徽音殿《きおんでん》の井戸 (出典:黄土の虹 チャイナ・ストーリーズ) 田中芳樹・著  南北朝時代の宋《そう》、皇太子・劉劭《りゅうしょう》は父親である文帝を弑殺《しいさつ》しようと考えていた。王位をめぐる謀略と暗闘を描く。      ㈵ 「徽音殿《きおんでん》には幽霊が出る」  という、もっぱらの噂《うわさ》である。  徽音殿というのは皇宮の奥にあって、かつては皇后の住まいであったのだが、この十年ほどは閉鎖され、無人の廃屋《はいおく》となっている。というのも、ここに住んでいた皇后がなくなったからで、そのなくなりようというのが、「怨《えん》をふくんで」というものであったからだ。つまり徽音殿に出る幽霊というのは、皇后の幽霊なのであった。  この話をするとき、皇太子の劉劭《りゅうしょう》は、異母弟《いぼてい》である始興王《しこうおう》・劉濬《りゅうしゅん》に皮肉な目をむけていうのだった。 「そなたの母上も、罪なことをなさったものよのお」  すると始興王は身をちぢめ、 「まことにもって、申しわけないしだいでございます」  と、小さな声で答える。皇太子は笑って話をそらせる。小心な異母弟をからかってみただけで、深刻な憎しみがあるわけではない。  深刻な憎しみは、べつの方向にむけられている。  南北朝時代、宋《そう》の文帝《ぶんてい》の元嘉《げんか》二十七年(西暦四五〇年)のこと。  皇太子劉劭は、父親である文帝を弑殺《しいさつ》しようと考えていた。  南北朝時代の宋は、劉裕《りゅうゆう》という人物によって建国されたので、皇室の姓を国名の上につけて「劉宋《りゅうそう》」ともよばれる。  劉裕は、ろくに食事もできないほど貧しい身分から、軍隊にはいって驚異的なまでの武勲をかさね、ついに中国大陸の南半を支配するにいたった。無教養な野人であったが、政治家としても武将としても才能のするどさは比類がなかった。  幕僚の一人が、おべっかまじりに、つぎのようにすすめたことがある。 「閣下の姓は劉。これは往古《むかし》の漢王朝の姓でございます。あたらしい国をお建てになるときは、ご先祖の王業《おうぎょう》にちなんで、漢と名づけられませ」  すると劉裕は一笑して答えた。 「おれは名もない貧民の出身だ。漢王朝の血など、引いているわけがなかろう」  そして国を建てると、国名を宋とした。このあたり、「漢王朝の子孫」を売り物としていた三国時代の劉備より、はるかに覇者としての力量が大きいといえる。  宋の皇統は、初代の武帝《ぶてい》・劉裕から、二代目の少帝《しょうてい》・劉義符《りゅうぎふ》へと受けつがれた。この二代目は不肖《ふしょう》の子で、公私にわたって乱脈をきわめたため、絶望した重臣たちがひそかに計画をたてて廃立《はいりつ》してしまった。かわって即位したのが、少帝の弟である。これが三代目の文帝・劉義隆《りゅうぎりゅう》であった。  文帝は即位後ひとつの失敗をおかした。重臣の檀道済《だんどうさい》を粛正したことである。檀道済は「張飛《ちょうひ》の再来」といわれるほどの勇猛さと、柔軟巧妙な用兵とをかねそなえ、百戦不敗の名将といわれたが、文帝はその実力と人望をおそれうたがい、無実の罪をきせて処刑してしまったのだ。処刑の寸前、しばられた檀道済は文帝をにらみつけ、 「孺子《こぞう》! みずからの手で万里の長城をこわすか」  と吐きすてた。  処刑の直後、檀道済の死を知った北方の魏《ぎ》が、「もはやおそれる者はなし」と、大軍をもって殺到してきたとき、うろたえた文帝は玉座《ぎょくざ》を立って、 「檀将軍はどこにいる?」  と叫ぶ醜態をさらしてしまう。  さいわい魏の後方で大乱がおこったため、魏軍は帰還して文帝は事無《ことな》きをえた。その後、文帝は内政に力をそそぎ、経済の発展と社会の安定とを得ることに成功した。統治者としては有能だったのだ。彼の治世は、年号にちなんで、「元嘉《げんか》の治《ち》」とよばれる。文帝は父親の武帝・劉裕と違って教養があり学問や芸術を保護して名声を得た。  平和で豊かな年月がすぎて、元嘉十七年(西暦四四〇年)のこと。  文帝の正妻である袁《えん》皇后は、夫に対する不満をつのらせていた。理由は、夫の文帝が吝嗇《けち》だったことである。  皇后の実家である袁家は、晋《しん》以来百年以上つづく名門であった。名門だからといって、財力が豊かだとはかぎらない。皇后は実家からたのまれ、文帝に対して金銭的な援助をねがうことが何回かあった。 「またか」  と舌打ちして、文帝は援助金を出してくれるのだが、たいした金額ではない。銅貨で五万銭《せん》、帛《きぬ》なら五十匹《ぴき》というのが上限であった。しかも、かならずお説教かいやみがつくのである。 「そなたの実家も、名門ということに甘えていないで、少しは努力とか苦労とかいうことをしてみたらどうだ。りっぱすぎる邸第《やしき》を売るという策《て》もあるだろう。このまま朕の援助をあてにするばかりでは、没落してしまうだけだぞ」  恐縮して、皇后は文帝の前からしりぞくのだが、自分の住まいである徽音殿にもどると、おつきの宮女《きゅうじょ》たちにぐちをこぼさずにいられなかった。 「万歳爺《おかみ》はけっしてむだづかいというものをなさらない。そりゃあ公人としてはごりっぱなことだけど、妾《わらわ》としても必要があるときだけ最小限のおねがいをしているにすぎない。もうすこしこころよく援助してくださるといいのだけどねえ」  いつもだと宮女たちはひたすら皇后をなぐさめるしかないのだが、ある日、ちがう反応があった。宮女たちの楽しみといえば後宮《こうきゅう》の噂話であるのはいつの時代もかわりないが、ひとりの宮女が、聞きずてならぬ話を聞きこんできていたのである。 「皇后さま、ご存じでしょうか、潘淑妃《はんしゅくひ》のことを」  潘が姓で、淑妃とは皇后以外の「おきさき」にあたえられる称号のひとつである。潘淑妃はこの数年にわたって文帝の寵愛《ちょうあい》あつい美女で、袁皇后にとっては目ざわりな存在であった。 「潘淑妃がどうしたのかえ?」 「いえ、潘淑妃というお方は、万歳爺におねだりなさるのがとてもおじょうずで、ほしいものは何でも手にはいる、という噂でございます。いっそのこと、皇后さま、潘淑妃のおねだりじょうずを利用なさってはいかがでしょうか」  潘淑妃にたのんで、文帝に、実家への援助金を出してもらえばよい、というのである。  宮女は冗談のつもりだったかもしれないが、袁皇后はまじめな表情で考えこんでしまった。 「……まさかあのケチな万歳爺が、いくら潘淑妃のおねだりだからといって、ほいほい大金を出すとは思えないけど……それとも、万歳爺は妾に対してだけケチなのだろうか」  翌日、袁皇后は思いきって徽音殿に潘淑妃を呼びつけた。緊張した表情であらわれた潘淑妃に、笑顔をつくって話しかける。 「じつはあなたにおねがいがありますの」 「皇后さまが妾に? いったい何ごとでございましょう」 「妾の実家が裕福でないことはご存じですね。いつも万歳爺に援助をおねがいしているのだけど、また三十万銭ほど必要になってしまったのですよ。でも先日も万歳爺におねがいしたばかりなので、気がひけるのです」 「まあ、それはそれは……」 「そこで、あなたをみこんでおねがいするのですけど、あなたご自身がご入用ということにして、万歳爺から三十万銭、出していただけないものかしら。ずうずうしいかぎりで申しわけないのですけど、そうしていただければ恩に着ますよ」  潘淑妃にとっては意外な話である。だが彼女はことさら意地悪な性格ではなかったし、自分が産《う》んだ皇子の将来を考えると、皇后との関係をよくしておいたほうがいい。このさい皇后の役に立って好意を得たほうがよさそうだ。そう考えた。 「かしこまりました。皇后さまのお役に立てれば、妾もうれしゅうございます」  このような会話がおこなわれて二、三日後のこと。潘淑妃のおつきの宦官《かんがん》が徽音殿に参上して、一枚の公文書を提出した。これを持参した者に三十万銭を支払うように、という少府《しょうふ》(皇室会計局)への命令書である。何があったかは明らかであった。 「そなたもご苦労でした。潘淑妃に、妾が心から感謝していると伝えてくれるように」  袁皇后は声のふるえをおさえてそういい、宦官に多少の白銀をあたえて帰したが、その夜から発熱して床についた。  皇后が病気だというので、文帝は徽音殿にみまいにきたが、病室の扉はとざされ、面会は謝絶されている。何十日もそのような状態がつづいたので、文帝は不審に思い、宮女や宦官たちに事情を問いただして、とうとう真相を知った。  文帝としては、ばつも悪いし、皇后があわれでもある。何とか会ってわびようとしたが、皇后はかたくなに夫に会うのを拒否しつづけ、その年の七月ついに衰弱して息をひきとってしまった。享年三十六である。文帝はようやく臨終の妻に会うことができたが、「すまない、朕が悪かった」ということばに対して、返事は永久になかった。  皇后の死後、すっかり感傷的になった文帝は、徽音殿を封鎖してしまった。潘淑妃には何の罪もないはずだが、会いづらい気分になって、次第に彼女からも足が遠のいた。無人の徽音殿はしだいに荒廃していき、昼までも近づく者はいなくなった。近づく者は、薄命《はくめい》の袁皇后の亡霊が悲しげにたたずむのを見て、悲鳴とともに逃げ出す。そういわれるようになった。  袁皇后の死から、ちょうど十年。  袁皇后の産んだ皇太子・劉劭は二十五歳。潘淑妃の産んだ始興王・劉濬は二十四歳になっている。父の文帝は四十五歳である。      ㈼  皇太子が父親を殺そうと考えたのは、べつに母親の復讐《ふくしゅう》のためではない。  彼は生まれたときから皇太子だった。幼児のときも、少年のときもそうだった。二十五年も同じ地位にいて、飽《あ》きてしまったのである。 「そろそろ予《よ》も皇帝になって、望むような政治をおこなってみたいものだ。父皇《ちちぎみ》も即位して二十七年。これ以上、為政者《いせいしゃ》としてやるべきこともないだろう」  息子の抱負《ほうふ》が野心に変質しつつあったとき、父親の文帝も変貌《へんぼう》しつつあった。それまで内政に力をそそぎ、対外的には守りの姿勢をくずさなかったのに、この年になって積極的な軍事行動をはじめたのである。  この年、というのは宋の元嘉二十七年で、これは魏の太平真君《たいへいしんくん》十一年にあたる。太平真君というのは奇妙な年号だが、魏の皇帝である太武帝《たいぶてい》が道教《どうきょう》の熱心な信者だったので、いかにも道教くさい年号をたてたのだ。  太武帝は、黄河流域に乱立していた大小十数の国をほろぼし、三十二歳にして中国大陸の北半を統一した英雄児である。道教の信者として、歴史ののこる仏教弾圧をおこなったことでも知られる。  この太武帝がみずから大軍をひきいて宋の領土に侵入してきた。春三月のことだ。兵数は号して百万。これは慣用句のようなもので、実数は二十万ていどであったが、大軍にはちがいない。しかも太武帝は、天子でありながら、「つねに陣頭に立って勇戦《ゆうせん》し、大軍を手足のごとく動かす」といわれる勇将《ゆうしょう》である。  魏軍はたちまち国境を突破し、宋の北方防衛の要地である懸瓠《けんこ》城を包囲した。この方面の軍事責任者は、武陵《ぶりょう》王・劉駿《りゅうしゅん》である。文帝の三男で、皇太子や始興王の弟にあたり、二十二歳になったばかりの貴公子であった。武陵王は懸瓠城をすくうために策をねった。いそいで民間から千五百頭の馬をあつめ、軽騎兵隊を編成すると、劉泰之《りゅうたいし》という武将に命じたのである。 「急行して魏軍の後方にまわりこみ、北から奇襲せよ」  宋軍、というより南朝の伝統だが、軍の主力は水軍と歩兵であって、騎兵は弱体であった。魏軍の総攻撃に際し、武陵王の麾下《きか》には正式の騎兵隊も存在しなかったのだ。  だが、このにわかづくり、よせあつめの騎兵隊が劇的な効果をあげた。武陵王の戦略眼もただしかったし、劉泰之の指揮能力もすぐれていたのであろう。  懸瓠城に猛攻をくわえていた魏軍は、忽然《こつぜん》と後方から出現した宋軍軽騎兵のため、一瞬でくずれたった。城への攻撃を中断したばかりか、突進してくる敵をむかえうつこともできず、斬《き》りたてられ、追いまくられて潰走《かいそう》したのだ。魏軍の陣営には火が放たれ、炎が舞いくるい、黒煙がうずまき、その下に魏軍の死屍《しし》がおりかさなった。  太武帝でさえ馬に笞《むち》をあてて逃げた。  この北方の覇王は、歴戦《れきせん》の武人であるだけに、かえってそうなったのだ。常識からいって、宋軍が少数の騎兵だけを単独行動させることなどありえない。宋が魏をうわまわる大軍を動員し、水軍や歩兵と連携したうえで大反撃に出てきた、と、太武帝は判断した。奇襲によって機先《きせん》を制されたからには、くずれたった味方をその場でたてなおすことなど不可能である。いったん逃げて、全軍の陣容を再編するしかない。そう考えたのであった。  こうして、千人の兵しかいない懸瓠城はすくわれた。  殊勲の宋軍軽騎兵隊は、その後、太武帝の統帥《とうすい》によってすばやくたちなおった魏軍のために逆撃され、千五百騎のうち六百騎までをうしなった。だが太武帝も、うかつに宋への攻撃をつづけて予想外の事態が生《しょう》じることをおそれた。これ以上の軍事行動を断念して、首都平城《へいじょう》(後世の山西《さんせい》省大同《だいどう》市)へと帰っていったのである。  宋にとって、当面の危機は回避されたかに見えた。ところが、かえってやっかいな事態となった。対外消極主義者であったはずの文帝が、 「北伐《ほくばつ》の軍をおこして魏をほろぼし、武力による天下統一をはたす」  といいだしたのである。  廷臣《ていしん》たちは愕然《がくぜん》とし、口々に反対した。 「おそれながら、あれほど武人として偉大であらせられた高祖《こうそ》(武帝・劉裕)陛下でさえ、天下統一を断念なさったのです。ご無理をなされば、わが国の存亡にかかわります」 「わが国の財政は豊かと申しましても、それは現状を維持するに充分というにとどまります。大軍を動員するだけならまだしも、占領した土地を確保するためには、莫大《ばくだい》な経費が必要でございます」 「その経費をととのえるためには、大幅な増税をしなくてはなりませぬ。古来、征戦《せいせん》のために増税して、民がよろこんだ例がございましょうか」 「国境の守りをかため、攻撃をふせぐだけで充分でございます。何とぞ無益な北伐などおやめくださいますよう」  それに対して、江湛《こうたん》という重臣が、文帝にこびたわけでもなかろうが、北伐に賛成した。 「諸君がおそれるほど魏軍は強くない。現《げん》に懸瓠城の戦いでは、わが軍のよせあつめの軽騎兵隊に蹴散《けち》らされてしまったではないか。そもそも魏は北方を統一してまだ十年ほどしかたっておらず、国内は安定していないのだ。わが国が緻密な戦略と万全の補給にもとづき、大軍をもって侵攻すれば、魏の国内いたるところで叛乱がおこり、すくなくとも黄河も南はわが国の支配するところとなろう」  こうして文帝は江湛の意見を採用するという形で、北伐を決定してしまった。  このとき皇太子・劉劭《りゅうしょう》は北伐に反対し、江湛と激論したが、文帝の決定が下ると、もう何もいわなかった。 「失敗するに決まっている。そのときは当然、父皇《ちちぎみ》にも江湛にも責任はとってもらうぞ」  異母弟の始興王《しこうおう》・劉濬《りゅうしゅん》に会うと、皇太子はそう吐きすてた。始興王は気弱げに溜息《ためいき》をついた。 「あれほどいくさぎらいの父皇が、いったいどうなさったのでしょうなあ」 「人は変わるものさ」  皇太子は口もとをゆがめた。 「だからこそ、父皇のご寵愛も、おれの母からそなたの母へとうつったのだ。そしていまでは、さらにべつの妃嬪《ひひん》へとうつっているではないか」  始興王はうつむいた。たがいの母親のことを、皇太子が口にすると、気の弱い始興王はうつむくしかないのである。不思議なことに、どれほど皮肉やいやみをいわれても、始興王は、異母兄である皇太子に反発できないのであった。 「思うに、父皇は、平時《へいじ》の名君と呼ばれることに飽かれたのだ。二十七年間にわたって、そういう役を演じてこられた。今度は、武力によって天下を統一した蓋世《がいせい》の英雄、という役を演じてみたいとお思いになったのさ」  皇太子の推測には、証拠があるわけではない。だが、自分自身の心情をかさねあわせて、皇太子は憶測の正しさを信じた。 「人は変わるし、ものごとにも飽きるものだ」  皇太子が失敗を期待しているとも知らず、文帝は北伐を強行した。そして皇太子の期待どおりに失敗した。  まことにみじめな失敗であった。  宋軍二十万が国境をこえたことを知ると、遠く平城にいたはずの太武帝は、みずから十万の騎兵をひきいて南下した。あとは、太武帝の作戦行動の迅速さに、宋軍は引きずりまわされるだけであった。  秋までに、長江より北の城市は、ことごとく太武帝の手中に落ちた。太武帝は長江の北岸に腰をすえると、渡河して反撃する宋軍をそのたびに大破した。魏軍は水軍を欠いていたので、長江を渡ることができない。まさに長江は百万の大軍にもまさる水の城壁であった。だが、宋の国都建康《けんこう》(後世の江蘇《こうそ》省南京《ナンキン》市)では、目に見えぬ対岸に布陣《ふじん》した魏軍がいつ流れをこえて侵攻してくるか、平和になれた人々は不安な日夜をすごすことになった。  年があけて宋の元嘉二十八年、魏では太平真君十二年だが、ようやく太武帝は長江の北岸から動き、全軍こぞって北へ帰りはじめた。北方の人である太武帝が、気候風土のちがいから健康を害したためといわれる。  占領した広大な土地を確保するだけの力は魏にもなかったので、長江より北の城市をすべて放棄して太武帝は帰っていった。ただ、占領地の住民十万人以上を連行した。魏は国土が広く人口がすくないので、彼らを開拓に従事させようというのである。魏軍の北帰《ほっき》を知って、宋軍が長江北岸に上陸してみると、豊かな田園は荒野と化し、無人の家々がならんでいるだけであった。  かろうじて宋は滅亡をまぬがれたが、朝廷ではこのみじめな敗戦の責任をめぐって議論がたたかわされた。 「江湛斬るべし!」  皇太子はそう主張し、父親である文帝につめよった。彼の主張はむしろ当然のもので、多くの廷臣たちは皇太子に同意した。だが、文帝は頑《がん》としてきかなかった。 「北伐は朕《ちん》の決定によるもので、すべての責任は朕にある。江湛の罪を問うわけにはいかぬ」  文帝の態度は君主としてそれなりにりっぱなものではあったが、廷臣たちの江湛に対する反感を消すことはできなかった。ことに、皇太子は事あるごとに江湛の罪を鳴らし、非難をくりかえしたため、文帝の不興《ふきょう》と江湛の憎しみを買うことになったのである。      ㈽  元嘉二十九年になると、北伐のみじめな失敗による傷は、ようやく癒《いや》されたかに見えた。  その間にも、朝廷では皇太子劉劭《りゅうしょう》と吏部尚書《りぶしょうしょ》・江湛《こうたん》との対立が深刻さをましていた。文帝は、自分の後継者と有力な廷臣とを和解させようとして、江湛の娘を皇太子の妃にしようとしたが、皇太子はすげなく拒絶した。  江湛としては、自分の将来の安全について考えないわけにはいかなくなった。これほど皇太子との仲が悪化しては、文帝の死後が思いやられる。皇太子が即位して新皇帝となったら、まっさきに江湛は粛正されてしまうであろう。  江湛には年のはなれた妹がおり、文帝の四男である南平王《なんぺいおう》・劉鑠《りゅうしゃく》の王妃となっている。ここは南平王をつぎの皇帝とすることで、将来の安全と権勢を確保するとしよう。江湛はそう決意した。  皇太子の廃立《はいりつ》にむけてひそかに動きはじめた。  江湛が同志にひきずりこんだのは、尚書僕射《しょうしょぼくや》、つまり副宰相の徐湛之《じょたんし》である。宋の皇室と縁の深い大貴族で、しかも大富豪であった。学問もあり風流人でもあって、千人の美少年に絹の服を着せて舞いをまわせるような趣味があった。文帝は贅沢《ぜいたく》を好まない人だから、徐湛之が豪遊するのをきらったが、政治家としては信用していたようである。  だが徐湛之も、度のすぎた贅沢を皇太子ににらまれ、将来に不安をいだいていた。こうして、皇太子を共通の敵とする、江湛と徐湛之の同盟がひそかに成立した。  この時代、「同床異夢《どうしょういむ》」という四字熟語はまだ存在しないが、江湛と徐湛之の同盟こそ、そのよい見本であったろう。徐湛之は皇太子を廃したあと、その地位に、文帝の六男である隋郡王《ずいぐんおう》・劉誕《りゅうたん》をつけるつもりだった。隋郡王の正妃が徐湛之の娘だったからである。  江湛も徐湛之も、もともとそれほど悪辣《あくらつ》な人物ではない。江湛は吏部尚書として朝廷の文官の人事権をにぎっていたが、公正無私という評判だった。徐湛之も南※[#亠+兌]州《なんえんしゅう》の刺史《しし》であったころ、善政をしいて民衆からしたわれた。その彼らが手をむすんで、皇太子廃立の計画をめぐらせるようになってしまったのである。  皇太子がこのことを知ったら、口もとをまげて、 「人とは変わるものさ」  といったかもしれない。もしかしたら、皇太子の悪意と毒気が、江湛や徐湛之を変えてしまったのかもしれないのだが、そのような自覚は皇太子にはなかった。  表面的に、国都建康の平和と繁栄はゆらぐ色もなかったが、皇太子と江湛・徐湛之の両陣営の暗闘は、どちらが先に手を出すか、という段階にまでなっていた。  そのころ建康で奇妙な事件がおこった。  文帝の長女で皇太子の姉にあたる東陽公主《とうようこうしゅ》という女性がいた。元嘉二十九年の四月に病気でなくなったのだが、夫も子もいないので、広大な邸第《やしき》も財産も使用人もすべて皇室に返されることになった。そこで少府が公主の財産などを整理したのだが、使用人のなかに行方不明の者がいることがわかった。厳道育《げんどういく》という女である。 「厳道育? はて、どこかで聞いたような名だぞ。何者だったかな」  役人のなかに首をかしげた者がいた。建康府庁が調査をしてみると、意外なことがわかった。厳道育は、数年前、巫蠱《ふこ》の術をもって人をたぶらかし、世をさわがせた罪で投獄された女だったのだ。巫蠱というのは、西洋でいう黒魔術のことで、人を呪殺《じゅさつ》するのに使われる。歴代の王朝がかたく禁じていたものだ。  さらに調査した結果、厳道育が東陽公主によって獄から出され、公主の広大な邸第にかくまわれていたことが判明した。というのも、厳道育が「死者の霊を呼び出せる」と称して、東陽公主の母である袁《えん》皇后の霊を呼び出してみせたので、公主はすっかり感激してしまい、厳道育を豪華な部屋に住まわせ、金品を贈り、贅沢な生活をさせていたのである。  こうして何年も厳道育は安楽にすごしていたが、気前のいい保護者であった東陽公主がなくなると、少府の調査によって正体を知られることをおそれ、行方をくらましたのであった。  このこと自体はたいした事件とも思われなかったが、皇族が巫蠱とかかわっていたのはかんばしくない事実なので、いちおう朝廷に報告された。これに徐湛之が目をつけたのである。 「東陽公主は皇太子の同母姉《どうぼし》で、二人は仲がよかった。皇太子はしばしば公主の邸第に遊びにいっている。もしかしたらそこで厳道育の巫蠱の術とかかわったかもしれぬ。こいつは使えそうだ」  徐湛之は御史中丞《ぎょしちゅうじょう》(高等検察官)の王曇生《おうどんせい》に命じ、徹底的に捜査させることにした。王曇生は厳道育の行方をさがしまわったが、いっこうに見つからない。そこで方針をかえ、そもそも東陽公主はなぜ厳道育のようなあやしげな女と知りあったのかをしらべた。すると、公主の邸第の使用人から証言が得られた。東陽公主の侍女のひとりが、もとから厳道育の信奉者で、彼女が公主と厳道育とをひきあわせ、公主を巫蠱の道にひきずりこんだ、というのである。  その侍女はすでに東陽公主の邸第にはおらず、とある貴族の愛妾《あいしょう》になっているということであった。  その年の末、王曇生は五十人の兵士をひきいてその貴族の邸第に踏みこみ、東陽公主の侍女だった王鸚鵡《おうおうむ》という女をとらえた。屋内をしらべてみると、呪殺に使うための人形が数十体、さらに儀式の際の願文だの、呪文をならべた書物だの、歴然たる証拠品が発見された。  王曇生から報告をうけた徐湛之は、すぐに江湛に知らせ、何やらふたりで密談した。  翌日、文帝は信頼する重臣ふたりから、おどろくべきことを告げられた。皇太子と始興王《しこうおう》が、姉の東陽公主の邸第で巫蠱の術とかかわり、文帝を呪殺しようとしていた、というのである。証拠品として提出されたのは、署名いりの願文と、白玉《はくぎょく》でつくられた呪殺用の人形であった。  文帝は茫然《ぼうぜん》としていたが、ようやく我にかえると、苦渋《くじゅう》のうめきをもらした。 「巫蠱の術は、かつて漢帝国をほろぼそうとしたという。以後、歴代の王朝で死罪をもって禁じるものとなったが、じつのところ朕《ちん》は半信半疑であった。人を呪殺することなどできるはずがないと思ったからだ。だが、まさか朕の子らがこのような禁忌《きんき》をおかすとは……!」  呼吸をととのえた文帝は、神妙な表情でたたずむ江湛と徐湛之に申しわたした。 「事は重大だから慎重にしたいが、事実と決まればこのままにはしておけぬ。年が明けたら卿《けい》らと相談するゆえ、けっして他にもらしてはならぬぞ」  こうして年が明け、元嘉三十年(西暦四五三年)となった。すでに文帝はすべての証拠と証言を確認し、皇太子と始興王の有罪をさだめていた。それなのに、すぐ皇太子廃立がおこなわれなかったのは、つぎの皇太子をだれにするか、いつまでも意見がまとまらなかったからである。 「朕は七男の建平王《けんぺいおう》を皇太子としたい」 「おそれながら、臣は南平王さまを推薦させていただきたく存じます」 「いえいえ、隋郡王さまこそ、皇太子の地位にふさわしいと臣は信じております」  文帝、江湛、徐湛之の三人がいつまでも議論をつづけているのを見て、あきれたの侍中《じちゅう》(皇帝秘書官長)の王僧綽《おうそうしゃく》である。彼は二十代の若さでこの要職についた俊才であったが、たまりかねて意見をのべた。 「僭越《せんえつ》ながら申しあげます。ご長男の皇太子、ご次男の始興王、おふたりが廃されるとあれば、つぎの皇太子にはご三男の武陵王《ぶりょうおう》さまがおつきになるべきではございませんか?」  文帝が眉をしかめた。 「なに、武陵王? あいつはだめだ」 「なぜでございます。武陵王は先年、懸瓠《けんこ》城の戦いで魏軍を破る功績をおたてになりました。才器《さいき》そなわったお方と存じますが……」 「あいつは目つきが悪いし、強情《ごうじょう》で可愛げがない。父親の朕に好かれぬくらいだから、廷臣や庶民に好かれるはずがない。その点、建平王は……」 「いえ南平王さまが」 「いえいえ、隋郡王さまが」  王僧綽は溜息をついた。 「ではあたらしい皇太子をどなたになさるかはひとまずおいて、いまの皇太子をはやく廃されるべきです。このような状態がいつまでもつづけば、皇太子が危険を察して暴発なさるおそれがございます。皇太子は一万の手兵《しゅへい》をかかえておられるのですぞ。一日もはやく決行なさいませ」  貴重な忠告であったが、すでにおそかった。  二月二十二日の未明である。  灯火の下で、文帝は筆を動かしていた。文才にも学識にも自信のある彼は、みずからの手で、皇太子廃立の詔《みことのり》を書いているのだった。  ふいに書斎の外で音がした。何人もの足音、甲胄《かっちゅう》のひびく音、そして恐怖にみちた叫び声。 「陛下、陛下、謀反《むほん》でございます。皇太子の……」  すさまじい悲鳴が、意味のある言葉を断《た》ちきり、扉が開いた。血にまみれた人体が室内にころがりこんできて、すでに生命をうしなった双瞳《そうどう》で文帝を見あげた。徐湛之であった。  椅子《いす》から立ちあがった文帝は、自分にむけて振りおろされる白刃を見た。白刃の主の、緊張と殺意にひきつった顔は、文帝の記憶の裡《うち》にあった。 「汝《なんじ》は張超之《ちょうちょうし》だな……!」  皇太子の護衛官の名を口にした直後、文帝の視界が深紅《しんく》にそまった。      ㈿  ……払暁《ふつぎょう》のことで、草は露にぬれていた。  荒れはてた徽音殿《きおんでん》の庭に、皇太子・劉劭《りゅうしょう》はへたりこんだ。何かの虫が飛びたつような音がしたが、皇太子の耳には聞こえても意識にはとどかなかった。 「弑殺《しいさつ》までは完全にうまくいったのに……」  皇太子はつぶやいた。  父親である文帝の弑殺には成功したのに、そのあとの纂奪《さんだつ》にはぶざまに失敗してしまった。文帝から七十日ほどおくれて、皇太子にも非業《ひごう》の最期が近づいている。  二月十九日のこと。異母弟の始興王《しこうおう》が泣きながら皇太子のもとへ駆けこんできた。 「もうだめです、兄上、わたしたちは父皇に殺されます」  始興王は、逃亡者である厳道育《げんどういく》を自邸にかくまっていたのが露見して、激怒した文帝から最終通告を受けたのだった。直接の通告ではない。文帝はその前夜、ずいぶんひさしぶりに潘淑妃《はんしゅくひ》のもとをおとずれて告げたのである。 「そなたの子である始興王を、朕《ちん》はずいぶんとかわいがってきたつもりだ。それなのに、あのおろか者め! 皇太子や巫蠱の術師と組んで、何と朕を呪殺しようとしおったのだ」 「万歳爺《おかみ》、まさかそんな……」 「気の弱いやつゆえ、首謀者ではあるまい。だが、巫蠱とかかわったからには死罪もやむをえぬ。そなたはあわれと思うが、息子のことはあきらめろ」  あきらめよといわれても、母親としてはそうはいかない。半狂乱になった潘淑妃は、始興王を呼びつけて両手でぶちながら、 「万歳爺におわび申しあげなさい。何でそなたが皇太子の巻きぞえにならなくてはいけないのです」  と泣き叫んだ。  目がくらむ思いで、始興王は異母兄のもとへ走った。 「よし、わかった。予《よ》にまかせておけ」  落ちつきをはらって皇太子は答えた。  どのようにして父親である文帝を弑殺するか、何年もかけて完璧《かんぺき》に計画をねりあげてあったのだ。それを実行にうつす機会が来ただけのことであった。  皇太子は一万の手兵を持っている。文帝を警護する羽林《うりん》(近衛《このえ》)の士官たちは日ごろからてなずけてあり、皇宮内にも内通している者がいる。彼らを味方につけるため、皇太子は金品や将来の地位の約束を惜しまなかった。  一万の兵のうち二千で皇宮の万春門《ばんしゅんもん》の周囲をかためる。皇太子自身が、武勇すぐれは張超之《ちょうちょうし》および選《え》りすぐりの強兵五十名とともに、車で門前に乗りつける。 「宮中での陰謀が発覚した。勅命《ちょくめい》により皇太子が宮中を戒厳《かいげん》する。開門せよ!」  ほんものの皇太子の命令だから、万春門は開門される。そこから侵入し、最短距離をとおって宮中の東中華門《とうちゅうかもん》をぬけ、一直線に文帝の書斎をめざし、短時間ですべてを終わらせるのだ。  計画は成功した。まず徐湛之《じょたんし》が斬られ、ついで文帝が殺された。騒ぎを知って尚書《しょうしょ》省の「傍小屋中《ちかくのこやのなか》」にかくれていた江湛《こうたん》もさがし出され、引きずり出されて斬られた。斬られる寸前、蒼白《そうはく》になりながらも生命《いのち》ごいはせず、 「子にして父を殺し、臣にして君を弑《しい》す。かならず報いがあるぞ」  と叫んだという。  江湛の息子五人もすべて殺された。徐湛之の息子三人のうちふたりは殺されたが、ひとりはかろうじて逃げた。王僧綽《おうそうしゃく》は、江湛や徐湛之のように皇太子に憎まれていたわけではなかったが、文帝に忠告したり相談を受けたりしていたことが判明したので、捕らえられて斬られた。三十一歳の若さだったので、惜しむ者が多かった。さらに、混乱のなかで潘淑妃までもが殺されてしまった。  流血の一夜が明けると、皇太子・劉劭はただちに即位の宣言をし、事態をいいつくろった。江湛と徐湛之が反乱をおこして文帝を殺害したので、皇太子が義兵《ぎへい》をあげて謀反人を打倒したのだ、と。  だが、信じる者はいなかった。反対に、 「皇太子こそが弑殺の首謀者、共犯は始興王」  との報が八方に飛んだ。  これから先の事態は、まったく皇太子の計画にはなかった。  長江中流の要地、江州《こうしゅう》に駐屯していた文帝の三男・武陵王《ぶりょうおう》が、 「弑殺者にして纂奪《さんだつ》者たる劉劭を討つ」  と宣言した。もはや皇太子とも兄とも認めていないので、呼びすてである。 「あんなやつに、だれがついてくるものか」  と、皇太子はせせら笑った。だが、最初一万ていどだった武陵王の軍は、進撃の途上、一日ごとにふくれあがった。四月にはいると十万をこえ、宋軍のおもだった武将はことごとく武陵王を盟主とあおいで皇太子に敵対した。  四月二十二日。文帝の死からちょうど二ヶ月後であったが、新亭《しんてい》の地で両軍が決戦した。皇太子みずから陣頭に立ち、矛《ほこ》をとって指揮したが、麾下の将軍・魯秀《ろしゅう》は五千の兵をひきいて武陵王に投降し、そのまま敵の先鋒《せんぽう》となって皇太子を攻撃するにいたった。  大敗して、皇太子は建康に逃げ帰った。  武陵王はすぐにはそれを追わず、そのまま新亭にとどまって即位し、文帝の正統の後継者であることを宣言した。これが宋の世祖《せいそ》・孝武帝《こうぶてい》である。  彼は「目つきが悪い」という理由で父からも兄からもきらわれていた。だが、堂々と即位したいま、そこ両眼はするどく、威厳にみちて廷臣や武将たちを圧倒しているように見えた。  皇太子は建康にたてこもって最後の一戦をいどむつもりだったが、兵の大半は逃亡しており、したがう者はなかった。  唯一の味方であるはずの始興王まで姿を消してしまった。彼は、生母の潘淑妃が殺されたことを知っても、「しかたありません」といって兄にしたがいつづけていた。だが自分の目で敵軍を至近に見るに至《いた》って、長江に舟を浮かべ、海上への脱出をはかったのである。この期《ご》におよんでもまだ厳道育を信用しており、お告げにしたがって逃げ出したのだが、長江のただなかで舟ごと孝武帝の水軍にとらえられてしまった。舟に積《つ》みこんでいた金銀珠玉《しゅぎょく》も、ことごとく押収された。  五月四日、ついに孝武帝の軍が建康城に突入を開始した。ほとんど無抵抗で城門は開かれ、兵士たちが城内に乱入する。  したがう者とてなく、ふらふらと皇太子は皇宮の奥深くへさまよいこんだ。気がつくと、そこは徽音殿であった。生母の袁皇后がなくなって以来、なかにはいるのははじめてである。 「母上……」  敗北し、孤独な身になってはじめて、皇太子は母のさびしさの一端を想像することができた。  逃げおくれた宦官のひとりが、庭園のなかの竹林に身をひそめ、そのような皇太子の姿をおそるおそる見守っていた。ふいに皇太子が草の上から立ちあがった。宙を見すえ、かるく両手をひろげた。まるで、目に見えない何者かの声を聞いているかのようであった。 「ああ、母上、かわいそうなわたしを助けてくださるのですね。はい、はい、おおせにしたがいます。井戸のなかに隠れて敵をやりすごすのですね……はい、そういたします……」  宦官は悪寒《おかん》をおぼえた。むろん後宮の人間として、この宦官は徽音殿の幽霊のことを知っていた。  酔ったような足どりで、皇太子は井戸の方角へ歩いていく。宦官は竹林を飛び出し、ころがるように後宮の外へと走った。だが門を出ようとして、血刀をさげた敵の将兵が駆けこんでくるのに出くわした。  高禽《こうきん》という将軍が、宦官の襟首《えりくび》をつかんで詰問した。 「おい、弑殺の謀反人はどこにいるか!?」  宦官はまだ皇太子に対する忠誠心をうしなってはいなかった。だから夢中で叫んだ。 「皇太子殿下は、徽音殿の井戸には隠れておられません!」  皇太子・劉劭は二十八歳、始興王・劉濬は二十七歳。母親がちがいながら仲のよかった兄弟は、ならんで首を斬られた。巫蠱《ふこ》の術師である厳道育は、建康の市場で、死にいたるまで鞭《むち》うたれた。  父親の文帝が健在であったら、けっして皇帝になれなかったであろう孝武帝の治世は、その後、十一年にわたってつづいた。彼はふたりの兄を「二凶《にきょう》」とよび、すべての公式記録にそう書かせた。だから正史の「宋書《そうじょ》」には「皇太子劉劭伝」はなく、「二凶伝」が存在するのみである。 田中芳樹(たなか よしき)  一九五二年、熊本県生まれ。学習院大学・大学院博士課程を修了。一九七七年、「緑の草原に…」で第三回幻影城新人賞を受賞。『銀河英雄伝説』(徳間書店)で一九八八年星雲賞を受賞。『創竜伝』はじめ人気シリーズを放つ一方、中国歴史小説の数々を精力的に発表する。『紅塵』、『奔流』(ともに祥伝社)、『隋唐演義』編訳(徳間書店)。その作品に共通するのは、清濁《せいだく》を問わず人間の心理・感情を冷徹に見つめる眼差《まなざ》しである。�幽霊が出る�という噂の徽音殿《きおんでん》に、人々のどんな思いが交錯《こうさく》するのか。