茶王一代記《ちゃおういちだいき》 (出典:異色 中国短篇傑作大全) 田中 芳樹・著      ㈵  はじめて茶というものを飲んだときのことを、馬殷《ばいん》は忘れることができない。はじめて女を知ったときのことは、酒にまぎれてろくに憶えてもいないのだが。  馬殷は二十歳で、まだ木工《もっこう》に身だった。木材を加工して、家具調度品をつくったり、家を建てたりする。人を雇うような身分ではなく、二歳年下の弟と組んで、道具をかつぎながら依頼人を求め歩く毎日だった。  城市《まち》でも有数の資産家に、董《とう》という人がいた。この人の孫はまだ幼児であったが、どのように高価な玩具を買い与えても喜ばない。人から人へと話が伝わり、紹介する者がいて、馬殷は孫の小さな手に道具をにぎらせ、やり方を教えて自分自身で玩具をつくらせた。小さな手を傷だらけにした孫が、粗末な玩具をかかえて喜ぶ姿を見ると、董員外は馬殷を眺めやっていった。 「お前さん、ただの木工で終わる男ではなさそうだな。茶でも飲んでいくといい」  そして約束の代金を二倍にしてくれた。  そのとき馬殷は生まれてはじめて茶を飲んだのだ。色は淡い褐色で、そのくせ濁ってはおらず澄んでいる奇妙な液体からは、馬殷などには表現しようもないほど芳《かんば》しい香りがたちこめている。董員外の家僮《めしつかい》にいわれたとおり、茶碗の蓋《ふた》をずらして縁からすすってみると、香気が咽喉《のど》から胃へと流れ落ちていくのがわかった。馬殷は呆然とした。このようなものが世の中に存在することを、はじめて知った。  馬殷は、受けとったばかりの銀子《ぎんす》の半分を董員外の家僮に渡し、茶の葉をいくらかくすねてもらった。ぼろ布に包まれた茶の葉を、馬殷は胸にかかえて帰宅した。湯をわかす兄の姿を見て、弟の|馬※[#宗+貝]《ばそう》は不審げだった。 「おれは茶なんぞより酒のほうがずっといいがなあ。大哥《あにき》は茶で酔えるのか」  ※[#宗+貝]は笑ったが、馬殷は黙々と湯をわかしながら、ひとり考えこんでいた。  おれもこのままではどうしようもない。茶の余香が消え去ると、焦《あせ》りに似た気分が馬殷をとらえた。董員外の言葉など、お金持ちの世辞《せじ》にすぎないであろうが、このまま木工としてつましく生を終える気にはなれなかった。せめて毎日、一杯の茶を飲めるような生活を送りたいものだ……。 「紛々《ふんぷん》たる五代乱離《ごだいらんり》の世」  とは、唐が滅びて宋が天下を統一するまでの乱世を称した「水滸伝《すいこでん》」の一節である。見わたすかぎりの大地と絢爛《けんらん》たる時とを支配した大唐帝国も、いまや衰亡の淵へと、長い坂道を転がり落ちつつたった。   君に憑《たの》む、語る莫《なか》れ封侯《ほうこう》の事   一将成って万骨枯る  詩人曹松《そうしょう》がそう嘆《なげ》いた時代であった。 「残唐《ざんとう》」の世に馬殷は生きている。生まれ育ったのは|※[#焉+邑]陵《えんりょう》という土地で、後世の地名でいうと河南省の中部になる。長安の都の繁栄など、耳にするだけで、見たこともない。じかに知ることなく死んでしまうのだろうか。  二十四歳のとき、変転がおとずれた。唐の僖宗《きそう》皇帝の御宇《みよ》、乾符《けんぷ》二年(西暦八七五年)のことだ。黄巣《こうそう》という者が乱をおこし、五十万とも六十万ともいわれる大軍を長安へ向けて進めた。その進路となった土地では、逃げ去る者、賊軍と戦おうとする者、逆に賊軍に参加しようとする者が入り乱れて大混乱となった。馬殷は弟の※[#宗+貝]とともに、木工の道具を放り出し、秦宗権《しんそうけん》という者のひきいる賊軍に加わった。  賊軍といっても、単純な盗賊ではない。朝廷の権威に服しない私兵集団のことである。軍律正しく行動し、一定の地域で住民の支持を得れば、小さいながらも一国を建てることすらできるのだ。むろん、そこまで行き着くことができるのは、ごく一部の者だけで、ほとんどは掠奪《りゃくだつ》や殺戮《さつりく》をかさねたあげく、より強大な勢力に追いつめられて潰滅《かいめつ》してしなうのが落ちであった。馬殷としては、それではたまらない。  秦宗権の下に孫儒《そんじゅ》という幹部がおり、その下に劉建峯《りゅうけんほう》なる武将がいて、さらにその下にようやく馬殷の名があらわれる。ごく短期間に、兵士から下級士官になっているから、目立つほどの働きをしたようだ。さらに数年のうちにいっぱしの将領として知られるようになったが、もともと大勢力というわけではないから、出世というのもおこがましいであろう。馬殷はまた、自分の上官たちにしだいに飽きたりなくなってきた。  後年になって、馬殷は、臣下に語ったものである。 「おれは若いころ孫儒につかえていた。孫儒が罪なき者を殺すたびに、天候が急変して深い霧が立ちこめたものだ。だから、おれに隠れて罪なき者を殺しても、すぐにわかるぞ」  ほどなく秦宗権が戦死すると、その弟が後継者となったが、軍の前途に見きりをつけ、銀子を持って逃げようとしたのが露見して殺されてしまった。孫儒が全軍の主となった。  孫儒にもいちおう軍師らしい人物がついていた。張佶《ちょうきつ》という男で、たいして地位は高くないが官僚出身である。文字が読めて文章が書けるし、法令だの典故《てんこ》だのにも通じているので、組織としての体裁をととのえるには便利な存在であった。この時代にかぎらず、王朝が衰微して各地に賊軍が起こると、途中で必ず知識人が参加して組織化をおこなうことになる。知識人にしてみれば、「自分もおちぶれたものだ」と思う一方で、「うまく一国を建てれば宰相になれるぞ」という野心も持てる。旧来の秩序ではうだつのあがらない人々にとって、乱世とは好機の別名であった。  秦宗権軍が孫儒軍にかわったところで、張佶は命じられて全軍の再編成をおこなった。そのため張佶は、おもだった将領を十人ほど選んで名簿をつくることにした。三十歳をこした馬殷も呼び出されて、出身地などについて質問されたのである。 「出身地は※[#焉+邑]陵だな。よし、つぎに字《あざな》を聞いておこう」 「字?」 「字だ。おぬしの本名以外の通り名だよ」  馬殷は首を横に振った。 「字なんてありませんが」 「ああ、そうか、そうだろうな」  納得と軽蔑をないまぜにして、張佶はうなずいた。 「だが、おぬしも、百人以上の兵士をひきいる身になったのだ。運がよければ、さらに出世できよう。字ぐらいは持っていたほうが通りもよかろうよ」 「では考えてみます」 「よい字を考えつかなかったら、私がつけてやってもかまわんぞ」  張佶にしてみると、馬殷に、きちんとした字がつけられるような素養があるとは思えなかったのだ。だが、一ヵ月ほどして、張佶と再会したとき、誰に書いてもらったか、馬殷は自分の字を書いた紙を示して名乗った。 「覇図《はと》といいます」 「覇図だと?」  あきれたように張佶は馬殷を見て、大きく首を振った。 「たかが木工|風情《ふぜい》に、ずいぶんとだいそれた字だな」  馬殷は返答しなかった。よけいなお世話だ、と思った。読書人といわれる奴らは、馬殷が字を持たぬといっては笑い、りっぱすぎる字をつけたといっては嘲《あざけ》るのだ。その表情を見て、張佶は、細い口髭《くちひげ》をかるく引っぱった。 「そういう字を持ったからには、おぬし、王侯となるしかないな」  張佶がいうと、馬殷の表情がふたたび変わった。まじまじと張佶を見つめる。張佶は口髭から手を離した。 「王侯ともなれば、だいそれた字を持っても許されよう。青史《せいし》に記述されても恥ずかしくあるまい」 「王侯ですか……」 「おいおい、本気にするな。王侯とはおおげさすぎた。ま、りっぱな字がついてけっこうなことさ」  馬殷は無言で一礼すると、字を書いた紙を懐中にして張佶の前から立ち去った。      ㈼  この当時、孫儒のように粗暴な男でも、それなりに悩んでいる。このまま中原《ちゅうげん》の端にいると、李克用《りこくよう》の勢力と衝突しかねないのだ。  李克用には「独眼竜」の異名がある。生まれつき左眼がつぶれていたためだが、勇猛さと用兵において、この時代、並ぶ者がいない。麾下《きか》の全軍に黒衣を着せ、黒馬に騎《の》せしめたため、その軍を「鴉軍《あぐん》(からす部隊)」と称した。鴉軍が地平線上に姿をあらわすと、黒雲がわきたって押し寄せて来るかのようで、戦わずして逃げ去る敵が多かった。  孫儒も李克用と戦って勝つ自信などない。降伏しても、孫儒ごとき流賊はまともに遇してくれないであろう。では李克用と対立している朱全忠《しゅぜんちゅう》に与《くみ》するか。だが朱全忠は梟奸《きょうかん》な男で、孫儒を利用するだけしたあげくに、冷然と抹殺しかねない。あれこれと孫儒は迷い、決断しかねていた。  このころ馬殷は張佶と親しくなり、彼から茶仙《ちゃせん》である陸羽《りくう》の話を聞いたりした。  馬殷より百年以上の往古《むかし》、唐の世がまだまだ盛んであったころに、陸羽という人がいた。禅宗の寺で育てられ、朝廷の名臣|顔真卿《がんしんけい》の庇護《ひご》を受けて、一生を学問と著作のうちに送った。さまざまな著作があるが、それらは不朽の名著というほどのものではなく、すぐに忘れられた。ただひとつ「茶経《ちゃきょう》」という著作が残っているが、これだけは千年の後までも残るだろう。  そういって張佶は馬殷の表情をうかがった。茶とはこれほど深遠なものだ、といってやりたかったのだが、馬殷は深遠さなどどうでもよかった。  馬殷には陸羽のような学識も哲理《てつり》もない。むろん庇護してくれる人もいない。文字すらろくに読めないのである。ただひとつ、茶を偏愛する心情においてのみ、馬殷は陸羽に劣らなかった。 「おれは木工出身の一兵士で終わるつもりはないが、木工の家でも家族そろって茶を飲めるようになるといい。そう思う」 「けっこうな志《こころざし》だ。古来、英雄豪傑は星のごとくいるが、茶仙たらんと志した賊徒《ぞくと》は、おぬしがはじめてだあろうな」  もっとも、馬殷は脱俗の茶仙になどなれそうもなかった。茶のつぎに女が好きなのである。世が乱れ、秩序が崩壊したために、本来なら馬殷などと一生、声もかわさずに終わるような良家の小姐《おじょうさん》が、落ちぶれて妓楼《ぎろう》に身を寄せていたりする。馬殷はよく妓楼に通ったが、ことに南方出身の女性を指名して土地の話を聞いていたといわれる。情報でも集めていたのであろうか。とにかく、ある日、弟の※[#宗+貝]に向かっていった。 「茶の産地は湖南《こなん》が一番だそうだ。どの女に尋《き》いてもそう答える」  湖南とは洞庭湖《どうていこ》の南を意味する。「ふうん」としか※[#宗+貝]は答えなかったが、それから三日ほどして、今後、どちらの方向へ軍を動かすべきか、幹部を集めて孫儒が会議を開いた。 「南に行きましょう」  馬殷はそう主張した。主張すれば、当然、理由を問われる。南方では茶が採《と》れる、とはいえない。すでに馬殷は理由を考えてあった。 「このまま中原にいても、朱・李両勢力の抗争に巻きこまれるだけで、とうてい自立はできません。南方でしたら、生き残る道があります」  確信に満ちた馬殷の言葉に、孫儒は心を動かされた。 「南方といえば、長江流域だが、しかし、そう簡単にはいかんだろう」  長江の上流、蜀《しょく》と呼ばれる土地には王建《おうけん》という者がいる。下流、呉《ご》と呼ばれる土地には楊行密《ようこうみつ》という者がいる。どちらも実力をもって一国を樹立するだけの力量を有しているものと思われた。兵力もそれぞれ五万とか十万とかいわれている。孫儒ていどの実力で互角に渡りあえる相手ではない。 「長江の中流域は空白地帯です。進んで奪《と》るならこのあたりかと」 「ふむ、荊州《けいしゅう》あたりに拠《よ》るか」 「いや、荊州は四方に開けすぎております」  北から李克用、東から楊行密、西から王建、三方からの強敵に攻められては、自立することすら危うい。地図の上に指を這《は》わせつつ、馬殷は語を継いだ。 「荊州を通過して長江を渡り、さらに南下して湘江《しょうこう》の流域を奪りましょう。湖南の地です。北は長江を自然の濠《ほり》とし、他の三方は山岳を城壁として守れば、そこに一国を建てることもできましょうぞ」  馬殷は熱弁をふるった。後方にひかえていた※[#宗+貝]が、あきれたような視線を兄の背にそそぐ。彼には兄の本心が読めた。兄は茶の大産地へ軍を進めようとしている。兄が茶好きと承知はしていたが、まさかこれほどとは思わなかった。古来、乱世に兵を動かして土地を奪い、国を建てた者は幾人もいるが、その動機として腹いっぱい茶を飲みたいから、などという人物がいたであろうか。 「よし、湖南を奪うぞ!」  座を立って、孫儒が咆《ほ》えた。諸将がそれに和した。何といっても、馬殷をしのぐだけの戦略案を述べることができた者は、他にいなかったのだ。張佶とか高郁《こういく》とか、多少なりとも知略があると見られる者たちは、むしろすすんで馬殷に賛同した。※[#宗+貝]にしても、兄の本心を知ってなお、その戦略の正しさを認めざるを得なかった。それ以外に、この乱世を生きぬく方策はなかったのだ。  孫儒軍二万は南下を開始した。長江の岸まで五百五十里(三百キロ強)を半月で南下したが、舟をそろえて長江を渡ろうとしたとき、驟雨《しゅうう》のような音とともに矢が飛来して、十人ほどの兵士を転倒させた。長江の下流、つまり東方から、水上と地上に分かれて数万の軍勢が押し寄せて来る。ひるがえる軍旗に「楊」の文字があった。西方への勢力拡大をはかる楊行密が、孫儒軍の動きを知り、長江流域に野心をいだく者は小物でも許さぬ、とばかりに、三万の兵で先制攻撃をかけて来たのである。  ここで長江を渡ることができなければ、周囲の大勢力から圧迫されて、春の霜さながらに土に溶《と》けてしまうしかない。馬殷は両眼を血走らせた。弟の※[#宗+貝]をかえりみてどなった。 「長江を渡るか、ここで死ぬかだ。運がよければ、今日の夕食は南岸で食おう」  弟の返事も聞かず、馬殷は矛《ほこ》をふるって突進した。武芸に練達しているわけではない。だが膂力《りょりょく》はある。軽捷《けいしょう》でもあった。木工として家を建て、高い足場の上で自在に動きまわっていたのだ。揺れ動く舟の上で、馬殷は地上同然に走り、躍り、矛をふるうことができた。 「大哥につづけ!」  声を発して、※[#宗+貝]も突進する。その姿を見て、孫儒軍の将兵はふるいたった。喊声《かんせい》をあげ、刀槍《とうそう》を振りまわして楊行密軍に斬りこんでいく。舟と舟、人と人、刃と刃が激突し、無数の矢が江上の空を埋めつくし、噴血が雨となって水面を打った。二刻にわたる死闘の末、楊行密軍は二百|艘《そう》の舟と三千の死体を長江に浮かべて退却していった。はじめて水上戦を経験した孫儒軍が、水上戦で無敵といわれた楊行密軍を撃退したのである。落日と反対方向へ去る敗敵《はいてき》の船列を見送って、馬殷たちは声をかぎりに勝利を誇った。  だが、すぐに馬殷が愕然《がくぜん》としたのは、弟の※[#宗+貝]が姿を消していたからである。必死で探しまわったが、夜の闇が完全におりるまでついに発見できず、乱戦の中で死んだものと思うしかなかった。肩を落として陣にもどってきた馬殷は、さらにおどろくべき事実を知らされた。主将である孫儒が敵の矢を受け、夜にはいってすぐ息を引きとったというのである。  孫儒軍は戦いに勝ちながら、主将を失ってしまった。      ㈽  孫儒の副将であった劉建峯が全軍の指揮を引きつぎ、馬殷ら二万の将兵は長江以南の土地にはいった。陽光と水と緑があふれる南国である。名にし負う洞庭湖の東岸に沿って、さらに南下していくと、龍回関《りゅうかいかん》という城塞にぶつかる。そこには処訥《とうしょとつ》という武将が拠っており、三万の兵を擁して、馬殷らをはばんだ。 「策があります」  そういって馬殷が説明すると、劉建峯は大きくうなずいてその策を採用した。  最初の戦いがおこなわれ、双方損害があってはっきりと勝敗はつかなかったが、処訥の部将である蒋《しょうくん》という男が劉建峯軍の捕虜となった。翌日の夜明け前、龍回関の城壁上にいた兵士たちは、開門を叫ぶ声に気づいた。白刃を打ちかわす響きや、馬のいななきも聞こえる。蒋が敵に追われつつ帰陣して来たのだ。城壁上からの炬火《かがりび》を受けて光るのは蒋の甲胄《かっちゅう》で、旗幟《はたじるし》の彼のものであった。城兵たちは処訥に報告する一方、ただちに城門を開いた。と、それまで戦っていた敵味方が、にわかに矛先をそろえて、洪水のごとく城内に乱入して来た。  蒋の甲胄を着こんで変装していたのは馬殷であった。夜明け前の闇の中で偽闘《ぎとう》を演じていたのも、すべて馬殷の部下たちである。彼らが城兵を斬り散らして城門を確保すると、息をひそめて待機していた劉建峯の全軍がなだれこんだ。各処で斬りあいがおき、城内が混乱するなか、馬殷は、馬を駆って脱出しようとする処訥に出くわした。 「降伏しろ、生命は助ける」  という馬殷の呼びかけも終わらぬうち、処訥は大剣を振りかざして斬りかかってきた。彼は寝こみをおそわれて武装しておらず、絹の寝衣をまとっただけであった。絹など着ていたので、正体を知られて逃げそこなったのだが、その絹も、十数合の撃ちあいの後に血に染まった。馬殷は処訥の首級《しるし》をあげ、龍回関はおちた。さらに馬殷は兵を進め、この地方の最大都市である長沙《ちょうさ》をも占拠した。  劉建峯は朝廷より湖南節度使《こなんせつどし》に叙《じょ》せられた。その下で、馬殷は馬歩軍都指揮使《ばほぐんとしきし》となる。騎兵と歩兵、両部隊の総司令官であった。数年におよぶ流浪と転戦の末に、彼らはようやく根拠地を得た。そうなると、とたんに劉建峯は気をゆるめた。長沙城内に宮殿めいた建物をつくり、酒と女に溺れはじめたのである。  劉建峯に対する不満と不信の念は、急速に全軍に拡大していった。この時代、この程度の小勢力で指導者が無能ということは、全軍の敗亡に直結するのである。「建峯は庸人《ようじん》にして其下《ぶか》を帥《すい》する能《あた》わず」と、「新五代史」の記述は手きびしい。「たかが節度使になっただけで、何様のつもりだ。つい先日まで泥水をすすっていたくせに」と兵士たちは眉をひそめた。  奇妙なものだ、と、馬殷は思う。孫儒が生きていたころ、劉建峯はそれほど無能には見えなかった。副将として、兵士を統率するにしても戦闘を指揮するにしても、りっぱにやっていたものだ。それが上司を失い、いちおうの地位と富を得たとたん、女を狩り集め、芸人を侍《はべ》らせ、酒びたりの毎日で、甲胄も埃《ほこり》をかぶるありさまである。どうも、人には器《うつわ》というものがあるらしい。  陳贍《ちんせん》という兵士がいた。彼の妻は評判の美女であった。劉建峯はその美女に目をつけ、自分に譲るように陳贍にせまった。陳贍が拒絶すると、劉建峯は部下に命じて彼の妻を拉致《らち》し、これを姦した。激怒した陳贍は、劉建峯が酔って外出するところを待ち伏せ、横あいから矛をくりだしてその腋《わき》を突き刺した。  陳贍はその場で斬殺されたが、矛の刃には毒が塗ってあったため、劉建峯もほどなく死んだ。軍は指導者を失った。  劉建峯の死を悲しむ者はほとんどいなかったが、せっかく得た湖南節度使の地位である。これを守りとおさなければ、将兵はもとの流賊と化して滅び去るだけだ。とりあえず諸将は合議して、張佶を後任の湖南節度使として推戴《すいたい》することにした。張佶には何ひとつ武勲はないが、だからこそ諸将の功名あらそいの外に立っていられたのだ。積極的に反対する者はおらず、いずれ機会を得て大功をあげた者が張佶にとってかわることになるであろうと思われた。馬殷はこのとき長沙を離れて西方の境界をかため、蜀軍とにらみあっていたため、劉建峯の死を知らなかった。  湖南節度使となった張佶には、それなりの自信があった。諸将の利害を調整し、たくみに互いを牽制《けんせい》させて、力の均衡の上に自らの地位を確立するつもりだったのである。まずは馬殷を前線から呼びもどし、恩を着せて登用してやろう。そう考えながら、張佶は街を巡察するために馬に騎《の》ろうとした。彼が鐙《あぶみ》に足をかけた瞬間、いきなり馬が長首をまげ、主人の肩に噛《か》みついた。悲鳴をあげた張佶は、地に横転し、腰を打って動けない。従者たちがあわてて彼を病室に運びこんだ。  張佶はすっかり自信を喪失してしまった。数日後、彼は病室に諸将を招集して、つぎのように告げた。 「馬一頭も御《ぎょ》することのかなわぬ者が、乱世において衆人《しゅうじん》を御することなど、できようはずがない。思うに、馬公(馬殷)は英勇《えいゆう》の人である。私は諸卿《しょけい》と自分の命運を、馬公に託そうと考えるが、同意してくれるだろうか」  反対する者はいなかった。馬殷は酒より茶を好む変人だが、それ以外の点では、勇気も知略もあり、兵士たちを虐《いじ》めることもなく、公正な男である。農民や商人を害することもなく、むしろ守ってやるから、彼らは感謝して馬殷のところへ金品や米麦を持ってくる。馬殷はそれを兵士たちに分配する。劉建峯が失った人望を、馬殷は自分のものにしつつあった。  こうして馬殷は前線から呼びもどされ、湖南留後《こなんりゅうご》の称号を得て七州を領有するに至った。すでに四十五歳になっていた。  馬殷が最初にやったことは、陳贍の妻に銀子を与えて追い放したことである。彼女の美貌を知る者は皆おどろいた。彼女を馬殷が自分の所有にすると思っていたからだ。だが馬殷は、 「あの女が悪いわけではないが、男をふたりも死なせればもうたくさんだろう」  と語って、未練を残さなかった。  直後、馬殷は思いがけぬ人物に再会した。死んだものとばかり思っていた弟の※[#宗+貝]が、兄をたずねて来たのだ。  ※[#宗+貝]は楊行密のもとにいたのである。「黒雲都《こくうんと》」と称される精鋭部隊の指揮官をつとめ、何度も武勲をたてて、厚遇されていた。ある日、楊行密に素性を問われて正直に答えたところ、おどろいた楊行密は彼に兄のもとに帰るようすすめた。「どうかおかまいなく」と、※[#宗+貝]は答えた。兄もめでたく湖南七州の領主になったようで心配いらない、自分は捕虜の身であったのを、助命してもらった上に厚遇してもらったから、このままあなたの麾下に置いてほしい。そう要望したのだが、楊行密としては※[#宗+貝]を使いづらく感じたのかもしれない。どうしても帰れといわれて、しかたなく※[#宗+貝]は楊行密のもとを離れ、ひと月の旅の後、十年ぶりに兄と再会した。弟を迎えて馬殷はいった。 「おれもようやく、好きなだけ茶を飲める身分になれた。喜んでくれ」 「そいつはめでたい」  苦笑して、※[#宗+貝]は大杯をあおり、兄の邸第《やしき》の外にひろがる茶園を見まわした。 「だが、いくら大哥の胃が大きくても、この土地にできる茶のすべてを、ひとりで飲みつくすことはできまいて。あの見わたすかぎりの茶、茶、茶をどうする気だ」 「売るのさ」  答えて馬殷は、大杯のかわりに茶碗をかかげてみせた。 「まあ見ていろ。おれは湖南を手に入れた。史上、誰もやらなかったことをやってみせる」 「わかった、大哥の好きにするがいいさ」  ※[#宗+貝]は、どこへ行こうとその場所で全力をつくす、という型の人間であったようだ。楊行密に対して忠誠をつくした彼は、ひとたび兄のもとに帰還すると、生涯よき補佐役としてつかえ、信頼を裏切ることがなかったのである。      ㈿  茶の増産と商業の振興。馬殷はすでに自分の理想国家のあるべき姿を、はっきりと脳裏に描き出していた。自分が実力で天下を統一するような蓋世《がいせい》の英雄でないことは、よくわかっていた。それでも、辺境に一国を立てて平和な統治をおこなうていどのことはやれるだろう、と思う。  数年の間に、馬殷は和戦双方の手段で、邵州《しょうしゅう》、衡州《こうしゅう》、永州《えいしゅう》、など六つの州を領土に加えた。南方で残るは桂州《けいしゅう》のみで、ここは劉士政《りゅうしせい》という刺史《しし》(長官)の支配下にあった。  馬殷は平和的な手段で劉士政を降伏させようと思い、使者を送った。ところが劉士政の部将で|陳可※[#王+番]《ちんかはん》という者がおり、この男が馬殷からの使者をとらえて牢獄に放りこんでしまった。「木工あがりの流賊などと交渉ができるか。戦うのみだ」というのである。  報告を受けて、馬殷は激怒した。注《つ》がれたばかりの熱い茶を飲み終えると空《から》になった茶碗を床にたたきつけ、即日、七千の兵をひきいて出陣したのである。  馬殷が戦いを好まぬのは、弱いからではない。ただ一日の戦闘でそれが証明された。  陳可※[#王+番]は馬殷の軍が遠路を来て疲れていると思い、一戦して打撃を与えた後、城にたてこもろうとした。ところが、あっという間に彼の軍は馬殷のために包囲撃滅されてしまい、陳可※[#王+番]自身あわてて逃げようとするところを、※[#宗+貝]の太刀を背後からあびて首を飛ばされてしまった。  敗報を受けた劉士政は馬殷に降伏を申しこみ、桂州城は無血で開城した。 「渓洞諸蛮《けいどうしょばん》」と史書に記されているのは、湖南から広西にかけての山岳地帯に居住する少数民族の総称だが、これらもことごとく馬殷に帰服した。  いまや馬殷は、東に呉、西に蜀という雄敵《ゆうてき》をひかえながら、その中間に一大勢力を築きあげた。北は長江から南は南嶺《なんれい》に至るまでの二十余州が彼の領土となった。すでに唐は滅び、後梁《こうりょう》の開平《かいへい》四年(西暦九一〇年)のことで、馬殷は五十九歳になっていた。 「領土の拡大もここまでだろう。あとは内部をかためることだ」  馬殷は後梁の朝廷に使者を送り、白銀、絹、それに多量の茶を献上した。効果はすぐにあらわれた。すでに彼は楚王《そおう》となっていたが、さらに「天策上将《てんさくじょうしょう》」の称号を受けた。天策上将とは、唐の太宗|李世民《りせいみん》が即位する前に受けた称号で、名誉職のきわみである。  それにともない、正式に楚王府が開かれ、左右の宰相が置かれた。左相《さしょう》となったのは王弟《おうてい》の※[#宗+貝]で、主として軍事を担当し、右相《うしょう》となったのは張佶で、主として民政を担当する。この両者の他に、楚の重臣としては、高郁《こういく》、袁詮《えんせん》、王環《おうかん》、姚彦章《ようげんしょう》、許徳勲《きょとくくん》、李鐸《りえき》、崔穎《さいえい》、拓抜常《たくばつじょう》、|馬※[#王+共]《ばきょう》、廖光図《りょこうず》、秦彦暉《しんげんこん》、|黄※[#王+番]《こうはん》などの名が正史に記されている。多くは若いころから馬殷とともに各地を流亡し、大小数百戦を生きぬいてきた男たちだが、廖光図のように土地の文人として著名な人物もいる。馬殷がよく人材を用いることは有名で、多くの者が彼の麾下に身を投じた。楊行密の部将で、勇猛をもって知られる呂師周《りょししゅう》も、主君と対立して脱出して来た。彼は※[#宗+貝]と親しい仲であったから、ただちに馬殷は彼を馬歩軍都指揮使・昭州《しょうしゅう》刺史に任命し、南方の守りをゆだねた。  毎日のように馬殷は長沙城外に出て、茶の育成、穫《と》りいれ、加工などを視察してまわった。茶の生産にかかわる者はたいせつに保護したが、一方で、茶を盗む者は厳罰に処した。高価な茶をつくらせながら、安い茶も大量につくらせたのは、「木工でも一家そろって茶を飲めるように」という、この男なりの理想を実現させようとしたのである。  時期は明記されていないが、張佶をともなって視察に出たときのことと伝えられる。豪農の家で茶を出されて、馬殷は顔色を変えた。 「この茶は誰が淹《い》れた!?」  相手が蒼白《そうはく》になって慄《ふる》えだしたので、馬殷は自分の表情に気づいた。できるだけやさしい声を出す。 「いや、咎《とが》めているのではない。その逆だ。これほどうまい茶を淹れる者は、長安の都にもおるまい」  何が長安の都だ、と。張佶はあきれた。馬殷は生まれてこのかた長安になど行ったこともないはずである。 「ほうびをとらせよう。いったい誰だ?」 「当家の婢《ひ》でございます」 「ぜひ会わせてくれ」  この時代、男、それも権勢ある者が女性に面会を求めるのは、それなりの意味を持つ。やがて主人と両親にともなわれてあらわれたのは、粗末な服装の若い女だった。おどおどと、楚王に対して拝礼する。 「美女とはいえんな」  張佶はそう思った。眉は太すぎるし、目は小さく歯並びは悪い。心の中で張佶が女の容姿の欠点を算《かぞ》えたてているうちに、馬殷は女と両親を相手に熱心にくどきたてていた。やがて馬殷は張佶を呼びたて、銀子の箱を運んでくるように命じた。 「おれの家へ来て、朝夕、茶を淹れてくれ。それ以外のことはせんでいい」  そういって、馬殷は女の両親に白銀千両を与えた。両親はおどろきかつ喜んだ。十年ぐらいは裕福に生活できる金額であった。この女性の名前は不明で、馬殷の子供を産んだかどうかもわからない。だが、本人も両親も想像だにしなかった境遇を得て、それ以後の人生を送ったことはたしかである。むろん、馬殷の後宮には百人からの美女がいた。  とくに容色をもって寵愛を受けたのは袁氏《えんし》という女性だが、出自は明らかではない。茶を淹れるのが巧みであったか否かもわからないが、舞楽《ぶがく》は得意であったという。馬殷は茶業立国による領国経営に熱中し、乱世にあって極力、無用な出兵を避けていたが、やむをえずして戦わなければならぬ場合があったのも当然である。まだ正式に楚王となっていないころ、雷彦恭《らいげんきょう》という男が出現した。東方の呉王楊行密に五万の兵を借り、楚の北方国境を荒らしまわり、さらにその北に位置する荊南《けいなん》節度使の領国を攻撃しようとした。荊南節度使・高季興《こうきこう》は単独でそれに対抗できず、馬殷に同盟を申しこんできた。  高季興は、後梁の天子|朱全忠《しぜんちゅう》の部将である。若いころは商人の家で家僮として働いていたが、賊軍に参加して長安の都を荒らしまわった。つぎつぎと主人を替え、朱全忠の下で頭角をあらわした。荊南節度使になって荊州を鎮すると、わずか三州ながら自立の形勢を示し、後に南平王《なんぺいおう》に封じられる。  高季興には梟雄《きょうゆう》の資質があり、有能だが欲が深い。馬殷は彼をかならずしも信用してはいなかったが、中原王朝との交通・貿易路を確保するためには、北方を安定させておく必要があった。それに、どのみち雷彦恭を放置しておくわけにはいかない。無名の人物が風雲に乗じて、十年後には一国の王となる。この時代いくらでも例があることで、馬殷自身がそうであった。危険な芽は早く摘《つ》んでおくべきである。彼は張佶や※[#宗+貝]に相談した。 「ここは高の口車《くちぐるま》に乗ってやろうと思うが、どうだ?」 「御意《ぎょい》に存じますが、荊南軍の動向には充分、ご注意下さい。なるべく彼らを呉軍と戦わせるべきでございます」 「むろんのことだ」  高季興のことだから、楚軍にのみ戦わせて自軍を温存するかもしれぬ。それどころか、密《ひそ》かに呉軍と通じて楚軍の後背を衝《つ》き、馬殷を討ちとって楚領を呉軍と分割するぐらいの策略は立てかねない。  馬殷は五万の兵をひきいて長沙から北上した。張佶に長沙の守りをゆだねた他は、ほとんど麾下の全軍をひきいている。高季興のほうはといえば、一万をひきいて来たものの、長江を渡ろうとはせず、北岸で炬火を燃やして気勢をあげるだけであった。 「最初からあてにはしとらんが、それにしても露骨だな」  馬殷は舌打ちし、※[#宗+貝]、高郁、呂師周らの諸将と策を練った。  戦場は岳州《がくしゅう》である。洞庭湖と長江の接点で、詩にうたわれる岳陽楼《がくようろう》の絶景で知られる。その岳陽楼に、馬殷は本営を置いた。ここにいれば四方に展開する水陸入り乱れた地形をことごとく見渡せるからである。  一夜、長江の北岸に展開していた荊南軍の陣に火の手があがった。「呉軍の夜襲だ」という叫びがあがる。もともと戦意にとぼしい荊南軍はたちまち潰乱《かいらん》した。炎上する荊南軍の陣を見た呉軍の将、劉存《りゅうぞん》と陳知新《ちんちしん》は、好機逸すべからずとばかり、南岸から北岸へ舟を出し、渡河して攻撃しようとした。ところが江上の半ばまで来たとき、こんどは南岸の呉軍の陣が赤々と燃えあがった。「さては罠《わな》か」と、あわてて引き返そうとしたが、夜、しかも水上のことで、急には引き返せない。混乱するところへ、上流から、油と柴を積んだ百艘あまりの小舟が殺到してきた。小舟に乗った兵士たちは、自らの舟に火を放つと、さらに小さな小舟に飛び乗って避難する。火舟に突入された呉の船団はたちまち火につつまれ、逃げまどう呉軍めがけて楚軍が矢の雨を降らせた。荊南軍の陣が炎上したのも楚軍のしわざで、馬殷は形だけは味方である荊南軍を囮《おとり》に使ったのである。  呉軍は敗れて一万余の死者を出した。劉存、陳知新の両将軍は戦死した。雷彦恭は逃亡した。  敗報を受けた呉王楊行密は無言で天をあおいだ。この戦いで勝っていれば、呉国の勢力は長江中流域一体におよび、いずれ北上して中原を望むこともかなったであろう。  楊行密は病に倒れ、ふたたび起《た》つことがなかった。唐の天祐《てんゆう》二年(西暦九〇五年)、享年五十四。彼の子供らはまだ幼少で、呉国の実権は重臣の徐温《じょおん》に帰《き》した。そして徐温の養孫であった李《りえい》によって、楊行密の一族は、幼児に至るまで皆殺しにされるのである。      ㈸  楊行密の西征軍をしりぞけたのは、馬殷が五十三歳のときで、以後ほとんど馬殷は戦場に立つことはなかった。四方の国境で、ときに小ぜりあいがあるぐらいで、黄河流域が動乱と流血に明け暮れる間、楚国二十余州はおおむね平和であった。馬殷はひたすら国と民を豊かにすることに努《つと》め、他国の商人にもほぼ自由に国内を通行させた。道路や橋を整備し、宿駅をととのえた。そして国境には、茶を売るための専門の国営商店を設けて、これを「邸務《ていむ》」と称した。  古来、「楚の覇王」といえば項羽《こうう》のことである。馬殷は「楚の茶王」と呼ばれた。項羽と比較にならない小物だ、という揶揄《やゆ》の意も含まれているが、馬殷は意に介しなかった。 「おれは天下に望みなどない。そんなものは梁主《りょうしゅ》(朱全忠)にくれてやる。だが、梁主といえども、茶を飲みたいと思ったら、おれから買うしかないのさ」  楚の茶王にとって最大の楽しみは、毎年、国内の茶のすべてを集めた中から、最上の銘茶を選ぶことであった。品評会の優勝者には、目もくらむほどの賞金が与えられた。 「旧五代史」および「新五代史」の記述を総合すると、茶の輸出のよって楚国にもたらされる利益は経費の十倍におよび、年間、白銀百万両に達したといわれる。中原を支配する王朝は、後梁から後唐へ、さらに後晋に替わったが、皇帝から庶民にいたるまで、茶を飲もうとすれば楚国からの輸出に頼るしかなかった。逆にいえば、楚国が武力によらず茶の輸出によって一国を建てることが可能になるほど、中華の人々は茶を飲むようになっていた。むろん、その功績がすべて馬殷のものであろうはずはないが、いくらかの貢献をなしたことは疑いえない。  馬殷は七十歳をすぎても髪はなお黒く、皮膚は艶《つや》やかで、心身ともに壮者《そうしゃ》に劣らなかった。すっかり老《ふ》けこんだ弟の※[#宗+貝]が、 「大王のように酒ではなく茶を飲んでおればようございました」  と語りかけると、一笑して、 「ようやく悟ったか。だが惜しいな、三十年ほど遅かったぞ」  そう答えたという。  平穏のうちに馬殷は老いていくかに見えた。張佶も死に、※[#宗+貝]も兄に先立ったが、馬殷はますます健康で、百歳までも壮健に生きぬくであろうと思われた。  馬殷には二十人近い男児がいたといわれる。全員の名前に「希」という文字がついていた。長男の希振《きしん》は賢明であったが、王位継承権を放棄して道士《どうし》となってしまった。次男の希声《きせい》と三男の希範《きはん》とは、ことなる母親の腹から同年同月同日に生まれたが、希声は母の袁氏が馬殷に寵愛されていたため、兄として遇され、さらに王世子《おうせいし》となった。賢明な希振が道士となって世をすてたのは、王位をめぐって弟と争いたくなかったからである。  希声は史書に「素《もと》より愚」と記されているほどで、王者の器ではなかった。長く馬殷につかえて功績のあった重臣に、高郁がいる。荊南の梟雄高季興が高郁の才略をおそれ、流言を振りまいた。高郁が荊南と結んで不軌《むほん》をたくらんでいる、というのである。それを聞いた馬殷は笑いとばしたが、希声は高郁に毒を盛って殺してしまった。その日、晴れていた空が急変し、霧がたちこめたので、宮殿の奥庭を散歩していた馬殷は愕然とした。 「この霧は何としたことだ。誰か罪なき者が殺されたのではないか」  調査させてみると、はたして高郁が殺されていた。馬殷は怒りかつ歎《なげ》いた。希声を廃して、長男の希振を宮中に呼び返そうとしたが、すでにこのとき希声の権勢は宮中をおおっており、馬殷の命令にだれもしたがおうとしなかった。むりに希振を呼び返せば、希声は兄を殺すにちがいなかった。老いた楚の茶王は、側近に向かって歎いた。 「吾《われ》は木工より身を起こして、ついに楚王となった。聖人のごとくふるまったわけではないが、罪なき者を殺したことはない。それがいま高郁を死なせたからには、吾も今後、久しくはあるまい」  数日して、楚王馬殷は七十九年の生涯を終えた。長興《ちょうこう》元年(西暦九三〇年)のことである。  喪主となったのは当然、希声であるが、彼は形式的な涙さえ流そうとしなかった。葬礼の間、自席の前に卓を置き、鶏の蒸し焼きをむさぼり食っていた。彼は唐王朝を滅ぼした朱全忠を異様なまでに崇拝しており、朱全忠が鶏肉を好むことを知ると、以後、それ以外の肉は食べなくなったのだ。  五羽の鶏肉を食いつくすと、希声はおくび[#「おくび」に傍点]をしながら皿を放り出し、葬礼の会場から立ち去ってしまった。臣下一同が呆然とする中、礼部侍郎《れいぶじろう》の職にあった潘起《はんき》という人物が溜息をついていった。 「前王は茶を飲んで一国を建てた。新王は鶏を喰《くら》って一国を亡ぼすか」  潘起は葬礼の会場を出て、新王の兄のいる道観(道教寺院)へと馬を走らせた。翌日、希声の派遣した千人の兵が、その道観へと乱入した。むろん希振の生命をねらったのであったが、すでに希振の姿は消えていた。潘起とともに北へ亡命したものと思われるが、その行方はついに知れなかった。  馬殷の死後、二十一年にして楚は滅亡した。その間に王位に即《つ》いた者は五人におよんだが、それはすべて馬殷の子である。兄弟が王位をめぐって抗争をつづけ、馬殷があれほど愛した湖南の茶園は、息子たちの馬蹄によって踏みにじられた。  五代十国の楚は事実上、一代で滅んだ。それ以前も、以後も、茶によって一国が成立した例は絶無《ぜつむ》である。