張訓出世譚 ——五代群雄伝 (出典:チャイナ・イリュージョン 田中芳樹 中国小説の世界) 田中 芳樹・著      ㈵ 「百年の間、並び起《た》って雄を争い、山川《さんせん》また絶え、風気《ふうき》通ぜず」  とは、大唐帝国の衰微《すいび》から宋の天下統一までを記録した「新五代史《しんごだいし》」の一説である。 「並び起って雄を争」ったひとりが、五代十国のひとつ呉《ご》を建てた楊行密《ようこうみつ》で、字《あざな》を字源《じげん》といった。「旧五代史《きゅうごだいし》」には、「膂力《りょりょく》有《あ》り、日に三百里を行く」とあり、「新五代史」には、「為人《ひととなり》長大にして力有り、能《よ》く百斤《ひゃくきん》を挙《あ》ぐ」とある。体格、体力ともに抜群であったのは疑いない。  ごく若いころ盗賊となったが、すぐに志願して官軍の兵士となった。故郷の廬州《ろしゅう》を離れ、遠く黄河上流の朔方《さくほう》という土地で戦功によって一隊の長となる。五年がすぎ、年期が来て故郷に帰れるはずであった。だが担当の軍吏《ぐんり》が、書類を改竄《かいざん》し、楊行密らを帰郷させるどころか、さらに五年の勤務を命じた。楊行密らがあらたな戦闘のために出陣しようとすると、この軍吏は彼らを見送りに来て、ぬけぬけと声をかけた。 「おぬしらの武勲を祈っておるぞ。ところで、どうだ、何か望みのものはないか」  楊行密は頭が灼熱《しゃくねつ》するのをおぼえた。 「惟少公頭爾!」  ほしいのは、おぬしの首だけだ。そう答えるや否や、楊行密は大刀を一閃させて軍吏の首を刎《は》ねた。背後で歓声がおこった。軍吏の横暴は、ほとんどの兵士に憎まれていたのだ。楊行密は彼らの恨みをも晴らしたことになるが、同時に賊となってしまった。楊行密に歓声をあびせた兵士たちも同罪である。  ごく自然に、楊行密は兵士たちの領袖《りょうしゅう》となり、彼らをひきいて故郷へと向かった。故郷は広く江淮《こうわい》と呼ばれる。北を淮河《わいが》、南を長江にはさまれた中国東部の平野で、朔方からは二千里以上も離れている。途中、官軍や盗賊と戦いながら、楊行密は三年ががりで中国大陸を横断し、故郷に帰った。唐の中和《ちゅうわ》三年(西暦八八三年)には、周囲の土地を武力で制圧し、故郷廬州の刺史《しし》(長官)になりおおせている。かぞえ三十二歳である。  乾寧《けんねい》二年(西暦八九五年)、四十四歳のときには、楊行密は淮南江北《わいなんこうほく》の地をほとんど領有するに至った。彼は長安《ちょうあん》に使者を送って、朝廷に黄金と絹を献上した。その結果、楊行密は弘農郡王《こうのうぐんのう》に封じられ、淮南節度副使、開府儀同三司《かいふぎどうさんし》、上柱国《じょうちゅうこく》など合計八つの称号を手に入れることができた。 「このおれが郡王さまになれる世の中だ」  乱世に生きているということを、楊行密はつくづく実感した。衰微した唐王朝にとっては、秩序もなく正義もない時代であるにはちがいないが、煮えたぎり沸《わ》きかえる活力の時代でもあった。中世から近世への移行期であり、伝統を誇る門閥《もんばつ》貴族たちが滅びて、新興の豪族、武将、商人たちが台頭《たいとう》した。長安や洛陽《らくよう》に集中していた文人たちが平和と安定を求めて各地に散り、結果として文化・芸術が普及した。楊行密は文人を保護し、領内の開発をすすめ、とくに米と塩の生産を増大させた。自分でも思いがけぬことに、彼は統治者としても有能であった。  中原《ちゅうげん》すなわち黄河流域を支配していたのは、唐を簒奪《さんだつ》して後梁《こうりょう》王朝をたてる朱全忠《しゅぜんちゅう》である。姦譎《かんけつ》残忍、梟雄《きょうゆう》の名をほしいままにしていた男だが、宮中の旧勢力を一掃し、商業や農業の振興に努《つと》めて、まことに粗暴ながら、あたらしい時代をつくろうとしていた。  朱全忠は四方に領土を拡大しようとしたが、北は独眼竜《どくがんりゅう》こと李克用《りこくよう》に敗れ、思うようにならない。彼は全軍の主力を東南へ向け、楊行密を滅ぼし、長江流域を併呑《へいどん》しようと図《はか》った。それに成功すれば、天下でもっとも裕福な米と塩の大生産地を手にいれることができ、天下統一へ大きく前進することになるのだ。  かくして連年《れんねん》、朱・楊両軍は淮河の線をめぐって衝突をくりかえすことになる。それは楊行密の死に至るまでつづく。朱全忠が形式的にも完全に唐を簒奪するのは、楊行密の死後である。  楊行密の部下に、張神剣《ちょうしんけん》という者がいた。本名は張雄《ちょうゆう》というのだが、同姓同名の者が幾人もいるので、区別するためにそう呼ばれていた。呼称から察せられるように、神技ともいうべき剣の達人であった。将才もあり、楊行密のもとで左廂兵馬指揮使《さしょうへいばしきし》、すなわち将官にまでなったが、自立をもくろんで楊行密から離反しようとし、発覚して殺された。剣をふるう余地なく、十数本の矢をあびて射殺されたという。  この張神剣の甥《おい》に張訓《ちょうくん》という者がいて、叔父《おじ》の死後、楊行密につかえた。正体を隠すことなく、最初から張神剣の甥と名乗ってきたのが気に入って、楊行密は彼を召しかかえたのだ。だが、どうやらばか正直なだけで、とりたてて才覚があるようには思われず、貮校尉《じこうい》という下級士官の地位を与えたにとどまった。あとは本人の努力次第というわけである。  楊行密の勢力圏は中原のすぐ南にある。中原を追われて南下し、楊行密の勢力圏を侵す者が多かった。最初、秦宗権という者の軍が淮河流域を荒らしまわったが、それが消えると孫儒《そんじゅ》という者がとってかわった。彼は流民を糾合《きゅうごう》して全軍を五十万と称し、楊行密の勢力圏を横断してさらに南下しようとした。 「五十万だと? 孫儒め、誇称《こしょう》するにもほどがある」  楊行密はあきれたが、放置してはおけない。孫儒は兇猛《きょうもう》な男で、その軍は強く、確固たる勢力圏を得れば、これを討滅《とうめつ》するのは困難である。彼の軍が南下をつづければ長江を渡らざるをえない。渡河の途中を攻撃して一戦に葬り去るのが最善であろうと思われた。  孫儒の軍が渡河をはじめたとき、東方、つまり長江の下流から楊行密の軍が急襲した。五十万と称する孫儒軍の大半は四散《しさん》してしまったが、その中核部隊は強かった。長江の北岸から水上にかけて、落日に至るまで激戦がつづいた。「長江の水、紅《あか》く染まる」というのは、あながち誇張ではない。ついに楊行密は軍を退《ひ》いた。負けたと思っていたが、乱戦のなかで孫儒が矢にあたって戦死したことを、翌日になって知った。孫儒軍の残党は渡河して南へ去り、楊行密はそれを追わなかった。  楊行密は孫儒軍の捕虜五千名を助命し、彼らを厚遇して一隊を編成させた。北方で勇猛無比を称される李克用の「鴉軍《あぐん》」を意識して、五千名の戦袍甲冑《せんぽうかっちゅう》を黒一色に統一し、これを「黒雲都《こくうんと》」と名づけた。五千名のなかから、とくに勇敢で将才もあると思われる男を選び出して指揮使《しきし》に任じた。この男は姓名を馬※[#宗+貝]《ばそう》といったが、孫儒が死んだからには死者に節をつくしても意味がない、と考えたようで、楊行密が南方の蘇州《そしゅう》を攻めたとき先頭に立って勇戦《ゆうせん》し、敵将を斬る大功を立てた。  喜んだ楊行密は馬※[#宗+貝]に多額の黄金を与えたが、くわしい素姓《すじょう》を問うておどろいた。孫儒の死後、残党をひきいて湖南で自立した馬殷《ばいん》という者の弟だというのである。  馬※[#宗+貝]が兄と結託して楊行密を裏切るとは思えない。そのような男であれば、最初から正直に告白したりはしないであろう。だが楊行密としては、使いづらく感じた。彼は馬※[#宗+貝]に兄のもとに赴《ゆ》くようすすめ、あらたに馬と黄金を与えて旅立たせた。十年ほど後、楊行密は馬殷と岳陽《がくよう》の地で戦い、馬※[#宗+貝]らによって敗北するはめになる。黒雲都はその後も楊行密のもとで歴戦《れきせん》するが、名を残すほどの指揮官はあらわれず、いつしか消滅した。  このようなことがあった間、張神剣の甥である張訓は、うだつのあがらぬ日々を送っていた。危険な野心もないかわりに特記すべき才幹《さいかん》もなく、致命的な失敗も犯さないが瞠目《どうもく》すべき功績も立ててない。ごくありふれた下級士官としてすごしていた。  ただ、張訓の妻は夫以上に有名だった。史書に姓名は記されていないが、臘《ろう》たけた美女で資産家の令嬢であるといわれ、なぜ張訓のように平々凡々とした男に嫁《とつ》いだか、近隣の人々は不審に思ったほどである。  楊行密が宣州《せんしゅう》という土地を攻略したときのこと、通常、没収した財貨は将兵に分配されるものだが、宣州には金銀|珠玉《しゅぎょく》の類はほとんどなく、甲冑《かっちゅう》や刀剣が多量に倉庫におさめられていた。それはそれで価値のあるものだから、楊行密は将兵にそれらを分配した。黄金ばりの冑《かぶと》や紅玉《こうぎょく》をあしらった剣をもらって喜ぶ者もいたが、張訓が受けとったのは古ぼけた貧しげな甲冑一式にすぎなかった。  帰宅すると、張訓は妻に向かってくどくどとぐち[#「ぐち」に傍点]をこぼした。 「どうも郡王《ぐんのう》(楊行密)はおれを高く評価してくださらぬようだ。諸将に甲冑をくださったが、おれがいただいたのは、見ろ、こんな古ぼけたものだ。叔父《おじ》がああいう死にかたをしたから、おれも信頼してもらえないのかなあ」 「お力を落とされますな。そのうち吉《よ》い報《しら》せもまいりましょう」  そういって妻は夫をなぐさめた。      ㈼  三日ほどたって、張訓《ちょうくん》は楊行密《ようこうみつ》に呼ばれた。突然のお召しにおどろいて参上《さんじょう》すると、楊行密は問いかけた。 「先日、おぬしにも宣州の甲冑を与えたと思うが、受けとってどうであった?」 「おそれながら、小将《それがし》がいただいた甲冑は古ぼけて罅《ひび》もはいっており、あれでは実戦の役にはとても立ちません」 「ふむ、やはりそうであったか。いや、悪いことをした」  楊行密は護衛士の陳紹《ちんしょう》を呼び、何ごとかを命じた。やがて陳紹は銀色にかがやくみごとな甲冑を運んできた。楊行密はそれを張訓に与えた。  喜びつつも不思議に思って張訓は帰宅し、妻に事情を語った。謎めいた微笑を浮かべて妻は応じた。 「郡王《ぐんのう》さまは当代《とうだい》の英雄で、士心《ししん》を得たいとつねに思っておられます。きっと誰かに調査をお命じになって、あなたの甲冑が古いものであることをご存知になったのでしょう。ご主君の好意ですもの、喜んでお受けなさいまし」 「なるほど、そういうことか。これはおれも忠勤《ちゅうきん》を励《はげ》んで郡王のご恩にお報いせねがならんな」  張訓は納得した。彼は知りようもなかった。一夜、楊行密の夢にひとりの女があらわれ、張訓にりっぱな甲冑を与えるよう告げたということを。この時代の人として、楊行密は夢のお告げを信じたのだ。  その後、楊行密が諸将に名馬を与えたことがある。このとき張訓は最初、老馬を与えられて落胆したが、数日してまたも楊行密に呼ばれ、みごとな黒馬を与えられた。 「おぬしの家には霊験《れいげん》あらたかな守護神がついているらしいな。宣州の甲冑のときといい、おぬしはいずれ大功を立てる身だから待遇をおろそかにするな、と、そう夢のなかで女に告げられたのだ」  楊行密は笑って説明した。守護神などというものに張訓はおぼえがなかったが、ありがたく黒馬に騎《の》って帰宅した。ただ帰宅した後、妻の顔を見て奇怪な思いをした。楊行密が語った夢のなかの女と、妻の容貌がよく似ていたからである。  楊行密が唐の昭宗《しょうそう》皇帝より「呉王《ごおう》」に封じられたのは天復《てんぷく》二年(西暦九〇二年)のことで、ときに五十一歳であった。  彼は長江の北、揚州《ようしゅう》を本拠地として、江都府《こうとふ》と称した。かつて隋《ずい》の煬帝《ようだい》が愛した土地で、長江と大運河との結節点《けっせつてん》として知られる水陸交通の要地である。かくして楊行密は、朱全忠《しゅぜんちゅう》につぐ天下第二の勢力を万人に認められることになったが、その直後、妻である朱氏《しゅし》の弟、朱延寿《しゅえんじゅ》が朱全忠にそそのかされ、呉王の地位をねらっていることが発覚した。  楊行密は「寛仁《かんじん》にして能《よ》く士心を得たり」と称された人物だが、乱世に一国を建てるだけの男であるから甘いばかりではない。朱延寿を除く決意をかためた。  このとき楊行密に策を授けたのが、部下の徐温《じょおん》である。 「呉王は眼病《がんびょう》にかかって失明なさったそうな。お子さまがたがまだご幼少のため、王位を義弟である朱公(朱延寿)にお譲りあそばすご決心だそうだぞ」  そのような噂が流れた。朱延寿は喜んだ。指名を受けて呉王になれるのであれば、何も朱全忠のような悪名高い人物と手を結ぶ必要はない。ただ待っていればよいのだ。  数日して朱延寿は楊行密に呼びつけられた。正確には、姉の朱夫人が急使を出して弟を呼んだのだ。楊行密は完全に盲目となり、歩行中に柱に頭を打ちつけて重体だというのである。ただちに朱延寿は宮中に駆けつけ、病床に横たわる楊行密に面会した。彼が楊行密の顔をのぞきこんだとき、楊行密は見えないはずの両眼を見開き、蒲団《ふとん》をはねのけると、愕然《がくぜん》として立ちすくむ朱延寿の左胸に短剣を突き刺した。  朱夫人は離縁され、尼僧となって生涯を終えた。 「新五代史」は、このような策を立てた徐温について、「姦詐多疑《かんさたぎ》といえども善《よ》く将吏《しょうり》を用う」と評している。悪がしこい男だが、ただそれだけではなかった。趙鍠《ちょうこう》という敵勢力を撃破したとき、味方の諸将は黄金や絹を掠奪《りゃくだつ》するのに夢中になっていたが、徐温は食糧倉庫を占領し、貧しい人々に米を分配した。「米をもらっても薪《まき》がない、炊《た》く術《すべ》がない」という声を聞くと、ただちに大量の粥《かゆ》をつくらせて配ったのである。  功によって徐温は右衙衛指揮使《うがえいしきし》に叙任《じょにん》され、呉国の最高幹部のひとりとなった。彼は楊行密よりちょうど十歳下で、このとき四十一歳であった。  朱延寿を誅殺《ちゅうさつ》した直後、楊行密はわずか三百の兵をつれただけで領内を巡視に出かけた。長江の北、淮河に近い曷山《かつざん》という土地で、不意に部将の馮弘鐸《ふうこうたく》がひきいる二千の兵におそわれ、包囲されてしまった。間一髪で逃《のが》れた者が揚州に急を知らせ、諸将は援軍を動員したが、まず張訓が先行を命じられた。 「呉王が叛乱軍に包囲された。すぐお救いに行かねばならんが、おれの兵は三百そこそこ。敵は二千という。おそらく生きては還《かえ》れまい。今夜がお前と永遠の別れとなるだろう」  いいながら張訓は泣き出した。生命も惜しいし、美しい妻と別れるのもつらいが、逃げ出そうとしないのは、この凡庸《ぼんよう》な男の長所であった。妻は彼をなぐさめつつ問いかけた。 「で、いつご出陣なさるのですか」 「今日の夜半、三更(午後十一時から午前一時)のころだ。敵陣に着くのは夜明けになるだろう。午の太陽を見ることはできまい」 「不吉なことをおっしゃいますな。あなたはきっと武勲をお立てになります。妾《わたくし》にはわかっております」  夫が悄然《しょうぜん》と、ただ逃げることもなく出陣していくのを見送ると、妻は自室に走りこんだ。やがて窓が開き、満月の下、黒影が張訓の家を飛び出した。剣を背負った女人が、馬とも狼ともつかぬ奇怪な獣に騎《の》って北方へと疾走する姿を見た者があった。それは宙に浮いているようで、足音もたてず、足跡も残さず、飛鳥《ひちょう》よりも速かったという。  馮弘鐸は主君である楊行密を包囲したが、全面攻撃をためらっていた。彼は野心をいだいて起兵《きへい》したのではなく、朱延寿の親友であったから、粛清されるのを恐れて衝動的にこの挙《きょ》に出たのである。包囲には成功したが、これまで厚遇してくれた主君を弑殺《しいさつ》するのには抵抗があった。さればとて、ここでやめれば逆臣として誅殺されてしまう。無能な男ではないが、決断しかねていた。 「夜が明けてから呉王と交渉するという策《て》もあるな」  そう考えていると、不意に陣中に火影《かえい》が発生した。怒号と悲鳴がわきおこる。「敵だ」という叫びに「敵とは誰だ」という狼狽《ろうばい》の声が返る。  剣をつかんで立った馮弘鐸の足もとに、重い音をたてて三つの物体が投げ出された。それがおもだった部下三人の生首であることを知って、馮弘鐸は息をのんだ。つづいて、混乱のなか白刃《はくじん》がおそいかかってくる。かろうじて抜剣《ばっけん》し、撃ちあわせた馮弘鐸は、散乱する火花の下に女人の顔を認めて、またしても愕然となった。  混乱をつづけていた馮弘鐸の部隊が、ついに潰乱《かいらん》した。外から張訓のひきいる三百騎が突入してくると、同時に、異変に気づいた楊行密の軍が出撃してきたのだ。楊行密と張訓とを合わしても兵数は六百にすぎなかったが、幹部を三人まで討ちとられた馮弘鐸の部隊は統率を失ってしまった。いつか馮弘鐸は女の姿が消えていることに気づいた。完全に夜は明け放たれ、朝の光の下、楊行密を救うための援軍が野に満ちて殺到《さっとう》してくるのが見えた。  敗れた馮弘鐸は淮河にそって東へ逃走し、ついに黄海《こうかい》の岸に追いつめられた。前方には灰色の波が無限につらなり、船はなく、後方には楊行密の軍がせまっている。観念した馮弘鐸は、馬を海に乗りいれようとした。自殺を図《はか》ったのである。だが海中を数歩すすむと、馬が波に怯《おび》え、前進しなくなった。馮弘鐸が馬を叱咤《しった》していると、楊行密の軍からただ一騎が走り出てきて、馮弘鐸に大声で呼びかけた。楊行密その人であった。 「勝敗は用兵の常事《つね》で、恥じることはない。ただ一戦に敗れたからといって、海に身を投じる必要があろうか。わが領土は狭いが、君を容《い》れるていどの余地はあるぞ」 「吾府雖小、猶足容君」と、「新五代史」は記述している。馮弘鐸は馬からとびおり、波打ち際に平伏すると、泣いて感謝した。楊行密は彼の罪をすべて赦《ゆる》し、あらためて|※[#曰の下に形のへん]州刺史《しょうしゅうしし》の官職を与えた。以後、死ぬまで馮弘鐸は楊行密とその子らに忠誠をつくす。  張訓は主君を救う大功を立てたので、指揮使《しきし》の称号を得て、千五百名の兵をひきいる身となった。彼は満足しかつ喜んで帰宅すると、妻にそのことを告げた。妻はただ笑ってうなずいていた。      ㈽  楊行密《ようこうみつ》は北方では淮河《わいが》の線をめぐって朱全忠《しゅぜんちゅう》と戦い、南方では蘇州《そしゅう》近辺をめぐって銭鏐《せんりゅう》と戦った。銭鏐は杭州《こうしゅう》を首都として呉越《ごえつ》王国を建てた男で、彼の孫が銭弘佐《せんこうさ》である。  五代の初期、中国大陸沿岸部を見ると、北から南へ、契丹《きったん》(後の遼《りょう》)、後梁《こうりょう》(朱全忠)、呉(楊行密)、呉越(銭鏐)と、諸勢力が並んでいる。呉は契丹と結んで後梁を圧迫しようとし、後梁のほうは呉越と同盟して呉を挟撃しようともくろみ、海路を使っての外交や通商が盛んであった。  朱全忠は楊行密に対して兵を動かすにとどまらず、ひっきりなしに謀略を用いて呉の内部を撹乱《かくらん》しようとこころみた。楊行密は、戦争と内政においては互角に朱全忠と渡りあえる。だが謀略においては一方的にしかけられ、ふせぐのが精一杯であった。主として朱全忠が用いたのは、呉王の地位を餌として楊行密の重臣|宿将《しゅくしょう》たちを背反《はいはん》させる策である。朱延寿《しゅえんじゅ》が好例であった。楊行密が呉王となった翌年、|田※[#君+頁]《でんきん》という宿将がこの餌に飛びついた。田※[#君+頁]は|僚友《りょうゆう》である李神福《りしんぷく》の妻子を人質として、彼をも楊行密に背《そむ》かせようとした。だが。 「吾《われ》は一兵卒《へいそつ》の身をもって呉王の起兵にしたがい、ついに大将となった。妻子を人質にされたからといって、義に背《そむ》くことはできぬ」  李神福は田※[#君+頁]の使者を斬りすて、ただちに出陣した。田※[#君+頁]は使者が帰ってくるのを待っていたが、にわかに出現したのは李神福の部隊であった。あわてて応戦したが、準備も意気も比較にならない。田※[#君+頁]の部隊は四散《しさん》し、彼は李神福の妻子を置き去りにして逃亡した。妻子を救出すると李神福は田※[#君+頁]を急追《きゅうつい》する。そこへ田※[#君+頁]としめしあわせておいた朱全忠の軍があらわれて、李神福におそいかかった。激戦のさなか、楊行密|麾下《きか》の勇将|王茂章《おうもしょう》が精鋭をひきいて駆けつけた。死闘の末、田※[#君+頁]は李神福に斬られ、朱全忠の軍を指揮していた朱友寧《しゅゆうねい》も王茂章に討ちとられた。後梁軍は三千余の死体を残して敗走した。  朱友寧は朱全忠の息子のひとりであった。わが子を殺されて朱全忠は激怒し、ただちに二十万の大軍を発して親征《しんせい》した。 「朱全忠自ら大軍をもって南下す」  急報を受けた楊行密は、安仁義《あんじんぎ》、徐温《じょおん》、李神福、王茂章、劉信《りゅうしん》、馮弘鐸《ふうこうたく》、朱瑾《しゅきん》、米志誠《べいしせい》らの諸将を集め、十万の軍をひきいて、都の揚州|江都府《こうとふ》から出撃した。むろん張訓もそのなかにいる。  淮河といえば中国大陸を南北に分けるる地理上の要所で、これより四百年前の南北朝時代、梁《りょう》と北魏《ほくぎ》との間に歴史的な大会戦がおこなわれたこともある。今回、楊行密が敗れれば呉は滅び、もはや対抗者もなく、天下は朱全忠のものとなるであろう。楊行密だけでなく、麾下《きか》の諸将も決死の出陣であった。  張訓も涙ながらに妻と別れて戦場にのぞんだのだが、このときは千五百ほどの兵をひきいて、有力な将軍である安仁義の左方に布陣した。両軍が集結し、二度ほど小ぜりあいがあったが、双方、確たる戦機がつかめず、十日にわたってにらみあいがつづいた。ある日、張訓は淮河の南岸を巡視していて、葦《あし》の繁みのなかに死体が浮いているのを発見した。溺死《できし》したらしいが、引きあげてみると、懐中に蝋《ろう》でつくった球《たま》を抱いていた。 「はて、これはいったい何だろう」  張訓には想像もつかない。だが小童《こども》の玩具《おもちゃ》とも思えず、保管しておいて使者を出し、妻に問いあわせた。「蝋の球を割ってごらんなさい」というのが、妻の返答であった。妻の指示にしたがって、張訓が球を割ってみると、内部は空洞になっており、おりたたんだ紙がはいっていた。密書である。差出人は朱全忠、宛名《あてな》は安仁義であった。「先日、汝《なんじ》が申し出てきた寝返りの件が真実であれば、呉王の地位を確約する」と記されている。  張訓は仰天した。安仁義は楊行密が無名の兵士であったころからの戦友で、勇猛さにおいては呉軍随一といわれている。その安仁義が、いまの敵の朱全忠と結んで、主君を裏切ろうとしているのだ。  あわてて張訓は楊行密に報告した。証拠となる密書を読んで、楊行密も愕然としたが、すぐには信じなかった。 「これは朱全忠めの罠《わな》ではないか」  朱全忠は千年の後までも名を残すほどの梟雄である。楊行密と安仁義とを離反させるために、密書を偽造するていどのことはやりかねない。だが念のために安仁義をひそかに監視していると、いかにも挙動が不審である。  徐温が策を立てた。あたらしく蝋の球をつくり、それに朱全忠の密書を封じこんで安仁義の陣中にとどける。翌日の夜、安仁義の陣から人影が走り出た。弓の名人である米志誠がそれを射てとらえた。その男が持っていた書状を取りあげてみると、「二日後の夜、三更を期して呉軍の本陣に放火する。それを合図に総攻撃されたし」と記してある。  もはや疑う余地もないが、安仁義は弓と槊《さく》(騎馬用の長槍)の達人である。これをとらえるのは容易ではない。楊行密が考えこんでいると、張訓がすすみ出て、安仁義をとらえる役を願い出た。  二日後、三更のころ、安仁義は武装して淮河のほとりに立った。月が雲に隠れがちな暗夜だ。兵に命じて放火の行動をおこさせようとした瞬間、女の脂粉《しふん》の香が吹きつけ、傍《かたわら》をかすめた黒影が、剣をふるって安仁義の右腕を砕いた。安仁義が横転《おうてん》してうめいていると、あらたに黒かげがとびかかってきた。張訓であった。 「とらえた! 叛逆者をとらえた」  馬乗りになって張訓はどなった。安仁義は、本来、張訓ていどの男に捕縛されるような者ではなかったが、右腕が折れたため剣をふるうことも白手《すで》で格闘することもできず、革紐で縛りあげられてしまった。乱入した呉兵が、たちまち安仁義の陣営を制圧する。  朱全忠のほうは全軍に出動を命じ、闇に乗じて呉の陣営に肉薄《にくはく》していた。安仁義の合図と同時に全面攻撃をかけ、呉軍を壊滅させることにとどまらず、一気に南下して長江の北をことごとく占拠するつもりであった。合図がやや遅れたので不審をいだきはじめたとき、呉の陣営から一閃の火光《かこう》が夜空に向かって奔《はし》った。 「それ、今こそ!」  朱全忠の号令一下、二十万の大軍は矛先《ほこさき》をそろえて呉の陣営へ乱入した。だが駆けこんでみると、そこは無人で、ただ松明《たいまつ》が燃えているばかりである。一瞬で罠とさとった朱全忠は退却を呼号《こごう》したが、たちまち豪雨のような音がして四方から矢が降りそそいできた。密集していた梁軍はつぎつぎと射倒された。 「全忠などと過分《かぶん》な名を朝廷からいただきながら、朝廷をないがしろにする朱賊《しゅぞく》めを討ちとれ!」  徐温、李神福、馮弘鐸、劉信らが戟《げき》をそろえて突進し、草を刈るがごとく梁兵を殺戮《さつりく》する。斬られ、射られ、淮河に追い落とされて、朱全忠軍の死者は一夜にして二万余におよんだ。朱全忠の身辺にも呉軍の刀槍《とうそう》がせまったが、無双の勇将とたたえられる王彦章《おうげんしょう》が鉄鎗をふるって呉軍を薙《な》ぎ倒し、朱全忠を小舟に乗せて淮河を渡り、かろうじて逃げ帰った。朱全忠はその後、二度と呉との間に大戦をおこそうとはしなかった。安仁義は夜が明けると楊行密の前に引き出されて斬首《ざんしゅ》された。  張訓の功績は楊行密を喜ばせたが、じつはそれ以上に当惑させた。楊行密の鑑《み》るところ、張訓の将才は叔父の張神剣におよばず、百人単位の兵をひきいて辺境の小城を守るのが精々であろうと思われる。それが一度ならず大功を立て、主君の急を救った。それまで忘れていた、張訓に関する夢のお告げを、楊行密は思いおこした。 「この男には神助《しんじょ》というものがありそうだ。李英公《りえいこう》の故事《こじ》もあることだし、才というより運ということだろう」  李英公とは大唐帝国の功臣で、百戦不敗《ひゃくせんふはい》の用兵を謳《うた》われた英国公《えいこくこう》・李勣《りせき》のことである。彼の主君は太宗《たいそう》皇帝・李世民《りせいみん》であるが、一日《いちじつ》、太宗は李勣を宮中に招いて兵事を語りあった。そのとき太宗が質問した。 「卿は戦うにあたり麾下の諸将を適所に配して誤りを犯したことがないが、どのようにして人材を見分けるのか」 「人相によって運の良し悪《あ》しを見ます」 「才能よりも運を重視すると申すか」 「おそれながら、臣は十七歳で起兵してより今日まで、運にまさる才能を見たことがありません。いかに才豊かであっても、運貧しきものは、戦場においてわが身を亡ぼし、味方を害《そこな》いまする」  太宗も乱世を制して二十代で天下を統一した人物である。うなずいて、李勣の意見を認めた。この時代より三百年ほど前の有名な故事だ。 「……とすれば、この者、たいせつにあつかってやるべきかもしれぬ」  もともと楊行密は部下を厚く遇する主君である。ついに張訓を和州《わしゅう》の刺史《しし》に叙任した。叔父の張神剣《ちょうしんけん》も上りえなかった地位である。呉の諸将はおどろいた。張訓を憎む者もいなかったが、高く評価する者もいなかったので、 「運のいい奴だ。おそらく呉王が張神剣をなつかしくお思いになって、甥のほうに恩徳《おんとく》をほどこされたのだろう」  こぞってそう評した。当の張訓が、「おれは運がいい」と狂喜しているのだから、その説明で誰もが納得した。  だが納得しない者がひとりいた。 「どうも変だ。運でかたづけるには、あまりにつごうがよすぎる。何か裏面《りめん》の事情があるのではないか」  そうつぶやいて首をかしげたのは、徐知誥《じょちこう》という人物だった。その年、天祐《てんゆう》二年(西暦九〇五年)に十八歳である。楊行密の重臣である徐温の養子で、本名を|李※[#曰の下に弁]《りべん》といった。  この時代、養子の風習が天下に盛行《せいこう》していた。両親を失った流浪の少年が、才知も勇気もひときわすぐれているのを見て、楊行密は自分の養子にしようとした。だが楊行密の実子たちが激しく反対したので、彼は徐温を呼んでその少年を養子にするよう命じた。徐温は喜んで主君の命令にしたがったのである。 「呉王の息子どもは、みな無能だ。お前を養子にすることに反対したというだけで、そのことがわかる。お前の才幹を見ぬくことができないのか、見ぬいた上で恐れているのか、いずれにしても結局、同じことだ」  徐温は、養子となった少年、つまり徐知誥にそう告げた。 「お前はこの国でもっとも才幹に恵まれている。おれなど足もとにもおよばぬ。志を高く持ち、人心を得るよう努《つと》めよ」  徐知誥は容貌も体格もすぐれており、見るからに頼もしい若者だった。「新五代史」によれば、「為人《ひととなり》温厚にして謀有《あ》り」「学を好み儒者《じゅしゃ》に接するように礼をもってし」「政を為《な》すに寛仁」であったという。乱世にあって、天下を統一することはできぬまでも、一国を建てて風雲にうそぶくていどのことはできる器量の所有者であったのだ。  その徐知誥が、張訓の異数《いすう》の出世に不審をおぼえたのである。考えぬいたあげく、彼は養父に相談してみた。      ㈿  将来を期待する養子から、張訓《ちょうくん》に対する疑惑について聞かされたとき、徐温《じょおん》の反応は積極的ではなかった。 「張神剣《ちょうしんけん》はおれも知っている。勇猛な男だったが、身の処《しょ》しかたを誤った。甥のほうは語るにたりぬ。ただ運がよいだけの男で、べつにあやしむこともなかろう」 「そうおっしゃるのはごもっともですが、私はどうも納得いたしかねます。何やら裏面の事情があるように思えてなりません。調べてみてもよろしゅうございますか?」 「そこまでお前がいうなら好きにせよ」  苦笑して、徐温は養子の行動を認めた。 「ただし、十日のうちに何も出てこなかったら、揚州《ようしゅう》にもどって来い。いぶかしむ者があったら、養父の指示でやっている、くわしいことは知らぬ、と答えておけ。あの張めにだいそれた所業《まね》ができるとも思えぬがな」  呉でだいそれたことをやってのけるのは自分たち父子以外に存在しない。言外《げんがい》にそういって徐温は凄《すご》みのある表情をつくった、ただちに徐知誥《じょちこう》は揚州から西へ三日の旅をして和州に到着した。  刺史という顕職《けんしょく》についても、張訓の日常はそれほど変わらなかった。凡庸であっても暗愚《あんぐ》ではなく、分にすぎた野心をいだいたり豪奢《ごうしゃ》な生活を送ったりすることはなかった。女性関係といえば妻ひとりきりで、第二夫人もおらず愛妾《あいしょう》もいない。部下の兵士を虐待することも、住民に賄賂《わいろ》を強要することもなく、刺史としての評判は悪くなかった。ただ、彼が妻とともに赴任《ふにん》して以来、住民のなかで行方不明になった者がいる。墓が暴《あば》かれ、棺《ひつぎ》が空《から》になったという例がある。人にあらざる者が和州の城市《まち》を夜行しているという噂が流れていた。  夜ごと徐知誥は宿を出て張訓の邸宅を監視したが、しばらくは何もなかった。七日めの夜、自分のやっていることの意味を自問しつつあきらめかけたとき、月下に黒影が躍って張訓の邸宅の屋根から隣家の屋根へ飛びうつるのを見た。追おうとして徐知誥は考えなおし、ひたすら待った。ほどなく黒影が帰ってきて、張訓の邸宅の屋根に姿を消した。目をこらしていた徐知誥は、黒影が女であること、腕に子童らしい影をだいていたことを知り、うなずくところがあった。 「張刺史の夫人は巫《ふ》ではないか」  巫とは西方世界でいう黒魔術師にあたるであろう。幻妙《げんみょう》の術を使うのは神仙と同じだが、異《こと》なるのは術のために人命を犠牲にすることである。徐知誥は張訓に面談を求めた。ひそかに養父の名を出したので、張訓はすぐ徐知誥との面談に応じた。徐知誥は、前夜のできごとを話し、彼の疑惑について語った。  十八歳の若者がいうことを、張訓はすぐに信じなかった。だが彼自身が不審に感じていたことがいくつもあって、これまでそのことを語る相手がいなかったのだ。 「確認してみて何もなければ、それでよろしゅうござる。だが万が一にもご夫人が巫であれば、事は重大。呉王のお怒りを受けましょうぞ」  徐知誥に再三いわれ、ついに張訓はうなずいた。機会はすぐに来た。その夜、張訓は帰宅が深夜になると妻に告《つ》げ、予定より早く帰宅した。夫の帰宅後に食事をとるのが慣習であるのに、妻はひとりで食事をしていた。張訓はこっそり厨房《ちゅうぼう》にはいると、湯気の出ている蒸篭《せいろう》を見つけ、蓋《ふた》をあけてみた。  奇声《きせい》を発して、張訓は跳《と》びのいた。彼でなくとも驚愕するであろう。蒸篭にはいっていたのは饅頭《まんとう》ではなく、人の生首だったのである。それも一個にとどまらず、三個もあった。彼は恐怖と嫌悪に慄《ふる》えながら、何かを感じとって振り向いた。  妻が立っていた。 「見ましたね、あなた」  その声が弔鐘《ちょうしょう》のようにひびいて、張訓はいまさらながらに戦慄した。 「じ、人肉を食ったのか」 「食べませぬ」  その答えに、張訓は安堵《あんど》しかけたが、つぎの一言でよろめいた。 「妾《わたくし》が食べたのは心臓だけでございます。それ以外に用はございませんでしたから」 「人妖《ばけもの》め!」  あえぎながら張訓は剣を抜き、妻に斬りかかった。叔父には遠くおよばないが、実戦で敵兵を斬った経験がある。  剣勢《けんせい》は激しかったが、妻はかるく斬撃《ざんげき》をかわし、手刀で張訓の手首を打った。手が痺《しび》れ、剣は床に落ちてうつろな音をたてた。 「妾はあなたの妻としてずいぶん尽《つ》くしたつもりです。呉王に夢であなたを厚遇するよう告げたのも妾、あらかじめ敵将を斃《たお》してあなたに武勲を立てさせたの妾ですのに」 「人を殺して心臓を食ったのもおれのためだというつもりか」 「あれは異力《いりょく》をつけるためでした」  そこへ待機していた徐知誥が躍りこんできた。 「異力を得るために、そこまでする必要があるのか、人妖め」  徐知誥の剣勢は張訓にまさった。二度三度と張訓の妻は斬撃をかわしたが、四度めに彼女の袖が大きく斬り裂かれると、張訓の妻は高く跳んで天井にはりついた。 「本来の才能よりずっと栄達《えいたつ》させてやろうと思ったのに、愚かな男」  床にへたりこんだ張訓に、憐《あわ》れむがごとく声をかけると、彼女は徐知誥を正視《せいし》した。 「異力を得るために、そこまでする必要があるのか、と、そうおっしゃいましたね、郎君《わかさま》」 「たしかにいった。それがどうかしたか」  張訓の妻は声をたてずに笑った。 「郎君は貴人《きじん》になられます。郎君のご子孫も。そのとき、世の人々が何と申しますことやら楽しみでございますな」  無言で徐知誥が天井に斬りつけると、張訓の妻は窓からとび出したが、その身軽さは羽毛《うもう》が風に舞うがごとくであった。徐知誥が剣を手に窓枠《まどわく》を躍りこえたとき、すでに張訓の妻の姿は夜の闇に溶《と》けこんで、追う術《すべ》もなかった。  張訓の妻が巫《ふ》であったことは、公《おおやけ》にされなかった。張訓は病を理由に刺史《しし》の座をしりぞき、揚州《ようしゅう》に帰り、庶民として一生を終えた。あらたに妻を迎えることもせず、知人から再婚をすすめられると、おびえたような表情で首を横に振った。その生活はごく平穏であったが、一度、知人の家で豚の心臓の料理を出されると、蒼白《そうはく》になって逃げ出し、交《まじ》わりを断ったという。  張訓が致仕《ちし》するとき、楊行密はとくに引きとめなかった。張訓の顔を見て、福運《ふくうん》が去ったことを察知したためであるという。楊行密自身がほどなく病床についた。このころ彼は徐温《じょおん》の為人《ひととなり》と権勢に不安をいだき、朱延寿《しゅえんじゅ》、|田※[#君+頁]《でんきん》、安仁義《あんじんぎ》ら徐温に対抗できる実力者をつぎつぎと失うはめになったことを歎《なげ》いていた。  楊行密が死去したのは天祐《てんゆう》二年十一月のことで、五十四歳であった。長男の楊渥《ようあく》が二十歳にして呉王となったが、器量才幹《さいかん》は父におよばず、失政《しっせい》をつづけ、三年後に徐温の放った刺客によって暗殺される。このころより徐温の野心は露骨《ろこつ》になった。楊行密の次男・楊隆演《ようりゅうえん》が十二歳にして第三代の呉王となったが、徐温父子の傀儡《かいらい》たる身に絶望し、酒におぼれて二十四歳で死去する。第四代の呉王・楊溥《ようふ》は楊行密の四男であったが、徐温の死後、徐知誥に位をゆずり、呉は四代あしかけ三十六年をもって滅亡した。天福《てんぷく》二年(西暦九三七年)のことである。このころすでに張訓はこの世に存在しない。  徐知誥は本来の姓名である|李※[#曰の下に弁]《りべん》を名乗り、王都を長江南岸の金陵《きんりょう》(後世の南京《ナンキン》)にうつして南唐《なんとう》王朝を開いた。五十歳になっていた。武力による領土拡張を自制して隣国と和約を結び、戦乱で荒廃した国土の復興に尽力した。唐の玄宗《げんそう》皇帝の子孫と称し、いつの日か中原を回復することを望んでいたという。  旧主《きゅうしゅ》である楊一族は、「永寧宮《えいねいきゅう》」という長江のほとりの宮殿に住まわされた。衣食住に不自由はなかったが、つねに軍隊が宮殿を包囲し、外界との接触はまったく許されなかった。幽閉《ゆうへい》はあしかけ二十年におよんだ。  顕徳《けんとく》三年(西暦九五六年)に至って南唐の第二代皇帝李《りけい》は永寧宮に軍隊を乱入させ、乳児にいたるまで、楊一族と彼らにつかえる者、合計六百余人をことごとく殺害させた。五代十国史上、最大の惨劇といわれる「永寧宮の難《なん》」である。死体は長江に投げこまれ、宮殿には火が放たれて跡形もなく焼きつくされた。李は文化を愛好し、自らも詩人の才を誇っていたが、無力な楊一族を虐殺しつくすことを文化的と信じていたかどうかはわからない。南唐の人々は、楊一族の悲惨な最後をあわれみ、 「安泰を得るために、そこまでする必要があるのか」  と、李の無道を謗《そし》った。ただ、李にも言分《いいぶん》がある。当時、中原の王朝は交替して後周《こうしゅう》となっていたが、後周が南唐を攻撃するにあたり、「気の毒な楊一族を救出する」という名分をかかげていた。乱世の英雄を気どりながら小心な李は、後周の援助を得た楊一族が自分たちに報復するという悪夢におびえ、旧主の血統を根絶《ねだ》やしにしたのである。  そこまでして安泰を図《はか》ったのだが、結局、李の子である李《りいく》の代に南唐は宋《そう》によって併呑《へいどん》された。宋朝が南唐に対してつねに冷淡であったのは、楊一族を根絶やしにした南唐のやりくちを嫌悪したからであるという。宋朝が旧主である後周《こうしゅう》の皇族を厚く遇したのは有名な話である。  張訓の妻については「中国歴代名人|軼事《いつじ》」に拠《よ》るところが多いが、その記述は「十国春秋《じっこくしゅんじゅう》」その他にもとづくという。張訓がどのような事情で彼女と結ばれたかについては、まったく記述されていない。史談より説話の領域に属するものであろう。