走無常 (出典:「田中芳樹」公式ガイドブック) 田中芳樹・著      ㈵  午後三時から五時にかけて強い雨が降り、それがしぶとい残暑を一掃《いっそう》したようだ。雨があがると、涼気というより冷気が急速に押しよせて、半袖では寒さを感じるほど極端な秋のはじまりだった。  東京から特急列車で一時間半ほどかかるこの街は、ある県の県庁所在地だが、東と南が平野にのぞみ、西と北に山をひかえている。雨に空気が洗われて、山は青々とした姿を街に近づけたかに見える。  東京方面から走行してきたトラックが駅前の広場にとまると、運転手に礼をいいながらひとりの少年がおりてきた。コットンシャツの上にサマージャンパーをひっかけている。少年を追いぬくように二匹のネコがおりてきて、元気よく走り出した。一匹はクロネコで、一匹はキジネコだ。走り去るトラックを少年は見送って向きなおる。一〇代半ば、中学生か高校生か微妙《びみょう》なところだ。前髪が額《ひたい》に落ちかかっている。品のよいおだやかそうな顔だちで、目つきもやさしい。 「金童《きんどう》、銀童《ぎんどう》!」  少年が呼ぶと、二匹のネコは半ば宙を飛んで駆けもどり、足もとから少年を見あげた。 「離れちゃだめじゃないか」  少年は叱《しか》ったのではない。 「お前たちが頼りなんだからさ、離れないでくれよな」  クロネコが「フン」という感じで鼻を鳴らすと、キジネコがなだめるように鳴いた。少年は周囲を見まわし、広場に面して建つ高層ホテルに視線をとめた。ひとつうなずいて歩き出すと、二匹のネコが後になり先になり少年についていく。玄関の回転ドアの近くに立っていた制服姿のドアマンが、ネコの姿を見て、とがめるような表情をした。おかまいなしに少年はドアの横にある掲示板を見やった。 「本間房夫《ほんまふさお》君を励ます会・蘭《らん》の間」  開宴《かいえん》は午後五時からというから、すでに始まっている。県知事、副知事、地元選出の国会議員などの有力者がこぞって参加していることを、少年は知っていた。市民の誰《だれ》もが知っているのだ。本間房夫はそれほどの実力者だった。「教育界のボス」といわれている。この日、立食《りっしょく》形式のパーティに出席した者は三〇〇人、会費はひとり五万円ということであった。 「こういう会だとは思いませんでしたな。私はてっきり本間さんの生還と全快を祝う集まりだと想ったから出席させてもらったんですが」 「市長選挙に出馬するための壮行会《そうこうかい》とはね。私たちの立場からしても、あまり政治や選挙にかかわるわけにはいきませんな」 「そこそこに引きあげたほうがよさそうですな」 「そうしましょう、それがよさそうです」  近隣の県の教育関係者たちであろう。困惑したようにささやきあっている。そこから離れた場所では、この県の議員や県庁の部長などが声をひそめあっていた。 「どうも本間先生、このごろやることが強引《ごういん》だな」 「事故にあってからだ。ま、以前から引っこみじあんな人でもなかったがね」 「あせることはない、まだ五〇歳になったばかりで、副知事にだってなれるのに、むりに政治家に転身しなくても」 「むりじゃないさ、いまや勝算《しょうさん》は一〇〇パーセントだ」 「あの事故からもうひと月か。早いもんだな」  それは八月二〇日、暑いさかりのことだった。県の有力者四人を乗せたワンボックスカーが、高原地帯のゴルフ場からの帰途《きと》、峠《とうげ》のバイパスから谷底へ転落したのである。運転手も、助手席にいた代議士秘書も即死した。四人の客のうち三人も即死。ひとりだけが重症で病院に運ばれたが、けっきょく助からなかった。  病院で死んだのが本間であった。心臓が完全に停止し、死亡が宣告された。ところが生き返ったのだ。  通夜《つや》が翌日の午後六時からということになって寺に遺体が安置され、関係者があわただしく走りまわる。騒然たる雰囲気《ふんいき》のなかで、それ[#「それ」に傍点]はおこったのである。 「本間さんもさぞ無念だっただろうなあ」 「市長選挙までちょうど半年か。本人は出馬したらかならず当選するつもりだったろう」 「実際のところ、勝算はどうだったんだ」 「対立候補にもよるが、六分四分というところじゃなかったかな。県立校の校長や同窓会長はみんな子分みたいなものだったし」 「これでいまの市長がもう一期つとめることになるのかな」  出席者たちは不意に口を閉ざし、狼狽《ろうばい》して左右を見まわした。ひとりが声をころして、 「おい、変なこというもんじゃないよ」 「何だ、いきなり」 「いま気味の悪い声を出したろう。助けてくれとか何とか」 「あんたこそ、死者《ほとけ》の前で悪い冗談はよせ。まだ生きているとか何とか、遺族に聴《きこ》えたらどうするんだ」  彼らは口をつぐみ、柩《ひつぎ》のほうを見やった。同時に口をあけた。口をあけても声は出てこない。柩《ひつぎ》の蓋《ふた》が、がたがたと音をたてている。そして、陰々《いんいん》たる、というには怒気《どき》をふくんだ声がくぐもってひびいた。 「助けてくれ、ここから出せ、おれはまだ生きているぞ!」  大騒ぎになった。柩《ひつぎ》の蓋《ふた》がはずされると、白い屍衣《しい》をまとった本間房夫が起きあがる。顔は土色をしているが、両眼には光があり、よろめきつつも自力で立ちあがる。ショックで気絶する老人もあらわれ、救急車がサイレンを鳴らして駆けつけてきた……。 「県教育長、奇跡の生還!」 「臨死《りんし》体験を語る本間教育長」  地元の新聞社が書きたて、東京のTV局からもワイドショーの取材人が駆けつけて、本間房夫は一躍《いちやく》、時の人になった。本間房夫は県立病院に運ばれたが、面倒な検査の数々を拒否して、一日で退院してしまった。担当医は「奇跡です」と、取材陣に対して声をうわずらせ、くわしい医学上の説明は避《さ》けた。  退院した直後、本間房夫は駅前のホテルで記者会見を開き、「いまのお気持ちは?」と問うレポーターに、張りのある声で答えた。 「私は文字どおり生まれ変わりました。天に与えられた生命を、国と社会のために投げ出そうと思います」  彼は県知事に辞表を提出し、県庁のおかれた市の市長選挙に出馬を表明した。精力的に準備をすすめ、今日のパーティーまでこぎつけたのである。 「対立候補が誰だろうと、市長選挙は本間さんの勝ちだな」  現在の市長も、情勢をさぐって、他に方途《みち》はないと見きわめた。彼は記者会見で引退を表明し、「後継者に本間房夫氏を推《お》す」と述《の》べた。おどろくべきスピードで事態はすすんだのである。  すでに乾杯《かんぱい》も終わり、出席者がいれかわりたちかわりマイクの前で祝辞を述べていた。知事に市長、県会議長に市会議長、国会議員に地元の新聞社の社長、いずれも口をきわめて本間の功績と人格をほめたたえ、市長にふさわしいと持ちあげる。眉《まゆ》の太い、眼光の鋭《すrど》い、あごの張ったエネルギッシュな容貌《ようぼう》の本間は、たくましい身体《からだ》を英国《イギリス》製のスーツにつつみ、堂々たる態度で席につき、オードブルに手をつけようとしていた。不意にその表情が変わった。澄《す》みきった鈴の音《ね》がどこからかひびいたのだ。人々が、おや、という表情になる。  ふたたび鈴の音がひびき。本間のにぎったフォークが皿にぶつかり、非音楽的な音をたてた。周囲の人々が不審の視線を本間にそそぐ。 「誰だ、悪ふざけをしとるのは!?」  ついに皿とフォークを床に投げ出して、本間はどなった。顔色は粘土《ねんど》色に変わり、全身が慄《ふる》えている。眼鏡《めがね》をかけた若い市会議員がおそるおそる問いかけた。 「悪ふざけとは何のことですか、本間先生」 「あ、あの音だ。鈴の音だ! 赦《ゆる》せんじゃないか、あんな音をたてて、せっかくのパーティーを妨害するとは、けしからん!」  若い市会議員は眉をしかめた。多くの人がそれに倣《なら》った。爆竹《ばくちく》を鳴らしたりメガホンを使って絶叫したりするわけではない。たかが鈴の音だ。そのていどのことで逆上し、怒号《どごう》するとは、この男はよほど精神が不安定なのではないか。 「あら、本間先生は鈴の音がおきらいですの?」  和服姿の中年女性が問う。市のPTA連合会の会長で、子供を持つ主婦たちに対する影響力は絶大だ。市長選にあたって、候補者が絶対に無視できない実力者であった。だからこそ本間の近くにいるし、本間も鄭重《ていちょう》に応対《おうたい》している。いるはずだが、誰の予想もくつがえすことがおこった。本間はその女性に、食い殺しそうな視線を向けて舌打ちすると、椅子《いす》を押しのけて立ちあがり、床を踏み鳴らして歩き出したのだ。立ちつくす招待客たちを無視して。  みたび鈴の音がひびく。本間の全身に鳥肌《とりはだ》がたった。だが本間は、歩みをとめない。あたかもその音に招き寄せられていくかのようだ。あわてて追いかける秘書や選挙運動員たちを振りはらうように足を速める。秘書の手が腕に触《ふ》れたとたん、本間は上半身をひるがえして平手打ち《スパンク》を放《はな》った。したたかに頬《ほお》を張られて秘書が吹っ飛ぶ。  呆然《ぼうぜん》と立ちつくす人々の視線を、荒々しく開いて閉じたドアがさえぎった。  廊下に出た本間は、殺気に満ちた視線でにらみつけた。ネコを二匹つれた少年が立っている。その左手に鈴があった。本間が大股《おおまた》に近づくと、少年は背中に隠《かく》していた右手を突き出した。柄《え》のついた、長径三〇センチほどの楕円形《だえんけい》の鏡《かがみ》が、本間の顔を正面から映《うつ》し出《だ》す。  本間の口から絶叫が放たれた。      ㈼  もうすこし無難《ぶなん》にやってのけることができなかったものか。  反省しつつ少年はホテルの廊下《ろうか》を駆けた。二匹のネコが前になり後ろになって、ともに走る。背後では、大事なパーティーの主役を絶叫させた闖入者《ちんにゅうしゃ》を追って、怒号《どごう》と靴音がひびいていた。 「対立陣営のいやがらせだ」 「スパイだぞ」  という声が背中にあたって弾《はじ》けた。とんだ誤解だが、そういう風《ふう》にしか考えることのできない人々のパーティーなのだ。 「こっち、こっち!」  不意にそういう声がして、半開きのドアから誰《だれ》かが少年を手招《てまね》きした。少年は一瞬ためらったが、二匹のネコが彼より迅速《すばや》くドアのなかへすべりこむと、あわてて自分もそうした。そこは何かの控《ひか》え室《しつ》で、セミロングの髪をした少年と同い年ぐらいの少女が、彼を正面から見つめていた。とりあえず礼をいってから、少年は尋《たず》ねた。 「どなたですか?」 「本間房夫《ほんまふさお》の娘。美冬《みふゆ》というの。よろしく」 「ああ、それはどうも」  当惑した声である。少年は表情と言葉との選択に迷っているようであった。少女は県下|随一《ずいいち》の名門校といわれる女子高校の制服を着ていたが、そこまでは少年にはわからない。 「何だかおもしろいことをやったみたいね」 「さあ、おもしろいかどうか」 「いいの、父がいやがるならおもしろいことに決まってるわ」 「…………」 「それで、このネコたちはあなたの手下なの?」  少年が答えるより早く、クロネコのほうが憤慨《ふんがい》したようなうなり声をあげた。キジネコのほうは、おだやかな表情ながら、ゆっくりと頭を横に振る。二匹とも人語《じんご》を解することは明らかだった。 「ちがうちがう、そんなことをいったらこの子たちが気を悪くするよ」 「そうみたいね。仲間なの、対等の?」 「うーん、というより先輩でお目つけ役」  少年は苦笑した。ドアをあけ、廊下に誰もいないことをたしかめて廊下にでながら言葉をつづける。 「ぼくが新人で頼りないもので、コーチしてくれてるんだ」 「何の新人?」  クロネコの黒い尻尾《しっぽ》が動いて、少年の肢《あし》を軽くひっぱたいた。もういちど少年が笑って肩をすくめる。 「それ以上よけいなことをしゃべるなって金童《きんどう》がいってる。ごめん」 「ずるい」 「え?」 「つごうが悪くなるとネコのせいにするのね」 「そうか、たしかにずるいね」  まじめくさって少年はうなずいた。 「でも実際しゃべるわけにはいかないんだ。だいたいこれだけしゃべっただけでもまずいんだから」  そのとおり、とばかり二匹のネコがうなずく。さらに美冬が何かいおうとすると、少年は、指をあげて彼女の肩ごしに何かを指《さ》した。思わず振り向いた美冬の目に、駆け寄ってくる父の秘書たちの姿が見えた。 「お嬢さん、ここにおいででしたか。お父さまがご帰宅なさいます。お嬢さんもどうぞお車へ」  ふたたび美冬が振り向いたとき、少年とネコたちの姿は消えていた。  ……一時間後、市内の高級住宅街にある本間房夫の邸宅の前に、少年は立っていた。夜空には月が出ている。あと二、三日で満月だ。金童《きんどう》という名のクロネコに何か指示して塀《へい》の上に推しあげると、少年はキジネコに声をかけた。 「銀童《ぎんどう》にはべつの仕事があるからね」  いいながら少年は、あらためて本間房夫の邸宅をながめやった。東京より地価が安いのは当然としても、ずいぶんと豪壮な邸宅だ。敷地だけで、五〇メートル四方はある。それが高さ二五〇センチほどもある大谷石《おおやいし》の塀《へい》にかこまれており、和洋|折衷《せっちゅう》の建物は屋根しか見えないが、大きくて立派なものであることは疑いようがなかった。鉄づくりの門扉《もんぴ》の向こうから人や犬の声が聴《きこ》える。複数のガードマンと番犬がいるのだ。 「何かをよほど恐れているらしいね」  少年が話しかけると、銀童と呼ばれたキジネコはうなずいた。少年が手を差しのべると、ふわりと音もなく、それにとびのる。少年は銀童をだき、街頭の光から死角になる路地の蔭《かげ》にたたずんだ。  その間、金童のほうは、高い長い塀の上を走っている。走りつつ、屋敷の庭に視線を向けていたが、ガードマンたちの姿が見えないあたりに来ると、しばしようすをうかがってから芝生《しばふ》の上にとびおりた。数歩走って、一階の出窓の屋根にとびあがる。おどろくべき跳躍力《ちょうやくりょく》であった。  金童は漆黒《しっこく》の姿をしなやかに闇に溶《と》けこませ、頭をさかさにして屋内のようすをうかがった。金色の瞳が、内部に灯火をともしたように妖《あや》しくかがやく。そのかがやきが強くなったとき、金童の視界からカーテンが薄れて消えた。金童の視線が物質を透過して屋内を走査《そうさ》する。このとき金童が見た光景は、銀童の視界へと転送され、銀童は離れた場所で金童と同じ光景を見ることができる。  問題は人間だ。少年は銀童の身体《からだ》に触《ふ》れることで、はじめて金童の視界から送られてくる光景を見ることができる。触れないとだめなのだ。女の子に対しては不必要なことをしゃべってしまうし、金童や銀童にくらべると、なんとも役に立たない。これを一人前に育てるのは楽じゃないぞ、と、金童は思う。  少女の姿が見えた。金童は彼女が何者か知っている。本間房夫の娘で美冬という名だ。彼女はこの屋敷の主人格であるはずだが、とっているのは奇妙な行動だった。ごく初歩の盗聴行為。応接室の厚いドアにガラスのコップを押しあて、耳をあてている。応接室のなかにいる父と客の会話を盗《ぬす》み聴《ぎ》きしているのだ。  もともと美冬は父がたいして好きではなかった。有能というよりは辣腕《らつわん》の公務員で、県教育界のボスといわれ、えらいはずの校長先生が美冬の父に対しては卑屈《ひくつ》に頭をさげる。 「県立大学の学長だなんていったって、おれの胸三寸でどうにでもなるんだ。学者だの教師だのといった連中は、教室でいばっているだけのしようもない奴らだ」  そう自慢する父を美冬は好きになれなかった。父は家庭をかえりみなかった。妻、つまり美冬の母に対しては横暴をきわめていた。妻の実家の財産を自分の思うままに動かせるようになると、妻の両親を遠くの老人ホームに追いやり、妻には殴《なぐ》る蹴《け》るの暴力をふるって何度も入院させた。美冬には高価なピアノを与え、家庭教師やメイドをつけ、形だけは気前のよい父親をよそおった。いずれ有力な名家と姻戚《いんせき》になる道具だと思っているからだ。  この夜、本間邸をおとずれた客を美冬は知っており、用件が気になっていた。  それはもと県立高校の物理の教師で、小宮山《こみやま》といった。三〇代半ばの独身男性で、複数の女子高校生と関係して免職処分《めんしょくしょぶん》を受けたのだ。「物理の単位がとれないと進級できんぞ。どうする気だ」と脅《おど》して関係を結ばせるという悪質さだった。その人物が本間の邸宅をひそかに訪ねてきたのである。 「復職《ふくしょく》したいだって?」  イタリア製の肘《ひじ》かけ椅子《いす》に脚を組んですわった本間の声は、ドライアイスさながら、冷たく乾《かわ》いている。卑屈《ひくつ》に小宮山は腰をかがめた。 「私はべつに財産もない身でして、働かなくては食べていけません。手に職もないので、また教師をやりたいと思いまして」 「君、冗談《じょうだん》をいっちゃいかんよ。あんな破廉恥《ハレンチ》をやらかして復職しようなんてずうずうしいと思わんのかね」 「県立高校にもどれるとは思っていません。本間先生のお力で、どこぞの私立高校に押しこんでいただけませんか。県外でもけっこうです。いえ、むしろそのほうがありがたいのですが」  わざとらしく声をたてて、本間は笑った。 「君、教師をやっていたくせに、日本語がわからんのかね。ずうずうしい、と私はいったんだよ。話にならん、帰りなさい」 「どうしてもだめですか」 「当然だ」  本間を見習ったわけでもないだろうが、わざとらしく小宮山は溜息《ためいき》をつき、口もとをゆがめた。 「それではしかたありません。上納金の件は東京の週刊誌にでも持ちこむことにしましょう。情報の持ちこみを歓迎してくれますのでね。おいそがしいところ、おじゃましました」  ゆっくりとソファーから立ちあがり、ゆっくりと一礼する。本間が「待て」というのを露骨《ろこつ》に誘っていた。それと承知で、本間はにがにがしく「待て」というしかなかった。 「何でしょうか」 「それを尋《き》きたいのはこちらだ。上納金とは何のことだ」 「論より証拠、ここに偽《にせ》の領収書が何枚もあります。これをコピーしてとどければ、週刊誌は大騒ぎしてくれますよ」  沈黙は一分近くもつづいた。 「……私立の学校でいいんだな」 「できるなら女子校がいいですね」  勝《か》ち誇《ほこ》った小宮山は薄笑いを浮かべ、本間の顔にすくいあげるような視線を放《はな》った。 「ま、給料のほうは期待していませんが、すこしばかり本間先生のおこぼれにあずかりたいものですなあ。月に三〇万円、一日たったの一万円でけっこうです。三ヵ月ごとに私の口座に振りこんで下さい」 「ずうずうしすぎると思わんか」 「安いものじゃありませんか。それで市長の椅子が買えるんだから。勲章《くんしょう》だってもらえますよ。本間先生は県教育界の大功労者ですからね」  小宮山は笑う。彼が県立高校の教師であったころ、本間は雲の上のおえらがただった。だがいまや小宮山のほうが優位に立っている。  小宮山は自分で自分に死刑を宣告したのだ。その事実を彼自身は知らず、勝利感のバラ色の海をただよっていた。      ㈽ 「上納金《じょうのうきん》」とは何のことだろう。美冬《みふゆ》はその言葉を聞いたことがあり、いちおうは意味も知っていた。だが、彼女の父はずっと教育行政にたずさわってきたまともな社会人である。上納金などというのはマフィアや暴力団の世界で使われる言葉のはずだった。 「トイレはどこですか」  小宮山《こみやま》の声がひびき、スリッパをひきずる足音が近づいたので、美冬はすばやくドアの前を離れ、廊下《ろうか》の角をまがって姿を隠《かく》した。一秒未満の差で小宮山がドアをあけ、表情に過剰《かじょう》な自信をたたえて応接室から出る。その背中に、本間《ほんま》が憎悪《ぞうお》にみちた視線の槍《やり》を突き刺した。  クロネコの金童《きんどう》は、すべてを見とどけると、音もなく芝生《しばふ》の上に降りたった。二歩ほどあゆんだとき、横あいからすさまじいうなり声が聴《きこ》えた。  金童の瞳に映ったのは獰猛《どうもう》きわまる犬の姿である。ドーベルマンが三頭、白い牙《きば》をむき出し、赤黒い長い舌《した》をひらめかせ、生意気な侵入者を八《や》つ裂《ざ》きにしようと躍《おど》り寄《よ》ってくるのだ。屋内を透視するために全神経を集中させていたので、金童は犬に気がつかなかったのである。金童は全速力で逃げ出した。  離れた場所にいたガードマンたちが、犬の咆哮《ほうこう》に気づいた。特殊|警棒《けいぼう》をにぎりなおし、走って建物の角を曲がる。つぎの瞬間。  ガードマンたちは仰天《ぎょうてん》した。青いチャイナドレスを着た美女が、深いスリットから長い優美な肢《あし》をのぞかせて必死に走ってくる。そのすぐ後ろに、三頭のドーベルマンが追いすがっていた。容赦《ようしゃ》なく、八つ裂きにしてくれようというかまえだ。 「助けて!」  という声を、ガードマンたちは聴いた、ように思った。彼らは特殊警棒を振りかざして躍《おど》り出《で》た。チャイナドレスを着た美女は、不思議な金色の瞳に感謝の色を浮かべた、ようにガードマンたちは思った。彼らは勇気|凛々《りんりん》、美女と猛犬《もうけん》の間に立ちはだかった。 「このバカ犬ども! 何ということをするんだ。静まれ、動くな、おとなしくせんか!」  きびしい訓練を受けた三頭のドーベルマンは、芝生をつかむように急停止した。激しいうなり声は、抗議と不満をあらわすものだった。猛犬たちはガードマンを見あげ、彼らの身体《からだ》ごしに美女の姿を確認しようとした。ガードマンたちは、懸命《けんめい》にドーベルマンたちを叱《しか》りつけ、警棒をかざして威嚇《いかく》しながら、首輪をつかんで抑《おさ》えつけた。 「お嬢さん、もう大丈夫ですから」  振り向いたガードマンたちの目に映《うつ》ったのは、信じられない光景だった。チャイナドレスの美女は塀《へい》に向かって走り、跳躍《ちょうやく》した。ほとんど音もたてない軽捷《けいしょう》さ柔軟さで、高さ二五〇センチの塀の上にとびあがり、ちらりとガードマンたちを見やると、塀の向こう側に姿を消してしまったのだ。  いくら美女に甘い男たちでも、事態が尋常《じんじょう》でないことはわかる。たっぷり二秒間の凍結《とうけつ》から解放されると、ひとりはあわてて携帯電話のスイッチをいれ、ふたりは塀に向かって走り出した。「それ見たことか」といわんばかりの咆哮をあげながら、ドーベルマンたちも走り出す。  鉄づくりの門のあたりで、仲間のガードマン四、五人が右往左往《うおうさおう》していた。彼らはあやしい人影を見て追いかけたのだが、すぐに見失ってしまったのである。ガードマンのチーフが彼らを集めて、何とか目撃証言をまとめた。 「黒いショートカットの髪と不思議な金色の瞳をしたすごい美女。深いスリットのはいったチャイナドレスを着ていた。ドレスは青い絹《シルク》で、金糸で竜の姿が刺繍《ししゅう》されていた」 「茶色っぽい肩下までの髪と、銀色の瞳をした、やはりすごい美女。同じく深いスリットのはいったチャイナドレスは赤い絹。銀糸で鳳凰《ほうおう》の姿が刺繍されていた」 「黒い髪の若い男。青い絹の中国服の上下を着ていた。刺繍は金糸の竜」 「茶色っぽい髪の若い男。赤い絹の中国服の上下。刺繍は銀糸の鳳凰」 「金色の瞳をした黒いネコ」 「銀色の瞳をしたキジネコ」 「サマージャンパーを着た中学生か高校生のガキ」  夜だというのに、とくに女性に関する証言が精密なのは、ガードマンたちの執念というものだろう。だが彼らは中国服の若い男の姿はまったく見ていない。彼らの姿を見たのは、たまたま近くを通りかかったきたく途中のOLだった。そしてOLのほうは、チャイナドレスの美女などまったく見ていないというのだった。  これらの証言を総合すると、この夜、本間邸の周辺には五人の人間と二匹のネコがいたことになる。だが全員の姿を同時に確認した者はいなかった。何やら得体《えたい》の知れない奴らが本間邸の周辺に出没している。そのことだけは確かだったので、ガードマンのチーフが本間房夫におうかがいをたてた。さらにガードマンの数を増やして警備を強化し、同時に、警察に通報しようか、というのである。 「その必要はない」  というのが、本間の返答だった。 「いま来客中だし、むやみに騒がんでよろしい。べつに実害もなかったことだし、チャイナドレスの女だどうとかいうたわけた話を、警察が信じると思うか?」  チーフは抗弁《こうべん》しようとしたが、玄関ホールに立った本間はうるさげに手を振って黙らせ、今夜はもう引きとるように命じた。不満ではあっても、顧客《こきゃく》にはさからえない。せいぜい戸締《とじま》りにご用心を、と嫌《いや》みをいって、全員、自動車で引きあげた。これが午後十一時すぎである。 「……帰ったわ、もう大丈夫よ」  一階の自室の窓辺でそういったのは、本間美雪である。ぬいだ靴を両手に持って、少年は「どうも」と頭をさげた。ひと晩に二回もかくまってもらったわけだ。金童と銀童《ぎんどう》が低く鳴いたのも、お礼のつもりらしい。 「さて、すこしは事情を話してくれる?」  少年は二匹のネコを見やったあと、決心したようにうなずいた。 「八月二〇日の事故をおぼえているよね」 「もちろん」 「あの事故で君のお父さんは亡《な》くなったんだよ」 「みんなそう思った。でも生きてたのよね」  不思議な瞳で、少年は美冬を見返した。 「いや、君のお父さんはやっぱり亡くなっていたんだ」 「死んでから生き返ったということなら、みんな知ってるわ」 「そうじゃない」  少年は頭《かぶり》を振った。どのように表現したらよいだろう、と、しばらく思案《しあん》するようすだったが、やがて口を開く。 「あれは死者が生き返ったふりをしているんだ」 「どういうことよ」 「つまり君のお父さんは幽霊なんだ。肉体を持った幽霊なんだよ」  自分のひきつった笑い声を美冬は聴《き》いた。 「あなた、頭がおかしいんじゃない? 本気でいってるの? だいたい、あなた何者なの?」  たてつづけの質問に、少年は困惑の微笑《びしょう》を浮かべた。右の足もとにいるクロネコの金童が、少年を見あげる。キジネコの銀童のほうは美冬を見つめる。その瞳から放《はな》たれる視線が、銀色の鎖《くさり》となって美冬をからめとり、たじろがせた。不安が水位を高めてくる。彼女の表情を見て、今度は少年が問いかけた。 「君はお父さんがお客と話していることを聴いただろ?」 「上納金《じょうのうきん》……のこと?」 「そう」  あっさり少年がうなずいたので、美冬は、自分が立ち聞きしていたことをなぜ知られたのか、尋《き》きそこねてしまった。  淡々《たんたん》と、少年は説明をはじめた。 「つまりね、県立の学校には県の予算がつく。一年間に何千万とか何億とかいう金額だ。それは体育館を建てたり、校舎を修理したり、化学の実験器具や図書室の本を買ったりするためのお金銭《かね》なんだけど……」  役人の世界には「カラ出張」とか「カラ宴会」とかいう言葉がある。出張した、ということにしてじつは出張せず、その費用をこっそり貯《た》めこむ。みんなで慰労会《いろうかい》をやった、ということにして、じつは実行せず、その費用を貯めこむ。こうして貯めこんだ金銭を「裏金《ウラガネ》」というが、それを学校は県の教育庁に上納する。ひとつの学校だとたいした金額ではないが、「塵《ちり》もつもれば山となる」で、県の教育庁には一年間に六億もの大金が集まる。教育庁の幹部たちは、そのうち五〇パーセントを、それぞれの学校に返す。それは本来の目的に使われたり、校長や教頭のふところにはいったりする。残りの五〇パーセントは、教育庁の幹部たちが分配する。教育庁の幹部たちは、何もしないで、秘密の大金をかせぐというわけだ。  暴力団もあきれるほど悪質な金銭《かね》もうけのシステムは、何年間もつづいていた。ある学校からの上納金がすくないと、その学校の予算は減《へ》らされ、校長や教頭はそれ以上、出世できなくなる。必死になって、一円でも多くの上納金を差し出すわけだ。  このシステムの中枢《ちゅうすう》にいるのが、教育長の本間だった。残された三億円の裏金は、彼がしっかりにぎっている。一億円をおもだった部下に分配し、一億円を政治家や県の教育委員や文部省の役人に献金《けんきん》し、最後の一億円は自分が好きほうだいに費《つか》っていた。地元であまり豪遊するとまずいので、東京に出かけて銀座《ぎんざ》や赤坂《あかさか》で遊びまわっていたのだ。父が遊びまわっていることを、美冬は知っていたが、その財源にまでは考えおよばなかった。事情を知らずに不思議《ふしぎ》がる人たちもいた。 「教育長の給料なんてそう高いものでもないのに、何で本間さんはあんなに景気がいいのかね。奥さんの実家がよほど資産家なのかな」  と、他の県の教育長たちが首をかしげたほどである。本間は遊びはしたが、むだな遊びはしなかった。県知事、国会議員、地元の新聞社の社長などの有力者をつぎつぎと取りこんでいったのだ。事故の直前、彼は県教育界のボスになりおおせ、次の段階《ステップ》に向けて着々と手を打っていた……。  少年が口を閉ざす。話を聞き終えて、美冬はわざとらしくひとつ咳《せき》をした。 「おもしろい話ね。でもどうしてあなたがそんなもっともらしい話を知ってるのよ」 「本人が告白してるんだよ」 「どこで」 「陰《いん》」といいかけて、少年は、慎重《しんちょう》にいいなおした。 「調査官の前で」 「いつ?」 「死んだ後に」  そう答える少年を、美冬は笑いとばそうとした。できなかった。少年は意を決したように、ふたたび語りはじめる。すべての事情を。      ㈿  小宮山《こみやま》はバラ色の海をただよいつづけていた。  背広のポケットには一〇〇万円の札束がおさまったところだし、応接テーブルの上にはナポレオンの瓶《びん》とキャビアの缶詰《かんづめ》。これほど脅迫《きょうはく》がうまくいくとは思わなかった。彼が「上納金《じょうのうきん》」という名詞を口にするまで、本間《ほんま》は傲慢不遜《ごうまんふそん》をきわめていたのに、その後は態度を豹変《ひょうへん》させた。小宮山が出した条件をすべて呑《の》み、前渡し金として一〇〇万円を差し出し、ナポレオンとキャビアをすすめるありさまだ。  小宮山は成功の甘美な香りに舞いあがり、すすめられるままにナポレオンをあおいだ。 「いや、本間先生はさすが大物ですな。じつに話がわかる。私もね、恩知らずな人間ではありません。何かとお役に立つつもりでおりますからね、頼りにして下さいよ……」  アルコールに漬かった舌でしゃべるうち、意識が遠のきはじめた。柱時計が十二時を告げたとき、彼は完全に酔いつぶれ、ソファーから半ばずり落ちて濁ったいびきをかいていた。本間は憎悪《ぞうお》と軽蔑《けいべつ》の目で小宮山を見おろし、かがみこんでゆっくりと彼のネクタイをほどいた。あらためてそれを小宮山の咽喉《のど》に巻きつける。ひとつ大きく呼吸をしてから、全身の力をこめてネクタイの両端を引っぱった。小宮山が奇妙なうめき声をあげた。そのとき。  静かな声がした。 「死者が生者を殺したのでは、陰陽両界《いんようりょうかい》の秩序が乱れすぎますよ」  本間の視線がドアの方向へ動く。開かれたドアはすぐにふたたび閉ざされて、サマージャンパーの少年がそこに立っていた。足もとでは二匹のネコが、少年の左右を守るように尻尾《しっぽ》を立てている。  本間はネクタイから手を離し、小宮山の身体《からだ》を踏みつけるように立ちあがった。 「……さっきホテルにいた孺子《こぞう》だな。ここへ何しに来た」  小宮山が床にへたりこむのを無視して、詰問《きつもん》をかさねる。 「さっきホテルでおれに見せた鏡は何だ? 妙なものを持ち歩いとるな」 「あれは顕真玉鏡《けんしんぎょくきょう》です。あれに映るのは、覗《のぞ》きこんだ者の真の姿です。あなたはもう皮膚も肉も朽《く》ちはてていたでしょう?」 「何を……くだらん」 「あなたはもう亡《な》くなっているんです。ご自分でわかっているでしょう? 自然の摂理《せつり》に反しているということを」  どなろうとして、本間はかるく咳《せき》こみ、今度は声を押しころした。 「お前は、お前は陰曹官《いんそうかん》か。あの世からおれを追ってきたのか」 「陰曹官なんて言葉をよくご存知ですね」  少年が落ちついて指摘すると、本間の顔に狼狽《ろうばい》の色が走った。 「語るに落ちた、というところかな。普通の人はそんな言葉まず知りませんよ。あなたが冥府《めいふ》から逃亡した死者だという証拠ですね」 「やはり陰曹官なんだな!」 「ちがいます。ぼくはそんなにえらくない。単なる使い走りです。陰曹官は陽界《ようかい》、つまり生きた人間の世界には来られないので、ぼくみたいな人間を雇《やと》うんですよ」 「するとお前は何者だ」 「走無常《そうむじょう》といいます」 「日本人じゃないのか」 「本名は別にあります。これは、ええと、役目の名前です」  さりげなく本間は少年に近づいていく。少年はこれもさりげなくポケットに手をいれた。 「あなたが生きた人間なら、どんな悪事をはたらこうと、ぼくが出張してくる必要はないんです。あなたを逮捕《たいほ》したり、裁《さば》いたりするのは、陽界《ようかい》の警察や裁判所の仕事だから。でも、陰界《いんかい》と陽界との均衡《きんこう》がくずれたり、法則がねじ曲げられたりしたら、ぼくのところに陰曹官から指示がくるんですよ」 「どんな指示だ?」 「もちろん、陰陽両界の秩序を守れ、と──」  いいおわらず、少年はとびすさった。躍《おど》りかかった本間が少年の襟首《えりくび》をつかもうとしたのだ。本間の指は空《くう》をつかんだ。二匹のネコが全身の毛をさかだてた。 「僵屍発兇《きょうしはっきょう》──!」  そう叫んだのは誰の声かわからない。  少年の手から何かが飛んだ。白い小さな粒《つぶ》がぱらぱら[#「ぱらぱら」に傍点]と音をたてて本間の身体《からだ》にあたる。  それはただの米粒にすぎなかったのに、本間の口から苦痛と憤怒《ふんぬ》のうなり声がもれた。顔や手など、米粒が直接あたった箇処《かしょ》から、細く白い煙《けむり》が立ちのぼる。少年をにらんだ両眼は赤く煮《に》えたぎっていたが、同時に、怯《ひる》む色も見えた。 「へえ、ほんとに米粒が効《き》くんだ」  少年は感心した。教わったとおりである。だが感心している場合ではなかった。  身体の各処《あちこち》から白い煙をたてながら、本間は小走りに壁に向かった。本間の趣味のひとつは、狩猟《ハンティング》だ。壁には英国《イギリス》製の、一丁四〇〇万円もするダブル・ライフルが飾ってある。荒々しい手つきで、本間は銃身をつかんだ。両眼に殺意を沸騰《ふっとう》させながら、銃口を少年に向ける。銃声をたてたらまずい、というていどの理性すら失ってしまったようだ。生者をよそおう死者は、まず生命に対する妄執《もうしゅう》があり、時がたつに理性は磨滅《まめつ》して妄執だけが残る。これまた少年が教わったとおりで、これまた感心している場合ではなかった。  左右の足もとで二匹のネコが声をあげる。教わったとおりに早くしろ、といっているのだ。少年はサマージャンパーの内ポケットに手を突っこんだ。金童《きんどう》と銀童《ぎんどう》を見る余裕もない。 「急急如律令《きゅうきゅうじょりつれい》!」  そう叫んで突き出した牌《ふだ》には、「|北陰※[#豊+邑]都大帝《ほくいんほうとたいてい》勅令《ちょくれい》七十五司判官《しはんがん》」と記してある。  目に見えぬ閃光《せんこう》がほとばしって本間の手もとを打つと、ダブル・ライフルが床に落ちて鈍《にぶ》い音をたてた。本間の顔が恐怖と狼狽《ろうばい》にゆがむ。 「北陰神帝《ほくいんしんてい》の廷《てい》有《あ》りて、太陰《たいいん》の黒簿《こくぼ》、鬼霊《きれい》を囚《とら》え且《か》つ罪を断《だん》ず。佯陽《ようよう》の気を解《と》きて純陰《じゅんいん》の気に帰れ! 勅令《ちょくれい》である!」  暗記した台詞《せりふ》を一気にとなえると、少年は手首をひるがえした。その手から牌が一直線に飛んで、本間の顔に音をたてて貼《は》りつく。額《ひたい》から眉間《みけん》、鼻、口にいたるまで縦《たて》に貼りついたのだ。本間の表情が激変《げきへん》した。恐怖に頬《ほお》をひきつらせ、絶叫を放《はな》とうとしたが、口の中央を牌にふさがれ、口を開くことができない。声も出せず、本間はのけぞり、積《つ》み木《き》がくずれるように床に倒《たお》れた。倒れた瞬間、皮膚がはじけ、肉が剥《は》がれ落《お》ちた。その下から骨があらわれる。  少年は呼吸をととのえつつ後退し、数秒のうちに朽《く》ちはてていく死体を見つめていた。 「金華猫《きんかびょう》というのはネコの一種でね」  少年が美冬に説明する。美冬の部屋の窓枠《まどわく》に腰をおろして、靴をはきながらのことだ。 「金華猫は人間に化《ば》けることができるんだ。それも、女性の前では美男に化けるし、男性の前では美女に化ける」  本間美冬はこわばった表情で、二匹の猫を見やった。 「つまりこの子たちね」 「そういうこと。ぼくの他に四人の人間と二匹のネコが出没しているように見えたけど、じつは二匹のネコがいただけなんだ」  少年は靴をはきおえた。 「ぼくのこと、憎《にく》いだろうね」 「そんなことはないわ」 「まあ憎まれるのが当然だけど……」 「憎んでないって。あなたを憎むのは、人が死ぬという事実を認めないってことでしょ。父さんはかわいそうだけど、自然の摂理に反するほうがよほどかわいそうだってこと、見ててよくわかったもの。それより、あたしを処分しないの?」 「処分?」 「たとえば記憶を消すとか……あたしの見聞きしたこと、しゃべられたら困るでしょ?」 「まいったな、そんなことはしないよ」 「どうして!?」 「しゃべっても誰《だれ》も信じないからね」  少年は笑っていい、その意見に賛同するかのようにネコたちがうなずく。さらに少年はつけ加えた。 「ぼくがTV番組に出演したら、どこかの大学の先生が、三〇分以内に証明してくれるよ。ぼくが虚言症《きょげんしょう》か、詐欺師《さぎし》であることをね」 「そう思われてもいいの?」 「どう思われても別にかまわない。早く一人前になって、このふたりに迷惑をかけないようにしないとね」  ネコたちを「ふたり」と少年は呼び、窓の外にとびおりると、やや表情をあらためて、かるく片手をあげた。 「じゃあ、さよなら。いろいろ迷惑かけてごめんよ」  まわれ右をすると、二匹のネコもそれに倣《なら》った。暗い庭を歩き去るとき、銀童だけがちらりと美冬をかえりみたが、すぐ闇に溶けこんで、冥府《めいふ》からの使者たちの姿は見えなくなった。  美冬は部屋を出て、玄関ホールの電話に向かった。客とともに応接室にはいったきりの父のようすがおかしい。そう警察に通報するのが、ひと月前に死んだ父親に対する子としての義務であった。 ──人にして冥府の公用を務《つと》める者あり。   走無常《そうむじょう》と称《い》う。                清《しん》・紀《きいん》「|※[#さんずいに欒]陽消夏録《らんようしょうかろく》」より