花の百名山 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年七月二十五日刊  (C) Takao Tanaka 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。      目  次    1 高尾山・フクジュソウ    2 大楠山・フユノハナワラビ    3 御前山・カタクリ    4 三頭山・ハシリドコロ    5 幕山・タツナミソウ    6 武甲山・セツブンソウ    7 高鈴山・センブリ    8 天城山・ヒメシャラ    9 三筋山・ホソバコガク    10 相模大山・ウラシマソウ    11 川苔山・アズマイチゲ    12 雲取山・フシグロセンノウ    13 地蔵岳・アツモリソウ    14 黒檜山・クサタチバナ    15 至仏山・アズマギク    16 大岳山・イワウチワ    17 高水山・ツルリンドウ    18 鶏頂山・ショウジョウバカマ    19 大菩薩峠・ギンバイソウ    20 武州御嶽・ウケラ    21 生藤山・ホタルカズラ    22 石割山・オオバギボウシ    23 尾瀬沼・ギョウジャニンニク    24 八幡平・イソツツジ    25 大滝根山・シロヤシオ    26 鎌倉岳・コバノトネリコ    27 早池峰山・チシマコザクラ    28 田代山・キンコウカ    29 鳥海山・チョウカイフスマ    30 月山・ウズラバハクサンチドリ    31 羽黒山・ミヤマヨメナ    32 栗駒山・ヒナザクラ    33 安達太良山・ツリガネツツジ    34 五葉山・ミネザクラ    35 利尻山・シコタンハコベ    36 礼文岳・レブンソウ    37 余市岳・エゾカンゾウ    38 夕張岳・ユウバリソウ    39 大千軒岳・サルメンエビネ    40 斜里岳・タカネナデシコ    41 大雪山・イワウメ    42 アポイ岳・アポイマンテマ    43 富良野岳・ハクサンイチゲ    44 十勝岳・イワブクロ    45 沼の平・サンカヨウ    46 羅臼岳・チシマツガザクラ    47 樽前山・ウラジロタデ    48 雌阿寒岳・メアカンフスマ    49 空沼岳・オクトリカブト    50 雨龍沼・ヒオウギアヤメ    51 国師ヶ岳・クモイコザクラ    52 葦毛湿原・シラタマホシクサ    53 金峰山・シャクナゲ    54 白山・ミネズオウ    55 立山・イワイチョウ    56 薬師岳・キバナノシャクナゲ    57 黒部五郎岳・チングルマ    58 五色ヶ原・クロユリ    59 弓折岳・ムシトリスミレ    60 双六岳・コバイケイソウ    61 仙丈岳・シナノナデシコ    62 根子岳・ウメバチソウ    63 苗場山・ツルコケモモ    64 霧ノ塔・トキソウ    65 守屋山・ザゼンソウ    66 黒斑山・ヒメシャジン    67 浅間山・ムラサキ    68 槍ヶ岳・トウヤクリンドウ    69 白馬岳・コマクサ    70 木曾駒ヶ岳・ヒメウスユキソウ    71 木曾御嶽・リンネソウ    72 西穂高岳・センジュガンピ    73 戸隠山・クリンソウ    74 火打山・ハクサンコザクラ    75 縞枯山・オサバグサ    76 爺ヶ岳・カライトソウ    77 鹿島槍ヶ岳・タカネツメクサ    78 五頭山・オオイワカガミ    79 高峰山・コウリンカ    80 霧ヶ峰・ヤナギラン    81 志賀高原・イブキジャコウソウ    82 浜石岳・ヤマユリ    83 三上山・イワナシ    84 藤原岳・アワコバイモ    85 霊仙山・ヒロハノアマナ    86 二上山雄岳・テイショウソウ    87 葛城山・ミヤマラッキョウ    88 愛宕山・オタカラコウ    89 御池岳・ヤマエンゴサク    90 大台ヶ原山・イナモリソウ    91 大山・ダイセンクワガタ    92 天狗高原・ユキモチソウ    93 東赤石山・コイチヨウラン    94 横倉山・オオバノトンボソウ    95 石鎚山・キレンゲショウマ    96 丸笹山・ワチガイソウ    97 剣山・クリンユキフデ    98 韓国岳・マイヅルソウ    99 久住山・ツクシフウロ    100 祖母山・カキラン      あ と が き      文庫版のためのあとがき      花 名 一 覧      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#地付き]カット 三田恭子     花の百名山

1 高尾山  フクジュソウ(キンポウゲ科)
 山々には出あいがあった。いつの山にも、どこの山にも。しかし、小学校五年の秋の遠足に、はじめて武州高尾山の頂きに立って、すぐ眼の前にそそり立つ富士山を見仰いだときほど、大きなよろこびにひたされたことはない。 (おとうさん)  私は小学校一年の夏に死んだ父の面影を、紫紺の山肌の上に描いて、胸に父を呼び、|滂沱《ぼうだ》として溢れる涙を拭いもやらず、ススキの茂みの中に立ちつくした。  生まれた家は、日本橋から八キロの、中仙道の宿駅の町にあり、富士は武蔵野の林の果てに、遠く小さく見えた。父は亡くなる前の一日、私と、町外れの小川のほとりを歩いて、自分が以前に登った富士を指さして言った。  ——お前もいまに登りなさい。  新らしく事業を起しかけたままで世を去った父のあとは、巨額の借金の返済に追われ、大きな家を他人に貸して小さな家に移り、子供ごころに冷たい世間の風を知って、父さえ生きていてくれたらばと、口惜しかったり悲しかったりしたことは数えきれなかった。  父は富士山にいて、私が高尾山の頂きまで来て、父にあうのを待っていた。 (おとうさんは山にいる)  その思いを胸において、私は山を歩きつづけていった。  武州高尾山は、秩父山地の西端が、相模川の谷にむかって、幾うねりかの山なみを重ねてなだれ落ちるその一つの頂きをつくっている。標高は六百メートル。歩いて登れば二時間である。  いまはもう、東京都の公園のようになっていて、バスで麓にゆき、麓からケーブルで、頂き近い薬王院のあるところについて、大人も子供も、上野の山よりは少し高い位にしか思わないかもしれないけれど、たった二時間、ゆっくり登って三時間の道のりは、是非歩いてほしいところだ。  薬王院は聖武天皇の天平年間の創建と言われ、その周辺の巨大な杉並木がすばらしい。  山路にさしかかって、春ならばエイザンスミレやセンボンヤリの薄紫の花を、夏ならばヤブレガサやヤマジノホトトギスの白い花を、秋はリュウノウギクの白、ツルリンドウの青などをたのしむことができ、歩くひとが少いので、私の娘時代も、それから何十年たっての今日このごろも、わざわざ道をひろげたところ以外は、それほど山の花々が減ったようには見えないけれど、戦後すぐの頃登ったときのように、ヤマシャクヤクやオキナグサやエビネを見出すことは、ほとんど不可能になった。かつてはクマガイソウもコアツモリソウも、山かげの杉木立ちのかげに咲いていたと聞いている。  山の花々を里に移して、花が仕合わせになる道理はない。悪い空気。薬くさい水道の水。土のちがい。移し植えられた山の花々にとって、里に下されることは、早い死への旅立ちを意味する。  一ころ植物の会の仲間に入って、一いろ一茎に限って、千メートル以下の山地の花々を採取した時期があったが、一年たち二年たちして、花も小さく葉も小さくなってゆくホタルブクロやフシグロセンノウを見ると、無抵抗の弱者を、自分のたのしみのために、幽閉し虐待している悪代官のような気持ちになって来て、この十数年来すっかりやめてしまった。植物学者でもなく、花になぐさめられ、花に安らぎの思いを与えられて感謝しなければならない身は、こちらから山にでかけて、花にあわなければならぬと思いこむようになった。  高尾山には戦前も戦後ももう何回となく登った。高尾山の頂きからは、大山、丹沢山塊をこえて富士山。つづいて御坂山塊、大菩薩嶺、甲武信、雲取などの山々が見える。北に目を放てば赤城山、日光連山、筑波山、更に東方はるかに晩秋のよく晴れた日には、房総の山々をまで望み見たことがある。  西の谷を下って小仏峠に至り、景信山から陣馬山の尾根道を縦走したことも、西南に大垂水峠を下って、南高尾の丘の連なりを歩き、眼下に津久井湖を見ながら、峰の薬師に出たことも、小仏峠を北に下って、南浅川の谷を抜けたこともある。  父が四十歳になったばかりのいのちを、結核にむしばまれて死ななければならなかったのは、富士登山で無理をしたからだと、母が繰りごとのように語っていた。  富士登山の前にはしばしば高尾山に登ったという。明治の末期に、中央線はすでに飯田町・名古屋間に通じていた。二十代三十代の父は、小学生の私が、大正の末期に、浅川駅で下りて、甲州街道を西に、田圃や空地の続く道を、山麓まで歩いたのと同じように歩いたにちがいない。  しかし父は頂きを極めて、どちらの道を下ったのであろう。  高尾山は小田原北条氏の信仰が篤く、八王子に北条氏照が城を構えたときは、広大な寺領を得ている。徳川時代も参詣者がさかんであったというから、甲州街道に登山者の姿もよく見られたであろうけれど、鉄道開通後は、下山してふたたび浅川駅にもどるのが一番の近みちであったから、大垂水や小仏への道も、南浅川への道も荒れ果ててしまったのではないだろうか。  子供の頃、私の家の庭に、父が高尾山で採って来たというフクジュソウの数株があった。  町中にしては広い屋敷で、庭には築山があり、泉水がつくられ、築山の石組みの下には、フクジュソウが、いち早く毎年の春を知らせた。  フクジュソウは正月の新年を|寿《ことほ》ぐ盆栽としてつくられるものとのみ思っていたので、父が高尾山から持って来たというのは、母の思いちがいではないかと思いこんでいた。  あれは、いつの春であったろうか。私が女ばかりの山の会をつくってからの高尾山ゆきだから、ほんの十年前である。山歩きに馴れないひとびとのために、高尾山を登って、南浅川に下る道をえらんだ。  三月も末で、風も柔かく、陽射しもあたたかくなったが、山はまだ冬が去ったばかりで、木々の下草は、去年の秋のままに枯れすがれていた。  小仏峠で、早く帰りたいひとは相模湖に、ゆっくりできるひとは南浅川への谷を下ることに決めると、主婦の多い集まりなので、ほとんどが西側の短い距離を下ってゆき、私をふくめてほんの四、五人が北側の道をとった。  椎や樫や杉などの常緑樹の多い谷は、木々の芽ぶきも見られず、一そう春のくるのがおそいようで、わずかにカンアオイの緑の冴え冴えとしているのが春の気配を感じさせた。  ところどころにキブシの花も、固い蕾なりに春らしい粧いをこらしている。私はいつかひとびとよりおくれて山道を歩いていった。高尾山などと一口に軽く見て、あまりにも低く、あまりにも開けているのを非難するひとが多いけれど、この春のさかりを前にした谷の美しさはどうか。  木々は皆、飛翔する前の若い鳥のように、息をひそめて張りつめた力を凝縮させている。この山気にふれ得ただけでも、今日の山歩きはよかった。  全身から湧きたつよろこびに、小走りに走り下りようとして、はっと息をつめた。一瞬にして金いろのものが足許を走り去るように思った。  フクジュソウが咲いていた。杉の根元の、小笹の中に一本だけ、たしかに野生の形の、売られているのよりは背も高く、黄も鮮やかな花を一つつけていた。その後石灰岩地帯を好むフクジュ ソウは、かつて多摩川の所々にもよく咲いていたことを知った。私の見つけたのは、残存の一株であったのだろう。  何故、高尾山に、こうもしばしばくりかえしてやって来たのだろうか。  フクジュソウはたしかに高尾山に咲いていると父が教えてくれるために、おのずから私の足が向くように誘ってくれたのではないだろうか。  父は四十歳で死んだが、生きていたら、もっとたくさんの山に登ったことであろう。  父の願いが、私をこのように山に駆りたてるのかもしれない。父がもっと生きてもっと見たかった山の花々を、私は父の眼で見るために、こんなにも山にあこがれつづけているのかもしれないと、そのとき思った。父は栽培種の花よりも野の花、山の花が好きであったという。

2 大楠山  フユノハナワラビ(シダ・ハナワラビ科)
 登る山をえらぶとき、高さよりは、その山が人間の生活とどうかかわりがあったかが、いつも気になる。私は古戦場とよばれるような山を歩くのが好きである。敗残の生命をかつがつに保って、落城の兵の逃げていった道などは、殊に心惹かれる。  三浦半島の南端にあって、二四二メートル、半島で一番高いとされる大楠山は、平安末期に三浦氏の居城であった衣笠山に隣接している。  桓武天皇の曾孫|高望《たかもち》王は平姓を名乗って、その子孫たちは坂東平氏の祖となった。平将門もその一人である。その乱に見られるように、一族内での争いが激しく、将門の討伐に加わった平忠頼の子孫は、秩父氏、畠山氏、千葉氏、鎌倉氏、三浦氏等にわかれた。頼朝が挙兵したとき、三浦義明は援兵を送り、畠山重忠は同じ坂東平氏の河越氏、江戸氏と共に、三千の兵をもって衣笠城を攻撃した。  大楠山にゆくには、京浜急行の按針塚からまっすぐに登る道があるけれど、私は早春の一日、国電の衣笠駅で下車し、町のうしろの衣笠公園を抜けた。桜の名所として知られるこの低い丘陵の公園には、桜の古木にまじっていろいろの椿の品種が新らしく植えこまれていた。  丘を下りると、急に山里の風景になり、前に衣笠城を仰いで、一筋の水のきれいな小川が流れ、昔ながらの木の橋がかかっていて、ふと、何百年も前の姿そのままの気がした。  神武寺のある鷹取山や大楠山は、三浦半島の|脊梁《せきりよう》をつくり、衣笠山もその山なみのつづきになっているけれど、鎌倉と同じように入り組んで複雑な谷のある地形が、いかにも城を構えるのに|適《ふさ》わしく見える。道もうねりながら細々と山かげから山かげを連ねていて、日だまりにはオオイヌノフグリの空いろの大きな花がいっぱいであった。  頼朝が伊豆で源氏再興の兵を挙げたのは、八月の半ばである。相模の山野は山百合が多いので、その|馥郁《ふくいく》たる香りの中を、ナデシコやオミナエシやキキョウを踏みしだいて、兵たちは進んだのであろう。  関東は清和天皇の孫の経基にはじまる清和源氏が、将門の乱で活躍して以来、多くの武士をかかえて武門の頭領となった土地である。もともとは平氏であった秩父、畠山、千葉氏なども、源頼義の前九年の役にしたがっている。相模は頼義が国守としておさめたところであり、その子孫の義朝の頃には、東海の十五カ国の荘園に勢威を張っていた。  三浦義明の頼朝への援軍は、折からの酒匂川の増水で足止めされているうちに、石橋山の敗報がとどいてしまった。もどって鎌倉までくると、畠山重忠の軍勢に迎撃され、小坪でその囲みを突破して衣笠城にたてこもった時は、五百に満たぬ数であった。義明は子供の義澄を、安房へ逃れた頼朝に合流させ、自分は城を守って切腹した。鎌倉の杉本寺は、義明の子の義宗の城のあとである。街道に臨んだ要害の地で、父祖の地、衣笠防衛の拠点であったろう。  衣笠城址の碑は、本丸の跡と言われる一番高い丘のほとりにたてられ、東を望めば、椎やタブなどの常緑樹の多い木立ちの向うに、薄青く房総半島が浮んで見える。城の北面の傾斜地には、近くの農家で栽培している鉄砲水仙が、梅林の中に花盛りであった。  大楠山もかつては衣笠山を護る砦の一つであったと思う。城址から二時間足らずで、その頂きに立つと、観音崎から剣崎までの海岸線を間近に、房総や伊豆の山々が一望に眺められ、大島が南の方角に近々と横たわっている。  雑木林の中の道を、秋谷に近い前田橋に下る。両側が深くえぐれて、姿をかくしやすい。  林にはヤマザクラが多く、自動車の通れない狭い石ころ道の両側には、キチジョウソウやフユノハナワラビがいっぱいある。軽井沢のカラ松林の中で、よくナツノハナワラビを見つけることがあるけれど、私は葉にぼってりとした厚みのあるフユノハナワラビの方が好きだ。  三浦氏は頼朝が勝利を得て幕府をひらくと、重く用いられた。一門一族の中には、鎌倉から衣笠までの敗軍のあとをしのんでこの道を歩き、無残に死んだ父や兄を思って涙したものもあったであろう。  縁起のよい名のキチジョウソウに三浦一族の行末を祈り、去年の落葉の中に、青々としているフユノハナワラビの強靭さにはげまされもしたのではないだろうか。三浦氏もやがて北条氏のために亡ぼされて、その栄えのあとを語るのは、これらの野の草たちだけとなった。

3 御前山  カタクリ(ユリ科)
 暦の上の立春を境にして、煤煙に汚された東京の空も、青のいろに柔かさを増し、頬に冷たい風の中にも、どこかの庭でほころびはじめた早咲きの梅の香りが流れてくるようになると、私の心は、武蔵野の西の果てに連なる、奥多摩の谷々に向かって、ひたすらに走りとんでゆく。  ——カタクリはもうどのくらい芽を出したかしら。  ——あの崖のカタクリは今年も花が咲くかしら。   もののふの|八十娘《やそをとめ》等が汲み|乱《まが》ふ    寺井の上の|堅香子《かたかご》の花  万葉集の巻の十九にある大伴家持の歌は、越中守であったときにつくられている。宇都宮貞子さんの『草木おぼえ書』によれば、妙高高原ではカタクリをカタツユとよぶそうである。天平勝宝二年三月二日にカタカゴの花を折ろうとして、家持は越中の春に咲いたカタクリを見て、ふるさとの大和を思い出したのではないだろうか。  葛城の尾根を歩いた四月の末に、道のかたわらの雑木林の下草に、点々とカタクリの咲いているのを見たことがある。  家持の歌の中の寺は越中の寺であろうか。私は奈良の都のどこかの寺のように思われてならない。乙女らの素足のいろを思わせるカタクリの薄紅は、大和の壮麗な寺院を背景にしてこそひきたつような気がする。  私がはじめてカタクリの花を見たのは、残念ながら奥多摩の山ではなくて、教師をしていた芝の白金三光町の聖心女子学院の教員室であった。  アララギ派のすぐれた歌人で、書道の大家である岡麓氏が、習字科担任の先生として在籍され、ある日、信濃路のひとからおくられて来たというカタクリの花ばかりを、茶筒に入れたのを見せて下さった。  これが万葉集のカタカゴの花と教えられ、古代の姿を野の草に残す、信濃路の山々の谷の深さをしのんだのだが、若い日というものは、周囲に対して、馬車馬のように注意のゆきとどかなかったものだと、今ごろになって恥ずかしい。  カタクリは戦後になって、清瀬の森の中や村山の貯水池のほとりや、多摩川の羽村の近くや、五日市の秋川の丘陵でいくらでも見た。高尾山の南や北の麓でも見た。私の娘の頃であったら、春の武蔵野や奥多摩の山々を歩けば、ずい分たくさん見られたであろうのに、記憶の中に一つもない。  ただ早く歩くばかりが能だったのである。北海道の大千軒岳でも、東北の早池峰でも、上州大峰山でも、御坂山塊でも、初夏にまだ咲き残っているカタクリを見た。もしも澱粉をカタクリだけにたよっていたら、あるいは万葉の昔から今日に至る千何百年の月日に、日本列島から絶滅してしまったかもしれない。ジャガイモが普及し、その多量な澱粉採取の可能によって、いまもなお日本のカタクリが、野山をいろどっていてくれるのであろう。  ユリに似て美しい花は、栽培種のように華麗だけれど、その根をとるのはまことに手間がかかる。花盗人も花だけ摘んで、根を残すから、これもカタクリの仕合わせになっているのかもしれない。  わが家の庭にも、はじめて地元のひとの案内で秋川の谷を歩いたとき、持参の|鍬《くわ》でとってくれた三、四本があるけれど、二十年このかた、一度も花の咲いたことがない。それにこりて、その後、どんなにカタクリを見ても、とって来ようと思ったことがない。  四月半ばの|御前《ごぜん》山を訪れたのはつい最近である。  南秋川の谷から、数馬や風張峠を経て、月夜見山の山腹をまいて、奥多摩湖畔に出る道路が出来たということはずい分前から聞いていた。  五日市から入る秋川の谷は、|神戸《かのと》岩や|小坂志沢《こざかしざわ》や|浅間《せんげん》尾根や|刈寄《かりよせ》山など、南も北も戦前からよく歩いていて、多摩川の谷よりももっとひなびて閑静な風情が好きであった。  国立音大の先生であった甲野勇氏の遺著、『東京の秘境』は東京都であっても、御蔵島についで人口密度のうすいのが秋川周辺の檜原村だとしている。そこには縄文石器時代から、|土師《はじ》・須恵器の出土する弥生時代に及ぶ遺跡や、上古の祭りの形を残す神社もある。六百年も前からこの谷の奥に住みついたという中村氏の子孫もいて、「カブト造り」の建築を残している。言うなれば、秋川の谷には日本の歴史が、化石のように時代の変遷のあとを見せて山々の緑にまもられているのである。  山草の好きな私にとって、更にこの谷が好ましいのは、石灰岩地が多いために植物の種類が多く、レンゲショウマやヤマシャクヤク、ヤマブキソウやクマガイソウやカザグルマなどにもわりに容易にお目にかかれることである。  本宿から大岳と御前山との鞍部めがけての歩きでも、ホタルカズラや、ヤマブキソウやキンラン、ギンランを見つけた。いつもそこから大岳に出るか、氷川に下りるかしていたのだが、有料道路を使って、小河内峠も間近いところで下りると、御前山までは二時間の登りであった。  さすがにその南面の谷にはクマがいると言われるほどの山の深さで、一面のブナの大樹に被われていたが、期待していなかっただけにびっくりしたり、よろこんだりしたのは、まだ芽ぶきも固い林間の地表をびっしりと埋め、薄紅に咲きさかるカタクリであった。  カタクリは神戸岩からの鞍部にむかって下りる道にもいっぱいあり、有料道路開通を嘆くひともいるけれど、山々はそれ以上に深く大きく、これだけのカタクリの大群落に、何千年昔からの面影が生きつづけているのだとうれしかった。

4 三頭山  ハシリドコロ(ナス科)
 |三頭《みとう》山は、秋川の谷を隔てて、御前山と対する一五二八メートル。このあたりで一番高い山である。  秋川の谷を時坂や小岩から登って辿りつく浅間尾根は、南秋川と北秋川をわける脊梁の道で、いかにも山里のひとびとが、かつては谷筋よりもこの尾根道を使ったであろうと思わせるように平らだが、風張峠に向かって、右に月夜見山から御前山、大岳の雄大な稜線が連なり、左に笹尾根の小起伏を延々とくりかえす長い稜線をしたがえてそびえる三頭山が迫っている眺めは、奥秋川の動く展望台ともよびたいようにすばらしい。  浅間尾根を|数馬《かずま》に下りたとき、今度は三頭山にと思って数年たつうちに、奥多摩道路が開通した。  私は、その年の春、この数年つづけているいずみ学級の若いひとたちとの山歩きに、三頭山をえらんだ。  鞘口峠に近いところで車を下りれば、御前山よりずっと短い歩きで、三頭山の頂きに辿りつける。  いずみ学級とは、中野区の特殊学級を卒業して、高等学校がまだつくられていないために進学できない青年たちに、月に二回だけ集まってもらって、独自の学習をつづけさせているところである。  中には、動作が不活溌というひともある。  ある年の暮れ、私は一つの特殊学級を訪れて、その真摯な勉学態度に胸を打たれた。しかし普通学級の生徒たちよりも、親に連れられてハイキングなどにゆく機会が少いと言われ、自分たちの山の仲間でどこかへ連れてゆくことができればと思った。  第一回は箱根外輪山の長尾峠から湖尻峠まで。急坂はロープを用意した。  二回目は多摩川をはさんだ高水山と日の出山にわかれて全員参加。三回目は丹沢の西の大野山とみかん狩り、つづいて今回の三頭山になったのだが、会を重ねるにしたがって、前には途中でやめたものが、あるいはバスで待っていたものが、積極的に歩くようになった。  三頭山は、鞘口峠からぐんぐん高度をあげてゆく急な登りである。  二十人足らずの学級生に、私の山の仲間も同じほどの数で、一人は一人を連れてという建て前なのだが、この日の三頭山の急な登りに私のからだは調子が悪く、麓は桜の花盛りなのに、山腹はまだ早春で、芽ぶきも固いブナの大樹の根に、つかまりつかまり這い上っていった。  木々の根元にはホトトギスやチゴユリがようやく芽を出したばかり、御前山にいっぱいあったカタクリも、去年の落葉の散り敷く林間の斜面には見当らない。  もう一月ずらした方がよかったかと息をはずませはずませ登ってゆくと、上の方から大丈夫ですかと、若々しい青年たちの声。私よりずっと先に頂上について、早やもどってくるいずみ学級生なのであった。  自分が案内役なのに、なんてみっともないと恥じ入りながら、それでも私には、このひとたちを大過なく親許におくりとどけなければならぬという思いだけは鋭く働いた。そして一番早い彼らに、鞘口峠で待っているようにと伝え、峠から登り口までの檜林の中に、ハシリドコロがきれいな赤紫の花を咲かしているから気をつけて、毒があるから口に入れてはいけない、あの葉をとっておひたしにして食べてあやうく命を落しそうになったキャンパーもいると注意した。  わかったわかったとうなずいて、青年たちはどんどん下っていったが、ふと、その後姿を見ながら心配になった。もしもあれほど禁止されても、きれいな花だからと摘んだらどうしよう。  ハシリドコロはカタクリと同じように、二、三カ月たつと葉が枯れるけれど、その葉も花もさかんな時はよく目につく。根は|莨《ロート》根とよばれて眼薬にもなり、鎮痛剤にもなるけれど、その生の葉も汁も危険である。  私は三頭山の三つの頂上の、一つだけに足を入れると、すぐに走り下りた。下りはいつも早くて、青年たちも追い越し、ハシリドコロの群生するところまで、だれよりも早く走り下りることができた。ハシリドコロの群れの姿は、行きと変らなかった。  だれも毒ある花に手をふれないでよかった。ほっとしたが、つい一月前のことである。第五回目のハイキングに清澄山をえらび、帰りにはフラワーガーデンを訪れ、料金を前払いして、折から咲きさかる朱や赤のポピーを、二十本ずつとっておみやげにするようにと言った。帰りの時間を急いで、私たちの山仲間はせっせときまりの数通りのポピーを、蕾をえらんで摘んだが、いずみ学級生二十五人は、花の中に立ったままでいる。一本もとっていないひとが多く、とっても咲きしぼんだものや、種子だけになったのを四、五本である。何故とらないの。早く早く。せきたてる私に、その一人が言った。可哀相でとれないよ。そしてみんながうなずいて、せっかく一生懸命に咲いているのに、とっては可哀相と口々に言うのであった。  このやさしさ。何を標準に知恵おくれなどというのか。私は衝撃を受け、できれば二、三本も余計になどと思っていた|貪婪《どんらん》な自分が恥ずかしくなった。三頭山のハシリドコロは注意しなくても、だれ一人とらなかったのにちがいなかった。

5 幕山  タツナミソウ(シソ科)
 タツナミソウは、その花の形にふさわしく、美しいひびきの名を持っている。  |淡々《あわあわ》とした薄紫いろの小さな花の一つ一つが、基部から起ち上って、やさしい唇をあけ、何か訴えるように、語りかけるように見えるかわいらしさが、昔からひとびとに愛されたのであろうか。コバノタツナミ、ヤマタツナミ、ハナタツナミ、ミヤマナミキ、コナミキ、ヒメナミキと、それらの仲間たちはいずれもやさしい名を与えられている。  早春の三月はじめ、国鉄の湯河原で下車して、新崎川の谷を北に進み、|幕山《まくやま》から南郷山にいった。毎年、夏山に備えて、冬は千メートル前後の低い山で足馴らしをする。この山をえらんだ理由は、相模湾にのぞんで海風をまともに受けるから、どんな花があろうかと期待したこと。学生時代に地理の先生に連れられて、箱根の地質を調べに来たとき、湯河原の奥の大観山、鞍掛山など、箱根火山の古い外輪山は歩いたが、更にその外に出来た側火山の幕山はゆき残してしまったことなどである。  幕山は金時山と共に、二つの山を結ぶ構造線の割れ目に沿ってできたもので、二子山や台ヶ岳と同じように、熔岩円頂丘とよばれる特異な形をしているという。幕山につづいて南郷山があるが、こちらは、多賀火山の北隣にあって、小型の湯河原火山の外輪山である。このあたりで一番古い火山活動を示すのは多賀火山だが、その火口は熱海の錦ヶ浦の沖合にあるという。湯河原はその北の斜面にあり、熱海峠が西の斜面、初島が東の外輪山の斜面となっているという。  太陽系の星たちができたのは四十六億年の昔で、日本列島の歴史は三億年から四億年までさかのぼれるという。いずれを聞いても、ただただ溜息ばかりでるようなはるけき日々の思いだが、この幕山、南郷山界隈は、比較的新らしい歴史の中にその姿をあらわす。鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』に、治承四年八月、三島神社の祭りに乗じて挙兵した源頼朝が、伊豆から北上して石橋山に至り、敗れて幕山周辺の山中を三日もさまよって難渋した記事がのっている。大庭景親を大将とする相模と武蔵の兵は三千。伊豆からは三百の手兵をつれた伊東祐親が追って来て背後を衝く。頼朝の兵は四百。進退極まってほとんど自決せんばかりであったが、二十九日、真鶴岬に辿りついて船に乗ることができた。  関東生まれの人間にとって、京の朝廷からはなれて幕府の成立を見たことは、平将門以来の念願が成就したことでもあり、長い流人の生活から起ち上った頼朝挙兵の物語りはいつ聞いてもおもしろい。やがては征夷大将軍となれる前途も知らず、乾坤一擲の緒戦に傷ついた傷心の頼朝が、道なき道を求め、樹間の藪に身をかくしたあとをしのぶなら、八月にこそと思ったが、猛烈にヘビのきらいな私とて、早春の、まだ枯れ草いっぱいの頃の山歩きとなった。  温泉郷湯河原も奥に入ると、こんなに閑散としているのかとうれしくなるような谷沿いの道から、幕山登山口の標識のところを右折すると、急な登りがつづく。わずか五、六百メートルの丘と思えないような急峻な斜面には、輝石石英安山岩の白々とした露岩が連なり、登るにつれて、白銀山などがその頂きをあらわして来て、よっぽど深い山に入って来たような気分になった。  一時間あまりで頂上につくと、折からの晴天に、南は十国峠・日金山から玄岳、天城へとつづく山なみが、東には、青一いろの海原に浮ぶ初島が遠く眺められ、頼朝の手兵も夏草の茂みをわけて登って来て、東西南北の位置をたしかめたろうかと思ったりした。  北の急斜面を下りて、前方に盛り上る幕山と同じようなカヤトの頂きの南郷山に向かう。植林らしい杉木立ちを抜けると、背丈を越すハコネダケの密生地帯となり、道幅も狭く、現代でさえ、こんな藪なのだから、頼朝の頃はどんなにか歩きづらかったろうと思われ、両側からおしかぶさるばかりなのを、両手でわけわけ進んだ。道がひどくぬかっていると思ったら、山と山の間の低湿地で、浅い水たまりもあり、自鑑水と案内書にあるものらしい。頼朝もこの水でのどをうるおしたのであろう。まだ芽を出したばかりだが、ツリガネニンジン、レイジンソウ、アザミなどがたくさんある。ギボウシもエビネもあった。カヤトの南郷山の頂きを湯河原ゴルフ場にむかって下り、広い芝生を横切って駅にむかいながら、ゴルフ場をかこむ林の下草にタツナミソウの芽生えをいっぱい見た。花の咲く夏の頃に来たら、花の一つ一つが、頼朝の昔を語ってくれそうな気がした。

6 武甲山  セツブンソウ(キンポウゲ科)
 東京から見える山で、忘れられない一つに|武甲《ぶこう》山がある。武蔵野の西をさえぎる秩父や奥多摩の山々の連なりが、北に波打って荒川の谷になだれおちるところに、ぽつんと独立して端正な三角形を見せる。関東平野に生まれ育ったものにとって、秩父という山国は、母なるふるさとの地のようなひびきを持っているのではないだろうか。  子供の頃のよそゆきの着物は秩父銘仙であり、秩父でできた銘仙は、特別に他の土地のものより丈夫で強いと言われていた。東京都の北を流れる荒川は、その名の示すように水量豊かではあったが、よく荒々しい洪水のもととなった。たまたま私の生まれ育った町が荒川に近かったせいもあって、荒川への関心の深さが、その水源を占める秩父という土地への憧憬となったのかもしれない。  戸田橋のあたり、まだ荒川の両岸は、一面の|葦《あし》原と柳や|榛《はん》の木の疎林がつづいていて、毎年のような洪水が残していった豊沃な土壌に、レンゲよりももっと美しいサクラソウが一ぱい咲き出す頃、よく終点の赤羽駅で電車を下りて、台地を下って河岸の原までサクラソウを見にいった。河岸に立つと、満々と水をたたえた荒川の川上は、紺いろの山々が幾重なりとなく連なりわたっていて、武甲山は一きわ目立つ姿であった。その山すそに秩父という町があり、三十四カ所の観音があって、江戸のひとたちの尊崇をあつめ、|菅笠《すげがさ》姿の巡礼が中仙道を熊谷までいって、荒川をわたって秩父に入っていったのだとは、これも子供の頃に老齢の祖父に聞かされた話である。家から荒川にかかる戸田橋までは四キロの距離であった。  何よりも秩父が江戸のひとの心をとらえたのは、その重なりあう山々の谷あいが、勇武をもって鳴る武蔵武士の発祥の地とされていたからであろう。中央に志を得なかった|皇別《こうべつ》の貴族たちは、はるばると都を下って、一望の原野の関東にその勢力を定着させ、秩父の山地に入って秩父平氏の一党をつくり、鎌倉幕府が創建されると、その重要な家臣団を形成したのである。  武甲山は「鎧武者の怒り立つ体なり」と言われ、いかにも武士の地にふさわしい男性的な山容をたたえられたが、全山が石灰岩であるために、チチブイワザクラとか、チチブドウダンとか、ミヤマスカシユリのような珍らしい花を見出すことができたのである。  しかし全山が石灰岩であることと、秩父という町の中にそびえたっているという条件から、この山の悲劇が生まれ、今や山の北面は大きく削りとられて山容が一変してしまった。  武甲山はもう登ってもたのしくない山と聞かされながら、なお、一度はその山路を辿ってみたいというあこがれの火を絶やさなかったのは、幼い日からの思いの深さであったろうか。  四月の半ば、小川町までゆく用が出来、一泊してあくる日、秩父市にいった。市庁舎の立派なこと、道路の舗装のゆきとどいていることに感心したら、連れの秩父市のひとが、武甲山のおかげですと言う。セメント採取で、市の財政がうるおっているということか。  町の南東を横瀬川沿いの道から、支流の生川の谷に入り、ここもまた採掘場となっている山腹をまいて、妻坂峠への分岐点で車を捨てた。意外にも山路にかかると、杉の古木が林立して深山の趣があたりに満ち、北側の無残な山容からは想像もできぬ山のしずけさが保たれていた。  さすがは武甲山だ。くさっても鯛だと、しきりに感心しながら杉の新芽の匂いを吸いつつ、ひたすらに急坂を登る。木立ちが密生しているせいか、ようやく雪がとけたばかり、窪んだところにはまだいっぱい残った雪が落葉に埋もれていて、一三三六メートル位の山とは思えぬ荒々しい印象である。  武甲山は三峰山と並んで、長く修験の道場とされていたせいか、道も整備されぬ姿なのであろうか。  登っても登っても、何の展望もない、うっそうと木深い林の中を稲妻形に切って進んでゆくばかり。いささか吐息溜息の連続で、何の変哲もない眺めに倦みはじめた頃、雪どけの小さな窪地 の湿ったところに、白く小さいセツブンソウを見つけた。これも石灰岩を好んで咲く花である。べったりと山肌を植林で被われても、そのわずかな地表に自分なりのいのちをきざむ。三センチばかりのかわいい茎に、切れこみの深い葉をつけ、小さいながらに整った形で春を告げているのが健気であった。帰途は浦山口に向かって、今にも両側からくずれおちそうな、がらがら道の谷を下り、木の根につかまり、雪どけの|泥濘《でいねい》にまみれ、武甲山は遠くにありて仰ぐものと思ったりした。

7 高鈴山  センブリ(リンドウ科)
 阿武隈山系の南を占める花園山には是非一度、花をたずねてゆきたいと思っていた。いつか加波山麓の中学校にいったとき、一緒に加波山へ登ってくれた茨城大出身の若い先生から、山の花を見るなら花園山と教えられたのである。  三月のはじめで、関東も一番北の山では雪は融けてもまだ、何も芽を出していないだろうと現地からのたよりをもらった時、ではそれより少しでも南の山はどうかと思った。  日立市の西に六二四メートルの低さだが、一等三角点のある|高鈴《たかすず》山がある。  朝早く東京を出て、早春の|常陸《ひたち》の山の息吹きにふれて見たい。  常陸は古代の日本にあって、東北地方との接点として早くから開け、徳川時代には御三家の一つとして、幕末まで重い地位を占めていたが、それ以前には甲斐源氏の嫡流である佐竹氏が代々勢力を張り、鎌倉時代から南北朝対立の時代を経て、豊臣秀吉の頃には五十四万石を領していたところである。  領内の八溝山系には、金を出す山が幾つかあったので、富の蓄積も多く、関ヶ原の戦いのあとで、秋田に移封されるまで、戦国大名として大きな存在を誇っていた。  その日、いつもの山仲間たちと駅前からバスに乗って、修験道の山、神峯山との鞍部の向陽台で下車。標高四百メートル。一時間半ほどで頂上についた。  尾根伝いの道は、だらだら登りがつづくと平らなまき道になり、まただらだら登りとなることをくりかえして、至って快適である。  左手に日立市を見下し、かつての日立鉱山に威力を発揮した大煙突が、丘陵の中にそびえたって、近代工業社会に於ける日立市の位置を示している。  山道の両側には見事な大木となったヤシャブシや桜が多いが、大正のはじめ、煙害で、山々の緑が失われたとき、煙に強い木として植えられたものであるという。桜は三原山の噴煙にも負けずに、美しい花を咲かせる大島桜である。  右手には早春の山村が、ゆるやかな大地のうねりを見せてつづき、海に波のうねりがあるように、大地にも大きな波状のうねりがあることを知った。眼路のはるかを八溝山系の山々が連なりわたって、その南のはじに筑波山や加波山がある。  これらの準平原的な広濶な眺めは、かつて関東平野が海に|被《かぶ》されていた時代から隆起し、又上昇して、谷々をきざんでいるのだが、アセビが密生している林の中の道は、ギラギラ光る緑いろの絹雲母片岩や、灰いろの石灰岩、白々と光る方解石などの|礫《こいし》があって、常陸の山々の地質を語っているようである。石灰岩の礫が一番多く、秩父市と同じように、日立市もまたセメントの産地であることがわかる。  ふと、アセビの林で、いつか歩いた四国の天狗森を思い出した。やはり準平原の石灰岩地帯で、石灰岩や粘板岩の礫が多かった。アセビは地味のやせた山に多いという。天狗森も耕作には不向きだそうだけれど、常陸の準平野ではコンニャクが栽培されている。山の花が多いということは、むしろ山自体の生産性が低いということであろうか。四国にあった蛇紋岩や千枚岩は、こちらの山地にもあり、天狗森も花が多かったが、この山も春はショウジョウバカマ、カタクリ、イワウチワ、夏はフシグロセンノウ、ソバナ、リンドウ、マツムシソウ、キキョウ、オミナエシ、ナデシコなどが、林間から草原をいろどるという。  海防城として異国来攻に備えて、徳川|斉昭《なりあき》が築いた助川の城あとにむかって、まるで庭園のように形のよい松や杉が、アセビにまじって生い茂る道のかたわらに、苦いが腹痛に利くセンブリの芽生えを見た。センブリとは千回振り出してもなお苦いからということだけれど、花の姿はどこにそんな苦味を秘めるかと思うばかりに楚々として初々しい。リンドウと同じで、日射しが曇れば花びらをとざす。天狗森の下山路の樹林と全く似ていて、四国でも初秋の日射しに、センブリの薄紫の花が美しかった。すぐ眼の前に太平洋が広がっているのも同じ風景である。  天狗森の麓には、維新にさいして勤皇の兵をあげた吉村寅太郎が生まれたが、常陸の山地には尊王攘夷派の天狗党の乱が勃発した。四国の西の山村と関東の常陸とにどういう関係があるか知らないが、植物と地形や地質が似かよっていることは、たしかである。  天狗党に馳せ参じたものの中には、農民も数多かったという。西軍側の佐竹氏が秋田に移されて、家康の子供の徳川頼房が領主となった慶長十四年、この準平原の中の一つの村、生瀬で、千人の村民が皆殺しになるという悲惨な事件が起っている。年貢を取りに来た役人をあやまって殺してしまったための刑罰であった。全国に類のない惨酷な処罰は、徳川幕府の衰退に乗じて、天狗党の乱を起させた遠い一因になっているのではないだろうか。村々から起ち上った壮年の男たちが、反幕府・勤皇の心に燃え、筑波山を集合地として馳せ参じたのである。  かつて高鈴山の東の麓は太平洋の波に洗われた時代もあったという。天地自然の推移のあとをたしかめる以上に、権力側と民衆とのたたかいのあとを一望の山野にしのんで、高鈴山は是非又歩きたい山であった。

8 天城山  ヒメシャラ(ツバキ科)
 関東に生まれ育つと、天城もまた、気になる山である。晴れた日には西の空に、相模の大山から丹沢、富士、箱根と連なって見える山なみの、西の果ては天城となって、ゆるやかな起伏が海に沈む。  西を仰ぐのは、夕焼けの時間と重なることが多いから、東京の町々が暮れて、黄昏の灯をともしはじめても、箱根から天城の山々は朱赤の幕を張ったような空に、黒々とした山容をくっきりと浮べている。私にとって伊豆の山は、箱根や丹沢よりもなつかしかった。  六歳のときに肺結核で死んだ父が、療養で伊東に滞在していたとき、まだ二十幾つの母が、修善寺から人力車で山越えして見舞ったという。車夫が気の毒で、途中から三歳の弟をおぶって歩いた。伊東峠というところだったと母は言い、その気力と体力を子供ごころにえらいと思いつづけていた。  いつかその峠を、自分も伊東まで歩いて見たいと思った。   つけ捨てし野火の煙りの赤々と    見えゆく頃ぞ山はかなしき  和歌の師、尾上柴舟氏が、伊豆の山を眺められての歌とうかがった。野火の野は曾我兄弟が育ったという小田原よりの野であったろうか。伊豆の山々には、山容だけでなく、その山中に生まれた人間の悲劇によって、私たちを惹きつけるものがある。  関東武士たちの心意気を伝える『曾我物語』も、子供の時からくりかえしくりかえし読み、また、聞かされた世界で、十郎や五郎や、その父の舞台は伊豆から富士にかけての山や野である。箱根火山、熱海火山の地質を調べる二十代の旅の終りの宿は、修善寺温泉であった。  平家を西の海にしずめ、範頼、義経などの肉親を殺してから、わずか三十年の間に、頼朝の子供たちは次々に横死して源家の嫡流の血は絶える。岡本綺堂氏の名作『修禅寺物語』はすでに私の娘時代に上演されていて、悲運の頼家をしのびながら山あいの温泉町を歩いた。  戦後に川端康成氏の『伊豆の踊子』を亡き川頭義郎監督が映画化するときの脚本を担当して、修善寺から湯ヶ島を通り、天城峠を越えて、下田まで走った。河津浜で車を下り、相模湾に臨む砂浜を素足で歩き、十郎や五郎も、この浜でこのようにして貝を拾い、カニを追ったのであろうと、父の復讐を果して殺された若いいのちが哀れであった。  二度目は自分たちの山仲間で、残雪の天城トンネルの上から歩いて八丁池まで。湯ヶ野に泊り、翌日は雨の中を河津川が釜滝から大滝まで七つの滝となって流れ下るのを、逆に登っていって眺めた。リョウメンシダにまじってハチジョウシダ、ナチシダなどがいっぱいあり、山に雪があっても、伊豆の谷は暖国なのだと思った。トンネルを上って左手の道をしばらくゆくと、右手の笹藪の中に、天城山心中と書きたてられた清朝の子孫、|愛新覚羅《あいしんかくら》家の娘|生《えいせい》と、青森の青年大久保武道の自殺したあとがある。サルスベリに似た樹肌のヒメシャラの大木が密生する林の中の北斜面で、雪にぬれた落葉がびっしりと地表を埋めている。こんな寒々しい場所で、男は女を射ち、次に自分を射ったのだが、どんな理由があるにせよ、女を殺し得るような粗暴な男に魅入られた生嬢が|不憫《ふびん》であり、武道青年の独占欲が憎々しいものに思えた。ワビスケにも似たヒメシャラの花は白く小さく、薄幸の美女の霊をなぐさめるにふさわしいと言おうか。  三度目は初冬の一日、伊東に一泊し、翌日、遠笠山の有料道路を走って天城高原ゴルフ場で車を捨て、右折して万二郎岳の山中にわけいっていった。一時間の歩きで頂上に着いたが、途中はすべて、アセビ、ヒメシャラ、ベニウツギ、ミニバツツジの古木の密林である。ときにさしかわす枝々の下をくぐり、ときに苔むした巨石から巨石にとび、植林の杉や檜もなくてすべて自然のままなのは、長く御料林として手を加えられなかったからだという。今度はこれらの木々の花の盛りに来たい。山仲間同士口々に言いながら、又、一時間ほどして万三郎の頂上にたった。  眼の下に、天城火山のすそとなる谷々が海にむかって急な勾配をつくっている。大島が近々と見え、三原山が白い噴煙を浮べている。  中央火口丘である白田山まで二時間近く歩いて大休止、ただただヒメシャラの樹幹の太さ、ツツジの枝ぶりのよさに見とれた。ツツジはアマギツツジとよばれ、牧野富太郎氏の命名で、天城特産のよし。もう春の芽のきざしているのを見仰ぎ見仰ぎして天城峠まで十五キロ、八時間を歩いた。

9 三筋山  ホソバコガク(ユキノシタ科)
 伊豆の天城にエビネがあると誘われて、河津の奥の|三筋《みすじ》山に入ったのは、万二郎、万三郎を歩いてしばらくたってからである。  案内して下さる船木大さんは、戦後にボルネオの原始林を開墾していたかたで、南伊豆の太陽と水と石と山の中に、ボルネオ時代をしのばせる大自然を相手にしての生活を築こうとされ、ただ一人、河津川の支流、佐賀野入の渓谷のワサビづくりにはげんでいる。同行は伊東の聖母幼稚園のシスター根本さん。銀鼠いろの修道服の裾をからげて、軽々と山道を登る。  船木さんは、マムシをこわがる私に、絶好な食糧が落ちていると思えばいい。マムシなど、棒切れ一本あれば大丈夫と勇ましかった。  大きな火山岩がごろごろしている開墾地の谷を横切り、三筋山にとりつく。八一九メートル。天城火山には幾つかの寄生火山があるが、谷をへだてた|鉢《はち》山と同じく、これもその一つであろう。  急傾斜の山腹は杉の植林に被われているが、伐採のあとが、明るくひらけていて、|杣《そま》びとが踏みならした狭い道を、ひたすらに頂きをめざす。日だまりにセンブリが紫っぽい白い花を咲かせている。  もう花も終ったエビネが、道ばたに数本あった。  エビネは富士の火山灰がいっぱい降りつもった神奈川県の丘陵でずい分見つけたけれど、今は宅地の造成で全滅に瀕していると聞いた。火山灰地である天城の山中にも、かつてはたくさんあったのだろう。  ふかふかとして山靴が埋まってしまうような杉林の落葉の道を歩きながら、幾度か|猪 《いのしし》の足あとを見る。それも人声におどろいて、つい今しがた逃げ去ったものらしいと言う。二メートル位の間隔で跳んでいる。登るにつれて、林は杉から檜に変って猪の足あとがふえ、あたりにケモノの匂いがたちこめているような気がした。  下田出身の土屋寛氏の新著『天城路慕情』の中には、伊豆半島は南からひらけ、オオヤマツミノミコトの子孫のアタ族が主流であったが、のちに、コトシロヌシノミコト系のカモ族に追われて山奥に入ったと書かれている。南伊豆には、山の神祭という子供たちの行事があり、子供たちだけで山詣りをし、食べものをわかちあう習慣があったとも書かれている。いつとなく代表だけが早朝の山詣りをし、あとのものは徒歩競争、|角力《すもう》、旗取競争などをし、さらに一人を泥棒になぞらえ、皆で海や山や川を舞台に、追いかけ追いかけして捕えたという。  これらの行事は、先住民族と次の民族との土地のうばいあい、あるいは、敗れたものの|魂鎮《たましず》めのための祭りを意味しているようでおもしろいと思う。  葛城にも、京都にも古い民族がカモの名でよばれていた。二上山や葛城の麓あたりで、竹内峠を越えれば、海に臨む河内平野である。京は鴨川のあたり。そのような地名は千葉県の鴨川も併せて全国に残っているけれど、もう一つ南伊豆には、オオヤマツミの妻であったアワヒメが、コトシロヌシのものにされたという伝承がある。土地だけでなく、女までうばわれたということであろうが、伊豆のアワヒメのアワとカモの名の組み合せに興味があった。|安房《あわ》の鴨川。四国の徳島県は|阿波《あわ》の国。ここにも鴨島、加茂谷、三加茂などの地名があり、川沿いに散らばっている。コトシロヌシはカモのオオミカミとよばれるアジスキタカヒコネノミコトと同じく、オオクニヌシノミコトの子孫である。日本の古代に、オオヤマツミノミコト系と、オオクニヌシノミコト系の民の勢力が、女を媒体として交替していったところが多いことを示すのであろうか。  この日、私は、一匹のマムシにもあわず、三筋山の山中を数時間歩きつづけて、エビネは遂にはじめの数本きり見なかったが、植林の切りひらかれたところに、白く群がってホソバコガクが、盛り上った海の波の泡だちのように咲きさかっているみごとさにおどろかされた。河津へくるまでの車窓からムラサキのガクアジサイが、いろも鮮やかに群生しているのが見えたが、この花は火山性の酸性土壌を好むという。アジサイはその土壌がアルカリ性であるか酸性であるかによって、そのいろが変るという。同じ仲間のホソバコガクの純白な花の下の土はどんな種類なのであろう。いつか四国の石鎚山でもたくさん見た。シャクナゲ、ツツジ、ヒメシャラに並んで、天城の南の谷々を、淡々と美しいホソバコガクが埋めている。葉よりも花が盛り上っているので、遠くからは時ならぬ春の雪が、降り積もっているように見える。  三筋山の頂きは、南面にゴルフ場を見下す一面のカヤトである。まだ六月というのに、身の|丈《たけ》を被うほどの夏草の茂みで、北に当っては、万二郎、万三郎が|屏風《びようぶ》のようにそびえたっている。それらの尾根道にはツツジやアセビの古木が茂り、北に狩野川がきざむ谷も、南に河津川がえぐりひらく谷も、急崖を連ねて滝がいっぱいある。三筋山や鉢山のあたりは、まことに自然の要害にまもられた落人たちの桃源郷であったのであろう。  近くの新山峠は、北伊豆から南伊豆のかつての古道であったと言われ、土屋氏は、天目山の戦いで敗れ、駿河から伊豆に入った武田の武将の子孫とのことであった。

10 相模大山  ウラシマソウ(サトイモ科)
 相模の|大山《おおやま》の|阿夫利《あふり》神社は、オオヤマツミノミコトを祭神としている。天城の南に古くから住みついたひとたちと同系の民が、海に近いこの山麓にもひろがっていたのであろうか。  大山は一二四六メートル。相模野の上に、富士山にも似た円錐の形にそびえて、その裾に花水川、相模川の流域をしたがえている。  神奈川県の古墳時代の遺跡の分布図を見たことがある。南の相模湾に面したあたりでは、大山をかこんで弧形をつくって、前方後円墳や円墳、横穴墳が並んでいた。  |大秦野《おおはたの》などの地名があるから、水のゆたかな南面の傾斜地には、大陸からの民が住んで、早くから機業を起したと思われるけれど、もっとずっと以前から、この形のよい山を神霊のとどまるところとして、その加護を願い、その恵みにあずかろうとして、朝夕に山容を仰ぎつつ祈った原始のひとびとが山麓に集まったのであろう。  私の大山詣りは、野の花を訪ねるために始まった。戦後間もない頃の春である。  馬場から入って、|日向《ひなた》薬師から沢沿いに歩く。大沢温泉までの道の両側の雑木林の中には、キンラン、ギンランが目についた。ホタルカズラの鮮やかな|瑠璃《るり》いろの花にもはじめて出あい、ヤマユリやホトトギスがやたらと多く、エゾムラサキに似た、オオルリソウの花が道ばたにたくさんあるのを見て、大山は奥多摩よりずっと花がゆたかだと思った。奥多摩のように植林が進んでいないせいであろうか。  大沢の渓流のそばにはシュウメイギクの群落があった。  二度目はやはり春で、伊勢原から大山川に沿って上子易から西の、浅間山に向う林道を歩き、杉林の中でクマガイソウの群落に、これもはじめて出あった。  三度目はヤビツ峠から登って大山の頂きを目指し、|雷峰《らいのみね》尾根を日向薬師まで歩いた。  頂上にはミヤマカタバミの清楚な白い花の群落が美しかったが、阿夫利神社の社殿の近くまで、ごみの山が盛り上っていて、太古の民の信仰がすでに失われたのか、ちょうど掃除の前に訪れたのかなどと思った。いつも山を汚すごみの放置を見る度に、これが山を愛してやってくるひとたちの所業かと憤ったり悲しんだりする。  頂上から日向薬師までは長い下りで、いささかバテたが、見晴台を見過ごして間もない杉の林の中に、ふと暗い紫いろのかたまりを見つけ、走りよって見ると、図鑑でのみ知っていたウラシマソウであった。  テンナンショウに似て、花の|苞《ほう》の一端が細く長く伸び、直立し、大きく弧を描いて下降する。まあ、なんて不思議な花なのでしょう。ひとり言を言いながら、ひざまずいてつくづくと眺めいってしまった。ウラシマソウと名づけられたのは、その細く長い苞が、浦島太郎の釣り糸に似ているからであるという。いたずらな子供に見つかったらたちまちもぎとられそうで心配だ。しかもこの根は有毒である。子供たちよ、御用心!  どんなにごみの山があっても、山腹にこの花がまだ残っているなら、大山の原始の自然は、したたかにここに息づいていると思えてうれしかった。  四度目はつい最近の早春の一日である。中野区のいずみ学級の生徒諸君三十五人と一緒に、ヤビツ峠から大山頂上を目指した。今回はシーズンオフのせいなのか、掃除されたあとなのか、ごみもほとんどないのを見て、表参道の石段の道を六百メートル下り、下社で御神楽を奉納した。古式床しい大和舞である。雪どけの|泥濘《でいねい》で、山靴でないひとたちは苦労したが、全員揃って新築の木の香も真新らしい本殿にすわり、テープで流される古代の音楽に耳を傾ける。六時間近く歩いて疲れているであろうのに、おのずからひきしまった表情で、私語一つささやかず、神妙に三十分間を正座しつづける若ものたちに感心した。  かつて知恵おくれとよばれたこの学級の若ものたちとは、もうこれで五回目の山行きだが、その都度教えられ、感心させられることが多く、何をもって知恵おくれと言うのかと怒りさえ感じることがある。泥濘の道を互いに助けあいいたわりあうやさしさ。注意事項をまもる素直さ。高尾旅館での食事休憩に、ビールは飲まないと答えたものが三分の二もある。家を出るときに親から言われて来たのであろう。卓の前にかしこまってあぐらもかかず、ジュースを飲む若ものたちの姿に、私はふと涙ぐんでしまった。三十五人の無事を願って、途中は植物を見るどころではなく、帰宅すると血圧が二百三十もあったが、それでも私は、いってよかったと思った。  阿夫利神社は雨降神社とも書き、農民が雨乞いに登った山でもあるという。江戸時代は殊に|大山詣《おおやまもう》でが盛んで、今なお当時の講中の組織が残り、高尾旅館のように|御師《おし》の経営する宿が多い。  雨降りを願うときでなくても、とにかく大山にゆく。頂きから相模の海を、駿河の富士山を望み仰ぐ。それだけでも窮屈な封建体制下に生きる庶民にとっての仕合わせだったのだろうと思った。石段を下りる途中で、登頂八百回ときざんだ石碑を見た。その文字はおどるように勢いがよかった。

11 川苔山  アズマイチゲ(キンポウゲ科)
 私の五十歳前後からの山歩きは、娘の頃につかった地図を、もう一度つかおうとしたことからはじまった。紙質も今のよりは薄い、五万分の一の白地図である。赤鉛筆で歩いた道を、紺のインクで、時間が記入されている。  育児と家事に追われて、新聞もろくろく読めなかった一頃、地図箱を開けて、それらの一枚を取り出し、何の時間の拘束もなく、山野を歩きまわることができた娘時代を思い返すと、不覚の涙が、地図の上にしたたり落ちるのであった。  ——あの自由な日々はどこへいったか。  老いさらばえて、歩行困難の時を迎えても、箱根の山の|いざり《ヽヽヽ》勝五郎のように、箱に車輪をつけたものをつくってもらい、ひとを頼んで山につれて行ってもらおう。ひとがいなければ四つん這いに這ってでもと思ったりした。  娘の頃から四十何年とたって、早春の晴れた日、|川苔《かわのり》山に足を踏みいれた時、全身をひたすよろこびで、やはり涙がしたたり落ちた。奥多摩の山々の中で、心に一番強く残る山歩きだったと記憶し、ひとに頼らず、自分の足でまた訪れることができたのだから。  学校を卒業して四月から教師の職に就く三月の終りの日、まだ学生の弟と、その友人二人の四人で大正橋から入り、大丹波川に沿った道を、獅子口小屋まで歩いていった。真新らしいワサビ漬けで|丼 《どんぶり》一ぱいの御飯を食べ、踊平の急坂を登って頂上に至り、百尋の滝に下りて川苔谷をバスのあるところまで、全行程二十キロ近くを、八時間かかっている。  足のおそくなったこの頃は、一日に十時間歩くことも珍らしくないが、まだその頃は高水三山や戸倉三山の刈寄山、大岳周辺などで、せいぜい五、六時間の山歩きをしていたから、川苔山は一番時間がかかって、しかも絶えず弟から、おそい、おそいとおこられつづけた。しかし、百尋の滝にむかう道には、三、四十センチの新らしい雪が積もり、これもはじめての雪中行軍でころんだり、すべったりして気息えんえんの思いであった。  四十数年目の川苔山も、大正橋から大丹波川に沿って入ったが、今度は七キロほど、大丹波林道をバスのゆかれるところまで、崖ぎりぎりに走らせて時をかせいだ。谷沿いの道は四十数年前の記憶よりはるかに明るい。まだ若い檜の植林で、以前は陽の光もとぼしい林間の道であった。このあたりの木は何年目位に伐採されるのであろう。昭和の七、八年頃の大木は勿論伐られ、そのあとに植えられたのも伐られたのではないだろうか。それとも戦時中は人手がなくて、伐採のあともしばらくは植林されず、戦後しばらくして植えられたのが、今見られる木々なのであろうか。ひとそれぞれが、あの大きな戦争によってそれぞれの生き方の変革を求められたように、山腹を被う植林の姿にも、人間の生き方が投影しているのであろう。  林が明るくなって、谷の道は花がいっぱいである。  日も時もほとんど同じなのに、以前は足許の花などを見入るひまもなくて、ただ夢中で歩き通したように思う。それに今のようには、花の名も知らなかった。谷が深まると、常緑の植林よりは、芽ぶいた落葉樹が多くなり、アブラチャンが黄の細かい花をつけている。マンサクも咲いている。  去年の落葉が敷き積もった木々のかげには、点々とアズマイチゲが清楚な花を見せている。花びらの裏側の薄紫なのが美しい。南にむいた斜面には、ユリワサビやハナネコノメソウやボタンネコノメが咲いている。びっしりと咲いている。雪がとけて間もない地表はしっとりとうるおい、春が足早やにやって来た感じである。ジロボウエンゴサクの繊細な薄紫の花も見える。キケマンも花盛りで、川苔谷で思い出すのは、ワサビ田の緑ばっかりであったが、こんなにも華麗な花々にあえるとは思わなかった。どの花も繊細で華奢で、長い冬を耐えに耐えて、ようやく花を咲かせ得たという感じである。  獅子口小屋はずっと立派になっていて、小屋主のひとは戦前からここにいたという。長い道を辿りついて、たきたての御飯とワサビ漬けだけの食事がおいしかったと言えば、自分がつくったのだという。すると、このひとは二十代の若い日から、この山にこもっていたのかとおどろかされた。ワサビ田つくりが本職なのかもしれないが。踊平から頂上を往復して赤杭尾根を下る。|古里《こり》までの歩きは十六キロ。七時間半かかった。昔の行程を歩けば十時間かかったことであろう。

12 雲取山  フシグロセンノウ(ナデシコ科)
 好きな花をたった一つえらびなさいと言われれば、私はナデシコをあげる。  ナデシコ科の花の中でもフシグロセンノウが好きである。冴えた朱いろの花弁の厚味をおびているゆたかさ。対生した葉の花の重さを支えてたくましい形。それでいて一つも野卑ではない。カワラナデシコのように群がらず、日光の直射を避けた日かげの林間の下草の中に、点々としてひとりあざやかに咲き誇る。  雲取山に登ったのはつい最近の五月のはじめである。東京都で一番高いという、この二〇一八メートルの山は東京都、埼玉県、山梨県の分岐点になっていて、その南面の谷々から流れ出る水は、東京都の水道となる多摩川に注がれている。  雲取にどんな花が咲くのか見にいかなければ。思いたって日頃の仲間と連れだち、晩春の一日、秩父鉄道の三峰口から入った。  そもそも三峰とは雲取、白岩、妙法の三つの峰の総称であるとは当日、妙法山につくられた三峰神社の奥社に詣って知ったという|迂濶《うかつ》さであった。  日本武尊東征の折にイザナギ、イザナミをまつったとされるのは、秩父に古くから住んでいたひとびとを、大和朝廷側が制圧したしるしなのであろうか。遠い昔はともあれ、子供の頃、家の台所に口が耳まで裂けたおそろしげな狼を描いた札が貼られていた。その上に三峰山と刷られていたのは、狼を三峰の神のお使いとでもしたのだろうか。お札をくばるのは、三峰の山伏であったというから、雲取は白岩と並んで、山伏修験者が修行のために白衣で歩きまわった山でもあったのだ。杉や檜の大樹の茂りあう道を、地蔵峠から霧藻ヶ峰にむかいながら、そんな歴史にようやく気付いたのも、東京都民のふるさとのような山に対して申しわけないと思ったりした。  亡くなられた秩父宮は、スキーや登山がお好きだったそうで、霧藻ヶ峰もその命名である。道のほとりに記念のレリーフがあった。いつも霧がただよっているということであろうか。  太陽寺の坊さんとお清という娘の悲恋の話を残すお清平をすぎて前白岩にとりつく。ミネザクラが咲き、ムシカリがいささかの白い花を残し、シナノキ、ブナの木の緑が美しい。下草にはハルリンドウ、ユキザサ、ツバメオモト、ミヤマカタバミなど。ウメウツギの白くかわいい花も盛りである。ヒカゲツツジのクリームの花もつつましい。  前白岩を下って奥白岩に。秩父古生層による三峰の山々は|粘板岩《ねんばんがん》、|硬砂岩《こうさがん》、|珪岩《けいがん》などの外に、石灰岩をもふくんでいて、白岩と名づけられたのは石灰岩の露出によるものであるという。トウヒ、シラビソ、コメツガなどの原生林がつづく山道は、急坂に次ぐ急坂で息もたえだえの思いであったが、南側の斜面にミネカエデが|緋紅 《ひくれない》の若芽を茂らせ、露呈した岩の間を埋めて、イワウチワが大群落をつくっているすばらしさに、幾度か息をつく思いになった。  神社前を出発したのが一時すぎであったが、登り下りをくりかえす道は意外に時間をとって、雲取小屋に着いた時はすっかり暗くなってしまった。遠くから見る雲取はその頂きだけなので、さほど大きい山とは思われないが、山ふところに入ると、その根張りのゆたかさに、さすがは東京都随一の高山だと思うのである。  雲取小屋に一泊。あくる日は針葉樹の原生林の中をオサバグサの大群落におどろきながら頂上に着いて、南アルプスから富士までの展望をたのしみ、一路鴨沢にむかって下った。  西の一帯は一面の草原で、芽を出したばかりのシオガマギク、クガイソウ、アワモリショウマ、ヤナギラン、シモツケソウ、トウヒレン、テガタチドリなどを見つけながら、夏から秋にかけて、又来なければと思っていた。まだ花もたわわに咲きつづけている一本の山桜の大樹があって、そのみごとさにしばらくその下で休んだ。  雲取から西に飛竜、唐松尾、笠取とつづく峰々が、いかにも|褶 曲《しゆうきよく》山脈らしい姿を連ねて、満開の桜の背後を飾る屏風になっていた。  何故もっと早く雲取に来なかったのだろう。山容雄大で、眺めに変化があり、修験の山というような暗さもきびしさもなくて、何よりも花の種類が多い。惚れ惚れとした思いで、鴨沢にむかう途中の杉林のかげにフシグロセンノウがたくさん芽を出していた。山へ来て花をとってはいけないことはよく知っているけれど、その特徴のある若芽を幾つか見ているうちに二本とりたい、野の花ではフシグロセンノウが一番好きだと言われた熊谷守一さんの庭にもっていってあげたいと思った。  熊谷さんは九十七歳のすぐれた画伯。今までにクマガイソウやノハナショウブを、そのお庭に植えてあげていた。  東京にもどって、仕事に追われて熊谷家にうかがえないでいるうちに、肺炎が原因で、この高齢なひとは急逝し、その最後の絶筆は庭のフシグロセンノウであったことを知った。私は雲取のその花を、いつかお墓の前に植えにゆかなければと思っている。

13 地蔵岳  アツモリソウ(ラン科)
 上州赤城山は、昭和のはじめ頃、東京の若ものたち、それも山の静けさにあこがれるひとびとの、渇仰の的だったのではないだろうか。  群馬県にある上毛新聞社が、萩原朔太郎や、草野心平をはじめ、多くの詩人を山に送りこんで、赤城を題材にしての詩が発表されたのも、そのきっかけをつくっていたかもしれない。ツツジと山上の沼が美しいと聞いて、私もいつか登りたいとあこがれていた。北アルプスは遠く、秩父もまた、山が深そうでおそろしい。  地図をひろげれば、二重成層型の火山の特徴のゆるやかな傾斜を持つ広い裾野を、隣りの榛名山との間に重ね合せている赤城は、山容が独立して、関東平野の北を限り、どこに迷って下りても、人里に辿りつけそうである。  上越線が開通したばかりの昭和七年の九月、新潟の兄の許に遊びにいった帰り、前橋の学校で舎監をしていた学生時代の友人を訪れて寮に一泊し、一人で翌朝早く山麓までバスでいった。急に思いついてのことで、紫地のお召しの着物に朱赤の帯を締め、カナリヤいろのパラソルをさして、履物は草履であった。  バスは「一ぱい清水」というところまであり、先をのばす工事の人々が五、六人、若い娘の一人登りの様子に、何か卑猥な言葉を浴びせかけたのがこわかった以外に、山路の辛かった記憶がない。食事をどこでとったかも覚えていないが、道の両側にマツムシソウが一面の薄紫に咲きさかっていたのと、黄ばみそめた白樺の葉と、まっ白な幹の対照のあざやかだったのを、今もありありと覚えている。  一しきり登ると、緩傾斜の草原に出て、クローバーがぎっしりと生えていた。放牧の馬が、三三五五草を|食《は》んでいて、四つ葉のクローバーをさがしている私の手許をさしのぞこうとするように、近々と長い顔をよせて来るのもあった。  週日であったせいか、他に人影もなく、晴れ上った秋空のもとに、こんなに大量の自然を、自分一人で領有しているのが勿体ないようなぜいたくさに思え、うれしくて沼のほとりまで走るようにして下っていった。猪谷という旅館の前からボートを漕ぎ出し、周囲の外輪山のかげをうつす水をオールで切ってゆくのがまたおもしろくて、いつか中心に向って漕ぎ進み、水の青、空の青のまんなかに身を横たえるつもりで、しばらくはボートの中で仰のけになっていると、岸辺からオーイ、オーイと呼ぶ声が聞え、和船を漕いでくる。南岸にあるもう一軒の旅館からも船を漕いで来た。投身自殺者とまちがえたらしい。起き上ってまた漕ぎ、また歌っていると、安心したようにもどっていった。  ボートを返した時、この夏も沼での自殺者があって、死体がまだ見つからないと聞かされた。  小沼のほとりのマツムシソウが、あまりにも美しいので、その中に仰のけにねころんでいると、白い行者姿の二人の老人が通りかかり、ああおどろいたとびっくりし、若い女が一人でこんなところにいるものではないと強くさとされ、急にこわくなってそのあとをついて下った。が、行者らしいひとたちは、いつか見えなくなってしまった。  帰りのバスの窓から、刻々に遠ざかってゆく赤城を眺めて、谷々が紫に緑に映えるのが美しく、山と別れるのが悲しかった。  戦後の赤城には、伊勢崎市役所の人たちが車で案内してくれた。沼のそばまで広い自動車道路ができているのに先ずおどろき、その広い道をかこむ谷々が意外な浅さなのにもおどろかされた。記憶では大きく両側から緑が迫っていたのだが、季節が冬であったので、木々が落葉していたからかもしれない。  沼も氷が張りつめて狭く見えた。何よりもやりきれぬ思いにさせられたのが、東側の岸を埋めた土産物屋や飲食店の数の多さである。同じ建てるにしても、どうして周囲の景観に合せた形や位置がとれなかったものか。赤城の山も今宵限りという国定忠治の別れのせりふが、つい胸に浮んだほどであった。  しかし、レンゲツツジが満開になったと聞いた時、やっぱり未練のように、もう一度赤城が見たくなり、いつもの山仲間大ぜいと赤城の歩き道をさがしにいった。  沼畔に出て、大型バスがずらりと並んだところから逃れるように、地蔵岳の北面を登る。ここもかつてはリフトかロープウェイがあったらしいが、幸いはずされていた。  草つきの道の西斜面から下を見ると、緋に燃えるようなレンゲツツジの花盛りである。  かつての放牧の馬はもう一頭も見えなくて、ただひたすらにツツジばかり。人工的に植えたのもあるのではないか。  地蔵岳の東向きの斜面を、忠治温泉にむかって下り、歩くのは自分たちだけになって、ようやく赤城の山懐に抱かれたようなやすらぎを覚えたが、ふと通りすぎようとして、草むらの中に一点の赤いいろを見つけた。薄紅のアツモリソウで、図鑑以外に見たのははじめてである。  その名は一谷に死んだ平敦盛の背に負った|母衣《ほろ》の形からとったという。敦盛を討った熊谷直実の名をとったクマガイソウと、色はちがうが形が似ている。栽培種のどんなランよりも、ゆたかな造化の妙を語っているような形のよさに、よかった、赤城にはまだ自然が残っていたのだとうれしかった。

14 黒檜山  クサタチバナ(ガガイモ科)
 上毛新聞社の柳田芳武さんに、赤城は青春の思い出の山だけれど、あまりの開け方にすっかり落胆したと語ると、赤城にはまだ荒々しい自然がいっぱいあると|黒檜《くろび》登山をすすめられた。十月の半ばの一夜、黒檜に登るために沼の畔りの青木旅館に泊った。飲食店、土産物屋の多い東側からはなれた地点にある。娘の頃に沼をボートで漕ぎまわった時、自殺者にまちがえられて、ただ二軒だけあった旅館から和船が漕ぎ出された。その一軒はこの家だったのだとなつかしかった。  当主は若い夫婦で、私のために船を出してくれた頃のひとは、老夫人だけが七十五歳をこえて健在であった。赤城の花を愛し、生きた花そのままに、押絵をつくるのが趣味であるという。当夜はあいにくの不在で、その製作品だけを見せてもらった。ヤマハハコ、マツムシソウ、ウメバチソウ、カワラナデシコ、コオニユリ、アヤメといろとりどりに色紙の上に、自然の姿でおさまっている。  押絵の一つにクサタチバナがあった。この前の六月、地蔵岳に登った時、草地の中に点々として咲いていたもので、やや大きい緑の葉が対生している茎のてっぺんに、白い花が群がっている。  はじめて見た花であったので、家に帰って図鑑を見たらクサタチバナであった。そういう花の名のあることもはじめて知り、葉の大きく緑の濃いのがミカンの木に似て、花もミカンのように細かく純白なのを、クサタチバナとはうまい名のつけかただと感心した。でも匂いはどうだろうか。押絵の花では香りがない。この夜の食事にはいろいろのキノコが出て、これも赤城の自然がまだゆたかなのを教えてくれるようであった。  かつての火口原である沼の標高は一三四五メートル。黒檜の頂上までは約五百メートルを登る。いつもの山仲間が一緒である。  昨日の午後着いてすぐ地蔵岳と同じように、中央火口丘である長七郎山に登っていた。その山裾に覚満淵の湿原がある。押絵のアヤメはこのあたりで初夏に咲いているのを採ったものである。レンゲツツジの緋の赤さにいろどられる中の紫を、今度はやはりその季節に来て見たい。一度はあまりの開発ぶりに驚いたが、二度三度とくれば、赤城にまだ残る自然をさがしたくなる。初恋のひとの面影をいつまでも追い求めているような気持ちである。  沼の東側の道を北に進んで右折して、黒檜の山腹に入る。ウラジロモミやコメツガの大木の茂りあう中に、昔ながらの山道があった。昭和七年に大沼から小沼に出て、行者のあとをついて下ったのは、このように狭い道幅の、石のごろごろした道であったと、霧が晴れてゆくように記憶がよみがえった。いかにも外輪山の内壁を思わせて露出した巨岩がさえぎるひた登りの道をゆきながら、遠い古代に大和朝廷の力が、ようやく北は上毛野、下毛野あたりまで及んだ時、榛名とこの山が大きな城壁となって、北からの異民族の侵入を防いだのであろうと思った。まつろうものと、まつろわぬものとの戦いも、この外輪山の稜線を接点として戦われたのではないだろうか。赤城から榛名の火山灰地の裾野の牧草が馬の産地を生み出したが、馬は古代にあっては、重要な交通機関であると同時に、武器の一部分でもあったのだから。  さすがに二千メートル近い頂上を持つ山らしく、ミズナラやダケカンバやカエデの類が黄に赤に紅葉した尾根道からは、すぐ北に上州武尊山や谷川岳の雄大な山容が見え、東に日光連山から足尾の山々が連なっているのが一望できる。南面が多くの町や村を持っているのにくらべて、北面は原生林の谷々がつづき、赤城が開けているというのは、ほんの一部であることがわかった。  南面は太陽もよく当って、早くからひとが住みついたことは、この山麓地帯が旧石器時代からの古代遺跡の宝庫であることでもわかる。赤城山はまた、修験道の山でもあって、山そのものが御神体視され、忠治温泉の近くにある赤城神社は延喜式の大社で、江戸から北関東に及ぶ村々の信仰を集め、国定忠治はその祭りに催された賭場で活躍したのだそうだ。大沼、小沼は雨乞い祈願の対象となり、小沼には麓の長者の娘が、十六歳で投身自殺したという伝説がある。以来娘が十六歳になった時の登山は禁止されているという。頂上で柳田さんからそんな話を聞きながら、昭和七年に、遠くからは十六歳とも見える派手な着物で、ボートを漕いでいた私が何故警戒されたか、小沼の畔りで何故行者からお説教されたか、これも霧が晴れるようにわかって来た。寄生火山の小黒檜に向かう尾根道で、すがれて立っているクサタチバナを見た。木のタチバナは常緑なのに、それだけがちがっていた。

15 至仏山  アズマギク(キク科)
 武田久吉さんは、八十代になってなお、よく尾瀬を訪れられたという。  一緒に連れていってあげると言われたのは、亡くなられる何年前であったろうか。法政大学の雑誌で、山の旅、山の花について対談した。  おうちも法政の近くにあり、お庭には山草がいっぱいあるので、是非と誘って下さったが、果せなかったのは終生の恨事である。  尾瀬は沼や原もいいが、そのうち至仏や|燧《ひうち》ヶ岳など、まわりの山に登りたくなるでしょうと言われたが、ようやく至仏に登り得たのは、原や沼に親しむようになってから数年のあとである。  平野長靖さんが、大清水からの自動車道路開発を拒否する運動に殉じて、四十六年十二月、雪の三平峠に、まだ三十六歳の若いいのちを埋めた翌年、告別式には出られなかったので、せめてその霊を悼みたくて、ヤナギランの丘と名づけられた沼山峠の下のお墓に詣でて、その魂の平安を祈った。  帰途、鳩待峠にむかって沼のほとりを過ぎ、白砂乗越を下り、幾つもの流れをわたりながら原を横切ってくると、眼の前に空を被うようにして至仏が大きくせり上って来た。  ミズバショウがようよう白い苞をひらき、タテヤマリンドウやショウジョウバカマがわずかに花を見せていて、人里では初夏だが、尾瀬はようやく早春の趣きをあらわしはじめた頃である。  もうすぐミツガシワの花が咲くだろう。まわりの山にチシマザクラもタムシバもムラサキヤシオも咲く。ヒツジグサもオゼコウホネももうすぐ。ニッコウキスゲもすぐ、ヒオウギアヤメもカキツバタもチングルマもと数えあげてゆくうちに、不意に涙が溢れ上って来た。  ——平野長靖さんもそのようにして、毎日花たちの挨拶を待っていたのだ。  幼い三人の子供たちと、年若い恋妻を残して、長靖さんはどんなにか死にたくなかったろうかと思うと、涙は次々溢れて、至仏が霞んで見えなくなった。しかしまた、至仏は、私の行先にどっしりとおちついて、悠久な自然のいのちの中に、限られた人間のいのちのはかなさを、何も語らずに教えてくれているようであった。  至仏へ登りたいと父君の長英さんに、東京に帰ってたよりを出すと、折返してすぐ同行すると返事があり、ミネウスユキソウがさかりですと書かれてあった。  その前夜、片品温泉へ一泊して、朝五時に鳩待峠につくと、長英夫人靖子さん、長靖未亡人紀子さんの母君も一緒にと待っていて下さった。それぞれにズボンとヤッケ。キャラバン・シューズをはいての、山馴れのした姿であった。  長英さん夫妻は、長靖さんが小屋に入る少し前に、静岡大学生の次男を海に失っている。そして京大出身の長男を山にとられたのである。長英さん自身は数年前に足を痛めた。もう恢復したとはいえ、七十代で、あとにつづく大事な息子たちを先だたせた悲しみは、全身の骨肉を打ちくだかんばかりであったろう。  短歌雑誌を通じて知り合われたのが、交際のはじめであったという夫人も、町の生活を切りはなしての馴れぬ山住いに、辛酸の月日を経て来て、相次いでの愛児の死を迎えなければならなかった。札幌の新聞社時代に長靖さんと同僚であったという紀子さんもまた、町の暮しから、夫君を助けて山に入ったのである。  嫁いだわが娘に仕合わせあれと祈るのは、どこの母親も同じ。長靖さんの死は、紀子さんだけでなくお母さんにも大きな悲嘆であったろう。  三人の悲しみを抱いたひとたちと、至仏への道を歩きながら、何というしずけさ、おだやかさであったろうか。  今は亡い長靖さんが辿った道を、一歩一歩、思い出をかみしめてゆくその足どりや表情は、決して重く暗く沈んではいなかった。軽々と、むしろ明るかった。若い未亡人と遺児たちをまもって、このひとたちは嘆いてばかりはいられないのだと思い、胸が切なかった。  片品川の支流の谷沿いの道には、ササヤブの中にシラネアオイが群生し、頂きにむかう山腹の湿原にはコオニユリ、ハクサンコザクラ、サワオグルマ、ワタスゲなどがいろとりどりに鮮やかである。  露岩がいっぱいある頂上近いところには、ミネウスユキソウもヒナウスユキソウも咲いていた。尾瀬ヶ原を見下したところで昼食をとる。南面した斜面には、タカネニガナ、ミヤマシオガマ、タカネコウゾリナなどが礫の間に咲いていた。薄紫のアズマギクもさかりであった。伊豆の玄岳にたくさんあったのにくらべ、花柄に毛がいっぱい生えている。武田久吉さんが生きておられたら、伊豆と尾瀬のアズマギクのちがいを教えて下さるのにと思った。武田さんは長靖さんの死をどんなに気の毒がられることであろう。  長英さんのお父さんで、燧ヶ岳にはじめて登り、尾瀬に山小屋をつくって、仙人とよばれた長蔵さんは、植物の研究に尾瀬に通われた武田さんのよい先達であったという。  ——長靖さんは死んではおりません。尾瀬の山に、尾瀬の沼に生きていますよ。  武田さんは、あの若々しい声でそうおっしゃるにちがいないとも思った。

16 大岳山  イワウチワ(イワウメ科)
 山の道を歩く度に、いつごろからひとが歩きはじめたのだろうか、どんな生活をしたひとたちだったろうかというような思いが走る。  古代のひとたちは、沢よりは山の尾根を越えていったという。多摩川と秋川の谷のちょうどまん中にある|大岳《おおたけ》山は、そのような時の一つの目じるし、方角を知らせる大事な目標にもなったのであろう。  日頃は煤煙に被われた東京の空であっても、秋から冬にかけては富士山を中心にして、西の山々が紺青の姿をあらわす。横山厚夫氏の『東京から見える山見えた山』に木暮理太郎氏の三十年にわたる研究が紹介されていて、富士山を加えて、三千メートル以上の山は九座、三千メートル以下二千メートル以上の山が六十四座としるされている。人口が二百万から六、七百万時代の東京であるけれど。  私の娘の頃は、通学の電車の窓から自分の登った山を見つけ出すのが先ずうれしく、富士山の左に大山、右に武甲山を見出し、その間に奥多摩から小金沢、大菩薩の稜線をはっきりと目に入れることができた。奥多摩では丸味を帯びた隆起を持つ大岳さえとらえれば、その近くに連なる御前山、川苔山などはすぐわかった。  大岳にはじめて登ったのは十代の終りである。大学生の兄に連れられ、ケーブルにも乗らず、御獄から歩いて、氷川に下った。長い袴に運動靴で大岳の下りを、起伏の多い鋸尾根の道にしたので、泣きたいほど疲れた。医者の卵であった兄は、その後一、二年して私が結核になったときも、薬など飲まずに、栄養をとって、自然の中で暮すのが最適の療法と言うようなひとで、いつも文明に毒された近代人は、つとめて自然に還るようにと言っていた。登山にケーブルなど、とんでもないことというわけである。  いまもレントゲンに病巣のあとを残す私の結核は、いつなおったのか記憶にないけれど、発熱の身で、その後ふたたび大岳にも大菩薩にもはいっている。栄養と安静が絶対条件のはずの難病を、私は山に登りながらなおしてしまったらしい。からだの弱いことを口実に、兄でなく、弟やその友人たちと御嶽にゆく時は、ケーブルを利用し、奥の院までいって、|雄具那《おぐな》神社周辺の原生林の中を歩いたり、日の出山から関東平野を見下し、養沢の谷に下ったりした。五日市から秋川をさかのぼって、神戸岩から逆に大岳に登ったこともある。  ケーブルのあるせいか、御嶽付近は普通の日でもひとが多いけれど、大岳までくるひとは少く、その頂きからは、丹沢、奥秩父の山々が間近に迫って威圧された。  戦後二十年ほどして御嶽経由で大岳に来て、ここも高水山と同じように、あまり荒らされてないのを知ってうれしかった。高水山についで、大岳もずい分、春、秋、冬と登っている。同じ山に何度も登ることは、そのときどきの自分の健康状態がわかってありがたい。  高水山は三山を連ねて周囲から独立しているけれど、大岳のように、四方に道の通じているところは、古代からの重要な交通路であろうといつも思った。物資を運ぶために、大事な知らせを持ってゆくために、ときには、新らしい婚姻が行なわれるために、ひとびとはせっせとこれらの道を歩いていったにちがいない。そのとき少し位熱があったとて、おなかが痛んだとて、止むを得ない事情の下では、強引に自分の身を前進させていったのであろうと思えば、この位の熱など大したことはないと重い足を引きずっていった。大岳への道のたのしいのは、ヤマハンノキやクヌギ、コナラなどの濶葉樹林が多くて明るいこと、下草に花が多いことである。春はエイザンスミレ、アケボノスミレ、ヤマキケマン、ニリンソウ、ヒトリシズカなど。夏から秋にかけてはツルリンドウ、ツリガネニンジン、ヤマジノホトトギス、オケラ、ナデシコ、リュウノウギクなど。  大岳から南に、馬頭刈山を越えて八キロの尾根が、秋川の谷の軍道までつづいている馬頭刈尾根はつい最近歩いた。三頭山から和田峠までの笹尾根に、直角にぶつかる形でのびているこの稜線は、西側は陽にかがやきながら、東側はくろぐろと陽のかげっている眺めがおもしろい。春の半ばで陽に映える山桜が美しかったが、林の日かげにはイワウチワの薄紅の花が咲いていた。イワカガミに似たこの花を見つけたのはこのときがはじめてである。はじめての花にあうと未知の世界にであった思いで心が晴れ晴れとする。大岳を中心にした尾根のすべてにイワウチワがあるかどうか、改めて歩きなおしたいと思ったりした。

17 高水山  ツルリンドウ(リンドウ科)
 私は東京に生まれ育ってふるさとの山を持たない。しかし、生涯に数多く登って、もっとも歩き馴れ、その渓流、山径に親しんだ山、ふるさとのように思える山と聞かれたら、|高水山《たかみずやま》と答えたい。  十代の終り頃から登りはじめ、結婚式を数日後に控えたときにも、これが娘時代との別れと思って登って来た。戦後十年ほどたってから登って、その間二十数年たったのに、国電の軍畑から小田原秩父街道に出て平溝に至り、左折して杉木立ちの中の急坂を登る道が、ほとんど戦前と変っていないのに感激した。下流に横田基地を持つ多摩川の谷は、開発の名のもとに、住宅建設やゴルフ場の創設で、木を伐られ、丘も削られという姿を見、上流に奥多摩湖が出来て、来る度に谷筋の観光地化が進んでいるのを知らされていたので、高水山から岩茸山、惣岳山と、八百メートル足らずの峰を連ねる道が、ほとんど昔と変らぬままなのがうれしかった。ただ、眼に入る植林の杉木立ちが、かつての日から一度は伐られ、次に植えられた苗木が生長したものであろうという感慨だけがあった。軍畑とは、永禄六年、二俣尾に城を築いていた、平将門の子孫と伝えられる三田弾正綱秀が、北条氏照に攻められて、|辛垣《からがい》城に敗れたときの古戦場のあとだと言う。  多摩川の谷に南面する二俣尾の海禅寺には、三田氏の墓があり、その背後の杉木立ちの中の道を登って辛垣山に城址をたずね、更に登って雷電山までいったことがある。  敗残の兵たちは岩槻方面に逃げたというから、雷電山の峰伝いに、高水山中から岩茸山に至り、名栗谷に下りて飯能から川越へと進んだものもあったろう。高水山にはよく着物に下駄履きのままでいった。はじめの急坂だけを過ぎれば、頂上近い浪切不動の堂までの道は、着物でも十分に歩けるような緩やかな登りがつづく。  浪切不動の本尊は智証大師と伝えられ、鎌倉幕府の武将、畠山重忠の持仏であったとか。畠山氏の本拠は秩父である。遠祖は桓武天皇の曾孫の高望王。その子、良将は将門の父となり、良文は秩父の村岡に住んだが、将門が挙兵した時、良文の子の忠頼は討伐側にまわった。忠頼の子孫が秩父氏となり、畠山に住んだものは畠山氏を名乗るようになった。  畠山重忠は勇武の家に生まれながら風流のたしなみがあり、文治二年、源義経の妾、静御前が、頼朝に捕えられ、鶴岡八幡の社殿で舞いを舞わされた時、工藤祐経の鼓に合せて、重忠が銅拍子を打って伴奏している。秩父は畠山氏の所領であったので、御嶽神社への崇敬深く、重忠の自筆の願文や、重忠着用の甲冑や太刀が奉納され、多摩川をはさんで対岸の高水山には持仏がささげられたのであろう。秩父から鎌倉へゆくには、高水山の東麓をまわって多摩川の谷に出たので、その通り路にあたっている。頼朝の死後、北条時政は、幕府草創時代からの豪族を次々に亡ぼしていったが、重忠も謀略にかかって、秩父の館を出て、鎌倉に向かう途中、都築郡の二俣川で殺された。  畠山氏だけでなく、秩父を発祥の地にした豪族の比企氏も、時政にたばかられて斬られている。山の清涼の気に培われた剛直の心は、狡猾な政治家の欺瞞を見抜けなかったのであろう。  近くに山を持たない東京の人間にとって、山のすがすがしい空気に浸りたいと思えば、一番近いのは高尾山だけれども、もっと深い山と渓谷の美を求めれば、多摩川をさかのぼることになる。多摩川の水は長く東京の市民の命を支えて来た。京のひとたちが、鴨川の水で産湯をつかったというなら、東京の人間は、多摩川の流れの奥に連なる山々には、母なる山々ともよびたいような愛着の思いが湧く。そしてまた、水ゆたかなその谷筋は、関東地方にあって、もっとも古くからひとびとの住みついた場所の一つでもあった。  高水山には春も秋も登ったが、春はアケボノスミレ、エイザンスミレ、ヒトリシズカ、ハナネコノメソウ、センボンヤリ、ヤマルリソウなどが殊に目立ち、秋は、ツルリンドウの赤い実を見つけるのがたのしみであった。花よりも実の方がきれいな草があるけれど、ツルリンドウはこんなにか細い草がと、びっくりするほど大きく赤くつややかな実をつける。   あへぎつつすすきの山を登り来て    かへりみる山の目にし高しも  学生時代の秋、尾上柴舟先生を案内して友人数名と登った時の先生のお作である。先生はまだ五十代でいられたと思うが、二十代の私たちに足を合せるのが苦しかった、とあとで言われた。

18 鶏頂山  ショウジョウバカマ(ユリ科)
 塩原温泉には、娘時代に、知り合いのおじいさん、おばあさんたちにつれられていった。もうその頃は、鬼怒川温泉がさかんに宣伝され、塩原は鬼怒川にくらべて、家族向きで静かだからと、夏の避暑地としてえらばれたのである。  まだ箒川の渓谷ぞいの道も狭くて、岩壁を削りとった急角度の曲りに、幾度となく肝をひやした。  しかし、那須野ヶ原を横切って、だんだんに渓谷に入る道は大樹が多くて、緑の茂りかたが、箱根や碓氷峠よりも深い気がし、この谷が昔からの落人伝説を秘めているのも当然なような気がした。  いつか田野温泉から嵯峨塩温泉を通って大菩薩峠にゆき、日野川の谷が、武田氏の古戦場になっていたことを知ったが、塩原の谷は、日野川の谷よりもずっと大きく広く、且つ急峻である。源氏の、また南朝遺臣の伝説に加えて、近くは敗亡の彰義隊士たちもこの谷をさかのぼって会津におちのびていった。  私がはじめて入湯したのは、塩の湯である。塩釜温泉から、箒川の支流の谷深いところに、これも古い歴史を秘めて湧き出ているのだが、客室から、下の渓川沿いの浴室までは長い階段を下りてゆく。近視眼の私は、眼鏡をとって、そこが混浴とも知らずに着物を脱いで浴槽に足を踏み入れ、湯気の中に何人もの男の顔を見出して、全身寒気だってしまった。おじいさんやおばあさんたちもあとから、何の屈託もなく入って来て、さわぎたてるのもみっともないし、といって、外に出て、裸身をひとびとの眼にさらすのもいやで、それでなくても熱い塩の湯で、渓流に手拭いをひたしては、さかんに頭の上をひやしながら、早く自分一人になればよいと思っていた。  戦後二十年ほどして、大腿骨骨折の手術をした病院が、塩原に温泉療養所をもっていたので、やはり塩釜の旅館に真夏の一カ月ほど滞在したが、もう野天を別にしては、浴室は男女に分れていて、ゆっくりと窓越しの渓流を見ながら、入浴をたのしむことができた。  足も塩原の湯のおかげですっかりなおり、塩原の高原山から那須岳への計画をしたのはつい最近のことである。  ツツジのさかりには又くることにして、塩原の紅葉も観賞したい気持ちであった。  それがどんなに鮮やかであるかは、渓谷の大樹にいろいろの楓が多いことで想像がつく。  その日は日光から入って、日塩道路の紅葉もたのしむことにしたが、十月の末でいささかおそく、カツラ、ミズキ、シラカバ、ヤチダモ、ミズナラなどの濶葉樹の葉はおちつくしていた。  遠くから、高原山と一つになって見える山は、|鶏頂《けいちよう》山、釈迦ヶ岳などの峰にわかれ、先ず鶏頂山の北斜面から登った。一面のクマザサのゆるやかな道が針葉樹の樹林帯になっていて、ところどころに枯木沼や大沼などの湿原がある。草も枯れて、アザミやギボウシやアキノキリンソウなどの枯れ葉が目立ち、花盛りの六月から七月に、ツツジを見ながら再遊したいと思った。登りが急になるあたりに弁天池があり、そのあたりにはノハナショウブが枯れながら、立派な実をたくさんつけていた。これも是非花を見たい、鶏頂山の頂きを被う針葉樹の濃い緑を背景にして、その紫はどんなにいろ美しく映えることかと思った。  山頂は釈迦ヶ岳にかけての大きな爆裂火口の一端となっていて、東に鋭くおちこんでいる。  釈迦ヶ岳から更に東に、剣ヶ峰を経て、八方が原牧場への道がのび、今はそれらの山々も針葉樹の緑一色となっている。塩原も、塩釜、福渡と箒川が下流になるほど紅葉はちょうど見頃だと言う。山の仲間には、日の暮れないうちに、紅葉の盛りを見たいものが多く、鶏頂山の道をもとにもどった。ゆきはあえぎあえぎ来てあまり気づかなかったが、この山の北斜面にはじつにショウジョウバカマが多い。雪がとけると、春一番に山を飾る花である。いつか京の三千院の庭で緋いろのショウジョウバカマの大群落を見た。二度目にいくとすっかりなくなっていて、庭には幾つかの巨石がすえられていた。野生の花より巨石の方が庭の格が上るとでも思われたのだろうが、緋のいろが燃えるようであったので惜しい気がした。鶏頂山にはどんないろの花が咲くのか。同じ薄紅でも土地によってちがう。白い花もあるかもしれないと、これも再遊の思いをそそった。

19 大菩薩峠  ギンバイソウ(ユキノシタ科)
 まだ十代で、多摩川や秋川ぞいの奥多摩の山々を歩きはじめた頃、次の目標としてあこがれたのは雲取や大菩薩であった。秋晴れの朝も早く、省線と呼んでいた国電の|山手《やまのて》線で、上野から新宿までを走るとき、|日暮里《につぽり》や田端、大塚、|高田馬場《たかだのばば》、新大久保などの高台にある駅のホームからは、北は男体山を中心とする日光連山から、武甲山、武川岳、川苔山、雲取とつづく秩父前衛の山々、大岳、御前山と並ぶ奥多摩の山嶺が、大菩薩、小金沢へと連なって、関東平野をかこむ屏風のようにそびえたつのを望み見ることができた。  秋も深まり、木枯の風が吹き荒れる頃、その山々は紫紺の深さを増し、十二月に入るともうその頂きに白々と雪のいろを浮べたりする。大菩薩や雲取は二千メートルを越えているので、冬の訪れもいち早かったのであろう。一月から二月にかけては、白銀の嶺となって、山恋いの思いをそそられた。  結婚式を控えての秋、弟の友人の大学生二人と大菩薩にいった。前日の土曜日の午後から|初鹿野《はじかの》にゆき、|日川《につかわ》の谷を田野から天目山にと進んで、その夜は板ぶき屋根の嵯峨塩温泉に泊った。風邪で熱が八度位あったのだが、どうしてもこの日の外に時間がない。私は雲取にも登ってから挙式したいと先方に申入れたのを、それでは一月のびることになるとことわられて機嫌が悪かった。風邪が肺炎になれば、いやでも応でも挙式はのびるだろう位な気持ちで、日川の谷をつめていった。ここには、武田勝頼敗亡の悲劇のあとがいろいろとあり、途中で休んだ天目山|栖雲《せいうん》寺の坊さんから、日川とは戦いの血汐のいろで赤く染められた血川であるなどとも、聞かされた。  いろづきはじめた嵯峨塩までの道は、ミズナラやカエデやクリの林の下草に、リンドウやアザミの青や紫が盛んな秋の姿を見せ、リュウノウギクの白も点々として、自然の華麗さが却って人間のはかなさを思わせた。  あくる日、笹藪の中のジグザグの悪路をすべったり、笹の根にしがみついたりして日川尾根に取りついたが、熱のあるからだには苦しくて、気息えんえん、地図には|杣坂《そまざか》峠とあったが、私は一人、エンエン峠と名づけた。  尾根道はシラカバの大原生林で、そのまっ白な幹の白さとあざやかな黄葉の中を、起伏をくりかえしながら、武田勝頼や、小田原の北条家から嫁いで来た年若い妻が、せめてこの尾根まで辿りつけたら、多摩川の谷に逃げることもできたろうにといたましかった。  大菩薩の名にあこがれたのは、石井鶴三画伯が描いた中里介山の小説の中の人物、机龍之介の虚無と孤愁に満ちた風貌を、実際の峠に立って思い浮べたかったのかもしれない。  しかし、大菩薩嶺の黒々とした針葉樹林を右に、大菩薩峠から上日川峠へと下る南面の草原に憩って、その広濶な眺めを一望しながら、龍之介の相手を射抜く鋭い視線は、やはり病んだ都会人のもの、この天と地が壮大な交響曲を奏でているような場所に身をおいたら、人間の心はもっとおのれの無力に徹して、つつましくおだやかになったのではないかと思ったりもした。  |裂石《さけいし》のバス停に来て測ると熱は七度五分に下っていて、心だけでなく、山は、病んだからだをも鎮め、和めてくれると知ったのである。  写真機が苦手の私は、山ゆきにはいつも写生帖をもって歩く。もう四十何年昔のものも残っていて、数年前の大菩薩行の前に開けて見たら、枯れて黄ばんだ押葉が二枚ハラリと落ちた。何の葉かわからない。先が矢羽の形に切れているのが、古戦場にふさわしいと興味を感じたのであろう。そばに武田家滅亡の日川の谷にてと書いてある。  二度目も秋で、嵯峨塩から登り、小菅川沿いに橋立まで下りた。当日は一日雨に降られ通しであったのに、山が明るくなっていて、この四十年に伐られた木々の多いことを思った。  昨年の夏、四国の横倉山に登ったとき、先が矢羽の形をした葉を見つけ、大菩薩の押葉はこれだったと思い出した。一株を大事に持って来て鉢に植えたら、今年の六月、幾つかにかたまった白く美しい五弁の花をつけ、図鑑を見ると、ギンバイソウで、ユキノシタ科、分布は関東以西、四国、九州とあった。植物学者の飯泉優氏にうかがうと、クサタチバナもギンバイソウも、千葉県の南から秩父の山々、紀伊半島、四国の南を通って九州を二分しての南部、いわゆる|ソハヤキ《ヽヽヽヽ》地域にのみ生育するのだという。日川の谷に今もあるかどうか、初夏の三度目の大菩薩行きをと考えている。

20 武州御嶽  ウケラ(キク科)
 いつか沖縄の那覇から首里にいったとき、自動車で通り過ぎる道ばたに、巨岩があり、その下に供物の食べものなどをあげて、一人の女のひとがおがんでいるのを見た。同行の新聞社のひとが、ウタキと言い、御嶽という字をあてるのだと教えてくれた。  神霊のこもり住む聖なる山は遠くにあって、この町の中にあるのは、その遙拝所なのだと言い、木曾の御嶽山が、やはり中仙道の鳥居峠に遙拝所を持っていたことを思い出した。  御嶽と名づけられるものの中には、森や木立ちもあるという。木や山に神霊がこもることを信じた原始的な自然崇拝の名残りであろう。  小学校の遠足での山ゆきは、はじめが高尾山、次が御嶽で、その頃は二俣尾から多摩川沿いの道を歩き、滝本にとりついて、杉や檜の茂る道を、唱歌などを歌いながら、歩いたのである。兵士たちが行軍のときに歌う軍歌も多かったような気がする。今でも私は、疲れると山道で、よく一人軍歌を歌う。不思議にからだに力が満ち満ちてくる。  さて都会から山に入ると、先ず、空気の冷たさと土の匂いでいつも爽やかな思いにつつまれるのだが、花好きの少女には、何よりも、町にはない山の花、野の花がうれしかった。  小学校六年の|綴方《つづりかた》に、私は御嶽の山みちで見つけたウケラのことを書き、先生からオケラとも言い、根は漢方薬につかわれて、昔のひとが歌に詠んだ花と教えられた。  これとよく似た花のコウヤボウキはウケラより花も枝もやさしいのに潅木で、ウケラは木のように葉も枝もしっかりしているのに草だという。  私の育った頃の東京の町中には、雑木林もたくさんあったのだが、リンドウ、ギボウシ、キンラン、ギンラン、フシグロセンノウ、ナデシコ、ワレモコウ、ホウチャクソウなどは見つけられても、ウケラは目につかなかったので、私ははじめて見た花として、綴方に書いたのである。   恋しけば袖も振らむを武蔵野の     うけらが花の色に|出《づ》なゆめ   我背子を|何《あ》どかもいはむ武蔵野の     うけらが花の時無きものを 『万葉集』の巻十四にあげられている歌を知ったのは、ずっとあとのことである。  御嶽は、高尾山と共に、東京の小学校がもっともよく遠足につれてゆく山で、そこから私のように、山歩きへの親しみの第一歩をふみ出すものが多いと思うけれど、正直、遠足での御嶽は、やっぱり歩いて登った高尾山よりはつまらなかったと思う。針葉樹林が多くて山が暗く、見晴らしもなくて、頂上には神社があるだけであった。子供ごころには、神社とは「何ごとのおわしますかは知らぬ」存在であった。  御嶽にしばしばゆくようになったのは、二十歳すぎてのことである。もうケーブルができていた。そして、これを利用して、大岳へゆき、馬頭刈尾根へゆき、日の出山にいって、それらの眺望のよい頂き、尾根道の中心に御嶽神社をおいて見ると、多摩川の谷の奥の山村をまもるものとして、どうしても必要なように思えて来た。  御嶽神社は木曾御嶽と同じように、六、七世紀にさかのぼる開山伝説があり、鎌倉幕府創建の頃の畠山重忠が砦を築いたとも伝えられている。  秩父平氏の子孫であり、武蔵武士として、もっとも勢力のあった畠山氏にとって、御嶽は所領の地であった。武蔵、相模の野を越え、はるかなる鎌倉を望むのに一番ふさわしい地でもある。  御嶽神社に|甲冑《かつちゆう》や|太刀《たち》を奉納し、その武運の長久をねがったのが、のちに|讒《ざん》せられて相模の二俣川で、北条義時のために討たれてしまった。  木曾義仲は、緒戦のとき、|倶利伽羅《くりから》峠で、平家の大軍を降して木曾の御嶽のおかげと感謝したと言うけれど、明日の生命を知り難い武将たちが、溺れるもの藁をもつかむような心境で、山がそこにあるからというだけで、山にその運命の鍵をゆだね、その甲斐もなく、次々に悲運の最期を遂げたことを思うと哀れだ。  戦後も御嶽にはしばしば登った。太みそかから新年にかけて、その東の突端にある日の出山の頂きにいて、武蔵野の地平の果てに浮び上ってくる太陽を待っていると、古代の民の自然への畏怖の気持ちが何となくわかるような気がした。  御嶽にゆく度にエイザンスミレの多いのにおどろくのだけれど、大岳からの帰途、奥の院への道を辿ったいつかの秋は、ウケラやカワラナデシコやヤマユリの花がらがいっぱいあり、ススキの根元にナンバンギセルを見つけてここにも古代が残っていると思った。   道のべの尾花が下の思ひ草     今更さらに何か思はむ 『万葉集』の巻十にオモイグサとされている花である。この花は私の子供の頃、生まれ育った板橋の、赤羽線沿いの原っぱによく咲いていた。  御嶽が、高尾山と同じように、東京に近く、頂きには人家もたくさんあるのに花々が多いのは、信仰の山として大事にされているからであろう。

21 生藤山  ホタルカズラ(ムラサキ科)
 五日市、上野原などの、五万分の一の地図は、娘の頃からの歩きと合せて、大抵の尾根みちに赤い線が引かれている。  コースタイムも書きこまれていて、二十代の足と、このごろの足とでは、一倍半のちがいがある。  年齢を重ねての体力のちがいというよりは、重量が加わっているからかもしれないと思う。  二十代よりも十キロ近くも増えている。目方を減らしたいのが、私のこの二十年来の山歩きの願いの一つである。しかし五キロを減らすことは容易ではなく、三年前の夏の七月八月に、十三の山に登ってようやく四キロ減り、一カ月もすると、すぐに二キロもどり、年末には四キロもどってしまった。  つい最近の夏は、冷たい雨の岩手山で、道をまちがえて反対側に下り、ズブ濡れのままタクシーに二時間乗り、その夜から三晩、冷房の利いた夜行の寝台車をつかったら、突如として右の足腰が痛くなって一歩も歩けず、座骨神経痛とのことであった。  これでもう山ともお別れかと前途|暗澹《あんたん》たる思いになったが、四十日の間、松葉杖をついての旅行の合間に、土地土地でハリを打つこと十数回、その前夜もハリを打って、夏も末に、おそるおそる北海道の暑寒別の雨龍沼にいったが、一つも痛くなかった。  山みちを下って来たときのうれしさと言ったらなかった(又、山に来られるのだ)。  しかし四十日間山にいかず、目方は二キロふえて、それから、奥志賀の山々にゆき、裏榛名にゆき、丹沢の表尾根にゆきしても減らず、|生藤山《しようとうさん》から和田峠に下り、上案下まで歩いて、ようやく一キロ減った。距離は十五キロ足らずであろう。  新宿を七時すぎの電車で、上野原で八時すぎ、上岩までバスで来て、九時半から歩き出して、上案下は午後四時のバスであった。  二十三、四歳の頃、高尾から小仏を経て、景信、陣馬を越えて、落合に下りて途中でバスに乗って上野原まで、二十何キロを、着物に下駄履きのまま、六時間足らずで歩いていることを思うと、感慨無量である。  それでも、佐野川峠から生藤山、連行峰から醍醐峠へと辿る尾根道の眺望はすばらしく、十一月も末の紅葉は赤に黄に稜線を飾っていて、まだこんなにも歩きよく、眺めのよい山道が残っているのかとうれしくなった。  佐野川峠から左折し、三国山の頂きを左に見て、まき登りに登る道の両側には、桜の大樹がずらりと並んでいて、花どきの盛大さがしのばれる。  生藤山の頂きを右に、三国山との鞍部で一休みすると、すぐ南側の前方に扇山が見えて権現山につづき、その連なりの右に小金沢から大菩薩。扇山の彼方の三ツ峠の特徴のある頂きの左手にはくっきりと、あざやかな富士が、雪に被われた端麗な形を見せている。  娘時代には、眺めもそこそこに|我武者羅《がむしやら》に歩きまわったが、久しい年月の間に、あそこにもここにもと登った峰々を一望の中に数え上げられるのがたのしい。  思えば、二十三、四歳の頃から、何十年という月日を、私なりに人生の辛酸の山坂を越えわたって生きて来たのだが、これらの山々の成りたちの歴史から見たら、何という短い年月であったろうか。  上野原へはじめて来たのは、まだ十代の終りの頃である。  相模川の流域に出来た段丘のスケッチをするためであった。  甲州街道沿いの町のうしろの斜面に立って、すぐ眼の前に、深くおちこんだ相模川の谷を、谷にむかってのびるゆるやかな段丘を、段丘に迫って鋭く若い谷をきざむ山の稜線を、紙の上に描きとどめながら、人間と同じように、大地も生きているのだということを不気味に思った。  大地に人間のような意志があるとは思えなかったが、大地も、人間と同じように、変転のあとをとどめるということがおそろしかった。  その歴史を測るのに、一万年、十万年、五十万年と、とらえようもない、大きな時間が語られるのも、人間のいのちの束の間のはかなさと対比されるようであった。  生藤山から連行峰への下りみちは可成り急峻だけれど、和田峠と日原峠を連ねるこの稜線は、ナラ、クヌギの生えている平坦な林もあり、四方の展望がきいて、何べんでも来たいような山道である。カエデやナラやホオの落葉を踏みながら、来年の春は桜の盛りを見に来たいと思った。  上岩から、杉の植林の中を歩いていて、南面の草つきの崖に、ホタルカズラが這っているのを見つけていた。ムラサキの仲間の、空いろの小さい花の咲く頃は、カタクリなども見つかるかもしれないと思った。  ホタルカズラは岩木山の南面の草地で濃い空いろに咲いていたのを見たことがある。大山の日向薬師への下り道でも、千葉県の南の千倉の山でも六甲の谷でも見たが、東京のわが家の庭では十年来葉ばかり茂っている。  和田峠と陣馬の頂上までは、階段状の足場ができていて、ここまで自家用車で来たひとたちの中には、赤ん坊をおぶっている若い母親の姿もあった。娘の頃に訪れた陣馬では想像もできなかったことである。

22 石割山  オオバギボウシ(ユリ科)
 晩秋から初冬にかけての山歩きは、落葉の匂いの中に身を沈めてゆく。木々の新緑の匂いにも甘さがあるけれど、落葉にもある甘さは、樹木そのものの中に、甘さがあるということだろうか。ふと、口に入れて味わって見たい気になる。  三月から四月にかけての山みちをなお埋めている落葉には、もうその甘さが失われている。  生藤山を歩いたのは十一月二十五日。桜の落葉の上にナラやクヌギの葉が降り積もっていた。むせぶような甘さが地から湧き上るようであったのは、花や実にふくまれる蜜と同質のものが匂いにこめられていたのだろうか。  十二月十九日、|石割《いしわり》山を歩いた。富士山の北と東の裾野をとりまいた湖水をさえぎる御坂山塊が南に下って、桂川と道志川の谷で分断されたような形になっている。その一端に御正体山、石割山、三国山が、悠然としてなだらかな稜線を連ね、若々しく鋭い富士山の山容との対比がおもしろい。  中央高速を走り抜けた車は、吉田から東進して山中湖畔の平野町まで、湖の南岸をめぐる。かつての鎌倉街道で、谷村を通って甲府に至り、一方に御殿場から小田原へと通じている。  武田勝頼の許に嫁いで来た北条氏の姫は、|輿《こし》にゆられて、はるばると旅をして来たとき、この山中湖畔にしばし休んで、さざ波をたててゆれる湖面に、ふるさとの海をなつかしんだことであろう。  武田勝頼は、谷村の城主小山田信茂が叛いて、甲州街道の笹子峠に柵をきずいて退路を断ったことから、|初鹿野《はじかの》の奥の天目山に入って、妻を殺して死ぬ。湖畔の道を、姫は、二度と通ることはなかったのである。  石割山は平野の町並みを外れ、道志川の谷沿いにゆく道と新井でわかれて、すっかり落葉しつくした雑木林の中を辿ってゆく。ところどころにブナの大樹が、白々とした樹肌をかがやかしている。  御坂山塊も、石割山も、古い海底火山の名残りであるという。  湖畔の標高は千メートル、可成りの急傾斜なので、割りに早く頂上が間近となったが、行手をさえぎるような巨岩があらわれ、そのもっとも大きなものが割れていて、そのそばに神社があった。  罪障深いものは、その割れ目を通れぬとされている。九州の若杉山にも同じような場所があって、そんなバカなことはないと思っているのに、やはり、その狭い岩と岩の間をくぐり抜けるときは、不安のようなものが心をよぎった。こちらの方が九州のよりずっと広く、短いので、今度はわらいながら通り抜けた。  古くもろくなった花崗岩が、割れ目に沿って、霜の力などで引き割かれたものであるという。  一四一〇メートルの頂上の展望は、思わず声をあげて叫んだほど素晴しかった。送電線がいささか邪魔だけれど、西に聖岳、赤石岳、荒川岳から、塩見、農鳥、間ノ岳、北岳、仙丈、甲斐駒と、三千メートル級の山々が、きらめく銀嶺となって初冬の青ぞらにそそりたち、並びたっている。  北には八ヶ岳連峰、金峰から国師、飛龍、雲取とつづく秩父山塊、東には丹沢から道志の山々、南に箱根連山。すぐ眼の前に、新雪の富士。御坂山塊が河口湖の向うに、富士出現の以前から地球の歴史の証人のように、どっしりと根を張っている。富士は日本一の高山だけれど、御坂山塊の重厚な姿にくらべると、いかにも若々しい。青年と老人が並び立っているようにみえる。  風のない日で、一面のススキ原の中は、小春日和のあたたかさであったが、私は、茅くさの葉の匂いの中に、ほのかに甘酸っぱく匂うもののあるのを知った。自然歩道の大平山へと辿る道を左に見て、二十曲峠へと右に下る山腹が、オオバギボウシの花がらの大群落なのであった。その花の残り香であったろうか。  フジアザミもいっぱいある。オヤマボクチもハコネバラもあるけれど、ギボウシが一番多い。みごとなまでに背が高い。  いつか丹後の宮津半島の根もとの大江山に登った時、北面の山腹でオオバギボウシの群落の花盛りに出あったことがある。  かつては湖水であって、いまは、そのあとを幾つかの湧水池にとどめる|忍野《おしの》にむかって、長い長い田圃の中の道を歩きながら、今度は花の頃に是非もう一度、石割山のオオバギボウシを見に来ようと思った。  忍野は自衛隊の北富士駐屯地のあるところで、アメリカ軍が北富士演習場として使用した富士山麓の草地をめぐって、主婦たちが、身を挺しての反対運動をつづけたことが記憶に新らしい。  母国の名峰の麓を戦争行為の演習場にはさせない。そんな心意気につながるのであろうか。  忍野の手前の道路沿いの寺の前に、五十近い、同じ型の同じ大きさの墓石が並んでいた。墓地に入って一つ一つを見た。墓碑銘の上に純忠、誠忠などの文字がある。この町出身の第二次大戦の戦死者の墓なのであった。ことごとく富士に向かって立っている。  若ものたちの死のきわのまぶたに、富士はどんな形で描かれたろうか。そんなゆとりさえない無残な死におそわれたものが多かったはずである。  若ものたちはもう富士を見られない。オオバギボウシも見られない。そう思った時、生き残って、山などのうのうと歩いているのが申訳なくて、ごめんなさいと口につぶやくと涙が溢れ上って来た。

23 尾瀬沼  ギョウジャニンニク(ユリ科)
 はじめて三平峠から尾瀬に入って、樹々の間にゆれ動く尾瀬沼を見出したときのおどろきがなつかしい。  山へゆくのは、つねに何らかのおどろきを求めているのだけれど、おどろきという感情は、二度、三度とくりかえされるうちに、その鮮度がうすれてゆくようである。  山上にある湖沼との出あいは、箱根や赤城や日光で経験ずみであったけれど、尾瀬沼周辺には、それら、観光地化されたものからはとうに失われてしまった神秘的な眺めがいろ濃く残っていた。  その日は雨降りであったせいか霧にかすんで、水のいろも灰いろにくすんでいて、何か死者のゆく冥府の眺めとは、こんなものかと思えたが、そばに近づくとさざなみを立ててゆれている。沼は生きている。ハッとそのことに気づいた。  尾瀬沼も見馴れてくると、次いでその奥の小沼の姿が新らしく神秘さを伝えてくれた。神秘の神という字は、私には神が創った大自然というような意味を持つ。自然現象に、ことさらに大という文字をかぶせるのは、神の創造の偉大さをたたえたい気持ちがある。小沼は、まわりの木々が高々と茂っている底に、小さく水をたたえているのが、却って深遠な感じである。  尾瀬沼や小沼は、この地帯を走る那須火山脈の活動によって、北方に燧ヶ岳ができた時の熔岩流による堰止湖だという。白砂|乗越《のつこし》を経てゆく西側の尾瀬ヶ原は、同じく火山作用による湖沼が退化して湿原になったものだという。  尾瀬沼の水は沼尻川となり、湿地の水をあつめて只見川となって日本海に注ぎ、南の山々の水は、片品川、笠科川となって利根川から太平洋にと向かう。遠い将来には、湿原は草の台地に、沼は湿地となり、やがてこれも草の台地に変ることがあるだろう。  その頃は千四百メートルから二千三百メートルの高さで尾瀬をかこむ急峻な山々は、のどかな丘と変って、車も乗入れ自由な、軽井沢のような別荘地になるかもしれない。  どうぞその日まで、尾瀬は訪れるひとに、神の創造の姿におどろくことのできる神秘性溢れる場所であってほしい。  尾瀬の花といえば、ひとはすぐミズバショウをあげるけれども、これは見馴れるとあまりおどろきがない。  ミズバショウはサトイモ科だという。サトイモは湿地に栽培され、暖地を好むという。  もう大分前のことだけれど、エジプトのナイル川のほとり、首都カイロの郊外で、見渡す限りのサトイモ畑を見たことがある。  ナセル大統領は、砂漠に水を引いて、サトイモが栽培できるほどの土地改良をやったのである。はるかにピラミッドをのぞんで、大きなサトイモの葉が風にそよぐ姿は偉観であった。そしてそのとき、見馴れたサトイモがおどろきをもって、ひどく新鮮に見えた。  ミズバショウをはじめて見たのは、長野県戸隠の越水原である。  戦後間もなくて、まだバードラインもできていない頃、うしろの柏原——これは今、クロヒメとなっている——から登り、奥社の参道の前をすぎて、その夜の宿の中社の久山家へゆく途中であった。戸隠表山の切りたったような峻嶺が、夕映えを背景に、くろぐろと浮び上っていた。  越水原には夕闇がただよいはじめていて、コナシのみどりが茂りあう林間の湿地に、白々と浮び上ったミズバショウの苞が美しかった。不思議なほどに、どこでもミズバショウのそばには必ずリュウキンカの黄金いろの花が咲いているけれど、ここにもその花がいっぱいあった。  ミズバショウはその後、北海道の根室まで列車でいった時、沿線の田圃の畦道に、いくらでも咲いているのを見た。屈斜路湖のほとりにも観光客に踏みしだかれて咲いていた。  有峰から太郎兵衛平に登る坂道のかたわらにもあった。尾瀬にはじめていったのは秋であったから、ミズバショウはもう枯れ葉になっていた。そして次にはミズバショウの盛りの夏に鳩待峠からいったのだけれど、川上川の岸にいっぱい咲いていたミズバショウより、笹藪の中のシラネアオイの美しさの方に気をとられた。  尾瀬のミズバショウに感激したのは、長蔵小屋の平野長英さんの令息の長靖さんが、尾瀬をまもる会のことで、環境庁のひとたちと話しあうために、十二月の雪の三平峠を下りて来て、急死された年が明けての初夏である。  長靖さんには、長蔵小屋に泊ったときおあいした。京都大学文学部出身、北海道新聞社勤務ということで、戦後の京都に十年近く住み、兄や従弟や甥が北大の出身で、札幌に馴染みの多い私には共通の話題が多かった。物静かな人柄はアララギ派の歌人である父君の長英さんゆずりで、尾瀬はこんなかたにこそ、まもってほしいと思われた。  その長靖さんの若い死を悼んで、大江川湿原の中にあるその墓に詣ろうと、沼山峠を下りてくると、一面のミズバショウが、朝陽を受けてまぶしいばかりの純白にかがやいていた。私にはその苞のことごとくが、長靖さんの霊にささげられた灯のように思えた。  尾瀬の花では池に春の訪れを告げて咲くタテヤマリンドウが、小さいながら春の明るさをその青のひといろの花びらにこめていて心惹かれる。尾瀬の春を早々と告げるのはヤマドリゼンマイとギョウジャニンニクの緑である。一方は黄みどり、一方はエメラルドグリーンで、その勢いのよさがいかにも春のよろこびをうたいあげているようである。このニンニクは北海道の山々にもたくさんあり、アイヌのひとたちは食用にしたよし。一度食べてみたいけれど、匂いの方はどうであろう。

24 八幡平  イソツツジ(ツツジ科)
 十和田|八幡平《はちまんたい》国立公園とよばれて、岩手県、秋田県にわたってひろがっているこの大きな火山地帯を訪れたのは、十年前の、秋田県大館市への旅がはじめてである。  所用をすませて、翌日は宮城県の気仙沼市にゆかなければならなかった。大館高校の二人の先生が案内して下さり、その夜はトロコ温泉に泊った。  早朝に出発して、玉川温泉、新湯を経て、八幡平の北の部分の山間を走り抜け、田沢湖で休憩。国見峠、仙岩峠と雫石川の上流の渓谷に沿って走って盛岡に出た。  十月の晴れた日であったが、アオモリトドマツの緑の中に、ブナやミズナラの黄葉や、ナナカマドやカエデの紅葉が映え、まさに錦繍の秋とは、このような眺めを言うのだと感嘆した。  本州第一の湧水量と言われる玉川温泉の荒々しい風景にもおどろかされた。華麗な紅葉の樹間の道を下りて来て、急に眼の前に、生皮をむかれて赤膚をさらしているような大地がいたいたしく横たえられ、末期の激しい呼吸を噴気の形であらわしているようであった。  二度目は同じく秋の季節にいつもの山仲間と秋田駒へ登りにいったとき、帰りに足をのばした。田沢湖は方々の観光地化された山上の湖水の悲劇のように、土産物屋や飲食店の氾濫で、東方の景観をすっかり失ったが、一周して南から西にまわると、秋田駒の山影を紫にうつして、日本で一番の深さと言われる神秘さがただよう。  秋田駒の麓の乳頭温泉郷は|蟹場《かにば》温泉も黒湯も全く都会化されていないのがうれしく、殊に草葺屋根の黒湯の旅館は、湯気をたてて流れ走る湯の川のほとりにたてられていて、月夜の晩に入湯したらたのしいだろうと思った。  この日、秋田駒の下りみちから雨となり、盛岡に向かって、|後生掛《ごしよがけ》温泉、|蒸《ふけ》ノ湯を過ぎ、八幡平アスピーテラインに入った頃、雪になった。風を伴った雪は秋田県側から岩手県側に激しく吹きつけて視界を埋めた。藤七温泉に下って休み、|畚《もつこ》岳への雪中登山をした。  那須火山帯に属して、巨大な楯火山のあとを見せる八幡平国立公園には、畚岳のような熔岩円頂丘もあって、その変化ある風景がおもしろい。  四度目は去年の夏、岩手山を登りに来て、姥倉山から松川温泉まで雨中を下った。そして五度目の今年は盛岡の四家教会のヨハネ神父、ヨセフ神父と、二人のスイス人の司祭に案内されて、八幡平ハイツでの午後の集まりの前、早朝に出発した。松尾鉱山あとを過ぎるあたりから雪が深くなり、六月も半ば近いのに八幡平はまだ冬なのであった。南向きの山腹のアオモリトドマツの原生林の中に、ダケカンバの冴え冴えとした新緑が、わずかに春を告げている。  頂上近くの雪は一番多く、除雪車にかきあげられたものであろうけれど、まさに道ばたの林の中は丈余の深さで残っている。  秋田県側に入って雪が減り、大沼のあたりは、ダケカンバやブナやカエデやミズナラの新緑がゆらいで美しい。ミズバショウもリュウキンカも咲いている。  大沼は九四四メートルの地点にあって、|流石《さすが》に春の盛りであった。沼ぞいの草のみちに入ると先ず両側にヤナギラン、タチギボウシ、サワギキョウ、オニシモツケソウ、ハンゴンソウ、エゾリンドウ、コバイケイソウ、トリカブトなどが生き生きとして、あと|一《ひと》月、|二《ふた》月の花の盛りに備えていた。  水面にはミツガシワが白い花をいっぱいつけて咲いている。蕾のふくらんだレンゲツツジの根もとに、ツマトリソウのかわいい花も見える。イワカガミも咲きはじめ、ショウジョウバカマはもう終っている。林の中にはタムシバが残りの花を見せ、その根もとにツルシキミが花盛りである。赤く小さい花をつけたドウダンの花も、ひっそりと咲いている。  沼は南側が湿原になっていて、イソツツジが点々と白い花をつけていた。北海道の摩周湖から川湯へゆく途中で大群落を見、ニセコで見、|安達太良《あだたら》で見て以来四度目である。  西側の小さな湿地の道のほとりにはミツバオウレンやズダヤクシュが咲き盛り、タテヤマリンドウは蕾をとじていた。  ヨセフ神父が言った。咲いているこの花をとろうとして、カメラの位置を考え考え二、三分して見ると、もう花は閉じていました。そしてそのあと、十分ほどして雨が降って来ました。  敏感にも気圧の変化を知り、花粉をまもるために蕾をとじたのであろう。リンドウは空の青さに咲くけれど、その美しい青は、青ぞらの下にだけ花びらを開くのであった。東側の山みちには今を盛りのムラサキヤシオが、雨にぬれて花も枝も重たげであった。  梅雨がそのまま早春の雨となっているような八幡平であった。頂上近くは西風を伴った冷雨が激しく、八幡沼もガマ沼も雪の下で見えない。とても道なき道を源太森まで辿る勇気がなくもどることにした。  月に四回は山に入り、まだ観光道路のない八幡平にも何十回となく登ったというヨセフ神父が言った。それがいいです。八幡平はいくらよい道路ができても遭難はいっぱいあります。

25 大滝根山  シロヤシオ(ツツジ科)
 純白の五弁の花が、鮮やかな新緑の五枚の葉が、ことごとく空にむかって、重なりあい、そよぎあっている。赤松の樹肌に似た茶褐色の幹は、人間の背丈を二、三メートルほど越え、しなやかに枝をさしかわし、たわわな花と葉をかかえて、ひたすらにゆれ動いている。  ゆけどもゆけども、その純白と、その新緑が|尽《つ》きることなく、自分の前後左右をかこんでいる。  これらの色彩に音を添えるなら、どんな音がふさわしいか。  いや、その花たちと、その葉たち自身が、すでに甘美な音をたててひびきあっているようである。  幾度か足をとめ、私は、その音に耳を傾けたいと思った。  もしも大ぜいの連れがなかったら、麓で待っているひとたちがなかったら、私は、それらの花たちと葉たちにつつまれて、あきるまで、その場に足を投げ出し、その木々の下から去りたくなかった。  西行法師は、桜の下で死にたいと歌に詠んだが、私は、この花の下で、このまま倒れて死んでもいいと思った。花に酔うとでも言おうか。|大滝根《おおたきね》山でシロヤシオ、ゴヨウツツジともよぶその木の大群落の中を歩きながらの感想である。  かつて、日光の半月峠で、咲き残りのこの花を見たことがある。コメツガの林の中の、ところどころ、花もわずかであった。葉の緑が濃くなり、落ちる寸前の花の白は薄黄ばんでいた。  その日、私たちは、まさに、この花のまっ盛りの姿にであったのである。山の頂きに近いところではまだ|蕾《つぼみ》が三分ほど占め、麓に近づくと、純白にやや薄黄がまじって、もう散る用意をととのえている。まるで、人間の童女から、女ざかりを迎え、黒髪もあせて老い朽ちてゆく姿のように。  大滝根山。一一九三メートルの高さは、阿武隈山地の最高峰だが、前日、九六七メートルの鎌倉岳に登った私たちは、次の日、宿を出て、町役場の用意してくれた新調のマイクロバスで、先ず九九二メートルの|檜山《ひやま》にいって、放牧の草地として整備された大牧場を、スイスのアルプス山麓のようだとよろこびあった。  檜山も、鎌倉岳も、また、大滝根山も、隆起準平原状である阿武隈山地の残丘だろう。  大滝根山の頂上には、石を組んで峯霊神社が祭られ、自衛隊のマイクロウェーブの中継基地ができているけれど、西側の部分は、登山者のために開放されていて、私たちが辿ったのは赤松林の中の細い山道であった。  標高差にして七、八百メートルもあろうか。神社のまわりの草地には、ヤマハハコが芽を出し、コケリンドウが咲き、ミヤマアズマムラサキもいっぱいある。  麓の|常葉《ときわ》町役場から派遣されてきた案内のひとが、中腹近くなると、マツハダドウダンが咲いているが、シャクナゲはまだかもしれないと案じている。  大滝根山に、シャクナゲがあることを、このあたりのひとはうれしそうに話す。深山の美花として珍重されているのであろう。しかし、シャクナゲの前に、私たちは、このシロヤシオの海の中に突入したのである。マツハダドウダンとはよばれているが、たしかにドウダンではなく、シロヤシオである。この花については全く期待していなかったので、その突然の出あいと、その美しさに興奮した。  カメラの三木慶介さんも、こんなにきれいな眺めは滅多にないと感動している風であった。  案内のひとにとっては、シロヤシオより、とにかくシャクナゲを見せたいようであった。  私たちは一たん麓までゆき、沢づたいに谷深く入って、山の北面の崖の、あちらこちらに薄紅のアズマシャクナゲを見出した。シロヤシオにかくれて、山道からは見えなかったものである。  道といってもほんの踏みあとが残っているような急崖を、シャクナゲに釣られて登りつめてゆくと、シロヤシオの群落と重なりあって、純白と薄紅がまじりあっている姿はたとえようもなく美しい。大滝根山とは水がゆたかだという意味であろうか。沢筋が幾つも|岐《わか》れていて、渓々の水は北に大滝根川となって阿武隈川に流れこみ、東に木戸川となって、太平洋に注ぐ。  石灰岩の層を持つ大滝根山は、そのどこかの谷筋を掘ってゆけば、現在発見されている以上に、多くの洞窟を見出すであろうと言われている。  洞窟の中には、澄んで清冽な水が流れていることだろう。私にはふと、この山いっぱいの花たちもまた、純白に、薄紅に山を被って流れ下る華麗な水のような気がした。

26 鎌倉岳  コバノトネリコ(モクセイ科)
 登っても見ず、地図の上だけで、山の姿や樹の生え方を想像するのはたのしい。  それが、前もって、いい山だなどと聞かされると、想像もふくらむのだけれど、だれも何も語ってくれず、ただ、そこに、その山があるという位のことだと、ひとに知られていない山というのは、多分、姿もあまりよくないのだと軽く考えてしまう。こんなことでは本当の山好きとはいえないと、つくづく思わされたのが、大滝根山の真向いにある鎌倉岳である。  福島県田村郡|常葉《ときわ》町に、私の住む区の林間学校がつくられることになり、その場所の標高は約五百メートル、周辺は、タバコ栽培のさかんな農村と聞き、実際の風景も見ずに、東京の郊外とあまり変りばえがしないのではないかと案じた。近くにどんな山があるかと聞けば鎌倉岳という。その名には|惹《ひ》かれた。何か鎌倉幕府にかかわりがあるのだろうか。田村郡は、桓武天皇の平安初期に東北につかわされた|坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》の田村であり、平|将門《まさかど》の子孫と伝えられる相馬氏にゆかりの相馬市も近い。そのあたりは古代にあっての、中央の勢力と、早くから東北に住みついた豪族たちとの接点にちがいないことは、常葉町史によって、上代のこの地に|国 造《くにのみやつこ》とよばれるものがあり、延喜式の神社があることでも知られる。  同じく常葉町史には、頼朝が鎌倉に幕府をひらいて、奥州の藤原氏と戦いを交えたとき、戦功のあった南部氏には岩手の地を与え、千葉氏には、太平洋に面した浜通りの地を与えたため、鎌倉の御家人たちが、このあたりに住みついたと書いてある。  この四月の末の一日、林間学校の|鍬入《くわいれ》式の前に、朝の五時から、学校敷地の真うしろにある鎌倉岳に登った。  東京よりは一カ月もおそい春で、まだ去年の枯れ草や枯れ枝の茂る道をだらだら巻きに登ってゆく。コケリンドウやヤマシロギクやウバユリが芽を出している。湧泉があるらしく、山腹に小さな谷がひらけ、まだ一面の枯れ草に被われていた。  石切場という、広やかなところに出ておどろいた。花崗岩を伐り出したあとが巨大な城壁のようにそそりたっている。清冽な泉が、その真下にも湧いていて、山の形は、その泉を境にして、真二つにわかれる。そこまでは、なだらかに根を張ったゆるやかな台地状で、標高七百メートル位であろうか。泉の真上から、花崗岩の露岩が荒々しく山腹を埋める急斜面の二百数十メートルの山となり、谷をへだてる二つの稜線が近々と迫って、小さいが、けわしい山容をつくっている。南陵についている細い急登の道を、露岩に手をかけかけ登ってゆくのが、まことにおもしろい。そして、枝をさしかわすカラマツやブナやミズナラの大木の下には、ヤマツツジやドウダンやミツバツツジなどの潅木が多く、あと一カ月もすれば、これらのツツジのすべてが咲く。ドウダンはサラサドウダンであろうか。そんな想像に私の心ははずんだ。石切場から一時間あまりで頂上に着き、るいるいたる巨岩の間に小さなお宮ができていて、天日鷲神社と書かれている。この山自身が、御神体とされたのであろうと思った。  素晴しい眺望である。大滝根山、檜山、殿上山、五十人山などが東西南北の眺めの中心になり、その間を丘陵がうずめていて、スイスの山村さながらである。  スイスという言葉から、私たちの抱く心の映像は、山の自然と人間の生活が、長い歴史の中に積み重ねられて来たということである。私の旅をしたスイスも、心に描いた映像を裏切らなかった。人間は、山というきびしい自然の中で、それを利用する知恵をみがき、それとたたかう強靭な意志を育てる。スイスは牧畜がさかんであり、勇武な兵たちを生み、常葉町や隣りの三春町は、かつては軍馬の産地であった。いまは山の斜面を草地につくって牧場としたところが多い。  五月の末、ふたたび鎌倉岳に登った。山の谷は一せいに新緑に映え、真紅のヤマツツジ、赤紫のトウゴクミツバツツジの花盛りであった。全山をいろどるその赤や紫の間を、淡雪のようなほのかな白さで、コバノトネリコの花が咲き競っていた。急傾斜の谷道を登りながら、幾度となくその美しさに見とれ、以後、決して、鎌倉岳を名もなき山などと思うまいと誓った。同行の町役場の村上正夫氏から、カマクラとは|神坐《かみくら》、神のある山として、七世紀から修験の道場とされ、湧泉から上は女人禁制の聖山として大事にされて来たことをうかがった。山の木を伐ったりするものもないので、このように花々が美しいのであろうと思った。

27 早池峰山  チシマコザクラ(サクラソウ科)
 北上山地の|早池峰《はやちね》も、あこがれること久しい山であった。  明治神宮に奉納される日本青年館の郷土芸能大会で、早池峰神社の|岳《だけ》|神楽《かぐら》を見たのは戦前の、まだ学生の頃である。同じ|大迫《おおはざま》町の|大 償《おおつぐない》神社の神楽と共に、足利中期から山伏神楽の伝統を今日に伝承しているという。  大償は優雅な七拍子、岳は勇壮な五拍子で男性的な舞いとされ、私の見たのは岳であった。剣と幣を持ち、山の神に五穀の豊穣を祈り、悪魔降伏の願いをこめて舞う。舞手の全身に漲る緊張した線と動き。その幣や剣のさばきにこもる熱気が、したたかに観るものの全身を打ち、心の底までゆり動かされるような感銘を受けた。  鳥海山麓に、やはり五百年の伝統を伝える黒川能をはじめて観たときもそうであったけれど、そこには、中央の能や舞いにみられない、神へのしんじつの祈りがこめられているようで、観るものに大きな感動を与える。  それはひとの心の奥底に、ふだんはひそみかくれている、眼に見えぬ偉大なものへの、崇敬の念をよびもどすことではないだろうか。そのきっかけとして、早池峰や鳥海という山がある。その山容を親しく仰ぎ、その山々の谷にわけ入ってみたい。自分ならばどんな思いをその山から与えられるか。  早池峰は、火山の多い東北地方の山々とは成りたちを異にしていて、古い時代の浸蝕から残された残丘であり、蛇紋岩によってつくられ、特有の地形、特有の植物が見られるという。  羽田から千歳へ行く飛行機の中では、晴れてさえいればいつも窓ぎわに席を求めて、左に安達太良、栗駒がすぎた時、右に転じて早池峰をさがそうとした。数年前の春、まだ残雪の早池峰を時間の許す限りと、岩手日報事業部の中村氏の案内で、河原坊から着物にモンペ、長靴で一時間ほど登ったことがある。雪解けに沢の水は溢れ返り、全身ビショヌレとなって敗退。林間に濃い紅のエンレイソウの花や、カタクリの群落を見た。  つい最近の夏、いつもの山仲間たちと、栗駒山に登って大迫町まで。早池峰神社に近い町営宿舎に一泊。早朝五時からふたたび河原坊口の正面の沢を目ざした。一木一草に眼をとられて足場の悪さも苦にならなかったが、いつか群れよりおくれた私と一人の仲間は、大きなカメラを構えて熱心に写真をとっている青年と連れ立つことになった。じつに花の名にくわしい。岩手大学出身の土井信夫さんで、東京での仕事をやめて、早池峰の植物をとることに没頭されているのだとか。  難路と聞かされた道は沢伝いであるのと、急な登りで、高度をかせげるためにさして辛いとも思わず、七合目、八合目と進んで、あたりはすっかり巨岩の連続となった。昔の修験者たちは一つ一つの岩に名をつけて修錬鍛錬の場にしたらしいが、私たちはただ、岩を埋める花の美しさに息をのむばかり。土井さんから教えられて加藤泰秋氏が発見したというカトウハコベの白い花も見た。この山が南限のナンブトラノオやナンブイヌナズナの鮮麗な薄紅や真黄のいろにも堪能した。ミヤマヤマブキショウマの薄黄の花も見た。これらは岩から岩の間の、ほんのわずかな合間をびっしりと埋めていて、造化の妙とはこのような姿をいうのかと感嘆した。すべてはじめてであった花たちである。ハヤチネウスユキソウもミヤマオダマキも到るところの岩間を埋めていて、一々おどろきの声をあげるひまもない。何故山に登るかと問われて高山植物の花にあうためにと答える私の山旅は、早池峰に至ってその目的を達したようである。からだの疲れもほとんど感じなかった。  案内の大迫町役場の山影青年に聞けば、あの岳神楽を舞うひとたちは、神官やその子孫であるという。日頃から早池峰に登って、心身の修錬を怠らないのだという。あの神楽の動きに見るいのちの躍動は、じつに山の花々から与えられたものであろう。  更にこの山旅でもっともうれしかったことは、帰りみちの林の中に、これもはじめてのオサバグサの大群を見つけたこともあるけれど、最大の収穫は、トチナイソウを見たことである。チシマコザクラの別名を持つ三センチほどの白く小さい花は、岩の間にいっぱい咲いていたヒメコザクラと同じように、本州では早池峰のみに咲く。あまりにも小さくて草地に身を伏せ、ようやくその所在をたしかめたのである。

28 田代山  キンコウカ(ユリ科)
 けわしく苦しい山道をよじのぼってゆくとき、しばしば私は、自分の身を敗残の兵になぞらえる。どうでもゆき通さなければ。少しも早くこの急崖を越えなければ。鋭い眼つきで自分を探し求める敵に追われる思いだけが、磐石のように重いからだをわずかに前進させるのである。  山頂にむかって、急峻な登りがつづく田代山もまた、そのような思いで木の根、岩の根に手をかけ、足をかけして登っていった山であった。  会津の田島に用が出来たとき、近くに登る山はありませんかと聞いて、田代山を教えられた。平家の落人が住みついたという土呂部や栗山の北西に、帝釈山と連なって|聳《そび》え、檜枝岐川と鬼怒川の源流の分水嶺になっている。  田島は会津藩の首都若松を防衛する南の|砦《とりで》とも言うべき位置にあって、江戸と若松をつなぐ街道に沿っている町である。途中で塩原を経る会津東街道と、今市を通る会津西街道にわかれるけれど、そのどちらを車で通っても、浪人塚とか、会津の|戦《いく》さの時の太刀あとなどというようなものが、往時の悲劇を物語るあとをとどめている。彰義隊の敗兵たちも、疲れたからだに鞭打って、田島へ若松へと、この街道を北進したのであろう。  徳川三百年の歴史が、大政奉還という名で新らしく書きかえられるための犠牲として、俊英|松平《まつだいら》|容保《かたもり》を藩主に仰ぐ会津藩に与えられた役割は、婦人や子供たちも巻きぞえにしての悲惨な戦いであった。田島から田代山の麓の湯の花温泉に至る道は、まだ|草葺《くさぶき》屋根の家々が多く、その重い屋根の下に、百年前の、同胞相争った日々の暗い映像が、いろ濃くやきつけられているように見えた。  このあたりは、かつては冬期二メートルを越す大雪のため、陸の孤島と言われたが、いまは道路もよくなり、除雪車も動いて、酪農や植林の経営が進んでいるという。  大正四年七月には民俗学者の柳田国男氏が、田島から私たちと同じく中山峠越えをして、英国の人類学者R・スコット夫妻を伴い、山村の民俗を調査したということが、石川純一郎氏著の『会津館岩村の民俗誌』に書かれている。  三田幸夫氏の「越後銀山平より会津の山旅」という文章の中にも、大正九年七月、|木賊《とくさ》から唐沢峠を越えて湯の花温泉に着き、一泊して田代山に登ったということがしるされている。東北地方の最南地域にあって栃木県に接し、関東経済圏に属しながら、なお多くの古俗を伝えていることが、ひとびとの関心をそそったのであろうか。  宿の前を流れる湯岐川の瀬音に身も心も洗われるような一夜が明けて七時、星力氏の案内で渓流沿いの道を車で登山口まで。  田代という呼び名は湿原のこと、田代山は頂きに高層湿原があるそうだけれど、日光の戦場ヶ原や尾瀬にくらべてどんな眺めであることか。  高層湿原には、森林の下のミズゴケ類がふえて、木々を駆逐してできるものが多いと聞いたが、私はまだこの眼で見たことがない。それを見ぬうちはと、自分で自分に、かけ声をかけてひた登りに登る山腹の傾斜は、三田氏もかなりきついと言っている。  落人ならば、どうでも越えなければならぬと歯をくいしばり、溜息をつく道のかたわらには、ウグイスカグラやタニウツギの薄紅の花、キバナウツギやホサキツツジの薄黄の花、スノキやシラタマノキの白い花が咲いて、一息入れ、二息入れて休みなさいと言わんばかりになぐさめてくれた。三時間近くかかってようやくゆるやかな登りの栂林に|辿《たど》りつき、倒木がやたらに横たわる小さな湿原に出ると、サワランの真紅の花が咲いていた。  いつかの夏、加賀の白山の室堂の裏の草地の中で見つけたことを思い出す。室堂にはハクサンコザクラがいっぱいあって、サワランの赤は目立たなかったが、ここでは一面のミズゴケの中なので、きわだって美しい。しかしそれ以上に美しかったのは、樹林帯を抜けると、いきなり眼の前にひろがった頂上の黄金いろの一面の原であった。南にむかってゆるく傾き、低まったあたりはニッコウキスゲの大群落である。  原の果ては空につづき、七月の真夏の陽光に映えて、空の青さが、群がり咲くキンコウカの花の黄に染まって、緑めいて見える。  この日が私にははじめてのキンコウカとのであいであった。ニワゼキショウに似た細い葉の形も端正に、七、八センチほどの花柄の頭部に、びっしりと|総状《ふさじよう》の花をつけている。  見わたす限りの黄の花房が空にひしめく姿には生命の躍動感が溢れ、何かほっとした思いに、右に会津駒、左に日光連山の紫の山影を見ながら、まん中の木道を歩いていった。  敗れた会津びとの中に、平家の落人の中に、きっとこの山に登りついて、この黄金いろの花の群れに、生きる望みをかきたてられたものがいたにちがいないと思う。戦いのむごさも忘れ、戦いの傷あとのうずきもいやされ、この黄の花の群れの中に身を埋めて、ひろいひろい空を眺めやる。自然がこんなにも美しいなら、もうちょっと、もうちょっと、生きていてみよう。そんなつぶやきを心にくりかえしながら。

29 鳥海山  チョウカイフスマ(ナデシコ科)
 鳥海山には、チョウカイフスマが咲くという。私はそのことを、何人かの山形のひとから聞いた。どのひとも、なつかしそうにその名をあげた。  北海道の利尻富士に登ったとき、針葉樹林帯の木かげに、純白の五輪の小さい花が群れ咲いていて、ハコベに似て、もっと花が密集していて美しかった。図鑑にはオオヤマフスマとあり、ヒメタガソデソウとも書かれていて、その花のかれんさが、そのようにやさしい名を与えられたのかと思った。帰って、山形生まれの友人に写真を見せると、チョウカイフスマは葉も花ももっと美しいと言う。武田久吉さんの『日本高山植物図鑑』には、チョウカイフスマと、メアカンフスマは同じと書かれている。鳥海の主とよばれている畠中善弥氏の『影鳥海』によれば、メアカンフスマは、一八八五年、藤田九三郎氏が採集して、一八八六年、ロシアの植物学者、マキシモウィッチ氏がメアカンフスマと命名。一八八七年、矢田部良吉氏が鳥海山で採集したものが、メアカンフスマと比較して別種であるとの見解から、一九一九年、チョウカイフスマとして発表。両者が同一種か別種かはいまだに議論のあるところであるという。学者の見解はともかくとして、私は、山形の人たちが、チョウカイフスマを、鳥海山の花として、誇りやかに語る気持ちをうれしいと思う。  地方によっては、お国自慢の第一に、首相を何人出したと数えあげたりするひとが多いのに、飽海郡遊佐町にいった時も、教育長の菅原伝作氏がわが子をほめるように、チョウカイフスマの美しさを語るのを聞き、いつか必ず見に来ますと約束した。そして、二年たって夏の七月のはじめに、羽黒山、月山の帰りに、いつもの山仲間四十人と吹浦に一泊して五時に出発した。  必ず来ると言っても来ないひとが多いのに、よく来てくれたと菅原さんはよろこび、畠中さんをはじめ、教育委員会の皆さんが同行してくれた。  当日は小雨まじりの曇天で、まだ雪の多い山は道に迷い易く危険だということである。東京をその前日の夜行バスで来て暁方の羽黒山にゆき、月山にゆき、冷雨降りしきる中を、西側の急斜面の悪路を下りて、いささか皆疲れていた。月山でゆきあった中年の男のひとは、私たちのスケジュールを聞くといきなり、東京から来て、一泊で出羽三山と、鳥海山に登るなどとはおこがましいと不機嫌であった。そのおこがましいと言う言葉に、私は、土地のひとらしい登山者の、出羽三山や鳥海山によせる尊崇の思いを知らされたような気がした。  四合目の国民宿舎大平山荘でみそ汁の振舞を受け、つた石坂から見晴し台までの急坂を登って午前六時。ブナ、ミズナラ、ダケカンバの樹林帯を抜けて、小さな流れに沿って進む。チシマザサに被われた斜面には、まだつぼみの固いニッコウキスゲがいっぱいある。ツマトリソウ、タニギキョウ、ヒナザクラも咲いている。シラネアオイはまだ|蕾《つぼみ》。登るにつれて両側の雪が深くなり、幾度か雪渓を横切ってあたご坂の急坂を越えると、雪が少くなって、這松の密生があらわれ、中に、伯耆大山で見たキャラボクもまじっていた。  七合目の御浜神社までの道の両側で、チョウカイアザミ、ウゴアザミ、オクキタアザミに見参。殊にチョウカイアザミの花のうつむいた姿がおもしろい。花のかたちに特徴のあるチングルマも咲いていた。  七合目、千七百メートルの地点にある御浜神社で一休みして、神社のうしろから九合目の千蛇谷のほとりまでゆく。晴れていれば真下に鳥海湖を、西に日本海、東に新山と大物忌神社を望んで、雄大な景観をほしいままにするところだけれど、とにかく視界五十メートルの霧の中である。鳥海湖になだれ落ちる斜面の一面のハクサンイチゲの大群落を見ただけでもう満足と、帰ろうとする足許の砂礫地に点々とチョウカイフスマが咲き、案内の菅原氏たちが、「あった」「あった」と声をかけ合ってうれしそうに見入っている姿に感動した。

30 月山  ウズラバハクサンチドリ(ラン科)
 私は、昔から、大ぜいのひとが登ったという山に惹かれる。何故、そんなにも多くのひとの心をとらえたのか。  出羽三山はその北の鳥海山と共に、久しく心の底にその姿をひそませていた。鳥海山は青森、秋田、山形、それらの土地にゆく度に、成層火山の特徴を見せるその秀麗な山容が遠望され、駿河の富士山が、その山容を仰ぎ見るひとびとの心に、さまざまの影を落したように、鳥海山もまた、東北西部のひとびとの心に大きな力を投げかけているにちがいない。  出羽三山にはこの三つの山を一体の神とする修験道の信仰があり、崇峻天皇の皇子が開山したということになっている。まだ国が若くて、天皇家に対立する豪族として蘇我氏の力が強大な頃であり、天皇はひそかに馬子の命を受けた|東 漢《やまとのあや》の駒に殺された。その皇子が大和からはるばると月山に着いたという事実はともあれ、その開山を六世紀という古さに据え、非運の皇子を持って来たことがおもしろい。  八世紀の延暦四年には、熊野権現を勧請したと山形県史に書かれている。あるいは、出羽三山を一体とする発想は、熊野三山から来たのかもしれないが、熊野に、修験者の、海に流されての死を期す|補陀洛《ふだらく》渡海の風習があったように、ここには、穴の中に生身を埋められての成仏があった。骸骨が僧衣をまとっての姿は、写真で見ただけでも恐しく、信仰の極致が、何故そのようなすさまじい自己虐待を生むのか、ほとんど理解に苦しむところだけれど、出羽三山の姿には、そのような苦しみへの陶酔を誘う妖気が漂っているのかもしれなかった。  羽黒山からバスで月山の八合目の弥陀ヶ原まで。午後からくずれるという空は雲が重なりあっているが、視界は東西二・五キロ、南北三キロという青草の野の果てまで見通すことができて、ゆるやかな斜面を登りながら、そのすばらしさを山友だちとよろこびあった。月山火山の熔岩台地でもあろうか。霧ヶ峰にも似たひろやかな眺めである。木道の両側には、ひらきはじめたニッコウキスゲの黄、ヨツバシオガマの紅が美しく、紫のハクサンチドリも点々と咲いている。チシマザサのかげにはシラネアオイも咲きはじめ、ウサギギクもあざやかな黄に映えている。月山という山が、こんなに花のある山とは知らなかった。大小の|池塘《ちとう》もあって、ワタスゲの白い花穂がゆれ、イワイチョウやミツガシワの白い花も見える。ぎっしりとモウセンゴケも生えている。キンコウカの黄、トキソウの薄紅も美しい。ミヤマニガナもタテヤマリンドウもネバリノギランも多い。  熔岩流の波が幾重にも重なっておしよせたような、急坂の岩石地帯を幾つか越えてゆるやかな草地に入ると、栗駒山で見たヒナザクラの群落がつづき、ハクサンチドリの葉に、暗紫色の斑点のあるのが目立って来た。はじめて見る種類である。写生して、鳥海山に同行してくれた植物通の畠中善弥さんに聞くと、ウズラバハクサンチドリであった。  ハクサンチドリはずい分方々で見たけれど、この斑点のあるのははじめて見た。八合目から十合目の月山神社まで五キロ。だらだら登りのせいか意外に時間がかかって、夜行バスで来た身はぐったりとして足が重い。天候も急変して雨となり、小屋のうしろのクロユリの大群落もそこそこに眺めて湯殿山口へと七キロの道を下る。雨は風を伴って冷たく、急坂に次ぐ急坂の道は、雪渓を幾度か横切り、霧がたちこめて視界二、三十メートルほどになり、登って来た道が天上の楽園とすれば、この世の地獄ともなって来た。ニッコウキスゲもつぼみばかりとなって、一つの山でありながら、東側にくらべて西側の気温がずっと低いことを示しているようであった。  下へゆくほど、雪渓の雪がゆるんで来ていて、ミズバショウなども咲き出しているが小さい。芭蕉が『奥の細道』に「息絶身こゝえて」という思いをして「雲霧山気の中に氷雪を|踏《ふみ》てのほる事八里」と書いたのは、やはり、こんなお天気の日であったのだろうか。地獄の道の最後は、爆裂火口の壁面とも見える仙人沢に下りるための梯子や鎖の連続で、降りしきる氷雨に、下着の中まで水が通り、足を踏み外すまいと必死に桟をつかむ手も凍えたが、岩かげにベニバナのダイモンジソウを見出し、わずかになぐさめられた。月山はやはりおそろしい山であった。

31 羽黒山  ミヤマヨメナ(キク科)
 芭蕉が、出羽三山に登ったのは旧暦の六月はじめだから、ちょうど七月五日に東京をたった私たち一行と同じ頃である。 「行春や鳥啼魚の目は泪」とあって、都を出たのは春の終り。「前途三千里の思ひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそそぐ」などと、感無量の出発であったのにくらべると、私たちは前夜、新宿駅前を夜の九時にバスで出発。明け方の四時には、羽黒山の二千二百段の石段の下に到着した。   有難や雪をかほらす南谷   涼しさやほの三日月の羽黒山  江戸から北に、日光、那須、白河、松島、平泉、尾花沢と長い旅路を重ねて来て、芭蕉は羽黒山の鬱蒼とした杉木立ちの中に身をおいた時、言い知れぬ安堵感に浸されたのではないだろうか。その句のゆとりある気持ちがよくでている。羽黒山は葉黒山であろうと言われている。先ず眼に入ったのは、樹齢三百年から五百年と言われる杉の大樹の林立である。互いに枝をさしかわして暁の空を被い、その深々とした姿に、徹夜バスの疲れが一度に拭われた。  羽黒山は平安から鎌倉にかけて山伏修験のもっとも盛んな時期を迎え、南北朝時代には、吉野金峰山に協力して南朝方のために働いた。山伏姿の修験者は、敵の情勢をさぐる役目を果したのである。 「山形県総合学術調査会」の報告によれば、明治初年の神仏分離が行なわれるまでは、山内には百十三の堂舎があったが、排仏毀釈の方針によって、八十五棟が破壊されてしまったという。  伯耆大山や戸隠にいっても、そうした悲劇を聞かされたが、作業に当ったひとびとはどんな心境でいたのだろうか。たしかに神仏混淆という発想は、宗教を政治的に処理した気配があって、あまりすっきりした話ではないと私は思っている。しかし、もともと日本人の宗教心は漠然とした自然信仰であって、対象は神でも仏でもよく、神経質に、せっかく歴史のあとを残している堂塔を破壊することはなかったと思う。  建物の破壊や、寺を神社と言いなおしての純粋神道促進主義が、どこまで民衆の生活に定着したか知らないが、私には、出羽三山、鳥海山といえば、心に残る強い印象がある。  数年前に、水道橋の能楽堂で、山形県東田川郡の黒川に五百年の伝統を伝える黒川能の演じられるのを見た。中央の能のように、観賞能として洗練されたものでなく、あくまでも、神事能として存立して来たことが、演者たちの拝礼のかたちや、熱意こもる演能のはしばしにもあらわれていて、そこには、演劇が、神にささげられるものとして発達して来たという意義が脈々として息づいているように思われて感動した。黒川は、はるか北に鳥海山を、南に出羽三山を仰ぎ見る位置にある。  中世に於ける地頭の武藤家や、徳川期の大名酒井家の保護によって、春日神社に奉納されるその演能がつづけられたというけれど、すでにそれ以前から、山々に住む神へのつつましい信仰が、それらの村に住むひとの心に根づいていればこそと思わずにいられなかった。  菅原伝作氏は、鳥海山麓の村々には、山伏修験者たちによって、番楽とよばれる舞曲が伝えられ、遊佐町にあってはいまも比山番楽として、演じられているという。これも娘時代の記憶に、九段の能楽堂へ観にいったことがあり、その素朴で幽玄な舞いに感じ入って、一生懸命スケッチして来たものを持っている。番楽には黒川能より古い歴史があり、上代の昔から火を噴きつづけて来た鳥海山を神として畏怖して来た心が、舞いの形におさめこまれたものであろう。  これらの山々にかこまれたあたりは、庄内平野とよばれる米どころである。米つくりに欠かせない水は山々の峰から流れ落ちてくる。早くから山はひとびとにいのちの源を与えてくれる崇高なものとする思いが育っていったのであろう。  月山や鳥海山には長く女人禁制の戒めがあったが、羽黒山には女も登ることができたという。その石段はいかにも女の足にふさわしくゆるやかにつけられていて、山頂まで一・七キロ、杉並木の間から不動堂、護摩堂、普賢堂、五重塔などの古色床しい建物を仰いでゆく道のかたわらには、ミヤマヨメナの薄紫の花がいっぱい咲いていた。ツルアリドオシの白く小さい花の外は、すべてヨメナと言いたい程の群生で、杉の木の男性的な樹間を埋めて、いかにも女らしい姿であった。

32 栗駒山  ヒナザクラ(サクラソウ科)
 ヒナザクラにはじめて出あったのは岩手県の|栗駒《くりこま》山である。その後は鳥海山でたくさん見たけれど、ハクサンコザクラやエゾコザクラに似てもっと小さく、いろは純白というこの花を、栗駒山の須川温泉から昭和湖へゆく途中の湿原の中に見出したとき、しばらくそのそばを立ち去れなかった。  その朝、私はひどく疲れていた。その前日、|一関《いちのせき》で午前と午後に用があり、そのまた前日、北海道の大千軒岳に登り、深夜の連絡船で青森にわたって一関についたのである。できれば須川温泉で半日でも休みたいところであった。道のかたわらに蒸し風呂の小屋があり、ござ一枚持った女のひとたちが上ってゆく。あのござの上に寝て湯気に蒸されるのであろう。しかし団体行動にはそのような自由は許されない。疲れは山へ登っているうちにとれるというのが、いつも私の実行して来たことであった。  しかしこの日、私は精神的に疲れていて、それは肉体の疲れよりもはるかに深く大きかった。青函連絡船の船室で、一つの事件があった。大千軒で疲れた私はできればグリーンの船室をとりたかった。車掌にたのむと、かつぎやの女のひとたち専用の部屋にいれられてしまった。大きなリュックをしょって、|経木《きようぎ》の帽子をかぶって、八百屋の店先で見かけた北海道カボチャを二個手かごに入れて提げている。土地のひとであるかつぎやさんたちは、四時間の連絡船の中で眠ることなど期待していないらしく、七、八人がしゃべり通しにしゃべっているので恐れをなし、もう一度車掌のところへいってグリーンの船室をたのむと、「おばさん、ずい分かせいだんだね」とからかわれてしまった。別にそれが精神の疲れになったのではない。グリーンの船室には若い一組の男女がいて、何か組合の問題についてさかんに討議している。労働者の権利とか管理とか、しめあげとかいうせりふが頻繁にかわされ、男より女の方が大声である。三十分だまって聞いていて、一時近くなったとき、私はたまりかねてさえぎった。  ——もうねて下さいませんか。  男はすぐにだまったが、女はまだ一人、燃え残りの薪のようにしゃべっている。水筒の水が残っていたので、頭からかけて火を消してあげたくなった。女はそれから十分間も一人で発言をつづけた。その十分間が更に大きな疲れをよんだ。水をかけるべきか我慢すべきか——。  山小屋でもよくこんな思いをさせられることがある。消灯の八時がすぎてもまだしゃべっている。九時になる、我慢しようか、いや、どなろうか。小屋のひとはなぜやめさせないのか、ほかのひとたちはなぜだまっているのか。それとも自分は人一倍狭量なのであろうか。  そんな夜のあくる日の登山の足は重い。しかし栗駒山のヒナザクラを見た時、あまりにも小さいのに感動したのであった。  ——自然はこんなにもつつましい。  ヒナザクラの花のいろの白さも気に入った。サクラと言えば薄紅か、サクラソウの類の濃い赤か、いずれにしても華麗ないろときまっているのに、こんなに白いのもあったのか。白とは自分を相手次第のいろに染める素直さそのものに見えた。これも他者へのはじらいや自分の傲りをいましめる心があればこそであろう。ムシトリスミレ、ミネズオウ、ガンコウラン、ツガザクラ、キンコウカ、モウセンゴケ、タテヤマリンドウ。すべて小さいものが、小さくてなお、よく見ればそれぞれの美しさに咲いているのが、自分とくらべて何か恥ずかしい。私はなぜすぐ人を責めるのか。  湿原から露岩のごろごろしている草地へ。複式コニーデ型の火山であるという栗駒山は、地形が複雑で、眺めの変化が多い。花も谷間から湿原、草地、山腹の急傾斜、湖畔と、それぞれの場所に、それぞれの種類が群落をつくっている。あまり荒らされてないということなのであろう。湿原にはミズバショウがさかんであった。ショウジョウバカマも花柄がのびきって、咲き残りの花をつけていた。  昨夜は夜行バスでろくろくねていないはずなのに、仲間たちはどんどん先に登って、いつかラストになった私の前後に、一関カトリック教会の小野神父、|千厩《せんまや》カトリック教会の高橋神父がゆっくりと歩いておられた。昨夜の話を聞いてもらいたくなった。しかしやっぱり恥ずかしかった。頂上から北に、明日登る早池峰、来年のよていの鳥海山をはるかに眺めた。山は皆だまっている。やっぱりあの女のひととは喧嘩しないで来てよかったと一人思っていた。

33 安達太良山  ツリガネツツジ(ツツジ科)
 東北線に乗って、白河を越し、二本松のあたりを走るとき、左側の車窓いっぱいにひろがる根張りゆたかな山、それが、高村智恵子の心の眼に、いつもはっきりと灼きつけられていた|安達太良《あだたら》山と知ったのは、いつの頃からであったろうか。  智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ/私は驚いて空を見る/桜若葉の間に在るのは/切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ/どんよりけむる地平のぼかしは/うすもも色の朝のしめりだ/智恵子は遠くを見ながら言ふ/阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ/あどけない空の話である。(高村光太郎詩集より)  明治十九年、阿武隈川のほとり、二本松市の酒造家の娘として生まれた智恵子は、上京して日本女子大を卒業し、画を学んでパリ帰りの彫刻家高村光太郎と結婚する。二人は純粋に美を求めて生きようとし、智恵子は実家の没落にであって、繊細な神経を痛めてゆく。  病む智恵子の眼は、ほんとうの空の青さにあこがれる。それはふるさとの、安達太良の上の空にだけあるという。  高村光太郎の住んだのは、本郷台地であったから、智恵子が共に眺めた空は、いまの荒川区や足立区の上にひろがっていたのであろう。  二人が暮した明治から大正の頃は、まだ一面の田園であったから、現在のように、工場の煙でよごれることはなかった。それでも智恵子は、純粋に真実の空の青さがほしいと、遠い東北の空に眼差しを投げたのである。安達太良の麓にある岳温泉から下って、二本松という町にいった時、智恵子の生家の前を通った。軒が深く、格子戸をはめた二階の窓のまん中に、新酒のできたことを知らせる杉玉の看板がかかっていた。  智恵子はこの山裾の町よりは東京に住みたいと上京し、東京にあれば、ここよりは安達太良の見えるふるさとの方がよかったと嘆き、二つに引きさかれた心を、遂に狂気の境におとしてゆくのだが、実際に安達太良の山に一歩でも足を入れたことがあったのだろうか。せめて|岳湯《だけのゆ》のそばまでも。  早池峰の帰り、花巻の大沢温泉に泊り、近くにある高村光太郎の戦後の住居のあとをたずねた。  都育ちのひとが、ここに暮して、それが死の原因になったという肺炎を起したのも無理ないと思われるような、|粗壁《あらかべ》の、いかにも風通しのよさそうな家で、家というよりは、納屋に近かった。しかし家の前にはミズバショウやノハナショウブ、カキツバタを植えた田圃があり、ウワミズザクラの大木もあって、光太郎が野の花、山の花を愛したのがわかるような気がした。光太郎は亡き妻をしのんで、安達太良に登ろうと、一歩でも岳湯への道をたどったことがあったろうか。  安達太良は千七百メートル、遠くは利尻・礼文、羊蹄山、岩手山、栗駒山、蔵王、磐梯山、赤城山、那須岳などと、系列を一つにする火山帯に属する活火山で、一九〇〇年(明治三十三年)を最後として沈黙をまもっているけれど、硫気孔も多く、いつまた同じ山系の秋田駒のように爆発するかわからない。  大沢から岳まで南下して来て、岳温泉に一泊したあくる朝は、ざんざん降りの雨であった。  しかし、せっかくここまで来ての思いは深く、宿を出て途中までリフトを利用することにした。  勢至平を経て、籠山から安達太良の頂上に着いた頃は、雨と風で、何の眺望もなかったが、途中のツツジ科の植物の豊富さには十分に満足した。  だらだら登りに潅木の林をゆくと、右に左に、アズマシャクナゲの白、ベニドウダンやサラサドウダンの紅。ウラジロヨウラクの赤紫が、枝もたわわにと言いたいほど咲きさかっていて、那須でも苗場山でも、奥日光でも、これらの花はいっぱい見たけれど、こんなに通り過ぎる木々のすべてが、花盛りというような眺めにであったことがなかった。  特にウラジロヨウラクは、貴人や仏者の飾りにつかったヨウラク(瓔珞)の名にふさわしく、ふっくらとした筒状の花の先がわずかに狭まって、心にくいばかりの優雅さである。この花には武田久吉さんの本によればツリガネツツジの別名がある。本によっては親と子ほどに似ているが、別のものとしているのもあるけれど、高村智恵子がもしこの山に入って、この花を見たら、どちらをとるであろうか。ヨウラクの名の貴族的なひびきか。ツリガネの名こそ、今にもりんりんと音をたてて鳴り出しそうな花の形にふさわしいと言うだろうか。馬の背の長い道を、雨に降られ、風に吹かれて来て、山上温泉のあるくろがね小屋にとびこみながら思った。

34 五葉山  ミネザクラ(バラ科)
 |五葉《ごよう》山の名は、気仙沼にいく度に、その土地のひとから聞かされた。その名を口にするとき、何ともいえない親しみをこめて言う。地図で見ると、三陸海岸の|唐丹《とうに》湾の真西に当っていて、気仙沼湾はその南に当っているけれど、東北地方の東部を走る北上山地では、主峰とする早池峰の一九一四メートルに次いで、一三四一メートルの五葉山が高い。旦つ一番海寄りにある。リアス式の湾入がたくさんある太平洋岸の港々の船たちは、沖合はるかに五葉山の姿を眺めて、その位置をはかったのではないだろうか。秋も半ば、一関での用をすませたあと、大船渡から赤坂峠まで、途中、大理石海岸、碁石海岸などの、美しい海岸線に沿って車を走らせた。  五葉山の北には、昔からの民話をたくさん残している遠野の町がある。交通の不便だった昔は、文明開化の波に洗われることも少くて、古くからの民話も大事に伝えて来たのであろう。赤坂峠で車を下りて白樺やミズナラやブナの中の山路を辿る。  赤坂峠は七百メートルのところにあり、熊野川の谷に沿って東に下れば唐丹湾である。海まで直線距離にして六キロとないところなのに、峠までの大沢沿いの道は、白樺や|栂《とが》や檜やブナの原生林で、これらの森の中には天狗が棲んでいると言われ、クマやシカやカモシカやサルなどを見ることもしばしばであるという。殊にシカは多くて、笹の葉の食べ工合から見ると三、四千頭はいるかもしれないという。峠から上の林道には、巨大な花崗岩があちらこちらと露出していて、天狗がその上を居場所にしていたから畳石とか、腰かけていたから腰かけ石とかの名をつけている。  ウバが石という名の巨石もある。  かつて、女人禁制であったとき、禁を犯して登った女があり、巨石がその上に落ちて死んだ。その石の形が|姥《うば》に似ているとしたのだが、女人が登って、男子の修験道にはげむのを邪魔することをおそれたのか、戸隠にも立山にも、禁を犯して登った女が石に化したという伝説がある。  天狗という魔ものは、描かれるとき、いつも修験者と同じような服装をしている。勿論、実在するはずはなく、山を男のひとだけで独占しようとした修験者たちが、天狗という架空の魔もので脅やかし、山に近よることをおそれさせたのであろう。山に登った女の上に落ちて来たという石は、あるいは故意に女にむかって投げられたものではなかったろうか。いずれにしても、せっかく好きな山に来て、女であるために殺されなければならなかったとは、釈然としない話である。  五葉山は、暖流を運んでくる海に近いせいか、アスナロや檜など、暖かい土地柄によく生育する木々が多く自生し、中腹から上には這松が群生している。  わずか千三百メートル程の山で、北アルプスあたりでは二千五百メートル以上の山地に生育する這松の群生が見られるのも、北に傾いた緯度のせいであろう。  頂上には強い風が吹き、吐く息も白く手もこごえそうになった。十月のはじめで、もう気温が零度以下になるらしい。一人一人立っていると吹きとばされそうなので、私たちは固まって歩いた。頂上に珍らしいという這松の中の湧き水が、湧くそばから薄氷している。  晴れた日で、北に早池峰や岩手山が、堂々たる山容を誇っているけれど、とても眺めていられるような風速ではなく、そうそうにして、風下になる南斜面を下った。  這松の下には、南向きで暖かいせいか、ガンコウランやベニバナイチヤクソウが実をつけながらまだ枯れずに残り、アカミノイヌツゲの赤い実も見られた。  しかし南向きの斜面といっても、海からの距離が近くて、まともに海風を受けるせいか、白く美しい花を咲かせるというシャクナゲも、薄紅のかわいい花をつけるというミネザクラも、一メートルそこそこで、人間の腰の高さ位にしか育っていない。その花の盛りの頃にまた登って来たら、花の海の中を泳ぎわたってゆくような眺めになるのではないかと思った。  見わたす限りの原始林は黄に赤に紅葉しはじめて、いかにも天狗とやらが棲みそうな神秘さをたたえている。  夕暮れ近い太陽が、西の山の稜線を朱に染めはじめると、下りてゆく道の東方に当って、夕映えの雲の下に、紺青の太平洋が浮び上って来た。

35 利尻山  シコタンハコベ(ナデシコ科)
 利尻富士は多分私には無理とあきらめていた山である。  二十年前に立山から槍ヶ岳まで縦走したあとで、大腿骨を複雑骨折している。十五年前に再手術して、それでなくても弱い脚力が、なお衰えてしまった。再手術してから、百を越える山に登ったのは、ただひたすらに山の中にあることが好きだったから。しかし、からだの状態を考えれば、高く険しい山はいくら好きでも、ほどほどということがある。  利尻は海面から一七一九メートル。足の丈夫な頃は一時間に三、四百の高度をかせげたが、今はせいぜい二百から二百五十メートル。利尻は登りに八時間と見なければならない。山道によっては、下りもその位かかることがある。  稚内から飛行機で礼文島に着き、礼文岳に登って翌日、鴛泊に着いて一泊。早暁の午前二時に宿を出た。稚内にもどる船は午後三時に出帆である。十二時間だけの許された時間で、利尻の中腹にある長官山までゆければよいと考えた。かつて一人の北海道長官が、部下たちと利尻に登山し、長官山まで達して引返したという。大変ふとっていたひとのようで、その志は称賛に値すると「利尻礼文国立公園昇格記念アルバム」に書かれている。いつか加賀白山に登った時、某県知事某氏が、ヘリコプターで室堂の前の草地に到着したのに出あったことを思えば、肥満体を、この千二百メートルの地点まで持ち上げたことはたしかにえらい。私も七十キロ近い肥満体である。ここまで六時間と見て、あとはお花畑を散策し、健脚組が頂上から下山してくるのを待とうと思っていた。  登りはじめたのは三時。足の弱いひとは四四七メートルのポン山と、利尻火山の一噴火口のあとである姫沼湖畔一周のコースをえらび、私もまだ明けやらぬトドマツ、エゾマツの原生林の道を、懐中電灯の光を頼りに歩きながら、とつおいつ迷っていた。今度の山旅では、いつもの女ばかりの山仲間と、ニセコの目国内、樽前、夕張岳と登って来て、風邪薬を乱用したせいか、脚力はなはだ覚つかない。午前五時、夜も明けて、姫沼との分岐点も過ぎ、原生林の闇から脱けた頃は、とにかく長官山までを目標として、意外に歩きよい山道を歩きすすめた。  午前七時、長官山に辿りつく。だんだん道も急になって息あえがせながら、朝陽にかがやく長官山の頂きが樹間に見えかくれするのを、あそこまで、あの場所までと重い足を引きずりながら来て、いつかその頂きを背後にすると、忽然と眼の前に頂きから麓までの雄大な斜面をもつ利尻本峰があらわれ、その山腹一ぱいに、黄にいろどられた花々が遠望され、一ぺんに疲れが消えてしまった。  何の花だろう。シナノキンバイであろうか。ミヤマダイコンソウであろうか。黄のいろが一つの花毎にかたまっているので、細かい花のあつまったキンレイカではあるまい。黄のいろが濃いのでセンダイハギでもない。アキノキリンソウはもっと南に位置する目国内でも蕾であった。北の利尻ではまだ咲かないだろう。同じ黄でもミヤマキンポウゲはもっと花のいろが薄いのではないか。などなど眼はひたすらに、その黄の花の大群に吸いよせられて雪渓を横切り、視線はその黄のお花畑に縫いつけられたまま、足許のオダマキやエゾシオガマやエゾツツジの、濃く鮮明な色彩におどろかされているうちに、九時、頂上の真下の最後の悪路にさしかかった。  利尻富士は、那須火山系の北端に占める火山で、礼文島から海上に浮ぶその富士山に似た成層型の山容のすばらしさに眼を見張らされたが、頂上近くは爆裂火口の名残りを示していて、一歩進んでは半歩ずり落ちるような砂礫の道である。草つきの南の斜面には、ここまで咲きのぼって来た黄の花が点々と咲き、利尻の特産であるというボタンキンバイのようであった。  あと十分で待望の頂上にと一息入れた時、岩かげに純白の一群れの花を見た。ハコベに似て花も葉も大きくたくましい。  あ、シコタンハコベと気づいた。敗戦後、千島列島はソ連の占拠するところとなったが、日本人にとって、どうしてもとり還さなければならない島の名を負って、この一群れの花は、この荒々しい山肌にしがみついていると思ったとき、ふと、いとしさに涙がにじんだ。

36 礼文岳  レブンソウ(マメ科)
 礼文には、札幌の|丘珠《おかだま》から飛んで先ず利尻に。鴛泊港まで車を走らせて船でわたった。  飛行場から見る利尻山は、透き通るばかりの北の青空を鋭三角形に切取っていて、その紺青の姿の秀麗さに、明日はこの足で登ることができるのだとうれしかった。礼文の礼文岳はその準備登山のつもりだったが、前日夕張岳に登っていたから、むしろ礼文は、全島を埋めて三百種類の高山植物があるという評判にひかれていた。三十分足らずの乗船で、香深港に着き、民宿に荷物をおいて先ず礼文岳に。東海岸の起登臼から登った。  利尻では晴れていた空が、わずか八キロしか離れていないのに、トドマツやダケカンバの混生する山腹をまくうちにすっかり曇って、小雨さえ降り出してしまった。  一時間半ばかりして樹林帯を抜けると、一面の這松帯となり、霧が去来して傘を持つ手先が痛いように冷たい。  待望の高山植物は、マイヅルソウやガンコウランやコケモモなど、方々で見馴れたものばかりで、林の下草にはツタウルシが地を被わんばかりに茂っていた。案内の町役場の高橋氏が、高山植物は高いところより低いところの方が多いのですと言われた。  利尻と礼文は、共に那須火山帯に属しているけれど、利尻が島全体で、いかにも火山らしい急峻な独立峰を形づくっているのに、礼文は、礼文岳につづく三、四百メートルの山々が連なり、浸蝕の進んだ老年期の火山の姿を示し、島全体が一つの台地のようである。  周辺は|鰊《にしん》の豊漁に恵まれて早くから漁場が発達し、アイヌも大ぜいいたけれど、文化年間の天然痘の流行で激減したという。日本の最北の島ではあるけれど、対馬暖流にかこまれていてしのぎやすく、冬の最低気温も旭川や帯広よりは十五度もあたたかい。海沿いの地には、到るところに数千年前からの遺蹟があり、土器や石器、金属器が発掘されている。  礼文岳の樹林帯が、利尻にくらべてずっと若い木々であるのは、開拓が進んでいるせいであろうか。霧が多く、風が強くて育たないのか。礼文岳を下りきって、桃岩に向かう道の斜面にハマエンドウかと見える赤紫の花を見た。エンドウよりはレンゲに似て、もっと厚手でたくましい。図鑑で知ったがレブンソウであるらしい。群れをなして砂礫の崖をいろどっている。いかにも風当りの強いところを避けて、安住の地を得ている感じである。  花が好き、高山植物の花を見たいなどと言っても、私などはいつも図鑑と首っぴき、花にくわしいひとから、その名を教えてもらうのが精一ぱいの花とのつきあいかたである。すでにその花は大ぜいのひとびとによって発見され、名がついている。しかし、はじめて見る花は、つねに自分にとっての新らしい出あいであり、自分のいのちがその花に添って伸びひろがってゆくのを感じる。  ずっと昔、植物同好会に入っていて、結婚してからも、よく牧野富太郎氏のあとをついて武蔵野の丘々を歩いた。先生はお幾つ位であったのだろうか。思いがけない花を見つけられた時など、子供のように息を弾ませ、その名を呼びながら、小走りに駆けよっていかれた。先生のみずみずしい御命は、多分野の花々から、絶えず生き生きと注がれたものではなかったろうか。  桃岩は、まだアイヌのひとびとが、この土地の主要な住人であった十七世紀の頃、香深井のアイヌと、侵攻して来た磯谷アイヌが、攻防の血戦に凄惨な死闘を展開したあとであるという。  夕闇迫るそのあたり、二、三百メートルの細径をゆきつもどりつしただけで、シシウド、チシマフウロ、エゾタカネナデシコ、イブキトラノオ、イワオウギ、ミヤマキンポウゲ、エゾスカシユリ、ミヤマハタザオ、エゾオトギリなどの花々を見た。足許の低いところには、ウメバチソウやミヤマオダマキもあり、もっとも多いのはレブンソウとエゾヨツバシオガマである。大きな岩塊であるこの桃岩は、農耕にも植林にも酪農にもむかず、将来長く高山植物の楽園となって、多くのひとびとをたのしませてもらいたいと思った。  翌朝、利尻にたつ前に、西部海岸から砂丘と湖沼地帯の北部にゆき、入り組む海岸線の美しさと、路傍の花々に圧倒された。桃岩と同じように本州では二、三千メートルのところに咲くものが、道ばたの到るところにある。ユウバリソウより少し大きいウルップソウもあった。

37 余市岳  エゾカンゾウ(ユリ科)
 その夏、いつもの女ばかりの山仲間と富良野岳やアポイ岳に登って札幌にもどり、「サッポロビール」でジンギスカンをたのしんでいると、今回の山旅のプランナーである滝本幸夫氏から電話があり、小樽山岳会会長西信博氏が、明日|余市《よいち》岳に登りませんかと言われているとのことであった。  西氏の亡き父君は、私の亡兄と北大医学部での同級生であり、且つ、山仲間であった。東京の私の実家にも度々見えて、亡兄と共に北海道の高山植物の美しさをよく語っていた。北大|恵迪《けいてき》寮の寮歌に歌いこまれた手稲山の原生林の下草に、春の雪どけを待って、エゾカンゾウがびっしりと咲く。山麓には野を埋めて、ノハナショウブの群落がある。  野にも山にも、スズランだけが咲いているように思っていた私の北海道への夢は、おかげで朱赤に、紫に、いろも美しく染めあげられることとなった。兄も、西父君も亡くなり、その遺児から山に誘われる。うれしくて明日に備え、ジンギスカンのお代りをした。  余市岳は定山渓を流れる白井川の谷の最奥に聳え、札幌小樽周辺での最高峰である。朝里岳、白井岳をしたがえた山容は雄大で、久しく南面の沢をさかのぼる以外の道を許さなかった。数年前に北側の、赤井川沿いの道が拓かれ、孤高の山もその懐深く入りこめるようになったと言う。  あくる日は快晴で午前十時、登山口に集合。一かかえも二かかえもありそうなダケカンバの巨木が茂りあう急勾配の林を抜け、切拓かれた笹藪の道をひた登りに登った。一時間ほどすると、左手に朝里岳の台地状のなだらかな山頂が見え、飛行機が発着できるほどに広い笹の原で、池塘もいっぱいあり、熊の運動場になっているとのことであった。  定山渓にはよく熊が出るそうだけれど、あのあたりからくるのかと眺め入りながら、ふと気づくと、自分の歩いている道は、朝里岳、定山渓間の距離の五分の一もない近さで、熊の運動場と連なりつづいている。急におそろしくなって来て、足も小走りになり、自分を取りまく笹藪のすべてが熊の|棲《す》み|処《か》に見えて来て、早くここを抜けて這松地帯にとひたむきに急いだ。丁字型に道の交叉する峠の一端に辿り着くと、谷側の這松の丘の上に、忽然と乳房状の円やかな峰が、空に大きく濃緑の弧を描いて浮び上った。余市岳の主峰一四八八メートルである。光悦寺のある京都の鷹峰に似て、まことに優雅で端正な姿だ。  眼の下に白井川につづく左股川、右股川の谷々が深い緑に沈み、遠く定山渓あたりの建物が見える。西氏の父君も私の兄も定山渓からの谷を詰めてこの峠に立ったことがあったろうか。昭和初年に一〇二四メートルの手稲山にスキーで登るのは、今のヒマラヤ登山ほどの壮挙であったと、滝本幸夫氏の『北の山』に書いてある。  たった一人おくれて、這松の中をえぐりとったような道をゆきながら、西父君や亡兄の、私をはげます声が胸に聞えた。そんなに無理して急いだりしたら心臓に悪いよ。ほら、這松の根が出ている。つまずいてころんでいつかのように骨を折らないように、ゆっくりゆっくり、あわてないで。二人はこもごもに声をかけてくれる。私はもう六十歳を過ぎているのに、西父君も亡兄も二十代の青年の声なのはどういうことだろう。西さん、お兄さん、私も二十代の時に、一緒に山にくればよかった。バカな妹はやっと今頃になって、どう呼んでも引きもどせないところにあなたがたがいってしまったあとになって、一人で花をさがしに来ているの。口につぶやくと涙が溢れて来て、這松の緑がとけて眼にしみるようであった。  それにしても四十何年も前だったら、もっともっと花がいっぱいあったにちがいない。余市岳はあんまり花がないみたい。半ばあきらめて、這松の中から頂き近い斜面に出て来て息をのんだ。まだ雪渓のあるそのあたりは、一面のみごとなお花畑で、ハクサンチドリ、ヨツバシオガマ、タカネオミナエシ、タカネナデシコ、エゾマツムシソウ、エゾキンバイソウがいろとりどりに咲き、一きわ目立つのがエゾカンゾウの鮮やかな朱赤の群落であった。手稲山にもまだカンゾウがあるかしら。はるかな北東にその山の稜線を見やりながら、今すぐにもいってたしかめたくなった。

38 夕張岳  ユウバリソウ(ゴマノハグサ科)
 |夕張《ゆうばり》岳には、かつての炭坑の町、夕張に一泊して早朝にバスで出発、明石町を経て、白金川とペンケモユウパロ川の分岐点にある登山口に着いた。頑丈な市営の山小屋が出来ていて、番人のひとが親切に熱いお茶を振舞ってくれた。年配の女ばかりが大挙して押しよせたのにびっくりもし、感心もしたのであろうか。小屋の前の湿地にはヤナギランやアザミやオニシモツケソウの類が美しく、この山の花の多彩さを予告するようであった。道は白金川沿いの旧道をとらず、ペンケモユウパロ川沿いの新道に入った。可成りの急勾配の起伏で、一の越、二の越と疲れをなぐさめてくれるような標識が立っている。いつかの正月のNHKの対談で、今西錦司氏と御一緒したとき、北海道なら大雪山をのぞけば、花の山は夕張とうかがった。一緒に登りましょうやとも言われたが、千の山を目指して、すでに八百近く登りつづけて来た大ベテランに、亀のように足のおそい七十キロの肥満体の私ではとてもついてはいけないとあきらめてしまった。  今西さんは千の山を果すために、今も年間三十の山は登られるという。そのあとで北大の犬飼哲夫氏におあいしたが、このかたも毎月の登山を欠かさぬという。いずれも七十代に入られてのかくしゃくたるお姿を見せられては、歯を食いしばってでも頂上までと、フウフウ言いながら上ったり下ったりしている道のかたわらに、花々はいっぱい溢れていて、高山植物にくわしい札幌からの山仲間たちは、一つ一つたしかめては、接写してカメラにおさめていた。  ミヤママタタビ、ムラサキツリバナ、ツバメオモト、タニギキョウ、キバナノコマノツメ、ウコンウツギ、オオバノヨツバムグラ、クルマバムグラ、ミヤマキヌタソウ、アラシグサ、オオバミゾホオズキ、ズダヤクシュなど、木洩れ陽もともしいほどに茂りあった原生林の中で、今まで見たどの場所よりも量が多く、草の勢いもさかんであった。  雪がいつまでもとけぬせいか、ユウパロ川が氾濫した名残りであろうか、道はしばしば湿地や池や流れにさえぎられ、泥濘に足をとられたが、そんな場所はまた、シラネアオイやイワイチョウやリュウキンカ、ミズバショウの盛大な群落地なのであった。歩きにくく苦しい登りも望岳台と名づけられた鞍部まで。道も乾き、花もユウバリタンポポ、ユウバリキンバイ、ユウバリクワガタと、ユウバリの名を負うものが次々に現われて、ガマ岩と名づけられた大きな岩のある草地の辺りをゆく頃は、快適なお花畑の中の散歩になった。  ミヤマオダマキ、イブキジャコウソウ、チシマフウロ、ヨツバシオガマなど、早池峰で見出したのと同じ花々が岩の間に、潅木のかげに咲き競っているのを見ると、早池峰と同じに、ここも花盛りの山をつくる蛇紋岩地帯なのだと思い、改めて、花と、その生い育つ土との関係を考えさせられた。  夕張本峰は一六六八メートル、白金川とユウパロ川との分岐点は三百メートル、千三百メートルの標高差をかせぐのだから、あごが出るのも当り前だとは思うけれど、花の豊富な山はやっぱりありがたい。  眼の前に鬱然と濃い緑に盛り上った本峰を見て、高原のようにひろがった第二お花畑の道を辿る頃には、さっきまでの難行苦行が、ゆめのように遠のいてしまった。本峰の背後や横には遠く富良野岳や芦別岳が連なっている。  七月もはじめでは、まだ本州の初夏の温度なのであろうか。せっかくのお花畑はエゾカンゾウの蕾も固く、ナンブトラノオもようやく長い花の穂を出したばかりでいろづいていない。この日は山麓から四時間かかって、石狩河口の宿に入らなければならないので、とにかく本峰まで、せめてユウバリソウの生えているところまでと急ぎに急いだ。  ユウバリソウは吹き通しとよばれる尾根筋の砂礫地の中に、風に吹きさらされながら、しがみつくようにして咲いていた。厚ぼったい多肉の葉っぱは、花をまもるように互生し、うすい赤紫の花は色柄も見えなくなるほどたくさんに固まってついていて、これも互いにかばいあい、内に一致して当れば外の敵もおそれないといった風情がある。大雪山の中岳の砂礫地で見たウルップソウに似て、あちらの方が葉も花柄も大きかったと思う。  同じ種類でも、ユウバリの名がつけられて、形がそれぞれに少しずつちがうものがこの山に多いのは、雪が深く風が強いこの山に生きる植物たちの知恵をあらわしているのではないだろうか。

39 大千軒岳  サルメンエビネ(ラン科)
 いつも山路を一歩一歩息も苦しく登ってゆく度に、人生もこれとそっくりと、自分の過ぎて来た日々を思い返して一人うなずいたりする。苦しくてももどれない道。下りられない道。しかし、頂きにつけばいやでも下りる道はつづいている。  苦しんで登りながら、それが死につづくとはっきり見きわめて敢て下りようとしなかったひと。自分の信仰をまもって、神を捨てるよりは死をえらんだひと。そういうひとの存在を知らされる度に、自分の|懈怠《けだい》がきびしく胸をかむ。  函館の西にある|大千軒《だいせんげん》岳は寛永十六年(一六三九年)にキリスト教徒百六人が斬首された場所として、いつも心の中に重く暗く聳え立っていた。  元和六年(一六二〇年)カルワルホ神父は松前から丸一日かかって大千軒岳に登り、山すその知内川で砂金の採掘をしていた信者たちのためにミサをささげている。多く長崎あたりから逃れて来たひとびとはどんなによろこんだことか。ミサは神との交流のために信者にかかせぬ祭儀である。  その二年前、アンジェリス神父が渡道して来たけれど、津軽の関所がやかましくて、ミサ用の祭具を持って来られなかった。  元和九年(一六二三年)アンジェリス神父は札の辻で焼き殺され、寛永元年(一六二四年)カルワルホ神父は、仙台の広瀬川で、厳冬の氷の中に投げこまれて凍死した。  カルワルホ神父は、知内川の川原に小さな聖堂をつくって去り、ここで礼拝していた信者たちも、神父の殉教後十五年して、川原の石を血で染めたのである。  その夏、山麓の福島町のひとびとに案内されて、大千軒岳登山を果せたのは、どこの山へいった時よりも、一番大きなよろこびであった。  国鉄千軒駅に近い、澄川林道から、知内川の谷に下りて徒渉地点に立った時、はるばると九州からこの山奥まで逃れて来た信者たちの心を思いはかって胸が痛んだが、又、よく今日まで自分の足の力を残しておいてくれたと神に感謝したい気持ちになった。川原の両岸はヤチダモやナナカマドやブナやトドマツ、エゾマツの原生林で、背丈ほどのオオブキやオオイタドリやヨブスマソウ、シシウドなどが藪のように密生している。道はところどころ切れて川の徒渉になり、歩きはじめて二時間して金山番所あとに着いた。松前藩の役人のいたところで、大きな自然石がどっかりと狭い場所をふさいでいる。石の上には十字架が立てられ、石の面には「神彼等をこころみ、炉の中の金の如くためされ、ふさわしき犠えとして受け入れたまいき」という言葉が彫られていた。  ミヤマアキノキリンソウやコンロンソウ、サイハイランなどが咲いている番所あとから、一時間近く林の道を歩くと、一面の広い河原に出た。かつての処刑場のあとである。血のいろのように赤いタニウツギが葉も見えぬほどに花をつけていた。ここからかつての火山活動のあとを示す五百メートルの急な登りになって、もう実になっているカタクリや、花をひらきはじめたショウジョウバカマなどになぐさめられ、ひたすらに登った。意外に息苦しくないのは、いつ熊が出るかわからないという緊張のためか。私の前を歩いている中川泰助さんは両側が背丈をこえる笹藪の前で立ちどまり、ちょっと前に熊の通ったあとだと教えてくれた。藪が道をはさんで両側とも真二つに割れていた。  前千軒と大千軒の鞍部についたのは十二時であった。下では晴れていたのにいつか曇って、この千メートルの尾根筋は視界十数メートルの濃霧につつまれ、風が強く、弁当をひらこうとしても、冷たさに指がかじかんで思うように動かない。霧の中にカルワルホ神父がここを越えていった記念の十字架が白々と立っている。あのひとたちにとって恐しいのは熊でも役人でもその|刃《やいば》でもなく、神にそむいて、神に捨てられることであったのだと思い、そのきびしくも切ない気持ちをしのんで、北斜面から吹きあげる風の中に十字架を見あげながら立ちつくしていた。  大千軒の花は、鞍部のタカネオミナエシもチシマフウロもミヤマアズマギクもエゾカンゾウもまだつぼみであったが、帰途、川沿いの熊の出そうな藪の中に、サルメンエビネが二、三本、薄緑の|萼《がく》に朱赤の唇弁をのぞかせて、つつましく咲いているのを見つけた。四国の石鎚山や横倉山でさがして出あわなかった花が大千軒に。もしかして、九州か四国の信者が、ふるさとなつかしくその根を持って来たのではないかと思った。

40 斜里岳  タカネナデシコ(ナデシコ科)
 |斜里《しやり》岳に病気のなおった息子と登った。その前に私は、大雪山の旭岳から中岳を経て裾合平に下ったが、息子は体力に自信がないと、姿見池あたりで待っていた。  前夜、浜小清水のあけぼの旅館に一泊。翌朝は五時の出発で山麓の清岳荘まで。車が朝霧の高原を横切ってゆくとき、前方を茶色の小動物が走り抜け、北狐らしいとのことであった。道はすぐに沢にかかって、入仙洞、羽衣滝、見晴滝、七重滝と次々に|急湍《きゆうたん》、急崖が、白絹の涼しい流れを懸け連ねて私たちを迎える。  この山の岩石は鉄分を多くふくみ、濡れても滑らないから、容易に川の中の石を渉って歩けるのがおもしろいようだ。  しかし息子は片っ方の眼の視力がほとんどないから、遠近の感覚にとぼしい。石の凹凸がわからないので一旦転倒したらあぶない。  とかく日頃は危険に近づかないようにと周りから警告されつけている彼にとって、急湍の中を歩くなどということは生まれてはじめての経験である。腕をとり、腰を支えて沢を詰めていった。  斜里岳は一五四五メートル、千島火山群に属して、成層火山の美しい稜線をもっている。登山道は、西尾根と南尾根を分つ、まっ正面の若い谷をほとんど直線に登るのである。  沢に沿って針葉樹林を抜け、左にダケカンバの緑の中を急登して、雪渓に出てようやく一息。間もなく這松地帯に入って、岩石の露出した急崖を馬の背にむかって息をあえがせあえがせひた登りすることになる。私は息子の下り道が心配で、雪渓のところで休んでいるようにくりかえしたが、大丈夫大丈夫とおぼつかない足どりで、今は一人で石から石をさぐりながら進む。私と息子は一番|殿 《しんがり》になった。息子を見まもりながら、一足進んでは一足休む。石の間に穂になったチングルマやツガザクラやコケモモがある。コケモモはもうびっしりと実をつけている。かねてヒグマの大好物と聞いているので、急に心配になって来た。  馬の背の平坦部から頂きにむかって、ほとんど直角の登りになる。息子はとにかくどうしても馬の背までゆきたいという。  頂きの方から子供たちのかん高い声々が小鳥の|囀《さえず》りのように賑やかに聞えて来た。麓の小学生たちが上っていたのだ。何となく安心して、ではお母さんはちょっと頂上までいって来てすぐ下りてくるからと、二人して、馬の背の標識のところに立った。前方にうっすらと海が青く光り、更に大きな島かげが横たわっている。  オホーツク海だ。あれは|国後《くなしり》だ。思わず叫ぶと、息子は見える方の眼をこらして、それが見たかったのだ、ここまで登れば見えるかと思ったのだ、とうれしそうであった。  頂上への道は、かつての爆裂火口の縁を辿るのであろうか。一方は眼もくらむような急角度で谷底にむかい、ようやく片手を山腹に支え支え登る。日当りのよい潅木地帯で、エゾグンナイフウロやイワオウギやエゾヨツバシオガマがさかんないろどりを見せている。下草にはウラシマツツジの赤い花が散りかけ、実になっているのもあって、葉がもう北国の、早い秋のいろに変っている。小学生たちの一群れが元気よく、ボールがころがってゆくような、はずんだ足どりで下りていった。息子にオーイと声をかける。オーイと返事がくる。  頂きで海はいよいよひろくなり、島かげはいよいよ大きくなった。薄紅のタカネナデシコが海に向かって群生していて、あの島は日本の島、このナデシコはヤマトナデシコだよと叫びたくなった。  下りると馬の背に待っていた息子がにこにこしていて、女の子の一人が、アメをくれたと言う。一人でさびしいでしょうと言ったという。  帰りは沢の南の尾根筋をまわったが、コケモモの大群落でいよいよヒグマがこわかった。案内の清里町役場の宮本氏、太田氏は共々にヒグマは出ませんと言われたが、清岳荘に着いてはじめて、実はあの道はクマミノ峠というのですと教えてくれた。

41 大雪山  イワウメ(イワウメ科)
 |大雪山《だいせつざん》の花を見たさに、十年前の七月の半ば、十人ばかりの山仲間と、飛行機で千歳に飛んだ。  その前に地図をひろげて何べん姿見池から旭岳、間宮岳、北鎮岳、黒岳への稜線を指で|辿《たど》ったことか。  自分に、あの北海道で一乗高い山、高さは二千三百メートル足らずだが、緯度の関係で本州の三千メートル級の山に匹敵する山に登れようとは思えなかった。骨折の手術を二度して五年目である。  北海道の山にはヒグマがいるという恐怖もあった。  北海道のヒグマの数は何千頭、増えるとも減ることはないとおそろしい評判も聞き、大雪山は熊の運動場とおどかすひともあったが、熊にあったらリュックを投げすてて逃げるのが一番と、仲間同士言い合せ、国立公園管理員の沢田栄介さんや太田正豁さんに案内されて、|勇駒別《ゆこまんべつ》の宿に入った。  朝八時から夕方四時まで、十四キロ近くを歩き通したその日、しあわせなことに熊は一頭もあらわれず、まことに眼もあやに美しい高山植物の大群落を、たっぷりと心ゆくまで観賞することができた。  先ず姿見池のロープウエイ駅から旭岳の登り口までエゾツガザクラ、コケモモ、ガンコウランなどの矮小潅木が、織りこまれたじゅうたんのように、池のほとりにはエゾコザクラ、ダイセツトウチソウ、ジンヨウキスミレの群落があり、びっしりと地表を埋めている。旭岳の登りの砂礫地にはホソバノウルップソウ、エゾイワツメクサなどが、一歩進んで半歩下るような苦しい登りをなぐさめてくれる。それらの花は図鑑でのみ知っていたのをはじめて生きた姿で眺め得たのである。やっぱり来てよかった。第一、はるばると来て見れば、旭岳の登山路のかたわらに、まださかんに白煙をあげる硫気の噴出孔が幾つもある大雪山は、つい二百年前に大爆発があったというような新らしい火山で、旭岳から黒岳まで直径二キロの中央火口をとりまく準平原状の丘々は、すべて一面の砂礫地であって唯一本の樹木もない、熊があらわれれば何キロ向うからでも見通せるにちがいない、それから逃げてもおそくないと大いに度胸がついてしまった。  黒岳への縦走路でおもしろいのは、熊岳から北鎮岳への平原状のゆるやかな斜面に、人間が手を加えて礫を形よく並べたように見える構造土の姿であった。大きな礫と小さな礫が自然によりわけられ、亀甲型や菱型の紋様のようにきちんとはめこまれている。大雪山は千二百万年前の中生代に属する岩石が基盤になっていて、氷河期のきびしい寒さの中で、長い年月の中に、風化した礫が自然に移動したものであるという。その礫の自然の紋様に沿って、薄黄いろのイワウメの花が、その紋様なりに群生し、そのまま着物の模様のように見える。私たちは造化の妙に感嘆し、今度、亀甲か菱の地紋のある白生地を求め、イワウメの花を、この構造土地形に咲きさかっているように手描きしてもらおうなどと言いあった。砂礫の間にびっしりと厚ぼったく細かい葉を茂らせ、その上に一つだけ大きく咲いた花は、草ではなくて潅木の仲間だという。  この旅では、黒岳小屋の近くの砂礫地にコマクサを見つけ、黒岳口への道で、エゾホソバトリカブト、カラマツソウ、イワベンケイ、ハクサンチドリ、ジンヨウキスミレ、エゾアズマギク、キバナノコマノツメ、トカチフウロなどのお花畑を見た。片一方は深い谷の急崖の斜面が花いっぱいにいろどられ、花はそれぞれのいのちを咲いているのにすぎないのだが、花の一つ一つが、遠路はるばる御苦労さまでしたと挨拶しているように見えて、花の一つ一つに無事な下山を感謝したかった。

42 アポイ岳  アポイマンテマ(ナデシコ科)
 北海道のアポイ岳には花がいっぱいあるという。  いつからそれを胸にとどめたであろうか。駅の広告写真にもあったと思う。風光の美しさや祭りを宣伝するのは珍らしくないが、全山の草花をうたいあげているのは、ここだけではないだろうか。  南にのびた日高山脈が、|襟裳岬《えりもみさき》で太平洋に沈みこもうとする直前に、辛うじて一息入れてふみとどまった形で、東にも西にも海をしたがえてそびえたったのがアポイ岳である。  山麓の|様似《さまに》の町での用をすませ、いつもの山仲間と登ることにした。その前日は富良野岳に登って快晴であったのに、様似の町で一泊のあくる朝は雨。しかし余分の日数はなく、真夏なら雨中でも凍えることはないであろうし、大嫌いな蛇もヒグマも雨を避けて穴にこもっているにちがいない。お目当ては花だからと勇躍して、同勢二十人とバスで登山口まで。  八月の夏の雨は北海道でもそう冷たくなく、カシワやミズナラ、ダケカンバ、シナノキ、アイダモ、ノリウツギなどの林の間を進む。海抜八一一メートル、ゆっくりと四時間の予定である。林は登りにかかってエゾマツ、トドマツの針葉樹林になり、林床にエゾシロバナシモツケやムラサキシキブ、ツルシキミ、ミヤマホツツジ、オオバスノキ、アカミノイヌツゲ、コヨウラクツツジなど、北海道で見馴れた潅木や花を見出す。南面した山腹にはミヤマエンレイソウ、ヒダカトリカブト、ヒロハヘビノボラズ、マルバシモツケ、イソツツジ、コバノイチヤクソウ、エゾミヤマハンショウヅル、エゾノハクサンボウフウ、エゾノサワアザミ、クルマユリ、エゾスカシユリ、オオシュロソウ、ヨツバシオガマ、ツバメオモトなどがあって、さすがに次々と新らしい花を見せてくれる。殊にヒオウギアヤメがあちらこちらに濃い紫のいろどりを添えて、あたりの風景を引きしめていた。アヤメの類は湿原に咲くものとばかり思っていたのに、急坂の山腹に咲いているのが珍らしかった。  しかしこのあたりまでは今までに方々の山で知っている花ばかりであった。  標高五百メートルの看視小屋をすぎて、這松地帯を頂上にむかって、馬の背という稜線を歩く頃から、赤茶けた岩石の露出が目立ち、岩の間を縫って先ず黄のエゾコウゾリナの大群生があらわれて来た。普通のコウゾリナよりずっと背が低い。岩かげを好んでアポイゼキショウの白く清楚な花も咲いている。いつか礼文島で見たチシマゼキショウは薄紅で、これよりは背が低いようであった。高度を増すにつれて岩が多くなり、道がガラガラになって、アポイアズマギクが礫の間に純白の花を見せている。普通のアズマギクより葉の幅が狭い。コウゾリナについでたくさんあったのはエゾルリムラサキであった。軽井沢の林の中でもこれに似たルリソウを見つけることができるけれど、それよりもはるかに花が大きく葉が小さくて、茶褐色の岩石の原を薄紫いろに染めている。ヤハズハハコに似たアポイハハコもあった。アポイと特に名をつけられているのは、少しずつ形もいろも変っているからであろう。気候条件によるのか地質の関係であろうか。この山の主体をなしているのはカンラン岩である。  こんなところにと思うようにイブキジャコウソウも薄紅いろの花を咲かせていて、これも他の山で見つけたのより花が大きい。  ほかにイワオトギリソウに似て、もっと花が大きく葉の緑のいろのうすいサマニオトギリ、ナガハノキタアザミに似て、葉が細く花茎の長いヒダカトウヒレンなど、まさに百花繚乱のお花畑で、そのあたりは馬の背のお花畑として知られているところであった。  仕合わせなことに風がなくて七百メートルの稜線に雨はまっすぐ降りおちてくる。晴れていれば、前方に日高連峰を、右と左に太平洋を眺めやるはずの道が、霧がかかって視界五十メートル。花々は雨にぬれていろあざやかに浮び上っていたが、頂上を目ざして足を急がせる道のかたわらに、ふと薄紅のマンテマの一群れを見出した。ナデシコ科のこの花は、私の好きな花の一つで、礼文島では民家の庭先で白いのを見つけた。五弁の花びらを支える筒形の|萼《がく》の形が何とも好ましい。  数年前にイベリア半島のサンチャゴ、デ・コンポスティラにゆき、宿舎から聖堂を通う野の道でやはり白い花のを見つけて写生し、種子となった一本をとってスケッチブックにはさんで来た。別に種子を密輸するという大それたことではなくて、秋に五、六粒を蒔くと、二、三本の苗が生え、白い花片、薄緑の萼筒の花が咲いて、情熱のスペイン乙女というよりは凡そ純潔の修道女とも言いたい風情であったが、夜盗虫にやられて、一年で絶えてしまった。  マンテマはヨーロッパが原産地であるという。礼文とスペインのマンテマを同種とすれば同じ海に面した土地柄で、長い年月の間にどこかの船について来た種子が日本の島に上陸し、アポイまで南下し、純白が薄紅に染まるまでの交配をくりかえしたのではないだろうか。それとも日本が大陸と地つづきであった頃の名残りか。  一九七九年の夏は、スイスの山々や丘々を歩き、じつにたくさんの、白いマンテマを見た。道ばたに、雑草のように咲いていた。赤いのもあった。  アポイ岳へ来て思ったのは、同種の花が自然の条件によって、ほんのわずかずつ変化してゆくおもしろさである。そのために必要とする気の遠くなるような悠久の時間。その一番はじめのもとにさかのぼれば生命そのものの発祥があるだろう。何故ひとは地上に生まれて来たのか。いつもいつも頭を去らないその問いが、アポイ岳の花々を眺めながらも新らしく胸をつきあげてくる。

43 富良野岳  ハクサンイチゲ(キンポウゲ科)
 北海道の山も、かれこれ、二十近く登ったろうか。  そのはじめのきっかけは、上川盆地の|富良野《ふらの》という町に来て、松浦武四郎顕彰碑のところから富良野岳を近々と眺め、その一方に鋭く切れこみ、一方に長々と裾野をひいた形に魅入られてからである。  松浦武四郎は三重県の伊勢参宮のための街道筋の旧家に生まれて、一八四五年、三十八歳で|蝦夷《えぞ》地にわたった。幕末の動乱期、諸外国が日本の開港をさかんに迫っている頃であったから、客気に溢れた青年の眼はおのずから、海の彼方に注がれたのであろう。しかし海外への脱出の不可能な時代である。  せめてもと、少しでも海をわたる蝦夷地をえらんだのではないだろうか。五十二歳で、明治新政府の開拓判官になった。六回に及ぶ蝦夷地の内陸探険の実績が高く評価されたのであろうが、役人生活が窮屈であったらしく、五十三歳の時には自由人となって、又、旅から旅、山から山の生活にもどった。   老いぬればまた来ん年を頼まれず    |花咲《はなさき》にけりいざ門出せん  とは身につまされる歌である。来年のいのちはわからないから、今年の花は今年のうちに見て来ようという。蝦夷地に北海道という名をつけたのは松浦武四郎である。親しい友人たちを多く安政大獄に失い、六十八歳以後に、大台ヶ原に四回も登っている。『日本史探訪』の中に、伯母峯峠の南の山の中腹で、夜中に、|松明《たいまつ》の光にマンサクの花を見出し、蝦夷地の山中にもあったマンサクが、ここにもあったかと木の幹に頬ずりして涙をこぼしたという話がのっている。七十歳も間近いひとの情感の、何とみずみずしいことか。  松浦武四郎も仰いだ富良野岳に是非登りたいと思いながら、実際には、大雪山を中心に何度も北海道の山々を歩いてから、この山を訪ねたのである。千二百メートル地点の十勝岳温泉まで車が入る。一九一二メートルの頂上まで、標高差七百、その前にもっときびしいところへいってしまおうと思っていた。山を甘く見た報いは早速あらわれて、富良野岳とアポイ岳を、その年の北海道の山ゆきにきめて東京をたつ二、三日前、おなかをこわして、三日間絶食した。のどを通るのは、うすくといた葛湯ばかり。羽田をたつときは、真夏の炎天にたちくらみするからだで、千歳までの飛行機の中でも、気息えんえんと眼をとじていた。  それでも千歳についたらすぐに、喜茂別という町で話をしなければならなかった。どうやら無事にすませて滝本幸夫さんや中川泰助さんに迎えられて十勝岳温泉まで。  かなり急勾配の樹林帯を登る車の両側には、オニシモツケソウの群落があり、その下にオオバミゾホオズキや、イワイチョウの花などを見出して、やっぱり麓で寝ていないで来てよかったと思い、せめて十勝岳の噴煙をまっ正面に見る旅館までもと思い、一夜明けて七時、依然として絶食してアメ玉だけを口に入れながら、とにかくゆけるところまでと、ひとびとの一番あとから、そろりそろりと歩いた。前方に安政の噴火口が、大地を真二つに引き裂いて赤茶けた谷肌を見せている。  十勝岳はその左肩の上にそびえて、紫紺にしずまりかえり、新噴火口からの噴煙が薄絹の幕を張ったように浮んでいる。やがて道は谷をわたって、十勝岳、上ホロカメットク山、三峯山につづく尾根筋に平行してジグザグの登りをつづける。一足いっては立ちどまり、二足いっては腰を下し、道ばたのタケシマランやゴゼンタチバナがもう赤い実になっているのを見ながら、北国の夏の早く過ぎてゆくことを思った。ひとびとは案内の滝本幸夫さんを先頭にずっと前をゆき、中川泰助さんがゆっくりとついて来て下さった。中川さんの令弟は北大卒業を目前にした昭和四十年三月、中部日高のカムイエクウチカウシ山で、六人の岳友と共に、雪崩によって青春の命を失われたという。  千七百メートルのコルに辿りついて、自分の今日の体力はここまでと草の上に仰むきにねていると、滝本さんがもどって来て、あと十分、十五分、登れとはげます。その熱心さに引きずられて、重い足を五分、十分と引きあげていった。稜線に辿りつくと富良野岳の頂きからまっすぐに下降する山腹一面が、ハクサンイチゲの大群落で被われ、十勝連峰の重なりあう紫紺の峰々を背景に、いろもあざやかな純白に咲きさかっている。この花のゆたかさを松浦武四郎も見たであろうかと思い、もしそうであれば、伊勢の狭い谷々にはない眺めは、どんなに大きなおどろきであったろうかと思った。

44 十勝岳  イワブクロ(ゴマノハグサ科)
 富良野岳にいく二、三年前に、十勝岳に登った。  昭和新山にはじめていったとき、その山肌の真新らしさに見とれて、その美しさに心とられて、時間が許すならば、いつまでもこの山を見上げ、眺めていたいと立ち去り難い思いであった。  新らしい火山は、大地の生命のしるしをあざやかに刻みつけているようで、その前に立つ度に、大地の鼓動が、自分の全身に伝わってくるような思いになる。  十勝岳にあこがれたのは、この三重式の成層火山が昭和三十七年(一九六二年)に大爆発して死者五名を出し、山林や耕作地に大きな被害を与えているということ。一九二五年には死者百四十四名の惨事をも引きおこしている。  北海道の火山は、知床の硫黄山が一九三六年、雌阿寒岳が一九六四年、樽前山が一九五五年、北海道駒ヶ岳が一九四二年を最新の記録とし、|有珠《うす》岳はまだ、一九四五年の昭和新山を最後にその後の活動を見せていない時であったが、私は、十勝と、雌阿寒の二つには必ず登ろうと思っていた。火を噴き岩石を流しつづけたばかりの山で、大地の生きているしるしをまざまざと眺め入りたかった。  上川盆地は、南に夕張山地と石狩山地が|鬱然《うつぜん》とそびえたち、その間をわけて流れる石狩川にうるおう肥沃な平野である。  松浦武四郎は、早くからこの地の将来性に着目し、北海道開発の|鍬《くわ》は、石狩川をさかのぼるところからはじめられた。  私の近親にも明治の末から大正にかけて、十勝山麓の開拓に志したものがあり、早くから、狩勝峠の緑の樹海のすばらしさや、上川の野に咲くヒオウギアヤメの美しさを教えられて、子供ごころに、いつかいってみたいという思いをそそられていた。  いま、富良野周辺は一面の田園で、眼路のはるかまで、ヒオウギアヤメの紫がつづいた風景などはとても望むこともできないが、十勝岳の裾にある白金温泉に入ろうとして、富良野から走らせる車は、町を抜け、白樺林のつづく中をゆき、その緑の若葉と樹肌の白のさわやかさが、都塵に疲れた眼を一遍にすがすがしく洗いきよめてくれた。  白金温泉は標高六百五十メートルのところにあり、周囲は一面の熔岩台地になっていて、背の低いアカマツやトドマツが生えている。  大正十四年(一九二五年)十二月から十五年五月にかけての大爆発では、おびただしい泥流が二つの村を埋めつくし、死者百四十四、負傷者二百を数える大災害をおこした。最近でも昭和三十七年六月に、死者五名負傷者十一名の惨事をおこしている。  沃野が一瞬にして地獄と化すのだから怖い。私の近親は大正七、八年頃、十勝を去って函館の近くに移っていたが、しかし、私は耳に聞き馴れた十勝という地に起った惨状に胸が痛んで、母と共に慰問袋をつくったことを覚えている。  一泊しての翌朝早く宿を出た。その日の夕方までに勇駒別に入って、次の日は大雪を歩く予定である。  九百二、三十メートルの望岳台の上、千百メートルのあたりまでジープでゆき、ガラガラの火山礫の間を登る。まことにゆけどもゆけども、礫ばかり。  爆発の日は、これらがことごとく火の塊となって、山腹を流れ走ったのだと思うと慄然とした。  それにしても歩きにくい道で、一歩歩いて半歩もどるのは、浅間山も三原山も同じだが、大噴火が新らしい時期にあったせいか、礫が大きくて調子をとるのがむずかしい。新噴火口からは強い硫黄の匂いがして噴煙が湧き上り、風になびきゆらいでいる。  こんなのろい足では今、新しく噴火現象が起ったら、たちまち熔岩流の中に焼き亡ぼされてしまうと思いながら、眼の下にひろがる礫の海を、吐息と共に眺めわたしていておどろいた。たった一人の男のひとが登ってくる。だんだん追いつき、私のかたわらをすぎてゆく。どんどん登って新噴火口の噴煙を八ミリでとっている。大分年輩のひとである。  ようやく追いついてうかがった。知床の羅臼から、雌阿寒、雄阿寒と登って、ここまで来られたとのこと。六十の還暦から山登りをはじめて、いまは七十歳とのことであった。 「羅臼にはヒグマがいませんでしたか」  とつまらない質問をすると、にこっとわらって首を振った。来年は羅臼にいかなければと思った。  十勝岳にはまことに花が少い。花のない山は私には苦手である。ただ乾いた石だけを見つめて歩く。わずかに望岳台の周辺にウラジロタデとイワブクロを見るばかり。イワブクロは、三段山の登山口あたりにいっぱいあったが、近くの吹上温泉の客らしいのが、三三五五、おそれげもなく、手に持ちきれないほどに持っていたのにはびっくりしてしまった。イワブクロもウルップソウも、その分布は樺太やカムチャツカに及んでいる。何千万年の昔は地つづきで、何千万年も生きつづけて来たものを。

45 沼の平  サンカヨウ(メギ科)
 もしも花の好きなひとで、足がそう強くないというのであれば、是非すすめたいのが大雪山の姿見池から、北西に進んで、裾合平から、沼の平を経て、愛山渓温泉に出るまでの十キロ近い道である。  大雪火山の旭岳の千七百メートルほどの山腹から、愛山渓温泉の千百メートルほどのところまで、ただ下る一方なのと、途中、たくさんの池塘があって、高山植物が豊富なこと、石狩川に注ぐポンアンタロマ川の谷がきざまれて、幾つかの滝もたのしめる絶好コースなのだけれど、残念なのは、道に迷い易いのと、どうもこのあたり、ヒグマと御対面の機会が案外少くないらしいことである。  北海道の山をえらぶ度、ヒグマは出ませんかと現地のひとに聞き、出ないと答えられたことは一度もない。愚問なのであろう。しかし、この数年、二十ばかりの北海道の山を歩いて、一度も出あったことはない。すぐ前にそこを通ったとか、四、五日前に出たというところは二、三あったけれど。  動物の好きな私は、じつは、一度はあってみたい。互いに見かわす顔と顔、じっと相手の眼を見つめたら、にっこりほほえんで、相手が手をさしのべる、足許にすりよってくる、その背をむけて、どうぞ、お乗り下さい、麓までおおくりしますというような事態にならないものかと想像したりもする。  昔、昔、バビロンの賢者、ダニエルは、反対者によって獅子の穴に投げこまれたが、獅子は彼になついて、とても食うどころではなかった。  鈴木牧之の『北越雪譜』には「|熊人《くまひと》を助く」の一項があって、新潟県魚沼のひとが若い時、豪雪の山中で谷底に落ち、滝のそばの岩穴にもぐると、熊がいてあたためてくれ、手のひらもなめさせてくれた。その手は甘くて、何か蜜のようなものが貯えられていたらしい。  熊は遂に幾日かののち、雪みちをあけて里に出る案内をしてくれたという話がのっている。しかし命を賭けて、ヒグマとの交際を願うわけではなく、やはりこわいものはこわい。  その夏の朝、NHKの小川淳一さんや三木慶介さん、国立公園管理員の沢田栄介さん、奥野肇さんたちと姿見池を出発し、予定よりは大分早く愛山渓温泉に辿り着けたのは、私にとってはもっぱら、ヒグマのおそろしさから逃れたいためであった。福岡大の学生たち三人が、可哀相にことごとく青春のいのちをヒグマにささげてしまったのはついその一カ月前であった。いつもは男のひとたちより断然おそい私の足が、男のひと並みに動いたのであった。裾合平にはキバナノシャクナゲの群落にまじってチシマニンジンがいっぱいあり、ヒグマの大好物とかで、手でその根をかきとったあとが方々にあった。  しかし、間宮岳、北鎮岳の稜線を東に仰いで、西にむかって眼路の果てまでつづく大草原は、エゾツガザクラやアオノツガザクラが、薄紅と薄緑のじゅうたんをしきつめたように見え、ウサギギクの黄やチングルマのシロが更にいろどりをそえて、その美しさと言ったらない。  大小幾つもの沼のほとりは、ワタスゲの白、ハクサンチドリの紫、エゾキスゲの朱赤、エゾリンドウの青、ヤチギボウシの薄紫が華麗に重なりあっている。尾瀬は一月毎に花の姿が変るけれど、ここでは一度に夏の湿原植物が咲きさかった感じである。週日なので、雪渓にキャンプして、夏スキーをする若もの二、三人にあったきりで、他の登山者のかげもなかった。  谷筋に入ってからは渓流のそばに、ミズバショウやリュウキンカが、あざやかな白と黄に映えていたが、これが大きくて、尾瀬のそれらの花たちの三倍もあるようなたくましさである。大雪山も層雲峡や天人峡は無残に俗化したが、ここには太古の面影が残っているようだと、すっかりよろこんでしまった。  渓川のほとりの山ぞいにはサンカヨウが群れをなして白い花をつけていた。これも上高地や白山などで見たものよりはずっと大きい。この実は熟して黒紫いろになり、食べると甘ずっぱい。これもさぞヒグマの好物であろう。それにしても、とうとうお目にかかることのなかった仕合わせに、ひなびた愛山渓温泉の宿の前まで来て、ようやく胸を撫でおろした。  つい最近、北海道新聞社の|間野啓男《まのよしお》氏にあうことがあり、数年前、ポンアンタロマ川の滝のそばの岩穴からとび出して来たヒグマにおし伏せられた話をうかがった。かみつこうとするヒグマを下からおし上げて一生懸命に耐え、ヒグマと共に谷を二転三転ころげた。駆けつけた友人がさわいで、ヒグマは逃げたというけれど、鋭い爪で頭も背もやられていたという。やっぱりいるのである。

46 羅臼岳  チシマツガザクラ(ツツジ科)
 |羅臼《らうす》は、知床という土地の遠さもあるけれど、北海道で一番ヒグマが多いと聞かされて、久しく登る勇気がなかった。  昭和四十五年に福岡大学の三人の学生が、カムイエクウチカウシ山で、一匹の狂暴なヒグマに襲われ、悲惨な最期をとげた。  その秋、久住で、福岡大の学生と一緒になり、九州にはクマがいないため、クマのおそろしさについての予備知識がなくて、あの不幸な事件をひきおこしたのではないかと語りあった。  娘の頃に避暑先の房州の千倉で、「熊の出る開墾地」という芝居を見たことがある。町の小さな芝居小屋であったので、開墾者の家族が寝入っているところに、戸を破って入ってくるヒグマの姿が、リアリティをもって一段とおそろしく感じられた。  戦後十年ほどして、根室の東の|珸瑤瑁《ごようまい》の町で、一晩、旅芝居を見たが、その中に、同じ|演《だ》しものがあって、北海道では、いまだにこの芝居が観客を集めていることを知った。  札幌の野幌の開拓記念館で、札幌市内の|丘珠《おかだま》の開墾地の一家族を襲い、十人近くをかみ殺したヒグマの|剥製《はくせい》を見たことがある。福岡大学生を襲ったのも出ていて、共通しているのが、他のヒグマたちとちがう表情である。見るからに執念深そうで、賢こそうな顔をしている。  この百年の北海道開拓史の中で、ヒグマに殺されたものは、三百人にも及ぶとか。志を立てて移住して来て、ヒグマの餌食になるのでは、死んでも死にきれぬ思いであろう。  羅臼には富良野岳に登った翌々年、雌阿寒岳の帰りに登った。案内は滝本幸夫さんと、友人の鈴木和夫さん、中川泰助さん。私たちはいつもの山仲間の二十人近く。  いつか登ってなつかしい斜里岳に迎えられ、見送られて、岩尾別の旅館についたのは夕暮れ近かったが、夕陽の知床五湖をちょっとでも見たいと、車をまわしてもらう。オホーツク海の荒波につくられた潟湖であろうが、そのうちの三湖のほとりを駆け足で歩いた。  茂りあう原始林の深さ。ヤナギランの紅。クガイソウの紫。クルマユリの朱のいろが林間に見えかくれし、夏雲が夕映えに赤々と燃えて湖面をいろどる。自然の美しさの極みは、ヒグマの天国のしるしとも思って、どの雲にもどの花にも、足をとどめることはなかった。  羅臼岳の登り口には番小屋のようなものがあって、登山者名簿が備えられているのだが、先ずおどろかされたのは、番人の話で、中腹の極楽平に二、三日前にヒグマが出たということ。  そこは水場だから、ヒグマも水を飲みにくるのである。極楽平ではなくて、地獄平と改称したらよいのになどと思いながら、|鬱蒼《うつそう》とした樹林帯を登る。  林の下草にはクルマユリ、ツバメオモト、コバノイチヤクソウ、オトギリソウ、エゾトリカブト、ツマトリソウと花のきれいさが疲れをなぐさめてくれ、花に元気づけられて、沢沿いの狭い谷を、極楽平から銀冷水へと辿る。意外に歩きよい道で、傾斜も手頃である。何よりも登るにつれて木々の茂みが深くなり、岩場を埋める花のゆたかさにびっくりした。  羅臼岳はその北にある硫黄岳、知床岳などと共に千島火山帯に属している。  十勝岳のように頻繁に活躍していると、花もなかなか定着できないのであろうが、羅臼は噴火後の状態が、ちょうど、花々を多く咲かせるによい時期なのではないだろうか。羅臼平まで、狭まった岩場の道は、まるで、空にむかって登高してゆくような眺めで、西側の岩壁を埋めるのはチシマフウロ、リンネソウ、タカネトウチソウ、ミネズオウ、チシマクモマグサ、エゾツガザクラ、エゾコザクラ、エゾツツジ、エゾナデシコの赤、シナノキンバイ、キバナノシャクナゲ、ホソバノイワベンケイの黄、ジムカデ、イワウメ、ミヤマウイキョウ、シコタンソウ、チングルマの白、チシマギキョウ、エゾチドリの紫と、まるで高山植物園さながらの華麗さは、谷が狭いだけに白馬や早池峰に勝って素晴しく、やはりはるばると来てよかったと思った。  羅臼平は、びっしりとコケモモの群落で、この実はヒグマの大好物だから、いよいよヒグマの運動場と想像できたが、先ず羅臼岳に対する左手の三峰に登り、はじめて知らない花にぶつかった。ツガザクラに似てもっと細かい葉の、薄紅いろの四弁の花は小さく数個ずつかたまってついている。じゅうたんのようにびっしりと生えている。  頂上は強い風で、露岩のかげにかくれて、海をへだてて横たわる|国後《くなしり》を見た。滝本幸夫さんが風をよけながら指さして、 「あの国後の富士山のように形のよい山は、有名なチャチャヌプリです」  と言われた。かつては日本の岳人のあこがれの山であり、今はすぐ眼の前に近々とそびえていても登れない。  ツガザクラの葉に似た葉をもつ花はチシマツガザクラだと、中川さんが教えてくれた。チャチャヌプリの山腹にもじゅうたんのように、この花が咲きさかっているにちがいないと思った。

47 樽前山  ウラジロタデ(タデ科)
 |樽前《たるまえ》山が活動しはじめた。激化している。そんな新聞記事に、何か胸がわくわくした。一九七九年、昭和五十四年三月十六日の毎日新聞には、十五日にとった機上からの写真がのっていて、左手に|支笏《しこつ》湖から、恵庭、空沼などの山々をのぞみ、あの特徴のあるドーム型の山頂の部分が裂けて、盛んに白煙をあげている姿がうつされている。  白黒の写真だけに却って、山頂から山腹を|被《おお》う雪の白さと、噴煙の不透明に濁ったいろ、火山灰や押し流された泥流による雪面の汚れなどがはっきりと見わけられて、平面的な写真が、火山という巨大な生きものの荒々しい呼吸をつたえ、こちらの胸の鼓動を高めるのである。  ——ああ、飛んでいきたい、あの山の上をぐるっとまわって、噴きあげる煙の合間に、真紅の炎が、大地の血のいろのように、見えかくれするのをこの眼でたしかめたい。  何べんもその写真を、くりかえし眺めて思った。  樽前山の噴火は一六六七年、寛文七年から一九五五年、昭和三十年までの記録が残されていて、その山頂のドームの部分からの活動が激しいという。|千歳《ちとせ》、あるいは|丘珠《おかだま》への飛行場に下りる機窓から、何度その怪奇的とも言いたいような頂上部分の姿を見下したことだったろうか。  寂然としずまりかえる支笏湖の南に、|風不死《ふつぷし》岳のくろぐろとした緑が盛り上る。晴れていれば湖面は紺碧に染められ、樹林と緑とその紺碧の二つが画布に塗りつけられた絵の具の塊のように動きのない美しさをつくり出しているとき、風不死の東南に当って、生皮をはがれた大地のように、黄土色の山肌をむき出しにした樽前が、傲然と、不機嫌な山容をさらしている。  北海道の山々を飛行機の窓から眺めていつもヒグマのことを思わないことはない。この機影を、あの樹海の中で仰ぐヒグマもいるのだと、一種の親しみと同時に恐怖を抱くのだが、樽前のあの樹木のかげ一つない山には、さすがのヒグマもいないだろうと札幌の友人に語ったら、いや、支笏湖周辺はヒグマの多発地帯で、樽前の火口原まで登ってくるのもいるのだとおどかされた。草食動物であるヒグマは、火口原で、どんな食糧用植物を見つけるというのか。登ったのは数年前、アポイ岳へ登った帰りである。  タカネコウゾリナの大群落やアポイマンテマやエゾウスユキソウ、アポイハハコ、アポイツメクサなどの好ましい花々にであったあとなので、おそらく活火山の十勝岳同様、大した花はあるまい、ただ七合目までバスが入る気楽さで、定山渓に一泊して、東京へ帰る前の一登りと思っていった。日曜日のため、家族づれで賑わい、サンダル履きも目立ったが、火山礫がごろつく急坂の登りで、それぞれに苦労しているようであった。  花らしいものをと、火山岩や礫の間をのぞいてゆく。七合目までの潅木地帯には、バスの車窓からヨブスマソウや、ハンゴンソウ、ミミコウモリや、オニシモツケソウ、マルバシモツケ、エゾオヤマリンドウなどが見えたけれど、頂上までの山腹には十勝岳にいっぱいあったイワブクロがわずかにあり、ところどころ、ウラジロタデがかたまっていて、黄白色の花炎をあげているばかり。時に一メートルを越して群落をつくるこの花は、茎の太さ、葉の厚味あるゆたかさで、いかにもたくましい感じがするけれど、樽前では背も低く、礫の間から二十センチほどに伸びたのが、地味のやせていることを知らせているようであった。この茎や葉の新芽を生のままかじるとホロ酸っぱくておいしい。  ヒグマは、この新芽をさがしに樽前に登ってくるのだろうと思った。  小一時間かかって外輪山の稜線にとりつき、眼の前にひろがる火口原の眺めにびっくりした。ゆるやかな起伏で、中央火山の稜線が波のうねりのように盛り上り、そのまん中のあたりに、いろも暗い黒灰色の岩山が忽然とそびえたっている。熔岩の塊そのものなのであろうが、何という巨大な岩塊であろう。しかも幾つかの亀裂があって、そのすき間から|濛々《もうもう》たる白煙を噴き出している。大自然そのものの抑圧された怒気をほとばしらせるように。私はその目ざましい姿に圧倒され、まわりにぞろぞろひとのいることなど一つも気にならず、見あきるまでこの岩山を見ていたいと思った。この岩山を背景にして、うすい絹の白衣をまとって、縦横に跳躍しておどりまわりたい。いや、登場人物百人のページェントをやっても、まだまだ人間集団が小さく見えるだろう。そこに、ヒグマの群れを参加させたいとも思った。もっともよく調教されていなければならないが——。

48 雌阿寒岳  メアカンフスマ(ナデシコ科)
 雌阿寒、雄阿寒と阿寒湖を間にはさんでむかいあう二つの火山の姿にはじめてであったのは、戦後十年位たってであろうか。うばわれた北方領土をノサップ岬から遠望して、「日本の岬」という題のラジオドラマを書くための旅の帰途であった。千島から引揚げた漁民たちが、既得の漁場もないままに、流れ昆布を拾って生活している嘆きを聞き、敗戦の悲しみを新らたにしていたので、釧路から阿寒湖にむかう車の中から、千島列島と同じく、千島火山帯に属する雌阿寒や、雄阿寒の山容を間近にして、「国破れて山河あり」の思いが深かった。  殊に雄阿寒は、典型的な成層火山で、富士と似た山容が、却ってものあわれさを誘った。  その頃はまだ阿寒湖周辺が、今日のように、安手で極彩的な開発の害を受けること少く、その夜、湖畔の宿で食事して、折からの満月に、ボートを漕いで湖上を一周すると、月影を背にして、霧をふくんだ夜気の中に、雄阿寒が物言わぬ巨人のように暗鬱な表情でしずまりかえっていた。  雄阿寒の頂上からは、知床の山々が見えるという。その向うの国後の山も見えるのではないか。いつか登りたいと思いながら、いつもそのかたわらを過ぎるだけとなり、雌阿寒の方に登る機会を先にとらえた。  鳥海山のチョウカイフスマを見た翌年、同じ仲間だというメアカンフスマを見たくなったのである。  チョウカイフスマは雨の日の、まだ半ば雪に被われた鳥海湖のほとりの砂礫地の中に見出し、雨にぬれながらひざまずいてスケッチした。  ほとんどの野草山草の好きな私であるけれど、なぜかナデシコ科の花がとりわけ好きだ。  カワラナデシコ、タカネナデシコ、フシグロセンノウ、センジュガンピ、タカネミミナグサ、タカネツメクサ、イワツメクサ、タカネマンテマ、シコタンハコベ。どれもこれも言いようもない好ましさだ。チョウカイフスマは新らしく知ったナデシコ科の花である。雌阿寒岳に咲くというメアカンフスマも見てみたい。高山植物の本には、チョウカイフスマの下にカッコして、メアカンフスマとあり、生育した山の名がちがうだけの同種のものであるらしい。  前夜はいつもの仲間と麓の雌阿寒温泉に泊った。  エゾマツやトドマツやアカマツやオンコやブナやハルニレ、コナラ、ミズナラなどがしげりあう原始林にかこまれていて、あの阿寒湖のまわりの賑わいが間近いとは思えぬしずけさである。  翌日の天気予報は午後になって風雨とあったので、早朝の五時半に出発。密林の中の湿地帯を急いで登る。小雨がぱらついて来たが、鳥海山のときと同じに、とにかくメアカンフスマの咲くところまでと、針葉樹林帯の中の高度をあげていった。山腹をまきながら登るので、小さな谷を幾つか横切り、五合目をすぎる頃から這松地帯となって、下草にミネズオウやガンコウランを見つけた。  メアカンフスマはまだかまだかと、ようやく傾斜度を増した急坂に、息をあえがせながらゆくと、雨だけでなく、風も加わって、真夏なのに手先がかじかむ程寒い。  大きな這松なので、そのかげに風をよけながら、あと一息で外輪山の稜線にとりつくというところまで来て、上から下りてくる五、六人の若い娘さんたちにであった。朝四時のまだ、ほの暗いうちに出て頂上を目指したけれど、霧と風で何も見えず、吹きとばされそうなので下りることにしたという。  雌阿寒のあくる日、私は北見に用があるので、その娘さんたちにあった地点から逆もどりすることにした。もうメアカンフスマもあきらめよう。這松のかげからかげへと走りこむようにして下りてくると、それが七合目のあたりであったろうか。道ばたの岩のかげに、あのエメラルドグリーンの葉の塊が見え、あの五弁の純白の花の幾つかが咲いていた。  ——あった。  そのうれしさ。鳥海山では御浜神社の上の砂礫地の間に点々と群がっていたのだけれど、ここではその一かたまりの花だけ。でも、たしかにあった。見た。満足した。そして同じだとは言われながら地味のちがいか、気候のちがいか、メアカンフスマの方が葉の大きさに対して、花の部分が小さいように思え、チョウカイフスマにくらべて少し地味な感じがした。

49 空沼岳  オクトリカブト(キンポウゲ科)
 自分のふるさとの東京以外に、どこに住みたいかと問われれば、いくらヒグマがこわくても、やはり北海道と答えたくなる。自然が一番残っているからである。  野の花、山の花に心をよせるのも、道ばたのどんな小さな、それがたとえ雑草と名づけられるものであっても、自然の摂理、秩序そのままのおごそかさを形にあらわしていることを改めて教えてくれる。  私はしばしば語るように、中仙道の宿場町に生まれ育っている。関東平野を西北に横切る街道は、碓氷峠から信州の山路に入るのだが、そこにはどんな花々が咲くのであろうと、浅間高原の写真をなつかしく見入った。宿場町の、人家の群れは|石神井《しやくじい》川と|谷端《やばた》川にきざまれた谷を両側に持つ、武蔵野台地の広い尾根のような地形に発達した。  子供の頃に待たれた春は、オオイヌノフグリのルリいろの花や、スミレ、レンゲ、タンポポの紫や赤や黄にいろどられ、ハハコグサやスズメノヒエやコヌカグサ、コバンソウ、スズメノテッポウなどが、ままごとあそびの材料になってくれた。夏になれば茂りあうチカラシバは穂を結んで、友だちが知らずに足をつっかけてころぶのをよろこぶいたずらを教え、ノカンゾウやフシグロセンノウやツルボやギボウシやミゾソバやオオイヌタデはその花の美しさから、家にもって帰って仏さまに供える心を養い、秋は野に川のほとりに、一面の穂ススキが風にゆれて、子供ごころに何となくさびしいと感じたりした。その根もとには時にナンバンギセルが濃い紅紫の花をのぞかせていた。  あれらの花たちはどこにいったか。私の思い出の中に東京の町々は花いっぱいの美しさを保っていて、その花と共に、若くみずみずしいいのちがいつも心によみがえってくるようだ。  札幌の植物園にはじめていった時、ハルニレの大木やウバユリの大群落を見て、原始の頃がしのばれた。  知事公館の庭つづきに、そのとき道警本部長であった枡谷広さんの官舎があり、夫人の文子さんは山仲間であったので、春の一日、今は水が涸れたけれど、豊平川の支流が横切っていた公館の広大な庭を散歩したことがある。エゾエンゴサクの紫のかわいい花を見つけたのがはじめのおどろきで、マイヅルソウ、アズマイチゲ、ユキザサ、ホウチャクソウ、コンロンソウ、レンプクソウ、エンレイソウなどをオンコやシナノキの根もとや芝生の中に見つけた。この庭園は札幌原始林の一部であったことを知り、かつまた、開拓されて百年の月日がたっているのに、札幌のような大都市にそれらの花々がなお残っていることに感激した。夫人の語られるには、まだ川に水量の豊富であった戦前は、石狩川から鮭が上って来たことがあると、近くの七十年輩のひとが告げてくれたとのことである。  しかしこの庭の野の草、山の草も、転勤されたあとに、除草剤で死滅し、見わたす限りの芝生になってしまったとはかえすがえすも残念至極なことである。  |空沼《そらぬま》岳には、夏もおそいある日、札幌で一日の時間の浮いた私を、滝本幸夫さんと鈴木和夫さんが案内してくれた。  札幌という町の羨ましさは、すぐ近くにエゾカワラナデシコやハマナスの大群落のある石狩の浜や、野幌森林公園を持っていることである。  藻岩山や|手稲《ていね》山には今、リフトや車で容易にその中腹から頂上へと足を進めることができるけれど、昭和の初期に、北大の学生であった亡兄は、スキーをかついで懸命の登山を試み、おそろしい雪崩にあって命からがらの思いもしたようである。前にも書いたけれど、滝本さんの『北の山』には、その頃、冬の手稲にゆくことは、今ヒマラヤに入る位に大変なことであったろうと書かれていた。そしてこれらの山たちは、たとえ乗りもので簡単に登れるようであっても、密生するクマザサや、からみあい茂りあうノブドウの葉の群れに、いつヒグマがあらわれても不思議でないような景観を残している。  空沼岳は定山渓の南、豊平川や|薄別《うすべつ》川の谷をへだてて、中山峠から無意根、喜茂別の山なみと相対して札幌岳と尾根を連ねている。  その日は日曜日であったので、豊平川をさかのぼって車を乗り捨てた登山口には、数台の車が並んでいたが、やはり、リフトなど設置しない山はありがたく、空沼小屋にむかう道の原生林の中には、コバノイチヤクソウ、ジガバチソウ、シロバナノエンレイソウ、シュロソウ、オオユキザサ、タケシマラン、ウバユリ、サワヒヨドリ、ヤチアザミ、ツリガネニンジンと早くも山の草が賑やかに出迎えてくれ、殊に多く目立ったのがオクトリカブトである。葉にも根にも猛毒を持つこの草は、かつて、アイヌの人たちが狩猟するのに欠かせぬ武器をつくった。  北海道開拓の歴史は狩猟民族の天国を、農耕民族にふさわしくつくりかえるための悪戦苦闘の積み重ねなのであった。今、トリカブトの花が札幌近郊の山で紫に咲きさかっているというのは、北海道自身にとって、どういう意味をもつのか。だれが北海道に住もうと、もうこの花をとる必要のない時代にあるということか。  かつての火口であったろうか。上の沼、下の沼、共にそのほとりは子供づれのハイカーで賑わっていたが、ニレやブナやシナノキやオンコの多い原生林の深さはなお太古の面影を残し、札幌の子供たちは、この山に来て、自然とたたかい抜いて来た人間の苦しみの日々を学ぶ機会にふれることができるのだと思い、砂漠のような東京に住む子供たちが哀れだった。

50 雨龍沼  ヒオウギアヤメ(アヤメ科)
 その夏の半ば、生まれてはじめて座骨神経痛なる痛みに見舞われた。夏の終りの北海道での旅に、暑寒別登山を予定していたのだけれど、こんな足で大丈夫かしらと心配になる。  この山は花が美しく、中腹に雨龍沼という高層湿原があるという。私にとって、水と花のある山というのは大きな魅力である。  深川市での用が夜の九時に終り、小田幸晴さんほかの深川市青年大学のひとたちと車を連ねて深川市の市民会館から三十キロ、舗装されていない山みちを一時間半ほど走らせて南暑寒荘に入る。雨龍町営の、休憩宿泊無料の小舎だけれど清潔で立派である。  十二時、満天の星を仰いだあとでふとんにくるまって、すぐに就眠。六時に起床。  小屋のまわりの草地にアポイマンテマと思われる薄紅の花が咲き、これからの山路も珍らしい花がありそうだと期待に胸をはずませて、かなりの急斜面を登ってゆく。うれしいことに一つも足が痛くない。  道はオシラリカ川の上流のペンケペタン川の谷に沿って進み、意外によく踏まれていて歩きよい。吊橋をわたって間もなく白龍滝が落下するのを右に見る。ここにくるまでにツバメオモトやショウジョウバカマが実になり、オニシモツケソウやアキノキリンソウが咲きさかっていた。クジャクシダは黄ばみはじめ、イワオトギリソウもわずかに花を残し、エゾミソハギが濃い赤紫に、まだ咲きつづけ、ほかにエゾカラマツやクルマバソウやエゾフスマなど。  滝から上に又、吊橋があり、流れが急になって、川そのものが緩傾斜の滝のように、岩の間に白波をたてながら流れ走ってゆく。高度を増すにつれてダケカンバの林が多くなり、その下草のチシマザサの緑が美しい。  谷沿いにつけられた道の対岸はゆるやかな尾根を見せる群馬岳で、流れと、笹藪とダケカンバの樹肌の白が晴れた空の下につづく眺めはすがすがしくて、北海道にもこんなに明るい山があったかと見とれてしまう。  ツルニンジン、ミミコウモリ、ザゼンソウ、ヨブスマソウ、セリバオウレン、クルマバムグラ、キソチドリ、ノウゴイチゴ、ヒメゴヨウイチゴなどが道のかたわらに目につく。  川の流れの淀んでいるところで石にこしかけて休んだ。右側の樹間から注ぎこむ小さな流れの水のおいしさ。氷をとかした水よりももっと冷たい。  小屋のところの標高が五百二十メートル強、六百メートルほどを登ったところで、道は川をはなれて笹藪の平地になり、前方に南暑寒と暑寒別本峰の姿がゆるい稜線を描いて浮び上った。一四九一メートルの本峰暑寒別は東方にむかって、大きな爆裂火口らしい形を見せている。  笹の道が尽きると、すぐ眼の前に黄ばみはじめた草原がひろがって、点々と池塘が光る。雨龍沼湿原である。東西に四キロ、南北に二キロ。ふりかえると、原の水をあつめて東に流れる川の落ち口のあたりが、ダケカンバの林を二つにわけているのがよく見えた。  それにしても何という花の多さであろう。もう実になったノハナショウブ、ヒオウギアヤメの群落。シオガマギクやサワギキョウの実もいっぱいある。ホロムイソウ、エゾノアブラガヤが咲き残り、エゾオヤマリンドウ、シロバナノワレモコウは今が盛りである。ワタスゲ、チングルマ、エゾカンゾウ、ミズバショウ、シナノキンバイは枯れ葉だけとなり、ツルコケモモやヒメシャクナゲがひっそりと生き残り、池塘にはネムロコウホネ、ミツガシワがまだ咲いている。  この湿原は熔岩台地にできたもので、かつては湖水であったという。池塘間の水位のちがうのがおもしろい。  南暑寒の登り口まで木道を四キロ歩いて笹の中で昼食。青年大学の方たちが枯木をあつめてバーベキュウをセットしての御馳走である。眼の下にひろがる一望の湿原を眺め、ノハナショウブやヒオウギアヤメが咲く頃、是非もう一度来たいと思った。左側の|恵岱《えたい》岳の沢の方に、クマがたくさんいますとさし示すひとがいたが、たとえクマにあっても、来たいと思った。

51 国師ヶ岳  クモイコザクラ(サクラソウ科)
 中央高速を河口湖にむかってゆくとき、いつも|雁腹摺《がんがはらすり》山の名に心をひかれる。大菩薩の南にもあり、トンネルで通ってしまう笹子の上にもある。  雁がすれすれに飛んでゆくというのは、山が高いということなのか、低いということか。大菩薩から西北の秩父最奥の山々、|甲武信《こぶし》や|国師《こくし》への入口には|雁坂《かりさか》峠がある。雁もここで一休みするという意味か。   雁の腹見すかす空や船の上 [#地付き]其角   紀の路にも下りず夜を行く雁ひとつ [#地付き]蕪村   雨となりぬ雁声昨夜低かりし [#地付き]子規   母恋ひの若狭は遠し雁の旅 [#地付き]勉 『俳句歳時記』にあげられた雁の句は、昔も今も、ひとびとが、この鳥の音に空を見上げ、あるいは耳をすまし、季節の移り変りに人間の身の移り変りを重ね合せて、何らかの感慨にふけったことがわかる。  子供の頃の秋のわびしさは、夕空をゆき、夜にかけて鳴いて空をわたる雁の声に思い知らされたと思う。鋭く高らかに鳴く声は、同じ渡り鳥の鶴よりも鴨よりも澄んで美しい。鶴腹摺山や鴨坂峠の名をあまり聞いたことがないのは、その声が雁のように、ひとの心に無常を告げるところには至らぬからであろう。  雁坂峠の名は娘の頃から気になっていた。  その奥に東|破風《はふ》、西破風、|木賊《とくさ》、甲武信とつづく二千三、四百メートルの山嶺がつづき、原生林に被われた稜線を辿って二千五百メートルの国師ヶ岳から奥千丈、更に頂上に五丈岩が空にそびえたつ金峰にいって黒森に出る。秩父の栃本から入って、黒岩尾根を経て雁坂峠に。一体幾日の山旅で、それらの原始の森の中に身を沈めることができるのか。  五万分の一の地図を並べ合せて、何度コンパスではかったり、鉛筆で山道をなぞったか知れない。雲取や大菩薩の次に目ざすのはまさに、それらの山旅であったが、母は頑として許さなかった。大正の頃に今の東大教養学部、一高の学生たちが何人も道に迷って死んでいた。同じ小学校の同窓会の先輩も単独行で雁坂峠をすぎたところで死んでいる。  それらの山々の南面した谷には、笛吹川の源流が多くの滝を伴って走り、初夏はシャクナゲの大群落が薄紅に真紅に咲きさかるという。  母は反対したが、兄も弟も、雁坂峠を越えた。私は結婚して三児の母となり、国師ヶ岳の頂きを踏むことができたのは、それから四十年たった、つい数年前である。  雁坂峠は越えなくても、川上牧丘線の林道に車が入って、二千四百メートルの大弛小屋までゆけるようになった。シャクナゲの群生する山道を、ほんの二百メートルも登って、まだ残雪のある頂上に着いた時、北からやって来た若い娘さんの一団があり、雁坂峠から甲武信を越えて三日目に辿り着いたという。「えらいことねえ」と讃嘆しながら、やはりさびしい思いがした。自分にそれだけの体力が残っているかしらと思って。  国師や奥千丈からの水を集めた笛吹川の西沢渓谷も、四十年の月日を経て、塩山からのバスで容易に入れるようになった。  その少し前に、|常陸《ひたち》の花園山にいっていた。山草の宝庫ということでいってみたのだけれど、渓谷のかたわらには、立派な自動車道路ができていて、そのために破壊されたのかどうか、何度も車から下りて、杉木立ちの山腹の中に入ってみたが、杉の落葉の間からは、わずかにミズヒキやヤクシソウなど、里の道ばたに生い出ているような草ばかりが顔を出していた。  西沢渓谷は、さすがに、ずい分幅広い自動車道路がつくられたけれど、バス停から先は、いやでも歩かなければならぬようになっており、二千五百メートル級の奥秩父の山々がひしめいている中をきざんでくる水量も豊富である。  谷にそれほどの高度差がないため、大杉谷のような、滝の眺めの壮観さはないが、シャクナゲはまさに見頃で、薄紅の花々が、谷を薄紅に染めるばかりに咲きさかっていた。  アズマシャクナゲの類であろうか、いつか金峰からの下り道にいっぱい咲いていたのと似ている。  じつは私は、この地味のやせている岩肌を好むというツツジ科のシャクナゲを、ひとがさわぐほどには好まない。花の花弁のいろどりの少さに対して、くろぐろとするばかりの濃緑の葉が茂り、しつこい感じがする。  金峰のシャクナゲが、そうであった。葉が多すぎる。  しかしこの西沢渓谷では、葉を被いつくすばかりにさかんな花のつきようである。谷の両側がそれらの花々にいろどられている姿はすばらしく華麗で、奥秩父といえばどこか暗鬱な印象であるのにまさに花の秩父という言葉をささげたい気がした。クリームいろのヒカゲツツジもいっぱいあった。何よりもうれしかったのは、手もとどかない道ばたの大きな露岩の上に多分クモイコザクラであろう、薄紅の小さな花を見つけたことである。  武甲山にある石灰岩地特有というイワザクラは武甲山ではあえなかったけれど、同じ岩質のここに来て同じ仲間の花をようやく下から見上げることができた。イワザクラにくらべて、クモイコザクラは葉が小さく背も低いが、花はむしろ大きくかたまって咲いていた。  私の子供の頃、赤羽駅から歩いて、荒川の渡しを渡り、浮間ヶ原と名づけられた湿原にゆくと、サクラソウが咲いていた。荒川の氾濫によって、土地が肥沃なので咲くのだという。我が家に持ってきてもよほど肥料を与えなければ咲かなかった。山の、こんな岩の上の土が、どんなに肥えてあのようにきれいに花を咲かせるのかと思う。

52 葦毛湿原  シラタマホシクサ(ホシクサ科)
 沼や池は、出口を持たない溜り水だから、嫌いだと言ったひとがある。  しかし、海こそ、出口のない溜り水であって、私の知っている限りの沼や池は、ほとんどが出口を持っている。  それらは低地に溜った水なので、水位が上って溢れれば低きについて出口を求め、又、つくってゆく。  沼や池や湿地の水は大きな波こそ立てないが、より低い地があれば、一刻一瞬のひまなくなだれこみ、流れ落ちようとする。私にはその緊張への予感が大きな魅力である。  東海道本線に沿う豊橋と浜松の間にある|葦毛《いもう》湿原の名は、「野草友の会」の中島睦玄氏からシラタマホシクサという禾本科植物のタネをもらってはじめて知った。  シラタマの名を示すように、白く小さく、玉のような花をつける。ワタスゲに似て、もっとか細く、はかなげな花で、ワタスゲが多年生で寒いところに生えるのに、シラタマホシクサは一年生で、あたたかいところに生え、静岡県や愛知県、三重県の太平洋沿いの湿地に多いという。  てのひらにのせると、わずかな風の気配にも飛び散ってゆきそうな、白く小さい種子は、すぐにミズゴケの中にまいてみたけれど、一本の芽もでて来なかった。  そして、夏のはじめの一日、豊橋の奥の、|三ヶ日《みつかび》という町に用ができて、途中、葦毛湿原を訪れることができた。  豊橋からタクシーで三ヶ日にゆくのには、弓張山系の|多米《ため》峠を越える。その麓に近く湿原がある。運転手に言っても知らず、とにかく浜松にむかっての県道を走り、三十分ほどいったところで聞くとわかった。豊橋市の町外れの、農家が点在する中の細い道を曲りくねって、北から東に連なる丘陵の山麓にむかってゆき、葦毛湿原入口という立札のところに車を待たして木道にとりつく。  尾瀬に匹敵するというようなキャッチフレーズがつかわれているらしいが、その景観も地形も広さも、尾瀬とは異質であって、くらべて語るべきではないように思える。  葦毛湿原を北から東にかこむ丘陵は、三百メートル前後ではないだろうか。赤石山脈の南のはじを占めて、弓張山系と名づけられるこれらの丘は古くから秩父古生層といわれてきた地層で、この頃では、中生層といわれるチャートである。丘陵が平地に移行するあたりに幾つもの湧水があり、丘の麓に扇状地ができたが、下の岩石が水を通さないために、水は地表にたまり、あるいは地表を流れつづける湿原になった。  地味もやせ、強酸性とあっては耕作にも稲つくりにも適さなかったことであろう。  そして、低いところにモウセンゴケやヌマガヤやシラタマホシクサの群落が、やや高いところにイヌツゲやノイバラやモチツツジなどの低木が、丘の斜面にかけてコナラ、ミズナラ、ハンノキなどの林が発達したもののようである。頂きにむかって、山腹にはマツやスギやヒノキの植林がしげっている。  木道は湿原の中を縦横に走り、周囲の林の中にもよく踏まれた道がある。すべてを歩きつくして三時間とはかからないようであった。  しかしその小ささにかかわらず、私は、この一劃の眺めに感動した。幾つもの大きな都会がすぐ間近にあるというのにこの閑寂さ。見渡す限りが緑一色で、人家の屋根も電信柱もない。尾瀬は深山の奥だが、すぐ近くを東海道が走り、新幹線が走っての、この原始の姿には、先ず大きなおどろきが湧く。大自然の摂理のみごとさに感動するという点では、まさに尾瀬に匹敵するものである。  標高七十五メートルから六十メートルへと、ゆるやかに傾斜する湿原では、初秋が花期のシラタマホシクサは六月はじめのこの日、まだようよう若みどりいろに生長しはじめたばかりで、共生するというサギソウもミカズキグサも見えず、草地にはモウセンゴケの朱赤ばかり目立った。  山腹よりの潅木地帯に、何か純白の花が、雪のようにかがやいている。近づいて見ると、蕾をいっぱいつけたモチツツジの群落にカザグルマが這い登って、びっしりと満開の花をつけているのであった。  黄金の一重の菊状の花が咲くハンカイソウも蕾がふくらんでいる。いつか焼津の高草山麓でもこの花を見たので、東海道筋に多いのであろう。湿原の外縁を一周しながら、ふと、かたわらの林の奥に、白い穂状の花のあるのに気づいて、倒木の間をぬっていって見ると、ミカワバイケイソウであった。北アルプスあたりのより穂が長く、背が高くて、全体にほっそりしている。  寒冷期から暖期になったとき、高山に帰りおくれた種族であると東海財団発行の案内書にしるされている。林の出口に、そうそうと音をたてながら走る急流があって、そのほとりにいろもあざやかな紫のノハナショウブの群落があった。  小鳥の外、何の動きも眼に見えない湿原全体の水は、つねに移動していてやまないことが、この流れでわかった。  一九七九年の夏、スイスの帰りにオーストリアのハルシュタットの奥の、ゴザーウ湖へいった。前、中、奥と標高差四百メートルほどの間に点在する湖を一つずつ訪ねて歩いたのだが、湖畔の林の中に、ミカワバイケイソウとそっくりのコバイケイソウが何本も咲いていた。

53 金峰山  シャクナゲ(ツツジ科)
 |金峰《きんぷ》山には、秩父事件の舞台となった南佐久の高原を、脚下に一目で見渡したくて登った。  明治十七年、関東平野の西を屏風のように連なりわたる秩父山地の荒川の谷々に、資本家を助け、農民の窮乏を見捨てようとする時の権力に対抗して、一万の民兵が|蹶起《けつき》した。明治新政府の方針に不満を抱く自由党員も加わり、多数の銃火器を持って、その意気は高く、勢いも激しく、耐えに耐えた困窮の底から打ちあげられた|狼火《のろし》は、稲妻のように早く走って村々に飛び火し、焔となって燃えさかったのである。秩父は知々夫とよばれた古代から、関東の先住民族が住んで|知々夫《ちちぶの》|国 造《くにのみやつこ》の勢力下にあり、平安の初期以降は桓武平氏の子孫が荒川水域を開墾して荘園を拓き、家の子郎党を擁して武力を養い、坂東武士発祥のもととなったところである。  保元平治の乱に活躍し、頼朝が鎌倉に幕府をひらいたとき、いち早くその傘下に馳せ参じたのも、秩父を根拠とする坂東武士たちであった。加えて、武田家滅亡のあとの家臣たちもこの山地深く住みつき、その気風は誇り高く、豪壮、勇武をもって知られている。  私は両親とも古くからの江戸の土着の民である。子供の時から、秩父という地名には言い知れぬ親しみを抱いていた。荒川の水に親しんで育ったせいかもしれない。関西のひとたちが、「大和し美わし」と呼んで奈良や飛鳥のあたりを心のふるさととするとき、関東のひとたちには「秩父し美わし」と、その山なみの、その水のゆたかさ、緑の深さをなつかしがるものが多いのではないだろうか。  明治政府が多く薩摩や長州のひとたちを中心にして成立し、江戸を東京と改めたとき、関東びとの心には自分たちの庭を他国の土足でふみにじられる思いがあったのではないだろうか。私たちは子供の頃に、秩父に反官反権力の大騒動が起ったことを聞かされ、それを語る大人たちの口調に、秩父事件によせるなみなみならぬ畏敬の念を感じた。  軍隊も出動し、多勢に無勢で、やがて十石峠から南佐久平の千曲川沿いに|潰走《かいそう》したひとたちは、ことごとく捕えられて苛酷な懲罰にさらされた。西に八ヶ岳連峰が、南に甲武信、国師、金峰の連山が、眼の下にひろがる惨劇を見まもっていたはずである。  金峰二五九五メートル。国師二五九二メートル。その間の大ダルミ峠二千四百メートルに峰越林道が通じたと知らされたとき、私はいつもの山仲間との山旅に息子をつれて、その二つの山の頂きに立ちたいと思った。六月の晴れた朝早く、車で新宿を出て中央高速で甲府に。道を北にとって、牧平、塩平を経て焼山峠を抜ける。大ダルミ峠までの林道は、傾斜もゆるやかな山腹を縫い、ところどころに開拓農家が連なっていて、乳牛が放牧され、北海道のような|広濶《こうかつ》な眺めであった。  午後二時頃に着いて、夕食までに左の道を登って国師と奥千丈に。かつて、学生時代に亡兄がその友人たちと入った時は、天幕をかついで、栃本から幾日もかかって国師に辿り着いたことを聞かされたので、あまりにも、らくらくと、この秩父最奥の山径を歩いていることが申訳ない気がした。  しかし一面の栂や樅の原生林には、さすがに深山の趣きがあり、露出した花崗岩の間を埋めて這松やシャクナゲが密生している。まだ固い|蕾《つぼみ》で盛りの頃がしのばれた。西側の大きな斜面に、岩石と這松の配置が、自然の庭園のようになっているところがあり、皆々よろこんでその間を歩いて、紫紺に暮れる夕富士を見た。翌朝は五時に出発。道を左にとって、朝日岳、鉄山をまきながら金峰に。  栂の原生林の中を、眼の悪い息子は元気一ぱいに先頭を切り、私は昨夜飲んだ睡眠薬のせいか、息もたえだえに一番|殿《しんがり》をつとめ、汗を流すほどにようやく薬の気が抜けたらしくて元気になった。金峰の頂きに白々とかがやく五丈岩は、真下で見上げると、ピラミッドさながらの雄大さで、雲一つない晴天に、富士山を真向いに対いあう南側の眺望は絶佳とより言いようがない。しかし、眼を北側に転じて、千曲川の谷が野辺山の原にむかってゆるく傾いてゆくあたりは、一望の緑の濃淡の山の姿、谷のひだのことごとくが、かつての日の|痛哭《つうこく》の記憶をひそめて、しずまりかえっているように見える。  黒森へと向かう下りの道は、露出した花崗岩が累々と重なりあい、息子にとっては最大の難関となった。手をひきながらひたすらに先を急いで下りつづけ、敗残の兵はこうもあったろうかと思う。開花しはじめたシャクナゲの大群落が人の背丈を越す大木ばかりである。花のことごとくが深い紅いろで、鮮血の塊のような気がした。

54 白山  ミネズオウ(ツツジ科)
 加賀の|白山《はくさん》は、高山植物の名を覚えはじめた時から気になっていた。ハクサンシャクナゲ、ハクサンイチゲ、ハクサンチドリ、ハクサンフウロ、ハクサンコザクラ、ハクサンボウフウ、ハクサンオミナエシ。それらの花は浅間高原の池ノ平で出あい、立山の弥陀ヶ原で見つけ、大雪山の黒岳で、戸隠の中社でさがし出したのに、皆、ハクサンの名を負っている。それほど古くから白山はひとびとによって登られ、そこで見出した花の美しさをひとびとは忘れかね、よその山にいって、同じものを見つけて、ハクサンの思い出をその花の名に托したのであろう。  大分前に、福井の平泉寺をたずねた時、そこに併設されている白山神社を見た。昔のひとは、このお宮に詣ることを白山登山の第一歩としたのだと聞き、その長い路を思った。白山にこめる情熱を思った。そして、時間と体力が許せば、その日、そのとき、白山神社の|苔生《こけむ》した石段を登って、自分も社殿の奥の林の中に、今も細々とつづく道を辿ってゆきたかった。  白山の白々と雲の果てに浮ぶ姿をはじめて遠望したのは、もう二十年近い昔の六月である。  美女平から歩き出して室堂から立山に登ったとき、はるかなる西の方にまだ雪のかげを残す秀麗な山容があった。  立山から槍ヶ岳まで歩き通した岩尾根の道々で、白山は朝も昼も夕近い時も、いよいよ近く鮮やかに眺められ、まさに純白の峰の姿であった。  毎年の冬、多くの若ものたちが、白雪の岩山に青春のいのちを奪われる。白といういろは不思議な思いをひとの心にかきたてる。その白さに浸って、身も心も白のいろにまぎれこみたい願い。白は無のいろである。空白の空。何ものも介在させない真空の空。ひたむきに白にあこがれるのは、ひたすらに若く、心にも身にも、もっとも純真なるものを求め願う青春の特権であるのかもしれない。先ず、おのれを純白の境涯に埋めて、そこから生きる第一歩の決意を固めたいと思う。雪山で死んだひとびとの死が、数ある遭難の中でも、とりわけいたましく思えてならないのは、雪に魅せられた心の一筋さがいとおしいから。  白山の早々と雪をいただいた姿は、九月の末の乗鞍の頂きでも見た。  そして雪よりもとにかく花をといつもの仲間と金沢から登ったのは数年前の七月である。  昼間の列車で着いたその日のうちに白山温泉へ。一泊して午前四時出発。白山の高山植物を一つでも多く記録しようと砂防新道をいった。  先ずミヤマシシウド。背丈も二メートルほどで純白の花盛りである。栄養豊かとも言いたいヤマハハコの白もむくむくといっぱいの花をつけている。ノリウツギの白。珍らしいセンジュガンピの白。いつもピンクのシモツケを方々の山で見るけれど、ここでは北海道のようなオニシモツケソウの白。シギンカラマツやモミジカラマツの白。ヒロハノユキザサも白い花である。  白山だから特に白が目立ったのではなくて、これらの花々が大量にあるということに眼を見張らされた。黄いろのキオン、コガネギク、タマガワホトトギス、オトギリソウもたくさんある。そして遂に二千メートルあたりを越え、シラカバ、ダケカンバ、ヤマハンノキ、アオモリトドマツ、コメツガ、シラビソの樹林帯にわかれた草原地帯に来て、ハクサンの名を負うサクラソウ科の可憐なハクサンコザクラに見参した。妙高高原でも見たことがあるけれど、やはり白山で見ると、ここがこの花のふるさとのような気がしてくる。  午後一時室堂に着く。小屋の周辺はハクサンコザクラの大群落であった。ミヤマキンバイもミツバオウレン、バイカオウレンもハクサンフウロもある。イワカガミも、ダイモンジソウもミヤマリンドウもニッコウキスゲもノハナショウブもあって、さすがは花の白山の名に恥じぬ豊富さだ。翌日の午前二時、御前峰に御来光を見に登る。  晴れた星空であったのに、星の一つ一つが消え、東の空が明るくなり、薄紅いろの雲がたなびいて、今こそ太陽をと息をつめて見守る大ぜいの前で、雲は薄紅があせて白銀のいろとなり、見る見る薄絹のようにとけて、剣ヶ峰と御前峰の間の谷々に舞い下りて来た。  私は山を御神体とも思わず、山のてっぺんで万歳を叫ぶ趣味は毛頭持たない人間だけれど、この天女の衣のような薄絹の舞いに、ひとびとが万歳の声をあげたとき、いつか自分も拍手していた。  大汝峰との山あいの、まだ十分に雪渓のあるお池めぐりでは、砂礫地にイワヒゲ、アオノツガザクラ、ミヤマウイキョウ、ハクサンボウフウ、コケモモを見た。私にとってははじめてのミネズオウも知った。ヒメシャクナゲよりも更に小さいこの潅木が、この小さい花を咲かせるまでに、発芽して何年かかるのか。この細い幹は数十年も生きることができるのだという。  帰途は大白川村まで。  数日前に熊が出たという長い長い下りの道で見た花の名はアカモノ、ミヤマセンキュウ、ハリブキ、グンナイフウロ、キツリフネソウ、イワオウギ、チングルマ、ベニバナイチゴ、ヤマブキショウマ、オオバギボウシ、バイケイソウ、コバイケイソウ、マルバダケブキ、ウサギギク、クロトウヒレン、クロユリ、クロクモソウ、オタカラコウ、メタカラコウ、ヤグルマソウ、サンカヨウ、ギョウジャニンニクなど。そして、私の好きなハクサンチドリよりは、テガタチドリの方がたくさん目についた。  白山。遠いはるかな白い峰は、匂いたつばかりの花の山であった。そして真夏になお雪もゆたかであることは、いかにこの山の冬が長いかを思わせ、冬が長くきびしければこそ、この山いっぱいの花々が、それぞれのいのちを強靭に、したたかに咲き誇っていると教えられた。

55 立山  イワイチョウ(リンドウ科)
 |立山《たてやま》の名は、娘の頃に読みはじめた、『万葉集』巻十七にある大伴家持の「立山の賦」の一篇を知って以来忘れ難いものになっていた。 (天|離《さか》る|鄙《ひな》に|名輝《なかか》す|越《こし》の|中《なか》|国内《くぬち》ことごと、山はしも|繁《しし》にあれども、川はしもさはに行けども、|皇神《すめがみ》の|領《うしは》き|在《いま》す、|新川《にひかは》の|其立山《そのたちやま》に、|常夏《とこなつ》に|雪降《ゆきふ》り|頻《し》きて、|帯《お》ばせるかたかひ川の清き瀬に、|朝宵《あさよひ》毎に立つ霧の、思ひ過ぎめや、いや年のはに外のみもふり|離《さ》け見つつ、|万代《よろづよ》の|語《かた》らひぐさと、|未見《いまだみ》ぬ人にも告げむ。音のみも名のみも聞きて、ともしぶるがね。)  この越中には山がたくさんあるけれど、川もいっぱいあるけれど、中でもまるで神の山のような立山は、夏でも雪があってすばらしいし、その麓を流れる片貝川は、朝夕に霧が立って、神の川のように清らかだ。いつも眺めて千年万年ののちまで、この山のよさを語り伝えたいものだ。この山を知らないひとたちが、羨ましがる位評判を立てたいものだ、というような意味であろうか。  大伴家持が、越中守に任ぜられて、現在の高岡市にあった国府にやって来たのは、天平十八年(七四六年)、まだ三十歳にならぬ青年のときであった。翌十九年四月二十七日、この歌はその館でつくられたが、天平勝宝三年(七五一年)に帰京するまで、よく国内を巡行した家持は、新川郡に至って雪に被われた立山の雄姿を仰ぎ、大きな感動にそそられたのであろう。 『万葉集』の中では山部赤人の富士山の大きさを讃えた歌も有名である。しかし家持のおかれた状況を考え合せると、この立山の賦には立山へのおどろきとおそれ以上に、新任地における家持の意気込みがにじみ出ているようで味わい深い。  当時の越中は、都からははるかな|鄙《ひな》の地であった。父の旅人も、少年の家持を連れて、|大宰帥《だざいのそつ》として九州に着任したけれど、遠の御門ともよばれて、大宰府は大陸に近く、新しい文化からの刺激もあったろう。  古代から、武をもって、天皇家をまもる役目をしていた大豪族の嫡男としては、この越中守赴任は、ようやくはびこり出した新興階級の藤原氏による左遷と取られたかも知れない。家持の歌の多くが、壮年期に至るほどに、彼をとりまく政治的な環境の悪化した暗いかげを落していると言われるけれど、この立山の賦をつくった頃は、よしんばそのような周囲への不安があったにしても、それをかき消し、蹴散らすほどの、青年の活気に溢れていたと思う。  私は、この歌の若々しさが好きである。そしてこの憂愁の歌人と言われる家持の眼にきざまれた立山の姿を、いつか必ず眺めたいと思いつづけていた。  日本山岳会の近藤信行さんがまだ『婦人公論』の編集にいて、立山から上高地まで歩く五泊六日の旅を企画して誘ってくれたとき、まさに欣喜雀躍した。まだ四十代の頃である。  残念にもその二、三カ月前から左膝が痛んで水がたまり、医者通いの最中であったが、小さな懐炉を患部に縛りつけ、六月のはじめのある朝、上野から富山へ。ケーブルで美女平に着き、|芦峅寺《あしくらじ》のガイドの志鷹光次郎さんが、他のガイドのひとたちと、また、中部山岳国立公園管理員の沢田栄介さんが出迎えてくれた。  その夜の泊りは地獄谷を下りて、雷鳥沢の雷鳥荘であった。谷から引いて来たゆたかな硫黄泉に、先ず痛む足を浸した。  立山火山の最も新らしい活動を今に残している地獄谷は、径二キロ近い谷全体が咆哮し、轟音を立てて硫気を噴きあげている。何人もの登山者がその硫気を吸い、泥火山の熱い泥の中に落ちて死んだ。立山を舞台にした謡曲「|善知鳥《うとう》」の中では、紅蓮大紅蓮とか、焦熱大焦熱という強烈な漢字を綴って、地獄谷のすさまじい姿をあらわしている。『今昔物語』にも「善知鳥」の猟師と同じように、生前の罪の報いで、立山の地獄谷に落ちて苦しんでいる女の亡霊が出て来て、旅びとに救いを求める話がのっている。  夕暮れ近い谷間は、一面の雪が灰いろに沈んでいて、雷鳥の重苦しい啼き声と共に何か陰惨な感じがしたのは、伝説の持つ暗さのせいであろうか。  あくる朝早く、沢を登り切って、みくりが池のほとりで、雪の間から噴き上ったような、イワイチョウの、鮮烈な緑を見た。まだ蕾も出ていないけれど、その|縁《ふち》に細いギザキザを持った、たくましい葉に、ふと、逆境をはねかえす大伴家持の心意気を見たような気がした。  旧噴火口の一つであるみくりが池には、竜神の怒りにふれて、蛇体に変じて沈んだという坊さんの伝説があるけれど、青年家持が、もしこの山に登っていたら、やっぱりこの池で泳いだにちがいない。しかし、坊さんのように心臓麻痺で死ぬことはなかったろうと思ったりした。  なお、この立山の旅で、足弱の私の杖となって私を助けてくれた志鷹光次郎さんは、昭和四十三年(一九六八年)胃ガンで亡くなられた。まだ六十代の前半であった志鷹さんは元気で、私に、今度は劒岳に登るように、いや必ず登らせてあげますと言ってくれたのだったが。積雪期、厳寒期の劒岳初登頂のかがやかしい記録を持っておられたのに残念この上もないことである。

56 薬師岳  キバナノシャクナゲ(ツツジ科)
 立山は交通機関の便利がよくなって、昔よりは容易に三千メートルの岩峰の頂きに立ち、はるかに槍ヶ岳や加賀の白山を、間近に黒部の谷々や後立山連峰を眺められるようになったけれど、山の恐しさは、大伴家持の頃と、ほとんど変っていないのではないだろうか。  立山から薬師岳まで、浄土、鬼、竜王、獅子などの峰々を過ぎるとき、まだ雪のべったりと貼りついた急傾斜の岩場の道では、何度も転落の危険に胸を凍らせ、天正八年十二月、越中の領主、|佐々成政《さつさなりまさ》が、加賀の前田利家とたたかって、遠江の徳川家康に援けを求めるために越えていったザラ峠では、雹を伴う冷雨に全身をたたかれた。  その夜の五色ヶ原の小屋では、ガイドの志鷹光次郎さんが、日本山岳史の上で名高い松尾峠の遭難の話をしてくれた。  大正十二年、槇有恒、三田幸夫、板倉勝宣の三氏が厳冬の立山登山を決行し、十人のガイドをたのんだが、志鷹さんは当時のガイドの生残りの二人のうちの一人であった。  電車もケーブルもバスもなかった頃の、雪の立山はどんなに多くの体力を要したことか。頂上を極めて、室堂から弥陀ヶ原まで来た時、猛吹雪で方向を見失い、ようやく松尾峠から立山温泉に下る道に取りついて、板倉さんは疲労凍死した。  この三人は日本の近代的登山の草分けともよばれる熟達者揃いで、槇さんはすでにスイスで六回も冬期登山を果し、板倉さんは冬の大雪山、燕、槍などに登り、三田さんも三月の立山、劒の経験がある。しかし救援を求めて松尾峠の急坂をスキーで下りる三田さんは、幾度か下山を妨げる幻影に苦しみ、行手をはばむ幻覚に惑わされた。槇さんは、その腕に絶え入ってゆく僚友の冷たいからだを抱かなければならなかった。  先に下山した志鷹さんたちは、三人が三日もつづいた猛吹雪を、室堂の小屋で避けているとばかり思っていたという。出発の朝、板倉さんのアルミの弁当箱の蓋が、焚火の中に落ちると、あっという間に炎の中でめくり返り、小さくちぢまって熔けてしまった。滅多にないことなので、いやな予感がしたと光次郎さんは、燃えさかる焚火の炎を前にして、暗く低い声で語った。  佐伯氏と並んで、志鷹氏は立山山麓に古代から住んでいた豪族の家系を持ち、光次郎さんの家は一族の元祖であるという。  十八歳からのガイド生活に、立山連峰のどの谷もどの沢も、自分の家の庭のようによく知っているという光次郎さんは、そのとき六十二歳であった。殊に高山植物に明るくて、ザラ峠の急坂、更に越中沢、スゴ乗越と、重く痛い足を引きずってゆく私は、志鷹さんが、まだ雪に埋もれている花の名を次々に挙げてくれるおかげで、大分苦しさをまぎらすことができた。  五色ヶ原の小屋で雨のために足止めを食ってしょんぼりしていると、晴れれば明日は、薬師岳の東斜面にキバナノシャクナゲが大群落をつくっているのを見ることができる。二、三時間も照れば雪が減って、花も咲き出しているでしょうとはげます。  薬師岳は、美女平から弥陀ヶ原までの坂道の途中、右手に当って、|栂《とが》、ブナ、|朴《ほお》などの原生林の梢越しに、根張りゆたかな山容をどっしりと据えていた。  立山開山伝説では、国司の息子の佐伯有頼が、逃げた白鷹を追って急坂を登りつづけ、疲れて倒れ伏した野で、薬師如来から薬草を教えてもらうことになっている。  富山の薬売りは薬の効能を語りながら、併せて立山権現の功徳をひろめていったのだと思うけれど、説話の舞台に、熔岩台地と旧火口壁の急斜面とが相次ぐ立山周辺の地形がよく取り入れられ、富山平野からいきなり三千メートルに近くそびえたつ立山連峰への畏怖と渇仰の心がこめられていておもしろい。  しかし実際には立山から薬師岳まで、幾つもの鋭い勾配があり、雪渓の横断もしばしばで、私の病んだ足は、薬師の登りにかかって、一歩も半歩も前に進まなくなってしまった。薬師如来ならぬ志鷹さんは、数歩先を歩きながら、あまりみんなにおくれると、クマが出ますとか、これは今、通ったばかりのカモシカの足あとですとか、花の名ではもう動かない私の足を、ケモノの名ではげましつづけた。趣味は狩猟だという。先祖以来の狩猟民族の血がよぶのか、ケモノの話をするときの志鷹さんは生き生きとして声もはずんでいる。  その日、北薬師の山腹はまことにキバナノシャクナゲの群落にいろどられていて足も心も軽くなり、それから二時間かかって辿り着いた薬師岳の頂上には、小さな祠のあとと、さびた刀剣がいっぱいあって、苦しみ苦しみここまで来たのは、自分だけではないのだと、眼に見えぬ先人の霊になぐさめられる思いであった。  それにしても昔の立山、昔の薬師は、麓から全部歩いたのだから大変なことだったと思う。ときには、とったケモノの肉を焼いて食べたり、岩魚を釣って食べたりもしたのであろう。志鷹さんは薬師の頂上の雪をコンデンスミルクに入れ、私に食べさせてくれた。おいしかった。

57 黒部五郎岳  チングルマ(バラ科)
 もしも一番好きな山はと聞かれたら、黒部五郎と答えたい。  この山は立山の頂きから、はるかに遠く、薬師の頂きからは間近に眺められ、一方に鋭く切り立ったような稜線と、一方にゆるやかな裾をひいた形が、不等辺三角形のように何か安定していて、あたりの山々の中にきわだっていた。古い火山活動による山の東面は、薬師と同じように、深くえぐられた氷河の谷のあとを残している。  薬師から太郎兵衛平まで来て、その小屋に一泊した夜、足弱の私は、上高地までの予定を変更して、有峰に下ったらと同行者たちにすすめられ、たとえ途中で野営することになっても、あの黒部五郎の頂きだけは踏んで見たいと切望した。  あくる朝は五時に出発、太郎山、上ノ岳、赤木岳を過ぎ、熊やカモシカの足跡を幾つか見ながら十時、急峻な岩尾根を登りつめてその頂上に着いた。這松に被われた狭い平地に遭難碑が一つ立っていた。  スゴ乗越の近くにも遭難碑があり、ピッケルに落雷して死んだ大学生とのことであった。薬師の下りで、私たちの一行もものすごい雷にあったのだが、とっさに皆ピッケルを遠くに投げ出し、眼鏡をとるひともいた。  遭難碑を見る度に、そこに空しく果てた生命を思い、残された者の悲しみが胸にうずく。よく山で死ねれば本望とか、あのひとは好きな山で死んだのだから仕合わせとか、言ったりするけれど、私は死ぬために山にくるものはいないと思う。山で死ぬのは本人にとって痛恨極まりないはずである。  しかし山の一歩一歩は、里での交通事故よりもはるかに確実に危険をはらんでいる。それでも私たちは山にくる。あるいは死とすれすれの危険な場所と知ってなお、一そう心惹かれながら。  黒部五郎の東面の深い谷は、六月の半ば近いというのに一木一草の姿もなくて、一面の雪に埋まっていた。この雪の下にももしかして、ひとに知られずに息絶えた遺骸があるのではないか。こんなにもこの山に惹かれたのは、見えぬ霊がよんだのであろうか。いつか霧が湧きはじめて、空は青々と晴れているのに、谷の底からほの暗い影が湧きひろがるようであった。  黒部にはその後十年して、からだの頑丈な次男と八月の盛夏に又訪れた。  雑誌『銀花』の編集者の前野薫嬢。そして三木慶介さんが写真を撮るために同行した。この十年の間に、私は足の大腿骨骨折手術を二度したけれど、山は前回の時よりは、いささかの経験を積んでいた。手術した足はよくついたが、ギプスを長くはめたことで、片一方の筋肉が弱くなってしまった。しかしそれも度々山へ来ることで復調した。  二度目の黒部は、有峰から入って第一夜を太郎兵衛平の小屋で迎え、御主人の五十島氏から、数年前の冬の、愛知大生十三人の薬師岳での遭難の悲劇を新聞よりもくわしく聞いた。大事な息子を死なせた親たちが、毎年の盆の日には、花や線香を持って有峰のあの急坂を登ってくること。五十歳、六十歳を越えてはじめて山にくるひとも多く、遺骨を見つけるために山に来ていた父親が、黒部よりの谷の岩かげに、息子の|亡骸《なきがら》を発見、お前はここでお父さんを待っていたのかと、骨を集めて抱きしめて泣いたこと。どれもこれも胸が痛くなるような辛い話ばかりである。山へ来るということは、全く死とすれすれの場に身を置くことなのだった。  娘時代から結婚してもなお、山登りが好きだという私に、よく母は言った。たのむからあぶないところへゆかないで。あなたが山にいっていると、帰るまで心配で、自分の身が細るようだ、と。  そして私は、家の門を出る時まで、母の声を背中に知っていて、駅までくるともう、心は山へ山へと一散走りに走っていった。どんな山の道でも、母が心配しているから早く帰ろうと思ったことはなかった。少しの時間も長く山にいたいと思った。駅に下りてもまだ心を山に残し、家の門の前に来て、母の顔と声を思い浮べた。  山の何がそんなに私を惹きつけたのだったろうか。  母には、顔を見ればいつも悪い悪いと思っていた。母は八十幾つかで心臓麻痺が直接の原因で死んだのだが、母の心臓を弱めた力の何パーセントかは、私のくりかえしの山ゆきにあったのではないかと、今も思い返す度に胸が痛む。  それにしても十三人もの若もののいのちが一挙に失われたとは、何という不幸か。  いつか自分も、越えていった頂きの稜線を仰ぎながら合掌した。  二度目の太郎兵衛の小屋では、志鷹光次郎さんの息子の忠一さんにあった。光次郎さんが胃ガンでなくなったのはその前年である。私を劒岳に登らしてあげたいと、わざわざたよりをよこしてくれたことがある。忠一さんも親ゆずりの名ガイドなので、この次は是非案内して下さいとたのんだ。  この前の時とちがって、真夏の黒部五郎の谷はミヤマヨツバシオガマの赤や、コバイケイソウの白、シナノキンバイの黄で埋まり、チングルマの花は早や早やと散って、花柱が伸びて羽毛のように空にむかってそよいでいた。そのさかんな姿を見ながら、この氷河のあとを残す谷には、たった一人、はるばると辿り着いて、力尽きて倒れて死んだひとが、千年二千年の昔からたくさんいたのではないか。氷河期のそれ以前からもと思い、その埋もれた遺骸を吸って、こんなにも花々が、いろ鮮やかに美しいのではないかと思われてならなかった。

58 五色ヶ原  クロユリ(ユリ科)
 立山から上高地へゆく計画がきまったとき、五万分の一の地図をひろげて、先ずさがしたのがザラ峠という文字であった。  天正の昔、越中富山の猛将|佐々成政《さつさなりまさ》が、雪のザラ峠を越えて針ノ木峠に抜け、浜松の徳川家康にあいにいったという話は、娘の頃から本で知っていた。  佐々家はもと上総の国佐々の出身、尾張の春日井に移り住んで織田氏の家中となった。成政はその武芸の腕と豪胆な気性で、よく信長に用いられていたが、信長が光秀に殺されたあと、豊臣秀吉が光秀を討って天下びとになろうとしているのが口惜しく、信長の遺児|信雄《のぶかつ》を奉じて、家康と組んで、織田家の跡目をたてようとした。  日一日と秀吉の勢いのさかんなのを見ては、いても立ってもいられぬ思いで、富山の東をさえぎる三千メートルの岩峰の連なりにわけ入り、信濃から|遠江《とおとうみ》に出ようとしたその意気は壮と言うべきか、すさまじいと言うべきか。とにかく『太閤記』に「雪中さらさら越えの事」と伝えて、天正十二年十一月二十三日、百人の部下と、百人の|芦峅寺《あしくらじ》衆を引きつれて、千寿ヶ原から弥陀ヶ原に至り、室堂に泊って、一ノ越を越え、浄土・竜王・鬼・獅子の峰々を過ぎてザラ峠を下ったとしている。  私の山旅はまさに、その道を、そのまま辿るものであった。六月はじめの一週間を予定して、東京を夜行でたって、その日は地獄谷で一泊、あくる日、五色ヶ原で一泊するために、ザラ峠の急坂を下り、私は、関節の痛む足を引きずりながら、成政の悲壮な心境を思いやっていた。山馴れぬ一行の中には、倒れて疲労凍死し、転落して黒部の谷に埋もれたものもずい分あったことだろう。しかも多くの犠牲者を出して辿りついた浜松で、家康は成政の申入れを受けなかった。途中まで乗馬五十匹、伝馬百匹は出してくれたけれど。  失意の成政はその翌年、秀吉の大軍を越中に迎えて敗退する。  それから三年後の天正十六年、成政はせっかく与えられた肥後の領土の支配が不手際であったと秀吉に責められ、尼崎で切腹させられた。五十一歳であった。成政のことを武に強いばかりで、時勢の読みにうといと非難するものがある。結果の失敗を見て、その意図を否定するのだが、だれがおのれのすることなすことのすべてに、予定通り実現という結果を得られるだろう。  成政に死を強いた豊臣秀吉も二代とはつづかずに、運命の非情の波にさらわれるのである。平均寿命が五十歳とまではいかなかった昔、四十七歳の成政が、針ノ木越えをしたのは、生涯を賭けての勇猛心によるものであったろう。  朝夕に眼の前にそそりたつ立山連峰を望んで、最高に自分の人生への積極的姿勢を樹立させていった男。私は敗将佐々成政のような生き方が好きである。徳川家康や前田利家となって、三百年の子孫の繁栄を残したとて、悠久な地球の歴史から見れば一瞬のたわいなさだ。わが一代を惜しみなく使い切って果てれば、それが人間の本望ではないだろうか。  ザラ峠を下って、五色ヶ原へと登るうちに日が暮れ、雨さえ加わった道はまだ雪を残して、手が凍えるように冷たかったが、夕闇のほの明りの中に、薄紅の蕾を持ったミネザクラが浮んでいて、この北アルプス最奥の地にも、ようやく春が来たことを告げているようであった。  あくる日も雨で行動中止。霧の中を鷲岳、鳶岳の麓にひろがる南傾斜の原を一人で歩いた。ザラ峠と五色ヶ原の境の急坂は、火山活動によるもので、かつてのカルデラ地形の名残りだという。五色ヶ原はその熔岩台地である。一面の雪の下にはイワイチョウ、ハクサンイチゲ、チングルマなどがおそい春を待っていよう。小屋の近くに雪どけの一ところがあって、五センチほどにのびたクロユリが三本かたまっていた。  立山に来て成政のことをしのんでいる私に、いち早く成政にゆかりのあるクロユリが顔を出してくれたのだろうか。いや、これこそほんの偶然というものであろう。クロユリは、成政に殺された侍女の呪いに、佐々家の滅亡を願って咲くと言われているけれど、それに似た花の伝説はいくらでもある。私はむしろ、成政の死をいたんで血のいろに咲くと思いたい。高山に咲く花にひとを呪うなどといういまわしい心をあてるのはふさわしくない。  夕方雨が止んで、原のまっ正面に、夕映えに赤く染まった後立山連峰が浮び上り、鹿島槍の右には針ノ木岳も眺められた。成政の雪中行軍は毎日吹雪いていたのだろうか。ときに晴れて真冬の青ぞらの下に、かがやく銀嶺の連なりを近々と仰げる日もあったのではないだろうか。  そんな日が一日でもあったら、成政もその部下たちも、冬山の美しさに浸れて、きっと仕合わせであったろうと思いたかった。中にはもう人間同士の争闘がいやになって、山にこもって狩りびととして暮したいと願ったものもあったろうと思った。

59 弓折岳  ムシトリスミレ(タヌキモ科)
 いつ、どこの山へいっても、また来たいと思い、一つの山に登って帰ってくると、すぐ次の山を考えている。  どんなに親しいものとの別れにも、あまり涙はこぼれないが、もう二十年も前、大腿骨骨折をして、松葉杖をつきながら、飛騨の高山から高原川沿いに|蒲田《がまた》温泉にゆき、せめて前の年に登った西鎌尾根の稜線を見たいと、蒲田川の谷筋の道を新穂高温泉にむかってとぼとぼと歩いていったとき、前方に鋭い起伏をくりかえして槍ヶ岳に|這《は》い上ってゆく岩尾根が見えはじめると、矢庭に涙が溢れ上って来た。先ずなつかしさの涙。そしてもう二度とこの足は、あの尾根道を|辿《たど》れないと思ったとき、悲しくて悲しくて、全身の毛穴から涙がふき上るような気がした。  足がなおるとすぐに又、同じ道へと志したが、時間の都合で立山からではなく|有峰《ありみね》から入り、|双六《すごろく》を経て、飛騨の高山に出た。  |弓折《ゆみおり》岳は、双六から槍に向かう道から直角に別れ、ワサビ平から新穂高温泉に向う途中の二千六百メートル弱の峰である。  右に進めば|抜戸《ぬけど》、笠ヶ岳を過ぎて槍見温泉に到達する。  ワサビ平から登ってくれば、双六小屋の小池氏がつくった小池新道を通り、蒲田川の水源を求める形に、ひたすらに巨岩の重なり合う河原を登りつめて鏡平に着き、たたえられた池の面に、槍や穂高の影の逆さに映るのを眺めることができる。更に急坂を一気に登れば、弓折岳のすそになだらかな草地がひろがっている。  山の名にはそれぞれの意味があろうが、私は私なりにこの弓折岳の名を、文字通りに弓が折れたと解釈して、それにふさわしい場所だと思っている。  有峰から来ても、槍を通って来ても、ワサビ平から登って来ても、この頂きにくるまでにはかなりな労働が必要とされる。まさに、弾丸も尽き、弓も折れた形で、どさりと草のしとねの上に、大の字なりに引っくりかえりたい地点である。それでいて見返れば過ぎて来た道のすべてが、それぞれに特徴のある山容を重ね合せて一望の下に見わたせる。  左俣谷の迫り合う大きな斜面の前方には、槍から穂高の峰々が峨々たる峻嶺を連ね、鳥も通わぬと昔の山の民をおそれさせた滝谷の、息をのむばかりの険崖もすぐ眼の前に、容易には人をよせつけぬ鋭さを誇っている。  何よりもこのあたりは、辿りつく人も少いせいか、花が多い。  私のいったその年は、コバイケイソウが花を咲かせる年であったらしく、双六池を上って、弓折にと登る道は、コバイケイソウの白い花々の大群落であった。ミヤマキンポウゲやミヤマダイコンソウの黄の花がまた、びっしりと群れをなしてコバイケイソウの花の白と重なり、ウメバチソウなどもむらがるようにして咲きさかっていて、その中にホソバトリカブトの紫やハクサンフウロの赤が点々といろどりをそえている。  連れは息子という気楽さもあったが、私はしばらくはその花の大群の中に身をおいて、山を眺め、花に見入り、このまま夜となって、ここで野宿できたらどんなに仕合わせかと思った。足がなおって、ふたたび山に来られた仕合わせもありがたかった。滅多にこぼれたことのないうれし涙さえにじんだ。草の丘に、仰むきに寝ながら、ふと自分の顔の横にこそばゆくふれるものを感じた。ムシトリスミレの粘っこい葉の群れに頬を埋めていたのだ。ムシトリスミレはスミレではない食虫植物である。小虫を取ってとかして吸収するのが特性の花は、たとえ人間であろうとも、異物に対しては容赦しない。及ばぬながらも全力をあげて挑もうとするのではないか。  山には山の生きものの掟があるのだ。一年で一番気候のよい時期に、花のいっぱい咲いているときに花を見に来て、山と自分がまるで一体、一つのものでもあるような溺れかたをしている。このいい気な人間奴。ムシトリスミレの花のことごとくが一歩も人間を踏みこませぬ自然の|埓《らち》を、その小さい花びらにこめてたちむかって来たら。おそろしくなって立ち上った。

60 双六岳  コバイケイソウ(ユリ科)
 コバイケイソウの、すがすがしくもたくましい花をはじめて見たのは、西岳から燕岳に向かう、いわゆる喜作新道の稜線であった。  最初に槍ヶ岳に登った山旅でのことである。  前夜は、寒冷前線の通過とかで、夕食がすんだ七時頃から大荒れに荒れ、小屋のトタン屋根が今にもめくりとられるかと思うばかりの強風に、無数の石つぶてを投げつけているような豪雨の襲来であった。  小屋の主人は、馴れっこになっているのか、あわてる風もなくて、ろうそくの灯も吹き消された真暗闇の中で、一体どうなることかと怯える私たちをたのしそうに笑いながら脅かしつづけた。明日の朝までに小屋は吹きとぶであろう。それでも、ふとんをかぶっていればいのちは助かるよ、などと言って。  まだ中学生の娘をつれていて、自分の死は致しかたないが、幼い娘をこんなところで死なすのはふびんだと、ひたすら神に加護を祈っていた。  小屋の主人の予告は大幅に外れ、嵐は明け方には止んで、雨に洗われた稜線の、石ころまじりの緑のさわやかだったことが忘れられない。  コバイケイソウは、槍にむかった山腹を一面に埋めていて、そのたわわな純白な花も、昨夜の豪雨に叩かれたのであろうと思い、すっくと首をあげた姿がりりしくも見えた。  私は高山植物を見ることは好きだけれど、里に持ち帰って眺めようなどという気はさらさらない。  都会の汚れた空気の中に、自分のたのしみだけのために高山植物を移植したりするのは、何とも花がふびんで哀れに見える。デパートの売場などに、小さな鉢に植えこまれて、生気のない顔をさらしている高山植物を見ると、奴隷船にかどわかされて身売りさせられた少女たちを見るようで、義憤を感じたりする。  コバイケイソウのたのもしさは、これだけ背が高ければ、どんな欲の深い、情知らずの花盗人も、掘りおこして里に持って来ようなどという不埓な心を起すまいと安心して見ていられることである。  花も美しいが、何よりもその葉の盛大で、豪放でさえある姿がよい。  コバイケイソウは、北アルプスの稜線では、じつにしばしばであうけれど、奥多摩の三頭山や御前山などのブナの林の下にも、いち早く春の来たよろこびを告げるように、早緑の葉が空にむかって、たなごころを合せて、祈るような形でのび茂っている。  いつか葦毛湿原の林の中で、ミカワバイケイソウというのを見たことがある。  茎も短く、葉も短いが、背丈だけはずっと高く、花のつき方も少な目で、全体がか弱い感じであった。氷河期に、氷河と共に低地に下りて来たものの名残りであろうという。  高い山地のは、特にたくましい感じで、いつか双六岳に二度目にいった時、雪渓のほとりでであった葉の勢いのよさには眼を見張るばかりであった。六月の末近く、北側の斜面が、すっかり草原になっていた。黒部五郎から登って、びっしりと這松に被われた稜線を、幾度となく這松の根に足をとられてつんのめりながら歩きつづけたので、下りにかかって、眼の前に三俣蓮華、鷲羽、湯俣、はるか西に薬師、雲ノ平、東に槍の尖った頭を中心にした北鎌尾根、西鎌尾根、穂高連峰などを眺めながら、礫がごろごろはしていたけれど、とにかく草つきの道を下ってゆくのはほっとした思いであった。  かつての氷河のあとの谷も、このあたりから薬師、黒部五郎、野口五郎、水晶と、その特有のU字型の凹みを見ることができる。自分が今、下ってゆくのも、その一つの斜面なのであろうと思うと、何万年もの地球の歴史のあとを今、自分の足で踏んでゆくという感慨にひたされる。  斜面は、上が急峻で、下へゆくほどゆるやかになり、小屋にむかっての這松の林の、急な下りに入る前が湿原状になっていた。  コバイケイソウはその雪どけの雪のたまり水を残したような湿地の中に幾つも幾つも咲いていて、太郎兵衛平から黒部五郎を越えて来た疲れが、その葉の茂みの間の石に腰を下し、その緑を見入るだけで一ペんにうすらぐ気持ちであった。

61 仙丈岳  シナノナデシコ(ナデシコ科)
 仙丈岳には花が多いという。  甲斐駒と併せて、北沢峠から右と左に聳える二つの山に、どんなに久しくあこがれていたろうか。  計画の一度目は、悪天候で流れ、二度目は急性の座骨神経痛でつぶれ、三度目にようやく野呂川林道を広河原までバス。南アルプススーパー林道を歩いて、北沢長衛小屋に入ったのはつい最近の八月の半ばである。  南アルプスを特徴づけるのは、鬱蒼たる原始林とのことであったが、スーパーなどと謳う大道路開発のせいか、谷が広々としてまことに明るい感じである。  しかし私は、この明るい谷の河原で、道ばたの崖の上で、私にとっての幻の花を見つけた。シナノナデシコ。ハマナデシコに似て、花のいろがやや紫を帯び、カワラナデシコよりは肉厚の葉が、茎の上に固まって咲く花を支えていて、まことに調和ある姿が美しい。  いつか白馬の麓の蓮華温泉の庭に移植されているのを見て以来、長野県の山を歩く度、どこかで出あわないかと、眼をこらしていたのだ。  シナノナデシコの生えているところは、この強大な道路工事の終ったあとである。川原には土砂がつまれ、崖の上は削りとられたにちがいない、その新らしい土に、シナノナデシコが咲いている。  同じ中部地方の他の山々より、正しくは赤石山脈とよばれるこの南アルプスの山地に、この花が多いということなのであろうか。  娘の頃、赤石山脈の東には、糸魚川から静岡に及ぶ断層線を西のはじにおく、フォッサ・マグナと呼ばれる大きな地裂帯があり、また、中央構造線も交錯して、複雑な地形と地質を生んでいることを地理で学んだ。花に満たされているのもそのせいなのであろうか。広河原から北沢橋を経て小屋までの川沿いの道には、フシグロセンノウ、カワラナデシコ、シデシャジン、クルマユリ、オカトラノオ、クガイソウ、キツリフネソウ、センジュガンピ、シモツケソウ、サワヒヨドリ、シナノオトギリ、ヤマハハコ、アカバナ、ズダヤクシュ、ハリブキ、セリバシオガマ、ヤマオダマキ、コイチヤクソウ、カニコウモリ、コウゾリナ、サンカヨウなどがあって、忽ちノートいっぱいに花の名が並んだ。  土曜日であったので、長衛小屋の新らしい方は満員とかで、川原にたてられた古い小屋に入った。その手前に、この山の大先達である竹沢長衛さんのレリーフが巨岩に彫りこまれ、その岩の間にタカネビランジの紅の花が咲いていた。これも図鑑でしか知らない花だけれど、どこからか移し植えたもののように見えた。  あくる朝は三時半に出発。懐中電灯の光をたよりに、急勾配の山腹を辿る。シャツ一枚を素肌に着ているのだが、ほとんど冷気を感じないのは山懐のせいなのか、北よりは南があたたかいということか。  だんだん明るくなって、トウヒ、コメツガ、ツガ、シラベなどの木々が見えて来た。その下草にはセリバシオガマが密生している。更に樹間に北沢峠までのびようとしているスーパー林道が見えかくれする。長野県側と、山梨県側を連ねて、五十八・七キロをひらこうとするこの開発道路は、四十二年から建設されて、まだ成就せず、長衛小屋の前には、廃道にせよ、という大きな幕がかかげられている。  二合目、三合目と登り進んでゆき、幾組かの高校生の大きな荷物を背負っての姿を、健気だと見たり、心臓に負担がかからぬかと心配したりしながらも、足許の花がいよいよ増えてゆくのにおどろいていた。シオガマギク、エゾシオガマ、マルバダケブキ、トリカブト、ソバナ、シギンカラマツ、モミジカラマツ、サラシナショウマ、ヤグルマソウ、クルマユリなどが次から次と咲いていて、紫に白に黄に赤にといろも鮮やかである。五合目の大滝頭から右折して無人の藪沢小屋への道をとり、馬の背ヒュッテにむかうと、花はいよいよ数を増して咲きさかり、左手の山腹の流れに沿っては、クロクモソウやミヤマダイモンジソウ、ミヤマガラシなどの、水辺植物が目立った。  このあたりにはダケカンバが多く、その明るい緑の梢の間に、近々と甲斐駒がのぞいている。中央線の車窓からは北面の甲斐駒があたりを払う偉容となって屹立しているのだが、南面の姿は大きな馬の背のようにやさしい。そばにいったらどんな花が咲いていることか。明日に予定された登山が待たれた。  まだ雪を残す渓流のほとりに、チシマギキョウとコゴメグサが一ところだけ、かたまって咲いていた。標高二千六百メートルの地点である。もっと上の岩場のあたりから、雪と一緒に運びこまれたのではないかと思った。  ヒュッテから馬の背の稜線にむかう斜面の花々はまた、更に数が増し、木々もダケカンバから這松にと変っていった。  ウサギギク、グンナイフウロ、イワカガミ、チングルマ、ハクサンイチゲ、シナノキンバイ、アオノツガザクラ、イワツメクサ、タカネバラ、ミヤマキンポウゲ、ネバリノギラン、そしてクロユリ。また、センジョウチドリなど。ミヤマクワガタもハクサンフウロもあったが、ことにグンナイフウロはかつての谷村、今の都留地方を郡内とよび、そこでの発見から命名された花にふさわしく、ほかのどこで見たのより紫のいろが濃かった。馬の背を右にゆけば、丹渓のお花畑。岩場にイワツメクサ、イワベンケイ、オヤマノエンドウがあるという。鹿島槍や白馬であった花たちである。頂上にと進む這松の中には、キバナノシャクナゲ、キバナノコマノツメ、ツマトリソウがあらわれて来た。

62 根子岳  ウメバチソウ(ユキノシタ科)
 |根子《ねこ》岳に登ったのはずっと前、戦後十年たった頃である。  小学校の教師を中心に学校演劇について研究する夏期講習の会が菅平の旅館で催され、夫と一緒によばれていった。  私の夫は学生の頃から演劇の世界に熱を入れ、文学座を経て俳優座で仕事をつづけている。結婚にさいして、私は家庭に入ってからも山に登りたいと言い、登山についての感想を求めたら、山らしいものは、母校である慶応義塾大学の三田の山、あとは博物館、図書館のある上野の山以外に登ったことはないと答えた。  私はまだ北アルプスの槍や燕にいっていないので、結婚してから登りたいと希望をのべたら、自分はいくつもりはないが、どうぞ自由にとのことで、私は将来、子供が生まれたとき、その子供の成長を待って一緒にゆこうと心に誓った。  四十代の後半で、その志を果し得たが、じつは私は、山は他人と登る方がよいと思っている。殊に、子供などをつれてゆくと、里での人情をそのまま持ち込み、お互いがお互いのからだを心配して、疲労を増すような気がする。  山はいつもこわい。山はいつも危険に満ち満ちていると思っていて、山にむかう自分の必死の思いの中に、少しでも余分なものをとかしこみたくないのである。  大ぜいの山仲間とは歩いているけれど、自分をまもるのは、自分一人だけ、だれも自分以外に自分を助けてくれるものはないという思いに徹している。結婚する前の娘時代、相手は山へゆくひとがよい。荷物をしょってもらえるからなどと、ほんの少しでも考えたことが恥ずかしくてたまらない。などとえらそうなことを思っているけれど、実際はずい分方々でひとに助けてもらった。根子岳でも連れがあって本当に助けられた。  所用が終って、あくる日は朝の八時の電車で上野へ帰る。しかし根子岳を眼の前にしてどうして登らずに帰れよう。  出発の日の明け方二時に宿を出て、山に登って来ようという計画を立て、会の主催者に希望を申出ると、一人の小学校の男の先生が一緒にいってあげる、二時はまだ暗いからとついて来て下さった。  何の準備もして来なかったので、宿の浴衣を着て、宿の女主人の半幅帯を借り、裾をからげて素足に|藁草履《わらぞうり》。宿を出発するのは七時だから、着がえの時間を入れて、六時半にはもどらなければならぬ。  菅平の宿は標高千五百メートルのところにあり、六百五十メートルの標高差の往復を四時間と見て、とにかくゆけるところまでゆくことにした。  懐中電灯をもってそっと宿を出る。みな寝しずまっている。  八月の真夏なのにやはり千五百メートルの地点は寒くて、歯がガチガチ鳴った。  四十代の私であったから、今よりずっと体力があったのであろう。とにかく走った。懐中電灯を振り振り登山口を目ざす。と言っても、先をゆく男のひとのあとを追って、広い高原をつっきってゆくのである。見上げると明け方は特に光を増すのか、空いっぱいの星があざやかで美しい。  山に取りついて林の中に入る。針葉樹林から潅木地帯へ、露岩が多くて、急傾斜なので、岩に取りつき取りつき登る。懐中電灯の光の中に、コケモモの花が入ってくる。イワカガミもある。ガンコウランもある。  四時五十分、たたみこまれた露岩の上の頂きに立つ。  空の星が消え、東の空の朝焼けの中に近々と、その一年前にいった|四阿《あずまや》山、その頂きのあなたに鹿沢の山々、浅間連峰が幾枚かの屏風をたて並べたように紺青の濃淡を重ねて連なりあっている。うれしくて涙が出たが、感謝している間もなく時が迫っていて、暗い中では無我夢中で登った露岩の急勾配の道を下った。  山の端をはなれた太陽が、すぐ眼の下に大地が真二つに引き裂かれたようにひろがる大明神沢の大きな谷をくろぐろと浮び上らしている。  下りも草原を横切って走った。放牧された牛が、あちらこちらに草を食べていて、その一匹が私が走ると走るのでこわくなって、悲鳴をあげて先をゆく連れの先生をよぶと、腰の手拭いにくくりつけていた夏みかんを遠くに投げた。牛がゆっくりとそちらに向かったのをチャンスと思って又走った。菅平のようにひとが多く来る土地の牛は、ひとから食べもの、ことに塩がもらいたいのですと先生は言われた。ゆくときは暗くてわからなかったが、草地の中にはウメバチソウが点々と白い花を咲かせていた。  走っているので、その白い花がどんどん足許に近づき、又去ってゆく。先生が牛が追うから歩きなさいと声をかけてくれるけれど、もしおくれたら無謀なことをしてと夫に叱られる。それがこわさに走った。ズボンに山靴の登山者がぼつぼつ上って来た。浴衣の裾をからげ、手拭いを姉さんかぶりにした女が走ってゆくのをどう見ることか。そんなこともかまわず、ただただ走った。  根子岳と四阿山は一つの火山であったのが、爆発して山頂部がなくなり、外輪山としての根子岳が残ったのだという。大明神沢を流れる水は神川となって千曲川にそそぐ。上田から長野に向かう車窓から、左に千曲川、右に根子岳あたりの山々を見る度、あのウメバチソウは今もあるかしらとなつかしい。

63 苗場山  ツルコケモモ(ツツジ科)
『山と渓谷』編集部の節田重節さんに誘われて、苗場山から小松原湿原を歩いた。  苗場山は、天保年間に、越後湯沢のひと鈴木牧之翁によって書かれた『北越雪譜』に紹介されている。  娘の頃から私は、登りたくても登れない山は五万分の一の白地図を、等高線毎にうすい茶の色で塗り重ね、川を水いろであらわして、立体的に浮び上らせ、せめて川筋をたしかめ、谷あいや、頂上の眺めを地図の上で想像するという一人作業をよくやったものである。  苗場山も、『北越雪譜』の記事に惹かれて、九百メートル位から塗りつぶしていくと、千八百メートルから二千メートルの頂きが南に緩傾斜する広濶な湿原になり、その北側が急傾斜な山容でかこまれている地形とわかった。  その頃はもう夏の戦場ヶ原を湯元まで歩いていて、男体山や白根にかこまれ、一面の緑の湿原が、ギボウシやキスゲやアザミの類にいろどられていた華麗な姿を知っていたから、苗場山の湿原にはどんな花々が咲きみだれているかと思いしのんだ。  その日、『北越雪譜』と同じように湯沢から入って|祓川《はらいがわ》で車を捨て、いよいよ山路にかかる。 「|巉道《さんだう》を|踏嶮路《ふみけんろ》に登るに、|掬樹森列《ぶなのきしんれつ》して日を|遮《さへぎ》り、|山篠生《やまささお》ひ茂りて|径《みち》を|塞《ふさ》ぐ。」とあるような百五十年前の姿がしのべるブナの樹林帯がつづき、その下草は一面の笹藪である。  文化八年は将軍|家斉《いえなり》の頃で、町民の文化が栄え、ひとびとは太平を謳歌していたが、北に南にイギリスやロシアの船が日本の港をうかがって接触を求める動きがさかんであった。  富裕な質屋の主人であり、同時に俳諧や絵画をたしなむ文人であった翁は、滝沢馬琴や大田蜀山人や式亭三馬、山東京伝などとも交遊があって、絶えず江戸の空気に触れていた。鎖国の掟きびしい世ではあったが、時代を先取りする知識人として、日本におしよせる世界の潮の気配を鋭く感じ、うつぼつたる思いを苗場登山などに托したのではないだろうか。  ブナ帯とシラビソの林の境目のところに和田小屋がある。うしろを水量ゆたかな渓流が走り、ミゾホオズキの黄が満開であった。小屋の前の、自然木のテーブルで朝食。川の水を十分に飲む。道は勾配を増し、下の芝、中の芝と標識の立てられた湿原を越えると、前方に二〇二九メートルの神楽ヶ峰が濃緑のシラビソの林につつまれてあらわれた。  峰を左にまいて下りてゆくと雷清水と名づけられた水場があってここで昼食。『雪譜』ではここからまたのぼり、少し下ってお|花圃《はなばたけ》という所に達し、「山桜|盛《さかり》にひらき、百合、桔梗、石竹の花など」を見つけ、名を知らざる|異草《いそう》もあまたあったと書いている。  私はじつはこのお花畑にくるまでに、ゴゼンタチバナ、イワナシ、ツマトリソウなどの外、あまり珍らしい花もないようでやや失望していた。  それだけに遠くから見下して、白や黄や赤や紫のいろどりを、苗場山本峰の真下の崖に見出して、ようやく満ち足りた思いになっていた。  水場から走り下りるようにしてその花々の許に駆けつけ、ミヤマシシウド、クルマユリ、ミヤマアキノキリンソウ、キオン、マルバダケブキ、ミヤマシャジン、タカネナデシコ、タカネスミレ、イブキトラノオ、オオバギボウシ、ミヤマオダマキ、ウスユキソウ、ハクサンフウロと知っている限りの花の名を数えてうれしかった。カモメランの小さい花もあった。山桜らしいものは何も見えなかったが、百五十年の長い年月の間に、雪にでもやられてしまったのだろうか。  さて花に見とれてよろこんだのも束の間、道はここから急坂に次ぐ急坂で、『雪譜』でも「一歩に一声を|発《はつ》しつゝ気を張り|汗《あせ》をながし、千|辛《しん》万|苦《く》し」とそのけわしさをあらわしている。しかし『雪譜』の作者が、苗場山には頂上に人のつくったような田がある、それが見たいとあこがれあこがれ急坂を登りつくしたように、私は苗場の頂きの湿原にはどんな花がと胸がどきどきするような思いでさして疲れも覚えなかった。  午後三時近く、一歩足を踏み入れた頂きはまさに広濶な緑の芝生のような眺めで、眼路のはるか彼方が霧に|霞《かす》むまでにつづいていた。その果てには烏帽子岳、岩菅山、白砂山などの上越の山々から遠く信州の山々が見える。六・八平方キロに及ぶという広さの野には又、点々と鏡面のようにしずかな池塘があった。 『雪譜』の作者は多分大昔に、この頂きを耕作して|田圃《たんぼ》をつくったひとびとがあったのであろうと想像し、その亡びたあとをたずねた思いで感慨にふけっているが、私はここへくる前に『山と渓谷』一九七五年四月号の羽田健三氏の記事を読んで来た。苗場山の湿原はかつての火山活動の名残りであり、その熔岩流の上の凹地にたまった水が池塘である。養分がとぼしいのであろうか。花はタテヤマリンドウとワタスゲとイワイチョウぐらいしか目につかず、意外に少かった。  ところどころにウラジロヨウラクの群生があり、その茂みの中にツルコケモモの小さい薄紅があった。一口に湿原といっても、その成因によっては、あまり多彩な花は見られないことがわかった。それでも何十年も前に地図の上であこがれた山を、自分の足でたしかめ得たよろこびは大きく、口笛をふきながら、夕暮れの木道の上を西に東に歩きまわった。  この夜は満月で、『雪譜』の作者と同じ思いを味わうことができた。 「六日の月|皎々《かうかう》とてらして空もちかきやうにて、桂の枝もをるべきこゝちしつ」  そしてひとびとは詩をつくり歌をよんで、酒を飲みかわすのである。こちらはひたすらに眠るばかりであったけれど。そしてまた明けがた。すばらしい御来光を拝んだのも同じである。

64 霧ノ塔  トキソウ(ラン科)
 霧ノ塔は、苗場の神楽ヶ峰から左折して、小松原湿原にゆく途中の一九九四メートルのピークである。和田小屋の背後に連なる高石山、雁ヶ峰など、千五、六百メートルの稜線から三百メートル高くそびえ、日蔭山にむかって下ってゆく道は、霧ノ塔を越えて二百メートル下り、更に日蔭山を百メートルほど登ることになる。起伏の多い地形に霧の発生が多いのか、コメツガやシラビソの密林がうっそうとつづいて倒木がやたらに前途をさえぎる。雪もいっぱい残っていて道はぬかるみ、笹藪も大きく茂って、『北越雪譜』時代とさして変らないようであった。ギンリョウソウの青白い花があちらの木かげ、こちらの石のきわに、かたまって暗く沈んだ顔を見せている。腐生植物と言われるこの多肉質の花は、ユウレイタケの別名を持っているが、墓場の湿った土の上などにもよく見うけられる。そして私は、山路でこの花にであうたびに、その下に鳥か獣か人間の死骸が埋まっていることを想像するのである。  小松原湿原を越えて『北越雪譜』にしるされた秋山郷の、逆巻温泉に出る十六キロ近い道が、私たちのその日の行程であったが、中津川の深い渓谷にかこまれた秋山郷は、ここも平家の落人の住みついたところとされ、今もなお残された秘境の一つと言われている。  会津若松の落人たちは、北に米沢を目ざして、飯豊の山中深く逃れていったものが多いという。この神楽ヶ峰から秋山郷までの道は、どんなひとたちが踏みかためていったものか、人目をおそれて関所を通らず、山あいの谷かげをえらんでひたすら先を急ぎ、水場もなく、木の実もない山道に飢えて倒れて死んだものも多かったのではないだろうか。こんなにギンリョウソウの大量に発生している道ははじめてであった。  霧ノ塔の下りは、登り下りを激しくくりかえし、殊に日蔭山との鞍部にむかっての最後の下りは、背丈を越す大笹藪の急斜面で、歩くこともできず、笹の葉や枝に足をとられて滑りに滑ってしまう。  苗場の頂きよりは五百メートルも下って、周囲を山にかこまれた小松原湿原にはどんな花が咲いていることか。地図で見ると、広大な湿原は等高線で二百メートルの差の傾斜を持っている。高いところと低いところとでは、又、ちがった花が見られるかもしれないと、霧ノ塔をうしろに、日蔭山の三つのピークをこえていった。  霧ノ塔は、あまりに霧が多いせいか、ギンリョウソウの外には、ツバメオモトやミツバオウレンなどの、日かげを好む花が少し見つかる位であったが、その名は日蔭でも、南面する山の斜面にはクルマユリやミヤマシシウドやニッコウキスゲやクガイソウやシモツケソウなどがいろどりも鮮やかで、苗場への登山道よりもお花畑をのぞいては、はるかにこの道の方が花をたのしむことができた。  しかし別名を三の山ともいう日蔭山は、やはり最後の三つ目のピークをこえた頃になって、コメツガやシラビソの密林がつづき、倒木も多く、道そのものが湿原状態となり、笹藪がぎっちりと道の両側を埋めているところは、足の踏み場にも難渋し、ふと、こんなところで、熊にあったらどうしようと、北海道の山中をゆくような心細さに浸された。  正午十二時。|忽然《こつぜん》と林の木の間越しに明るい草地が見えて、待望の湿原があらわれた。美しい。一面のイグサやカヤの類が、緑のじゅうたんを敷きつめたように生い茂り、周囲をシラビソの森がかこんでいる。幾つかの池塘もしずまりかえっていて、そのまわりは朱赤に盛り上るようなモウセンゴケである。緑のじゅうたんは真紅や淡紅の模様でつづられ、真紅は田代山と同じサワラン。淡紅はトキソウ。植物図鑑ではお馴染みで、はじめての見参であった。  サギソウは千葉は茂原の田圃で野生種を見て以来、栽培されたものには何度も出あったが、トキソウは、小さな百合にも似たこの花を、植木鉢に入れられたのさえ見たことがなかった。  トキという鳥も写真以外に知らないが、トキという言葉は、子供の時からよく聞いていた。薄紅に少し黄味がかった明るさのあるものをトキいろとよび、そのいろのリボンがカチューシャまきにつくられたのを結んでもらったことがある。  松井須磨子が、舞台の上で、『復活』の女主人公カチューシャに扮して、頭に飾ったリボンの形である。トキいろは復活の心をあらわすにふさわしい希望のよろこびに映える色であった。  木道もない草原であったから、トキソウをふみつけないように、気をつけてピョンピョンはねながら歩くと、おのずからトキソウに出あえたよろこびにおどりまわる姿になっていた。ここの湿原のおもしろさは、連続湿原ともよびたいように、二、三十メートルの高度差をもって、幾つかの湿原がつづくこと。熔岩流の波のひだのように下へ下へとゆく境を、シラビソの原生林が区切っている。  下山して逆巻までの家々が、『雪譜』の頃と、戸数もほとんど同じなのを知った。

65 守屋山  ザゼンソウ(サトイモ科)
 諏訪湖の南に|守屋《もりや》山がある。赤石山脈の一番北にある一六五〇メートルのこの山が、地図を見る度に気になっていた。すぐ真下に諏訪湖がひろがっている。湖畔の諏訪神社は、日本の神話時代にさかのぼる伝説がある。オオクニヌシの国譲説話に見られるように、大和族との戦いに敗れた出雲族のタケミナカタが、諏訪湖のほとりに住みついたというもので、諏訪神社の祭神になっている。  私が好奇心をそそられるのは、タケミナカタが、この諏訪盆地に入って来たとき、先住民族である守矢族と交戦し、やがて、これと和睦して、守矢族は天竜川の左岸一帯を占めるようになったという話で、ちょうど守屋山の麓に当っている。  モリヤ山とは、旧約聖書の中にあるモリア山と同じ名前ではないのだろうか。アブラハムが成長した息子イザアクを、神の言葉のままに、その山の頂きで殺そうとしたとき、神の声が聞えて、お前の心がわかったからもうよいという。神はアブラハムを祝して、子孫は地上に満つるであろうと言う。モリアとは、「神がとりはからいたもう山」の意味。アブラハムは親子で山を下って、七つの羊の泉のそばに天幕を張る。アブラハムが他部族と仲よく水をわかちあうことを誓った場所であった。守屋山はまさに諏訪湖のほとりにあって、守矢族は、出雲族と和睦して、水をわかちあって暮した。  守矢というような山は日本全国にたくさんある。そのそばにすべて湖や沼があるかどうか知らないが、私はずっと以前、牛山清四郎氏の『古信濃の交通』という著に、日本にユダヤ人が入って来て、先住民族になっていると書かれてあったことが忘れられないのである。十二部族あったユダヤ民族の一つが、紀元前六世紀に於て、ユダヤの王国の滅亡後に、東に進んで中国大陸を経て日本にわたったのだという。ユダヤ人の選民意識は、日本人の選民意識とよく似ているという。  とにかく守屋山のてっぺんにいってみたいと、茅野から杖突峠を越えたのは、六月のはじめであった。この街道は高遠から伊那を経て、天竜川沿いに尾張へ出る。ヤマトタケルの東征の道でもあったろうと言われている。  カラ松の芽ぶきの美しい林をしばらくゆくと、小さな沢に出て、登山道は、まっすぐに左側の稜線の上を追って、だらだら登りに頂上まで、二時間足らずの山歩きだが、頂上近くで一汗かいて一面の岩石群の平地に出る。東は西峰につづく尾根。三方が鋭く|削《そ》ぎおとされていて、モリヤ族の祖先をまつるのであろうか、大きな石の祠がある。晴れた日であったから、北の霧ヶ峰から八ヶ岳連峰、西に木曾駒、空木などの中央アルプス、南に北岳、間ノ岳、農鳥、塩見、荒川、聖、そして富士山、東に秩父、丹沢と、まことに申し分のない眺めであった。  日本列島は、糸魚川から静岡までの断層を西の縁とする大地裂(フォッサ・マグナ)で、大きく二つにわかれているというけれど、真下に見える諏訪湖の西北に当って、三千メートル前後の峰々が、大糸線沿線の平地部あたりから急に盛り上って、高峻な山容を連ねているのを遠望すると、この宇宙に地球が生まれ、陸と海にわかれ、いろいろの生物が繁殖し出した悠久な旧約の創世記の昔まで、はるばると思いがのびてゆくようであった。この低い山で、これだけの眺望ということは、やはり、古代の民が、里から登って来て、神の心を聞くのにふさわしい場所だと思えた。  それに花がいっぱいある。そのときはレンゲツツジのさかりだったけれど、マツムシソウやカワラナデシコやミヤマダイコンソウやハクサンフウロやクルマユリやショウジョウバカマやニッコウキスゲやノハナショウブが、まだ固いつぼみをつけ、あるいはようやく葉をしげらせはじめていた。  同じ年の八月末、岡谷町の教育委員会の青年諸君と、夜半の二時に塩尻峠を出発して登った。二十日すぎの月の光が美しく、午前五時半、月の光も星の姿も消えて、八ヶ岳連峰の上の空を、緋にいろどって太陽があがるのを見た。明るくなって、六月にさがした花のつぼみがことごとくひらき、葉は茂りあい、花の種類はなおふえて、トリカブト、ハンゴンソウ、ソバナ、ヤマシロギク、オミナエシ、サワアザミのいろ鮮やかな姿を見出した。一番うれしかったのは、六月のときは葉も小さかったザゼンソウが、沢一面を緑の広葉で埋めていたことである。ミズバショウの純白の苞にくらべて、暗褐色の薄気味悪い苞をもつザゼンソウが私にはおもしろい。この山の花の豊富さは、山に神が下ることを信じたひとびとの思いが、山へのおそれとなって、山をまもっているからではないかと思った。

66 黒斑山  ヒメシャジン(キキョウ科)
 娘の頃、島崎藤村の「千曲川旅情のうた」が好きであった。   小諸なる古城のほとり   雲白く|遊子《ゆうし》悲しむ  この詩には弘田龍太郎氏の作曲があり、松平里子さんの歌ったレコードを買い求めて練習した。歌いながら小諸の城あとから見える浅間山の姿を思い浮べた。  五万分の一の白地図を、四百メートルから二百メートルの等高線で塗りつぶしてゆくと、裾を長く引いた浅間山が、東に小浅間、南に前掛山、剣ヶ峰、ちょっとはなれて石尊、西に|黒斑《くろふ》山をしたがえた大きな山容をあらわしている。  浅間と黒斑の間に、二千百メートル位の広い窪地ができている。かつての火口でもあったのだろうか。そして、前掛山から黒斑山をつづける馬蹄形の稜線は、火口壁であり、外輪山として残ったものであろうかと想像された。   暮れゆけば浅間も見えず   歌哀し佐久の草笛   千曲川いざよふ波の   岸近き宿にのぼりつ   濁り酒濁れる飲みて   草枕しばし慰む  歌の節は浅間の裾を洗う千曲川の流れのように、時に淀み、時にたぎって、高く低く、浅間山を前にした旅びとの|愁《うれ》いをつづる。学生時代に、クラス会というとよくこの歌を合唱した。二十代に入るか入らないかという青春の真盛りにあった娘たちは、クラス会といっても、甘味にお茶とミカン位で、酒は濁ったのも清らかなのも知らなかったが、最後のそのあたりに来て、草枕しばし慰むと口ずさむと、何となくものがなしくしんみりとして、私などは必ず涙が出た。青春とはそのように、ゆえもないのに悲しくなって、とめどなく涙の溢れるものであったらしい。  小浅間の麓を通っての浅間には、何度か登ったが、黒斑山にいったのは最近の夏である。  小諸には、藤村の詩に惹かれて、娘時代の最後の夏にゆき、城の石垣の上に張り出している松の木に登って、浅間を仰いだ。一緒にいた母が、あぶないあぶないと下から叫んだが、私は木登りなど大好きな娘なのであった。  軽井沢から見る浅間とちがって、このあたりからは、高峰山のすぐ隣りに、剣ヶ峰や黒斑がせり上って見え、現在活躍中の噴火口をふくめて、浅間山が規模の大きな火山であることがわかる。  沓掛の山荘の隣人に、子供の時から小諸郊外に住んでいたひとがあり、戦前の軽井沢にくらべて、野の花、山の花が少いことを嘆く度、いつも浅間の西斜面を見上げて、あそこに天狗の露地とよばれて、たくさんの花の咲いているところがある。自分も戦前の若いときによくいったが、まったく天上の楽園とはこのような場所かと思ったと、眼をかがやかして言うのであった。  かつては歩いていった浅間の小諸側からの登山道を、今はバスで車坂峠まで。一挙に千メートル近く登るわけである。蛇堀川の谷に沿って、バスがゆく道の両側の松林の中には、軽井沢ほどではないが、あちらこちらに別荘が点在し、林の下草にはシデシャジンやヤマホタルブクロやシシウドなどが目立つ。  峠に近づいて稲妻型に急な登りをくりかえす道には、ヤナギランやニッコウキスゲの花が咲き、軽井沢から草津へゆく途中の万山望のあたりより、ずっと花が多く思われた。  車坂峠は全体が駐車場のようになっていて、昔の姿は知らないが、伐られた木々のあとや、むき出しになった岩などが自然破壊の代表的な姿をさらしている。  早々と横切って、カラ松林の中の急勾配の道に入る。峠の賑わいと程遠い静けさである。  赤ゾレの頭、トーミの頭などと名づけられた小さなピークを越えて東の尾根道を辿る。左側はシラビソや赤松やミズナラの林。右側の空を被わんばかりの浅間山の斜面との間に湯の平高原が沈む。緑のじゅうたんをしきつめたような赤や紫や黄のいろどりである。  蛇骨岳ともよばれる黒斑山のピークまでいき、もどって湯の平高原への急崖を下りる。  草すべりと名づけられて、|旧《ふる》い火口壁なのであろう。草つきの急崖を下りる。尻餅をついてすべった方が早いが、転落するのがこわくて、ところどころで休んであたりを仰ぐと、中国の南画に描かれたような荒々しい岩壁が、ほとんど直角の鋭さで湯の平になだれおちていて豪壮な眺めをつくっていた。  わずかな時間で高原につくと、紫はヤチアザミ、赤はシモツケソウ、黄はサワオグルマやコキンレイカであった。  大雪山の姿見ノ池から沼の平へゆく道も、同じようないろどりの緑のじゅうたんとなっていたが、赤はエゾコザクラやアカノツガザクラ、黄はキバナノシャクナゲであった。  南に下って火山館の前を通って蛇堀川の源流の小さな谷を下った。  道の両側には黄のコキンレイカや紫のヒメシャジンが多く、沓掛の隣人に聞くと、昔はオヤマリンドウとオミナエシがいっぱいあって、麓の人たちは切って束にして花屋に売りにいったそうである。これらの花たちは切っても小さくて売れないために、こんなにも多く残って浅間の昔の姿をしのばせてくれたのであった。

67 浅間山  ムラサキ(ムラサキ科)
 浅間山を詠んだ歌はたくさんあるけれど、私は伊勢物語の中にあるのが一番好きである。都に住みにくくなった男が、東国をさして旅に出る。信濃路に入って、浅間の麓の野を横切ってゆく。   しなのなる浅間のたけに立煙    をちこち人のみやはとがめぬ  空に流れる浅間の煙は、遠くからでも見えるであろうとなつかしむ心は、この山の麓で親しんだ女との別れを惜しむ心でもあろうか。  伊勢物語の主人公の東下りは、伊勢から尾張、三河と来て、|八橋《やつはし》のカキツバタの群落を眺めているから、尾張と三河の間に、信濃の浅間が入ってくるのはおかしい。しかしそのあたりのところは「道しれる人もなくてまとひいきけり」とあって、信濃の次に三河の話がでてくるのは、道を知らないので、あっちこっちと迷っていったのだと話の辻褄を合せている。もともと在原業平の恋の物語を中心にしてまとめたのが伊勢物語である。東海道筋の話だけでなく、是非、中仙道のあの有名な浅間山も加えたかったのであろう。業平の頃といえば千年以上も前だけれど、当時は東山道とよばれた信濃路の浅間山麓に、別れを惜しむような女たちの群がる宿場などあったかどうか——。  とまれ、東海道筋の名山が富士山ならば、中仙道筋は浅間山。共に富士火山帯に属して成層火山型の活火山である。業平の頃は、度々爆発をくりかえしていた富士山が、一七〇七年、宝永四年の噴火以後、沈静しているのにくらべて、浅間の方は近世に入っての爆発が多く、一七八三年、天明三年の五月から八月の噴火では群馬県側で千人を越える死者が出た。一九〇〇年代に入っても、しばしば死者多数の噴火があり、戦後にも何回かの爆発で死者を出している。言うなれば浅間山は、人や車の多い主要幹線道路にもっとも近く、もっともおそろしい山である。  娘の頃から何度も登り、そのうちの一回は、登る前に北軽井沢の岸田国士邸を訪れていて、見事に眼の前で噴火したので中止になった。音が先であったか地鳴りが先であったか、その一瞬は、まさに大地が腹にためていた怒りを爆発させたという感じで、山そのものが生きていることをまざまざと見せつけられる思いであった。  浅間の西南の麓の追分に浅間神社がある。この御神体は大山津見神、石長姫となっている。  姫は大山津見神の娘で、ニニギノミコトが|笠沙御前《かささのみさき》で、その美しさに見とれたのは妹のコノハナサクヤであった。父のオオヤマツミに姫がほしいと申出ると、姉のイワナガを共にもらってくれと言う。イワナガは醜いのでそのまま返すと、父は残念がって言った。コノハナは美しいけれどもろい。イワナガは醜いけれど頑丈で長く|保《も》つのに。そして、イワナガは以来、嫉妬心の権化となって妹の仕合わせをそねむことになる。多くの爆発歴を持つ浅間山には、まことにふさわしい女神の設定である。浅間は千七百メートルの上は砂礫の山である。しかし何べん登っても、直径四百五十メートルの大火口の底に、大地のいのちが露出しているように見える真紅の熔岩のいろは魅惑的だ。  そしてその裾野の花のすばらしさ。娘の頃はいつも千ヶ滝から朝四時出発で歩いて登ったのである。万山望から小浅間までの道は、オミナエシやマツムシソウやオニユリやカワラナデシコが咲きみだれていた。北軽井沢へゆく草軽電鉄の車窓から、キキョウの大群落で、窓硝子がムラサキいろに染まるばかりなのを見たこともある。いまはもう、それらの花たちは、かつての場所のどこにもない。この二十数年来、夏の一ときを沓掛の林の中にすごしていて、わが家の庭にもノハナショウブやサワギキョウやルリトラノオやヤマオダマキやトリカブトやオミナエシがあったのだけれど、この年月に絶えてしまった。家族が引揚げたあとで、他人の庭の山草を盗んで歩くものがいるのだという。家がふえ、山も野もひとの心も荒れたようだけれど、つい最近、千ヶ滝の林の隅で、小さなムラサキの一本を見つけてうれしかった。   むらさきの一もとゆゑにむさし野の    草はみながらあわれとぞ見る  古代の夢を残すムラサキにあって、もう一度浅間の裾野を見なおす気持ちになったけれど、あのムラサキは最後の一本であったかもしれない。

68 槍ヶ岳  トウヤクリンドウ(リンドウ科)
 槍ヶ岳にはじめて登った時、眼の前にそびえたつ岩峰の高さ、鋭さにびっくりした。二十年前の夏である。  槍は娘の頃からのあこがれであった。せめてその麓を洗う梓川のほとりまでゆきたくて、私は槍ヶ岳を中心にした五万分の一の地図の四枚を寒冷紗に張り、一夏かかって、七百メートルの地点から上を、二、三百メートル毎に茶いろの絵の具で塗り重ねていった。千三百メートルの高度の線を拾いあげると、梓川の長い谷が上高地まで辿り着く。島々から北西にわけ入る谷は、同じく千三百メートルで|留《いわなどめ》まで。その頃、上高地に入るのは|徳本《とくごう》峠越えが普通らしかったから、千六百メートルから千八百、二千とつめてゆき、上高地の谷からも同じようにつめると、徳本峠の二千メートルが地図の上に浮び上って来て、自分がその地点に立ち、眼の前にそそりたつ穂高の峰々を仰ぐような心おどりを覚えた。そこから槍は見えるのであろうか。どんな緑に山々のいろが深く重ね合されているのであろう。  山は好きでないという夫と結婚した時、子供が生まれたら、いまに一緒に槍に登ろうと自分に誓い、ようやく中学生の娘をつれて実現したというわけである。  松本からはバスで梓川の深い谷を進んで上高地に。焼岳、大正池、岳沢、明神岳、西穂高、それらの眺めは、くりかえしくりかえし地図をひろげては想像の上に描かれていた姿なので、はじめて出あったような気がしなかったが、白々とした花崗岩の河原にはさまれて空の青さをうつしながら、急速度で流れ走る梓川の水のいろと、両岸を埋めるカラマツ、シラカバ、ミヤマズミ、オオバヤナギ、ケショウヤナギなどの緑の濃淡のいろばかりは、絵葉書などをはるかに越えて美しかった。  かつては神河内とよばれたという。バスなどの入らない昔はどんなに|幽邃《ゆうすい》なところであったろうか、大正四年(一九一五年)の焼岳の噴火で、大正池ができる前は、もっと森も深かったのであろうと思い、とても文政十一年(一八二八年)の|播隆《ばんりゆう》上人槍開山まではさかのぼれなくても、せめて明治十一年(一八七八年)、イギリス人ウイリアム・ガーランドの槍登山の頃にこの上高地に足をふみいれることができたらと、遠くはるかな日々の姿を、眼の前にいったり来たりするロングスカートにハイヒール、旅館の浴衣に下駄履きの観光客を見ながら、想像の上に思いしのんだ。  その夜の宿は、徳沢園。ほとんど平坦な梓川沿いの道は、山ぎわに針葉樹林、河原にはズミやヤナギの緑が茂りあって、河童橋から六キロ、あの、地図の上で二千八百メートル以上の高度に浮び上った穂高連峰の麓を歩いているのだと胸がはずんだ。  あくる日は早朝に出発、横尾から一俣へとだんだん川幅が狭く、道も登りになったが、イワカガミやシロバナノエンレイソウやマイヅルソウなどの見馴れた花たちの外、サンカヨウや、ツバメオモトなど、はじめて見る花もあって、やっぱり槍に来てよかったと思い、赤沢の岩小屋のかたわらを過ぎたときは、ここで、大島亮吉の「涸沢の岩小屋のある夜のこと」にならって、一夜明かして見たいものだと、ごそごそもぐりこんで岩に頭をぶつけて娘に叱られ、いつか流れが巨岩の底の水音だけになり、暗い針葉樹林帯を抜けるとナナカマドやミネカエデの群落の点在する槍沢の急斜面が行手に幅広くあらわれた。これがいわゆる氷河のつくった谷というのだろうか。右に左に急峻な岩山が連なり、その裾はゆるやかな曲線を描いて、両側から巨石がごろごろしている沢の底を支えている。  徳沢からここまで七時間近くかかって、千二百メートルの高度を上って来たのだが、頭上はるかにそそりたつ岩山にかこまれたとき、娘時代の夢を果すよろこびに身内が熱くなった。  その頃まで、私は山が好きと言っても、浅間山や赤城山や大菩薩や奥多摩の千メートル級の山々を歩いていた位で、こんなに高い岩山に来たことはなかった。そしてこの一ときの感動のために、娘時代の一夏の地図塗りがあり、結婚して数度の引越しをくりかえしながら、その地図を大事にしまっていて、時々ひろげてたのしんでいた自分があったことを思い、大げさなようだけれど、生きていてよかったとも思った。槍の肩の小屋まで最後の急坂を三時間、岩の間の高山植物の一つ一つに「まあきれい」「まあすてき」と挨拶しながらゆっくりと登った。チシマギキョウ、ウサギギク、キバナノコマノツメなどもはじめてであったのだが、これもはじめてのトウヤクリンドウはいろが白いリンドウなので、殊に珍らしく思われた。

69 白馬岳  コマクサ(ケシ科)
 はじめて、まだ雪のある立山の一ノ越の斜面を登っているとき、足のおそい私は、立ちどまっては上を仰ぎ、下を見下していたのだが、はるか下の方の室堂平から、一面の雪の原を横切って、数点の黒い影となったひとたちが、見る見る追い付き、あっという間にかたわらを過ぎてゆくのに出あった。  その足の早さ、その軽さと言ったらない。  私を案内していたガイドの志鷹光次郎さんが、どこのひとたちかと聞いた。 「四谷」とか「細野」とかいう地名が返って来て、電力会社にたのまれ、雨量計をしらべるために、山から山とわたってあるいているとのことである。  志鷹さんは一ノ越の稜線に辿りついた私に、はるか北東にある峰々の彼方を示して言った。 「あれが爺ヶ岳、鹿島槍、唐松、|鑓《やり》ヶ岳、|白馬《しろうま》。四谷や細野は、白馬の麓の村です」  四谷や細野は登山基地となっていて、健脚のガイドたちが多いという。  六月の晴れた朝であったが、眼の前に黒部の谷がきざまれていて、濃く緑がくろずむまでに底深く口をあけ、その対岸にそそりたつ峰々の北面は、まだべったりと雪を残していた。鋭い角度の切れ込みを見せた稜線の連なりは、白馬のあたりでたなびく雲に消え、いかにもはるけき彼方に眺められたのである。  跳ぶように早いあの脚力があってこそ、この一望の峻嶮な峰々を生活の場にできるのだと感心した。  志鷹さんは古来からの歴史を誇る立山の|芦峅寺《あしくらじ》のガイドである。これも幼少の頃から、北アルプスの山々を庭のようにして育っていて、山の花の名にくわしく、この山旅でもいろいろと教えてくれたが、白馬にはコマクサがあるのだと、雲の中の山影をなつかしそうに見やっていた。  白馬には、|安曇野《あずみの》にある穂高町に用があっての帰りに登った。志鷹さんがなくなられて数年たっていた。  穂高町教育委員会の高山氏が、三木慶介さんと一緒に、いつもの山仲間と合流した私の案内役になってくれた。高山さんはまた、私の大好きなプリンスメロンをいっぱい持って来てくれてうれしかった。  その前の日に大糸線平岩から入って、幾つかの沢を横切り、吊橋をわたって蓮華温泉に一泊。  蓮華温泉は唯一軒の木造の素朴な二階家で、いかにも山の湯という感じがする。庭にシナノナデシコが植えられていた。赤のいろに紫がかっているのが素敵だ。  翌朝はまだ星のあるうちに出発。旅館のうしろのナナカマドやダケカンバの茂りあう道をひた登りに登ってゆくと、だんだん明るくなって、オオバミゾホオズキやイワオトギリの黄の花が浮んでくる。ヤマホタルブクロやヤナギランの薄紅、カニコウモリやトリアシショウマの白もある。  栂の大樹の林の中の細い道を汗をかきかき登ってゆく右側に、朝日岳と雪倉岳が重なりあって巨人のようにしずまりかえっている。東面して、まだ谷々には雪がいっぱいある。ゆるやかに弧を描く谷底のなだらかな線は、ここも氷河地形なのであろうと思う。  しばらくして岩石の露出した斜面にとりつき、天狗の庭だと教えられた。ミヤマムラサキ、タテヤマリンドウ、ミヤマリンドウ、トウヤクリンドウ、タカネシオガマ、エゾシオガマ、キソチドリと賑やかな眺めで、いよいよ花の白馬と言われるお花畑の一端に辿りついたような気がした。  花にかこまれての一休みをしてから、白馬大池のほとりに出る。小屋と池に面した斜面のハクサンコザクラ、イワイチョウの大群落が、白に薄紅に咲き競って美しい。ムシトリスミレもムカゴトラノオも、シロウマゼキショウも群れをなしている。  小屋に荷物をおいて、白馬山頂へと辿る砂礫地は這松で被われ、その下草にリンネソウの小さい花がびっしりと咲き、ウラシマツツジは早や早やと紅葉し、ツルコケモモもガンコウランも小さな実をつけている。  小蓮華へとむかう稜線までくると、這松はもうなくなって、岩や石の間を、ヒメコゴメグサ、ヒメクワガタ、イブキジャコウソウ、キバナノシャクナゲ、ミヤマアズマギク、タカネヒゴタイ、クロトウヒレン、ハクサンシャジン、イワギキョウ、チシマギキョウ、ハクサンボウフウ、ミヤマウイキョウ、ミヤマセンキュウ、シシウド、シラネニンジン、ハクサンフウロ、タカネナデシコ、イワツメクサ、ミヤマミミナグサ、コバノツメクサ、マルバシモツケと咲きさかっていた。その華麗さ、その種類の多さは、今まで登ったどこの山よりすぐれていて、北アルプス第一の花の名所にふさわしいと思った。  コマクサもあった。ゆきすごし、また、もどって見つけた。大きな石でかこまれていたのは、だれかが、心ない花盗人からまもろうとしたのであろう。薄い紅いろにエメラルドグリーンの葉のいろが、天然の山の草と思えぬほどに技巧的である。  志鷹さんの生前に、一緒にこの花にであったら、よろこびも倍加しただろうと、ただ一度の山旅で別れたひとがなつかしかった。  下りの白馬大池から、栂池に下る石のごろごろした道のほとりにも、アズマシャクナゲ、ベニバナイチゴ、ヤグルマソウ、ミヤマキンバイ、クロクモソウ、アラシグサ、ミヤマカラマツ、モミジカラマツ、ミツバオウレン、ミヤマキンポウゲ、ハクサントリカブト、キヌガサソウ、リュウキンカ、ミズバショウ、ヒロハノユキザサ、タケシマラン、ノハナショウブ、ワタスゲと咲きつづいていて、道の悪さも歩きにくさも忘れた。夕張岳の登りに多かったズダヤクシもいっぱいあった。  私の山の会には、植物にくわしい莱綾乃さんがいて、一緒に下る道々で、さっさとすぎてゆく若い人にであうと声をかけ、「見ていらっしゃい。こんなにきれいな花を。見ていらっしゃい。下界では見られませんよ」とすすめていた。

70 木曾駒ヶ岳  ヒメウスユキソウ(キク科)
 いつか娘たちと中仙道、甲州街道を車で走る旅をした。  東京からいって軽井沢で一泊。追分から斜め西に入って木曾川沿いを走ったが、大雨であった。木曾福島の手前から左に入って駒の湯鉱泉に泊ったとき、山あいに一軒だけのひなびた木造の湯の宿が、木曾駒ヶ岳の登山基地の一つなのだと知った。  木曾川と天竜川にはさまれて、三千メートル近い高さで、そびえ連なる山々には、少女の頃からのあこがれがあった。  アルプスの山に咲くというエーデルワイスによく似た花があるという。  アルプスは鋭い岩山の谷々に、雪がかがやきながら、山腹の草地には、いろとりどりの花が咲いている。遠く近くひびく羊飼いの笛の音。羊の首につけた鈴の音。空はあくまでも青く、神秘の深さにしずまりかえり、やがて夕映えにいろどられて、山々の雪が真紅に燃える。そんな美しい景色の中に身をおいて、アルプスの娘のハイジのように、靴も軽く跳んで走っていきたかった。  一人の国語の先生が、ヒメウスユキソウの押し花をくれた。  夏休み中に友だちと、幾日もかかって、ふるさとの山の木曾駒ヶ岳に登って採って来たのだという。特に私にくれると言ったのでなく、教室で見せてくれ、ほしいほしいと私がもらったのである。  先生はからだを悪くして天竜川沿いの村に帰り、間もなくなくなられて、若い奥さんは実家に帰られたという。少女小説そのままの筋書きだが、ヒメウスユキソウの押し花の灰いろの濃淡は、先生の不幸な一生の象徴のようにも思えた。  その花の生きてみずみずしい姿が見たいと思いながら、絵や写真以外に、その後久しく、エーデルワイスもヒメウスユキソウも見たことがなかった。  駒の湯から駒ヶ岳までは、歩いて六時間はかかるという。足のおそい私は、八時間はたっぷりかかるであろう。  ヒメウスユキソウは木曾駒にだけあると言われ、他の山にあるのは、ヒナウスユキソウやミネウスユキソウと言い、少しずつ花も葉の形もちがうのだと図鑑で教えられた。  それに似た花をはじめて見たのは、北海道の黒岳の下りである。エゾウスユキソウとよばれていて、写真や図鑑のヒメウスユキソウより葉も花も大きく、また堅い感じがした。  追分の|石尊山《せきそんざん》に登ったとき、ヒメウスユキソウに似てもっと背が高く、頂上にかたまった花をつけ、白い綿毛の多い葉にかこまれているけれど、どこかちがうウスユキソウを見つけた。星野温泉から小瀬にゆく道にもあった。いろも形も似ているけれど、ずっと大きくたくましい。  少女の頃に先生にもらったヒメウスユキソウはとうになくしてしまっている。いまは写真と図鑑での知識しかない。なのに、ヒメウスユキソウ、ヒメウスユキソウとよく口走るので、ヨーロッパに旅をしたひとが、スイスにいってみやげものやで押し花したのを買って来てくれた。自分もスイスにいったときに買った。実物を見ると、白い綿毛のついた葉や包状葉が、綿でつくった造花のようである。何故、この何の変哲もない花に惹かれるのだろうと考えこんでしまった。  平地で似た花にハハコグサがある。黄いろい卵の黄身をつぶして小さく丸めて並べたような花がびっしりとついている。子供の時のおままごとの貴重な材料である。卵焼きの代りにする。白い綿毛につつまれた葉はむしって御飯の代りにした。  幼い日のそのような思い出と、ハハコグサという母と子を結びつけた名が、何かこの花にあたたかい、情愛深いものの|聯想《れんそう》をよびおこさせるのであろうか。  エーデルワイスというのは、高貴な純白を意味するとは牧野富太郎さんの『植物記』に書かれたことである。  さて木曾駒の頂上に立つ機会を得たのは、わりに最近の十月のはじめである。  辰野まで用があったので、その帰りに登った。東京からいつもの山仲間が大ぜい来て、三十人の団体になった。駒ヶ根からシラビ平までバス。その上はロープウェイであっという間に|千畳敷《せんじようじき》のカールにつく。こんな安直なことでは、もしかして歩いて登ったのが病気のもとになったのかもしれない国語の先生に申しわけない気がしたが、その夜は満月であったので、どうしても早く頂上にゆきたかった。  しかし二九五六メートルの山はさすがに手強く、その日は氷河のあとの谷底を歩いて、千畳敷の山小舎に泊るのがやっとであった。昨日は初雪が降ったとかで、草たちはもう枯れ枯れて、ハクサンコザクラやハハコヨモギやミヤマダイコンソウやハクサンイチゲやシナノキンバイが、それでもわずかに花と葉のいろを残していた。  翌朝は日の出を見るために、ほの暗いうちから頂上にむかって氷河地形の急斜面を、這松の根につかまりつかまり急登した。岩のかげにタカネツメクサがまだ生き生きと白い花をつけ、コケモモの実が赤い。  そしてヒメウスユキソウの半ば霜がれて、黄ばんだ花と葉も岩の間に見つけた。その根もとに雪がうすく積もっていた。

71 木曾御嶽  リンネソウ(スイカズラ科)
 私は中仙道が、江戸の日本橋を出て、西北に武蔵野を横切り、|碓氷《うすい》峠を登って、百三十五里二十三丁を京に向かう道のりの、日本橋から二里八丁の板橋宿で生まれ育った。  かつては|東仙道岐蘇路《とうせんどうきそじ》とよばれ、東海道が川の洪水で悩めば、中仙道には、谷深い木曾路をゆくおそろしさもあった。しかし、東海道に、富士を眺めるたのしみがあったように、中仙道には、|御嶽《おんたけ》の懐に抱かれるというよろこびがあった。  殊に山麓の福島は、江戸と京の、ちょうど、まんなかあたりにあったし、寝覚床や桟道など、珍らしい眺めにも恵まれて、山国は山国なりの興趣にそそられたことであろう。土産ものには、クマやシカやイノシシ、テンの皮などが売られたという。  御嶽は三〇六三メートル、富士山より七百十三メートル低く、加賀の白山よりは三百六十一メートル高い。立山、焼岳、乗鞍などと同じ火山系にぞくし、焼岳がいまなお活火山であるのにくらべて、成層火山型の休火山となっている。  中仙道がひらけたのは十三世紀にさかのぼるという。信濃から木曾谷に入って、|贄《にえ》川、平沢、奈良井と辿ってくるあたりから御嶽の雄大な山容が近づいてくるのを見た旅びとたちはいつか、その山にこめられた神霊を信じて、健脚なものは、進んで、頂上を極めようとしたことであろう。当然、案内者としての先達も生まれ、神霊を中心にした信仰も育っていったことであろう。  御嶽講は徳川の安定政権の許で発達し、先達につれられた登山者たちは、幕末から明治にかけては、年間三十万人にも及んだという。世情の不安に動揺する心を、神霊によって鎮めたかったのかもしれない。  木曾節とよばれる歌は、子供の頃からよく聞かされた。浅間の裾野の追分あたりの馬子唄もよく聞いたことがある。  宿場の町には、街道筋の歌々が旅びとによって伝えられていったのであろう。  馬子唄も木曾節も、まことに哀調切々として、荒涼たる火山灰地の野の姿や、山岳重畳たる木曾谷を、|毀《こぼ》ち削って走る激流に、|竿《さお》一つで生きる|業《わざ》のきびしさを、そのひびきに歌いこめていた。  いつか中仙道を辿って京までいきたいというのが、娘の頃からの願いとなっていた。  それは歩いてゆく旅であったのだが、実現したのは戦後で、それも板橋を基点として、自動車に頼ってしまった。  その前に名古屋から馬籠まで車でいって泊っていた。二度目の中仙道行は和田峠から鳥居峠にかけて暮れたので、駒の湯温泉に泊り、藪原、宮越から福島にいって、興禅寺にある木曾義仲の墓をたずねた。  迫りくる谷のけわしさに、このあたりから、はるばる六十四里余を京に馳せ上り、乳母子の今井四郎兼平と共に、琵琶湖のほとりで果てた義仲が哀れだった。  八幡太郎義家の嫡流という誇りを秘めた義仲が、いつか天下に志を成そうとして朝夕に心身を鍛えた時、いつもその支えになったのは御嶽の豪壮な山容ではなかったろうか。  中仙道をゆく旅びとの心もまた、御嶽に近づき、御嶽から遠ざかる思いの中に、旅路の平安への祈りを重ねたはずである。  御嶽には、加賀の白山に登った翌年の夏に、高尾発朝五時すぎの鈍行に乗っていった。福島で、いつもの山仲間に彦根教育委員会の小林重幸、北川鉄男両氏が合流。天気予報は小型台風の来襲を告げていたが、まだ風も吹かず、天気も晴れていた。  七合目の二千二百メートルの地点、田の原までバス。昔の登山者に申訳ないような立派な道路、大きな駐車場。何となくうしろめたいが、六十代なのだからゴメンナサイと心で詫びて、石がごろごろの急坂を登りながらびっくりした。  前後左右の白衣の登山者たちの中には、七十代はおろか、九十代までいて、口々に六根清浄を唱え、必死の形相である。九十のひとは両側から孫だという青年が支えている。自分に九十までのいのちがあったとして、どんな形で登るのだろうと思ったりした。  這松を押しわけて登山路の両側に自然石の碑が林立している。この山を死後の霊のよりどころとしたという先達たちを記念するものである。  登るにつれて雲が重く垂れこめ、あたりも暗くなったが、いつか碑がなくなって、熔岩地帯をゆく道ばたにチシマギキョウ、ヨツバシオガマ、ミヤマダイコンソウ、トウヤクリンドウの花々がようやく高山らしい眺めをつくってくれた。  あくる日は土砂降りの雨に風も強く、幾度か吹きとばされそうになりながら、摩利支天、剣ヶ峰を過ぎ、四ノ池の湿原や五ノ池を通って、飛騨側の|濁河《にごりご》温泉にむかって千二百メートルの高度を下った。雨と霧で足許の石がようやく見えるばかり。這松の根元に小さいリンネソウの花が一生けんめいに風に耐えていた。この小さい小さい薄紅の花を咲かせるのが、草ではなくて、潅木だというのにおどろく。  今度は是非晴れた日にもう一度、人の少い飛騨側から登ってもっといろいろな花を見つけたいと思った。七十、八十になっても。  木曾御嶽は昭和五十四年(一九七九年)十月二十八日に、有史以来初めて噴火した。そのニュースほど近ごろ胸をとどろかしたことはない。死火山は死んでいなかったのである。飛んでいってその山肌にひびく大地の鼓動を聞きたかった。

72 西穂高岳  センジュガンピ(ナデシコ科)
 娘であった頃、何を考えながら、山の道を歩いていたろうか。十数年前までの私は、もっぱら、からだの弱い息子のことを考えていた。立山から上高地までの長い長い道も、とにかくゆき通さなければ息子の許に帰れぬと、重い靴を惰性的に前に踏み出していた。  彼をせめて上高地までつれていきたいと思ったのは、その長い山旅のあとで、大腿骨骨折の手術を二度して、数年間の空白のあと、西穂高に登ろうとしたときである。  梓川の谷をわけて上高地に一歩足を入れる時、いつも私は、一瞬、|寒気《そうけ》だつような身の引き締まりを感じる。上高地はかつて、神河内とも書かれて、連なりわたる峻嶺の下に、空を被うばかりの大樹巨木が茂りあい、清冽な流れが茂みを貫いて走り、わずかに魚を獲り、けものを追うひとたちの小屋があった頃とはちがって、ホテルや旅館がひしめきあい、大型のバスのゆきかう観光地になってしまった。しかし、山々の姿が変らず、川の流れが絶えない限り、私はやはり日本の観光地のどこにもない、おごそかな雰囲気をたたえているように思われる。  それは上高地を過ぎて、ふたたび上高地にもどりたいと願いながら、果せずに死んだいのちがあまりにも多いことを知るせいかもしれない。私には、上高地が、それらのいのちの墓場のように思われるときがある。そしてそれらのいのちが惜しまれるから、なお一そう、上高地の土を踏みながら、「生き残っている自分は、何をしなければならないか」という問いかけを、いつも心に新たにさせられる。息子は十年間も結核を病んで、肺活量が常人の半分である。健康優良児であった四歳五歳の頃、よく奥多摩の山に連れて登った。それ以後脳腫瘍という難病にかかって、視力の半分を失い、結核をふくめて、二十年の闘病生活がつづいていた。  山が好きな彼は山の本を買い集め、槍も穂高も書物の上でよく知っていた。大島亮吉の文章にも親しみ、その不幸な遭難を惜しんだ。彼がもっとも深い感動をもって読んだのは、昭和二十三年の一月に、北鎌尾根から千丈沢に転落した友人のかたわらで、友に殉じて果てた松涛明の遺書のようであった。  最後のぎりぎりのきわに至るまで、おそいくる死とたたかっているいのちの壮絶さが、難病を克服するために、必死な自分の生き方と重ね合されたのではないだろうか。西穂にはからだの丈夫な娘もつれてゆくことにした。私たちの、十月も半ばすぎた山ゆきを心配して、三木慶介さんと、そのとき、国立公園上高地管理事務所づとめになった沢田栄介さん、お願いしていたガイドの有馬卯一さんも来てくれた。  ありがたいことに五千尺旅館での一夜が明けると快晴で、黄に赤に、燃えるようなカラマツやカエデが美しく、たとえ山に登れなくても、せめてこの|錦繍《きんしゆう》の秋の上高地を歩けただけでもよいと、息子と一緒に語りあいながら、西穂高岳の麓に急いだ。  夏ならばこのあたりに、ツバメオモトもキヌガサソウも、咲いているのだと説明しながら、ふと、かたわらの化粧柳の茂みの下草に、枯れ残っているセンジュガンピの小さな白い花を見つけた。昨夜の霜にやられて、葉も花も凍りながら、あざやかな色を残している。  フシグロセンノウに似て形も小さく、純白のこの花を、ずっと前に平湯の大滝のそばで見つけ、家に帰って図鑑をひらきながら、息子に教えたことがある。  しかし今、十月の寒冷期に入った上高地のセンジュガンピは、図鑑ではなく、生で息子に見てもらうのを待っているような姿であった。よかった。この花にあえただけでも来てよかったと息子はよろこび、このあたりで待っているようにという私に、西穂の登り口までと言い、登り口にさしかかると、五十メートルでも百メートルでも歩けるところまでと言い、娘とつれだって、私の先を登りはじめた。西穂高の東面の谷は、ゆけどもゆけども針葉樹林の連続で、眺めもなくて辛いばかりであったが、一歩一歩のろい足をあげていく私は、いつかたった一人になり、やがて西穂の小屋のあたりから、打ち鳴らす鐘の音と、息子の大きな叫び声を聞いた。「お母さんがんばれよ」娘も叫んでいた。息子には、私より早く登れる体力がついていたのだ。トドマツの根もとに一息ついて、「大丈夫だよ」私もうれしさに叫んだ。

73 戸隠山  クリンソウ(サクラソウ科)
 まぼろしの花とも、あこがれの花とも言いたい花の幾つかのうちにトガクシショウマがある。深山の渓間にのみ咲くという。  図鑑できり知らないこの花にあいたくて、何度、戸隠の中社、|宝光社《ほうこうしや》のあたりを歩いたことだろう。  明治十七年六月、矢田部博士によって発見され、ソビエトの植物学者マキシモウィッチに日本の特産種と折紙つけられ、薄紫のキキョウにも似てもっと繊細な花が咲くという。  戦後と言っても、今日のように、幅広い自動車道路が、戸隠高原のまんなかを貫いて走らなかった頃である。長野からいっても、柏原から入っても、道幅が狭く、路肩すれすれに、バスの車輪が崖沿いの草をなぎ倒しながら進む。いつの時も落ちる、落ちるとハラハラした。事実、何度かバスは落ちた。トガクシショウマをさがしにゆくこともいのちがけだったわけだが、ショウマは見つからなかったけれど、私にとって、はじめての花に幾種類か出あった。中社の道ばたのハクサンチドリ。中社の奥の越水ヶ原でリュウキンカとミズバショウ。雨の日に中社から奥社まで、ただ一人歩きに歩いていって、参道のかたわらの溝の中に、クリンソウの赤い花を見つけたこともある。  私は、木のサクラの花よりも、草のサクラソウの花が好きである。子供の頃、荒川べりの浮間ヶ原にサクラソウ狩りにいった記憶がなつかしいからかもしれない。クリンソウをはじめて見たとき、サクラソウの種類であることだけはわかって、帰って図鑑を見るまで名を知らなかった。ただ、サクラソウよりも葉も茎もたくましく、花も傘状にたくさんついた花が、老杉しげりあう奥社の、雨のせいもあって、昼尚暗いような道のほとりに、あでやかないろどりに咲き誇っているのを見たとき、その妖艶とも言いたい美しさが、かつてはこの山内で、密教のきびしい修行をした山伏たちの眼にどうとらえられたであろうと思った。即身成仏を念願に、禁欲の日々を送った修験者たちは、ふと、この花に女を思い出したのではないかと俗人らしい空想もした。  宝光社への道のほとりでオキナグサを何本も見たことがある。宝光社から中社へ通う道に面した農家の庭に、薄紫の美しい花を見出して、家のひとにトガクシショウマですかと聞いたら、シラネアオイだとのことであった。これらも皆、その日はじめて見た。中社の裏の池のほとりには私の好きなサワギキョウの群落があり、花々が紫の波のように咲きつづき、その間にモウセンゴケがいっぱいあった。うっとりとしてそのあたりを歩きまわって帰って来たら、竹かごやの主人からあのあたりはマムシの名所で、毎夏二十匹位とれると聞いて寒気立った。  戸隠表山に登ったのは、つい最近の秋の十月である。信越放送の安田浄さんや池ノ平どんぐり荘の池田さんがついて来てくれた。  花はあきらめて紅葉だけをたのしむつもりであったが、奥社のうしろから八方睨へとゆく道には、オヤマリンドウやヤマトリカブトが咲き残り、草紅葉の中に紫のいろが美しかった。三十三間窟とか百軒長屋とかの名のついたところは、この山をつくっている凝灰角礫岩とかいうもろい岩石が、洞穴になったり、オーバーハング状に削られたもので、修験者たちはここで経を誦して一生懸命に行をしたのだという。  約五百万年前、海中火山が爆発し、その噴出物が積もってできたのが戸隠山だそうだけれど、フォッサマグナによってできた海が干上るときの最後の地層を示しているという。しばらくゆくと、劒の刃渡りとか蟻の戸渡りというやせ尾根があったが、私は意外と、こういうところを立って歩くのが好きである。  頂上について、すぐ眼の前に連なる後立山連峰の山々が、うっすらと新雪に被われているのを見た。そのどの峰にも登りたいと溜息をつきながら、その立派さに見入っていると、三木慶介さんが、眼の下にひろがる西側の裾花源流の樹海を指さして言った。トガクシショウマはあの樹海の中にあるらしいですよ。しかし、あのあたりはツキノワグマの|棲《す》み|処《か》です。

74 火打山  ハクサンコザクラ(サクラソウ科)
 娘時代の夏のスケジュールは、学校が休みになると、すぐ房州の海で泳ぎ、土用波のたつ頃、軽井沢の知人の別荘に移る。  夏休みに読みあげる予定のたくさんの本などをかかえこんでくるのだが、何か、からだを動かしていないと、どうしようもない退屈におそわれる年頃には、軽井沢の落葉林の中には一週間と住めない気がした。浅間にも幾度か登った。それでも軽井沢はしずかすぎた。  そして私や弟や従弟たち、毎年海で泳ぐ仲間は、海から奥信濃の野尻湖に直行するようになった。列車が右に志賀高原をのぞんで善光寺平にさしかかると、車窓を吹き通す風の中に水の匂いがたちこめてくる。千曲川も犀川を加えて、そのあたりから幅がひろくなるのだが、はじめて、当時は柏原とよんだ、今の黒姫駅に下りて、野尻湖に辿り着き、そのゆたかにも青い水のいろが、眼いっぱいにたたえられた時のよろこび。  芙蓉湖ともよばれて、岬の多い湖岸線の複雑さに、妙高や黒姫が山かげを映して端麗な湖は、柏原の俳人小林一茶の句の中にもよみこまれている。   しづかさや湖水の底の雲のみね  ある夏のこと、私たちは朝の五時から歩き出して、湖の西の黒姫山に登った。一茶の「おらが春」に「おのれ住める郷は、おく信濃黒姫山のだらだら下りの小隅ならば、雪は夏きへて、霜は秋降る物から、橘のからたちとなるのみならで、万木千草、上々国よりうつし植るに、ことごとに変じ(ぜ)さるはなかりけり。   九輪草四五りん草で仕|廻《まひ》けり」  とある。  中野の城主の姫が大蛇に誘われてこの山中深く身をかくしたという伝説のある山は、富士火山帯に属する成層火山型のゆるやかな裾野を持っているが、私が、仲間よりも早く、一番先に、熊笹の藪こぎの道をひた登りに先を急いだのは、野尻湖にもあきて、もっとひろい海が見たかったからである。  一面の笹に被われた黒姫の頂きに立って、先ずさがしたのは北西の空につづいているはずの日本海であった。しかし、一向に海は見えず、妙高や黒姫と同じく富士火山帯に属する高い山が幾つかの山々の彼方にそびえたっていた。火打山二四六二メートル。そしてその山のあたりはもう信濃ではなくて、越後なのであった。  火打山に登ったのは、数年前の秋である。前夜、東京から来て、笹ヶ峰牧場で一泊。十月の半ば、軽井沢から沓掛、追分とすぎる街道沿いはまだ紅葉しはじめたばかりであったが、千三百メートルのこのあたりは緑を残す芝生に、白樺の黄、カエデの真紅が競いあって、眼を見張るばかりの華麗さである。  翌朝は弥八山の東の裾をぬって高谷池に。  十月のはじめから霜が下りているとかで、タケシマランやサンカヨウが黄褐色に枯れている。笹のかげのシラネアオイの葉だけは、まだあざやかな緑を残し、花の頃にまた来てみたいと思った。  十二曲り、富士見平と、急坂をあえぎあえぎ登って、ダケカンバの黄と針葉樹の緑の交錯がみごとな黒沢山を右に見ながら、ようやく平坦になった草原の道を三角屋根のヒュッテに着いた。  改築されたばかりという新らしい二階建てで、話し好きのおもしろい番人が、このあたりはクマの遊び場だから、一人で歩かない方がいいなどとわらいながらおどかし、登山口からの距離を思えば、黒姫より妙高より、この山の奥深いことがわかった。  あくる朝、小屋のすぐ前に、浅い|田圃《たんぼ》のように水をたたえている高谷池まで、咲き残りの花でもないかと見にいくと、枯れた草の上にうっすらと雪が積もっていた。夜半には月が出ていたのに、海に近くて気象が変り易いのであろう。  一茶は奥信濃の柏原では秋に霜が降ると言ったが、更にそこから千七、八百メートルも高いところでは秋に雪が降るのである。かつての火山活動の名残りらしく、火打山の主峰を正面にした一帯の低湿地はところどころに巨岩が横たわって、ツガザクラやイワカガミの霜焼けした葉がびっしりとついている。池のまわりをだらだら上りに、主峰へと向かう斜面にも、ハクサンコザクラの、花の形そのままに立ち枯れている姿がいっぱいあった。  一茶は奥信濃の寒冷な気候では、九輪草の花もとぼしいと嘆いたが、同じサクラソウ属でも寒冷地を好むハクサンコザクラは、秋の半ばに雪を迎える土地柄ゆえに、平地よりも夏をあでやかに、薄紅に咲きさかるのである。  海は頂上の草地にたつと、佐渡から能登半島まで見えた。健脚であったらしい一茶が、ここまで登って来て、句を作らなかったことが惜しまれた。下りみちで、前をゆく何人かが道ばたの笹の中をのぞいている。雷鳥の子供がいたという。子供がいるならば、親もいるにちがいない。いっしょにさがしてみたが出て来なかった。夏の登山客には馴れていても、こんな寒い日に来るひとには馴れず、姿をかくしてしまったらしい。  そんなに花が好きなら、ミヤマキンバイやミヤマタンポポやウサギギクが黄に、ハクサンチドリやオヤマリンドウが紫に咲きさかる七月の末に、是非登ってくるようにとすすめた番人の人なつこいおじさんは、そのあくる年なくなったと聞いた。

75 縞枯山  オサバグサ(ケシ科)
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と、いささか世をはすかいに眺めて、すべて完全でないと気のすまないひとたちに一矢を放ったのは、京の西、|双《ならび》ヶ|岡《おか》に住んだ吉田兼好という坊さんである。その六十七年の生涯に、鎌倉幕府が亡び、南北朝が競いたって争うのを見ている。  栄達の中にある人生だけでなく、敗亡にくだかれた日々にも生甲斐があると、ひとびとをはげましたかったのであろうか。  秋の山道は、何かひとの心をしみじみとおちつかしてくれる。まことに山は緑であるばかりがよいとは言えない。木々の葉も落ちつくし、人のかげには滅多に出あわない林間の道や尾根道に、冬の気配がひしひしと迫っているのを感じながら、ふとたちどまると、風の冷たさが鋭く、指先も凍えそうになるのを知りながら、山よさようなら、また、来年の春までと心につぶやきながら、日かげの霜柱を、踏みしだいてゆく。山のおわりは、自分にとっての一年のおわりでもある。いつもいつもその頃は、今年も思うことの何分の一も果せなかったという苦い悔が胸を刺す。そんな時に訪れる山ほど、やさしく胸をなごませてくれるものはない。  北八ツにいったのは、十一月のはじめであった。  その年は殊に仕事がいそがしく、そのどれも思うような結果が得られなくて、私は何か重い心に、北八ツにゆけばふんだんにあるという森や水が、自分をすっかりつつみこんでくれるであろうというような、心弱まりにも浸されていた。  車は茅野から入って麦草峠まで。有料道路となっている幅広の道は、開拓農家の点在する高原を走り抜けてひたすらに明るく、空は曇って明日は雨というのに、からりと乾いた風景で、とても人生の終りを思わせるような深刻な眺めはなかった。  峠から左折して茶臼山に。ヒメジョオンやオオバコのような帰化植物が車道をはなれたかなり奥まで生えていて、私の思いの中の北八ツの幽玄さとは程遠く、むしろ人里に近い気がした。  しかし、私は、この峠へくるまでの車窓の右に、じつに変った山容を見出していた。盛り上った針葉樹林の緑を灰いろの枯れ木の群れが幾重にも平行して横切っている。それは山全体に|蕭条《しようじよう》たる景観を与え、山全体がまさに枯死寸前の姿であえいでいるように見える。茶臼山の頂きに着くと、すぐ眼の前にその緑まだらの山があった。何という不思議な姿であろう。こんな山ははじめて見た。縞枯山と名づけられているのは、昔から、このようなかたちであったのであろう。  いつか道はその山中に入っていて、枯れ木の林を抜けながらまた、びっくりした。遠くからは、枯れ木ばかりと見えながら、次の代を生きつづける新らしい実生の林が、二メートルほどにびっしりと生え揃っている。すべてシラビソである。ふと、沓掛にあるシラビソとドイツトウヒの植樹林を思い出した。トウヒはどんどん大木に伸びてゆくのに、シラビソは、三、四メートルほどになると枯死してゆく。この木には何か、ある条件の下では生育しにくいものがあるのではないだろうか。寒風に弱いとか、根を張ってゆく土壌をえらぶとか。とまれ、白骨のような枯れ木の林と、新鮮な緑の若木群との対比は爽快とも言いたいようで、まったく人生の交替劇を、|直截《ちよくせつ》にあらわしているようである。  横岳との鞍部を、雨池峠を経て、自動車道路にむかう急坂を下る途中で、夕闇の樹林帯の下草に、オサバグサが密生しているのを見た。一属一種で、日本だけのものである。  この花をはじめて見たのは、早池峰の麓の針葉樹林帯の中であった。シダかとも思われるような濃緑の葉の中から、白い花もすがすがしい花茎が一本直立していたが、この山ではすでに花は枯れ、櫛の歯の形に裂けた葉が、ふかふかとした腐葉土の上に、大小無数に繁茂している。とうとう雨になって、露出した石の間を跳んでゆくような道は歩きづらかったが、あの縞枯れの木々の復活や冬越しのオサバグサの健気さに、私はいつか元気いっぱいになって、今宵の宿の双子池ヒュッテへと足を急がせていた。帰宅後、『植物手帳』の長谷川真魚氏に縞枯山のことをうかがうと、浅川実験林の小林義雄氏に聞いて下さり、沼田・岩瀬両氏の『日本の植生』に図説されてあるのがおくられて来た。縞枯山の幅十メートルから四十メートルに及ぶ立ち枯れの部分について、生木帯が枯死帯になり、更にまた、生木帯になるのに、百年かかると書かれていた。

76 爺ヶ岳  カライトソウ(バラ科)
 はじめて松本から大糸線に乗りかえて大町までいった時、車窓に迫る後立山連峰の高峻な姿が忘れられない。安曇野から|屹立《きつりつ》して、二千五百メートルから三千メートル近い峰々が、来り去ってゆく。  そのとき、私は、生まれた子供が三歳になり、ようやくよく歩けるようになったので、矢も楯もなく山が見たくなって、はじめは北アルプスの展望台と言われる塩尻峠の宿に泊り、更にもっと山に近づきたくて大町の奥の|葛《くず》温泉まで入り、幾日か滞在して、木崎湖に宿をかえ、青木湖、中綱湖のあたりまでよく足をのばした。  大町での用をすませた去年の秋、私はすぐに帰りに爺ヶ岳から鹿島槍に登ろうと思いたった。子供をつれ歩いた三十歳の日からもう三十何年とたっていた。  木崎湖では子供を宿の一室に残して、一人でよく泳いだ。その頃は山に登るよりも、海や川で泳ぐことに自信があった。しかし、二十年前に骨折して以来、左右の足の力の均衡が破れ、泳ぎの方はすっかりあきらめていたのが、去年の夏は三歳の孫をつれて、御前崎で泳ぎ、足の力の復調していることを知った。この十数年、せっせと山歩きをしたおかげであろう。  鹿島槍は、娘の頃からのあこがれである。写真で眺めて、北アルプスとよばれる山地の中で一番好きな山容を持っていた。根張りが太くたくましく、悠然たる趣があって、頂上からなだれ落ちる谷の稜線がけわしくきびしい。人にたとえるなら、柔和さと厳格さを併せ持っているような魅力とも言おうか。私は忙しい日常に追われていたが、体調のよいこの秋に登らなければ、もう残り少い生涯に鹿島槍には登れないような気がした。  大町の仁科中学の佐藤総一郎先生に前もって便りして、扇沢から入って種池小屋に泊りたいので、小屋のひとに是非風呂の用意をとおねがいした。次の日に爺ヶ岳に登って|冷池《つべたいけ》の小屋泊り。三日目に鹿島槍と、地図の上で測った。  三木慶介さんをはじめ、いつもの山仲間が十二人同行して、その朝大町温泉郷を出発。黒部へとつくられたバス道と別れて、扇沢の右の谷を登りはじめた。  十月にあと二、三日という山路には、まだ夏の名残りのコキンレイカやキヌタソウ、ネバリゼキショウ、オオバギボウシ、ミヤマダイコンソウ、ダイモンジソウ、ゴマナ、コバイケイソウなどの花が咲き、ベニバナイチゴ、ゴヨウイチゴ、ノウゴイチゴ、タケシマラン、サンカヨウ、マイヅルソウ、ゴゼンタチバナなどが、赤に紫に実をつけていた。  かなり急な道だけれど、次々と花があらわれ、高度を増すと共に、蓮華、赤沢岳の間に、スバリ、針ノ木が見え、鳴沢、岩小屋沢と峰々の頂きが近づく眺めに疲れが吸いとられる思いである。  ゴヨウノマツの大木が濃い緑にそそりたつ合間を、ミネカエデやダケカンバが赤に黄に染めて、その美しさにも疲れが消えてしまう。山にくる度に、岩や石だけの道で花のない時は疲れるけれど、そこに花さえあれば足も軽いといつも思っていて、自分ながら意外にも、正午すぎには種池小屋についてしまった。  小屋のうしろに鬱然と盛り上った巨大な峰、鹿島槍の豪壮な姿のすばらしさ。脊梁はあくまでもゆったりと頂きまでなごやかな線をつくって伸び、その両端に鋭くきびしい切れ込みを見せて支稜が深い谷に沈んでいる。  この分では夕刻までに冷池小屋までゆけるであろうと、せっかくのお風呂はおことわりして、小屋の前の草つきの斜面で昼食をとった。南面して日がよく当り、北風からもまもられているせいか、ハクサンフウロ、ミヤマキンバイ、ウサギギク、ガンコウラン、タテヤマリンドウが花を残し、コケモモ、ショウジョウバカマ、チダケサシ、ハンカイソウが実や種子をつけていた。あたたかいので、千メートル以下で咲く花も登って来たのであろう。  爺ヶ岳は三つある峰の一つだけに登り、あとは斜めにまいてゆくのだが、種池小屋の竹村昭八さんが、疲れたものたちのために、幾つものリュックをかついで、爺ヶ岳の頂きまで運んでくれた。山男はさすがに強いと感謝したりおどろいたりした。  一面の岩礫地につけられた道のかたわらの這松のかげにはコウゾリナ、ミヤマヨモギ、イワベンケイ、コウリンカ、ヒゴタイ、ハクサンイチゲ、ミヤマダイコンソウ、オヤマノエンドウ、タカネマツムシソウなどが半ば枯れながらも花がらを残していて、何故ジイガ岳などと哀れな名をつけたのであろう。この花のゆたかさは|乙女《おとめ》岳の名こそふさわしいのにと思った。  白馬から鹿島槍、爺ヶ岳、針ノ木岳へとつづく後立山連峰には、四百種以上の高山植物があるという。南側の日だまりの道には、カライトソウの薄紅の花も咲き残っていて、ワレモコウにも似た優雅なかたちを見せていた。唐土より来た美しい絹の糸でつくった房にも似ているとしてつけられた名であろうが、古代の大和盆地の山ぎわにもたくさん咲いていたのであろうか。  爺ヶ岳の下りから天候が急変して雪。それも風が加わって吹雪となった。

77 鹿島槍ヶ岳  タカネツメクサ(ナデシコ科)
 その朝は四時半、食事前の頂上往復を目指して、まだ暗いうちに冷池小屋を出発。前夜は心づくしの従業員用の風呂に入り、ぐっすり眠って体調良好であった。  昨日の午後、爺ヶ岳を下って冷池への登りにかかる頃は、雪まじりの風が吹きなぐる寒さであったが、明け方の空には星が幾つか見えていて、頂上までは晴れてくれそうなお天気である。予報は低気圧の近接を告げていた。  五時から六時にかけて、星は消え、濃く深い青一いろの空はカナリヤいろの薄黄に、トキいろの薄紅に染めかえられていって、眼の下の雲海の中から紺青の島のように山々が浮び上って来た。  一番遠く淡い紫の富士。その右手に南アルプス。その手前に中央アルプス。富士の左手に八ヶ岳から秩父。八ヶ岳の向うに太陽が昇るのであろう。  雲海が朱に黄金いろにかがやいて|燧《ひうち》、至仏、白砂、苗場など、上州の山々が、浅間、根子、吾妻など信州の山々が黒々と浮んでいる。眼を更に西に移せば戸隠や妙高から火打、焼山、雨飾、雪倉、白馬と山々はつづいて、登った山にはお早ようと朝の挨拶を、これからの山々にはどうぞよろしくと頭を下げたい思いである。  東の空の雲が太陽の昇るにつれて一いろの青に変り、山々のかげも雲海の中に沈んでゆくとき、西側の立山連峰が朱に赤に映えはじめた。毛勝三山を|脇侍《きようじ》のようにしたがえ、北の王者劒岳が、その左につづく立山連峰が、昨夜の新雪をべールのようにうっすらと|被《かぶ》って古い残雪との間に朱の濃淡のかげを見せているのが美しい。  立山から西は浄土、鬼、越中沢と薬師岳まで馴染んだ稜線がつづき、翼があれば一飛びに飛んでゆきたいばかり。数歩毎に東に西に首をめぐらし、足許には爺ヶ岳と同じように、這松の茂み、岩のかげに身をひそめて、なお薄紅の花を残すハクサンフウロやリンネソウや黄のミヤマアキノキリンソウ、ミヤマキンバイ、紫のホソバトリカブトに感激した。タカネバラの赤く大きい実もたくさんあり、オヤマノエンドウもイワオウギも豆科の種子をいっぱいつけている。タカネヤハズハハコ、イワベンケイ、エゾシオガマ、キバナノコマノツメ、ミヤマオトコヨモギ、シシウドなど、すべて黄ばんで枯れた花がらだけとなり、夏の盛りをしのばせる。  南峰到着七時半。日本海がうっすらと青|鈍《にび》いろに光っていた。  それにしても何という花の多い山であろう。頂上が近づくにつれてほとんどの花は枯れしぼんだ姿になっているのに、岩の間や、礫を押しわけて、盛り上るようにしてタカネツメクサが群落をつくっている。  つややかな緑の葉。鮮やかな純白の花。コバノツメクサもある。それらの花たちはほとんど同じような五弁の白く小さい花片を空にむけ、そのつぼみ、その葉、その茎に少しずつちがう形を持ちながら、この寒冷な高山の岩礫地が最上の生活の場とよろこびあっているように見える。小さい小さい花たちが一生懸命に咲き残っている姿が健気である。  午後四時すぎ大町発の急行で今日のうちに東京へ帰ろうと急いで下りる小屋までの道には、ゆきには早朝の暗さでわからなかったが、フジハタザオもトウヤクリンドウもヒメコゴメグサもタカネミミナグサもミヤマクワガタもわずかに花を残していて、珍らしかったのは南面の日の当る山腹に、エゾオヤマリンドウの形で、純白のリンドウが咲いていたことである。こんなに砂地や岩礫の多い山であれば、かつては白馬のようにコマクサもあったのではないかと思った。いつか蔵王の中腹で、コマクサが復原されていっぱい咲いているのを見たけれど、五十年前、百年前の山の自然のすばらしさを思いやる度に、開発の名で、急激に破壊されてゆく山が惜しくなる。  朝食をすませて十時、冷池を出る。きれいな朝焼けであったのに、いつか雲に|被《おお》われた空となって、昨夕のように雪まじりの雨が降り出したら、|大冷沢《おおつべたざわ》に向かう赤岩尾根の急な下りが辛くなる。早く早くと礫を蹴とばしてひたすらに下りつづける道の両側には、紫のオヤマリンドウやカライトソウが咲き残っていて、この山の花のいのちの長さにおどろかされた。谷を埋めてミネカエデやウリハダカエデやナナカマドやダケカンバの黄葉や紅葉がトウヒやシラベの緑に映え、なお林間に真夏の花が眺められる。  高千穂平を経て、鹿島川に注ぐ北俣本谷の水を集める大冷沢の西俣出合の|堰《せき》のところで小休止した。  切りたったように両側の尾根が鋭い傾斜で落ちこんでいる谷は、重く雲につつまれた空のせいか、見るからに|暗鬱《あんうつ》な眺めで、このやせ尾根にとりつき、転落して生命を落した若ものや、狭い谷筋を押し流してゆく雪崩にまきこまれたものもあるのではないかと、河原の石に腰を下して、ふと暗い気持にそそられた。  家に帰って、古い『山と渓谷』を取り出し、その谷は去年の冬の半ば、つづいて十三人の死者を出していることを知った。私の小休止した場所でも五人の遺体が上ったのである。鹿島槍の花たちは死者を悼んであのように長く咲いているのであったろうか。  帰りは早く早くとバスをせきたてて、ようやく四時の急行に間にあった。

78 五頭山  オオイワカガミ(イワウメ科)
 十二月五日、新潟駅から車で四十五分、出湯、村杉温泉の後方にある|五頭《ごず》山に登った。  前夜の宿は出湯温泉。新潟市に本拠を持つ新潟県ゴミ会議によばれての帰りである。  ゴミ会議は猪俣信市氏を事務局長として、団体加盟三十六、個人加盟二百五十人を有し、自然破壊の一つの元凶である山のゴミの持ち帰りを推進しているグループである。四十七年に結成され、一般参加者との合流によって、すでに実施したのは五頭連峰、飯豊連峰、粟ヶ岳、二王子岳、|巻機《まきはた》山、妙高、谷川連峰、|焼峰《やけみね》山、越後三山、苗場山、|平 《たいらつ》|標《ぴよう》山など、二十回近い実績を積んでいる。  五十三年の妙高高原には、二百八十四人が、巻機山には延べ三百五十八人が参加し、ヘリコプターまで出動した。  近江の三上山で、奥多摩の日の出山で、私は地元の山岳会の若者たちが、山の清掃にはげんでいたのを知っている。しかしこのゴミ会議のように、大挙して行動範囲もひろく、高度も高いところを戦車のように驀進するひとたちには、はじめて出あった。  五頭山への道は出湯温泉のうしろから砂子沢に入って流れをわたり、ミヤマカタバミが群生する杉林の中をしばらくいってジグザグの急坂となる。花崗岩の礫に二、三日前の雪が積もり、急な割にはすべらないから歩きよい。宿での明け方の夢に、私は五頭山に登っていた。道の左手に神社があり、空にそびえる赤松の幹が陽にかがやいていた。夢の中のは朱塗の神社であったが、砂子沢の川沿いの右岸に石の鳥居が見えた。山の神をまつるのだという。  五頭山については、白鳥の飛来する|瓢湖《ひようこ》の写真で、湖水の背景にうつっている山だという位の知識でやって来て、新潟で、藤島玄氏の『越後の山旅』を読み、そのくわしい内容に触れ得たのである。毎年の登山人口が十万に近く、新潟の山好きのひとたちが先ず登る山。五つの峰にそれぞれの仏をおいて、白衣を着ての信仰登山者が絶えぬという。  しかし私の登った日は、天気予報が低気圧の近接を告げ、午後から、山も海も荒れるから要注意とあったせいか、私を案内してくれるゴミ会議のひとたちの外はだれ一人のかげもなかった。  急坂が終ると、ミズナラやミネカエデ、ウリハダカエデなどの落葉木の樹間の道となり、ところどころに抜きん出て高く赤松がある。まさに夢の通りなので不思議な気がした。  落葉に埋もれた山腹にはコシノカンアオイであろうか、タマノカンアオイのように模様がなくて楕円形のカンアオイがいっぱいあり、ツルリンドウやツルアリドオシやツルシキミが赤い実をつけ、ノギランやトンボソウ、キッコウハグマ、オトギリソウなどの花がらも目につく。びっしりと樹間を埋めているのはイワカガミかイワウチワかと紅葉しかけた葉を見てゆくうちに、その葉の形で、イワウチワもあるけれど、オオイワカガミがもっとも多いようであった。花が咲きかかる頃は、どんなに美しかろうと思う。斜面の見える限りがオオイワカガミである。  風化した花崗岩の巨石が露出して、烏帽子岩と名づけられた地点で休む。四の峯、三の峯の稜線が重なりあう南西に当って、遠く守門岳が霞み、粟ヶ岳、菱ヶ岳がその手前に連なっている。西には蛇行する阿賀野川の対岸に秋葉丘陵がつづいて、その上に弥彦山と角田山がゆるやかな山容で浮んでいる。角田山は植物の宝庫であるとか、今度新潟に来た時、是非いってみたいと思った。  午後は風雨となるであろうことを予想して早目の食事をとったが、五の峯の頂きまでの道は、台風の目に入ったように風もなく、ユズリハやツバキなどのあたたかい土地に茂る木々の間を落葉を踏みながら、緩急の登り降りをくりかえしていった。海からの風が強いのであろう、ブナもヤシャブシも根もとから枝が|岐《わか》れて背が低く、タムシバもタニウツギも小さい。  頂上には赤いよだれかけをした石の地蔵様がすえられていて、この山がふだんからひとびとに親しまれていることを思わせたが、私にとって、登って来て何よりもよかったと思われたのは、北東にひらかれた谷の向うに、白銀の飯豊連峰が一目に見わたせたことである。地神、北股、飯豊本山、大日と、ことごとくが新雪に被われ、午後の陽を浴びて薄紅いろにかがやいている。初冬の今頃、晴れてこれらの山々を見ることの出来るのは珍らしいとひとびとは言い、夕方の列車で帰るのでなければ、その華麗な眺めを左手に見て、五の峯から四、三、二、一と縦走して歩きたかった。

79 高峰山  コウリンカ(キク科)
 いつどこの山へいっても、それが春ならば秋になって又来ようと思い、秋ならば、春の花々が咲いた頃にと思う。  また、この山はあと十年生きているとして、また必ずやって来ることができるとも思う。今までに出あった高年での登山者は、木曾の御嶽の九十歳、月山の八十四歳である。私たちの山の会にも、八十三歳で、三平峠から鳩待峠まで歩いたひとがいた。  山へ度々ゆくことが、自分の健康の保持に役だっているといつも思っているけれど、山へ多くゆくひとと長寿とどんな関係があるのだろうか。  案外に、山男などとよばれたひとであっても、遭難以外の病気で、この世を去る例も少くないのではないだろうか。重い荷物を背負い得るのが、山にゆくものにとって、欠いてはならない資格のように思い、ずい分な無理を重ねて短命につながることも多いのではないだろうか。  山へゆくというと、いきなり、何キロ位しょえますかなどと聞かれることがある。私は山に谷川の水があれば水筒も持ちたくないし、くだものの皮もむいてビニールの袋につめてゆく。下着が汗でぬれるので、タオルを二、三本持ってゆき、下着と背の間において、汗をかく度とりかえて頭の鉢巻につかったり、首のところに下げる。最後は下着なしの素肌となって、下着をもってゆく重さを倹約しようとする。  おにぎりなどは重いので食事はもっぱらパンやハムやサラミソーセージの薄切りである。もっとも私の山歩きなどは、全くのハイキング、低山趣味であるけれど。それでも山にはできるだけ多くゆきたい、どんな忙しい暮しの中でも万難を排してと思い、この数年は年間三十のノルマを自分に課している。月に二回から三回、最小限度六時間から十時間までの山を歩くためには、その間の健康管理にはずい分と気をつかう。時間の配分にも気をつける。ありがたいことに数日前に今年のドック入りの検査表がとどいて、血圧が要注意の外はほとんど内臓に支障がないとのことであった。血圧は仕事をやめて山を歩けば下るので、やっぱり山はせっせとゆかなければと思った。  車坂峠の西にのびる|高峰《たかみね》山は、八十になっても九十になっても登れるところとしている。峠が一九六八メートル。わずか百二十三メートルの標高差で、大きな露岩が積み重なった頂上にたつことができる。時間にしてゆっくり歩いて往復二時間足らず、眺望は広濶絶佳で、八ヶ岳から南・中央アルプスが一目で見える。何よりもその花々の多さがすばらしく、一歩足をふみ入れて驚嘆に次ぐ驚嘆である。ただ車坂峠から西の登山道にさしかかり、ゆるやかな坂を登ってゆくと、いきなりかたわらの小笹の藪の中から、灰いろに黒の縦縞模様の蛇が一匹あらわれて、すばやく足許すれすれに横切っていったのはありがたくなかったが——。浅間周辺はヘビが多い。  小笹の斜面がすぎると野生の芝の生える草地になり、シャジクソウやミヤコグサが明るく地表を埋める。かつては軽井沢の高原の到るところにあった花たちである。  ヤマルリソウもある。マツムシソウ、ノギラン、ノハナショウブ、シシウド、シオガマギク、ウツボグサ、ハナニラ、コウゾリナ、アサマフウロ、ミヤマキンバイ、イブキジャコウソウ、コゴメグサ、ユウスゲ、ニッコウキスゲ、オニユリ、キキョウ、オヤマリンドウ、カワラナデシコ、クガイソウ、ヒメシャジン、オミナエシ、コキンレイカ、チダケサシ、ミズギボウシ、フシグロセンノウ、マイヅルソウ、ユキザサ、ハクサンイチゲ、イワオトギリ、ヨツバシオガマ、ヤナギラン、ベンケイソウ、ワレモコウ、シギンカラマツ、ヨツバヒヨドリ、ヤマオダマキ、シモツケソウ、アキノキリンソウ、キオン、シラネニンジン、コケモモ、ツガザクラと数えると五十近い種類が、歩いてわずか一時間の稜線の左右の山腹を埋めていた。  シモツケソウやノギランやユキザサやハクサンイチゲやノハナショウブやイブキジャコウソウはもう花がすんでいた。  八月も末で、マツムシソウやアキノキリンソウやフシグロセンノウやカワラナデシコやリンドウは花の盛りであった。コウリンカの朱赤の花も二、三本、見つけた。これもなかなか見られない花である。いつ見てもこの花は群れをつくらず、花びらも下むきになって、ひっそりと咲いている。いろは朱赤で、一目見てそれとわかる。  鬼押出、離山、石尊山、浅間山、黒斑山、碓氷峠、小瀬と、軽井沢を中心にずい分長い年月、馴れ親しんで来たけれど、この山ではじめて出あい、今まで浅間高原では見ることのなかったのは、ハクサンイチゲ、イブキジャコウソウ、ヨツバシオガマ、キオン、ノギラン、コゴメグサなどである。浅間高原の他のところにもあるのかもしれないが、私にははじめてであった。  そしてこの山には、どうしてこんなに花が多いのであろうと思った。北側の斜面にはアズマシャクナゲもいっぱいある。その根もとにゴゼンタチバナの大群落。  ひとのいのちの明日はわからないけれど、いつか八十歳をすぎた日に、心をゆるしあった友だちの数人と来て、一人一人がはなればなれの、見えかくれするほどの距離を保って花々の中をゆっくりと歩けたらいいなと思う。その日まで、これらの花々よ、生き残っていてと切に思う。

80 霧ヶ峰  ヤナギラン(アカバナ科)
 ヤナギランにはじめてあったのは、戦後間もない頃、名古屋から飛騨川沿いに北上して飛騨の高山まで、その土地土地に残る民話伝説を調べにいった旅の帰り、乗鞍まで車でいった途中である。  戦時中に軍人によってつくられたという未舗装の道路は、強い秋の陽に乾いて、濛々と砂塵をまきあげ、思わずしめようとした窓の外に鮮紅のいろを見た。花であった。何の花であろう。  私はその時まで、そんなに紅の美しい野の花を知らなかった。車が登ってゆくにつれて花の数もふえ、針葉樹林の深さの中に咲くその華やいだ姿に、高山の松倉城で敗れて、乗鞍から安房峠を抜けて逃げてゆき、梓川べりの沢渡で、杣人の手にかかって惨殺された三木秀綱の妻のことをふと思い出した。深山に似合わぬ華麗な衣裳をつけていた彼女は、杣びとたちに狐が化けて出たのかと怪しまれて殺されたのだという。釈迢空、折口信夫さんの歌にその哀れさを歌ったのがある。   峰々に消ぬきさらぎの雪のごと    清きうなじを人くびりけり  ヤナギランはその後北海道で、じつにしばしば見ることができた。旭川から層雲峡にゆく車道の西側は、ヤナギランの大群落で、鮮紅の幕を張ったようである。  根釧原野にもたくさん咲いている。その花のいろにも形にも壮麗な美しさがあると思い、自然に放置されたままで、この美しさがつくり出されることに、いつも眺めて感動するのだけれど、昔からあまり歌や句には詠みこまれていないようだ。  これだけ目立って、これだけさわがれない花も珍らしいと思う。たとえばなぜひとはミズバショウにマツムシソウに、ニッコウキスゲに、カタクリに、スズランに、リンドウに、熱っぽい眼差しをそそぐのであろう。  ヤナギランの丈があまりにも高く、直立した茎があまりにも堂々としているからかもしれないと思う。小さく可憐なものに親愛の情を注ぐひとが多い。  霧ヶ峰を訪れた初秋の一日、|上諏訪《かみすわ》から車で|強清水《こわしみず》に至り、蓼科山を東に、美しが原、鷲ヶ峰、鉢伏山を西に望む高原に立って、眼の前に咲きつづくヤナギランの見事な群落に見とれた。一面の鮮紅色の波が風にゆれる。もう残りの花で、下の方はわれてそりかえったような大きな種子になり、白くほほけている。その綿のような白と、花びらの紅のまざりあったのが、一そう花をゆたかに見せている。  霧ヶ峰の花は場所がひろびろとしていて、陽光をさえぎるものがないせいか、うすえんじいろのヨツバヒヨドリも、卵白色のヤマハハコも、キクのような黄の花を残すハンゴンソウもすべて群落をつくっている。お互いに群れかたまりながら、お互いの領分はきちんとまもって、互いにまじりあわないところもおもしろい。アキノキリンソウもルリトラノオもコガネギクもモリアザミもシオガマギクもすべて大量に咲いている。池塘のほとりは濃い空いろのエゾリンドウの群落である。  まだ、であったことはないけれど、ニッコウキスゲもまた、さぞ盛大に壮大に、この大地からむっくりと盛り上ったような、楯状火山の巨大な緩傾斜の山容を被いつくすのであろうと思った。  しかし私は、もしも霧ヶ峰に野の花を見にくると言うなら、どの花にもまして、ヤナギランの季節に、その大群にとりまかれたいと答えたい。夏も終りの日々、秋風が立って、山野のいろのおのずから衰えはじめる頃、鮮紅色に咲き競う華々しさが好きである。  秋の花の紫も黄も青も、それぞれに美しく季節らしいいろどりをあらわしていると思うけれど、秋から冬にかけて見る花には、紅いろこそふさわしいのだと私は思っている。紅は火のいろ、あたたかいいろだから。  その日の午後、霧ヶ峰には、ススキの美をテレビで語るために、スタッフのひとたちにつれていかれたのであった。  ススキも壮大に盛大に生えていた。花々が埋める空間とは又別に自分の領分をまもって、波のように白い穂を風にそよがせていた。  芒野、芒原。芒散る。枯尾花。山本健吉氏の『最新俳句歳時記』の秋にかかげられた「芒」の連想はみなわびしい。テレビ局のひとたちもおそらく私にわびしさを語ってもらいたいのであろう。  しかし私にはわびしさという感情があまりない。ススキは枯れても、どうせ来年生えると思っている。スタッフの人たちが明日の撮影に備えて、カメラをすえる場所をさがしている間に、一人で霧ヶ峰の主峰車山を南面から登っていった。  南アルプスの連嶺が、杖突峠が、中央アルプスの峰々が背後にせり上ってくる。  車山は一九二五メートル、標高差は二百メートルで、わずかな登りをゆっくりと歩く。一休みするごとに陽が山々の稜線に近づき、眼の下の諏訪盆地に紫のかげがひろがってくる。逆光にススキの銀のいろが冴えかえっている。ヤナギランが一かたまりすべて種子になって光っている。下の方ではまだ残っていた花が百本ほど、高度がちがうだけですっかりうら枯れた姿になっている。それがススキよりもわびしさをそそる眺めであった。

81 志賀高原  イブキジャコウソウ(シソ科)
 志賀高原には久しくあこがれていて、はじめて丸池のほとりまでいった時、その開け方のすさまじさに胸をつかれた。  その前日、まだ、バードラインの通っていなかった戸隠へいったので、そのちがいの大きさによるのであったかもしれない。  九月のはじめで、丸池のほとりには、二、三本のサワギキョウが花を残していたが、とても戸隠の中社のうしろの湿原の大群落には及ばない。戸隠には林芙美子の一生を描くNHKの朝のテレビ小説「うず潮」の取材にいったのである。  芙美子は、新婚の夫君と、下から歩いて宝光社まで、五時間かかっていった。戦争中は、上林温泉に近い角間に疎開したので、当然、志賀高原も訪れたであろうと足をのばしたのだったが、戦前の面影はしのぶよすがもないと見て、取材は中止した。  去年の秋の十一月の山旅に、三木慶介さんが志賀高原をえらんでくれて、志賀にはまだいいところが残っていると言われても、自分の眼でたしかめるまでは信じられなかった。いつか上信越高原国立公園の草津白根から志賀までの高原線ができたとき、雄大な草津白根の山腹を、遊園地の砂場を歩くように軽装で登り降りするたくさんのバスの乗客を見て、この活火山が、はずかしめられた思いに、今にも爆発するのではないかと思ったことがある。  その日、山田牧場の奥から登った笠ヶ岳は二〇七五・八メートル。牧場をはさんで向かいあう横手の二三〇五メートルよりは低いが、頂上までリフトがかけられ、電電公社の無線中継所がつくられて、観光客が混みあい、草津白根の悲劇をくりかえしているのにくらべれば、頂上が露岩に固められて狭いだけ、原始の姿そのままである。中腹まで、七味温泉からの道がのびて、頂上にはほんの一登り、ミヤコザサ茂る急坂を一汗流して辿りつく。ヤマハハコやゴマナやハンゴンソウ、ノコギリソウなどの花々が高原の晩秋を飾っていた。かつての笠ヶ岳は地元のひとたちの信仰登山の中心で、村々から標高差で千二百メートルある山を、白装束に身を固め、数時間かけて登って来たのだそうだ。横手山や志賀山よりも古く、熔岩の噴出によって出来た山容が円錐形をつくり、遠くからも目立って、ひとびとの心にも志賀高原の中心のような印象を与えたのであろう。  頂上の下よりにコメツガやダケカンバが生い茂り、その下草にシラタマノキやイブキジャコウソウが生えている。この花には北海道で、信州で出あって来たが、やっぱり伊吹山の頂上周辺が一番多かったと思う。  前方に妙高、黒姫、戸隠連峰、はるかに白馬のあたりの山々を望んで、たのしく下山してくると、一人の山仲間が、道ばたの石につまずいて骨折したという。  骨折は私も十五年前に苦しい体験をして来たので、おどろいて介抱。見知らぬ青年が副木をあててくれていて、小屋のひとの車で、須坂市の病院に運んで処置を受け、入院ときめた。幸いに私の須坂の親戚のすぐそばであったので、あとは親戚のひとにたのんで、一人その夜の泊りの硯川温泉にタクシーをとばす。すでに夜になっていて、灯火一つない崖ぞいの道を走るのがおそろしかった。クマやキツネにあったことがあるとわらいながら話していた運転手も、濃く深くなって来た夜霧に口を閉ざしてしまった。  笠ヶ岳の中腹を通過したあとは、谷に下る道でいよいよ霧が深くなってしまった。車のライトがわずか二、三メートル先を照らすだけである。  両側は何の木の林なのであろう。霧の中にぼんやり浮んでは消え、消えては浮ぶ。こんな時、クマが出て来たらどうしようと怯え、「無事でよかったですね、お客さん」という運転手も硯川温泉ホテルの前に私を下して、同じ心配をしていたのだと知った。やはり志賀高原も奥に入ればおそろしいのであった。ホテルのあたたかい鍋料理を口にして人心地がよみがえり、またそのおそろしさがおもしろかった。  あくる日は渋池のほとりをめぐって志賀山へ。  ダケカンバやアオモリトドマツやコメツガの密生する林の中をだらだら登りによく整備された道をゆく。志賀自然教育園と名づけられて開発からまもられ、自然を残しているのだ。  道はだんだん狭くなり、湿地になり、茂みが深くなり、左折して登りにかかる。アカミノイヌツゲやオサシダやヤマソテツやクサソテツが目立つ。  霧の湧くところらしく、岩にはびっしりと青苔がついている。ヒカリゴケを見たというひともあり、木かげの岩かげをのぞきのぞき登った。  志賀山の急な下りを下ると、すぐ眼の前に奥志賀山の登りがつづく。この山すそには幾つもの池塘のある湿原がひろがり、モリアオガエルやクロサンショウウオが住むとの説明板が立っている。横手山や丸池附近の賑わいとは別世界のしずけさである。大沼池にむかって、ダケカンバの黄葉の美しい山ぞいの道を歩く。  大沼池は志賀山の噴火による熔岩流にせきとめられた周囲五キロの小さな湖である。水面の標高は一六九四メートル。黒姫山の姫神との間に恋の伝説がつくられているのは、その水の青のいろのあまりにも濃く深いせいかもしれない。  沼と別れ、清水沢をこえて、|発哺《ほつぽ》と丸池との間に出る道は、荒々しいばかりの熔岩の堆積で、ここでもヒカリゴケが見えると、走りよっては岩かげをのぞいた。そして志賀高原はこのあたりにくると全く大自然がいっぱい残っていると、十分に満足した。

82 浜石岳  ヤマユリ(ユリ科)
 |浜石岳《はまいしだけ》には、由比から登って|薩《さつた》峠まで歩きたくて三月のはじめにいった。  幕末の公武合体説の犠牲となって、はるばると京から江戸に下られる和宮の行列は、「サッタ」の音を忌んで、山深い木曾路の中仙道筋をえらんだという。東名高速道路を走って、「薩」としるされたトンネルをくぐる時、いつも眼をあげて、この上が峠だなと思い、東海道筋の険路で有名だった難所もすいすいと通過できる時勢のありがたさを思う。古代の峠道は浜石岳からの稜線が、駿河湾になだれこむ最後の盛上りの薩山の中腹、百メートルほどのところにつくられていたという。  薩山は二四五メートル。西麓は興津の町で、風光明媚で知られた三保松原を控えて、そのあたりの海は清見潟とよばれ、月の名所になっている。鎌倉時代に西行法師が、ここから眺める富士の美しさに歌づくりも忘れたという伝説を残し、阿仏尼が『|十六夜《いざよい》日記』に、   きよみかた年ふる岩にこと問はむ    浪のぬれ衣いくかさねきつ  と歌ったところである。  静岡の雙葉学園の父の会の大坂昇四郎さんに道案内をたのむと、二回にわたって、実地をしらべてくださった。大坂さんとは、一緒に焼津の高草山に登った。山腹にハンカイソウが咲き、オオバギボウシの大群落もあって、低くても、静岡の山には花が多いと思った。  由比駅の前で、東京からのバスを捨て、タクシーをつかって町の北西を浜石岳の「青少年センター」にむかって舗装道路を進む。高度が増すにつれて、うしろに富士山、愛鷹山がせり上ってくる。このあたりはミカンの産地だが、もう収穫が終ったらしくて、緑いっぱいの葉ばかり。青少年センターへの分岐点まで三十分。カヤトの狭い山道に入って、歩き一時間で頂上に着いた。  風の強い日であったが、その眺めの雄大さに息をのむ。富士は愛鷹をしたがえて華麗な全容をあらわし、その東に箱根、天城とつづいて、大瀬岬も|戸田《へた》のあたりも見える。北には南アルプスのまだ雪で被われた山々。西に奥三河の山々。そして南は一面の青海原である。窪田空穂は、興津の竜華寺に高山樗牛の墓をたずねて、   青海にわが身浮かべて遙かなる    天に一つの日を見たりけり  と歌ったが、お寺の小高い丘の上にたっただけで、これだけの思いになれたのである。標高七〇七メートルの浜石岳の頂きに立てば、海は、富士や天城をふくむすべての山地を呑みつくして、なお余るほどのゆたかさにみえる。  一面のススキ原に風をよけて昼食をとり、峠まで七キロの道を下る。これが迷路で、大坂さんが二度こられたというのは、一度は実地の歩き。二度目は道案内のカードを岐れみちにつけるため。源氏物語にちなんで、桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫と、手習、夢浮橋に至る五十何枚かのカードを絵入りで墨で書いて、道ばたの木に草に結びつけておいて下さり、なお、当日も先頭を歩かれた。私たちの同勢は六十人を越えて女ばかり。途中、右に左に下りる道がある。頂上から薩山のあたりまではカヤトと杉林の連続で、標識もおぼろ気である。山麓のひとたちは、ミカン畑の手入れに追われて、杉林の下枝は伸び放題。昼猶暗いと言う言葉通りに、真昼間なのに闇夜のような暗さのところも数カ所あり、それなりのおもしろさがあって、こんなところに「ほたる」や「薄雲」の章のカードが下っていたりすると、まさにぴったりの感じであった。暗闇を抜けると、まっさおな海が近々と迫るところに「初音」の章のカードがさがっている。  浜石岳は、日本列島を東と西の二つにわけた糸魚川から静岡市に至る、大断層地帯の東側の部分を占めているという。尾根道の東側の鋭い斜面が断層の活動による変動のあとを示し、かつては海底に沈んだ名残りのせいか、山道には礫が多かった。まだ木の芽草の芽も冬の姿であったが、ヤマユリの花がらが林の下草の中に多く、静岡県の山では一番目につく花である。火山灰地を好むというこの花は、一万年前に噴火したという富士の火山灰の降りそそいだあたりに香りも高く咲き満ちたのであろう。薩峠への下り道のミカン畑を通る時、農家の主婦らしいひとに声をかけられ、よくここまで歩いて来たとほめられ、大笊一ぱいのミカンをふるまわれた。この日の山歩きでは一つの花にもあわなかったが、ミカン山の主婦の親切さが、ヤマユリの香りのように胸にうれしくひろがった。

83 三上山  イワナシ(ツツジ科)
 |三上《みかみ》山は四三二メートル。まことに低い山ではあるけれど、その形がいかにも端麗で、全山を被う松のみどりの深さは、もう何十年も前の娘時代の関西への修学旅行の時以来、忘れられぬ印象を心にとどめている。まだ新幹線がなくて、急行列車が、東京を早だちして、近江路から京都にと向かう頃、ちょうど陽がかげりはじめていた。  彦根をすぎて湖ぞいに走る車窓の右に、比良の稜線が紫づいて浮び上り、左を見ると、富士山のように形のよい山が、夕映えにかがやいて金粉をそそぎこまれたようにまばゆかった。  戦後の京都に住んでいた時、下鴨の家から歩いて比叡山を越えたことがある。北白川の奥から志賀越の道を辿って四二〇メートルの峠にたった時、眼の下にひろがる琵琶湖の、海のような広さに感嘆した。|縹渺《ひようびよう》とひろがる水面の東に、濃い紫紺のいろの三上山がぬきん出て高くそびえたっている。すぐ眼の下は天智天皇の近江王朝の夢のあとを残す大津である。   さざなみや志賀の大わだ淀むとも    昔のひとにまたもあはめやも [#地付き](万葉集 巻一)  柿本人麻呂が追憶に胸を痛めたのはどのあたりからの眺めであったろうか。  去年の暮れ、天智天皇と大海人皇子という二人の俊秀な兄弟の愛にはさまれて嘆いた額田王の心をさぐるため、蒲生野の船岡山に登った。   あかねさす紫野行き|標《しめ》野行き    |野守《のもり》は見ずや君が|袖《そで》振る   むらさきのにほへる妹を憎くあらば    人づまゆゑに吾恋ひめやも  この相聞の歌の舞台になった蒲生野は、八日市の西、日野川と愛知川にはさまれたあたりで、阿賀神社のある修験道の山、太郎坊山の真向いに百メートル足らずの船岡山がある。  彦根市教育長の小林重幸氏によれば、往古、琵琶湖は、伊賀盆地のあたりまでひろがっていて、三上山も船岡山も湖中に浮ぶ島であり、なお、それ以前は海中にあったという。川の流域などは特に地味が肥えて草も茂っていたことであろう。『万葉集』にのこされたこれらの歌は、蒲生野の狩りの時としるされていて、男は山に獲物を追い、女は野に薬草や、食べられる草を摘んだのであった。船岡山の麓の杉林の中には、クズ、ノブドウ、タンポポ、ヨメナ、ノコンギク、アケビ、スミレ、ビナンカズラ、ヤブラン、クマイチゴ、ヌスビトハギ、ノイバラ、マンジュシャゲ、マンリョウ、イタドリ、アザミ、カキドオシ、ヤブカンゾウ、ナズナ、レンゲ、ニリンソウなどの春を待つ芽があって、いずれも薬に、あるいは食用になった草たちである。花崗岩の露岩のある頂きからは三上山が間近に見え、ふと思った。天智天皇や大海人皇子や額田王の眼にも三上はよく見えたにちがいない。それぞれが、自分の不安な思いを鎮めようとして、その端正な山のかたちに救いを求めたのではないか。  三上山は神の山とされて、三神山と書かれた時期もあったという。  船岡山の帰りについでに登って見ると、意外と急登の石段がつづき、着物に草履であったので、三分の一のところにある妙見神社の境内までにしたが、その屋根も朽ち、壁もくずれ落ちんばかりの荒廃ぶりにおどろいた。明けて春のはじめ、小林重幸氏や郷土史家の伏木貞三氏と登った。  赤松林の林間にモチツツジが多く、やっぱり信仰の山なのであろうと思ったのは、じつに清潔だったことである。ジュースの空缶一つ、ビニールの袋一つおちていない。  ノギラン、ショウジョウバカマの芽がよく出ていて、イワナシもあった。このおいしい実は古代の食用であったろうから、飛鳥びとたちは、このあたりまで足をのばしたかもしれないなどと思った。  頂きは湖畔の山々に多いチャートの露岩が多く、小さな石の祠がすえられていて、雨乞いの時に登って祈るというのは、これかと思った。登り一時間、下り三十分。毎日でも登りたいような山である。  さて、それから二カ月たって、藤原や霊仙の帰りにバスを待たせて一登りして来てびっくりした。イワナシの薄紅の花があちらこちらに咲いていてよろこんだのも束の間、近くの町の小学生の遠足らしいのだが、頂きの石の祠周辺はゴミの山、空缶や空弁当箱の山である。かためて持って上ってくる子供もいる。先生は何も言わない。得体の知れない神の存在を否定することは各人の自由だけれど、だからゴミは山の祠のまわりに集めよということは許されない。小学生のくる少し前に下山した中学生がすでにそのようなゴミの始末をして見せたらしいのであった。

84 藤原岳  アワコバイモ(ユリ科)
 藤原岳には花が多いという。去年の春、大台ヶ原の大杉谷を下った帰りにバスをまわしたが、二日目の下りから降り出した雨が、強い風まじりのざんざん降りとなったので、民宿のかたわらにある藤原岳自然科学館で、館長の清水実氏から、映画や展示物の説明をうかがった。  この山が石灰岩を母岩とし、北方系、南方系の植物がいりまじって興味深いことがよくわかったが、花よりも私は、館内に飼われているマムシにぞっとした。秩父や奥多摩にも多いはずだけれど、まだ一度もあったことがない。パンフレットには、「マムシ多し」などと特記された谷がある。わざわざ書き出されるからにはよほどのことと恐ろしい。石灰岩といえば、全山がそれで固まっている伊吹山の近くで、ヤマトタケルノミコトは毒蛇にやられてそれがもとで死なれるのである。毒蛇とは被征服民族のことだといわれてもいるけれど、私は、本当はマムシにやられたのではないかと思っている。  一年たって、藤原町を再度たずねた。カタクリの咲き頃に合せて四月二十日すぎとした。  鈴鹿は雨が多いところだという。しかし、今回は一天雲のかげすらない日本晴れであった。  当日の案内は藤原岳の自然を観察し、保護することに情熱をそそぎこんでおられる清水氏。聖宝寺コースの石段を登る。寺の庭の池のほとりは、薄紅いろのクリンソウの花ざかり。池の中にはリュウキンカが真黄いろに咲いていて、花の山にふさわしい入口となっている。  一合目から三合目、五合目、かなり急な勾配を登る。スギの植林が多く、シロダモやヤブツバキやコクサギがまばらに林間を埋めている。ヤマアイが道ばたに茂り、アオイスミレ、エイザンスミレ、ヤブレガサ、オカタツナミソウ、オトギリソウ、オヤマボクチ、ダイコンソウ、ツルリンドウなど、見馴れた下草たちが芽を出している。スズシロソウやタガラシやワチガイソウやセントウソウはようやく白い細かい花をつけ、ヒキオコシの芽も若い。一年前のちょうど一月前にいった奥多摩の川苔山の谷のようである。これではまだフクジュソウが見られるのかもしれないと胸がはずんだ。二十日ほど前に、常陸の花園山の近くで、阿武隈の鎌倉岳の麓で、満開の野生のフクジュソウを見ていた。  六合目でブナやミズナラの明るい樹林帯に入り、石灰岩地特有のオーレンシダが目立ち、セツブンソウの花はもうおわっていた。ソバナ、シュウメイギク、ウバユリが芽ぶき、イチリンソウ、ニリンソウ、アズマイチゲが道の両側にあらわれてくる。花盛りである。奥多摩よりずっとたくさんある。紅花のエンレイソウもキクザキイチリンソウもある。フクジュソウも咲いていた。あちらこちらにいっぱい咲いている。東北・関東のよりは花が小さい。しかし野生のをこんなに見るのははじめてである。すばらしいを連発したら、清水氏が暗い声で言われた。以前はもっともっと多かったのに、心なく採るひとがいて、すっかり少くなりました。  何よりもうれしかったのは八合目に近い谷間で、エンゴサクやレンプクソウやニリンソウやカタクリの群落の中に、アワコバイモの花を見出したこと。クロユリに似てうつむき勝ちの白い花は石灰岩を好み、関西から西の表日本だけにあると聞いていたが、はじめての見参であった。バイモよりはずっと小さく、たった一つの花が何やら神秘的である。ヒロハノアマナもはじめてだが、二枚の葉の先に青味を帯びた縞の入っているのがしゃれている。はじめての花を見た時はいつも、それだけで登って来た甲斐があったと思う。  八合目から頂上までのササヤブの道では、指先も凍るような冷たい強風が吹き、やっぱりここは、日本海の風をまともに受けて、秩父や奥多摩より寒いのだと思った。ヒトリシズカ、ジンジソウ、ジャニンジン、ミスミソウ、スハマソウ、バイケイソウ、すべて花をつけず、シオガマギク、スズカアザミ、ベンケイソウ、シギンカラマツ、トリアシショウマの芽もまだ若い。  帰途は八合目からアブラチャンの黄の花の咲く大貝戸道の樹林帯を急いで下り、リョウブやタムシバやイヌシデ、クマシデ、チドリノキ、ミヤマイボタ、フサザクラ、ハウチワカエデ、ハナイカダ、ヤブニッケイ、ケンポナシ、コゴメウツギと、両側に茂る木々の名をあげ、タキミチャルメルソウや牧野氏が発見したという、ハコベに似たヤマトグサを見つけながら、一匹のマムシにもあわず、季節をかえてそれぞれの花の盛りに、何べんでもまた、藤原岳に来たいと思った。頂上から北西にむかい、石灰岩地特有の風景をもった天狗岩から、御池岳の方へもいって見たいと思った。

85 霊仙山  ヒロハノアマナ(ユリ科)
 |霊仙《りようざん》という山の名を教えてくれたのは、その山麓の上|丹生《にう》で、木彫の仏像をつくることにはげんでいた年若い詩人山本紀康氏である。丹生には同じような仕事に就いているひとたちが多いという。  霊仙は鈴鹿山地の北端にあって、その山麓は霊仙山と伊吹山との間に関ヶ原の盆地がひろがっている。古代にあっては東国と畿内を結ぶ重要な地点となっていたことであろう。伊吹山で傷つき、伊勢の|能褒野《のぼの》で死なれたというヤマトタケルノミコトは、病んで痛む眼に霊仙の尾根の彼方、はるか南西のヤマト盆地の上の空を見やって、あの有名な望郷の詩をつくられたのではないだろうか。いのちの丈夫なものたちは、緑|美《うる》わしいヤマトで、どうぞいのちのよろこびを歌いあげてくれ——。  ミコトは霊仙の峠をこえて伊勢に入られたにちがいない。上丹生は霊仙の北麓で|醒《さめ》ヶ|井《い》の奥にある谷間にある。このあたりは|惟喬《これたか》親王の末裔と称する木地師の住みついたところとされている。  文徳天皇の第一皇子でありながら、御母が紀氏の出であるために藤原氏に邪魔されて、立太子の機を外された不遇の親王は、世を捨てて山野の自然に心の憂さをいやしたのであろうか。木地師は全国の山々の木を、お盆やお椀をつくるのに必要なだけ伐採して、また次の地に移ってゆくという。上丹生は京都に近く、いかにも失意の貴公子の子孫が世にかくれて、こつこつと、一丁のノミをもって、大地自然の恵みである樹木を彫りつづける業を営むにふさわしい。  霊仙とは惟喬親王とほぼ同じ時代に生きて、六年間唐に学び、日本に帰ろうとして、彼地で暗殺された高僧の名であるという。  木地師とは何のかかわりもないかもしれないが、世に志をいれられなかったものたちの思いをしのばせる地名や、里の状況にもひかれて、以来、新幹線の窓から一方に伊吹山を見れば、必ず、一方に霊仙を仰いで来た。いつかの春の午後、米原で途中下車して、山本氏やその数人の友人とコンロンソウの群生する谷を頂上まであと半分の霊仙滝まで登り、ミヤマキケマンが黄いろの霞のようにたなびくばかりに咲き満ちているのを見たが、その日のうちに、帰京しなければならないので、惜しみながら、夕暮れの沢を下って来た。  藤原岳に登ったあくる日、醒ヶ井から入って、上丹生への道と別れ、創設後百年、東洋一という養鱒場を見物して午前十一時に山にかかる。湿った谷ぞいの道のかたわらに数戸の家が廃棄されていて、|榑《くれ》ヶ|畑《ばた》という。かつて栽培していたのであろうか、廃屋の周辺は一面のワサビの花盛りであった。  |汗拭《あせふき》峠までの道にはルイヨウショウマ、ハルリンドウ、イチヤクソウ、イチリンソウ、ヤマエンゴサク、イカリソウ、タキミチャルメルソウ、ヤマネコノメソウ、スズシロソウの花が咲き、ヤマツツジ、ムラサキヤシオ、モチツツジのつぼみがふくらみ、オトギリソウ、カワラナデシコの芽が出ている。地質学者の小林重幸氏が、露呈した石灰岩の中にウミユリの化石のあるのを教えて下さる。峠を南にくだれば、延寿招福の神をまつる多賀神社のある多賀の町に出る。町から東に大君ヶ畑、鞍掛峠をこえて伊勢に至るので、湖東のひとびとの神詣りは、この汗拭峠まで一汗かくところからはじまったのであろう。  霊仙の頂きは準平原のように、北霊仙、中霊仙などにわかれ、ゆるやかにうねる石灰岩台地となっていて、北霊仙の真上で小林氏は大きな地質図をひろげ、眼の下にひろがる琵琶湖のあたりを示されて、二億五千万年のはるかな昔にさかのぼる大地の歴史を語られた。藤原では谷間にあったヒロハノアマナが、ここでは頂き近い枯れカヤ原の中にいっぱいある。  北にはすでに登った加賀の白山や、木曾の御嶽の雪のある姿が遠望され、伊吹山の真うしろからこれも雪を残す|金糞《かなくそ》岳がのぞく。一三一四メートル。近江第二の高山である。  帰途は柏原にむかって十キロを下る。ひどいヤブコキの道もあるが、尾根筋の眺めがすばらしく、夕暮れ迫る比良の山なみ、竹生島、沖の島の浮ぶ琵琶湖、深くきざまれた谷々などが、ある時は夕陽をあびて朱に映え、また山かげになって紫に沈んでいた。広葉樹の多い山腹に、カエデの類であろうか、鮮緑色の木々が点在し、コブシの花の白もまじって、まだ、雪のとけたばかりの霊仙は、人生の青年期にあるようなみずみずしさに満ちている。足許にカタクリが、ショウジョウバカマが咲きさかり、だれがさげた札であろう、「カタクリに注意」と書かれたその心づかいがうれしかった。

86 二上山雄岳  テイショウソウ(キク科)
 その日の正午、用があって、京都の二条城の庭を歩いていた。  午後の時間があくと思った時、矢も楯もなく|二上山《にじようさん》へいきたくなった。京都の近鉄の駅で聞くと、二上山口下車がよいという。しかし、その日のうちに名古屋で八時すぎとなる新幹線に乗らなければならないのだと言うと首をかしげた。私は着物姿。年も相当と見て、「このひとちょっとおかしい」と思ったのかもしれない。  しかし私は、どうしても登りたかった。前の年の春の同じ頃、葛城を午後から歩いて日が暮れかかり、二上山を眼の前にして、あきらめてしまった。  近くで仰ぐ二上山は、意外に根張りが大きくどっしりしていて、とても一、二時間で登って下りられそうもなかった。  二上山には、葛城と同じように、いつも近鉄の窓から見仰いでは、いつか登って、雄岳の頂きにあるという大津皇子の墓に詣でたいという思いを抱きつづけていた。   うつそみの 人なる我や 明日よりは    二上山を|兄弟《いろせ》とわが見む  天武天皇が崩じられて、一月とたたぬ間に、その皇后であり、自分には叔母に当る持統天皇によって、謀殺された悲運のひと、大津皇子を、その姉君の|大伯《おおく》皇女が|哀傷《かな》しんで詠んだ歌である。   わが背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて    |暁 《あかとき》露にわが立ちぬれし   二人行けど 行き過ぎがたき秋山を    いかにか君がひとり越ゆらむ  大津皇子が死の直前に伊勢の斎宮であった姉君をたずねられたとき、すでに弟君の不幸を予感して、姉君はこのように歌っている。  姉弟の母であった大田皇女は、持統天皇と同じように天智天皇の皇女であり、天武天皇の妃であった。もし妹に先だって病死することがなかったら、当然、皇后となり、大津皇子は皇太子の地位を得られたことであろう。持統天皇は、大津皇子の人望が自分が生んだ草壁皇子に比してはるかに高いことを嫉み、大津皇子の存在が草壁皇太子としての将来に邪魔になるとして、|磐余《いわれ》の池のほとりの|訳語田《おさだ》の|舎《いえ》で、死を賜ったのである。皇位をうかがうとした、謀反の罪は斬首であった。   ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を    今日のみ見てや 雲かくりなむ  不当な死に臨んでの皇子の絶唱である。日暮れも近く、池には二上山が紫のかげを落していたであろう。翼があって自由に空を翔けめぐることのできる鳥を羨む皇子は、眼をあげて雄峰と雌峰と並んだ二上山の姿を仰いだことであったろう。その二つの峰の間に沈む夕陽に、ひとびとは、西方浄土を夢見たのである。夕映えに浮ぶ山容に、まだ二十四歳の若い皇子が、仏への救いを求めたかどうか。  二上山口の駅に着いて二時近く。麓からの標高差は五一五メートル。登り下りに三時間と見れば、五時すぎの電車で名古屋にいって、新幹線に間にあうはずであった。  私はそのとき、|紫根《しこん》染めのしぼりの着物を着ていて、汗や泥で汚したくなかった。駅の近くのお好み焼の店に入って、事情を話して脱いだ着物をあずかってもらい、|長襦袢《ながじゆばん》の上に雨コートを着て|衿《えり》元をタオルでまくという姿になり、レンゲやペンペングサの花盛りの田園風景の中を爪先登りに急いだ。登り口には椎や|欅《けやき》の大樹につつまれて春日神社があり、藤原氏の守護神であるこの社は、大津皇子の御霊をおそれての創建であろうと思われた。持統天皇の皇子抹殺の謀議に協力したのは、藤原|不比等《ふひと》であったろうと言われている。  モチツツジやクヌギの明るい雑木林を過ぎると、杉や檜の植林地帯となり、下草に、鮮やかな緑の葉に、濃淡の斑文のある草がまばら|生《お》いしていて、はじめて見るものであった。ギザギザのある長方形の形が端正なので、大津皇子の山にふさわしい気がして記念に一本だけ頂戴した。ウバユリの芽生えもあった。  二上山は、花崗岩や片麻岩の層の上に噴き出した古い火山岩から出来ているのだそうだけれど、意外に悪い山道で、急坂から急坂へと曲りくねり、大きな石がごろごろしている。大津皇子の遺骸は、はじめ、馬来田というところに葬られたのだが、|祟《たた》りがあるとのことで、持統天皇が、二上山上に移されたのである。と言っても、この急坂ではどうしようもない。当麻寺から、あるいは竹内峠からの道があるが、そちらをゆかれたのだろうか。多分、実際の墓は山麓の別のところではないか。  草履の鼻緒が切れないように、足の力の入れかたを工夫しながら、コナラの多い雑木林の中をひた登りにゆくと、樹肌の赤いアカマツ林となって、眼の下に大和盆地がかすみ、大和三山が海の中の島のように浮んで見えた。林の下草にはうすむらさきのタチツボスミレが花盛りで、ふと、いつか登った近江の琶琵湖の奥の小谷城址で、城将浅井長政の切腹したあとが、一面のタチツボスミレの花盛りで、非業の死をとげたものへの鎮魂にふさわしかったのを思い出した。  皇子の墓と伝えられる盛塚の上にはカナメやアシビやヒサカキ、イヌモチなどが密生していて、多分、小鳥がその実を運んで来てのものであろうと思われた。どれも小さい木で、つい何十年か前に塚ができたように見え、皇子の不幸が一つも風化されてないことを思った。予定通り下山して帰京。すぐに図鑑と引き合せて、テイショウソウと知ったその草はその年の初夏、アザミに似た小さい赤紫の花をつけた。飯泉優氏にうかがうと、これも関東の南から東海道、近畿地方や四国の南を通って九州に至る土地にだけある植物だという。

87 葛城山  ミヤマラッキョウ(ユリ科)
 春の北山を歩いて、大堰川沿いの宿に泊ったあくる日、同勢四十人の山仲間とバスで奈良の|葛城《かつらぎ》山にむかった。  桓武天皇が、奈良から京に都を移されたのは、皇位をめぐって、肉親同士が血なまぐさい|殺戮《さつりく》をくりかえした平城京の、たくさんの皇子たちの血を吸った大地から逃れたかったのも、その理由の一つではないだろうか。  葛城山は南の金剛山と並んで、奈良から飛鳥にかけての盆地と、大阪湾に臨む河内平野とをさえぎって、千メートル前後の峰々が|屏風《びようぶ》のようにそびえたち、金剛山との間の鞍部が水越峠とよばれている。  北に、叔母の持統天皇に謀殺された大津皇子の墓のつくられた二上山が盛り上り、その間に竹内峠がある。  何千年の昔からか、奈良から飛鳥にかけての盆地に住みつこうとしたひとたちは、これらの峠を越え、これらの山々の尾根を歩いて、新らしい土地をさがし求めたのであろう。その原始の気持ちを味わってみたい。  近鉄で、大阪と名古屋の間をゆききする度、平地から急上昇したその山容が気になっていた。 『古事記』にも『日本書紀』にも、葛城の名がいっぱい出て来て、何人かの天皇は葛城山に近い丘に住みついている。大和朝廷をつくったひとたちがやってくる前から、葛城山麓を中心にして葛城王朝ともよばれる豪族が大きな勢力を持っていて、それを無視しては新らしい住人となれなかったのであろう。  あるいは、この方が、大和朝廷の始祖であったかもしれないという説のある仁徳天皇の皇后の|磐之媛《いわのひめ》は、葛城の|曾都毘古《そつひこ》の娘であった。嫉妬心のつよい方として知られ、自分の留守に天皇が異母妹の八田皇女を宮殿によんだのを怒って別居してしまった。天皇が吉備の黒媛を愛された時は、出身地の吉備に追い返している。それに対する天皇は、ひたすらに皇后にあやまり、許しを願うという低姿勢に徹している。皇后の背後にある葛城氏の勢力をおそれたのであろう。   君が|行日《ゆきけ》長くなりぬ山尋ね    迎へか往かむ待ちにか待たむ   かくばかり恋ひつつあらずは高山の    |磐根《いわね》し|枕《ま》きて死なましものを  磐之媛皇后の、天皇への深い愛情をあらわす歌が山をよみこんでいる。この山は、葛城あたりの山を胸に浮べての歌ではないだろうか。  雄略天皇は、勇猛豪気な人柄とされているけれど、葛城山に狩りにいって、猪を射たが、傷ついた猪に追われて|榛《はん》の木によじ登って逃げたり、葛城山にこもり住む|一言主《ひとことぬしの》大神に出あって、弓も太刀も家来たちの衣服も皆脱いで献上している。  先住者に対する表敬というところであろう。京の北山の京北町から|御所《ごせ》市まではたっぷり四時間かかって、この日、残念ながら、主峰の天神森の近くまでケーブルを利用した。  御所駅長が同行して、頂上の南西部にこちらよりは六十メートル高い金剛山の大きく迫るのを見ながら、眼の下の水越峠までの斜面が、五月はツツジの大群落でいろどられるのだと話してくれた。  一面の笹藪であったのだが、笹を刈ったらその根もとにびっしりとツツジが生えていたのだという。紫がかった赤のモチツツジではなくて、赤一いろのヤマツツジであるらしい。二上山にも三上山にも花の大きいモチツツジはいっぱいあった。全山のヤマツツジは、咲いたら花は小さいが群がって、これまた見事な眺めであろう。  頂上から北の平石峠まで、六キロの尾根道はブナやヤシャブシの大樹がまだ芽ぶかず、多分古代びともゆきかったであろう一メートル前後の小径の両側には、タチツボスミレやキジムシロが山路のおそい春を告げていた。ところどころに起伏があるけれど、ほとんどは平坦な道で、古代びとの道のつけ方の知恵がわかるようであった。  尾根道とは言っても、それより下の山腹をまくところが多いのは、風をよけての心づかいであろうか。  檜や樫や椎などの常緑樹もまじる山腹の樹間から、霞だつ盆地の中に、天香具山、|畝傍《うねび》山、耳成山と、大和三山が、島のように浮んでいるのが見える。遠く三輪山の端麗な常緑の姿もしずまりかえっていて、その奥は巻向山、初瀬である。盆地を越えて対しあうのは破裂、高取などの青垣の山々。その間にある芋峠は飛鳥から吉野に抜ける古代の道、あの女丈夫の持統天皇がしばしばこえられたところだ。  私は関東土着の民であるけれど、どの山の名も物語や史書や歌等によって親しく胸にきざみこまれていて、早く歩かなければ、日の暮れまでに二上山を登り降りして、今宵の宿の初瀬の長谷寺に辿りつけないと心は急ぎながら、まるでふるさとの山々を前にしたように、小休止をくりかえしては眺めいった。  修験道のはじまりは、大和朝廷によって追われた先住のひとびとが山にこもって神霊となったのだとは、どの本で得た知識であったろうか。葛城といえば修験者の先祖の一人として|役小角《えんのおづの》が思い出される。吉野の大峰山だけでなく、四国の石鎚山でも、東北の鳥海山でもその名を聞いたので、その行動範囲の広さにおどろくのだが、彼は葛城山麓に、葛城氏と並んで古くからの豪族であった鴨氏の子孫と言われている。  葛城の麓には宮司が栽培する日本サクラソウで名高い高鴨神社があって、『古事記』で鴨氏の祖先と書かれたアジスキタカヒコネノミコトを祭神としている。出雲族の王者、オオクニヌシノミコトの子である。  先住の民は出雲族であったのだろうか。平石峠にでる道にはカタクリがすでに実になり、ミヤマラッキョウが赤紫の花を咲かせていた。古代のひとたちは、狩りの帰りにはこれらの食用植物も摘んだのであろうと思った。

88 愛宕山  オタカラコウ(キク科)
 京都の下鴨に十年近く住んだ戦後の日々、毎日のように|葵《あおい》橋をわたりながら、比叡山の西に連なる北山が気になっていた。 『源氏物語』の若紫の章に、「わらわやみにわづらひ給ひて」とある光君が、まだ明けがたの暗い町を出て、何人かの供と急いだあたり、山城から丹波につづく山なみが、緑をふくんだ紫紺の濃淡に染められて美しい。  大文字と比叡山には下駄履きに着物で歩いて登ったが、北山を実際に歩いたのは、数年前にNHKの連続テレビ小説『花ぐるま』の舞台にえらんでからである。  事情あって母子の対面のできない祇園の芸妓の娘のかくれ住む里を、北山の|芹生《せりよう》とした。菅原道真の夫人や若君を、かつての家臣で、園部の代官武部源蔵が、妻と共に、わが子を犠牲にしてまもったという『|菅原伝授《すがわらでんじゆ》 |手習鑑《てならいかがみ》』の舞台に描かれた場所である。  一度目は洛北の市原から貴船川の流れをさかのぼり、謡曲『鉄輪』で、深夜の森に嫉妬に狂った女が、呪いの人形を樹肌に打ちつける舞台となった神社のかたわらをすぎて、芹生峠の頂きに着き、真下にひろがる杉林の道を辿って、岩走る清流のほとりに、数戸の家がある芹生に着いた。  貴船口で車と別れて歩いて二時間半。もう一つの道は、鞍馬川に沿って、源氏の君のたずねた聖僧のいる鞍馬寺の前を右に、両側が北山杉に被われた道を進んで峠下で車を捨てて左折。旧花背峠にむかってだらだら登りに登り、京見坂を下って芹生に。いずれも八百メートル前後の峠越えで、鞍馬からの方が距離も短く、四十分ほど早く着くことができる。自動車などのない昔は、馬をつかっても京の中心からは、四、五時間はかかったであろう。  かつては寺小屋をしても、子供が集まるほどたくさんの戸数のあった芹生も、洪水や火災で今は廃村に近くなり、小学校の分教場も閉ざされている。しかしその名の示すように、芹が生い、水底の石まで数えられるような清澄な流れがひらいたしずかな谷間で、水は北に灰屋川となって、|大堰《おおい》川に注ぐ。桂川の上流である。  貴船からの道は、京都御所用の建材を運ぶために早くから開けたが、もともと北山の谷々は、大昔、京都盆地が湖沼であった頃から、川筋をつたって入りこんで来た出雲族のひとたちが住みついたとされている。  芹生から西に医王沢に入って、狼峠から八一一メートルの石仏峠を越え、イモジ谷を井戸まで四時間近く歩いたことがある。  杉林ばかりの道なのだけれど、同じ北山の杉でも、空をつき刺す緑の|鑓《やり》のような鋭さを見せるのばかりではなくて、奥まったあたりには、下枝も奔放に伸び茂り、昼なお暗いような密林の姿のところもたくさんにあって、北山杉と言っても、俊敏な脚を持つ競走馬と、太く短く、力の強そうな脚の野生馬ほどのちがいがある。  都をのがれてかくれ住んだひとがえらぶにふさわしく、谷の道は、つねに流れのままにくねくねと曲りながらついていて、ところどころは木材を運ぶためにつくられた|木馬《きんま》道になっている。人間をわたすためではないから|桟《さん》の合間も荒く、ときに腐っていて、私の仲間の一人は、ふみ外して谷川に落っこちてしまった。  芹生は雪の日と四月と十月に訪れ、|千木《ちぎ》をわたして風格のある草葺屋根の家の里びとから、イノシシは言うに及ばず、クマも年に数頭はとれると聞いた。川沿いにはクロモジ、ウツギ、ヤシャブシ、ミズナラなどの落葉樹が密生していて紅葉が美しく、芹生から井戸までの四時間の山道は、一人のひとに出あうことがなくて、京の近くにこんな深山の眺めがあろうとは想像もつかなかった。  いつかの九月のおわりに、北桑田高校の先生方二人と京北町役場の末西信夫氏に案内されて、国道一六二号線から五時間ほど昔の愛宕道を歩いた。田尻の廃村を経て、馬谷、ウジウジ谷を抜け、サカサマ峠から愛宕に。愛宕山は、火伏の神として、古典にもしばしば登場する洛西の名山だが、丹波からのこの道は、今はほとんど登山者以外は辿るものもないらしい。  帰りの|月輪《つきのわ》寺から清滝に出たが、幾つかの遭難碑に出あうほど、枝みちが多く、沢沿いをゆくときは額と肩でかきわけるようなヤブコキ道であったが、クリンソウの花がらを見たり、オタカラコウとツリフネソウの大群落があって、京の奥に、こんなにも原始の自然が残っているかとうれしかった。赤いヘビや青黒いヘビが這いまわっていたのはありがたくなかったけれど。愛宕には、戦前に表からケーブルで上ったことがある。それがなくなって却って自然がもどったようだ。  四月のときは、井戸から灰屋川沿いに下って、|光巌《こうごん》院の陵のある常照皇寺に詣った。満開のシダレ桜がすばらしかった。  光巌院は、足利尊氏によって後醍醐天皇が隠岐に流されたあと、即位されたが、後醍醐天皇がもどられて廃帝となられた方である。歴史は「不遇のひと」と伝えているけれど、春はサクラやクリンソウ、夏から秋にかけて谷々を埋める黄金の炎のようなオタカラコウにつつまれて憂き世をはなれて暮された方が、ずっと仕合わせではなかったろうか。オタカラコウは、メタカラコウによく似ているけれど、その名の通り男性的でたくましい。

89 御池岳  ヤマエンゴサク(ケシ科)
 去年つづけて藤原岳、霊仙と、鈴鹿の山々を歩いてから、何か心ひかれて何べんでも来たくなった。  鈴鹿の山地には縄文時代の遺跡が多いそうだけれど、日本列島を東半分と西半分にわけ、東南に伊勢湾と西北に敦賀湾の深い窪みを持つこの日本の中枢部には、そもそもこの国土が海面に現出した時から、多くのひとびとがかくれ住んだのではないかと思う。吹きさらしの平野部よりは、敵からの防衛のきくところとして。  御在所岳は麓に湯の山温泉を持ったのが不幸で、ロープウェイで運ばれた頂上附近の、遊園地化には、胸も凍るまでの衝撃を受けたが、まだまだ鈴鹿には原始の姿がいっぱいあるのではないかしら。大杉谷と同じく、ヘビやヒルが多いというのも、こわいもの見たさの興味をそそられた。  近江と美濃の境にある|金糞《かなくそ》岳へいったあくる日、朝の四時にバスで坂本の宿を出て、コグルミ谷の入口で車を捨て、|御池《おいけ》岳に登った。去年、藤原岳の上から東北よりに、一面のササヤブがひろがり、あのヤブの中に天狗岩があり、更に御池岳へと、石灰岩台地特有のカルスト地帯がつづいていると聞き、時間があれば、このササヤブの中を|辿《たど》ってと思ったが、家庭の主婦の多い私たちの山仲間は、一つの山に、たっぷりとした時間がとれないのであった。御池も登って、この日のうちに豊橋の葦毛湿原を見、東京まで帰らなければならぬのである。  国道三〇六号線が走る谷の入口の標高は五二七メートル、あと七百メートル登ればよい。「心の山」とか、「江勢通相」とかいう文字を|彫《きざ》んだ石碑が立っている。三〇六号線は西に進んで鞍掛峠をトンネルで抜け、|大君《おじ》ヶ畑にむかう。伏木貞三氏の『近江の峠』によれば、平均一千メートルの高度を持つ鈴鹿山脈を、近江から伊勢へと抜けてゆく鞍掛峠越えは、鎌倉時代から近江商人にとって重要な道となっていた。伊勢にもこの峠を通ってゆき、参詣の帰りには、大君ヶ畑の延寿招福の多賀神社に詣ったという。大君ヶ畑は|木地師《きじし》のふるさとでもある。木地師もまた、峠を越えて製品を売りにいったのであろう。  伊勢と近江を結ぶこの峠をらくに越えることは、古代からのひとびとの願いであった。早くから車道の開発ものぞまれていたが、工事半ばで、山津波の膨大な土砂や岩石に埋めつくされたのだという。ま新らしい石碑には、完成のよろこびがこめられているようであった。  水は石灰岩地帯の特徴で伏流になり、谷の名はあっても流れのあとらしいものはなくて、大小の石灰岩が露出した急傾斜の道があるばかりである。フシグロセンノウがのびている。ギンバイソウが対生の矢羽根型の葉をひろげている。ミスミソウが白い花をつけている。藤原岳でおぼえたタキミチャルメルソウが花穂をあげている。ヒトリシズカが、ツルカノコソウが、ユリワサビが咲いている。花のおわったベニバナのエンレイソウ。ヤマブキソウがある。ヤマブキソウは四、五日前、奥多摩でいっぱい見て来たが、関西の山では、はじめてであった。  フタバサイシン、カニコウモリやヤブレガサがようやく葉をひらき、ミヤマカタバミの白い花が見える。ヤマネコノメもある。つぼみをつけたルイヨウボタンもヤマシャクヤクもある。ニリンソウは白々と群がって咲き、イチリンソウもまだ咲き残っている。キクザキイチリンソウやショウジョウバカマもまだ名残りの花を見せている。  藤原岳のようにフクジュソウやアワコバイモには一本もあえなかったが、新緑のブナやミズナラの樹林の中は明るく、花々にむかえられて、昨日の金糞岳での疲れが、登るほどに拭い去られてゆくようであった。八合目近く、ミヤマバイケイソウの大群落が、鮮やかな緑で両側の谷を埋め、あの白く小さくかたまって咲く花が満開になったら、どんな美しさであろうかと想像するさえ、胸が緑のさわやかな流れで満たされるようであった。  中腹から見えはじめて来たカタクリは上にゆくほど増えていき、しばしばかたわらに休んではその美しさに見とれた。この山のは殊に花が大きく、いろも濃いようであった。  御池岳は頂上に、ドリーネに水がたまった池が多く、龍神が住むとされ、雨乞いに登ったひとも多かったという。  ところどころに炭焼小屋のあとの石組みもある。決して人跡未踏というような深山ではない。最近まで炭が焼かれたのであろうか、サワグルミやブナは大樹もあるけれど、ヤマモミジもウリハダカエデもそれほど大木ではなくて、若い木々が多い。しかし花々のゆたかさが、この山の自然のゆたかさを物語っているようであった。真の谷とよばれる伏流のあとが横切っていて、庭園の石組みのような巨石の間を西に下ると、これもドリーネの小さな池があってオモダカの葉が浮いていた。頂上はこの谷を越えてから一時間半の往復である。  林の下草の中に、ヤマエンゴサクの薄紅の花が目立ちはじめた。一人の青年が一生懸命に写真をとっている。  いつか北海道の定山渓谷で、青紫の葉も花も大きいエゾエンゴサクをたくさん見たが、ここのは葉も花も楚々とした姿であった。

90 大台ヶ原山  イナモリソウ(アカネ科)
 |一《ひと》月を三十五日として雨が降る。日本で一春雨の多い山と聞けば、やはり、どんなに樹々が茂り、苔が美しいかと、久しく大台ヶ原にあこがれていた。  頂上までバスで登れるようになったと聞いてがっかりし、どうせゆくなら、女人禁制の|大峰《おおみね》山に男装してなどと無謀なことを思っているうちに、大台ヶ原にはまだまだ秘境がいっぱい残され、北に下る大杉谷がすばらしいということを、友人山下滋子さんの亡き夫君山下一夫さんの遺著『かんあおい』で知らされた。懸崖にはキイジョウロウホトトギスも咲いているという。いつか新居浜の神野一郎さんからウナズキボシをいただいたが、これも大杉谷にあるとされている。  伊勢の青山高原から赤目四十八滝へいっての旅の最後を、大杉谷下りと予定したのが一昨年の初夏であった。  雨は青山高原を一面の霧で被って、何の花も木も見えないままに過ぎた。赤目で晴れ上り、大台ヶ原の秀ヶ岳頂上で日本晴れとなって、気象測候所附近の真紅のツクシシャクナゲの美しさに眼をうばわれたが、私はいつもの山仲間たち三十名が、大杉谷への道へと下ってゆくのを見送った。数日来の風邪につかった抗生物質が利きすぎたらしく全身がだるくてならぬ。牛石ヶ原、正木ヶ原と一人歩いて、意外にトウヒの大樹、古樹が少いこと、花もトリカブトやバイケイソウが目につくばかり、公園のように整備された道も味気なく、いささか失望してバスで帰った。  二度目は去年の初夏、前年の旅をいったひとたちから、その滝のすばらしいこと、大杉谷を知っては赤目の滝など、ただいろあせるばかりと聞かされ、藤原岳の花を見る旅とかけて予定したが、やはり、前年の晴天は稀れな幸運で、今度ははじめから雨の中の行動となった。  秀ヶ岳周辺のシャクナゲも咲かず、四百メートル近く急勾配を下るシャクナゲ坂の道も、花はほんのわずかで、この花には、当り年と、そうでない年のあるのがわかった。  しかし、山頂附近の人工的な眺めとちがって、さすがに近畿の屋根とよばれる山である。準平原的な頂上の眺めは一変して、雨量の多さから浸蝕も激しく、壮年期の急峻な谷を生み出し、広葉樹、針葉樹が茂りあって、霧のために一そう深く|幽邃《ゆうすい》な様相をあらわしている。  時々の晴れ間の光に咲き残りのシロヤシオやムシカリの純白の花が美しい。また、天城で見たような明るいベージュの樹肌のヒメシャラの大樹もまじっていて、ここにもワビスケに似た形の白い花があった。  この日の泊りの桃ノ木小屋では、去年、厚くおいしいトンカツを出してくれたという。私たちはひたすらに女主人経営という桃ノ木小屋への期待に胸をはずませながら、コウヤマキ、コメツガ、ブナ、ミズナラ、ヒノキ、イチイ、ウリハダカエデ、ミネカエデ、コウチワカエデ、チドリノキ、サラサドウダン、コメツツジ、アケボノツツジ、ムラサキヤシオ、リョウブ、マンサクと、両側の木々をたしかめながら下っていった。  大台ヶ原は修験の道場として、千年の歴史を持つ大峰山とちがって、登山路のけわしさ、狼が棲むというおそろしさに、妖怪伝説も加わり、明治になって、ようやく入山するものが目立つようになったという。  松浦武四郎もその一人である。六十歳ではじめてこの山に入り、その死の七十一歳まで、くりかえし登って、北海道の山々にも似た原生林を持つ大台ヶ原に魅せられ、私財を投じて幾つかの山小屋までつくって、この山の持つ壮大な美しさを世間に紹介しようとしたのである。  武四郎につづいて、大台ヶ原の自然の中に人間の修行の場を求めたのが、現在、登山者も泊ることのできる大台教会として頂上に建設されているものの開祖、美濃のひと古川|嵩《たかし》である。その墓はバスの終点から西側の丘の上につくられ、大台ヶ原の苔やシダにびっしりと被われている。裏から入ってそのこんもりした小さな丘の美しさに腰かけて食事し、前に出て標柱を見てびっくりした。  シャクナゲ坂を下ってはじめて見参するのが、水量もゆたかな堂倉滝、つづいて|隠《かくれ》滝、光滝、七ツ釜滝と数十メートルから百メートルを越える落差で、高い急崖から白々と落ちてくる滝々の壮観に渓流ぞいの道の険しさを忘れ、吊橋のおそろしさも忘れ、かつての探険者たちがこの滝と出あい、これらの滝におどろいた姿を思った。  桃ノ木小屋は今年も厚くおいしいトンカツで大満足。ぬれた靴を、ヤッケを、早くかわかすようにと心こまかい接待がうれしい。  あくる日も雨であったが、それでものどはかわいて、滝のように流れおちる雨水を飲もうと急崖に身をよせれば、薄紅のイワチドリが咲いている。ぬれて重い足のかたわらには芳香を放つササユリがある。イワナンテン、コクサギ、ネコノチチ、イソノキ、ヒメカンアオイ、ヤマトグサ、サワギク、ヒメウズと、あまり、ふだんの山歩きでは見かけない花々にまじって、これも道ばたの崖の苔の上にピンクで五弁の小さな花が咲き、葉の若みどりが美しい。イナモリソウであった。奥多摩あたりの谷間で幾度か見たけれど、花の咲いているのを見たのははじめてである。やはり大杉谷を下ってよかった。ふだん見なかった花にたくさんあったとよろこんだが、宮川ダムまで辿りついて、何となく足許がかゆいので、しらべてびっくりした。真紅になったヒルが五匹もついていた。仲間たちもさわぎ出し、多いひとは十二匹もついていた。

91 大山  ダイセンクワガタ(ゴマノハグサ科)
 新婚旅行で、夫の郷里の長崎から、夫の両親の郷里の鳥取にいった時、車窓からいつ|大山《だいせん》が見えるかと山の方ばかりに気をとられていた。もともと新婚旅行には上高地あたりへいきたいと思っていたのに、夫は山は苦手だという。できれば夫に麓で待っていてもらい、一人で大山にと思ったが、それも駄目らしく、機嫌の悪くなった私は、新婚夫婦の誰もがお参りするという出雲大社は素通りしてしまった。大山に登れない位なら、他のどこへいってもつまらない、などと憎たらしいことを言って。その|伯耆《ほうき》大山の姿を、いつも遠く近くに見るようになったのは戦争中に、鳥取に疎開してからである。  鳥取城址、久松山の頂きから西に望む雪の大山の美しさ。倉吉市の打吹公園で近々と仰ぐ大山のすばらしさ。そして登ることができたのは、戦後三十年もたってからであった。  大山については、登山回数五百を越える鳥取の植物学者故生駒義博さんから、その植物の豊富なこと、特有種の多いことを、鳥取の先祖の墓参にゆく度にうかがっていた。山麓の大草原地帯から、落葉喬木の密林になり、潅木草本帯から、頂上の崩潰地の岩間の絶壁植物に至るまでの変化ある景観は植物地理学的に価値が高く、イチイ科に属するダイセンキャラボクを第一として、ダイセンヒョウタンボク、ダイセンカラマツなど、カムチャツカ・ベーリング系の北方要素を多くふくんで、北方のオオバヤナギなど、世界の最南限であるという。  大山は|蒜《ひる》山や三瓶山、また、津和野の青野山などと同じく、白山火山帯に属する古い火山で裾野がひろい。『出雲国風土記』の中には大山を杭にして、よりによった太い綱をかけ、松江附近の土地を引っぱって来たという伝説が書かれ、早くから大山が、出雲文化の中心にあったことを示している。縄文や弥生の遺跡もその裾野に多く発掘され、歴史時代に入ってからの古墳も多い。八世紀には金蓮上人が開山、慈覚大師が大山寺を創建し、元弘三年、隠岐から脱出した後醍醐天皇を船上山に迎えたとき、名和長年に協力して、大山寺の僧兵がその威力を発揮して天下にその名を轟かせた。かつては四十二の坊を持っていたが、明治の排仏毀釈で大山寺の外は、南光河原の附近にその跡をとどめるばかりである。  その秋のはじめ、米子に用があっての帰り、『大山の花』の著者伊田弘実さんや県信連のひとたちと一緒に蓮浄院のうしろから夏道を登っていった。しばらくは明るいブナの原生林がつづき、花はヒヨドリソウ、キセルアザミ位でさびしく、ヒメモチ、イヌツゲ、ヒメアオキ、ヒメユズリハなどの低木が、ブナ林の樹間を鮮やかな緑に染めていた。千三百メートルあたりからノリウツギ、ナナカマド、ミヤマホツツジ、ムシカリなどの潅木地帯になって花の盛りを思わせ、千五百メートル附近からレンゲツツジ、コメバツガザクラ、シラタマノキなどがあらわれたが、勿論花は終っている。登山道の左側には山くずれのあとを見せて急峻な崖がつづき、その斜面には濃緑のダイセンキャラボクが這松のように密生している。  数年前の夏、大山西麓の湿原、桝水原で、ノハナショウブやシモツケソウの美しい群落を見たが、登山道は砂礫地で秋のリンドウもキキョウも見当らず、やっぱり、山の花は八月中かなあ、などと思っていると、頂上近くなって、うすい空いろをしたダイセンクワガタの花が、夏の名残りに咲きさかっていた。ミヤマクワガタより背も高く花も大きくメシベやオシベが長い。  頂上附近の草地にはシオガマギクの赤い花も、キバナノアキギリやダイセンオトギリの黄の花も咲き、一七二九メートルの剣ヶ峰にむかう片足の靴の幅位に狭い尾根道の岩かげには、ダイセンコゴメグサの小さく白い花も見られて、大山の九月はまだ頂きだけに、夏が立ちさらないでいるのだとうれしかった。  剣ヶ峰の頂きに立って、両面を鋭く浸蝕された急崖に次ぐ急崖の山容を見ると、あと何年、現状が維持されるであろうかと思う。遠望する大山はどっしりと根を張って、いかにも大地に安定した姿だけれど、登ってくると、今にも崩壊寸前のもろさを露呈しているようである。白々とした岩肌のあやうさが目立ち、この花々の華麗さもいつまでのいのちかとあやぶまれた。

92 天狗高原  ユキモチソウ(サトイモ科)
 亡くなられた佐藤達夫さんは、人事院総裁などという、いかめしい肩書を持つ役人であったのに、青年の頃から、私も入っていた牧野植物同好会に加わり、高円寺のお庭を訪れると、エンレイソウ、アズマイチゲ、イチリンソウ、クマガイソウ、カタクリ、コバイモ、ネコノメソウ、ツリフネソウなどがじつによく咲いていて、うらやましかった。とりわけ、見とれるばかり素敵だと思ったのはユキモチソウである。ザゼンソウやミズバショウを同じ仲間に持つこのサトイモ科のテンナンショウ属は、私の大好きな花の一つで、葉の形、花の形が、まことに優雅であり、且つ妖気をはらんでいる。  ユキモチソウは、暗紫色の苞がすらりと空にむかって片手をささげたように立ち、白い肉穂がふっくらとゆたかな丸味を持っている。佐藤さんは繊細極まるその写生図に「貴婦人のドレスを思わせる」と書かれたが、しきりにその前でうらやましがる私に「四国の山中にあるそうですよ」とヒントをくれた。その夏、高知県の東津野という村をたずね、すぐにさがそうと思った。  東津野は高知県も北西の山間にあり、平家の落人伝説を秘め、その周辺に日本一と言われる赤松の自然林をめぐらした村である。  人口は少いが、藩政時代から良材の産地として知られた村は豊かで、土佐文化の発祥地として知られ、室町時代に将軍義満の信頼を受け、五山文学の中心となった天台の僧義堂や絶海はこの村の出身である。維新の前夜、天誅組の総裁として活躍した吉村寅太郎も、この東津野の庄屋の息子であった。  花の好きな私にとって、一番興味があったのは、この村に秋吉台、平尾台と並んで日本三大カルストの一つと言われる天狗高原があること。その標高は平均して千四百メートルを超え、他よりずっと高く距離も一番長い。カルストならば石灰岩地帯特有の植物もあろう。何よりも四国の山中ならばユキモチソウも——。  しかし残念にもその日は用をすませて、すぐに高知市にもどらなければならなかった。  一月たって、今度は高知市の文化振興室に用が出来、どうしても帰途は天狗高原にと訴えたところ、松木正一さんが自分の車で送って下さり、その夜、村営でなかなか快適な天狗荘に泊った。  すでにその宿が千四百メートル。前方に太平洋を、後方に石鎚山系を見わたす眺望が絶佳である。  あくる朝八時に出発して、十月も半ばなので、もう花はだめかもしれないと案じながら、ハシドイ、チドリノキ、トチノキ、ハクウンボク、イタヤカエデ、シロモジ、ニシキギ、ヤマヤナギ、タンナサワフタギなどの紅葉、黄葉の美しい稜線を歩く。三百六十度の眺めはいよいよ美しく、牧野博士が早くから植物調査に歩いて固有種を発見された鳥形山、黒滝山を脚下に、太平洋はその山なみの果てに金いろにかがやいていた。  石鎚山系もよく見えて、石墨・笠取・堂ヶ森などの千五、六百メートルの峰々が雄大な線を連ねている。この稜線の風景展望の素晴しさから、スカイラインなどをと考える向きもあるらしいが、歩いてこそ思う存分にたのしめるのである。ゆめゆめ、まさに天然の仙境とも秘境ともよべるようなこの尾根道を、排気ガスで汚してもらいたくない。  道はなだらかで一つも苦しくない。そして花のゆたかさ。やっぱり四国はあたたかい。リンドウは今をさかりに、ヤマトリカブト、シオガマギク、コゴメグサ、テンニンソウ、ミヤマホタルブクロ、ハガクレツリフネソウ、アキノキリンソウなどが、ミヤマザサの密集するやぶかげに、またススキの間に残りの花を咲かせていた。  尾根を東に、二時間ばかりして黒滝山に入り、シナノキ、イヌシデ、ダケカンバ、ヒメシャラ、ヒメウチワカエデ、アセビなどの明るい原生林の中をゆくと、まことに珍らしい地形にであった。大引割とよばれ、幅十メートル、深さ三十メートルのチャートの層が百メートルにわたって引き割かれている。その中には草も見えず、暗黒の底に吸いこまれるように不気味であった。附近に小引割もあるとか。  そしてユキモチソウは遂に発見できずに案内の宮崎守さんの矢筈百草園で一本いただくことになったが、やっぱり私を待っていてくれた。車で高知にむかう山間の崖のほとりですでに赤くなった実をたくさんつけて。

93 東赤石山  コイチヨウラン(ラン科)
 石鎚山に二度も一緒に登って下さった神野一郎さんが、今度は東赤石に登るようにすすめて下さった。  主峰は標高一七〇七メートル。三波川系結晶片岩層の中に貫入したカンラン岩が非常に硬いため、浸蝕されずに嶺として残ったのだという。植物が豊富である。稜線に岩場が多く、風化したカンラン岩が褐色になっているので、赤石の名がついたとも言われた。  その夏、丸亀に用が出来たので、神野さんに連絡。その前夜は新居浜に泊ることにしたが、東京を出るときからクシャミ、悪寒で風邪とわかった。私は日頃、クシャミ位の風邪は山に登った方がなおると信じており、幾度もその体験がある。それに神野さんのような植物の大家につれていっていただく機会というのは、そうザラには得られない。と言って薬を飲めば熱は下るが、体力も低下する。  すべては神さま任せと、薬は飲まずに朝七時、いつもの山仲間と新居浜を出発した。  宿から約三十キロを走って河又関沿いの道から直角に山に入って急斜面の檜林の下で車と別れる。もう九十回も登っておられるという神野さんは、林間の下草にミヤコカンアオイ、キッコウハグマ、シソバタツナミソウ、クサアジサイ、コガクウツギ、ヤブニッケイ、リョウメンシダ、ベニシダ、エビラシダ、サワアジサイ、チャルメルソウ、ツルアリドオシ、シュロソウなどを見つけて一々感嘆している私たちに、もっとおたのしみは先と言ったような、ゆったりした表情で上へ上へと案内される。  直登がおわると、|黒檜《くろべ》と五葉松の密林になって、道もだらだら登りとなり、両側には|苔生《こけむ》した岩石がつづいて、まるで、京都あたりのお寺の庭を歩いているような気分になった。松はどれも古木で枝振りがよく、この松の眺めだけでも来てよかったと思い、登りつづけてゆくと、大きな角閃岩の露出している平坦部に出た。岩と岩の割れ目から夏知らずの冷風が吹き上り、氷のように冷たい水がたたえられている。岩の表面には雲形に白く地衣類が密生していて、東赤石特有の眺めであるとか。赤石山系は、西南日本を二分している中央構造線と名づけられる三波川結晶片岩の断層運動によってつくり出されたものだそうで、瀬戸内海に面する平野部から屹立し、ゆるやかな道と直登の急坂を重ねるという地形もその成因からくる特徴らしい。  平坦部の一つに山の神をまつる小さな祠があった。そのあたりは針葉樹が伐採されて、アケボノツツジ、ミツバツツジ、ダイセンミツバツツジなどがいっぱいあった。シャクナゲもリョウブも多いが、花は皆終っている。  道はふたたび五葉松の密林になり、日射しのとぼしい林間の苔にまじってコイチヨウランの花が見られるようになった。高さわずかに五、六センチ。小さな|鞘形《さやがた》の葉が一つ根もとについている。うすい黄褐色の花も小さい。一月ほど前、大杉谷の崖の上でやはり小さい小さいホテイランのピンクの花を見つけたことを思い出した。栽培種の洋蘭の豪華な花たちにくらべて、これらの深山のランたちの何といういじらしさであろう。それでいて花弁に唇弁に備わる品位は華麗な洋蘭たちにまさるともおとらない。  同じ夏、九州八代の竜王山に登ってエビネをさがしたが、エビネは一本も見つからず、タブとマテガシの林の中でコクランの花を見つけた。コイチヨウランより更に小さくてしかもきちんとランの花になっていた。  林間の苔の間にはゴゼンタチバナ、バイカオウレンも咲き、低く小さいベニバナのシモツケも咲いている。シコクシモツケソウらしい。  午近く東赤石と西赤石の鞍部に出た。一望の眺めがひろがって西に石鎚山、南に吉野川の谷をへだてて横倉山につづく山なみ。東赤石山頂は一面の五葉松の深緑に盛り上り、北をかえりみれば瀬戸内海がうす青く光っている。  そして足許から南にむかう蛇紋岩やカンラン岩の急斜面の草地には、濃い紫のイワギボウシ。濃い|紅 《くれない》のタカネバラ、薄い紫のオトメシャジン。ミヤマリンドウ、タカネマツムシソウが、点々と咲き、キバナノコマノツメ、タカネオトギリ、ミヤマアキノキリンソウの黄やウメバチソウに似てヒゲのあるシラヒゲソウ、ウバタケニンジン、コウスユキソウなどの白い花もいろどりをそえている。  神野さんは、石鎚山よりも東赤石の方が植物の宝庫だと言われたが、呼吸の苦しさに這うようにして登って来た甲斐があったと思った。  東赤石の南には、かつて一万人の人口をかかえた別子銅山のあとがある。荒廃した地表に植物がもどって、四国には珍らしい北方系のツガザクラが見られるという。次回を期してその夜、高松で測ったら熱は八度七分になっていた。  ふだんあまり熱など出すことがない私は、七度もあれば頭痛がし、七度五分もあれば痛い痛いとわめき、八度もあればもう枕から頭が上らない。八度七分もあれば、氷のうをつけてうんうんうなって寝ているのに、とにかく下りでは大分スピードをかせいで予定の時間に下りられたのである。東赤石山に登って風邪は本格的になったらしいが、苦痛の感覚がなかったのはやっぱり山のおかげと思った。

94 横倉山  オオバノトンボソウ(ラン科)
 ずっと前、はじめて高知市から西に二十七キロ、佐川を訪れたとき、この町の酒造家の跡取りの牧野富太郎さんが、酒造りは番頭に任せ、|横倉《よこぐら》山に入っては植物採集に熱中したという話を聞いた。  数年前、石鎚山から剣山にと、仁淀川の流れに沿って佐川から高知に出る途中、越知町の近くで、横倉山を遠望した。標高は七四四メートルにすぎないが、山容は雄大で頂上には幾つもの起伏があり、ただものでない風情がある。横倉山には安徳天皇の御陵参考地があるという。  壇ノ浦で、二位尼に抱かれて沈んだのは身代りであり、安徳天皇は、平知盛に助けられ、屋島から祖谷に、更に吉野川をさかのぼって別府山に至り、越知などに身をひそめて、最後は横倉山中に入って二十三歳でなくなられたという。その日、私と一緒に山へ登って下さったのは、佐川町のプロテスタントの山田牧師であった。前夜、山麓の越知町で一泊して、午前八時に出発したが、どしゃぶりの雨である。どうしますかと聞かれて、何が何でも登りますと答えた。  日本で一番古い化石を含むシルル系の古生層に花崗岩や輝緑岩、蛇紋岩などが貫入して、複雑な地質構造を持つ横倉山は、東赤石と同じように植物が豊富で、昭和三十五年、高知県教育委員会発行の『横倉山』には、大倉幸也氏によって、七二七種の植物の名があげられている。  牧野富太郎氏命名のヨコグラノキ、ヨコグラブドウ、ヨコグラツクバネ、ヨコグラタチムカデなどもあり、私にとってあこがれの、トサジョウロウホトトギス、サルメンエビネ、ナツエビネなどもあるはずであった。  山の北斜面を切り拓いた林道を展望台まで車で送られて来たが、一面の霧で何も見えず、ここで車とわかれて横倉宮への道を辿る。大きな葉っぱのテンナンショウがある。ユキモチソウかと胸をとどろかしたけれど、残念にもアオノテンナンショウであった。この山にはハンゲショウもあるはずと、杉の林の中をのぞくけれど、あまり変ったものが目につかない。  やがて五百段もあるという参道の下に来て、その石の大きさにおどろいた。ずい分方々の寺や神社の石段を登ったけれど、こんな大きな自然石を並べたのを見たことがない。まさに累々たる姿で、その果てはモミやツガやスギ、アカマツなどのうっそうとした針葉樹林の中にかくれて見えず、急峻な斜面を一直線に、岩石の滝がなだれ落ちているように見える。雨に洗われて石灰岩はうすいピンクに、蛇紋岩は濃緑に光っていて、山の植物をさがすよりは石の美しさに見とれ、石灰岩の中にサンゴやウミユリの化石がないかと眼をこらしながら登っていったが、これだけ大きい石を動かして並べるという熱意はなみなみならぬものと思われ、やはり、横倉宮に|祀《まつ》られる安徳天皇の不幸の霊をなぐさめようとする旧臣たちのまごころが、石の一つ一つにこめられているような気がした。  石段の途中に、堂々たる大樹の二本が、根を一つにした|女夫杉《めおとすぎ》があり、尽きたところに杉原神社がある。このあたり杉の大樹が多く、小さな流れがあって、いかにもかくれすむのにふさわしい場所である。行在所のあとというのも左手の藪の中にあり、大きなタイミンガサやテバコモミジガサ、トチバニンジン、ナルコユリ、ホウチャクソウなどが目につく。ツルカノコソウやチャルメルソウ、ジンジソウもあって、食糧にもなるはずである。  横倉宮は大きな石灰岩の頂きにあり、春日造りの壮麗なもので、天皇崩御の正治二年(一二〇〇年)に創建されたとある。この神宮はもと御嶽神社とよばれ、平知盛が天皇崩御ののちも守護し、貞応三年(一二二四年)知盛が七十一歳で死んだ後は、今日まで子孫が祭祀をつとめているという。  もともと越知は平安時代の初期から町として栄え、横倉山も修験の道場であった。横倉宮のうしろには石灰岩の二十メートルに及ぶ大きな露頭があり、その下の洞穴からは平安時代からの古銭や|土師《はじ》|器《き》がたくさん出土したという。横倉宮の宝物となっている多くの古銭や経筒と共に、この山の歴史を物語るものであろう。  帰路は石段から左手に、屏風岩、カブト嶽などの岩場を経て道を急ぐ。南面の斜面は針葉樹林だが、こちらは濶葉樹林。ジョウロウホトトギスもエビネも一本として見つからなかったが、林道からそれて、旧道を下りながら、たくさんのオオバノトンボソウを見た。雑草のように多いのが珍らしかった。だが、ざんざん降りの雨の中を走り下りて、どれがヨコグラノキかわからなかった。

95 石鎚山  キレンゲショウマ(ユキノシタ科)
 いつかの冬、尾道から|今治《いまばり》へ船でわたっていったとき、南に当って、鋭い山容の連なりのことごとくが雪に被われているのを見た。  四国の山にも雪がある。当然のことなのに、もう三月も間近い頃であったので、春は南からなどと何となく考えていた甘さを頭から、がんとやられたような気がした。  石鎚山。その名のきびしさも好ましい。冬は全山霧氷に被われて、陽光きららかな日は、この世ならぬ美しさだと、松山の知人に聞かされたけれど、せめて晩春の山に、どんな花々が咲いているのだろうか。お隣りの剣山はどうか。その二つの山を目標にして五月の末の一日、東京から松山に集まったのは、いつもの花好きの山仲間、女ばかりの同勢三十名。愛媛大学教授であった植物学者の山本四郎、新居浜の神野一郎の両氏が案内して下さった。  その日スカイラインは落石事故で不通とのことである。明日も期待できないという。雨もよいの空の下を、先ず宿舎近くのパノラマ台まで散歩した。お二人の先生がたは、一木一草の名をことごとく御存じで、ヒカゲツツジ、アケボノツツジ、ダイセンツツジなどの花を見た。  あくる日はとうとう降り出した雨の中を、面河渓谷の上熊淵から左折して、急傾斜の石段を登る。面河の渓谷はスカイライン工事に荒廃したと聞かされて来たけれど、渓川の水量もゆたかに、川原には何十畳敷とも言いたいような巨岩がるいるいとして横たわり、第一級の渓谷美であった。  間もなく樅や栂などの針葉樹林帯に入り、その幹まわりの太いのにおどろく。石鎚山に天狗が出るなどという伝説も、こんな神秘的な眺めが生んだのだろうと思ったりする。  雨は小止みになったが、霧が濃くて、視界百メートルほど。案外に緩い勾配だが、急傾斜の山腹につけられた細い道は荒れていて、上からは雨水が滝のように降りそそぎ、下は浮石が多く、足許をたしかめるのがやっとである。しかしツマトリソウ、シコクスミレ、ミヤマハコベ、タニギキョウと、かわいい白い花が咲き競い、ミズタビラコの水いろ、コケイランの薄紫いろの花になぐさめられ、いまにもなだれ落ちそうな沢の斜面を被うヤマシャクヤクの白い花の大群落におどろき、ヤブウツギ、マルバウツギ、ヒメウツギ、ガクウツギ、ウラジロウツギ、コガクウツギとウツギのいろいろに打ち興じ、愛媛大学の山小屋もすぎて、イシヅチザクラの自生最南限地まで辿りついた。通称チシマザクラのよし。ザラ峠を下りて、五色ヶ原の登り口で見たのと似ている。花期も終ろうとして雨にぬれた風情が美しかった。  同じ年の夏、鹿児島の韓国岳に登った帰りにもう一度登った。  前回はその日のうちに高知までという時間に限られて、あきらめた頂上にゆけるとたのしみに眠れば、夜半からの雨に風まで加わって、台風の前線通過とのことである。石鎚山の雨は有名で、霧の発生日は年間三百日余とか、それでも二度も雨にであうとは口惜しかった。海の上に仰ぎ見た石鎚の頂きからはるかに海を眺めたかったのに。  何かとかつぎたいひとはやっぱり女人禁制の山だからとか、日頃の心がけが悪いからとあきらめるのであろうが、残念にもそんな心情はさらさら持ち合せないので、やっぱり雨にぬれ、風にたたかれてゆくより外はないと覚悟し、午前七時半風と雨の中を出発。案内は愛媛新聞の高市氏と田中氏、植物学者の山本四郎氏と山草研究家の神野一郎氏。西も東もわからず五里霧中でとにかく歩く。  稜線に出ると強風が一度に押しよせて、大波にもまれているようによろよろするけれど、山腹をまいて風のかげに入ると、別世界のように静かな山になって、ミソガワソウ、シロバナナンゴククガイソウ、サケバヒヨドリ、ハガクレツリフネソウと、はじめての花々との対面ができた。雨の切れ間に谷々も見渡され、シコクシラベ、シラベの南限ですと山本氏に指さされてその立派さに感嘆。神野氏は望遠鏡で、それらの幹の一つにフガクスズムシソウを見つけられ、私は、北向きの斜面にキレンゲショウマの群落を見てよろこぶ。レンゲショウマとは葉も花も形がちがって、背も高く華麗である。これも石灰岩を好み、かつて日本が大陸とつづいていた頃の名残りであるとか。  巨岩重畳の頂きには十時四十分着。遂に眺望は皆無。しかし前回と同じく、この四国第一の深山を歩いていたのは、私たちの一行だけで、何ともぜいたくな山旅の気分であった。

96 丸笹山  ワチガイソウ(ナデシコ科)
 山仲間での山旅の石鎚山のあくる日は、桂浜から高知市の牧野植物園にいった。  牧野富太郎さんは、酒造業の家の跡とりの地位を捨てて、日本じゅうの花を見てまわっての生涯を了えたのである。生活は苦しかったかもしれないが、若き日の大志を貫いたことは、やっぱり人生最大の仕合わせだったにちがいない。  佐川近くで横倉山の麓を通ったが、この石灰岩の塊のような山こそ、植物の豊富さで、牧野少年の植物への眼を開けさせたのである。  少年は植物に夢中になり、家業の酒造は捨てたのであった。  南国の太陽の光をいっぱいにあびた植物園には、満開のハナショウブが咲き乱れ、アフリカハマユウが白い炎のような花々をつけ、石垣には薄い赤紫のイワギリソウ、池にはヒシが咲いていた。ノジギクもシモツケソウもいっぱいあって、人工的な花を植えこんだ、並みの植物園でないことがうれしかった。  四国の山地をまっ二つに分ける吉野川に沿って走るバスの中から、|大歩危小歩危《おおぼけこぼけ》の難所をのぞき、穴吹から入って細い道のかたわらに「土釜」の奇勝を見る。古い滝壺のあとである。念力岩をも通すというけれど、くりかえされる水の力で、固い岩にも穴があくのだ。  午後三時に国民宿舎の剣山荘に着く。玄関の前に白い花のキンロバイに似た花が植えこまれ、ギンロバイという、石灰岩地特有の花で、大台ヶ原などにも見られるとのことであった。日没までの三時間をつかって、剣山にむかいあう丸笹山に登る。案内は鴨池の幼稚園の筒井磯枝園長一家と植物学者の阿部近一氏。  昨日にくらべて雲一つない快晴で、宿舎の横にダケカンバやブナの新緑も美しい山腹の盛り上っているのが一七一一メートルの丸笹山である。小屋のある地点が一四〇〇メートル。  夫婦池と名づけられている小さな沼のほとりをまいて森林地帯に入る。濶葉樹林なので明るく、昨日、石鎚山に降った雨は、こちらにも降ったらしくて、山肌がじっとりと濡れ、道には小さな流れができていて、ミズタビラコ、ヒメエンゴサクのかわいい紫の花がいっぱいある。  石鎚の面河で散りかけだったダイセンツツジがここではまださかんに薄紅の花をつけている。白いヤマシャクヤクも道ばたに群れをなし、ミツバツチグリの黄いろい花、イワセントウソウの白くかたまった花など、山の春は華麗な色彩に溢れかえっていた。  じつは今度の四国の山旅で是非見たいと思ったのはサルメンエビネである。図鑑でしか見たことがなく、その花の緑と朱のいろが何とも美しくて、林間の地面から、じかに咲き出ている姿にあこがれた。  石鎚や剣山にゆけばあるらしいと聞いたが、植物の先生方はみんな首をかしげる。かつてはあったが、もう今はほとんど自然の山野に見ることはむずかしいらしかった。ひとびとの庭に移し植えられたのであろう。  しかし丸笹山ではこれもはじめてのかわいいランにであった。ブナ帯を過ぎて、ウラジロモミの林の中に入ったとき、薄紫の小さなランの花が点々と咲いていて、阿部近一氏がフタバランと教えて下さった。  小さな花では道ばたのミヤマハコベにまじってワチガイソウの白く可憐な花も目につく。関東ではあまりお目にかかったことがなかった。ワダソウに似てそれよりも華奢である。  丸笹山のてっぺんは一面のミヤコザサに被われ、剣山につづくジローギュー(次郎笈)のなだらかな稜線が、夕暮れ近い陽に紫紺に浮び上っていた。

97 剣山  クリンユキフデ(ユリ科)
 東京で考えていた剣山は、その名の険しさを山容であらわして峨々たる岩山であった。しかし丸笹山で仰ぎ見れば、じつにゆるやかな弧線を描く温容|球《たま》の如しと言いたい姿をしていて、しかも千六百メートルまでのリフトが通っているという。  私は足弱の仲間とリフトの御厄介になる。眼の下にダケカンバ、ブナなどの落葉樹の森林からツガ、ヒメコマツ、ウラジロモミなどの針葉樹林帯になり、ナナカマドの白い花も見える森がつづき、四国の山というよりは、北海道の山中をゆくような気分になる。  リフトの終点からは右の山道に入り、緩やかな勾配の斜面に丸笹山と同じような小さな花々がぎっしりと咲いていて、イワボタン、ハナネコノメ、ツルネコノメ、ボタンネコノメ、ヤマネコノメと、ネコノメソウ属が賑やかに揃って出迎えてくれた。この楕円形の緑の葉のてっぺんに葉と同色の、薄いろに咲く地味な花をだれがネコノメソウと名づけたのであろう。  猫の好きな私は、この花の名を覚えた時から、どんなに緑一色の草むらの中からでも、ネコノメソウ属の花を見つけることができる。生涯に一つは、新発見のスミエネコノメソウが見つかりますようにと祈ったりもする。頂上に近く、シコクシラベの樹林帯に入って、タデの花に似て白々と小さく、フタバアオイに似てもっと細い、形のよい葉が、薄紅の茎に品よくついている草を見た。  私がネコノメソウにばかり気をとられていたから見つかったので、独自に生えていたら見過ごしてしまうような目立たない花である。しかし見れば見るほど、花と茎と葉が整っていて、安定感のある花である。クリンユキフデという。その名の心にくいばかりの美しさに感じ入った。  花は小さく目立たないものほど、そのはかなさをいとおしむように、美しい名がつけられているのではないのだろうか。ワチガイソウに似て、もっと小さく地味なオオヤマフスマの別名は、ヒメタガソデソウという。町中の道ばたや荒地に咲いて、だれにも見返られないような、キク科の帰化植物が、ヒメムカシヨモギと名づけられたりするのだ。  花の名はたしかにその姿によせるひとの心をあらわしているのではないだろうか。同じように荒地を埋めるばかりでなく、人に花粉症などを起させる花をブタクサと呼んでいる。この花はアメリカでもブタクサと呼ばれるそうだ。  剣山の頂きは、野球かサッカーでも出来そうに広々としたミヤコザサの原であった。  西方に大きく落ちこんだ祖谷川の上流の谷は、平家の子孫平国盛が、安徳天皇を奉じて逃れ住んだ場所と伝えられ、阿佐家を名乗る後裔が今も赤旗と系図をまもっているという。  笹原の一部に珪岩から成る大きな岩塊があり、宝蔵岩と名づけられて、安徳天皇が剣をかくされたなどという伝説がある。平家物語では、皇位のしるしの剣は、祖母君の二位尼が腰にたばさんで入水し、義経がいくらさがさせても、鏡と|璽玉《じぎよく》は見つかったけれど、剣だけは手に入れられなかったとある。あるいはその事実から、剣はこの山の頂きにという話になったのかもしれないが、リフトで容易に登れることと言い、伝説の内容と言い、頂きの地形とも合せて、剣山は意外に人くさい山であった。それでも東側の山腹をまいて、リフトをつかわずに宿舎まで歩いて下りると、針葉樹林の中に露出した石灰岩を利用して、狭い岩頭を回ったり、鎖に頼って急崖をよじったりの行場があり、観光客のかげもなくて、ウグイスの声がしきりであった。  イタヤカエデやコハウチワカエデやコミネカエデもあって芽ぶきの緑が美しく、下草にはスズタケが密生している。モミジガサに似て、華奢で小振りのテバコモミジガサも小さく薄紫の花をつけ、薄紅いろのカノコソウも花をひらきはじめていた。この花はいつか福岡の若杉山で見つけ、ザルツブルグに近い森の中やウィーンの高山植物園で見た。  剣山にくる前に恐れていたのは大蛇にあうことであったが、祖谷の伝説や民話には大蛇にであった話が多く、阿部近一氏の『剣山』という本の「動物」の章に「マムシの外、俗にウワバミと称せられるヤマカガシの老成したものが、行場附近の石灰岩地帯に稀に見受けられる」と書かれている。そのあたりは特産のケンザンシダが多いのだが、「いまもその大蛇は出ますか」とうかがうと、阿部氏はにっこりとうなずかれた。

98 韓国岳  マイヅルソウ(ユリ科)
 私は火山が好きだ。眺めても登ってもよい。  その頂きから煙が立ち、その頂きから火を噴きあげ、その頂きや山腹になお、かつての火を噴いていた頃のあとを残し、あるいは地表のすべてが草地に被われていても、いつその内部から燃えさかる炎を噴き上げるかわからないという不気味さをひそめている。  そんな山頂を身近に仰ぎ、そんな山の頂きを目ざして歩いているとき、大地は生きているのだなあと思い、自分の全身にふつふつとそのいのちに似たものが、たぎりたってくるのを感じる。  しかし、できれば、登るならその山の八合目位までは、びっしりと木々や草が生えていてほしい。  それが無理ならせめて六、七合目位までと思い、その山裾に、ようやくイワブクロの花がまばらに生い出ていて、あとは全山火山礫で被われているような十勝岳などはあまりありがたくなかった。  あるいは、山肌に草も木も生えていないものほど噴火活動が新らしく、また激しいのがおそろしく、おのずから敬遠する気持ちが働いているのかもしれない。生きている大地は、いつ爆発して焼けただれた熔岩を噴き上げるかわからない。  火山を好むと言っても、死とすれすれの危険をたのしもうなどという|不逞《ふてい》さは毛頭持たぬつもりである。そんな実力も皆無である。   わたつみの沖に火もゆる火の国に    われあり誰そや思はれびとは  子供の頃、柳原白蓮とよばれた公卿華族の出の美しいひとが、九州の炭坑経営者と結婚し、十年たって、年下の雑誌『解放』編集者と恋愛して家を出たという新聞記事が世間を賑わしていた。白蓮がつくったというこの歌は、まだ、恋愛などに関心を持たぬ少女の胸にも、九州は火の国。海に|不知火《しらぬい》が燃える。山も赤い炎をあげて燃えているというあこがれをかきたてた。  火はいのちの象徴であり、くりかえされる火山の爆発は、大地が亡びない|証《あか》しである。  はじめての飛行機で鹿児島にいったとき、空から町の後方にそびえたつ霧島火山群の偉容を見下して息をのんだ。秀麗な高千穂と、それにつづく中岳や|新燃《しんもえ》岳や|韓国《からくに》岳などの頂きに、明らかに火口のあとと知られる大きな窪みがある。火口のあとが沼となって光る水面もあり、そのことごとくが火を噴きあげていた日の、原始のすさまじい光景がそぞろにしのばれるようであった。  韓国岳に登ったのは夏の早暁である。鹿児島文化センターの鞍掛氏、永谷嬢の案内であった。鹿児島市内を出はずれて、えびのへと向う途中で、両側の林の中にエビネはないかと目をこらしたが一本も見えなかった。  韓国岳は霧島火山群の主峰として一番高く、千七百メートルあるけれど、標高千二百メートルのえびの高原からは、二時間ばかりの登りで、日の出と共に、頂きの火口壁の突端に立つことができた。私たちより早く登っている青年や娘さんたちもいて、私がいい年をしていると見て、上からさかんに声援してくれた。  すぐ眼の前の高千穂の山肌を朱に染め、朝焼けの雲間からさし出た太陽に、旧噴火口の東面の草地が一斉に緑のいろも冴えてかがやき、西側はまだ、|茄子紺《なすこん》いろの闇に沈んでいて、その明暗の対照が美しい。  どんな草が生えているのであろう。直径は一キロもあろうか。深さは三百メートル近くもえぐられていて、下りてゆけるような道はどこにもない。吹き上げる風は冷たく、鶯の声がしきりであった。  西の方を望めば、美女お浪が身投げして、大蛇になってかくれ住んでいるという伝説の|大浪池《おおなみいけ》が、青々としずまりかえっている。これも明らかに噴火口のあとで、周辺は成層型火山の稜線でかこまれている。  火口のあとらしい大きな窪地は、目に入るだけでも十近く点々と存在し、霧島火山群は、それらをふくむ二十あまりの火山を包含しているという。  これらの火山たちは、日本の国の創成期の頃も、まださかんに火を噴きあげていたのだろうか。  霧島火山群の東麓にあたって、|西都原《さいとばる》の大古墳群がある。それらをつくった民の子孫が今日伝説の高天原を、霧島火山群のあたりにおいているのは、はるかな昔、朝夕にすべての火口から立ちのぼる煙を眺めながら、|稚《おさな》く新らしい国家の誕生を夢とし、自分たちを、そのえらばれた地位に引きあげようとしたのであろうか。地質学的にはもちろん人類の住みつく以前の噴火かもしれないが。  韓国岳の山腹は茂りあうクロヅルで被われ、中腹以上の道のはたにマイヅルソウがいっぱいある。北海道や東北の山々で見かけるのにくらべると、葉は五分の一ほどの小ささで、背丈は三センチほど。それなりに小さい実をつけているのだが、新らしい地質で栄養にとぼしいのか、寒地を好む植物でこの暖国に馴染まないのか、一緒に生えているノギランもまた、五分の一程の小型であった。『植物手帳』の長谷川真魚さんがたよりを下さって、鹿児島の植物研究家、伊藤氏が、明治二十七年に牧野富太郎氏に「韓国岳山嶺はマイヅルソウをもつて被はれたり」と書いて知らせたこと。屋久島まで南下する北国の植物だが、九州では、阿蘇、九重、|大崩《おおくえ》山位だけなのに、霧島山には到るところに生えていると「宮崎の植物」に書かれていることを教えて下さった。その大きさはどうだったのであろう。

99 久住山  ツクシフウロ(フウロソウ科)
 久住か九重か、その漢字のあて方で昔から争いが絶えなかったという。  久住という文字を支持するのは、平安初期の伝教大師が創建したとつたえられている久住山猪鹿狼寺。久住とは、法華経の中の久住の言葉から来ているという。  九重という名を大事にするのは、九重山法華院、共に修験道場として、多くの信徒を得ていたという。  昭和三十八年一月の元旦に、久住の北千里浜というところで、七名の遭難死者が出たという新聞記事を見た。  九州の最高峰とは聞いていたけれど、地図で見ると、山腹には、かなりの|聚落《しゆうらく》がある。里が近いのに、七人も死ぬというのは、どんな状況であったのだろうか。キリシマツツジで、全山が紅に染まる頃は観光客で賑わうと言われているけれど、そんなにこわい山なのか。  数年前の秋に、小倉のカトリック教会に用があり、終ってから、パリ外国宣教会のガイアール神父、ベルトラン神父に案内してもらうことになった。  東京から電話して、どんな靴をはいていったらよいかと聞いた。私の頭の中の久住は観光地であり、踵の低い普通の靴でもゆけそうな気がした。ガイアール神父は、浅い靴ではなく、深い靴がよいと言い、私は長靴でいった。  九州の山はこれがはじめてで、道の様子が全然わからない。  山靴姿の神父たちは、わたくしの長靴におどろいたようであった。久住は、雨が降っても、長靴などいらない山であるという。  長者原からしばらく背の低い潅木地帯を過ぎ、硫黄製錬所のあたりにさしかかってわかった。久住は、徳川時代にしばしば噴火し、一九四六年(昭和二十一年)にも火山活動を示した活火山なのであった。ただ、加賀白山や伯耆大山や三瓶山、青野山などと同じ白山(大山)火山帯に属していて、すぐ隣りに連なる阿蘇山を中心にした霧島山や桜島などをふくむ阿蘇火山帯よりも、老い衰えたものが多いだけである。溶岩円頂丘型の特徴を示すように、三俣山、硫黄山、|星生《ほつしよう》山などの、いかにもむっくりと大地の底から盛り上ったように見える峰々を見仰ぐ道は、砂礫や岩礫の|堆積《たいせき》から成っていて、底のゴムのうすい長靴では歩きにくいことおびただしい。  草紅葉とも言いたいように、岩礫地の間が、カヤやスゲなどの、|禾本《かほん》科植物の朱赤にいろどられているのを見ながら、ひた登りにゆくと、北千里浜と名づけられた盆地状の地形を横切ることになった。かつての火口のあとであろうか。水が常時たまれば、火口原湖ともなり得るところなのであろう。  浜とよばれるように、一面の砂地の南側に、爆裂火口のあととも思われる、|峨々《がが》たる岩壁が連なっている。西は星生山の山腹にさえぎられたこの地帯こそ、霧にかこまれたら、方角を見失うのにちがいないと思った。吹雪ともなれば、強風に渦巻く雪が、なお、行手の視界をうばって、登山者を疲労から凍死へと誘いこむのであろう。九州は南国とばかり思っていたが、いつかの早春、長崎へいった時、福岡から佐賀にかけて雪が降っていたのにおどろいたことがある。北九州は日本海気候なのであった。久住の標高は一七八七メートル。九州第一の山である。冬は吹雪もすさまじいことであろう。  千里という名は、昔風に一里を六丁と数えても広すぎる形容で、高原というべくは、狭い、鍋底のように周囲をかこまれた地形だけに、出口を求めての吹雪の中の|彷徨《ほうこう》はおそろしさが思われ、地獄浜ともよびたいような、陰惨な感じがした。  久住と九重の争いは、硫黄の採取権をめぐってのことがもとだとも聞き、五月から六月にかけて全山の地表を埋めるというツツジの美しさよりも、その話の方に興味が持たれた。  今なお、地図に、くじゅうと読ませて、九重町と久住町が山々の南北にわかれて存在し、山の方は、総括して九重山群。そのうちの最高峰が久住山ということだけれど、これも近ごろは、東方にある大船山の方がわずかに高いことがわかって、久住びいきのひとびとは困っているとか。  同じような地形の西千里浜を右に見下して、岩礫地の坂道を登りつめて久住山の頂きに立つ。ケルンの形に高く高く石がつみあげられている。三メートル位ありそうである。これで、最高峰の名誉が保たれたかもしれないと思い、何となくおかしかった。  頂きからはすぐ真南に、阿蘇の雄大な姿が連なりわたっていて圧巻である。人間の小さな領分争いなど、空に噴きあげられる煙と共に放ちとばしたくなるような、大自然の偉容を示していた。  二人の神父は昼食のべんとうに、フランスパンとサラミソーセージを出し、サラミをナイフで切りながら、さかんに、いつ見てもすばらしい眺めだとほめていた。自然は人間のためにあると考えるこのひとたちにとって、自然は争いの材料にすべきではなく、いかに素直に享受するかが、その生き方の一つのテーマになっているのであろう。  牧ノ戸峠への下り道で、ツクシフウロの残り花をたくさん見た。  その薄紅のかわいい花がまだ蕾を持っているのを、やっぱり南国の秋らしいと思った。

100 祖母山  カキラン(ラン科)
 嫁いだのが長崎生まれ長崎育ちのひとであったので、九州には、夫の両親のふるさと、鳥取と共に、一番よくいっている。  昔は連絡船、今はトンネル、ときに飛行機で、眼の前に九州の山野がひらけるとき、いつもおどろかされるのは、緑の濃さである。  緯度が南というだけで、太陽の光の強さがちがうのであろうか。緑が濃いから、風景にもぼってりとした厚味が加わるような気がする。水彩画と油絵の差とも言おうか。新緑の頃に九州の山々を眺めると、クスノキやマテガシの黄金色の新芽が盛り上って、山がムクムクとうごめいているようだ。  しかしそのわりに九州の山に登っていないのは、ひたすらに、多分いっぱいいるであろうヘビがキライなせいである。  九州の山は秋ときめていて、延岡の全旭化成労働組合連合会で講演依頼のあったとき、|祖母《そぼ》山に登らせて下さいとたのんだ。  二、三年前に神話の舞台である|高原《たかばる》町にゆき、五、六世紀の古墳群三百三十基が発掘された|西都原《さいとばる》に案内されて、古代の日本人の生活がそぞろにしのばれたのだったが、それらの地の北に連なる|祖母傾 《そぼかたむき》山地を遠望して、機会があったら、その頂きからはるか神話のふるさとを眺めてみたいと思った。  当時の今西高原町長は、話のおもしろいひとで、聞いていると高原はたしかに高天原の地だという思いになってくるし、西都原の古墳群の地に私を案内したタクシーの運転手は、あまりにも整然とした古墳群に感嘆し、 「これらを残したひとたちはどこに消えたのでしょう」  と、ひとりごとのようにつぶやいた私に自信ある風情で答えた。 「消えていません。その子孫はわたしたちです」  九州の山野の緑の濃さの中には、そのまま、古代びとのいのちが、その葉の一枚一枚のかげに、凝縮して今なお息づいているような気がした。  前夜一泊して、延岡五時三十分出発である。まだ眠気のさめないままにうとうとしている間に五ヶ所着、八時。民家の点在する街道から右折して山みちに入る。山腹が伐採されて杉の苗木を植えているので、下草が枯れたままに、山は明るい草丘のような感じで、道のかたわらに群れをつくって咲いているノコンギクの薄紫が美しい。  地図で見ると祖母山の麓には幾つもの神社があり、中にヘビと人間との結婚伝説を伝えているのもある。これもヘビが多いというしるしであろうか。車はここまでというところに神社の一の鳥居があった。  祖母山の名は、神武天皇の祖母である豊玉姫命から来ているという。かつては、祖母山そのものが一つの御神体と考えられていた。  戦争中は、日本の建国伝説が大事にされ、この山も皇室の祖先にゆかりのあるものとして、多くの信仰登山者を迎えたが、今はそれほどでもないらしい。  神社のうしろの急坂をまいて細い道を登ってゆく。  十月の半ばをすぎているのに、ミヤコザサの中に、ヤマアザミやアキノキリンソウやミヤマラッキョウの紫や黄があざやかである。コウゾリナ、オトギリソウも咲いている。  道の両側に背の高いランが群れをなして生えていて、固くしっかりとした実が横向きにいっぱいついている。葉の形はカキランである。  この花は尾瀬あたりから、奥多摩、狭山丘陵などで見ることができるけれど、これだけたくさんあれば、夏のさかりの頃は、さぞ壮観だろうと思った。他の花々もかたまって群がっている。植物の勢いがさかんなのであろう。  ヤマハハコもウメバチソウもリンドウもまだ花を残し、コオニユリ、シオガマギク、センブリが花がらになっている。ところどころに何合目という石があって、アケボノツツジ、キリシマツツジ、ドウダンなどの潅木にまじって、シャクナゲも目立つ。  千間平から国見峠についたのが十一時三十分。道はアセビやブナの林の中に入って、まんなかが落ちこんですべりやすくひどく歩きにくいが、フタバサイシンやサワヒヨドリやオオルリソウを見つけてよろこぶ。一七五七メートルの頂上に着くと急に視界がひらけて、南に傾山、本谷山、|大崩《おおくえ》、|古祖母《ふるそぼ》が連なり、北に阿蘇、九重が紫にかすんで見える。草地の頂きは神をまつった石祠を中心に、ミネヤナギ、ウツギ、ヤシャブシなどの潅木がようやく黄ばみそめていた。  風もないおだやかな日で、車座になって昼食。旭化成社員であるひとびとの明るい話題でたのしかった。自己紹介をしあってみると、ここにいる青年たちは、ほとんど父君を赤ちゃんの時に戦死で失っている。それにしても、何と健康で気持ちのよいひとたちであることか。私の相手にと、延岡市議だという話のおもしろい稲富女史をはじめ、中年の女人たちも四、五人参加しているのだが、さながら母と息子たちの登山のようであった(亡き父君よ、遺児のこの見事な成長をよろこんで下さい)。ふと空にむかって叫びたくなった。  下りは風穴まで直降する悪路で、木の根草の根につかまりつかまり跳ぶように下りたが、岩の間にクロクモソウ、コゴメグサ、ジンジソウ、ギンバイソウ、ハガクレツリフネソウがまだ咲き残っていて、この花のゆたかさ、この景観の変化あるたのしさに、祖母山というよりは花の乙女山とも名づけたかった。 [#改ページ]

   
あ と が き  高村智恵子は、東京には空がないと嘆いたけれど、私の子供の頃、大正から昭和にかけて、東京の高いところからは、北に筑波山が見え、日光の男体山が、赤城、榛名が、武甲山が見え、西に大岳、御前山、大菩薩、小金沢連嶺が、また相模大山、丹沢、箱根、天城の山々が見えた。富士は丹沢と箱根の山々の間に、秋も末にはいち早く雪に被われた姿をあらわし、武蔵野の空が夕焼けに深まる日暮れがた、すべての山々が闇に沈もうとして、富士だけが、きわだった形に黝々と残っているのが遠く望み見られた。  あれらの山々には、どんな木が茂り、どんな水が流れ、どんな花々が咲いているのか。  あこがれの思いを募らせたのは、自分の家の庭に、山で咲くレンゲツツジ、ヤマツツジ、ニリンソウ、リンドウ、ギボウシ、フクジュソウなどが、折々の季節を知らせて咲き、庭を分断して千川上水が流れ、六歳で死に別れた父が、健康なときに登った山の話を、庭を歩きながらよくしてくれたのがもとだったように思う。  こんないい花を山へ行って見てみたい。きれいな水がたぎち流れる谷川で遊んでみたい。叫ぶと|木魂《こだま》が返ってくるという。木魂ってどんな声をしているのかな。ウサギやサルにあえるかな。どんな蝶々がいるのかな、など、など、百貨店の屋上へいったとき、山手線の電車の窓から眺めたとき、よく思っていた。  学校の遠足では高尾山や武州御岳、筑波山、箱根などにつれていってくれ、自分でも友だちと、富士五湖や赤城山や十国峠、大菩薩峠や高水三山、大岳などにゆくようになり、いつ、どこの山へいっても、来なければよかったと思ったことがない。山の土の匂い、木々や花の匂いを胸いっぱいに吸いこんで、何べん、山は好き、もっと山にいたいと思ったかわからない。  学校の地理の先生がたが、地理は、自分の足で調べなければよくわからないというお考えで、地質や地形の勉強に、何人かの生徒たちをつれて、箱根や奥多摩をしばしば歩かせてくれたのも、私を山好きの娘にしてくれたようである。  卒業して学校の教師になり、月給をもらって小遣いが豊富になると、土曜日曜にはなお一そう山を歩くようになったが、娘時代というものは、無限にやりたいこと、ゆきたいところが多く、山ばかりでなく、海でもよく泳ぎ、おいしいものも食べ歩き、音楽会や芝居などにも足繁く通った。  自分の運動の楽しみを、山一本にしぼるようになったのは、ほんのこの十数年である。  渋谷の道玄坂で滑ってころんで、足の骨を折ってから、片足が一センチ半ほど短くなり、泳ぐと前へ進まず、大きく輪をかいてまわるようになった。  結婚してからは、思うように山へゆけなくなり、運動では泳ぎの方が手軽に出来て、どこへゆくにも水着を持って歩いていた。泳ぎは子供たちと一緒に簡単にできるのもありがたかった。しかし、骨折後は、泳ぎに対してすっかり自信を失った。その代りとして山ゆきをくりかえすようになり、くりかえすことによって、いよいよ山を歩くことが好きになり、どこの町にいっても、近くに登る山はないかとさがし、山へゆけば、いろいろの花が眼につき、山によって花のちがうのがおもしろくなり、地図をひろげては次にゆく山をさがし、一つ登れば二つ登りたくなり、登って帰ればすぐ山に戻りたくなるというのが、近ごろの気持ちである。  山に登り、山を歩くことのよさにはいろいろあるけれど、何といっても、はるかに多く町よりは緑が豊かなこと、水がきれいなこと、鳥やけものの存在を身近にして、この地上が、人間ばかりのものでないと知ることができること。何よりも人間が少ないこと。電話や来客や仕事から逃れて、一とき、自分だけの世界に身をおくことができることなどであろう。家庭の主婦であり、仕事を持つ女でもある自分にとって、山へゆく時間を作るためには、いろいろと工夫がいる。仕事でも、日常の暮しの中でも、これはやめる、これはする、これは放っておく、これは片づける、これはどうでもよい、これは大事、というような取捨選択を素早く行なえるようになったのも、山歩きに親しむようになったおかげである。時間が勿体ないので、過ぎたことは追わず、物ごとの結果についてもくよくよしない。これは、山へゆくための荷物をつくり、山を歩くコースを考えるというようなことをくりかえして、自然と身についたことである。  山を歩くことが健康によいということもありがたい。少し位の風邪は山を五、六時間も歩けばなおり、仕事や家事に追われて上った血圧も、山を七、八時間も歩いてくると、ちゃんと下っている。  山を歩いていると、わからないことが次々にでてくる。  時間をつくって、これからもっと勉強したいのは、地質と植物のことである。できればもう一度学生に戻って、それぞれの専門の先生に教えていただきたいと思っている。  よく日本中の山を歩いたでしょうと言われるけれど、そんな時ほどがっかりすることはない。日本に幾つの山があるだろうか。五百メートル以上の山の名を数えても、何万という数であろう。  今西錦司さんは千の山を越し、三木慶介さんは四千回近く登っていると言われるけれど、私はこの先歩けるだけ歩いて、五百も登ればよいと思っている。  なお、この十三年ほど、高水会という、女を中心にした山の会の仲間といつも歩いている。一年の山歩きを大体三十と見て、二十回は高水会のひとたちが一緒である。少なくて二十人、多いときは六十人をこえ、平均年齢六十歳に近いものたちが歩く。会をつくった時は、四十歳以上というのを一応の標準にしたのだが、それぞれに年を加えたのである。  しかし、はじめに登った奥多摩の高水山に、ほとんど毎年登っていて、あるときはじめからの仲間がこんなことを言った。   ——十年以上前には辛かった高水山が、今は軽くなりました。山を歩いていると、からだの方は逆に年をとるようですね。  それぞれにいそがしい家庭の主婦であり、仕事を持つ女たちである。山へ来る費用と時間をつくるために、めいめいに工夫しているのは、私の場合とほとんど同じにちがいない。山を歩くよさをかみしめているのも、私とほとんど変らないであろう。私は山の仲間がどんな仕事をし、どんな家の主婦なのか、これもほとんど知らない。だれも自分の町の中での生活について語らず、ただ、山を歩くたのしさだけを語る。私はこういう仲間をたくさん持ち得たことを、生涯の喜びに思っている。そして、いつの日まで歩けるかわからないが、健康と体力の許す限り、からだの状態に合せた山歩きをつづけたいと願っている。  泳ぎの方も、一昨年の夏、御前崎の下の浜で娘や孫たちと泳いでみたら、十数年の頻繁な山歩きで脚力が平均化されたらしく、まっすぐ前に進めたのがうれしく、これも機会さえあれば復活したいと思っている。  この本にまとめた百の山は、この三年ほど「山と渓谷」に連載で書きつづけた「花の百名山」の記録である。  近ごろ、高い山の植物を町に持ち帰るひとが多いという。あるいは、何十年も昔の私の父もその一人であったかもしれないと胸が痛むのだが、高い山の植物は、生活条件の悪いところで必死に咲いているのである。どうぞ、それらの花が見たかったら、せっせと汗を流して、それらの花の咲いている場所まで登っていって、会って来て欲しい。空気の悪い町なかに持って来て眺めようなどというのは、美しい山の乙女をかどわかして来て、町の中で野垂れ死にさせるようなものだと心得、ゆめゆめそうした乱暴な、あこぎな振舞いをしないでほしいと心からお願いしたい。できれば私は、花盗人を案じて、山の名をかくしたいほどであった。  山は北海道から鹿児島までいったけれど、この本の中に配置するについては、関東から東北、北海道に及び、中部地方、関西、中国地方、四国、九州という順に並べた。  なお、地質については、年来の知友、東京大学理学部地質学教室の鎮西清高氏にいろいろと教えていただいた。いつの日か鎮西先生の弟子となって、山の岩や石を見ながら歩きまわりたいというのが、私の目下の夢である。植物は『植物手帳』の長谷川真魚氏の紹介で、府中市立第五中学校の飯泉優氏に何かと教えていただいた。私を山好きの学生にしてくれた木下一雄先生、飯本信之先生、松木茂先生は、八十歳をこえて|矍鑠《かくしやく》としておられる。これも感謝である。  また、いつも私の山ゆきのリーダーをつとめて下さっている山岳写真家の三木慶介さんにも、この場をかりてお礼申しあげ、足弱の私に合せて、百回以上一緒に登って来てくれた高水会の仲間に感謝の心を伝えたい。多くの山ゆきのために、地元の観光係や教育委員会がお世話下さったこともありがたかった。この三年がかりの原稿をはげましつづけて下さった「山と渓谷」編集部の節田重節氏、原邦三氏、為国保氏、那須美知子さん、安藤しぐれさん、この本をまとめるについての示唆を与えてくれた文藝春秋の宇田川真氏にも厚くお礼申し上げたい。文藝春秋出版部の平尾隆弘氏には、十数度に及ぶゲラ直し、索引づくりなど、実際の本づくりのために一方ならぬ御厄介をかけた。改めてここにお礼申し上げたい。あれこれとむずかしい花のカットを引き受けてくれた三田恭子さん、レイアウトの坂田政則氏にもお礼申しあげる。最後に、今日まで山に登りつづけることのできた丈夫なからだを与えてくれた亡き父と亡き母、青春の日々、私の山好きにつきあってくれた亡き兄と亡き弟などの諸霊に、本当にありがとうと合掌したい。  この八月は富士山に登るつもりでいる。その頂きに立って、「お父さん、お母さん、お兄さん、文男」と叫びたいのが私の今の願いである。 [#地付き]昭和五十五年初夏  [#改ページ]

   
文庫版のためのあとがき 「花の百名山」をまとめてもう三年たった。三年かかって書いたのだから、書きはじめたのは六年前だと思い、そのずっと前から登っていたことを思うと、私の山歩きも年を重ねたものだと、ちょっと感慨無量である。 「花の百名山」を書き出してからだんだん登る数もふえていった。  山に登るということは、からだが丈夫でなければできないので、百の山のことを書くためには、いつ病気になって登れなくなってもいいように、かためて登ってしまうつもりで、せっせと歩いて、大体、年間に二、三十は登ることにした。  ところが、山へたくさんゆくにつれて、からだは丈夫になって来て、「花の百名山」を書きおわってからの方が、年間に四十から五十ともっとたくさん登るようになった。 「花の百名山」に続けて「歴史の山歩き」という題で、また三年間を書きつづけたせいもあるけれど、その三年間がおわっても四十から五十の数は落ちない。落すと何となく、からだの調子が悪いからである。  娘時代に、結核の初期を患ったことがある。毎日微熱があった。医者は、安静にしているようにと忠告したのだが、月に一度位の割りで山に登っていた。  銀座通りを歩きながら、脇にはさんだ体温計が七度三分を示していた日の午後、新宿から初鹿野にゆき、日川の渓谷をつめて嵯峨塩温泉に一泊。あくる日は、大菩薩峠から塩山に下ると八度であった。  それでもこの結核は、三、四カ月位でなおってしまった。この時は微熱があるままで海で泳いでもいたのだからまことに無茶苦茶としか言いようがない。  その頃の結核というのは、死に至る病の中でトップで、友人でも結核で早世したものが多かったのに、どうしてなおったのかなあと思うと、これは大自然がなおしてくれたような気がする。  と言って、私はこんな乱暴な治療法を決して他人にはすすめない。レントゲンで胸部撮影をする度に、「古い病巣があります」と医師に言われ、「神に感謝」と心でつぶやいたりする。二十代で死んでいたら、その後の五十年の日本の大きな変りようを知ることがなかったし、自分の子供なども持てなかったのだと思う。  私の父は四十代のはじめに、結核で死んでいるので、あるいは父が、自分のいのちが早くに失われた無念さに、私を助けて、父の代りに山に登り、いろいろの人間とつきあえと、あの世から励ましてくれているのかもしれないと思う。  父だけでなく、医者であった兄、貿易商社員であった弟も皆、山が好きであった。よく山を歩いていた。兄は四十代、弟は五十代で死んだのだが、今も私は、山へ登っていい眺めに出会う度、お父さんに見せたかった、お兄さんをつれて来たかった、弟と一緒ならよかったと思うことがしばしばである。  山へ来て丈夫になったというのは、私だけでなく私が一緒に歩いている女ばかりの山仲間のひとたちがよく言うことである。  私たちは、山の会として年間二十位登っている。そして比較的楽な山にくると、これは八十歳、これは九十歳になっても登れそうですね、などと言いあうのである。  実際にはどんなことになるかわからないけれど、自分の一生の中で山にくる楽しみを持つことが出来たのは大きな仕合わせであったといつも思う。  いつまで健康が保たれ、いつまで登れるかわからないけれど、一歩でも半歩でも、足が前に進むことのできるうちは、十センチでも五センチでも足が上にあがる間は、山に登りたいと思う。  なぜそんなに山が好きかと言われれば、木が好き、花が好き、きれいな水が好き、人のいないところが好き、そこはかとなくただよっている緑の匂い、花の匂いが好き、山の空気を胸いっぱい吸うのが好きというより言いようがない。 「花の百名山」が出版されてから、全国の山好きの人たちから、いっぱいお便りをいただいた。  自分のふるさとの山に登ってくれてうれしいというのや、この次には是非、この山に登ったらよいというのや、今度一緒に登りましょうというのや、いろいろとたくさんで、それぞれの地方の地図を広げて見ていると、地図の上から、その人たちの声々がこだまのようにひびき返ってくる思いである。  どこの山が一番よいと思うかともよく聞かれるけれど、私は何百と登っても、何百の山の一つ一つに、それなりのおもしろさがあると思うし、日本の国土の八十パーセントが山だそうである。山国日本に生まれたことは、山の好きな私には、何よりも仕合わせなことであったと思っている。山国に生まれたから山が好きになったのかもしれないが。  今度文庫本にしてもらったので、更に多くの山好きの仲間がふえることとこれも仕合わせに思っている。なお、文庫本係の渋谷真知子さんには大変お世話になり、紙上をかりて御礼申し上げる。   (一九八三年四月、庭のカタクリが八つ咲いた日に) [#地付き]田中澄江  花 名 一 覧 以下は、この本に登場する花名の一覧です。 「検索」機能を利用すると、その花が出てくる箇所を探すことができます。 「検索」機能の使い方 1)画面上のツールバー「移動」から「検索」を選びます。 2)検索:の欄に、探したい花名を入れます。 3)「このページから最後まで」「このページから全体」「先頭から最後まで」のいずれかを選び、「検索」ボタンをクリックします。 4)最初の該当箇所があらわれます。 5)次の該当箇所を見るには、「移動」→「次を検索」をクリックします。 ア 行 アイダモ アオイスミレ アオノツガザクラ アオノテンナンショウ アオモリトドマツ アカノツガザクラ アカバナ アカマツ アカミノイヌツゲ アカモノ アキノキリンソウ アケビ アケボノスミレ アケボノツツジ アサマフウロ アザミ アシビ アスナロ アズマイチゲ アズマギク アズマシャクナゲ アセビ アツモリソウ アブラチャン アフリカハマユウ アポイアズマギク アポイゼキショウ アポイツメクサ アポイハハコ アポイマンテマ アマギツツジ アヤメ アラシグサ アワコバイモ アワモリショウマ イカリソウ イグサ イソツツジ イソノキ イタドリ イタヤカエデ イチイ イチヤクソウ イチリンソウ イナモリソウ イヌシデ イヌツゲ イヌモチ イブキジャコウソウ イブキトラノオ イワイチョウ イワウチワ イワウメ イワオウギ イワオトギリソウ イワカガミ イワギキョウ イワギボウシ イワギリソウ イワザクラ イワセントウソウ イワチドリ イワツメクサ イワナシ イワナンテン イワヒゲ イワブクロ イワベンケイ イワボタン ウグイスカグラ ウケラ(オケラ) ウゴアザミ ウコンウツギ ウサギギク ウスユキソウ ウズラバハクサンチドリ ウツギ ウツボグサ ウバタケニンジン ウバユリ ウメウツギ ウメバチソウ ウラシマソウ ウラシマツツジ ウラジロウツギ ウラジロタデ ウラジロモミ ウラジロヨウラク ウリハダカエデ ウルップソウ ウワミズザクラ エイザンスミレ エゾアズマギク エゾイワツメクサ エゾウスユキソウ エゾエンゴサク エゾオトギリ エゾオヤマリンドウ エゾカラマツ エゾカワラナデシコ エゾカンゾウ エゾキスゲ エゾキンバイソウ エゾグンナイフウロ エゾコウゾリナ エゾコザクラ エゾシオガマ エゾシロバナシモツケ エゾスカシユリ エゾタカネナデシコ エゾチドリ エゾツガザクラ エゾツツジ エゾトリカブト エゾナデシコ エゾノアブラガヤ エゾノサワアザミ エゾノハクサンボウフウ エゾフスマ エゾホソバトリカブト エゾマツ エゾマツムシソウ エゾミソハギ エゾミヤマハンショウヅル エゾムラサキ エゾヨツバシオガマ エゾリンドウ エゾルリムラサキ エーデルワイス エビネ エビラシダ エンゴサク エンドウ エンレイソウ オオイタドリ オオイヌタデ オオイヌノフグリ オオイワカガミ オオシュロソウ オオバギボウシ オオバコ オオバスノキ オオバノトンボソウ オオバノヨツバムグラ オオバミゾホオズキ オオバヤナギ オオブキ オオヤマフスマ(ヒメタガソデソウ) オオユキザサ オオルリソウ オカタツナミソウ オカトラノオ オキナグサ オクキタアザミ オクトリカブト オケラ オサシダ オサバグサ オゼコウホネ オタカラコウ オダマキ オトギリソウ オトメシャジン オニシモツケソウ オニユリ オミナエシ オモイグサ オモダカ オヤマノエンドウ オヤマボクチ オヤマリンドウ オーレンシダ オンコ カ 行 カエデ カキツバタ カキラン ガクアジサイ ガクウツギ カザグルマ カシ カシワ カタクリ カタツユ カツラ カトウハコベ カナメ カニコウモリ カノコソウ カモメラン カヤ カライトソウ カラマツ カラマツソウ カワラナデシコ カンアオイ ガンコウラン カンゾウ キオン キキョウ キクザキイチリンソウ キケマン キジムシロ キセルアザミ キソチドリ キチジョウソウ キッコウハグマ キツリフネソウ キヌガサソウ キヌタソウ キバナウツギ キバナノアキギリ キバナノコマノツメ キバナノシャクナゲ キブシ ギボウシ キャラボク ギョウジャニンニク キリシマツツジ キレンゲショウマ キンコウカ ギンバイソウ キンラン ギンラン ギンリョウソウ キンレイカ キンロバイ ギンロバイ クガイソウ クサアジサイ クサソテツ クサタチバナ クジャクシダ クズ クスノキ クヌギ クマイチゴ クマガイソウ クマザサ クマシデ クモイコザクラ クリ クリンソウ クリンユキフデ クルマバソウ クルマバムグラ クルマユリ クロクモソウ クロヅル クロトウヒレン クローバー クロベ クロモジ クロユリ グンナイフウロ ケショウヤナギ ケンザンシダ ケンポナシ コアツモリソウ コイチヤクソウ コイチヨウラン コウスユキソウ コウゾリナ コウチワカエデ コウヤボウキ コウヤマキ コウリンカ コオニユリ コガクウツギ コガネギク コキンレイカ コクサギ コクラン コケイラン コケモモ コケリンドウ コゴメウツギ コゴメグサ コシノカンアオイ ゴゼンタチバナ コナシ コナミキ コナラ コヌカグサ コバイケイソウ コバイモ コハウチワカエデ コバノイチヤクソウ コバノタツナミ コバノツメクサ コバノトネリコ コバンソウ コブシ コマクサ ゴマナ コミネカエデ コメツガ コメツツジ コメバツガザクラ ゴヨウイチゴ ゴヨウツツジ ゴヨウノマツ コヨウラクツツジ コンニャク コンロンソウ サ 行 サイハイラン サギソウ サクラ サクラソウ サケバヒヨドリ ササユリ ザゼンソウ サトイモ サマニオトギリ サラサドウダン サラシナショウマ サルスベリ サルメンエビネ サワアザミ サワアジサイ サワオグルマ サワギキョウ サワギク サワグルミ サワヒヨドリ サワラン サンカヨウ シイ シオガマギク ジガバチソウ シギンカラマツ シコクシモツケソウ シコクシラベ シコクスミレ シコタンソウ シコタンハコベ シシウド シソバタツナミソウ シダ シデシャジン シナノオトギリ シナノキ シナノキンバイ シナノナデシコ ジムカデ シモツケソウ ジャガイモ シャクナゲ シャジクソウ ジャニンジン シュウメイギク シュロソウ ショウジョウバカマ ショウマ シラカバ シラタマノキ シラタマホシクサ シラネアオイ シラネニンジン シラヒゲソウ シラビソ シラベ シロウマゼキショウ シロダモ シロバナナンゴククガイソウ シロバナノエンレイソウ シロバナノワレモコウ ジロボウエンゴサク シロモジ シロヤシオ ジンジソウ ジンヨウキスミレ スギ スゲ スズカアザミ ススキ スズシロソウ スズタケ スズメノテッポウ スズメノヒエ スズラン ズダヤクシュ スノキ スハマソウ ズミ スミレ セツブンソウ セリバオウレン セリバシオガマ センジュガンピ センジョウチドリ センダイハギ セントウソウ センブリ センボンヤリ ソバナ タ 行 ダイコンソウ ダイセツトウチソウ ダイセンオトギリ ダイセンカラマツ 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ワサビ ワタスゲ ワダソウ ワチガイソウ ワビスケ ワレモコウ   単行本   昭和五十五年七月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     花の百名山     二〇〇一年六月二十日 第一版     二〇〇一年七月二十日 第二版     著 者 田中澄江     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Takao Tanaka 2001     bb010610