TITLE : 昔みたい    昔みたい   田中 康夫 著 目 次 芦屋市 平田町 ヴェネチア サン・ミケーレ島 品川区 島津山 大 井 埠 頭 世田谷区 深沢八丁目 伊豆山 蓬莱旅館 フランクフルト ホテル・ケンピンスキー 神戸市 花隈町 名古屋市 八事 パリ ホテル・ル・ブリストル 千代田区 三番町 港区 伊皿子坂 軽井沢 千ヶ滝西区 台東区 浅草柳橋 昔 み た い あ と が き 芦屋市 平田町 「さゆり、お電話よ」  母の声がした。 「はあい」  庭の芝生に水をあげていた私は、ホースを下に置いた。そうして、少し離れたところにあった水道のカランをまわした。  母は、広縁のところに立っていた。地味な柄《がら》のワンピースを着ている。もう、六十歳近い。歳《とし》よりは若く見えるけれども、それでもやっぱり、だ。「ママ、もっと、派手なパターンのお洋服を着ればいいのに」時々、アドバイスをした。  若いうちは、かえって普通な服装の方が綺麗《きれい》に見えるのだ。普通のデザインで、地味な色合いの。自慢じゃないけれど、大学を卒業して三年経《た》った今でも、インディゴ・ブルーのマドラス・チェックのボタン・ダウン・シャツを亜麻色のコットン・パンツと合わせて着ることがある。上には紺青《こんじよう》色したクルー・ネックのサマー・セーターを被《かぶ》る。  ポニーテールが良く似合う女の子のようなファッション。けれども、こうした時の私は自分でもびっくりするくらいに、キラキラしている。母を助手席に乗せて岩園町にあるスーパーいかりまで私の運転でお出かけしたりした時に、店内の鏡に映った自分を見るとそう思った。  もっとも、母のような年齢になると、話は別だ。むしろ、若過ぎると思われるくらいのデザインと柄の方が、いいように思える。たとえば、ヨーロッパへ出かけると、年老いた婦人がゆっくりとした歩調を取りながら、けれども、着ているワンピースは驚くほどにハデであるケースを、しばしば、見かける。  どうして、日本の女性は歳と共に、おとなしい服装になっていくのだろう。 「誰《だれ》から?」  私は尋ねた。サンダルを突っ掛けていた。そのサンダルはもちろんのこと、そして、ストッキングもソックスも履いていない私の両足も、少し濡《ぬ》れていた。このまま、上がるわけにもいかないしな、どうしよう。考えた。 「東京の方みたいよ」  じゃあ、急がなくては。濡れた足の問題よりも、むしろ、そっちの方がプライオリティの高いことのような気がした。 「女の子?」  大学時代の友だちかも知れない。私は宝塚《たからづか》市にあるミッション系の女子高を卒業すると、同じ修道会が設立した東京の女子大へ進学した。その時の友だちだろうか。けれども、母は電話をかけてきたのは男性であることを教えてくれた。 「何てお名まえの人?」  一体、誰だろう。少し、心臓の鼓動が早くなったような気がした。多分、今年の末までには正式に婚約をするであろうステディな男性がいる私にも、男の人から電話がかかってくることは、もちろんある。  けれども、彼らは昔からの友だちばかりだった。私は小学校だけは、西宮市の甲東園にある共学の私立学校に通っていた。その頃《ころ》からの友だちだ。もちろん、みな大学を既に卒業している。家の商売を手伝っていたり、サラリーマンになっていたり、あるいは、今年から医師になっていたり。親同士も良く知っている子たちだった。  東京に暮らしていた時代に付き合っていた男の人たちとは、今はもう、コンタクトを取っていなかった。芦屋の自宅の電話番号を知っている人は何人もいた。けれども、かかって来ることはなかった。  あの頃の出来事は、秘密の引き出しにひとつずつ、仕舞い込まれているのだと思っていた。今でも時々、夜、ベッドの中で眠りにつく前、思い出すことはある。けれども、そうしたセピア色した昔のシーンは、知らない間にフッと浮かんでくるだけのことだった。  意識して思い出そうとしていたわけじゃない。だから、秘密の引き出しが一体、どこにあるのか、私自身は知らなかった。もちろん、調べてみれば、すぐに在処《ありか》はわかるはずだ。でも、調べてみようとは思わなかった。 「滝本さんって、おっしゃる方よ」  母は、相手の名まえを告げた。瞬間、キューッとお腹《なか》が締めつけられるような感じになった。中学生や高校生だった頃、中間試験や期末試験の答案が返される前に感じたのと同じ緊張だ。 「では、これから、答案を返却します。平均点は、62・7点。いつもよりも、低かったね」先生が、たとえば、そんなことを言った後、一人一人の名まえを呼ぶと、教壇のところまで取りに行く。私の一番苦手な時間だった。  試験を受けた時の手ごたえで、ある程度の出来不出来は予想がつくものだ。けれども、その具合には関係なく、いつでも、お腹がキューッと締めつけられるような感じになった。  私は指を折り曲げると、両手ともそれぞれ、握りこぶしを作った。ジェットコースターに乗ると誰もがするように、ギュッと足を踏ん張った。  もっとも、真剣な顔付きでそんなことをしていたら、みんなから不気味に思われちゃう。友だちは多いに越したことはなかった。だから、わざと貧乏揺すりもして、「ヒエーッ、どうしよう」ひょうきんな声を出した。笑われることもあったけれど、でも、それで、「変わってるわね、さゆりって」と言われる心配は少なくなった。 「あー、滝本さんか」  ごくごく普通の声を出そうとした。 「久しぶりだなあ、なつかしい」  黙っていると、母に何か言われそうな気がして、それで、言葉を続けた。けれども、 「早く、出た方がいいわよ、さゆり」  母は、電話の相手については何も聞かずに、ただ、そう言った。彼の声を聞けば、中年であることくらい、わかるはずだ。自分の娘とどういう関係にある人物なのか、気にならないのだろうか? 不思議に思った。 「エヘヘ」  サンダルを脱ぎながら、まだ濡れている足の裏を片方ずつ、なんと、自分の掌《てのひら》で拭《ふ》くと、広縁に上がった。母は、「まあ」という表情をした。  尋ねるのが、母は怖いのだろうか。電話の方へと向かいながら考えた。自分の掌で足の裏を拭いたのも、私の心の中を見透《みす》かされないようにという、その場で考えたフェイントだった。学生時代の、ひょうきんな声を上げながらの貧乏揺すりと同じ発想だ。  ——でも、もしかしたら、母は何も疑っていないのかも知れないわ。滝本さんとの間の出来事など、想像することすら出来ないのかも知れないわ。  どうして急に電話をかけて来たのか、その理由のわからない私は、ただ、ドキドキしながら、居間へと入った。  もしも、私の記憶に間違いがないのならば、滝本さんは、今年、四十六歳になるはずだった。父親とまではいかないにせよ、でも、充分それに近い年齢だ。その彼と、私は大学時代に付き合っていた。  東京に出て来ると、寮に入った。もちろん、本当は一人で住んでみたかった。けれども、これまた、もちろん、世の親の常として、許してくれなかった。かなり粘ってみたのだけれど、駄目《だめ》だった。  私の父は、化学会社を経営していた。といっても、世間で名まえが広く知られているわけではない。一応、株式市場にも上場している会社なのだけれど、でも、一般消費者が手にする製品を作ってはいなかった。それで、あまり、耳にすることのない会社だった。 「へえー、さゆりのパパの会社って、大きいんだね」従業員数や年商を知った友だちは、みな、一様に驚いた。それまでは、単なる町工場を経営しているのかしら、くらいにしか思っていなかったのだろう。でも、別に大きな会社を経営しているからって、それが私という一人の人間の評価に、直接、つながるわけではないものね。そう思っていた。  住んでいる家は、平田町にあった。あまり、芦屋について詳しくない人が聞いても、ピンとはこないかも知れない。国道四十三号線よりも海寄りだった。 「ねえ、阪急電車よりも、上の方にあるんでしょ?」  東京に出てきたばかりの頃、北里病院の近くにある付属校出身の子たちに、しばしば、聞かれた。彼女たちは、皆、それは当然のことであろう、という顔をして尋ねた。 「ううん、阪急電車よりも、ずうっと下だよ」  そう答えると、「ふうん」という表情になった。ウソをついてみたところで仕方ない。私の家は、国鉄線よりも、そして阪神電車よりも下にあったのだ。 「阪神電車よりも、下なんだもの」  あっけらかんとした感じで言うと、少し侮蔑のニュアンスを含んでいたみんなの表情は、むしろ、憐《あわ》れむような表情に変わった。  不思議だな、と思う。東京の人たちは、三本の鉄道線路を越える毎《ごと》に、それぞれ、まったく別の雰囲気《ふんいき》の街並みが広がっているのだと思い込んでいるらしい。もちろん、その認識は大筋としては間違っていない。けれども、例外はどこの世界にもあった。  私の住んでいる平田町は、たとえば、代々続く造り酒屋の経営者や、あるいは、大阪の船場《せんば》でずうっと昔から商売をやっているような家が多かった。私の家も、元はと言えば、ドイツから染料を輸入していた船場の商家だった。  手入れの行き届いた広い庭のある家が続いている。由緒《ゆいしよ》あるお屋敷町だった。こう言ったら何だけれど、東京でもその名が知られている六麓荘《ろくろくそう》町は、元々は、急勾配《こうばい》の土地を電鉄会社かどこかが分譲した新興住宅地だったのだ。  でも、冷静に考えてみたら、家のある場所にしたって、父親の職業同様、それが私という一人の人間の評価に、直接、つながるわけでもないのだろう。なのに、延々とこんなことを説明してしまった。きっと、どこか、心の中に、くやしい気持があるのかしら。そうして、本当は結構、父親の職業とか住んでいる場所というのも精神的ブランドになるんじゃないかな、と思っているのかも知れない。いやな性格。  東京で入った寮は、駒場《こまば》にあった。通っていた高校の子たちばかりが住んでいた。だから、なんだか、高校の延長みたいで、おまけに、ウワサ話ばかりが飛び交っていた。あまり、その雰囲気には馴染《なじ》めなくて、一年生の秋には、一人で住むようになった。両親も、泣いて頼んだ私を見て、仕方なしに許してくれた。  滝本さんと知り合ったのは、ちょうど、その頃だった。今でもその時のことを、はっきりと覚えている。 「こちらが、滝本さん」  都内にある別のミッション系女子大へ通っているという麻紀は、私にそう言って紹介した。学校の友だちたちと良く出かけていたディスコで知り合った彼女は、私よりも二つ年上だった。多少、遊んでいる子たちならば、誰もが、「あー、あの子ね」名まえはともかく、少なくとも顔だけは知っているという、そのくらいにメジャーな存在だった。 「本当は、大学なんて通っていないのよ。毎日、プー太郎をしているのよ、麻紀って」私に、そっと耳打ちしてくれる友だちもいた。けれども、寮を出て、門限を気にする必要もなくなった私は、麻紀とも一緒に遊ぶようになった。といっても、かわいいもので、いつも、十二時までには部屋に戻《もど》っていたのだけれど。  滝本さんを紹介してあげるわ、と言われたのも、一緒にディスコへ遊びに行ってる時だった。彼は、六本木や新宿に幾つものディスコを持っている人物だった。私たちの間での麻紀の存在とは逆に、顔はわからないけれども、その名まえだけは誰もが知っている、そうした存在だった。 「絶対に、さゆりちゃんが気にいるタイプだと思うんだ」  フーッと、けだるそうにメンソールのタバコの煙を吐きながら、麻紀は言った。 「本当かな?」  その頃、一つ年上の大学生と付き合っていた私は、「まさかあ、信じられない」という顔をした。二十歳以上も離れた人のことを好きになるわけがないじゃないの、という気持だった。それに、ディスコを経営している人とだなんて、という気持もあった。そうして、もうひとつ、私が通っていた女子大の先輩たち何人かが、それ以前に彼と付き合っていたのよ、という話を何人もの友だちから聞いていたのも、理由のひとつだった。 「まあ、もう少し正確に言ってしまえば、最初は滝本さんの方が、さゆりちゃんのことを気にいってしまう、というパターンだとは思うけれど。でもね、大丈夫、間違いなく、さゆりちゃんの方も好きになるって」  今までに何度かは、彼とベッドで一緒になったこともあるに違いない麻紀は、私の目をじっと見詰めながら言った。  ——そんな、馬鹿《ばか》な。  私は心の中でつぶやいた。 「いいじゃない、気楽な気持で付き合ってみればいいのよ。色々と、得することがあるわよ。ディスコへタダで入れるし、VIP席にも坐《すわ》れるし」  彼女は、なおも続けた。  ——ますます、呆《あき》れてしまうわ。そんなことで、付き合うだなんて。  学校の友だちの中にも、たとえば、ディスコの店長クラスと付き合ってしまう、みたいな子がいないわけではなかった。けれども、そうした子たちも長い間、付き合うわけではなかった。インフルエンザにかかったようなもので、ほんの短い間だけだった。  もっとも、その間に友だちを引き連れて、奥の方の席で大きな顔をしてしまう。「ねっ、なかなかの待遇でしょ」みたいな感じでだ。だから、インフルエンザが直った後は、悲惨だった。みんなから馬鹿にされる。  私が通っていたような女子大の場合は、特にだった。友だちが、少なくなってしまう。一緒にディスコへくっ付いて行っても、タダでフルーツを食べていたような子たちだけが、要領よく生き残った。 「あんまり、会いたいとも思わないよ。だって、関心ないもの」  ちょうど、大好きだった曲がかかり始めて、踊りに行きたいな、と思っていた私は、麻紀にそう言った。けれども、彼女は、 「取り敢《あ》えず、会ってみなさいよ。ってより、ほら、もう、滝本さん、やって来ちゃった」  きっと、最初から、この日、彼に私を引き合わせるつもりだったのだろう。彼女が指差した方を見ると、私と同じくらいの背丈の、だから、男性としては小柄《こがら》な方になる彼が、フロアを横切って私の方へと歩いて来るのが見えた。 「元気かい?」  低くて太い声が、受話器の向こう側から聞えた。 「はい」  何も答えまいとさえ思っていたのに、彼の声を聞いたら、その瞬間、魔法にでもかかってしまったかのように返事をしてしまった。 「どうしてるんだい、毎日?」 「家で、おとなしくしています」 「そうかあ」  私の言い方が、いかにも、「女子大生という肩書きを取ったらタダの人になってしまったの」という虚脱感を的確に言い表わしていたのかもしれない。彼は、軽く笑い声を立てた。くやしいけれど、でも、それは本当なのだから仕方がない。そう思った。 「今、大阪に来ているんだよ」  彼は、そう言った。 「新しいディスコがオープンすることになってね、愛子ちゃん」  そう言うと、再び、軽く笑った。初めてディスコであった時のことを、また、思い出してしまった。  私の横に坐ると、彼は名まえを尋ねた。 「小林愛子です」  本名を言っちゃったら、いけないんじゃないかしら。咄嗟《とつさ》にそう思った私は、出任せの名前を言った。 「愛子ちゃんか、かわいい名まえだね」  ——一体、どこが、かわいい名まえよ。まるで、夜の仕事をしている女の人みたいじゃないの、小林愛子だなんて。  心の中で、悪態をついた。けれども、同時に、  ——どうしよう。これから先、会うようになってしまったら。  そう思い始めていた。  今日、久しぶりに彼の声を聞いた瞬間、魔法がかかってしまったのと同じように、初めて会った時にも、なぜか、その場で知り合っただけでは終わりそうもない予感がした。曰《いわ》く言いがたい感情だった。  小柄で、少し太り気味の滝本さんは、おまけに、髪の毛も薄かった。なのに、どこか、魅《ひ》かれるところがあったのだ。不思議な魅力。そうとしか言いようがなかった。  会うようになった。それも、週一回のペースでだった。それまで付き合っていた子とは、別れてしまった。 「名まえ、本当は違うんです。長浜さゆりなんです」  確か三回目のデートの時、彼に告白をした。 「わかっていたよ、最初から」  同じ低い声で、彼は答えた。学校名も喋《しやべ》った。みんなが言っていた通り、私の通っていた大学の先輩たちと、何人も付き合っていたことのある人だった。付き合ったわけでなく、ただ単に、一度だけの遊びで終わった先輩も含めると、数え切れないほどの人数になるらしかった。 「好きなのかも知れないね。君の学校のことが」  そう言うと、照れ笑いをした。彼には子供が三人いて、そのうちの二人は、私たちの大学の付属校に通っていた。  羽振り良くディスコを経営しているから、それで付き合ったわけではないと思う。もちろん、同い年の子と付き合うよりは充実したデートだったかも知れないけれど。  少し目立っている女の子なら誰《だれ》しもが、後になるととても恥しくて言えなくて、つい、隠してしまうようなインフルエンザにかかっちゃうのとは全然、違う。そう思っていた。  だから、学校中の子たちが、私たちのことを知るようになっても、意外と当人は平気だった。むしろ、軽いインフルエンザを幾つか経験して来ていたまわりの子たちの方が心配してくれた。 「良かったら、大阪まで出て来ないか? 今夜がプレ・オープンなんだ」 「ええ、でも」  それほど間を開けることなく、私は返事をした。 「どうして? 来てみたら楽しいよ。東京の方からも、わざわざ、大勢のお客様がいらして下さるし」 「でも、もうディスコなんて行くような歳《とし》でもないから」 「何、言ってるんだね。毎日、おとなしい生活、しているんだろ? 良い気分転換になると思うよ」  彼は、畳み掛けるように言葉を続けた。  学生時代、彼と付き合っていると、同い年の他《ほか》の女の子より、二歩も三歩も早く、大人になれるような気がした。私以外にも常に並行して何人かの女の子と会っていたけれど、それは四年生になるまで、たいして気にはならなかった。むしろ、その方が私の逃げ場があるような気がしていた。変わったのは四年生の、それも秋以降だ。 「おとなしい生活でいいと思うんです。結局は、そうしたところへ戻らなくては、と思うんです」  母は私に遠慮しているのか、それとも、信用し切っているのか、電話を取り継いでくれた後は、どこかへ消えてしまった。多分、台所にでもいるのだろう。私以外の兄弟が、みな、結婚してしまった今は、広い日本家屋に住んでいるのは、両親と私の三人だけだ。お手伝いさんも、週五日だけ通ってくる人となった。  滝本さんと付き合っていても、彼好みの女性になるように指導されて行くだけだと感じ始めたのは、四年生の秋だった。遊んでばかりいた周囲の友だちも何人かが、結婚の話をするようになった。自分が完全に主導権を握れるというわけではないにせよ、少なくとも、余裕を持って付き合える相手を見つけたい。そう思うようになった。  けれども、つい最近半ばお見合いのような形で知り合った、今のステディである浩《ひろし》のようにおとなしい性格の男性と付き合えるようになるまでには、随分と時間がかかった。大学を卒業して、すぐに神戸に戻ってから、二年以上経《た》っていた。 「昔、大阪に新しいディスコがオープンした時には、東京から君を連れてやって来たのにねえ」  それは、私が三年生の時のことだった。秘密の引き出しに仕舞い込んだまま、忘れかけていた出来事だった。 「ええ、なつかしい思い出です。でも、ご免なさい、今日は、やっぱり」  そう答えた。意外にも、私は冷静だった。本当に、おとなしい生活に慣れ始めているのかも知れなかった。 「そうかあ、じゃあ、仕方ないね。これ以上、長電話をしても迷惑だろうし。お元気で」  滝本さんは、そう言うと、電話を切った。  ——ご免なさい。せっかく、声をかけて下さったのに。とっても、うれしかったのよ、本当は。でも、やっぱり、怖かったの。今日、お会いしてしまうと、せっかく始まりかけた私の新しい生活が壊れてしまいそうな気がして。  しばらくの間、私は受話器を握り締めていた。 「終わりましたか、ラヴ・コールは?」  母が居間の障子を開けて入って来た。一体、どこまでわかっているのか、私にはさっぱり、わからない母は、ニコッとしながらそう言った。私も歳をとるごとに、今、母が着ているような地味な柄の服を着るようになってしまうのだろうか。 「うん。もう、おしまい」  意識して明るい声を出すと、再び、芝生に水をあげることにしようと思って広縁の方へ向かった。と、珍しいことには、海の方から鴎《かもめ》の鳴き声が、一際《ひときわ》、澄んだトーンで聞えてきた。 ヴェネチア サン・ミケーレ島 「サン・ミケーレ、サン・ミケーレ」  それまで、私たちの向い側に坐《すわ》っていた中年の婦人が、席を立った。出口の方へと進む。幾何学的な模様がプリントされたスカーフを被《かぶ》っている。三角巾《さんかくきん》のような形にして、頭の後ろで結んでいるのだ。風が強い。  和世と私も、また、席を立った。二人とも偶然に髪の毛をアップにして、おまけに、カチューシャをしていた。水上バスを降りる。ちょうど、出口と同じ高さのところに石段があった。桟橋《さんばし》よりも、二段、低くなっている。少し離れたその石段に、勢いをつけて飛び移ると、タンタン、駆け上がった。  サン・ミケーレ島は、ヴェネチアのすぐ北側にある小さな島だった。バポレットと呼ばれる水上バスの5番線は、ヴェネチアン・グラスの工場があることで知られるムラーノ島へと向かう。サン・ミケーレ島は、その途中にある。本当に、小さな島。  多くの観光客は、どういう場所であるかを知らずに、ただ、通り過ぎる。けれども、ほんのちょっぴりでもいいから、この島に降りる人たちのことを注意して見る観光客がいたならば、その人は、下船者たちの間にひとつの共通点を見つけることが出来るだろう。  花束を持っていることを、だ。サン・ミケーレ島は、墓地の島だった。その昔、ナポレオンがヴェネチア市民の墓所と定めて以来、共同墓地の島となっている。花束を持たない私たちは、なのに、ここへやって来た。 「学生の時に、行かなかった所を見てみたいと思わない?」 「賛成、私も」  ホテルの部屋が隣り同士だった私たちは、昨日の夜、話し合った。二人とも、大学生だった頃《ころ》、ヴェネチアを訪れていたのだ。もちろん、お金は親に出してもらって、おまけに、学生を対象としたパック・ツアーに参加して、という形ではあったけれど。  今回は、違う。仕事でヴェネチアを訪れている。私たちは、イタリアを公式訪問中の外相とその一行を乗せた特別機のクルーだった。成田からアンカレジまでを担当したクルーから引き継いで、ローマまでのデューティー。ローマに三泊した。 「うらやましいなあ、先輩。イタリアに行けるなんて」  アシスタント・パーサーの私は、普段、55aというグループに属している。ゴーゴー・エイブル。電話でスケジュールの確認をしたりする場合に間違えないように、そう言うのだ。だから、たとえば、24bは、ニーヨン・ベーカー。36cは、サンロク・チャーリー。一種の符丁《ふちよう》。 「私たち、もう、ローマ・ステイがないんですよ」  フライト経験が、まだ半年にもならない、同じグループの新人スチュワーデスの子は、そう言って羨《うらや》ましがった。  ついこの間から、南回りの欧州線は、アテネ止まりになってしまった。北回り欧州線には、アンカレジ、コペンハーゲン経由ローマ行きの便がある。けれども、それは、コペンハーゲンにステイしていたグループが、日帰りでローマとの往復を行なうことになっているのだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ空港で、復路までの二時間半あまりを過ごすだけ。 「おまけに、ミラノとヴェネチアもでしょ。そんなの、許せませんよね。もう、ブリブリって感じ」 「いいのよ、お姉さんは。五年間も会社に貢献してるんだから」  私が卒業した、神戸にあるミッション系女子大の後輩にもあたる彼女に、お姉さん面《づら》をした。フランシスコ修道女会によって創立されたその女子大は、もちろん、カソリックだった。数年前、六甲の高台へキャンパスを移動したプロテスタントの聖公会系の女子大に比べると、遊び人の少ない落ち着いた学校だった。  桟橋、といっても、猫《ねこ》の額くらいの大きさでしかないのだけれど、その外れには教会の入口があった。島と同じ名まえのサン・ミケーレ教会。一緒に水上バスを降りた何人かの人たちは、皆、そこへと入って行く。 「あそこが入り口なのかしら? ねえ、泉」 「じゃないかな」  他《ほか》に、墓地への入り口らしきものは見当たらなかった。ずうっと、レンガ塀《べい》が続いているだけ。私は、鋼《はがね》で出来たドアを押した。 「信者だったの?」  礼拝堂の中に入ると、その場で一瞬、私は軽く膝《ひざ》を曲げて、そうして、頭を下げた。 「ううん、別に、洗礼を受けているわけじゃあないんだけれど」  小・中・高校時代、お祈りの時間に皆と一緒に行なっていたことを、今でも無意識のうちに繰り返してしまう。「かったるいんだから」そう言いながら、あの頃、お祈りをしていたというのに、卒業後、こうして仕事で外国へ出かけて、その地の教会を訪れると、ごくごく自然に手を合わせてしまう。 「大人になる前の習慣って、知らないうちに体が覚え込んじゃっているんだよね。ミッション・スクール出身の子って、だから、きっと、みんな、そういうところがあると思う」 「なるほどね」  和世は、北海道の出身だった。札幌市内の短大を卒業した彼女は、私と同期入社。二つ年下。実家は、紋別郡雄武《おうむ》町にある。オホーツク海に面した小さな町。彼女の父親は、北洋漁業の漁船を何艘《そう》も持っている人らしかった。 「正木和世です。私の住んでいた町から、初めてのスチュワーデスです。東京へ出て来る時、町の人たちが総出になって駅前で万歳をしてくれました」  千葉の土気《とけ》にある研修所で、大きな声で彼女が自己紹介したのを覚えている。Tシャツにジーンズ素材のスカートだったような気がする。あれから、五年半。随分と垢抜《あかぬ》けた女性になった。そうして、退職した人たちも、同期の中に大分、多くなった。  特別機のクルーは、各グループから選抜される。所謂《いわゆる》、大事なお客様をお乗せするのだから、緊張の連続だ。けれども、通常のフライトでは立ち寄ることのない場所にも行くことが出来る。今回のフライトが、初めての特別機体験。たまたま、一緒に選ばれた47dの和世も、もちろん、初めてだった。  正面に向かってすぐ右手に、もうひとつ、ドアがあった。先に入った人たちは、私と同じように礼拝堂の中で簡単なお祈りをすると、そのドアを押して更に進む。ドアが開く度、薄暗い御堂の中に明るい光が差し込む。私たちも、更に進むことにする。  出たところは、まわりに回廊のある中庭だった。しばしば、ルネサンスの頃の絵画に登場する光景。美しい。そうして、墓地は、ぐるりとその回廊を半周したところにある、壁の切れ目の先に広がっていた。 「風が強いわねえ」  カチューシャを左手で、もう一度、押え直しながら和世が言った。沖合の小さな島にいるせいかもしれない。あるいは、回廊の真ん中にある中庭のところが、ちょうど、エア・ポケットのような具合になって、それで余計に強くなっているのかもしれない。 「でも、お天気は抜群にいいのよね」  空を見上げながら、彼女は続けた。本当だ。真っ青な空が広がっている。「水の都、ヴェネチア」と言われて、まず、私たちが思い浮かべるのは、靄《もや》が立ち込めた運河をゴンドラが進んでいく光景だろう。けれども、こうしてやって来た実際のヴェネチアは、まだ、十月だからなのかもしれないけれど、明るい。 「すごく、透き通ってるでしょ、空が。なんだか、冬の青空みたい」 「冬の青空?」 「うん。ほら、雪がずうっと降り続いていた後に、ぽっかり、晴れ間が覗《のぞ》いた時って、ちょうど、今みたいな感じの空になるんだ」  もう一度、見上げてみた。ちょっぴり紫がかった、けれども、さえた青色をしている。群青色《ぐんじよういろ》が、ものすごく透き通った具合になったみたい。 「懐《なつ》かしい?」 「そりゃあ、やっぱりね。だって、生まれた時から、ずうっと、オホーツク海の見える町で育ったんだもの」  彼女と知り合う迄《まで》、私がその名まえを聞いたこともなかった北の町では、よく晴れた冬の日に、透き通った群青色の空を眺《なが》めることが出来るのだろう。そこに住む人々は、その瞬間、束《つか》の間《ま》の安らぎを感じるのだ。  和世は、懐かしいような辛《つら》いような、まるでアンビバレントな気持で、ヴェネチアの空を見上げている。そんな表情をしている気がした。そうして、この私はと言えば、二年前の十二月、神戸にしては珍しく二日にわたって雪が降った後の、ちょうど、同じように透き通った青空の下で、妹に永遠のお別れをした時のことを思い出していた。 「ただ、嘆き悲しむだけであってはいけません。それは、文《あや》さんが新しい出発をなさったからです。私たちは、彼女の、その新しい出発を見守ってあげねばならないのですよ」  私と文を小学生の頃から知っている私たちの出身学校のシスターは、あの時、そうおっしゃられた。  母は、自分よりも十歳ほど若いシスターの言葉を、ただ、泣きじゃくりながら聞いていた。父は、両手の指をぎゅっと握りしめて、けれども、努めて冷静さを失うまいとしていた。そうして、私は、やはり、母と同じように大粒の涙を流しながらも、「そうなのだわ」心の中でうなずいていた。  三つ年下の妹だった文は、高校までを私と同じ学校で、大学は、大阪の豊中市にある音楽大学のピアノ科に進んだ。生まれた時から、両親は彼女をピアニストにしようと考えていたのかもしれない。ごくごく普通の家庭以上に育った女の子なら誰《だれ》もが一応は習う、そうした程度のピアノのレッスンを受けただけの私とは違って、彼女は、ある種の英才教育を受けた。  それが、彼女にとって幸せだったのか、それとも、逆だったのか、今となってはわからない。けれども、ただ、確実に言えることは、文にはピアノの才能があった。師事した先生たちは、皆、一様に彼女の才能を誉《ほ》めた。また彼女も両親の期待に応《こた》えようとした。  貿易会社を経営する父とお見合いで結婚をした母は、文が通った音楽大学の卒業生だった。その昔、ピアニストになることを夢見たこともあったらしい母は、その見果てぬ夢を文に賭《か》けたのだろう。  文は一所懸命に頑張《がんば》った。中学から大学を卒業するまで、年がら年中、テニスをすることで明け暮れていた私と違って、彼女は我が家の優等生だったのだ。大学を卒業した彼女は、そのまま、研究生としてキャンパスに残ることになる。二十二歳の春のことだ。  けれども、名ピアニストになるのは、難しい。コンクールに出場しても、これといった賞を取ることなく終わっていた彼女は、早ければ十代半ばのうちから頭角を現わす人さえいる音楽の世界で、焦《あせ》りを感じていた。 「いいのよ、文ちゃん。もしも、外国でピアノのお勉強を受けたいのだったら、ママやパパは、いつだって、応援するわよ」  聞き分けのよい子だった妹と違って、こちらは、両親の反対を押し切って、ただし、小さい頃からなりたいと思っていたスチュワーデスの経験三年目に突入した私が、お休みを取って神戸の家に帰ると、母はそんなセリフを吐いた。 「主任教授に聞いてみてごらんなさいよ。オーストリアがいいのか、あるいは、ドイツがいいのか、きっと、ご存知よ。立派な音楽学校で立派な先生に師事すれば、大丈夫、文ちゃんの力は飛躍的に伸びると思うわ」  多分、妹は、わかっていたはずだ。自分の中の才能という名の代物《しろもの》には、限界があることを。人には、皆、それぞれに得意な分野があり、けれども、また、それぞれに限界というものがある。 “為《な》せば成る、為さねば成らぬ、何事も”このセリフが、私は好きでなかった。ウソでしかないと思えるからだ。まるで、「竹槍《たけやり》さえあれば、後は気持ひとつ。戦車でも戦闘機でも、なんでもござれ」と言ってた、戦争中の人たちと同じ、向こう見ずな意見でしかないような気がする。  努力しても出来ないことがあるはずだ。なぜって、もしも、そうでなかったとしたら、野球の名ピッチャーは、名俳優にも名料理人にも名画家にもなれてしまうことになるのだから。まさか、そんなことは有り得ない。  努力しても出来ないことがある。けれども、だからこそ逆に、努力する楽しさが、そこには生まれる。きっと、そうなのだ。なのに、両親の過度な期待を背負っていた妹は、そうした余裕を持つことが出来なかった。  限界というものがあることを認めた上でなくては、努力する楽しさなど生まれては来ない。ただ、苦痛ばかりが増して行く。そうして、限界があることを知った後も、なお、為せば成ると思い続けなくてはならない状況に周りからさせられてしまう人は、より一層だ。  クリスマスの次の日に、芦屋の市民センター小ホールを借り切って、妹はリサイタルを行なうことになっていた。最初は、母の発案だった。けれども、リサイタルに関しては、妹も、結構、乗り気だった。海外の音楽学校へ行ってみたところで、その昔、母も自分も夢見たことのある名ピアニストになぞ、到底、なれないことはわかっていて、それで、「いいのよ、今の学校で研究生を続けているだけで」と言っていた彼女も、やはり、リサイタルの魅力には勝てなかったのかもしれない。  立派な紙に印刷されたパンフレットや、開催を知らせる告知記事の載った地元のミニコミ紙のコピーが、東京に住む私のマンションのメイル・ボックスに届くようになった。休暇を取って、その前後には、神戸へ帰ることにしていた。 「どうして、自殺などしてしまったのでしょうねえ。何も、そんなこと、しなくたって」  弔問に訪れる人たちに、泣きながら母はそう言った。リサイタルまで、後、十日という日の午後、「お洋服を取ってくるわ」妹は、オーダーしていたリサイタル用のドレスを受け取りに大阪へと出かけた。そのまま、帰って来なかった。  無言の帰宅をしたのは、二日後のことだ。大阪市内の都市ホテルに泊まった彼女は、睡眠薬を飲んで自らの命を絶った。「ご迷惑をおかけします」ホテルの人たちへの書き置きは、ベッド・サイドのテーブルの上に置いてあったのに、両親にも私にも、一言も残してはいなかった。  リサイタルが近づくにつれて、センシティヴになっていたのかもしれない。彼女はツイン・ルームを取った。出来上がったばかりのドレスが、一方のベッドの上に綺麗《きれい》に並べられ、そうして、いつも使っていた香水の新しい瓶《びん》が、封を切って、その横に置いてあったという。クルーの間では、ゴールデン・フライトと呼ばれるフィジーのナンディに行っていた私は、父からの国際電話で、そのことを知った。すぐに戻《もど》ろうとした。けれども、私が勤める航空会社は、週二便の運航だ。三日後にならないと、乗れない。仕方のない私は、同じ路線を提携運航しているエア・ニュージーランドで成田まで戻った。 「あんなに、自分でもリサイタルを開くこと、楽しみにしていましたのにねえ」  シスターの前で、何度も母はその言葉を繰り返した。 「文が望むことは、なんでも、してあげていたんですよ。特に、あの子が大好きだったピアノに関しては」  別に、悪い人なわけじゃない。天真爛漫《らんまん》で、おまけに、人一倍、相手のことを考える人なのだ、母は。けれども、その良さは時として、相手の心の中のオフ・リミットな部分にまで入り込んでしまうことがある。 「そうでしたか」  文と私をずうっと見てきたシスターは、きっと、母の性格についても、すべて、お見通しだったのだろう。言葉少なに相槌《あいづち》を打った。 「でもね、死んでしまったら、もう、なんにもなりませんもの」  信心深い仏教徒の家庭に生まれ育った母は、そう言うと、また、はらはらと着物の上に涙を落として泣いた。  本当は、自ら命を絶った文は、カソリックではいけない子のはずだ。けれども、シスターはそのことへは触れず、「そんなこと、ありませんわ。文さんは、新しい出発をなさったのですよ、お母さま」もう一度おっしゃった。 「有《あ》り難《がと》うございました。文も、きっと、喜んでいると思います。それに、何か、母が色々とご不快なことを申し上げちゃったみたいで」 「そんなこと、なくてよ。お母さまのお気持は、わかりますわ。でも、あなたが言いたいと思ってらっしゃることも、よおく理解出来るの」  家の入口の門柱のところまで、フラット・シューズの踵《かかと》を踏みつぶしたまま、お送りした私の手を握り締めながら、お答えになった。そうして、いつも、持ち歩いてらっしゃるグレーの布袋の中から一枚のコピーを取り出された。 「カーリル・ギブランという人の詩が書いてあります。彼は、レバノンに生まれ育ち、その後、四十八歳で亡《な》くなるまで、ニューヨークに住んだ詩人です。その彼の『予言者』という本の中に載っている『子どもについて』です。後で、お読みになってごらんなさい。きっと、泉さんが私たちの学校で教わった、神の考え方に似ているところが、沢山、あることと思うわ」、下さった。   On Children  And a woman who held a babe against her bosom said, Speak to us of Children.  And he said:  Your children are not your children.  They are the sons and daughters of Life's longing for itself.  They come through you but not from you,  And though they are with you yet they belong not to you.  You may give them your love but not your thoughts,  For they have their own thoughts.  You may house their bodies but not their souls,   For their souls dwell in the house of tomorrow, which you cannot visit, not even in your dreams.  You may strive to be like them, but seek not to make them like you.  For life goes not backward nor tarries with yesterday.  You are the bows from which your children as living arrows are sent forth.  The archer sees the mark upon the path of the infinite, and He bends you with His might that His arrows may go swift and far.  Let your bending in the archer's hand be for gladness;  For even as He loves the arrow that flies, so He loves also the bow that is stable. (Kahlil Gibran/The Prophet)    子どもについて  赤ん坊を抱いたひとりの女が言った。  どうぞ子どもたちの話をして下さい。  それで彼は言った。  あなたがたの子どもたちは  あなたがたのものではない。  彼らは生命そのものの  あこがれの息子や娘である。  彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども  あなたがたから生じたものではない、  彼らはあなたがたと共にあるけれども  あなたがたの所有物ではない。  あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、  あなたがたの考えを与えることはできない、  なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。  あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが  彼らの魂を宿すことはできない、  なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、  あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。  あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、  彼らに自分のようにならせようとしてはならない。  なぜなら生命はうしろへ退くことはなく  いつまでも昨日のところに  うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。  あなたがたは弓のようなもの、  その弓からあなたがたの子どもたちは  生きた矢のように射られて 前へ放たれる。  射る者は永遠の道の上に的をみさだめて  力いっぱいあなたがたの身をしなわせ  その矢が速く遠くとび行くように力をつくす。  射る者の手によって  身をしなわせられるのをよろこびなさい。  射る者はとび行く矢を愛するのと同じように  じっとしている弓をも愛しているのだから。  私たちを乗せた特別機は、マルコ・ポーロ国際空港を離陸した。イタリアでの最後の寄航地、ヴェネチアを離れて、一路、日本へ向かうのだ。 「さようなら」  ドアの横にあるジャンプ・シートに腰を下ろしていた私は、小さな窓から見えた水の都にごあいさつをした。  みんなで最後のお別れを文にした、あの日と同じように、群青《ぐんじよう》色した空が広がっていた昨日、和世と一緒に訪れたサン・ミケーレ島の一郭《かく》には、子供たちばかりのお墓があった。生年月日と没年月日が、それぞれ、墓石に刻まれている。  日本でいったら、中学校に入るくらいの年で死んでしまった子供のお墓がある。かと思うと、生後十ヶ月にも満たないうちに、その短い一生を終えてしまった乳児のお墓がある。そうして、子供の写真を大理石のように滑らかな石の上にプリントしたお墓もある。  私は、涙を流した。まだ、小学校に入ったばかりの少年だろうか、日本と違って横長のランドセルを背負って、喜々として街中をスキップしながら歩いている彼のスナップ写真がプリントされたお墓を見つけた、その瞬間にだ。  どこの誰の子供なのかもわからず、おまけに、イタリア語の理解出来ない私には、そこに刻まれた名まえすらも正確に発音することが出来ないというのにだ。けれども、涙は流れ落ちる。ふと、横を見ると、和世も私と同じように、嗚咽《おえつ》を堪《こら》えて泣いているのだった。  人は、皆、誰も知らぬうちに此《こ》の世に生を受ける。けれども、新しい出発の為《ため》に、此の世から姿を隠す時は、多くの人々に見守られているのだ。残された私たちは、その度に、嘆き悲しむ。文がいなくなってしまった時も、そうだった。  一人、ナンディの空港を後にした私は、一分でも一秒でも早く、文のもとへと駆け寄りたかった。十二時間近くかけて神戸の家にたどり着くと、父からの国際電話で知らされた時とは比べものにならないくらいに大きな声を上げて泣いた。  けれども、不思議なことには、どんなにか悲しくとも、お腹《なか》が空《す》けば私はご飯を食べ、また、眠くなると横になるのだった。いつもと同じ、生理に従った行動。おまけに、私や両親や文のお友だちが、どんなにか、沈鬱《ちんうつ》な表情をしようとも、そんなことには一向にお構いなく、空は真っ青なのだった。  そうして、昨日、緑の芝生が一面に広がるサン・ミケーレ島の墓地で涙を流した和世も私も、今は二人、こうして、ジャンプ・シートに並んで坐《すわ》って、ちょうど、向い側の客席に坐っている外相の随行員の人たちと目線が合うと、にこやかに微笑《ほほえ》みかけている。  ひとしきり、ランドセルを背負ってスキップしている少年のお墓の前で立ち尽すと、私たちは、また、墓地を歩いた。と、一所懸命、まだ真新しい墓石を磨《みが》いている若い女性が視界の中に入った。私たちと、さほど変わらない感じの年格好。長くて黒い髪の毛を後ろで束ねた彼女は、布を使って磨いている。  誰《だれ》のお墓なのだろう? けれども、それはすぐにわかった。彼女の夫が埋葬されているのだ。彼女のまわりを、クルクルクルクル、さきほどのお墓の少年と同じくらいの年格好をした男の子が、おまけに、キャッキャッ言いながら回っていた。  時折、疲れたのか、回るのをお休みすると、夫に先立たれた母親の背中に仰向けに寄っ掛かってる。そうして、ちょっぴり、伸びをする。その度、母親はイタリア語で何か言った。 「ほら、パパのお墓を磨いているのよ。だから、ちゃあんと、いい子にしていなさい。わかった?」  なのに、髪の毛がきつくカールした、お休みの終わったその男の子は、また、母親のまわりをクルクルし始める。彼は早くも、自分の父親のお墓を磨くことよりも、今の自分にとって興味が湧《わ》くことを見つけてしまっている。  けれども、それを、誰も咎《とが》めることは出来ない。今はこうして、愛情込めて墓石を磨いている未亡人の彼女にしたって、これから先、いつの間にか日々の些事《さじ》に追われて、サン・ミケーレ島へ来る回数が少なくなっていくのかもしれないのだ。  文が亡くなった時には気も狂わんばかりだった母も、もちろん、心の中の傷が癒《い》え切ったわけではないのだろうけれど、最近では、大分、落ち着いた毎日を送れるようになった。少なくとも、私にはそう思える。人は皆、そうして、ひとつひとつ、嘆き悲しんだことの記憶が薄らいでいってしまうのだろう。 「プォーン」  ベルト着用のサイン・ランプが消えた。水平飛行に移ったらしい。和世も私も、シート・ベルトを外すと、立ち上がった。お互い、顔を見合わせて、ニコッとする。「ノー・ミスで、頑張《がんば》りましょう」というごあいさつ。  私の担当は、Bコンパートメントのレフト・サイドだった。昨日までの多感な少女の部分は、どこかに預けて、仕事だ。まずは、エプロンをつけなくてはいけない。ジャンプ・シートの後ろに隠れたような形であるシート・ポケットからエプロンを取り出すと、私は足早にギャレーの中へと入った。    On Children =子どもについて『婦人之友』1975年9月号掲載(訳/神谷美恵子) 品川区 島津山 「エヘヘ、だから、今はもう、新しい彼のことばっかりで、頭の中、一杯」  リビングルームへ入ると、妹の美咲が電話をしていた。さっきから、ずうっとだ。二時間以上。  ——電話回線が二本あって、それに、キャッチ・ホンになっているからよかったものの、でなかったら、パニック、パニック。  妹も私も、電話でお話するのが、大好きだった。彼女が高一に、私が大学二年生になった時、パパは、それぞれの部屋に電話を引いてくれた。「許せないわよね、あなたたち」大学を卒業する間際《まぎわ》にお見合いをして、その秋には六つ年上の官僚と結婚することになっていた姉の美樹は、そう言って、ブーたれた。 「うらやましいでしょ、お姉ちゃま」私は妹と一緒になって、自慢げに答えた記憶がある。けれども、それは、あんまり長く続かなかった。「駄目《だめ》だ、お前たち。長電話し過ぎる」と呆《あき》れたパパが、取り外してしまったのだ。  かけていたのは、都内が大部分だったから、一時間お話したとしても、二百円。パパのタバコ代。一ヶ月の電話代だって、二本合わせて、インペリアル・プラザのゲラルディーニ・ブチックで売ってるジェニーのブラウス一枚分にもならないくらい。 「どうってことないのにね」「でも、ほら、一応、ご飯粒を一つでも残すと、罰《ばち》が当たりますよ、って教えられて育った世代だから、パパは」妹と私は、負け惜しみを言った。そうして、私たちはリビングルームの電話を使って、相変らずの長電話をした。だから、パパの銀行口座から引き落とされる金額は、決して減ったわけじゃあない。 「ねえ、美咲ったら、おんなじ内容、一体、何人のお友だちに話していたの?」  チーク・ウッドで出来たテーブルの端っこに両肘《ひじ》を突いて、尋ねた。彼女はテーブルの向こう側に坐《すわ》っていた。私が入って来た時は、最後の電話が終わりかけていたところだったみたい。 「うーんとね、九人にしたのかな」 「たいしたものね」  そう言いながら、「あーあ、その人数を聞いただけで、疲れがドッと襲って来ちゃうわ」って感じの表情も、同時にしてあげた。きっと、その方が年下の彼女にとっては嬉《うれ》しいんじゃないかな、と思えたから。 「だって、お姉ちゃま、早めにお知らせしておかないと、色々、まずいじゃない?」 「そおう?」  新しい恋人が出来たからって、ただ、それだけのことで、九人もの友人に電話をするほど若くはない、この私は答えた。 「美穂ちゃん、私の言ってる意味、把握《はあく》してないんだなあ」  妹は、私のことを「ちゃん」付けで呼ぶ。 「どういう意味を?」  私は、再び尋ねた。 「ほら、わかってないんだから。新しい彼と一緒に街を歩いている時、大学時代のお友だちにバッタリ会っちゃうかもしれないでしょおう」 「うん、それで?」  彼女の言ってる意味、やっぱり、理解してないのかもしれない、私は。 「『まあ、美咲、紹介して、この方。恋人なの?』みたいな質問してくれる子ばっかりだったら、問題ないんだけれど、中には、トロい子がいるんだよねえ」  なんとなく、言いたいことが判《わか》ってきた。 「『美咲、耕二郎君と元気してる?』なあんて、昔の彼の名まえを出して聞いてきちゃう子とか。もう、そんなことになっちゃったら、おしまいじゃない? だから、その前に予防線、予防線」  いつもより早口で一気に喋《しやべ》ると、彼女は、そこで、「ねえっ」って感じの目付きをした。上目使いで、コケティッシュ。おんなじ姉妹なのに、どうして、こんなにも違うのだろう。性格はもちろんのこと、ちょっとした仕草まで。 「なあるほどね」  自分自身を元気づける感じで、わざと美咲っぽい言葉遣いをしてみた。 「ねえ、ねえ、ところで、美穂ちゃん、アイスクリーム食べる?」  彼女は、もう一度、上目使いに私を見る。 「どこの?」 「ホブソンズの。ほら霞町《かすみちよう》の交差点に出来たでしょ。おいしいんだ、これが、また」  二階にある自分のお部屋で、イタリアのファッション雑誌、「Donna」をめくっていた私は喉《のど》が乾いて、それで、下へ降りて来たのだった。だから、本当は、冷蔵庫の前へ直進するつもりでいた。けれども、美咲が相変らずの電話をしていて、それで、ついつい、イスに坐ってしまったのだ。  別に、話の内容を聞こうと思ったわけじゃない。新しい彼について延々と話していることは、さっき、リビングルームにいて知っていたから。だから、なんていうのかな、少しばかり、大人のお姉さん風を吹かしてみたかったのだ。  ほら、どこの母親でも、するじゃない。子供の勉強部屋へ夜食を持って来た時に。トレーごと、机の上に置いたら、すぐに出て行けばいいのに、しばらく、お部屋の中にいたりする。何か、お説教をするわけでもなく、数だけは揃《そろ》っている本棚《ほんだな》の参考書の背表紙に、ゆっくりと目をやったりして。なあんて、少し大人の女の子になると、その分、考えることが、いやらしくなるのかもしれないな。 「行列に並んで買ってきちゃったんだから。アマレットのアイスクリームにラズベリーがアッド・オンされてるの。二パイントもあるよ。だから、食べよう、ねっ」 「いいわよ」  飲み物代わりに、アイスクリームってのも、これはこれで、おもしろいかもしれないと思った。アプリコットの核を主原料に、幾種類もの草根木皮を加えて作られたアマレットは、イタリアのリキュールだ。正確には、アマレット・ディ・サローノというらしい。ミラノに近い小さな町、サローノが産地。ほろ苦い甘さがある。オレンジ・ジュースとソーダで割ったアマレットのカクテルを、どこかのホテルのバーで飲んだことがある。 「隆《たかし》君って言ったっけ、今度の彼?」 「うん」  アイスクリーム用のスプーンをペロリと舌の先で舐《な》めながら、美咲は大きくうなずいた。 「うまく、いってるの?」 「もちろん」  本当に、元気一杯の声を出す。もう夜中の一時だというのにだ。 「で、耕二郎君とは、完璧《かんぺき》にお別れしちゃったの?」 「うん」  さっきから、アイスクリームをペロペロペロペロ、舐めてばかりいるものだから、返事が短い。アマレットとラズベリーに夢中なのだ。彼女らしい。 「結婚したい、って、あんなに騒いでたじゃない?」 「まあね」  尋ねると、スプーンを置いて、そうして、今度は少し真剣な喋り方をした。 「だって、隆との方が、今までと同じ生活出来そうじゃない? 美咲、楽チンな毎日、送っていたいから」  ——楽チンな毎日か。やはり、それが一番の幸せだ、って、彼女には思えてしまうのかな。  さっき、美咲が質問に答えた時のように大きくうなずくことの出来ない私は、黙って、けれども、口元だけには笑みを浮かべて彼女を見た。 「三人とも、私の母乳を飲んで、同じ食べ物食べて、同じ学校へ通わせたというのに、不思議ねえ、お洋服の趣味でさえ、別々になっちゃうんですから」  ママは、時々、私たちに向かって、つぶやくことがある。本当に、そうだな、と思う。  姉は、イタリア物が好きだった。最初は、ジャンフランコ・フェレのカジュアル・ブランド、オークスからだ。次には、ほんの短い間だけ、ジャンニ・ヴェルサーチェを着た。けれども、日本的顔立ちの彼女には、もうひとつだった。最近は、ルチアーノ・ソプラーニとかコンプリーチェを着ているらしい。ママからの情報だ。 「お休みの日には、彼のBMWで葉山までドライヴに出かけます。『ラ・マレ』は、二人ともお気に入りのスポットなので、立ち寄ることが多いです」もう少し、大人の日本語でキャプションを書いてくれればいいのに、まるで、中学生の交換日記みたいな文章が写真と一緒に載っている、女子大生向けのオフセット雑誌。妹は未《いま》だに、その世界に生きていた。キャピキャピだ。  そうして、私。実を言ってしまえば、今の私は、三人の中で一番洋服にこだわらない人だった。ごくごく普通の格好をしている。といっても、もちろん、どこかのターミナル・ビルの地下街でたまたま見つけたスカートを買ってきちゃう、というようなタイプではなかったけれど。 「いいのよ、美穂ちゃん。お仕事していないからって、別に遠慮しなくたって。日頃《ひごろ》の生活は、あなたが一番おとなしいのだから。お洋服くらい、また、昔みたいに楽しんでみたら?」  何も知らないママは、二人でお買いものに出かける度、私に言う。 「一緒に、このジャケットも、どお。後で欲しくなっても、ママ、知らないわよ」  私が選んだスカートの会計をアメックスのカードで済ませる間に、今度は、そう言う。 「ううん、平気。大丈夫よ、ちゃあんと今のスカートに合うジャケット、持っているもの」  昔だったら、「サンキュー。大好きよ、ママ」って言いながら、喜んで買ってしまったのだろう。けれども今は、付き合っている彼の影響なのかもしれないけれど、ごくごく自然に、「ううん、いいの」と答えてしまう。  パパもママも、三、四年前まではダイナース・カードを使っていた。今は、二人ともアメックスだ。 「口座から引き落とされる金額の通知が来る時にね、アメックスだけは、カードをイン・プリントした際の、お店側の控えが同封されているの。だから、ほら、パパの会社の経費を処理していく場合に便利なのよね。いちいち、買った際にもらった控えを引っ張り出して来なくとも、済んじゃうから」  パパの会社というのは、けれども、所謂《いわゆる》、商売をしている、って感じではなかった。簡単に言ってしまえば、不動産管理会社だ。祖父は、羽田空港に近い東糀谷《ひがしこうじや》と、それから、江東区の亀戸《かめいど》で、ちょっとした規模の鉄工所を経営していた。パパの代になって、工場を閉鎖した。そうして、跡地にマンションを建てた。両方とも、賃貸マンション。  私たちの家は、島津山にあった。新しい住居表示で言うと、東五反田三丁目。小高い丘になっている。二階の部屋からは、東京の城南地区を見渡すことが出来る。晴れた日には、池上《いけがみ》本門寺の森らしき緑も見えた。  五反田駅周辺は飲み屋さんが一杯あったりして、ごちゃごちゃしているのだけれど、駅から歩いて五、六分の島津山は閑静だった。桜田通りを隔てた向い側の池田山同様、昔からの屋敷町。四百坪ほどある敷地の半分を、外人住宅にしていた。日本に駐在する欧米系のビジネスマンに貸しているのだ。二棟《むね》、建っている。  私たち姉妹は、小学校から大学まで同じ女子校だった。大学のキャンパスは、広尾。高校までは、白金にある。五反田と同じ、坂の上にはお屋敷、坂の下には商店街が、それぞれ続く、旧町名では三光町と呼ばれる地区。初等科だけ、給食があった。ちょっぴり、他《ほか》の学校とは違う。サンジェルマンのパンだった。夏には、サーティワンのアイスクリームが出ることもあった。私が小学生だった頃には、給食のメニューを校内放送で読み上げていたのだけれど、近くの公立中学から、「給食の内容が、あまりに違いすぎて、ちょっと」と言われて、それで、妹の頃には中止になっていた覚えがある。  姉は、今年、三十歳になる。五歳と二歳の男の子が、二人いる。通産省に勤める彼女の夫は、毎晩、帰宅するのが十二時過ぎだ。池尻《いけじり》にある公務員住宅で、ジッと帰りを待っている。学生時代、広尾商店街へと続く大学の裏門脇《わき》に、毎日、違う男の子の車が停《と》まって彼女を待っていた、なんて伝説の持ち主とは思えないくらいの変わり様だと、一見、思える。けれども、それは、まさに、一見だ。 「あー、もう、駄目、駄目。今月も、火の車なの。お願い、助けて、パパ」  子供を後部座席に乗せて、かわいらしい2ドアの国産車で島津山へとやって来る。決って、毎月の十日過ぎだ。私は、国家公務員のお給料が十八日に出ることを、姉から教わった。 「いつまでも、私たちに頼ってばかりいるんじゃ、あなた、困るでしょ」  ママは、主婦をして来た人だから、一応はそう言って姉を叱《しか》った。でも、男親のパパは、やっぱり、娘がかわいいのだろう、 「まあ、じゃあ、今回だけだぞ」  そのセリフを吐きながら、ママにお金を渡すように命ずるのだった。  姉も、計算していた。一人では絶対にやって来ない。いつでも、子供を後部座席に乗っけてだ。そうして、「ねえ、こんなに大きくなっちゃったわ、パパ。ほら、宏《ひろし》君、パパにごあいさつするのよ。孝《たかし》君もね、はあい」どこの親でも自分の孫には弱いという、世の中一般の公理を利用した。  一応は叱るママだって、多分、それは同じなのだろう。「まったく、仕方ない娘なんだから」という目つきだけはしていても、顔全体の表情は緩みっ放し。お見合いで結婚させた娘だから、というのも、パパとママの頭の中には、あったのかもしれない。  姉の結婚した相手は、和歌山県出身の人だった。地元の高校始まって以来の秀才、なあんてタイプの青春を過ごした人、って感じ。どんなに冷静に判断してみても、一緒に姉と並んだ姿がお似合いだとは思えない。けれども、結婚をした。  パパが、半ば強引に押し進めたからなのだろう。極端な話、体ひとつ動かさなくたって、それなりの収入があるパパは、だからこそ、世間体みたいなものを気にした。名誉を求めた。大学時代、メジャーな遊び人だった姉は、素直に従った。だから、変な話だけれど、パパもママも姉に対しては負い目がある。 「あんまり、イタリアのお洋服ばかり着ていると、隣近所の皆さんと仲良く出来なくなっちゃってよ」 「大丈夫よ、まかして、ママ。普段は、地味な格好してるんだから。スーパーまで一緒にお買い物へ行った時なんて、最高よ。『あらあ、昨日より、卵の値段が高いわ』とか、この私が言っちゃうんだから」  姉は、ママを安心させることを言った。「なら、いいんですけれど」ママは、ホッとした表情をする。すると、そこで、姉は、 「でも、大学時代のお友だちと会う時にはね、やっぱり、綺麗《きれい》にして行きたいでしょ」  洋服を買ってくれるよう、ママにおねだりした。ゴルフ部のキャプテンを務めていた姉は、何のクラブにも入らなかった私と違って、自己顕示欲が強い。それは、気分屋さんの妹の美咲ともまた違った彼女の性格だった。やっぱり、学校時代のお友だちに、「私、四階建ての公務員住宅から、ガラガラガラッてカートを引いて、近くのスーパーまでお買い物に行ってるの」とは言えないのだろう。  その一方で、「私の夫は、通産官僚なのよ。将来は、あなた方が結婚した町中のお医者さんや中小企業のボンボンとは、全然、違っちゃうんだから」みたいな気持も抱いている。彼女を、ちゃあんと見ていれば、それくらいのこと、わかる。仕方ないのだろうけれど、それが支えになっている姉を、私は悲しいと思った。 「耕二郎君とは、その後、全然なんだ?」 「そう。さっき、言った通り」  妹が学生時代、付き合っていた男の子は、一つ年上だった。去年、本郷にある大学を出て、今は、大手町に本社があるメーカーへお勤めしてる。 「だって、耕二郎、つまらないんだもの、隆とデートするようになっちゃうと」 「どうして?」  多分、返ってくる答えは私の予想通りだろうな、と思いながら、でも、尋ねてみた。喋りたそうな表情をしていたから。 「隆のデート、楽しいもの」 「なあに、たとえば、連れて行ってくれるお店が、前の彼より、気が利《き》いているとか?」 「まあね」 「デートの回数とか時間は、変わらないわけでしょ、二人とも社会人だから」 「まあね」  再び、アイスクリームをペロペロし始めた。本当は、一気に喋っちゃいたいのだろうけれど、かわいいんだ、勿体《もつたい》ぶっちゃってる。  妹の新しい彼は、四つ年上だ。私と同い年。芝公園の近くにある私立医大の付属病院で勤務医をやっている。その大学の卒業生。内科。 「昔、医学部なんて、もう、いらない、って、わめいてたじゃない? それで、耕二郎君にしたのにね」 「だって、ほら、あれは、パニックになっちゃったから」 「そうだ。パニックだったんだ。おかしかったね、あの事件」 「ひどおい、馬鹿《ばか》にしてる」  確か、彼女が大学三年生の時だった。それまで、埼玉の方にある新設私立医大の男の子と付き合っていた妹の前に、耕二郎君が登場した。 「エヘヘ、聞いて、聞いて、お姉ちゃま。今度の男の子って、頭いいんだから。美樹お姉ちゃまの彼と同じ大学なの」 「ああ、そおう」  私の部屋にノックもせずに、しかも、ドタドタドタと駆け込んで来てそう言った彼女に、冷たい態度で接した記憶がある。けれども、それは、ただ単に、美咲が礼儀知らずな態度を取ったからというわけじゃない。「別にその大学行ってるからって、皆が皆、偉くなれるわけじゃないもの」と、私は考えていたのだ。  本当に、そう思う。一旦《いつたん》、社会へ出てしまえば、人間は受験英語や数学の能力とは、また別のところで評価されるようになってくる。それが証拠に、サラリーマン社長にだって、他大学出身者は一杯いるもの。  逆に、耕二郎君と同じ大学出身者にだって、部長になれずに終わってしまう人は一杯いる。ただ、まあ、他の大学に比べると、頭の回転が多少、いい人のいる確率が高い、ってくらいの違いかな。けれども、私以外の中谷家は、違う考え方だった。「ハハーッ」と平伏しちゃう。  パニック事件に、話を戻《もど》そう。妹は、ってわけで、耕二郎君と付き合い始めたのだけれど、でも、埼玉の在にある新設医大の男の子とも、相変らず、デートを繰り返していた。  年配の人から見たら下らない、もっとも、女の子にとっては結構、重要なファクターである彼の乗ってる車が、耕二郎君は、ごくごく普通の国産車で、医学部少年は一人前にサーブを運転していたから。 「ウエーン、でも、結構、今から思うと、すごい事件だった」 「そうよ、滅多にないわよ、ああいうパニックって」  医学部少年とのドライヴが終わって、島津山まで送って来てもらった妹は、家の少し手前で車を停めて、二人でいちゃついてた。 「ねえ、後ろにヘッド・ライト付けた車が、停まってるよ」少年が不審げな声を出しても、「えー、大丈夫だよ、関係ないよ」そう言って、自分の方から積極的にくつろいじゃってた。  コンコン、と車のウインドーを叩《たた》かれて、彼女は、びっくり仰天してしまった。なぜって、叩いてたのは耕二郎君だったのだ。「一緒にいるのは、一体、誰《だれ》なんだよ」詰問《きつもん》されて、けれども彼女は冷静に考えた。「並行して付き合ってる彼だなんて言っちゃったら、こりゃ二兎《と》を追う者、一兎も得ずで、両方とも、おしまいになっちゃう」 「美咲の従兄《いとこ》なの。今日はお友だちと六本木で遊んでいて、で、タクシーに乗ろうかな、と思ったら、ちょうど、従兄が車で通りかかって、だから、送ってもらっちゃった。どうも、有《あ》り難《がと》う」そう言って、医学部少年の車を降りた。けれども、いや、むしろ当然のことながら、彼は車をスタートさせない。  いつもなら、「いやだあ、どうしたのおう」みたいな甘ったれた喋《しやべ》り方の彼女も、さすがに、コチコチになっていた。ようやっとの思いで、「バイバイ、ねっ、本当に、本当にバイバイ」うーん、結構余裕のあるセリフに思えるよね、こうして、時間が経《た》ってから聞いてみると。けれども、その時の彼女は真剣だった。「大変、大変、美穂ちゃん、大変」叫びながら、家に戻ってきたのだもの。 「やっぱり、隆君とやらの方が、いい?」 「うん。そうそう、いいって感じ。好き、って感じよりもね」  妹は大学を卒業すると、テレビ局でアルバイトをした。もっとも、半年で辞めてしまった。「だって、つまんないんだもの。雑な感覚の人が多いんだよねぇ。美咲、別に大した男の人と付き合って来たとも思わないけれど、でも、やっぱし、あの人たちはバツ」。彼女にしては、珍しく真面目《まじめ》なことを言った。  けれども、真摯《しんし》な姿勢だったのは、それだけ。次にアルバイトしたのは、大学病院の医局でだった。教授の秘書役みたいな存在。名ばかりの秘書役で、実際は、若い医局員たちの目の保養係。八十倍の競争率の中から選ばれた。でも、これまた、どうってことはない。女の子が八十人面接に来て、その中から美咲が選ばれたというだけのお話。 「英文タイプも和文タイプも出来ないのに、よく、採用してくれたわね」  私は呆《あき》れた。おまけに、目の保養係だったはずの妹は、一ヶ月もたたないうちに、医局内の隆君と仲良くなってしまった。これじゃあ、安いお給料とはいえ、雇った意味がなくなっちゃうじゃない。けれども、そんなこと、彼女は一向、お構いなしで、「隆となら、結婚してもいいや」なあんて言ってる。  官僚と結婚した姉の栄光と悲惨さを見ている彼女は、だから、医師を選んだのだろう。けれども、医師を選んだからって、それで、楽チンな生活が待っているとは、あんまり、私には思えないのだけれど。  勤務医、しかも、大学病院の勤務医だ。よその病院で夜勤のアルバイトを一ヶ月に四回も五回もやったって、それでも大企業の部長クラスの年収には及ばない。 「隆のおウチ、開業医だから、将来は継ぐことになるの」と美咲は言うけれど、でも、そうなったら、そうなったで、今度は彼女までもが大変だ。開業医って、一家総出の自家営業なのだもの。  言ってあげようと思って、でも、思い留《とど》まった。「美穂ちゃんだって、なんてことない男の人と付き合ってるじゃない」、言い返されそうな気がしたからだ。二年前まで羽田空港でグランド・ホステスをしていた間に知り合った同じ航空会社のサラリーマン。パパに反対されて、だから、今は両親には、「別れたの」と言ってある。  特にパパが汗水流さなくても裕福な暮らしの出来る家庭に育った、この私が甘ちゃんなのかもしれないけれど、別に、相手の男の人の職業とか収入って、あんまり関係ないような気がするのだ。もちろん、そりゃ、いいに越したことはないけれど、だからって、それは、まさに、ただ、それだけのことのような気がする。  ——でも、こういう考えって、美咲にはわからないんだろうな。  そう思った。彼女は相変らず、アイスクリームを一掬《ひとすくい》する度に、ペロペロペロ、スプーンまで綺麗に舐《な》めちゃう。幸せ一杯なのだ。 「美咲、私にもアイスクリーム、もう少し頂戴《ちようだい》」  彼女に向かって、声をかけてみた。 「うん、もちろん」  私の心の中を何も知らない彼女は、相変らずの元気いい喋り方で答えてくれた。 大 井 埠 頭 「また、新幹線が戻《もど》ってきたわ」  十本以上ある引込線には、何編成もの車両が停《と》まっていた。みんな、明かりを消している。ほんの二、三分前に戻ってきた電車もだ。  きっと、今日一日の仕事を終えて、早くも眠りについてしまったのだろう。その中へ、車内の電気をつけたまま、ゆっくり入ってくる新幹線が見えた。 「ホタルの行列みたいだな」  首都高速湾岸線と新幹線の引込線を大きく跨《また》ぐ、大井埠頭《ふとう》の中央陸橋の上に、私たちはいた。少し、風が冷たい。  窓を開けた車の中から、音楽が聞えてくる。さっき流れていた、基弘《もとひろ》が作ったテープの続きだろう。テディ・ペンダーグラスの「Stay With Me」。 「こりゃ、真剣、ホタルの行列だよ」  彼は、私の方を向きながらそう言った。なんとなく、わかる気がする。  既に眠ってしまった電車と電車の間を、こちらに向かって進んでくる。だから、車内の明かりが両側の車体に反射するのだ。ボワーンとした感じの光。  おまけに、まだ動いているせいか、反射の具合が、刻々、変わる。ボワーンが濃くなったかと思うと、次の瞬間には、もう薄い。 「そんな感じね」  私たちの後ろを一台、車が通り過ぎる音がした。きっと、コンテナを積んだトレーラーだろう。普通の車と違って、ガタガタガタって音だったから。 「初めて、ここに来た時って、まだ、首都高が出来てなかったよね」  言われてみると、そうだ。湾岸道路だけだったもの。今では、真ん中に首都高速。その両脇《りようわき》に、一般の湾岸道路が通っている。 「団地もなかったわ」  私たちから見て左手の方には、幾つものマンションが建ち並んでいた。品川八潮パークタウンというらしい。小学校が三つ、中学校が二つもある大きな集合住宅エリアの出現だ。  大森駅西口の住宅街、山王に住んでいる私は、夜、都心からタクシーで帰ってくる時に、首都高速一号線を通って、鈴ヶ森ランプで降りることが多い。  ちょうど、鮫洲《さめず》の運転免許試験場に差し掛かるあたり、左手に八潮の団地が見えてくる。けれども、こうして、東側から眺《なが》めるのは、初めてだった。 「ずいぶん、変わったな」  基弘は両手で、タキシードのカラーを、ちょっぴり立てようとしていた。コートの衿《えり》を立てるみたいに。  夜になると、まだ、冷える。そんなことをしたところで、体が暖かくなるわけじゃあない。ただ、気分として、ってことなのだろう。  私も、ブルッときちゃいそうだ。さすがに、寒い、って感じまではいかないけれど、でも、少なくとも、涼しい、って具合ではない。そっと、肩をすぼめてみた。  三年半前の十月、初めてデートした日のことを、今でも、はっきり覚えている。お互い、大学の三年生だった。待ち合わせをしたのは、広尾のケーキ屋さん。いかにも、って感じの、当時の髪かき上げ少女が一杯いた地中海通り沿いの店。  出来たばかりの頃《ころ》は、近くにキャンパスがある、私と同じ学校の女の子とか、基弘が通っていた三田の大学の男の子が多かった。でも、そのうちに、公営デート&ハンティング・スポット、都立中央図書館に力《りき》入れてやって来るような子たちばかりになってしまった。  それ以来、久しく入ったことがない。「ねえ、ケーキ食べに行かない?」「ウーン、いいわよ。今日だけは、ダイエットを中止」なあんて会話を、みんなでする年齢でもなくなってしまったせいもあるのかもしれない。  ま、それはともかく、私たちは、その店でデートをスタートした。少し早めに出かけると、なんと、ゴルフ部の女の子たちが五、六人、フロアの真ん中にある楕円形《だえんけい》をしたテーブルのまわりに坐《すわ》って、おしゃべりしていた。「まずいなぁ」そう思った。  私と同じように、三光町にある付属校上がりの子と、後は、関西の宝塚にある姉妹校出身の子たちだ。みんな、結構、メジャーしてる。基弘のこと、知ってるはずだ。週明けに、「聞いてよ。雅美《まさみ》が、しっかり、菊島《きくしま》君と会ってるんだから」と、学校で言われるのは、だから、もう、わかりきったことだった。 「雅美、どうしたの。おめかししちゃって、さ」  一呼吸置いてから、最後に軽くスキップするような感じで、“さ”と付け足すのがクセなあずさに声をかけられてしまった。当時、まだ、いつもはニュートラしていた私は、ママにおねだりして初めて買ってもらったミッチのスーツを、珍しく、その日、着ていた。グレーフランネルのスーツだ。中には、シルクのブラウスを着ていた。 「えー、ちょっと……」 「ふーん、お楽しみかな」  清純派代表、って感じのコーディネイト。今、思うと、あまりにもオーソドックスすぎる。一回目のデートに、そんな格好していってたなんて、ちょっぴり、気恥しい。でも、その頃の私としては、精一杯、頑張《がんば》っちゃってるつもりだった。  なんてったって、前の晩、最近買ったワードローブを全部、ベッドの上に並べて、「どれにしようかな」と迷っていたのだもの。なかなか、決らなくて、最後には、仲のいい利佳子《りかこ》に電話をかけて相談した記憶がある。なつかしい。 「別に。ごく普通に、男の子と会うだけ」 「誰《だれ》なのかなあ、それ?」  いつも、バカなことをやっては、みんなを笑わせてばかりいる真理子が、わざと、意地悪そうな声を出した。上目使いしちゃって、もう、やめてほしい、そういうのって。  でも、だからといって、「菊島君よ」なんてこと、私から言うわけにはいかなかった。体育会のアイスホッケー部に入っていた彼は、みんなのアイドルだったからだ。  ラグビーとか、アメリカン・フットボールをやってる男の子に、やたらと人気が集中していたのは、その頃も今も変わらない。けれども、私のまわりの女の子は、「もう、それは、ちょっとね」という感じだった。アイスホッケーをやってる男の子の方が、渋い。そう思っていたのだ。  きっと、「ミーハーじゃないものね、私たち」ってところがあったのだろう。ラグビーやアメフトの男の子には、いつでも、二、三人、未《いま》だにレイヤードしてる女の子が、単なる遊び相手としてベタベタしていれば、それでいいのよ、みたいな感じだった。  そうして、「アイスホッケーの男の子は、私たちのような、アベレージ以上の女の子と付き合うのが正解よね」「知る人ぞ知る、ってところがいいのよ、アイホーは」結構、勝手なことばかり言っていた。  もちろん、本当の理由は、上品で清潔そうなイメージがアイホーにはあって、しかも、まだ、それほどの競争率にはなっていない、というあたりにあったのかもしれないけれど。 「キャーッ、菊島君だったんじゃないの」  約束の時間より十五分ほど遅れて入って来た彼が、私のところへやって来ると、ゴルフ部の一連隊が、びっくりしたような声を出した。ばれてしまった。  ——どうしよう、早く出た方がいいのかしら。  そう思っているのに、彼の方は、「やあ」という感じで、あずさや真理子に御挨拶《あいさつ》しちゃっている。困った。 「待たせちゃったね、ごめんなさい」  そう言いながら、基弘は向い側に坐った。ミルク・ティーをオーダーしている。 「ほら、このところ、広尾って、駐車している車が多くなっちゃったじゃない。縦列駐車するスペースがなかなか見つからなくてさ」  ——不思議だな。全然、気にならないのかしら、ゴルフ部の子たちのこと。  もう、私の方は、そわそわだ。 「やっと、見つけたんだけれど、今度は、後ろから来る車が多いから、バック出来なくて。仕方ないから、広尾橋の信号が赤になるまで、先に縦列駐車してる車の横に停まって、ハザード付けて待ってるんだけれど、駄目《だめ》なんだ、これがさ」  私の目を見ながら、ニコッとする。 「ピッタシ、僕《ぼく》の横に停車しちゃう信号待ちの車がいるんだよ。これじゃあ、ハンドル切りながら、バック出来やしない」  そんな具合になったら、普通の男の子は、イライラしちゃうところだろうに、彼は淡々と話してくれる。むしろ、楽しんじゃってきたみたいな感じだ。  もちろん、遅刻したことの弁解じみてもいない。いつもの私だったら、「素敵だな」と思ったかもしれない。けれども、その日は違った。 「出た方が、いいでしょ、このお店」  運ばれてきたミルク・ティーを、一口、彼が飲むと、切り出すことにした。 「わかってる、大丈夫」  それまでより、何分の一も小さいボリュームの声で答えると、立ち上がった。 「雅美が気にしていたのはわかってるよ」  車は、広尾橋の交差点手前に停めてあった。なるほど、ここじゃあ縦列駐車するのが大変そうだ。彼は、綺麗《きれい》に停めていた。とても、私には出来そうもない。 「でも、変によそよそしくするのは、かえってマズいじゃない」  私を先に乗せてくれてから運転席についた彼は、エンジンをかけながら、そう続けた。 「そりゃ、どうせ、なんだかんだと、あの子たちに言われちゃうわけだけれどさ」 「はい」 「どうしたの、緊張なんてしないでよ」  チョコンと人差し指で、私の鼻の頭を叩《たた》いた。駄目だわ、余計に緊張しちゃいそう。 「ニコニコ、挨拶して、その後も、ゆっくりお茶していれば、多分、向こうもアレーッ、という感じになるでしょ」 「はい」  またしても、優等生のお返事しちゃった。今まで、パーティとかで彼に会った時は、もっと、全然、くだけた喋《しやべ》り方をしていたというのに、どうしてなのかしら。でも、基弘って、色々と気を遣ってくれているんだ。うれしい。 「デートって雰囲気《ふんいき》の待ち合わせじゃなかったのかもしれないわね。もしかしたら、そう思ってくれるかもしれないじゃない。あれだけ、人目を気にしてない風にふるまっていると」  天現寺のランプから、首都高速に入っていた。お店を出たのが、四時過ぎ。夕ご飯までには、少し時間がある。ドライヴをするつもりなのだろう。 「うん、そんなに気にしているわけじゃあないから」  ようやく、普段の喋り方に戻ってきた。 「どうかなあ。雅美、青い顔、していたもの」 「だって」 「わかってる。一回目のデートで、とやかく言われるのはね。そりゃ、僕だってイヤさ」  一ノ橋インターチェンジを過ぎると、環状線内廻《うちまわ》りに入った。左手に東京タワーが見えてくる。早くも、鉄塔のところどころにある赤いランプが、点滅していたような気がする。 「でも、まあ、いつかは、バレちゃうわけだからさ。これから、二人、デートを繰り返していくとね」  ——どうしよう。  そう思いながら、運転している彼の顔を見た。ハンサムだ。みんなが憧《あこが》れるはずだ。やっぱり、うらやまれちゃうのかな、友だちに。 「いいよ、いいよ。毎回、隠れてデートするわけにもいかないし。ただし、雅美が逢《あ》ってくれれば、のお話だけれどさ」  こっちを向いて、ニコッとした。まるで、悪戯《いたずら》っ子みたいな表情。扱い慣れているんだな、女の子のこと。 「食事の前に、連れて行ってあげたい場所がある」 「どこなの」 「新木場の方さ。まだ、埋め立てたばっかりって感じの、第十五号地。荒れ果ててるんだあ。一面、丈のある雑草が生えていて、遠くの方は、小高い丘みたいになっている。そろそろ枯れ始めているのかもね」  ——今までに、一体、どんな女の子と行ったことがあるのかしら。  本当は、聞いてみたかった。でも、その前に、キスをされてしまった。汐留《しおどめ》のあたりでだ。渋滞気味でスピードを落とした、ほんの一瞬に。  その日、プジョーに乗ってきていた彼は、左手でハンドルを握りながら、右手は私のあごを軽く押し上げていた。  ——何人もの女の子と行ってるのだわ、きっと。なのに、基弘のことを好きになっていってしまう。 「食事は、フランス料理にしようと思ってるんだけれど。ラ・タボラ。フロム・ファーストの地下にあるお店」 「はい」  また、優等生だ。でも、今度は、お返事だけが優等生。 「久しぶりだね」  化粧室から出てくると、声をかけられた。基弘だった。本当に、久しぶりだ。もう、どのくらい、逢っていないのだろう。  一年近い気がする。「あっ」と小さな声が出た後、しばらく、言葉が続かなかった。 「お元気ですか」  本当は、もっと、普通の喋り方をしたかった。けれども、口から出てきたのは、変によそよそしい挨拶だった。 「そんな言い方、しないでおくれよ。もう、そろそろ、パーティも終わりでしょ」 「ええ、八時までだから」 「よかったら、どこかへ行こうか」  右足のオペラパンプスを、彼は床にこすりつけている。前後に動かしたり、左右に動かしたり……。顔も、ちょっと、うつむき加減だ。長い間、逢っていないと、お互い、目を見て喋れなくなってしまうのかしら。  私の方も、顔を上げてはいるけれど、でも、さすがに、彼を正面から見ることは出来ない。 「駐車場、ちょっと離れているけれど、いい?」 「いつものところね」 「そう、川崎定徳《ていとく》駐車場」  笑ってしまった。二人とも、川崎定徳駐車場って言葉を、一緒に口に出したからだ。昔、六本木にやって来ると、チャールストン&サンの前にあるその駐車場へ決って、彼は入れていた。  入口で車を降りると、後は、アルバイトの少年が移動してくれる。料金も国産車であろうと、輸入車であろうと一緒、というのも、彼にはうれしい条件だったみたいだ。  そうして、もうひとつ、駐車場の名まえが彼も私も気に入っていた。ロアビルから鳥居坂のあたりまで、ここら辺一帯の土地を持っていた地主さんの名まえらしい。  今は、その息子さんの代になっているらしいのだけれど、名まえの方は、相変らず、川崎定徳。字だけ見ていると、どこか、ごっつい感じなのに、なぜか、口に出すと、かわいい、って雰囲気。 「披露宴《ひろうえん》には、来なかったでしょ?」 「出張だったんだ、松山の方にね」 「それで、ネオの方にだけ来たわけ」 「うん、羽田から急いで家に帰って、着替をして。ほんの十五分くらい前だよ、ここに着いたのが」  今日は、真由香の結婚式だった。私と同じ学年だった彼女は、基弘と同じアイホーの同期、内橋君と結婚したのだ。  披露宴は、永田町にあるホテルで。そうして、二次会が六本木のネオ・ジャポネスクに百人以上も集めて、夕方五時から開かれた。  当然、披露宴に来るだろうと思っていたのに、彼の姿は見当たらなかった。二次会へ来ても、やたらと人が多かったせいか、なかなか、見つけることが出来なかった。  別に、基弘に逢いたいと思って、真由香の結婚式にやって来たわけじゃあない。私が基弘と付き合い出してから間もなく、内橋君と仲良くなった彼女が、三年間もの恋愛の末、ゴールインしたことを祝福してあげたくて、それでやって来たまでのことだ。  けれども、会場にやってくると、気になって仕方なかった。披露宴の前に、私たちの学校の中にある教会での結婚式にも、もしかしたら、やって来るかしら、そう思っていた。だから、彼が現われないまま、披露宴の方も始まってしまうと、なんだか、心配になってきた。  といって、新郎側の友人たちに、「ねえ、基弘は?」と聞くわけにもいかなかった。いや、別段、聞いちゃ、まずかったというわけではない。けれども、私の方から口に出すのは、ちょっとね、って感じだった。  誰かが、私との挨拶の後に、「そういえば、菊島の奴《やつ》、どうしたのかな」と切り出してくれるのを待っていた。でも、だあれも、そんなこと、言ってくれなかった。 「食事をした後、こっち側で飲んだんだよね、最初のデートの日に」  フロム・ファーストビルの地下にあるBar & Coに、私たちはいた。ピアノの横にあるソファーに二人、腰を下ろして、彼はデュボネ・ソーダを、そうして、私はガリアーノ・オレンジを飲んでいた。 「そうよ。二人とも、すっごく、酔っていたわ」  あの日、食事をしたラ・タボラは、Bar & Coの横にあった。今はエル・トゥーラと名まえを変えて、イタリアン・レストランになっている。フロム・ファーストの地下全体が、レストランとバーになっていた。そのレイアウトは、今でも変わらない。私たちは、シャブリのプリュミエ・クリュを飲みながら、初めての晩餐《ばんさん》をした。 「まだ、弱かったんだもの、あの頃《ころ》」 「そうだよ、雅美ったら、すぐに真っ赤になってしまってさ」 「ううん、きっと、基弘とお食事出来たこと、それだけで、もう、酔ってしまったのよ」 「よく言うよ」  私より、二つ三つ年上だろうか、髪の長い女性が、ピアノを弾きながら歌っている。こうしたお店に来ると、しばしば、聞いたりする曲だ。けれども、曲名はわからない。 「食事をしたら、それで、もう、お酒を飲むのなんてやめておけばいいのに、また、始めちゃったんだよね、このバーで」 「覚えているわ」  二人で、今度は、オールド・パーの水割りを飲んだ。たしか、このソファーに坐《すわ》っていたはずだ。地下にあるお店にしては珍しく、天井の高いのが、たまらなく、気分が良かった。 「きっと、今だったら、もっと、違うお酒を頼んでいたよね、たとえば、今日みたいに」  私も、そう思う。けれど、あの頃はまだ、こういったところへ来慣れていたわけじゃあなかったから。  もちろん、ヘンリー・アフリカだとかフライデーズ、はたまた、チャールストン&サンあたりへは、お互い、付き合い始める前も、それから、付き合い出してからも、しばしば、行っていた。トロピカル・ドリンクというジャンルの飲み物が、大当たりしていた頃のことだ。 「ねえ、こんなところで、ソルティ・ドッグとかマイタイをオーダーしたら、笑われるよね」  私はもちろんのこと、彼も、実際にフロム・ファーストの地下へやって来たのは初めてだった。頼めば、作ってくれるのかもしれない。  でも、チーク・ウッドの世界に突入しているこのお店って、なんとなく、トロピカル・ドリンクの雰囲気ではないな、という感じがした。トレーダーヴィックスではないのだもの。それで、無難なところでウイスキーにしたのだ。 「会計のことが心配になって、私、途中で尋ねたのよね、基弘に」 「そう、そう」  家庭教師のお金があるから平気だよ、みたいなこと、言ってた気がする。 「大丈夫だったの、あの日」 「あの日は平気だよ」 「えっ、どういうこと」 「わからないの?」 「うーん」  彼は、あーあ、って感じの顔をする。 「おっとりしてるというか、意外と物わかりが悪いというか。弱ったもんだなあ、雅美は」  呆《あき》れられてしまった。 「だから、次の日から貧乏しちゃってたというわけさ。でも、雅美とは、その後すぐに、週二回は逢うようになっちゃったからね。その時のお金も、なんとか工面しなきゃならなかったし、いやあ、大変でしたよ、あの月は」 「そうだったんだ」 「でも、まあ、一回目のデートだったからね。いいんじゃない」  つい先程、ネオで再会した時には、どこか、ぎくしゃくした喋り方だったのに、もう、すっかり昔みたい。でも、それは会話だけが、だ。フワーンとしたソファーに二人、横に並んで坐っているのに、お互いの指と指を、からませ合うわけでもない。ちょっぴり、寂しい。  もしかしたら、私が婚約していることを誰かから聞いているのかしら。今日だけは、そっと、指輪を外して出かけてきたのに。  私たちは、卒業するまで、ずうっと付き合っていた。それぞれ、大学を出た後、就職をした。彼は、丸の内に本社がある財閥系の硝子《ガラス》会社に。私は、霞《かすみ》が関にオフィスがある外国の航空会社のカウンターに坐ることになった。  オフィス・アワーがはっきり決っている私に比べると、彼の方は営業担当になったこともあって、残業が多かった。もっとも、メーカーなのに、地方の工場勤務とならずに済んだのだから、東京にいられるだけでもラッキーだったのかもしれない。週に一回は逢っていた。  けれども、そのうちに自然消滅してしまった。どちらかに、新しい異性の友だちが出来たわけじゃあない。特別な理由が、他《ほか》にあったわけでもない。いつの間にか、終わってしまっていた。 「車に戻《もど》ろうよ」  シートに坐ると、パワーウインドーのスイッチを押した。やっぱり、冷たい。 「買い換えたのね」  去年の暮に日本で発売になったばかりのルノー25だよ、って教えてくれた。 「アウディの100とか、BMWの533クラスの車。とっても、運転しやすいよ」  ルノーというと、どうも、あの小さなサンクを思い浮かべてしまう。けれども、25はなかなかに高級なサルーン車だった。 「城南島の方へ行ってみようか?」  大井埠頭《ふとう》の南には、城南島と京浜島という二つの埋立地がある。工業団地になっている京浜島は、羽田の滑走路が良く見えるせいか、昔から、アベックが車に乗って数多くやって来ていた。けれども城南島の方は、まだ、あの頃、埋立て中だった。 「さっき、食事前に行った第十五号地とは、また違った不気味さだよ」 「お酒を飲んでいても、運転だけはまかして」と言っていた基弘は、第二京浜から環七へと入った。本当なら、そのまま、私の家まで送ってくれるはずだったのに、なぜか「道草しちゃおう」ってことになってしまった。  中央陸橋の上で、さっきと同じように外の景色を眺《なが》めた後、城南島へ行った。砂利が敷き詰められた道の両側は、雑草ばかりではなくてヒースのような灌木《かんぼく》も生えている。T・S・エリオットの詩にでも出てきそうな、荒涼とした空間だ。  しばらく進むと、道は行き止まりになってしまった。車のライトを消すと、もう、真っ暗。時折、飛行場の照明が、淡い感じの赤い光を車の中にまで届けてくれるだけだ。 「怖いわ、ここ」  そう言いながら、彼の胸に抱きついたのが、つい、この間のことのように想《おも》い出されてくる。 「ねえ、舗装されちゃっている」  昔の砂利道は、もう、どこかに行ってしまったらしい。ずうっと、広い道が続いている。街灯もついてしまった。 「あんな建物も出来ちゃってるわ」 「なんなんだろう、不思議な建物だな」  パリのレ・アールにあるポンピドーセンターみたいに、鉄製チューブが剥《む》き出しになった銀鼠《ぎんねず》色の建造物。ライトに照らし出されたその姿は、遠くから見ると、未来のクリスマスツリーだ。 「新しい下水処理場なんだ。すごいね、こんなに近代的だなんて」  土曜の夜とはいっても、さすがに、ここまでやって来るアベックはいない。処理場の人も見当たらない。多くの部分が、自動制御なのだろう。窓を開けると、ブーンという低くて鈍い音が聞えてくるだけだ。  昔、彼に抱きついた場所に、未来からの贈り物が出現してしまった。さっき、中央陸橋の上から見た光景も、変わってしまっていた。乗ってきている車もだ。そうして、あの日から付き合い始めた私たちが、まるで、今まで何事もなかったかのような別人格の男と女としてここにいる。  カーステレオのスピーカーからは、黒人男性シンガー、フレデリック・ナイトの「If Tomorrow Never Comes」が流れてきた。 “もし、明日がやって来なかったら、僕《ぼく》は黙って去っていくよ。でも、これだけは覚えておいておくれ。今日、僕が君を愛したことを”  付き合い出して間もなく、基弘が聞かせてくれた曲だ。  内橋君と真由香は、途中、何度もくっついたり離れたりしていたのに、でも、結局、色んな人たちの反対を押し切って一緒になった。  最初は「菊島君を独占するなんて許せないわ」と息巻いていた子たちも、次第に「お似合いよ」と言ってくれるようになった私たちは、誰《だれ》の反対も、何の障害もなかったのに、お別れしてしまった。  そうして、この秋、私は親の推《すす》めるまま長期信用系の銀行に勤める三つ年上の人と、お見合いで結婚をする。  ハンドルの上に置いてる彼の右手に、そっと、指先で触れてみた。  昔は、一杯、キスをしてくれるのが好きだった。今は、こうして、彼の手に触れるだけでいいのだわと思えてくる。  基弘は、さっきから黙ったままだ。 「好きよ」  そっと、心の中でつぶやいてみる。顔を少しずつ上げていくと、幾重にもだぶった未来のクリスマスツリーが見えてきた。 世田谷区 深沢八丁目 「あら、桃井祥光《ももいよしみつ》よ」  前半のラウンドを終えて、クラブハウスへ戻《もど》ろうとしていた時のことだった。一緒に歩いていた伴野《ばんの》さんの奥様が、そうおっしゃった。朝から、とても良いお天気の日だった。 「えっ、どこに?」  私は尋ねた。いつもと変わらない喋《しやべ》り方でだ。どうして、上擦《うわず》った声にならなかったのか、その瞬間、自分でも不思議に思った。 「ほら、あちらの方から」  伴野夫人は教えて下さった。  昔、愛した人の顔を忘れていたわけじゃない。彼女が彼を見つける方が早かった。ただ、それだけのことだ。でも、私だけの桃井祥光ではなくなってしまってから、もう、大分経《た》つ。知らないうちに、心の中では少しずつ遠い存在になっていたのかもしれない。 「どうしていらっしゃるのかしらね?」  伴野夫人は、「まあ、珍しい」という感じで喋られた。 「久しぶりですわね、お見かけするの。あまり、トーナメントも出場なさっていないみたいだし」 「ええ」  これが仮に彼以外のプロゴルファーについて話していたのだったら、もっと違う相槌《あいづち》の打ち方をしていたと思う。たとえば、「本当ですわね。まだ、プロゴルファーをされているのかしら」と。けれども、それは私には出来なかった。  彼は中年の、多分、六十歳近いであろう男性二人と一緒に歩いていた。イン・コースを回っていた私たちとは別の、アウト・コースの方からクラブハウスへと向かって来るところだった。  少し痩《や》せたような気がした。もっとも、一番最後に会ったのは、今から八年前のことだ。記憶が朧気《おぼろげ》になっているのかもしれない。そう、思い直そうとした。 「随分と期待されていましたのにねえ。久々に登場の大型新人って感じでしたのに」 「ええ」 「たしか、暁子《あきこ》さんと同じ歳《とし》くらいじゃありませんでしたこと?」 「多分、同い歳か、あるいは、ひとつ年上か、そのくらいの感じですわ」  無難な答え方をした。もちろん、彼の本当の年齢を私は知っている。三十一歳。一つ年上。学生時代から、ゴルフの上手なことで知られていた。 「あら、もしかしたら、良くご存知なんじゃないの。暁子さんもゴルフ部でしたでしょ、違いましたっけ?」  幼稚園から大学まで、ずうっと同じ女子校だった。目白にある。途中、中学と高校だけが、小田急線の読売ランド前駅から歩いて十分のところにあった。祥光の学校は、全学部合わせると日本で一番人数の多い大学だった。そこの経済学部。彼もまた私と同じように、高校時代からゴルフをやっていた。 「はい。でも、私は今日程度の実力ですもの。桃井さんのことは、遠くの方から見ていたというか……。ええ、そうですわ、一方的に私が知っていただけです」  答えた。すると、伴野夫人は、 「あなた、そりゃ、そうでしょう。あちらは、学生時代から随分とゴルフ以外でも名まえを馳《は》せていたみたいだし」  おっしゃった。ギクッとした。「学生時代、桃井祥光のこと、何度か見かけたりしたことあるんでしょ?」みたいな軽いニュアンスで尋ねられたのだろう。なのに、今までみんなに黙っていたことの沢山ある私は、ついつい、弁解がましい答え方をしてしまった。  伴野さんと私の夫は、少し前の方を歩いていた。二人、大きな声で前半の結果を話している。四人の中では、歌代誠一《うたしろせいいち》、つまり、私の夫が今日の成績は一番だった。続いて、伴野さん、夫人。最後に私。この順番だった。 「ところで、ここのお昼ご飯、あまり、おいしくなくてよ」  成田の近くにあるカントリー・クラブへ来ていた。伴野さんが会員になっている。私にとっては初めてのコースだった。 「あら、そうなんですか。でも、日本のゴルフ場って、どこでも似たり寄ったりのレベルですもの、クラブハウスの設備が」  話題が変わったことを、内心、喜んでいた。けれども、「どうして、祥光がここにいるのだろう」そのことばかりを頭の中では考えていた。 「まあ、言われてみると、そうね。でも、ほら、もしかしたら期待されているんじゃないかと思って。だって、一応、有名でしょ、このコースは」  私の母の年齢に近いというのに、良く言えば天真爛漫《らんまん》なままの彼女は、自分の夫が会員になっていることを結局のところは自慢したいがために、クラブハウスの食事の話を持ち出して来たのだった。  そのクラブハウスが近くなった。アウト・コースを回っていた祥光たちも、近づいてくる。イン・コースからとアウト・コースからの道は、ちょうど、クラブハウスの下で合流していた。そこから二十段くらいの階段を上ると入り口だ。一番の高台に建っていた。 「このクラブ専属のプロゴルファーになったのかしらね」  伴野夫人はおっしゃった。なるほど、それは考えられることだった。会員と一緒にラウンドしていたのかもしれない。 「でも、もしそうだったら、会報に載るはずですものね。おかしいわね」  その昔、ある意味では一世を風靡《ふうび》した一人の男が、今、ここにいる。一体、何をしているのかもわからずにだ。伴野夫人は、そうした祥光のことを話すのを楽しんでいる風だった。  人は皆、自分のことが一番かわいいのだ。そうして、自分が傷つかない場所にいるならば、他人の不幸は自分の幸せとなり得る。小さい頃《ころ》、母に岩波や福音館の絵本を読んでもらった時、一番喜んだのは、狼《おおかみ》に崖《がけ》から突き落とされて羊がメーメーと鳴きながら谷底へ、というシーンだったりした。  大人になった今は、たとえば、今年五歳になる娘の咲良《さら》がそうしたシーンで手を叩《たた》いて喜んだりしたら、「駄目《だめ》よ。羊さんが、かわいそうでしょ」たしなめることだろう。  でも、それはもしかしたら、あくまでもファッションとしての慈悲のポーズなのかも知れないのだ。テレビやラジオを使って行なわれるチャリティーに多少なりともお金を寄付すると、もうそれだけで、とてつもなくいいことをしたような錯覚に陥って、そうして、まだ行なっていない人たちは血も涙もないかのように決めつけてしまうのと、どこか、似たところがあるように思える。 「本当に、どうなさっているのかしらね」  またしても、無難な相槌を打った。けれども心の中では、ほんの七、八メートルの距離にまで近づいた祥光が私のことに気がついてくれるだろうか、ドキドキしていた。 「もう駄目よ。だって、どうやって、パパやママを説得しろというの?」  祥光は下を向いたままだった。私が大学四年生の時のことだ。アメリカ大使館の近くにあるホテルのロビーで会っていた。多分、これが最後のデートになるのだろう。そう思って、会っていた。 「悪かったよ、僕《ぼく》が」  彼は、ようやく、口を開いた。いつもと違って、小さな声だった。 「でも、もう遅いわよ、何もかも」  障子の方を眺《なが》めながら、私は答えた。エントランスの部分から一段低くなったところに、ロビーのソファーが幾つか置いてあった。永田町にあるホテルと同じように、日本的な内装だった。落ち着いていた。 「どうして? 僕が直接、ご両親に会って謝るよ。ねっ、そうさせてくれよ」 「無理よ。会ってくれないわ、パパもママも」  休日の夕方だった。いつもならば、外国から訪れたビジネスマンたちが、仕事の打ち合わせをしている。けれども、その日は私たち以外には、二、三組、日本人の老夫婦がチョコンと坐《すわ》っているだけだった。 「祥光には暁子だけだから、って言い続けて来たんじゃない。パパやママに、なんとか認めてもらおうと思って。なのに、他《ほか》の女の人と一緒に車に乗っていて、事故を起こしてしまうなんて」  夏の終わりの陽射《ひざ》しが、障子越しに感じられた。もしも、開け放たれていたならば、かなり、まぶしかったことだろう。そうして、ゴルフ焼けした彼と私の顔は、余計に健康的な雰囲気《ふんいき》に見えたことだろう。  けれども、私たちは別れ話をしていたのだ。障子を通して、微《かす》かに感じている方がふさわしかったのかもしれない。しばらくの間、私は黙って夏の終わりの余韻を味わおうとしていた。真剣な話をしているのに、やけに冷静だった。 「単なる友だちだよ、彼女は。誰《だれ》とでも仲良くなっちゃう娘《こ》だよ。どうってことないモデルをやっていて」  大学時代の祥光は、川崎にある実家に住んでいた。三、四回、訪れたことがある。川崎大師の近くだった。父親は、道路のラインを引く会社を経営していた。  スニーカーというよりも、むしろ、ズックと呼んだ方がふさわしいキャンバス地の靴《くつ》が、玄関には何足も脱ぎ捨ててあった。住み込みで働いている若い男の子が何人もいたのだ。新聞専売所の三和土《たたき》に無造作に脱ぎ捨ててあるズックの世界だった。そうして、裏手に回ると、黄色にぬられたトラックが停《と》まっていた。  男ばかり三人兄弟の末っ子だった。胸板の厚い、がっしりとした体型だった。そうした祥光を、この私は好きになった。二年生の時からだ。お互い、真剣になった。当時、体育会のゴルフ部に入っていた学生の間では、結構、有名なカップルだった。 「でも、明け方の四時に起きた事故じゃないの?」 「事故ったって、単なる出合い頭のだよ。ヘッドライトの所を壊しただけ。助手席の彼女だって、ケガひとつしてやしないよ」  その年の春に大学を卒業した彼は、プロゴルファーとしてデビューした。学生時代と違って、プロの世界では優勝をするほどの実力では、まだなかったけれど、それでも常に上位にランキングはされていた。  一人で住むようになった。上野毛《かみのげ》のあたりにだ。車も買い換えた。海外で行なわれるトーナメントに出かけることも多くなった。少しずつ、私から遠い存在になっていくような気がした。それが不安で、だから、午後の授業を休んで成田の空港まで迎えに行ったこともある。私の気持に変わりはなかった。 「ねえ、暁子。桃井さん、昨日もいたわよ。キャステルに」  学校の友だちの中には、そう言って心配してくれる子もいた。キャステルの全盛時代だった。 「別にいいのよ。それも彼が成長するためには仕方ないことだと思うわ」  一体、誰といたのかしら。私にはウェアの部分で契約しているアパレル・メーカーの人たちと、付き合いで飲みに行くから遅くなるよ、と言っていたのに……。平静を装いながら、けれども、内心、ドキドキしていた。学校から脱け出して、そうして、一刻でも早く彼をつかまえて問い質《ただ》さなくては。居ても立ってもいられない気持だった。 「違うよ。ちゃあんとスポンサーと、それから、代理店の人も一緒だよ。別に、僕一人だけでキャステルへ行ったわけじゃないさ」  彼は顔色ひとつ変えずに、そう答えた。すると不思議なことには、「そうよね、祥光は私のことを、ちゃあんと考えてくれているもの」不安で不安で仕方ないというのに、でも、そうも思えてきて、つい、追及の手を緩めてしまいそうになるのだった。 「一緒に女の子もいたんでしょ?」  それでも、最後にもう一度、一番気にかかっていたことを質問した。すると彼は、「ああ、いたよ。三人ばかりね。でも、彼女たちは、ほら、キャステルへ行く前に寄ったミニ・クラブの子たちさ。お店が跳ねた後、一緒に連れていってあげたのさ」  本当なのかどうかわからないけれども、とにかく、彼はそう言った。男同士で行ったのさ、と言われるよりも、かえってホッとした。  とは言っても、それまで明るい子だった私があまり外に遊びに出かけないようになったのは、彼のせいだ。私の知らない女の子を連れて歩いている彼にバッタリ会うのが、怖かったのだ。彼以外に親しいボーイフレンドがいたわけでもなかった私は、練習の合い間を縫って遊びに出かける時は、いつでも同性の友だちと一緒だった。 「あら、祥光。今日も、綺麗《きれい》な方とご一緒ね」多少、皮肉を込めた挨拶《あいさつ》をプレゼントしてあげることが出来ないわけではなかった。そうして、友だちに、「本当に困っちゃう人なのよね。でも、私がいないと駄目みたいだから」虚勢を張った発言をすることが出来ないわけでもなかった。  けれども、他の女の子とデートしているのを目の当たりにするのは、やっぱり辛《つら》い。それだったら、彼とのデートを約束していない日は、一人、自分の部屋でウジウジしている方が、まだ、救われるような気がした。 「今日は、デートじゃないの?」  母に尋ねられると、 「うん、トーナメント前に私と会ったりすると、彼、神経を集中することが出来なくなっちゃうじゃない。だから、暁子もいい子にしていようと思って」  意識して明るい声を出した。  もっとも、一人、部屋にいると、やっぱりイライラしてくる。彼の自動車に電話をかけることもあった。上野毛のマンションにいないことくらい、最初からわかっていた。当然、東京にいるのだろうと思って、プッシュホンのボタンを押すと、「只今、32の地域にいます」、あるいは、「34の地域にいます」といったトーキーの流れてくることがあった。  コースへ出た帰りにしては、時間がかかり過ぎる。いつでも、いたたまれなくなって自動車に電話をするのは、午後九時過ぎだった。一体、何をしているのだろう。もう一度、今度はエリア・コードの31の部分をトーキーの指示に従って押し直せば、彼の声が聞けるというのに、でも、怖くて出来なかった。 「単なる友だちだよ、彼女は。誰とでも仲良くなっちゃう娘《こ》だよ。どうってことないモデルをやっていて」  誰もケガをすることなく終わった事故だったのに、翌日付の新聞の社会面に載ってしまった。朝、ベッドの中でうとうとしていた私のところへやって来た母は、黙ってその記事の部分を差し出した。そうして、 「やっぱり、もう、お止《や》めなさい。悪いこと言わないから」  いつもの母とは違う、きっぱりとした物の言い方をした。  事故があったことは、電話で聞いて知っていた。けれども、同乗していた女性がいたことは知らなかった。デートをしている現場を見てしまった時と同じように、いや、多分、それ以上にショックだった。  遊び人の恋人を持った女性は誰だって、「でも、本当は違うのよね。本当は、私だけなのよね。後の人は、単なる友だちなのよね」信じていたいのだ。なのに、そうした気持を踏みにじられてしまった。 「だから言ってるだろ、どうってことないモデルをやっている娘《こ》だって」  相変らずの元気ない声で彼は繰り返した。普段だったら、そのセリフをきいて、少しは安心したかもしれない。「きっと、彼女に対しては遊びなんだわ」、そう思ったかもしれない。けれども、その時の私は違っていた。 「何てこと言うの。多少なりとも彼女のこと、気に入っていたから、そんな時間に一緒にいたんでしょ。祥光、あなたって、みんなを甘く見ているわ。何でも、自分の思う通りにいくと思っているのよ」  明け方近くに一緒にいた、私が見たこともない彼女への悔しさが、ちょっぴり屈折した形で出てしまった。 「もっとね、大事にして欲しかったわ、私とのこと」  月並みな、けれども、その時の私としては精一杯の強がりを言った。障子の向こう側は、少し薄暗くなっていた。 「どうして、電話番号がわかったの?」  運転している祥光に、私は尋ねた。時刻は二時半を少しまわったところだった。 「カードだよ、カード」  彼は前を向いたまま、答えた。意味がわからなかった。食後に飲んだドランヴュイのロックが効いてしまったのかしら。彼と二人、八年振りの食事を小さなビストロでした後のやりとりは、こうして始まった。 「カード? わからないわ」  フロントガラスの向こう側を私も見ながら、そう言った。  主人と仕事上の付き合いがある伴野夫妻とゴルフに出かけた次の日のことだった、祥光から電話がかかって来たのは。ちょうど、ブリッジをアメリカン・クラブで楽しもうと、車に乗って出かけようとしたところだった。 「桃井様という方から、お電話でございます」  結婚した時から、ずうっと働いてくれているお手伝いさんが、玄関口にいた私を呼んだ。 「桃井です」  聞き覚えのある声だった。何と答えていいのかわからなくて、私は黙ったままだった。 「昨日は、どうも」  彼は続けて、そう言った。わかっていたのだわ、私のこと。ちょっぴり、嬉《うれ》しい気がした。クラブハウスの前で、声をかけよう、声をかけよう、そう思ったのだ。けれども、出来なかった。  上の娘は、田園調布にあるミッション系の女子校の幼稚園に通っていた。長男の紀史《のりふみ》も、来年から幼稚園だった。貞淑な妻を演じている、いや、むしろ、それになり切っている今の私にとって、だから、祥光に声をかけるのは勇気のいる作業だった。オックスフォードのパンタロンをはいて、キャステルやセックへ出かけていた頃の私とは、最早、違うのだ。夫が運転する帰りの車の中で、自分にそう言い聞かせた。なのに、 「久しぶりね」  実際に電話がかかって来たら、昔、辛い思い出を一杯作って別れたことも忘れて、優しい言葉で話してしまった。けれども、不思議と情けない気持にはならなかった。  プロゴルファーになる前から、彼と付き合うことを私の両親は反対していた。「家の雰囲気が違います」そう言って反対された。「そんなことないわ」私は反論をその度にした。  父は北欧諸国から家具を輸入する会社を経営していた。弟を入れて四人、梅ヶ丘に住んでいた。大金持だったわけではないけれど、不自由ない生活だった。もちろん、不自由ないという点では、彼も同じだったとは思うのだが。  自分が豊かに育ってくると、そうした環境の違いなんて、さほど大して問題にならないと考えたがるのかもしれない。あるいは、自分と違う環境に育った男性の方が、かえって、魅力的に映るのかもしれない。祥光のことが本当に好きだった。  プロゴルファーになってからの彼とのことは、今まで以上に反対された。「不安定な職業だから」その一言だった。たしかに、不安定かもしれない。けれども、失敗のない安定しきった職業を選択する男性なんて、付き合うだけの魅力が、一体、どこにあるというのだろう。  もちろん、苦労なく育ってきたからそんなことが言えるのだ、と反論されてしまうと、それまでというところもあるのだけれど。でも、当時の私には、石橋を叩いて渡るような男性は眼中になかった。 「そんなにもお前が好きだと言うのなら」最終的には、母は応援してくれるようになった。それは、彼女が私と同性だったからだろう。そう思う。息子の結婚相手について最後まで色々と文句を言うのは、母親の方かもしれない。そうして、娘の結婚相手について最後まで色々と文句を言うのは、父親の方かもしれない。 「結婚後、ご挨拶のカードを送ってくれたじゃないか、印刷した」  私の家が近くなってきた。祥光と別れた後、何度目かの見合いで知り合った誠一と結婚をした。彼は父親が用賀中町一帯で経営する造園業の跡取り息子だった。城南地区で一番大きな造園業者だった。  両親は、会社の同じ敷地内に暮らしていた。一緒に住む覚悟をしていた。けれども、「まあ、別々の方がいいだろうって」彼の父親は深沢八丁目に持っていた古い空家を取り壊すと、私たちの希望通りの家を建ててくれた。二百五十坪の敷地があった。 「思い出したわ。川崎の方に送ったのよ、たしか」 「そうだよ」  もちろん、挨拶状の宛名書《あてなが》きは私がした。彼の仕事関係、友人関係の宛名を書いた後、私の関係者の宛名を書くことになった。学生時代からのアドレス帳を見ながら、一枚、一枚、丁寧に書いた。と、その中に桃井祥光の名まえを見つけたのだった。  私と別れてから、彼は次第に不振となった。上位入賞者のリストに、その名まえを見ることも少なくなった。結婚後のご挨拶を出す頃には、まったく鳴かず飛ばず、という状態だった。  どうしようかしら、そう思った。もしかしたら、等々力《とどろき》のマンションは引き払っているかもしれない。川崎の方へ出したのは、それでだった。  ひょっとすると、連絡が来るかもしれない。少し、ドキドキしながら期待していた。けれども、返事は来なかった。ちょっぴり、がっかりした。来たら困る、と思っていたにもかかわらず、だ。結婚しても、なお、贅沢《ぜいたく》な悩みを抱えていた。 「良かったら、少し上がって行く?」  深沢八丁目は、閑静な住宅街だった。生け垣《がき》のある家が続く。桜並木にもなっていた。高架になった首都高速三号線から眺めると、そこだけが鬱蒼《うつそう》とした森のように見える。毎朝、蝉《せみ》の鳴き声で目が覚めた。 「まずいだろ、それは」  プロゴルファーとしての人生に見切りをつけた彼は、今は兄が経営するようになったライン引きの会社を手伝う傍《かたわ》ら、鶴見の方に小さなスナック・バーを開いているのだという。たまに、ゴルフをもっと上達したいという中小企業のオジさんと一緒にラウンドしては、小遣い銭稼《かせ》ぎをしているのだとも言った。  海外でのトーナメントから帰ってくると、当時、大好きで仕方なかった私が車で迎えに来ていた、その成田空港から程近いコースで出会ったこの間も、多分、そうだったのだろう。人生とは、なんと切ないものなのだろう。彼は、まだ独身だった。 「大丈夫よ、少し寄っていかれたら」  別に、下心があったわけではなかった。お手伝いさんもいるのだ。昼間でもあった。ただ、お茶を出すだけのつもりだった。そうして、多分、今日が本当に最後のデートとなるだろうと思った。  蝉《せみ》時雨《しぐれ》の聞える中、三台分のスペースがあるカーポートに彼が車を停めると、裏庭で子供の声がした。一緒に歩いて行くと、咲良と紀史が一緒に砂場で遊んでいた。庭の一角に、子供のための砂場を作ってあるのだった。 「ほら、オジさんにご挨拶しなさい」  彼の名まえは出さずに、私は子供たちにそう言った。 「今日は」  スコップを手に持ったまま、咲良が挨拶をした。父親に似て、色白の娘だった。私に似ていると誰もがいう紀史の方は、クリクリとした目をしていた。小さな小さなポリバケツを持って、ピョコンと頭を下げた。 「この二人が、歌代との子供です」  私は、祥光を見詰めながら言った。  しばらくの間、沈黙が続いた。そうして、 「こういう結婚をして、良かったんだろうな、きっと」  今度は彼もまた、私を見詰めながら言った。綺麗な目をしていた。こうやって見詰め合っていると、お互い、大学生だった頃から、少しも変わっていないような気がする。けれども、八年振りの再会なのだった。  ホテルのロビーで別れの話をした時、障子の方ばかりを見ていたことを思い出した。あの日、彼の目を見ると、別れられなくなっちゃうような気がして、わざとそうしていたのだった。  今日は、じっと彼の目を見詰めている。そうしていても、もはや、平気な私になってしまったからなのだろうか。ふと気がつくと、さっきよりも蝉の鳴き声が大きくなっていた。 伊豆山 蓬莱旅館 「女将《おかみ》でございます」  着物姿の女性が入ってきた。畳の上に指先をきれいに揃《そろ》えて、ごあいさつしてくれる。四十少し前くらいかしら。艶《あで》やかだ。でも、気品がある。 「ようこそ、おいで下さいました」  そう言いながら、母の御《お》猪口《ちよこ》にお酒を注《つ》いでくれる。母は、床の間を背にして坐《すわ》っていた。達者な書体の掛軸が懸かった床の間には、白い色をした花菖蒲《はなしようぶ》が一輪、細長い焼物の花瓶《かびん》に活《い》けられている。 「おひとつ、いかがでございますか」  私の御猪口へも注ごうとした。 「あらぁ、おきれいでいらっしゃること」  初めて目と目が合うと、女将さんの動作が、一瞬、止まった。きっと、今まで母の方ばかり見ていたのかな。私も彼女も、次の間との敷居にある襖《ふすま》を背にして、母と向き合う形で坐っていた。 「まだ、お若くていらっしゃいます?」 「いいえ、とんでもない。もう二十七です。今年の八月で」 「なら、お若いですわよ、それは」  一番最後の科白《せりふ》は、お世辞としか受け取ることが出来ない。もちろん、「まだ、二十七よね」と、内心で思っているところが、まったくない、と言えばウソになるけれど、それでも、やっぱり、若いわけじゃあない。だから、素直に受け取るのは、ちょっと、だ。  けれど、最初の方の科白は、うれしい。客観的データの年齢とは違うところが容姿にはあるから、誉《ほ》められると、こそばゆい感じと一緒に、「まんざらでもないわ」と思えてしまう。不思議。  それに、こうして、容姿について誉められるなんて、ここしばらくの間、なかったことだから、よけいにだ。いい気持。ただ、それも長くは続かなかった。 「お嬢さまで、らっしゃいますの?」 「あ、はい」  ちょっぴり、答えに詰ってしまった。少し火照《ほて》り気味の頬《ほお》に左手を当ててみる。日本酒のせいだけではなくて、なんだか、今、女将さんがした質問のせいでもあるような気がしてしまう。けれども、再び、母の方を向いた彼女には、私の表情が見えない。 「よろしいですねえ、親子お二人で、こうして、ご旅行なされて」  母と私は、顔を見合わせて微笑《ほほえ》んだ。でも、お互い、それは表情だけだ。母の目は、本当には笑っていない。きっと、私の目も同じ表情をしているのだろう。 「親孝行でございますか?」 「あ、はい」  またしても、「あ、はい」だ。どうしても、ワンテンポ、答えに吃《ども》ってしまう。たしかに、私たちは親子だ。そうして、今回の旅行は、私がお金を払うことになっている。親孝行というものなのだろう、傍《はた》から見たならば。  けれども、目の表情までニコニコさせながら女将さんの質問に答えることは、出来ない。まだ、とても、そんな具合にまで、今の私はなれない。今日、親孝行をしたところで取り戻《もど》せるわけがないくらいに一杯、ここしばらく、親不孝をして来たのだもの。 「いかがでございますか、お食事の方は」  どうやら、女将さんはそうした微妙な空気を察知したらしい。話題を変えた。 「おいしく、いただいております」  母が答えた。 「ありがとうございます。そう言っていただけますと、こちらも張り合いがございます」  蓬莱《ほうらい》の夕ご飯は、懐石膳《かいせきぜん》だった。きれいな器に盛られた鰈《かれい》とあいなめのお刺身を、ちょうど食べているところだ。 「なにかこう、このところ、男性同士のお客さまが続いておりましたものですから、久しぶりでございます、そういうお言葉は」 「男性同士のお客さまですか?」  今度は、吃らずに会話へと入っていける。 「ええ、おおございますよ。今も、こちらへ伺う前に、ちょっと、あちらさんの方へ顔を出して来たところでございます」 「どういうお客さまが、いらっしゃるんです?」 「そうでございますねえ、青年会議所の方とか、大手企業の幹部の方ですとか」 「へえーっ、おもしろい」 「みなさん、六、七人でおいでになります。昼間、熱海にある研修所かなにかで開かれる会議にお出になるのと違いますか。部下の方たちも交えて、お茶一杯で、延々、何時間も真剣なお話し合いをなさるのでしょう。夜は、その分、お酒の量も多くなられて。まあ、それは、一向に構わないんでございますけれど、ただ、お食事を誉めてくださる方が少なくて。やはり、残念でございます」  蓬莱は、今、伊豆《いず》で一番いいと言われている旅館だ。一人一泊五万円する。もちろん、朝晩のお食事も含んでのお値段だから、考えようによってはリーズナブルなのかもしれないけれど、それでも、やっぱり、決して安いわけじゃあない。  だから、カップルのお客さまばかりなのかと思っていた。それも、悠々《ゆうゆう》自適の生活を送る老夫婦、三十近くも年の離れた男女。もしくは、欧米系の外国人。少なくとも、私たちみたいな女同士は珍しいはずだ。勝手に、そう考えていた。  いや、もちろん、親子でやって来るパターンが少数派であるらしいという認識は、女将さんの話を聞いた後の今でも変わらない。ただ、男同士の、それも仕事上での人たちが蓬莱にやって来るなんて、ちょっと、意外だった。やはり、私たちと同じお値段なのかしら。 「一部屋に大勢さんでお泊まりになられますから、まあ、一人当たりのお値段はね、その分、お安くなります。ただ、芸者さんを揚げたりなさる費用は、これまた、別でございますけれど」  なるほどね。一部屋二人と決っているホテルと違って、旅館には何人でも泊まれるらしい。もちろん、十人も二十人もが一部屋に泊まるわけはないだろう。それじゃあ、大学時代の合宿になってしまう。ただし、七、八人までだったら、なんとかなりそうだ。十畳の客室と八畳の次の間があるのだから。 「今まで、二人連れとか、親子四人の家族連れで、一部屋使うものだとばかり思ってました」 「いえ、いえ、とんでもない。みなさん、そんなに余裕、ございませんでしょう」 「ふうん」  女将さんは、二人の御猪口にもう一杯、お酒を注いでくれた。 「まあ、どうぞ、ごゆっくりなさって下さいまし」  最初と同じように、もう一度、丁寧なお辞儀をすると、お部屋を出ていった。入れ替わりに、仲居さんが次の品を運んで来てくれる。八寸皿《ざら》に入った三点ものだった。  端午《たんご》の節句に因《ちな》んでだろうか、ちまき寿司《ずし》、兜《かぶと》に似せた鯛《たい》の焼き物、はじかみと呼ばれる生姜《しようが》が塗り物の上に置かれている。  ——どのお料理も、おいしいわ。それに、盛り付け方がきれい。  私は、御箸《おはし》を手に持った。  蓬莱に着いたのは、夕方の四時少し前だった。伊豆山にある。といっても、深山幽谷って感じの山の中を連想してもらったら困っちゃう。  湯河原と熱海を結ぶ有料道路は、海沿いに走る。このあたり、海岸線ぎりぎりまで崖《がけ》になって迫っている。国道は、それよりも崖の上の方。蓬莱は、それぞれに交通量の多いこの二つの道路の間にあった。つまり、崖の中腹だ。  国道からの入り口は、なあんてことのない場所にある。というよりも、むしろ、「本当に、ここが、蓬莱の入り口なの?」と訝《いぶか》りたくなるような雰囲気《ふんいき》だ。横には駐車場がある。  門構えこそ立派だけれど、塀《へい》の上には、ところどころ、蓬莱という文字の入った小さなネオンサインがついている。もちろん、中に白熱燈《はくねつとう》を使った乳白色のプラスチック製。一応は品のある代物《しろもの》。けれども、下手をすると、いかがわしい場所と勘違いされかねない。  ——アメリカン・エキスプレスのトラベル部門に勤める和田さんが、「今、一番ですよ、この旅館が」と薦《すす》めてくれたから、せっかくママを連れて来てあげたのに。あーあ、だな。  そう思いながら、東京から運転して来たBMWの325iを、門の中へと滑り込ませた。いつもは、千駄木《せんだぎ》にある私立の医科大学に通っている私の弟が乗りまわしている車。シルバー・メタリック。車体の大きさは、このごろ至るところで見かける318iと変わらない。もっとも、運転してみると、その性能は全然違う。加速がいいし、それに高速走行時の安定性が、雲泥《うんでい》の差だ。  ——えっ、ちょっと、なかなか、いい感じ。  急な坂道を下りて行く。と、大きな木が生えていた。根の部分が何本にも分かれて、しっかりと地面に食い込んでいる。入り口あたりはコンクリートだった道が、いつの間にか、石畳に変わっている。  タイヤの触れる音が違った。どこか、イタリアにある、中世から続く城壁に囲まれた都市を走っているような気分にさせる音。フィレンツェと同じ時期に栄えた中世都市、シエナの石畳で出来た道を、大学二年生の頃《ころ》、姉夫婦の車で走った時のことが思い出されてくる。  今は浜松町に移ったけれど、元々は日比谷の帝国ホテルの傍《そば》に本社があった大手の電気メーカーに勤めている姉の旦那《だんな》は、その頃、ミラノに駐在していた。  手入れの行き届いた灌木《かんぼく》が、石畳の坂道を車で下りて行くに従って増えて来た。目の中へと、突き刺さるような緑が飛び込んでくる。けれども、それは少しも痛くない。むしろ、心の落ち着きを与えてくれる。  もう、さきほどの気持は、どこかへ行ってしまった。期待感が、急速な勢いで心の中に広がっていく。  ——奈良屋《ならや》旅館の入り口に似ているわ。  箱根の宮ノ下にある奈良屋は、嘉永《かえい》二年の開業だと言う蓬莱同様に、江戸時代の天保十四年から続く旅館だ。やたらと値段が高いだけで中味の方がちっとも伴わない、苗場や軽井沢のリゾートホテルに愛想《あいそ》をつかしてしまった若いカップルたちが、代わって夢中になることの多いクラシックな箱根富士屋ホテルとは、道路を隔てて反対側だ。  奈良屋の方も、玄関までの間、石畳の坂道が続く。樹齢何百年という感じの大木もある。明治時代以来の建物が渋い。家政学部の住居学科に、付属校から希望通り進学出来ることが決った高校三年の春休み、月曜を臨時休診日にした内科医の父も一緒に家族四人、それに、結婚したばかりだった姉夫婦も合流して、土曜日から二泊三日、お出かけしたことがあった。あの頃、まだ私はお化粧の仕方も下手っぴいなトレーナー少女。  玄関が見えて来た。鉄製の枠《わく》に磨《す》りガラスの入った行燈《あんどん》が、ひとつずつ、両脇《りようわき》に置かれている。早くも灯《ひ》がともっている。もちろん、電燈を使っているのだろうけれど、でも、風情《ふぜい》がある。国道から大分下ったせいか、車のエンジンを停《と》めるとその瞬間から静寂さが辺りを覆《おお》い始めた。 「どうぞ、お車はそのままで。こちらで、動かさせていただきますから。お荷物もお運びいたしましょう」  このごろでは、一体、何と呼んであげるのが正しいのだろう、下足番と言うのかしら、それとも、玄関番とでも言うのかしら。印半纏《しるしばんてん》を着た初老の男の人が駆け寄って来た。  運転中に履いていた、もう、大分古くなったスエード皮のアルマンド・トスカーニのフラット・シューズを、このところ、お気に入りのクライヴ・シルトンのパンプスに履き替えた。せっかく蓬莱へやって来たのだ。入る時から、おしゃれしたかった。ダイアナ妃もご愛用とかのクライヴ・シルトンは、履きやすい。  車を下りると、そこから先の石畳には打ち水がしてあるのに気がついた。 「あー、やっぱり、ここへ来てよかったわ」  二時間近く運転して来たことも忘れて、コンプリーチェのジャケットとキュロットを着た私は母と一緒に玄関へと向かう。 「いらっしゃいませ、お部屋へご案内いたしましょう」  建物は、まだ新しかった。玄関の三和土《たたき》を上がったところには、畳が敷かれている。板の間ではないところが、どことなく、安らぎを与えてくれるような気分にさせる。香《こう》の香りもした。きっと、これから日没までの間、その香りを絶やすことなく焚《た》き続けて、お客様をお迎えするのだろう。  左手の帳場、右手に設けられた小さな待合室の間を通り抜けると、そこから、スリッパを履いた。上質のフェルトが敷き詰められた廊下が続く。 「いつ、出来たんですか、この建物は」 「今年で五年目でございます」  仲居さんは、私の質問に答えてくれた。 「きれいですものねえ」  母も、気に入っているようだ。嬉《うれ》しい。と、突然、グワーンという音がした。なんと、自動ドアがついていた。  びっくりしてしまう。自動ドアと言っても、街中にあるコーヒーハウスなんかの入り口についているのとは、全然、違う。ものすごく大きい。そうして、黒く塗られた鋼鉄製の枠組に、見るからにぶ厚そうなガラスが入っている。開閉する時の音も、低くて太い。お腹《なか》に響く。まるで、007の映画の中にでも出て来そうな自動ドア。重みがある。 「みなさん、びっくりなさいますんですよ」 「でも、違和感、ありませんね」  自動ドアの向こう側は、回廊のようになった渡り廊下になっていた。刈り込まれた芝生の先に、何本かの椿《つばき》の木が植えられた庭がある。 「ほんのしばらく前までは、お花が咲いて、それはそれは、きれいだったんでございますよ」  しばらく回廊を進むと、また、自動ドアがあった。どうやら、客室のある棟《むね》への入り口らしい。今度はもう驚かない。むしろ、仲居さんより先に歩いて、ドアの前で片足をポン、踏み出して開くのを楽しんでみたい気分になってくる。悪戯《いたずら》っ子だった小学生の頃みたい。  ——こんなにウキウキしたことって、もう、どのくらい振りだろう。 「さあ、こちらのお部屋でございます。相模《さがみ》湾の黄昏《たそがれ》は素敵ですよ。次第に陽《ひ》が落ちて行きますと、伊豆半島が、まるで、水墨画に描かれたような光景になってまいります」  数寄屋《すきや》造りの部屋からは、海が見えた。立派な枝振りの松の木と、しっとり調和している。 「よろしかったら、走り湯にお入りになられたらいかがですか。さきほどの通路をお戻りになられませ。こちらからですと、二つ目にあたる自動ドアの手前を左手へ。こごい坂と呼ばれております坂がございます。走り湯は、その先です。全面がガラス張りになっておりますから、相模湾が一望出来ます。お部屋から見るのとは、また、感じが違ってよろしゅうございますよ」  お夕食をいただく前に、母と一緒にお風呂《ふろ》へ入ることにした。 「ママと一緒のお風呂だなんて、随分と久しぶりね」 「奈良屋さんに行った時以来じゃありません?」  仲居さんが用意してくれた浴衣《ゆかた》に着替えながら、母は答える。考えてみれば、そうだ。家では一緒に入ることなんて、中学校以来、久しくなくなっていた。 「二人だけで旅行するのも、久しぶりね、由佳《ゆか》ちゃん」  結婚する前に母と二人、どこかに旅行しましょ、ということになっていた。けれども、結婚の準備で慌《あわただ》しい毎日を過ごすうちに、いつしか、立ち消えになってしまった。二人だけで旅行するのは、実に私が中学生だった時、軽井沢の別荘へ一週間出かけて以来のことだ。  毎年、家族全員で、軽井沢ゴルフ倶楽部《くらぶ》の近く、南原にある別荘へ出かけていた。たまたま、その年は、父も姉も、それに弟も、仕事が忙しかったり、大学のゴルフ部の合宿やボーイスカウトのキャンプがあったりして、一緒に出かけることが出来なかったのだ。 「あなたも、早く、浴衣に着替えたら」  もう既に浴衣の帯まで締めてしまった母は、両手をだらんと垂らしたかと思うと、畳の面と水平に伸ばしてみたりする。まるで、手旗信号の真似《まね》でもしているみたい。というより、無邪気な子供かな。やっぱり、私の母だ。 「待ってて、ママ。すぐ、着替えちゃうから」  ジャケットを脱いだ私は、まだ、直輸入物しか入って来ていなかった去年に買った、ルチアーノ・ソプラーニのシャツ・ブラウスのボタンを外し始めた。  私には、子供がいる。生後七ヶ月の男の子。純と書いて、まことと読む。姓は、江見。もちろん、私と一緒だ。けれども、彼の父親にあたる人は、浜田明という名まえ。私生児ではない。生まれた時は、ちゃんとした嫡出子。その頃、私たちは夫婦関係にあったから。  二年前の六月、結婚をした。私が二十四歳。彼は、二つ年上の歯科医。飯田橋にある私立の歯科大学の出身。前月の五月、国家試験に合格したばかりだった。  ——本当に、彼でなくちゃ、嫌《いや》だったのかしら。  夜中に目が覚めてしまった時、ふと、そう思うことがある。  ——あの頃、やっぱり、私は彼のことが好きだったのよ。そうよね。  自分で自分に言い聞かせようとする。けれども、「ううん、違うわ。あなたは、両親の決めた結婚から逃れたかったのよ。それで、たまたま、あの時、一番近くにいた彼のことが好きで好きで仕方ないような振りをしただけ。決ってるわ」もう一人の私が喋《しやべ》り始める。  ——そうなのかしら。  大学を卒業した後、浜離宮の傍にある建設会社に就職をした。大阪に本社のある企業だ。住居学科で勉強したことが、活《い》かせると思っていた。でも、配属されたのは、国際本部。  住居学科卒業の肩書よりは、むしろ、三、四年次にサイマルインターナショナルへ通っていたというキャリアの方が、評価されてしまったらしい。洗足池の近くにある自宅から、毎朝、池上線と山手線に乗って通う日が続いた。  カナダやエジプトからだけではなくて、ガーナやセネガル、それに、カメルーンといった国からも、ひっきりなしにテレックスが入ってくるそのセクションは、活気があった。  新聞の外信面にも殆《ほと》んどその名まえが登場しないような国で、日本の技術が役立っているのだ。私もそのお手伝いをしている。そう思うと、充実感はあった。  シンガポールに新しく出来るホテルの建設工事の入札で、難しいという前評判を覆《くつがえ》して落札した時など、フロア中が「ウオーッ」と沸き返った。普段、「由佳って、醒《さ》めてるところがあるからね」と、友だちから言われていたこの私も、体がブルッと震えて感激したのを覚えている。  けれども、どこか満ち足りなかった。もちろん、住居学科を出た、ただ、それだけのことで、工学部の大学院まで卒業している男子社員の人たちと、対等に渡り合えるなどとは思っていなかった。 「大卒女子の実力を、大企業は正当に評価しなさい」などと大きな声で叫ぶだけの、英文タイプも簿記も出来ないオフィスレディには、なりたくなかったから。ただ、「もう少し、私の語学面以外の力を活かすことが出来ればな」そう考えていただけ。  両親は、早く結婚させたがっていた。就職することだって、最初は反対していたのだもの。卒業する前の冬あたりから、何回か、お見合いをさせられた。その度、私が乗り気でないことを知っていながら、「今度の方は、いいんじゃない?」「おウチも、しっかりしてるし、収入面だって安心でしょ」なんだかんだと、もっともらしい理由をくっつけては、決断を迫ろうとした。  お見合いをした相手は、みな、医者だった。恋愛で、ごく普通のサラリーマンと、姉が結婚したせいだろうか、私には医者がいいと思っていたみたい。 「お互いの家庭環境は、似ていた方がいいですよ」  ——わかってるわよ。そんなこと。  私は、母からそう言われる度に、心の中で反発をした。  ——愛情があれば、結婚したって、なんとかなるものよ。人並みより、少しレベルが上の生活が出来れば、それでいいわ。  私が考えていた“人並みより、少しレベルが上の生活”というのは、一般的な若い女性たちから見たら、“ハイレベル過ぎるくらいに豊かな生活”ってことだったのかもしれない。  けれども、まだその頃は、世間知らずのお嬢さんだった。わが家は人並みより少しレベルが上の生活をしている家庭だ、くらいに思っていたのだもの。  ——家庭環境の違いだなんて、そんなこと言い出したら切りないわ。だって、ママ、それぞれのおウチが、皆、異なるのよ、元々。  時折、母のところへと御機嫌《ごきげん》伺いに訪れて、子供の教育費や自分の洋服代という名目で結構な額のお小遣いをもらっていたから、結婚する前と同じ雰囲気を姉が保てたのだ、ってことも知らなかったから……。 「信濃《しなの》町《まち》にある医学部出身の内科医。二十八歳。お父さまは、杉並区で開業医。お姉さまもお医者さんと結婚。非の打ち所もないじゃありませんか。今更、どこが嫌だというの。それに、あなた、もう、結納《ゆいのう》まで交しているのよ」  あんな語気荒げに喋る母を見たのは、後にも先にもその時だけだった。 「明とお別れしたいのよ」夫と上手《う ま》くいってないことを泣きながら初めて打ち明けた時には、むしろ、優しく包み込んでくれたような気がする。  六回目のお見合いをした男の人のことを、どうしても、好きになることが出来なかった。つまらない理由なのかもしれない。彼はクラシックが大好きだった。ただ単に大好きというだけならば、もちろん、それは許せる。けれども、レコードを聴きながら、目をつむって頭と右手で指揮を始めちゃうのだ。 「あら、いいじゃないの。大学時代、あなたのまわりにウロチョロしてた、訳のわからないポップスやらロックやらの大好きだった男の子たちより、よっぽど、素敵じゃない」  母は理解してくれなかった。目をつむって指揮しちゃうような性格の持ち主が、その他《ほか》の時にどういう行動を取るのか、わからなかったのだ。もちろん、私たちの年代の人なら誰《だれ》でもわかる。物に取り憑《つ》かれたような病的なところが、あるのだろうってことくらい。  婚約を破棄したかった。「絶対に嫌よ」そう言い出せないうちにまわりがどんどん動いて、気がついてみたら決ってしまっていたのだもの。振り出しに戻《もど》すことは、かなり難しいことだった。  ——誰か、他の人と、結婚するしかないわ。  私のまわりにいた男の人の中で一番、その対象としてふさわしかったのは、明のような気がした。もちろん、嫌《きら》いではなかった。人並み以上に男の人からチヤホヤされていたこの私が、結婚しようと思った相手なのだから。  けれども、じゃあ、大好きだったのかと聞かれれば、大きく頷《うなず》くことは出来そうにない。もしかしたら、きっと、当時も頷けなかったのかもしれない。  ただ、とにかく、クラシック病の婚約者と別れることを両親に納得させるには、「明と結婚したい」と言うしかなかった。無茶苦茶な話だと思われるかもしれない。でも、それは本当だったのだから、仕方ない。 「ご実家が、下関《しものせき》でしょ。東京と離れ過ぎているわ。そりゃ、まあ、あちらのおウチは歯医者さんだから、多少は環境が似ているのかもしれないけれど。でも、やっぱり、風習とかが違うでしょう。大阪や札幌《さつぽろ》の方と結婚するのとは、大分、勝手が異なるわよ。あなた、平気?」  絶対に結婚式はカソリックの教会で行なった後、芝公園のクレッセントか、代官山のマダム・トキに大勢の友だちを呼んで、祝福してもらうんだと決めていた私は、下関の神社で結婚式を挙げた。それでも、いいと思っていた。そうして、そのまま、住むことにもなった。彼が父親と一緒に歯科医院で診療することになったからだ。  明と別れてしまったことについて、その理由は、まだ、あまり話したくない。というより、今でもどうしてなのか、はっきりとはわからない気がする。  下関には、気に入った洋服を扱っているブチックは皆無に近かった。気の利《き》いたコーヒーハウスやレストランも、見当たらない。ただ、市立美術館に展示されていた狩野芳崖《かのうほうがい》や岸田劉生《きしだりゆうせい》、藤田嗣治《ふじたつぐはる》らの作品を観《み》に行くことだけが、唯一《ゆいいつ》、心を遊ばせられる楽しみだった。  学生時代の友だちが誰もいないあの街で、私が頼ることの出来たのは、明だけのはずだ。なのに、いつでも彼はお母さんにベッタリだった。結婚するまで、わからなかった事実。自分で決定を下すことをしない。一々、お母さんの顔を窺《うかが》う。そうして、そのお母さんは、なぜか私に冷たかった。  もちろん、気のせいだったのかもしれない。我慢の足りない妻だったのかもしれない。ただ、月に必ず一度、山口県に住む親戚《しんせき》が全員、彼の家に大集合する。といっても、楽しむのは男たちだけだ。昼間から、お酒を浴びるように飲む。  親戚同士、仲はいいけれど、あくまでも、都会での一般的な親戚付き合いしかなかった家庭に育った私にとって、それは、一種のカルチャー・ショックだった。そうして、女たちはその宴が続く間中、まともに食べることも出来ずに、割烹着《かつぽうぎ》を着て働く。エプロンを付けて、という感じでは、とても務まらない。  山口県というところは、共学の県立高校でも授業が男女別々に行なわれる。学校によっては校舎までもが、男女、別棟になっている。そういう風土。  母が日頃《ひごろ》から言っていた家庭環境の違いというのは、こうしたことまで含んでいたのだろう。けれども、悲しいことには、いくら、まわりから口を酸《す》っぱくして言われていても、実際に経験してみないとわからないことが、人間にはある。 「随分と、酔っぱらってしまいましたわ」 「お母さまの方、少し、赤うございますねえ」  そう言いながら、デザートのオレンジが盛られていたお皿《さら》を下げると、仲居さんはお茶を差し替えてくれた。私も、まだ、火照《ほて》っているみたい。  ——ジュースにでもしておいた方がよかったのかしら。ううん、そんなこと、ないわ。  母親と娘が二人、日本旅館に泊まって、ジュースで夕ご飯を始めるなんて、どこか、侘《わび》し過ぎる。御銚子《ちようし》にして良かったのだろう。 「御布団《ふとん》、いかがいたしましょうか?」 「もう、敷いていただく? 由佳」 「そうねえ」  まだ、九時前だ。これから、朝まで母と二人、どうやって、時を過ごそう。 「どうするんだい。お父さんの口座から、引き落としかな?」  アメックスのトラベル部門のオフィスは、外苑《がいえん》東通りをはさんで、アクシスの反対側にあった。和田さんは、私に尋ねた。 「ううん、私が払うの、今度の旅行は。もう、学生や働いていた頃とは違うわ」  結婚する前は、家族カードを使って、しばしば、旅行に出かけた。決済は、父の銀行口座。私の懐《ふところ》は、ちっとも痛まなかった。 「由佳ちゃんも、一人前になったんだ。で、今回は、子連れかい」 「違うわ。姉が見てくれるのよ」 「そりゃ、いい。なんでも、別れた旦那《だんな》に似ているんだって? お父さんが、嘆いてたよ」  普通だったら、みんな、遠慮して言わないことを、立教出だと言う彼は平気で私との会話に持ち出す。けれども、不思議なことにはちっとも辛《つら》くない。あまりにも、あっけらかんとしているから。むしろ、腫《は》れ物に触るように私と接する人たちの方が、疲れてしまう。 「お母さんへの罪滅ぼしってことか。とにかく、いい旅館だ」  陽気に彼と話しながら旅館に渡すクーポン券を受け取ったのは、つい、二、三日前だ。でも、現実にこうして蓬莱までやって来て、夕ご飯も済ませてしまうと、やっぱり、弱ってしまう。 「よろしかったら、もう一度、走り湯へお入りになられましたら。その間に、御布団を敷かせていただきましょう」 「そうしましょうか」  ——酔っているのに、ママ、平気かしら。 「私も一緒に行くわ、ママ」  バスタオルと手ぬぐいは、脱衣場に何本も置いてある。母と私は、手ぶらで部屋を出た。純を産む前、北千束の家に帰ってきていた時に短かめのワンレングスにした私は、それ以来、バスキャップを使わなくなった。手ぬぐいを頭に巻いて、それが、バスキャップだ。  その昔、海へと走るように流れ落ちていたから、それで、走り湯と呼ばれるようになったのだという。一本の釘《くぎ》も使わずに、檜《ひのき》の柱が高い天井にまで組み上げられている。床も檜だ。そうして、湯船は伊豆石で出来ている。その色は、ターコイズ・ブルー。どこかのお寺の鐘撞《かねつ》き堂みたいだ。といっても、こちらの方が広くて大きい。それに、立派だ。  夕刻に入った時には、海が見えた。今はもう、真っ暗だ。ただ、波の音だけが遠くに聞える。天井から吊《つ》り下がった三つの白熱燈《はくねつとう》は、淡い光を放っている。  母も私も、体を洗うことにした。お湯に浸《つ》かるだけでも、本当は良かった。ただ、もう一度、石鹸《せつけん》を使って体を洗い流すことで、安らかな眠りにつけるような気がしたのだ。  蓬莱のお湯は、弱塩泉だった。そのせいだろうか、石鹸の泡立《あわだ》ちは悪い。良質な石鹸を使おうと、手ぬぐいにゴシゴシと擦《こす》り付けようと、変わらない。駄目《だめ》だ。けれども、私も母も、一所懸命、手ぬぐいに石鹸を擦り付けた。 「由佳ちゃんねー」  母が、私の名まえをつぶやいた。 「なあに、ママ」  思わず、そう言いそうになって、けれども、口の中でその言葉を押し留《とど》めた。 「由佳ちゃんねー」  私が幼なかった頃から、しばしば、母は私の名まえを独り言でつぶやく癖があった。お掃除をしながら、あるいは、お料理を作りながら……。そうして、その独り言は必らず、何か私に関して嫌なことがあった時に出てくるのだった。  小学校五年生の頃、授業参観日に隣りの女の子とおしゃべりばかりしていて、先生に注意された時。中学三年生の春休みに、高校生の男の子たちが開いたディスコ・パーティに行ったことが学校にバレて、母が呼び出された時。そうして、高校二年生だった私が自分の部屋でタバコを吸っていて、母に見つかった時。  そうした時、決して、その場で私を怒ることはなかった。母が恥をかいたからといって、グチるようなこともなかった。  私にしてみたら、そこで怒鳴られる方が、どんなに気が楽になることか。それは、女である母にしたって同じことだろう。けれども、彼女は何も私に言わなかった。ただ、しばらくしてから、私の名まえを独り言で言うのだ。 「由佳ちゃんねー」  私は、母の方を見た。檜の椅子《いす》に腰かけて、手ぬぐいで体を擦っている。後ろ姿の母は、疲れた肌《はだ》をしていた。  ——いつか、私も、ママと同じような後ろ姿になるのかしら。  そうなっても、私は、純を育てていかなくてはいけない。まだ、自分の父と対面したことのない彼は、今頃、姉の横で眠りについていることだろう。  心配して家までやってきてくれる友だちは、みんな、「平気なの?」と私に尋ねる。  嬉《うれ》しい。けれども、結局のところ、私が頑張《がんば》るしかないのだ。誰もが他人に対して、憐《あわ》れみを持つことは出来る。ただ、それは、最後まで、憐れみのままだ。  誰を恨むことも出来ない。救えるのは、結局のところ、自分しかいないのだ。そうして、どんなに嘆こうと怒ろうと、時は、いつも同じスピードで過ぎていく。  母は、そのことがわかっているのだろう。それで、私の名まえを独り言のように呼ぶだけなのかもしれない。  湯船の方に体を向けると、母は桶《おけ》にお湯を汲《く》もうとした。石鹸のついた手ぬぐいを持ったまま、母の方をじっと見詰めていた私と目が合ってしまう。 「ママ、背中、流してあげるわ」そう言おうと思って、けれども、再び口の中で、その言葉を押し留めた。  ——そんなの、格好つけ過ぎている。  別の桶にお湯を汲むと、私は黙って背中にかけてあげる。  泡立ちの悪い石鹸が、もっと小さな泡となって、母の背中を流れ落ち始めた。 フランクフルト ホテル・ケンピンスキー 「僕《ぼく》、ジュースが飲みたいんだけれど、ママ、頼んでもいい?」  プールサイドのデッキ・チェアに横になって雑誌を読んでいた私のところへ、長男の啓太《けいた》がやって来た。 「さっき、飲んだばっかりでしょ。もう、喉《のど》が乾いたの?」  腿《もも》の上に雑誌を置きながら、彼に向かって尋ねた。ちょうど読んでいたところだったページを下向きに開いたまま。だから、裾野《すその》が広い、小高い山のような形になった。 「うん、グァバ・ジュースが飲みたいんだ。もう一杯だけ」  言い終えると、彼は両手を合わせて「お願いします」というポーズを取った。小首を傾《かし》げて、ニコッとする。今年の九月には八歳になる啓太は、どこか、女性的なところがある。私は、そうした長男の性格を好ましく思っていた。けれども、それとこれとは別の問題だ。 「ジュースは、もう駄目《だめ》ね。ミルクにしなさい、ミルクに。だったら、いいわよ」 「えーんっ、ミルク?」  不満そうな声を出した。彼は牛乳がニガ手なのだ。自分から好んで飲むようなことは、まずない。コーンフレークスも、そのままバリバリと食べてしまう。彼が好んでいるのは、唯一《ゆいいつ》、牛乳羹《ぎゆうにゆうかん》くらいなものだろう。 「雄太は、ちゃあんとミルクを飲むでしょ。あなた、お兄さんなんだから」  次男の雄太は、二つ違い。長男よりも、男性的だ。食べ物に関しての好き嫌《きら》いが、まったくといっていいほどない。そうして、体を動かすことが好き。さっきから、バチャバチャバチャバチャやっている。 「雄太は違うもの。僕は僕なの」 「うーん、たしかにそうねえ。でも、ミルクになさい、今度は」  西ドイツで暮らすようになって二年目の彼は、日本にいた時よりも、少し表現のし方が変わってきたような気がする。もちろん、成長したせいもあるのだろうけれど、一言で言うならば、自分の意見をはっきりと主張するようになってきた。  といっても、これこれ、こういう理由だから、みたいな理詰めの意見は、まだ、さすがに言えない。ただ、日本の子供のように、理由もなく駄々をこねることがなくなった。 「ミルクを飲んだら、その後、グァバ・ジュース、頼んでもいい?」 「それでも喉が乾いていたならばね」  もう一度、小首を傾げて尋ねた啓太は、私の了解を取り付けるとパタパタパタ、もちろん、裸足《はだし》でプールサイドを駆けて行く。プールを挟《はさ》んで反対側にあるスナック・カウンターのところへ行って、オーダーするのだ。私の意見は相変らず、その場しのぎの日本的意見だわ。  ミルクを飲んだ後に、「はい、ママ、今度は約束のグァバ・ジュースだよ」と言われたら、一体、どうするつもりなのかしら。「もう、飲むのは止《や》めておきなさい」と言う際に必要な、もっともらしい理由を見つけておかなくては。腿の上に載せていた雑誌を手に取りながら、私は苦笑した。  フランクフルトの郊外にあるホテル・ケンピンスキーには、インドア・プールがある。ウイークデーの午後、私は二人の子供を車に乗せて、訪れた。  ホテル・グラーヴェンブルック・ケンピンスキー・フランクフルト。これが、正式のネーミング。フランクフルトの市街地と空港を結ぶアウトバーンを途中で下りて、少し入ったところにある。どちらからも、車で十五分くらい。  東京だったら、真夜中に首都高速をフル・スピードで十五分以上走ったとしても、まわりは相変らずの市街地だろう。高層ビルが見えなくなる代わりに、小さな住宅とマンションがビッシリ。きっと、そんな具合だ。  こちらでは見渡す限り、畑と森の世界になる。日本の高速道路とは比べものにならないくらいアウトバーンではスピードが出せる、という理由からではない。フランクフルトの街自体が、小さいのだ。人口六十万。だから、あっという間に畑と森の世界。  ホテル・ケンピンスキーは、ある意味では軽井沢のホテル鹿島《かじま》ノ森に似ていた。からまつの木立の間に立っている。低層階建てのホテルのまわりには、テニス・コートや屋外プールがある。そうして、池と呼ぶにはちょっぴり大きい、けれども、湖と呼ぶにはかわいらしい“水溜《みずたま》り”もあった。  宿泊客の多くは、たとえば、製薬会社が招待した医師たちだったりした。昼間、形ばかりのコンベンションを開いて、夜はブラックタイのフォーマル・パーティを楽しむ。純然たるリゾート客は、むしろ、ごく僅《わず》か。だから、午後二時過ぎくらいに訪れると、ホテルのロビーは静まり返っていた。  例のコンベンション関係者たちは昼食が終わって、眠たい目をこすりながら机に向かっているのだろう。あるいは、その日がコンベンションの最終日で、しかも夏の晴れた日であったならば、テニスに興じているかもしれない。私はポカーンとしたその時間帯のロビーが好きで、しばしば、このホテルを訪れた。  子供たちもまた、私にホテル・ケンピンスキーへ連れて来てもらうことが、楽しみのひとつとなっていた。プールへ入るためにだ。雪のシーズンには、特にインドア・プールで遊ぶことを喜んだ。  長男の啓太は、アメリカン・スクールに通っている。フランクフルト市内にある。ジョージ・ワシントンの誕生日である二月十六日は、アメリカのナショナル・ホリデーだ。日曜日と重なった今年は、十七日が振り替え休日となった。もちろん、だから、今日はアメリカン・スクールはお休み。  スタッドレス・タイヤを履いたメルセデスの300Eを私が運転して、こうして、三人で出かけて来た。300Eはメルセデス・ベンツのニュー・タイプだ。190Eよりも少し大きい。そうして、様々な性能と装置が充実している。人気だ。  普通にディーラーへオーダーしたとしても納車までには一年近くかかる。一ヶ月ほどで納車になる190Eとは、この点でも違う。主人の信太はプレス発表になる前から予約をして、それでも、去年の暮にようやっと手に入れた。  夫はある電機メーカーの駐在員として、現在、フランクフルトへ赴任して来ている。もちろん、日本もドイツもウイークデーにあたる今日は普通の出勤だ。私は、朝、八時三十分に彼をオフィスまで車で送った。 「ママ、ミルクと一緒にクッキーも付いてきちゃった」  啓太はそう言いながら戻《もど》って来ると、チョコン、背もたれが垂直に近い角度で立っていたデッキ・チェアに腰を下ろした。見ると、ソーサーの上にクッキーが二切れ載っている。 「グァバ・ジュースだと付いて来ないものね。得しちゃったなあ」  好きではないはずの牛乳をチューチューチュー、ストローで飲み始めた。子供は、いつでも現金なものだ。私はその啓太の横顔を見ながら、実は十年以上も前、ホテル・ケンピンスキーへ訪れた時のことを思い出していた。 「和美」  宏行《ひろゆき》の声がした。それまで、セルフ・カートの上に両腕を載せて、「まだ、来ないのかしら」、不安な気持になりつつあった私は、その声にホッとしながら振り向いた。  背の高い宏行は真新しい皮のブルゾンを着て、私の方へと小走りに駆けて来るところだった。吐く息が白い。フランクフルト国際空港の一階に私たちはいた。一人、ルフトハンザの南回り便に乗って、明け方近くに日本から到着した私を、彼は迎えに来てくれたのだった。 「ご免ね、待っただろ?」  続いて、遅れてしまった理由を言おうとした。けれども私は、喋《しやべ》り始める前に両手を彼の首に回すと、ちょっぴり背伸びしながらキスをした。軽く唇《くちびる》を合わせると、すぐにその唇を離した。そうして私は踵《かかと》をフロアに付けた。  グリーンがかった色をした彼の目を見詰めた。もう一度、けれども今度は彼が体を前に屈《かが》めてキスをした。最初よりも長い時間、キスをした。お互いの舌の先が、微《かす》かに触れ合った。次第に、からめ合うような具合となった。 「予定よりも早くランディングしてしまったの」  到着予定時刻は、午前六時五分だった。実際には、二十五分も早く着陸した。不思議なくらいにはっきりと、十年以上経《た》った今でも、そうした数字まで覚えている。  日本と違って、入国の際に税関の荷物検査など、まったくなしだ。飛行機を下りてから十分も経たないうちに、私は到着ロビーにいた。カートの上には旅行用のスーツケースと、もうひとつ、大きなヴィトンのバッグが載っていた。 「本当にご免。まだ、出て来ていないだろうって、思い込んでいたんだ。だって、今、ようやっと、到着時刻なのだもの」  十一歳年上の宏行は、それほど私が心配しながら待っていたわけでもないことを知って、多少、落ち着いた喋り方となった。どこの空港の到着ロビーにもある、飛行機の到着を知らせる大きなボードを見上げると、デジタル表示の時計は、六時五分を示していた。 「カート、僕が押してあげるよ」  私たちはエレベーターに乗って、上のフロアへと上った。彼は、ヴェネチアまでの航空券をカウンターで買い求めるのだと言った。その日の最終便で、ヴェネチアへ入ることにしていた。 「日本で買うよりね、チケットの料金が、全然、安いんだよ」 「えっ、正規のチケットでも?」 「もちろん」  私の記憶に間違いがなければ、三割近く安い値段で買えるという話だった。当時、渋谷にある大学でフランス語を専攻する三年生だった私は、びっくりした。どうして、国によって、同じ区間の航空券を買い求めるのでも値段が違ってくるのだろう。不思議に思ったのだ。  海外に暮らすようになった今は、その謎《なぞ》を私も説明することが出来る。変動相場制となってから、FCUという航空運賃の単位が登場したのだ。各国の国際線運航会社は、このFCUに対しての自国通貨への換算率を決めている。たとえば、アメリカの場合は、1FCU〓〓1、そうして、日本の場合は、1FCU〓296円。秘密は、ここに隠されている。  最近だと、〓1が200円以下になることもある。ということは、もちろん、東京—ニューヨーク間の航空券の値段は、日本で買うよりもアメリカで買った方が、断然、安い。なるほど、って感じだ。イギリスやイタリアのように、ポンドやリラの価値が下落している国では、日本で買う場合の半分近い値段で正規の航空券を手に入れることが出来るのだ。 「日本で全部のチケットを買い揃《そろ》えて旅行へ出かけるなんて、そのくらい馬鹿《ばか》らしいことはないね」  出発ロビーにある発券カウンターの前で、宏行はそう言った。 「ふうん」  今ほどには、航空運賃のシステムを理解することが出来なかった私は、ただ単純に彼の説明に感心していた。高校時代、微積分の難しい問題をスラスラと解いてしまった友だちが、その解法を教えてくれた時に、「フーン」唸《うな》ったのと同じように。 「だから、日本からの片道チケットだけは、仕方ないから買っておいて、残りの分は予約だけ入れておけばいいんだよ。現地で発券してもらえば、安上がりでしょ」  アムステルダムのスキポール空港やロンドンのヒースロー空港と並んで、ヨーロッパ有数の発着便数を誇るフランクフルト国際空港も、さすがに朝の六時台は、まだ閑散としている。私たちはヴェネチアまでのチケットを買い求めると、タクシーに乗った。メルセデスのタクシー。外には、雪が積っていた。十二年前の冬のことだ。  宏行のことを、もう少し詳しく説明しておいた方がいいのかも知れない。彼は、西ドイツの自動車メーカーが日本に作った現地法人で働いていた。三十二歳の広報室長。取締役にもなっていた。  ドイツ語が得意だったのだ。西川宏行。名まえだけを聞いたならば、純粋の日本人だと誰《だれ》もが思うことだろう。彼の母親の父親、つまり、祖父はドイツ人だった。クォーター。大森にある独逸《ドイツ》学校に通った後、大学だけはドイツ国内で学んだ。  今ではモーターショーでナレーターを務めるコンパニオンの女の子たちは、それぞれ、事務所に所属しているらしいけれど、まだ私が大学生だった頃《ころ》は、コンパニオンという、そのネーミングすら定着していなかった。初等部出身の私は、先輩に紹介されて二年生の秋、モーターショーで俄《にわか》ナレーターをした。当時は、そんなものだったのだ。  宏行は私が担当した西ドイツ車の日本でのシェアを、いかにして伸ばすかを考えるのを仕事にしていた。独身。とりわけ、ハンサムだった訳でもないのだけれど、私は好きになった。もちろん、特にフニャフニャした男の子が多いことを特徴とする大学だったせいもあるのだろうけれど、ずうっと共学だった私にとっては、どうも、同い年くらいの異性には魅力を感じなかった。 「イタリアを旅行してみるかい?」  付き合い出して一年以上経ったある日、彼は私に尋ねた。 「バイエルンの本社に出張するんだ、十一月中旬にね。その後、十日ほど休暇が取れる。よかったら、一緒に北イタリアを回ろう」  今では若い子なら誰でも名前を知っている、彼が勤めていた西ドイツのそのメーカーも、当時は、まだ一部の熱狂的ファンがユーザー、という感じだった。今から思うと隔世の感がある。宏行は、ブルーを使ったマークに特徴のある、その車の中で尋ねた。 「パスポートは、持っているんでしょ」  突然の提案にビックリしてしまった私は、黙って頷《うなず》いた。大学一年生の夏、友だち四人でハワイへ遊びに行った時に取得していた。 「なら、大丈夫だ。一週間、合宿に行くとか、友だちと北海道へ行くとか、適当な理由を考えてごらんよ」  彼が一緒に回ろうと言った時期は、ちょうど、私の学校の学園祭に当たっていた。準備や後片付けの日を入れると、丸々一週間、授業がない。出かけることにした。  先に西ドイツへ出張している宏行と、フランクフルトで落ち合う。ヴェネチアへ下りた後、レンタカーでヴェローナ、ラヴェンナ、フィレンツェ、ミラノと回る。私はイタリアのガイドブックを何冊も買い込んでは、自分の部屋で食い入るように眺《なが》めた。 「ねえ、カラチからフランクフルトまでの間に、二回もミール・サービスがあるの。楽しみだなあ」  霞《かすみ》が関ビルの傍《そば》にあるルフトハンザの営業所まで出かけて、ぶ厚いタイムテーブルをもらって来た私は、自分が乗る予定の便に赤い丸印をつけた。所要時間やミール・サービスのマークにも、ライン・マーカーした。大学三年生だった当時の私にとっては、仮にその相手が年上の恋人であろうとなかろうと、ヨーロッパを男性と一緒に旅行するというのは、かなりの決断だったのだ。 「なかなか、いいホテルなんだよ。初めて泊まったんだけれどね」  ヨーロッパの冬は、朝が遅い。ホテル・ケンピンスキーの正面玄関へ着いた時にも、まだ辺りは真っ暗だった。私と同い年くらいのベル・ボーイが、部屋に荷物を運んでくれた。  宏行は、その少年にチップを渡してドアを閉めると、今度は彼の方からキスをしてくれた。飛行機の中で念入りに歯を磨《みが》いたことも、アナイス・アナイスのアトマイザーを使ったことも、「正解だったわ」そう思いながら私は彼と抱き合ったまま、古いタイプのロボットみたいに右肩、左肩を交互に揺らしながら、一歩、一歩、ベッドの方へと歩んだ。  真新しい皮革製品特有の匂《にお》いがした。彼のブルゾンのポケットについている金具に、アイグナーのマークが刻印されていたのをタクシーの中で見て知っていた私は、キスをしながらクーン、匂いを吸い込んだ。 「お兄ちゃんだけ、ズルイよ、ズルイよ。飲み物、頼んじゃって」  一人でバチャバチャやっていた雄太は、啓太と私のところへやって来ると、そう言いながらほっぺたをふくらませた。 「雄太には、あーげない。僕《ぼく》のだもん」  もう大分、残り少なくなった牛乳を、啓太は、さもおいしそうにストローでチューと飲んだ。そうして、ストローを口にくわえると、器用に頭を動かして八の字を描いた。 「僕にも欲しいよ。飲む物、欲しいよ」  雄太は大きな声を出した。せっかく読み始めた雑誌を、またもや、腿《もも》の上に置かなくてはならない。二人とも、それぞれの年齢の日本人の子供より、はるかに聞き分けが良いと思う。日曜日に開かれる日本人学校へ啓太を連れて行く度、そう思う。親の贔屓《ひいき》目《め》、ってわけでもない気がする。  ただし、今のようなシチュエーションになると、お手上げだ。放っておくと、雄太が泣き出してしまう。私は助け舟を出した。 「大丈夫よ。雄太にも、飲み物、取ってあげますからね。お兄ちゃんがミルク飲んでいる間も、バチャバチャ、やっていたんだものね。疲れちゃった?」  子供用のミニ・プールも隣接している。雄太はそちらの方で遊んでいた。啓太の方は、最近、二十五メートルは泳げるようになったせいか、大人用のプールで一人前に楽しんでいる。 「雄太がいたのは、水遊びのプールだからねえ」  ストローを口から外すと、啓太はそう言って雄太を挑発《ちようはつ》した。自分よりも弟の方が性格的には活発であることを、多分、ずうっと気にしていたに違いない彼は、だから、まだ、泳ぐことの出来ない弟に対して、屈折したお兄さん意識を持っていた。 「もうじき、泳げるようになるわよね、雄太」  調整役の私は、そう言った後、続けて、 「啓太、ちゃあんとお兄さんなんだから、雄太に泳ぎ方、教えて上げなくちゃ。そうでしょ」  彼のお兄さん意識をいい方向へ伸ばしてあげようと考えた。 「はあい」  もう一度、ストローをくわえると、ペッタンペッタン、わざと一歩一歩を大きな動作で歩くと、そのまま、プールへ飛び込んでしまった。クロールで泳ぎ始める。だんだん、難しい年頃になっていくのだろうか。 「雄太は、何が飲みたいの?」 「えーとねえ、僕、ミルク・シェーク」  このごろきちんと発音出来るようになった。日本にいた頃は時々、とてつもないことを言って主人や私を驚かせた。 「バイオリン・オレンジ、バイオリン・オレンジ、飲みたいよお」と雄太がおねだりしたことがあった。主人も私も何を言っているのか、さっぱり、わからなかった。「バヤリース・オレンジのことだよ」と教えてくれたのは、兄の啓太だった。大人には、わからないことがある。 「じゃあ、一緒にスナックのカウンターまで行きましょ。それとも一人で飲みに行く?」  インドア・プールの隅《すみ》っこにスナックがある。幾つかのイスが置いてある。けれどもプールを利用するお客の多くは、それぞれのデッキ・チェアの横にある丈の低いテーブルに飲み物や軽い食べ物を置いている。 「僕、あっちまで行って、飲みたいな」 「そう? じゃあ、カウンターの中にいるお兄さんに頼んで、イスに坐らせてもらうのよ。ただし、高い方のイスは駄目《だめ》よ。危ないから。低い方のイスにしなさい」  優しく注意をした。 「はあい」  トコトコとプールサイドを歩いて行く。月曜のせいか今日は空《す》いていて、私たち三人の他《ほか》には一組の老夫婦と三十代後半のカップルがいるだけだった。カウンターの中のウェイターは、黙って私の伝票にミルク・シェークを記入してくれることだろう。私と同い年くらい。 「そうそう、赤いボタンを押すだけでいいんだよ」  ドイツ語で、宏行は若いウェイターにそんな様なことを言った。二人一緒にひとつのデッキ・チェアに坐って、写真を撮ってもらったのだ。私たちはベッドの上で愛し合った後、夕方、ヴェネチア行きの最終便に搭乗《とうじよう》するまでの間、ホテル・ケンピンスキーのインドア・プールで時を過ごした。  本当は二人が落ち合った後、すぐにヴェネチアへ向けて飛び立ってもよかったのだ。けれども、南回り便で疲れている私に、「シャワーくらい浴びさせてあげたいから」宏行はそう言って、夕方の便にしてくれたのだった。  シャッターを押してくれた若いウェイターは、なかなかのハンサム・ガイだった。鼻の頭の上に小さなホクロのあるのが印象に残った。 「ママたち、出がけに気がついちゃったのかい?」 「だって、旅行用のスーツケースとヴィトンの大きなバッグを持って、出かけようとしたのよ。友だちと一緒に北海道へ行くなんて、誰が見ても白々しいウソだと思うでしょ」  それに、冷静に考えてみたならば、イタリアに関する本やガイドブックが私の部屋の机の上に何冊も置いてあったのだ、一ヶ月近くも。母親というのは、こうしたことに敏感だ。 「和美、ママたちは、旅行へ絶対に行っちゃいけませんなんて、そんなこと、言うつもりはないのよ」  出かけようとして、二階にあった私の部屋から荷物を下ろそうとすると、母は私に泣きついた。 「誰と一緒なのかも、もちろん、ちゃあんと判《わか》っているわ。どうして、和美、ママたちに本当のことを言って下さらないの。それが、悲しいの。西川さんも、和美のこと、デートの帰り、家の前まで送って来て下さった時に、お会いしてもいるのに、どうして、一言、おっしゃって下さらないの?」  けれども、宏行のことが大好きだった私は、何も答えずに家を出た。学生時代遊びまくっていたのが嘘《うそ》のように、おとなしい一介のサラリーマンとなっていた四つ年上の兄が、羽田空港まで車で送ってくれたのだった。「和美の好きなように行動するのが一番だと思うよ」兄がそう言ってくれたことを覚えている。  雑誌から目を上げると、テーブルの上に置いたままになっていたグラスを見た。たしか、あの時の宏行も、プールサイドで牛乳を飲んでいた。「痛風を防止するのには、ミルクが一番なんだって」そう言って飲んでいた。  イタリアから帰った後、半年ほどで宏行と私はお別れした。彼にも私にも、新しい人が登場したからだ。そうして、お互い、その相手と結婚をした。私は、大学時代ハンドボールをやっていたという、少々、暗いスポーツ少年の信太の妻となった。二児の母となり、フランクフルトに住んでいる。  日本にいる時よりも家族四人で普段から、ドライヴに出かけたり、バカンス・シーズンに旅行をしたりする機会は多くなった。けれども、こちらに来ても信太はやっぱり、日本人のサラリーマンだ。平日は、帰りが遅い。啓太と雄太の成長ぶりを見るのが私の最大の楽しみであることは、依然として変わらない。  ただ、毎月、日本から航空便で送られてくる分厚い婦人雑誌を隅から隅まで見ることが順位の高い楽しみのひとつとなった。デッキ・チェアに坐《すわ》って読んでいたのも、その雑誌だ。多少、ハイ・クラスだと思われる家庭の主婦たちが読んでいる雑誌だ。  もう一度、その雑誌に目を落とした。開いていた頁《ページ》には、パーティ・レビューが載っていた。東京のドイツ大使館で開かれた、ドイツ・ファッション・ウイークのパーティのスナップが何枚か出ている。 「もしかして」私は目を走らせた。「西川宏行夫妻」という活字と一緒に、見覚えのある男性の写真が、そこにあった。  ドイツの血を引く彼は、東京に住んでいる。そうして、十二年前、たった半日だけ、雪のフランクフルトに滞在していた私は、今、こうして、ホテル・ケンピンスキーのインドア・プールへ子供と一緒に来ている。  宏行は、私が一駐在員の妻としてフランクフルトに住んでいることを、知る由《よし》もないだろう。私だけが一方的に彼の消息を知っている。それは、哀《かな》しいことなのだろうか? 「ママーッ」  一人でミルク・シェークを飲んでいた雄太が、私を呼んだ。「お腹《なか》も空いちゃった」きっと、そんなところだろう。 「今、いくわよ」  室内に、私の声が響く。立ち上がりながら、ふと外を見ると、また、雪が降り出していた。 神戸市 花隈町 「伸子がいけなかったんやわ」  香織が言った。花隈《はなくま》町にある料亭《りようてい》青葉でだ。地下が駐車場になっている花隈公園のある花隈通りよりも一本、国鉄神戸駅寄りの通り。なだらかな坂道になっている。静かな一角。 「そうそう、あれは、やっぱり、伸子の責任」  崇子《たかこ》も言った。二人とも、既婚者だ。もう一人の今晩の参加者、祐紀代《ゆきよ》と私は未婚。結婚している二人は、どこか、さっきから、私のことに関してばかり、きつい発言を続けているような気がする。  もちろん、それを、既婚者に共通する、ある種のふてぶてしさだなんて言うつもりは更々ない。たまたま、香織と崇子がその昔から、はっきりと物事を言ってのける性格だったから。きっと、そのせいだと思う。 「次の年の秋、男の子たちに、ブーブー言われてしもたわ」  お吸い物のお椀《わん》をテーブルの上に置きながら、もう一度、今度は香織の発言。お椀の中身は、私の苦手なすっぽんだった。蕁麻疹《じんましん》の出ることがある。  他《ほか》の食べ物に関しては好き嫌《きら》いがなくて、それに、体もちゃんと受け付けてくれるのに、なぜか、すっぽんだけは駄目《だめ》だった。  ——どうしようかしら。スープを飲むだけにしておいた方が、いいのかもしれない。  心の中でつぶやいた。けれども、今の私にとってプライオリティの高い問題は、むしろ、香織と崇子に反撃することの方だ。  おとなしい性格の祐紀代は、二人が私を追及するのを、さっきからニコニコしながら聞いている。だから、今の私は孤立無援。  やたらと自分をドラマの中のヒロイン扱いしているな、そう思いながらも私は、 「だって、あれは仕方ないわ」  ちょっぴり、口を大きく開けて、「こっちだって、迷惑しちゃったんだもの」そういう感じのする喋《しやべ》り方をした。 「まあ、たしかに、そりゃ、先生たちの頭が、かんかちこだったせいもあるけど」 「でしょ、香織。そうなのよ、私がいけなかったわけじゃあないのよ」  お椀の中身を楽しむことの出来ない私は、箸置《はしお》きの上に載せた綺麗《きれい》に削られてあるお箸を右手でいじりながら、言った。  ——うん、うん、なかなか良い具合になって来たわ。  そうも思った。けれども、残念ながら、 「だからって、伸子のせいじゃなかったとまでは言い切れない辛《つら》さも、依然としてあるんやしねえ」  テーブルを間にはさんで、ちょうど、私の真向いに坐っていた香織は、上目使いにこっちを見た。いい性格してるわ。でも、それが、ちっとも憎めなくて、ううん、むしろ、どことなく、かわいらしい感じにも思えてしまうところが、彼女の良さ。そんな気もする。 「わかった、わかった。みいんな私が、いけなかったんですよお、だ。左様でございますわ」  わざと、カリカチュアライズした感じで喋ってみた。この場面を重苦しい雰囲気《ふんいき》としない為《ため》には、そろそろ、こうした喋り方を私がしてみるのもひとつの解決法だな、と思えたから。  話題に上っていたのは、高校時代のことだった。芦屋市との境界近くにあった女子高に、私たちは通っていた。小学校から大学まで、ずうっと一貫教育。  小学校は、共学。子供だったくせに、バス組、電車組、徒歩組の三グループに分かれて、結構、お互いに張り合っていたような記憶がある。徒歩組が、遠くから通う電車組を馬鹿《ばか》にしたり、かと思うと、バス組が首から毛糸のヒモでぶら下げたパス・ケースを徒歩組に見せびらかしたり。楽しかった。中学からは、男女別学となった。男の子たちは、阪急芦屋川の駅から山の方へと、ずうっと上ったところに校舎があった。  女子校の方も坂の上にあったけれど、でも、彼らに比べれば、まだ、通学は楽チン。そうして大学は、共学と女子大、それに、短大の三つに分かれていた。  秋に開かれる文化祭に私のボーイフレンドを呼んだのが、そもそものトラブルの原因だったのだ。  当時、高二だった私より八歳も年上だった浩史《ひろし》は、神戸ではちょっとした有名人だった。姉妹校に当たる共学の大学に六年間、在籍していた頃《ころ》から、所謂《いわゆる》、学生企業家みたいな感じで、お店を始めていた。  彼のお父様も事業をやっていらした方だから、もちろん、資金面での援助を得た上でのスタートだったのだろうけれど、大阪のミナミに一軒、神戸の生田東門筋に一軒、経営していた。  そのどちらもが繁華街にあるからといって別に、いかがわしい感じのお店だったわけじゃあない。今や、シーラカンス用語になってしまった、カフェ・バーなどというネーミングの形態が出来る遥《はる》か昔から、時代を先取りしたお店だったのだ。流行《は や》っていた。  そうして、もうひとつ、タバコ屋さんもやっていた。こんなことを言うと、きっと、多くの人たちは、「へえー、渋いやん」そう答えるかもしれない。  なるほど、若いうちからタバコ屋さんだなんて、それだけ聞いたならば、きっと、この私だって、切手も一緒に売っていて、で、外には赤い郵便ポストのある、街中のタバコ屋さんを思い浮かべてしまうことだろう。  浩史のタバコ屋さんは違っていた。大阪や神戸にあるディスコやファミリー・レストランへ、タバコを卸していたのだ。  専売制になっているタバコは、誰《だれ》もが扱うことは出来ない。けれども、どこのお店でも、「タバコ、置いとるう?」お客様に尋ねられた時に、「すみません。専売品なものですから、外のタバコ屋さんでお願いします」とは、畏《おそ》れ多くて答えられないだろう。  だから、どこのお店でも、それこそ、街中のタバコ屋さんと呼ぶにふさわしいところから買ってきておいて、お客様の要望に応《こた》えなければいけない。もっとも、小さな喫茶店ならばともかく、一日に百箱以上も売れてしまうディスコやファミリー・レストランは、それだけでも大変な作業だ。  そこに、彼は目をつけた。タバコ屋さんの権利を、もう、廃業しようと思っていた西宮の老夫婦から買い求めると、契約したお店の中に自動販売機を取り付けた。  一箱の利益は、もちろん、少ない。けれども、チリも積れば山となる。成功した。 「みんなが、ゾロゾロゾロゾロ、くっついて校内を歩くんだもの」  合鴨《あいがも》の味噌焼を食べながら、そう言った。河原に行けば一杯、転がっているような石ころがひとつ、熱く焼いてある。その上に、大きな柏《かしわ》の葉っぱが一枚。  合鴨を載せると、味噌の香ばしい匂《にお》いに柏の葉っぱから漂う自然の匂いが混じり合って、おもしろい。なかなか、情趣がある。 「そりゃ、そうやん。フェラーリに乗って登場したんやし。ただでさえ、顔が知られていた人やから、メジャーに遊んでる子たちの間で」  山吹色した、といっても、随分と上品な色合いだった気がするのだけれど、とにかく、フェラーリ365GTB4に当時の彼は乗っていた。 「伸子、来たわ、来たわ。彼が車から降りて来るわ」  三階にあった私たちの教室の窓に手をついて外を眺《なが》めていた崇子が、すっとんきょうな声を上げた。  私は、と言えば、ちょうど、その時、「祐紀代の髪の毛って、さらさらしていて気持いい」とかなんとか言いながら、中学までは東京育ちだった祐紀代の肩に自分の顎《あご》を乗っけて、おまけに、「クンクン、多分、これは、レブロンだぞ」なんてことも言って、シャンプーとリンスの匂いを嗅《か》いでたところだった。 「そんなことないわ。ただ、髪の毛が細いだけ」今以上に高校時代は真面目《まじめ》だった祐紀代は、真剣な声を出して答えた。「細くて柔らかいから、パーマだって、かかりにくいと思うんだ。大学に入ったら、悩んじゃうだろうなあ」  ニュートラが華やかなりしその頃、顔も声も、どこか、アヒルさんっぽい雰囲気のところのある崇子は、妙にニュートラ・ファッションとマッチしていて、だから、当時はモテた。その彼女が、「ねえ、浩史さんて、私たちヒヨッ子には危な過ぎるな、って感じのところがあって、だから、素敵」そう言ってた私のボーイフレンドがやって来たのだ。 「住吉川の研究」と題して、その上、「地域住民の努力によって、完璧《かんぺき》な形の天井川となった、その変遷過程を探る」なあんて、もう、聞いただけで欠伸《あくび》の出て来そうな副題も付けられた、すっごく勉強家の子たち数人がゴニョゴニョゴニョ、模造紙に調査結果を書いたのを、私たちのクラス全体の研究発表ということにしていた。  一時間交代で十名ずつ、クラスメイトが展示会場の教室に詰めていて、訪れた父兄や他の学校の生徒たちに説明することになっていた。バスケットボールの招待試合に出場していた香織以外の私たち三人は、ちょうど、その時間、詰めていなくてはいけなかったのだ。  けれども、退屈で退屈で仕方がない。浩史の来訪は、だから、救世主現わる、そんな感じだった。ドタドタドタ、三人で階段を駆け下りた。  崇子にも祐紀代にも、ちゃあんと同い年のボーイフレンドがいて、おまけに、教室に詰めている時間が終わった後に、地下のカフェテリアで、それぞれ、待ち合わせしていたのだ。デューティーが終わる迄《まで》、後、十五分くらい。なのに、二人とも付いて来た。  ごくごく普通のボーイフレンドと校舎内を歩くよりも、たとえ、私のボーイフレンドであろうとも、その浩史と一緒にグルグル回った方が気持いい。彼女たちは、そう思ったのだろう。  彼のことは、誰もが振り向く。お店をやっていたせいもある。もうひとつ、私たちの一年先輩、二年先輩あたりの人たち何人かと、以前、ステディに付き合っていた時期もあったから。 「伸子って、わかってないのねえ。ダマされてるのよ」と心の中で思いながら見ている子たちもいたことだろう。けれども本当は、彼女たちだって、振り向かれるようなボーイフレンドと腕を組んで歩きたかったのだ。  なのに、それが出来ない。アンビバレントな気持で、冷やかな視線を私に送って来たのは、だから、ちゃあんと理由があった。  当時の崇子と祐紀代は、浩史と一緒に歩くことで、自分たちまでもが有名になってしまったような錯覚に陥ることの出来る楽しさを、味わっていたのだろう。  ちょうどそれは、読者モデルとして登場したグラビア雑誌が発売になった後の一、二週間、街を歩いていると、みんなが自分を見詰めているような錯覚を起こすのと似ている。  大学生になると、何度かニュートラ雑誌の読者モデルとして登場した。その度、「今さら、ニュートラ雑誌に出るなんて、恥かしいんやけど、どうしても、って言われちゃったから」友だちに言い訳しながらも、その実、結構、いい気分でいた気がする。不思議だな。 「豊田さん、昨日、あなたとご一緒に文化祭をご覧になってらした方、どういうご関係ですの」  クラス担任から、「ちょっと、職員室までおいでなさい」と言われたのは、翌朝のホームルームの後だった。例の「住吉川のなんじゃらかんじゃら」の展示の為に、机や椅子《いす》を外へ運び出してあった教室で、立ったままのホームルーム。その後、 「はい、母方の少し遠い親戚《しんせき》に当たります」  ——まいったわ、一緒に歩いてただけでしょ。学校の廊下でキスした訳でもないのに。  心配そうな顔をしていた崇子たちに、ペロッと舌を出しながら、「行ってきまあす」と元気のいいセリフを吐いた私も、さすがに、職員室へ入ると神妙な態度になった。けれども、口では出任せのウソをついた。 「本当に?」 「はい」  漢文の授業を担当している彼女は、右手でメガネを上下に動かしながら、私の目を見た。一瞬、たじろぎそうになってしまったけれど、「はい」もう一度、返事した。 「まあ、ご親戚だと言い張られるのでしたら、その点は、仕方ありませんけれど。でも、ご存知でしょ。あの方は、あなた方の先輩を助手席に乗せて運転中、交通事故をお起こしになったんですから」 「出たあ」そう思った。私よりも二年先輩にあたる、ロングヘアーで目の色がブラウンがかった個性的美人の人と、付き合っていたことがあったのだ。  小さな路地での出合い頭の事故。相手方が、一時停止を怠ったのが原因。けれども、浩史も助手席の先輩も、シート・ベルトをしていたから、かすり傷程度で済んだらしい。 「存じてます、そのことなら」  あまりにも落ち着き払った声で答えたからだろうか、今度は逆にクラス担任の方が、たじろいだ感じとなった。もっとも、しばらくの間、静寂が訪れた後に彼女は、 「来年の文化祭からは、入場出来る外部の方を、制限しないといけませんわね」  勝ち誇ったように、そう言った。 「そやから、チケットを持ってる人でないと、入れへんようになったんやわね」  少し大きめの枡《ます》に入った、雲丹《うに》ご飯が出て来た。上に生雲丹が載っている蒸しご飯。「ウワーッ、おいしそうね」と、大袈裟《おおげさ》な動作をしながら香織が言った。 「ううん、違うわ。チケット制は、その前からあったのよ」  祐紀代が訂正をした。 「あら、そうやったかしら。なんか、もう、七、八年も前の話のせいか、記憶がゴチャゴチャになってるわ」  香織には、今年から幼稚園に入った女の子がいるのだ。崇子とは、また、違った感じでバタ臭い顔をしていた彼女は、私たち四人の中では一番要領のいい子だった気がする。  大学一、二年生の頃は結構、遊んでいたのに、三年生の秋になるとパタリとおとなしい女子学生に変身してしまった。そうして、四年生の春、お見合いすると、在学中に結婚してしまう。神戸が本社のドイツ菓子メーカーのジュニアとだ。今は、夙川《しゆくがわ》沿いの苦楽園に住んでいる。  もう一人、崇子のことも紹介しておこう。現在、徳島市に住んでいる。「なんも、ない街なのよ。お洋服なんて、全然、ブチックに揃《そろ》ってないし、主人と一緒にどこかへ行こ、と思ても、これまた、駄目。最悪、最悪」そう言って、私の東京のマンションにまで電話をかけてくることがある。  お金が一杯あると受験する際、多分、何かと有利になるのじゃないかしらと誰もが思ってる、西宮にある私立医大出身の彼女の夫は、徳島市内で内科医院を開業していた。二代目。  それまで、ハンサムな男の子でないと好きにならなかった彼女のことだから、三年生の時にパーティで彼と知り合ったと聞いても、当然、長くは続くまいと私は予想していたのに、なぜか、ゴールインしてしまった。 「チケットの裏側に、住所、名まえ、それに、学校名を書いて、校門のところで先生に渡すことになっちゃったのよ」  几帳面《きちようめん》で、それこそ、同好会の会計係とかには、うってつけの性格だった祐紀代は、おまけに、相変らずの記憶力。変わらない。 「そうだ、そうだ。校門のところでチェックするようになったんやわ。で、チケット持ってても、遊び人っぽい感じの男の子は入れなくなったんや。『あなた、駄目です。帰りなさい』なあんて言われてね」  大きな声を出して笑いながら、崇子が続けた。それまで、私たちが通っていた女子高では生徒一人に五枚、文化祭のチケットが渡されていた。親兄弟にあげる為にだ。  けれども、それを狙《ねら》って毎年、男子高校生たちの熾烈《しれつ》な戦いが始まる。なんとか、チケットを入手しようとするのだ。だから、文化祭のチケットは、本来、無料なのにプレミアムがついた。 「三千円で売って下さい」登下校時、駅のプラットホームで電車を待っていると、詰襟《つめえり》のホックをきちんと閉めた、内気な感じの男子高校生から声をかけられることさえあった。 「翌年から、プレミアムがつきにくくなっちゃったのよね」 「そうやった?」 「ふーん」って感じで私が言うと、 「まったく、もう、白々しいんだから。原因は、あなたよ」  崇子に指を差されてしまった。 「やめ、やめ、この話題は、もう、やめ」  もちろん、さっきからずうっと文化祭と浩史の話題だった訳でもないけれど、なぜか、大学時代の想《おも》い出話はあまり出なくて、そうして、高校時代の話ばかりが続いた。 「よろしいですねえ、学生時代にご一緒だった皆さんが、こうやって、お揃いになられて」  吉兆とは親戚関係にあたるという青葉の女将《おかみ》さんが、ご挨拶《あいさつ》に来た。商社に勤める私の父親が、接待で利用しているらしい。丁寧なご挨拶をして下さる。  細面《ほそおもて》の、綺麗《きれい》な方だ。私たちとさほど変らぬ年齢のお嬢さんが二人もいらっしゃるとは、とても、見えない。やはり、毎日、多くの人に見詰められる職業についていると、その緊張感が美しさも保たせてくれるのだろうか。  デザートは、イチゴだった。鯛《たい》の形をした陶器の上側、三分の一くらいが蓋《ふた》になっていて、取り外せる。中には、かき氷と同じ具合に氷が敷いてあって、上にイチゴが載っていた。  青葉のお食事は、器が凝っている。たとえばお刺身は、屋形船《やかたぶね》の形をした、これまた、素敵な陶器で登場した。 「京都の方へ特別に頼んでるんですが、すぐには出来上がってきませんでして。長いと、一年以上かかったりします」  掘り炬燵《ごたつ》形式になったお座敷で、私は両足をブランブランとさせながら、話を聞いた。  大学を卒業すると、祐紀代と私は就職をした。私が勤めたのは、フランス系の外国銀行だ。小学校の三、四年次、父親の転勤でベルギーに住んだ。ブリュッセル。帰国してからも、フランス語と英語のブラッシュ・アップだけは欠かさなかった私は、だから、日常会話には不自由しないだけの語学力があった。  勤務先の外国銀行は、神戸ではなく東京だった。溜池《ためいけ》交差点の角にあるビルに入っている。一人住まいすることとなった。両親から離れて、暮らしてみたかったのだ。神戸へは、半年振りに帰って来た。毎日、暇してる崇子も神戸へ出て来て、仲の良かった四人で会うことになった。 「恵まれてらっしゃいますわよ。お一人、二万円もするお料理を、まだ、お若いのに、お召しあがれるだけの余裕がおありになるんですもの」 「毎日、変哲もなくって」香織が口を滑らすと、笑いながら女将さんはそう言った。彼女の発言は、本当だと思う。けれども、みんな、ちょっぴり、疲れちゃってる。  もっと、充実した毎日が送れるだろうと甘い考えを持っていた私は、結局のところ、ルーティンな仕事の繰り返しだ。ポート・アイランドにあるファッション・メーカーに勤めるようになった祐紀代も、同じらしい。「永久就職したのに、あなた方、贅沢《ぜいたく》な要求のしすぎ」不満とまでは行かないのだけれど、でも、なんとなく感じている仕事上の嫌《いや》なことを話しながら、二人揃って、香織と崇子に軽いジャブを出した。  けれども、私にだけは電話で話してくれた、結婚してもいいのだけれど、でも、もうひとつ、相手が不甲斐《ふがい》なくて困ってるという同じ会社の恋人の話を、祐紀代は青葉では一言も口に出さなかった。「相手、おらへんの?」崇子が尋ねると、笑ってごまかした。  そうして、この私も同じ銀行内に妻子あるフランス人の恋人がいるのだけれど、でも、同じように、祐紀代にしか話していない。 「あーあ、つまらへんわ」と言うだけで、「じゃあ、具体的には」と尋ねると同じように香織と崇子が黙ってしまうのも、辛《つら》くて辛くて仕方のないことが、本当はあるのかもしれない。たとえば、御姑《おしゆうとめ》さんとの間で。  けれども、それは、まだ結婚していない私にはわからないことだし、また、とりわけ、知りたいと思うわけでもない。  ただ、昔から仲の良い四人が、表面上はやたらとニコニコしながら、こうして会食をしている。これだけは現実で、また、それがすごく不思議な気がした。 「ねえ、良かったら、私の車で、少し、ドライヴしてみる?」  香織が立ち上がりながら、提案した。 「ええわ、それって、賛成」  他《ほか》の三人も頷《うなず》いた。女の子と呼ぶには人生を少しだけ多く経験し過ぎ、かといって、女と呼ぶには、まだまだ早過ぎる四人が、夜の神戸をドライヴするのだ。  玄関でカサディの靴《くつ》を履きながら、ふと私は、高校時代、浩史の車に乗って六甲山へとドライヴに行った時のことを思い出した。  母親に手伝ってもらった、というよりは、その大部分が母親メイドだったお弁当を「おいしいね、おいしいね」と食べてくれた彼の、その表情は、とても、八歳年上の男性とは思えないあどけなさだった。 「えへん、おいしいでしょ」と素直には自慢することの出来なかった私は、ドナルド・ダックがプリントされた魔法瓶《まほうびん》から、紅茶を少しずつカップに注いでは、飲んでばかりいた。  けれども、そのことを、次の日の授業中、笑いながら、横の席だった香織に話した記憶がある。今だったら、どうなのだろう。八歳年上の、それも、プレイボーイだと言われている人とのデートのことを、「あどけない人だから」と胸を張って言えるだろうか。  私たちは、少しずつ、大人になって行くのかもしれない。そう思った。高校時代の話ばかりが語られて、大学時代の、それも、それぞれが大きく変わって行った三、四年生の頃の話が、まったくといってもいいくらいに出なかったのは、たまたまだったわけでもないのだろう。 「さあ、夜の神戸を暴走しちゃうわよ」  自分に言い聞かせるかのように大きな声で私が言うと、みんな、びっくりした顔をした。けれども、すぐに、「オーケー」駐車場へと、早足で向かう。いつまでも、大人の女の子でいたいと思った私は、哀《かな》しいけれど、でも、わざとスキップしながら空を見上げた。数え切れないくらいに一杯、星が光り輝いていた。 名古屋市 八事 「昨日の夜、言った通りなの。考えは、変わらないわ」  母からの電話で起こされた。ベッド・サイドの小さな鏡台の上に置いてある目覚時計は、六時四十分だ。ベルが鳴るまでに、まだ、十五分もある。 「昨日、言った通りって、だって、育代、まだ、わからないじゃないの」 「何が?」  体を起こした。といっても、起き上がったわけじゃない。ベッドに横になったまま、体の右半分を起こしたのだ。足の踝《くるぶし》から肩まで、左半分はシーツにペタッとくっついてる。そうして、右手の中指で、そっと、目元に触れた。少しだけ出ていた目脂《めやに》を取ろうとしたのだ。毎晩、ベッドへ入る前にコンタクトレンズを外しているのだけれど、やっぱり、眠っている間に出てしまう。 「一度だけじゃ、江畑さんのこと、判断出来ないでしょ。何度か、お会いしてみたらどお?」  母は、そう言った。 「会ってみたら、どうなるの?」 「そりゃ、あの方のこと、少しずつ、理解出来るようになるんじゃない、でしょ?」  溜《た》め息と呼べるほど仰々しいものではないけれど、私はそこで軽く息を吐いた。鼻が、ちょっぴり鳴ってしまった。 「もちろんよ。きっと、理解出来ると思うわ」 「そうよ、育代」  母は、嬉《うれ》しそうな声を出した。私が折れたとでも思ったのかしら。うん、多分、その線。 「でも、理解するのと好きになるのとは、別の問題だわ」 「あらあ」  母は、溜め息をついた。本物の溜め息だ。そうして、しばらくの間、沈黙が続いた。  ——ちょっと、きついこと、言い過ぎちゃったかなあ。  心の中で、つぶやきながら、でも、私は続けた。 「だから、それだったら、一度、お見合いしただけでお断わりした方が、相手のためなのかなあって思うの」  一昨日、私が一人で住んでいるマンションに電話をかけて来て、二十分近くもお話してくれた江畑さんのことを、名まえではなしに表現した。その方が、なんとなく、気が楽になりそうだったから。 「何度か、お会いしているうちに、気にいるかもしれないわよ」 「うん、それは、まあねえ」  今度は、少しだけ悩んでいるような声を出した。というよりも、出してみたという感じかな。結論は、最初から決っているのだ。ただ、どうしても、母の心情を考えてしまう。 「お断わりして頂戴《ちようだい》」なんて、すぐに言ってはいけないような気がしてきちゃう。それが本当の優しさではないことくらい、よおく、わかっているとは言ってもだ。  肩から肘《ひじ》にかけての左腕が、痛くなってきた。きちんと起き上がることにした。そうして、右手で髪の毛をかき上げる。そんなに長いわけじゃない。肩より少し下。首を振るだけで、本来は十分だ。けれども、今の私は大きな動作で髪の毛をかき上げてみたかった。 「じゃあ、何度かお会いして、でも、やっぱり、気が合いそうもないわ、ってことになったら、どうすればいいの?」  母をメランコリーにさせる発言を、また、してしまった。一人で東京へ出て来る前の、名古屋に家族と一緒に住んでいた我がままな学生時代と同じ髪のかき上げ方をしたから、それで、つい、そうなってしまったのかしら。  少しは当たっている。でも、それだけじゃあない。決して、嫌《きら》いなタイプというわけではない江畑さんがお見合いの相手だったから、悩んでいるのだ。気持は揺れ動いている。 「あなたは、いつだって、そうやって、逃げようとするんですから」  幾分、語気を荒立たせた母の言葉が聞えてきた。「わかっているわ、言われなくたって」、心の中でつぶやきながら、目覚時計を見た。もうじき、六時五十五分だ。体をよじるようにして、右手でスイッチを切る。そろそろ、電話を終わりにしなくてはと思った。  もちろん、今、話していることは、きっと、私にとって大切な事柄《ことがら》なのだろう。本当は、このまま話し続けて、はっきりとさせた方がいいのかもしれない。けれども、髪の毛を洗わなくてはいけない時刻も近づいている。困った。  名古屋にあるイエズス会系の大学を卒業した後、私は東京で就職した。最初は、カナダに本店がある銀行の東京支店。オフィスは、大手町だった。四年近く勤めた。そうして、今から二年程前、コンピュータ会社に転職した。世界で一番大きなコンピュータ会社が、アジア太平洋地域本部を東京に設立したのだ。今までも大きな本社ビルが六本木にあった日本法人とは、まったく別にだ。オフィスは、神谷町《かみやちよう》だった。  東横線の学芸大学駅から歩いて七、八分のところに住んでいる私は、オフィスまで四十分近くかかる。八時十分過ぎには出ないといけない。シャワーを浴びて、ミルク・ティーと一緒にライ・ブレッドのトーストを食べて、もちろん、お化粧もして。  これだけするのだって、結構、時間がかかる。なのにその上、私は、朝、髪の毛を洗う習慣があった。大学時代から、ずうっとだ。 「そんな優雅なことしてられるのは、学生時代だけよ。会社に入ったら、とてもじゃないけれど無理ね。ウイークデーの朝は、たったの一分間だって貴重品ですもの」一足《ひとあし》先に名古屋市内の商社に勤めていた、私と同じ経済学部出身の先輩は忠告してくれた。  とは言うものの、人間、一旦《いつたん》覚えた気持のいいことを、そう簡単に捨てるだけの決心はつかない。だから、今でも毎朝、早目に起きて髪の毛を洗う。六時五十五分に目覚時計をセットしているのも、そのためだった。 「別に、逃げてるわけじゃあないの。でも、そろそろ、会社に行く準備をしないといけないから。夜、私の方から電話をするわ、ちゃあんと」  まるで、ウサギが草むらをピョンピョンと跳ねて行くように明るい声を出した。そのトーンに、幾らか安心したのだろうか、 「じゃあ、必らずよ。待ってますからね」  母は柔らかい口調で、オーケーしてくれた。こっちが、拍子抜《ひようしぬ》けするくらい、あっさりとだ。 「もちろん。忘れずに」  そう言って受話器を置くや否《いな》や、私はバスルームへと小走りに向かった。 「やっぱり、元気がないんじゃない? 今日の育代」  千栄子は、そう言った。昨日の晩のことだ。 「ううん、そんなことないよ、大丈夫。いつもと変わらないよ」  答えた。私たち二人は、お蕎麦《そ ば》屋さんにいた。神田須田町にある「まつや」。二人とも、お気に入りだった。交通博物館の近くの神田須田町は、戦災に遭わなかったせいか、昔ながらの街並みだ。あんこう鍋《なべ》を食べさせるお店があったり、甘味処があったり。「まつや」は、その一角にあった、天井が高い日本家屋。いかにも、お蕎麦屋さんの雰囲気《ふんいき》。  不思議だな、と思う。大学生だった頃《ころ》は、「お蕎麦を食べに行くなんて、ちょっとね」って感じだった。きしめんで有名な名古屋にだって、お蕎麦屋さんは何軒もある。けれども、まず、行かなかった。きしめん屋さんに友だち同士で入ることだって、ほとんど、なかった。なんとなく、おしゃれでないような気がしていたのだ。  最近は違う。結構、頻繁《ひんぱん》に出かける。健康食品ブームとか和食ブームの影響で、お蕎麦が見直されるようになったせいかな。おしゃれな食べ物に変身しちゃったのだ。高度経済成長以降の新しい東京とは違う、昔ながらの地区へお蕎麦を食べに行くのは、だから、所謂《いわゆる》、下町ブームともマッチして、より一層、おしゃれな行為になっちゃった。  けれども、ただ単におしゃれな食べ物だからという、それだけの理由なら、すぐに飽きてしまう筈《はず》だ。流行の一種なのだから。 「お蕎麦屋さんに、行こうか」と、どちらからともなく言うことが、この一、二年、増えてきたのは、きっと、お互いの体が知らず知らずのうちに、あっさりした食べ物を好むようになってきた表われなのだろう。大学を卒業して六年も経《た》つと、色々、変わってくる。 「気になってるんだね、お見合いのことが」  千栄子は、天麩羅《てんぷら》蕎麦を食べていた。私は、玉子とじだ。いつでも、最後に玉子とじを頼むのがお決まりだった。なんだか、子供が一番好きなお蕎麦っぽくて、かわいらしいでしょ。  昨日の私たちは、最初に鳥わさを取った。生のささみにわさびがくっついてる。醤油味《しようゆあじ》。おいしい。玉子焼も一人前。幾つかの切れ目が入った横長の円形をしていた。まだ、タッパーウェアが世の中に出まわる前の幼稚園時代、みんなが使っていたアルミニウムのお弁当箱に形が似ている。  その後、彼女も私も、ごま蕎麦を頼んだ。だから、結構、お腹《なか》が一杯。昔、夕ご飯にお蕎麦を食べる人って、それで一晩平気なのかな、と不思議に思っていたことを思い出した。 「ううん、そんなことないよ、大丈夫」  さっきと同じセリフを繰り返した。ビールを飲んで、ちょっぴり頬《ほお》が赤くなっている。まわりに坐《すわ》っているのは、サラリーマンが多い。きっと、この周辺の繊維や薬品関係の会社に勤めているのだろう。三、四人ずつ、かたまって食べていた。 「どうやって断わろうか、悩んでいるんじゃないの?」  両手で丼《どんぶり》を持ってお汁《つゆ》を飲むと、千栄子は上目使いに私を見た。 「えっ、うん、まあね」  そろそろ、本当のことを言わなくちゃいけないような気がして、正直に答えた。 「両親を納得させるのが大変なのよ。二人とも、私のこと早く片付けたいと思ってるから」  三日前の日曜日、お見合いをした。名古屋城のすぐ傍《そば》にあるホテルのラウンジでだ。相手は、五歳年上のサラリーマン。名古屋出身。中高一貫教育の地元の私立受験校から、東京の大学を卒業して、商社に勤務していた。非鉄金属部でニッケルを扱っているらしい。  良く晴れた日曜日だった。母と一緒にラウンジに入って行くと、先方は紹介者の女性と一緒に坐っていた。母が習っている帽子を作る教室で知り合ったのだという、いかにも世話好きそうな御婦人。「フーッ」と、私は心の中で溜め息をついた。 「こちらが、山内さん。山内育代さん。そして、お母様」  瀬賀さんという名まえの世話好きなおばさんは、まず、私たちを紹介した。 「それから、江畑達朗さんでらしてよ」  語尾を尻上《しりあ》がりに、おまけに、少し伸ばし気味に喋《しやべ》った。両手を動かしながらだ。驚くほど大きな動作。もちろん、彼女にはそれが似合っているのだろうけれど、逃げ出したい気分。けれども私は、ニッコリと微笑《ほほえ》みながら、フカフカのソファーに腰を下ろした。 「育代さん、何をお飲みになられて?」  瀬賀さんは、私に尋ねた。 「ミルク・ティーを戴《いただ》きます」  無難な飲み物を無難な口調で頼んだ。母もミルク・ティーだった。生まれて初めてのお見合いは、こうしてスタートした。けれども、その後、とりわけ変わった展開があったわけじゃあない。予想していた通りの、別段、どうってことない会話のやりとりが続いただけ。  江畑さんは、履歴書と一緒に同封されていた何枚かのスナップ写真と寸分違わぬ、なかなかにハンサムな、そうして、仕事も出来そうな人だった。だから、見るのも嫌、というタイプじゃ、もちろんない。  なのに、退屈だった。私は、自分の仕事について、多少、自信有りげに話す江畑さんの顔を、精一杯、優しくて従順そうな目をして見ながら、でも、時々、チラッチラッと、秘《ひそ》かにまわりのお客さんを観察していた。  日曜日だというのに、中年の男性同士、正に膝《ひざ》を突き合わせてという感じで話をしている。ビジネスマンにしては、ネクタイの柄がハデだ。それも、決して品のあるハデさじゃない。政治とか不動産とかに関係している人なのだろう。  けれども、日曜日のラウンジで浮いていたのは、その二人だけで、後の人たちはみな、ホワーンとした午後の日射しにお似合いだった。初老の夫婦。まだ、二十代半ばのカップル。それぞれに、ゆったりとした休日を過ごしている。  そうして、私たちのコーナーと同じように、どうやら、お見合いらしき集団も二、三組、坐っていた。「もしかして、私の同級生や後輩じゃないでしょうね」緊張しながら、目を走らせた。誰《だれ》も知らない人ばかりだった。二人だけで坐っている若い男女も、また、知らない人ばかりだった。  こういう場面って、あんまり見られたくないもの。  幾分、ホッとしながら何回目かの、そして、最後の観察を終えて目線を戻《もど》すと、運の悪いことに江畑さんと目が合ってしまった。今度は、本当に心から従順そうな目をした。もちろん、バツの悪そうな感じにもなっていたのだろうけれど。  当然、嫌な顔をするだろうなと思った。けれども、彼は口元を微笑ませながら話を続けた。ニューカレドニアで取れるニッケルを買い付けるために現地駐在している、自分より四年先輩の社員から聞いた苦労話をだ。聞いているうちにいつの間にか「なるほど」と説得されてしまうような、そんな感じの話の運び方をする彼にしては、ちょっぴり意外な気がした。  私は神妙な面持《おもも》ちで坐っていることにした。心の中を見透かされているのじゃないかしら、と不安になったからだ。彼は話しながら、時々、私の目を見た。瞬《まばた》きするわけではないのだけれど、でも、瞳《ひとみ》がウインクしている。「どうしよう」そう思った。  横に坐っている母は、私の顔が見えなかった。さっきから、江畑さんの話に聞き入っている。彼の母方の実家が、私の両親と妹が住んでいる昭和区八事《やごと》からほど近いところにあることを聞いてからは、より一層、熱心にだ。別にだからって、どうということはないのに、やっぱり、親しみを感じてしまうのかしら。不思議なものだ。  瀬賀さんは相変らずの大きな動作で、いちいち、彼の話にうなずいていた。もちろん、私にとっても彼の話はスティミュラスで、そうして、写真を見た時から感じているように、決して苦手なタイプでもないのだけれど、でも、「早く、終わらないかなあ」そればっかり考えていた。 「今まで、お見合いの話、全部、断わっていたんでしょ」 「うん、そうだよ」  私は答えた。 「ふうん。なのに、その、ほら、なんだっけ、江畑さんだっけ、彼と会う気になったのは、どうしてなの?」  今までにも、お見合いの話は幾つかあった。みんな断わっていた。履歴書と写真を見た段階で、「うーん、どうも、ちょっとね」って感じの人ばかりだったから。けれども、それだけが理由じゃあない。結婚ということを、自分自身の問題として具体的に考えてみようという気になれなかったから。こちらの方が、大きなウエイトを占めてた気がする。 「だから、何て言うのかな、やっぱり、会ってみてもいいかなあ、とは思ったんだろうね、母が履歴書と写真を送って来た段階で」 「私なんて、まだ、全然、結婚する気が起きないから、へえー、そんなものかなあ、って感じだな。育代の話、聞いてると」  中学、高校と、私と一緒のクラスだった千栄子は、そのまま、エスカレーター式に大学へとは上がらずに、東京の四谷にある大学へ進んだ。といっても、同じイエズス会系の大学なのだから、もちろん、推薦入学ではあるのだけれど。  理工学部で物理を学んだ。けれども、一般的に私たちが想像する理工学部出身の女性という感じではない。学生時代、英語だけは随分と熱心に勉強したものの、その他の部分ではいかにも女子大生、女子大生した生活を送っていた私と、仲が良いくらいだもの。洋服のことも、ちゃあんとわかっている。ソフト・コンテンポラリーな感じのレコードなどは、私よりも、よっぽど詳しい。  卒業後、丸の内に本社があるコンピュータ会社に入った。業界ではSEと呼ばれているシステム・エンジニアとして働いている。営業担当者と一緒にユーザーと接する技術者だ。相手先にふさわしい機種の選定から始まって、据《す》え付け、ユーザーの研修と、なかなか大変な仕事だ。  けれども、彼女には向いているらしい。夜十一時、十二時までの残業が日常茶飯事だというのに、楽しくて仕方ないという。私が今の会社にシフトしてからはライバルということになるのだけれど、そんなこと一向にお構いなしだ。二週間に一回くらい、一緒に夕ご飯を食べながら話をしていた。 「私だって、結婚する気はないよ」  お猪口《ちよこ》に入った蕎麦湯を飲みながら、答えた。天麩羅蕎麦や玉子とじの時には、普通、蕎麦湯は出て来ないものなのだろう。けれども、私たちは冷たいごま蕎麦を、その前に食べていた。 「そうなの?」 「うん。だから、両親の圧力に負けちゃったってことの方が、理由なのかな」  千栄子のところとは違って、そもそも、卒業後、東京で就職することに私の両親は猛反対だった。閑静な住宅街として知られる八事に祖父の代から住んでいる私の家は、電気部品の工場を経営している。もちろん、大企業と呼べるほどの規模ではないけれど、それでも、名古屋では結構、大きな会社だ。男の子が生まれなかったので、父は長女の私に継がせるつもりだった。 「英語を生かしたいって言ったって、育代、別に一生、働くわけではないでしょ。どうせ、二、三年、社会勉強のつもりで働くだけなのでしょうから。だったら、お家《うち》から通える会社でも十分だと思うわ。あなたにふさわしい所を、私たちが、ちゃあんと捜してあげますから」  反対を押し切って、私は東京へ出て来た。今では、今年二十四歳になる妹に継がせようと考えているみたいだ。けれども、だからといって、私を早く嫁がせることを諦《あきら》めてしまったわけじゃあない。「あなたが片付かないことには、佳江《よしえ》だって困っちゃうじゃありませんか」電話で母と話す度、泣きつかれた。 「でも、いいじゃない。一応、両親の期待に応《こた》えて、お見合いはしてあげたんだから。今回はそれで十分よ。だって、今までは、履歴書と写真の段階で断わってきちゃってたんでしょ」 「まあね。そう言われてみれば、そうなんだけれど」 「でしょ。だから、はっきりと、『今回のは、お断わりして下さい』って言えばいいじゃない」  いつでも、彼女はスパッと物事を割り切ろうとする。別に専攻が理科系だったからというわけでもないのだろう。元々の性格が、そうなのかな。 「うーん」  煮え切らない返事をしてしまった。やっぱり、結構、悩んでしまっている。 「『今、付き合ってる人がいます』そう言ってみたらどうなの」 「呆《あき》れたわね」という声を出しながら、それでも色々と考えてくれるところが千栄子の良さだ。うれしい。けれども、今の彼女の提案は、実行に移すのが難しかった。 「それは、駄目《だめ》よ。そんなこと言ったら、『じゃあ、お付き合いしている相手の方に、ご挨拶《あいさつ》に行きましょ』なんて言い出しかねないもの。それに、第一、今、特定の相手、いないし」 「やっかいな親だね。育代のところって」  それでも、二十七歳になるまで独身を許してくれていたのだもの、やたらと結婚問題にエネルギーを使う名古屋の中じゃあ、理解ある方だと考えなくちゃいけないのかもしれない。 「私の両親なんて、大学へ入った時から、もう、半分、諦めていたようなものだから」  千栄子は、大分、温《ぬる》くなった蕎麦湯を飲みながら、そう言った。ちょっぴり、うらやましい。 「でも、育代、江畑さんのこと、気に入ってないわけでもないんでしょ」  ギクッとした。「お断わりして」と電話ではっきり母に言えないのは、両親がかわいそうだと思う気持からだけではないのかもしれない。それに月曜の夜、江畑さんからの電話が二十分も続いたのも、仮にお断わりするとしても、一応、本人には如才なく対応しておかないとまずいわ、と考えていたせいだけでもない気がするのだ。 「実際に僕《ぼく》と会ってみて、どんな風にお感じになったかは別として、でも、最初は、しぶしぶ出て来たんでしょ」  彼は、そう言った。 「わかりましたよ、すぐに。もっともね、実を言ってしまえば、僕の方も、なんだか知らないうちに、あの場に行くような状況に、まわりからさせられてしまった感じで。だから、お互い、似たようなものです。気にしないで下さい」  おもしろい人だな、と思った。女性と付き合い慣れているのかもしれない、とも思った。 「でも、お会いしてみて、すごく魅力的だった。たとえば、目の動きとかがね。どうです、取り敢《あ》えず、もう一度、会ってみませんか? ゆっくりとお話してみたいんです。何回かお会いしてみて、それでも、どちらかが、『やっぱり、ちょっと』ってことになったら、それはそれまでです。あるいは、もしかしたら、うまく行くかも知れませんし」  もちろん、理論的にはおっしゃる通りよ。けれども、何回かデートをしたら、断わりにくくなってしまうのがお見合いだ。ましてや、私の両親は江畑さんに大乗り気で、しかも、紹介して下さったのが瀬賀さんなのだもの。それに、繰り返すようだけれど、今の私はまだ、誰とも結婚を考えていないのだ。 「そうですねえ」デートをしてみてもいいかなあ、とも思っていた私は、あいまいな返事を意識的にすることで、「じゃあ、また、電話で話しましょう」という彼の言葉を引き出したのだった。  いつもと同じように、電車は混《こ》んでいた。中目黒から、そのまま日比谷線となる。地下に潜る。私は吊《つ》り革に右手をかけて、千栄子と会った時のことを思い出していた。  ——本当はもう少し、あのまま、私の話を続けて聞いて欲しかったのだわ。でも、「まつや」が看板になって、外に出なくちゃいけなくなって。  どこかでお茶をしようかな、と思った。けれども、九時を回っても開いている、しかも、気の利《き》いた感じのお店なんて、あの近辺では見つからない。困ったなあ、そう考えているうちに、「今日は、少し早く帰りたいんだ」千栄子が言った。  ワンランク上のSEになるための資格試験が、近づいてるらしい。睡眠時間を減らして頑張《がんば》っているのだろう。それ以上、私の相談に乗ってもらうために引き止めるのは、悪い気がした。それで、お互い、一人住まいのマンションへ戻ったのだ。  ——今夜、母に電話で、どう言ったら良いのかしら。  目の前のシートに坐っていたサラリーマンが読んでいる新聞に、千栄子が勤めているのとはまた別の、日本でも有数のコンピュータ・メーカーの社名が見出しに入った記事が載っているのを気にしながら、考えた。  ボーイフレンドは何人かいても、今の私には恋人と呼べるほどのステディな付き合い方をしている男性はいない。格別、好きな人がいるわけではないのだ。  韓国と中国を担当しているアメリカ人の部長の下で、秘書を務めている。それぞれの国に現地法人を作ったばかりだ。息つく暇もないくらいに忙しい。けれども、その分、仕事は充実している。やり甲斐《がい》がある。  今のところ会社を辞める気も、転職する気もない。でも、だからといって、「一生、仕事を続けるぞ」と決意したわけでもない。  そうして、別に今、結婚というものをしてみたいと思ったりはしないのだ。もちろん、きっといつかはするのだろうけれど、でも、今は取り敢えず、その気はなし。本当のところだ。  ——でも、こうした私の心の中なんて、とても、母にわかってもらえるわけがないわ。  朝、ベッドの中でしたのと同じように、軽く息を吐いた。一体、今夜の電話、どうしよう。やはり、もう一度、週末に名古屋へ帰って、直接、両親に話をするしかないのかもしれない。お互いの表情が見えない電話では、わかってもらおうと思って話せば話すほど、かえって、逆ベクトルになってしまう気がする。  もちろん、実際に会って話してみたところで、わかってはもらえないのかもしれない。けれども、少なくとも今夜の電話は言い争いにならないで済みそうだ。苦しいことを先に延ばしただけに過ぎないのに、なぜか、少し気が楽になった。  ——そうだわ、オフィスへ着いたら、まず、先ほどの新聞の記事を読んで、そのサマリーを英文タイプで打っておかなくては。  もちろん、上司に見せるためだ。私にとって大切なことを母と電話で話していたとしても、いつも、髪の毛を洗い始める時刻がその最中にやって来れば、それもまた同じように大切なこととなる。そうして、今の私にとってはサマリーを英文タイプしておくことは、今夜、電話で母に何と言おうかと考えることと同じくらい、また大切なことなのだ。  ——悲しいけれど、それが現実なのだわ。  次が神谷町であることを告げるアナウンスが流れる満員電車の中で、思った。 パリ ホテル・ル・ブリストル  エレベーターは、ゆっくりと降りて来た。日本橋あたりのデパートへ行くと今でも使われている、金網で囲まれているような感じのエレベーター。俊博《としひろ》は、その中にいた。 「久しぶりだね」  懐《なつ》かしい声だった。私は黙って頷《うなず》いた。まだ十月の半ば過ぎだというのに、オーバーコートを着ていた。首にはマフラーを巻いていた。家を出る時には、小雪がちらついていたのだ。去年よりも、寒くなるのが早いような気がした。 「随分と重装備だね」  もう一度、黙って頷いた。彼はダブルのスーツを着ていた。客室から降りて来たのに、仕事の時の俊博のようだった。ただ、顔の表情だけが柔らかかった。その昔、二人だけの時間を毎日のように過ごしていた時と変わらない、優しい感じだった。少しだけ、私はホッとした気分になった。 「どうしようか。バーにでも行くかい?」 「ええ」  けれども、すぐに、 「でも、こんな格好だから」  躊躇《ちゆうちよ》した。ロビーには、何人かの人々が歩いていた。皆、着飾っていた。私一人だけが、ウールのオーバーコートだったのだ。 「クロークへ預けてしまえばいいよ」  当たり前のことだった。なのに、すぐには「うん」と言えなかった。踏ん切りがつかなかったのだ。下に着ていたのは、ニットのワンピースだった。ごくごく普通のワンピースだった。  もう一度、冷静になって見回してみれば、あるいはロビーを歩いている人々の中にも、別段、どうということのない格好をしている人のいることが確認出来たかも知れない。けれども、私にはそれだけの余裕がなかった。どこか、気遅れしていた。俊博と付き合っていた頃《ころ》や、あるいは、桂太郎《けいたろう》と結婚していた頃の私とは違うのだ。そう思っていた。  あの頃は、自信があったように思える。といっても、もちろん、高慢で傲慢《ごうまん》な一人の女だった訳ではないけれど……。誰《だれ》もから羨《うらや》ましがられる恋愛や結婚をしていたから、それで持つことの出来た自信だったのだろう。今の私には懐かしい、けれども、遠い昔のことのような気がする。 「それとも、一旦《いつたん》、部屋へ上がって、荷物を置いてから、どこへ行こうか考えようか?」  私の気持を察してくれたのかも知れない。そう言った。私は頷いた。エレベーターのコール・ボタンを押してくれた。  荷物と呼べるほどの荷物を持っていたわけじゃあない。ポシェットと呼ぶには少し大きい感じのするバッグを肩から斜めにかけていた。そうして、化粧品の入ったポーチをくるんだ黄土色のビニール袋を抱えていた。  フナックという名まえの大きなレコード店のビニール袋だった。パリを訪れたことのある人ならば、若者たちがレコードの入ったそのビニール袋を下げているのを見たことがあるだろう。日本に住んでいた頃の私には、レコード店の袋の中に荷物を入れて持ち歩くなんて、まず、考えられなかった。今では全然、平気だ。むしろ、ブチックの紙袋に荷物を入れて、という方が少なくなってしまった。  どうしてなのだろう? 自分のお給料だけで地味に暮らしているからだろうか? 住んでいるのは、パリの郊外だった。北の方になる。シャルル・ドゴール空港まで車で十五分の場所だった。そうして、日本でいうグランド・ホステス。それが今の仕事だった。  あるいは、今の私の境遇如何《いかん》に関係なく、ヨーロッパに暮らすようになると、人は誰でも普段、出歩く時に持つ袋にまでは、あまり構わなくなるのだろうか? どちらも正解のような感じがした。 「パリに住むようになってから、このあたりにはあまり来なくなってしまったわ」  早くエレベーターが降りて来ないものだろうかと思いながら、言った。が、 「かえって、そういうものかも知れないな、って納得したりもするんだけれどね」  取り繕うような発言も続けてしまった。どうして素直になれないのだろうか? 今の私をそのまま俊博に見せてしまって、一体、何がいけないというのかしら。  地味な暮らしだとは言っても、普通の人に比べたら随分と収入もある。ただ、ル・ブリストルのあるルー・ドゥ・フォーヴル・サントノレあたりへは、あまり来なくなった。ただ、それだけのことだ。  日本のエアラインのスチュワーデスをやっていた頃は、パリへ来る度、このあたりのブチック巡りをした。翌々月の支払い金額が頭の痛くなるほどの数字となるくらいに、クレジット・カードで買い物をした。結婚してからも二回ほど、桂太郎がヨーロッパへ出張した際、一緒に訪れたことがあった。  今でも、名のあるブチックで買い物をしない訳ではない。フランス人に比べたら、随分と物持ちだ。フランスのエアラインに勤めている。何人かの日本人スタッフを除けば、後は皆、フランス人ばかりだ。彼らや彼女らから見ると、だから依然として私は高級品好みの女性という評価になる。 「うん、そうなのよ。日本人はコンプレックスがあるから、あなた方の国のバッグや洋服が大好きなのよ。で、私もその病気が未《いま》だに直らない一人」  勤め始めた去年の夏以来、私は幾度となく笑いながらフランス人スタッフに答えたものだ。なのに、日本人である俊博に会うと、つい、気張ってしまう。自分でも不思議だった。  エレベーターが降りて来た。良く見ると天使と動物たちの絵になっている金網のようなドアが開いて、中から人が出て来た。ドイツ系らしき顔をした老夫婦だった。  御主人の方は、セーターを着ていた。パンツはコーデュロイだった。御婦人の方も、ワンピースの上にカーディガンを羽織っていた。素材の良さそうなニットだった。  宿泊客なのであろうその二人が降りると、俊博はドアを押えて、「さあ」という感じに首を傾けた。私はまた黙って頷きながら乗り込んだ。続いて、彼も乗った。 「部屋がね、前、来た時よりも、いい感じなんだ。内装を新しくしたみたいで」  ゆっくりとエレベーターが上がっていく。日本でいうと二階、ヨーロッパでは一階という呼び方になるロビーの上の階までは、大分の距離があった。天井が高いのだ。  エレベーターは螺旋《らせん》階段の芯《しん》の部分に設けられていた。だから、上がるにつれて、階段越しにロビーの光景が見える。少しずつ少しずつ、ソファーに坐《すわ》って談笑しているお客も、黒服を着たコンシェルジュも小さくなっていく。  メイン・ダイニングから聞えてくるのだろうか、バイオリンの音色もした。ロビーのざわめきとミックスして、耳に入ってくる。そうした音も、エレベーターが上がるにつれて徐々にボワーンとした感じになった。  どこか、古いフランスの映画を観《み》ているようだ。伝統あるホテルに泊まる昔の恋人のところへ、マフラーをしたオーバーコートの女が訪れる。どこか場違いな所へ来てしまった感じでオドオドしている女の待つロビーへ、男は古いエレベーターに乗って降りて来る。二言、三言、話すとまたエレベーターに、今度は二人で乗って上がって行く。  私は、ポワーンとした気分だった。久し振りにル・ブリストルを訪れたからなのか、それとも、俊博に会うのが久し振りだったからなのか。わからない。ただ、さっきよりも少しは普段と変わらぬ気分になって、小さな人形のようなロビーの人々を眺《なが》めていた。  部屋に入ると、俊博はオーバーコートをクロゼットのハンガーに掛けてくれた。マフラーは、自分で取るとソファーの横のテーブルの上に置いた。  俊博の方を向くと、目を見詰めながら私は微笑《ほほえ》んだ。右手の中指の腹で私の顎《あご》を軽く押し上げながら、キスをしようと顔を近付けてくれたのはそれからだ。嬉《うれ》しかった。  部屋に入るなり、濃厚なキスをして再会を確かめ合うというパターンもあるような気はした。けれども、それは今の私たちには似つかわしくないように思えた。ロビーで会った時にキスをして、すぐにエレベーターに乗り込むような再会の仕方をするカップルならば、それもいいのだろうが。  最後に会ったのは、私が婚約したことを告げた時だから、もう四年も前になる。私が二十七歳の秋だった。半年後、結婚をし、そうして、一年半で桂太郎とは別れた。パリへ移り住んだのは、そのまた半年後の春だ。今年の末で三十一歳に私はなる。  四年振りに、それも、お互い、もう一度、恋愛し直そうというわけでもない二人が再会したのだ。コートを脱いで、見詰め合って、それからキスというのが、一番ふさわしかった。舌をからめるわけでもなく、ただ、唇《くちびる》と唇を長い間、合わせているだけのキスをした。 「下へ行くかい? それとも、外へ出ようか?」  彼は尋ねた。もう夜の十一時近いというのに、スーツを着たまま彼は待っていた。私のところへ部屋から電話をかけて来てくれたのは、八時頃だった気がする。中古のルノー5に乗って空港から戻って来たばかりだった私は、電話口で少し考えて、「じゃあ、お邪魔するわ」落ち着いた言い方で答えた。  食事はグランドの人間専用の社員食堂で、友人と一緒に済ませていた。フランス人と結婚をして、今は私と同じように離婚している日本人女性が、その友人だった。由美子という名まえの彼女は、私よりも五歳ほど年上だった。  日本人乗客へのサービスをするために、何人かの職員がいる。シャルル・ドゴールにもオルリーにもだ。その多くは日本人スタッフで、中にフランス人とのハーフの人もいた。フランスで結婚して暮らしている人が多かった。が、中には由美子や私のような人もいた。その昔、スチュワーデスやグランド・ホステスを経験している人が殆《ほと》んどだった。 「お部屋でというのは、まずいかしら?」  彼の泊まっていた部屋は、リビングルームとベッドルームが分かれていた。ルー・ドゥ・フォーヴル・サントノレに面した部屋だ。ル・ブリストルの中でも、かなり上等なタイプのはずだった。 「でも、あなたはどこか出かけるつもりでいたんでしょ?」  チェックの生地《きじ》がいかにも今年らしいピークド・ラペルのスーツを見ながら、私は続けた。パンツには折り目が綺麗《きれい》に入っていた。「ルームサービスででも食事を済ませて、待っているよ」、そう言って電話を切った彼は、食事の後、シャワーを浴びて、下着はもちろんのことシャツやスーツも着替えて待っていたに違いない。少し悪い気がした。 「いや、平気だよ。だったら、ワインかシャンパンでも取ることにしようか、奈美?」  私の名まえを呼んで彼は尋ねた。 「御免なさいね。あなたと二人だけで部屋にいた方が、ゆっくり出来る気がするわ」  昔のように俊博と呼ぶこともなく、あなたという言い方をして私は答えた。本当は、彼の名まえで呼んだ方がいいと思ったのだ。けれども、そうするとフラットな喋《しやべ》り方で名まえを呼べないような気がした。どこか、落ち着かない喋り方になってしまうような気がしたのだ。緊張というのとも違う、不思議な感覚だった。 「じゃあ、そうしよう。何にする?」  シャンパンではない方が良かった。いや、大学生だった遥《はる》か昔にはディスコへ行くと、「シャンパン」みんなでいつでも大きな声を出したものだ。一緒に行った相手が金払いのいい自由業の年上だったりすると、その声の大きさは余計にだった。  けれども、卒業してからは、あまり飲まなくなった。嫌《きら》いになったわけではない。ただ、フライト中のミール・サービスの際、「ドン・ペリニョン」馬鹿《ばか》のひとつ覚えのように言うファースト・クラスの乗客を見ているうちに、外でシャンパンを頼むのが気恥しくなってしまったのだ。  オン・ボードしてくるなり、「シャンパンはある?」と尋ねる日本人乗客が、結構いた。「はい、ございますが」そう答えると、「何があるの?」必らず、聞かれた。「ドン・ペリニョンをご用意しております」答える。すると、「あっ、そう。じゃあ、一杯、頂戴《ちようだい》」鼻の先をフンと鳴らしながら答えるような感じの人が多かった。  もちろん、それは私の思い過ごしだったのかも知れない。けれども、シャンパンを好んで離陸前に頼むそうした人たちが、ミールの段になっても、相変らずドン・ペリニョンを飲み続けるのを見ると、私はガッカリした。 「ワイン、いかがでございますか?」尋ねても、あまり反応はなかった。中には、「ああ、そうねえ。ワインにしようか」そう言ってくれる乗客もいた。けれども、こうした人もワインの銘柄《めいがら》や年代までを気にすることは、まずなかった。シャンパンの時は、あれほど「ドン・ペリニョン」とこだわっていたのに、奇妙だった。もっとも、私が乗務していたのは日本のエアラインだったから、たいしたワインを搭載《とうさい》してはいなかったのだけれど。  それで、フライト先ではワインを飲んだ。それほどの知識があるわけでもないのに、クルー仲間と食事に出かけると、積極的にワイン・リストを手にしてソムリエに尋ねた。大学がフランス語学科だった私は、当時からフランス語には多少の自信があったのだ。 「ワイン係は横川奈美に決定ね」そう言われると、満更でもない気がした。もっとも、頼むのはいつでも白ワインだった。赤ワインの方が凝り出すと比べものにならないくらい奥行きが深くて、おまけに体にもいいのだと知ってはいても、女性のクルーは、やはり、白ワインを好む人が圧倒的だったのだ。私もまた、白ワイン党だった。 「赤ワインのいいのがあれば、チーズと一緒にいただきたいわ」  フランスに住むようになってから赤ワインのおいしさがわかるようになった私は、俊博に向かって言った。 「へえー、どうしたの? 好きになったの、赤ワインが」  私よりも六歳年上の彼は、まだ、二十代半ばだった私とデートする度、お酒のことを色々と教えてくれた。アマレットをソーダで割ってライムを絞って飲むと、あっさりしていておいしいことも、デュボネに良く似たアペロールという食前酒があることも、彼から教えてもらった。  ワインのことも、詳しかった。けれども、白ワインばかりで赤ワインを飲もうとしなかったから、彼はちょっぴりつまらなさそうだった。 「赤ワインの方が、おもしろいよ」新しいアペリティフや白ワインの銘柄を彼のアドバイスで注文して試してみる度、使っていた手帳の隅《すみ》にその名まえをメモして、次のフライト先で訪れたレストランで早速、トライしていた私なのに、赤ワインにはちっとも興味を示さなかった。それが、理解出来なかったらしい。  受話器を取ると、ナイト・マネージャーに電話をした。ルームサービスのメニューに載っているワインには、たいしたものがないことを知っているのだろう。コンコルド広場にあるホテル、ル・クリヨンと並んで評価が高い、いや、むしろ、ホテル・オークラ的な慇懃《いんぎん》無礼さが鼻につくル・クリヨンよりも温かいサービスをすることで、熱烈なファンもいるのだと聞いたことのあるル・ブリストルであっても、やはりルームサービス用のワインは限られているのだろう。  しばらく、ナイト・マネージャーと話していた。リトグラフを主体に扱う画廊を東京と大阪で経営する俊博は、フランス語が達者だった。今では私の方が発音はネイティヴに近いという自信があるけれど、それでも、なかなかのものだった。  時々、何も喋らずに受話器を握っていた。きっと、ナイト・マネージャーがメイン・ダイニングのソムリエと別の電話で話して確認しているのだろう。俊博は、「シャンボール・ミュージニーの73年物はないだろうか?」と尋ねていた。  丸みのある、極めて上等な赤ワインであることを、私も知っていた。けれども、生憎《あいにく》とストック切れのようだった。リシュブールやラ・ターシェといった、これまた上等な、けれども、ワイン好きの人ならば誰もが知っている銘柄の名まえも挙げて話していた。 「もう少し別の、私の知らないワインがいいわ。丸みのある」  横のソファーに坐っていた私は、ホテルのメモ用紙に日本語でそう書いた。赤ワインを飲めるようになったとはいっても、まだまだ初心者の私には、刺激が口の中に残るシャンベルタン的傾向のワインは、苦手だった。  しばらくまた、沈黙が続いた。多分、チェック・イン時に俊博からチップを前もってもらっているのであろうナイト・マネージャーは、「いいワインはないか」とソムリエに必死に尋ねているのだろう。仕事柄、海外へ行くことの多い彼は、ホテルを使い慣れている。そう思った。 「59年物のクロ・ヴジョー。とってもいいワインだよ。奈美好みの」  受話器を置きながら、そう言った。名まえは聞いたことがある、まだ飲んだことのないワインだった。一緒にシェーブルとルヴロッションのチーズも頼んでくれた。 「こうやって、部屋で赤ワインを飲むってのも、いいもんだね」  私にキスをした。何も答えないうちにだ。さっきと違って、舌をからめてきた。私もまた、それに応《こた》えた。  俊博は、軽い寝息を立てていた。手を伸ばしてサイドテーブルの上に置いてあった腕時計を見ると、午前四時過ぎだった。テーブルの上のランプが付いたままになっている。  ——起きなくてはいけないわ。  前夜、東京を発《た》ったアンカレジ経由の便は、五時五十五分に到着する。フランス国内はもとより、ヨーロッパ、アフリカへの乗り継ぎ客をコネクティング・パッセンジャー・カウンターまで誘導するのが、今日の私の仕事だった。乗り継ぎ客たちは、バゲッジを最終目的地までスルーでチェック・インしている。だから、当然、バゲッジのピック・アップがない。到着と同時に誘導しなくてはいけない。  遅くても五時半前には着替えを済ませて、スタン・バイしていなくてはいけなかった。それだって、フランスのエアラインだからこそ、三十分前でも平気なのだ。日本のエアラインに勤めていたら、到着前のブリーフ・ミーティングだのなんだので、一時間半前には行っていなくてはいけないらしい。  シャワーを簡単にでも浴びなくてはと思った。俊博と愛し合った後、そのまま眠ってしまったのだ。何も身につけていなかった。暖房が入っているものの、少し寒い。身震いしながら、ベッドを出て歩いた。  私のことを愛してくれてはいたものの、でも、他《ほか》の女性との付き合いも派手だった俊博と自分から別れた後、恋愛で桂太郎と結婚をした。忙しい仕事の合い間を縫って成田のオペレーション・センターまで車で迎えに来てくれることも多かった俊博は、「そりゃ、他にもいるけれど、でも、彼女たちは、たまに会うだけだもの」私のことが一番なのだと繰り返し述べた。  本当だったのかも知れない。けれども、それで不安がすべてなくなってしまうわけではなかった。別に安定した生活を望んでいたわけでもないけれど、このままではいつかどうしようもなくなってしまう気がして、別れた。  桂太郎は、一歳年上だった。製パン業を主体とする同族経営の上場食品企業の長男だった。そのことを最初から知って付き合い出したわけではない。知り合った当時、彼は都市銀行に勤めていた。一種の修業中だった。  彼の家のことが、結婚を決める際に重要なファクターとなったわけではないと思う。今でも、そう思う。けれども、同期やセミ同期の子たちは、皆、「やったわね」みたいな受け止め方をした。  俊博の派手な恋愛ぶりに顔をしかめながらも自分でも何人か、コマーシャル製作会社の社長だの若い弁護士だの、ごく普通のサラリーマンだのと、二、三回ずつだけのデートをしていたのが、当時の私だった。「要領のいい人って、最後までうまくいくものなのね」フライト中のギャレーで、聞えよがしに皮肉る同じグループの先輩もいた。  それらは私としては、不本意な受け取られ方だった。桂太郎との結婚には、彼の母親と私の父親が反対だった。将来、会社を継ぐことになる彼の嫁としてふさわしくないというのが、彼の母親の言い分だった。名まえを聞けば誰《だれ》もが知っている総合商社の事業本部長だとはいっても、結局のところはサラリーマンでしかない私の父親も、「苦労するよ」と反対した。  なのに、結婚をした。桂太郎が一途《いちず》に私を愛してくれていると思えたからだ。けれども、その考えは甘かった。スチュワーデスを辞めて専業主婦となった私に、彼の母親は冷たく接した。桂太郎の姉の自慢ばかりをして、そうして必ず、最後に私を腐《くさ》した。  それは、彼女の愛情だったのかも知れない。そうして、私の努力が足りなかったのかも知れない。けれども、ここで我がままをひとつ言わせてもらえるならば、もう少し、桂太郎が間に立って私をかばってくれたなら。今でもそう思う。夜、ベッドへ入る前に甘ったれたことを言う私を彼は、「でも、ママだってさあ……」煮え切らない返事でかわした。  二人の間の愛情も薄れ始め、ただ彼に求められるまま、忘れた頃《ころ》にベッドの中で冷え冷えとした抱かれ方をされることだけが二人の接点のような具合になった。どちらからともなく、離婚する以外に解決する道のないことを悟った。  一人になった後、しばらく実家にいた。大学時代は遊んでばかりだった。仕事をするようになってから、一ヶ月に十日しか日本にいない職業だというのに、友だちに会ったりスポーツをしたりで、家には眠りに帰るだけの生活だった。  離婚して、久し振りに母親とゆっくり話す時間が持てた。変な話だけれど、「最近のあなた、親孝行ね」当時、地方に転勤していた兄との二人兄妹《きようだい》だった私に、母親はそう言った。冷静に考えてみると、誰もが大人になり切れていなかったのかもしれない。  数ヶ月後、「ジャパン・タイムズ」に載っていた今の仕事の募集を見て、応募した。辛《つら》くても、親元から離れなくてはと思ったのだ。このまま家にずっと居たのでは、ますます、甘ちゃんになってしまう気がした。  シャワーを浴びて歯を磨《みが》くと、もう四時半だった。早く出ないと間に合わなくなってしまう。お化粧は空港に着いて時間があったならばしよう。そう思った。日本のエアラインならば到底、考えられないこうしたことも、外国のエアラインでは平気だ。個人の問題なのだ。  俊博は、まだ眠っていた。今日の午後、ミラノへ向かうのだと言っていた。もしかしたら、午後三時までデューティーの私と空港で会えるかも知れない。そう思って、空港での私の内線番号をお礼の言葉と一緒にメモ用紙に残した。  私には、四歳年上のフランス人の恋人がいる。そうして、俊博は多分、再来年《さらいねん》くらいに十一歳年下の恋人と結婚するかも知れないのだ。二人とも、そのことをわかっていて、昨晩、デートをした。クロ・ヴジョーは信じられないくらいに丸みのある上品なワインだった。その後の出来事も、同じくらいに至福の時の過ぎ方だった。  エレベーターを使って、下りた。ロビーは、寒々とした雰囲気《ふんいき》だった。バイオリンの音色が人々のざわめきとミックスして古いフランス映画を観《み》ているようだったあの感じが、どこにもなかった。唯一《ゆいいつ》、エレベーターのドアに彫られた天使と動物だけが、そのことを黙って覚えているように思えた。  ベル・ボーイが一人、ロビーにいた。チラとこちらを見た。無視するよりもいいだろうと思って、微笑《ほほえ》みながら回転ドアを押して外に出た。車はルー・ドゥ・フォーヴル・サントノレ沿いに停《と》めていた。ホテルよりも、少し西だった。  深緑色をした車のところまで行くと、バッグからキーを取り出した。フロントガラスに薄く霜が降りているのに気付くと、マフラーで拭《ふ》き払った。そうして、乗り込んだ。ホテルばかりでなく、まだ、街全体が眠っているようだった。使う必要のない左手を握りしめてハーッと息を吹きかけながら、私はエンジンを始動させた。 千代田区 三番町  やたらと行列の出来ているお店だった。小さなビルの二階にある。一階には、婦人物の洋服を扱う洋装店という感じのお店が入っていた。 「随分と待つのかしら?」  尋ねると、 「まあね。でも、それがまたいいんだよ」  達夫はネクタイのノットの部分をいじりながら答えた。緩めているのではなかった。締め直しているのだった。そういう彼の性格が好きだった。  いつでも彼は、シングル・ノットだった。 「十年前ならばともかく、今時、ウインザー・ノットしているなんて、とんでもない話だよね」そう言っていた。  ウインザー公が考案したというウインザー・ノットは、大きな結び目に特徴があった。幅の広い襟《えり》のスーツにならば、それはお似合いだろう。けれども、彼が着ているのは細い襟だった。 「嫌《いや》なんだよね、ウインザー・ノットって。なんだか、演歌歌手みたいじゃない。あるいは、ホストクラブの男性って感じで」  それで、シングル・ノットだった。クルクルと二回まわして、小さな結び目を作る。少し短か目のカラーのシャツにも、マッチしていた。 「今日は、タイ料理にしようか?」  そう言い出したのは、達夫の方からだった。日本橋小伝馬町《こでんまちよう》にある繊維会社に勤めていた。繊維会社といっても、テキスタイルだけでなく、海外からプレタポルテ物を輸入することもしている。だから、ちょっぴり洋服に関心のある、たとえば、インペリアル・プラザやサンローゼあたりのブチックで買い物をしているような女性ならば、会社名を知っているかもしれない。 「バンコクに出かけてから、病み付きなんだよね、タイ料理に」  シルク製品の買い付けに彼がタイへ出張したのは、一ヶ月ほど前のことだった。バンコクのオリエンタル・ホテルに滞在したらしい。  市内を流れるチャオプラヤ川沿いにあるオリエンタル・ホテルは、私も一度行ってみたいホテルだった。アメリカの金融雑誌「インスティテューショナル・インベスター」が年一回行なう世界中のホテル・ランキングで、常に一位を獲得している。  一年のうち五十日以上をホテルで過ごすビジネス・エグゼクティヴ百人に調査した結果だという。だから、多分にアメリカ人の東洋に対する神秘的憧《あこが》れから来るところもあるのかも知れないのだけれど。 「川に面した部屋にはベランダもついていて、水上バスや水上タクシーの行き交うのを見ることが出来るんだ。夜、部屋に戻《もど》って来ると、枕《まくら》の上にオーキッドの花が一輪、置かれてあってね。結構、感動するよ」  帰って来た直後にデートをした時、話してくれたのを覚えている。ランドリー・サービスに出すと白い箱に入って戻って来て、その上にオーキッドが一輪、ピンで留めてあることも教えてくれた。 「かなり、辛いのかしら、タイ料理って?」  私たちの前には、中年のサラリーマン三人組が立って待っていた。列の一番後ろに並んでから、もう、十五分以上経《た》っている。有楽町の映画街の一角にあった。といっても、今は建て直し工事中の映画館が多いから、グレーに塗られた金属壁で囲まれている場所ばかりが目につく。  チェンマイ。それがお店の名まえだった。エスニック料理って、どうしても代々木とか阿佐谷あたりに似合いそうな気がしてしまう。エスニック料理=チープ=「宝島」愛読者みたいなイメージがあるのだ。  最近では、アークヒルズの一角や青山通りのスパイラル・ビルの中にベトナム料理やタイ料理のレストランが出来て、チープというイメージが払拭《ふつしよく》されてきたような気もするのだけれど、それでも、やっぱりってところはある。  チェンマイは外見から察すると、とりわけオッシャレーな雰囲気《ふんいき》のレストランではなかった。汚ないわけでは決してないけれど、でも、デート二、三回目の、まだお互いに力《りき》が入ったカップルにはとてもお薦め出来ないスポットだ。 「もちろん、極辛だよ。特にスープのトムヤムクンが、効くんだよね」  一組、お客が出て来た。男同士のサラリーマンだった。バンコクに駐在していたことのある人たちなのだろうか。もちろん、有楽町という場所柄《がら》もあるのだろうけれど、エスニック料理の店にしては結構、エスタブリッシュされた感じがある。 「シンハー・ビールというタイのビールがあるんだ。ちょっぴり甘い感じもするんだけれど、おいしいんだ」  出て来たお客と入れ替わりに前の一組が店内に入った。私たちが一番先頭になった。狭いお店なので、中に入って待つことが出来ないのだ。 「じゃあ、それを飲みましょう」  本当の気持を言うとそれほど乗り気でやって来たわけでもない私は、どうってことのない答え方をした。すると彼は、 「でもね、あんまりアルコールを飲んじゃうと、食道や胃の粘膜が取れちゃうというのかな、詳しいことはわからないんだけれど、一段と味が辛く感じるようになっちゃうんだよね」  付け加えた。随分と弾んだ声をしている。バンコクから帰って来て、本当に病み付きになってしまったのかも知れない、タイ料理に。私は「フーッ」と心の中で溜《た》め息をつきながら、彼の顔を見た。  特にハンサムというわけではない。もちろん、人並み以上の顔はしているのだけれど。私が大学四年生の頃《ころ》からの付き合いだ。もう四年以上になる。長い。性格はいい。長男のせいか、おっとりしている。けれども、たいした大学を彼は出ているわけでもなかった。  自分で言うのもおかしいけれど、ある意味では常に無意識のうちに計算しながら行動しているところのある私が達夫とずうっと付き合っているのは、だから、勤めている会社が彼の父親の経営しているものだというあたりにあったのかもしれない。 「どうぞ」  少しイントネーションに不自然さが残るタイ人の女性従業員が、ドアを開けて声を私たちに掛けた。席を立って会計をしている若いカップルがいる。順番が回ってきた。 「やったあ。これで、トムヤムクンにありつけるよ」  彼は元気な声を出す。私はもう一度、心の中で「フーッ」と溜め息をついた。けれども表情はニコニコしながら彼の後についてチェンマイの店内へと入った。  私が住んでいるのは、三番町のマンションだった。母親と妹と、そして、お手伝いさんの四人で住んでいた。建ってから十年以上になるマンションだ。だから、エレベーターの操作盤の階数表示は押しボタン式だ。指が触れると自然に階数表示の部分に明かりが付く最近のエレベーターとは違う。  もっとも、かなりいいマンションだった。結構、有名な人も住んでいる。私たちの家は、その最上階にあった。所謂《いわゆる》、ペントハウスだ。幾つもの広い部屋と、そして手入れの行き届いた芝生の庭がある。  父親とは別居していた。世田谷区の外れ、岡本《おかもと》町に大きな家を建てたのは、二年前のことだ。完成したならば、一家で三番町から移る予定だった。けれども、岡本町の家には父親がお手伝いさん夫婦と一緒に住んでいるだけ。私たちは、岡本町へあまり出かけることもなかった。  父親の浮気が原因だった。不動産関係の事業を手広く行なう彼は、やり手であると同時に女好きでもあったのだ。それは昔からだったらしい。私や妹と同じ、広尾にある大学で下からずうっと学んだ後に、お見合いで結婚した母親は、苦労しっ放しだった。 「新しい家には、移りませんわ、私は」  岡本町の家が完成間近となったある日、母親は彼に対してそう言った。 「私も自分の時間を楽しみたいと思っていますから」  それは久し振りに家族四人が顔を合わせて、乃木坂《のぎざか》にあるステーキハウスへ出かけた時のことだった。ところで、これは本筋には関係ないことなのだけれど、ステーキを外で食べるのが我が家の御馳走《ごちそう》なのだと思われるのは、ちょっと心外だ。たとえば、「デートの時にステーキを食べちゃったのお」と自慢気に友だちに語る女の子と同じレベルになってしまう。ただ単に、その日、お肉が食べたいという空気に家族全体がなったまでのことだ。 「どこに住むつもりだね」  父親が尋ねた。それほど、動揺している感じでもなかった。ある程度、予期していたのかも知れない。私も妹も、それは同じだった。こうした会話が始まる前と変わらぬペースで神戸牛のフィレを食べ続けた。  子供というものは、こうした場面になっても、案外、冷静でいられるのかも知れない。いや、というよりもむしろ、それまで両親が別居や離婚をしなかったことの方が不思議だったからなのだろうか。 「三番町のマンションに、そのまま住まわせていただきます」  訪れた乃木坂のステーキハウスは、目の前で焼いてくれたお肉を小さく切って、それをお皿《さら》に盛ってサービスしてくれるのだった。テーブルは緩い曲線を描いている。一番端に坐《すわ》っていた私からは、だから、家族全員の顔の表情を見ることが出来た。 「当然のことだと思いますわ」  母親は箸《はし》の動きを停《と》めたまま、そう言った。少し表情が強《こわ》ばっている気がした。喋《しやべ》り方も、いつもの彼女ではなかった。こうしたクリティカルな場面になると、普通は女性の方が落ち着いていて、むしろ、男性の方がおどおどとしてしまう気がする。  その日、もちろん、両親ともに冷静ではあったけれど、でも、どちらかと言えば、母親の方が緊張していた。当時、既にほとんど三番町のマンションに帰ってくることのなかった彼へ、是非、このチャンスに言わなければ。そう思って緊張していたのだろう。 「そりゃ、困るよ。売りに出しているのだから」  岡本町の家は、立派なものだった。多摩川を見下ろすことの出来る高台に六百五十坪あまりの敷地があった。建物は二階建てで、新進建築家の手による近代的なものだった。施工《せこう》中に何度か母親と一緒に見に行ったことがある。まだその頃は、母親も家族全員で暮らすつもりでいたのだろうか。  都内に幾つものオフィスビルを持っている父親が選んで来た建築家だけあって、行き届いた家作りをしていた。 「ワオーッ、最高」  私より四歳年下の妹は、はしゃいでいた。 「きっと、夜になると多摩丘陵に建つ住宅の明かりがチカチカとして、綺麗《きれい》だろうねえ」  家の中をグルリとまわりながら、そう言った。 「後、これで私専用の車が登場すれば、何も言うことないんだけれど」  私と妹とで、西ドイツ製の小さな車を共有していた。もちろん、父親が買ってくれたものだけど。 「贅沢《ぜいたく》ですよ」  母親は笑いながら、そう言って妹をたしなめた。気持が完全に変わってしまったのだろうか? けれども、私も妹も、さほど彼女の発言に驚かないところを見ると、遅かれ早かれ訪れる事態だとは思っていたのだろう。 「せっかく、岡本町に立派な家を建てたのだから。もったいないじゃないか。絵里と麻里の部屋だって、ちゃあんと設けたんだよ、陽当《ひあ》たりのいい場所に」  父親は少し早口になった。彼も内心、動揺していたのだろうか。日本の男性は、皆、相手の女性に自分の母親的役割を演じてくれることを望むのだという。私たちの父親も、また例外ではなかったのだろう。彼にとっての戸籍上の妻である私たちの母親が、ちゃあんと家庭を守ってくれていたからこそ、安心して外の女の人たちと遊んでいられたのだ。そう思った。 「とにかく、私は三番町から動きませんから。子供たちにはそれぞれ、自分の考えで行動してもらおうと思っています」  乃木坂のステーキハウスでの“家族会議”は、それで終わった。父親は私たちをマンションまで送ると、他《ほか》の場所へ泊まった。なんとなく、居心地が悪いと思ったからなのか、それとも、彼も決心がついたからなのか、そのあたりはわからない。  そうして、どこへ泊まったのか、今でもわからない。ただひとつ、はっきりしていたのは、私も妹も、母親が岡本町へと移らないならば一緒に三番町に残る、そのことを確かめ合ったという点だけだった。 「もう駄目《だめ》、辛過ぎて。死んじゃいそう」  カレー専門店にある極辛カレーよりも過激だった。水分を取ると、かえって余計に辛くなるという達夫のアドバイスは、十分、理解しているつもりだ。けれども、そんなことより一瞬でもいいから、目先の心地良さが欲しくなってしまう。そのくらいに辛かった。 「そこがいいんだよ。辛過ぎるところが。後で汗が出て、スカッとするよ」  シングル・ノットのネクタイをきちんと結んだままの彼は、そう言った。  目から涙が出て来てしまう。チェンマイへやって来たことを後悔した。けれども、人間不思議なもので、涙を出しながらも食べ続けてしまうのだ。  別に、お腹《なか》が空《す》いているからというわけでもないと思う。もしもそうならば、他のお店へ行きましょうと言えばいいのだから。どこか、怖いもの見たさの気持に近いところのあるような気がする。 「辛い、辛い」と言いながら食べると、スーッとした気分の良さも訪れるのだ。きっと、ジェットコースターと同じなのじゃないかしら、という気がする。「ギャーッ」と大声を出しながら乗っている時は、「早く終わればいい、早く終わればいい」と、ひたすら願い続けている。  けれども、ジェットコースターから下りて地上に足をつけてみると、まるで何事もなかったかのような表情をして、いや、というよりも、「アーア、楽しかった」という顔をして、「まだ、物足りないわ。もう一度、どう?」なあんて言ったりする。同じことだ。「この鶏肉の辛子いため、おいしいんだよ。食べてごらんよ」  牛肉とオニオンスライスのサラダを食べていた私に、彼はそう言った。とても辛そうだ。怖い。けれども、食べてみたい。お店に入る前、「こんなところで食べるの?」と、ちょっぴり不満だった私がウソのようだった。  達夫のことは好きだった。けれども、具体的に結婚をどうするか、といった話は、まだ出ていない。彼の方は、近い将来、私と一緒になれればと思っているみたいだった。  なるほど、いい人なのだ。結婚してもいいとは思っている。将来は会社を継ぐであろう彼は、経済的にも安心だ。もちろん、百パーセント大丈夫な職業なんて、どこにもないのかも知れないけれど。でも、まあ、食いはぐれてしまうことはないだろう。 「いいじゃない、絵里。彼みたいなタイプ」  大学時代の友だちは、皆、そう言った。一、二年生の頃は並行して何人もの男の子と付き合っていた私の友だちは、卒業が近づくとおとなしい相手とおとなしい恋愛をするようになった。そうして、結婚した。仲の良かった友だちのうち、半数以上が既に主婦になっている。  達夫も、そういう意味ではおとなしいタイプだった。そうして、今でも彼の方が一途《いちず》に私のことを愛してくれている。本当にいい人なのだ。そうして、いくら無意識に計算が働く私だとはいっても、もう何年も続いている。きっと、好きなのだろう。  けれども、「でも、やっぱり」そうも思ってしまう。とても胸を張って言える名まえの大学を出ているわけではないという点が、ある種、ネックになっているのだ。  つまらないことかも知れない。ただ、私の友だちがおとなしい相手と結婚したとはいっても、皆、ある程度以上の大学を出て、それなりの職業に就いているのだ。変な意味ではなく、やはり、負けたくないという気持があった。本当だ。  もちろん、それなりの職業とはいっても、たとえば、サラリーマンであったならば、商社であろうと銀行であろうと、給料はおのずと上限がある。医者や弁護士も、病院の勤務医や法律事務所に所属している形ならば、たかが知れている。  達夫の場合、身分はサラリーマンではあったけれど、父親の会社の株の配当もあった。非上場会社だから、よほどの事情がない限り、長男である彼が父親の跡を継ぐことになる。 「いいじゃない、絵里」友だちがそう言う理由が、わからないわけではなかった。  どうして躊躇《ちゆうちよ》しているのだろう。私の父親と違って、方々の女性に手を出して私を苦しませるようなことも、まったくといっていいほど考えられないタイプだった。そればかりではなく、私が結婚後、秘《ひそ》かに他の男性のことも好きになって付き合うようになったとしても、多分、気がつかないで終わってしまうようなところもあった。 「でも、やっぱり」どうしても、そう思う気持がどこかにあるのだ。それは、私の父親のような人と一生を伴《とも》にするのは御免だという気持の陰に、といって、結婚後、他の女性とただの一度も付き合うことなく私だけを愛してくれる男性も、それはそれで、どこか、不甲斐《ふがい》ないなあと思っているからだろうか。  自分でも、よくわからない。無いものねだりなのかも知れない。 「ほら、これがお待ちかねのトムヤムクンなんだ。見るからに辛そうなスープだろ?」  かわいらしい名まえだった。チビクロサンボの親戚《しんせき》みたいな感じだ。つい、微笑《ほほえ》んでしまいたくなる。けれども実物は、赤い色をした唐辛子の破片が一杯浮かんでいて、もうそれだけで、体中の汗腺が開き切っちゃう感じだった。  小さなお碗《わん》に彼が注いでくれる。一口、飲んでみた。どうってことない味だ。そう思って、二口目を飲もうとした瞬間、口の中が焼けつくような感覚になった。一口目のスープが口腔《こうくう》全体に広がって、耐えられない状態となったのだ。 「ねえ、助けてほしい」  そう言いながら、テーブルの上にあったビールをゴックン、飲んでしまった。後が、もっと辛《つら》くなるのはわかり切っているのに、やっぱり駄目だった。 「どう? なかなかのものでしょ」  彼は私の目を見ながら言った。目から涙が出て来てしまう。もちろん、辛いからだ。どうにもならない。夏の暑い盛りの犬みたいに「ハア、ハア、ハア」舌を出して息をした。 「でも、そんなに辛いかい?」  私がわざと大袈裟《おおげさ》な動作をしていると勘違いしたらしい。尋ねられた。 「ウン」と声を出すのも辛《つら》いくらいだ。首を縦に振りながら、相変らず舌を出して、「ハア、ハア、ハア」息をした。 「まあね、最初は誰《だれ》でもそうなんだよ。僕《ぼく》だって同じだったもの。どうして、こんな食べ物があるの、そう思ったよ」  この手のエスニック料理店にしては珍しく、チェンマイの内装はシンプルだ。料理の写真が壁に何枚か貼《は》ってあるだけだ。民俗工芸品がワンサと置いてあるんじゃないかと思っていた私は、ちょっぴり拍子抜《ひようしぬ》けした。  けれども、そこがまた、エスニック料理=チープ=「宝島」愛読者という図式を、多少、エスタブリッシュされたエグゼクティヴにも楽しめるというベクトルへ、変化させるためのひとつになっているのかも知れない。 「それは、なんとなくわかる気がするの。きっと食事が終わって、外へ出てしばらくしたら、また、食べたいなって思い始めそうな気がするもの」  彼は嬉《うれ》しそうな顔をした。やっとわかってもらえたね、という晴れ晴れとした表情だった。  一度、関心を持ち出すと徹底的にエネルギーを集中するのが、達夫の特徴だった。タイ料理は、ごく最近のことだ。彼は高校生の頃から、白人のシンガーソングライター物のアルバムを収集することに、かなりのエネルギーを集中していた。  レコードを四千枚くらい持っている。そのほとんどが、例の白人物だ。私の知らない名まえのアーチストが多かった。マイケル・フランクスやピーター・アレンあたりまでが、せいぜい、私の知っているアーチストなのだもの。 「最近は、めっきり、白人物のいいアルバムがなくなってしまって」  あるいは日本のニューミュージックと呼ばれる代物《しろもの》が駄目になってしまったのとも軌を一にしているのかも知れないけれど、このところ元気なのは黒人のアーチストばかりだった。所謂、ソウル物、ディスコ物だ。後はニューウェーヴ的ノリの白人アーチストになってしまう。メロディアスな作りをしていた白人アーチストは、本当に沈黙しっ放しだった。 「これ、とっても綺麗なメロディ。何て言うアーチスト?」  彼の部屋を訪ねると、いつでも、自慢のコレクションの中から何枚かをターンテーブルの上に載せて聴かせてくれた。けれども、それらのレコードは、あくまでも彼自身だけが価値を正当に評価出来るコレクションでしかなかったのだ、私と出会うまでは。  あまりに玄人《くろうと》向《む》け過ぎるアーチストばかりだったみたいだ。女の友だちはもちろんのこと、男の友だちでも理解してくれる人は少なかったらしい。「ちょっと、メロディが時代遅れなんだよね」そう言われるのが、関の山だった。  なかなか自分の趣味をわかってもらえなかった彼にとっては、「綺麗なメロディね」ただ単にそう言うだけの私でも嬉しかったのだろう。良き理解者が現われたような気がしたのだろう。多少、内向的なところのあるそうした彼を、好きになった。 「さあ、もう少しだよ、トムヤムクン」  知らないうちに二杯目を飲んでいた。ヒーヒー言いながらも、気に入ってしまったみたいだ。 「もう、駄目。でも、頑張《がんば》ってみるわ」  トムヤムクンという発音同様、なんだか、まだ年齢《と し》のいかない少女になったような喋り方だった。すると、彼はとても嬉しそうな表情をした。  もっと他に誰かいい男性が現われないものだろうかと、秘かに思っていた。どこか物足りないような気がしていた。けれども、それはやっぱり、本当に無いものねだりなのかも知れない。  たとえば仮に、もっと押し出しの強い男性が現われたならば、最初は気に入るかもしれない。もっともそういう人は同時に、繊細さに欠けるかも知れないのだ。  辛いものだから汗がダラダラと出てしまうトムヤムクンを飲みながらも、シングル・ノットのネクタイは、きちんと締めたままだった。さすがに、ジャケットは脱いでいたけれど。そういう達夫が私はやっぱり好きだった。  きっと、彼にはない男の魅力を持っている男性ならば、ネクタイをパッと取ると、ドレスシャツなのにボタンを三つくらい外して「さあ、食べよう」などと言い出すのかも知れない。  そこまでは行かなくても、あるいは、シャツの一番上のボタンくらい外して、ネクタイも少し緩めにして、というスタイルにはなることだろう。  けれども、そういう男性は駄目だった。汗を拭《ふ》き拭き、ネクタイは綺麗な二等辺三角形をシャツのカラーの間に作っている。こういう男性が好きだった。 「どう、お腹は一杯になった?」  彼も「ハー」と舌を出しながら尋ねた。  ——やっぱり、あなたがいいのよね。私、きっと。  同じように「ハー」彼よりも少し大袈裟な動作で舌を出しながら、「ウン」と今度は声を出して頷《うなず》いた。 港区 伊皿子坂  すぐにはタバコを吸ったりしないところが、俊哉《としや》を気に入っていた理由のひとつだったことを思いだした。私が大学一年生、そうして、彼は浪人生だった頃《ころ》のお話だ。もちろん、それは今でも変わらない。  全然吸わないわけではない。むしろ、昔も今も比較的、一日の本数は多い方だ。だから、ベッドの上での出来事が終わった後、私に腕枕《うでまくら》をしてくれながらタバコを吸ったとしても、それは少しも不思議ではないのだ。でも、今までに一度もない。 「どうして、男の人って、ベッドの上でタバコをスパスパと、さも、おいしそうに吸うのかしら」俊哉以外とそうなる度に、思った記憶がある。私もタバコを吸う。けれども、そうなった後のタバコには、かなり抵抗があった。  嫌《いや》なのだ。繊細な感覚からは程遠いような気がするのだ。どんなにか優しいタッチの出来事だったとしても、すぐにタバコを吸うなんて、やっぱり、相手の女性をどこか馬鹿《ばか》にしている。余韻を楽しむことを放棄してしまっているのだもの。結局、自分だけの満足感を得るための出来事だったのね、と口に出したい気分になってしまう。  もちろん、人の感じ方は様々だ。中には、フーッとけだるそうにタバコの煙を吐き出す姿に充実感と男らしさを覚えるという女性もいるのかもしれない。けれども、少なくとも私には耐えられないことだった。 「秋くらいに、ニューヨークへ戻《もど》るかもしれないんだ」  右手で私の髪の毛をいじりながら、俊哉はつぶやいた。既に二児の母だというのに、私の髪の毛は長い。お見合いで結婚した夫の進一郎が好みなのだ。といっても、学生みたいにロング・ヘアにしているわけにもいかない。もう二十九歳なのだもの。だから、肩にかかるくらいの長さ。 「また、向こうで暮らすことになるの?」  そんなの判《わか》り切ったことなのに、予期していなかった言葉を聞くと、咄嗟《とつさ》には気の利《き》いた返事をすることが出来ない。つまらない質問をしてしまった。 「そりゃ、そうだよ」  淡々とした喋《しやべ》り方で答えてくれた。彼は仰向けになってベッドの上にいる。私は彼よりも少し下の方で、横向きになっていた。ちょうど、頭が彼の腋《わき》の下あたりだ。だから、目を開けると彼の厚い胸板を横から見ているような具合になる。  遠くの方に、うっすらと胸毛の生えているのが見えた。毛ムクジャラなのは、苦手だ。けれども、進一郎みたいにまったくといってもいいくらいに生えていないのも、これまた、ちょっとだ。手前の方には、乳首のまわりの縮れた感じの、そうして、胸毛よりも一本一本の太さのある毛が見えた。 「どのくらい、行くことになるの?」  尋ねた。時間が経《た》つにつれて、少しずつ、聞くだけの価値はありそうな質問をすることが出来るようになってくる。 「最低、一年は住むことになるわけだよ。だって、僕《ぼく》の商売は年契だもの」  俊哉の職業を説明しておいた方が良いのかもしれない。けれども、完全に判ってもらうまでには、時間が多くかかりそうだ。外資系の投資銀行で為替相場のディーラーを務めている。とりあえずは、簡単に説明しておくことにしようと思う。 「じゃあ、翌年に契約を更改するかもしれないわけね?」  頭を上の方へと動かすと、彼の顔が見えた。顎《あご》の方から見上げている感じになる。 「そうだね」  今日は、腕枕をしてもらってなかった。高校三年生の秋に初めて彼に抱かれたその時から、あんまり腕枕は好きになれないままなのだ。なんとなく落ち着かない。大抵は今日みたいに彼の腋の下に頭をチョコン、置いている。だから、「今日も、腕枕はしてもらってなかった」このように表現した方が正しいのかもしれない。 「でも、まだ、秋にニューヨークへ戻ると決めたわけじゃあないんだから」  天井を見詰めたまま、彼は続けた。伊皿子《いさらご》坂から高松宮邸の前を通って高輪《たかなわ》警察署の方へと続く道路沿いに、俊哉の住んでいるマンションはあった。六階建ての最上階。道路とは反対側に部屋がある。三十畳ほどのリビングルームと十二畳ほどのダイニングルーム。そうして、今、私たちがいるベッドルームの他《ほか》にもう一部屋。メイドルームとトランクルームも、もちろん別にあった。 「うん」  私は答えた。でも、元気のない声。なぜって、「ニューヨークへ戻る」という感覚なのだから、彼は。日本で生まれて、そうして、小学校時代の四年間を除いては、大学に入るまで日本で育った彼なのに、「ニューヨークへ戻る」と表現するのだから。悲しくなってしまった。 「それにさ、ニューヨークへ住むことになっても、長期の休みを取ることは出来るから」  進一郎が勤める日本の商社だったりしたら、まとめて取れるのは、せいぜいが一週間だ。けれども、俊哉のようにアメリカの企業に勤めていると、まとめて一ヶ月間も休暇を取ることが可能だ。「大丈夫、ニューヨークへ戻っても、東京へ来れるから」そう言いたいのだろう。 「私は、まとめてお休みを取ること、出来ないわ」  右手の指先で彼の胸を触りながら、ちょっぴり、わがままを言ってしまった。進一郎と結婚している私は、一応は妻であり、また、母なのだ。いや、一応だなんていうよりも、むしろ、立派に主婦を演じている。彼の両親も私の両親も、彼の同僚も私の友だちも、みんな、そう思っているに違いない。もう一人の私を知っているのは、だから、俊哉、ただ一人だけなのだ。 「わかっているよ、それは。でも、ニューヨークで働かないかって、他社からの誘いが三つほどあるんだ。それも、今よりも格段にいい条件で」  そう答えると彼は左手を伸ばして、ベッド・サイドの小さなテーブルの上に置いてあった腕時計を取った。 「何時?」  尋ねると、黙って時計を私の目の前へ持って来てくれる。彼の手からダラーンと垂れ下がっているその時計の針は、四時を少しまわった時刻を示していた。 「そろそろ、シャワーを浴びた方がいいのかな」  自分自身と私の両方に語りかけるかのように、そう言った。  ——本当に、まとめてお休みを取ること、私は出来ないのよ。こうやって、いつも午後から会うのだって、色々と工作しなくちゃいけないんだから。  私は心の中でつぶやきながら、けれども、さっきよりは明るい声で「うん、そうね」と答えた。  俊哉と知り合ったのは、お互いが高校三年生だった時の六月だ。私は広尾の日赤病院の向い側にある女子高へ通っていた。小学校から、ずうっとだ。制服のかわいらしいことでは定評がある。  俊哉は有栖川《ありすがわ》公園の近くにある男子高へ通っていた。中高一貫教育のその高校は、所謂《いわゆる》、一流だとされている大学への合格者数が多いことで知られていた。高校時代、彼は成績の良かった方だと思う。でも同時に、遊んでいる方でもあった。  知り合った場所は、だから、ディスコだ。まだ、キサナドゥもキス・レイディオもなかった頃のお話だ。今はマハラジャ・ウエストとかいうディスコに変わった、メビウスという名まえのディスコがあって、しばしば、週末に友だちと一緒に出かけていたのが懐《なつ》かしい想《おも》い出。  ル・キャステルで大学生が開いたパーティへ彼も私も、背伸びしてやって来ていた。知り合ったのは、その時だ。本当は、有栖川公園の都立中央図書館や高校の文化祭で知り合いになった方が高校生らしかったのかも知れないけれど。でも、事実なんだから仕方がない。  それまで、女の子同士で遊びに出かけていたのに、彼と一緒に行動することの方が多くなった。といったって、もちろん、遊んでばかりいたわけじゃあない。併設の短大でなく、外部への進学を希望していた私は、だから、彼と一緒に図書館へも出かけた。  ボーイフレンドやガールフレンドがいない頃に誰《だれ》もがカップルで訪れることを夢みる有栖川の図書館を、最初は利用した。けれども、幸か不幸か、お互いの学校の友だちが沢山、いつでも図書館の中にいた。自慢気に二人、横に並んで坐《すわ》っていたのは、だから、ほんの短い間でしかなかった。  高松宮邸の近くにある港区立の高輪図書館を見つけて来たのは、彼だった。「いい図書館があるよ」こぢんまりとしていて、そうして、やって来るのは風呂敷《ふろしき》にノートや歴史の本を一杯包んでいる老人が多かった。  もちろん、学生が全然、いなかったわけではない。当時、私が第一志望にしていて、そうして実際、合格することの出来た広尾にある女子大の高等科の女の子たちも何人か見かけることがあった。彼女たちも、それぞれ、ボーイフレンドと二人でやって来ていた。みんな、考えることは同じだったのだ。  図書館の裏手には雑木林もあった。区立中学校のグラウンドとの間にだ。山の手特有の起伏の激しい場所にあった。図書館は坂の上に建ち、そうして、区立中学校は下の方にあった。落ち着いた図書館の雰囲気《ふんいき》は、高松宮邸だけでなく、その雑木林の存在にも多少は影響されていたのかもしれない。  まだ、その昔は若者向けのケーキ屋さんやカフェなど、ほとんど無いに等しかった広尾から二人、品川車庫行きの都営バスに乗って伊皿子坂で降りた。区立高輪図書館はバス停から歩いて二、三分の距離だった。そうして、今、俊哉は高松宮邸を挟《はさ》んで反対側にあるマンションに、六十歳近いメイドさんを雇って住んでいる。 「毎日、送り迎えをしているのかい?」  先にシャワーを使って簡単に体を洗い流した私がリビングルームのソファーに腰を下ろして、テーブルの上に置いてあった洋雑誌を見ていると、俊哉が戻ってきた。  白いバス・ローブを着ていた。私の横に坐る。ほのかに漂ってきた匂《にお》いは、夫の進一郎が先月、ハンブルグへ出張した際に買って来たトラサルディのオー・ド・トワレに似ていた。びっくりした。けれども、 「そうよ、大変なんだから」  いつもと同じトーンの声を出した。 「まず、朝、送っていくのが八時五十分。迎えに行くのは、十二時十分。家から近いのが、まあ、救いだと言えなくもないんだけれどね」  下の子供が通っている幼稚園は、西麻布にあった。牛坂と呼ばれる細い坂道の途中にある。天現寺や白金の三光町にある私立の小学校へ入れようと考えている親が、子供を通わせている幼稚園のひとつだ。渋谷の松濤《しようとう》町にある幼稚園と並んで、その手の中では双璧《そうへき》だと言われている。 「歩いていくのかい?」 「の場合もあるし、車で送り迎えする場合もあるわ」  私が今、住んでいるのは、ガーデンヒルズだった。進一郎の父に大分、お金を出してもらって購入したのだ。 「——?」  子供のことは、この間も俊哉に話したことがある。「忘れちゃったの?」そう言おうと考えて、けれども思い直した。子供は、進一郎と私との間に生まれたのだ。俊哉には関係ない。二人とも、俊哉がアメリカで暮らしていた間に生まれたのだった。 「小学校一年生よ」  父親に似て細い目をした上の子は、その父親と同じ天現寺にある私立の小学校へ歩いて通っていた。結婚して一年も経たないうちに生まれた男の子だ。 「ふうん、もう、そんなに大きいんだ」  さっき私が見ていた洋雑誌を、見るわけでもないのにパラパラとめくりながら、彼は答えた。『M』というタイトルのその男性雑誌は、最近、アメリカで売れているらしい。数年前、日本でも話題になったヤッピーを精神的には既に卒業したエグゼクティヴたちを対象にしているグラビア誌。 「そうよ。でも、だから、上の子の同級生たちの母親の中では、私が一番若いのかしら」  大学四年生の時に、六歳年上の進一郎とお見合いをした。その前後の時期の私を、俊哉はあまり知らない。  一浪した後も志望の大学に受からなかった彼は、アメリカの南部にある大学へ留学して法律を専攻した。そうして、シカゴにある大学のビジネス・スクールを卒業した。  浪人中の秋から、彼の父親は再びアメリカ駐在となった。俊哉が小学生だった時はロスアンゼルス、二度目はヒューストンだった。母親と五つ年下の妹も一緒にだ。それが、もしかしたら、彼が志望の大学に落ちてしまった遠因のひとつだったのかもしれない。  けれども、家族がヒューストンに移り住んでいたから、彼はアメリカへ留学することで浪人生活に終止符を打てたのだ。そうして、アメリカの大学とビジネス・スクールを卒業したから、今日の彼の職業もある。人生、何が幸せで何が不幸なのか、だから、判らない気もする。 「ふうん」  もう一度、彼はそう言った。相変らず、雑誌をパラパラとめくりながらだ。もう、子供の話をするのは止《や》めにしようかしら、そう思った。けれども心の片隅《かたすみ》では、聞いてみたい、彼はそうも考えているはずなのだ。だから、わざと冷静を装っている。私は続けることにした。 「ただ、下の子が通っている幼稚園になると、私より若い母親がね、結構、出てくるの」 「うれしい?」 「まさか。むしろ、嫌よ。長男の場合は、そりゃ、はっきり言って気恥しいけれど、でも、長女の場合は長女の場合で、今度は嫌なものよ、自分より若い母親が何人もいるというのは」  それは、本当だった。送り迎えをするのが幼稚園側の規定だった。長男が通っていた時も、それが私の日課となっていた。だから、ここ何年間かは、ウイークデーの朝はいつでも気が重い。  俊哉はトニック・ウォーターを飲んでいた。彼を横目で見ながら、「ねえ、私も飲むわよ」という感じの視線を送った。そうして、グラスを左手で持ち上げると、一口、喉《のど》に含んだ。 「でも、たしか、もうひとつ別の幼稚園へも通わせているんだろ、長女を」 「幼稚園ってわけじゃないわ。うーん、なんていうのかしら、小学校へ入るための進学塾みたいなものよ」私は、答えた。 「へえーっ、そんなものがあるんだ」 「あら、私だって通っていたわよ、幼稚園の頃。私が通ったのは、南青山にあったわ」  今は骨董《こつとう》通りと呼ばれている、紀ノ国屋の前から高樹町へと抜ける大通りを少しだけ中へ入ったところに進学塾はあった。毎週、土曜日の午後は母親と一緒に、そこへ出かけた。帰りに紀ノ国屋へ寄ってお買い物をすることの方が楽しみだった気もするのだけれど、でも、とにかく、自宅のあった目黒区の八雲で通っていた地元の幼稚園とは別に、小学校受験のための進学塾でも習っていた。 「僕なんて、幼稚園の頃は何してたのかなあ。駄菓子《だがし》屋さんへ行って、面子《めんこ》を買ったりしてたのかなあ」  そう言うと、トニック・ウォーターを飲んだ。いつもと変わらない感じで喋ってはいるのだけれど、でも、どこかに刺《とげ》がある。小学校も日本では公立だった彼は、子供の教育という面では私や進一郎とは違う考え方を持っている気がした。 「中学校へ入るための進学塾は、俊哉だって通ったんでしょ?」 「そりゃ、まあね。でも、幼稚園児が進学塾に通うのとは、全然、訳が違うよ。だって、片方は掛け算以上のことも出来る年齢なんだよ。で、もう片方は、まだひらがなだって、ろくすっぽ書けやしない年齢だよ」  そのことには、あまり反論出来ない。結局のところ、幼稚園児が進学塾に通って、大学までエスカレーター式の小学校へ入学するのは、親たちの意志でしかないからだ。本人が何も知らないうちに決ってしまう。もちろん、小学生が進学塾へ通うのだって、親たちの思惑が大きいのだろうけれど、ただ、まあ、一応は本人にも判断するだけの分別がついている気はするもの。 「わかっているわ」  そう答えながら、「でも」とも思った。親の勝手な願望を適《かな》えるために小さな子供が振り回されていてかわいそう、と考えるのは、これまた、大人の勝手な思い込みかもしれないのだ。不思議なことには、子供というのは大人以上に環境への適応能力があって、案外、進学塾へ通うことも楽しんでしまっているようにも感じられるのだ。  私の時を思い出してみても、そうだった気がする。土曜日の夕方、紀ノ国屋へ入ると、「梨絵香《りえか》が、ガラガラ押してあげる」商品をキャッシャーのところまで運ぶカートを自分で押した。いつでもだ。  近くに住む子たちと土曜日は遊べないかわりに、ガラガラを押すことが出来た。普通のスーパーには、まだ、プラスチック製のバスケットしかなかったのが当時だ。一人だけ、大人の世界を覗《のぞ》くことを許されたような、そんな気持がした記憶がある。 「同じなのかなあ、じゃあ」  幼稚園の時に子供を進学塾へ通わせることには、やっぱり抵抗があるという俊哉も、こうした思い出を話すと頷《うなず》いてくれる。きっと彼もロスアンゼルスから戻《もど》って来た後の四谷大塚や日進へ通っていた小学校時代、たとえば、友だち同士で進学塾からの帰り途《みち》に菓子パンを立ち食いした記憶があるのだろう。  一般のマンションとは違って、窓ガラスが天井まで続いている。私の住んでいるガーデンヒルズと同じだ。けれども、彼の部屋の方が、より外国的雰囲気だ。本来は日本へ駐在員として訪れている欧米系の外国人だけが住める賃貸マンションだからなのだろう。薄暗くなっていく東京湾が見える。  彼の部屋の調度品は、あまり生活の匂いがしない感じだった。もちろん、マンションのフィー同様、彼の勤める銀行の方で借りてくれたリース家具なのだろう。最近、東京には欧米からの駐在員を対象とした家具のリースを専門に行なう会社が幾つかあるのだという。  けれども、その調度品の選択は彼の趣味によるものだ。とかく、中途半端《はんぱ》に外国経験があると、チーク・ウッドやマホガニーの類を必要以上に並べたてる日本の家庭があるけれど、私はどうも好きになれない。  下手をすると、日本へやって来た欧米人たちがオリエンタル・テイストと称して、日本と中国とタイの調度品をごちゃ混ぜにして置いてるのと変わらないようなことになりそうなのだもの。その点、俊哉の部屋は違っていた。 「迎えに行くんでしょ、今日も」 「そうよ、だから、そろそろ」答えた。  いつでも、俊哉と会うのは、ウイークデーの午後だった。三田綱町のパークマンションの向い側に小学校受験のための進学塾がある。最初はマンションの小さな一室から始まったその進学塾は、合格率の高さを売り物にして急成長した。玄関の床が大理石で出来ている自前の建物は、子供たちから“三田の館《やかた》”と呼ばれている。  西麻布の幼稚園が終わると、一旦《いつたん》、家に戻って食事をする。進学塾は二時からだ。送り届けて俊哉のマンションへ行く。五時には迎えに行かないといけない。束《つか》の間《ま》の逢瀬《おうせ》。  彼の仕事は、変則的だ。日本の為替市場が開いているのは、もちろん、日中だ。普通のサラリーマンよりも早く、朝、七時前には大手町にあるビルの一室にいる。  けれども、ニューヨークの為替市場が開いているのは、日本時間で夜中だ。つなぎっ放しの電話回線を通じてニューヨークのディーラーと話をする。だから、彼は、週のうち三日が早朝出勤、そうして、残り二日は夕方からの出勤だった。 「今日みたいな日は、誰か他の人に迎えに行ってもらえばいいじゃない。知り合いのお母さんとかさ」  バス・ローブからスーツに着換えてリビングルームへ戻って来た彼は、ネクタイを締めながらそう言った。シングル・ノットだ。鋭角の二等辺三角形になる。セミ・ウインザー・ノットのせいか、正三角形のようなノットになる進一郎とは、その点でも違っていた。 「うん、まあね。でも、嫌《いや》なのよ。つまらないことで疑われるのが」 「お願いしてもいいかしら、明日のお迎え?」幼稚園も進学塾も子供同士が一緒の母親に頼むことは簡単だ。ただ、出来る限り、そうしたことは避けたかった。誰からも良く思われていたいのだ。 「物わかりのいいお嬢ちゃんですね」小さい頃《ころ》、人が私の母親にそう言うのを聞くのが、なによりも嬉《うれ》しかった。今は「進一郎さんも、いい奥様をお持ちで、なによりですわ」彼の母親に人が語るのを聞くのが、多少後ろめたさを含んだこそばゆさではあるけれど、やっぱり嬉しい。それが、私なのだ、そう思う。 「大変だね、結婚してると」  ネクタイを締め終わった俊哉は、そう言いながら肩をすくめてみせた。私は、黙って微笑《ほほえ》むことにした。もちろん、繊細なのが彼の良さだ。けれども、年契のディーラーとして働く彼には、こうした部分の私の目配りは、つまらぬことに思えるのだろうから。  アフリカ難民救済のためにと銘を打ったチャリティ・パーティで俊哉とは再会した。半年ほど前のことだ。夫の進一郎は、丸の内にオフィスがある商社の重機械部でクレーンを扱っている。ようやっとチーム・リーダーになれたばかりの、ごくごく普通のサラリーマンだ。けれども、父親が社交好きな事業家だったせいか、この手のパーティには私を引き連れて登場したがる。その日も、私の母に子供を預けて、二人でホテルの会場へ出かけた。  俊哉は、そこにいたのだ。一人、退屈そうに会場の片隅に立っていた。チンドン屋さんのような夫のタキシード姿とは違って、素敵だった。  抽選番号がピッタリだと各種の商品が当たるラッフルズ・チケットを四組二十枚も買い込んで、夢中になってステージ上のボードを見ている夫の傍《そば》をそっと離れた私は、俊哉からネーム・カードをもらった。二週間に一回のデートが始まったのは、それからだ。  多分、同い年の日本のサラリーマンより十倍は年収が多いだろう。知的な相場師である為替のディーラーは、アメリカでは弁護士と並んで、若くしてエスタブリッシュすることの可能な職業であるらしい。  能力があれば、年収はどんどん釣《つ》り上がる。高いランクの投資銀行へとスカウトもされる。けれども、為替相場の読みが外れてしまえば、翌年は契約を更改してもらうことなど出来ない。ランクの低い銀行へと移って、もちろん、年収も下がってしまうのだ。  男らしい職場ではあるけれど、でも、常に実績だけがすべての、気持の休まる時のない仕事。俊哉は、その緊張感から逃れるために私とデートを繰り返している。そうして私の方も、それが何のチャリティであろうと一向にお構いなく、パーティとあればいつでも出かけたがる進一郎との間の満たされない部分を埋められたらと思って、伊皿子坂にある彼の部屋へやって来る。  お互い、安らぎを求めている。ただ、独身で、しかも一匹狼《いつぴきおおかみ》的な職業に就いている彼とは違って、小さな時から人に眉《まゆ》をしかめられる選択を決してすることのなかった、そうして、今は二児の母となっている私とは、当然、違うところが出てはくる。 「じゃあ、私、先に出るわね。電話は明日の昼前に、こちらからするわ」  彼の部屋を出た。人が誰も通りを歩いていないことを確かめてから、ロビーのドアを押した。車は高松宮邸の裏に停《と》めてあるのだ。もう、大分、暗くなっていた。“三田の館”までは五分もあれば着く。  母親の顔に戻らなくてはいけない。そうして、家に帰れば、妻の顔にもだ。別にそんなことをしたからって、それで貞淑そうな表情になるわけでもないのに、両手で頬《ほお》を押さえてみた。  カラスが鳴いている。高輪図書館の傍の雑木林のあたりで鳴いているのだ。昔、俊哉と一緒に図書館から手をつないで帰った時にも、カラスが鳴いていた。変わらない。  ——ただ、あの頃は、いつでも二人、横に並んで歩いていたわ。  同じようにカラスは鳴いているのに、今は、人の目を気にして別々に彼の部屋から出る。  ——仕方ないのだろうけれど、でも、やっぱりちょっとね。  車のドアにキーを差し込みながら、思った。 軽井沢 千ヶ滝西区 「お久し振りですね、小早川さん」  メニューを私たちに配りながら、関口さんが話しかけてきた。榮林は東京の赤坂に本店がある中華料理のお店。毎年、四月末から十月の半ばまで、旧軽井沢で営業している。多くの軽井沢のお店は夏場だけだから、それに比べると随分長い。 「今晩は」  メニューを受け取ると、そう答えた。 「今年は、今日が初めてでいらっしゃいます?」 「ええ」 「いつもは、お若い方たちばかりでお出《い》ででしたのに。御家族のみなさまですか?」  思わず、ギクッとした。私が結婚したことを、まだ、関口さんは知らない。そのことを早く、伝えておいた方がいいのかもしれない。 「実は、姓が変わったの。福井です。だから、こちらが私の主人、そして、彼の方の両親」  端正な顔立ちをした関口さんは、三十代の前半。今の社長の長男にあたる。行く行くは、お店を継ぐことになるのだろう。 「ちっとも存じ上げませんでした。それは、よかった。お目出とうございます」  喜んでくれた。けれども、一瞬、意外そうな顔をする。それは、仕方ないことなのだろう。なぜって、彼は私のことをよく知っているのだもの。まだ、大学生になる前の時からだ。あの頃《ころ》、私は色の真っ黒な、エンジェル・フライト少女だった。 「理江子ちゃん、大きくなりました?」  かわいらしい感じの奥さま、そして、女のお子さんと一緒に、支店がオープンしている間はずうっと軽井沢にやって来ている。去年の夏はよちよち歩きするのが精一杯だったクリクリとした目の理江子ちゃんも、もう、一人でトコトコ歩けるようになったに違いない。私のことから話題をそらそうと考えて、尋ねてみた。 「女の子なのに、いたずらで。どっちに似たのかなあ。困ってます」  私の目を見ながら、ニッコリする。「いつもは、お若い方たちばかりでお出ででしたのに」なんて口を滑らしてしまったことを、「しまった」と彼の方でも思っているのかしら。ワイシャツのポケットから名刺を取り出すと、「関口でございます。よろしくお願いいたします」英夫さんとお父さまに、それぞれ、手渡した。 「これはどうも。福井です」  お父さまが、ごあいさつをなさる。イスの両肘《りようひじ》に手をついて、少し腰を上げながらだ。英夫さんは坐《すわ》ったまま、軽く頭を下げた。 「何か、息子の家内が、お世話になっていたみたいで」  続けて、そうおっしゃる。触れて欲しくないところへと、話が逆戻《ぎやくもど》りしてしまう。私も関口さんも、お互い、気を利《き》かせて話題を変えたというのに。もっとも、お父さまにしてみたら、そこが逆に知りたいところなのだろう。 「いえ、学生時代、私どもの店に学校のお友だちと、時々、お出でになっていらっしゃったものですから」 「なるほど。聡子《さとこ》さんは、テニスのクラブに入っていらしたものね。それで、軽井沢へはよく来ていたのかな」 「あ、はい」  どうやら、お父さまは塩沢湖の辺りで合宿があった時、榮林までお出かけしに来ていたのだろうとお考えになったみたいだ。たしかに、そういうこともあった。もちろん、私の父や母、それに弟と一緒に、ってこともあった。  けれどもそれは、関口さんが私の父や母の顔を覚えていなかったことからもわかるように、ほんの数えるほどの回数でしかない。大部分は、高校生の頃からずうっと遊んでいた子たちと一緒にだった。 「私の家内が、小早川さん、あ、いや、福井さんと同じ大学だったこともありまして、それで、みなさん、大勢で押し掛けて来て下さっていたんですよ」  小田急沿線にある私の通っていた大学は、町田のひとつ手前だった。広大な敷地の中に、校舎が点在している。農業を専攻する人たちもいる。牛や羊を飼っているのだ。田植えの実習は、新入生全員に課せられる。お坊っちゃん、お嬢ちゃん学校の代表といわれているけれど、意外な面もあるのだった。  関口さんの奥さまが、私と同じ外国語学科の出身だったことは本当だ。先輩にあたる。けれども、直接、知っていたわけじゃあない。軽井沢の榮林へ来ていたのは、まだ、彼が独身の頃からなのだもの。だから、今の彼の発言は、福井家の人たちを安心させるためのリップ・サービス。 「どうぞ、ごゆっくり。御注文の品がお決まりになりましたら、お声をかけて下さい」  これ以上、話しているとまずいかな、と思ったのかもしれない。「とりあえず、只今《ただいま》、ビールをお持ちしますから」そう言いながら、関口さんは厨房《ちゆうぼう》の方へと向かう。私はテーブルの上に置いたままになっていたメニューを手に取った。 「本気で、結婚するのかい?」  仁《ひとし》は、深い溜《た》め息をついた。 「なんでだよ。だって、もう、ずうっと付き合って来てるんじゃないか。四年だよ、四年間」  左手の指を、ギュッと握り締めている。眉毛《まゆげ》と眉毛の間にしわを寄せて。こんなに険しい表情の彼を見るのは、初めてだった。 「俺《おれ》だって、ちゃあんと考えていたじゃない、聡子のこと。真剣にさ、そうだよ、真剣に考えていたのに」  西麻布のキャンティッシモは、まだ、あの頃、オープンしたばかりだった。外苑《がいえん》西通りを霞町《かすみちよう》交差点から広尾方向へと少し行った左手のビルにある。イタリア語でバールと呼ばれる、コーヒーハウスとバーの中間みたいな存在。奥の方にあるイタリアン・レストラン、キャンティのウエイティング・バーとしての役目も果していた。  地下にある。けれども、入り口側の壁は全面、ガラス張りだ。そうして、丈の低い観葉植物が、道路からの階段横に植えられている。大分、弱くなった晩秋の午後の日射《ひざ》しが、観葉植物に当たっていた。その日射しの跳ね返りが、私たちの前に置かれたテーブルの上を、いくらか明るくしている。  仁は、私よりも一つ年上。けれども、同じ大学の理財科を卒業したのは、二年も後だった。つまり、高校と大学で表と裏、二回やってる学年が三つもあるということ。 「ねえ。どうしてなんだい? 黙っていたんじゃ、わからないじゃないか」  お店の中には、ウィリアム・アッカーマンの音楽が流れていた。ウィンダムヒルという環境音楽っぽいウエストコーストのレーベルから出ているアルバム。数年前までテクノがかっていた、所謂《いわゆる》、性格の暗い日本のミュージシャンたちがお気に入りの環境音楽とは、趣きを異にする。誰《だれ》でも入っていけるメロディアスな音。でも、哀《かな》しい。 「だから、自分でもね、まだ、はっきりとわからないの。どうしてなのか、ってこと。でも、決めてしまったのは、本当だから」  英夫さんとの婚約を伝えると、仁は体を乗り出して私に問いかけるような感じになった。 「そりゃ、仕様もない奴《やつ》だよ、確かにさ。でも、その俺のこと、好きだったの、聡子じゃないか」  全人教育をモットーとするその学園に小学校からずうっと通っていた私とは違って、仁は高校からだった。日吉の方にある学校をおっぽり出されてしまった彼は学園長に親が頼み込んで入れてもらったのだ。  どうやら、全人教育という代物《しろもの》は、日本ではなかなか根付かないらしい。他《ほか》にも小田急や井の頭沿線に、同じような建学の精神を持つ学校があった。けれども、いずれの学校も有名人や芸能人、それに、会社を経営しているような人たちの子弟ばかりだ。建学の精神がどうのこうのというよりは、むしろ、上まで苦労せずエスカレーター式に進学出来ることが魅力で入ってきている感じ。  おまけに私の通っていた学園は、成績が悪くて進級出来なかったり、あるいは、何か問題を起こして退学になってしまった子たちが、他の私立学校から移ってくる率も、結構、高かった。なんでも、学園の理事を知っている国会議員に頼み込めば、簡単に入ることが出来るというウワサだった。  もちろん、本当のところはわからない。けれども、二代目になる学園長は、自分のお気に入りの女子学生を学校案内のパンフレットに登場させたり、卒業後、秘書として採用していたくらいだから、うなずけてしまうお話ではあった。  仁と付き合い出したのは、私が大学二年生の時だ。その頃、既に彼は二学年ダブッていて、大学一年生の裏側をやっていた。けれども、お互い知り合いになったのは、そのもっと前から。高校時代、大学へ通っている先輩たちに連れられてル・キャステルやビブロスへお出かけしていた。その頃からだ。  ル・キャステルは、スクウェア・ビルの地下にあったディスコ。今のネオ・ジャポネスクよりも数倍は華やかな雰囲気《ふんいき》の光景が、毎晩、繰り広げられていた。外人モデルや芸能人、各国の大使館員、それに、お金だけは沢山持っていそうだけれど、でも、一体、何をして稼《かせ》いでいるのか、皆目、見当もつかない得体の知れない日本人。大人の世界を、覗《のぞ》き見しているような感じだった。  ビブロスは、赤坂のみすじ通りに今でもあるディスコ。もはや、米兵と彼らがお目当ての女の子たちしかいないさびれたお店になってしまったらしいけれど、昔は違った。遊び人の男の子は、競ってビブロスへ出かけて行ったものだ。お店の中には、思わず彼らが声をかけたくなるような、二十代半ば以上の魅力的な女性がワンサといた。同い年くらいの女の子なら、極端な話、黙っていても向こうから付いてくるような恵まれた生活を送っていた彼らは、だからこそ、逆にビブロスを目差した。  ビブロスは、男性同士では入場出来なかった。いかめしい体つきの従業員が一人、いつでも入り口の外に立っていて、チェックしている。仕方がないから、彼らは赤坂の街を歩いている別段、どうってこともないような女の子を一人か二人、「ねえ、入場料出して上げるから、一緒に入ってくれない?」と頼み込んでは、潜入に成功していた。  一人でも女性がいれば、何人でも男性は入場出来る。仮に同伴の女性がたいしたことないのだったら、中に入った後は知らんぷりをしていればいいだけの話だ。翌日の休み時間に多少の誇張を加えて戦果をクラスルームで報告する男の子の表情は、活《い》き活きしていた。それは、とても授業中にはお目にかかることの出来ない顔だった。 「一緒に入場するだけだぜ。中では別行動だからな」そう言いながら、男の子たちは、私たち女の子をビブロスへ連れて行ってくれた。女の子は女の子で、結構、楽しむことが出来たのだ。  今、マハラジャのようなディスコへ行くと、ワールドのディマジオやライカの洋服を着てローレックスやカルティエの時計をした、まっとうでないお仕事で生活している人たちが、奥の方の席に坐《すわ》っている。彼らと同じ世界の人たちが、その頃のビブロスにもいた。私たちは、そういうおじさんたちの席へ呼ばれては、フルーツを御馳走《ごちそう》になったりした。  変に要領の悪い、真面目《まじめ》なところがあるような女の子だったりすると、その手の人と個人的に付き合い出して、泥沼《どろぬま》にはまり込んでいってしまうこともあった。けれども、お店の中の知り合いでいるだけだったら、平気だ。私たちの知らない世界の話を、一杯、聞かせてくれた。  ビブロスに飽きると外へ出て、向い側にあるハンダスのハンバーガー・ショップを覗いてみた。深夜のハンダスは、人種の坩堝《るつぼ》だ。腹ごしらえをしている、仕事を終えたばかりのバーテンダーらしき日本人がいる。土木工学や電子工学を学ぶために留学している傍《かたわ》ら、皿洗《さらあら》いのアルバイトをしているのだろうか、中近東の顔をした若者がいる。そして、基地から出て来た黒人兵。私たちは、フローズン・ヨーグルトを舐《な》めながら、そうした光景の中にいた。  もちろん、次の日の朝から授業があるウイークデーにも、お出かけしていた。そういう時には、午後の三時頃、学校が終わると一目散、北品川の御殿山にあった私のおウチへ駆け戻った。ちゃあんと夕ご飯を家族と一緒に食べて、お部屋でお勉強をする。  家族が寝静まった午前零時過ぎ、こっそりと抜け出してタクシーに乗るのだ。落ち合う場所は、予《あらかじ》め、決めてあった。そうして、明け方、家族が起きないうちに、再びお部屋へ戻る。何くわぬ顔で朝ご飯を食べて、高校へ出かけた。  といっても、ほとんど眠っていないのだから、授業中、どんなに堪《こら》えても瞼《まぶた》が閉じてきてしまう。仕方ないから、気分が悪いことにして保健室のベッドでお昼寝をするのだ。いつでも、気分が悪くて保健室のベッドで寝ている常連がいた。まだ、その頃は、単なる遊び友だちでしかなかった仁も、その中の一人。  昔、結構、悪い子を私はしていた。 「聡子さん、私たちよりも顔じゃないの」  クラゲの冷菜を食べながら、お父さまがおっしゃった。 「とんでもない、お父さま。たまたま、関口さんの奥さまを存じ上げていただけです」  さきほど彼がついてくれたウソと同じことを、また、私も言ってしまった。少し、頬《ほお》が強《こわ》ばってしまう。 「でも、私たちだって、軽井沢へ来た時には、毎年、必ず食べに来ていますもの。なのに、関口さん、ご存知なかったじゃありませんか。やっぱり、あなた、顔なんですよ」  晩婚だったという英夫さんのお父さまは、もう、七十近い。二十六歳になったばかりの私は、下手をすると、一番上の孫という感じだ。そのせいか、言い含められるような喋《しやべ》り方をされる。  あるいは、英夫さん同様、理科系の方だからなのかもしれない。やはり、理科系の、それも生化学などというジャンルの勉強をされて来た方には、一種独特の優しさがあるみたい。  福井家は製薬会社を経営している。昭和通りから少し中央通り側に入った日本橋本町に本社があった。研究所や工場の人たちを含めても、社員は全部で三百人に満たない。決して、大きな規模の製薬会社ではない。  けれども、このところ、ガンの末期症状患者の痛みを和らげる新しい薬を開発したことで注目されていた。業績は、かなり自慢出来るものだ。通常、製薬会社は、医者の間を回るプロパーと呼ばれる営業マンを大勢、抱えている。そうした販売面を別の製薬会社にまかせて、研究開発と製造だけに専念して来たのも、好調である理由のひとつかもしれない。  あわびのクリーム煮が運ばれて来た。 「いえ、私が分けますから」  金縁の眼鏡をかけたお母さまが、スプーンを右手にフォークを左手に持って、小皿に分けようとされる。慌《あわ》ててそう言うと、スプーンとフォークを私の方に回していただいた。 「あら、お上手じゃない、聡子さん」  二本とも右手に持ってサーバーの要領で分け始めると、誉《ほ》められてしまった。 「今度から、英夫と二人で馬込のおウチへ遊びにいらした時には、あなたにやっていただくことにしようかしら」 「はい。もちろん、喜んで」  そうお答えしながら、再び、仁のことを思い出してしまった。  サーバーの使い方を私に教えてくれたのは、彼だった。アルバイトでウェイターをやっていたことがあって、それで、マスターしたらしい。 「違う、違う。親指と中指を、もっと、利用しないと駄目《だめ》だよ」  いつでも中華料理店へ行くと、コーチしてくれた。大きなボールに入ったシェフ・サラダをホテルのコーヒーハウスで頼んだ時にも、二つのお皿に綺麗《きれい》に盛り分けるテクニックを実演してみせてくれた。だから皮肉なことには、今、英夫さんのお母さまに誉めていただけたのは仁のお陰。 「聡子さんは、軽井沢の地理にも詳しくてらっしゃるのよ。お母さま、今日、びっくりしてしまいましたわ」 「そんな。昔、毎年、来ていたものですから、それで」 「ねえ、詳しいわよね、英夫」 「うん。たいしたものだと思うよ。僕《ぼく》やお父さんより、よっぽど、細い道、知っているもの」  それまで黙っていた英夫さんが、初めて話した。無口な人なのだ。開成高校から東大の理学部。ル・キャステルやビブロスに来ていた麻布の遊び人とは大違いだ。 「では、あしたでも、聡子さんに案内していただこうかな」  今日はお部屋で本を読んでいらしたお父さまは、そう言われる。  福井家の別荘は千ヶ滝西区にあった。五百坪近い平坦《へいたん》な敷地。個人の別荘としては広い方だろう。千ヶ滝西区でも、平坦な場所はそのごく一部分に過ぎない。残りの大部分は、別荘というよりも、むしろ、山荘と呼んだ方がふさわしいような傾斜地になる。千ヶ滝東区ともなると、ほとんどがそうだ。  小早川家の別荘は南原にあった。軽井沢と中軽井沢の、ちょうど中間あたり。信越線と軽井沢バイパスの間にあたる。同じように平坦な場所だ。三年前、東京銀行に勤めていた私の父親が日本自動車工業会のワシントン事務所長となって、母と一緒に赴任してしまうまでは毎年、夏になると家族で出かけて来ていた。旧制帝大の法学部長を務めたこともある祖父の代からの別荘。  軽井沢には、幾つか良いとされている別荘地区がある。もちろん、旧軽井沢、三笠《みかさ》、矢ヶ崎といった古くからの別荘地は歴史がある。けれども難を言えば、大分、苔《こけ》が生《む》してきていて、だから、湿っぽい。鹿島《かじま》ノ森、泉の里も、いい別荘地だ。そうして、南原や千ヶ滝西区の一部、名門コースの軽井沢ゴルフ倶楽部《くらぶ》がある南ヶ丘もだ。いずれも、平坦で地味がいい。それに比べると、南軽井沢や追分《おいわけ》のあたりは浅間山の火山灰や軽石ばかりで地表が覆《おお》われているせいか、夏場、かなり蒸し暑くなるらしかった。 「昼間、英夫の運転でツルヤまでお買物に行きましたでしょ。その後、グルグルと回ってみたんですの」  ツルヤは、中軽井沢にある大きなスーパーだった。夏になると、旧軽に紀ノ国屋もオープンする。東京から運ばれてくるパンは、種類が豊富だ。ライ・ブレッドもある。けれども、生鮮食品も保存食品も、それに雑貨類も、全体の品揃《しなぞろ》えが少ない。毎年、別荘で夏を過ごす人たちは、地元のツルヤでまとめ買いをすることになる。 「とにかく、よくご存知なのよ。『お母さま、このおウチは、実業家の誰々さん。あのおウチは、劇作家の誰々さんのよ』って、それは、まあ、驚いてしまいますわ」 「ほう、それは頼もしい」 「学生だった頃《ころ》、両親と一緒にお散歩している時、『ここはね』って教えてくれたのを覚えていただけです。恥しいですわよね、なんだか、スノッビッシュで」  他人の家を一杯、知っているなんてことで誉められても、あまり胸を張れない。けれども、よおく考えてみれば、およそ軽井沢に別荘を持っているなどという人は、皆、スノッバリーで、おまけに覗き見趣味が、人一倍強いはずなのだ。そう思えば、少しは気持が楽になる。 「東京では、私たちが馬込、英夫と聡子さんたちが代々木上原。ちょっぴり離れていますけれど。でも、軽井沢では一緒ですものね。今年から、夏の楽しさが倍になったような気分。ねえ、聡子さん?」  お母さまは、なぜか御機嫌《ごきげん》だった。 「私の両親がワシントンから帰って来たら、もっと楽しくなると思います。それに、金沢にいる私の弟も」  弟の正也は国立大学の医学部に在学中だった。私とはまったく正反対の性格。むしろ、英夫さんに近い学生生活を送っているのだろう。夏休みは金沢でアルバイトをすると、この間の電話で言っていた。彼には地方都市での生活の方が、性に合っているみたい。 「そうだね、正也君も呼んで。それに、お父さんたちも、来年の夏までには日本へ戻《もど》って来られるでしょう?」  父は、一年以内には東京にある日本自動車工業会の事務所に勤務することとなりそうだった。私のお見合い、結納《ゆいのう》、結婚式と、その度にワシントンから慌《あわただ》しく帰ってきていた両親も、やっとこれで落着ける。 「本当に来年の軽井沢は、楽しくなりそう」  お母さまは、左手で眼鏡の位置を少し上へと持ち上げながら、そうおっしゃる。傍《そば》から誰か他人が見ていたら、それは、仲の良い老夫婦と、まだ、結婚して間もない息子夫婦が、幸わせそうに晩餐《ばんさん》を行なっているのだと思うに違いない。けれども私は、「ええ」とニッコリ微笑《ほほえ》みながら、昼間、バッタリ、見かけてしまった仁のことを考え続けていた。 「ねえ」  そう言いながら、英夫さんの右手の上に、そっと私の左手を乗せてみた。早くも目を閉じて眠ろうとしていた彼は、頭を横に動かすと私の方を見る。 「なあに」  眼鏡を外した彼の目は、ちょっぴり、トローンとしていた。優しそうな目。 「ううん、何でもない」 「そう? なら、いいけれど」  本当は「抱いて欲しい」って伝えたかった。なぜって、やっと慣れた今の生活に変化が起きてしまうのが恐かったから。あんなに遊んでいた私がこんなに真面目になったのは、英夫さんと知り合ったからこそだ。 「どうしてなんだよ。そりゃあ俺《おれ》は、たしかに、オヤジの正妻との間に生まれた子供じゃないよ。でも、こうして中古の外車を扱う商売を何とか軌道に乗せようと思って、毎日、頑張《がんば》ってるじゃない。イタリアとスウェーデンのグリーティング・カードを輸入する商売だって、大分、いい感じになってきたじゃない」  キャンティッシモで、仁が熱っぽく私に語りかけて来た言葉を、今でもはっきり覚えている。 「はっきり言うよ、もちろん、元手はオヤジが出してくれた。その点、まだ、甘えてるのかもしれないや。だけど、俺、今の仕事に賭《か》けてるんだ。カッコいいこと言っちゃうとね」  けれどもこの私は、その仁の未来に賭けることなく終わってしまった。今でもいい男の子だったと思う。言葉は乱暴で、それに、女の子にもだらしなかったけれど、性格だけは人一倍、繊細。まるで、女の子以上にナイーブだった。 「ここのおウチが、ほら、有名な政治家の」  助手席に坐っていた私は、後部座席のお母さまに説明しようとして、思わず、ハッと息を飲んだ。大きな洋犬を連れた仁が走りながら、門のところから出て来たのだった。私たちと同じように、父親の別荘に泊まりに来ていたのだ。去年の秋よりも一段と精悍《せいかん》そうな表情をしている。それは、仕事が順調であろうことを、何よりも物語っていた。  誰《だれ》か、新しい女の子と一緒なのかしら、と思った。それだったら、いくらか、気持が楽になる。けれども、瞬間、目を走らせて確認した別荘の建物はどの窓も閉っていて、中に人がいる気配はなかった。学生時代、仁と二人で、あるいは友だち大勢とで、数えきれないくらいに何回も彼の父親の別荘にやって来ていた私は、住み込みの管理人さんがほんの五十メートル程離れた別棟《べつむね》に住んでいることを知っていた。毛足の長い、仁が連れていた洋犬も、その昔からのお馴染《なじ》みだ。  私たちが乗っていたBMWの745iは、ウインドーにフィルムが貼《は》ってあった。多分、仁は私のことに気がつかなかったに違いない。  ドアーミラーの中の彼を必死に追いながら、 「大学が一緒だった息子さんがいたんです」  まるで、なにもなかったかのように私は話を続けた。  英夫さんや彼の両親の前で、私はいい子をして来た。だから、きっと好かれている。そうして、このまま、いい子を演じ続ける方が、誰にとっても幸わせなのだ、ということも分かり切ってる。  なのに、今でも少しどきどきしている。それは、バレてしまう怖さから来るものではなかった。もしも仁が私へもう一度、モーションをかけて来たら、脆《もろ》くも崩れていってしまいそうな気がしたからだ。  どこからもモーションというベクトルのエネルギーが押し寄せて来ないから、続いているのかも知れない今の私の生活。だから、本当は英夫さんに抱いて欲しかった。  けれども、淡白な彼に私の方から求めることは、もう、とっくの昔に諦《あきら》めてしまっていたことだった。仁にはごくごく自然に求めていた私が、最早、その自然な私からのモーションの感じを忘れかけ始めている。「ねえ」と一言、つぶやくことにさえだ。  英夫さんは、再び、目を閉じていた。静かな寝息を立てている。「チュッ」そっと、彼のおでこにキスをする。それは、明日《あした》も明後日《あさつて》も、そして、その次の日も、今日と同じ生活が訪れてくれることを願う、今の私に出来る精一杯のことのような気がした。  ベッドの脇《わき》にある、ダウンライトのコントローラースイッチをオフにした。部屋の中は真っ暗になった。 「おやすみなさい」  目を開けたまま、天井に向かって小さな声であいさつをする。遠くでピーッ、夜行列車が警笛を鳴らす音が微《かす》かに聞えてきた。 台東区 浅草柳橋  料亭《りようてい》の方へ出かける支度をしていると、謙太郎《けんたろう》が帰って来た。小学校二年になる息子だ。地元の学校へ通っている。少年野球のチームにも入っていた。 「ママ、お腹《なか》が空《す》いちゃったよ」  ランドセルを背負ったまま、彼は大きな声を出した。片方の手には体操着の入った袋を下げていた。私が作ってあげた布《きれ》の袋だ。クマのアップリケが縫いつけてある。  本当はクマのプーさんをイメージしてチャコを引いたつもりだったのに、出来上がったのはやたらと目が大きい、似ても似つかぬクマだった。もっとも、どこか哀愁があってかわいらしい。「僕《ぼく》のクマしゃん」彼も気に入ってくれた。 「シュークリームを用意してありますよ」 「わぁい、やったあ」  私が焼いたシュークリームを四つ、ダイニングルームのテーブルの上にラップをして置いてあった。 「今日は、少し遅かったのね」  もう、四時近かった。いつもならば、二時過ぎには戻《もど》って来ている。 「だって、五時間目まである日だもん、今日は」 「まあ、そうだったわね。忘れていたわ、ママ」  そう言いながら、彼の頭を撫《な》でた。週に二日、二時三十分まで授業があるのだった。その他の日は四時間目までだ。給食とお掃除を済ませても、一時四十分には終わる。 「でも、それにしても、少し遅いぞ、謙太郎クン」  長男のことは、謙太郎と呼んだり謙太郎クン、謙ちゃん。その時々で違った。今年から幼稚園の明美《あけみ》のことは、ミーコ。いつでもだった。クリクリとした目の、元気のいい長女だ。少し離れたところにあるカソリック教会の幼稚園へ、通園バスで通っていた。 「飼育委員会の当番だったんだ。教室にいる金魚の水を替えて、それから、ウサギの餌《えさ》もあげて来たんだよ」  言い終わると、「エヘン」という感じで胸を張った。口をキリリと結んで、顎《あご》を突き出すようにした。父親似だ。 「ウサギがね、子供を産んだんだ。まだ、こんなに小さくて、かっわいいよお」  両手を丸めるようにして示してくれた。動物好きの彼は、飼育係だった。保健部や放送部、図書委員会といったところに入るよりも、合っているみたいだった。 「だから、お母さんウサギに野菜を一杯、あげちゃった」 「よかったわね。さ、じゃあ、お手々を綺麗《きれい》に洗って、食べなさい」  そう言うと、彼はランドセルとクマの袋を玄関を上がったところに放りっぱなしにして、洗面所の方へと駆け出そうとした。 「ほら、ほら、駄目《だめ》ですよ、謙太郎クン。ちゃあんと自分のお部屋へ持って行かなくちゃ。手を洗う時には、靴下《くつした》を脱いでお風呂場《ふろば》で足も洗うようにね」  母親としての発言をした。本当は、早く料亭の方へ行かなくてはいけない時刻だ。お客様を迎える準備が出来ているかどうか、点検しなくてはいけない。けれども、彼が戻って来ておやつを食べ始めるまでは待っていてあげようと思った。  キッチンへ行くと冷蔵庫を開けて、紙パックに入った牛乳を取り出した。比較的大きなグラスに注《つ》いだ。シュークリームの載ったお皿《さら》にかけてあったラップを外した。そうして、横に置いてあった謙太郎への置き手紙を手に取った。  そのまま、捨ててしまおうかと思った。でも、「ミルクと一緒にお食べなさい。その前に、手は洗いましたか?」といったような内容の文章の横に描《か》いたフェリックスの絵が自分でも気に入っていて、だから、もう一度、テーブルの上に置き直した。 「ママ、ミーコはどうしたの?」  戻って来た謙太郎は、テーブルの上のシュークリームを目をキラキラさせて眺《なが》めながら、けれどもお兄さん役を演じた。 「志乃《しの》ちゃんのおウチへ遊びに行ってますよ」  近くに住む、同じ幼稚園の友だちだった。おもちゃ問屋さん。浅草橋には人形やおもちゃを扱う問屋が多かった。 「今日は、これからどうするの?」  尋ねた。 「神社へ遊びに行くよ」 「鳥越の?」 「うん」  歩いて十分くらいのところに、鳥越神社があった。謙太郎たちは、その境内で遊ぶことが多かった。  鳥越神社は、都内でも有数の神社だ。お祭りの時には、いくつもの威勢のいいお神輿《みこし》が繰り出す。同じ町内には、おかず横丁と呼ばれる商店街もあった。一方通行の細い道の両側に、天麩羅《てんぷら》やコロッケ、サラダ、あるいは、おでんの材料などを売る店が立ち並ぶ。昔ながらの下町気分だった。 「ママは、今日は料亭《おみせ》の方へずうっと出ていますから。夕ご飯は、おウチじゃなくて料亭《おみせ》の方で食べるのよ」  いつもは、料亭から少し離れたところにあるこの家で、子供と一緒に私の作った夕ご飯を食べるようにしていた。料亭の板場の横にある小さな部屋あたりで食べさせるのも、考えられないわけではなかった。けれども、子供の食事はなるべく母親の作ったものを家で、というのが私の方針だった。それは、主人も同じだった。  朝、子供を送り出した後、料亭の方へ出かける。毎朝、交代で出て来る板場の人間と二人、四時半起きして魚河岸《うおがし》まで出かけていた主人は、もうその時には戻ってきて、その日の献立を指示している。  私は、玄関やお部屋の掃除を住み込みのおじさんと一緒に済ませる。そうして一旦《いつたん》、家に戻って着物に着替える。昼間のお客様を迎えるのだ。お客様のない日は、そのまま、簡単な昼食を摂って家に戻った。  夕方は、お客様を迎える前の点検だけをする。主人の母親は三年前に亡《な》くなっていた。けれども、同居している主人の父親は、魚河岸へこそ行かなくなったものの健在だった。毎朝、私と一緒に家を出て料亭へ顔を出す。午後からは、長唄《ながうた》や常磐《ときわ》津《づ》の会合へ出かけた。 「何があるの、ママ?」  用意しておいたシュークリームは、二つがカスタードクリーム、後の二つが生クリームだった。謙太郎は、生クリームの入ったシュークリームをまず手に取ると、私の描いたフェリックスを左手の人差し指と中指で撫で撫でしながら尋ねた。 「今日はね、ママの学校時代のお友だちが遊びに来るのよ。料亭《おみせ》でお食事をして、それから、屋形船《おふね》に乗るの」  高校時代の友だちが三十人ばかり集まることになっていた。小学校から、ずうっと一緒だった人たちだ。年に一度の集まりを、今年は私のところで開いてくれることになった。 「ふうん、それで、ママ、久しぶりにウキウキしているんだ」  口をモグモグさせながら言った。私は、彼のその言葉には何も答えず、ただニッコリと微笑《ほほえ》み返すと、 「お出かけする時には、台所の方のドアから出るのよ。ちゃあんと、カギをかけるようにね、謙太郎クン」  念を押した。  萩原《はぎわら》の家に嫁いだのは、大学を出た年の秋だ。直紀は大学の先輩だった。同時期にキャンパスで学んだことはない。五歳年上。水上スキー部のOBだった。  小田急線沿いの世田谷区の外れにキャンパスがあった。けれども、練習場は江戸川区だった。葛西《かさい》まで出かけては、旧江戸川の河口付近で行なった。卒業後、都内のホテルの料飲部門でウェイターとして修業をしていた直紀は、仕事の合い間を縫っては指導に訪れた。次第に親しくなった。  私の父は、医者だった。品川区にある大きな大学病院の放射線科で部長を務めていた。といっても、所詮《しよせん》はサラリーマンだ。私と弟を私立の学校に出して、生活はつましいものだった。家は荻窪《おぎくぼ》にあった。  小学校から高校まで、六本木にある女子校に通った。プロテスタントの学校だった。そうして、弟は池尻《いけじり》大橋にある、医者の子弟が多いことで知られる中高一貫教育の男子校へ当時は通っていた。  直紀は長男だった。妹さんと弟さんが一人ずついた。彼より二歳年下の妹さんは、短大を卒業して既に嫁いでいた。弟さんは、池袋にある大学の学生だった。 「ウワーッ、いいじゃない。将来は料亭の女将《おかみ》というわけね、実也子《みやこ》」  直紀と結婚することを知った友だちは、皆、一様にそう言った。柳橋で代々続く料亭の女将。やはり、魅力的に映るのだろうか。 「そんなことないわよ。斜陽産業、斜陽産業。大変なだけだと思うわ」  その度に答えた。本当だった。たとえば、十二畳以上もある部屋に、極端な時は二人のお客様ということだってあるのだ。そうして、レストランとは違って、テーブルが二回転、三回転することもない。昼一回、夜一回。それ以上は望めなかった。  柳橋は、新橋、赤坂、神楽《かぐら》坂《ざか》、浅草、そして今の人形町にあたる芳町《よしちよう》と並んで、かつては花柳界の街だった。六花界と呼ばれたらしい。けれども、寂《さび》れてしまった。  隅田《すみだ》川の堤防が出来てしまったのが原因だった。それまではお部屋から川を眺めることが出来たのに、殺風景なコンクリートの壁しか見えなくなった。もちろん、植え込みを作ったりはした。けれども、隅田川を行き交う船を見ながら食事を楽しむことが出来たのと比べると、どこか物足りなかったのだろう。客足は遠のいた。  川の水の匂《にお》いが臭くなったのも、もうひとつの原因だったのかも知れない。所謂《いわゆる》、公害ブームの頃だった。その後、隅田川は随分と綺麗になった。匂いもなくなった。それが証拠に、今日だって屋形船に乗るのだもの。  けれども、一度出来上がってしまったイメージは、なかなか元に戻すのが難しい。その昔は随分とあった料亭も、今では柳橋に三軒だけとなってしまった。そうして、板前を何人も置いて自分のところで料理を作っているのは、私たちのところだけだ。  もちろん、そうした傾向は柳橋だけに限ったことではない。まだ、何軒もの料亭がある神楽坂でも、独自に板前を置いているのは二軒だけだ。後は、こうした料亭や、あるいは、専門の仕出し屋から取っているのだ。 「そうなのかしら。でも、やっぱりいいわよ。なんてったって、言葉の響きがいいわ。料亭の女将。うーん、素敵よ」  お見合いで知り合った公認会計士と、私と同じように卒業と同時に結婚することになっていた澄江は、そう言った。現代アメリカ文学のゼミナールが一緒だった。 「そんなこと、絶対にないわ。彼のお母様から話を聞けば聞くほど、私、憂鬱《ゆううつ》になってきてしまうの。大変なんだなあって」  真剣な顔付きで答えた。けれども、どこか心の隅《すみ》では、「うん、そうなのよね。響きに憧《あこが》れちゃうのよね」そうも思っていた気はする。 「実也子、本当に大丈夫?」  母は幾度も私に問い質《ただ》した。ごく平凡な勤務医の妻として暮らしてきた母には、心配だったのだろう。その気持が痛いほど良くわかった。だから、いつでも、 「はい、はい、平気よ」  明るい声でそう言うと、自分の部屋に用事があるような振りをして、その場から立ち去った。 “斜陽産業”の料亭は、決して派手な世界ではない。中に入ってみて実感した。いや、それは仮に隆盛だった時期でも同じことだった気がする。どんなものでも、内側は意外と地味なものなのだ。  結婚した時には、直紀は既にホテルを辞めて料亭の方で働いていた。私は、だから新婚旅行から帰ってくるとすぐに、彼の母親から手取り足取り、教えてもらうこととなった。  厳しかった。けれども、無理な要求をすることはなかった。あくまでも、立派な女将となるために必要なことを、愛情を込めて教えて下さった。  自分で言うのは少し気恥しいところもあるのだけれども、私も頑張《がんば》った。別に誰《だれ》に対してというのではなく、ただ自分に負けたくなかった。だから、二人の子供が生まれたごく短い期間の前後を除いては、必ず一日に一回、料亭へ向かった。 「いいのよ、実也子さん」  そうおっしゃって下さっても、私は出かけた。「早く一人前にならなくては」そう思って真剣だった。苦しいとは感じなかった。彼女が亡くなった時には、かなりの部分をマスターしていた。決して強がりでも何でもなく、素直にそう思った。 「ウインドサーフィンをやっているのね、こんなところで」 「そうよ、ご存知なかったの。このあたり、名所みたいよ、最近は」  屋形船はお台場の近くまでやって来た。そうして、エンジンを切った。プカプカと浮かんでいる。少し波のあるせいか、ゆっくりとローリングしている。  何隻《せき》もの屋形船が出ていた。それぞれ、夜景を見ながら宴は盛り上がっていることだろう。私たちも、昔話に花を咲かせていた。  予《あらかじ》め、料亭の板場で作った食べ物の他《ほか》にも、船の後部にある小さな厨房《ちゆうぼう》で天麩羅《てんぷら》を揚げて、すぐに皆のもとへ届ける。「キャーッ、揚げたてよ」まるで二十歳くらいの若い女子学生のような声を横にいた真由美が出した。 「いやだわ、真由美、若いじゃない」  私と同じように既に二児の母親となっている彼女に言った。高校時代、乗馬部で一緒だった。そのまま、上にある短大へ進んだ彼女は、卒業後に就職した会社で知り合った三歳年上の男性と職場結婚した。 「もちろんよ。心も体も、まだまだ、二十代しているわ」  随分と無理した発言をした。近くにいた何人かがクスクスと笑った。 「本当よ、家の近くのテニス・スクールへ通っているわ。そうそう、今度、ダイビングも始めようかしら、って考えているの」  ちょっぴり、向きになって答えた。花柄《はながら》のワンピースを着て登場していた。秋だというのに、原色の洋服だった。もしも、髪の毛を肩より長く伸ばして、そうして、目の周囲にある皺《しわ》の数を少し減らしたならば、学生時代と変わらない。そんな気がした。 「あら、ダイビングを習うの? いいわねえ。とても楽しいんですって?」  向い側に坐《すわ》っていた公子《きみこ》が喋《しやべ》った。勉強の良く出来た彼女は、東北地方にある国立大学の医学部へ進学した。「とんでもない町よ。映画館だって、まともなところが少ないんですもの。冬のスキーくらいね、楽しみといったら」東京へ戻って来る度、グチをこぼしていた記憶がある。 「それにね、付き合う相手も困っちゃうの。同じ大学の男の子といったって、医学部以外は教育学部と工学部よ。だから、本当に困るの。選択する余地が、ほとんどないに等しいわ」そうも言っていた。  卒業後、東京の病院へ出て来ると、そこで知り合った同僚と結婚した。選択する範囲がグーンと広がった上でだったのかどうか、私には詳しいことはわからない。ただ、一年も経《た》たないうちに離婚した。彼の方が勤務する病院を移ることになった。  高校を卒業して十二年以上にもなると、それぞれに変わってしまう。公子と同じように、離婚している友だちも何人かいた。けれども、今日来ているのは彼女だけだった。  大学時代四年間、ずうっと付き合っていた相手と結婚したのに、新婚旅行から帰って来た途端、別れてしまった例もある。あるいは、周囲の反対を押し切って結婚したのに、二人ともが親離れしていなくて、最後は双方が罵《ののし》り合いながら別れた例もある。それらに比べると、公子の場合は静かな離婚だった。 「私も習おうと思っているのよ。結構、ウチの病院で流行《は や》っているの」  私の父はクラシック音楽と、そうして、車の運転が好きだった。一見、奇妙な組み合わせに思える。日曜日の午後、ロッキングチェアーに坐って何時間も聴いていることがあった。そうした時の彼には何も話しかけない方が無難だった。気楽な気持で聴いているのだろうと思って声をかけると、途端に機嫌《きげん》が悪くなる。だから、クラシックの音が家の中に流れると、家族は要注意なのだった。  かと思うと、平日、遅くに帰ってくることがあった。飲んで来たのかしらと思って顔を見ると、全然、赤くない。「パパ、どこへ行ってたの?」尋ねると、「いやぁ、ちょっと、ドライヴ、ドライヴ」上機嫌で答えた。  一人、首都高速の環状線をグルリと二、三周、結構なスピードで回って帰ってくるのだと教えてくれたのは、母だった。「フーン」意外な感じよりも、むしろ、なるほどな、という印象を持った。  放射線科は、直接、患者と接しない医局だ。撮影は、レントゲン技師が行なう。医者は、上がって来たレントゲンを読み取るだけだ。けれども、それぞれの医局が細分化して専門的になってきた最近は、だからこそ逆に放射線科の役割が重要になってきている。  たとえば、手術をするべきかどうかを外科なり泌尿器《ひにようき》科なりの医者が判断するためのデータは、すべて放射線科が作成するのだ。いや、むしろ、放射線科の医者の指示に従って、手術の可否が決定するといってもいいくらいらしい。だから、ストレスが溜《た》まる。  どうということはない国産の車に乗って深夜の首都高速を中年医師がグルグル回るのも、ロッキングチェアーを時折動かしながらクラシック音楽を聴いているのも、どちらも同じ一人だけの時間なのだ。読影室でレントゲンを読み取る時とはまた違った、一人だけの時間なのだ。  たしか、同じ放射線科だったと思う公子がダイビングをやってみたいわ、と言うのも、だから、私の父と同じ気持なのかも知れない。 「真由美は、どうしてダイビングもやる気になったの?」  私は尋ねた。屋形船の中は縦に一列、坐り机が置いてあった。その両側に十五人くらいずつ坐っている。開け放たれた障子窓からは、秋の心地良い風が入ってくる。 「まあね、ちょっと、いいインストラクターが見つかったものだから」  郊外へと延びる私鉄沿線の一戸建分譲住宅に住んでいる彼女は、一体、いつの間にアルコールがこんなに強くなったのかしらと私が驚くくらいに早いピッチで日本酒のロックを飲んでいた。二十歳くらいの頃《ころ》は、たしか、殆《ほと》んど飲めなかったはずなのに。 「テニス・スクールのインストラクターが、かわいい坊やでね。その彼が、今度、教えてくれるというのよ」  少し肌寒《はださむ》いのか、浴衣《ゆかた》の上に羽織った薄い丹前の衿《えり》を正しながら答えた。花柄ワンピースを着て来た彼女も、その他の参会者も、気分を出すために皆、着替えていた。料亭《りようてい》の方で人数分、用意しておいた。 「まあ、生意気ね。学生に毛が生えた程度の子供を飼育しているのね」  なぜか、私一人だけが何の変哲もない静かな毎日を過ごしているような気がした。育児と料亭の仕事で手一杯で、その他のことをする暇も、あるいは考える暇もない今の私は、多分、世間から見たら充実した人生を送っていることになるのだろう。  けれども、独身を楽しんでいる公子や、相変らずのニュートラのノリを洋服でも恋愛でも続けている真由美を見ていると、本当は私だけ取り残されてしまっているのではないかしら、という不安に駆られてしまう。 「ううん、まだ、大学生なの。カールヘルムの雪ダルマシャツを着ていたりするの」  ピンクハウスのデザイナーである金子功さんの新しい男物ブランドらしい。私の主人は、ゼニアだのダンヒルだのといったオジさんブランドだ。子供たちは、まだまだ、ファミリアの世界だ。カールヘルムというそのブランドを、恥しいことには知らなかった。 「雪ダルマの絵がね、プリントされているのよ。かわいいでしょ。でね、そうそう、クマの絵がプリントされたシャツもあるのよ」  私はもちろんのこと、さすがに公子も呆気《あつけ》に取られていた。謙太郎や浩美と同じような年齢の子供を持つ母親なのだとは、ちょっと信じられない。何か言おうかと思った。けれども、下手にひがみっぽいことを言っても自分が情けなくなってしまう気もする。悩んでいるうちに、「そろそろ、いかがでしょう」新内の御師匠さんが声を掛けてきた。 「どうも有《あ》り難《がと》うございました」  直紀は、玄関先に立って私の友人たちを送り出してくれた。浴衣から洋服に着替えた彼女たちは、皆、「楽しかったわ。また、来年もどおう?」そう言いながら、靴《くつ》を履いた。  船の上では普段、料亭の方で御座敷がかかると訪れてくれる新内の御師匠さんが、三味線を弾きながら自慢の喉《のど》を披露《ひろう》してくれた。それぞれ、ある程度以上の裕福な家庭に育って来た友だちだけれども、屋形船は初めてという人が多かった。新内を直《じか》に聴くなんてのも、だから、もちろん初めてだった。  盛り上がったところで、エンジンをかけて浅草橋まで戻《もど》ることになった。浜松町の国際貿易センタービルを始めとする都心のイルミネーションが蒔絵《まきえ》のように動いていく。 「ねえ、昔、小学校の社会科見学で、お台場まで遊覧船に乗って来たこと、あったじゃない?」  誰かが大きな声で言った。 「そうだわ、思い出したわ。まだ、あの頃って、埋め立て地なんてなかったじゃない」  カールヘルムの年下がどうのこうのと言っていた真由美が続けた。懐《なつ》かしい。皆、お揃《そろ》いの制服に帽子も被《かぶ》ってお出かけしたのだ。 「六本木に都電が走っていたのよ、私たちが一年生だった時には。首都高速もなかったものねえ」  しんみりとした言い方になった。さっきまでの真由美とは違った。そう言えば、私も四谷三丁目まで地下鉄を使って、そこから学校までは都電を使っていたのだ。すべてが遠い遠い昔のことだった。  まだ、あの頃は誰もが仲良く手をつないで、いつでも一緒だった。学年が上がるにつれて、幾つかのグループが出来て、また、それが、くっついたり離れたりした。そうして、高校へ入る頃には、仲の良いグループの中の人に対してでも、話すことと隠しておくこととを無意識のうちに判断するようになった。  高校を卒業してからは、もちろん、それぞれ進学する学校もバラバラになった。離散集合を繰り返していたグループも、自然になくなった。そうして、多くの人の姓が変わって、子供のいる人も増えた。けれども、さっきの私のように、隣りの芝生がちょっぴり羨《うらや》ましかったり憎らしかったりするのは、相変らずだ。女子高時代と変わらない。 「ねえ、良ければ実也子も二次会へ、どうかしら?」  公子が声を掛けてくれた。けれども、私は皆を送り出した後、料亭の人たちと一緒に片付けをしなくてはいけない。今晩は他にも二組ほどお客様が入っていたのに、そちらへ顔も出さずに屋形船へ乗ったのだった。  謙太郎と明美も、玄関横の部屋で待っているはずだ。いや、もう明美は眠ってしまっているだろうか。「小学校くらいは、色んな家庭の子供が通う公立で勉強する方が、いいんだ」そうした主人の方針で地元の学校に通っている謙太郎だけが、一人、私が買い与えた本を読んでいるかも知れない。 「うれしいわ。でも、ほら、今日は一応、会場係だから」  そう言って断った。料亭を閉めたら、子供を連れて近くにある家まで帰るのだ。それで今日の私の一日が終わる。懐かしい友だちに会ったこと以外は、だから、取りたてていつもと変わらない一日が終わるのだ。  二次会へ出かける人たちは、まだ、これから大分遅くまで楽しむのかしら。けれども、彼女たちだって、内心は家へ戻る時刻を気にしているのだろう。そうして、結構、屋形船での趣のある一時から、私の毎日を羨ましいものだと勘違いしているのかも知れない。そう思った。 「直紀、みんな喜んでくれて嬉《うれ》しかったわ」  最後の友だちを送り出すと、彼の目を見つめながら言った。そうして、 「さあ、さあ、お片付け」  自分自身を景気づけるように、わざと元気な声を出して石畳の玄関先を早足で歩いた。 昔 み た い 「あら、珍しいわね、日曜の朝なのに」  下へ降りて行くと、母はロッキングチェアーに坐《すわ》って新聞を読んでいた。多色刷りの日曜版。ボッティチェルリの「ビーナスの誕生」が一面に大きく載っていた。学生の頃《ころ》、友だちと一緒に参加したヨーロッパ・ツアーで訪れたフィレンツェの美術館で見たことがある。 「典子《のりこ》、いつだって早起きよ」  パジャマの上にカーディガンを羽織っていた。裕一郎からのプレゼントだ。付き合い出して間もなかった一昨年のクリスマスに買ってもらった。 「そうかしら。先週なんて、お昼過ぎだったわよ。それも、私が起こして、ようやっと」  言われてしまった。土曜も仕事のあることの多い私にとっては、日曜は貴重な一日だ。一週間分の疲れを癒《いや》さなくてはいけない。それで、いつでも、グーグー。「いい加減、起きたらどうなの」母が私の部屋に入ってくるまで眠り続けるのだった。  けれども、今日は九時に目が覚めた。この春に私と結婚をする彼はフィリピンへ出かけていて、だから、デートの予定も入っていないというのにだ。裕一郎はテレビ局の報道記者だった。私よりも二歳年上。 「またマニラだよ、明日から」  電話がかかって来たのは、月曜夜のことだった。翌日の火曜は夕方から二人で食事をする予定になっていた。大手町にオフィスがあるコンサルティング会社で副社長秘書を務める私は、いつでも退社出来るのが午後七時過ぎになってしまう。  ただし毎週火曜だけは、比較的早く仕事を終えることが出来た。ベルギー人とのハーフである、まだ三十代後半の副社長はブリッジ好きなのだ。火曜の夜に麻布台のアメリカン・クラブで開かれるというブリッジの会合に出るために、この日は五時キッカリにオフィスを出る。 「どのくらいの日数になりそう?」  政治の上で大きな変化があったフィリピンへ、裕一郎は一年あまりの間に三回も派遣されていた。そのせいか、報道局の中ではマニラの事情通という評価を受けている。このところ、日本との間に幾つかの事件が相継いで起こっているフィリピンへ、だから今回も彼が行くことになったのだろう。 「どうかなあ。一応、一週間くらいって話なんだけれど」  前回も最初は四、五日の出張という話だった。それが延長、延長を重ねて、最終的には三週間もの長期滞在になってしまった。今回だって、その可能性は高い。 「明日の朝、早いんでしょ。気をつけて行って来てね」  もう、顔の化粧も落として眠るばかりだった私は、心の中で溜《た》め息をつきながらそう言うと電話を切ったのだった。 「甲賀さんもいないのに、どうしたの? ジョギングでもするつもり?」  私が休日に早起きしたのは、母にとってそんなにも新鮮な驚きなのだろうか。本当に不思議そうな声を出す。私はダイニングルームのテーブルの上に置いてあった紅茶のポットにお湯を注ぐと、いつも使っているカップを取り出した。 「まさか。だって、こんな格好よ」  今日、着ているパジャマは濃いブルーだった。ターコイズ・ブルーとでも言うのかしら。気に入っている。 「たまには早起きしてみたくなるのよ。ほら、私もだんだん、年を取ってきちゃったから」  そう言いながらカップに紅茶を淹《い》れた。すると母は、 「あら、失礼しちゃうわね。じゃあ、毎朝、典子よりも早く起きて食事の仕度をしている私は、大年寄りというわけ?」  父はどうやら、ゴルフに出かけて留守みたいだった。三人家族の我が家では、だから今の母の話し相手は私しかいないのだ。私に向かって、ちょっぴり膨れっ面《つら》をしたのも、それは本心からではなくて、むしろ話し相手になって欲しいからだろう。  けれども私は私で、一人、自分の部屋で過ごしたかった。それで、カップを手に持つと、 「とんでもございませんわ。いつまでも肌《はだ》がツヤツヤの若奥様よ」  適当に母への誉《ほ》め言葉を述べると、二階へ上がることにした。部屋の机の上には、裕一郎の写真が飾ってある。妻や子供と一緒に撮った写真を会社のデスクに副社長が置いてるのを見ているうちに、自然と小さな写真立てに入れて飾るようになった。  東京とは一時間の時差があるマニラは、まだ朝の八時過ぎだ。明け方近くまでの仕事に疲れて、今頃は仮眠を取っているのだろうか。あるいは、早朝から街に飛び出して、取材を開始しているのだろうか。  昨晩のニュースでは、彼がマニラ市街の一角に立ってレポートしている映像が流れた。画面を通して久し振りに対面した彼は、少し頬《ほお》がこけていたような気がする。そうして、すごく遠く離れた存在になってしまったような気もした。  それは単にフィリピンという日本とは違う国に、仕事で行ってしまっているからというだけではないと思う。ここしばらく直接会っていない婚約者が、衛星中継で送られて来た画像の中に登場して日本中の人々に語りかけている。私は多くの視聴者の中の一人として、その彼の姿を見詰めているしか術《すべ》がない。  いつもは一緒に横に並んで話をしながら歩いている彼一人だけがステージの上で万雷の拍手を受けている。私はと言えば、天井桟敷《さじき》の片隅《かたすみ》で懐《なつ》かしい彼の表情や動作を凝視するのが精一杯だ。  毎朝、私は六時半に起きて、多摩川に程近い自宅から会社へと向かう。ごく普通の、どこにでもあるOLのパターン。それでも、八時半から夜の七時過ぎまで、一般的なデスクワークをしている女子社員に比べれば随分と変化に富んだ仕事内容だ。満足もしている。けれども、やっぱりどこか、おとなしい毎日でしかないような焦燥感にかられることはあるのだ。  別に裕一郎と同じように、テレビの画面に登場して、緊迫する情勢の国からレポートを送りたいわけではない。それは私には向かない仕事だ。わかっている。若い女子高生や女子大生のようにキャッキャッ言いながら登場したいわけでも、もちろんない。なのに、昨晩、テレビを見ているうちに、私一人だけが取り残されていくような不安を感じてしまった。  今朝、日曜にしては珍しく早起きしたのは、そのせいだ。彼とのデートもないからといって、昼過ぎに目を擦《こす》りながらノコノコ、母のいるリビングルームへと下りてくるなんて、自ら余計にみじめな気持にさせていくだけだ。たとえ、充分に睡眠を取って、体調は抜群だったとしてもだ。  机の上でニッコリと笑っている裕一郎を眺《なが》めた。一月に取り替えたばかりの写真だ。彼の家の前で撮った写真。タートルネックのセーターに太畝《ふとうね》のコーデュロイパンツ。社会人になって、もう四年目だというのに相変らずカジュアルな格好の方が良く似合う。  ちゃんと食事もしているのかしら。コーラとハンバーガーばかりでお腹《なか》を一杯にしていそうで心配だ。もっとも、実際に現地にいる彼にしてみたら、郷《ごう》に入れば郷に従えで、何ともないのかも知れない。神経も張り詰めているだろうし。  そう考えると、日曜の午前中、せっかく早起きをしたものの、パジャマにカーディガンを引っ掛けたスタイルのまま、一人、部屋の中で彼の写真を見詰めている自分が、ますます、みじめな感じになってきた。  シャワーを浴びようっと。思った。髪の毛も洗って、綺麗《きれい》にブロウするのだ。服も着換えよう。気分が溌溂《はつらつ》としてくるはずだ。午前中一杯の、いい時間つぶしにもなる。  そうして、自分を綺麗に整えることで、食事だけだったとはいえ、婚約者が国内にいない間の昨日、昔の恋人とデートしてしまったことに対する、自分自身の中での言い訳にもなるような気がした。  シャワーを浴びてくるわ、裕一郎。何も知らない写真立ての中の彼に向かってそう伝えると、立ち上がった。 「今日は、あまり遅くなれないわ」  ウェイターが差し出してくれたメニューを手にする前に、勝彦《かつひこ》に話した。 「四時には家へ帰ってないといけないの」  ガス入りのミネラル・ウォーターを、彼も私も食前酒の替わりに頼んでいた。ライムが中に入っている。グリーンの皮が、ところどころ、ざらざらとした感じのベージュ色していた。 「弁護士の人が来るから」  続けて喋《しやべ》った。と、今まで黙っていた彼が、 「弁護士?」  訝《いぶか》しげな声を出した。 「何で弁護士になんて会うの?」 「えー、土地の問題でね。ほら、私のところは両親とも結構、年を取っているじゃない。だから、徐々に私の名儀に変えていかないといけないのよ。それで」  嘘《うそ》をついた。ううん、名儀変更しなくてはという話題が家族の間で出ていたのは本当だ。けれども、今日、四時から弁護士を交えて相談というのは嘘だった。 「じゃあ、早目に食事を済ませなくちゃ」  淡々とした声で、勝彦は応じた。膨れっ面をちょっぴりするんじゃないかと思っていた私にとっては、意外な反応だった。待ち合わせをした時刻は、一時三十分。メニューをまだ決めてないとはいうものの、席に着いてから既に十二、三分は過ぎているはずだ。  一時間ちょっとでフランス料理が食べられるかしら。不安になった。昔、勝彦と付き合っていた頃は、フランス料理のお店へ出かけるといつでも二時間半近くかけて食事を楽しんだ。もちろん、今日は昼食ではあるけれど、でも考えてみたら、前菜に肉か魚を一皿《さら》、そうして、チーズ、デザートというチョイスの仕方は夕食と変わらないのだ。結構、大変。そう思った。 「いつ結婚するの。日日《ひにち》、決った?」  メニューを選び終えると、彼は尋ねた。海老《え び》と海の幸の取り合わせサラダ、仔鳩《こばと》の赤ワイン煮。それが彼のオーダー。私は鮑《あわび》のサラダを前菜に、メインディッシュを仔羊の骨付き肉にした。 「四月の二十六日。日曜日」 「どこで?」 「用賀にある教会なの」  答えた。 「ふうん、それはいい」  スパークリング・ミネラル・ウォーターを一口飲むと、勝彦は誉めてくれた。裕一郎と私が式を挙げるのは、プロテスタントの小さな教会でだった。結婚式は地味な方がいい。二人とも、そう思っていた。  人は誰《だれ》にも知られることなく生まれてきたように、結婚する時も、そしてこの世から去る時も、同じようにひっそりと迎えたい。日本ではなかなか受け入れられないこうした考えを私たちは持っていた。それは、北欧からの輸入家具を扱う会社を経営している勝彦も同じだった。 「披露宴《ひろうえん》なんて、馬鹿《ばか》らしいものね。なんであんなことにお金を使うんだろう」  まだ私が大学生だった頃に付き合っていた彼は、たとえばお茶を飲もうということになってホテルのコーヒーハウスを訪れた際、いかにも結婚披露宴帰りという出《い》で立ちのグループを目にすると、必らずそう言った。 「本当に喜んでくれる人たちだけを集めて、ささやかにティー・パーティをするくらいでいいんだよ」  イギリスやアメリカの雑誌を見ていると、教会の裏庭で結婚のパーティを行なっている写真を見つけることがある。たった今、神の前で永遠の愛を誓い合ったばかりの二人のまわりに、ビスケットと紅茶のカップを持った人たちが集まっているのだ。  私以外にも何人かの女性と並行して付き合っていた彼は、だからこそなのかも知れないけれど、 「そうした結婚式にしたいね」  もちろん、一緒になるつもりなど毛頭ないのに、私の目を見詰めてそう言うのだった。勤め始めて今度の四月で三年目になる。だからそれはもう四年ほど前のことになる。 「ただ、結局、披露宴もやることになってしまったわ」  運ばれて来た前菜を食べるために、フォークとナイフを両手に持ちながら告白した。 「二人とも、教会での式だけで済ませられたらいいなあ、と思っていたの。でも、彼の両親がどうしてもと言い出して」  彼の父親は、国内外のニュースを扱う通信社で取締役を務めていた。長男である裕一郎の結婚には、自分の上司や取引先のトップ連を呼ばなくてはと言い出した。  私の方の両親は、そんなクラスの人たちまで呼んで大層な披露宴などやらなくても、という考えだった。私たち二人も、もちろん反対した。けれども、押し切られてしまった。 「月並みに、都心のホテルでするの。ちょっと恥しいでしょ」  照れ臭そうに喋った。もっとも、本当のことを言えば、そうした形の結婚式にすることを決めてから一ヶ月半ほど経《た》っていたから、私としてはもう仕方ないやという感じに居直って諦《あきら》めてはいたのだ。だから勝彦が、 「まあ、相手の父親がそういう立場だとね、無理もないってところかな」  そう言ってくれて嬉《うれ》しかった。ホッと肩の荷がおりたような感じになった。 「どんなに二人の間の問題なのだと言ってもね、まだまだ、家と家の結婚なんだよね。だって、結婚式の案内状って、その殆《ほと》んどが何々家と何々家、って具合に記されているでしょ。二人の名まえだけを書いてあるのなんて、まだ、僕《ぼく》、見たことないもの」  話し込んでいるうちに、メインのお皿も終わってチーズとデザートの番になった。チーズの並んだワゴンとデザートの並んだワゴンを押して、ウェイターが近づいてきた。 「食後は、いかがなさいましょう?」 「そうだなあ、どうしよう」  彼がワゴンの方へと目線を向けている隙《すき》に、私は自分の腕時計へと目線を向けた。三時二十分前だ。随分と早いピッチでメニューを消化している。けれども、もしも本当に四時までに私の家へ帰るのだとすれば、三時にはレストランを出なければならない。  二人が食事をしているフレンチ・レストランは、日比谷公園に面した大きな都市ホテルの中二階にあった。私の家は、新宿から神奈川方面に向けて出ている私鉄電車で多摩川を渡ってしばらく行ったところにある。なんだかんだで、どうしても一時間はかかってしまう。 「チーズと甘い物、両方を頼むのは時間的に無理なんじゃない?」  気を効かせてくれた。出来ることならば、私としては両方、楽しんでみたい。けれどもそんなことを切り出せば、自分から「今日は遅れても平気なの」と宣言してしまうようなものだ。そうなれば久し振りに出会った昔の恋人と、食事の後の二人だけの時間を過ごしてしまうことにもなるだろう。今日はそれは避けたかった。 「そうね、じゃあ、私はチーズにするわ」 「僕もそうしよう」  彼はルヴロッションとブリーを頼んだ。私の方はひとつはオーソドックスにカマンベールを、もうひとつはシェーブルを選んだ。ウェイターはチーズを切りながら、 「もし、よろしければ、ケーキか冷たいシャーベット、アイスクリーム、あるいは新鮮な果物もご用意させていただきますが」  昼間とはいえ、ワインのボトルを開けなかったのはもちろんのこと、食前酒までも飲まずに、しかもチーズの後をミルク・ティーでそそくさと終わりにしてしまう私たちのことが、サービスする側としては残念で仕方ないのだろう。二度ほど繰り返し、そう言ってくれた。  その味のほどはともかく、少なくともロケーションだけは最高のこのレストランでも、今日の私たちと同じように食事を早目に済まして帰ってしまうお客が多いのだろうか。ラストオーダー・タイムは、たしか二時と入口に示してあったと思うのに、私たち以外には既にお客は誰もいなくなっていた。 「この後、用事が私にあるものですから、今日はワインも取らずにクイック・ランチをいただいてしまったんですけれども。いつも、お客様は、もうこのくらいの時刻にはいらっしゃらないんですか?」  取り分け、弁解などする必要もないのに、今日は本当に食事だけのデートなんですよということを強調したいがための、なんともいやらしい発言をしてしまった。けれどもチーズをサービスしてくれたウェイターは、別にそんなこと私どもには何の関係もございません、という感じで、顔色ひとつ変えずに、 「そうですねえ。やはり、日本人のお客様はお食べになるのが早いですから」  答えた。考えてみれば、イギリス人やオランダ人はもちろんのことフランス人にしたって、毎日、豪華なフランス料理ばかりを食べているわけでもあるまい。普段は隠元《いんげん》とパンとスープ、なんてことだって、十分有り得るはずだ。  けれどもレストランを訪れた時には、三時間も四時間もかけて会話を楽しみながらゆっくりと食事をする。私たち日本人との大きな違いはそこにある気がする。 「それに昼間はビジネスのお話をなさりながらのお客様が圧倒的ですから。昼休みを利用してということなのでしょうね。ですから、外国人の方も含めて、お食べになるテンポは早いです」  なるほどね、という感じで勝彦も耳を傾けている。もうひとつ質問をした。 「私たちのような年代のカップルで訪れる人たちって、昼間は少ないんですか?」  すると、セルフレームのメガネをかけた小柄《こがら》な彼は苦笑いしながら、 「まず、昼間はいらっしゃいませんね。物理的に無理なんじゃありませんか。でも、じゃあ、今日みたいな土曜の昼間はどうかというと、意外とこれまた皆無に近いんです。やはり、昼間から二人でゆっくりとフランス料理というのは、まだ抵抗あるのかも知れませんね。一方、ビジネスでの方は月曜から金曜までですから。ファミリーが主体の日曜との間にはさまれて、だから、土曜は暇なことが多いんです」  教えてくれた。大きく頷《うなず》きながら、チラッと目線を腕時計に降ろした。三時を少し回っている。帰らなくてはいけない。話好きらしいウェイターの“講義”は、こちらから何か言わない限り、とても終わりそうにない。私は勝彦に目配せをした。 「典子、元気かい?」  受話器を取ると、最初に国際電話特有のツーンという信号音がした。裕一郎からだ。マニラから電話をかけて来てくれたのだ。 「元気よ、もちろん。そちらは、どう?」  嬉しい気持を抑えて、努めて冷静に喋ろうとした。 「あー、元気だよ。蒸し暑いんだ。街は珍しく今日は一日中平静状態だった」  サーッと速い速度で砂が落ちて行く時のような音がする。電波状態が悪いのだろう。それがかえってフィリピンにいる裕一郎からの電話なのだという臨場感を私にもたらした。  昨晩、テレビに映った時には遠く離れてしまった人のような気がして不安だった彼を、顔は見えないけれど今は自分だけの裕一郎として確かめることが出来る。そうしてそれは、一瞬、華やかな舞台の上に私も上ったような錯覚を抱かせた。  今は毎朝、会社へと向かう満員電車の窓越しに見るだけとなってしまったキャンパスで、私は幼稚園から大学までずうっと学んだ。自営業や自由業の親を持つ子供が圧倒的だった。私もその中の一人だった。  大学時代には何人もの男の子と付き合った。といっても自分ではさほどハデだったつもりもないのだけれど、恋多き女だという学内での評判も立った。七歳も年上の勝彦をメインに付き合っていたからだろう。  あの頃《ころ》は毎日が楽しかった。彼は当時から、自分で興した輸入家具を扱う会社を成功させて羽振りがよかった。もっとも、そうした企業家としての反面、彼には女性的な感覚も兼ね備わっていた。デートをしていても、こちらが望むことを実際、口に出す前に察して対応してくれる。そんなことが出来る男性なんて、むしろ、男としての屑《くず》だと言う人もいるかも知れない。けれども私は大好きだった。  女性の気持が良くわかる彼と一緒にいる時が光り輝いていればいるほど、その分、デートが終わった後にやって来る虚《むな》しさとの間の落差は大きかった。  私のことをすごく愛してくれていた勝彦は、その手のタイプの男性が往々にしてそうであるように、他《ほか》にも何人かの付き合っている女性がいたのだ。いや、別にそのこと自体は嫌《いや》だったわけではない。すんなりと受け入れることが出来た。  ただ、どうしても彼と一緒にいる時間には華やかな気分を味わってしまう。勉強家でもあった彼は、話題が豊富だった。そうして、どこへ行っても顔だった。こうした両面を持った彼を好きになってしまった私は、いつでも一緒にいたいと思った。  それは彼が独身であるのにもかかわらず、最初から無理な話だった。その落差を埋めようとして付き合った私とさほど年の変わらない男の子たちは、皆、物足りなかった。  私は勝彦のことがとってもとっても好きだったのだ。けれども、結婚は無理だろうな、といつの日からか思うようになった。裕一郎は、そう思い始めた時期に登場した真面目《まじめ》な社会人だった。こういう人でいいのだわ、私には。そう自分に言い聞かせて付き合い出した。  一緒にいて華やかな気持にはなれなくとも、でも常に落ち着いた状態でいることは出来る。大学を出て、規則正しい生活の社会人にもなった私は、余計、自分に言い聞かせようとした。裕一郎でいいのだわ、と。  けれどもその気持は、彼が私の近くから離れて海外へ派遣されたりすると、揺らいでしまう。衛星中継の電波に乗ってレポーターとしての彼が画面に登場すると、何故《な ぜ》か私一人だけが取り残されているような気持になってくるのだ。他のOLに比べたら、随分と毎日変化に富んだ仕事をさせてもらっているにもかかわらずだ。  もっとも、こうしてフィリピンにいる彼から直接、電話がかかってくると、少し冷静になれる。そうして、少し冷静になった私は、彼が取材で出かけた先からどんなにか素晴しいニュース・レポートをしてこようとも、まだまだ彼は裏方を続けなければならない、私と同じ平凡な毎日を送るサラリーマンでしかないことを確認出来るのだ。  時々、子供の手を引いて街中を歩いている若い母親を見ると、ギクッとする。あまりにもそれを当たり前過ぎる感じで行なっているからだ。裕一郎との結婚を決めた私もまた、徐々にそうしたおとなしい生活になっていくのだろうか。土曜の午後、勝彦と一緒に食事をした時のことを再び思い出した。  平日も、そして、もちろん土曜も、大好きな相手と一緒にゆっくりと昼食を摂《と》れる数少ない人物なのかも知れない彼との食事を終えると、私たちはレストランを出た。と、急に重々しい色合いのカーペットと壁紙が目に入って来た。  フレンチ・レストランの中は、ヌーベル・キュイジーヌ傾向の料理に合わせてなのだろうか、軽快さを与える色調の内装だった。そのせいもあってか、レストランを出た途端、余計に重々しく感じた。そうして、それは昔の恋人との昼食を楽しんだ私に、いつものおとなしい生活に戻《もど》りなさいと示唆《しさ》しているかのようにも思えた。 「今日は、どうも有《あ》り難《がと》う。慌《あわただ》しかったけれども、会えて嬉しかったわ」  すると、多分、昔と同じように前もって客室も予約しておいたに違いない彼は、そんなことは〓気《おくび》にも出さず、 「とんでもない、こちらこそ」  そう言いながら、中二階からロビーへと下りる幅の広い階段の一番上の段で、キスを求めた。昼下がりの中二階は、カーペットの色こそロビー・フロアと同じだけれども、歩いていたのは私たち二人だけだった。  レストランが二軒とバーが一軒、並んであるだけの中二階は、土曜午後の、しかも三時過ぎなどという時刻には殆んどの人にとって、そこを歩くことすら思い浮かばない空間なのだろう。ロビー・フロアには、多くの人々が行き交っている。皆、多少なりとも土曜の午後の優雅な時を過ごそうなどと考えて、このホテルを訪れているのかも知れない。  けれども、幸か不幸か、日々のおとなしい生活が足を引っ張っているからなのか、せっかく訪れたというのに、人のやたらと多いロビー・フロアを、それも早足で歩いている。  振り向くと、勝彦の唇《くちびる》に私のを合わせた。それは、ほんの一、二秒の軽いキスだった。私はロビーを見下ろす中二階からの階段でキスをすることで、またいつもと同じ生活に戻ることが出来るような気がしたのだ。 「結婚する前に、もう一度、会えるといいね」  彼は最後にそう言った。私は黙って頷いた。今度、会ったならば抱かれることになるのだろうな。一段一段、ロビーへの階段を下りながら、頭の中でぼんやりと考えた。 「いつ帰って来れそう?」  裕一郎に尋ねた。かなり大きな声で言わないと届かないような気がして、それでいつもの三倍くらいの大きさで叫んだ。すると、 「明日だよ、明日。それを伝えたくて電話したんだ」  彼も元気一杯の声で叫び返して来た。いつかはきっと、再び勝彦に会ってしまうような気がしてならない私は、けれどもやっぱり嬉しかった。裕一郎のこと、好きなのだわ。そう思って受話器を握り締めたまま、押すでもなくプッシュホンのボタンを幾つか、右手の指の腹で撫《な》でていた。 あ と が き  一生の間に、ただ一人の相手だけを愛し続けることが出来るならば、どんなにか素晴らしいだろう。真剣に考えていた十代の一時期があった。それは程度の差こそあれ、誰《だれ》もが同じように経験する感情なのかもしれない。けれども、祖母も母もキリスト教の信者という家庭に育ったこの僕《ぼく》は、人一倍、そうした気持が強かったように思える。  中学時代、初めて恋愛と呼べる形の付き合いをした僕は、夢中だった。その恋がずうっと続くことを望んだ。いや、そうなることを信じていた。「小さな恋のメロディ」の世界だったのだ。なのに、クラスメイトだった相手の女の子は、もちろん、僕のことを大好きではあったのだろうけれど、二人の将来に関して冷静だった。  十五年以上の歳月が経《た》った今も、一人の相手だけを愛し続けることが出来るならば、どんなにか素晴らしいだろうという、その考えには変わりがない。笑われるかもしれないが、本当だ。けれども、夕食を一緒に摂《と》った、また新しい恋愛相手を部屋まで送った帰りがけ、車を運転しながら、しばしば、次のようなことを考えるようにはなった。一体、一生の間に何人の異性に、私たちは恋愛感情を抱くのだろうかと。  カソリックの神父は、結婚式の後の説教の中で、次のような内容を述べることがある。「なぜ、私たちは今、ここに集《つど》い、若き二人の結婚を祝福するのでしょうか。二人は永遠の愛を誓い合いました。これから長い道のりを、いつでも共に歩いてゆかねばなりません。けれども、その長い道のりの間には、二人の愛が揺らぐことも時にはありましょう。愛とは、いつの世でも常に移ろい易《やす》いものであることを、私たちは今ここで、もう一度、確認し合わなくてはなりません。そうして、愛が移ろい易いものであればこそ、逆に二人は何時《い つ》も共に手を取り合って進まなくてはならないのです。今、ここに集った私たちも、皆、この危なっかしいヒヨコたちの愛が永遠に続くよう、見守っていかねばならないのです。そのことを神に誓うため、私たちは、今日、ここに集い合いました」  移ろい始めた愛を繋《つな》ぎ止める努力をすることもなく次の恋愛に移ってしまった場合も幾度となくあるであろう僕は、けれども、こうした神父の説教が好きで、友人の結婚式のスピーチでも引用することが多い。そうしてその度、自分の体に震えを感じる。  今回の短編集に出てくる主人公たちは、皆、所謂《いわゆる》、アッパー・ミドルと呼ばれる階層に育った二十代後半から三十代前半にかけての女性である。彼女たちは、幾つかの恋愛を経験した後に、それぞれの物語に登場する恋愛と巡り合った。  そうして彼女たちは、その恋愛を進めながらも、いつの日か終わりが訪れてしまうであろうことを予期している。あるいは、既に終わっていたはずの昔の恋愛を想《おも》い起こし、また、その相手と逢瀬《おうせ》を重ねてしまったりもする。  けれども彼女たちは、どこかで僕と同じ考えを持っているように思える。一人の相手だけを愛し続けることが出来るならば、どんなにか素晴らしいだろうという考えをだ。きっと、前述の神父の説教を聞いたならば、僕と同じように体に震えを感じることだろう。  なのに、彼女たちは僕と同じように、幾つもの恋愛経験を重ねていく。積み重ねていけばいくほど、楽しい想い出ばかりでなく、苦くて辛《つら》い想い出の重さも心の中で増していくことを十分承知の上で、猶《なお》、逃れられないのだ。  いつの日か、共に永遠に愛し合える相手が出現することをどこかで信じながら、彼女たちは自分の皮膚が望む恋愛を重ねていく。そうして、その合い間にふと、大人の世界など、まだあまり知らずに微笑《ほほえ》みながらスキップしていた頃の自分を想い出したりするのだ。  十五編の作品は、『小説新潮』が初出の「昔みたい」を除いて、皆、婦人画報社発行の『25ans』に発表されたものである。『25ans』というそのタイトルからも理解出来るように、二十代半ば以降の良くも悪くも“アッパー・ミドル”な家庭に生まれ育った女性を読者に持つこの雑誌で、「うたかた」という通しタイトルの下、一九八五年四月号から八六年十二月号までの二十一回に渡って連載された短編の中から十四編を選んだ。  既に多くの読者の方々もご存知であるように、僕は原稿を書くのが遅い。雑誌の読者と同じ、まだうら若き担当者であった『25ans』編集部の安田るみさんには、大変、ご迷惑をおかけした。なかなか出来上がらない原稿を待って、彼女は週末に入っていた予定を二日間、丸々、つぶしてしまったこともある。 『小説新潮』編集部の松家仁之《まついえまさし》さんにも、ご迷惑をおかけした。ギリギリのギリギリを過ぎないと仕事に取りかからない僕を叱咤《しつた》激励して、表題作以外にも幾つかの短編を『小説新潮』誌上に発表させてくれた彼は、僕にとっての良き理解者であり助言者である。  それは、この本の単行本化の、また、遅々として進まない書き下ろし長編小説の担当者でもある、出版部の寺島哲也さんについても同じである。担当者として彼が僕の前に登場してから既に四年近く経った。具体的な形としては、初めて、二人の作業がここに結実したことを、共に喜びたいと思う。 『25ans』連載中にイラストレーションを担当してくれた佐藤豊彦さん、レイアウトを担当してくれた田中信明さんにもお礼を述べたい。更に文庫化に際しては、新潮文庫編集部の高梨通夫さんの手を煩《わずら》わせた。彼らもまた、前述の三人や僕とさほど年齢の変わらぬ昭和三十年代生まれである。こうした人々の力によって『昔みたい』が上梓《じようし》出来たことも、また喜びたいと思う。 この作品は昭和六十二年二月新潮社より刊行され、 平成元年八月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    昔みたい 発行  2001年1月5日 著者  田中 康夫 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861051-2 C0893 (C)Yasuo Tanaka 1987, Corded in Japan