潮音 ——五代群雄伝 (出典:チャイナ・イリュージョン 田中芳樹 中国小説の世界) 田中 芳樹・著      ㈵  若者が死んだのは開運《かいうん》四年(西暦九四七年)という年だが、季節は記録されていない。楠《くすのき》の梢《こずえ》を海からの風が渡る夏でも、金木犀《きんもくせい》の花が杭州《こうしゅう》の街を埋めつくして咲きほこる秋でも、それぞれ若者にふさわしいように思われる。だが若者が好んだ銭塘江《せんとうこう》の逆流は中秋《ちゅうしゅう》八月のことで、その遠いとどろきを聴《き》きながら逝《い》ったというのが、もっとも若者にふさわしい光景であるように思われる。むろん後人《こうじん》の感傷をこめての想像である。 「二十年……」  死にあたって若者はそうつぶやいた。わずか二十歳で世を去る自分の短命《たんめい》を歎《なげ》いたのであろう、と、人々は語り合った。  やや異《こと》なる解釈をする者は、「せめてあと二十年の寿命があれば」、あるいは「二十年早く生まれていれば」、という意味に受けとった。そのいずれも正しいように思われるのは、若者が地上に残していった可能性の大きさによるであろう。  短い生涯において、若者は中華帝国の歴史をわずかに動かした。だが歴史を大きく変えるには、彼は二十年遅く生まれ、二十年早く死んだ。天命《てんめい》であると思いつつ、覇気《はき》と烈気《れっき》は天命を甘受《かんじゅ》しえなかったであろう。  若者の姓は銭《せん》、名は弘佐《こうさ》、字《あざな》は元祐《げんゆう》。五代十国《ごだいじっこく》の呉越《ごえつ》国の王である。 「紛々《ふんぷん》たる乱離《らんり》の世」  とは、五代十国の世を評した「水滸伝《すいこでん》」の文書である。「ばらばらでむちゃくちゃな時代」であった。黄河中流のいわゆる中原《ちゅうげん》に五つ、その周辺に十、あわせて大小十五の王朝が乱立し、抗争をつづけたのである。唐《とう》の滅亡から宋《そう》の天下統一にいたる七十二年間で、西暦九〇七年から九七九年までにあたる。  大局からいえば、それは中華帝国が中世から近世へと移行する時期であった。武人が実力をもって割拠《かっきょ》し、戦火がやむ日は永《なが》く来ないかと思われた。だがそれぞれの地方では経済と文化はいちじるしく発達をとげ、けっして暗黒時代ではなかった。宋代にいたって爆発的に発展する商品流通、詞《し》、絵画《かいが》、陶芸、印刷術などはいずれもこの時代が源流となっている。  乱立した諸国には、それぞれの個性があった。南漢《なんかん》という国は渡来したアラブ人の子孫によって建てられた国で、南海貿易によって繁栄した。楚《そ》という国は茶を大量に生産し、それを輸出して財政をささえる茶王国であった。前蜀《ぜんしょく》は文学が盛んで印刷技術の発達は世界一であった。南唐《なんとう》は長江下流域の肥沃《ひよく》な平野を領し、富と文化は諸国中|随一《ずいいち》で、軍事力も強かった。  呉越国は南唐の隣にある。北と西を南唐に接し、南は※[#門+虫]《びん》国に接し、東は海であった。その領土は、後世でいう浙江《せっこう》省の全域に、江蘇《こうそ》省の東南部をしめている。それほど広くはないが、長江と銭塘江にはさまれた肥沃な平野を持ち、気候は温暖で、生産力が高く、豊かな国であった。海に面して川や湖が多く、漁業や水運も盛んであった。首都は杭州である。後に蘇州《そしゅう》とならび、地上の天国にたとえられるようになった美しい豊穰《ほうじょう》な土地で、その繁栄は一小国の首都とも思えぬものであった。  即位したときの弘佐は十四歳であった。この年齢で国王となるのは誰が見ても早すぎる。父親が健在であれば、むろんそうはならなかった。この年、弘佐の父|銭元※[#王へんに潅のつくり]《せんげんかん》が五十五歳で没したのである。  銭元※[#王へんに潅のつくり]は多くの長所を持った男であった。戦場では勇敢で用兵にすぐれ、しばしば隣国の軍と戦った。学問を好み、詩文《しぶん》に長じ、中原の戦火を逃《のが》れてきた文人たちを保護した。ただ、はで[#「はで」に傍点]好きの贅沢《ぜいたく》ごのみで、人民への税は重く、豊かなのは宮廷とその周辺だけであった。  天福《てんぷく》六年(西暦九四一年)八月、杭州で大火災が発生した。原因は不明だが、火は市街の大半を焼きつくし、豪壮華麗をきわめた王宮も炎上してしまった。銭元※[#王へんに潅のつくり]はかろうじて救出され、焼死をまぬがれたが、よほど心身に衝撃を受けたのであろう。病床につき、数日で死んだ。  太子たる弘佐が即位するのは順当なことであったが、何しろ少年であったから、異論の出る余地はあった。それが無事に即位できたのは、重臣たちが「幼主《ようしゅ》ほど与《くみ》しやすい」と、上等でないことを考えたからである。弘佐の即位を心から祝福したのは弟の弘※[#にんべんに宗]《こうそう》だけであった。  弘※[#にんべんに宗]は字《あざな》を隆道《りゅうどう》という。弟といっても弘佐と同年の生まれで、二、三カ月の差があるだけだ。つまり母親がちがうのだが、この異母《いぼ》兄弟は仲がよかった。また一歳ちがいの弟に弘※[#にんべんに叔]《こうしゅく》、字《あざな》は文徳《ぶんとく》がおり、彼も文化的な才能が豊かで兄達に従順だった。この時代、多くの王家で兄弟が争い、国を滅亡させたことを思うと、呉越王家における兄弟の親愛ぶりは稀有《けう》のことといわねばならない。 「予《よ》はしばらくおとなしくしているつもりだ」  そう弘佐は弘※[#にんべんに宗]に語った。 「重臣たちが予を推《お》して王とした理由が、そなたにはわかるか、隆道?」 「はい、重臣どもは大哥《あにうえ》の真価《しんか》を知りません。年少とあなどって、自分たちのいいように大哥をあやつり、私服《しふく》を肥やすつもりでございましょう」 「そのとおりだ。だから半年は重臣どもの好きにさせておく。その間、そなたにはよく調べてほしいのだ。誰が信頼できるか、誰を追放すべきかを」  だいたいのことは弘佐は承知していたが、より正確を期したかったのである。  ことに悪質な重臣が四人いた。杜昭達《としょうたつ》、※[#門+敢]※[#王+番]《かくはん》、章徳安《しょうとくあん》、李文慶《りぶんけい》である。彼らは宮廷、政庁、軍部において最高の地位を占《し》めていたが、幼少の国王などいつでも廃立《はいりつ》できるのだ、と広言していた。彼らは自分たちの職責《しょくせき》を果たすより特権を濫用《らんよう》するほうに熱心であった。さまざまな名目《めいもく》をつけては国庫《こっこ》から公金を引き出し、広大な邸第《やしき》を建て、庭園をつくり、高価な名石や名木を集めた。朝廷の所有地をかってに自分たちの荘園とし、その収益を懐《ふところ》にいれ、朝廷の所有地で労働すべき農民たちを使役《しえき》していた。朝廷の専売物である塩を安く買いしめ、民衆に高く売りつけていた。これらのことを調査した弘※[#にんべんに宗]は怒りを禁じ得なかった。 「国富《こくふ》の半分は彼らによって私物化されております。それもここ数年のことではございません」  彼は兄王にそう報告したが、杜昭達らの行動はまさしく国を喰い物にするものであった。彼らは必要もない官職を濫造《らんぞう》し、一族の者をそれに任命して高給を与えた。公金を持ち出して商人に高利で貸しつけ、利息は自分たちの懐にいれ、公金は密《ひそ》かに返して、そ知らぬ顔をしていた。土木工事を知人に請負《うけお》わせ、余分に代金を請求させて、不当な利益を折半《せっぱん》していた。彼らの狡智《こうち》には際限がなかった。 「人はここまで貪欲《どんよく》になれるものか」  そう弘佐は思ったが、さらに考えてみれば所詮《しょせん》、杜昭達らの欲など小さく、さもしいものだ。国に寄生することしか、彼らの念頭《ねんとう》にはない。国を簒《うば》うとか天下を奪《と》るとか、そのように遠大な野心はない。ひたすら、弱いものから召しあげるだけなのだ。そして、そのような者たちを放任していた前王にも大きな責任がある。 「恐れるにも値しない輩《やから》だ。だが彼らを放任しておいては国が喰いつぶされる。最悪の者たちを除かねばなるまい」  若すぎる国王がそのように決意したことを、重臣たちはまったく知らなかった。弘佐と弘※[#にんべんに宗]とが何やら相談しているところを見ても、詩文の習作でもしているのだろう、としか思わない。実際、弘佐は詩を好み、長からぬ生涯に百余篇の詩を作している。西湖《せいこ》の暮色《ぼしょく》−−やわらかな黄金色《こがねいろ》の光がいつしか澄明《ちょうめい》な青色へと音もなく変化していく。それに溶けこんでいくような水と花と樹木の影、それを一望する亭《ちん》のなかで、眉目《びもく》の秀麗な少年がふたり、詩書を手に熱心に語りあっている。まさか自分たちを排除するべく計画を練っているとは想像もしない重臣たちであった。  年が明けて二月となった。杭州の市街は再建途上にあったが、梅や桃の花が白く紅《あか》く咲き誇り、芳香が微風に乗って人々を春に酔わせた。正確な日時は記録されていないが、十名ほどの重臣や宿将《しゅくしょう》たちが国王の招待を受けた。碧波亭《へきはてい》という離宮が西湖のほとりにあり、そこで桃花を観《み》る宴が開かれる、ということになっていた。招待された者のなかには、杜昭達《としょうたつ》、※[#門+敢]※[#王+番]《かくはん》、章徳安《しょうとくあん》、李文慶《りぶんけい》の四名もいた。彼らにしてみれば、招待されるのが当然であったから、疑惑をいだくどころか、そっくりかえって参上したものである。  碧波亭の門を守っていたのは、錦軍《きんぐん》と呼ばれる国王警備隊の兵士たちだが、甲冑《かっちゅう》をおびず、平服に剣を佩《は》いただけの姿であった。杜昭達らの部下は門外にとどめられたが、国王から彼らに酒と肉が下賜《かし》され、喜んで自分たちだけで宴会を開いた。  杜昭達らを案内したのは錦軍の士官二名で、張※[#竹+均]《ちょうきん》および趙承泰《ちょうしょうたい》という。千本に余る桃の樹が芳香を振りまくなか、人口の小川が流れ、それに面して宴席がしつらえられていた。弘佐と弘※[#にんべんに宗]は席を立ってわざわざ重臣たちを出迎えた。杜昭達らは満足した。このように誠意を示すなら、今後も王位につけておいてやろう。そんなことを考えたかもしれない。  女官たちが酒を勧《すす》め、舞いかつ歌い、重臣たちはこころよく酔った。やがてどのような話の運びであったのか、詩の話になり、杜昭達が酒くさい息で話しかけた。押しつけがましい口調であった。 「先王はご生涯に千余篇の詩をお作りあそばし、三百篇をお集めになって『錦楼集《きんろうしゅう》』とお名づけになりました。それも往古《むかし》のこと、今日に至ってはわが主公《きみ》らの才をお見せいただければ幸いでござる」 「隆道《りゅうどう》」  と、兄に字《あざな》を呼ばれた弘※[#にんべんに宗]は、一礼して筆をとり、さらさらと七字一行の文字を書いて、あとを誰かにつづけてほしい、といった。 「稚拙《ちせつ》で恥ずかしゅうございますが」 「何の、佳《よ》い詩句だ。せっかく弟が作ったもの、読んでみてくれぬか」  弘佐の手から紙を受けとった杜昭達が声を出して読みあげようとした瞬間、弘※[#にんべんに宗]が宙天へ高く筆を投げあげた。重臣たちがおどろく間もない。ふたつの黒影が宴席へ躍りこみ、はねあがる血煙が桃の枝にかかった。張※[#竹+均]が杜昭達を、趙承泰が※[#門+敢]※[#王+番]を、それぞれ一刀のもとに斬殺したのである。血の池に倒れこんだ杜昭達の手には、紙片がにぎられたままであった。それには「賊臣《ぞくしん》を除いて君民《くんみん》倶《とも》に安らかなり」と書かれてあったのである。      ㈼  色を失って地に這《は》いつくばった章徳安《しょうあんとく》と李文慶《りぶんけい》についても、斬るべしと弘※[#にんべんに宗]《こうそう》は主張したが、弘佐《こうさ》は彼ら両名の罪一等を減じて追放にとどめた。この時代、流血を完全に回避することなどできようはずもないが、その量がすくないにこしたことはない、と、弘佐は思っている。腰をぬかして生命《いのち》ごいをする重臣たちを、弘佐は手をとって起《た》たせ、「他の者の罪は問わぬ」と告げた。彼らはひたすら低頭《ていとう》して寛恕《かんじょ》を願うだけであった。四重臣の不正蓄財《ちくざい》はすべて没収された。  弘佐は異母弟《いぼてい》の弘※[#にんべんに宗]を丞相《じょうしょう》に叙任《じょにん》し、内政・外交・軍事のすべてについて相談しながら事を進めた。  十代の国王、そして十代の丞相。乱世にあっては異例のことである。主君が未成年であれば、老練な年輩《ねんぱい》の丞相をおくものだ。「小童《こども》の遊びだ、あれで国が成りたっていくものか」と諸外国では危惧《きぐ》したり冷笑したりしたが、呉越《ごえつ》国は揺らぐことがなかった。丞相となった弘※[#にんべんに宗]はよく兄王を補佐して政務に励《はげ》んだ。彼は明敏《めいびん》で勤勉で決断力に富み、建国以来もっとも優秀な丞相であったが、やや厳格で短気なところもあったので、役人たちが息のつまる思いをすることもあったようだ。そして、弘※[#にんべんに宗]に叱責されて青くなっている役人がいたとき、そっと弘※[#にんべんに宗]を呼んで「まあそのくらいで赦《ゆる》してやれ、隆道《りゅうどう》」というのが弘佐だった。誰もが弘※[#にんべんに宗]のように無私《むし》の努力を払えるわけではない。  弘※[#にんべんに宗]は不正や怠惰《たいだ》をにくむ心情が強かった。彼の執務室の壁には大きな絵が飾ってあったが、それは鍾馗《しょうき》が剣をふるって多数の悪鬼《あっき》をしりぞけるという絵だった。もって彼の志《こころざし》がわかる。弘※[#にんべんに宗]のもとで政府の綱紀《こうき》は粛正され、役人の不正はほとんどなくなった。  異母弟の献身的な協力をえて、弘佐は国政の再建に乗りだした。すべての基礎は財政である。呉越国の租税《そぜい》が重いことは弘佐も知っていた。父の代の弊政《へいせい》はあらためるとしても、乱世のこととて軍事費を削減するのは困難であり、半ば焦土《しょうど》となった杭州市場も再建しなくてはならない。まず考えられる方策は徹底した倹約だが、それだけをおこなったのでは経済が萎縮《いしゅく》し、呉越国の礎である商業が不振におちいってしまう。  弘佐は発想を転換した。彼がそのような発想をどこから学んだのかはわからない、税率を変えず、国庫の増収と民の福利《ふくり》とを両立させるには、生産を増やすことだ。これまで百の生産量があって、国と民とで五十ずつ分けあっていたとする。生産量が百五十になれば、国と民とで七十五ずつ分けあえることになるのだ。かくして十五歳の少年王は、積極的な経済再建に着手《ちゃくしゅ》する。水田を開き、海岸には塩田をつくり、道路と水路を整備した。ことに海上貿易を奨励《しょうれい》し、「揚帆越海《ほをあげてうみをこえる》」という表現が盛んになった。杭州の港には内外の船がひしめいた。  弘佐の政策はありとあらゆる時代の国に通用するとはかぎらない。だが十世紀の呉越国では、みごとに成功した。潜在的な富が掘りおこされ、市場に活気がみなぎった。そこで税率をすこし下げると、さらに民衆の意欲が高まり、生産量が増大する。わずか二、三年のうちに好循環《こうじゅんかん》が好循環を呼び、呉越はおどろくほど豊かな国となった。他国はそれを嫉《ねた》んだ。 「呉越国は上から下まで贅沢《ぜいたく》な国だ。もっとも貧しい庶民でさえ、毎日、卵や肉を食べているというからあきれる。民を甘やかすより国を強大にすればよかろうに」  という他国からの批判が史書に記されている。弘佐の耳にもとどいたが、彼は笑っただけであった。庶民が卵を食べることもできないような「強大国」の存在がおかしかったのであろう。  弘佐の伝記は「旧五代史・世襲《せしゅう》列伝二」および「新五代史・呉越世家《せいか》」に収められている。「旧五代史」においては彼の文雅《ぶんが》な面が記述され、「新五代史」においては剛毅《ごうき》にして果断な面が強調されている。当然、双方を併《あわ》せ読む必要があるが、どちらも、弘佐が人心《じんしん》を得ていたことを特筆している。これらの史書には銭弘佐ではなく銭佐と記してあるが、これは「弘」の文字が宋の太祖《たいそ》皇帝の父親の名に使われているため、宋代の史家が禁忌《きんき》の文字としたのである。国家事業として歴史書が編纂《へんさん》されているという点で、中国帝国の文明度は他国にまさるが、一面ではこのような、苦笑すべき点も、ときとして見られる。なお「新五代史」には弘佐の即位時の年齢を十三歳と記してあるが、これは計算ちがいであるようだ。多くの年号が並列していた時代だけに、むりなからぬことであるかもしれない。  弘佐は銭塘江《せんとうこう》の勇壮な光景を好んだ。有名な逆流のときには断崖《だんがい》上に座をしつらえ、東と南から咆哮《ほうこう》をあげて押しよせる二波の巨涛《きょとう》が激突して水竜を形づくる光景を、感嘆して眺めやった。その一方、彼は木犀《もくせい》の花を愛し、王宮内に溢《あふ》れるほど植えさせた。木犀を詠《よ》んだ詩も作ったが、後世には伝わらない。  また弘佐は冬の光景を好んだ。杭州は温暖の地で、冬でも緑が絶えることはないが、たまに雪が降ることもある。そのようなとき弘佐は宮中の庭園を開放し、廷臣《ていしん》だけでなく庶民とともに、珍しい雪景《せっけい》を楽しんだ。とくに彼が愛したのは、夜、月光が雪を照らし出す風景であったという。それを見るために夜明けまで起きていて、弘※[#にんべんに宗]からいさめられたこともあった。その結果、ふたりして風邪《かぜ》を引きこんだというのは、むしろ彼らの年齢にふさわしい失敗であったといえるだろう。  弘佐は交易だけではなく外交にも積極的であった。海をへだてた国々に使者を送って修好《しゅうこう》を申しこんだ。とくに交易や仏教交流で縁の深かった日本国には、盛徳《せいとく》という官僚を国使《こくし》として派遣し、正式の国交を開くよう鄭重《ていちょう》に申しいれた。半年後、盛徳は帰国したが、日本国王の返書を持ち帰って来たわけではなく、面目なげに報告した。  日本国においては、藤原という一族が代々、宰相を出し、王室の外戚《がいせき》として権勢をふるっている。その藤原一族が、国交を開くことに反対したという。 「わが国ではかつて隋《ずい》朝や唐朝と対等の交際をしていたのだ。呉越国など弱小の地方政権にすぎぬ分際《ぶんざい》で、わが国と交わろうなど僭越《せんえつ》である。国交のこと断じて認められぬ」  そう主張して、盛徳を京《みやこ》にも入れず、追い返してしまった、というのであった。 「ほう、隋や唐と対等にな」  弘佐は笑い、弘※[#にんべんに宗]は不快感を口にした。 「わが国とさして変わらぬ小国のくせに、頭《ず》の高さだけは大国級でございますね」 「日本国は外交で苦労せずにすむ国のようだ。羨《うらや》ましいことだが、怒ることもない。交易が妨害されねばそれでよい」  盛徳は罰せられなかった。彼は十二年後にも国使として日本国に赴《おもむ》き、国交を開くよう申し出るが、ふたたび追い返されてしまう。だがそのとき、長く呉越の天台《てんだい》山に滞在して仏教を修めた日延《にちえん》という日本国の僧が、盛徳にともなわれて日本国に帰った。彼は多くの経典《きょうてん》の他、ふたつの宝篋印塔《ほうきょういんとう》を日本国に持ち帰り、これは千年の後まで残って重要な歴史文物となった。  このように弘佐の治世は呉越国に平和と繁栄をもたらしたが、三年ほどたって波乱が生じた。強大な隣国南唐が兵をおこしたのである。  南唐の皇帝は第二代の李《りけい》である。弘佐より十一歳の年長で、このとき二十九歳であった。為人《ひととなり》は穏和《おんわ》で寛大といわれ、教養ゆたかで芸術を好み、詩才に富み、文化の保護者として名高い。ただ、これらの長所を裏がえすと、文弱《ぶんじゃく》で政治的判断が甘く、乱世の皇帝としては頼りない、ということになるであろう。  もともと南唐の国力と国威とは、諸国に冠絶《かんぜつ》している。よほどの失敗がないかぎり、それが短期間に消滅することはありえない。李の亡き父李※[#曰+弁]《りべん》は卓絶した政治手腕をもって流浪《るろう》の少年から一国を建てるに至った。この父から李が受けついだものは、広大な領土、巨億の富、強大な軍隊、文化と芸術を愛好する血などで、彼はこの時代もっとも好運な遺産相続人であった。ただ政治的手腕だけは受けつぐことができず、その点では李は亡き父に劣等感をいだきつづけていた。おとなしく父の遺産を守ることに飽《あ》きたらず、李は、父の名声をしのぐ機会をねらっていた。それは他国との戦争に勝ち、領土をひろげることだ。 「無益な戦いは避けよ、近隣《きんりん》諸国に憎まれぬようにせよ。それが国を保《たも》つ方途《みち》だ」  そう父親は遺言したが、李はそれに自己流の解釈を加えた。有益な戦いならやるべきであり、近隣諸国に尊敬される出兵ならおこなうべきであった。李は大軍をととのえ、それを使う日を待っていた。  李をそそのかすように、隣国で事件が発生した。※[#門+虫]《びん》国の内乱である。      ㈽  ※[#門+虫]《びん》国の領域は、ほぼ後世の福建省《ふっけんしょう》にあたる。国土の大部分が山地で、平野にとぼしいが、温暖|多雨《たう》で米や果実を産し、海に面して漁業も盛んであった。ことに福州《ふくしゅう》と泉州《せんしゅう》というふたつの港市《みなと》をかかえ、海外との交易によって巨億の富を築いた。この国を作ったのは王審知《おうしんち》という男で、中原《ちゅうげん》で一兵士の身であったが、戦乱と流離《りゅうり》の末にこの地方にたどりつき、武力をもって独立国をつくりあげたのである。彼は領国経営に熱心で、小さいながらも平和で豊かな国を築きあげたが、彼の死後たちまち国は乱れた。王族たちは不必要な土木工事をおこし、民衆に重税を課《か》し、交易商人を無実の罪に落として財産を奪った。あやしげな道士《どうし》たちが暗躍して流言《りゅうげん》をばらまき、王族たちはたがいに私兵《しへい》を動かして抗争した。兄が弟を殺し、甥《おい》が叔父《おじ》を殺し、あきれはてた武将たちが叛乱をおこして自立を宣言する。国中が流血の巷《ちまた》と化し、追いつめられた王族のひとりが急使を派遣して南唐《なんとう》に救援を求めた。 「好機!」と膝をたたいた李は、たちどころに十万の大軍を※[#門+虫]に送りこみ、一挙に全土を制圧、※[#門+虫]を滅亡させてしまう。開運《かいうん》二年(西暦九四五年)のことである。かろうじて逃げのびた王族のひとりが呉越《ごえつ》に駆けこんで救いを求めた。弘佐《こうさ》はすぐに決断した。 「※[#門+虫]の全土が南唐の手に帰《き》すれば、わが国は北・西・南の三方から包囲され、座《ざ》して滅亡を待つのみとなる。起《た》って南唐軍を撃つ」  だが賛成したのは弘※[#にんべんに宗]《こうそう》だけであった。 「とんでもない、※[#門+虫]などに出兵して勝てるわけがございませぬ」  薛万忠《せつばんちゅう》、胡進思《こしんし》らの宿将《しゅくしょう》たちは反対した。前王の代に※[#門+虫]軍や南唐軍と戦って敗れた者たちである。頼むにたりぬ彼らを見すえて、弘佐は言い放った。 「予《よ》の称号を視《み》よ。呉越国王にして兵馬都元帥《へいばとげんすい》である。軍を率《ひき》いぬ者に元帥を称する資格があろうか」  呉越国王にして兵馬都元帥。それは中原《ちゅうげん》を支配する後晋《こうしん》王朝の皇帝から授与《じゅよ》されたものである。呉越は独立国だが、形式的には後晋を宗主《そうしゅ》とあおぎ、毎年、莫大《ばくだい》な貢《みつ》ぎものを贈っていた。強大な南唐を牽制《けんせい》してもらうためであった。後晋が国王や都元帥の称号を弘佐に授与したのは、むろん毎年の貢ぎものに対する謝礼であって、弘佐の才器《さいき》を知ってのことではない。だがとにかく後晋と呉越とは友好関係にある。そして後晋にとって天下統一の障害となるのは富強《ふきょう》を誇る南唐であった。南唐が※[#門+虫]を併呑《へいどん》してさらに富強となるのは、後晋にとって愉快ではない。したがって、呉越が南唐と戦うのを、後晋は応援してくれる。遠くから声援を送るだけだとしても。  つまり南唐と戦うのは、呉越にとって単なる軍事行動ではなく、外交政策の一環でもあるのだった。弘佐は李の野心を見ぬいている。ここで黙って※[#門+虫]の滅亡を見ていれば、つぎは呉越の番であろう、と。ひとまず弘佐は南唐に使者を送り、※[#門+虫]国から撤兵《てっぺい》するよう要請した。重臣の宋斉丘《そうせいきゅう》からそれを聞くと、李は声高くあざけった。 「呉越は弱兵《じゃくへい》の国だ。何を恐れるか」  李が軽視したのもむりはなかった。呉越は豊かな国だが、宮廷も庶民も贅沢と安楽を好み、戦いを忌《い》んで軍隊は弱い。そう見られていたのである。何しろ貧しい庶民でさえ卵や肉を食べている国なのだ。 「むしろ好機。※[#門+虫]につづいて呉越をも併呑し、江南《こうなん》全域を統合してくれよう。そうなれば中原を討って、いずれは天下を……」  ※[#門+虫]を討った十万の軍は、そのまま占領地にとどまり、呉越軍と戦うことになった。  呉越軍は三万。海陸の二手に分かれ、陸兵一万は趙承泰《ちょうしょうたい》の指揮を受ける。海兵二万は張※[#竹+均]《ちょうきん》を副将として弘佐が自ら指揮をとった。  杭州を守ったのは、弘佐の異母弟|弘※[#にんべんに宗]《こうそう》である。胡進思らの宿将は幾重にも不満であった。出陣にも防衛にも、彼らの出番はまったくなかったのだ。戦う意欲も勝つ成算《せいさん》もないくせに、彼らは不満で、その不満を口にした。 「勝てるはずがない。みすみす御自《おんみずから》らの手で国を失おうとなさるとは、さてもお気の知れぬことよ」  そのような声は弘佐の耳にも達したが、彼は意に介《かい》さなかった。ただ、南唐と結託《けったく》して国を売るような所業《まね》をされても困る。軍を発するの日、弘佐は全軍を城門の前に集めて告げた。 「丞相《じょうしょう》にわが愛剣《あいけん》を授ける。丞相はわが分身、丞相の意に背《そむ》く者あらば、この剣を以《もっ》て斬りすてよ」  うやうやしく弘※[#にんべんに宗]は剣を受け、弘佐の意に打たれて、不満派の宿将たちも口を閉ざした。 「十日で吉報を送り、三十日で帰る。それまでよろしく頼むぞ」  そう弟に語りかけると、弘佐はただちに軍船に乗りこみ、大陸沿岸を南下して、※[#門+虫]国を流れる※[#門+虫]江《びんこう》の河口に達した。  ※[#門+虫]江は全長千里(約五六〇キロ)をかぞえ、長江におよばないがやはり大河である。河口に黄岐《こうき》島という島があり、水路はその島をはさんで南北に分かれる。※[#門+虫]の都福州《ふくしゅう》は河口から百里ほどもさかのぼった山間地にあるが、三百人乗りの大船が悠々とすれちがえるほどに※[#門+虫]江の河幅は広く水量は豊かで、茶、木材、米、魚などを集散《しゅうさん》する重要な港であった。  南唐軍十万は※[#門+虫]国内に展開していたが、その半数は呉越との国境地帯に貼《は》りついて、敵の侵攻《しんこう》にそなえている。残る半数は、各地で抵抗する※[#門+虫]軍の残党に手をやいていた。南唐軍は強く、装備もすぐれていたが、山岳地帯での戦いには慣れていない。南唐の国土は大半が平野で、河も悠々と流れている。峡谷を渡り、山をよじ登っての戦いでは、決定的な勝利をおさめられなかった。  福州を占拠している南唐軍の将軍は、蔡遇《さいぐう》、楊業《ようぎょう》の二名で、兵力は三万である。南唐軍の中核をなしていたが、呉越軍の侵攻に対しては危機感がなかった。山岳部を突破して福州に達するまで一カ月はかかる、と見ていたのだ。陸地に気をとられ、敵が海から来るとは想像もしていなかったのである。  大小三百から成る呉越の軍船団は、海上から※[#門+虫]江に進入し、河をさかのぼった。潮が満ちて河流の勢いが弱まったときに進入し、夜間に河をさかのぼったのである。呉越軍は操船《そうせん》に長じており、さらには※[#門+虫]国の武将であった李仁達《りじんたつ》という人物が船団を案内した。彼は侵略者である南唐軍を憎んでおり、また当然ながら※[#門+虫]江の水路に精通《せいつう》していた。こうして、杭州を出港してからわずか五日後に、呉越軍は福州に到着したのである。  夜が明け放たれ、泰平《たいへい》の夢から覚《さ》めた南唐軍は、河面を埋めつくす呉越の大船団を発見して仰天した。しかも呉越軍は上流からあらわれたのだ。これは福州付近でも※[#門+虫]江は河中の島によって分流しているため、福州から見て島の向こう側の流れをさかのぼって上流まで行き、反転《はんてん》して福州に迫ったのである。呉越軍の行動は戦術的にすぐれていただけでなく、心理的に南唐軍を圧倒した。 「これはどうしたことだ、呉越軍は天からでも舞いおりたか」  うろたえる間に、呉越軍は※[#門+虫]江の波を蹴って襲いかかって来た。水面に油を流し、火を放つと、炎の帯がたちまち福州港に達し、停泊していた軍船八十余隻が猛火と黒煙につつまれる。これらの軍船は※[#門+虫]国のものであったが、南唐軍に接収されていたのだ。  呉越の軍船は二度、三度と矢の斉射《せいしゃ》を地上にあびせ、南唐軍がひるむ間に接岸《せつがん》して上陸を開始した。その迅速《じんそく》さ、整然たる行動は、南唐軍の即応《そくおう》能力を大きく凌駕《りょうが》している。迎撃する南唐軍は一方的に斬りたてられ、射たてられて、みるみる千余の戦死者を出し、崩れたって防衛線を突破されてしまった。  もともと呉越と※[#門+虫]とは海上交易を日常的におこなっており、福州に来た経験のある者はいくらでもいる。福州の城内にも彼らの知人がいる。さらに李仁達の案内もあるのだから、占領者である南唐軍より地理に精通しているほどであった。防御の指揮をとる蔡遇や楊業の指示は後手後手《ごてごて》にまわり、気づいたときには城内の要所ことごとくを奪われていた。残るは※[#門+虫]の旧王宮のみである。それもすでに正門を奪われ、庭園や回廊に積まれた屍体《したい》はほとんど南唐兵のものであった。 「すみやかに降伏せよ。生命はとらぬ」  そのような呼びかけの声が四方から迫り、南唐兵はつぎつぎと武器を棄《す》てた。身辺《しんぺん》わずか数十人となって、蔡遇と楊業は死を覚悟した。まず蔡遇が大刀を振りかざし、「殺《シャア》!」と喚声《かんせい》をあげて走り出る。その足もとに数本の棒が投げつけられ、彼はみごとに転倒した。  蔡遇はようやく立ちあがったが、殺到する呉越兵に押しつつまれ、革紐《かわひも》で縛りあげられてしまった。蔡遇が敵兵に連行される姿を見て、楊業は激怒した。巨大な槍をふるい、敵兵数名を薙《な》ぎ倒して突進する。蔡遇を救出しようとしたのだが、その前方に胡蝶《こちょう》のごとく身をひるがえして立つ者がいた。燦然《さんぜん》たる白銀色の甲冑《かっちゅう》をまとい、長剣を手にした若者であった。 「孺子《こぞう》、名乗れ」  楊業の怒声《どせい》に対し、若者はすずやかに応《こた》えた。 「呉越国王、天下兵馬都元帥、銭弘佐である」  あっ、と声を発しただけで、楊業は気を呑《の》まれて動けない。朝風を裂いて長剣が撃ちこまれて来る。かろうじて槍身《そうしん》をあげ、それを払う。だが反撃の暇《いとま》もなく、二閃三閃《にせんさんせん》と斬りこまれ、楊業は防戦しつつ後退した。体勢をととのえることもできず、回廊の床を踏み鳴らしてよろめく。剣尖《けんせん》が頬《ほお》をかすめ、血が飛散する。楊業の両足が宙に浮き、床に横転《おうてん》した彼は夢中で叫んでいた。 「降参!」  若者は剣を引いた。楊業を見おろす瞳から烈気が消え、笑《え》みが浮かんだ。 「まことに降《くだ》ると申すか?」 「は、はい、降参いたしまする」 「では槍をすてて起きよ。降参するにしては、そなたの姿勢《しせい》はちと変わっておる」  一笑して、若者は背を向けた。槍を取りなおしてその背を突くこともできたかもしれぬが、楊業は身動きもならず若者の後姿を見送るばかりであった。彼は捕虜となり、陽《ひ》が中天《ちゅうてん》に達する以前に福州は陥落した。  南唐軍の戦死者は五千余。捕虜もほぼ同数。これに対し、呉越軍の戦死者は百名に満たなかった。      ㈿  こうして南唐《なんとう》は※[#門+虫]《びん》を滅ぼし、広大な山岳地帯を占領したものの、福州《ふくしゅう》を失い、生産と交易の中心地である海岸地帯は呉越《ごえつ》に奪われてしまった。南唐にとっては大きな誤算である。 「呉越の孺子《こぞう》に名を成さしめたか」  李はくやしがったが、同時に恐怖におそわれた。もともと征服者だの覇王だのという柄《がら》ではない。思わぬ敗北を経験すると、すぐにも敵が勢いに乗って来襲するかのように思い、怯《おび》えきってしまった。芸術的な感性は豊かなのだが、乱世の統治者としては感情の起伏《きふく》が大きすぎる。成功すれば有頂天《うちょうてん》になり、失敗すれば暗澹《あんたん》たる絶望に追いこまれてしまうのだった。 「呉越の孺子は出戦してわずか五日で福州を陥《おと》したというが、長江の守りは大丈夫であろうな」  弘佐の用兵が神速《しんそく》であることを恐れ、毎日そう重臣たちに問うたという。彼が気を取りなおし、楚《そ》の内紛に乗《じょう》じてふたたび出兵の野心をおこすまで、六年の歳月が必要であった。  南唐に対してかがやかしい勝利をおさめた後、呉越において弘佐を謗《そし》る者は存在しなくなった。内治《ないち》と外征《がいせい》の両面において、弘佐が築いた実績は建国以来のものであったし、民衆の支持も圧倒的であった。 「あのお若い王さまは、これからも、とほうもないことをして下さろうよ。楽しみなことだ」  何しろこれまで勝ったこともない南唐に勝ち、領土をひろげたのだ。しかも官僚たちの不正は一掃され、庶民の生活水準はいちじるしく向上した。未《いま》だ弱冠《はたち》ですらない国王は、これから呉越国にどれほどの栄光をもたらしてくれるであろう。  だが庶民の期待も李の恐怖も失われる日が訪れた。あまりに早い終焉《しゅうえん》であった。開運《かいうん》四年、弘佐は病床に伏した。病名は不明である。急激な病状の悪化は、後世でいう弱年性《じゃくねんせい》の癌《がん》であったかもしれない。丞相である弘※[#にんべんに宗]《こうそう》は職務を弟の弘※[#にんべんに叔]《こうしゅく》にゆだね、兄の枕元《まくらもと》を離れずに看病した。 「そなたのほうが倒れそうではないか。国を統《す》べる身がそのようなことでどうする」  弘佐は叱った。死期を覚《さと》っていたようである。彼は重臣たちを集め、弘※[#にんべんに宗]に王位を譲ることに告げた。そして弟にささやきかけた。 「河《かわ》をみたいな、隆道《りゅうどう》」 「銭塘江《せんとうこう》でございますか、それなら……」 「ちがう、黄河《こうが》だ」  弘※[#にんべんに宗]ははっ[#「はっ」に傍点]とした。黄河は遠く後晋《こうしん》の領土内を流れているのだ。弘佐は弟の顔を見て微笑してからしばらく後、両眼を閉じ、「二十年……」とつぶやいた。それが最後だった。  弘※[#にんべんに宗]は李賀《りが》の詩を愛好していたが、兄の死の直後にその詩集を棄《す》てた。  李賀は晩唐《ばんとう》の詩人。中国文学史上「詩仙《しせん》」といえば李白《りはく》のことであり、「鬼才《きさい》」といえば李賀のことである。「陳商《ちんしょう》に贈る」と題された詩の冒頭に、あまりに有名なつぎの五言二句がある。  長安有男児  長安に男児あり  二十已心朽  二十《はたち》にしてすでに心|朽《く》ちたり  弘佐は二十歳にして死去した。無限かと思えるほどの可能性を残して、心朽ちぬままに身が朽ちたのだ。兄の無念を思うと、弘※[#にんべんに宗]にとっては鬼才の絶唱《ぜっしょう》さえうとましく思えたのであろうか。  弘佐は南唐を征し、天下に覇を唱《とな》えることを夢見ていたかもしれない。彼が江南全土を支配すれば、宋による天下統一は遅れ、南北対立の時代がつづいたかもしれない。いずれにしても弘佐は若くして逝《ゆ》き、呉越国と弟たちが残された。  弘佐の後を継いだ弘※[#にんべんに宗]の治世は、兄以上に短かった。即位した年のうちに終わってしまったのだ。  弘※[#にんべんに宗]は心から兄を敬愛していたが、ただひとつ飽《あ》きたらず思っていたことがある。父の代からの老臣や老将たちが、たいした功績もないのに高禄《こうろく》を食《は》み、おおきな顔で宮廷にのさばっていることである。弘佐は彼らの名誉を尊重して礼遇《れいぐう》していたが、弘※[#にんべんに宗]は方針を一変《いっぺん》させ、彼らをことごとく追放するつもりだった。  老将のひとりである胡進思《こしんし》は、あるとき弘※[#にんべんに宗]に厳しく叱責され、殺されるのではないかと恐れた。彼は三百名の兵士をひきいて、十二月の夜半、王宮に乱入した。弘※[#にんべんに宗]は王宮の一室に幽閉され、側近たちは殺された。  胡進思は弘※[#にんべんに叔]《こうしゅく》を新王として推戴《すいたい》した。弘※[#にんべんに叔]はおどろいて拒否したが、事態はそれではすまなくなっていた。胡進思は弘※[#にんべんに叔]に兄を殺させるつもりだった。それに対して、事態を知った張※[#竹+均]《ちょうきん》や趙承泰《ちょうしょうたい》が兵を集め、実力で弘※[#にんべんに宗]を救出しようとしている。ひとつまちがえば国が二分され、大量の血が流されるであろう。  考えた末、弘※[#にんべんに叔]は「兄に平和的に退位させる、けっして兄を殺してはならぬ、そなたたちの罪も問わぬ」という条件で胡進思らを納得させた。ようやく面会すると、弘※[#にんべんに宗]はすでに王位に対する執着をすてていた。 「自分は兄のもとで丞相をつとめていたときが一番幸福だった。国王には寛容さが必要で、お前のほうがふさわしい」  そういって弘※[#にんべんに宗]は弘※[#にんべんに叔]に王位を譲った。弘※[#にんべんに叔]は兄のために風光の美しい土地に離宮をつくり、そこで余生を送ってもらうことにした。弘※[#にんべんに宗]はそこで平穏に人生を終えた。退位後、二十年をへてのことである。  なお、弘※[#にんべんに宗]を王位から引きずりおろした胡進思は、それからわずか四カ月後に病死している。呉越の民は「前《さき》の王様の霊が逆臣《ぎゃくしん》を誅《ちゅう》しなさったのだ」といって快哉《かいさい》を叫んだ、と「旧五代史」に記されているから、弘佐と弘※[#にんべんに宗]が民衆に人気があったことがわかる。  弘※[#にんべんに叔]の治世は三十年におよんだ。彼はとくに独創的な為政者《いせいしゃ》ではなかったが、民生《みんせい》と民心《みんしん》の安定に力をつくし、呉越国は平和と繁栄を保った。海外との経済的・文化的な交流はさらに盛んとなった。仏教文化の国際的な中心地となり、日本国や高麗《こうらい》国からも僧が留学してきている。  一度、南唐と戦って敗れた。軍事の才は弘佐におよばなかったようである。その南唐も宋《そう》の侵攻によって滅亡した。時代は統一へと動きつつあった。弘※[#にんべんに叔]は宋の太宗《たいそう》皇帝趙匡義《ちょうきょうぎ》に使者を送り、黄金・真珠・珊瑚《さんご》などの贈り物をした。使者に対して太宗は皮肉っぽく笑ってみせた。 「もともと自分の物なのに、他人からもらうというのは妙な気分だな」  帰国した使者からそれを聞いた弘※[#にんべんに叔]は、太宗が完全な天下統一を欲《ほっ》していることをさとった。武力による抵抗は無益である。弘※[#にんべんに叔]はふたりの兄の墓に詣《もう》でた後、自ら宋の帝都開封《かいほう》へおもむき、国をあげて降伏した。  西暦九七八年、呉越国は滅びた。ただし一滴の血も流れなかった。太宗は弘※[#にんべんに叔]の態度に好意をいだき、王《とうおう》の称号を与え、厚く礼遇して天寿《てんじゅ》をまっとうさせた。彼の子孫は、代々、貴族として宋の朝廷につかえた。  呉越国の滅亡から千年をへた今日、杭州《こうしゅう》の西湖《せいこ》畔に「保※[#にんべんに叔]塔《ほしゅくとう》」と呼ばれる塔が建っている。すらりと細長い優美な姿は杭州の名物となっているが、この塔は銭弘※[#にんべんに叔]に由来《ゆらい》するものだ。弘※[#にんべんに叔]が降伏を決意して開封へ旅立つときに、残された王族たちが弘※[#にんべんに叔]の無事を祈って建てたのである。「弘※[#にんべんに叔][#「※」に傍点]が安全を保[#「保」に傍点]てるように」というわけである。弘※[#にんべんに叔]のために建てられた塔であるが、彼自身は開封で生涯を終えたので、この塔を見たことはない。