は暑さと疲れで、正常な状態じゃない。彼はそう思って、平静さをとり戻そうとしたが、なぜかその考えは、自分の意志をこえた魅惑と執こさで、彼の頭へ食いこんできた。  彼は食堂兼居間《リビング・キツチン》へ立っていき、勝手口から庭の網小舎のまえへ行った。犬小屋の倍ほどの金網囲いに、六羽の白レグホンが鳴いたり餌を啄んだりしている。餌は三日前運ばれてきた時、彼が餌袋ごと抛りこんだままだ。六羽とも、睡りのなかで見た真白い禽とちがい、赭土色に汚れている。附近の養鶏場から、ひさ子が雛で買いとって、ずっと育ててもらったので、ここへ届いた時よく肥えていたが、彼がひさ子のことで忙しく夏の日向《ひなた》へ抛り出していたせいか、妙に骨ばって、動きも落着きない。そうだ、飲み水もやってない。彼はそれに気づくと、急に禽が可哀想になり、帚を握って、小舎のまん中へ蹴転がされた水罐をひきよせた。 「あら、お掃除ですの。」  庭の低い垣根ごしに、妙に甘ったるい女の声がした。隣家のユキさんという、若い寡婦だ。隣は間どりも庭もそっくり彼の家と同じ建売り住宅で、二カ月まえ母親の老女と二人で移ってきたのだが、ひさ子によると亡夫の生命保険で家を買ったという話だ。 「いや、女房がね。」彼が水罐の汚れをおとしながら言うと、 「あら、奥さんが?」  寡婦は色白の、笑靨《えくぼ》のうく顔に好奇心をむき出した。彼は昨日この隣の女主人に、禽の排泄物が臭くてこまるから始末してくれないかと、遠慮がちに言われたが、その時にも二三日ひさ子の姿がないことに、露骨な興味を見せていたのだ。 「ええ、家内が——」彼はその先を何と言っていいかわからず、隣の女を見上げた。竹垣に片掌をおいて、ユキという女は熱心に言葉を待っている。その掌のぷくんと膨れた白い柔かそうな肌を、彼は以前ナマめかしく感じたことがあったが、今はそれどころか、相手の関心がひどく煩わしく思えた。彼は急に女を愕かせてやりたくなった。 「女房をね、金網から出してやろうと思うんですが、どうも六羽ともよく似てましてね。」  寡婦の紅《べに》の濃い唇がまるく大きく開いた。それから狂人でも見るように、さっと顔じゅう恐怖にした。 (ソラミロ。オ前サンダッテ、イツカ禽ニナラントモ限ランゾ。)  彼はそう思って、また網小舎のレグホンへ目を戻すと、その禽のどれかがひさ子に違いないという気が、いっそう強まってきた。  ひさ子は、一昨々日の午前に家を出る時、いつものように臙脂《えんじ》の革の大きなショルダーバッグを提げ、白いレースの服をきていた。それ以上、遠出の身支度もしていなかったことを、彼は寝室の蚊帳ごしに、半ば睡りながら見ていた。彼は会社へ勤めて十年近くなるが、宣伝雑誌の仕事をするようになってから出勤時間の自由をえている。というのも、雑誌が締切り近くなると、写真ページの割付けや雑文書きなどの用が彼の手へ殺到し、家で夜通し仕事したりして、睡る時間もずれるからだ。ひさ子は反対に、自分が計理を請負っている幾つもの小会社(主に町工場とか商店)へ廻るのは、朝から午後にかけてで、お互がすれ違いになることも多い。そういう時、彼が起きると、食卓に白いフキンをかけた朝食の支度ができており、大ていメモが置いてある。  ——格《かく》さん、よく眠れた? キウリは味つけしてあるから、何もかけないで食べてよ。玄関のふみ板がコワれてるからなおすこと。  その日の昼も、彼は起きて、こんな走りがきを読んだ。「格」さんとは彼の名前だが、彼自身妻からそう呼ばれると、何となく軽蔑されたような嫌な気がするのを承知で、ひさ子はこう呼ぶのだ。ふん、下らん。彼はそのメモを掌でまるめて屑籠へ抛りこんだが、まさかそれきりひさ子が帰ってこないとは、想像もできずにいた。  午後、仕上げた割付けを持って、彼が会社へ出かけようとした時、近くの佐野養鶏会社からレグホンが届いた。佐野養鶏はひさ子が帳簿をみている小企業の一つで、かねて雛の飼育を頼んであることは知っていたが、今日届くとは聞いていなかった。彼は小型車の荷台から、網小舎が庭へ運びこまれるのを、苦々しく眺めた。確か妻から四五羽と聞いていたのに、六羽もいるし、第一彼は家で禽を飼うのが賛成でなかったからだ。ひさ子は養鶏場でどう唆かされたのか、自分の計理の仕事で稼ぐだけで足らずに禽を飼い、追い追い産卵もふやそうと乗り気だが、それには大変手がかかる。結局、彼が負担を背負いこむのがオチなのだ。まずすぐにも、鶏舎を作らねばならない。それにこの郊外には大規模な養鶏場が幾つかあり、何千羽もの禽の凄まじい群声や異臭が風に乗って、周囲へ迷惑もかけている。——俺は知らんよ。彼は禽について自分は一切手を出さぬことにして、網小舎もそこへ抛ったまま会社へ出かけた。  しかし夜、彼が家へ戻ってみると、(編集の同僚と飲み屋へ一軒まわり、最近の理論物理などという高尚な話から、女の下等な品定めまでひと通りやっていたので、着いたのは九時過ぎていたが)ひさ子はまだ帰っていない。家のなかは食卓も寝室も、さっき彼が出た時の乱雑なままだ。どうしたわけなんだ。彼はむっと腹を立て、居間の床へ坐りこんだ。ひさ子がいつも仕事から帰るのは、遅くて午後三時までで、夕方になることもめったにない。どこかへ廻ったのかも知れないが、それならひと言断っていけばいいのだ。  夜が更けるにつれ、彼の腹立ちはつのり、同時に不安が湧いてきた。彼は頭のなかで、妻の立寄りそうな場所を手繰《たぐ》ったが、北陸育ちのひさ子には身近にそれほど多くの知己はない。都心に洋服仕立商の伯父夫婦がいるほか、元計理事務所へ勤めていた頃の友だちが何人かいるだけだ。その知合いへ寄ったのならまだしも、不測の事故とか傷害に遭っていないとも限らない。彼はしだいに落着かず、外へ出て公衆電話から伯父の家へ問い合せたが、そこへは来ていないという返事だ。  夜半の暗い道をまた戻りながら、彼の忿懣や不安はさらに混乱した感情に変った。何だ、たったひと晩の留守ぐらい、と彼は思おうとした。結婚以来五年の間に、せめて一週間ぐらい女房と離れて暮してみたいと、何度か思ったはずだ。いよいよ念願がかなうと思えばいい。しかしそう考えても、彼の混迷はかえって強まった。事故などの場合はともかく、仮にひさ子が家をとび出したとしても、当面何の徴候も動機も思いあたらない。それをしいて考え出そうとすると、彼はいっそう不安になった。そうだ、彼は突然思った。男をこしらえやがったんだ。仕事先かどこかで男ができて、今まで巧く俺に隠し通してきたんだ。彼の頭の芯へ、火花の出そうな熱さが昇ってきた。  彼は急いで家へ戻り、箪笥の引出しや押入れを開けて、妻の衣類や所持品をあさった。しかしひさ子の荷物はほとんど減っていず、二人共同で積んだ預金通帳もそのままだ。ただ他にひさ子個人の預金や投資信託などがある筈だが、日頃それをどこへしまっているのか、彼は知らないのだ。ガッチリ屋のひさ子のことだから、肌身離さずにいるのかも知れないし、貸金庫にでも預けているのかも知れない。彼は妻の簿記の古書類なども繰って、仕事先の小会社を調べようとした。彼はその企業だけでなく、ひさ子の友だちさえ全部は知らず、今になって妻について知らぬことが多いのに初めて気づいた。  翌日、彼は自分のわかる限りの連絡先に、電話とか直接出むくとかして問い合せた。北陸の実家へも、電報で照会した。ことに前日、ひさ子が廻ったと思える小会社へは、彼自身で出むいた。ひさ子はおよそ二十軒余りの請負先を抱えていて、一日おきに四軒ほどずつ歩き、約半月でひと廻りするらしいが、前日はある町工場のほか、佐野養鶏へ午頃寄って、レグホンを家へ送ってくれと言ったことしかわからない。その二軒だけでは、男との事実もわからない。しかも北陸からはひさ子は来ないが、いったいどうしたのかという反問の電報がきた。  彼はこれだけ訊き廻るのに二日かかり、躰も神経も困憊しつくした。編集の仕事があいにく一番忙しい時に当るので、それが二重にこたえた。三日目には出社をやめて、家で校正や記事書きをはじめたが、机の前にいても外の跫音《あしおと》ばかり気になった。彼の家は(この一劃のどの住宅とも同様)、玄関から道路まで大谷石の石段が降りていて、それを踏む跫音がよく聞える。彼はひさ子の跫音をとうに憶えていた。その外の気配に耳をすましながら、彼はこんな妙な状態に陥った自分自身を、もて余した。あとは警察へ捜査願でも出すほかないが、もし誰か男と一緒だとすれば、夫の自分の不面目を人目に曝すようで、それも躇《ためら》った。いったい自分は無断で家を出たひさ子をなぜこんなに案じなければならないのか、と彼は忌々しく考えた。夫婦だからか。だが自分たちは、どんな点で夫婦らしいのか。夫婦とはそもそも何か。  真夏の日盛りで、窓を開け放っても室内は暑い。彼がその熱気と疲れのため、まったく無気力に畳へ寝ころんだ時、ふいに以前或る雑誌に、世間の潜在的な家出人の数が多いとあったのを、思い出した。その大半は動機も行方もわからないと言う。あるいはその人間たちは、何かの拍子で忽然《こつぜん》とこの現実から消滅してしまったのだろうか。先夜飲み屋でした高尚な話ではないが、この物質世界に対比する「反物質」の世界が現代の物理学で証明されていて、その因子に触れると物質は一瞬エネルギーと変って消えてしまうそうだと、彼は半ば仮睡《まどろ》みながら、考えた。だからそのうち、どんな不可解な家出も変異も、科学で立証されるかも知れない。そして妻のひさ子のことも……。 「とにかく、掃除しましょう。」  彼は隣の寡婦があまり脅えたので、それを宥めるように言った。 「ほんとに臭い。お宅にもご迷惑でしょう。」小舎の網底や庭土へ散乱した禽の排泄物を、彼は帚でかき集めようとしたが、網が邪魔になって巧くいかない。 「あら、お手伝いしますわ。」  隣の女はようやく笑顔をとり戻して言った。しかしこっちの庭へ来るには、竹垣があるので、表の石段を迂回しなければならないのだ。 「いやいや、結構です。」彼は網小舎を少し傾けて、一方の隅へ鶏糞を集めようと考え、力をこめてひき上げたが、六羽も禽の入る小舎はひどく重い上、禽たちが驚いてケタタマしく鳴きながらかけ廻り、彼はあわてて手を離した。 「いかん。空腹のせいかな。」彼が今見せた自分のうろたえを弁解して呟くと、 「まあ、お午《ひる》まだですの?」  ユキという女は眉根をあげて言った。 「いえ、暑くて食欲もないし、一人だと面倒でね。」 「あら、じゃ家《うち》に何かあるかも知れませんわ。」 「いやいや。」彼はあわてて制しながら、急に色白の肌が陽にひかる、肉づきいい女を、ナマめかしく感じた。三十二三だろうか。この近郊線の駅前に小さな酒場を出すということで、母親の老女が昼間その準備に通っている。もし開店したら、一度行ってやろう。 「ちょっとお待ちになって、私何か軽くつくってきますわ。」  とめる間もなく、勝手口へかけ去る女を、彼はぼんやり見送った。そうしてやっと網小舎へ目を戻すと、さて掃除をどうしたものか、と考えた。禽たちはまだ動揺したまま、四囲を小走りに歩き、嘴《くちばし》で網をしきりに突く。彼は台所へ行って、水罐に水をたっぷり満すと小舎の戸口から差しいれた。いったいひさ子はどれだろう。彼は蹲んで、炎天に渇ききった禽たちが争うように水罐へ集るのを見まもった。女王みたいに、トサカの冠が殊に鮮やかなのがいる。土星のように、胸の被毛に黒ずんだ輪をつけたのがいる。妊婦みたいに、腹が出っぱってものうそうなやつ。オールドミスのように嘴が色褪せて、意地悪く仲間を蹴るやつ。彼は《オールドミス》に蹴られて、水罐から押しやられた脚の長い禽を見てはっとした。その頸の後の被毛が横に二三センチけば立っているが、ひさ子の頸にも似た形の切り疵《きず》があったからだ。あれだ。彼は金網を廻って、禽をよく見定めようとしたが、その頸にあるのが疵か、ただ被毛が上へ捲《めく》れているのか確かでない。しかし禽のゆたかな両腿の肉や、きびきびした脚運びが、彼にはひさ子に間違いないように思えてきた。  彼は妻の項《うなじ》にあった剃刀の切り疵を、思い出そうとした。それは結婚翌々年に、ひさ子が自分で頸動脈を切ろうとしてつけた、かなり深い疵跡だ。原因は彼が女のことでちょっとした過ちを犯したからだが、それをひさ子に知られているとは考えてもいなかった。相手は会社の他の課の、いろいろ評判の悪い女で、早く身をひこうと思いながら、煮えきらずにいたのが悪かったのだ。殊にそんな夫の行為は、当時のまだ娘じみたひさ子に、どう響くかという恐れもあった。その頃のひさ子は学生っぽさも抜けぬ、肉の薄い、内向的な女だった。ごく馴れた相手には驚くような剽軽《ひようきん》さも見せるが、普段は内気で、ちょうどよどんだ湖水のように、石一つ投げこんでもその心の水底がどう波立つかわからぬような娘なのだ。  自分の頸を切ったひさ子を、彼が見つけたのは朝十時頃だった。彼らはその頃鉄筋三階建の社宅に住んでいて、彼は朝いったん家を出て通勤電車に乗ったが、急に同じ三階の住人で病欠中の総務課員に社用のあることを思い起した。急ぐ用なので、仕方なくひき返し、その用事の後で自分の家の扉口を通る時、何となく素通りできなくなった。しかし扉をあけても、玄関わきの狭い居間や台所にひさ子の姿がみえず、酒精に似た妙な匂いがした。彼が不審に思って、奥の四畳半の襖をひくと、座蒲団にひさ子が仰むけに寝ていた。女にしては大きい鼾《いびき》が漏れ、カーテンを引いた薄暗い部屋につよく酒精が匂った。彼は足もとに転がった、ブランデーの壜とコップを見た瞬間、こいつ朝から酒を飲んで正体なくしてるなと思った。が、すぐひさ子は酒を一滴も飲めないことに気づき、耳の裏から畳へ血がゆっくり滲みて行くのが目に入った。彼は顫えた。 (ナゼダ、ナゼダ。ナゼコンナ真似スルンダ。)  彼は妻を抱えおこし、口走った。血が生温く手を濡らすが、傷口が動脈から遠いことに彼はやや安堵した。いや狼狽した彼の頭にも、なぜひさ子が頸の真後《まうしろ》などを切ったのか、という疑問が一抹かすめた。——あとでわかったことだが、ひさ子は頸動脈の正確な場所を知らず、滑稽にも襟足の窪みのへんにあるとばかり思っていたのだ。  その頃のひさ子を、現在のひさ子と較べるたび、彼はいつも女の変り方の早さに驚かされた。今のひさ子は成熟した主婦らしくゆったり肉づいて、以前のように彼の隠れた行為や嘘を詮索しない。彼自身以前のひさ子の、自分を内へ閉じこめる少女期めいた殻を破り、いきいきした生身の≪女≫をひき出そうとしむけてきたが、今では妻一人の足でずんずん進み、彼の手も届かぬほどだ。ひさ子はいったん辞めた計理の仕事を、また始めて外出するようになり、自分自身の生活的な目標を持ちはじめた。例えば何軒請負い先をふやすとか、いつ自分の家を買うとか、子供を何人産むとか、いうプランで、お蔭で建売り住宅も手に入るほど、経済的に助かってはきたが、しかしひさ子のその目標には、どこか彼など念頭になく、彼の干渉をきびしく拒むところがあるのだ。 「いいから、黙っててよ。私には私の採算があるんだから。」  レグホンを飼うことについても、彼が何か言おうとすると、ここから先は自分の領分だとばかり、きっぱり撥ねつける。だが、彼にすれば、いざその飼育を始めた時夫の手を煩わすことは明らかで、そんなひさ子が身勝手にしか思えないのだ。こうした彼を受けつけぬ、妻の自分本位の領域は年々強まってくる怖れを彼は感じた。ひさ子のどんな目標や欲望も、家庭という枠が中心であり、その家庭を成立たせるには夫である彼が不可欠な癖に、どこか彼女の頭のなかでは夫を無視し、まるで家具と同じようにしか認めていないのだ。こうした矛盾を平然とうけ入れる女の世界に、彼はしだいに歯が立たなくなる気がした。それは安らかな巣から巣へ、果敢につき進む動物の雌を思わせた。ひさ子はこの自分の領分を夫に侵させぬかわり、相手の圏内へもほとんど立入らず、この目に見えない曖昧なひとすじの境界線をお互が踏みこえないことで、家のなかの平和、どこかいかがわしい平和が保たれていたのだ。  網小舎を眺めながら、彼はそんな雌が今そこにいるという気がした。あの頸のけば立った禽がひさ子なら、案外それは居心地悪い状態ではないかも知れない。彼は禽たちを、もっと涼しい清潔な場所へ置いてやりたいと思った。しかし金網はもち上りそうもない。軒下の日蔭へひき摺っていっても、舎内の掃除はできない。彼は庭を見まわして、ふと窮余の方法を考えついた。勝手口のわきに、風呂場の狭い潜り戸があるが、そこから浴室へ禽をいったん追いこんで、網小舎を掃除するのだ。終ったら、また戻して、日蔭へ運べばいい。  彼は小舎を風呂場口まで、ひき摺っていった。焚口の潜り戸をまずあけ、それから網の戸を開くと同時に、手ばやく小舎を焚口へ押しつけた。両方の戸の空間が重なって、ほかへ禽の逃げ場はない。小舎を移動したので、禽たちはまた騒ぎだし、二三羽が重くバサバサ羽搏いて、風呂場へかけこんだ。 「とう、とう、とう、とう……。」  残る禽を、彼は口で追いながら、帚の先で網をたたくと、禽たちは脅えてはげしく鳴きながら潜り戸のむこうへにげ走った。彼は急いで戸を閉め、浴室のなかの気配をうかがったが、その途端、早くも自分のやり方が失敗だったと思い知らされた。戸のむこうから、何羽もの禽が狂ったように飛びまわり、壁や躰にぶっつけあう羽音が聞える。禽たちは小舎を追われて脅え、昂奮し、それをお互に相乗しあって収拾つかないありさまだ。浴室はタイル浴槽のほか一坪にたりず、六羽の禽が飛びかうにはあまりに狭い。≪ひさ子≫は死ぬぞ、と彼は思った。≪女王≫も、≪土星≫も、≪妊婦≫も死ぬか、殺しあう。彼は咄嗟《とつさ》に潜り戸をあけようかと考えたが、そうすれば禽は外へにげてしまう。彼は躇うまもなく、勝手口から廊下へあがり、浴室の入口のガラス扉をあけた。  禽が一羽二羽、またバサバサと重い羽搏きで、食堂兼居間《リビング・キツチン》の広い空間へ飛び出してきた。窓は開いているが、防虫網が張ってあるので外へにげる心配はない。しかし一羽、またもう一羽、殺気だった羽音と鳴き声で飛び出して、ソファの上、冷蔵庫の上、スタンドの笠をかすめ、とび交うのを見ると、彼は今では自分が危い気がした。どれがどの禽かもわからない。ただ一羽ゆっくりと歩いて臙脂のカーペットへ腰をすえたのは、≪妊婦≫だけだ。  空間に白い被毛が漂い、禽獣の噎《む》せるような匂いが部屋に満ちた。彼は自分の顔めがけて、蹴爪や羽根が絶え間なく襲撃するように、飛んでくるのを夢中でよけた。恐怖がこみあげ、躰じゅうが熱く震えた。 (落チツイテ、落チツイテ。)彼は自分に言ったが、いちばん静かな≪妊婦≫の顔も、同じ室内でみると、ひどく獰猛なので彼はぎくっとした。網や戸の仕切りもなく、同じ部屋で禽を見るのは、考えてみれば初めてだった。仕切りがないということは、自分が禽小舎へ入ったのと変りない。彼は今にも自分が禽と同族になりそうな脅えを感じた。 (冷静ニ、人間ラシク冷静ニ。ヤツラニ巻キコマレルナ。)彼がまた言った時、急に黒い芭蕉に似た影が目を蔽い、何も見えなくなった。かと思うと、額に刺すような痛みを感じた。瞼から頭へかけての重いものを、彼は手で振りはらった。禽が頭の上へ、ちょうどお神輿みたいに乗っかったのだ。 (畜生。)額を拭いた掌に血がつくと、彼は熱い怒りを押えかねた。思わず卓上の割付け用の長い定規をにぎって、空中を羽搏く禽へひと振りふた振りした。一羽が素迅く逃げ、確かな手ごたえで二羽三羽が床へ落ちた。奇妙なことに、急に飛んでいた他の禽も下へ降り、廊下や台所をはげしくかけ廻る爪音が響いた。彼はカーペットの上に、蹲まって動く幾つかの禽を見た時、はっとした。今自分が落した禽のなかに、≪ひさ子≫がいるのではないか、と思ったからだ。彼が一羽ずつみると、確かに≪ひさ子≫が片羽根だけばたばたさせていた。抱えあげても、かなり弱って逃げない。彼は床に坐り、両掌で被毛をそっと包むと、≪ひさ子≫は桃色の目を薄く開けた。  彼はそうして掌に、禽の熱い体温を感じていると、不意に物悲しい気持になった。お前は≪ひさ子≫か、彼は言った。俺の女房か。いやそうじゃあるまい。お前禽だな。確かにただの禽だろうな。  いつの間にか、あたりは静かだった。廊下の方で微かな羽音だけが妙に冴えてひびき、その音と重なって、表に小さく乾いた跫音が聞えた。石段を上ってくる、誰か女の跫音だ。ひさ子か……。彼は思わず耳に神経を集中させた。いやちがう。彼が立ちあがった時、 「すみません、開けて下さい。」玄関の前で隣の寡婦の声がした。 「すみません、ちょっと……。」  彼はなぜか真っすぐ玄関へ行かず、窓べからそっと表をうかがった。隣の女は朱塗りの弁当箱に冷たい紅茶まで添えた盆をもち、扉が開くのを待ちながら、媚をふくんだ面持で髪の毛を指さきでなおした。それは彼の目に、一瞬なまめいた美しさに見えた。  彼は急に部屋のすみへひき返し、また坐って、禽を腕へ抱えた。扉をあけちゃいかん。彼は息をひそめて思った。あの女をここへ入れちゃいかん。そう、白い禽がもう一羽ふえるだけだ……。 [#改ページ]   樹蔭  真田氏と桃。奇妙なとり合せであると、私は最初思ったものだ。真田氏の、年齢よりずっと老けた皺深い顔や、真白い鳥の巣のような髪や、陰鬱なくぼんだ目など、どうみても、桃という女性的な果実と縁がありそうにもないのだから。  しかし私は真田氏を知るうち、不思議なほどこのとり合せが適《ふさ》わしいものに思えてきた。例えば、観音と仁王のとり合せのように。いや私自身、日頃果物をあまり食べないくせに、桃をみると目が離せないようになり、その女の頬の生毛のような皮の毛羽だちや、白い果肉に触ってみたりした。真田氏は、私に桃への興味を起させ、目をその方へ惹きつけて、離せなくしてしまったのである。  私と真田尚平氏とのつき合いは、私と妻が彼の持家を借りた時以来だ。正確には真田家の当主である彼の長男の持家だが、それは神奈川県下、多摩川に近い丘陵の裾にあって、いかにも土地の旧家らしく、大きな雨晒《あまざ》れた茅葺屋根の母屋《おもや》、板囲いの作業小屋、穀倉などが広い庭を抱えこんでいる。私たちが借りたのは、その裏庭とさかきの垣で接した、築後そう古くない三間ばかりの家なのだ。  私と妻とが、真田家を紹介してくれた知人に連れられて家を見にきた時、私のまず気に入ったのは、背後の崖の見事とも言える急勾配だった。この傾斜は真南に向っているらしく影一つ落さずに、生々しい赭《あか》い土肌を陽に晒してそそり立っている。水にぬれた大きな粘土層の突起。その遥かかなたに、闊葉樹の葉脈が二月の風に揺れるのを見上げると、いかにも東京を離れて違う土地へきたという気がする。  また多摩川へ、徒歩で二十分とかからないこともよかった。河床を見おろす土堤に沿って、南武線という単軌電車が通っている。駅を出ると、すぐ河原の湿った匂いと、樹臭のまじったつめたい大気が鼻腔にふれてくる。駅からは、まばらな商店の軒をぬけ、畠道へ出てもいいし、いったん土堤上を歩き、畠道へ降りてもいい。 「まあ、梨。ねえ、あれは梨よ。梨の木なのよ。」真田家への往路、土堤から下の棚仕立ての園地を見下して妻が言う。  二十一歳の彼女の口吻には、自分が梨の木を知っていることが自慢らしいようすがある。 「そうだ。あれは梨だよ。」私は果樹のことなど一切無知だが、すでに梨棚の囲いに、『梨もぎとり。入園随意』と書いてある汚れた貼札を読んでいたのである。 「あら、ほんと? 知ってたの。嘘でしょう。」 「じゃ、あれは何ですか。」四十年配の知人は、遠く農家の庭蔭に一本だけ、葉ひとつない黒い枝を三叉に捩じわけた樹を指して言う。  妻は私に、問いかけるような視線を投げた。 「桃ですよ。」知人はそういう妻を見て、笑いながら言った。「あれが桃の木。よく覚えといて下さいよ。」 「あれが桃? へえ、この辺にも桃があるの?」 「ありますとも。ほらむこうにも。」彼はまた冬ざれた水田のかなたを指した。そこにも梨の園地が広々と棚を横に張り、棚のあいだから無数の細い枯れ枝を、突き刺すように空へ伸ばしている。この一隅に、繊細な長い枝をくろぐろと縺《もつ》れあわせた五六本の樹の集りが、どうやら桃らしい。だが私の眼は、その樹よりも土堤下一帯の、真昼の水のような光に鏤《ちりば》められた眺めにひかれた。そこにはありふれた農耕地以外の、果樹栽培地らしい一抹甘酸い樹液が匂うような雰囲気と、独特の静寂がある。遠くの見えない道をはしるトラックの響きさえ、私の耳をうってくるほどだ。しかし私は同時に、駅際の小学校の防火壁づくりの校舎や、百貨市場や、地方銀行の出張所の建物や、そのあたりの道を行く人々の服装などに、ほとんど東京と変らないものを感じた。いやそれは当然だろう。多摩川の彼岸は都下北多摩郡だし、その下流からも東京の潮《うしお》がひたひたと寄せているのだから。  私たちの借りる家を案内してくれたのは、真田氏の長男の由吉《ゆうきち》という人だ。 「不便なことが一つあるんです。」今まで作業小屋で働いていたらしい、肩やズボンを藁だらけにした二十八九の若い家主は、私たちを庭づたいに導きながら言った。 「家に水道がないもんでして、井戸水をここまで汲みにきてもらわなけりゃならないんです。」  その裏庭の井戸の流しでは、赤ん坊を背負った若妻風の女が洗濯していて、私たちを見ると黙って、低いおじぎをした。傍に七、八歳の女の子が蹲みこんでいる。 「もっとも私らは、母屋に内井戸がありますから、ここでは農具しか洗わないことにしますが。」  借りる筈の家の勝手口から井戸まで、生け垣の木戸をぬけて十歩ぐらいしかない。これなら多少不便でも、がまんできないこともなさそうに思われた。風呂場、台所などのほか三間の家には、路地にむかって安直な板敷の洋間らしいものもできている。これが私には好都合だった。私はここを仕事場にしようと思った。 「さっき井戸端にいたのが家内です。」由吉は話が決まると、女のように薄い唇を舌で湿し、事務的な口調で言った。「ほかにおやじと、姉と弟と、うちで使ってる子供が一人いますが、今畠へ出てるんです。どうか、よろしく。」  板敷の部屋が、私の仕事場の体裁を整えるまで一週間以上かかった。荷物や道具の多くは今までいた父の家へ残してきたのだが、それでも椅子、台机、プラスタアの袋、箆《へら》、脚立、粘土、書物、等々がらくたが狭い部屋いっぱい運びこまれ、私は手のつけようがなくて茫然とした。しかも妻は、こうした荷片づけに私以上に無能なのだ。  私は人が彫刻と呼ぶ類いの仕事をしている。が、むろん大した彫刻家ではない。六年前美術専門の大学でこの技芸の教育をうけた後、同じ彫刻家として多少名の知られた父の縁故で、ある大きな美術団体の春・秋展に出品する機会をえた。私はそこで、若さにまかせかなり人と変った——つまり奇抜な非具象の仕事を幾つかした。これがある向きでは、意外に好評であったために、私はその団体に正規の所属をもち、同じ世代の仲間を得るようになった。だが私自身、自分の仕事の性質を知っている。それは多分に思いつきであるか、非常に遠廻しの他人の模倣であるにすぎない。私はこうした自分の存在と、周囲のグループの人事や離合集散に、むなしさを感じることがよくある。現にひと月前、私は所属団体の永年の内紛から、十人余りの仲間といっしょに会を離れたばかりだ。けれども私は少し疲れた。こういう面倒な人間関係に。またこれらの夥《おびただ》しい人間たちが追いもとめ、群がりよっている「美」というものの正体の抽象さ曖昧さに。私はこの機会に仕事をするよりも、疲れを休めるつもりでこの辺鄙な地に家をさがした。 「あたし、何だか夜怖くていやだわ。」移ってきて五日目に、妻が言い出した。 「晩、井戸へ水汲みにいくでしょう。すると崖の黒い影が、頭の上へかぶさってくるみたいなのよ。うらの家の母屋もしいんとしててさ。どうしてうらの家は、ああ静かなんでしょうね。」 「母屋と離れてるから、音が聞えないんだ。」  そう言ってみたものの私自身、真田家の人数のわりに奇妙な静けさを、いくぶん訝《いぶか》しく思わないでもないのだ。この崖裾には真田家と私たちの家と二軒寄りあっているきりなので、自然に私たちの注意は隣家の方へむく。ことに洋間の一方の窓から、生け垣ごしに裏庭が見えるせいで、私はあの若い家主が穀倉から何か出し入れしているのや、姉という三十過ぎた顔色の悪い女や、尚平と名を聞いた白髪の父親や、使用人らしい十六七の肢のひょろ長い少年を何度か見かけた。だが彼らはお互に、あまり言葉をかわす様子がない。かわしてもごく低い声で、手短かに話すだけだ。だから私たちの耳にわずかに聞えるのは、遠くで若妻が子供を呼ぶ声とか、その子供が涕《な》く声とか、鶏鳴ぐらいのものだ。別にそこに何事があるわけではない。いやあまりに何事もない平静さ、ふかい静けさがかえって異様な感じを起させるのだ。 「あなた、ちょっと見て。」次の日の晩、突然妻が顔色を変えて、仕事場へとびこんできた。 「今水を汲んでたら、裏庭の暗がりで何かがじっと背中まるめて蹲みこんでるのよ。」 「何かが?」私は驚いて言った。「何かがって、何だ。」 「それがわかんないのよ。獣《けだもの》みたいな、人間みたいな。ま、こっちへきて見てよ。」妻は窓の方へ私を引っぱって行き、庭の暗がりをさし示した。  崖が濡れた巨大な粘土層をかすかに光らせて、そそり立っている。その裾の庭の一番おくに、大きな、かなり立派な温室が硝子を鈍く反射させている。なる程、私は温室の手前の、夜目にも深く鋤《すき》返されたとわかる濃栗色の土の上に、何やら蹲っている影をみとめた。それはわずかに動く。私がじっとみつめていると、急に影からむこうの土へ、小さな赤っぽい光が走った。懐中電燈だ。こう思った時、その光が背中をみせて蹲みこんでいる人影の、白くみだれた髪を照らしだした。 「人間だよ。」私は傍の妻に言った。「何でもない、裏の家のお父さんらしいぞ。」 「まあ、そうかしら。」妻は疑わしそうに眼をこらしていたが、急にまだ怯気の消えぬ顔をむけ、 「じゃ悪いけど、井戸へ行ってあれ取ってきて。」 「あれ?」 「いま水汲みかけて、桶置いてきちゃったの。」 「ちぇっ、仕方がない奴だ。」  私はやむなく、勝手口へ廻って裏へ出た。仕切り戸をぬけて井戸へ行くと、流しにまだ幾らも汲んでない水桶が放り出してある。私が手押しポンプを動かし始めた時、その音で庭の人影がこっちを振りむいた。窓からの淡い反映で、影の濃い、どこか魁偉《かいい》な感じの顔や肩が仄かに見える。私はこうして相手にみつめられると、このまま初対面の挨拶もせず、黙って通り去るわけにいかなくなった。私が同じつよい視線をうけながら、そこへ近づいて、 「私は今度——」と言いかけた時だった。  みなまで言わせず、相手は逞しく横に張った頤で大きく頷いた。それから黙って、土の上へむき直り、懐中電燈で照らした溝を、ぱんぱんと掌で叩きはじめた。  私は言葉のつぎ穂を失って、そこにつっ立っていた。そのまま引返してきてもよかったのだ。しかし私は、咄嗟《とつさ》に戻る気になれず男の掌の動きにぼんやり見いった。まるい光の輪をうけた掌は、陽灼けして太く短く、関節の間にかたい毛が生えている。それは永年土に洗われてきたのか、確実に物を握り締められそうな美しい掌だった。が私の眼は、これ以上にその掌の素速い動きにひかれた。掌は指の腹で、溝の土の硬さをためすようにしばらく匍《は》いまわる。そうしてこれがすむと、片手は小型燈を手もとの明るむのにいい位置において、土の上にあったナイフを取りあげた。もう片手はすでに同じ土の上の、短い枝を掴んでいる。彼はよく研いだ、鋭利な刃さきで、その枝の端を深く斜めにスパッと切った。それから枝を廻して同じ端の裏側を浅い斜めに切ると、また溝の方へ蹲みこむのだ。  溝の中にはよく見ると、そこに根づいているらしい中指ほどの太さの樹が、頭をのぞかせている。もっと高く伸びた樹をこの長さに切り詰めたのだろう、白々とした木質部がみえる。彼はこの樹の皮を削ぐように縦にナイフを入れた。そうしてこの皮の裂け目にさっき切った枝の端を挿しこんだ。 「何の樹ですか?」私が訊くと、彼はびっくりしたように顔を上げた。その眼は、私がまだここに立っていることに驚いているようでも、非難しているようでもある。 「桃です。桃の苗木です。」彼はそれでも意外に穏かな、よどみない声で言った。  私はかすかに生温く堆肥の匂う、あたりの薄闇を見渡した。温室まで三十坪程の軟かく鋤返された土の拡がりに、何本となく枝や、木切れを無造作に突き挿したような苗木がならんでいる。地上一米ぐらい伸びたのもあれば、その半分ぐらいのも、更に短いのも、藁や割竹で囲んだのもある。これはみんな、桃の苗なのか、苗床ってわけだな、と私は思った。  眼をふたたび溝に戻すと、土に膝をついた相手は、二つの木と木の白い切り口をぴったり合せ、その上に長い打藁を手早くぐるぐる巻きつけている。 「こうすると、木と木がくっつきますか。」私はまた訊いた。 「くっつきます。」彼は両掌でつよく藁を締めつけながら、鋭く刺すような視線で私を見すえて言った。「夏までには、きっとくっつきます。」  私は相手のその眼に、どこか偏狭な警戒するような色をよんだ。それは孤独な人間がよく見せる、他人への一種動物じみた警戒心だ。だが一方で私は、彼の声音にそれとは裏腹の、人慣れたともいえる穏かさを感じた。私はこういう種類の人間を知らないことはない。私たちの仲間にも、稀にこうした自分をまもることに過敏な人間がいるのだ。その硬い皮殻のむこうに、人はなかなか近寄ることができない。しかしこれを越えてしまえば、意外に柔かな人慣れた心に出会うことがある。  彼は藁を縛りおえると、土を指先で敏捷に細かく砕きながら、苗の上へふりかけ始めた。そうして苗の頭がわずかにのぞくまで覆って、また掌で土をぱんぱんと叩く。 「これは切接《きりつぎ》というんですよ。」見入っている私に、彼は突然言った。「この根の方の台木に、桃の枝を接《つ》いだんですよ。」 「こうして二つを接ぐと、どんな樹ができるんですか。」私は訊いた。 「どんな樹、って。」相手はあまり素朴な質問に、戸惑ったように私を見たが、「桃は樹をふやすのに核《たね》をまかずに、こうやって接木でするんですよ。枝を切ってきて切接するとか、芽を切ってきて芽接《めつぎ》するとか、そうすれば元の木と同じ種類の木の苗ができるんです。」 「どうして核をまかないんですか。」  彼は深く窪んだ眼で私をみつめた。そこにはわずかに話に身が入ってきたらしい光が見えた。私は彼がこれ程人と言葉を交すのにまだ接したことがないが、その話し方のどこか教師を思わせる落着きや巧みさからみれば、多分相手によっては喋りなれているのだろう。 「桃の核には、今までいろいろに品種が改良されたりしてて、複雑な遺伝質があるんですよ。核からじかに苗をつくるのを実生《みしよう》って言うんですが、実生でいくと、この遺伝質が勝手に現れてきて、元の木と同じ性質がうまく保てないんです。でも。」彼の眼がなぜか、急に熱っぽくまたたいた。「私は実生でも苗をつくってますよ。あすこの温室へ行けば幾らでもありますから、もし興味があれば見にいらっしゃい。そう、あさっての晩、温室で苗選びをしますが、そんな時でもいいですよ。」  しかし、そう言った後、彼の顔には、すぐ以前の陰気ともいえる鈍いものが現れた。そうして自分が手を休めていたのに気づいたように、立上って別の溝のまえへ行くと、また同じ作業にかかり始めた。私はしばらく闇のむこうの、もはや私の存在など忘れたように後向きに蹲んだ老人を見まもっていたが、やがて自分も井戸の方へ、水桶をとりにひき返した。  二日後の晩、私はまだ仕事場の荷片づけをやっていた。先夜尚平氏に言われたことは覚えていたが、私には格別桃への関心もないので、出かけてみる気にもなれなかった。  しかし室内のがらくたを整理しながら、床を歩きまわるついでに、ときどき窓の所から裏庭を眺めてみた。が、この間の言葉に反して、温室にも苗床にも仄白い月光が漂っているだけで、人影らしいものは見えない。 「お隣のお父さんね。」だいぶ夜も更けた頃、私の傍に妻がきて言う。「あの穀倉のわきの小屋に、寐てるらしいのよ。」 「え?」私は訊きなおした。 「あそこよ。」妻は窓ごしに、隣家の母屋の方を指した。井戸のすぐむこうには、小さな土倉造りの穀倉があり、背後に母屋の分厚い茅屋根の大きなくろい影が浮き出ている。この母屋と穀倉に挟まれて、わずかに羽目に囲った粗朶《そだ》をのぞかせている低いトタン屋根が、妻の言う小屋らしい。「あそこに、あのお父さんと、それから雇い人なんでしょ、背が高い、いが栗頭の男の子と二人で寐てるのよ。」 「ほんとか。」私は疑わしい思いで言った。「何であんなとこに。ちゃんとした母屋があるじゃないか。」 「だってあたし、けさ井戸端であの人たちが小屋から出てくるのみたのよ。服を引っかけながら、今起きたとこって恰好だったわよ。お早うございます、ってあたしが言っても、返事もしないの。ああ、あたし。」妻の声は急に不満そうな吐息に変った。「裏の人もろくに口きいてくれないし、こんな寂しいとこ厭だわ。」  この時私は、いつ点ったのか温室に、力弱い滲むような色の電燈がついているのをみた。その光は地を匍って、崖の土肌をてらし、温室の中に微かに影が動く気配だ。私はそれを見ると、急にそこへ行ってみたい気持に駆られてきた。勿論桃の苗に興味があったわけではない。ただあの男の肉の厚い、大きな掌を思い出したのだ。まるでそこだけ別の生き物のような柔軟さでうごく五本の太い指。それはどこか巧みな塑像家の箆の動きにも似ている。私はこれをもう一度眼で見たい気がした。  勝手口から、下駄をつっかけて庭へ出ると、崖ぞいに温室のまえへ行った。温室の硝子には水滴がこびりついていて、これで光が遮られていたのか、近づくとなかは思ったより明るい。私は真直ぐ扉の方へいかず、硝子壁に眼を寄せて内部をうかがった。すると、通路に立ってじっと苗木に見入っている尚平氏の顔が、ほとんど正面にみえた。その顔は締めきった温室の中で、誰ひとり他人を意識していない顔だ。そこには眼の前の苗に注意を集中し、同化して、人間らしさを失ったような取りつき場のないものがある。が、彼は急に耳ざとく外の気配に気づいたように、眼をあげた。そうして私をみとめると、わずかに表情を崩して、入ってこい、と扉の方へ手で合図した。  温室のなかは、むっと蒸れた土壌の匂いがした。空気は生温く、硝子にはりついた水滴がゆっくりと外の闇の上を辷りおちている。私は湿った香ばしい藁の匂い、肥沃な土の匂いを嗅ぐと、自分が人に一歩先んじて、春の中に踏みこんできた気がした。 「これです。これが核から育てた、実生苗です。」尚平氏は通路の片側の、枠で仕切った苗棚を私に示した。そこにはすでに一尺あまり伸びて、柔かな葉をつけた苗が十本あまり等間隔の列でならんでいる。 「こいつは宿河原|早生《わせ》といって、この多摩川のもうちょっと下流の、宿河原って所で初めてつくられた品種なんです。一名佐五平という、もうだいぶ古い、有名な早生種ですが、御覧なさい。同じ核でできた苗でもよくみると、違うのがあるでしょう。」  彼はあの硬い毛の生えた指で、苗の葉の一つをつまんで見せた。「ほら、この葉の形なんか、他のと較べてみてことに違うでしょう。他のより幅が広くて短い。それに芽の発育も、すこし遅いんです。こういう変種が、十中に二つや三つは出るんですよ。」 「こういうのは樹になると、違う実ができるんですか。」私は訊いた。 「勿論そうですよ。人間でも父親か母親に似る筈が、お祖父さんに似た子ができることがあるでしょう。そんな隠れた遺伝質のいたずらなんです。」 「するとこの苗は、大きくなってどんな実をつけるんですか。」 「さあ、それは見当がつくことがあり、つかないことがあり。そこがおもしろい所なんですが。」 「おもしろい?」私はしだいに生々した表情に変ってきた相手の顔をみつめた。その低い声には、聞き手をえたよろこびらしいものさえ感じられた。 「こうした変種を育てると、ごく稀にとんでもなくいい実がなることがあるんです。こっちを見て下さい。」尚平氏は私の眼を、通路の反対側の苗棚にさそった。「これは愛知の布目《ぬのめ》早生といって、こういう変種から拾いだした、新しい優秀な品種なんです。同じ種類の桃の核を、こうやって幾つも苗床にまきますね。するとその中に形も性質も異なった苗がでてくる。それを観察し較べてみて、自分でこれはと思ったのを、春さき園地に植えつけてみるんですよ。」 「そうすると何年位で実をつけますか。」 「そう。核からの苗は接木苗より遅いから、四五年ですね。」 「四五年。」私は言った。「じゃ四五年経たないと、結果がでてこないわけですか。もし実をつけても大した実じゃなければ。」 「そん時はまたやり直しですよ。だから苗を選ぶのが大事なんです。」彼はまた指の腹で、青く透けるような葉を撫でながら言った。「こうやってじっと苗を観察してみて、どんな樹になるか読みとるんです。ちょうど赤ん坊の顔を見て、大人になった時を想像するように。これは一つにはカンですが、一つにはいろんな桃の苗や樹を知ってなけりゃならないんです。桃にも、大久保とか、白鳳とか、橘早生とか、あるいは白桃系の品種にしても数えきれない種類がありますからね。それを頭において、この苗をじっと見るんです。そうしてこの形や性質から、ここには白鳳の血が入っているとか、あるいは大久保に近いとか、推察するんです。でも私は、ずいぶん失敗してきましたよ。」  彼は初めて私に微笑を、それも苦い微笑をみせた。 「もう何年位、これをやっておられるんですか。」 「私が桃をつくるのを教わったのは祖父からですが、こんな育種を始めたのは戦争中からです。」彼はどこか羞じいるように俯いてこたえたが、すぐ顔を起し、 「そう、こっちへきて見て下さい。」と私を隣の苗棚にさそった。 「この苗には、今言った祖父の木の血統《ちすじ》が入ってるんですよ。」尚平氏は他の苗棚より一段低く、広く仕切られた枠の中を指して言った。「新しい桃の品種をつくるには、さっきのようなやり方のほかに、交配という方法もあるんです。つまり或る木の花の雌蕊に、別の木の花粉をつけて実を結ばせるやり方です。ちょうど人間が男と女を合せて、子を生ませるようなもんですよ。両方の木の性質がわかってれば、これを交配してできる実の性質もある程度見当がつく。こうしていろんな長所短所をもった木と木を合せて、なるべく欠点になる遺伝質を消し、美点ばかりのこすようにする、こういう方法なんですよ。ここにまいたのは、祖父がつくった木と別の桃の花粉とを交配させてできた実の核です。」  私はその土の上に、まちまちの長さで葉を繁らせた無数の苗木をみつめた。 「四年前、このやり方で試しに植えた木が一本いい実をつけたんですよ。」尚平氏は急に熱っぽく眼をみひらいて言った。「ところが他の木の花粉と混らないために、この裏庭に植えたのが悪かったんです。一度実をとったその秋に、十二号颱風とかでこの崖がちょっと崩れましてね。なに大した土崩れじゃなかったんですが、私が地方へ出かけたりしてて、すっかり枝が折れたり根が水浸しになってだめになっちまったんです。おまけにその木を殖《ふや》すつもりで苗床に、接木した苗を八十本位つくっといたんです。これがまた大分やられましてね。やっと残った五十本ほどを園地に植えて、これが今年初めて実をつけるんです。」 「今年初めて、ですか。」 「ええ。」彼は微笑をむけて言った。「ほんとは去年実をつけさせればつけたんですが、いい初成りを採ろうと思って、一年押えたんです。これはたのしみですよ。桃のいい悪いにはいろいろ条件がありますが、私はまずこの土地に合うことを第一にしてるんです。よかったら、一度園地に見にきて下さい。」 「ええ、ぜひ。」私は頷いたが、なぜか相手の顔から眼を離せなかった。その顔は子供の時から桃をつくり、戦争中からの二十年近い歳月を桃の核と格闘している男のものだった。いったいこれらの多様な桃の種類、おびただしい桃の苗木やその組合せから、何を生みだそうというのか。相手はそれ自身、一つの有機的な生命をもった植物なのである。この自然の生物をなだめすかし、或はいたわり撫でさすって、かくれた遺伝質を探り出し、自分の好む美質につくり上げようとする根気に私はまずおどろくのだ。  私たちはしばらく黙って、通路に立っていた。あたりにはときどき温度調節器の切替る音がするほか、微かな物音もなかった。この硝子張りの棟の、ふかい沈黙の中にいると、まわりの苗木の生命の鼓動や、冷たい血の流れがきこえてくる気がした。  と、この時、入口の硝子扉がわずかに軋った。振りむくと、開きかけた扉のむこうで躇《ためら》っているような人影がみえる。 「何だ。」尚平氏に声をかけられると、その影は明りのなかに、長く伸びたいが栗頭をつき出した。使用人の少年だった。  彼は腫れぼったい細い眼を主人にむけながら、無言で何か気忙しい手ぶりをする。 「そうか。」尚平氏は頷くと、私に微笑みかけた。 「じゃそろそろ外へ出ましょうか。寐る時間だと、催促にきました。あした、園地へ出るのが早いもんで。」  硝子扉を潜りぬける彼につづいて、私も庭へ出ると、たちまち肌を刺す夜気が体をつつんできた。 「四郎。」尚平氏は少年の腕に手をかけ、振りかえらせて言う。「あすこの苗棚に藁をしいといてくれ。それから電気を消してきてくれ。」  相手は黙って頷くと、どこか家畜のような素速い身のこなしで温室の中へ消えた。 「あいつは唖なんです。」尚平氏は私に言った。「耳も聞えませんが、聾唖学校に永くいて、簡単なことなら相手の言うことを唇で読みますよ。返事は手ぶりで間にあいますが、紙に書かせてもカナでこたえますよ。」そうして仄暗い庭へ二三歩踏み出し、 「お休みなさい。」と言った。 「お休みなさい。」  私は彼が前屈みにゆっくり遠ざかるのを見送った。彼は井戸の脇をこえ、穀倉の軒下を通った。そうして母屋のかげの粗朶囲いの小屋の前までくると、歩みをとめた。開けた戸から一瞬燈火が滾《こぼ》れ出、彼はその中へ体を折るようにして入れながら、すぐ戸を締めた。 「ね、あたし犬を飼おうかな。」  妻が朝の薄陽の射す、居間の縁がわで、籐椅子に横になりながら言うのだ。 「飼ったらいいだろう。だが仔犬なんか、手間がかかってきみには飼えないぞ。」私は小砂利じきの狭い庭から、板塀ごしに外をみやった。隣家の樟《くす》の鬱蒼とした枝のむこうに見えるのは、三月のにぶく霞んだ空だ。その下の梨棚の花芽も大分ふくらんでいる。私はぶらぶら河原へ行ってみようかどうか、迷っていた。 「大きい、番犬になるようなのがいいわ。シェパアドとか、グレエトデンとか。樺太犬はどう?」  樟の葉かげの道を、背中に農薬の噴霧器《スプレエヤア》をせおい、腕に割竹の束と鋤を抱えた大柄な青年がとおる。 「あれはお隣の弟の方じゃないか?」私は妻をかえりみて言った。 「どう。」妻は椅子から伸びあがって、外を見たが、「そうよ。浩二郎って人だわ。あの人、この間井戸で農具洗ってるとき、ちょっと会ったけど、案外はきはき話せるわ。夜、東京のN大へ行ってるんですって。」彼女は手すさびの手芸を取上げながら言う。「そのうち一度家へ呼んでみたら。話が中々おもしろそうよ。」 「そうしよう。」私は言った。妻がこの土地のくらしに退屈するのが、私に一番怖しいのである。 「河原の方へ行ってみないか。」隣の青年に促されたように、私は外へ出てみる気になった。 「どうぞ、行ってらっしゃい。あ、そうそう。」妻はふいに体を起して言った。「帰りに駅んところで買いものがあるのよ。今頼むもの、メモにかくわ。」  畠道へ出ると、河からの柔かな風が頬を撫でた。二三日前雨が降ったので、蔬菜畑の土が、黒い金属のように光っている。私が頭上を蔽うほど高い藁架の下をすぎた時、むこうにリヤカアを曳いた若い男と立話している、浩二郎の姿が見えた。  擦れちがう私と眼があうと、彼は白い歯をみせて会釈したが、とつぜん後から、 「ああ、ちょっとちょっと。」大声で呼びかけた。  ふり返る私に、手をあげて近づいてくる。 「奥さんに会ったら、言おうと思ってたんですが。」彼は浅ぐろく滑かな頬に微笑をうかべ、喉の奥で弾むような声を出した。 「うちの兄貴が、お近づきに一度家へお招きしたいと言ってるんですが、今度の日曜あたりいかがですか。」  私は思いがけない誘いに、びっくりして相手を見まもった。さっき妻とこの青年を呼ぼうと話していたが、何となく先を越された気がした。 「日曜は兄貴の二番目の子供の初誕生なんです。そんなお祝いもあるんで、奥さんと御一緒にぜひどうぞ。午《ひる》からでも、僕がお迎えに上ります。」  相手のきびきびした気魄の籠った言い方に、あまり気の進まない私もやむを得ずこたえた。 「じゃ、伺います。」  私たちは同じ道をしばらく歩いた。浩二郎は軽々と噴霧器をせおった厚い肩の上に、さらに割竹の束と鋤を担ぎ、これを持つ手が歩いても停ってもじっとしていられぬように、絶えず動いている。腰には皮ケエスに入った携帯ラジオがぶら下っている。 「これから、畠へ?」私が訊く。 「いや、梨棚です。うちの畠はこっちじゃなく、家のすぐ横手ですよ。」彼は長い肢で元きた方を、くるっと振りむいて言った。「うちは畠と梨棚と桃園《ももえん》が、どれも離れてて厄介なんです。農地改革になるまでは、この道の両側も代々うちの土地で、三つともつながってたんですがね。」 「地所が減りましたか。」 「減りましたとも、減るばっかりです。」浩二郎の声音には言葉とは反対に、屈託がなかった。彼の何でも噛み切れそうな骨太の頤。小鼻の張った、高い鼻梁。私はそれを見ながら、彼は父親系の「品種」だな、と思った。 「桃園はどっちの方ですか。」私は訊いた。 「桃園ですか。」相手はちらと私を見たが、すぐ右手の河原の方向を指して言った。「この道をすこし右へそれた、あの土堤下あたりです。お出でになるんですか。」 「ええ。」私はあれ以来、何度か尚平氏の温室を見る機会はあったが、桃園はまだ見ていなかった。駅からの往復や散歩の折、気がついてさがしてみても、どうも場所がわからない。だがそこでは今年、尚平氏の祖父がつくった木の系統の桃が、初めて実をつけると言う。尚平氏の話では、その木は彼がまだ十七八の頃、祖父が陸穂田の隅に一本だけ植えこんだものだそうだ。雄作という名の祖父はやはり桃の品種をつくり変えることが好きで、よくそうした素姓のわからない苗を畠の隅へ植えたりしていたと言う。だがその木ばかりは、尚平氏も周囲の者も驚くような実をつけた。皆はその木をふやすように、雄作氏にすすめたが、彼はどこが気に入らないのかふやしたがらなかったと言う。それでも尚平氏や家族の者は、内証で接木苗を十本ばかりつくって植えておいたそうだ。ところが尚平氏が兵隊検査で入営して帰ってきた時、はじめて祖父がふやしたがらなかった理由に納得がいった。十本の苗木もとっくに実をつけていたが、その木は病気や害虫に弱く、樹勢が衰えてみる影もないのだ。人びとは樹が衰えるので、何とか立て直そうと他の勢のいい木を接木するのだと言う。すると、木の血統が交りあって、元の雄作氏の木とは似ても似つかない実をつけるのだそうだ。  尚平氏が温室の苗棚にまいた核は、こうして失くなった純粋な祖父の木を、苦労して捜し出したものだと言う。それは当時の小作人が、雄作氏のつくった実を実家へ土産にもって帰り、食べた後の核を庭へまきつけたのだ。尚平氏はこれを知ると、神奈川県のもっと奥の生田というその場所へとんで行き、核をもらい集めた。木はすでに荒れ、老い衰えていたが、まだ幾らか花が咲く。彼は開花期には、いろんな種類の桃の花粉をもって、交配に行き、その結んだ実の核を温室の土にまいたのだ。しかしそうした苗を選び分け、いいと思うものを育てても結果がわかるまでに、四五年はかかる。どれほど技術や知識が確かでも、相手が自然の複雑な有機体であってみれば、結局はカンや偶然に頼るしかないだろう。そして多分、それは徒労の連続だったろう。しかし尚平氏は、やっと思うような品質の木をつくったと言う。彼が園地に、その木を何十本となくふやしたからにはよほど気に入ったものに相違ない、と私には思われるのだ。 「桃園に、今年初めて実をつける樹があるそうですね。」私は歩きながら、浩二郎に言った。「それを見たいと思って。」 「ああ、あれですか。」彼はつよく頷いたが、「あいつは何とか、いい実をつけてくれりゃいいんですが。じゃないと、困ったことになるんです。」  私は屈託のない彼の顔が、急に影を帯びたのを訝しんだ。 「どうしてです。」 「どうしてって。」彼は道の正面をみつめたまま言った。「あれがどんな初成りをつけるかは、この土地にとっても大事なことなんです。」  浩二郎は私の問うような視線をうけながら、わずかの間歩いたが、急に白菫の繁みが花をつけているところで足を停めた。そこは道が岐れる場所だった。 「たとえば腐って、毀れかけた古い家がありますね。」彼は言った。「その老朽の家でも、大黒柱がしっかりしてれば倒れないですむでしょう。いやそれどころか、まったく新しい造りに建て直すことができるかも知れない。でも大黒柱は、かりに外見がしっかりしてても、中の芯が虫食ったり腐ったりしてることもあるんです。こいつは柱の中を切ってみなけりゃわからない。あの桃のいい悪いは、この柱を切ってみるようなもんなんです。」 「すると、あなたの家は。」私は思わず訊きかけた。 「いやこれは僕の家が毀れかけてるとか、破産しかけてるとかいうことじゃないんです。」彼はあわてて言った。「いやあるいは家も毀れかけてるかも知れませんが、こいつは土地の問題なんです。おやじはあの桃を、この土地の土に合うと信じてつくったんです。」  私はいつか尚平氏が、桃のいい悪いはこの土地に合うかどうかが第一だ、と言ったのを思い出した。浩二郎は脂の滲み出た額を片掌でぬぐうと、白菫の葉群を足でわけて岐れ道の方へ踏みこんだ。そうして今きた道の行手を指し、 「桃園はこの道を、なるべく細い道にそれず真直ぐ行って下さい。うち程大きい園地は他にないし、早生《わせ》がもう花をつけてるからじきわかります。じゃ僕はこっちですから。」彼は私に笑いかけると、大股なせわしない足取りで歩みさった。  私が彼に言われた通り道を行くと、前方の土堤の間近に、桃のくろい樹と、梢につけている淡い花の連なりが見えてきた。園地は頑丈な竹柵で仕切られ、その柵が道に沿って、かなり長くつづいている。私は河原から微かに反響する、何か工事の杭でも打ちこむらしい金属音を耳にしながら、この広い園地は、駅から土堤道をとって帰る時、何度か遠く見下した覚えがあるのに思いあたった。  柵間に、朽ちた竹戸をみつけて私が入ると、桃の捩れた枝の重なりのむこうで、パチンと冴えた鋏の音が聞えた。この音をたよりに近づく私の眼に、まず老樹の木蔭で、鋏を使っている四郎の姿が見えた。尚平氏が同じ幹に中腰で眼を近づけ、何かやっている。彼は柔かな土を踏む私の跫音にふりむいた。 「花が咲きましたね。」私が笑いかけると、彼はとっさに眼の遠近が慣れないように瞼をしば叩いた。 「見て下さい。いい姿でしょう。」彼は掌に持った細い刺し針のさきで、となりの若木の枝をさし示す。私は言われるまま、若木の華奢な細い梢に見いった。  その木は老樹を間に挟み、五六米四方の間隔で何十本となく植えならべられている。木と木の間が広すぎる気がするのは、これから育つ余地をみているのだろう。若木の幹は、樹肌が滑かで、まるで胴の締った若者が、しなやかな四肢を思いきり空へ伸ばしているようにみえる。尖った枝には、あわい紅殻《べにがら》色の花房が群がりついている。五十本あまりの木の花芯からいっせいに放つ、その甘にがい匂いは、私の鼻を奇妙な官能で突いてきた。 「この太い枝が三つに分れてるでしょう。こいつがやや開き気味に、かと言って自然に上へ伸びる勢を抑えすぎずに、枝を仕立ててくるのがなかなか骨なんです。」尚平氏は私にこう言うと、急に四郎の方へ近づいた。 「四郎。」彼は少年の腕を捉えて、むき直らせて言う。「それはもういい。授粉を始めるから、花を摘んでくれ。」  四郎は頷くと、手にした剪定《せんてい》鋏を腰に差しこんだ。そうして土の上の竹|篩《ぶるい》を拾い、老樹の枝から指先で花房を一つ一つ丁寧に摘みはじめた。 「若木の花に、人工授精をするんですよ。」尚平氏は私に説明した。「花粉は風や昆虫が運んで、雌蕊につけてくれるのが自然なんですが、木によっては花粉が少いのがあったり、自分の木の花粉では実をつけないのがあるんです。それでこういう授粉用の木というのがあるんですがね。でもこの古い樹は、幹にコスカシバって虫が食いこんでて、今も殺してたんですがどうも手がかかってしようがないんです。ひとつ、私が授精をやってお目にかけましょうか。」  彼は手を伸して、老樹の枝から無造作に二三房、花を摘みとった。それから若木の方に歩みよると、摘んだ花の一つを指でもち直し、私に始めるぞ、と目知らせした。私の眼のまえには、若木の枝に塊り咲いている小さな五瓣の花があった。その雌蕊のかすかな粘液で光る青く繊《ほそ》い尖端は、私に一瞬思春期の、何かを待ちもうけるようにぬめぬめと濡れた少女の唇を思わせた。尚平氏の掌は、そこに摘んだ花をぱっと伏せた。そうして指さきでくるっと廻すとすぐ離した。それだけだった。  彼が別の花と花とで、もう一度くり返してみせた時、私は花よりも彼の顔を見ていたが、あわてて眼を反らした。私はそこに、何か見てはならないものを見たような気がした。この植物の授精という行為に、私自身人間の或るなまめいた行為を連想したのだが、彼も同じ連想の中にいたのかどうかはわからない。だが私はこの瞬間、尚平氏の陽に鞣《なめ》された顔に、好色とでもいいたい表情をよんだ。そして人の秘密を垣間みたような、後めたさをおぼえたのだ。 「こうすれば、必ず実をつけますか。」私は訊いた。 「一応はみんな実を結びますね。」尚平氏は眼をしば叩きながら言った。「しかし害虫や病気にやられる場合もあるし、雨風《あめかぜ》で落ちる場合もありますよ。そうじゃなくとも、実がある程度の大きさになると、木の負担を軽くするために、育てる実だけのこして、あとは摘むんですよ。この木は今年初成りでもあるし、一本でせいぜい四五十個に抑えようと思ってるんですがね。」 「どんな実をつけるんでしょう。」 「いい実をつけますよ。もし天候とか病虫害のひどい災難に見舞われなければ。」尚平氏は細めた眼のおくを、急にかがやかせて言った。「普通桃は、八年から二十年近くまでの木が、一番成熟したいい実をつけると言われてるんですが、私はそうは思いませんね。桃は何と言っても初成りです。初成りほどきれいな、いい実はありませんよ。」  私は彼の声に、どこか胸の深みから吐くようなつよい響きを聞きつけて、思わずその顔をみまもった。 「むかし祖父の雄作から、初成りをもらった時のことは忘れませんね。例の祖父がつくった木の初成りですよ。祖父はその実の一つを、無造作に私に渡して、こう言うんです。机の上へ置いといて、あすの朝食え。」 「あすの朝。」 「それもこの若木とちがって、三年やっとで実をつけたもんだから、形も小さくて、紅味も薄い、見映えのしない桃なんです。私は大して食いたいとも思わないので、言われた通り机の上へ置いときました。がやっぱり、近くにあると気になるんですね。夜、何となくそっちへ眼が行くんです。すると、何だか皮の毛羽がねていたのが立ってきて、実全体が膨んできて、色も少し潤みが出てきたような気がするんです。でも私はそのまま寝ちまいました。ところが翌朝、眼が醒めておどろいたんです。机の桃の上に朝陽があたってるんですね。その陽の中で、桃にまるで上気したような紅みが出てるんです。そう何というか。」  尚平氏は言葉に窮して、見えない桃の幻影を追うように空へ眼をこらした。「ちょうど柔かい生毛に陽があたって、薄く血が透けてみえるような娘の頬があるでしょう。ああいう色づきなんです。私は桃が敏感な果物だとは、祖父から厭ほどきかされてましたが、こんなに微妙なものだとは思いませんでした。私が急いで手にとってみると、手触りもきのうより熟れて柔かいんです。私は皮をむくと、顔も洗わずに夢中でそれを食いました。」 「食っちゃったんですか。」私は少し惜しい気がして言った。 「いや、桃は美しい時に、すぐ食うべきもんですよ。桃の美は、保存できはしないんです。桃が一番美しくみえる時は、桃が食ってくれと誘ってるんです。これにこたえるのが、桃への親切、というか愛情なんですよ。」  私はやや気難しげに眉をよせた相手を、しばらく言葉もなくみつめた。私には彼の中で、今もなおこの初成りの桃の美しさが、生きているのを感じた。あるいはそれは時間を経て、変質し、抽象的なものに昇華しているかも知れない。だが彼はこの自分の内部に生きつづける形象を追って、あの温室や苗床での永年の苦闘をくり返しているのではなかろうか。 「この若木には、その実の血統《ちすじ》が入ってるんですね。」私は言った。 「そうですよ。」尚平氏はつよく頷いて言った。「祖父はこの土地の土質をよく知ってましてね、いつもこの土地に合う桃をと考えていたようです。その頃は誰でも木の面倒をよくみたし手間もかけたし、桃園だってずっと多かったんですよ。」 「桃は少くなりましたか。」 「なりましたとも。戦争以来ひどいもんです。私が核いじりなんか始めたのも、何とかいい品種をつくってまた土地に桃をふやしたいからですよ。戦争中は果樹なんかより、穀類の方が大事で、一部では樹を伐って転換させられたりしたのが、そもそも悪いんです。そのくせ一般じゃ果物が貴重品で、東京から闇の仲買がきて、どんな悪い実でもいい値で買って行く。だから土地の人も、木の負担を考えず、下らない実を枝いっぱいつけさせるんです。このために木は荒れて衰えてしまう。そうなると、人間が木に厭気がさしてくるんですな。」彼はふいに、凭れた老樹にむき直ると、右掌にもった刺し針で深く樹皮のわれ目をさぐった。 「ほら、御覧なさい。放っとけば、樹にこんな虫がつくんですよ。」  その尖った針先についてきたのは、長さ三センチ位の毛虫だった。 「こいつはコスカシバの幼虫なんですがね。」尚平氏は今までの穏かさとうって変った、冷たいにくにくしげな眼つきで、虫を地面にすりつけると、靴で踏みつぶした。「こうやって、幹や太枝に食いこんで樹脂《やに》を出させ、樹を老いさせるんです。ほかにシンクイムシとか、ゾウビムシとかいろいろいますがね。」  彼はときどき見せる、取りつき場のない、むしろ冷酷と言ってもいい面持で、幹に中腰にかがみこみ、何匹も毛虫を刺殺しはじめた。私は先刻この園地に入ってきた時のように、その動作に熱中し出した彼をみた時、これ以上長居をしては悪いという気がしてきた。 「じゃ、そろそろ失礼します。」私が言うと、尚平氏はびっくりしたように顔を上げた。 「そうですか。これからどちらへ?」 「駅の方へ、ちょっと買いものに廻ります。」 「駅へ。じゃ土堤のすぐ下へ出る木戸がありますから、お連れしましょう。」  彼は先にたって、径を歩きだした。幹の間を折れて、枝をくぐりながら行くと、まだ花をつけていない一二年の幼木らしいものも何本か見える。 「ずいぶん広いですね。」と私は言った。「夏、これだけの桃の穫入《とりい》れはうち中でなさるんですか。」 「いや、多分二人でしょう。」尚平氏はやや口ごもった。「それまでにも、実を摘むとか、袋を掛けるとか、いろいろあって今年は眼がまわるでしょうが、多分二人ですよ。」  私にみつめられると、彼はどこか弁解じみた口調で言った。「夏は梨棚も畠も忙しいですしね。浩二郎が手伝うというんですが、あいつは力ばかり強くてぶきっちょで、おまけに仕事しながらラジオの音楽を鳴らすもんで。」  尚平氏が微笑しながら、明けてくれた竹戸を、私はくぐり出た。  土堤に上ると、湿った、藻のように匂う河風が顔に触れてきた。河水が磧《かわら》のむこうで、銀いろにうねり、彼岸の空を鳶が羽搏き一つせず、輪をえがいて飛んでいる。私は視線をかえして、今きた園地を見下した。そうして白い花叢を泡立つようにつけている桃の木々を眺めた時、なぜとなく私の脳裡に、あの授精の瞬間の、尚平氏の奇妙に赧らんだ、酔うような表情が甦ってきた。  日曜になると、私と妻との間でちょっとした論争がおこった。浩二郎の伝言では、招かれているのは私たち二人の筈だが、妻は行くのが厭だと言い出したのである。 「どうしてなんだ。きみは隣の人が口をきいてくれないと、文句言ってたじゃないか。こんな時こそ、近づきになるいい機会だぞ。」私は言った。 「文句なんか言いやしないわ。ただちょっと変った人たちだって言ったのよ。」妻はむきになった様子もなく、のんびりと言う。 「でもふだん、寂しがってるだろう。」 「寂しいってことは、何も他人と一緒にいるいないと関係ないわ。大勢のなかにいても、寂しくて退屈なこともあるし。」  妻の穿った言葉は、私に少しこたえた。私自身に当てこすられている気もしたのだ。 「あなた一人で行ってちょうだい。二人揃って行くなんて大げさよ。あたしお隣みたいな農家へ上って、改まってどんな話していいかわかんないわ。かえって失礼なことしそうよ。」 「じゃ、いい。」私は負けて言った。「その代り、お隣の赤ん坊の誕生日だそうだから、何かお祝いものを用意してくれ。」 「お祝いもの。」妻の方が今度は当惑の眼をした。「何がいいかしら。ここじゃろくなもの売ってないし、百貨店《デパート》へ出かけるわけにいかないし。」  午後になって浩二郎が迎えにきた時、結局私は、妻が舶来市で買ったまま使わずにいた、厚いタオルの布地を持ってでかけた。  生け垣をぬけて行くと、母屋が表と裏の庭を区切るように崖の方へ迫《せ》り出ている。その崖際を過ぎた私の眼に、糸瓜《へちま》棚の下の縁側で私を待っているらしい由吉の姿が見えた。 「どうぞどうぞ、お上りんなって下さい。」彼は縁先へ立ってきた。昼まえまで畠にでも出ていたのか、別に改まった恰好もしていないのが、私をかえって気楽にした。  私は妻が来られないことを、適当な口実をつけて述べながら祝いの品を差しだした。 「あ、これは困りましたな。こんなことをして頂いてはかえって申訳なくて。」由吉は痩せぎすの顔に、露わな困惑をみせて言った。私は最初に会った時の印象や、日頃遠くから見かける彼に、どこか親しみにくい感じをうけたのだが、今日の彼の笑顔や声には、人が変ったような愛想のよさがみられた。 「あさ子、あさ子。」  由吉が家の奥へ先にたって入りながら、こう呼ぶと、薄暗い裏土間から白い割烹着姿の小柄な若妻がいそいで上ってきて、丁寧に頭をさげ、私を部屋へ導いた。そこには派手な格子縞の布で蔽った大きな食卓がおかれ、赤飯や煮染の皿や、果物の玻璃《はり》鉢や、酒瓶などが飾られている。 「じゃ俺、あっちの小屋にいるよ。」縁側から、浩二郎が作業小屋の方を指して大声をかけた。 「ああ。」由吉が頷くと、弟は私にちょっと眼で笑いかけ、庭へ消えた。 「うちの食事などは、かえってお口に合うまいと思ってわざと時間を外しました。さ、何もありませんが。」由吉に促されて食卓の前に座を占めながら、私は何となく勝手がちがった気がした。私は慶事かたがた近づきに呼ばれたからには、一家中が揃った場に加わるのだろうと思っていたのだ。ところが浩二郎は別棟へ出かけてしまうし、尚平氏の姿も見えないようだ。 「お父さんはどちらへ?」私は訊ねた。 「ええ相変らず、桃園でしてね。」由吉は一瞬ひかる眼で私を見たが、すぐ卓上の酒瓶を取上げると、その口を私の方へ差しむけた。「これはいかがです。家内の実家が、多摩川をもう少し下った調布町で、酒の醸造をやってましてね。うちの梨をビイルみたいな炭酸酒につくったもんなんです。」 「調布といえば、東京ですね。」私は裏土間で、姉と思われる女から、赤ん坊を抱き受けているあさ子を見まもった。そのほっそりした体つきには、農家の女房らしい感じが少しもない。そして卓上の食べ物のあしらいとか、貼り換えて間もないらしい壁紙とか、部屋の隅の三面鏡とか、あるいは浩二郎のものらしい書架などのすべてに、これと共通した小ぎれいな、垢ぬけしたものが感じられた。多分これはあさ子の嫁入り道具のせいばかりではない、さかんな肉体からぷんと匂う体臭のように、若い人間のくらしだけの放つ臭気のようなものだろう。  しかし私はこれらが、家全体から見ると、どことなく不調和な雰囲気を醸し出しているのを感じた。それは家のあまりな古さ、天井のない茅屋根の裏に淀む闇。床の間のまるい鉄輪のついた長持、紫檀の仏壇に燦く金色の龕《がん》、などのせいだ。部屋々々を田の字づくりに仕切っている太く巨きな梁には、永い年月の煤や油煙が瘡《かさ》のようにこびりつき、燻んだ木目に小さなやもりが一匹、濡れ光る肌ではりついている。この梁の下で、何人か住み手が変ったことだろう。そして今またあたらしい住み手が、この下で身ぎれいで何げない日常をくり返している。そう思うと私は、一種異様な感じにうたれてきた。 「お宅はこの土地で、もう何年位になるんですか。」私が訊くと、 「さあ、何年なんでしょうかね。」由吉は首を傾げた。「私は真田家の代々が、他の土地で暮したってことを知らないんですよ。分家もずいぶんありますし、いつか納戸を虫干ししたら、長持から文化文政頃の『玉川治水覚書』なんて古反古が一杯でてきましたが。」 「その頃から果樹ですか。」 「いや、果樹はそう古くないんでしょう。桃なんか、支那の『上海』からきた核を実生で育てたのが最初だなんて言いますし。」由吉は急に煙草の火を揉みけして言った。「しかし桃ももうだめですね。」 「だめ?」私はその断定的な口調に、やや驚いて相手をみた。 「桃のことは、おやじから聞いておられるでしょう。」由吉は一瞬探るような視線を私にむけたが、「桃はまずこの土地じゃ、だめだと思いますね。桃という果樹そのものが、地味《ちみ》に飽きてるんです。」 「地味に。」 「これをおやじに言っても受けつけないんですが、どんな植物でも同じ土壌に長く植えれば、いつかその土に飽きてくるもんなんです。例えばある作物は、同じ畠に連作がきかないというでしょう。これが自然の勢というもので、現にこの辺の桃も年ごとにへるばかりですよ。」彼の声は、まるで私を説得するようなつよい調子を帯びてきた。「おやじはそれを、土壌の管理が悪いからとか、樹の手入れを怠けてるとか言うんですが、私からみれば、おやじこそ、自然の勢を、この大地の自然というか、ものの潮時というか、そいつを無視してる気がしてしようがないんです。」  私は由吉の言葉を聞きながら、彼と父親との意見の隔たりに、半ば茫然とした。同じ土地にすみ、同じ桃を見ながら、父子の間でこうも見方が違うものか。もし由吉の言うことが正しいなら、尚平氏はまるで歯が立たない、途方もないものを相手に逆らっていることになる。そして尚平氏の言うことが正しければ、由吉は人間の関心や意欲の低さを、自然という茫漠とした力に託《かこ》つけていることになる。私はこの時、由吉がわざわざ今日招いたのは、こうした自分の意見を、なぜか私に聞かせるつもりだったのではないか、という気がしてきた。 「おやじのこんなむだな仕事も、自分一人ならいいんですよ。」彼は自分を抑えるように、卓上の玻璃鉢の中の林檎を手にとって言った。「ところが巻添えで、それ以上に苦しむのは家族なんです。おやじが育種なんかはじめたのは昭和十七年頃ですが、だんだん深入りして田畑や梨棚へ出なくなると、広い耕地を抱えて一人で苦労するのは死んだお袋なんです。私などもまだ十位の子供でしたしね。おまけに戦後の農地改革の大事な時でも、また家族の病気が悪い時でも、地方に変った品種ができたと聞くと、そこへ核や苗を買いに出かけたり、遠くの民間育種家のところへ訪ねていったりする。この費用がまたばかにならないんです。おやじは金に困ると、しまいには改革で減った土地を、さらに人に売ったりするんです。」  由吉の眼に、父親への憎悪ともいえるものが閃いた。 「打明けて言いますと、お宅がすんでるあの家ですね、あれだって姉が結婚する時の用意に、お袋が建てたもんなんですが、私らの知らないうちに抵当に入ってるんです。そういう金で、あんな豪勢な温室を建てたり、桃園に蛾を殺す夜光燈を立てたりするんですよ。私らはこんな借金を、やっと仮処分の差押えがきてから知って、月々の家賃から返済してる始末です。私はしまいに、このままおやじに家を任しといたら、私ら一家はおやじの桃に食い荒されて、破滅してしまうと思いましてね、おやじに迫って法律的に家長からのいてもらったんです。そうでしょう。私は兄弟の頭《かしら》として、女房子供をもった夫として、自分たちのわずかな資産でも守らなけりゃならないんです。おやじみたいに、あんな冷たい、人間より桃の方が可愛い相手に何一つ任しちゃおけないんです。」  私は由吉の手が、無意識に果物ナイフをつかみ、その先で小刻みに卓上を叩くのに見入りながら、彼と父親との間にある深い空隙、いやこの一家のなかを貫いている裂け目のようなものを覗きこんだ気がした。私の頭には、あの尚平氏の、刺し針で虫をつき殺していた時の、きびしい冷酷ともいえる顔が浮んだ。そういう彼の顔を知っている私には、由吉の言葉を否定する意志も、また真偽への疑いも萌さなかった。それはすべて本当だろう。彼の父親への批判、反感。どれもむりはなく、理にかなっている。  だが私自身、それでもなお尚平氏の側に近くいる自分を訝しんだ。むしろ私の中には、彼への共感に似たものさえ動いている、これはなぜなのか。私はこの家族の不幸、ああいう父親を抱えこんだ家族の不幸にこそ同情すべきではないか。しかし私は、由吉の女のように端正な顔に浮ぶ、どこか執拗な憎しみの色を、他人の眼で見やった。 「でも桃園では。」私は言った。「今年初成りする、いい木があるそうじゃありませんか。」 「さあ、どうですかね。」彼は細い眉をあげて言った。「あれはこの裏庭で一度実をつけた木ですが、確かに品質としちゃましな方でしょう。しかし果して土地にあうもんかどうかは、一度位じゃまだわかりません。それにあの園地に植えたのは、土崩れで水浸しになった苗ですからね。桃って木は乾燥に強いが、水には脆いんですよ。」  由吉はわずかの間黙った。 「でも私も、あの木についちゃおやじに言われる通り四年待ったんです。私らのように零細な農家で、五反もの土地を、四年も五年もろくな収穫なしで放っとくなんてことは、大へんな出血なんです。桃以外のどんな下らない作物を植えたって、季節にはちゃんと穫入れができるでしょう。いや何も植えない更地なら更地で、売る気なら地代はどんどん上ってるんです。眼先の利いた家じゃ、もうとっくに作附転換して有利に耕地を使ってますよ。私も今年の実いかんじゃ、もう一年も待てない気持です。」 「待てないって。」私は思わず訊いた。「どうするんです。」 「伐るんですよ。」由吉はきっぱりとつよい声で言った。「根を起して作附を変えるんです。私がそうすると言えば、おやじは承知しないでしょう。おやじに家督をのいてもらった時みたいに、大変な騒動になるでしょう。でも私だって、この四五年じっと黙って怺《こら》えに怺えてきたんですからね。」  私はふいに、真田家の中によどむ重い沈黙、ふかい平静さの意味に思いあたった。それは何年か前、このふるい茅屋根の下にあれ狂った風波、父子同士の剥き出しの相剋、赤裸々な争いや憎しみの上にきずかれた、静けさなのだ。その相剋も憎悪もけっして消えさったわけではない、むしろ死んだような淵の底に淀み、醗酵し、もう一度上へ噴きだす機会をまつ腐水のように、ただ時間が経つのを待っているのだ。私はこの時間の経移のあいだに、あの園地で樹木固有の音のない営みで育ち、無心に花を開いている若木を眼に浮べた。  この時、表の広い土間で、稚い女の子の声がした。どうやら学校から戻ってきたらしく、土間であさ子や姉の話しかける声がしていたが、急にばたばたと小さい跫音が部屋へかけ込んできた。  みると、由吉の長女だろう、二三度見かけたことのある七つ八つの女の子だ。外から帰って帽子も取らぬまま、父親の方へ行こうとして、私をみて驚いたように足をとめた。 「まあ、お行儀のわるい。いらっしゃいを言いなさい。」後から幼児を抱いてはいってきたあさ子が言っても、まだじっと私の顔を見ている。由吉の姉が土間から上ってきて、私にわずかに頭を下げると、その子の汚れた掌を手拭でふいてやり、また無言で、どこかおずおずと肩を縮めるような姿勢で部屋を出ていった。 「これが上の敏江です。」由吉は長女を手でひき寄せ、私に笑いかけた。 「こっちのが、今日で満一歳になった栄一です。」夫がこう言うと、あさ子が抱いた子を見せるように私へ近づけた。私の眼は強いられたように、その母親の腕のなかで眠っている幼児の顔におちた。やっと人間らしい個別の顔を持ちはじめた男の子は、柔かいスウェータアにくるまり、微かに乳とも尿ともつかない匂いを漂わせている。私はこの匂いを嗅いだ時、一瞬同じように子供に視線を集めている夫婦に、奇妙な圧迫感をおぼえた。それは何か夫婦や肉身の親和力のようなもの、眼のまえの男女四人が、別々の存在でありながら、この粘液質の、鼻をくすぐるような匂いによってひと塊りに結びついている、そういう一種盲目的な力だった。私が幼児をみる視線と、この夫婦が同じものをみる視線とは、まったく違うはずだ。だが彼らはそういうことに気づく必要もなく、ただ眼を細めて私の方に赤ん坊をさし出していられるのである。  私は庭を見た。そうしてその傾いた長い影に、午後の更けた気配を感じると、辞去の挨拶をした。  縁先の糸瓜棚から洩れていた、金色の蘚《こけ》のような陽も弱くなっている。私は裏庭にまわり、人気ない崖裾まできて立停ると、思わず深呼吸が出てきた。私が二三度、ふかい息をした時、うしろで誰か追ってくる気配がした。みると、作業小屋から出てきたらしい浩二郎だった。 「いまお帰りですか。」彼は私に頬笑みながら、機敏な視線を母屋の方へなげ、 「ちょっとちょっと、話があるんです。」私の腕を捉えて、温室の方へ歩きだした。 「ま、とにかくここへ掛けましょう。」彼は温室の蔭に三つ四つ雨晒れて、放り出された木函を据えなおして私を坐らせ、自分も腰かけると、 「兄貴、どんな話をしました?」私に訊く。 「おやじの話でしょう。」 「うん。」私は相手の眼をみつめた。 「兄貴はね、あなたにその話を聞かせるつもりで、今日の機会をつくったんですよ。」浩二郎はせかせかと言った。「あなたがこの温室へ来たり、おやじに近づいてるでしょう。だからおやじの意見だけじゃなく、自分の言い分を伝えようとしたんですよ。僕は兄貴のこういうやり方がどうも虫が好かん。」  やはりそうか、と私は思いながら、浩二郎に言った。 「でもきみだって、私を呼びにきたりしたでしょう。」 「そりゃ隣人をもてなす名目に、僕が使いはしりを厭がる理由はないでしょう。いや僕だって、あなたに聞いてもらいたかったんですよ。兄貴と違う意味でね。あなたのような第三者に、一切を見て判断してもらいたかったんですよ。」彼は膂力《りよりよく》のつよそうな、大きな掌を落ちつきなく組み合せながら喋ったが、急に私に顔を近づけ、 「ね、どう思いましたか、兄貴の話を聞いて。」  私は相手の脂《あぶら》ぎった顔から、何となく息ぐるしい思いで眼をそらした。そうしてしばらく黙って、空の紅みを映している温室の硝子屋根をみつめた。 「由吉さんは、お父さんを憎んでますね。」私は言った。 「おやじを憎んでるのは、兄貴だけじゃない、僕だって、姉さんだってそうですよ。」浩二郎は日頃になく、重い鬱屈した声で言った。「しかし僕が憎むのは、兄貴と全然意味が違うんです。僕は小さい時から、お袋がおやじと桃のために苦しみぬいたのを見てるでしょう。そして結局死んだんですが、死んじゃった以上この苦労には報いようがない。こう思うと、どうしてもおやじを許す気になれないんです。でも僕は、兄貴みたいに地所や財産がへるのなんか苦にしてませんよ。こんな狭っくるしい地所なんか欲しくない。僕は大学が終ったら、もっと広い場所へ出て好きな事をばりばりやりますよ。兄貴はね、自分たち夫婦に残された土地が荒されやしないかとびくびくしてる上に、むかしのちっぽけなことを忘れないんですよ。」 「ちっぽけなこと?」 「いや。」彼は一抹嫌悪をこめて、眉を寄せた。「あの敏江って最初の子が生れる時、嫂《ねえ》さんがひどく難産でね。病院で手術するってその騒ぎが、梨の収穫期にぶつかって兄貴が蒼い顔で天手古舞してたんですよ。それでもおやじは地方へ苗を集めに出かけちまうんです。兄貴はこれを根にもって、一度この崖が少し崩れたでしょう。埋った苗や木をすぐ掘り出せば助かるものを、そのまま放っといたりするんです。」  私は崩れたという崖の土肌を見上げた。微かな夕影のなかに、見るたびに私の眼を惹く巨大な粘土層の隆起がそそり立っている。その水に濡れた土肌は、私にあの由吉の眼の、陰湿な憎しみの色を思い出させた。そうして私にとってはただ鑑賞物にすぎないこの崖にも、真田家にとっては特殊の意味をもつ過去が刻まれているのだということが私の心に触れた。 「しかし、変なもんですねえ。」浩二郎は言った。「おやじはあんな小屋に寝とまりして、母屋にもいないし、この苗床と桃園を往復するほか何の実権もないんですよ。でも考えてみりゃ、やはりあの古ぼけた屋根を支えてるのはおやじなんです。僕ら兄弟三人みんなばらばらで、しかも自分なりにおやじを憎んでますよ。この憎しみだけが、真田家を支える一本の糸なんです。もしおやじがいなくなりゃ、僕らはみんな、めいめいの方向へすっ飛んじまうでしょう。」 「でも。」私は薄暗い温室のなかの苗木を見ると、ふと気がかりになって言った。「あの桃は、今年どうなんですか。あの園地の木は。」  すると浩二郎は、突然瞼を大きくひらいて私を見た。 「あなたは、どう思いますか。」  私は咄嗟に答えられず、眼を蒼く昏れる空へ放った。そんなことが、私にわかる筈がない。私はあのしなやかな若木を見、尚平氏の魅力的な掌を見て、素人なりに桃がいい初実をつけることを漠然と信じていた。だが由吉の言い分をきけば、またそれなりにつよい説得力を感じないわけにいかないのだ。同じ環境になれれば、飽きがくるのは植物だけではない自然の理だろう。土地の桃が荒れ、減りつつあるという事実を、時の勢と見ることもできる。私たちは素朴な日常の感覚のなかで、事物には盛衰があること、時間の流れや変貌があり、潮流の高まりや低まりがあることを感じている。これを促している背後の力を、自然とか神とか運命とか呼んでいるのだ。恐らくこの眼に見えない大きな力、影ですらない影の巨大な支配に、人間は抗うことができないだろう。  だがこの自然も、神も、運命もその力がけっして私たちの眼に見えないところに面倒の核心があるのだ。それは私たちの五感を通しては存在できない。ただ私たちの想念や抽象能力を通してだけ存在する。だから自然の力という時、人間の想念上の嘘がまぎれこまないと言えるだろうか。人間はよく自分の弱さや無力を、自分を超えたもののせいにする。…… 「僕はね。」私の思案を吹き払うように、突然浩二郎が言い出した。「僕はきっと今年は相当な実をつけると思いますよ。第一僕は、この裏庭で同じ木がつけた実を食ったんですよ。少し形は小さいが、皮もよく剥けるし、核離れもいい、身のしまったうまい実でした。あれは三年で初成りさせた木ですが、今度は四年の初成りですからね。もっといい実ができるでしょう。」  私は急に持前の、屈託のなさをとり戻した彼の表情をびっくりして見まもった。 「じつは僕は、あの土堤下の実にすごく期待をかけてるんですよ。いや何もこれは、兄貴に反撥するとか、おやじの肩をもつとかいうことじゃ全然ない。僕には僕の見通しと考えがあるんです。」  浩二郎は立上って、生き生きと熱を帯びた声で言い出した。「あれはおやじが、永い間苦労してつくった品種ですよ。おやじが独特の交配で、うみ出した新しい種類の桃ですよ。兄貴は土地にもう桃が合わないというが、もしりっぱな実をつければ、土地に飽きてないことが立証されるわけです。もっとも裏庭で実ったことが、第一の証明ですがね。僕はだから、むかしの宿河原早生のように、もう一度この土地に、おやじの桃を広めたい、いやこの土地だけじゃない、地方の各栽培地に広めたいと思ってるんです。」  私は羊歯の匂う夕闇の中で、じっとしていられぬように腕をくんだり離したりする相手を、言葉もなくみつめた。 「戦後おやじのように、民間で育種して、いい品種をつくり出した人は大勢いるんです。倉方早生とか、布目早生とか、藤浪白桃とか。そういう秀れた新品種には、農林省で一種の褒賞と保護の意味で、種苗登録番号というものをくれるんです。するとその品種には、種苗第何号何々種というように新しい名前がつくんです。僕はどうしてもこれを取りたい。そうすれば、この品種の名前は公認されて、全国の栽培者に広まるでしょう。この苗木は土地でふえるだけじゃなく、各地から注文がくるでしょう。僕は今年の実の見通しがつきしだい、この運動を地区の農協組合と共同してやろうと、こっそり考えてるんです。」  浩二郎は一息に喋りおわると、私のまえの木函にまた腰を下し、反応を窺うように顔をのぞきこんだ。私は自分に触れあうほど身近な相手から漂ってくる、動物的精気のようなものに気押された。彼の体のなかにはひどく若々しい、同時にひどく自己本位な行動欲が溢れているようだった。私はその桃へのつよい確信に、何となく安堵した。そしてまた、その若さのもつ野方図さのようなものに不安にされた。  私たちが黙りあっている温室の壁の向うで、妻が水を汲むらしい井戸の音がした。  桃が葉をつけはじめた。それは柔かな緑の芽から日々にふくらんで、花が落ちた後の裸の枝を蔽うようになる。しかもこの葉の豊かさに惹かれて、樹に近づいてみると、葉蔭に小さな球のような、青い実を隠しているのだ。  私が土堤の上から見下す果樹地は、まるで深まっていく春を追って、桃と梨とが追い駆けっこをしているように見える。梨の清楚な白い花もうつくしい。だがこの花が、河沿いの扇状地に、われがちに咲き出す頃には、桃は片隅で長い披針形の葉の冠をひろげている。そうして梨の花が短いさかりをおえ、棚の上の枝が葉芽をぐんぐん伸し出すと、桃の実は栂指大にも育っているのだ。  この頃、私は河原を歩くことが多くなった。妻が犬を飼いはじめたからである。この生後十カ月のコリイを、私は妻にせがまれ、友人の一人から譲ってもらったが、当初親を離れた寂しさから、夜中に啼くのには弱った。皿に肉汁と飯をまぜてやっても食べない。妻はそれでも初めの物めずらしさから、自分がせがんだ因果から、一緒に抱いてねてやったり、ミルクを練って与えたりしていたが、やっと一月も経って、犬も慣れ、体も少し大きくなってくると、しだいに世話を怠り出した。けっして可愛がらないのではない。可愛がることはむやみに可愛がるのだ。だが、細かい世話が面倒臭いらしいのである。  この結果、犬の世話は私が背負いこむことになった。散歩などに連れ出すのも私だが、ときに気がむくと妻が駅前へ買いものに抱えて出たり、河原へ犬を放ちに行く私についてきたりする。 「あの仔の親は、どの位の大きさ?」ある日、磧に腰かけて妻が私に訊く。 「五十キロあるそうだから、相当なもんだよ。」 「五十キロ。まあ、凄い。あたしより多いじゃないの。」石灰色の磧の連なる河床を、水ぎわまで嬉々として跳ねとんでいく犬を眼で追って妻が言う。 「早くサリイもそうなって、家の番犬になってくれればいいわ。もっともそん時まで、今の家にいるかどうかわかんないけど。」  私はちらと相手の顔を見ると、視線を遠い対岸の五月の空へ移した。そういう何げない彼女の言葉が、妙に痛く私の心にひびくのだ。妻は近頃、ごく遠まわしにあの家やこの環境が厭になったことを仄めかす。少くとも私にはそういう気がしてならないのだ。そのうち彼女はこれを露骨に言い出すだろう。私が応じなければ、一人でも東京へ戻っていきかねないだろう。  だがまた私自身、こんなことを怖れている自分に気づくと、莫迦莫迦しさと歯がゆさを感じることも確かなのだ。東京へ戻りたければ戻ったらいいのである。この静かな環境へきてみても、何一つ仕事もしないまま、私の心身は格別休まったわけではない。現に私の仲間たちが、新しいグルウプをつくって、秋には大がかりな作品展をやろうと言ってきているほどだ。私は何を怖れているのか。 「サリイ。サリイ……。」河床で妻がスカアトを翻し、飛びつく犬と戯れている。亜麻色の犬の背毛が、跳躍のたびに陽をうけて、柔かく撥ねあがる。私は肢にとびつかれて、小さく叫びながら逃げまわる妻を見まもった。  彼女は私と十も齢がちがう。結婚したのは二年ほど前だが、私の父のもとにクロッキイを習いにくる画学生の一人として知ったのは、それよりたった三月まえである。なぜこんな短時日にそうなったのか、後から考えると少し異常だが、私自身にはむちゃな勢ではねっ返る球《ボオル》を、夢中で掌にうけとめたような感じしかない。いや妻の方が、結婚してから初めてわれに返り、自分の状態にびっくりしたのかも知れない。彼女には父の仕事場へ来る仲間のなかに、噂のたつ相手がいたのだから。私たちが東京にいれば、妻はたえずこういう連中を家へ呼ぶ。私にはこれがわずらわしいのだ。私は正直いって、妻という人間がまだよくわからない。彼女はただの子供に過ぎないのか、それとも結婚に対する感じ方が私とまるで違うのか。 「おい、帰ろう。」私は妻に呼びかけると、サリイに近づいて首に手づなを掛けた。  私たちはサリイを先に、土堤に植わった老桜の、樹液の異臭をかぎながら、肩をならべて歩いた。こうして犬を連れた二人を他人が見れば、いかにも平穏無事な夫婦に見えるだろう。事実平穏無事なのだが、私たちの間に巣くう、不安定さはどうしようもない。ちょうどこうして土堤上から見渡す梨棚や桃園が、穏和な優しい営みにみえながら、その底にあの真田家のような、人間の修羅場をかくしているようなものだ。私は東京の修羅場からのがれてきた。しかし無駄なことだ。私たちにはのがれるところなどありそうもない。 「きみは、ここから帰る?」私は畠道への降り口まできて、妻に言った。 「また、真田さんの桃園?」妻はすぐ察した微笑で言う。 「ああ、犬を頼むよ。」  私はサリイの手づなを妻に渡すと、ひとり土堤道を歩いた。この先の尚平氏の園地を、私は河原へくるたびに、のぞいて帰る。ときになかへ入って、彼と話しこんでくることもある。だが犬を連れている時は、竹柵の外から、尚平氏と四郎が余念なくはたらいているのを見て戻るだけにしている。  土堤下の竹戸を潜ると、硫黄とも石灰ともつかない臭気が鼻腔へながれこんできた。二年木の透くような葉裏にも、幹にも、その消毒液の斑点がこびりついている。  私は園地の径を歩きながら、行手の若木の厚い葉群に、いくつも象嵌のようにはめ込まれた白っぽい紙袋をみとめた。二三列奥の樹かげに、尚平氏のふとい項《うなじ》がわずかに見える。私がその方へ近づきかけた時、静かな園内の遠くで、少からぬ人数が歩く気配と話声がした。 「いよいよ、実が巣籠りしますよ。」尚平氏は新聞紙でできた袋を枝に結びつけながら、笑顔で言う。 「これは虫除けですか。」 「ええ、裏には防虫剤がぬってありますよ。」  私は径の奥の人影を気にして、訊ねた。 「どなたか、見えてるようですね。」 「いやなに。」彼は眼を枝に注ぎながら、意にもとめない面持で言った。「浩二郎が、農協の連中をつれてきてるんですよ。」  むこうの枝下では、藁を敷いた土を踏んで、四五人の男たちが樹を観て歩いているらしい。背広をきた三十年配の男。カアキ色の作業衣の中年男。Yシャツだけの若い男。そのなかで、ことに長身の目だつ浩二郎が、急にこっちを振りむいて、走ってきた。  彼は私に笑いかけながら、気忙しそうに父親に言う。 「ちょっと行って話して下さいよ。訊きたいことがあるんですってよ。」  尚平氏は黙って頷き、ゆるい歩みで男たちの方へ近づいて行く。 「農協の人ですってね。」私は浩二郎に言った。 「ええ、ええ。」彼は私の耳もとで言う。「ここまで漕ぎつけるまでが、骨なんですよ。何しろ、僕はまだ若僧だし、疑り深い、腰のおもい連中が多いもんでね。種苗登録より、組合の方が心配でしたよ。でも、あれがこの地区農協の果樹部を切り廻してる佐川ってんですが。」彼は手をあげて、ややくたびれた背広を着た、眼の鋭い、どこか柔道家のような体躯の三十男を指し、「あいつがこの木を見て、ひどく賞めてましたよ。そりゃ、そうでしょう。この園地へ一歩入ってみりゃ、何を言うよりひと眼でわかるんですよ。この樹形。この土壌の手入れ。こんなことにかけちゃ、おやじは抜群ですからね。」浩二郎は気が急《せ》くように、むこうを振りかえりながら言った。「それにあの連中も、今やっとこれが農協の事業として有利だと、気づき出したらしいんですよ。何しろ苗木を地方に売ること自体が企業になるし、新しい名の桃が広まれば、この土地も知られるんですからね。他の果樹にだって、影響してきますよ。」 「種苗登録の方は、どうです。」私は訊いた。 「あの申請手続も、農協と相談してやりますが、何しろ実ができないことにゃ。そいつが何よりの証明ですからね。ま、見てて下さい。大した事をやってみせますよ。」彼は上気した眼で笑い、またあわただしく歩み去った。  私はふと背後の樹かげに、かさと紙の鳴る微かな音を聞きつけた。枝のむこうを廻ってみると、そこで黙々と四郎が袋掛けをやっている。  彼は誰が近づいても、めったに反応を示さない。ただこの頃は私にも慣れて、会うとその野生の鹿のような細い眼で頷くようになっている。 「桃のできはどう?」私が訊くと、彼は首を大きく二三度縦にふった。いいと言う意味か。  私は実につぎつぎ袋を掛けていく、四郎のあざやかな手際に見とれた。四郎の胴には、紙袋を収める前かけが提《さが》っている。その紐には同じ長さに切り揃えた藺草《いぐさ》の束が差してある。彼は右掌で袋をすばやく曳き出し、口にあてて膨らませると、すでに左掌が掴んでいる枝の青い実にすっぽり被せる。そうして袋の口を枝に巻きこみ、腰からひき抜いた藺草で硬くしばるのだ。 「どうです。なかなか手に入ったもんでしょう。」  いつの間にか、後にきた尚平氏が私に言った。「四郎は剪定をやらしても、結構巧いもんですよ。幼木の仕立て方なんか、それ次第で木の一生がきまる程大事なんですが、任せておいても何とかやります。生れつき手先が器用で、植物の中でくらすように出来てるんでしょうかな。」  私は気がついて訊ねた。 「あの人たちは帰ったんですか。」 「ええ。」尚平氏の顔には苦々しい笑いが浮んだ。「浩二郎のやつが、何か大げさなことを企んでるようで、弱ったもんです。」 「でも種苗登録は、いい考えだと思いますが。」私は言った。私には実の出来さえよければ、浩二郎の計画が実現不能なものとも思えなかったのである。むしろ苗木を土地に広めるためには、大げさと言うより、必ず踏まねばならぬ現実的な手段だと思えた。  だが尚平氏は、細めた眼をかたわらの葉かげに光っている青い実にむけ、無言でいる。その顔は一瞬私の言葉や浩二郎の動きなどの、人間臭い煩瑣《はんさ》さを拒んでいるようでも、また単に眼のまえの、小さな杏ほどの果粒の色つやに惹かれているようでもある。彼は枝に近づき、四郎と同じように腰に提げた前かけから袋を抜いて、袋がけをし始めた。 「ご覧なさい。」彼は私に微笑をむけて言う。 「樹の下に、こんなに実が落ちてるでしょう。これだけ摘んだんですよ。」  なる程、根ぎわの土の上には、無数の同じような大きさの青い実が落ちている。 「こいつは別に欠点もなくここまで育ったのに、実をつけた位置が悪いんで間引かれたんですよ。一方はこうやって紙袋で保護されるし、一方はそいつを育てるために犠牲になる。運の悪い奴らですなあ。」  私は地に転がった果粒をみつめた。まだ摘まれて間がないらしいが、その表皮には早くも木を離れて、枯死していく実の生気のなさが現れている。私は春、尚平氏のあの指先が授精させた花の、ぬれ光る雌蕊を思い浮べた。これらの実も、また枝の上の実も、あの雌蕊が結んだ実だ。雌蕊は人間の手加減や思惑とは無縁にただ黙って実を育てている。そうして実も、袋を被せられようと、切落されようと何一つ抗わず、片方は無言で艶をまし、片方は無言で腐っていく。私は一瞬、この無抵抗さを、無言を、気味悪いものに思った。こうした沼のような柔順さと、これに存分手を加える人間と、果してどちらが強いか。これとたたかうには、或は尚平氏のように五十半ばで髪が真白になり、顔も疲れて、齢から考えられないふけ方をしなければならないのか。 「この袋の中で、ずっと大きくなるんですか。」私は訊いた。 「そうです。」彼は休みなく、手を動かして言った。「この暗い、狭っくるしい世界で、この硬い実が、桃らしい桃になっていくんです。もっとも穫入れの半月位まえから、少しずつ袋を破いてやりますがね。」 「なぜです?」 「人間だって、暗い部屋から急に眩しいところへ出れば、眼がくらむでしょう。だから、少しずつ日光にあてて慣らしてやるんです。するとだんだん生々と、紅みも出てきますよ。」  尚平氏は手をやめて、その頃を想像するように焦点の遠い眼をした。 「しかし私にとっちゃ、この面倒な袋掛けの時期が一番いい時ですよ。そうでしょう、木が実をつけてくれなきゃ、袋掛けしたくともできやしない。私はもうずいぶん永い間、この木に袋掛けすることを頭で追ってきましたからね。今やっとそれをやってるんです。もう袋の中へ実が入ってしまえば、私にはいろいろ手入れはあっても、直接実に触れられない。あとは実自身が、私の見えないところでずんずん育ってくんです。今度夏の収穫近く、どんな風に私の眼のまえに現れるか、そんな心配や期待でいっぱいです。でもこれが一番いいんでしょう、この怖しいような気持が。私の中に何かがいっぱい詰っていて、自分がいかにも生きてるって感じがします。」  私は相手のくぼんだ眼の、つよい閃きに見いった。彼の声は低く、顔もほとんど無表情だったが、ただその眸のおくに、ものを産み出す人間だけのもつ身震いするような熱線がつたわってくるのを感じた。私は一瞬この尚平氏を、ねたましい思いでみまもった。 「でも心配って、何ですか。」私も気懸りになって訊いた。 「それはいろいろありますよ。これだけ用心してるから、虫や病気の心配は一応ないとしても、ひどい風とか雨とか寒暖異変とか。そいつにやられると、袋が破けるだけじゃなく、実が落ちたり、根が痛んだりしますからね。ことに颱風のはしりとか、この梅雨が心配です。」  私は尚平氏と四郎の手際いい袋がけの動作を、ながい間黙って見つづけた。そうして彼らがしだいに、他人を忘れたように仕事へ身を入れはじめると、別れも告げず園地を出た。  梅雨は例年より少し遅れて、五月の下旬からやってきた。私はこの頃になると、仲間たちの秋への準備が軌道にのり出して、週に一二度はその集りに東京へ出ねばならなくなった。雨がびしょびしょ降る時は、犬を連れて出るわけにも行かないが、駅からの往復にはなるべく桃園の道へ迂廻してとおる。するときまって竹柵や葉叢のむこうに、尚平氏の黒く濡れたゴム引外套が見えるのだ。私の眼は、自然に若木の、滴《したたり》で光る葉かげの袋の方へむく。袋の新聞紙もぬれしょぼち、この薄く粗末な、危っかしい紙の中に、微かに大きなふくらみをつけてきた桃の影が透けているのだ。  雨は三日降ると一日やみ、二日ばかりどんより曇ると、また三四日降りつづいたりした。私は尚平氏の桃への懸念がのり移ったように、天候を気にしている自分に気づくと、この俺に関係がないことだと呟いてみる。だがやはり、この不安定な気候を呪うばかりか、あの古代人の天然気象への物々しい秘儀や、風害|旱魃《かんばつ》への祭祀の意味を、今さら身近に感じたりするのだ。これは誰にとっても鬱陶しい雨期だが、私にとって救いだったのは、妻がこのじめじめと閉じ込められた退屈さを訴えないことだった。多分それは、同じように畠へ出られない浩二郎が、足繁く遊びにくるようになったせいだろう。 「梅雨の峠もこえましたね。」と彼は私のそばにきて言う。「この程度の雨なら平ちゃらです。こんな遅くきて、ぐずぐず降りつづく梅雨の後は、かあっと晴れて暑くなるんです。夏がはやいですよ。」 「はやい暑さは、桃にどうなんです。」 「いいでしょう。あんまり急な、ひどい暑さは困るけど、早生《わせ》種には色づきもよくするし、甘みもふやすでしょう。でも。」彼は生真面目な顔になって言った。「それより僕は、おやじの体が心配ですね。あれだけの木を二人じゃとてもむりですよ。それに温室や苗床もあるし。収穫んなったらどうするかと思って、またぶっ倒れやしないかと思って。」 「また?」私は聞きとがめた。 「いや大分まえ、兄貴と凄い言いあいをして、今にも掴みあいそうになった時、一度ぶっ倒れたんです。少し老いこんで、血圧が高いから昂奮が悪いのかな。」 「収穫には、きみが手伝ったらいいでしょう。」 「僕は前から手伝うって言うんですが、おやじがだめだって言うんですよ。もっとも僕は桃が苦手ですよ。桃って奴は敏感で、指でおしてもそこからすぐ腐るでしょう。僕なんか、|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぐ時掌で握りつぶしちゃいますよ。」  私は仕事場に一人いて、妻と浩二郎が映画の話をしたり、ジャズのレコオドをかけたり、それぞれ勝手な知人の噂話をしているのを聞いている。そして何となく、硝子戸の前へ立って行き、河原の方の空を眺める。硅砂色に垂れこめた遥かな空に、雨が煙る湯気のように動いている。それは桃の滑らかな葉肌を濡らし、尚平氏のゴム外套を濡らしているはずだ。私はなぜか自分の内部を、細く尖った条目《すじめ》のようなものが通り過ぎるのを感じた。それは衝動というにはあまりに細く、飢渇というにはあまりに冷たい。多分鬱屈した長雨のせいだろう。私は突然、自分がくたくたになり、指も上げることもできないほど、巨きな白い壁に全身をうちつけてみたい気がしてきた。白い壁というのは、最近仲間の一人から受けとった便りと写真から思い浮べたのだ。彼は半年ほど前渡欧して、ウィーンから便りと一緒に、白い巨きな石山の写真をくれた。黒海に近い、むかしの石切場だったところで、この自然の巨岩にとりまかれた一劃に、何カ国かの若い彫刻家が寄りあい、その石を素材に競刻をしたのだと言う。のしかかるように聳える真白な硬い石。これにむかって友人は鑿《のみ》をもち、ハムマアをふるい、しまいには手豆がつぶれ、掌の骨がまいり、一振りごとに頭に疼痛がきたと、書いてきた。私も一瞬このように自分の体を骨の髄まで虐めつけてみたい気がしたのだ。だが私自身、それができないことをよく知っている。私は自分自身をも、他人をも、これほど虐めつけ苦痛をあたえることのできない種類の人間だ。この友人のように、また尚平氏のように、自他を苦しめ危く破壊するような不合理な情熱が私にはない。私はこういう安全な、微温的な生活のなかにいて、微温的な仕事をつづけているだけだ。  雨が霽《は》れると、浩二郎の言うように、からっと乾いた、はやくも夏を思わせる晴天がやってきた。大気は軟かく、空が澄んで、蔬菜畑のトマトの葉も息をふき返し、滲むような青さだ。私はひさしぶりにサリイを連れ、畠道へ出た。足は自然に、河原の方へ、土堤下の桃園の方へむく。  私が竹柵の近くまできた時、園内の若木につけた紙袋がわずかに破られているのに気づいた。それは明らかに、人手によってごく控え目に底の方に割れ目を入れられたものだ。私は急いでサリイを腕に抱き、柵沿いの道を小走りに歩いた。  幾列かの樹のおくに、尚平氏を見つけて呼びかけると、彼は近づいてくる。 「破りましたね、とうとう。」私は言った。 「ええ。」彼は笑顔で頷いた。 「見えますか、なかが。」 「見えます、見えます。」 「どんな具合です。」  尚平氏は同じ微笑で、黙ってすぐ傍の枝をひき寄せると、袋のついた部分をやや捩るようにして、柵ごしに私の眼へ近づけた。 「見えるでしょう。」  私が見たのは、仄白い、病人の肌のような、しかし肉の重そうな球体だった。 「いい丸みでしょう。」彼はまだ私に底をのぞかせながら言うのだ。「凸凹も、穴も、しみもないでしょう。こいつは深窓の娘のようなもんで、これから陽に当り、この世の空気をぐんぐん吸って行くんです。」 「じゃ、いいんですね。」私は思わず言った。 「いい実なんですね。」  彼は陽灼けした眼もとを、満足そうに細めながら、口では私を惑わすように言った。「でも桃は、『眼で食べ、手で食べ、舌で食べる』もんですよ。こいつを※[#「手へん+宛」、unicode6365]いだら、どんなものか、真っ先に食べて頂きますよ。」 「ええ、どうぞ。」私は自分の果物嫌いを忘れて言った。「しかしもう、大丈夫ですか? 病虫害、天然自然現象は。」 「だって、もう夏ですよ。」尚平氏は突然、きらと光る眼を空へ放ち、押えたものが溢れ出るような声で言った。「もう暑くなるばかりですよ。颱風もどうやらまだやってきそうもないし、あとはこの太陽が、実《み》にてり[#「てり」に傍点]と甘みをつけてくれるだけですよ。」  私は柵を離れると、今まで獣臭い息で人の頬を舐めていたサリイを地に下し、首から手づなを離した。犬はすでに土堤への道を知っていて、まっしぐらに先を駆けて行く。私もそれを追った。  河原を見下す斜面の、かや草の繁みまできても、私の耳にまだあの尚平氏の、溢れ出すような声が鳴っていた。『だって、もう夏ですよ。』それは夏を待ちつづけた者の声。いや夏につぐ夏。十何年かの不毛の夏をくぐりぬけ、待ちつづけてきた者の声だった。私はサリイが柔かい毛なみを靡かせて走っていく、ひろい河床を見渡した。磧が白く干上り、むこうに河水が蒼い空の色を映して蛇行している。土堤草の生臭い繁殖の匂い。瞼を射るつよい陽。  確かにここには夏がきていた。  袋の中の桃は、尚平氏の言葉通り、日光と外気のなかで日を追って色づきはじめた。仄白く透くような青さから、やや黄色みをまし、頂点から紅《べに》の滲むようなぼかしさえ見えてくる。そうして六月も終りに近く、果皮のこまかい毛羽立ちが目立つ頃には、いつの間にか新聞紙の袋が剥ぎとられ、日にむき出した幾つもの重い実が、若木のか細い枝を撓《しな》わせて風に揺れているのだ。  ある日、私は東京の集りに出て帰りが遅れ、ほとんど終車近い時刻に駅へ降りた。私は河からのつめたい風に吹かれ、土堤道を通って歩いたが、むこうの尚平氏の園地に、蒼白く夜光燈がかがやくのに目を惹かれた。  堤から見下すと、園地のほぼ中央に立つ夜光燈の柱から、水のような光の飛沫が、四方の樹の葉脈のうえにとび散っている。私はその暗い地上に、人影をさがしたが、やっと尚平氏らしい灰いろの髪と、厚い後肩を見つけた。他に四郎の姿もみえず、尚平氏自身働いているようすもないので、私は帰りの道を誘おうと土堤を下りた。  竹戸の中には、かすかに堆肥と果皮のかおりが漂い、光のあたらない樹の下枝に、鉱石のような硬い影が巣くっている。  私がこの影を分けて、さっき尚平氏をみた場所へ行くと、彼は老樹の幹に背中をもたせ、両肢を地になげ出して、じっと眼の前の枝をみつめていた。最前まで、何かしていたのだろう。近くには、小さな手籠や、竹篩や、鍬などが投げ出されている。しかし私が訝しく思ったのは、この静寂な園内の土を踏んで近づく私の跫音にも、彼が一向に気づく様子のないことだ。  私は二三米の距離まできて、冷たい光に浮きでた彼の顔をみた時、咄嗟にここへ入ってきたことを後悔した。それは他人が独りきりでいる圏内を侵す感じ、どんな人目も意識せず、自分一人で放心している表情をのぞきみる感じだった。  この時私は、すぐ声をかけるべきだったのだろう。だが私は、自分がひどく残酷な行為をしているのを感じながら、逆に跫音をひそめ、その男の顔に見いった。  彼の視線が注がれているのは、あきらかに小径ごしの、若木の枝を撓わせた仄白い実だった。だが彼の眼はその匂うような桃影を見ているようでも、もっと遠い遥か彼方を見ているようでもある。私はこの表情に、思わず春、彼が人工授精した瞬間のあの顔を思い出した。そしてあの時以上に、後めたい感じにうたれた。この深夜の、孤独な、誰にも見せられない顔。厳しく、どこかみだらでさえある微笑……。私は咄嗟に自分なりに、その表情がどこからくるのか理解した気がした。それは彼が追いもとめてきた桃の美、彼の心に昇華したその幻影が、今眼のまえの闇に実在となって匂っている、このよろこびではないのか。私は以前みた中国の大同仏の僧面で、人がある啓示の高まりに立つと、こういう厳粛な微笑をすることを知っている。  尚平氏がわずかに身動きして、傍の手籠を拾おうとしたのは、恐らく私がきて二分と経たなかっただろう。彼は手を伸ばしかけて私に気づくと、驚いたように眉をあげた。そうして二三度まばたくと、急に顔を崩した。 「や、どうしたんです、今頃。」 「東京から今戻りなんです。」私は言った。 「よければ、御一緒に帰ろうと思って。」 「そうですか。いやいい所へ見えました。」彼はいつもより愛想よく、自分の腰をずらすと、「ま、ちょっとこの藁の上へお坐んなさい。今しがた四郎を先に帰したんですが、二人で仕事がおわって初実を食ってたとこなんですよ。」 「初実?」私は眼をみはって言った。「もう、食えるんですか。」 「樹の上で熟させたものほど、うまいんですよ。まだ二三日早いんですが、結構食えます。どうぞ、食って下さい。」  私は彼が立上り、先刻までみつめていた樹蔭へ近づくのを、異常な緊張で見まもった。 「桃を※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぐには、指で押えちゃいけないんです、こうしてただ掌で。」彼は実の一つを掌で軟かく包むと、かるく左右に揺った。するともうその実は、掌の中に収っていた。 「どうぞ、好きな程あがって下さい。幾らでもありますから。」  尚平氏から差出された実を、両掌でうけて私はつくづくと眺めた。これはこの十日余り、すでに枝の上で照りかがやいていた実だ。だがこの重みは、初めて私の掌にのせられた。尚平氏の創造物は、形こそやや小さいが、ずっしりした重みで掌にこたえた。かすかな皮毛と、まるいふくらみを通して伝わってくるのは、土にも金属にもない、植物だけのもつ、青い血のかよった柔軟な重さだ。私はいつか尚平氏が言った『桃は手で食う』という言葉を思い出した。手で食うとは、手でつかんで食うことではなく、こうやって掌の上で味覚することなのか。  私は桃の頂点の紅のぼかしに爪を立て、皮を剥いた。皮は優しい柔順さで、滑らかにむけた。氷づめの花髄のような香りが鼻をつき、水気のひかる、白く緻密な果肉が現れた。すると私は、この時なぜか自分の内部に、妙に喉に熱っぽくからむ衝動がうごいた。そしてこれが何か確かめる隙もなく、私の口は、桃の果肉にかぶりついていた。 「どうです。」と尚平氏が訊く。 「うまいです。とても、うまいです。」私はその果肉を噛みわけ、春から夏へと溜めこんだ甘い滴りが喉へ辷りおちるのを感じながら答える。だが恐らく桃の味など、日頃果物を食べなれない私にわかる筈はない。しかし私は事実、うまいと思ったのである。いやただこの相手、この桃に精魂をつかいはたし、つかれ老けこんだ男がつくったものならば、うまくない筈がないと思ったのである。 「桃のよし悪しの条件には、肉質、樹勢、産量、病気や虫への耐久力、日保ちなどいろいろありますが、まず食べる際の皮剥げのよしあし、肉の締まりぐあい、甘み、核離れのよしあしなどが大じです。」彼は私の食べるのを、瞼を細めて見やりながら言った。 「今度、私に※[#「手へん+宛」、unicode6365]がして下さい。」  私は敷藁の上から立ちあがり、若木の枝に近づいた。そうして尚平氏にならって、掌で実を包み採ろうとした。が私の手が、薄闇のなかの白い桃の果皮に触れた瞬間、またさっきの妙に喉へ熱くからむ、汗ばむような衝動がやってきた。これはまるで女の肉体への衝動に似ている、と思った時、私の掌に※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぎおちた実の感触が、妻のひそかな肉の重みを呼び醒ました。  初めて私が妻を抱いた時、彼女は震えながら幼児のように肢をつっぱって私を困惑させた。私はその体の硬さをどう扱っていいかわからず、ただ彼女の湿った腿の肉を何度も撫でた。この時の記憶が、樹下の私のなかに、白い幻覚のように過って消えた。 「しかし、何ですなあ。」私が老樹の傍にもどると、尚平氏は低い声で言った。 「人間というものは、へんな生き物ですな。私なんか、この樹をまもるために、毎年どの位虫を殺してるか知れませんよ。針で刺し殺したり、薬で殺したり。これは何のためかと言えば、桃の実を採るためですよ。桃を丹精し、美しく、味わいよく育てるためです。ところがいざ桃がせっせと実をつければ、そいつを食ってしまうんですよ。」  彼は自分の背後の老樹の幹を示した。「この幹がこんなに樹脂《やに》がでて、衰えるのは、コスカシバが卵をうみつけて、ここで幼虫が育つからなんですが、コスカシバにしてみりゃ、自分の生命の活動をこの桃の木を中心にやってるだけです。ところが虫に、そんな活動の場所を指定したやつは何でしょう。もしそんな眼に見えない何かがいたとしたら、そいつはまったく人間のことなど考えてなかったんですよ。人間のことを考えてれば、人間に不都合な木の幹なんかに虫の生命の場所など当てがうわけがない。そして勿論、その虫に食い荒される桃のことも、また人間に刺し殺される虫のことさえ考えてなかったんですよ。」  夜ふけの静寂のなかで、彼の声は私の耳にと切れがちに響いた。 「私はそう思うと、人間も、桃も、虫も、みんなそいつの平等な関心と、無関心の下にほっぽり出されてるような気がしてくるんです。虫も桃も、人間と対等だ。なのに人間は、桃を生むために虫を殺し、桃を生んではそれを食うんです。これをもう何百年何千年となく繰り返してるんです。こいつはなぜでしょうか。たった一つ人間にだけ、こんな風に平等に仕組んだそいつに逆らいたがるものがあるからとしか思えないでしょう。私は人間のこんな果てしない残酷さ、貪婪《どんらん》さを考えると、殺される生き物や、食われる実よりも、かえって人間の方が可哀想になるんですよ。人間は、他のいろんな生を、自分の中に取りこんで自分の生をふくらまして行こうとする。これがどこまで行ったらおわるのか。私自身、この歳になるまで、それをやってるんですが、業《ごう》だ、業だと思いますね。」  尚平氏の声には、言葉と反対に慨嘆や自責の調子はなく、むしろ穏かなものが感じられた。しかし私の中には彼の声が、重くるしい滓《おり》のようなものとしてのこった。人間も、桃も、虫も、みんな平等な関心と無関心の下に放り出されている。この意味が、私にはたえがたい程の無気味さで迫ってきたのである。  あるいは尚平氏のように、ものを産み出した後の人間なら、この言葉を満足した静かな調子で語れるのかも知れない。だが私のように、自分の仕事の質に何の確信ももてない人間、しかもまたすぐ空しい箆の作業を、始めなければならない人間にとって、これは怖しい意味を帯びてくるのである。私が粘土の前で、箆を握った時、粘土が私自身と対等な存在を主張し出したら、私は何をすることができよう。私が粘土に箆を突き立てても、粘土は声一つ立てない沈黙のむこうで、こんなことをしてもお前と俺とは対等だぞ、と言うであろう。また石であれ青銅《ブロンズ》であれセメントであれ、同じような沈黙で私にのしかかるであろう。  私は夜のくらい園地を見まわした。夜光燈の蒼白い光のなかで、緑いろに映える葉群が揺れている。下枝には濃い闇が巣くい、木洩れの光が遠い枝を、爬虫類のように照らしている。硬い鉱物質の幹の影。土を蔽う獣の毛皮のような葉。私は一瞬、この夜の植物の壁が、まるで底知れぬ原始の森のような気がし、闇のなかのすべてが私と同等の権利でのしかかる恐怖を感じた。そうして樹かげを吹きぬける夜風に、身震いをした。 「じゃ、そろそろ帰りましょうか。」  この尚平氏の声を、私はすくわれる思いで聞いた。 「ええ。」彼につづいて、私も立上り、 「農具を少し持ちましょう。」  彼は何を思ったか、黙って枝に近づき、片掌で実を三つ※[#「手へん+宛」、unicode6365]いだ。それから手を伸ばすと手籠に入れて、私に差し出した。 「あなたは、これを持って下さい。奥さんにあげて下さい。」  私は尚平氏とならんで園地の径を歩いた。そうして早くも、もっと人間らしい場所——あの生温い灯かげや、ラジオの音や、女の潤んだ声のする場所へ戻れるくつろぎを感じ出しながら、相手に訊いた。 「穫入れはいつですか?」 「そうですね。」尚平氏は足をとめ、夜光燈の火屋《ほや》に舞っている蛾をみつめてからこたえた。 「天気さえよければ、あすにも始めたいんですが。」  収穫は二日後から始まった。  夏空に濃密なちぎれ雲が浮んで、それが太陽を遮ったり、またぎらぎらする熱い光線を射おろしたりする、そんな日だった。五十本あまりの若木のほか、混植された老樹も実をつけるから、園地全体で四千個ほどの実を※[#「手へん+宛」、unicode6365]がねばならないと言う。しかも桃は樹の上で熟させるほど甘いが、熟しすぎて収穫すれば、市場へ出るまでの痛みが早いと言う。私が食べた実は、充分甘かったから、尚平氏はこの土地の人たちに見せ、食べさせるためにかなり永く樹に置いたのだろう。  だから収穫は、なるべく短時日におえねばならない。穫入れたあとには、実を整理し、包装する仕事ものこっている。  私は二日目に、犬も連れず土堤下へ見に行った。夏の日光は、あい変らず暑いが、河からのいつにない風の強さがすくいだった。尚平氏も四郎も、汚れて赭《あか》茶けた麦藁帽をかぶっている。四郎は風でとばされないためか、帽子上から頤へ手拭を縛りつけている。浩二郎も来ていて、彼ら二人の単調で、機敏な動きを、忌々しいとも歯がゆいともつかない奇妙な表情で見ながら、ときどき実の入った重い竹籠を運んでやったりしている。 「やあ。」私が径を行くと、浩二郎はいい相手がきたと言うように近づいてきた。 「手伝いましょうか。」と私が言う。 「いやいや、僕に手が出せないものが、あなたに何で。と言いたいが、僕よりあなたの方がましかも知れない。」  彼は汗が流れおちる、露《む》き出しのランニングの肩を揺って笑ったが、すぐ真顔になると、 「実を近所の連中に食わせましたよ。農協の事務所へも持ってったんですがね。」 「どんな風です。」 「いいですよ、勿論。形は少し小さいが、これは四年の初成りですからね。みんな食って、驚いてましたよ。」浩二郎は深く息を吸い、厚い胸板をはった。「あのいつかの地区農協の果樹部の佐川ね。あいつが農協の連合会の者を呼んで、試食させたいって言ってるんです。今おやじと相談したんですが、あさってにしましたよ。」 「あさって。」私は言った。 「困っちゃうのはね。」相手は眉をよせ、声を落して言った。「おやじがこれに、あんまり乗り気じゃないことなんですよ。でも農協と組んでするのが、苗木の普及には一番いい方法だと僕は思うんですがね。ところがおやじは、組合の連中を呼ぶんなら、あさって市場へ最初の出荷をする時に、序《つい》でにやろうって言うんですよ。ま、それでもいいようなもんですが、ここの集荷市場自体、農協の施設なんだから。」 「じゃ、市場へみんな来るんですか。」 「あなたもいらっしゃいよ。おやじの桃を、他の地区の農協の連中が、どんな顔して食うか見て下さいよ。僕はそれまでに、佐川と農事試験場へ、種苗登録の手続に行くんです。殊によったら、試験場の技師もその時連れてきますよ。」  彼は額に滲む汗を拭き拭き、私に笑いかけた。私はその早口なよく響く声をきき、白い大きな犬歯をみながら、しだいに滑車がなめらかに廻りはじめるような爽快さを感じ出した。私の耳に、遠く河原で水浴びするらしい子どもの声が、湯殿の中のような響きで降ってきた。  夜、尚平氏と四郎は穀倉のまえで、昼間採った実の品分けや包装をはじめる。穀倉の電燈からコオドで燈火をひき出し、地上に莚をしいてするのである。穫入れた実は、大きな竹籠に何杯も、穀倉のなかに収めてある。それを莚の上へひろげ、入念に布でぬぐい、大きさや痛みを調べて、区分する。こうして分けられた実を、それぞれ木綿ぎれに丁寧にくるんで、函へつめるのだ。 「ねえ、もうじき多摩川の下流で花火があるんですってよ。」仕事場の窓から、裏庭の様子を見ている私に、後で妻がのんきなことを言う。 「稲田堤の川開き。昼間の花火も煙がとってもきれいだってよ。駅から乗ればじきだわ。浩二郎君や、お父さんやみんなで行きましょうよ。」 「それどころじゃないぞ、庭を見てみろ。」椅子へ不行儀に腰かけ、ショオツから白い肢をむき出した妻に、私は言う。 「だって、それまでに穫入れもおわるでしょう。きっとみんなすんで暇になるわよ。」  私はもはや妻のたわ言に耳をかさず、莚の上に籠から溢れおちた桃をながめた。赤らんだ裸電球の光が、そのつやつやしい球体の山をてらしている。その光は、また四郎の細長い腕の動きをてらし、尚平氏のもじゃもじゃの髪や疲れていよいよくぼんだ瞼をてらし、背後の崖裾にむかって萎《な》えている。今夜も、多分遅くまでやるんだな。私は昨夜明け方近くまで、庭のあかりが点いていたのを思い浮べながら、考えた。あしたも朝から、実を※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぐんだ。そしてあしたの夜も、また半徹夜だろう。私は眼を、母屋の建物にむけた。そこからは宵のうち、小学生の敏江が桃をもらいに走り出てきた。浩二郎がわずかの間、蹲んで話しこんで行った。がそれきり、誰一人のぞきにくる者さえない。母屋の分厚い茅屋根の影が、ちょうど私たちがここへ移ってきた時と少しも変らぬ静かさで、浮き立っているだけだ。  翌々日の朝、私は井戸端に響く尚平氏の声をききつけると、急いで出て行って、今日市場へ行くかどうか確かめた。午前中いっぱいで、残る穫入れを全部すまし、午《ひる》から市場へ行くと言う。私は浩二郎のすすめ通り、その集荷市場へ出かけてみる気になっていた。そこでは尚平氏の桃が、他人の手にひき渡されるのだ。今までの何かが終り、そして別な何かが始まる。私は人ごとながら、やはりこの眼でそれを見届けたい気がしたのである。  尚平氏たちが、リヤカアに籠をつんで、園地から戻ってきたのは、午後も二時近くになっていた。私は二人の戻りが遅いので、浩二郎に様子を訊きたかったが、彼の姿も朝から見かけず、所在なく裏庭へ出ていたところだった。 「とうとう、すみましたね。」私は重そうなリヤカアの荷台を、穀倉の前へ曳きこんできた尚平氏に言った。 「ええ、すっかりすみました。」彼は寝不足で、能面のように動きのにぶい顔をむけ、声だけはればれと答えた。 「今夜は、ゆっくり休んで下さい。」  尚平氏も時間のおくれが気がかりらしく、四郎とともに穀倉の引扉をあけ、積んできた籠をいそいで収めると、入れ替りに包装済みの木函をひき出した。函の深さはひと並べ分しかないが、平面は林檎函ほどある木函が二三十リヤカアに積みあげられる。その他に試食用のつもりだろう、実のいっぱいつまった手籠を五つ六つ上へのせた。倉の内部には、まだ※[#「手へん+宛」、unicode6365]いだままの竹籠が幾つも重ねてある。堆い藁や、米俵のようなものも、小さな換気窓の光線の中にみえる。 「さ、出かけましょう。」尚平氏が私を促して、四郎を先にリヤカアを曳き出そうとした時、表庭からあわてたように浩二郎が入ってきた。 「あ、今? 遅いな。」彼はリヤカアを見ると、性急に自分から荷台を押し出すようにして言った。「行きましょう。あんまり遅いから迎えにきたんですよ。」  浩二郎の顔にはいつもの笑顔がなく、緊張した色がみえる。私は車の動きにつきながら彼に訊いた。 「どこにいたんです。」 「農協の事務所ですよ。」彼は荷台から手を離し、早口に言った。 「あすこへ行ったり、市場へ行ったり、園地へ行ったり。しかし暑いですねえ。」  実際真昼の道は暑かった。私は乾ききった黄土の道に、胡粉《ごふん》のように煌《きら》めく土埃に眼をむけたが、すぐまたそれを並んだ相手に移した。彼の声の、どこか苛立った調子に惹きつけられたのだ。  彼の黄色いポロシャツは汗で体にへばりつき、両腕が落ちつきなく前後に揺れている。その顔には眼がすわったような硬さが、いっこうに消えようとしない。  私たちが渠水《ほり》沿いの道へ出た時、浩二郎は私の不審そうな視線を感じたのか、ふいに足を停めた。そして一瞬、遠い水田の方へ眼をやると、いきなり道ばたの夏草の繁みを、両掌いっぱい|※[#「手へん+劣」、unicode6318]《むし》りとって、 「ううっ。」と土をはね散らしながら、遠くへ抛った。 「どうかしたんですか。」 「どうもしませんが。」浩二郎は妙にもつれるような声で言った。「種苗登録が、少し面倒なことになってきちゃって。」 「面倒?」私のみはった眼のふちで、白く小さな光が揺れうごいた。 「おとといから、今日の午《ひる》まえまで三度も試験場へ通ってるんですが、どうもらちがあかないんです。」 「どういうことです?」 「登録が取れる見込が、早急には立たなくなっちゃったんです。」 「早急には。じゃだめではないんですね。」 「ええ、だめってわけじゃないんです。」浩二郎はせきこんだ声で言った。「いや僕らだって、何の調査も試験もなく、登録番号がもらえるとは思ってませんよ。実にしろ、樹にしろ、どんな検査にも応じるつもりでいたんです。ただ取敢えず登録の見込さえ立てば、次の準備に入れるわけですよ。」 「実が悪いわけじゃないでしょう。」私は気がかりで訊いた。 「いやいや、むこうの技師にあの桃を食べさせたんですが、さすがに舌はこえていて、感心してましたよ。でも問題は種苗登録をもらうには、優秀な新品種でなけりゃならないわけでしょう。ところが桃の品種にもいっぱいあって、ただ実の外観や味をみただけじゃ、新品種と認定することができないんです。ことにその桃の系統がはっきりしてないと。」 「桃の系統?」  浩二郎は前方に、父親たちのリヤカアが見えなくなると、足速に歩き出した。「つまりこの品種は、どの系統とどの系統の桃を交配させてできたものか、ってことをはっきりさせる必要があるんです。あるいは実生《みしよう》なら、どういう種類の核の変種かってことですね。例えば白鳳って品種と、大久保って品種を交配させる。これを記号でかくと、白鳳×大久保になるわけです。こうした桃の素姓がわかってれば、むこうでも凡そ実や樹の性質に予想がつくわけでしょう。ところがおやじの桃はこいつがはっきりしないんですよ。僕は試験場から帰ってから、おやじに何とか、これをつきとめてくれと言ってるんですが、結局交配の一方が白桃系だとわかるほか、もう一方が先々代の交配したものだとしかわからない。白桃系にだっていろいろあるし、第一先々代の交配した木じゃ、今さら調べようがないんです。」 「それがわからないと、登録はだめなんですか。」私は農家の垣根ぞいの灼けつく道が、左右に傾くように感じながら歩いた。 「いやだめってことじゃないんです。ただ時間がかかるんですよ。まず品種比較|試験《テスト》ってのをやるんだそうです。それから生産力検定試験。そして土地や環境のいろんな条件の下に、優良性、均一性、永続性、といったものを観察するらしいんです。これには三四年かかるそうですよ。」 「三四年。」私は迂遠な思いで言った。 「でも三年かかろうと、四年かかろうと、取れる見込が確かなら問題ないんですよ。ところが当人や僕らがいくらそう信じてても、他人にとっちゃそんな先のことは、雲つかむ話になってくるんです。農協の佐川なんか、全地区の連合会を動かして、苗木の普及販売事業をすると意気込んでたのに、ひどく拍子抜けしてるんです。連合会の幹部を試食に呼びに行く気力もないのを、僕は今までけしかけてたんです。」  私たちはわずかの間、言葉もなく歩いた。 「なあに、僕はまだひっ込みませんよ。」浩二郎はふいに、汗のひかる額の血管を浮きたたせて言った。「種苗登録の見込が立たなくったって、現にいい実が採れてるんです。農協も一緒にやると言ってるし、きっとあの苗木を広めますよ。」 「そうですとも。いい実はいい実ですよ。時間をかければ、きっとわかりますよ。」私は蒼い空から熱線がふり注ぐ、道の行手をみつめて言ったが、自分の中の暗い気持を抑えることはできなかった。私はこの気落ちの深さによって、自分がどれほど種苗登録に期待をかけていたか初めてさとった。私は今なお諦めたわけではないが、尚平氏の桃に、その褒賞と保護を意味するという登録番号を取らせたかった。すると彼の桃は、たとえば布目早生とかいう名前のように、真田早生とでも言う名で人に知られ、広く各地に栽培されることになるだろう。私はこれをいつの間にか、半ば信じかけていたのだ。  浩二郎と私は、駅へつづくアスファルト道へ出ていた。この道は少し先で、ひろい県道と交叉する。道にはもはや尚平氏たちの荷台は見えず、小型荷送車や自転車が幾度かわきを通りぬけて行く。  集荷市場は、郵便局とか地方銀行の出張所とかトラックの車庫とかの並ぶ県道にある。市場の先は梨棚が拡がっていて、袋がけした新聞紙がぱりぱりに乾いている。  私たちが市場の前庭へはいった時、とっさに尚平氏たちのリヤカアを見わけるのに骨が折れた。この鉄柱で支えられた、広いスレエト屋根の傘下には、夏の蔬菜や果実の群——瓜の黄やトマトの赤など、生々《なまなま》しい色彩が積みわけられ、その間を市場の事務員らしい伝票をもった若い女が動き廻っている。兵隊ズボンの男、手拭で髪をしばった中年女など、彼らの放つ声が、高い屋根と三和土《たたき》に反響している。前庭には大小さまざまな荷送車が十五六台とまり、私はやっと尚平氏のリヤカアが、その車の間にあるのを見つけた。 「どうしました。」荷台の枠をつかんで立っている父親の方へ、浩二郎がかけよった。 「誰かくるかと思って待ってるんだ。」 「え、まだ誰もきませんか。何してるんだ。」浩二郎はあわてたようにまわりを見廻し、「佐川たち、農協の連中がいる筈ですよ。ちょっと、待って下さい。」と市場の屋根の中へかけ出した。  私はその姿が事務室らしい扉口へ消えるのを見送りながら、どことなく思惑とちがうものを感じた。たとえ集荷場とは言え、試食の集りをするからには、それらしい準備があるものと想像していたのである。だがここには、夏場の出荷のあわただしい気配があるばかりだ。  浩二郎はまもなく事務室から、四五人の男を連れて出てきた。私の眼に、浩二郎と話しながら足速にくる相手が、農協の佐川だとすぐわかった。その柔道家のような体躯の男は、しきりに何か言う青年にわずかに頷いている。 「連合会の連中を呼んでないんだそうです。」浩二郎は私の耳もとで、舌うちするように囁いた。 「お父さん、この人は市場の果樹部の主任さんです。知ってますか。」浩二郎が父親に、頬骨のはった四十年配の男を引合すと、尚平氏は黙って頷いた。  浩二郎はつづいて、やはり市場の果樹部の男だという三十二三の度の強い眼鏡をかけた男と、農協の指導部にいると言う、まだ二十代の青年を引合せた。私はこの一瞬、尚平氏を囲んだ男たちの間に、旧家の主《あるじ》に対する敬意に似た雰囲気が漂うのを奇異に思った。 「これなんですがね。」浩二郎は、四郎を促して桃の手籠を持ってこさせ、実を彼らを初め、周囲からのぞきこんできた二三の男たちにも渡して言った。 「この実なんですよ。ま、食ってみて下さい。おやじがつくった品種の初成りですよ。今度農協を通じて、この苗木の普及に乗り出しますから、よく調べた上で、どしどし植えこんで下さい。どうです、いい味でしょう。」彼は傍で、一口頬ばった出荷にきたらしい中年男に訊いた。 「うん、なかなか悪くない。」その男は、口のまわりを掌で拭きながら言った。「だがすこし小粒だな。」 「小粒は初成りだからですよ。これからどんどん大きい実をつけますよ。」浩二郎は精力的な声で説明した。「樹は土堤下のうちの園地にありますから、いつでも見にきて結構です。そのうち農協の月報で、詳しい樹の育成法の指導や、実の特徴の解説をのせることになってます。」 「しかし。」この時、食べずに実を掌の中で眺めていた市場の果樹主任が言った。「組合じゃ、この苗木の件はもう少し見送りたいって話ですよ。」 「見送る?」浩二郎は眼を瞠《みは》って相手をみた。それから視線を佐川の方へ移した。佐川の浅ぐろい顔は別にたじろいだ風も見せず、むっつりと眼を伏せている。すると、となりにいた農協の青年が、どこか気弱そうな調子で言い出した。 「いえ組合としては、種苗登録の見通しが立たなくちゃ、公《おおやけ》の事業としてやるわけにいかないんです。いい苗なら、個人として佐川さんでも僕でも援助します。しかし農協の機関を通じて、指導するとか何とか、そんなわけにはいかないんです。」 「しかしさっきまで、協力すると言ってたでしょう。」  浩二郎は憤りで顔に血の気を走らせ、相手につかみかかるような勢で言った。 「よせよせ。」尚平氏が突然、口をひらき、袖をとらえて息子を制した。それから、まだ実を掌に持ったままでいる、市場の果樹部の男二人にむかって、 「ま、どうぞ、食べてみて下さい。」 「ええ。」痩せて穏和な果樹主任は、そう言われて皮を剥きかけたが、急にリヤカアの積荷の方へ眼をやると、 「今日は出荷に来られたんですか。」 「ええ、少しばかり、最初の分をもってきました。」尚平氏は答えながら、背後から、気遣わしそうな眼の色で見まもっていた四郎に、手まねで木函を下すように命じた。 「どうです?」尚平氏は、実を食べおわった市場の主任に訊いた。 「ええ、ま、結構です。」相手は核を地上へ投げすて、指をハンカチでぬぐいながら頷いたが、にわかに困惑したように、 「でも、あの荷なんですがね。」と四郎の運んでいる木函の方へ顔をむけた。「あれをどういう風に扱ったらいいか、今も話してたんですが。」 「どういう風に?」尚平氏は怪訝そうに訊く。 「何しろこの集荷場で、まだ扱ったことのない種類でしょう。大体この土地なら、大久保とか、宿河原とか、橘とかで、格づけも値段づけもできるんですが、これは新種《しんだね》でそのどれでもないようだし、どう扱ったらいいか。」 「それは品質相応にきめて下さって、結構です。」尚平氏はこともなげに言った。 「そうですか。」どこか相手に気押されるらしい果樹主任は、控え目な手つきで、やや離れた三和土に、他の蔬菜の山とならんだ、幾段かの木函を指した。まだ入荷したばかりらしいその桃の木函は、一番上の蓋が取りのけられ、大きな紅みのつよい実がのぞいている。 「じゃ早生では、今あれが出盛りで、あれなみにと言うことにして。」 「あれなみに。」尚平氏の眼はわずかの間、その函の方に釘づけになった。そして再び相手に返った時、信じられないと言うように大きくまばたいた。しばらく言葉も出ないようだった。 「あんな。あれはここから一目で、どんなものかわかりますよ。あんな駄桃。」  相手は一瞬、その語気に驚いたように黙った。 「しかしあれはこの土地なら、まあ中級でもいい方の桃ですよ。けっして駄桃だなんて。」 「あんな実なら、うちの授粉樹でいくらでもできます。」尚平氏が吐き出すように言うと、 「ですがね。」もう一人の果樹部の男が、たまりかねたらしく口を挟んだ。 「あれはあれなりに、品質がはっきりしてるんですよ。岡山の白桃と言えば、どこでも通るように、この土地の早生として、一応どの市場でも通るんです。でもこいつは、どうにも扱いがむずかしいですよ。私らがあれなみにするっていうのも、好意のつもりなんですがね。」  尚平氏の眉がさらに上った。 「いいですか、今あれを持ってきますよ。」度のつよい眼鏡をかけた相手は、小走りに三和土の方へいき、桃を一個手にして戻ってきた。 「こうして二種類、店頭に並んだとしますよ。」彼は手籠の中の実も手にとって、二つを比べた。「どっちを人が買うと思いますか。こうやって外見をみれば、こっちの方が形も大きいし、肌色もきれいでしょう。仮に『白桃』とか『二十世紀』とか書いて売らないにしても、お客に訊かれたら、何て答えるんです。こっちは多摩川の何々で通りますが、こいつは何て言えばいいんです。」 「あなたは、こっちの方がきれいだと言うんですか、こんな毒々しい肌色が。」尚平氏は頬の肉をふるわせて言うと、しばらく息をつめた。「しかし食べてみりゃわかりますよ。あなただって今食べたでしょう。」 「ええ、食べましたよ。」相手は眼鏡を光らせ、即座に応じた。「しかしそれほど変る、味じゃない。」 「あなたの口は、どうかしてるんだ。」尚平氏の声に怒りが迸《ほとばし》った。 「私らの口が気にいらなかったら。」果樹部の男も、むっと気色ばんで言った。「持って帰ってくれたって、いいんですよ。」  私はこの瞬間、尚平氏のお面のように動きの鈍い眼が、二人の相手に交互に注がれるのをみた。それから、反応を求めるようにその視線は、周囲に十人あまり集った人びとの顔の上をさまよった。まわりに一瞬重い沈黙が占めた。と、この時彼の眼差しが、ほとんど虚ろとも怒りとも哀しみともつかない色を帯びて、私のところへ飛んできた。そして私が何か言うひまもなく、彼は肩を返し、人びとをわけてリヤカアの方へ近づいていた。  尚平氏は無言で、四郎に函をリヤカアに積め、と手ぶりすると、自分も木函を抱えて荷台に積み出した。四郎は成行がわからぬまま、びっくりして主人を見たが、すぐおとなしい家畜のように俯向いて、函を積みはじめた。 「お父さん。ま、ちょっと、何するんです。」浩二郎はうろたえて、父親を制そうとするが、尚平氏は硬い、人を寄せつけぬ表情のまま、黙々と函を積みこんでいる。 「あんたたち。」浩二郎は血走った面持で、市場の男たちの方へ行こうとしたが、私を眼に入れると肩に飛びつくように、 「僕はあいつら、組合や市場の奴らと話をつけてきます。おやじがどうする気か、一緒についてって下さい。」と耳もとで言うなり、人がきを分けて姿をけした。  私は荷をリヤカアに積みおえた尚平氏が、あとも振返らず、自分から把手を曵いて歩き出すのをみた。二人で押しても重そうな荷だが、その歩みは四郎が追いつけないほど速い。私もあわてて、その後につづいた。  真昼の道には、白い暑さが舞っていた。県道を生温い排気をあびせて、トラックや乗用車がとおる。アスファルトが溶けて、黒い車輪の跡をのこしていく。はるか行手の尚平氏をみつめる私の瞼に、ちくちく刺す針のような暑さが爆《は》ぜ、頸すじに汗が噴きだした。何という夏だ、と私は思った。私に無関係な他人の夏とはいえ、何という稔りのない不毛な夏だ。私はさっき尚平氏が『駄桃』と呼んだ、あの大きな紅い実を思い出した。私はたしかあれと同じ実を、土堤下の園地の授精用の老樹がつけていたのを知っている。この土地の人間が、あんな桃に満足していると言うのは、彼らが桃への関心も熱意も失っている証拠だろう。土地が桃に飽いたのではない。人間が桃に飽いたのだ。これをやはり「自然の勢」と呼ぶべきなのか。  私は渠水沿いの道で、やっと五六米先までリヤカアへ追いついた。尚平氏の肩はかすかに息のあえぎを見せ、汗の滴が足もとへ垂れてくる。彼の顔は一度も振りむかず、ただ機械的にものをよけ、道を曲る。私はその重い荷車をほとんど一人で曳いたまま、私たちの追いつけない速さで歩く彼の体力と、歩度を異様に思った。それでなくとも、穫入れで無理している筈だ。この炎天に体がもつだろうか。  私は四郎がもっと荷台を押してやればいいと思うのだが、四郎は満足に縄で締めていない木函や手籠が崩れないように抑えるのにせい一杯らしい。黄土の道は、がたがた揺れる。しまいにとうとう函の上から、手籠が落ちて桃が路面に転がり出た。私はあわててそれを拾いかけたが、四郎は荷台に取りついたまま、首を横にふっている。私はその意味がよくわからないまま、手籠に三つ四つ拾い集め、あとは諦めて歩き出した。あるいは四郎の仕種は、落ちた桃はすぐ腐るからむだだという意味かも知れない。  私たちが表庭へ入った時、縁側にいたあさ子がびっくりしてリヤカアを見まもった。市場から木函を積んで戻ってきたのが、彼女を驚かせたのだろう。  尚平氏は裏庭の穀倉のまえで車をとめると、私たちなどまったく無視したように、すぐ引扉をあけた。彼は木綿のシャツを水から揚ったように汗で濡らし、無表情に木函を倉へ収めはじめる。四郎も黙ってそれを手伝い出す。私の耳に、崖上で啼く蝉の声だけが降ってくる。私は一瞬彼らの動きを、白昼の庭の無言劇のように見つめたが、すぐ気づいて、自分も木函を取りあげた。  黴くさい穀倉へ、桃の函を残らず運びおわった時、四郎と私は扉口を出た。そうして何も疑わず、後から尚平氏が出てくるのを待ったが、どうしたことか、彼は穀倉へ入ったまま、引扉を締めはじめた。私はおどろいて扉にかけ寄った。 「どうぞ、どうぞ。」扉の中で、こう言う彼の顔を一瞬私はみた。その腫れぼったい眼には、哀願とも拒否ともつかない色が溢れている。そうだ、と私はさとった。彼は独りになりたいのだ。誰にだって、他人の一切から遠ざかりたい時がある。私の手が、思わず扉を放すと、彼は四郎にも、むこうへ行け、と手まねして、すうっと静かに扉を締めた。私はしばらくその燻んだ扉を、漠然とした不吉な思いで見まもった。内側からはもはや微かな音もきこえない。蝉の声だけが、私の耳朶をかりかりひっ掻くように鳴っている。私は振りむくと、心配そうに見まもっている四郎に、粗朶小屋の方へ帰れ、と手ぶりした。それから私も、家へ戻った。 「ね、どうしたんでしょう。どうしたかしら。」  私から話をきいた妻が、ときどき仕事場の窓から庭をうかがって不安そうに言う。私も椅子に体をなげ出し、暑さと疲れでむっつりしていたが、ときに窓際へ立って穀倉の方をながめてみる。ここからは土倉造りの裏手しか見えない。煤けた壁にはしだいに昏れ方の影がおち、わずかに屋根下に開いた通気窓に濃い闇がみえるだけで、ただひっそりと静まり返っている。  夕食がすんだ頃、浩二郎がやってきた。 「どうしました。」  と私が訊いたのは、いつもの能弁に似ず、言いたいことが巧く口から出ない、といった、もどかしそうな彼の様子を見たからだ。 「どうもこうも。組合の奴らにげ腰で、ぬらくらしてて話になりません。」彼は噛みすてるように言った。「市場の奴に、そっちでいい加減な扱いするんなら、他の集荷業者へ持ってくぞって言ってやったんです。するとそいつは構わないが、どこへ持ってったって大して変らない、と言いやがるんです。」  浩二郎は仕事場の椅子に収まりきれない肢を、もて余すように揺すっていたが、急に暗い、不安な眼をした。 「おやじ、穀倉んなかから鍵かけちゃってるんです。晩飯に呼んでも返事もしないんです。」 「返事もしない。」私も気懸りで言った。 「かすかに動くような気配はするんですがね。何のつもりであんな暑くるしい中へ入ってるんでしょう。」相手は私に訊く。「睡ってるんでしょうか。」 「睡ってはいないでしょう。」 「まさか市場の時みたいに、昂奮してるんじゃないでしょうね。僕はあのおこった凄い顔みた時、そのままぶっ倒れるかと思って、ぞくっとしました。どうしたらいいでしょう。」 「でも、鍵がかかってるんじゃ。」私は硝子戸の外の闇へ眼をむけた。「もう少し、そっとしとく他ないんじゃないかな。」  こうは言ったものの、私は時間が経つと、いよいよ気がかりになってきた。妻を先にねかせ、自分は本でも読むつもりで仕事場へ籐椅子を持ちこんでみたが、私の関心はすぐ庭の穀倉の方へむく。私は風がよく通るのを幸いに、しまいに窓際へ椅子を移した。十時頃、さすが心配になったのか、浩二郎と一緒に裏庭で父親を呼んでいるらしい由吉の声が聞えた。が、それにもはかばかしい反応もないらしく、またやがて静かになる。  私は仄かな月明りの中に、蒼みがかった影を地に投げている穀倉の土壁をみつめた。換気窓にも黒い闇が浮んでいる。あの闇の中で尚平氏は、浩二郎の言うように睡ってなどいないだろう、と私は思う。彼は昼間のあの成行を、今なお同じはげしさで反芻しているのだろうか。それとも桃と湿った藁の匂いに充ちたあの土壁の中に、いつか深夜の土堤下で見たように、腰を下しているかも知れない。闇の中で桃を手にとり、あの厳粛な微笑をしているかも知れない。あるいは自分が殺してきた夥しい虫や、生んでは食ってきた無数の桃のことを考えているかも知れない。いやあの晩彼が平然と口にした怖しい言葉、虫も桃も人間も、平等な無関心さでこの世に放り出されているという意味を、今日のみじめさの中で噛みしめているかも知れない。ちょうど私があの晩、闇のむこうの植物へ、恐怖に襲われたように……。  夜半過ぎと思われる頃、私は突然自分が椅子の上で仮睡《まどろ》んでいたことに気づいた。生け垣の方で聞えた奇妙な声に起されたのだ。仄明りに透かしてみると、垣根からこっちへ乗り出して、四郎が何か手ぶりしている。私は穀倉の方をみやった。すると、上の換気窓に、ぼんやり赭茶けた電燈の光が射している。私はその明りをみた時、何となくほっとした。四郎は微かに切れ切れの声を立てて、こっちへ出てこい、と手ぶりする。私もそれに誘われて、庭へ出てみる気になった。  仕事場の硝子戸を下りて、裏庭へ廻ると、崖すその堆肥穴の生温い匂いが鼻へふれてくる。  少年は私の先にたって、穀倉までくると、覗いてみろと言うように扉の隙間を指した。そこからは薄い、銅箔のような光が漏れ出ている。私が顔を近づけると、わずかに壁に影が動き、藁の擦れる音がする。私は思わず、 「真田さん。真田さん。」と声を殺して呼びかけた。  藁の音がやんだ。が、なかから何の答えもない。 「真田さん。」と私がまた呼びかけた時だった。ふいに内部の影が揺らいで、扉の錠前が銹びた音をたてて外された。そして扉がわずかに開いた。  私は鼻と鼻がふれあうほど近く、尚平氏の鋭く刺すような眼をみた。その顔は上気したように光り、銹色の皮膚が膜でも被ったようにゆがんでいる。私が一瞬その視線に気押されていると、彼は自分からせかせかと言い出した。 「私は。私はいろいろ考えましたが、またやり直しますよ。あと二年三年、あの木の面倒をみますよ。そうでしょう。あの木はこれからもっと大きい、いい実をつけるんですよ。誰が何と言ったってそうしますよ。」 「そうですか。それはよかった。」私は言った。「何しろ皆が、心配してるもんですから。」 「心配?」彼はちらと四郎の方へ眼をやり、熱っぽく喉にからんだ声で、「何の心配することがあるんです。私はただ、ここで休んでるだけですよ。あしたはまた早いでしょう。」と再び扉を締めかけて、「この籠の実は、いつまでも放っとけませんからね。」  私は扉の蔭で、またじっとこっちを見つめた彼の、黒光りする痣《あざ》のような眼をみた。 「じゃ。」尚平氏は、すうっと静かに扉を締めた。  私と四郎はしばらく扉のまえに立っていた。扉の隙間から、ふたたび何か作業をするのか、藁の音がする。私が四郎を振り返ると、彼の表情には、主人の顔をみた安堵が現れていた。多分尚平氏の言葉を唇で読んだのだろう。だが、私は粗朶小屋へ戻る四郎と別れながら、反対に妙に重くるしいものを感じ出していた。それは不安と言ったらいいか、予感と言ったらいいか。今見た尚平氏への痛々しさでも、懸念でもあるが、それ以上に何か言葉にならないもの。私たちが人と別れた後に、妙に跡を曳く思い。胸にひびく不可解な気鬱さ……。  家に戻ると、私はまたしばらく籐椅子に凭れて、本を読んでいた。そうして一向に、穀倉の明りが消えないのを見ると、椅子を立ち、寝につくため部屋を出た。  尚平氏の死を私が知ったのは、翌朝目覚めてまだ顔も洗わない時だった。陽の当る居間の縁先で、新聞を拡げようとすると、庭づたいに浩二郎がすっとんで来た。彼は無言で私の腕をつかみ、下駄を履く暇もあたえず裏庭へ連れ出した。  穀倉のまえには、由吉も四郎もいた。女たちはやや離れた所に、どういうわけか揃って蹲みこんでいた。  重い扉は全部ひき開けられ、その朝陽の射しこむ藁の中に、尚平氏は俯ぶせに倒れていた。倒れる拍子に体が桃の籠積みにふれたのか、彼の上半身は大きな籠の蔭になり、ただ白髪と、藁に埋まった右掌と、捩れた両肢がみえた。 「鍵がかかってるもんだとばっかり、思ってたんですよ。」浩二郎は咄嗟に父親の遺体をどう扱っていいかわからない様子で、立ったまま言う。「ところが、今僕が朝食に叩き起そうと思ってきたら、開くじゃありませんか。」彼は由吉に促されて、藁の中へ入り、竹籠を剥ぎのけながら、乾いた声を出した。「おやじが悪いんですよ。自分の体を雑巾みたいに、むちゃに扱うんだから、脳卒中ですよ、それとも心臓か。」  彼と兄とは尚平氏の体を、両側から抱えて外の庭へはこび出した。私の眼は一瞬、今までその屍体が横たわっていた藁の上へ惹かれた。そこには尚平氏の煮染めたような麦藁帽子が、頭がつぶれて埋っていた。そして幾つもの籠から転がり出、滾《こぼ》れ出たおびただしい桃が陽の光を撥ねかえしながら散乱していた。まるで厚い土壁の穀倉全体が、無心に熟した桃のかがやきで飾られた大きな柩のようだった。  尚平氏の葬儀は、土地の旧家のせいもあって、眼をみはる程盛大だった。私は旧家というものの意味を、この時初めて納得した。それは日頃地上に見えないが、土中で細かく分枝を張る大根《おおね》のようなものだ。この分岐が、このような儀式の時だけ現れてくる。旧い分家、新しい分家、その姻戚といった親族をはじめ、むかしの小作人やむかしの出入り、土地の農家の人びとがおそらく余さずくるのだろう。この真夏に通夜が長びくので、尚平氏の柩にドライアイスが詰められた。  私も勿論、この四日がかりの通夜に顔を出した。由吉夫婦も浩二郎や姉も、満足に言葉もかわす暇もないほどの忙しさだ。ちょうど折も折、晴天が一週間もつづくので梨棚へ灌水などしなければならず、この手入れに四郎が向けられた。こういう際、私の妻が役立てばいいのだが、人一倍涙で瞼を腫らしているくせに、行けば足手まといになるにきまっているのだ。  あすが告別式だという前の晩、縁先につながれたサリイが妙に声高く啼いた。なだめてもなだめても、低い唸り声をと切らせてはまた啼くのだ。私は犬の様子から、それが身体的な原因ではなく、何か外部的な原因だと感じた。私は鎖を放してみた。するとサリイは裏庭の生け垣の方へとんで行き、そこで鼻づらを宙に反らせてまた啼く。  私はそこへ行ってみた。そうして初めて私の鼻にも、微かな異臭が感じられてきた。その甘酸い、鼻腔にからみつく臭いは、私が裏庭へ踏みこむにつれつよくなる。私は井戸端まできて、この異臭が果物の腐りかけた臭いだと気づくと、思わず穀倉の方をみた。そこにある桃の木函は、尚平氏の亡くなった翌日、由吉がどこかから小型三輪を伴ってきて、運び出して行った。だが籠の中の残りや藁の上に散った桃は、忙しさに手をかける間もなく、腐り出したのではないか。  穀倉のまえに立って、私は扉に手をかけた。横に引くと、この間とちがって容易に開く。すると果して、生温く籠った空気とともに、はげしい桃の腐臭が鼻をついてきた。しかしそれは腐り爛《ただ》れる悪臭ではない。今まさに膿もうとする無数の桃が、いっせいに放つ頭の髄に透るような匂い。崩れ爛れていく女ののような、官能を感じさせる疼くような臭気なのだ。私は足もとの一個をひろい、柔かく指の食いこむ爛れを感じると、あわてて手から放した。そうしてしばらくは母屋へ知らせに行くことも忘れ、息をつめて、暗闇に、仄白く点々と浮んだ桃の影をみつめた。  翌る告別式の日は、朝から風のない、蒸し暑い日だった。出棺には車が狭い道へ入らないので、県道まで担いで出ねばならない。由吉のほか、三四人の男が、白い紗織の絹布で蔽われた棺をになうと、後からぞろぞろ親族や見送り人の列がついて行く。浩二郎は持前の活動力をようやく取戻したらしい忙しさで、車の手配や打合せにとび廻っている。私も列に加わり、じりじり額に射こむ陽ざしの下を歩いた。私が県道で、車を見送るつもりで立っていると、浩二郎があわただしく人を分けて近づいてきて、 「あなたも、火葬場へ行って下さいよ。」と言う。 「私も?」私は数多い親戚一族を考えて尻ごみしたが、 「いやいや、あなたはおやじの最期を見届けてくれた人だから、ぜひお願いしますよ。」と彼はうむを言わさず、私の肩をとらえて、十台余り道に並んでいる乗用車の一つへ押しこんだ。  多摩川の彼岸、都下北多摩郡にある火葬場からの戻りは、私と浩二郎が一緒の車だった。車内には喪服をきた二人の老婦人のほか、四郎まで詰めこまれていた。  車が、多摩川を渡る長い橋にさしかかると、開けた窓から、湿った河風が流れこんできた。微かに夕方の翳りをおびた河が、蒼鉛色の長いうねりをみせている。私はこの冷風に、何となくほっとしたくつろぎを感じながら、前の助手席にいる浩二郎の肩を叩いた。 「四郎は、これからどうするんです。」 「四郎?」彼は首を後へねじむけると、 「僕らはずっと家で使いたいんですがね。本人が実家へ、この奥の柿生ってとこなんですが、帰るって言うんです。」 「四郎にあの桃園を、もう二三年やらしてみたらどうです。」私が傍の少年をかえりみると、彼は自分が話題になっているのを感じたのか、奇妙にひかる眼で私たちを見ている。 「それがね。」浩二郎は舌に滲みる味を舐めたように、複雑な顔をして言った。「兄貴はあの園地は作附転換するって言うんです。この秋にはとり敢えず、甘藍《かんらん》を植えて、ゆくゆくは大規模な養鶏場にする肚らしいんです。」 「でも、あと三四年たてば種苗登録が、取れるかも知れませんよ。きみだって、まだひっ込まないって言ってたでしょう。兄さんを説得しなさいよ。」私は内心、こんなことに口出しする自分を、嘲笑いながら言った。 「そりゃ、説得してもいいんですがね。」浩二郎の顔は、苦笑に変った。「しかし今までこの時期を待ちに待ってたんだから、どうかなあ。第一、四郎にやる気があるのかな。」  私はこっちをみつめる四郎に、ゆっくりと「桃園」と言った。すると、彼の腫れぼったい眼が生き生きとかがやき出し、うんうん、と首を頷かせた。 「ほら、充分乗り気らしいよ。」私は言った。 「そうですか。じゃ帰り道でも話してみますよ。」浩二郎は言ったが、急に掌をばさばさの短い髪にやり、薄笑いを浮べて言った。「実はね、あの木についちゃ僕は少し自信なくしちゃったんですよ。おやじはいなくなっちまうし、まわりはあんまり冷淡だし。あの兄貴を説得できるかなあ。」  私たち一行は、道の狭さを考えて、駅の近くで車を乗りすてた。別の車から降りた喪服の人々が、かたまり合って土堤道を行く。私と浩二郎、それに四郎も肩をならべて同じ道を歩いたが、前方に尚平氏の骨箱を腕にかかえた由吉をみると、浩二郎は私に眼で頷いてその方へかけ出した。  由吉は十米あまり先を、五六人の男たちと話しながら歩いている。そこに浩二郎が走りよって顔を近づけると、二人だけ少し遅れて話しだした。由吉の眼は心なしか、行手の園地の方へ注がれたように思われる。そしてまた、胸にかかえた父親の遺骨へ、視線を落したように思われる。  私は二人に追いつかないように、歩みを落しながら、並んでいる四郎を見やった。彼は不安そうに眼を細め、じっと前方をみつめている。と、むこうで浩二郎が振りかえった。そうしてだめだ、と言うように首をふり、腕をひろげてみせた。四郎の顔には、一瞬ありありと、失望の面持が現れた。  私たち二人は同じ歩度でゆっくり歩いた。土堤下の桃園では葉がゆたかな夏の重みをくわえている。まだ陽射しに灼け乾いた白い河床から、水際でさわぐ子ども達の声が響いてくる。  この時、ふいに四郎は足をとめた。彼の顔にはすでに失望の色も消え、ふだんの野生の鹿のような眼に返っている。彼は私の顔をみつめながら、ズボンのポケットに手をつっこむと、そこから、掌にいっぱいの丸い杏《あんず》ほどの粒をとり出した。みると、それは桃の核だった。彼は何か言いたげに、わかりにくい仕種をしてみせた。だが、私には彼が何をつたえたいのかすぐにわかった。その核を自分の家へ持って帰るというのだ。その核は尚平氏の桃の核だ。  私は彼の掌からその核を拾いあげた。四郎の掌は太く、陽灼けし、ささくれ立っていて尚平氏の掌とどこか似ていた。それは柔軟な、植物のために生れついたような掌だ。彼はまたその掌で、尚平氏のように核を育てるのだな。こう思って、私が核の粗い表皮を掌で握りしめた時、突然遥か下流の空に、ぽんと大きな乾いた音が爆ぜた。見上げると、かすかに昏れかけた蒼い空に、血の滲むような赤と、青と、黒の煙が糸を曳くような傘を開いている。その煙の先がちかちかした閃光を放っている。昼の花火だ。そう思ってみつめる間もなく、閃光は消え、三色の煙もたちまちふやけて、夏の空へ吸いこまれた。  私は尚平氏への弔砲のように、むなしく空へ消えたその煙を見た時、初めて今日が多摩川の川開きであるのを思い出した。 この作品は昭和四十四年九月新潮社から刊行された。