宛城の少女 (出典:異色時代短篇傑作大全㈼) (出典:チャイナ・イリュージョン 田中芳樹 中国小説の世界) 田中 芳樹・著      ㈵  少女の夢は深紅《しんく》の色彩をおびていた。  炎上する巨大な城門が見える。晋《しん》の帝都|洛陽《らくよう》が燃えているのだ。一万人の美女を擁《よう》した後宮《こうきゅう》が炎につつまれ、城楼《じょうろう》が火の柱と化し、巻きおこる黒煙の下で人々が倒れてゆく。乱入してきた匈奴《きょうど》の騎兵が、左腕に気を失った女をかかえ、右手に血染めの槍をかかげて狂奔《きょうほん》する。かろうじて洛陽を脱出した少女の家族一行は、炎上する南門を遠望《えんぼう》する地点で匈奴兵に追いつかれた。  矢を受けた父が馬上から転落する。悍馬《かんば》をあおって駆け寄った匈奴兵が、起きあがろうとする父の身体に槍を突きいれる。ふたたび倒れた父は、さらに二度、槍を受けて動かなくなった。槍先から血をしたたらせた匈奴兵たちが、哄笑《こうしょう》しながら馬車に群らがった。それは柩《ひつぎ》を運ぶための馬車であったが、匈奴兵たちは死者の霊など恐れないようであった。  柩の蓋《ふた》がはねのけられた。匈奴の兵たちが柩のなかに腕をいれ、遺体を引きずりだす。先日亡くなったばかりの祖母の遺体であった。匈奴の兵たちはなお笑声をあげながら、祖母の遺体を地上へ放りだした。彼らが狙《ねら》ったものは、死者が身に着けていた副葬品《ふくそうひん》であり、珠玉をちりばめた高価な柩であり、上等な馬車であった。目的のものをすべて手にいれると、匈奴兵たちは血まみれの笑いを残して、洛陽へと駆け去った。  舞いあがる砂塵《さじん》は夕陽を受けて不吉な紅《あか》さに染まっている。視界がすべて人血《じんけつ》によって塗りこめられたかのようであった。少女は父に駆けよった。放置された人馬の屍体の蔭《かげ》に小さな身体をひそめていたので、匈奴兵に発見されずにすんだのである。父の身体にすがりつくと、掌《てのひら》にも袖《そで》にも塗料のように血が付着した。低い呻《うめ》き声がたって、少女は父がまだ生きていることを知った。そのときはじめて少女の目に涙があふれた。  ……七年前のことだ。洛陽が炎上し、憎悪と恐怖が世をおおいはじめたとき、少女はさとったのである。世のなかには自分たちと大きくかけはなれた価値観を持つ人々がいること。彼らの暴虐から自分たちの尊厳を守るためには、自分たち自身が強くあらねばならないことを。  少女の姓名は荀潅《じゅんかん》という。  晋《しん》の愍帝《びんてい》の建興《けんこう》三年(西暦三一五年)。中華帝国は空前の乱世をむかえていた。  晋の武帝司馬炎《ぶていしばえん》が呉《ご》を滅ぼして天下を統一し、三国の大分裂時代を終熄《しゅうそく》せしめたのは、つい三十五年前のことである。ようやく乱世が終わって平和と安寧《あんねい》がもたらされるかに見えたのだが、それは武帝一代のことにすぎなかった。武帝は英雄というより好運児であり、父祖から譲られた権勢をもって魏《ぎ》を簒奪《さんだつ》し、衰微《すいび》した呉を討って天下を我がものにしたのである。天下統一と同時に、武帝は統治者としての目標と意欲とを失った。彼は武力を削減して北方騎馬民族への防備《そなえ》をおこたり、後宮に二万人の美女を集めてひたすら歓楽にふけった。  それでも武帝一代の間は平和が保たれた。彼には天下統一の実績があり、人為《ひととなり》は寛大かつ穏健で、人望があつかったのだ。そして何よりも、中華帝国の民は流血に倦《う》んでいた。武帝は滅ぼした王朝の君主を殺さず、貴族として遇した。魏、呉、蜀漢《しょっかん》、いずれの君主も生をまっとうすることができた。  だが流血に倦まない者たちがいたのである。  武帝が五十五歳で急死して皇太子が即位した。これが晋の恵帝《けいてい》である。宮廷の大臣たちは乱世の再来を予期して暗然《あんぜん》とした。恵帝は暴悪《ぼうあく》の人ではなかったが、暗愚《あんぐ》の人であった。彼が皇位継承者にさだまったとき、大臣のひとりが玉座を手でなでて嘆息《たんそく》した。 「ああ、この座がもったいのうござる」  皇太子に大帝国を統治するだけの器量はない、と言い放ったのである。皇太子をそしられて武帝は激怒したであろうか。否、武帝は無言で下を向いただけであった。事実であったから反論できなかったのである。この挿話《そうわ》が同時にしめすものは、大臣の非礼をとがめて殺す、ということをしなかった武帝の穏健さである。  恵帝の即位後たちどころに世は乱れた。まず飢饉《ききん》がおこって民は飢えた。「米《こめ》がなくて民は飢えております」と報告を受けたときの恵帝の返答はあまりにも有名である。 「米がないなら肉を食べればよいであろう」  恵帝に悪意はなかった。それ以上に統治能力と、事態を認識する能力がなかったのだ。  かくして十六年におよぶ「八王《はちおう》の乱」がおこる。王の称号を持つ八人の皇族男子が兵をあげ、権力をめぐって殺しあったのである。楚《そ》王が重臣の楊《よう》一族を討ち、数千人を殺したあと自分も殺された。汝南《じょなん》王が皇后の陰謀によって殺された。趙《ちょう》王が皇后とその一族を殺し、恵帝から一時皇位をうばった。斉《せい》王がその趙王を殺した。このとき帝都洛陽をめぐる戦闘は六十日にわたり、戦死者は十万人におよんだ。  おそらくは毒殺されたのであろう。恵帝が急死して懐帝《かいてい》が即位し、「八王の乱」はようやく終わった。息をつく間もなく、今度は「永嘉の乱」がはじまる。  もともと匈奴をはじめとする北方騎馬民族たちは、「胡人《こじん》」と総称されている。彼らは数百年にわたって中華帝国の領土内に移住し、牧畜をおこなったり傭兵《ようへい》となったりして生活していた。「八王の乱」に際し、すみやかに兵力を増強する必要に駆られた王たちは、これら胡人の部隊を編成し、武器を与え、掠奪《りゃくだつ》を公認した。そして「八王の乱」が終わったとき、胡人のもとには武器と組織があり、戦闘と掠奪の経験が残されたのだ。いまや彼らは知っていた。自分たちは貧しいが強く、中華帝国は豊だが弱くかつ乱れていることを。起兵《きへい》をためらう理由はどこにもなかった。  劉淵《りゅうえん》、石勒《せきろく》、劉聡《りゅうそう》らの族長にひきいられた胡人の大軍は中原《ちゅうげん》に乱入し、晋軍十万を撃滅した。いたるところ殺戮《さつりく》と破壊と掠奪をくりかえし、ついに帝都洛陽を陥落させ、市街を血と死体で埋めつくす。もっとも酷烈《こくれつ》な劉聡は、懐帝を玉座から引きずりおろして奴隷にした。豚小屋にとじこめ、残飯《ざんぱん》を食わせ、犬のように首輪をはめて引きずりまわし、鞭《むち》うって労働させた。そして、晋の旧臣《きゅうしん》たちを集め、懐帝のあわれな姿をさらしものにした。あまりのことに旧臣たちは顔をそむけ、涙を流した。劉聡は、涙を流した者を全員引きずりだして首を刎《は》ね、さらに懐帝自身も惨殺した。 「おれたち胡人を蛮族とさげすんだ漢人どもに思い知らせてやるのだ」  というのが劉聡の言分《いいぶん》であった。  洛陽だけでなく多くの城市《まち》が炎上し、中原すなわち黄河流域は完全に無政府状態となる。いわゆる「五胡十六国《ごこじゅうろっこく》時代」のはじまりである。貴族も民衆も、異民族による虐殺と破壊から逃《のが》れるために南をめざした。長江を渡り、江南《こうなん》の地へと向かったのである。そこは三国の呉の故地《こち》で、一国を建てるだけの広さと豊かさとを有していた。平和を求め、政治的秩序の再建と漢文化の維持を願う人々の列が南へ南へ伸びていった。だが一方で、なお踏みとどまっている人々もいたのである。      ㈼ 「……誰が敵中を突破して援軍を求めに行くのだ」  父の声がして、少女は自分がまどろみからさめたことを確認した。仔猫《こねこ》を追って邸第《やしき》のなかを駆けまわるうち、父の書院《しょいん》にはいりこみ、刺繍《ししゅう》つきの布をかけた大きな卓《テーブル》の下にもぐりこんだ。いつしかまどろみ、その間に父が卓について幕僚たちと会議をはじめたらしい。  少女の父は姓を荀《じゅん》、名を《しゅう》、字《あざな》を景猷《けいゆう》という。この年、五十四歳。官職は平南《へいなん》将軍、都督荊州江北諸軍事《ととくけいしゅうこうほくしょぐんじ》。爵位は曲陵公《きょくりょうこう》。晋王朝の臣として宛城《えんじょう》を守っていた。  宛城の位置は、帝都洛陽の南四百三十里(約百八十七キロ)、後世でいう河南省の最南部である。黄河の中流地区とをつなぐ要衝《ようしょう》で、古来、兵家必争《へいかひっそう》の地といわれた。北には伏牛《ふくぎゅう》山地がせまり、※[#さんずいに育]水《いくすい》という川を下るとやがて漢水《かんすい》に合流する。その合流点にあるのが、宛城よりさらに要衝とされる襄陽《じょうよう》である。北方から襄陽を攻撃しようとする者は、その前にかならず宛城を陥《おと》さねばならなかった。宛城の近くには良質の鉄を産する鉱山もあり、それもまた覇者たちにとっては魅力であった。  そしていま宛城は強力な敵に包囲されていた。敵将の名を杜曽《とそ》という。晋の皇族の幕僚で、南蛮司馬《なんばんしば》という官職にあった。これは南方の異民族によって編成された部隊の長という意味だが、官職名と実態はかならずしも一致しない。要するに、実力ある実戦部隊長である。この男が、世の乱れを見て野心をおこしたのだ。 「晋王朝の命脈《めいみゃく》はすでにつきた。北方の胡人どもが中原に乱入して王を自称しておる。おれが王になって悪いはずがなかろう。まず宛城を陥《おと》してそこに拠《よる》るとしようか」  杜曽の野心がだいそれたものであるとは、かならずしもいえない。春秋戦国といい三国といい、過去にも乱世はあった。だが、胡人が中華帝国の奥深く乱入して皇帝を殺し、帝都を焼くなど未曾有《みぞう》のことである。杜曽が風雲に乗《じょう》じて王になる可能性はたしかにあった。  杜曽は「万夫不当《ばんぷふとう》」とまで称される猛将で、一騎打《いっきうち》で敗れたことがなく、甲冑《かっちゅう》を着用したまま川を泳ぎ渡ることができた。その部下も歴戦《れきせん》の勇兵で、しばしば匈奴の軍を撃破している。掠奪や破壊の面においても匈奴に匹敵するといわれた。  杜曽は勇猛だが血を好む悪癖があった。かつて南郡《なんぐん》太守の地位にあった劉務《りゅうむ》という人がおり、彼の娘は美貌で知られていた。杜曽は彼女を妻にと望んだが拒絶された。怒った杜曽は兵をひきいて南郡を攻撃し、たちまち陥落させてしまう。劉務とその一族はすべて殺され、美貌の娘は姦《おか》された末に高楼《こうろう》から身を投げて死んだ。宛城が陥された後、城内の民衆がどのような目にあうか、予期しただけで人々は戦慄《せんりつ》させられたのである。  杜曽は自分で勝手に南中郎将《なんちゅうろうしょう》と称した。彼のひきいる三千騎が、将軍|陶侃《とうかん》のひきいる討伐部隊を撃破し、宛城に殺到してきたとき、城を守る荀は愕然としながらもすばやく対処した。城外の住民を収容し、城門を閉ざしてたてこもったのだ。  都督荊州江北諸軍事。後世の用語をもってすれば、荀の地位は湖北《こほく》方面軍総指令官である。数万人の軍隊をひきいるべき身でありながら、実際に彼が有する兵力は千に満たなかった。高く厚い城壁が、かろうじて賊軍の猛攻から住民を守っている。  篭城《ろうじょう》は唯一の策であった。とはいえ、城外の住民を収容したために城内の人口は二倍になり、当然ながら食糧は不足する。城外に援軍を求めなくてはならなかった。朝廷はもはや存在せぬも同様で、全軍を統一的に指揮するものはいない。どこに援軍を求めればよいのか。それが大きな問題であったが、さいわい荀にはあて[#「あて」に傍点]があった。  襄城《じょうじょう》である。  襄城は宛城の東北方、三百三十里(約百四十三キロ)の距離にある。そこの太守|石覧《せきらん》は荀の親しい友人であった。かつて荀が襄城の太守であったとき、石覧はその幕僚としてもっとも信頼されていたのである。深く長い交際であったから、急を知れば救援に駆けつけてくれるであろう。だがどうやって急を知らせるか。この時代、敵中を突破して目的地へ駆けつける以外に方法はない。唐の張九齢《ちょうきゅうれい》が伝書鳩《でんしょばと》という方法を考案するのは、これより四百年も後のことである。 「誰を派遣すべきか」  何度めかの呻《うめ》きを荀はもらした。彼自身には城を守る責任があって動けぬ。また、洛陽を脱出するとき匈奴兵のために瀕死《ひんし》の重傷を負《お》い、四ヵ所の傷はいまなお季節の変わり目ごとに疼《うず》き、左腕は自由に動かない。苛烈《かれつ》な騎行《きこう》には耐えられない身であった。 「あまりにも危険だ。誰がやればよいのか」 「わたくしが!」  元気のよい叫びは、荀の足もとからおこった。布をはねあげ、卓の下から人影が躍りたったのだ。 「父上! わたくしが使者となって襄城へ赴《ゆ》きまする!」  荀だけではない、幕僚の全員が唖然《あぜん》として闖入者《ちんにゅうしゃ》を凝視した。まさか卓の下に人がいるとは思わなかったのだ。荀が娘を叱るより早く、幕僚のひとりが笑いだした。 「いやはや、潅娘《かんじょう》が刺客《しかく》であったら、とてものこと、曲陵公のお生命《いのち》はなかったところですな」  潅娘とは「潅お嬢さん」というほどの意味である。聡明で活発で美しい十三歳の少女は、宛城の将兵や民衆に人気があった。荀の方針もあって、彼の家族は格式ばらず将兵や民衆に親しみ、それが信頼を生んで、宛城の雰囲気を和《なご》やかなものにしていた。この血臭《けっしゅう》ただよう乱世にあっては稀有《けう》のことであった。  一同の笑いのなかで、父娘《おやこ》だけが笑わない。やがて笑顔をつくったのは娘のほうだった。 「父上、わたくしたちは後漢の敬侯《けいこう》の子孫ですね? だとしたらもっとも危険な任務は自分で果たさなくては」  後漢の敬侯とは、「三国志」にも登場する荀《じゅんいく》のことである。卓絶した知性と識見とをもって魏王|曹操《そうそう》の軍師となり、生前も死後も令名《れいめい》高い士人《しじん》であった。たぐいまれな美男子であったが、荘重でしかつめらしい態度であったので、反対派からは「あいつは葬儀屋でもやっていればいいのだ」などと悪口をいわれている。荀は荀の玄孫《げんそん》(孫の孫)にあたり、為人《ひととなり》は「志操《しそう》清純にして文学を雅好《がこう》す」とある。荀家は乱世にあって学術と志操とをかかげ伝える、誇り高い一門であった。  荀潅はまさしく三国志にあらわれる英傑の正嫡の子孫であったのだ。晋の時代、このような例を他に求めると、魏《ぎ》の曹植《そうしょく》の子孫である曹志《そうし》、魏の夏侯淵《かこうえん》の子孫である夏侯湛《かこうたん》、魏の諸葛誕《しょかつたん》の子孫である諸葛恢《しょかつかい》などが文人や官僚として名を残している。特筆すべきは呉《ご》の陸遜《りくそん》の孫である陸機《りくき》と陸雲《りくうん》の兄弟で、文人として令名を天下に馳《は》せたが、ともに「八王の乱」に巻きこまれて殺された。なお蜀《しょく》の諸葛亮《しょかつりょう》の孫である諸葛京《しょかつけい》は晋王朝につかえて広州刺史《こうしゅうしし》となったが、さしたる治績もなく、その子の代には消息がとだえている。 「このようなときに戯《たわむ》れをいうまいぞ」  荀は娘をたしなめた。だが少女が本気であることを、誰よりも彼が最初に認めざるをえなかった。双眸《そうぼう》にきらめきが満ちて父を直視している。その表情が示すものを、父が誤認《ごにん》できようはずがなかった。 「わかっておるのか、容易ならぬことなのだぞ」 「はい、承知しております」 「多くの人の生命がかかっておるのだ。万が一にも敵に囚《とら》われたらいかに身を処《しょ》するか、覚悟があっての申しようか」 「ご心配なく。敬侯の子孫として、荀家の名を辱《は》ずかしめるようなことはいたしませぬ」  さわやかに言い放ったが、内容は重い。杜曽の軍に囚えられるようなことことになれば、名を明かして敵将の前に立つ。姦《おか》されるかもしれない。だが隙を見て短剣で杜曽を刺殺する。自らの勇猛を恃《たの》む粗暴な男にはかならず隙があるはずだ。  そこまで覚悟してはいたが、荀潅は本来、楽観的な生まれつきであるらしい。自分自身そこまで追いこむことなく、勇気と機智をもって使命を成功させるつもりであった。失敗はできない。だとしたら失敗せぬように最善をつくすだけのことである。  幕僚たちももはや笑声をたてず、声と息をのんで荀家の父娘を見守っている。ふいに荀は溜息をついた。 「ああ、お前が男であったら、荀家の将来に一点の不安もないものを」  心から荀は惜しんだ。彼には息子がいなかったのだ。彼は娘を愛し、その勇気と思慮を高く評価していたが、中世社会の儒教《じゅきょう》の徒であったから、女に家を継《つ》がせるという発想はまったくなかった。仮《かり》に彼がそう望んだとしても、社会的に認められるはずがない。 「よろしい、お前に宛城の運命を託そう。みごと敵中を突破して城を救うてみよ」 「はい、かならず」  父の許可をえた荀潅は、誇らしげなかがやきを顔じゅうに満たした。  十三歳の少女が敵中を突破して援軍を求めに行く。宛城数万人の生命が少女の肩にかかるわけだが、おどろいたことに、反対する者はいなかった。それだけ荀には人望があり、荀潅自身にも人を信頼させるものがあったのだ。  荀潅を護衛する兵士は、気兵のみ五十名。それ以上の人数を割《さ》くことはできなかった。だがせめてもの親心で、とくに勇敢で忠実な兵士たちを選びぬいた。  荀潅は甲冑《かっちゅう》を身につけた。十三歳の少女としては荀潅は背が高く、十五歳の少年ほどには見えたというから、甲冑を着た姿もおかしくはなかったであろう。それどころか、凛然《りんぜん》とした姿を見て、むしろ「潅娘であれば、みごと使命を果たしてくれるであろう」と期待する者が多かった。  さいわい新月の時期で、夜の闇は濃い。やりようによっては杜曽の包囲を突破することもできるだろう。 「擬兵《ぎへい》の計を使ってはいかがでしょうか」  十三歳の少女のくせに、荀潅は軍事用語を知っていた。貴族の令嬢などという枠《わく》を飛びこえて、書物を愛し、兵法に熱中し、武芸を好む少女だった。甘い父親は「女は女らしく」などと説教したことはなく、自由に闊達《かったつ》にふるまわせていたのだ。  夜半、酒をあおって眠っていた杜曽は、あわただしい報告でたたき起こされた。これまでひたすら守勢《しゅせい》に徹していた宛城の守備兵が、突如として西の城門を開き、出撃してきたというのだ。一瞬にして酔いも睡気《ねむけ》も追い出した杜曽は、甲冑を身につけると同時に馬にとびのっている。  三千の兵は有効に使わねばならぬ。杜曽は全兵力を西門に集中させた。出撃してくる敵兵をことごとくを斬りすて、勢いを駆って城内へ侵入し、一夜にして全城を血の海に沈めてくれよう、と、杜曽は思った。 「敬侯の子孫だか何だか知らぬが、無策な奴よ。泉下《あのよ》へ行って先祖に自分の無能をわびるがよい」  自信に満ちて杜曽は巨大な矛《ほこ》をしごいた。  ところがその自信も空転してしまう。城門を開いて突出してきた荀の軍は、ひとしきり揉《も》みあった後、さほどの執念も見せず後退していくのだ。突進していく杜曽の眼前で門扉《もんぴ》が閉ざされた。卑怯者、出てきて戦え、と怒号する杜曽のもとに、ふたたび急報がもたらされた。城の東門から四、五十騎の兵が走り出て、ひたすら東北方へと駆け去ったというのである。      ㈽ 「さては城外に援軍を求めたか。おそらく襄城《じょうじょう》に向かったと見える。たしか襄城の太守は荀《じゅんしゅう》めの知己《ちき》であったはず」  舌打ちした杜曽《とそ》は、あらためて宛城《えんじょう》を包囲する態勢をとると、一方で、脱出した敵を追跡するよう命じた。  五十騎を追うのに、杜曽は五百騎を割《さ》いた。この事実は、彼がけっして無能ではなかったことを意味する。一騎でも脱出に成功すれば、それは千騎にもなって還《かえ》ってくるであろうことを、杜曽は承知していた。 「よいか、ひとりも逃《のが》すなよ」  主将の厳命を受けて、五百騎の追跡者は東北方へ馬を走らせた。宛城《えんじょう》から襄城へ到る道は起伏《きふく》と変化に富む。伏牛山《ふくぎゅうざん》の最奥部をつらぬき、丘をこえ、谷に沿い、森を縫《ぬ》って走る。しかも新月の夜である。騎行は容易ではなかった。一刻ほどで追跡者たちが目標に追いつくことができたのは、先行する荀潅《じゅんかん》たちがそれだけ早く、けわしい地形に直面したからである。追跡者たちは「殺《シャア》!」の叫びとともに馬を躍らせ、森を縫《ぬ》う道を走りぬけて襲いかかろうとした。その剽悍《ひょうかん》な動きがにわかに乱れ、悲鳴があがり、馬が倒れた。  樹木の間に索《つな》が張りめぐらされていたのだ。しかもその索は黒く塗られていたから、突進してきた追跡者たちの目に見えようはずがなかった。馬はつんのめって地に倒れ、騎手はもんどりうって宙へ投げだされる。岩角にたたきつけられた兵は苦痛の叫びを発して動かなくなった。ようやく混乱が収拾《しゅうしゅう》され、索が切断されるまでに、十騎あまりが行動能力を失った。その間に、荀潅《じゅんかん》たちは千歩ほども距離をかせぐことができた。 「追え! ひとりも逃すな!」  怒りくるった追跡者たちは、ふたたび馬を駆った。傾斜の急な坂道にかかると、こんどは上から石が落ちてきた。これで骨折した十騎ほどが脱落した。  さらに山道を進むと渓谷沿《ぞ》いの道に出た。何かがくずれるような異様な音がした。闇をすかし見ると、渓谷にかかった木の橋が断《た》ち切られている。さては橋を渡った後に断ち切ったか、と見て、いったん渓谷に下り、苦労して渓谷を渡りはじめた。全隊の半ばが渡りきったとき、最後尾の兵が叫びを放った。荀潅たちは橋を断ち切ってみせただけで渡ってはおらず、追跡隊の後尾をかすめて駆け去ったのである。 「かさねがさね小細工《こざいく》を!」  追跡部隊の指揮官が何という名であったか、史書には記載《きさい》がない。だがあきらめの悪い男であったことはたしかだ。何よりも、追跡に失敗したときの杜曽の反応が恐ろしかったにちがいない。彼らは苦労してふたたび上方の道へもどったのである。  三度、四度と巧妙な妨害になやまされながら、白河《はくが》という川で、彼らは荀潅たちに追いついた。騎馬で渡河《とが》するとき、荀潅たちもさすがに松明《たいまつ》を灯《とも》さざるをえなかったのだ。その灯火を目標として追跡者たちが殺到してくると、松明は河中に投じられた。いちだんと濃く闇がおりた。  河中の白兵戦となった。  水深は馬のひざのあたりまであったという。激突する剣や槍から火花が飛散し、それが水面に反射してあざやかな色彩の飛沫《しぶき》となる。それ以外はすべての光景が、夜のひろげる黒一色に塗りこめられていた。刃が衣服と肉を斬り裂く音。絶叫と悲鳴。水音。激しい息づかい。それらが死闘の証《あかし》だった。  白昼の戦いであったら、まるで問題にならなかったであろう。夜と水とが荀潅たちに味方した。追跡者たちは荀潅たちを包囲することができず、数を確認することもできなかった。戦って武勲をあげることが荀潅たちの目的ではない。敵の刀槍《とうそう》を払いのけ、振りきって対岸に上陸することをめざした。荀潅は剣をふるって三人まで河中に斬り落としたが、斬られた者の生死のほどは不明である。  対岸に上陸できた者は三十余騎。残りの兵士は河中で死んだ。追跡者たちもほぼ同数を失ったが、なお四百騎以上が健在である。  白河を渡り、魯陽《ろよう》という土地にさしかかったとき、東の地平線上に一本の白刃が横たわったかと見えた。夜が明けはじめたのだ。地形も平坦《へいたん》になり、追跡者たちにとっては有利になるものと思われた。  見はるかすと、東へ一条の土煙が走っている。追跡者たちは喊声《かんせい》をあげ、血気にまかせてそれを急追《きゅうつい》していった。彼らが駆け去った後、街道に沿った森のなかから、荀潅たちが姿をあらわした。馬の口に枚《ばい》と呼ばれる木片をくわえさせ、息をひそめて隠れていたのだ。追跡者たちの土煙が完全に遠ざからぬうちに、荀潅たちは馬にとびのり、反対方向へと走り出した。四半刻後に、追跡者たちは最初の目標を捕捉した。尻尾《しっぽ》に木の枝を結びつけ、盛大に土煙をたてて走る二十頭の空馬《からうま》を。それは最初から荀潅が用意していたもので、本来は替え馬にするはずのものであった。  ついに追跡者を振りきった。襄城は荀潅の前方に、点のような姿を見せていた。  襄城《じょうじょう》の太守|石覧《せきらん》は少女の前に駆けてきた。ここ数日、南西方向にあたる宛城《えんじょう》の一帯で兵乱《へいらん》がおこっているという噂があった。だが真偽《しんぎ》のほどはさだかではなく、むやみに兵を動かすわけにはいかなかった。城を無防備にすることもできず、困惑を深めていたところへ、宛城から援軍を求める使者が駆けつけたのである。 「潅娘《かんじょう》? まことに潅娘か!?」  石覧は彼女を凝視した。かつては家族ぐるみで親しく交際していたとはいえ、七年ぶりの再会である。頬を紅潮させて宛城の危機をうったえる少女のようすを、石覧は観察した。これは無意味な用心ではない。もしこの使者が偽物《にせもの》であれば、石覧とその部下たちは城外にさそいだされ、杜曽の待ち伏せにあって撃滅されるかもしれないのである。 「おう、たしかに潅娘だ、まちがいない」  ようやく六歳のころのおもかげを確認して、石覧はうなずき、同時に感歎した。わずか十三歳の少女が敵中を突破し、休息もなしに三百三十里の道を馬で駆けぬけてきたというのである。 「よろしい、ただちに援軍をだそう」  石覧は、ひとまず少女を助けおこした。 「曲陵公《きょくりょうこう》は朝廷にとっても民にとってもたいせつな方だ。まして、この乱世、官にある者どうし力をあわせねば、流れる血が増えるだけ。できるだけのことはさせてもらおうぞ」 「かたじけなく存じます」  荀潅は深く深く一礼した。だが安堵《あんど》のあまりすわりこむ贅沢《ぜいたく》は、彼女には許されなかった。石覧の誠意と好意は疑うべくもない。だが彼はもともと文官であって実戦経験にはとぼしいのだ。杜曽に勝てるだろうか。 「どれほどの兵数を集めていただけますか」 「できるだけ多く。そうだな、二千人近くにはなるだろう」  それではたりぬ、と、荀潅は思った。杜曽の兵力は三千だが、将も兵も勇猛《ゆうもう》で、その兵力は五、六千の軍勢に匹敵《ひってき》するであろう。荀潅は短時間で判断を下した。より多くの援軍を宛城につれ帰らねがならない。 「筆と紙をお貸しいただけますか」 「かまわぬが、何を書く気だ」 「尋陽《じんよう》の周太守《しゅうたいしゅ》に救援の依頼状を」 「なるほど、それは名案だ」  文字どおり石覧はひざをたたいた。  荀潅が名をあげた人物は周訪《しゅうほう》といい、彼こそ朝廷から正式に叙任《じょにん》された南中郎将《なんちゅうろうしょう》であった。この時期、尋陽郡の太守を兼ね、襄城の東南五百七十里(約二百四十七キロ)の地点に本拠をおいている。そしてその兵力は、宛城と襄城とをあわせたよりも多いはずであった。襄城の兵力だけでは杜曽に敵対できず、結局は宛城も襄城も杜曽の手中に落ちてしまいかねない。そうなれば中原から南方への道が遮断《しゃだん》され、数百万の民衆が避難できなくなるであろう。事態はそれほど深刻であり、それは荀潅に深紅色の夢を思いださせた。死者の霊すらも畏《おそ》れぬ匈奴兵が、無力な民衆めがけて喊声とともにおそいかかる。そのような光景は二度と見たくなかった。  このとき荀潅がたてた作戦は、後世において「分進合撃《ぶんしんごうげき》」と呼ばれる戦術であった。石覧と周訪とがそれぞれ兵力をひきいて根拠地から進発し、宛城で合流して一挙に杜曽を挟撃するというものである。ただこの計画を成功させるには、日時と場所についてよほど綿密に打ちあわせておかねばならない。 「さすがに敬公の嫡流《ちゃくりゅう》。深慮《しんりょ》のほど、われらごときのおよぶところではない」  石覧は舌を巻いた。荀潅の勇気と戦略的|識見《しきけん》はとうてい十三歳の少女とは思えず、男たちとしては、その理由を偉大な先祖の血に求めるしかないのであった。 「ではわたくしは尋陽へ参ります。僭越《せんえつ》ではございますが、日時についてはどうかおまちがえなきよう」 「うむ、くれぐれも気をつけてな」  休息していけ、といいたいところではあったが、荀潅をとめても無駄であることを石覧は知っていた。気分の昂揚《こうよう》が少女に疲労を忘れさせ、その美しさをひときわ精彩《せいさい》あるものにしている。彼女は作戦の連係《れんけい》のため、十騎だけを石覧のもとに残し、あたらしい馬を借りると、尋陽郡へ五百七十里の道を走りだした。十余騎がそれにしたがい、東南へと駆け去った。      ㈿  荀潅《じゅんかん》が宛城《えんじょう》から脱出して六日がすぎた。すでに城内の食糧は尽《つ》きかけて、将兵も民衆も一日二杯、薄い粥《かゆ》をすするだけの状態である。それをさとった杜曽《とそ》は、兵士たちを叱咤《しった》して苛烈《かれつ》な攻撃をかけた。援軍がくるまでに決着をつけようという気もあった。弩《おおゆみ》で城内へ矢を射こみ、破城槌《はじょうつい》で城門を破壊し、城壁に梯子《はしご》をかけて斬りこみをかける。必死の防戦も、三百人以上の死傷者を出し、しだいに押されぎみとなって、ついに攻防戦の決着がつくかと思われたとき。 「東北に砂塵が見えます!」  城壁上の荀《じゅんしゅう》も、城壁下の杜曽も、ほぼ同時にその報告を受けた。おりからの落日を受けて、騎馬のたてる砂煙は紅《あか》く、甲冑のきらめきがそのなかに点在している。 「襄城《じょうじょう》からの援軍が来たぞ!」  歓喜の声が城内を満たした。一方、城外にあっては杜曽が馬城で号令を発し、城への攻撃をやめさせていた。 「あのていどの兵数で、おれを討てるつもりか。笑止《しょうし》のかぎりよ」  杜曽は矛《ほこ》を高くかざすと、「殺《シャア》!」の喊声をとどろかせて馬腹を蹴った。三千の兵がそれにつづいた。彼らは待機して敵を迎撃するということをせず、猛然とこちらから攻勢に出たのである。  それは明らかに|石覧《せきらん》の意表をついた。もともと文官である石覧は、二千たらずの兵力で、猛将杜曽と正面から激突するはめになった。あわてて邀激《ようげき》の命令を下したが、それより早く、杜曽は奔馬《ほんば》を駆りたてて敵陣にせまり、自慢の矛をふるって、まさに人血の旋風を巻きおこそうとした。  その瞬間であった。地を踏みとどろかせ、東南方面の丘陵を躍りこえてきた一群の兵馬がある。先頭に立つ、若すぎる騎手の名を杜曽は知りようもない。とにかく数千の兵がわきおこる積乱雲《せきらんうん》さながらの勢いで稜線《りょうせん》上にあらわれ、甲冑の波となって斜面を駆け下ってくる。杜曽軍は右の側面を衝《つ》かれ、にわかに乱れたった。  襄城、つまり東北方面からの援軍は、杜曽も予想していた。援軍の数もほぼ予測がついた。そのていどの兵力が相手なら、一戦して撃ち破る自信もあったのだ。だが、東南方面から予想外の兵力が出現したとき、杜曽の闘志はくじけた。なお膨大《ぼうだい》な兵力が戦場にあらわれ、彼を包囲するのではないか、と恐れたのである。ひとたび恐怖をおぼえたとき、杜曽はもはや猛将ではなかった。喚《わめ》くように、彼は退却を命じた。  そのとき飛来《ひらい》した矢が、鈍い音をたてて杜曽の胸甲《きょうこう》につき立った。弓勢《ゆんぜい》がやや弱く、胸甲をつらぬくことはできなかったが、杜曽を動転させるには充分であった。彼は一言も発せず、馬首をめぐらすと、部下を見すてて逃げだした。部下たちも戦意をうしない、つぎつぎと槍を引き、剣をおさめて走りだした。杜曽の後を追って逃げだしたのだ。  すべてを見ていた城壁上の兵士たちが狂喜の叫びをあげた。冑《かぶと》をぬいで宙に放りあげると、それらが落日に反射して、光の珠《たま》が黄昏《たそがれ》のなかを乱舞した。そのありさまを見あげた城内の人々も両手を振って歓呼《かんこ》する。 「信じられぬ、ようやってのけた」  そうつぶやいた荀は、我に返ると、城門を開くよう命じた。門扉に数人の兵士がとびつくと、それに百倍する民衆が群らがって手伝った。混乱のなかで門扉が開《あ》け放たれると、合計五千騎の先頭に立って荀潅が城内に走りこんでくる。一瞬の後、荀潅の姿は馬上から消えていた。  兵士と民衆とを問わず、人の波が地上にあふれている。荀潅も、彼女にしたがって敵中を突破した兵士たちも人々の肩の上にいた。あびせられる歓呼と、握手を求める手の大海なかで、城壁上を見あげた荀潅が激しく両手を振る。 「父上、やりましたよ、父上!」  ただただ荀はうなずくだけであった。  宛城を陥《おと》すことができず、部下の人望をも失った杜曽が、追いつめられてみじめな最後をとげたのは数日後のことである。彼の名は「十三歳の少女に敗れた男」として歴史に残ることになった。  この物語は「晋書《しんじょ》」の「荀伝《じゅんしゅうでん》」、「杜曽伝《とそでん》」および「列女伝《れつじょでん》」による。後世、明《みん》の時代に武林夷白主人《ぶりんいはくしゅじん》と称する人物が「東西両晋演義《とうざいりょうしんえんぎ》」という歴史小説を著《あらわ》した。その第十五回の題名は、「荀女潅娘突囲《じゅんしゅうのむすめかんじょうかこみをつく》」というのである。平和と統一がもろくも失われ、殺戮と悲惨とが世をおおった時代に、十三歳の少女が示した勇気と智略とは、暗夜の灯火として人々に印象づけられたのだ。  荀潅の名は、これ以後、まったく歴史にあらわれない。だが、彼女の父荀は大乱のなかを生きのびた。晋の皇族である司馬睿《しばえい》が江南で王朝を再興し、東晋《とうしん》の元帝《げんてい》となると、荀はそのもとに駆けつけて重用《ちょうよう》された。官職は尚書僕射《しょうしょぼくや》となったが、これは宰相の一員である。さらに、※[#艸+(豕+生)]《ずい》、羨《せん》というふたりの男児をもうけたが、この母親は荀潅を生《う》んだ女《ひと》ではないであろう。ふたりの男児は長じて宮廷官僚となり、父につづいて「晋書」に伝をたてられるほどの活躍を示したが、それを述べると長くなりすぎる。  十三歳のとき宛城から襄城へと敵中を駆けぬけた少女は、その後、どのように動乱の世を駆けぬけたのであろうか。後世の人間は想像するしかないが、歴史の一隅に荀潅がきらめかせた光芒《こうぼう》のあざやかさを思えば、彼女が父を助けて長江を渡り、晋王朝の再興に力をつくし、好ましい男と恋をしてそれをつらぬき、人生を充実と信望のうちに送ったと信じてよさそうに思われる。