TITLE : この地球に生れあわせて 講談社電子文庫 この地球に生れあわせて 湯川秀樹 著  目 次  第一部 私の生きがい論——創造性と自己制御—— この地球に生れあわせて 考え方を変えること 一人の「世界」みんなの「世界」 歳をかさねること  第二部 遍歴 四国の旅 欧米紀行 故国に帰りて アメリカ便り(第一信) プリンストン便り スウェーデンの思い出 ハドソン河畔の秋 静かな町にきて アメリカ大学教授の生活 イタリアの夏 外から見た日本 あとがき   湯川秀樹 著作目録 この地球に生れあわせて 第一部 私の生きがい論——創造性と自己制御——  ——一九七〇年——  第一講  生きがいというのが、このゼミナールの全体のテーマなわけですが、生きがいということについて、二回も三回もかかって、なにか学問の講義でもするようにお話するのは、実にむつかしいことです。それに皆さんは何人かの講師のお話をお聞きになるわけですから、私がお話することは、あるいは、いままでに皆さんがお聞きになったことと重複したり、矛盾したりするかも知れない。それはなんともいまのところ、よくわからない。わかったところで、私は私のいいたいことをいうだけです。適当に参考にしていただきたいと思います。 生きがいにも内と外  そもそも生きがいということになりますと、人はそれぞれ生きがいを感じて生きている。私も私なりに生きがいを感じて生きてきたのですけれども、しかし年がら年じゅう大いに生きがいを感じておったわけではないのです。やっぱり人生がいやになることがあるんですね。ですから何とかして、自分の人生を少しでも意義あるものにしたいと努力を続けている。それぞれの人の心の持ちかたにしても、いろいろの人の話を聞くのもよろしかろうが、いずれにせよ、自分でいろいろ思い直してみて生き続けているわけですね。あんまり思い直さずに、ずっと一生、いつも生きがいを感じながら生きられたら、こんなにいいことはないんですけれども、そういうふうにはいきません。いろんなことに突きあたって悲観したりしながら、また気をとり直して生き続けてゆく、そういうものでしょうね。  私は学問をずっとやってきましたが、自分では大変しあわせな人間だ、自分なりに、非常に生きがいのある人生を送ってきた、というふうに思っております。そういう私なりの生きがい論なるものを、自分なりに考えてみているわけなんです。私の講演には「創造性と自己制御」という大変むつかしい副題をつけましたけれども、あまり題目にこだわっていただくことはないと思います。  人生というもの、人間の生き方はいろいろあるけれども、そこに創造的な、なにかを創造する——芸術家であれば芸術的作品、美術であっても小説であってもそれは創作ですね、また私たち学者であるならば、やはりなにか新しい真理を発見する、技術者であるならば、いままでにない、新しい性能を持った機械を発明する、そういうようなことができれば、一番生きがいを感じられるわけですね。  そういう場合に問題をしぼってみますと、生きがいというのは、内側と外側が必ずあるんだと思います、程度の違いはありますが。内側というのはあるいは自分、主観とか主体とかいってもよい。外側は客観とか客体。狭くいえば自分と他人——他人というのは複数で、社会とか人類とかに拡げてもよい。とにかく内外の両方あるわけですね。生きがいを感ずるということは自分が満足する、自分のやりたいことをやるということだけのように見えておりましても、実はそうではない。自分のやっていることが人のためになる、というと大変聞えがよろしいけれども、むしろそれよりは、ほかの人に認められたい——こういう気持は必ずある。そういう気持が全然ないという人があったら、私はそれは多分うそだろうと思います。  たとえば私は物理学をずっとやってきた。これはだれのためにやっているのでもなくて、自分のためですね。これは別にうそじゃないんです。『論語』に「いにしえの学者はおのれのためにし、いまの学者は人のためにす」という文句があるんですが、いにしえというのは、孔子にとっての昔はよかった、いまはアカンぞという発想ですね。昔は自分が学びたいから学んでる、いまは人のために——という意味は、極端な場合には、立身出世になってしまうかも知れないが、もう少し広くとれば、なにか見栄で学問する。そういうことで学問をやってもアカンぞ、と戒めるためにいったんですね。しかし昔もいまも、おのれのためと人のための両面は必ずある。  私は物理学をやった。これは自分のために違いないけれども、しかし同時に自分がなにがしか新しい真理を発見し、それが人に認められるようになりたい——と思うわけですね。もう少し別な言葉で表現するならば、自分としてなにかをなしとげたという満足感、そしてやったことに、なにか客観的な価値があるということの両方があって、はじめて、ほんとに生きがいを感ずるわけです。それが当り前のケースです。  しかしながら、生きがいというものはそういうふうに狭く限れないということもあります。自分の理想通りに生きられたらいいと思っても、現実には全く違った生き方をしなければならないことがある。たとえば釣りに生きがいを感じる、自分の日々の仕事は一つも面白くない、だから休みがあれば釣りに行く。自分の毎日の仕事よりも、釣りをしていることの方によっぽど生きがいがあるという場合もあるわけです。  私は別にそれをいいとか悪いとかいっているんじゃない。しかし、できうべくんば、仕事の方にも生きがいがあるのがいいでしょうね。私はなにも人それぞれの生き方をとやかくいうつもりはないけれども、もし自分のやっている仕事自体に生きがいを感じられたら、誰にとっても、その方がむろんいいに違いない。私がしあわせな人間だと思うのは、自分のやっていることに生きがいを感じることができたからです。そこには創造ということがある。あわよくばなにか新しいものを創造できる。そういう喜びを、たまには味わうことができる。それは時々しか味わえないもので、あとはきょうもうまくいかん、あすもうまくいかんという状況でありますけれども、たまには創造の喜びというのを味わえるのは、大変しあわせな人間だと思います。だれでもそういうふうにうまく行くとは限らないことも、私にはよくわかっているから、運がよかったのだと思うのであります。 他人に迷惑かけない  運といえば、時代が違うということもあります。とくに近ごろは、世代の違いが問題になります。たとえば、二十代の人は私たちとは一世代以上違う。そこには非常に大きな断絶がある、ということが、この二、三年来、しきりといわれてきたのであります。ところが、ひと月余り前、朝日新聞の三月二十六日の新聞の朝刊を見ていましたら、二十代のサラリーマンの意識調査のようなものが出ておりました。これは面白そうだと思ったので、読んでみまして、いろいろ感ずるところがあったのでありますが、その中には、私が見ましても、断絶どころか、まことにもっとも、と思われるようなことが、たくさん書いてあるのです。  たとえば〈人間の理想的な生き方というのはどういうものか〉という質問に対しての答えはいろいろありますけれども、そのひとつとして〈他人に迷惑をかけずにやりたいことをやる〉ということを書かれた方がありました。まことにもっともですね。こういうことを思っている方が相当おられるらしいということを知って、たいへん心強く思ったのであります。  しかし世の中は、新聞とかテレビとか、そういうものを通して見ておりますと、若い人たちの中で、こういう考え方と非常に違う行動をする人ばかりが目立つわけです。人に迷惑をかけるようなことでもしなければ生きがいを感じられん、というような考え方をしてるんじゃないか、と思わせるような事件が次々と報道される。一体どうなったのかと、心配する。ところが本当は、多分、二十代の皆さんの多数は、やっぱりなるべく他人に迷惑をかけずに、自分のやりたいことをやるという考えらしい。私もそう思って学問をやってきたつもりなんです。  もしも自分のやりたいことを是が非でもやろうとしたら、他人に非常に迷惑がかかることであるならば、これは大いに考え直す必要がある。私の場合、学問するということはあまり迷惑をかけずにやれるから、やってきたということもあるわけです。ところが、学問をすること自体にも、なかなか簡単でない、いろいろむつかしい問題を含んでいることが、だんだんとわかってきたのですが、それは今ここで立入ることはやめます。  朝日新聞の調査の話を、もう少し続けますと、〈理想的な生き方〉についての答えの中に〈死んでのちに、どこかに私という人間が生きていたという足跡を残したい〉というのがあります。これもまことにもっともな気持ですね。自分が精いっぱい生きる、別に死んでから足跡なんか残らなくてもいいじゃないか、そういう気持の方がすっきりしてるようですが、実際は、人間というものはそういうもんじゃないですね。  さきほどから申しておりますように、内と外とがあるんですね。なにか人に認められたい、仮に認められなくても人にわからなくても、少なくとも、これはやっぱりみんなが認めなければならない真理である、そういうものを発見したいという気持は、学者なら必ず私はあるんだと思います。本当の生きがいというのは、そういうところから出てくるのであろうと私は思っているので、今の答えを見て、まことに話がよく通じると感じたのです。こういうところには断絶はありませんね。  それから、ちょっと問題が違いますが〈理想的な社会とはなにか〉について、いろいろな答えが書いてある。その中で大変感心しましたのを一つ。〈三角形の底辺にある人たちが苦しくなく、頂点にある人たちが悪いことをしない社会〉、入学試験の模範答案みたいで、いいに決っているんですが、〈頂点も底辺もない社会〉といわないところが面白い。理想としては大変ひかえ目なわけですが、昔からこういう社会はあまりなかった。たまに、これに近い社会がありますと、大変いい時代だったと、後世までいわれるんですね。  もう一つ〈合理主義に徹し、かつ潤いのある社会〉という答えがある。これも模範答案ですね。しかしこういうふうにはうまくいかない。合理主義に徹するというのと、かつ潤いのある社会というのが両立するか、というのが問題です。もう一つ模範答案〈底辺を完全に保障した上での自由競争の社会〉、これもなかなかこの通りいかない。  私がこういうものを引用した理由は、私のような年代のものと、三十年、四十年の隔りのある若い諸君との間には、いちがいに断絶があるなどというのは、おかしい。あるところにはある——私と若い年齢のある人と比べてみれば、全然断絶してるかも知れない。たとえば大学を出て大いに研究をしている、頭のいい人で、まじめな熱心な研究者だと思っている人が、漫画を読むのが好きなんです。暇さえあれば漫画を読んでいる。これには私は断絶を感じますね(笑声)。なかなか理解できん。私にはこのごろの漫画は、全然わからんのが多い。だから、はなはだしい断絶を感ずるのです。しかし、それは深刻にとらなくてもいいかも知れない。  そういう、いろいろなことがあるわけですが、とにかく私は今日から三回に分けて生きがいの話をしなければならない。私は私なりに、自分が体験してきたことをもとにはしますが、自分が理論物理学者でありますから、なんでもかんでもなんとか理屈をつけるというか、なにかある普遍的な法則という形にまとめて、そういう法則を媒介としてこの自然界を理解するというのが本職でありますから、やはり自分の体験だけでなく、どういう学者がどういうことをしたとか、いろんな人の書いたものもありますから、それらを参考にして私なりに、創造論というようなものを、なんとかまとめて、それができるだけ多くの人にあてはまるようにする。そういうつもりで話をすれば、皆さんの参考になるというか、より生きがいのある生活をする、より創造的に生きることの手助けになるだろうと、思うわけです。 激動の時代にこそ  しかし、何といっても、こういう話は体験の裏づけがなければだめですね。よそごとではどうにもならない。ところが、自分の体験というのは、そんなに豊富じゃないんです。だれでも創造の体験は豊富じゃない。つまり人間が非常に創造的な活動で成功するということはめったに起らない。めったに起らないから貴重なのであって、平常は同じことの繰返しです。  人間の生活というものは、ほかの動物と比べてみますと、日に日にどこか新しくなっているということはあります。しかし、新たなりという部分は、たいていは大して重要なことではない。前と同じことを繰返していることの方が圧倒的に多いわけです。朝起きると顔を洗い歯をみがく。これはだれでも小さいときから毎日々々、あきずに繰返している。そういう決りきったことを繰返しているのが日常生活の大部分ですね。  大学の先生として、私も最近まで講義をしていましたが、毎年似たような講義をしております。だんだんノートも古びてくる。年々そんなに違う講義はしていません。世の中にはそれはいかんという話がありまして、毎年同じような講義をしている不勉強な教授は淘汰せにゃいかんということをいったりしますけれども、私はそれは大変おかしいと思うのです。大学で講義していることが、どんどん変るはずはない、少しずつは変えて行くにしましても、そう速く変るはずはないのでありまして、自分の研究内容というのは大いに変って行くかも知れませんが、講義というものは、そんなに変って行かないのが、むしろ普通です。  人間というのはやっぱりどういう職業、どういう生き方をしておりましても、毎日おなじようなことを繰返している。その中で、しかし繰返しでない部分がある。そういう部分がなかったら、つまらないですね。幸い私たちの生きております現代というのは、昔に比べれば、新しいことはどんどん出てきている。自分はそう新しくなれなくても、世の中はどんどん変って行く。変って行くことはよくなるということかどうかはわかりませんが、とにかく変って行く。新しいように見受けられることの中にも、ほんとうに新しいことがどれだけあるかわかりませんけれども、とにかく、世の中は変りつつありますから、自然と自分のすることも、いくらか変ってくる。そういう世の中にいる方が、生きがいを感じやすいのではないか。  昔の石器時代、それから土器などをつくって暮しておった時代には、百年や二百年はほとんどなんの変化も起らない。千年か万年にいっぺん、たとえば、だれかが土器をつくることを発見したとします。それは半分偶然的かも知れませんが……。そうしますと、その人は非常に大きく創造性を発揮したというわけですね。それは結構だけれども、ほかの人たちは、それをまねするだけで、だんだんと多くの人たちの間に広がって行くでしょう。何十年、何百年という間に、土器は日本国中に広がって行く。日本で一万年ほど前に土器がつくられたということになっておりますけれども、その前に生きていた人たちは一生の間、土器もない単調な生活を送った。  そして土器のできた時代になっても、やはり、おなじ型の土器をつくっておっただけで、そのほかに新しいことは一生の間に起らない。その次に何かが発明されるのは二、三百年後というようなわけで、大昔の人の一生は、はじめからしまいまで親と似たりよったりのことをして過ぎてしまう。全くの繰返しといってもよいような時代がずっと続いた。  近ごろは、全くその反対になりまして、めまぐるしく変る。一生の間に、あんまり変りすぎて、かえって大変困る。どこに生きがいを求めていいかわからないということになってきた。これはぜいたくといえばぜいたくですが、私たちはそういう時代に生きている。  そういう時代に生きている人間の一人である私が、三回にわけてお話したいと思いますことは、さきほど申しましたように、人間が創造性を発揮するにはどうしたらよいか、それに対する万能薬、速効薬は、あるはずはないのでありますけれども、しかし、きく薬は全然ないということはない。すでに昔の学者で多少処方箋らしいものを出している人もあります。たいていの学者はそういう処方箋らしきものを書いていませんが、そういう中に大きな例外があります。その代表として、かねがね私が引合いにしておりますのはデカルトです。  デカルトというのは皆さんよく知っておられるように、偉い哲学者であり、科学者であり、数学者でもある。十七世紀というのはベーコンとかガリレイというような人にはじまって、ニュートン、ライプニッツに終る天才的学者が非常にたくさん出た時代です。デカルトはその中の一人で、天才中の天才です。デカルトは自分が哲学、数学、科学と、いろんな方面にわたりまして自分で学問を開拓していった人、創造性を大いに発揮した人でありますけれども、それを成就するのに、自分で自分の精神をどういうふうに導いて行くか、ということを自分で考えながらやってきたという非常に珍しい人です。  だいたい学者というのは、半ば無意識的に、創造性を発揮してきた。その人自身としての心構えは持っておったにしても、自分の精神を導く方法というようなものを、はっきりとは意識しておらなかったようです。あるいは意識していても、それをはっきりした形で表現してはいないという場合がほとんどであります。  その点、デカルトというのは非常に珍しいケースで、当人自身が非常に大きな独創性を発揮した人であるから、ますます値打ちがあるわけです。自分にあまりそういう経験がないというか、あるいは方法だけは言うても、その人自身が身をもって示しているのでなければ、あまりあてにならないし、迫力もない。ところが身をもって示している人なのに、どうして自分がそうなったのかは自分で知らないという場合が、実際は多いのです。  たとえばトーマス・エジソン。今日ではエジソン流の発明家というのは成功するかどうかわかりませんけれども、彼は大発明家だった。その彼が、要するに自分はなにも特別の才能があったのじゃなくて、九九パーセントは汗であり、努力であって、インスピレーションは一パーセントにすぎぬということを言っている。それは大変私たちを感激さす言葉ではありますけれども、しかし別の言葉でいうならば、エジソンはあれだけ、いろいろな大発明をしたけれども、こういうふうにしたんだという方法についての自覚はあまりなかったということにもなる。その点デカルトは違う。どちらが偉いとかアカンとかいう話じゃなく、そこのところが違うのだ、ということですね。 一様性と多様性  そこで、その次の問題にはいりたいと思います。本来なら順序を追って話してゆくのじゃなくて、思ったことを、いっぺんに全部いってしまう方が楽です。その方が皆さんにも強い印象をあたえる。それでなにかを得ることになる。私はそうしたいのですが、そうすると来週と、三回目の話がなくなってしまう(笑声)。  生きがいとか、創造性とか、自己制御とかいうテーマを、講義スタイルで順序立ててお話するのは、私にとっては難行苦行であります(笑声)。でありますけれども、こういう難題を創造的に解決しようと(笑声)目下、大いに努力中なんです。  はじめに生きがいというものには両面があると申しましたが、その内容、どういうことに生きがいを感じるか、その内容には非常に多様性があるわけでありまして、また多様性がなきゃおかしいわけであります。仮に現在生きている日本人だけをとりましても、一億人いるわけです。願わくは、一億人みんなが、なんとか生きがいを感じながら生きて行くということでありたい。  自分もそうであるし、人もそうでありたいと思っているわけです。そうであるためには、それぞれの生きがいの中身が多少は違ってるはずで、したがって日本人全体としては、内容は非常に豊富で、多様性がないと困るわけです。  しかし、ここで一つ、問題が出てくるんですね。生きがいというものは人によっていろいろでありうる、多様であるのがあたりまえだと私は思いますけれども、逆に多数の人々の生きがいの内容が一様な場合も考え得るわけです。私はそういうのは好きじゃありません。しかし、みんなが全くおなじことに生きがいを感じる、というような社会がよろしいという考え方もあるかも知れませんね。たとえばアリとかハチ、これは人間が思っているような生きがいを感じているわけじゃない。ただ、私は、みんなが一様な生き方をしてる例として、考えるだけです。  例えば、ハチはとても人間がまねすることのむつかしいハチの巣をつくったりしている。それは本能といわれているように、からだの中にそういうメカニズムがちゃんとできている。ハチはハチの巣をつくるようにできてるんですね。みんなが、同じ能力を持って、同じような仕事をする。女王バチを除きますと、働きバチになってしもうたものは、みんな同じですね。もしもハチが生きがいということを考えるとしたら、どういうことになるか。みんなが同じことをして、それでみんなが同じように生きがいを感じたらそれでいいじゃないか。そういう考え方も、あると思うのです。多様性はいらない、一様でいいじゃないか。これは面白くないけれども、頭から排除しようとは思っておりません。  そういうことと違うようで、実は非常に関係のある問題で、救いとか安心とかいうのがあります。私はそういう話に深入りするつもりはない。しかし、ちょっとだけ申したいのは、昔は不幸な人が非常にたくさんおった。私がいうような、人それぞれの生きがいなんていうものは、大多数の人にとっては高嶺の花だったわけです。限られた人以外は、自分の生き方を選びとるなど全く不可能だった時代があったわけです。そういう時代には、それぞれの人が、いろいろ違った仕方で生きがいを感ずるなんていうぜいたくなことはできなかった。そういう時代には宗教というものが、今よりずっと大きな力を持っていた。  二千何百年の昔に大宗教がいくつも出現した。例えば仏教が現れた。それよりも前に、すでにバラモン教のようなものがあった。キリスト教は少しおくれて二千年前に出現したけれども、それ以前からユダヤ教があった。中国では儒教が出現した。少しおくれて道教ができた。それらも、やはり宗教的性格を持っていた。そういう宗教といわれるものの救い、安心、悟りというものは、私がいっている生きがいとは少し違いますね。  みんながそれぞれの仕方で生きがいを感ずるということを、宗教はいちがいに否定してはいないでしょうが、中心的な考え方は何かというと、どんな宗教でも教祖といわれる人の教えというものがあって、その教えを信じ、それに従わなければいけない。それを絶対の真理として信じなければいかんという点は、どの宗教でも同じです。そういう宗教が現にいろいろあるわけですね。未来永劫なくならないのかどうか、私にはよくわかりません。ただ私は宗教の話はしない。そういうことをおことわりしておきたい。  そこで、もとへ戻って、生きがいの内容というのは、それぞれの人によって違う。一致する場合、一致する部分はあるかも知れないけれども一般には違う。それぞれ自分はこういうことに生きがいを感じる、という場合に、さきほど申しました中と外との両方の条件をみたすような生き方というのが、一番望ましいでしょうね。たとえば学問とか芸術とかいうものでは、そういうことができやすい。ところがそうはいかん、そうはなっていないという場合でも、自分で満足する。主観的な満足感、あるいは幸福感——幸福というと、それはむつかしく、はなはだあいまいな言葉になりますけれども、——喜びというか、そういうものが主観的には得られるという場合が、ずっと多いわけです。 学習と研究  その典型的な場合が学習だと思います。それは教育の問題につながるわけですけれども、学習と研究とをくらべてみますと、似ておりますが、違う。人間というものは、子供のときからいろんなことを学習する。学習するということは狭くも広くもとれるわけですが、非常に広くとって考えますと、生れ落ちてからあと、お母さんのすること、近くにいる人のすることを、どんどんまねをする。あるいは理解しようと努力する。簡単にいうなら模倣ということを繰返し、繰返ししている間に、それがだんだん身についてくるわけです。  学校へはいりますと、先生から教えてもらう。教えてもらうにしましても自分が習ってゆかなければならない。ところが学習ということは、これは単なる受身でありますと大変おもしろくない。学校へ行きたくなくなる。なにかを学んで行くというときでも、自分としてはなにか新しいものを発見する喜びを味わいながら学習して行く方が当人にとってもいいし、また、それが準備として役立ちまして、のちのちには単に主観的ではない、客観的に価値のある発見につながり得るようになる。学校で習っていることというのは、客観的には別に新しいことではないわけです。しかし、数学の問題、幾何なら幾何の問題がありまして、それを解くということは、その生徒にとりましては、はじめてのことですね。そこで一生懸命になって答えを発見する、解き方を見つけ出すということは、これは主観的には確かに発見です。そういう発見の喜びを味わう。私自身にもそういう経験があります。  学校時代にはいろんな学科がある中で、とくにユークリッド幾何などというのは、問題の解き方、答えが書いてあったりしますが、それをさきに見てしまったら、こういう喜びは得られない。時間がかかっても、自分で解き方を見つけ出して行くということ自身が、なにもそのことに客観的な価値はないけれども、それが準備になり、やがてそれが研究というものにつながって行くわけです。  そして、研究という段階になって、新しいものを発見しようとする努力が実を結ぶ可能性を大きくして行く。学習という過程が、そういう要素を多く含んでおればおるほどいいわけですね。だから宿題をたくさん出して、明日までに答えを出せと、時間を限ってたくさんのことをやらせるのは私はあまりよくないと思う。まして答えを覚えておけば、試験は通るからそれでよろしいというのではいけない。これは、皆さんにお話する必要もない、わかりきったことであります。  私がいいたいのは、やはり生きがいの問題、あるいは創造性の問題というのは、そういう段階から考える必要があるということです。それは学校時代から、さらに元へ戻りまして、学校へ入る以前の小さい子供というのは、学習はしてないように見えますけれども、実は、いろいろのことを学びとっている。  最近、私は新しい学習をしつつあります。それは昨年、孫娘ができたので、自分の憶えていない幼いころの成長を、再体験している、といってもいいでしょう。別に孫を研究の対象にしてるつもりじゃないけれども、孫を相手にしておりますと、人間というものは、いかにして成長して行くものであるかということが、具体的にわかってくる。自分の子供のときのことは、三歳くらいより以前は、当人はなんにも憶えていません。いつの間にか大きくなってしまった。小さいときにどうしたかは知らない。これは人間にとって非常に決定的な問題の一つだと思いますが、人間というものは自分が何であるか、よく知らないですね。  私は物理学者で、自然界のことをいろいろ研究しておりますから、外の世界のことは割合よく知っている。宇宙のずっと向うのこととか、素粒子のように目に見えない小さなもののことは、知っている。ところが身近なことは、かえって、なかなか答えられない。特に自分の中のことを一番知らないわけです。  この問題は、これからたびたび出てくると思うのですけれども、人間というものは、もともと自分のからだの中がどうなってるのか知らなかった。これは人間とはなんであるかを考えるときに、極めて重要な点だと思うのです。からだの中どころか、自分の姿も知らなかったわけですね。鏡というものは、いまはどこに行ってもあります。たいていの人は、朝ちょっと鏡をのぞいて、自分の顔を見ているでしょう。忙しいから、しげしげ見ている暇はないかも知れない。男性と女性とでは、鏡を見る度数も時間も違うでしょうけれども、いずれにしたって、小さいときから自分の姿を見ている。鏡に映ったものが自分だということは非常に早くわかっている。私の孫娘を見ておりますと、まだ一歳二ヵ月ですけれども、もうそれがわかっているようです。どうしてわかるようになるのか。不思議ですが、とにかくわかっているようです。  しかし、それは現在の話で、昔はどうだったのか。鏡がなかった時代、あっても、よくうつらなかった時代、貴重品で一般の人の手に入らなかった時代、水鏡というようなこともあったでしょうが、他の人の姿を見て、自分も同じようなものだろうと思ったのが普通でしょう。それは非常に間接的な自己認識方法です。鏡で見るということだって、いったん外へ出してみる、外の世界へ投影された自分を見ているわけですね。 外化された自己  これは科学論みたいな話になりますけれども、科学とはなにかというと、何でもかんでも外化して知るということだ、ともいえます。外化するというのはどういうことかというと、鏡に映してみるというのも、その一つです。自分というものが鏡に映って外に出るわけです。それを見て、自分の顔つきは自分が期待していたほど立派でないとがっかりする。あるいは、なかなか立派だと、うぬぼれるかも知れない(笑声)。それはどっちであろうと、いっぺん外化して知る。  ところが、自分のからだの中となると、なかなか外化できないから、知らずにいるわけです。だいたい頭で考えているということさえ、決して自明のことじゃないですね。古代のギリシャ人は非常に賢かった。西洋医学の元祖といわれるヒポクラテスは、人間がものを考えたりするのは頭でやっているということを知っておった。もともと、人に教えられるか、本を読むか、あるいは解剖でもしてみない限り、自分がどこでものを考えているのか、知らずにいるというのが、やっぱり人間の本質でもある。ギリシャ以来、西洋人は解剖などをさかんにやってたから、西洋流の医学も進んだ。ということは、全部を外化した結果です。他人のからだの中を見て、自分のからだの中もそうだろうと思うわけです。  外化ということと関連して、どうも科学論の方へ話がそれますが、もう少し脱線させていただきますと、この自然界には、同じものがたくさんある、少なくとも、よく似たものはたくさんある。人間というのは、おたがいに違うところはあるけれども共通な点が非常に多い。そういう共通性を持った人間がたくさんいる。あるいはもう少し広く見ると、サルも人間に近い。さらには犬やネズミだって人間と似たところがあるだろう。違いも大きくなって行くが、それでも共通性が相当残っているというようなことで、動物実験なんかやったりしているわけです。それも外化の一種であります。  近ごろはサルの研究が日本で非常に進んで参りました。サルの研究が進んでくると、人間のこともわかってくる。サルの社会に文化があるとか、サルの社会に群れがあってボスがおるとか、いろんな話がありますが、それが逆に人間の社会の理解に役立つ。これも広い意味の人間の外化です。人間は自分をよく知らない。小さい時から、いろんなことを身につけてきたが、それを知らない。知らないけれども、いつの間にか身につけてきたということがたくさんあります。それは狭い意味での学習より以前でありますけれども、学習以前がまた非常に大事なのです。  私は自己制御なんて、非常にむつかしい、自縄自縛みたいな題をつけて困っているんです。これも自己制御しすぎたんですけれども(笑声)、英語ならセルフ・コントロールですね。制御とはなにか、コントロールというのはなにか。だいたい人からコントロールされる、自分が他の人やものをコントロールする、他のものが自分をコントロールする、それが普通で、自分が自分をコントロールするという場合は、むしろ特殊ですね。  二十世紀の前半の終りから制御理論というのがさかんになり出した。しかし、そういう話は専門の方からお聞きになったらいい。私は人間の自己制御についてだけ、お話しようとしているわけであります。人間が学習するということは、なにをしてるのか。それは研究への準備段階と見られることを、前に申しました。研究という段階にきますと、なにか一つ創造をしたいという欲求がはっきりしてくる。私も年がら年じゅうそれを望んでいるが、なかなかうまいこといかんです。創造とは、なにか今までの型にはまらんことですね。こうすればこうなると決っていたことだけを、後生大事にやっているだけじゃ、創造にならないわけです。それからはずれたことを思いつかないとだめなんですね。  ところが学習とか研究というのは、もう一つ、それとは反対の面を持っている。たとえば、一番わかりやすい数学の場合をとってみますと、ユークリッド幾何で、ある問題を解く、証明する。証明をするというのはどういうことかといいますと、ある定理があって、それを証明しようとする。公理というのがいくつかありまして、その公理から定理を出してくる。それをやる途中では、論理の飛躍が一ヵ所でもあったら駄目です。論理の筋道からはずれないようにしなければならない。自分の思考が勝手な脇道へそれないようにする。  ところが、創造というのはまさにその反対で、どこかで飛躍しなければいかん。そういう矛盾をいつもかかえているのが研究活動です。私自身も、いつも、この反対の性格の知能の働かせ方の板ばさみになっている。もうちょっといい方を変えるならば、自分でなにか勝手な知能の活動をしているのでなくて、ある筋道に乗せよう、乗せようとしている。しかし同時に、そうやっているうちに、どこかで、はたと悟ることがある。なにかひらめくものがある。なにか思いつく、思いあたる。そういう形で創造性というものが現れるわけですね。それが現れたら、それを新しい出発点として、また自己制御をしながら進んで行くというわけです。 目標達成へ自己制御  自己制御ということに関連して、私自身の体験的なことを申しますと、大分以前に古い机の引出し、本棚の中をひっかき回しておりましたら、大学を卒業したころのノートやメモみたいなものが出てきたんです。ノートの中に、厚いボール紙になにか書いてあるのがはさんであって、日課と書いてある。何時に起きる。何時からどれだけの勉強をする。どの本を読むとか、あるいは、もっと一般的に日々の生活の規律を書いたものが見つかったんです。確かに私は学生時代から、そういうことをやっておった。自分の生活を、日課などつくって、規制して、必要な勉強を順序よくやって、それからおいおい創造性を発揮しようと思っておった。  たとえば六時半に起きる、と日課に書いてある。しかし私はもともと早く起きるのは苦手でした。多分六時半に起きられなかったのでしょう。その次にまた、別の日課が書かれていて、七時になっている。それから勉強の時間も、ちょっと少なくしてある。それでもだめだったとみえて、もっと違った日課が書かれている。あとほど規律は緩くなっていっている、楽になっている。自分の実行困難な日課をつくっていたわけですね。どうせ、その通りにできないのだから、はじめからもっと緩くしておいたらよさそうに思いますけれども、きつすぎるからこそ、日課の意味があったのかも知れません。そういうことをやっておった。  別に自慢になる話でもないのですが、私のいいたいことは、自己制御という言葉を使うならば、自分で自分の生活全体をなんとかそれでコントロールする。自分は物理学者になるんだ、いまは学生か、あるいは大学出たてで、卵ぐらいであるが、学者になるためには、自分の全生活をそういう方向に向けないといけないと思って、日課などつくって努力をしておったわけです。  しかし人間の生きがいというのには、そういう面があるんだと思うのです。つまり自分というものを、自分で拘束したりすると、窮屈で、楽しくないはずでありますけれども、実はそうすることによって、なにか自分の理想を達成できる。それには、いろいろ困難があるわけですね、わざわざ困難にしているというわけじゃないけれども、そうやすやすと達成できない。達成しようと思えば、大げさな言葉を使うならば、全身全霊を傾けなければならぬ。そういう場合には、確かに大きな生きがいが感じられるわけです。 素粒子研究の歴史  また自分の話の続きで申訳ないのでありますが、私が大学を出たころ、今から四十年以上前でありますが、理論物理学者になろうと思った。それは大学生時代から考えていたことですけれども、そのとき考えていたことの内容をくわしくいうと、物理学の話になってしまいますのでやめますけれども、一口で申しますと、できるだけ根本の問題をやりたい、あるいは一番わからないところ、未知の領域の研究をしたい、と思ったのです。それはつまり、なかなか成功しないことをやるということですね。成功するのには時間がかかる、あるいは大きな努力がいる、成功する確率は小さい。そういう大それたことをやりたいと思った。その時の自分の力に余っている——ということは、私にはよくわかっておりました。よくわかっておったけれども、それをやるのでなければ、物理学者になろうとしている自分の生きがいはなかろうと思ったのです。  そのときに私が解決、あるいは探究しようと思った問題が二つあった。その第一は当時の理論物理学に内在する根本の困難といわれるもので、そういうむつかしいことに、いきなり手をつけてみましたけれども、一、二年して、こいつはなかなか解決できんぞ、世界中の偉い理論物理学者がみんな、根本問題だということを知っていたから、先輩の学者がいろいろやってるけれどもなかなか解決できん。これは多分、ちょっと今すぐにはいかんだろう。私はそう判断して、もう一つの、少数の学者が、ようやく手をつけはじめた、非常に未知な領域の方に手をのばすことにした。そちらの方から出てきたのが、中間子理論というものです。  ところが中間子論をつくりあげてみると、話はそれで終らないことになってきて、だんだんと局面が変って行った。その結果、私はふたたび第一の問題と取組むことになっていた。それで結局その方をずっと今日まで三十年近く続けているわけです。局面が非常に違っているので、四十年前とは一見全く違う、別の問題みたいになっておりますけれども、そこにずっと一貫するところのものがあるのであります。その解決にはなかなか成功しませんけれども、十年も二十年もしなきゃ解けないだろうというふうに、私は思っていない。いまにも解けると思っております。  いつでも、いまにも解けると思ってきた。それを、ほかの学者は非常におかしいと思う。急に解けそうもないものを、いまにも解けるようにいうとるのはおかしい。結果的には、おかしいと思った方が当っていた。解決に近づいたと思ったら、また思いがけない新しい局面になるというのが、過去三十年ほどの間の素粒子研究の歴史です。しかし私は、その間いつも、いまにも解けると思ってきた。いまにも解けると思わなければ元気がでないですね(笑声)。 ナゾ解明に四十年  だんだんこっちも年をとってくるし、気も短くなってくるし、ずっとさきの話、二十一世紀の話にしてしまったら、私に関係ないことになる。もっと早く解決されるというて、皆から思い上がっているとか、少しおかしいと思われていたのでしょうけれども、人間なにもかも、おかしくなかったら、やっぱりおかしいですね(笑声)。  私は随分まともな人間だと、自分では思ってます。しかし、やっぱりおかしいところがある。できそうもないことをやってみる、それを、いまにもできるように思って、やっている、そういうものに執着をしている。しかも四十年以上も執着してるんです。考えてみるとおかしいですけれども、人間の生きがいには多様性がある。ということは、人間というものは、いろいろなものに執着できるということです。  人によって執着することが違う。釣りに凝る、マージャンに凝る、あるいはなにかを集める、チョウチョウを集めるとか——人間はいろんなものに執着することができるわけです。他人から見れば奇妙なものに執着できるということが、やっぱり人間の人間らしさであり、そういうところに、人間のしあわせみたいなものがあると思うのです。  さっきのアンケートにあった、若い人のいっていることの一つに〈他人に迷惑をかけずにやりたいことをやる〉というのがありました。チョウチョウを集めるというのもそうですね。これは、他人にあまり迷惑をかけずにできる。そして自分はそれに大きな喜びを感じる。私はこれは非常に人間らしいことだと思うのです。  私自身は物理学以外に、いろいろ趣味がありますから、ほかにも執着したいことがたくさんありますが、いくら多様性といっても、一人の人が、あまりいろいろなものに凝ったらだめです。多芸多才で、なんでもできると、かえっていけない。器用貧乏という言葉もあるし、また「十で神童、十五で才子、二十すぎたらただの人」というのもありますね。世の中にはそういう実例がいろいろあるわけで、それも場合場合によって違うのだと思いますけれども、一般的にいって、人間というものはいろんなことができますと非常に移り気になって、これもやってみよう、あれもやってみようということになる。それが苦もなくできますと、かえってアブハチとらずになる。  また自慢話みたいになりまして、はなはだ申訳ないが、お許し願いたいのですけれども(笑声)、私はだいたい、何をやっても、はじめはなかなかうまくいかない。どうもスタートが悪い。それでやめてしまうことが多い。しかし、そのかわり、続きだしたら、いつまででもやってる。すぐにさっとはいっていけるというのは才能があるというわけで、そういう点では私は才能がないのでありまして、そうするといろんなことをやれないから、どれかを一生懸命にやるしかない。一つのことにとりついて何十年でもやってきた。ばかみたいなもんですね。ですから、私にとって生きがいということは、ばかになるということでもあるわけです。  ばかになったら生きがいを感じられる。ばかであるのか、ばかになるのか、その辺はよくわからない。ですから、いろんなことがやすやすとできるということは、かえって困ることですね。十で神童うんぬんということになりやすいわけです。  私は物理学者をたくさん知っておりますが、そういう人たちの学者としての偉さは、自分も物理をやっていますから自然わかってくるんです。非常に偉い学者の中にも、タイプがいろいろありますが、なんというか、つぶしのきかないというか、そういう人がある。むしろ、つぶしがきかないということが非常にプラスになって働いている場合が少なくない。  人間の生き方はいろいろありますから、なにもつぶしのきかない方がいいというわけでもないけれども、もしも自分がつぶしがきかなかったら、これは大いに生かしたらいいです。つぶしがきいた場合どうするか。この場合の方が、はるかにむつかしい。いろいろと、つぶしがきくにもかかわらず、ある一筋の道を歩んで、生きがいのある一生を送るということは、相当にむつかしいのじゃないかと思う。  皆さんの中にも、なんでもできる方がたくさんおありだと思いますが、そういう方は大いに気をつけなければいけない。私なぞ、もう物理のほかに、なにもやれることがないと思った。他のことは、なにをやってもだめだと思いこんでいたから、別にほかのことをやろうと思わなかった。まあ相当の年になってくると、ほかのことを少しやってみよう、などと思うようになった。しかし、それに打ちこむというのではない。趣味としてやるだけのことですね。  研究に全知全能を集中させた例として、ニュートンがよく引合いに出されます。彼についてはいろんな逸話があります。どこまでほんとかわかりません。彼は生きてるうちから偶像化されてしまったのですが、実際は非常に面白い人物であり、奇妙な人物でもあった。彼が研究に熱中して、うっかりしておったという話が、昔からよく知られていますね。私が子供のときに読んだ本にも書いてあった。ニュートンは勉強に一生懸命になっておったので、卵をゆでようとして、時計を卵と間違えて、鍋の中へ放りこんだというような話——そういうこともあったかも知れない。あることに一生懸命になれば、ほかのことはおろそかになる。それもあたりまえでしょうね。  しかし、人間というものは、そういうことだけではないのでありまして、それならニュートンは真理を発見することばっかり考えておって、世間のことはなにも考えておらなかったかというと、決してそうではない。前に申しましたように、生きがいというものはやっぱり自分が満足する、自分がやりたいことをやるということではあるけれども、同時に、人のためになるとか、人に認められるとかいうことも含んでいるわけです。これが全然ない場合というのは、私はないと思いますが、ニュートンの場合も、自分の方が先に考えついたのだと主張して、いろいろな学者と論争しています。少しおかしいくらい、ニュートンはそういうことにこだわっていますが、人間が生きているというのは、多かれ少なかれそういう部分があるということです。  そういうことと関連して、いろいろ思いつくことを申しますと、人間が日常生活でやっていることというのは、意識的にやっていることと、意識せずにやっていることの両方があります。毎日繰返しやっていることは、ほとんど意識せずにやっている場合が多いわけです。毎朝、歯をみがいている、それを自分は意識はしておりますが、その意識たるや非常に弱い。なにか新しいことをやるというときには、意識は鮮明でありますけれども、決ったことをやっている場合には、あまり意識しない。どこかへ行くのでも、毎日通っている道なら、どんな道を通って行こうと思わなくても、自然に目的地へ行ける。つまり反射的な運動に近いわけです。明瞭な意識的活動というものは、なにか新しいことをやるとか、新しい刺激があたえられた時とか、外からにしても中からにしても、新しいものが出てきてそれに直面したときに、意識というものが非常にはっきりする。  しかしながら人間の活動というのは無意識的に行われている部分が非常に大きい。そういう部分というものの中に、特別のものとして記憶というものをふくめてもよいでしょう。非常にたくさんのことを記憶してるけれども忘れている。忘れているけれども記憶しているわけですね。うまいことできているのでありまして、記憶の全部が、いつでも意識されていたら、邪魔になってしようがない。ものが考えられない。 記憶よりも思考  私がこんな話をしているときにも、いま話さねばならないことだけが念頭に浮んできている。ほかのことは忘れている。さっきいったことも、大分忘れてしまっている。しかし忘れるといっても記憶が残っていないということではない。そういう記憶を、いっぱい人間は持っている。その中でいま必要なことが意識にのぼってくる。実にうまいことできている。必要な記憶がうまく意識に出ないようになると困る。うまく出てくるかどうかは、素質とか修練とかいろいろなことに関係しているでしょうが……。私は学生時代、試験のときにいつも非常に困っていた。せっかく前の晩に勉強して覚えておったのに、試験場に行ったら思い出せない。記憶力の強い人と弱い人、記憶の仕方の上手、下手など、いろいろ関係してくるでしょうが、私は若いころあまり記憶がよくなかった。このごろの方がましだと思っているんですが……、若い時は記憶なんてものは大したものじゃないと、自分勝手にきめこんでいたが、やっぱり人間というのは、考える力が大事です。いろんなことをたくさん記憶しているだけでは創造的活動はできない。しかし、記憶ももちろん大事です。近ごろの電子計算機は昔の計算機と違って、記憶装置を持っている。人間より計算をずっと早くやることができる。しかし人間の方がもっとたくさん記憶しているし、記憶の多様性が非常に大きい。ただ人間の記憶は、必要なときにうまいこと出てこないですね。さっきから話しながら、もっとうまくしゃべろうと思っても、私の記憶の中から、一番ピッタリするものを引張り出せない。もどかしい。モタモタしてる……。しかしながら、うまく意識に現れてはこないが、バックグラウンドがあり、それが自分で気がつかないが、陰で活動してる。そういうことがまた大事なんですね。  こういう話があります。ポアンカレという有名なフランスの数学者がある。この人は物理学者でもあり、天文学者でもある。皆さんも御存知でしょうが、彼の書いた本の中で四冊が一般向きで、いずれも日本語に訳されております。『科学と仮説』とか、『科学と方法』とかどれも非常に面白い本でありますが、その中に非常に有名になっております彼の体験談があります。彼がある数学の問題を解こうとして、一生懸命それにかかっておった。ところがどうも解けないというので、いったんそれをやめて忘れてしまっていた。そしてどっかへ旅行したんです。旅行して、どこかで馬車——当時はまだ自動車は走っていなかった——馬車に乗ろうとして、踏台に足を踏みかけたときに、ぱっと、解答を思いついたのであります。  彼自身の推論によれば、しばらくの期間、自分は意識的にはなにも考えていなかった。一応忘れていたけれども、その忘れている間に、自分の潜在意識、意識下のいろんな知能活動があって、それがなにかの拍子に、ぱっと意識に上ってきた。意識下ですでに問題を解いておった、ということをいっているのです。  これは非常に面白い考えでありまして、人間というのは非常にはっきりと表現できる、つまり自分がはっきりと意識し、はっきりと言葉なら言葉で表現できるというのでないと、ものがわかっていない、と思われている。黙っている人はなにもわかってないのだろう。わかっているならば、なにかいえるはずだと、判断しやすい。しかし、いえなくてもわかっているということもあるのです。  また私の個人的な経験に戻りますが、さっきの孫娘の話の続きですが、零歳のときから一歳ちょっと越している今日まで、私の観察するところによりますと、まだ言葉はしゃべれない、はっきりといえる言葉はほんの少ししかないのでありますが、しかし、案外こっちがいろいろ話しかけることがわかっているらしい。わかっているとしか判断できないような反応を示す。わかっていても、まだ当人は、それを言葉として口から出せない。しかしわかっている。そういうわかり方というのがある。  やがては、それが言葉となって表現できるようになって行くでしょう。こういうことは、必ずしも小さい子供だけに限らないのであります。人間にはうまく表現できないけれどもわかっていることが、案外たくさんある。そういうのは要するにわかっちゃいないのやと判断する人は、あまりよくわかっちゃいない(笑声)。  人間というものは、ですから、その人が成功したというか、具体的に、なにかはっきりしたことをなしとげて、それによって世の中から認められる、それが普通の常識的な意味での成功ですね。そういう成功だけで人のねうちを判断したらいけないと、私はこの十数年来、だんだんと強く感じるようになってきました。人間の創造的活動というので大事なことは、やはりそういうはっきりとこうだといえる前の、モヤモヤとしている、自分でもなんともわからんというところが非常に大事なものです。そしてそれで終ってしまうかも知れない。その人は一生懸命努力するけれども、結局、他人にはっきりと認めさすことができるような成功に到達しなかったならば、その人生は無意味だったかというと、私はそうは思いませんね。  さきほどから申しますように、人間の生きがいというものは、やっぱり自分がやりたいことをして自分が満足するということであると同時に、その半面には、ほかの人のためにもなるとか、ほかの人にも認めてもらうということ、この両方ある方がいいに決っています。しかしながら、それはそうであるけれども、そういかん場合もある。そうしたいけれども、なかなか自分としても十分わからない、したがってまた、なかなか人に伝えられないということもあるわけです。私自身の研究にしても、一番奥深いところにふれていると思う部分が、一番人に伝えにくい。多分、言葉による表現の下手な日本人の場合、それが他の国の人の場合より多いんじゃないかと、このごろ考えるようになってきたんでありますが……。 他人に認められずとも  そういうことと関連して、いつも言うことですけれども、学問などやっておりますと、最初私がなにか考え出したら、それは絶対少数意見ですね。自分一人しか考えていないからこそ独創的なのですね。それが、なるほどと思う人がだんだん出てくる。絶対少数から始って、やがてはみんなが認めてくれるようなものになる。そういうものが真理です。しかし、なかなか認められるようにならないかも知れない。その人の一生の間には認められないということもあり得る。それにもかかわらず、そういうことを一生懸命努力しているということには、大変意味があるというふうに、私はだんだん考えるようになってきたのです。それはさっきの、なにに執着するかという問題と、またちょっと違うわけですね。  いろいろと脱線して行って、どこへ話が行ってしまうのか、自分でもよくわかりませんけれども、もう一つ、私自身の経験をつけ加えたいと思うのです。それはなにかといいますと、なにかに執着するという場合、私など四十年間同じことに執着している。キツネがついたみたいになっている、というふうに自分で考えることがあります。私の場合には、簡単にいいますと、ある観念にとりつかれるということなんですね。たとえば、三十五、六年前に中間子の観念にとりつかれた、とりついたらなかなか離れなかったから、一つの理論にまで具体化した。はじめは、なにかがひらめいた、という感じがありますが、ひらめきが何度かあって、とうとうなにかがとりつくという感じになるわけです。  ですから冷静に考えれば非常におかしい。なぜそんなおかしいことを考えるのか、それが客観的な真理かどうかを判定するための、はっきりとした決め手をその時は持っていない。それにもかかわらず、本当だろうという自信がある。そういうこともあります。  きょう、なにもかもお話してしまうと、あとが続かなくなってしまいますから、最後に一つだけ話をつけたして、きょうの講演を一応終りまして、あとで皆さんから質問というか、どういうことを私から聞きたいかを、ちょっと教えていただきたい。  さきほどからいろんなことを申しました中で、自分を規制するということは昔から言われていることなのです。平凡といえば非常に平凡なことなのです。日本では昔から自分にうちかつ——克己(こつき)ということをいいました。このごろ余り言わなくなったが、大いに言う必要が、また出てきたと思うのです。自分に克(か)つということはむつかしいだけでなく、今の人には非常におかしいようにさえ思われてるかも知れない。  有名な物理学者にシュレーディンガーという人があります。皆さんの中には量子力学を御存知の方、勉強された方も、おられるでしょう。名前ぐらい聞いた方は多いだろうと思います。この量子力学には、シュレーディンガー方程式というのが出てきます。これはニュートンの運動方程式と同じくらい重要な方程式になっておりますけれども、このシュレーディンガーは物理学者であると同時に、非常に偉い思想家でもある。この人が、いまの克己の問題でいろんなことをいっているのですが、詳しい話は次の機会に譲ることにして、「人間というものは自分が彫刻される素材——西洋なら石、日本なら木だと思っていいですね——であると同時に、自分を彫刻して行くノミでもある」ということをいっている。それは自分が自分にうちかつと同時に、自分が自分にうちかたれることでもあるということであります。  まことにその通りだと思うのでありまして、つまり生きがいということの本質は、そういうところにあるわけですね。  近ごろとにかく外側ばかりに気が走る。科学というものは外化するものだと申しましたけれども、外化ばっかりしてたんじゃいけない。その科学を推進させている科学者は、シュレーディンガーにしても、他の人にしても、自分にうちかつ、という努力をしてきたわけです。  これはなにも哲学者とか思想家とかだけじゃない。人間生きてる以上、それをしている。それによって人間が立派になるということは、昔もいまも変らない。しかも、それは創造性の問題とも別じゃなく、むしろ、生きがいそのものかも知れない。近ごろはそういうことを言わなくなった。なぜ言わなくなったのか、そこに大きな問題が横たわってると思います。 質疑に答えて——  問 生きがいというのは自分のためでもあり、他人にも認められるということであるという他人が、先生がなさったような全世界的な大きいものにとれる他人だったらわかるんですが、小さいことしかできない私たちが、その他人というのをどういう対象と考えたらいいのか、自分のごく周囲にいる人たちにとって価値あることをしても、なにか別のところではどうなっているかわからない。他人にも価値あるという他人をどうとればいいか……。  湯川 それはなかなかむつかしい問題や。それは少し立入って考える必要がある。今はちょっとだけ申しますが、たとえば科学者がみんなのためにするという場合の他人の範囲は、非常に大きいように見えるわけですね。これは人類のためだとか、なんとかいうわけです。ところが真理を発見するというようなことは全人類的な意味があるだろう、それだから、その他人というのは、家族とか、あるいは日本人だけとかよりずっと大きい、という場合でも、本当に人類のためになるかどうか、長い目で見ると、非常にむつかしいことになる。たとえば核兵器がどうして現れてきたかというと、人間の知識が進んだから、そこから出てきたわけですね。いまいろんな方面の学問がどんどん進んでおりますけれども、それで人間の知識がふえたのだから、それでよろしいというだけではすまない。人間が知識を蓄え、今までより多くのことができる、より大きな能力を持つようになってくるということは、一面では非常に危険なことでもあるわけです。そうすると他人のためというけれども、ちょっと二手三手さきまで考えただけなら、いかにも人のためになるようだけれども、もう少しさきまで考えると、とんでもないことが起り得るということがわかってくるかも知れない。特にわれわれ学問しているものは、今後はうんと読みを深くしていかんならんということです。以前は読みを深くするといっても、自分の専門の研究だけについて読みを深くする、そのほかのことは考えんでよろしかった。ところが、今後は、どこへどう影響するか、どういうところへ、どんな思わぬはね返りがあるか知れないから、さきのさきまで、いろんな可能性を読んで行かなければならん時代になってきた。それは学者だけじゃなしに、誰にとってもそうだと思います。それが現在の私たちの、これからさきもそうですけれども、直面している問題だと思います。  だから私は他人のためという、あらっぽい言い方をしましたけれども、何が誰のためになるかは、きわめてむつかしい問題ですね。ある狭い範囲ではプラスになっていても、大きく考えるとマイナスになっている、という場合が少なくない。しかし、さきのさきまでずっと考えて行くと、なかなか読み切れんということになる。しかし、そういうところまで考えるようになったということが、人間として、あるいは人類全体としての本当の進歩だと、私は思いますね。  問 私も生きがいというものは確かに創造的活動にあると思うわけです。創造的活動というのはいわゆる自然とか人間とかを対象としてそれとの対決、かかわりあいの関係にあると思うのですが、実際現在の社会で産業界なんかに携っている人たちなんかでは、もう完全にコンピューター・コントロールされているとか、標準化されて創造的活動ができない。それを逃避するために、生きがいというものを自動車とかテレビなどに逃避という形で求めている。ですから、そういう社会においては、どういうふうにしたら創造的な活動ができるのか、その辺を……。  湯川 筋肉労働が頭脳の労働に変ったといっても、単純な労働、繰返しみたいな労働が多くなっていて、それでは生きがいは感じられない場合が多い。職場で働くこと自身に生きがいを感じられるようなことになっているのが望ましいのに、そうはならない場合が多い。今後、労働そのものはさらに軽減されて行くだろう。そうすると余暇、レジャーの時間はふえて行く。だからそれをどう生かして行くかということの方が生きがいの中心問題になって行くかも知れない。そういうことが考えられるわけですね。  問 それはさきほど先生が言葉を濁しておられたけれども、よりよくはないという方向ですね。  湯川 いや、それはわからない。すべての人が非常にしあわせな環境に生れて、自分のやりたいことをやって、それで生きがいを感じているのだったら、私はなにもいうことはないですけどね、なかなかそうはいかない。ですから、さっきの釣りの話みたいなものは本当の生きがいではなく、次善策であるというたけどね、しかし将来はわからんですね。変って行くのではないですか。なにを人間はするようになって行くかわからんと思うな。つまり私は物理学をやってきたが、しかしもっとさきの時代の人には、物理学を一生懸命やるということなど生きがいの中に入らないかも知れない。レジャーというのは今は暇つぶしみたいだけれども、そうでなくなってくるんじゃないでしょうか。その創造的な生かし方というのを考えんといけなくなるのじゃないか。労働の時間そのものの中に生きがいがあったら、それは一つの解決ですよ。しかしそうでない場合が非常に多い。しかしその場合には、あとの時間の生かし方というのは非常に変って行くでしょう。人間はなにに生きがいを見出すかということになると、それはいろいろあるんじゃないですか。私があげた釣りの例はまずかったかも知れないけれども……。  問 それは逃避にしかすぎんのじゃないかと思うのです。  湯川 しかし、レジャーの時間がふえても、そこでは創造的活動はできないとはいえないですね。労働させられるのは面白くないということはあるでしょう。しかし、だから、あとの時間を生かして行くというのはだめだ、逃避というのは、どうもそう思えないね。あなたのおっしゃるような理想社会というのは、なかなかできないような気がする。全部の人がすべて本業で創造的に活動してると思えるような世の中は非常にいいんですが、なかなかそうはいかんですね。  ただいえることは、その人の職業としての仕事は、余り面白くない場合がたくさんあるだろう。しかし、そのために費す時間は減って、そのほかの時間はもっといろんなことが自由にできるだろう。それを生かして行ったらいいだろうというのは、必ずしも常識論だとか逃避論だとか、僕は思いませんね。  問 全体の仕事の上に生きがいを見つけるような生き方です。  湯川 その点なにも異論はないけれども、そうならんのじゃないかな。個々の場合についてはいろいろあると思うけれども、一方の極端にある絶対主義的生きがい論というのは、私の話からはずれますが、その反対の極にある、生きがいなんかどうでもいいという、これも一種の生きがい論ですね。それも考えると話がまた混乱するからやめとくことにして、結局この世は別に大したことはないという考え方も持ち得るというのが、人間の人間らしさでもあると思うのですが、いけませんか。皆さんも多分そうだと思う。この世は大したことはない。たまたま生れてきたので、これはいかんともしがたいし、どこに責任の持っていきようもない話や。そうなると、この世は大したことがないが、何とか生きがいを見つけて生きていかねばならぬ。そう思うのは、別に悟りというほどのものじゃない。しかし、初めにお話しましたように、二十代の統計なんかみると、やっぱり私が思っていることとおんなじやと思うね。つまり、この世は人間に非常に都合よくできているということもない。しかし万事都合悪くもない。自分とほかの人とはそんなに違うこともないけれども、全く同じでもない。どうせだれにとっても、そうそう、うまいことばかりでない。だからお互いに助けあって生きていこうじゃないかという世界観しか私はあり得ないと思う。自分は楽しくて仕方がないという気持を、いつも持ち続けるわけにはいかないようになってる。うれしいことも時々はあるけれども、そんなのは長く続かんですね。そういうのはいけませんか(笑声)。  君は年が若いから、僕のような考え方は気にいらんかも知れないけれども、僕は素直にものを考えるとそういうふうになると思う。そんな話、またいずれ出てくると思うんやけどね。  問 きょうのお話で生きがいというものがよくわかったのですが、これを組織的にクリエートして行くことが最近出てきたので、そういう点における生きがい、評価というものを……。  湯川 私は組織の話は弱いな、アカン。まあ、次の回か、その次にでも、やってみるけど、うまくいかんでしょうね。組織として創造性を発揮する——私はこういうのに全面的に疑いを持っている(笑声)。私は相当徹底した個人主義者やからね。創造はそれぞれの人のもんや。組織ということに余り重きを置いたら、創造なんてもんは雲散霧消や思うけれども、しかしそれでは話がしまいになるから(笑声)なんとか考え直してみましょう。うまくいかんやろう思うけど……。(拍手) 第二講  前回はあんまり話がよくまとまらなかったんですが、少し復習してみますと、生きがいという全般的な問題をまず考えた。生きがいというのは、どういうふうにして得られるのか、人によっていろいろある……。釣りをするのも生きがいのうちであろうというお話もいたしました。しかし、そういう場合もあるけれど、できることならば、何らかの形で自分の持っている創造性を生かしてゆく——そういうことができれば、大いに生きがいが感じられるであろうというわけです。  そういうふうな生きがいというのには、単に自分が満足するというだけではなくて、やはり、そこには、客観的な価値が——あるいは、もう少し違う表現でいうならば、つきつめていうならば、人に認められるといういい方をした方が、その人の本心に合うかもしれませんが、いずれにせよ、単に自分だけが、そう思うのでなく、客観的にも自分の存在意義が認められるという場合に、より大きな生きがいが感じられる。そうなるためには、ひと口に創造的といいましても、いろんな問題がからんでくるわけです。 いろいろな場合  そういうことを、私ははじめに少し申してみたんですけれども、ただ皆さんにはいろいろな年代の方がおられて、私のような年配の者が、自分で信じてきたこと、皆さんの御参考になると思って話すことが、いっこうピンとこないということがあるかも知れません。もしも世代の間の断絶といわれてるのが誇張でないなら、私が出てきて話をしても、若い方には全く無意味なことかもしれんという心配も、多少しておりましたので、朝日新聞が調査した結果などを、ちょっと読んだりして、まあ、一口に断絶ときめつけても、それは一般的な状況ではないんではないか、古い世代と新しい世代との間につながるものもある、もちろん断絶もあるが、断絶しているのは全部の人ではないだろう、多分、それは少数であろうと楽観的に考えまして、そういう意見を申しました。  最後にいろいろ御質問がございました。御質問の中には、なかなか答えのむつかしいのがあって、おいおい、きょうあるいはこの次の時にお答えしたいと思いますが、念のために、もういっぺん、質問をメモしておきましたので、それを申しますと……。  第一の質問は、私の心境がどういうふうに変ってきたか——確かに、いろいろ変っていますが、それは生きがいとか、創造性とかいう問題にも関係していることであります。そういうことを何か話してくれというので、これはいずれお話したいと思います。それから、さっきから申していることですけれども、その人の職業として、職場で現に毎日やっていることと自分の生きがいとが一致しないという場合がある。そういうときにどうするかという質問がありました。これには、なかなか、すっきりしたお答えができません。釣りを楽しんだって別に悪いことはない、釣りを楽しんだり、マージャンをやったり、ゴルフを楽しむのも結構でしょうが、それよりは、できうべくんば、やはり何かもう少し自分の生活、人生全体が客観的に価値があると思うことにつながっておって、そこで創造的に生きる方が望ましいことはもちろんであります。そういうふうな立場に置かれるということ自体が、自分の力で簡単にできない場合が多いだろう。皆がそうなるような理想社会が今すぐにくるわけでもないでしょうし、そんなら理想社会をつくることばかり考えておれば、万事それで話がすむわけでもない。人間の生き方というのは、外側の話だけですむのかどうかというのがまた非常に問題ですね。  なんのために昔から宗教というものがあって、それで多くの人が宗教によって救われたということがあるのか。現代は宗教という名のつかないものがいろいろあって、いろいろな仕方で生きがいと結びついている。人間の生きがいというものをどこに求めるか、人によって違うだろうし、それに対応するものの考え方自身にもいろいろありうるわけです。そういうことも、これからお話しているうちに、だんだんと出てくると思います。  もうひとつ、これも大変お答えのむつかしい質問がありました。生きがいというのは、自分が満足するというのが第一でありますが、必ず、同時にそれが人のためになっている、客観的な価値がある、そういうことが必ず多少は伴っておらなければ話にならんということを申しました。ところが、人のためという表現をしますと、その人というのは一般には単数じゃない。どれだけかの人です。それは家族のためであるということもあるし、会社のためということもあるでしょう。あるいは国のためということもあるでしょう。それが人類のためということがはっきりしたものなら一番結構ですが、なかなかそうはいかん。  自分の周囲の比較的小さな集団のためにいいということが、もっと大きな集団を考えると、果してどうかというような疑問がいろいろ出てくるわけです。これは一概にどうだとお答えすることは非常にむつかしい。しかし、そういうことも、これからの話の中には、多少でてくると思います。十分なお答えは多分できないと思いますが……。  最後にもうひとつ、これは私の一番苦手の問題ですが、組織としての創造性の発現ということです。これには、いま申しました問題もからんでいるわけです。ある目的のために組織をあげて協力するといたしますね。その場合はどうしたら全体として一番創造性が発現できるか、これが御質問の趣旨だと思います。たとえば、お月さんへ行くという目的を設定する。アメリカならアメリカという非常に大きな組織が、月へ行って無事に任務を果して帰ってくるということのための、最も確実な方法というのを開発して、それが実現したわけですね。システム工学とか、さかんにいわれておりますけれども、これは組織としての創造性の発現と大いに関係があるわけですね。しかし、前にもお答えしましたように、創造性というものは結局は個人の問題だと私は思いますので、どうも、この話をするのは気が進みません。  これらの質問があったということを、ときどき思い出しながら話を進めて行きたいと思います。 創造能力に自信もつ  きょうは、いったいどうすれば人間の創造性というものは発揮することができるか、あるいはその可能性を大きくできるかということから話をはじめます。  まず、きわめて明白なことを、順番にいくつかあげてみます。まず、自分は創造的な能力を持っていると思わないといけない。思わなければ話になりません。そういう信念、つまり自信ですね。自分の内にある能力への自信、それが内からの推進力、原動力になる。つまりエンジンがついている機械でなければ話にならないが、そのエンジンを十分に働かすもとは、やっぱり自信でしょう。その点については、日本という国は、大変まずい状態だったと思います。長い歴史をふりかえってみると、つくづくそう感じるのであります。  日本という国、あるいは日本人、あるいは日本の文化というものは、だいたい創造性とか独創性というものに対しては、非常にマイナス面が大きかった。歴史的にそうであった。プラス面もあったけれども、マイナス面の方が非常に強く出てきておった、少なくとも今日まではそうであった。ちょっといやな話になりますけれども、皆さんも、私のいうことに決して反対なさるまいと思います。いやだけど、そういうことを考えてみないことには、自信がわいてこないですから……。  前に私は、たびたびそういうことを書いたりいたしましたけれども、ひと口に申しまして、日本は非常に長い歴史を持っているのですが、自分とこではなくて、外に、日本よりも高い文化がある、すぐれた思想がある、進んだ学問、すぐれた芸術があって、それらが外からはいってきた、あるいは日本がそれらを受入れてきた、取入れてきた。歴史的にそうなっている。明治以後は学問、つまり近代的な科学技術だけでなしに、西洋の文明といいますか、あらゆるものを西洋から取入れてきたわけです。  それは、向うの方が少なくとも近代科学技術というものについては、はるかにすぐれているということを認めざるを得なかったからですね。しかし、それは取入れるのであって、みずから創造性を発揮するということではないですね。むしろ逆である。ただし、それはやがては自分たちが創造性を発揮する準備として必要なことであったでしょう。しかしながら、準備に必要だという意識を果してどれだけの人が持っておったのか。あるいはまた、仮にそういう意識はあったにしましても、やっぱり大きな独創性というものは外国にある、という一種の固定観念がつきまとっていたのではないか。明治以後なら、大きな独創性は西洋にある、西洋というのを、ずっと広げて、アメリカやソ連、さらに、いまの中国も含めたっていいかも知れないですが……。  ところが、そういう状況は、なにも新しい状況ではないのであって、その前、ずっと古い時代にさかのぼると、お隣の朝鮮の方が日本よりは先進国だった。しかし朝鮮の文化の元には中国があった。そういうものを取入れてきた。これも当然のことで、別にとやかくいっても仕方がない。私は、それは悪かったともなんとも思っておりません。むしろよかったと思いますけれども、とにかく、そういうようなことが非常に長い時期にわたって続いた。大部分は中国の文化の輸入であった。その中にはインドからの伝来もあった。仏教もインドから中国を通ってきたわけですね。  その後が西洋ですが、とにかく外に非常に高い文化があった。非常に創造的な、大きな独創的なものが、まず外に現れた。それが日本へはいってきた。自分とこは大きな創造をしていない。そういう状況が続くと、極端にいえば「どうせおいらは」という気持になる。どうせよそにあるんだから、とにかく舶来品はよろしいと……。いまでもそういう意識は残ってますね。  同じ品物でも、たとえば洋服であれば、イギリス製というニセモノをつかまされる。そういうことはいまだって残っているわけでありますけれども、近ごろはだんだんと少なくなってきました。あからさまな外国崇拝ということは少なくなったけれども、日本人の独創性というものを軽くみるという長い間の傾向は、いまだになくなっておらない。きわめて明白です。私たちの専門分野では、むしろ若い人たちの間に、外国崇拝が強い。これは不思議ですね。  ところで、非常に皮肉な話でありますけれど、創造性の研究自身について、今いったのと同じ傾向が見られます。日本では三十年ほど前から、私自身もいろいろと創造性について考えてきた。同じころに、現在同志社大学教授をしている市川亀久彌君が創造性の研究を始めた。そのころは、まだ西洋にも目ぼしい研究はなかった。もっと昔にさかのぼってみても、創造的な学者が自ら創造性を問題にしている場合は、きわめて少ない。この前に申しましたように、デカルトは例外的な人です。それは今から三百年も昔の話です。一般には、西洋の学者の中で、創造性に立入って考察した人はあまりないわけです。  日本には三十年くらい前からあったわけです。ところが、近ごろ西洋では、創造性を問題にする人がふえてきた。まだどれもたいしたことはない。常識に毛がはえた程度です。それを、だれかが日本へかつぎこんでくると、非常にはやる。前まえから日本の学者がいっていたときには、あまりはやらなかった。西洋人がいったというのではやる。つまり創造性を問題にする場合にも、日本人はやっぱり模倣する。非常に皮肉なことですね。  どんな問題をとっても、たとえ、自分たちがもっと独創的でありたいという問題についてさえも、たちまち西洋人のまねをする。これじゃ全く浮ばれないですね。私は全く病膏肓(こうこう)にいってると思いますね。  外人が書いたといっても、中身は、とるにたらないものがたくさんある。読む必要はない。ところが、そういうのが非常にはやる。日本人が一生懸命になってやっても一向はやらない。日本には「原書」という言葉があります。それは何かというと、とにかく西洋人の書いた本だということです。それで、「原書を読む」というと大変えらそうに聞える。  まあ、私は物理学をやっておりますけれども、物理学では、ずっと以前から原書なんていう言葉はあまり使わなくなりました。つまり原書というのが、ほんとに独創的で、ある方面の学問の一番もとになる本という意味ならば結構ですが、そういう本は、ごく少数しかないわけです。別に西洋人が書いたから、日本人が書いたからにかかわりなく、原書というのはあり得るわけですが、それは少数しかない。  たとえばニュートンの力学の書物がありますね、『プリンキピア』——これはまごう方ない原書です。ダーウィンの『種の起原』もそうですね。そうザラにあるわけじゃないのです。しかし西洋人が書いたか日本人が書いたか、という制限はないはずです。ところが、実際は日本人が書いたものは、いかによくても原書とはいわない。西洋人が書いたら原書になる。まあ明治以後しばらくはそんなこといっていたのも、仕方のないことだったかもしれない。とにもかくにも、そういう原書なるものを輸入せざるを得なかった。  しかし、そういうことが、いまだに続いている向きもあるらしい。なんともいえない情けない状況が、まだ残っているらしい。そういうことでは創造性なんか議論しても意味がない。私が何べんいっても、なんの効果もないのじゃないか。私も、もう同じ話をくりかえすのが、いやになりかけてる。 日本人にも独創力  もちろん、私は一切、外国のまねしたらいけないとか、国粋主義になれとか、そんなことをいっているのではないわけです。外にすぐれたものがあるなら、もちろん受入れたらいいんです。自分とこのものだけがいいと思ったりするのはだめですね。受入れることはいっこう差しつかえないけれども、やがてはそれを越えていかなきゃならない。越えていくということはむつかしいでしょうけれども、少なくとも、その気構えがないといけない。  他人はともあれ、外国はともあれ、とにかく自分は自分なりに、なにか創造していく、それができるんだと、まず思わなきゃならん。ところが日本の状況を見ると、残念ながら、外にはたくさん大きな独創があったけれども、内には非常に偉いのはない、と思っている人が、いまだに多いようです。  ところが、日本人の創造性の問題を歴史的にさかのぼって考えてみると、結局は、そういう問題自身がなくなってしまうのですね。つまり否定的判断の材料も、なくなってしまうのです。それはどういう意味かといいますと、日本人自身がもともと、よそからこの日本列島へ来た者ですね。つまり人類というのは、どこで、いつごろ発生して、どう広がっていったかという、非常に古い時代のことはよくわからんけれども、しかし、人類が日本で発生したということは考えられない。非常に古い石器時代から、日本に人はおったけれども、それは、やはり、よそからきた。日本が人類発生の地でないことは確実であります。  文字とか鉄器の使用とかいう点からみても、日本の文化はそう古くない。しかしながら、それは当り前のことであって、この広い地球上でありますから、日本という非常に小さい島、こんなところから人類が発生するという、そういうチャンスは非常に少なかったでしょう。  しかし、やがては日本にもいろんなところから、いろんな人がやってきて日本に居つくようになった。いろいろ混血もしたでしょう。その結果として、現に私たちがこの日本に生れ合わせているわけですね。もともとはよそから陸つづきを歩いてきたか、船で流れ着いたかしてきたのですから、よそものであるか日本人であるか、元へ戻って考えれば、そんな区別は意味ないですね。比較的古いとか、新しいとかいってみても、現在のわれわれは、ごちゃごちゃと入りまじっていて、そういうせんさくは大して意味がないことです。  だから日本の外の人間は素質がいいとか、日本人にはもともと独創性を発揮する素質がないとかきめてかかるのは非常におかしい。もともと人類というものは、非常に長い歴史の中で大移動をやったりしているわけです。日本に住みついた人たちも、どうせ何代もかかって、うんと遠いところからの大移動の結果として日本にたどりついた。いろいろ違ったところから来て後、いろいろと混血して現在の日本人になっているのです。ですから、いらざる劣等感を持つのは意味がないし、優越感を持つのもおかしい。  ですから、うんと長い目で見たら、別に劣等感を持たなくってもよいのに、歴史が割合はっきりしてる時代のことだけにこだわって、日本人は劣等感を感じていることになります。劣等感がありますと、こんどはそれを裏がえした優越感も出てくる。こんどはその優越感が、度はずれになる、非常に無理な優越感を持つということもあった。これは皆さんも御存知のことであります。  要するに、日本人であろうと何人であろうと、人間というのはどこかにすぐれたところがあるだろう、何かの形で自分の能力を発揮できるだろう、そうすれば何か新しいものを生み出せるだろうと思ってもいいわけです。  その仕方はいろいろあるでしょう。なにもできないというのは、非常に例外的で極端に条件の悪い場合でありまして、普通なら何かできる。できる可能性を持ってるのが当り前ですね。私は創造性ということを、非常に広く解釈しているのであります。  西洋には十九世紀に天才論というのが、さかんに出ましたけれども、日本にもそれが移入され、受売りされてきました。つまり、天才というのと病的な気質というものを結びつけるわけです。多少気違いじみてないとあかんというのです。この考えは割合普及している。その前から日本でも天才と変人を同一視する傾向があったようです。  つまり創造性というのは、少しおかしな人間、気違いじみた人間しか持っていないと、思われていたらしい。それにあてはまる場合も確かにあります。しかし、そういうふうに話を限ってしまうのは、実際にあいませんね。  人間というのは、よくよくみれば皆おかしい。すべての点で普通という人は果しているのか、よく観察したなら、そういう人はなかなかいないのじゃないかと思います。なにか独創的なことをした人は、その人の伝記が出たり、いろいろのことがわかってきますから、おかしいところもだんだんわかってくる。あまり、きわだった成功あるいは事件がなくて、みんなから知られる機会のなかった人は、おかしいところがあってもわからないわけです。  それから、もうひとつ、人間には非常に奇妙な性質がありまして、天才なるものを別にわけてしまいたい、あいつはえらいことをしよったけれども、やっぱりおかしいのだと思いたい気持があるわけですね。つまり天才というのはおかしなものだと思いたがる。そして逆に、すこしおかしいから、天才だろうと思ったりする。しかし、もちろん逆は真でない。  実際、天才で変っているという例も確かにあります。たとえばニュートンなんて人は非常に奇妙な人です。皆さんが普通の本を読んで知っておられるより、もっともっと奇妙です。私も、その方が面白いと思いますけれども……。  ところで、私は二十世紀の偉い物理学者をたくさん知っています。その中でもアインシュタインが最も有名ですが、彼は最も天才的な人ですが、私は親しくつきあってみて、決しておかしい人とは思いませんでした。むしろ普通の人より、ずっと心のやさしい、思いやりのある人です。人の迷惑など何も気にしない、というタイプとは正反対ですね。そのほかにも常識円満であって、しかも非常に偉い物理学者というのを何人も知っています。  ですから、天才と称して、分けて考えるのは非常におかしいと思います。ということは同時に、自分は普通の人間であるから大したことはできない、ときめてかかるのはおかしい、ということでもある。そこから生きがいの問題につながるわけであります。創造性というのは、人間それぞれ、何かの仕方で発揮できるものであります。  人間はなんらかの意味でおかしいのだと思います。ということは、何か特徴を持っている。何もかも平均的という人はめったにないんじゃないか。何をやってみても、全部平均的、これは一番つまらんでしょう。けれども、そういう人はあまりいない。どこかおかしいんです。私ももちろんどこかおかしいところがある。皆さんもそれぞれどこかおかしいところがある。ですから、だれでも、よほど自信を喪失さすような状況がなければ、自信を持てるはずであるからして、持たないといけないと、私は思います。それについて、一つだけ非常に著しい例を申上げたいと思います。 長岡先生の場合  私たちが物理をやり出したころは、大正の終り、昭和のはじめごろです。そのころ、日本で一番偉い物理学者は長岡半太郎という先生だということになっていた。非常に有名であっただけでなく、実際偉い学者でした。私なんかよりも、四十ぐらい年が上ですね。私が大学にはいった年、十九歳の時に、先生は六十をちょっと出ておられた。私がいま六十三でありまして、皆さんの中には二十代の方もおられますが、そのくらいの差があった。  その長岡先生が京都大学へ来られて講義をされた。それを大学新入生の私が聞いて、大いに感激した。ところが二、三年前に、ある本の中に、長岡先生が、もっと晩年に別のところで話をされた原稿が載っているのを発見しました。私は直接この講演の方は聞いたわけじゃない。東京のある学校で話をされたのでありますが、こういうことが書いてあります。  先生が東京帝国大学へはいられたのは、明治二十年前後ですが、一年生のときにはまだ自分は何をやるかという専門は決っていなかった。そのときに先生は、自分は学問をして——学問といいましても自然科学ですね、自然科学と限らないけれども、科学ですね、——西洋流の学問をやって、研究者の仲間入りをしたいと思った。自分も研究をして、何か学問の進歩に貢献したいが、西洋の学問を一般に普及するという仕事だけでは到底、満足できない。しかしながら日本人というのは、そもそも自然科学、その中には物理とか化学とか、いろいろあるけれども、そういうものを研究して独創的な仕事ができる素質はあるのか、学問の進歩に貢献するだけの素質があるのかどうか、ということについて当時、自信がなかった、と先生は書いておられます。  今からみれば、何もそんなに、がっかりしなくてもいいと思うんでありますけれども、しかしながら私などが大学にはいったころは、すでにいろんな方面にすぐれた学者が日本にもおられたわけです。相当の仕事をやっておられる方、研究者として立派な方がたくさん日本から出ておられたわけであります。日本人には素質がないのじゃないか、というような疑いを持つ必要はなかった。私はそんな疑いを持ったことは一度もありません。  ところが長岡先生が、そういうことに疑いを持たれたというのは、よく考えてみると、これまた当り前です。明治二十年前後というのは、西洋の学問を一生懸命に取入れるのが精一ぱいの時代です。初めは西洋人の学者が日本にやってきた。日本側が呼んだわけですけれども、なかなかすぐれた人が来てくれまして、たいへんよかったと思うんであります。  その次には、日本からドイツとか、イギリスとか、フランスとか、アメリカ、そういうところへ留学して、そこで何年か勉強して日本へ帰ってくる。そういう人が大学の先生になって教える。そういうことが始った時代ですね。まだ日本から独創的なものが出てきたという、そんな時代じゃないですね。日本人が自力で独創的な業績をあげるというところまでいっておらないわけです。その時代に長岡先生が疑いを持たれたというのは無理もない。むしろ他の人たちより、まじめに考えられたといっていいでしょう。  そこで長岡先生はどうされたか。ここが大事なところです。いったい、東洋の歴史を振返ってみたならば、東洋人は科学者としての素質は果してあるのか、ないのか、歴史をよく調べたらわかるのじゃないか、そう思い立たれたわけです。そこで一年間休学されたわけです。この休学が重要なのでありますが、一年間休学されました。  当時は若い人でも、漢文のよく読める人が多かったわけです。漢文というのは中国の古典です。そういうものを今と違いまして、小さいときから習っている。長岡先生もそうであります。私の父もそうでした。幕末あるいは明治初期に生れた人で学者になった人の中には、そういう経験をした人が多い。そんなわけで、長岡先生は中国古典の中に科学的発見というべきものがどのくらいあるか調べられたわけです。  くわしい内容を申しましても皆さんにあまり面白くなかろうと思いますから、やめますが。詳しいことは、「長岡先生の休学」という文章(自選集第四巻三六八ページ)を参照していただきたいと思います。その中で科学上の発見というべきものとして、一番たくさん引用されているのは、『荘子』という書物でありますが、これは私の最も好きな書物の一つであります。  荘子という人は中国の長い歴史の中でも最も天才的な思想家であると私は思います。文章もずばぬけてうまい。荘子は創造性を大いに発揮した見本でもある。この人あるいは本は、昔から「そうじ」と呼ばれてきた。それは孔子の高弟の一人である曾子と区別するために濁ったわけです。荘子が生きていたのは、紀元前四世紀から三世紀にかけてでありますから非常に古い。日本でいうならば弥生時代が始ったか始らないかですから、とんでもない大昔であります。西洋ならギリシャのアリストテレスと同時代です。  一年間休学して長岡先生は、そういう文献をいろいろ調べられました。その結果、中国には古い時代に独創的な発見・発明がいくつもある。日本人と中国人とはそんなに違うわけではないだろう、自分が科学をやって立派な研究ができないという理由はなかろうという結論に到達した。そこで自信を持って、いよいよ物理学を専門とすることになったというわけですね。  何でもない話のようですけれども、私は非常に感心した。当時も、その後も長岡先生ほどの心構えの学者は少ないのじゃないかと思います。  自信を持ってよろしいかどうか、まず確かめるために一年を棒にふったというのは、勉強しなかったので留年させられたというのとは大違いですね。特に日本では、稀少価値があります。 三浦梅園と自然哲学  創造性の話の中に出てくるのが適当な日本の学者として、もう一人、三浦梅園があります。名前ぐらいは御存知でしょうが、あまり日本では、非常にえらい学者とは思われていません。これも、日本では独創性が軽く見られている証拠です。三浦梅園の紹介を見ますと、きまって、西洋の誰々の思想に似ているというようなことが強調してある。なぜそんなことに無闇に力を入れねばならないのか。梅園の哲学はヘーゲルの哲学に似ている、だれやらに似ているということばっかり書いている。まことに情けない。  近松門左衛門はシェークスピアの日本版みたいにいわれたりする。梅園は梅園、近松は近松でいい。私は日本人でありますから、やはり日本人の中のすぐれた人は、その値打ちをできるだけ評価したい。別に外国を排斥する気持はありませんが。こういう話を何十ぺんもいっているのですが、ほとんど効果がないようで、私もいい加減いやになっています。  皆さんは多分違うと思います。私のいうことをもっともだと思ってくださると思います。そう期待しなきゃ、こんな話もしません。  三浦梅園という人は、日本では大変珍しい人でありまして、自然界の筋道を、一生懸命、自分で考え抜いた人です。文字通り自然哲学者といっていいでしょう。「自然哲学とはなんぞや」というと、話はむつかしくなりますけれども、ギリシャのタレスとかデモクリトスとかいうような人がそうですね。荘子もそうでありますが、梅園もそういうタイプの人です。だいたい今から二百年ぐらい前、十八世紀の人ですね。江戸時代の中ごろで、本居宣長とあまり違わないころです。  彼がいいますには、人間というものは、どうも考え方が習慣的にきまってしまっている。つまり固定観念にしばられてしまっている。私もいつもいうのですけれども、人間というものは、固定観念のかたまりであるという見方もできる。ことに学者というものは、そういう中でも、もっともがっちりと固定観念を組上げた構築物の中に住んでいるようなものです。学者の頭の中には、そういう堅固な城ができている。私自身もそうでしょうね、やっぱり。長いこと学問しておりますから、だんだん頭がかたまってきている。学問というものにはそういう性格があります。学問というのは体系づけられた知識であるわけで、体系ががっちりしているほど、学問に権威があるということになりますね。赤ん坊のように頭が柔軟ではなくなっている。だから、そういうことを自分で自覚しないといけないわけです。  私も始終自覚し反省することにしておりますが、年とともに、やはり頭がかたまってくる。これをやわらかくする努力を怠ってはならないと、いつも思っております。今の時代に生きている私がそう思っているのは、それほどたいしたことはないのですが、江戸時代の中ごろの日本に生きて、そういう自覚、反省ができたのは珍しい。  彼がいいますには、人間が動けるのは足があるからに違いない。しかし、足がなければ動けないときめこむのは、固定観念である。ヘビを見ると足がないのに動いている。これはどうも不思議だと思う。しかし現にヘビというものがあるのだから、足がなくても動けるということを認めざるを得ないわけです。それで、足がなければ動けないという固定観念から解放されるはずですね。  それからさらに、天が動く。天は確かに動いている。長い間見ていれば、太陽も、月も、星もみんな動いている。そこで皆が天動説になっている。これは至極当然のことですね。ところが、天が動くと思うのも固定観念で、本当は地球の方が動いているのだ、とわかるのは、なかなか容易なことではない。足があるから動くと思ったのは非常に狭い了見であった。足のないヘビも動けば地球も動くということになってくれば、結局それは何か物理法則に従って動いているという考えにだんだんとなってゆかざるを得ない。三浦梅園は、人間はそういういろんな習慣的に認めさせられてきたことや、あるいは書物に書いてあることにこだわって、ほかの考え方ができないようになりやすい。そういうことを離れて、自分で考えてみなければだめだ。正しいか正しくないかは、自然と対決してきまるのだ、といってます。  そこで彼が思うには、自分たちの生きている自然界には、何か一つの筋道がある。物事には道理がある。それを彼は条理という言葉で表現していますけれども、今の言葉でいいますと、法則とか、あるいは理法とかいうのに近いわけであります。  自分はこの自然というものを相手にしている。それが何であるかを知ろうとしている。だから、その点ではお釈迦さまであろうと孔子さまであろうと、同学の友である。先に生れてきた先輩ではあるが、しかしやはり同学の友に違いない、というようなことを、はっきりいっているわけです。こういう人は日本では実に珍しい。  それなら梅園は変人、奇人であったかというと、決してそうではなかった。まじめすぎるほどまじめな学者であった。それから、もう一つ、彼は決して器用な人じゃなかった。ただ全身全霊で学問をした。彼の思想は、なかなか深遠ですが、難解でもある。わかりにくいのは、むしろ自分で考えたからで、独創的でない場合の方が、わかりやすいのが普通ですね。だからといって、外国の思想と比べてみて、はじめて評価されるなどというのは、梅園にとっては心外でしょうね。 アインシュタインの道  創造性を発揮するには、まず自分にもできるという自信を持つことが第一ですが、その次には、どういうことに創造性を発揮するのか、その目標、あるいは理想をきめなければなりません。目標は、もちろんいろいろあり得る。たびたび申しましたように、目標とか理想とかいわずに、釣りをすることに生きがいを感じたってかまわないわけです。しかし、できることならば、なるべく理想は高い方がいいに決っている。その理想が容易に達成できない方がいい、高遠であるほどいい。それがなかなか達成できないからこそ、いつまでも執着して、それをやる結果になる。  そういう意味では、アインシュタインという人は、高遠な理想に生きた最も典型的な人だと思います。二十世紀の初期に、非常に偉い物理学者がたくさん出てきましたが、その中でも私はアインシュタインが特に好きであります。彼は一生、何をやってきたかというと、彼は若い間に非常に成功したんですね。二十代から三十代にかけて、相対性理論という大きな体系を、ほとんど一人で完成した。大変な仕事です。それだけで、もう何もいうことないですね。そのほかにもいろんな立派な仕事を三十代までにやっています。それだけ見れば、二十世紀の一番偉い物理学者であることに疑問の余地はありません。  ところで、私が彼により一層の親しみを感じますのは、それからあとの四十年間です。彼は七十四、五歳まで生きた。いろんなことがあったのですが、平和の問題など別といたしまして、物理学では何をやっていたのかというと、統一場の理論というのに三十年以上も凝ったわけです。彼の統一場の理論というのは、私などからみますと、これは、だんだんと時代おくれになって、面白くなくなってゆく。くわしい物理の話はやめますけれども、私などは彼よりずっと後に出てきたわけですが、私たちのセンスからいえば、達成すべきものは素粒子の統一理論です。それは明白ですね。私は今もそれをやってますが……。  彼は私よりずっと前に出てきて、若くして非常に大きな目標に到達した。そのあと何をやったか……。物質とか、エネルギーとか、時間とか、空間とか、万有引力とか、電磁気とかいうものを、全部統一的に理解しようということに違いないわけです。そのために統一場の理論というものをつくろうと、一生懸命やったが成功しなかった。成功しなかったというよりは、彼の流儀では、われわれが求めている素粒子の世界の理解には到達できないわけです。  しかしながら、四十代、五十代、六十代、七十代、死ぬまでそれをやった。私などあとのものからみますと、所詮成功しない、——成功するというのは、何を意味しているかわからんといってもいいでありましょう。しかし、それに執着して、一生ずっとやっておった、そういう人生は実にいいですね。人間というのは、一人の人が何もかもやるというのもいいでしょうが、全部やってしまったか、どうかという結果論は、その人の生きがいにとって、そんなに重要なことではない。  もちろん、なにもできないというのはつまらんです。しかし、一生かかって一人の人が何でもやってしまう、年寄りになって、若い人のできないことを、すっかりやってしまったら、それは化けものですね。人間は化けものにならなくてもいいのであります。  しかしながら、一生、どこまでも大きな問題を解こうと努力し続けた。彼はもうひとつ別の理想——世界平和の実現という理想——を持っていた。そのためにも努力した。どちらにしても彼の理想は非常に高かった。  私は私なりに、アインシュタインの達成できなかったことをやっているつもりです。素粒子の統一理論というのは大いにやりがいがあると思っているし、どうしても成功させようと思っています。今までの経験からすれば、容易に成功しそうもない。非常に冷静に考えたら、所詮だめかも知れない、成功しないうちにだんだん頭がぼけてくるかも知れない。しかし、私はそう悲観的には考えないことにしている。やっぱりやっている。できないことをやっているという気持は決して持っておらない。そこに生きがいがある。  そんなことを思えるのは、ばかかもしれません。しかし、それがばかというものなら、ばかの方がいいと思います。多分、多くの学者は、私のような考え方をしてないと思います。それなら私はなぜいつまでもやっているのか。つまりは自分の内側に、わざわざ達成できないような理想を温存しているということですね。理想と現実の矛盾を生きる糧(かて)にしているわけです。一口に理想と現実の矛盾といっても、いろんな内容が考えられるわけです。皆さんが、そういう言葉を聞いて思い浮べていることは、私と非常に違うかも知れない。  私の場合には、私たちの生きている自然界というものを理解したい、統一的に理解したい。物質とか、エネルギーとか、時間とか、空間とか、そういうものを統一的に理解したいと思っている。それについて現にわれわれは非常にいろいろな知識を持っているけれども、それらの知識はなかなか全体として、まとまってこない。何とか全体を統一する原理を見つけだしたい。  素粒子の研究者はたくさんいますが、私みたいにばかのひとつ覚えみたいなことをやっている学者は、意外に少ない。むしろ、どんどん減っている。現に生きている人の中では、私より五つ六つ年上の人で、有名なハイゼンベルクという学者がおります。この人はドイツの人ですけれども、やっぱり素粒子の統一理論というのを一生懸命やっている。ハイゼンベルク氏も、自分のやり方で成功する、と思っておられるに違いない。私は私で、自分のやり方で成功するだろうと思っているわけです。そういう人は他にあんまりないのです。  しかし、まだ成功していないということは、理想と現実の矛盾が残っているということです。ということは、まだ悟りが開けていないということですね。まだ迷いみたいなものがある。本当のことがわかっていないから、いつも迷っているわけです。迷いがあり、矛盾があるわけです。それで何かまだやりたい意欲がなくならない。自分の中に、そういう動力があるということは、自分の中に何か矛盾があることだ、迷いがあることだ、という言い方もできるでしょう。  しかし、それはこの前のときも申しましたけれども、人間が人間らしく生きていく生き方というものは、自分が自分に打ちかとうとしていることだ、という言い方にもつながる。これはシュレーディンガーという学者が言ったことですが、別にシュレーディンガーが言わなくても、昔からいろいろな人が言ってきたことであります。 他律的道徳と違う自己制御  自分というのは一つしかないはずでありますけれども、自分が自分に打ちかとうとする。われわれは、たとえば物理学をやっている、その物理学というのは、自分の中のことじゃなくて外の世界、それを探求しているわけです。しかしながら、外の世界をより深く理解するためには、自分が努力して、今までの考え方を変えなきゃならない。今まで通り考えていると、肝心のところがわからない。それが、パッとわかってくるということは、何か、今までの自分と違ったものになることです。そこに自分が自分に打ちかつということがあるわけです。  それは自己制御という働きのひとつの現れであるわけです。自己制御ということは、もっと違う問題を含んでおりますから、またあとで何度も出てくると思います。ところで、昔は自分に打ちかたないといけない、ということが、いわれすぎた。いやになるくらい修身の本に書いてあった。近ごろは、その反対の極端で、そういうことが一切いわれなくなった。しかし自分で自分を制御するというのは昔の道徳であるときめこむのは、おかしい。  こういうことは、時代が変っても、ひとつも変らないはずであって、むしろ自分に打ちかつということをしなくなると、逆に外から規制されてしまうことになるわけですね。自分に打ちかつということは、単に否定的、消極的ではなく、今までの自分というものでない自分が現れてくるという意味で、創造的、積極的でもある。三浦梅園にしても、シュレーディンガーにしても、自己に打ちかつ、つまり自分をほったらかしにしないで、自分で自分を規制していく、あるいは制御する。それをさらに、自分の精神を自分で導く、指導するというところまで行けば、積極性がはっきりしますね。この精神の指導を意識的にやったのがデカルトです。  この前、デカルトにちょっと触れましたし、別の機会にたびたび述べましたので、今回は繰返さないことにします。 〔注〕 特に自選集第四巻『創造の世界』の「天才の諸相」の中の「デカルト」参照。 第三講  前回は生きがいから創造性の話になり、いったいどうしたら創造性というものは発現できるか、それにはまず自信が必要だという話をしました。  いろいろ実例をあげたのでありますが、それと関係しまして、その次に、創造性を発揮するということは、きまった枠に束縛されずに、自分の中から、今まで人の考えてなかったようなことをパッと出してくるということですね。すると、それは自分に打ちかつとか、自分を制御するとか、あるいは自分自身の精神を指導するということと逆みたいに見えますけれども、そうではない。自己制御が大事だということをいろいろ申しました。  振返ってみると、昔は克己ということをさかんに言うたものです。近ごろはおのれに打ちかつなんていいますと、旧道徳の見本みたいに受取られやすい。現代には全くそぐわないというので、だれもいわない。あまりにもそういうことがいわれなさ過ぎますから、私は逆におのれに克(か)つことが、これから先、むしろ今までより重要になってくる、それがまた、生きがいともつながるんだということを、少しくどいほど申しました。  さて、次の問題は何かというと、これは、話が少し変るようでありますが、そもそも創造ということが、この世にあり得るのか、人間が何かを創造するなんてことが、どうしてできるのか、そんなことは、いまさらいわなくても、わかりきってるみたいなことでありますけれども、そういうことをもういっぺん根本に立返って考えたいと、私は思うのです。私が何を言おうとしているのか、だんだんとおわかりになると思います。  私たちが生きている、何人も人間が生きている。そして生きがいを感じながら、生きることができる。私も生きがいを感じながら生きているのであります。自分は人間であるけれども、しかし人間として生きているということの一つの特徴は、この世界というものは、自分がその世界の中に生きている世界であり、そういう世界があると自分が思っている。そして、その世界について、相当いろいろなことを知っている。昔の人よりも、われわれの方が、ずっとたくさん知っていると思っている。  しかしながら、まだまだこの世界を知り尽しておらないということも、よく知っているわけであります。そういう認識がきわめて重要であります。人間の考え得ることが、今までにすべて考え尽されたわけじゃない。ずっと昔から、いろんな人が、いろんなことを考えてきた。今でもいろんな人がいろんなことを考えているでしょう。しかし、すべてのことが考え尽されてはいない。考え得ることがすべて考え尽されたわけではないと思っている。考え尽されたと思ったら、創造性、特に知的な創造性を発揮する余地はないことになる。  あるいはまた、人間にできることはすべてやり尽されたということも無論ないわけです。まだやってないことで、人間にでき得ることが、まだまだあるだろう。いまはできなくっても、将来できるようになることが、たくさんあるだろう。それはもちろんのことだと、私たちは思っているわけです。  その他の考え方をする人があったら、私は少しおかしいと思います。そりゃ別の考え方もありますよ。たとえば皆さんのどなたかが神がかりにでもなったとしますね。そうしたら、その人はみなわかっちゃったと思うかも知れない。またオレには何でもできると思うかも知れない。さらに進んで、できることはみなしちゃったと思いこむかも知れない。そうなったら、私の話など聞く必要は全然ないことになる。私のいうことは全部ナンセンスになるわけであります。  そういう人の場合は別といたしまして、私たちは、未知の世界がある、そういう未知な領域をふくんだ世界の中で生きていることを知っている。これはきわめて当り前だが、重要なことであります。未知の世界があることを知っているということは、オレは何も知らないというのとも、全く違うのです。何も知らないなどというのは非常におかしいと、私は思います。そんなこと実際は思っていない。知っていることも確かにある、しかもたくさんあるのです。  何も知らないというのなら、何のために、何年間も学校へ通ったのか。二十歳であろうと、六十歳であろうと、何して生きておったかということになる。もちろん知っていることの全部が確実なこととは限らない。しかし、絶対確実かどうかはわからないけれども、まあまあ本当だと思ってよさそうなことがたくさんある。知っていることがたくさんある。しかし、その向うに未知の世界があるということにも気がついている。これが人間らしい人間であることですね。  知識だけでなく、そういう世界の中には、人間にとって制御可能な部分もあるけれども、制御不可能な部分も大いにある。何か自分がやりたいことで、できないことがある。こういう目的を達成したいと思っても、それが思うようになることもあれば、思うようにならないこともある。なかなか思うようにならない場合の方が多い。近ごろは制御可能という言葉が使われる場合、たいていは近い未来の制御可能を意味している。  たとえば、月へ行って戻ってくることは実現可能なことであるとわかってきた。そこで、それを実現したわけですね。これは人間が非常に大きな未来制御能力を発揮したことになるわけであります。ただし、月に行くこと自体は、莫大な費用に値するほど大きな意味を持っていないと、私は思いますが……。 開放的世界観  しかし、それは別として、月旅行という計画の中で、人間、あるいは人間の組織が大きな制御能力を発揮した。その結果、人間の制御能力が大きくなったことは確かです。そういうことが、また、いろいろと新しい問題を生ずるわけでありますけれども、その半面、まだまだ制御可能でないことがたくさんあることももちろんです。  台風の制御は、まだできない。地震を制御して、地震のエネルギーを徐々に、なしくずしに放出させて、大地震が起らないようにすることもまだできない。原理的には可能だと思いますけれども、まだそういう能力を人間は獲得しておらない。どういうやり方をしたらよいかもわかってはいない。そういうことがたくさんあるわけですね。  そういう世界に生きていることを人間は知っているわけです。そういう中であるからこそ、創造ということも、生きがいということもあるわけです。もう何もかもわかっちゃった。そういう気持になったら、これは別の話になっちゃうわけです。私はそういう世界を「開いた世界」といっている。あるいは「開放的世界観」といってもいい。これはごく当り前のことをいってるのです。  あんまり当り前すぎて、なぜ私が一生懸命こんなことをいっているのか、おかしいと思われるかもしれません。しかし、そもそも創造ということが問題にできるというのは、われわれ人間が開いた世界の中で生きているからです。  ところが、開いた世界という場合に、きわめて重要なことがある。それはわれわれが見落しやすい、特に現代の人間が見落しやすい盲点があることです。昔の人と反対に今の人が見落しやすいのは、世界が外だけでなく、内へ向っても開いているということです。これも気がつけば当り前のことですが、忘れやすい。外の世界の変化が激しく、外からの刺激が多すぎるので、どうしても外のことばかり気をとられて、自分自身を忘れやすい。  ところが、人間は自分というものを実際よく知らないのですね。頭の働きのメカニズムなど、このごろようやく少しずつわかりだしてきた。  人間の内部が客観的にわかってくるということは、いい結果ばかりではなく、非常に大きな危険を伴うかも知れないけれども、それは先の話として、今までは自分の中のことは割合知らなかった。外の方のことが、どんどんわかってきたのにくらべて、内へ向って開いているという意識は、かえって薄れていった。宇宙の果ては現在のところまだよくわからないが、案外、早くわかってしまうかも知れない。  これに反して自分自身をよく知らない、中のことをよく知らないということ、これはきわめて重要でありまして、そういう内にも外にも知らないものがある。内から思いがけないものが出てくる、それが外にあるものと、何らかの意味で対応する、同定できる。そこに創造が成立する。創造的活動の本質はそこにあるのではないか。前に申しましたポアンカレが発見論で、潜在意識を問題にしたのは、確かにポイントを押えていたと、私は思います。  最後にもう一つ、内と外とは別でない。体内の酸素も外界の酸素も同じですね。だから人間は生き続けられる。それはわかっているが、内と外のつながりについて未知なことがたくさんある。そういう意味でも開いた世界ですね。  さて、元へ戻りまして、開放的世界観とは反対に、ものがすべて決ってしまっているとか、あるいは絶対の真理を、すでに誰かが言っているという考え方があります。  昔誰かが言ったことが絶対に正しくて、絶対動かぬ、それをただ信じるほかない。そういうような非常に固定した考え方をしたとしますと、もう創造ということはない。そういう固定した考え方というのは、世界観という言葉を使うならば、閉鎖的世界観とでもいうべきであります。  一人の教祖があって、絶対的な真理を体得して、それをこっちが学びとればそれでよい、という考え方もありますね。ですから、宗教というものは恐らく、すべてそうなんだと思いますが、何かそういう世界観は、学問を研究するということとは両立しにくい。  たとえば、私は学者であり、物理学を研究している。ところが、物理学の対象になるようなことはみなわかってしまっているということになれば、もう研究も何もないですね。  そうなったらどうするか。そりゃ物理学以外にいくらでも学問の分野はありますし、必ずしも今までの学問の概念にしばられることもないのですから、何にせよ、まだわからないことを研究したらよい。そういうものは、あちこちにたくさんあるわけです。  実際は幸いにして、私は物理をまだやっております。それは素粒子などというものが、まだよくわかっていないからやっている。素粒子というのは、わかりかけたと思ったら、また新しい、わからないことが出てくる。だから、いつまでもやっておられるわけです。  そういう状況が、私が開放的世界観を持っているということと一致しているわけです。実は私は、そういう世界観を最初からそうはっきりと、持っておったわけではないのです。物理学者として暮しているなかで、だんだんそういう世界観が私なりにまとまってきたわけです。  宗教を信じて、それによって救われるということもあるのでありますから、それは私の言っていることと非常に違うけれども、それはそれでよいわけであります。私はそれについて、何もとやかくいうつもりはありません。  私自身は、人間にとりましては、まだやれることがいろいろある。たとえば学者になっても、ただわかっていることを教えるということでなしに、自分で何かやる。誰も知らないことを自分が発見できるかも知れないと思って、学問をやっているわけです。  そこで問題は、また元に戻って、それにはどうしたらよいかということになる。デカルトの創造論は面白いけれども、デカルト流だけで、話はすまないのであります。  彼は非常に直観を大事だとし、直観的に自明な原理から出発せよとか、どうしても疑い切れないことがあるだろう、そういうところから出発せよとかいうのでありますけれども、私のような今日の物理学者は、それとちょっと違うところから出発しなければならない。まず初めから妙なことを考えなければならないのです。  デカルトの時代には、彼のやり方は有効であった。彼自身、それによって自分の精神を導き、大きな仕事をしてきた。それはそれで、みごとだったけれども、私などはまたそれと違うことを考えなければいけない、と思うわけであります。  ところが、人間の持っておりますいろいろな能力を一つ一つ取り出してみますと、どれも一向、創造につながりそうな能力ではないですね。簡単に申しますと、ごく荒っぽい話でありますけれども、人間は理解力を持っているわけです。理解力というのは、いっぺんにはでき上がるものではなく、だんだんとでき上がってくるものです。 論理を超えるもの  人間は成長するに従って、理解できることの範囲がだんだん広がってゆくということは、誰にでもあることです。それはまた、記憶力というものと密接に関係があるが、それだけでなく、もう一つ推理力というものがあります。  それらのどれからも、直接には創造力ということは出てこない。人の理解できることを、自分も理解できるとか、何かを記憶している、それを思い出してみることができるとか、論理的な飛躍をせずに考えを進める能力があるとか、どれも直ちに創造にはならないですね。  人のいうことがよくわかるというだけでなく、だれもまだわかっていないことがわかって、はじめて創造になる。どこかで論理を超えなければ、どこかで記憶にない新しいものがあらわれてこなければ、創造にはならない。  たとえば、電子計算機というものを考えてみると、それがよくわかる。それ自身は創造的能力を持っていないですね。人間のためによく働いてくれますけれども、コンピューターというものは、あたえられた命令に従って、記憶と推論を間違いなく、しかも非常な速さでやってくれる。人間なら非常に時間がかかりますし、途中で間違ったり、あるいはいやになったりする計算や推論を、いやがらず、しかも速くやってくれる。要するに、電子計算機は非常に勤勉なんですね。勤勉手当を大いに出さなければならない。  人間はそういう勤勉な計算機を使う。それにつれて人間自身はだんだん勤勉でなくなりつつあるのかも知れない。もともと日本人は非常に勤勉で、恐らく世界で一ばん勤勉でしょう。たぶん二番目がアメリカ人だった。中国人も勤勉でしょうね。さしあたりは、むしろ中国人の方が日本人より勤勉なのかも知れないが、よくわかりません。  ドイツ人は今はもう日本人ほど勤勉ではないらしい。日本人は小さな国に大勢住み、資源もないのに、生活は豊かになってきた。これは勤勉のおかげであります。  しかし、勤勉っていうことそのことがすぐには創造にはつながらない。あんまりサボっておったら創造も何もできないでしょう。ですから、いつになっても、何かについて勤勉でなければならないけれども、何について勤勉であるべきかがむつかしい。勤勉すなわち創造でないことは明白であるばかりでなく、先を見ない勤勉さは、公害をふやすことにもなる。  人間はいったい何をしているのか。よく考えてみると、独創的な思考や行動は非常に少なく、模倣が非常に多い。この前に申しましたように、小さい時から人のまねを大いにやって、一人前になるわけです。まねして覚えたことを、何度も繰返しているわけです。模倣し、繰返しているうちに、だんだんと単なる模倣でなくなる。その辺から創造の可能性がでてくるわけです。文字どおりの模倣はサルまねといわれるものですね。最も単純な模倣の仕方です。正直にまねをする。  この前に申したかも知れませんけれども、サルの研究者からお話を伺いますと、ニホンザルの子供があって、あるところで母親と一緒に育ってきたのを、ごく小さい子供の時に別のところへ移す。そうすると、その子ザルは非常に困る。元いたところに何か木がはえておりまして、木の実がなっている。それを食べていた。別のところに来ますと、それと非常によく似た、人間から見たら非常によく似た同じような実がなっている。あれを食べたらよかろうと思うが、子ザルは食べない——という話を、サルを研究しておられる宮地伝三郎さんという動物学者から伺ったわけでありますけれども、その方がおっしゃるには、サルの“植物分類学”というものは、この場合、人間よりもはるかに、はるかにシャープである。人間がこまかく区別しないものを、サルの子供はちゃんと区別している。母ザルと一緒に食べていた木の実と種類がちょっと違ったら、その実を食べないという。いくらひもじくなっても食べないという。融通がきかないわけです。  人間のまねの仕方というのは、もう少し幅があるのが普通です。人間はよく似ているから食べてもいいだろう、というようなことを考えるわけです。  しかし、場合によっては、それは危険なことかも知れない。あるおいしいキノコに似たものを食べたら毒キノコで、それで死んでしまうかも知れません。まあ、いろんな場合があるわけです。たとえば、人間がサルまねをやって、長い間それに気がつかないことが実際ある。 長袖ワイシャツ八十年  ひとつ非常に奇妙な例をお話いたしましょう。いまでも忘れられないのですけれども、今から四十年ほど前、私は大学を卒業した。学生時代は、大学の制服を着て、角帽もかぶっておった。今はそういうことはないですね。大学生は角帽なんかかぶらない。制服も着ない。ですから見たって大学生かどうかわからない。  私は、卒業してもあわてて背広を着ることもあるまいと思っていた。別にエリート意識があったというわけでなく、まあ学生というものは制服を着て角帽かぶって、勉強しているもんや、と思っていただけです。  ところが大学を卒業したときに、私の母親が「もう大学を出たんやから、背広をこしらえたらどうや」というから、こしらえてもらった。やはりうれしかったが、背広を着るのにはワイシャツがいるわけです。すると、その当時のワイシャツは袖が長いんですね。少なくも二、三センチは長い。そんなのしか売っていないんです。それを買ってきて、母親が縫上げをしてくれる。当時の人はみなそうだったんです。  ワイシャツというものは、袖たけが少し長くって、必ず縫上げをするものと思いこんでいた。誰も疑問を持たなかったらしい。なぜ袖が長すぎたのか。その理由は極めて簡単であって、ワイシャツは西洋人が着ておったものであって、西洋人は腕が長いわけですね。背も高いけれども、上体の太さに比べて手が長い、足も長い。今の若い人は西洋人と体格が似てきたけれども、われわれの時代は、西洋人の方が大分手が長かったわけです。自分たちの長い手に合わせたワイシャツを西洋人が使っておった。  ところが日本はそれを丸のみにして取入れた。だからワイシャツの袖も長かった。私も当時は、ワイシャツというものは縫上げをするものだと思っていたのですけれども、その後だんだん疑いを抱くようになりました。どうもおかしいじゃないか。われわれの体の寸法に合ったものをなぜ売っていないのかと、非常に不思議に思うようになった。  戦争がすんだ後も、まだそういう時期がちょっとありました。そのうちに、多分、今から二十年くらい前でしょうか、ようやく日本人の寸法に合うワイシャツが出まわってきたように私は記憶していますが、そうなるまでに、明治初年から数えると、およそ八十年かかったことになる。八十年間サルまねしてきたのです。驚くべきことですね。  この前の回にも、日本人は昔から創造性とか独創性というものを尊重しなかった、長い歴史の中で、ずっとそうだった、極めて遺憾なことである、こういうことを申しました。今までに、何べんもいってますが、ちっとも効き目がありませんでした。  ところが、このごろ創造性の開発ということがさかんにいわれ出した。それは結構だけれども、しかしまた創造性の問題で、また西洋人をかつぐ。西洋人の説を受売りする。そういうことがある。ワイシャツに類する話は、残念ながら今でもなくなっていないように見える。もうこの辺で、こういうことは、すっかりなくしてほしいですね。  それなら模倣でなくなり、独創につながることが、どうして出てくるのか。人間はいろんな知能の働きを持っていますが、その中で創造に一番よく結びつきそうなものは、類推という頭の働きです。極端にいえば、これしかない。これを手がかりにするしかない。  類推というのは一番簡単な場合は、たとえ話——つまり比喩ですね。何かあることがありまして、非常にむつかしくてわからない。それをわかりたいと思う。しかしいくら考えてもわからない。ところが、それが他のもっと簡単なことと似ていると気がつく、するとむつかしい方のことがパッとわかる。やさしいことと似ていると気づいて比べてみるとわかってくる。それだけを見たら非常に複雑怪奇と思われたことが、単純で当り前のことに見えてくる。  ずっと昔の人の教えというのは、仏教であろうと、孔子の教えであろうと、あるいは老子や荘子であろうと、あるいはまた西洋のギリシャの賢人とか、あるいは聖書であっても、たとえ話が非常にたくさん出てきます。  たとえ話というのは、人に教える、人にわからせるのに大変役に立つ。話の上手な人はたとえ話を上手にやるわけでありますが、しかし、人に教えるということ自身は創造じゃないですね。自分はもうわかっている。わかってしまってからたとえ話でやるというのは、これはあとの話ですね。  自分が、今までわからなかったことが、パッとわかる。その時に類推が創造的になるわけです。昔の人のたとえ話だって、そういう意味を持っている場合が多かったと思います。頭のいい人が頭の悪い人に教えているだけに見えるけれども、実は、多分、その頭のいい方の人も最初、そういうたとえ話を自分で思いついて、むつかしい真理を自分で納得さすことができた、という場合が多いでしょう。  それを、もうちょっと一般化したのが、類推とかアナロジーとかいわれるものです。ですから創造性の話というのは、いつも類推の話から始るわけです。ここにしか手がかりはないのです。  類推の中に入れてよいもので、たとえ話と少し違ったものに、模型による思考、模型による理解があります。実物ははなはだ複雑でわかりにくい。だから飛行機の模型を作る、というようなこと自体は、あまり創造的じゃないですね。つまり本物の飛行機が先にできてしまっておって、子供のおもちゃとして模型をこしらえたりするというようなことですから、創造と模倣の順序が逆になるわけですね。  ところが模型という言葉を私たち物理学者は、これと少し違った場合に使う。たとえば原子の中はどうなっているかを研究する。昔はこれは、たいへんむつかしい問題であった。むつかしいどころか、全然わからなかった。  この前申しました長岡半太郎先生は、非常に早い時期に、そういう大問題の研究をされたわけでありますが、それから七、八年して、イギリスのラザフォードという偉い学者が、原子というのは太陽系のようなものだということを、つきとめた。太陽系に似せた原子模型を作ったわけです。  つまり原子とは、太陽系をうんと縮小したようなものだ。いろいろ違ったところもありますし、その違うところも大事なのでありますけれども、とにかく太陽系に似ているという発想が創造につながったわけですね。これは、やっぱり一種の類推です。 類推の取捨選択  もともと違うものを似ていると思う。しかし、同時に違うところもあるから、どこをどう変えたら、一方から他方に移れるか。あるいはまた、一方から、何を落して何を付け加えたら他方になるか。それをはっきりつかまねばならない。出発点は類推であっても、それに続く変更、取捨選択の操作が必要なわけです。  自分の話になって恐縮ですが、今から三十五、六年前ですが、原子よりもっと小さい世界、つまりラザフォードの模型で原子の真中にある原子核自身の、そのまた中のことを考えた。原子核の中でも何か力が働いているに違いない。その力は今までに知られている力とは別種の力であろう。その力の本質は何か。これが私の問題であった。そこで、この未知の力を、それまでによく知られていた電気的な力から類推してみたわけです。  むろん両者は違うのですが、似ているところがあると私は思った。違うけれども似ている。似ているけれども違う。そういう認識、そういう把握の仕方がまずあって、中間子の理論というものが、できあがってきたわけです。  同志社大学の市川亀久彌君という人は創造性の研究を——この前申しましたかな、やっぱり三十年近くやっていますが、彼も類推から始めましたが、後になって、類推という表現を、すっかりやめて、等価変換ということをいうようになった。それは先ほどいった類推に変形や取捨選択を意識的に加えたものです。彼の説のくわしい紹介はやめますが、この機会に私のいいたいのは、こんなに古くから創造性の研究を続けている人は、日本はもちろん、外国にもほとんどいない。私も彼と同じくらい古くから創造の問題に非常に興味を持っていましたけれども、そのころは、そういう話は、ほとんど誰も相手にしてくれなかったのです。  私はだいたい少数意見というのが好きですね。梅原猛さんは私を少数派だと規定しておられるが、その通りです。そもそも独創的な意見というのは、最初は当然、絶対少数派です。少数どころか、自分ひとりだけが言ってるのが独創的な意見ですね。  はじめしばらくは他の人は知らない、あるいは言ってもわかってくれない。わかる人はあっても少数ですね。そういう時期がしばらく続く。そのうちにだんだんと多くの人が、ハハンそうかと思うようになる。これは愉快なことです。何事についてもすべて多数意見に従うばかりというのでは面白くない。私など、それだけでは生きがいが感じられませんね。  もちろん私はことさらに異を立てようとは思っていません。むしろ世間一般のことについては常識的な人間でありたいと思ってます。しかし、自分の専門の分野、あるいは特に関心を持って深く考えてることについては、人と違うことを考えるようになります。そして、そこに生きがいがあると思いますね。何もかも人と同じようなことを考えているというのでは面白くない。皆さんも同感だと思いますが。 同定の生物的段階  そこで私は、いよいよ創造性に関して、自分の意見をいいたいと思います。それはまだ少数意見で、皆さんも多分おかしなことをいうてるな、とお思いになるかも知れません。とにかく三回もやって、自分の言いたいことを言わずにすますのはつまらない。きょう言わなければ、あとがありませんから——(笑声)。  これからの話は「同定」ということについてです。英語でいいますとIdentifyが同定するという動詞ですね。Identityといえば、同一ということですね。あるいは同定することという名詞はIdentificationです。その同定という話を、これからしばらくやります。  今までにも、いろんなものに書いたりいたしましたけれども、私の考えている同定というのは、違うものが同じであると思うことなのです。同じものを同じと思うのではだめなのです。今まで同じと思っていなかったもの、同じと気がついていなかったものを、同じと思うから意味がある。二つのものが似ていると気がつくのが類推であり、二つは違うものだが、何かの意味で同じだと気づくのが同定であるわけです。  いま申しました同定というのは、人間が同定する場合の話ですが、もっと広く人間を離れて自然界のあり方を見ますと、人間が同定するより前の段階の同定のプロセスが、いろいろと見られます。まず生きものについて、同定というプロセスが見られます。  生きているということはどういうことか。今まで私たちが生きものと思ってきたもののすべてに共通する性質として、自己増殖をやるということがあります。最も一般的に考えれば、必ずしも自己増殖という性質が生物の必要条件とはいえないかも知れませんが、一応常識的に考えて、生きものの第一番の特徴は自己増殖にあるといっていいでしょう。カエルはオタマジャクシをたくさん生む。それはやがてカエルになる。カエルと違うものになったらおかしいわけです。そういうことはめったに起らない。カエルの子はカエルになる。いちばん単純な生物の増殖の場合に戻って考えるならば、無性生殖で全く同じものをいくつでもつくるという段階があるわけです。近ごろは無性、有性を通じて、そういう遺伝のメカニズムが非常によくわかっておりますね。  DNAと称する細長い分子がありまして、その中で塩基がどういうふうに配列しているかということで、遺伝的素質が決ってくる。DNAという分子は自分の裏返しの配列を持ったDNAをつくる。裏返しになったものが、また自分の裏がえしのDNAをつくる。それは元と同じになる。それを簡単にいえば、自分と同じものをつくるという作用があるわけです。それでいくらでも同じものが複製されてゆくわけです。それが生物のプリミティブな段階での自己増殖です。 同定の過程の進化  自己と同じものを複製する機能を持った物質が自然界に出現したというのは、大変な出来事であった。生命の起源というのは、むつかしい問題でありますけれども、だいたい生物というのは、もともと自然界の変りものですね。人間にまでなると、ひとりひとりが変っている。よくもこんなにおかしなものが、いっぱいできたものだと思う。  そういうことになったのは、いくらでも同じものを複製するからです。そうでなかったら、こんなにたくさん、おかしな生きものが地球上にうようよするようになるはずはない。それはつまり、自分と同じもの、自分と同定できるものが、つくられだしたからです。それが、地球上の生物がワーッとふえてきたということの元ですね。  ところがもうちょっと後の段階になりますと、有性生殖をやるようになる。オスとメスの両方からのDNAが一緒になって、また分れるわけでありまして、複製といいましても全く同じものをつくるのじゃない、父親の方にも似ているし母親の方にも似ている。しかし、どっちとも少しずつ違う、よく似ているけれども少し違うのをつくるという段階に進化するわけです。同定のプロセスの進化ということが、自然界で行われたわけです。同定といいましても、ちょっと違うものを同じと思うということがある。そこで、いろんなバラエティーが出てくる。特に人間でありますと、それぞれ個性を持つようになる。これは一体、何のためだったのか。  少し脱線のようでありますけれども、必ずしも脱線じゃない。生きがいの話と大いにつながりがあるわけです。創造という話ともつながりがある。子どもが何人できたって少しずつ違う。人類という立場からは、みんな人類の一員だと同定できる。しかし、そこにいろんなバラエティーがある。お互いに違っている人間を、人間として同定する。何か本質的に同じ性格をもつ生きものだ、と思う。違いは明らかにあるけれども、ひどく違うわけじゃない。だから、お互いに人間として同定できる。そこにヒューマニズムの成立つ根拠がある。  将来、今の人間とひどく違うものが出てきたら、問題はむつかしくなる。それはたいへん深刻な問題になりそうですが、さしあたっては、そこまで考えなくてもよい。遠い先の心配はやめておきましょう。そこで元へ戻って、同じ両親から生れた子供が、少しずつ違うというのは、どういう意味を持っているのか。  このごろカズノコも高くなってきましたけれども、昔は安いものでした。あれはニシンの卵ですね。ニシンは非常にたくさん卵を産む。それがみなニシンになっちゃったら、ニシンは無茶苦茶にふえるはずです。海の中はニシンだらけになるわけでありますが、そうはならないですね。  このごろはニシンが足りなくて、カズノコも貴重品になっているわけで、カズノコのたとえ話もこのごろではピンとこなくなりましたけれども、たとえ話ですから、いい加減にお聞きになったらいいのでありまして、非常にたくさん卵を産む。その一部しか無事に成長しないと思うから、たくさん産む。しかし、それらは全く同じものではなくて、少しずつ違う。その中で、その時の状況に適したものが成長して生きながらえる。人間だって、そうだったのですね。たくさん生んで、たくさん死んで、強い子というか、その時の状況に合ったもの、環境に適したものが生きのびてきた。  このごろは、そうじゃないですな。乳児死亡率もずっと下がっております。昔と今とでは淘汰され方が、だいぶちがう。生れてくる数を制限する。その代り、生れてきた子は、みな何とか育つように努力する。私は、それは正しいと思うのです。ヒューマニズムというのは、そういうものだと思う。  生れてきたものは何とか幸せに生きながらえるようにする。われわれ現に生きているものが、あとから生れてくるものに対して、生れてきた以上は、何とか育ってしあわせになるように努力するのは、正しいと思いますけれども、生物学的にはきわめて異常な状況ですね。  昔流の考え方はもうちょっと違っていた。人間をもう少し生物学的に考えておった。たくさん生んだ中から丈夫な子が育つ、というような考え方が多少はあった。昔の人だって、そうはっきりとはいわなかったけれども、そういう考えが奥底にあった。それがいいとは思いませんが、生物界の本来の姿であったことは否定できない。  カズノコの場合のように、やっぱり適したものが生きながらえる。それなら、はじめから適した卵だけ少数、産んだらよさそうだが、そうなっていないのは、どういう状況の変化が起るかわからない。それを見越して、余分にこしらえておけば、ある時にはある素質をもった卵が成長する。その時々の状況に適したものが生きながらえる。そういう予備適応——プレアダプテーションをやっているのだ、ということを植物学者の芦田譲治さんから教えられて、なるほどと思った。ニシンという魚はそれで絶滅せずにきた。人間はそう解釈する。  ニシンは別に考えたりはしないけれども、体の中にそういうメカニズムが、いつのまにか、ちゃんと出来上がっている。人間の方は、いろんなことを自分で考えてやっている。考えてやったことが本当によかったかどうか、長期的な見通しはむつかしい。  ニシンだって、人間に無茶苦茶に獲られてしまって絶滅するということがありうるわけです。そういう場合まで見通したメカニズムにはなっていないわけですね。人間がいろんなことを考え出してくるとは、他の生物は予想していない。だから、自然界はえらいことになってくる。自然のバランスが狂うようなことを人間がしている。それがまた人間に戻ってくる。人間のしていることは、どこまで考えてやっているのか。よほど先々まで考えておかないと、えらいことになる。  また脱線しました。いろいろ言いたいことがあって、それを一ペんに言おうとするから、自分でも混乱するんでありますが……(笑声)。  元へ戻って——、少しずついろいろ違ったものをつくってゆく、それで生物は状況が変っても、何とか生きながらえるようになっている。これは自然界の面白さの一つですね。  これをこの人間の場合に持ってきますと、人間も各自が、ある程度ちがっている、多様性がある。それで生きながらえるというよりも、むしろ生きがいの問題につながるのだと思います。みんな同じようになる、違いが非常に少なくなって、隣の人のやっていることと全く同じことをやって、それで満足して生きてゆく。そういう生き方もありますから、別にとやかくいうことはありませんけれども、しかしやっぱり、あまり面白くない。  私などは我の強い人間だから、とくにそう思うのかも知れませんけれども、人間というのは、それぞれ、どこかに自分流の生き方があるという方がいいでしょうね。その方が人間らしい。  そもそも生物が有性生殖をやるようになったというのには、そういう含みがあったわけですね。それが人間の段階になると、遺伝という生れつき決ってること以上に、生れてから後の話が重要なわけです。  人間は他の動物にくらべて、未熟な状態で母の体外に出るから、母親の保護がよけいに必要な代りに、未確定な要素が多く、生れてから後の進歩、発達の可能性が大きい。それは広い意味の教育の話につながるわけです。  ここで教育問題について詳しくお話するつもりはありませんけれども、昔から私は、教育の問題はむつかしいけれども、画一教育がいけないということだけは、極めて明白だと思ってきました。それでこのごろ多様性ということがしきりに言われるようになったのは、一つの進歩だと思います。  しかし、困るのは、教育過程の多様化というのが、何本も路線をつくって、それに序列をつける。四つの路線があれば、それらが一等、二等、三等、四等ということになってくる。こういう多様化は具合が悪いわけです。三等か四等の路線に乗ったものは、浮ばれないわけです。 価値体系の多様性  私のいう多様性というのは、一元的な価値体系をつくらない、価値体系そのものにも多様性を認めることでもある。この前にも申したかと思いますが、私は多元論的な考えの方が好きです。遠い昔へもどれば、それは多神論でしょう。多神論というのは面白い。ギリシャの神様は面白いですね。みなはなはだ人間くさくって、それぞれ欠点もあり、特色もある。  日本の神様は、もっとたくさんある。やおよろずの神、その中には随分変った神様があって面白いですね。しかし、たくさん神様があっても、それに唯一絶対な序列をつけてしまったら、たちまち面白くなくなる。  人間は生れてから、いろいろ学習する。その学習する内容や、学習する仕方が違うということで、いろいろの違いが出てくる。私は遺伝というのも非常に重要だと思います。遺伝的な違いは問題にならないとかなんとかいうのは、いかにも聞えはよろしいし、本当にそうだったら結構ですが、残念ながら、そうはなっていない。ただ人間にとって救いだと思うのは、生れて以後の長い間の学習段階が非常に重要である、ということです。  学習をするというのは、非常に早くから始る。たとえば、赤ん坊の時から親を見習う、それから兄弟、友だちを見習う。学校へ行ったら先生に教えてもらう。教科書に書いてあることを覚える。そこでいろいろ記憶もできてくる。学習したこと、記憶していることが人によって違うから、いろいろバラエティーが出てくる。そういうことが創造性を発揮するための元手になる。今まで人のやったこと考えたことと違うことのできる可能性が準備されるわけです。その人なりの生きがいということの出てくる元も、そこにあるわけです。  学習し、記憶するというのはどういうことか。記憶したことを、なかなか思い出せない場合もありますけれども、思い出すということは、前にいっぺん学習して覚えこんだことを、もういっぺん意識し直すということです。これは再現であり、一種の繰返しですね。人間というのはものすごい繰返しをやっているわけですが、繰返しそのものは創造じゃないですね。  毎朝、顔を洗って歯をみがく。私も六十年間、毎朝起きると顔を洗って歯をみがいている。一万回、二万回もの繰返しです。そこに進歩はほとんどない。せいぜい歯みがきの種類が変ったくらいでしょう。私の親も、その前の代も顔を洗って歯をみがいていた。おそるべき繰返しです。  しかし、これだって、いつか誰かがはじめたことですね。つまり原始人は歯をみがかなかった、顔も洗わなかった時代があったでしょう。だから、はじめて顔を洗ったり、歯をみがいたりした人があったに違いない。それは創造的な行動ですね。もともと歯をみがくのが当り前、顔を洗うのが当り前ではなかった。自然状態においてはそんなことをしなかったでしょう。私は生物学者でも人類学者でもありませんから、詳しいことは知りませんが、とにかく人間は自然な生活をしているうちに、ときたま新しいことを考え出して、だんだんと不自然な生活に変っていったわけですね。  しかし、今となって見ると、歯をみがかない方が、むしろ異常で不自然ですね。自然と文化とを分けて考えようとしても、純粋の自然というのは一体何か、それはよくわからない。サルにも文化があるということが近ごろしきりにいわれている。まして人間は、自然にかえれ、といってみても、どこまで戻ったらいいのかわからない。  それはわかっているのに、私も皆さんも、このごろは自然にかえれ、と大きな声でいいたくなるのは、つまり科学などが進歩して、いらないものがふえすぎる、いるものであってもたくさんこしらえすぎる、有害な副産物、始末の悪い廃棄物がいっぱいできる、有毒なガスがまき散らされる、こんなことになるなら、科学なんか進歩しなかった方がよかったんじゃないか、昔の自然に戻せ、という声が最近しきりに出てくる。そういうことを二千何百年も昔にいったのが、老子や荘子です。  私は中学生時代から、老子とか荘子とかいうのが好きでした。なぜ好きになったか、いろいろ原因があるのですけれども、日本では老荘思想は広がらなかった。ちょっと不思議ですが、みなさんも老荘にはあまり親しみがないと思います。こういう思想は日本だけでなく、世界的にも少数意見で広がらない。そこが私の好きになった理由の一つであります。 老荘は「通過」の思想  しかし、もっと重要な理由があります。それは、私にとって老荘は思想であり、宗教でも倫理でもなかったことです。その違いは「通過」——あるいは「一時停止」——という言葉と、「到達」という言葉の違いとして表現できると、私は思うのです。  ここで到達といったのは、何か到達すべき目標、理想像、終着点というイメージにつながる。これに対して通過というのは、そこを通る、そこで一時停止することに大きな意味があるが、終着点ではなくて、途中の駅だというニュアンスがある。そういうつもりで、到達と通過という言葉を使ったわけです。  到達の方に属するものとしては、たとえば儒教という教えがあるわけです。日本では江戸時代に儒教が非常に栄えた。朱子学といいますが、もとは孔子の教えですね。朱子は偉い人だけれども、そのよりどころは結局は孔子で、それは終着点であり到達点である。いちばん偉い人、完全な人格者ですね。後の人は誰も孔子にはなれない。まして、孔子を超えることはできない。できないけれども、あるいはできないからこそ、大いに見習う、その教えに従うというわけですね。  仏教であれば、孔子さまの代りにお釈迦さまですね。日本からも偉い坊さんがたくさんでたが、どんなに偉い坊さんであっても、お釈迦さんが終着点ですね。それより上へ出たらいけないわけです。また絶対それはあり得ないと初めからきまっている。それが宗教というものでしょう。キリスト教も、その点は同じです。宗教というのは、そういうものですね。  それに対して私はとやかくいうつもりはない。ところが、そうでないのがあるのです。たとえば学問の場合、到達というのは何か。かつては物理学のような学問でも、ニュートンが到達点のように思われていたのです。ニュートンは、絶対に変らぬ物理法則を発見して、それを中心にして力学という理論体系をつくった。十九世紀の終りごろまでは、物理学者は、それを終着点と思っていた。二十世紀になってそうじゃなかったことがわかった。  プランクとかアインシュタインとかいう偉い物理学者が何人もでてきて、ニュートン力学をひっくり返してしまった、というといい過ぎになりますが、とにかくニュートンは終着点、到達点、ではなくなった。教祖に近いけれども教祖ではない。長い間、停車しなければならなかったが、結局は通過すべき途中の駅だった。まだ先がある。どこに終着点があるか、まだわからない。  私が前にいった開放的世界観というのは、そういう状況に対応しているわけです。地球の上にはエベレストより高い山はないということがわかっている。いくら捜してもないでしょうね。一時ヒマラヤにまぼろしの高峰というのがあるらしい、それはエベレストより高いらしいといわれていたことがあるが、結局それはまぼろしに過ぎなかった。残念ながら地球上にはエベレストより高い山はない。  しかし山登りの話は別にして、人間にはまだわからないことがいっぱいあるのです。学問の世界では、今までにわかっているものは通過して、先へ行く可能性がつねに残されている。将来も、いつまでたっても、つねにそうであるのかどうかは、わからない。それもわからないと思うのが、私の開放的世界観です。  幸いにして学問のどの方面も、まだ終着点に到達していない。ただし物理学などは大分終りに近づいているのではないかというのが、私のいつわらざる感じでありますけれども、自分が物理をやりながら、そういうことをいうのは、あとの若い人をがっかりさせる、よからぬことだから、このごろは、なるべく、いらんことはいわんようにしています(笑声)。  さて老子、荘子というのは、明らかに到着点ではない。非常に独創的な、面白い思想には違いないが、それだけで終らないことも確かです。老子を教祖としてあがめる義理もない。ほめるところはほめて、欠点はくさす。自分の先輩か友だちのように思っていたらいい。「あれは面白いことをいうている」「そやけど、あれはちょっと極端や」そういうことを自由にいえる。  なぜかというと、日本には老荘の信者はほとんどいない。中国では老子などを教祖にかついだ道教というのが盛んだったことがあるが、それは老荘の思想とは大分違うものです。そういうものは日本では普及しなかった。中国の方も今は共産主義ですから、もちろん老荘など、どうだっていい。誰に遠慮気がねもなく、老荘について話ができる。それが、私には何ともいえない魅力ですね。しかも、いっていることは実に面白い。いつも引合いに出すのですが、遠い昔の人たちだのに、現代に対するもっとも痛烈な批判になっている。まことに驚くべきことです。例として一つ二つ、老子の言葉をあげておきましょう。  老子はこんなことをいっている。国は小さくて人は少ないのがよろしい。「小国寡民(かみん)」——同感ですね。それから軍備というようなつまらんものはやめておきなさい。なるべくお互いに交通したり通信したりするな。隣村が近くにあって、そこで鶏が鳴いたり、犬がほえたりしているのが聞えてくるくらいの近くにあっても、一生涯つきあいもなにもするな。往き来もするな。これが老子の説く理想郷です。いいですね。  現代のわれわれは、その反対の極にあって、次々とかなわんことがいっぱい出てくる。毎日の新聞を見ましても、公害の話の出ていない日はない。それから情報、情報、情報の洪水です。コンピューターで処理するなどというが、そもそも、なぜそんなにたくさん情報をこしらえるのか。いくらいってみても公害はふえ、情報も多すぎる。あれよ、あれよといううちに、こんなことになってしまった。  老子は二千何百年か前に「そんなことはまずいぞ。大勢寄ってガサガサしたらまずいことになるぞ。小国寡民がよろしい。お互いにあんまりよそとつきあいせずに、田を作ったり、綿をつくるかなんかして、適当に暮しておれ」といった。まあ小ぢんまりと自給自足ということですね。  それは、どうせあまり豊かな暮しじゃないですわね。いい、いいと老子がいくら言うても、みんなはそんな暮しに満足しない。貧しい暮し、不便な生活で、困ることがいっぱいあるでしょう。困苦欠乏に耐えなければならんでしょうな。 老荘からヒューマニズムへ  だから、なにも本当は理想郷じゃない。けれども、それと全然逆の、物資はあり余る、情報ははんらんしている、そして公害がいっぱいある、核兵器もある、BC兵器もある、とんでもないものがつくられ蓄積されつつある今日の状況からみると、老子のいっていることは、いかにも予言者の御託宣みたいな感じがしますね。どうですか。  そういうことを大昔にいっていた。みなはそれに従わなかった。それどころか、老子や荘子の思想は、日本では特に具合が悪い。勤勉哲学ではないからです。私も自分をわりに勤勉な人間だと思っている。少なくとも勤勉であろうと努めている。だから、こういうところへ出てきて一生懸命に話している。  老子の言葉で一番好きなのは、「天地は不仁、万物をもって芻狗(すうく)となす」というのです。ものすごい真理ですね。素直に考えてみたら、だれでも納得せざるを得ない真理です。しかし、ほかの人は、こんなことはいわなかった。 「天地は不仁」という時の不仁というのは、つまりあわれみ深くないということです。われわれはこの天地の中に生れてきた。この天地の中には、人間もふくめて万物があるけれども、別にこの天地は、なにも非常にあわれみ深くて人間のために万事よかれと配慮してくれているわけじゃない。  人間だけじゃなくて、すべてのもの、万物についても、そうですね。天地はネコにばかり都合よくはできていない。ネズミにばかり都合よくもできていない。天地は、なんとなくこういうふうになっている。 「万物をもって芻狗となす」という中の狗は犬ですね。芻はたしかワラという意味だったと思います。芻狗というのはワラでつくった犬の人形です。お祭のときに、それをつくるわけですが、祭がすんだら用はないから、捨ててしまうわけです。 「万物をもって芻狗となす」——非常に突き放したいい方ですけれども真理ですね。私もその通りだと思いますが、これでは取りつく島がないから、日本でも西洋でもあまりこういういい方は好かれない。  こういうことをいう老子自身はヒューマニストであったかどうかわかりません。しかし、それはそれとして、こういうところから私なりのヒューマニズムが出てくるのです。つまり、この世は、どういう考え方をしてみても、人間にとって、すべて都合よくできていないことは否定できない。なかには運のいい人もあり、比較的しあわせな人もある。私などは運がいいし、しあわせだと思わないといけないと思っていますけれども、しかし誰にとっても万事が思うようになっているわけではないですね。思うようにならないことがいっぱいありますね。  これから先、仮に長生きできなかったら困ることがある。しかし、長生きしたらしあわせかどうか、それもわからないですね。長いこと生きても、暮しに困るようになったらみじめですね。もうあの世へ行きたいと思っているのにまだ身体はピンピンしているというのは、かなわんかも知れん。それなら早く死んでしまえといわれたら、いい気はしない。どっちにしたって、いいことずくめということはないでしょうな(笑声)。  いずれにしたって、なんとか一生懸命生きていくというだけのことで、この世は万事都合よくできていない。私にとっても、みなさんのだれにとってもそうです。これはわかり切ったことです。比較的に運がよかったり、あるいは自分でがんばってみて自分の道を開拓する。それで大いに生きがいを感ずる人もある。  しかし、やっぱり苦しいこと、悲しいことは、誰でも経験するわけです。この世はそういうふうになっている。人間のために悪かれというふうにもできていない。しかし人間のために万事よかれというふうにもできていない。これが一番、素直な考え方ですね。  そこで私の論理は、「だから」人間というものは、お互いに助け合って生きなきゃならない。せめてお互い迷惑をかけないようにした方がいい。親切にした方がなお結構でしょう。人のために献身的につくすのは、なおいいでしょう。しかし、そこまでできなくても、お互いに迷惑をかけないように生きていかなければならない。それしか、ものの考えようはないですね。  こういう、しごく平凡な、私からみたらもっとも当り前の考え方は、かえって多数意見にならない。やはり何か絶対的な真理、悟り、救いを、人間は本来、要求しているのでしょうか。前にも申しましたように、そういう話にまでは私は立入らないことにします。  ただもう一言だけつけ加えますと、老子や荘子は非常に突き放したようなことをいう。しかし、私はだからこそ人間というものはお互いに助け合っていかなきゃならないと思うのであります。そこで一転して、老荘と非常に違ってくるわけです。だけど、みなさんはみなさんで、老荘にも私にもこだわることはない。どうお考えになることも自由ですね。  人間の人間たるゆえんは、何かを信じることができる、それが他の人の信じることと同じであってもよいし、違ってもよい、そこに選択の自由が残されている。そういうことですね。  老子がいうように、昔から食べているものをうまいと思って食べる、一種の自給自足の生活、昔ながらの生活、非常に簡素な生活をする。よその村とはつきあいしない。それがいいと思うのも、一つの割切り方ですが、それは要するに、ただ割切ってみただけの話で、そんな状態には、もはやもどれるわけじゃない。  しかし、そういう現実世界と極端に違う状況を想像して見るのはいいですね。二千何百年か前、すでにこういうことをいっていた人がある。それを今日、私たちが思い出して見るのは、大いに参考になると私は思うのです。  さて私は何をいいかけていたのか。もともとは同定の話でしたね。 物の同定と自己同定  つまり同定というのは、どういうことかといいますと、ここに物がある、ここにチョークがある、それを私が動かすとします。そうするとみなさんは、チョークという同一物が動いたと思う。みなさんはチョークを見ていて、そう思う。みなさんの側に何が起っているのか。これを誰かが適当な装置を使ってしさいに調べてみたなら、みなさんの一人一人視線が非常に速くチョッチョッと動きまわっていることがわかるでしょう。  チョークをチョークと認めるのには、ごく短いけれども時間がかかっている。幸いにして、その時間の間に、チョークは少ししか動いていないから、チョークのイメージができる。しかも残像というものが、これも短い時間あとに残るから、少し動いたあとのチョークのイメージと結びつく。そこで同じチョークが動いたのだと思えるわけですね。チョークをあんまり速く動かしたら、チョークの姿は見えなくなる。  時間的、空間的に、わずかに違うイメージが重なりながら続いてゆくから、チョークが連続的に動いたと思うわけです。それでチョークがチョークとして、ずっと同定されてゆく。  物があり、その運動は連続的である、という素朴実在論が、このようにして、知らぬまに私たちの身についてしまっている。それは一生懸命に否定しようと思っても、いっぺんに否定し切れるものじゃない。哲学者といえども、思索してる間は、そう思えても、日常生活に戻れば、無意識に素朴実在論になっている。  ところが科学というのは、ひとまず、そういう素朴な存在論を認めて、そこから出発して、自然界がどこまで理解できるか、いろいろ検討する。そうすると原子とか素粒子とかいうものの存在を認めなければならないことになる。  ところが素粒子までくると、素朴な意味での物質とは違った性格が出てくる。素朴実在論が、そのままでは成立たないという新しい事態が、うんとまわり道をした結果として出てくる。それは素粒子に対する同定の仕方が、チョークのような普通の物の場合と、非常に違う、といういい方をしてもよい。  しかし、そういう話は前にしたことがあるので、(たとえば自選集第四巻所収「同定ということ」参照)ここでは立入るのをやめて、もう一度、普通の意味の物に戻って考えて見ますと、物を物として同定している私たち人間とは一体何か。私たち人間はそれぞれ自分を自分だと思っている。つまり自分を自分と同定してるわけですね。きのうの自分ときょうの自分を同定している。きのうの自分はきょうの自分と、どこか違うはずですが、それを同じ自分だと思う。  さきほど物を物として同定するのに残像、あるいはもっと一般的にいえば記憶が必要だという意味のことを申しましたが、きのうの自分をきょうの自分と同定できるためにも、もちろん記憶が必要です。そのおかげで生れてから何十年間、ずっと自分を自分に同定し続けてきた。  記憶で足りない部分、たとえば、うんと小さい時の自分は、人の話で補ったりもしているが、大体としては、記憶によって自分をずっとつなげている。そういう自分があって、生きがいということも出てくる。  記憶喪失症というのがあります。あるとき以前のことを、何かのショックとか、病気とかいろんな原因で忘れてしまう。そうすると自分がだれであったかわからないようになってしまう。私たちは幸いにして、何十年か前に生れたときからの自分がずっと続いて生きていると思っている。少なくとも物心がついてからの自分を、ずうっと自己同定しながら、今日に至っている。そういう自己同定を、ほとんど無意識にやり続けている。  これは非常に基本的なことです。つまり人間の心というのは、そういうような同定ということをもっとも基本的な操作としてやっているわけです。  人間は自己同定をする、自意識を持っている。ところが、そういうことと密接に関係して、人間は他の動物と違って、言葉を持つようになった。それはまず物と言葉を同定することから始る。これはたいへんなことで、物と言葉という明らかに違うものを同定しているわけです。  たとえば、ここに犬がおれば、私たちはそれを犬だという。犬という言葉、あるいは文字と、犬という生き物を同定している。  なぜ、犬を犬というのかわかりませんが、日本では犬という。イギリス人やアメリカ人はドッグという。どっちが正しいとか、正しくないということはないですね。それは要するに約束です。しかし、初めになんかの拍子に犬という生きものと犬という言葉を結びつけた。それ以来、その「しきたり」に従って、繰返している。  小さい子どもはワンワンという。西洋ならバウワウなどという。言葉が全然いえない幼児でも、ワンワンという言葉を聞けば、犬を指して同定する。そのうちにワンワンといえるようになり、やがてワンワンは犬の鳴声だ、鳴声じゃちょっとまずいから、犬そのものには別の名前をつけましょうというので、犬と呼ぶことになる。  言語の起源はむつかしい。言語の起源は議論してはいけないという話さえあるのですけれども、とにかく人間は大昔に物と言葉を同定しだした。不思議なことを、はじめたわけです。サルは人間に近いけれども、サルにはまだ言葉がないのですね。叫び声しかない。  人間は物と言葉を同定するという、すごいことをはじめた。そこから、すごい知能の働きが出てくる。犬という言葉ができますと、現にそこにいる犬だけでなく、別のところに別の犬がいても、犬と呼ぶことになるわけです。  犬という概念ができて、それで概括したり、分類したりするという、頭の働きがそれにともなって発達する。犬が走ったら、犬が走っているという文章をこしらえる。  そんなふうにしまして、言葉を使って、言葉を媒介として、物を考える。それがなかったら物も考えられない。言葉というのは人間の大発明、驚くべき創造です。それは、まさに典型的な同定のプロセスの集積の結果です。  言葉というのは何か、このごろよく使う言葉でいえば、これはシンボルの一種です。言葉は物そのものじゃないわけですね。  未開人の言葉は、ある意味では文明人の言葉より細分化されている。前に申しましたサルの植物分類学の話と同じように、言葉でも細かく分ける。何かが走るのでも、シカが走っているか、象が走っているか、人間が走っているか、みな「走る」という同じ言葉で表現するのは、文明人のすることで、未開人の方が別々の言葉を使うという話もある。  シカが走るのと、人間が走るのと、これは確かに違うことである。それをみな、同じ「走る」という言葉と同定するのは、同定のプロセスの一種の進化ですね。  言葉のほかにも、シンボルはいろいろあるわけです。神様というのが、すでにシンボル的なものですね。古代人は山があると山の神様がいると思った。さらに山自身が神様のシンボルになる。山の上に岩があると、これがシンボルになったり、あるいは高い木があると、これが神様のシンボルになったりする。これも一種の同定ですね。そういうシンボルのシンボルみたいなこともあるわけです。 物と数の同定  言葉はシンボルであり、文字もシンボルであり、数字というのもむろんシンボルです。数学的記号になってくると、ますますシンボル的性格がはっきりする。ABCとかXYZとかいう記号が、数学的記号として使われると、その発音をはなれて、新しいシンボルになる。人間はいろいろなシンボルをあやつって、知的活動をしている。その始りは、言葉と物との同定ですね。  数学というのは算数から始るが、これは物と数の同定ですね。犬なら犬を一匹、二匹、三匹……、あるいは、もっと簡単に一、二、三……と数えるわけです。犬が五匹おったら、犬が五ですね。五という数と、犬の集りと同定するわけですね。犬のかわりにネコを数えてもよい。犬とネコと一匹ずつ対応させて、過不足がなかったら、数が同じだと思う。犬であろうとネコであろうと、人間であろうと、お皿であろうと、チョークであろうと、なんでもかまわない。対応させる、数と同定させる。そこでは、すでに抽象作用が相当進んでいる。  数学といえば、算数、代数と進む方向とは別に、幾何というのがある。図形を取りあつかう。デカルトは解析幾何、あるいは代数幾何というのをつくりだした。これは図形と数——つまり座標——の集りとを対応させ、同定することから始る。これも非常に偉大な創造です。  子供は模型が好きですが、これは実物と同定できるところのものです。たとえば自動車の模型は実物よりずっと簡単ではあるが、自動車に似ている。子供にわかるような自動車らしさというものだけを残して、あとはみな捨ててしまってある。ゼンマイで走らすなら、排気ガスが出なくてよろしい。  だから、エンジンなどは捨象してしまった方がいい。似ていないところはあるけれども、小さい子供は、そういう模型で満足する。この場合、実物がすでにわかっているから、模型をつくることは創造的活動ではない。  物理学の世界でも、原子模型などという言葉が使われる。これは物理学者が頭の中で考え出したイメージと、実際の原子とを同定することですが、この場合は模型によって、まだよくわかっていなかった原子の構造がわかったら、それは創造ですね。  このように同定には、いろんな段階があるわけです。だんだん高度になってきますと、創造の方も、非常に高度になってくるわけです。  ここで一つ、みなさんのよく知っておられる場合を、高度な同定の例として取りあげましょう。  ニュートンという偉い学者がいた。物理学における最高級の仕事を彼は成就した。  彼は教祖ではないが、それに近かった。結局は通過する駅であっても、そこに二百年以上、物理学者たちは滞在せざるを得なかった。二十世紀になるまでは、終着駅だろうと思われていた。彼はリンゴの落ちるのを見て万有引力というものに気づいたということになっているのですが、これは伝説であるにしても、大変よくできている。  問題のポイントは、リンゴは落ちるのに、お月さんはなぜ落ちないのか、というところにある。これが大事な点ですね。リンゴとお月さんをくらべたという点を見落したらあかんわけです。  お月さんは地球のまわりを回っている。リンゴの方は地球のそばにあって、落ちてしまうけれど月は落ちない。それはどうしてか? リンゴと月とはそのままでは同定できない。まるで大きさの違うものです。リンゴの運動と、月の運動とは同じでない。一方は落ちてしまう、一方は落ちてこない。  しかし、そこには何か共通するものがあるだろう、と彼は思う。何が同定さるべきものか。なかなかわからない。しかし、両者に共通なものが根底にあるに違いない。そう思うから、物理学という学問が進歩するわけでありまして、結論的にいうならば、彼はついに同定すべきものを二つ発見した。  一つは運動の法則を発見したわけですね。それから、もう一つは万有引力の法則を発見した。どちらも法則です。重力というケチくさい名前より万有引力といった方がよい。重力というといかにも科学的みたいに思いますけれども、これはまずいんです。重力があるのに落ちてこないのはおかしいということになる。万有引力でひっぱっているから遠くへ行ってしまわない。  お月さんはいつまでもまわっている、リンゴは万有引力に引かれて落ちてくる、こういうスケールの大きい考え方をニュートンはした。自然現象といっても、いろいろあるが、昔はそれらを森羅万象という言葉で表現した。これもいいですね。  だんだん人間のスケールが小さくなって、だんだん散文的になって、ロマンチックなものがどんどんなくなって、つまらない世の中になってきた。それを科学的だ、科学の進歩だというが、人間はどうなるのか……。  さて、ニュートンの発見した運動の法則というのは何か。私は、普通言っているのと違うことを言います。  加速度に質量をかけたものが力に等しいというのが運動の法則ですね。ここで大事なのは、力と加速度とは違うものだったということです。それをニュートンが同定したんですね。この二つを左辺と右辺において同定したから、運動の方程式になった。遠うものを同じと思う、というところに発見がある。  ニュートンより後になると、それと違う考え方をする人がでてくるのですね。力なんて非合理な概念はやめておく、力という概念を取払おう、ということになる。あとで取払ってもいいけれど、そういう、できてからあとできれいに壁ぬりした姿ばかりを学校で教えているのではまずい。それからは創造的な人間は出てこない。いずれにしてもニュートンは非常に高度な同定をした。  二十世紀になると、さらにもっと違う段階にまで話は行くわけですが、とにかく違ったものが同じである。数学的な言葉を使えば、二つの違った意味を持った量を等しいと置く、そこで方程式ができる。それが大きな創造性の発現になる。しかし物理の話はこれくらいにしましょう。  さて私は今まで、違ったものを同じと思うのが同定、特に創造的な同定だということを繰返し申しました。これはきわめて重要な点で、よく似たもの、あるいは、すでに同じとわかっているものを同じと思うのとは違う。違うものであるから、同じであると見つけることに意味がある。そこに決定的な重要性があるわけです。 図形認識の能力  人間は非常にいろんな能力を持っていますが、自分で気がつかないのに驚くべき発達をしている能力として、図形認識の能力というのがあります。人の顔を瞬時に見分ける。子供であっても、赤ん坊でさえも、人の顔を見分ける能力を持っている。赤ちゃんでも、自分のお母さんか、よその人かということをすぐ見分けます。大人になるまでの間に、この能力は驚くべき発達をする。知っている人か、知らない人かを、非常にたくさんの群衆の中でも瞬間的に見分けるという恐るべき能力を持つようになる。これはどんな大きなコンピューターでも及びもつかぬ、ものすごい能力であります。そういう一種の同定の能力を人間は持っているのです。  ところがそういう能力を持っているということを、ひとつも意識していない。そしてまた、どうしてそういう能力を獲得したかも全然知らないのですね。これは実に面白いことであります。  自分がどうしてある学問を修得し、学習したか、その経過のあらましは、自分にわかっている。学校へ行って習ったり、本を読んだりして、そうした認識を意識的に努力して獲得した。そういう知識をわれわれはいっぱい持っている。もちろん、学習して得た知識は重要であります。  教育が普及すると、だんだんそうした知識がふえてくる。皆さんもたくさん学習してこられたわけです。たぶん皆さんのお父さんやおじいさん、お母さんやおばあさんより、たくさんの学習をしてこられたでしょう。  しかし、意識的な学習のほかに、先生が教えてくれなかった大事なものがある。どうして人の顔を見分けるのか、先生は教えない。学校では教えない。教えようがない。自分も知らない間に、できるようになっているのですね。  それは本能かというと、本能とはいえない。やっぱりこれは、非常に小さいときからの無意識的な学習の結果ですね。これは、決定的に重要なことであります。  教育問題をあまり立入って議論するつもりはありませんけれども、現在の教育、恐らく過去の教育も、この図形認識の問題だけじゃなくて、知らぬ間に獲得する能力というものの評価ということが、一つの盲点になってるのじゃないかと思うのです。  これと密接に関係したこととして、もう一つ言いたいのは、人間というものは、小さいときには、外から保護を加えられずに大きくなるということは絶対に不可能です。人間は生れてから相当長期間、非常に外的保護を必要としている。それはわかりきったことであります。  このごろ盛んに過保護はいけないということをいっておりますけれども、どこからが過保護で、どこまでが過保護でないかは非常にむつかしい問題であります。けれども、何歳かまでは保護が必要だということはいうまでもありません。  保護とはどういうことか。保護という中には、広く解釈するならば、いろんなことが含まれている。さっきから問題にしている人の顔を見わける能力など、親も先生も教えなくても自分でいつの間にか身につけるというけれども、これだって、いろいろな人の顔を見るチャンスが与えられなければいけない。人の顔を見るというチャンスがなかったら、いつまでたっても人の顔を区別する能力は身についてこないわけです。  そういうチャンスを与えてくれるのは、一口に環境といっても、まず家庭環境ですね。ところが、一般に環境の中には、小さい子供にとって危険なものがたくさんある。  小さい子供というのは、よく縁側から落ちかけたり、池にはまりかけたり、いろんな危険があるわけです。それをとめる、そうして、そういうことをしたら危いということを教える、禁止をすることによって教えてゆくということを、お母さんはする。そういう禁止による保護が必要なわけですね。そういう保護を受けたという記憶は、ほとんど子供の方には残っていない。私にもそういう記憶はほとんどない。覚えがないけれども、私の母親は、いろいろなことを教えてくれたに違いない。だから親に感謝しなければならないと思う。親の生きている間に、自分の幼児のころのことをもっとよく聞いておくべきだったとも思いますね。もはや聞くことができません。  育児法の本には、そういうことが書いてあるのかどうか知りませんが、人間が無事に成長して、生きがいのある人生を送れるようになるまでの前提条件として、自分の知らない周囲の保護があったという、非常に根本的な問題が潜んでいるわけです。私はこのごろ、しきりにそういうことを思うのであります。  大きくなってからのことは、いろいろ思い当ることがいっぱいあります。私くらいの年配になると、若いころのことが、以前より、かえってはっきり思い出されてくるのです。だから、いろいろ考えさせられるのですが、一番はじめのところがわからない。零歳教育ということが最近、さかんにいわれだしました。恐らく、その辺に非常に大きな教育の盲点があるのでしょうね。  それは、日本だけの問題じゃないでしょうね。先進国共通の問題だろうと思います。 考え方の幅  さて、話を図形認識に戻しますと、幾何の勉強をする時に、二つの三角形の合同を証明するために、よく似た三角形を二つ書いたとする。紙に書くにせよ、黒板に書くにせよ、二つの三角形は同じじゃない。なかなか同じには書けないし、また書く必要はないですね。  私がいま、黒板に書いた二つの三角形は、明らかに等しくない。測ってみなくても、等しくないことがわかる。それどころか三角形の辺は直線でない、曲ってる。しかし、なんとか三角形に見える。それでいいわけですね。  頭の中で、一方の三角形のイメージを動かして、もう一つのイメージに重ねたらいい。黒板に書かれた三角形は等しくないが、それを同じと思うからいいのであって、ものさしで測ったら、違っているぞ、ちゃんと書けるまでは合同だともなんともわからないというのは、よっぽど頭の硬い人です。つまり人間の大きな特色は、考えていることに、ある種の幅を持っていることです。あいまいさという言葉を使うときらわれるかも知れませんけれども、そういうものが非常に大事なのですね。たとえば、言葉というのは非常に幅をもっている。私がある言葉を使う、他の人が同じ言葉を使っても、意味するところが違うかも知れない。含みが違うわけです。  私の言うことを、皆さんの一人々々が私の思っていることと相当違う意味に解釈しておられるかも知れない。あるいは、自分の方に引きつけて別のことを思っておられるかも知れない。しかしそれがいいんで、それがあるからこそ、皆さんは私が思いもかけないことを考えつくかも知れない。それが創造になるかも知れない。私の方は同じようなことを、前からいっているから、もうそんなことをいったって、私にとって創造にはなりません。  皆さんは、私がいろんなおかしいことをいっているなあ、と思って聞きながら、私が思っているのと違うこと、とんでもないことを考える。それが皆さんにとっては、創造になるかも知れないですね。  人間が受取る、あるいは、取扱う知識や情報には、幅があるのと幅がないのとがある。幅のない方をディジタルと呼ぶことにしておきましょう。幅のある方はアナログということにしましょう。  コンピューターには、みなさんもある程度興味をもっていらっしゃるでしょう。コンピューターというのは小さいエレメント、素子からできている。素子はいくつかの状態のどれかにある。一番簡単な場合を想定すると、電流が流れている状態と、流れていない状態の二つしかない。言いかえると、一かゼロかで、途中はない。そういう素子を組合わせたものの状態も、一とゼロを組合わせてできる数、つまり二進法で書いた整数のどれかと対応できる、同定できる。整数だから非常にシャープで、幅はないですね。隣の整数は離れている。そこにあいまいさはない。  これに反して、たとえば、この棒の長さはいくらであるか、ものさしを持ってきて測る。いくらいくらと出たとする。しかし、この場合は、測った結果がどのくらい正確かわからないですね。本当の長さはいくらか、一般には、それは実数値をとるだろうという。  本当はそれもわからないが、仮に実数値のどれかということにしますと、実数の全体は連続的につながっているわけで、そのどれかを測ってきめるのは、大変むつかしいことですね。  どんなに精巧な機械を使って、物の長さを測っても、正確さ、精度には限界がありますね。どんな機械を使って測っても、多少のあいまいさが残る。いろんな理由から、幅が少し残る、ある程度の誤差が残るわけです。  もっと簡単な場合で、幅がないと思ってよさそうに見えても、実際は幅がある。たとえば、ことしお米がいくらとれたか。その答えとして、千何百何十万トンくらいといっておけば、当っているでしょう。しかし、もっと細かい数字を出そうとしたら、かえってあてにならなくなる。どのくらい誤差の幅があるか、を問題にしなければならなくなる。何千何百万トンというような荒っぽい数字でとめておく方が、かえって幅の問題まで考慮されていて、その方が人間の高度の知恵の現れとも見られる。誤差の幅がわかっていないなら、細かい数字が出ているからといって、正確とは限らない。  しかしまた数字そのものは、それが米のとれ高と一致する、しないにかかわらず、それ自身は小数点以下、どこかの桁でとめざるをえない。それ自身は幅を持たない。  ところが、人間は言葉を使って話をしている。私は皆さんに言葉でもって話をしているわけです。皆さんは私の話がわかったり、わからなかったり、あるいは誤解しておられるかも知れない。そもそも誤解しているかどうかも、なかなかわからない。何が正解か誤解かもわからない。  とにかく、いろいろ幅があるが、どんな幅かはわからない。しかし、そういうものがあるから面白い。ただ、数字だけで万事が片づくのじゃ、面白くない。世の中が全部数字で片づいたりしないから、創造ということもあるわけです。言葉ばかりでは、はなはだあやしい。あてにならない。しかし、さればといって数字ばかりであれば、そこには創造はないわけです。  人間というものは、どっちかに傾きやすいわけです。市川亀久彌君のいうように、人間の才能の傾向には、ディジタル型の、きちっと正確なのを喜ぶという人と、少しあやしくても大局をパーッとつかむというような方が得手だというのと、両方あるでしょうね。  非常に才能のある人というのは両方とも相当程度得意ですね。それはわかりきったことですが、それぞれの人は本来的には、どちらか一方に傾いているということがありまして、それによって、その人がどういう仕事を選んだらよいか、どういう方向を志したらいいか、というようなこともある程度決るのかも知れない。そういうこともありますが、しかし、両方とも必要なことも明らかですね。  たとえば、物理学者はある程度数学ができなきゃ話にならない。その数学をやるというのにはディジタル型の思考が重要ですが、それだけではすまない。直観が大事なことは前にたびたび言ったとおりです。  いずれにしても、創造というのは模倣からはみ出していくことです。創造というのは、何かの与えられた枠の中にいるという状態からはみだす、既成の枠からはずれていくということです。それは、新しい、より高度の同定へと進んでゆくことでもある。そういうことを申してきたわけです。 思考の自由と仮説  そこで次の問題は、思考の自由ということになってきます。思考の自由とか柔軟性とかいう話は、さっきの幅とか、あいまいさとかいうことと大いに関係があるわけであります。  そういう点から考えますと、前にデカルトの思考法のことをだいぶ申しましたけれども、彼は少し硬いですね。はじめに自明なものをパッと一つ立てる。そこから出発していって、演繹論理的に進んでいく。はじめの直観的にとらえるのだというところは、たいへん私も好きでありますけれども、はじめに何か自明な原理をパッと立ててしまうというところは、少し硬すぎるのでありまして、だんだん学問が進んでまいりますと、そんなやり方ではあかんことがわかってきた。  ポアンカレはデカルトと同じフランス人で、二十世紀の初めごろまで生きていた。非常に頭のいい人であります。この人は仮説ということをさかんにいっています。デカルトがはじめに立てたのは、原理に当るわけですね。数学でいえば公理というわけです。  ところが仮説というのは、自明な、それしかない、疑いようのないものではない。疑えば疑えるけれども、ひとまずそれを認めて、そこから出発する。仮説としては、非常に変なことを考えなければならないかも知れない。  たとえばニュートン力学というのは、はじめに立てる法則は、本当にそうだろうと信じられるようなものです。直接証明されているかどうかは問題があり、やや仮説的な性格がすでに見られるけれども、まあ原理として受入れやすいものであったわけです。  ところが、二十世紀になりますと、相対性原理とか量子仮説とかいうものが出てくる。原理と言って見ても、仮説と言って見ても、すぐにみなが本当だとは、なかなかその場で認めてくれない点は同じです。  ニュートンは、「われは仮説をつくらず」なんて言ったわけですが、しかし、わざわざそういうことを言ったのは、ニュートン自身もひそかに、自分の立てた法則は仮説かも知れないと、うすうす感じていたということですね。むしろ、そこがニュートンの偉いところでしょう。  宗教なら、はじめに信じこまなきゃならない。そこに疑いがあったりしたらあかん。ひとまず、仮説として何かを立ててみるというのでは、宗教としては具合が悪いわけですね。  ところが、科学というのはそういうものではない。仮説を立ててみて、それからいろいろ推論してみて、そしてそれを実際とつき合わせてみて、すべてうまく一致すればよろしい。  どうしても実際とひどく違う結果が出たら、その仮説は捨てる。そして別の仮説を考える。そういう進み方ですね。だから、これは一種の間接的推論です。  そこで、この仮説というもの、うまくいきそうな仮説にどうしたら思い当るか、ということになると、また創造性の問題になってくる。  そこでは、やはり直観の助けを借りて、新しい同定をしなければならないが、同定の仕方は、ずいぶん奇妙なものになるかも知れない。むしろ相当変なことを考えつかないと、本当に新しい道は開けてこない。これが二十世紀の科学の一つの特色でもある。  たとえば私は素粒子という、人間からうんと離れた、非常に小さいものを相手にしている。そういうものがいろいろ調べられるにつれて、とんでもなく変なことがいっぱい出てくるわけです。  それを理解するためには、何か相当奇妙な仮説をもってこなければならないでしょう。私は私なりに、人と違った仮説から出発する。  その仮説自身は直観から出てきたものでありますけれども、しかし、必ずそうだ、と自明なことじゃないですね。まず初めにおかしいことを考えなきゃならない。その正否は結果で判断する。そういうふうな間接的推論法を、いつもしているわけです。  それと関連して、注意すべきことは、仮説というのはいろいろあり得るということです。直接ではなく、間接的に正しいかどうかを決めるということは、仮説はただ一つとは限らない、という可能性を残すことでもある。  もう少し一般的な言い方をしますと、ここに二つ、非常に違う考え方があったとする。その一方を立てれば、他方はだめ、こっちがいいなら、あっちはだめ、とは限らないということです。  たとえば、ここに何かがある。ある人から見ると、三角になっている。他の人から見ると四角になっている。そういう場合、どっちか一方が本当で、もう一人の方は必ず間違っているとは限らないですね。それは見る方向が違うから、見え方が違うのかも知れない。  実際、二人の見ているものが、プリズムみたいなもので、切口が三角形になっていたとしたら、切口の方が見えている人は三角だと思うし、切口に直角な面を見ている人は四角だと思うでしょうね。視点を変えれば、三角が四角になる。  自分の視点から一歩も動かないで、二人が長い間つまらない論争を繰返している、はてしなくオレが正しいと主張している、そういうことが世の中には案外多いわけですね。  ニールス・ボーアという偉い物理学者がおります。物理学者として何をしたか、くわしい話はやめますが、この人は、昔の賢人のような名言をいくつも残した人であります。  その一つに、「世の中でいう真理というものには二種類ある。ふつうの真理というのは、あることが正しい、という場合には、それと反対、それを否定するということは正しくないことが明白な場合である。片一方が正しけりゃ、それが真理であるなら、それの否定はたしかに間違っているといえるような、そういう種類の真理がある。ところが世の中にはもっと深い真理がある。なになにがなになにであるというのも本当であるし、なになにでないというのもやはり真理である、と思わざるを得ないような、そういう深い真理がある。」  こういうことを物理学者が言うから面白いですね。物理学者としての研究生活の中での体験から言っているわけです。  さっきのプリズムの話は、私の考えだしたたとえ話ですが、彼が例としてあげているのは、「神があるというのも真理である。神がないというのも真理である。これは深い真理である。」これはボーアは半分じょうだんで言ったのかも知れない。  しかし普通の西洋人は、じょうだんにもせよ、こんなことは言わない。ボーアにはアインシュタインとまた違った意味で東洋的なところがある。そういうところに私は親近感が持てる。 人類よ早く大人に  最後に一つだけ、つけ加えておきたいと思います。  人間というものは、考えることと実行することが一致しなければいけないということが、昔からいわれてきましたが、私は、昔はいざ知らず、今の時代はそうじゃないと思うのです。  つまり、考えるが実行しないということがたくさんあるわけです。考えていることは、たくさんあって、することは少ない、というようになっていないといけない。それは、人類が進歩して、だんだん大人になってくるということでもある。  人間が全体として賢くなってくるということは、考えることはたくさんあって、しかし、することは少ないということです。  これを碁打ちにたとえるならば、だんだん碁が上手になってくれば、いろんな手、いろいろな可能性を先の方までずうっと読んで、そのうちから、どれかを選択する。考えていることが実際に打つという行為にくらべて、だんだん多くなる。だから考えている時間が長くなる。ヘボ碁の方は、出たとこ勝負で、ほとんど考えずに、どんどん打つ。それではだめです。  科学文明が進み、教育も普及してきた。よく考えて結果を見きわめた上で行動しないと、危いことが多い。また、それがだんだんよくわかってきた。だいぶ先が見えるようになってきた。  つまり、人類はこれからいよいよ大人になってくる段階ですね。早く大人にならなきゃ、私は人類の将来はないと思うのです。  つまり、やりたいことはなんでもやっていい、思ったことはなんでもやる、なんでも思考したことはただちに行動するという意味の「知行合一」をやっていたら、人類は多分滅びます。  いろんなことがわかってきて、いろいろなことを制御できるようになってきた。制御については、自己制御のことだけを申しましたが、もっと広く、自分以外のものを制御する能力は非常に大きくなってきている。制御能力がふえてくるということは非常に大事なことでありまして、何かしかかって、これはまずいなと思ったら、手おくれにならないうちに方向転換をするという能力でもあるわけです。  しかし、制御能力が大きくなったということは、別の面から見ると、きわめて危険なことでもあるのです。つまり自己制御でなく、他律的に外から制御されてしまう危険性も大きくなったことをも意味しています。  だから私が人類は早く大人にならないといけないというのは、自分で自分を制御できるようにならないといけないということです。  知らない間に人に制御されているということになっては困る。今後の人間や人間社会のあり方を考えて見ますならば、個人としても、社会全体としても、非常に思慮深くならなきゃいけない。  いろんな手を読んでおいて、そして実行することはむしろ少ない方がいいわけです。今までは、することが多すぎた。考えないですることが多すぎた。昔は、それしかなかったかも知れないが、その結果、いろいろ困ったことが、最近になっていっぱい出てきた。そのあと始末に非常に困るというような状況になってきた。これから先もこんな調子でやっていたら、私は人類の未来の見通しはたいへん暗いと思います。  これから先、出てくる問題はいろいろあります。臓器を入れかえることはすでに始っている。試験管ベビーとか、ありとあらゆる変な話が、パンドラの箱をあけたように、続々と出てきそうです。できることがふえてくる、できることは何でもやってみようというのでは、大変なことになる。  新聞などを見ていますと、毎日、公害の話の出ていないことはない。これもつくれるものはいくらでもつくるが、あとの始末をよく考えなかった結果です。  できることはやったらいいではないかというふうな考え方が、まだ非常に強いのですけれども、それはきわめて危険なことです。早くそういう習慣的な考え方から、各自が脱却しないといけない。  考える方はいくらでも考えておいた方がいいわけですが、実際にやる方はなるべく手びかえないといけないという状態になりつつある。だから、それを非常に表面的に見ると、勤勉であることの反対です。いままでの日本人の長い間の傾向とは違ってこないといけないわけです。  これは日本人だけの話ではない。西洋人のサイエンスに対する態度というのが、大いに問題になる。とにかく動物のからだであろうと人間の死体であろうと、なんでもかんでも徹底的に分析しよう、どこまでもバラバラにして、細部まできわめつくそう、どこまでもやったらいい、というのが西洋科学の今までの傾向です。  これから先は、そういうことを、とめどもなくやっていたら、もうアカン時代になってきた。それは、私は明白であると思います。  そこのところに今みなが気がつけば、まだ手おくれではないと思うのです。ですから、これから創造性を発揮するといっても、その発揮の仕方も、やっぱり今までと違ってこないといけないと思います。  たとえば、いままでですと、機械をつくる場合、機械の性能というのを狭く考えていた。ある商品をつくるという場合、その商品自身の良し悪しだけを考えていた。  しかし、これからはむしろ、そういうものをつくるとどういう影響があるか、それを使ったあとはどうするのか、あるいは、それをつくる過程においてどういう望ましくない副産物が出てくるか。それがまた、どういう影響をおよぼすか。そういうところまで、あらかじめ十分に研究しておくということが、非常に重要になってくる。ですから、今はまさに人類の文明の一つの過渡期であって、ものの考え方も根本から変えないといけない。人類の前途には、新しい危険がいっぱい待構えているけれども、しかし私たちの努力次第で切抜けられるであろう。そういう可能性はむろん残っているわけです。  私の開放的世界観といっているのはそれであって、つまり宿命的に人類は間もなく滅びてしまうとは決っておらんですね。そういうこという人があったら、これはおかしい。  しかし人類は永久に栄えるように決っている、ということも、もちろんない。いつかは滅びるに決っていますわね。  ただ、その滅びるのが十万年先か、百万年先なら、今なにも問題にすることはないわけです。それは十万年先になってから考えたらいいことです。  ところが、これが五十年先、三十年先という話なら非常に困るわけですね。さしあたり何年かを、ただ単に生きのびるというだけでなしに、地球がゴミためみたいにならないようにしなければならない。近ごろそういうことをいう人がたくさん出てきた。この地球というのは、かつては冒険をする場であった。たとえば南極へ行く、ヒマラヤへ行って山登りする。しかしいまはもう、そういう余地は少なくなってきた。むしろ地球は一つの宇宙船みたいなものになってきた。長いこと宇宙船に人が乗っておれば、排泄物もたまってくる。人間は今や地球上に膨大な廃棄物をばらまいているわけです。  地球がそういうものによって汚染され、人類が住めなくならないようにしなければならない。これは、なかなかむつかしい問題ですね。  そういう方面に大きな努力を傾けなければならないような時代になってきた。言葉を換えれば、人類全体がその進路を自己制御し、危険から脱出しなければならない。そういうむつかしい状況におかれた人類社会の中の各自は、今まで以上に創造性を発揮しなければならない。  そして、人類の直面する難問題の創造的解決に協力しなければならない。それは実にしんどいことであるけれども、そこに生きがいが発見され得るわけであります。(拍手) この地球に生れあわせて  ——一九七三年——   人間の知的活動には必らず両面があります。思想というものは一方では自分が何かを知ろう、あるいは仕遂げようという意欲が推進力となって、具体化されたものであります。人間というものは、自我、自己、自意識というものがありまして、自分が何かを仕遂げたい、あるいは真理を知りたいと思っているわけでありますが、同時に他方ではその真理とは自分だけのものではないとか、あるいは自分だけのために何かをしているというのでは駄目であるという気持もあります。誰でもこういう両方の気持を本来もっているわけです。だからこそ、昔からの立派な思想というのは、みな自分が幸せになると同時に、他の人たちも幸せになるという両面が表裏一体の関係になっているようなものでした。それが特に今日になってみますと、更にはっきりとしてくるのであります。というのは、今日、私たちはいろいろ確実な知識をもっております。またいろいろな技術をもっております。そういう知識や技術によって、私たちがものを考えるよりどころが、非常にしっかりとしてきているわけであります。  たとえば、大昔私たちが地球という丸いものの上に住んでいることさえ知られていなかった。丸いということはつまり限りがあるということですね。東の方へずうっといけば、また西の方から戻ってこられる。つまり地球は限りのある世界です。どこまでも平らな地上が四方八方に限りなく延びているのではない。そういうことを今日の私たちはよく知っている。それにはいろんな根拠があり、少しも疑う余地はないのであります。しかし、そういうことを人々がはっきり知るようになったのは、そんなに古いことではないんですね。ただ古代のギリシャだけが例外だったのです。ギリシャ人の中にはずいぶん早くから、地球というのは丸いものであろうということを、いろんな理由から結論しておった人があります。しかし、他のほとんどの民族は、ずっと後になるまで地球という観念を定着さすに到らなかったのです。恐らく日本の場合も江戸時代になってから地球という観念がはっきりしてきたのだと思われます。  江戸時代の中頃の三浦梅園という学者は、自分で世界というものはどういうものであるかと一生懸命に一生かかって考えて、部厚い書物にまとめた人であります。日本では珍らしい独創的な思想家の一人でありますけれども、この梅園などになりますと、地球というのは球であるということを、はっきりと言っております。このころには西洋の学問も少しずつ入ってきていますし、お隣りの中国では、一足さきにそういうことを知っていたようです。  しかし、地球が動くのか、または天が動くのかに関しては、梅園のような人でありましても、まだ天動説を信じていた。つまり地球は動かないと思っていたのであります。なぜ彼が地動説を受け入れなかったかについては、いろいろ理由が考えられますが、まあいずれにしろ、人類が同じひとつの地球に生れあわせ、いっしょに太陽系の中で動きまわっていることをはっきり認識するようになったのは、そんなに古いことではないわけです。  さて同じ地球に生れあわせているということはわかってまいりましても、この地球は非常に広大なものだという感じはずっと続いてきたわけです。日本では昔から、大自然という言葉が大変好んで使われてきましたが、大自然という言葉がどういう意味で使われるかというと、私たちの生きているこの自然界というものは広大無辺なものであり、それにくらべると、人間の力というものはごく僅かなものである。人間が少しぐらい何かをしようとしたところが、大自然の方はびくともしないものだという感じを含んでいるわけですね。  この感じは、ある意味では今日でも正しいのであります。私たちの生きている世界というものは、非常に広大なものであります。どのくらい広大であるかと申しますと、私たちは地球の上に住んでいる、その地球は太陽系の中にありまして、太陽にくらべれば非常に小さく、太陽のまわりを回っている。その太陽系全体がまた銀河系という大きなものの一部です。空を見ますと星がかたまって天の河として見えているんですが、これが銀河系です。それは遠い世界のように見えますが、実はそうではなくて、太陽系は、銀河系つまり天の河のごく小さな一部分なのです。銀河系の中心からだいぶ離れたところにあり、そこに住んで私たちがいるわけです。銀河系の全体は、太陽のような星が千億ほど集ってできたものですが、更に遠いところを見ますと、またわれわれの銀河系に似た銀河系が沢山ありまして、さらに、どんどんいくと、果しがあるのかないのか、今でもそれが問題なのであります。  光が一年かかって走る距離を光年と申します。光は毎秒三十万キロの速さで伝わりますから、一年の間は非常に遠いところまでとどくわけでありますが、そういう光が百億年ほどかかっても到達できない遠いところにある星が、最近みつかったのです。電波を出したり光を出したりするので、存在がわかったわけです。ですから百億光年という、とてつもないところまで世界は拡がっている。そこから先はどうなっているかというと、そこから先は、星があっても地球からは見えない。なぜかというと、宇宙全体が非常な勢いで膨張しておりまして、遠いところほど速い勢いでわれわれから遠ざかっていることが、今でははっきりしています。遠ざかる速さが光の速さを越えてしまいますと、光はもうこちらへこられないわけですね。もしも空気の流れが音より速ければ、風かみの方には音は伝わってこないのと同じことです。あるいは超音速の飛行機に乗ってどんどん飛んでいけば、音は追いつけないということがあるように、遠い星から出た光はわれわれのところへは到達できないから、ある距離より遠い先は見えない。さらにその先に物があるかも知れないが、われわれには見えない。見えないところまでさらに、われわれの思考能力を進めていけばどうなるか。それは今後の問題ですが、とにかく宇宙全体は広大なものであることが、ますますはっきりしてきました。  仏教では、三千世界などと申しますが、インド人は昔から非常に雄大な想像力をもっていました。  しかし、今日の科学によって確かになった現実の宇宙はもっと広大なものでありまして、それを大自然と呼んでいっこうさしつかえありませんけれども、しからば、私たちにとって地球以外の遠いところというのはどういう意味をもっているのか。もちろん大きな意味をもっていまして、特に太陽はわれわれにとって大変大事なもので、でなければとても生きていけないわけです。もっと遠いところにある星もそれなりの意味はありますけれども、しかし、私たちの寿命は長くなったといっても知れていますから、生きている間にそんな遠いところへいけるわけではないですし、またいったって仕方がないですね。月までいくのに大変な金を遣ったけれども、私などはまず無駄遣いであろうと思います。僅かな金でいけるのなら結構ですが、八兆円もの金を遣っていってみても、大したことはなかった。月の石を取ってきても大したことはない。次に火星にいく計画もあるようですが、ますます意味が少ないわけです。  私たちにとって決定的に重要なことは、要するに人間は、これから先もこの地球の上に住みついていかなければならない、そこからはなかなか逃れられないという動かしがたい運命であります。  われわれの住むべき唯一の場所は地球であり、将来われわれの子孫もやはり地球の上に住まなければならないだろうことを考えますと、この地球こそは私たちにとってかけがえのないものであるといわねばなりません。私たちは大人になると社会に出て、各々自分の部屋をもつようになったりしますが、それは一人一人の話で、人類全体として見ますと、どこへ住むかというと、要するにこの地球の上のどこかに住まねばならないわけです。昔はとても広い平らな地面がどこまでも続いているのだろうと、のんきに構えておった。だから人間が何をしようと大したことはない。はっきり大自然という言葉で表わされますように、この自然界というものは絶大な力のあるものであって、人間が何かをしても、自然界は元に戻る、つまり復元力があった。復元力とは、たとえば健康な人でありますと、一日一生懸命働いても、一晩寝ますとすっかり元気を回復して次の日もまた同じように働くことができるけれども、年をとるとそうはいかなくなったり、あるいは病気にかかりますと、ちょっとぐらい寝ても元気にならない。つまり復元力を失うとか弱るとかするわけですね。近ごろまで地球というのは人類にとって非常に大きな世界でありまして、少々のことを人間がやっても地球は復元力をもっていると思われていたわけです。たとえば地下資源ですが、物質としての資源にせよ、エネルギー資源にせよ、どちらもほとんど無尽蔵であるから、人間は一生懸命働いてどこかから資源を掘り出して使えばいい、それで人類の生活はよくなるという考え方、それでいいという時代がずっと続いてきたわけであります。働くということは、物をつくり出すということだった。つくり出せば、それを誰かが利用する。利用する人があると予想されるから、そういう物をつくり出す。機械をつくり出せば誰かが使う、食料をつくり出せば誰かが食べる。生産と消費がいつも一対になっている。近ごろまではできるだけ沢山の物を生産するのがよろしい、そしてみながどんどん消費するのがよろしい、生産と消費が互いに助けあって、人間の生活がより豊かになる、生活もより快適で便利になっていく、そう考えてよろしい、と言われてきた。聞く人もなるほどそうだなと思ってきたわけです。  それは今までは相当程度当っていたわけですけれども、そういう状況が急速に変ってきたわけですね。私が申しあげるまでもなく、みなさんご存知のように、この数年間ぐらいの間に、状勢の変化が非常に顕著になってまいりましたね。物を沢山つくり、どんどん消費すると、廃棄物がふえてくる。それがふえすぎて処理に困るようになってきた。それどころか、廃棄物の中にはいろんな害毒を人間に及ぼすものが含まれていて、それがある量を越すと、危険が急に大きくなる。空気も水も食物も汚れてゆく。その結果、人間のからだの中にさまざまな毒物がたまってくる。これは物を生産する力が非常に大きくなり、またそれをどんどん消費してきたことが原因になっている。最初は誰も毒物をつくろうと思ったわけではないですけれども、全体の生産量が大きくなり全体の消費量が大きくなれば、ごく小さな割合いで含まれていた毒物でありましても、全体量がふえてきたために問題にせざるを得なくなってきた。科学技術が進み文明が進んでくる、生産性が向上する、従って消費もさかんになるということは、今まではプラスと考えてよかったけれども、マイナスの方も無視できなくなってきた。さらにこのマイナスがプラスを越してしまえば、何をやってるのか、意味がなくなる。そういうことが各方面に現われてきたわけです。そもそも生産ということからして、いかにも無から有を生み出しているように見えますが、そうではないのです。鉄のような物質的資源を生産するとか、石油のようなエネルギー資源を生産するとかいっても、実は必らずどこかにあったものを採ってきているわけですね。物質でもエネルギーでも、物質不滅の原理ですとかエネルギー不滅の原理というものがある。それは物理学の教科書に書いてあるとおりです。決して無から有は出てこない。必らず地球上のどこかからもってきたものです。ところが地球の資源はもはやこんな調子で、どんどん使えば、案外早く底をつきそうになってきた。無尽蔵ではないということがわかってきたわけです。状況が完全に変わりつつある。地球の上でわれわれ三十六、七億の人間がいっしょに暮してますが、その中には現在文明国、日本とかアメリカ、ヨーロッパなど物資やエネルギーの消費量が膨大な国が沢山あるわけですが、そのほかに、これから物資やエネルギーの消費をもっともっと大きくしようとする発展途上国がもっと沢山ある。それらの人たち全部が豊かに暮していくためには、地球の資源はとても無尽蔵とはいえない。また今までの調子で物をつくり消費するなら、それに伴うマイナス、つまり汚染や公害はますます激しくなる。この辺で私たちみなで生きていくための方針や考え方を大きく変えなきゃならない時期がきてしまったわけです。つまり今までと違って、生産や消費はむしろ抑え、公害の原因をなくす方に努力しなければならない。そういう点で考え方を大きく変えなければならない時期にきているのです。  ところが厄介なことに、人間というものは、根本のものの考え方をなかなか変えられないのですね。  ひと口に文化ということを申しますが、近ごろでは、猿にも文化があるということになっています。日本では猿の研究は大変進んでいるのでありますが、猿や類人猿を研究していらっしゃる方の話を聞きますと、大変教えられるところがあります。思いのほか人間と猿はよく似ているんでして、猿にも文化があるというわけです。どういうことかと申しますと、下等な動物ですと、本能で生きているといわれます。本能とは生まれつきそういう能力をからだにそなえておりまして、決った仕方で生きていくようになっているのであります。蟻は蟻らしい生活をしておりますし、蜘蛛は蜘蛛らしい生き方をしております。蜂は見事な蜂の巣をつくります。これらは人間にはなかなか真似ができないことですが、これは本能で、蜘蛛の子供は親と同じように巣をつくるようになっている。これは文化ではないのです。そこには進歩もない。  猿はこれに反して、生まれた時は非常に未熟で、まだ何にも能力をもっておらないように思える。つまり蜘蛛などのように生まれつき決った能力はもっておらないのです。大抵のことは母親に教えてもらわないとできないのです。ひとりでにできるようになるのではないのです。母親や群(むれ)の中で学びとらなければならないのです。大変な未熟児として生まれ、親の動作などを見習って、いろいろな能力を新しく身につけるわけです。その点は人間と同じで、初めからすべてが決っていないこと、そこから新しいものが生まれる可能性が残されるわけです。それが文化というものですね。  文化というものは両面をもっていて、一面では誰かが新しいことを考え出す、新しいものをつくり出す。その反面で他の人たちがそれを真似する。そうした両面をもちながら文化が進んでいくわけですね。たとえば、日本のある島に住んでおりました若い猿が、お薯を海の水で洗って食べることをふとした機会にやりだしたんです。洗えば泥も落ちるし、塩あじもついておいしいので二重によろしい。ということを発見したわけですね。そうすると、他の若い猿もそれを真似する。するとだんだん今度は歳上のものが真似していく。猿の社会の文化というのは、若いものから歳上の方へ上ってゆくんですね。最後まで真似をしないのはボス猿だそうです。ボス猿は非常に権威をもっていますから、子猿のしたことを真似をしたらボスの権威にかかわるから、最後まで真似をしない。そういう話を前に聞いて、いろいろ感じたものです。  というのは、人間というものも実は真似をしながら成長していくわけですね。大抵のことは実は誰かのするのを見習って憶えたわけですね。しかし時々何か新しいことを誰かが考え出す。それによって進歩する。猿よりももっともっと多くの新しいことを考え出した。それで猿よりずっと高度な文化をもった人間というものになった。本能で生きておる下等動物とちがって、生れてから後にいろいろなものを獲得しなければならないところに、進歩の可能性も出てきたわけです。しかし、そういう可能性はあっても、実際はなかなか進歩はむつかしいのです。特に文化というのはある形のままで定着してゆく傾向を強くもっている。子は親のすることを見習う、その子がまたそれを見習う。従って同じような生活が代々続いてゆく。本来はそういうことになる傾向が著しかった。人類の大昔を見ますと、長い年数の間にほとんど生活の仕方は変わらなかったわけです。石器時代には十世代や二十世代経ってもほとんど同じ生活がくりかえされていたにちがいない。日本人の先祖は一万年ほど前に土器をつくり出したといわれていますが、誰かが土器をつくることを発明いたしますと、それによく似た土器を多くの人がつくるようになる。土器が発明される前と後では、そこに非常に大きな変化が見られますけれども、土器が普及してしまえば、また同じような生活がずうっと何代も何代も続く。長い間大した変化も起らない。そういう変化の少ない時代が長い間続いた。それにくらべると、今日はまったくちがう時代ですね。  私たちが同じ地球に生れあわせておりますこの今の時代というのは、長い人類の歴史の中でも非常に特別な時代です。そのもう一つ前には類人猿あるいはもっと原始的な猿のようなものがあり、その一種から人類が発生してきたといわれていますが、それは長い長い歴史の産物ですね。それにくらべると、なおさら今日は時代の変り方は急速なわけです。私たちの一生の間にものすごく世の中は変わる。昔は十年一昔と申しましたけれども、最近は十年どころでなく、二、三年の間に世の中はすっかり変わってしまう。  世阿弥という人は、ご存知のように能楽を大成した人であり、非常に深い思想家でもあります。この人のつくった「砧」という作品の中にこういう文章があります。 「思ひ出は身に残り、昔は変はり跡もなし。げにや偽(いつは)りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしかるらん、おろかの心やな、おろかなりける頼みかな。」  私も何とまあ、変わりようの激しい世の中に住んでいるとの感じが強い。みなさんも同じように感じておられると思います。  世阿弥という人の一生は、非常に波乱に富んでいたのでありまして、非常に成功して世の中にもてはやされたり、また失脚したり、晩年になって佐渡へ流されたり、世の中の激動の中で長生きした人でありますから、文章にも実感がこもっております。世阿弥が生きていたのは五百年の昔でありますが、現代は世の中がもっと速く変わっていきます。それに適応して生きようと思っても、なかなかうまくいくものではない。そういう中では、ただ急速に変化する外界に受身的に適応するよりも、むしろ外界が人間にとって少しでも住みよい世界になるように努力する。そこにこそ生きがいがあるわけです。住みよい世界であるために必要な条件の第一は、平和な世界であること、戦争がないことです。  昔から大小いろいろな戦争がくりかえし行なわれました。日本などは比較的平和な国でありましたけれども、世界全体を見ますと、文明が進んでいると思われる地域ほど激しい戦争がくりかえされてきました。それらによって非常に多くの人が死にました。第一次大戦、第二次大戦となりますと戦争が世界的規模になってきまして、戦争の現場から遠く離れた国々でも、その影響を受けるという状況になってきております。まして第二次大戦の終りに出現しました原爆、水爆、それからまた化学兵器、細菌兵器というようなものも発達し、そういうものを使う戦争になってきますと、戦争の被害者ばかりがふえ、誰も得るところがない。最近のベトナム戦争というものは一体何だったのか。結局は無意味なことを長い間続けていたにすぎません。ベトナムでは核兵器は使われなかったのに、あんなに大きな被害があった。まして核戦争となったら、人類の破滅ですから、平和が大事だということは、この世界が人類全体にとっての世界だからといってもいいわけです。ところが私どもの生れあわせているこの地球は、今となって見ると、もはや無限に大きなものでなく、無尽蔵な資源をもつものでもなくなってきました。悲観的に見れば、すべて先が見えてきたというのが現状でしょうね。  どうしたらよいでしょう。ここで私たちは考え方を根本から変えるよりほかはないのです。といっても、ことは簡単ではないんです。人間は一旦思いこんでしまったら、なかなか簡単に考え方を改めにくいのです。そしてまた人間の性質はきわめて複雑なものであります。一方ではたとえば公害の深刻さを私たち日本人はひしひしと感じています。そして自動車による大気汚染が公害の最大の原因の一つであるということもよく知っているわけです。ところが他方では今年になって自動車はますますよく売れるという。人間とはかくも矛盾した存在である。しかし、そういっていただけではすまない。現代に生きる私たちにとって一番必要なことは、他人に迷惑をかけないと心がけることです。他人はどうなってもかまわない、自分の欲望を満足させるためだけに生きてるのは最もいけない。他人のことも同時に考える、それが人間らしい人間というものですね。特に人口がふえ地球がせまくなってしまった今日、みんながそういう人間になるほか、みんなの生きる道はない。さきほど文化ということを申しました。文化があるということは、社会も人間も変わってゆく、進歩し発展してゆくということでもあります。しかしながら、社会の様子が変わってゆくのは、思いのほか人間自身、特に人間の考え方は変わっていかないのですね。だからこそ、考えなおすこと、根本から考えなおすことに、意識的に努力をしなければならないわけです。  私は物理等の研究をしてきましたが、物理学での画期的な進歩というのは、今までの考え方を根本的に変えるということです。  さて現代というのは、地球上のすべての人が考え方を変えなければならない時期なのです。若い人であろうと、老人であろうと、ものの考え方を基本から考えなおさなければならない。その場合、何を考えなおすのか。その点についての私の意見を述べて、この話を終らせていただきます。  現在、私どもはどういう社会の中に生きているのか。世界全体として、どういう仕組で国内や国際の政治が動いているのか。  この地球上には沢山の国があります。国際連合には百三十ぐらい、全部の国を数えれば百五十近くあるでしょうか。そういう大小さまざまの国の大多数が現在国際連合に参加しております。しかしながら、それらの国は、いざとなれば国民の利益、国家の利益のために何でもするぞ、いざとなれば何でもするという権利を棄てておりません。唯一の例外は日本で戦争する権利をみずから放棄しました。これは非常に立派なことであります。他の国々に是非見ならってほしいことであります。いざとなったら自分の国の利益のために無理を通す、そのためには自分のところでは、平生からできるだけ強大な兵力をもっておく。そういう考え方を多くの国が棄てていない。まずそこのところを根本から考えなおしてもらわなければならない。別の言葉でいうと、それぞれの国家は主権をもっておりますが、それは絶対の主権です。いざとなれば、戦争に訴えても自分の国の利益は絶対にゆずらんという考え方です。だから、いまだにアメリカ、ソビエットはもちろんのこと、イギリスもフランスも中国も、核兵器をもち続けようとするのです。私たちはみな同じ地球上に生れあわせた同じ人類だという考え方でなく、いざとなったら敵味方となって殺し合いをするかも知れんという考え方なのです。そういう中の唯一の例外が、さきほど申しましたように日本です。平和憲法、つまり現在の日本国憲法第九条がそれですね。戦力はもたない、国際紛争は平和的に解決する、他の国と戦争する権利を放棄するという宣言です。国家のもっている絶対主権の一部をみずから放棄したのです。しかし日本だけでなく、他の国々にもそれをやってもらいたいという念願がそこにこめられているわけです。それはまた世界連邦実現への大きな一歩でもあったわけです。  今から十年前に、日本で始めて世界連邦世界大会がありました。その時も、その点を私たち日本の代表が強調いたしまして、他の国の人々に大変感銘をあたえたということがありました。平和憲法はもっともっと他の国々の人に知ってもらうよう努力しなければなりません。  日本は昔からいろいろつまらないことまで外国の真似をいたしまして、真似もほどほどにした方がよいと思うのです。その代り、日本によいものがあれば、それを他の国も真似する。そういうことがもっとあってほしい。よその真似ばかりして、こっちから真似をしてもらうものがないというのは、非常に恥かしいことです。それが近ごろ、日本が外国からきらわれる原因の一つにもなっているんですね。よその真似をした商品を売りこんで、世界の市場をおさえる、そういう傾向が強すぎる。そういう批難があるわけですね。  世界連邦というのは、今となってしまえばむしろ常識的なことですね。少数の人が自分だけの意見と思っていたらおかしい。しかし、まだよく知らない人もある。みながその気になるところまで普及させなければならない。そしてそうなればできたと同然です。ずっと初期にはこれを夢と言う人がいた。少数者の幻想だという人が多かったのです。しかし、人が何と言おうと、これは実現しなきゃならないと思って、私は私なりの努力をしてきたわけであります。昔は夢だといっていた人たちが、今は世界連邦はあたりまえだとおっしゃるんです。あたりまえだと言って、何の努力もしなかったら、実現しない。誰も何もしなければ何ものもできてこない。私はいつも選挙というものにたとえた話をするのですが、選挙は非常に重要だとわかっているが、自分一人が投票するかどうかは大勢に影響がないから棄権してもよかろう、そう思うのは一理があるようですが、しかし、もしもみながそういう理屈で棄権したとすれば、選挙は成立しないわけですね。まして世界連邦はこれからつくるもので、できないうちからあたりまえである。常識であるというだけで何もしなければできるわけがないんですね。  世界連邦というものは、私がいつも申しておりますように、すべての人が何らかの仕方で力を貸すことができます。参加の仕方、協力の仕方はいろいろあります。その人に一番適したやり方で協力することによって、世界連邦ができてゆくことが最も望ましい。水が低きにつく如くと言いたいけれども、それとは少しちがう。水は放っておいても低いところへ流れていくけれども、世界連邦はそのように自然にできるものではない。みんなの協力が必要ですね。幸いにして、日本では世界連邦運動はいろいろなところで、いろいろな形で進められています。私はそれを有難いことであり、また世界の模範でもあると思っております。今回、世界連邦建設同盟の中道支部ができまして、今日お集りのみなさまも大いに協力して下さることになりましたのは、大変心強いことであります。 考え方を変えること  ——一九七三年——  進歩の思想と循環の思想  近ごろは今までのように、産業がこの数百年の間ずっと進んできた道筋、そういう道筋の上をそのままずっと進んでいったらいいのか、どうもそうではないと、多くの人が思うようになってきた。というのは、現代社会にはすでに深刻な問題が、いろいろな形であらわれてきており、それらの問題の中には、すべての人がぜひ考えねばならない、非常に新しい問題がたくさんあるからです。たとえば、公害問題であるとか、自然破壊であるとか、人口過剰とか過密とか過疎とかということは、かつてあまり問題になっていなかった。しかしこれからは、そういうものが決定的な意味をもってくる。しかもそれらは、だいたいマイナスの形で出てきており、はなはだ困る悲観材料としてわれわれの周囲にいっぱい出てきた。それが現在の状況であり、それが将来の見通しを暗くしている。どうしたら困難を乗りこえられるか、という点で、どれもこれもむずかしい問題を提起しているわけです。  ところで、これまでは、科学の進歩と産業の発展が相伴っていた。近代における産業というものが発達してきたのと、今日言っている近代科学というものが進んできたのとは、前後はしているが、だいたい相伴って進んできた。近代科学は一応十七世紀に確立され、そののち十八世紀、十九世紀に産業革命が起こってきたわけで、多少の前後関係はありますが並行している。工業化とか近代化とかは、産業の問題であると同時に、いつも科学技術の進歩・発展ということがその裏にあったわけです。  科学技術の進歩・発展、あるいは科学文明の進歩と産業の発展とは、非常に密接にからみ合っておりますが、近代の科学文明の核心には、「進歩」という思想が非常に強くあるわけです。科学技術の進歩に伴い、産業もまたどんどん発展し、生産性が向上し、製品の質・量ともによくなってゆく。それはすなわち、進歩であり、人間の幸福につながっており、いくらでも人間は進歩し、人類は幸福になる……。十九世紀から二十世紀の前半には、このような意味の進歩の思想が、非常に支配的なものであったと思うのです。もちろん、これは実情の単純化であって、十九世紀の人たちのみんなが素朴にそう思っていたわけではありません。  この進歩の思想と呼ばれるものは、それほど古いものではありません。それ以前からあった思想の一つで重要なものに、まっすぐどんどん進んでゆくのではなくて、ぐるぐる回っていて、変化はあるけれど、やがてはまた元に戻ってゆくという考えが非常に古くからあった。これは進歩の思想に対立するもので、循環の思想ともいうべきものです。  中国には古くから、そういう循環の思想のようなものが、いろいろな形であらわれている。その一つとして、ご存知の「塞翁馬」という話があります。この話はつまり、何がプラスになり何がマイナスになるかは一概に言えないものだ、なかなか先はわからぬ、という意味もあるし、何がプラスかマイナスかを即断してはいけないんだ、という形での中国古代風の知恵の表現だと言ってよいでしょう。  世の中には進歩ということは確かにあって、技術とかその他のことについても、確かに進歩があるわけです。科学そのものも、進歩の上にさらに積み上げていって、また進歩してゆくという性格のものであることは、今も昔も変わりない。ただ、循環という考え方といっしょにしてみると、進歩と思っていたものが実は循環の一部かもしれない。  つまり、それはだんだんと回ってただ元に戻るのではなく、螺旋状になっており、いま現に進んでゆく方向が、どこまでも続く、これがつまり進歩だ、限りなき前進だと思ったとします。しかし、これは実は螺旋的な変化の一部かもしれない。その螺旋的なものがまた全体としては、ある方向に進んでいるのかもしれない。進歩と循環ということは、ないまぜになっているのではないか。私は近頃そういうことを、しきりに考えます。 とめどもないこの加速性の文明  物理学というものを学校で習う。すると一番はじめにガリレオの「慣性の法則」というのが出てくる。この法則はしごく簡単で、ある物体に何も力が働いていない、つまりそれが完全に自由な状態にあるとすると、その物体はまっすぐ同じ速度で走り続けるというものです。つまり直線等速運動です。そういう理想的な場合は少ないが、それに近い場合は実現しうるわけです。例えば滑らかな平面の上に玉をころがせばなかなか止まらない。「慣性の法則」がそのままで成り立っていないにしても、それに近い状況は実現できる。そういう場合には、どこまでもまっすぐ走って行く。これは限りなき前進です。ついには無限の彼方に行ってしまうわけです。これが物理学で一番はじめにお目にかかる法則です。  こういうことは物理の話のようではあるけれども、人間のつくり出したいろいろな組織、あるいは、おのずからでき上がっている人間の集団のようなものについても言える。われわれがよく知っているように、人間の組織のようなものも、何かやり出すと、少なくともそのままの調子で続けてゆかないと非常に困るということがある。これは物理の言葉を借用すれば、「慣性の法則」にほかならないわけです。  人間社会というものは、少なくとも今日は昨日と同じくらい、明日は今日と同じくらいの生活が維持されてゆくようになっていないと困る。人間ひとりひとりについてもそうだけれど、同じことをずっと繰り返してゆくのが一番安全だと考える。生活内容に多少の変化はあっても、少なくともレベル・ダウンせずにやってゆけるように自己を維持してゆく。これが人間社会の非常に基本的な性格です。これは物体の運動の場合の慣性の法則、すなわち直線等速運動、つまり進んで行く方向も速度も変わらないという性格に対応している。  ところで速度の方向を変える、あるいは速度を早(ママ)めたり、遅くしたりするためには力がいります。そこで運動の第二番目の法則、「ニュートンの法則」と言っているものが出てきます。つまり力を加えれば、物体は加速されたり、減速されたり、あるいは方向も変えられるということ、逆に言えば、方向を変えたり、加速、減速をするためには、力を加えなければならないということです。人間社会では、しかし加速と減速とが非常に性格の違ったものになっています。そこでこのことについて少し話してみたいのです。  私は、物理の中でも素粒子というものの研究を長年やっています。私は、自分で機械をいじったりはしないのですが、素粒子の研究を実際に機械を使って実験的にやろうとすると、いろいろなことがある。最近二十年くらいの間の最も著しい傾向は、素粒子をどこまでも加速して、とめどもなく、そのエネルギーを大きくしてゆこうとしてきたことです。素粒子を加速して、だんだんエネルギーを大きくするための仕掛けはいろいろある。それは、いやが上にも速度を速(ママ)める、エネルギーを大きくすることを目的とする機械です。いやが上にも加速する——一口に加速器と呼ばれているものはそういうものです。日本にはそんなに大きな加速器はありませんが、アメリカやソ連、あるいはECなどには、とてつもなく大きな加速器があります。それによって、ものすごい速度の素粒子をつくり、それを何かに衝突させる。衝突すると、途端にいろいろなめずらしい現象が起こる、新しい素粒子がそこでつくり出されるというようなことが起こります。そこから、いろいろな新しい事実の発見がなされたりするわけです。  物理学者の使う機械というのはいろいろあるけれど、一つの典型的なものが、加速すること自体を目的とする機械、すなわち加速器です。いやが上にも加速する、とめどもなく加速してきたわけです。現在もまだ終着点にはきておりません。私などはぼつぼつやめたらよかろうと思うのですが。なぜかというと、それはますます巨大なものになって、きりのない話ですから、どこかで見切りをつける必要があるからです。とにかくそういうことを、物理学は今日までしてきているのです。  人間の習性の一つに、加速しよう、速度を早めようということがあります。汽車、自動車、飛行機、そういうものが次々と発達してきました。それはいずれも、より早く走らせることを一つの目的にした機械です。アクセルを踏めばどんどん早くなってゆく、これが多くの人間にとって非常な快感でもあったわけです。自動車に乗ってとばしてみたら非常に気持がよかった。もっと早くしよう。よその自動車が走っていると、それを追い越したい。ハイウエーができると、いくらでもとばしたい、という気持が強くなる。これは「慣性の法則」と言うよりは、むしろ「加速の法則」とでも言うべきものです。物理学者も人間ですから、加速器をこしらえ、それをどこまでも大きくしようとする。  とにかく人間の本性に根ざして速度を早くすることに重きがおかれてきた。そういう人間が科学文明を発達させた結果として、早く走る、とばしてみるということができるようになり、人間の新しい快楽の一つになってしまった。  しかしながら、速度を早めるということは、非常な危険を伴っています。自動車を例にとれば、私などはいつもはらはらするほどになっています。ということは、現在の自動車は、まだ非常に原始的だということです。これにいろいろな自動制御装置をつけて、自動的に危険を防止する、そういうように変わってゆくべきだと私は思います。速度が早くなれば、それだけ人間は短い時間に状況判断をして操作しなければなりませんが、これは生理的に非常に困難です。その点、電子は非常に身軽に、早く状況に対応してくれますから、そういう電子を利用した自動制御装置をもっと開発すべきです。今日の状況の中にあって、自動制御機構が自動車に使われていないということは、私は驚くべきことだと思います。  われわれは現代を文明社会と呼んでいますが、よく考えてみると、バランスのとれた進歩をしているかどうかが問われていないと思います。恐るべきアンバランスがあって、特に安全という問題が置いてきぼりになっている。毎年、多数の人が死ぬような危険な状況のもとで、安全性、自動制御がないがしろにされているということは、日本だけではなく世界的にみてきわめて驚くべきことです。そしてこれは、まさに現代文明、近代の文明というものの弱点というか、マイナス面を非常に強く出していることの典型的な例です。  このように人間というのは加速したいという欲求をもっているわけですが、その反対の減速には努力を要する、あるいは方向転換するにも努力を要する。つまり減速する、方向転換するということは、人間は苦手のようです。日本などは先進国だと言われますが、先進国ということは、一所懸命になってまっすぐ先に走っているということです。先進国の“進”というのは、進歩の思想と非常に関係があるわけです。この先進国に対するものを発展途上国——後進国と言うのは失礼だから発展途上国と言い直していますが、言われるほうはやはり馬鹿にされた感じでしょう。少しくらい言葉を変えたところで、どうということはない。先進と後進、あるいは先進と発展途上という考え方自身が一つの固定的なものの見方です。そして日本は、先進国になるために、ずっと走り続けてきた。つまり、加速してきたわけで、それだけ減速ということがむずかしくなっている。 人生は「指し切り」にならぬように生きる  私も二十世紀に生れ、二十世紀になってからの科学の進歩に参加してきたわけですが、その中で体験してきたことの一つは、“限りなき前進”というような単純な考え方ですまないという科学者が自己反省をせざるを得なくなってきたことです。  一九四五年に原爆というものが出現した。原子物理学、あるいは原子核物理というものが進んでいく過程で、つくれるという可能性が発見され、実際それがアメリカでつくり出されたわけです。こういうものを科学が生み出した。こういうものは明らかに絶対悪です。世の中には絶対悪というのはあまりなく、たいていはよいことでもあり悪いことでもある。はじめにはそれが非常にプラスにみえるが、少したってみるとマイナスであったりする。つまり、プラス、マイナスの長期的判断はむずかしいことが多いのですけれど、核兵器みたいなものはただ悪いだけです。こんなものは絶対悪にきまっていて、弁護の余地がない。  人間がやろうと思えばできることが、科学の進歩によって非常にふえてきた。原水爆のような、よからぬものもつくれるが、同時にまた、月に行って無事に帰ってこれるという、非常に面白いといえば面白いこともできるようになった。しかし、できるということと、それをやってよいということは別です。いろいろな方向に科学や技術が伸びていき、それがいろいろな産業の発展、あるいは技術革新といわれているものとに結びついているわけです。どっちのほうにいってもよろしい、どの枝を伸ばしてもよろしいというものではないわけです。事はきわめて明白です。  近ごろ生物関係でやっているような実験の中には、やめておいたほうがよいと思われることがたくさんあります。試験管ベビーというのは、恐るべきことですね。また、人間の遺伝子をいじり回すということも、大変恐るべきことだろうと思います。しかし、専門の学者というのはやはりやりたい。真理を探求するということは、それ自身として価値をもっているけれど、真理の探求という理由づけによって、何をやってもよろしいということにはならない。この点が、今後の科学のあり方に関する重大問題です。  研究が企業に関係している場合には、もっと違った理由で、やりたいと思うことがいろいろあると思います。しかし、できるだけ先を読んで、これは困るというものは、それがマイナスにならないような手をできるだけ早く打たなければならない。先見の明というものを発揮して、実行に移す前に先を読むことです。  私は若いころに少し碁を打ったり将棋を指したりしたことがあります。碁ですと、ザル碁ですが、すぐにすんでしまう。なぜ早くすむかというと、考えない、考えることがない。考えたほうがいいはずですが考えるほどの材料をもっていない。ところが高段者になると、何手か先まで読むわけです。できる限りいろいろな可能性を考えている。だから直ぐ打たずに十分でも二十分でも考えている。われわれから見たら、まったく時間のむだである。しかしそれをやれるのは、それだけの考える材料をもっていると同時に、先まで読もうと努力するからです。そのほうが、もちろん勝負に勝つ可能性も多い。いろいろな可能性の中から、まずい場合をどんどん落してゆく。これはやってはいかん、これもやってはいかん、一番いいのはこれだ、という具合です。もちろん相手のあることだから、それでも意外な手を打たれて負けたりするけれども、先を読むということがきわめて重要なわけです。  若い時の私は、将棋のほうが、もっと苦手でした。というのは、早く王手をして勝ってやろうと思う。将棋というのははじめに相当準備行動をしなければならないのですが、面倒だからなるべく早く王手をして勝とうと思う。二、三手やって気持よく王手をしたけれども、あとが続かない、つまり指し切りになり、逆転して負ける。しかし私はそれから一つの教訓を得た。人生は「指し切り」にならぬように生きるということです。  現代文明の前途、われわれ人類の前途を考えても、進歩の思想はけっこうのように見えても、それは将棋で言えば王手、王手とやっていって指し切りになるようなものではないでしょうか。そうならないようにするには、どうすればいいか。現代の人類は非常にむずかしいところに差しかかっていると思います。 時間の空白を恐れてきた私たち  われわれ現代の人類は三十七億人ほどいる。日本には一億人あまり住んでいる。日本人は“大自然”という言葉が好きでした。大自然というと無限大のものであって、同時に人間にとって、ありがたずくめのものだというニュアンスがあるが、実際はそんなに都合よくできていない。どうもこの世はうまくいかぬな、と思うのが正常な人間の感じです。人間がいずれ絶滅して、ネズミもしくはゴキブリの天下になるだろうという説もありますが、しかし別にネズミやゴキブリのためにこの世界があるわけではないし、また人間のためにこの世界があるわけでもない。そういう自然環境の中で、人間だけが限りなき前進をしたらよろしかろうと思いこんでいたら、えらいことになってきた。  この自然界は非常に広大です。だが太陽系は宇宙の中の片隅の小さな世界で、さらにわれわれ人間の環境としての自然というのは、大自然の中のきわめて限られた部分、つまり地球の上だけです。そしてそこからどんどん資源を取ってきた。資源が無尽蔵にあるかのごとく思っていたが、そんなことはない。住む場所はいくらでもあるかというと、そんなことはない。  かつては地球上にも広い未知の世界があった。いろいろな冒険ができたし、いろいろな発見ができた。人間は冒険的な、ロマンチックな生き方を楽しむことができた。十九世紀の終わりごろから二十世紀のはじめにかけて、北極探検、南極探検が盛んに行われた。これは冒険であると同時に、そこには未知の世界があった。少なくとも四、五十年前まではそうであった。しかしだんだん地球のわからない部分は減ってきて、どこもかしこも人が住みついた。  地球というのは、人類にとってはかけがえのない唯一の世界であると同時に、それはもはや無限大ではない。人間は地球という環境とうまく共存していかなければならない。一口に資源と呼ばれているものは無限大でないから、大いにいたわってやらなければならないということが、きわめて明白になってきた。さっきの進歩の思想によって、科学も、産業も、地球上にはまだまだ資源があるから遠慮なく取っていればよろしい、というわけで向こう見ずに前進してきた時代はすでに過ぎたのです。  地球は人類にとってかけがえのない一つの環境です。その中で、外国人が日本人を見るとき、だんだん地球も満員に近くなったのにあまり暴れ回ってもらっては困る、という気持がするでしょう。日本人は勤勉だと言われる。勤勉は確かに日本人の長所で、近ごろまでは非常によいことだった。ところが、これが嫌われるもとになってきた。日本人は働きすぎる、いくらでも働いて生産を上げるので困る、という状況になってきた。どこから先を働きすぎと言うべきかわからないけれど、もう少し休みを楽しむようにしたほうが、日本人自身もしあわせでしょうね。  日本人は休みをぼーっとして過ごすことを、恐れる習慣がある。時間の空白を恐れるわけです。私はレジャー産業というのは、むしろないほうがよいと思うのです。休みにはぼーっとしているのが一番よいと思います。私自身も貴重な時間の空白を、手帳を見てこの日は空いているからといって用事で埋めたりしていますが、これは私にとっては本当はマイナスです。  空白を楽しむというのは一種のエゴイズムだけれど、人間のエゴイズムというのはいろいろな形であらわれてくる。人間のエゴイズムの中で、これから先の時代に、割合に許されるエゴイズムと、許されにくいエゴイズムとあるわけです。めちゃくちゃに車をとばして走り回ることに快感はあるかもしれませんが、それははた迷惑なエゴイズムの発現です。じーっとしてエネルギー消費を少なくするエゴイズムは、割合よいエゴイズムです。エネルギーや物資の消費が多くなっているからこそ企業は栄えるように見えますが、長い目で見ると、環境破壊を早めているだけです。開発といわれるものは、たいていはマイナス効果もある。開発を抑制しなければならない場合が多くなってゆく。ですから、レジャーで騒いだりせずに、ぼーっとしてなるべくエネルギー消費を少なくするというのは、道徳的な行動だと私は思うわけです。 創造的活動をどちら向きにするか  そもそも何か新しいことが生み出される一番はじめは、それが非常に独創的なものであればあるほど、絶対少数意見である。創造、クリエーションということは絶対少数意見から始まる。それとちょうど逆の対極に、大勢の人がやるから自分もやるというのがある。しかし後者だけでは新しいものはできてこない。つまり停滞状態になる。さきほど進歩一点ばりでは困ると申しましたように、進歩を一切否定してしまえば、創造という問題も、何を創造したらいいかという問題も、非常にむずかしくなります。  問題は、以前と違って、創造的活動をどちら向きにしたらいいかということにある。  以前は例えば、加速するのは創造で、減速するのは創造ではなかろうと思いやすかったが、これからは減速することに努力するほうがむしろ創造的である、クリエイティブである。という価値の転換もしなければならない。しかしそれも非常に広い意味に考えれば、また一つの進歩になる。つまり新しい価値、プラスと思われる新しい価値を創造するには、やはり必ず創造的少数者、クリエイティブ・マイノリティというものが必要なわけです。  今日では、例えば科学者が何かを発見、発明したとする。トランジスターでもレーザーでもいいが、昔だとそういう発見、発明が産業界で利用されるのは、割合にゆっくりとした時間のかかるプロセスだったが、今では非常に早い。技術革新が次々と急速なテンポで起こって、例えばレーザーが発明されてからそれが利用され出すまでの時間は、トランジスターの場合よりさらに短い。このように非常に早いプロセスになっているということは、みなが利用し出すのも早く過当競争になりやすい、ということでもある。基礎的な研究だと思われたものが、パーッと産業界に伝わり、施設も巨大化し、生産も大量生産に早く変わってゆく。それがいったい、いかなる結果を引き起こすか、という見通しをつけようとするいとまもなしに、急速に巨大化、あるいは大量生産という過程が進行してゆく。それが多くの場合に非常に困ることになる。  技術革新というものが非常に早いプロセスで起こってくる。世の中の変化が早くなって、あれよあれよという間に事が進んでしまう。その結果、加速度がつきすぎてマイナスが大きくあらわれたときには、その処置が非常にむずかしくなる。そういう時代であればあるほど、私たちのものの考え方を変えてゆかなければならない。それは、ただその場その場でマイナスが出てきたから考えを切りかえるという即物的なものではなくて、もう少し大局的、長期的な見通しを含めたものの考え方の変化、価値の逆転ということも伴うような、ものの考え方の大きな変化の必要な時代なのです。  現在は、先行きのわからない進歩というものを信じてよかった時代とは、非常に違う状況です。ものごとをよく考えると、いろいろな可能性があって、どれになるかわからない。しかし、その中から一番よいと思うことを捜し出して、それを実現するために努力しなければならない。終末論でもなく、バラ色の未来でもない、どちらだと即断はできないが、何とかよい未来、可能な限りのよい未来を考え出して、それを実現することに努力するよりほかないわけです。  私たち科学者も自己反省を大いにやるべきです。科学はわれわれに内在している知的好奇心を原動力として発展してきたわけですが、その知的好奇心をどの方向に向けてもよい、その方向に向かってどこまでも、ひたすらやればよろしいという考え方を全面的に肯定することは、もはや許されない。別な言い方をしますと、何かを実行する前に、そして途中でも、始終よく自分のしていることを反省し続けていなければいけないということです。  先ほど勤勉哲学に対する疑いを述べました。勤勉哲学というのは実践第一主義です。日本人は知行合一という考え方がたいへん好きです。実践しなければだめだ、口で言うより実行するのがいいという考え方が今でも根強い。これは勤勉哲学と直結している考え方ですが、今は、できると思ったことを何でも実行に直結させるわけにはいかない時代なのです。 十のうち九つはやめておこう  大学ではもちろんのこと、企業内でも基礎研究をやっている。基礎研究といわれるものにもいくつかの段階がありますが、元に溯るほどおろそかにしておいて、外国から技術導入を盛んにやってそれで済ませてきた。これは早く是正されなければいけません。なぜかというと、基礎研究というのはむだが多い。いろいろやってみて、これはある段階でやめておこうということになる。先を読めば読むほど、途中でやめにすることが多くなる。だから非常にむだが多いように見える。しかしそういう段階におけるむだというのは、きわめて重要なものです。同じむだをするならば、早いうちに、小規模な段階でしたほうがよい。気がついたら大きなことになってしまっていた、というのはまずいわけです。碁や将棋で言えば、へたな人です。日本の場合は、碁礎の段階でのむだを減らそう、むだは損だからこんなことに金を使うまいとする。それがあとで、もっと大きな損をするもとになる。  十考えたけれど、十のうち九つはやめておきましょうということ、それがすなわち現代人の知恵で、それが人間の心の余裕みたいなものにつながる。  先ほどいいましたように、なるべくぼーっとしている。ぼーっとしているというのは何も考えていないように見えるが、しかし人間というのは、何も考えるなといっても考えているのです。  私がアメリカに行ったのは今から二十何年か前ですが、はじめに来てくれといったプリンストンの研究所は、何もしないでいても、とにかく一年いたらよいという。こんなありがたい話はないのです。そうするとどういうことが起こるか。私には一年分の時間ができる。そこで大いに仕事ができた。  そういう空白みたいなものは、非常に重要です。そういう時間の空白を何となく恐れる気持がありますが、空白こそ人間にとって貴重なものです。  少し一方的な話になりましたけれど、一つの参考にしていただければと思うのです。 一人の「世界」みんなの「世界」  ——一九七四年——  青年へ回帰  私はこれまで、生きがいについて、何度か話したり書いたりしてきたが、生きがいという問題は若い時に一番強く意識されるのが普通であろう。私も二十代では物理学を一生続けて行くことを生きがいとしてきた。しかし三十代、四十代になってくると、それが少しずつ変ってきた。荒っぽくいうと、物理学という学問が私の人生に太い筋として一本通ってはいるが、もう一つ別の中心が発生してきた。私の場合は、原水爆の出現が非常に衝撃的な形で人生観、世界観に強い影響を与えた。それが物理学の研究と並行する第二の筋となり、世界平和のための努力をやめてはならないという義務感を持って続けてきたわけである。  ところが五十代になると、この二つを中心にして、その周辺部への知的好奇心の拡大が急速に進みだした。たとえば若いころの歴史や文学への関心が復活した。これはなかば無意識的な精神の若返ろうとする動きでもあったろう。しかし六十代になってから「世界」の構造ともいうべきものを考え直し、今までの私にとって構造のはっきりしていた物理的世界を含めたもっと幅の広い、そしてもっと奥行のあるものとして、自分の「世界」を構築しようという気持が急速に強くなってきた。これは哲学青年的傾向への回帰でもあった。  それは物理「世界」の客観性とは違う意味の普遍性というか、他の人たちの「世界」との別の種類の共通性をも包含した、もっと広い「世界」を、子供が箱庭をつくるような喜びを持ってつくりたいということでもある。 孫への愛情  もう一つ、私は近ごろ自分にとっても、他人にとっても一番大切なのは、やはり愛情の問題だと思うようになった。その直接の動機は六十を超してから孫が出来たことであった。自分が気づかなかった孫に対する愛情を発見した。それは私にとって驚きであった。これはほかの種類の愛情とはだいぶ違っている。恋愛とはもちろん違うし、夫婦間の愛情、子供に対する愛情、あるいは友情、そういうもののどれとも違う。  そこで私は自分の幼い時のことを思いかえしてみたのである。そのころ、母親の父母と父親の母、三人の老人が家に一緒に住んでいて、そのだれからも可愛がられた経験があるが、それが私の人生にどんな意味があったのか、よくわからなかった。二世代の隔たりを持つ祖父母と孫との間にあるものは、割合淡泊な愛情である。親子の場合のように、親が子を愛するほどには、子は親を愛さないどころか、場合によっては対立関係の方が強くなるのとは、違っている。いろいろな意味での深刻さの伴わない愛情は、とかく軽視されがちであるが、私の場合には、それが人間形成に案外大きな意味を持っていたのではないか。そんなことも考えるようになった。  愛情には人類愛とか博愛とか、もっと高度な、そして現代世界では、特に重要なものがある。そういうものを身につけるには、人間が実感として持ちうるいろいろな形の愛情を、理性と想像力とによって普遍化する努力が必要である。戦後二十八年の間に愛情というものの中で、恋愛だけが強調されてきただけでなく、他の種類の愛情は、むしろ人間の自立に対して否定的に作用しているという考え方さえ、そこに見られた。それが近代的なエゴというものかも知れないが、しかし長い人生の中で、さまざまな形の愛情の相対的な強さを徐々に変えながら人間は生きてゆく。それによってまた、人は年齢や状況に応じた生きがいを発見し、再発見し続けられるわけでもある。 普遍の追求  それは先にふれた「世界」の構造という話とも無関係ではない。学問をしているものにとって、一番狭い意味の、そして明確な「世界」といえば、たとえば物理的な「世界」あるいは歴史的な「世界」である。後者は客観的な事実を中心として組立てられた「世界」であり、前者はさらに事実の背後にある法則の、より明確な「世界」である。それらは自分にも他人にも共通の「世界」だと思っているが、しかし、それらだけが各人の「世界」の共通部分ではない。先に述べた愛情というようなものを含めた感情、情緒の「世界」にも各人に共通するものがあることは明らかである。そうであればこそ、他人の書いた小説が物理の教科書より、はるかに面白かったりするわけである。  もちろんそれは物理や歴史の「世界」と同じ意味の客観性は持たないけれども、小説家がみんな読んでくれると思って小説を書くのは、やはりそこに普遍性があると信じているからである。それは数学の場合とやや似ている。数学的真理といわれるものは高度の普遍性を持つが、しかし狭い意味での客観性を持たない場合がある。たとえば虚数というようなものは、どこにあるといえないようなものである。しかし科学や歴史の「世界」のほかに文学や数学などで表現されてる「世界」があることは否定できない。それをみな含む「世界」、それが私の「世界」でないとはいえない。そうなると「世界」全体の構造は、私が若いころに考えていたより、はるかに複雑になってくる。  それどころではない、物理学者であろうがなかろうが、日常の生活というものがある。それが自分の「世界」の重要部分であることは、もちろんである。そしてそれが特に感情の「世界」、情緒の「世界」と不可分に結びついて、一方では私的な「世界」というべきものを形成していると同時に、そこにもすべての人の「世界」と共通する性格が見られる。そういう複雑な構造を持った「世界」の諸部分、諸側面の相互関係を改めてよくよく考えてみて、私なりの「世界」の統一をしてみたいと思いだしたわけである。 構造を探る  話が前後するようだが、五十代になってから記憶力が衰えはじめた。その兆候は固有名詞を思いだせないことに現れた。これも老化現象の一つに違いないが、考えようによっては、それを逆に生かすこともできそうに思われる。若い時には多くの異った要素を一緒にして統一することはできなかったが、それは各部分の差異が明確だったからでもある。近ごろになって私は、文学的といわれるようなもの、あるいは日常経験のさまざまのもの、そういう私の今に雑居しているものの全体、ある学問的立場からは統一などできそうもないようなものに、何とか構造づけをしてみたいと思うようになったが、それがまた私自身の老化に対する抵抗でもある。  五十代以後、知的好奇心の範囲がとめどもなく広がって、何でも面白くなる時期を経過して、今や自分の「世界」の統一という野心を持つようになった。それが六十六歳の私の生きがいなのである。 歳をかさねること  ——一九七三年——  高齢化社会に対応した「人生論」の必要性  きょうのテーマは、かりに「歳をかさねること」としたんですが、歳をかさねるのはめでたいのかどうか。昔はたいていの場合、めでたいというた。このごろはめでたいか、めでたくないか、いろいろですけれども、歳をかさねるとはどういう意味をもっているのか、そういうことを少し考えてみたいと思います。  だいたい、昔から人生論というのがありまして、そこでは、生きていくという問題に対して、死という問題がいつも対立的に議論されてきたわけです。しかし現代では、生と死の問題を対立させるのもさることながら、それと並んで老ということも相対的に重要になってきているわけです。それには平均的に皆が長生きするようになったということの影響が大きいと思います。  仏教では、生、老、病、死という順序で申しますが、これはみな苦しみですね。四苦八苦ともいいます。仏教的悟りというのは、そういう苦を超越することでしょうけれども、のちに述べますように、たとえば老荘的立場からみると、もっと違ってくるわけですね。  いずれにしても、いま申しましたように平均寿命が長くなる。長生きする確率が大きくなってくる。社会的にみますと、比較的高齢な人たちの人口比率が大きくなってゆく社会になっている。たとえば先進国の一つの日本の場合をみると平均的に老齢化してくる。ということは、なにも人間だけの問題ではなくて、そういう人間の生きている環境——かつては環境というのは無限に大きな力をもっていまして、無限の可能性をもっていた。人間が少しぐらい、じたばたしても、環境は巨大なものである、また人間の営みに対して、環境自身復元性なるものをちゃんともっているんだ、という考え方ができたわけですが、そういう考え方がだめになってきまして、地球的環境全体は有限なものである、地球的環境としての自然というものは、無限ではなくて有限であるという認識——認識というのは、実体がそうであるということと裏表の関係にあるわけですけれども、そういう変化が実際起こってきたわけです。  そういうなかで、昔からいわゆる人生論というものがあるわけです。わたし自身も、皆さん方も、それぞれなにか人生論という本をお読みになったり、自分でお考えになったりしてきたと思います。だいたいわれわれの年輩——われわれ前後の時代のものは、人生論に関する本をよく読んだのです。その人生論というのはなにかというと、それは要するに若いときの人生論ですね。年とってくると、人生論というのはもうないんじゃないですか。というよりもむしろ人生論というのは、主として青年向きになっているわけですね。あるいは青年向け、向きと向けと両方でしょうが、たとえばわたしどもの若いころだと、トルストイの『人生論』というのがあるわけです。その他いろいろありますけれども、トルストイ自身はひじょうに長生きしているわけですね。恐ろしくヴァイタリティーのある人で、長生きしておりますけれども、彼は晩年になってどういうものを書いているかというと、少年向きのものを書いているわけです。これはたいへんおもしろい点ですが、トルストイ論をやると、またわき道に入って長くなりますから、その話はきょうはやめておきましょう。  一般にそのころの人生論というのは、少年あるいは青年の前途に希望を与えるというような意味合いをもっておったわけです。わたしたちのような年輩のものが読んだ本のなかに人生論と関係してどういうことがいわれていたかというと、人格の形成とか、あるいは向上すること、なにが向上するのか、それはいろいろのことがあります。モラルその他の問題もありますけれども、社会に対しては積極的に働きかける。つまり簡単にいいますと、それは本質的には、活動的、行動的、あるいは実践的な人生論が盛んにいわれてきたと思います。もう少し極端な場合としては、冒険的という形容詞をつけてもいいかもしれませんけれども、冒険的とまでいかなくても、思索する、静かに考えるという場合にも、それは要するに実践をともなわなければいけないという意味合いの人生論がありました。必ずしも太く短く生きるとか、そういう教えではなかった。しかし大昔からヒポクラテスがいったんですが、人生は短く芸術というか技術というかアルス、アートというのは永遠である、まあ広く解釈して、学問でも技術でも芸術でもよろしいですけれども、人生は短く、芸術というか、そういうものは長い。要するに人生は短いということが常識としてあったんですね。  ところが、人生自身が少なくも相対的に長くなってきた。わたしの記憶がまちがっているかもしれませんが、イギリスでは、たとえば政治家のチャーチルは九十ぐらいまで生きましたか、また、小説家のソマセット・モームもだいたい九十ぐらいですか、なかなか長命であったわけです。どちらがどういうたかくわしく覚えておりませんけれども、どうも自分は長生きしすぎてあきあきしたということを晩年にいうたという。これはひじょうに結構な人生だと思います。これにはいろんな意味合いが含まれていると思いますけれども、そういうことをいうようになってきたということは、一般論としては、ある種のひじょうに大きな変化ですね。そのほか同じイギリス人で長生きした人は、バートランド・ラッセルが九十七ですか、トインビーはまだ存命でありまして、九十近くになっているわけですけれども、こういう人たちは八十を越しても精神的活動がひじょうに活発でして、とにかく、がんばって生きぬいている。そういう場合もあるわけですね。  どっちにしましても、人生というのは、物理的な時間を単位にして測りますとひじょうに長くなっている。そしてその間に生理的な機能はだんだんと衰えていく。相当早くから衰えだして、どんどん衰えていく。ここに動物学者、植物学者がおられますから、あとでお話を聞かせていただきたいと思います。またわたしの話に誤まりがあれば、適当に直していただいたら結構ですけれども、われわれ人間でいえば、手足とか内臓の働きに注目しておりますと、二十代、三十代でそのピークを越えてしまって、だんだん下降曲線をたどっているということになっていますね。そういう意味では、長期にわたって衰えていく。人生というものはそういうものであって、長生きするというのは、ひじょうに長いことかかって衰えていく。衰えていく過程が長くなったという、衰えていく期間が長くなっただけだ、そういう否定的な見方ができるわけです。しかもへたすると、その最終段階がたいへんぐあいの悪いものになって、それがわりあい長かったりすると、ひじょうに困るわけですね。『恍惚の人』のような状態があって、しかも、それが長いこと続いたりすると困るわけです。その場合には精神活動の問題も同時にあるわけですけれども、精神活動というのだって、むろんある年齢、それがいくつであるか人によって違うわけですけれども、ある年齢以後は老化したり、あるいは機能が減退する。あるいは退行現象といってもいいけれども、そういうことが起こってくる。とにかく一般的にみて、そういう人のほうが多いわけです。精神活動のほうも、だいたい退行過程をたどっているんだという考え方のほうが、実際は昔からわりあい常識的だったと思いますね。歳をかさねていくということは、まずそういうことなんですね。  そういう考え方が昔からむしろ常識的であったのに対して、その逆の話をこれから申しますけれども、とにかく最近になりまして、急に寿命が延びだして、社会が老齢化しだしたということがあり、それにともなってそのマイナス面がひじょうに強調されだしているわけです。そこにはもちろん真実が含まれているのでありまして、そういうものをほっておいてよろしいということはない。それに対する福祉の問題、老人福祉というような問題が重要なことはたしかです。それはもちろんでありますけれども、しかしわたしがきょうお話したいと思いますのは、そこで見逃されがちであるようなプラス面をできるだけ取り出してみて、われわれ自身、それからまた長生きすれば同じ運命をたどると思われるほかの人たちをも、なんとかして元気づけをしたい、そういう話をしたいと思うわけです。  つまり、プラス面というのをもっと積極的にいいますと、老化していくというのは、ふつうの考え方ですと、そこに加わる新しいものはシワかなにか、要するにマイナスだけであって、プラス的な新しいものはつけ加わってこないんじゃないか、積極的な価値のあるものはつけ加わってこないんじゃないか、という考え方になるわけです。しかし、生きていくというのは、新しい発見をともないうるわけです。たとえば新しい境地、あるいは自分の気づかなかったものを自分のなかに発見する。孫の話をすると笑われますけれども、わたしは六十を越して孫ができた。その結果、孫に対する愛情というものが自分のなかにあったことを発見したんですね。これはわたしにとっては、まったく新しい発見ですよね。それだって、やはり人生にとってプラス価値をもたらすことができるわけです。そういう意味でのいろんなプラス面をこれから少しお話していきたいと思います。  ついでにちょっと申しておきますけれども、きょうは動物学者、植物学者がおられるので申すのですが、歳をかさねていくということは人間だけのことではなくて、いろんな動物にも、寿命の長い短いはありますけれども、また年という単位で測らなくてもいいんですけれども、どれだけかの間生きているということは、広い意味でやはり歳をかさねていくわけで、植物の場合にもいろいろありますね。松の木みたいに何百年もずっと歳をかさねていくものもあるし、毎年生(は)えかわる草のようなものもありますけれども、いずれにしても、ほかの動物、植物だって歳をかさねていく。そういうことをしている生物が進化してきて、人間になりまして、人間は人間なりの歳のかさね方をしているわけですね。それらの違い、進化というか、進歩というか、それは大いにあっていいんじゃないか、そういうことも一つ考えられると思います。  さらにわき道に入りますけれども、一つ思い出したのは、さっきトルストイの『人生論』のことを申しましたけれども、昔読んだトルストイのわりあい初期の小説に『三つの死』というのがありました。ご存じの方もおありだと思います。これはきょうの主題にそれほど密接な関係をもっておらないんですけれども、ついでに申しておきます。『三つの死』というのは一八五八年の作ですから、そんなに年とってからのものではない。『戦争と平和』を書くより前ですね。三つの死というのは、一つは肺病にかかっている貴婦人がありまして、やがて死んでいく。その場合に、ひじょうに死を恐れましてあらゆる療法、あらゆるものにすがろうとする。結局だめで、絶望と恐怖のなかで死んでいく。そういう死に方ですね。二番めは、ひじょうに貧乏な駅馬車の馭者の死に方で、自分はだめになってしまったけれども、自分が死ぬことによって周囲の人がいろんな負担から解放されるということを喜んで、それでひじょうに落ち着いて死んでゆく。たいへんりっぱな死に方なんです。それからもう一つは、この小説の筋とは関係がありませんが、最後にちょっと書いてあるんです。林のなかで一本の木が切り倒されまして、斧の響きが聞こえるわけです。そして木の倒れる響きが消えてしまうと、林はもとの静けさになる。ほかの木は何事もなかったようにそれぞれ元気に伸びてゆく。そういうことが最後に書いてある。植物の死ですね。これだけではどうということはないんですけれども、さきほどわたしの申しました人間の生老病死、そういう人生と、動物や植物、いまの場合植物ですが、そこにあらわれているものとは、本来無関係ではないはずですね。生物の進化の歴史のなかで動物と植物と分かれてきまして、それぞれ違う生き方をしているわけです。トルストイはそういうものを比較し、また人間のなかでも比較しているわけです。トルストイの比較的若いときのもので、かえって晩年のものより深い味があり、わたしなどはおもしろいと思いますが、そういう小説があるんです。これはあとで皆さんにいろんなご意見を出していただくために申したので、その話はそれくらいにしておきます。  それで本題へもどりまして、人生は、ある年齢からさきはだんだん下降曲線をたどっていくというけれども、はたしてそうかということです。 休むことの意味  まず、人間の一生というのはどういう形態をしているのかということについていろんな見方がありますけれども、一つは、はじめは遊ぶ、そういう見方ができると思うんです。子どもが遊ぶ。幼稚園や学校へ行かんような子どもが遊んでいる。このごろ早くからなにか教えるとかいろいろ問題がありますけれども、どうしたってはじめは遊んでいるわけです。遊んでいるということは、見たところは肉体の活動ですが、同時にもちろん精神的活動と表裏一体をなしている。その段階で知的好奇心がひじょうに強く出ているわけですね。むしろおとなになってからより幼児期のほうが知的好奇心は強い。そして遊びのなかに学びがある。  そのつぎには、学びが遊びより比重が大きくなってゆくわけです。簡単にいえば、幼稚園で遊んで学校で学ぶ、そう分けてもいいですけれども、いずれにしても遊びから学びへ移行していく。  ところが、遊ぶ学ぶといいますけれども、どっちの段階でも、そのなかで当人はいろんな発見をしているわけですね。自覚的であるかどうかは別として、あるいは発見したものに客観的価値があるかないかは別として、当人にとっては、つぎつぎといろいろな発見をしていっているということですね。  それからつぎにどういうことが起こってくるかといいますと、これも学ぶという過程のなかに重なっているんですけれども、もう一つだいじなこととして考えるということがある。考えるということと学ぶということを区別するのはむずかしいですけれども、ごくあらっぽくいってそういうことがありまして、やがて研究というか、ほんとうに客観的な価値のあるものを発見するというようなことが出てくる。それから働く。これは職業によっていろいろ違いますが、働くということがある。  ところが、そこからさきなんですけれども、日本の伝統的な考え方では、ここからさきはないんですが、このつぎには実は休みきりではないんですけれども、休むということが当然あるわけです。これは必ずしもあとにくるのではなくて並存している。これはまえに話しましたので、きょうはあまりやりませんけれども、多少関係がある。休むというのは、とくに日本では、完全なマイナス価値だと最近までは思われてきたわけです。日本の文明というものは、昔からそうだったらしいが、とくに明治以後でいいますと、休むということはひじょうに悪いことである。それに比べれば、遊ぶのはまだ価値がある。レジャーは価値があるわけですね。なぜ価値があるかという理由の一つとして、レジャーというのは金もうけができるわけですね。レジャー産業は金もうけができる。だから価値がある。だれかが遊ぶので、だれかがもうける。わたしはそうだと思うんですよ。資本の論理からいうと、休まれてはどうにもならぬ。その人は生産しない。生産しないのも困る。それにあまり消費せんわけや。消費してくれんのも困る。消費してくれればレジャー産業はもうけるわけです。レジャー産業の人は働いてもうけている。  だから、ひじょうに簡単にいえば、つまり資本の論理というわけですけれども、休むということは、人生にとってはきわめて重要なことであるけれども、日本ではこれはいかぬ、マイナスとみる。へたの考え休むに似たりで(笑)、このことは近代日本のひじょうな特色ですね。世界的にみますと、文化にいろいろあって、考えたり休んだりするのをひじょうに尊重する文化もある。たとえばギリシャですが、アリストテレスなんていう人は、暇がなければ学問は発達せんという。学問には、驚くとか、びっくりするとか、疑うとかいうほかに、もう一つ暇がだいじですね。だいたいスクールというのは暇ということですね(笑)。暇がないとぐあいが悪い。ですから、そういうものを尊重する。そういうものが文化の源泉であるという考え方ですね。それと、そういうものは単にマイナスだという二つの違う見方が、極端にいえばあるのだと思います。  これを東洋流にいいますと、静から動、動から静というふうにみまして、人間というのは、はじめは静ですね。赤ん坊はあまり動けない。静から動へいく。死んだらまた静。日本では動はプラス価値、静はマイナス価値としたわけですね。休みは静に近い。ですから、これもマイナスになる。働きは動でプラスになる。それで高度成長を謳歌するというわけですね。これは文明とか社会全般についてみたことで、わたしはもう少し人生論的な問題として考えて、それに平行するものを取りあげてみたいわけです。 情報化社会のなかでの“経験”  そういう立場からみまして、日本の近代文化というのは、いまいったような価値観に立っているということを考えますと、老というものは、マイナス価値につながるのが当然です。そんなら東洋は、そういう文化ばかりであったのかというと、それとひじょうに違うものがあったわけです。きょうは福永光司さんがいらっしゃいますが、たとえば中国の文化の少なくともある一面は、老人を尊重する。老成、老熟というようなことを高く評価する側面をもっていたわけですね。いまでもそういうものはやはり残っているんじゃないかと思います。そういう老年尊重の文化と、一方ではそれを無視し、あるいは蔑視する文化がある。そういうふうにいちおう図式的に区別してみますと、どうしてそういう違いが出てくるのか、いろんな理由があるわけですけれども、一つは、年寄りに稀少価値があった時代には、それは尊重もするけれども、年寄りが多くなったら、こんなものはしようがないという。どんどんと価値がさがってくる。そういうことも、当然あるわけですね。そんな年寄りをいちいちめんどう見きれんとか、保護しきれんとかいうことになってそれはごく常識的にわかることですけれども、そういうことが一つあります。  そのほかにこういうことがあると思うんです。つまり、たとえば一足飛びに現代をみますと、現代というのは、いろんな記録がありまして、その記録を蓄積し整理する。情報の処理とか、いろんな表現がありますが、簡単にいいますと、古くからあるものとしては書物ですね。書物がひじょうに多くなって、ますます普及している。もうひとつ現代的にいえば、出版文化が発達する。出版以外のいわゆるマスメディア、テレビその他も発達している。それにともないまして、ひと口にジャーナリズムといわれているものの社会的な勢力といいますか、影響力というものがひじょうに急激に増大している。現代はそういう時代ですけれども、それからまた、そういうことと関係して教育もひじょうに普及している。ということは、これは人生論的に個人の人生にとってみますと、二次的、あるいは間接的といいますか、つくられた経験ですね。直接の経験でなくつくられた経験、あるいは間接的な方法で獲得した経験、アーティフィシャルということばがこの場合ひじょうに適当だと思うんです。それに対しまして一次的なものは、リアル・エクスペリエンス、体験ということばをよく使いますね。それに対して、アーティフィシャル・エクスペリエンス、つまり二次的経験、あるいは情報といってもいいかもしれないですね。情報ということばが当たる場合もあるわけですね。テレビでなにか知らされる。新聞なんかで伝えられる。こっちはそれでなにかわかるわけです。情報的な形でわかるわけで、経験というのとはちょっと違ってきている。それも広く経験のうちに入れられるわけですね。そういう情報がひじょうに多くなってきますと、二次的経験がつぎからつぎへ加わってくる。人間の側からみると、つぎからつぎへそれを追っかける。社会のほうからいいますと、そういうものをいくらでも生産する。そういうものがますますたくさんになる。供給される側は少しでも新しい情報、新しい経験を求めるという、そういう欲望が肥大していく。そういうものに対する好奇心がひじょうに強くなっていく。一方ではいろんな情報がたくさんあって、あきあきするほどだが、あきあきしているといいながら、そのなかに変わったものがあれば、またそれに飛びつく。そういう傾向が現在ではひじょうに強いわけです。  この傾向というのは、いろいろのことがありますけれども、一つは、自分で経験しなくても、もうわかってしまったような気になるということがあるわけですね。これは必ずしもマイナスとはかぎらんことで、プラス、マイナス両方ありますけれども、書物にちゃんと書いてありますから、自分でやってみんでも、経験してみんでもいいということがひじょうにふえてきている。そうすると、いろんなことがなにかわかってしまったような気になる。というのは、それが過度になると、若年寄りになる。そういう傾向が現在ひじょうに強くなっているけれども、われわれもそのうちかもしれぬが、それから逃れるのは、むずかしいことでもあるわけです。  それからもうひとつ極端ないい方をしますと、一次情報、一次経験というものがありましても、それをむしろ二次情報、二次経験で間に合わそうとする傾向が出ていると思うんです。それはわたし自身にもあります。しかし、わたしだけではなくて、一般的に若い人にも強く出ているんじゃないかと思う。それはどういう形であらわれているか、一例をあげますと、ひじょうに具体的にわかりやすい例として、たとえばどこか博物館へ行ったとしますね。そうすると、そこに美術品かなにか知りませんけれども、ほんものがあるわけです。そのほんものを一生懸命見たらいいわけやけれども、それよりも、そこに説明とか解説が書いてある。あるいは立札が立っておったり、レッテルがはってあったりしまして、むしろそのレッテルとか、そういうもののほうが重要なんですね。まずレッテルを見まして、そして、ちょっと横目でほんものを眺める。それでわかったことにする。ほんものをいちいち穴のあくほど見ている暇はない。もう一段進むと、ダイジェストでだいたい間に合う。わたしどもも、そうなっているんですね。ほとんど不可避的にそうなるんですけれども、そういう傾向がひじょうに強くなる。レッテルとかダイジェストで満足する。つまり一次情報は二次化する。あるいは二次情報は三次化する。だいたい、なにか本がありまして、本に書いてあることはすでに二次経験かもしれない。それをさらにダイジェストで読む。つまり三次みたいなものですね。そういうものですまさんとさきへ進めんというわけです。それでまたつぎの情報を求めるという、そういう時代ですね。わたしたちの生きている最近の十年の間にも、そういう傾向はひじょうに進んだように思います。学問の世界でもそうでありますが、一般の社会にもそういうことがある。  そういう時代、そういう文明、そういう社会のなかでは、長年の経験というようなものは、そんなに尊重すべきものではないわけですね。つまり長年の経験というのには、二次三次の経験も含まれておりますけれども、一次的経験、体験的なものがひじょうにたくさんそのなかに蓄積されている。しかし、あまり尊重すべきものではない、三次の経験のほうがよろしいということになると、年寄りの価値というものはひじょうに減ってくるわけですね。これはひじょうに明らかだと思います。  しかし、それは一般論であります。いろんな特殊な場合を考えてみますと、経験年数不足がマイナスでない場合がありまして、たとえば学問の世界でありますと、学問がひじょうに急速に進む時期には、わたしなどもそういうことを経験したわけですけれども、物理学なら物理学の場合は、二十世紀のはじめから何十年かの間は、ものすごい勢いで発達してきたわけですね。そういう急速に進んだ時代というのは、これはやはり年輩の学者の長年の経験とか、そういうものは物をいわなくなった時代ですね。だから、わたしたち若造はひじょうに得をしたわけです。そういう時代があるわけですね。それは物理学なら物理学が実際にひじょうに進んだ時代ですから、それはそれで特別の意味がありますけれども、しかしそれぞれの学問には、そういう時期があらわれたりあるいはそういうふうに急激に変化しない場合やいろいろあります。しかしそれは学問論の話になって、いま問題にしている一般論から少し離れますので、これくらいにしておきます。そのときに年寄りの学者はどういうふうに反応したかという問題がまたありますけれども、それはやや専門的な話になり、ごく少数の人たちの問題でもありますから、きょうは深入りしないことにいたします。  そういうことがいろいろありますけれども、しかし、どういう時代でありましても、どういう文明、どういう社会のなかでありましても、ある人が歳をかさねることによりまして、その人の精神内容といいますか、それは肉体的なものと離すことはできませんけれども、そういうもの全体がだんだんと深みを増し、広がりを増して、重層的な構造になって、厚みがふえていくという傾向は、その人が完全にぼけてしまうまでは進めていくことができるわけですね。もう少しそれを正確にいいますと、さきほどわたしは二次的、間接的経験と、それから生(なま)な経験、つまりアーティフィシャル・エクスペリエンスとリアル・エクスペリエンスをいちおう区別いたしましたが、歳をかさねることによりまして、リアル・エクスペリエンスはたしかにふえる。同時にアーティフィシャル・エクスペリエンスもふえていくわけですね。つまりそういう経験をしていくそれぞれの時点で、その両方がお互いに作用して、すでにその人が獲得して自分のなかに定着しているものと、新しく入ってくるものとの間に、いつもなにか緊張がある、なにか相互作用がありまして、それによって人間の精神は成長していく。そういうことはいつでもありうるわけですね。つまり、情報ということばをかりに使いますと、いままでその人がすでにもっている情報群、歳をかさねるにしたがってひじょうに豊富な情報群をもっているはずですが、そういう既得の情報群というのは、ある構築物というか、ある構造をもったものになっているわけです。つまり人間の知的活動というのは、自分のいろんな経験、あるいは情報といってもよろしいけれども、それを獲得して一つの構築物に組みこむことで、単にばらばらに獲得しているのじゃなくて、それを自分で適当に構築する。自分の知的構築物のなかに適当に取り入れて、構築物の内容をふやすなり、あるいは内容を変えていくなり、いろんなことをしているわけです。これは学者の場合にはわりあいはっきりしておりますけれども、学者でなくとも、みんなある程度そういうことは自分でしているわけですね。あるいはそれほどかっちりしているかどうか、それは人によって違うでしょう。ひじょうに雑駁に自分の経験なり知識なりがばらばらにある場合と、ひじょうに整頓されている場合と、それは人によって違います。学者といえども、経験がなにか蔵へほうり込んだみたいにごちゃごちゃしている部分と、きちんとしている部分と、両方あるわけですね。たとえばわたしのような物理学者ですと、なにか物理に関係あるようなことだと、やはり整理をきちんとやって、自分なりの構築物、ひじょうに広い意味の理論的な枠組みのなかへ適当に知識をほり込む。しかしその知識は、すべての知識、すべての経験ではない。その一部分にすぎないわけですけれども、しかし、そういう部分はわりあいはっきりしているわけです。そうならないで、ごちゃごちゃと蔵のなかへほり込んでいる部分もあるわけですね。人によってそれは違いますけれども、しかし、蔵のなかへほり込んでしまってあるから、ないというわけではないんですね。蔵のなかへほり込んだものも、いつかまた思い出したり、それが別の形で生きてきたり、またもういっぺん整理し直されたりということがあるわけです。そういうプロセスをずっと追究していくと、話がひじょうに細かくなってきますが、ごく大ざっぱにいえばそういうことです。要するにいまいったように、だんだんと外から情報が入ってくる、経験を積んでいくということによって、明らかにその人の精神内容を豊かにしているはずです。 記憶力の減退————“思惟の経済”  ところが、そういうことと反対のマイナスがいろいろ出てくるといわれております。記憶の減退ということがやはりまずありますね。記憶の減退という問題は、これはどういうことか。ふつう老年期のマイナスとして、ほかにいろいろありますけれども、まずあげられるのは記憶の減退ということです。これはだれでもそうだと思います、わたしもそうだと思いますけれども、まず固有名詞が出てこない。いちばん出てこないのは人の名前です。人の顔を見て、もちろんその人は知っているわけです。よく知っている人だけれども、しばらく会わなかったりしますと、名前が出てこぬ。のどまで出てくるけれど、口までこない。まことに困るわけです。しかし知っている。そういう状況になるわけです。これはわたしの経験では、五十代から始まりますね。そうでない方もおられるかもしらんけれども、とにかく、それ自身はひじょうにマイナスだと思う。年とってくると、そういうふうになるでしょう。わたしはそこにもなんとかプラスを発見したいというわけです(笑)。  つまり、わたしの理論づけはこういうことなんです。ある人が、自分の心のなかにある知的構築物をこしらえている場合、そのなかで実は固有名詞の一つ一つはさして重要じゃないわけですね。植物学者にとっては、それはひじょうに重要かもしれぬ。その点はご意見あると思いますが、しかし植物分類学者にとっても、わたしのいうことは成立するような感じがします。つまり固有名詞の一つ一つは重要でなくなっていく。一般に歳をかさねていくにしたがって、つきあっている人の数はものすごくふえるわけですから、だから思い出しにくいのであって、必ずしも年寄りはあかんのじゃない。若い人だって、何千人もの名前を覚えようといわれても、なかなか覚えられんかもしれんわけですからね。わたしは、必ずしもこれはそんなに老化してだめになっていることのあらわれだけともいえんのじゃないかと思う。  その一面はもう少しありますけれども、それよりもわたしが理屈づけたいことは、本来ことばというものは偶然的な場合が多いわけですね。あるものをなんと呼ぶか、犬をイヌと呼ぶのはきわめて偶然的なことですね。その点は人の名前でもなんでも同じことだと思います。同時に、固有名詞というのは、実際使う頻度が少ないということもあるわけですよね。自分の親しい人なら、しょっちゅう名前を思い出さんならんけれども、もしもめったに会わない人であったら、その人の名前を思い出すチャンスは少ないということもあります。だから思い出せない。再生するチャンスが少ないということがあるわけですね。ということが一つあります。  しかし、もう一つは、名前の間につながりがないわけですね。それぞれの人はバラバラの名前をもっている。分類学の場合だとそうじゃないわけで、それはあるシステムのなかにいちおうしかるべく置かれておって、またその名前にしかるべき命名法があるわけですね。有機化学なんかですと、ひじょうにややこしい名前が出てきて、なかなか覚えられんけれども、しかしそれは有機化学者には、ちゃんと覚えられるような命名法がシステマティックにできている。そうなっていると、なかなか忘れない。思い出しやすいわけですね。思い出すひっかかりがあるわけです。そういうわけで、ひじょうに偶然性があり、孤立していて、使う頻度も少ないような名前を思い出せなくなるのは、別におかしいことでもないし、知能がひじょうに衰えてマイナスだと評価しなくてもいいのじゃないか。これはちょっとこじつけのようでありますけれども、しかしそのこと自体よりも、むしろより一般的な、より重要な概念をあらわすことば、つまりその人の知的構築物のなかでより重要な地位を占め、意味をもっているような概念、ことばというものは、これは忘れへんわけですね。すぐ思い出します。個人の名前というものは、場合によって思い出せんかもしれぬ。それよりも同じ人間でも、たとえば一般化した日本人というようなことばが出なくなったら、これはだめですね。あるいはさらに人類とか人間とか、そういう名詞が出なくなったら、もっとだめです。個人の名前が出なくなっても、それはまあまあ。それは逆にいえば、一般概念のほうですませておく。マッハ流にいえば思惟の経済かもしれぬ。これは人間の知恵と関係あることですけれども、思惟の経済といういい方もできますけれども、むしろその人の経験、知識がひじょうにうまくだんだん構築されていって、重要性のない部分にはあまり重きを置かんようになってきているというのは、やはり老成の一つのプロセスであって、それも一つの知恵であるかもしれん、というふうに思います。といいますのは、たとえば子どもの段階では、そういうことはしないわけですね。子どもはできない。やはりいろんなことをどんどん覚えます。記憶力はひじょうにいいですね。わかることは——なにがわかることか別として——わかること、わからんこともどんどん覚えていく。おとなからみると、どうしてわかるのかわからんけれども、いろんなことをどんどん覚えますね。それは若いときは、あまり体系化せずにどんどん記憶していくということをしなきゃならぬ。その意味での記憶力は旺盛でないとだめなわけですね。つまり学校時代にそうであると、これはひじょうに秀才ということになるわけです。そのときにあまり記憶力がよくないとまずかったりする。そういうわけでありまして、つまり人間が子どもからおとなになり、さらに歳をかさねていくというのは、なにかその人の知的活動があり、あるいはすでにそこに知的構築物みたいなものがあったり、あるいは構築物のほかに一見がらくたと思われるようなものがそこに入っておったり、いろいろいたしますけれども、しかし全体の見通しがだんだんよくなっていくのではないかと思うのです。その点は、またあとでお話ししたいと思います。 アナログ化の進行————高度な総合判断の可能性  それともう一つ関係がありますことは、これはむずかしい問題なんですけれども、記憶というのは、近ごろの心理学のことはわたしよく知りませんけれども、わたしの知っている範囲で申しますと、大別して二種類ありまして、一つは、ことばというものを媒介とする記億、あるいはことば自身の記憶といいますか、ことばが主となっている記憶、それからなにかイメージの記憶みたいなもの、イメージというのは、広くいえば音も入れていいかもしれません。音というのはむつかしいですが、純粋の音楽の場合だと、イメージの記憶とよく似たようなものです。ことばというのは意味をもっているけれども、これは音でもあるわけです。字というのもみなイメージをもっておりますから、そういったらなにもかも入ってしまいそうですけれども、いちおうことばというものを離れたイメージがあるわけですね。なにかいろんな光景を覚えているとか、そういうことがあるわけです。そういうものの記憶の全体は、これまたものすごく膨大なものですね。たとえばふつうの情報理論でいわゆる記憶量が十の何乗ビットとか、そういう表現でいいますと、よくわかる例としては、たとえばテレビならテレビの画像を見る。そこから出てくる情報量はひじょうに多いわけです。だれかがものをいうているとして、ものをいうている量よりは、情報としてビットでいえば、それは画像のほうがずっと多いです。実生活のなかでも、両方を分けてみますと、イメージ的な情報がひじょうに多い。そういうものをまたものすごく記憶しているわけですね。こういうものは、さっきの思い出しにくくなるということがひじょうに少ないわけです。つまり人の名前が思い出せんというのはどういうことかというと、その人の顔を見て名前が思い出せんという場合を考えてみますと、顔というのは、前の記億と同定できておるわけです。しかし名前のほうは、前に覚えているものと同定しにくいということですね。だから、もし衰えているものがあるとするならば、前のヴィジュアルな記憶像は、これは覚えていて再生もできる、同定できるけれども、むしろことばのほうが同定できんというふうになっているという見方もできるわけですね。多少不正確かもしれませんけれども……。これまた立ち入るといろんなことがあるかもしれません。  ところが、どちらの場合にしても、だれでもおそかれ早かれ経験することで、これは五十代の方にはまだおわかりにならんかもしれんけれども、六十代になると俄然はっきりしてきますのは、ひじょうに古い記憶——記憶といいましてもことばの記憶もありますけれども、いまいったイメージとしての記憶というものを思い出しやすくなる。むしろ鮮明になってくる。もういっぺん強化されるような感じがするんですね。これにはまだいろいろ考えるべきことがありますが、事実はそうなんです。どうしてかわからんけれども、一種の復活みたいなことを感ずるわけです。ことばだってないことはないと思うんです。ことばでいろんな名前を忘れたり、思い出せなかったりしますけれども、そっちのほうは弱体化し、衰えていきますけれども、しかしあんがい、ひじょうに古いときに獲得したことばを通じての知識というものは、わりあい覚えておりますね。小さいときに勉強したことのほうがよく覚えております。そういうものが六十歳を越すと俄然はっきり出てくる。それがつまらんことかどうかということは、また問題なわけですけれども、しかし、それを生かす方法があるんじゃないかということを思うわけです。  いまいったようなことがありますけれども、それからもう一つ、それとひじょうに関係があるんですけれども、そういう情報を、ディジタル情報とアナログ情報というふうにかりに分けてみますと、イメージの記憶がよりアナログ的であって、ことばによる記憶のほうがよりディジタルだといちおうはいえますね。しかし両方通じましてアナログ情報が優勢になってくる。なにかアナログ化みたいなものがひじょうに進行していくような気がするんですね。つまり、たとえば最もディジタル的なものはいうまでもなく数字ですわね。そういう細かい数字に対する興味みたいなものは減ってきますね。数字でなくても、ことばによる表現でもなにかをひじょうにきちんと覚えておく、ひじょうに鮮明——鮮明という意味は、つまり数字を覚えるようなことですね。ディジタルにきちんと覚えておくのではなくて、いろんな豊富な知識を全体まとめて立体化し、幅をもった、まあアナログ化といってもいいかもしれんけれども、そういうようなことを自分でやっていく。歳をかさねていくということは、精神の機能のなかでそういうふうな変化もともなっている。これはわりあい一般的な傾向ではないかと思うんです。それがぼけることやという見方もある。ひじょうにシャープでなくなるということですね。  ところが、そういう意味のアナログ化というのは、その利点はどういうことかというと、ひじょうに高度の総合判断が自然と行なわれるようになってくる。すべての人がそうできるというわけではないし、努力も必要ですね。どういう努力かというと、場合によっていろいろありますけれども、うまくゆけば、ひじょうに高度の総合判断が自然とできるようになる。つまり総合判断をするという仕方を、これまた話を単純化するために極端な二つの場合に分けて考えますと、たとえばここに相当の年輩の、たいへん賢いと思われる人がある。その人がなにか総合判断をする。これをコンピューターにやらせてみようということがある。コンピューターというのは、つまりディジタル情報的になにか判断しようとする。賢い人のほうは、ディジタル情報的ではなく、ひじょうにアナログ的なやり方で総合判断している。問題がひじょうにはっきりしておりまして、人間がやるよりコンピューターにやらせて、それでよろしいという場合があるわけです。しかしそれはたいていひじょうに高度の総合判断でない場合ですね。問題がすでにちゃんと設定されていて、条件はわかっている。だから、ひじょうに広い意味での計算、細かい数字を出すほうがいいという場合には、それをコンピューターにやらせる。ところが学問のなかで申しますと、学問の相当基本的な問題というのは、コンピューターにかけようもない。しかし、コンピューターで処理するほうがよろしいという部分はあるわけです。その二つは明らかにディジタル、アナログの対立関係の極端な場合です。  そうすると、さきほどの話にもどりますと、現代は一般的にディジタル情報の不当に尊重されている時代だという見方もできます。アナログ情報というような、そんなたよりないものはあかんという。ということは、つまりだんだん年とっていくとぼけていくもんやという判断にもつながるわけですね。この二つは関係あることだと思うんです。 寛容性と柔軟性——すべてを包括し体系化する能力  そこで話をちょっとかえまして、物覚えは悪くなっていく、ということは思い出せなくなる。思い出せなくなったからといって、記憶としてほんとうに忘れているわけではないのですから、忘れたつもりでも、実際はどこか倉庫のなかに入っているわけでして、そういう意味での豊かさというものはあるはずなんですね。しかし、豊かさというのはどういうことかというと、ただ詰め込まれているというのでなくて、同時にそこになにかゆとりみたいなものがあるということですね。ゆとりというきわめてあいまいなことばを使いましたけれども、もうちょっとはっきりしたことばを使いますと、たとえば寛容というようなことばがある。寛容の精神という。それからもうちょっと違うニュアンスだと、たとえば柔軟性、フレキシビリティーということ。豊かさがあり、ゆとりがあるから、寛容であり、また柔軟でもありうる。ディジタル的なものからアナログ的なものへ移行していくということには、そういう意味合いもあるという見方もできるわけです。それは同時に、さきほどいったことの繰り返しになりますけれども、つまりある程度の幅、あいまいさみたいなものがそこにある。前に宮地伝三郎さんと対談したときにも、だいぶんそういうことを話し合ったことを覚えておりますけれども、本来ことばというものはある程度のあいまいさをもったものなんですね。ことばにあいまいさをなくす努力は必要なわけです。学術上の用語というのは、できるだけ正確な定義をしなきゃならんわけで、それはやるべきだけれども、しかし必ずしもそう正確な定義のできない部分がありまして、幅があります。その幅があるから、また発展ということもあるわけですね。とくに数字というものには本来幅はなかったわけですが、数字を使って幅を表現することもできます。たとえば確率論では誤差とかいろんな話がありますけれども、その話はきょうは深入りすることはやめておきます。  そこで、老化でなく老成といいますか、円熟、そういうふうになっていくということは、一方では知能の働きの柔軟性、寛容性、すべてのものを包容する、そういう能力がむしろ発達していくのではないかと思うんです。福永さんのご専門の老荘、その老子はいろんなことをいうておりますけれども、老子のような思想が、中国古代の文化のなかでひじょうに重要な思想として認められ、また、中国のその後の文化のなかにもひじょうに深く根をはっている。荘子もそうでありますが、いま老子のほうを申しますと、『老子』のなかに、いま正確に思い出せませんけれども、なにか幼児の柔軟性というものはいいものであるとして、それに価値を置いております。そういうものをいつまでも保っているのがいいんだという、そういう表現があるわけです。この点また福永さんからくわしくうかがいたいんですけれども、そういう面が一つの重要な点としてわたしはあると思うんです。つまり老成というか、老年が単なる老化でない、プラスの面があるという場合、老年期と幼児期のそういう意味の共通性ですね。幼児というのは、よく昔から、無邪気で白紙であるから、なんでも取り入れられるといわれる。これはほんとうに柔軟性といっていいかどうか、はたして幼児がどこまで柔軟性をもっているか、それはまた別の問題ですけれども、見たところ、肉体的にいいまして、小さいときほど柔軟な感じですね。だんだん年をとるほど硬直してくる。形態的にはたしかにそうですね。ですから、年とっていくとだんだん硬くなって、ちょっと転んで骨を折ったり、それが原因で死んだりする。子どもというのは実に柔弱のように見えているけれども、わりあいけがをせぬ。回復力があるということもあるけれども、ひじょうに柔軟であるから、ひどいけがをせぬ。猫みたいなものは、高い所から落ちてもけがをせぬ。これは見たところ、形態とか、肉体的な手足とかからだの働きであって、頭のなかはどうかというと問題はいろいろあるでしょうけれども、頭のなかになにもないように見えるのに、わりあいいろんなものを取り入れられる、そのフレキシビリティーというか、柔軟性がひじょうにあるわけですね。たとえば同じ子どもが、日本に生れてくれば日本語がスッとできるであろうし、それが日本人であっても、たとえばアメリカに育って周囲の人がみな英語をしゃべっておれば、英語をスッとできるであろうし、そういう意味の柔軟性といいますか、ひじょうに広い可能性みたいなものをもっているわけですね。ですから、見方によりますと、人間がだんだん子どもから青年になり、おとなになっていくのにしたがいまして、さっきいったことのちょうど裏返しになるんですけれども、ある固定した観念体系みたいなものがひじょうにできていきまして、それでたとえば日本で育って日本語ばかりしゃべっていて、おとなになってから英語を覚えようとしてもなかなかうまくいかぬ。そういうことが一面としてあるわけですね。  そんな話はそれでいいとして、いまいった話にもどしまして、老子がいっているような幼児期と老年期の共通性というものを見ても、これはやはりプラス的評価はできるわけです。ですけれども、老年はへたをすると頭が硬直していく、石頭になっていくという危険がひじょうにあるわけです。それからまた視野がせまくなってくる。そういう傾向もあるわけです。それをそうならんようにせんならんわけです。人間というものは、必ず歳をかさねていくにしたがって頭が硬直し、視野がせまくなっていくとはかぎらないわけですね。ですから、そうならないような努力をすればいいのではないか。これは価値判断の問題とちょっと違うようにみえますが、価値体系も変わっていくんです。一つの価値体系で判断はできない。一つの価値体系で判断しても、別の価値体系で判断すればまた変わってくるんです。だいたい人間というものは、わたし自身の経験で申しますと、青年期はある一つの考え方というものを徹底したい、自分はこれでいこうということで、これはどういうことばがいいか、ちょっとあいまいですけれども、こういう表現がいちばんいいと思います。それは一理貫徹ということばがいちばんピッタリだろうと思います。いろいろいい方もありますけれども、こういえば皆さんにいちばんわかっていただけるだろうと思います。つまり一理貫徹というのが青年期の特徴だと思います。ところが、さきほどからいってるように、青年期をすぎ、壮年期、老年期になっていきますと、なにがいったい変わっていくのか。必ずしも絶対主義から相対主義に変わっていくというふうにいえないかもしれません。たとえば荘子のような人は万物斉同という。これは相対主義とはいえないかもしれません。荘子は単なる相対主義ではないですけれども、それはやはり一つの寛容性のようなもの、包容力とか柔軟性とか、そういうものとも関係があることです。わたし自身の場合でいいますと、たとえば物理を勉強しておりまして、たとえばボーアという人は、相補性、コンプレメンタリーということをいう。わたしは東洋人ですから、別にそれは珍しいことはありませんけれども、西洋人にとっては、これはひじょうに新しい考え方だと思うんですね。  具体的な例を一つだけ申しますと、たとえば光というものがあります。光というものは、昔から波動であるというている人、それから粒子であるという人とあったわけです。一時は波動説にきまってしまったように思われた時代がありました。やがて粒子の性質ももっているということがわかってきた。われわれのふつう考えている意味では、そんな両方の性質があるというようなことは考えられない。単なる矛盾だった。それはどういうものをものと考えるか。われわれがものと思っているものがある。人間は経験的に歴史的に、ものというものはこういうものだという考え方を発展させ、定着させてきた。  その結果として、みんなに共通の固定観念ができてしまった。そういう意味でのものについては、波動と粒子という性質はお互いに相いれない。どっちかにせんならんと思ってたわけです。光というのは物理的な存在ですね。そこで、そういう光という存在自身がわれわれのかってにきめておったような性格のものじゃないと思い直すなら、それは別に論理的な矛盾ではなくて、存在の仕方自身が要するに常識に反しておったのだということです。はじめは論理的矛盾だと思われていたわけですね。そこのところの区別はたいへんむずかしいのだと思います。ふつうの矛盾というと、やはりなにか論理的な矛盾を考える。しかし実は論理的な矛盾ではなくなって、存在しているものの存在の仕方が、われわれの思っているのと違っていた。たとえば人間なんていうのは、きわめて矛盾に満ちているわけです。そういうても、人間の場合にはひとつもおかしくないわけですね。なぜかというと、人間というのはよくわかっておらへん。光というのは単純きわまるものやと思っておったから、波動か、粒子かのどちらかでかたづくほど単純なものと思っておった。それでどっちの性質もあるというと、それは矛盾である。矛盾はおかしいということになった。しかし、実はもっと複雑なものである。人間だったら、矛盾してるのがあたりまえです。いつもきちんと一つの理屈でわりきれておったら、かえっておかしいですよ。おもしろくないですね。そんな人とつきあいたくない。  つまり、わたしのいうている話は、一理貫徹とか相補性とかいうことばを使ってもよろしいけれども、たとえば光は波動であるという一理だけを押し通しても、話はすまぬ。光は粒子であるというもう一つの逆みたいなことも同時に真理である。そういうことを考えることによって、一理貫徹でなくて、両方ともそれぞれある真理を含んでいるのであるから、両方を包容して、しかも全体をまとめるというのにはどうしたらいいか、量子力学はそういうものだというんだけれども、量子力学のまとめ方は、どうもまだ不満足だということもあるわけです。  そこで、歳をかさねていくということは、そういう包括的理解に達しようということでもあると、わたしは思うんです。いよいよ広く、いよいよ深く、大きくなっていくことによって、すべてを包み込むということになるんじゃないかと思います。わたしがよく引き合いに出します、弘法大師は、そう長生きした人ではありません。六十二歳ぐらいでなくなったんですけれども、ひじょうに万能な人です。彼自身はやはりまとまった思想体系をつくろうとしまして、実際彼がそれをまとめて書物の形にしているもので、たとうば『十住心論』というようなものですね。そういうものはやはり五十代で書いたんでしょうね。細かい話は別にいま関係はないんですけれども、彼はいろんなものの考え方——ものの考え方といういい方は少し適当でないかもしれませんが、人間以下の動物があるとするなら、その知能、それから子どもの知能、だんだんそれより高度の思想、宗教とかいろいろ出てくるわけですが、それを適当に彼は段階づけまして十段階にしている。彼にとっては密教がいちばん上位にあるわけです。ひじょうに低い動物でももっている本能的な知能から始まって、彼自身がいちばん高度のものと思っているような密教的な知恵、そういうものを第一段階から十段階までにこしらえるけれども、しかし、それらのどれも捨ててしまうのじゃなくて、上の段階は下の段階を包容しているんだというふうにいうているわけですね。ひじょうに雄大な一つの体系ですけれども、それに賛成するかせんかは別でありまして、細かく見ますと、なぜ十段階にしたかどちらが上か、いろいろ異論がありうることだと思いますし、そういう序列化には、無理がいろいろ含まれていることだと思います。たとえば荘子の万物斉同というような考え方とはまた違うわけでして、わたし自身はむしろ荘子のような考え方が好きですけれども、とにかく空海がそういうことを考えたのは五十代でしょうね。そういうことをしようとするのは、人間の精神活動としてわりあい不思議ではない。そのまとめ方は人によってひじょうに違いうるわけですね。もっと単純なまとめ方もあるでしょうし、またそういう序列化はたいへんまずいということもありますけれども、そういう点は別としまして、壮年期以後は大きくまとめようとする傾向が強く出る。  その話はそれくらいにしまして、さきほどの記憶力の減退と思われているものについてのコメントをもう少しつけ加えます。  現代というのは、なぜ老年というものが軽蔑されたり厭悪されたりするかという理由はさきほど申しました。それは老人がふえただけではない、二次経験、二次情報というようなものが圧倒的に優勢になってきたことが、重要なファクターになっているということを申しました。しかし、そういう状況はまた逆用ができることでもあると思うんです。老年で記憶力が減退するということは、ある程度事実ですね。ある意味では当っている。しかし、それはいろんなメモであるとか、記録とか、その他の方法で補うことができるわけです。たとえば対話とか対談、あるいはもうちょっと多くの人と話し合ってもいいわけですが、自分が忘れておっても相手が思い出してくれる。こっちがなにをいおうかと迷うと、相手がたずねてくれる。そういう仕方もあるでしょう。そのほか自分の記憶力を再生する方法がいろいろありますから、そういうことによって逆にカバーできることもあるわけです。別に対談にかぎりませんが、現代というのは、記憶力の減退を別の仕方でカバーする方法がいろいろあるわけですね。そうなりますと、その可能性をうまく生かすならば、一次的、二次的を問わず、歳をかさねて経験を積んだものにとっては、ひじょうに有利だという考え方もできるわけです。わたしはむしろ老年に有利ではないかと思うんです。わたしははじめから全部我田引水的な話ばかりしているわけですが、少なくもそういうふうに生かしていくことができるのではないか。 欲望のサブリメーション(昇華)  そこでまた別の問題にうつりましょう。もう一つ違う観点としまして、人間が少年、青年、壮年、老年となっていくところであらわれてくる一つの現象で、だれでもよくわかっていることとして、欲望の減衰ということがある。これはきわめて明白で、わたしがいうまでもないことですが、その場合に、欲望とはいったいなんであるかということです。ここでわたしはあえてかってな価値体系を設定しますと、低次な欲望は減衰していくのやと思います。少なくともわたしにとっての低次の欲望は減っていく。自分の価値体系では、低次の欲望は衰退していく。そう思っていいのじゃないか。そう思わんと損ですね。すべての形の欲望が衰退していくのではないんじゃないかと思いますね。まあ人によっていろいろでしょう。しかし、かりにすべての形の欲望が減退していくのなら、たとえば知識欲をぜんぜん失ってしまっているなら、こんなところへ来て一生懸命にしゃべって、皆さんに話を聞いてもらおうと思わへん。そういう少し都合のいい解釈をしまして、むしろ低次の欲望が衰退しつつあるところでは、それを高次の欲望へ昇華さすことが容易になる。これはたいへんいいのじゃないか。高次のほうへ形を変え、あるいは集中するサブリメーション、それは人によっていろいろ違いますけれども、ごく大ざっぱにいえばそういうことでしょう。低次の欲望がそんなに減退せん人もあります。その人はそれでいいでしょう。人によっていろいろでしょうけれども、どちらにしても低次の欲望は自然的に衰退する。あるいは自律的に衰退させ、それを活用してもっと高次のほうへ昇華させ、その昇華された高次の欲望のほうを充足するために努力する。それは老年期にできないことはないと思うんです。昔からそういう人はいろいろあったわけですが、現代だってそれはいろんなやり方があるだろうと思います。広い意味の学問的活動などは、そういうことによって活発に続けることが可能だと思いますね。その人自身の活力、ヴァイタリティーは多少減っているかもしれないけれども、しかしそれはいまいった欲望の昇華みたいなことをすることによって補うことができるし、それによりまして知的活動を活発に続けられるんじゃないかと思っているんです。そういうことをわたし自身は望んでいるわけです。その内容はいろいろありうるわけですが。  ところで、きょうの話の筋書を書いてしまってからも、一つ気がついたことがありまして、実は大いに驚いたんです。さきほど、現代はどうも老年期というものに価値を置かない、厄介者視している文化である。それに対して中国にはそれと違うものがあると申しました。日本でもかつてそういうものがあったんでしょうね。西洋ではどうであるかということを考えると、これはよくわからぬ。あとで井上健さんにもうかがいたいのですが、キケロという人がひじょうにおもしろいことを書いているんです。それを読むと、わたしがさっきからいうているのと似たようなことが書いてあるので愕然としたんです。キケロというのは古代のローマ人で、六十二、三歳まで生きた人です。これは、政治家でもあったけれども、思想家、文章家です。いろんなものが残っているようであります。この人の書いたものに「老年について」というのがある。その訳が大思想全集に出ているんですけれども、それをきのうはじめて読みまして愕然としたんです。くわしく申しておりますと時間をとりますが、わたしがさっきからいうている話と重複する話が出てまいります。中身はどういうことかというと、キケロのまた百年ほど前の人でカトー——カトーというのはローマに何人もありますが、そのなかの大カトーといわれる人です。この人は軍人であり、政治家であり、ひじょうに長生きした人です。八十を越してまだ元気であった。その人が若い人に対して、老年期というのはこういうものであるというた、というふうに話は仕立ててある。それはカトーが死ぬ一年前、八十四、五歳のころにいうたという内容で、キケロ自身がそれを書いたのが、やはり死ぬ一年前ですが、これは多少アーティフィシャル・エクスペリエンスですね。六十をちょっと越した人が、八十いくつまで元気な人が老年について考えていることだとして語らせているわけです。そのなかでわれわれとちょっと合わんのは、記憶力の減退せん人があるということを書いている。いろいろおもしろいことを書いてありまして、あまりおもしろいので、それをはじめにいい出すと、時間をとると思って出さなかったんですが、わたしがさっきからいっていることと対応していることがありまして、この八十いくつの年寄りがいっているんですが、「じっさい考えてみると、老年がみじめに思われる理由は四つ。その一つは、老年は、いろいろの仕事から人を退けるということであり」、つまり大学を定年でやめるとかいうことも実例としてはあるわけです。その他いろいろあるでしょうけれども、第一は、老年は仕事から人を退ける。第二はからだが弱るということ、第三は、ほとんどすべての快楽を奪ってしまうということ、第四は、死からけっして遠くないということ、「もしきみたちが差支えなくば、これらの原因がどれほど正しいのか、一つ一つ検討してみようではないか」ということになって、いろいろ検討した結果として、ひじょうにおもしろいことが書いてあるんです。  いろんなことを書いているんですが、今日からみますと、わりあいに常識的だと思われることもだいぶん書いてあります。たとえば適度の運動をせんならんとか、「しかし単に肉体の養生をするばかりでなく、精神にはもっともっと深い注意を払わなければならない。肉体は運動すれば疲労して重くなるが、精神はこれをはたらかせることによってかえって軽快になるのである」ひじょうにうまいことをいうわけです。そしてまた「ピタゴラス派の人たちにならって、記憶の訓練のために、その日のうちにいうたり聞いたりしたことを夕方思い返してみることにする」そういうことが自分の頭脳の体操である。キケロという人はなかなか賢かったのか、語らせているカトーが賢かったのか、やはりキケロがひじょうに賢い人だったと思いますけれども、そういうことがいっぱい書いてあるのですね。わたしが最後にいいかけたサブリメーションの話、そういうことを大いにいうているわけです。「老年には官能的な快楽は欠けているという説がある。おお、なんというありがたい年齢の恵みであろうか」(笑)、それはまさにわたしがいいたいことやった。この人はちょっとストイックなんですね。ストア派のやや禁欲的な哲学の信奉者ですけれども、必ずしも一方的に、それにコミットしているわけではない。キケロという人はもう少しフレキシブルなんですけれども、それを語っている当の人物であるカトーという人は、もう少しストイックにひかれているわけです、「人間には天から与えられたもののうち、肉体の快楽にまさって恐ろしい快楽はない。この楽しみを得んとばかり人間の欲望、あらゆる拘束を踏みにじって、その満足に狂奔するのであるから」というような式のことがいっぱい書いてありまして、要するにさっきわたしのいうたような話と同じようなことになるわけです。つまり「もしわれわれが理性や知恵によって快楽を退けることができないとすれば、条理にかなわぬ欲望をなくしてくれるがゆえに、われわれは老年にたいして大いに感謝しなくてはならぬ」実にうまいことをいうているんです。その他にもひじょうにおもしろいと思うことがありまして、さっきわたしは対談のことを話しましたけれども、それに類することも、ちゃんと書いてあるんです。この八十何歳の老人がいうのに、「ところで私はというと、談話を楽しみとするところから、わりあい早い時間からの宴会をさえ喜びとする。同年輩のものも今ではごく少なくなったため、その人々とばかりではなく、きみたちの(注、きみたちいうのは若い人です)年ごろの人とも食卓を共にし、それが自分を話好きにすると同時に、飲食にたいする欲望はかえってなくしてくれる」と書いてある。この点はむずかしくとる必要はないのですけれども、「そのようにしてくれる老年というものに大いに感謝の念を捧げている次第だ」これも大いにわたしの共鳴するところですけれども、そのようなことも書いている。もう一つ、これもおもしろい表現だと思うんですけれど、だれがいったことばか、「劇場の最前列に坐っている人々に一段と多くの楽しみを与えながらも、最後の列にいる者をちょうどまた楽しませることができるように、青年の人々はさまざまな快楽を目のあたり見ることによって、あるいは一層余分な喜びを得るにしても、老人もまたはるかにこれを眺めて十分に満足しうるだけの喜びを味わえるのである」これもわかる話です。全部わたしのいいたいことが書いてあるので、これを読んでがっかりしたんです。ソロンというと古代ギリシャの賢人ですが、その人が詩のなかで、「自分は年をとるとともに、日一日と多くのことを学び知って、この喜びより大いなるものは、けっしてまたこの世の中に見出しえない」というようなことをいうているそうです。なかなかそう簡単にはいかんでしょうけれども……。死の問題についても議論しておりますけれども、霊魂不滅というような話もあります。その部分に立ちいるとまたややこしくなりますから、やめますが、そういうことをいろいろいいまして、この老人が最後になにをいうているかというと、「老年は、ちょうど人生という芝居の最後の幕のようなものである。この芝居に疲れたなら、われわれは逃げださなければならない。ことに十分飽き足りたときには」うまいこというているわけです。「以上が老年についての私の見解。願わくは、きみたちが老年に達し、そして私から聞いたことをきみたち自身の経験によって証明することができるようにならんことを」まことにみごとな幕切れで、これを読んで、その相当部分がわたしの話とうまく照合しているのに驚いたわけです。  いちおうこのへんで話を終わりましょう。 第二部 遍歴  ——一九七一年——   私の自伝「旅人」が朝日新聞に連載されたのは昭和三十三年(一九五八年)のことだった。それから十三年たった今となってみると、この自伝に書かれているのは、私の人生の半分にもたりない年月だったことになる。もう少し細かくいうと、「旅人」には昭和九年(一九三四年)十一月までのことしか書かれていない。その時、私は二十七歳であったが、それ以後、三十六年あまり生きながらえた今の私にとって、「旅人」は前半生の記とさえもいえない。  しかも、「旅人」に書かれている時期の私は、全く世間から名を知られていなかったという意味において、「私的な存在」に過ぎなかった。親、兄弟、姉、祖父母、妻子以外には、親類、先生、友人、先輩、後輩など、狭い範囲の人たちだけに、私の存在が多少の意味をもっていたのである。それは後年の私が、胸の中にだいじにしまいこんでおいてもよかった私であった。  ところが、その後の五年ほどの間に、状況は大きく変化し、上述のような意味での私的存在ではなくなりつつあった。こういう変化は逆戻しがきかない。世間に全く知られていなかった昔の私に戻ることは、不可能になった。物理学で、いつも問題になる時間の非可逆性が、ここにも明確に現れていたのである。私にとって過渡期というべき、この五年ほどの間に起ったことを、以下に簡単に述べたいと思う。 「旅人」は、日本数学物理学会あてに中間子論の最初の論文を発送したところで終っている。その時の私は、英文で書かれた論文が日本の物理学者だけでなく、相当数の外国の学者の目にふれることによって、私の存在が世界の物理学界の中で、公的性格をもつであろうことを期待していたわけである。  あくる昭和十年(一九三五年)の二月に、予定どおり論文が掲載された(その訳が「素粒子の相互作用について」という表題で、自選集の第二巻に収録されている)。この時には、まだ中間子の存在を直接証明する事実は何ひとつ知られていなかったのであるが、私は不思議と強い自信をもっていた。そこで私は、ヨーロッパのある国の有力な学術雑誌のひとつに、中間子論の要点だけ書いて送った。すると間もなく原稿は送り返されてきた。私の考えを支持する実験的証拠がないから、雑誌に掲載できないという返事が、それに添えられていた。遠いアジアの一国の無名の研究者の妄想と片づけられたわけである。もっともなことである。私はたいして腹を立てなかったし、また落胆もしなかった。万事は時間が解決するだろう、と思ったのである。  私の自信が、そういう外国の反応によって挫(くじ)けなかったのは、一つには日本の物理学界が最初から私の説をあたたかく迎えてくれていたからであった。この点は他の多くの場合とちがっているようである。日本の学者が新しい学説を唱えた場合、最初は日本の学界から無視あるいは冷遇され、次に外国で認められるようになって、初めて国内での評価が高まるのが通例だ、ということになっている。私の場合は、それとは少し事情が違っていたことを、日本の物理学界のためにも、ここで明らかにしておきたいと思うのである。  それからまた二年ほどたった昭和十二年(一九三七年)の四月、当時の物理学界の大御所的存在であったニールス・ボーア博士が日本を訪れた。特に東京大学では、「原子論の諸原理」と題して数回にわたる連続講演が行われることになっていたので、当時大阪大学におった私も、十日ほどの予定で上京することにした。コペンハーゲンのボーア博士の研究所に長くおられた仁科芳雄先生が、講演全部の通訳をされたが、特に量子力学の物理的解釈に関する部分は、最も熱がこもっていて、印象が強かった。私はこの機会に上記の論文の別刷を渡し、意見を聞いたところ、ボーア博士は「君は新粒子が好きか」と反問した。私は失望したが、格別がっかりすることはなかった。というのは、そのころにはもう宇宙線に関する新しい実験結果が出はじめており、それらは私の説に有利なように思われたからである。  それから間もなく、アメリカのアンダーソンとネッダーマイヤーとが、陽子と電子の中間の質量をもち電気を帯びた粒子を、宇宙線中に発見したというニュースが伝わってきた。私はすぐ、これこそ予想していた中間子に違いないと思った。そこで元気を取りもどして、中間子論をもっと発展させて、より完全なものにする仕事に取りかかったが、解決すべき問題がいくつもあって、独力では短時日に片づけられそうもなかった。そこでまず坂田昌一氏の協力を得て第二論文をつくりあげ、次に武谷三男氏にも加わってもらって三人で第三論文をまとめ、さらに小林稔氏にも来てもらって四人で第四論文を仕上げた。この仕事は当時、大阪市のビジネス・センターに近い中之島にあった大阪大学理学部の三階建ての建物の一隅で行われた。この建物は今はすっかり荒れはてて、当時の面影はないが、私にとっては、忘れえぬ数々の思い出が、そこにこめられているのである。  それはさておき、この仕事が一段落したのは昭和十三年(一九三八年)の五月ごろであったが、その少し前から、すでに中間子論の研究グループが、私たち以外にも出来だしていた。特にイギリス在住の理論物理学者四人が、私たちと競争しはじめていたのである。そして、このころには中間子論に対する国際的評価も急速に高くなりつつあった。例えば、ちょうどそのころポーランドのワルシャワで開かれた国際物理学会では、ボーア博士も、フランスのド・ブロイ博士などと共に、宇宙線中の新粒子をユーコンと名づけたらどうかと提案したと伝えられている。  海外のそういう状況変化は、日本のジャーナリズムにも敏感に反映しだした。例えば前年(一九三七年)の十二月には、すでにラジオで「宇宙線に関する最近の問題」という講演をさせられている。昭和十三年(一九三八年)の十月には、「四国の旅」のはじめに述べられているようないきさつで、もっと広く名を知られるようになってしまった。そして翌昭和十四年(一九三九年)に京都大学へ戻ってくるとすぐ、生れて初めて海外旅行に出かけることになった。二十世紀初期の物理学の進展に大きな影響をあたえてきたソルベー国際会議が、この年の十月にベルギーで開かれることになり、その主題は「素粒子とその相互作用」であるから、私にぜひ出席してほしいという招待状が送られてきたからである。この旅行は、しかし、第二次大戦の勃発によって、予期せぬ方向に進展していった。(その顛末は「欧米紀行」に述べられている)  私のいうところの過渡期は、この旅行から帰った同じ年の十月に一応終った。それ以後の私は、生来の無精な性格を押え続けて、国外・国内を問わず、何度も旅行せねばならぬ破目になった。若い時に西行や芭蕉の漂泊の旅にあこがれていたのは、空想の世界の中であって、実生活では旅行はいつも、おっくうであった。最近は外国旅行はほとんどしなくなったが、それは、過渡期以前の、箱庭を愛した、やや自閉症的な私に戻りはじめていることを意味しているのかも知れない。しかし私の心の遍歴は終っていない。行きつく先が何であるか、私はまだ知らない。しかし、そこに私の生きる楽しみが残されているのである。 四国の旅  ——一九五三年——   昭和十三年の秋、初めて四国へ行った。この旅は、次に述べるような理由で、思い出が深い。そのころ、私は大阪大学の助教授で、物理学者の仲間には多少知られていたが、三十を越したばかりの、世間的には全く無名の学徒であった。徳島の中学校長が阪大理学部を訪れて、だれか講演に来てほしい、という話があった時にも、私におハチが回ってこようとは思いもかけなかった。大学の講義か、専門学会での講演のほかは、全く未経験であった。それがどういう風の吹きまわしか、私が行かねばならぬ形勢になってきた。今から考えて見ると、不思議なことである。  ところが、ちょうどその前後に阪大に出入りしていた新聞記者の中の一人は、私の研究をニュースにしようと非常に熱心であった。確か同盟通信の記者ではなかったかと思う。私のような世間離れした研究をしている者の話が、新聞種になるはずはないと思っていたが、この記者があまり熱心にたびたび来るので、とうとうこちらも相手に納得のゆくまで説明せねばならなくなった。間もなく、彼の書いた記事が数多くの新聞に一せいに掲載された。世間一般の人々が私の名前を知ったのは、多分この時がはじめてであったと思う。徳島中学の校長が、明日もう一度打合せにくるといって帰っていった日の夕刊にこの記事が出たのも、全くの偶然の一致であった。校長もはじめは恐らく、若輩の私を、徳島までよぶことに多少の不安を感じていたに違いないが、翌日会った時には一層の熱意をもって勧誘した。私もまだ見ぬ四国に何となく魅力を感じていたので、それ以上躊躇することなく講演を引受けた。  このようないきさつがあったことが、四国行を後々まで忘れられぬ思い出たらしめたのである。この旅行のもう一つの特徴は、一家総出で出かけたことである。徳島行を私が引受けてから間もなく、服部報公賞を授けられることになった。これはまったく仁科芳雄先生の熱心な推挙によるものであったが、私に与えられたこの種の賞の中では最初のものであったので、私自身はもちろん、一家をあげての喜びは大変であった。そういう際であったので、家族全部が一緒に小旅行することによって、それまでずっと引続いてきた私の研究生活に一息入れるとともに、家族にもしばしの幸をわかちたいと思ったのである。幸い、子供は二人ともまだ甲南幼稚園の時代であり、妻の母も元気なので、それも入れて家族五人が全部一緒に出かけられることになった。  大阪の天保山から四国通いの船に乗込んだのは、十一月初めのある晩であったと記憶している。船室の窓からのぞいて見ると、月の光に照らされた瀬戸内海は鏡のように静かで、幾つもの島々が来ては去ってゆく。子供たちはやがて毛布にくるまって寝入ってしまったが、私たちは窓外を飽かずにながめながら、幸福感に満たされていた。朝まだきに船は高松桟橋に着いた。薄暗い中を高松の宿からの迎えのちょうちんに案内されて、桟橋を歩いていった時の印象が、まだはっきり残っている。  朝食を終ると私は徳島へ、あとに残った四人は屋島を見物することになった。徳島で印象に残っているのは、天狗の面が表に出ている「天狗久」という通称の人形師天狗屋久吉氏の店を訪れたことである。校長が懇意だというので、店に上がりこんで、文楽で見る忠信や、お染など動く人形が幾つも幾つも並んでいるのを飽かずながめた。何か一つ作ってもらいたいと思った。自分も学者だから菅丞相がよかろうと思った。当時久吉さんはすでに八十以上の老齢であったが、なかなか元気であった。しかし何年かたって、遺族の方が出来上がった人形を届けて下さったときは、久吉さんはすでにこの世の人でなかった。私の家の二階の床の間に置かれた菅丞相のやや目のつり上がった、しかし品格の高い顔を見るたびに、四国の旅のさまざまな思い出がよみがえってくるのである。 欧米紀行  ——一九三九年——   昭和十四年の夏から秋にかけての私の欧米旅行は、何しろ前後四ヵ月、そのうち船の上が半分という短期間に世界を一回りして来ただけのことであるから、ほとんどお話することもない。以下に述べるところも、無味乾燥な覚え書に過ぎぬ。  この旅行の第一の目的は、十月末ブリュッセルで開かれるはずであったソルベー会議に出席することであった。この会議はベルギーの有名な化学者ソルベーの創立した国際物理学協会の主催で、一九一一年以来数年に一回開かれ、その折々の重要な問題を主題として、世界各国から招待された専門学者たちが講演し、それについて花々しい討論が行われるのが常であった。今回は、「素粒子とその相互作用」という題目で、特に諸種の素粒子中で最も発見の新しい中間子に関する諸問題を中心として、第八回の会議が開かれる予定になっていた。司会者ランジュバンの名で、この会議に出席するようとの招待状が来たのが四月初め、私がまだ大阪帝大に在任中のことであった。それから間もなく、ライプチヒ大学のハイゼンベルク教授より、この機会に九月末マリエンバードで開かれる予定のドイツの物理学会でも中間子の理論について講演するようとの依頼があり、さらに九月初めチューリヒで催されるはずであった国際物理学会からも、出席講演するよう勧誘状が来た。ところが私の欧州行がまだ確定せぬ五月末、恩師玉城教授の後任として京都帝大へ転ずることになり、あれやこれやと多忙を極めているうちに、六月末欧米各国へ出張を命ぜられ、靖国丸で神戸から出帆の運びに立至った。これは全く理化学研究所の援助の賜物であって、ここに記して感謝の微意を表する次第である。これについてはなお、京都帝大はじめ文部省、学術研究会議、大阪帝大の当事者の方々に種々の配慮をわずらわした。この機会に、あわせてお礼を述べたいと思う。  さて気の長いインド洋の船旅がやっと終って、ナポリに上陸したのが八月二日。南欧の真夏の強い日光に照らされて、流れる汗を拭きながらポンペーの廃墟を一巡し、ローマに入ったのが三日の夜。ホテルの部屋から中庭を見下ろすと、幾組かの人たちが楽隊につれて入替り立替り踊っている。午前三時ごろまでこの騒ぎは続くので、こちらはとても寝つかれぬ。翌日不案内な土地を、地図を頼りにローマ大学を訪れて見たが、夏休みのこととて人気(ひとけ)のない広い校庭に、古都には珍しい近代的な建物が並び立っているばかり。どれもこれも同じような形をしている中に、FISICAという浮彫りを見つけて中へ入って、廊下にいる助手のような人に英語で話しかけたが、ちっとも通じない。他の男を二人呼んできてくれたが、いずれもイタリア語しか喋らない。しかし、こちらが目指すフェルミ教授もラセッティ教授もいないことだけはよくわかったので、そのまま辞去した。ローマには他の用事もないので、五日はヴァチカン宮殿から始めて、サン・ピエトロ寺院、ローマの廃墟、野外劇場跡など、遠国から来た旅人の誰もが訪れる名所を巡覧、アッピア街道に出たころには、日はすでに斜めに櫛形の古水道を照らしていた。一本の蝋燭を頼りに、案内の僧の後について真暗なカタコンベの墓坑を一回りして夕方ホテルに帰り、翌朝ベルリン行の国際列車に乗込んだ。チロルの山々を窓近く眺め、眼下を通り過ぎる路傍の十字架になごりを惜しみ、ブレンネルの独伊国境を通過する時には、所持通貨の申告をするだけで別に荷物の検査もなく、七日朝無事ベルリンのアンハルター駅に着き、シュタットパークに近い、日本人に馴染の深い旅宿に落着いたのであった。  出発前は大変忙しくて講演の準備もできなかったので、ベルリンに来てから原稿を書き出したり、会話の稽古をしたりして日を暮していた。時折はウンター・デン・リンデンを散歩して、フンボルト、ヘルムホルツなど碩学の銅像に囲まれた大学の厳めしい建物の前を通ることもあったが、教授連は皆留守のことと思ったので、中へ入りはしなかった。そのうちにライプチヒ大学へ以前から原子核理論の研究に来ていた親友の朝永君がベルリンへ来てくれたので、十八日にライプチヒへ一緒に行って理論物理学教室を訪れたが、ハイゼンベルクその他の教授はまだ避暑旅行中なので、図書室で必要な雑誌を調べただけで、街を見物して直ぐベルリンへ引返した。この折心強く感じたのは、以前は日本から来た物理の専門雑誌など図書室の隅で塵に埋もれていると聞いていたのに、現在では日本数学物理学会記事をはじめ主な雑誌は目につく所に置かれ、よく利用されていることであった。これはここばかりでなく、後に訪問したアメリカの各大学でも同様であった。  さて追々チューリヒの学会も近づいてきたので、スイス行の仕度をしかけたところへ、二十二日の朝の新聞に独ソ協定が結ばれたことが出た。しかしその後数日は別に変ったこともなく、ポーランド方面の騒ぎも大したことはなさそうなので、予定通りスイスへ行くつもりでいたところ、二十五日の朝早くベルリン日本人会から電話があり、形勢が逼迫してきたから一応ハンブルグに立退き、そこに待機している靖国丸に乗るようとのこと。寝耳に水で様子がよくわからぬので、大使館へ行って見ると、やはり特別の任務ある人以外は引揚げた方がよいとのことであった。約束も果さずにドイツを去るのはいかにも心残りではあるが、大事に至らずに済めばまた帰って来られるし、戦争となれば学会なども自然中止される訳であるから、とも角も一旦立退くほかはないと決心し、大急ぎで荷物をまとめ、その夕方出発することになった。私ども日本人ばかり泊っている宿の主婦や女中は皆が急に出て行ってしまうので、どうなることかと心配するばかり。実に気の毒であるが、多分また帰ってこられるだろうと慰めて宿を立ち出て見ると、街にはところどころ出征兵士を見かけはするものの至極平穏である。  八月二十六日の夕方靖国丸は、ハンブルグを後に一路北上することになった。乗客は約二百人。全部日本人で、婦人や子供だけで一等はほとんど一杯になり、男子の大部分は二等と三等に入ることになった。二十八日の朝、船はノルウェーのベルゲンに入港、予定通りここでしばらく待機。日本人は非常に珍しいと見えて、毎日船の碇泊している所へ大勢の市民が入替り立替り見物に来る。私どもは形勢が気になるので、毎日街へ出ては新聞を買うのであるが、ノルウェー語のこととて、何が書いてあるかよくわからぬので、街の人を誰彼の差別なくつかまえて、英語かドイツ語に訳してもらうことにした。こんなことを繰返しているうちに、大きな見出しの意味ぐらいは推量出来るようになった。この間にポーランドとドイツとの戦争が始り出したが、乗客の多くはこの戦争も拡大せずに済み、再びドイツへ帰れるだろうという望みをまだ失っていなかったのであった。しかし今度は、どうしても英国も黙ってはいないように思われて仕方がない。九月三日の午前十一時に、チェンバレン首相が放送するというので、船の喫煙室のラジオの傍に大勢集って固唾を飲んで聴いていると、いよいよ宣戦するという。そこで、いよいよ船は翌日ベルゲンを出帆、一路ニューヨークに向うことに決定したが、ちょうどアセニヤ号がドイツの潜水鑑に沈められた矢先ではあり、ロンドンが空襲されたなどさまざまなデマも飛ぶので、皆大分心配した。ベルゲン市民に行先を知らしてはならぬという掲示が出る。船の横腹と甲板に大きな日の丸を描く。夜は船首の日章旗を照明する。船の位置を知られるといけないから電報も打てない。というようなありさまで、船長はじめ乗組員の苦心は一通りでなかったろうと思われる。  ノルウェーの海岸に沿うて北の方に迂回し、アイスランドと英国の中間あたり、霧深い灰色の海上に、時折ボーボーと鳴る汽笛を聞きながら、あるいは何時の日に再び行けるかわからぬ欧州に思いを馳せ、あるいはなすべき仕事を多く残して来た故国のことを思い出す。とかくする程に、十日ばかりかかってようやくニューヨークに着いたのが九月十四日。この間荷物を積んでいないので少しの波にも揺れる。大西洋の定期船ではないから、ニューヨークへ着いても上陸させてくれないのではないかなどと取越苦労もしたが、避難船というのでかえって税関の検査も簡略で、二度も世話になった懐しい靖国丸と別れて、その夜は久し振りで陸上のホテルに泊ったのであった。  ニューヨークに着いて最初に訪ねたのがコロンビア大学である。数十階の高層建築の櫛比(しつぴ)する下町の喧噪をよそに、ハドソン河近い閑静な地域にあって、学生の総数が三万以上もあるという大きな大学である。折よくフェルミ教授に会った。先年ノーベル賞を授けられて以来アメリカへ来て、原子核の分裂の実験などをおこなっている由であるが、理論の方には特に新しい仕事もないので、あまり立入った話もしなかった。次の日にはラビ教授の研究室を訪問した。ここでは数年来不均一磁場の中で原子線または分子線を屈曲せしめて、種々の原子核の磁気能率の大きさのみならず、その符号をも決定することに成功している。特に最近、磁気的共鳴法と称する巧妙な装置によって、陽子・重陽子その他の核の磁気能率を極めて正確に定め得るようになったのである。さらに著しいのは、彼の実験から重陽子は磁気能率のみならず、電気的四極能率を有すると推論されることである。ところが現在の中間子の理論によると、陽子と中性子の間に働く力は球対称でなく、したがって重陽子内の荷電の分布も縦に細長い、いわゆる葉巻煙草か、または横に扁平な餅型になるはずで、いずれの場合にも電気的四極能率が存在するが、その符号は正負相異ることになるのである。ラビの実験結果によれば符号は正、すなわち葉巻型の場合が実現されていると推定されるが、これは帯電中間子よりはむしろ中性中間子の方が、より多く陽子中性子間の相互作用に関係していることを示していると考えられる。  さてラビの実験室で説明を聞いているところへ、中年の紳士が入ってきた。ごく懇意の人と見えて、一昨日ドイッチュランド号で欧州から戻って来た、船室が満員なので子供の遊戯室に泊った、英国船を予約していたが危ないと思ったので急に変更したのだ、などと話している。助手の説明をただ感心して聞いている様子が、一向専門家らしくないと思っていると、ラビがあれは誰それだといってくれるのがよく聞取れぬので、紙に書いてもらって、初めてラビとは同じ専門の先輩シュテルンであることがわかったのであった。彼もやはりチューリヒの学会に出席するつもりだった由である。そのうちに二人はボツボツ専門家らしい会話を始めた。大体アメリカの言葉は私どもが学校で習った英語とは随分違っているので、十分話を了解できぬことがしばしばある。特に人の名前は最も聞取りにくく思われる。  その翌日も大学へ行き、近くの食堂でラビその他教室の人たちと一緒に昼食を共にしている間、欧州動乱について皆がわれ劣らじと早口で喋るのであるが、聞いているだけでも大変骨が折れる。途中から二、三人食卓に加わったが、ただ紹介されただけでは名前がはっきりしないので、例によって紙に書いてもらうと、一番若い元気な男がダンニングであることがわかった。この人は遅い中性子の速度の分布を、直接機械的な方法で決定したのを始め、中性子に関する多くの見事な実験をおこなったので有名である。現在はサイクロトロンを働かしてウランの分裂を調べている。それから化学教室へ行って、重陽子の発見者ユーレーにも会ったが、炭素および窒素の同位元素の分離に専念している様子であった。二十日には郊外にあるニューヨーク大学にも行ったが、特に書く程のこともなかった。  二十一日は、この数日行動を共にしているH君とペンシルベニア駅に待合わして、プリンストン行の汽車に乗った。一般の時計はサマー・タイムであるのに、駅の時計は標準時で、一時間食違っているのは、ちょっと異様である。プリンストンの駅を降りると直ぐ大学で、小さな街全体が公園のように美しい。落着いて勉強するにはよいところに相違ない。ここにはノイマン、ワイル等がおって数学の一大中心であるが、理論物理もまた盛んで、アインシュタインを始めウイグナー、ウイーラー等がおり、これに比べて実験の方がやや見劣りがするのは是非もないことである。アインシュタインは大学の近くの閑居に引籠っているので、その方へ訪ねて行った。写真で見ていた通り、温顔に白髪を頂き、ようやく老境に入った感がある。しかし今もなお現在の量子論は不完全で、これに代るべき正しい連続的な理論が存在することを信じているようであった。ウイーラーは最近コペンハーゲンのボーア教授との連名で、原子核分裂の理論的研究を発表したところであったので、その説明などしてもらった。まだ若いが大変親切な人であった。  次の日は京都帝大から留学している李泰圭君に会って、化学教室を見せてもらったが、ちょっと珍しく思ったのは、理論化学のアイヤリング教授の研究室には計算機が二、三台置いてあるだけで、全然実験をやっていないことであった。ここからさらに汽車で南へ行き、夕方ワシントンに着き、翌二十三日朝ジョージ・ワシントン大学へ行って見たが、ガモフ、テラー両教授とも不在なので、郊外の小高い所にあるカーネギー地磁気研究所へ行くことにした。ここは地磁気だけでなく、原子核の研究も盛んで、チューブが主となってファン・デ・グラーフ型の百万ボルト静電高圧装置および高圧力型の三百万ボルトの装置を具えて、種々の実験をおこなっている。今までに得られた結果の中で特に重要なのは、高速度陽子の水素による散乱を詳しく調べたことで、これによって、陽子同士の間には電気的な斥力以外に、近距離で強い引力が働くことが明らかになったのである。チューブは最近さらにローレンスの所や東京の理研にあるのと同大のサイクロトロンの製作中で、これは全部地下室に入れ、トンネルで外部と交通し、外部への影響を少なくするとの話であった。ここにいる間にガモフ、テラーもやって来たので、チューブの提案で外の芝生へ皆が坐り、樹の幹に黒板を立掛け、私をその傍に立たして、皆が中間子論についていろいろ質問する。こちらは言葉が下手な上に突然のこととて、ちょっと面喰った。  ワシントンから再びニューヨークへ帰り、二十六日の夕方ボストンに行った。翌朝川向うのケンブリッジに行き、まずハーバード大学を訪れた。アメリカ最古の大学で、数年前創立三百年の記念式があったところである。ここでは、同位元素の質量分析器で有名なベーンブリッジに面会した。それから宇宙線中における中間子存在の確証を与える重要な実験をおこなったストリートにも会った。その時もやはり大きな霧箱で宇宙線の写真を撮っている最中であったが、格別目新しい結果はないようであった。次に同じケンブリッジの町にあるマサチューセッツ工科大学、通称M・I・Tを訪れた。物理の主任はスレーター教授で、教室の名物はファン・デ・グラーフの巨大な静電高圧装置である。現在は二百五十万ボルトの電子によって、強いガンマ線を得ることに努めている。またローレンスの協力者であったリビングストンがサイクロトロンを働かしていたが、これはカリフォルニアに次いで大きなものであった。米国には現在二十以上のサイクロトロンがあり、私が訪問した大学でも大抵備えてあるので、しまいには見るのも面倒臭くなって来る程である。次の日はボストンの美術館を訪れ、久し振りで東洋の芸術に接して、故国の秋を思い出した。その晩シカゴ行の汽車に乗り、他の大陸横断客と同様に、途中ナイヤガラを見物したのであったが、前にエジプトでピラミッドを見た時と同じく、想像していた程大きくないのに、むしろ失望した。  三十日朝シカゴに着き、早速シカゴ大学を訪れると、折良くロッシ教授に会うことができた。彼は長らくイタリアで宇宙線の研究を続けておったのであるが、最近この大学に転じ、コロラドのエバンス山(標高四千三百メートル)へ実験に行って帰ってきたところであった。路がよいので計数管や鉛の塊やグラファイトの大きな塊等を積んだ自動車が、そのまま山の頂上まで行けるとのことである。かくして宇宙線硬成分の大気層による吸収と、これと同等なグラファイトすなわち炭素の層による吸収とを比較し、前者の方が少しく大きいことを知った。これは硬成分を構成する中間子の中には、大気の長い層を通過する間に、自然的に消滅するものが相当あることを示すものと考えられる。この種の実験は、すでにところどころで行われているが、今度の実験は、それらの中で最もあいまいな点が少ないのである。ただし理論の方から予期されるように、中間子が消滅する際に発生するものが、電子と中性微子であるかどうかは、この実験だけでは決定できない。  翌十月一日、また引返して、ボストンからシカゴへ行く途中の、アン・アーバーという小さな町にあるミシガン大学という大きな大学を訪れた。ここではまず、たびたび日本に来たことのあるラポルテ教授と会うことにした。彼は最近では中間子の散乱の計算などもやっており、会うと早速コロキウムで何か話をして欲しいとのことで、その夕方物理教室の職員三十人程の前で、中間子の寿命などについて三十分ばかり講演した。ここには電子のスピンの理論で有名なウーレンベックおよびガウシュミットの両教授がおり、ウーレンベックは数年前コノビスキーとともに、ベーター崩壊に対する、フェルミの元の仮説とは少しく異る説を提唱したのであるが、現在の中間子の理論と矛盾する。それで講演後、この点につきいろいろ討論があった。  十月三日には再びシカゴ大学を訪れ、コンプトン教授に会い、宇宙線に関する諸種の実験装置を見たが、特に興味あるのは、軽気球に計数管を乗せて高く飛ばせ、上層における宇宙線の模様、特に硬成分すなわち中間子が大気中でいかにして出来るかを調べるシャイン等の実験であった。この結果によると、硬成分の少なくとも一部分は光量子によって創り出されると推定され、理論の予期と一致するが、なお今後詳しい研究をしないと決定的なことはいえない。この日も宇宙線関係の人たちの前で中間子の話をしたが、その後でコンプトンと宇宙線の一次線中に陽子が混っているという最近一部で行われている仮説につき、いろいろ意見を交換した。  さてシカゴの街の見物はいい加減にして、その晩の汽車で一直線にロサンゼルスに向うことにした。三晩も車中で寝て、昼は単調な高原の景色に退屈するうち、六日朝ロサンゼルスに着いたので、直ちに電車でパサデナのカリフォルニア工業大学を訪問した。総長のミリカンはちょうど豪州へ宇宙線の観測に出かけて留守であったので、ノーマン・ブリッジ研究室に行き、ネッダーマイヤーの案内で実験室を見せてもらっているうちに、ちょうど途中でアンダーソンにも行き逢った。この研究室では、この数年間に宇宙線に関する最も画期的な発見が二度も続き、しかも二度ともアンダーソンの手によって成しとげられたことは周知の通りである。その第一は陽電子、第二は中間子であるが、前者は実験室内でも容易に発生し得るので、その性質がよくわかっているのに対して、後者は今のところ宇宙線中にしか見出されないので、その本性に関しても、なおいろいろ不明なところが残っているのである。例えば中間子の質量に関しても、従来電子質量の二百倍前後の値がしばしば得られ、理論の予想と満足すべき一致を示していたのであるが、アンダーソンとネッダーマイヤーが見せてくれた霧箱写真の中には、質量がせいぜい電子の六十五倍しかないと解釈し得るような粒子の飛跡が現れているのがある。したがって、中間子の質量が唯一かどうかという問題は、今後さらに詳しく研究する必要があるのである。なお中間子の他の諸性質に関して理論の予想と実験とが十分一致しない場合があり、私どもの研究の前途はなお多難であろうと思われる。彼らは新しく直径七十五センチ(?)という大きな霧箱を創っている最中であったが、これが働き出せば、また面白い写真が撮れることであろう。それからこの大学の光学の工場では、例の二百インチの反射望遠鏡を研磨中で、誰でも自由に見物できるようになっているところは、いかにもアメリカらしく感ぜられた。これが完成して観測が開始されるのは随分遠い先のことであろうが、その暁には、宇宙物理学のみならず、物理学自身特に相対論などにも画期的な進歩をもたらすであろう。この日はアンダーソンの家へ晩餐に招かれたが、お母さんと二人だけで睦まじく暮しているのを見て、まことに奥床しく感じた。この人はその業績が偉大であるにもかかわらず、少しも勿体ぶったところがなく、ただ一心に実験をやっている、本当に好感の持てる人である。  次の日は再び工業大学を訪れて、何時も変らぬ中間子の話を済まして皆に別れを告げ、サンタフェ・スプリングの油田、ライオン園など一巡して、翌八日朝ロサンゼルスを出発、夕暮にサンフランシスコに着いた。  九日、電車で世界最長と称せられる橋を渡って、バークレーのカリフォルニア大学を訪れた。橋の途中の宝島という新しくこしらえた島に、例の金門博覧会が開会中であった。この大学の名物は申すまでもなくサイクロトロンであって、ローレンス教授が八年程前ここで最初のサイクロトロンを完成して以来、方々で同様なものが設計され、数が増すとともに型も大きくなって行った。今度理研に出来たのは最も大型であるが、これと同大の原型であるバークレーの大サイクロトロンはすでに運転を開始し、千六百万ボルトの重陽子ないしは三千二百万ボルトのアルファ粒子の強い電流が得られている。後者を使用することによって、最近蒼鉛核を破壊し、人工的にアルファ線放射能を有する核を創ることに成功した由である。なおこの他に質量数三なる水素の同位元素(三重水素)の核は不安定で、陰電子を放出してへリウムの同位元素に変化することも、これと前後してここで見出されたのである。  ローレンスはこれに満足せず、一億ボルトの高速粒子を発生し得る大サイクロトロンを計画中だと語っておった。これに要する鉄は約二千トン、総経費約七十五万ドルとのことであるが、これが実現した暁には、中間子を実験室内で発生し得ることになるかも知れず、物質の窮極的構造の闡明(せんめい)に貢献するところは、けだし測り知れざるものがあるであろう。  実験方面では、この他にプロード教授が宇宙線の研究をしている。霧箱中の飛跡を顕微鏡で見て霧の粒の一つ一つを数えて、粒子の電離能を決定するという、大変興味があるが、随分面倒な仕事である。理論方面はオッペンハイマー教授の独り舞台である。この人は、以前はどちらかといえば中間子理論に対する反対者であったのが、今度会って見ると全面的に中間子理論の支持者になっているのは意外であった。ここには小さい時分からカナダに育った日下(くさか)君という日本人がいるが、オッペンハイマー教授も前途有望だと言っていた。  さて、この教室全体のコロキウムおよび理論だけのコロキウムで一回ずつ講演し、十三日サンフランシスコ出帆の鎌倉丸に乗船することになった。太平洋はまことに鏡のごとく、無事十月二十八日横浜に上陸し、このあわただしい旅も終ったのである。  顧みると不可抗力といいながら、欧州動乱のために彼の地の諸学会は皆延期または中止となり、渡欧の任務を果す由なく帰国することになったのは返す返すも残念で、いろいろと尽力下さった先輩諸先生に対してもまことに申訳ないことと思っている。しかしアメリカでは主なる学者と意見を交換し、重要な研究施設を一通り見学することが出来て、裨益(ひえき)するところが少なくなかった。無事故国に帰ってきた今、気分を新たにして一層研究に精励すべきことを痛感する次第である。 〔追記〕 帰朝後ちょうど二年になる。その間に世界情勢に激変があったことは周知のとおりであるが、学界にも相当な変化があった。中間子理論の行詰りはまだ打開できたとはいえぬが、ベクトル場だけでなしに、擬スカラー場で記述されるような中間子をも考慮することが最近の問題となっている。オッペンハイマーなどが擬スカラー説の最も有力な支持者である。  それから、シカゴのシャイン等は、最近気球を気圧が水銀柱わずか二センチという高空にまで上げることによって、一次線はほとんど全部硬成分で、したがって陽子であろうという結論に到達した。ローレンスの大サイクロトロンも夢想に終るどころか、ロックフェラーから百十五万ドルの寄付を得て、重量四千四百トンという大きな物が出来ることになり、計画は着々進捗しているらしい。  なお最近の著しい傾向は、核物理学が一方では天体物理や地球物理に応用されるとともに、他方では医療や生物学のみならず、化学や冶金等、応用方面の研究にも盛んに使われ出したことである。 (一九四一年十一月)  故国に帰りて  ——一九三九年——   去る十月末あわただしい欧米の旅から帰って以来、何か書くようとの御依頼をたびたび受けたが、だんだん延引しているうちに、昭和十四年も暮れそうになった。延引していた理由は、一つにはいろいろ用事が多かったためであるが、また一つには単に外国の学界の情況だけでなしに、わが国の理論物理学界の大勢をも論じて欲しいという注文が、私には大役過ぎたからである。  私が四ヵ月故国を離れて感じたことは、早く日本に帰って、もう一度勉強がしたいということである。さて日本へ帰って見ると、なかなか落着いて勉強ができない。何もせぬうちにその日が過ぎて行く。実に申訳ないことと思う。まして、人の仕事の批評をする資格などは全然ないことを痛感する。私は以前と同じく、これからも物質を構成する素粒子、特に中間子の理論的研究を続けて行きたいと思う。  私の気持を率直にいうと、中性子・陽子間の力を説明するために、電子の二百倍程度の質量を持つ帯電粒子が存在すべきことを推論した当時においては、かかる粒子の存在が全く知られていなかったにもかかわらず、相当に強い自信を持っていた。  ところがその後、予想された粒子、すなわち中間子が宇宙線中に発見され、理論の諸仮定がだんだん実験的に確かめられるように見え出してから、私はかえって以前よりも懐疑的になり、理論と実験との食違いばかりが気になり出した。幸いにして、私の予想が本質的に正しいとしても、それは要するにまぐれ当りに過ぎない。もし不幸にして、現在の理論に根本的な誤りがあるならば、できるだけ早くその誤りを見付け出し、正しい理論を建設せねばならぬ。  逆説的にいうならば、学界一般が現在の中間子理論に対して、相当懐疑的な態度で臨んでおられる限り、私自身はのんきに構えていてもよい。これに反して学界のかたがたが、その価値を認めて下さるとすれば、私自身その欠点を摘発し、より完全なものにする重大な責任があることになる。  しからば、現在の中間子の理論はどこまで正しいのであろうか。これを決定することが実は非常にむつかしいのである。というのは、現在の理論を原子核および宇宙線に関する諸現象に適用した結果は、定性的には何時でも実験と満足すべき一致を示した。しかしながら一歩進んで定量的な比較をし始めると、いたるところで食違いが現れてきた。また他方において、理論自身の中に欠陥が内在することも当初から明らかであったが、一朝一夕にこれを除去することは不可能であった。しかもこの両種の欠点が、相互に密接に関係していることは確かであるが、問題の中心は、 一、現在の量子力学の一般的方法の改良のみによって、正しい理論に到達し得るのか、 あるいは、 二、中間子の本性に関する特殊な諸仮定の中にあるものを改めることも必要であるか、  を判定することにある。  この問題をもっと具体的に述べるには、いろいろと専門的な予備知識が入用になってくる。これについては他の機会にしばしば述べたから、ここでは割愛することにするが、とにかく何とかして現在の落着かぬ状態を切抜けて、一日も早く次の段階に進みたいと焦慮している。かような次第であるから、今回の渡欧の機会を利用して、各国の専門家に会って意見を交換すれば、何かよい暗示が得られるであろうと期待していた。ところが不幸にして今回の動乱に際会して、ヨーロッパの諸学者と会う暇もなくアメリカに渡り、諸大学を訪問して新しい実験結果を知ることを得て非常に有益ではあったが、上記のごとき理論的な問題の根本的解決に直接資するところは少なかった。  私は故国に帰って自分の無力を感ずる。そしてできるだけ多くの機会に、できるだけ多くの方々と、この問題を論じ、何か有益な御教示を得て研究を促進したいと思っている。つまらぬ繰言で貴重な紙面を塞いだことをおわびして筆をおく。 アメリカ便り(第一信)  ——一九四八年——   昭和二十三年(一九四八年)九月二日の朝、羽田飛行場を出発した三十人乗りのクリッパー機は、三日の朝(日本時間四日早朝)にはもうサンフランシスコに着陸していた。それ以来半月ばかりの間、いたるところで歓迎され、毎日いそがしく、一昨日目的地のプリンストンに落ちついたので、ようやく少しの暇を見つけて筆をとる。  さて、京都駅でも羽田でも多数の見送りの方々の熱意に感激したが、ホノルルでも、サンフランシスコでも飛行機から降りるなり、写真班に囲まれ、新聞記者たちの質問に答えるのに時間をとられ、出迎えの方々を待たしているので気が気でなかった。  私はかねてからアメリカに着いたらまず第一に、カリフォルニア大学の放射線研究所を訪れることを念願としていた。同研究所は、サイクロトロンの発明者として有名なローレンス博士を中心として有能な物理学者が雲集し、次から次へと巨大な装置を計画し、しかもつねに他に先がけてそれらを完成してきた。特に晩年、四億ボルトに近いアルファ線を発生する大サイクロトロンを完成し、今年になって、ついに物理学界待望の中間子の人工創製の偉業に成功したのである。  ここでどんな新しい発見がなされつつあるか、私の一番知りたいところであった。ローレンス博士からは研究所の賓客として、できるだけの便宜をはかるとの友情にあふれる手紙を受取っていたので、大きな喜びと期待とを持ってアメリカの土をふんだのだった。  サンフランシスコ南郊の飛行場から、出迎えの研究所の自動車でサンフランシスコ市中を通過し、有名なベイ・ブリッジの長橋を渡って大学のあるバークレーの街に到着する。その長い道程の間で一番初めに驚いたのは、広い道を各々三列ずつ並んで、両方から行きかう自動車の数の予想以上に多く、しかもそれらが四十ないし五十マイルのスピードで疾駆しているのに、全体が秩序整然として少しの混乱もないことであった。一台の飛行機も持たず、自動車も大方消耗してしまった日本の現状とくらべて感無量であった。  大学に近いホテルで昼食をとっているところへ、未知の若い人が入ってきた。名をきけばサーバー博士で、オッペンハイマー博士の薫陶をうけた優秀な学者として、現在放射線研究所の理論方面の指導者になっている人である。早速買物の世話などをしてくれる。バークレーの町の人々も、みな笑顔で迎えてくれ、家内の着物姿を珍しがってそばへ近よる婦人も少なくない。  その晩、つまりアメリカでの第一夜は、フェルミ博士の家に招かれた。同博士は人も知る当代第一流の物理学者の一人で、現在シカゴ大学の教授であるが、ちょうどこの大学の夏期講義のため、サンフランシスコを見おろす眺望のよい家に夏中滞在しているところであった。その夜はローレンス博士夫妻をはじめ、カリフォルニア大学の有数の物理学者が幾組も集ったほかに、同じく原子物理学者として有名なシュテルン博士も来合わせたので、私たちにとってこの上もない豪華な第一夜となった。これらの人たちの大抵は、一九三九年の渡米の際に一度は会ったのであるが、今度の方が一層打ちとけて友情にあふれているように思われた。急に所望されて家内が日本舞踊をやることになり、舞踊の内容の説明までしなければならなかったのは思いがけなかった。  それ以来、大学の物理学教室および放射線研究所関係の人々と急に親しくなり、たびたび研究所を訪れて中間子に関する生々しい新事実を次々と知ることができたのは、十日あまりの短い滞在の間の大きな収穫であった。それにつけても、これだけ多くの優秀な研究者と巨大な設備を擁して、予想以上に速く、大きな成果を収めつつあるローレンス博士の人柄や手腕に敬服せざるを得なかった。大サイクロトロンは、一見したところ国技館を思わすような大きな建物の中に収まっている。現在計画中のベバトロン(サイクロトロンから進化した。さらに大型の陽子加速装置で、直径百六十フィートの環状磁石を必要とするから、競馬場という俗称もついている)にいたっては、恐らく競馬場をほうふつさせるのであろう。そこからどんな新事実が見出されるか何も予想できない。現在ここで見出されつつある事実だけでも、中間子研究の発展に極めて貴重な資料である。  十五日朝バークレーを後に空路ロサンゼルスを経て、十六日午後プリンストンに落着くまでおよびそれ以後のことは次にゆずるが、最後に述べておきたいのは、日本を出てから今日まで出会った人々は、一世、二世の日本人やアメリカ人はもちろんのこと、ヨーロッパの各国からきている人々やインドや中国の人々をふくめて、すべての人が例外なく私たちに親切で、一度も不快な思いをしなかったことである。これだけ多くの人々のみなに共通する善意の総和によって、どうして世界人類の平和が永続できないことがあろうか。 プリンストン便り  ——一九四八年——   日本の空を後に太平洋をこえてからはや四ヵ月。年末に降った雪はニューヨークの歴史始って以来三番目の大雪のよしで、プリンストンの私どもの家のあたりでも四十センチ、付近の芝生も家々の屋根も一面にまっ白。背景に黒灰色の冬木立、クリスマス・カードそのままの美しい景色であった。こうして静かに窓外の景色をながめていると、ニューヨークとワシントンをつなぐアメリカの心臓部の一角にいることなど、すっかり忘れてしまう。ここは一つの別天地である。しかし別天地といっても、それはいにしえの武陵桃源のそれではなく、文字通りコスモポリタンの小世界である。  研究所から五分もかからぬところにある広い敷地に、バラバラと建てられた家々には、アメリカ本国やヨーロッパの各地はいうにおよばず、地球のすみずみから来た著名な学者が自由な生活をしており、一方の端にはオランダの若い数学者夫妻とドイツからきた物理学界の長老フォン・ラウエ博士が隣合って住んでいる。晴れた朝には家々の主婦が、赤、白、黄と色とりどりのせんたく物を干している。時折り、ラウエ博士が自分でせんたく物を干しに出る姿も見られる。  研究所の本館の四階にあるカフェテリアの昼食時には、私たちはいつもの、フランス、アイルランド、中国生れの三人の若い女性の物理学者、そして、もっと数多くのアメリカ生粋の男性物理学者の一群に取囲まれる。さらに多くの数学者があちらこちらに陣取っている。そのうちに交って、いつもにこやかな数学界の長老ワイル博士の長身の姿もみられる。大阪からきた角谷(静夫)博士も、数学者のみんなから親しまれている。所長オッペンハイマー博士が家族連れで食堂に現れることもある。  本館の三階にある私の部屋には、私が来る数日前までディラック博士がいたよしだが、入違いにケンブリッジ大学へ帰ってしまって、会えなかったのは残念であった。彼は人も知る量子力学の完成者の一人であって、群雄雲のごとき理論物理学界でも、天才中の天才とうたわれる一人である。  ここからながめると、研究所の正面の広い芝生が一目で見える。その真中に一本だけある太い木、桜の木だという人があるが、日本の桜とは大分違う。あちらこちらに日本の松にそっくりの木が常緑の姿を見せているのも懐しい。お昼近くになると、きまったように正面の芝生の中の道を、ゆっくりした足取りで近付いて来る人影がみえる。ひと目でそれとわかる白髪の、アインシュタイン博士である。会えばいつも右手をあげてほほえむ。叡知と慈愛を象徴するまなざしは昔と変らぬ。  私にとって何よりうれしいのは、日本にいたときと違って、この静かな雰囲気の中で落着いて研究する時間が十分あることである。アメリカでも大学の教授たちは平常講義などでずいぶん忙しいので、何年かに一度休暇をもらって、一年をここで研究にすごすことを大きな楽しみにしているのである。したがって、研究所のメンバーの相当部分が毎年入れかわるうえ、アメリカ本国だけでなく世界各地の著名な学者で、数日間ここに立寄る人が年中絶えることがないから、この種の研究所にありがちな沈滞した空気はほとんど感じられない。  この種の研究所としては、同じ名のインスティチュート・フォア・アドバンスト・スタディというのが、近ごろアイルランドのダブリンにもできた。フランスのパリには数学、物理学関係のポアンカレ研究所があり、ド・ブロイ博士が中心人物の一人である。もっと古くから有名なのは、デンマークのボーア博士の主宰する理論物理学研究所で、ハイゼンベルク博士やディラック博士をはじめとして、量子力学の創始者、完成者の多くがここで教えを受けたことはよく知られている通りである。  戦争後の困窮から容易にぬけ出すことのできない日本の現状では、このような研究所の話は遠い世界の夢物語としか思えないであろう。しかし世界の平和がつづき、日本の再建ができたあかつきには、日本の一角にもこのようなコスモポリタンな小世界をもつことを許されるのであろう。そしてそれが単に学問の進歩ばかりでなく、世界各国民の相互の理解と友好にどれだけ役立つか、はかり知れないものがあるであろう。 〔追記〕昭和二十八年に京都大学に基礎物理学研究所ができ、今日まで私が所長をしている。私の夢もだんだん現実化しつつある。(一九五六年五月) スウェーデンの思い出  ——一九五四年——   今日(十一月十一日)はスウェーデン国王のお誕生日で、スウェーデンの国民の皆さまの心は楽しい気分に満ちていることと思います。私も遠い日本から遙かに祝意を表したいと思います。そして私の心もまたスウェーデンのことを思い出すと楽しくなってきます。  それは今から五年前の、一九四九年の十二月のことであります。思いがけなくも科学者として望み得られる最高の栄誉であるところのノーベル賞が私に授けられることになったのであります。当時コロンビア大学の教授としてニューヨークに滞在していた私と妻とは、大喜びでストックホルムへ旅立ちました。スウェーデン滞在の一週間は夢のように早く過ぎてしまいました。北欧の冬、殊に十二月の中ごろのことでありますから、日は短く陽ざしも弱い。ストックホルムの街をめぐる水も灰色に沈んでいました。しかし、私は元来冬の落着いた気分が好きであります。しかも私の心は喜びに満ちていたので、見るもの聞くものすべてが幸福の象徴のように思われました。というよりもむしろ、よく見たり聞いたりできるほど私の心は落着くひまがありませんでした。しかし、断片的な印象のいくつかが私の記憶の中に生き生きと残っています。ニューヨークからの飛行機でストックホルムの飛行場に着いた時、夕闇の中に思いがけない数人の日本人の出迎えを受けて嬉しかったこと、それが当時ストックホルムにいた日本人の全部と知って驚いたこと、その夜グランドホテルに泊ったが、なかなか寝つかれぬ耳に馬蹄のひびきが近づいてやがて消えた時、ふと、かつてエジプトのカイロのホテルで聞いた馬車の音を思い出したことなどがなつかしく思い出されます。  ストックホルムに着いた翌日、日瑞協会の歓迎会がありました。スエン・ヘディン博士がまだ御健在で、歓迎の言葉を述べて下さいました。私の父は地質学者であり、地理学者でもありましたので、ヘディン博士が日本を訪問された際には案内役をいたしました。父はヘディン博士を大探検家として非常に尊敬していましたので、私は小さい頃から博士の名前をよく知っていました。ヘディン博士の、高齢であるにもかかわらず非常にお元気な姿に接して、大変嬉しく思いました。日瑞協会のメンバーの人たちは、皆日本をよく知り好意を持って下さっているので、古くからの友達のような親しみを感じました。しかし、その後それ以外のスウェーデンの人々に会って見ますと、日本をよく知っていると否とにかかわらず、皆親しみやすい人々であることを知って、ますます嬉しく思いました。  その晩であったと思いますが、私たちはスウェーデン王室学士院に招待されました。私の妻がキモノを着ているので大変珍しがられました。そして、私の妻が日本の古典舞踊を習ったことがあるといったので、学士院会員たちは、その場で踊るようにと私の妻に頼みました。私たちはすっかり困ってしまいました。というのは、私の妻が踊るためには、蓄音機のレコードによる伴奏が必要なのですが、私どもはこのような場面に直面することは予期していなかったので、レコードを持ってこなかったのです。私は伴奏の「春雨」の歌のメロディーをよく覚えていませんでしたが、仕方がありませんので、私が歌うことになりました。それによってどうにかこうにか私の妻は一つの踊りをやることができました。学者たちは拍手喝采いたしましたが、私にとりましては、歌をうたうことは、物理学の研究よりもはるかにむつかしい仕事でありました。  ノーベル賞の授賞式の壮厳な光景は、私に一生忘れることのできない強い印象を与えました。当時皇太子であられた現国王から賞状を授けられ握手いたしました時には、私の心は感激に満ちていました。この前後のことを思い出しますと、何だかそれが現実の世界に起った出来事でなく、夢であったのではないかという気がいたします。授賞式が終ってから、晩餐会場で現国王と親しくお話をする光栄を持ちました。かつて国王が日本を訪問された時の思い出などを打解けて話して下さいました。晩餐の後でノーベル賞受賞者たちが順番に演壇に上ってお礼の言葉を述べましたが、私はあまり緊張しすぎていたためか、演壇から降りてくる時につまずいて倒れました。直ぐ起上がりましたが、多数の出席者がきっと一瞬びっくりしたことと思います。  次の日の晩餐会に招待された王宮の印象も、また私にとって忘れることのできないものであります。さらにまた、私どもストックホルム滞在中に行われたルシヤの日の行事も非常に面白く感じました。低くなりきった太陽が、ふたたび高くなり、短くなりきった日がふたたび長くなるとき、日本流にいえば一陽来復の時、それは正確にいえば冬至の日ですが、それより数日早くルシヤの日が祝われます。朝早く私どもがグランド・ホテルのベッドでまだよく寝入っている時に、突然ドアが開いて、聞き慣れたサンタ・ルチアのメロディーが耳に入ってきました。驚いてベッドの上に起直って見ると、白い冠に白い服をきた美しい少女が二人、歌をうたいながらコーヒーとパンを載せた盆をささげて進んできて、私どもの前に盆を置きました。白い冠をよく見ると、白い蝋燭が何本も立っているのでした。夜が明けると新聞社のカメラマンがやってきて、今度は私の妻をルシヤに仕立てて写真をとりました。  日瑞協会のメンバーのファルクマン氏夫妻が自動車でストックホルムの市中や郊外を案内して下さった日には雪が積っていました。その途中スカンセンの古い教会の建物の中に入っていった時の印象は、特に私の記憶の中に生き生きと残っています。素朴な木造の建物の天井は高く窓は小さいので、ほとんど日光は入ってきません。蝋燭の光に照し出された人々は、若い人、年取った人ととりどりでありますが、讃美歌を合唱する声がよく揃って美しいのに感心しました。しばし、中世の世界につれてゆかれたような気持になりました。ストックホルムにしても、ウプサラにしても街が清潔で、道行く人の服装も贅沢でなくて清潔で、ひどく貧乏な人が見当らないのに感心しました。皆が合理的な生活をしながら、それぞれ生活を楽しんでいるように感じました。日本のように人口が過剰で、皆が無理な生活をしなければならぬ国と比べて、特にスウェーデンはうらやましい国だと思いました。  スウェーデンにきて、本当に日本の好きな人の多いのに驚きました。そして日本を知ると否とにかかわらず、私たちの会ったすべての人が温かい心を持っているように感じました。日の短い、そして寒さも厳しい冬の最中でありましたのに、スウェーデンのことを思い出すと、何だかそれが暖かい春のことであったような錯覚を起します。そして人の心の温かさは、自然の季節の暖かさよりずっと大切なものであることを改めて納得させられるのです。 〔追記〕 本稿はスウェーデン向け放送の草稿に加筆したものである。 ハドソン河畔の秋  ——一九五〇年——   ニューヨークにもどって、ちょっと落着いたと思ったら、いつのまにかインディアン・サンマーも過ぎて、すっかり秋らしくなっていた。京都におれば、嵯峨野や真葛ケ原あたりを散歩するのに絶好の季節である。さりとてニューヨーク郊外の秋もまた、なかなか趣きがある。一体にアメリカの田園山野の景色は、広々として、人間の身体を標準にしたスケールでは度外れの、雄大な自然そのものを感じさせるのが普通である。日本のように人間の寸法にあった木や草が木造の家屋と一体となり、私ども人間自身をも逆に自然の中へとけこましてしまうのとはよほど様子が違う。それにアメリカでは空気が乾燥しているせいか、コケやシダなどの密生している所は少ない。  私の住みなれた京都の風物がかもし出す雰囲気の中には、さらにもう一つの要素がある。長い歴史を通じての人間のさまざまな営みが、自然の中に消すことのできない跡を残していることである。自然に親しむということが、同時に私どもより前に生きていた人々への親しみの気持によって、裏づけられているのである。アメリカにはそのような長い過去の記憶はない。その代り未来へのはつらつたる希望に生きている。こういう気分の相違は、日常生活のちょっとした礼儀作法にもあらわれている。晩のパーティーに招ばれていって、翌日あっても礼を言う人はほとんどない。言うとかえってもう一度催促することになって失礼だ、という極端な説さえある。帰りがけに十分礼を言えば、それでよいのである。現在から未来への生活の享受と開拓に、全力をそそごうとする気分の自然のあらわれである。私ども科学者から見ても至極当然の生活態度である。しかし、だからといって、人間にとって過去が無意味だと思うのは、浅はかである。  人間の記憶力というものは、何よりも現実の生活に、過去の経験を役立たせてゆくために存在するものであることは確かである。だからといって、人間の記憶力が私どもの胸に思い出をよみがえらせ、過ぎし日をなつかしむ気持をひきおこさせるものであることを、殊さらに否定する必要もない。それは人間に恵まれた美的感受性の一つのあらわれでもある。このような感受性は、新しいものよりも古典的な完成されたものへの、あこがれとなりやすい傾向を持っている。アメリカ文学には当然、現実生活をそれ自身として探究していこうとする傾向が特に強い。長い伝統へのつながりが、いつも意識されているヨーロッパや東洋の文学とは、そこでどうしても違ってくる。アメリカにももちろん古典趣味の文化人が何人かいたのであろうが、大方忘れられてしまっている。  例えば、私どもの学校時代の英語の教科書でおなじみの、ワシントン・アーヴィングのスケッチブックなど、今はあまりアメリカ人の口の端に上らぬ。彼が大文学者といわれるようなタイプの人でなかったことは確かである。極端にいえば、アメリカ文学の初期におけるイギリス文学の模倣時代の代表者に過ぎないかも知れない。しかしそんなことは、私にとってはどうでもよいことである。かえって明治初期、中期の文学に接するような親しさが感じられる。彼の作品のいたるところにただようメランコリーな雰囲気は十分魅力がある。  アメリカへきて間もなく、ニューヨーク・セントラル鉄道でロチェスター方面へ旅行した際、車窓からハドソン西岸のキャッツキルの山々を遠望して、リップ・ヴァン・ウィンクルの伝説をなつかしく思い出したことがある。その後またコロンビア大学の新しいサイクロトロンのあるアーヴィングトンまで自動車で往復するごとに、私は珍しく落着いた沿道の景色に、そこはかとないノスタルジアを感じていたが、アーヴィングトンという土地の名が、百年前に海のように洋々たるハドソンの流れを見下す邸宅で晩年を送ったアーヴィングを記念するものであることを知ったのは、最近のことである。そう思って見るせいか、彼がさまざまな空想をたくましくしながら、好んで逍遙したハドソン東岸の林や丘は、今もなお、ややメランコリーな雰囲気を保持している。  黄に紅に木々がとりどりの粧いをこらしている日曜日の午後、久しぶりで友人の自動車に同乗し、アーヴィングの物語に因んだスリーピー・ホローの名の残る、さびしい低い丘陵地帯をぐるぐるまわった末、十七世紀の終りごろに、オランダ移民中の有力者フィリップスの建てた邸を訪れた時分には、秋の日はやや傾いていた。昔はハドソン河がここまで入りこんで、オランダ船の荷物の積みおろしをしていたというこのあたりも、今は小さな池と、ささやかな流れを残すばかりであるが、水に映る柳の影も動かぬほど、ゆるやかにまわっている水車は、昔のままに粉をひいている。 インディアン、オランダ人(びと)は今いづこ水車はゆるくめぐる歳月(としつき)  二百六十年といえばヨーロッパや東洋の歴史から見れば、そんなに長い歳月ではない。しかしその間にインディアンは去り、それにとって代ったオランダ人も、やがてイギリス人に主導権を譲った。ロバート・フルトンが初めてハドソン河を蒸気船で航行したのも、今は昔の物語となった。河口のニューヨークの港に、世界各国の人々が次第に集り、国際連合の本部のできた今日は、名実ともに世界の中心となってしまった。このオランダ邸の壁が特に厚く、壁に今もかかっている重い鉄砲も、インディアンの襲撃に備えるものであったこと、今はこの邸もロックフェラーの援助で旧態を保存していることなど、案内人の説明を聞いていると、地球上における変転極まりない人間の歴史の一こまが、ここにも大写しされていることを痛感するのである。  一七七六年にアメリカ合衆国が独立する以前の、この国の歴史は十分詳しくは知られていない。コロンブスがアメリカ大陸を発見する以前のこととなると、なおさらわからない。しかし最近ニューヨーク州で発掘された石器時代のインディアンの遺物を、シカゴ大学の原子核研究所で調査した結果として、インディアンは約五千年も前から、この地に住んでいたことがわかった。どうして年代がわかったかというと、大気中では宇宙線によって、わずかではあるが絶えず放射性を持った炭素が作られつつある。この放射性炭素は約五千七百年の間に半減する。生きている植物は始終、大気中の炭酸ガスを摂取しつつあるから、通常の炭素の他に、わずかではあるが一定の割合で放射性炭素を含んでいる。ところが植物が死んで新陳代謝が止ると、放射性炭素は徐々に崩壊して減ってゆく。したがって木質の遺物の中の、炭素の放射能を測定すれば、その木が切られた年代が、相当な正確さで決定できることになるのである。今後この方法は考古学の研究に非常に役立つであろうことが期待される。  四十五億年の間に半分に減るウラニウムが、人住まぬ宇宙の長い歴史を見守る砂時計であったのに対して、五千七百年の半減期を持つ放射性炭素が、新たに人類の文化活動のタイム・キーパーとして登場してきたのである。地下に眠るウラニウム原子も、空気中でできた炭素原子も、地球上の有為転変、人間世界の栄枯盛衰には少しも影響されることなく、定められた速度で崩壊してゆく。炭素はゆるやかに、ウラニウムはさらにもっとゆるやかに。……  こんなことを考えながら、オランダ邸の各部屋を一まわりして庭に出た時には、あたりはすっかり暗くなって、今のぼったばかりの三日月が、柳と一緒に影を池に投じていた。ふと気がつくと、池の向うのハイウエーを走る自動車の音が耳に入ってきた。私はどこにいるのか、どんな時代に生きているのか。二十億年以上も地下に眠っていたウラニウムさえも、人間にとって呼びさまされずにはすまなかったのである。そしてそこには、自然にその寿命を終る以前に破壊されるかも知れないという思いがけない運命が待ちうけていたのである。 古柳池のかなたはハイウエー車のゆきき絶ゆる時なく (ニューヨークにて)  静かな町にきて  ——一九五一年——   昨昭和二十五年の春にニューヨークで病気になって入院して以来、その夏には日本に帰って目のまわるような日々を送り、アメリカへ戻るとすぐ、コロンビア大学の講義を始め、それからずっと忙しく、アメリカにきた直後に、ニューヨークの本屋から頼まれていた中間子の本の原稿など、なかなか手をつける暇はなかった。それでこの夏休みは少し涼しい静かなところへ行って、本屋の約束を果してしまいたいと思った。幸いコーネル大学のあるイサカの町に夏季学校の良いのがあり、子供たち二人が語学の補習をやることになったので、私たちも夏じゅうそこの山手の方の一軒の家の二階を借りて住むことにした。 移り住む二階の窓ゆ青葉越しにいささか見ゆるイサカ下町 寝室と居室とバスとキッチンと夏の仮居の気安さにあり  コーネル大学はあまり遠くはないので、時々物理教室へ顔出しをした。太いエルムの樹が多いので、かつて夏を過ごした札幌の北海道大学を思い出した。たまには暑い日もあるが、雨がふると、すぐ涼しくなる。それに静かなので、ニューヨークにいるより勉強ができそうで喜んでいた。 道こぶつドリルの響とだえして蝉の声のみ残る暑き日 俄か雨に窓とざす日はわがズボンわぎもこがはくほどの涼しさ 静かなる町の並木のひるさがり若き女ひとり自動車洗ふ  中間子論の原稿を何とか早く片づけてしまいたいと思って、一生懸命に考えつつ、そのままタイプしている間に、不眠症になってきた。それでもなお数日続けていたら、昨年の春と同じ神経性の胃腸障害で、激しい腹痛を起した。 朝な夕なタイプ打つ日の重なりて夜をいねがたくなりにけるらし 腹痛のはげしき午後の半日は心細しも旅のまた旅  家内が薬局で買ってきてくれた薬で、一応腹痛は治まったものの、前の経験からしばらく静養するほかないことがわかっているので、せっかく涼しい静かなところへきたのに、とうとう本を書きあげることは断念せざるを得なくなった。そのうちに、夕方など近くを散歩できるぐらいの、元気さになった。 家々のベランダ老ひし人坐せり長き一日(ひとひ)の暮を待つがに 町角の救世軍の歌声のゆるき調べのなつかしきかな  子供たちの学校へも行って見たりした。 蔦(つた)生ひし赤き煉瓦の学校の子等のクラスは生徒三人  そうこうするうちに、身体も大体元に戻ったので、昨年からの約束のカナダ行を果し、八月末にニューヨークに帰ってきたが、まだまだ暑さはきびしい。しかし九月早々、ニューヨークの国際化学会その他で、日本の化学者や物理学者が大分やってきたので、すぐまた慌しい生活に戻ってしまった。 アメリカ大学教授の生活  ——一九五四年——   アメリカの大学の先生たちの生活といっても、特に一般人の生活と比べて目に立つようなことは少ないように思われる。日本の場合より、一般の勤め人や高等学校、中学校などの先生と大学の先生の間の隔たりが少ないように思われる。私はアメリカに五年間滞在していた。最初の一年はプリンストンの高等科学研究所(Institute for Advanced Study)にいたが、ここの人たちの生活は一応別に考えた方がよいと思う。というのは、この研究所は大学とは全く独立していて、学生の教育の責任を持っていないからである。後の四年間はニューヨークのコロンビア大学にいたが、これとてアメリカにあるいろいろな種類の大学の平均値からは、ずっと一方に偏っているに違いない。大都会にある古い大きな大学の一つの例に過ぎないかも知れない。それは私立大学であって、州立大学とは大分違うかも知れない。それにしても、これを日本で私のよく知っている京都大学や大阪大学や東京大学などと比べて見ることは、あながち不当ではないと思う。  コロンビア大学の教授になって第一に感じたことは、朝が早いことである。学者には一体に宵っぱりで朝寝坊が多い、私も御多分にもれない方で、たまに早起きすると、どうも一日じゅう、頭の調子が悪い。アメリカへ行ってから一層寝る時間が遅くなった。というのは夜のパーティーなどがあると、集った人たちは十二時になっても一時になっても腰を上げずに話しこんでいる。殊にニューヨーク人は夜が遅い。盛り場へ出て見ても、十時ごろはまだ宵の口である。午前二時、三時ごろまでタクシーが、さかんに走っている。こちらもだんだんと夜中に勉強する癖がひどくなってゆく。ところが夜は遅いのに朝は九時には仕事を始める。大学の先生も例外ではないようである。幸いにして私の講義は午前十時以前のことはなかったので、十分朝寝ができた。私の教えていたのは大学院だけで時間数も少なかったので、自分の研究に使える時間は、日本にいる時よりもずっと多かった。もちろん日本にいても、講義の時間数はわずかで、それ自身としては大した負担にならなかったが、いろいろな会議に費す時間が多く、その上新聞雑誌の原稿や講演などの依頼に年中追っかけまわされていて、研究のためのまとまった時間が、なかなか見つけ出せないのが何より苦痛であった。私がアメリカへしばらく行って見ようと思い立った主な理由は、「時間」がほしかったからであった。日本の大学でも、会議の回数は過去にさかのぼるほど少なかったように思う。どうしてこんなに会議がふえ、事務的な仕事も煩雑になってきたのか。原因はいろいろあるであろうが、結局、先生の数も学生の数もどんどんふえてきたことがいちばん大きな原因かも知れぬ。しかしそういえば、コロンビアなど三万人以上も学生がおり、教育職員の数だけでも三千人以上ある大所帯であるが、私など滅多に会議に出席することはなかった。私は外国人であり、人事問題などに関与する気持もなかったので欠席もよくしたが、かりに全部出席したとしても会議の数は少なかった。したがって先生の方も、朝から晩まで研究室で仕事ができるわけである。  第二に感じたことは、時間が正確に守られていることである。日本では大学の講義など、五分や十分遅れてくるのが当り前のようになっていたが、コロンビアの先生方は一分も遅れないようである。また休講ということも滅多にない。やむを得ぬ事情で休講する時には、だれかが代りに時間を使う。そして休講しただけは後で補講することが、日本よりずっときちんと行われているようである。私がコロンビアの教授になった時には、詳しい契約書にサインした。何が書いてあるのかよく読んで見なかったが、契約に基づく権利義務の観念がはっきりしていて、それが講義の時間などにも反映しているのであろうか。毎月々々、月給の中から相当額の退職年金の積立金を差引かれる。私のように遅かれ早かれ日本へ帰る人間には不必要なことであるから、年金はいらないと申立てたら、契約書に書いてあるから変更できないということであった。こちらが契約書をよく見なかったのだから仕方がない。  日本で名前のよく通ったアメリカの古い大学、ハーバードにしてもプリンストンにしてもコロンビアにしても、みんな大学院が主であり、研究者として活動をしている教授連は、大学院で教えるだけでよい。大学すなわちカレッジは、そんなに大きくない。したがって大学院へは各地のいろいろなカレッジを卒業した人たちが入ってくる。コロンビアは特に国際色の豊かなところで、外国学生の数がアメリカの大学の中でいちばん多い。私の教えた中にもヨーロッパや南米の各国からきた学生はもちろんのこと、東洋方面、例えばイラクからきた学生もいた。アメリカの主だった大学が大学院に重点をおいていることと関連して、カレッジの入学志望者は有名大学だけに集中しない。日本には知られていない小さなカレッジの中に、非常に評判のよいのが幾つかあり、そういうところへ入るのは、むしろハーバード・カレッジなどよりむつかしいくらいである。したがって日本のように初めから有名大学をめざして、何年浪人しても入るまで頑張るというようなことはない。大学院になってから一流大学へいっても遅くはないからである。この点は日本もそうなった方がよいように思われるが、別の問題もからんでくるので、総合判断はむつかしい。  大学での勤務の方の話はそのくらいにして、大学外での生活について少し書いて見よう。アメリカでも教授仲間の間で時々自分たちの社会的地位が話題になる。アメリカ人は物の考え方が非常に現実的であるから、裁判官、弁護士、医者など一般人の生活と密接なつながりをもった職業の人々が、社会的に非常に尊敬されているように思われる。それにくらべると、大学の教授のように世間から縁遠い生活をしている人々に対する一般の関心は、うすかったように思われる。近ごろでは原子物理学者などが急に世間的に知られるようになってきたことに伴って、そういう人々の社会的地位が高まったようにも見えるが、ヨーロッパや中国などで、もっと純粋な意味で学者を尊敬してきたのとは少し違うように感ぜられる。ヨーロッパ各国と比べて大学の数は非常に多く、それに伴って研究よりも教育の比重が大きくなっていることも、大学教授に対する一般人の見方に、大きな影響をおよぼしているかも知れない。そういう意味からも、初めにいったプリンストンの高等科学研究所などは、アメリカ人の現実主義とは本来対蹠的の存在で、対社会的な義務から一応解放されて、ゆっくり思索する場を提供していることが、アメリカなるが故に一層意義があるとも見られる。京都大学に昨年できた基礎物理学研究所も、やはり忙しい現在の日本の中における、落着いた思索の場所でありたいと念願しているが、浮世の風はどこからともなく吹きこんでくる。  話がまた脇道へそれたが、アメリカの大学教授の家庭生活の中で、日本の場合と違うのは同僚や友人との家族的なつきあいである。家族的という意味は、夫同士のつきあいは必然的に両方の妻をも包含することになり、夫婦を一単位としてつきあいが行われることである。そういう意味の家族的パーティーが、それぞれの教授の家で割合頻繁に行われる。これは何も大学教授に限ったことではなく、一般人の習慣がそのまま採用されているだけである。日本の場合であると、大学の先生などは、いちばんつきあいの悪い人間の見本のごとく思われているが、アメリカではそういう点でも一般人との違いが少ない。カクテル・パーティーなどになると、部屋に入りきらないぐらい大勢の人が招ばれてくる。相手の名前もよくわからないで片手にカクテルのグラス、片手にサンドイッチの小片を持ったまま立話を続けるのは、日本人にとっては一つの苦業である。日本だと比較的少数の男ばかり、しかもお互いによく知っている人たちだけが坐るか腰かけるかして、ゆっくり話込むのであるが、アメリカではお客さんの大部分を立たしておくことが、別に失礼にはならない。立っているのと坐っているのとで、物の考え方、生活態度、仕事の能率などいろいろ重要な点で大きな違いが出てくるのではなかろうか。  ところでアメリカの大抵の家庭では、お手伝いさんを置いていないから、パーティーをするとなれば主人公もサービスに大童である。臨時に人をやとってくる場合もあり、また平生から人をやとっている家もあるが、それらはいずれも例外に属する。日本の男性、特に大学の先生などそういう点では無精者が多いから、アメリカの男性の真似は容易なことではない。私も家へは大勢のお客を招ぶことはしなかった。やむを得ぬ場合には、みんなが腰かけられるぐらいの数だけ招ぶことにした。ヨーロッパへ行くと、万事日本の在来の習慣との隔たりが少ないので、何となく気が楽で落着いた気分になる。日本が坐っている文明で、アメリカが立っている文明なら、さしずめヨーロッパは腰かけている文明くらいのところであろうか。日本も坐ってばかりいずに、時には腰かけ、時には立つ文明にだんだんなってゆくようであり、またそれが望ましいことでもあろう。 イタリアの夏  ——一九五三年——   今度日本へ帰ってくるまでに、ぜひもう一度イタリアに立ちよりたいと思っていた。折りよく六月末から数日間、ドイツの南端のリンダウで開かれるノーベル受賞者講演会での講演を依頼されたので、それに出席したついでにイタリアを通って日本へ帰ることにした。思いおこせば昭和十四年、初めて外国へ出かけた時、ナポリに上陸しローマを過ぎてベルリンに向ったのも夏であった。それから間もなく今度の戦争が起って、私の目ざしていたソルベー国際会議も延期になってしまった。それから十四年、誇張していえば、人間世界の姿はすっかり変ってしまったはずだが、ふたたび見るローマは依然として壮大であった。しかしそれにもまして、私の夢を現実にしてくれたのは、初めて見るヴェニスであった。チューリヒから直通列車がヴェニスの駅に着いたとき、そこに待っていたのはゴンドラであった。手荷物を積みこんで自分たちも船中の人となった瞬間から、長い間の期待が現実となった。大運河をしばし進むと、やがて狭い水路へ折れ曲った。 ゴンドラの行くては狭き橋と家夢に見しより美しき夢 橋の上にたたずむ人も夢のうち橋より見ればわれも絵のうち たそがれの狭き運河を幾曲り楽の音(ね)もるる窓も過ぎつつ 水淀み家居は古しゴンドラは青苔生ふる岸につなぎて  ゆきゆきてゴンドラの止ったところがホテルの入口であった。  その晩もあくる日もただあてもなく石畳の路を歩きまわった。立止っては狭い路の両側の店の飾り棚をのぞいた。路は曲りくねってどこへ行くのかわからなかった。夕方になってもまだ暑いので、街の人や観光客がぞろぞろと出歩いていた。歩く人ばかりで、乗物は自転車さえなかった。少し歩くと直ぐ運河にでる。何度も太鼓橋を渡る。 路細く曲りくねりて迷路めくヴェニスの街を行き戻りする リヤルトの橋に上りて土産物売る店を見つまた運河見つ あてもなくヴェニスの街をさまよへばまたサン・マルコに出でにけるかな サン・マルコ広場につどふ人と鳩しばしの幸(さち)はここにとどまる  二日間、何思うこともなく同じところを歩きまわった後、フロレンス行の汽車に乗った。人間の生涯に何思うこともないというひと時は、そうたびたび訪れるものではなさそうである。殊に私のように年がら年じゅう取越苦労ばかりしている人間には、そういうひと時は容易に訪れてこない。ただ何となく楽しい落着いた気分、これが私の人生には稀少価値を持っているように思われる。フロレンスにも二日いたが、サンタ・クローチェという名の、ダンテやガリレイやミケランジェロの墓碑のならんでいるお寺の中庭に立った時、またそういう気分になった。そして数年前ウエストミンスター・アベーの中庭にたたずんで、遙かにコーラスの声を聞いた時のことを思い出した。 古びたる僧院の庭に立つ毎にしばしの幸はわれを訪(おとな)ふ  日本でも古い寺に行けば同じ気持になる。桂離宮にはたびたび行く機会があるが、そのたびごとに何となく明るく楽しい、しかし落着いた気分になる。ある建造物や庭園の歴史的、芸術的価値はさることながら、それが万人の共有物として、そこを訪れる多くの人々に楽しい落着いた気分を与えることが、私にとっては何より貴重なことのように思われる。 外から見た日本  ——一九五九年——  ソ連の都会  私は昭和八年に京都大学から大阪大学へかわりまして、それから昭和十四年まで大阪大学におりました。きょうここに見えております正田(建次郎)総長とも、その時分から大へん親しくさせていただいておったわけです。そのころしばらく、大阪市内の内淡路町に住んでおったこともありますし、また、新築間もないこの建物へ参りまして、二、三度お話をしたことがありますが、どんなことをお話したか全然覚えておりません。  きょうは私が近ごろソビエトへ参りましたので、何かみやげ話でもしろということでございましたけれども、まとまったお話をする自信がちょっとありません。それで、もう少し広く、たびたび外国に参り、また外国で暮したこともありますので、そういう経験からみて、私ども日本に生きておりますものが、どういう点を反省すべきか、あるいはまた今日の世界、また今後の世界の中での日本という国はどうなってゆくのか、また、どうあるべきかということについて、私なりに平生考えていることを、いろいろ取りまぜてお話いたしたいと思うのであります。  さて私が去る七月にソビエトへ参りましたのは、高エネルギー物理学の国際会議に出席するのが主な目的でした。しかしこの会議のことをあまり詳しくお話しても仕方がないと思います。今まで国際会議といわれるものが、それぞれの方面でいろいろありましたが、数年前までは国際会議といいましても、大体アメリカや、西ヨーロッパの学者が中心でありました。それに日本の学者、またアジアとか、南北アメリカ大陸の中のアメリカ以外の国々の学者も参加する。場合によりますと、ソ連の学者も参加することがありましたけれども、ソ連で世界的な規模での国際会議が開かれるようになりましたのは、ごく最近のことであります。私は今までソ連のことはほとんど何にも知りませんでしたので、いろいろな興味を持ちまして、出かけたのであります。しかし行きまして、第一に感じたことというか、困ったことというのは、ロシア語を全然知らなかったことです。その国の言葉がわからないのですから、折角ソ連へいっても、自信を持って判断できることは何一つありませんでした。そういうわけですから、少しばかり私の感想らしきものを述べてみますが、あまり自信がありませんし、いろいろと間違いがあるかもしれないことを、あらかじめお含みおきいただきたいと思います。  皆さんの中にはソ連にいらっしゃった方も何人かおありでしょうし、またモスクワは皆さんもよく写真などでごらんになった方も多いでありましょう。とにかく、今ではそれほど珍しい所ではないのであります。これに反して、キエフという町は、日本人で行かれた方は少ないのじゃないかと思います。相当古い町でありまして、ソ連でも農業地帯、穀倉といわれているウクライナ地域、国といった方がいいかもしれませんが、このウクライナの首都であります。ちょうど京都ぐらいの大きさの都会です。相当古い都会である点も、ちょっと似ています。十一世紀ごろにできた古い教会や、もう少し新しい教会など、いろいろ古い建築が残っております。ドニエプル河という大きな川のそばの丘の上にあり、青々と木立が茂っております。その中でも、さらに小高い所に古い寺院があるのです。大へん落着いた町です。モスクワとはだいぶ様子が違います。ところがよく聞いてみますと、キエフという町は、今度の戦争で徹底的に爆撃されたのだそうです。したがって私どもが今度いって、キエフの古い町だと思っていたのは、実はそうでなくて、大半破壊されたあとを、元の形に直した結果なのです。特にいくつかの古い教会は、完全に元の姿に戻しています。現に再建中の寺院の塔もあります。こういうことは私どもの想像していたソ連のイメージからすると、やや奇異な感じがするわけであります。社会の組織がすっかり変り、宗教などというものは大目で認めているというだけに過ぎない。そういうソ連が一生懸命になって、古い寺院の建物などを復元することに、努力しているのであります。寺院だけでなく、キエフの街の古風な建築様式も元通りになっている。それはやはり古い文化、昔からあるものの中で、いいものはそのまま残してゆきたい。そういう考え方らしいのであります。とにかくどういう意図であるか知りませんが、モスクワでもやはり古い文化財を、できるだけ保存して置くために、たいへん努力しております。  しかし、私どもにとって一番関心のあったのは、もちろんこれとは反対の面であります。私どもが知りたいと思いましたことの一つは、最近数年間にソ連の科学がだれの目にも明らかなほど急激に進歩してきたのは、どうしてであろうかということでありました。今度のキエフの高エネルギー国際会議に出てみましても、ソ連にはこの方面の研究者の数が予想以上に多く、あらゆる種類の研究をやっているのを知り、少なからず驚きました。もちろん研究者の数が多いといいましても、そういう人たちの粒が非常にそろっているかといいますと、まだそういうところへはきておらないのであります。中には非常にすぐれた人もありますけれども、その数は比較的少ない。しかしそれにしても、どうしてこんなに急激にソ連の科学の進歩が目立ってきたのか、二週間あまりソ連におります間に、いろいろ人に聞いてみたり、自分で考えてみたりしたのですけれども、結局よくわかりません。科学者を優遇し、研究の予算も十分すぎるくらいある。モスクワ大学のように、毎年物理だけで四、五百人の卒業生を出すところもある。設備のよい研究所がいくつもあるというようなことは、ソ連にゆく前からある程度わかっていたことで、行って見て、特にここぞというカンどころが見つかったとはいえません。 原子物理学の発展  何事によらず、日本のことでも、外国のことでも、結果はわかっていても、いざその原因を考えて見ると、案外よくわからないことが多いのです。ある国である方面が急激に進歩する。それを見てどういう原因によるのだろうかと考える。どうもよくわからないという場合が多い。自分の身近かなことですと、別に原因など考えてみない。とにかくそういうふうになっているんだということで済んでしまう。遠い所の場合の方が、原因を考えて見たくなる。  特に現在では、何事によらず、アメリカとソ連をくらべて見たくなる。そこで私どもの専門である高エネルギー物理学ではどうなっているか、当然私たちの大きな興味の対象になる。この方面で現在一番進んでおり、研究者の数も多く、粒もそろい、一番活発に研究が行われているのは、それはもちろんアメリカであります。それならそのアメリカは、いつごろから今日のように盛んになったかといいますと、そう遠い以前のことではないのであります。私が京都大学を卒業して二、三年、ちょうど私が大阪大学へ参りました前後、そのころまでは私どもはアメリカの学問がすぐれているとは思っておりませんでした。大体ドイツ、それからドイツ周辺の国々、それからイギリスなどの方が確かに進んでおり、第一流の学者はほとんど全部ヨーロッパの国々に集中しておったのであります。  ところで、今いいました昭和七、八年ごろから急激にアメリカの物理学、特に原子物理学、高エネルギー物理学という方面が進んでまいりました。それには明らかに二つの原因がありました。この場合は原因が割合はっきりしておりました。その一つは皆さんも御記憶かと思いますが、当時ヨーロッパにおりました学者で、有力な人の中にはユダヤ系が非常に多かったのですが、その中でドイツやイタリアにおった人たちは国外に追出されました。そしてその多くが結局アメリカへ渡って、そこで落着いた。そういう人たちが指導者となって、アメリカの物理学を盛んにするのに大きな役割を果すことになった。物理学以外もそうでしょうが、こういう人たちがアメリカ土着の若い研究者をどんどん養成してきたのであります。これは確かにアメリカにとっては非常に幸運だったと思うのであります。そういうユダヤ系の学者の代表的な二人をあげますと、一人はドイツから行ったアインシュタイン、もう一人はイタリアから行ったフェルミであります。  それともう一つは、そのころから物理学、特に原子物理学、高エネルギー物理学の研究がだんだんと大がかりになってきまして、多額の経費が必要だ、研究者も大勢入り用だというような段階に入って参りましたが、そういう点でアメリカのような大きな、そして金持の国が、非常に有利になってきたということであります。さらにその上に有利な条件となったのは、先ごろなくなりましたローレンスというカリフォルニア大学の物理学者、——この人は生粋のアメリカ人でありますが、昭和六、七年ごろにサイクロトロンというのを発明したことで御承知でしょう。サイクロトロンはその後、だんだん大型になってきましたが、そのため金もますますたくさん要ることになりました。幸いアメリカ人であるローレンスが新しいサイクロトロンという高エネルギー物理の研究には最も有力な機械を発明いたしましたので、アメリカが、他の国々をどんどん追越して、世界の高エネルギー物理の研究をリードして行くようになったわけです。サイクロトロンのようなものを一口に加速器と申しておりますが、そういう加速器によって、大きなエネルギーを持った粒子を作り出し、それを使っていろいろな実験をする。そして、実験結果を説明し得る理論を考え出す。これが高エネルギー物理学と言われている学問であります。したがって、高エネルギー物理学に必要な実験的装置の面から見て、一番大切で、一番金がかかるのはサイクロトロン、あるいはそれがかたちをかえ、もっと大型になってきたもの、あるいはかたちのすっかり違った直線型加速器のようなものであります。そういう加速器が、今述べた理由でアメリカで一番発達してきた。それにまた理論方面の研究者も多い。それで自然とアメリカが、世界の学界をリードするようになってきたのであります。こういう傾向が昭和七年、すなわち一九三二年ごろから目立ってきました。このころから原子物理学、高エネルギー物理学の研究がだんだんに金のかかる仕事になってきました。そしてそういう傾向は年とともに甚だしくなってきております。粒子のエネルギーをますます大きくする必要を生じ、したがって加速器もだんだん大型になってきました。なぜそういう大きなエネルギーの粒子が必要かと申しますと、だんだん自然界の奥底、物質の非常にこまかい構造の一番奥の奥まで探り出そうといたしますと、どうしてもそれだけ、より大きなエネルギーの粒子を作り出し、それをいろいろな物質にあてて、どんな現象が起るかを調べるということが必要になってくるのです。エネルギーを上げようとすると、加速器は大型になり、非常に金もかかることになる。一九三二年ごろに使われていたサイクロトロンは、せいぜい数百万ボルトの粒子を作り出していた。それに必要な経費は、今日から見ると僅かですが、当時としてはやはり大きな額でした。先ほども申しましたように、そのころ私は京大から阪大に移りましたが、初めて阪大に加速器——コッククロフト・ウォルトン型と呼ばれる装置でしたが、それが阪大にできることになりまして、そのための実験室が今の中之島にあります理学部の建物の中にできることになりました。それでそういう機械をチャンと入れられるような部屋が、初めから用意されておったわけであります。私もその当時、建築中の理学部の建物をちょっと見に行きました。今までの物理の実験室とくらべてずいぶん大きな部屋でした。天井も普通よりずっと高い。私は非常に驚きました。それまで物理の研究には、そんな大きな部屋も要らなければ、大きな装置も要らなかった。したがってそんなに金もかからなかった。そのころから様子が変って参ったのであります。  ところが今度の戦争が終りましてから後は、もっともっと大変なことになりました。戦前のサイクロトロンより、ずっと大型の加速器が、続々あらわれてきました。まず最初にカリフォルニア大学にできたシンクロ・サイクロトロンは、約三億ボルトのエネルギーの粒子を作り出しました。戦前の約十倍のエネルギーで、費用もそれ以上よけいにかかります。大体、百万ドル見当の金がかかることになりました。そのころからしばらくの間、アメリカとほかの国々——日本を含めてほかの国々との間の開きが非常に大きくなりました。今日まで日本で動いている加速器の中で最大のものが、僅か六千万ボルトのシンクロ・サイクロトロンであります。  ところが、アメリカでは何年か前から六十億ボルトのベバトロンという加速器が、やはりカリフォルニア大学で動いております。そういう大型のものになりますと、費用の方も千万ドルという見当になります。そういうふうに一番原子物理学の基礎の研究に重要な加速器というものが、どんどん大型になってゆく。そういうもの一つだけに非常に大きな金が要る。それを維持してゆくにも相当な金がいる。また研究者や技術者もたくさん必要だというような状態になってきたわけです。そうなりますと、自分の力でそういうことのできる国が非常に限られてくるわけです。  こういうことは以前はなかったことであります。原子物理学の研究で、どこの国が進んでいたかについて、少し以前に立ち戻って考えてみますと、先ほど申しましたように、一九三〇年代よりも以前は、学問の中心はヨーロッパにあったわけでありまして、ドイツとかイギリスとかフランスとか、比較的に大きな国に偉い学者がたくさんおりまして、研究も進んでいた。しかしたとえば、デンマークとかオランダとかスイスというような日本よりもずっと小さな国にも、非常に偉い学者がいたのであります。たとえばアインシュタインは、ドイツ生れの学者ですが、相対性原理の研究を始めましたのは、彼がスイスにいたときであります。また現在、物理学界の長老として尊敬されておりますニールス・ボーアという学者はデンマークの人でありまして、今日まで長い間ずっとコペンハーゲンの研究所で研究を続けております。そういうようなこともありまして、別に国が小さいから、金があまりないからといって、その国の物理の研究が進んでおらないということは、決して言えなかったのです。むしろアメリカなどは、その当時からして非常に大きな国力を持っておったでしょうが、基礎科学の方面では、まだ到底ヨーロッパと太刀打ちができなかった。それが先ほどいいましたような事情で、一九三〇年代から、だんだん様子が変ってきたのです。基礎物理学、原子物理学、高エネルギー物理学、そういうような方面でも理論的な方面ならば、今日でもやはりどこの国の学者でも独創的な研究ができるはずです。しかし原子物理学が全面的にバランスのとれた発達をしてゆくためには、どうしても理論一辺倒というわけにはゆかない。そこで特別の大国以外の国々にとっては、非常に困った事態になってきたのであります。先ほどからいいましたように、アメリカなどはそういう面で非常に恵まれておりますから、高エネルギーの実験では世界の学界をリードすることになりました。 原子物理学研究の三大中心  そうなると西ヨーロッパの諸国も、黙って見ているわけにゆきません。今まで世界の科学の中心であったし、数世紀にわたって偉い学者をウンとたくさん出してきた。ところが今までどんなに進んでいたにしても、これからは西ヨーロッパの国の一つ一つが独力ではやり切れなくなった。イギリスなどは比較的大国でありますが、それでもなかなかやり切れない。フランス、ドイツではもっとむつかしい。そのほかの小さな国はいうまでもない。そこでそういう国々の学者が集りまして、新しく西ヨーロッパの連合の原子核研究所をジュネーブに作りました。各国から金を持ちより、人も集めて、そこで非常に野心的な計画を進めてきたのであります。現在では二百五十億ボルト、これができれば世界一の大きな加速器になるわけで、そういうものを今年(昭和三十四年)のうちには完成するはずです。  そんならソ連の方はどうかといいますと、先ほどいいましたように、ソ連という国は、近ごろまでそれほど学問が進んでいるとは思われていなかった。すぐれた学者が何人かおったのですが、全体的に学問のレベルはそれほど高くはなかった。ただし数学の方のお話を聞きますというと、数学ではだいぶ以前から非常にすぐれていた。決してアメリカやフランスや日本に劣っていなかったそうです。私は数学のことはあまりよく知りませんが、物理学に関しては、それほど大したことはなかった。ところが最近、物理学、特に高エネルギー方面に非常に力を入れ出しました。その一例として、共産圏の連合原子核研究所とモスクワ大学の物理教室との二つをあげることができます。ここでは前者のことだけお話します。モスクワからバスで二時間半ほど、フル・スピードで飛ばしてゆくとドブナという小さな町に到着します。ここに連合原子核研究所があります。もともとソ連だけの力で建てた研究所ですが、その後、共産圏全体の連合の研究所に発展しました。現在では中国その他共産圏の十一ヵ国の共同出資で運営されています。中心はもちろんソ連の研究者でありますが、他の国々の研究者も数多く参加し、活動しています。ここには有名なシンクロ・ファゾトロンという加速器があります。これで作られる粒子のエネルギーは百億ボルトでありまして、現在のところ、世界で一番大きな加速器であります。そういうわけで、高エネルギー物理学の方面でもアメリカと競争できる状態になりつつあります。ですから現在、大掛りな装置を持って高エネルギー物理学の実験のできる研究所を持っているのは、アメリカと、ソ連を中心にした共産圏と、それから西ヨーロッパの三つの地域です。これらを高エネルギー物理学の三大中心と考えてよいでしょう。  ところで将来はどうなるのか。キエフ会議の会期中に、高エネルギー関係の国際委員会が開かれたので、私も出席しました。この委員会はキエフ会議のような国際会議を、今後どこで開いて、どういう方針でやるかというような問題を相談するところです。この委員会で今度、非常に問題になりましたのは、これから先の巨大な加速器の建設計画は、世界全体の高エネルギー物理学の発展のためという見地から、世界的に協力してやってゆかねばならぬという点でした。そういうことは最初アメリカ側からいい出され、西ヨーロッパの代表も同意し、結局ソ連側もそれに協力しようという話になりました。一つの大きな加速器を作るのに必要な金額が十年前に百万ドル程度であったのが、やがて千万ドル程度になって参りました。次は一億ドルということになりますと、どんな大きな国でも、やはりそうやすやすとはやれない。同じようなものが世界のあっちこっちで独立に作られるということになると、そのむだは大変なことになる。そこで高エネルギー物理学の現在の三大中心を代表する人たちが、互いに話し合ってできるだけむだを省き、できるだけ性能のよいもので、しかもそれぞれ特徴がある加速器を作るようにしたいというのであります。まことにもっともなことであります。  しかし日本から出ている私などの立場から見ますと、もちろん非常に結構なことだけれども、一面また非常に淋しいことでもあるわけです。アメリカとかソ連とか、あるいは西ヨーロッパというような、今まで加速器についての大きな計画を遂行してきた地域に属する国々は、すぐさま、そして直接協力できますが、日本のような国はどうすればよいのか。私も黙ってひっこんでるわけにもゆきませんから、世界といっても、何もアメリカと西ヨーロッパとソ連圏だけではない。その他に非常にたくさんの国々がある。そういう国々は、巨大な加速器を作る計画について、大きな野心を持つわけにはゆかない。世界的な協力体制に参加するといたしましても、三大中心から遠くはなれていますから、そこにはおのずから限度がある。そういう国がたくさんあることを忘れないで欲しいということを申したわけです。もちろん巨大な加速器が世界のどこかにできて、何か成果があがれば、世界中の研究者に知らせてくれるわけですから、秘密とか独占とかいうことを、心配する必要はありません。しかしそれにしましても、日本のように、三つの大きな中心のどれからも相当遠く離れていて、協力もある程度以上はなかなかむつかしい場合には、やはり自分のところである程度のことはやらなければいけない。全部あなたまかせというわけにはゆかない。実際、戦前には確かに日本は独力で相当なとこまでやってきたわけでありますし、またそれができたのであります。 日本の基礎科学のあり方  先ほど阪大の話をいたしましたが、そのほかに、京大、それから東京の理化学研究所がサイクロトロンを持っていました。特に理化学研究所の仁科芳雄先生の研究室には、戦前には世界でも一番大きなサイクロトロンの一つがあったのです。そのサイクロトロンというのは、その前にローレンスがカリフォルニア大学に作りましたサイクロトロンと同じ大きさのものでありまして、当時は世界最大だったのです。そういうことが日本でもできた。これにくらべるとヨーロッパの国々の方が、かえってそれほど野心的ではなかった。そういう事情であったのです。そのころと今日と比べてみますというと、感慨無量であります。やむを得ないといえばいえますが、ただ仕方がないというわけにもいきません。しかしこういうことは私も折に触れて申しておりますから、これ以上繰返すのはやめます。  このように原子物理学の研究に関しては、戦前と事情が大分変ってきたのですが、科学の他の方面は、まだそれほどではないように見えます。非常に大きな加速器に金をウンと注ぎこまないと、野心的な研究はできないというほど極端なことは、基礎科学の他の分野ではまだ起っていないように見えます。しかしこれはやはり時間の問題で、おそかれ早かれ、同じようなことになってゆく分野がいくつもあるのではないかと思います。例えば、原子物理学の実験とは反対に、理論物理学の方は、今日でも、まだ大した金はいらないと思われています。極端にいえば、紙と鉛筆さえあればできる。数学もそうだ、頭さえ働かしたらいいんだ。それらは日本には大いに適している。こういうことがよくいわれます。これは今日でも、また今後も、ある程度まで真理でありましょう。しかしこれから先は、そのある程度という程度がだんだん少なくなってくるのじゃないかと推測されるのです。と申しますのは、私どものように理論物理をやっております者でも、何か実際に計算してみようと思いましても、普通の筆算や手まわしの小さな計算器では、とても手におえないような、複雑な、そして時間のかかる計算がふえて参りました。簡単に計算できる問題は、大抵解決ずみで、面倒な問題があとへ残ることになりました。もちろん私たちの考え方そのものを変えないと解決できないような根本問題、つまり計算以前の問題があることも確かですが、一方ではまた、こういうふうにすればやれるということがわかっておっても、計算に恐ろしく時間がかかる、二年も三年もかかる、というふうな問題がだんだんふえてきています。そうなりますと、計算自身も機械に頼るほかなくなります。一口に電子計算機と言われている、スピードの速い計算機がどんどん発達してきておりますから、それを利用すべきであります。仮に普通の方法で計算しているならば、一年かかるものが一月でできるということになりますと、そういう計算機を使える研究者と、使えない研究者とが同じ問題に取組んでも、勝負にならない。そういう種類の問題がだんだんふえてゆく傾向にあります。そうなりますと、今までのように、理論物理学は金のかからない学問だとは言うわけにゆかなくなります。そして他の科学の分野についても、同じようなことが多かれ少なかれ言えるのじゃないかと思うのであります。  そういうわけで、基礎科学の研究には今日でも、比較的に金のかからない方面もあるにはあるけれども、そういう方面だけやって、金のかかる研究は一切抜きにするということは到底できない。こういう傾向は、日本のような国にとっては、確かに困ったことでありますけれども、これはやむを得ない。科学の発達に伴って、ほとんど必然的にそうなってゆくのです。一口に科学の振興と申しましても、日本のような国の場合、一体どうすればよいかについては、ずいぶん考えなければならない問題が多く、判断に苦しむ点が多いわけです。昔と違いまして国際的協力ということは非常に進んできたとは言うものの、それだけではすまされない。もちろん日本も、もっともっと国際的協力に力を入れなければならない。例えば、相当無理しても国際会議にはできるだけ多数の学者を出席さすべきであり、また外国の学者をもっと日本へ来やすくする必要があります。一人々々の旅行の費用に目をつけますと、ずいぶん金がかかるようでありますが、学者の交流がもたらす全体的効果から見ますと、それはわずかな金であり、非常に経済的であります。こういう点も、日本ではまだよく理解されていないようであります。実際、私自身も毎年々々、国際会議に人を送り出す費用を調達するのに苦労しています。しかし、そういうことだけでは不十分で、相当な大きさの加速器とか、高速の計算機などは、相当金のかかるようなものでも、ある程度までは自力でやってゆかなければならない。日本のおかれた地理的条件や国力のために、今後の基礎科学のあり方の問題は、ずいぶんむつかしくなってきているのであります。 大国と中、小国  いままで申しましたことは、科学の発達が及ぼす直接的な影響についてでありますが、もっと広く考えて見ますと、私たちの生きている世界、私たちの生きている時代が、非常にはげしく変化しつつある。そして変化の仕方には、先ほどから科学、特に物理学について申してきましたことと非常に似た点があるように思われます。といいますのは、これからの世界の中での日本のあり方ということを考えて見ると、やはり同じようなことがあるという点です。つまり非常に大きな国、中ぐらいの国、それから小さい国というふうに分けて見ますと、それらの性格、役割は、今日ではずいぶん違っている。昔からそういうことは多少ありましたが、今日ではもっとそれがはっきりとしてきた。そういうことが言えるのではないかと思います。  私たちの一人々々は、自分で望んである国に生れてきたわけではありません。もしもたまたま自分の生れてきた国が、自分の好みに合っていたら、大変仕合せだと思わねばなりません。そこで私自身の好みを申しますと、やはり中くらいの国が一番性に合っているようです。今まで私はずいぶん方々の国を旅行いたしました。もちろん知らない国はまだまだありますが、私の経験し、また推察し得る限りでは、少なくとも今日の世界では、非常に大きな国、強大な国に住みつきたいとは思いません。もちろんどういう国でも、それぞれ面白いところはありますが、いろいろな点を比較して見ますと、結局中ぐらいの国が一番いいように思います。日本などはいろいろな意味で、中ぐらいの国の一つに違いありません。ただ人口が多すぎるのが重大な欠点です。国の面積は日本ぐらいで、人口がずっと少なかったら、申し分ないと思います。つまり個人の生活、社会のあり方という点から見て、あまり大きすぎない国の人たちの方が、何か人間らしい暮しをしているように感ぜられます。それは国によって非常に違いますが、私の知っている範囲で申しますと、日本以外で住んで見たいなと思うのは、やはり北欧の国々です。  スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどというような国々は、大国でもなく、人口は日本よりずっと少ない。そういう国の人たちの方が、いわゆる大国よりは、ずっと落着いた生活をしているように見受けられます。  この夏、ソ連へゆく途中、私はしばらくデンマークの首府コペンハーゲンにおりました。夕食後、退屈をいたしますと、テレビをひねってみました。テレビ局というのは、一つしかデンマークにはありません。日本のようにたくさんなく、広告も入っておりませんでしたから、NHKのような局が一つあるだけなのだろうと思いました。見ておりますとデンマーク語がわからないせいもありますけれども、内容は大へん面白くないのです。ニュースの時間がありますが、一向にニュースらしくないのです。例えば何か大きな集会がありまして、その実況を放送する。何人かの人が出てきて、挨拶したり講演したりしている。聴衆は拍手するだけで、ちっともエキサイトしない。何事も起らない。次に老人が花を作っている場面が出る。アナウンサーがいろいろと質問する。これも何事も起らない。今度は、俄か雨が降って、少し水が溢れたところが出て参りました。しかしこれも、日本の台風の水害みたいにえらいことではない。死傷者が出るということはない。どれもこれも私たちから見ますと、全然ニュース性がない。実際デンマークのような国では、日本でいうニュースになるようなことは、滅多に起らないのだろうと思います。したがってテレビを見ておりましても、たちまち退屈してしまいます。退屈しましたけれども、ほかにしようがないものですから、こんなテレビは面白くないと悪口言いながら、しばらく見ておりました。しかし、よく考えて見ますと、何も変ったことが起らないからこそ、われわれから見たらニュースにならないようなことでも、放送せざるを得ない。仕方がないからそれを見ている。そういう国はおそらく非常に天国に近いんじゃないかと思います。日本ですと、決してニュースに事欠くことはありません。毎日々々、ありとあらゆることが起っている。日本のように変ったことが起り過ぎるのも困る。しかし変ったことが少なかったら、日本人はたちまち退屈するでしょう。どっちがいいかと言われれば、私などは少し退屈するぐらいの方がいいと思います。そういうことは趣味の問題ですから、一概にはいえませんが、大きな国よりも中ぐらいの国の方がよい。あまり小さな国、しかも国自身が貧乏で、各人が暮しにも困るような小さな国じゃ、これは一番みじめだろうと思います。小さな国でも、生活さえよければ、それでも辛抱できましょう。ただ少し退屈なのが困ります。中ぐらいの国で、適度に退屈しない程度の変化があれば、一番いいのじゃないかと思います。 これからの世界と日本  余談はさておき、これから先の世界のあり方を考えて見ますと、少数の大国と、そうでない多数の国の役割が違うという状態が、当分続くのではなかろうかと思います。御承知のように原子核兵器やロケットが非常に進んで参りまして、そういうものを持っている国と持っておらない国とでは、力が非常に違ってきました。昔、さむらいと町人がありました。一方は刀を差しておりまして、斬捨て御免で、一方は刀を差すことを許されてない。人間個人々々の間にこんな差別があるなど、今日の常識から見れば、とんでもないことです。ところが国と国との間では、まだそういう状態が続いています。それどころか核兵器のような決定的な武器を持っている国と、持っていない国との差は、刀を持っている、持っていないの差より、もっと大きいのではないかと思います。しかし不幸中の幸いともいうべきことは、現在、核兵器を持っている国の数は、少数に限られていることです。そういう国々がたがいに仲よくしようと言ってくれているのですから、ある程度安心できるわけです。まだほんとうに安心はできないが、とにかく核兵器を持つ国がふえない方がよい。日本は絶対に核兵器を持たないことを世界に表明しております。日本に限らず、世界の大多数の国は、核兵器を持たないままで、また持たないことを道義的な力として、世界を平和にしてゆく役割を担っているわけであります。つまり大多数の町人の正しい主張によって、少数のさむらいを丸腰にしようとしているわけです。あいつが刀を差してるから、自分も刀を差したいなどと思うのは、正気の沙汰ではありません。核兵器など持っておらない人間の方が、発言力があるはずです。持っている国同士がへらす相談をしているのは、大変結構でありますけれども、しかし、他の国々には持たすまいとしているのは、よく考えてみるとおかしいことでもあります。 せっかちな日本人  今までいろいろなことをしゃべりましたが、話が一向まとまって参りません。ついでにもう一つ、まとまらない話をつけくわえたいと思います。これは卑近なことでありますが、私はたびたび外国へ参りまして、そのたびごとに感じますのは、私たち日本人はずいぶんせっかちだということです。どういうときに特にそれを感じるかと申しますと、乗物に乗るとき、乗物を待っているとき、あるいは映画とか音楽会とかが済みまして、みんな出ていくときなどです。そういうときの様子を見ていますと、私もその中の一人として混じっているわけですが、外国人は前の人を押すとか、あわてる、さわぐということは決してない。例えば何かの理由で乗物の到着がおくれているようなとき、飛行機などの場合なら日本人でも落着いて待っているかもしれません。ほかの乗物の場合には、なかなかそうはゆかない。すぐにいらいらしだす。ところが西洋人はどこの国の人でも非常に落着いています。また乗物が相当混んでいる場合でも押しあい、へしあいの混乱は日本よりずっと少ない。一口にいいますと、私ども日本人はおそろしくせっかちだと思います。せっかちになったのは台風のせいかどうか知りませんが、私たちは、もう少し気をしずめた方がよさそうです。あわててみたって結果に変りはないんだと判断すれば、みんな納まりそうなものですが、やっぱりなかなかそうはならない。  このせっかちという性質はどうも日本人の大多数に共通な欠点のようです。まあ急いだために非常に効果があがるという場合は別として、どっちでも同じだ、あるいは急いだためによけいに混乱を生ずるということがわかっている場合でも、やはり急ぐ。今まで私が多少とも関係していた、いろいろな場合の経験から見ましても、急ぎ過ぎてうまくいかなかったという例の方が多い。ゆっくり構えていたために、手遅れになったという方が割合に少ない。特に大きな問題の場合に、日本人はあわて過ぎて失敗したという例が多い。もう一ペんよく考えてみて慎重にやったらよかったという場合がいくつもあるのであります。昔からよく日本人は公徳心がないと申します。私もそういうふうに言って参りました。どうも日本人は社会道徳というか、公衆道徳というか、とにかく社会生活の訓練がよくできてない。これは確かにそのとおりです。そこへ持ってきて、せっかちという性質がつけくわわるので、よけいに始末がわるくなる。これは私どもがしじゅう反省しておらないといけないことだと思います。外国へ行くたびにそれを特に感ずるのであります。  それからもう一つ、これもいつも言うことですが、せっかちだということはまた、非常に熱しやすい、そして簡単にさめてしまうということと密接に関係しています。あることにしばらく熱中する。すぐさめてしまう。そしてまた別のことに熱中しだす。この交代が非常に速い。現代のように変化のはげしい時代には、世界中のどこの国の人でも、一つの興味の対象にいつまでもこだわっておれない。次々と新しい興味の対象があらわれてくる。そういう意味で熱しやすく、さめやすくならざるを得ないような時代に、現代の人類は生きているわけです。ただ、そこに程度の差がある。日本人は、特に新しいものに飛びつくのが早い。早いのは別に欠点ではないかも知れませんが、よくないのは興味や努力が長つづきしないことです。ロシア人は元来、ゆっくりした方です。悪くいえば鈍重です。しかしゆっくりしているように見えるロシア人が、長い目で見ると、大きな事業をやりとげている。こういう点も私たちは、よほどよく考えないといけないと思います。  とにかく日本はいろいろな意味で面白い国であります。しかし私は、もう少し面白くなくてもよいから、もう少し落着いた国になってほしいと思います。花だけでなく、実のある国になってほしい。私の話ももっと実のある話にしたかったのですが、結局、あまり実のない話になってしまいまして、大へん申しわけがありません。 あとがき 湯川秀樹    本書の巻頭の一篇——そして唯一の長篇——である「私の生きがい論」は、生きがいを全体の主題とする第一回の朝日ゼミナールでの三回にわたる講演の記録である。副題に示されているように、すべての人間が少なくとも潜在的に持っている創造性と自己制御の能力との関連において、私なりの生きがい論を展開してみた。もちろん人それぞれが自分流の生きがい論を持つのが本当であろうと思う。ただそのための参考になるであろうと期待したわけである。第二講のなかほどの三浦梅園に関する話の中に天動説と地動説が出てくるが、梅園自身は地動説を信じるようになったわけではない。この点、誤解のないよう念のために、この機会に附言しておきたい。  次の「この地球に生れあわせて」と「考え方を変えること」の二篇は、それぞれ中道学会と日本総合研究所での講演がもとになっている。どちらも「私の生きがい論」の最後に近い部分の論旨を、さらに詳しく述べたものである。それに続く「一人の『世界』みんなの『世界』」は朝日新聞に載った短文であるが、今まで私が書いたことのない愛情が問題になっている。第一部の最後の「歳をかさねること」と題する、やや長い一篇は、雑誌「創造の世界」のための講話がもとになっている。それは高齢化の進みつつある社会の中で、老年期に入りつつある私自身の人生論でもある。そういう意味で「私の生きがい論」の延長線上にあるわけである。  第二部の諸篇は「四国の旅」を除くと、すべて外国旅行の印象記である。一番はじめの「遍歴」という短文の中で述べられているように、自伝『旅人』は昭和九年(一九三四年)十一月で終っている。この時まで私は一度も外国へ出かけたことがなかった。まだ世間に名も知られず、国外(ママ)旅行さえあまりしなかった。そういう意味では閉鎖的世界の中に私は住んでいたのである。「欧米紀行」(一九三九年)と題する一篇に略述されているヨーロッパからアメリカへの、私にとっての初めての海外旅行を皮切りに、その後は度々、外国へ出かけることになった。その中のいくつかが、第二部の諸篇の題材になっている。それらは私の人生観にも、いろいろな影響を及ぼした。その一つとして、開放的世界観というようなものが定着したと言えるであろう。そういう意味で第二部は第一部と無関係でない。  以上の諸篇を文庫本として一冊にまとめて出版するにあたって、梶包喜部長はじめ講談社の文庫出版部の方々にいろいろお世話になった。この機会に感謝の意を表わしたいと思う。  最後になったが、本書——特に第一部——の解説を市川亀久彌氏にお願いした。同氏は長年にわたって創造性の研究を続けてこられた人であり、「私の生きがい論」の中でも、何度か同氏の説を引用した。従って創造論としての生きがい論は、市川氏にとってよそごとではなく、単なる解説以上に力のこもった解説を書いて下さったわけである。ここに厚く御礼を申したいと思う。 著作目録 著書 『ベーター線放射能の理論』一九三七年岩波書店 『最近の物質観』一九三九年弘文堂 『極微の世界』一九四二年岩波書店 『存在の理法』一九四三年岩波書店 『目に見えないもの』(一九四四年に養徳社から刊行した『物理学に志して』を増補、改題したもの)一九四六年甲文社 『理論物理学講話』一九四六年朝日新聞社 『自然と理性』一九四七年秋田屋 『量子力学序説』一九四七年弘文堂 『素粒子論序説』(上巻)一九四八年岩波書店 『科学と人間性』一九四八年国立書院 『物質観と世界観』一九四八年弘文堂 『原子と人間』一九四八年甲文社 『思考と観測』一九四九年リスナー社 『非局所場の理論』一九五二年朝日新聞社 『しばしの幸』一九五四年読売新聞社 『旅人』(角川文庫および講談社「名著シリーズ」としても刊行)一九五八年朝日新聞社 『現代科学と人間』一九六一年岩波書店 『本の中の世界』一九六三年岩波書店 『創造的人間』一九六六年筑摩書房 『創造への飛躍』(講談社文庫としても刊行)一九六八年講談社 『心ゆたかに』一九六九年筑摩書房 『湯川秀樹自選集』全五巻一九七一年朝日新聞社 第一巻『学問と人生』、第二巻『素粒子の謎』、第三巻『現代人の知恵』、第四巻『創造の世界』、第五巻『遍歴』 『自己発見』(「現代日本のエッセイ」)一九七二年毎日新聞社 『天才の世界』一九七三年小学館 『宇宙と人間・七つのなぞ』一九七四年筑摩書房 共著書および編著書 『原子核及び宇宙線の理論』共著者坂田昌一一九四二年岩波書店 『続理論物理学講話』共著者鈴木坦一九四九年朝日新聞社 『人間と科学』一九五六年中山書店 『素粒子』共著者片山泰久、福留秀雄一九六一年(第二版一九六九年)岩波書店 『平和時代を創造するために』共編者朝永振一郎、坂田昌一一九六三年岩波書店 『物理の世界』共著者片山泰久、山田英二一九六四年講談社 『素粒子の探究』共著者坂田昌一、武谷三男(一九五一年に毎日新聞社から出された『真理の場に立ちて』の増補版)一九六五年勁草書房 『核時代を超える』共編者朝永振一郎、坂田昌一一九六八年岩波書店 『平和の思想』一九六八年雄渾社 『現代の科学』II(「世界の名著」第六十六巻)共編者井上健一九七〇年中央公論社 『現代の科学』I(「世界の名著」第六十五巻)共編者井上健一九七三年中央公論社 対談録および対談集 『人間の進歩について』対談者小林秀雄一九四八年新潮社 『科学と文学』対談者潁原退蔵一九四九年臼井書房 『人間にとって科学とはなにか』対談者梅棹忠夫一九六七年中央公論社 『生きがいの創造』対談者市川亀久彌一九六七年雄渾社 『日本文化の創造』対談者上田正昭一九六八年雄渾社 『宇宙と心の世界』対談者谷川徹三一九六九年読売新聞社 『学問の世界』対談者宮地伝三郎、渡辺格、井上健、大塚久雄、梅棹忠夫、園原太郎、加藤周一、小川環樹一九七〇年岩波書店 『現代学問論』毎日新聞社編、対談者坂田昌一、武谷三男一九七〇年勁草書房 『半日閑談集』対談者梅棹忠夫、上田正昭、小林行雄、村松喬、W・M・スタンレー、小松左京、吉川幸次郎、市川亀久彌、司馬遼太郎、梅原猛、ライフ・バンチ、潁原退蔵一九七一年講談社 『人間の再発見』対談者市川亀久彌、梅原猛一九七一年角川書店 『科学と人間のゆくえ』対談者、小林秀雄、広津和郎、井上靖、大河内一男、芦田譲治、渡辺格、大川節夫、上田正昭、江上不二夫、市川亀久彌、梅棹忠夫、桑原武夫、朝永振一郎、山崎文男、加藤周一、大来佐武郎一九七三年講談社 この地球(ちきゆう)に生(うま)れあわせて 講談社電子文庫版PC  湯川(ゆかわ)秀樹(ひでき) 著 (C) Harumi Yukawa 1975 二〇〇二年一月一一日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000160