鏡 (出典:中欧怪奇紀行) 田中芳樹・著      ㈵  蕭条《しょうじょう》たる青灰色の冬が北ドイツにおとずれた。湿気をふくんだ冷たい風が平原の上を這《は》い、厚い霧が音もなく地上をつつみこむ。その霧を鈍くつらぬいて、エルベ河を航《ゆ》く船の汽笛が耳をたたく。  ハンブルクの中央駅から河岸へとつづく石畳の道を、私はやや早足で歩いていた。  ハンブルクの地形は低平そのもので、市街地には坂道というものが存在しない。港に近く、エルベ河を見おろして、例外的に、ささやかな丘がある。帝国宰相の座をおりたビスマルク公爵の邸宅がそこにあったが、七年前に主人をうしなって、今は宏壮な館が無言でたたずんでいるだけだ。  ベルリンに媚《こび》を売るおべっか使いどもが、丘の上に巨大なビスマルク像を建立すべく、強引な運動をおこなっているという。自由の街ハンブルクを、プロイセンのいなかものが足もとに睥睨《へいげい》するというわけだ。わが愛しのハンザ自由都市も、いよいよ名誉ある独立自尊の歴史に幕をおろそうとしている。  旧城壁跡の緑地帯に面した家の扉口《とぐち》に立ったとき、私の帽子も外套も霧ですっかり湿っていた。呼吸をととのえて呼び鈴を押す。  きっかり五秒で扉が開いた。半白の髪をした老女が私を見た。老女と呼ぶにはまだすこし早い年齢のはずだが、やつれた表情がそうとしか見えない。顔や手の青いあざは、夫に暴力をふるわれたためだ。 「三年ぶりね、マックス」  ケートヘン伯母《おば》だった。正確にはリヒャルト伯父《おじ》の妻で、私と血のつながりはない。 「来てくれないかと思ってたけど」 「そうもいかないでしょう」  私が呼び出しに応じなければ、リヒャルト伯父は罵倒と脅迫と説諭《せつゆ》とを飽きることなくくりかえすだろう。郵便に電信に電話、あらゆる文明の利器を駆使して私を根負《こんま》けさせ、結局は目的を達する。すなおに呼び出しに応じたほうが、たがいに時間を浪費せずにすむというもんだ。  広間の一角で暖炉が黄金色の炎をあげていたが、身体はともかく、私の心はいっこうにあたたまらなかった。暖炉の上に飾られた一枚の絵に、私は非好意的な視線を向けた。亜熱帯樹のしげる東洋の港らしい風景。港の背後には鐘《かね》のような形の山々がそびえている。 「東洋の上海《シャンハイ》という港を描いたものだそうよ」 「それはまちがいですね」 「まあ、そうなの」 「上海はハンブルクとよく似た地形です。大きな河ぞいの港に、どこまでも平坦な土地。こんな山は二百キロほど奥地へはいらないとありませんね」  私は絵にかるく指を突きつけた。 「これを描いた画家は、香港《ホンコン》あたりの地形を話に聞いて、想像だけでしあげたんでしょう。中国どころか、たぶんベルリンより東へ行ったことはないと思いますよ」  伯母は弱々しく眉をひそめた。 「そうなの。いえ、近所の人がこの絵をほしいといってね。リヒャルトが売ってやれというのだけど、どんなものかしらね」 「文化的にも芸術的にも価値はありません」 「そう、何の値打ちもないの」  伯母に対して、私はべつに悪意をいだいてはいない。落胆《らくたん》したようすが気の毒だったので、私はなぐさめの言葉を口にした。 「文化財としての価値と商品としての価値はべつですからね。俗っぽい東洋趣味の持ち主なら、かえって喜ぶでしょう。交渉しだいで、そこそこの値段がつくと思いますよ」 「あなたが交渉してくれるとありがたいのだけどねえ、マックス」  それはおことわりです、と、私は口にせずにすんだ。広間からつづく居間の扉口に、この家の主人があらわれたからだ。 「おひさしぶりです、伯父さん」  努力しなくても、冷たい声が出せた。  リヒャルト伯父はちょうど六〇歳になるはずだ。灰色の大きな口髭がよく似あういかめしい顔つきで、両眼には威圧的な光が満ちていた。肩幅は広く、胸は厚く、腕も腰も太くたくましくて、つい反感をそそられるほど力強い体格だ。右手にはごつい樫《かし》の杖をついていた。戦場で足に軽傷を負ったことは事実だが、この杖は伯父にとっては頑健な身体をささえるための道具というより、気にいらぬ相手を打ちすえるための兇器ではないかと思われる。 「犬と子供と異教徒の野蛮人どもは、杖でしつける必要がある」  というのが伯父の主張だった。ご本人にとってはお気にいりの台詞《せりふ》で、ことあるごとにくりかえしては、わざとらしく笑声をつけくわえるのだった。  伯父は見下すように私を見た。ごくわずかに首をかしげたようだが、たぶん気のせいだろう。 「意外に早くやってきたな、マックス。すこしはりこうになったと見える」  おほめにあずかって光栄なことだ。 「お前に用があってな。あの中国の鏡を鑑定してもらいたい」 「鏡、ですか」 「そうだ」 「あの古い青銅の……」  私の語尾に、いささかのいらだたしさをこめた伯父の声がかぶさった。 「そうだ、三年前、お前が見たがっていた中国の鏡だ。あのとき、お前は、わしの許可も得ず書斎にはいりこんで鏡を持ち出そうとしたな」 「調べようとしただけです」  私にとって愉快な記憶ではなかった。伯父にとってはそうではないようだ。三年前、私の右手に杖を振りおろしたときにも、いまその件について語るときにも、伯父の口もとには、相手をなぶるような笑みがあった。 「調べようとしただけか、なるほど。それならあのときの望みをかなえてやろう。今日お前を呼んだ理由は、じつはそれなんだ。あの鏡を調べてほしい。いつの時代につくられて、どんな由来《ゆらい》があるのか、そういうことをな」  三年前、リヒャルト伯父は私に鏡を調査させることをこばんだ。状況か心境か、どちらかが変化したということだ。それとも、両方が、だろうか。  伯父がいきなり東洋の文化や歴史にめざめたとは思えない。きわめて通俗的な動機が伯父をつきうごかしているはずだった。 「見せていただけるなら、ありがたいですね」  どんな動機にもとづくにせよ、という言葉は口にしなかった。私の返答に、伯父はうなずいた。その表情は満足しているようには見えたが、目は油断なさそうに私のようすをうかがっている。 「お前は東洋美術などというくだらんものを研究しているので、役立たずと思っておったが、はじめてわしの役に立つわけだ。わしを失望させるなよ。鏡にどのていどの価値があるか、正確に鑑定するんだぞ」 「価値?」 「いくらぐらいになる?」  率直は美徳だ、と、多くの人はいう。伯父の表情を見ると、その意見に賛同する気にはなれなかった。 「それは実物をよく見てからでないと、責任のあることはいえません。美術品やら骨董品やらに定価はありませんからね」  ふん、と鼻を鳴らして伯父は杖で床をついた。はやくも私は伯父を失望させたのだろうか。 「参考のためうかがいますが、買い値はいくらでしたか」  私は成功した。伯父に強い不快感をあたえることに。伯父のこけおどしの口髭がゆれたのは、その下で唇が大きくゆがんだからである。 「さあ、いくらだったかな、忘れた」  軽蔑に値する嘘だった。伯父が忘れているはずはない。その鏡を、伯父は、まったく無料《ただ》で手にいれたのである。  伯母がはいってきて、卓上にコーヒーを置いた。夫であるリヒャルト伯父と目をあわせないようにしている。伯母は若いころ亜麻《あま》色の髪とはしばみ[#「はしばみ」に傍点]色の瞳と薔薇《ばら》色の頬をした美人だった。写真で私は知っている。彼女から若さと美しさを奪ったのは、歳月と、そして夫であるリヒャルト伯父だった。伯父はこれまでの生涯をずっと加害者としてすごしてきた。  伯父は五年前、陸軍少佐として中国の天津《テンチン》にいた。例の「義和団《ぎわだん》事件」、排外的な民主主義者たちの決起に直面し、「列強《れっきょう》」と呼ばれる国々が北京《ペキン》に軍隊を送りこんだのだ。この軍隊は、北京《ペキン》の公使館地区にたてこもっていた自国の外交官や居留民《きょりゅうみん》を救出し、ついでに何千人もの中国人を殺し、放火と掠奪をほしいままにした。 「黄色い異教徒どもに、心の底から思い知らせてやれ」  出征する将兵に、皇帝《カイゼル》ウィルヘルム二世はそう訓示したものだ。  皇帝《カイゼル》のお上品な勅命《ちょくめい》に、伯父はよろこんでしたがった。拳銃と軍刀で、三十人以上の「黄色い異教徒ども」を殺したのだ。そのうち、銃を持っていた者はひとりもおらず、大部分は女性と幼児と老人だった。  この年、東洋におけるドイツ軍とロシア軍の行為は、「文明人の高貴さ」をしめす例証として、長く語りつたえる価値があるだろう。ロシア軍の「活躍」は北京の外でもよく目立った。アムール河の岸に三千人の非武装の中国人を集めて大砲を撃ちこみ、全員を血と肉のかたまりに変えてしまった。ロシア正教の賛美歌を合唱しながら、それをやってのけたそうである。  二〇世紀にはいって、すでに神は人類に対する責任を放棄したようだ。いずれもっとひどいことがおこるだろう。  私が鑑定を引き受けたからか、伯父はすこし機嫌がよくなり、三年ほど士官として駐在していた青島《チンタオ》のことを得々《とくとく》としゃべりだした。  一八六一年にリヒトホーフェンが山東半島南部の地質調査をおこない、良港を建設するにたる湾の存在を報告した。一八九七年に、わがドイツ軍は軍事力をもってその地を占拠し、翌九八年に正式に租借《そしゃく》した。つい七年前のことだ。以来、青島《チンタオ》にはドイツの東洋艦隊の根拠地がおかれ、ドイツ風の都市と港湾が建設されている。 「いずれあの土地には一〇〇万人のドイツ人が居住し、極東におけるドイツ帝国領土の首都として、ハンブルクをしのぐ大都市になるだろう。お前も一度は見てくるといい。わが国の偉大さをその目でたしかめるためにな」  伯父はうそぶく。いつから東洋の総督になったのだろう。  わがドイツ帝国が青島を租借したまさにその年、口やかましいビスマルク公爵が死去した。際限なく玩具をほしがる幼児のような皇帝《カイゼル》を掣肘《せいちゅう》する者は、もはや存在しない。地獄への坂道をまっしぐらだ。巻きこまれたくないものだ、と、私は胸の奥でつぶやいた。  いっそ仏教徒やヒンズー教徒の軍艦が、テムズ河やセーヌ河やエルベ河をさかのぼって、ロンドンやパリやハンブルクを砲撃し、掠奪・殺人・放火をほしいままにすればいい。そうなったら、いくら強暴で想像力の貧弱なキリスト教徒も、自分たち外国でどんなことをやっているか身にしみて理解するだろう。それとも、それでもやはり思い知ることがないだろうか。  伯父がキリスト教徒の代表者であるとしたら、望みはうすい。ただ、伯父は、同じキリスト教とに対しても加害者あった。部下である兵士たちからは横暴で嗜虐的《しぎゃくてき》な上官として憎まれていたし、妻に対しても無慈悲な暴君としてふるまってきたのだ。  伯父が手洗いに立った隙に、私は伯母のほうに身体を寄せ、低声《こごえ》で問いかけた。伯父はいま金銭的に苦しい状態なのか、と。伯母は一瞬ためらったが、あきらめたようにうなずき、あわただしく事情を説明してくれた。  思ったとおりだった。伯父は投機に失敗したのだ。  赤道アフリカでダイヤモンドを採掘する、という事業に資産をつぎこんだのだが、いっこうに回収できない。鉱山の責任者は、現地からの手紙で弁解をくりかえした。大雨で坑道がくずれただの、人喰いライオンの出現で黒人労働者が集団逃亡しただの、英国鉱山の妨害工作をおこなっているだの、そこらの小説家がおよびもつかないほど多彩な弁解ぶりだったのだが、やがて手紙も途絶えた。こちらから訪問の手紙を送っても返事はこない。  赤道アフリカからドイツ本国へ帰ってきた交易商人がいて、事情をきいたところ、現地ではここ一〇年、新しいダイヤモンド鉱山は開発されていない、との話であった。伯父はまんまとだまされたのだ。 「その責任者は、直接の顔見知りではないけど、おなじ時期に北京にいたというのでね、戦友みたいなものだといって、リヒャルトはすっかり信用していたのだけど」 「伯父さんにとって人間は記号の集積でしかありませんからね。個々の人間を区別する能力がないんです。『戦友』とか『キリスト教徒』とかいう記号を使って区別するしかないんですよ」  伯母は悲しげに私を見た。 「そのとおりだと思うけど、マックス、あなたもすこし変わったわね。以前はそれほど辛辣なことは口にしなかったと思うけど」  すこしだけ私はたじろいだ。 「人間が変わるには、それなりの理由があるんですよ」  床を突く杖の音が近づいてきた。伯父がもどってきたのだ。この尊大で嗜虐的《しぎゃくてき》な老人は、床に対してまで加害者であるかのようだった。  伯父は居間にはいろうとせず、ひときわ強く杖で床を突きながら私に呼びかけた。 「マックス、来い、鏡を見せてやる」  ちらりと伯母を見やってから、私は立ちあがった。      ㈼  午後四時になろうとしていた。  冬の北ドイツは、すでに夜の女王の統治下にはいっている。白熱電灯の光は、夜を追いはらうように見えて、じつは人々の影を濃くするばかりだ。  杖を鳴りひびかせるリヒャルト伯父にしたがって、私は階段をのぼった。  廊下の突きあたりの扉をあけると、そこが伯父の書斎だ。窓に面した頑丈な机の上には、聖書とペン立てがおいてあるだけ。左の壁一面を占《し》める本棚にはフリードリヒ大王の伝記やら陸軍の歩兵|教典《きょうてん》やらが並んでいるが、半分は空《から》である。小説だの詩集だのという軟弱なものは一冊もない。  そして右の壁ぎわに、例の鏡がおかれていた。蒼然《そうぜん》たる青銅の台座に、三年ぶりのなつかしさを感じながら、私は散文的な問いを発した。 「で、買い手のあてはあるんですか」 「お前の知ったことではない」  いいすててから、伯父なりに社交の必要を感じたらしい。 「五人ほどおる。金銭《かね》があって東洋趣味のやつらがな。まさか、お前、やつらと張りあう気じゃなかろうな」 「どうせなら、この鏡を大切にしてくれる人に買ってほしいですからね。それだけです」 「余計な心配はせんでいい。高い代金を支払ったら、大切にするに決まっとる。それが人間というものだ」  伯父は笑った。豪快さをよそおった、いやな笑声だ。内容も俗悪きわまる。だが、たぶん人間社会の真理の一面を衝《つ》いているのだろう。  古びた鏡。直径九〇センチ、短径七五センチほどの楕円形で、縁は青銅でつくられている。縁にはこまかい彫刻がほどこされており、それは古代中国神話に登場するさまざまな聖獣や怪物であるようだった。そして左右には文字がきざまれている。ヨーロッパ人から見れば理解に苦しむ、縦に記された文字の列。しかもひとつひとつの文字が意味を持っているのだ。  ただ、この鏡の縁に記された文字は、二一〇〇年ほど前に統一されて以後のものだ。それ以前に使われていた不規則なものではなかった。 「悪魔の文字だな」  伯父は私を見てせせら笑った。 「アルファベットではなく、こんな文字を使っているようだから、異教徒の奴らはいつまでも進歩せず、未開で野蛮なままなのだ」  返答せず私は一四個の表意文字を読んだ。この文字と字句から判断するかぎり、鏡はせいぜい一〇〇〇年前のものだ。だが、記された文字はあたらしくても、鏡自体はそれよりはるか昔につくられていたという可能性はのこる。 「書中《しょちゅう》、女有《あ》り、貌《かんばせ》花の如《ごと》し」 「何だ、その寝言《ねごと》は?」 「現実の女性より本の世界の女性のほうがずっとすばらしい、ということですよ」  文学的に正確ではないが、伯父にはこれでたくさんだ。伯父は、わざとらしく鼻を鳴らした。 「現実逃避のたわごとだな。で、左側には何と書いてある?」 「これは対句《ついく》というやつで……中国の文化の特徴として左右対称を重んじます。庭園でも建築でもそして文学でも……」 「よけいなことはいわんでいい」  伯父は伯父らしい言葉と口調で私をさえぎった。 「さっさと読んで説明しろ」  ため息をついて、私は読みあげた。 「鏡中《きょうちゅう》、魚有り、容《かたち》人の如し」  伯父の杖が床の上で鳴りひびく。 「で、どういう意味だ」 「読んだとおりです。鏡のなかに魚がいる、その形は人間そっくりだ、というわけですよ」 「だからその意味を聞いとるんだ。鏡のなかに魚がいる、というものたわごとだが、魚が人間そっくりとはどういうことだ」  伯父は性急《せいきゅう》に自分なりの解答を出した。 「人魚のことか? 中国にも人魚がおるのか」  それほど悪い解答ではなかったが、正解でもない。私はつい身を乗り出し、教師めいた説明をはじめた。 「伯父さん、魚はどこにいますか。いや、説明するにも順序が必要だからうかがっているのです。からかっているのではありません」  リヒャルト伯父は私をなぐりつけないでくれた。彼は鏡に向けた視線を私にもどして答えた。 「水のなかだ」 「そうです。魚は水のなかにいます。水のなかに棲《す》むものは、同時に鏡のなかにも棲むことができる。四〇〇〇年以上前、中国の西南の辺境に住む少数民族はそう考えました」 「野蛮人の迷信だ」 「まあ待ってください。水と鏡には共通点があるでしょう」 「さあ」 「あります。ギリシア神話のナルキッソスを思い出してください。彼が水仙に姿を変えねばならなくなったのは、水に自分の姿を映したからです」 「ふん、なるほど、水も鏡も、ものの姿を映し出す。そういうことか」  伯父はうなずいたが、いらついたようすで杖を突き鳴らした。 「で、結局、何なのだ。マックス、お前は母親の遺産がそこそこあるのをいいことに、まともな職業にもつかず、学者だのと称しておるが、もったいぶって、内実《なかみ》のあることを何もいわんところは、たしかに学者だな。お前の父親そっくりだ。役立たずめが」  私は怒りと不快感をのみこんだ。「お前の父親」とやらからすくなからぬ借金をして、その死をよいことに踏みたおしたのは、いったい誰だ。  平和主義の限界について想いめぐらせながら、私は伯父の暴言に応じた。 「これからくわしく説明しますから。さきほど魚といいましたが、ニシンやマスを想い浮かべてはいけません。水中と鏡中とを自在に移動する別次元の存在ということです」  伯父は太い眉をしかめた。これまで何万回も同じ形にしかめられたにちがいない。ほとんど、灰色の岩にきざみこまれた古代の線文字のように見えた。 「そんなたわごとをわしに信じさせようというのか」 「ぼくは鏡の縁にきざまれた文章の由来を説明しているだけです。伯父さんが誰に鏡を売るとしても、文章の内容をきちんと説明できれば、ありがたみがます。そうじゃありませんか」  伯父が眉の形を変えたので、私は説明をつづけた。 「黄帝《こうてい》はご存じですか。古代中国神話の帝王です」 「ギリシア神話のゼウスみたいなやつだな」 「まあ強《し》いていえば、北欧神話のオーディンのほうに近いでしょう。さまざまな文化や技術を人類にもたらした文化英雄《カルチュア・ヒーロー》ということになります。同時に、異世界からの侵入者を鏡のなかに封じこめた救世主というわけです」 「救世主」という言葉が、伯父には気にいらなかったらしい。伯父は一九〇〇年ほど前に十字架に磔刑《はりつけ》にされた男が生きかえって歴史唯一の救世主になった、という非科学的なメルヘンを信じているのだ。そのメルヘンを東洋や南洋の住人たちに押しつけるため、多くの宣教師とその一〇〇倍くらいの大砲が、地の涯《はて》てまで出かけている。  私は伯父への説明をつづけた。鏡の住人たちが、こちらの世界への侵攻を開始したのは、ノアの大洪水よりはるかに昔のこと。壮絶な戦いの末、こちらの世界の指導者である黄帝は敵を撃退し、鏡のなかに封じこめてしまった。 �魚�つまり異世界の住人たちは、敗北して封印されたものの、永遠にそれに甘んじてはいない。彼らは再侵攻の機会をつねにうかがっている。こちらの住人とまったくおなじ容姿を利用し、ひそかにいれかわり、いつのまにかこちらの世界を支配しようとしているのだ。 「いれかわったとして、真物《ほんもの》と区別はつかんのか」 「双生児《ふたご》を見わけるよりむずかしいでしょうね」  不愉快そうに伯父は考えこんだが、すぐに反論した。 「外見だけならそうかもしれんが、人間の内実までそっくりというわけにはいかんだろう。人格や知識までそのまま写しとることができるのか」  伯父にしてはいい質問だ、 「彼ら、というのは異世界の住人たちのことですが、彼らは鏡をとおしてこちらの世界の住人の行動や発言を模倣《もほう》することができますし、性格や行動原理を把握するのも、むずかしくはありません」 「あくまで模倣にすぎんだろう」 「そうですね。でも、すぐれた俳優が実在の人物を演じると、真物より真物らしい、という例がいくらでもありますよ」  といってから、私は急に奇妙な感じにおそわれた。慎重さを自分に課しつつ、リヒャルト伯父を見なおさずにいられなかった。  私の前に傲然と立ちはだかっているこの人物は、真物のリヒャルト伯父だろうか。この三年間、伯父の身に何があったか、私はろくに知らない。�魚�といれかわったとしても、私にはわからないかもしれない。 「あの、あなた、お食事になさる?」  おずおずした声が扉口からきこえた。ケートヘン伯母が立っている。 「いまからいく。いちいちうるさいぞ」  伯父は吐きすて、おどすように杖で床を突いた。      ㈽  ケートヘン伯母はあらゆる料理をつくれるわけではないが、すくなくともスープづくりについては名人といってよかった。鶏肉がやわらかく口のなかでほぐれて、洗練された胡椒《こしょう》の味があたたかくひろがる。このスープは、ハンブルクまでやってきた私にとって、ほとんど唯一の恩賞といってよかった。 「おかわりはいかが、マックス」 「いただきます」  夕食の席にいるのは、私をふくめて三人だけ。金銭に余裕がないとしても、家政婦のひとりぐらい雇える身分のはずだが、またぞろ伯父の手癖《てくせ》の悪さを発揮して、逃げ出されてもしたのだろうか。  伯父は味覚などと無縁の表情でスプーンを動かしていたが、右手の動きをとめると、頭ごなしに伯母に命じた。 「おい、夜のうちにあの鏡をみがいておけ。明日、マックスにきちんと鑑定書を書かせるが、古ぼけているのはいいとして、汚れていたのでは値がさがるかもしれんからな」 「はい、わかりました」  従順な返答だが、伯母の声には熱意が欠けていた。当然のことだ。私はいちおう忠告をこころみた。 「伯父さんうかつなことはしないほうがいいと思いますよ。夜、あの鏡をひとりでのぞいたりしたら、何がおこるか」 「誰がお前の意見を聞いた? 出すぎたまねをするな」 「でも……」 「それとも、お前がみがくか」  自分の手でみがく、という選択肢は伯父にはないのだ。 「遠慮します」  いったとき、二杯めのスープが運ばれてきた。ひとりで夜、鏡をみがく伯母の身に何がおこるか、私としては危惧《きぐ》をいだかざるをえなかったが、もはや何をいう気にもなれなかった。それとも、私はわずかながら、翌朝のことを予知していたのだろうか。  ……翌朝のめざめは快適とはいえなかった。  朝といっても、私が寝台に上半身をおこしたとき、まだ夜は明けていなかった。しかも時計の針は八時近くをしめしている。この季節、明るくなるのは午前九時ごろなのだ。これほど光も貧しい地域にあっては、人々は富や領土に貪欲《どんよく》にならざるをえないのかもしれない。アジアやアフリカの国々に対してかくも残忍にふるまうのは、光あふれる土地への嫉妬のなせる業《わざ》ではないだろうか。  客用寝室の狭い陶製洗面台で身じたくをととのえる。安っぽい鏡に映った私の顔は、うんざりするほど不機嫌で、しかも腹に一物《いちもつ》ありそうだった。リヒャルト伯父が私をきらう理由の一割ぐらいは正当なものだ。  階段をおりて居間をのぞくと、伯父は天眼鏡《てんがんきょう》を手に新聞の小さな活字を読んでいた。伯母の姿はなかったが、厨房《ちゅうぼう》から物音がきこえてくる。三年前からすでに伯父と伯母は寝室を別にしていた。  型どおり伯父にあいさつし、食卓につくため椅子の背に手をかけて、そのまま私は立ちすくんだ。ひややかに私を見やった伯父が、不審そうな視線の角度を変え、やはりそのまま硬直した。エプロンをつけて厨房からあらわれた人影を見て、そうなってしまったのだ。  三秒後ようやく伯父はうめき声を発した。若さにかがやく一〇代後半の少女。 「だ、誰だ、お前は」 「何いってるの、リヒャルト、わたしに決まってるでしょう」 「わたしとは誰のことだ」 「あなたの妻のケートヘンよ」  何か怒号しようとして、リヒャルト伯父は口を閉ざした。広い額に汗の粒が浮かぶのを私は視界の隅で見た。無言のまま、私は視線を少女に向けつづけていた。  伯父が口を閉ざすのも無理はない。私の視線の先にたたずんでいるのは、たしかにケートヘン伯母だった。ただし四〇年前の。若く、美しく、夫のリヒャルトによってその双方を奪いとられる前のケートヘンが、私たちの前に立っていたのだ。  夫の暴力と威圧におびえて、弱々しく目を伏せていた初老の婦人の姿はどこにもない。ケートヘン伯母は変貌《へんぼう》した。いや、本来の姿を回復したのだろう。快活といってよいほど生彩に満ち、おそれる色もなくリヒャルト叔父を直視する少女こそ、本来のケートヘン伯母の姿にちがいなかった。  だが、それでも彼女は真物のケートヘン伯母ではありえない。彼女の正体は…… 「ケ、ケートヘン」  あえぎながら、伯父が一歩前進した。敗者の姿だった。どれほど暴力と威圧を振りかざしても、老人(過去)は少女(未来)に勝てないのだ。誰の目にも明らかなことだった。  伯父がのばした手を、ケートヘンと名乗る少女は、かるがると回避した。ひるがえるエプロンの白さが、堕天使《だてんし》の羽のようだ。 「あなたも鏡のなかにはいりなさいな」  歌うように少女は老人に呼びかける。 「あなたも若くなるわ、わたしとおなじように四〇年も」  伯父の古い石のような顔に赤みがさし、両眼に脂《あぶら》っぽい光が浮かんだ。足もとの床が鳴りひびく。興奮にわななく杖が、くりかえし床を突いているのだった。  少女は二種類の笑《え》みを私たちに向けると、厨房へ駆けこんでいった。伯父に対しては誘《いざな》うように、わたしに対しては挑むように。  私が彼女の正体を知っていることを、彼女は知っていた。私が沈黙を守っていると、厨房にはいった彼女は、顔だけ出して、昨夜までのケートヘン伯母からはとうてい想像もつかないような大胆さでいってのけた。 「いまのあなたは、わたしにふさわしくないわ、リヒャルト。青春のかがやきをとりもどして。それとも、鏡のなかにはいるのがこわい? まさかねえ」  快活な笑声がひびきわたった。  伯父の頬に一段と赤みがさし、呼吸が荒くなっている。四〇年前の若々しい自分の姿が、伯父の脳裏《のうり》に浮かんでいるのはまちがいない。 「伯母さんが若返ったのではありませんよ」  私は冷静に指摘したつもりだった。だが伯父にとっては冷酷に聞こえたことだろう。私を見やった伯父の表情は、私を杖でなぐりつけようとして、かろうじて自制しているということが明らかだった。 「どういう意味だ、ちゃんと説明せんか、マックス」 「あの正体は�魚�です。�魚�が若いころの伯母さんに化けているんです」 「……本気でいっとるのか」 「昨夜、申しあげたでしょう。彼らは鏡のなかからこちらの世界を観察しているのです。過去の姿を再現して、こちらの世界の住人を眩惑《げんわく》することすらできるのですよ」  私が伯父に対してだまっていたことがある。真物の人間と�魚�を見わける方法だ。鏡のなかの住人は、たいてい左ききなのだ。こちらの世界の住人が、多くは右ききであるように。理由はいちいち説明するまでもないだろう。  伯父は迷っていたが、それもたいして長いことではなかった。伯父は杖を強くにぎりしめた。動揺にかわって、まがまがしい悪意の光が両眼に点《とも》った。 「マックス、お前はわしをきらっていたな」  伯父が口にしたのは事実そのものだった。ただし完全な事実ではない。私は伯父をきらっていたが、それ以上に憎んでいたからである。だとしても、いきなり面と向かっていわれるのは不本意だった。 「何のことですか、伯父さん」 「おまえはわしが不幸になればいいと思っておる。そうだろうが」  これまた事実である。感心する必要はない。伯父は洞察力《どうさつりょく》にすぐれているわけではなく、身におぼえがあるにすぎない。  私がだまりこんだのは、あきれると同時に、弁明するのがばかばかしくなったからだが、伯父はそう釈《と》らなかった。私がおそれいったのだ、と思いこんだらしい。勝ち誇った色を両眼にたたえ、興奮して杖の先で床を突き鳴らした。 「お前はわしが四〇年若返るのが気にいらんのだ。だからもっともらしいことをいって、わしを妨害しようとしておるのだ。お前がどれほど陰険で不正直な人間だか、わしにはちゃんとわかっとる」  それはたいへん名誉なことだ。 「三年前、お前はあの鏡のなかにはいりこもうとした。調査させてくれ、などといって、じつははいりこもうとしておったのだ。わしにはちゃんとわかっていたのだぞ」 「ちがいますよ」  伯父の断言を、私ははね返した。伯父はとんでもない誤解をしている。いや、むしろ曲解というべきだろうか。 「何がちがうというのだ。あのとき、お前は左右をうかがいながら、すこし身をかがめ、片足をかるくあげて、まさに鏡のなかにはりこもうとしていたではないか」 「あれは……」 「あいにくだったな。当時のわしは、じつはそこまではわからなかった。だが、お前がわしの目を窃《ぬす》んで、よからぬ行動におよぼうとしていたのは明らかだったから、書斎にとびこんで、膺懲《ようちょう》の一撃をくれてやったのだ」  心地よさそうに、伯父は私の右手の甲を見おろした。 「いまでもあまり具合《ぐあい》がよくなさそうだな」 「痛かったですよ。骨にひびがはいりましたからね」  いまでも右手はわずかに痛む。冬の寒気と湿気が、しつこく私の痛覚神経に口づけしてくるのだ。 「おかげですこしは思慮ぶかくなったろう」 「だといいのですが」  伯父は私よりケートヘンを信じる。鏡のなかに棲《す》む異生物の存在は信じないが、鏡のなかにはいりこめば若がえることができると信じる。人は信じたいことを信じる。  かってにすればよい。個人の自由というやつだ。私は成りゆきを見守ることにした。      ㈿  伯父は鏡のなかにはいっていった。ただ、頭から突っこんでいくことをためらったので、ケートヘンの指示にしたがって、うしろ向きに、尻や足からはいっていったのだ。滑稽《こっけい》な姿ではあるが、用心には意味があることだし、何よりも伯父は真剣そのものだった。  鏡面が抵抗なく伯父の身体を受けいれはじめたとき、伯父の両眼に歓喜の光がきらめき、幸福のうなり声が口からもれた。ケートヘンの説明によれば、伯父は四〇年若がえった姿で、玄関広間の鏡からうしろ向きに出てくるはずだった。  こうして一分後、伯父の首は書斎の鏡から突き出し、首から下の胴体は玄関広間の鏡から突き出て、たがいの距離は二〇メートルも離れていた。鏡が次元の通路であることを、伯父も実感したことだろう。  急に伯父の顔がゆがんだ。最初は眉をしかめただけだったが、やがて左右に顔を動かし、振り向こうとしてうまくいかなかった。どのような不つごうが生じたのだろうか。 「マックス、マックス、おい、何とかせんか」  この期《ご》におよんでも、伯父は私に対して頭ごなしの命令口調とやめない。むしろ私は感心して、鏡から突き出した伯父の顔をながめやった。伯父は冷静なのでもなく、ひたすら鈍感で、自分の立場をわきまえないだけだ。 「どうしたのですか、伯父さん」 「動けんのだ。何かがひっかかっとる。窮屈で……」  私は書斎を出て、手摺《てすり》ごしに玄関広間を見おろした。ひと目で理由がわかった。ケートヘンが荷づくり用の太い縄を持ち出し、伯父の手首やら足首やらにかけまわしてるのだ。  自分の口もとに薄笑いが浮かぶのを自覚しながら、私は書斎にもどって呼びかけた。 「伯父さんご自身はどちらをお望みですか。そこから出たいのですか、それともなかにはいってしまいたいのですか」  伯父は即答《そくとう》しなかった。私をにらみつける両眼には尊大な怒りが満ちていたが、わずかな不純物が混入しているようだった。迷い、それとも不安だろうか。  伯父が答えない間、状況はどんどん伯父に不利になっていった。ケートヘンは伯父の愛用の杖を横にして背中に押しつけ、両手をそれに縛《しば》りつけてしまった。両足首のほうはまとめて縛られている。もはや身動きひとつできない。伯父は顔とその筋肉だけをいろいろ動かしたあげくに、またどなった。 「さっさとわしを助けろ、ここから出せ」 「といわれても、どうやって伯父さんをそこから出したらよいのかわかりません」 「考えろ!」 「ぼくたちの手にはあまります。いっそ警察を呼びましょうか」  伯父の顔は、ほとんど紫色になった。怒号しようとして声が出ないようすだ。自分の現在の姿を他人に見られる、その屈辱に、伯父の肥大した自尊心が耐えられるはずは、とうていなかった。 「マ、マックス……」 「ついでに新聞記者も呼びましょうか。近ごろハンブルクの新聞は醜聞《しゅうぶん》記事の種にこまっているそうですからね」  私は無責任な見物人だが、それなりにいそがしかった。階上の伯父(顔だけだが)と階下のケートヘンと、双方を観察しなくてはならなかったからだ。  見おろすと、いきおいよく暖炉へと歩むケートヘンの姿が見えた。  ケートヘンの瞳は、いまや激情の噴火口と化していることだろう。彼女は灼熱《しゃくねつ》した火かき棒を暖炉から引っぱり出すと、二秒ほどの間それを見つめ、剣を持つようににぎりしめて伯父の背後に歩みよった。  私はとめることができなかった。  灼熱した火かき棒が、ズボンの厚い布ごしに、伯父の大きな尻に押しあてられた。焦《こ》げる臭いがした。最初は布地の、ついで人肉の。  人間ばなれした咆哮《ほうこう》がとどろいた。  私は手摺からはなれ、歩みを返して書斎をのぞきこんだ。鏡から突き出た伯父の顔が、苦悶《くもん》と恐怖にゆがんでいる。開いた口からよだれがしたたり落ち、目には苦痛の涙がにじんでいた。他人に苦痛をあたえるのは平気でも、自分自身が苦痛に耐えるのはむずかしいものだ。  伯父は復讐されている。四〇年近く支配し虐待してきた妻によって。ケートヘンが偽者だとしても、真物の伯母にかわって、長きにわたる無念と屈辱をはらし、伯父に当然の報いをあたえていることはたしかだった。 「あはは、ああおかしい。こいつ、小便をもらしたわ。まるで幼児みたい」  階下からひびくケートヘンの声には復讐の喜びがみなぎっていた。 「おもらしするような子は、お仕置《しおき》きしなくちゃねえ」  一瞬の間をおいて、二度めの咆哮がとどろいた。伯父の口が最大限に開き、音の洪水がほとばしる瞬間を、私は目撃することができたが、もちろんすこしもうれしくはなかった。  伯父のゆがんだ顔が涙にぬれるのを見て、私は、助けてやるとするか、と思った。善意からではなく、優越感からである。ケートヘンに「お仕置き」され、泣きわめく醜態を私に見られた以上、この不愉快な老人は屈辱と敗北感にまみれて、暗い余生を送るしかないはずだった。 「どうします、伯父さん、このままだとまた火かき棒を押しつけられますよ」  伯父は屈伏した。道理に屈しない人物でも、苦痛と恐怖には屈伏するのだ。 「助けてくれ、マックス、助けてくれ」  私はお説教してやった。 「あなたに軍刀で斬り殺された異教徒の女や子どもも、たぶんそう叫んだでしょう。ドイツ語ではない言葉でね。ドイツ語でなくても意味はわかったはずだ。だが、あなたは彼らの叫びを無視した」 「助けてくれ……」  伯父はくりかえした。私の初歩的ないやみなど聞いていなかった。 「マックス!」  若い力にみなぎる呼びかけは、伯父のものではありえなかった。かろやかに階段をあがってくる姿が目に見えるようだった。 「マックス、あなたはどうするの? この滑稽《こっけい》な暴君を助け出して、また好きかってに他人を傷つけさせてやるの?」  私のすぐ背後で、足音がとまって、声が問いかけた。私は振り向かずに答えた。 「そろそろ赦《ゆる》してやってもいいんじゃないか。もうこの老人は君に服従して生きるしかないんだし……」  私の語尾は、伯父の怒声《どせい》にかき消された。 「ただではすまんぞ。ケートヘン、覚悟しておけ。ここから出たら、お前にふさわしい罰をくれてやるからな」  伯父はなぜ、あとたった二、三分が我慢《がまん》できなかったのだろう。無事に鏡から脱出したあとなら、どのように報復することもできただろうに。たぶん激烈な苦痛と圧倒的な屈辱感に耐えるには、口に出してみずからを鼓舞《こぶ》するしかなかったのあろう。  だが、むろんそれはおろかしい行為だった。もともと伯父に対する私の同情心は貧弱なものだったのだが、夏の水たまりさながら、たちまち蒸発してしまったのだ。  私は無言で一歩しりぞくと、悪意と侮蔑にあふれた笑いを伯父に向け、たからかに叫んだ。 「ケートヘン! 火かき棒を持ってきてるな。うんと熱いやつをだ」  伯父の顔が激しくゆがんだ。最初は驚愕《きょうがく》に、ついで憤怒《ふんぬ》に。二、三度むなしく開閉した口は、すさまじい罵声の滝を私に向けて吐き出した。  余裕をもって私はそれを受けとめ、伯父を直視したまま左手をななめ後方に伸ばした。私の左手は、ケートヘンの差し出した手にかるく触れ、すぐ火かき棒をつかんだ。  伯父の顔はいまや恐怖と敗北感にひきつっていた。私は声をたてずに笑いながら、火かき棒を伯父の顔めがけて突き出した。  悲鳴をあげながら伯父の顔は鏡のなかへ引っこんだ。私はなおも笑いつづけながら火かき棒をにぎりなおし、渾身《こんしん》の力をこめて撃ち砕いた。鏡面ごと、伯父のひきつった顔を。      ㈸ 「ケート、と呼んでいいのかな」  相手の姿は十七歳の少女だ。「伯母さん」と呼ぶ気にはなれなかった。 「どうぞお好きなように、マックス」  私たちふたりの足もとには、鏡の破片が散乱している。その一片に、大きく見開いた伯父の片方の目が映っていたので、私は火かき棒をふるってたたき割り、さらに靴の踵《かかと》でていねいに踏みつぶしてやった。  どこかで絶望と呪詛《じゅそ》の叫びがひびいたような気がしたが、すぐとだえた。しかも永遠に。気のせいですませてしまうとしよう。 「鏡を割ってしまってよかったの?」 「証拠はすべて消してしまうさ。掃除するならてつだうよ。それとも、残しておいたほうがよかったかな」 「いえ、あなたのやりかたが正しいと思うわ、マックス」  マックスという名前のひびきが、これほど甘美なものだとは思わなかった。  私たちはならんで階段をおりた。玄関広間の鏡からだらしなく伯父の身体がたれさがっている。私たちはその身体を鏡の奥に押しこみ、徹底的に鏡をたたきこわした。一時の魔力をうしなった鏡はただのガラクタと化した。 「警察が来るかしら」 「死体がなきゃ警察もどうしようもない。床を掃除して、玄関広間の鏡を買いかえたら、すべて終わりだ。ぼくはいったん帰るけど、呼んでくれたらすぐ駆けつけるよ。ブレーメンだから半日で来られる」 「わたし、これからどうしたらいいのかしらね」 「伯母さんの分まで生きればいい」  ドイツはいま思いあがっていて、そのうちひどい目にあうだろう。リヒャルト伯父のように。それでもまあ人間社会は悪いことばかりでもない。すくなくとも、きらいなやつが不幸になるのを見とどける楽しみがある。  私は外套を着こみ、帽子を左手に持って、玄関の扉の前に立った。 「必要なら、伯母さんの名で遺書を書くんだね。君が伯父夫婦の子で、家を相続する権利があることを、もっともらしく書けばいい。何しろ君の筆跡は伯母さんとおなじなんだしね」  むろん私としては、いくらでもケートヘンを手助けするし、彼女に有利な証言もするつもりだった。それから将来《さき》のことは……まあ、あせらずに考えるとしよう。  ややためらいがちに彼女が私の名を呼んだ。 「ねえ、マックス」 「なに?」 「あなた、いつから左ききになったの」  こういう質問を受けたとき、どのような表情で応《こた》えればいいのだろう。 「三年前からだよ。リヒャルト伯父に杖で右手をなぐられた。あの男は、自分の暴力でもって、私に絶好の口実をあたえてくれたというわけさ」  リヒャルト伯父、あのあわれな道化者《どうけもの》は、とんでもない誤解をしていた。三年前、私が鏡のなかへはいりこもうとしている、と思いこんだのだ。そうではない。まったく反対だ。あのとき私は鏡のなかからこちらの世界へ出てきたのだ。うしろむきに、はじめての世界へ、いつでももとの世界へ逃げこめるよう用心しながら……。  扉をあけて、私は玄関の外に出る。青灰色の冬が私をつつみこむ。そのなかに踏みこむ直前、振り向いて私は微笑した。 「君とは仲間どうし、うまくやっていけると思うよ、ケート、これから将来ずっとね」