風少女 樋口有介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)欅《けやき》の黒い街路樹が |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)川村|千里《ちさと》です ------------------------------------------------------- [#ここから8字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  風の音が聞こえないのは、たぶん、高架になった新しい駅舎のせいだ。  駅前から繁華街に向かってまっすぐのびる道の両側に沿って、葉の落ちきった欅《けやき》の黒い街路樹がつき抜け、遠く赤城山の頂上付近からは民家の明かりが、たよりなく揺れながら届いている。繁華街から離れた前橋駅のまわりは、この時間になると、自分の溜息《ためいき》が聞こえそうなほどに静かになる。 「斎木さん……ですよね?」  改札口を出たところで、着替えだけが入ったバッグを担ぎなおしたぼくの肩の前に、後ろから歩いてきた女の子が、ひょいと顔をつっ込んできた。高校生ぐらいの歳《とし》だが、制服ではなく、タータンチェックのスラックスに白いとっくりセーターを着て、肩には革のハーフコートを羽織っている。 「やっぱりね。電車の中で見て、ずっとそうだと思ってたけど……覚えていません? わたし、川村です。川村麗子の妹の、川村|千里《ちさと》です」  立ち止まって、「ああ」とか「やあ」とか、ぼくもそんな声を出してしまったような気がする。女の子の尖《とが》った顎《あご》の輪郭や、好奇心の強そうな目の表情に、ぼくも一瞬、胸騒ぎに似たへんな懐かしさを感じたのだ。 「今、東京から帰って来たんでしょう? わたしも今日東京に行ってきたの。すっごい偶然ですよね」  それほどすっごい[#「すっごい」に傍点]偶然だとも思わなかったが、一応うなずいてから、なりゆきで、ぼくが訊いた。 「大学の、受験かなにかで?」 「いえいえ、まだまだ……今度三年だもの。斎木さんの方は、もう春休みですか?」 「いえいえ、まだまだ」 「大学は、ちゃんと入れたんでしょう?」 「ちゃんと、入れた……」 「よかったですよね。ふつうの人より、二年も遅れてるんだものね」  よくはわからなかったが、この子の人生には最後まで不幸なでき事は訪れないだろうと、一瞬の直感で、ぼくはもうほとんど確信していた。妙に生意気な口のきき方とは逆に、悪意や皮肉の方はその細い躰《からだ》の外に、すぽんと置いてきているらしい。  しかし、それはそれとして、そのこととは別に、ぼくと川村麗子が現実の関係において無関係だった以上に、ぼくと川村麗子の妹とは、もっと無関係なはずだ。川村麗子に妹がいたことを思い出したからって、ぼくがその妹の顔や名前まで覚えているわけはない。その理屈は、相手にしても同じはずだ。ぼくが中学を出てから、もう六年ちかくがたっている。  コートのポケットに両手をつっ込んだまま、遠慮なくぼくの顔を覗《のぞ》き込んでいる川村千里の目に、少し困って、ぼくが訊いた。 「君、前に、会っていたっけな?」  思いっきり見開いたその目に、駅舎の蛍光灯を強く反射させて、川村千里が答えた。 「会ってますよ。覚えていません? わたしが五年生のとき、斎木さん、一度家に来たことがあったもの」 「君の赤いランドセルは、覚えてる。だけど、そういうことじゃなくて……」 「斎木さんが姉に手紙を出したこともありました、ねえ?」  ねえ? と言われても返事のしようはないが、あのころぼくが川村麗子にのぼせていたことは事実だし、一種の病気の中で手紙《ラブレター》らしきものを出してしまったことも、歴史的には否定しようのない事実だった。 「あの手紙、君、読んだわけか?」 「まさか。麗子ちゃんに……あの、わたし、姉のことを麗子ちゃんて呼んでたの。いいですか?」  なぜぼくの同意が必要なのかは知らないが、川村千里に見つめられて、とりあえず、ぼくがうなずいた。 「それでね、あのころ、麗子ちゃんにはものすごくたくさん手紙が来てて、麗子ちゃん、そういうのみんな読まないで捨ててたの。わたしにもぜったい触っちゃだめだって。そういう手紙にはばい菌がついてるからって」  川村千里が、にやっと笑い、仕方なくぼくも笑い返した。怒ってみせるにはぼくの方だけ、ほんの少し歳をとりすぎている。 「でもね……」と、目を笑わせたまま、川村千里が言った。「麗子ちゃん、斎木さんの手紙は読んでいた。麗子ちゃんにしちゃ珍しいことするなって思って、それでわたし、斎木さんのことを覚えていたの。だけど本当は、やっぱり恐かった。だって、ねえ? あのころ斎木さん、不良でものすごく有名だったもの?」  思わず反論しかけたが、そこは精一杯の見栄で、ぼくはぐっと言葉を飲み込んだ。あのころぼくがつき合っていた連中が一般的に不良と呼ばれていたことは事実だったし、ぼくが川村麗子に交際を申し込んだこと自体、たんに『不良としてはまあまあの快挙』というにすぎなかったのだ。そしてたぶん、『不良である』というぼくは、自分で思っていたよりは『ものすごく有名』ではあったのかもしれない。 「怒りました?」と、生意気そうに口を尖らせ、首をかしげて、川村千里が下からぼくの目を覗き込んできた。「でも本当はね、わたしたち、図書館でなん度も会ってるんです。知りませんでした? 去年の春まで、斎木さん市立図書館で勉強してたでしょう? わたしが学校の帰りに図書館に寄ると、いつも斎木さんが一人で受験勉強してて、それでわたし、あれ、この人みんなが言う人と違うなって思って、それでわたし、ずっと斎木さんのことを観察してたんです……知りませんでした?」  もちろん、そんなこと知るはずはないし、だいいち一年間もずっと観察されていたことを知っていたら、ぼくだってもうちょっと格好のつけようがあったではないか。  背中が汗ばんできて、肩のバッグの位置をずらしてから、ぼくが訊いた。 「君も、今、前橋女学園に行ってるのか?」  眉《まゆ》を上げ、唇を尖らせて、川村千里がこっくんとうなずいた。 「吹奏楽部で、フルートなんか吹いてたら笑っちゃうな」 「わたしだって笑いますよ」と、尖らせたままの口で、川村千里が言った。「わたし麗子ちゃんに憧れて、中学に行ってすぐ吹奏楽部に入ったの。でも一年でやめちゃった。わたし、音楽の才能はまるでばつ[#「ばつ」に傍点]だったの。それで気がついたらばつ[#「ばつ」に傍点]だったのは音楽だけじゃなくて、それでわたし、麗子ちゃんの真似をするのはやめちゃいました」  自然に首だけはうなずいていたが、もちろんぼくは、それが正解であることを口に出しては言わなかった。才能のことはどうだか知らないが、川村麗子のあのへんに冷たい印象よりも、千里という子の、なんだかよくわからないこの人なつっこさの方が、少なくとも今のぼくにはずっと心地良かったからだ。  一年ぶんの敵《かたき》を討つつもりまではなかったが、コートのポケットに両手をつっ込んだままの川村千里の顔を、たっぷりと観察してから、ぼくが言った。 「麗子さんにはもう五年以上会ってない……今、東京にいるんだろう?」  川村千里が、一瞬目を見開き、ふてくされたような歩き方で、つつっと出口の方に歩きはじめた。その背中が『自分について来い』と命令している感じだったので、バッグを担ぎなおして、ぼくはすぐ川村千里の横に追いついていった。 「たぶん、そうだと思ってた」と、ふてくされたように歩きつづけたまま、ふてくされたような声で、川村千里が言った。「そんなこと、斎木さんが知るわけないわよね。やっぱり知らなかったんだ……」 「そんなことって?」 「言って……いいのかな。言おうかどうかずっと考えてたんだけど、やっぱり、言っちゃおうかな」  足を止め、横からぼくの顔を見上げて、川村千里が一度、しゅっと鼻水をすすった。 「わたしを、からかってないわよね?」 「そんな勇気は、ない」 「知っててとぼけてるとか?」 「そういう趣味もない」 「わかってる。ずっと観察してたから、斎木さんがそういう人じゃないことはわかってる。あのね……」  また鼻水をすすり、ぼくの顔をひと睨《にら》みしてから、頬《ほお》をふくらませて、川村千里がぷすっと息を吐き出した。 「あのね、麗子ちゃんね、ちょっと事故があって、本当はもう死んじゃってるの。わたし自身まだ本当だって信じられないけど、麗子ちゃん、もういないの。一昨日《おととい》が初七日で、それでわたし、今日、お袋の代理で東京の親戚に行ってきたの」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  最終のバスに乗るという川村千里を、タクシー乗り場の手前で見送り、そこで客待ちをしていたタクシーに、ぼくは一人で乗り込んだ。川村千里の家が同じ方向にあることは知っていたが、このときだけはやはり、姉の麗子の影を感じながら千里と肩を並べていく気にはならなかった。理屈ではなく、現実に、ぼくの手はもう川村麗子には届かない。  バスに乗っても三十分とはかからないが、タクシーなら、十分で着く。朝夕のラッシュ時ならともかく、夜の十時半ともなればなおさらのことだ。  ぼくが家に着いたときには、区画された住宅街の道の片側に十台以上のクルマが同じ方向に並んで停まり、街路灯の白い明かりにうっすらと青い影をつくっていた。他の家も寝静まっているわけではないが、聞こえるのは風の音だけで、ぼくの家からも人声ひとつ流れだしてはいなかった。  ぼくが玄関を開けると、二年前から出戻っている姉貴が、空気の中を泳ぐような格好で小走りに廊下に攻め込んできた。ぼくから見てもそれほど見てくれ[#「見てくれ」に傍点]の悪い女ではないが、この肩に力の入りすぎた感じが、たぶん相手方の家風に合わなかったかなにかしたのだろう。  じろりとぼくの顔を睨み、なにか言いかけた姉貴に、黙ったままバッグを渡し、黙ったまま、ぼくは居間に入っていった。  居間にはみな知った顔の親戚が十人ばかり、二つ並べて置いた座卓の周りに集まって、ひっそりと酒を飲んでいた。居間につづく台所のテーブルにも、やはりなん人かのおばさんたちがいて、その中からいくらか疲れたような顔のお袋が、なにかの合図のようにうなずきながら、ぼくの方に歩いてきた。 「早かったじゃないか……」と、ふーっと長く息を吐き、口の端を歪《ゆが》めて、お袋が言った。「早かったけど、ちょいと間に合わなかったんだよねえ」 「なん時だったのさ?」 「八時……十一分」  お袋が顎をしゃくり、ぼくとお袋は並んで居間を出て、廊下を挟んだお袋たちの寝室の方に歩いて行った。寝室では親父が、正月にぼくが帰って来たときと同じように、白いカバーのかかった厚い布団のなかでじっと横になっていた。正月のときとちがうのは、今目の前にいる親父が息をしていないということだけだった。  親父の横に、お袋と一緒に正座をして座り、一度手を合わせてから、ぼくが訊いた。 「通夜は、明日?」 「そう。さっき葬儀屋がきて、みんな段取りをつけていった。葬式は明後日《あさって》。市の斎場で十時から……あんたの喪服も借りておいた」 「苦しまなかっただけ、いいとするさ」 「あんた、いつごろまでこっちに居られる?」 「試験が始まるまでは、いいさ」 「初七日まで居ておくれな。親戚の手前もあるしね」 「つぼみ[#「つぼみ」に傍点]は?」 「自分の部屋に入ったきり。例のこと、すねてるみたいなんだよ」 「伯父さんたち、ずっと居るの?」 「今夜は引き上げる。明日はそうはいかないだろうけど」 「みんな帰ったら、風呂に入りたいな」  ちらっとぼくの顔を見て、一つ溜息をついてから、お袋が訊いた。 「夕飯、食べたのかい?」 「まだ」 「作る暇がなかった、お鮨《すし》の残りでいいね?」  うなずいて、立ち上がり、もう一度親父の顔を眺めてから、ぼくが廊下の方に歩きかけた。 「今夜は居間で寝ておくれな」と、そのぼくに、お袋が言った。「あんたの部屋、物置に使わせてもらったから」  歩いたままうなずきなおし、お袋を寝室に残して、ぼくはそのまま階段を二階の桜子の部屋に上がっていった。桜子は電気ストーブがついただけの部屋で、赤いGパンに白いとっくりセーターを着て勉強机の前に腰かけていた。 「下の方が、あったかいぞ」と、ドアの前にたったまま、ぼくが声をかけた。  桜子は一度ぼくに流し目をくれただけで、すぐに前を向き、自分の頬を両手で挟んで壁のカレンダーの方に、じっと視線を貼りつけた。 「どうした? おにいちゃんに、『お帰りなさい』も言わないのかよ」 「だって……」 「だって、どうした?」 「だって、おにいちゃんだって知ってたくせに」 「例のことか?」  頬杖をはずし、机の横まで歩いていったぼくの顔を、桜子が赤い目で睨み上げてきた。 「わたしだけみそっかす[#「みそっかす」に傍点]なんだもん。わたしだってもう高校生になるのにさ。どうしてわたしにだけ内緒だったのよ?」 「つぼみに、心配をかけたくなかったからさ」 「わたしにだって……心配する権利くらいあったもん」  桜子の両目に、涙が溜まり、その涙が左の頬だけを伝わって、すーっと勉強机の上に落ちていった。 「お父さんが治らないってわかっていたら、わたし、もっと一生懸命看病したのに」と、ぼくの腹のあたりに額を押しつけながら、桜子が言った。 「つぼみが一生懸命看病したら、自分の病気のこと、父さんにもわかったと思わないか?」 「わかったっていいもん。わたし、もっとお父さんと一緒にいたかったもん」 「いろいろ考え方は、ある。患者本人に癌《がん》であることを知らせた方がいいという意見と、知らせないで静かに死なせてやるべきだという意見と……どっちが正しいかは知らない。だけど母さんと姉さんは、父さんを静かに死なせてやる方を選んだわけさ。つぼみには教えない方がいいってことは、おにいちゃんも賛成だった」  桜子の目から、また涙が溢れだし、今度は両頬を伝わって、それがものすごい勢いでとっくりセーターの首に流れ込みはじめた。  ぼくはベッドの枕もとまで歩いて、ティシューの箱からペーパーを三枚抜き取り、それを好きなように涙を流している桜子の鼻の下に、ぺたんと押しつけた。 「高校生になるんなら、涙くらい自分で拭かなくちゃな」 「高校生じゃないもん。まだ中学生だもん」 「四月には高校生さ。前橋女学園に決めたのか?」  涙を拭きながら、桜子が首を縦にふり、それを見てぼくは桜子の低いベッドの端に腰を下ろした。 「試験、いつなんだ?」 「三月の、四日と五日」 「あと二週間か……受かりそうか?」 「おにいちゃんとちがうよ」  桜子が椅子を立ち、ベッドの側にまわって、そこにあったティシューペーパーをしゅっと抜きとった。  鼻をかんで、ティシューを屑籠《くずかご》に投げてから、桜子がぼくのとなりに腰を下ろしてきた。 「おにいちゃん、いつまで家に居られるの?」 「初七日までは居ろって、母さんに言われた」 「大学やめて、前橋に帰ってくる?」 「そうも、いかないさ」 「だって家の仕事、おにいちゃんがやるんでしょう?」 「仕事は母さんと姉さんでやっていける。父さんだって、姉さんが継いだ方が喜ぶし」  実際去年の秋に親父が入院してからは、専務だったお袋が仕事の一切を取り仕切っている。それに二年前からは姉貴が水道工事屋業『斎木工業』の経理として、元の仕事におさまっているのだ。 「おにいちゃん、もしかしたら、ずっと東京で暮して、もう前橋には帰ってこないつもりじゃない?」 「先のことは、まだ考えてない。大学だってあと三年もある」 「わたしね。それならそれでいい。わたしだって高校を出たら東京の大学に入るもん」 「先の話さ。そういうこと、みんなぜんぶずっと先の話だ」  階段に足音がして、待つまでもなく、ノックもせずに、姉貴がひょいと部屋に顔をつっ込んできた。 「みんな帰った……。亮ちゃん、早くお風呂に入って、夕飯を食べてちょうだい。桜子もいつまでもいじいじ[#「いじいじ」に傍点]してないで、片づけくらい手伝うの。明日はもっと忙しくなるんだから」  やってきたときと同じように、またひょいと顔をひっこめ、階段に恨みでもあるような足音で決然と姉貴が下におりて行った。  ぼくと桜子は、顔を見合わせ、二人同時にくすっと吹き出した。 「おにいちゃん……」と、立ち上がったぼくに、ベッドに腰かけたまま、桜子が言った。「前のお父さんが死んだとき、どんな気持ちだった?」 「覚えていない……まだ四つだった」 「やっぱり、悲しかったんだろうね」 「たぶん……な」 「おにいちゃん」 「ん?」 「今度も、そのときと同しくらい悲しい?」 「たぶんな。どうして?」 「だって、わたしとおにいちゃん、悲しさがちがうなんていやじゃない?」 「悲しいさ。つぼみと同しくらい、おにいちゃんだって悲しい。男だから泣かないだけさ」  ドアを開け、桜子の方に一度うなずいてから、後ろ手にドアを閉めて、ぼくは意識的にゆっくりと階段を下りはじめた。〈桜子、ぼくだっておまえと同しくらい悲しいさ。男だから泣かないだけさ……〉  しかし、本当だろうか。  風呂に入って、ぼくが居間に戻っていくと、片づけの済んだ座卓の周りにはお袋と姉貴と桜子が、コの字形に座ってそれぞれぼんやりとテレビを眺めていた。お袋と姉貴の手元には水割りのグラスが置かれ、前は親父の席だった場所には、ぼくのための鮨とビールの大瓶が用意されていた。  一瞬ためらったが、口には出さず、ぼくは黙ってその場所に座り込んで、一人で勝手にビールをコップに注ぎ入れた。 「なんて日だったんだろうねえ……まったく」と、テレビの画面に目をやったまま、お袋が言った。「これからの二日間、また思いやられるねえ……そう年中あることじゃないから、いいようなものの」  たしかにそう年中あることではないが、亭主の葬式を出すのは、お袋にとっては二度目のことだ。 「お墓、やっぱり大泉霊園なの?」と、水割りのグラスを口に運びながら、姉貴がお袋に訊いた。 「下小出の伯父さんに訊いたら、大泉はもう空きがないそうだよ。赤城の麓になんとかって新しい霊園ができて、そこならあるだろうってさ。明日葬儀屋が来たら訊いてみようかねえ」 「できるまでに、どれくらいかかるのかしらね?」 「一週間や十日ってことはないだろうね。お墓だから、まあ、水道工事だけは必要ないわけさ」  思わず、ぼくは笑いそうになったが、状況的にはやはり笑っていい場面ではなさそうだった。 「さてと……」と、テレビから視線を戻して、お袋が面倒臭そうに、三人の顔を見くらべてきた。「明日から当分ごたつく[#「ごたつく」に傍点]から、今のうちにこれからのことを相談しておこうかねえ」  グラスを一口なめ、落ち窪《くぼ》んだ目の上を指の腹でこすってから、お袋が言った。 「今のお墓のことだけど、一応分家だし、やっぱり新しいものを作ろうと思うんだ。お父さんが生きてるうちに準備するわけにもいかなかったからね。あと、通夜と葬式ね、こっちの方も手配は済んだ。受け付けだの案内だのは会社の連中にやらせるし、奥の方は町内会の奥さん連がやってくれる。挨拶だのなんだのはあたしと智雄|義兄《にい》さんとでやるから、あんたたちはまあ、神妙な顔して仏さんのそばに座ってればいいってことかね。それからね……」  またウイスキーを口に運び、今度はゆっくりと喉《のど》を通してから、座りなおしてお袋が小さく咳《せき》払いをした。 「本当はこれが一番大事なこと。悦子にはわかってるだろうけど、会社の方は、今のところなにも問題はないんだよ。だから桜子はとにかく、高校の入試を精一杯頑張るように。おまえは女の子なんだから、おにいちゃんみたいに高校浪人するわけにはいかないよ。この時期こんなことがあって可哀そうだけど、死んだ人間に文句を言っても仕方ないからね。亮もそうだよ。あんたは高校も大学も浪人してるんだから、出るときくらいせめて四年で出ておくれな。とにかく二人とも、勉強だけはちゃんとすること。心配なのはそれだけさ」  お袋が、口を歪めて欠伸《あくび》を噛み殺し、畳に手をついて、よっと立ち上がった。 「お父さんと二人だけで、ゆっくり寝かせてもらうとするか……今夜が最後だものねえ」  寝室の方に歩きだし、そこでお袋が、ちょっと姉貴の方をふり返った。 「あんた悪いけど、あとで居間に亮の布団敷いてやっておくれな。今夜はみんなもゆっくり寝るんだよ。通夜っていうくらいで、明日の晩は寝るわけにはいかないんだから」  お袋が居間を出ていき、残った三人が誰からともなく顔を見合わせ、一度ずつ、それぞれが小さい溜息をついた。 「お袋、口やかましくなったみたいだな」と、姉貴と桜子の顔を見くらべながら、ぼくが言った。「正月に帰ってきたときから、そんな気がしてた」 「血のつながってるあたしより、親父に似てるみたい。夫婦って、そんなものかしらねえ」 「おねえちゃん……」と、顎を胸にうずめて、桜子が姉貴の方に口を尖らせた。「明日、お風呂に入れるかな」 「明日は無理だわよ」 「わたし、今入る」 「入るならさっさと入って、さっさとやすみなさいよ」 「お母さんと一緒に、わたしもお父さんのそばで寝ようかな」  ふんと、唸《うな》るように、姉貴が軽く鼻を鳴らした。 「どこでも好きなとこで寝ればいいの」 「おねえちゃんも、お風呂に入る?」 「おまえのあとでいい。火も止めていいからね」  桜子が、頬をふくらませ、ぷすっと息を吐いて、そこでごろりと後ろに一回転した。そしてぼくに下手なウインクをして、そのまま小走りに部屋を出ていった。 「今のうちに布団でも敷くか……」と、桜子が出ていった居間の出口の方に、眉をしかめながら立ち上がって、姉貴が言った。「亮ちゃん、ちょっと、お膳だけずらしておいてよね」  居間の襖《ふすま》を開けたまま、姉貴が出ていき、ぼくは座卓を東の窓側に寄せて、それから鮨の皿と空のビール瓶を持って台所へ歩いていった。  ぼくはそこで自分の水割りをつくり、新聞紙の束の中から先週の地方紙を取り出して、水割りのグラスを持ったまま、その新聞をテーブルの上に開いてみた。  川村麗子の記事が載っていたのは、社会面のかなり下の方で、記事自体も二段見出しの二十行という、ぼくの気分との比較からは呆気《あっけ》ないほど小さいものだった。一応顔写真は載っているものの、見出しに川村麗子の名前があるわけではなく、注意していなければ読み過ごしてしまいそうな地味な記事だった。  川村千里が『ちょっとした事故で……』と言葉を濁したその事故というのは、新聞によると『浴槽での溺死』ということだった。川村麗子の体内から睡眠薬が検出されたことから、新聞では『事故死の可能性が強い』と結論していた。  あの川村麗子が、風呂桶の中で溺死? それも川本町にある『立冬荘』とかいう寒そうな名前のアパートで。川村麗子は実家ではなく、なぜアパートなんかに住んでいたのだろう。川村麗子が高校を卒業してから、東京の短大に行ったことは噂《うわさ》で聞いていた。ただぼくはこの六年ちかく、中学の友達とはほとんどつき合いはなかったし、特に川村麗子の消息からは意識的に遠ざかろうと努めていたのだ。 「亮ちゃん。水割り、あたしの分も作ってよ」と、運んできた布団を座卓の横に置きながら、台所の方に首をひねって、姉貴が言った。「冷蔵庫の中に切った沢庵があるから、それも持ってきてさ」  ぼくはそこで姉貴の水割りを作り、冷蔵庫からラップのかかった沢庵も出して、新聞と二つのグラスを持って居間に戻っていった。 「姉さん、川村麗子って、覚えてる?」と、座卓の端に座ってから、枕にカバーをかけている姉貴に、ぼくが訊いた。  布団の横から、座卓の前に膝《ひざ》で歩いてきて、姉貴がぼくの作ってきた水割りのグラスを、ひょいと取り上げた。 「覚えてるわよ。昔亮ちゃんがこっぴどくふられた[#「ふられた」に傍点]、あの妙に奇麗な子じゃない……その子、どうかしたの?」 「新聞に出てる」 「新聞に?」  姉貴が、ぼくの手から新聞を受け取り、ぼくが指さしたその箇所を、十秒ほど黙って目で追いかけた。 「とんだことに……」と、グラスの中に息を吐いて、姉貴が言った。「この記事、気がつかなかったわ。これがあのときの子なんだ? ずいぶんとまあ、奇麗な子だったのにねえ」 「似合わないんだよな」 「なにが?」 「風呂場で溺《おぼ》れて死ぬのがさ」  水割りを口に含み、そのグラスの縁から目を覗かせて、にやっと姉貴が笑った。 「初恋の思い出が、音をたてて崩れちゃった?」 「崩れてくれた方が、楽なんだけどね」 「まだ未練があったんだ?」 「そういうのとも、たぶん、ちがう気がする」  また水割りを呷《あお》り、グラスを置いて、姉貴が黙ってぼくの煙草の箱に手を伸ばした。そして一本をふり出し、火をつけて、片手で頬杖をついてぼくの顔を覗き込んだ。 「あのときはさあ、あたしも若かったのよねえ、今考えたら恥ずかしいくらい。でも亮ちゃんが本気なことは、なんとなくわかっていた」 「相談する相手、間違えたわけじゃないんだ。ああいう問題は他人《ひと》に相談しても意味がないって理屈を、知らなかっただけ」 「あたしも無茶なこと言ったわ。ちょうど自分の結婚話があって、あたしの方も頭に血がのぼっていたのよねえ」 「結論を出せ、姉さん、そう言ったっけな。自分の気持ちを相手に打ち明けて、良くても悪くても結論を出せ。一つ一つ目の前の問題に結論を出さなくちゃ、人生は先に進まない……それで結論を出して、とんでもない目にあった」 「それ、皮肉なわけ?」 「皮肉じゃないさ。人生の現実を教えられて、姉さんには感謝してる。ただちょっと、早かったかもしれないな。もうしばらく、人生の現実になんか目覚めたくはなかった」  水割りを口に含み、軽く息をついてから、煙草の煙に目を細めている姉貴に、ぼくが訊いた。 「姉さん、そろそろ考えないのかい?」 「なにを?」 「次の結婚」  煙草を指の先で持ちかえ、それを灰皿でつぶして、下を向いたまま、くすっと姉貴が笑った。 「現実と幻想の間にはさあ、深くて暗い川があるのよねえ。風邪をひくとわかってて川に飛び込むのなんか、もうまっ平」 「諦《あきら》める必要もないさ。風邪をひいたのは、一度きりなんだから」 「そっちはどうなのよ。高校のときにつき合っていたあの子、なんて言ったっけ?」 「南村葉子?」 「あれは二か月で別れたやつでしょう? そうじゃなくて、表町の書道の先生の娘、あの子なんかいい子だったじゃない。やっぱり東京の大学に行ったんでしょう?」 「東女《とんじょ》に行ったって、誰かから聞いたな」 「東京じゃ、つき合っていないの?」 「そういうことに、持久力が足りないんだ」 「あんたも変わった子よねえ。本当は優しいくせに、そっちの方だけは飽きっぽいんだから……それともやっぱり、この川村麗子って子のこと、引きずってるわけ?」 「そんな、ロマンチストじゃないさ」 「どうだかねえ。思い込むと、亮ちゃん、意外としつこいもんねえ」  ぼくは姉貴の前から煙草の箱を取り返し、一本に火をつけ、その煙を天井に向かって、ふーっと長く吹きつけてやった。『しつこい』の一言で片づけられても困るが、ぼくの気持ちが川村麗子から卒業できていないらしいことも、客観的には事実なのだろう。  廊下に足音がして、白地に苺《いちご》の模様がプリントされたパジャマを着た桜子が、濡れたままの髪でもぞもぞと居間に戻ってきた。 「お母さんたら、意地悪なんだよ」と、襖の前に立って、桜子が言った。「わたしをお父さんと一緒に寝かせてくれないの」 「おまえが一緒じゃ、父さんだって化けて出にくいもの」と、姉貴が答えた。 「最後の夜なのにさ。わたしだって一緒に寝たいもん」 「母さんの気持ちも考えなくちゃね」 「だって……」 「そういうもんなんだよ、男と女って」 「そういうものって?」 「そういうものはそういうもの。おまえにはわからないの」 「そのくらい、わたしだってわかるもん」 「わかるんならぐずぐず言ってないで、風邪ひかないうちにベッドにお入りよ」  桜子が台所の方に歩きだし、歩きながら、姉貴に向かっていーっと下唇をつき出した。 「牛乳を飲みに来ただけ。牛乳飲んだらさっさと寝るもん。もうずーっと眠って、明日なんか夜まで起きてやらないもん」  姉貴が、呆《あき》れたような顔で欠伸《あくび》をし、残った水割りを飲み干して、よっと立ち上がった。 「お風呂に入って、寝るとするかな」と、首の後ろを自分の手でもみながら、姉貴が言った。「亮ちゃん、寝る前にストーブだけ止めておくれ。お膳はこのままでいいからね」  姉貴が桜子を無視したまま、部屋を出ていき、ぼくの方はグラスをつまんで、冷蔵庫の前でなにやらごそごそやっている桜子のところへ、ゆっくりと歩いていった。ぼくはそこで水割りを濃く作りなおし、テーブルをはさんで桜子の向かい側の椅子に腰をおろした。 「つぼみ、高校に行ったら、なにかクラブに入るのか?」と、冷蔵庫にもたれて牛乳を飲んでいる桜子に、ぼくが訊いた。  牛乳のコップを口にあてたまま、桜子がテーブルをぼくの方に回り込んできた。 「自然科学部」 「自然科学部?」 「前女の自然科学部って、有名なの。知らなかった?」 「知らなかった。なんだそれ?」 「自然と文化の関係とか、地球の環境問題とか、そういうことを研究するの」 「ふつうのことに、興味はないのか?」 「ふつうの、なによ?」 「レコード大賞は誰がとったかとか、巨人は今年優勝するだろうかとか」  テーブルに腹を押しつけて、ぼくの顔を見下ろしながら、桜子がぷくっと鼻の穴をふくらませた。 「おにいちゃん、そういうことに興味あったんだ?」 「たとえばの話さ。たとえば、好きな男の子と高校が別になって悲しいとかさ」 「わたし、男の子なんかに興味ないもん」 「地球の環境問題よりは、興味深いと思うけどな」 「誰と誰がどうしたとか、誰がどの子を好きだとか、そういうことぐずぐず言うの、わたし大嫌い」 「もしつぼみのことが好きなやつがいて、そいつから手紙なんかきたら、どうするんだ?」  目を見開いて、空になったコップをテーブルに置き、桜子が椅子の背もたれに手をかけて、そこにパジャマの腹を軽く押しつけた。 「向こうが勝手に好きだって、こっちも好きになるって、限らないじゃない?」 「だから手紙をよこすのさ」 「そういうのって、気持ち悪いよ」 「男の子から手紙もらったこと、ないのか?」 「手紙くらい、あるもん」 「その手紙、どうした?」 「やぶいて捨てちゃった」 「どうして?」 「その子のこと、わたし好きじゃなかったもん」  ぼくは水割りのグラスを取り上げ、椅子を立って、いくらか酔いを感じながら居間に戻り、そして敷いてある布団の上に胡座《あぐら》をかいて座り込んだ。  桜子が台所の電気を消し、ぼくの顔に流し目をくれながら、居間の出口の方にぶらぶらと歩いてきた。 「手紙のこと、なんでおにいちゃんが怒るのよ?」と、濡れた髪にタオルを巻きつけながら、桜子が言った。 「怒ってなんか、いないさ」 「怒ったわよ。顔に書いてあるもん」 「顔になんかなにも書かない」 「おにいちゃんて、怒ると顔に出ちゃうもん」 「冷えないうちに、寝た方がいいぞ」 「ねえ、なにを怒ったの?」  ぼくは手に持っていた濃いめの水割りを、半分ほど喉に流し込み、人差し指をつき出して居間の出口を桜子に指し示した。 「怒ったわけじゃない。つぼみに手紙を出したやつが、なんとなく可哀そうになっただけさ。そいつもたぶん、なん度もなん度も字を練習して、『ラブレターの書き方』とかってやつを研究して、誰かに相談もして、それでけっこう気合いを入れてつぼみに手紙を出したのかもしれない。そう思ったらな、なんとなくそいつのことが可哀そうになった」  なにやら唸りながら、なん歩か出口に向かってから、桜子が困ったような顔で、そっとぼくの方をふり返った。 「ごめんね。忘れてた……おにいちゃん一生懸命東京から帰ってきて、今日、疲れてるんだよね」 [#改ページ] [#ここから8字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  朝から晴れて、空気が冷たい。こういう日は午後から風になる。小学校のころは校庭で遊んでいて、夕方家に帰ると、髪の毛の中から小さな砂粒がじゃりじゃりとこぼれ出してきたものだ。二月の前橋の風は、土埃《つちぼこり》ではなく砂埃を舞い上げる。  家の中がざわつき始めたのは、遅い朝飯が終わった、朝の十時ごろからだった。  まず町内会のおばさんたちがやってきて、お茶だのお茶菓子だのの支度を始め、次に葬儀屋がやってきてお袋たちの寝室に棺桶を運び込んだ。それから葬儀屋の人たちは、通夜の目障りになりそうな家中の家財道具を、まったく感心するほど躊躇《ちゅうちょ》なくぼくの部屋に押し込んでいった。そのころにはぽつぽつと、葬式用の花輪も届きはじめていた。  父親が死んで、その通夜の日、息子がこれほど暇だというのは、ぼくにはかなり感動的な発見だった。これは血の繋《つな》がりがあるとかないとかいうこととは、たぶん無関係だろう。普通に考えればこの儀式の主役は死んだ父親で、お袋がその相手役。姉貴やぼくや桜子は重要な助演者ということなのだろうが、現実にはぼくと桜子が演じなくてはならない役など、なにもありはしなかった。棺桶のそばに座ってじっと俯《うつむ》いているだけなら、特別な演技力は必要ない。  昼ごろ、我慢できなくなって、ぼくは姉貴のクルマを借りて外に出た。六時から始まる通夜までに帰ってくればいいし、帰ってこなくても、それはそれでいい。親戚のおばさんの誰かが「亮ちゃんは変わってるから……」という一言で片づけてくれる。  亀橋和也の家は、大渡り橋を市街地から総社側に渡った、利根川の少し西にあった。それよりもっと西は前橋の工業団地といわれる地区で、亀橋和也の家はそこで自動車の修理工場をやっていた。亀橋自身、市内の工業高校を卒業したあと、親父さんのやっているその自動車の修理工場を手伝っているはずだった。  吹き抜けになっている『亀橋自動車』の工場には、三台の修理中らしい乗用車が並んでいるだけで、親父さんも亀橋も、それ以外の人も人の影は一つも見あたらなかった。ぼくは工場の脇にある窓のついたドアを開けて、奥の方に声をかけた。  人の気配がして、事務所とは反対側のドアから、五十ぐらいの厚化粧のおばさんが肩で息をしながら飛びこんできた。ぼくの方はすぐに気がついたが、それは亀橋のお袋さんだった。『亀橋自動車』は中学のときまで、ぼくの家の近くにあって、そのころぼくは毎日のようにその家に入り浸っていた。 「亮ちゃんかい? ねえ? 斎木の亮ちゃんだいねえ?」と、お袋さんもぼくの顔を思い出して、すぐに化粧と同じ派手な甲高《かんだか》い声を出してきた。「しばらくだいねえ、まったくさあ、どうしてたん?」 「ご無沙汰してました」と、お辞儀をして、ぼくが言った。 「ご無沙汰なんかお互い様だけどさあ。へええ、斎木の亮ちゃん。まあすっかり大人っぽくなってさあ」 「やつ、居ますか?」 「今|昼食《おひる》食べに行ってるんよ。あと十分もすりゃ帰ってくるからさあ。上がってちょっと待ってないね?」 「ここで、いいです」 「そこじゃ寒いもんさあ。ねえ、知らない家じゃないんだしさあ」 「すぐ、帰りますから」 「水臭いねえ。ええ? いつからそんな水臭くなったん? とにかく上がりないね。和也もすぐ帰ってくるからさあ」 「本当に、ここでいいです」 「本当にここで? ほーんと。まあ奥も散らかってるけどさあ。そいじゃそのへんの椅子に腰かけておくれな。コーヒーがいいかい? 紅茶がいいかい?」 「コーヒー、もらえますか?」 「コーヒーね。わかった。とにかくそんなとこに立ってないでさあ。ねえ、もっとストーブのそばに寄ってさあ」  亀橋のお袋さんが、もの凄《すご》い勢いで姿を消し、ぼくは一つ息をついてから、椅子を引き寄せてガスストーブの前に腰を下ろした。以前と工場は変わっても、この機械油とシンナーの臭気《におい》は、なんとなく懐かしい。  ぼくが煙草を取り出して、一本を吸い終わる間もなく、亀橋のお袋さんがコーヒーを盆にのせて戻ってきた。 「さっきは急だったんで、言いそびれたけどさあ」と、事務机に盆を置いて、亀橋のお袋さんがストーブの前ににじり寄ってきた。「斎木工業って会社の社長、もしかして亮ちゃんのお父さんじゃなかったかさあ?」  うなずいて、煙草を消し、ぼくは手を伸ばして、盆の上からコーヒーカップを取り上げた。 「やっぱりねえ」と、いくらか地味な声で、亀橋のお袋さんが言った。「今朝新聞見てさあ。もしかしてそうじゃないかって和也とも話してたんさ。そうかい、そりゃとんだことだったいねえ。そいで亮ちゃん、やっぱり葬式で帰って来たん?」 「一応、そうです」 「たいへんだいねえ。お父さんて人、まだ若かったんだろう?」 「六十一でした」 「若い若い。近ごろの六十一はまだ働き盛りだもんねえ。それでなんだったっけ? 脳卒中だっけ?」 「胃癌です」 「胃癌? へええ、そいつはまあねえ、たいへんだったいねえ。長いこと寝てたんかい?」 「去年の秋に入院したときには、もう助からないと言われました。一月一杯もてばいい方だったそうです」 「そうなんだ? へええ。若い人の癌て、進むと早いっていうからねえ」  亀橋のお袋さんは、そこでちょっと言葉を切り、カーデガンのポケットから煙草を取り出して、使い捨てのライターでしゅっと火をつけた。 「だけどなんだよねえ、その……」と、はっきりと見事に描かれた眉毛の間に皺《しわ》をよせて、ちらっと、亀橋のお袋さんがぼくの顔をうかがった。「斎木工業の社長って人、たしか、亮ちゃんの二度めのお父さんだったいねえ?」  ぼくは甘ったるいインスタントのコーヒーを、一口口に含み、それを飲み下す仕種《しぐさ》で声の返事をごまかした。 「まあね。二度めでもなんでもさあ、身内が死ぬってのはたいへんなことだけどさあ。それで会社の方、なんとかやっていけるん?」 「お袋と姉貴で、なんとか」 「そうかい。そりゃ良かった。お母さんと姉さんとで……姉さんて、なんていったっけ、悦子さんだっけ? 奇麗な人だったいねえ。あの人結婚したんだよねえ?」 「二年前に戻ってきて、今また会社の仕事をやってます」 「二年前? ほーんと、ちっとも知らなかった。お宅もいろいろたいへんだったいねえ。そいで亮ちゃん、あんたどっかの大学に行ったって聞いたいねえ?」 「ちょっと、三流の」 「サンリオだってなんだってさ。大学に行けりゃ大したもんだよ。へええ、亮ちゃん大学生かい。それでそのサンリオって大学、どこにあるん?」 「渋谷です」 「渋谷? 渋谷っていや有名だよねえ。そうかい、あの和也と遊び回っていた亮ちゃんが大学生かい。立派んなったいねえ。それに比べてうちの和也、もうちょっとで高校も出られないとこだったんだよ。出席日数が足らないとかでさあ……市会議員の神山さんて知ってる?」 「さあ……」 「その市会議員の神山さんていう人がね、うちのお客さんでさあ。それで神山さんに学校と談判してもらって、それでやっと卒業できたんさ。今どき高校くらい出てなけりゃさあ、自動車の修理屋だって世間体が悪いやね」  そのとき、工場側のドアが開いて、たいして世間体が悪くもなさそうな顔で、つなぎ[#「つなぎ」に傍点]にジャンパー姿の亀橋がのっそりと事務所に入ってきた。会うのは二年ぶりだったが、亀橋はいくらか太っていて、鼻の下には短い口髭《くちひげ》をはやしていた。 「あの派手なシルビア、おまえが乗ってきたんか?」と、挨拶のつもりでか、亀橋が車道の方にその角張った顎を、ひょいとしゃくってみせた。 「姉貴のクルマさ」と、ぼくが答えた。 「今朝新聞に出てたの、やっぱり亮ちゃんのお父さんだってさあ」と、ストーブの前を亀橋に明け渡しながら、亀橋のお袋さんが言った。「それで亮ちゃん、今サンリオってとこの大学行ってるんだってさあ」 「なあ母ちゃん、俺にもコーヒーいれてくれよ」 「生意気言うんじゃないよ。コーヒーなんかそのへんで飲んでくりゃ良かったじゃないか」 「インスタントのよう、クリープたっぷりのやつが飲みてえんだよ」  亀橋のお袋さんが、口の中でなにかきゅっきゅっと言いながら、家に入っていき、亀橋も椅子を引き寄せて、それに腰かけて手をストーブの前につき出した。亀橋の短く切ったどの爪の間にも、黒い油の染《し》みがうっすらとこびりついていた。 「新聞見て、親父さんのことはすぐ気がついたけどよう」と、ストーブの前で手をこすりながら、亀橋が言った。「それでおまえ、いつ帰って来たんだよ?」 「昨夜。親父が死んだあと」 「葬式は明日だってな。おばさん、元気なんか?」 「前からわかってたことだから、覚悟はしてたらしい」 「明日が葬式なら、今夜は通夜じゃねえか。こんなとこでぶらぶらしてていいのかよ?」 「暇もてあまして、おまえの顔見にきたんさ」 「薄情なんだよなあ。おまえってそういうとこ、あったもんなあ」  亀橋が立ち上がり、今度は反対側を向いて、掌と一緒にストーブでつなぎ[#「つなぎ」に傍点]の尻を焙《あぶ》りはじめた。 「さっきお袋が言ったサンリオっての、なんだ?」と、亀橋が訊いた。 「三流って言ったら、おばさんが勝手に間違えた」  けっと、痰《たん》を吐くような感じで、面白くもなさそうに亀橋が笑った。  亀橋のお袋さんが戻ってきて、モーニングカップに溢れるほど注いだコーヒーを、なにやら唸りながら直接亀橋の手に手渡した。 「忘れてたけど」と、亀橋のお袋さんが、亀橋に言った。「さっき森田さんから電話があってさあ、カローラの車検、上がってるかって訊いてきたよ」 「上がってると思うぜ。だけど一応親父に訊いた方がいいな。書類のことは俺にはわからねえ」 「父ちゃん、なん時ごろ帰るって言ってた?」 「知らねえけど、陸運局だから三時には帰るんじゃねえのか?」 「まったくさあ。出たら出たで、途中で電話っくらい入れりゃいいのにさあ」  亀橋のお袋さんが、舌打ちをしながら奥に入っていき、その閉まりきったドアに、亀橋がまたけっと笑いかけた。 「おばさん、変わらないな」と、ぼくが言った。 「ちったあ耄碌《もうろく》すりゃいいのによう。最近カラオケに凝《こ》りやがってな、夜中まで帰って来やがらねえ」 「倅《せがれ》の方は? 足洗ったのか?」 「決まってらあ。もう乳くせえ連中とバイク乗り回す歳じゃねえもんよ」 「前橋も、いくらか静かになったわけだ」  亀橋が、ふんと鼻を鳴らし、肉の厚い汚れた手でコーヒーをずずっとすすり上げた。 「俺も最近考えてよう。クルマの修理屋なんて、わり[#「わり」に傍点]のいい商売じゃねえしな。そのうち中古のディーラーで金ためて、郊外スーパーとか郊外レストランとか、ああいうのやりてえなって思うんさ」 「おまえ、顔が広いしな」 「中学んとき、田中由美子っていたの、覚えてるか?」 「陸上やってたやつだ。ひょろっとして、色が黒かった」 「ありゃ日に焼けて黒かったんさ。今はそれほどじゃねえ。俺よう、今由美子とつき合っててな、結婚してもいいかなって思うんさ。やつん家《ち》、敷島でスーパーやってるんだ」  亀橋が、コーヒーを飲み干し、ニキビのあとが残った頬を歪めて、にたっとウインクをした。 「時間、あるのか?」と、亀橋が訊いた。 「ある」と、ぼくが答えた。  亀橋がカップを机に置き、ドアの方に躰をずらして、ぼくに向かってひょいと顎をしゃくってみせた。 「珍しいもの見せてやる。びっくりするぜ。由美子には文句言われるけど、どっち取るかって言われりゃ俺はこっちを取っちまう……由美子には、そうは言えねえけどよう」  亀橋がぼくを連れていったのは、工場の南側にある、となりの建物との間の日の当たらない空き地だった。そこに行くまでのあいだ亀橋は、つなぎのポケットに両手をつっ込んで、最後まで工藤静香の『恋一夜』を歌いつづけていた。 「信じられるか? こいつが子持村の解体屋に眠ってたってはなし」  たぶんクルマだろうとは思っていたが、シートを剥《は》いで亀橋がぼくに披露したのは、やはりクルマだった。ただそれがどこの国のなんというクルマかは、ぼくには見当もつかなかった。全体に丸っこい感じで、寸が詰まっていて、正面から見ると豚か狸《たぬき》の顔のような印象を受ける。フォルクスワーゲンの古い形かとも思ったが、そうでもないらしい。 「仕事で子持に行ってな……」と、うっとりした目でクルマの深緑色のボディーを撫《な》でながら、亀橋が言った。「そしたら解体屋の裏によう、こいつが野づみされてるじゃねえの。びっくりしたなんてもんじゃなかったぜ」 「日本の……クルマか?」 「あのなあ」  亀橋がジャンパーのポケットから、煙草を取り出し、一度ぼくにいやな流し目をくれて、それにしゅっと火をつけた。 「尻《けつ》に回って名前見てみろや」  ぼくは本当のところ、そのクルマがタイタニックでもB29でもよかったのだが、昔の不良仲間の義理で、一応うしろに回り込んだ。 「ダットサンて書いてあるな」 「そうよ、ダットサンブルーバードさ。三十年前のブルーバードってわけ」  亀橋が、煙草をふかしながら、ぼくの方に回ってきてふーっと溜息をついた。 「うっとりしちまうぜ、なあ? このテールランプ茄子《なす》型っていってな、次の年式からはもう尖っちまうんだ。だからこいつが茄子型の最後のやつ。これだけのクルマ持ってるの、前橋じゃ俺一人じゃねえかな」 「動くのか?」 「動くさ。ちょいと苦労したけど、動くようになるまで半年かかった」 「半年かけて、動かして、どうするんだ?」 「どうもしねえよ。こういうクルマって動くだけで意味があるんさ。つまり……男のロマンみてえなやつよ。ロマンのねえ野郎にはわからねえさ」  亀橋の言うとおり、ぼくにはそんなロマンはなかったし、このクルマに関して文句を言うという田中由美子も、たぶんロマンなどは持っていないのだろう。  ぼくは躰の向きを変え、日向の部分に歩いて、そこで背中で風を防ぎながら自分でも煙草に火をつけた。 「川村麗子のこと、知ってるよな」と、腕を組んでクルマに見惚《みと》れている亀橋に、ぼくが言った。  亀橋が顔を上げ、くわえていた煙草を、ま下の地面に向かってぺっと吐き捨てた。  捨てた煙草をスニーカーの底で踏みつぶしながら、亀橋が言った。 「そのことじゃねえかと思ってたぜ……おまえ、誰に聞いた?」 「昨夜前橋駅で、川村の妹に会った」 「川村千里……か。あいつと知り合いだったわけか」 「向こうが知ってただけさ。彼女はたぶんおまえのことも知ってる。不良で有名だったらしいから」  けっと、面白くもなさそうに亀橋が笑い、また義理でぼくも笑い返した。 「俺、会ったことねえけどよう、千里ってけっこう可愛いって聞いたぜ?」 「同級生じゃなくて、助かったさ」 「そんなにいいのかよ?」 「田中由美子ほどじゃ……ないけどな」  亀橋が、今度は声を出して笑い、ぼくの方に歩いてきて、口髭をこすりながらぺたんと日向の中にしゃがみ込んだ。 「けっこう騒ぎになったさ。あの川村麗子のことだもんよう、騒ぐなって言う方が無理な話よ」 「気にくわないんだよなあ」 「なにがよ?」 「風呂場で、溺れたっていうの」 「そりゃあよ、おまえにとっちゃ、川村は小便もしねえし糞《くそ》もたれねえかも知んねえけど、現実ってこんなもんだぜ? やつだって男に惚《ほ》れりゃ股《また》も開くし、風呂場で滑って頭打つことだってあらあ」 「彼女、頭打ってたのか?」 「そういう話さ。薬飲んでたの、知ってるか?」 「新聞に書いてあったな」 「それでよう、初めは自殺って線もあったらしいけど、頭打ってることがわかって、けっきょくは事故ってことになったらしい」 「睡眠薬飲んで、風呂場で滑って頭打って、それで溺れて死ぬなんての、川村麗子に似合ってると思うか?」 「だからよう……」 「わかってる。わかってるけど……彼女みたいな女、死ぬときももっと格好つけると思ってた。たとえ交通事故で死ぬとしても、相手のクルマはちゃんとBMWだとかさ」 「まあな……おまえの気持ち、わかんねえわけじゃねえさ」  亀橋が、もぞっと起き上がり、クルマの前まで歩いて、その前輪のフェンダーに右の腰で軽く寄りかかった。 「川村麗子、いつ前橋に帰ってきたか、知ってるか?」と、ぼくが訊いた。 「去年の春さ」と、また煙草に火をつけて、亀橋が答えた。「おまえが東京に出たのと入れ違いだったわけよ。短大卒業して、すぐ帰ってきたらしい……由美子もよう、中学で川村と同級だったことがあってな、けっこうそういう話に詳しいんだ。女のネットワークって恐ろしいからよう」 「彼女が死んだの、川本町のアパートだったよな」 「そうらしい」 「実家があるのにか?」 「詳しいことは知らねえけど、要するに、おまえん家《ち》とおんなしなわけよ」 「家《うち》と、同しって?」 「要するに、川村の親父さんていうの、やつの本当の親父じゃねえわけ。お袋さんが川村を連れて再婚したんだとさ。そういうこと、最近みんな由美子に聞いたんだ」 「もしそうなら、前橋に帰ってこなくてもいいだろうに」 「知らねえよ。詳しいこと、本当になにも知らねえんだ。だけどおまえん家《ち》だって、やっぱりなんかごちゃごちゃあるわけじゃねえか、なあ?」  ぼくの家が、どういうふうにごちゃごちゃあるのかは知らないが、お袋と姉貴とぼくと桜子と、その全員に血のつながりがあるのは元々が桜子一人だけなのだ。それは親父が生きていたって同じことで、だからってぼくの家では、誰も睡眠薬なんか飲んで風呂場で溺れたりはしないだろう。 「川村麗子、前橋で勤めでもしてたのかな」 「どっかの会計事務所に行ってたんだとよ」と、クルマのボディーを掌《てのひら》で撫でながら、亀橋が言った。 「田中由美子、川村麗子のこと、他になにか知ってると思うか?」 「どうだかな。べつに最近つき合ってたわけじゃねえらしいから。それよりよう……」  亀橋がクルマのドアを開け、中からタオルを取り出して、くわえ煙草のままそのタオルでフロントガラスを拭きはじめた。 「おまえ、氏家《うじいえ》と桑原|智世《ともよ》が同棲してるの、知ってたか?」 「氏家って、学級委員長だった氏家孝一か?」 「やつ、東大三回おっこってな、去年の秋から広瀬川の川っぷちでスナックやってる、昔『くるみ』ってジャズ喫茶があったとこ。叔父さんだか叔母さんだかに金を出させたって話だ」 「氏家と、桑原智世……か」 「わかんねえよなあ。気にくわねえ野郎だったけど、氏家なら東大ぐれえ、かんたんに入れると思ってたけどなあ」 「それで……」と、クルマを亀橋とは反対側に回って、ぼくが訊いた。「桑原智世の方、どうしてたんだ」 「前女を出て看護婦んなった。去年から新前橋病院に勤めてる。おまえ、伊勢崎の高校に行ったから知らねえだろうけど、二人がつき合ってるのは前から有名だったんさ。桑原は中学のとき陸上部に入ってたことがあって、それで由美子とも仲がいいんだとさ」 「桑原智世も学級委員だったから、川村麗子のことはよく知ってるわけか」 「そういうこと。俺の方はみんな由美子からのまた聞きなわけよ」  横を向いて、煙草を地面に吐き、タオルをボンネットの上に放ってから、亀橋が後ろに下がってクルマの方にじっと目を細めた。 「このヘッドライトの形、いかすんだよなあ。なんで女にわかんねえのかなあ」 「氏家のやってる店、なんていうんだ?」 「『青猫』だとさ。朔太郎の詩からとったんだと。氏家らしいっていや氏家らしいや」  クルマからぼくの顔に視線を回し、つなぎ[#「つなぎ」に傍点]のポケットに両手をつっ込んで、背中を丸めて亀橋が寒そうに幾度か足踏みをした。 「おまえ、いつまでこっちに居るんだ?」 「一週間」 「葬式が終わったらよう、どっかで一杯やらねえか? 由美子にも会わせる。やつ色だって白くなったし、けっこう可愛くなってるぜ。五年もすりゃあみんな変わるんさ。俺だってバイクやめたし、エリートやめた奴だっているし……だからよう、普通のつまらねえ女んなって、風呂場で溺れて死ぬやつだって出てくるわけよ。おまえがこだわるのはわかるけど、人生ってよう、そういうもんじゃねえのかなあ」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ぼくが家に戻ったのは、三時前だったが、通夜の支度の方は感激するくらい完璧《かんぺき》に出来あがっていた。となりの家とぼくの家の塀には、合わせて三十本以上の花輪が並び、門から玄関までの間には白黒の幕が張られて、この時点のこの家が尋常でない状況に置かれていることを、かなり露骨に主張していた。  ぼくの居場所がないことは、本当は最初からわかっていた。玄関も居間も台所も、近所のおばさんや親戚や知らない人たちに占領され、棺桶の置かれた部屋も、親父の兄弟と早い弔問客でまるで花見が始まる前のような賑《にぎ》やかさだった。  ぼくは生花で囲まれた棺桶の前に、しばらくお袋たちと座っていてから、便所に行くふりをしてそのまま二階の桜子の部屋に上がっていった。ぼくとしては六時からの通夜の席に、取りあえず顔を並べればいい。  桜子の部屋で、電気ストーブをつけ、荒井由実のテープをラジカセにセットして、ぼくはラッコの縫いぐるみをどけてベッドの上に横になった。このとぼけた顔をした茶色の縫いぐるみも、荒井由実のテープも、いつだったか桜子の誕生日にぼくが買ってやったものだった。  そのうち、ラジカセから『姫ジョーン・春ジョーン』の歌が流れてくるころには、ぼくの意識はもう半分ほど宙に浮いて、外の風の音と遊びはじめていた。昨夜《ゆうべ》寝つかれなかったせいと、寝ついたときには朝になっていて、姉貴のスリッパの音とわざとらしい一人言で布団から引きずり出されたせいだった。  不確かな意識のなかで、ぼくの頭には中学生のころの川村麗子を中心に、亀橋和也や氏家孝一や桑原智世の顔が、妙にはっきりと浮かび上がっていた。どの顔の印象も、季節は冬ではなく、柔らかい光を受けて頬と目がくすぐったそうに輝いていた。その中に自分の顔が現れないのは、たぶんぼく自身がそれらの記憶から距離を置こうとしているせいなのだろう。  ドアが開いて、そのことにぼくが気がついたときには、口を尖らせた桜子がもう怒ったような顔でまっすぐ部屋に入ってきていた。 「やっぱりここに居たんだ……おにいちゃんてずる[#「ずる」に傍点]なんだから」 「ちょっと、疲れたんだ」と、起き上がりながら、ぼくが言った。 「お客さんが来てるよ」 「知ってるさ、通夜だもんな」 「そうじゃなくて、おにいちゃんのお客さん」  ベッドから起き上がったぼくの顔を、不遜《ふそん》な目つきで、桜子が下からじろりと見上げてきた。 「奇麗な人……川村さんて言ってた」  ぼくの頭に、一瞬川村麗子の顔が浮かんだが、まさか川村麗子があの世から親父を迎えに来てくれたわけでもあるまい。 「何歳《いくつ》くらいの人だ?」 「わたしより、ちょっと上。髪が短くて黒い革のコート着てる」 「千里って言わなかったか?」 「名前なんか訊かないもん。でも失礼しちゃうんだ。わたしの顔、じっと見てるの」 「つぼみが可愛いんで、おにいちゃんの妹だとは思えなかったんだろうさ」  桜子が、ぷくっと頬をふくらませ、ぼくが指で突いてその頬を破裂させてやった。 「おにいちゃん、いつあんな人と知り合ったのよ?」 「昨夜電車の中でナンパしたんだ。今日遊びにくるように言っておいた」 「いやらしい。おにいちゃん東京に行ってから、ぜったいいやらしくなった」  桜子の頭に、軽く拳骨《げんこつ》をくれ、テープとストーブを止めて、ぼくたちは一緒に下におりていった。しかし本当に川村千里だとすれば、千里がなんだってぼくなんかを訪ねてきたのだろう。 『奇麗な人』という表現には多少疑問があったが、ぼくへの客は、やはり川村千里だった。千里は棺桶とは反対側の壁の前に、正座をして座り、ちょっとふてくされたような顔で居心地悪そうに祭壇を睨みつけていた。それを特に川村麗子の妹だと意識しなくても、やはり通夜の席には不似合いなほど、千里の周《まわ》りだけが春っぽい雰囲気に染まっている。  ぼくの顔を見ると、川村千里は急に表情を変え、そのまま中腰で歩いてきて、またぺたんとぼくの前に座り込んだ。 「この度《たび》は、ご愁傷様でございました」と、まるで学芸会の台詞《せりふ》でも練習しているように、畳に手を揃えて、川村千里が言った。  ぼくもへんな気分ではあったが、一応畳に膝をつき、「はあ」とか「どうも」とか、周囲に対して取りあえず無難な挨拶をした。 「今、ご焼香しちゃいました」 「ごていねいに、ありがとうございます」 「わたし、昨日、知らなかったんです」 「お互い様です。それで、今日、学校は?」 「今日は、半日です」 「それは、良かったですね」  お袋も姉貴も桜子も、それからその部屋にいた他の人も、全員がしっかりぼくらの様子を窺《うかが》っていたので、ぼくは目で千里に合図をし、精一杯さりげなくその部屋を抜け出した。われながらそれはかなりの演技賞だったはずだが、暑くもないのに、ぼくは腋《わき》の下と背中にびっしょりと汗をかいていた。 「お葬式のこと、昨日、なんで言わなかったんですか?」と、廊下に出て一つ深呼吸をしたぼくに、見開いた目で近づいてきて、川村千里が言った。 「人が死んだ話なんか、つづけてするもんじゃないさ」 「水臭いじゃないですか」 「そう……かな」 「斎木さんて、へんなところに気取ってると思うな」  たぶん川村千里は、ぼくに因縁をつけに来たわけではないのだろうが、言われたぼくにとって、それはもうほとんど言いがかりだった。 「今朝新聞見て、わたし、びっくりしちゃった」 「ぼくも昨夜、先週の新聞を見た」 「わたし、ずっと考えて、それで斎木さんに相談することに決めたんです」  ぼくたちの横を、近所のおばさんがばたばたと通っていき、反対側からはなぜか桜子がやってきて、こっちの方はわざとらしい知らん顔で鼻歌を歌いながら、すすっと居間の方に歩いていった。 「ちょっと、出ようか?」 「出ちゃって、いいんですか?」 「いいんだ。ぼくなんか、お客さんみたいなもんさ」  居間に入ったはずの桜子が、また顔を出し、今度もぼくたちには目もくれずに黙って横を通り過ぎようとした。ぼくはとっさに躰の向きを変え、川村千里からは見えない角度で、その桜子の尻をおもいっきりひっぱたいてやった。お袋に言い付けられるものなら、言い付けてみればいい。  まだ暗くなる時間ではなかったが、それでも風は強くなっていて、塀に並んだ花輪の紙飾りが競争でもするように、がちゃがちゃと喧《やかま》しい音をたてていた。利根川の方向の空が、とんでもないオレンジ色の夕焼けに染まっている。  川村千里は、黄色い自転車に乗ってやってきていた。六年前、たった一度だけ、ぼくはやはり学校帰りの川村麗子とこんなふうに冬の道を肩を並べて歩いたことがあった。そのときも川村麗子はなにも喋《しゃべ》らなかったが、今手袋をはめた手で自転車を押している川村千里も、ぼくの方にはなぜか、ふり向きも話しかけもしなかった。ぼくらは『バラ園』の西側の道を黙ったまま五分ほど歩き、黙ったまま、まだ看板に電気のついていない『ピンク・ピッグ』という喫茶店に入っていった。ぼくの気分はちょっとだけ時間を飛び越えていたが、不思議に神経は穏やかで、それはたぶん、千里と姉の麗子は別の人間だという当たり前の理屈を、ぼくの常識がやっと認めはじめたことの証拠らしかった。  席につき、手袋とマフラーと革のコートを脱いでから、一度鼻水をすすって、川村千里が大きくぼくの方に目を見開いてきた。 「わたし、やっぱり、図々しかったと思います?」 「世の中には、なにをしても許される人間はいるさ」 「歩きながら、わたしずっと反省してたの。お焼香に行くのってけっこう自然だろうと思って、それで行ってみたら、やっぱり不自然だったみたい」 「歩きながら、ぼくの方は、この子はいったいなにを考えてるのかなって考えてた」  川村千里が、はにかんだように笑い、脱いだ上着からポケットティシューを取り出して、しゅっと鼻をかんだ。 「たいしたことは考えません」と、使ったティシューをポケットに押し込みながら、川村千里が言った。「わたし、麗子ちゃんみたいに複雑な性格じゃないの。親父なんか、たんに頭が悪いだけだって言います」  店の人が来て、ぼくたちは一緒にカフェ・オレを注文し、それからぼくの方は煙草を取り出して、千里には断らずにその煙草に火をつけた。 「それで、やっぱり、姉さんのことだろう?」と、煙を横に吹いてから、ぼくが訊いた。  川村千里の睫毛《まつげ》が、かすかに震えて、口の端が一瞬、強く結ばれた。 「相談できる人がいなかったの。この一週間ずっともやもやしてて、でも親父やお袋には言えないし……そしたら今朝起きて、ぱっと斎木さんの顔が浮かんじゃった。やったねって感じでした」  取りあえずは光栄だったが、ぼくなんかに相談することがなにか意味があると、いったいこの子はどこで思い込んだのだろう。 「斎木さん、さっき、麗子ちゃんの記事を読んだって言いましたよね?」 「五、六回は読んだ。それに今日までの新聞もみんな読んでみた。だけど最初の記事以外、なにも載っていなかった」 「それで、どう思いました?」 「なぜ川村麗子は前橋に帰って来たのか。なぜアパートなんかに住んでいたのか。なぜ睡眠薬なんか飲んだのか。なぜ風呂場なんかで溺れなくてはならなかったのか……」 「それだけ?」 「一番思ったのは、川村麗子にしては、ずいぶん格好わるい死に方をしたなってこと」  川村千里が、くすんと鼻を鳴らし、額にはっきりとした皺をつくって、ぼくの方にふーっと長い溜息をついた。 「前橋のことやアパートのことは、ちゃんと理由があるの。でもやっぱり、わたしも斎木さんと同しふうに思った、麗子ちゃんらしくないなって。麗子ちゃん、そんなにうっかりしたことしないはずなのになって」 「今日、中学のときの友達に会ったら、最初は自殺の可能性もあったと言ってた。そういうことは、ありえたわけ?」 「初めだけです。新聞には出なかったけど、一番最初は、事故と自殺と殺人と、警察では三つの可能性を考えたみたい」  ぼくの頭の中で、湿気《しけ》っていた花火にぱちっと火がついたように、耳に一瞬いやな音が鳴りわたった。それまで漠然と眠っていた『殺人』という言葉が、奇妙な現実感をもって呆気なく登場してしまったのだ。  カフェ・オレが来て、川村千里がそれを口に運び、一口すすってから、上唇に残った生クリームを、舌の先でぺろっと一なめした。 「新聞には出ていなかったけど……」と、川村千里の生意気そうな唇の動きを眺めながら、ぼくが訊いた。「警察では、もう最終的な結論を出したのかな?」 「三日後に刑事さんが来て、正式に事故死と断定されたって、そう言ってました」 「理由は?」 「詳しいことは、わからないの。現場の状況がどうとか、会社の人の証言がどうとか……とにかく、自殺でも殺人でもないって」 「それでみんな、納得した?」 「一応はね。だって、警察がそう言う以上、わたしたちにはどう仕様もないもの」 「だけど君自身は納得してない……そういうことか」  カップを口につけたまま、ぼくの目を覗き込んで、川村千里が小さくこっくりをした。 「自殺については、本当に考えられないのかな?」 「麗子ちゃんてそういう性格じゃなかった。負けるのが嫌いだったの。それにブティックを出すって張り切ってた。会計事務所にも経理を覚えるために勤めてたの」 「よけいなことだけど、一つ訊いていいか?」  川村千里がうなずき、それを見てから、ぼくが言った。 「君のお袋さんは、君の姉さんを連れて今の親父さんと結婚した、そう聞いたけど?」  川村千里が、また小さくうなずき、唇をすぼめて、しゅっとカフェ・オレをすすり上げた。 「姉さんがアパートで一人暮しをしてたのは、そのことと関係があったのか?」 「あるって言えばあるし、ないって言えばないの。麗子ちゃんてなんでも自分一人で決めて、なんでも自分一人でやっちゃうところがあったの。そういうところが親父と合わなかったみたい。でも、仲が悪かったわけじゃないの」 「自分一人でって、たとえば?」 「ブティックのこともそうだけど、たとえば、大学のことなんかも。親父はちゃんと四年制の大学に行かせたかったの。でもうちの親父、心臓が悪くてね。今はそうでもないんだけど、麗子ちゃんが大学に行くときちょうど発作を起こして、お医者にいつまで持つかわからないなんて言われたの。それで麗子ちゃん勝手に志望を変えて、短大なんか行っちゃって……あのとき、親父怒ったなあ」 「ブティックの方は?」 「これもそう。麗子ちゃん、べつに見栄でブティックをやろうとしてたんじゃないの。うち呉服屋でしょう? でも親父が倒れたら仕事のこと、誰もわからないの。わたしや弟のこともあるし、だから麗子ちゃん、うちのお店をブティックにしようとしてたの。ブティックなら自分でも出来るからって」 「川村……君の姉さん、そういう人に見えなかったな」 「誤解されやすかったの。見かけが……ねえ? ああいう[#「ああいう」に傍点]感じだったから」  カフェ・オレのカップを引き寄せ、クリームをスプーンで掻《か》き混ぜて、その味をたしかめてから、ぼくが言った。 「君が今言ったこと、自分でもわかってるよな? 姉さんは自殺なんかするはずはないし、あんな事故を起こす性格でもない。つまり、君の姉さんは、誰かに殺されたってことだ」  川村千里の切れ長の目が、きらっと光り、鼻の穴がふくらんで、その生意気そうな唇がぐっとぼくの方につき出された。 「具体的な心当たり、あるのか?」 「あったら警察に言ってる」 「警察が調べて、事故死と決まったわけだろう?」 「警察が決めたことと、本当はどうなのかってこと、関係ないと思います」  理屈ではそういうことになるし、ぼく自身川村麗子の死に方に釈然としない気持ちはもっているが、だからってぼくや川村千里に、なにができるというのか。 「君は、要するに、ぼくになにをさせたいんだ?」 「それは……本当いうと、自分でもよくわからない。でも斎木さんに、わたしと同し気持ちでいてほしいの。親父もお袋も親戚の人も、みんな麗子ちゃんのことを事故だったと思い込もうとしている。事故ということにして、早く忘れようとしてるの。でもわたし、ぜったい事故なんかじゃないと思う。あんな格好わるい死に方、ぜったい麗子ちゃんはしないと思う。お風呂の中で、裸で、お尻を上にして、それをみんなに見られて、写真まで撮られて……そんな死に方、麗子ちゃんがするはずないと思う。そういうことを誰かにわかっていてもらいたいの」  その『誰か』が、なぜ『ぼく』であるのか。理由はともかく、千里の川村麗子に対する愛着とその死への疑問は、ぼくにしてもほとんど抵抗なく受け入れることができた。あの川村麗子が、たしかに、そんな格好わるい死に方をするはずはない。 「睡眠薬のこと……」と、思い出して、ぼくが訊いた。「君の姉さん、前から飲んでいたの?」  川村千里が、眉をしかめ、片方の頬をゆがめて、うーんと低い唸《うな》り声をあげた。 「わからない。聞いたことはなかったし、もちろん見たこともなかった。でも麗子ちゃんと一緒に暮してたわけじゃないし、警察で調べたら、麗子ちゃんが自分でお医者からもらった薬だったって」 「彼女は、いつから一人暮し?」 「去年の夏……八月から」 「君も泊まったりしたわけだろう?」 「月に二、三回ね」 「最近では、いつ?」 「一月の末。泊まって、わたしが夕飯つくってあげた」 「そのときはもちろん、姉さんは睡眠薬なんか飲んでいなかったよな」 「ビタミン剤だって飲まなかった。ああいうのばかにしてたもの」 「最初に死んでるのを発見したのは、君?」 「お袋。お昼すぎに会社から電話があったの。麗子ちゃん、無断で会社を休むなんてこと一度もなかったから、会社の人が心配して家に電話をくれたの。それでお袋がアパートに行って、それで……見つけたの。お袋、あれからまいっちゃってね、今でもぼんやりしてる」 「アパートの鍵《かぎ》は、どうしたんだろう?」 「中から閉まってたって。大家さんが近くにいて、それでその人呼んできて、合い鍵を使って中に入ったの」 「部屋の電気、ついてたのかな?」 「そこまでは……聞かなかった。でも警察にはぜんぶ話してあると思う」  置いてあったカップを、脚を組みながら取り上げ、それを一口飲んでから、川村千里が頬をふくらませて、ぷすっと息を吐いた。 「殺されたとなると、犯人がいるわけだよな」と、新しい煙草に火をつけてから、ぼくが言った。「君の姉さんが、誰かに恨まれていたとかは?」 「なかったと思う。なかったと思うけど……たとえば、斎木さんね、麗子ちゃんのこと恨んでいなかった?」 「どうして?」 「だって麗子ちゃん、けっこう冷たかったでしょう?」 「冷たかった。でも恨んではいない」 「どうして?」 「川村麗子には川村麗子の好みがあったろうし、彼女の価値観や彼女の美意識があった。ぼくがその価値観や美意識に合わなかったとしても、それは君の姉さんが悪いわけではないし、たぶん、ぼくが悪いわけでもない」 「それは……斎木さんがそう考えるのは、斎木さんに常識があるからです。だけど世の中ってそういう人だけじゃないもの。世の中って、ちょっとおかしい人、けっこうたくさんいるような気がする。麗子ちゃんのところ、いろんな人がいろんなこと言ってきた。しつこい男の人もいたみたい。麗子ちゃんて、男の人にへんに神経質なところがあったの、潔癖すぎるみたいな。だから必要以上に冷たく見えたの。それでそれは誤解なんだけど、でも誤解してへんに相手を恨んだりする人、やっぱりいるんだと思う」 「具体的に、心当たりがあるのか?」 「ない。聞かなかった。麗子ちゃんも言わなかった」 「つき合ってた男は、いたのかな?」 「特別な人はいなかったと思う。そういうところの勘、わたし自信がある」 「女の方は? 親友みたいな」 「水谷|小夜子《さよこ》さん。この人短大のときの友達で、お葬式にも東京から来てくれた」 「前橋では?」 「わたしが知ってるのは桑原智世さんと、野代《のしろ》亜矢子さん。野代さんは中学でずっと同しクラスだったし、桑原さんは前女でも一緒になったことがあるって。あとは……前橋では特別親友みたいな人、いなかったんじゃないかな。麗子ちゃんて、人づきあいのいい方じゃなかったから」  ぼくの煙草の挟まった指先に、ちらっと流し目をくれ、一度|瞬《まばた》きをしてから、川村千里が片方の頬を、ぷくっとふくらませた。 「煙草、わたしも吸っていいですか?」  ぼくが煙草とライターを渡し、川村千里がそれをくわえて火をつけ、それから川村千里は、かすかに吸い込んだ煙をまるでしゃぼん玉でも吹くような口の形で、小さくふっと吐き出した。 「君が言ってないことが、一つある」と、自分の指に挟まった火のついた煙草を、不思議そうな顔で眺めはじめた川村千里に、ぼくが言った。「たしかにぼくは、昔君の姉さんを好きだったし、今度の死に方もおかしいと思う。君が探偵ごっこをしたいんならつき合ってもいい。だけど、なぜなんだろうな? 探偵ごっこの相棒に、なぜ君はぼくを選んだんだろう」  自分の煙草の煙に、自分で顔をしかめながら、川村千里がしゅっと鼻水をすすった。 「それは、わたし、図書館でずっと斎木さんのことを観察してたの」 「観察して、ぼくに探偵の素質があると見抜いたわけか?」 「斎木さんなら、麗子ちゃんのこと、わかってくれると思った」 「ぼくも君の姉さんと同し、母親の連れ子だなんて、図書館で観察しただけでわかるのか?」 「それは……」 「なんだ?」 「それは、だから、弟に聞いたの」 「弟?」 「さっき、妹さんが居たでしょう? 桜子っていうのよね。わたしの弟も中学三年なの。クラスはちがうらしいけど……」  川村千里が、にやっと笑い、口を尖らせて、下からじっとぼくの顔を覗き込んできた。 「可笑《おか》しいと思わない? うちの弟、斎木さんの妹に手紙を出したことがあるんだって。それでわたし、さっきじっくりあの子の顔を観察しちゃった。うちの弟じゃゲームにならないかもしれないけど、でも、ねえ? こういうことって、やっぱり可笑しいですよねえ」  どこがどういうふうに『やっぱり可笑しい』のか、よくはわからなかったが、やはりそれはなんとなく『やっぱり可笑しい』ことらしかった。ぼくと川村麗子にそれぞれ妹と弟がいて、その二人が同年《おないどし》なら、中学で一緒になるのは当たり前のことだ。ただ可笑しいのは、今度は立場が逆で、川村麗子の弟の気持を桜子の方が受けつけなかった。|万物は流転する《パンタレイ》などと大袈裟《おおげさ》なことはいわないが、それでもなにか、そこにちょっとした因縁があるといわれれば、そんな気もしなくはない。 「やっぱり、可笑しいかもしれないな」と、ぼくの顔を覗き込んで、勝手にうなずいている川村千里に、ぼくが言った。「可笑しいかもしれないけど、君の弟、ぼくみたいにいじけ[#「いじけ」に傍点]させたくはないな」 「いじけ[#「いじけ」に傍点]てその程度なら、可愛いもんですよ」 「今日帰ったら、頑張るように言ってやってくれ。君の弟には、ぼくとしてもぜひ頑張ってもらいたい」 「だいじょうぶですよ」  ぼくの顔を覗き込んだまま、鼻の穴をぷくっとふくらませて、川村千里が生意気そうに、にたっとウインクをした。 「うちの弟、斎木さんみたいに不良はやってませんから」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  あと十分もすれば、たぶんあたりは一気に暗くなる。松林の上を利根川からの風が地鳴りのような音をたてて吹き渡っていく。街灯にも明かりがつきはじめ、来たときにはついていなかった『ピンク・ピッグ』の看板にも、いつの間にか電気が入って、店からの明かりも白いアスファルトの上にうっすらと流れ出していた。ぼくは川村千里が黄色い自転車で遠ざかっていく後ろ姿を、しばらく立って見送ってから、風に逆らう方向で家の方に戻りはじめた。〈なあ、桜子、おにいちゃんだって、おまえと同しくらい悲しいさ……〉  しかし、それは本当ではない。  ぼくが家に帰ると、もう通夜は始まっていて、門から塀の外へ呆れるくらいの数の人が黙々と行列をつくっていてくれた。『六時から始まる通夜』にやってくるのは、近所の人と仕事関係の人たちくらいだろうが、親父は交通安全協会だの市の青少年健全育成なんとかだの、訳のわからない『会』にけっこう首をつっ込んでいたから、この意外に多い弔問客にはその分の人たちも含まれているのだろう。  ぼくは人の波にまぎれて、居間から家の中に入り込み、やはり人の波にまぎれて祭壇のつくってある部屋に、そっと入っていった。ぼくのことなど誰も気にもしなかったが、ただ姉貴だけは鋭く認めて、長い間ぼくの顔に一言ありそうな視線を送りつづけていた。姉貴ももう少し肩の力を抜けば、再婚して健全な結婚生活とやらがやっていけるかもしれないのに。  儀式としての通夜は、一時間で終わってくれた。このとんでもない季節にコートもなしで庭と対面しているのは、通夜のシステムではあったろうが、たぶん、躰にはあまりいいことではなかった。それでも七時すぎには外してあったガラス戸を嵌《は》め込み、石油ストーブやら電気ストーブやらを持ち込んで、部屋にも一応冬の夜の暖かみらしいものは戻ってきた。これから夜明けまで、親戚内での長い通夜がつづくのだ。  竹内|常司《つねじ》が焼香にやってきたのは、弔問客の足がと絶えた、八時ちょっと前だった。竹内は中学三年での同級生だったが、いったい竹内がなぜ親父の通夜にやってきたのか、ぼくには見当もつかなかった。それほど仲が良かった覚えもないし、だいいち中学を卒業して以来、竹内とは会ったことすらなかったのだ。もちろんだからって、焼香にきたものを追い返すというわけにもいかない。  取りあえず焼香をしてもらい、どこにも居場所がなかったので、仕方なくぼくは竹内を台所に連れて行き、そこの椅子に座らせて桜子にコーヒーをいれてもらった。竹内の髪はずっと風に吹かれたままの形になっていて、椅子に座ったあとも、鼻の下ににじんだ鼻水を拭こうともしなかった。たしか竹内は、立教の英文科かどこかに行ったはずだったが。  鼻水をたらしたまま、のんびりした顔で居間の様子を眺め回している竹内に、ぼくが訊いた。 「今日のこと、よくわかったな?」 「ああ……」と、焦点の不確かな目をぼくに向けて、竹内が言った。「最近俺、新聞の死亡欄を読むんが趣味でなあ。あれって注意して読むと、けっこう知ってる奴が死んでるんだ」 「親父のこと、知ってたっけ?」 「どうだったかなあ。だけど斎木の親父さんてことは、すぐわかった」  趣味と言われたら仕方はないが、しかし大学生の趣味として、これがそれほど上品な趣味なのだろうか。新聞の死亡欄を読むのが趣味で、通夜や葬式に顔を出すのも趣味ということか。 「なにかで、前橋に帰ってたのか?」 「しばらくいるんだ、去年から」 「去年って?」 「去年の……十月だったかなあ。九月の末だったかなあ」 「学校は?」 「ちょっと、休んでる」  竹内はストレートで立教に受かったから、留年をしていなければ今は三年のはずだ。 「躰でも、こわしたのか?」 「そうなんだ……いや、そういうわけじゃないんだが、その、前橋の冬って、やっぱり寒いと思わないか?」  もちろんぼくにだって、竹内の様子がおかしいことくらいは最初からわかっている。だがどこがどういうふうにおかしいのかと言われると、なんとも返事のしようがない。 「冬って、年寄りにはきついんだよなあ」と、桜子のいれたコーヒーに珍しそうに目をやって、竹内が言った。「冬を乗り切ると、年寄りってだいたい一年はもつんだ。斎木の親父さんも、この冬を越せばあと一年はもったかもなあ」 「親父のはもう決まってたんさ。去年からわかってた」 「でも冬を越すとな、けっこうもっちまうんだ。これで四月んなると死亡欄の記事が半分になる。知ってたか?」 「さあな」 「俺、図書館行って去年の新聞を調べてみた。一番はやっぱり二月だったな。二月って、人がたくさん死ぬんだよな。だから斎木の親父さんも、二月を越せば来年までもったかもなあ」  ぼくは、この議論にはそれ以上深入りしたくなかったので、煙草に火をつけ、コーヒーのカップを取って、しばらく煙草の煙とコーヒーを代わる代わる口に流し込んでいた。 「人が死ぬってこと、考えちまうんだよなあ」と、ぼくの努力には気づかず、また、竹内が言った。「最近俺、死についてよく考えるんだ。人が死ぬってこと、やっぱり大変なことだしなあ。生きてるやつには会えるけど、死んじまったら会えないんだものなあ」  よく考えてその程度の結論なら、ぼくには生まれたときからわかっている。 「コーヒー、飲めよ」と、ぼくが言った。 「鉄工場の倅《せがれ》で、桜井ってのがいたろう?」  コーヒーにもぼくの気持ちにも、どうも竹内は興味を持っていないようだった。 「テニス部のやつか?」と、ぼくが訊いた。 「そうじゃなくて、もう一人桜井ってのがいたじゃないか。背が低くて、いつもYシャツを裏返しに着てたやつ」 「覚えてないな」 「目立たなかったからなあ。やつなりには目立とうとしてたんだけど、やっぱり目立たなかったんだな。そいつな、去年死んだんだ。首つったんさ」 「いろんなやつが、いるもんな……そのときも、Yシャツを裏返しに着てたのか?」 「どうだかなあ。聞かなかったなあ」  やっとコーヒーを飲む気になったらしく、ジャンパーのポケットから手を出して、竹内が両方の掌でぎこちなくコーヒーのカップを包み込んだ。 「知りたければ、調べてみるぜ?」 「なにを?」 「桜井が死んだとき、Yシャツを裏返しに着てたかどうか」 「べつに……知らなければいいんさ」 「高校んとき一緒だったやつで……」と、コーヒーをすすってから、竹内が言った。「滝山ってのも死んだ。こいつは交通事故だったけどな。二十年も生きてると、知ってるやつがけっこう死ぬんだよなあ」 「川村麗子も、死んだしな?」 「あれは、川村さんは……そうなんだよなあ」  竹内が、手の甲で鼻水を拭き、それをジャンパーの前でこすって、鼻水を拭いた手をもぞっとズボンのポケットにしまい込んだ。 「あれは、ショックだったなあ」 「通夜とか葬式とか、やっぱり行ったのか?」 「行かなかった。あれは、行かなかった」 「どうして? 新聞にも出たろうよ」 「あのときは、躰の具合が悪かった」 「十月からこっちに居るんなら、会うくらいは会ったろう?」 「斎木……」  一度しまった手を、またポケットから取り出し、竹内がその手を髪の中につっ込んで、ばさっと上に掻きあげた。 「このこと、内緒なんだけどな。俺、川村さんとつき合ってたんだ」  一瞬、ぼくの頭から言葉がなくなり、右の耳から左の耳に、もの凄い音の風がびゅーっと吹き抜けた。 「つき合ってたって、どういうふうに?」 「男と女だもんなあ。つき合い方なんて、決まってるさ」 「いつから……」 「大学に行ってから。高校んときも、たまには会ってたけどな」  川村麗子には川村麗子の好みがあって、価値観があって美意識があることはわかっているが、だからって竹内常司に関しては、ぼくはそれらのことを素直に認める気にはならなかった。それを嫉妬《しっと》と言ってしまえば、それまでなのだろうが。 「前橋に帰ってきてからも、その、つき合ってたわけか?」  鼻水をすすって、椅子の背に躰を引きながら、気だるそうに、竹内がにやっと笑った。 「いろいろあってなあ……」 「いろいろって?」 「男と女のことだもんな、一口には言えねえさあ。でもやっぱり、あれだよなあ、川村さんが前橋に帰ってきて、みんな歯車が狂ったんだよなあ」  吸っていた煙草を、灰皿でつぶし、ぼくはつづけて二本めの煙草に火をつけた。 「そのこと、川村麗子の死と、関係があるのか?」 「俺な……」と、ぼくの煙草の方に目を細めて、竹内が言った。「川村さん、もしかしたら、自殺じゃないかと思うんさ」 「自殺……へええ」 「俺が悪いんさ。みんな俺のせいなんだ。俺、川村さんと結婚する気でいてさあ。向こうもそのつもりでいたはずなんだけど、前橋に帰ってきてから、いろんなことがみんなおかしくなってさあ」 「川村麗子に、男ができたとか?」 「そうなんだよなあ。前橋に帰ってくりゃ、そうなることはわかってたのになあ」  竹内が、ぼくの煙草の箱にすっと手をのばし、勝手に一本を抜き出して、ぼくのライターでそれに勝手に火をつけた。 「川村さん、中学んとき氏家に惚れてたの、知ってるか?」と、自分で吐いた煙草の煙を透かして、竹内が言った。 「知らなかった」と、ぼくが答えた。 「惚れてたんさ。川村さんに聞いたわけじゃないけど、そのくらいわかるもんなあ。クラスの女子は氏家か斎木か、どっちかだったもんな。不良っぽいのが好きなやつは斎木、エリートっぽいのが好きなやつは氏家、なあ? そんなこと、みんなわかってるんさあ」 「でも川村麗子は、竹内を選んだ……」 「そう思ってた。東京でつき合ってる間は、俺もそう思ってた。だけどそれ、東京にいる間だけだったんだよなあ。前橋に帰ってくると、俺、やっぱり二番手なんだよなあ」  竹内が言う二番手とは、たぶん、中学での成績のことなのだろう。クラスでの一番は氏家孝一。竹内も氏家に迫ってはいたが、けして氏家を抜くことはできなかった。ぼくにとってはどうでもいいような問題でも、氏家や竹内のような秀才には、たかが五点十点などという言い方では済まされないのかもしれなかった。そしてぼくは、忘れていたそのことを、このときになって初めて思い出した。それはぼくらが中学三年のときクラス委員だった四人が、今なぜか四人とも前橋に住んでいる、あるいは住んでいた、ということだ。クラスの委員長だったのが氏家孝一。副委員長が桑原智世。書記が竹内常司と川村麗子。この四人は当然、今ごろは東京で大学生活を送っていなければならないはずなのに。 「つまり、川村麗子は、氏家とつき合い始めたってことか?」と、ぼくが訊いた。  煙草のフィルターを、くちゃくちゃっと噛んでから、ふーっと竹内が長い溜息をついた。 「川村さんの気持ち、わからなくはなかったけど、俺だってさあ、かんたんには諦められなかったしなあ」 「でも氏家は、今、桑原智世と同棲してるって聞いたぜ?」 「桑原さんの方が熱あげてるだけさ。氏家だって、本当は川村さんのこと好きだったんだ。氏家、中学んとき俺にそう言ったことがある」 「竹内の、考えすぎじゃないのか?」 「考えすぎじゃ人は死なない。川村さん、死んじゃったんだもんなあ。ずっと別れ話がこじれてて、俺、どうしても別れるのがいやだったからさあ、死んでも別れないって言ったら、向こうの方が死んじまってさあ……俺が悪かったんだよなあ。川村さん、死んじまって、もう会えないんだもんなあ」 「自殺と決まったわけじゃない。一応は、事故死ってことになってる」 「俺にはわかるんさ。俺最近、人が死ぬのずっと見てるから、人が死ぬときの気持ちってわかるんだ。川村さん、俺がどうしても別れないって言ったんで、そのことを苦にして薬を飲んだんだ。みんな俺のせいなんだよなあ。俺さえ前橋に帰って来なけりゃ、川村さん、死ぬようなことなかったんだよなあ」  なんとなく釈然としないが、竹内がぼくの知っていた竹内と変わっていることだけは事実で、その原因が川村麗子とその死にあるとすることは、論理的には無理ではなかった。しかしただの事故でさえ似合わない川村麗子に、別れ話がこじれての自殺なんて、もっと似合わないではないか。 「竹内、十月からこっちに居て、毎日なにをしてるんだ?」と、火のついた煙草をぼんやり眺めている竹内に、ぼくが訊いた。 「なにってこと、ないんだ」と、思い出したように煙草を灰皿でつぶして、竹内が答えた。「最近俺、小説書いてる。氏家が『青猫』って同人雑誌やっててな、こんどそれに発表しようと思うんだ」 「氏家、スナックもやってるんだってな?」 「氏家のサロンみたいなやつさ。やつ東大三回おっこって、親と喧嘩して家とび出して、そしたら叔母さんて人があっさり金出してくれて……やつって、いつもそうなんだよなあ。日の当たる場所があって、俺もそっちに行こうかなって思うと、もう氏家の方がちゃんと先に行ってる。そういう感じなんだよなあ」 「そのスナック、どんなやつが集まるんだ?」 「氏家の取り巻きさ。斎木の知ってるやつじゃ……伊達《だて》とか野代さんとか……あとは絵を描くやつとか詩を書くやつとか、そんなやつばっかり」 「野代って、いつも川村麗子と一緒にいた、野代亜矢子か?」 「一緒にいたのは中学までさ。彼女、高校は市女だったし、今は高崎の大学に行ってる」 「それで、川村麗子も、そのスナックには行ってたわけ?」 「たまには……な」 「竹内と川村麗子の関係は、みんなも知ってたのか?」 「知らなかった」 「どうして?」 「川村さんに、内緒にしたいって言われたんだ」 「どうして?」 「だから、やっぱり、いろいろあってさあ。氏家のことだってあるし、氏家は一応今は桑原さんと暮してるわけだし……いろいろな、そういう面倒なことがあったんさ。川村さん、そういう面倒なことが我慢できなくなったんだ。みんな俺が悪かったんだけどなあ」  竹内は、そこでまた黙ってぼくの煙草に手をのばし、一本に火をつけて、残った煙草を今度は勝手に自分のジャンパーのポケットにしまい込んだ。 「躰の具合、だいじょうぶなのか?」と、ぼくが訊いた。 「べつに……ちょっと、寒いだけなんだ。さっきからずっと外に立ってたから」 「ずっとって?」 「ずっと、五時ごろからかな」 「五時から、ずっと外に立ってたのか?」 「暇だったんだ。でも今日の通夜、いい通夜だったよなあ。通夜とか葬式とかって、やっぱり人がたくさん来てくれないとなあ。人がたくさん来て、みんなが悲しんでくれないとさあ、本人も死んだ気にならないもんなあ」  感慨深そうな顔で、ていねいに煙草をつぶし、溜息を一つついて、竹内がゆっくりと立ち上がった。ポケットにしまったぼくの煙草を返す気にはならないらしかったが、ぼくもそのことには触れなかった。 「竹内……」と、玄関の方に歩きだした竹内に、椅子に座ったまま、ぼくが声をかけた。「小説って、どんなのを書いてるんだ?」  立ち止まって、ふり返り、鼻の下の無精髭を掌でこすってから、照れたようににやっと竹内が笑った。 「本当いうと、まだプロットだけなんだけど、なんていうか、一種の私小説なんだ。テーマは、不毛な人生において愛だけが意味を持ちえるか……まあ、そういう感じのやつだ」  竹内は、そこで一度だけぼくに手をふり、あとはもうふり返らずに、玄関に向かって悠然と歩いていった。ぼくは居間との境に竹内の姿が見えなくなってから、コーヒーカップを引き寄せ、底に残って冷たくなっていたコーヒーを、一口ずるっとすすり上げた。 「不毛な人生において、愛だけが意味を持ちえるか……」  口に出して言ってはみたが、背中のあたりが恥ずかしくなっただけで、けっきょくぼくはその台詞《せりふ》を真剣に考える気にもならなかった。人生が不毛なら、愛だって不毛に決まってるじゃないか……しかし竹内は、いったいなにをしにぼくの家にやってきたのだろう。 [#改ページ] [#ここから8字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  塀に並んだなん十本もの花輪が、朝日を受けて激しく金色に光っている。周《まわ》りの風景との調和をいっさい無視したその配色は、一種不気味ではあるが、なんとなくエキゾチックな感じがしなくもない。近くの家からはクルマのアイドリングの音が聞こえ、コートとマフラーの中学生が自転車で通っていき、朝の早い雀が塀にとまって子育て問題かなにかを話し合っている。風がなくて、光だけが強くて、気温のわりにはすべての風景が緩慢な穏やかさに包まれている。しかし午後から風になることは、前橋の人間なら誰でも知っている。  八時をすぎたころ、もう葬儀屋はやってきた。花輪と生花を斎場に移して葬式の準備をするのだという。そして九時には、市の斎場から棺桶を運ぶためのマイクロバスもやってきた。それはぼくの思っていた、あのお寺の屋根のようなものがついた霊柩車ではなかったが、そのことに失望したのはたぶんぼく一人だけだった。川村麗子も、こんな青鼠色のマイクロバスで、まるで少年院にでも護送されるように火葬場まで運搬されていったのだろう。  ぼくとお袋と桜子が親父と一緒にマイクロバスに乗り込み、伯父さんたちもそれぞれのクルマを連《つら》ねて、ぼくたちはいっせいに焼き場と葬儀場を兼ねた市の斎場に出発した。出発の前にぼくと姉貴の間で一悶着《ひともんちゃく》あったことを知っているのは、もちろん、ぼくと姉貴の二人だけだった。問題は帰りのクルマの都合だったが、そのために姉貴は自分で自分のクルマを運転していくと主張し、ぼくはぼくで、やはり同じ主張をした。ぼくには姉貴の気持ちはわかっていたし、姉貴にだってぼくの気持ちはわかっていたのだと思う。だからぼくが姉貴に負けて、親父と一緒にマイクロバスに乗り込んだ理由は、論理的に姉貴が正しかったからではなく、たんに、ぼくが朝までウイスキーを飲みつづけていたことを姉貴が強硬に指摘して引きさがらなかったせいだった。  人によって価値観はちがうが、会葬者さえ多ければいい葬式だというのなら、十時から始まった親父の葬式はかなり『いい葬式』だった。商売がら葬儀委員長は土建屋で市会議員の和田なんとかという人がやってくれ、知事やら代議士やらからは弔電が届くし、焼香の列も坊さんがお経を読み終わったあとでさえ、大斎場のうしろの壁にまで延々とつづいていたほどだった。その間ぼくは、ぼくが四歳のときに体験したはずの、前の親父の葬式のことをずっと思い出そうと努力していた。だが思い出せたのは喪服を着て、ハンカチで顔をおさえているお袋の姿だけで、葬式そのものの情景は最後まで頭に浮かんでこなかった。葬式をやらなかったはずもないから、『父親の死』ということ自体、四歳の子供にとっては記憶に残るほど強烈な印象を与えなかったのだろう。それともぼく自身が、そのころからもうじゅうぶん薄情だったということか。  葬式そのものは一時間で終わり、火葬もふくめて、すべての行事はみごと十二時前に終了した。そのあと場所を鮨屋に移してのおきよめ[#「おきよめ」に傍点]があったが、それに出席したのは、親戚やら親父の親友やらの五十人ほどだった。ぼくと桜子は最後まで途方に暮れていたが、考えてみれば、その途方に暮れること自体が今日のぼくと桜子の仕事だった。最初の日に「あんたらの仕事は神妙な顔で仏さんのそばにいるだけ」と言ったお袋の予言は、経験に裏打ちされたあっぱれな分析だったのだ。亭主の葬式を二回も出すということになれば、さすがにキャリアがちがう。  ぼくらがおきよめ[#「おきよめ」に傍点]から帰ってきたのは、二時をちょっと過ぎたころだった。家の中は町内会のおばさんたちが片づけてくれていたが、家具の移動は、やはりぼくの仕事だった。ぼくは喪服をふだん着に着がえてすぐ労働に取りかかり、ぼくの部屋に押し込んであった家具や置き物を居間とお袋の部屋に戻して、とにかく自分の部屋だけは元の形に復元させてやった。一週間も前橋に居るとすれば、ベッドぐらいは自分のものを使いたい。  ベッドに布団乾燥機をセットして、居間におりて行ったぼくを迎えたのは、お袋と姉貴と桜子の、呆れたような感激したような、妙に冷たい視線だった。三人ともぼくの奮闘はちゃんと目撃していたはずなのに、誰一人として助力を申し出てはいなかったのだ。三人はそれぞれに着がえを済ませており、それぞれの前にコーヒーカップを置いて、風の音に耳を澄ますような顔でコの字型に向かい合っていた。その形は一昨日の夜ぼくが風呂から出てきたときと同じものだったが、ただ風景としてちがっていたのは、座卓が電気|火燵《こたつ》に変わっていることと、床の間に白い布で包まれた親父の骨壺《こつつぼ》の箱が置いてあることだけだった。 「妙に働くじゃないか、え? 亮ちゃん」と、半分欠伸をしながら、はっきりといや味に聞こえる声で、姉貴が言った。「葬式が終わって、急に元気が出たらしいね?」 「酔いが冷めただけさ。それに、ちょっとだけ家族愛にも目覚めたしさ」 「おにいちゃん、コーヒー飲む?」と、桜子が訊いてきた。  ぼくは首を横にふり、黙って、空いている姉貴の向かいに腰を下ろした。 「とにかく、ご苦労だったよ」と、こめかみの辺りを指で押さえながら、お袋が言った。「今日だけはとにかく、みんなゆっくり休んでおくれな」 「お墓、やっぱり赤城の霊園?」と、姉貴がお袋に訊いた。 「二、三日うちには決まるよ。和田さんの方から手を回してもらうことにした」  自分で自分の肩を叩いてから、一つ伸びをして、お袋が面倒臭そうに姉貴の方に顔を向けた。 「香典、けっきょくどれくらいになったね?」 「五百万……ちょっと。一番多いのは和田さんの十万円。あとは五千円から五万円まで」 「和田さんは別にして、香典返し、三段階くらいで考えなくちゃねえ。そっちの方、悦子がやってくれるかい?」 「『紅牡丹』で見つくろってもいいけど……あそこの娘、高校が一緒だったの」 「タオルとか瀬戸物とか、そういうありきたり[#「ありきたり」に傍点]のもんじゃないやつがいいねえ」 「たとえば?」 「たとえばってことはないけど、先方様がへええっていうようなやつ」 「タオルでいいさ」と、余計なことは承知で、ぼくが口をはさんだ。「タオルに『へええ』って書いておけばいい」 「あたしは仕事関係をまわるから……」と、ぼくを無視して、お袋が姉貴に言った。「あと始末、悦子の方でやっておくれな。手が足らなければ亮に手伝わせればいいよ」 「ぼくが、なにを手伝うのさ?」  今度はやっとぼくの方に視線をまわし、眠そうな目で、お袋がふんと鼻を鳴らした。 「雑用のぜんぶ。それが人間としての義務なんだよ。家族愛に目覚めた青年にとっちゃ、ちょっとばかり役不足かもしれないけどねえ」  火燵から、ゆっくり足を抜き、布団を元に戻して、ぼくが姉貴に言った。 「姉さん、クルマ借りていいかな?」 「利根川にでも飛び込むの?」 「人間としての義務、思い出しただけさ」 「家族愛の方も、忘れてもらいたくないわねえ」  ハンドバッグを引き寄せ、取り出したシルビアのキーをぼくに放って、姉貴がわざとらしく大欠伸をしてみせた。  ぼくは姉貴に向かって、三度ほどうなずき、口を曲げている桜子の頭に手をのせてから、ほとんど忍び足で居間を抜け出した。そんなことはないとは思うが、なんとなく、なぜか三人の視線が最後まで、じいーっとぼくの背中に貼りついている感じだった。三人が肩を寄せあっていれば、たぶん核戦争が起こってもこの家族は生き延びていける。 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  群馬県警察本部は、県庁と同じ敷地内にある。ぼくは県庁にだって無縁に生きてきたし、もちろん警察本部なんてところにも、来たことはない。だいいち誠三叔父さん以外でぼくが警官と口をきいたのは、クルマの運転免許を取ったときと、大阪に行って交番で道を訊いたときの、たったの二回だけだった。これからの人生においても、もちろん警察と関わろうなどという野望は持っていない。ただ今回だけは、ぼくの美意識にもちょっとだけ目をつぶらせるつもりだった。それは人間としての義務感に燃えたからではなく、川村麗子の青春とぼく自身の青春に対する、ただの感傷からのものだった。  指定された駐車場にクルマを停め、石造りの庁舎の前を通って、ぼくは案内板どおりに『群馬県警察本部』と書かれたコンクリートの建物の中に入っていった。受け付けの女の人に、誠三叔父さんの名前を厚生課の『片桐さん』と言ったときだけ、ほんの少し、ぼくの心にも動揺らしきものがあった。片桐というのは、ぼくが四歳まで使っていた名前で、その音の響きはちゃんとぼくの人生に焼きついているのだ。  女の人に教えられたとおり、階段を二階に上がっていくと、誠三叔父さんはもう廊下に出てぼくを待っていてくれた。会うのは三年ぶりだったが、この叔父さんに会うと、ぼくはいつも妙な懐かしさを味わう。 「ご無沙汰してました」 「元不良少年が、警察署ん中の見学かや?」 「ちょっと、相談があるんです」 「まあいいやな。コーヒー飲むべえコーヒー」  誠三叔父さんがサンダルを引きずってコンクリートの廊下を歩きだし、そのうしろについて、ぼくも来た方向に歩きだした。叔父さんのうしろ姿はまるで太ったお地蔵様のようで、脚は衝撃的に短く、替え上着の裾《すそ》からは腹まわりと同じ太さの尻が気の毒なほどにはみ出していた。誠三叔父さんを『厚生課』とかいう日の当たらない部署に押し込んでおくのも、警察としてはそれなりの思想があってのことなのだろう。  誠三叔父さんがぼくを連れて行ったのは、階段をもう一つ上がった、北側の窓に利根川が見渡せるだだっ広い食堂のような場所だった。叔父さんはその窓際にぼくを座らせ、自分でカウンターに歩いていって、そこからプラスチックの盆にコーヒーを二つのせて戻ってきた。 「義姉《ねえ》さんから電話はもらったけどよう」と、テーブルの砂糖壺をひったくるように引き寄せながら、誠三叔父さんが言った。「俺が顔出すんもなんだからと思って、そいで失礼しちまったんさあ。葬式、終わったんかや?」 「正午《ひる》前に」と、ぼくが答えた。 「斎木さんの葬式っていや、けっこう派手だったんべえなあ」  一人で勝手にうなずき、誠三叔父さんが山盛り三杯の砂糖を入れて、そのカップをスプーンでしつこく掻きまわしはじめた。 「で、義姉《ねえ》さん元気かや?」 「仕事の方で、気がまぎれてるみたい」 「そうだいなあ。義姉《ねえ》さんも運がねえっていや運がねえけど、仕事に関しては間違いねえだんべえよ……気丈な人だしなあ」 「叔父さんの方、変わりない?」 「見たとおりよ。去年下大島に家を建ったけどな」 「知らなかったな」 「今度遊びに来いや。狭《せめ》え家だけどよう、あと二年で定年だんべ? どっちみち警察官舎は出なきゃなんねんさ。そいで退職金を前借りして建っちまったんよ。かあちゃんも働いてるしなあ」 「おばさんも、元気なんだ?」 「元気どころかおめえ、ユンケル飲んだ山婆《やまんば》みてえなもんよ。ずっとパッチワークとかってのやってたんべ? あれでもう先生なんだと。そいでバイクん乗って一年中すっとび歩いてらあ。俺にあれだけの馬力がありゃあなあ、警視総監にだってなれたんべになあ」  ずるっとコーヒーを飲み、ぴちゃぴちゃっと舌を鳴らしてから、上着のポケットから煙草を取り出して、誠三叔父さんがそれに火をつけた。 「ところでりょう坊、おめえ大学|入《へえ》ったんだと?」 「去年、やっと」 「やっとでも去年でも、大学なんぞ入《へえ》っちまえばこっちのもんさあ。死んだ兄貴もほっとしてるだんべえなあ……そいで、なんつう大学なん?」 「サンリオ」 「サンリオ……新しい大学かや?」 「まあ……」 「そうだんべえなあ。おめえの頭じゃ有名なとこは無理だんべえなあ。そいでも物は考えもんでよう、サンリオでもなんでも、刑務所|入《へえ》るよりゃずっといいやな、なあ? 一時《いっとき》は義姉《ねえ》さんも心配《しんぺえ》したもんなあ。ヤクザんなる前に警官にしちまえねえかって、俺んとこにも本気で相談に来たっけか」 「叔父さんが、よく夕飯おごってくれた、あのころ?」 「そうよ。おめえが高校おっこってぶらぶらしてた、あのころよ」 「やっぱりね、そんな気はしてた」 「俺は心配《しんぺえ》なんかしてなかったけどな」と、ぼくの頭の上に煙草の煙を吐いて、誠三叔父さんが言った。「りょう坊が本気でぐれてる[#「ぐれてる」に傍点]わけじゃねえことぐれえ、この商売やってりゃすぐわかったさあ。だけど親ってのは心配《しんぺえ》するからなあ、おめえの場合は事情もあったし……」  過ぎてみればつまらない事情でも、過ぎてみなければ、やはりそのことのつまらなさはわからないものなのだろう。  コーヒーを飲み、煙草に火をつけてから、ぼくが言った。 「叔父さんに、相談があるんだ……ちょっとへんなことだけど」 「斎木の家のことじゃ、俺には口だしできねえなあ」 「そうじゃなくて、友達が死んだ話」  誠三叔父さんが、肉の厚い目蓋《まぶた》をぴくっと持ち上げ、吸っていた煙草の火をアルミの灰皿の中に、強く押しつけた。 「十日くらい前、中学のときの友達が死んだんだ。アパートの風呂場で、溺れ死んだんだって。新聞にも出てる。知ってた?」 「どうだったか……」 「それで新聞には、事故死の可能性が高いって出てて、その子の妹に訊いたら、警察も正式に事故死と断定したっていうんだ。その事件のこと、叔父さんに訊けないかと思ってね」 「その新聞って、いつの新聞だや?」 「たしか……八日」  喉からなにか音を出し、椅子を軋《きし》らせて、誠三叔父さんがもこもこっと立ち上がった。それから誠三叔父さんはサンダルを引きずって歩きだし、食堂の入り口のところまで行って、そこに掛かっていた新聞の綴込《とじこ》みを持ってまたぼくの向かいに戻ってきた。  しばらく黙って新聞をめくってから、新しい煙草に火をつけて、誠三叔父さんがぼくの方に顔を上げた。 「りょう坊の友達かや。若《わけ》えのに可哀そうになあ……べっぴんさんだったんべによう」 「なんとなく、ぼく、おかしいなって気がするんだ」 「どこがよ?」 「だから、なんとなく。その子、そういう死に方が似合う子じゃなかったから」 「死に方に似合うとか似合わねえとか、そんな話、聞いたことねえやいなあ」 「その子の妹も、やっぱりおかしいって言ってる」 「だけどよう、警察でちゃんと調べたんだんべ?」 「だからね……」と、手をのばして、煙草を灰皿でつぶしながら、ぼくが言った。「それをね、叔父さんに訊こうと思ったんだ」  誠三叔父さんの手の煙草が、口に運ばれ、尖端の火種がなん度か、気難しそうにゆっくりと息をした。 「要するに、おめえ、なにが言いてえんだや?」 「気になるから、気にならないようにしたいだけ」 「事故死じゃねえって言いてえわけか?」 「少なくとも、そういうばかばかしい事故死ではないと思う」 「警察が調べて、警察が判断したことをかよう?」 「叔父さんには悪いけど、ぼく、警察って信用してないんだ。警察が信用できるんなら叔父さんだって警視総監になってるはずだしね」  火を消した煙草のフィルターを、前歯でくちゃくちゃっと噛んでから、鼻の穴をひろげて、誠三叔父さんが止めていた息をぐあーっと吐きだした。 「さすが大学行っただけのことはあらあ。言うことがハイセンスっつう感じだいなあ。それで……俺にどうしろってよ?」 「たとえばね、この事件、一応公表は事故死にしておいて、本当は裏でちゃんと捜査をしてるとか、そういうこともありえるわけだろう?」 「場合によっちゃ、まあなあ」 「もしそうなら、それでいいんだ。でも本当に捜査を打ち切っているんなら、ぼく個人として知りたいことがある。頼めるの、叔父さんだけなんだ」  誠三叔父さんが、低く唸りながら新聞に視線を戻していき、そこで紙面を見つめたまま、ぽっちゃりと肉のついた掌で顔をべろっと一拭きした。 「川本町のアパートっていや、北署の管轄だがよう……」と、新聞を見つめたまま、一人言のように、誠三叔父さんが言った。「変死ってことだんべえから、一応県警の一課も動いてらいなあ。鑑識も出張《でば》ったんべえし……」 「記録、あるんだろう?」 「あるにゃあるが……警察ってのは、けっこう縄張りがうるせえとこだからよう、やたらなことにゃ口はだせねえしなあ」 「叔父さんも昔殺人課にいたことがあるって、お袋に聞いたことがある」 「殺人課なんてのはねえさ。ありゃあテレビやマンガだけの話……だけどりょう坊、この川村麗子って女の子、おめえのなんなんだや?」 「だから、中学のときの、友達さ」 「ただの友達じゃねえだんべえ?」 「ただの、友達さ」 「ただの友達のことで、どうしておめえが向き[#「向き」に傍点]んなるんだや?」 「向き[#「向き」に傍点]になんか、なってないさ。社会正義の問題さ」 「おめえがか? 社会正義? へええ」  誠三叔父さんが、本当に見えているのかどうか疑いたくなるような細い目で、じろりとぼくの顔を眺め、それから窓の方を向いて、あとは一分くらいまばらな顎鬚《あごひげ》を黙ってさすりつづけていた。 「まあいいか……」と、ぴしゃりと自分の頬を叩き、もう一度ぼくの顔をじろりと見てから、誠三叔父さんがゆっくりと立ち上がった。「若えやつに、ちょいと先輩風でも吹かせてみるか……りょう坊が惚れた子が死んだとあっちゃ、放っとくわけにもいかねえだんべえしよう」  誠三叔父さんは、目だけでぼくに待っているように合図をし、新聞の綴込みを掴《つか》み上げて、またサンダルをずるずると引きずって入り口の方に歩いていった。さっきは不細工なお地蔵様だった誠三叔父さんのうしろ姿も、このときはもう、金粉を塗られてたった今天から舞い降りた観音様のようだった。観音様にしては、もちろん、尻のふり方がちょっとばかり異様ではあったが。  誠三叔父さんは、三十分で戻ってきた。その間ぼくは煙草を二本吸い、コーヒーを一杯おかわり[#「おかわり」に傍点]していた。 「日本の警察も、終わりだいなあ」と、うんざりしたような顔で元の椅子に座りながら、誠三叔父さんが言った。誠三叔父さんの腋の下には、青い表紙の、たいして厚くもない紙ばさみが挟まれていた。 「情報がこうかんたんに漏れたんじゃあよう、そのうちこそ泥[#「こそ泥」に傍点]も捕まらなくならあな」  誠三叔父さんは青い紙ばさみを膝の上に移し、それから果敢にも脚を組んで、スチールの椅子に深くふんぞり返った。 「さすがに、おめえに見せるわけにゃいかねえけどよう、訊かれりゃ答えるぐれえの義理は果たそうじゃねえか、え?」 「その中に、なにが入ってるのさ?」と、テーブル越しに紙ばさみを眺めながら、ぼくが訊いた。 「係の刑事が書いた報告書。あと、現場写真やら鑑識結果やら……」 「現場写真って、やっぱり、彼女が写ってるやつ?」 「まあ……」  誠三叔父さんが顔を歪め、小さくて肉づきのいい耳を、ぴくっと震わせた。 「たしかに、まあ、惚れた女がこういう死に方じゃ、おめえとしても気がおさまるめえなあ」 「見せて、くれないかな?」 「ばか言いやがれ」 「彼女の最後の姿、見たいんだ」 「見せられねえって言ったんべえな。それによう、たとえ見せられたとしてもよう、これだけは見ねえ方がいいんだ。この子とりょう坊がどういうつき合いだったかは知らねえけど、思い出ってやつはよう、やっぱし最後まで奇麗にとっとくもんだんべえよ」  川村千里の説明で、だいたいの想像はついたが、誠三叔父さんがそこまで言うからには、やはりそれはそれなりの死に様《ざま》なのだろう。湯船の中で、裸で、尻を上にして……それが川村麗子の死に方でないとすれば、いったい誰の死に方なのか。 「事故死と断定した、決めてっていうの、なんだったの?」と、無理やり頭の回路を切り替えて、ぼくが訊いた。 「そいつがよう、一種の消去法なんだいなあ。自殺でも他殺でもねえから事故死。そういう感じよ」 「ずいぶん……かんたんだな」 「現実にはよう、殺人なんてものはそう年中あるもんじゃねえさ。たとえあったとしても、計画的に自殺や事故死に見せかけたやつなんぞ、めったにあるもんじゃねえわけよ」 「だからって事故死にしちゃうのも、無茶だろう?」 「俺に言わせりゃ、無理やり殺人《ころし》にもっていく方がずっと無茶だあな」 「ぼくはただ、納得したいだけさ」  誠三叔父さんとの殺人論議は、取りあえず切り上げるとして、ぼくはまず、ぼくの中にわだかまっている疑問点の整理をしなくてはならなかった。ぼくだってべつに、川村麗子の死を最初から殺人事件と決めてかかっているわけではないのだ。 「睡眠薬のことだけど……」と、紙ばさみの資料を目で追っている誠三叔父さんに、ぼくが訊いた。「川村麗子が飲んでいた睡眠薬って、なんだったのかな。彼女の妹、そんなもの飲んでるのは見たことないって言うし、だいいち睡眠薬って、かんたんに手に入るわけ?」 「解剖所見では……」と、ファイルを睨みつけて、誠三叔父さんが言った。「体内から検出された薬物は、ええと、ベンゾジアゼピン誘導体系の睡眠薬で、これは開業医において一般的な不眠症患者に対して投与されるもの……と。まあ、そういうこったな。報告書の方でも、二月三日にこの川村麗子って子が自分で医者からもらったとなってる。睡眠薬くれえ、俺だってたまには医者からもらうことがあるからよう、この子もなんか寝らんねえことがあったんだんべえな」 「解剖所見っていうの、他には?」 「死亡推定時間は二月六日午後十一時の前後一時間。死因は肺に水が入っての窒息死。頭部右前方に軽い打撲傷が認められるが、死因との関連性はなし。その他暴行等の痕跡も認められず……つまりこの、解剖をした医者の意見ではよう、睡眠薬を飲んで風呂に入ったこの子が、目眩《めまい》かなんかで倒れたとき、浴槽の角に頭をぶつけて脳しんとうとか起こしてな、そのまま湯船ん中にひっくり返っちまったんじゃねえかってことだ。運が悪《わり》いっていや運が悪《わり》いけど、事故なんてみんな運が悪《わり》いから起こるんだしなあ」 「睡眠薬なんか飲んで風呂に入るの、運の問題じゃないと思うけどな」 「そのくれえはよう、警察だってちゃんと調べてらあな。薬が入ってた医者の袋には、就寝の一時間前に服用って書いてあってな、そういうふうに指示したっていう医者の証言もある。つまりよう、この子が、風呂から出たころにちょうど眠くなるようにって思えば、風呂に入る前に薬を飲んだってちっとも不思議じゃねえわけよ。実際そういうふうに考えたんだんべえな」  自分では睡眠薬なんて飲んだことはないし、友達で飲んでる人間も知らないから、睡眠薬に関するぼくの知識はほとんどゼロに近かった。ただ誠三叔父さんでさえ飲むことがあるというのだから、睡眠薬自体はぼくが思っていたよりも一般的であるのかもしれないし、川村麗子が風呂に入る前に飲んだとしても、誠三叔父さんの言うとおり、それを疑問とするほどには不自然なことではないのかもしれなかった。しかしもちろん、それは、川村麗子が薬に対して神経質なタイプではなかったとしての話で、千里はたしか、川村麗子はビタミン剤すら飲まなかったと言ったではなかったか。 「現場の状況なんだけど……」と、椅子にふん反り返ったまま資料に目を通している誠三叔父さんに、ぼくが訊いた。「なにか変わった様子はなかったの? 争ったあととか、人がいた気配とか」 「奇麗なもんだったらしいぜ」と、ファイルから顔を上げないで、誠三叔父さんが言った。「部屋も台所も、奇麗に片づいてたとよう。慣れた刑事ってのはな、現場の様子を一目見りゃ、事件についてのだいたいの見当はつくもんなんよ。ベッドの上にはパジャマがたたんで置いてあったし、風呂に入る前に着ていたらしいGパンとセーターもちゃんとたたまれていた」 「下着は?」 「下着は……ええと、洗濯機の中だったとよ。洗濯機の脱水槽の上にはバスタオルもたたんで置いてあった。つまりよう……」 「パジャマも用意して、着ていた物も始末して、風呂から出たあとはバスタオルも使うつもりだった……まず自殺ではありえない、ね?」 「そういうこった」 「外から人が侵入した様子は?」 「部屋のドアは内側から鍵がかかってた。この鍵ってのは内外《うちそと》一緒のやつじゃなくて、内側だけのやつ」 「窓は?」 「窓の鍵は……かかってなかった」 「かかってなかったの?」  誠三叔父さんが、ふんと鼻を鳴らし、肩でもこったのか、自分の拳でとんとんと首の横を叩いた。 「だけどおめえ、この子の部屋、二階なんだぜ。二階の部屋なら窓に鍵なんかかけねえことだってあるし、鑑識だってそのへんは抜かりはねえさ。侵入者があったかどうか、徹底的に調べたあな。土くれ一つ落ちてたって見逃すわきゃねえや。六日も七日も、雨はふってねえしなあ」 「当然、部屋の電気はついてたんだろうね?」 「当然な」 「テレビは?」 「消してあった」 「ストーブは?」 「消してあった」 「火燵は?」 「消してあった」 「風呂の火は?」 「消してあった……おめえなあ」  誠三叔父さんが、ちらっと視線を上げ、うんざりしたような顔で下唇をぐっとぼくの方につき出した。 「おめえがシャーロック・ホームズの真似することに文句は言わねえけど、日本の警察ってのはよう、素人の口出しが必要なほど人材が不足してるわけじゃねえんだ。たとえば俺がこの事件の担当だったとしてもな、こいつはやっぱり、ただの偶然の事故だったと思うだんべえなあ」 「叔父さんもやっぱり、プロだもんね」と、上着からつき出した誠三叔父さんの腹のあたりを眺めながら、ぼくが言った。「だけどプロだからこそ間違うってこと、あると思うんだ」 「どういうこった?」 「意味はないけど、そういうこともあるかもしれないって、ただ思っただけ。たとえばさっき、叔父さん、慣れた刑事なら現場を一目見ただけで事件の見当がつくって言ったろう? ぼくだってそういうもんだろうとは思うさ。だけど逆に、慣れてるぶんだけ、最初の先入観に囚《とら》われすぎるってこともあるんじゃないかな。素人ならおかしいって思うことを、逆におかしいと思わないような……」 「たとえば?」 「たとえば、部屋の中が奇麗に片づいていた。パジャマもバスタオルも用意してあった。争った形跡もないし暴行を受けた跡もない。たぶんアパートの他の住人に聞き込みとかもして、六日の午後十一時前後、妙なもの音や怪しい人間なんか、そういうのがなかったことも確かめてあるんだと思う。ぼくだってべつに、この事件がただの事故じゃないと言ってるわけじゃないんだ。ただね、ちょっとさ、おかしいなって思うことはある。本当言うとぼく、最近の川村麗子のこと、まったく知らないんだ。ただ部屋の様子や片づけ方からすると、かなり奇麗好きで、几帳面で、いろんなことに用心深かったんじゃないかと思う。そんな彼女が、窓に鍵をかけなかったなんてこと、ありえるだろうか……」 「そりゃおめえ、だから……」 「二階だったからだよね。それはいいんだ。たぶん寝る前にはかけていたのかもしれないし。だけどストーブや火燵、なぜ切ったのかな。風呂なんてせいぜい十分か二十分だろう? 長くたって三十分だよね。冬の一番寒い時期に、風呂から出たあとの部屋を寒くしておく人間なんか、いると思う? たとえば川村麗子が普通の人よりずっと用心深くて、たとえば……風呂に入ってる間の地震やなにかを心配してストーブや火燵を切っておいた。それもいいんだ。そういうこともありえると思う。だけど逆に、彼女が本当にそこまで用心深い性格だったら、やっぱり窓の鍵はかけておくんじゃないかな。素人が理屈で考えるとさ、やっぱり、そうなっちゃう」  誠三叔父さんが、ふん反り返ったまま短い腕を組み、足を貧乏ゆすりさせて、苦しそうに一つ大きな溜息をついた。 「そりゃおめえ、なんつうか、屁理屈ってやつだんべえや」 「たぶんね。たぶん、そうだとは思うけど、事故じゃないっていう立場からでも理屈は成り立つ……そういうことじゃないかな」  ぼくは、もうすっかり冷たくなっているコーヒーで口を湿らせ、新しい煙草に火をつけて、誠三叔父さんの方に肘《ひじ》でちょっと身を乗り出した。 「その報告書に、竹内常司って名前、のってる?」  ファイルにざっと目を通し、あまり機嫌の良くなさそうな顔で、誠三叔父さんが黙って首を横にふった。 「そいつ、中学のときの同級生で、川村麗子とつき合ってたと言うんだ……もちろん男と女の関係で。最近別れ話が出て、彼女はそれを苦にして自殺したんじゃないかって。そういう可能性、いくらかでもあるのかな?」 「これには、なにも書いてねえなあ」と、自分でも煙草に火をつけて、誠三叔父さんが言った。「家族。会社の同僚。友達。みんな聞き取りはやってあるがよう、竹内なんて名前は出てねえし、川村麗子って子がそういうトラブルに巻き込まれてた話も出てねえ。おめえ、その話は誰から聞いたんだや?」 「竹内本人から。二人の関係、竹内と彼女だけの秘密だとも言ってた」 「どうしてよ?」 「川村麗子に好きな男ができて、そいつは他の女の子と同棲してて、いろいろ事情がこみいってるからって」 「事情なんぞ、こみいりゃあこみいるほど他の人間に知れるもんだがなあ。とにかく、報告書にあるかぎり、この川村麗子って子は男女間のトラブルも抱えてなかったし、それ以外にも自殺するような問題は持っちゃいなかった。常識的に考えりゃこいつはやっぱりただの事故死で、そいでこの事件を常識的に考えちゃいけねえ理由ってのも、やっぱりどこにもねえ。なありょう坊、こいつばっかりはおめえの考えすぎじゃねえのか? それとも特別、常識的に考えちゃいけねえ訳でもあるってかや? ええ? りょう坊よう」  ぼくが、黙って三回ほど煙草を吸い、その間誠三叔父さんはずっと『ええ?』という目でぼくの顔を覗きつづけ、そうやってぼくらは十秒ぐらい、殺風景な警察食堂の片隅でお互いに喜劇的な沈黙をつづけていた。 「あるっていえば、ある」と、煙草を灰皿でつぶしてから、一つ息をついて、ぼくが言った。 「なにがよ?」と、誠三叔父さんが訊いた。 「この事件を、常識的に考えちゃいけない理由」  誠三叔父さんの返事を待たないで、ぼくが言った。 「ぼくは昔、常識じゃ考えられないくらい彼女のことが好きだった。彼女、常識じゃ考えられないくらい奇麗だったし、死んだ二月六日も、たぶん、常識じゃ考えられないくらい奇麗なはずだったんだ」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  つい一か月前までは、四時半になれば暗くなりはじめたのに、今では西の空を見てもその気配すらない。いくら寒くても確実に日が長くなっていく事実を目でたしかめると、春への予感で気持ちの中に妙な安心感が生まれる。利根川の対岸は今日もまた夕焼けで、駐車場のアスファルトの上を強い風が小さな紙屑を飛ばしていく。  電話に出たのは、声の感じからして、たぶん桜子と同窓だという千里の弟だった。  ぼくが名前を言った瞬間の、相手の息を飲む音がなんとなくおかしくて、つい、ぼくが訊いた。 「君、千里さんの弟さん?」 「はい……」 「うちの妹と、同窓なんだって?」 「はい……」 「高校、どこ行くの?」 「あの、一応、前橋高校」 「受かりそうか?」 「はい……一応」 「いろいろ、君もたいへんだろうな?」 「はい……一応」 「とにかく頑張ってくれよな。ぼくも応援してる」 「はい……」 「姉さん、帰ってる?」 「はい……あの、ちょっと待ってください」  電話の向こうで、ごそごそ音がし、待つまでもなく、ぼくの耳に怒ったような千里の声が飛び込んできた。 「斎木さん、弟になにを言ったのよ?」 「なにも言ってない。高校の入試、頑張るようにって、それだけ」 「うそ。今わたしを蹴とばして自分の部屋に上がっていったわよ」 「嘘《うそ》じゃない。あとで確かめればいいさ。君の弟、高校は受かるかもしれないけど、恋愛の方は落第だろうな」  一瞬声が途切れ、それから電話の向こうで、千里が小さくくすっと笑った。 「ちょっと、訊きたいことがあるんだ」  返事はなかったが、千里がうなずいたことは、気配で感じられた。 「麗子さんのアパート、今どうなってる?」 「そのままよ」 「元のまま?」 「今月一杯、部屋代は払ってあるの」 「入れるかな?」 「入れる。警察から鍵も戻ってる。今月一杯に引き払えばいいの」 「見たいんだ」 「これから?」 「できれば」 「わたしは、いいわ」 「今県庁にいるから、五分で君の家の前に行く……赤いシルビアで」  千里の返事を聞き、電話を切って、ぼくはクルマを置いてある駐車場の方に歩きだした。親父の葬式が済んだばかりで、昨夜も寝ていなくて、しかもこれから川村麗子が死んだ部屋に行くというのに、ぼくの気分は不謹慎にも、なぜかちょっとだけ浮き立っているようだった。  きっちり五分で千里の家に着き、助手席に革のハーフコートを滑り込ませて、まだ混んでいない国道をぼくは渋川方面に向けてクルマを走らせはじめた。コートの革の匂いと一緒に、千里はかすかな躰の匂いもクルマの中に持ち込んできた。それは化粧品の匂いではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもなく、少し甘酸っぱい、千里自身が発する春の匂いだった。 「川本町の、どのへんかな?」と、自分の声が自分で不機嫌に聞こえることに、内心苦笑しながら、ぼくが訊いた。 「赤城の鳥居の、ずっと下」と、やはり怒ったような声で、千里が答えた。「才川町の方から行って……近くまで行けばわかる」  ぼくはそのままクルマを才川町にまわし、赤城県道に出て、あとは最後まで黙ってハンドルを握っていた。ぼくが喋らなかったのは眠かったからではなく、クルマの構造に関して、運転席と助手席の唖然たる近さに、このとき生まれて初めて気がついたせいだった。  川村麗子の住んでいたアパートは、赤城県道を市街地から北に外れた、新興の住宅地の中にあった。近くにはまだ田んぼや畑が残っており、白いモルタルアパートの南側にも、小学校の校庭ほどの桑畑が落ちかけた夕日を受けて寒々と広がっていた。その枝を刈られた桑畑に、赤城下ろしの北風が音をたてて吹き抜けていく。  アパートの脇にクルマを停め、白く塗られた鉄の階段を上がって、ぼくたちは千里の持ってきた鍵で外廊下から直接部屋の中に入ってみた。  千里がドアの横のスイッチを入れると、奥の部屋と四畳半ほどの台所に同時に明かりがつき、全体がベージュ色に統一された生活感のない空気が、一瞬にしてぼくと千里を包み込んだ。そこにはぼくが想像していたような、刑事やら鑑識やらが荒らしまわったあとはなく、埃の臭気《におい》すら感じられなかった。ぼくだって女の子の部屋ぐらい知らないわけではないが、このまったく無邪気さのない配色や調度の好みは、いったいどうしたことか。カーペットもベッドもカーテンもすべてベージュの濃淡で、例のパンダやらコアラやらの縫いぐるみもなく、壁にはパリの裏町らしい写真が入った小さなカレンダーが、たった一枚貼られているだけだった。川村麗子は、ぼくと同じ二十一で、どこかにすっぽりと子供の無邪気さを置いてきてしまっていたというのか。 「あれから、片づけた?」と、上がり口に立ったまま、ぼんやりしている千里に、ぼくが訊いた。 「一度だけ……」と、小さくくしゃみをしてから、千里が答えた。「でも掃除機をかけたくらいよ。部屋の中はいじってない」 「上がって、いいのかな?」  思い出したように、うなずいて、千里がスニーカーを脱いで先に上がり、ぼくも靴を脱いで部屋に上がり込んだ。自分でも不思議だったが、これがあの[#「あの」に傍点]川村麗子の部屋だというのに、ぼくの心には密《ひそ》かに期待していた、なにか特別な感慨のようなものは湧いてはこなかった。六年という時間が思っていたよりも長かったのか、あるいはぼく自身が、自分で自惚《うぬぼ》れているよりもずっと薄情だったのか。それとも川村麗子の部屋自体が、いまだに『不良』としてのぼくを拒否しつづけているのか。 「今月中には引き払うの」と、鼻で小さく息を吐いてから、ぷくっと頬をふくらませて、千里が言った。「親父もお袋も当てにならないから、けっきょくわたしがやるわけよ」 「君の人生って、けっこう暗いんだな」  ふくらませたままの頬で、下からぼくの顔を睨み上げ、それから瞬間に表情を変えて、千里がにっと笑った。 「決まってるじゃない。病弱な父、優柔不断な母、好きな女の子にふられそうな弟。そういうの麗子ちゃん、みんなわたしに押しつけちゃったんだもの」 「麗子さんの本当の親父っていう人、生きてるの?」 「生きてるらしい。詳しくは知らないけど、東京で結婚してるんだって。お袋、今度のこと、その人には知らせていないと思う」 「彼女、その親父さんには会っていた?」 「どうかなあ。わたし、なん回か東京にも遊びに行ったけど、麗子ちゃんそんなこと言ってなかった。会ってないと思うけどなあ」 「東京に居たときは、麗子さんはどこに住んでたんだ?」 「石神井《しゃくじい》。石神井公園のそば」 「案外、地味だったんだな」 「だから昨日も言ったじゃない。麗子ちゃん、見かけとはちがうんだって。東京に居たときなんかここより狭い部屋で、それでて家賃は六万もしたの。ここなんか三万二千円」 「その、なんていうか……」と、部屋の中を見まわしてから、一つ咳払いをして、ぼくが言った。「思っていたより、ずっと、さっぱりした部屋だ」 「麗子ちゃんの性格なの。無駄なものが嫌いなの。でも斎木さんの言いたいこと、わかるような気がする。なんとなく温かみのない感じ……ね?」  それには答えず、ぼくは台所の方に歩いて、白い化粧ベニヤのドアで仕切られた風呂場の中を、ちょっと覗いてみた。そこは畳にして一畳半ほどの狭い風呂だったが、全体にピンクのタイル張りで、皮肉なことにこの住居の中ではそこだけが唯一華やいだ色調だった。 「警察に知ってる人がいて、本当はさっき、事件のことを訊いてきたんだ」と、台所の椅子に座って、じっとぼくの行動を監視し始めた千里に、ぼくが言った。 「やっぱりね。斎木さん、伊達《だて》に不良やってたんじゃないもんね」 「あの、なあ……」 「お坊ちゃんじゃ無理なの。最初から思ってた。斎木さんに相談したの、やっぱり正解だったみたい」  正解だったかどうかは、後でゆっくり考えることにして、ぼくは部屋の中に戻り、ベッドの前に立ってそこで改めてガスストーブと火燵の位置をたしかめてみた。ストーブは火燵からはだいぶ離れた、台所との境に近い場所に置かれていた。 「君、一月の末、ここに泊まったって言ったよな?」 「うん」と、椅子の上で胡座をかいて、千里が答えた。 「そのとき風呂に入った?」 「入った」 「麗子さんも?」 「決まってるじゃない?」 「そのとき……ストーブや火燵、どうしてたかな?」 「どうって?」 「一々消したのか、それともつけたままだったのか」 「つけたままよ。決まってるじゃない」 「どうして?」 「だってわたしと麗子ちゃん、一緒に入ったわけじゃないもの。一々ストーブや火燵を消されたら、わたしの方が寒いわよ」  なるほど、言われてみればそのとおりで、そんなことを訊いたぼくの方が迂闊《うかつ》だった。 「たとえば……」と、一般論として、ぼくはその質問をやり直すことにした。「麗子さんが一人だったとして、どうかな? 風呂に入るとき、ストーブや火燵を消す性格だったかな?」 「そうねえ……」  胡座《あぐら》をかいた上に、腕まで組み、口をへの字に曲げて、千里がむむっと考え込んだ。 「それ、大事なこと?」 「わからない。ただあの日は、麗子さんはストーブと火燵を消していた。これはたぶん、君のお母さんの証言だと思う」 「だけどねえ……」と、への字に結んでいた口を、今度はぼくの方につき出して、千里が言った。「そこまではねえ……いろんなことにきちんとしてて、いろんなことに慎重だったけど、お風呂に入るときストーブや火燵を消すかどうかまでは、ねえ? わからないと思わない?」 「服の方はどうだった? 一々たたむ性格?」 「それはちゃんとしてた。洋服をたたむの、麗子ちゃんの病気みたいだった。わたしがからかうと、逆にわたしの方がだらしないって怒られた」  千里が椅子から脚を下ろし、首をかしげて、ぼくの方にぶらぶらと歩いてきた。 「斎木さん、麗子ちゃんのこと、本当になにも知らないのね?」 「神は人間のすべてを知っているが、人間は神が神であることしか知りえない」 「誰が言ったの?」 「斎木亮っていう、偉い哲学者」 「その偉い哲学者、子供のころ不良だったでしょう?」 「あのなあ、一度言おうと思ってたけど……」 「わかってるって。わたし、そんなことぜんぜん気にしてない」  気にしてるのはぼくの方なのだが、千里の顔を見ると、どうもこの問題をこれ以上追求する気にはならなかった。 「さっきの服のことだけど……」と、話題を哲学から論理学に戻して、ぼくが言った。「たとえ麗子さんに服をたたむ趣味があったとしても、風呂に入る前に着ていた服までたたむっていうの、どんなもんかな。彼女、そこまで神経質だったわけ?」 「どういうことか、わからないな」 「だってストーブも火燵も切ってあったんだぜ? 夜の十一時だから、そうじゃなくても寒いよな。風呂が湧いた。入ろうと思って服を脱いだ。だけどそれをたたむとしたら、麗子さんは裸でうろうろしていたことになる。もちろんGパンとセーターをたたむくらい一分もかからないだろうけど、だけど人間の心理ってそんなもんじゃないと思う。着ていた服は取りあえずそのままにしておいて、どうしてもたたみたければ、風呂から出たあとにゆっくりたためばいい。ふつうの人間だったらそう考える」  千里が、コートの襟の中にその尖った顎をうずめていき、鼻の穴をふくらませて、うーんと小さい唸り声を上げた。 「言われてみれば、そうよねえ」 「あの日の麗子さんの服は、なぜかたたまれていた……」 「思い出した。麗子ちゃん、たしかによく服はたたんだけど、裸になってからまでそんなことはしなかった。お風呂に入るときは……そのときは、着ていたものは脱いでそのままにしておいた」 「それがふつうなんだ。ふつうすぎて、警察のおじさんたちは気がつかなかった」 「わたし……」と、自分の腕で自分の躰を抱きしめて、千里が言った。「なんだか、寒気がしてきた」 「ストーブ、つけた方がいいか?」 「そうじゃないの。ストーブはいいの。そうじゃなくて、ねえ? そのことって、麗子ちゃんの服をたたんだ人間が、誰かいるっていうことでしょう?」 「麗子さんがただの事故死じゃないって言ったのは、君の方だ」 「わかってる。わかってるけど、でも、そんなこと具体的に考えてたわけじゃないもの」 「ぼくが言ったのは、ただの理屈の問題。六日の夜、この部屋に麗子さん以外に誰かがいたことは間違いないと思う。そしてその誰かは、ただ遊びに来て、ただお茶を飲んで帰っただけでもない」  千里が、すっと躰を寄せてきて、ズボンのポケットに手を入れていたぼくの腕に、怒ったような息の仕方で自分の腕を絡《から》ませた。 「そういうふうにおどかすの、いけないんじゃない?」  千里の躰から、またさっきの甘酸っぱい匂いが伝わって、意味もなく、なんとなくぼくはどぎまぎした。 「おどかしてなんか、いないさ。ぼくも君も、今度のことは最初からおかしいと思ってた。ただ、最初は勘だけだったやつが、いくらか具体的になってきただけさ」 「具体的になってきたから、恐いんじゃないのよ」 「問題は……」と、千里から少し躰を離して、その血の気のひいた顔を見ながら、ぼくが言った。「具体的になってくると、ちゃんと考えておかなくちゃならないことがある……なあ?」 「なによ?」 「これをな、たとえば、本当に殺人事件だと仮定する。室内が荒らされたわけではないし、麗子さんが暴行を受けたわけでもない。だからこれは偶然の、通り魔的な犯行ではありえない。でもやっぱり犯人はいる。あとで説明するけど、その犯人は麗子さんをひどく恨んでいた。逆に言えば、麗子さんの方が恨まれていた。警察ではただの事故で処理しているから、ぼくらがちゃんとした証拠を見つけないかぎり捜査はやり直してくれない。ぼくらがちゃんとした証拠を見つけようとすれば、なぜ犯人が麗子さんを恨んでいたか、なぜ麗子さんは恨まれていたか、そこに行きついてしまう」  千里が、口の中でなにか唸ったが、目では自分にかまわず先をつづけろと、はっきりぼくに命令していた。 「ぼくが言いたいのは、本当にそんなところまで行っていいのかということ」と、千里の呼吸の音に耳を澄ませながら、ぼくが言った。「あとになって、ただの事故にしておいた方が良かったと思わないか……たしかにぼくは、昔麗子さんのことを好きだった。でもそれはそれだけのことだ。ぼくにしてみれば今度のこと、やっぱりただの他人《ひと》ごとなんだ。だけど君はちがう。麗子さんが殺された理由を調べていくうち、君や、君の家族にとって知らなかった方がいいようなことも、もしかしたら出てくるかもしれない。今度のことは、君が昨日言ってたような、ちょっと頭のおかしいやつが気まぐれに起こした事件じゃないような気がする。そういうこと、最初にぜんぶ考えて、最初にぜんぶ覚悟を決めておかなくちゃいけない。覚悟を決めるのはぼくじゃなくて、もちろん、君の方だ」  ぼくの腕に絡んでいただけの千里の手が、そのときにはもう袖口《そでぐち》を強く握りしめていて、千里はそうやって、目の前の殺風景な壁を呪《のろ》いでもかけるような目で、じっと睨みつけていた。その大きく見開いた目にはたっぷり涙が溜まっていたが、不思議に、それは最後まで頬を伝わってはいかなかった。  三度、大きく深呼吸をし、軽く鼻水をすすって、千里が怒ったようにぼくの顔を睨みつけてきた。 「急にそんなこと言うの、いけないと思う。今すぐ覚悟を決めろなんて、そういうの、無茶だと思う。覚悟なんて自然に決まっていくんだと思う」 「最初にって言ったのは、その、今すぐっていう意味じゃない」 「わたしをおどかしたわけ?」 「だから……」 「わたしだって、自信くらいある。明日《あした》とか、明後日《あさって》とか、朝起きてみたら覚悟くらいきまってる、ぜったいそんな気がする」  ぼくは、上着のポケットからハンカチを取り出し、それを肩で息をしている千里の鼻の下に押しつけて、部屋と台所の境の柱に、そっと寄りかかった。 「椅子にでも、座ったらいい」と、ぼくが言った。 「大きなお世話よ」と、ハンカチでおさえたままの口で、千里が答えた。 「もう少しここに居たいんだ。もう少し、考えたいことがある」 「勝手に考えればいいじゃない。わたし、ここで見てるもの」 「見るなら座って見ればいいさ」 「立って見てるのが好きなの。放っといてちょうだいよ」  ぼくは口の中だけではいはいと返事をし、もう千里のことは無視することに決めて、そのまま台所の流しの前まで歩かせてもらった。  その四畳半ほどの台所は、洗い槽も水切りも食器棚も、どこも奇麗に片づいていて、棚の中の食器類も川村麗子の整った顔が思い出せるほどに、整然と並んでいた。ただ注意して見るとステンレスの流しや水切りの中のコップに、あちこち薄く白い粉の幕が浮かんでいて、それがたぶん、鑑識が指紋を採ったあとということなのだろう。 「掃除をしたとき、流しは使ったのか?」と、部屋の方にふり返って、ぼくが訊いた。  千里はもう涙は浮かべていなかったが、立っている場所は前と同じで、コートのポケットに両手をつっ込んだまま、上目づかいにぼくの顔を睨みつけていた。  その千里が首を横に振り、ふてくされたような歩き方で、もぞもぞっと台所の方に歩いてきた。 「斎木さんて、案外格好いいじゃない?」 「自分でもそう思うさ」 「けっこうハードボイルドだしね」 「昔、不良だったからな」 「それは……あの、やっぱり、わたし椅子に座ろうかなっと」  ぼくはまた口の中だけではいはいと返事をし、流しの方にふり返って、洗い槽から食器棚までをもう一度眺めなおしてみた。千里が流しを使っていないとすれば、白い粉は別として、この流しや水切りの配置は基本的には事件の夜と同じはずだ。洗い槽の中の洗い桶は裏返されていて、食器類はすべて水切りと食器棚の中。この食器類は、いったい誰が洗ったのか。 「麗子さん、洗い物をするとき、ゴム手袋を使っていた?」と、もうしっかり椅子に座っている千里に、ぼくが訊いた。 「使っていた」と、テーブルに大きく頬杖をつきながら、千里が答えた。「冬は特にね。麗子ちゃん、手が奇麗なことが自慢だった」 「その手袋、どこにあるんだ?」 「布巾かけの……あれ?」  千里の頬杖が外れ、布巾が一枚だけかかったプラスチックの布巾かけに、その途方に暮れたような目が釘《くぎ》づけになった。 「無くなってる。気がつかなかったなあ。刑事さんに訊かれたときも、そんなことぜんぜん思いつかなかった。あの手袋が、どうかした?」 「どうもしない。ゴム手袋が自分で歩いているところを見たら、かなり不気味じゃないかと思っただけ」 「あの手袋、自分で歩いたの?」 「どうだかな……それとも麗子さんが使っていた手袋、自分で歩く癖があったのか?」  千里が、また頬杖に顎をのせ、口を尖らせて、鼻で大きく息を吸い込んだ。 「わかりやすく言ってよ。斎木さんの言い方って、後ろから急に首を絞めるみたいなんだもの」  ぼくだってできれば、後ろから急にこいつの首を絞めてやろうかと思うことはあるが、今のこの状況では、たぶん、その比喩《ひゆ》はあまり適当ではない。 「部屋もきちんと片づけられていて、君が見ても特別なくなっている物はないはずなのに、ゴムの手袋だけどうして無くなってるのか、それが不思議なだけさ」 「不思議だから、なんなのよ」 「不思議だから、これから考えるのさ」 「それじゃあ、さっきの、あとで説明するって言った、あれはなに?」 「あれ……か」  流しの縁に寄りかかり、取り出した煙草に火をつけてから、ぼくが言った。 「君、麗子さんが死んだ現場、直接見たの?」  目の表情と口の曲げ方だけで、千里が完璧な否定の意思表示をした。 「風呂に入ってたんだから、裸に決まってるし、あの狭い浴槽で溺れたんだから、どういう形だったのかはだいたい想像はつく。だけどぼく、そういうのっていやなんだよな。麗子さんだから特別そう思うのかもしれないけど、でもその話を聞いたとき、ああ、いやだなって思った……灰皿、あるのかな?」 「麗子ちゃん、煙草は吸わなかった」 「そういう死に方って、やっぱり良くないと思う」と、勝手に洗い槽に灰をはたいて、ぼくが言った。「最初から、なんとなく悪意を感じた。最初はただの勘だったけど、現実に麗子さんが殺されたとなると、やっぱりそれ、ものすごく悪意のある殺し方のような気がする。一見自然に見えて、だけどたぶんちがうと思う。殺したあとまで晒《さら》しものにしたいほど、そいつは麗子さんのことを恨んでいた。慎重に考えて、ちゃんと事故に見えるように計算して、その計算どおりに冷静な行動をしたんだろうけど、でも無意識のうちに自分の恨みの跡を残してしまった、そんな気がする。そしてそいつは、麗子さんが奇麗好きなことや、洋服をたたむ癖があることまで知ってるくらい、麗子さんの近くにいたはずのやつだ」  千里が、目をぱちくりさせ、ことんと椅子を鳴らして、また両腕で自分の躰を抱え込んだ。 「寒気が……」 「わかってる。もう少しだ」  ぼくは煙草を洗い槽に捨て、水を出して火を消してから、そこを離れて台所をまっすぐ部屋の奥の方に歩いていった。 「ぼくの靴、持ってきてくれないか?」と、カーテンを開きながら、うしろの千里に、ぼくが言った。  千里が立ち上がって、靴脱ぎの方に歩いていき、ぼくはかかっていたガラス戸の止め金を抜いて、そのガラス戸を半分ほど開いてみた。外はうす暗くなっていたが、風はやんでいて、遠くの方にはぽつぽつと人家だか街灯だかの明かりがともっていた。  靴を持ってきた千里が、ぼくの肩越しに外を覗き、なんの意味でか、ふーっと大きな溜息をついた。 「飛び下りるって言っても、わたし、ぜったい止めてやらない」と、ぼくに靴を渡しながら、ぼそっと、千里が言った。  ぼくはその靴を狭いベランダに下ろし、足を入れて、白く塗られた鉄の手摺《てす》りの上から下の地面を覗き込んでみた。アパート自体の敷地はかなり広く取ってあって、桑畑との境のブロック塀までは、だいたい五メートルほどの空き地になっている。時間のせいか、アパートの他の部屋に電気はついておらず、手摺りを握って、ぼくは片方の足をその手摺りの上に持ち上げてみた。 「うそ!」  声と同時に、わっと千里がぼくの腰にしがみついた。 「ばかばか。うそ!」 「なにが?」 「止めないって言ったの、うそ」 「ベランダに出るんなら、自分の靴も持ってこいよ」  たかをくくっていたが、千里の力は思っていたよりも強く、ぼくの手はあっけなくベランダから引き離された。 「おどかさないでよ」 「べつに、脅かしたわけじゃない」 「死んじゃうわよ」 「死ぬわけないさ」 「死ななくても、足の骨は折っちゃう」 「慣れてるんだ。子供のころ、風呂敷を首に巻いて二階から飛び下りたことがある」  むぐっと鼻を鳴らし、ぼくの上着を掴んで、千里がこの三日間でぼくが見たなかでの、一番恐い上目づかいをしてみせた。 「冗談……」と、千里の顎をつまんで、目の角度を正常な位置に戻してやってから、ぼくが言った。「飛び下りるわけないだろう。スーパーマンの真似してみせるには、客が少なすぎるさ」 「だって、今、飛び下りようとしたじゃないのよ」 「ただ下りてみようと思っただけ。飛んだりはしない」 「だって……」 「だいじょうぶ。高いように見えるけど、地面からベランダまでは二メートルちょっと。立ってるから高いように見えるだけ。それにこのベランダは、ぜったいに下りられるように出来てるはずなんだ」  ぼくは千里の手から、自分の上着の裾を引き剥がし、ひくひくしている千里の鼻をつまんで、少し部屋の方に押しやった。 「見てるなら、やっぱり靴を履いた方がいいな」 「大きなお世話よ」 「足が冷たいだろう?」 「放っといてよ、冷たいのが好きなんだから」  ぼくはまた手摺りに向きなおり、手をかけ、足をのせて、一度躰をその手摺りの上に持ち上げてみた。うす暗くはなっていたが、地面はちゃんと見えていて、口ほどにもなくぼくはけっこう怖気《おじけ》づいていた。それはぼく自身の必然性として、無理にそんな冒険を試みる必要はなかったからで、どうしてもここから下りなくてはならない人間にとっては、たぶん、寒いとか恐いとかの問題ではなかっただろう。  ぼくは初め、手摺りの下の横棒にぶらさがれば下の階の手摺りに足が届くだろうと考えていたが、実際にはじめてみると、そこまで果敢な決意をしなくても意外にかんたんに下りられそうなことに、すぐに気がついた。ベランダの横の壁に雨樋《あまどい》が縦に通っていて、そしてその雨樋はかなりしっかりした金具で壁に固定されているのだ。  試しにぼくは、左足の先を雨樋と壁の間にさし込み、左半身の体重をぜんぶその金具の上にのせてみた。雨樋も壁も金具も、思ったよりずっと丈夫で、ぼくの体重ぐらいではみしりとも音を出さなかった。アパートの設計思想に、泥棒対策が盛り込まれていないのは、この前橋という街がまだまだ平和な証拠なのだろう。  それからの実演は、まったく、気が抜けるほどかんたんだった。実際ぼくが雨樋と上下のベランダを梯子《はしご》がわりに下におりきるまで、一分とはかからなかった。二メートルなんて距離は、頭の中で考えているよりも、本当はばかばかしいくらい呆気ないものなのだ。  登って戻る必要まではなかったので、二階のベランダから下を覗き込んでいる千里に、ぼくが声をかけた。 「一緒に帰りたければ、戸締まりをして下りてこいよ」  千里がなにか言いかけたが、軽く手をふり、ぼくは建物を西側にまわって、最初に上がっていった鉄階段のところまで歩いて、そこで千里を待つことにした。あと十分もすれば完全に暗くなる時間で、アパートの外廊下と郵便受けの上にも、申し訳程度の暗い蛍光灯がともっていた。  ぼくは煙草に火をつけ、上着の襟を立てて、ブロック塀に寄りかかってなん度か生欠伸をした。風はなかったが空気の冷たさはさすがで、ぼくの足は無意識の足踏みをくり返していた。  上の外廊下に音がし、スニーカーの足音が聞こえて、千里が怒ったような顔で鉄階段を下りてきた。この子はいつも怒ったような顔をしているが、それが不機嫌な感情の表現ではないことは、この三日でいやというほど知らされていた。そういえば前橋に帰ってきてからの三日間、なぜかぼくらは毎日顔を合わせている。ぼくが前橋に帰ってきたのは、本当は親父の葬式に出るためだったのに。 「ばかばかしいから、訊かなかったけど……」と、ぼくの方に口を尖らせて、千里が言った。「ああいうふうにアパートを出るの、斎木さんの趣味なわけ?」 「女の子の部屋から、一度ああいうふうに出たいと思っていた」と煙草を捨てて、ちらっと千里の顔を見てから、ぼくが答えた。「麗子さんの部屋、ドアには内側から鍵がかかっていて、ベランダの方にはかかっていなかった。警察の調べでは外から人が侵入した気配はない。だけど出ていった方は、どうだったのか……ぼくは靴を履いたけど、もし靴をポケットにでも入れて手袋をはめて下りたら、痕跡なんか残らないかもしれない。犯人はベランダから下りることを、最初から計算に入れていた気がする」 「そこまでわかって、警察、捜査をやり直してくれないの?」 「やり直してはくれないと思う。ぼくらが今証明したことは、ただの理屈の問題で、殺人を証明する証拠を掴んだわけじゃない。麗子さんが殺されたと思っているのは、ぼくと君の、二人だけ。もちろん犯人は、これが殺人事件であることを知っている」  千里がまた腕を絡めてきそうになったので、ぼくが首をふり、蛍光灯にぼんやり照らし出されたステンレスの郵便受けの方を、軽く指さした。 「麗子さんの部屋、201だったよな?」  うなずいてから、千里も、ちょっと郵便受けの方をふり返った。 「なにか入ってる。来たときは気がつかなかったけど……君が掃除にきたときは?」 「そんなこと、考えなかったもの」 「君、ふだん、なにか考えることがあるのか?」 「どういう意味よ?」 「意味は……ないけどさ」  千里の背中を押し、二人で郵便受けの前に歩いて、その五センチほどの隙間から、ぼくらは一緒に『201』の中を覗き込んだ。そこには確かに白い角形の封筒が入っており、どう見てもそれは電気やガスの領収書の類ではなさそうだった。 「これの、鍵は?」と、ぼくが訊いた。 「鍵じゃないの。ダイアルを合わせるの」 「番号は、知ってる?」 「知らない。そんなこと、聞いてないもの。近くに大家さんが居るはずだけど……」 「この封筒、ぼくらに出して見る権利、あるよな?」 「あるある。ぜったいある」  ぼくはもう一度その郵便受けの形をたしかめ、千里に目で待っているように合図をし、クルマに戻ってエンジンをかけ、それからトランクを開けて、工具箱から長い方のドライバーを出してまた郵便受けのところに戻っていった。ベランダから下りたり他人の郵便物を抜き出したり、やってることはまるで泥棒だったが、ぼくはけして将来にそなえての職業訓練をしているわけではない。もっともぼくなんかの人生、どこでどうなるか、知れたものではなかったが。  呆れているのか感激しているのか、茫然《ぼうぜん》とした顔の千里を脇にどけ、まずぼくは腰をかがめて郵便受けの底の穴からドライバーの先を差し込んでみた。それから横になっている封筒を起こし、郵便受けの蓋の内側に押しつけて、そのままドライバーをゆっくり上の方に突き上げた。封筒はかんたんに滑ってきて、投函口の隙間にその白い角を覗かせてきた。あとは千里に合図をして抜き出させれば、それですべては完了だった。大家を探してダイアルの番号を聞くよりも、少なくとも三十分は時間の節約になったはずだ。 「斎木さん、いろんな才能、あるんですね」と、たぶん褒めたつもりで、千里が言った。 「どうせ昔、不良だったからな」 「そんなこと……言わないわよ」 「一昨日《おととい》会ってから、君は三回それを言ってる」 「本当に? ぜんぜん知らなかった」 「どうでもいいけどな。見かけよりぼく、気が弱いんだ。君に言われるたびに心臓が止まりそうになる」  口を尖らせかけた千里の手から、封筒を抜き取り、躰の向きを変えて、蛍光灯の明かりの中でぼくらは一緒にそれを覗き込んだ。もちろん宛名は川村麗子だったが、差し出し人の方は、驚いていいものか呆れていいものか、なんとも奇妙な人間の名前だった。 「こいつの名前、聞いたことある?」  小さく一つ唸ってから、ぼくの顔を見上げて、千里が言った。 「前に、なん度か家に来たことがあると思う」 「麗子さん、なにか言ってた?」 「言わない。麗子ちゃん、本当にそういうこと言わない人だったの」  封筒の消し印は二月八日になっていて、そして差し出し人の名前は、まったく、驚いていいのか呆れていいのか、なぜか、竹内常司だったのだ。 『今日は。  最近電話にも出てくれず、〈青猫〉にも顔を見せないので、我慢できずに手紙を書いています。麗子さん、先日のこと、やはり怒っているのでしょうか。  君が怒るのは当たり前で、自分でも悪かったと反省しています。ただ君が氏家と二人だけで〈青猫〉にいるのを見たとき、僕が最悪の事態を想像してしまったことは、君にも理解して欲しいのです。僕もあれからいろいろ考え、本心から、冷静に反省をしているのです。  麗子さん。もう一度考え直してください。東京での楽しかった日々のことを思い出してください。なぜ僕等の関係がこんな風になってしまったのか、僕にはまったく理解できません。友達のことを悪く言うのは卑怯だと思いますが、氏家は絶対に君に相応《ふさわ》しい人間ではありません。驚かないでください。氏家は桑原さんと同棲していながら、野代さんとも関係を持っているのです。氏家が自慢そうに直接僕に言ったのです。君の気持ちは僕にだって分からなくはありませんが、そんな奴に君を渡すことは出来ません。  麗子さん。くどいようですが、もう一度考え直してください。二人で結婚のことを話し合った東京での日々のことを思い出してください。君さえ望むなら、大学をやめて、僕は前橋で仕事に就《つ》いてもいいのです。親戚が広告会社をやっていて、いつでも来いと言っています。僕さえ仕事に就けば、僕達はいつでも結婚できるのです。どうか氏家のことは諦めて下さい。奴は東大に入れなくて、ただの見栄で君にちょっかいを出しているだけなのです。どうかそんな奴と僕を比べるのはやめてください。僕は君がいなくては生きていけないのです。君がどうしても僕と別れるというのなら、僕は君を殺して自分でも死ぬ覚悟でいるのです。これは脅しではありません。素直な僕の気持ちなのです。どうか、僕のこの気持ちを分かってくれて、もう一度考え直してください。  麗子さん。もう一度やり直しましょう。僕にはもう一度やり直せる自信があります。麗子さん。この手紙を読んだら、直《す》ぐに電話を下さい。君に逢《あ》えなくなってからの僕の毎日がどんなに苦しいものか、どうか分かってください。夜中でも構いません。直ぐに電話を下さい。  それから、僕のこと、一方的に君に付きまとっているなどと、桑原さんや野代さんに言いふらすのはやめて下さい。僕にも僕なりにプライドがあるのです。君がこれ以上あんな風なことを言いふらすのなら、僕も東京でのことをみんなに言わなくてはなりません。どうか僕達の関係を〈青猫〉の連中に言うのはやめてください。僕達の関係を君自身の手で汚れたものにするのはやめてください。どうか、以前の君に戻ってください。そしてこの手紙を読んだら、直ぐに電話を下さい。逢ってちゃんと話し合えば、君も僕の気持ちは分かってくれるはずです。考え直して、どうか電話を下さい。楽しかったあの頃のことを思い出して、先日のぼくの失言を許してください。そしてぼくのプライドも考えて、みんなに言いふらすのはやめてください。  電話をお待ちしています。  乱筆乱文にて、失礼いたします。  川村麗子様へ。  竹内常司』  千里に押しつけられたその手紙を、車内灯をつけて読んでから、となりの千里に渡し、ぼくは黙ってクルマを市街地に向かって走らせはじめた。あたりはもうすっかり暗くなっていて、走っていく先の市街地の上空は街灯やネオンの反射で、赤っぽい靄《もや》がかかったように茫然と明るくなっていた。  千里が舌うちをし、車内灯を消して脚を組みかえたのは、ぼくがクルマを赤城県道に出してまっすぐ東に下りはじめた、そのときだった。 「ありえるのかなあ、こういうこと」と、手紙を封筒に戻しながら、唸るような声で、千里が言った。「斎木さん、どう思う?」 「書いてあるんだから、書いてあるとおりなんだろうな」 「だけど手紙のとおりなら、麗子ちゃん、この竹内って人と関係があったことになる」 「関係があったって、悪くはないさ」 「わたし竹内って人覚えてるけど、わたしだったら、つき合わないと思うけどな」 「君がつき合ってたわけじゃない。つき合ってたのは麗子さんだ。麗子さんが誰とどんなふうにつき合おうと、そんなこと麗子さんの勝手さ」 「なにを、怒ってるのよ?」 「怒ってなんか……いないさ」  怒ってはいないが、ぼくが愉快だったかといえば、もちろんそんなことはない。それは手紙の内容自体の問題ではなく、その文章の中に、たぶん、六年前の川村麗子に対するぼく自身のやり場のない気持ちが、へんなふうに重なってしまったからなのだろう。六年という時間がぼくの常識を飛び越えて、よけいなところでひょっこりと顔を出す。六年なんてたいした時間ではないが、それでも困るのは、相手の川村麗子がこの世にもう存在していないということなのだ。 「その手紙、借りておいていいかな?」と、フロントガラスから行くての道を見つめたまま、ぼくが言った。 「いいけど、どうして?」 「君の弟に読ませても、ラブレターを書く参考にはならないだろう?」  千里が、くしゃみをしたように笑い、ぼくの上着を引っぱって、その封筒をポケットの中に放り込んだ。 「だけどわたし、この手紙、やっぱりおかしいと思うな」と、ぼくの方に躰を捻《ひね》ったまま、千里が言った。 「気持ちだけは、ちゃんと表現されてる」 「気持ちを表現することと事実を表現すること、ちがうんじゃない? この手紙じゃ麗子ちゃんとこの人、東京で同棲でもしてたみたいに聞こえる」 「君だって麗子さんのこと、ぜんぶ知ってるわけじゃないさ」 「だけど本当にこの手紙のとおりなら、麗子ちゃん、わたしに言ったと思う」 「君も麗子さんにみんな喋っていたのか? 自分が誰を好きだとか、今どんなやつとつき合っているとか」 「わたしは……わたしは、男の子とつき合ったことなんて、そんなこと一度もないもの」  煙草が吸いたくなったが、我慢して、ぼくが言った。 「この竹内っていうの、昨夜家に来たんだ。なぜ来たのかよくわからないけど、親父に線香をあげていった。そのときもやつ、自分と麗子さんのことを言ってた。麗子さんも一人で東京に出て、寂しくて、それでそういうふうになったのかもしれないし、逆に考えれば、麗子さんみたいな人に一人もつき合っていた男がいなかったという方が、ずっと不自然だ……もちろんこの手紙に書いてあること、ぼくだってぜんぶ信じたいとは思わないけど」  千里が正面に向きなおり、脚を組みかえて、窓の反対側に向かって小さく溜息をついた。時間のせいかぼくらの乗っている車線にはほとんどクルマはなく、市街地の方からのクルマだけが、ライトを下におろしてのろのろとかなり遠くの方までつながっていた。 「東京にいたときの親友って、なんていったっけ?」と、ぼくが訊いた。 「水谷……小夜子さん」 「連絡、とれるよな?」 「住所も電話もわかる」 「訊いてくれるかな? 麗子さんが東京にいたときの男関係を、具体的に。どういうやつとどんなふうにつき合っていたか、その水谷さんならなにか知っていると思う」  千里が返事もせず、うなずきもしなかったので、しばらく待ってから、ぼくは左手をのばして、軽く千里の肩を揺すってみた。 「聞こえていたよな?」 「聞こえていたけど……わたし、そんなこと訊くのいやだな」 「どうして?」 「だって、麗子ちゃんが、男の人と具体的にどんなふうにつき合っていたかなんて、そんなこと訊きたくない」 「知りたくないことも出てくるかもしれない。さっきも、そう言った」 「だけど……」 「君がいやならいいさ。君の問題だ。ぼくだってこんなこと、好きで首をつっ込んだわけじゃない」  千里が、かすかに鼻を鳴らし、そしてぼくが気がついたときには、千里は完璧に涙を流して、もうはっきりとした嗚咽《おえつ》の声を張り上げていた。 「いや……あの、なあ?」 「なにがなあ[#「なあ」に傍点]よ? どうしてわたしばっかりいじめるのよ?」 「いじめてなんか、いないと思うけどな」 「いじめてるじゃない? 今日会って最初から、斎木さんずっとわたしのこといじめてるじゃない?」  泣いているわりには、その言葉ははっきりしていて、そしてなぜか妙に断定的だった。 「ぼくはただ、事実関係をはっきりさせようと思った、それだけさ」 「それでどうしてわたしのこといじめるのよ? さっきだってそうじゃない? 今すぐ覚悟を決めろとか、犯人がそばにいるとか……それで今度は、急にわたしに冷たくしたり」 「その、だから……そういうつもりじゃなかった」  ぼくはまた左の腕をのばし、短い髪の千里の首筋を、そっとさすりはじめた。オートマチックのクルマなんてずっとばかにしていたが、なるほど、こんなふうに左手が自由に使える利点もあったのだ。 「君を脅かすつもりも、いじめるつもりもなかった」と、泣き声を唸り声に変えた千里に、ぼくが言った。「昨夜寝ていなくて、それで、ちょっと疲れていたんだ」  さっき渡したぼくのハンカチで、涙と鼻水を拭いてから、留めていた息を、千里がうーと吐き出した。 「わかってるんだけどね。わかってるんだけど、急に腹が立ったり急に悲しくなったりするの。自分でもどうなっちゃったのか、よくわからないの。わたし……ヒステリーなのかなあ」  千里がいくらかヒステリーであることぐらい、自己分析なんかしてもらわなくてもわかっている。ただ女なんてどうせどこかヒステリーなわけだし、問題はそれが可愛いか可愛くないかだけなのだ。それに考えてみればいくら大人っぽく見えても、千里の歳は桜子とたった二つしかちがわない。桜子が今度前橋女学園に入れば、一年生と三年生というだけで、同じ女子高校生ではないか。 「一応ね、水谷さんにね、今夜電話してみる」と、まだいくらかぼくに遺恨があるような声で、千里が言った。  ちょっとためらったが、やはり、ぼくは先を急ぐことにした。 「それからもう一つ……睡眠薬のこと」 「睡眠薬の、なあに?」 「今度の事件に睡眠薬がどう関係しているのか、ぜんぜんわからない」 「麗子ちゃんが自分でお医者にもらったんだから、自分で飲んだんじゃないの?」 「それが、どうもな……風呂の支度をして、睡眠薬を飲んだところに、顔見知りの犯人が急に訪ねてきた。そう考えられなくもないけど、どんなもんだろう。そういう偶然って、あまり考えたくないな」 「犯人が、飲ませた?」 「その方が自然だ。ただの偶然だったとしたら、あまりにも犯人の方にだけ都合がよすぎる……また、寒気がするか?」 「だいじょうぶ。わたし、もう頑張っちゃうことに決めたんだ」 「警察ではベンゾなんとか系の睡眠薬なんて言ってたけど、いったいそれ、どんなものか……」 「訊いてみる?」 「誰に?」 「麗子ちゃんが薬をもらったお医者に。アパートの鍵と一緒に、その薬も袋ごと警察から返ってきて、それで袋を見たら、お医者って横山町の大森医院だったの。大森医院ってわたしたちが子供のころからのかかりつけ[#「かかりつけ」に傍点]なの。だから事情を話せば、ちゃんと教えてくれると思う」  なーんだと言いたいところだが、千里には事の重大性はわかっていないはずだし、だいいちぼく自身、睡眠薬のことが事件にとってどういうふうに重大な意味を持つのか、まるでわかってはいないのだ。しかしもし千里の言うとおり、その医者から話が聞ければ、少なくとも川村麗子が睡眠薬を飲むことになった事情ぐらいはわかるかもしれない。 「君に任せる。ビタミン剤も飲まなかった麗子さんが、なぜ睡眠薬なんか飲むことになったのか……それがわかるだけでも核心に近づくはずだ」  胸こそ叩《たた》かなかったが、かなり気合いを入れて、千里がうんとうなずいた。どこかでギアでも入れかえたのか、その横顔を見るかぎり、千里はなぜか完全にやる気になっていた。『頑張っちゃうことに決めた』ことの証拠をぼくに見せようという努力なのか、それともたんに虫のいどころが変わっただけなのか、まあ、たぶん後の方だろう。 「わたしね、予感がする……」と、対向車のライトにきらっと目を光らせて、千里が言った。「麗子ちゃんを殺した犯人、ぜったい見つけられる気がする。前橋駅で斎木さんに会ったときから、本当はそんな気がしていた。言ったでしょう? やったねっていう感じ。たぶん麗子ちゃんがわたしを斎木さんに会わせたんだと思う」  なんのことか、意味はわからなかったが、ぼくにしても一昨日千里に会わなければ、川村麗子の死にここまで関わりは持たなかったろう。それどころか親父の葬式だけを済ませて、川村麗子が死んだことすら知らずに東京に戻っていたかもしれない。 「よくはわからないけど、なんとなく、ぼくも麗子さんを殺したやつは見つけられる予感がする」と、ぼくが言った。 「犯人が近くにいること、わたしにもやっとわかってきた。麗子ちゃんもそうと言ってる」  千里が、躰を半分捻って、ほとんど運転の邪魔になるところまで、横から顔をハンドルに近づけてきた。 「知ってた? このコート、麗子ちゃんが着ていたの。今年の冬革のコートがはやりで、麗子ちゃんずっとこのコート着てて、わたしずっと羨《うらや》ましいなって思ってて、それで麗子ちゃんが死んだあと、わたしがもらったの。だからこのコートにはまだ麗子ちゃんの気持ちが残っているの」  もちろんぼくは、そのコートに川村麗子の霊が宿っているなどと、そこまでロマンチックに考える体質ではない。しかしぼくの中でただの記憶でしかなかった川村麗子が、妙に身ぢかな存在となってすぐそばまで姿を現したことも、ぼくには実感として感じられる事実だった。 「とにかく、少し、麗子さんの周囲《まわり》を歩きまわってみよう」と、千里の視線をなんとなく意識しながら、ぼくが言った。「ぼくなんかに歩きまわられたら、迷惑をするやつ、きっとなん人も出てくるだろうけど」 「水谷さんに電話して、それから、わたしの方は?」と、ぼくの顔を覗き込んだまま、千里が訊いた。 「君のすることは決まってる。君のすることは、期末試験の勉強だ」  へええというように口を開けて、生意気に、千里がぽんぽんとぼくの肩を叩いてきた。 「斎木さんて、案外常識家だったんだ?」 「常識が人間の皮をかぶってるみたいなもんさ」 「思うんだけど、麗子ちゃんて、もしかしたら男の人を見る目がなかったのかもね?」  思わず笑いそうになって、そして実際、口の中で少し笑ってから、千里の広い額を、ぼくが指先で助手席の中に深く押し戻した。 「初めて君を見たとき、ずいぶん生意気そうな子だと思った」 「わたしなんか初めて斎木さんを見たとき、ずいぶん恐いおにいさんだと思った。でもそれ、小学生のときだけどね」 「ぼくが言おうとしたのは、そういうことじゃなくて……」  そのとき、ふと、ぼくの頭の中に、その前に言った千里の言葉が、急にへんな実感をもってよみがえってきた。 「そういうことじゃなくて、なんなのよ?」 「いや……」  川村麗子には、男を見る目がなかった? もちろんそんなものは主観の問題で、千里にしてもただ冗談で言っただけなのだろう。しかし竹内常司に関してだけいえば、客観的にみても、川村麗子の趣味がそれほど褒められたものだとは思えない。それとも川村麗子には、竹内とつき合わなくてはならない、なにか特別な事情でもあったのだろうか。 「ねえ、そういうことじゃなくて、なんだっていうのよ?」 「その……生意気そうに見えたのは、ただコートのせいだって、そう言おうと思っただけさ」  千里が、ふうんと唸って、面白くもなさそうに、その長い脚を助手席の中で乱暴に組みかえた。 「薬のことと、麗子さんの東京での生活、わかったら電話をくれ。それから今のこと、やっぱり君の方が間違っている」 「今の、なによ?」 「麗子さんの男を見る目の話。麗子さんには男を見る目があった。だからこそ、ぼくなんかとはつき合わなかったんだ」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「乱筆乱文にて、失礼いたします……か」  千里を千里の家の前でおろし、『青猫』があるという広瀬川の川縁に向かってクルマを走らせながら、煙草をつけて、ぼくは頭の中でなん度かその最後の文句をくり返していた。おかしいと言われればおかしいその文面も、内容が事実であるとするかぎり、どこといっておかしいところはない。川村麗子が短大を卒業して、前橋に帰ってきてからは氏家孝一とつき合いはじめたらしいこと。氏家は桑原智世と同棲していながら、川村麗子の親友である野代亜矢子とも関係があるらしいこと。そして川村麗子は竹内と別れたいと言いだし、桑原智世や野代亜矢子に、竹内が一方的に自分につきまとっていると言いふらしたこと。  野代亜矢子については、ぼくもよく覚えているわけではないが、たぶん『普通の女の子』という印象の女の子だったような気がする。桑原智世と同棲していて、川村麗子ともつき合いはじめた氏家孝一が、わざわざ野代亜矢子にまでちょっかいを出す必要もないとは思うが、男と女のことなんて、どうせぼくなんかにわかるはずはない。亀橋和也ではないが、氏家がたとえ『気にくわねえ野郎』であったとしても、それはぼくや亀橋のような落ちこぼれからみた価値基準なのだ。中学のとき氏家が女の子から人気があったことは事実だし、氏家と桑原智世の組み合わせも、氏家と川村麗子の組み合わせも、少なくとも竹内常司と川村麗子の組み合わせよりは無理なく納得できる。しかし、それにしても、竹内と氏家と、桑原智世と野代亜矢子と、それに川村麗子まで加えて、連中はいったい、こんな町でなにをごちゃごちゃやっていたのか。 『青猫』は、北側から繁華街を包み込むように西から東に流れている広瀬川の左岸に沿って、その繁華街の西端にあった。場末といえば場末だが、昔は『くるみ』という、店中にやたら油絵を飾りたてていることで有名な喫茶店があった場所だ。地元の芸術家のつながり[#「芸術家のつながり」に傍点]とかがあって、芸術家になった氏家がそこにスナックを開くことになったのか。それとも金を出した叔母さんという人が、もともと地元の芸術家であったのか。  ぼくは舗道ぎりぎりにクルマを停め、凝《こ》った小さな電気看板をたしかめてから、青ペンキの塗られた木のドアを押して店の中に入って行った。『くるみ』時代にはもちろん来たことはなかったが、スペースは思ったよりも広く、内装は酒場と喫茶店の中間のようなものだった。外観からして通りがかりの客が入る雰囲気ではなく、たぶん、常連の芸術家連中がたむろして芸術的な縄張りをつくっている店なのだろう。  氏家が居たのは、店の一番奥に鉤型《かぎがた》に渡した、カウンターの止まり木だった。となりには野代亜矢子が座っていたが、ぼくは野代亜矢子の顔を思い出すために、二、三秒注意を記憶の中に集中させなくてはならなかった。  もの珍しそうな顔をぼくの方に向けた二人に、会釈だけして、ぼくは野代亜矢子のとなりに腰をおろした。 「まさか、ねえ?」と、ちらっとぼくの顔を見てから、視線を氏家の方にまわして、野代亜矢子が言った。「噂をすれば影って、本当みたい」  中学時代と変わらない前髪を、指ですくって、氏家が自分の背中の方に顎をしゃくってみせた。その席には竹内がこちらを向いて座っていて、厚いハードカバーの本の上縁から、カウンターのぼくらの方に粘っこい視線を送っていた。無精髭は昨日《きのう》のままだったが、髪はなでつけられていて、その視線にも昨日の茫然としたような曖昧《あいまい》さは感じられなかった。竹内がいつからこの店に居るのかは知らないが、ぼくが来るまでの間に、一通りの状況説明は終わっているということなのだろう。 「妙なこと、始めたじゃないか?」と、野代亜矢子の頭越しに、首をのばして、ぼくが氏家に言った。 「遅かれ早かれ、人間、いつかはなにかを始めるもんさ」と、また前髪をかき上げて、氏家が答えた。「斎木……親父さん、死んだんだってな?」 「前橋中でこれほど有名になれば、親父も本望だろうさ」  口の端で、かすかに笑って、氏家が肘でカウンターに身をのり出した。 「ビールでいいか? 店の奢《おご》りにしておくぜ」 「コーヒーがいい。昨夜《ゆうべ》から寝てないし、それにクルマだからな」  氏家が鼻で笑い、指を弾いて、カウンターの中にコーヒーを言いつけた。  女の子が、立ち上がり、返事もせずにカウンターの中でコーヒー用のサイホンを用意しはじめた。髪の毛をソバージュにして、唇をピンク色に塗っているが、表情はいっさい変えず、まるでこの店と店の客を心の底から軽蔑《けいべつ》しきっている感じの女の子だった。 「この店のこと、誰に聞いたんだ?」と、指の腹で皮膚の薄い頬をこすりながら、氏家が訊いてきた。 「亀橋」と、ぼくが答えた。 「あいつ、暴走族やめたんだってな?」 「誰でもいつかはなにかをやめて、なにかを始めるもんさ」 「亀橋くん、今由美子とつき合ってるの」と、氏家の方に顔をあげて、野代亜矢子が言った。「覚えてない? 中学のとき陸上やってた、田中由美子」 「覚えてるけど、それがどうした?」 「どうもしない……変わった組み合わせだって、そう言おうとしただけ」  自分がこの店で歓迎されないことぐらい、ぼくにだって最初からわかっている。氏家のぼくに対する敵意は、中学のころとほとんど変わってはいないらしい。そのことは氏家の表情にも、野代亜矢子に話しかける声の調子にも表われている。氏家にしてみればぼくや亀橋は、六年たった今でも、あい変わらず学級委員の意向に逆らうクラスの半端者《はんぱもの》ということか。 「川村さんも、この店、よく来てたんだってな?」と、煙草に火をつけてから、店の中をわざとゆっくり見まわして、ぼくが言った。  本から顔こそ上げなかったが、竹内の注意も、最初からずっとカウンターのぼくたちの方に注がれたままだった。 「よくってことは……ないけどな」と、一呼吸おいてから、わだかまりのあるような声で、氏家が言った。「去年、二、三回ってとこじゃなかったか?」 「今年だって来たわよ」と、カウンターの中からぼくの前にコーヒーを差し出して、誰にともなく、ソバージュの女の子が言った。  女の子はそれ以上なにも言わず、ぼくたちの会話には興味もなさそうに、カウンターの向こうに座って黙ってちぢれた髪の毛をいじくりはじめた。 「川村さんの事件、あれ、殺人だったらしい」と、今日三杯めのコーヒーにうんざりしながら、口だけつけて、ぼくが言った。  竹内と氏家と野代亜矢子が、同時に視線を上げ、三人とも後ろから不意に肩を叩かれたような顔で、同時にぼくの顔を覗き込んできた。 「だって、あれ、事故だったはずよ」と、音程を半オクターブぐらい上げて、野代亜矢子が言った。 「警察がよく使う手さ。事故だと発表しておけば、犯人が油断する」  竹内が本を閉じ、フロアを歩いて、カウンターのぼくのとなりに腰をおろしてきた。 「自殺じゃなかったのか? 俺、自殺だと思ってたけどなあ」と、昨日と同じのんびりした声で、竹内が言った。 「事故でも自殺でもない。そう言ってた」 「誰が?」 「県警本部にいる、親戚の人。葬式で会ったらそう言ってた」 「それ、真面目な話でか?」  コーヒーをすすって、他の三人の顔を観察してから、ぼくが言った。 「誘拐事件でマスコミが報道を控えるのと、理屈は同しさ。殺人事件の場合は警察の方がわざと情報の操作をする。今度の事件も発表だけは事故にしておいて、裏ではちゃんと殺人として捜査をしているらしい」 「自殺だったやつを、家族の希望で事故にしたんだと思ってたなあ」と、また、竹内が言った。 「遺書もなかったし、川村さんは発作的に自殺するタイプでもなかった。そんなこと、竹内の方がよく知ってるはずじゃないか?」 「俺は、その……自殺の方が自然だと思っただけさ」  竹内が、わざとらしく腕時計を覗き、ズボンのポケットから小銭入れを取り出して、口の中でなにか言いながらしばらく熱心にその小銭入れをかき回していた。 「ええと、じゃあ、三百五十円な」と、百円玉を三個と十円玉を五個、しつこいくらいていねいにカウンターに並べ、ぼくの顔にぼんやりした視線を送りながら、竹内が立ちあがった。「行くところがあったんだ。斎木……親父さんの葬式、賑やかだったか?」  答えるのは面倒だったので、うなずくだけ、ぼくがうなずいた。 「その……人がたくさん来るっていうのは、その人間がみんなから好かれていたことの証拠なんだ。親父さんもみんなから好かれていたんさ。斎木の親父さん、きっと幸せだったんさ」  ぼくだけにひょいと手をふり、本を腋の下に抱えて、竹内が昨日と同じ茫然とした顔でふらっと出口の方に歩きだした。 「あの手紙は、読んだ」と、その竹内の背中に、ぼくが言った。 「え?」と、声を出して、竹内がぼくの方をふり返った。 「川村さんの妹が預っていた、例の手紙さ」  竹内が、とぼけたような目で上からぼくの顔を見下ろし、それからなんの意味でか、うんと一つうなずいた。 「やっぱりなあ。昨日斎木、千里ちゃんと一緒に喫茶店に行ったもんなあ。そういうことだったんか……そういうことなんだよなあ。たぶん、そういうことだとは思ってたけど、やっぱりなあ、彼女も斎木も、やっぱりあれ、読んでたんだよなあ」  そこで竹内は、にやっと笑い、ぼくに手をふり直して、あとは後ろも見ずに木のドアから悠然と姿を消していった。 「あいつ、変わったな」と、竹内の出ていったドアをしばらく眺めてから、カウンターの方に向きなおって、ぼくが言った。 「東京が、合わなかったみたいね」と、短い溜息と一緒に、野代亜矢子が言った。「竹内くん、東京でノイローゼになったらしいの」 「そんなところだとは、思っていた」 「前橋でも病院に通っているらしいけど……竹内くんて、真面目すぎるからね」 「背伸びのしすぎさ」と、カウンターに肘をついて、正面の壁に向かったまま、氏家が言った。「あいつ、いつだって自分の能力以上の背伸びして、そのあげくにぷっつんと切れちまうわけさ」 「自分の目標、途中で放り出す人よりいいじゃないの?」と、皮肉たっぷりに聞こえる言い方で、野代亜矢子が言った。 「能力の中には、途中で目標を変える判断力もふくまれてるんだぜ? 大人になるっていうのは、そういうことさ」 「それじゃ氏家くんは、もうじゅうぶん大人になってるわけね?」 「意味もなくもがく[#「もがく」に傍点]ことがばかばかしくなった、それだけのことだ」  氏家が煙草に火をつけ、カウンターの中に長く煙を吐いて、ちっと、小さく舌打ちをした。 「なあ斎木……」と、しばらく黙って煙草を吹かしてから、氏家が言った。「さっきの話、どういうことなんだ?」 「さっきの、なんだ?」 「川村さんの事件が、殺人だったっていうやつ。あれ、竹内を脅かしただけなのか?」 「叔父さんから聞いたことをそのまま言っただけだ。警察では犯人を川村さんの交遊関係に絞ってるらしい」 「交遊関係っていえば、その……それほど広くはないわけだ」 「広くはないし、川村さんを殺すほど恨んでいたやつも、それほど多くはないだろうな」 「麗子、恨まれて殺されたの?」と、眉毛をぼくの方にもちあげて、野代亜矢子が訊いた。 「怨恨《えんこん》だろうって。警察では、そう言ってる」 「信じられない。ただの事故だと思ってたのに……」 「犯人も君と同しに、油断しているだろうさ」 「妙な言い方だけど、その言い方、昔とちっとも変わらない。中学を出てから、会うの初めてだっけ?」 「ずっと謹慎してたんだ。今だって本当は、人前に出られるような身分じゃないさ」  野代亜矢子が、髪をかき上げながら、声を出さないでにやっと笑った。 「クラス会の通知、行ってるでしょう? 斎木くんは知らないでしょうけど、わたし去年から幹事をやってるのよ。クラス会の幹事って、一番暇な人間がやらせられるの」 「川村さんも、クラス会には出ていたわけか?」 「麗子は、気が向いたときだけちょっと顔を出す程度だったわ」  氏家が、野代亜矢子の向こう側から煙草の煙をとばして、鼻を曲げてちらっとぼくの顔に流し目をくれた。 「謹慎していたその斎木が、六年ぶりに社会復帰をする気になったのは、どういう気まぐれなんだ?」 「ただの職場見学さ」と、自分でも煙草の煙を氏家の方にとばして、ぼくが答えた。 「中学の同級生が立派な社会人になっているのを見て、自分の人生を考え直そうと思った」 「考え直したって、人生なんてたか[#「たか」に傍点]が知れてるはずだがな」 「そういうふうには、まだ大人になっていないんだ」 「幻想なんだよなあ。みんな一応東京に出てみるけど、いまごろ前橋あたりからのこのこ出ていったって、おいしい[#「おいしい」に傍点]ところはなにも残っちゃいないんだぜ。東京になにかあったり、人生になにかあるなんて考えるのは、頭の悪いやつの幻想でしかないんだ」 「現実を見つめるっての、そんなに気持ちいいのか?」 「少なくとも竹内みたいに、ぷっつん[#「ぷっつん」に傍点]といくよりはいいじゃないか」 「さっき斎木くんが竹内くんに言った、手紙っていうの、あれはなんのこと?」と、氏家の台詞に釘を刺すように、野代亜矢子が言った。 「あれは……こっちの話」  ぼくもこれ以上氏家の人生論は聞きたくなかったので、竹内の真似をして、わざとらしく腕時計を覗き、立ち上がって、ズボンのポケットからばらの小銭をすくい出した。 「コーヒー、三百五十円でいいのか?」 「奢《おご》りにしておくさ、今日だけはな」と、また前髪をかきあげて、氏家が言った。 「商売の邪魔はしないさ……今日だけは」 「斎木くん」と、ドアに向かって歩きかけたぼくを、野代亜矢子が呼び止めた。「クルマだったら、家まで送ってくれない?」 「ただのシルビアだ。暴走族のしゃこたん[#「しゃこたん」に傍点]じゃない」  野代亜矢子が、口を曲げて首をふり、カウンターの椅子をおりて、ドア側のぼくの方に歩いてきた。 「飲みに行くんじゃなかったのか?」と、カウンターに肘をついたまま、野代亜矢子に、氏家が言った。 「気分じゃなくなったの」と、歩いたまま、野代亜矢子が答えた。「早く帰って、久しぶりに親の顔でもゆっくり見てみるわ」  後ろで、氏家孝一が鼻を鳴らしたが、ぼくたちはそのまま二人で店を出て、舗道ぎわに止めてあるクルマのところまで歩いていった。たしかに暴走族のしゃこたん[#「しゃこたん」に傍点]ではなかったが、姉貴はいったい、なにを勘違いしてここまでまっ赤なシルビアに乗っているのか。 「まるで、嘘みたいね……」と、走り出してすぐ、自分の家の場所を教えてから、一人言のような言い方で野代亜矢子が話しかけてきた。「麗子が殺されて、わたしが今、斎木くんのクルマに乗ってるなんて」  それには返事のしようはなかったが、言われなくても、今のこの状況が『嘘みたい』であることは、ぼくにだってわかっていた。ぼくらはたぶん、中学時代には口をきいたこともなかったのではないか。顔立ちもかなり整っていて、ワンレングスの髪にベージュのコートも似合っているのに、中学のとき野代亜矢子がどんな女の子だったかとなると、ぼくはまるで思い出せない。ぼくが覚えている野代亜矢子は、『いつも川村麗子と一緒にいた女の子』というだけのことだった。この程度にふつうに奇麗な子では、川村麗子の光を受けて、残念ながら影すらつくれなかったのだろう。もちろんそのことを、本人たちが意識していたかどうかは、別問題として。 「斎木くんが千里ちゃんと知り合いだったなんて、知らなかったわ」と、脚を組んで、首筋の髪を向こう側にかき上げながら、野代亜矢子が言った。 「いろいろ、難しい経過があったんだ」と、ぼくが答えた。 「あの子、変わってるでしょう?」 「ぼくには……まともに思える」 「感情の表し方が麗子とは正反対なの。それでてへんに仲は良かった……千里ちゃんも、あのこと[#「あのこと」に傍点]は知ってるの?」 「頭のいい子だからな」 「麗子、本当に……殺されたのかしらね」 「犯人は川村さんとかなり親しかったやつさ」 「斎木くん、ずいぶんいろんなこと知ってるじゃない?」 「親戚の人から聞いただけ。犯人は川村さんの、細かい癖まで知っていたらしい」  野代亜矢子が、ゆっくりと躰をずらし、シートベルトに指をかけて、それを軽くダッシュボードの方に引っぱった。 「桑原さん、店に来ていなかったな」と、しばらく野代亜矢子の呼吸の音を聞いてから、ぼくが言った。  シートベルトに指をかけたまま、反対の手で、また野代亜矢子が右の髪をかき上げた。 「前橋って、やっぱり狭い町だわよねえ」 「二人の同棲、いつからなんだ?」 「去年の春。氏家くんが家をとび出して、智世のアパートに転がりこんだの」 「桑原さんも一人暮しだったわけか」 「彼女の家、兄弟が多いし、それに看護婦って時間が不規則だから……でも今、智世は友達の家に泊まってるわ」 「なにか、もめてるんだ?」 「どうかしらね……いろいろ、あるんじゃない?」 「原因は、君?」 「まさか。原因は氏家くんそのものよ」 「やつ、そんなに遊んでるのか?」 「こんな町で氏家くんみたいな人、他にすること、あると思う?」 「他人《ひと》のことは知らない。ぼくには、なかったけど」 「みんななんとなく時間をもてあまして、なんとなくつまらなくて、なんとなく『青猫』に集まって、なんとなく、面倒なことになっちゃうわけ」 「川村さんも、面倒なことになったうちの一人か?」 「麗子は別よ。麗子は、そんなことに神経を使う性格じゃなかったわ」 「それはもちろん、批判的な意味でなんだろうな」 「どうかしら……でも麗子は、やっぱり前橋になんか帰ってくるべきじゃなかった。自分がこの町にどれくらい似合わないか、麗子はそのことにまるで無自覚だった」  その意味は、ぼくにもわからなくはなかったが、それをすべて川村麗子の責任とするには、やはり責任の質が重すぎる。 「君、中学のとき、いつも川村さんと一緒にいたよな」と、カーライターを使ってから、ぼくが言った。 「小学校からよ。誰も気がつかなかったでしょうけど、小学校の一年から麗子とはずっと同しクラスだった……運が悪かったのね」 「高校は君の方は市女だろう?」 「前女に行けるほど頭が良くなかったの」 「高校のときから、竹内は川村さんとつき合っていたのか?」 「つき合っていた? 麗子と竹内くんが? そういう話、どこから出てくるの?」 「竹内の口からさ。やつの口からは、もっといろんな話も出てくる」  溜息をついて、膝のハンドバッグから煙草を取り出し、自分のライターで、野代亜矢子がしゅっと火をつけた。 「可哀そうにね。竹内くん、混乱しちゃってるのよね」 「つまり、竹内が一方的に川村さんにつきまとっていただけ。そういうこと?」 「つきまとったかどうかは知らない。でも竹内くんの気持ちは中学のときからわかっていた。もっともあのころ、麗子のことを好きじゃない男の子なんて、一人もいなかったろうけど……ねえ?」  その『ねえ』は、たんに同意を求めたものだったのか。それともぼくをからかってのものなのか。野代亜矢子はたぶん、ぼくが川村麗子に手紙を出したことくらいは知っているのだろうが。 「竹内のことで、川村さん、困っていたはずなんだが……」と、窓を少し開けてから、ぼくが言った。 「麗子が、どうして困るのよ?」と、灰皿で煙草をはたきながら、野代亜矢子が訊き返した。 「竹内につきまとわれて困ってる。川村さん、君にそう言わなかったか?」 「言うわけないじゃない。そういうことを言う性格だったら、もうちょっと可愛かったわよ。竹内くんには悪いけど、麗子、竹内くんのことなんか完璧に無視していたわ。無視されることがどれくらいつらいかなんて、麗子は考えたこともなかったでしょうけどね」 「でも東京でのことまでは、君だって知らないんじゃないのか?」 「東京でのなに? 麗子が東京で竹内くんとつき合ってたっていう意味? 麗子が聞いたら笑うわよ。わたしだって今、本当は半分笑ってるんだから」 「それじゃ、氏家とのことはどうなんだ? やっぱり笑って済ませるのか?」  煙草を灰皿でつぶし、脚を組みかえて、野代亜矢子が右の肘を浅くシートの背もたれに引っかけた。 「そんな噂まであったの? 氏家くんも人さわがせだけど、麗子も人さわがせよねえ」 「川村さんを殺したやつは、もっと人さわがせさ」 「本気で?」 「なにが?」 「氏家くんと麗子のこと」 「ただの噂。君なら知ってると思った」 「わたしが……知るわけないじゃない? 斎木くんがどう思ってるか知らないけど、他人の生活に一々首をつっ込むほど、わたしだって暇じゃないの」 「時間をもてあまして、『青猫』に集まってるんじゃなかったのか?」 「あれは、ただの言葉のあや[#「あや」に傍点]。氏家くんが麗子とつき合ってたかどうか、知りたければ直接本人に訊けばいいじゃない? そういうこと、氏家くんなら喜んで喋るわよ」 「君とのことも、氏家は誰かに喜んで喋った?」 「なにが言いたいの? 想像で勝手なこと言わないでよ。そうじゃなくたって智世、今神経質になってるんだから……」  野代亜矢子は、そこでまた新しい煙草に火をつけ、あとは自分の家が近づくまで、助手席の窓の方を向いたまま黙って煙草を吹かしつづけていた。ぼくにしても野代亜矢子にそれ以上の興味はなく、とにかく今日は、早く家に帰って、風呂に入ってビールを飲んでテレビを見て寝てしまいたかった。桜子と同じ悲しさはないかもしれないが、一応は、今日は親父の葬式を出した日なのだ。 「そこ……」と、市役所の方から岩神町に下ってきた、細い十字路の手前で、野代亜矢子が言った。「十字路の先の、看板の出てる家」  ぼくがその白い電気看板の文字を読んだのは、スピードをおとして、十字路を越え、家の前にクルマを停めた、そのあとだった。 〈内科、外科、小児科……野代医院〉 「君の家、医者だったのか……」 「意外だった?」 「べつに……」  シートベルトを外し、ドアを開けて舗道に滑り出てから、ちょっとクルマの中を覗き込んで、野代亜矢子が言った。 「知らなくて当然よね。中学のとき、斎木くん、わたしのことなんか一度も本気で見たことはなかったものね」 [#改ページ] [#ここから8字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  このまま死ぬまで布団を被《かぶ》っていたいと思う日が、年になん度かはある。今日がその中の一度であることは、ぼくにはもう二時間も前からわかっていた。下ではトイレのドアが開いたり閉まったりする音がしていたし、カーテンの隙間からは妙に強い日の光が射し込んでいたし、遠く敷島公園の方からは、なんの恨みでか、意地の悪いカラスがぼくの耳に陰気な大合唱を送りつけていた。  だがぼくは、そんなことで起きてやるほど素直な性格ではないと、自分の性格に毅然たる自信を持っていた。前の日はまったく寝てないし、その前の日だって、居間に敷いた布団の中でほんの二、三時間、うとうとと睡眠らしき気分を味わっただけだった。二十一歳の健康な青年にとって、寝不足が躰にいいわけはない。  いやな予感はしていたが、そのぼくを起こしたのは、やはり桜子だった。 「電話だって言ってるのに。聞こえてたでしょう? おにいちゃんが聞こえてるの、ぜったい知ってるんだからね」  猛然とぼくの部屋に飛び込んできて、猛然と布団を引きはがし、猛然と、桜子がぼくの枕もとに立ち塞《ふさ》がった。 「今、なん時だ?」と、ぼくが訊いた。 「十時。だから飲みすぎだって言ったんだよ。東京に出てから、おにいちゃん飲みすぎなんだもん」 「その、……電話じゃなかったのか?」 「電話よ。さっきからそう言ってるわよ」 「誰から?」 「川村さんだって。昨日来た人じゃない? わたしの顔じろじろ見た人」 「あとでかけ直すようにって、言ってくれないか?」 「起きたんだもの、自分で出ればいいじゃない?」 「自分で出て、あとでかけ直せって言ったら、相手に失礼だろうよ?」 「おにいちゃん……」 「わかった。出る。電話に出て、それから小便をして牛乳を飲んで、それからまた寝ればいいわけだ」  桜子に睨まれたまま、ぼくはえいっと起き上がり、そのままドアに突進して、ついでに階段も一気にえいっと駆け下りてやった。たった十二時間寝ただけでここまで回復するということは、ぼくの体力も、まだまんざらではない。 「斎木さんの家、そんなに広かったっけ?」と、完璧に表情が目に浮かぶような声で、まず、千里が言った。 「ちょっと、昨夜妹に勉強を教えてて、寝るのが遅かったんだ」  桜子が階段を下りてきて、ぼくの尻にぴしりと平手打ちを決め、それからぼくの肩にカーデガンをかけて、あとは咳払いをしてそのまま居間の方に歩いていった。 「今学校の公衆電話なの。それでね……」と、いくらか早口で、千里が言った。「昨夜大森医院に電話したら、もうやってなくて、それでさっき学校からまた電話してみたの。事情を話したら大森先生が会ってくれるって言って、それでやっぱり斎木さんも一緒の方がいいかなって思って、それでね、電話したの」 「それで電話をくれたわけか……十時にな」 「なにか言った?」 「いや……その、医者に会うの、なん時かなって」 「今日土曜日でしょう? 病院は十二時半までだけど、二時ごろまではいるからって。それで二時ごろに来いって。行ける?」 「行ける……と思う」 「わたしのことも迎えに来られる?」 「来られる……と思う」 「前女の正門、知ってるわよね?」 「知ってる……と思う」 「斎木さん……」 「ん?」 「酔っ払ってるんじゃない?」 「ちょっと、寝ぼけてるだけ」 「しっかりしてくれなくちゃ、困るんだからね。いい?」 「いい。ぜったい、いいと思う」 「それじゃ一時半。正門の前。わかった?」 「一時半、前女の正門……よーく[#「よーく」に傍点]わかったさ」  電話を切り、ぼくはうーっと一つ深呼吸をして、トイレに行ってから、すっかり観念を決めて居間の方に歩いていった。 「おにいちゃんに勉強教わったおかげで、わたし、試験に受かるみたいよ?」と、火燵《こたつ》の前に座ったぼくに、台所の方から、ていねいな口調で桜子が声をかけた。 「人生とはなにかとか、女の生きがいとはなにかとか、そういうことはちゃんと教えてるさ」  テレビでは『世界の結婚式』とかをやっていて、赤ら顔の白人の大女が、似合いもしないウエディングドレスを着て画面からしきりに威嚇的な笑顔を放出していた。 「母さんと、姉さんは?」と、そばにあった新聞を引き寄せながら、ぼくが訊いた。 「お母さんは会社。おねえちゃんも会社に行って、それから街にまわるって。おにいちゃんのことは当てにするなって」 「その……つぼみは、どうして学校に行かないんだ?」 「忌引《きびき》よ。決まってるじゃない」  桜子が台所からコーヒーとツナサラダを持ってきて、ぼくの前に置き、テレビが正面になる位置に、自分もばたっと腰をおろした。 「おにいちゃん、洗濯物、他にある?」 「昨夜みんな出した」 「おねえちゃんがクルマずっと使っていいって。おねえちゃんはお父さんのクルマに乗るからって。それでガソリン入れるときは、下小出のスタンドで会社の伝票で入れろって」 「その、それで……」と、コーヒーの苦味にほとんど感激しながら、ぼくが言った。「つぼみは、月曜日からは学校に行くのか?」 「行くよ。行ってももう授業なんかないけどね。あとは文集つくったり、自習で受験の勉強をするだけ」 「すべりどめ、どこか受けたのか?」 「必要ないもん。おにいちゃんとちがうもん」 「おまえ……前女に行ったら、いじめられるかもしれないな」 「どうしてよ? わたし、他人《ひと》にいじめられたことなんかないもん」 「恐いおねえさんが一人いてな。つぼみのこといじめてやろうって、今から首を長くして待ってる」  桜子が口の端に力を入れ、視線をぴたりとぼくの顔に据えて、うーんと一つ低い唸り声をあげた。 「昨日の人でしょう? わたしのことじろじろ見て、失礼しちゃうんだから」  可笑しくなって、ツナサラダを口にいれたまま、思わずぼくが吹き出した。 「おかしいんじゃない? 帰って来てから、おにいちゃんずっとおかしいみたい」 「川村って聞いて、おまえ、思い当たらないのかよ?」 「川村っていったって……」 「学校にもいるだろう? 川村っていう男の子」  桜子の口が、開いたまま止まり、首をすくめるように、その黒目の大きい目がそっとぼくの顔を覗き込んできた。 「兄妹《きょうだい》の義理でな、つぼみが川村くんの手紙を破ったことは、内緒にしておいてやる」 「わたしが……」と、ゆっくりと肩を上下させながら、両方の眉を寄せて、桜子が言った。「わたしが、いつ川村くんの手紙を破いたのよ」 「破いたって言ったろう? その子に興味がなかったから、手紙は破いて捨てたって。一昨日の夜さ」 「ばかみたい……」 「どうして?」 「だって、わたし、川村くんの手紙なんか破いてないもん」 「心配するな。本当に、そのことは言わないから」 「そのことって、なによ?」 「だから、手紙のこと」  桜子の耳のまわりが、気のせいかぽっと赤くなり、尖った口から、ぼそっとなにか言葉がこぼれ出た。 「なんだ?」と、ぼくが訊いた。 「だから、もらった手紙、わたしだってぜんぶ破くわけじゃないもん」 「ぜんぶって……」  そのときになって、ぼくもやっと理解したが、川村麗子の例を考えるまでもなく、桜子のところにたった一通しか手紙がこないということも、常識ではたしかにありえないことだった。 「つまり、つぼみは川村くんの手紙はしっかり読んで、机の奥かどこかにしっかり仕舞っているわけだ?」 「わたしがわたしに来た手紙、どうしようと勝手じゃない? おにいちゃんに言う必要なんかないもん。おにいちゃんて、本当、東京に行ってからぜったいいやらしくなったと思う」  火燵板に手をかけて、立ち上がり、鼻をひくひくやって、桜子がじろりとぼくの顔を眺めおろした。 「本当に洗濯物ないよね? あとで出したって洗ってやらないんだから。それから食器、終わったらちゃんと流しに出しておいてよ。流しに出して、ちゃんと水を入れておくんだから」  桜子が大股に居間を出ていき、ぼくは深い感慨に陥りながら、テレビから白人の大女を追い出して、妙に満足した気分でコーヒーとツナサラダをゆっくりと味わいはじめた。たっぷりと眠るということは、精神衛生にとっては、やはり非常にいいことらしかった。  朝飯を食べ終わっても、まだ十一時だったので、ぼくはもう一度トイレに行って歯をみがいて顔を洗って、それから自分の部屋に戻ってコットンパンツとセーターとツイードのブルゾンとに着がえをした。これで風さえ出なければ、光の明るさだけはもうとっくに春なのだろうが。 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  新前橋病院は旧市街地から利根橋を元総社側に渡った、文字どおりJRの新前橋駅近くにある、個人病院としてはかなり大きな総合病院だった。  ぼくは駐車場にやっと一つ空きを見つけ、そこにクルマを停めて、自動ドアの正面玄関からゴムタイル張りの広い待合室に入っていった。親父が入院しているときもそうだったが、病院の待合室でまずぼくが呆れるのは、その病人や怪我人の数の多さだった。病院だから病人や怪我人が集中するといってしまえばそれまでだが、これだけの数を見ると、どこにも躰に異状のない自分がなにかの罪を犯しているような錯覚におそわれる。  ぼくは一つも空きのない待合室のベンチの脇に立って、ほんのちょっと、受け付けや診察室や病室につながる廊下の方を、茫然と見まわしていた。思っていたよりも大きい病院だったし、廊下を行き来する看護婦の数も、やはり思っていたよりも多い。  ぼくはしばらくためらってから、覚悟を決め、受け付けに歩いていってそこに居た痩せて意地の悪そうなおばさんに、できれば[#「できれば」に傍点]というところを強調して桑原智世への面会を申し出た。おばさんは一瞬、じろりとぼくの顔を値ぶみしたが、それでもメスは投げつけず、青っぽい電話をとってどこやらに連絡を入れてくれた。見かけほど意地が悪いわけではなかったのか、それともたんに、ぼくの愛想笑いが偶然おばさんの息子に似ていたかなにかしただけなのか。  桑原智世は、看護婦だから当然だが、白衣とナースキャップ姿で病室側の廊下から現れた。高校になってからも街で二、三回行き合ったことはあったが、現実に中学の同級生が中学以外の制服を着ているところを見ると、六年という時間が嘘でなかったことをあらためて思い知らされる。桑原智世が学生の制服から白衣に着がえたほどには、たぶん、ぼく自身の生活には他人に証明できるほどの変化はおこっていないだろう。 「へええ」と、近よっていったぼくに、白衣のポケットに両手を入れたまま、桑原智世が言った。「斎木くんが本当に来るなんて、思わなかったわね」 「前橋に居ると、暇をもてあましてさ」 「同級生の職場見学、してまわってるらしいじゃない?」 「情報、早いんだな?」 「昨日『青猫』に電話したら、斎木くんが来たって言ってた。麗子のことでわたしのところにも来るかもしれないって。本気みたいだから、気をつけろってね」  首をかしげて、にやっと笑い、二、三秒黙ってぼくの顔を眺めてから、桑原智世がポケットから左手を出して腕時計を覗き込んだ。 「当直明けだから、十二時には上がれるの……待っていられる?」  ぼくがうなずき、それを見て、また桑原智世が言った。 「この前の道、五百メートルくらい新前橋駅の方に行くと、右側にキャスパーっていう喫茶店があるわ。そこで待っててくれない? そう……十二時二十分には行けると思う」  ぼくは頭の中で時間と場所の念をおし、一歩下がって、あらためて上から下まで桑原智世の白衣姿を眺めてみた。特別なにかの先入観をもっていたわけではなかったが、化粧をしていない癖のない顔に、思っていたよりもその白衣は似合っているようだった。 「職場見学って、やってみるもんだな」 「この格好、おかしい?」 「妙に似合ってるんで、妙な気分さ」  またにやっと笑って、躰を半分廊下の奥の方に向けた桑原智世に、ぼくが訊いた。 「氏家、なにを気をつけろって?」 「知らないわ」と、半分躰をひねったまま、首だけまわして、桑原智世が答えた。「彼にとっては斎木くん、ただ居るだけで要注意人物なの。知ってたでしょう? 中学のときからそうだったじゃないの」  記憶を整理するまでもなく、ぼくと桑原智世は、もうずいぶんと長い間の知り合いだった。中学の三年でも同じクラスだったし、小学校では五年と六年が同級だった。桑原智世がどういう育ち方をしているのかは知らないが、彼女はその初めから優等生で、それはただ勉強ができたというだけでなく、クラスの運営や友達への気の配り方や、教師への接し方など、それはもう腹を立てる隙もないほどの優等生ぶりだった。だからといってそれがいや味だったという記憶もなく、同級生で誰か桑原智世に不愉快な印象をもったという話も、ぼくは一度も聞いたことはなかった。いわゆる『できた子供』というやつだったのだろうが、ぼくはぼくで、そういう『できた子供』というやつが自分の人生とはどれぐらい無関係であるか、たぶん、子供の直感で感じとっていたのではないかと思う。桑原智世はぼくにとっていつも感心する存在ではあったが、けして恋の対象になる種類の女の子ではなかった。そしてそれは、もちろん、まったく逆の立場から桑原智世の方にも言えたことではあったろうが。  桑原智世がやってきたのは、ぼくがキャスパーの通りに面した席でトマトジュースを前に置き、店にあった週刊誌を目だけで漫然と眺めはじめてから、三十分くらいたったときだった。桑原智世は白い軽自動車に乗ってやってきた。 「二分遅れたわね……十二時二十二分」と、向かいの席に座り、腕時計を覗き込んで、桑原智世が言った。「口紅をつけるのに、二分よけいにかかったんだわ」  桑原智世の唇には、さっきはつけていなかった赤い色の口紅が塗られていて、素直な顔の中に、そこだけが大人っぽく妙になまめかしく光っていた。  ウエイトレスにコーヒーとサンドイッチを注文してから、桑原智世が言った。 「電話で聞いたけど、麗子、事故じゃなかったんだって?」 「うっかり風呂で溺れるなんて、彼女には似合わないさ」と、ぼくが答えた。 「殺された方が、似合うっていう意味?」 「犯人は、そう考えたろうな」 「だけど誰が麗子を殺したわけ? 犯人は麗子と親しかった人間だなんて、斎木くん、みんなを脅したらしいじゃない?」 「脅したわけじゃない。聞いたとおりを言っただけ」  ぼくはグラスに残っていたトマトジュースを、口に含み、シートの中で尻の位置を変えてから、桑原智世の視線を意識的に、強く押し返した。 「一生に一度、とんでもない勘がはたらくことがある。その勘が犯人は近くにいるって、ぼくに教えてる」 「斎木くん、勘に頼るような性格だったっけな?」 「一生に一度くらい、頼ってみてもいいさ」 「その一生に一度の勘が、どうして麗子のことではたらいたわけ?」 「だから……そこが、人生の難しいところなんだ」  桑原智世の睫毛が、ゆっくりと見開かれて、赤い唇から、くすっと小さい笑い声がこぼれ出た。 「斎木くん、麗子のこと好きだったものねえ。見てればわかったわ。わたしたち、小学校からずっと一緒だったじゃない? 格好つけてるわりに、斎木くんて意外とシャイなのよねえ」  コーヒーが来て、それをブラックですすり、肩までの髪を、桑原智世が首をふって軽く後ろに払い上げた。 「それで、事件のこと、具体的になにかを知ってるの?」と、カップの縁から目を覗かせて、桑原智世が言った。 「君に訊こうと思った、具体的に」 「具体的に、なにを?」 「たとえば、竹内と川村さんのこと」  カップを受け皿に置き、奇麗にそろった眉を、桑原智世が片方だけちょっと上にもちあげた。 「竹内くんは、もちろん、相当いかれてた[#「いかれてた」に傍点]とは思うけど……」 「それ、中学のときから?」 「わたしたち……わたしと氏家くんと麗子と竹内くん、三年のとき学級委員だったでしょう? 四人だけで相談することがあったり、休みの日にも集まったりすることがあったわけ。そういうとき、竹内くん、かなりはっきり態度に出していたと思う」 「川村さんの方は、どうだった?」 「知ってるでしょう? 麗子って、そういうことを口や態度には出さない子だった。わたし高校も一緒だったけど、麗子のこと、最後までよくわからないところがあったもの」 「竹内、川村さんとは、高校のときからつき合いはじめたって言ったけど?」 「竹内くんが麗子の家にレコードを借りに行ったり、逆に本を貸しに行ったり、そういうことはあったみたいね。でもそれをつき合う[#「つき合う」に傍点]って言うのかどうかは、わたしにはわからないわ」 「大学のときのことなんかは、なにか知ってる?」 「大学のときの、なに?」 「東京で、二人がつき合っていたかどうか」 「つき合ってたの?」 「竹内は、そう言ってる」 「竹内くんが、自分で言ったの?」 「自分で言った」 「つき合ってたって、どんなふうに?」 「男と女として……そういうことらしい」  また片方の眉を上げ、口を結《むす》んで、桑原智世が喉の奥でくっと咳払いをした。 「麗子のことを本当にわかってた人間なんて、誰もいないかも知れないけど、でも麗子だって寂しいことくらい、あったかもしれないわね」 「つまり、ありえなくはない……そういうことか?」 「東京で麗子がどういう暮しをしていたか、それは知らない。でも人間て、見かけよりはみんな寂しいもんだし、寂しければ誰かと一緒にいたくなるようなことあるものなのよ。麗子はそういうことは言わない子だったけど、竹内くんがそう言うんなら、そうだったかもしれないじゃない?」 「それは、前橋に帰ってきてからの二人の様子から、そう思うわけ?」 「前橋に、帰ってきてからって?」 「竹内につきまとわれて困ってるって、川村さん、君にそう言わなかったか?」 「麗子は、だから、そういうことは言わない子だったから……」 「聞いていない?」 「聞いてはいない。でも言われてみれば、そういうこと、ありえなくもなかったでしょうね」 「昨日も一昨日も会ったけど、竹内、少しおかしいんだよな」 「二人が前橋に帰ってきてからのことも知らないし、東京でのことなんて、もっと知らない。でも竹内くんが変わってしまったことは本当なの。今思ったんだけど、もしかしたら竹内くん、麗子とそう[#「そう」に傍点]なったから、そう[#「そう」に傍点]なったのかもしれない……」  言われてみれば、そのとおりで、そのとおりだとすればぼくが考えていたことは、まるで順序が逆になる。ぼくは頭のどこかで、最初から竹内の言葉を信用していない部分があったのだ。しかし竹内の言うことのすべてが嘘だと、決めつける根拠はどこにもないではないか。竹内は川村麗子に相手にされなかったからおかしくなったのではなく、中途半端に相手にされたからこそ、おかしくなった。そう考えて悪い理由は、たしかにどこにも無い。  竹内と川村麗子は、やはりそれなりの関係があったということなのか。ぼくは自分が認めたくないというだけで、川村麗子に対する竹内の存在を無理やり否定しようとしていただけなのか。そしてもし、本当に竹内の言うとおり竹内と川村麗子に男と女の関係があったのだとしたら、川村麗子と一番親しかったのは、竹内常司ということになる。竹内は川村麗子に潔癖ぐせがあることを知っていた。服をたたむ習慣があることも知っていた。川村麗子を殺す動機もあるし、自制心のバランスも崩れている。ぼくに対して川村麗子殺しをほのめかすような言動をしているし、だいいちあの手紙自体、無意識のうちの殺人告白と取れなくもない。あまりにも単純すぎる気はするが、川村麗子を殺したのは、やはり竹内常司だったのか。あの[#「あの」に傍点]川村麗子が、本当に竹内なんかに、本当にそんなことで殺されてしまったのか。 「斎木くん、もしかして、麗子を殺したの、竹内くんだと思ってるわけ?」と、膝の上で手を組み、ぼくの目を覗き込んで、桑原智世が言った。 「竹内だと、思ってるわけじゃない……」と、煙草に火をつけてから、ぼくが答えた。「ただ最近の竹内、気持ちが悪いことは、気持ちが悪い。もし竹内が犯人だったとしたら、君、どう思う?」 「どうにも思わないわよ。友達が殺されて、その犯人もまた友達だったなんて、最初から考えるのもいや。でも人って……見かけとちがうこと、あるとは思う。竹内くんて見かけ以上に感性が鋭いの。『青猫』に来る人たちで同人雑誌を作ってて、竹内くんも一度詩を出したことがあるの。わたし、びっくりした。竹内くんてこんなに繊細だったのかって感心した覚えがある。だけど、ねえ? 繊細で鋭い感性って、狂気と裏表の場合だってあるわけだし……」  あの竹内のぼんやりした目の中に、繊細で鋭い感性と、それを裏返した狂気がひそんでいる。川村麗子を殺したやり方の陰湿さと緻密さは、その表れではないのか。どの角度からみても、可能性はすべて竹内の方を指している。それなのになぜ、犯人は竹内であると、ぼくは素直に認める気にならないのだろう。 「竹内は別にして……」と、時間をかけて煙草の火をつぶしてから、椅子の背もたれに肘をかけて、ぼくが言った。「川村さんとつき合っていたような男、他に心当たりはないかな? 中学のときとか、高校のときとか」 「斎木くんだって、知ってるじゃない?」と、口を皮肉っぽく歪めて、桑原智世が答えた。「麗子くらい男の人に対してプライドが高かった子、他にいた?」 「氏家くらいの優等生だったら、川村さんのプライドも許したんじゃないか?」 「それは……麗子からは、聞いたことはないわ」 「氏家からは?」 「それは、だって……」  サンドイッチが来て、その皿を脇にどけ、コーヒーを一すすりしてから、桑原智世がちょっとぼくの方に顎をつき出した。 「だって、本当言うと、わたしと氏家くん、もう高校のときからそう[#「そう」に傍点]だったの。だから氏家くんのことは、わたしが一番よく知ってるの。麗子の方はどうだったか知らないけど、氏家くんの気持ちが麗子に動いたなんてこと、一度もなかったって言い切れる」 「それ、高校のときだけの話?」 「どういう……意味?」 「今君、アパートを出ているって聞いたからさ」  一瞬言葉を飲み、短く息を吐いてから、桑原智世が額に皺をよせて、目の端でちらっとぼくの顔を盗み見た。 「それは……別の問題なの」 「大きなお世話ってやつか?」 「はっきり言うとね。でも斎木くん、わたしが言わなかったら、誰か別な人から聞き出すわけでしょう?」 「今度のことでは、ぼくも本気らしいからな」 「そういうの、脅迫っていわない? そういう言い方するから、斎木くんみんなから怖がられるのよ」  サンドイッチを指でつまみ、うまくもなさそうに一つを食べてから、桑原智世が言った。 「麗子のことと、わたしや氏家くんのことがどう関係しているのか知らないけど、わたしが今友達の家にいるのは、氏家くんとの間にちょっとしたもめごとがあっただけ」 「君が気分転換のためにアパートを出てるなんて、最初から思っちゃいないさ」 「変わらないわね。斎木くん、小学校のときからそういう喋り方してたものね」 「いや味な子供だったろうな」 「問題は氏家くんなの。彼、東大を三回つづけて落ちて、少し自棄《やけ》をおこしているの。スナックなんかやるの、わたしは最初から反対だった。氏家くんはあんなことで終わる人じゃないの。わたしとしては群大の医学部に行ってお医者になってもらいたいの。彼ならそれくらいのこと、できるはずなのよ。わたしが働いてるんだからスナックなんか今すぐやめて、来年のための勉強を始めてほしいって言ってるのに、なかなか……ね?」 「なかなか……だろうな」 「でも大丈夫。乗りかかった舟だもの。わたし氏家くんをあんなことで終わらせない自信がある。昨日も電話で話して、アパートに戻ることになって、それで二人でもう一度ちゃんと話し合うことになったの」 「君も、へんなところで苦労してるよな」 「中学のときから六年もたてば、みんな子供じゃなくなるの。そういうことよ」  桑原智世が、歯を見せずに笑い、あとは黙ったまま、しばらくコーヒーとサンドイッチを交互に口に運びつづけていた。  自分の腕時計で一時が近いことをたしかめてから、ぼくが言った。 「昨日『青猫』で野代さんに会ったけど、彼女今、どこか大学に行ってるんだって?」 「高崎の上越女子大」と、膝の上で紙ナプキンを折り返しながら、桑原智世が答えた。「家政科だっていうけど、結婚するまでの時間つぶしでしょうね」 「けっこう奇麗な子なのに、会うまで顔も忘れていた」 「中学のときまでは、だって、麗子の影みたいな子だったもの……でも高校に行って、変わったらしいわよ」 「変わったって……」 「噂がね、前橋にいると、いろいろ耳に入ってくるものなの」 「派手になったとか、遊びはじめたとか?」 「そんなところかしら。噂なんてみんなそういう種類のものじゃない?」 「高校は市女だって聞いたけど」 「わざと市女に行ったのよ。目立たなかったけど、意外と勉強はできたしね。市女に行って麗子と縁を切りたかったんだと思うわ」 「そして実際、飛んでしまったわけか」 「麗子の影みたいな存在ではあったけど、一人の人間が誰かの影であることなんて、本当はありえないもの。みんな誰でも、自分の存在証明をしたいものなのよ。亜矢子は亜矢子なりに、頑張ったわけでしょうね」 「あぶないな」 「なにが?」 「あのタイプ、存在証明を頑張りすぎるタイプだ」  いつの間にか、桑原智世の膝の上の紙ナプキンが鶴に変わっていて、その折りあがった鶴を、桑原智世がぽいとぼくの手の中に飛ばしてよこした。 「気楽に見えても、みんなけっこう、ぎりぎりのところで生きてるのかもしれないわね」と、Gパンの脚を組んで、桑原智世が言った。「早く歳をとりたいな。早く五十とか六十とかのお婆さんになって、二十歳《はたち》のころはこんなに大変だったなんて、近所のお婆さんたちとお茶を飲みながらお喋りするの……ねえ、いいと思わない?」 「そのときぼくが近所のお爺さんになってたら、仲間に入れてもらってもいい」 「それで今度は、わたしが斎木くんのことをいじめるの……小学校のときのお返しにね」 「ぼくは別に、君にいじめられることなんか、してないさ」 「都合の悪いことは、忘れる性格?」 「そうなろうと、努力はしている」 「でも歳をとったら、お茶を飲んでお喋りをして、斎木くんが忘れたことをみんな思い出させてやるの。覚えてる? 六年の二学期の学級委員選挙で、わたしのこと、わざと落としたでしょう?」 「あれは……」 「知ってるのよ。斎木くんがクラスの子たちを脅して、わたしに票を入れさせなかったこと」 「あれは、ぼくの……君に対する誠意の表れだ」  くすっと笑って、組んだ脚の膝に手を置き、桑原智世がふわっと頬の髪をふり払った。 「わかってるわ。本当はあのとき、わたしもほっとしたの。担任だった大糸うめ先生、五年生のときからずっとわたしのこと贔屓《ひいき》にしてて、わたしもそれがずっと苦痛だったの。だからあのときの選挙、あ、斎木くんがやったなって思って、他人のことみたいに大糸先生がいい気味だった。あのときの大糸先生の顔、今でも覚えてるわ」 「最近努力していることが、もう一つあるんだ」と、テーブルの伝票を自分の方に引きよせながら、ぼくが言った。「相手が自分に都合の悪い話を始めたら、格好悪くても、とにかく逃げ出すこと」  立ち上がったぼくの顔を、下から首をかしげて、桑原智世が目を細めて覗き込んだ。 「今気がついたんだけど、二人だけで会うの、今日が初めてだったわね」 「臆病でさ。子供のころから、恐いものには近寄らない主義だった」 「わたし……もう少し休んでいくわ」 「そういえば、思い出した」 「なにを?」 「あの学級委員選挙のあと、大糸先生がぼくに言ったこと」 「大糸先生、斎木くんに、なんて言ったの?」  レジの方に、少し歩いてから、ふり返って、ぼくが答えた。 「あなたのような子は、ぜったい地獄に落ちますってさ」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  一時半にはまだ五分ほどあったが、いくらぼくでも、このまっ赤なシルビアを前橋女学園の正門に横づけするだけの度胸はなかったので、ぼくは正門から百メートルほど西の電気屋の前にクルマを停め、カーステレオにテープをかけて、日向ぼっこをしながらぼんやりと千里を待ちはじめた。  日射しの暖かさのせいか、校門からぱらぱらとこぼれてくる女の子たちの白いソックスのせいか、今がこの町で一番寒い季節であることを、つい忘れそうになる。それにしても姉貴は、島倉千代子の『人生いろいろ』ばっかり、なぜこうもくり返しテープに入れておくのか。  千里が正門からひょっこり顔を覗かせたのは、ぼくがほとんど自分が島倉千代子になりきったと錯覚をおこしかけた、そのときだった。他にも同じ制服の女の子はなん人もいるのに、千里は可笑しいくらいかんたんに見つかった。まず二、三歩正門から歩道に駆け出し、背伸びをするように道の両側を見まわして、それからぴたりとぼくのクルマの方に躰の向きを定め、なぜかそこに立ったまま、両手で持った学生鞄を頭の上に大きく差し上げてよこしたのだ。千里がこちらに歩いてくる様子を見せないということは、もちろん、ぼくにそこまで迎えに来いという意味なのだろう。  ぼくは内心、かなり恐慌をきたしたが、それでも『人生いろいろ』を止め、クルマをスタートさせて、胸の前で鞄を抱えている千里のところまで、ゆっくりと近づいて行った。前橋女学園の正門にクルマを横づけするなんていう野蛮な行為が、本当に許されていいものなのか。  窓の外で、一度くちゃっと顔を歪めてから、千里が勢いよくドアから飛び込んできた。そこまでは特別問題はなかったのだが、問題は、門の奥に隠れていた十人ほどの女の子だった。女の子たちは一斉に喚声をあげ、気のせいか、中には口笛を鳴らした子までいたようだった。ぼくは慌ててクルマを出したが、千里はドア側の窓に貼りつき、Vサインをつくって、後ろをふり返りながらずいぶんと長い間そのVサインをふり回しつづけていた。 「学校でなにか、へんな遊びがはやってるのか?」と、やっと一つめの信号を越してから、気合いを入れて、ぼくが訊いた。 「だって……」と、学生鞄を後ろの座席に投げ出して、千里が答えた。「みんなが見たいって言うんだもの」 「みんなが、なにを?」 「だって……今日、彼氏がクルマで迎えにくるって言ったら、みんなが見たいって言うから、それなら見ればいいじゃないって言って、それでみんな残ってたんだもの」  本当をいうと、ぼくにはもう言葉なんかなにもなかったのだが、立場上、一応大人としての節度だけは示さなくてはならなかった。 「校則で、禁止になってるんじゃないのか? その……彼氏に、クルマで迎えに来させるみたいなこと」 「原則は原則。現実は現実。それに今日は社会的に正当な理由があったわけじゃない? 教育委員会だって文句なんか言わないわよ」  教育委員会の実態までは知らないが、論理的には、なんとなく千里の意見も間違ってはいないような気はする。あれが女子高校生で、あれが健全な高校生活なのだといわれれば、たぶんそうなのだろう。 「東京の、水谷さんとの連絡、ついたのか?」と、シートベルトを胸の前に引っぱっている千里に、ぼくが訊いた。 「今言おうと思ったの。そうだ……」  シートベルトを着けるのを、途中でやめ、躰をひねって、千里が投げ出したばかりの鞄をまた膝の上に引き戻した。 「これ、一応、警察から戻ってきた麗子ちゃんの薬ね」と、鞄から出した医者の薬袋を、フロントガラスの前に置いてから、千里が言った。「それで水谷さんはね、連絡がとれなかったの。お家《うち》の人に伝言はしておいたけど、また今夜電話してみる」 「水谷さんて、東京の人?」 「世田谷だって。麗子ちゃんと一緒に短大を出て、またデザイナーの学校に行きなおしてるの。水谷さんがデザインした服、麗子ちゃんが自分のブティックで売るって、二人でそんなこと話してたんだって」  また鞄を後ろの席に放り、今度はシートベルトをしっかり締めて、千里が天井に向かって大きく背伸びをした。 「いいお天気。このままどこか、ドライブにでも行きたいな」 「期末試験、いつからなんだ?」 「いつだったかな……来月の、十三日だったっけな」 「前女に自然科学部っていうのがあるの、本当?」 「誰に聞いたの?」 「有名だっていうからさ」 「そうじゃなくて、わたしが自然科学部なこと、誰に聞いたのかっていう意味」  思わずぼくは、絶句して、それから桜子に当然訪れるであろう将来の危機を、本気になって心配しはじめた。桜子が前女に行くのはいいとして、自然科学部にまで入るというのは、いったいどんなものか。 「その自然科学部、下級生いじめとか、そういうのはないんだろうな?」 「今まではね」 「今までは?」 「今年から方針を変えるの。可愛くない子が入ってきたら、てってい的にいじめてやるの」 「あの、なあ……」  両手で自分の口をおさえ、足をばたつかせて、千里が腹痛でも起こしたような声でぐわっと吹き出した。 「冗談よ、決まってるじゃない? あの桜子っていう子、自然科学部に入るんでしょう? 斎木さんて思ってること、けっこう顔に出ちゃうんだもの」 「君が自然科学部だっていうの、あれも冗談か?」 「不思議なのよねえ、あれは本当。だから、ねえ? 心配することなんて、なにもないわけよ」  そう言われると、よけい心配ではあったが、もともとそんなことはぼくが心配しても仕方がないことなのだ。ぼくなんかには理解できない運命の必然とかいうやつで、もしかしたら、千里と桜子は前橋女学園開校以来の恐怖コンビになってしまうことだって、なくはない。そうなって困るのは、もちろん、ぼく一人だけだろうが。 「君の弟、名前、聞いたっけ?」と、背筋をのばして、もう一度気合いを入れなおしてから、ぼくが訊いた。 「言ってないと思う。健太っていうの」 「健太……その健太くん、君から見て、どんなタイプ?」 「いわゆるハンサムじゃないけど……子供のくせに、へんにしぶい[#「しぶい」に傍点]ところがある」 「高校の入試が終わったら、うちの妹を映画にでも誘ってみたらいい。ぼくからの極秘情報だって、そう言ってやってくれ」 「それ、信用できる情報?」 「信用できる。かなり、信用できる」  千里が、へええというように目を見開き、横からぼくの腕をつついて、ふふっと不気味な笑い方をした。 「羨ましいなあ。ねえ? 若いっていいわよねえ」  横山町の大森医院は、県庁前通りから国道の一つ西の細い道を北に下った、やたら医者ばかり多い区画の中にあった。今県庁のある場所が廐橋城の跡だから、位置関係からして、たぶんこの辺りは昔武家屋敷が並んでいたところなのだろう。もちろん前橋は空襲で焼けたというから、古い家並みが残っているわけではないが、それでも郊外の新興住宅地なんていうものよりは、どことなく歴史の匂いに似た落ち着いた雰囲気が感じられる。  ぼくはクルマ三台分ほどの狭い駐車場に、頭から自分のクルマを入れ、古い玄関から、千里と一緒に大森医院のその人気のない暗い待合室に入っていった。土曜の午後になると急にこの世から病人がいなくなるわけでもないだろうが、その狭い待合室にも廊下にも、患者どころか看護婦の姿も見あたらなかった。  千里が受け付けの四角いガラス窓から、中を覗き込み、声をかけると、奥から男の人が返事をして、ぼくたちは横のドアからそのまま診察室の方に入っていった。  中にいたのは、建て物ほど古くはなかったが、医者のくせにこんなに太っていいのかと思うような、白衣がパジャマの上着みたいに見える五十ぐらいの太ったおじさんだった。診察室にはもう一人、銀縁の眼鏡をかけたおばさんがいて、そっちの人はぼくらの方には見向きもせず、気難しい顔でひたすら机の上の電卓をたたきつづけていた。 「麗子ちゃん、気の毒なことしたいなあ」と、千里を診察用の丸椅子に座らせ、ちらっとぼくの顔を見てから、煙草に火をつけて、医者が言った。「いつだったか刑事が来て、薬のこととか麗子ちゃんのこととか、しつこく訊いていったっけ」 「薬って、これですよね」と、ブルゾンのポケットから薬の袋を取り出し、千里の肩越しに医者に手渡して、ぼくが言った。 「ええと……君は?」 「麗子さんの友達……でした」 「麗子ちゃんの彼氏だった人」と、医者の方に強くこっくりをして、千里が言った。 「君が……そうか、それじゃ君も、さぞ残念だったろうなあ」  千里のいたずらに、内心は憮然《ぶぜん》としたが、一瞬考えて、話の都合上ぼくも悲しみと怒りに満ちた川村麗子の元恋人役を演じることにした。 「ぼく、今東京にいるもんですから、前後の事情がわからなくて……」と、演技過剰に気をつけながら、ぼくが言った。「彼女がこんなふうに死ぬなんて、自分ではどうしても納得できないんです。彼女はこういうふうに死ぬはずの人じゃなかったんです」 「君の気持ちも、わかるんだけどねえ」と、掌に袋の錠剤をふり出し、それをまた元に戻しながら、医者が言った。「わたしとしても医療上、べつに間違った処方をしたわけじゃないんだ」 「彼女は、ぼくが知っているかぎり、睡眠薬なんか一度も飲んだことはありません」 「そりゃそうだ。わたしだって、麗子ちゃんに睡眠薬を出したのは初めてだったんだから」 「彼女、いつからそれを飲むようになったんですか?」 「いつからもなにも、本当にこれが初めてなんだよ。もちろん、他の医者からもらっていなければの話だけど」  医者が、白い紙ばさみからカルテを一枚抜き出し、窮屈そうに脚を組んで、煙草をくわえたままそのカルテにざっと目をとおした。 「二月の、三日だったなあ。麗子ちゃんが風邪が治らないって言ってやって来たんだ。熱があるわけじゃないし、寝込むほどじゃないけど、どうも頭がはっきりしないってなあ。麗子ちゃんが自分から医者に来たくらいだから、よっぽどつらかったんだと思うよ。千里ちゃんとちがって、我慢強い子だったもんなあ」 「それ、どういう意味ですか?」と、腕を組んで、診察椅子の上から、千里がぐっと医者の方に顎をつき出した。 「それは、そういう意味さあ。学校の帰り、盲腸だって大騒ぎして来る子とはちがうっていう意味さあ。そういえば、どうしたな? あの盲腸は」 「あれは……」と、つき出していた顎を、もぞもぞっと引っこめて、千里が小さく肩をすくめた。「あれは、もう、いいんです」 「あれからは、ちゃんと出てるかな?」 「あれは、だから、あのことは、もういいんです」 「たかがおなら[#「おなら」に傍点]といっても、馬鹿にするとああいうことがあるからなあ」  二、三秒、診察室の中に重い沈黙が流れたが、精一杯気を取りなおして、ぼくが訊いた。 「風邪の治療のために、先生は、麗子さんに睡眠薬を渡したんですか?」 「まさか……」と、灰皿の中で、ていねいに煙草をつぶしながら、医者が答えた。「だらだらと長引くの、たしかに今年の風邪の特徴ではあるけど、麗子ちゃんの場合は過労だったんさあ。いろいろ訊いてみたら、なんか大変みたいだったよねえ」 「仕事の、ことで?」 「仕事もなにもかも。会社が終わったあとブティックでアルバイトをしたり、自分で商品流通の勉強をしたり、それに、やっぱり、家のことなんかもいろいろ考えてたらしいよ。麗子ちゃん、見かけによらず生真面目だったからなあ」  ぼくと千里の反応をたしかめてから、一つ息をついて、医者がつづけた。 「それで眠れるのかって訊いてみたら、麗子ちゃん、眠れないって言うわけだよ。過労とストレス。あとはまあ、この寒さのせいでいくらか憂鬱《ゆううつ》になっていたかもしれないねえ」 「それで睡眠薬……ですか」 「薬のことは麗子ちゃんの方から言い出したんだよ。友達に看護婦がいるとかで、習慣性のない睡眠薬があるって聞いたらしいんだなあ。もちろんまったく習慣性のない薬なんてあるわけないんだけど、眠れないでストレスをためることと、薬の力を借りてでも眠ることと、どちらが躰にいいかっていうことになると……まあ、難しい問題なんだがねえ。それで取りあえず、一週間試してみるかってことになったわけさ。わたしもあまり、若い人に睡眠薬はすすめたくはなかったんだが……」 「この薬、ききすぎるっていうこと、考えられますか?」と、千里の肩越しに、医者が机に置いた薬の袋を取り上げて、ぼくが言った。 「それさあ。警察から麗子ちゃんのことを聞いて、わたしもそのことを考えたんだがねえ」  新しい煙草に火をつけ、机の端に肘をかけて、医者がぼくの方に、ちょっと目を細めてきた。 「今見たら、薬も一錠しか減ってないんだよねえ。こいつはどこの医者でも使う一般的なやつだし、量さえ間違えなければ、あんな事故が起こるはずはないんだ」 「具体的には、どれくらいの効果があるんですか?」 「そりゃまあ、いわゆる睡眠薬だから、眠気を誘う効果があるわけさ」 「意志力で、自分の躰の制御がきかないくらいに?」 「そいつは考えられない。定量以上に飲めば話は別だが、麗子ちゃんは一錠しか飲んでいないわけだし……もっとも、大量のアルコールが一緒だったとか、徹夜あけだったとか、そういう条件が重なればかなり朦朧《もうろう》とはするだろうけど、しかし君、医者としてはそういうことにまで責任は負いきれないわけだ」 「中味が、先生が渡したものと変わってるみたいなこと、ないでしょうね?」と、袋の中に白い錠剤が六個入っていることをたしかめてから、ぼくが訊いた。 「それもさっき見てみたよ。間違いなくうちで出した薬だし、警察から聞いた話とも一致している」 「麗子さんが、特異体質だったようなことは?」 「子供のころから診《み》てるが、特異体質でもなかったし、この薬に対するアレルギーも持ってはいなかった」 「袋に書いてある、『就寝一時間前に一錠服用』っていうの、これ、一般的な目安ですか?」 「ふつうの人には、ふつうはそれくらいの時間できいてくるっていうことだなあ」 「人によっては、急にきいてしまうこともあります?」 「薬のきき方には、みんな個人差があるもんだよ。だけどその個人差を配慮して定量が決められているんだ。麗子ちゃんだけ特別……つまり、君が考えているように、麗子ちゃんだけ特別にこの薬で気を失ってしまったようなこと、そういうことはありえないんだなあ。君や千里ちゃんには気の毒だけど、麗子ちゃんのことは、悪い条件がたまたまぜんぶ重なってしまった、本当に気の毒な偶然の事故だったってことだろうなあ」  医者が、また煙草をていねいに灰皿でつぶし、カルテを紙ばさみに戻して、電卓をたたいているおばさんの方に、そのでかい顔をぬっとつき出した。 「そっちはどうかな? そろそろ上がれるかな?」 「もう終わります。あと二、三分です」と、電卓をたたいたまま、面白くもなさそうな声で、おばさんが答えた。 「君は、どうする?」と、セーラー服の胸の前で腕組みをつづけている千里に、ぼくが訊いた。「ついでに、盲腸を診てもらっていくか?」  口を固く結んだまま、千里が首を横にふり、立ち上がって、あとはふり返りもせず大股に診察室をとび出していった。  呆気にとられたような顔の医者に、一応会釈をして、ぼくが言った。 「彼女、今度のことで、そうとう動揺してるようです」 「無理もないか……麗子ちゃん、千里ちゃんのことを可愛がってたからなあ」 「お忙しいところ、お邪魔しました」 「君もあまり落ち込まないようになあ。医者なんて、人が死ぬのを見るのが商売みたいなもんだが、でもなあ、麗子ちゃんみたいに若くて奇麗な子が死ぬっていうのは、聞いただけでも気が滅入《めい》るからなあ」  ドアに歩きかけて、思いなおし、ぼくが医者の方をふり返った。 「子供のときから見てて、先生、麗子さんにどういう印象を持ってました?」 「そうだいなあ、難しい質問だなあ……」と、椅子に座ったまま、白衣のボタンを外しながら、医者が言った。「かなり頑《かたく》なな子ではあったろうなあ。君、彼女の家の事情、知ってるわけか?」 「一応は」 「もともとは素直な子なんだ。素直な子にああいう家庭的な変化が起きると、ふつうより頑なで意地っぱりな子供になってしまうことがある。初めてここへ来たときには、いくらか自閉症ぎみなところもあったしなあ。だけど頭のいい子だったから、いろんな問題をぜんぶ自分で解決していったわけさ。なかなか他人には心を開かない子だったが、根は優しかった……まあ、そんなところかなあ」  ドアに歩き、ノブに手をかけてから、躰の向きをかえ、白衣の下に現れたその紫色のセーターに向かって、ぼくは軽く頭を下げた。 「どうも、ありがとうございました」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ぼくがクルマに戻ると、千里はもう助手席に座っていて、腕を組んで肩で息をしながら、それを念力で開けようとでもするようにまっすぐダッシュボードの蓋を睨みつけていた。その鼻の形にはかなり鬼気迫るものが感じられたが、ぼくとしても、まさかクルマを捨てて逃げ出すわけにはいかなかった。  どこに向かっていいのかはわからなかったが、ぼくはクルマをスタートさせ、脇道をぬって、取りあえず国道を下り車線に出た。千里が家に帰るというのなら、立川町の交番の手前を左に曲がればいい。 「忘れてたけど、君、昼飯まだだったんじゃないのか?」と、口を開こうとしない千里に、恐る恐る、ぼくが訊いた。  しばらく返事をしなかったが、やがて腕組みを解き、躰をドアの方に引いて、千里が妙に真剣な目でぼくの横顔を睨みつけてきた。 「斎木さん、わたしがおならすること、知ってました?」 「いやあ……」 「おならする子、嫌いですか?」 「別に……」 「好きなんですか?」 「特別好きってことは、ない」 「やっぱり嫌いなんじゃない?」 「そういう意味じゃなくて、なんていうか、おならが趣味だっていう子は困るけど、そうじゃなければ、そういうことってどっちでもいいんじゃないかな」 「あのときは本当に、盲腸だって思ったんだもの。わたし、おならなんか趣味じゃないもの」 「知ってる。そういうことは、顔を見ればわかる」  本当に顔を見てわかるかどうか、自分でも自信はなかったが、どっちみち趣味でおならをする女の子なんて、そうめったにいるものではない。 「それで、昼飯だけど……」と、いくらか静かに呼吸をするようになった千里に、ぼくが訊いた。 「お腹は、すいた」と、唸るように溜息をついてから、千里が言った。「もうぜったいお腹がすいた。怒るとわたし、ものすごくお腹がすくの……だけど、ねえ? あのやぶ医者、失礼だと思わない? お医者って患者の秘密を守る義務があるはずじゃない? わたしだって今度、ぜったい言いふらしてやる」 「その……なにを?」 「気がつかなかった? 大森先生、あの事務の女の人とできてる[#「できてる」に傍点]の。二人でホテルのレストランにいるところ、うちの親父が見たんだって。ちゃんと奥さんも子供もいるのに……わたしを怒らせたらどんな目にあうか、ぜったい思い知らせてやるんだから」  あの異様に太って、異様な色のセーターを着た医者がなんとなく気の毒な気はしたが、ぼくにしても、たぶん他人のことを暢気《のんき》に心配できる立場ではないのだろう。千里を怒らせたらどんな目にあうか、だいたいの想像はつく。  けっきょく、ぼくは立川町では曲がらず、そのまま国道を渋川の方に下って、道路ぞいにある新しくできたファミリーレストランに入っていった。セーラー服の千里には、パステルカラーの、日当たりのいい明るいレストランがよく似合う。  二人で同じスペシャルピザセットとかいうやつを注文して、最初にやってきた薄いコーヒーを飲みながら、ぼくたちはあまり喋らず、国道を行き来するクルマの流れをぼんやりと眺めていた。土曜日の午後ということで、クルマの量は当然下り車線の方が多い。中には屋根にスキーの板を積んだクルマも混ざっていて、新潟方面に向かうクルマは、みなナンバープレートの数字が読み取れるほどにのろのろと走っている。  千里ではないが、ぼくも内心では、事件のことなど忘れてこのままどこかドライブにでも行こうかと、けっこう本気で考えていた。殺したの殺されたのという話が、本質的に千里に似合っているはずはないし、それはぼくにしたって同じことだろう。四日もつづけて顔を合わせていると、なんのためにぼくたちがこうやって会っているのか、つい忘れそうになる。 「事件のこと……」と、横顔に日射しを受けて、テーブルに頬杖をついている千里に、ぼくが言った。「ぼんやりとわかりかけてきた気がする。一応、報告しようかと思ってさ」 「嘘みたい。なんだかみんな、ぜんぶのことが嘘みたいね」と、頬杖をついたまま、口の端を歪めて、千里が答えた。「麗子ちゃんが殺されて、わたしたちがその犯人を捜してるなんて、信じられなくなってきた。ぜんぶが嘘だったらいいのにね。こんなに、お天気がいいのに……」  ぼくも、もちろん、これ以上その話はしたくなかったが、ぼくと千里の関係において川村麗子の死を避けて通ることは、やはり、できないことだろう。 「昨日あれから、『青猫』に行ってみたんだ。君、『青猫』は知ってる?」  頬杖を外して、千里がこっくんとうなずいた。 「竹内もいたし、野代亜矢子もいた。もちろん氏家も。それから今日は午前中、新前橋病院に行って桑原智世にも会ってきた。君や家族の人は別にして、前橋ではこの四人が麗子さんと一番親しかった。犯人は麗子さんと親しかった人間……昨日、そう言ったよな? 昨日麗子さんの部屋を見てそう思ったし、今だってそれは確信している。それでもし、誰かが犯人でなくちゃならないとしたら、やっぱり、可能性は竹内が一番高いと思う」  千里の目が、ぼくの顔に焦点を結び、唇が開いて、そこから大きめの前歯がちょっと顔をのぞかせた。 「竹内さんが、でも、どうして……」 「基本的には、竹内自身の問題さ。だけど、かんたんに言えば麗子さんにふられたから……そういうことじゃないかな」 「そんなことで? そんなことで、麗子ちゃんが殺されなくちゃならなかったの?」 「現象自体はかんたんだけど、竹内の心の動きは、たぶんとんでもなく複雑なんだと思う」  ウエイトレスが、ミックスピザと小鉢に盛ったサラダを持ってきて、注文の念をおし、ばかていねいなおじぎをして厨房の方に下がっていった。『ぜったいお腹がすいた』と主張したわりには、千里もすぐにはピザの方に手はのばさなかった。 「一番の問題は、竹内の神経が、かなり参っているらしいこと」と、フォークで野菜サラダをつつきながら、ぼくが言った。「親父の通夜の日、久しぶりに竹内に会って、ぼく自身びっくりした。中学のときはあんなやつじゃなかった。少し気の弱いところはあったけど、勉強もできたし、明るくて癖のないやつだった。それなりにみんなから好かれていたとも思う。その竹内があんなふうに変わった原因は、やっぱり麗子さんにある。麗子さん自身に責任があるかどうかは別にして、竹内は自分の価値基準を、ぜんぶ麗子さんを中心に造りあげてしまった。竹内の頭がなぜそうしたのかは、他人にはわからないし、わかったところで意味もないと思う。だけどあの手紙……君も見た昨日のあの手紙、あれに書いてあることが、竹内の麗子さんに対する気持ちであることは間違いはない。あの手紙には、殺人の動機がちゃんと書いてある」 「でも……」と、やっと食欲を取り戻したのか、ピザの方に手をのばして、千里が言った。「あの手紙があそこにあったということは、麗子ちゃん、あの手紙を読んでいなかったということじゃない? つまりね、竹内さんは、麗子ちゃんが死んだことを知らなかったからこそ手紙を書いたわけでしょう?」 「理屈では、一応、そういうことになる。麗子さんが殺されたのが六日の午後十一時前後。発見が次の日の午後二時。遺体が警察から返されたのは?」 「その日の、夜遅く」 「みんなに麗子さんが死んだことを連絡したのは、いつ?」 「親戚にはすぐ連絡したけど、桑原さんや野代さんには、八日になってから」 「手紙の消印は八日だった。だから竹内があの手紙を出したのは、七日の夜から八日の夕方までの間ということだ。あの手紙に書いてあることが本当だとして、竹内が手紙を出したのが七日の夜から八日の夕方までだとすれば、たしかに竹内は麗子さんの死を知らなかったことになる。ただ八日の朝には新聞にも出たわけだから、竹内がまったく麗子さんのことを知らなかったというのも、ちょっと納得できない」 「つまり、どういうこと?」 「竹内はどっちみち、八日には麗子さんの死を知っていたし、もしかしたら六日の十一時には、本当はもう知っていたんじゃないかっていうことさ。だとしたら竹内は、あの手紙を、麗子さんに読ませるためじゃなく、君とか、君の家族とか警察とか、麗子さん以外の人間に読ませるために書いた……」 「どうして、そんなことをするわけ?」 「竹内は麗子さんと自分の関係を、誰か他人に認めてもらいたかった。竹内が本当に麗子さんとつき合っていたかどうか、知ってる人間は誰もいない。たとえどんな形であれ、自分と麗子さんの関係をみんなに認めさせて、竹内はそれを自分の存在証明にしたかった」 「そうかなあ。なにか、おかしいな」 「なにが?」 「だって、竹内さんが麗子ちゃんを殺した犯人なら、そんなあぶないこと、するかなあ」 「犯人がふつうのやつなら、たしかにそんなことはしないと思う。事件とも麗子さんとも、なるべく関係なかったようにふるまうと思うけど……」 「竹内さんは、ちがう?」 「やつの価値観が、あまり常識的じゃないことだけはたしかだ」 「それでもやっぱり、なにか、へんだな」 「なにか……か?」 「たとえね、麗子ちゃんが竹内さんとつき合っていたのが本当で、犯人も本当に竹内さんだったとしても、やっぱり、なんとなくぴんとこないみたい」 「本当いうと……」と、コーヒーを一口すすって、千里の視線をたしかめてから、ぼくが言った。「ぼくも、本当いうと、ぴんとはきていないんだ。今まで言ったのは状況のつみ重ねと、その状況から出てくる、一番妥当な結論というだけ」  うんうんとうなずきながら、それでも手と口は休めず、目だけで千里がぼくの次の言葉を催促した。 「ぼくがぴんとこない理由は、たぶん、君と同しだと思う」 「わたしはただ……ただ、ぴんとこないだけ」 「理屈で考えれば、どうしても竹内が怪しい。みんな理屈で考えて、今度の事件は麗子さんと親しかった人間の犯行という結論が出て、そのままの理屈では、どうしたって犯人は竹内ということになる。だからぴんとこない理由は、これは理屈じゃないんだ。もしかしたらぼくの竹内に対する嫉妬かもしれないけど、本当のところは、自分でもわからない。ただ、麗子さんが殺されたんだとしたら、犯人はそれに相応しい人間であってほしいと思う。竹内が麗子さん殺しの犯人として相応しいやつかどうか、そのへんが、どうにもぴんとこない。ぼくの……偏見かな? それともやっぱり、嫉妬なのかな?」  紙ナプキンで、その形のいい唇を拭い、ぼくの方に目を見開いて、千里が小さく首を横にふった。 「ちがうと思う。嫉妬や偏見じゃないと思う。わたし、言葉では言えなかったけど、わたしも斎木さんと同しふうに思う。竹内さんが犯人だとしたら、麗子ちゃんが可哀そうすぎる……もちろん、斎木さんが犯人ならいいとか、そういうことじゃないけどね」 「だからな、もし竹内が犯人だったとしても、もう少し様子をみたいんだ。竹内だとか『青猫』の連中だとか、麗子さんと直接関係があったやつじゃなくて、誰か……」  ウエイトレスが『おかわり自由』のコーヒーを持ってきて、ポットから黙って二つのカップに注ぎ、黙って、また次のテーブルに移って行った。 「君、『青猫』に行ったこと、あったっけ?」  コーヒーのカップを取り上げ、千里が、うんとうなずいた。 「カウンターにいる、丸顔で、ちょっと目のつり上がった子、覚えてるか?」 「髪をソバージュにした子?」 「髪をソバージュにして、唇をとんでもない色に塗った子」 「あの子、夜だけのアルバイトじゃなかったかな。昼間はどこか、専門学校に行ってるんだと思う」 「名前は?」 「みんなきよちゃんて呼んでる。阿部清美っていったかな」 「彼女、『青猫』以外のところで連絡がとれないかな」 「住所ならわかるけど?」 「わかる?」 「だってきよちゃん、麗子ちゃんのお葬式に来てくれたもの。それで、奉加帳っていうのかな、あれに住所と名前が書いてあった」 「葬式に……か。それで、住所は、どこ?」 「富士見村の……どこだったかなあ、今知りたい?」 「できれば」  目でうなずき、立ち上がって、セーラー服のスカートを固く揺らしながら、千里がドアのそばにある赤電話の方に歩いていった。ぼくは煙草に火をつけ、椅子に背中をあずけて、送話口に向かってうなずいたり口を尖らせたりする千里の横顔を、ぼんやりと眺めはじめた。性格も雰囲気も表情のつくり方も、まるでちがっているのに、千里の横顔はどこか、やはりぼくに川村麗子を思い出させる。 「横室《よこむろ》だって……」と、戻ってきて、元の席に座りながら、千里が店の備えつけらしい小さなメモ用紙をぼくの前に滑らせてきた。その紙には嬉しくなるほど下手な字で『勢多郡富士見村横室8747』と書いてあった。 「横室なんて、聞いたことある? 家にお袋しかいなくて、お袋もどの辺だかわからないって言うの」 「富士見村なんて、もともとよくわからないしな……」 『富士見』というぐらいだから、どうせ昔は富士山でも見えたのだろうが、ぼくが知っているのはそれが前橋の北どなりの村であるということだけで、その中にまた細かい地名があるなんて、思ってもいなかった。  ぼくは煙草をあと二口だけ吸い、それを灰皿でつぶして、たった今千里が使った赤電話の方に、ちょっと首をのばしてみた。電話が置かれている下の棚には、ぶ厚い電話帳がなん冊か積み重ねられている。ぼくは千里に待っているように手で合図をし、電話のところまで歩いて、その中から『勢多郡』の項のある県央版を持ってまた元の席に戻ってきた。  田舎では同じ姓が多いことは知っていたが、それにしても富士見村の『阿部』の、なんと多いことか。同じ字を書く阿部が、思わず溜息が出るほどどこまでもつづいている。横室だけでもだいたい三十戸はあったが、ぼくはその中から、やっと『8747の阿部』さんを見つけ、その名義人と電話番号を自分のボールペンで千里のメモの横に書き移した。 「電話帳に『犯人』ていうページがあって、それに住所と名前が載っていれば、かんたんなのにな……」  立ち上がって、メモと電話帳を持ち、ぼくはまた赤電話のところに歩いて、距離はわからなかったが、とにかく持っていた十円玉をぜんぶその中に放り込んでみた。  五回めのコールのあと、女の人の声がして、それが阿部清美だった。 「覚えてるわ。昨日『青猫』に来た人でしょう?」と、ぼくの名前を聞いて、阿部清美の方がぼくのことを思い出してくれた。 「今日も『青猫』に出る?」と、ぼくが訊いた。 「今日は休み。学校も休みだから」 「前橋には……」 「行かない」 「ちょっと、訊きたいことがあるんだ」と、腕時計を見てから、ぼくが言った。「これから行ってもいいかな? 時間はとらせない」  二、三秒間があってから、例の愛想のない声で、阿部清美が答えた。 「こっちは、かまわないけど?」 「それじゃすぐ……ええと、横室って、どの辺?」 「石井県道、わかる?」 「わかる……と思う」 「それをまっすぐ来ればいいの。いくつか十字路はあるけど、横室に来れば横室って書いてある。あとは、その辺で訊いたらいいわよ」 「その辺で……わかった」  電話を切り、思わず指を鳴らして、返ってきた十円玉とメモをズボンのポケットにつっ込みながら、ぼくはまた千里の待っている窓際の席に戻っていった。 「まったく、いい天気だな……」と、頬杖をついたままぼくの顔を見あげている千里に、ぼくが言った。「こんな天気のいい日は、どこかドライブにでも行きたいと思わないか? たとえば、横室あたりにさ」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  下小出のスタンドでガソリンを入れ、国道から南橘《なんきつ》を抜けて石井県道に出たのは、まだ午後の三時をいくらも過ぎていない時間だった。なぜか今日にかぎって風はなく、強い日射しで、クルマの中は暖房のいらないほどの暖かさだった。眠いのかなにか考えごとをしているのか、窓から景色を眺めたまま、千里もほとんどぼくに話しかけてはこなかった。  富士見村の、それも横室なんて聞くと、なにかとんでもない地の果てのような気がしていたが、実際にはぼくらがピザを食べたレストランから、クルマで二十分ぐらいしかかからない場所だった。もちろん石井県道の両側の景色は、田植前の水田や枝打ちをされた桑畑に変わっていたが、少なくとも人間が住めないほどの秘境ではなかった。  阿部清美の家は、『横室』の道路標識が出ている交差点のそばの雑貨屋から、脇道を五分ほど入った、桑畑のど真ん中にあった。黒いトタン屋根の典型的な農家づくりの家だったが、赤城山を背にした北側には杉と竹の防風林が茂り、牛でも飼っているのか、建て物の東側には銀色の小さいサイロが聳《そび》えていた。家の裏側からは、かすかに鶏の鳴き声が聞こえてくる。  ぼくと千里は、うっとりするほど日当たりのいい縁側に腰かけ、もう百年も前からお婆さんをやっているようなお婆さんにお茶と大根の煮物をもらって、松やつつじが植わっているその広い庭と、唖然と向き合っていた。阿部清美のソバージュの髪とGパンに赤い綿入れという組み合わせは、風景としてはかなり異様なものだったが、もしかしたらそれは、この近所ではごく一般的なファッションなのかもしれなかった。 「本当はね、あたしだって誰かに喋りたかったんよ」と、縁側に横座りになって、怒ったような口調で、阿部清美が言った。「だけど『青猫』の人たちじゃ、喋る気になんかなんないわけよ。そう思わない?」  風景と光の暖かさに散漫になりそうな集中力を、無理やり阿部清美の顔に戻して、ぼくが訊いた。 「麗子さんの事件、みんなはどんなふうに言ってた?」 「事故だとか自殺だとか、そりゃあ好きなように言ってたわよ。死んだ場所が場所でしょう? マスターなんか腹が立つくらいえげつなかったわ」 「えげつないって……」 「どんな格好だったとか、まるで見てきたみたいに喋ってたわね。もっともあの日は、みんなかなり酔っ払ってたけどさ」 「あの日って、八日?」 「新聞に出た日だから……そう、八日」 「八日までは、誰もその話はしなかった?」 「どういう意味?」 「たとえば七日の日に、誰か麗子さんが死んだことを知っていたとか……」  つり上がった目を、光の中で眩《まぶ》しそうに細めて、綿入れの背中を丸めながら、阿部清美が小さく首を横にふった。 「やっぱり八日だったわよ。桑原さんと野代さんがお通夜に行ってきて、それでお葬式の香典はいくらにするかとか、そんなことを言ってたわ」 「君も葬式に行ったらしいけど、君、麗子さんとそんなに親しかったの?」 「だって……あたしね、川村さんがブティック始めたら、それ手伝うことになってたんだもの。がっかりしちゃったわよ。『青猫』のお客さんじゃ、一番まともな人だったのにさ」 「ブティックの話は、かなり具体的だったわけか?」と、千里と阿部清美の顔を見比べながら、ぼくが訊いた。 「夏くらいには……ねえ?」と、阿部清美が、千里の方に顎をつき出した。 「親父もその気になってたみたい」と、視線を遠くの方にやりながら、千里が言った。「麗子ちゃんが本気なことがわかって、とりあえず、どこかに小さい店を出させてみようかって……そんなこと言ってた」 「それでね、日曜日なんか、あたしと川村さんで街の中のお客の流れを調べたり、敷島公園の方にまで行ってみたりね、もうちゃんと準備に入ってたんよ。あたし昼間洋裁の学校に行ってるじゃない? それで店に出すものはぜんぶオリジナルがいいかとか、ある程度既製品を混ぜた方がコストが下がるかとか、そういうことも川村さんはしっかり計算してたの。それが急に死んだなんて言われても、あたし、ぜんぜん信じられなかった。斎木さんだっけ? 昨日言ってたでしょう? 川村さんは殺されたんだって。あれ、本当?」 「横室まで、わざわざ景色を見に来たわけじゃないさ」 「そうよねえ。最初からおかしいと思ってたんだ。川村さんみたいにしっかりした人、あんな死に方するわけないもんねえ」 「言いにくいかもしれないけど……」と、お茶を飲んで、煙草に火をつけてから、ぼくが言った。「『青猫』のこと、少し詳しく聞きたいんだ」 「言いにくくなんかないわよ。あたし、あそこもうやめようと思ってんの。最初は面白いような気がしたけど、もううんざり。絵描きだとか詩人だとかいうけど、みんないんちきっぽい人ばっかりなんだもん」 「はっきり言って、どうかな、あの店、商売になってるのかな?」 「どうかしらねえ」と、自分でも綿入れのポケットから煙草を取り出して、それに火をつけてから、阿部清美が言った。「どっちでもかまわないんじゃないの? もともと本当の経営者はマスターの叔母さんで、その人長谷川鉄工所の奥さんなんよ。それで自分で絵を描いたり彫刻したりしてるらしいんだけど、店に来る人、その人の取り巻きみたいな人ばっかり。マスターなんて、要するに体《てい》のいい店番みたいなもんなわけよ」 「氏家と桑原智世の関係は、当然知ってるよな?」 「まあね……可哀そうにねえ」 「どっちが?」 「決まってるじゃない。マスターが昔どれくらい優秀だったか知らないけど、今じゃ、ねえ? ただの女たらしだもの」 「かなり、遊んでるってことか……」 「かなりなんてもんじゃないわよ。どういう神経してるんだか、あたしなんか疑っちゃうわよ。とにかく店に来る女の人、手当たり次第なんだもの。それで桑原さんには、ここは自分の仕事場だからあまり顔を出すななんて言っちゃって……聞いてて笑っちゃったわよ」 「桑原智世は、氏家のそういうこと、知ってるのか?」 「知らないわけないじゃない? マスターって、そういうこと、わざと桑原さんに仄《ほの》めかすみたいなところがあるの。最低だと思わない? 桑原さんがどうしてマスターと別れないのか、あたしなんかぜんぜんわからないわ」 「野代亜矢子とは、やっぱり?」 「そういうこと。よくやるわよねえ。それで二人とも、桑原さんがいるところでは知らん顔してるんだから……もっとも桑原さんも、知ってて知らん顔してるみたいなところがあるけど」 「その……」と、ぼんやり庭の方を眺めている千里の顔を、横から窺ってから、ぼくが訊いた。「氏家は当然、麗子さんにも、手を出したわけだろうな?」 「それは……それがねえ、よくわからないのよ。マスターのことだから放っといたはずないと思うけど、川村さんに関してだけは、なんていうか、ばかみたいに慎重だったわね。口では大きなこと言ってたけど……」 「大きなことって、たとえば?」 「竹内さんているじゃない? あの人相手に、マスター大きなことばっかり言うの。川村さんと飲みに行ったとか、今度旅行にいく約束をしたとか。あたしなんか馬鹿じゃないかと思いながら聞いてたけど、マスター、竹内さんが川村さんのこと好きなのを知っててわざと言うわけ。だけど案外、川村さんに関してだけは、マスターも本気だったんじゃないのかなあ」 「具体的に、氏家と麗子さん、なにかあったと思う?」 「あればすぐわかるわよ。いつだったか、店の奥の席でマスターが川村さんになにか言ってて、川村さんがそのまま帰っちゃったことがあるの。マスター、顔色が変わってたっけ。下手な冗談言って誤魔化してたけど」 「いつごろの話?」 「去年の……暮ぐらいかな。そのあと川村さんに会ったとき、あたし、なにかあったのかって訊いてみたの。川村さん、ただ笑っただけだったわ」 「そのとき、まさか、店に桑原智世はいなかったよな」 「桑原さんはいなかった。あのときいたのは……竹内さんかな」 「竹内……か」  煙草を地面に落とし、靴の底で踏み消して、つっ張った背中を一度伸ばしてから、ぼくが訊いた。 「竹内と麗子さんは、『青猫』ではどんな感じだった?」 「どんな感じって?」 「仲が良さそうだったとか、逆に、よそよそしかったとか……」 「別に……そりゃあね、竹内さんは可哀そうなくらい川村さんのことを好きだったかもしれないけど、二人だけで同し席についたなんてこと、なかったんじゃないかなあ」 「竹内が麗子さんを好きなこと、どうしてわかった?」 「そんなこと、見ればわかるじゃない? 竹内さん、いつも川村さんと同し席に座ろうとしないの。それで後ろの方からじっと見てるの。竹内さんてもともと気持ち悪いところがあるけど、あの川村さんをじっと見る目、ちょっとふつうじゃないみたい。だけど川村さんは特別意識なんかしてなかったんじゃないかなあ。野代さんが一度、そのことで川村さんにからんだことはあったけど」 「そのことで? 野代亜矢子が?」 「酔っ払ってたのよ。忘年会の帰りだとかいって野代さんが店に来たとき、たまたまカウンターに川村さんが居て、それで野代さんが川村さんにからんだの。あの人おとなしそうな顔してて、酔っ払うとけっこう人にからむのよねえ」 「そのときは、どんなふうにからんだわけ?」 「だからさ、川村さんのことを冷たいだとか無神経だとか、他人の気持ちを平気で踏みにじる人だとか……それで、竹内さんの気持ちは昔からわかってるんだから、人間としてもっと優しくするべきだとか、とにかくそういうようなこと、くどくど言うわけ。野代さんてへんに川村さんに対抗意識を持ってるみたいだけど、最初から格がちがうのにねえ」 「それで、そのとき、麗子さんの方は?」 「適当にあしらってたわよ。人の気持ちなんて、やたらにわかったら却《かえ》って面倒だとかね。そう言うとまた野代さんがそのことでからむわけ。竹内さんが居るところでよ? マスターなんか面白がってただにやにやしてるだけ。けっきょく竹内さんが、無理やり野代さんを店から連れ出したけど……」 「野代亜矢子は、竹内のことで、なぜ麗子さんにからんだりしたんだろう?」 「知らないわよ。要するに、酔っ払ってたんじゃない? 野代さんて、ふだんから竹内さんに同情的なところはあったけど、それをぜんぶ川村さんの責任にされたって、川村さんの方が迷惑よねえ」  千里の前ではためらわれたが、この際我慢してもらうことにして、湯呑をすすりはじめた阿部清美に、ぼくが訊いた。 「麗子さんていう人、たとえばな、女の君から見て、どういう印象を持っていた?」 「あたしなんか、だって……」と、ソバージュの髪を後ろに撫でつけながら、湯呑を宙に浮かせて、阿部清美がぼくの方に軽く下唇をつき出した。「あたしなんか、ねえ? 最初から勝負になんないもの。奇麗な人だなあって憧れてただけよ。だけどさあ、女ってけっこう馬鹿なんよね。勝負にならないってわかってても、完全に諦めるわけにもいかないし……桑原さんや野代さんにとっては、案外きつかったんじゃないかなあ。川村さんて本音でものを言うところがあったから、それがへんに冷たく聞こえたりね。人をばかにしてるように聞こえることも……あったかもしんないわねえ」 「君自身も、そういう思いをしたことがあるわけ?」 「言ったじゃない? あたしはただ憧れてただけだって。だけど嫉妬ややきもちって、女の商売みたいなもんなのよ」 「桑原智世も、麗子さんともめたことがあった?」 「それは……ないわよ。桑原さんて頭のいい人だもの、表面は誰とだってうまくやってるわよ」 「昨日ぼくが帰ったあと、桑原智世から氏家に電話があったろう? 二人がなにを話していたか、わかる?」  つり上がった細い目を、呆れたようにぼくの方に見開いて、阿部清美がくっと喉を鳴らした。 「そりゃあね、電話はあったけど、一々内容なんか聞いてないわよ……斎木さんて、いろんなことよく知ってるじゃない?」 「本気になればそれくらいはわかるんだ。それで、電話の時間は、長かった?」 「十分くらい……だったと思う」 「電話が終わったあと、氏家の様子は?」 「そうねえ……あまり、機嫌はよくなかったわねえ。マスターって気分を顔に出さない方じゃない? でも電話からカウンターに戻ってくる間、口の中でなにかぶつぶつ言ってたみたい。なにを言ってたかなんて、もちろん聞いちゃいなかったけど」  最初に顔を見せたお婆さんが、土瓶のような急須でお茶を持ってきてくれたが、それを断り、ぼんやり庭を眺めている千里をうながして、植木の影が長くなった庭に、ぼくはゆっくりと足を下ろした。 「ねえ、犯人って、いったい誰なのかしらねえ?」と、縁側から下りてきて、ぼくの横を歩きながら、阿部清美が言った。 「君が今白状してくれたら、助かるんだけどな」  あはっと笑って、赤い綿入れの肘で、阿部清美がこつんとぼくの肩を小突いてきた。 「あたしだって、本当は怒ってんのよ。いろいろあったかもしんないけど、川村さん、あたしにはけっこう優しかったもんね。それにブティックのことだって、これでぜんぶ終わっちゃったわけだしさ」  千里が、停めてあるクルマの向こう側に回って行ったことを確かめてから、立ち止まって、ぼくが阿部清美に訊いた。 「大きなお世話だろうけど、君もやっぱり、氏家と関係があったわけか……」  一瞬息を止め、口を曲げてにやっと笑ってから、埃の浮いたゴムのサンダルで、阿部清美が足下の小石を、ぽんと蹴とばした。 「言いたくないけどさ。まったく、最低だわよね……あんなやつ」  不思議に風は出ないが、日が落ちはじめると、畑や田んぼの土の色が急に寒々とした灰色に変わる。走っていくフロントガラスのずいぶん遠くの方に、前橋の市街地がだだっ広く霞《かす》んで見える。  窓の外を眺めていた千里が、ふと視線を戻し、薄く口を開いたまま、焦点の曖昧な目でじっとぼくの顔を覗き込んできた。 「なんとなく、悲しくなっちゃった。麗子ちゃん、誰からも好かれていなかったみたい……」  ハンドルを握っていて、一瞬でよくはわからなかったが、千里の目の焦点が曖昧に見えたのは、そこに薄く涙が溜まっているせいらしかった。 「今の彼女、麗子さんに、優しくしてもらったって言ってたさ」と、ぼくが言った。 「そういうことじゃないの。ああいうふうに、ちょっと知ってる人がどうとかじゃなくて、中学のときからずっと一緒だったような人、誰も麗子ちゃんのことを好きじゃなかったなんて……そのね、本当はね、わたしだって思わなくはなかったけど、現実に自分の耳で聞くと、やっぱり悲しくなっちゃうな」 「覚悟が、まだ、ついてないわけか?」 「そういうのとも違う。覚悟はもうついたの。昨夜寝る前に、よし頑張るぞって決めて、今日だってずっと頑張ってた。だからね、そういうことじゃなくて、なんとなく、人間ていやだなあって思って……」  膝の上で動かない千里の手に、ぼくが自分の手を重ね、助手席のシートの端で、ぼくたちは軽く手を握りあった。千里の掌は思っていたよりも柔らかく、暑くもないのに、少しだけ汗がにじんでいた。 「誰にだって、仕方がないことがあるさ」と、意識的に道路の先に目を据えたまま、ぼくが言った。「麗子さんがああいう顔に生まれたのも、お袋さんに連れられて親父さんと一緒になったのも、みんな麗子さんの責任じゃない。人間て、自分の責任じゃない人生を自分の責任で生きていくんだろうけど、そのくらいのこと、麗子さんにだってわかっていたと思う。麗子さんが冷たく見えたり、無意識のうちに他人を傷つけたり、そういうことがなかったとは言わない。だけど、それって、殺されるほど悪いことじゃないと思う。それくらいのこと、ぼくや君だってどこかでやってるかもしれない。悪いのは麗子さんじゃなくて、やっぱり殺したやつの方だ。少なくともぼくは、麗子さんのことわかってきた分だけ、麗子さんのことを好きになったような気がする」  千里が、ぼくの手の甲で勝手に涙を拭き、肩で大きく息を吸い込んで、その息を音と一緒に、うーっと吐き出した。 「このクルマ、ティシューがないじゃない?」 「ん?」 「ティシューくらい、置いといたら?」 「その……姉貴のクルマだからさ」 「クルマの中にティシューを置いとくの、今は常識なんだからね」 「今度言っておく。ついでに、『人生いろいろ』もやめるようにって」 「なんの話よ?」 「別に……たんに、家庭の問題さ」  千里が、くんと鼻を鳴らし、躰をひねって、じたばたやりながらまた後ろの座席から学生鞄を引っぱり出した。  鞄から取り出したポケットティシューで、鼻をかみ、それを丸めて鞄に戻してから、小さく声を出して、千里がつんとぼくの二の腕をつついてきた。 「これ、ありがとう。昨夜洗ったから」  千里が鞄から取り出したのは、昨日ぼくが貸してやったハンカチで、まるで糊《のり》づけでもしたように、きっちりとアイロンがかけられていた。 「斎木さん、わたしのこと、泣き虫だと思ってるでしょう?」と、ぼくのポケットにハンカチを押し込みながら、怒ったような声で、千里が言った。 「そうでもない……妹で慣れてる」 「そういう言い方、ないじゃない?」 「そうかな」 「あんな子供と、一緒にしないでほしいわね」  千里が、また鞄を後ろに放り投げ、シートベルトを引っぱって、座席の中でもぞもぞっと尻を動かした。 「わたしね、本当は気が強いんで、有名なんだから」  うなずこうとして、思いとどまり、ハンドルを握ったまま、ぼくはわざとまっ直ぐ前を見つめていた。 「泣いたことなんて、ぜんぜんないんだからね。麗子ちゃんが死んだときだって泣かなかったんだから……」 「それじゃぼく、運がいいわけだ? 君が泣いたのを見たことがあるって、誰かに自慢できる」 「斎木さん、今、真面目に言った?」 「いやあ……」 「あのね、だからね、気にしなくていいの。今はただ、いつか本気で泣くときの練習をしてるだけなの」  鼻を曲げて、にやっと笑い、まだ赤みの残った目で、千里が運転の邪魔になるくらいにぼくの顔を覗き込んできた。 「それで、さっきの話で、なにか閃《ひらめ》いた?」と、首をかしげて、千里が言った。 「特別……閃かない」と、ぼくが答えた。「ただ連中、思っていたより面倒なことやってるなって、ちょっとうんざりした。頭の中でいろんなことが整理されはじめたような気はするけど、なにか、なんとなく焦点が定まらない。ジグソーパズルで最初から札が一枚欠けてるような、そんな感じ」 「竹内さんのアリバイとかって、そういうの、わたしたちじゃ調べられないのかな?」 「警察の、協力が……な」 「わたし、自分でやっちゃおうかな。六日の午後十一時ごろどこにいたかって、訊いちゃえばいいんだもの」 「理屈はそうだけど、警察はもともと殺人事件だとは思ってないわけだから、誰かにアリバイがなくても、それだけじゃどうにもならない。警察が捜査をやり直すような、なにか、決定的な証拠が欲しい」 「そんなこと言っても、『自分が犯人です』なんて、誰も顔になんか書いてないじゃない?」 「顔には書いてないさ。顔には書いてないけど、よく注意して見れば、ぜったいどこかに書いてあるはずなんだ。ぼくらが見落としているのか、見る場所が違っているのか……その両方ってことも考えられる」 「昨日より、斎木さん、悲観的になったみたい」 「そういうわけじゃ……ない。ただ昨日麗子さんの部屋で感じたこと、あれ、当たりだったような気がする。犯人はものすごく冷静なやつで、今度のことも、ものすごく冷静に、ものすごく計画的にやったってこと。だから、いやな予感が、しないわけでもない」 「いやな、予感って?」 「いやな予感は、いやな予感さ」  千里が口を尖らせて、溜息をつき、左手に握らせた拳で、こつんとぼくの胸に突きを入れてきた。 「斎木さんのそういうところ、いや味だと思うけどな」 「そういう、どこ?」 「だから、そういう、自分だけ大人だと思ってるみたいなところ。わたしと四つしか違わないわけじゃない?」 「四つなら、倍もちがう」 「倍って、なんの倍?」 「だからさ……」と、ぼくの顔の横につきつけた千里の鼻の頭を、指でつまんで、シートの中の正しい位置に押し返してから、ぼくが言った。「あんな子供と一緒にするなって言ったうちの妹と、君自身は二つしか違わないってこと」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  日はたしかに長くなったが、五時を境に、まるで待っていたように夜がくる。  ぼくが千里を送りとどけ、家に戻ったのがちょうど五時だったが、まだお袋も姉貴も帰っておらず、桜子が一人、台所に陣どってかなり劇的な戦闘をくり拡げていた。調理台と新聞紙を敷いた床の上には五、六個の鍋《なべ》がちらばり、テーブルの上には見事なまでに不可解な料理が、それらの悲鳴が聞こえてくるかと思うほど、ぎっしりと並べられていた。それは桜子が、そうとう長い時間台所で孤独な戦いをつづけていたことの証拠だったが、昨日の今日受験勉強をしろという方が、考えてみれば無理な話かもしれなかった。それにしてもいったい、これだけの料理を、たった四人でどうやって始末しろというのか。  台所の入り口に立って、唖然としているぼくに、包丁を持ったままふり返って、桜子が言った。 「おにいちゃんて、ほーんと、極楽とんぼなんだもん」 「そんな単語は、試験には出ないと思うけどな」 「ずっとなん回も、電話があったよ」 「誰から?」 「片桐さんて言ってた。片桐さんて、警察に行ってるおにいちゃんの親戚の人だよねえ?」 「それで、なんだって?」 「帰ってきたらとにかくすぐ来るようにって。とにかく……警察へ」  包丁を置いて、上目づかいにぼくの顔を覗きながら、スリッパを引きずって桜子が半分だけテーブルを回り込んできた。 「竹内さんて、お父さんのお通夜の日に来た、あのへんな人じゃない?」 「竹内が……」 「自殺したんだって。それでおにいちゃんに、とにかく、すぐ警察に来るようにって」 [#改ページ] [#ここから8字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  県警本部の受け付けに居たのは、昨日のように制服を着たすまし顔の女の人ではなく、警察に勤める前はプロレスで前座をやっていたような、妙に恐い顔の、なんとなく不気味な感じのおじさんだった。いくら夜だといっても、受け付けにこういう顔のおじさんを置いておくのは、警察としてもそれなりの理由があってのことなのだろう。  誠三叔父さんは、受け付けのおじさんが電話をかけたのとほとんど同時に、正面の階段から手品のように現れた。着ている上着も替えズボンも昨日とまったく同じものだったが、ぼくの方に歩いてくるときの目つきだけは、昨日とは別なものだった。 「まさかと思ったんだがよう……まあいいや、とにかく、ちょっと、こっちに来てくれや」  誠三叔父さんがぼくを連れて行ったのは、厚生課の部屋でも三階の食堂でもなく、『捜査一課』と札のかかった、二階の暗くてだだっ広くてかび臭い部屋だった。机の数のわりに人は少なく、ざっと見渡しても五、六人で、大事件でも起きて出払っているのか、五時半を過ぎてみんな家に帰ったかしているらしかった。  そのだだっ広い部屋には、窓を背にして一つだけ離れて置かれている机があって、誠三叔父さんはぼくの背中を小突くように、まっすぐその机の前まで歩いていった。 「やっと来やがった。これ、例の、俺の甥《おい》っこ」と、机に座っていた、髪が半分ぐらい抜けた四角い顔の男の人に、誠三叔父さんが言った。  男の人が席を立ち、粗大ごみ置場から拾ってきたような応接セットの方に歩いていって、ぼくと誠三叔父さんもそのあとについていった。 「こっち、課長の近藤さんな」と、男の人の向かいにぼくと並んで腰かけながら、誠三叔父さんが言った。「俺と同期なんだけどよう、四月には安中の署長さんに栄転さあ」  捜査一課長で、次期安中署長に決まっている人がどれぐらい偉いのかは知らないが、少なくとも、誠三叔父さんよりいくらかは偉そうな感じだった。 「聞いたとは思うが、君に来てもらったのは、他のことじゃないんだ……」と、煙草の焼け焦げや湯呑の染みで幾何学模様ができている木のテーブルに、薄い紙ばさみをひょいと置いて、捜査一課長が言った。「まあ、その、自殺自体に特別問題はないんだがね」 「どういうふうに、問題がないんですか?」と、ぼくが訊いた。 「いや……」 「だからよう」と、捜査一課長の方に目くばせをし、肘かけ側に尻をずらして、誠三叔父さんが言った。「最初から説明するとな、こういうことさあ……」  誠三叔父さんは上着のポケットから煙草の箱を取り出し、一本を口で抜いて、それに使い捨てのライターで、しゅっと火をつけた。 「たまたま俺がよう、夕方別の用があってこっちの課に来てたんさ。そんときちょうどこの件が課長んとこへ回ってきたわけ。りょう坊が昨日、へんに向き[#「向き」に傍点]になってたんべ? それでなんとなく、俺も竹内常司っていう名前を覚えてたんだいなあ。だからこいつは、まったくの偶然てわけさあ」  ぼくに対してか、捜査一課長に対してか、妙にもったいをつけて煙草を吸い、その腹にこぼれた灰を、誠三叔父さんが手でぱんぱんと払い落とした。 「ふつうならこんな自殺、本部に回ってくることはねえのによう……偶然だったんだいなあ。それでちょいとその遺書ってやつを覗かせてもらったら、よう? りょう坊の名前が出てくるじゃねえか。遺書の内容も昨日おめえが言ってた件に関してだし、こいつはやべえなってわけで、それで俺も首をつっ込ませてもらったんさあ」 「要するに、どういうことなのさ? 竹内が、いつ、どこで、どんなふうに……」 「まあ待てや。ちゃんと説明するからよう」  誠三叔父さんが、捜査一課長に目で了解を求め、煙草をつぶして、あうっとげっぷを吐いた。 「今日の午後二時……」と、自分の胃のあたりを、そのぽっちゃりした掌でさすりながら、誠三叔父さんが言った。「この竹内って野郎、大渡り橋の上から飛び下りちまったわけよ。川のまん中じゃなくてだいぶ総社寄りの方だってことだ。この時期水も少ねえから、おっこったとこは石の上でな、そうじゃなくても即死だんべえけど、行政解剖の結果も全身打撲の即死ってことになってる……念のために言っておくと、目撃者ってやつが腐るほどいやがって、今度ばっかしは逆立ちしても自殺の線は崩れねえ」 「遺書には、なにが書いてあったの?」 「それさあ、問題は……それなんさあ」  捜査一課長が、軽く咳払いをやり、紙ばさみを開いて、中から二つの白い縦長の封筒を取り出した。 「直接読んでみればいい……」と、ぼくに封筒を渡しながら、なんとなく投げやりな言い方で、捜査一課長が言った。「どっちみちほとんど君あてに書いてあるんだ」  課長から受け取った封筒のあて名は、一つは『父、母、御家族様へ』となっており、もう一つは『青猫のみんなへ』となっていた。 「家族あての方も、読んでいいんですか?」と、ぼくが訊いた。 「勝手にしたらいいさ。どうせたいしたことは書いてない」  ぼくは自分の気持ちの準備のために、まず竹内が家族あてに書いた遺書の方を、脚を組みながら封筒から抜き出した。使ってある便箋《びんせん》は、昨日ぼくが川村麗子の郵便受けに見つけたものと同じ、白い地にうす茶の罫《けい》が引いてあるだけの素っ気ないものだった。 『生きている間の迷惑に重ね、今回またこのような形で御家族様に迷惑をかけることを、心からお詫び申し上げます。  生きても不幸、死んでも不幸ということであっても、この不幸の鎖はどこかで断ち切らなくてはなりません。僕は自分の手でその不幸の鎖を断ち切る決心をいたしました。  自分が生きている価値のない人間であると知りつつ、これ以上生き長らえることに、僕はもう疲れたのです。僕は充分悩みましたし、充分疲れました。  僕の死を悲しむことなく、今後とも、御家族様、仲良くお暮し下さい。  御家族様へ。常司』  ぼくは他人の遺書なんて一度も読んだことはなかったし、これからも読みたいとは思わないが、それにしてもこの文章からは、竹内の家族に対する愛情や未練が一つも感じられない。たぶん、そのこと自体が、家族の中における竹内の立場を物語っているのだろう。そしてこれが遺書だといわれれば、もちろん、これは遺書以外のなにものでもない。  ぼくは家族あての遺書を封筒に戻し、テーブルに置いて、もう一通の『青猫のみんなへ』の方を取り上げて、頭の中で深呼吸をしながらそれを抜き出した。  便箋は同じものだが、分量は五倍もある。 『青猫のみんな、氏家君、野代さん、桑原さん、それに斎木君、みんなみんな、僕によくしてくれて有り難う。  君達の好意を裏切ってしまって、本当に申し訳ない。僕は君達に対して、謝っても謝りきれないことをしてしまったのだ。  みんながこの手紙を読む頃にはもう明らかになっているとは思うが、何を隠そう、川村さんを殺したのはこの僕なのだ。みんなの大事な友達である川村さんを、僕一人の我が儘《まま》で、僕がこの手で殺してしまったのだ。みんながどんなに悲しむかと思うと、本当に謝っても謝り切れない。この罪を清算するためにも、僕は自分の生命を自分で葬る決心をした。謝っても許してもらえないことは分かっているが、どうか、僕の良心だけは理解してもらいたい。  みんなも、うすうす知っていたとおり、僕と川村さんは深い関係だったのだ。もちろん僕の愛の方が川村さんの僕に対する愛を上回っていたことは事実だが、残念ながら、僕の努力ではその壁を越えることはできなかった。僕達の不幸は、正にそこから始まったのだ。その辺の事情は、後で斎木君から詳しく聞いてもらいたいと思う。  斎木君、いろいろ迷惑をかけて、本当に済まない。この上勝手な言い分だが、僕がただ川村さんが憎くて殺したのでないことを、後でよく青猫のみんなに説明してやってくれ。君が最初から僕のことを疑っていたのは知っていたし、君の親父さんの通夜の日、君と川村さんの妹が一緒に喫茶店に入るのを見たときから、僕もある程度覚悟は決めていたのだ。そして青猫で君から、警察が川村さんの事件を殺人事件として捜査していることを聞いたとき、僕は逃げ切れないと判断した。警察に捕まるより、自分の罪は自分で裁こう、そう決めた僕の心情を、どうか分かってもらいたい。  たぶん君には分かっていると思うが、僕はどんな事があっても、たとえ殺してでも、川村さんを他の男に渡したくはなかったのだ。あの日川村さんのアパートに行き、もう一度考え直す気はないかと、ぼくは川村さんに問いただした。予想はしていたが、川村さんはどうしても僕と別れると言い張った。僕は用意して行った睡眠薬を川村さんのコーヒーに混ぜ、川村さんが寝込んだところを風呂場で溺死させた。本来なら川村さんを殺したあと、すぐ自分も死ぬべきだったのだが、性格の弱さから今までそれができずにいたのだ。僕の気の弱さと、僕の罪を、どうかどうか、許して欲しい。  それから最後に、青猫のみんな、罪は罪として許して、僕の葬式にはどうかみんなで来て欲しい。結果的に友達を二人も失うことになって、みんなも辛いだろうとは思うが、友情の証《あかし》に葬式だけはみんなで賑やかにやって欲しい。僕が安心してあの世で眠れるように、葬式にだけは、どうかみんな顔を見せて欲しい。  みんな僕に良くしてくれて、本当に有り難う。最後にもう一度、どうかどうか、葬式だけは忘れないでくれ。君達の友情に、深く感謝する。  青猫のみんなへ。竹内常司』  ぼくは、その便箋を最初に折ってあったとおりに折りなおし、封筒に戻してから、二通まとめてテーブルの上を捜査一課長の方に押し返した。 「そういうことだ。なあ? けっきょくは、りょう坊が考えたとおりだったわけだ」と、ソファにふんぞり反って、腕を組みながら、誠三叔父さんが言った。 「間違い……ないのかい?」と、ぼくが訊いた。 「なにがよ?」 「竹内の、自殺」 「そりゃ間違いねえ。さっきも言ったとおり、まっ昼間大渡り橋の上から飛び下りたわけだからよう。クルマから見てたやつがなん人もいて、急ブレーキ踏んだクルマに追突した野郎まで出た始末さ。おめえがどう推理しても、この自殺ばっかしは動くめえなあ」 「それじゃ、なにが問題なのさ? 事件は解決だろう?」 「解決したから、まあ、問題が出てくるってこともあって……」 「警察としては、今回のことは内部処理したいわけだよ」と、二通の遺書を紙ばさみに戻しながら、捜査一課長が言った。 「内部処理って、どういうふうにですか?」 「つまり、事件はこれですべて解決ということだ。川村麗子事件に関してはたしかに捜査上の手違いはあったが、犯人が自殺してしまった以上、警察としてはもう捜査のしようはない。法律上もそういうことになっている」 「川村麗子のことも、事故で処理してしまうということですか?」 「もちろん、一応の手続きはとる。川村麗子の遺族に対しては、事件の経緯も説明する。しかし刑事事件の場合、この世に存在しない犯人を裁くわけにはいかんのさ」 「事件そのものを、なかったことにするんですか?」 「なありょう坊……」と、腕を組んだまま、肩をゆすって、誠三叔父さんが言った。「たまにゃこういうケースも出てくるってことよ。課長さんが言ってるのは、これ以上騒いでも喜ぶやつは一人もいねえってことさ」 「新聞とか週刊誌とか、そういうのが放っておかないよ」 「新聞や週刊誌に、誰がねた[#「ねた」に傍点]を流すんだや。え? 考えてもみろいや、そりゃあ川村麗子っつう女の子も可哀そうだし、残された家族も可哀そうだあな。だけどこの竹内常司にだって家族ってやつがいて、そいつらはなにも悪《わり》いことはしてねえんだ。川村麗子の家族が可哀そうなら、竹内常司の家族だってやっぱし可哀そうだんべえに?」 「そういうことと、事件の真相っていうの、違うんじゃないかな。川村麗子の事件が起きたとき、最初から殺人事件として捜査しなかった警察の責任だってあるわけだろう?」 「だからよう、それも言ってるわけよ。おめえをわざわざ呼び出したんだって、そのことがあったからじゃねえか」  片方の肩を乗り出し、捜査一課長には見えない角度から、含みのある目で誠三叔父さんがちらっとぼくの顔に流し目をくれた。 「こういう事件に、いったい誰が責任とるんだや。課長さんだって安中の署長んなることが決まってて、このまま無事に務めりゃあと二年で定年だあな。おめえさえへたに騒がなきゃ、四方八方ぜんぶが丸く納まるってことよ……なあ、りょう坊?」  捜査一課長が、仁丹を噛みつぶしたような顔で視線を落とし、脚を組みかえて、鼻からかすかにいやな音の溜息をついた。 「事件をまったく公表しないなんてこと、できるんですか?」と、その捜査一課長に、ぼくが訊いた。 「事件の質によっては、そういうこともありえる」と、口の中で舌を鳴らしてから、捜査一課長が答えた。「今度の場合、新聞には竹内常司の自殺を、それだけ独立したものとして発表する」 「発表はもちろん、所轄の方でやるんさ」と、誠三叔父さんが言った。「自殺はふつう所轄で処理するからよう。へたに本部で発表すると、勘のいい新聞記者に嗅《か》ぎつけられねえともかぎらねえ」  煙草に火をつけ、長さが半分になるぐらいまで黙って吸ってから、捜査一課長に、ぼくが訊いた。 「竹内の自殺、本当に、間違いないんですね?」 「間違いは、ない」と、噛みつぶした仁丹が、入れ歯の間にはさまってしまったような顔で、捜査一課長が答えた。 「竹内が、睡眠薬を用意して行ったっていうの、どういうことですか?」 「それは調べさせた。やつはいくらかノイローゼ気味で、睡眠薬を常用していたという医者の裏づけもとった。最近特に様子がおかしかったという家族の証言もある」 「二月六日の、その、アリバイなんかは……」 「必要とあれば、もちろん裏づけ捜査はする」 「まだ……なんか文句があるんかや?」と、胃のあたりをさすりながら、うんざりしたような顔で、誠三叔父さんが言った。 「そういうわけじゃないけど、呆気なかったんで……気が抜けたのかもしれないな」 「そんなもんさ。殺人事件なんて、解決してみりゃ案外こんなもんだ。推理小説みてえに複雑な事件なんぞ、そうめったにあるもんじゃねえや」 「その遺書、『青猫のみんな』に渡すの?」 「そうも……いくめえよ」 「こっちの方は、殺人事件の証拠として警察で押収する」と、捜査一課長が言った。 「だからよう、りょう坊、この竹内って野郎にゃ悪《わり》いが、今度の事件に関してはおめえとしても終わりにしてやってくれや。結果的におめえの考えが正しかったわけだし、それに川村麗子って女の子だって、なあ? これ以上の騒ぎになることは喜ぶめえよ?」  捜査一課長が、組んでいた脚を揃え、紙ばさみを取り上げて、会見は打ち切りとばかりにソファの中で浅く腰を浮かせた。 「そういうことだ……」と、立ち上がりながら、誠三叔父さんが言った。「こうやってよう、みんないつかは大人になっていくもんよ」  立ち上がって、もう完全に腰を上げきった捜査一課長に、一応挨拶をし、勝手に歩きだしている誠三叔父さんの後について、ぼくもその部屋を出た。 「どうだや? いくらか気は済んだかや?」と、部屋を出たところで、たっぷり肉のついた顔をにやっと歪めて、誠三叔父さんが言った。「あの野郎、俺が口を出さなきゃ、完全だんまり[#「だんまり」に傍点]を決め込む気でいやがったんだ」 「そうじゃないかと思った、途中からね」と、暗くて長い廊下を、誠三叔父さんと並んで歩きながら、ぼくが答えた。 「無理もねえけどなあ。ノンキャリアじゃ一課の課長から所轄の署長っての、出世の限界だからよう。気にくわねえ野郎だけど、同期だし、お互いあと二年で定年でもあるしなあ……りょう坊には悪《わり》いが、俺にできることっていや、このくれえなもんさ」  廊下の角の、階段のところまで来て、ズボンのポケットに両手をつっ込んだまま、誠三叔父さんがもぞっとぼくの方をふり返った。 「どうだや、おめえ、その辺で一杯やっていくかや?」 「妹が……一人かもしれないからさ」 「妹なあ……あの子、なんつったっけ?」 「桜子。今度高校に入るんだ」 「さっき電話で話したけど、けっこうしっかりした感じの子だいなあ……それでおめえ、いつまでこっちに居るんだや?」 「一応、初七日まで」 「こっちに居る間、一回|家《うち》に顔を出せや。かあちゃんも会いたがってたぜ? なんせあんとき、おめえを家で引き取る話も出たくれえだからよう、そうなってりゃおめえ、今ごろりょう坊は家の子になってたわけだからなあ」  二、三度うなずき、黙って階段の方に歩いてから、立ちどまって、ぼくがちょっと誠三叔父さんの方に手をふった。 「おめえにしても、いろいろ文句はあるだんべえがなあ」と、つき出た腹を、ぶるんと震わせて、誠三叔父さんが言った。「警察ってのは所詮こんなもんよ。堅気の人間が関わりをもつところじゃねえや。今度のこと、おめえも早く忘れるがいいぜ?」  ぼくがもう一度手をふり、誠三叔父さんもスリッパを鳴らして、ずるずると厚生課の部屋の方に歩きだした。ぼくはそのまま階段を下り、妙に寒くなっていることだけを意識しながら、ホールを抜けてクルマを置いた駐車場の方に歩いて行った。今日は最後まで風が出なくて、空には星も出ていない。たぶん明日は、天気でも悪くなるのだろう。 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ぼく自身が釈然としないことと、事件の結果が予想外であったこととは、もちろん関係はない。竹内常司が自殺したことはどうしようもない事実だし、その遺書の中で、竹内が川村麗子殺しを告白していることも事実なのだ。理屈の上でも、もともと竹内が犯人である可能性は一番高かった。自殺という形で結論が出るとは思っていなかったが、結局、出てきた結論が理屈どおりだったというだけのことではないのか。ぼくがいくら釈然としまいと、いまだに竹内と川村麗子の関係が信じられまいと、結果は結果なのだ。その結果に気分として納得がいかなかったとしても、事実であるかぎり、無理にでも納得するよりぼくとしても他に考え方はない。誠三叔父さんの台詞ではないが、こうやって人間は大人になっていくものなのか。しかしそれにしても、竹内常司の自殺に、ぼく自身一つとして罪の意識を感じないというのは、いったいどういうことなのだろう。  昼前から、今日も一日ずいぶん動き回ったような気はしていたが、ぼくが県警本部からシルビアを飛ばして家に帰ったのは、まだ七時を少し過ぎただけの時間だった。お袋は帰っていなかったが、姉貴は戻っていて、火燵板の上に並べた盛大なごちそう[#「ごちそう」に傍点]を前に、桜子と二人だけで黙然とした夕食会を開いていた。 「昨日はたしか、家族愛に目ざめたはずだったよねえ」と、桜子の料理の腕はぼくの責任だと言わんばかりの顔で、姉貴が言った。「亮ちゃんも忙しいよねえ。今度は警察だって?」  それには答えず、うなずいただけで、ぼくは黙って姉貴と桜子の間に座り込んだ。 「お袋は?」 「小出の伯父さんの家に回った。先に夕飯を済ませなって」  今日はしっかり主婦を決めた桜子が、ぼくに膳をつけてくれ、ぼくも目一杯の覚悟を決めて敢然とその夕食に取りかかった。親父が死んだ今、ここが正に、兄妹《きょうだい》愛の見せどころなのだ。 「さっき、亀橋のかずちゃんから電話があったわよ」と、ぼくと同じように覚悟をきめているらしく、諦め顔で箸を動かしながら、姉貴が言った。 「それで、なんだって?」と、ぼくが訊いた。 「なんだかねえ。あとでまた電話するってさ。あんた、明日は暇なの?」 「たぶんね」 「あたしと一緒に石屋に行って、お墓のデザインを決めてくれないかな?」 「姉さんの好きなやつでいいさ。まっ赤に塗って、中にカラオケを仕込むといい」 「真面目な話よ?」 「真面目な話さ。曲は『人生いろいろ』がいいな」 「ねえ……」と、箸と茶碗を宙に浮かせたまま、目を細めて、桜子がじっとぼくの顔を見つめてきた。「あの竹内って人、どうして自殺なんかしたの?」 「どうしてだかな。誰だって死にたいと思うことくらい、あるんだろうな」 「わたしは、死にたいと思ったことなんか、一度もないけどなあ」 「つぼみは別さ。おまえは死ぬまで死にたいなんて思わないさ」 「その竹内くんて子が自殺して、どうして亮ちゃんが警察に呼ばれたわけ?」と、ぼくの方に片方だけ眉を上げて、姉貴が言った。 「死んだやつとか、死にそうなやつとか、そういうのに人気があるんだ」 「縁起でもないこと言わないでよ。妙なことに首をつっ込むのはやめて、そろそろ落ち着いてくれなくちゃねえ。あんた、この家の家長なんだから」 「家長って、なによ?」と、もぐもぐと口を動かしたまま、姉貴に、桜子が訊いた。 「家長ってのは、家の中で一番人気があって、一番偉い人のこと」 「どうしておにいちゃんが一番人気があって、一番偉いの?」 「亮ちゃんには、そうなるように努力してもらいたいっていうことなの」 「そういうのって、おにいちゃんには無理だと思うけどなあ」 「無理でもなんでもいいの。人間には立場ってものがあるの。好き嫌いで決めることとは、問題が別なの」 「姉さん、へんに、お袋に似てきたんじゃないか?」 「十七年もつき合ってれば、いやでも似てくるわよ。常識のある人間ての、みんな同し考え方をするもんなの」 「そんなことよりさあ……」と、箸の先を自分の下唇に押しつけ、上目づかいに、桜子がぼくの顔を覗き込んできた。「おにいちゃん、わたしに、なにか言うことあるんじゃない?」  姉貴が、ちらっとぼくの方に目配《めくば》せを送ってきて、それから桜子には見えない角度で、その脅威的なごちそう[#「ごちそう」に傍点]の方に、諦めきったような顔でそっと顎をしゃくった。 「その……この金魚の煮つけ、ちょっと珍しいな」と、桜子の方に強くうなずきながら、ぼくが言った。 「キンキなのよ」と、低い声で、姉貴が言った。 「金魚が食えるなんて、思ってもいなかった」 「キンキだってば」 「なに?」 「キンキ。金魚みたいに見えるけど、金魚じゃないの」  それはどう見ても金魚の姿煮のようだったが、姉貴が金魚ではないというのだから、たぶん、金魚ではないのだろう。 「さっきも思ったけど、この春巻、うまそうじゃないか。おにいちゃんはやっぱり、こういう大胆な料理が好きだな。それにこの、じゃが芋の姿煮もいいし」 「おにいちゃん、わざと言ってるわけ?」 「いや……そう思うか?」 「わたしのこと、わざとばかにしてるんじゃない?」 「そんなことはない。そういうことは、ぜったいにない……ビール、冷蔵庫に入っていたよな」  ぼくは努めて平静に、火燵を抜け出し、桜子と姉貴の視線にじーっと見送られたまま、台所に歩いて冷蔵庫の中からビールを出してきた。  電話が鳴って、姉貴が受話器を取り、返事をしたあと、すぐにぼくの方に顎をしゃくってきた。 「亮ちゃんに……水谷さんていう人」  水谷と聞いても、とっさには思い出さなかったが、ぼく自身の知り合いには水谷という人間はいないはずだった。 「その……向こうで取る」  ぼくはビールとコップを火燵の上に置き、そのまま居間を出て、廊下にいってからそこの電話で受話器を取り上げた。 「わたし、東京の水谷といいます。さっき千里ちゃんから電話をもらって、わたし、直接斎木さんに話をした方がいいと思ったの」  その声はいくらかかすれ気味で、喋り方も紋切り型だったが、けして不愉快な印象ではなかった。 「麗子のこと、やっぱり事故じゃなかったのよね。わたしもおかしいとは思ったの。でも、お葬式のとき、そんなこと言うわけにもいかなかったし……」  頭のいい女の子らしく、それ以上よけいなことは言わず、水谷小夜子はすぐ本題に入ってくれた。 「問題は、麗子の男関係なんですって?」 「もし、わかれば……」 「わかるに決まってるわ。わたしたち、二年間ほとんど毎日会ってたんだもの。麗子のことなら子供のときのことから知ってるわ」  水谷小夜子が竹内の自殺を知らないらしいことは、千里のところにも、まだ警察からその件に関しての連絡はいってないのだろう。 「子供のときのことは別にして、東京でのことを知りたいんだ」と、ぼくが言った。 「わたしが今笑ってるの、わかります?」 「君の顔まで想像できる」 「そうでしょう? 男関係なんていう言葉、麗子ほど似合わない子、他に思いあたらないもの」 「まったく無かったっていうのも、説得力はないけどな」 「男の子って、みんな勝手にそう思うらしいの。でも麗子に関しては、わたしが保証してあげます。麗子は男の子とキスをしたことだってなかったわ……誤解のないように言っておくけど、もちろん、女の子とだってキスなんかしなかったわよ」 「君たちの出た学校、なにか、特殊な思想があったわけ?」  電話の向こうの、一瞬の間の中で、水谷小夜子がくすっと低く笑った。 「もちろん麗子だって、デートくらいはしていたわ。立候補者が多ければ義理ができてしまう相手だって、でてくるでしょう?」 「竹内っていう名前、彼女から聞いたことは?」 「中学で同級だった、竹内くん?」 「知ってるんだ?」 「麗子から名前を聞いただけ。東京に出てきた最初のころ、一度デートしたことがあるらしいわ。中学で同級だったことも一種の義理だもの。でも相手がへんに真剣なんで、なんとなく不気味だったって」 「それだけ?」 「それだけって?」 「本当に一度デートしただけで、本当に、不気味だと思っただけなのか、どうか……」 「麗子がわたしに嘘を言う必要はなかったし、わたしが斎木さんに嘘を言う必要もないじゃない? その竹内っていう子、なにか問題があるの?」 「あるっていえば……ある」 「今は、話せない?」 「今は、話せないな」 「そのうち、聞ける機会をぜひつくってもらいたいわね」 「そのうちに、たぶん」  電話の向こうで、また低く笑い、いくらか声をひそめて、水谷小夜子が言った。 「わたしが斎木さんに電話した本当の理由、わかります?」 「コードレス電話、試してるわけでもないだろうしな」 「千里ちゃんからあなたの名前を聞いて、思い出したことがあったの。斎木さん、中学のとき、麗子に交際を申し込んだことがあったでしょう?」  特別否定するつもりもなかったが、威張って肯定するほどのことでもなかったので、その質問は、無視させてもらうことにした。 「麗子、なん度かわたしに言ったことがあるの、中学のときから、本当は一人だけ気になる男の子がいたって。でもその子、近所では不良で有名だったし、勉強はしないし、高校は落ちるし、両親の手前そういう子とつき合うわけにはいかなかったって。麗子、お父さんが本当のお父さんじゃなかったから、そういうことには必要以上に気をつかったの。だけど、わたしとしては興味をもって当然だと思わない? そういうどうしようもない男の子、どうして麗子みたいな子がずっと気にしていたのかって……ねえ?」  送話口から、顔をそむけ、一度だけ、ぼくは大きく深呼吸をした。 「例の機会は、やっぱりつくらない方がよさそうだ」  今度は少し長く笑ってから、笑いながら、水谷小夜子が言った。 「それじゃお互い、気が向いたらってことにしましょうか?」 「気なんか向かないさ、たぶん」 「気を悪くした?」 「気なんか、悪くしないさ」 「気は悪くしなくても、電話は切りたくなったでしょう?」 「君が川村さんと気が合った理由、わかるような気がする」  ふっと小さく笑い、それからすぐ、電話の中で口調をあらためて、水谷小夜子が言った。 「今思い出したけど、もう一人いたんだっけ……」 「もう一人?」 「麗子とデートした男の子。もちろん東京にはなん人かいるけど、前橋の子で、東京で麗子とデートしたことのある子って、竹内くんとその子だけじゃないかしら。わたしも一度だけ麗子と一緒に会ったことがあるの。麗子のお葬式で見かけて、どこかで見たことのある子だと思ったら、その子だったわ」 「そいつの名前、もちろん、知ってるよな?」 「もちろんね。受験とか夏期講習とかで東京に出てきたとき、麗子とは三度くらい会っているはずだわ」 「氏家が……か?」 「氏家っていったわね、たしか……氏家孝一とかってね」  一応相手の電話番号を訊き、一応礼を言い、電話を切って、まっ白な頭をただ首の上にのせたまま、ぼんやりとぼくは居間の方に戻っていった。 「東京の、新しい彼女なわけ?」と、目を皮肉な形に笑わせて、姉貴が言った。「今度はどれくらいつづくんだか……」 「おにいちゃんて、ぜったいいやらしいと思う……」  うまい冗談が見つからず、ぼくは黙って火燵に足を入れ、自分でコップにビールを注いで、その一杯めをゆっくりと飲み干した。竹内常司が自殺して川村麗子の事件は終わったはずなのに、川村麗子は、なぜすんなりぼくの人生から消えていってくれないのだろう。それにしても喉を通るビールの冷たさに、これほど感激したのは、ぼくには生まれて初めてのことだった。  また電話が鳴り、また姉貴が受け、今度は廊下には行かず、ぼくは火燵に座ったまま受話器を姉貴から受け取った。電話の相手は亀橋だった。 「おまえも忙しい男だなあ……」と、半分笑いながら、機嫌の良さそうな声で、亀橋が言った。「親父さんの葬式が終わったばっかしなのによう」 「親父の葬式が終わったから、忙しいんさ」 「今、由美子と一緒なんだけどな、出てこねえか? 先日《こないだ》言ったじゃねえか、親父さんの葬式が終わったら一杯やろうぜって」 「せっかく彼女と一緒なのに、悪いじゃないか」 「それがよう、頭にきちまったんだけどな、由美子がおまえに会いてえんだと。こいつ中学んとき、本当はおまえに惚れてたんだとよ」  すぐそばに、田中由美子もいるらしく、じゃれ合っているような声と音が、五、六秒小さく受話器の中でつづいていた。 「え? なあ? だからよう……」と、洋服をこするような音と一緒に、亀橋が言った。「ちょっと出てこいや。おまえだっていつまでも前橋に居るわけじゃねえだろうによ?」  むっつりと箸《はし》を動かしている姉貴と桜子の顔を、ちらっと窺ってから、ぼくが訊いた。 「場所は、どこなんだ?」 「中央駅のそばの、バーボンハウスっていうスナック。中央駅から南に街ん中に入ってくりゃ、右っ側の角にあるからすぐわからあ。なあ? とにかく今、由美子がまっ赤んなって待ってるからよう、ちょっとでもいいから出てこいや、なあ?」 「わかった……中央駅のそばの、バーボンハウス、な」  電話を切り、わざと一つ咳払いをしてから、ビールを注いでそれを飲み干し、火燵のまん中あたりに向かって、今度は、ぼくはわざと小さく溜息をついてみせた。 「亮ちゃんも、つき合いが多くなって大変よねえ」と、流し目をつかって、姉貴が言った。「せっかく家族愛に目ざめたのに、男のつき合いじゃ仕方ないわよねえ」 「おにいちゃん、本当はわたしが作ったもの、食べたくないんじゃない?」と、セーターの胸にもぞっと顎をうずめて、桜子が言った。 「その……つぼみ、この料理、明日まで取っておいてくれないか? おにいちゃん、どうしてもおまえが作ったものを食べたいんだ」 「無理しなくてもいいよ」 「無理なんかしてない、本当さ。おまえの料理を楽しみに帰ってきたんだけど、いろいろ、義理があってな」 「帰り、遅くなるの?」と、鼻で、姉貴が訊いた。 「そうでもない……たぶん」 「わたし、おにいちゃんに勉強教わろうと思って、昼間からずっと待ってたのになあ」 「あのなあ……」と、立ち上がって、鼻を上に向けている桜子の頭に、こつんと、ぼくが拳骨をくれた。「昼間言った恐いお姉さんな、偶然だけど、前女の自然科学部なんだ。前女の自然科学部って、可愛くない子はものすごーく[#「ものすごーく」に傍点]いじめられるらしいぞ……おまえが来るの、今からものすごーく[#「ものすごーく」に傍点]楽しみだって言ってたっけ」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  どうせ飲むことはわかっていたので、姉貴のシルビアは使わず、ぼくはタクシーで街に出た。  中央前橋駅は、前橋と桐生を結ぶローカル線の始発駅で、繁華街のすぐ北側にある。前橋の飲み屋街はデパートや商店の集まっている中心部を東から北に取り囲むようにつづいていて、昼と夜とではその人の流れが逆転する。前橋にいたころ、ぼくは飲み屋街に縁はなかったが、亀橋に言われた『バーボンハウス』は中央前橋駅から繁華街に入っていく途中で、かんたんに見つかった。名前からある程度は想像していたが、そこは四人がけのボックス席が二つあるだけの、細長いカウンター・バーのような店だった。  亀橋と田中由美子は、そのカウンターに並んで腰かけていた。亀橋はもちろんつなぎ[#「つなぎ」に傍点]にジャンパー姿ではなく、緑色のソフトスーツにネクタイまでしめて、髪もムースかなにかでていねいに後ろになでつけていた。田中由美子の方も、ウールの黒いジャケットに髪は後ろを刈り上げたボブカットで、最初から知っていなければぜったいにそれとはわからないような女の子になっていた。中学のときより色が白くなっているかどうかは、店の暗さで、なんとも判断はできなかったが。 「おまえの方から、連絡よこすと思ってたのによう」と、田中由美子を挟んでカウンターに座ったぼくに、亀橋が言った。「俺たち今日、秋間の梅林に梅見に行ってきたんだ。けっこう満開でやがんのよう。どっちかって言やあ、桜より梅の方が品があらいなあ」 「そういう……風流があったわけだ?」と、出てきた水割りのグラスを引き寄せながら、ぼくが言った。 「ここんとこずっと風流よ。二十一っていや、いい加減おっつぁんだしよう」 「あんな古いクルマいじくってるからよ。和也、じじ臭くなったと思わない?」と、僕の顔を覗き込んで、田中由美子が訊いた。 「青年実業家らしくて、いいんじゃないかな」 「だけど言うことまでじじ臭いんだから。今から国民年金の計算までしちゃって……斎木くん、ぜんぜん変わらないみたい」 「性格が軽いせいさ」 「そうだったの? へんなこと言うようだけど、なんか、中学のときより若くなったみたい」  けっと笑って、もう赤くなっている顔を、亀橋がカウンターの上に大きくつき出した。 「いい加減にしてもらいてえなあ。由美子に苦労させられて、こっちは老《ふ》け込んじまったのによう」 「いつあたしが和也に苦労させた? あんたが喧嘩して殴った相手の家、謝ってまわったの、あたしの方じゃない?」 「あんなのは放っておきゃよかったんさ。おまえが勝手に出しゃばっただけじゃねえか」 「向こうは鼻の骨折って、警察に訴えるって言ってたんだからね?」 「訴えりゃよかったのよ。喧嘩うってきたのはあっちの方だ」 「そんなこと……喧嘩って、怪我させた方が悪いことにされちゃうのよ。和也ってそういう常識、まるでないんだもん」 「風流って、けっこう大変だよな」と、軽くグラスをゆすって、ぼくが言った。 「ほーんと。この気が短いのだけ、なんとかなってくれたらねえ」  うんざりしたように溜息をつき、またカウンターに身を乗り出して、亀橋が言った。 「それで? おまえん家《ち》の方、ぜんぶ片はついたんか?」 「家の方はな。家の方は、最初から問題はないんだ……」 「その言い方、もしかして、まだ川村のことにこだわってるってことかよ?」 「なりゆきさ。好きでこだわってるわけじゃない」 「しつけえよなあ。おまえって、けっこう執念|深《ぶけ》えんだよなあ」 「でもさあ、ねえ……」と、顔をぼくと亀橋の両方に回して、田中由美子が言った。「相手が川村さんなら、誰だってこだわるんじゃない?」 「でもこいつ、別に川村とつき合ってたわけじゃねえんだぜ? 一方的に惚れて、一方的にふられただけじゃねえか」 「そういうことじゃないのよ。斎木くんの気持ちの問題なのよ」 「気持ちの問題だからよう、早《はえ》えとこ自分で片つけろって言ってるんさ。斎木の気持ちぐれえ、由美子より俺の方がわかってらあ」 「それがな、どうもさ……」と、煙草に火をつけてから、ぼくが言った。「もうそういう問題じゃなさそうなんだ」 「そういうって、どういう?」 「だから、中学のときどうだったとか、気持ちがどうだとか……竹内のこと、二人とも知らないよな?」 「竹内って、立教に行った竹内か?」 「竹内くん、前橋に帰ってきてるのよね? 街でたまに見かけるもの」 「竹内がどうかしたのかよ。あの馬鹿、芥川賞でも取ったか?」 「死んだだけさ。生きてても、芥川賞は取らなかったろうけど」  一瞬顔を見合わせた二人が、そろって、その顔をぼくの方にふり向けてきた。 「うそーっ?」と、奇麗にアイラインを引いた目を、丸く見開いて、田中由美子が言った。「あの竹内くんが? いつのことよ?」 「今日の二時ごろ。大渡り橋の上から飛び下りた」 「まさかよう、スーパーマンの格好してたわけじゃあるめえ?」 「そこまでは、派手じゃなかったらしい」 「本当かよ……あっちでもこっちでも、みんなよく死にやがるなあ」 「飛び下りたっていうことは、それ、自殺っていうこと?」 「目撃者がなん人もいて、ちゃんと遺書まで持っていた」 「だけど、おまえ……」  亀橋が、ぼくの方に目をほそめ、自分のグラスをなめてから、ふんと鼻を鳴らした。 「そういやおまえの親戚で、警察いってるへんなおっつぁんがいたなあ。俺たちにラーメン奢ってくれたりした、あのおっつぁん。あのおっつぁんからの筋ってことか?」  うなずいて、自分でも水割りを飲み、煙草をつぶしてから、ぼくはつきだしのアーモンドを一粒、ぽんと口に放り込んだ。 「その遺書にな……」と、アーモンドを奥歯で噛みくだきながら、ぼくが言った。「川村さんを殺したの、自分だと書いてあった」  亀橋と田中由美子が、また顔を見合わせ、今度は二人とも口を開けたまま、困ったような目でじっとぼくの顔を覗き込んだ。 「東京で、今そういう冗談、はやってんのかよ」と、鼻の下の髭を指の先でこすりながら、亀橋が言った。 「もし冗談だったとしたら、こいつは田舎の冗談だな」 「おまえよう……」 「別れ話がもつれて、やったんだとさ」 「おいおいおい……」 「うっそーっ」と、見方によっては可愛いと思えなくもない、その猫のような顔を、田中由美子がまともにぼくの方に向けてきた。「そういうのって、あり?」 「有りか無しか知らないけど、現実に川村さんは殺されて、竹内はそういう遺書を残して自殺した」 「だって、川村さんの事件、事故だったはずじゃないの?」 「だから、事故じゃなかったってことさ」 「冗談じゃねえぜ、よう? おまえ今、別れ話がもつれてって言わなかったか?」 「言ったんだろうな、たぶん」 「それじゃなに[#「なに」に傍点]か? 川村と竹内は、できてたってことか?」 「そう言ってる、少なくとも……竹内は」  亀橋と田中由美子が、そろって溜息をつき、つられて、ぼくもふっと溜息をついた。 「そういうのって、ねえ、本当に、ありーい?」  グラスを引き寄せ、一杯めの水割りを飲み干してから、ぼくが言った。 「竹内な……いろんなところで、ずっとそう言ってた。東京で川村さんとつき合ってて、深い関係になってて、それで川村さんが前橋に帰ってきてからは、川村さんに捨てられそうになってたって」 「それじゃ、竹内くん、川村さんを追って前橋に帰ってきたってこと?」 「結果的には、そういうことになる」 「それで本当に捨てられそうになって、殺しちゃったって?」 「そう言ってる、遺書では」 「信じられない……わからないものよねえ、男と女って」 「わからなすぎらあ、なあ?」と、ぼくの方に向いた眉の端を、ちょっとつり上げて、亀橋が言った。「竹内でよかったんなら、俺だってちょっかい出してたぜ、なあ?」 「それ、どういう意味よ?」 「だからよう、そいつは……たとえばってことよ。川村も竹内とできるくれえなら、斎木とくっついてた方がちったあまし[#「まし」に傍点]だったんじゃねえかって……そういう意味よ」 「すぐ誤魔化すんだから……」 「誤魔化してなんかいねえさ。ただのたとえ話じゃねえか……だけどよう斎木、おまえ、調べたんじゃねえのか? 川村と竹内が本当にできてたのかどうか……なあ?」 「本当はどうだったかなんて、誰にもわからないさ。当事者は二人とも死んでる」 「だけどおまえ、川村の妹に会ったんだろうよ。妹はなんて言ってるんだ?」 「彼女は、知らないって言ってる」 「川村さんの妹って、千里ちゃんでしょう? 有名よねあの子。街で声かけてくる男の子、交番につき出しちゃうんだって」 「姉さんの教育が、少し、徹底しすぎたんだろうな」 「妹が知らねえって言ってるんじゃ、もしかして、無かったんじゃねえのか?」と、田中由美子の頭の上から、ぼくの顔を覗き込んで、亀橋が言った。 「妹が知らないだけじゃ、なんとも言えないけど……東京で川村さんと一番親しかった女の子も、無かったって言ってる」 「つまり、どういうこと?」 「ばーか。だからよう。本当は川村となんかできちゃいねえのに、竹内が勝手にそう言いふらしたってことじゃねえか」 「だけど、竹内くんが、どうしてそんなこと言いふらすのよ?」 「そりゃおめえ……そりゃあ、なんかあったんだろうよ」 「つき合ってもいないのに、竹内くんが勝手に川村さんを殺して、勝手に自殺しちゃったわけ?」 「そこまで知るかよ。だからそういうこと、斎木が調べてるんじゃねえか」 「そうなの? 斎木くん」 「竹内が勝手に川村さんを殺して、勝手に自殺したかどうかは……わからない。理屈としてはそういうことはありえないけど、竹内の気持ちとしては、ありえなくもない気はする」 「要するに、どういうことよ?」 「要するに、わからないってことさ」  田中由美子が、鼻であいまいに溜息をつき、亀橋もけっと笑って、グラスの水割りを一気に口に放り込んだ。  ぼくは新しく出てきたバーボンの水割りを、しばらく黙って味わい、水谷小夜子から聞いた話を思い出しながら、川村麗子のイメージを少しずつ頭の中で組み立て直しはじめた。その生活も、性格も、いくらか屈折していたかもしれないが、けして許せない範囲にまで偏向はしてはいなかったはずだ。川村麗子自身は、けして無茶な価値観や無茶な美意識をもった女の子ではなかった。ぼくも含めた他人が、偏見のフィルターを通してしか川村麗子を見ることができなかった、それだけのことではなかったのか。 「君、川村さんのこと、どれくらい知ってる?」と、細いメンソールの煙草を吸いはじめた田中由美子に、ぼくが訊いた。 「ふつうじゃない? 中学で一度同級になったことがあるっていう、その程度のことよ」 「その程度[#「その程度」に傍点]の友達として、川村さんのことは、どう思ってた?」 「どうって言われても……」  ふうーっと煙を長く吹き、ボブカットの前髪を軽く掻きあげて、田中由美子が、ちらっとぼくの顔をうかがった。 「そりゃあ、初めて同しクラスになったときは、こんな奇麗な子がいちゃたまらないなって思ったわよ。だってあの人、ちょっと可愛いとか、ちょっと目立つとか、そういうのとは訳がちがうもの。最初から勝負にならないんだから、どうにも思いようがないじゃない?」 「あまり、いい印象はもたなかったってことか……」 「だからね、そういうのとも違うの。ああこの人、あたしとは関係ない人なんだなって、そういう感じ。最近思うんだけど、川村さんみたいに奇麗だからって特別幸せになるとも限らないわけだし、要するに、違うってだけのことなんじゃない? 松坂慶子だって後藤久美子だって奇麗だけど、あたしとは関係ないものね」 「おまえって、顔の割りに言うことがシビアなんだよなあ」 「だってそうじゃない? たとえば今、後藤久美子がここに来て和也にちょっかい出したら、そりゃあ問題だけどね。でもテレビでビスケットの宣伝してるだけなら、後藤久美子が奇麗だって生意気だって、あたしにはどうだっていいことよ」 「なんか俺、今夜寝られそうもねえなあ。後藤久美子が俺になんか言ってきたら、どうしたらいいかなあ」 「ただのたとえ話よ。そんなこと鏡見ればわかるじゃない? 男ってほーんと、いくつになっても現実が認識できないのよねえ」 「その、申し訳ないけど……」と、メンソールの煙をさけて、田中由美子の顔を覗き込みながら、ぼくが訊いた。「『青猫』の氏家と桑原智世のことなんかは、どういうふうに噂になってるわけ?」 「あれは、だって……」と、煙草をつぶして、田中由美子が慣れた手つきでぼくのグラスにボトルのウイスキーを注ぎ足した。「どういう形で決着がつくか、中学のときから注目の的だったもの。知らなかった? 桑原さんが氏家くんに熱あげてたの、有名な話よ」 「おまえが斎木に惚れてたなんてこと、俺今日まで知らなかったけどな」 「また言ってる。あたしはただ、斎木くんて中学のとき、意外と女の子に人気があったって言っただけじゃない、まったく……それでね」  ぼくの方に顔を向け、自分でも軽くグラスに口をつけてから、田中由美子が言った。 「あたしがどうとか、たとえば、竹内くんがどうとか……そういうことは誰も問題にしないの。だけど川村さんや桑原さんが誰を好きだとか、誰とつき合ってるとか、そういうことってどうしてもみんな関心をもっちゃうのよ。女の子ってそういう噂、ものすごく好きなの。噂が広まるのも速いしね」 「中学のとき、川村さんと氏家、やっぱり噂になったのか?」 「どうかしら……あったとしても、桑原さんと氏家くんの噂を面白くするために、無理やり川村さんの名前を出してきたんじゃない? だって、ねえ? 桑原さんと氏家くんがすんなりそう[#「そう」に傍点]なったら、面白くもなんともないもの。川村さんて、考えたらおかしいけど、不思議にそういう噂のない人だったわよねえ」 「野代亜矢子って、どうなのかな。いつも川村さんと一緒にいたわりには、目立たなかったような気がするけど」 「野代さんて、あの子……へんなふうに屈折しちゃったのよね。まあね、気持ちはわかるけどね」 「おまえ、知らねえだろうけどよう」と、ぼくの方に、カウンターから顔をつき出して、亀橋が言った。「あのころ、市女の野代っていや有名だったんだぜ。金まわりはいいし、そのなんていうかよう……な?」 「はっきり言いなさいよ、市女のさせ[#「させ」に傍点]子で有名だったって」 「俺は、そういう、下品な言葉は使わねえことにしてる」 「要するにね」と、亀橋の台詞を無視して、田中由美子がぼくの方に顔を向けた。「男関係が派手だっていうこと。あたしも市女だったから、噂だけはいやってほど聞いたわ」 「それで、どうして、その野代亜矢子の気持ちがわかるんだ?」と、田中由美子に、ぼくが訊いた。 「そんなこと、だって、小学校から中学校までずっと川村さんと同しクラスで、それでずっとあんなふうにつき合ってれば、なにかあるに決まってるじゃない? 友達に聞いた話だけど、小学校のころ、最初は野代さんの方が目立ってたらしいわよ? あの子の家お医者さんだし、兄弟もみんな優等生だったっていうしね」 「その関係が、いつの間にか逆転してしまった……」 「そんなとこでしょう? 高校のときの噂では、あの子、友達のボーイフレンドばっかり狙って手を出したらしいの。そういうのって、やっぱり屈折してると思わない? 自分の好きな男の子をいつも川村さんに取られてたとか、そんなようなこと、なん回もあったんじゃないのかな……あたしだったら、最初から川村さんなんかには近づかないけどね」 「川村さんが死んだとき、やっぱり、いろんな噂はあったんだろう? どんなふうに死んだとか、自殺だとか他殺だとか……」 「そりゃすごかったわよ。あたしだって十本以上電話もらったし、自分でもぜったいその倍は電話した。あの日のうちには、ぜったい前橋中に広まっていたと思うわ」 「あの日っていうのは、八日?」 「ええ? ええと……」  首をかしげて、ぼくの方に右の耳をつき出し、すぼめた口で、田中由美子がしゅっと水割りをすすった。 「一週間以上前だったと思うけど、どうして?」 「川村さんが殺されたのは、六日の午後十一時ごろ。発見されたのは次の日の午後二時。新聞に出たのは八日の朝刊……噂が広まったのは、いつごろかと思ってさ。君が最初に事件のことを知ったのは、いつ?」 「あれは……そう、八日だったな。友達に新聞にも出てるって言われて、それで八日の朝刊を見なおしたんだもの。だけどあの新聞、具体的なことはなにも書いてなかったわよねえ」 「最初に聞いたのは、誰から?」 「香織……斎木くん、森下香織って覚えてる?」 「さあ……」 「あたし、昼間、家でスーパーのレジ手伝ってるでしょう? それでけっこう友達といき会うの。香織って中学と高校が一緒で、それであの日、香織が店に来たときその話を聞いたの」 「その森下香織って子、川村さんが死んだときの様子、具体的に知っていたわけ?」 「知ってたわよ。お風呂場でどんなふうだったかとか、睡眠薬を飲んでいたとか」 「風呂場で、どんなふうだったって?」 「お風呂場だから、そりゃあ、裸だったとか、ちょっと頭を打っていたとか……」 「頭……」  グラスを口にあてたまま、田中由美子の顔の向こう側から油の浮いた顔を覗かせている亀橋に、ぼくが訊いた。 「この前おまえの家に行ったとき、やっぱり、そのこと言ってたっけ?」 「言ったさあ。それで自殺の可能性もあったけど、けっきょくは事故死って結論が出たって」 「もちろんその話、田中さんから聞いたんだよな?」 「決まってらあ。由美子以外の女から聞いたら、俺は今ごろ生きちゃいられねえさ」 「よーっく言うじゃない?」と、目尻と口の端を一緒に歪めて、田中由美子が言った。「悔しかったら、工藤静香から電話でももらってみたら? 斎木くん知ってた? 最近和也、工藤静香に入れ込んでるの。どこがいいのかしらね、あんながにまた[#「がにまた」に傍点]の女」 「亀橋にも、いろいろ都合はあるさ」  水割りを口に含み、意識を八日の新聞記事の記憶に集中させながら、田中由美子に、ぼくが訊いた。 「その、森下香織って子、川村さんが頭を打ってたこと、どうして知ってたのかな?」 「そんなこと……あっちゃんに聞いたからよ」 「あっちゃん?」 「柳田|篤子《あつこ》。斎木くんの知らない子。あたしも特別親しい子じゃないけど、香織があっちゃんから聞いたっていうから、あたしもすぐあっちゃんに電話して詳しく聞きなおしたんだもの」 「あっちゃんが、それで、川村さんがどんなふうに死んでたとか、頭を打ってたとか、みんな知ってたわけ?」 「そりゃそうよ。だってあっちゃん、高校のとき野代さんと親友だったんだもの」 「野代……亜矢子、か」 「あっちゃんね、みんな野代さんから聞いたんだって。そりゃあ川村さん、ああいう死に方だもんね、ふつうだったらぜったい人には見せられないような格好だったって。それであたしも思ったわけ、川村さんみたいに奇麗に生まれたからって、死ぬときはみんな同しなんだなあって。奇麗だからって、特別幸せになれるわけでもないんだなあって……ほーんと、だから人生って、難しいもんなのよねえ」 [#改ページ] [#ここから8字下げ] 6 [#ここで字下げ終わり]  前の日、姉貴には暇になるだろうと言っておきながら、けっきょくぼくのところへは暇なんか回ってはこなかった。  朝起きたときから、思っていたとおりの暗い曇り空で、桜子が善意で取っておいたと信じたい前の晩の料理を、ぼくが渾身《こんしん》の兄妹愛で平らげ終わったころには、もう大粒の雨まで降りはじめていた。  しかしぼくが出かけるのを、十時まで待っていた理由は、雨のせいでも桜子の料理のせいでもなく、今日が日曜日であることを一応の礼儀としてぼくなりに考慮した結果だった。  電話で聞いた誠三叔父さんの新しい家は、前橋から伊勢崎に向かうバイパスの途中を、駒形の手前から右に入っていった新興住宅地の中にあった。その一画は道路も新しくて、広くてまっすぐで、どの家も建ててからみんな二、三年という感じの、まだ生活の匂いがほとんどないまるでモデルハウスの展示場のような町並みだった。誠三叔父さんの家も、もちろんその中の一つではあったが、誠三叔父さんはたぶん、建築屋か市役所に騙《だま》されたかなにかしてこんな白い家を建ててしまったのだろう。  ぼくには信じられなかったが、ぼくを出迎えた誠三叔父さんのいで立ちは、紫色のパジャマにピンクのガウンを着て、おまけに黒いボアのスリッパという、なんともあっぱれなスタイルだった。警官だから警察に捕まることはないだろうが、もしかしたら、これはなにかの罪になる。 「起きたばっかしでよう、まあ……勘弁しろいや」と、暖房のきいた洋間のソファにぼくを座らせ、自分では台所の方に歩きながら、誠三叔父さんが言った。「コーヒーでいいかや?」 「いえ、あの……」 「山婆《やまんば》はよう、例のほれ、パッチワークの仕事で出かけちまったんよ。昼には戻ってくるから、どうしてもおめえに待ってろって言ってたぜ?」 「おばさん、雨の日でもバイクですか?」 「驚くこたあねえやな。月光仮面だっていつもバイクだんべえ」 「よく……覚えてないけど」 「月光仮面が傘さしてるとこ、見たことあるかや?」 「それは、ないけどさ。月光仮面自体、雨の日は休みだったんじゃないかな」 「そういや……そうだいなあ。考えてみりゃ、月光仮面も楽な商売だいなあ」  洋間とつづいている広い台所の方から、コーヒーをのせた盆を持ってきて、そのクッションのきいたソファに、誠三叔父さんがずぶっと座り込んだ。 「ゆっくりしてけるんだんべ? どうせなら夜までいろいや。おめえ、かあちゃんの妹で政子ってのがいたの、覚えてるか?」 「学校の、先生やってた人?」 「そうよ。それでそいつの娘が真里子っていってな、今銀行勤めてるんさ。これがけっこういい女でなあ、料理もうめえんだ。その真里子呼んで、なんかごっ馳走《つぉう》つくらせべえよ」 「そういう暇は、ないと思うんだ」 「忙しいんかや?」 「たぶんね。叔父さんには悪いけど、叔父さんの方も忙しくなると思う」  誠三叔父さんが、ピンクのガウンの胸にピンクの腕を組み、ソファにしずみ込んで、あつぼったい目蓋からむぐっとぼくの顔を窺った。 「また……面倒な話か?」 「また……ね」 「おめえが面倒しょって来ることに、驚きゃしねえけどよう……今度はなんだや?」 「あれさ。例のこと」 「例の、なんだや?」 「例の、あの事件」 「あの事件って、おめえ、まさか、よう?」 「犯人がさ、なんとなく、わかるような気がするんだ。だから今日は、どう考えても、やっぱり忙しい……」 [#改ページ] [#ここから8字下げ] 7 [#ここで字下げ終わり] 「いやだなあ、そういう顔。親父も二日酔いのときそういう顔してたけど、男ってみんな同しなのよねえ」 「姉さん……コーヒーだけでいいんだ」 「わかってる。それで天ぷらが食べられれば、褒めてやるわよ」 「お袋は……」 「会社」 「つぼみは?」 「今日は学校に行った。亮ちゃん……そのつぼみ[#「つぼみ」に傍点]っていうの、そろそろやめた方がいいんじゃないの?」 「そうなんだけどね、つい、癖なんだ」  姉貴だけがいる台所の、居間側の椅子に腰かけ、ぼくは二日酔いで耳鳴りをさせている自分の頭を持て余しながら、深呼吸のつもりで、二度ばかり小さく欠伸をした。朝から晴れていて、風が出ていて、そしてお袋も桜子ももう出かけていることは、本当はぼくにはちゃんとわかっていた。できれば姉貴とも顔を合わせたくなかったが、ベッドの中で待っていても、姉貴だけはどうにも出かける気配をみせなかったのだ。 「亮ちゃん、本当に、今日帰っちゃうの?」と、ぼくの前にコーヒーを置いて、自分でも向かいの椅子に腰かけながら、姉貴が言った。「初七日まではいるはずだったろうに? 母さんも、もう少しいるようにって言ってたけどなあ」 「考えたら、年度末試験もあるしさ」と、熱いコーヒーを、やっとすすってから、ぼくが言った。「落第できるほど若くないもんな……姉さん、会社は?」 「市役所に寄ってからね。昼までに出ればいいのよ……亮ちゃん、煙草もってたっけ?」  ぼくはカーデガンのポケットから煙草と使い捨てのライターを取り出し、それを姉貴に渡して、耳鳴りのしている頭を、自分でこつんとたたいてやった。 「なんか、嘘みたいよねえ……」と、尖らせた口からふーっと煙を吐いて、姉貴が言った。「親父がいなくなって、亮ちゃんがいなくなって、なんか、ぽろぽろお煎餅《せんべい》が欠けてくみたいな感じだものねえ」 「姉さんが結婚したときも、こんな感じだったさ」 「あれはねえ……今から考えると、笑っちゃうわよねえ」 「姉さんが家に戻ってきたとき、本当は親父、嬉しそうだったな。口では言わなかったけど、そういう感じだった」 「あたし自身まだ親父から卒業できていなかった。そういうことなのよ」 「真面目な話、もう一度結婚する気、あるんだろう? 本当はもう好きな人がいるみたいじゃないか?」 「真面目な話……子供みたいに、はずみ[#「はずみ」に傍点]で結婚するわけにもいかないのよ」 「なんとかなるさ、ちゃんと考えれば、みんななんとかなるんさ。つぼみに婿さん取らせるのも、相手の方が気の毒だ」 「そのこと……なんだけどね」  煙草の灰を、灰皿の上で軽くはたき、ぼくのコーヒーカップのあたりに視線を据えて、姉貴がふっと溜息をついた。 「本当のところ、どうなのかな亮ちゃん。大学が終わったあと、あんた前橋に帰ってきて、家《うち》の商売継ぐ気があるのかなあ?」 「水道工事屋って、ぼくに似合ってると思う?」 「そりゃあどう見たって、あんたは堅気が似合うタイプじゃないけど、だけど長男が家と家業を継ぐっていうの、世の中の決まりみたいなもんじゃないの」 「わかってるさ」と、コーヒーを多めにすすってから、ぼくが言った。「姉さんがあのとき、そのために急いで結婚したってこと」 「それはあんたの考えすぎ。結婚なんて、そんなことだけでできるもんじゃないわよ」 「それだけじゃなくても、そういうつもりはあったんだろう? 姉さんの気持ちはわかるけど、だけどやっぱり無理なんだよなあ、やっぱりぼく、斎木の家の長男じゃないもの」 「亮ちゃんが居心地が悪かったことは、もちろんわかってる。あんたみたいに人みしりが激しければ……亮ちゃん、あんたがこの家に来たころのこと、覚えてる?」 「そういうことは、思い出さないことにしてる」 「そうだろうねえ。ちっとも口きかないでさ、あたしにもなつかなくて、いやな餓鬼だったよねえ……あたしのこと姉さんて呼ぶのに、五年くらいかかったっけ?」 「だからさ……」 「だからね、亮ちゃんの気持ちだってわかるのよ。でも親父がこうなった以上、あんたがこの家を継ぐの、ものの道理だと思わない?」 「はっきり言うとさ、姉さん。ぼく、東京に出るまで、人生がこんなに楽なもんだったなんて、思ってもいなかった。楽なんだよなあ……ぼくだって姉さんの気持ちはわかるし、姉さんに悪いとは思うけど、やっぱりぼく、この家の人間じゃないんだ。だから親父が死んだからって、やっぱり、急にこの家の人間にはなれないさ」 「あんたが頑固なのは知ってるけど……本当に亮ちゃん、子供のときから意固地なんだよねえ」  煙草を、灰皿にまっすぐ立ててつぶし、自分の湯呑に手をのばして、前からそこに注いであったらしいお茶を、姉貴がしゅっとすすり上げた。 「母さんや桜子には、まだ言わないでおくれよ。亮ちゃんの大学が終わるまでには三年もあるんだし、今のところ急いで決める必要なんて、なにもないんだし……」 「お袋は、わかってるさ……コーヒー、もう一杯もらえる?」  姉貴が、流しの前からコーヒーのポットを持ってきて、それをテーブルの向こうから、ぼくのモーニングカップの中に黙って注ぎ足した。 「お袋は、姉さんが結婚して……」と、そのカップを一度口に運んでから、ぼくが言った。「姉さんとその相手の人が会社をやってくれるのが、一番いいと思ってるさ」 「母さんは、亮ちゃんをこの家から解放してやりたいだけなんだもの」 「それで、いいんじゃないのかな」 「あたしの気持ちはどうするのよ。あたしの気持ちなんて、誰もわかってくれてないじゃない?」 「わかってるさ。みんなわかってるから、みんな、ちょっとずつ困ってるわけさ」  またコーヒーを口に運び、それをテーブルに戻してから、煙草に火をつけて、日の射し込んでいる居間の方に、ぼくはその煙を長く吐きだした。 「急いで決めること、ないんだろう?」と、日の明るさに、少し目眩《めまい》を感じながら、ぼくが言った。「ふつうにやってれば、みんな、納まるところに納まっていく、そんな気がするな」 「意固地で頑固なわりには、亮ちゃん、へんなふうに暢気《のんき》なのよねえ」と、自分でも日射しの方に目を細めて、姉貴が言った。 「生きていていやだって思うこと、本当言うと、あまりないもんな。いつもけっこういいなって思ってる」 「羨ましい性格よねえ、あたしがあんただったら、とっくに自殺でもしてるわねえ」 「思うことがある、たまにね。自分はもしかしたら、とんでもなく無神経なんじゃないかってさ」  煙草をつぶし、二杯めのコーヒーを飲み干して、椅子をずらしながら、ちらっと、ぼくが居間のかけ時計に目をやった。 「本当に帰るつもり?」と、椅子から腰を浮かせて、姉貴が訊いた。 「昨夜《ゆうべ》から、支度はしてあるんだ」 「昨日の酔い方、ふつうじゃなかったけど、なにかあったわけ?」 「どうかな……でも暢気だから、あまり感じてないんだと思う」  テーブルを、居間の側に歩いてきて、額に皺を寄せながら、姉貴が言った。 「本当に帰るんなら、駅まで送っていくわよ?」 「バスで行くさ」 「どっちみち、あたしだって市役所に行くんだから」 「バスがいいんだ。バスで街まで出て、一箇所だけ寄って……それから東京に帰る」 「言いだしたら聞かないのはわかってるけど……」と、また額に皺を寄せて、小さく首を横にふりながら、溜息のように、姉貴が言った。「本当にあんたって、子供のときから頑固なんだものねえ」 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  前橋と高崎をつなぐバス路線は、バイパスを通るものと新前橋駅を経由するものと、二系統がある。どちらも始発着はそれぞれのJR駅だが、旧道を通るぶんだけ、新前橋駅を経由するバスの方が時間はかかる。ぼくが乗ったのは、新前橋駅経由の方で、それはもちろん高崎駅に出るためではなく、新前橋病院で途中下車するためだった。  日射しも風も強く、もう満車になっている新前橋病院の広い駐車場にも、そのクルマの間を縫うように、土埃の混じった強い風が悲鳴のような音をたてて吹き渡っていた。  ぼくは軽いバッグを、右肩にひっかけ、風に逆らって駐車場を歩き、二日前に来たばかりのその自動ドアの玄関から、またゴムタイル張りのだだっ広い待合室に入っていった。  受け付けに居たのは、幸か不幸か、一昨日《おととい》のあの意地の悪そうなおばさんではなく、眼鏡をかけた丸顔の若い女の人だった。そしてその女の人も、ぼくが用件を言うと、いやな顔一つせず青い電話でどこへやら桑原智世に連絡を入れてくれた。この病院がここまで混んでいる理由は、医療水準よりも、もしかしたら受け付けのこの親切さの方に原因があるのかもしれなかった。  この前とはちがって、桑原智世がロビーに現れるまでには、二十分ほどの時間が必要だった。一昨日とは曜日も時間もちがうし、桑原智世の仕事の質も、それなりにちがっていたのだろう。それにしても、白衣にナースキャップというこの清潔さを強調した衣裳が、桑原智世には、妙に似合っている。 「待たせたわね。この時間、けっこう忙しいのよ」 「いくらでも待ってたさ。ぼくの方は、電車に乗るだけだから」  唇をすぼめ、ぼくの肩からさがったバッグに目をやってから、白衣のポケットに両手をつっ込んで、首をかしげるように、桑原智世がちょっと肩をすくめた。 「東京に……帰るの?」 「新前橋駅から、電車に乗る。その前に、君に会っていこうと思ったんだ」 「光栄だわね。氏家くんのことがなければ……その気になったかもしれないわよ?」 「アパートには、戻ったの?」 「一昨日ね。氏家くん、わかってくれたわ。来年群大を受けてみるって。それで、『青猫』もやめることになったの。昨日氏家くんと一緒に、彼の叔母さんのところに行ってきたわ」 「みんな、やめるんだな……」 「みんな?」 「阿部清美も、『青猫』をやめるって言ってた」  軽く顎を引き、上目づかいにぼくの顔を覗き込んでから、一瞬目を見開いて、桑原智世が言った。 「そんなことより、竹内くんのこと、聞いた?」 「新聞には出ていたな。大渡り橋の上から、飛び下りたって」 「そうなの。それはいいんだけど、問題は竹内くんの遺書なの。その遺書に麗子を殺したことが告白してあったらしいわ。一昨日警察の人が『青猫』に来て、そう言ってたって……外部には秘密らしいけど、斎木くんが思っていたこと、当たっちゃったわね」 「ぼくは、竹内が犯人だと……思っていたわけじゃない」 「でも、そういう口ぶりだったでしょう?」 「ぼくは君に、竹内のことをどう思うかって訊いただけさ。ぼくには君の口ぶりの方が、竹内が怪しいと言ってるように聞こえた」 「そう? だけど……もうどっちでもいいじゃない? けっきょくわたしたちの思っていたとおりだったんだから」 「ぼくには、やっぱり、意外だったさ」 「わたしの方は、一昨日斎木くんに会ったあと考えて、やっぱり竹内くんが怪しいと思ったわ」 「ぼくが意外だったのは、犯人のこと」 「だから、犯人は……」 「ぼくが言ってるのは、川村さんを殺した、本当の犯人」 「だって、それ、竹内くんの遺書に、自分が川村さんを殺したって書いてあったのよ?」 「遺書にはそう書いてあったさ。ただ遺書にそう書いてあったということと、実際に川村さんを誰が殺したのかということとは、まるで関係はなかった……昨日やっと犯人がわかった。帰る前に、それを君に教えていこうと思ったんだ」  桑原智世のすぼめた口が、すぼまったままぴくっと動き、化粧をしていない素直な輪郭の頬に、肩までの髪が一瞬、さらっとかぶさった。 「電車、なん時のに乗るの?」と、ポケットから抜き出した指の先で、軽く頬の髪を払いながら、桑原智世が訊いた。 「決めてない。来た電車に乗るだけ」 「ちょっと……いい? なんとなく、立ち話で済む話題じゃなさそうだから」  ぼくの視線を、背中で引きずったまま桑原智世が歩きだし、ぼくも大きく深呼吸してから、バッグを担ぎなおして、その桑原智世のあとをゆっくりと歩きはじめた。桑原智世は廊下ですれ違う患者や看護婦たちに一々ていねいな会釈をおくり、たまに笑顔を浮かべながら、ゴム底のサンダルでぼくの前を颯爽《さっそう》と歩いていった。桑原智世のナースキャップも、白衣も白いストッキングも、それにしても、妙によく似合っている。  桑原智世がぼくを連れていったのは、三階の、方角的には、たぶん西側のつき当たりの部屋だった。桑原智世はあたりを窺うような顔でドアを軽くノックし、それを押し開けて、一度中を覗き込んでから、ぼくに会釈をして自分から先にその部屋の中に入っていった。  そこは、病室といえば病室だったが、広さもらくに十畳はあり、部屋のまん中に頭の方を壁に押しつけたベッドが一つと、付き添い人用の簡易ベッドと、テレビや冷蔵庫や流し台までが設備された、ちょっとしたマンションの一室のような感じの部屋だった。衝立の向こうにはトイレや風呂場までがあるらしかった。 「ぼくが東京で借りている部屋より、高そうだな」と、ベッドに尻で寄りかかって腕を組んだ桑原智世に、ぼくが言った。 「差額ベッド代、一日二万円だものね。めったに入る人はいないわよ」 「入れたからって、嬉しくはないだろうな」 「そっちのベッドにでも座ったら? コーヒーは、出ないけどね」 「君が座ればいい……君は、仕事があるんだし」  ぼくはそこから二、三歩歩き、窓からの光がぼくと桑原智世の顔に公平に当たる位置に移って、バッグをおろしてそこの壁に寄りかかった。 「さっきの言い方、麗子を殺したの、竹内くんじゃないみたいに聞こえたけど?」と、ベッドには座らず、腕を組んだまま、桑原智世が言った。 「竹内じゃなかった。竹内であってもおかしくはなかったけど、結果的には、竹内じゃなかった」 「信じられないわね……死を覚悟した人間の最後の告白、嘘だとは思えないわ」 「嘘だったかどうかは、わからないさ。竹内自身は自分が川村さんを殺したと思い込んでいたかもしれないし、少なくとも、そうでありたいと思ってはいたろうから」 「よく……わからないけど?」 「竹内の気持ちの問題さ。川村さんの事件がなかったとして、竹内が自殺したかどうか、それは知らない。でも、川村さんがいなくなって、竹内の生きる目標がなくなったことだけは確かだと思う」 「そういうのって、言い方としては格好いいけど、ちょっと大袈裟すぎない?」 「ふつうに考えれば大袈裟さ。だけど、竹内の気持ち、まったくわからない訳じゃない。君だっていくらかはわかるだろう?」 「わたしが……」 「氏家とのことを考えてみれば、わかるんじゃないのか?」  桑原智世が、組んでいた腕を解き、ベッドのフレームに手をかけて、ぼくからは陰になる方向にゆっくりと顔を向けた。 「竹内は、自分の存在証明をやりたかったんだ」と、浮かび上がった桑原智世のうぶ毛の浮いたうなじから目をそらして、ぼくが言った。「ただ自分一人だけではどうにもならなかった。だから川村さんを使うことにした。もっとはっきり言うと、川村さんの死を利用することにした。川村さんが死んだあとなら、自分が川村さんと関係があったと言いふらしても、もう誰も否定はできなくなる。ありえないとは思っても、竹内が言い張るかぎり、誰もありえないことの証明はできないんだ。ぼくにもできないし、君にも警察にも、もう誰にもできない。竹内は精一杯やったんだと思う。遺書での告白は、それの仕上げだった。別れ話がもつれて川村さんをころし、自分は自殺する。君や『青猫』の連中に、自分と川村さんとの間に男と女の関係があったことを証明することになるし、それが竹内自身の存在証明にもなる。竹内の方が川村さんを捨てるという構図をとらなかったのは、竹内にしてみれば……ぎりぎりの常識だったわけさ」 「論理的には、ばかに筋が通っているように聞こえるけど……」と、陰の部分から、ぼくの方に顔をまわしてきて、桑原智世が言った。「でもそのこと、やっぱり証明はできないじゃない? 証明できなければ、やっぱり遺書での告白をそのまま受け取るしかないでしょう?」 「証明はできない……つまり、竹内と川村さんに男と女の関係があったかどうかは、証明できない。でも竹内が川村さん殺しの犯人でないことは、証明できる」  うすく口を開き、ぼくの方に目を見開いた桑原智世に、一度うなずいてから、ぼくが言った。 「遺書の中で、事件の夜、竹内は最初からそのつもりで睡眠薬を用意して行ったと言ってる。警察も調べて、実際竹内が病院から睡眠薬をもらっていたこともわかった。だけど昨日《きのう》調べなおしてみたら、竹内がもらっていた睡眠薬、本当は睡眠薬じゃなくって分裂病やそう病の治療薬だったんだ。君なら知っていると思うけど、ブチロフェノン系薬剤とかいうやつで、幻覚や妄想にきくらしい。竹内がなんとなくいつもぼーっとしてたの、あれ、その薬のせいだったんだ。ところが川村さんが医者でもらった薬はベンゾジアゼピン誘導体とかいうやつで、こっちの方は、いわゆる睡眠薬。眠くなることに関しては同じでも、成分はまるで違う。検視で川村さんの躰から出てきたのももちろんベンゾジアゼピン誘導体の方。つまり、わかるよな? 竹内は新聞で川村さんが睡眠薬を飲んでいたことを知って、遺書を本当らしく見せかけるために薬のことを書いただけなんだ。薬を飲ませたのが竹内でなければ、殺したのも、やっぱり竹内じゃない……そういうことさ」 「それじゃ、薬、誰が飲ませたの?」 「川村さんが、医者から睡眠薬をもらったことを知っていたやつ……それも、その薬がベンゾジアゼピン誘導体であることを知っていたやつ。そんなやつ、川村さんのまわりに、なん人いたと思う?」 「別に……だって、薬の成分なんか知らなくても、川村さんの持っていた薬をそのまま飲ませればいいわけでしょう?」 「そうはいかないさ。川村さんの部屋で、川村さんのいるところで薬なんか探したら、いくら川村さんと親しくても怪しまれるに決まってる。犯人はそんな迂闊《うかつ》なやつじゃない。もちろん、犯人は最初から別な薬を用意して行ったんだ。昨日調べてみたら、ベンゾジアゼピン誘導体の薬って、医者で使っているだけでも二十種類以上あるらしい。分析しても商品名まではわからない。それに、一番かんじんなことは、川村さん、一応医者から睡眠薬をもらってはみたけど、けっきょく自分では飲んでいなかったってことなんだ。川村さんて、へんなところに意固地で、薬を飲むのが嫌いだったらしい。犯人もまさか、川村さんが医者からもらった薬を一度も飲まなかったなんて、そこまでは考えなかったんだと思う。医者では一週間分として七錠の睡眠薬を出して、袋には六錠残っていた。ぼくも最初は、なくなった一錠が使われたと思った。だけどそうじゃなかったんだ。検視のとき、川村さんの躰から出てきた薬と比べるために、警察が川村さんの部屋から押収した薬を一錠使ったんだ。だから川村さんは、自分では薬は飲んでいなかったし、川村さんの躰から出てきた薬は犯人が別に用意していて、川村さんの目を盗んで飲ませたものっていうことになる……そんなこと、誰ができたんだろう」  桑原智世が、くすっと溜息をつくように笑い、自分の足で自分の体重を測るような歩き方で、ゆっくりと窓の方に歩いていった。 「斎木くん、変わらないわね……」と、窓の前から、部屋の中に向きなおって、桑原智世が言った。「知らん顔してて、獲物にはちゃんと狙いをつけていて、そして最後に、心臓を一突きってやり方……要するに、わたしがやったって言いたいわけでしょう?」 「川村さんに薬を出した医者は、川村さんが、看護婦の友達から睡眠薬のことを聞いてきたと言っている。川村さんには、君がすすめたんだろう? 君が直接自分の病院から薬を出したら、殺人だとわかった場合まず最初に自分が疑われてしまう。川村さんには別の病院で、川村さん自身に薬をもらわせる必要があった。そんな緻密な計画を立てるの、君しかいないもんな」 「ばかばかしい……頭がおかしいの、竹内くんじゃなくて、斎木くんの方じゃない? そんなこと、みんなただの偶然じゃないの」 「偶然では、ゴム手袋はなくならない……そうだろう?」 「なによ……その、ゴム手袋って?」 「君が川村さんの部屋で使って、そのまま持って帰ったゴムの手袋さ。ふつうの人間ならそこまでは考えない。たとえ指紋を残さないためにゴム手袋を使ったとしても、現場を元どおりにしたいなら手袋も元の場所に戻しておく。だけどその手袋、裏のついていない薄いやつだったろう? 手袋の裏の指紋にまで気がついたのは、君がふだんそれと似たものを使い慣れているからだ。よくテレビでやるじゃないか、手術のとき、医者とか看護婦が薄いぴったりした手袋をはめる場面」 「偶然よ。そんなの、だって、みんなただの状況じゃない?」 「もちろんただの状況で、君が中学で陸上部に入っていたことも、ただの偶然かもしれない。ぼくは最初、川村さんの部屋から雨樋づたいに下りられるのは、男だけだと思っていた。だけど、思い出したんだよな。君、小学校のときから、勉強だけじゃなくて、運動でも女子の中では一番だった。君ならベランダから、雨樋を伝って下りるくらい、へたな男よりかんたんにできたはずなんだ」 「だからね、それだってみんな状況でしょう? たとえその状況がみんなわたしに当てはまるとしても、わたしがどうして麗子を殺さなくちゃならないのよ。中学も高校も一緒で、わたしたちずっと仲が良かったのよ。そんなこと、斎木くんだってよく知ってるじゃない?」 「それが、ぼくには最後までわからなかった……煙草、吸っていいのかな?」 「勝手にしたら? 床に捨てればいいわよ」  ぼくは上着のポケットから、煙草を取り出し、火をつけて、最初の煙を窓の方に向かってふーっと長く吐き出した。 「いろいろ考えたけど、本当は、まだよくわからないんだ」と、逆光の中に桑原智世の顔を透かしながら、ぼくが言った。「人の気持ちなんて、他人にはわからない……たぶんそうだろうとは思うけど、こんどの場合、一応、二通りの可能性を考えてみた。一つは、氏家が川村さんを好きになって、川村さんの方もその気になりはじめていたケース。竹内もそんなことを君に吹き込んだろうし、氏家自身、それらしいことを仄めかすようになった。野代亜矢子や『青猫』の他の女の子たちなら、氏家のただの遊びだと思って君も我慢はできた。だけど相手が川村さんとなると、氏家にしてもただの遊びでは済まなくなる。君はどんなことがあっても氏家を放したくなかった。で、川村さんを殺した」  桑原智世が、窓の前から戻ってきて、付き添い人用の低いベッドの端にぼんやりと腰をおろした。 「もう一つは、逆に、氏家と川村さんになにも起こっていなかったケース」と、煙草のフィルターに小さく書かれた、英語の文字を眺めながら、ぼくが言った。「氏家の方はもちろん、川村さんに対してはかなり本気だった。東京にも会いに行っていたし、川村さんが前橋に帰ってきてからは、君にもはっきりわかるくらい様子も変わってきた。ところが川村さんは、最初から最後まで、まるで氏家を相手にしなかった。氏家がいくら真剣になっても、川村さんはずっと氏家を無視しつづけた。君にもその状況はわかっていた。君の方は自分の人生まで賭けているのに、その氏家を川村さんは相手にしないどころか、見方によってはばかにしたような態度であしらったりもした。君が……君にとって、そういうことは我慢できなかった。君のプライドがどうしても川村さんを許さなかった。君と川村さん、中学のときから仲は良かったかもしれないけれど、君にとって川村さんは一番大きいライバルでもあった。川村さんに氏家が無視されることは、君自身が川村さんに無視されることでもあった……君は、それが、許せなかった」  白衣のスカートで膝を被《おお》い、その膝を自分の両腕で抱き込んでいた桑原智世が、ぼくの方に首をかしげて、口の端だけをかすかに、にっと笑わせた。 「いろんなこと、よく考えるわねえ……斎木くん、小説家の才能、あるんじゃない?」 「今言ったこと、ぜんぶあたり[#「あたり」に傍点]だとは思っていないさ。もしかしたら、ぜんぶはずれ[#「はずれ」に傍点]かもしれない。人の気持ちなんて、やっぱりわからないものな……だけど君の性格からして、どっちかっていえば、たぶん、後の方が正解にちかいんじゃないかと思う」 「そうだとしても、やっぱり、証拠にはならないわね。それこそテレビでよくやるじゃない、なんていうの? 物的証拠っていうの? ああいうのがないと、犯人だとわかっていても捕まえられないんじゃないの?」 「そんなもの、あるわけないさ。君みたいな人が物的証拠なんて、残していくわけないもんな。ぼくが言ってるのは、だから、みんなただの小説的空想ってやつ。ただ……」  吸っていた煙草を床に捨て、スニーカーの底で踏みつぶしてから、その吸い殻を、ぼくが爪先でぽーんとベッドの下に蹴り飛ばした。 「ただ、麗子さん……川村さんが死んだときの様子、君が野代亜矢子に喋ったのは、ちょっとだけ迂闊《うかつ》だった」  桑原智世の顎が、がくっと動き、ぼくの呼吸の音を聞き分けようとでもする感じの視線が、じっとぼくの顔に注がれた。 「昨日、事件関係の新聞をぜんぶ読みなおしてみた。地方紙も、中央紙の地方版も。川村さんの頭に傷があったことなんて、どこにも出ていなかった。新聞によっては裸だったことが書いてあるやつもあったけど、でも頭の傷のことは、どれにも書いてなかった。死因に関係なかったからか、警察がわざと伏せたからか、それは知らない。でもどの新聞にも書いてなかったことはたしかだ。川村さんの妹にも訊いてみた。八日の朝、君と野代亜矢子に連絡はしたけど、具体的な死に方までは、君にも野代亜矢子にも喋ってはいないんだ。だけど、野代亜矢子は、川村さんの頭の傷のことまで知っていた。川村さんの妹から連絡を受けたあと、君と野代亜矢子はすぐ電話で相談したんだ。知らせるべき友達とか、通夜や葬式の段取りとか。その話のついでに、君は野代亜矢子に喋ってる、川村さんがどんな格好だったとか、頭に打ち傷があったとか。犯人と警察と家族しか知らないことを、君、知ってたんだよな。君は警察の人間でもないし、川村さんの家族でもない……君としては、ただ殺しただけでは気が済まなかった。川村さんに、奇麗なイメージだけで死んでいかれることは我慢できなかった。自分のプライドを傷つけた川村麗子を、もっと辱《はずかし》めたかった。それはわかるんだ。わかるけど、本当いうと、やっぱりよくわからない。君みたいに冷静な人が、なんでそれを口に出すような単純なミスをしたのか……当然頭の傷のことは新聞にも出ているだろうと、君は最初から思い込んでしまった。それとも危険はわかっていても、喋らずにはいられなかったのか、今でもわからないし、たとえわかっても、たいした意味はないと思う。ぼくとしては君がそこまで川村さんを憎んだことが、ちょっと嬉しくないだけのことなのかもしれない」 「状況証拠、みんな、状況証拠と、斎木くんの空想……」 「状況証拠さ。みんな状況証拠と、ぼくの空想だ」  寄りかかっていた壁から、背中を離し、バッグを取り上げて、それを右肩にかけながら、ぼくは妙に重くなった足で簡易ベッドのすぐ手前まで歩いていった。 「あとは警察に対して、氏家がどこまで君を庇《かば》ってくれるか、それだけのことさ」と、一昨日喫茶店でぼくの手に放られた折り鶴を、ま上から桑原智世の膝に落として、ぼくが言った。  膝に落とされた折り鶴に、驚いたように顔を上げ、光の強い目で、桑原智世がじっとぼくの目の中を覗き込んできた。  ふっと肩の力を抜き、小さくなん度か笑ってから、抑揚のない声で、桑原智世が言った。 「かんじんなこと、すっかり忘れてた……あいつ、いざとなったら、逃げちゃうに決まってたんだっけ」 「頑張ってくれると、いいのにな」 「そうね、頑張ってくれると、いいんだけど……」  それから、しばらく床を見つめ、一度長く息を吐いてから、膝から一昨日自分で折った紙ナプキンの鶴をつまみ上げ、その鶴に向かって、桑原智世がなん度もなん度も首を横にふった。 「あいつがだめなこと、本当はわかってるの。本当は医者にだってなれないかもしれない。わかってるんだけど、わかってたんだけど……どうにもならなかった。わたし、今まで、なにをしてきたんだろう」  また小さく首をふり、またぼくの顔を見上げて、口を結んだまま、桑原智世がくすっと笑った。 「斎木くん、今度のことも、わたしに対する誠意の表れなの?」 「たぶん……そうじゃないかな」 「わたし、子供のときから、斎木くんのことがずっと恐かった。理由はわからないけど、あなたがそばにいると、いつもなんとなく不安になった。今度も、斎木くんが『青猫』に来たって聞いたとき、いやな予感がした。当たらなくてもよかったのにねえ、あんな予感」 「予感くらい、ぼくだってしていた」と、桑原智世の視線を受けとめたまま、うしろ向きにドアの前まで歩いて、ぼくが言った。「麗子さんの部屋を見て、犯人がものすごく頭のいいやつで、ものすごく冷静で、ものすごく計画的だったことがわかったときから、ぼくだってずっといやな予感がしていた。竹内が妙なことするからそっちに気を取られたけど、ぼく自身、たぶん、自分の予感から気を逸らそうとしていた」 「斎木くん……」と、ノブに手をかけたぼくに、自分の掌《て》の中の鶴に視線をやりながら、桑原智世が言った。「この前のこと、覚えてる?」 「この前の、なに?」 「この前喫茶店で、早くお爺さんとお婆さんになって、お茶を飲みながら昔話ができるようになればいいなって言ったこと……まだ、その気、ある?」  ドアを開け、躰を外に出して、そのドアを閉める前に、一度だけぼくが部屋の中をふり返った。桑原智世はベッドに座ったまま、掌の中の鶴に見入っているだけで、立ち上がる気配すらみせなかった。  ぼくが桑原智世の最後の質問に答えていなかったことに気がついたのは、病院の長い廊下をしばらく歩いた、そのあとのことだった。 [#ここから8字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  両毛線の高崎行きは、十分で来る。それからまた十分で、上越線の急行が来る。  ぼくは風の強い新前橋駅のホームに出て、たっぷり日の当たっているベンチに腰かけ、その風と光に顔を晒《さら》しながら、少し紫色がかっている遠くの空をぼんやりと眺めていた。冬の晴れた日はいつでも赤城や榛名《はるな》はよく見えるが、昨日の雨のせいか、今日は白く雪を被った谷川の山々までが、妙にはっきりと空につき出ている。赤城の頂上付近にも、昨日降ったらしい雪のなごりが、まばらに残っている。  ホームに電車が入ってきて、目の前の風景が遮断され、短い停車時間の間に、ぱらぱらとなん人かが乗り降りした。それが高崎行きの電車であることはわかっていたが、ぼくはベンチから腰を上げず、取り出した煙草に火をつけて、目の前にまた上越の山々が広がってくる瞬間を、じっと待ちつづけていた。高崎に出て新幹線に乗り換えても、次の急行に乗っても、上野に着く時間の差はたかが知れている。  電車が動きだし、剥き出しのホームに、風と光はすぐに戻ってきた。しかし山々の風景の方は、なぜか、いつまで待ってもぼくの目の前に広がってはこなかった。広がろうとする風景の手前に、紺色の異物がやけに大きく、しっかりと立ち塞がっていたのだ。おまけにその異物は、手までのばしてきて、ぼくの肩をぽんぽんと叩いてきた。 「こういうのって、ぜったいよくないと思うなあ」と、口を尖らせ、ぼくの方にほとんど完璧な寄り目をつくって、唸るような声で、千里が言った。「斎木さんて、いい歳して不良の癖が治らないんですよねえ」  慌てて煙草を踏み消し、ベンチの中で座りなおしてから、やっと唾《つば》を飲み込んで、ぼくが訊いた。 「どうして、わかったんだ?」 「わたしだって、ちゃんと考えますよ」  ぼくのとなりに、すとんと座り、セーラー服のスカートの裾を手で揃えながら、ふっふっと、千里が笑った。 「でも本当いうと、わたし、怒ってるんだからね。わたしを怒らすと恐いこと、知らないでしょう?」 「知ってる……ような気はする」 「さっき学校から電話して、頭きちゃった。女の人が出て、斎木さんもう帰ったっていうじゃない? わたしだってしつこく訊いちゃったわよ。そしたらバスで街に出て、どこか一箇所寄るらしいって。それから東京に帰るって。そこでわたし、ものすごく考えたの。怒るとわたし、いろんなこと、ものすごくちゃんと考えるの」 「学校は、どうしたんだ?」 「抜けて来た、決まってるじゃない?」 「そういうのも、やっぱり、不良だと思うけどな」 「平気よ。わたしふだんから、人望があるもの」  白い毛糸の手袋で、両頬を挟み、まるでその手で自分の顔をねじ曲げるように、千里がぼくの方に、ぐっと顔をふり向けた。 「それでね、ずっと考えたの、斎木さんが一箇所寄るところって、どこだろうって。昨日、斎木さん、電話してきたでしょう? そのとき野代さんと桑原さんに、わたしが麗子ちゃんが死んだときのことをどういうふうに連絡したのか、訊いたじゃない? そのことを思い出したの。あたり[#「あたり」に傍点]だったでしょう? 斎木さん、今、新前橋病院に寄ってきたんでしょう? 新前橋病院に寄れば、電車に乗るのは新前橋駅に決まってるものね。感激した? わたしの推理」 「今度なにか事件があったら、君を怒らせて捜査に協力させるように、警察に言っておこう」  ふんと鼻で笑って、それから大きく肩で息を吐き、手袋のすき間から出した目で、千里がにたっとウインクをした。 「本当いうとね、ただのまぐれ[#「まぐれ」に傍点]。本当に斎木さんに会えるなんて、思っていなかった。電車の中から斎木さんが見えたときには、わたし、ぜったい自分に超能力があるんだと思った」 「警察へは、やっぱり紹介しておく」  笑いかけて、途中でやめ、ぼくの顔から視線を外し、自分の呼吸の音に聞き入るような顔で、千里がじっと黙り込んだ。 「その、君に、連絡しなかったのは……」 「わかってる……あの、本当はわかってないのかもしれないけど、なんとなく、わかるような気がする」  それからまた、しばらく黙り込み、パンプスの先を軽くゆすって、下を向いたまま、ぼそっと、千里が言った。 「麗子ちゃんには、悪いけど、わたし、なんとなく、もういいなって思う。もういいんじゃないかなって、なんとなくそんなふうに思って……そういうふうに思うのって、やっぱり、いけないことなのかなあ」  ぼくは、煙草の箱から一本を抜き出し、口にくわえ、けっきょくは火をつけずにそれを足下に捨てて、それから、自分の首からマフラーを外し、学生コートの襟からつき出ている千里の華奢《きゃしゃ》な首に、そのマフラーをぐるぐると巻きつけた。 「わたしね、ずっと、わかってた……」と、足をぶらぶらさせながら、マフラーにうずまった口で、千里が言った。「わたしに会うと、斎木さんが麗子ちゃんのことを思い出しちゃうこと。だけど、そういうのって、わたし、どうにもできないもの。わたし、麗子ちゃんのこと好きだったけど、なんとなく今、麗子ちゃんがにくらしい……そういうふうに思うの、やっぱり、いけないのかなあ」  利根川の方向から、列車の響きが聞こえ、それが轟音《ごうおん》と突風を巻き起こしながら、一気に目の前のホームに滑り込んできた。 「電話を、するつもりだった」 「え?」 「東京から君に、電話をするつもりだった」  千里がもぞもぞと肩を押しつけ、左の耳を、躰ごとぼくの顎の下に、ぺたんとつきつけた。 「なんて、言ったのよ?」 「だからさ、時間をかけて、覚悟を決めて、それから君に、電話をするつもりだった」  上野行きの急行列車が止まりきり、突風と轟音が、嘘のようにすーっと退《ひ》いていった。 「覚悟くらい、すぐ決めてよね」と、立ち上がったぼくに、自分も立ち上がって、千里が言った。「わたしには、すぐ覚悟をしろっていじめたくせに……」 「見かけよりはぼく、気が弱くてさ。大事なことを決めるには、ちゃんと考えて、気持ちを整理する時間が必要なんだ」 「そんな時間は、ないの。不良のくせに男らしくないじゃない?」 「だから、不良だから、君に交番につき出されるのが、怖かった」  千里が、マフラーの下からぴょんと首をのばし、頬をふくらませて、ぼくの胸を拳骨で、こつんと叩いた。 「交番のこと、誰に聞いたのよ?」 「有名な話さ。前橋のやつなら、誰でも知ってる」 「あんなの、たったの三回だけなんだから。それもしつこくしてきたやつだけなんだから」 「四人めにならなくて、運が良かった」  ベルが鳴り、バッグを担いで、開いているドアから、ぼくが急いで電車の中にすべり込んだ。 「マフラー……」と、ホームから電車の中に顔をつっ込んで、上目づかいに、千里が言った。 「君がしてるといい、このつぎに会うまで。このつぎ、もし会ってもらえれば」 「わたし、麗子ちゃんに、似ていないわよね?」 「似ていたら、麗子さんに失礼だったろうな」 「どういう意味よ?」 「似ていなくて良かった、そういう意味。麗子さんも怖い人だったけど、君ほどではなかった」  ドアが閉まりはじめ、千里が躰を引き、その瞬間なにか風のようなものが巻きおこって、千里が飛ばした春の匂いが、ぴゅーっとぼくの顔に吹きつけてきた。 「斎木さんて、ほーんと、ぜったい不良だと思う」 「ずっと数えてたんだ。君がそれを言うのは、これで六回めだ」  ドアが閉まり、動きだした電車を二、三歩追ってきて、なにか手をばたばたやりながら、千里がホームに並んでいるベンチの上に、ぴょんと飛びのった。それから千里は、マフラーに半分以上顔をうずめたまま、目いっぱい背伸びをして、いーっとあかんべえ[#「あかんべえ」に傍点]をした。 [#改ページ] 単行本 一九九〇年一月 文藝春秋刊 底本 文春文庫 一九九三年五月八日 第一刷