新・花の百名山 〈底 本〉文春文庫 平成七年六月十日刊  (C) Takao Tanaka 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。

   花こそいのち  つい最近のNHKの特別番組に、臨死体験を持ったひとびとの話があつめられ、アメリカや日本のひとたちが、死から蘇った自分の体験を語っていた。  殆ど共通していたのは、何の苦しみもないこころよさで、生から死への世界にむかって歩いていった時、眼の前にひろがったのは、一面に咲きさかる美しい花たちの群れであったということである。  画面には、紅や白や黄のケシの花の大群が風にそよぎ、その上に青ぞらがひろがっていた。そして、よく私自身が、大量の花の群れの中に身を沈めて、青ぞらを仰いでいるとき、こころよい眠りに誘われ、このままあの世へいってもいいなあという、あらがい難い誘惑に全身が溶けてゆくような思いにかられることがあるのを思い出していた。  それはまだ十代にもならぬ幼い日々から、二十代三十代と、それぞれの日々の記憶の中にある。十代前半の頃の東京の町には空地がいっぱいあり、白いヒメジョオンの花むらの中に身をかくすことができた。よく泳いだ多摩川の河川敷には、うす黄のオオマツヨイグサとうす紅のカワラナデシコの大群落があった。二十代のとき一人で登った赤城の小沼周辺は、マツムシソウのうす紫の花以外、土のいろ一つ見えないのであった。三十代に住んでいた鵠沼海岸では、砂山の紫のハマエンドウのじゅうたんに眼を見張り、四十代には疎開した鳥取でカキツバタの大群落にであった。  五十代六十代と、私はだんだん山にゆく回数をふやしてゆく。花にあいたいために。幼い日々に、自分のまわりをつつんでくれた花たちは、幼い日の幼いなりの悩みや憂いを吸いとってくれたと思う。十代二十代と、ひとは年を重ねて、世に生きる悩みや憂いを深めてゆく。それをやさしく吸いとってくれるのは、どんな身内や知友にもまして、物言わぬ花であったと思われてならぬ。  臨死体験を経たひとびとが、美しい花ぞのを見るのは、そのひとびとの生きていた日々の記憶の底に、花から得た慰めやよろこびが、まぎれようのないたしかさで潜在していたからではないだろうか。  もしもこの世に花がなかったらなどとは、考えたくもない。多分花々が死に絶える日は、人間も死に絶える日なのであろうと思っている。権力闘争に明け暮れ、恩愛の絆で身動きならぬ世を捨てた西行は歌った。    願はくは 花の下にて春死なむ    そのきさらぎの 望月の頃  私はまだ自分の死ぬことはあまり考えない。今年の花を見れば、すぐ来年はどんな花が咲くかと思い、花にわが身の明日を託している。  もし花の歌を一首つくれと言われるならば次のようなものである。    花花花花花 花花花花花花花    花花花花花 花花花花花花花    花こそいのち。       一九九一年早春。       庭のセントウソウの咲いた日。 [#改ページ]   目  次 花こそいのち  北海道 1 礼文岳 オオカサモチ       レブンソウ 2 利尻山 ボタンキンバイ       シコタンハコベ 3 暑寒別岳 エゾオヤマリンドウ        シオガマギク 4-1 大雪山 黒岳 ジンヨウキスミレ 4-2 大雪山 小泉岳 チョウノスケソウ 5 夕張岳 ユウパリコザクラ       ユウバリソウ 6 羅臼岳 ジムカデ       チシマツガザクラ 7 斜里岳 エゾゼンテイカ 8 目国内岳 イワウメ 9 アポイ岳 ミヤマハンショウヅル        アポイゼキショウ        アポイマンテマ 10 オロフレ山 ツマトリソウ 11 室蘭岳 オクエゾサイシン 12 白雲山 ナガハノキタアザミ  東北・北関東 13 北八甲田山 サンカヨウ         サワラン 14 八幡平 タテヤマリンドウ       イソツツジ 15 種山高原 ムシカリ 16 秋田駒ケ岳 ヒナザクラ・キオン 17 早池峰山 ナンブイヌナズナ        ミヤマオダマキ        ハヤチネウスユキソウ 18 姫神山 ガンコウラン 19 栗駒山 ムシトリスミレ       クルマユリ 20 鳥海山 チョウカイフスマ       ニッコウキスゲ 21 月山 ウズラバハクサンチドリ      クロユリ 22 鎌倉岳 クリンソウ 23 大滝根山 シャクナゲ 24 会津駒ケ岳 クロクモソウ         コバイケイソウ 25 燧ケ岳 キンコウカ       ツルコケモモ 26 日光白根山 シラネアオイ 27 上州武尊山 ウメバチソウ 28 赤城山 クサタチバナ 29 榛名山 ユウスゲ 30 鳴神山 イワタバコ 31 石裂山 フタバアオイ 32 三毳山 カタクリ 33 両神山 ヒイラギソウ 34 伊豆ケ岳 アズマイチゲ 35 武州御岳山 エイザンスミレ 36 雲取山 イワウチワ  南関東・中部 37 飛龍山 ツバメオモト 38 笠取山 キバナノコマノツメ 39 甲武信岳 クモイコザクラ        レンゲショウマ 40 乾徳山 イワインチン 41 乙女高原 シモツケソウ 42 大菩薩嶺 スズラン 43 九鬼山 フジザクラ 44 二十六夜山 ヒゴスミレ         マルバスミレ 45 三ツ峠山 レンリソウ        フジアザミ 46 黒富士 セキヤノアキチョウジ 47 甲斐駒ケ岳 タカネバラ 48 仙丈ケ岳 イワギキョウ        シコタンソウ 49 北岳 キタダケソウ      ミソガワソウ      タカネマンテマ 50 鳳凰三山 タカネビランジ        ホウオウシャジン 51 櫛形山 アヤメ       テガタチドリ       センジュガンピ 52 天狗山 ママコナ 53 権現山 シモバシラ 54 長九郎山 カンアオイ 55 風越山 ヤマハハコ 56 恵那山 オオチドメ       ズダヤクシュ 57 尾高山 ヤブレガサ 58 八島湿原 サワギキョウ 59 蓼科山 オヤマリンドウ       ヤナギラン       ワダソウ 60 鉢伏山 アカバナ       ハナイカリ       ヤマラッキョウ 61 浅間高原 ハクサンイチゲ        ヒメシャジン 62 針ノ木岳 キヌガサソウ 63 蓮華岳 コマクサ 64 鹿島槍ケ岳 シナノキンバイ         オヤマノエンドウ         チングルマ         タカネミミナグサ 65 白馬岳 リンネソウ       イワイチョウ       シロウマアサツキ 66 北信五岳 リュウキンカ        ザゼンソウ 67 小松原湿原 ウラジロヨウラク         トキソウ         オノエラン         モウセンゴケ 68 平ケ岳 ワタスゲ 69 守門岳 ヒメシャガ 70 浅草岳 ヒメサユリ       タニギキョウ 71 日倉山 ユキツバキ 72 角田山 スカシユリ 73 金北山 イワカガミ 74 早月尾根 ベニバナイチゴ 75 大日連峰 カライトソウ        ウサギギク        タマガワホトトギス 76 太郎兵衛平 ミズバショウ 77 北ノ俣岳 ミヤマキンポウゲ 78 医王山 ベニバナイチヤクソウ 79 白山 モミジカラマツ      ハクサンチドリ      ハクサンコザクラ 80 笠ケ岳 ミヤマダイコンソウ       シナノキンバイ       ヒメレンゲ 81 弓張山地 ミカワバイケイソウ        キリンソウ        チゴユリ  西日本[近畿・中国・四国・九州] 82 猿投山 センボンヤリ 83 藤原岳 フクジュソウ       ヒロハアマナ       アワコバイモ       エンレイソウ 84 大杉谷 イワチドリ・ササユリ 85 熊野路 センブリ 86 冷水山 イワナンテン 87 伊吹山 イブキジャコウソウ 88 小谷山 イチヤクソウ 89 大江山 オオバギボウシ 90 船上山 シラヒゲソウ 91 氷ノ山 シロバナエンレイソウ 92 伯耆大山 コケモモ 93 道後山 アケボノソウ 94 比婆山 ショウジョウバカマ 95 石鎚山 キレンゲショウマ       フガクスズムシソウ 96 別子銅山越 ツガザクラ 97 古処山 シュウメイギク 98 阿蘇高原 リンドウ 99 霧島連峰 マイヅルソウ 100 開聞岳 ヤマタツナミソウ あとがき 山の花の恵み 山の花譜 [#地付き]本文カット 森 玲子      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    新・花の百名山 [#改ページ]      北 海 道

1 |礼文岳《れぶんだけ》    オオカサモチ・レブンソウ  礼文岳の四九〇メートルの、ツタウルシの生い茂る道を雨にぬれぬれ歩きながら、私たち山仲間が口々に語りあったのは、九十歳になって高山植物を見たかったら、礼文島へ来ればよいということであった。山にも登れる。  東海岸の民宿から登山口までの道ばたに、赤紫のマメ科の花が群落をつくっている。ちょうど田圃の中のレンゲソウの赤紫に似ていて、それより赤が濃い。葉はハマエンドウに似ている。図鑑で見たレブンソウにちがいない。このあでやかさ。やはり野におけ、レンゲソウよりいささか気品がある。  トドマツやダケカンバの|根許《ねもと》に、クマザサの密生する山道を、ゆるやかな登りで、霧の去来する中を歩みすすんでいくと、東北の山に多いコバノクマザサの中に、イチヤクソウやエゾイソツツジが二、三本あったりする。標高二〇〇メートル地帯で、ハイマツ帯となり、マイヅルソウやゴゼンタチバナ、うす紅のツガザクラなどが、どれも霧にぬれて本州のより力強い感じ。  しかし礼文のもっとも礼文らしいお花畑には、山を下りてからバスで海沿いの道を、レブンソウを見ながら、島の南端の桃岩に来て出あった。  礼文は楯状火山とでも言うのであろうか。礼文岳を一つのピークとしてそれに前後した山地が連なり、桃岩は山地が海に迫って傾斜して来た台地である。遠くから見ても、点々として赤に黄に花が咲きさかっていると知られる文字通りのお花畑で、足を踏み入れると、まずチシマフウロの赤、タカネナデシコのうす紅、イブキトラノオのうす紅、ノビネチドリ、ヨツバシオガマの濃い赤と、いずれもエゾと名のつくだけに色も鮮やかで、溜息がでるばかり。  黄の花は岩場のイワベンケイ。草むらの中のミヤマダイコンソウ。キバナノアマナもニガナもセンダイハギもあり、数えれば礼文には二百種くらいの花が咲くという。白いのはハクサンイチゲ、ヤマハタザオ、シロバナエンレイソウ、ツバメオモト。これらの小さい花たちをまもるように、シシウドより太めで頑丈なオオカサモチが点々と立っている。  リーダーの三木慶介さんが、近くの滝まで案内すると有志を引き連れて去ってゆき、岩場も登るとのことで、私は明日の利尻のために、体力の消耗を避け、桃岩のお花畑の中をいったり来たりした。レブンコザクラ、キクバクワガタが道端の斜面にある。その色の濃厚さ。  雨が上がって、利尻は南の海上に、夕映えを受けて、朱赤の山容となって浮かんでいる。礼文は日本最北の島である。はるばると来て、これだけの花とこの眺めを見たらもう最高と満足し、桃岩の坂を北に下っていった。ハマヒルガオの咲く浜に向かう道には黄のエゾオトギリや、紫のミヤマオダマキもあり、その日まで東北の早池峰ほど、花の多い山はないと思っていたが、礼文はそれに勝ると思い、花盗人が、どうかこの島まで渡って来ないようにと祈る思いであった。  礼文も利尻も対馬海流がとりまいていて、あたたかく住みよく魚の種類も多く、ことに戦前までは、|鰊《にしん》の豊漁で鰊大尽が大勢いたという。民宿の台所が広く、食器類の箱が隣の部屋にたくさん積まれていたのも、かつて鰊漁の時、東北地方から大勢の稼ぎ人が来た名残であったのだろう。その鰊が近ごろはばったりと来なくなって、今は観光の島となったが、鰊の盛んであった頃は、山の花などに眼をむけるものなど一人もなかったと民宿の主人がいう。  海辺から桃岩の台地に戻るところで、エゾアザミの群落に出あった。滝は桃岩からほんのわずか。地蔵岩の先から登って岩場も大したことがなかったと聞いてちょっと残念であった。  民宿は新鮮な魚や貝類の大御馳走で、花の多いのも素敵だが、美味珍味も素敵と思った。たとえば、生ウニ、生エビ、ホタテなど。 [#改ページ]

2 |利尻山《りしりざん》    ボタンキンバイ・シコタンハコベ  園芸種のボタンは、あまりにも華やかなので、その散る姿には『平家物語』ではないが、まさに|盛者必衰《じようしやひつすい》の思いをそそられる。私は江戸時代の俳人の中で、蕪村が一番好きなのだが、そのボタンの句が、生きとし生けるものの無常のあり方を、よくとらえていると思う。   牡丹|散《ちつ》て|打《うち》かさなりぬ二三片 [#地付き]与謝蕪村    さて高山植物の中には、同じキンポウゲ科のキンバイソウやシナノキンバイより、花の|萼片《がくへん》が重なりあい、黄金の球のような豪華さを見せるボタンキンバイがある。  北海道の利尻山は一七一九メートル。島全体が山そのものになっているような地形で、海上から眺めれば、利尻富士の名にふさわしく、駿河湾から仰いだ富士山にそっくりの秀麗な山容を見せている。岩木山、鳥海山にもよく似ている。それらはいずれも岩木富士、鳥海富士などとよばれて、富士山と同じく、比較的新しい成層火山である。ただ、利尻山は那須火山帯に属し、岩木山、鳥海山は、那須火山帯の西を走る鳥海火山帯で、長野、新潟、群馬あたりで一緒になり、ここにも富士山に似た形の浅間山や、榛名山などをつくっている。  登る、登る、今年こそ登ると宣言しながら、私はまだ富士山は、五合目のお中道の、二四〇〇メートルあたりのところを歩いただけである。間近に見上げて、るいるいたる赤茶けた熔岩の一大群落を見ると、まず、あんまり花がなさそうだなあと思い、お中道の夏をいろどる、シャクナゲやコケモモやクルマユリなどで十分に満足してしまう。それらは、標高二〇〇〇メートルから二五〇〇メートルぐらいの山にゆけば、どこでも見られる。利尻山の一七一九メートルは、緯度的に言って、中部山岳地帯の山々の高度に一〇〇〇メートルを加えた内容を持っている。二七〇〇メートルともなれば、富士山よりも変わった花が見られよう。  登ったのは七十代にさしかかった年の夏、その前日は夕張岳の一六六八メートルに、そのまた前日にニセコの|目国内《めくんない》岳の一二〇三メートル、さらにその前日に、|樽前《たるまえ》山の一〇四二メートルに登っていた。  一日一山、花を訪ねての山旅であった。  利尻山の前にまず札幌の|丘珠《おかだま》から利尻に飛んで、|鴛泊《おしどまり》港から礼文にゆき、雨の中を礼文岳に登った。夕方晴れて、眼の前に夕映えの利尻山の端整な姿を望み仰いで、明日はどうしてもあの山に。海抜一七一九メートルは正味の高さだ。健脚ならば、四、五時間でゆけようが、私は登り下り十二時間でと心に誓った。その日は|香深《かふか》の民宿泊まりで、礼文を散策して、夕方利尻島の鴛泊まで、また船で三十分。宿は港の前にあって、翌朝午前二時の出発と決めた。稚内ゆきの船は午後三時出帆である。早暁にヘッドランプをつけて、宿を出て、三時に登山口に着き、午前七時、八〇〇メートル地点の長官山に着く。残り時間は八時間。道は火山礫のごろごろ道である。だんだん急勾配になる。もうあきらめようかと思ったとき、左側の山腹一面が真っ黄な花の色に被われているのが見えた。少しでも近づこうと沢を下り、雪渓をわたる。花はもっと高いところにある。  利尻で私が見たかったのは、図鑑で見た黄いろいケシであった。しかしケシの淡い黄よりもっと濃い。シナノキンバイはあのようなぼってりとした姿ではない。花に厚みがあって、頂上直下の山腹を埋めている。道はいよいよ悪いガレ道となり、息を切らし切らしして、とうとう頂上について十時。左側の山腹に走りよった。ボタンキンバイであった。ボタンという名をつけるにふさわしい豪華さである。足許にはナデシコ科のシコタンハコベが群生していた。これも初めて見た。清冽である。シコタンの名もなつかしい。帰り道は四時間で走り下りた。胸いっぱいにボタンキンバイの黄に満たされて。ボタンキンバイは数年前に、サンモリッツの二五〇〇メートルの稜線でも出あい、利尻であえなかった淡い黄のケシはシーニゲプラッテの高山植物園で見た。ヨーロッパアルプスの低地では、オドリコソウも黄に咲いていた。 [#改ページ]

3 |暑寒別岳《しよかんべつだけ》    エゾオヤマリンドウ・シオガマギク  暑寒別岳は本峰が一四九一・四メートル。南暑寒別岳が一二九六・三メートル。日本海に面し、積丹岬との間に石狩湾を抱いている。  大雪山に源を発した石狩川は、上川盆地をうるおし、旭川、深川、滝川、江別などに町々を発展させて、石狩湾に注ぐ。その河口に近い砂浜一帯に、エゾカワラナデシコとハマナスが大群落をつくっているのを見て、娘時代に、調布あたりの多摩川の河原が、オオマツヨイグサとカワラナデシコの大群落をつくり、今はその一本さえ姿を見せぬことを嘆いた私は、昔の多摩川のようだと大よろこびして、砂浜の道を歩いた。その時、積丹岬と反対側に、海にのしかかるようにして、ピークの二つある山容が堂々と北海の空に浮かんでいるのを見て、同行の友に聞けば、暑寒別岳だとのこと。南暑寒別岳の中腹には、大きな|雨龍《うりゆう》沼という高層湿原があるのを聞き、ぜひ登りたいと思った。願いは翌年の夏に、深川市の青年会のかたがたによって叶えられ、前夜、南暑寒荘に泊まり、翌朝早く出発、オシラリカ川の上流のペンケペタン川の道に沿って歩き出した。吊り橋をわたってすぐに落差四〇メートルの白龍ノ滝を右に見、さらに登ってまた吊り橋。川は土地の傾斜が急なために、幅の広い大きな滝のようになって流れ、道ばたのダケカンバの林には、ツルニンジンやセリバオウレンや、北海道に多い背の高いヨブスマソウが群落をつくっていて、ふと、函館からの大千軒岳の登山路とよく似ていると思った。ノウゴウイチゴ、ヒメゴヨウイチゴのあるのは、十和田湖の奥入瀬川のほとりともよく似ている。川の対岸も、こちらもすがすがしいダケカンバの緑の林で、標高差六〇〇メートルほどの登りを歩きつづけながら、清流と稜線の眺めのすがすがしさで、疲れも吸いとられてしまうようである。  やがてクマザサの平坦地となって、忽然と眼の前に草原があらわれた。東西四キロ、南北二キロの雨龍沼高層湿原である。正面に南暑寒別と暑寒別本峰が、ゆったりとした姿を見せ、本峰の東側は、爆裂火口の形を示し、この湿原が立山の弥陀ケ原と同じく、熔岩台地の上にできたことを知らせる。  夏も終わりに近いというのに、湿原はノハナショウブやヒオウギアヤメ、キンバイソウやエゾオヤマリンドウがまだ咲き残り、今日の夜の七時の便で東京へ帰る事を忘れて、南暑寒別の登り口まで四キロ、立ち止まってシオガマギクやサワギキョウのスケッチをしたり、|池塘《ちとう》に近づいてネムロコウホネや、モウセンゴケにさわったりして、木道の上で昼食をとり、南暑寒別の急坂にとりついて、チシマザサの藪の中を三、四十分登って時計を見ると三時。頂上まではまだ優に一時間はかかるというので、雨龍沼と沼をかこむ山々の姿に別れを告げる。山小屋一つない緑一いろの眺め。木道はただ一本。湿原を横切って蛇行する川。川は東に流れて、あの滝のようなかたちで落ちてゆくのだ。その落ち口のあたりは草の丈も低くなっている。ときに水が溢れて、草をなぎ倒すような水勢の激しさを見せるときもあるのであろう。雪はいつごろから、この湿原を被うのであろうなどなど思いながら、同じ道を下った。  さて、次の年の九月、本峰に近い増毛から、留萌の井原和子さんに案内されて、山麓の暑寒荘まで車。本峰から南暑寒へと縦走して、雨龍沼を通るためには、私の足でたっぷり十二、三時間はかかると計算したが、標準タイムは八時間半である。潔くあきらめて、暑寒荘から急坂にとりつき、五〇〇メートル登って馬の背のような道に入る。この山は北方系と南方系の植物が三百種もあるそうだけれど、まだ咲きつづけるクガイソウやエゾトリカブトやミヤマオダマキ、花の終わったシラネアオイや、サンカヨウやエゾキスゲにやっぱり花の多い山なのだとよろこびつつ、一三〇〇メートル地点まで。あと二〇〇メートルを残して引きかえした。左側に日本海のかがやきが木の間がくれに見え、三回目は日の長い六月ころ、たっぷり時間をかけて必ず縦走したいと思った。町へ帰る道ばたで何ケ所か、スイスの牧場で見た白いマンテマの群落に出あった。 [#改ページ]

4-1 |大雪山《だいせつざん》    ジンヨウキスミレ   山路来て何やらゆかしすみれ草        松尾芭蕉  この句を読むたびに、これは何スミレであったのだろうと思う。  芭蕉が京都から山中越えをして、近江に出る時の句だという。  シロスミレかムラサキスミレか。日本には百種類に近いスミレがあるそうだから、シロスミレと言ってもツボスミレもあり、ケマルバスミレもあり、アリアケスミレもある。ムラサキスミレと言っても、濃い紫ならばただのスミレ、うす紫ならばタチツボスミレ、少し赤がかっていればノジスミレ、オカスミレ、サクラスミレというのもある。  近江の比良山地にはオオバキスミレが咲いていたが、山中越えは、比良山地ほど高くはないから、ノジスミレかタチツボスミレか、ただのシロスミレかなどと考えてしまう。  黄のスミレは高山植物に多い。一番多く見たのはキバナノコマノツメである。岩の間から顔を出している。夕張岳で、大千軒岳で、笠ケ岳で、秋田駒で出あった。  スミレはそのかたちがかわいいので、昔からひとびとに好まれ、山部赤人の有名な歌がある。   春の野に 菫|採《つ》みにと 来し吾そ   野を懐かしみ 一夜|宿《ね》にける [#地付き](『万葉集』巻八、一四二四)  このスミレも何スミレかなと思うのだが、江戸時代の国文学者の中には、これはスミレでなくてレンゲソウだという説をたてているひともある。  ジンヨウキスミレは、旭岳から黒岳まで縦走して来たとき、その山腹に咲いていたのを、環境庁の沢田栄介氏に教えていただき、その葉の形が腎臓に似ているからとうかがって、眼を近づけてみた。その後、まだ出あったことがない。ヨーロッパアルプスでは黄のタカネスミレに出あったが、ジンヨウキスミレを見たことがない。ただジギタリスもオドリコソウも黄に咲くのを見た。高い山では、どうして下で赤や紫に咲く花が黄に咲くのであろう。 [#改ページ]

4-2 |大雪山《だいせつざん》 |小泉岳《こいずみだけ》    チョウノスケソウ  小泉岳という名は、大雪山麓上川中学校教諭の小泉秀雄氏の名字からとられた。氏は明治四十四年から、四回にわたって登山。学界に大雪山の科学的調査の研究を発表し、白雲岳と小泉岳との間に先住民族の石器を発見している。  大雪山は東西一五キロに及び、北東に石狩川が、南西に忠別川が流れる。その山域の大雪山国立公園は、その規模において日本一である。今なお、南西の旭岳の谷は硫気ガスを噴きあげ、旭岳の二二九〇メートルを登ると、頂きから広大な直径四キロの中央火口が一望できる。その周辺には熊ケ岳の二二一〇メートル、北鎮岳の二二四六メートル、凌雲岳の二一二五メートル、黒岳の一九八四メートル、赤岳の二〇七八メートル、白雲岳の二二三〇メートルがずらりと並び、小泉岳の二一六〇メートルから緑岳の二〇〇〇メートルにと下る。  はじめての大雪山登山の旅ではイワウメ、ジンヨウキスミレ、黒岳の平坦地でコマクサにも初見参したが、その後、東側の銀泉台から赤岳に登る途中の駒草平では、花はただコマクサだけという眺めに出あい、夢に夢見る心地とはこのようなものかと思うほど感激した。まだ北アルプスの蓮華岳や白馬岳で、コマクサを見なかった頃である。その山旅での山中の泊まりは白雲小屋で、翌朝小泉岳への道で、はじめての花のチョウノスケソウに出あった。厚味のある濃緑の葉に葉脈が深くきざまれ、つやつやした光沢がある。花はイワウメより花弁が多くて八枚。これも小低木である。  家に帰って、帝政ロシア時代に来日した植物学者のマキシモヴィッチ氏の伝記を読み、東北生まれの須川長之助氏と植物を介して交流があり、チョウノスケソウは須川氏の発見と知った。  須川氏は、東北のどこの山でこの花に出あったのであろう。私は岩手山や月山や早池峰や秋田駒では出あえず、北岳や白馬で出あった。カナディアンロッキーの山旅にいった時は、平地の湖畔の砂礫地に、まるで雑草のようにひろがって咲いていた。 [#改ページ]

5 |夕張岳《ゆうばりだけ》    ユウパリコザクラ・ユウバリソウ  夕張岳にスキー場ができそうだという。その計画には、夕張の花たちを愛するひとたちを中心にして、猛反対の運動が起きている。私も署名して、はるかなる東京から、夕張岳の、あのけんらん豪華な花たちよ永遠にと叫んだひとりである。夕張炭鉱が閉山となって、夕張メロンだけでは立ちゆかず、やっぱり家のために身を売る娘のように、夕張岳も売られてしまうのであろうか。いつか秩父の武甲山に登った。あの勇壮な武士を思わせる山容は今や、無残に破壊され、私たちはまだ破壊の手がのびない裏側の道を辿り、そこは植林の中の暗い道で、これではとても岩場に咲く武甲山の名花イワザクラなど見るよしもないと嘆いたが、早春のまだ残雪の残るその日の山行では、思いがけなくセツブンソウに出あえてうれしかった。しかし、このセツブンソウもあと何年のいのちであろうと思えば哀れというよりは、経済優先の人間の考え方に、何とも言いようのない思いであった。武甲山は三十億円で売られたそうだから、あの山が消えるのもあと何年ですかねえなどと聞いたこともある。  私は、この十年来、毎年のようにヨーロッパアルプスのトレッキングをしたり、カナディアンロッキーの山旅をしたのだが、日本の山々は高さこそ低いが、その眺めのゆたかさで、決して他国の山々に劣らぬ魅力を持っていると思って来た。  高山植物の種類のゆたかさではヨーロッパアルプス、カナディアンロッキーに勝るとも思って来た。夕張岳の花々のゆたかさは、大雪山に匹敵する。  ところで、アポイ岳もまた花の山として名高いが、その地質は夕張岳とひとしく蛇紋岩やかんらん岩が主体であり、東北地方で一番花々がいろいろとよく咲いている早池峰山も同じである。かんらん岩や蛇紋岩は、植物にとって不利な成分をふくみ、植物は、それに耐えよう、それに適応しようとして、必死に花のいのちを咲ききるのである。  私は、高山植物が平地の野の花より美しいのは、成育に適しない悪条件の土壌に種子が落ち、その生命をひたすらに懸命に生きようとする姿が、あの美しさを生むのだと思っているけれど、夕張岳には、ユウバリの名のつく花の何と多いことか。  創土社の『北海道の高山植物』にあげられたのは、ユウバリキンバイ、ユウバリクワガタ、ユウパリコザクラ、ユウバリシャジン、ユウバリソウ、ユウバリタンポポ、ユウバリチドリ、ユウパリチングルマ、ユウバリツガザクラ、ユウバリトリカブト、ユウバリリンドウなど。その日、ツバメオモトやキバナノコマノツメ、アラシグサ、ズダヤクシュ、イブキジャコウソウ、クルマバムグラなどは、どこでも見られるので、ただただユウバリソウが見たかった。  登ったのは、大分前のことになるが、夕張市に一泊して、白金川とペンケモユウパロ川のわかれるところにあるヒュッテのそばの登山口に着き、コースは白金川沿いの旧道のとペンケモユウパロ川沿いの新道があるが、馬の背コースとよばれる新道を通り、アップダウンをくりかえし、しかも雪どけの泥濘や水たまりにズブズブと靴が入る悪路で、一の越、二の越と過ぎて、全コースの半分の望岳台に着いた時は、一歩も前に進めない疲れかたであったが、とにかく歩き通して一六六八メートルの頂上の一歩手前の平坦地までゆけたのは、オオバミゾホオズキやエゾノリュウキンカ、ナンブイヌナズナの鮮烈な黄金の色と、ユウパリコザクラの赤紫と、はじめて見たユウバリソウのおかげであったと思う。  奇岩が次々にあらわれたり、湿原になったり、崩壊地が眼の前にひろがったりと思えば、水たまりにミズバショウが咲いていたりという地形の変化も、この山の魅力の一つであろう。  ユウバリソウは頂上に近い崩壊地形の岩の間に群生していて、ユウパリコザクラの赤が、ハクサンコザクラの赤にくらべてずっと濃く、華やかなのにくらべて、意外に地味な色と形であった。これらの花たちや特異な地形は、スキー場と共にその何分の一かが失われるのであろうか。胸もつまる思いである。 [#改ページ]

6 |羅臼岳《らうすだけ》    ジムカデ・チシマツガザクラ  シコタン。その名が花の名につけられたのを知ったのは、利尻山の頂きの石祠の前に、腰を下ろしてやっと登れたと一息ついて足許を見た時、すぐかたわらの岩かげにエメラルドグリーンも美しいシコタンハコベを見た時である。ハコベはウシハコベ、ミヤマハコベ、サワハコベと同じナデシコ科でいろいろあり、高山植物となっては、クモマミミナグサやミヤマミミナグサ、カトウハコベ、タカネツメクサと平地のハコベよりずっと花も大きく、葉の形も繊細なのがたくさんあるけれど、シコタンソウの葉の色、花の形の典雅さにはどれも及ばないと思った。その名のシコタンは、北方領土の色丹である。ソビエトが、おのが占有を主張して還らざる島である。そこに咲いているのはシコタンハコベのほかにシコタンギキョウ、シコタンキンポウゲ、シコタンシャジン、シコタンタンポポのほかにシコタンソウがあるという。  羅臼岳は一六六一メートル。知床半島の根元、斜里岳の北にあって、同じカムチャツカにはじまる千島火山帯に属し、硫黄岳、サマッカリヌプリと北につづく。このあたりはヒグマの天国とかで、知床の自然はヒグマによって守られているというひともいる。  私が、岩尾別から登ったその日の二、三日前も、中腹の極楽平で、ヒグマに出あったひとがいると管理小屋のひとが言った。たった一人、真っ赤な短いパンツに足はサンダル履きの元気のいい娘さんが下りて来た。東京だという。東京はどちら、と聞くと日野市とのこと。いつか利尻山に登った時もジーンズのスカートにサンダル履きの娘さんが、これまた一人で登って来て、頂上直下の岩礫地で挨拶したが、こちらは京都からとのこと。利尻はヒグマの心配がないけれど、羅臼にたった一人で短パン姿というのは、ただただびっくりさせられた。  極楽平から銀冷水へと沢沿いの道は、ヒグマのことを考えなければ歩きよいハイキングコース向きで利尻よりはずっと楽である。そして花の種類も多い。エゾトリカブトの濃い紫。クルマユリの朱赤。ツバメオモトの純白。黄のエゾオトギリ。流れの近くにはオオバミゾホオズキも、元気を出して、元気を出してとはげましてくれる。  ヒグマに出あったら、うしろを見せては駄目。木によじ登っても駄目、じっと相手の眼を見てつったっていること。芦別岳で一人の高校生が七時間もそうしていて、ヒグマの方が去っていったと聞いたことがある。もともとは、ヒグマの棲家に人間が勝手に入りこんでゆくのだから、当方の心にお庭に踏みこんで失礼というような気持ちがあれば、ヒグマにも通じるのではないだろうか。何とかヒグマとのうまい交流法、意思の疎通法はないかと考えさせられるのは、この山の花があまりにも素敵で、大勢のひとに見てもらいたいからである。羅臼平へ上がってゆく道は、沢がだんだん縮まって、両方の谷の岸壁の花たちが見わたせる。リンネソウ、タカネトウウチソウ、ミネズオウ、エゾコザクラ、エゾカワラナデシコ、エゾキンバイソウ、ジムカデ、チシマギキョウ。それらがひとかたまりずつ群生していて、まるで天然の高山植物園の中をゆくようである。標高差四五〇メートルほどを羅臼平まで二時間。その一歩手前の岩場で、これははじめてのチシマクモマグサ、シコタンソウの小さな群生に出あった。  そして羅臼平は一面の、これもはじめてのチシマツガザクラがびっしりと生え、その根元にコケモモがいっぱい生えて、もう赤い実をつけていた。ヒグマの大好物である。横切りながら、ヒグマに出あわないかと気をつけながら、右手の羅臼本峰に向かった。頂上からは叫べば声が届くかと思うばかりの近さに、還らざる|国後《くなしり》島が浮かんでいる。  同行の『北の山の栄光と悲劇』の著者の滝本幸夫さんが言った。 「あの富士山と同じような形が、成層火山のチャチャヌプリ。戦前の日本の岳人のあこがれでした」  足許の岩場にも、点々としてシコタンソウが咲き、私は花に言った。 「お前も早くふるさとに帰りたいでしょう」 [#改ページ]

7 |斜里岳《しやりだけ》    エゾゼンテイカ  ユリ科の中で、一番たくましく力強い感じのするヤブカンゾウは、ホトトギスもヤマユリもオニユリも消えた、汚い東京の町中に、わずかに残って、電車の線路のわきの土手などに咲く。『万葉集』の中の「わすれぐさ」はヤブカンゾウの別名と聞いて、私はこの汚い東京の町を忘れずにいてくれる花を「ワスレズグサ」とも呼びたいと思った。  同じ仲間のニッコウキスゲもたくましい。毎年の七月には、よく生前の平野長英さんから、尾瀬だよりが来た。「ニッコウキスゲ」の満開を見に来て下さいと。しかし私は、花よりも、人の方が多そうな夏の尾瀬は避けて、北海道の山々を歩いた。ここでは、ヤブカンゾウのように八重咲きではないが、一重のエゾゼンテイカに方々で出あった。ニセコ、余市岳、夕張岳、大千軒岳、白雲山。エゾキスゲというのにも出あった。本州でも、ゼンテイカとかニッコウキスゲとか区別して言うのだけれど、私にはあまりそのちがいがよくわからない。わかるのは、浅間高原や榛名山頂の湿原にあるユウスゲが、キスゲやゼンテイカより、花びらも細く、色もうす黄で、いかにもはかなげなのが好ましいというだけ。キスゲやゼンテイカは、エゾと名のつく方は、さらに花の色も濃くたくましい。  斜里岳のエゾゼンテイカをことによく覚えているのは、ゆるやかな登りから沢に入り、|急湍《きゆうたん》、急崖が多くあらわれて沢の水が滝となり、滝の中を、鉄分の多い岩で靴がすべらないというままに濡れながら横切り、道はガレ場の急坂となって、フウフウ言いながら鞍部に辿りついた時、ぱっと左の山腹に、この花の三、四輪を見て元気づけられたからである。  斜里岳は一五四五メートル。これも富士に似た成層火山で、知床の入り口に端整な姿でそびえているが、タカネナデシコ、エゾグンナイフウロ、ヨツバシオガマと花の種類も多く、頂上からのオホーツク海の眺めも素敵である。なお、ヨーロッパアルプス十数回のトレッキングの旅で、このエゾゼンテイカには一度も出あわなかった。 [#改ページ]

8 |目国内岳《めくんないだけ》    イワウメ  シラネアオイは日光白根に多いのでシラネという名がついたらしいが、北アルプスの白馬でも鹿島槍でも東北の雄国沼のそばの猫魔ケ岳でも月山でも出あっている。日光白根山のように、たくさん咲いていないので、ひとがとらないのかもしれない。日光白根山は、あまりにも多いので、つい一本ぐらいと思う不心得ものが多いのかもしれない。アオイの名は園芸種の立葵に似ているからというけれど、こちらの方がずっと気品がある。その色といい、かたちといい、優雅そのもので、だれしもが出あってよろこぶシラネアオイは絶対に山においてもらいたい。そして、この山のシラネアオイならばひとにとられないだろうと思われるのが、北海道の南、ニセコ連峰の中で一番俗化されていない目国内岳一二〇三メートルの手前の、前目国内岳の根曲がり竹の藪の中に咲く花たちである。クマの大好きな根曲がり竹の新芽の出る頃が、シラネアオイの花盛りで、クマがまもってくれると思う。  目国内岳は礼文・利尻と同じ那須火山帯に属し、|蘭越《らんこし》から岩内に向かう途中の新見峠の少し先に登山口がある。前目国内と目国内岳の間は一面の根曲がり竹の湿地で、夏でも雪渓を残し、頂上の岩場に登ると、前方に岩内岳が成層火山の長い裾をひき、北に日本海、南に羊蹄山が遠望されて、いかにも北海道らしい広大な眺めである。この山の魅力は、シラネアオイのほかにもエゾノシモツケソウ、エゾゼンテイカ、エゾフウロ、ベンケイソウ、ミツバオウレンなどの草の花のほか、オオカメノキやムラサキヤシオやコヨウラクツツジなどの木の花の多いこと。そして、頂上直下にはイワウメが群生して、大雪山と同じような、乾性お花畑をつくっていることである。  イワウメを大雪山ではじめて見た時は、このまま写生して着物の模様にしたいと思った。岩礫地にびっしりと生え、まったく梅のような葉に、梅のような花を咲かせる。よく見ると、草でなくちゃんと枝があり、花はその枝先に咲く。小低木である。花を咲かせるまでに何年かかるのだろうかと思った。 [#改ページ]

9 アポイ|岳《だけ》    ミヤマハンショウヅル・アポイゼキショウ・アポイマンテマ  アポイ岳は、魚のカレイに似た北海道の、南の突端に近く、様似から襟裳岬へ向かう途中の、日高山脈の南のはじっこに八一〇・六メートルの頂きを持つ。太平洋の汐風を東から西からと受け、主体はかんらん岩だが、高山植物の宝庫として八百種に近い植物が生え、昭和十四年に天然記念物、二十七年に特別天然記念物とされている。一億五千年も前から日高造山運動の一環となり、霧の発生の多いところなので、古い時代からの植生が保たれているのだという。アポイキンバイ、アポイタチツボスミレ、アポイアズマギク、アポイクワガタ、アポイゼキショウ、アポイヤマブキショウマ、アポイマンテマ、アポイアザミ、と、特別にアポイの名のつく花があり、北海道の高山植物にはエゾの何々というのが多い中で、そのエゾの何々よりも微妙な変化があるのであろう。  大分前の八月、様似の町で講演したあと一泊して、あくる日は風がないままに雨の中を出発。マムシを養殖しているのだという|藁葺《わらぶき》屋根の小屋を右手に見て登山口に到着。マムシが逃げ出すことはないのですかと案内の教育委員会のひとに聞くと、「ない、大丈夫です」。ま、一匹二匹逃げ出しても、この冷たい雨の中ではやっぱり大丈夫だろうと監視小屋まで四キロ、ミズナラやダケカンバやシナノキの林の道をゆるい登りにかかる。ノリウツギの白い花が咲き、針葉樹帯に入ると、エゾマツ、トドマツの林の中に、エゾノシロバナシモツケやツルシキミ、コヨウラクツツジを見る。監視小屋は標高五〇〇メートルのところにあり、ここまではアポイ何々というのには出あわなかったが、ヒダカトリカブト、エゾノサワアザミ、ヒオウギアヤメと紫色の花が多く、ことに南面の山腹のダケカンバにかかったミヤマハンショウヅルの紫が濃く美しく、丹沢や秩父で見たのよりも花片が大きいようであった。  私の兄は北海道大学医学部の出身で、スズランの頃は、よく送ってくれたが、私が紫の花の好きなのを知って、札幌から近い手稲山や定山渓でとって来たという、ミヤマオダマキや、クロバナハンショウヅルを送って来てくれたことがある。軽井沢の一〇〇〇メートルあたりの高原のオダマキは、ヤマオダマキで黄褐色であり、ツル植物の花では、ツルニンジンやバアソブぐらい。北海道では、低い山でも平地でもこんなに素敵なツル植物の花が咲くのだと羨ましかった。ハンショウは半鐘の形をしているからという。  二時間半ほどして、ハイマツ帯の中を馬の背の地形に出ると、岩礫地帯となって、アポイゼキショウの白い花の群落が、岩の間を埋めていた。平地に咲くセキショウは、地味な黄褐色の花穂をあげるだけだが、礼文へいったとき、紅の濃淡の小さな花をつけたチシマゼキショウを見た。アポイゼキショウはその花が白く清楚である。オゼソウに似てもっと華やかである。岩の間には、葉が細く小さく、花の大きいアポイアズマギクも、花穂のぼってりと重いアポイヤマブキショウマもあった。一番多いのはエゾコウゾリナで、浅間高原でよく見かけるのよりはずっと背も小さい。そして、キク科の野生の花としてはかなりたくましい感じのコウゾリナだが、寒冷地ではこんなしおらしい姿になるのかとおもしろかった。  日高山地の造山運動は、一億五千年前から一千五百万年前に及んでいる。日本列島が、大陸から分離したのは、二百三十万年前と言われているから、アポイ岳を南端とする日高山地は、大陸につづいている時代からの花があるのであった。私がさがしているのはキタダケソウに似ていると言われるヒダカソウであったが、岩礫地帯からもっと巨岩の重なりあった頂上近くまでいっても見つからず、雨よけに立っていた巨岩の下に、礼文で見た白いマンテマの、赤いのを見た。アポイマンテマである。ヒダカソウと同じ仲間の花にはインスブルックの雪渓で出あった。ピレネーやアルプスにかけてあるという。また、カナディアンロッキーの山麓地帯で、黄のハンショウヅルの咲いているのを知った。カナダではカタクリも黄に咲く。岩石の内容によるのであろうか。 [#改ページ]

10 オロフレ|山《やま》    ツマトリソウ  ツマトリソウとは、味わい深い名前である。つまは妻。「いも」と同じに男がその連れ合いの女を言うのだが、女が男をよぶ場合もある。   大君の |行幸《いでまし》のまにま |武部《もののふ》の   |八十伴《やそとも》の雄と 出で行きし |愛《うつく》し夫は…… [#地付き](『万葉集』巻四、五四三)   わがつまは いたく恋ひらし のむ水に   影さへ見えて よに忘られず [#地付き](『万葉集』巻二十、四三二二)  この場合は、男が女をつまとよんでいる。  さて、ツマトリソウとなると、つまを迎えるのか、よそのつまを奪うのか。  もう一つ、つまは褄。着物の裾の両端をさして言うことがある。裁縫の下手な私などは、褄の部分を縫うのに苦心した。さて、左褄をとると言えば、芸妓さんが晴れの座敷に向かうときの姿となる。『伊勢物語』の中に、在原業平が、三河の八橋で、カキツバタを前に、都に残したいとしいひとを、花の名によせて歌った有名な作がある。   からごろも きつゝ馴れにし つましあれば     はる来ぬる 旅をしぞ思ふ  このつまには、妻と、褄と両方がからんでいる。ところで花のツマトリソウのツマは、白い花びらの先にわずかな赤が、ふちどるようについているからだという。  私は、この花に苗場山で、蓼科山で、目国内岳、余市岳でと、方々で出あっている。この花にあうと、ああ山に来たなと思う。オロフレ山は一二三一メートル。洞爺湖からも室蘭からも登別からも近い。九四〇メートルのオロフレ峠からわずかな標高差で、三時間もあれば登って来られ、イワカガミ、イワウチワ、シラタマノキ、シラネアオイ、チシマフウロ、チングルマ、エゾゼンテイカと花も多いが、何よりもヒグマが出そうもないという安心感が持てるのがうれしい。そこに、どこにでもあるツマトリソウがいっぱいあると、なお心の安らぐ山である。眺望も羊蹄山、ニセコ連峰、樽前山を見わたせて素晴らしい。 [#改ページ]

11 |室蘭岳《むろらんだけ》    オクエゾサイシン  室蘭岳は北海道の室蘭市の背後にあって九一一メートル。東にアムイヌプリの七四五メートル、西に八五五メートルと八二五メートルのピークを持つ尾根を連ねている。道南地方は、千島火山帯と、那須火山帯の重なるところで、室蘭岳も北に火口壁と思われる急斜面を持つが、南面はゆるやかな展望の地形となっている。  室蘭へゆく度に、いつか登りたいと思っていた願いが果たされたのは、数年前の六月で、当時は室蘭社会保険所長の滝本幸夫さんと、北海道庁の新技術産業課係長の鈴木和夫さん、室蘭カトリック教会のマイレット神父に、信者の野中由子さん、北海道における山仲間の井原和子さん、町田智津子さんたちのおかげである。  私が室蘭岳に執着したのは、明治六年に二十六歳で来日し、大正四年に六十九歳で台湾で死なれた植物研究家のフォーリー神父が、先ず日本の植物の多種多様性におどろき採集に熱中しはじめたのが、室蘭カトリック教会の司祭になってからであるという。  一九八〇年から九〇年代にかけて、ヨーロッパアルプスやカナディアンロッキーやピレネーを歩いて、私の知ったのは、あちらは量は多いが、日本の方が、高山植物の種類がずっと多いということであった。  北海道は、緯度的にヨーロッパに近く、パリ外国宣教会に属していたフランス人のフォーリー神父にとって、明治半ば以前の北海道は、全く天上の花の楽園とも思えたのではないだろうか。  高山植物の中には、学名でフォーリーの名のつくものが幾つもある。皆、神父の発見命名による。  あまりにも植物に夢中になった神父は、北海道から台湾の布教に任ぜられる。しかしここもまた植物の宝庫なのであった。彼は、教会に戻る時間も惜しく、山の巨木に縄で自分をしばりつけて寝た。そして山蛭におそわれ、山蛭が鼻から脳に入りこんだことで、死なねばならなかったのである。  私は室蘭にまだ、フォーリー神父が見たであろう山の花が残っていると思い、神父をしのんでどうしても登りたかった。  その朝は快晴で、八時に麓について八時十分出発。標高四六〇メートル地点である。ミヤマハンノキやコナラの林の中を進む。ベニバナノイチヤクソウが咲いている。尾瀬にも多かったと思い出す。ギンリョウソウもある。夏鶯の声。小さな沢沿いの道はがんばり岩と書かれた岸壁にぶつかるが、自動車のタイヤを積み重ねた階段が出来ている。大きな火山岩なのであろう。このタイヤ階段のないときは、やっこらさっと岩角に取りつきしがみつきして、シラカバ林にとつづく道に入ったのであろうと思った。  標高七五〇メートルの「休み石」地点までに見たのはハクサンチドリ、ヤマハハコ、オオユキザサ、クルマユリなど。ヤマトリカブト、ベンケイソウなどもあって、ここも花の山だな、でも茂りに茂るクマザサが、花たちを大分おしのけたかもしれない、フォーリー神父の時代はどうであったろうと想像しつつ、一面の木々やクマザサの緑一いろの眺めを楽しむ。うす紅い花がある。ハマナスかと思ったらタカネバラである。北アルプスあたりなら、二千メートル越えなければならぬ花たちが、東京近くで言えば七〇〇メートル前後の高水三山に咲いているということ。やっぱり北海道は低くてもいい花がいっぱい見られて、それが何よりのありがたさと思った。下から電気草刈機械を背負った老人が登って来た。老人と言っても、しっかりとした足つきで、背もピンと伸びている。滝本さんが「ごくろうさま」と挨拶すると、にっこりとわらって首を下げたまま、頂上目指してたのもしい足どりで登ってゆく。滝本さんに聞いた。どういう方? 室蘭にある大会社の新日鉄を定年退職したひとが、独力で室蘭岳の整備に着手し、何百回となく登られてクマザサを伐り払って、だれでも歩ける山にされたのだという。あのタイヤも自分で運んで来て、独力でつけてくれたのだという。  頂上に着くと、そのボランティアで、ふるさとの山を整備した高田昌美さんも休んでいた。年は七十二歳。ゲートボールなどやって勝敗を争うより、他者のためになる仕事をしたかったと言う。すっかり感心させられてしまった。  頂上からの眺めは広大で、すぐ眼の下に室蘭の町がひろがり、その先に海がある。室蘭港がつくられている。  この頂上には又、滝本さんが『北の山の栄光と悲劇』に書かれた札内川の沢で、徒渉中の友が流されようとしたのを助けて、自身流された室蘭工業大学生の井出隆文さんの墓と、北日高で遭難死した同じ大学生の山口雄三さんの墓と二つが並んでいる。  二つの墓の主の霊魂は、自分の学んだ大学を、山の上から見下ろしている。山での遭難死者は数多いが、学校の見えるところに分骨された墓どころをつくってもらえる例などあまり聞いたことがない。高田さんの山を思う心と共に、室蘭は、やさしいひとの集う所だと思った。  帰りの下山道で、室蘭山岳会の及川さんから、オクエゾサイシンの大きな葉を教えてもらった。道南特産のエンレイソウもシラネアオイも咲くという。 [#改ページ]

12 |白雲山《はくうんざん》    ナガハノキタアザミ  コンサイスの日本山名辞典に、この白雲山は出ていない。白雲山とあるのは一一〇三メートルの妙義山連峰の中の一峰。白雲岳となると、北海道の東大雪の二二三〇メートルである。両方とも登っているけれど、私も北海道の糠平温泉に近く、然別湖に臨む天望山の一一七三メートルにつづく一一八七メートルの白雲山は知らなかった。天望山は山名辞典に然別湖の展望台としてのっていて、その山つづきの白雲山まではあまり足をのばすひとがないのかもしれない。  しかし、この山は意外に花の多い山で、前日に北見山脈の北端にあるウエンシリの一一四二メートルに登って糠平温泉に一泊。トウマベツ川に沿って車を走らせ、天気がよければ、白雲、天望と二つの山をかけたのであったが、朝からの大雨しきりで、せめて白雲山だけでもと登ったのである。雨なのに視界は意外とよくて、一〇〇メートルぐらいまでは見えるのがすべてトドマツ、シラベ、ダケカンバの大樹の林である。ヒグマの巣ととたんに思ったが、この雨ではヒグマも出まいと、標高三九〇メートルの駐車場にマイクロバスをおく。同勢十五人の女ばかり。いつも山でお世話になる滝本幸夫さんと、室蘭山で御一緒した同じく社会保険課の中川泰介さんが案内して下さった。滝本さんは健脚組をひきいて、できれば天望山までとピッチを上げ、私はひどいぬかるみ道を滑ったりころんだり、このぬかるみは、火山性の山に共通する火山灰の堆積物だと思う。  天望山も白雲山も成層火山なのである。ぬかるみが過ぎると、火山礫のごろごろ道になり、日光白根の道とよく似ていると思った。あちらはシラネアオイがいっぱいあったが、こちらはツリガネニンジンやエゾトリカブト、ヒゴタイによく似たナガハノキタアザミ、いずれも雨に濡れて、いろが冴え冴えと美しい。  道の両側はカラマツやシラカバの疎林で、陽がさしたら、これらの山の花たちが、木々の緑の中に、どんなに美しく映えることかと思う。  コバイケイソウもオオユキザサもチゴユリもタケシマランも咲いている。皆白い花たちである。  シラカバの林の中にオオウバユリが群生している。又も、陽がさしてくれるように祈りたくなる。これらの花たちは、木々の緑の中で、その白さが映えるのだから。  オオウバユリは、札幌の植物園ではじめて見て、その堂々たる姿に気品をそなえていると思った。  一時間半近く、急坂が終わって、平らなところになったが、これが歩きにくい大きな岩礫の連なりである。ここでもこけつまろびつと言った不安定状態のまま、とにかく頂上めざしてせっせと歩く。止まっていれば、寒さで歯がガチガチと鳴る。  北海道の山は内地の山に対して緯度的に、千メートルは高い内容があるという。この山も内地ならば飯豊山あたりに匹敵する。登山口から三時間近くかかって岸壁そそりたつ頂上に着いた。然別湖は見えなかったが、うす紫のイワブクロがいっぱいに咲いていて満足した。 [#改ページ]      東北・北関東

13 |北八甲田山《きたはつこうださん》    サンカヨウ・サワラン  八甲田山には二度いって、二度目にようやく酸ケ湯から、大岳の一五八五メートル、井戸岳を経て|田茂萢《たもやち》岳の一三二四メートルまで縦走することができた。はじめての時は酸ケ湯から下毛無岱、上毛無岱を通って井戸岳の一五五〇メートルから大岳へと向かったのだが、雨中登山となり、笹藪の中の急坂から、木道の整備されたナナカマドやアオモリトドマツやダケカンバの樹林帯から、下毛無岱へと進んだ。小さな沢を何本も横切り、樹々がだんだん背が小さくなってゆく。明治三十五年一月末の八甲田山では、青森第八師団第五聯隊の将兵二百十人が、田代平に向かって雪中行軍をした時、風雪の中で二十四日、二十五日と露営、二十六日に、各自が四散して十一名をのぞく全員が雪の谷間に死んだのだが、この複雑な小さな沢、高度を増すにつれて風当たりが強いためか、背が低くなってゆく樹々を見ると、これらがすべて雪に埋もれたとき、道に迷うのも無理ないと思われた。  私は昭和三十年ごろ、青森にはじめていった時、その事件をこれもはじめて聞かされ、その痛ましさに胸をつかれた。軍の不名誉として、戦前は、地許のひと以外には知らされなかったのであろう。  ところで、その日、木道の急坂を登り、井戸岳のヒュッテに辿り着こうとした時、仲間の一人が急に顔面蒼白となり、道ばたの草の中に倒れてしまった。タンカを待つ間、一人介護したが、急変を案じて、胸がどきどきした。リーダーの三木慶介さんが下毛無岱まで負って下ろし、先に酸ケ湯に知らせたものがタンカを持ってきて、酸ケ湯につれて来たのが強風と横なぐりの雨の中である。救急車で私がついて青森の病院へゆく途中、消防署のひとに聞いてみた。八甲田山に今なお、死んだ将兵の怨霊があらわれるのですか。消防署のひとはわらって、「そんなことはないが、自殺者はよくあり、低い木の下に入られると、遺体がなかなかあらわれません」。  さて、二度目の八甲田山ゆきは、三木氏の知人の田代平にある別荘に、八戸の久本清子さんと泊めてもらって実現したのである。酸ケ湯に車をまわす途中の馬立平で、雪中に一人銃をかまえて立ちつづけ、悲劇を救援隊に告げた後藤伍長の銅像が建っていた。この痛ましい事件は、上官が、地許のひとを案内にたのまなかったのが原因だったと言われている。  酸ケ湯から大岳への道は、これも急坂の地獄谷という大きな崩壊地形や渓流をわたったりするが、天候が前回とまったく同じに、強風と霧で、この日本列島の北の山が、太平洋と日本海を両方に控え、いかに気象の変化が多いかを知った。ことに六月や七月の梅雨どき。前回は七月であった。今度は九月の寒冷前線通過とかで、地獄谷のナナカマドやウラジロヨウラクは紅葉し、マイヅルソウやサンカヨウは実となっている。火山灰地の泥濘の中や、すべりやすい露岩の上を這うようにして進んでいった。ベニバナイチゴの赤い実は一つもない。この辺はクマが出るのかもしれない。クマの好物の根曲がり竹も多いようだと思ったが、この寒さではクマも出まいと気持ちだけはゆったりとして大岳直下の仙人岱に着く。チングルマもミツバオウレンも皆花がらばかり、清子夫人の夫君の欽也氏が前夜に、エゾエンゴサクやサワランもあると言われたが、この枯れ草の湿地の中ではまず姿は見られないとあきらめ、「八甲田清水」という湧水を飲んで急坂を登る。風はいよいよ吹きまくり、そうそうに井戸岳との鞍部のヒュッテに逃げこんで昼食。赤倉山への道は嵐がおさまって濃霧となって視界一〇メートル。時々の霧の晴れ間に崩壊地形の谷が見える。ミヤマハンショウヅルもミヤマオダマキも花がらとなっている。田茂藪に向かう根曲がり竹の藪の中でやっとうす陽がさして、湿原の中に入ってサワラン、モウセンゴケなどをさがしたかったが、ロープウエイを眼の前にすると、早く冷えきったからだを温泉に入れたくて駆け出してしまった。 [#改ページ]

14 |八幡平《はちまんたい》    タテヤマリンドウ・イソツツジ  八幡平と名づけられた広大な火山地形の中には、茶臼岳、|畚《もつこ》岳のような熔岩円頂丘もあり、後生掛温泉は泥火山の不気味さを見せ、玉川、藤七温泉の谷にはまだ硫気をさかんに噴き出している。岩手山、十和田湖等を加えて十和田八幡平国立公園とよばれるが、岩手山本峰の西に、台状火山の姥倉山があり、十年前の夏に、岩手山に登った私は、折からの雨で霧にまかれて標識がよく見えず、姥倉山の一五一七メートルから右折して本峰にゆくのを左折して湯ノ森の一〇四九メートルから松川温泉に下った。おかげで北上川に注ぐ松川の、八幡平と岩手山との間の谷の源流に近く、石沼や青沼、五葉沼などの沼が、アオモリトドマツの樹林のかげを落として川の両側に点在するのを見ることができ、これらの小沼は、かつての噴火口のあとであろうかと思ったりした。  はじめて八幡平にいったのは、大分前の秋の十月に、秋田県の大館市から、宮城県の気仙沼市にゆこうとして、八幡平の北のトロコ温泉に一泊、朝五時に南下して、鹿角市の東から後生掛温泉の下を通り、八幡平アスピーテラインは通らずに、崩壊地形の玉川温泉、新湯のかたわらを過ぎて、稲刈りの真っ最中の生保内を通って、田沢湖で朝食をとった。晴天のこの日は、アオモリトドマツの緑にブナの黄葉が映えて、空の青まで、黄金色にかがやくかと思うばかり。カエデ類の紅葉が美しく渓流の水は澄んで、電車で気仙沼に着いた夜の九時まで、私はこの世ならぬゆたかな色彩と形が、胸いっぱいに溢れているようで陶然とした。十一月には雪が降るとのことで、雪の白に映える眺めはさぞ美しかろうと想像した。  二、三年して乳頭温泉郷の黒湯に泊まり、秋田駒往復、八幡平の畚岳の一五七八メートルに登る計画をたてた。前回と同じ十月の半ば。東京から夜行バスで田沢湖畔で昼食をとり、秋田駒の|女《め》岳・|男《おとこ》岳と駒ケ岳一六三七・四メートルの鞍部にある阿弥陀池まで歩いて、女岳の頂きの東側に、まだ白煙の昇るのを見て満足した。花の多い秋田駒も|流石《さすが》に十月の半ばは、ガンコウランとコケモモの実ばっかりとなっていたが、俄かな突風と共に雨滴がとんで来たとみる間に雪になった。私たちは、黒湯の露天風呂で雪に降られる味も格別とよろこんでいたのだが、翌朝七時出発の空を見上げて暗澹とした。止めどなく止めどなく細かい雪が舞い落ちて来て、一五〇〇メートルの等高線を切ってゆく八幡平はどうしようということになった。乳頭温泉郷は七、八〇〇メートルである。私は「ゆきましょう。雪の八幡平へ」と叫んだ。そして、バスはまた田沢湖畔にもどって、田沢湖に注ぐ玉川の谷を北上。いつかの秋の錦繍の美とちがって、眼に映る限りが八幡平の緑と雪の白という美しさ。秋田県側はあたたかいのか、雪は道路の両側に一〇センチほど。鮮緑のアオモリトドマツと鮮紅のヤマモミジは、雪に洗われてさらに生き生きしている。玉川温泉が雪の中に|濛々《もうもう》たるガスを噴き上げ、後生掛の泥火山は雪で灰褐色にいろどられ、ただただ溜息が出るばかり。畚岳に向かうとまた吹雪になったが、標高差一五〇メートル。全員の中で唯一人途中で引き返したのは、残念ながら私。露天風呂で風邪をひいたらしく、歩きだしたら悪寒戦慄が止まらなかった。  そして四回目の八幡平は、初夏の六月。盛岡のスイス外国宣教会の神父さんたちと、盛岡を朝の六時に出発。源太森の一六〇〇メートルを目ざした。晴天。ときどき曇り。一五〇〇メートル前後をゆくアスピーテラインの道路の両側は、雪掻車に掻きあげられた雪が二メートルくらい積もっていて、標高差一〇〇メートルの源太森は頂きまでズブズブと靴が沈む。雪の少ない秋田県側へと車を走らして大沼のほとりで外に出る。雪は樹間以外はまったく消えていて、小鳥の|囀《さえず》りもにぎやかに、沼のまわりはまずミズバショウ、リュウキンカが山上の早春を告げて色も鮮やかに咲き、イソツツジの群落も、水面のミツガシワも花盛り。道ばたのタテヤマリンドウも大きな|蕾《つぼみ》になっている。八幡平の魅力は、針葉樹、濶葉樹の森と、沼と花と温泉にあると思った。 [#改ページ]

15 |種山高原《たねやまこうげん》    ムシカリ  大船渡の教会からクリスマスの集まりによばれたとき、近くに山はありませんかと聞くと、いつか登った五葉山と同じ北上山地の種山高原がよいという。五葉山の北には、蛇紋岩やカンラン岩の花の名所の早池峰山があり、五葉山にも花は多かったが、種山高原も同じ岩石である。  何よりも宮沢賢治の「風の又三郎」の舞台になっているというので心魅かれた。 「風の又三郎」は、北海道から転入して来た生徒が、新鮮なおどろきを同級生に与え、風のように又去ってゆく。  私は昔、「セロ弾きのゴーシュ」をアニメ映画にする台本を書いたことがあり、宮沢賢治作品の中にひそむ幻想的な詩魂を尊敬している。  宮沢賢治は岩手県の花巻のひとだが、盛岡の高等農林学校を出て、地質を研究し、農学校の教師となっていれば、多分馬に乗ってでも、春や秋の晴れた日には四十キロの道を、種山高原まで、馬のたてがみを風になびかせながらやって来たことがあるであろう。  種山高原は南北約十五キロ、東西約六キロ。車道が出来ていて、高さ七百メートルのところまで車でゆける。あとは百メートル、百五十メートルのゆるやかな丘を登るだけと現地のひとに聞かされて、十二月も末の晴れた昼間、大船渡から車を走らせたが、積雪三十センチ。谷々は深い雪に埋もれていた。  しかし見渡す限りのゆるやかな丘の連なりは、スイスの牧場さながらである。この高原は五月中旬から十ケ町村の三百頭あまりの乳牛や肉牛や乗用馬の放牧場になるのだという。  それならば今度は五月はじめの、まだ家畜の来ないときの緑の丘々の眺めをたのしみたいと、種山高原から早池峰の神楽を見る旅を計画して、二十名程がバスをチャーターして東京を出発した。夜は花巻温泉。午前中に花巻にある高村光太郎の旧屋を見て、町のひとにたのんだ鹿踊りを見せてもらった。種山高原には宮沢賢治の詩碑があり、次の詩が彫られていると、種山牧場事務所のひとにもらったコピーは次の通りである。   種山ヶ原の 雲の中で刈った草は   どごさが置いだが 忘れだ 雨ぁふる   種山ヶ原の せ高の芒あざみ   刈ってで置ぎ わすれで雨ふる 雨ふる   種山ヶ原の 霧の中で刈った草さ(足拍子)   わすれ草も入ったが 忘れだ 雨ふる   種山ヶ原の置ぎわすれの草のたばは   どごがの長根で ぬれでる ぬれでる  この詩は方言をそのままつかっていて、足拍子とあるのは、この歌を歌いながらおどり、ここでドドッと足拍子をふんだのであろう。  これは賢治がつくった劇の中で歌われたものというけれど、私は、優雅な中にも勇ましい鹿踊りを一つの体育館の中で見ながら、これが種山高原のあの草の上であったらと想像した。むせぶような草の香の中に、鹿踊りのひとの紅を基調にした衣裳が跳んではねる。太鼓が鳴る。背景はどこまでも高い北国の空。浮かぶ白い綿雲。その足許に咲く野の花たちは、春はスミレにタンポポを主体にしてニワゼキショウやネジバナも咲くであろう。  そして五月は。  私たちのバスは種山高原の中で一番高い物見山の下までいった。そのあたりはレンゲツツジが群落をつくっているがまだ蕾がふくらんでいるだけ。東北の初夏は五月にレンゲツツジの咲く赤城山よりおそいのである。しかし途中の林の中にはタニウツギ、キササゲ、ミヤマガマズミ、ミズキ、クサギの花盛りでムシカリ、ホオの白い花も目立った。  賢治の碑の前はひろい草原になっていて、うす紅のアズマギクが咲いていた。このひろい丘の上の夜空の星はどんなに美しいでしょうと十二月に来たときいうと、同行の大船渡のお医者さんの菊池洋先生が、夏の夜はスターウォッチングがあるのだと教えてくれ、私が冬の種山高原をわたる風の音が聞きたいというと、録音して送ってくださった。 [#改ページ]

16 |秋田駒《あきたこま》ケ|岳《だけ》    ヒナザクラ・キオン  カルデラ湖である田沢湖畔に美しい裸身の美少女の彫刻がある。この地には、自分の美貌を神に祈った娘が、満願の夜、そのまわりじゅうが水となり、ついには湖となり、娘は大蛇になったというたつ子姫の伝説がある。たつ子姫は水神に仕える|巫女《みこ》だったという話もあるが、この像は、東に向かって眼をあげている。その眼差しに入るのは、秋田駒の美しい成層火山的な端麗な姿である。私はふと想像してみる。娘は秋田駒のようにりりしい姿の青年に恋をして、報いられずに湖に身を投げたのではないか。秋田駒には、いつかの十月半ばの雪の日以来、二度登った。一度はやはり秋の十月の半ば。前夜は岩手山麓の網張温泉に一泊。五時に出発して、西側の水沢沿いの道を阿弥陀池の一五三八メートルに。|女《め》岳に登って北に下りて湯森山、|笊森《ざるもり》山の一五四一メートルとまた登り、|千沼《せんしよう》ケ原から東に向かって平ケ倉山と平ケ倉沼の間を通って|葛根田《かつこんだ》川渓谷に。三年おいて千沼ケ原から西に進んで乳頭山の一四七八メートルから乳頭温泉郷の黒湯に。前者は二〇キロ近く、後者は一八キロぐらい。前者の時は平ケ倉沼のほとりの道がまったくぬかるみで、十四時間かかり、後者の時は、山と渓谷社の神長さんと山岳写真家の新妻喜永さんが一緒で、花の写真をとりながらであったので、やはり十時間かかって、前者後者ともに真っ暗闇の中の下山となった。  さて、二度目も秋ではあったが、快晴でハイマツの緑にドウダンツツジの葉の紅のまじった秋田駒本峰、草紅葉に被われた笹森、笊森の山々の美しい眺めは、北海道の大雪山旭岳の山頂から、沼ノ平あたりを見下ろしたような広大さで歓声をあげた。  後者の旅は夏の八月であったから、まったく百花繚乱の趣そのもの。  いちいち出あった花を書き出そうとして、心配なのは、つい最近の初秋に登った鳳凰三山の観音岳でタカネビランジやホウオウシャジンの百本近くを盗掘してつかまった男の話である。  私たちが登ったのはその数日あとで、直接に犯人をつかまえる役にかかわった小屋主から話を聞くと、まず、山をたのしむひとというのではなくて、眼つきがちがっていたからすぐピンと来たとのことである。  秋田駒には乾性、湿性の花が、私が一つ一つ見ただけで百種以上咲いていた。山域もひろいが、花の種類も多い。よく見る花、だれも取っていきはしない花、山採りの高山植物などと言って売りに出されることはないと思う花の名をあげれば、ミヤマアキノキリンソウ、ゴマナ、オヤマボクチ、カメバヒキオコシ、モミジイチゴ、サワヒヨドリ、オトギリソウ、オトコエシ、イチヤクソウ、オカトラノオ、アキノタムラソウ、ヤマブキショウマ、ツルリンドウ、ショウジョウバカマ、ニッコウキスゲ、ネバリノギラン、イワオトギリ、オニアザミ、モリアザミ、サワアザミ、アマニュウ、シラネセンキュウ、ヤマハハコ、ヨツバムグラ、タカネトウウチソウ、ダイモンジソウ、ハンゴンソウ、ミヤマホツツジなど。これらはどこにもある。コウリンカもサワオグルマもエゾノシモツケソウもゴゼンタチバナ、マイヅルソウ、ハナニガナ、オオバユキザサ、コバイケイソウ、サラシナショウマもいくらでもある。ハナヒリノキは実になっているけれど、キンコウカもダイモンジソウもイワイチョウもイワカガミもある。ミズギボウシ、シギンカラマツ。以上の花々はあまり山草売りの売店で見たことはない。しかし、私は敢えて書いてとらないで下さいとおねがいしたいのは、千沼ケ原から左の乳頭山に向かう一つの谷であったヒナザクラの大群落である。  栗駒山の十倍くらいの面積に咲きさかっていた。こんなに咲いているから、一本ぐらいは自分で持ってゆくというひとが一人から二人になれば、たちまちなくなる。と本当は書きたくないのがほかにもある。キオンとイワヒゲである。どうか秋田駒を高山植物の宝庫として永遠に子孫に伝えて下さい。 [#改ページ]

17 |早池峰山《はやちねさん》    ナンブイヌナズナ・ミヤマオダマキ・ハヤチネウスユキソウ  早池峰の名を心にとめたのは、じつは、花よりは、その山麓の|大迫《おおはさま》町の早池峰神社の社前で舞われる神楽への興味からであった。  戦前の、まだ、戦雲が日本の空を被わない頃、明治神宮の外苑の日本青年館に、郷土芸能の会があり、私はその舞台で、たしか天狗の面をつけた舞人であったと思うが、一人で舞う勇壮な踊りにすっかり魅了された。それはダッタンの踊りとじつによく似ていた。二拍子で激しく、足拍子もしたたかに跳躍する。ダッタンの踊りは前に日比谷公会堂でコーカサスのひとびとによって演じられるのを見ていた。日本の北方の文化は、東ユーラシア大陸からベーリング海峡を渡って、北海道から東北に流れていると思ったものである。  戦後間もなく、岩手県にいって新聞社のひとに聞くと、そのあたりは毎年の稲の収穫どきに、各町村に神楽が行われ、早池峰の舞人たちは忙しいとのこと。早池峰は修験道の信徒たちの尊崇の的であり、それゆえ、花も守られて来たのであろうと思った。四月の終わりだったが、せめて早池峰の麓までと、着物の上からのモンペの上下と長靴を買って、車で河原坊までつれていってもらい、左側の芽ぶき前のハンノキやナラの林の下の雪どけの草地に、もうカタクリや紅花のエンレイソウが咲いているのを見た。登ってゆくと岩ばしる清流のほとりの残雪の間に、大きなフキノトウが群生している。流れは増水していて、丸太橋が滑りそうなので残念ながら引き返し、それから数年しての夏の七月、いつもの山仲間とまた河原坊から入り、沢沿いに標高差九〇〇メートルを、ブナやコメツガやオオシラビソの樹林帯の急坂を登っていった。コミヤマカタバミ、ミヤマキケマン、サンカヨウ、ツバメオモトと見馴れた花がずらりと並び、チチブシロカネソウにも出あった。山梨の|黒川鶏冠《くろかわけいかん》山で、群落をつくっていた花である。その写真をとっている青年に声をかけた。 「ずいぶん花の多い山ですね」  青年は上の方へゆくともっともっとありますよ、と言う。私がチチブシロカネソウの話をすると、東北ではこの山だけとのこと。私の山仲間一番の植物通の|莱《らい》綾乃さんと私は、先にどんどん進んでゆく仲間とはなれて、クルマバツクバネソウやヒメタケシマランやズダヤクシュなど、どこにでもあるが、また、よくこれだけそろっていると感心しながら、青年と並んだり、青年がカメラを向けるナンブワチガイソウに足をとどめているうちに、青年が岩手大学の農学部を卒業して東京に就職していたが、ふるさとの早池峰の花に魅せられて、今はその花の撮影に情熱を傾けていることを知った。写真集『早池峰連嶺の花』の著者、土井信夫さんとのはじめての出あいであった。  土井さんの『早池峰連嶺の花』には、索引に二百種を超える花の名が上がっているが、ここにはまた、この地層が蛇紋岩地帯であること、北上山地の太平洋側に位置するために、積雪が少なく、気温が低くて、氷河期の植物を保存していること、ハヤチネウスユキソウ、ナンブトラノオ、ナンブトウウチソウなどの固有種や、蛇紋岩地特有のナンブイヌナズナ、カトウハコベ、タカネシバスゲなどのほか、チシマツガザクラ、トチナイソウの南限にもなっているなどが説明されている。  沢をはなれて岩礫地帯の急狭な道のかたわらのナンブイヌナズナの黄の鮮烈なこと。岩かげの紫のミヤマオダマキの大群落。土井さんがそっと教えてくれたトチナイソウのある草地。巨岩がごろごろしている頂上近くのハヤチネウスユキソウの気品。北海道の山で見たミヤマアケボノソウ。かなりの急坂にちっとも疲れをおぼえず、頂上の早池峰神社の奥社まで辿りつけたのは、ただただ花たちの豪華さのためである。しかし、私はここに悲しい報告を一つ。十年前にトチナイソウのことを書いたら、もうその場所にも他にもトチナイソウを見かけなくなったとか。今回、あまりくわしく早池峰の花について書きたくない思いである。なお道をへだてて薬師岳の一九一四メートルがあり、こちらは花崗岩の山だが、オサバグサの大群落がある。 [#改ページ]

18 |姫神山《ひめかみやま》    ガンコウラン   ふるさとの山に向ひて   言ふことなし   ふるさとの山はありがたきかな  石川木のふるさとの渋民村は、盛岡市の真北にあり、東に、一一二五メートルの姫神山、西に、二〇四一メートルの岩手山がある。渋民村からの距離は、姫神山の方が、岩手山の三分の一。木がこの歌の前においているのは次の歌である。   今日ひよいと山が恋しくて   山に来ぬ。   去年腰かけし石をさがすかな。  私は、この歌から考えて、「ふるさとの山に向ひて」の山は姫神山ではないかと思う。岩手山では、ひょいと恋しくて山に来て、腰かけることはできない。  私が岩手山に登ったのは、雨の日でもあったが、山麓の網張温泉からの道は途中までリフトがあったのにかかわらず、悪路で、険路で、夏というのにガタガタしながら泥濘に難渋した。ここに両側から茂りあっていたのは、北海道の大千軒岳の知内川沿いの道とよく似ていて、ヨブスマソウやオニシモツケなど、まことに荒々しい風情である。遠くから見た姿も、姫神山は、早池峰山と同じ北上山地に属して、花崗岩の残丘なのだが、成層火山に似た秀麗な感じで、山麓一体はスズランの名所である。岩手山は成層火山だが、山頂のカルデラ地形の中にいくつかの火山が噴出していて、いかつい印象を受ける。  姫神山は、岩手山に登った翌年の秋に、盛岡と遠野のスイス外国宣教会の神父さんたちと玉山村から登って、まずブナの黄葉の美林の中を歩き、道のまん中に泉が噴き出して溢れた水が谷川のように走り下るのを見た。樹林帯の中に、枯れたツリガネニンジンやオヤマボクチがあり、スズランの葉の一枚もと思ったが、登山道のもっと奥にあるとのこと。カシワやブナやホオの落ち葉の中の急坂の急登をつづけ、頂上の巨岩の重なりあうところまで二時間半。岩の間にガンコウランやコケモモなどの小低木がはりついていて、クマが食べたのか実はなかった。 [#改ページ]

19 |栗駒山《くりこまやま》    ムシトリスミレ・クルマユリ  どうして一年に二十も三十も山を歩けるかといえば、講演などをたのまれるたびに、その近くに山はないかと尋ねて、あれば引き受け(なければ場合によってはことわって)、講演の前後に山に登ってくる。近江の三上山など、五〇〇メートル以内なので、登り下りに三時間。午後一時からの講演に午前中の八時から何度も登った。  北海道の帰りに一関のカトリック教会へゆくことになって、故小野忠亮神父にうかがうと、栗駒山へぜひと誘われた。  盛岡の四家カトリック教会のスイス外国宣教会の神父さんたちは、日本で一番好きなのは岩手県、スイスの山々によく似ている風景だからと言われ、東北で一番好きなのは花の多い焼石連峰とも言われた。  しかしその時、焼石の縦走にかける時間がなかったので、日帰りの山歩きとして、栗駒山をえらんだ。それも北の須川温泉から入り、頂上から東栗駒コースを通って、南の樹海ラインに出る一番短いコースで五時間もあれば十分とのこと、イワカガミの多い山ですとうかがったが、イワカガミはよく山で出あうことができるので、何か変わった花に出あいたいと思った。  時は七月。私は前日に北海道での講演をすませて、いつもの山姿、大きなカボチャや夕張メロンを紙袋に下げて、青函連絡船に乗り、グリーンの特別室の札を求めようとすると、改札の切符切りが、指さしてあそこに入れと言う。いってみたら、青森、函館間をいったり来たりする女の行商人の集団部屋であった。とても賑やかで眠れそうもないので、やっぱり一枚の特別室の札をと願うと、駅の窓口氏曰く「おばさん、今度は大分稼いだんだね」。  さて、一ノ関着八時で米川教会の高橋昌神父も一緒に、すぐに山に向かう。車は磐井川の谷についた須川ヘルスラインを通って須川温泉に。左手の山路を少し登ると、小さな板小屋があり、硫黄の匂いがして、板小屋の開いた扉から中をちょっと見ると、床の下に温泉の源があって、そこから熱い湯気がたちのぼるらしく、板の間に|蓙《ござ》を布いて二、三人の老女が浴衣姿でうつ伏せに寝そべりながら、話をしあっていて、ちょっと自分もやってみたくなった。昨夜、連絡船の特別室で、他の客が二人、いつまでも話しあっていて眠りを妨げられ、不足した眠りをここで補いたいと思った。  道は左手に湿原を見ながら登る。ハクサンコザクラのうす紅でなく、花の姿はよく似ているけれど、花の色の白いヒナザクラにはじめて出あう。  ヒナの名にふさわしく小振りである。ヒナザクラの咲く湿原は、絶えず上から水がしたたっている。上に大きな沼でもあるのかしらと思ったのは、北海道の空沼岳に登った時、登る途中の山腹が、湿原のように湿っていたからである。  ムシトリスミレがあります、と先を登ってゆかれた小野神父が言われて近づいてみると、ヤマイやヒメハリイの生えた草原の中に厚手の葉をロゼット状につけて紫のかわいい花が一輪。まさに、「あの声で蛙食うかやホトトギス」の感じで咲いていた。モウセンゴケもそのそばで赤紫の腺毛をひろげていた。ムシトリスミレは、北アルプスの弓折岳で見てから二度目。  湿地の山腹を登りきると忽然と眼の前に、濃い碧色の水をたたえた沼があらわれた。昭和十九年の噴火のさいにできた火口湖だというが、千年も昔からそこにあるような深い神秘的な水の色をしている。頂上の一六二八メートルは、そこから一時間あまり。ブナやカエデ類、新緑の山腹にクルマユリがずっとのび、葉が大きくなっている。クルマユリは東北の山々でよく見かけるが、私はオニユリも葉の形、花の形ともに清楚で好きである。頂上からは早池峰山、鳥海山がはるかに、焼石連峰がすぐ眼の前にゆるやかな稜線を描いていた。  この山は花も多いけれど、私は濶葉樹林が黄紅葉したらどんなに見事であろうか、秋にもまたと思った。 [#改ページ]

20 |鳥海山《ちようかいさん》    チョウカイフスマ・ニッコウキスゲ  鳥海山には、|吹浦《ふくら》口からのコースと、|象潟《きさかた》からのコースがあり、御浜小屋で一つになる。共に芭蕉の『奥の細道』にあらわれる土地である。   象潟や雨に西施がねぶの花   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ  象潟は秋田県、吹浦は山形県で、鳥海山はその二県に裾野をひろげる。  私は、戦前は赤城、榛名より北の土地を知らず、戦後も北海道へゆく時は飛行機で、上野駅から東北線に乗ったことはなく、昭和三十年にはじめて仙台市を知った。つづいて米沢、青森、山形、能代、酒田と知り、遊佐へいって、北に秀麗な鳥海山を望んだのである。  遊佐町の教育委員会の菅原伝作氏に、ぜひ鳥海山のチョウカイフスマを見に来るようにとすすめられ、ナデシコ科の花の好きな私はすぐその気になった。また、秋田県の本荘市にもゆき、南の鳥海山の姿を眺めると、これまた素敵である。その頃、盛岡の草紫堂の紫根染めの着物が好きになり、鳥海山の麓には、まだムラサキの野生があると聞いて、あるいは山上でチョウカイフスマに出あう前に、ムラサキの一本にでもと思うようになった。秋田県側の黒川村の黒川能を水道橋の能楽堂で観たのもその頃である。中央の能よりも、世阿弥の頃の能楽の舞の姿をそのまま伝えていると言われている。それは鳥海山の神にささげられたもので、神前に舞うという謙虚な姿が、三番叟によくあらわれているという感銘を受けた。そして思い出したのは、学生時代に九段の能楽堂で見た、これも鳥海山麓の番楽の三番叟である。神にささげる舞を、太平洋側では神楽、日本海側では番楽という。  さて、十数年前の七月はじめの深夜、新宿を夜行バスで出発。午前四時に羽黒山に着き、午前八時に雨の月山にゆき、その夜は吹浦泊まり。あくる朝五時出発で、遊佐町教委の方々の案内で、|蔦石《つたいし》坂から登った。その日も雨である。ブナやミズナラやダケカンバが茂る見晴らし台までの急坂のかたわらを、雪どけの水が激流となって落ちてくる。樹林の下は、日本海側の豪雪地帯に多いチシマザサの藪で残雪がいっぱい。見晴らし台も一面の霧と雪原の眺めとなったが、ニッコウキスゲの固い蕾の花穂と葉が、雪の中から元気よく半分あらわれている。シラネアオイやツマトリソウがわずかに咲いている。  登りきると、平坦な道となり、雪も少なくなって、ハイマツの原となった。キャラボクもあって、|伯耆《ほうき》|大山《だいせん》のキャラボクは南限であったことを思い出す。低いところが雪が浅く、高度を増して雪が多くなるというのもおもしろい経験であったが、ハイマツ帯の中の道の両側に、やたらにアザミがいっぱいあるのにも驚いた。  そのアザミの葉がどれもこれもトゲが大きい。同行の『影鳥海』の著者の畠中善弥さんが、チョウカイアザミ、ウゴアザミと教えてくれた。チョウカイアザミはフジアザミに似て花が下を向いて咲くけれど、フジアザミより茎も太く葉も大きくてたくましい。ウゴアザミは背も低く花は上向きだが、葉のトゲの鋭さは同じである。  それよりさらに背が低く葉のトゲが小さく、花も小さいのがいくつか固まってかわいい感じのがオクキタアザミである。ちょっとヒゴタイに似ている。  御浜神社で一休みして千蛇谷まで。十二時に雪に埋もれた鳥海湖に向かう斜面にハクサンイチゲの満開を見た。そして、やや離れた砂礫地に点々と、チョウカイフスマの、エメラルドグリーンの繊細な葉に、やや蒼味をおびた白い花が、一群れずつ距離をおいて咲いていた。『影鳥海』には一八八五年に藤田九三郎氏が、雌阿寒で採ったのを、マキシモヴィッチ氏がメアカンフスマと名付け、一八八七年に鳥海山で矢田部良吉氏が採ったのが、メアカンフスマとはちょっとちがうので、一九一九年チョウカイフスマとしたという。のちに雌阿寒に登って私も見たが、やはり少し葉の色、花の形がちがうと思った。  鳥海山では群生し、雌阿寒では岩と岩の間にわずかにあった。 [#改ページ]

21 |月山《がつさん》    ウズラバハクサンチドリ・クロユリ  本田安次氏著の『山伏神楽・番楽』で、その分布を見ると、奥羽山脈を中央にして、太平洋側は早池峰山を中心にした山伏神楽、日本海側は鳥海山や|太平《たいへい》山を中心にした番楽の盛んな村々、町々が固まっている。これらの山々が山岳信仰の中心になっているのであろう。最上川を境にして、月山、湯殿山、羽黒山を合わせて出羽三山とよばれる地帯には、そのような村々や町々がしるされていない。月山を中心とする出羽三山の信仰と、山伏神楽、番楽を持つ民とは別種の流れを持つようである。  出羽三山は、羽黒山の修験道を中心として、開山したのは、|東 漢 直 駒《やまとのあやのあたいこま》に殺された崇峻天皇の皇子の蜂子皇子とされている。つまり、ヤマト朝廷をつくったひとびとの流れである。  出羽三山とは、熊野三山にならってということらしいが、熊野は、ヤマト朝廷民族が大阪湾から上陸して、生駒山から大和に入ろうとして果たせず、紀伊半島をまわって熊野川沿いにヤマトへの侵入を果たした基地である。出羽三山と熊野三山は、同一民族ということでつなぐことができる。山伏神楽や番楽の最上川以北の民とは、日本渡来のルートがちがうのではないかという私の推定説についてはこれくらいにして、私は、この時の山旅の一番の目当ては鳥海山におき、月山は、帰りに蔵王山へゆく途中でたちよる|立石《りつしやく》寺と同じに、芭蕉も登ったあとを辿るというような気持ちだけ。羽黒山には、羽黒山伏として江戸時代に盛んな活躍を見せた山伏たちの本拠を知りたいという意味だけがあった。  羽黒山には、|葛城《かつらぎ》出身の|役 行者《えんのぎようじや》が来て、修験の山の羽黒の興隆に力を|藉《か》したことになっている伝承がある。葛城氏は、ヤマト朝廷以前のヤマトの豪族。ヤマト朝廷によって征服され、役行者は中央を追われた人物である。蜂子皇子も父君の横死によって、中央の場を失っている。そうした敗者たちが霊界の王となって、現世の利益を得ようとする亡者たちを支配することになる。  さて、明け方の羽黒山の山道にミヤマヨメナの花がいっぱい咲いているのを見て、バスで月山に来ると、車は八合目に着いたので、一九八〇メートルの頂きまで、あと標高差は六〇〇メートル足らず。  昨夜はバスの中でろくろく眠らなかったけれど、仙人沢の下り口まで一二キロ歩くだけと考えたのが浅はかで、登りはだらだらとゆるい傾斜なのでかえって疲れ、頂上の月山神社から弥陀原あたりに下って来ると、激しい風雨となり、急坂のハシゴを使っての下りは『奥の細道』の苦労話が身にしみた。とにかく『コンサイス日本山名辞典』には「わが国最大の楯状火山」としている。芭蕉は「月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を|包《つつみ》、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を|踏《ふみ》て登る事八里、更に日月行道の雲関に|入《いる》かとあやしまれ、息|絶《たえ》身こゞえて頂上に|臻《いた》れば、日|没《ぼつし》て月|顕《あらは》る」とあって、下から強力に引っ張られながら歩いて、頂上で一泊。八里、三二キロの道を一日でいったらしいが、時は旧暦の六月。今の七月である。  私たちの登った日も雲が重くかぶさって谷々は霧の中だったが、爆発でとばされたという西半分の大斜面がところどころに雪渓を残しながら、雪どけの草地にニッコウキスゲの黄、ヨツバシオガマの紫と華麗なお花畑をつくっているのがよく見え、期待していなかったので、私は大よろこび。ところどころの池塘にはワタスゲやイワイチョウがすでに夏山の姿を見せ、ミツガシワも白い花をつけている。キンコウカもトキソウもタテヤマリンドウもあって、尾瀬より花が多いと口走ったほどである。おまけに、右斜面はすっかり雪がとけていて、ベニバナイチゴの花も咲き、ウズラバハクサンチドリが点々と|斑《ふ》のある葉に紅紫の花をつけ、ウサギギクの群落の中の小さな穴から、オコジョが顔を出して「こんにちは」とかわいい表情をした。神社のまわりにはクロユリがいっぱい咲いていて、北アルプスの双六岳や五色ケ原よりずっと多い。仙人沢での下りは辛かったが、天上の花園を大いに楽しめたので十分に満足した。   黒百合や人界わかつ神の山 [#地付き]飯塚田鶴子 

22 |鎌倉岳《かまくらだけ》    クリンソウ   九輪草四五輪草で終りけり        小林一茶  一茶の住んだ信濃の黒姫山に近い柏原あたりは、冬の寒さが残って、|九リンソウ《ヽヽヽヽヽ》も四、五リンソウで終わってしまうという解釈ができるかもしれないが、私の見た同じ信濃の戸隠の奥社への道のかたわらに一本咲いていた|九リンソウ《ヽヽヽヽヽ》は、四リンソウであった。戸隠の中社の久山という旅館によく泊まったことがあって、その庭に咲くのも四、五輪ぐらいであったと思う。  秋川の奥の浅間尾根の近くに庭にいっぱいふやした家があって、あまりたくさんなので、中には九輪咲いているのがあるかもしれないと近づいていったら、家の中から「こらあ」と叱り声がとんで、びっくりして跳びずさってしまった。  野生のサクラソウの好きな私は、クリンソウも美しいと思い、戸隠の久山さんから一株もらって来て中軽井沢の山荘の池のそばに植えたら、ふえてふえて四年目には八、九株になり、中には七リンソウとなるのもあって、来年は|九リンソウ《ヽヽヽヽヽ》ができるとよろこんでいたら、その夏の間に、私たちが帰ったあとで、だれかにすっかり持っていかれてしまった。  気の毒がって、地許のひとが、十株ほど持って来て植えてくれ、次の年は二十株になったが、三年目に、一本も残さずにとられてしまった。他人の庭に入りこんで来て、自分のほしいものをどんどん盗んでゆくひとの気持ちが憎い。  鎌倉岳は大滝根山と同じ阿武隈山地で、郡山から東に車で一時間半ほどいった|常葉《ときわ》町にある。九六七メートルと山は低いが、花崗岩を主体にした山容は堂々としていて、初夏はコバノトネリコのうす緑、トウゴクミツバツツジのうす紅、ヤマツツジの真紅にいろどられ、全山花の山となる。その登り口に近い谷川のほとりではじめて九輪のクリンソウを見たのは、つい最近である。思わずその草むらに足を踏み入れようとしたら、案内の町役場のひとがあわてて「そこはマムシ注意です」。 [#改ページ]

23 |大滝根山《おおたきねやま》    シャクナゲ  シャクナゲはツツジ科の花の中で、もっとも豪華な花を咲かせるのではないだろうか。「あの山にはシャクナゲがある」というと、いかない前から、何かいろめきたつ雰囲気を感じさせられる。そして、シャクナゲがたくさん咲いて、比較的楽に歩ける山道は、その頃ともなれば、シャクナゲ見物で大変な賑いになる。たとえば秩父の西沢渓谷。大台ケ原の大杉谷へと下るシャクナゲ平など。  奥秩父の金峰山は、お隣の国師ケ岳とともにまったくシャクナゲ通りと言いたいほどに盛大に咲く。西沢渓谷の上の甲武信岳も、登山口の十文字峠や下山道のヌク沢沿いの道などにもシャクナゲが多い。  ところで、私はシャクナゲがたくさん咲いていても、せいぜい自分の山友達の数人ぐらいと、お互いに黙って花の美しさに浸って静かに歩いて、静かに山を下りたい。そんな時にあの山ならばと思うのが、阿武隈山地の大滝根山の一一九三メートルである。前にシロヤシオの見事さについて書いた。山で咲くツツジの中では、ヒカゲツツジとシロヤシオが一番好きというのも、ヒカゲはうすいクリームで、シロヤシオは純白なのが、何ともすがすがしいから。しかし、ヒカゲツツジは少し地味すぎ、晴れやかに見上げることができるのはシロヤシオである。大木になればなるほど美しい。大滝根山には、シャクナゲの林にゆく前にシロヤシオの大木の林の中に入りこんで、ただただ溜息をついて見上げた。沢に下りてくると、アズマシャクナゲの群落で、競って背のびして少しでも日光を受けたいかのように枝先を上に向けている。花はその先端に咲いている。シロヤシオの純林を抜けて、うす紅花のアズマシャクナゲの純林にと移ったのである。それも下り道で、下から見上げるので、緑の葉越しにうす紅の花のちらちら見える風情がおもしろい。私たちは沢を登ってシャクナゲのそばにゆき、上から花を見下ろす形で、十分にその美しさに酔って下山した。   |石楠花《しやくなげ》の花 つらら沢を埋め      さゆらぐもあり渓川の鳴る [#地付き]山本雅子 

24 |会津駒《あいづこま》ケ|岳《たけ》    クロクモソウ・コバイケイソウ  もう二十年以上も前の秋に、はじめて雨の三平峠を越えて尾瀬に入った時、黒い洋傘に雨ズボンで平野長英さんが、峠の登り口で待っていてくれた。お互いにまだ六十代であったが、長英さんはたしか軽い脳溢血の予後であったと思う。それでも元気で、もう葉の落ちつくしたゴヨウツツジやタムシバの木を教えてくれ、またぜひ来られるようにとすすめた。ニッコウキスゲの満開の頃に。でも、そんな季節は、尾瀬はひとで埋まるでしょうと私が言えば、そしたら会津駒へ案内しましょう、あそこにはハクサンコザクラがいっぱい咲きます。  しかし、会津駒に私が登ったのはそれから十五年もあとである。  はじめての尾瀬の頃、長蔵小屋には、京都大学の史学科を卒業し、北海道新聞記者となっていたのが、職をやめて紀子夫人と共に小屋の仕事を助けていた長男の長靖さんが元気で、私たちへの心のこもる応対をしてくれていた。  会津駒へは深夜、新宿をバスで出発、|檜枝岐《ひのえまた》の滝沢橋で仮眠して、七時から歩き出した。急坂つづきで、三平峠より苦しい。  長靖さんを、尾瀬の自然保護のために、雪の三平峠で亡くされた長英さんも、この道を、あの三平峠を軽々と歩かれたように歩かれたであろうかとふと思った。この十五年間に、私もまた、家族に重病にかかる者があって、心身ともに疲れはてていた。  ブナの大木がところどころにそびえ、その幹のいくつかに、昭和〇年〇月〇日×××、と日と名前がほってある。その〇月は春か秋である。  会津駒ケ岳は二一三二メートル。全山秩父古生層である。滝沢橋は一〇〇〇メートル。駒小屋は二〇六〇メートル。稲妻形の急坂を休み休み登って、勾配がゆるやかになり、湿原に出たのが十二時。ここまでもクガイソウやソバナの紫、オオバミゾホオズキやイワオトギリの黄、タニギキョウ、ツマトリソウ、ゴゼンタチバナ、トチバニンジン、ノウゴウイチゴ、サンカヨウ、モミジカラマツ、ミヤマカラマツ、オオバユキザサ、タケシマラン、ツバメオモト、コバイケイソウ、イワハゼの白、ヤナギラン、ベニバナイチゴ、クロクモソウ、イワナシの赤の濃淡、アラシグサの緑などのいろとりどりの花になぐさめられながら、やっとこさっとこ、上へと来たのであった。  木道の上で昼食。湿原にはイワイチョウやミズバショウやワタスゲもある豪華さに、北海道の夕張岳か、大雪山の沼ノ平を歩いているような気持ち。小屋直下の斜面にはハクサンシャクナゲ、ニッコウキスゲ、ウラジロヨウラクと賑やかである。小屋の前は雪どけの泥濘で、また、スローテンポとなり、午後二時の到着。ここで昼食をとった仲間は、往復四キロの中門岳へいったとのこと。小屋主が署名簿を見せてくれた。前の年の七月、今西錦司さんが八十二歳で、本年三十数回目の登山と書いてある。私より七、八歳上のはず。ただただ脱帽である。  あくる朝午前二時、二人の連れと中門岳に向かった。石のがらがら道を頂上の西側を通ってゆく。雪どけの道である。雪渓をいくつか越えて下り坂となり、木道のついた湿原となる。空の雲が緋に燃えて、暁闇の空が水色の黎明となり、朱赤の朝焼け雲が池塘にかげを映すその美しさ。そして、池塘のまわりはすべてハクサンコザクラである。左手に平ケ岳の濃い緑の山容が、朝陽に映えてかがやく。まさに平ケ岳で、平らな頂きである。  小屋に帰って八時。主人に聞くと、登り口で見たブナの木の刀痕は、あそこでクマをしとめたというしるしだとか。この山には、春や秋にはクマが出るのだ。夏でもあうことがありますとおどかされて、富士見林道を、|大津岐《おおつまた》峠を経て、|麒麟手《きりんて》まで五キロ下る。ここもオオバキスミレやシナノキンバイなどの花に迎えられ見送られる。駒ケ岳の方を望むと頂上が頭で、中門岳が背の、大きな馬のような感じがする。そして明日登る|燧《ひうち》ケ岳は、大杉岳に半身を埋めながら、兜をかぶって肩をいからした古武士のような姿で、ぐんぐん眼に迫って来た。 [#改ページ]

25 |燧《ひうち》ケ|岳《たけ》    キンコウカ・ツルコケモモ  私は何よりも、山に人影の少ないことが望ましい。東京のような乱雑な町に生きていると無性に人間にあいたくなくなる。それを満たしてくれるのが山のような気がする。そして会津駒のあくる日の裏燧の登りは、日曜というのに、登山者は私たち山仲間だけで、山の閑寂さを十分に味わわしてくれた。  私たちの山仲間は長英林道を通って、表燧に登ることを二度計画し、二度とも雨で果たせなかった。  一度は見晴十字路から富士見峠を越えて戸倉に出、一度は沼田街道を沼山峠に出て、峠の休息所から帰った。おかげで、雨にぬれながらではあったけれど、雨のおかげで人も少ないままにニッコウキスゲの盛りを見、富士見峠への道ではザゼンソウの群落にあうことができた。沼山峠に出る途中の大江川湿原の左のヤナギランの丘で、長蔵小屋をひらいた平野長蔵さんのお墓にお詣りすることができた。それから一、二年して、長靖さんが、この丘に眠ることなどとは夢にも思わずに。  さて、三度目の燧ケ岳を裏から登る日は前日につづいての晴天で、七時半に御池に着いて右手の御池田代を三十分ほど歩いた。ヒオウギアヤメの多いところだが花はもう終わっていた。  八時にコメツガやトウヒやアオモリトドマツの大木が茂り、前年の台風で倒木もまたやたらに道をふさいでいる急坂を、またいだり、下をくぐったりの難行苦行で、とにかく上へ上へと高度をかせぐ。標高差八〇〇メートル、十二時には上で食事したいところである。帰りも同じ道の都合だが、帰りはいつも急がされるので、ゆきが大事と林間の植物を書きとめながらゆく。オオバヨツバムグラ、カニコウモリ、ツルアリドオシと大して珍しいものはなかったが、樹林帯が尽きて、広沢田代が一眼で見わたせる高みに立って、やれやれと一息ついた時、樹林帯と草地との|岐《わか》れ目に一本のオサバグサが白い花をうつむかせて咲いているのを発見、早池峰の向かい側の薬師岳での大群落を見て以来なので、この樹林帯のどこかに群落があるかと左右に眼を放ったが、倒木の重なりあいに足の踏み場もない感じ。県立公園なのに、この倒木の整理までは手が届かないのかなあ、そのまま朽ちさせて林の自然肥料にするのかなあなどと思いつつ、仲間の全部におくれてたった一人広沢田代から熊沢田代へと木道を登り、木道を下っていった。木道のまわりには、盛んに黄の細かい花を咲かせるキンコウカや、ようやく蕾をひらいたばかりのニッコウキスゲが咲き、小さいシクラメンのようなうす紅のツルコケモモの花がうつむいて咲いている。小灌木である。五センチほどのを示して、いつか、鳩待峠から一緒に下りて、中田代に向かう木道のそばで見つけ、平野長英さんが教えてくれた。これだけの大きさになるのに五年はかかっているでしょう。  ヒオウギアヤメもまだ花を残す湿原を過ぎて、ウラジロヨウラクの群落のある針葉樹林に入り、また急坂を倒木との格闘になる。一九八六メートル地点まで二時間かかり、一五〇〇メートルの御池から五〇〇メートル近く登ったのだが、まだあと三〇〇メートル以上は登らなければならぬ。右手に平ケ岳の大きな山容が迫り、左手に男体山や日光白根が見えて来て、山腹に雪を残した燧が頭の上からのしかかってくるようだ。針葉樹林が終わって、ヤマハンノキやダケカンバが両側に迫る雪渓があらわれ、アイゼンがないので、左手の木につかまりながら登ってゆくと、賑やかな若ものたちの声がして、高校生らしいのがシリセードで急斜面を下りてくる。老婆心がつい起こって「あぶないよ」とどなってしまった。  午前十一時に前方がひらけて尾瀬湿原がとびこんで来た。岩場をトラバースして、かっきり十二時に頂上の燧神社の前に立つ。狭い岩場は足の踏み場もない混みようである。仲間は皆十一時に着いて、長英新道を下ったと二、三人の友が教えてくれ、たいへんたいへん、あちらの道の方が楽なはず。先に着かれてはと、ころげるようにして二時間で御池に着いて、ほとんど同時到着になった。 [#改ページ]

26 |日光白根山《につこうしらねさん》    シラネアオイ  戸隠の中社の民家の庭で、大きなうす紫の花片が四つ。葉が大きなカエデのような形の花を見た時、トガクシショウマですかと私は聞いた。トガクシショウマにあこがれていた。シラネアオイですと答えられて、はじめて聞く名だと思った。野生の花と思えない華麗さであった。  はじめての尾瀬は雨の三平峠から登り、秋であったので、草は皆枯れていた。二度目は初夏の鳩待峠から入ったが、下り道の沢のほとりの笹藪の中に、戸隠で見たのと同じうす紫の花を見つけ、シラネアオイ、シラネアオイと大声をあげて仲間を呼んだ。  シラネアオイは、その後、鳩待峠から至仏に登った時も、同じ沢筋の笹藪の中に咲き、同行の故平野長英さんが、日光白根山にゆくと、シラネアオイはもっといっぱい咲いていますと教えてくれた。  もう二十年の昔になる。やっぱり雨の日光白根に、菅沼からシラネアオイを見に登ったが、病人が出て私は連れて引き返し、頂上直下の弥陀池のかたわらの山腹は、シラネアオイの大群落であったという話を羨ましく聞いた。あのうす紫の大輪の花が山腹を埋める。思うさえ胸がおどる。そして翌年の六月、自分の眼でそれをたしかめた。菅沼のロッジの脇からまっすぐに歩き出して笹原に入り、登山道を左折、右折と稲妻形にくりかえすこと三時間、ムラサキヤシオの花が咲き、ダケカンバの芽ぶきが新鮮な緑である。その時私は体調が悪く、木の根がやたらに出ている道や、明らかに白根火山の熔岩とわかる巨岩が露呈しているところが少し厄介だったが、健脚のひとならば、二時間で弥陀池まで容易に達せるだろうと思った。木の間越しに根名草山や金精山が見える。  現在は金精峠を広いドライブウエイで越えられるけれど、これができる前は火山地帯特有のガレ場の多い道で、学生時代の昔、一人で滑って谷におちまいと、山腹にしがみつくようにして息あえがせて越えたことがある。私は菅沼を目指し、学友たちは前白根に向かったが、これまた崩壊地形で難儀して、一時は遭難かと、湯元の旅館でひとを集めて出迎えにいった。朝八時に出発して到着が夜の十一時。皆四つん這いで月明かりの中を、手さぐりで下りたという。菅沼ゆきの私も途中でクマに出あって腰を抜かし、夕暮れの金精峠を四つん這いで下りて来た。  さてその日、急坂に次ぐ急坂を過ぎて平坦地となり、弥陀池に近づくにつれて、山腹に点々とシラネアオイがあらわれ、池の右手の山腹はまったくシラネアオイ以外の花は何にも見えず、溜息の出るような美しさで、野生の花がこんな典雅な風情をあらわすということに感動した。  池のほとりで昼食をとって一時間の休みの間に、強くなった陽射しを受けて、蕾がいっせいに大きな蕚片をひろげ出したのにも感動した。  健脚組は、日光火山群のうちの最高峰である奥白根の二五七八メートルまで登ったが、私は、花を見ただけで満足して下山した。  ところで、つい最近、今度は頂上を目指して同じ時季に登っておどろいた。やはりムラサキヤシオの花は見覚えのある位置に咲いていたが、シラネアオイが激減しているのを知って、胸をつかれる思いであった。たった十数年の間に、花盗人たちに持ち去られたのではないだろうか。  シラネアオイは十分の一ほどになり、ネバリノギランやイワイチョウなどが目立つ。  弥陀池の右手の山腹をうす紫で埋めたあのシラネアオイたちはどこへいったかと暗然たる思いになり、ふと、十数年前に、病人を旅館に連れ戻す時、雨中だったので、手をあげて止めて乗せてもらった自動車の中のひとびとの話を思い出した。これから尾瀬に何か珍しいものをとりにゆくのだという。その頃、尾瀬の監視は現在ほどきびしくなかったのである。  シラネアオイは、日本の特産種である。ヨーロッパアルプスでもカナディアンロッキーでも出あわなかった。私は、眼の前に花盗人たちがいるような大きな怒りを感じて、弥陀池から頂上を目指した。 [#改ページ]

27 |上 州《じようしゆう》|武尊《ほたか》|山《やま》    ウメバチソウ  早春、あるいは晩秋の頃、群馬県の山々に登って、北方に白々と雪をかぶる上州武尊山の姿を見るたびに、その山容の秀麗さに心を惹かれた。  沖武尊とよばれる二一五八メートルの頂きには、ヤマトタケルの剣を両手で支えて立った二メートル近い銅像が建っていて、私が登る前夜に泊まった山麓の「花咲」の民宿の主人の戸丸さんは、「花咲」とは、ヤマトタケルノミコトが、花が咲いたように美しい男だったことからつけられた地名だという。『古事記』と『日本書紀』ではミコトの東国から信濃へいった道がちがい、本居宣長は『古事記伝』に『日本書紀』の編者は地理を知らなかったのであろうと言っている。すなわち、『古事記』によれば、ミコトは相模、上総から北にゆき、足柄にもどって、甲斐、信濃にとゆくのに、『日本書紀』では、甲斐から武蔵、上野を経て信濃に入る。ところが武蔵の両神山、武甲山には、ヤマトタケル伝説がある。これに上州武尊を加えると、『日本書紀』の記述はまちがっていないことになる。  あこがれの山に登ったのは数年前の十月。群馬県山岳連盟編の『群馬の山』によれば、百八十万年前にできた成層火山で、その山頂部や山体が水蒸気の爆発で吹きとばされて、カルデラ地形を示しているという。熔岩台地と思われる武尊牧場を過ぎ、「東岐」としるされた一四七七メートルの休憩所に辿りつくと、ヤマハハコ、ミヤマアキノキリンソウの大群落である。間もなく黄葉したブナの大原生林の中を抜け、オオバザサの藪の中をつっきって一七七六メートル、一八四一メートルとコメツガの茂る支峰を越え、頂上まで一・六キロのところに、小さな湿原があり、ウメバチソウの花盛りであった。カルデラ地形の外縁と思われる急斜面をゆく道は、根曲がり竹の伐採したあと地で、歩きにくいことおびただしかったが、間もなく、いかにも噴火作用のあとらしい岩場を鎖で通過、池塘沿いの道を三十分、ハイマツの中を這い登って、「御岳山大神」と|彫《きざ》まれた石の前に立った時、嬉しさで、全身が熱くなった。 [#改ページ]

28 |赤城山《あかぎさん》    クサタチバナ  榛名山と赤城山は、ほとんど似たような形の複合成層火山で、関越自動車道を、上越線・信濃線を利用するとき、いつも車窓から眺めて、その悠然として、上毛の空にそびえる姿に見とれてしまう。  はじめて赤城山に登ったのは、六十年近い昔の九月で、前橋からバスで一杯清水というところまでゆき、カルデラ湖の|大沼《おの》で和船を漕ぎ、|大洞《おおぼら》から|小沼《この》と歩いて、一面のマツムシソウの紫の中に身を埋めていた。うす紫の着物姿で、うす黄の洋傘をさし、たった一人であったとは、今思うと大胆であったと思う。仰向けに寝てマツムシソウ越しに空の青さにうっとりしていたら、白衣姿の行者が二人下りて来て、若い娘が、こんなところに一人でいてはいけないと注意してくれ、ゆきには道路工事の人夫たちが大声でからかったので、急にこわくなって、駆け下りたのだが、どの道であったか。  戦後二十年して、レンゲツツジの満開の頃に、山の仲間と赤城にゆき、大沼周辺の乱雑なひらけようにがっかりし、あの山の緑と花の美しかった赤城はもうなくなってしまったと嘆いた。  それでも地蔵岳の一六七四メートルを歩いて登り、クサタチバナの白い花に出あった。はじめての出あいだったからうれしく、忠治温泉に向かって新緑のミズナラの中を歩いて、このあたりにはまだ昔の赤城の面影があるとよろこんだ。クサタチバナは鮮緑の葉も美しく、その後、御坂峠、鳳来寺山、櫛形山、熊野路でも出あって、この花が中央構造線の南にのみ咲くことを知った。赤城は北限ではないだろうか。  赤城が俗化してつまらないというと、上毛新聞の柳田芳武さんが、いやいや、まだよいところがいっぱいあると、外輪山の駒ケ岳の一六八五メートル、|黒檜《くろび》山の一八二八メートル、鈴ケ岳の一五六五メートルに案内してくれ、アカヤシオ、シロヤシオの満開を見、アズマシャクナゲのうす紅の群落にあい、赤城はまだ花の山だと安心した。その後紅葉の頃にも外輪山を歩き、紅葉の山だとも思った。 [#改ページ]

29 |榛名山《はるなさん》    ユウスゲ  赤城には、娘の頃から登ったが、榛名山には戦後も二十年くらいたって、山の仲間と登るまで、一歩も足を踏み入れたことがなかった。榛名山といえば伊香保温泉を思い、その有名さゆえに、多分その地域も俗化してしまったであろうと勝手に思いこんでいた。  もう十数年の昔となったが、温泉街を抜けて春の榛名の外輪山を、天神峠から湖畔を通り、天目山の一三〇二メートルに取りついて、三ツ峰から、松之沢峠、磨墨峠と歩き、火口原であろう沼ノ原を横切り、中央火口丘の榛名富士一三九一メートルに、足弱はケーブルで、健脚組は歩いて登って下りたのがはじめてである。私はケーブルで登って、歩いて下りたのだったが、その稜線歩きの道が、花が多くてうれしかった。山腹にはヤマザクラ、トウゴクミツバツツジが、ようよう芽ぶいたミズナラやクマシデやヤマボウシの林の中に咲き、まだ枯れ残っている草地にはキバナノアマナやキランソウに、ヒナスミレ、アケボノスミレ、ニオイタチツボスミレ、チシオスミレなどが赤紫の濃淡を競っていた。沼ノ原にはショウジョウバカマの紅、サワオグルマの黄もチラホラしている。  秋にはどんな花が咲くかと九月にまた、同じ稜線を辿ったが、ヤマボウシの赤い実ばかりがいっぱいあり、防火線とかですっかり伐り払われていて残念であった。  晩秋の一日、相馬山に登り、たまたま、修験者の一行と一緒になって、御堂の中で護摩など焚いてもらったが、山の木々はすでに落葉し、樹林の間から見える湖面の青さ。初雪をうっすらとかぶった榛名富士の美しさに見とれ、赤城より榛名の方が、ずっと閑寂さを保っていることを知った。同行の上毛新聞社の柳田さんが言われるには、夏に沼ノ原が私の好きなユウスゲのうす黄に埋まるとのこと。ヤナギランやコオニユリもその間に咲きさかるとのことで、今度はぜひ夏にと思っている。   夕菅や湖心はいまも舟寄せず [#地付き]飯塚田鶴子 

30 |鳴神山《なるかみやま》    イワタバコ  鳴神山にはヒイラギソウがあるという。シソ科で、背は四、五センチだがヒイラギのような葉を持つ。カッコソウもあるという。私の好きな野生のサクラソウの仲間である。ぜひゆきたいと思いつつ、十数年たって秋の十月の半ば、桐生市に所用があって、その帰りにようやく登ることができた。それ以前に南麓の川内町へゆき、このあたりが大陸渡来の民によって、多分、奈良時代以前より開け、群馬県と並んで、関東地方でもっとも多く古墳を残していることを知っていた。足尾山地の南端にあり、渡良瀬川に注ぐ山田川の谷にある。  鳴神山は川内町を左に|棒谷戸《ぼうかいと》の杉の植林の中から登った。浅く水のきれいな渓流をいく度か徒渉し、葉の落ちつくしたイヌブナやクヌギやコナラやカエデ類の明るい林の中を過ぎて、急坂をつめると稜線に出て、左手の木の間がくれに赤城の東側が堂々たる山容をあらわして来た。  渓流のわきには野ぶどうの紅葉した葉が目立ち、稜線にはカラマツ、シラカバなどもある。足尾山地は日光につづくので、クマなど出ないかと聞くと、二、三日前に、東側に連なる高沢川の谷の上の稜線で出あったひとがあったとか。  頂上は双耳峰になっていて、石の小さな祠がある。前方に渡良瀬川を越えて関東平野がひろがり、北に日光連峰が見え、|皇海《すかい》山に向かっての矢印が示されている。  秩父古生層に属するチャートを主体とする鳴神山は、氷河期の名残の貴重な花が多いが、カッコソウはもうほとんど盗まれてしまったという。そう言えば大分前に、東武鉄道の浅草駅で、カッコソウを持って下りて来た青年にあい、どこからかと聞いたら、鳴神山と答えたことを思い出した。ヒイラギソウの葉も見つからなかったが、岩の間の南向きの日だまりに、コキンレイカの一株がわずかに葉を残していた。下りの川内への川沿いの道の岩に、イワタバコも花を残していて、この谷はあたたかく、ひとも住みよかったのであろうと思った。 [#改ページ]

31 |石裂山《おざくさん》    フタバアオイ  石が裂けると書いてオザクとよぶ。  その数年前に鹿沼から大芦川の谷をつめて|古峰《こぶ》ケ原へ入っていた。|古峰《ふるふね》神社の前から車道を歩き、古峰原峠から、横根山へと歩き、三枚石という三段になった巨岩の横に古峰神社の奥社があった。高原はレンゲツツジの花盛りで、北に日光の山々、西に赤城がよく見えたが、この旅で知ったのは、日光開山の勝道上人が、日光の前にこの古峰ケ原で修行したということ。古峰ケ原の東南に石裂山があり、これも開山は勝道上人とされていることである。勝道上人は平安初期のひとだが、神仏混淆の修験者として、日光に入る前に、まず石裂山、つづいて古峰ケ原にと進んでいったのだと思うと、次は石裂山に登って、修験者が、どんな山容を修験の場としてえらんだのかを知りたくなった。  石裂神社前でバスを下り、右手の杉の大樹の茂る道をゆき、加蘇山神社の横を通る。加蘇とは気になる名前である。同県内の阿蘇郡の阿蘇は百済から来た阿佐太子のことという。『続日本紀』に、|下野《しもつけ》、|上野《こうずけ》に新羅人が多数移住したとあって、何か大陸渡来を感じさせるが、ご神体は磐裂、根裂、タケミカズチと何か勇ましい。タケミカズチは『古事記』の大国主の「国譲り」に、息子のタケミナカタと戦って勝ったひとである。  タケミカズチを大和朝廷をつくった天孫族とすれば、これもやはり、先住者のいた下野を大陸から来て征服したということになろうか。  石裂山は最高峰の月山が八七九メートルと低いが、沢に入ると、ハルトラノオとフタバアオイの大群落があり、天然記念物の桂の大木がある。フタバアオイは、葵の紋に似ているので、日光東照宮のお膝元で大事にされて来たものか。沢をつめると岩場の連続で、東剣ケ峰、西剣ケ峰と通過するのに、かなりのスリル感を味わえる。月山までくると道も安全となり、すぐ眼の前に男体山、大真名子、小真名子山が迫っていて、改めて石裂山が、日光という一大修験道場の一部だということがわかる。 [#改ページ]

32 |三毳山《みかもやま》    カタクリ   山窪にむらさきの雲の沈めると     三毳の山のかたくりの花        山本雅子  十年前に、カタクリは奥多摩の御前山と、『花の百名山』に書いたが、今そのカタクリは、見るも無惨に減ってしまったという。それで、今度は町じゅうあげて、カタクリを大切にしている山を紹介したい。佐野市の東、渡良瀬川の支流に臨んだ三毳山である。  東北自動車道を佐野インターで下り、県道桐生・岩丹線を右折し、更に丘陵の南端に取りつくと、左手に三毳神社があり、真下で車を下りる。  御神体はヤマトタケルノミコトとのこと。前々から、ヤマトタケルノミコトは、『日本書紀』で言っているように、甲斐から武蔵、下野、上野、信濃が道順と思っていた私は、やっぱりと思う。三毳山の山麓の佐野市は製鉄や鋳物で古代から栄え、この山にミコトが祭られているということは、鉱山探しがミコトの旅の目的であったということの証明である。  神社のうしろから標高差一五〇メートルほどで二等三角点のあるピークに着き、かつて古代の東山道のあとを残す、三毳関に立つ。ナラやクヌギの新緑の中にヤマザクラが美しい。  二二五メートルの龍ケ岳のピークまで二時間。更に一時間で、これはこれはとばかりカタクリの三毳山と言いたいばかりの大群落が目の前にひろがる。  三毳山は『万葉集』の東歌に、   |下野《しもつけ》の みかもの山の |小楢《こなら》のす     ま|麗《ぐは》し児ろは |誰《た》が|笥《け》か持たむ [#地付き](巻十四)  と歌われているが、このカタクリはヤマトタケルノミコトの昔からこのように咲いていたのであろうとただただ感激。  三毳山の南に渡良瀬川に注ぐ三杉川が流れている。足尾銅山の鉱毒が、渡良瀬川流域の民の生活をどん底につき落とした時、敢然と立って、国会議事堂で勇ましく論陣を張った義人田中正造は、佐野市の出身である。早くから文化の発展した土地柄であってこそ、民の幸福のために立った義人があらわれたのであり、カタクリもまた、このように保護されているのだと思った。なお足弱のひとが、カタクリだけを見るためには、西側から山に入るとよい。 [#改ページ]

33 |両神山《りようかみさん》    ヒイラギソウ  両神山一七二三・五メートルの、天に向かって、|鋸《のこぎり》の歯をかざしているような鋭い切れ込みを持つ山容は、秩父の武甲山、破風山、|城峰《じようみね》山の頂きからみてもすぐわかり、登りたいといつも思っていた。  両神山のアカヤシオは、きびしい岩場に生え、固い岩と、やさしいうす紅の花の対比が美しいという。いつか武甲山や破風山で、雪どけの林の中にセツブンソウを見つけたので、春先にはきっと両神山にもセツブンソウが咲くかもしれないと思ったが、実際に登れたのは秋も十月の終わりだった。  小森川沿いの道を辿り、|白井差《しらいざす》の登山口から少しゆくと昇龍ノ滝があり、「植物をとるな、川の魚をとるな」という標識。両神山には、フクジュソウが咲くと聞いたことがあるし、これらのキンポウゲ科の花は石灰岩地が好きである。しかし私が、両神山で見たいのは、鳴神山とここにあるというヒイラギソウであった。紫のシソ科の花で、その葉がヒイラギの葉に似ているという。山の花の好きな友人は、反対側の日向大谷から登ってその花を見ている。セツブンソウもヒイラギソウも珍しいので、わざわざこんな標識がたてられたのであろう。 「一位ケタワ」まで、急坂をあえぎながら登り、左折して頂きに向かう。紅黄葉したドウダンツツジやヤシオツツジやミツバツツジがいっぱいあって、花どきは見事だろうと思った。両神神社の前を通ると、眼の前に峨々たる大岩壁があらわれ、これが遠くから見た、あの鋸の歯だなと思う。両神神社は、ヤマトタケルが、イザナギ、イザナミの二神をまつるために創建したという。ヤマトタケルノミコト東征の旅は、鉱山さがしの旅だとは民俗学者の谷川健一さんの説だが、西麓には日窯鉱山がある。  頂上は剣ケ峰の名にふさわしく、ガラガラの岩場だが、途中で私は、一本だけヒイラギソウの来年のための新しい葉を見つけた。とられては困ると、その前にかくれるような石をおいて来たが、日光があたらなくても困ると、また戻って外し、とられてはダメよと葉っぱに言った。 [#改ページ]

34 |伊豆《いず》ケ|岳《だけ》    アズマイチゲ  まだ、今の西武池袋線が、武蔵野鉄道とよばれていた頃、いつも春や秋には飯能から、正丸峠、伊豆ケ岳、|子《ね》ノ権現へのコースが東京市民(その頃は都民ではなかった)の健康と行楽によい山歩きと書いて宣伝するビラが、駅の構内に貼られていた。  有名なところは、人間が多くていやという気持ちが子供時代から強かった私は、あまり宣伝されていない奥多摩の山々などに惹かれて、戸倉三山、高水三山、武州御岳、大岳などをよく歩き、戦後になって、正丸峠を通過するのは、秩父の山々を歩くときだけで、伊豆ケ岳に登るなどとはほとんど考えなかった。そういう私に、伊豆ケ岳は花の山と教えてくれたのは、今は故人となった野庄司氏で、八十歳を越えてなお、定期券を求めて、月に二十日は正丸峠から、伊豆ケ岳方面を歩いて、山の花のスケッチをするとうかがい、びっくりしたり感心したりした。その千枚にもなる野の花山の花の絵もすぐれていて、ほとんどが伊豆ケ岳中心と聞いては、どうしても登らなければと、つい最近の三月半ば、正丸峠の六五〇メートルから伊豆ケ岳の八五一メートルに登り、|天目指《あまめざす》峠の四八〇メートルまで一二キロ近くを歩いて来た。  山麓にヤマトタケルが猪狩りをした記念のモミの木の二代目があって、ミコトはここを通って、両神山にいったのかもしれないと思ったり、この展望のよい尾根道が、早春の花々でいっぱいなのに感激した。カワラナデシコ、ヤマルリソウ、コウゾリナ、キンミズヒキ、キケマンなどは、まだ若い芽や葉を見せているだけだったけれど、ミツバツチグリ、アオイスミレ、タチツボスミレ、キランソウは黄に紫の濃淡にと咲きさかり、クヌギ林の去年の落ち葉の下から、アズマイチゲが白い花片の裏をうすい紫に染めていっぱい咲いていた。下山して来ての道ばたの川のほとりにもいっぱい咲いていて、だれもとるひとがないらしいことがうれしかった。   人蔘は明日蒔けばよし帰らむよ    |東一華《あづまいちげ》も花を閉ざしぬ [#地付き]土屋文明 

35 |武州御岳山《ぶしゆうみたけさん》    エイザンスミレ  小学校の遠足は高尾山。次の上の学校では、武州御岳を下から歩いて登って下りた。今もケーブルに乗りながら、林間につづく登山道を眺めて、今度は歩いて登らなければといつも思う。武州御岳が高尾山よりずっと花の多い山と知ってからは、なお思う。全山どこへいってもエイザンスミレが咲いている。  武州御岳は、木曾|御岳《おんたけ》より、秩父|御岳《おんたけ》より花が多いと私は思う。それは武州御岳に娘の頃から二十回近く登っているからかもしれない。御嶽神社は古い歴史を持ち、崇神天皇時代の創建で、聖武天皇の天平年間に行基が、蔵王権現をまつったというと、吉野の金峰山の系列の神仏混淆であったのであろう。大和朝廷をつくった大陸からの渡来人は、崇神天皇あたりから実在性を持つというから、関東地方に多かった大陸の民の信仰の中心になったのかもしれない。山は九二九メートルと低いが、神社の北から多摩川の鳩ノ巣渓谷に下りたり、西に進んで、途中から日ノ出山への尾根を歩いて東に進んで吉野の梅林に下りたり、日ノ出山を南に下って、金比羅尾根を秋川の谷に出たり、神社の西を大岳にゆき、北の氷川へ下りたり、南の|馬頭刈《まずかり》尾根を歩くこともできる。大岳山への途中の長尾平から、七代ノ滝のある谷に下りて、沢沿いに登ってもとの道に合流するのもおもしろい。  畠山重忠がこの神社を信仰したというのも、秩父山地の一つの戦略地点として、四方八方に道が通じているということが魅力だったのかもしれない。  |馬頭刈《まずかり》尾根の花で忘れられないのは春のイワウチワの大群落。大岳山への道の途中には、サツキヒナノウスツボが咲いていた。皆、春の四月である。ヤマザクラも多かった。  七代ノ滝の谷はまさに花の谷で、一番多いのがギンバイソウ、ジロボウエンゴサク、ヤマネコノメソウ、ヒロハコンロンソウ。滝の崖にはイワナンテン。日ノ出山への道にはミヤマキケマン、ヤマルリソウ。鳩ノ巣への下りではヤワタソウなど。金比羅尾根ではカタクリを見た。 [#改ページ]

36 |雲取山《くもとりやま》    イワウチワ  雲取山は二〇一八メートル。その山裾は東京、埼玉、山梨にひろがり、東京都で一番高い山である。私の娘の頃に、亡兄も亡弟も登っていて、その五万分の一の地図が残っている。亡兄も亡弟も、|将監《しようげん》峠から飛龍を越え、北天ノタルを過ぎていったらしく、何日かの重い天幕をかついでの山旅であり、女の私などつれていってもらえなかった。この縦走路には花が多く、ことに雲取にはサクラソウのような花が咲いていたと亡弟は言い、その頃は荒川の河川敷に日本サクラソウが群生していたので、そんなに低いところに咲く花が、二千メートル前後の高いところに咲くのかと首をかしげた。  とにかく自分の足でたしかめなければと思いたったのは、兄や弟が登った頃より四十年以上も経過してからである。秩父の三峰口から出発、三峰神社の奥社にお詣りして、地蔵峠から登山が好きであったという亡き秩父宮の命名の霧藻ケ峰、前白岩と、よく踏まれた道をいつもの山仲間と歩いた。イザナギ、イザナミを奥社にまつったのは、ヤマトタケルと聞いて、両神山と同じにここにもミコトの足跡があると思ったが、秩父は、奈良時代に銅を大和朝廷にさし出している。秩父にはやはり鉱産物があるのである。  さて、前白岩、奥白岩と大きな起伏をくりかえす道は、びっしりと石の根元に群生したイワウチワのうす紅の花の満開で、亡弟はこれをサクラソウのような花と見たのではないかと思った。|馬頭刈《まずかり》のイワウチワより色が濃い。あるいは秩父に多いクモイコザクラか、イワザクラか。  雲取山荘にはほとんど夕暮れる頃に到着。  あくる日は頂上に向かう針葉樹林帯の下草にオサバグサの群落を見、鴨沢にと下る道のかたわらにシオガマギク、ヤナギラン、クガイソウ、シモツケソウなどの芽生えを見て、夏の花盛りを想像した。私は華麗なヨツバシオガマより、あっさりとしたシオガマギクが好きである。この日の下りでは、豪華絢爛とも言うべきヤマザクラの満開の大木を見て、この一本に出あっただけでも来てよかったと思った。 [#改ページ]      南関東・中部

37 |飛龍山《ひりゆうさん》    ツバメオモト  北天ノタルという名にあこがれていた。北天、北斗七星、北辰、北峰、北陸。北という文字がつくとすぐそれだけで気が引き締まるような気がする。  雲取に登ったとき、ただ、鴨沢にまっすぐ下りるばかりではつまらないと言うと、西の稜線をゆき、北天ノタルから三条ノ湯へいってもよし、飛龍から笠取まで歩いて|雁《がん》峠から下りてもよいと小屋主の新井さんが言った。私の兄弟たちは学生時代に天幕をかついで、この道をいっている。とてもそこまでは及びもないが、笠取、雁峠は歩いているので、せめて飛龍から北天ノタルまでと、つい最近の五月半ば、|将監《しようげん》峠経由の道をえらんだ。  笠取へゆく時に泊まった三之瀬から笠取への道と分かれて、その夜の泊まりの将監小屋を目指したが、峠の西の|牛王院《ごおういん》平は、武田信玄が金鉱をさがしたあととかで、昔から多くのひとが通り、馬も歩いたのであろう。緩やかな歩きよい道である。右側は|龍喰《りゆうばみ》、|大常木《おおつねぎ》などの急峻な谷で、ここも金鉱さがしに歩いたあととか。ツバメオモトが芽を出している。もしやアツモリソウではないかとよく葉を見たが、次々とあるのが皆ツバメオモト。この花をはじめて見たのは、槍ケ岳から槍沢を下りて、西糸小屋に泊まった時であった。浴室の窓の下に咲いていて、宿のひとが図鑑をひらいて教えてくれた。その後ウィーンの森に何度かゆき、この花の多いのも知った。  北天ノタルへの山腹についた道は、すべて若い谷の源頭を桟橋で渡ってゆくので、ところどころかしいでいたりして、谷に下り、またよじ登ったり、意外に時間をとり、飛龍権現から北天ノタルまでの道がことに危うく、やっぱり、秩父もこのあたりは山深いなあと思った。花のないシャクナゲの群落もあり、花はヤハズヒゴタイ、ソバナ、シオガマギク、シモツケソウ、アケボノソウの芽がいっぱい。ウワミズザクラやフジザクラも咲き残っていて、北天ノタル到着午後二時。健脚組は雲取にゆき、私はタルとは鞍部であることを確認して三条ノ湯へまっすぐ下りた。 [#改ページ]

38 |笠取山《かさとりやま》    キバナノコマノツメ  多摩川の谷をつめてゆくと、笠取山の一九四一メートルに至るということを知らせてくれたのは亡き瓜生卓造氏の『多摩源流を行く』である。  私はそれまで、多摩の源流は、大菩薩の西の柳沢峠か、東の小管谷か、あるいは雲取の南の三条ダルミの下を流れる青岩谷あたりかとばかり思っていた。それらの川はいずれも奥多摩湖に出るのだが、笠取山の南のミズヒ沢から一之瀬川となり、一之瀬で、柳沢峠からの水を合わせて、|丹波《たば》にくるのが、一番の本流と知らされては、どうしても笠取山に登らなければと思いたった。  私は東京板橋宿の家の庭の中を、多摩川から水をとる千川上水が流れる家に生まれた。川としては荒川が近いが、産湯は多摩川の水で使い、娘の頃はよく新宿から多摩川のほとりの調布や金子にいって、その本流で泳いだ。まだ奥多摩湖などができない時期で、水量のゆたかな多摩川は美しく澄んだ瀬音を聞かせ、河原はカワラナデシコとオオマツヨイグサの大群落であった。その花の香のうす甘くすがすがしい香りを、泳ぎ疲れて河原で休みながら胸いっぱいにかぎ、板橋の家に帰って日の暮れがたになると、オオマツヨイグサが今頃咲くと思い、翼があればとんでいきたい思いになった。戦後の多摩河原を訪れ、オオマツヨイグサはまだ少しあったが、カワラナデシコはもう一本もないのを知り、どこまでいったらカワラナデシコにあえるかと、鳩ノ巣から氷川、丹波、一之瀬から柳沢峠まで気をつけてみてどこにも見いだすことはできなかった。  笠取山に登ったのは、甲武信から帰って十日目、三之瀬の民宿に泊まり、|黒 槐《くろえんじゆ》尾根を経て四時間かかって、笠取山直下の巨岩の下から水のしたたるミズヒまで歩いたが、キバナノコマノツメ、タマガワホトトギス、モミジカラマツ、クロクモソウはあったが、カワラナデシコはなかった。一八〇〇メートルの地点である。がっかりして笠取山にゆき、|雁《がん》峠から北の新地平まで歩いて四時間。ここまでにもカワラナデシコはなかった。 [#改ページ]

39 |甲武信岳《こぶしだけ》    クモイコザクラ・レンゲショウマ  横山厚夫氏の『東京から見える山見えた山』の中に、大正六年(一九一七)の日本山岳会機関誌『山岳』に小暮理太郎氏がまとめて発表されたものとして、二〇〇〇メートル以上の山のすべては六十三座にもあがったことが書かれている。  横山氏は、この山々の見取り図と磁石を持ち、何度も都内の高い建造物や、見晴らしのきく台地に立ったという。  大正七年頃から、私は小学校に電車通学をしていたので、晩秋から初冬にかけての朝、池袋駅のプラットホームの上の長い通路の窓から西の空を眺めると、秩父の山々から丹沢、箱根、天城の山々がずらりと並び、雪の富士山が丹沢の上から、端然とした姿をあらわしていたのが忘れられない。  亡兄や亡弟は、よく飛龍だの、雲取だの、甲武信岳だのというので、今にいつかきっと、それらの山にあるという針葉樹の原生林の中を歩こうと自分の心をはげましていた。  私は白地図を、等高線の四〇〇メートルくらいの差で、茶色を重ねて塗るのが好きであった。  北アルプスの槍ケ岳や穂高も、甲武信中心の奥秩父も、五万分の一の地図を何枚か寒冷紗の上に張り合わせ、部屋の中にひろげて、浮かび上がった山稜や、谷々や、川の流れの姿に、想像の木々の林を思い浮かべ、花を咲かせてよろこんでいた。  さて、あこがれの甲武信は、六月のはじめ、私が七十八歳を迎えた記念に実現した。  新宿から小海線の信濃川上を経て|毛木《もうき》平まで車で四時間。十二時から歩き出した毛木平はズミが真っ白な花を咲かせ、ベニバナイチヤクソウが群落をつくっている。山道に入って、渓流沿いの道を蛇行して登ってゆく途中は、ズダヤクシュ、レンゲショウマ、ヒメイチゲ、エンレイソウ、ツバメオモト、アズマイチゲ、ツルネコノメソウ、コチャルメルソウと、まるで、天然の高山植物園の中をゆくような賑やかな花の出迎えである。  八丁頭の直下の急坂も、次にはどんな花があるかと心がさわぐ。十文字小屋には三時過ぎに着いて、小屋の前のシャクナゲは満開であった。北に向かってひらかれた樹間の空に遠く、|両神《りようかみ》山から上州|武尊《ほたか》が浮かんでいてうれしかった。  あくる日は六時に小屋を出て、コメツガやシラビソの林の中をゆくのだが、意外に木が細くて、櫛形山の方がずっと大木が生い茂っていたと思い、午後三時にやっと着いた甲武信小屋主の山中邦治さんに聞くと、台風で大木は倒れて若木が育ちつつあるのだとのこと。また、七十八歳でここまで来た女の人ははじめてだと、ビールをご馳走してくれた。  甲武信の頂上は意外に狭く、すぐ眼の前にいつか登った奥千丈岳や国師や金峰が見える。五十年前だったら金峰まで歩いたのにと残念であった。  大正五年の七月、当時の帝国大学(今の東大)を卒業した五人の青年たちが、雁坂峠から甲武信を目ざして出発。破風山を経て、一つ手前の|木賊《とくさ》山を甲武信とまちがえ、ヌク沢に入りこんで、風雨にたたかれ四人が死んでいる。兄や弟が甲武信にゆく時、母はその事件をおぼえていて心配した。  私はあくる日も朝六時出発。雁坂峠へ下らずに、ヌク沢を歩きたいと山中さんにたのんで案内してもらった。いたましい死者の霊を弔いたい気がして。  破風山の手前には、新しく避難小屋ができていて、その前の笹藪の中を下る。木賊山、鶏冠山を右にしての急降下がつづき、鹿が泥をかぶるヌタ場がある。  急に瀬音が高くなり、右に細い道を下って渓谷に出る。ヌク沢である。対岸の岸壁にクモイコザクラやキバナノコマノツメが咲いていた。とりたくてもとても徒渉してゆけるところではないので、安心してここに書く。  満開のシャクナゲの林の中を鶏冠山林道まで下りて十一時であった。   石楠花新道息継ぐは鹿のあそび場 [#地付き]鷲崎ヨウ子 

40 |乾徳山《けんとくさん》    イワインチン  乾徳山は、武田信玄が深く尊敬し、厚い待遇で美濃から迎えた快川上人が、織田信長の無残冷酷極まりない攻撃によって、百五十数人の僧侶と共に山門に押しあげられて、猛火の中に亡びた|恵林寺《えりんじ》の山号である。  市川大門出身の夢窓国師が手を加えたという庭の木々が、秋も末に落葉すると、樹間から、乾徳山が仰がれるという。市川大門は甲府盆地の南にあり、夢窓国師も、東北の空の乾徳山に向かって、座禅を組んだことがあるかもしれない。  乾徳山の戦前の古い地図は亡弟のもので、私の息子もその地図を持って登っている。私もどうしても登らなければと思いたったのは、数年前の九月も半ばで、七十代五人を加えた山仲間二十人と、大平牧場の一四〇〇メートルまで車を入れた。乾徳山は二〇二〇メートル。奥千丈岳の東南である。九月半ばの一四〇〇メートルは残暑がきびしく、|瑞牆《みずがき》山と同じ石英閃緑岩の岩山で、遠くから見ると岩峰が空にそびえたっているが、岩場に取りつくまでの、ゆるやかな斜面は、マツムシソウやミヤマアキノキリンソウやノアザミやワレモコウなどが咲いて色とりどりで賑やかだが、暑がりの私は、汗をだらだら流し、左手に連なる道満尾根のまだ紅葉には早い闊葉樹林を見上げながら、帰りは、あの尾根道を辿ろうと思っていた。  扇平から左折して勾配も急に、梯子や鎖場のつづく針葉樹林帯となってほっと一息。ふりかえれば甲府盆地の南をへだてる櫛形山、日向山の上に甲斐駒や仙丈や富士山の見える眺めが素晴らしかった。  大きな露岩が重なりあっている頂上にはまわり道もあるが、二〇メートルの岩場を鎖で登った。先の人が登りつくのを待っている間に、イワインチンの黄の鮮やかな花を見つけて、こんなところでとなつかしかった。ずっと前に菅平の根子岳や、志賀高原の笠ケ岳であって以来である。この花は岩場に多く、葉も花も色が濃くて、山の花というよりも海べの花のような気がする。 [#改ページ]

41 |乙女高原《おとめこうげん》    シモツケソウ  山に登るとき、この山は幾つまで登れるかと考える。八十歳から九十歳を標準にして、最後を九十歳とすれば、乙女高原、小楢山をあげなければならぬ。北海道の礼文島も九十歳、東北の種山高原も九十歳で可能だが、勿論、十代二十代の青春真盛りのときにいってもすばらしい。花が多い。  私は富士山に登る登ると何十年と言い続けていて、まだ実行する気にならないのは、そこには六合目ぐらいから上の植生が乏しく、七合、八合目ともなれば、ごろごろした火山岩火山礫ばかりの味気なさだから。そういう山は疲れた時の心の安らぎが得られない。今まで登った活火山の浅間山、十勝岳、三原山、すべて登ったけれど、味気なかった。  乙女高原は中央線の塩山から、塩平ゆきのバスに乗ると、終点から二時間は歩く。それよりタクシーで、焼山峠までゆく方が賢明である。この道は、国師と金峰の鞍部の大弛峠まで、マイクロバスを仕立てれば十分に入れる道である。  焼山峠の一五三六メートルを右に辿れば、一七一三メートルの小楢山。五月から六月はレンゲツツジの花盛り。四月、五月はワラビの大群生。スミレの種類もたくさんある。  乙女高原は焼山峠から左の森の中の道をだらだらと登りで三十分。あるいは乙女高原だけならば、タクシーに入ってもらって十分もすると、牧丘町町営の大きなロッジの前に出る。標高は一五〇〇メートルから一七〇〇メートルで、一七二五メートルのヨモギの頭の北斜面にひろがる高原である。先ずその地形がよい。  ヨモギの頭あたりにはシラカバやツガやミズナラの大樹が茂っている。その森を目ざす幾筋かの草径が広大な野の中を縦横に走っている。子供の頃に歌った唱歌に、   青葉三里 野路を辿る   馬追いの 笠の上に   白し白し ま白 小百合   朝風にゆれて咲く  というのがあったけれど、目もはるかに見わたせるというのは、こういう眺めをいうのかと思ってしまう。  私はこの高原の初夏に三度出あった。ワラビの芽が少し穂をゆるませて、葉になりかかった五月、レンゲツツジの花はまだつぼみであった。アヤメもつぼみであった。  そして六月はマツムシソウやヤマハハコやコウゾリナやタムラソウのつぼみのふくらんだのを見た。レンゲツツジは花盛りであった。  七月の半ば、櫛形山のアヤメの大群落が、盛んな紫の花の波となる頃、乙女高原はどうかしらと甲府から塩山に出てタクシーをとばした。アヤメはここにも点々と咲き、タムラソウやミヤマハハコもうす紫に白に咲き、シシウドが見ごとであった。シモツケソウのうす紅もレンゲショウマのうすいピンクもウバユリの白も咲き初めて、八月になったらハクサンフウロもマツムシソウもシナノキンバイもオオバギボウシも全開の花盛りになるであろうと思った。  そして九十歳になったら、九月から十月にかけて、カラ松林の黄葉の中を歩き、高原へオミナエシ、フシグロセンノウの花を見に来ようと思った。焼山峠を北に下ると、金峰泉がある。ゲルマニウムやラドンなどをふくんで、飲んで胃腸や心臓、肝臓に効くという。牧丘町には、夢遊苑という名の庭園の美しい民宿があり、金峰泉、夢遊苑などを基地にした、登山というのではなくて山歩き、山散策を楽しむのもよいと思う。ロッジも町の観光課に頼むと安く泊まれる。  津和野の乙女峠は明治初年に浦上のキリシタンを集めて拷問死者を出した暗い歴史を持つ。そこはいのちをかけて信仰を守った者を讃えるための巡礼地になっている。乙女峠の名は、かつてこの地の領主周見氏の娘が非業の死を遂げたことによるという。この乙女高原の名は何をもとにしているのか。牧丘町は巨峰の産地として名高いが、武田家ゆかりの古い歴史も残されている。乙女の名はその美しい姫が野の花を愛でて、しばしば馬かお駕籠にのって遊びに見えたところと思いたい。  小楢山は幾つかの起伏があるがゆるやかである。 [#改ページ]

42 |大菩薩嶺《だいぼさつれい》    スズラン  結婚式を一ケ月あとに控えた十月、娘時代の最後の登山に大菩薩嶺をえらんだ。弟の友人二人が一緒であった。風邪をひいていて、午後の新宿を出る時、七度五分の熱。もう半世紀以上昔のことである。私はキュロットスカートに山靴を履いてスエーターを着ていた。  バスもタクシーもない時代で、|初鹿野《はじかの》から天目山|栖雲《せいうん》寺の下を通り、八キロ歩いて嵯峨塩温泉に一泊。あくる日は日川尾根から二〇五七メートルの針葉樹林帯の頂きに着いて熱は八度。嶺の南の草紅葉の美しい斜面を横切り、裂岩からバス。すがれたシシウドの点々と朽ちかけながら立っているのが哀れをそそった。その夜帰京して七度に熱が下がり、よい空気をいっぱい吸ったからと思った。結婚してからも、青々とした大菩薩の南に傾く草原を見たい、すがすがしい白にかがやくシシウドにあいたいと思ったが、願いが叶ったのはそれから四十年たち、私は六十歳を越えていた。そして、大菩薩にはいくつもの道が通じているのを知った。中里介山が長篇小説『大菩薩峠』の舞台にえらぶのにふさわしく、甲斐と武蔵をつなぐ重要な道路の甲州街道は南の山麓を、青梅街道は北麓をめぐっている。  二度目はやはり秋の十月の紅葉の美しい時期で、大菩薩峠から北に小管まで一七キロ近く歩き、岩場の下にはナギナタコウジュやリュウノウギクが咲き残っていた。  シシウドが見たくて九月のはじめに嶺から柳沢峠まで歩き、南面の草原になつかしいシシウドの咲き残りを見つけた。アマニュウかシラネセンキュウかよくわからないものもあり、マツムシソウがいっぱいあった。  次の年の七月に天目山の右側の焼山沢に入り、焼山峠から湯ノ沢峠を右折して大蔵高丸から破魔射場丸の稜線を歩くと、ここにはコオニユリが咲き、シシウドが咲き、スズランまであって、その眺め全体が、前年に歩いたスイスの山々の牧場風景そっくりであった。 [#改ページ]

43 |九鬼山《くきやま》    フジザクラ  山梨県下の寺院の庭を訪ねて歩く仕事で、天目山|栖雲《せいうん》寺の石庭へいった時、この山腹を利用した、雄大かつ豪壮な巨岩から成る石庭は、武田家が亡びてのち、四百年も土に埋もれていたのを、九鬼山麓朝日小沢の造園家の、大原孝治氏が十年がかりで、たった一人、スコップや|鍬《くわ》をつかって土をのぞき、見事な三尊石、霊泉石、龍門石、鯉魚石、座禅石など、禅寺の庭特有の石組みを現出させたという。九鬼山の九七〇・三メートルは、都留と大月の境にあって、猿橋で中央線を下車。南西に四キロ、小沢川の谷をつめたところにそびえたっている。わたしは大原氏にあう前に登っていて、この沢筋は、甲斐から駿河に出る山越えに利用されたのではないかと思った。  都留は岩殿山に小山田信茂の城があり、武田領の南の要害となっている。しかし信玄の没後、信茂は敗亡の勝頼を笹子峠で裏切って、都留の地に一歩も入れず、勝頼は、栖雲寺の手前の大蔵河原で一族の敗死を迎えるのである。大原氏はせめて勝頼の霊を慰めたくて、この石庭の復活に生涯の力をそそいだのではないか。しかし、また、都留のひとびとは、信茂が、からだを張って勝頼を拒んで、都留を守ってくれたことを、今も名君と仰いで感激している。  九鬼山はそのような四百年昔の、悠久の歴史をしのぶのにふさわしい花の山である。山腹のほとんど三分の一ぐらいまで畑になっているのも、生活と密着した親しみを感じさせるが、|札金《さつかね》峠へ出るまでの道は、アズマイチゲ、ハルリンドウ、チゴユリ、ユキザサが咲き、エンレイソウ、ヤマユリ、ソバナ、フシグロセンノウと、美しい花を咲かせる草が芽をのばしていた。札金峠を西に下れば、信玄のかくし湯とかいう田野倉温泉に出る。  二等三角点のある頂上にと向かうアカマツ林のだらだら登りの山道には、マメザクラともよばれるフジザクラが、両方から枝をさしかわし、白く小さく真ん中に、紅をさした花が満開で、戦いに明け暮れた武士たちもこの山道をゆく時は、しばし心が和んだであろうと思われた。 [#改ページ]

44 |二十六夜山《にじゆうろくやさん》    ヒゴスミレ・マルバスミレ  二十六夜山は、コンサイスの山名辞典にはのっていないが、山梨県の秋山村に九七二メートル、都留市に一二九七メートルと二つあって、ともにその麓を桂川に注ぐ支流が流れている。  二つの二十六夜山は、都留市の東と南にあって、九七二メートルの方は、上野原から都留ゆきのバスにのって寺下に下車。三十分西に歩いて山路に入る。一月三日の正月登山に、雪の降りしきる中を登り、ぬかるみと、ノイバラのヤブコギで難渋した。  一二九七メートルは、道志川と桂川の谷をへだてる背梁の道志山塊を、|巌道《がんどう》峠から、赤鞍ケ岳、朝日山、菜畑山、今倉山と二〇キロ近く歩いての西端にあって、富士急行の赤坂駅の東の戸沢に下る。こちらにはつい最近の春の半ば、道坂トンネル脇から今倉山に登り、地図の上では無名峰の一四四〇メートルを越えて頂きに出た。こちらも戸沢への下りはひどいノイバラのヤブコギであり、もう一つ、二つの山に共通しているのは「二十六夜」と|彫《きざ》まれた名が、頂きよりちょっと下ったところにあり、そのまわりがやや低い平坦地になっていることである。  江戸時代には二十六夜信仰があり、一月と七月の二十六日の月の出をおがむと、月の中に弥陀、観音、勢至の三つの仏があらわれるのだという。  都留は戦国時代には武田二十四将の一人の小山田信茂が領有していたのだが、信玄の没後、武田勝頼が、笹子峠から岩殿城に逃げようとしたのを峠に柵をつくって拒んだため、勝頼は天目山で一族百数十人となって死に、織田信長は、小山田信茂をとらえて主に|叛《そむ》いた不忠者として、その母と共に殺した。  しかし領内で甲斐絹を生産していた都留のひとたちは、信茂がからだを張って勝頼を拒んで領内に入れず、領内が戦場にならなかったことに感謝し、今なお名君として慕っている。  さていつか天目山栖雲寺の石庭を観にいった時、本堂に安置された大きな仏像のうちの一体が十字架のついたロザリオを首からかけているのを不思議に思って住職に聞くと、甲斐にはキリシタン大名の有馬晴信が配流されていた関係ではないかとのこと。その甲斐はどこの地であろうかと気になっていたが、一二九七メートルの二十六夜山を下って来てから『山梨県史』を読むと、小山田氏亡きあとの都留は秋元氏領となったが、有馬晴信は秋元氏のところに引きとられ、やがて刑死するとあった。私は二十六夜山が日本の中でたった二つ、都留周辺にあるのは、晴信の家来たちの信者が、かくれキリシタンとしてこの地に住みつき、二十六夜の月にかこつけて、ひそかに山上に集まり、マリアへの祈りをささげたのではないかと想像した。  その熱い信仰がなくて、なんで一月二十六日夜の雪の明け方の、ヤブコギの道をお詣りなどに登って来たのであろうかと思うのである。  この長い道志の尾根歩きを、私たちは三回にわけて歩いた。一度は秋で、今倉山と菜畑山、道志口峠といって、竹之本に下った。黄紅葉した木々が美しかったが、道はぬかるみでどろんこになった。二度目は巌道峠を春の末に登り、晴れていたので、日照りが強くてまいった。この時この尾根道は花の道と思った。ヒゴスミレ、ホタルカズラ、マルバスミレ、キンラン、ギンランにであった。しかし長尾平から、赤鞍ケ岳あたりはヤブコギでマムシがこわかった。であったひとも二、三いた。ハンゴンソウが丈高くのびていた。朝日山から下って道志温泉に泊まった。三度目は早春で枯れ草の中からエイザンスミレ、マルバスミレが咲きはじめ、キジムシロやミヤコグサやトウダイグサ、コオニタビラコの黄、コケリンドウ、タチツボスミレのうす紫と、なかなかにぎやかな春の花の出迎えであった。  エイザンスミレは、|御岳《みたけ》あたりのよりも、花が白く、葉も小さい。ヒゴスミレかと思えば、葉はエイザンである。花が終わったら、この葉もやはり大きくなるのであろうか。あまりひとの訪れない山道には踏みあとも消えるほどスズメノカタビラなどが茂り、左に御正体山や杓子山、右に笹尾根を眺めながら、秋の紅葉の頃にまた来たいと思った。 [#改ページ]

45 |三《み》ツ|峠山《とうげやま》    レンリソウ・フジアザミ  いつも見る富士山は表側の、駿河からの眺めが多いので、裏富士、横富士はどうかと毎年の一月は、富士を見るためにその近くの山に登るのがこの十数年の習わしとなった。  富士山の成層火山としての典型的なかたちは、多くのひとに好かれて、昔から画家の絵にもたくさんとらえられている。東京から一年に何日間富士山が見られるかを研究しているひともある。高層建築やスモッグによって江戸や明治の頃からとは、ずいぶん大きな変化があるであろう。  私たちは一年のはじめにとにかく富士を見たいばかりに、山中湖や河口湖周辺の山々のてっぺんによく登った。三ツ峠は、三ツのピークを持ち、三ツ峠山の一七八六メートルが一番高い。|御巣鷹《おすたか》山は一七七〇メートル。毛無山は一七四〇メートル。富士山頂への直線距離は約二一キロ。三ツ峠山の南の杓子山は一五九八メートル。富士山までは一八キロ。その南の石割山は一四一三メートル。これも一八キロ。三ツ峠山の西の御坂山の一五九六メートル。黒岳の一七九三メートルは共に二一キロで、これらの山々は、いまの富士山が一万年前に出来上がったのに対して、もっと古く千六百万年前の海底火山の隆起したものである。富士山の新しい熔岩流は、これらの山々につきあたって止まり、その間に五湖をつくった。一月にこれらの山々に登るとき、富士山は全山が雪に被われた姿をあらわすが、空は晴れながらこちらの山々も山腹は雪である。ただ、富士山ほどには深い雪ではないので、私たちは、雪道を踏んで登る。そしてこれらの山々には花が多そうだと知って、また、花の頃に登る。  たとえば、杓子山は雪の中にヤマツツジやトウゴクミツバツツジの枝がいっぱいあるので、その花の盛りに登り、石割山は雪の下にはやばやとマツムシソウやギボウシの芽を見つけて秋に登る。御坂山塊には、スズランが咲くと聞けば六月ごろ登って黒岳まで歩き、御坂山では、スズランは見つからなかったけれど、クサタチバナに出あって赤城山以来とよろこび、ハルトラノオにあって|石裂《おざく》山と同じとよろこび、ミヤマヒゴタイらしいものに出あって変わったアザミねえと首をかしげ、レンリソウの鮮やかな紅を見て図鑑では知っていたけれどはじめて、とまたよろこび、ずい分花の多い山だとうれしがった。ここにはサラサドウダンもトウゴクミツバツツジも咲いている。とにかくこの古い海底火山の名残の山々には花が多いのである。レンゲショウマもヤマブキショウマもあった。  三ツ峠もまた、空が晴れていれば、雪を踏んで登るのにふさわしい山である。三ツ峠は中央高速の河口湖インターから湖畔に抜けるトンネルを通って三ツ峠登山口から登る。アカマツの多い道で、枝々にまだ雪が残っているアカマツの枝越しに白銀にかがやく富士を見る眺めは素敵だ。三ツ峠山の南面は絶壁になっていて、春から夏には岩登りの練習場になっているが、冬富士の展望台として、前面にさえぎるものがなく、右に河口湖、左に山中湖の氷結して光る鏡のような水面をしたがえ、富士がもっとも華麗に見える場所だと思う。  一月はじめにはまだ草の芽も雪の下で何も見えないけれど、山頂へ行く手前に大きな説明看板があって春から夏になると、このあたり一帯にカイフウロ、ヤエザキカイフウロ、コウシュウヒゴタイ、カイトウヒレン、ヤマナシウマノミツバ、カイホクチアザミ、ムラサキアズマハンショウヅル、ミツトウゲヒョウタンボク、ウスユキアツモリソウ、グンナイキンポウゲ、エダハリアザミ、ムラサキスイカズラが咲くと書いてある。眼につくのは、ヒゴタイ、トウヒレン、アザミと似ていてまちがいやすい花の多いこと。フジアザミもある。  山と渓谷社の『高山植物』の中に、アザミ属とトウヒレン属の見わけ方は簡単で、雌しべのつくり方が違い、アザミの方が先端が二つにわかれて平行して直立し、トウヒレンの方は二つにわかれて外側にそっくりかえっている、とある。そのちがいを眼でたしかめたい。 [#改ページ]

46 |黒富士《くろふじ》    セキヤノアキチョウジ   裏富士の月夜の空を黄金蟲       飯田龍太  JRの『EAST』の一九九一年一月号の「新・富獄百景」に飯田龍太氏が「甲州から富士を見る」という随筆を書き、「裏富士には個性がある。そのなかに日本人の微妙な美意識が秘められているのだ」とされたあとでひかれた自作の句である。  黒富士は茅ケ岳のすぐ北東に曲岳とつづいて、一五二〇メートルの高さを持つ、円錐形の富士に似た山である。中央線の窓からは、茅ケ岳の右肩に熔岩円頂丘の曲岳の一六四二メートルが前に立ちふさがってよく見えない。しかし、韮崎から亀谷川の谷をつめて茅ケ岳東麓の観音峠の一四〇〇メートルで車を下りれば、道路の左側に茅ケ岳と相対して曲岳、その鞍部から黒富士が見え、二つにつづけて登って下りて、五時間もあれば十分である。  黒富士の名は、山頂が深い針葉樹林のくろぐろとした緑に被われているからだという。  富士は五合目以上が熔岩の荒い肌で被われているのに対しての山名かもしれないが、「黒富士一五二〇メートル」という杭だけが一本たっている頂上は、人間が何人も立てないような狭い平地で、深い緑の枝の上に空がひろがり、天を突くように空に向かってのびる鋭い針葉樹の穂先の波から、はるかに望む裏富士の山容は、駿河側から見る表富士より、はるかにきびしい山容を示していた。  曲岳も、岩場が多くてもおもしろい山だが、黒富士は、北側の山腹にミズナラ、コナラ、カエデ類が多く、茅ケ岳などよりはるかに山の花がいっぱいあって、あまり人が訪れていないことを知らせてくれるのがうれしい。登ったのは九月のはじめで、マムシの出没をおそれたが、登り下りのヤブコギの中でも出あわなかったので、これもうれしかった。花はシモツケソウ、アオヤギソウ、クモキリソウ、ヤマラッキョウ、ノコギリソウ、オヤマリンドウ、ヨツバシオガマ、フシグロセンノウ、ヤグルマソウ、ソバナ、アキチョウジなど。なお、黒富士の東南には帯那山、小楢山と、これも花の多い山がつづく。 [#改ページ]

47 |甲斐駒《かいこま》ケ|岳《たけ》    タカネバラ  仙丈、北岳の次はどうしても甲斐駒と思いこんでいたけれど、何回も、豪雨や雷雨で中止した。  豪雨でも雷雨でも、あくる日は晴天になるのだからとも思うのだけれど、私は雷アレルギーが強い。立山の薬師岳で、浅間高原で、火柱が前後左右に落ちて、死とすれすれの思いになったことがある。甲斐駒二九六六メートルの直下二〇〇メートルは岩ばかりと聞いているので、その最後の一登りのところで雷に出あったらと思うさえ胸がちぢむ。  その二〇〇メートルの登り下りの二時間近い間だけでも空が晴れていることを願って、一番らくなコースの仙水小屋一泊。早朝登山を実現したのは数年前の九月。峠から駒津峰二七四〇メートルまでに四時間を費やし、十二時までに頂上を極めて下りてくれば、雷雲は発生しないであろうと、岩尾根にタカネバラ、キバナノコマノツメ、ミヤマバイケイソウ、トウヤクリンドウ、クモイハタザオ、ダイモンジソウ、イワオトギリのほか、数十種の花々を見いだし、甲斐駒には花が少ないと言われているけれど、このルートにはこんなにあるとよろこんで、のろのろと摩利支天の岸壁に辿り着いた。十時半であった。花崗岩の砕けた砂地を頂上に向かってあと一歩という時、いきなり稲光り三度。雷鳴三度がおそい、雨も|沛然《はいぜん》と降って来て、私は一時間半ほど、岩かげで停滞。一切無言。全身硬直の状態となり、ようやく、午後一時に仙水小屋のアルバイトの明大生に手をひかれるという世にも情けない姿で、出雲系の神を祭る駒ケ岳神社の本殿の前に立てた。「国譲り」に敗れて、諏訪盆地に住みついたタケミナカタノミコトはこの山の姿を仰いで、わが祖先をこの頂きに祭れと言われたとか。  帰路に甲斐駒と摩利支天をつつんだ大きな虹を見てうれしかった。ミソガワソウ、フジアザミ、ヤナギラン、ヤグルマソウ以下、またも数十種の花々を見つけてこれもうれしかった。  苦しい登り下りであったのに、以来中央線の窓から甲斐駒の、岩の殿堂ともいうべき偉容に出あうたび、また登りたくなり、あの花々に出あいたくなる。 [#改ページ]

48 |仙丈《せんじよう》ケ|岳《だけ》    イワギキョウ・シコタンソウ  仙丈ケ岳は、高遠の町の東側の空に雄大な姿を見せ、その堂々とした山容がなにかひとの心をおちつかせてくれると思う。  仙丈ケ岳に登りたいと思ったのは、大奥の醜い権力闘争にまきこまれ、ほとんど無実の罪によって正徳四年(一七一四)、高遠に配流された絵島のことを書くために、高遠に訪れて以来である。絵島は六代将軍家宣の側室月光院に仕えて、七百石を与えられた大年寄であったが、歌舞伎俳優との情事で失脚した。高遠藩から江戸幕府に対して提出された報告書には、絵島の扱いを厳重に、粗衣粗食に甘んじさせているように書いているけれど、実際に資料館に残されたものは、大年寄にふさわしい高級な衣裳や調度であり、高遠の市民は今もなお、絵島を尊敬し、よびつけにせずに、絵島さんとよぶ。絵島は、のちに幕府が江戸への帰京を許しても帰らなかった。ひたすらに法華経に打ちこみ、警固の武士たちに書を教えた。  高遠の町角のどこに立っても、東は仙丈ケ岳である。絵島は六十歳でこの地に没するまで、どんな思いで、この大きな山を仰いでいたであろう。  あの山のかなたの江戸の地に、もう一度足を踏み入れたいと願ったであろうか。裏切りや暴露に明け暮れる醜い人間関係がおぞましく、二度と江戸にはゆくまい、あの山は江戸の方から吹く風をさえぎって、自分を守ってくれると頼もしく眺めたろうか。  さて、私が仙丈ケ岳に登ったのは十年以上の昔で、まだ北沢峠に向かう野呂川林道は建設工事の最中であった。広河原までバスで来て、フジアザミとシナノナデシコの咲く野呂川沿いの道を長衛小屋まで歩いたのだが、シナノナデシコは、白馬に登った時、蓮華温泉の庭に植えられているのを見て以来だったので、こんなにたくさん生えているというのがうれしかった。フシグロセンノウもクルマユリもヤマハハコも咲き、長衛小屋へと、道から下ってゆく河原にはシデシャジン、クガイソウ、センジュガンピ、ズダヤクシュ、サンカヨウも咲いていて、麓にこんなにいっぱい花があるのだから、仙丈にはどんなにきれいなお花畑があるだろうと胸がはずんだ。  その晩は雨で、川が増水し、河原にキャンプを張ったひとびとが、大さわぎしているのであまりよく眠れず、早朝の三時半に小屋を出てしまった。登山口は、すぐ道の反対側にあって、懐中電灯の光の中に、木々の|根瘤《ねこぶ》だけが浮かぶ急坂を登りつめてゆくうちに明るくなって、コメツガやシラビソの原生林に、朝陽のさしこむのが美しかった。足許に細かい葉で、花の白いセリバシオガマがいっぱい咲いていた。  仙丈は北岳に次ぐ花の山と聞いて来たが、大滝ノ頭から、廃屋になった藪沢小屋あたりまでに、ヤマオダマキ、コイチヤクソウ、コウゾリナ、シナノオトギリ、キツリフネ、アカバナと道の両側に咲きつづき、馬ノ背に向かう左側の山腹には、シオガマギク、マルバダケブキ、ヤグルマソウ、ホソバトリカブトが咲き次いでいて、花の絶える間がない。  右側は谷がひらけて、ダケカンバの林の上に甲斐駒のいかめしい岩峰が見える。明日は長衛小屋から仙水峠を越えて、あの岩峰によじ登るのかと思うと、胸がどきどきするような、緊張感であった。  馬ノ背ヒュッテの屋根が見え出したところに、上から土砂くずれのあったようなガレ場があり、押し流されて辛うじて止まったような、|礫《こいし》まじりの|土塊《つちくれ》の上にイワギキョウの紫が固まっていた。チシマギキョウより紫の色が濃い。このあたりは二六〇〇メートルぐらいで、それにふさわしい花が咲いている。北斜面で、雪が一番おそくまで残り、春の雪崩を起こしたのかもしれないと思ったが、いかにも不安定なところに盛大に咲いているのが、逆境に誇りをくずさぬ絵島の心意気とも見えた。  馬ノ背を右に、標高差三〇〇メートルの二キロあまり、ハイマツ地帯と岩礫地帯の交互をあえぎ登って頂上の三〇三三メートルを目指した。そこには羅臼や礼文で見て以来のシコタンソウのうす紅が待っていると胸をときめかせて。 [#改ページ]

49 |北岳《きただけ》    キタダケソウ・ミソガワソウ・タカネマンテマ  北岳は三一九二メートル。日本第二位の高さを持つ山。その年、富士山とどちらかに登ろうと思い、北岳をえらんだ。キタダケソウに一眼あいたい、私の好きなナデシコ科のタカネビランジを見たい。うす紫の麗人ミヤマハナシノブの群落もあるという。そして、八十歳になった夏の八月の二十日過ぎに芦安温泉泊まりで、翌朝六時、広河原から登ることにしたが、中央高速で都留あたりを過ぎようとする頃、猛烈な雷雨となり、雷嫌いの私は猛頭痛で堪えられなくなった。甲府駅前の談露館に飛びこんで、かねてから知り合いの経営者夫人、中沢敏子さんに医者につれていってもらうと、上が二一〇の下が一二〇という急性高血圧であった。注射一本してもらい、明日は安静にと言われたが、私は山に登れば下がると自信を持ち、|大樺沢《おおかんばざわ》の樹林から、多分氷河のカールの底と思われる河原や、沢をわたり、ガレ場を過ぎて御池小屋との分岐点の二俣まで、高度差七〇〇メートルを、四時間半かかって登ったが、林の下草にグンナイフウロやサンカヨウやミヤマハナシノブを見いだして、うれしさにひとりでにわらいがこみあげ、頭痛はすっかり消えてしまっていた。  リーダーの三木慶介さんは心配して、御池小屋泊まりをすすめたが、肩ノ小屋までコースタイムの二倍を覚悟して右俣コースに入った。マルバダケブキ、ハンゴンソウ、ウサギギクの黄も鮮やかに、ミヤマハナシノブ、ミソガワソウの紫、オオカサモチの白を加えた大斜面の中を、右に左にと花々の美しさに見とれながら登って、一向に疲れを感じないのであった。御池小屋からの草すべりの路と合流するあたりは、シナノキンバイ、ヨツバシオガマ、キバナノコマノツメ、ハクサンイチゲ、ハクサンチドリと溜息が出るほどの花々である。小太郎尾根に上がって、すぐ眼の前に仙丈ケ岳がうつ然とした大きな山容をあらわしてくると、なつかしさに思わず、いつかはお世話になりましたと叫びたくなってしまった。三〇〇〇メートルの地点にある小屋着四時半。週日なのと、花の盛りの七月を過ぎたせいか、小屋は私たちの仲間だけである。小屋主はキタダケソウももう終わっていると言い、葉っぱだけの場所を教えてくれた。キタダケソウは花盗人の標的になり、去年一人の不心得ものがごっそりと持っていってしまったから、いつかは絶えるかもしれないと悲しいことを言う。  あくる朝の日の出は、濃霧で駄目。しかし、頂上に向かう岩礫地で、キンロバイ、イワオウギ、タカネマンテマ、オヤマノエンドウ、イワウメ、ムカゴユキノシタなど、北海道の山々を歩いているような花々に出あって、やっぱり北岳、ざらにはない花が出そろっていると感心。ミヤマミミナグサ、イワツメクサのほか、利尻山以来のシコタンハコベも岩かげにあった。キタダケと名のつくものはキタダケナズナ、キタダケキンポウゲなど。雷鳥の母子にもあった。北岳山荘に十二時に着いて、健脚組は|間《あい》ノ岳に。私は、小屋で昼寝した。  次の朝は富士が朝陽にかがやいて、北斎の赤富士のように濃い朱に染めあげられた姿に感激し、八本歯経由で大樺沢にと下山する急傾斜の岩場の道で、岩かげに咲き残るタカネビランジのうす紅の花を見出して大感激。天の恵みか、まったく花盗人の手のとどかないような距離をおいた岩場にばかり咲いている。キタダケソウは南向きの草つきの斜面に葉っぱだけ茂っていた。  二俣からガレ場にさしかかった時、仲間の一人がころんで眼の上を岩で打ち、見る見る眼ぶたが腫れていってどうしようと心がさわぎ、他の者に先にいってもらってゆっくりゆっくり片腕を支えて下りて来た時、夫人をつれて登ってくる紳士があり、八戸市の整形外科医、久本欽也と名乗られて、吐き気がなければ大丈夫とはげましてくれた。山と渓谷社から『花の山旅紀行』を出していることも語られて天の助けかとばかりうれしくその忠告にしたがって、ゆっくりゆっくりと広河原に向かう途中で日が暮れ、山荘の主人の塩沢久仙氏の協力で山荘に着いたのが午後八時。仲間も生気を取りもどした。 [#改ページ]

50 |鳳凰三山《ほうおうさんざん》    タカネビランジ・ホウオウシャジン  北岳に登った時、肩ノ小屋に泊まっての明け方、朝焼けの空に、鳳凰三山の薬師、観音、地蔵の三つの峰が淡い紺色に浮かび、来年はあの峰々を縦走したいと思った。  翌々年の九月十五日の敬老の日の前日に、一七七〇メートルの夜叉神峠の小屋に宿泊。この小屋の前もクガイソウやシオガマギクやミヤマアキノキリンソウやヤマハハコやマツムシソウの花々が咲き乱れて美しく、夕食の前に夕映えの白根三山を見ながら、花々の中にひととき身をおいていた。翌朝は六時出発。雨もよいの空で、せめて今宵の宿の薬師岳小屋に着くまでは降らないでくれと祈る気持ちで、杖立峠、苺平と、お花畑、樹林帯の中の道を急いで|南御室《みなみおむろ》小屋に着いたのが十一時。湧水があって、清々しい谷あいである。天候が悪いせいか、私たち四人の外には、若い単独行の男のひとが二人だけで小屋の中は閑散としている。雨にならないうちにとただただ急いで過ぎて来たが、苺平にはクマイチゴがたくさんあり、山火事のあとというお花畑は夜叉神小屋前と同じような花々が咲き乱れていたが、晴れていれば、このあたりは、白根三山を正面に見仰ぐことができるはずだが、空には今も雷をよびそうな黒雲が重なりあっていて、こんなに遮へい物のないところで雷にあったらと思い、樹林帯に入ればまた、高い木に落雷したらと気が気ではなかった。雨は本降りになって来たが、雨支度をして、小屋のうしろの急坂を登る。花崗岩が露呈していて、今にも頭の上から落ちて来そうな道である。どうやら一気に登りきって、また樹林帯となる。巨岩がところどころに大きな段差をつくっていて、四つん這いになりながら、樹林帯を抜けると、雷ならぬ強風が左側の谷から吹きあげて来て、あたりは城塞のように大きな岩の群ればかりとなった。砂払岳である。足を滑らせたら大変と慎重に足を運び、鳳凰三山には北岳より花の紅の濃いタカネビランジや、丹沢のイワシャジンより、繊細な花を咲かせるホウオウシャジンが咲いていると聞いて来たけれど、とても岩の間をさがしまわるどころではなくて、鬼ケ島の鬼の城のような巨岩群を越え下って、ダケカンバの緑の中に、薬師岳小屋の屋根を見いだした時のよろこび。  小屋の泊まりは私たち四人と若い青年だけ。ゴアテックスの雨着をストーブのそばで乾かしながら、小屋主から、数日前に捕まえた花盗人の話を聞いた。 「まず服装がちがうんですよね。ピンと来たね」  男は作業着のようなものを着て竹籠を背負っていたという。あとをつけていった。岩の間にかくれて何かとっていたらしいが素知らぬ風であった。すぐに小屋に走りもどって、広河原に有線で連絡した。怪しい男が下山してゆくと、男は広河原で、竹籠の中を改められた。ホウオウシャジンの九十株があった。静岡の人間で、一株を五千円で売るのだという。山梨県は全国に先駆けて高山植物の保護条例を出している。男は罰金十万円をとられ、花はもとの場所に植えられたというが、十万円は安いと私は思った。  そして翌朝は晴れ。六時出発。薬師の二七八〇メートルから観音の二八四一メートルに向かってあちらこちらの花崗岩の間に、私たちは、タカネビランジを、ホウオウシャジンを心ゆくまで見つけ、心ゆくまで写真をとり、私はスケッチして、こんなに美しい花が、こんなに無防備に咲いていることをあやぶみ、同時に美女誘拐にも似て、盗んだものを心から憎んだ。なお私は、オーストリアのハルシュタットやスイスのグリンデルワルトの道ばたの溝の石の間に、ホウオウシャジンそっくりの花が咲いていたことを思い出していた。もちろんだれもとるものはないのであろう。ただの野の草として。ヨーロッパアルプスの草原地帯では、ウズラバハクサンチドリもグンナイフウロもみな、牧草として、大草刈り鎌で刈られていた。  その夜は桃ノ木温泉泊まり。同行の鷲崎さんが一句をつくった。   鳳凰沙蔘終の花堪ふ震へかな [#地付き]鷲崎ヨウ子 

51 |櫛形山《くしがたやま》    アヤメ・テガタチドリ・センジュガンピ  十年前に『花の百名山』を出版し、その年の七月に櫛形山に登り、アヤメ平を一面の紫に染めるアヤメの大群落を見て、「あっ、しまった」と思った。櫛形山こそ、その中にあげたい山であった。  櫛形山は山梨県中巨摩郡櫛形町の山である。甲府駅前に立って南方を見ると、|黄楊《つげ》の櫛のようにゆるい曲線を描いて、頂きがなだらかに左右に落ちる大きな山容が浮かぶ。甘利山、入笠山などと同じに、フォッサマグナとよばれる糸魚川から静岡に至る大断層によって日本海から太平洋を結ぶ海ができ、その底から噴出した海底火山が隆起してできた巨摩山地の一画を占めている。町は、武田家の一族で、信玄の父の信虎の妻となった大井夫人の誕生の地で、大井信達の領有するところであった。  戦前の二十万分の一の「甲府」には山名が出ていない。それだけ長くこの山は神秘につつまれ、悠久の昔から、この上層湿原にこのアヤメたちは咲いていたのだと思うと、はじめて発見したひとのおどろきが思いやられてしまう。  櫛形山のアプローチの長いというのは、芦安温泉からのミネバリ尾根で、今は櫛形山林道ができたからもっと早くアヤメ平に辿りつくことができる。八月には槍ケ岳に登る足馴らしにと、北尾根から標高差五〇〇メートルの、かなりの急坂を二時間かけて登ったのは十数年前で、その両側の花の多さにまずおどろきの声をあげた。センジュガンピの白、レンゲショウマのうす紅、クルマユリの赤の花盛りである。ナデシコ科のセンジュガンピは花びらの裂け目が深くて、いかにも繊細な感じだが、加賀の白山で、上高地の大正池のほとりで見つけた時は、野生の花と思えない清楚な姿に見とれた。レンゲショウマもまた、秋川の谷などでよく見かけるけれど、ここでは大群落をつくっていて、これも野生というよりは栽培種のような華麗さを持っている。クルマユリは同じようなコオニユリ、オニユリよりも、花の少なさが気品を感じさせる。また、これらの花々にまじって、赤城山や御坂山塊で出あって以来のクサタチバナにもあうことができた。登りが終わって、シラビソやコメツガの大樹が茂る草原に出ると、点々として紫のアヤメが眼につき出した。ヤナギランやクガイソウの花穂ものびている。立派な避難小屋を左に見て、ゆるやかな斜面をアヤメ平へと向かう道には、アヤメの根元にうす紅のテガタチドリが点々と咲いている。そして、一歩アヤメ平に足を踏み入れ、その広さ。その花の量のゆたかさ。深い緑の針葉樹林にかこまれた広い草原が、葉の緑より、花の紫に被われている見事さに、息をのんでしばらくは立ちつくすばかりであった。藤本孟雄氏指導の下に、地元の巨摩高校生が、二十数年にわたって山の地形、地質、気候などと共に研究した記録では、全山の花の数はおよそ三十万本に近く、東洋一を誇っているけれど、あるいは世界一といっていいのではないだろうか。  紫の花の好きな私は、北海道の濤沸湖でヒオウギアヤメの、サロベツ原野でノハナショウブの群落に出あっているけれど、この櫛形山の花の面積の広さにはとても及ばないと思う。  さて、櫛形山では毎年七月の第三日曜日にアヤメ祭りを行い、石川豊町長をはじめとする職員たちが千数百名を超える参加者と共に、アヤメの美を讃え、アヤメの保存保護を誓いあっているが、私は、そのうちの二回に、二回とも雨の中を参加して、アヤメのためならどんなに濡れてもいとわない思いであった。道は、丸山林道から池ノ茶屋林道を通って馬場平に行き、標高差二〇〇で二〇五二メートルの頂上に着き、裸山をまわって、アヤメ平にと下ってゆくのだが、途中の針葉樹の大木たちの間を霧が這い、枝々にかかったサルオガセが老いたる山姥のすがれおどろに乱れた髪の毛のようにも見えて不気味であり、奥秩父の山々より深山の趣をつくっている。櫛形山にはかつてキバナノアツモリソウなどもあったが、今は盗まれて絶滅にひとしいとか。 [#改ページ]

52 |天狗山《てんぐやま》    ママコナ  私たちの山の会は、雨天決行が普通になっている。槍や穂高や南アルプスの北岳、仙丈のような、三〇〇〇メートル級の山々は、勿論雨であったら登らないが、一五〇〇メートルから二〇〇〇メートルあたりで、岩場の少ない山には大てい雨でも登る。但しそれ以前に天気図を見ていて、今は雨でも、高気圧がもうすぐそばに来ているとわかっている場合だけである。低気圧が二日も続いて山のある地方の空を被っているときは行動しない。  さてはじめての天狗山は十一月。長野県と山梨県の県境に近く、千曲川がその裾を洗って南壁に大深山遺跡を持つ。その西に小海線が走って駅は信濃川上である。この山に登る数年前の四月、韮崎から信州峠まで車で走り、その西の横尾山の一八一八メートルに登った。ここが県境である。頂きから北方を見ると、天狗山、男山を結ぶ稜線が東に進んで、武蔵、甲斐、信州をわかつ三国山にむかってのびてゆくのが見え、戦国時代にあって、武田氏はこれらの山々を越えなければ関東にも信濃にも出られなかったのだと思い、又、天狗山の麓に縄文中期から後期の大深山遺跡を残す民は、他の地方を侵略することもなく、この山々にかこまれた千曲川源流の地に平和な暮しを送ったのではないかと思われた。  天狗山の西の馬越峠は一六八〇メートル。一八八二メートルの天狗山までは標高差二〇〇メートルなので、一時間か一時間半で頂上に達して三時間もあれば十分かと思ったのが大誤算。登りはじめにポツポツ来た雨が、南に向かう馬の背のような稜線を過ぎるとき、強風が西から東へとわたって吹きとばされそうになり、ミツバツツジ、ドウダンツツジが多くて、花の頃は眺望もよくヤマツツジも加わって、どんなに美しい眺めになるかと想いながらガタガタ震えて敗退した。  二度目は二年目の八月半ば。中軽井沢を出て、佐久から岩村田を通って馬越峠を目ざした。同行は土岐市役所の金子政則さんと新鋭の陶芸家林恭助さん、名古屋の成田恭子さん。空は日本晴れだが、この道は水戸の天狗党が、中仙道から和田峠を目指して通った道。又佐久は、明治十七年に秩父困民党が、|神流《かんな》川沿いに十石峠を越えてなだれこんだ地と思うと、何か心がひきしまる。幕末から明治初頭にかけての、日本の大変革時代に生きる民の嘆き、うめき、苛立ちの激しい息づかいをこの山々は知っている。そんな思いにかられて登りはじめた天狗山は、大深山遺跡を守る大岩壁なのであった。  それにしても何という花々の多さ。稜線に出る途中の急坂の道の両側には、シラヤマギクが咲き、キオン、クガイソウ、カニコウモリ、ヤグルマソウ、リュウノウギク、ベニバナイチヤクソウ、コゴメグサ、ミヤマハハコが白に黄色に咲きそろい、浅間高原ではすでに失われた花たちが、ここにはまだたくさん残っていると思った。縄文の民もまたこれらの花々が草の芽であったとき、食用にしたものもあったろうけれど、食べても食べても花々は次々に芽ぶいたのである。一ところカラマツの林間をママコナのピンクが埋めていた。白いママコナもあった。そして今回は二時間半で往復した。 [#改ページ]

53 |権現山《ごんげんやま》    シモバシラ  権現山には上野原からタクシーで一六キロ、和見までいってもらった。私たち山仲間は、一時間に一本か二本のバスを待つ間が惜しいので、駅周辺にタクシーがあればいつも四人一組、ときに五人押しこめてもらってタクシーに乗る。空きトラックがくると大手をあげて止めて、荷台に乗せてもらって、タクシー並みの料金を払うこともある。和見からすぐ左の小川沿いの道に入る。右に権現山から|雨降《あめふり》山から|用竹《ようたけ》へと下る稜線が見え、その下は畑になっている。  秋の十月はじめで、畑はサトイモの取入れどき。鍬を振っている老人は、八十四歳とのことである。畑の標高は五〇〇メートル。  権現山の尾根の北が、三頭山からの笹尾根で、二つの尾根の上を、相模湾からの潮風がわたる。尾根にはさまれた|棡《ゆずり》原あたりは、日本一の長寿村と言われている。空気がよいのだ。笹尾根の土俵岳の下にあたる。植林でも緑のいろが一いろちがう。冴え冴えとしている。  小川のふちには、咲き盛りの赤いツリフネソウがいっぱいで、和見峠まで標高差三〇〇メートルの道には、キバナノアキギリ、ハンショウヅル、ツルニンジン、アキノタムラソウ、シデシャジン、オクモミジハグマと、開発された奥多摩の道ばたにはない花たちが咲き揃い、シロヨメナ、シラヤマギク、ノコンギクも盛大で、花の園をわけわけ進む感じ。  権現山は一三一二メートル。中央自動車道からは、|百蔵山《ももくらやま》と扇山が前面に連なっていて、権現山はその頭がちょっときり見えない。三頭山の一五二七・五メートルからは、西に堂々たる姿を見せる。百蔵山は一〇〇三・四メートル。扇山は一一三七メートルだから、断然高いのである。そしてあまりひとが訪れない。  権現山というのはコンサイスの日本山名辞典には三十二もある。一番高いのは八ケ岳連峰の中の二七〇四メートル、二番目が伊那路の一七四九メートル。三番目が上野原からの権現山で、権現とは、仏が日本の神に権に現われたという、神仏混淆の考えから来ている。正体のほどはわからないが、神でも仏でもどっちでもいいような人間には、親しみやすい存在なのであろう。  私にとっての権現山登りは、笹尾根より、大岳からの馬頭刈尾根より、秋川の浅間尾根より、花が多くてたのしい道であった。  先ず頂上近くにモミやツガの大木が多くて神秘的な感じがする。そこへゆくまでの道にはヤマモミジやイタヤカエデ、ウリハダカエデ、エンユウカエデと、カエデの種類が多くて、十月はじめなのにもう紅葉の色が美しい。ダンコウバイやクロモジなど、香り高い木々も大きく育っている。山全体の雰囲気に、何ともいえない風格、品格と言ったようなものが感じられ、しかも高尾山や御岳のように、茶店群の賑わいは皆無。  神社は、稜線に出て左にいった奥の岩峰の上にある。  上野原からわずかタクシーで十五分位来て、こんなに静かな山に出あえるのは、信仰の山だからであろう。高尾山も御岳も、信仰の山ではあるが、あまりにもひらけすぎ、権現山は、古代からの姿そのまま、残っていると思った。  稜線に出る手前でセキヤノアキノチョウジの群落に出あった。南高尾で早春の二月の末に、枯れ葉の姿を見て以来なので、うす紫のシソ科の小さな花に感激。同じ科のシモバシラも見た。これも南高尾で枯れ葉を見ているのでうれしかった。  雨降山から東へ進む稜線の北面は、落葉高木が伐採されて一面の草地になっている。鶴川の谷をへだてて笹尾根がよく見える。ここもスギかヒノキの植林になってしまうのか、この明るい草地の大きな斜面のままでいるうちに、もう一度来たいと思った。足許にはカメバヒキオコシ、クロバナヒキオコシとシソ科の花が多い。  シオガマギクやママコナなどの亜高山種の花もあり、アザミに至っては、セイタカトウヒレン、キタアザミ、モリアザミ、ノハラアザミと、紅紫いろの花の連なりに、権現山という名はいかめしいが、奥多摩随一の花の山ではないかと思った。ただ、私の好きなカワラナデシコは一本もなかった。 [#改ページ]

54 |長九郎山《ちようくろうやま》    カンアオイ  若かった日々の山歩きは、ただ、歩きに歩いて、時間の早かったことをよろこび、ウマノスズクサ科のカンアオイのように、葉っぱが地面に張りついて、花はその下にかくれて地味な暗紫色というようなのは、全然気づかなかった。  では、古典の時間の『枕草子』に「草は」とあって、「葵いとをかし。祭の折、神代よりして、さるかざしとなりけむ、いみじうめでたし」などというのを、どう解釈していたのか。この葵は、カモアオイ、すなわちフタバアオイである。多分、先生は、フタバアオイと言われ、自分もうなずくだけであったのは、まことに怠惰な学生であったと今、思う。  戦後の十年近く、京都の下鴨の|糺 森《ただすのもり》のほとりにすんでいたが、庭のカエデの木の下に、フタバアオイの二、三本出ていたのを、|蜆《しじみ》を売りに来た行商の女が見つけ「これが祭りのカモアオイどすえ」と教えてくれた。『新古今集』にも出ていたと頁をひらいた。「いかなればそのあふひぐさとしはふれどもふたばなるらむ」。そのあふひぐさの解釈がやはりカモアオイであった。  カンアオイは、フタバアオイより葉も大きくたくましく、花も大きいと知ったのは、東京へ引きあげ、息子と中島睦玄、高村忠彦両氏の「野草友の会」に入って、三浦半島でランヨウアオイの一種をみたのがはじめてである。それからタマノカンアオイ、カントウカンアオイと知り、比叡山で、鈴鹿山地で、越後の山で、佐和山で、それぞれに少しずつちがうカンアオイを知った。その分布が限られ、その繁殖が一万年たってやっと一キロに及ぶことも知り、日本が大陸とつづいていた頃からの古い植物だということも知った。  伊豆の長九郎山の九九六メートルには、初冬の一日、松崎から池代川に沿って、池代林道の終点まで車を入れ、三時間ほどの歩きで頂上まで往復したが、シャクナゲやドウダンツツジに初夏の花盛りを思わせ、下草にカンアオイの多い静かな山であった。アマギカンアオイであったろうか。 [#改ページ]

55 |風越山《ふうえつざん》    ヤマハハコ  風越山の一五三五メートルは、伊那谷の飯田市のまうしろにある。飯田は、脇坂氏の五万五千石の城下町で、後醍醐天皇の皇子で南朝のために東奔西走した宗良親王が駿河から北陸にとゆかれる途中で、伊那谷で活躍した伝承を持つ。西に中央アルプスとよばれる木曾山脈が走り、その盟主の木曾駒ケ岳の二九五六メートルには、十月のはじめに登って、氷河のあとの谷を登る道のかたわらに、ヒメウスユキソウの小さくすがれたのを見たことがある。  ヨーロッパアルプスには、エーデルワイスとよばれるキク科のウスユキソウ属に入る花が氷河の末端の草地に生え、ドイツ語で「高貴なる白」の意味であるという。アルプスの女王ともいわれているけれど、学名はラテン語で「レオントポディウム」。英語で「ライオンの足」を示し、柔らかい白い綿毛につつまれた形をあらわしているのであろう。  日本には北海道、本州、四国、九州にかけて五種類ほどのエーデルワイスがあり、戦前の千島、樺太、朝鮮、台湾をかかえていた頃は十種類にも及んで、世界で一番その種類の多さを誇っているとは、畏友、山下滋子さんの亡き夫君、山下一夫氏の遺著『かんあおい』で教えられたことである。  木曾駒には日本のエーデルワイスで一番小形のヒメウスユキソウがあることを、明治の初期に、矢田部・松村両教授によって発見された。  さて、風越山は二度とも晩秋、初冬の頃で、滝ノ沢川沿いにツガやモミやコナラの大樹の茂りあう参道を登り、途中でベニマンサクの自生地の中を抜けたが、枯れ草の中にウスユキソウが、ドライフラワーのように群生しているのを見て、木曾駒のヒメウスユキソウは今、雪の下であろうと思った。千手観音や秋葉大権現などの大きな石碑が、この山が麓の人々の生活と密着していることを思わせ、四時間かかって辿り着いた国の重文の白山社奥殿は荘厳で、よくこんな高いところまで建材を運び上げたものと感心させられたが、南アルプスは白根三山、荒川岳などの眺めも素晴らしかった。 [#改ページ]

56 |恵那山《えなさん》    オオチドメ・ズダヤクシュ  恵那山は、島崎藤村の『夜明け前』に出てくる山だけれど、戦後の昭和三十年頃、今の中央高速でなく、中仙道を新宿からドライブした時、馬籠から清内路峠を越えて天龍川の谷に出ようとした下りの道で、前方の南の空に、大きく盛り上がった山容を見た。  その山麓の神坂峠から、古代の祭祀のあとが発見されたのは、それから十年後で、木曾川はその西を流れている。  恵那の名はアマテラスが生まれたときの胞衣だというけれど、アマテラスは、亡き妻のイザナミを墓所に訪れたイザナギが、その汚れを払うために、日向のアハギ原のそばの流れで左の眼を洗った時にアマテラスが生まれ、右の眼を洗った時にツキヨミが、鼻を洗った時、スサノオが生まれたと『古事記』や『日本書紀』に書かれていて、いわば男であるイザナギから、三人の子供が生まれたというわけ、胞衣などはなかったであろう。  朝日新聞編集委員の竹内俊男氏によれば、エは酔い、ナは大地。木曾川流域は活断層が走っているので地震が多く、土地がいつもゆれていて、船酔いになったような気分になる土地柄をさすのではないかというから、ちょっとおそろしい。しかし私がこのアマテラス誕生説に興味を持つのは、飛騨の高山の南に位山というイチイの木を特産とする山があり、ここにアマテラス伝説があることである。この山の南壁の|無數河《むすご》川は飛騨川となって木曾川に注ぐ。  恵那山は二一〇〇メートル。位山は一五二九メートル。高山の名山なので、一度案内されて登ったが、ミズナラやカエデ、トチ、ホオなどの落葉樹の大木があり、ショウジョウバカマの大群生する、頂上近い湿原に、天岩戸と言われる巨岩があって、恵那山山麓と位山山麓の民は、同系統の大陸渡来の民であろうと思われた。奈良の東大寺建立に多く参加したのは高山中心の技術者であり、建立の盛儀には新羅楽が奏されたという。スサノオがアマテラスにとがめられて渡った母なる国は新羅である。飛騨の初秋のまつりには鶏斗楽が舞われる。鶏は新羅の聖鳥である。そして伊勢神宮には鶏が放たれている。  さてその恵那山には二度登ったが、なかなか手強い山で、一回目は風邪をひいていたせいもあって、ミズナラやブナの大樹の茂りあう道の足許に、タチカメバソウやズダヤクシュの咲くのを見ながら急坂をのぼって、熊見の池のほとりでダウン。頂上へゆくひとを見送って、池畔の草地に洋傘をひろげて仰のけになって大休止。草地の中に一面にひろがっているチドメグサの葉を眺めていた。ふだんはわが家の庭の敷石の間にもいっぱいひろがっているチドメグサだが少しちがう。先ず背が大きい。庭のチドメグサの花は目立たないが、花柄が長く立っていて、頭の上の白い花もはっきりしている。賑やかである。葉の形が丸味を帯びている。はじめて見た。私の発見かと気をよくしていたら、一緒に登ってくれた土岐市役所の金子さんがオオチドメと教えてくれた。二度目はそれから二年目の六月のはじめ、一九八九年で私は八十一歳である。土岐市役所の金子さんや加藤さんや沢田さんや名古屋の成田恭子さん、名古屋につとめている私の次男という大部隊で、コースタイムは往復六、七時間というところを十時間かかり、息子にもうお母さんは山はやめなさいよと叱られ叱られ、熊見池のオオチドメグサを眺めるゆとりもなく、コメツガの森、クマザサのヤブと無我夢中で登りつづけて、頂上着は朝十時半出発の二時五十分。帰りは、熊見の池をすぎたところで真暗になり、テンポはひたすらスローアンドスローになり、すり足で、左側に渓流の音を聞きながら、一歩あやまれば谷底という恐怖心で全身硬直しながら、それでも闇の中に光るホタルの乱舞に、嘆声をあげつつ午後の八時に下りついたのである。  手強い山ほど未練が残るというか、やっぱりアマテラス伝説を持つほど、山は神秘な雰囲気を持ち、目立たないけれど、よく見れば華麗なオオチドメグサにはじめて出あい、やっぱり又もう一度、頂上の小屋に泊まるつもりで登りに来たいなあと思った。 [#改ページ]

57 |尾高山《おたかやま》    ヤブレガサ  大分前に今西錦司さんとNHKのラジオ番組で対談したことがある。当時七十代になられたばかりで、私は六十代であった。八十歳までに千山を達成したいと言われていたが、七十何歳かですでに千山を登られ、その後にまた|鼎談《ていだん》の機会があり、できるだけ交通機関を利用すると言われて私も同感した。  稜線まで一五〇〇、一七〇〇というのはだんだん苦手になり、遠山郷上村の尾高山のように二二一二メートルの頂上へゆくのに、一八三三メートルのしらびそ峠まで車が入るというのはありがたい。中央高速を松川で下りて、小渋川に沿って秋葉街道をゆき、途中で分かれる。新宿からはバスで峠まで正味五時間。  峠の上は麓の上村が整備して、若ものたちがサッカーでも野球でもやれるほどの芝生がつくられている。公営のしらびそ山荘はまだ新しい丸太づくりのしゃれた建てもので、お風呂もあるというのでよろこび、まず半日の山歩きに|御池《おいけ》山まで四・七キロを往復した。こちらは一九〇五メートル。小起伏をくりかえして辿り着いた頂上は三等三角点があり、コメツガやシラビソにかこまれて、眺めが利かない。  しかしこの山のおもしろいのは七、八〇メートル下ったところに、深い木立にかこまれた三日月形の池があること。湖面に|小波《さざなみ》がたち、倒木なども岸に打ち上げられていて神秘的な眺めであった。小屋の周辺にも御池山へゆく途中にも夏の花が多く、クガイソウ、ヤマハハコ、紅花のエンレンソウが花盛り。そして翌朝は午前四時の暁闇の中を出発した。峠の真下に登山口があり、コメツガの大木の目立つ林床にヤブレガサやゴゼンタチバナが多く咲いていて、奥秩父あたりより、深山の道を歩いているようである。カモシカ特別調査植生調査区域という看板が立っている。カモシカはコメツガの新芽が大好きという。午前七時に頂上の二等三角点に立ち、澄んだ朝空のうす水いろに、荒川岳、赤石岳、大沢岳、|光《てかり》岳などが紺青の雄大な山容を連ねている姿に息をのむ思いであった。 [#改ページ]

58 |八島湿原《やしましつげん》    サワギキョウ  私は一番よいのは雪どけの頃か、周りの山々が紅葉する秋。霧ケ峰も秋の枯れススキの頃が一番よいと思う。ひとが少ない。   山は暮れて 野は|黄昏《たそがれ》の|薄《すすき》哉 [#地付き]与謝蕪村   この句は秋の霧ケ峰のためにあるような気がする。ヤナギランの大群落が至るところにあるが、それが皆ほほけて、種子が裂けて風に飛ぶ頃、最高峰の車山の一九二六メートルの頂上まで、標高差わずか二〇〇メートルを登ってゆくとき、東に八ケ岳、南に、赤石山脈から木曾山脈、西から北に北アルプスの飛騨山脈が、いずれも三〇〇〇メートル前後の高度でそびえたっているのが、自分の高度が増すにつれ山も高くせり上がってくる眺めのよさ。そして空が夕映えにかがやくとき、山々は群青の濃淡にいろどられ、道ばたから山腹にかけてのススキの穂は白々と浮いて溜息の出るような美しさになる。  しかしもし夏に霧ケ峰にゆくなら、花が多くて、ひとのあまり来ない場所の歩きを二つだけおすすめしたい。  一つは車山から直線距離で六キロ西の、鷲ケ峰の一七九八メートルの直下にひろがる八島湿原。池塘が多く、ヒルムシロの葉が浮き、縁にはサワギキョウの紫の花が咲く。風が吹くとひるがえる葉裏が銀いろで、花の紫が映えて美しい。ここにもレンゲツツジやニッコウキスゲは咲くけれど、見にくるひとは意外に少ない。  もう一つはこれも車山から東に六キロ近い八子ケ峰の一八三四メートルで、白樺湖の北をまわって直下まで車で入れる。スキーのリフトなどできているけれど、歩いて三十分とかからぬうちに稜線に着き、コウリンカ、ハナイカリ、シオガマギクと花がいっぱいだが、うす紫いろの花穂をたてたカワミドリが珍しい。カワミドリは、鷲ケ峰にも鉢伏山にもある。土地のひとに聞いたら、今、花が多いとよろこばれるこれらの山や高原は火山灰地で耕作に適さず、昔は牛や馬の飼料の草刈り場であったとか。 [#改ページ]

59 |蓼科山《たてしなやま》    オヤマリンドウ・ヤナギラン・ワダソウ  軽井沢の追分の千メーター道路あたりから真南にそびえる蓼科山の二五三〇メートルは、北の空をさえぎる浅間山の二五四二メートルに高さでは劣るが、いかにも華奢で、ほっそりとしていて秀麗だと思う。蓼科を若い牡鹿とするなら、浅間山は中年の牡牛のような感じがする。火山としては蓼科の方がずっと古いけれど。  富士山に表と裏の二つがあるように、中央線側から見る蓼科は、東に八ケ岳連峰の偉容が連なるせいか、高さとしてはほんの少し八ケ岳の方が高いだけなのに、何かひどく子供子供して簡単に登れそうな感じである。  私たちの山の会でも何度も登ろうと計画してつぶれている。ある五月の一日、前の日に北八ケ岳の縞枯山に登って、大河原峠から蓼科にと計画した朝は土砂降りの雨で、せめてその裾野の林の中までと雨衣をつけて歩きだしたが、北斜面の春はおそくて、岩礫地にワダソウの白い花がわずかに咲いていた。ワダソウはナデシコ科で、ワチガイソウと花がよく似ているけれど、少し葉も花もがっちりしていて、白い花片の先に桜のような切れこみがある。  頂上まではとてもゆけぬとあきらめて二度目は、初夏の一日、ワダソウの名のついたもとである和田峠から鷲ケ峰を歩いて、また、大河原峠から蓼科にと計画したのだが、これが梅雨どきとぶつかってまたもや雨。霧ケ峰高原のヤナギランは霧の中に咲いてこそ美しいと思った。強い夏の陽のもとでは、この花の鮮やかな紅いろが強調されて、たしかに美麗ではあるけれど、何か風情にとぼしい。風情とは完璧であるよりは、どこかもろいようなところのある不安定感の上に成立するのではないだろうか。  ヤナギランの花にはじめて出あったのは、乗鞍岳の軍用道路としてひらかれた、南からの道路のほとりであった。茂りあう針葉樹の中に一株二株で、森の中の乙女とも言いたいかわいらしさを感じた。  その後北海道の層雲峡で、ひろい道路の両側に大群落を見、カナディアンロッキーへいって、これも道の両側を埋めて延々とつづくヤナギランを見て、その強烈さに圧倒された。一口に言って、かわいげがない。「炎の花」とも呼ばれていて、森の山火事のあとなどでいち早く旺盛な生命力を見せるからだという。  霧ケ峰も草焼きでもやって、そのあとに一せいに繁殖したのだろうか。ニッコウキスゲも車山の斜面に盛大に咲くけれど、ヤナギランのいろの強さを見馴れると、朱黄色のニッコウキスゲが淡泊な印象を与えるから不思議だ。  そして霧ケ峰では霧の去来する中で、その強烈なヤナギランが、何ともいじらしい姿に思えてくるのがおもしろい。  さて三回目は晩秋。前日の美ケ原散策は晴れた空の下で、咲き残ったマツムシソウやノコギリソウや花盛りのオヤマリンドウなどを見てたのしみ、崖ノ湯の山上旅館に泊まって、明日こそ三度目の蓼科山に。早くねたのに、夜半から雨の音が|廂《ひさし》を打ち出した。またあきらめてこのまま東京へ戻ろうか。朝の温泉につかりながらだれが言い出したともなくて皆登ろう! ということになった。雨が降っても槍が降っても蓼科に登ろう。  話が決まるとみな一せいに雨支度。用意のよい人はスパッツをつけ、前日に山靴が少し足に合わなくて、足を引いていた私は宿の主人の百瀬氏から地下足袋を借りた。そして三度目の大河原峠から本降りの雨の中を全員三十人が、クマザサの道から、コメツガやシラベの林間をゆき、泥濘を倒木で越えて、蓼科本峰の熔岩円頂丘の真下まで私はおくれおくれて二時間半。噴出した火山岩の重なりあった急斜面を這い登って三十分。小屋につくと、七十三歳と六十二歳の小屋主夫婦がおいしいうどんをつくって待っていてくれた。雨が上がって、帰りの霧ケ峰高原の枯れすすきの中に、点々と咲くオヤマリンドウの紫が宝石のように見えた。   やなぎらんの花の群落穂絮となり     夕日に光る沼ぞひの道 [#地付き]根尾幸子 

60 |鉢伏山《はちぶせやま》    アカバナ・ハナイカリ・ヤマラッキョウ  鉢伏山は、中央本線岡谷駅から北に一二キロ。草競馬で名高い高ボッチ高原の道を五キロほど。標高差三、四〇メートルほどのところが広場で、駐車場になる。  よく私は友だちにいう。山の花が見たくて、あなたがとても山になど登れないというなら、どうぞ塩尻の奥の鉢伏山にいって下さい。  しかし、とまた、私は言う。鉢伏山は美ケ原のように、霧ケ峰のように、すっかり人間くさくなってしまったところではなくて、原始の日本の野山はこんなに花々に満ちていたであろうと想像できる大事な大事な場所なのだから、ただ花の中を歩くだけで帰ってきて下さいと。  はじめて鉢伏山の話を聞いたのは、戦前に、ようやく歩けるようになった長男をつれて、北アルプスの展望台としての塩尻峠の旅館に泊まった時である。その部屋の窓からは、|大天井《おてんしよう》や常念や槍や穂高まで見え、今に坊やが大きくなったら、お母さんと一緒に登りましょうなどと私は言っていた。宿の主人が、もうちょっと足をのばしてこの上の高ボッチから鉢伏山へいかれたらどうですかとすすめてくれた。中央アルプス、南アルプス、八ケ岳もよく見えます。花もいっぱい咲いています。  しかし私はその旅では大町の奥の葛温泉にゆき、木崎湖にいって、鉢伏山の名だけを記憶していた。  戦後になって山の仲間で塩尻峠から鉢伏山へいったのはもう二十年前の六月である。「小鳥バス」で名高い小平万栄氏に塩尻峠で小鳥の声を学び、鉢伏山では花をという計画であったが、あいにくの雨でレンゲツツジのつぼみの固い高ボッチ高原に裏から歩いて登るのが精いっぱい。皆すべりやすい急坂でドロンコになり、鉢伏山は霧にすっぽりつつまれてしまったので、高ボッチだけを歩いて帰り、二回目は塩尻に講演にいった秋の半ば。山上旅館の百瀬氏運転の車で山上直下までゆき、展望台まで歩いて十分。快晴の秋空に、戦前、塩尻峠の宿で聞いた通りの山々が、すでに新雪をかむって、頂きの白くかがやくのを見てその素晴らしい視界の広さに、ただただ嘆声をあげるばかりであった。塩尻の西には鉢盛山の二四四六メートルが、くろぐろとした常緑のみどりに被われているのも見た。木曾義仲は木曾川沿いの木曾福島から、打倒平氏の旗をなびかし、あの鉢盛山の麓を通って、松本平を抜けて、越後路に向かったと聞くと、いつかその山にも登りたいと思った。  さて山々の眺めはよかったけれど、十月も末の鉢伏山はすっかり草が枯れていて、北斜面は霜ばしらを踏みくだいての歩きであった。  ここの華麗な花々に出あったのは、北アルプスの針ノ木岳、蓮華岳に登るため、東京から大町を目ざす途中であった。  その日のうちに大町に一泊の予定なので、鉢伏山で費やす時間は二時間。二時間から登り下りの三十分をひいて、一時間半のうちに見た花々は、すぐに五十種をこえてしまった。  カワラナデシコやアサマフウロやシオガマギクやアカバナの紅いろ。ヤマハギも多い。マルバダケブキ、オミナエシ、ミヤマアキノキリンソウ、ハンゴンソウ、ハンカイソウの黄いろ。オオバギボウシ、コバギボウシ、トリカブト、マツムシソウ、ヤマラッキョウ、カワミドリ、ルリトラノオ、クガイソウ、オヤマリンドウ、クサフジの紫。ニッコウキスゲ、コウリンカ、フシグロセンノウの朱赤。そしてハナイカリ、カワラマツバ、コゴメグサのうす緑、うす紅とただ嘆声をあげ、自然に咲く花の美しさに見とれて、ひとりでにこにこして来て、この素晴らしさをあのひとに見せたい、このひとに見せたい。この花々にかこまれたら、人間は皆ひとりでに心がきよめられ、心がうるおい、悪人は善人になるにちがいないなどと思うばかり。駐車場のところに、光明会という浄土真宗の修行用の山荘があり、松本のひと、多田助一郎さんが昭和三十八年に建設したものだという。その後何回となく、花の盛りに登ったけれど、多田氏の精神が生きていて、空きかん一つない清潔さが保たれている。 [#改ページ]

61 |浅間高原《あさまこうげん》    ハクサンイチゲ・ヒメシャジン  浅間山にはじめて登ったのは十九歳の夏であった。|沓掛《くつかけ》とよんでいた中軽井沢から、千ケ滝の環翠楼まで歩いて一泊。浅間は木も生えない活火山だと思っていたのに、山麓にはこんなに大きな緑の谷があるのかとおどろいた。ミズナラやハンノキやクルミなどの濶葉樹に、カラマツの大木がまじっていた。緑の深さが、浅間の赤茶けた山肌と美しい対照をつくり出していたと思う。当時は着物に袴姿の登山で、私は運動靴で足のかかとがこすれ、つきそいの学校の用務員さんが|草鞋《わらじ》を出して履かせてくれた。一歩進んでは半歩下る火山灰の山腹は、歩きづらくてしばしば休み、眼の下にひろがる一面の緑の野に、これが浅間高原かと思い、緑が陽に映えてエメラルドグリーンにかがやくのを何か神秘的なものに眺めた。そこにどんなひとびとが住むのであろう、どんな生きものがいるのかと。戦前も戦後も千ケ滝やその近くに夏のひとときをすごすようになって、高原をかこむ山々にも登るようになった。浅間はあと二回。その西の小諸からの石尊山。高峰山。|水《みず》ノ|登《とう》。籠ノ|登《とう》。池ノ平の三方ケ峰。湯ノ丸山。東は|浅間隠《あさまがくし》山や|鼻曲《はなまがり》山。霧積山。  これらの山々は皆、浅間の火山活動とかかわりがあり、そのどこに登っても必ず浅間山の噴煙を見ることができる。総称して浅間を盟主とする浅間連峰とでもよびたいところだが、この五十年来、群馬県の長野原側から入ったり、碓氷峠から、その南の和見峠から来たりして、浅間山麓地帯の花の少なくなったのにはじめはおどろき、次は嘆き、今は昔の花の多かった頃の面影を求めて、浅間高原周辺の山々を歩きまわっているというところである。  まず失われた花から言えばキキョウ。これは草軽電鉄で北軽井沢へと向かうとき、|嬬恋《つまごい》あたりの林や土手に栽培しているのかと思われるほどたくさん咲いていた。戦後も追分や南軽井沢の草地に少しは見かけたが、それから三、四十年たった今は平地にはほとんどない。高峰山にも水ノ登、籠ノ登にもない、鼻曲にも浅間隠にも霧積にもなくて、わずかにキキョウの紫をしのぶことのできるのは、高峰山から小諸に下りる、車坂峠周辺のヒメシャジンだけ。オミナエシもまた戦後まで信濃追分や和見峠に残っていたのが、今は高山性のコキンレイカとなって、右にあげた山々に生えている。  キキョウとオミナエシが、うたかたのように消えたのは、多分キキョウはその根が漢方の薬用になること。オミナエシはそのまま花屋に売ることができるからであろうと思う。  マツムシソウもよく戦前は軽井沢駅から町に入るまでの道の両側に、沓掛から千ケ滝のグリーンホテルへゆく道の両側に、鬼押出しの東の六里ケ原などにもうす紫の小波がたつかと思うほど咲いていたのが、これも土地の開発によって失われ、花は高峰山や|黒斑《くろふ》山、池ノ平や湯ノ丸や鼻曲、浅間隠など、何の施設も住宅もないあたりに残っている。  ことに高峰山や三方ケ峰の池ノ平あたりの夏は、三峰や高峰山のシャクナゲが終わると三峰の下の池ノ平や高峰山には五十種をこえる花々が咲き競う。  両方とも南に下る斜面を埋めているので、午後の陽射しを受けた花たちは、逆光となって花々のいろが一段と冴えて美しい。シシウドが紅や黄や紫の花々の中に、純白の花を見せているのもすがすがしい。このあたりほどの種類はないけれど、東の鼻曲や浅間隠の裾野が浅間の裾野と重なりあうあたりも花が多く、せめて強引な土地会社よ、私たちの子孫のために、最小限度の線で現在の花たちを守ってほしいと思う。  高峰山にはハクサンイチゲも咲く。十月の秋の終わり頃、ひとびとが都会へと去った高原を歩いて、すがれたシシウドのすがれたまま、草紅葉の中に白々と立っている姿など、なかなか捨て難い味わいがある。カラマツも一せいに狐いろに枯れて、一晩のうちにさっと落ちつくし、その頃は浅間の黒ずんだ、暗い錆び朱の山肌が、青ぞらに冴えて浮かぶ。   |陽表《ひおもて》の|雪消《ゆきげ》の草生にししうどは     線香花火の枯れ花かざす [#地付き]山本雅子 

62 |針《はり》ノ|木岳《きだけ》    キヌガサソウ  ザラ峠を下って五色ケ原に登った時、悲運の武将佐々成政は、峠から道を東にとって、刈安峠から平に出て、裏から針ノ木峠に向かい、織田信長の死後、いち早く遠州浜松の徳川家康と組んで、豊臣秀吉に対抗しようとし、越中富山から、雪の針ノ木越えをした。私がいったのは六月半ばなのに、道は半ば雪に埋もれていた。時は厳寒の十二月であったから、百人を超える武士やその案内人たちは、どんなに苦しんだことだったろう。  針ノ木岳の北面の雪渓は、いきなり急峻な角度を示し、大町温泉郷の「針の木荘」を朝の四時に出て、扇沢に四時半に着き、立山アルペンルートに集まるひとびとの混雑を避けて、すぐ灌木帯の道に入り、籠川沿いの河原を幾つかわたって谷をつめていったが、意外に早く、十一時には針ノ木小屋へつくことができた。  槍ケ岳の槍沢の方が、道も長く、下の方はだらだらのぼりで、疲れもひどく、時間をとったと思う。  しかし槍沢と同じように、針ノ木の谷も、一万年前まであったという氷河に削られた谷なので、上へゆくほど傾斜度を増し、八月の炎天に汗で眼が見えなくなるような大汗をかきかき、登ったが、花がいっぱいあって、大いに疲れを吸いとってくれた。まず大沢小屋から河原に下りると、ミソガワソウのうす紫の花の群落。河原から灌木帯に入ると、大輪のキヌガサソウ。また、河原に下りると、タテヤマウツボグサの濃い紫。そしてその年は雪が少ないとあって、雪渓は谷のまん中に細々と残り、自然と道は稲妻形に両側の草つきの岩場や、低いダケカンバの樹林帯から、ハイマツの中をゆくことになり、トウヤクリンドウ、タカネヨモギ、ミヤマウイキョウ、ミヤマコゴメグサ、タカネヤハズハハコと次々に顔や形のちがうのがあらわれて来た。ちなみに大沢から峠までの距離は、上高地の徳沢から、槍の頂きまでの三分の一である。  頂上へは翌朝三時半から登り、扇沢に十二時に下った。 [#改ページ]

63 |蓮華岳《れんげだけ》    コマクサ 『最新俳句歳時記』に「駒草」があり、「高山帯の砂礫地に生じ、高山植物の女王と言われる」とある。  北海道の大雪山で、大町桂月がはじめてこの花に出あって感動して言ったのだという。  女王と皇后とでは語感がちがう。女王はトランプの女王でなくて、やはり、エリザベス女王や女帝マリア・テレサのように、男子をしのぐ権力と勢威を持ったものでなくてはならないような気がする。そして私は、そういう意味での印象を、コマクサの花からは一つも受けない。細くこまかくわかれた葉はいかにも弱々しく、手荒には扱えないもろさを感じさせ、馬の長い顔に似ているなどと言われる花の姿は、仔馬にも|驢馬《ろば》にも似ていないと思う。あるいはこのコマは高麗ではないのか。古代の朝鮮半島の高麗で、それはこの花が何となく異国的な印象を受けるところから来ている。  いつごろからそのように呼ばれたものか、異国的というよりペルシャ的とも私は思う。ペルシャの紋様のつくり出す線とよく似ていて、すでに奈良朝にあって、ペルシャ人は日本にやって来ている。  さて、野生の植物とも思えないこの繊細な花を、私がはじめて見たのは、東北の蔵王山である。絶滅寸前であるのを、栽培しているのを見た。  自然に生えているのは、北海道の大雪山の黒岳で、赤岳の下のコマクサ平で見た。その後白馬で、これも絶滅をおそれて保護されているのを見た。  保護しなければならないほど、山に来てこの花をとろうとするひとがいるのかと、眼の前にいないその人間に向かって言いようのない怒りを感じた。  蓮華岳は、針ノ木峠の東の稜線伝いにあって、レンゲソウのようにコマクサがたくさん咲いている。白馬より黒岳より、コマクサ平よりその花は多く山の斜面を被っていたが、絶滅などと忌まわしいことのないようにひたすらに願っている。   駒草なぶる|雷《らい》ピッケルに触れて鳴る [#地付き]飯塚田鶴子 

64 |鹿島槍《かしまやり》ケ|岳《たけ》    シナノキンバイ・オヤマノエンドウ・チングルマ・タカネミミナグサ  鹿島槍には四百種もの高山植物があるという。私たちが山ゆきの目標をきめるときは大てい、花の多い山というのを一つの標準にする。花の多い山は、花のない山より、疲れ方が少なくてすむ。花になぐさめられるのか、どんな花があるかという好奇心が次から次と足に力をそそいでくれるのか。  娘の頃は、花もろくろく見ずに、飛ばし専門であったが、体力が|萎《な》えてくると、山の花の活気が補ってくれると、私は体験的に思うのである。  はじめて立山から上高地にと歩いたとき、足弱の私を助けてくれたガイドの志鷹光次郎さんは、それまであまりくわしく知らなかった高山植物の花々の名を教えてくれたひとであった。まだダムの出来ない頃で、室堂から一ノ越に登った朝、谷々をどよもして、大きな瀬音をたてて流れる黒部川の深い谷を前にして、向かいが鹿島槍、となりが蓮華、あそこにはコマクサがある。それから左に連なる後立山は、こちらの立山連峰より花が多く、白馬にもコマクサがありますと、遠くに眼を放ってなつかしそうに言い、この次にはぜひ後立山連峰を歩いてほしい、できれば自分が案内したいとも言った。  山のどの谷にどんな花が咲いているのか、北アルプス全体を自分の庭のように、よく知っていた。  鹿島槍に登ったのはその日から十五年以上たっていて、志鷹さんは亡くなられてしまった。山のガイドをしたひとは、よく山小屋の経営者になるが、志鷹さんは、ガイド一筋で亡くなられたのである。  鹿島槍には大町から扇沢に入り、柏原新道に入って種池小屋を目指した。九月の二十四日で、その年の五月に大町の仁科中学へゆき、校庭からまだ雪のある爺ケ岳、鹿島槍を近々と見て、この夏は鹿島槍にとふるいたつ思いになった。しかし天候不順の夏で、九月半ばすぎにようやく安定したのである。中学の国語の故佐藤総一郎先生が種池小屋の主人とお知り合いとかで、まずお風呂に入らして下さいと前もってたのんだのだが、前夜に大町温泉郷に泊まり、朝八時から扇沢の右の谷をつめてゆくと、チングルマは穂になり、ベニバナイチゴは実になったが、シナノキンバイ、ゴマナ、コバイケイソウ、コキンレイカ、ミヤマダイコンソウと、まだ盛大に咲き、小屋の南面にもハクサンフウロ、ウサギギク、ミヤマキンバイ、オヤマリンドウ、カライトソウといろとりどりの花がおそい夏さながらに咲いていた。小屋の前から爺ケ岳をまいてゆく道も黄や赤の花らしいものが見える。時間も十二時であったので、せっかくのお風呂をことわって、少しでも早くもっと多くの花を見たいと急げば、爺ケ岳は二六七〇メートル。種池山荘のあたりよりも一〇〇メートルは登っていて、一面の岩礫地にオヤマノエンドウ、タカネマツムシソウ、イワベンケイ、タカネコウゾリナが咲いていたが、冷池山荘まで、一〇〇メートル下る岩礫の道にさしかかると、晴れていた空が、急に灰墨色に被われたと見る間に吹雪となった。  冷池小屋にはガタガタ震えて午後二時に走りこんだが、有り難いことに種池のご主人が連絡してくれていて、ここでお風呂に入り、明日の天気予報は晴れと聞いて安心して八時には寝てしまった。鹿島槍は爺ケ岳より二〇〇メートル高い。どんな花があるかと期待した。  そして翌朝は四時半。懐中電灯をたよりに暗い中を山頂を目ざし、五時から六時と、星が消えてうす青い空に富士山、南アルプス、中央アルプス、八ケ岳と、紺青の山々が浮かび上がるのを見ながら大失敗に気づいた。眼鏡を小屋に忘れていた。それでも午前七時、南峰について、日本海を背に立山から薬師岳まで、志鷹光次郎さんと歩いた稜線が朝陽に朱色にかがやくのを見、志鷹さん、やっと私は来ましたよと胸につぶやき、さて、足許の花をさがしたが、眼鏡のない悲しさに、白い花だけがよく目につく。タカネツメクサ、タカネミミナグサ、フジハタザオ、ヒメコゴメグサなど。  帰りは午後四時大町発の急行に乗るため、冷乗越から、ナナカマドやダケカンバの黄紅葉する赤岩尾根を、|礫《こいし》を蹴とばし蹴とばして下りて走って、大冷沢に待つバスに飛びのった。 [#改ページ]

65 |白馬岳《しろうまだけ》    リンネソウ・イワイチョウ・シロウマアサツキ  十五、六歳から、奥多摩の山を歩いていましたというと、たいていのひとが、その頃としては珍しかったのでしょうと言う。十五、六歳から海や川で泳いでいましたといっても同じようなことを言う。  私の十五、六歳の頃に白馬などに登る女の子はいくらでもあった。私たちの山の会の中には槍ケ岳に登ったひともいる。東京府立第一高女というのは今の白高校で、夏休みはいつも白馬に集団登山した。私が十九歳で卒業したのは、府立第二高女に併設されていた府立女子師範で、今の学芸大学だが、夏の登山部は、富士山や浅間に登り、水泳部は千葉県の|天津《あまつ》で一週間は泳ぎ、それから私は一夏を|千倉《ちくら》で泳ぎ、海岸はいつも若い娘や青年で溢れかえっていた。昭和三年から入学した東京女高師は今のお茶の水女子大学で、その水泳部の先生は水泳連盟の松沢一鶴氏。体育の正課として、飛びこみからクロールから平泳ぎをやらされた。女子師範の体育では高跳び、ハードル、砲丸投げ、槍投げなどの陸上競技も正課としてやらされ、バレーやバスケットは、府立第一高女といつも勝敗を争っていた。服装も膝上までのキュロットスカートに半袖のブラウス。私が北アルプスの山々にゆけなかったのは、母が遭難を心配したからである。今にきっと登ろうと思い、北アルプスの白地図を寒冷紗に張りつけ、座敷いっぱいにひろげて、四〇〇メートルおきくらいに等高線を塗り重ね、浮かび上がった立山連峰や槍、穂高、後立山連峰の稜線をあこがれの思いで指で辿っていた。  白馬には十数年前に、大糸線の平岩からバスで蓮華温泉の手前で下り、沢を吊り橋でわたったが、この時の山旅は、はじめての花に幾つか出あった。まず旅館の庭のシナノナデシコ。ハマナデシコに似てもっと背が高く、花のいろの紅がうすいが、カワラナデシコにくらべていかにも山の花らしい力強さである。その後南アルプスでたくさん出あった。  翌朝は暗いうちから歩き出し、懐中電灯の光にオミナエシに似て背の低い花をコキンレイカと知る。この花はその後、浅間の湯ノ平高原でいっぱい咲いているのを見、以来、ずいぶん方々で出あった。明るくなって、右に朝日岳と雪倉岳を見て、だらだら登りにあきる頃、忽然と華麗なお花畑があらわれたが、皆知っている花ばかり。トウヤクリンドウ、ミヤマムラサキ、タカネシオガマ、キソチドリなど。白馬大池のほとりで、立山に多かったイワイチョウやハクサンコザクラの群落を見、小蓮華に向う雷鳥坂で、ハイマツの根元に小さい花びらの外が淡い紅の鈴形の花を見つける。リンネソウとの初見参であった。  三度目の黒部五郎ゆきのとき、北ノ俣岳の登りでも見たが、カナディアンロッキーでは、道ばたに雑草のようにべったりと咲いていた。  この日はしかし小蓮華までで、私は山仲間の村瀬幸子さんと小屋に戻った。雷鳴が立山あたりの空でしきりなのが怖かった。花はコマクサをはじめ、二十種類以上を見、小屋につくと忽然と豪雨と雷が来た。一泊して帰りは|栂池《つがいけ》に。ここでも二十種以上の花と出あったが、私の見たかったシロウマアサツキはなかった。白馬は、高山植物の宝庫と言われて、明治年間から植物学者の研究も進み、昭和になって高橋秀男氏は、三百四十五種類を数えている。立山が二百七十五、八ケ岳が二百六十七、北岳が二百六十五。  二度目の白馬はそれから十年近くたって猿倉から大雪渓に入った。標高差六〇〇メートルの大雪渓を|葱《ねぶか》平まで、四時間かかって登った。ここの岩かげで待望のシロウマアサツキのエメラルドグリーンの葉に、うす紅紫の花を見つけ、いっぺんに疲れが消しとんだ。見ても見あきないかたちのよさと思った。しかし昔はもっと沢山あったらしい。頂上着は予定コースの二倍に近い八時間。下りは蓮華温泉まで十一時間。大きなミズバショウの葉にかこまれた露天風呂たち。この山旅で二キロふとってしまい、三日後に孫と伊豆の今井浜で、波乗りを四日間やって、二キロを減らした。 [#改ページ]

66 |北信五岳《ほくしんごがく》    リュウキンカ・ザゼンソウ  北信五岳とは、戸隠、黒姫、妙高、|飯縄《いいづな》、|斑尾《まだらお》で、これらの山々にはそれぞれの山麓に高原の名がついている。この中で妙高だけは裾野が信濃にちょっとかかる越後の山である。岩波書店の『日本の山』によれば、明治八年(一八七五)に来日して、長野県の旅をしたドイツの地質学者E・ナウマンは、八ケ岳山麓の高原から南に連なる赤石山脈が、二五〇〇メートル近い高度差で、甲府盆地を流れる釜無川の谷に、鋭い急斜面をもって迫っているのを見た。それから松本、大町とゆき、飛騨山脈にも同じ現象を見て、日本列島を横断する大きな断層線が走ったことを考える。フォッサマグナ、裂け目、または陥没地帯として発表され、千七百万年から一千万年前に、日本海と太平洋の水は、一つになって、糸魚川から静岡を結ぶ海水浸入地帯を持ったことがわかった。  この海底に堆積したものが隆起して一五〇〇〜二〇〇〇メートルの山地になった。妙高、黒姫、飯縄をふくむ|西頸城《にしくびき》山地、入笠、甘利、櫛形山のある|巨摩《こま》山地など。そして、西頸城山地にはその上に富士火山系の火山が噴出した。斑尾は飯山山地だが、その東南の一三五二メートルの|高社《たかやしろ》山と共にやはり富士火山系で美しい成層火山の形を示す。斑尾は一三八二メートル。その噴火によって、堰止湖の野尻湖ができた。  戸隠表山の一九一一メートルは、それらの火山より古く、海底にあったときの火山が隆起したもので、浸蝕が激しく、凝灰角礫岩の、鋭い岩礁となっている。妙高は二四四六メートル。黒姫は二〇五三メートル。飯縄は一九一七メートル。私はこのうち黒姫と戸隠表山と飯縄と斑尾に登った。妙高は、その北西の火打山の二四六二メートルに登り、途中の天狗ノ庭から南東の黒沢岳の二二一二メートルを経てゆけるとわかったが、まだ登らず、麓の池ノ平では一夏をすごした。  黒姫は戦前に表参道から、斑尾は十年前に荒瀬原から共に夏に登った。斑尾は飯山に近い東の方がスキー場化したらしいが、頂上から眼の下にひろがる野尻湖や、その背景に君臨する妙高の姿が圧巻である。何よりも登山道のかたわらにオミナエシ、キキョウなどを見つけて、黒姫の裾野もススキの中にオミナエシのあったことを思い出したが今はどうか。高社山の麓の城主の高森氏の姫は、黒姫山の大蛇に見こまれて池の中に身を投げたという伝説があり、ダケカンバやブナやシラビソの生い茂った登山道が、ハイマツ帯になり、笹原となり、池は登山道の右側に青黒く静まっていて、何となくうす気味悪く、ほとんど走るようにして一面の笹原の中を駆け下り、野尻湖畔の夏の家に戻った。裾野はマツムシソウの大群落であったが、今はスキー場化されて、赤城山のマツムシソウのように激減したかもしれない。  飯縄山に登ったのは数年前の夏で、コオニユリ、カワラナデシコ、オミナエシ、ハンゴンソウ、ヤマハハコと美しく、頂上からの西に後立山連峰、北の妙高、火打山、東の志賀高原から菅平までの眺めが素晴らしかった。  戸隠には一番よくいっていて、戦後間もない頃から見れば、大分観光客がふえたが、中社の奥の湿原や、越水ケ原に一歩足を入れると、初夏はミズバショウ、リュウキンカ、ザゼンソウ、盛夏はハクサンチドリ、サワギキョウの世界になる。そして奥社の奥の表山縦走は岩壁にリュウノウギクが咲き、谷々の黄紅葉がいろとりどりで、日本画の中を歩いているようである。八〇〇メートルか一二〇〇メートルのこれらの山々の裾野の高原は、小鳥も多く修験道の山が多いせいもあって、軽井沢のように俗化しないのがよい。  私が野尻湖畔にいったのは、軽井沢の宣教師たちが、軽井沢の俗化を避けて、野尻湖畔で夏をすごすようになったからである。英会話を習っていた。半世紀以上たって、軽井沢の喧騒はいよいよひどくなったが、野尻湖畔の高原は、どの山の麓であれ、まだ緑の爽やかさと、たくさんの花々を残している。北信五岳高原とでも名づけたいところである。 [#改ページ]

67 |小松原湿原《こまつばらしつげん》    ウラジロヨウラク・トキソウ・オノエラン・モウセンゴケ  苗場山の高層湿原は、尾瀬湿原と共にまだゆかないうちからあこがれていた。  草に被われた地平線が空に続き、ところどころに小灌木の茂みがある。まだフイルムが白黒ばかりの時から、その水墨画のような風景は、そこに身をおいてみたいという願いをつのらせたものである。小鳥と湿原の中を流れる川のせせらぎと、まわりの山々の木々を過ぎゆく風の音の外、何の物音もしない静寂な世界。足許には湿原の花々が咲いている。  空に白い雲がうっすらと流れて、湿原が成立するまでの悠久の時間が、一瞬に自分のいのちの中を走り去ってゆく。静寂。その中で、ひとは何を思うか。などなど、あこがれは果てしなくひろがっていったが、戦後にあちらこちらの山々を歩きまわってみると、湿原は苗場や尾瀬だけでなく、ときにそれらより心惹かれるものがあると知った。たとえば暑寒別岳の裾の雨龍沼。田代山の頂上の高層湿原。火打山の高谷池周辺、秋田駒の|千沼《せんしよう》ケ原。豊橋の|葦毛《いもう》湿原。南会津の|駒止《こまと》湿原など。そしてそれは、すべて尾瀬よりはひとが少ないので私には魅力があった。また、苗場山でいえば、その湿原より|祓《はらい》川からの途中の神楽ケ峰を左に、霧ノ塔の一九九四メートルを越え、日陰山の一八四〇メートルの三つのピークを過ぎたとき、眼の下にひろがる小松原湿原の方が、ずっと私に大きなおどろきを与えてくれた。  苗場山はウラジロヨウラクが群生していて、その紅紫の花の、たっぷりとついたのが素敵だ。ヨウラクツツジは、安達太良山にもあったが、それは急坂の両側に、ドウダンツツジやベニドウダンなどにまじっていた。ここのはほとんどがウラジロヨウラクなので、その優雅さが引きたつようであった。しかし花はツルコケモモやタテヤマリンドウやワタスゲ、イワイチョウぐらいきり眼に入らず、かえって雷清水からの鞍部のオノエランやハクサンフウロやタカネナデシコなどがみごとであった。湯沢の鈴木牧之が書いた『北越雪譜』にお|花圃《はなばたけ》としていることを思い出し、百五十年以上もたって、なお、お花畑が健在なのに感激した。  しかしオノエランをのぞいては、はじめてみる花はなく、小松原湿原に入って、まず一面のイグサやカヤが緑も鮮やかに生い茂る中に池塘が点々とし、そのまわりに朱赤の色のモウセンゴケが盛りあがるように水をかこんでいる不気味さに息をのまれた。モウセンゴケはあちらこちらにあがって、飛んでくる羽虫を待っているのだが、眼に入る限りが緑色の中に朱赤の大きな輪が点在し、そのまん中に、空の色を映す水が青々としずまりかえっていると、その水さえ底しれぬもののように不気味である。モウセンゴケは羽虫をとらえ、水はのぞきこむひとをずるずるとその中におびきよせようとするのではないか。草の緑を囲んで濃い緑のシラビソやコメツガの林がある。それはいったんこの緑の草原に入ったら、一歩も前に出すまいとする城壁にも似ていた。  私は自然にこころがあるとは思っていない人間だけれど、ときにあまりにも美しい自然にあうと神秘というよりは恐怖を感じてしまう。その美しさに釘づけられてそこにたちつくし、そこから出られなくなって、心身の力が尽きはてるまで、この中を彷徨して朽ち果ててしまうのではないかと。  救いはその池塘と池塘の間のイグサの中に、サワランやトキソウの紅の濃淡がいろどりを添えていること。高山植物の店に売られているトキソウよりもイキイキとしているだけでもすばらしい。サワランは尾瀬でも田代山でも見たが、トキソウははじめて。サワランの華やかさに対して、やや花も小振りに、色も淡いトキソウは見のがしたのかもしれない。  鳥のトキの色にも似ているこの花が、高山植物専門の泥棒に盗まれ、鳥のトキのように絶滅しないことを祈りたい。小松原湿原は幾段にもなって流れてきた熔岩台地であろうか。一つを過ぎると倒木が多い樹林帯と深い熊笹の藪を下ってまた一つ。また樹林帯を下ってまた一つとあり、最後は秘境の秋山郷に辿り着く。 [#改ページ]

68 |平《ひら》ケ|岳《だけ》    ワタスゲ  会津駒に登った時、駒ノ小屋の前でなつかしそうに北西に連なる山々に見入っている若い女のひとにあった。平ケ岳に一人で登って来たのだという。道は大変ですかと聞くと、二岐沢からの林道を標高差七〇〇メートル近くまで車を入れてもらい、二時間半で登り、一時間半で下って来たと言う。  それにしても利根源流の最奥の山といわれるところに、女一人でと心中ひそかに舌をまいた。  私の平ケ岳は、カナディアンロッキーから帰って体調をくずしたまま、秋田駒から乳頭山へと歩いた翌日に銀山平の湖山荘に泊まり、その翌朝に、二十人のいつもの仲間と登った。林道を通して下さった小出町の桜井原町長のおかげで、登山口まで車を入れ、あの若い女のひとと同じ道を辿ったのだが、私は山路に入るなり、急坂に次ぐ急坂であごを出し、湿った土に足を滑らし、シラビソやダケカンバが丈高く茂りあう両側のチシマザサの茎をつかみながらの気息えんえんの登山であった。三時間もすると木々の高さが低くなり、ヤブは逆に高くなって道がぬかるんで来たのは、いよいよ池塘のある頂上近い湿原に来たのかとうれしく、ヤブをかきわけかきわけゆくと、健脚の仲間の先頭たちがどんどん下りて来た。今一息、おもしろい玉子石という石があるなどとはげましてくれたが、こちらは全身の力を出しきってしまった感じ。秋田駒からつづけて三日間の絶食。口に入れているのは、カタクリ粉のお湯ときだけである。  四時間たって、やっと上層湿原の一面に花崗岩の風化された名残だという大きな卵形の石のそばにたつことができた。小高い丘になっていて、眼の下にひろがる一面の草地の中に点々とワタスゲがあり、足許にツルコケモモやネバリノギランがある。池塘のそばまでゆけばモウセンゴケやトキソウなどにあえるかもしれないと思ったが、今は頂上が大事と足を引きずり引きずり木道の上を歩き、この広大な平坦地が、かつて海の底であったという地球の歴史の悠久を思っていた。 [#改ページ]

69 |守門岳《すもんだけ》    ヒメシャガ  栃尾市にいった時、市役所のひとに近くにいい山はと聞くと、言下に守門岳。花が多いですよとのこと。では浅草岳のヒメサユリと守門の花をと企画して数年前の夏の梅雨明けに登った。その前々日にノラ猫に左のてのひらをがっぷりと噛まれ、医者にゆくと破傷風の注射をしてくれて、明日は守門岳ですといえば、死んでも知りませんと見放されてしまった。ほうたいの上にゴム手袋をはめて、大白川からはすぐに鉄砲登りの急坂にかかり、イデシ尾根の突端八五〇メートル。右側がダケカンバの林。左側はいい花の咲く木が多かった。ユキツバキ、ムシカリ、オオカメノキと花は終わっていたが、ウラジロヨウラク、ホツツジの花は残り、林床にベニバナイチヤクソウやシラネアオイやミヤマママコナが咲いて、尾瀬周辺の山に似ていると思った。  一五三八メートルの頂上にはまだ雪田が残り、池塘もあった。ここまでのコースタイムは四時間だったが、私は六時間かかっている。医者が安静にといったので、せめてものことにゆっくりゆっくり歩いたのだが、一つには花が多いのと、先にいったものが、マムシがいたと大声をあげるので、あたりを警戒しながらこわごわいったせいもある。仲間の一人は、こんなにマムシが多いから一匹とって帰ると追っかけたりしていた。下りは守門岳から|青雲《あおくも》の一四九〇メートルまでの稜線を歩いて、|二分《にぶ》登山道を三時間で下りた。マムシはこちらの方がもっと多く、一番先に通ったものは一メートルおきにトグロをまいていたとのこと。浅草岳へゆく途中の酒屋にマムシ酒五千円と札がでていて早速一本買ったが、今度は無抵抗のマムシを見るのがおもしろく、一人でニコニコ眺めていた。しかし私が本当にニコニコしていた最大の意味は、この山で多年あこがれの野生のヒメシャガを見たからである。  ヒメシャガが東北地方へゆくと、野生していると教えてくれたのは、巧緻細密な野の花の絵と随筆で、エッセイスト賞を得られた故佐藤達夫氏だが、守門で出あうとはゆめにも思わなかった。 [#改ページ]

70 |浅草岳《あさくさだけ》    ヒメサユリ・タニギキョウ  守門岳を下りて浅草岳の麓の音松荘に泊まってマムシの話をすると、守門より浅草岳の方がもっとマムシが多いと言った。『平ケ岳』という本には平ケ岳にマムシがいることが書かれていて、越後の山々は雪が多く、夏も湿気が絶えないから、蛇の類にはよい棲みかなのであろう。もう十年以上の昔になる。只見の皆川旅館のご主人に浅草岳をすすめられた。ヒメサユリが咲いています。  ヒメサユリの花はまだ見たことがなかった。戦争中に鳥取に疎開して、買い出しに歩く山道で清々しい花の香りにあい、見ると、うす紅のかわいいユリの一輪があって、ササユリと教えられた。葉が笹の葉のような形をしている。ササユリは大杉谷でも、|船上《せんじよう》山でも、新潟の角田山でも見かけていて、その香りがヤマユリほど強くなくてすがすがしかった。ヒメサユリはどんな香りがするのか。  音松荘の夜は豪雨の音で眼がさめたが、翌朝は雨が弱まったので、いつもの通りの雨天決行の支度をする。マイクロバスを五味沢までまわして、ブナの大木の間の狭い急坂を登っていった。頂上まで五キロである。標高差は二〇〇メートル。急登がつづいて雨が大粒の本降りになり、雨ならマムシが出ないと安心しながらも、渓流のように流れ落ちる雨水が雨衣を通して肌着までぬれて来た。ブナやダケカンバの茂りあう、暗い道から稜線に出て、嘉平与ボッチの一四八五メートルには八時半につく。風が両方の谷から吹き上げてくる。前岳の一五五六メートルで九時。ヒメサユリは嘉平与ボッチの左斜面に群生していて、かわいい花というよりはたくましい感じである。匂いはササユリより淡い。先にいったひとたちが戻って来ていった。「頂上にはマムシは一匹もいませんでした」。  頂上まで標高差三〇メートル。雨量測定の施設がある。じつはそのあたりにマムシがウジャウジャいると聞いたのであった。タニギキョウの群落が雨にぬれそぼっている中をゆっくりと登った。しかし雨はいよいよ激しく、もうヒメサユリも見たから結構と、私は前岳の草地に傘をさしかけて停滞した。ネコに噛まれ、マムシにも噛まれたらどうしようもない。  私の学生時代の友人に私より山に強いひとがいて、ヨーロッパアルプスにもよく出かけている。  いつかあった時に蛇をこわがる私をわらって言った。蛇がこわくて山が歩けるの? 私は蛇が出てくると、よく出て来たねって、首から下を撫でてやるのよ、手のひらで。蛇は人間の体温が好きだからよろこんで、そこで棒のように一直線になるのよ、とてもかわいいものよ。一度やってごらんなさい。しかしマムシは気性が荒いので撫でないと彼女は言った。そのようにすすめられ、いつか機会を見てと思っているけれど、まだ実験には至っていない。  前岳でやせ尾根に咲くヒメサユリの花がいっせいに北をむいているのをおもしろく眺めていた。雨は南からくる。花は雨を避けている。その知慧に感心した。ヒメサユリは葉も茎も頑丈である。平地に咲くオニユリやコオニユリは、もっと花も大きく、花の色も濃いが、直立した茎の丈が高いから、これほどの強い雨や風に耐えられるかどうか。  高山植物が何故平地の花より美しいか。地味のやせた岩礫地帯に、風雪をしのいで精いっぱいに咲くからだと聞いた。守門岳も浅草岳も苗場山も小松原湿原も、安山岩熔岩によってできている。  雨がいっそう降りつのって来て、傘を持つ手が寒さにかじかみ、高さは低くても上越の山は東北圏に入るのだと思いつつ、ブナの大木の茂るごろごろ岩礫の道を二時間で下りた。ブナの樹肌には会津駒と同じにクマをとったひとの年月と名がきざまれている。ブナの実はクマの好物である。タニギキョウに見送られて下山。この花は四国の石鎚山の|面河《おもご》渓谷ではじめて知った。 [#改ページ]

71 |日倉山《ひぐらやま》    ユキツバキ  日倉山は新潟県の東蒲原郡三川村にある。新潟市の北の阿賀野川と、白鳥の飛来する瓢湖に近い|五頭《ごず》山連峰が源流となる中ノ沢川、新谷川が村内を流れている。村の南にある日本平山の一〇八一メートルは、スキーの名所として名高く山頂に一等三角点がある。日倉山の八四四メートルは、三川村から日本平山にと登る尾根の途中のピークなので、山名辞典にものっていないが、花の多い山である。列車は磐越西線の三川駅か|五十島《いかしま》駅か|東下条《ひがしげじよう》駅下車。古代から交通の要衝として知られ、平等寺という寺には、新潟県で二番目に古い永正年間(一五〇四〜一五二〇)の薬師堂があり、国宝の薬師仏をおさめている。戸隠山の鬼女を退治したという「紅葉狩」の主人公の|平 《たいらの》|維茂《これもち》の墓もある。  日倉山は故猪俣信市氏主宰の新潟ゴミ会議が中心になって、登山道を整備した山である。まだ伐採したばかりの木の根竹の根で歩きにくく、勾配が急なせいもあって、私は上り下りに九時間もつかって恥ずかしかったが、ゆけどもゆけどもユキツバキの群落なのにまずおどろかされた。木の枝ぶりもしなやかで花はおわっていたが、ヤブツバキより花びらのひらき方も大きく、ずっと華やかな感じで咲いているのは五頭山で見た。高度をますにつれ、タムシバやオオカメノキやコブシが白々と花を残し、アカヤシオもレンゲツツジもミツバツツジも咲いていて花の林の中をゆくようであった。そして下草にアズマイチゲがオオバユキザサがヤマエンゴサクが。実になったカタクリも多く、頂上近い雪渓の雪のとけた草地には、オオバキスミレもイワウチワもイワカガミもあった。  日倉山は守門岳と似ていて、登山口から稜線に出るまでは稲妻形の急坂がつづくけれど、あとは一本道で急坂をひた登りに登り、その道の両側が花いっぱいというかたちをとり、花に迎えられ、花に見送られて疲労感が少ない。北にまだ雪をいただく|飯豊《いいで》山が見えて、この眺めもすばらしかった。   雪椿山の湯いまだ板囲ひ [#地付き]飯塚田鶴子 

72 |角田山《かくだやま》    スカシユリ  信濃川は長野県下を千曲川となって流れる。源流は韮崎より北の天狗山、男山、女山の谷である。山々の北麓の大深山に縄文の遺跡が発見されたのは、八ケ岳山麓よりも新しい昭和二十八年(一九五三)であった。村道を建設しようとした工事のとき、土器を伴う炉址が出て来た。つい最近のこと、天狗山に登って北に浅間を仰ぎながら、千曲川に沿うこの佐久平の地が、なんといろいろの歴史的な舞台になるのであろうと感慨にふけった。明治十七年(一八八四)に起きた秩父事件の農兵たちが、十石峠をこえてなだれこんだのもこの地方である。弘治元年(一五五五)の昔、武田信玄が、川中島での上杉氏との戦いに、甲斐から信濃に向かったのもこの千曲川沿いの道であった。さまざまの人間の姿をこの流れは知りながら新潟平野に悠々たる姿をあらわして日本海に注ぐ。  兄が新潟医大の病理にいたので、娘時代からよく新潟市を訪れた私は、信濃川口に近い三つの山に親しみを持った。一番西が、良寛の庵を結んだ国上山、次が日本三彦山の一つ弥彦。隣りの角田山には、春はカタクリが夏はスカシユリが咲くという。そしてこれらは皆古い火山だという。登ったのは十年前の夏の一日。案内してくれたのは『越後の山旅』の著者の藤島玄氏と新潟ゴミ会議の主宰者の故猪俣信市氏。頂上の休憩所で、名物のササダンゴを食べるのをたのしみに、標高一八〇メートルの五ケ峠から杉林の中を登り出す。スカシユリは登り口の岩場に点々と咲いていた。標高三六〇メートルで、五ケ浜よりの登山道と合流、四五〇メートルの三望平に出て、右の林間にサラシナショウマ、ナツノタムラソウ。左は佐渡の浮かぶ海である。カキランなどがあって九州の祖母山以来の対面。あそこも古い火山岩の山であった。四八二メートルの頂上はアカマツ林と広い芝生になって、市民の公園である。南の|稲島《とうしま》登山道を急降下。松林の中にウバユリ、クルマユリも咲き、カンアオイが多かった。コシノカンアオイであったろうか。 [#改ページ]

73 |金北山《きんぽくさん》    イワカガミ  佐渡には娘時代に弟やその学友と渡った。家を出るとき母が言った。山に登ってはいけませんよ。  昭和六年(一九三一)三月の末に、今の筑波大附属の前身、東京高師附属中学の十七人が金北山に登り、二人の死者を出していた。  母が、兄や弟や私に強い口調で戒めたのは、登山に遭難はつきものだというその頃の常識であった。昭和三年の三月に登山家として有名な大島亮吉が前穂高で滑落死。昭和二年の十二月には早大のスキー部隊が、針ノ木の雪渓で四名の死者を出している。昭和四年の十二月、剣沢で小屋が雪崩にやられて、案内人二人と共に、東大のOBたち四人が死んだ。  佐渡は日本で一番大きい島で、戦後に何度もいったが、いつも山国へ来たという感じである。島は金北山一一七三メートル、妙見山一〇四二メートルを連ねる大佐渡山地と、経塚山の六三六メートルを主峰とする小佐渡山地が南北に走り、西南に真野湾、北東に両津湾の湾入でくびれて、国中平野となる。大佐渡山地は金鉱を持ち、戦前は廃坑のままであったが、今はすっかり観光地化されている。  さて、金北山に登ったのは数年前の七月で、前日に雨の弥彦山の六三八メートルに歩いて登って両津へ。金坑のあとを見て、スカイラインから防衛庁管理道路に入って妙見直下の白雲荘泊まり。早朝の四時に雨と風の中を、妙見をすぎて金北山頂の神社に詣った。高師附属中のひとたちは、妙見から下りて強い雨と風に倒れたのである。防衛庁道路の道ばたにイブキジャコウソウとイワカガミが砂礫地の間に咲き、宿の近くにマツムシソウを見ただけ。シラネアオイやヤマシャクヤクやカキツバタも咲くと藤島玄さんの本にあったが、とにかく寒い。四辺を海にさらされて風も強いので、霧の中に花々を想像して宿に帰った。春はイチリンソウもカタクリも咲くという。北麓にはシャクナゲの大群落もと聞き、晴れた初夏の日にと思った。   いはかがみ しらねにんじん つがざくら     今日より雪にうづまりゆかむ [#地付き]根尾幸子 

74 |早月尾根《はやつきおね》    ベニバナイチゴ  四十九歳の時の六月半ば、立山の雄山の上から北の空へと眼を放つと、|大汝《おおなむち》山、真砂岳、別山、前剣などの険しくきびしい岩稜の彼方に、剣の鋭い穂先を並べたような頂きが見え、ここからは健脚のひとで五時間半と、同行の志鷹光次郎さんが言い、よければいつか案内しますよと言ってくれた。足のろの私なら八時間、一ノ越に泊まって、朝五時に出れば、よくて午後の三時にはつけると思った。からだが宙吊りになるような怖い岩場があるそうですねと言うとわらって、大したことはありません。  志鷹さんがなくなってからも、雷鳥沢から登って剣沢の小屋に泊まってと何度も考えたが、一番やさしそうなのが、早月尾根からの道らしいと聞いて、七十八歳の秋の九月に、馬場島から歩いて標高差一五〇〇メートルの伝蔵小屋に一泊、頂きまでの五〇〇メートルを歩く予定をたてた。昭文社の地図のコースタイムは、伝蔵小屋まで六時間、頂上まで三時間三十分である。  その前日に松本で講演。頂上へいって下りたあくる日に富山で講演の予定であった。  利尻山の標高差一七〇〇メートルを十二時間で登って下りたのは、七十代にさしかかったときである。この時は早月尾根を十一時間、翌日は雨が降って来たので、頂上まであと三〇〇メートルの二七〇〇メートルのところで引き返して午後二時に馬場島についた。小屋から標高差二〇〇メートルを登り、下まで一七〇〇メートルを下るのに、七時間である。この時の肉体的状況は松本で好物の馬刺しを三人前食べ、早月尾根の登りにベニバナイチゴのまだ青い実を二十ケ食べて、小屋に着いておなかをこわしてまた絶食。ポカリスエット五本だけで登って下った。  一緒に登ってくれた伝蔵さんは、翌年の九月病死され、あの登りの時も病気を体内にもっておられたのだと思い、暗然とした。  早月尾根には花が多かった。下から上まで高度に合わせての植生の変化がおもしろかったが、私にはベニバナイチゴの咲き残りの赤い花だけが目立った。 [#改ページ]

75 |大日連峰《だいにちれんぽう》    カライトソウ・ウサギギク・タマガワホトトギス  はじめて立山から上高地へと歩くために美女平から弥陀ケ原、天狗平と登ってゆくとき、前面に立山連峰、左手に大日連峰がまだ雪をかぶって、私を見まもっていた。  大日とは大日如来のことであろう。地獄谷とか弥陀ケ原とか浄土とか薬師とか、立山周辺には立山権現布教のためにつけられた仏教的な名前が多く、奈良時代の開山伝説以来、平安時代から江戸にかけて、全国的な信仰登山の対象になり、信者たちは|芦峅寺《あしくらじ》に住む先達にひきいられて登山した。  先達は修験者であり、志鷹光次郎さんの志鷹姓と佐伯民一さんの佐伯姓がほとんどで、開山は国司の息子の佐伯有頼になっている。白鷹を追って山に導かれ、山頂で阿弥陀如来に出あったということになっているのだが、立山の神変じて仏になるということで、いかにも神仏混淆説らしい伝承である。現在のアルペン黒部ルート開設が、年間百万人近い人間を運ぶというのも、立山詣りを目的とするひとが多いからであろう。  前夜は室堂の「ホテル立山」に一泊。三十年近い昔の雷鳥沢の小屋や室堂小屋を思い出すと、百年も一挙に時間が経過したような気がした。  翌朝の室堂乗越へと下る道でも、雪どけのぬかるみを山靴でなく、ローヒールにスカートの女のひとたちが苦労して歩いている。立山火山噴火のあとを見せる硫気孔だけが健在で、自然のおそろしさを見せている。  ホテルから室堂乗越まで一時間。何か温泉町の裏通りを抜けて急に山中にとびこんだ感じ。人間の姿が小さくなるにつれて、大自然の豪壮とも言いたい眺めが一望の下にひろがってくる。  盛夏の七月というのに、二六一一メートルの奥大日への稜線の北側は雪渓、左の南面だけに花々が咲いていた。ホテルからここまで約六キロ、標高差四〇〇メートル。  南から西にかけて、称名川の上廊下の深い谷が、これも半ば雪に埋もれて岩の城壁のように連なって壮観である。うしろには剣岳の峻峰が王者のような威厳をもってセリ上がってくる。  咲き乱れる花は奥大日までに三十種類にもなって、オヤマリンドウ、コバイケイソウ、シナノキンバイ、サンカヨウ、キヌガサソウ、タケシマランと、高山植物園の中を通ってゆくようである。昼食をとった奥大日の頂き周辺にもカライトソウ、ウサギギク、トウヤクリンドウなど二十種類ぐらいが咲いている。  中大日にゆく途中で、富山大学の女子学生にあう。一人で、この山のバラ科の植物を調べているという。ベニバナイチゴ、ゴヨウイチゴ、ミヤマダイコンソウ、チングルマ、カライトソウ、ハゴロモグサと一緒に数えた。ナナカマドもバラ科であることを教えてもらった。  その夜は杉田三江子さんの大日小屋泊まり。室堂を出てここまで一五キロ、地図のコースタイム五時間を、七時間かけていた。  翌朝は称名川の谷まで一一〇〇メートルを一四キロ以上歩いて下るのである。地図のコースタイムは登り十二時間、下り七時間。私は八時間かかった。しかしこの八時間には、ほとんど疲労感がなく、花と雪にかこまれ、心身ともに爽快であった。途中に大日平山荘がある。ぽつんと一つ、草原の中の山小屋で、三十年前の長い山旅で一緒だった佐伯民一さんに出あうとは。二十代だった民一さんは五十代、四十代だった私は七十代をこえていた。野ぶどうの手づくりワインで乾杯し、再会を期して別れる。民一さんはこの小屋には風呂があると言ってくれた。急降下つづきの道で見たタマガワホトトギスの黄やアカヤシオの紅のきれいだったこと。  下山して称名川をわたり、称名ノ滝を見にいった。三段にわかれて落下する三五〇メートルは日本一である。古代の日本人が自然の中に神の存在を信じたという気持ちが少しわかったような気がした。この山行は山と渓谷社の企画による「高山植物を見る山旅」でその数五十種を超えた。 [#改ページ]

76 |太郎兵衛平《たろべえだいら》    ミズバショウ  太郎兵衛平は、北アルプスとよばれる飛騨山脈の一番奥とも言いたい場所にある。  富山から美女平の九七〇メートルでケーブルを下りてブナ坂、弘法平、松尾坂、天狗平の二三〇〇メートルから室堂の二四〇〇メートルまで、標高差一四〇〇メートルを二五キロ、東京から夜行列車で来て、朝から夕方まで歩き通して雷鳥荘に一泊したのは四十九歳の頃である。水のたまった左膝に懐炉を結びつけながら、途中で新しい山靴の馴染まないのをガイドの佐伯民一さんの地下足袋にかえてもらって、思えばよく歩いたものだと今は思う。そこから雄山の二九九二メートルを往復して、一ノ越から龍王の二八七二メートル、鬼の二七五〇メートルと急な雪渓をわたり、ザラ峠の二三四八メートルまで急降下して、雨が降り出した中を、五色ケ原荘まで一八キロ。次の日は雨で小屋に休んだが、焚いているイロリの中の薪の煙に部屋の中じゅうがむせかえるばかりで、息苦しさに外に出た。六月半ばというのに積雪一メートル、立山山麓の|芦峅寺《あしくらじ》の長老、志鷹光次郎さんが、スコップを持ち出して雪を掘っていた。聞けばアザミの葉を味噌汁の実にして食べさせてあげたい。元気が出るからという。雪の下のアザミの新芽の緑が眼に冴えざえと鮮やかであった。雪の下でも春の芽を出すのですかと聞けば、この雪は一ケ月前の吹きだまり。この高原も五月には雪がとけて草が芽ぶくのだと教えてくれた。小屋に入ると、リーダーの近藤信行さんはじめ三木慶介さん、故尾崎賢治さんなどが、澄江さんは薬師を越したら、太郎兵衛平から有峰に下ろした方がいいのではないかと話しあっていた。あまりにも足がのろい。薬師から太郎兵衛平、北ノ俣岳、黒部五郎、三俣蓮華、西鎌尾根、槍ケ岳、上高地までというその山旅はまだほんの序の口に入ったばかり。あと三〇〇〇メートル級の山は五つ。歩程は八〇キロ近く残っている。太郎兵衛平から有峰までは一〇キロ。その山旅は『婦人公論』に、五十歳を前にした女の山旅ということで私が頼まれたもので、有峰に下りてしまえば、私にとっては敗北的な結果の報告になる。  たしかに私の足はのろかった。左膝が、登るときはよいが、下るときは猛烈な痛さで、片足でピョンピョンと跳んでゆかなければならぬほどであった。出発する時に医者にいって、注射針でたまった茶色の水を抜いてもらって来ていたのである。でも私は、四つん這いになっても終わりまで歩くと言い、それを助けてくれたのが、志鷹光次郎さんであった。おだやかな声音で「大丈夫です。ゆけますよ」といってくれ、私はむくんだ膝に、懐炉をズボン上から結びつけ、槍沢などは、遺骸を運ぶような|橇《そり》に結びつけられ、梓川の谷はリヤカーにのせられ、タイヤがパンクして横尾から歩いてころんで全身を打ち、夜の十一時に西糸屋に辿りついたのである。  その日から二十五年たち、七十四歳になった私は、あの長い山旅の一ケ月あと、左膝の上の大腿骨を骨折し、二度の手術で三センチ短くなった片足のまま、有峰から太郎兵衛平に登った。光次郎さんはもうなくなって、息子の忠一さんが一緒であった。夏の陽射しは強く、一〇〇〇メートル近い高度差にあえぎながら、ともすれば休みたくなる私を、お父さんと同じやさしい声音で、忠一さんははげましてくれ、もっと風通しのよい、涼しいところがあるからと導かれたところの右側のシラビソの樹林帯の中に思いもかけぬミズバショウの五、六本が大きな葉をひろげていた。その力強さ。その緑の|逞《たくま》しさ。ミズバショウはたくさんあるからよいというものではないことを知らされた。ミズバショウの咲くところにほとんど咲くリュウキンカは見当たらなかった。  太郎兵衛平は薬師岳と黒部五郎岳の中間にあり、池塘のまわりにはムシトリスミレ、チングルマ、シナノキンバイが咲き、黒部の清流に注ぐ薬師沢を前にした北アルプスの楽園である。私はもし生きていて九十歳になったらこの小屋に滞在して、山々を見て黒部川の瀬音を聞いて、一ケ月くらいのんびりとすごしたいと思っている。   水芭蕉沼湿原に変りつつ [#地付き]飯塚田鶴子 

77 |北《きた》ノ|俣岳《まただけ》    ミヤマキンポウゲ  山もせっかく登って来て、ただ帰るばかりではつまらない。よく景色を見てからというひとがあったり、同じ道をあるくよりは、別の道を通りたいというひとがある。しかし同じ道もそれなりのおもしろさはある。道の記憶が花と共にあるから、登りに見た花によって、登山口まであとどのくらいかと逆算することができる。  太郎兵衛平は、北アルプスの最奥の高原で、立山からきても逆のコースから来ても心のおちつくところだけれど、有峰から登って、せっかくこんな苦しい思いをして登って来たのに、このまま帰るのが勿体ないというひとへのおすすめコースは薬師の往復、あるいは北ノ俣岳に登って、薬師のすばらしい南西のカールを一眼で見わたすことである。  太郎兵衛平からは標高差七〇〇メートルの薬師本峰は見えずに、愛知大学生十三人のいたましい遭難碑のある薬師平が見えるだけ。いったん薬師峠まで下って、三〇〇メートル登ってその碑に若者たちの不遇な死を悼んでくるのもよいが、この道は石のガラガラであまり花はない。花は北ノ俣岳から赤木岳あたりまでゆくと、ハイマツ帯の中にミヤマコゴメグサやミヤマキンポウゲなど。黒部川の谷にむかう斜面は夏でも雪を残し、雪の消えた草地にチングルマやハクサンシャクナゲやヨツバシオガマなどが咲いている。北ノ俣岳の頂きは石ががらがらしているけど、眺めは前に黒部五郎の軍艦のようにいかめしい岩峰がみえ、その向こうに直角にさえぎるようにして、槍の北鎌尾根から本峰が穂高へと連なる鋭い起伏のある岩稜を走らせて、息をのむような大きな展望をたのしめる。黒部五郎の右肩の向こうに笠ケ岳がうすく浮かんでいる。北ノ俣岳までの往復はゆっくり歩いて四時間と見ておけばよく、同じ道をもどって、左に遠く木曾御岳や加賀の白山を望む景色も素敵だ。  いつかの夏は眼の悪い人と北ノ俣岳を往復して有峰に下ったが、松葉杖をついた兄を助けて、大きな荷を背負った弟が登って来て感動した。 [#改ページ]

78 |医王山《いおうぜん》    ベニバナイチヤクソウ  医王山とは薬師如来を本尊とするお寺の山号であるという。小松勤労者山岳会の機関誌に医王山の説明がのっていて、養老三年(七一九)に泰澄上人が開山し、真言宗の寺が四十余坊もあったという。  泰澄上人は加賀の白山を開山したひとである。『歴史の山100選』によれば、養老元年(七一七)に二人の弟子と一緒に白山に登って祈っていたら御前峰にイザナギ、大汝峰にオオナムチ、別山に大行事という三人の神が出現、これを白山三所権現としたとなっているけれど、これは時代的にちょっとどうかしらと思う。権現というのは仏が日本の神となって仮りに現われたという、平安時代初期の神仏混淆説によって生まれたものなので、多分あとからつけた話であろう。白山|比《ひめ》神社という神社を泰澄が開山し、医王山という寺も開山したということ自体が神仏混淆である。『続日本紀』に奈良時代にあって、新羅の僧尼を迎えたという記録があり、|石裂《おざく》山の勝道上人、長谷寺をつくった徳道上人、またこの泰澄上人はいずれも大陸渡来の僧で、その修行の場とした山に寺をたて、そこに神社をつけたのではないだろうか。泰澄上人がゆききしたという行基もまた大陸のひとである。  医王山とは山から薬草が多くとれたからここにたてた寺の名の山号となったのであろう。なお白山比神社は、平泉寺との結びつきが濃い。  この山のおもしろいのは、九三九メートルと低いけれど、古い火山地形の名残を示して、|鳶岩《とんびいわ》というスリル満点の岩場や三蛇ケ滝、大沼などの変化ある眺めと、つねに能登半島の浮かぶ日本海が見られることである。  ベニバナイチヤクソウ、オオイワウチワ、アカモノ、イワナシ、タケシマランの外、三十種以上の花を見かけ、山は低いのに一五〇〇メートル以上の山々にあるような花々が多いのは、日本海からの風に吹きさらされる豪雪地帯のせいかもしれない。冬季にはしばしば遭難者が出るから要注意とのこと。 [#改ページ]

79 |白山《はくさん》    モミジカラマツ・ハクサンチドリ・ハクサンコザクラ  つい最近の初夏のこと、飛騨の高山へゆき、位山という一五二九メートルの山に登る途中、高山市内から南西に向かって走る車が、高度をあげてゆくと、北の空に白々と雪をいただいた白山が見え、それは乗鞍の頂きから北に真っ正面に見えた。  加賀の白山は富山県や岐阜県にかけて連なる北アルプスの稜線からも初夏の六月、西の空に遠く雪をいただいた秀麗な頂きを見せている。  白山はしらやまともよぶ。平安の中頃から末期にかけて現れた「今様」をあつめた『梁塵秘抄』の中に白山がある。   |勝《すぐ》れて高き|山《せん》 大唐唐には五台|山《さん》   霊鷲山 日本国には|白山《しらやま》 天台山   音にのみ聞く蓬莱|山《さん》こそ高き|山《さん》  白山が日本一のすぐれて高い山だと言っている。日本一は富士山があるのだが東海道なので、関西のひとびとには馴染みがうすく、京の北からすぐ若狭に出て北陸道をゆけば、眼につくのは白山なのでその山を日本の代表的名山としたのかもしれない。  私が白山にあこがれたのは何といっても花の多い山としてである。ハクサンコザクラやハクサンボウフウの名をおぼえた時から白山の中でその花を見たいと思った。白山にはハクサンと名のつく植物が三十種類もあるとか。  もう二十年近い昔になる。いつもの山の仲間と金沢の婦人たちと合わせて三十人をこえる大部隊で、前夜は山麓の白山温泉に泊まり、早朝の四時から午後一時に室堂平の小屋に着くまで歩きに歩いた。  白山は、西に走って日本海に臨む|大山《だいせん》や|三瓶《さんべ》山などを噴出させた白山火山系に属し、一番高い御前峰は二七〇二メートルである。地図を見ながら果たして他のひとに迷惑かけずについていかれるかと心配した。足の二度の骨折手術のあと、有峰から太郎兵衛平に出て、北ノ俣岳から黒部五郎岳、|双六《すごろく》岳、弓折岳といって、鏡平から飛騨の高山に出る三泊四日の山旅をしているけれど、その日から白山までに五年たっていた。  しかし心配は無用であった。花が多くて、次は何があらわれるかと胸をはずませていたから。  まず白山温泉の宿の前のウバユリの大群落にびっくりした。軽井沢の千ケ滝あたりで見かけるものの二倍もの大きさと花の数をもっている。砂防新道はがらがら道であったけれど、はじめてここで見たタマガワホトトギスが珍しく、クルマユリやハクサンフウロの紅や朱赤がそのいろの鮮やかさで私をはげましてくれ、十二曲から五葉坂へかけての急坂は、タカネナデシコ、ハクサンチドリ、ハクサントリカブトになぐさめられ、ヘトヘトになって辿りついた室堂平はハクサンコザクラの大群落であった。  その夜は早くねて午前二時、ヘッドランプをつけて白山|比《ひめ》神社の奥宮まで、標高差三〇〇メートルの岩礫地帯を直登して、御前峰のかげから昇る太陽を待ったのだが、暁の空から星が消え、うす紅の絹のような霧が空から谷々にゆらめいて下りて来た、その美しさ。これも生まれてはじめて見た光景で、白山比とは、このあでやかにもたおやかな、乙女の舞衣にも似たこの霧からつけた名かと思ったほどである。  太陽が昇ってから、まだ雪を残している剣ケ峰の北麓の紺屋ケ池、油ケ池、血ノ池などをめぐって室堂の小屋について朝食、八時に出発して、大白川村まで二〇キロ近い道を七時間かけて下りたがここもモミジカラマツやハクサンコザクラ、ハクサンボウフウ、コバイケイソウ、イブキトラノオと次々にあらわれる花でひとりでに足が前に進んだ。白山のしらやまのしらは新羅だという説がある。韓国には白山という山が多いという。和光市の|白子《しらこ》は新羅。白鬚橋の白鬚は、武蔵の高麗郷に住みついた高麗工若光が白いひげを長くたらしていたところから若光をまつった神社だという。そういえばいつか見た白山山麓につたわる「綾子舞」の足拍子のとり方は、京都の|太秦《うずまさ》の広隆寺の、牛祭りの時のおどり子たちの足拍子と似ていた。広隆寺は大陸渡来の秦氏の氏寺である。   みやまからまつの新芽は淡く萌ゆる色     さざ波寒き池にそひゆく [#地付き]根屋幸子 

80 |笠《かさ》ケ|岳《たけ》    ミヤマダイコンソウ・シナノキンバイ・ヒメレンゲ  登りたい山は、ひとにすすめられるのと、自分であの山と思いこんだのとある。また、思いこんで登って期待の裏切られる山と、予想以上にすばらしい思いを心に残す山がある。そういう山は下りるとすぐにまわれ右して、また登りかえしたくなる。  二十代の半ばに赤城山にたった一人でうす紫のうすものの明石という絹の着物に、朱と銀のウロコ模様の綴れの帯、言わば歌舞伎座にそのまま直行できるような晴れ着姿で登った私は、赤城山を、明治神宮の外苑を散歩するような気らくな山と考えていたのである。そしてまたずい分な体力であったと思う。絹のクリーム色のパラソルをかざし、牛革の|草履《ぞうり》のままスタスタと登り、大沼でボートをこいでさして疲れもせずに下りて来たが、バスに乗って前橋駅に出るまで、遠ざかる赤城山を見ながら涙が溢れて来て困った。バスを下りて走りもどりたいようななつかしさであった。立山から上高地までの山旅で、双六から西鎌尾根は疲れはてて四つん這いになって、クマのような恰好で登ったのに、そのあと一ケ月して大腿骨の骨折をしてそのあと五、六年も山に登れなくなり、三年目ぐらいに蒲田川の谷まで車で来て、西鎌尾根を見上げた時も涙が溢れ出て岩峰が涙にぼやけてしまった。苦しかった山。それはまた、らくに登れた山と同じような魅力で私をとらえる。笠ケ岳は黒部五郎、双六の頂きから、西の空にぽつんと一つ、三角のかたちにそびえているのが何かさびしそうで、いつも山肌に手をふれたい思いをかきたてた。何度目かに槍に登って、槍平から新穂高温泉にむかって下って来たとき、夕映えを受けて、笠ケ岳から錫杖岳への岩稜が、ブナやダケカンバの木梢越しに朱赤にかがやきわたっているのを見た時、さびしいなんてとんでもないこと、笠ケ岳はみずみずしく若々しく、いのちの燃えたっているような山だと思った。  白馬の大雪渓から蓮華温泉に下り、二キロの増量を波乗りでおとして十日して、十数人の仲間と笠ケ岳を目ざした。神岡営林署や土岐市役所のひとが助っ人である。  いつか群馬の子持山で、遭難ではなくて、雨のため別の道を通って、帰りが五時間おくれたとき、テレビと新聞にニュースが出て、百通ほどの投書があり、七割は非難で「いい年をして山に登るよりお墓詣りしなさい」というのや「お伴をつれての登山などぜいたくだ」というのが多かったが、いつか北岳で友人がころんで|大樺《おおかんば》沢で暗くなって下りた時、広河原山荘の塩沢久仙氏が言ってくれた。「中高年者の登山は前に助っ人を用意しておくべきです。協力は惜しみません」と。私は娘時代をのぞいては、まだ単独行や助っ人なしの山登りをしたことがない。  さてその日はワサビ平から小池新道を経て鏡平で一泊。翌日は大ノマ乗越、秩父平、抜戸岳を経て肩の小屋に。雨と風の中ではあったが、合計十二時間かかって、これはコースタイムの二倍近い。穂苅貞雄氏の『播隆』によれば、美濃のひと円空上人は、元禄八年(一六九五)の六十四歳での死の直前に笠ケ岳に登っている。何時間かかったことであろう。私はそのとき七十代の半ばを過ぎていた。  小池新道は何度も通ったが、石の間にヒメレンゲが咲き、秩父平はミヤマダイコンソウやシナノキンバイの大群落でその花のじゅうたんにすわって一時間ぐらいねたかった。このお花畑ではつい最近のこと、クマが登山者と格闘している。登山者が勝って、クマは逃げたけれど、新聞の記事を読んだ時、自分だったらどうしたであろうと思った。稜線は風に吹かれっぱなしで、ハイマツの下にリンネソウの健気に咲いているのを見ながら元気を出した。  雨のために小屋に二泊。来年は文政年間に播隆上人が六十六人をつれて、道標として石仏を据えつけたというクリヤ谷を登ったらなどと小屋のひとにすすめられた。三日目に晴れて、笠新道の下りは七時間。コースタイムの一倍半ですみ、メノマンネングサやクロトウヒレンの花などを見て、蛇の二、三匹には出あったけれど、今夜は新穂高泊まり。また、明日登れたらよいのにと思いながら下った。 [#改ページ]

81 |弓張山地《ゆみはりさんち》    ミカワバイケイソウ・キリンソウ・チゴユリ  弓張山地、あるいは弓張山系、弓張山脈ともよばれるのは、赤石山系が、その南にゆるやかな準平原的地形をみせて、三河の国になだれ落ちている低い丘陵地である。その連なりのまん中のあたりに二等辺三角形の石巻山が見え、その南に|葦毛《いもう》湿原がある。  石巻山には石灰岩地特有の植生があり、葦毛湿原は東海の尾瀬ともよばれ、石巻山は豊橋駅から六キロ、葦毛湿原は五キロの近さにあって、貴重な自然を豊かに残していることで、豊橋自然歩道の一環として、豊橋市民全体に護られ、地元の豊岡中学の生徒たちがつねに清掃運動を受けもっている。  はじめて葦毛湿原を訪れたのは、この自然歩道もその一部を占める、古代の道の姫街道を走って|三《みつ》ケ|日《び》にゆく途中であった。三ケ日は考古学的にも太古の民の居住したあとを残して有名だが、この豊橋自然歩道のあたりにも古墳が多い。私は車を待たせて、湿原の木道の上を歩き、まだ六月で、湿原植物はようやく芽を出したばかりであったが、モチツツジやノイバラの花が咲き、その上に純白のカザグルマの花が盛り上がるように咲いているのを見て感動した。豊橋市から車で二十分とかからぬ場所にこんな素晴らしい野生の花たちがあるとは。ノハナショウブも真っさかりであった。その後、山仲間をつれて数度訪れ、一度は、この湿原の価値を世間に知らせ、この木道を設置するために山岳会や有志の協力を求め、私有地であった湿原を買い上げたりして、豊橋文化協会を中心とする大きな市民運動を起こす火つけ役になった植物学者の恒川敏雄氏の案内で、三時間近くかけて、丘陵地から湿原のすみずみまで歩くことができた。  この湿原は尾瀬のように長い年月かけての堆積物によるのではなくて、丘陵の扇状地の何ケ所かに湧水があるのが、岩盤が水を通さないために、絶えず水が流れている状態による。長い間空閑地となっていたのは、強酸性の土壌で作物をつくるのにふさわしくなかったからである。おかげで野生植物や生物の天国ともなり、七百五十種の植物と、トンボだけでも四十種、蝶は六十種が棲息しているという。  二〇〇〜三〇〇メートルの丘陵には、イヌツゲの原生林があり、アカガシ、ウラジロモミなどの照葉樹が北側の寒風を防いで、この山地から湿原に咲く花々は、春はショウジョウバカマ、カタクリ、ハルリンドウ、チゴユリ、キンランなど。初夏にかけては、カザグルマ、ミカワバイケイソウ、サワオグルマ、トキソウ、ササユリ、ハンカイソウ、ノハナショウブ、カキラン、コオニユリなど。夏から秋にかけてはシラタマホシクサ、サギソウ、ミズギク、ミミカキグサ、サワギキョウ、秋はサワヒヨドリ、ミカワシオガマ、ウメバチソウ、ヤマラッキョウなど。  湿原の高度は一〇〇メートルに満たないのに、一五〇〇メートル以上のような花々が咲くのは、かつて赤石山系が氷河に被われていた頃の名残ではないだろうか。ミカワバイケイソウと全く同じに、花穂が細長いバイケイソウを、私はヨーロッパアルプスの山麓地帯で見ている。  石巻山には豊橋市の教育委員会のひとびとや元豊岡中学、現在の牟呂中学の鈴木淳氏が案内してくれて、いつも電車の窓からでのみ見仰いでいた頂きまで登ることができた。遠くからはなだらかな山容と見えたが、頂上は鋭くとがった石灰岩の岩峰で神坐となっていたという。ツルデンダや、クモノスシダなどのシダ類やキリンソウ、イワシモツケなどの花々が咲き、珍しい陸貝も多いという。開発ブームでゴルフ場建設流行の世相に対し、全市一丸となって、弓張山系の自然保護に熱心な豊橋市は、やはり古墳が多いだけ、市民全体の文化度が高いのであろうと思った。  なお、弓張山地は幾つかの峠を持って、交通の要路になっているけれど、トラックがゆききする道端にジャケツイバラがいろ鮮やかに咲いていたりする。   谷よりの小綬鶏の声にさそはれて     下る山路にチゴユリの花 [#地付き]大島元子       西日本[近畿・中国・四国・九州]

82 |猿投山《さなげやま》    センボンヤリ  猿投山とはおもしろい名である。  猿投神社の祭神には景行天皇がふくまれていて、大和から伊勢に来て、連れてきた猿にケガレがあるからと海に投げたという伝承と、サは狭、ナギは谷の崩壊地形をあらわすという説がある。『日本国語大辞典』には「サナキ」は「鉄製の大きな鈴」とあり、それを銅鐸とすると、猿投山のある東三河は、古墳の多いところで、いずれにしても古代からひとが住みついていたのだと思う。  猿投山に案内してくれたのは、恵那山のときと同じ土岐市役所の金子政則さんや加藤精吾さんで、私が名古屋に用のあったとき、近くにある山として、又、古い伝説を持つ山として連れていってくれた。  名古屋を八時に出発してグリーンロードを左折、西回り自動車登山道で西の宮登山口まで一時間半、標高四〇〇メートルの地点から急勾配の木の段々を二百二十一段、石段を九十七段登って、垂仁天皇をまつるという西の宮の社殿の前に出る。そこから山頂に向かってゆく途中に、近代的な石段と鉄の門があって、説明板によれば、オオウスノミコトの廟とある。四十二歳で、この山中で毒蛇にかまれて死なれたという。  オオウスノミコトは、のちにヤマトタケルノミコトとよばれたオウスノミコトと双子の兄弟で、たしか『古事記』には、父の帝が召そうとした姫をうばい、怒った父君が弟のオウスノミコトに殺させたとしてあるが、伝承では、その姫と美濃の国にいったのだという。柿野温泉がその地と土岐のひとたちから聞かされ、オウスは兄君を殺したと父君に言って美濃へ逃したのであったかと思った。ヤマトタケルには、関東へ行った帰りに、伊吹山で毒蛇の害にあって死なれたという伝説があり、毒蛇とは異民族であろうと言われているが、兄弟が同じ運命で、ヤマト以外の地で死なれるのは、興味あることと思った。  墓所から東に向かって緩やかな傾斜の道を進む。道の右側は風化した黒雲母花崗岩が露呈していて、良質の陶土になるのだとか。猿投山の西に瀬戸市、北に土岐市、共に名陶の産地である。  一等三角点のある六二九メートルのピークについたのは十二時近く。中国地方の山々は、備前焼などのために山の木々が伐られつづけて来て、赤松やヤマツツジが目立つが、猿投山が低いのに深山の姿が保たれているのは、スギ、ヒノキ、シイ、カシなどの常緑樹が大木として茂りあう中に、ヤマザクラ、カツラ、ケヤキ、イヌブナなどの落葉樹がまた大樹となって、その混淆林は原生林かとも思われるような緑の深さを見せていることである。ミツバツツジ、アセビ、ツバキ、ドウダンツツジと花の咲く木々も多いので、眺めに変化がある。草の花ではツルニンジン、センボンヤリ、オカトラノオ、リンドウ、そして、これは三河の宮路山もそうだけれど、カンアオイが多い。武州御岳で見つけたサツキヒナノウスツボもあった。おもしろいのは、猿投山の南にある三河一の宮の|知立《ちりゆう》神社に、マムシよけのお札のあること。又、この神社は、ヤマトタケルノミコトが創建されたという。 [#改ページ]

83 |藤原岳《ふじわらだけ》    フクジュソウ・ヒロハアマナ・アワコバイモ・エンレイソウ  鈴鹿山麓には関所があった。名古屋から四日市を経て、鈴鹿峠に向かう手前の関町で、江戸へは百六里二丁、四三〇キロあまり、京へ七八キロ。古代にあって、この伊勢の国の関と、美濃の不破の関と、近江の逢坂の関が三関と言われ、中でも鈴鹿が一番山も深く、雨も多くて難渋したらしい。日本列島は伊勢湾と若狭湾でくびれて北東と西南にのびる。日本海の季節風は鈴鹿山地に吹きつけ、伊吹山にぶつかり、その麓の関ケ原にいち早い雪を運んでくる。鈴鹿も岐阜県と滋賀県との県境に連なる霊仙山の一〇八四メートル、滋賀県と三重県との境の|御池《おいけ》岳の一二四一メートル、藤原岳の一一六五メートル、御在所岳の一二一〇メートル、鎌ケ岳の一一五七メートルあたりの山々は十二月のはじめには頂きが雪に被われる。  これらの山々にはすべて登ったが、半分は雨か雪であった。鈴鹿の旅人は足許の悪さと横行する山賊に悩まされ『今昔物語』には、鈴鹿の山賊が蜂の大群に襲われて死んだ話も出ている。  しかし私は、新幹線が米原に近づく頃、左手の車窓に盛り上がる鈴鹿山塊を見ると、時間があれば下りて霊仙に御池に御在所にとゆきたくなる。一番もう一度、もう二度と思うのは藤原岳である。  霊仙には春のフクジュソウやカタクリの頃、夏のミヤマキケマンやイカリソウやヒロハコンロンソウの盛んな頃、また、晩秋の草紅葉の頃、新雪の枯れ草の頃、御池はヤマシャクヤクやエンゴサクの美しい初夏の頃に登ったが、藤原岳は二度も雨で山麓までいって引き返し、三度目にやっと成功。そして藤原岳の春の盛りほど、すばらしい山の花の大群にであったことはなかったと感激した。フクジュソウも山腹を埋めてびっしりと咲いている。  鈴鹿山地に花が多いのは、かつて日本列島が海中に沈んでいたことを示す、石灰岩が多いからだそうだが、そう言えば秩父もまたフクジュソウの野生地があり、セツブンソウもある。藤原岳にも早春の三月には咲くという。山腹の一方がずっとフクジュソウというのは、全く植えつけたように見えるのだが、麓の自然科学館の管理がゆきとどいて盗掘されないからだとのこと。かつて霊仙のフクジュソウは毎年京都御所に届けられたという。フクジュソウがすぎると赤い花のエンレイソウの群落となり、反対側の山腹はヒロハノアマナやヤマエンゴサクと、珍しくもアワコバイモの群生となっている。アワコバイモは、じつは『万葉集』の中で大伴家持が歌っている「カタカゴ」のことだとは故前川文夫氏の意見で、カタクリをカタカゴと言うのはまちがいであるという。アワコバイモの花の咲きかたは、いかにもうつむいたカゴのかたちであり、その根の鱗片も大きいから、澱粉を大量にとることができる。カタクリが現在も残り、アワコバイモが減少してしまったのは、食用に採取しつくされたからであろうと言う。  私がアワコバイモを見たのはこの山がはじめてで、あとは信州の一つの峠で見ている。  霊仙や御池や藤原岳の頂上は皆石灰岩が、白々と草の中に露呈し、根もとにはイチリンソウ、アズマイチゲなどのキンポウゲ科の花が勢揃いしている。  この鈴鹿山地は北方系や南方系の花が咲いて、その種類が多いと言われるが、御在所や鎌ケ岳の方になると花崗岩が母体となって、ドウダンツツジやモチツツジの木が目立ち、花はヒヨドリバナやタテヤマリンドウを見つけたぐらいであった。しかし御在所も鎌ケ岳もツツジの紅葉が松の緑に映えて美しい。藤原や御池の方はミズナラやブナが多く、コブシやヤマザクラが咲くので、春は新緑の芽ぶきとヤマザクラをたのしむことができる。ただ私が、鈴鹿山地でいつも警戒するのはマムシとヤマビルである。湿潤な谷が多いのでマムシの群生地ともなり、ヤマビルは大杉谷でも出あったことのないような大きいのが雨と共に降ってくる。関ケ原の戦いで敗れた島津軍は、鈴鹿山地をつっきって堺港から薩摩を目ざしたのだが、その逃走路は霊仙の西から鍋尻山の八三九メートルの東を五僧峠へと今も残り、いつか雨の五月に歩いたら、何匹も首筋に吸いつかれた。 [#改ページ]

84 |大杉谷《おおすぎだに》    イワチドリ・ササユリ  大杉谷へと心をそそられた私の好きな歌がある。娘時代に六、七年ほど、慶応義塾大学の十四番教室で、『源氏物語』の講義をうかがった折口信夫氏のもので、氏は釈迢空という名の歌人であった。   |葛《くず》の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 「海やまのあひだ」にあり、壱岐の島へゆくと、ここが、この歌がつくられた場所という、一つの丘がある。しかし、この歌は大杉谷を下られてのものではないかと、折口氏を師とする故山本健吉氏が書かれたのを読んで以来、自分の足で確かめたかった。  大杉谷は、奈良県と三重県の境の大台ケ原の日出ケ岳一六九五メートルから、北東に三重県の宮川ダムのほとりの八〇〇メートルぐらいのところまで、渓流沿いに下る。昔はひどい難所だったらしいが、今はよく整備されたという。  東京から名張に出て、|橿原《かしはら》から津風呂ダムのほとりを過ぎて、一六九号線の|伯母《おば》峰峠から大台ケ原ドライブウエイで、準平原のひろい台地上にたてられた宿の前に着いたのは十年前の夏である。谷を下るのは翌朝なので、その日はハリモミやイチイやトウヒなどが茂りあう原生林を散歩したり、ここが修験道の山であることを示す|大蛇《だいじやぐら》の岩壁の上にたって「のぞき」をやってみたりした。  じつは山の集まりのひとたちが前年の夏に下っていて、その旅には私もいったのだけれど、体調が悪く、とても二〇キロ以上の山道を下る自信がなかった。私は歩く気がしない時は簡単にまた今度とあきらめてしまう。そして今度はバスに乗っているうちから雨であったけれど、何が降ってもゆくと勇みたっていた。さて朝の六時に出発。前年に来た時に、日出ケ岳のツクシシャクナゲは満開だったが、この年は咲かず、シャクナゲ平までの四〇〇メートルの急な下りは、両側全部シャクナゲなのに花は少なくて、シロヤシオの花が咲き残っていた。堂倉滝を過ぎ、午前十時に光滝の前で休んでいると、登ってくる高校生と先生の五、六人がいて、昨夜は桃ノ木小屋に泊まり、出発して三時間という。その速い足どりを見送りながら、はっと気づいた。折口先生は中学生の教え子をつれての旅であったから、あの速さで下から来られ、大台ケ原上でキャンプして歩いて伯母谷に出られたのではないか。そして柿本人麻呂の歌に出てくる|莵田野《うたの》に出られたのではないか。  あのあたりはクズが茂っている。莵田野の「森野薬草園」では、昔から葛粉を生産しているなどと思いながら、桃ノ木小屋まで、次々と現れて谷をどよもす滝の轟音に導かれるようにして、小さな起伏をくりかえす急崖沿いの道には、まずツツジ科の花々が美しかった。サラサドウダン、アカヤシオ、アケボノツツジ、モチツツジなど。ササユリが香り、サワギクが群れ、崖にはイワナンテン、イワギボウシ。そして、崖の下の湿った土にはじめて見たイナモリソウのうす紅。藤原岳で見たヤマトグサもあった。小屋まであと一時間というとき、まっ黒なヘビが横切ってぎょっとした。しかしそれはまだ序の口で、私は生まれてはじめてサンショウウオの子供らしいのが、崖の下の水たまりからヨタヨタと道を横切って、渓流にずるずると入ってゆくのを見た。四本脚で一五センチの長さ。いろは黒褐色。さいごに悲鳴をあげたのがヒル。崖のイワチドリに近よってみていたら、山靴と靴下の間が五センチほど、足が出ていて何か異物がいる感じ。見ると三センチほどのうす紅のヒル。あっと、つまんで捨てながら山靴を中心に、二十匹ほど、首をそりかえらした形のヒルが、ぬれた道を這って私におしよせる体勢をとっているのを見た。ぞっとした。  桃ノ木小屋についてその話をすると、仲間が急に足をかき出した。あくる日も雨。宮川ダムのそばでバスに乗るとき、靴下やズボンをよく見てと二十人あまりの仲間に言い、皆、外に出てしらべたら、牛乳瓶に八分目ほどのヒルが集まり、大杉谷はやっぱり秘境ねと、一同溜息をついたのである。そしてクズはどこにも見当たらなかった。 [#改ページ]

85 |熊野路《くまのじ》    センブリ 「この道はいつか来た道」という歌がある。私には「この道はまた来たい道」というのがあり、古熊野路はその一つである。古熊野路を那智滝から山路に入り、船見峠、色川辻、石倉峠、越前峠と歩いて小口に下りたのは十年以上前のことである。新宮山の会の『南紀の山と谷』によれば、このコースタイムは六時間三十分。歩程は約二〇キロ。この道は熊野三山詣での旧道で、大雲取越という。  小口は熊野川の支流に面したところで、川を渡ったひとたちは、対岸の小和瀬から中辺路へと小雲取越をして、如法山から請川に出る。このコースタイムは約三時間三十分。歩程約一七キロ。請川は新宮川(十津川)に面していて、四キロ近く歩くと、本宮に着く。数年前に、請川の方から歩いて小和瀬についた。大雲取越は夏の七月、春の四月、どちらもヘビに出あうことの多い山歩きで、大雲取越は八時間かかり、小雲取越は五時間かかった。  熊野三山は、三熊野ともいう。本宮は、|熊野坐《くまのにます》神社。新宮は熊野速玉神社、もう一つは、那智滝自身が御神体となっている熊野|夫須美《ふすみ》神社。いずれもその神のいる場所は、川の中洲であり、海の浜辺であり、滝であって、熊野信仰とはもっとも原始的な大自然信仰がもとになっているように私は思う。  京都から二〇〇キロの道を、平安末期の、貴族政治が、武家の勢力に脅かされるようになった頃、白河法皇も鳥羽上皇も三十回前後をせっせと通って来られた。私が思うのに、熊野の雄大豪壮な大自然にふれて、その生命の躍動する息吹を吸収したかったのではないだろうか。  私は熊野路の山々が一〇〇〇メートル以下でありながら、断層やら、隆起やらと複雑な地理的条件によって谷が複雑にきざまれ、大勢のひとが歩くにふさわしく、まき道がゆるやかにつけられているため、無限に魅力ある山路がたのしめ、多くの花に出あうことができるのがうれしい。センブリ、コケリンドウ、ナツエビネなど。アサマリンドウらしい葉も見かけた。 [#改ページ]

86 |冷水山《ひやみずやま》    イワナンテン  |果無《はてなし》山脈は、奈良県と和歌山県の東西の県境となり、北に上湯川が、南に東の川、広見川が流れ、上湯川は平谷で十津川に注ぎ、平谷の対岸に玉置山の一〇七六メートルがある。老杉茂りあう中に、立派な神社があり、熊野三山の奥社と言われていて、裏の頂上にシャクナゲの群落がある。『太平記』に奈良から熊野三山を目指した大塔宮が、熊野は北条方と知って十津川に向かわれた時越えられた三十余里、一二〇キロの、人里とてなく、山に伏し、岩に枕して、深い谷、切りたつ崖の路をゆかれたというのは、私がつい最近、田辺から新宮山岳会の玉岡憲明さんの車で果無にむかった路ではなかったろうか。富田川のながれをさかのぼり、滝尻王子で熊野道を右に、左の|賽《さい》の目林道に入ると、右に左に、堆積岩の層の褶曲したかたちの急崖が、今にも崩れそうな危うさで迫ってくる。深い水のいろをたたえた渓流が谷底に白く泡だって流れている。急崖にはイワナンテンがいっぱいある。安堵山の一一八四メートルと冷水山の鞍部について、安堵という山名は大塔宮がここまでくれば大丈夫と安心されたからという。実際に十津川村にゆくためには、最高峰の冷水山より東にブナノ平の一一二一メートルを下って、果無越の道をとおるのだが、とにかくあとは稜線伝いなので、宮も安心されたのであろう。じつはあとで玉置山には玉置庄司という北条方の豪族のいることを知るのだが。  さて、その名にあこがれて私の歩いた尾根道は、葉の落ちつくしたシャラの木やリョウブの原生林で、初冬の陽に映えて、その樹肌のくすんだ朱赤が美しく、ところどころにブナの大木があって、その実がいっぱい落ちていた。コウヤボウキもミヤマアキノキリンソウも花がらとなり、冷水山の手前の一二三五メートルのピークあたりから残雪が多くなった。キツネの足あとが点々とついて、十津川村の方に下りている。大塔宮の頃はツキノワグマも、もしかしてオオカミもいたのではなかったか。冷水山頂からの眺めは熊野路の重なりあった山々が、一幅の日本画のように雲に浮かんで素晴らしかった。 [#改ページ]

87 |伊吹山《いぶきさん》    イブキジャコウソウ  伊吹山の一三七七メートルは、関ケ原の真上に、巨大なケモノのようにうずくまっている。伊吹山に眺めいった視線を左に放てば、琵琶湖の水面が光り、比良山地から比叡の山々が屏風のように連なっている。十五歳の関西への修学旅行の時から、東海道線で仰ぐべきは富士山と伊吹山ときめていた。ヤマトタケルノミコトという悲劇の皇子がここで、多分まつろわぬ民と思うひとたちに敗れて、三重の|能褒野《のぼの》まで来て、からだが三重に曲って歩けなくなり、哀切な歌を歌って亡くなる。   |倭《やまと》は 国のまほろば たたなづく 青垣   山|隠《ごも》れる倭しうるはし   命の |全《また》けむ人は |畳薦《たたみこも》 |平群《へぐり》の山の   |熊白檮《くまかし》が葉を |髻華《うず》に挿せ その子  伊勢から大和までは、九州より東国よりずっと近いのに、山々の間を抜けていけば、三日もあればゆけるのに力尽きて倒れ、御陵から白鳥の姿になって天駆けていった皇子。『古事記』の中にこんなロマンティックな死を迎えたひとはいない。しかし民俗学者の谷川健一氏は、ミコトの東征というのは、鉱山さがしの旅で、鉱毒を含んだ水を飲んで水俣病になってなくなられたのだとその著の『青銅の神の足跡』に書かれ、私もその説に賛成している。ミコト伝説を持つ東国の山々は、じつに必ずといっていいほど、その近くに鉱山のあとがある。私は自分で登った両神山、上州|武尊《ほたか》、黒川鶏冠山、|八溝《やみぞ》山、足柄山、武甲山、武州御嶽でそれをたしかめたから。そして今、伊吹山といえば私にはイブキジャコウソウのふるさととなった。はじめて出あったのはどこの山であったか。北アルプス。浅間の高峰山。シソ科の野生の花の中で一番の華麗さである。香りもよい。  もう二十年近い昔になったが、丈余の雪の中に、ようやくバス一台分だけ道を開けた五月の伊吹山の頂上に立って、ヤマトタケルの石像に敬意を表し、足許の石炭岩の中にウミユリの化石をさがし、頂きの花は、咲き初めたイブキジャコウソウがじゅうたんのようにいっぱいなのをよろこんだのである。 [#改ページ]

88 |小谷山《おだにさん》    イチヤクソウ  小谷山は琵琶湖の北に四九四・四メートルの高さを持ち、脇北国往還をはさんで、虎御前山の二二四メートルと一キロ未満の距離で向かいあっている。  天正元年(一五七三)八月、城主の浅井長政は妻のお市の兄である織田信長の家来である羽柴秀吉軍に攻めたてられ、内部の裏切りによって落城。父の久政の切腹につづいて、二十九歳の若さで切腹、事前にお市を三人の娘と共に敵方にわたした。  はじめてこの城址の山に登ったのは二十年前の早春であった。山腹の三〇〇メートルぐらいにある番所あとまで車が入り、マンサクの花が咲いて、まだ木々の芽が固かった。お茶屋跡から桜馬場へと登ってゆく途中に、首据石などと裏切った家来の首をおいたという不気味な石がある。桜馬場のまわりにサクラの大木がたくさんあり、同行の郷土史家伏木貞三氏が青い萼に白い花の咲くヤマザクラだという。花が咲いたら教えて下さい、飛んで来ますとたのんだ。伏木さんは浅井長政の子孫とのことで、小谷山麓の小谷寺に、淀殿となった長女のお茶々が奉納したという、長政像そっくりの温厚な方である。  お市が娘たちといたお局屋敷は本丸址の下にあり、カエデの木がいっぱいある。本丸、中ノ丸へと登る石垣までの空地には、花盛りのヤブツバキとカエデのいずれも大木があり、伏木さんの話では、五、六年前に整備されるまでは草ぼうぼうで、これらの木々は自然に生えたものだとか。イチヤクソウの青い葉が点々とあって、だれもとらないのは、麓のひとたちがこの山を大事にしているからとのことであった。桜馬場から右に下ると、長政が切腹した赤尾屋敷址があり、タチツボスミレのうす紫が地表を埋めていた。  青白い花のヤマザクラが咲いたという知らせに、また登ったのは次の年である。北の鞍部から頂上の大嶽に登ったのは数年前だが、越前みちと矢じるしされた鞍部はイワウチワの大群落なのであった。朝倉勢はここを通って救援に来たのかと感慨無量で、道も埋めて咲くうす紅の花を眺めた。 [#改ページ]

89 |大江山《おおえやま》    オオバギボウシ  宮福線の大江山口内宮駅の前には、鬼瓦をあしらった低い柱が、装飾的に林立していて、駅舎もなかなかスマートな設計である。案内役の杉山策二、佳子夫妻と、植物学者の赤松氏に迎えられ、三度目の大江ゆきを果たしたのは、つい最近の十月半ばであった。始めは十年以上も前で着物であったので、宮津から福知山へゆくバス道を普甲峠で下り、眼の前にひろがる宮津湾と天橋立の眺めを、やっぱり絶景だなあと感心しながら、東に六〇〇メートル歩いて、比叡山を焼いたあとで、織田信長が比叡山の僧をかくまったとして焼いてしまった普甲寺あとにいった。寺屋敷とよばれて五、六軒の民家があり、再建された普賢堂の前に、空しく草に埋もれた礎石が残っていた。  大江町へと下る道の流れのそばに鬼ケ茶屋というのがあって、童話的な鬼退治の描かれた大|襖《ふすま》がある。源頼光が討伐したのは、鬼ではなくて、藤原氏に反抗して貢物などをうばった一味だという説があり、その方が真実味があるようだ。その屋敷あとや鬼の岩屋や昔の参勤交替のときの石畳の道などもぐるっと一まわりして見た。二度目は初夏で山姿となり、鬼の岩屋の先の鬼嶽稲荷から、千丈ケ岳の八三二・八メートルに立ち、北西の加悦町まで一〇キロ近く歩いた。トチやブナの新緑が美しい千丈ケ岳の北の山腹にオオバギボウシの大群落を見、大分下りて植林地帯に入って、下草にシライトソウの群落を見た。今度は稲荷まで車が入り、千丈ケ岳への道の両側の小灌木は、淡黄の花が春を告げるヒュウガミズキと赤松氏に教わり、この山は北方系、南方系の植物があるのだと知った。頂上の草原にはまだカワラナデシコの赤、シラネニンジンの白、コウゾリナの黄が咲き残り、大江山は鬼の山より、花の山と思った。紅黄葉したブナやカエデの下を稲荷まで下ってくると、南にひろがる丹波路の山々が、雲海の中に濃紺の山なみを浮かべ、大江山は雲も美しいと思った。   雲の峰に|肘《ひじ》する|酒呑童子《しゆてんどうじ》かな [#地付き]与謝蕪村 

90 |船上山《せんじようせん》    シラヒゲソウ  名和長年の弟の長重は、頼って来られた後醍醐天皇を背に負うや、鳥が飛ぶように船上山までおつれしたと『太平記』に書いてある。長重は、西の|御来屋《みくりや》から|鍔抜《つばぬき》山の七〇五メートルに至る谷を一六キロほど登り、左折して船上山にいったが、都に戻られるときは、もっと東の勝田川に沿う谷を下られたという。  私が数年前の初夏に登ったのは、赤碕から一六キロの勝田川の谷の道で、天皇が休憩されたという池田家の、茅葺き入り母屋造りの表門の前を通った。|大山《だいせん》の火山活動によるカルデラ地形の外輪山とも言われていて、谷に入ると前方に、山の西側に連なる絶壁が見える。見るからに要害堅固な山城といった感じである。山頂付近にも水が湧くという。勝田川の流れも渓流のように澄んで激しく流れ、右折して私が登った頃は工事中であった。大山広域農林道に入る先に滝があった。途中にも湧水があり、ぬれた石の間にチャルメルソウやシラヒゲソウが咲いていた。工事中の急坂の道を歩いて登り、左折して、更に急坂の一方がアカマツ、コナラ、一方が草原の道を、行在所あとの六一六メートルまでゆく。  ササユリやキキョウの花芽がふくらみ、ヨツバヒヨドリが多い。花の終わったコケリンドウも眼につく。キキョウなどが咲く山には滅多にあえないので、史跡として地許のひとからこの山の花たちが守られているのであろうと思った。センブリもあった。  行幸碑の裏側に、のぞきと名づけられた、急崖がつき出たところがあり、この山が大山と同じくかつて修験道でさかえたことを知らせる。  草原の東側にはカエデやブナの林があり、船上山合戦によるものか、林床の笹の中に、数十基に及ぶ五輪塔が、倒れたり、かしいだりしている。鎌倉初期から南北朝時代のものが多いという。天皇が都に戻られた頃は春の四月。山にはカタクリも咲き、渓流沿いにはネコノメソウ、ニリンソウ、イチリンソウも咲いて、天皇をお見送りしたであろうと思った。 [#改ページ]

91 |氷《ひよう》ノ|山《せん》    シロバナエンレイソウ  戦中、戦後の数年間は、夫の両親の故郷の、鳥取市に住んだ。池田藩三十二万石の城下町は、まだ江戸時代の面影を残していて、人口五万の町の真うしろにある城あとの山の久松山に登ると、眼下にくろぐろとした瓦の家並みが連なり、町の南を氷ノ山|後山那岐山《うしろやまなぎせん》国定公園に属する山々の水を集める千代川が、川口に広大な砂丘をつくって日本海に流入するのが見え、西に|伯耆《ほうき》|大山《だいせん》、南東に氷ノ山、|扇《おうぎ》ノ|山《せん》を望むことが出来た。  東京生まれ、東京育ちの私は東京が恋しく、あの氷ノ山、扇ノ山の向こうに東京があると、いつもその重なりあう紺青の山なみのあなたに、遠く眼を放ってなつかしんだ。  那岐山は鳥取県と岡山県の南の県境にあって一二四〇メートル。北の山腹にシャクナゲの群落があって有名だが、レンゲツツジが南の山腹をいろどる頃に、奈義町の役場のひとびとと、支峰の大神岩の一〇〇〇メートルまで登った。  兵庫県との東の境にある氷ノ山の一五一〇メートルには、つい最近の晩秋に、松葉ガニで名高い浜坂町の「加藤文太郎を語る会」のひとたちに案内されて登った。大江山に登ったあくる日である。  浜坂は海岸線が美しく、町の中に温泉が湧くという素敵な町だが、その網元の家に、明治三十八年(一九〇五)生まれた加藤文太郎の名で忘れ難い。その著の『単独行』は、「足が早すぎて、ほかのひとに気を使わせるから、さびしいけれど独りで歩く」と言った、加藤文太郎の心やさしさに溢れた山行の記録で、その健脚は、浜坂と勤め先の神戸の現在の三菱造船との間の一九〇キロを、一昼夜で歩き通し、三俣蓮華から槍から、|徳本《とくごう》峠越えをして松本までを、一日で歩いたというほどであった。七〇キロは超える。  加藤文太郎は、昭和五年の一月の剣沢の小屋で、東大のOBたちに宿泊をことわられ、一人で下山して来て雪崩にあわずにすんだ。  しかし昭和十一年一月、友と二人で登った槍の北鎌尾根で、猛吹雪にあって死ぬのである。友の名は吉田富久。二十七歳。文太郎は三十一歳であった。  氷ノ山から扇ノ山への単独縦走でも、吹雪にあって死にそうになって涙をこぼしたと『単独行』にある。氷ノ山は浜坂から近く、その北東の鉢伏山と共に、文太郎の庭のような山であったという。「加藤文太郎を語る会」は、文太郎の篤実な人柄を追慕し、その強靭な意志と勇気と体力を岳人の模範として仰ぐ会である。冬のマッキンレーに消えた植村直己は隣町の香住のひとで、文太郎の崇拝者であったという。  さて、鳥取市には十二月のはじめに雪が降る。しかし久松山の頂きから見る大山も氷ノ山ももう十一月は白雪にかがやく。私の登った日も、前々日の雪が|関宮《せきのみや》町福定から大段ケ|平《なる》までの林道に残り、道はぬかるみとなり、凍てついた雪はアイスバーンになっていた。  扇ノ山と共に、海底火山の隆起したものという氷ノ山はスキー場としても有名で、十二月にもなれば、スキー客で賑わうのであろうが、この日の登山者は私たちだけで、背丈を超える熊笹藪の中の道を、標高差五〇〇メートルほど、三時間かかって頂上のロッジに着いた。途中にはブナ林と、野生だという杉の大木の茂みがあり、ツルリンドウの赤い実が、雪の中から顔を出し、|古生《こせ》沼という湿原は水も|涸《か》れて、ミヤマアキノキリンソウやゴマナの花がら、シロバナエンレイソウやミヤマハンショウヅルの枯れ葉が目立つ。  鉢伏山は、頂上から走り下りてでもゆきたいような間近さで、加藤文太郎をしのぶためには、ぜひ今度は鉢伏から氷ノ山にと思ったことであった。その高原は植生のゆたかさでも知られている。エンレイソウの花は白かえんじか。北海道の室蘭山や早池峰ではえんじの花であった。ハンショウヅルはカザグルマと共に、野生のツル科の花でもっとも美しいが、カナディアンロッキーにいったとき、民家の垣根に、うす紫でなく、黄いろのがあった。 [#改ページ]

92 |伯耆《ほうき》|大山《だいせん》    コケモモ  伯耆富士の大山は、中国地方で一番高くて一七二九メートル。利尻富士の利尻山より一〇メートル高い。しかし日本海の渚からすぐ起ち上がっているので、登るのは利尻と同じように、昔はなかなか手強かったらしい。奈良時代から修験道の中心地となっていたが、戸隠と同じように、明治の愚挙、|廃仏毀釈《はいぶつきしやく》で多くの坊が失われた。その頂きには晩秋の頃から新雪が降り、加賀の白山に似て、遠くからその雪にかがやく頂きが見え、花の多いところもよく似ている。  戦時中は鳥取市に疎開して、植物学者の故生駒義博氏と知りあえたのは仕合わせであった。氏は大山に五百回も登って、その特有種を発表し、いろいろと大山で見るべき植物を教えてくれた。  戦後になって六〇〇から八〇〇メートルくらいの間を通してスカイラインが出来、それを利用して『大山の花』の著書の伊田弘実さんと夏道登山道をゆくことにしたが、泊まったのは志賀直哉が『暗夜行路』を書いたといわれる蓮浄院である。その脇から山に入るとすぐブナの純林になる。九月であったが、やや黄ばみはじめた葉にブナの幹肌の白々としたのが美しかった。伐採されなければよいなあと見上げた。登山道のブナが伐採されたあとを歩いた山に早池峰、|茅《かや》ケ岳などがある。ブナが美しいと思ったのは北海道では余市岳、東北では山形の葉山で、関東では|武尊《ほたか》山である。ヨーロッパではウィーンの森。三十年前に歩いた時は細い木ばかりで、そのとき案内してくれたウィーンのひとが言った。戦時中に燃料に伐ってしまったので、元の通りに植えました。最近同じ道を歩いたら、ブナは大木になっていた。日本とは大分ちがうと羨ましかった。  さて、この時の大山で見たのは、頂上近い崩壊地形に茂る北方植物としての南限のダイセンキャラボクの緑の群落である。生駒氏がその場所を地図にしるしてくれていた。ダイセンヒョウタンボクは赤い実をつけ、岩場に多いというダイセンヤナギは見つからなかった。芽ぶきの頃は銀いろの花芽が目立つのでわかりいいという。日本海の風をまともに受けるわりにはまだ花が残っていて、ダイセンオトギリやダイセンコゴメグサが石の間に少しずつ顔を出し、四時間かかって辿りついた外輪山の|弥山《みせん》の頂上の石室の南向きの壁の下には、シオガマギクが赤紫に咲いていた。ここから剣ケ峰の一七二九メートルまでは、全くのやせ尾根で、狭い靴幅一つくらいの道がつづく。五、六歩に飛んでゆくと、中継点のような岩塊とぶつかる、私はそういうところがおもしろくて、飛び飛びしていったが、飛ぶのがこわいと泣いている若い娘もいた。岩塊の草むらにコケモモが赤い実をつけていた。  大山は花が多いと溜息をつかんばかりに思ったのは夏の七月である。  西麓の|桝水《ますみず》高原の国民宿舎に泊まって、その前にひろがる|桝水原《ますみずはら》を歩き、正面登山道を途中まで登ったが、湿原にはノハナショウブの紫、チャボゼキショウの白、ミズギボウシのうす紫、ヌマトラノオの白に、オニユリの強烈な朱赤といろとりどりであった。山道は岩礫がごろごろして歩きにくいことおびただしいが、斜面にはシモツケソウのうす紅、ソバナの紫、ホタルブクロのうす紅が、海風にゆれて疲れを一ぺんに吸いとってくれるようであった。  そして、大山をもっとも美しいと思ったのは、数年前の十月、山頂から崩壊地が一直線にスカイラインまでなだれおちている、零ノ沢から登って、土砂止めの柵の間を右にゆき左にゆき、一歩足をすべらせれば一巻の終わりというような危険な道を、沢の両端の黄紅葉した木々に見まもられながら登っていった時である。崩壊地の砂礫の白に映えるブナやカエデの葉を逆光線で見上げながら登った。ハウチワカエデ、イタヤカエデ、イロハモミジにまじってカツラやヒメシャラの黄葉もある。利尻山の一七一九メートルは緯度が北なので、針葉樹の方がずっと多かったと思う。ふと、今空を飛んでいって両方の山の秋のいろが見たくなった。   急登の息や苔桃露光り [#地付き]鷲崎ヨウ子 

93 |道後山《どうごやま》    アケボノソウ 「山高きが故に尊からず」という言葉は、道後山の一二六九メートルのためにあるような気がした。一等三角点のあるその頂きに立つと、北に|伯耆《ほうき》|大山《だいせん》がうつ然と盛り上がり、胸にこたえる重量感だ。鹿島槍南峰から、立山や剣岳を見た時とあまり変わらない。岩峰の並んだ立山連峰より、大山南面の遠くから見ても急傾斜のガレ場とわかる崩壊地形が、青ずんだ白さで午後の陽射しにむき出しに浮かび上がっているところなど、冥府の山かと思われるような凄味があった。西には、|烏帽子《えぼし》、立烏帽子などの山名を持つ尖った頂きを持つ山々が連なり、南には猫山の何か生きものがうずくまったような姿が見える。  道後山には花が多いとだけ聞いてあこがれ、その日は広島から国道五四号線で、五二キロ、|三次《みよし》まで来て、なお六〇キロを、山麓までカトリック教会の神父さまたちによって車で運ばれ、駐車場となる草地が一面のミヤマダイコンソウの黄で被われているのに感激し、登山路にかかって、両側のコナラやミズナラの新緑の林の下草に、アカモノやアケボノソウの咲いているのを見つけた。  頂上にむかっては、花崗閃緑岩や斑れい岩などの露岩が交じりあう岩場となったが、レンゲツツジが岩の間を埋めていて、あと一ケ月もしたら花の盛りがみごとだろうと思った。  頂上から北に下ると、見わたす限りの平坦地でおもしろいことに、人間一人でかかえられそうもない重い岩を積み重ねたのが、山頂の平地の東側のはじからはじまでつくられている。県境にしてはものものしく、このあたりは早くから大陸の民が入っていたから、山城のあとかと思うが、それにしてはちょっと低い。牛の放牧地なので、柵代わりかと思ったがこれだけの石をここまで運ぶのはどんな方法によったのか、山頂の岩をくずしたのか、などと思った。戦国時代は尼子氏や毛利氏がうばいあったところである。そして、この広い平坦地は、ところどころオオバキスミレの群落に被われていた。 [#改ページ]

94 |比婆山《ひばやま》    ショウジョウバカマ  比婆山は、|道後山《どうごやま》、|帝釈《たいしやく》峡を合わせて、国定公園となっている。奥多摩や秩父のあらあらしい壮年期の谷や、植林による針葉樹の緑を見馴れた眼に、これらの準平原的な草地の多い山々や、浸蝕された石灰岩の露呈した|渓《たに》の眺めは何か物語めいてたのしい。帝釈峡には大猿が出没したとか。比婆山には歴史的な興味がある。道後山の次は比婆山にとあこがれ、願いを果たせたのは数年前の晩秋である。  立山から上高地の山歩き以来の環境庁の沢田栄介さんに案内され、倉敷から入って、吾妻山国民休暇村に泊まった。支配人がワニを食べさせるというのでぞっとしたら、これは『古事記』の大国主と|因幡《いなば》の|素兎《しろうさぎ》の話に出てくるワニ。|鱶《ふか》のことであった。マグロのトロそっくりの味。あくる朝は八時出発。吾妻山の一二四〇メートルにむかって、湧水のある草原がひろがり、十一月なのにまだカワラナデシコもマツムシソウも咲いて、ヤマラッキョウの紫の花がいっぱいあった。春から初夏にかけてはアヤメもササユリも咲くという。レンゲツツジも咲くという。  草紅葉も美しいが、足許一面の草原の緑の中に咲き盛る花々をみたいと思った。  比婆山も、一二四〇メートル。天然記念物のブナの純林の中に、ツガやイチイの大木にかこまれて、イザナミの陵だという古墳がある。その伝承のためにこの山地の自然が原始の姿を保っているのではないかと思った。ツキノワグマも出るという。ブナの実はクマの大好物である。  立烏帽子の一二七九メートルに向かう道は針葉樹が多く、ショウジョウバカマが点々とあり、谷をめぐる道は熊野路の雰囲気と似ている。  いつか滋賀県の湖北町のひとたち大勢と小谷山に、歩いて下から登ったとき、高天ケ原は近江にあり、イザナミはイザナギの皇后で、その陵は彦根市|男鬼《おうり》町のヒバケ谷にあると、同行の中村英男氏からうかがった。今度は、やはり原生林の中にあるという、その陵にいってみたいと思っている。 [#改ページ]

95 |石鎚山《いしづちさん》    キレンゲショウマ・フガクスズムシソウ  そんなにたくさんの山に登っていて、さぞ霊能力がついたでしょうと、日蓮宗の一人の坊さんから、真顔で言われたことがある。秋田書店の『歴史の山100選』は、ほとんど、修験道の山を集めているが、登らないのが十三山だけ。  何の霊力もつかないけれど、明日登る山を、前夜に夢を見て、夢と実際とそっくりという例が幾つかある。新潟の|五頭《ごず》山、四国の石鎚山、鹿児島の高千穂など。石鎚山は、三回登り、一度は雨でスカイラインが崩れて、|面河《おもご》渓谷の国民宿舎の八〇〇メートル地点から、面河川に沿って歩き、途中から昔ながらの石段を二十幾つか登って、雨と霧の中を尾根道に出た。  愛媛大学の小屋のところにチシマザクラの咲いているのを見て私は戻ったが、健脚組は頂上まで。その道は右も左も急勾配の山腹で、雨と霧で、視界は三、四〇メートルぐらい。深い谷の底も、晴れていれば見えるはずの石鎚山の山頂も何も見えず、右手の急崖からは何本も小さな流れが滝となって激しい勢いで流れ落ちて来て、ちょっとおそろしい。その下をくぐり抜けたり、まともに滝を浴びたりで、闘志衰え、頂上はまた今度とあきらめてしまった。谷から吹きあげる風も強く、一人の仲間は傘をさしたまま、ふわっと五メートルほど下の山腹に飛ばされ、太い木の枝に引っかかって這い登ってくるという危うさ。この時の同行は、植物学者の山本四郎氏と神野一郎氏で、紅葉河原ではオモゴウテンナンショウ、ミズタビラコ、ヒカゲツツジ、アケボノツツジなどを教えてもらったが、尾根道では歩くのが精一ぱいであった。足弱組だけで宿舎に戻る途中の川に面した崖に、白いヤマシャクヤクの大群落を見て、こんなのははじめてと思った。頂上についたひとたちが息をはずませて四国第一の高峰石鎚山に登れたよろこびを語るのを聞き、今度こそと二回目は神野夫婦と新居浜から北の登山口の成就社までケーブルを利用したが、三十分ほど歩いて、これもダウン。数日前からの風邪で、抗生物質を飲みすぎて全身がだるい。  そして三回目の夏、スカイラインがなおって、一四九〇メートル地点の土小屋に泊まった。隣の石小屋泊まりの山本氏と神野氏が朝五時に入って来て登りますかという。またもや夜半から台風の前ぶれの通過とかで、激しい吹き降りである。きれぎれの夢に、石鎚神社の真下に太い鎖が出ていてそこへつかまって登る自分の姿を見ていた。ゆきますと答えた。土小屋を出るととたんに強風で吹きとばされそうになり、この智、仁、勇の、三つの神を祭るという山は、長い間修験者だけが登り、今なお、毎年の祭りにはじめの三日間は女人禁制だというから、花が見たいというだけで、敬神の念などない私などは、山の神が近づけてくれないのかもしれないなどと思いつつ、一方でどうしても四つん這いになっても、今日は登ると覚悟をきめた。あと二年で七十歳になる年である。  だんだん明るくなって雨は小止みになり、風だけ強くて、山小屋で買ったビニールの雨衣がずたずたになった。それでも二人の植物学者と同行の山はすばらしく、シラベの南限のシコクシラベの大樹を見上げ、コガクウツギやガクウツギの枝もたわわに咲くのを眺め、はじめて見るキレンゲショウマやミソガワソウの花に歓声をあげた。神野氏がシラベの幹に咲くフガクスズムシソウを見つけたという。望遠鏡をかりて見たが、雨にくもって何やらぽつんと見えるだけ。  コースタイム二時間を三時間半かけてやっと神社の石垣の下の小屋に到着してアメ湯一ぱい。元気が出て神社の石段の前に出てびっくりした。この鎖の太さは夢に見た太さ。いろも夢に見たぬれた鉄いろ。  晴れていれば神社の左肩に、天狗岳一九八二メートルの先峰が見えるはずなのに霧が幕を張っている。山小屋に戻る途中で空が晴れ、いつか通った面河登山道の尾根や堂ケ森、二ノ森の稜線が緑の波を重ねたように連なっていた。 [#改ページ]

96 |別子銅山越《べつしどうざんごえ》    ツガザクラ  神野一郎さんと石鎚山に登ったとき、帰りに雨がやんで、西の空が晴れて山々の姿が見えて来たら、あれが東赤石、とても花の多い山ですと教えてくれた。隣の黒岳、あそこにはマムシがいます。  さて、東赤石に登ると、本当に一七〇七メートルで、関東ならば雲取より低いのにコケモモやキバナノコマノツメやタカネマツムシソウ、ゴゼンタチバナ、オトメシャジンと、全く、二五〇〇メートル以上のような花が、頂上の岩場の間に点々と咲き、石鎚でも見なかったのでびっくりした。また、この山は中腹から上の松が、五葉の松でこれも素敵であった。神野さんは岩場に腰をかけて、西東の山々を指して言った。今度はあそこの別子銅山越えをしましょう。ツガザクラやアカモノがあります。  別子銅山は、秋田の小坂鉱山、栃木の足尾銅山と並び、日本の代表的な銅山で、足尾の鉱毒問題は、渡良瀬川流域の民の|怨嗟《えんさ》の的になり、田中正造の政府との|熾烈《しれつ》な戦いは、戦前から私たちの関心の的であった。しかし足尾も閉鎖され、あとには緑を失った禿げ山の悲惨さをさらしている。別子の方は高山植物が咲くという。この眼でそれを見たいと東京から友三人と共に神野さん、岸郁男さん、金子彰徳さんと、山草研究家のひとたちに案内され、新居浜から|打除《うちよけ》、|鹿森《ししもり》ダム経由で、足谷川の谷沿いに登った。  まず、眼に入ったのは、これが明治二十年代には、一万人以上のひとが住んだという銅山|址《あと》かと思われるほどのアカマツやリョウブの大木の茂りあう山腹である。経営者である住友家では大正五年に生産活動をやめて植林事業に切り換えたのだという。登るにつれて劇場あとや料亭あと、遊女屋あとなどの廃墟のような空き地があり、カラマツが生え、ツガザクラやアカモノがあちらこちらに群落をつくっている。大きな谷に向かって湧水の水場もある。溢れ出た水が谷に流れ落ちてゆくそばに、ウバタケニンジンの二、三本。私はこの大きな自然の蘇りがうれしくて涙がにじみ出て来た。やっぱり自然の|恢復《かいふく》力は偉大だとも思った。 [#改ページ]

97 |古処山《こしよざん》    シュウメイギク  シュウメイギクは、キブネギクとも呼ばれる。京の北山の鞍馬山麓の貴船川のほとりに多く咲いていたのであろう。  しかし私は、戦後の十年近く京に住んで、家の近くから叡電に乗り、鞍馬から芹生あたりを何度か歩いたが、シュウメイギクは、民家やお寺の庭などにあり、山の道で見つけることはできなかった。キクと名づけられても、キンポウゲ科のこの花の優雅さが好きである。そして山で見かけるとお前はまだ山で生きていたかとうれしくなる。関東では二ケ所の山で見かけ、四国では天狗高原への道で見かけ、九州では古処山で見てうれしかった。  古処山は八五九・五メートル。福岡の南の秋月の町のうしろを馬見山、|屏山《へいざん》とつづいて、屏風のようにかこんでいる。いつか福岡から、陶器の小石原へゆく時に、秋月を通り、江戸時代の茶店や武家屋敷を復原した町づくりを、なかなか風情があると感心したが、町の背後に、照葉樹の深々とした緑に被われた山を古処山、ツゲの原生林のある山と聞かされ、今度来たらぜひ登ってみたいと思った。福岡に近い山で残ったのは古処山だけであった。  最近の秋の一日、福岡双葉のシスターたちと標高差三〇〇メートルの地点から歩き出し、古処山から屏山の九二七メートルまで、九州自然歩道となっている稜線を経て江川ダムに下った。  ツゲは古処山の頂上から、屏山へゆく道の左側の石灰岩地帯に密生し、いずれもみごとな大木であった。細かい葉が秋の陽に映えて美しく、稜線にはマテバシイやアラカシなどの照葉樹もぎっちりと生えていて、聞けば秋月氏時代に領主から保護されて滅多なひとを入れなかったという。秋月氏はかつて三十六万石の太守であったのが、秀吉の九州征伐に負けて、高鍋藩二万七千石に移されたのである。領主は代わっても、この山の緑はずっと大事にされて来たというのは、他領からの守備の意味もあったろう。花も多く、レイジンソウ、ヤマジノホトトギス、ジンジソウなどが眼についた。 [#改ページ]

98 |阿蘇高原《あそこうげん》    リンドウ  はじめて阿蘇の中央火口丘の一つの中岳にいった時、印象は強烈の一語に尽きる。大爆発をして、ロープウエイ駅が被害を受け、観光客に死者が出たのは、私がいって半年たっていなかったと思う。浅間山や三原山の噴火口の縁を歩いて中をのぞき、真紅の炎の立っているのを見たことがあるが、中岳は噴煙が轟音を発して、盛り上がり盛り上がり、風のままに自分の方へも押しよせてくるので、その縁に立っても、とても炎を観ることができなかった。  北海道の十勝岳にも、大爆発して死者の出たあとに登ったのだが、この時も噴煙が、轟音と共に風になびき、噴煙が全身をつつんで恐ろしく、やはり炎を見ることができなかった。十勝岳の前に中岳にいったので、大地が生きていると感じたのは、中岳がはじめてである。  それから数年後の秋、|長者原《ちようじやばる》から久住山の一七八七メートルに登り、眼の前に雄大な阿蘇火山を観て、今度は是非歩いて登りたいと思った。  つい最近の秋、地獄温泉に泊まって、やはり中央火口丘の一つの烏帽子岳の一三三七メートルを目指したが、前夜から風邪気味で、全身がだるい私は途中まで。北斜面にひろがる草千里の草紅葉に見とれ、東西一六キロ、南北二四キロ、周囲一二〇キロに及ぶという、火口原のものすごい|許《ばか》りの大きさに、改めて眼を見張った。時は十月、足許にウマノアシガタやツクシフウロが咲き残り、花の終わったスミレがある。もしかして阿蘇に多いというキスミレではないか、これがその名の発祥のもとのヒゴタイではないかと稜線を下って来たが、リンドウの多いのにびっくり。頂上から下りて来た仲間と、九五四メートルの寄生火山の米塚に登った。ここにもリンドウがいっぱいで、熊本県の県花はリンドウであったことを思い出した。オヤマリンドウや、エゾリンドウとちがって、私たちがまだ東京に武蔵野の面影が残っていた頃、雑木林の中でよく見かけたリンドウである。今度は春にいって、阿蘇の草原に咲くというフクジュソウを見つけたい。 [#改ページ]

99 |霧島連峰《きりしまれんぽう》    マイヅルソウ 「花は霧島、煙草は国分」と歌でいうけれど、霧島とは、|韓国《からくに》岳から|新燃《しんもえ》、中岳、高千穂峰などを総称しているらしい。霧島屋久国立公園は外に、錦江湾、|指宿《いぶすき》、佐多岬地域から屋久島を総合して言っているので、桜島火山も|開聞《かいもん》岳も皆この範囲内に入る。『歴史の山100選』には「霧島山」の一項があり、標高一七〇〇メートルとしるされていて、これは韓国岳の高さである。その説明によれば「霧島山は聖山である。昭和九年にわが国で最初の国立公園の指定を受け、東西二十二キロ、面積二一五六〇ヘクタールという広大な地域に、二十三座の群状火山がならび立ち」とあって、最高峰は韓国岳だが、盟主は高千穂峰の一五七四メートルとされているらしい。イザナギ、イザナミ二神が、天の浮橋の上から霧の海を|逆鉾《さかほこ》でさぐって、この国を発見したからこの地を霧島と名づけたと伝えられるとも書かれている。『古事記』には、天の浮橋に立って海水を|沼矛《ぬぼこ》でかきまわしてできたのは、|淤能碁呂《おのごろ》島で「岩波文庫」の注には所在不明とある。ニニギノミコトは高千穂の峰に降りて「この地は韓国に向かっていてよい」と言っている。ふるさとは韓国ということか。  私はこれらの四つの山に皆登って、その頂きのどこからも青々と草の茂った大きな噴火口が幾つもあるのが見られて感動した。水がたまって池になっているのもあった。私は、それらのすべてがいっせいに火を噴きあげていた日々の姿を想像した。  一口に霧島と言っても、各山、それぞれに形がちがう。共通しているのは韓国のマイヅルソウ、新燃、中岳のツクシシモツケ、ネバリノギランが関東の半分から三分の一の大きさであること。キリシマツツジがあること。感動したのは、中岳のアカマツの山腹を、野生の鹿の群れが五、六匹、澄んだ声で鳴きながら、走っていったのを見たこと。なお高千穂峰の上の逆鉾は、いかにも作りものめいてなにも感動しなかった。   かがまりて|舞鶴《まいづる》草をわれは見る     花もその丸き花も|愛《かな》し [#地付き]梶尾幸子 

100 |開聞岳《かいもんだけ》    ヤマタツナミソウ  開聞岳には、本当にびっくりさせられ、山はバカにしては申しわけないとさえ思い、足だけはあわてふためいて、がむしゃらに岩礫をつっころばして、ふだんの足のろに似ず、コースタイムの一・二倍で登ったのである。  標高九二二メートル。標高差八五〇メートル。所要時間六時間。その日私は、夕方の七時から|川内《せんだい》市のクリスマスに出るはずであったが、これを開聞岳から一〇キロの山川町とまちがえ、集まりの前に一登りの予定をたててしまった。ところが実さいは六〇キロ。そして山は形が端麗に見えるので、道もふかふかの腐葉土に被われてじゅうたんの上を歩くようなものと勝手にきめこんで、日比谷公園や明治神宮の外苑を走るような恰好でいったら、この山は、|韓国《からくに》岳より、|新燃《しんもえ》、中岳、高千穂よりももっと大きな火山礫がごろつき、急坂のつづく山なのであった。しかも案内してくれたのは、謹厳無比のレデンプトール会川内カトリック教会のメニッヒ神父で、こちらは来日二十六年。『古事記』にも精通していて、開聞岳からは、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメ、海彦、山彦の話のある笠沙の岬も見えますと、山ズボン、山靴姿であった。神様助けて下さいと真剣に祈るのもそんな時。はるばると薩南の開聞岳までいつ来られようかと思い、そこにどんな花が咲いているかと思えば、四つん這いで、手を足並みに使ってでも頂上まで登らなければならないと、歯をくいしばったのであった。  開聞岳の植生のあり方は、高千穂や韓国とちがう。あちらは花の咲く草だけでなく、シイもツガもアカマツも背が低かった。こちらは大木で亭々として|聳《そび》え、トベラやカクレミノやユズリハも大木である。そして、ヤクシソウ、リュウノウギク、ヤマタツナミソウとすべてが関東並みの大きさである。ノジスミレ、サクラスミレ、オカスミレとスミレの種類の多いのは、伊豆の天城と似ている。下りてから二時間半かかって川内市につき、集まりの前に、シャワーも浴びられて、神に感謝と溜息をついた。 [#地付き]〈了〉

   
あとがき 山の花の恵み 『花の百名山』をまとめて十年以上たった。その後の年月に年間二十から五十までの山に登って、まだまだ花のきれいな山がたくさんあることを知った。度々登るというのは、休むとなまるということで、年齢を加えるほどたくさん登るようになったのである。この間にまた膝の骨折をして、左足の寸法は五センチほど短くなっての山歩きである。  この十年以上の間に、ヨーロッパアルプスやピレネーや、カナディアンロッキーなども歩いた。特にヨーロッパアルプスは、シャモニーやグリンデルワルト、ツェルマット、インターラーケン、ミューレン、アッペンツェル、サンモリッツ、ハルシュタット、インスブルックなどを基地にして、「花を見るだけ」のための山歩きをし、全く、花々は地に満ち、地に溢れ、花々のいのちありて、わが世たのしきの思いを十分に味わうことができた。この花々は何千年何万年、何億年の昔からここにこうして咲いているのか、この花々は何故このように美しいのか、つくづくと眺めて、いくら眺めても眺め足りない思いで、私は一つ一つの花々に別れを告げた。又あう日までとはとても言えない。今の今、ここであっただけが一つの出あい。花々も自分も、明日のことはわからないという思いがいつもあった。  その思いは、日本の山々での、花々との出あいでも変わらない。よくどの山が一番好きですかなどと聞かれるけれど、そこに花々が咲いている限り、私は、自分の歩いた限りの、すべての山々に好ましい思い出を持つ。まだ木々も芽ぶかぬ厳冬の、落葉に埋もれた山道に、たった一つ見つけたイチヤクソウの緑の葉。その二枚か三枚の葉のために、その山全体が、私には忘れられないものとなる。イチヤクソウも、スミレも、キジムシロも、落葉の下に半ば埋もれながら、息をひそめて春を待っている。その健気さがいとおしい。落葉に被われた地面の下には、カタクリもエンゴサクも、身をちぢめて芽ぶく日を待っていると思えば、冬の山歩きは一つもさびしくないのである。  こんなにも、ひとの心によろこびを与えてくれる山の花々。いつまでもいつまでも、その場所に咲いていてほしい。自分の死んだあとまでもと願う花々。それらが無残に盗みとられたり、掘りかえされた土に、ちぎれた根や葉を見るとき、私は、わが子をうばわれた母の悲しみにも似た思いで胸をしめつけられる。だれが、どんな手つきで、どんな眼で、山から花をとっていったの? 掘りかえされた土のまわりの木々に声があるなら語ってもくれよう。とり残された花は、仲間の上に襲った悲劇について話してもくれよう。しかし木々も花々も、何も語ることも訴えることもできないのである。  とられた花の行方は知っている。とった人間の家に持ちこまれ、鉢や地面に植えられる。  書店に『山草のつくり方』とか『山草の育て方』などという本が一ぱい出ている。でも、でもと私は言いたい。その花は、いつまで人里に降ろされて、そのいのちを長らえることができるのですか、と。一〇〇〇メートル、一五〇〇メートルの高さにあってこそ生き生きと咲くことの出来た花。岩場で砂礫地で、あるいは湿原で、自分にふさわしい生き方をえらべた花が、小さな鉢の中に押しこまれ、汚れた町の空気を息苦しくも吸わなければならないとは、何という哀れさであろう。  かつて中野区で教育委員をしていたときのこと、私は知的障害の青年たちと一緒によく山に登った。青年たちは決して、山の花をとらなかった。道に落とされていた山の花を見ると、可哀相! と言うのであった。花は山で見るだけだよ、と言うのであった。それは、何という神の恵みかと感動したことがある。自分の欲望のために、他者をうばうことをしない。他者の悲しみが素直に自分の胸にとどく。前に『花の百名山』を書いた時、私は、花々をさがすのに夢中で、あれもあった、これもあったと見た限りのものをしるした。そして、その山のその場所に、その花がもうなくなっているという報告を幾つも受けた。本文の中にも書いたことであるけれど、私はもう、三十年以上も前に中軽井沢の一つの林のほんの一隅を求めた。そこには山の花、野の花が、じつにゆたかに咲いていて、その花を毎年の夏に見たくて、ちいさな家をたてた。ルリトラノオ、ノハナショウブ、サワギキョウ、タチカメバソウ、フシグロセンノウ、シモツケソウ、ワレモコウ、オミナエシ、コオニユリ、サワオグルマ。そこには湿地があったから湿地の花が多かったのである。今、それらの花は一本もない。皆どこかのひとに持っていかれてしまった。植えたクリンソウは二十株もすべて持っていかれた。こういう盗みは、犯罪になると思うのだが、目撃者もなく、第一、警察も受けつけてくれないであろう。他人の家の庭の花さえ持ってゆくのである。山々の花の盗掘には眼にあまるものがあり、たまたま心あるひとが注意すると、自然のものをとって何が悪いかと喧嘩になる例もあるという。  山梨県は南アルプスや八ケ岳を持ち、それらの山域は花々の盗掘の被害が大きいので、近藤信行氏、白旗史郎氏などが、前知事望月幸明氏に訴え、橘田友春氏を事務局長とする「日本高山植物保護協会」をつくって、保護条例の下に、盗掘者にきびしい監視をつづけている。その機関誌の『JAFPA』の平成三年一月一日号には、「三ツ峠」で「夜叉神峠」で「八ケ岳」で盗掘の被害の大きいことが山荘の主人たちから報告され、特に「高齢者は根こそぎ取って持ち帰る」とか「まるで罪の意識はない」とか「花は年々減少している」というような文章を見ると、私は胸がかきむしられる思いになり、涙まで出てしまう。いつか静岡県の天子ケ岳に登ろうとして、白糸ノ滝にたちよると、売っていること、売っていること、「山採りの高山植物」という立札の下に、コケモモあり、チャルメルソウあり、シャクナゲあり、イワヒバありであった。いつか隠岐島の島後にいった時も、土産物屋に「セッコク」がいっぱい売られていて、こんなにたくさんとられて、もう山にセッコクは残っていないのではないかと心配になった。四国の高知のある町では八百屋にエビネが売られていた。松山のデパートでは「ヤマシャクヤク」が売られていた。多分聞けば栽培したものを売っているのだという返事が返ってくるであろう。ヤマシャクヤクなど「活け花」の花材につかわれているのをよく見るから、とても山からとってくるだけでは間に合うまい。  私は栽培された花よりも、山の花、野の花が好きなので、それを活けたいひとの気持ちもよくわかるような気がする。しかし町の応接間や床の間でヤマシャクヤクを見せてもあまり引きたたないのではないだろうか。山の花は山にあってこそ美しい。里で活けるなら、栽培されたシャクヤクの方が、家具や調度によく似あうと思う。野の花を活け、野の花の美しさを眺めて観賞したいならば、珍しい、絶滅を心配される花を追うのをやめて、抜いても抜いても出て来るドクダミやアキノノゲシやヒメジョオン、ハルジオンなどを活けて見てほしいと切に思う。  ヨーロッパアルプスの麓の町々を歩いて、山の花の鉢が売られているのを見たことは一度もない。町の花屋でもない。ただ、種子は売っている。山の花を見たいひとは、自分で種子をまいて、それぞれの適性を活かした環境の中で咲かしてほしいということであろう。そして私はその種子を買って来て、エーデルワイスを、チョウノスケソウをクロッカスを咲かすことに成功したひとを何人も知っている。  日本自然保護協会(NACS‐J=会長沼田眞)と世界自然保護基金日本委員会(WWFIJ=会長大来佐武郎)は昭和六十一年、世界自然保護基金(WWF)のプランツキャンペーン(植物保護計画)に呼応して、「わが国における保護上重要な植物および、植物群落の研究委員会」を設けて研究を行い、昭和六十三年度で調査を完了した。その研究の報告の中で、すでに、日本の野生植物の三十六種が絶滅、絶滅寸前が百四十八種、絶滅の危険にさらされているもの六百七十六種、現状不明が三十九種にのぼることが明らかになったという。これらの合計は八百九十九種になり、日本の野生植物五千三百種の一七パーセントになるという。  日本列島は北から南と緯度の幅も広く、世界で有数の豊富な植生を持っている。私はヨーロッパアルプスの山々を歩き、カナダの山々を歩き、日本の山々を歩いて、日本が一番種類が多いのではないかと思った。雨量の多い日本は濶葉樹もよく茂り、その黄紅葉の美しさは、世界無比とも思うようになった。山々の姿も見馴れてくると、ヨーロッパアルプスの鋭い岩峰の雪に被われているのよりも、高さこそ低いが、滝を持ち、湖沼を持ち、火山を持った急崖や高原の変化に富む日本の山々の方が、美しく親しみやすいと思うようになった。そこに咲く花々よ永遠にという願いが深まるにつけ、花々の盗掘に言いようのない憤りと悲しみを感じてしまう。  減少の原因は開発と採集が圧倒的である。ゴルフ場建設の流れがどれだけ多くの花たちを殺したことか。開発による自生地の破壊は、三六・六パーセント。山草業者の盗掘によるものは、二八・三パーセント、ラン科の花々は六九・四パーセントにもなるという。以上は、「NACS‐J」の報告の抜き書きである。NACS‐Jは、環境教育をよくやって、植物保護の意識を向上させなければと案じている。早急に手を打たなければ、これからの五年十年後に、さらに絶滅種がふえるであろうと。私はその趣旨に賛成して、今度この原稿を書く時、意識して、アツモリソウ、クマガイソウの咲いている山をはずした。サクラソウ、オキナグサ、サギソウ、ムラサキ、フジバカマなども、絶滅寸前の植物に入っているので、これらの自生地は知っているけれど書かなかった。山の花を好きに思うひとはぜひ山を歩いて、山でその花を見てほしいと思う。  花々はほほえみ、花々はときに恥じらい、ときに誇りやかに額に汗して自分の姿を眺めに来てくれたひとをよろこんで迎えてくれる。たった一輪のスミレから、たった一本のコオニユリから、あなたはどんなにかたくさんのなぐさめを、はげましを受けることか。私はものを言うどんな友よりも、ものを言わない一つの花から、多くの恵みを受けて今日まで生きて来られたように思う。  何故盗掘者を憎むか。花を見るよろこびはすべての人に与えられなければならないはずなのに、自分だけいい思いをして、他人のことなどかまわない、知らないというその強慾さ、その冷酷さが非人間的と思われるからである。何故、ゴルフ場建設に反対するか。山地よりは平地の多い欧米のスポーツを、平地よりだんぜん山地の多い日本が土地の面積も考えずに真似することはないと思うからである。 『新・花の百名山』という題をつけたが、前著と重なる山が幾つかある。どうしてもその山は花の山としてあげたかったから。しかしその山についての記述は別の角度から新たにした。また、私のまだ登らないあこがれの花の山は、東北の焼石連峰、飯豊連峰、九州の傾山に近い黒岳で、今後の機会に登りたいと思っている。  なお、私の山行きには、一番多く三木慶介氏、藤代敏夫氏と、高水会の仲間が同行して下さった。環境庁、営林署や、地許の山岳会にも観光課にもお世話になった。ここに改めてお礼申しあげたい。 [#地付き](一九九一年二月六日)

   
山 の 花 譜 *アカバナ(アカバナ科アカバナ属) 北海道から九州の山野の水湿地に生える多年草。地下茎をひく。茎は稜線がなく円柱形で直立し、高さ15〜9、上部で分枝する。葉は対生して柄はなく、上部は互生する。卵形から卵状披針形で、ふちには粗い鋸歯があり、先は鈍形か鋭形、基部は茎を抱く。7〜9月、頂部の葉腋に、柄のない淡紅紫色で長さ5〜10の花を上向きに開く。花弁4個は先が2浅裂する。萼は4個、雄しべ8個。子房は下位で、細長く花柄のように見える。 *アケボノソウ(リンドウ科センブリ属) 北海道から九州に分布し、山野の湿地に生える二年草。四角ばった茎は直立し、枝分かれして高さ50〜90になる。根生葉は長楕円形で長い柄があり花の頃には枯れる。茎葉は対生し、卵状楕円形で先はとがる。9〜10月に茎の頭部を分岐し柄のある白色の花を開く。萼は緑色で、花冠とともに5裂している。花冠裂片には1.5くらいの黄緑色の蜜腺溝が2個と濃緑紫色の斑点がある。雄しべ5個。さく果に萼と花冠がついている。 *アズマイチゲ(キンポウゲ科イチリンソウ属) 北海道から九州に分布し、山地の落葉樹林のふちや草原、山麓の土手などに生える多年草。根茎は横にはい、先端に鱗片がある。根生葉は長さ10〜15、蒼緑色で無毛平滑、花がすんだ後に伸びる。花期は3〜5月で、茎の先端に3個の葉状苞をつけ、苞葉の中心から1本の直立した花茎を出し、白色の花を開く。花は径3〜4、萼片は8〜13個あり、花びら状で、裏は薄紫色をおびる。花弁はなく、雄しべ、雌しべが多数ある。 *アポイゼキショウ(ユリ科チシマゼキショウ属) チャボゼキショウの別名。北海道から本州中部地方以北の低山帯から亜高山帯の蛇紋岩地や石灰岩地に生える多年草。葉は根生し、長さ3〜10の線状鎌形、ふちに細かい突起がある。花期は6〜8月で、高さ6〜21、途中1〜2個の葉がある花茎をのばし、頂に総状花序をなし、白色またはかすかに紫色をおびた花を斜め下向きにつける。母種のチシマゼキショウより花序が長く、葯が紫色をおびる。花柄は長さ1.5〜5、さく果もやや大きく、長さ4〜6。 *アポイマンテマ(ナデシコ科マンテマ属) アポイ岳のかんらん岩地に生える多年草で、葉は対生し、2〜7の線状披針形で先はとがる。7〜8月、茎の上部の枝先に径1.5の白色または淡紅色の花を横向きに数個つける。花柄は短く2〜6、花弁の基部は細い爪状で萼筒内にあり、上部は平開部が2裂する。萼筒は長さ1〜1.5の倒卵形で10脈が目立ち、3個の花柱が突き出る。カラフトマンテマとよく似ているが、全体に小型で、茎や葉の裏が紫色をおび、葉はかたく毛は少ない。 *アヤメ(アヤメ科アヤメ属) 北海道から九州の山野に生える多年草。葉は長さ30〜50、幅5〜10の剣状で基部は鞘状、茎は緑色の円柱形で葉心から直立し、根元は赤紫色をおびる。5〜7月、茎先の鞘状の苞葉間に、径7〜8の紫色の花が2〜3個、順次開く。外花被片3個は下垂し、舷部は円形、基部は急に狭まり爪状となり、紫と黄色の虎斑模様がある。内花被片3個は細く直立する。雄しべ3個、葯は暗紫色で縦に裂け、花柱の先は2深裂し裂片に鋸歯がある。 *アワコバイモ(ユリ科バイモ属) 四国にまれに産する中国原産の多年草。徳島県の高越山で初めて分類されたためこの名があるが、本州のミノコバイモと同種とする学説も多い。茎は15〜20で上部に五葉をつける。葉は下部に対生葉2枚、上部に3枚が輪生して、披針形か広線形。長さ4〜6、幅4〜10で無柄。花は広鐘形で1個のみ。花被片は全縁で幅4〜5、淡黄色で暗紫色の網紋がある。花糸、花柱は平滑で、葯がミノコバイモの白に対し紫色をしている。 *イソツツジ(ツツジ科イソツツジ属) 東北地方と北海道の亜高山帯から高山帯の湿地などに生える常緑小低木。基部から分枝し、高さ30〜100、若枝には赤褐色の長毛が密生する。葉は互生で短柄を持ち、長さ2〜6、幅0.4〜1.5の披針形。ふちは裏に巻き込み、厚い革質で、脈は編み目状、裏面に赤褐色の長軟毛と白い微毛を密生し、腺毛もある。6〜7月、枝先に基部に鱗片のある直径8〜10の白色の花を多数散房状につける。雄しべ10個、柱頭は5裂。さく果を結ぶ。 *イチヤクソウ(イチヤクソウ科イチヤクソウ属) 北海道から九州の、山野の林中に生育する常緑の多年草。葉は数枚が根元に集まってつく。長い柄を持ち、長さ3〜6、幅2〜4の卵状楕円形または広楕円形で、ふちに細かい鋸歯があり、裏は紫色をおびる。6〜7月に葉の間から高さ20内外の花茎を直立させ、上部に3〜10個の花柄を持った白色の花を下向きに開く。萼と花冠は5裂し、萼裂片はとがっている。雄しべ10個、花柱1個、花糸は一方に曲がる。さく果をつける。 *イブキジャコウソウ(シソ科イブキジャコウソウ属) 別名ヒャクリコウ。北海道と本州、九州の丘陵帯から高山帯の日当たりのよい草地や岩礫地に生える小低木。全体に芳香がある。茎は細く地をはい、分枝して3〜15に斜上する。葉は対生で短柄があり、長さ0.5〜1、幅3〜6の長楕円形から卵形で、基部にひげ状の毛が散生し、両面に小さな腺点が多数ある。6〜8月、淡紅色から紅色の花を枝先に輪生する。花冠は5〜8の唇形で、上唇は小さく、先がへこむ。下唇は3裂する。萼も唇形で長毛がある。 *イワイチョウ(リンドウ科イワイチョウ属) 別名ミズイチョウ。北海道と本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の湿地に群生して生える多年草。根生葉は厚く光沢があり、長さ1.5〜7、幅5〜11の腎形で、葉柄は長さ約18、ふちには基部を除く部分に鈍鋸歯がある。7〜8月、花茎は高さ15〜50になり、集散花序に白色の花が数個つく。花冠は長さ約8のロウト状で5深裂する。裂片は狭卵形でふちに波状のしわがあり、中央には縦のひだがある。長短花柱性で雄しべの長さが株によって違う。 *イワインチン(キク科キク属) 別名イワヨモギ、インチンヨモギ。本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の日当たりのよい草地や岩礫地に生える多年草。高さは10〜30で、茎は分枝せず細くて固い。葉は密に互生し、長さ2〜3、羽状に3〜5深裂し、裂片は線形で幅1〜2。裏面には白い綿毛が密生し、銀白色に見える。8〜9月、茎の先に直径約4の黄色い頭花が散房状に多数つく。総苞は広鐘形、総苞片は3列する。小花はすべて筒状花で、周辺部が雄花、中心花は両性花になる。 *イワウチワ(イワウメ科イワウチワ属) 本州中部地方以北の林下や岩場などに生える常緑の多年草。鱗片があり、根生葉は革質で長い柄を持ち、長さ、幅とも2.5〜7の広円形か広楕円形、ふちには波状の鋸歯がある。花期は4〜5月で、葉腋から細長い花茎を出し、頂に淡紅色でロウト状広鐘形の1花を横向きにつける。花冠は径2.5〜3で5裂し、裂片の先は細かく裂ける。雄しべ5個のほかに仮雄しべが5個あり、雌しべ1個。直径約5のさく果を結ぶ。 *イワウメ(イワウメ科イワウメ属) 北海道と本州中部地方以北の高山帯の岸壁や礫地に生える常緑小低木。枝は地をはって広がり、厚い革質で光沢のある葉を密生する。葉は長さ0.6〜1、幅3〜5の倒卵状くさび形、表面は緑色で裏面は淡黄緑色。群生することが多く、6〜8月には枝先に長さ約2の細い花柄を出し、帯緑黄白色の花を1個ずつ上向きに開く。花冠は直径約1.5の短い鐘形で、5中裂し、裂片は卵円形。萼は緑色で5裂し、裂片は長さ約5の楕円形。 *イワカガミ(イワウメ科イワウメ属) 北海道から九州の低山帯上部から高山帯の草地や、湿った岩場に生える常緑の多年草。茎は短くしばしば地に接して分枝する。葉は根生で長柄があり、長さ、幅とも3〜6の円形。ふちには鋸歯があり、薄い革質で光沢がある。4〜7月、高さ10〜20の花茎をのばし、総状花序に3〜10個の淡紅色で径1〜1.5の花を開く。花冠はロウト形で5中裂し、裂片の先は細かく裂ける。萼片5個、雄しべ、仮雄しべとも5個。球形のさく果を結ぶ。 *イワギキョウ(キキョウ科ホタルブクロ属) 北海道から本州の中部地方以北の高山帯の砂礫地や岸壁に生える多年草。根茎は細く、浅く地下に伸びる。葉は根生して薄く、長さ1〜4の倒卵形か披針形、ふちに突起状の鋭い鋸歯がある。7〜8月に、高さ2〜15の花茎を出し、ときには分枝して、先に青紫色の花を1個斜め上向きに開く。花冠は長さ2〜2.5の鐘形で5裂し、毛はない。萼には粗い毛があり、萼片は5個、長さ1くらいの線形でふちに歯牙がある。さく果を結ぶ。 *イワタバコ(イワタバコ科イワタバコ属) 本州から沖縄に分布し、山地の樹下や湿った岩場に生える多年草。葉は根生し大きく1〜2枚、楕円状卵形で10〜30、幅5〜15くらい。ふちにふぞろいな鋸歯があり、基部はヒレのある柄、表面はちりめん状のしわになっていて、やわらかい。花期は7〜8月で、10〜20の花茎を伸ばし、散形花序に2〜20個の紅紫色の花が咲く。花冠は径1.5ほどで上部は5裂し、下部は短い筒になる。雄しべ5個、さく果には永存性の萼がある。 *イワチドリ(ラン科ヒナラン属) 本州の中部、近畿地方と四国に分布し、山中の日陰の岩壁に生える多年草。根は紡錘状に肥厚し、高さ5〜15の茎を出す。茎の中ほどより下方に、長さ3〜7、幅6〜15の長楕円形の葉を1枚つける。花期は4〜6月で、茎の先が分枝し、径1〜1.5の淡紅紫色の花を一方に傾いて数個つける。花のすぐ下には、ごく小さな苞葉があり、唇弁は長さ10〜12、3深裂し、中裂片はさらに2裂する。中央から基部に紅紫色の斑紋が並ぶ。 *イワナンテン(ツツジ科イワナンテン属) 別名イワツバキ。関東から近畿地方に分布し、山地に生える常緑樹。高さ30〜150で、普通は岩などに着生し、枝はしだれる。葉は互生して柄があり、先は細くとがる。表面には光沢がある。夏、枝先や葉腋に短い花穂をなし、白色で柄のある花を数個、下に垂れてつける。花冠は筒状で、先端は5つに裂ける。雄しべは10個、さく果は上向きにつく。 *ウサギギク(キク科ウサギギク属) 別名キングルマ。北海道と中部地方以北の高山帯の日当たりのよい草地に生える多年草。高さ15〜30になり、全体に縮毛が密生する。茎葉は対生で長さ5〜13、幅2〜3.5のへら形、やや厚めで5脈がある。根生葉と下葉は狭い翼の柄があり上葉は無柄。7〜8月、花茎の先に明るい黄色の、径3.5〜4.5の頭花を1個つける。総苞は半球形で、総苞片は2列、舌状花は1列で先端は3浅裂。中心部は両性花の筒状花で、5浅裂し、筒部に短い軟毛がある。 *ウズラバハクサンチドリ(ラン科ハクサンチドリ属) 北海道と本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の草地に生育する多年草。茎は直立し高さ10〜40、葉は互生し、長さ7〜15の倒披針形か長楕円形、暗紫色の斑点があり、基部は茎を抱く。7〜8月、茎の先に総状花序を出し、紅紫色の花を多数つける。苞は披針形で先が鋭くとがり、花序の下部では花より長くてめだつ。唇弁は3裂し、扇形で大きく、中裂片の先はとがる。子房は無毛で、長さ1くらい、ゆるく湾曲し花柄のように見える。 *ウメバチソウ(ユキノシタ科ウメバチソウ属) 北海道から九州の丘陵帯から高山帯の日当たりのよい場所に生える多年草。根生葉は長柄があり、数枚がかたまってつく。葉身は円形または腎形で基部は心形。8〜10月に高さ5〜30の花茎を直立し、1枚の無柄で基部が茎を抱く葉と、1個の白色で径2〜2.5の梅に似た花をつける。萼片、花弁とも5個。雄しべと雌しべの間に仮雄しべが5本あり、糸状に15〜22裂し、先端に小球状の腺体がつき、昆虫がよく集まる。柱頭は4裂する。 *ウラジロヨウラク(ツツジ科ヨウラクツツジ属) 北海道、本州中部地方以北の太平洋側、四国の山地に生える、高さ1〜2mの落葉低木。葉は枝先に輪生状につき、長さ3〜7の倒卵形で、ふちには鋸歯状の長い粗毛があり、裏面は白色をおびる。5〜6月に、枝先に粉をふいたような紅紫色のツリガネ形の花を下向きに5〜10個開く。花弁の内側の上部に毛があり花冠の長さは約1.5で筒形、先は5裂する。花柄には腺毛があり、葉、花柄、子房の毛質は変化が多い。 *エイザンスミレ(スミレ科スミレ属) 別名エゾスミレ。本州から九州の山地の木陰に生える無茎性の多年草。長柄のある葉は根生で、3つに深裂し、さらに2回分かれて鳥足状となる。花の後に出る葉は15〜25で、3つに深裂し粗い欠刻状の鋸歯がある。4〜5月、葉の間から花柄を出し、先端に径2〜2.8、左右相称で淡紅色などの花を横向きに開き、芳香がある。萼片は緑色で5個、花弁5個、唇弁に紫色の条がある。距は長さ6〜7で太く、雄しべ5個、雌しべ1個、さく果を結ぶ。 *エゾオヤマリンドウ(リンドウ科リンドウ属) 北海道の大雪山、夕張岳、無意根岳や東北地方の岩手山など、高山帯の草地や湿地の周辺に生える多年草。エゾリンドウの高山型で、高さ13〜30と小さく、しばしば群落をつくっている。茎葉は幅が広く、卵形から披針状卵形で、基部はやや茎を抱き込む。花期は8〜9月で、茎の先端と、ごく上部の茎と葉の間にだけ濃紫青色の花を1〜数個、上向きにつける。花冠は長さ3〜4で、浅く5裂する。 *エゾコザクラ(サクラソウ科サクラソウ属) 北海道の高山帯の雪田の融雪地や湿り気のある草地に群生する多年草。根生葉はやや肉厚で長さ1.5〜7、幅0.5〜1.5の倒卵状くさび形で、上半部に三角状の鋸歯が3〜11個あり、基部は細く葉柄状になる。花茎は高さ2〜15で、7〜8月に、紅紫色の花を1〜6個つける。花冠は直径2〜2.5の高坏状で5裂し、裂片は更に2中裂する。花筒は長さ6〜8、黄白色でわずかに腺毛がある。萼は鐘形で、長さ7〜8で5深裂する。 *エゾゼンテイカ(ユリ科キスゲ属) 東北地方から北海道、南千島、サハリンに分布し、海岸や山地の草原に生える多年草。葉は根生して、やわらかく、鮮緑色で扁平、長さ60〜70、幅1.5〜2.5の線形、上部はしなって下垂する。花期は6〜8月で、葉の間から40〜70の直立した花茎を出し、先に径6〜7、ロウト状鐘形の橙黄色の花を数個つける。ゼンテイカとよく似ているが、花柄はほとんどなく、花冠筒部は長さ1〜1.5と短い。また6個の花被片は肉質で厚い。 *エンレイソウ(ユリ科エンレイソウ属) 北海道から九州の山地帯から亜高山帯のやや湿った林下に生える多年草。地下茎は太く短く直下する。茎は直立し高さ20〜50、基部は褐色の鱗片に包まれ、先端に無柄で長さ幅とも6〜15の広卵形の葉を、3枚輪生する。5〜6月に葉の中心から短い花柄を直立し、暗紫色の花を横向きに1個つける。外花被片は3個あり、緑色か紫褐色で長さ1〜2の卵状楕円形。花の後も落ちない。ふつうは内花被片はない。液果は1〜2で緑紫色。 *オオカサモチ(セリ科オオカサモチ属) 別名オニカサモチ。北海道と本州中部以北の低山帯から高山帯の草地に生える大型の多年草。茎は太く中空で直径0.5〜1.5、高さ50〜150。葉は1〜3回3出羽状複葉で、長さ10〜30の広卵形。小葉は細かく切れ込む。7〜8月に大型の複散形花序に、十数個の小散形花序がつき、直径約3の白色の花が、1つあたり二十数個咲く。総苞片と小総苞片は多数あり、羽状に裂け、垂れ下がる。花弁は5個、雄しべ5個。果実は多肉で2個の分果からなる。 *オオバギボウシ(ユリ科ギボウシ属) 別名ウルイ、トウギボウシ。北海道から九州に分布し、山地の草原や丘陵地に生育する多年草。葉は根生で、大きな卵円形または卵状楕円形で長さ30〜40、幅10〜15、先は短くとがり、基部は心形、葉柄は長く緑白色。花期は6〜7月で、根生葉の間から50〜100の花茎を出し、長い総状花序をつけ、淡紫色または白色の花を多数開く。花は筒状鐘形で先は6裂するが、平開というほどではない。花の下にある苞葉は扁平で多くは白質化する。 *オオチドメ(セリ科ナドメグサ属) 別名ヤマチドメ。日本各地にはえる多年生の小草本、茎は細く地面を長くはって節から根を出す。葉は長い柄があり、円形で直径1〜3、基部は深い心臓形、ごく浅く7裂し、ふちに低く平らな鋸歯があり、ほとんど無毛であるが、時々柄の付着点に毛がある。夏から秋の頃、枝の上部は、立ち上って葉腋からかなり長い花茎をだし、頂にほぼ頭状に小白花をつける。花柄はごく短く、花は直径約1.5、花弁は5個、5本の雄しべ、2個の花柱がある。果実は腎臓形で長さ約1、分果は左右から偏圧され、背部に3条がある。 *オクエゾサイシン(ウマノスズクサ科カンアオイ属) 山地の林下に生え、高さ10〜15になる多年草。茎には節があり、横にはう。葉は2枚つき、長い柄がある心臓形で、長さ幅とも5〜12、ウスバサイシンに似るが先はとがらず、平坦で外に反り返る。5〜6月に、葉の間から花が1個出る。萼筒は扁球形で、直径約1.2。萼裂片はやや広卵形で先はとがらない。北海道、本州(東北地方)、サハリン、千島、ウスリーに分布する。 *オノエラン(ラン科ハクサンチドリ属) 本州中部地方以北と大峰山系の山地帯から高山帯の日当たりのよい礫交じりの草地に生える多年草。根はひも状。葉は長さ6〜10、幅2〜4の広楕円形で、2個が対生状に根元につき、基部は鞘になって茎を抱く。7〜8月、高さ10〜15の茎の上部に白色の花が2〜6個、総状につく。3個の萼片と側花弁は共に楕円形で、長さ0.7〜1、唇弁はくさび形で3浅裂し、基部にW字形の黄斑がある。距は長さ3〜4、基部がくびれる。 *オヤマノエンドウ(マメ科オヤマノエンドウ属) 本州中部と奥羽地方の高山帯の草地や礫地に生える多年草。根は木質で太く長い。茎は叢生し高さ5〜10。葉は奇数羽状複葉で小葉は3〜7対あり、長さ0.5〜1、幅2〜4の狭卵形。先はとがり、両面に軟毛がある。托葉は薄い膜質。6〜8月に、長さ1〜5の花柄の先に1〜2個の紅紫色の花を開く。径1.7〜2で、旗弁が大きく幅約1、基部に白い斑紋がある。萼は深い筒形で白い軟毛がある。豆果は長さ3〜4の狭卵形。 *オヤマリンドウ(リンドウ科リンドウ属) 別名キヤマリンドウ。四国石鎚山、本州氷ノ山から飯豊朝日連峰の亜高山帯から高山帯の適潤草地に生える多年草。茎は直立し、高さ20〜60。葉は対生で、根生葉と下部の茎葉は縮んで鱗片状になる。中部の茎葉は長さ3〜7、幅1〜2.5の披針形から卵形で通常3脈がある。8〜9月、茎の先の葉腋に青紫色の花を1〜7個つける。花冠は長さ1.8〜3、浅く5裂し、裂片の間には副裂片があるが、どちらもあまり開かない。雄しべ10個、柱頭は2裂する。 *カタクリ(ユリ科カタクリ属) 北海道から九州の山野に群生する多年草。根茎は白色多肉の鱗片状。鱗茎は、長さ5〜6の根茎の先から直立し、白色で片栗粉となる。葉は花茎の下部に1対につき、長さ6〜12、幅2.5〜6.5の長楕円形か狭卵形で、長柄があるが通常は地下に埋もれている。表面は淡緑色で、地域により紫色の斑紋がある。4〜6月、高さ15ほどの花茎の先に紅紫色の花が下向きに1個開く。花被片は6個で径4〜5の披針形、上部が強くそり返る。 *カライトソウ(バラ科ワレモコウ属) 別名トウウチソウ。本州中部の日本海側の亜高山帯から高山帯に分布し、砂礫地や岸壁、草地に生える高さ40〜80の多年草。根茎は太く横にはい、葉を根生する。茎は直立し、上部で分枝して葉を互生する。根生葉は長柄があり、奇数羽状複葉、小葉は4〜6対あり、長さ4〜9の長楕円形から楕円形、裏面は白っぽい。8〜9月に茎の先に4〜10の穂状花序が垂れ下がる。花は紅紫色で穂先から開花する。萼片は4個、毛があり半曲する。雄しべは6〜12個。 *カンアオイ(ウマノスズクサ科カンアオイ属) 別名カントウカンアオイ。千葉県から静岡県の山地の林下に生える常緑多年草。根茎は地表近くを斜めにはい、暗紫色で多肉、節が多い。葉は汚紫色の長い柄があり、卵形か卵状楕円形で長さ6〜10、先はとがり、基部は深い心形。表面は濃緑色で、白い斑や脈があり毛が散生する。花期は10〜2月で、葉柄の基部に半ば地に埋もれる形で暗紫色で緑黄色をおびた花をつける。萼は鐘形で長さ1、内側に格子状の隆起線があり、3個の萼裂片は筒部より短い。 *ガンコウラン(ガンコウラン科ガンコウラン属) 北海道から本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯のハイマツの林縁や、日当たりのよい水湿のある裸地に生える雌雄異株の常緑小低木。高さ10〜25で小枝が分枝しマット状に広がる。葉は互生で密集し、長さ3〜7の厚い線形、毛がありふちは裏面に巻き込む。5〜6月、赤紫色の花が枝先に1個ずつつく。雄花は3個の長い雄しべ、雌花には大型の葉状で、濃紫色の柱頭をもった雌しべが1個ある。核果は直径0.6〜1で紫黒色に熟す。 *キオン(キク科キオン属) 別名ヒゴオミナエシ。北海道から九州の低山から高山帯下部の日当たりのよい草地や裸地に生える多年草。茎は直立し、高さ50〜100。葉は互生して長さ10〜17、幅3〜6の披針形から広披針形で、ふちには鋭い鋸歯、両面に縮毛がある。花期は8〜9月で、各枝先に多数の黄色い頭花を平らな散房花序につける。各頭花は直径約2、総苞は約7の筒形で、基部に線形の苞葉がある。舌状花は5〜9個で、長さは13〜19、中心の筒状花は長さ7〜9。 *キタダケソウ(キンポウゲ科ヒダカソウ属) 本州の南アルプスの北岳に特産する多年草。高山帯の日当たりのよい岩礫の多い草地に生育し、高さは10〜20。根生葉は3回3出複葉で、第1次頂小葉の柄は側小葉の柄の1.5〜4倍ある。小葉は3深裂し、裂片はさらに2〜3深裂する。茎葉は1〜3枚が2回3出して上部は無柄、全体に白っぽく見える。6〜7月、茎の頂に白色で径2ほどの花を1個つける。花弁は6〜8個で、基部は暗紅色をおびる。先が浅く2裂する。萼は5個。 *キヌガサソウ(ユリ科キヌガサソウ属) 本州の中部地方以北の亜高山帯の湿った林内に生える多年草。茎は直立し、高さ30〜80。葉は茎の先に7〜11輪生し、長さ15〜30、幅3〜8の倒卵状披針形で、先は鋭くとがる。6〜8月に、葉の中心から長さ3〜4の、茎より細い花柄を出し、径6〜7の帯黄白色の花を1個開く。外花被片は7〜10個あり、はじめ白色だが紅紫色になり果期には淡緑色になる。内花被片は白色で長さ1〜1.5の糸状、花柱は8個で外反する。   *キバナノコマノツメ(スミレ科スミレ属) 北海道、本州中部以北、四国、屋久島の亜高山帯から高山帯の湿った礫地や草地に生える多年草。根茎は短く横這いし、数本の茎と根生葉を叢生する。茎は細く斜上し、高さ5〜20。葉は薄く幅1.5〜3.5の楕円形で、先は丸く、両面の脈上やふちに毛を散生する。茎葉は2〜4枚がつく。6〜8月、葉脈から長さ2〜6の花柄を出し、径1ほどの黄色の花を横向きに開く。花弁は細く、距はごく短い。唇弁は大きく、褐色の筋がある。 *キリンソウ(ベンケイソウ科キリンソウ属) 北海道から九州に分布し、山地の日当たりの良い岩上に生える多年草。太い根茎から肉質で円柱状の茎を群生し、高さ5〜30になる。葉は互生で倒卵形か長楕円形で長さ2〜7、多肉質で厚く、ふちには鈍鋸歯がある。5〜8月に茎の先に平らな集散花序を出し、黄色の小花を多数つける。花序には葉状の苞があり、花弁は5個で5くらい、披針形で先は鋭くとがる。萼片は緑色で5個。雄しべは10本で花弁より短い。雌しべは5個。 *キレンゲショウマ(ユキノシタ科キレンゲショウマ属) 紀伊半島と四国、九州に分布し、低山帯の林下の湿り気のある岩地に生える多年草。根茎は太い。茎は直立し、高さ80〜120。葉は対生して、長さ10〜20、掌状に浅く裂け、下部には長い柄がある。花期は7〜8月で、茎の上部に円錐状に集散花序の黄色の花をつける。萼は半球形で5裂し、花弁は長さ2〜3で肉厚。雄しべは15個あり3輪に並ぶ。花柱は3〜4個ある。 *キンコウカ(ユリ科キンコウカ属) 北海道から本州近畿地方以北の低山帯から高山帯の湿地や草地に生える多年草。根茎は長く伸び分枝して株を作り、群生することが多い。無花茎は2〜3、葉は線形で長さ5〜35、幅0.2〜1、有花茎は高さ15〜60、葉は2〜7で基部を抱く。7〜8月、総状花序に鮮黄色で径1.2〜1.5の花が10〜20個開く。花被片は6個で長さ5〜8の線状披針形、平開し花後、緑色になる。雄しべ6個は花被片より短く、花糸に縮毛が密生する。 *クサタチバナ(ガガイモ科カモメヅル属) 関東地方以西から四国にかけて分布し、山地の林の中などに生える多年草。茎は緑色で直立し、高さ30〜60、葉は対生し柄がある。全縁で卵形か楕円形で長さは5〜13、幅3〜6あり、両面にわずかに毛が生えている。花期は6〜7月で、茎の先の花序に白色の花が多数つく。花柄は1〜3と短く、花冠は深く5裂する。萼は緑色で先が5裂し、細かい毛がある。花が終わってから角状の果実を結び、種子は白色で絹糸状の冠毛で飛ぶ。 *クモイコザクラ(サクラソウ科サクラソウ属) 本州の南アルプス、八ケ岳、秩父山地の亜高山帯から高山帯の岩場に生える多年草。根生葉はやわらかく長柄があり、長さ、幅とも1.5〜4の心円形、掌状に5〜9浅裂する。裂片の先はとがり、ふちに少数の歯牙があり、両面の脈上、縁には縮毛が多い。6月、高さ4〜10で、縮毛がある花茎の上部に紫紅色の花を1〜3個つける。花冠は直径約2で5裂し、やや斜めに開く。花冠の裂片はさらに2裂する。のどは白色で中心は黄色。 *クリンソウ(サクラソウ科サクラソウ属) 北海道、本州、四国に分布し、山地や山麓の湿地に生育する多年草。葉は柄があり、根元に多数集まり、長さ15〜40、幅5〜13の倒卵状長楕円形。表面にはしわが多く、ふちにはふぞろいの鋸歯がある。花期は5〜6月で、高さ40〜80の直立した花茎に、紅紫色で柄のある、2.5くらいの花が数層に輪生して開く。萼は緑色で、花冠とともに5つに裂ける。雄しべは5個、雌しべは1個。日本のサクラソウの仲間ではもっとも大きい。 *クルマユリ(ユリ科ユリ属) 北海道、本州の大台ケ原山以北、四国の剣山の低山帯上部から高山帯の草地に生える多年草。鱗茎は直径約2の球形。茎は高さ20〜100。葉は茎の中央部では1〜3段に5〜20輪生し、長さ5〜15、幅0.7〜3.5の線状披針形から狭卵形、上部は小型で互生する。7〜8月、茎の上部に径5〜6の朱赤色の花が1〜数個、斜め下向きに開く。花被片には濃紅色の斑点があり、上半部はそり返る。雄しべと雌しべは花被片よりやや短い。 *クロクモソウ(ユキノシタ科ユキノシタ属) 別名キクブキ、イワブキ。本州近畿地方以北、四国、九州の亜高山帯から高山帯の渓流沿いの岩隙や水湿のある草地に生える多年草。葉は根生で、長さ2〜20の柄を持つ。肉厚で表面に縮毛があり、長さ1.5〜6、幅2〜8の腎円形、ふちに卵形の鋸歯がある。7〜8月、10〜40の花茎の先に円錐花序をつけ、暗紅紫色の小花を多数開く。花柄には細毛があり、花弁は質厚で5個、長さ約3の長楕円状卵形。花盤は環状に隆起して雄しべ10個を取り囲む。 *クロユリ(ユリ科バイモ属) 北海道と本州中部以北の亜高山帯から高山帯の草地に生える高さ20〜50の多年草。鱗茎は直径1.5〜3で多数の鱗片からなる。葉は長さ3〜10、幅1〜2.5の披針形から長楕円状披針形で、2〜3段に3〜5輪生する。花期は6〜8月で、茎の先に暗紫褐色で内側に黄斑のある広鐘形の花を1〜2個、下向きにつける。花被片は6個で、長さ2〜3の楕円形。花柱は基部近くまで3裂し、先は外側に曲がる。さく果は3稜のある倒卵形。 *コケモモ(ツツジ科スノキ属) 別名コバノコケモモ。北海道から九州の亜高山帯から高山帯の林縁や草地、岩礫地に生える常緑小低木。根茎は地中をはい、地上茎は高さ5〜20に直立しよく分枝する。葉は互生し、長さ0.6〜1.2、幅3〜7の楕円形から倒卵状楕円形、先は丸く、ふちは全縁。革質で表面は光沢のある深緑色。6〜8月に、枝先に2〜8個の赤みのある白色の花を下向きに開く。花冠は長さ約6〜7の鐘形で、浅く4裂する。液果は直径5〜7で、赤く熟し甘酸っぱい。 *コバイケイソウ(ユリ科シュロソウ属) 別名コバイケイ。北海道と本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の湿った草地に群生する大型の多年草。根茎は太く短い。茎は直立し、高さ50〜100、基部に枯れた葉の繊維が残る。葉は互生し、長さ8〜17、幅3〜5の広楕円形で基部は鞘になる。花期は6〜8月で、円錐花序に白色の花を多数開き、頂枝は両性花で、緑色の雄しべが目立ち、側枝には雄花がつく。6個の花被片は長さ6〜8の長卵形。雄しべは6個あり花被片より長い。 *コマクサ(ケシ科コマクサ属) 北海道と本州中部地方以北の高山帯の砂礫地に生える多年草。根茎は短く、ひげ根が砂中深くに埋まり広く伸びる。葉は根生でパセリの葉に似て3出状に細かく裂け、粉白色を帯びる。花茎は5〜15になり、7〜8月に淡紅色の花を茎頂に1〜7個、下向きに開く。花弁は4個あり長さ約2で、外側の2個は下部がふくらみ先がそり返る。内側の2個は中央がややくびれ、先は相接して外へ突き出る。さく果は長さ約1.2の狭長楕円形。 *ササユリ(ユリ科ユリ属) 別名サユリ。中部地方以西から九州の山地に生える多年草。鱗茎は白色で卵球形。茎にはつやがあり、高さ50〜100になる。葉はササに似て披針形で、茎の中部に互生し短い柄がある。花期は6〜8月で、茎の先端に長さ5〜10あまりの、淡紅色でロウト状鐘形の花を横向きにつける。内面に細かい点はなく、花被片は6個、外片は内片より幅が狭い。雄しべ6個、雌しべ1個で1束になり、少し花の外に出ている。葯は赤褐色。 *ザゼンソウ(サトイモ科ザゼンソウ属) 別名ダルマソウ。北海道、本州の中部地方以北の、低山帯の谷間の陰地に生える多年草。根茎は肥厚し直立する。長柄を持つ根生葉は叢生し、長さ30〜40、広く丸みのある心臓形で基部は耳形、先端は短くとがる。花期は3〜5月で、開葉前の葉束そばの根元から、下部を竹皮状の鱗片に包まれた紫黒色または緑白色の、肉厚で卵形の仏炎苞を出す。肉穂花序は仏炎苞につつまれ、短柄の楕円体で両性花を密につけ、亀甲模様をなす。液果は初夏に熟す。 *サワギキョウ(キキョウ科ミゾカクシ属) 北海道から九州の低山帯から亜高山帯の湿地に群生する多年草。茎は直立し50〜100。葉は多数互生し、長さ4〜7、幅0.5〜1.5の披針形、ふちには浅い鋸歯がある。茎の中部の葉は大きい。8〜9月、茎の上部に総状花序をなし濃青紫色で長さ2.5〜3の唇形の花を開く。上唇は2深裂しそり返り、下唇は3中裂して裂片のふちに長い軟毛がある。5個の雄しべは筒状に合着し、雄しべを包み込んで上唇の裂け目から上に突き出す。 *サワラン(ラン科サワラン属) 別名アサヒラン。本州中部地方以北、北海道、千島の低山帯から亜高山帯の湿原に生える多年草。偽鱗茎は1個。葉は直立して1個がつき、長さ5〜15、幅4〜8の線形で、基部は鞘になり茎を抱く。高さ15〜30の花茎の中程には微細な鱗片葉が1個出る。7月に茎の先に径約2の紅紫色の花を1〜2個つけ、あまり開かない。萼片と側花弁は倒披針形で長さ2〜2.5、唇弁は倒卵状楕円形で先は3浅裂し歯牙があり、内側には隆起した筋がある。 *サンカヨウ(メギ科サンカヨウ属) 北海道と本州伯耆大山以北の低山帯上部から高山帯下部の湿潤な半陰地に生える多年草。高さは30〜60で、茎や葉に縮毛がある。葉は2個で、下の葉は長柄を持ち、長さ10〜30、幅12〜35の腎円形で、ふちに粗い鋸歯がある。上の葉は小さく、ほとんど無柄。5〜8月、茎の先に花序を出し、径約2のわずかに芳香のある白色の花を数個つける。萼片6個は緑色で開花と同時に落ちる。花弁は6個で広披針形、液果は濃い青紫色の楕円形。 *シオガマギク(ゴマノハグサ科シオガマギク属) 別名シベリアシオガマ。北海道から九州の低山帯から高山帯の草地に生える多年草。茎は根元から分枝して斜上し、高さ30〜60。葉は下部で対生で、中部から互生になる。長さ4〜9、短柄のある狭卵形で、先はとがりふちには重鋸歯がある。花期は8〜9月で、茎の上部の苞葉状の葉腋に、長さ2くらいの唇形で濃淡のある紅紫色の花を開く。花冠は一方にねじれ、上唇は筒状、先はくちばし状にとがる。下唇は幅が広く1くらい、浅く3裂する。 *シコタンソウ(ユキノシタ科ユキノシタ属) 別名レブンクモマグサ。本州中部以北、北海道、千島、サハリンの亜高山帯から高山帯の岩間や砂礫地に生える多年草。茎は分枝してマット状に広がり、枝先にさじ状披針形で長さ5〜15、幅1.5〜3の葉を密に互生する。葉質は厚くて固く、周縁に剛毛があり、先は芒状に突出、裏は紅色をおびる。7〜8月、長さ2〜12、数枚の葉と短い毛が散生する花茎の先に1〜10個の径約1の花を円錐状に開く。花弁の中央部に黄斑があり、上部には紅色の細点がある。 *シコタンハコベ(ナデシコ科ハコベ属) 別名ネムロハコベ、ナギハコベ。北海道から本州中部以北の亜高山帯から高山帯の岸壁や砂礫地に生える多年草。茎は横ばいの地下茎から多数の地上茎を叢生、直立し、高さ3〜15になり無毛平滑で粉白色をおびる。葉は対生で長さ1〜3、幅3〜12の卵形で先は鋭くとがり、質はかたく白緑色をおびる。7〜8月に、茎の先に直径1.5くらいの白色のかわいらしい花が咲く。5個の花弁は長さ0.7〜1あり、萼片の2倍長く、2深裂する。雄しべは10個。 *シナノキンバイ(キンポウゲ科キンバイソウ属) 別名エゾキンバイソウ。北海道と本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の、湿潤な日当たりのよい草地によく群生する多年草。茎は上部で分枝し、高さは20〜60。根生葉は2〜3枚で、長柄を持ち径4〜15の掌状に5裂する。基部は深い心形で裂片は深裂する。上部の茎葉は小型。7〜8月、茎の先に径3〜4の橙黄色の花をつける。花びらのように見えるのは萼片で5〜7個、花弁は長さ6〜9の線形で、濃い橙色。雄しべは花弁より長い。 *ジムカデ(ツツジ科ジムカデ属) 北海道と本州中部地方以北の高山帯の日当たりのよい多湿な草地や岩礫地に生える常緑小低木。茎は直径約1の針金状で、地をはって広がる。葉は鱗片状に密生し、長さ1.5〜3、幅約1の楕円形または広披針形でほとんど無柄、厚く光沢がある。7〜8月、白色の花を枝先に1個下向きに開く。花冠は長さ4〜5の広鐘形、5深裂する。萼は紅紫色で5裂。雄しべは10個で葯に角状の突起がある。さく果は径約4で上向きにつく。 *シモツケソウ(バラ科シモツケソウ属) 別名クサシモツケ。日本の本州、四国、九州に分布する多年草。低山帯〜亜高山帯のやや湿った草地に群生している。ときに観賞用に植栽される。樹高20〜100。茎は直立し細い。葉は有柄で奇数羽状複葉、頂小葉は大きく、心臓状円形で掌状に5〜7中裂し長さ7〜15、裂片は先がとがり、縁に重鋸歯がある。側小葉は8〜10対、下部ほど小さくなる。托葉は半円状。花は6〜8月、茎頂に集散状散房花序をつけ、淡紅色、径4〜5の小花を多数開く。雄しべは多数。 *シモバシラ(シソ科シモバシラ属) 別名ユキヨセソウ。関東地方以西、四国、九州の山地の木陰に生える多年草である。茎は四角形でかたく、高さ60くらい、葉は対生し、短い柄があり、広皮針形で先はとがり、長さ8〜20、幅3〜5.5、ふちには鋸歯があり、うすい洋紙質で脈上に細毛があり、裏には腺点がある。秋、枝の上部の葉のわきに長さ6〜9の総状で一方に花をつける花穂を出し、短い柄のある白色で小形の唇形花を多数つける。萼は長さ約3、等しく5裂する。花冠は長さ約7、上唇は浅く2裂、下唇は3裂し中央片はやや大きい。霜柱で冬枯れた茎に氷の結晶ができるのでこの名がつけられた。 *シャクナゲ(ツツジ科ツツジ属) ホンシャクナゲの別名。本州の宮城県から中部地方の亜高山帯に生える常緑低木。高さ2〜4mになり、枝は直立したり曲がるなど環境によって変わる。葉は革質で大きく、枝先に輪状に互生する。長さ10〜20、幅3〜5の倒披針形から狭長楕円形で表面に光沢があり、裏面は灰褐色で軟毛がある。花期は4〜6月で、紅紫や白色の花が枝先にも多数集まって、横向きに開く。花冠は径約5の広ロウト形で7浅裂し、裂片の先はへこむ。雄しべ14個、さく果を結ぶ。 *シュウメイギク(キンポウゲ科イチリンソウ属) 別名キブネギク。本州から九州に分布し、山野や人里近くの林のふち、石垣の間などに生える多年草。高さは50〜80くらいで、長い地下茎を引く。直立した茎と葉は有毛、根生葉には長柄、茎葉には短柄がある。根生葉は3個の小葉があり、3〜5浅裂し、長さ5〜7、幅3〜7、鋸歯がある。9〜11月に、上部が分岐し葉状苞を輪生して、花柄の先に径5ほどの菊の花に似た紅紫色の花を、1個ずつ上向きに開く。花びら状の萼片が30個くらいある。 *ショウジョウバカマ(ユリ科ショウジョウバカマ属) 北海道から九州の平地から亜高山帯のやや湿った林下に生える常緑の多年草。葉は根生し長さ5〜20、幅1.5〜4の倒披針形から狭長楕円形でロゼット状に広がる。厚く光沢があり、古葉の先端から新しい苗ができる。4〜7月、葉の中心から10〜20の花茎をだし、鱗片葉を数枚つけ、総状花序に淡紅紫色から濃紅色、または白色の花をつける。花被片は6個で長さ約1の線状披針形。雄しべは6個でよく目立つ。 *シラネアオイ(シラネアオイ科シラネアオイ属) 本州中部地方以北、北海道の低山帯から亜高山帯の林下や湿った草地などに生える多年草。1科1属1種の日本特産種で、高さ15〜30、花後60ほどになる。根茎は横にはい、根生葉または花茎を1本出す。茎の上部に長柄を持つ2枚の葉が互生し、長さ、幅とも20〜25。掌状に5〜11裂し、裂片の先は鋭くとがり、ふちには鋸歯がある。花期は5〜7月で、径5〜10の美しい淡紅色の花を茎頂につける。花びら状の萼片が4個で、花弁はない。 *シラヒゲソウ(ユキノシタ科ウメバチソウ属) 本州中部以西の山地や山の湿地に生える多年草。短い根茎から高さ10〜30の3〜8個の花茎と数個の根生葉を束生する。葉は長柄があり、茎葉は無柄で数枚が互生し、多少茎を抱く。葉身は長さ1.5〜4の広卵形、基部は深い心形、先は丸い。8〜9月、花茎の先に径2〜2.5の白色の花を1個開く。花弁5個は卵形で長さ9〜12、ふちは糸状に深裂する。萼片5個、仮雄しべは3裂して先端は球状。柱頭とさく果は4裂する。 *シロウマアサツキ(ユリ科ネギ属) 本州中部以北と北海道の高山帯の湿った砂礫地に生える多年草。鱗茎は長さ2〜5の狭卵形で、灰褐色の薄皮で包まれる。葉は円筒形で長さ20〜35、直径3〜5、基部は鞘になる。花期は7〜8月で、高さ20〜60の中空の花茎を直立し、頂に散形花序に紅紫色の花を多数つける。花序は直径3〜4、つぼみは膜質の総苞に包まれる。花被片は6個で長さ6〜8の卵状披針形で先はとがる。雄しべ6個と雌しべは花被片とほぼ同じ長さ。 *ジンヨウキスミレ(スミレ科スミレ属) 北海道の大雪山系の高山帯の林縁や沢筋の草地に特産する多年草。根茎は細長く横に伸び、先端の節から根生葉や茎を出す。茎は、高さ8〜20で、短毛を散生する。根生葉は1枚、茎葉は長さ1〜3、幅2.5〜6の腎心形で、ふちには楕円形の鋸歯がある。薄くてやわらかく、通常3枚で、上の2枚は対生状で小さい。花期は7〜8月で、葉腋から花柄を出し、径1〜1.5ほどで側弁に短毛のある淡黄色の花をつける。距はごく短い。 *スカシユリ(ユリ科ユリ属) 紀伊半島と新潟県以北に分布し、海岸の岩場や崖に生える多年草。葉は厚く長さ4〜10の披針形。茎の高さは20〜60で、下部には乳頭状の突起があり、若い時には白色の綿毛がある。花期は6〜8月で、茎の上部に黄赤色の花を1〜3個、上向きにつける。花被片は長さ7〜10の倒披針形、下部は狭くなり、各花被片の間が隙間になっている。濃い色の斑点があり、内面の中肋に沿って毛が密生する。雄しべは雌しべより短く葯は赤褐色。 *スズラン(ユリ科スズラン属) 別名キミカゲソウ。北海道から九州に分布し、山地帯から高山帯の丘陵や多湿地に生える多年草。地下茎は細長く、膜質の鞘状の葉の間から2〜3枚の卵状楕円形で、長さ10〜18、幅3〜7の葉を出す。花期は4〜7月で、鞘状の葉の中から高さ15〜25の花茎を出し、上部にまばらな総状花序をつけ、白色で芳香のある小花を十数個下向きに開く。花被片は鐘状で6裂し、先端は外側にそり返る。雄しべ6個、花柱1個、赤い球状の液果をつける。 *ズダヤクシュ(ユキノシタ科ズダヤクシュ属) 北海道、本州(近畿地方以東)、四国などの亜高山帯の木の下に生える多年生草本。根生葉は3〜5に浅く裂け、不整の鋸歯があり、腺毛がある。花茎は高さ10〜25くらい、2〜4枚の柄のある葉を互生する。6〜7月頃に頂上に総状花序となって白色の小花をつける。萼片は5個、広い皮針形で白色。長さ2くらい。花柄にも花茎にも微小な腺毛がある。花弁は線形で目立たない。日本名は喘息薬種という意味である。長野県ではぜんそくをズダというが、この植物がぜんそくによくきくというので名づけられた。 *セキヤノアキチョウジ(シソ科ヤマハッカ属) 関東から中部地方の山地の木陰に生育する多年草。全体がアキチョウジとよく似ている。高さは30〜90、葉は対生し、長楕円状狭卵形、ふちには浅い鋸歯があり、先は鋭くとがっている。花期は9〜10月で、茎の先や葉の脇から1〜2.5の長い花柄を出し、幅の広い集散花序をなし、青紫色の唇形花をつける。アキチョウジとくらべ、花柄に毛がなく、萼の上唇の裂片が披針形でとがっている。 *センジュガンピ(ナデシコ科センノウ属) 本州中部地方以北の低山帯から亜高山帯の林縁や樹下など、湿った場所に生える多年草。茎は叢生してやわらかく、上部で分枝し高さ30〜100。葉は対生し、披針形で長さ4〜15、幅1〜3.5、先は鋭尖形。7〜8月に、茎先に無毛の小花柄を出し、径2〜3の白色の花を平開する。花弁は5個で先が2浅裂、ふちがふぞろいに細裂する。雄しべ10個、花柱5個。萼は花後に鐘形になり、先は5裂する。さく果は卵球形、先端は5裂する。 *センブリ(リンドウ科センブリ属) 別名トウヤク。北海道から九州に分布し、日当たりのよい山野に生える2年草。根は黄色をおびる。茎は暗紫色で四角張り、枝分かれして高さ10〜25になる。葉は対生で線形。花期は8〜11月で、茎の上部の葉腋に柄を出し、円錐状に紫色の筋のある白色の花を上向きにつける。萼、花冠ともに5深裂し、線形でとがる。雄しべ5個。全草を乾燥させ、煎じて胃腸薬として服用されるが、千回振り出してもまだ苦いことからこの名がついた。 *センボンヤリ(キク科センボンヤリ属) 別名ムラサキタンポポ。日本では各地の山や丘の日当たりのよい草原に生える多年草で、根茎は短く、葉は根生してロゼット状となる。春の葉は小さく、卵状心臓形、下面にはとくに白いくもの糸状の毛が多い。夏から秋には大型で長い倒楕円形の葉が出て、へりは羽状に中裂、頂裂片は大きく、側裂片は互にやや離れる。花にも2型があって、春のは花茎が高さ5〜15で先に1.5内外の頭花をつけ、頭花の周辺には少数の舌状花がある。舌状花は白色で裏は淡紫色、先端には3歯があり、別に基部に小さい2裂片がある。夏から秋にかけては花茎が30〜60にも伸び、先端に管状花ばかりが集まる閉鎖花が着く。閉鎖花の総包は長さ約15、そう果は皆結実し、冠毛は1ぐらいで茶褐色である。日本名は千本槍で秋に林立する多数の閉鎖花の花茎を槍にたとえたもの。ムラサキタンポポは春の花色にもとづく。 *タカネバラ(バラ科バラ属) 別名タカネイバラ、ミヤマハマナス。北海道から中部地方と四国の山地の岩場などに生える落葉低木。高さは15〜100になり、枝は暗紅色で、長さ5ほどのトゲがほぼ直角に密生するが、出ない枝もある。葉は奇数羽状複葉で小葉が3〜4対あり、長さ1〜3.5、幅0.8〜1.8の楕円形か倒長卵形で先は丸く、ふちに鋭い鋸歯がある。頂小葉は有柄。6〜7月、新枝の先に径4〜5の淡紅色の花を1〜2個、横向きにつける。 *タカネビランジ(ナデシコ科マンテマ属) 南アルプスの高山帯の岩場や礫地に生える小型の多年草。根茎は長く横ばいし、分岐して株をつくる。茎は高さ10〜30、下向きの細毛があり、上部には短い腺毛が交じる。葉は披針形で長さ1.5〜4、幅0.3〜1、先は鋭くとがり、ふちに突起状の微鋸歯がある。7〜8月、長さ1.5〜3の花柄を持つ。径2.5〜4の5弁花を上向きに1〜数個開く。花弁は紅紫色か白色で、先は浅く2裂する。萼筒は長さ1〜1.2の筒形で腺毛がある。 *タカネミミナグサ(ナデシコ科ミミナグサ属) 別名ホソバミミナグサ。北海道南西部と本州の北アルプスの高山帯から低山帯の岩礫地や砂礫地に生える多年草。茎は、下部で分枝し高さ5〜20、上部には腺毛がある。葉は対生で長さ1〜3、幅4〜6の線状披針形か狭卵形で、表面にまばらな毛と縁毛がある。花期は5〜8月で、径1.5ほどの白色の花を3〜9個、集散花序につける。萼片と花弁は5個ずつあり、萼片は長さ5ほどで先が2浅裂し、花弁は長さ0.7から1で、先が2深裂する。 *タテヤマリンドウ(リンドウ科リンドウ属) 別名コミヤマリンドウ。本州中部地方以北と北海道の亜高山帯から高山帯の湿地やミズゴケ高層湿原に生える多年草。根生葉はロゼット状に広がり、長さ5〜10、幅約4の卵状楕円形。茎葉は3〜4対出て長さ5〜8の披針形、基部は合着して茎を抱き、やや多肉で小さい。花期は6〜8月で、高さ5〜10の茎を単立または下部で分枝して、先端に淡青紫色から帯紫白色の花を1個ずつつける。花冠はロウト状鐘形で長さ1〜2で5裂し、副裂片は裂片の半長。 *タニギキョウ(キキョウ科タニギキョウ属) 北海道から九州の低山帯から亜高山帯の林縁や木陰など湿ったところに生える多年草。茎は高さ5〜15で、細くやわらかい。葉は互生して柄をもち、長さ0.8〜2.5、幅0.6〜2の卵円形から広卵形で、表面には短毛が散生してふちに粗い鋸歯がある。花期は5〜8月で、茎の先や上部の葉腋から糸状の花柄を出し、先に鐘形で白色またはやや紫色をおびた花を1個上向きにつける。花冠は長さ4〜8で、5深裂する。萼も5個ある。 *タマガワホトトギス(ユリ科ホトトギス属) 北海道から九州の低山帯や谷筋の湿った場所に生える多年草。茎は斜めに出ることが多く高さ30〜100、上方はやや曲がる。葉は互生し長さ5ほどの広楕円形、先は急に鋭くとがり、基部は心臓形で茎を抱く。7〜9月、茎葉の先に腺毛を密生する散房花序を出し、鮮黄色で内側に紫褐色の斑点のある、径25ほどの花を数個つける。花被片は披針形で6裂し、外花被片の下部は袋状。雄しべ6個、花柱1個、柱頭は3分裂しさらに2裂する。 *チゴユリ(ユリ科チゴユリ属) 北海道から九州の丘陵帯から低山帯の明るい林内に生える多年草。地中に白色の根茎と匐枝を伸ばす。茎は高さ15〜40で、通常は単一。葉は互生で短柄を持ち、長さ4〜7、幅1.5〜3.5の長楕円形か楕円形、質は硬い。花期は4〜5月で、茎の先に1〜2個の白色の花を下向きにつける。花被片は長さ1〜1.5、6個あり正開する。雄しべは6個、子房は上位で3室に分かれ、花後に球形の小さい果実を結び、熟して黒くなる。 *チシマツガザクラ(ツツジ科チシマツガザクラ属) 本州北部、北海道、千島、カムチャツカの高山帯の水分のある礫地や岸壁に生える1属1種の常緑小低木。茎は細く、地をはい分枝して広がる。葉は革質で密に互生し、長さ2〜4、幅約1の線形。裏面の主脈には毛が密生し、両縁が裏側に巻く。7〜8月、茎の先に2〜3の花柄を出し、2〜10個の淡紅色の花を総状花序につける。花冠は径約7で4全裂し、萼は有毛で4深裂する。雄しべ4個、子房は4鈍稜と4縦溝がありほとんど無毛。 *チョウカイフスマ(ナデシコ科ノミノツヅリ属) メアカンフスマの別名。北海道と本州北部の高山帯の岩場や砂礫地に生える多年草。根茎は横にはい、枝分かれしてしばしば群落をつくる。茎は四角く、高さ5〜10、縮毛を密生する。葉は茎の節々から対生し、長さ0.6〜3の長楕円状披針形で、厚く光沢があり、裏面脈上とふちに毛が生える。花期は7〜8月で、白色で直径約1.5の花を頂生する。花弁と萼片は共に5個で、ほぼ同じ長さ。雄しべは10個、花柱は3個、花後に花柄は下垂する。 *チョウノスケソウ(バラ科チョウノスケソウ属) 別名ミヤマグルマ、ミヤマチングルマ。北海道と本州中部地方の高山帯の日当たりのよい岩礫地に生える常緑矮小低木。茎は分枝しマット状に広がる。葉は厚めでかたく、長さ1〜2.5、幅0.6〜1.5の楕円形、表面の脈はへこみ、裏面には白い綿毛が密生する。花期は6〜8月で、直立した花柄の先に、帯黄白色で径2〜2.5の8弁花を1個ずつつける。雄しべ、雌しべは多数ある。花後、2〜3に伸びた、羽毛状の花柱が残る。 *チングルマ(バラ科チングルマ属) 別名イワグルマ、チゴノマイ。北海道と本州中部地方以北の高山帯の雪田近くなど、水湿の多い岩礫地や草地に群生する落葉小低木。茎は地をはい分枝して直立する。葉は奇数羽状複葉で、小葉は3〜5対、厚く光沢がある。頂小葉は長さ1〜1.5の倒卵形で深鋸歯がある。6〜8月、茎の先に短毛を密生した3〜10の花柄を出し、先に径2〜3、雄しべ、雌しべを多数もつ帯黄白色の花を1個開く。花弁は5個でふちは波打つ。花後、花柱がのび羽毛状になる。 *ツガザクラ(ツツジ科ツガザクラ属) 東北地方南部から鳥取県以北、四国の亜高山帯から高山帯の岩隙や礫地、草原に生える常緑小低木。茎の基部は横ばいし、上部は分枝して斜上し、高さ6〜35、若枝にはとげ状の毛がある。葉は長さ5〜10、幅1ほどの線形で密に互生し、とげ状の細鋸歯があり裏面には白い微毛が密生する。7〜8月、枝先に暗紅色で毛のある花茎を数本だし、先端に淡紅色の花を横向きにつける。花冠は鐘形で浅く5裂し、長さ5〜8、先は反曲する。 *ツバメオモト(ユリ科ツバメオモト属) 本州の奈良県以北から北海道の、低山帯上部から亜高山帯の林内など半陰地に生える多年草。葉は2〜5枚が根生し、長さ15〜30、幅3〜9の長楕円形、厚みがありやわらかく、はじめはふちに軟毛がある。5〜7月、葉の間から15〜30の花茎を出し、先端に総状花序に、1〜2の花柄のある白色の小さな花を数個開く。花被片は6個で長さ1〜1.5の長楕円形。花後、花茎は40〜70に伸び、濃藍色で径8ほどの球形の液果を結ぶ。 *ツマトリソウ(サクラソウ科ツマトリソウ属) 北海道、本州中部地方以北、四国の亜高山帯から高山帯の半陰の林床や草地に生える多年草。茎は直立し高さ5〜20。葉は上部に輪生状に互生し、長さ2〜7、幅1〜2.5の広披針形から倒卵形で先はとがる。6〜7月、葉腋から2〜3の花柄を出し、先に白色の花を1個上向きに開く。萼は7深裂、花冠は直径1.5〜2で、7中裂し、裂片の先が赤くふちどられる。雄しべは7個で、さく果は径2.5〜3で、熟すと縦に裂ける。 *ツルコケモモ(ツツジ科ツルコケモモ属) 北海道と中部地方以北の亜高山帯から高山帯の高層湿原に生える常緑小低木。茎は細く、ミズゴケの中を横にはって分枝する。葉は2年生、革質で互生し、長さ約5〜10、幅5の卵状楕円形から狭卵形で、裏面は白色。6〜7月、茎の先に2小苞ある細い花柄を出し、淡紅紫色の2〜5花を下向きに開く。花冠は4全裂し、裂片は長さ約7で反曲する。雄しべは4個。液果は1ほどで赤く熟し、ジャムやジュースとして食される。 *テガタチドリ(ラン科テガタチドリ属) 別名チドリソウ。北海道と本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の草地に生える多年草。地中に掌状の根とひげ根を伸ばす。茎は直立し、高さ30〜60。葉は互生し、長さ8〜16、幅0.6〜3の広線形で、基部は茎を抱き6〜10個がつく。7〜8月に、茎先の総状花序に淡赤紫色の小花を密生する。萼片は長さ4〜5で、側萼片は平開する。側花弁2個が合わさり、かぶと状になり、唇弁は3裂して裂片の先は丸い。距は子房より長く、1.5〜2ある。 *トキソウ(ラン科トキソウ属) 北海道から九州の日当たりよい湿地に生える多年草。茎は直立し、高さ10〜30。葉は茎の中部に、長さ4〜10、幅0.7〜1.2の披針形か線状長楕円形が1枚だけつく。5〜7月、茎の先に紅紫色で径2ほどの花を1個つける。花の下には子房より長い葉状の苞葉がつく。3個の外花被片は長楕円状披針形で、上半部は外巻き、内面は淡い。内花被片は倒披針形で、唇弁は3中裂し、中裂片がもっとも大きく、肉質の突起が密生する。 *ナガバキタアザミ(キク科トウヒレン属) 本州北部早池峰山、北海道および千島の高山帯から亜高山帯のやや湿った草地にはえる多年草。茎は直立、草丈30内外、下部は無毛、梢に縮毛を密生。根生葉は、ふつう花時に枯れ下葉ともに長柄あり、長さ5〜9。上葉は無柄。花期8〜9月、淡紫色の長さ9くらいの筒状花からなる。数個の頭状花を散房状につける。総苞は長さ8〜9、総苞片は4〜6列、先端黒紫色でくも毛をつける。ときに白花がある。 *ナンブイヌナズナ(アブラナ科イヌナズナ属) 別名ユウバリナズナ。本州の早池峰山、北海道の夕張山地、日高山脈北部の蛇紋岩礫地に生える多年草。全株に星状毛を密生する。茎は下部から分枝して高さ5〜10。根生葉は、長さ1内外で根元に密集する。茎葉は長さ5〜8、幅1〜2の狭倒披針形から線状披針形。6〜8月に、茎先に黄色で径6内外の花を10〜20個総状につける。花弁は4個で、長さ約5の広倒卵形で先がへこむ。短角果は長さ3.5〜6の倒卵状楕円形で、多少ねじれている。 *ニッコウキスゲ(ユリ科キスゲ属) 別名ゼンテイカ。本州の中部地方以北の亜高山帯の草地や湿地に群生する多年草。葉はすべて根生で長さ45〜100、幅1〜2.5の線形で主脈が目立ちやわらかい。花期は6〜8月で、葉の間から高さ50〜80の花茎を出し、先に橙黄色の3〜6花をつける。花は朝開き、夕方にしぼむ1日花で、直径6のロウト状鐘形、花柄は長さ1〜2、花被片6個は下半部が合着して長さ1〜2の花筒になる。雄しべは6個で花被片より短く、葯は黒紫色。 *ハクサンイチゲ(キンポウゲ科イチリンソウ属) 北海道から本州中部地方以北の高山帯の日当たりのよい湿潤な草地に生える多年草。葉柄は長さ8〜30、根生葉は3出複葉で直径5〜10のほぼ円形、各裂片は2〜3裂し、さらに細かく裂ける。両面に伏毛があり、ふちには短い開出毛がある。6〜8月、白い長毛が密生する花茎を出し、先に根生葉に似た総苞をつけ、その中心から数本の花柄を出して先に直径3〜2.5の白い花を散形状につける。花弁状の萼片は5〜7個で花弁はない。 *ハクサンコザクラ(サクラソウ科サクラソウ属) 別名ナンキンコザクラ、タニガワコザクラ。本州の飯豊山地から白山まで、日本海側の亜高山帯から高山帯の湿潤な草地に群生する多年草。葉は根生して長さ1.5〜5、幅1〜2.5の倒卵状くさび形で、上半部にふぞろいのとがった鋸歯が10〜25個ある。7〜8月、葉の間から高さ5〜20の花茎を伸ばし、頂に1〜10花を散形につける。花冠は径約2で、筒部の長さ7〜8、5深裂し、裂片はやや深く2裂する。 *ハクサンチドリ(ラン科ハクサンチドリ属) 本州中部地方以北と北海道の亜高山帯から高山帯の草地に生える多年草。塊根は掌状に分裂し、茎は高さ10〜40に直立、3〜6個の葉を互生する。葉は長さ4〜15、幅0.5〜3の倒披花形から披針形で、茎は基部を抱く。6〜8月、総状花序に紅紫色の径約15の花を数個から十数個つける。萼片と花弁は共に細くとがり、披針形の苞は鋭尖形で、長くて目立つ。唇弁の先は3裂し、中裂片の先は鋭くとがり、ふちに微細な円突起が並ぶ。 *ハナイカリ(リンドウ科ハナイカリ属) 北海道から九州の低山帯上部から高山帯の日当たりのよい草地に生える多年草。茎は直立、分枝し高さ10〜30。葉は対生し長さ2〜6の長楕円形で先がとがり、3行脈、質はやわらかい。花期は8〜9月で、葉腋から細い花柄を数本立てて、淡黄色の船具の錨に似た花をつける。萼は緑色で4個に深く裂ける。花冠は長さ6〜10の鐘形で4深裂し、裂片の先は緑色に、下部は線形の距になり内側にそり返る。雄しべ4個、雌しべ1個。 *ハヤチネウスユキソウ(キク科ウスユキソウ属) 岩手県早池峰山の高山帯の日当たりのよい蛇紋岩礫地に特産する多年草。全体が灰白色の綿毛におおわれ、花茎は高さ5〜30になる。無花茎の葉はロゼット状。花茎の茎葉は長さ2〜5、幅3〜6の線状披針形で、6〜12個がつき、先は次第に細くとがり、基部も細くなって茎を抱く。表面は裏面より毛が少なく緑色。7〜8月、茎頂に直径7〜9の頭花が4〜10個密集し、まわりを5〜15個の大きさの違う星状に開いた苞葉に囲まれる。 *ヒイラギソウ(シソ科キランソウ属) 関東、中部地方の山地の木陰に生育する多年草。葉は広卵形で対生し、ヒイラギの葉のようにふちは鋭く切れ込み、長さ3〜5の柄がある。茎は直立して数本が群がり、高さ30〜50。花は上部の葉の脇に2〜3個ずつついたものが3〜5段になる。花冠は青紫色で長さ約3、上唇は短く2裂し、下唇は3裂して中央の裂片が大きく、前に突き出ている。雄しべは4個で、うち2個が長い。果実は4個の分果からなり、長さ2.5ほどである。 *ヒゴスミレ(スミレ科スミレ属) 本州から九州の山地の日当たりのよい草地に生える多年草。小型で毛がなく、葉は長さ1.5〜2.5、柄は長さ4〜12。3全裂し、側小葉は基部から2全裂する。各小葉は柄があり、羽状に全裂またはそれに近く裂ける。裂片は線形で、さらに少数の切れ込みがある。4〜5月、高さ5〜12の花柄の先に白色で芳香のある花をつける。花弁は長さ10〜15、側弁には毛が散生し、唇弁には紫色の条がある。萼片は披針形、距は長さ4〜6。 *ヒナザクラ(サクラソウ科サクラソウ属) 本州の東北地方の亜高山帯から高山帯の雪田周辺など湿った草地に生える多年草。根生葉はやや肉質で長さ2〜4、幅0.5〜1.5の倒卵形。上部に5〜9個の歯牙があり、基部は細く葉柄状になる。花期は7〜8月で、高さ7〜15の花茎を伸ばし、1〜8個の白色の花を散形につける。花冠は直径約1で5裂し、裂片はさらに2中裂、やや斜めに開く。筒部は約4で萼の2倍、のどは黄色。萼は鐘形で5深裂する。さく果は長さ約9。 *ヒメサユリ(ユリ科ユリ属) 別名オトメユリ。山形県、福島県、新潟県の低山や深山の草原に生育する多年草。鱗茎は径2〜3の卵球形。茎は直立し、円柱形で高さ30〜80。葉は長さ5〜10、幅3〜3.5の広披針形か狭長楕円形で短い柄がある。花期は5〜8月で、淡紅色の香りのよいロウト状鐘形の花を1〜3個、横向きにつける。花被片は6個あり、長さ5〜7の倒卵状披針形、先がわずかに外側にそり返る。雄しべは6個あり、花被片よりずっと短く、葯は黄色。 *ヒメシャガ(アヤメ科アヤメ属) 北海道の渡島半島と本州から九州北部に分布し、山地の乾燥した樹下に生育する多年草。葉は淡緑色で、長さ20〜40、幅5〜15の剣形、先は鋭くとがる。花茎は細く10〜30、花期は5〜6月で、淡紫色で径4〜5のシャガに似た可憐な花を咲かせる。花被片は全縁で、3個ある外花被片は大きな長楕円形で、中央は白色、紫の筋と黄斑がある。内花被片も3個で淡紫色。花柱は3つに分かれる。さく果は球形で径約8、3裂する。 *ヒメシャジン(キキョウ科ツリガネニンジン属) 本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の岩礫地や岩間に生える多年草。茎は直立し高さ10〜60。葉は互生し長さ3〜8、幅0.5〜2の披針形で、先は鋭くとがり、基部は円形かくさび形、ふちには鋸歯がある。7〜9月、茎先に青紫色の花を総状花序に1〜数個、下向きにつける。花冠は長さ1.5〜2.5の鐘形で先は5裂する。花柱は花冠とほぼ同じ長さかやや長い。花盤は坏形。萼は5裂し、線形で開出し、ふちに細かい歯牙がある。 *ヒメレンゲ(ベンケイソウ科キリンソウ属) 別名コマンネンソウ。関東以北から九州の谷間や、山地の湿った岩土や岩壁の間に生える多年草。茎は根元から多数分岐して横にはい、花をつけない茎はへら形のロゼット状に叢生する。茎葉の下部は丸いさじ形の葉を多数つける。花茎は直立し、高さ5〜10、互生する広線形の葉をつけ、4〜6月に、上部が枝分かれして、苞葉と黄色の小さな花を多数つける。萼片は5個で広披針形、花弁5個、雄しべ10個、子房5個。熟した子房を真上から見ると星形に見える。 *ヒロハアマナ(ユリ科アマナ属) 関東から近畿地方と四国の低湿の野原に生える多年草。鱗茎は卵球状。葉は2枚で対生し、長さ約30、幅7〜15の線形、質はやわらかい。表面は暗緑色で、中央の主脈に沿って白っぽい帯がある。葉先は狭くなりときには紅色を帯びる。3〜5月に、葉の間から15ほどの花茎を出し、先に白色で、外面に薄紫色の筋のある広い鐘形の花を1つ開く。花被片は6個、雄しべの長さは均等で、雌しべがこれより高い。円柱形のさく果を結ぶ。 *フガクスズムシソウ(ラン科クモキリソウ属) 本州の富士山周辺と近畿地方の大台ケ原山などに分布する多年草。ブナの樹上に着生することが多く、クモキリソウとよく似ているが全体的に小さい。肥大した偽球茎から高さ3〜10の茎を出す。葉は根元につき長さ1.5〜5の卵形、6〜8月に淡暗紫色の5〜15花を総状につける。花被片は開出し、側花弁は萼片より狭く下垂する。唇弁は紫色で強く反巻する。側萼片が広く、巻かないで側方に開出する。柱頭の先に狭い翼がつく。 *フクジュソウ(キンポウゲ科フクジュソウ属) 北海道から九州まで分布するが、西日本には少ない。落葉樹林下に生える多年草で、根茎は短くやや肥厚し、多数のひげ根を出す。茎は直立し高さ15〜30、下部に芽を包む鞘状の大きな鱗片を残し、その脇から枝が伸びる。葉とともに毛はない。葉は長柄を持ち互生し、3〜4回の羽状複葉。2〜4月に、新葉とともに茎の先に黄色い、径3〜4ほどの花を上向きに開く。暗緑紫色の萼片が数個と長さ2ほどの花弁が20〜30個ある。 *フジアザミ(キク科アザミ属) 関東、中部地方の低山帯中部から高山帯の日当たりのよい砂礫地、河原などに生える多年草。日本産のアザミの中では頭花が最大、高さは50〜100で、根は食用になる。茎はくも毛があり叢生して途中分枝する。根生葉はロゼット状で花時にも枯れず、長さ50〜70、幅15〜30の狭長楕円形から長楕円形で羽状に中裂する。ふちには刺があり、両面に白いくも毛がある。8〜10月、紅紫色で径7〜10の頭花を長柄の先に下向きにつける。 *フジザクラ(バラ科サクラ属) マメザクラの別名。関東、中部地方の丘陵地から亜高山帯に見られる落葉小高木。特に富士山周辺に多産する。幹は基部から分枝して高さ3〜5m、径30になり、樹形は傘状。葉は長さ2.8〜5の倒卵形で、先は長く尾状に伸びた鋭尖形、基部は円形、両面に短毛が生え、ふちには鋭い重鋸歯がある。3〜5月、前年の枝の葉腋に径2〜2.5の白色または淡紅色の1〜3花が散形状に下向きに開く。萼は紅色をおび、花弁は倒卵形で、先はわずかにくぼむ。 *フタバアオイ(ウマノスズクサ科カンアオイ属) 別名カモアオイ。本州、四国、九州に分布し、山地の林下に生える多年草。茎は多肉で平滑な円柱形、汚紫褐色。3〜5月に、茎の先端に2〜3個の鱗片が互生し、扁平な芽になり、中から長い茎を出す。その先にアオイに似た葉が2枚、相接して出る。葉は薄く、両面に白い短毛があり、長さ4〜8の卵心形、先はとがり基部は深い心形。花は紫褐色で径約1.5、基部に1個つく。萼は筒形で、三角状に3裂し外側に強くそり返る。雄しべ12個、柱頭は6個。 *ベニバナイチゴ(バラ科キイチゴ属) 中部地方の多雪地帯と北海道南西部の亜高山帯から高山帯の林縁や渓流沿いなどの水湿地に生える落葉小低木。よく分枝し高さは1m、若枝は緑色で軟毛があり、2年目からは淡褐色で毛もなくなる。葉は長柄があり羽状複葉、頂小葉がもっとも大きく、長さ3〜8の広卵形、ふちに重鋸歯と両面に毛があり、先はとがる。6〜8月、有毛でやや湾曲した花柄の先に、濃紫色で長さ1.5〜2の花を下向きに開く。集合核果は径3ほどで黄赤色。 *ベニバナイチヤクソウ(イチヤクソウ科イチヤクソウ属) 別名ベニイチヤクソウ。北海道と本州中部地方以北の低山帯から高山帯下部の林内や草地に生える半寄生の多年草。しばしば群生する。葉は根生で、長柄を持ち、長さ3〜5、幅2.5〜4.5の円形から広楕円形、ふちには細鋸歯がある。表面は光沢があり、脈がへこむ。花期は6〜8月で、1〜3枚の鱗片葉のある、高さ10〜30の花茎を出し、7〜15花を総状につける。花冠は濃桃色で径1.2〜1.4、花弁、萼片ともに5個、雄しべ10個、花柱は湾曲する。 *ホウオウシャジン(キキョウ科ツリガネニンジン属) 南アルプス鳳凰三山の岩隙や礫地に特生する多年草。茎は細く垂れ下がり、長さ4〜17、平滑で暗紫色をおびる。根生葉は有柄で広披針形から卵形、茎葉は多数互生し、長さ3〜10、幅0.7〜1.4の狭卵形から線形、上部ほど細くなる。やや鎌状に湾曲して先はとがり、ふちには浅鋸歯がある。8〜9月、茎先や上部の葉腋に青紫色の花を細い花柄に下垂して開く。花冠は長さ1.5〜1.8の鐘形で、先は5裂し、萼は線形でそり返る。 *ボタンキンバイ(キンポウゲ科キンバイソウ属) 北海道の利尻島とサハリンの高山帯の日当たりのよい適湿な草地に生える多年草。茎は叢生し高さ20〜60、ときに分枝する。根生葉は長柄を持ち、腎形で長さ12、幅19ほどで3全裂し、側裂片は幅広で2深裂、中央の裂片は楕円形で3深裂する。茎葉は通常3枚で上部は小型、葉柄の基部はふくらむ。7〜8月、茎先に橙黄色で径3〜5の半球形の花を1〜2個開く。花弁状の萼片は9〜16個、花弁は5〜7個で雄しべより短く直立する。 *マイヅルソウ(ユリ科マイヅルソウ属) 北海道から九州に分布し、低山帯から亜高山帯の林下に生える多年草。根茎は細長くはい、ところどころから茎を直立させる。葉は2〜3枚が互生、長さ2〜4の柄を持ち、卵心形で長さ3〜10、基部は深い心形で先はとがり、鶴が羽を広げた形に似ている。花期は5〜7月で、茎の上部に総状花序に、白色の小花を十数個つける。花被片は4個で長さは2〜3の楕円形、平開して、先はそり返る。雄しべは4個。液果は赤く熟す。 *ママコナ(ゴマノハグサ科ママコナ属) 北海道南部、本州、四国、九州、朝鮮半島南部に分布し、山地の林のへりなどの乾いた場所に生える、一年生の半寄生植物である。茎は直立し高さ30〜50、まばらに枝わかれし、日当たりのよい所に生えるものは赤紫色となる。葉は対生し、長卵形で先はするどくとがり、全縁で短い葉柄をもち、長さ3〜6、幅1〜2.5。夏、枝の先に白い軟毛が密生した花穂を作る。包葉は葉状で小さく、毛状に長くとがった鋸歯をもつ。包葉のわきごとに1個の紅紫色の花を開く。萼は鐘形で先は4裂し、裂片は狭三角形で鋭くとがる。花冠は長さ16〜18、長い筒部をもち、先は2裂して唇形となり、上唇はかぶと形でへりに軟毛が生え、下唇は横にひろがって先が3裂し、基部に2個の白色の斑紋がある。果実は長卵形のさく果で先がとがり、黒褐色の2個の種子をもつ。日本名は飯子菜で、若い種子が米粒によく似ているのでいう。 *マルバスミレ(スミレ科スミレ属) 本州から九州の山野や道端に生える高さ6くらいの多年草。地下茎は太い。葉は2〜10の長い柄を持つ根生葉で、長さ2〜4の卵円形、基部は深い心形となってふちに鋭い鋸歯がある。4〜5月、葉の間から花茎を出し、先端に左右相称で径1.5〜2.5の白色の花を横向きに開く。萼片は緑色で5個ある。花弁は5個で唇弁に紫色の条があり、距は長さ6〜7。雄しべ5個、雌しべ1個。果期に葉や葉柄が大型になり、さく果を結ぶ。 *ミカワバイケイソウ(ユリ科シュロソウ属) 愛知県と長野県の低山の湿原に生える多年草。茎は太く高さ50〜100。葉は茎の基部につくものは鱗片状、上半部につくものは長さ10〜20、幅5〜10の広楕円形で、基部は鞘になって茎を抱く。花期は6〜8月で、茎の先に円錐花序をつけ、6花被片の白色の花が開く。コバイケイソウと比べ、花が小さく花被片のふちは細かく切れ込み、雄しべが花被片の2倍も長い。さく果は長さ2〜2.5の楕円形、種子も楕円形で長さ8内外。 *ミズバショウ(サトイモ科ミズバショウ属) 北海道と本州の兵庫県以北の低山帯から亜高山帯の湿原や林下の湿地に群生する多年草。雪解けとともに香りのよい花を咲かせる。根茎は太く横にはい、先に数個の葉と花茎を出す。葉はやわらかく花の後に伸びて長さ80、幅30の卵形または楕円形になる。花期は5〜7月で、高さ10〜30の純白の仏炎苞に包まれ、淡緑色の花茎を出し肉穂花序をつける。花被片は肉質で4個、雄しべ4個、葯は黄色。花後、花茎が伸びて液果は緑色に熟す。 *ミソガワソウ(シソ科イヌハッカ属) 別名ミソガソウ。北海道、本州の奈良県以北、四国の低山帯から高山帯の渓流沿いや湿った草地に生える多年草。茎は四角で高さ30〜100。葉は対生し長さ6〜14、幅2.5〜6.5の長卵形、先はとがりふちに細鋸歯がある。両面に毛が散生し、裏面の腺点から特有の臭気をだす。7〜8月、上部の葉腋ごとに淡青紫色で唇形の花を数個つけ集散花序になる。花冠の筒部は長く、上部は短い上唇と下唇に分かれ、下唇は3中裂し、中央裂片に紫色の斑点がある。 *ミヤマオダマキ(キンポウゲ科オダマキ属) 北海道と本州中部以北の高山帯の日当たりのよい草地や礫地に生える多年草。高さ10〜25、まれに40ほどになる。根生葉は5〜10の柄があり、2回3出複葉で、小葉は長さ1〜2の扇形、2〜3中裂し、裂片はさらに浅裂する。6〜8月、茎の先に青紫色で径3〜4の花を下向きに開く。花びら状の萼片は5個で長さ2〜2.5の広卵形、先端は黄白色。花弁は細く、上半分は白色で基部は長くのびて距になり、先は内側に曲がる。 *ミヤマキンポウゲ(キンポウゲ科キンポウゲ属) 北海道と本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の乾燥しない草地や礫地に、しばしば群生する多年草。高さは10〜50で、茎や葉柄などに上向きの粗毛がある。根生葉は直径2.5〜8のほぼ円形で3〜5裂、裂片はさらに2〜3裂し、両面に粗い伏毛がある。茎葉は1〜3枚で、上部の葉は無柄。6〜8月、茎の先に径2.5内外の光沢のある黄色の花を開く。花弁は5個で長さ1〜1.2の広倒卵形。5個の萼片の外側にも長毛がある。 *ミヤマダイコンソウ(バラ科ミヤマダイコンソウ属) 四国、本州の中部以北、北海道と千島の亜高山帯から高山帯の岩隙や岩礫地に生える多年草。全体に粗毛がある。根生葉は羽状複葉で3〜5枚に裂け、頂小葉が大きく、長さ2〜14の腎円形、ふちは浅裂し鋸歯がある。茎葉は径1〜1.5の円形で茎を抱く。7〜8月、葉の間から高さ10〜30の花茎を出し、上部を枝分けして径2ほどの鮮黄色の花をつける。花弁は5個で、円形から広倒卵形、先がわずかにへこむ。萼の間に副萼片がある。 *ミヤマハナシノブ(ハナシノブ科ハナシノブ属) 本州中部の亜高山帯上部高山帯下部の日当たりのよい林縁渓側の草地にはえる多年草。茎は直立、草丈45内外、根生葉は花時なく、茎葉は互生。奇数羽状複葉、長さ5〜18、小葉は7〜9対、長さ2〜3.5、無柄、表面脈に沿って細毛がある。下葉の柄は2〜3、上葉は小さく短柄になる。花期7〜8月、径2紫色。6〜18花を散房状花序に頂生。花柄は長さ1〜1.5、中軸とも長腺毛がある。萼5深裂、裂片は長さ7くらい、短毛と腺毛が多い。花冠ロウト状、花筒は長さ5くらい、5深裂。雄しべ5。柱頭3岐。 *ミヤマハンショウヅル(キンポウゲ科センニンソウ属) 北海道と本州中部地方以北の亜高山帯から高山帯の林縁や陽地に生える落葉つる低木。葉は対生で2回3出複葉、長さ3〜7の柄を持つ。小葉は長さ2〜8、幅1〜3.5の長楕円形でふちに重鋸歯があり、先は尾状に尖る。5〜8月、長い花柄の先に直径2.5〜3.5の紅紫色の花を1個下向きに開く。花弁状の4個の萼は長さ2.5〜3.5の卵形、先はとがりふちに白い毛が密生する。花弁は長さ1.5〜1.8のへら形、雄しべは多数。 *ムシカリ(スイカズラ科ガマズミ属) 別名オオカメノキ。日本各地および千島、サハリンに分布、低山帯から亜高山帯に生える落葉低木。高さ2〜5m。葉は対生し長さ7〜15。花は晩春、2枚の葉のある短枝の先に散房花序をつけ、その周囲は大型の花冠で雄しべ、雌しべとも退化し、中心部は完全。和名はよく葉が虫に食われることに基づく。別名オオカメノキは亀の甲を思わせる葉があることによる。 *ムシトリスミレ(タヌキモ科ムシトリスミレ属) 四国石立山と北海道、本州中部地方以北の低山帯上部から高山帯の水湿な岩壁や草地に生える多年生の食虫植物。根生葉は数枚がロゼット状につき、淡緑色でやわらかく、長さ1.5〜5、幅0.7〜2の長楕円形、内側に巻く。表面に腺毛を密生し、消化粘膜を分泌して小さな虫を捕食する。7〜8月に葉の中心から高さ5〜15の花茎を1〜5本伸ばし、先にスミレに似た紫色の花を横向きにつける。萼は5深裂し、花冠には距がある。 *モウセンゴケ(モウセンゴケ科モウセンゴケ属) 北海道から九州の低山帯から高山帯の日当たりのよい湿地に生える食虫植物。葉は根生し、長さ幅とも5〜10の倒卵状円形で、基部はくびれて長い柄にながれ、表面に多数の紅紫色の粘着する腺毛が生える。腺毛の先は丸くふくらみ、小さい虫はこれに触れると動けなくなり、葉身は虫を包みこんで分泌液で消化する。6〜8月に、葉の間から6〜20の花茎を出し、先の片寄った総状花序に十数個の白色の花を開く。花弁の長さは4〜6。 *モミジカラマツ(キンポウゲ科モミジカラマツ属) 別名モミジショウマ。中部地方以北と北海道の亜高山帯から高山帯の林縁や湿った草地に生える多年草。茎は高さ50ほどで上部に短毛を密生する。根生葉は直径5〜30の円形から半円形、掌状に5〜11中深裂し、裂片には鋭い鋸歯がある。茎葉は1〜2枚で短柄か無柄。ともに裏面に微毛がある。7〜8月、茎の上部の散房花序に、径1〜1.3の花弁のない花を開く。4個の萼片は開花とともに散裂し、多数の白い雄しべが放射状に広がる。雌しべも多数ある。 *ヤナギラン(アカバナ科アカバナ属) 北海道と中部以北の亜高山帯から高山帯の草地や礫地に生える多年草。酸性土壌を好み、山火事や森林伐採の跡に群生することが多い。茎は直立し高さ50〜150。葉は互生し、長さ5〜15、幅1〜3の長披針形から狭長楕円形で、ふちには微鋸歯がある。6〜9月、茎の先に30ほどの総状花序をなし、濃紅紫色で径約3の花を多数つける。萼、花弁とも4個で、雄しべ8個、葯が裂開したあと花柱の先が4裂しそり返る。さく果を結ぶ。 *ヤブレガサ(キク科ヤブレガサ属) 本州から九州の山地の樹下に生える多年草。根生葉には長い柄があり、円形で30〜50、掌状に7〜9個に深く裂け、欠刻または粗い鋸歯がある。茎葉は短い柄を持ち、裏は白っぽい。花期は7〜10月で、50〜120の茎の上部を分枝し、円錐花序に多数の白色または淡紅色の頭上花をつける。花は花冠が5裂した管状花よりなる。総苞は紫色の筒状、総苞片は5個ある。双子葉植物でありながら、子葉は1枚という特性がある。 *ヤマタツナミソウ(シソ科タツナミソウ属) 北海道から九州に分布し、山地の木陰に生える多年草。地下に匐枝を出し、地上茎は四角張り、上向きの白い毛が多く、高さ10〜30に直立する。葉は対生し、1〜2の柄のある長さ2〜4の三角状の卵形。両面に粗い毛があり、ときに脈上が紫色をおびる。5〜6月、茎の上部に葉のような苞葉を持つ花穂をつけ、青紫色の唇形の花が一方向に向けてまばらに咲く。萼は緑色で、花冠は筒部が長い。雄しべは4個のうち2個が長い。 *ヤマハハコ(キク科ヤマハハコ属) 北海道と本州中部以北の低山から亜高山帯の、日当たりのよい裸地や草地に生える雌雄異株の多年草。地下茎を伸ばして繁殖する。茎や葉の裏に白い綿毛を密生し、高さ20〜60。葉は互生し、長さ6〜9、幅1〜1.5の狭披針形から披針形、厚質で表面は鮮緑色、3脈が目立ち、ふちは裏側に巻く傾向がある。花期は8〜9月で、多数の頭花を散房状につける。総苞は長さ9くらいの球形で、苞片は白くうろこ状に重なる。小花は淡黄色。 *ヤマラッキョウ(ユリ科ネギ属) 福島県以西から沖縄に分布し、山地の草原に生える多年草。鱗茎は狭卵形で2〜3、茎の下部とともに枯れた鞘に包まれる。葉は円柱形で茎の下部から2〜3本が立ち、長さ20〜50、薄い青緑色で断面は鈍三角形である。9〜11月に葉の間から30〜50の花茎を出し、先に多数紅紫色の花を束生して球状の散形花序となる。花被片は6個で平開せず、雄しべは花被片よりも長く突き出し、葯は紫色。花柱も細長く突起する。 *ユウスゲ(ユリ科ワスレグサ属) 別名キスゲ。本州、四国、九州に分布し、山地の草原や林のふちに生える多年草。根は黄色いひも状で集まって出る。葉は株元から2列に出て、扇状に開いて立ち、長さ40〜50、幅5〜15の線形、質は強く黄緑色。花期は7〜9月で、葉の間から100〜150の長い花茎を出し、分枝して淡黄色で香りのある上品な花が次々と咲く。開花は夕刻で、翌日の午前中にはしぼむ。花被片6個、雄しべ6個、花柱は雄しべより長く、種子は黒色。花は食べられる。 *ユウパリコザクラ(サクラソウ科サクラソウ属) 別名ユウバリコザクラ。北海道夕張岳の高山帯の日の当たる湿った蛇紋岩崩壊地に特産する多年草。根生葉は長さ1〜3、幅0.5〜1.5の倒披針形、先はとがり基部は細くなって茎を抱き、ふちに細鋸歯、裏面には白い粉状物がある。7〜8月に高さ4〜10の花茎の先に紫紅色の花を1〜3個散形に開く。のどは緑白色で、花茎、花柄、苞、萼に白粉をかぶる。花冠は直径1.2〜1.5、5深裂し、裂片は更に2裂する。萼筒は長さ約7。 *ユウバリソウ(ゴマノハグサ科ウルップソウ属) 北海道夕張岳に特産し、高山帯の日当たりのよい湿った蛇紋岩礫地に生える多年草。根生葉は長さ3〜8、幅2〜6の楕円形、ふちには波状の鈍鋸歯があり、先はとがる。基部は丸く、肉質でつやがある。6〜8月、10〜20の花茎を伸ばし、長さ4〜5、径2くらいの花穂を頂生し、多数の花をつける。花冠は長さ約1、帯青白色で上唇は長楕円形、下唇は2裂し、裂片は狭披針形でややとがる。萼は膜質で背面が2浅裂する。 *ユキツバキ(ツバキ科ツバキ属) 別名オクツバキ、サルイワツバキ。日本海側の積雪地に多く分布し、主に山地のトチ、ブナ、スギなどの林内に生える常緑低木。幹は高さ1〜2m、積雪のため柔軟な枝が地面をはい発根して広がる。葉は薄く、楕円形から倒卵形で、表面の脈が目立ち、ふちの鋸歯が鋭く、葉柄に白毛がある。4〜6月、雪解けとともに濃紅色や白色などの一重平開咲きの花を多数つける。花弁は薄く、1〜2日で落ちる。雄しべの筒部は短く、濃橙黄色から黄赤色になる。 *リュウキンカ(キンポウゲ科リュウキンカ属) 本州と九州の低山帯上部から亜高山帯の湿地や浅い水中に生える多年草。根茎は短く白色のひげ状。根生葉は束生、長柄を持ち、長さ幅とも3〜10の腎円形、基部はへこみふちには鈍鋸歯がある。茎葉は1〜2枚で単柄か無柄。4〜7月に高さ15〜50の花茎を直立または斜上し、先に数本の花柄を分枝し、径2〜2.5の黄色の花が1個ずつ咲く。花びら状の萼片は卵円形で長さ1.3〜1.6、通常5個だが6〜7個のものもある。花弁はない。 *リンドウ(リンドウ科リンドウ属) 本州から九州の山野に見られる、秋を代表する多年草。根茎は細い。茎は直立、または斜上し、高さ20〜100にもなる。葉は、柄がなく対生し、卵状披針形で、ふちに細かい突起がありざらつく。花期は9〜11月で、茎の上部の葉腋に長さ4〜5の青紫色、まれに白色の花をつける。萼は5つに裂け、花冠は鐘状に5裂、裂片の間に副裂片を持つ。雄しべ5個、雌しべ1個。さく果は2つに裂ける。また根茎は乾燥させ薬用にもなる。 *リンネソウ(スイカズラ科リンネソウ属) 別名メオトバナ、エゾアリドオシ。北海道と本州の中部地方以北の亜高山帯から高山帯のハイマツの下などに生える常緑小低木。茎は、短毛があり長く地をはって分枝する。葉は対生し、長さ0.5〜1.1、幅3〜9の卵形から広楕円形でやや厚く、上半部に鋸歯がある。花期は7〜8月で、高さ3.5〜10、腺毛がある花茎を出し、1〜2対の葉をつけ、先が2分して帯桃白色の花を1個ずつ下向きにつける。花冠は長さ7〜10のロウト形で、先は5浅裂する。 *レブンソウ(マメ科オヤマノエンドウ属) 北海道礼文島の特産種。高山帯の日当たりのよい岩石の多い草地に生える多年草で、全体に白い毛を密生する。茎は木質化して分枝し、横にはって葉を叢生する。葉は奇数羽状複葉で、小葉は8〜11対、長さ1〜3、幅5〜8の長楕円形から長卵形で、先はとがる。托葉は膜質で長さ1〜1.5。6〜7月、草丈10〜20の茎の先に、長さ約2の紅紫色の5〜15花をつける。豆果は長さ約2で、白い軟毛が密生し、黒褐色の毛が交じる。 *レンゲショウマ(キンポウゲ科レンゲショウマ属) 岩手県から奈良県の太平洋側に分布し、低山帯の落葉広葉樹の林中に生える多年草。茎は直立し高さ40〜80。葉は根生葉と、大型で2〜4回3出複葉の茎葉があり、いずれも有柄。小葉は長さ4〜8、ときに3裂し鋭い鋸歯がある。花期は7〜9月で、茎の上部に長い花茎を分枝し、まばらな円錐花序の淡紫色で径3〜3.5の花を下向きにつける。萼片は長さ約2、多数あり花弁状、花弁は小型で開出せず、基部に蜜槽がある。 *レンリソウ(マメ科レンリソウ属) 本州と九州のやや湿気のある草原に生える多年草。茎は直立し30〜80、3稜があり幅1〜2の2個の翼がある。葉は柄があり互生で羽状複葉。1〜3対の狭長楕円形、長さ5〜10の小葉を持ち、葉軸の先は巻きひげになる。葉柄の基部には緑色の托葉がある。5〜7月、葉の脇から長さ10〜15の総状花序を出し、上部に紅紫色の蝶形の花を4〜8個つける。萼は筒状で5裂し、雄しべ10個のうち9個は合体する。さやは線形で毛が散生することもある。 *ワタスゲ(カヤツリグサ科ワタスゲ属) 別名スズメノケヤリ。北海道と本州中部地方以北の高層湿原に群生する多年草。茎は高さ20〜50で直立し、下部は円中形、上部は3稜形となる。根生葉は幅1〜1.5の扁平な3稜形で、ふちはざらつく。茎葉は1〜2個が茎の上部につき、鞘状に互生する。花期は6〜8月で、茎の頂に長さ1〜2の狭卵形の小穂を1個つける。鱗片は広披針形で灰黒色、花被片は糸状で多数あり、花の後、長さ2〜2.5にのびて綿のような白い球状の果穂をつくる。 *ワダソウ(ナデシコ科ワチガイソウ属) 本州の中部地方以北と九州北部の山地の草地に生える小型の多年草。紡錘形の白色の塊根を持つ。茎は直立し高さ8〜20、短毛が2列に生える。葉は対生で下部はへら型、上部は卵形披針形で長さ3〜6、集まってつき十字形に配列する。花期は4〜5月で、上部の葉腋から短い毛のある細い柄を出し、その先に白い花を上向きに開く。花弁は5個、倒卵形で先はへこむ。萼片5個、雄しべ10個、雌しべ3個、茎の下部の節から閉鎖花を出す。 [#改ページ]   単行本   一九九一年七月 日本交通公社刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     新・花の百名山     二〇〇一年十月二十日 第一版     著 者 田中澄江     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Takao Tanaka 2001     bb011010