匹夫の勇 (出典:チャイナ・イリュージョン 田中芳樹 中国小説の世界) 田中 芳樹・著      ㈵  ついにこの土地が好きになれなかった。蕭摩訶《しょうまか》は苦々《にがにが》しい思いをこめて、十五年をすごした|※[#併のつくり]州《へいしゅう》の周囲を見わたした。黄河《こうが》の北方、万里の長城に近い黄土の大地である。風も大地も冷たく乾き、砂塵は舞いあがって天に冲《ちゅう》する。十七歳の初陣《ういじん》以来、五十六年の歳月を戦塵《せんじん》の中で過ごした蕭摩訶であった。そのうち四十一年は、緑と水が豊かな江州の地にいたのだ。陳《ちん》国の猛将としてかずしれぬ武勲を誇った蕭摩訶は、陳が滅亡すると、天下を統一した隋《ずい》につかえることになった。そしていま、故郷を二千里も離れた土地で、隋の煬帝《ようだい》に対する叛乱《はんらん》軍の将となっている。煬帝の弟である漢王諒《かんおうりょう》の部下としてである。  時に隋の仁寿《じんじゅ》四年(西暦六〇四年)、蕭摩訶、字《あざな》は元胤《げんいん》、年齢は七十三であった。  蕭摩訶が生まれたのは梁《りょう》という国である。父は梁の国の将軍であったが、蕭摩訶が幼いころ死去した。時代は南北朝、天下が分かれて戦火の絶えぬ乱世であったが、南朝の梁の武帝《ぶてい》の御宇《みよ》は対外的に幾度もの戦争を強《し》いられながらも、国内は平和で、繁栄をきわめるとともに文化もさかえていた。  それが一挙に破れたのが「侯景《こうけい》の乱」で、北朝から亡命してきた剽悍《ひょうかん》な野心家は、平和に慣れた梁の社会を、あらあらしい暴力で引っくりかえしてしまった。その暴虐に対して各地で勤王《きんのう》の軍がおこり、侯景と戦った。十七歳の蕭摩訶は養父にしたがって出陣し、実戦を経験した。そして最初の闘いで、十人以上の敵を討ちとったのである。  自分が強いとは思わない。むしろ他人が弱いことに、十七歳の少年はおどろいた。その後、梁が滅びて陳王朝がはじまると、重臣の侯安都《こうあんと》という人が蕭摩訶の上官となり、彼を厚遇してくれた。  北朝の北斉《ほくせい》国の軍と、鐘山という土地で戦ったときのことである。  侯安都が声をかけてきた。 「卿驍勇有名千聞不如一見」  卿《けい》の驍勇《ぎょうゆう》は有名なれど、千聞《せんぶん》は一見に如《し》かず。普通は「百聞は一見に如かず」というものだが、侯安都は誇張してみせたのである。蕭摩訶は一礼して答えた。 「今日、公をして一見せしむ」  戦闘が開始されると、たちまち激戦となった。もともと北斉の軍は強く、これまで南朝と戦って敗れたことはない。気づいたとき、侯安都の身辺には刀槍《とうそう》のきらめきと血煙が渦まき、味方の兵はつぎつぎと地上に死屍《しし》をつみかさねていく。数本の戟《ほこ》が同時に侯安都の甲《よろい》を突き、彼は鞍上《あんじょう》から転落した。地に転がりながら剣をふるって戟を斬《き》り払ったが、もはや助かる術《すべ》はなさそうに思えた。  観念しかかった侯安都は、不意に異様な叫びを耳にした。血の飛沫《しぶき》が熱く降りかかり、敵兵の首がいくつも彼の左右に転がった。見あげると、人と馬とが入り乱れ、逆光を受けて黒影が躍りくるっている。黒影のひとつが蕭摩訶であった。 「殺《シャア》!」  喊声《かんせい》とともに巨大な偃月刀《えんげつとう》が陽光をはじくと、鮮血の暴風が巻きおこる。首が飛び、腕が舞い、人馬もろとも斬り倒されて、乾いていたはずの地表は赤黒い泥濘《でいねい》と化した。やがて北斉の兵士たちは恐怖と敗北感の叫びをあげ、馬首をめぐらして逃げ去った。  ようやく立ちあがった侯安都は、全身、朱《あけ》に染まっていた。彼自身はほとんど負傷しておらず、ことごとく敵の血であった。無事を尋ねる蕭摩訶の声に、半ば呆然《ぼうぜん》としつつ侯安都は答えた。 「確かに見た、よくわかったぞ」  京《みやこ》の建康《けんこう》へ帰ると、侯安都は朝廷に蕭摩訶の武勲を報告した。二十代の若さで、蕭摩訶は巴山《はざん》太守となった。  その後、侯安都にかわって呉明徹《ごめいてつ》が蕭摩訶の上官となった。歴代の武門に生まれ、陳きっての宿将である。秦郡《しんぐん》という土地で北斉と戦ったとき、敵には西域《せいいき》出身の胡人《こじん》がいた。弓の名人で、幾人もの陳の将兵が射殺された。呉明徹は陣頭に蕭摩訶を呼んだ。 「君に関張《かんちょう》の名有《あ》り、顔良《がんりょう》を斬るべし」  おぬしには三国時代の関羽《かんう》や張飛《ちょうひ》に匹敵《ひってき》する勇名がある、関羽が顔良を斬ったように、あの胡人をみごと斬ってみよ。そう呉明徹はいった。けしかけたのである。それと承知しつつ蕭摩訶は答えた。 「まさに公のために之《これ》を取らん」  このとき蕭摩訶は銑《せんけん》と呼ばれる武器を使った。後世にそれは|※[#金+票]《ひょう》と呼ばれる。長い丈夫《じょうぶ》な紐《ひも》の先に、鋭く尖《とが》った鉄の錐《きり》がついたものだ。蕭摩訶はただ一騎、馬を躍らせて敵陣へ近づいた。右手で銑を振りまわす。それは風車のごとく回転し、大気を切り裂いて、不吉な笛のごとく鳴りひびいた。敵も味方も息をのみながら見守る。胡人は甲冑《かっちゅう》の上に毛皮をはおり、樺《かば》の樹皮《じゅひ》を張った強弓をつかんで馬を走らせてきた。両者は砂煙をあげて接近する。胡人が弓に矢をつがえ、まさに射放そうとした瞬間、蕭摩訶の手から流星のごとく銑が飛んだ。  鋭い錐は胡人の眉間《みけん》に突き刺さった。皮膚を破り、頭蓋《ずがい》をつらぬいて、その尖端《せんたん》は脳に達した。声もなく胡人の身体は馬上から転落する。大地にたたきつけられたときは、すでに死んでいたであろう。  落馬する胡人には目もくれず、蕭摩訶はそのまま馬を疾走させて敵陣へと突入した。一瞬、呆然としていた北斉軍は、我に返ったように左右から槍《やり》先をそろえて蕭摩訶におそいかかる。数本の槍が銀色にきらめきながら宙を乱舞したのは、偃月刀の一閃《いっせん》で斬り飛ばされたのであった。蕭摩訶が乗馬を躍らせるところ、北斉の将兵は血と絶鳴《ぜつめい》をはねあげて地に転がる。  五十数騎を斬殺して、偃月刀の血を袖でぬぐったとき、蕭摩訶は、北斉軍の小将軍《わかむしゃ》が一騎、彼の近くにいるのに気づいた。みごとな銀色の甲冑が、身分の高さを示している。手にした長槍にも宝飾《ほうしょく》がきらめいている。まっすぐ蕭摩訶を見つめる顔は白く秀麗だが、両眼には恐れの色もなかった。 「匹夫《ひっぷ》の勇《ゆう》よな」  苦笑する小将軍に向かって、蕭摩訶は躍りかかった。おそらく北斉の皇族、と見たのである。ただ一撃に両断するつもりで撃ちおろした偃月刀は、だが、澄んだ金属音をたててはじき返された。あっと思ったとき、小将軍の長槍が唸《うな》りをたてて突きこまれ、蕭摩訶の冑《かぶと》に当たった。蕭摩訶はおどろいた。相手の武勇におどろいたのは生まれてはじめてのことである。  三十合あまり撃ちあった。蕭摩訶はついに小将軍の防御を破ることができなかった。戦闘全体は陳軍の一方的な勝利で、北斉軍は多大な損害を出して退却していった。小将軍も槍を引き、場所をめぐらして去った。戦い終わって、蕭摩訶が捕虜に小将軍の名を問うたところ、答えて、「蘭陵王《らんりょうおう》殿下なり」という。 「あれが蘭陵王であったか」  蕭摩訶は納得した。北斉の蘭陵王、姓は高《こう》、名は長恭《ちょうきょう》。ただ皇族の身分というだけでなく、卓絶《たくぜつした》した驍勇《ぎょうゆう》と武略《ぶりゃく》によってしばしば北斉軍の総帥《そうすい》をつとめた。あまりに典雅《てんが》な美貌を自ら嫌い、仮面をかぶって出陣した、という伝説がある。もし蕭摩訶が蘭陵王を討ちとっっていれば、柱石《ちゅうせき》を失った北斉軍は瓦解《がかい》し、歴史は変わっていたかもしれない。 「つぎに会ったときには、かならずや蘭陵王の首を」  このときの武勲《ぶくん》によって明毅《めいき》将軍の称号を得た蕭摩訶はそう心に誓ったが、それは果たされなかった。直後、蘭陵王は彼の武勲と人望を妬《ねた》んだ北斉の皇帝によって毒殺されたのである。  蘭陵王を失った北斉軍は弱体化した。北斉と華北の覇《は》を争っていた北周《ほくしゅう》の軍が大挙して攻勢をかけ、北斉は滅亡してしまった。北周は北斉の広大な領土を実力で占領していったが、それを陳も指をくわえて傍観《ぼうかん》してはいなかった。陳の宿将呉明徹《ごめいてつ》は大軍を率いて北上し、国境地帯の諸城を攻略した。むろん蕭摩訶もそれに従軍し、進撃するところ敵を破り、敵将を討ちとった。彼が「無敵将軍」と呼ばれるようになったのはそのころからであるようだ。  徐州《じょしゅう》という土地で戦いに臨むとき、蕭摩訶は主将の呉明徹に作戦案を具申《ぐしん》した。北周の軍は陸戦は強いが、水上戦は知識も経験もない。水路を利用して急襲し、敵が兵力を集結させないうちにその中枢を撃つべきだ、と。しかし、その意見は容《い》れられなかった。 「敵軍に突入して敵将を斬るのがおぬしの任務だ。だが、|長※[#たけかんむりに弄]遠略《ちょうさんえんりゃく》は老夫《わし》の任である」 「髯《ひげ》を奮《ふる》って」呉明徹はそう答えたという。  呉明徹は蕭摩訶に戦略立案など期待していない。「よけいなことを考えるな、お前はわしのいうとおり闘ってさえおればよいのだ」というわけであった。蕭摩訶にとっては衝撃であったのだろう、「色を失って退く」と「陳書《ちんしょ》」にある。蕭摩訶には政治権力に対する野心はなかったが、こと戦いに関するかぎり、大将軍として大兵力の総指揮をとりたい、との思いはあった。陳国随一の名将をもって任じる呉明徹にしてみれば、笑止《しょうし》であったにちがいない。  蕭摩訶はその後わずか十二騎をひきいて敵陣に斬りこみ、あたるをさいわい薙《な》ぎ倒して文字どおりの屍山血河《しざんけつが》をきずいた。呉明徹に対する怒りと不満を、北周軍にたたきつけたのである。数万の北周軍は蕭摩訶らわずか十三騎のために崩れたち、十里も退いてようやく陣形を再編することができた。「無敵将軍」の名は北周軍の脳裏《のうり》に深くきざみこまれた。  北周軍は各地の兵力を徐州に集結させ、陳軍を大きく包囲しようとした。呉明徹は退却を決意したが、蕭摩訶の作戦案を拒否したことを後悔したかどうかはわからない。蕭摩訶は八十騎をひきいて敵の包囲網を突破し、後続の味方を脱出させ、功によって右衛《うえい》将軍に叙任《じょにん》された。  ひとたび戦場を離れると、蕭摩訶は口数も少なく、他人に対する態度はおだやかで、「恂々《じゅんじゅん》として長者のごとし」といわれた。自分に門地《もんち》も学問もないことを知っていたから、部下の意見をよく聞いたし、兵士たちに対しても優しかった。  蕭摩訶の武将として歴史に名を残すのは「二陳《にちん》」である。陳智深《ちんちしん》と陳禹《ちんう》。同姓だが血縁関係はない。陳智深は膂力《りょりょく》にすぐれ、陣頭の勇者であった。陳禹は騎射の名人であったがそれ以上に兵学や諸学問に通じ、蕭摩訶の秘書と参謀を兼ねたようである。このふたりはつねに蕭摩訶とともに行動し、ともに老《お》いていった。  蕭摩訶はしばしば刺史《しし》となって地方の行政をつかさどったが、大過《たいか》なく任を務《つと》めたようである。強欲な人為《ひととなり》ではなく、弱い者を慈《いつく》しむことができたし、彼のもとで、おそらく陳禹が行政の実務にあたったのであろうと思われる。     ㈼  蕭摩訶《しょうまか》は戦いつづけた。三十歳のときも四十歳のときも五十歳のときも、彼は戦っていた。刺史として大過なく務めたとはいえ、それは彼の本領ではなかった。泰平の世であれば、武勲なき蕭摩訶が刺史などになれるはずもない。悍馬《かんば》を駆って敵陣に突入し、右に左に敵兵を薙《なぎ》ぎ倒すのが、蕭摩訶の人生であった。妻子があったことは正史にも見えているが、恋愛に関してはまったく逸話《いつわ》が残されていない。  この間、侯安都《こうあんと》は功を誇って驕慢《きょうまん》になり、それを憎んだ皇帝によって誅殺《ちゅうさつ》された。呉明徹《ごめいてつ》も毎年のように北朝の軍と戦い、武名をとどろかせたが、ついに勝利のとだえる日が来た。北朝の北周《ほくしゅう》は名将|王軌《おうき》を起用して、彭城《ほうじょう》の地で呉明徹と決戦させた。王軌は呉明徹の水軍が自由に行動できぬよう、周辺の水路に木材を流して軍船の航行を不可能にした上で、包囲攻撃をおこなった。陣中で体調をくずしていた呉明徹は、気力が保《も》たず、全軍を後退させたが、水路をふさがれたために脱出できず、ついに捕虜となって北周の京《みやこ》長安に護送され、そこで病死した。陳の太建十年(西暦五七八年)、呉明徹は六十七歳であった。  呉明徹がいなくなると、蕭摩訶の上に立つ者は存在しなくなった。それで喜ぶほど蕭摩訶は人が悪くはなかったが、自分が陳の全軍をひきいて立つのだ、というていどの自負《じふ》はいだいたであろう。事実、呉明徹の敗北による失地を回復するため、陳はしばしば軍を北上させ、蕭摩訶を総帥として戦ったが、「功無くして還《かえ》る」、つまりはかばかしい戦果をあげることはできなかった。蕭摩訶に大軍を統率する将器がなかったと評するのは酷であろう。北周の国力が陳を圧倒し、最初から勝負にならなくなっていたのである。  ところが北周王朝は重臣の楊堅《ようけん》によって簒奪《さんだつ》され、隋《ずい》王朝となった。その混乱で、北が南を攻撃できずにいる間に、陳では宣帝《せんてい》が死去して後主《こうしゅ》が即位した。  後主は宣帝の長男で本名を陳叔宝《ちんしゅくほう》というが、次男が始興王《しこうおう》という人で、名を叔陵《しゅくりょう》という。宣帝には四十二人もの男児がおり、全員の名に「叔」という文字がついている。この始興王が、帝位についたばかりの兄を、宮中で殺害しようとしたのだ。  皇帝の身辺に、武器を持つ者は近づけない。ただ、各種の薬材《やくざい》を削《けず》ったり刻《きざ》んだりするために、侍医《じい》は薬刀《やくとう》を用意している。その薬刀を、始興王は隠し持って後主に近づいた。弟に対して、後主はまるで警戒しない。何気なさそうに兄の後方にまわると、始興王は薬刀を振りかざし、兄の頚《くび》に斬りつけた。  悲鳴を放って、後主は床に転倒する。血が飛び散り、帝冠《ていかん》が宙に舞って、凄惨《せいさん》な姿であった。 「な、何をするのじゃ、弟よ」  後主はまだ信じられないのであろう、あえぐような声には恐怖というより呆《ほう》けた調子があった。だが、さらに斬りつけられたとき、恐怖の絶叫《ぜっきょう》が宮殿じゅうにひびきわたった。女性たちのほうが勇敢だった。柳太后《りゅうたいこう》は宣帝の正妻であり後主の生母である。わが子あやうし、と看《み》てとるや、この老婦人は駆けつけて始興王に飛びかかり、激しくひっかいた。始興王は彭妃《ほうひ》という寵妃《ちょうひ》の子で、太后の子ではない。 「じゃまするな、婆《ばば》あ!」  罵倒《ばとう》して太后を床にねじ伏せると、始興王は薬刀をふるって数回、斬りつけた。だが太后は激しく抵抗し、しかも着衣をかさねているので、軽い傷を負っただけであった。  さらにそのとき、後主の乳媼《うば》である呉氏《ごし》が駆け寄り、後ろから始興王の右腕にしがみついた。始興王は振り払おうとしたが、呉氏は必死でしがみつき、離れようとしない。始興王は姿勢を変え、太后の身体を乗りこえて左腕を伸ばし、後主の服をつかんだ。髪も乱れ血まみれになった後主は、なお悲鳴をあげながら床の上を転がり、かろうじて致命傷をまぬがれた。  そこへようやく男があらわれた。宣帝の四男で後主と始興王の異母弟《いぼてい》にあたる長沙王《ちょうさおう》の叔堅《しゅくけん》である。長沙王は始興王に組みつき、激しい格闘の末、薬刀を奪いとった。そして自分の上衣《うわぎ》をぬぎ、それを丸めて縄がわりとし、始興王を縛りあげたのである。  縛りあげて、さて後主の指示をあおごうとすると、姿が見えぬ。後主は苦痛と恐怖で泣きながら寝室に逃げこみ、蒲団《ふとん》をかぶって慄《ふる》えていたのだ。  しかたなく長沙王は兄の寝室へ行って問いかけた。 「逆賊《ぎゃくぞく》は縛りあげました。いますぐ殺しますか、それとも投獄《とうごく》して処刑は後日《ごじつ》のことにいたしますか?」  だが後主は答えることができず、蒲団のなかで慄えているばかりである。その間に、始興王は全身でもがきまわり、長沙王の縛《いまし》めを脱してしまった。彼は馬に飛び乗って皇宮から脱出し、自分の居城《きょじょう》である東府《とうふ》に逃げ帰った。そして財宝をばらまき、布告を発して、武装した将兵をかき集めた。三万人ほど集めるつもりだったが、千人しか集まらなかった。  その場で長沙王が始興王を殺してしまえばすんだことであろうが、長沙王としては独断で異母兄《いぼけい》を殺すわけにもいかなかったのである。朝廷では兵を出して始興王を討伐することになった。ところがそれになかなか応じる者がいない。自暴自棄《じぼうじき》になった始興王が、どのように過激な反抗に出るかわからないのだ。長沙王にも断られたので、後主は、司馬申《しばしん》という廷臣《ていしん》の意見を容れ、蕭摩訶に勅命《ちょくめい》を下した。  蕭摩訶は二陳《にちん》とともに兵をひきいて東府へ進撃した。始興王は慄えあがり、二度まで使者を出して蕭摩訶を説得しようとした。 「味方になってくれたら宰相にしてやるぞ」  というのだが、むろん蕭摩訶は耳を貸さない。使者を斬って東府の城門へと殺到する。  逆上した始興王は内《ない》(奥宮殿)へ駆けこんだ。そこには王妃の他に六人の愛妾《あいしょう》がいる。 「殉死《じゅんし》しろ」  そう叫んで、始興王はまず王妃を内院《まかにわ》に引きずり出し、井戸へ放りこんだ。つづいて、泣き叫ぶ愛妾どもをつかまえては井戸へ放りこむ。七人の不幸な女性を、深く暗い井戸の底に突き落としてしまうと、始興王は右手に剣を抜き、左手で酒瓶《さかびん》をつかんでよろめき出た。前方にあらわれる兵士を二名まで斬ってすてたが、それは敵ではなく、逃げまどう味方の兵であった。血と酒に酔い痴《し》しれた始興王が、宮殿の外へ出て地上にすわりこんでいると、いつしか周囲には敵兵の環《わ》ができている。返り血と酒とで朱に染まった顔をあげ、始興王は喚《わめ》いた。 「予《よ》は先帝の次男なるぞ。汝《なんじ》ら卑臣《ひしん》の身をもって皇族を害するか!?」  この叫びにためらって、陳智深《ちんちしん》が蕭摩訶をかえりみた。 「いかがいたします? 生かして京《みやこ》につれ帰りますか」 「無用」  ひややかに、蕭摩訶は頭を振った。 「逆賊のたわごとだ。生かしておけばまた逃げる。すみやかに禍根《かこん》を絶て」  厳命《げんめい》された陳智深は、無言で矛《ほこ》をかざし、突きおろした。地上から抗議と苦痛の絶叫がおこり、すぐとだえた。  始興王の首は建康《けんこう》に送られた。後主は安堵《あんど》の吐息をつき、功労者を賞した。蕭摩訶は車騎大将軍《しゃきだいしょうぐん》となり、陳智深は巴陵内史《はりょうないし》となり、長沙王は司空《しくう》となって国政をあずかった。  後に長沙王は、兄である後主に嫉《ねた》まれて失脚した。専横《せんおう》と叛逆|謀議《ぼうぎ》の罪を着せられて宮廷を追われ、庶民となって妃とふたりで酒屋を営《いとな》んでいたが、隋の世になって遂寧《すいねい》郡の太守に任じられたという。この人の生涯も、一篇の説話の素材となりえるであろう。      ㈽  後主の治世は七年しかつづかなかった。長江の北では隋《ずい》王朝が興《おこ》り、天下の大半を支配するに至った。あとは陳《ちん》を滅ぼせば、晋《しん》の滅亡以来、ほぼ二百七十年ぶりに天下は統一される。後主は典型的な亡国《ぼうこく》の君主で、民に重税を課しては豪奢《ごうしゃ》な生活を楽しみ、政治にも軍事にもまったく興味がなかった。かくして禎明《ていめい》三年(西暦五八九年)、隋は六十万人の大軍をおこし、北と西から長江を渡って陳へ攻めこんだのである。  幾度となく蕭摩訶《しょうまか》は後主に作戦案を上申《じょうしん》した。長江を渡河する隋軍に横撃《おうげき》を加えるべきである、と主張した。あるいは、渡河を終えた隋軍を内陸部に引きずりこみ、その後方を遮断《しゃだん》するという作戦案もたてた。どちらかが実行されていれば、隋の天下統一は数カ月おくれたであろうが、後主は蕭摩訶の作戦案を認めなかった。後主は簾《みす》のなかに姿を隠して、蕭摩訶の必死の意見を聞いていたが、やがて声を発した。廉の前にひかえていた袁憲《えんけん》という大臣に向かっていったのだ。 「放っておけ。あやつら武官どもは、自分が武勲をたてて大きな面《つら》をしたいだけなのじゃ。朕《ちん》のことを思うてのことではない。かってにさせておくがよいぞ」  それにつづいて女のやわらかな笑声がした。後主は寵愛《ちょうあい》する張貴妃《ちょうきひ》をひざの上に抱いて、蕭摩訶の血を吐くような上申を聞き流しているのだった。蕭摩訶は絶望に目がくらみ、廉の前に平伏したまま起ちあがることができなかった……。  楽昌公主《がくしょうこうしゅ》という女性がいる。公主とは皇帝の女《むすめ》のことで、彼女は宣帝の女であり後主の妹であった。彼女は廷臣の徐徳言《じょとくげん》という若者と結婚し、夫婦の仲はむつまじかった。徐徳言は朝廷につかえていて、後主の無能と周辺の腐敗ぶりを見せつけられ、国の前途に絶望した。徐徳言には、後主をきびしく諌《いさ》めるような勇気もなかったが、敵に寝返るようなあくどさもない。ひたすら心を痛めるばかりで、とくに妻のことが心配であった。  徐徳言は妻の愛用の鏡を二つに割り、その一片を妻に手渡した。 「もう一片は私が持っている。国が滅びて離散《りさん》するようなことになったら、たがいにこの鏡をなくさぬようにしよう。もしお前が落ち着いた生活を送れるようになったら、鏡を市《いち》で売っておくれ。私のほうも生きてそれを発見したら再会できるだろうから」  ふたりは抱きあって泣いた。そんなことをしている間に手を取りあってさっさと逃げ出せばよかったのかもしれないが、長江の渡河作戦をほぼ三百年ぶりに成功させた隋軍の進撃はすさまじい速度だった。後主からの命令もないまま、陳の将軍たちは個々に軍をひきいて隋軍に立ち向かったが、つぎつぎと撃破され、敗走した。わずかに魯広達という人が善戦して隋軍の一部をくいとめたが、文字どおり一部にすぎず、六十万の隋軍将兵は甲冑《かっちゅう》の濁流となって陳の国都建康《けんこう》を呑《の》みこんでいった。  蕭摩訶は隋の宿将賀若弼《がじゃくひつ》によって捕らえられた。「力を用いる所無く」と「陳書」にある。兵士たちがことごとく逃げ散ってしまい、戦うこともできなかったのだ。偃月刀《えんげつとう》を投げすて、腕を組んで地に立つ蕭摩訶に、隋の兵士たちがむらがり寄って縄をかけた。  蕭摩訶は建康に連行された。後主も捕虜となっていた。後主と対面した蕭摩訶は、後ろ手に縛られたまま床にひざまずき、声を放って泣いた。陳の旧臣《きゅうしん》たちも隋の将軍たちも、蕭摩訶の心中を思いやって無言だった。  ただひとり、隋の行軍副元帥《こうぐんふくげんすい》たる楊素《ようそ》が冷然としていった。 「泣く前に戦えばよかろう。他に能もない者が、戦うことをやめてどうするのだ」  だが賀若弼は蕭摩訶に同情し、縄を解き、彼を客人として遇した。何しろ後主は、隋軍が皇宮に侵入してくると、寵妃《ちょうひ》ふたりとともに井戸のなかに隠れていたのだ。このような君主のために死戦《しせん》する気になれないのは当然だ、と思った。  隋の文帝《ぶんてい》は、賀若弼の報告を受けたが、やはり蕭摩訶に好意的であった。 「壮士《そうし》というべきだな。そのような男、用《もち》いる価値がありそうだ」  亡国の捕虜である蕭摩訶に、文帝は開府儀同三司《かいふぎどうさんし》の地位を与えた。要するに重臣待遇の将軍、ということであるが、南朝百七十年の歴史で最強の猛将を、文帝は礼遇《れいぐう》したのである。  文帝は末っ子の諒《りょう》をかわいがり、漢王《かんおう》の称号を与えていた。大隋帝国の北西五十二郡を統治させ、北方国境を防衛させていたのだ。北方にはまさに強大な騎馬遊牧帝国「突厥《とっけつ》」が出現しつつあったから、漢王の責任は重大であった。実戦経験のない皇子《こうし》には老練《ろうれん》な補佐役が必要である。文帝が選んだのは蕭摩訶であった。  漢王は部下を引きつれ、治所《ちしょ》である|※[#併のつくり]州《へいしゅう》(後の山西省晋陽《しんよう》)に赴任した。蕭摩訶はそれに随《したが》った。このとき陳智深と陳禹は随行《ずいこう》を願ったがそれは認められず、妻子も京《みやこ》に残して、蕭摩訶はひとり北方へ旅立ったのである。      ㈿  ほぼ平穏のうちに十五年が経過した。北方の騎馬民族突厥《とっけつ》は強大であったが、隋《ずい》はさらに強大であり、常に突厥を圧倒して、国境を侵されることはなかった。  変動は国内に生じた。仁寿《じんじゅ》四年七月、文帝《ぶんてい》が崩御《ほうぎょ》して皇太子楊広《ようこう》が即位した。これが煬帝《ようだい》であるが、文帝の死があまりに急で、不審な点が多かったので、「帝は皇太子によって弑逆《しいぎゃく》されたのだ」という噂《うわさ》が流れた。しかも即位に前後して、煬帝の兄である前太子《ぜんたいし》が罪なくして殺害されたため、噂は真実であるとほとんどの者が信じた。漢王《かんおう》も信じた。 「父も兄も新帝によって殺された。おそらく、つぎは自分であろう」  恐怖に駆られた漢王に、叛逆をそそのかした者がいる。側近の|王※[#支+頁]《おうき》である。「このまま手をつかねていては、座して死を待つだけ」と説《と》かれ、漢王は叛乱を決意した。蕭摩訶《しょうまか》もそれをとめなかった。  王※[#支+頁]も、もともと南朝の人である。梁《りょう》の武帝《ぶてい》および元帝《げんてい》につかえた勇将王僧弁《おうそうべん》の子であった。王僧弁は競争者であった陳覇先《ちんはせん》に殺害され、王※[#支+頁]は北朝に亡命して隋につかえた。蕭摩訶のほうは、陳覇先とその子や孫につかえたのだから、南朝の歴史だけを考えれば、仇敵《きゅうてき》どうしといってよい。それが現在、ともに隋の臣下として、隋朝に叛逆の旗をひるがえそうとしている。  ただ、王※[#支+頁]と異《こと》なり、蕭摩訶はこの起兵《きへい》が成功するとは思わなかった。漢王は悪い主人ではないが、両親に溺愛《できあい》され、苦労知らずに育っている。今回もただ追いつめられて反抗する気をおこしただけで、本当に兄を殺して天下を奪うほどの覚悟があるとは思えなかった。  生涯最後の闘いは負けいくさになるであろう。そう思っている蕭摩訶に、漢王が声をかけた。事が成ったときには、どのような報賞《ほうしょう》がほしいか、というのである。蕭摩訶は一礼して答えた。 「殿下が大志を成就《じょうじゅ》なさったあかつきには、老夫《それがし》を江南《こうなん》へ帰していただけますよう」 「それだけでよいのか」 「老夫の望みは、故郷で死ぬこと、ただそれだけでござる」 「欲のないことよの」  漢王はわざとらしく笑声をたてた。彼は部下たちに気前のよいところを見せたかったのである。報賞によって部下を釣《つ》る、という気もあったにちがいない。老《お》いた蕭摩訶の反応は、漢王には可愛げのないものに映《うつ》ったであろう。  蕭摩訶の見たとおり漢王は不覚悟であった。起兵《きへい》の名目《めいもく》を、「専横《せんおう》の奸臣《かんしん》を除く」として、煬帝ではなく重臣|楊素《ようそ》を標的としたのである。これに対し、煬帝はその楊素を討伐軍の総帥とした。  楊素は陰謀を好み、権力をもてあそび、目的のためには手段を選ばぬ傾向があった。歴史上、奸臣《かんしん》として知られるが、宰相としても大将軍としても文人としても、才能は卓越《たくえつ》している。ことに、事に臨《のぞ》んでの決断力と行動力とは、漢王にまさること千倍であった。漢王十万の大軍に対し、楊素はわずか五千騎をもって出征《しゅっせい》したのである。むろんこの五千騎は全隋軍中の最精鋭であった。さらに楊素は戦闘指揮官としてふたりの猛将を選んだ。麦鉄杖《ばくてつじょう》と楊玄感《ようげんかん》である。楊玄感は楊素の長男であり、「項羽《こうう》の再来」とまでいわれた男だった。 「漢王は、おれを討つことが起兵の目的だそうな、では、おれが漢王の前に出ていってやろう」  息子に向かって、楊素はそういった。楊玄感は楽しげにうなずいた。 「この手で漢王を討ちとってもよろしゅうござるか、父上」 「まず生かしておけ、処置は陛下がなされる」 「かしこまった。ところで、漢王の麾下《きか》には無敵将軍・蕭摩訶なる者がおりましたな。かの者の武略《ぶりゃく》はいかがでござろう」  楊素は事もなげに答えた。 「江南で人となった者は、長江の水を飲まぬと干《ひ》あがってしまうらしい。無敵将軍とて例外ではなかろう。そもそもあの男は匹夫《ひっぷ》の勇《ゆう》というだけだが、今年幾歳《いくつ》であったかな」 「七十三歳と聞きおよんでおります」 「ふむ、では、いまさら生を惜しむ年齢でもあるまい」  出征の直前、楊素は自邸に住まわせている寵姫《ちょうき》たちと惜別《せきべつ》の宴を張った。彼の私生活は豪奢《ごうしゃ》をきわめ、一時は寵姫の数は千人にも達し、その全員に贅沢《ぜいたく》な生活を送らせていた。  酒と音曲《おんぎょく》と歌舞《かぶ》に心地よく酔い、詩をつくって楽しんでいた楊素は、ふと、寵姫のひとりが姿を見せぬことに気づいた。女の名は楽昌公主《がくしょうこうしゅ》という。楊素が行軍副元帥《こうぐんふくげんすい》として陳を滅ぼしたとき、報賞として文帝から賜《たま》わった美女であった。滅ぼした国の宮廷にいる女たちは、勝者の戦利品として目《もく》された時代である。  楊素の命令を受けた家臣たちは、宏壮《こうそう》きわまる邸宅のなかを、手分けして捜しまわった。一隊が楽昌公主を発見したのは、厨房の裏であった。彼女は、貧しい服装の男と手をつないで、楊素邸から逃げ出そうとしていたのだ。不義密通《ふぎみっつう》の現行犯である。たちまちふたりは捕らえられ、楊素の前に引き出された。  この男は楽昌公主の夫であった徐徳言《じょとくげん》であった。陳が滅びてより十五年、放浪の旅を続けて、徐徳言は長安へとやって来た。そして市《いち》を歩いていると、割れた鏡の半分だけが露店で売られているのに気づいたのだ。自分が十五年間持ち続けていた鏡の半分と、それはぴたりとあった。楽昌公主は楊素邸に出入りする商人に頼んで、割れた鏡を市で売ってもらったのである。徐徳言は決死の覚悟で楊素邸に忍びこみ、妻に再会したのだった。 「……なるほど、そういうことであったか」  話を聞いてうなずいた楊素は、すこしの間、考えこんでいたが、両眼を鋭く光らせた。 「けしからん女だ。これまで養って安楽な生活を送らせてやったおれの恩を忘れ、昔の夫と密会しようとは。その面《つら》、二度と見とうない。とっとと出ていけ」  楊素はそうどなり、楽昌公主と徐徳言を邸第《やしき》の外へ押し出すよう、家臣たちに命じた。さらに侍女に命じ、楽昌公主の部屋から、これまで彼女に与えた金銀珠玉《しゅぎょく》をすべてひとまとめにして持って来させた。楽昌公主と徐徳言は門から外へ追い出された。抱きあって、十五年ぶりの再会にあらためて涙していると、門扉《もんぴ》が開いて、楊素が姿を見せた。手にした大きな綿布《めんぷ》の袋を、乱暴に路上に投げ出す。 「けがらわしい、密通した女の持物など、この邸第に置いておけぬわ。どこの誰なりと拾うがよい」  そういって、ふたたび門を閉ざしてしまった。  顔を見あわせた楽昌公主と徐徳言が、おそるおそる袋を拾いあげてみると、おどろくほど重い。開いてみると、これまで楽昌公主が楊素から与えられていた金銀珠玉が、袋の口からこぼれ出すほどに詰《つ》まっている。これを売れば、一生、生活には困らないであろう。  楽昌公主と徐徳言は、楊素の真意をさとった。ふたりは楊素邸の門に向かって何度も拝謝《はいしゃ》した後、手を取りあって京《みやこ》を去った。  割れた鏡によって十五年ぶりに夫婦が再会できたのだ。その後ふたりは故郷の江南《こうなん》に帰って穏やかな生涯を終えたが、毎日、遠方の楊素に対する拝礼《はいれい》を欠かさなかったという。「破鏡合一《はきょうごういつ》」の故事である。  かつて蕭摩訶の祖国である陳を滅ぼし、いままた蕭摩訶のつかえる漢王を討滅《とうめつ》しようとする楊素は、このような男であった。      ㈸  きらびやかな甲冑《かっちゅう》をまとって、漢王は出陣したが、出陣した後もまだ迷っていた。根本的な戦略すらさだまらず、十万の兵をどう動かすかも決めていないのだ。蕭摩訶《しょうまか》は若い君主に進言《しんげん》した。 「もし天下をお望みであれば、全軍を西へ向け、京《みやこ》を直撃すべきでございます。もし天下の一部を割拠《かっきょ》することをお望みであれば、全軍を東へ向け、山東《さんとう》から河南《かなん》の一帯を確保すべきでございます。いずれをお選びあるも御意《ぎょい》のままでございますが、兵力を分散することだけはお避けください」  漢王はうなずいたが、表情は好意的ではなかった。もっと劇的な作戦案を聞かせてほしかったのであろう。他の側近たちが、漢王を満足させた。兵力を六方向に向け、軍事上の要地を同時に攻略しようというのである。  諜者《ちょうじゃ》によってそれを知った楊素《ようそ》は冷笑した。六方向に分かれた兵力は、一方向で最大二万にすぎない。各個撃破《かっこげきは》してくれといわんばかりではないか。楊素は全軍に急進を命じた。  まず好餌《こうじ》となったのは漢王の部将|※[#糸+乞]単貴《きったんき》の軍で、強烈な側面攻撃を受けてほとんと一瞬で潰滅《かいめつ》した。|※[#糸+乞]単貴は楊玄感《ようげんかん》に討ちとられた。ついで漢王の部将趙子開《ちょうしかい》も撃破され、麦鉄杖《ばくてつじょう》に首をとられた。あわて恐れた漢王は、分散されていた兵力をかき集めたが、楊素と正面から戦う気力がなく、全軍をつれて|※[#併-人]州《へいしゅう》城へ逃げこもうとした。急進をかさねて、楊素はそれを清源《せいげん》の地で捕捉《ほそく》した。蕭摩訶が陣頭に立ってながめると、肉薄《にくはく》してくる敵の先頭に、戟《ほこ》をかまえた楊玄感の姿が見える。  あれはおれだ。蕭摩訶はそう思った。四十年前の若く精悍《せいかん》な彼自身の姿が、楊玄感の雄姿《ゆうし》にかさなった。戦いがはじまると同時に、楊玄感は黒馬をあおって漢王の陣に突入し、戟を縦横《じゅうおう》にふるって敵兵を撃ち倒した。広い戦場で、彼のいる場所には鮮血の渦が巻きおこり、すぐそれと知れるほどであった。  それほど懸命に勇猛をふるい、敵兵を殺傷してどうしようというのだ。利用されるだけだぞ。兵を叱咤《しった》し、崩れるのをかろうじてふせぎながら、蕭摩訶は胸中《きょうちゅう》でそう語りかけた。自分の実《みの》りない人生をも、老いた蕭摩訶は若い楊玄感にかさねたのだ。蕭摩訶の最後の努力も、恐怖に駆られた漢王が本営から逃げ出すにおよんで、ついに潰《つい》えた。  自分が三十年若ければ、むなしく兵を叱咤しつつ、さらにむなしく蕭摩訶は思った。自分が三十年若ければ、楊玄感を相手に、千年の後までとどろく一騎打《いっきうち》を演じ、天下の耳目《じもく》を集めたであろうに。  漢王の軍は敗れた。惨敗であった。戦死者は一万八千におよび、生き残った者はほとんど四散《しさん》した。蕭摩訶は捕らえられた。彼は兵の逃亡をふせぐことができぬと悟ると、何かに憑《つ》かれたように敵に向かって前進していった。楊玄感に向かって一騎打を呼びかけようとしたとき、数騎の敵が駆け寄り、槍で殴りつけて、この老将を馬上からたたき落としたのである。無名の敵兵に蕭摩訶はたたき落とされ、しかも甲冑の重さで起きあがることができなかった。  漢王は味方を見すてて逃げたが、ついにあきらめて降伏した。楊素は漢王を陣中に監禁し、その処置を煬帝《ようだい》に問い合わせた。 「漢王は殺すにおよばず。京《みやこ》に連行して幽閉《ゆうへい》すべし」  煬帝にしてみれば、殺す価値もなかったのであろう。だが、漢王の側近たちは赦《ゆる》されなかった。まず王※[#支+頁]《おうき》が斬られた。ついで蕭摩訶の番になった。彼は後ろ手に縛られて楊素の前に引き出された。両者が顔をあわせるのはこれが二度めである。二度とも楊素は勝者として、縛られた蕭摩訶を冷然と見下す役まわりであった。  その場に麦鉄杖もいたが、こちらは気の毒そうに顔を背《そむ》けている。麦鉄杖はもともと陳の盗賊で、亡国《ぼうこく》後、楊素に武勇を認められて隋の将軍となった。蕭摩訶の名声を知っており、今の姿を見るに忍びなかったのであろう。  疲れきったかに見える老残《ろうざん》の敗将《はいしょう》を見やって、楊素は声をかけた。 「卿《けい》は十五年前に、陳《ちん》の忠臣として死んでいたほうがよかったな」  無言で蕭摩訶は楊素を見返したが、その眼光には力が欠けており、楊素の言葉が同情であるのか揶揄《やゆ》であるのか、判断もできないようであった。地に両膝《りょうひざ》をついて、蕭摩訶は何かつぶやいたが、その声は誰の耳にもとどかず、刑吏《けいり》の刀が一閃《いっせん》して、白髪の頭は地に落ちた。  処刑が終わり、楊素が煬帝への報告書を認《したた》めていると、楊玄感が父の本営にやってきて、訪客《ほうきゃく》があることを告げた。 「陳智深《ちんちしん》と名乗っております。蕭摩訶の旧《ふる》い部下で、ぜひ彼の屍《しかばね》を引きとって手厚く葬《ほうむ》りたい旨《むね》、申し出てまいったのですが」  蕭摩訶は逆賊として処刑されたのだから、屍を葬られる権利さえない。あえて礼をもって葬ろうとする者は、罰さえ受ける覚悟が必要であった。だが楊素は、話を聞き終わると、あっさり答えた。 「屍を渡してやれ。蕭摩訶にはよい部下がいたようだな」 「主君には恵まれなかったようでございますが」  息子の声に楊素は答えず、ふたたび報告書の筆を動かしはじめた。彼が煬帝の忌避《きひ》を買い、無念の死に追いこまれるのは、これより二年後のことである。  ……蕭摩訶について、「陳書《ちんしょ》」はつぎのように評している。「蕭摩訶の気は三軍《さんぐん》に冠《かん》す。当時の良将《りょうしょう》にして、智略《ちりゃく》無しと雖《いえど》も、一代、匹夫《ひっぷ》の勇《ゆう》なり。李広の徒というべきか」  李広は前漢《ぜんかん》の勇将。「石に立つ矢」の故事で有名だが、武帝《ぶてい》にうとまれて自殺した。蕭摩訶は、生前、関羽や張飛に喩《たと》えられていた。李広を含め、いずれも稀世《きせい》の勇者であったが、生をまっとうした者がひとりもいないことは何やら暗示的であるように思われる。