楽園 樋口有介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)椰子《やし》の葉影をかすめて |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)トタン板囲いの椰子の葉|葺《ぶ》きで、 ------------------------------------------------------- [#ここから7字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  絵葉書のような空と雲の間から、椰子《やし》の葉影をかすめて鉛色のB727が沈み込んでくる。水平線の豊満な雲が雨季の気配を感じさせる。東経一四五度、北緯五度。ほとんど赤道の真下だから、雨季と乾季にたいした差があるわけではない。六月から十月まで、それ以外の月よりも幾らかスコールが多いだけのことだ。  コーラルサンドで舗装した滑走路に、旧式の小型ジェット機が曲芸のようにランディングする。乾いた雑草の原に重い砂埃《すなぼこり》が舞いあがる。金網で仕切られた飛行場の敷地に、赤いブーゲンビリアが咳《せ》き込むほどの勢いで咲き競う。週に二便、ヤップ島との間を往復する飛行機が唯一の国際線で、グアムやオーストラリアから直接ズッグ共和国に乗り入れる便はない。飛行場自体が旧日本軍の使用していた滑走路を無理やり延長させたもので、雨でも降ればコーラルサンドの簡易舗装は鏡のように滑ってしまう。これまでエルロワ島にある『ズック国際空港』で事故が起こらなかった理由は、奇跡や神の加護よりも、離着陸する航空機の絶対数が少ないだけのことだった。それでもなにを勘違いするのか、アメリカや日本から、月に二、三十人は物好きな観光客がやって来る。  ピーター・スタッドは吸っていたタバコをコンクリートの床に放り、税関の職員に会釈をして、吐き気がするほどの炎天下を滑走路の方向に歩き出した。ベトナム戦争以来グアムだのトラックだの、もう二十年ちかく熱帯暮らしを続けているが、さすが六十をすぎた体力には真昼の日射《ひざ》しが残酷に感じられる。胸と背中に搾れるほどの汗が溜《たま》り、日向《ひなた》に踏み出した瞬間から、額や首筋の汗が音を立てて沸騰する。この日射しで、午後の二時で、気温は四十度に近くなっている。  着陸したB727の周りでは、黒くて小柄な空港職員が黙々と荷の積み卸しを始めている。『空港職員』といってもみな半ズボンに汚れたTシャツを着ているだけで、知らない人間なら旅行者の荷物に群がる追いはぎ[#「追いはぎ」に傍点]と間違える。そういう男たちは旅客の数より多くいて、貨物やトランクをネコ車で押したり肩に担いだり、とにかく人海戦術で税関建物に運んでいく。労賃がガソリン代よりも安い国情では、荷物運びも一種の基幹産業なのだ。この職にありつくのにさえ、サントス大統領やその一族に、なんらかのコネクションが必要になる。  横腹の昇降ドアが開き、光に目を細めた乗客が閑散と滑走路におり立ってきた。ダイバーらしい日本人が三人混じっているだけで、あとは色黒のミクロネシア人と白人の観光客だ。総勢でも三十人前後。これから二時間の整備点検を済ませ、また同じほどの客を乗せてヤップ島に飛び立っていく。  炎天下を歩き始めた乗客の中に、白いサマースーツを着こんだクリフ・ウインタースの姿を認め、スタッド氏は焦げつく汗を拭《ふ》きながら、気怠《けだる》く歩を進めていった。半年ほど前にハワイのCIA南洋支部で会ったことはあるが、親しく話したわけではなく、たんに顔を知っているという程度の間柄だった。他の乗客がみなTシャツや開襟シャツ姿なのに、ウインタースだけが麻の背広を着込み、きっちりと臙脂《えんじ》色のネクタイをしめている。銀色にちかい金髪は半分ほどに薄く、それでも歳はスタッド氏より二十は若いはずだった。アメリカCIA南洋支部副支部長で、ズッグ共和国現地駐在員のスタッド氏にとっては直属の上司にあたる。こんな海の果てに出向く立場ではないはずだが、点数でも稼いで本部への復帰を狙《ねら》っているのだろう。この平和な島国で余生を送るつもりでいるスタッド氏としては、いずれにしても、心から歓迎したい相手とはいえなかった。 「なるほど。これはまた、思っていた以上の田舎らしい」  冷たく乾いた手でスタッド氏と握手をしてから、人夫たちの歩いていく方向に目を細め、日射しに顔をゆがめながら、ウィンタースが軽く咳《せき》払いをした。人夫や乗客が向かっている税関はトタン板囲いの椰子の葉|葺《ぶ》きで、ハワイなら公衆便所にも使えない建物だ。ゲートには白地に赤いペンキで、『ようこそズッグ共和国へ』と書かれた粗末な看板が掛かっている。ズッグ訛《なまり》のつよいスペイン語まじりの英語が、一応この国の公用語なのだ。第二次大戦中は日本軍にも占領されていたから、人名や固有名詞に日本語が混じることもある。大統領のサントスでさえファーストネームはイチタローで、これは日本人の血を引いているのではなく、イチタロー・サントス大統領が生まれた当時はそういう名前が流行していただけのことだった。 「この飛行機であのパイロットでは、生きてハワイに帰れるか、不安になってくる」と、行列のうしろをスタッド氏と肩を並べて歩きながら、うすい唇を皮肉っぽく歪《ゆが》めて、ウインタースが言った。 「そうですかな。ズッグ便にはミクロネシア航空も腕利きのパイロットを使うはずだが」 「自棄《やけ》を起こして空から飛び降りたんでしょうかね」 「飛び降りた? ほほう、それこそ彼が名パイロットの証拠だ。あなたが生きてハワイに帰れることは、今からわたしが保証して差しあげる」  通常B727の最低滑走距離は、一千八百メートルとされている。それがこのズッグ国際空港では一千六百メートルにも足りないのだ。パイロットは戦闘機乗りあがりのベテランで、逆噴射をつかって無理やり狭い滑走路に舞い降りる。『落ちた』のではなく『飛び降りた』のなら、スタッド氏の経験からいっても奇跡的なまでに優秀なパイロットだ。ベトナム戦争の経験もなく、ハワイとアメリカ本土をファーストクラスで行き来するだけのエリートに、そんなローカルな理屈が、どこまで通用するものか。  通関ゲートが近づき、野次馬や出迎え人の中から派手なアロハシャツが飛び出して、白い歯を見せながら小走りに駈《か》け寄ってきた。運転手兼雑用係に雇っているマイケル・デチロだった。歳は二十七。訛の強い英語を喋《しゃべ》るが、ズッグ人には珍しく愛想笑いの技術を身に付けている。リモーアという離島から出てきて首都のトポル市で船人足をやっていたところを、雑用係として拾いあげたのだ。スタッド氏の対外的身分は酒やタバコの雑貨輸入商で、デチロの仕事はその表向きの範囲に限られている。ズッグ共和国に暮らした五年間、CIAが関与するほどの事件が起こったことはなく、日々の暮らしの中で自分が現地駐在員であることなど、スタッド氏でさえ忘れることのほうが多かった。 「ああ、スタッドさん。表にクルマを回すけんど、お客さんの荷物はどこだんべかねえ」  勝手にゲートを出たり入ったり、国際空港の通関としてはずいぶん鷹揚《おうよう》な管理だが、国民にとっては週に二便飛んでくる飛行機見物は、大きな娯楽なのだ。コプラの輸出以外に産業もないズック共和国において、テロや国際紛争など、完璧《かんぺき》なまでに無縁な出来事だった。 「ミスターウインタース。アタッシェケースの他に、荷物はお持ちですかな」 「トランクが一つだけですがね。さっき裸足の子供が担いでいった」  スタッド氏がゲートのほうに目をやると、他の乗客は手荷物と機内荷物を抱えて行列をつくり、税関検査の順番を声もなく待っているところだった。手前の日向にはベージュ色のトランクが一つ、溶けるほどの日射しを受けて黙然と鎮座している。取り残されている荷物は一つだけだから、それがウインタースのトランクなのだろう。 「マイケル。先にあのトランクを運んで、クルマに積んでおけ」と、ウインタースの視線を確認してから、トランクに顎《あご》をしゃくって、スタッド氏が言った。  デチロが敬礼をして荷物のほうに駈けていき、金色の空を一瞥《いちべつ》してから、ウインタースを促してスタッド氏は税関ゲートに歩いていった。 「パスポートをお貸しくださらんか。これでも一応は、独立した共和国ですからな」 「ミスタースタッド。先ほどの現地人に、私のことはどう説明しています?」 「友人というだけですよ。それ以外のことは話しておりません。わたしがお役所[#「お役所」に傍点]に協力していることさえ、この国ではだれも知らんことです」 「私の身分はホテル会社の重役ということでお願いします。用地の視察に来たとか、なんとかね」 「視察兼観光と、まあ、そんなところでしょうかな」  ウインタースからパスポートを受け取って、スタッド氏は列の最前部に回り、制服を着た女性職員に「やあ」と声をかけた。入国審査と通関手続きだけは共産圏並みの時間をかける習慣になっていて、列のうしろに並んだら、これから一時間も待たされてしまう。 「ミスハナコ。最近ビヤホールで親父さんの顔を見かけんようだが、元気にしてるかね」 「はあねえ、山さ豚殺しん行って、足を怪我《けが》してまったがね」 「足の怪我か。そいつはまたご苦労なことだ。ところでわたしの友人なんだが、しばらくこの国を観光したいということでな、一つよろしく頼むよ」  ミスハナコと呼ばれた女子職員は、ちょうど日本人観光客のパスポート検査をしているところだったが、途中で手を止め、スタッド氏から受け取ったウインタースのパスポートに、呆気《あっけ》なく『滞在許可一ヵ月』のスタンプを押してよこした。スタッド氏が国家的重要人物だからではなく、たんに顔見知りだから、というだけのことだ。それなら一般旅客のチェックをなぜここまで丹念に実行するのか、職員自身にも理由は分かっていない。一つだけ明確なことは、一九七九年にイギリスから独立して以来、それがズッグ国際空港における習慣だということだった。  トランクは先にデチロが運び出しているし、通関手続きも完了したし、群がる野次馬と熱気を掻《か》きわけて、スタッド氏はウインタースを外に連れ出した。建物の外は未舗装の石ころ道で、熱帯を象徴する椰子の木と南洋杉が見渡すかぎりの空に広がっている。空港に集まる旅客や見物人を当て込んで、今日も椰子の実ジュース売りが屋台を開いている。金網のフェンスに顔を押しつけて表情もなく飛行機に見入る男や、民宿の客引きや貝殻細工売りが無秩序にたむろする。ハワイよりも湿度が高いせいか、ウインタースも上着を脱いで、顔をしかめながら首に大判のハンカチをあてがっていた。 「ミスタースタッド。両替所が見当たりませんね。この国の通貨はズッグポンドのはずだが」 「公式には、ということですな。実際には米ドルしか通用しませんよ。ズッグポンド紙幣なんぞ、印刷する費用が無駄だということでしょう」  ウインタースがスタッド氏に『ミスター』をつけるのは、年齢差に配慮しているだけのことで、人物そのものに敬意を表しているわけではない。それぐらいのことはスタッド氏だって了解している。お互いに『ミスター』と呼び合ったままウインタースが帰国してくれることを、スタッド氏は心|密《ひそ》かに願っている。戦友のエド・ビーンズから『B・P・C(ビッグ・パシフィック・カンパニー)』という雑貨輸入業を引き継いだとき、ついでにCIAの現地駐在員も引き継いだだけのことなのだ。国のために働くなどという発想は、ベトナム戦争以降すっかり放棄している。アメリカ本土に帰る野心もなければ、別れた細君や息子のケビンに会いたいとも思わない。魚釣りとビール以外に楽しみのない生活ではあるが、あふれる光とあふれる平和があれば、この無為な余生というやつもなんとか乗り切れる気がするのだった。  白いワゴン車が人間を蹴《け》散らしながら近づき、気楽な警笛が二度、甲高く鳴り渡った。デチロにしてみれば文明の象徴であるクラクションを鳴らしてみせることも、スタッド氏とその客に対するサービスのつもりなのだ。  スタッド氏がウインタースに後部座席のドアを開けてやり、自分は助手席に乗り込んで、排気ガスをまき散らしながらフェリポートに向かい始めた。ズッグ共和国の首都であるトポル市は対岸のズッグ島にあって、たかだか一キロの海峡もクルマはフェリーに乗せなくてはならない。歴史的には空港のあるエルロア島がズック諸島の中心だった時代もあったが、第二次大戦後、日本文化の痕跡《こんせき》を嫌ったイギリスが行政庁をズッグ島のトポル市に移してしまったのだ。東カロリン群島諸国がミクロネシア連邦として独立した際、ズッグ共和国だけが連邦に参加しなかったことは、一応サントス大統領に先見の明があったことになる。ヤップやポナペなどは経済援助と引換えに軍事、外交権をアメリカに売り渡した。しかし太平洋を軍事的に完全制圧したいアメリカにとって、連邦に参加しなかったズッグにも経済支援を怠るわけにはいかなかった。年間国家予算一千万ドルのうち、約六割はアメリカから無償援助を引き出していて、その他二割が周辺海域に入漁する外国漁船からの漁業権料。そして残りが、コプラの輸出代金ということになる。 「マイケル。アメリカのお客が乗るときは、クルマのクーラーを弱くしろと言ったろう」  愛想はいいのだが、せっかく強力なカークーラーを制限する理由が、デチロにはどうにも理解できないらしい。適度という感覚は飽和状況での選択肢で、灼熱《しゃくねつ》と欠乏の慢性下で中庸を期待するのは、白人であるスタッド氏の傲慢《ごうまん》というものだ。 「へええ、そうかね。お客さんが暑かんべえと思って、涼しくしといたんだけんどよう」  それがデチロの口答えではなく、通常の意見陳述であることは分かっている。それでもウインタースの存在が気になって、やはりスタッド氏の苛立《いらだ》ちは治まらなかった。使用人のしつけに問題ありと判断されては、あとあと輸入商の仕事に支障を来さないとも限らない。ウインタースがどこまで寛容な性格であるのか、スタッド氏にも判断は付いていないのだ。 「そいでよう、なんだいねえ、お客さん、どれっくれえ泊まるんかいね」 「一週間か一ヵ月か、状況次第さ。それよりマイケル、タントラー大臣の家に、ビールは納めてきたのか」 「はあよ。そいでよう、大臣がソニーの電気|釜《がま》、輸入せい言うとったけんど」 「なんに使うんだ」 「知らんがね。電気の鍋《なべ》みてえなもんらしいよ。ソニーならそういうもんも作ってるんべと」 「ソニーの電気釜、か。よく分からんが、さっそくカタログを調べにゃならんな。電気の鍋ならアメリカ製のほうが優秀なのに、あの大臣にも困ったもんだ」 「ミスタースタッド。あそこに立っている妙な男は、どういうつもりなんだ」  ウインタースが座席から肩を乗り出し、禿《は》げあがった額に太い皺《しわ》を寄せて、ぐずっと鼻を鳴らした。  ハイビスカスと野生バナナが点在する石ころ道に、アキカン・ラーソンがたたずんでいて、プラカードを掲げながら深い色の目でワゴン車を見つめている。プラカードには『アメリカ人は帰れ。日本人も出ていけ』と簡単な英語が書かれている。ラーソンが身に着けているのは、スンという土着衣装で、ふんどしに椰子の葉で編んだ腰蓑《こしみの》を巻き、植物の繊維を細工したブレスレットと冠《かんむり》のような物を付けている。ズッグ諸島も僻地《へきち》なら年寄りがこの衣装を着ていないこともないが、トポル市や空港周辺では、まず見かけない風景だった。 「珍しくはないでしょう。ハワイの空港でも観光客を、ああいう衣装で迎えることがある」 「それはそうだが、ハワイではハイビスカスのレイで歓迎しますよ。あのプラカードはどういう意味なんです」 「読んで字の如しと、そういうことですな」 「冗談ではない。反日感情のほうは当然としても、アメリカが恨まれる筋はないはずだ。こんなくそ[#「くそ」に傍点]の役にもたたん国に、我がアメリカ政府は年間なん百万ドルもの無償援助を与えている」 「国への援助が国民への援助にまわらんことは、よくあることです」 「ミスタースタッド。あなたはアメリカ政府の外交方針に、不満でもお持ちなのかね」  シートに背中を戻し、通りすぎたアキカン・ラーソンの姿を透かすように、ウインタースが首をうしろに振り向けた。灰色の目に激しい感情は窺《うかが》えないが、口の形にはまだ粘着質らしい傲慢さが残っている。 「まあ、なんですな。わたしが申しあげたのは、いわゆる一般論というやつですよ」 「いずれにしても、国家には外交トラブルを未然に防ぐ義務がある」 「たかがプラカードです。人口四千八百人の独立国ですから、一人ぐらい変わり者もおるでしょう」 「そういう変わり者を排除することも、政府の仕事なんだがね」  ハワイからヤップ経由の長旅で、ウインタースが疲れていることも確かだろう。予想外の未開国に熱意が空回りしていることも、想像はつく。しかし所詮《しょせん》は、現地人が一人、声もなく道端にたたずんでいるだけのことではないか。ベトナム戦争当時は同胞であるアメリカ人でさえ、反戦のプラカードを掲げてホワイトハウスに押しかけた。帰国したスタッド氏や戦友に対して、犯罪者扱いをする平和主義者もいた。大航海時代以降、白人や日本人に蹂躙《じゅうりん》されてきた太平洋諸島民の中に、反米や反日の感情が残っているのは当然のことなのだ。  道が開け、フェリポートの湾が視界に広がったとき、クルマのフロントガラスに、突然大粒の雨が降りかかった。晴れあがった湾の対岸にはズッグ島も見渡せるから、スコールの雨雲はクルマの背後から襲ってきたのだろう。ハイビスカスやソテツの風景が、もう滝のような雨粒に飲み込まれている。乾いた雷鳴がとどろき、ズッグ島の島影に青い稲光が走る。  ハンドルにしがみつき、フロントガラスに額を押しつけながら、デチロが蝉《せみ》の声に似た歓声をあげた。出身地のリモーアは泉のない珊瑚《さんご》島で、生活用水のすべてを天水に頼っているという。トポル市で暮らすようになった今も、躰《からだ》の中に条件反射的な喜びが湧《わ》きあがるのだろう。 「なあスタッドさん。このスコールがビールかコーラなら、おいら今ごろ大金持ちだんべえになあ」  スコールがビールかコーラであったら、他の人間だってデチロから買いはしないのだ。そういう複式簿記的な発想は、ズッグ人にとって無縁なものだった。どちらにしてもスコールは五分でやみ、雲が去ったあとはまた灼熱の太陽と、むなしいほどの青空が顔を出す。 「だけんどよう。ビールもコーラも、飲むんより瓶へ詰めるほうが厄介だいなあ。おいら金も欲しいけんど、あんなもん瓶に詰める仕事は真っ平だ」  滝のような降雨の中に、簡単な桟橋を渡したフェリポートが現れる。小型の船が飛沫《ひまつ》を飛ばして雨に打たれている。スコールを楽しむように、前方を現地人のカヌーがなん艘《そう》も湾を渡っていく。横転したところで沈む心配はなく、それにどうせ、ズッグ島に着くまでにはスコールもあがってしまうのだ。 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  波のないズッグ湾が、嘘《うそ》のように晴れあがってエルロア島までつづいている。五階に取ったホテル『ベイ・イン』の部屋からは、遠く空港の森まで見渡せる。ズッグ島側の港には漁船や貨物船が停泊し、その間を小型のアウトリガーカヌーが悠然と行き来する。湾の出口に近く、珊瑚礁の海が狭まった辺りに鉄骨とコンクリートの骨組みが霞《かす》んで見える。日本のODAによる架橋工事がつづいているのだ。ズッグ島とエルロア島が橋で結ばれたら、トポル市から空港まで十分もかからなくなる。恩恵にあずかるのは一握りの人間だが、空港の整備|如何《いかん》では観光客も増えるだろう。ミクロネシア圏で唯一開発の遅れていたズッグ共和国にも、時代はこういう形で押し寄せる。 「橋を架けたりダムを造ったり、日本人というのは無駄なことしかしない連中だ」  バスローブのポケットに片手を入れ、グラスのビールを飲み干して、窓の外を透かしながら、クリフ・ウインタースが低く咳払いをした。  スタッド氏は離れたソファに腰かけ、やはりビールを飲んでいたが、ポケットのタバコに火をつけていいものか、ぼんやりと迷っていた。空港で会ったときからウインタースはタバコを取り出さず、印象からも愛煙家のようには見えなかった。 「しかし、なんですなあ、副支部長のあなたがお見えになるほどの事件とは、思えませんがなあ」 「蟻の一穴ということもありますよ。その漁船がズッグに向かっていたことは間違いない。プラスチック爆弾が一キロもあれば、小さなビルぐらい簡単に吹き飛ばせる」 「ズッグに向かっていたとしても、ここが最終目的地だったとは限らんでしょう。食料の補給とか、中継だけとか」 「中継ならどこへ行くつもりだったのか。誰が関与しているのか。爆弾の使用目的はなんだったのか。それを調べるために我がCIAは駐在員を置いているのです。それに私の勘では、最終日的地自体が、この国であった気がする」  ウインタースに言われなくとも、二十年間の兵隊経験で、CIAがシベリアや南極基地にまでエージェントを送り込んでいることぐらい、スタッド氏だって了解している。プラスチック爆弾一キロの破壊力がどれほどのものか、ウインタースよりも詳しいだろう。オロール諸島沖で座礁した台湾漁船が、なぜプラスチック爆弾なんか積んでいたのか。なぜズッグ共和国へ向かっていたのか。不可解な事件ではあるが、それではこの島国に、わざわざ破壊しなくてはならない、どんな施設があるというのだ。 「船長は溺死《できし》。漁労長は行方《ゆくえ》不明です。生き残った乗り組み員からはなにも聞き出せない。取り調べはつづけているが、爆弾を積み込んだのは、どうも船長一人の判断だったらしい」 「その船長は中国人ですか」 「チンシュウウンという男です。台湾マフィアとの繋《つな》がりは分かりません。まあ私に言わせれば、中国人というのはみんなマフィアみたいなものですがね」  窓の前から戻ってきて、ビールを注《つ》ぎ足し、スタッド氏の顔を見おろしながら、ウインタースが小机に寄りかかった。 「ミスタースタッド。サントス大統領がハワイに別荘を持っていることは、ご存知《ぞんじ》でしたね」と、視線を窓の外に移しながら、ウインタースが言った。 「たいそうな邸宅でしたな。ベンツが一台にスポーツカーが二台。テニスコートにプールまで付いておった」 「一国の大統領ですよ。別荘ぐらい持っていて当然だ。それにクルマを飛ばしたくても、この国には道がない」 「援助金やODA資金のうち、なんパーセントが大統領の懐に入るのか……」 「十五パーセントです。それぐらいは支部の職員に計算させている」 「大まかに言っても百万ドル、ですか」 「金額が問題ではないのです。サントス大統領が別荘を持っていることも問題ではない。問題は、彼が膵臓癌《すいぞうがん》を患っているということですよ」  ウインタースの目尻《めじり》が片側にひきつり、禿げあがった額に窓の光が反射して、バスローブの肩が、強く内側にひねられた。 「その事実を、あなた、掴《つか》んでおりましたか」 「いや、そこまでは……」 「別荘にはアメリカ人の医者が出入りしている。その線から突き止めました。部下が調査したところによると、大統領の寿命はよくて半年ということらしい」  サントス大統領が膵臓癌にかかっていて、寿命が半年、か。歳も七十近いはずだから、癌ぐらい患っても不思議ではない。その状況を突き止め、南洋支部に報告するのは、もちろん駐在員であるスタッド氏の仕事だ。しかし自国のセントラル病院がサントス大統領に接触した形跡はないし、病院自体に癌治療の能力があるとも思えない。大統領が国内で治療を受けない限り、医者や病院からスタッド氏が事実を突き止める術はない。ウインタースはスタッド氏の仕事ぶりを非難したいらしいが、ハワイで調べたことを現地に報告することだって、支部としての義務ではないか。 「大統領の病気は知らなかったが、それと爆弾と、なんの関係があるんです」 「ものの道理ですよ。大統領が死ねば後継者争いが起こる。そこにプラスチック爆弾が持ち込まれるとしたら、この国の政情に関心を持たざるをえない。太平洋地域の安定は、直接アメリカ本土の安定につながるのです」 「ロシアかイランがズッグ共和国に攻め込んでくる、と?」 「ミスタースタッド。私はあなたの冗談を聞きに来たのではありません。庭先に泥棒や浮浪者がたむろしたら、どこの家でも気分は悪いでしょう。ゴミは片付けるより、出さない努力が必要なのです」  自分の台詞《せりふ》が気に入ったのか、ウインタースがにんまりとウインクをし、顎を聳《そび》やかしながら、掌で軽く髪を撫《な》でつけた。ロシアやイランが大袈裟《おおげさ》だというなら、それではいったい、ウインタースはなにを騒いでいるのだ。国民の十人に一人は公務員で、それがすべてサントス一派で占められている国だ。後継者もサントスの身内から出るに決まっている。共産主義者なんか見たこともないし、サントス一族に対抗する勢力もない。産業も技術も何もないこんな島国に、アメリカ以外の、どこの国が興味を示すというのか。 「空港からの途中で見かけた、あの奇妙な男ですがね」と、ソファのまん中に座り、脚を組んで、ウインタースが言った。「ああいう輩《やから》はどうも気にくわない。破壊分子やテロリストは、まずあの類《たぐ》いの人間に目をつける」  本当かね、とは思ったが、そういう幻想を信じたからこそ、ウインタースはやって来たのだ。スタッド氏としては表情や言葉に、その疑念を表すわけにはいかなかった。サントス大統領の病気を見逃したのは、一応、自分の側の失点なのだ。 「アキカン・ラーソンという男で、周りのものも変人扱いしています。プラカードを持って道に立つだけですから、実害はありませんよ」 「しかしミスタースタッド、あの男が反米思想の持ち主であることには、変わりないでしょう。反米主義者ということは、つまりは反自由主義体制主義者ということです。それにあの衣装からすると、民族主義者でもあるらしい」 「ラーソンは反日主義者でもありますがね」 「そんなことは構わないんだ。アメリカ政府の内部にだって反日主義者はいる。問題はあのラーソンという男が、国内においては反政府主義者だということでしょう。どういう経緯で、彼はああいう行動を起こしているのです」 「反日感情のほうは、たぶん、名前のせいでしょうな」 「名前?」 「アキカンというのは日本語で、『中身のない空っぽの缶』ということです。戦争中この辺りに住んでいた日本人が、面白がってそんな名前をつけてしまった」 「今も昔も、日本人というのは、碌《ろく》なことをしない民族だ」 「もともとラーソンの家は、テワイ島という離れ小島にあったようです。その島から燐《りん》鉱石が出たもんで、イギリス人が島民全員を追い出した」 「ズッグだけミクロネシア連邦に参加しない理由となった、例の、あの件ですか」 「一九四七年でしたかね。ミクロネシアがアメリカの国連信託統治領になったとき、燐鉱石の権益が絡んでイギリスはズッグを手放さなかった。それが結局、この国が今でも連邦に参加していない原因になっている」  燐鉱石というのは、なん万年もの間堆積をつづけた、海鳥の糞のことだ。薬用にもなるが一般的にはマッチの点火剤として利用される。一種の貴重鉱物であるから、テワイ島の燐鉱石を掘り尽くしていなければ、イギリスもズッグ共和国の独立は認めなかったろう。今のテワイ島は草木も生えない、全面に灰色の地肌が剥《む》き出された、ただの禿げ島に変わってしまった。 「住民感情というのは、どこの地域でも面倒なもんだ」と、ビールのグラスに息を吹きつけて、ウインタースが言った。「しかし分かりませんね。ラーソンという男が恨むのは、アメリカ人ではなくてイギリス人のはずでしょう」 「理屈ではそういうことですがな。しかし現地の人間に、アメリカ人とイギリス人の区別はつきませんよ。連中は白人をすべてアメリカ人だと思い込んでいる」 「未開人というのは、まったく……」  スリッパの音を高く鳴らし、灰色の目を見開いて、ウインタースが激しく鼻を鳴らした。 「誰のおかげで平和に暮らしているのか、世界のボスが誰であるのか、連中には、徹底的に教える必要がある」  ウインタースの言い分も分かるが、同時にこのタイプは、典型的なアメリカ白人でもある。若いころはスタッド氏だって自分の国を自慢に思っていた。アメリカの正義を信じてもいた。だからこそ十八歳で朝鮮戦争に出兵し、以降職業軍人としてベトナム戦争にも参加したのだ。 「ミスタースタッド。この国で反政府主義者が活動していることなど、報告を受けていませんがね」 「ですから、それはですな、最初にも言ったとおり、ラーソンはプラカードを持って立つだけで、ズッグ共和国にもアメリカにも実害はないんですよ」 「私もさっき言いませんでしたか。ゴミは片付けるより、出さない努力が必要だと」 「ミスターウインタース。ラーソンのこととプラスチック爆弾の問題と、本当に関係があるとお思いですかな」 「関わりができてからでは遅いと、私はそう言ってるのです。少なくともこの国は、これまであなたが報告してきたような国ではない。なんの問題もない、ただ平和なだけの楽園ではないと、そういうことですよ」  ウインタースに見つめられて、スタッド氏は視線をはずし、ソファに上体を屈《かが》めながら、残っていたビールをぽいと口に放り込んだ。ウインタースの言い草は気にくわないが、プラスチック爆弾もサントス大統領の病気も、事実であることに変わりはない。スタッド氏としては調査の義務があるし、後々の生活を考えれば、ここは筋の通った報告書を出しておく必要がある。 「ま、お話は分かりました」と、グラスをテーブルに置き、のっそりと立ちあがって、スタッド氏が言った。「なんせこういう島国です。人間が秘密を持つこと自体が難しい。不穏な動きをしておる者がおれば、遠からず判明するでしょうよ」 「ミスタースタッド」  歩き出したスタッド氏に、気取った手つきでビールを注ぎながら、ウインタースが声をかけた。 「私にクルマを手配してくれませんかね。少し国の中を見て回りたい」  ドアに手をかけ、半分だけ外に出てから、大柄な躰《からだ》を揺すって、スタッド氏が部屋の中に向き直った。 「ホテルの支配人に申しつけておきましょう。もっとも、マーケットの前を二キロも歩けばジャングルです。海とココ椰子以外、ご覧になるものがあるとも思えませんがな」  顔をしかめたウインタースに、スタッド氏が会釈をし、ドアを閉めて、ホテルの廊下をゆっくりとエレベータに歩き出した。途中でタバコに火をつけ、不愉快になってきた胃のあたりを、掌でそっとさすりあげる。誰が企《たくら》んだのか知らないが、こんな平和な島にプラスチック爆弾を持ち込もうなどと、ずいぶん面倒なことをしてくれたものだ。それにサントス大統領の寿命が半年ということなら、個人的にも次期大統領を見極め、一日も早く取り入っておく必要はある。これまでの五年間が平和すぎたかなと、タバコの煙を天井に吹きながら、スタッド氏は大きく欠伸《あくび》をした。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ズッグ湾に面して長さ一キロほどの舗装道路があり、途中でT字型に交わった道が島の奥にまでつづいている。ホテルも行政機関もマーケットも、すべてがこのT字路の付近に集中し、トポル市の中心でもあれば、ズッグ共和国自体の中心でもある。ビルのほとんどはイギリス領時代の建物で、補修も改築もされず、熱帯の薄闇《うすやみ》に古色然とした雰囲気を漂わせる。日が暮れたからといって、街灯がともるわけでもない。ビルからの明かりがかろうじて道にこぼれ、その中を夜風に誘われた黒い皮膚が声もなくそぞろ歩く。  湾に面したT字路の先に、赤いネオン看板を出した『ダイアナ』という店がある。昔はイギリス風のパブだったが、今は通称ビヤホールと呼ばれる殺風景なバーに変わってしまった。エアコンとビデオがあり、市民が映画を観られる唯一の場所でもある。ビール一杯が五ドル。通える人間は限られている。それでも雰囲気を味わいたいのか、付近にはいつも若い男がたむろする。  マイケル・デチロは店の奥に座り、冷えたビールをテーブルに置いて、もう飽きるほど観ているブルース・リーのカンフー映画を、漫然と眺めていた。デチロの給料で通える店ではなかったが、これが輸入商ピーター・スタッド氏の手伝いをしている役得というやつだ。つけを請求されたことはないし、経営者のマリア・ラーソンから邪険に扱われた覚えもなかった。 「こういう変な声だしてさあ、やっぱしあたし、日本人は苦手だわ」と、デチロの二の腕を肘《ひじ》で小突いて、鼻を曲げながら、キャスリン・キンスニが言った。 「キャシーよう、ブルース・リーは日本人じゃなくて、中国人なんだぜ」 「だけどさあ、日本人みとな顔してるじゃん」 「日本人みてえな顔してたってよ、中国人と日本人は別な人間さ。中学で習わなかったのかよ」 「習わなかったよ。あたし、中学なんか行ってないもん」 「それじゃ教えてやるけどな、中国っつうのは万里の長城がある国で、日本っつうのは電気釜を発明した国さ。顔は似てても、二つの国はまるで別もんなんだ」  キャスリンがたわわな髪を掻きあげ、横に開いた鼻の頭を、てらりと光らせた。大きい丸い目にアイシャドーを引き、厚い唇にはピンク色の口紅が塗ってある。歳は十六で、コーヒー色の肌に花柄のワンピースがよく似合う。『ダイアナ』に勤めて一ヵ月になるが、デチロと親しく話すのは今夜が初めてだった。  肩をたたかれ、デチロが顔をあげると、背の高いマリア・ラーソンが、褐色の目を見開いて静かにデチロを見おろしていた。肌の色はうすく、鼻は尖《とが》っていて、漆黒の髪を除けば顔立ちには白人の雰囲気がある。マリアに黙って見つめられると、なんとなく、デチロは緊張してしまう。 「マイケル。頼んでおいたライスワイン、まだ入らないの」と、癖のない英語で、マリアが言った。 「来週の船で着くべえよ。スタッドさんの言うにゃ、ハワイでもライスワインは少ねえんだと」 「日本のお客が待っているの。船が入ったらすぐに届けてね」 「世話ねえよ。直接おいらが港からもって来らあ。一緒に新しい映画も入るだんべ」  マリアが肩をすくめて、唇で笑い、冷たい眼差《まなざ》しで、素っ気なくウインクをした。美人だとは思うが、やはりデチロには馴染《なじ》めない美しさだった。 「ああ、それでよう……」と、意識的にテレビの画面に目をやりながら、デチロが言った。「今日の昼間、飛行場で親父さんを見かけた。やっぱし例の、あれ[#「あれ」に傍点]を持っててよう」  マリアの頬が歪んで、肩の髪が胸にたれ、表情のない視線がぎこちなく店の壁に漂った。 「キャスリン、わたしにビールを持ってきてよ。それから他のテーブルも回って、お客の注文を聞いてくるの」  キャスリンが無邪気に立ちあがり、ワンピースの裾《すそ》をひるがえして、踊るように厨房《ちゅうぼう》へ歩いていった。 「今日は飛行機が来る日だったわね」と、デチロのとなりに座り、鼻で溜息《ためいき》をついて、マリアが言った。「親父、また昔の衣装を着ていたの」 「スンを着て、プラカード持ってよう。スタッドさんの友達を怒らしちまったよ。おいらやっぱし、あれはまずいと思うなあ」  マリアが長く息を吐き、胸の前で腕を組みながら、ちっと舌打ちをした。褐色の目に怒りの陰が浮かんで、思わずデチロは恐縮する。 「スタッドさんは気にしねえけどよ。アメリカ人の友達ってのが、気難しそうな人でなあ」 「どうせ椰子酒を飲んで酔っぱらっていたのよ。あのばか親父、だれか殺してくれないかしらね」 「滅相もねえ。そりゃあよ、スタッドさんはいい人だけんど、おいらだってアメリカ人は好きじゃねえもんさ」  キャスリンがビールを運んできて、テーブルに置き、鼻唄《はなうた》を歌いながら、またワンピースをひるがえしていった。 「困ったものだわ。親ならわたしの立場を、考えてくれればいいのにね」  デチロのグラスにビールを注ぎ足し、自分のグラスにも注いで、マリアがテーブルに肘をかける。 「親父が目立つと商売がやりにくくなるの。スタッドさんにも迷惑がかかるし」 「スタッドさんは、そういうことは、気にしねえと思うぜ」 「友達というのはどういう人なの」 「なんだかなあ。偉そうな喋り方する人で、いい感じじゃなかったよ」 「スタッドさんに友達が来るなんて、珍しいじゃない」 「なあ。そういえばおいらが雇われてから、初めてだいね」 「仕事の関係?」 「ホテルをやってるとかで、この島を視察するんだと」 「リゾートホテルかしら」 「そうだんべなあ。橋ができりゃあよ、どうせアメリカ人や日本人が、押しかけるだんべしなあ」  マリアがグラスをかたむけ、他の客を見まわしながら、肉のうすい手で静かに頬杖をついた。肩の出たロングドレスは胸元が大きく開き、首には細い金のネックレスが光っている。母親はイギリス人との混血だったというから、その血を強く引いているのだろう。デチロより歳上ではあるが、まだ三十にはなっていない。『ダイアナ』に通いつめる客の多くは、もちろんマリアが目当てでもある。  店にスーサン・タンジェロが入ってきて、遠くの席に座り、マリアがデチロに会釈をしてから、グラスを持ってそのほうに歩いていった。ハイヒールを履きなれた、腰の高い優雅な歩き方だった。  デチロはひっそりと口笛を吹き、ビールのグラスをなめて、あらためて店の中を見渡してみた。古いマホガニーのテーブルが雑然と散らばり、その中央に狭い踊り場がある。カウンターの向こうが厨房で、フランス料理でもハンバーガーでも、注文すればそれらしい料理は出せるようになっている。『清潔な料理』はホテルのレストランと『ダイアナ』だけ、というのが観光客間の定説なのだ。今いる客もほとんどが白人で、ズッグ人の客は文部大臣のスーサン・タンジェロと、中央銀行総裁のケント・ウニススだけだった。 「さっきの話だけどさあ」と、戻ってきて、椅子に浅く腰をのせ、丸い目を秘密っぽく光らせながら、キャスリンが言った。「あんたさあ、本当にあたしのこと、ドライブに連れてってくれるん?」 「嘘なんか言わねえよ」と、ビールを口に運びながら、横目でタンジェロのテーブルを眺めて、デチロが答えた。 「あたしね、子供のころ、一度だけコプラを集めるトラックに乗ったことがあんの。あのころはまだ島の椰子が売れたんよねえ」 「おめえ、どこの島だと言ったっけ」 「ヘブテン」 「テワイの近くか」 「テワイならカヌーで三十分。あんな島、もう誰も行かないけどね」 「子供んときおいら、親父のカヌーでテワイに行った気がする。魚でも取りに行ったんかなあ」 「そんなことよりさ。ドライブ、いつ連れてってくれんのよ」 「昼間はだめだ。仕事があるからよ。夜ならいつでもかまわねえけんど」  クルマで走るといっても、周囲が二十キロもない小島のことだ。石ころ道を一時間も行けば、一周してトポル市に戻ってきてしまう。夜はフェリーも止まるから、空港のあるエルロア島には渡れない。 「スタッドさんにめっかって、怒られない?」と、唇の間から、白い大粒の歯をむき出して、キャスリンが言った。 「世話ねえよ。おいら信用があるんだ。スタッドさんは怒らねえ。アメリカ人にしちゃ肝《きも》のふてえ人さ」 「あたしのほうは今夜だっていいよ。店も十二時には終わる」 「それじゃよ、十二時んなったら迎えに来てやらあ。店の前っつうわけにもいかねえから、桟橋にでも出ていろや」  キャスリンが肩をすくめて、デチロの顔を覗き込み、ワンピースの膝《ひざ》に掌をこすりつけながら、大きく口を笑わせた。目は大きいし歯並びもいいし、ズッグ人としては美人の部類に入る。他に二人いるホステスも、採用基準は当然ながら、容姿ということだ。  ビールを飲み干してから、指の先でグラスを弾《はじ》き、汚れたスニーカーを床に滑らせて、デチロが小さく欠伸をした。 「なあキャシー。タンジェロさん、最近よく来るんかい」 「最近って?」 「最近は最近だんべ。おめえだって勤めて一ヵ月じゃねえか」 「そういうことならさあ。けっこう来てると思うけど、それがどうしたんよ」 「なんだかなあ。マリアさんと仲がよさそうだけんど、あの人、堅くて有名なんだ」  真偽のほどは分からないが、マリアには大蔵大臣のジョージ・サントスと深い関係だ、という噂《うわさ》がある。ジョージ・サントスはイチタロー・サントス大統領の長男で、もちろんこの国の実力者だ。マリア目当てに通う客も、その噂を憚《はばか》ってか、実際には誰も手を出そうとしない。堅物で有名なスーサン・タンジェロが、どこまでその噂を知っているのか。 「世話ねえか……おいらには関係ねえもんな」と、一人ごとを言って、立ちあがり、キャスリンに目配せをしながら、デチロがにやっと歯をむき出した。「それじゃキャシー。おいら一眠りしてくらあ。あとで迎えに来るからよ。他の女の子には内緒だぜ」  キャスリンが目を丸くしてうなずき、開いた髪を指で束ねて、ひゅっと口を尖らせた。フロアにはタバコの煙が渦を巻き、ブルース・リーが一人だけ、誰も観ていないテレビから疳《かん》高い叫声《きょうせい》を張りあげる。  店に商社員のカズマサ・ナカガワが入って来て、キャスリンとマリアが席を立つ。そのマリアに手を振り、肩でリズムを取りながら、デチロもドアのほうに歩きだした。これから倉庫の二階に帰って、シャワーを浴びて、一眠りしてから桟橋に戻る。こんなときは気の乗らないドライブだって気晴らしにはなるだろう。『ダイアナ』に通いはじめたタンジェロも、今日スタッド氏のところへ来た客も、なんだか知らないが、デチロには気にくわなかったのだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  T字路から二百メートルほど内陸に入った辺り。街路には似合わない、派手な照明がこぼれ出している。近くの市場は光を落としているが、野菜くずと魚臭の中に石油ランプの屋台店が幻覚のように点在する。顔も見えない明かりの中で、小柄で色の黒い男たちが口数少なく椰子酒をくみ交わす。  店内から流れる照明をとり巻いて、歩道の端に十人ほどの若者がうずくまっている。ビールの缶を手にしている者や、膝の間に椰子酒の瓶を挟んでいる者もいる。男も女も薄いゴムサンダルばきで、中には上半身をむき出しにした痩《や》せた男もいる。歌をうたうわけでもなく、話をするわけでもない。安いタバコを吸いながら、男たちはひたすらスーパーマーケットを見物する。たまに観光客や金持ちが出入りすると、少しの間会話が交わされる。だれがなにを買ったか、話がそれ以上に発展することはない。店の商品はどれも自分たちには無縁のもので、ビールやタバコでさえ市場で買う倍の値段がついている。扇風機を買ったところで、ほとんどの家に電気は引かれていない。ショーウインドゥにはテレビが一台飾られているが、それはこのスーパーマーケットが文明を象徴しているという意味でしかない。テレビ局はないし、グアム島からの電波もズッグまでは届かないのだ。  島で唯一のスーパーマーケット『トロピカル』の店内では、蛍光灯の光の中、外の若者より幾らかきれいなシャツを着た二人の少女が、レジのまわりを手持ち無沙汰《ぶさた》にうろついている。給料は月給換算で十五ドル。朝早くから荷物運びと掃除と商品点検をさせられる。売上げが合わないとその場で馘首《くび》にもなる。マルカネ・ザワオが店員を雇う基準は、盗みをしないこと、レジの操作を早く覚えること、自分に逆らわないことの三つだけだった。  腰ガラスのはまったドアの向こう側、店内をすべて見渡せる位置に、マルカネ・ザワオの仕事机が置かれている。壁にはサントス大統領の肖像写真と、ザワオ自身がハワイ州知事と握手をしている写真が尊大に並んでいる。小太りの怒り肩。太くて短い指にダイアの指輪をはめ、腕には金張りのロレックスを光らせる。 「ムンダニの村で嫁取りがありましてのう」と、スタッド氏が持ってきた手土産のブランデーを横目で盗み見ながら、ザワオが言った。「顔を出せばただでは済まんし、この国も住みにくくなりましたがよ」 「名士というのも苦労の多い商売ですな。いや、ちょいとお願いがあって、昼間からあなたを探しておったのです」  スタッド氏がザワオを探していた理由は、ザワオがホテル『ベイ・イン』の支配人でもあり、その経済力でサントス政権内部にも顔がきく、という事情からだ。この国では政府調達物資も米も石油もほとんどをザワオが取りしきっている。ズッグ共和国における商才は賄賂《わいろ》やコネクションと同義語でもある。独立以前はサントスの使用人だったというから、その縁で政権との繋がりが出来たのだろう。 「今日わたしの友人がズッグに着きましてな。『ベイ・イン』に部屋を取ったのですが、この男がクルマに乗りたいと言うんですよ。事情を知らない外国人というのは、なんとも勝手なことを言うものです」 「そりゃあスタッドさん、この国にクルマなんぞねえことは、アメリカさんには信じられねえべなあ」 「わたしのクルマは仕事で使うし、ザワオさんなら手配もできるかと思いましてね」 「や、や、突然言われても、わし如きに何ができますかいね」 「ご謙遜《けんそん》なさるな。この国であなたの自由にならんのは、大統領の病気とスコールぐらいのものでしょう」  ザワオが細くて肉のかぶさった目を、きらりと光らせ、唇を歪めて、耳障りな鼻の鳴らし方をした。表情に乏しいズッグ人の中でも、ザワオの黒い肉厚な顔は、必要以上にスタッド氏を困惑させる。自分の台詞にどこまで相手が反応しているのか、表情からはまったく読み取れない。 「で、如何でしょうかな」と、タバコに火をつけてから、出されたコーラで唇を湿らせて、スタッド氏が言った。「大統領のところにあるジープ、あなたのお力で融通してもらえんでしょうかね」 「おめえさん、相変わらず、無理なことを仰有《おっしゃ》らいねえ。大統領んちのジープは国家財産だがよ」 「しかし大統領も、当分ハワイからは戻られんでしょう」 「そうですかいのう。わしは何も聞いておらんがよ」 「こういう雨季の初めはお嫌いなはずだ。いつだったかわたしに、湿度が高くてかなわんと申しておられた」  ザワオが細い目をちらりと壁にやり、足を貧乏揺すりさせながら、太い指で白髪まじりの髪を撫でつけ始めた。思考を巡らしているようにも見えるが、なにも考えていないような顔でもあった。 「わたしの友人はホテルチェーンの重役でしてな」と、ザワオの表情を確認しながら、スタッド氏が言った。「この国に来た理由も、リゾートホテルの建設に適した土地があるかどうか、視察をしたいということなんですよ」  ザワオの厚い怒り肩が、開襟シャツの中で慎重に動き、髪を撫でつけていた指がゆっくりと机に戻ってきた。目蓋の向こうは相変わらず無表情だったが、感情がないわけでもなさそうだった。 「ザワオさんもご承知のとおり、ミクロネシアの中でこの国だけが開発に乗り遅れている。逆にいえば開発される可能性の、最も大きい国ということになりますな」 「ホテルチェーンの重役さん、のう。そのお人がこの島を視察なさりたいとね。なかなか結構なお話ですがよ」 「国家財政にとっても、あなたご自身にとっても、ということですな」 「わしに私欲なんぞありゃせんがね。いつも考えておるんは国家と国民の利益だけだいね」 「わたしの友人にクルマを融通するのは、国家と国民の利益にもつながる。観光客が来れば物が動く。物が動けば金が動く。動いた金がどこへ流れるかは、わたしには見当もつきませんがね」 「動いた金は国民に還元されらあよ。そういうことなら大統領も文句は言わねえべ。ハワイから戻らねえとなりゃ、クルマの件は、まあ、わしに任せておくんだいね」  ザワオがぶ厚い頬をにんまりと歪め、脂《あぶら》の浮いた額を、手の甲で強くこすりあげた。クーラーは寒いほど効いているのに、首筋にはうすく汗がにじんでいる。 「大統領と国民のために、クルマは明日の朝ホテルにまわすがのう」と、ブランデーの瓶を机の引き出しにしまいながら、ザワオが言った。「スタッドさん、さっき、大統領の病気がどうとか、言わんかったかね」 「なんのことですかな」と、タバコの煙を長く天井に吐いて、スタッド氏が答えた。 「わしの自由にならんのは、大統領の病気と、スコールがどうだとか」 「覚えがありませんなあ」 「おめえさん、確かに言ったがよ」 「もし言ったとしたら、それはものの譬《たと》えというやつです」 「譬えのう。わしにゃあんまし、適当な譬えとは思えんなあ」 「お気になさるな。それともなんですか、本当にそういう事実でも、おありですかな」 「滅相もねえ。わしは聞いておらんがよ。この国でわしが知らんことは、現実にもありえねえと、そう了解してもらいてえやね」 「いや、まったく、わたしが言ったのも、実はそういう意味なんですよ」  ザワオの目蓋の厚い目に、もう一度不可解さを確認し、突き出た腹をぽんと叩《たた》いて、スタッド氏が灰皿にタバコを放り込んだ。政治や経済に高度な駆け引きがいる国でもなし、サントスの使用人だった男なら、他にいくらでもいるだろう。どういう経緯でザワオがここまでの権力を獲得したのか、スタッド氏にはやはり理解できなかった。順当にいけば次期大統領は大蔵大臣のジョージ・サントスのはずだが、ひょっとしてこの男も、金の力で大統領の椅子を狙っているのだろうか。 「無理なお願いをして、申しわけありませんでしたな」と、立ちあがって、スタッド氏が言った。「この国にもタクシーの走る時代が、一日も早く来てほしいものです」 「スタッドさんのお力も借りべえよ。お友達のお力も、アメリカ大統領のお力もよ」 「夜分にお邪魔しましたな」 「クルマは任せておきないね。ガソリンの心配もいらねえ。お友達にはわしからも、よろしく言ってくんないね」  会釈をして、腰ガラスのドアを開け、陳列棚のまん中を、スタッド氏はのっそりと歩き出した。腕時計を見るとまだ八時で、いくらなんでも寝るには早すぎる。磯《いそ》に出て夜釣りでもしたいところだが、身辺が慌ただしくなった今日は、そうもいかないだろう。礼儀だからといって、ウインタースを食事に誘う気にもならなかった。  店員の女の子にお愛想のウインクをし、腹をさすりながら、スタッド氏はスーパーマーケットを出た。生暖かい浜風がむっと襲いかかる。となりの市場からは、魚臭と腐ったココ椰子の臭気が強烈に流れてくる。店の前にたむろしていた若者の間にかすかな動揺が湧きおこる。買い物をせずに『トロピカル』から出てきた白人が、それだけで若者たちには珍しかったのだ。  市場の前を百メートルほど奥へ歩き、教会に向かう小道をのぼっていくと、右手側にコンクリートを打った引き込み道が現れる。付近はまったくの無灯で、ブーゲンビリアやバナナの葉影に目眩《めまい》がするほどの星が光っている。夜になってから島内を歩くとき、以前はスタッド氏も懐中電灯を携帯していた。しかし今は、目さえ慣れれば、星明かりだけでも道に迷うことはない。闇の中から突然現れる現地人に驚くことはあっても、彼らが他人に危害を加えることもない。なによりも安心なのは、蛇や蜘蛛《くも》やサソリや、その他有毒の小動物が一切存在しないことだ。  ズッグだけでなく、もともと太平洋諸島に昆虫は少なく、動物も鳥類や海洋性動物以外は棲息《せいそく》していなかった。豚も犬も鶏も猫も、すべて人間が持ち込んだものだ。ズッグ島にいつから人間が住み着いたのか、歴史ははっきりしない。紀元前後に東南アジアから渡ってきたという説もあるし、それより以前にポリネシアから移住してきたという説もある。遺伝子学的には否定されているが、起源を南米のインディオに求める学者もいる。いずれにしてもミクロネシア人は、ハワイやサモアなどのポリネシア人と東南アジア系民族との混血といわれ、顔立ちや皮膚の色を南方のメラネシア人とは異にしている。しかし言語的には太平洋諸島のすべてに共通性があって、この地域が一つの太平洋文化圏であることに間違いはない。  引き込み道を入っていくと、雑草の開けた土地に白いペンキ塗りの家があって、前庭の芝生には屋内からの明かりが盛大に流れ出していた。広くも豪華でもない平屋建ての民家だが、屋根には洒落《しゃれ》た、赤いコンクリート瓦《がわら》が使われている。庭に椰子の木もパンの木もなく、視界の開けた先には間近に暗いズッグ湾が見渡せる。以前はイギリス人の住宅だったものを、独立後に接収して外務大臣のウガウ・タントラーが持ち家にしているのだ。タントラーもサントスの一族で、スタッド氏の記憶では、母方か父方かで大統領の甥《おい》に当たるはずだった。  庭のベンチに上半身裸のタントラーが腰かけていて、玄関にはまわらず、小道から、スタッド氏は直接庭に入っていった。芝生の周りを薔薇《ばら》や温帯性の草花が取り囲んでいるのは、以前ここがイギリス人の住宅だった名残りなのだろう。 「お邪魔しますよ。夕涼みがてら、散歩に出てまいりました」と、大きく躰を揺すったタントラーに、会釈をして、スタッド氏が言った。  タントラーが丸い目を見開き、白い歯を見せて、手|真似《まね》で近くのベンチを指さした。腰をあげないのは礼儀の問題ではなく、瞬間には立ちあがれないほどの、巨体のせいだった。スタッド氏もハワイでコニシキというスモウ・レスラーを見たことがあるが、タントラー大臣は、決してそれより小さいとは言えなかった。 「はあ雨季んなったみとで、いい塩梅《あんばい》だいねえ」と、小山のように盛りあがった胸の肉を、掌でぺたぺた叩きながら、タントラーが言った。「早くにゃビールも届けてもらって、いつもご苦労さんよう」 「なんの。ビールに関しては『ダイアナ』より大臣のほうがお得意様です。そのうちビール会社から感謝状が届きますよ」  威勢よくふくらんだ頬で、控えめに笑い、肩を揺すって、タントラーが家の中をふり返った。板の間のリビングには呆《あき》れるほどの子供が座り込んでいて、テレビのディズニーアニメに見入っている。テレビにビデオにクーラーに冷蔵庫。それに洗濯機もあるはずだから、狭い家とはいえ、この国では最上等の暮らしぶりなのだ。  子供たちをかき分けて、奥から小柄なタントラー夫人が現れ、微笑《ほほえ》みながら、テーブルに黙ってビールの瓶を置いていった。テーブルにはタロ芋《いも》と煮込んだバナナの鉢が鎮座し、皿には蒸し焼きにした鯛《たい》や鰹《かつお》が五匹ほど、大盛りに並べられていた。  タントラーがビールを一本、スタッド氏の前に置き、ベンチを軋《きし》らせて、ぐわっと息を吸い込んだ。 「まあ一杯やんないね。よかったら芋も魚も食ってくんな。わしも話し相手が欲しいところだったよ」 「子供さんたち、あのマンガがずいぶん気に入ったようですな」と、ビールに手を伸ばし、瓶を目の高さに掲げて、スタッド氏が言った。 「勉強もしねえで弱ったもんだよ。はあ一週間も、毎日おんなしマンガばっか見てやがる」 「来週には新しいテープも入るでしょう。そのときはまたデチロに届けさせます」 「どうせなら日本のマンガがいいやなあ。うちの子供は日本の大学にやろうと思うからよ」 「アメリカ本土かハワイではないんですか」 「スタッドさんにゃ悪《わり》いが、アメリカはもう駄目だんべ。人種問題を解決しておかなかったんが、あの国の命取りだったよ」  小山のような体躯《たいく》と、無頓着《むとんちゃく》な表情に似合わず、タントラーには意外に事情通の面がある。外務大臣という立場もあるだろうが、一週間分のテレビニュースをハワイから取り寄せてもいる。スタッド氏が輸入する映画とそのニュースビデオを交換することが、もう二年来の習慣にもなっているのだ。 「日本にも一時の勢いはないと思いますがね。経済はどこの国でも頭打ちですよ」 「経済だけじゃねえんだ。こないだ犯罪統計ってのを見たんだがね。アメリカは日本の百倍だよ。殺人だけでも五十倍だ。そんな国に子供を留学させるわけにゃいかねえだんべ」  自国を非難されて、スタッド氏にしても面白いはずはなかったが、アメリカがいつの間にか人間の住む国でなくなった事実は、素直に認めざるを得なかった。経済の破綻《はたん》も凶悪犯罪の日常化も、禍根はたしかに人種問題にある。もともと白人がインディオの土地を略奪したところから始まった国だから、黒人や有色人種を排除することは、論理的に不可能なのだ。移民の拒否や排除を標榜《ひょうぼう》すると、まず最初に排除されるべきは白人自身、という理屈になってしまう。 「残念ながら、大臣の判断は正解かも知れませんな」 「ズッグの人間はね、争い事には向かねえんだよ。椰子の木はある。パンの木もバナナもあって、海に出りゃ魚も捕れる。他人と争わなくても生きていける仕組みになってるんさ」  タントラーの躰つきや表情は、なるほど平安と幸福を象徴している。ズッグが争い事のない平和な国であることにも異論はない。しかしそれなら、町にたむろする若者たちの無気力さは、どういうことなのか。プラカードを掲げてアメリカや日本に無言の抗議をつづけるアキカン・ラーソンの存在は、どう考えればいいのか。 「タントラー大臣、一つお訊《き》きしてよろしいかな」と、瓶の水滴で濡《ぬ》れた手をシャツの肩口にこすりつけながら、スタッド氏が言った。「あなたはアキカン・ラーソンのことをご存知ですか。あの男が妙なプラカードを持って、空港に出入りすることを」  タントラーがぶるんと腹の肉を震わせ、鷹揚に腕を広げて、満天の星空をのんびりとふり仰いだ。 「今に始まったことじゃねえだんべ。それともなにかい、ラーソンがスタッドさんに、不都合なことでも仕出かしたんかね」 「そういうことではないんですがな。いつも不思議に思っておるのですよ。その気になれば、ラーソンのすることぐらい、いつでも止められるでしょうに」 「日本人もわしに文句を言ってくるよ。ほれ、今橋を造ってるだんべえ。それで役人や技術者が来るんだいなあ。駐在してるナカガワなんか、はあもうヒステリーみとだぜ」 「空港はこの国の玄関口です。イメージアップには繋がらないでしょうね」 「閣議でも議論はしてるんだい。みんな単純だからよ。大蔵大臣のジョージなんか、ラーソンを捕まえて牢屋《ろうや》に入れろと言いやがる」 「牢屋とまではいかなくても、なにか方法は、あると思いますよ」  タントラーがタロ芋のかたまりを口に押し込み、しばらく顎を動かしてから、一本ぶんのビールを、呆気なく巨体に流し入れる。 「スタッドさんも人がいいやいなあ」と、ガス抜きのようなゲップを吐いて、目を笑わせながら、タントラーが言った。「外交には駆け引きってのがあるだんべえ。わしは外務大臣だぜ。ラーソンのやることがズッグにとって不利んなるなら、早くにやめさせてらいね」 「と、仰有ると?」 「トラブルの一つや二つ、なけりゃ困るということだよ。アメリカだって日本だって、ただ平和なだけの国に金はよこさねえ。反政府勢力ってのがあるから、今のサントス政権に援助してくるわけさ」  芋や魚を無邪気に頬張るタントラーの顔を、感動もなく眺めながら、ちびりとビールを飲んで、スタッド氏は軽く肩をすくめた。少しばかり稚拙すぎる外交ではあるが、タントラーの理屈にも、一理はある。援助というのは受け取る側にも、受け取る名目は必要ということだ。 「大臣がそこまでお考えだとは、思いませんでしたな」と、取り出したタバコに、憮然《ぶぜん》と火をつけて、スタッド氏が言った。「それではラーソンの行動は、大臣の意を受けて、ということですか」 「わしもそんなに悪《わる》じゃねえよ。やってるのはラーソンの勝手だ。ただ国家としても外務大臣としても、政治的意図があって見逃していると、そういうことだいなあ」 「政治というのはなんとも、難しいもんですな」 「奥が深えだんべえ。平和なら平和なりに、政治家も苦労してるんだいね」  昨日までならスタッド氏も、素直に相づちを打ってやるところだが、プラスチック爆弾や大統領の病気を抱えた今となっては、そうもいかなかった。ザワオも大統領の病状を知っているようだし、タントラーが賛美するほど、この島も平和なだけの楽園ではない。  星空が一瞬騒がしくなり、黒い影が羽音をたてながら、大きなかたまりとなって島の中央部へ飛びさって行く。蝙蝠《こうもり》もそろそろねぐらに帰る時間なのだろう。  タントラー夫人がビールの追加を持ってきて、はにかむように微笑んだまま、また黙って奥へ下がっていった。  バナナの煮込みを手掴みしたタントラーを、横目で眺めながら、眼下のズッグ湾に向かって、スタッド氏が長くタバコの煙を吐き出す。 「先ほどザワオさんにお目にかかったが、大統領のお加減、よろしくないようですな」  バキュームカーのようにバナナを飲みくだし、タロ芋も魚もすべて口に押し込んで、タントラーが少しの間、黙ってスタッド氏の顔を見つめてきた。口だけは圧搾機のように動いているが、頬の肉が厚すぎて、表情までは分からなかった。 「ザワオがスタッドさんに、そんなことを言ったんかや」と、指の腹をしゃぶりながら、大きくゲップを吐いて、タントラーが言った。 「そういえばしばらく、わたしもお顔を拝見していなかった」 「そりゃよう、ハヮイに行ったままで、はあ二ヵ月がとこ戻ってねえもんな。誰だって大統領にゃ会っていねえさ」 「よほど具合が悪いということですかね」 「知らねえなあ。わしが知るはずねえべよ。だけどザワオが言うんなら、そういうこともあるんかなあ」 「ザワオさんは大統領の側近ですからね」 「余計なところに口ばっか出しやがって、邪魔なやろうだいね。本当のこと言ってな、わしはこの国にあんなやつ、いらねえと思ってるだよ」  腹の肉がベンチにまで垂れさがって、腕の太さがスタッド氏の倍ほどもあって、おまけに肩の上には、バスケットボールより大きい丸い顔がのっている。そういう人間に繊細な心理を想定するのは難しいが、それでもタントラーなりに、なにかのメッセージは送っているようだった。現実にこの国の経済を仕切っているマルカネ・ザワオを、『邪魔な人間』とまで言い切るタントラーの本意は、どういうものなのだろう。 「そういうことですと、大統領のご病気は、本物だということですね」と、ビールを飲み干し、新しいタバコに火をつけて、スタッド氏が言った。 「はあ歳だしなあ。具合が悪くても不思議はねえだんべ。だけんどよ、ザワオが言い触らすことじゃねえんだ。政府には政府の都合があるわけだからよ」 「平和を維持するのにも、一般人には分からんご苦労があると、そういうことなんでしょうなあ」  ベンチから腰を浮かせ、タバコを吹かしながら、スタッド氏が一つ、軽い欠伸をした。家の中ではテレビが消えていて、リビングに子供たちの姿はなく、タントラー夫人が一人、板の間でタロ芋と焼き飯の食事をとっていた。こういう『文化的な家庭』でも、夫婦が食卓を共にしない習慣は、まだちゃんと残っているのだ。 「そうだ。忘れるところでしたよ」と、少し小道のほうに歩いてから、タントラーをふり返って、スタッド氏が言った。「大臣、昼間デチロに、電気の鍋を注文したそうですな」 「適当なやつがありそうかい」 「アメリカ製の鍋なら、すぐにでも取り寄せられますがね」 「鍋じゃねえんだ。わしにもよく分からんけど、米を炊く専門の機械だそうだ。母ちゃんがなあ、どうしてもソニーの電気釜が欲しいんだと」 「米を炊く専門の、ソニーの電気釜、ねえ」 「手間でも塩梅してくんないね。子供が贅沢《ぜいたく》になりやがって、米の飯ばっか食いたがるんだ」 「仕方がありませんな。それじゃハワイの取り次ぎ業者に、ファクスでも送ってみましょう。今夜はビールを、ごちそう様でした」  タントラーが躰を揺すり、居間からの明かりをうしろから受けて、愛敬のある丸顔を、てらりと光らせた。料理もビールもふんだんに残っているし、一人の大宴会は、まだ延々とつづくのだろう。 「またいつでも来てくんな。この国のやつらじゃよ、頭が保守的で話にならねえんだ」 「大臣のお話をうかがって、勉強になりましたよ」  会釈をし、手を振って、入ってきた庭の端から、スタッド氏は外の小道に出た。背中を向けると一瞬に明かりが遮られ、強い草の匂《にお》いと甘ったるいコプラの匂いが、闇の中に圧倒的な密度で広がってくる。そういえば今日は忙しくて、市場で豚肉を仕入れるのを忘れていたなと、雑草のトンネルをくぐりながら、スタッド氏は一人ごとを言った。コプラで味付けをしたバナナの煮物や、タロ芋や魚の蒸し焼きなど、五年間ズッグに暮らした今でも、まだスタッド氏にはなじめなかったのだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  右も左も、行っても戻っても、星明かりの中に黒い椰子の葉影だけが密集する。ワゴン車には強くクーラーが効き、カーステレオは単調なハワイアンを、性懲りもなく流しつづける。星は不気味なほどの明るさできらめき、キャンバスを切り裂くように、流星が赤い尾を引いて縦横に流れ去る。  一口に無数の星というのは、星を知らない人間のたわごとだ。北極星と南十字星を直線で結び、それを軸にカシオペア座や牡羊座の角度を判断すれば、アウトリガー付きの三角帆カヌーでフィリピンにもグアム島にも行き着ける。古代のズッグ人はカヌーにパンの実とココ椰子を積み、魚と海亀を食料にしながらポリネシアやメラネシアの全域を渡り歩いた。太平洋諸島の言語に同一性が認められるのは、彼ら航海者がそれだけ広範な行動域を持っていたことの証拠でもある。デチロの祖父は二人の仲間とニュージーランド沖まで出かけたというが、デチロ自身はヤップやラップはもちろん、ズッグ諸島の外洋にも出ていなかった。  ズッグ湾を左回りに北上し、テヌプ岬を迂回《うかい》すると、道はもうトポル市に戻るだけになる。島の外周を走っている自動車道は、原住民の生活に関係なく、たんにコプラを集荷する用途にだけ使われる。週に一度サントスのトラックが集落を回り、完熟コプラ一個につき十セントの対価を払っていく。島にこれだけココ椰子が多くなったのは、一八九九年、イギリスがスペインからズッグ諸島を買い取って以降のことだ。それ以前にもココ椰子は自生していたが、当時は一家族でせいぜい五、六本の木を所有していたにすぎなかった。実の外殻で椀《わん》を作り、繊維状の中果皮でロープを編み、内果皮は水筒やコップに使う。若い実の内液はいわゆる椰子の実ジュースで、熟するとその部分にコプラと呼ばれる白い果肉がつく。コプラは生で食べることもあるし、乾燥させて油をしぼり、その油から石鹸《せっけん》や化粧品の乳化剤もつくる。酒を取るには実を犠牲にし、茎を切り、流れ出す樹液を椀に受けながら自然発酵を待つ。そうやって半日も放っておけばドブロクに似た椰子酒ができあがる。インドや東南アジアでは蒸留してスピリッツを作ることもあるが、ズッグにそこまでの技術は伝わらなかった。椰子酒の緩慢な酔いだけで、それ以上の酩酊《めいてい》は必要としなかったのだろう。経済作物として強制されなければ、ココ椰子なんか、本来は一人に一本でじゅうぶんだったのだ。  せっかく連れてきたのに、キャスリンはほとんど居眠りをしていて、デチロは面白くもなくクルマを走らせていた。窓の右手はいつも黒いジャングルで、正面と左側は椰子林がトンネルのようにつづいている。ハワイアンのテープも聴き飽きたし、この時間では島のラジオ局も休んでいるのだ。 「よう、キャシーよう」と、腕を伸ばしてキャスリンを揺すり、憮然とアクセルを踏んで、デチロが言った。「歌とか踊りとか、おめえ、芸はねえのかよ」 「あたしさあ、中学校なんか、行ってないもん」と、寝ぼけたのか、勘違いしたのか、やっと目を開いて、キャスリンが答えた。 「中学のことは前に言ったんべえな。それじゃよ、どういうコネでマリアさんちに勤めたんだよ」 「マリアさんに頼んだんよ。あの人の叔母《おば》さんが母ちゃんの叔父《おじ》さんのお嫁さんでね、だから親戚《しんせき》にあたるわけ」  キャスリンが欠伸をし、髪をうしろに掻きあげながら、目を細めてフロントガラスを覗きあげた。キャスリンがマリアの親戚であることは初耳だが、母親の叔父の嫁の姪《めい》まで親戚だというなら、島の人間はすべて親戚になってしまう。 「マリアさんていう人、なんだか、おいらには分かんねえなあ」 「いい人だよ。仕事にはうるさいけど、給料だって二十五ドルもくれんの」 「二十五ドルなら、やっぱ親戚か」 「部屋も見つけてくれたしね。ヘブテンに親父さんが住んでるから、そういうこともあるんじゃない」  アキカン・ラーソンがどこに住んでいるのか、そういえばデチロも、不思議に思っていた。『ダイアナ』で会ったことはないし、トポル市で見かけたこともない。ラーソンはズッグでの有名人ではあるが、誰も気にかけない存在でもあったのだ。 「マリアさんも気の毒によう。あの親父さんには困るだんべえ」 「普段はおとなしいんだよ。星や魚に詳しいの。薬草のこともよく知ってて、風邪なんかお呪《まじな》いで治しちゃう」 「マリアさん、ずっとグアムに行ってたんだいなあ」 「母ちゃんが言ってた。子供んときから頭が良かったって」 「おめえ、やっぱ、ジョージさんとできてると思うかよ」 「ジョージさんて?」 「大蔵大臣のジョージ・サントス」 「マリアさんと?」 「知らねえのか」 「だってさあ。マリアさんの好きな人、文部大臣のタンジェロさんだと思ってたもん」 「マリアさんも忙しいやいなあ。ナカガワって日本人とも噂があるし、そのうちどうせ、面倒になるべえよ」  石ころ道が平らになり、椰子の林が疎《まば》らになると、停泊している貨物船の明かりが、ぼんやりとズッグ湾を照らし始める。一時間前に漁港の桟橋を出たワゴン車は、もう貨物港側からトポル市に戻ってきてしまったのだ。風の中に機械油の臭気が濃くなって、いくらもしないうちに、クルマは舗装路にのりあげる。 「ハワイとかグアムとかさあ、この道、ずっと続いてればいいのにねえ」と、貝細工のネックレスを指にからめながら、フロントガラスに息を吹いて、キャスリンが言った。「ラップ島だっていいけど。ラップにはさあ、ディスコってのがあるんだって」  クルマは倉庫の前まで来ていて、デチロはブレーキを踏んでみたが、ハンドルをどこに向けていいものか、少し迷っていた。砂浜まで出れば友達がいることは分かっている。椰子酒もあるだろうし、チャカウという幻覚剤もある。酒やチャカウを飲みながら、たまにタバコを吸って、朝までとりとめもなく話し込む。嫌いではない日常だが、今夜はなんとなく、そういう気分にもならなかった。 「おめえ、歩いて帰れるだんべ」 「帰れるよ。市場の裏だもん」 「誰と暮らしてるんだっけな」 「ヘブテンから一緒に来た子。一人はトロピカルに勤めてて、一人はキンジャマさんちの家政婦」 「キンジャマさんちはいいけどよ。トロピカルの子は、可哀相《かわいそう》だいなあ」  ドアを開け、運転席から外に出て、戸を開けるために、デチロは倉庫のほうに歩いていった。イギリス時代に造られた石作りの建物だが、戸は板を並べただけの、粗雑な引き戸に変わっている。それでも侵入する人間はいないから、板戸も錠前も、そういう決まりとして存在しているだけだった。  錠前をあけ、板戸を大きく開き、電気をつけてから、クルマに戻ってギヤをバックに入れる。夜はクルマを倉庫にしまうのは当然として、キャスリンが助手席から降りようとしないことに、デチロはかなり閉口した。助手席で頑張ったからといって、クルマはハワイにもグアムにも行かないのだ。  バックで倉庫に入れ、エンジンとライトを切って、キャスリンの横顔を眺めながらクルマを降りる。キャスリンもやっと終点であることを納得したらしく、ドアをあけて、ひょいとコンクリートの上に飛び降りてきた。 「クルマってうしろ向きにも走るんだね。あたし、初めて見たわ」 「カヌーだってうしろに進むだんべ。その気になりゃおいらも、うしろ向きに歩けるぜ」 「だけどさあ、カヌーは前とうしろ、おんなし形じゃん。帆の向きだって変わるしさあ」  デチロは引き戸の前まで戻って、安いビルマタバコに火をつけ、肩で石の壁に寄りかかった。倉庫の裏手には船員を相手にする安宿と、屋台の飲み屋がある。浜にまで出かける気はなくても、寝酒に少しだけ強い酒を飲んでみたい。普段と変わった仕事をしたわけでもないのに、ドライブをしたせいか、どこか今日は疲れていた。 「ふーん。そうなのか。あんた、こんないいところに住んでるのか」  キャスリンが髪をふり払い、生意気な腕組みをして、踵《かかと》を軸に、コンクリートの上を一まわりした。  床は冷たく、石の壁は厚く、天井は二階家の吹き抜けほどまでに高い。間仕切りのない壁にはビールやウイスキーのケースが並び、塩や石鹸やトイレットペーパーを詰めた段ボール箱が天井まで積みあげられている。奥には竹の梯子《はしご》があって、貨物の上に三メートル四方ほどの棚が渡っている。その棚がデチロのベッドであり、居間であり、生活空間のすべてなのだ。こんな倉庫をキャスリンが『いい所』と言ったのは、皮肉でもなければ、血迷ったわけでもない。板戸の内側には水道が引かれているし、棚の上には電球もともっている。だだっ広い空間は外より湿度が低く、厚い石の壁は波音さえ遮ってしまう。筵《むしろ》囲いの部屋になん人かの同居が迫られるトポル市では、これでも天国のような環境なのだ。  デチロの困惑にはかまわず、キャスリンが梯子の前に歩いて、背伸びをしてから、パンプスのまま勝手に梯子をのぼり始めた。ワンピースの裾から伸びた臑は野性的で、細い足首に赤いパンプスが、奇妙になまめかしい。 「へええ。おめえ、レースのパンティー穿《は》いてんのか」と、表の戸を閉めてから、くわえタバコのまま戻ってきて、デチロが言った。 「マリアさんにもらったんよ。あの人さあ、ピンクのとか黒のとか、たくさん持ってるの」 「どうでもいいけどよ。早くおりて来いや。若《わけ》え女がパンティーなんか見せるんじゃねえよ」  キャスリンが腰を振って、上半身だけでふり返り、粒のそろった白い歯で、大きく微笑んだ。小柄なわりに胸も大きく、肉感的な黒い肢体の上に、目の大きい子供の顔がのっている。ズッグの島ならどこにでもいる少女で、リモーアで暮らしている二人の妹を、ついデチロは思い出す。退屈な生活をしているのだろうが、それでもやはり、トポルに呼び寄せる気にはならなかった。  キャスリンが下りてきて、梯子の足掛けに腰をおろし、丸い目で倉庫を見まわしながら、パンプスからそっと足を抜き出した。十六年間をゴムサンダルだけで歩いてきたことが分かる、幅の広い傷だらけの足だった。 「あんたさあ、女の子、みんなここへ連れてくるん」と、背中を丸め、膝の上で頬杖をついて、キャスリンが言った。 「女なんか連れ込まねえ」と、タバコを床に弾いて、デチロが答えた。 「あんたが遊んでること、店で評判だけどなあ」 「遊んでたってよ。ここにゃ連れてこねえさ。おいらは一人で寝るんが好きなんだ」 「遊んでることは本当なんだ?」 「どうだかよ。おめえに関係ねえだんべ」 「今までなん人の子とつき合ったん」 「キャシーよう、ごちゃごちゃ言ってねえで、そろそろ帰っちゃどうだい」 「シャワー使わせてくんない? あたし、市場の井戸まで行くんが面倒臭いの」  なんだか疲れてしまって、デチロは肩をすくめ、乾電池が詰まっている木箱の上に、欠伸をしながら腰をおろした。弾みでドライブに誘ったものの、思っていたより、夜中の運転は神経が消耗する。  キャスリンが腰をあげ、裸足のままクルマの向こうをまわって、鼻唄を歌いながら水道のある壁際に歩いていった。シャワーといってもむき出しの水道管に蛇口がついているだけで、本来は床と貨物を洗うためのものだ。湯が出るはずもないし、洗い場が完備しているはずもない。この国で熱い湯が出るのは『ベイ・イン』ぐらいなものだが、もともとズッグ人に湯を使う習慣はないのだ。真夜中のこの時間でも、気温はやっと二十七度だった。 「すごいわね。あんた、シャンプーなんか使ってんの」と、プラスチックの手桶《ておけ》を足の指でつまみながら、溜息をついて、キャスリンが言った。 「荷が余るからよ」と、タバコに火をつけて、デチロが答えた。 「この石鹸、アメリカの?」 「日本製さ。ソニーが作ってるんだ」 「格好いいなあ。あたしね、コプラじゃない石鹸使うの、初めてだよ」  簡単にワンピースを脱ぎ、パンティーも脱いで壁のフックに掛け、キャスリンが足を開いて蛇口の下にしゃがみ込んだ。トポルに来てから忘れていたが、リモーアでは男も女も、大人も子供も、朝晩は浜に出て一斉に水浴びをする。キャスリンに裸を隠す素振りがないのは、ヘブテンから出てきて日が浅いせいだろう。日本軍が撤退するころまでは、ズッグ人のほとんどはふんどしに腰蓑姿だったのだ。 「トポルに出てきた日さあ、最初だけマリアさんちに泊まったんよ」と、コンクリートにしゃがんだまま、髪の毛にシャンプーを泡だてて、キャスリンが言った。「お風呂《ふろ》なんかあってね。突然お湯が出てきて、びっくりしちゃった」  マリアの店は二階が住居になっていて、建物がイギリス時代のものだから、その設備が残っているのだろう。  デチロは木箱の中から売り物のビールを抜き出し、栓をあけて、半分ほどを一息に飲み干した。キャスリンの胸は乳首も乳輪も小さく、平らな腹の下には腰と尻がおっとりと張り出している。コプラ油でも塗っているのか、コーヒー色の皮膚が元気よく水滴を跳ね返す。女の躰は見慣れているはずなのに、デチロの背中には、もう汗がにじんでいた。  しばらくキャスリンの水浴を眺めてから、デチロは梯子をのぼり、タオルを持ってまた下におりてきた。手桶の水をかぶり終わったキャスリンに、そのタオルを放ってやる。キャスリンが髪だけをタオルで拭《ぬぐ》い、雫《しずく》をたらしたままの躰に、呆気なくワンピースとパンティーを穿く。五分も放っておけば、服も躰も、どうせすぐに乾いてしまうのだ。 「ソニーの石鹸って、やっぱりよく落ちるねえ」と、床の上をぺたぺた歩いて、梯子に手をかけながら、キャスリンが言った。 「おめえなあ、シャワーを浴びたら、帰るんじゃなかったのか」 「泊まっていくことにしたわ。ここ、けっこう広いもんね」 「市場の裏ぐれえ、どうにでも帰れるだんべ」 「あたしさあ、疲れちゃったんよ」  疲れているのはお互い様で、それでも抗議する気分にはならず、ビール瓶を持って、困りながらデチロも梯子をのぼっていった。キャスリンはパンダヌスの葉で編んだゴザに膝立てで座り、どこに持っていたのか、濡れた髪を輪ゴムで束ねているところだった。柵から天井までは人の背丈ほどしかなく、一角には衣類が入った段ボール箱が置かれている。横にはテーブルがわりの木箱があり、ナイフやコップやウイスキーの瓶や、灰皿に使うシャコ貝の殻が散らばっている。毛布もなければ、布団も枕《まくら》もない。ゴザの上にごろりと寝て、朝になったら太陽と一緒に起きあがる。貧しくは見えるが、これがトポルで暮らすズッグ人の、ごく普通の生活なのだ。  デチロはビールの瓶とコップを、キャスリンの前に置いてやり、自分ではウイスキーの栓をあけながら、ぐったりと木箱に寄りかかった。明日もどうせ朝早くから、石鹸やビールを求めて多くのカヌーが乗りつける。ズッグやエルロアの周りには五十ほどの珊瑚島があって、そのうち半分には人が住んでいる。デチロのリモーアもキャスリンのヘブテンも、そういう衛星島の一つだった。島には雑貨屋があり、アルミの鍋や頭痛薬を島代表として仕入れに来る。在庫の管理や配達に加えて、そういう客の相手もデチロの仕事だった。 「おいら寝るからよう。朝は勝手に帰るんだぜ」と、ウイスキーをちびりとなめて、デチロが言った。 「電気はどうするんよ」と、髪をいじりながら、キャスリンが訊いた。 「どうでもいいやな。玉をひねれば消えてくれらあ」 「あたしさあ、処女だけど、あんたとならやって[#「やって」に傍点]もいいよ」 「処女ってのは、おいら、苦手だ」 「どうしてよ」 「痛がるだけで、こっちは気持ち良くねえからよ」 「そんなに痛いん?」 「痛《いて》えらしいぜ。よく知らねえけど、いつだったかの女、朝までひーひー泣いてやがった」  キャスリンが足を投げ出し、貝細工のネックレスを外しながら、ビールを口に運んで、ぐずっと鼻を鳴らした。 「そんなに痛いんならさあ、どうしてみんなやりたがるんよ」 「どうでもいいから、早く寝ろいや」  電球をひねって、デチロが明かりを消し、躰を横にしながら、またちびりとウイスキーをなめた。倉庫の中に完璧な闇が訪れ、鉄格子のはまった小窓から星の気配だけが流れ込む。波の音もなく、クルマも通らず、人声もテレビの音も存在しない。トポル市の外なら風が椰子の葉を揺するのに、ここで聞こえるのは蚊の羽音と、キャスリンの浅い呼吸音だけだった。リモーアの小屋で家族と身を寄せて眠ったころの記憶が、ウイスキーと一緒に、深くデチロの躰に広がっていく。  ゴザの上をキャスリンが転がり、デチロのとなりに、ごろりとすり寄ってきた。 「マイケルさあ、起きてる?」 「なんだよ」 「あんた何歳《いくつ》?」 「二十七」 「お嫁さんはもらわないん」 「その気にならねえんさ。子供ができたって、どうせズッグ人の子供しか生まれねえしよ」  まだ乾いていないキャスリンの髪が、デチロのシャツを濡らし、石鹸では落ちないキャスリンの体臭が不可解にデチロを困らせる。トポルにも金で躰を売る女はなん人もいて、倉庫裏の安宿では五ドルで船員や観光客を相手にする。みんなキャスリンと同じように、仕事と夢を求めて離島からやって来た女の子たちだ。五年もトポルに暮らしていて、その両方を手に入れた女の子に、デチロは一人も会っていなかった。 「あたしさあ、ハワイとかグアムとか、行ってみたいなあ」 「おめえじゃ無理だんべえよ」 「そうかなあ」 「この国でグアムの高校に行けるんは、頭のいいやつと、サントスんちの連中だけだもんなあ」  キャスリンが躰を動かし、音の出る欠伸をして、丸めた躰をデチロの腋《わき》の下にもぐり込ませた。母親か姉弟か従兄弟のだれかか、一ヵ月前まで、ヘブテン島でキャスリンはこういう眠り方をしていたのだろう。乾いたパンダヌスのゴザが心地よく眠りを誘い、もう始まったキャスリンの寝息が、ふとデチロの意識を曖昧《あいまい》にする。アキカン・ラーソンのプラカードや、スタッド氏の客やマリア・ラーソンの冷たい表情が、歪みながら輪郭を消していく。 「世話ねえかさあ……」と、ウイスキーの瓶を遠くに押しやり、ごろりと寝返りを打って、デチロは一人ごとを言った。「世話ねえやなあ。どうせおいらにゃ、関係ねえことだもんなあ」 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  まるで波のないズッグ湾に、高い朝日が匂うように反射している。エルロア島側にもボートやカヌーが浮かび、その間をズッグ島へのフェリーが悠長に白い波を引いてくる。珊瑚礁の海は淡い緑色で、その濃淡が暗い色の外洋までまだら模様につづいていく。衛星島のそれぞれがラグーンを持ち、その小さな島々がズッグとエルロアを取り囲んで、ズッグ諸島という大ラグーンを形成する。古代のエルロアはパラオとタヒチの中継港として賑《にぎ》わったというが、今は日本時代の建物も深く灌木《かんぼく》に覆われている。飛行機の飛ばない日は椰子林とタロ芋畑がつづく、ただのどかなだけの小島だった。  スタッド氏はバスローブ姿でテラスの椅子に座り、昨日届いた月遅れの雑誌を、サングラスの下から漫然と眺めていた。家はやはりイギリス時代の建物だが、庭にはココ椰子とバナナが植わっていて、赤いブーゲンビリアがたたずまいをズッグの風景に溶け込ませている。会社をエド・ビーンズから引き継いだとき、ついでに住まいも買い取ったのだ。  カナカ山から流れ出す小川と市街地を挟んで、向こうの丘には教会やサントス一族の家が見渡せる。反対方向にはズッグ湾の出口も見える。一年以上つづいている橋梁《きょうりょう》工事は両岸の礎台が組みあがったところで、ペンキを塗ったクレーンが長く鋼材を振りまわす。予定ではあと三年で完成だというが、こんなペースで本当に橋が出来あがるのか、スタッド氏でなくとも疑問に思う。 「旦那《だんな》さんよう、はあコーヒーはいらねえんかね」  家の中からマチコ・エリザベスが出てきて、雄大な腰に肘を張り、日射しを背にきっぱりと立ちふさがった。まっ黒な顔に太い腕で、瞬間に性別を見分けるには、かなり努力のいる顔立ちだ。朝やって来て掃除と洗濯をして町に帰っていく。得意料理はチキンのから揚げだと言い張るが、コプラ油でしか揚げようとしないので、最初の経験以降スタッド氏は丁重に遠慮をしている。 「飲まねえんならよう、ぶっちゃってポットさ洗うがね」 「オッチャッテもブッチャッテも、好きなようにしてかまわんよ」 「シーツんとこが焦げてたいね。寝ながらタバコ吸っちゃなんねえって、なん度言や分かるだよ」 「昨夜は、ちょっと、考え事をしていたんでな」 「焼け死んじまったらなに考えるだ。頭だってチンボコだって、生きてなきゃいい仕事はしねえべに」  サングラスの下から、うんざりとエリザベスの顔を見あげ、テラスに足を投げ出して、スタッド氏が軽く欠伸をした。 「頭はともかく、最近チンボコには、仕事をさせておらんなあ」 「やだよう、まだ若《わけ》えくせに。魚釣りばっかしとらんで、たまにゃ日本人町にでもくり出しゃいいがね」 「日本人町……」と、雑誌に伸ばしかけた手を止め、陽炎《かげろう》のたつ庭に目をやって、スタッド氏が言った。「エルロアあたりに、日本人町が残っているのか」 「ありゃ昔の話だがね。今言ったんはタロンのこと。店屋なんぞも多く出て、夜も賑やかだっつう話だよう」  タロンというのは市街地の外れで、そのあたりに橋梁工事の関係者が集まっていることは、スタッド氏も承知している。グアムから技術者も来ているし、地元の男たちも工事に職を求めて集まってくる。ズッグは今『橋梁景気』とでもいうような状況だが、労働者に落ちる賃金など高が知れている。それにほとんどの男たちは、日雇い仕事にもありつけないのだ。 「ミスマチコ。その日本人町には、女も集まっているということかね」 「若え子もいてなあ、賑やかなんだと。旦那さんも遊んでくりゃいいべ。ズッグの女は昔から評判だでよう」 「わしはおまえさんに惚《ほ》れておるからな。女遊びなんかする気にならんさ」  エリザベスがけたたましく笑い、豊かな胸を波打たせて、太い腕でひょいと、スタッド氏のコーヒーカップを取りあげた。遮られていた強い日射しがスポットライトのように甦《よみがえ》る。 「そいじゃ今夜あたり、おらが夜這《よば》いでもするんべえかよう」 「チンボコの意見がどうかなあ。歳を取ると息子は、親の言うことを聞かなくなる」  けたたましく笑ったまま、エリザベスが家の中に戻っていき、サングラスを外して、スタッド氏はのんびりとタバコに火をつけた。日向の温度は三十度を越えていて、陽炎の中を灰色のカミキリ虫が飛んでいく。変わることのないズッグの暑い一日が、こうやって今日も始まっていく。  ブーゲンビリアの向こうに影が動き、スタッド氏が額に手をかざしたとき、ランニングシャツに半ズボン姿の少年が、声もかけずに顔を現した。足音をたてないズッグ人の歩き方に、幾度スタッド氏は驚かされたことか。少年はゴムサンダル履きで、急いで丘を登ってきたのか、額と首筋に光る汗をにじませている。名前は知らないが、内閣の建物で小間使いをしている少年だった。 「大臣が用さあるっつんで、お知らせに来たです」と、芝生の日向に立ったまま、近づく気配もなく、少年が言った。「ホテルの事務所から、まわって来たです」  スタッド氏は事務所を『ベイ・イン』の一室に構えているから、少年はまず、そこへ行ってみたと言うのだろう。 「大臣というのは、どのなんという大臣だね」と、タバコの煙を吐いて、スタッド氏が訊いた。 「大蔵大臣のサントス大臣」 「サントス大臣が、わたしに用があると?」 「そいで、お知らせに来たです」 「わたしに出向けということかな」 「来てくんねえかって」 「今すぐにかね」 「はあ、なんだか、よく分かんねえ」  スタッド氏にもよく分からなかったが、使いを寄越したぐらいだから、大蔵大臣のジョージ・サントスがなにかの理由で自分に会いたい、ということなのだろう。電話をかけてくれば済むものを、使いを出すほうが礼儀にかなっていると、今でもほとんどのズッグ人は信じている。 「分かった。ご苦労だったな。サントス大臣にはすぐ行くと伝えてくれ」  少年がきびすを返し、空を飛ぶカミキリ虫と同じぐらいの早さで、瞬間に庭から消えていった。小間使いをしているぐらいだから、どうせ中学には通っていない。タントラー大臣の家でテレビを観ていた子供と同じぐらいの年頃なのに、あんな少年が『平和』のつけを払っているのだ。  スタッド氏はタバコを吸い終わるまで、茫然《ぼうぜん》と湾を眺めてから、立ちあがって大きく背伸びをした。早くスコールでも来てくれなければ、暑くてたまらない。貿易の仕事には手を抜けるとしても、CIAはズッグ人ほど甘くはない。今回の調査が終わったら現地駐在員をやめる手立てを考えようと、のっそりと歩きながら、スタッド氏は密かに決心した。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  市場やスーパーマーケットの向かい側、中央病院と郵便局の並びに、古めかしい五階だてのビルがある。以前は燐鉱石の採掘会社が所有していた建物だったが、独立後は政府機関のすべてが収まる合同庁舎になっている。国会に当たる共和国議会室、内閣の各機関、中央銀行、裁判所、警察署と、立法から行政まで、中枢機関のすべてがこのビルに詰め込まれている。スタッド氏もなん度か足を運んだことはあって、それでも職員が仕事をしている光景など、ついぞ見かけなかった。議会は月に一度、村長や離島の酋長《しゅうちょう》たちが役職手当という交付金をもらっていく名目に過ぎない。通貨を発行していない中央銀行は国庫の管理をするだけ。民事も刑事もトラブルは村や島単位で解決するから、警察も裁判所も一年の大半は開店休業状態にある。平和といえば平和だが、要するにこの建物の中で、外国からの援助金をサントス一族が山分けしている、というだけのことだった。  ジョージ・サントスがいたのは、四階の大蔵大臣室ではなく、大会議場につづく五階の大統領執務室だった。これほど露骨に政権移譲が表明されているなら、早くこの庁舎に来てみればよかった。ジョージ・サントスはイチタロー・サントス大統領の肘掛け椅子に座り、大型の肖像画を背に、白い背広姿で書類にボールペンを走らせていた。部屋は東南の角で、東にはズッグ湾の貨物港、南にはエルロア島が見渡せる。テロや狙撃《そげき》を警戒しているわけでもあるまいに、ソファも仕事机も、窓からは遠く離れた位置に置かれていた。 「朝早くからご公務で、大変ですな」と、首筋の汗を拭きながら、机に近いソファに腰をおろして、スタッド氏が言った。 「大統領代行という立場ですからね。寝る暇もありませんよ」  ジョージ・サントスはハワイの大学に留学した経験もあり、一族の中では一番のインテリ、という評判がある。歳は四十をすぎたばかりで、髪をうしろに撫でつけ、狭い額と狭い眉間《みけん》に神経質な皺《しわ》を浮かべている。大統領がハヮイから戻らない今、直系のサントスが代行を務めるのは、誰が考えても当然の成り行きなのだ。 「あなたのズッグ共和国に対する貢献は承知しているが、国家財産に関しては、もう少し慎重な行動を期待したい」と、ボールペンを下に置き、机の向こうから身を乗り出して、サントスが言った。 「仰有ることが分かりませんな。仕事上でなにか、不都合があるという意味でしょうか」 「仕事ではないんです。仕事に関しては、わが国の経済に、あなたはじゅうぶん貢献していますよ」  張り出した小鼻を指で押さえ、不揃《ふぞろ》いな前歯を、サントスがにっとむき出した。突然歯を見せるのはズッグ人の癖なのだが、その表情の意味が、まだスタッド氏には理解できていなかった。 「あなたからの依頼だといって、今朝ザワオが、大統領のジープを持ち出しやがった」 「ほほう。なるほど、その件でしたか……」 「クルマが必要なら必要と、なぜ私に言わないのです。親父のジープということは私のジープでもあるのだ」  国家財産だと言っておきながら、そのあとですぐ私物意識が顔を出すところが、やはりこの国の所有体系を象徴している。自分のものは自分のもの、国のものも自分のものと、サントスにとっては、そういうことなのだろう。 「いや、私はなにも、あなたの友人にクルマを貸したくないとは、言っておりません。しかしザワオは一民間人です。大きな顔で国政に関与されては、国家として体面が保てないわけですよ」 「わたしとしたことが、とんだ失態を仕出かした」と、ハンカチをシャツのポケットに押し込み、代わりにタバコを取り出して、スタッド氏が言った。「まったくもって、大臣にはおわび申しあげる。ザヮオ氏が自分に任せておけと仰有るもので、ついその気になってしまった」 「民間レベルの取引なら、もちろん私は、口なんか挟みませんよ」 「承知しておりますとも。大臣のお計らいがあればこそ、わたしの商売もうまくいっておる。クルマの件はわたしの失態でした。昨夜大臣にお願いしようと思っていたとき、たまたまザワオ氏に会いましてな。ジープのことなら大臣より、自分に権限があると仰有るんですよ」  身を乗り出していたサントスが、肩をうしろに引き、暗い色の視線を窓に走らせてから、ちらっと、顔の半分でスタッド氏をふり返った。 「ザワオが、そんなことを言ったのですか」 「わたしは最初から大臣にお願いするつもりでおった」 「私よりザワオのほうにと、ねえ」 「ザワオ氏が強く言うものですからな」 「そういう事情でしたか。いや、私も、おかしいとは思っていました。スタッドさんがそんな筋の通らないことを、するはずがないんだ」 「しかし大臣……」と、タバコの煙を透かし、サントスの気配を意識しながら、スタッド氏が言った。「この問題がわたしの了見ちがいであったことに、変わりはありませんよ」 「あなたに責任はない」と、神経質な声で、断定的に、サントスが言った。「事情を知っていればお呼び立てなどしなかった。謝るのは私のほうです」 「わたしが迂闊《うかつ》であったことは事実です。お国の体面も、大臣の体面も傷つけてしまった」 「ご心配なさるな。今回の問題は、完璧に当方の調査不足でした」  サントスが椅子から立ちあがり、机を大きくまわって、スタッド氏の向かいに、足を組んで腰をおろした。白い背広にチェック柄のネクタイを締めていたが、下は素足のサンダル履きだった。 「ところで、あなたのご友人というのは、ホテル会社の重役さんだそうですね」 「この国へ来たのは観光を兼ねた視察ということです」と、サントスの浅黒い顔を眺めながら、スタッド氏が答えた。 「結構ではありませんか。汚れのない海と素朴な人情。治安にも問題はない。わが国政府を代表して私も歓迎しますよ。当然、ザワオには、もう口出しはさせません」  プライドなのか、自信なのか、それともそういう顔立ちなのか、サントスの厚い唇に、不可解な笑みが浮かびあがった。大統領に似ている褐色の目が、慣れているスタッド氏にしても、少しだけ不気味だった。 「詳しいことは存知ませんがな。独立以来ザワオ氏は、お国の経済に貢献してきたはずでしょう」と、スタッド氏が言った。 「混乱期の、過渡的な、特殊な状況ですよ」と、スタッド氏のタバコを勝手に抜き出し、火をつけて、サントスが言った。「独立以来十五年、わがズッグ共和国も近代国家に脱皮しなくてはならない。因習的な政治も、因習的な経済も、すべてが時代遅れということです」 「お父上の大統領も、同じご意見でしょうかな」 「時代は変わりますよ。当然世代も変わる。新しいシステムは新しい人間の手でと、そういうことになりますね」  政治家らしい、もって回った言い方だが、意味は単純なのだ。イチタロー・サントス大統領の余命は少なく、政権は自分が引き継ぎ、そしてすべての利権も自分が掌握する。この国で商売をしたいなら協力しろと、それだけのことだ。外務大臣のタントラーもザワオを嫌っていたから、サントスとタントラーの間で、すでにザワオ排除の合意でも成立しているのか。もしそうなら、ザワオのほうだって、それぐらいの気配は察知していることになる。  ノックもなくドアが開き、二人がタバコをくわえたまま顔をあげると、スタッド氏の家へ使いに来た少年が、肩で息をしながら部屋に飛び込んできた。額からは汗が流れているから、階段を五階まで駆けあがってきたのだろう。 「礼儀を知らんやつだ。部屋に入るときはノックをしろと、いつも教えているだんべ」  サントスの言葉に、少年が立ちすくみ、入口を入ったところで、前のめりに上体をよろけさせた。ランニングシャツの胸は汗で濡れ、汚いゴムサンダルは片方が脱げかけている。 「なんだ。用があるなら早く言いたまえ」 「ええと、橋の工事現場で、大変なんだと」 「工事現場?」 「警察署長さんが、大臣に知らせろって」 「私になにを知らせろというのだ」 「大変だって。ラーソンさんがなんかやってて、すぐ来てくれって」  サントスがスタッド氏に視線をまわし、タバコを一吹かししてから、気まずそうに、喉《のど》の詰まった咳払いをした。 「わざわざ大臣をお呼びになるところを見ると、ただ事ではありませんな」と、タバコをつぶしながら、スタッド氏が言った。 「橋の工事現場で、ラーソンがなにをやっているのかね」と、少年に、サントスが訊いた。 「よく知んねえ。なんだか、大変なんだって。そいで署長さんが大臣に……」 「おめえなあ、用件は正確に伝えろって、いつも言ってるじゃねえか」 「用件は、そいだから、すぐ来てくれって」 「役にたたんやつだ。もういい。おまえは下に行って、私のクルマを用意しておけ」  少年が大きくうなずいて、部屋を出ていき、お互いにソファの背もたれに身を引きながら、二人は改めて顔を見合わせた。ラーソンというからにはアキカン・ラーソンに違いなく、警察署長が大統領代行のサントスを呼んでいるとなれば、工事現場にプラカードを立てた、という程度のことではないだろう。 「よく分からないが、とにかく行かなくては」と、立ちあがって、サントスが言った。 「ご一緒願えますかな。工事現場といっても、エルロア側ではありますまい」 「だから私が言ったんだ。ラーソンなんか捕まえて、牢屋に入れてしまえと」 「まずは現場へ急ぎましょう。お話のつづきは、この次ということですな」  サントスが会釈をして、忙《せわ》しなく歩き出し、あとについてスタッド氏ものっそりと歩き出した。南からの光が窓ガラスで屈折し、机のボールペンに反射して、サントス大統額の肖像画にナイフのような光線を突きつける。どういう事態が起こっているにせよ、外の気温は、今日も四十度は越えることになる。  合同庁舎の玄関で二人を待っていたのは、スーパーカブ号という、旧式の日本製バイクだった。サントスが背広にサンダル履きで運転席にまたがり、うしろの荷台に、大柄のスタッド氏が白熊のように乗り込んだ。クルマのほとんどない国に交通ルールがあるはずもなく、灼熱の日射しに土埃を巻きあげ、バイクはメインストリートから海岸通りに、脱兎《だっと》の突進を開始した。『ダイアナ』を通りすぎ、漁港や民家を通りすぎ、クレーンが空に突き出た架橋工事現場まで、二人は五分もかからなかった。  エルロア島とズッグ島に橋を架けるということは、湾でも両島の間が一番狭まった場所、ということになる。フェリーの航行距離は二キロ。一方橋梁の完成予定距離は一キロ強に設定されている。湾全体が珊瑚礁の遠浅で、橋脚の建設も深海域ほどの困難はないという。現在完成しているのは両島の架台部分で、両方の島から橋脚と橋本体を同時に中央へ延ばしていく施工方法だ。鋼材は設計加工したものを日本から海上輸送し、コンクリートはズッグ島の生コンプラントで必要量を現地生産する方式をとっている。  二人がズッグ側の現場にバイクを乗りつけたときには、付近はもう、イギリスから女王陛下がやって来たような人だかりになっていた。海側からもカヌーやボートが遠巻に現場を取り囲み、日射しを遮るものはなく、海も陸も金色で、青い空に浮かぶ雲にはスコールの気配もみられない。人数が多いわりに喧噪《けんそう》の少ないところが、ズッグ人気質というやつなのだろう。  見物人が注視しているのは、クレーンの先端から垂れている長い幕と、もちろんその上にしがみついているアキカン・ラーソンだった。ラーソンは腰蓑に草の葉の冠を被《かぶ》り、肩から弓と矢筒をさげて、胸のうすい褐色の皮膚に強く太陽を輝かせていた。クレーンのオペレータ室は無人で、そこからラーソンが足をかけている先端までは、二十メートルほどの距離がある。海風になびいている白い布にはプラカードと同じ『アメリカ人は帰れ。日本人も出ていけ』という文句が書いてあった。見物人の中にはウガウ・タントラーの巨体も、マルカネ・ザワオも、そして遠い現場小屋の軒下には、マリア・ラーソンの姿も混じっていた。 「いったいこれは、どういう騒ぎなんだね」と、タントラーのとなりに立っている警察署長に、近づいていって、ジョージ・サントスが訊いた。 「見当もつかねえ。工事の連中が目を放した隙《すき》に、いつの間にかのぼったんだと」 「幕の文字はもう読んだから、さっさと降りればいいじゃないか」 「そいつがなあ。さっきから言ってるんだけんど、降りようとしねえんさ」 「なぜクレーン自体をさげないのですかな」と、サントスのうしろから割り込んで、空を見あげながら、スタッド氏が言った。  タントラーの向こうからカズマサ・ナカガワが顔を出し、署長の前をスタッド氏のほうにまわってきた。 「人間がオペレータ室に近づこうとすると、上から弓を射るんですよ。それにクレーンを動かしてあの男が落ちたら、下はコンクリートです。日本政府を代表して申しあげるが、この高さでは、命の保証はできかねます」  たかが商社員に代表される日本政府も気の毒だが、言われてみれば、なるほど下には橋脚を据える厚いコンクリートが打たれている。うまく飛び降りたところで、骨折で済む高さではない。それに上から弓を射るというなら、ラーソン自身、覚悟があっての行為なのだろう。 「分かりませんなあ。今まであの男は、他人に危害を加えようとはしなかった」 「私が思っていたとおりだ。いつかはこうなると言ったじゃないか。あんな男、早く牢屋に入れておけばよかった」 「タントラー大臣」と、見物人の間を縫っていき、小声で、スタッド氏が言った。「ちょっとした外交のトラブルが、大変なことになりましたね」 「なーに考えてるんかよう。穏便に済ますべえと思ったんに、わしの苦労が台無しだいね」 「ラーソンはなにか要求していますか」 「大統領を呼んでこいとか言ってやがるが、ハワイまで呼びにゃ行けねえがね」 「向こうに娘のマリアがおりますよ。彼女に説得させたらいかがです」 「そいつがなあ、あれもわけの分からん女だよ。説得なんかしたくねえんだと。親父が変わりもんだと、娘もはあ変わりもんだいね」  マリアの立っている場所は、軒の端より少し奥まったあたりで、白いワンピースの上の顔は庇《ひさし》がつくる陰の中に、濃く隠れていた。見物人の数は見渡しただけでも五百人を越えている。中にはイギリス教会派のラウエル神父も混っていて、十字架を高くかざしながら、一人ごとのような祈祷《きとう》をささげている。ズッグ共和国の人口が四千八百人だから、全体の十分の一が今この工事現場に集まっていることになる。タントラー大臣など、日射しと熱気に、油汗を流しながら喘《あえ》ぐように息をついていた。 「ラーソンの要求は、大統領を呼べということらしいですな」と、元の場所に戻って、警察署長とジョージ・サントスの顔を見くらべながら、スタッド氏が言った。 「署長からも聞きましたよ。しかしこれから呼びには行けないでしょう。それに民主主義国家としては、こういう脅迫に屈するわけにもいきません」  人だかりを掻きわけ、うしろからデチロがやって来て、場所柄もわきまえず、スタッド氏に定番の愛想笑いをした。 「スタッドさんも来てたんかい。とんだ騒ぎになったいねえ」 「あり男がここまでするとは思わなかった」と、日射しに顔を歪めて、スタッド氏が言った。「だれかラーソンを降ろせるやつはいないのか」 「あすこにマリアさんがいるべえ。あの人の言うことなら、ラーソンさんも聞くんじゃねえかさあ」 「打診してみたが、応じないそうだ」 「マリアさんなら……」  デチロがスタッド氏のうしろをまわって、署長とサントスの間に顔を出し、額の汗を掌でぞんざいに拭き払った。 「サントス大臣よう、おめえさん、マリアさんに言ったらよかんべえに」  サントスがふり向き、狭い額をいっそう狭くして、デチロの顔を睨みながら、目をぎらりと光らせた。 「なんだね君は」 「なにってことはねえよ。ラーソンさんも娘の言うことなら聞くべえし、マリアさんも大臣の言うことなら聞くんじゃねんかいね」 「きさま、私に言い掛かりをつける気か」 「とんでもねえ。おいらただ、おめえさんなら出来るんじゃねえかと、そう思っただけさ」 「民間人が余計なことに口を出すな。私はマリア・ラーソンなんか知らん。あの女も父親と一緒に、牢屋に入れておけばよかった」  デチロが不満そうに肩をすくめ、途方に暮れた視線をスタッド氏のほうに送りながら、人垣のなかに、ごそごそと紛れていった。 「だからよう、ジョージ」と、制帽の庇を突きあげ、白髪まじりの顎髭《あごひげ》をさすりながら、警察署長が言った。「ラーソンは大統領を呼べと言ってる。おめえ、代行なんだんべ。よくは知らねえけど、とりあえずおめえで間に合うんじゃねんけや」  タントラーが離れた場所から、汗を振りまいて、息苦しそうに近づいてきた。スタッド氏もナカガワもサントスの顔を覗き込み、気のせいか、遠くからザワオやマリアまでサントスの気配を窺っているようだった。  ジョージ・サントスが一同の視線を跳ね返し、弛《ゆる》んでいたネクタイを締め直して、背広のボタンをかけながら、気取った咳払いをした。  一瞬風がそよぎ、垂れ幕が揺れて、その上をアジサシの群れがやかましく飛んでいく。 「本来なら署長の裁量だがね」と、群衆から一歩前に出て、髪を撫でつけながら、ジョージ・サントスが言った。「大統領が不在となれば、こういう事態も仕方ないわけだな」  見物人がざわめき、次に海と同じような静寂がやって来て、数知れない視線に背中を押されながら、サントスがそろりと前に進み出た。 「ジョージのお調子もんがよ。いくつんなっても馬鹿は治らねえや」と、スタッド氏の耳元で、囁《ささや》くように、タントラーが言った。  焼けつくような照り返しの中、サントスが十メートルほどクレーンに近づき、片手を腰にあてがって、もう一方の手を、空に向かって垂直に突きあげた。 「ミスターラーソン。君の主張は了解した。政府を代表して、必ずや善処すると約束しよう」  しばらく間があってから、逆光の中で影が動き、見物人の頭の上に、ラーソンの嗄《しわが》れた声が海鳴りのように響き渡った。 「おめえは誰だ」  サントスがその声に手を振り、また二、三歩クレーンに近づいて、群衆を見まわしながら、大きく声を張りあげた。 「私は大統領代行のジョージ・サントスだ。話は聞いてやるから、とにかくそこから降りてきたまえ」 「わしはおめえなんか知らねえぞ」 「私だよ。イチタロー・サントスの息子の、ジョージ・サントスだ」 「泥棒の息子か。おめえも泥棒をやってるんかや」  見物人がどよめき、その声が嘲笑《ちょうしょう》に変わって、湾を取り囲む珊瑚礁の海岸線に、熱い陸風が吹きつけた。狭い工事現場は汗と熱気と人息で、上昇気流まで湧き起こっていた。 「ミスターラーソン。君には国家に対する忠誠心がないのかね」 「わしはおめえなんか知らねえ」 「私を知らないことは分かった。君が知らなくても、私はこの国の大蔵大臣なのだ。君はわがズッグ共和国に対して反逆罪を犯している。政府を代表して命令する。アキカン・ラーソン、一刻も早くその場所から降りてきたまえ」  風の音か、鳥の羽音か。そう思った瞬間、逆光の中から、サントスの足元に一条の影が鋭く降りかかった。その矢は開いたサンダルの中間に命中し、コンクリートを突き刺して、余韻の矢羽の音を、低くぶーんと唸《うな》らせた。  サントスが尻餅《しりもち》をついたのは、足元に突き立った矢を確認してから、五秒の後だった。おとなしいズッグ人は相変わらずおとなしく、波のない海と、動かないカヌーと、頑固なまでの太陽が粛々とサントスの周りを取り囲んでいた。 「撃て。署長、撃っちまえ」  尻餅をついたまま、裸足で這い戻ってきて、わめきながら、サントスがクレーンの上を指さした。 「早く撃て。あの野郎、おめえのピストルで撃ち殺しちまえ」 「んだがなあ、ジョージよ」と、サントスを抱き起こしながら、一つ欠伸をして、署長が言った。「鉄砲を署に置いて来ちまったよ」 「馬鹿じゃねえかおめえ。相手は凶悪犯だぞ」 「持ってねえ鉄砲は撃てねえさ」 「大統領代行の俺を殺そうとしたんだ」 「ラーソンが本気なら、今ごろおめえの頭に羽根が立っていたんべ」 「署長、てめえ、凶悪犯の肩もつのか」 「わしは鉄砲を持ってこなかったと言っただけさ」 「それなら早く持ってこい。おめえがやらねえなら、俺がこの手で撃ち殺してやる」  ナカガワが二人の間に入っていき、クレーンと群衆を上目で見くらべながら、口髭に滴る汗をシャツの袖《そで》にこすりつけた。 「サントス大臣、ここは一つ、冷静な対処をお願いします」と、サントスのズボンをハンカチで払いながら、ナカガワが言った。「これ以上騒ぎを大きくするのは、お国のためにも得策ではありません」 「しかしあの野郎、大蔵大臣の俺を、知らねえとぬかしやがった」 「日本にも総理大臣の名前を知らない馬鹿はいます」 「親父が泥棒で、この俺のことも……」 「相手の作戦ですよ。挑発にのってはいけません」 「俺に弓まで射ったんだぜ」 「ねえ大臣。ここでもし死人が出たら、私としても工事を中断しなくてはならない。会社にも政府にも報告書を出す必要が出てくる。それで調査団でもやって来れば、工事はいっそう遅れてしまいます」  突き出されていたサントスの拳が、気弱く元の位置に戻り、それでも荒い呼吸が、しばらくの間耳障りに空気を震わせつづけた。 「政治的な判断ですよ、大臣」と、サントスの肩をたたきながら、片方の目を素早く細めて、ナカガワが言った。「この工事でトラブルでも起きれば、次年度のODA予算にも影響が出てきます。たかが変人の一人や二人、眼中に入れる必要はないと思いますがね」  そのとき、クレーンの上で軋み音が響き、だらりと垂れていた幕が、強い風にのって吹き流しのようにたなびき始めた。 「仲間のズッグ人よ。仲間の鳥よ。仲間の魚よ。みんなわしの話を聞いてくんない」と、輝く太陽を背に受けながら、威厳のある声で、ラーソンが言った。  ざわめきもどよめきも喧噪も、映画のコマが切れたように消え、工事現場に集まったなん百の視線が、憑《つ》かれたように、一斉に空をふり仰いだ。 「ズッグ島のみんな。エルロア島のみんな。はあ今はねえテワイのみんな。わしはおめえたちに言いてえ。おめえたちに聞いてもらいてえ。わしらズッグ人がどこから来たんか、どこへ行くべえとしてるんか、そのことをみんなに考えてもらいてえ」  嗄れたラーソンの声は、潮風と濃い日射しの中を朗々と響きわたり、その迫力が見物人の頭の上に、圧倒的な沈黙をもたらした。風がやみ、海鳥が鳴き、外洋の遠い波音が錯覚のように流れ込んでくる。 「なあみんな。おめえたちはどうして汗なんかかいてるんだや。今が昼だからか。太陽が強《つえ》えからか。しかしなあ、ズッグはなん百年もなん千年も昔から、朝んなりゃ太陽が出て夜には海風が吹いたんべえ。そのころは誰も暑《あち》いとは思わなかった。汗なんかかかなかった。このわしを見ろ。わしはおめえたちより太陽の近くにいる。んだがわしは汗をかいてねえ。それに比べておめえたちはどうだ。西洋人のシャツを着て、ズボンを穿いて、馬鹿なやつは背広にネクタイまで締めてやがる。おめえたちが暑《あち》いのは、汗なんかかいてるのは、伝統的なわしらの衣装を捨てたからだ。そんなゴム草履を買うために、シャツやズボンを買うために、おめえたちはなぜアメリカ人に頭をさげる。おめえたちのプライドは汗と一緒に流れ出ちまったのか。椰子の葉の腰蓑がそんなに格好|悪《わり》いか。海や風や太陽がわしらにこの腰蓑をくれたんじゃねえのか。ズッグ人の仲間よ、思い出してくれ。わしらの祖先はずっと昔、遥《はる》か遠い東の国からカヌーに乗って島にやって来た。わしらは魚を捕った。椰子の木やパンの木を植えた。タロ芋の畑を耕してパンダヌスで家を建てた。親は子に魚の捕り方を教えた。筵《むしろ》の編み方を教えた。星の見方を教えた。そうやってわしら、平和に暮らしてきたじゃねえか。わしらは一度でも飢えたことがあったか。友達同士が殺し合ったか。なあみんな、海亀の精霊を、椰子やバナナの精霊を、いつからわしらは忘れたんだ。わしは嵐《あらし》の海でカヌーの精霊に助けられたことがある。パンの木の精霊に、野豚の精霊に、おめえたちもみんな助けられてきた。わしらにはわしらの神がついてる。それなのになぜキリストなんかに頭をさげる。キリストがわしらに何をくれた。必要もねえシャツか? 必要もねえビールか。クルマか、鯖《さば》の缶詰めか、米の飯か。なあ、ズッグ人の仲間よ。エルロアからズッグに渡るのに、なぜおめえたちはカヌーを使わねえ。橋なんかなくても海は渡れる。クルマがなくても椰子の実は運べる。アメリカ人が作ったシャツを着て、日本人が造った橋を渡って、それでおめえたちは幸せなのか。アメリカ人や日本人の奴隷になって、紙の金で鍋や靴を買って、本当におめえたちは幸せなのか。魚の捕り方も忘れて、腰蓑の作り方も忘れて、それでみんなは幸せなのか。ズッグ人の仲間よ。わしの言葉に耳を澄ましてもらいてえ。ビルも橋もクルマもなかったころのズッグを思い出してもらいてえ。村中で海亀を分け合ったころの平和を思い出してくれ。アメリカ人や日本人に命令されなかったころの暮らしを、ズッグのすべての仲間、おめえたち一人一人、どうか思い出してもらいてえ。おめえたちが捨てちまったプライドを、捨てちまった暮らしを、伝統を、今ここで、わしら全員、しっかりと思い出すべえじゃねえか」  意図的にか、呼吸を整えるためにか、ラーソンの演説が中断され、気づまりな静寂が、深く群衆に襲いかかった。ジョージ・サントスは脱ぎ忘れたサンダルのことを忘れ、警察署長は署に置いてきたピストルのことを忘れ、タントラー大臣は汗を流すのを忘れていた。だれもが自分の着ている汗ばんだシャツを忘れ、太陽の熱気も光の強さも忘れていた。『アメリカ人は帰れ。日本人も出ていけ』と書かれた垂れ幕が、青い海と青い空を背景に、風を受けて、涼しそうにたなびいている。  突然、クレーンの上に閃光《せんこう》が走り、雷のような轟音《ごうおん》が響いたかと思うと、青黒い煙がラーソンの躰を、すっぽりと包み込んだ。爆発音はコンクリートに跳ね返り、海面を震わせ、工事小屋の窓ガラスをいやな音に共鳴させる。黒煙で雲は濁り、カモメが一目散に逃げ出していく。地に伏すものと、立ったままの見物人と、しかしその場に集まっている群衆の頭の上に、柔らかくて生暖かい粘着物が、公平にぴちゃりと降りそそぐ。垂れ幕が太陽と同じような色で、めらめらと燃えあがる。人々が唖然と見守る中、クレーンを覆っていた黒煙が徐々に薄れていき、そのときやっと、誰もが、爆発の意味と粘着物の意味に思い当たる。おとなしいズッグ人の群衆が、パニックを起こして奇っ怪な叫び声をあげる。血に染まった肉片の内には、腰蓑の繊維と一緒に、髪の毛や目玉も混じっていた。  腰を抜かした見物人や、逃げ惑う群衆の中に立ちつくしたまま、頬に張りついた肉片を剥ぎ取りながら、折れ曲がったクレーンを見あげて、スタッド氏は一人、絶望的な溜息をついた。流れてきた薄い黒煙に、プラスチック爆弾に使われる石油化合物の臭気を嗅《か》ぎ取ったのだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  スコールの強い雨が真横から窓ガラスをたたく。イギリス時代のホテルは窓枠も堅牢で、雨音はほとんど聞こえず、古い換気口から吃音《きつおん》と一緒に乾いたクーラーの風が流れ込む。シーツや枕カバーをコプラ油石鹸で洗うせいか、こんな部屋にまで甘ったるいコプラの匂いが漂っている。 「間抜けで粗雑で無神経で、だから私は野蛮人が嫌いなんだ。ガソリンは満タンだと言ったんですよ。私だって念を押した。それがどうです。島を半分ほどまわったらガス欠ときた。この国ではだれも信用できないということが、はっきり分かりましたよ」  スタッド氏がウインタースの部屋に来てから、もう十分が過ぎていたが、ウインタースは自分が無人の海岸でどれほどの苦難を強いられたか、一人で滔々《とうとう》と喋りつづけていた。やっと顔を見せた漁師をトポルにやり、カヌーでガソリンを運ばせるのに四時間もかかったこと。その漁師が不誠実で法外な手間賃を要求したこと。ガソリンは満タンであると、間違いなく自分は確認したこと。しかしクルマにはガスメーターがついているはずだし、ザワオとは言葉の問題で、どちらかが勘違いした可能性もある。漁師だって一日仕事を棒に振れば、それなりの手間賃は要求してくる。 「それはまあ、とんだ災難でしたな。ホテルの支配人にはわたしから抗議しておきましょう」と、外のスコールに目をやったまま、書き物机の椅子に腰をのせて、スタッド氏が言った。 「誠意というものがない。だいたいこの国の連中には契約の概念が分かっていないんだ。経済援助など、アメリカ政府は即刻中止するべきです」 「中止するか、援助額を増やすかは、難しいところでしょうな」  ウインタースが赤ら顔の鼻を鳴らし、ビールのグラスを取りあげて、うすくなった髪の毛に、苛々と指をつっ込んだ。 「そうでしたね。問題はそういうことではなかった。ラーソンとかいう男の演説、私も聞いてみたかったですよ」 「あなたの宗教は、なんです?」 「再洗礼派のカソリックですがね。どうかしましたか」 「キリストがわたしらに何をくれたかという命題は、たしかに難しい問題です」 「キリストは人類に愛をくれたじゃないですか。それだけでじゅうぶんでしょう」 「人類に愛を、ですか。なるほど、形がないので、つい忘れていた」  とっくに神なんか信じなくなっていたが、それにしてもキリストは白人だけを愛しすぎたかなと、胸の内で、スタッド氏は憮然と反省した。ウインタースの言う『人類』には、日本人も黒人も、そしてズッグ人も含まれてはいないだろう。 「あなたがラーソンの演説を聞かなかったのは、非常な幸運でした。ひどい言葉でキリストを罵《ののし》った」 「神を信じないからいつまでも野蛮で、いつまでも未開なんです」 「演説自体は、まあ、大したものではなかった」と、我慢しきれず、タバコに火をつけて、スタッド氏が言った。「アメリカの反戦主義者でも環境保護主義者でも、ラーソンよりはうまく喋ります。単純な自然回帰説が説得力を持つには、我々のほうが堕落しすぎている」 「ご高説はうけたまわりますがね。問題はラーソンが自爆に使った爆弾でしょう。プラスチック爆弾というのは、間違いありませんか」 「わたしはあなたが生まれる前から兵隊をやっていた。朝鮮戦争からベトナム戦争まで、戦場暮らしは二十年以上です」 「逆に言えばもう二十年近く実戦から離れている、ということでしょう」 「ミスターウインタース。わたしの言うことが信用できんと、そういう意味ですかな」  ウインタースが脚を組みかえ、ビールのグラスを透かして、ちらっとスタッド氏を盗み見た。 「そういうわけではありませんよ。で、どうですかね。あなたの経験からいって、使われたプラスチック爆弾の量は、どれほどだと思います?」 「ニトログリセリンの濃度次第です。しかしあの程度の爆発なら、五百グラムもあればじゅうぶんでしょう」 「五百グラム、ねえ。台湾漁船が積んでいた量の二十分の一ですか。いずれにしてもすでに、爆弾は運び込まれていた」 「あなたの勘が当たったわけです。ラーソンに目をつけたところは、さすがだった」 「反政府主義者はどこの国でも無茶をやりますからね」 「あれが見本だったのかも知れませんな」 「五百グラムが?」 「二十分の一なら、見本としては適当な量です」 「つまり、爆弾は、これ以上出てこないということですか」 「そいつは調べてみないと分かりません。しかしラーソンに背後関係が認められなかった場合は、とりあえず一件落着ということでしょう」 「漁船の船長が死んで、当事者のラーソンも死んでしまった。どうやってルートを解明するんです」 「時間をかけるしかありませんな。丹念に、ぽつりぽつりと、ね」 「悠長すぎませんかね」 「ほかに爆弾は運び込まれていないか。ラーソンはどうやって台湾船とつながりを持ったのか。調査の対象がはっきりしたわけですから、あとは時間の問題ということです」  ウインタースが色のうすい目を見開き、タバコの煙に眉《まゆ》をしかめながら、壁に向かって、ふっと息を吐いた。 「あれのほうはどうなりました」と、ソファの背に浅く頭をあずけて、ウインタースが言った。「例の……」 「大統領の後継は長男のジョージ・サントスで決まりでしょうな。すでに代行だと言って大きな顔をしている」 「ラーソンの件とは無関係、という結論ですか」 「結論を出すのはあなたの仕事です。しかしわたしの得た感触では、無関係だと思います」 「ジョージ・サントスというのはどういう男です」 「ハワイの大学に留学しておって、一応インテリだとされています。人格に問題がありますが、アメリカにとっては扱いやすい男でしょう」  タバコを灰皿でつぶし、外のスコールに目を細めながら、頬に浮いた脂を、スタッド氏がのんびりとこすりあげた。日向に長く立っていたせいか、目が少し充血し、鼻の頭には赤い日焼けが残っている。 「どうも、そういうことになると、私が出かけてくる状況でもなかったらしい」と、背もたれに頭をあずけたまま、テーブルに脚を投げ出して、ウインタースが言った。 「ミスターウインタース。もともとこの国に陰謀なんぞ似合わんのですよ」 「仰有るとおりだ。今日一日で私にも理解できましたよ。陰謀や謀略などという高級な芸当が、この国の人間に出来るはずはなかった」  ウインタースがなにを見てきたにせよ、この国の現状に興味を失ったというなら、それはそれで都合がいい。こういう男は早くハワイに帰ってもらって、本部でもどこでも、好きなように栄転すればいいのだ。 「今から手配すれば明後日《あさって》のヤップ便が間に合うはずだが……」と、タバコを取り出しかけ、そのままポケットに戻して、スタッド氏が言った。 「特別に見るところも無さそうですしね」 「報告は頻繁に入れましょう。ラーソンに同調者があったとも思えんが、爆弾の経緯だけは突き止めねばなりません」 「この国はあなたに任せて、私はハワイに戻ったほうがよさそうだ」 「魚釣りでもして骨休めをすることです。飛行機のチケットは、用意しておきますよ」  ウインタースがビールのグラスに手を伸ばし、表情を確認してから、またスコールに目をやって、スタッド氏はゆっくりと腰をあげた。雨足は嘘のように衰え、エルロア島の向こうはもう夕焼けに染まり始めている。雨待ちをしていたカヌーが一斉に湾を漕《こ》ぎ出し、エルロアやズッグの離村や、遠く離れたそれぞれの島に慌ただしく散っていく。この時間なら南洋蝉が喧《やかま》しく鳴いているはずだが、窓ガラスに遮られて、外の音はなにも聞こえなかった。  換気口からは乾いた風が吹き、部屋にはコプラ油の匂いが漂い、ボイラーの振動が低い音でコンクリートの壁を伝わってくる。昼間の架橋現場に散った肉片も、髪の毛も血も骨も内臓も、今のスコールで、たぶん、きれいに洗い流されている。 「おう、そうだ……」と、ドアに向かって歩き出しながら、ウインタースをふり返って、スタッド氏が言った。「明日はわたしのクルーザーをお使いください。この国にクルマを走らせる道はないが、海だけは、腐るほどありますからな」 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  雲が湧《わ》くだけの空が見渡す限りの地平線につづいている。椰子《やし》の木もなく、パンの木もなく、トクサベラやコルデニアなどの小|灌木《かんぼく》も見当たらない。海岸の一部分に生命力の強いマングローブが張りついているだけで、露天掘りで掘り尽くされた地面には石灰岩が固く露出している。日射しが乾いた岩面を焼き、スタッド氏のたるんだ皮膚にも容赦なく照りつける。作業小屋に使われていた建物は石壁も崩れ、散在する空き缶やビニール袋にも、もう人の気配はない。このテワイ島に海鳥が住みつき、流れついた椰子や草木で緑が戻ってくるまでに、これからなん万年もの時間が空費される。  岩山の間からデチロが顔を出し、足元に汗を流しながら、渋い顔で近づいてくる。暑さに慣れているデチロでもこの剥《む》き出しの熱気は堪《こた》えるらしい。顔からはいつも浮かべている愛想笑いが、すっかり消え失せていた。 「スタッドさん。なんだかよう、どこを見ても荷なんかねえけどなあ」  スタッド氏は廃屋の前に立って、シャツのボタンを外しながら、改めて景色の荒廃を確認してみた。空と海と灰色の地肌がつづくだけで、たしかにラーソンが荷物を隠せる場所はない。住民が島に帰ってきた形跡も、人間が上陸した痕跡《こんせき》もない。 「ラーソンさんが残したもんだんべ。こんなとこ探しても、おいら、ねえと思うけどなあ」  架橋現場の事件が二日前だから、いくら呑気《のんき》なデチロでも、テワイ島との関連には気をまわす。ここがラーソンの生まれ故郷であり、爆死までのすべての原因がこの島にあったことは、周知の事実なのだ。 「なあスタッドさん。どうでもいいけんど、ラーソンさんの何を探してるんだね」 「最初に言ったろう。鞄でも包みでも、なんでもだ」 「ある気はしねえがなあ」 「一応は探してみるんだ。ラーソンがなにか隠したとすれば、この島以外には考えられない」 「そんなもんかなあ。こんなくそ暑《あち》い思いまでして、おいらにゃスタッドさんの気が知れねえよ」  マングローブの上を頭の黒いアジサシが旋回し、空に爆音が響いて、クリフ・ウインタースの乗ったB727が低くヤップ島の方角に飛んでいく。 「そいでなあ、スタッドさん……」と、石灰岩の岩場にしゃがみながら、ビルマタバコに火をつけて、デチロが言った。「もしラーソンさんの荷物がめっかったら、どういうことになるんだんべね」 「それが分からんから探してる。おまえだってこの前の事件が雷だとは思わんだろう」 「おいらも映画ぐれえ観てるよ。ありゃ爆弾だいね」 「ラーソンが爆弾を使った理由は?」 「だからよう。アメリカ人とか日本人とかに、腹が立ったんじゃねえのかい」 「クレーンから飛び降りても死ねたんだぞ。他のズッグ人はよく首を吊《つ》って死ぬじゃないか。問題はなぜ、ラーソンが爆弾を持っていたかだ」  デチロがタバコの煙を吐き出し、目を細めて、一瞬、焼けつく空と飛んでいく飛行機を見くらべた。 「はああ。スタッドさんが探してたんは、爆弾っつうことか」 「爆弾がまだあるのかどうか、そのことを確かめている」 「あったとして、見つけ出しゃ、いい金で売れるかね」 「なあマイケル。わたしは……」  言いかけて、言葉を飲み込み、呑気にタバコを吹かしているデチロの顔を、憮然とスタッド氏が眺めおろした。身分を明かせれば話は簡単だが、たとえ説明したところで、国際情勢やCIAの活動をデチロが理解できるはずはない。 「ここだけの話だがな、マイケル……」と、デチロの表情を観察しながら、スタッド氏が言った。「もし爆弾があったとして、見つけ出したら、おまえに特別ボーナスを弾んでやろう」 「そいつは凄《すげ》えや。ボーナスって、いくらくれるん」 「給料の一年分だ」 「本当かね。そういうことならおいら、ぜったいめっけてやるべえ」 「だれにも言ってはいかんぞ。人数が多くなれば分け前が少なくなる。あくまでもわたしとおまえの、二人だけで見つけるんだ」  デチロが細めていた目を見開き、タバコを遠くに弾《はじ》いて、白い歯をにっと剥き出した。顔からはもう汗がひき、照りつける太陽に汚れたアロハシャツを涼しげに灸《あぶ》っている。どうせ爆弾なんか出てきはしないが、デチロを泳がせておけば、思わぬ情報を仕入れてこないとも限らない。 「スタッドさんよう、どうせならヘブテン島に行かねえかい」と、立ちあがって、デチロが言った。 「ヘブテン島に、なにがあるんだ」 「ヘブテンはラーソンさんが住んでた島なんだぜ」 「ラーソンが住んでいたのはエルロアだろう」 「知らねえけどよ。ヘブテンから来た女が、そんなこと言ってたからよう」  首筋に流れた汗を、手の甲で拭《ふ》きとり、焼却炉のような熱気に苛立《いらだ》ちながら、スタッド氏が低く咳《せき》払いをした。警察署長もエルロアを調べたと言うし、ラーソンが出没していたのも空港周辺だった。住居はエルロアだと思い込んでいたが、そういえばアキカン・ラーソンがどこに住んでいるのか、気に止めたことはなかったのだ。みんながみんなを知っている小国だからこそ、だれもがだれもに無関心だった可能性が、なくはない。 「そういうことなら、行ってみる価値はあるかも知れんな」と、タバコを抜き出し、火をつけてから、デチロをふり返って、スタッド氏が言った。「おまえ、ヘブテン島の場所は知っているのか」 「はあ近くじゃねえかい。ここからならカヌーで三十分だと。スタッドさんの船なら十分で行っちまうべえよ」  デチロが肩を揺すって歩き出し、スタッド氏も後について、タバコを吹かしながらクルーザーに向かい始めた。日射しは飽きるほど強烈で、廃棄された桟橋の向こうに穏やかなラグーンがつづいている。波のない海面は直接光を跳ね返し、環礁全体を濃い金色に塗り込める。  痩《や》せて、精悍《せいかん》で、身の軽いデチロは岩肌を飄々《ひょうひょう》と飛び越える。スタッド氏は自分の年齢と脂肪に、一人ごとで悪態をつく。早くクルーザーに戻って、水をかぶってビールでも飲まなければやり切れない。今のこの風景の荒廃が、昔の戦場の記憶に重なってきて、そのイメージを、スタッド氏は首を振ってふり払った。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  水平線を進むと、まず椰子の葉影が現れる。太平洋の孤島ならどこでも同じ情景で、それが環礁島であれば椰子は直接海面から突き出ているように見える。ココ椰子が海岸線に繁殖する理由は、性質の耐塩性による。固い外殻はなんヵ月もの漂流が可能だし、発芽までに外からの養分を必要としない。根は塩分の多い砂地に深く伸び、よくしげる葉は幹の根元に快適な陰りを提供する。このココ椰子とパンの木がなければ、地味の低い太平洋の島々に、たぶん人間は住み着けなかったろう。  デチロは「十分でつく」と言ったが、二人がヘブテン島につくまで、実際には一時間が必要だった。無人島や有人島が複雑に混在し、デチロ自身、故郷の島を離れて以降、すっかり航海士の本能をなくしていたのだ。  桟橋はなく、浜から上陸したヘブテン島は、周囲が二キロもない漁師だけの小島だった。浜の入り江に高床式の作業小屋があり、五、六人の男が黙々と網の繕い仕事をしている。海に近い部分に椰子の木、その奥にパンの木とバナナが散在し、野菜やタロ芋《いも》の畑は見当たらない。太陽は島の向こう側から照りつけ、珊瑚《さんご》の砂地を豚とニワトリが喧《やかま》しく走り回る。男たちはだれも声をかけず、子供も近寄ってはこない。内気なのか、プライドが高いのか、この愛想のなさがズッグ人に共通した特徴でもある。  椰子とバナナの疎林を抜け、奥へ入っていくと、木漏れ日の中に突然七、八軒の小屋が現れる。敷石はなく、壁はパンダヌスの筵《むしろ》で、どの小屋にも広場に向かう方向にトタン板の屋根がかぶせてある。昔は椰子の葉を葺《ふ》いていたのだろうが、今はこの屋根が雨水を溜《た》める集水装置になっている。小屋のまわりには夾竹桃《きょうちくとう》やクチナシの花が咲き、野生の無花果《いちじく》が固く小さい実をつけている。海鳴りもなく、風の音もなく、鳥の鳴き声も聞こえない。小屋の戸口では女たちが洗濯をし、子供をあやし、石臼《いしうす》でパンの木の実を粉についている。袖《そで》無しのワンピースを着ている女もいれば、上半身裸の老女もいる。だれもが寡黙で、無愛想で、スタッド氏とデチロに視線を向けようともしなかった。 「スタッドさんよう、タバコを貸してくんないね」  デチロが足を止めてふり返り、広場の奥を指さして、ウインクとも欠伸《あくび》ともつかない、生真面目な顔の歪《ゆが》め方をした。デチロだって安タバコは持っているはずだから、『貸せ』というからには、特別な意味があるのだろう。 「酋長《しゅうちょう》に挨拶《あいさつ》しておくんべ。面倒だけんど、昔からの決まりだからよう」  スタッド氏が箱ごとのタバコを渡し、デチロが歯を剥き出して、肩でリズムを取りながら、まっすぐ広場を横切り始めた。正面にはいくらか間口の広い小屋があって、なにかの理由で、デチロにはそれが酋長の家と分かるらしかった。  小屋の前まで来てから、デチロがバナナの葉を一枚はぎ取り、二個のタバコをその葉にくるんで、声もかけずに、すっと戸口に入り込んだ。内側は三メートル四方ほどの土間だったが、椰子の葉にパンダヌスのゴザが敷かれ、薄暗い中に半ズボン姿の男が茫然《ぼうぜん》と胡座《あぐら》をかいていた。 「これはこれは酋長さん。ご機嫌いかがだんべ」と、中腰になって、うやうやしくバナナの包みを差し出しながら、デチロが言った。「おいらはリモーア出のマイケル・デチロだいね。となりの人はアメリカ人のスタッドさんで、トポルででっけえ会社をやってるよ。ラーソンさんのことが聞きたくて来たんだけんど、どうか村に入ることを許してもらいてえ。これは酋長さんへの、ほんの手土産ってやつだよ」  デチロの口上が終わるまで、五十歳ほどのその男は胡座を組んだまま、視線も動かさず、厳然と正面を見つめつづけていた。それからおもむろに包みを受け取り、中のタバコを点検したあと、安くて本数の少ないデチロの箱を、黙って返してよこした。手土産を持ってくるのが昔からの決まりで、受け取った側はその半分を返すのが、やはり昔からの決まりのようだった。 「リモーアのマイケル・デチロ。アメリカのミスタースタッド。おめえらの用件はいさい承知した。ズッグ島酋長フレンドリー・カギバの名において、二人の入村に許可さくれてやんべえ。おめえらはわしの友達。ヘブテン島みんなの友達っと。まあ、そういうこって、二人ともご苦労さんよ」  デチロがタバコをポケットに戻しながら、ゴザの上に座り込み、それを見習って、スタッド氏も仕方なくとなりに腰をおろした。カギバ酋長の上半身は裸で、腹は大きく突き出し、赤銅色の顔にうすい胡麻塩髭《ごましおひげ》を生やしていた。にやりと開いた口は血が滴ったように赤く、知らなければ人食い人種かと恐れ入るところだ。 「今チャカウをふるまうからよ。なあ、話はその後でよかんべえ」  カギバ酋長が厳粛に宣言し、胡座をかいたまま、小屋の隅から汚いプラスチックの容器を取り出した。その中にビニール袋から灰色の粉をあけ、水をそそいで、しつこく指でかき回す。昔は特別な儀式にしか飲まなかった幻覚剤だが、今はトポルの屋台でも暇な男が一日中飲みふける。ポリネシアではカバといい、ミクロネシアの他の島では、シャカともシャカオともいう。もちろん本来は粉末ではなく、泥のついたチャカウの根を石で叩《たた》き、水を加えてからオオハマボウという植物と一緒に液体を絞りあげるものだ。土臭く、どろりとして、決してうまい飲み物ではない。アルコール分は含まれていないが、アルカロイド系の鎮静成分が軽い酔い心地をもたらす。チャカウを飲んで暴れる人間はなく、別名を『沈黙の酒』ともいう。  インスタントチャカウが出来あがり、カギバ酋長が一口飲んで、その容器を偉そうな仕種《しぐさ》でスタッド氏に回してきた。内心ではうんざりしたが、『そういう決まり』に抵抗するほど、スタッド氏も子供ではない。トポルを一歩出れば、ズッグの多くの土地で、まだこういう因習は強く残っているのだ。 「カギバ酋長……」と、チャカウを口に含み、舌先の痺《しび》れに閉口しながら、容器をデチロに渡して、スタッド氏が言った。「ミスターラーソンがこの村に住んでいたというのは、本当のことでしょうかな」 「あいつも派手なことを仕出かしたい。普段はおとなしくて、島のもんとは口をきかねえ野郎だった」 「テワイ島を離れてから、なぜラーソンはこの島に来たんです」 「行くとこがなきゃあ仕方ねかんべ。それになあ、奴《やつ》はわしの従兄弟《いとこ》なんだいね」  ラーソンの出身はテワイであり、カギバはこの島の酋長だ。その二人が従兄弟だという関係が、どうもスタッド氏には理解しきれない。 「ラーソンの叔母《おば》か誰かが、酋長の母上ということですかな」 「そういうこった。わしの親父がアキカンの親父と兄弟なんさ。そいでテワイに住めなくなったとき、奴の家族がここに渡ってきたわけよ」  人間関係はまだ納得できなかったが、ラーソンがこの島に住んでいたことだけは、どうやら間違いないらしい。家も残っているだろうし、そこを調べてみれば、ラーソンの実態におおよその見当はつく。 「マリア以外に、ラーソンには、家族がおるんでしょうかね」 「子供はマリア一人だいなあ。女房もおっちんじまったし、ほかに兄弟もいなかんべ」 「ラーソンはこの島で一人暮らしをしていたわけですか」 「村よりずーっと先だいね。裏の浜に一人で住んでいやがった」 「だれかが訪ねて来たようなことは?」 「アキカンに、だれが、どんな用事があるってよ」 「娘のマリアぐらいは来たでしょう」 「どうだかよう。来たとしても一年に一度か二度か、そんなもんだんべ」  カギバ酋長がチャカウを飲み干し、容器に粉と水を足して、また指でかき回し始めた。話がつづく限りチャカウ儀式もつづくらしく、スタッド氏は舌の痺れと一緒に、軽い吐き気をもよおした。 「そういえば……」と、酋長の差し出した容器に、口をつける真似《まね》だけして、スタッド氏が言った。「ミスターラーソンの葬式は、どういうことになりました?」 「わしゃあ知らねえ」 「島で出したんでしょう」 「うんにゃ。島ではやらねえ」 「遺体が返ってこないとか」 「詳しいことはマリアに訊《き》いてくんな。アキカンも変わってたけんど、マリアははあ、なに考えてるんだか気が知れねえやいね」  カギバ酋長が気難しい顔のまま、ビンロージュの実を取り出し、そのドングリほどの実を、むっつりと歯で噛《か》み割った。若者の間では少なくなっているが、ビンロージュ愛好は東南アジアからミクロネシアにかけて、まだ多くの男が習慣にしている。椰子科に属する高木の木の実で、石灰粉にまぶしたものを胡椒《こしょう》科の木の葉に包んで咀嚼《そしゃく》する。汁は唾液《だえき》との反応で赤く変色するから、口が人食い人種のような様相を呈する。見慣れているスタッド氏にとっても、口端から赤い唾液汁をたらすズッグ人の顔は、やはり不気味に感じられる。 「スタッドさんよう。ちょいとラーソンさんの家でも見べえかね」と、チャカウの椀《わん》を酋長に返し、目で合図をして、デチロが言った。 「時間もないことだしな。そういうことにしてみるか」 「ちょいと待ちねえ。アキカンの家なら、わしの倅《せがれ》に案内させてやらあ」  酋長がぺっと赤い唾《つば》を吐き、小屋の外に向かって、オットセイのような声をかけた。待機していたのか、隠れていたのか、ランニングシャツ姿の若者が黙って戸口に顔を覗《のぞ》かせた。縮れた髪を鳥の巣のように頭にのせた、陰気な顔立ちの男だった。 「倅のケネディーだがね。おいケネディー、この二人がアキカンの家を見てえんだと。裏の浜までおめえが連れてってやれや」 「はあ酋長さん、お心づかいは忘れねえよ」と、うしろにさがりながら、慇懃《いんぎん》に頭をさげて、デチロが言った。「酋長さんとテワイのみんなはおいらたちの友達。たくさん魚を捕って、たくさん子供を作って、末永く平和に暮らしてくんないね」  スタッド氏もデチロを真似て挨拶し、腰を屈《かが》めたまま、二人つづいて、うしろ向きに中庭を出た。スタッド氏のシャツは腋《わき》の下と背中に汗の染みをつくり、口中には不愉快なチャカウの舌触りが、まだひりひりと残っていた。  スタッド氏はデチロの胸ポケットに手を伸ばし、タバコを一本抜き出して、空を見あげながら火をつけた。椰子の葉を透かして青い空が覗き、海からの風がかすかにバナナの葉を揺らしている。女たちは相変わらず無表情で、酋長への『決まり』を果たしたぐらいでは、二人を友達とは認めないようだった。豚が走り、ニワトリが騒ぎ、黒い裸の子供がひきつけを起こして泣き叫ぶ。  ケネディーが黙ったまま歩き出し、村の広場を横切って、椰子だけの小道を北側に進みはじめた。スタッド氏とデチロもタバコを吹かしながら、黙って跡についていった。カギバ酋長は『村よりずーっと先』と言ったが、歩いた時間はせいぜい五分間だった。椰子の疎林が途切れ、羊歯やウエデリアの雑草地がつづき、それからまた椰子林が見え、向こう側に狭い入り江がひらけてくる。傾いた日射しが直接白い浜を灸り、気温は一気に、十度ほど跳ねあがる。水際から三十メートルほど離れた場所に、疲れ切ったような掛け小屋が現れる。  ケネディーが小屋に近づき、筵《むしろ》の戸を跳ねあげて、スタッド氏とデチロに、黙ってうなずいた。口がきけないわけでもないのだろうに、まだよそ者と言葉を交わす気にはならないらしかった。  スタッド氏は額の汗を手の甲で拭《ぬぐ》い、大きく溜息《ためいき》をついて、小屋の周りを見まわしてみた。粒の小さい珊瑚が几帳面《きちょうめん》に敷きつめられ、出入り口の前にはやはり珊瑚の岩で炊事用のかまどが組んである。かまどにはアルミの鍋《なべ》がかかり、となりには燃料に使う椰子殻や流木が積んである。小屋を囲むように実をつけた椰子がしげって、手入れをされたバナナと、パンの木の大木が植わっている。小屋の壁は椰子の葉で、トタン板の屋根から下のポリタンクまでは竹の雨樋《あまどい》がつづく。小屋には魚を突く銛《もり》と筌《うけ》がぶらさがり、椰子の実繊維でよったロープもかかっている。ラーソンが言ったとおり、これだけの道具で、人間一人ぐらいはどうにでも生きていけるということだ。  デチロが周囲を歩きはじめ、ケネディーを残して、スタッド氏は一人で小屋の中を覗き込んだ。広さは酋長の小屋と同じぐらい。四隅の細い柱にはシャツやコップやステンレスの山刀が掛かっている。パンダヌスのゴザも酋長の小屋と同じで、毛布のような夜具はない。プラカードは見当たらず、筆記用具も本もノートもない。灯油ランプも蝋燭《ろうそく》もないから、夜はひたすら眠る主義だったのか。かろうじて文明を感じさせるのは、コップの下に掛かっている旧式のトランジスタラジオだけだった。  スタッド氏は試しにパンダヌスのゴザをめくってみた。掘り返した跡も、物を埋めた痕跡もなかった。手紙や書類の類《たぐ》いもなく、ラーソンが政治的な行動をとっていた気配は、小屋のどこにも見当たらなかった。こんな環境の中から、マリアのような優雅な女が、どうやって育っていったのだろう。  デチロが戸口をくぐってきて、大袈裟《おおげさ》に肩をすくめ、眉《まゆ》をひそめて小屋の中を見まわした。汗をかいてないデチロが、スタッド氏には少しだけ憎らしかった。 「なあスタッドさん。外には何もねえやなあ」と、頭を掻《か》きながら、デチロが言った。 「中にもないようだな」 「たとえばだがね。その爆弾があったとしたら、どれぐれえの大きさかね」 「見当もつかん。まあ、せいぜい、旅行者が持ってくるトランクぐらいだろう」 「トランクぐらいの大きさ、ねえ」  リズムをとって肩を揺すり、柱の手斧《ちょうな》をもてあそびながら、デチロが、ひゅっと口笛を吹いた。 「隠す気ならどこにでも隠せるね。こんな島は五十もあるし、ズッグやエルロアには森もあらあ」 「おまえでも探せんということか」 「そうじゃねえけどよ。ただ見てまわるだけじゃ、はあ埒《らち》はあかねえだんべ」  こんな小島が無数にあり、ラーソンが神出鬼没であったことぐらい、スタッド氏だって承知している。知りたいのはラーソンと台湾漁船とのつながりで、探しているのはその手がかりなのだ。デチロに課した役割は、今のところ、あくまでも藪《やぶ》をつついて回らせることだった。  スタッド氏が会釈をし、薄暗い小屋から、二人は外に出た。ケネディーもまだ帰っておらず、小屋から離れた木陰で太い倒木に寄りかかっていた。日射《ひざ》しは西に傾いているが、どういうわけか、まだスコールの気配は見えない。  ケネディーの横まで歩いたスタッド氏が、デチロからタバコを受け取りながら、倒木の端に腰をおろした。 「ご苦労だったな、未来の大酋長」と、一ドル札をケネディーに渡して、スタッド氏が言った。 「ところでこの小屋や荷物は、だれのものになるんだ」  ケネディーが半ズボンのポケットに札をしまい、陰鬱《いんうつ》な表情のまま、目だけをいやな色に光らせた。歳に似合わず、酋長と同じように、口中をビンロージュで真っ赤に染めている。 「マリアさんは要らねえと。んだから銛や鍋は、島のだれかが使うだんべ」と、陰気な声で、面倒くさそうに、ケネディーが言った。 「マリアから直接に聞いたのか」 「んだってよう、親父様の使いで、おいらがズッグに行ったんだもんな」 「マリアさんは他に、なにを言っていた?」 「とにかく勝手にしろとよ。ラーソンさんがあんなことして、迷惑なんだと。非国民のために葬式なんか出したくねえんだと」  ラーソンの遺体がどうなったのか。あのまま海に流したのか。警察が処理をしたという話は、スタッド氏も聞いていなかった。たしかに迷惑ではあったろうが、爆死した当日さえ、マリアは店を開いていた。人間の死に対してズッグ人が淡白なのか、それとも反政府主義を掲げる父親と、マリアは、たんに距離を置きたいだけなのか。 「マリアと父親のことだがな。普段の行き来は、していなかったのかね」 「知らねえなあ。浜は村から離れてるしよ。ラーソンさんは一人でサメや海亀を捕らえてた。漁の腕前はすげえ人だったよ」 「外国の船が来たことはないかね」 「海が浅えもんなあ。でっけえ船は入れねえ」 「マリアさん以外に、だれかがアキカンを訪ねてきたことは?」 「あんたらが初めてだいね」 「島で親しくしていた人間は、いるか」 「口をきかねえ人だったよ。だれもラーソンさんにゃ近寄らなかった。島の寄り合いにも出てこなかった。とにかく、なんつんか、えれえ変わった人だった」  ケネディーが陰気に顔を歪め、スタッド氏とデチロの顔を見くらべながら、倒木に刺さっていた手斧を、無表情に引き抜いた。手斧や山刀は貴重品のはずだから、これはそのまま、ケネディーの所有物になるのだろう。 「ははーん。ラーソンさんは新しいカヌーをこさえてたんだな」と、珊瑚の地面にしゃがみ込んで、デチロが言った。「そういや前のカヌーは、どこだんべ」  狭い入り江には西日が輝き、ラグーンの静かな波が打ち寄せるだけで、たしかにカヌーは見当たらない。爆死の当日にラーソンが乗って出たカヌーは、ズッグかエルロアの、どこかにあるということだ。  入り江を簡単に見まわし、腰をあげて、スタッド氏は改めてその倒木を確認した。今まで気づかなかったが、デチロの言うとおり、それは削りかけのパンの大木だった。ズッグのカヌーはパンの木をたて割りにし、手斧で内側を丹念に削り込んでいく。いわゆるくり抜きカヌーというやつで、手斧が刺さったままということは、死の直前まで、ラーソンは新しいカヌーを造ろうとしていたのだ。 「なあマイケル」と、胃に圧迫を感じながら、削りかけのカヌーを注視して、スタッド氏が言った。「このカヌー、あとどれぐらいで出来あがったと思う?」 「さあなあ。普通は男たちが共同でやる仕事なんさ」 「工程はどこまで進んでいるんだ」 「半分か、それよりちょいと先かなあ。くり抜きさえ終わりゃ、あとは世話ねえもんな」  スタッド氏は腕を組み、橋の工事現場で展開された情景を、頭の中で再現してみた。演説は民族の将来を憂いたものであり、白人や日本人やサントス政権に対する、明らかな憤死だった。手段にプラスチック爆弾が使用されたことも、間違いはないだろう。ラーソンは日常的に反政府行動をとっており、動機の点でも納得はいく。しかしそれなら、この削りかけのカヌーは、どういうことなのか。死を覚悟した人間が、自殺を決意した人間が、その直前に新しいカヌーを造ろうとするだろうか。気温がさがったわけでもないのに、背中に鳥肌が立ち、スタッド氏はぶるっと身震いをした。 「マイケル。スコールが来る前に、引きあげるとするかな」と、悪寒を振り払い、たるんだ頬の肉をこすって、スタッド氏が言った。  デチロが立ちあがり、ケネディーも削りかけのカヌーから、緩慢な動作で腰をあげた。そろそろ潮が満ちてくる時間で、それでもスコールの気配は感じられない。太陽は白い雲の向こう側に隠れ、いくらもしないうちに浜風は海風に変わる。この退屈で単純なズッグの風景に、偽装殺人などという複雑な現象は、どう考えても馴染《なじ》まない。 「スタッドさんよう……」と、灌木の疎林を進みながら、耳元で小さく、デチロが言った。「さっきのはちっと、まずかったいね」  ズボンのポケットに両手を入れ、目でスタッド氏が訊き返した。 「ケネディーは酋長になれねえんだよ」 「どういうことだ」 「酋長の倅は酋長にゃなれねえ。昔からの決まりなんさ」 「酋長の倅だから、酋長になるんだろう」 「スタッドさんは知らねえだんべけど、ズッグじゃ昔から、物とか地位は母ちゃんの身内が引き継ぐんだ。だからヘブテンの酋長になるんも今の酋長の、母方の甥《おい》っ子ってことだいね」  スタッド氏には理解しにくい人間関係ではあるが、要するに『母系相続』という、ミクロネシア圏では一般的な社会形態なのだ。 「それでケネディーはさっき、いやな顔をしたわけか」  理屈が分かってきて、汗を拭きながら、スタッド氏は軽く欠伸をした。カギバ酋長の父親とラーソンの父親が兄弟ということも、それなら納得がいく。父親というのは子種を提供するだけの存在だから、たとえ他島の人間であっても、母方の血統によっては生まれた子供が酋長になる可能性もあるのだろう。 「おいらなあスタッドさん」と、可笑《おか》しそうに笑いながら、目配せをして、デチロが言った。「ラーソンさんのカヌーをめっけるよ。そん中に荷物があったら、はあ一年分のボーナスだもんなあ」  足に絡まる雑草を蹴《け》飛ばし、溜息をついて、むっつりとスタッド氏がうなずいた。爆弾があってもなくても、手順としてラーソンのカヌーは調べておく必要がある。アメリカ人だってクルマのダッシュボードに、たまには重要書類を隠すではないか。ズッグ人のカヌーは、欧米人にとってのクルマのようなものなのだ。  頭の中に二日前の光景を思い浮かべながら、記憶を横切ったクレーンや見物人に、スタッド氏は、ちっと舌打ちをした。軒下に身を隠していたマリア。巨体から大量の汗を流すタントラー外務大臣。ヒステリーを起こしたジョージ・サントス。見物人に紛れていたマルカネ・ザワオ。商社員のナカガワもいたし、文部大臣のスーサン・タンジェロの顔もあった。 「ぽつりぽつりと、ゆっくりやるんだ」と、汗を拭きながら、デチロに聞こえることは承知で、スタッド氏は一人ごとを言った。「ゆっくりやればいいんだ。どうせ誰も、この島国からは逃げ出さんからな」 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  タバコの煙とアメリカの古いポピュラー音楽。テレビ画面の近くには観光客が陣取り、それを遠巻きに、地元の常連がテーブルにビールとタバコの箱を並べたてる。テレビに対して地元民が観光客に遠慮しているわけではなく、もともと『ダイアナ』に通えるような客は、家にビデオを設置できる人間に限られているのだ。  裁判所の長官から大蔵大臣のジョージ・サントスまで、テーブルを囲んでいるのは、このままズッグ共和国政府の閣議でも開けそうな顔ぶれだった。タントラー外務大臣は三人分の椅子《いす》を占拠し、ビールと一緒に、大皿のハンバーガーを黙々と片付けている。マルカネ・ザワオとスーサン・タンジェロは並んで座り、相槌《あいづち》を打つ役にだけ徹している。警察署長や裁判所の長官も口数は少なく、主役はジョージ・サントスとカズマサ・ナカガワになっているらしい。キャスリンや他のホステスが頻繁にビールと料理を運び、ロングドレスを着たマリア・ラーソンがときたま、流れるようにテーブルの間を移動する。 「しかしなあ、弱ったもんだ」と、ネクタイの端に指を絡めながら、組んだ足を貧乏揺すりさせて、ジョージ・サントスが言った。「ミスターナカガワ。やはり私が日本に飛んで、事情の釈明をするべきではないかね」 「それは感心しません。大臣が乗り出せば、それこそ藪蛇になってしまいますよ」  ナカガワが縁なしの眼鏡を光らせ、ブランデーのグラスを弄《もてあそ》びながら、しゅっと鼻水をすすった。 「ご心配いりませんよ。中断は一時的なものです。筋の通った報告書さえ出せれば、工事は翌日にでも再開されます」 「筋なんかどうやって通すんだ。ラーソンが反政府活動家であったことは、だれでも知っている」 「頭のおかしい人間はどこの国にもいるものです。政府が一いち責任を取れません」 「日本やアメリカのような大国はいいさ。しかしODAや無償援助が打ち切られたら、このズッグはどうなる。大統領をはじめ私たち全員、昔のような原始生活に戻されるんだぞ」 「いくらなんでもジョージ、そりゃあ大袈裟だんべ」と、はだけたシャツの胸を掌でさすり、ぎょろりと目玉を回して、タントラーが言った。「ズッグだって独立国だぜ。着々と近代化の道を歩んでらあ」 「ウガウは認識が甘いんだよ。コプラの輸出だけで近代化ができるか。だいいちラーソンを見逃しておいたのは、あんたの責任なんだぞ」 「わしのどこに責任がある? おめえには民主主義が分かってねえよ」 「言い逃れをするな。私はラーソンを捕まえろと主張していた。あんたがそれに反対した」 「だからよう、お互いに意見を出し合って、ラーソンのことは閣議決定したんべな。閣議で決めたからにゃ政府の責任さ。それを民主主義っていうんだい」  身を乗り出しかけたサントスを、手で制し、眼鏡を押さえながら、ナカガワが陰気な目で首を振ってみせた。 「お二人とも冷静にお願いしますよ。浮き足立つほどの問題ではありません。日本の外務大臣にはマージンを納めています。次官や南洋課の官僚にも金は使っている。ここは騒ぎを大きくしないで、ほとぼりが冷めるのを待とうじゃないですか」 「自分の腹は痛まねえしなあ」と、ハンバーガーを齧《かじ》りながら、鼻の穴を膨らませて、タントラーが言った。「商社員ってのも気楽な商売だいね」 「なにを仰有《おっしゃ》る、タントラー大臣」  ナカガワがブランデーのグラスを取り、テーブルを見渡しながら、憚《はばか》りもなく頬の片側を緊張させた。 「私はお国のためを思って仕事をしているのですよ。橋の次は道路、道路の次はクルマ、クルマの次は産業。すべてズッグに必要なものでしょう」 「そういう仕事で商社は儲《もう》かるんだい。資金の半分は日本の政治家に吸い取られる。本当なら金は全部、わしらズッグ人が貰《もら》うはずだんべ」 「ODAは慈善事業ではないのです。どこの世界に、ただで金をくれる人間がいますか。ODA資金は日本国民の税金です。はっきり申しあげると、われわれはその税金を無駄使いしているわけです。政治家への賄賂《わいろ》や商社の利益は、無駄使いを悟られないための必要経費と思っていただきたい」 「必要経費を作り出すために、無理やりODAをやるんじゃねえのかい」 「考え方はご自由です。しかしタントラー大臣、実際に橋を造っているのは日本の税金ですよ。今あなたが飲んでおられるビール代も、日本人の税金から支払われるんだ」  タントラーが大きく目を剥き、頬の肉を震わせながら、掌の中で、ハンバーガーをぐちゃりと押しつぶした。  テーブルにマルカネ・ザワオが、ぽんとタバコの箱を放り出す。 「まあ、なんだいのう。どっちにしても、持ちつ持たれつってやつだんべ。日本とズッグは仲よくやるがいい。橋や道路を造って観光客を呼んで、それで日本人もズッグ人も、仲よく金を儲けべえよ」  鼻を鳴らしながら、ナカガワが椅子に背中を引き、その状況を見越したように、マリア・ラーソンがブランデーのグラスを取りかえに来た。タントラーもとぼけた目で指をしゃぶりはじめ、警察署長と裁判所の長官が、顔を見合わせて、乾いたつくり笑いを浮かべる。 「そういうことだ。窮地に立ったときこそ、お互いの信頼を確認しあうべきだ」と、一同の顔を見まわし、一人一人に会釈をして、ジョージ・サントスが言った。「ミスターナカガワは経済人でもあるが、ズッグにおいては日本政府の代表でもある。これまでの実績を信頼し、ここは一つ、彼の手腕に期待しようではないか」  酔いがまわったのか、頬と目を赤く染め、欠伸をこらえるような顔で、ナカガワがなん度かうなずいた。 「フィリピンの工事現場からクレーンを寄こすよう、本社に打診しています。それよりも問題は治安でしょう。今回の件はこちら側で処理できるとしても、やはりあれはまずい。第二第三のラーソンが現れたら、わたしの手には負えなくなりますよ」 「ご免なさいね、皆さんには迷惑をかけてしまったわ」と、空いている椅子に浅く座り、髪を肩のうしろに払って、マリアが言った。 「そういう意味ではないんだ。マリア、誤解しないでくれたまえ。君を責めてはいないんだよ」 「いいの。ナカガワさんに悪気はないのよ。父を止められなかったことは、わたしの責任なの」 「君に責任はない。そんなことは、だれも言ってないよ。お父上が君を困らせていたことは、この国のみんなが知っている」 「や、それにしてもだなあ」と、テーブルに肘《ひじ》をかけ、わざとらしくマリアから顔を背けて、サントスが言った。「親父さんが爆弾を持っていることは、やはり通報するべきだったな」 「知らなかったのよ。爆弾のことも知らなかった。父があそこまでするとも思わなかった。プラカードのことだって、なん度もやめるように頼んだわ」 「マリア。もういいんだよ。二度とこういう事件が起こらなければ、それでいいんだから」  それまで黙っていた文部大臣のスーサン・タンジェロが、ビールを飲み干し、たばこの煙を透かすように、視線を警察署長のほうに振り向けた。 「実際問題として、事件の捜査は、順調に進んでいるのかね」 「やあ、まあ、それなんだいなあ」と、白髪の混じった頭を掻きながら、テーブルを見回して、署長が言った。「本人は死んじまった。自殺であることも間違いねえ。とすりゃあよ、問題は爆弾の出どこだんべ。橋の工事にゃダイナマイトは使わねえ。そこでわしゃあ考えたな。ありゃあもともと、ラーソンが持ってたやつじゃねえんかとよ」  スーサン・タンジェロが感嘆するように口を開き、目の角度で、署長に先を促した。ズッグ人にしては皮膚の色のうすい、端正な顔の男だった。 「みんなも知ってべえよ。なあマリア、おめえらが住んでたんは、もともとテワイだったいなあ」  マリアがうなずき、テーブルを囲んでいた全員も、それぞれに小さくうなずいた。 「はあ昔のことだがよ。テワイじゃイギリス人が燐《りん》鉱石を掘ってたんべえ。たまにゃあでっけえ音がしてたい。ダイナマイトで鉱脈をぶっとばしたんよ。ラーソンはそのダイナマイトを盗んだんだな。いつかイギリス人をぶっとばすべえと思ってたやつを、自分で使ったってことじゃねえかさあ」  少し間があってから、裁判所の長官が拍手をはじめ、テーブルがざわついて、咳払いや足踏みといった、肯定の意思表示が一座の中に充満した。 「見事な推理だ。たしかにその通りだ」と、厚い唇からにっと歯をむき出して、ジョージ・サントスが言った。「それ以外には考えられんから、それが真実ということだよ。ミスターナカガワ、これで日本へ、筋の通った報告書が出せるのではないかね」 「ラーソンの行為はイギリス政府への抗議と、そういうことですか」 「妥当な解釈だろう。一時日本軍が占拠したといっても、諸悪の根源はイギリスにあるんだ。ラーソンはイギリス人から盗んだダイナマイトを使い、イギリス人に抗議して爆死した。この解釈で問題はすべて解決する」 「わしもその意見に賛成だいね」と、ビールをらっぱ飲みし、豪快に腹を揺すって、タントラーが言った。「ズッグ政府は現在、イギリスからは一銭の金も貰ってねえ」 「マリアには気の毒だがよう。もともと政府に盾突いてたんは親父さん一人だ。そのラーソンがおっちんだってことは、こういう事件は二度と起こらねえってことだんべ。わしが思うにゃ、はあ一件落着だいなあ」  長官がまた拍手をはじめ、会釈の波がテーブルを一まわりしたころ、咳払いをして、ジョージ・サントスがおもむろに腰をあげた。 「警察署長が見事職務を果たしたことに対して、大統領代行として感謝を申しあげる。明日さっそく閣議を開こうではないか。その場で今の見解を、ズッグ共和国政府の公式見解として決定する。その発表をもってラーソンの問題は、すべて決着するものと信じたい」 「ジョージよ。はあ演説はよかんべえ」と、ビール瓶をテーブルに転がし、椅子を大きく軋《きし》らせて、タントラーが言った。「事が丸く収まりゃそれでいいやい。マリア、ビールと食い物をもって来いや。今日の勘定は政府の交際費だってからよ」  サントスが口の中でなにか言い、憮然《ぶぜん》と腰をしずめ、代わりにマリアが席を立って、フロアをまわりながら厨房《ちゅうぼう》のほうに歩いていった。ナカガワとスーサン・タンジェロがうしろ姿を目で追っていたが、二人の気配に気づいたのは、となりのテーブルでビールを飲んでいた、スタッド氏一人だけだった。 「まだ発表の段階ではないんですがね」と、ブランデーを気持ち良さそうになめ、目尻《めじり》にうすい笑いを浮かべて、ナカガワが言った。「お祝いの席になったようだから、この場でみなさんに報告しておきましょう」  サントスとタントラーが一瞬口を閉じ、マルカネ・ザワオがタバコをくわえて、黙って火をつけた。 「実はですね、ズッグへの次期ODA計画が、どうやら承認されそうな形勢なのです。日本の外務省から連絡が入りました。プロジェクトの予算は一億ドル程度ということです」 「そいつはまた、うめえ話だいなあ」と、黒い顔を脂で光らせ、やって来た伊勢エビを手づかみにして、タントラーが言った。「少なくとも五千万ドルは、ズッグに入るわけだい」 「ウガウ、皮肉はやめて、ミスターナカガワの話を聞きたまえ」 「皮肉なんか言ってねえよ。なんにしたって金が入るのは、めでてえことじゃねえか」  ナカガワが指先で眼鏡を押しあげ、髪をていねいに撫《な》でつけて、またブランデーのグラスに腕を伸ばした。 「正直に申しあげると、今回の架橋工事は当社の見込み違いでした。橋を造ってもクルマがなければ、経済効果にはつながりません。国民のすべてがクルマを所有したとしても、走りまわる道自体がないのです」 「それぐれえ最初《はな》から分かってらあね」 「タントラー大臣。経済に無駄は付きものですよ。どうせ日本人の税金ですから、次回に教訓を生かせばいいわけです。そこで私が考えたのは、カナカ山の山頂に衛星放送の受信基地を建設するというものです。香港やシンガポールから直接テレビ放送が入ってくれば、この国の民度は飛躍的に向上するはずです」 「それは、結構なお話だが……」と、静かにビールを飲み、理知的な額に太い皺《しわ》を刻んで、スーサン・タンジェロが言った。「各家庭へのテレビも、日本のお国が提供してくれるのですか」 「問題はそこですよ。日本の国民もそれほど愚かではありません。自分たちの税金でテレビまで配ったと分かれば、ODAの正体は丸見えになります。最終的にはやはり、ズッグ国民の自立ということでしょう」 「ズッグはズッグとして、自立をしていますがね」 「それは見当違いです。自立をしているならなぜ貧しいのですか。このズッグ共和国において何が不足しているか、考えたことがおありですか。国土面積? 資源? 教育? それぞれ一理はありますが、根本的には国民の労働意欲です。ズッグ国民はだれも真剣に働こうとしない。生活を向上させようという意欲がない。貧しさの原因は、国民のその意識にあるのです」  一同が黙り込み、ライターや食器の音が気まずく響く中、ブランデーで頬を染めたナカガワが、足を組んで椅子の背にふんぞり返った。 「テレビがもたらす経済効果は、東南アジアの国々で実証済みです。テレビは麻薬なのです。一度観はじめたらもう止まらない。次の日も次の日も、毎日観たくなる。となりの家にテレビがあれば自分も欲しくなる。椰子の実が落ちてくるのを待っているだけでは、とうていテレビは買えない。これまでの十倍は働くようになる。そしてテレビを観はじめれば、洋服や食品や電化製品や、コマーシャルで新しいものが限りなく紹介される。それがまた欲しくなって、人間は二十倍も三十倍も働く。そういう好循環で、ズッグ共和国の経済は無限に発展をつづけるのです」 「んだけんどよう、ナカガワ」と、エビの殻をぐちゃりと潰《つぶ》し、舌なめずりをしながら、タントラーが言った。「コプラは十倍も取れねえし、魚だってはあ限度だんべ。おめえがコンピュータの工場でも持ってきてくれるんかい」 「ズッグの国民性に工業は似合いませんよ。考えられるのは商品作物の開発です。ズッグとエルロアの森林を切り開けば、コーヒーのプランテーションが可能になります。コーヒーを輸出して外貨を稼ぐ。その外貨を国際金融資本に投資する。国庫も潤うし、国民生活も向上する。結果を出せば日本国民も納得しますから、そこからまた新たなODA資金が引き出せる。私はズッグ国政府と国民に、大いなる期待を寄せています」  ナカガワが一人一人の顔を確認し、ブランデーのグラスを掲げて、尊大《そんだい》に乾杯の仕種《しぐさ》をした。ナカガワの演説が功を奏したのか、将来の夢を追うように、全員が陽気にビールのグラスを差し出す。この狭い国土を日本製のクルマが走り回り、テレビのアンテナが林立し、男はみな背広に皮靴で舗装路を闊歩《かっぽ》する。女たちはハイヒールを履いて、ファンデーションを塗りたくり、携帯電話を弄びながらスーパーマーケットで山のような買い物をする。程度の差こそあれ、だれの頭にも、一瞬そんな光景が広がったようだった。 「サントス大臣。ええと、その、ラーソンの件を閣議決定されたら、公式見解の、コピーをいただけますか」と、乱れる呂律を自重するように、腰を浮かせながら、ナカガワが言った。 「当然のことだよ。正午《ひる》までには書類を作っておく。好きなとき取りに来たまえ」 「ご協力に感謝いたします。ではみなさん、私は報告書の作成をせねばなりません。お先に失礼しますが、今夜は、まったく、実に楽しかった」  ナカガワが日本人特有の、へりくだった挨拶をし、いくらかよろけながら、フロアのまん中を出口に向かいはじめた。マリアがカウンターから歩いてきて、そのナカガワをドアまで見送る。テーブルにはグラスを重ねる音がよみがえり、タバコの煙とタントラーのゲップが、激しく交錯し始める。テレビでは『ランボー』のビデオが終わって、観光客がひっそりとざわめく。キャスリンが鼻唄《はなうた》を歌いながらテレビに近づき、ブルース・リーのビデオをデッキにセットする。  立ちあがって、スタッド氏は十ドル札をテーブルに置き、たまたま目があったタントラー大臣に、黙って会釈をした。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 『ダイアナ』の華やかさを見物するだけの若者が、今夜も波止場ぞいにたむろする。湾は黒く静まりかえり、風はなく、対岸のエルロア島には人家の明かりが緩慢に散り映える。街灯のない倉庫街をナカガワが工事現場の方向に歩き、そのあとをスタッド氏の巨体が悠然と追っていく。道は波止場から架橋工事現場、そしてタロン地区へとつづく。ところどころ、暗闇《くらやみ》の中に、黒いズッグ人が幻のように佇《たたず》んでいる。貨物船でも入ってきたのか、湾の東水路から低いエンジン音が響いてくる。  工事現場に近づき、先の折れたクレーンが星空に突き出すあたり、スタッド氏がナカガワを追い越し、立ち止まって、気さくに振り返った。 「スコールがなかったせいか、今夜は一段と暑いですな」  アメリカなら強盗に間違えられるところだが、これがただの挨拶であることぐらい、ズッグでは共通の確信になっている。ナカガワが酔眼の焦点をスタッド氏に合わせ、眼鏡の向こうから慇懃に笑いかける。 「やあ、スタッドさん。さっき『ダイアナ』におられましたね」 「散歩に出てきたんですよ。あのまま店におったら、大臣たちにつかまり兼ねない」  ナカガワがしたり顔でうなずき、肩をそびやかして、皮靴を湿気《しけ》った音で踏み鳴らした。 「まったくね。郷に入らば郷に従えというけど、私だって疲れますからね」 「その若さで頑張っておられるではないですか。ナカガワさん、お何歳《いくつ》です?」 「三十六ですよ。こんな国にいるお陰で、いまだに結婚もできません」  スタッド氏が頬をゆるめ、シャツのポケットから取り出したタバコを、ナカガワにすすめる。ナカガワが受け取り、スタッド氏が二本のタバコに火をつける。 「それにしても騒ぎでしたなあ」と、タロンの方向に歩き出し、クレーンを斜めに見あげながら、スタッド氏が言った。「五年もズッグに住んでおるが、こんな事件は初めてですよ」 「反日感情とか反米感情とか、なんとかなりませんかね。こっちだって悪気があるわけじゃないんだから」 「理解せん人間が少しだけおるというだけのことでしょう。あなたがこの国のために働いておることは、みんなが認めています」 「どうですかね。どこまで分かっているのか、私には疑問です。本音を言うと、できるものなら、早く日本に帰りたいですよ」  工事現場をすぎ、密集した人家の間を入っていくと、突然コプラの匂《にお》いが強くなる。幅の広い石ころ道が現れ、道路脇に石油ランプの明かりが低い光度で連なり始める。昔は白人用の下宿が建ち並んでいたあたりで、今では建物のすべてが朽ちかけ、配電も停止されてしまった。野菜くずの腐った臭気や澱《よど》んだ下水の臭気が、暗い石油ランプの中を甘ったるく流れ去る。どこにでもいる犬とニワトリが、軒下をそそくさと歩きまわる。白い清潔な砂浜を捨て、なぜ人間がこんなところに集まってくるのか、やはりスタッド氏には理解できなかった。 「ミスター、カムイン、ビール、ウイスキー、シガレット、プレイ」  歩くごとに、石油ランプの向こう側から女たちの声がかかる。目を凝らさなければ判別できない暗処《くらみ》の中に、女たちの赤い唇が幻想のように控えている。石油ランプを置いたテーブルは道の両側に際限なく並び、どのテーブルにも五、六人の女がたむろする。客のいるテーブルもあり、女だけのテーブルもある。昔の下宿屋は戸口を開けていて、部屋がなんの用途に使われるのか、聞くまでもないことだった。 「タロンが賑《にぎ》わっているとは聞いていたが、なかなかのもんですな」と、道路を彼方《かなた》まで見まわし、タバコに火をつけなおして、スタッド氏が言った。 「今夜は空いています。工事が停止されるので、男たちが出控えたんでしょう」 「寝酒にウイスキーでも如何《いかが》ですか。わたしがおごりますよ」 「結構ですねえ。私もだれか、話の通じる人間と飲みたいと思っていた」  ナカガワが付近を見まわし、二十メートルほど先に進んで、テーブルにビニールクロスを掛けた屋台に、慣れた顔で腰をおろした。スタッド氏にはどの屋台も似たように見えるが、通い慣れたナカガワには、それなりに馴染みや好みがあるらしかった。  ナカガワが女を一人選んで、手まねきをし、やって来た若い女にウイスキーと氷を言いつけた。女はまだ四、五人ベンチに並んでいて、みなプリントのTシャツに似たようなミニスカートを穿《は》いている。どの顔も鼻が横に開き、頬骨が突き出して、厚い唇にピンクやオレンジの口紅を塗りつけている。歳は二十歳前後なのだろうが、女たちの年齢や美醜について、スタッド氏は考える気にもならなかった。 「スタッドさん。だれか一人、選んでください」と、眼鏡を外し、ハンカチで顔を拭きながら、ナカガワが言った。 「気力もないし、体力もありませんよ」 「買う気にならなければチップだけでもいいんです。彼女たちにも生活がありますからね」 「郷に入らば郷に従えと、なるほど、それもそうですかな」  スタッド氏は簡単に女たちを見まわし、黄色いTシャツを着ている女を選んで、むっつりと顎をしゃくった。顔や姿が気に入ったからではなく、シャツが清潔そうだったからだ。ベトナム戦争当時、サイゴンやダナンで買った女たちの顔が、この屋台の情景と一緒に、遠くスタッド氏の記憶をかすめていく。 「わたしも昔、一度だけ日本に行ったことがありますよ。ナカガワさん、お故郷《くに》はどちらです?」 「生まれも育ちも東京です。親たちはそれぞれ地方の出身ですがね」  最初の女がスコッチの瓶と氷を運んできて、ナカガワに水割りを作り、スタッド氏の選んだ女が、スタッド氏のグラスに水割りを作る。こういう分担はズッグの習慣なのか、それとも有名な、日本の『クラブ』を真似しているのか。 「スタッドさんが行かれた日本は、どのあたりですか」と、グラスを合わせ、眼鏡を顔に戻して、ナカガワが言った。 「シモノセキという地名でしたかな。東京からは離れておったが」 「観光か、お仕事で?」 「戦争ですよ。朝鮮戦争に出兵して、休暇をシモノセキで過ごしました」  スタッド氏が新兵として朝鮮半島に行ったのは、一九五〇年のことだ。ナカガワは三十六歳だというから、生まれるよりも前の話になる。日本も戦後の復興が始まったばかりで、東京も広島も長崎も、まだ破壊の痕跡が悪夢のように残っていた。あの廃墟《はいきょ》の中をゴキブリのように蠢《うごめ》いていた日本人が、自国の経済をここまで簡単に追い抜くと、あのころ、アメリカ人のだれが予想しただろう。 「私はベトナム戦争も知りません。アメリカと日本の戦争も知らない。戦争をしたがる人間の気持ちが分からない」 「当然でしょうな。わたしも人生の大半を戦場で過ごしてきたが、もう忘れましたよ。兵隊が戦争をして資本家と政治家が儲ける。そういう理屈にも飽き飽きした」  ナカガワが頬を歪めて、苦笑いをし、グラスを口に運びながら、テーブルの下に長く足を投げ出した。日本の企業では資本家と労働者が一体化している事実を、ついスタッド氏は忘れていたのだ。 「いや、それにしても、ラーソンの事件には困ったものです」と、タバコを道の遠くに放り、水割りのグラスを取って、スタッド氏が言った。 「この国のお偉方は困っていないようですがね」と、吐き捨てるように、ナカガワが言った。 「あなたのご努力で、工事も再開されると聞きましたがな」 「希望的観測というやつです。そう言うしか仕方ないでしょう。あの連中に騒がれたら、話が余計にこじれてしまう」 「実際の状況は、厳しいということですか」 「厳しいのは私の本社ですよ。道もないのにクルマを売れと言ってくる。放送局もないのにテレビを売れと言う。裸で暮らしていた土人にパンツを穿かせることとは、まるで問題が違うんです」  酒で気が大きくなったのか、同じ外国人としてスタッド氏に気を許しているのか。コーヒープラントや衛星放送の計画に熱弁をふるっていたナカガワよりは、明らかに語調が屈折している。『話の通じる人間と飲みたい』という心境が、この表情へのあらわれなのだろう。 「スタッドさんにもお分かりでしょう。購買力のない人口四千八百人の小国を相手に、だれが利益をあげられますか。私の仕事はどうやって日本から多くの金を引き出すか、その金をどうやって本社に還元するか、それだけなんです。この国の人間には経済の原則が分かっていない。椰子の実やパンの実が上から落ちてくるように、金は天から降ってくると思い込んでいる。自分たちで価値の創造をしない国民に、豊かに暮らす権利はありませんよ。働かないで金ばかり要求する連中を見ていると、まったく、私は、腹が立ってくる」  ナカガワの感慨が的を射たものであるのか、スタッド氏にも、簡単に結論は出せない。しかし金を動かすだけで利ざやを稼ぐナカガワが、どんな価値を創造しているのか。ビールや衣料品を動かすだけで利益をあげている自分が、だれを非難できるのか。金など必要としていなかったズッグ人に金の価値を教え、金で物を買う習慣を教え込んだのは、日本人やアメリカ人なのだ。要求さえすれば金をくれると思い込ませてしまったのも、やはり日本人やアメリカ人ではないか。死んだラーソンの台詞《せりふ》ではないが、シャツもビールもクルマも売春婦も、本来ズッグ人は、なに一つとして必要としていなかった。 「お訊きしたいのだが……」と、女がつくり直した水割りを口に含み、気持ちの中で溜息をついて、スタッド氏が言った。「あなたはこの国の将来に、絶望しておられるのですかな」 「とんでもない。期待していますよ。私は大いに期待しています。あと千年か二千年もすれば、ズッグ人も経済と礼儀をわきまえた、立派な文明人になるでしょうね」  グラスの氷が音をたて、石油ランプが暗く影を揺らして、テーブルの上を饐《す》えた風が渡っていく。女は二人とも身じろぎせず、澱んだ目でナカガワとスタッド氏の顔を見くらべている。タバコを吸うわけでもなく、寄り添うわけでもなく、会話に聞き入っている表情でもない。たまに道を通る酔っぱらいに流し目を送るのは、ただの条件反射なのだろう。  ナカガワが小さく首を振り、グラスを呷《あお》って、肩の力を抜くように、ほっと声を出した。 「ラーソンの事件で、どうも気分が鬱屈しているらしい」と、眼鏡に石油ランプの炎を映しながら、にやっと笑って、ナカガワが言った。「愚痴は言いたくないが、工事が再開されないと、生活のペースが狂ってしまいます」 「わたしにしても同様ですな。とくに個人で商売をやっていると、政情不安が直接に響きます」 「政情不安ねえ。どこがどういうふうに、不安なのか……」 「輸入の仕事に影響がでないかと、内心は心配しておるのですよ」 「それは取り越し苦労でしょう。ラーソンの件はたんなる怠慢ですよ。タントラーにさえ政権を渡さなければ、政情に問題は生じません」 「そうでしたな。タントラー大臣に……」  グラスをテーブルに置きかけ、思わず口元に引き戻して、ウイスキーに浮かぶ角氷を、スタッド氏は茫然と眺めやった。『タントラーにさえ政権を渡さなければ』とは、どういう意味なのか。ウガウ・タントラーがサントスの一族であり、政府の実力者であることは分かっている。しかし血統としては傍系で、現に直系のジョージ・サントスが大統領代行としてはしゃぎまわっているではないか。ナカガワが念を押さなくても、次期大統領はジョージ・サントスに決まっている。  濃いめのウイスキーをなめ、ナカガワの眼鏡に映るランプの炎を眺めながら、スタッド氏はふと、昼間のヘブテン島を思い出した。ケネディー・カギバに『次期大酋長』と呼びかけたときの、あのいやな目つき。デチロの解説にあった、ズッグにおける母系相続の習慣。財産も地位も権力も、古来からズッグでは母系の男子が引き継ぐという。もともと現サントス大統領は、独立前までズッグ島の大酋長だった。国民投票はあったらしいが、要するに、伝統的な権力者が表向きの呼称を変更したにすぎない。その大統領職が伝統的な法則で委譲されるとしたら、それは、もしかしたら、スタッド氏の常識とは異質な方向が予定されているのか。 「この国の人間関係は分かりにくいが……」と、グラスを差し出し、女に水割りをつくらせながら、スタッド氏が言った。「タントラー大臣の母上は、サントス大統領のシスターでしたかな」 「オノノコマチといいましてね、大統領の姉さんですよ」 「と、いうことは……」 「私だって驚きました。常識では考えられませんが、放っておくと、あのタントラーが大統領になってしまうそうです」  ナカガワがこつんとテーブルを打ち、タバコに火をつけて、星空に長く煙を吐き出した。べたつくビニールクロスの上を、銀色の蠅《はえ》が悠長に這《は》いまわる。滞在期間はスタッド氏より短くても、政権にはナカガワのほうが食い込んでいる。大統領の病状も承知しているはずだし、政権の動向にも精通しているだろう。次期大統領はジョージ・サントスで決定、と思い込んでいたのは、スタッド氏の誤認だったのか。ズッグの伝統や習慣を考え併せると、次期大統領の本命は、あのウガウ・タントラーなのか。 「非文明国の人間というのは、非常識なことを平気でやろうとする」 「タントラー大臣が大統領になることに、反対なのですか」 「当然でしょう。あの男は金に汚い。要求ばかり多くて、援助を引き出すことしか考えていません。国を改革していこうという意識もない。大統領にはサントス大臣になってもらいますよ」 「しかし、伝統とか習慣とか、いろいろあるでしょう。ジョージ・サントスで国民が納得するのですか」 「方法はありますよ。意味のない伝統や弊害のある習慣からは、この国も脱却するべきです」 「もう方策を、講じておられる?」 「結果を見れば分かりますよ。国民投票といっても各酋長や村長の意向が反映されるわけですからね。伝統や習慣にこだわる人間も、金が欲しいことに変わりはありません」  本命のタントラーに対して、ジョージ・サントスを推すナカガワがそこまで言い切るからには、なんらかの工作は進行しているということか。次の大統額がタントラーであっても、ジョージ・サントスであっても、スタッド氏としては構わない。個人的には愛敬のあるタントラーの肩を持ちたいが、ただの商売相手ということなら、文明かぶれをしているサントスのほうが御しやすいだろう。ジョージ・サントスがズッグの習慣に反し、大統領の座を狙《ねら》っていることも間違いない。『代行』として派手な振る舞いをするのは、その意思のあらわれなのだ。国家予算が一千万ドルの小国でも、大統領になればいくらでも私腹は肥やせる。立場が利益の分配比率に相似する以上、サントスでなくても政権をめざす。しかしそれなら、本命のタントラーは、サントス側のその動きを看過しているのか。政権は自動的に転がり込むと、伝統と習慣に胡座をかいているのか。台湾漁船が積んでいた十キロのプラスチック爆弾。アキカン・ラーソンの不可解な爆死。それらのものは、政変劇に関係なく、ただの独立したアクシデントなのか。 「人口が五千も無い国だというのに、いろいろと、面倒なことですな」と、ナカガワから視線をはずし、女たちの顔を無為に眺めながら、スタッド氏が言った。 「狭い国だからこそ人間関係が煮詰まる、そういうこともありますね」 「密度が濃すぎて、わたしなどには、なかなか向こう側が見えてこない」 「それは私も同様です。本当は単純なのかも知れませんが、チャンネルがずれているんです。私どもが当然と思うことも、彼らにはまるで通じない」 「逆の状況も、まあ、あるでしょうな」 「合わせてくれなければね。援助される側が援助する側に合わせる。それが常識というやつですよ」  援助という言葉の本質が、実は搾取した利益の利子払いでしかないという理屈に、たぶんナカガワは気づいていない。凍死することのない国の人間は暖房装置など発明しない。パンの実やバナナがたわわに稔《みの》ったら、集約型の農業労働だって思いつかない。そこにナカガワはテレビを普及させ、精神的な飢餓状態をつくりだそうというのだ。コーヒープラントを起こし、ズッグ人をヒステリックな労働に追い込む。利益を日本が吸いあげ、その一部を援助という名目でズッグに還元する。そして還元された利益の大部分は、政治システムの中でサントス一族が独占する。大統領がジョージ・サントスになっても、ウガウ・タントラーになっても、基本的な構造に変化はない。搾取される側が、搾取する側の理屈に迎合することが、いつから世界の常識になってしまったのか。 「スタッドさん。同じ外国人ということで、一つだけ忠告しましょうかね」と、となりの女を引き寄せ、肩に腕をまわしながら、ナカガワが言った。「マルカネ・ザワオと親しいようですが、あの男はやめたほうがいい。いつまでもザワオと関わっていたら、碌《ろく》なことにはなりませんよ」  日焼けした頬にうす笑いを浮かべ、女の肩を抱いたまま、よろけるように、ナカガワが椅子から立ちあがった。 「言っている意味は、お分かりでしょうかね」 「気配としては感じております。ご忠告は、ありがたく感謝しましょう」 「それは結構……ええと、私は、なんと言いますか、ちょっとシャワーを浴びてきますよ。よろしければスタッドさんも如何《いかが》です?」 「わたしはウイスキーでじゅうぶんです。勘定は済ませておきますから、どうぞゆっくり、汗をお流しください」  スタッド氏が会釈をし、ナカガワが照れもせずにうなずいて、女の手を引くように、ふらりと下宿屋の戸口に向かい始めた。言葉づかいは慇懃だが、歩き方には酒がまわりきっていた。マリア・ラーソンに惚《ほ》れていたとしても、それと刹那《せつな》的な性欲は、別な問題なのだろう。 「マルカネ・ザワオ……か」と、ナカガワと女が消えた戸口を眺めながら、水割りを呻《あお》って、スタッド氏は一人ごとを言った。タントラーもジョージ・サントスも、ザワオを嫌っていることは承知している。どちらが次の大統領になるにせよ、現サントス大統領の死後、ザワオの立場は確実に悪くなる。そこまでは理解できるとして、問題はなぜ、サントスの一族でもないザワオが今の経済を牛耳っているのか、ということだ。 「ザワオぐらいの男なら、タントラーやサントスの思惑に、気づいているはずだが……」 「ミスター。あたい、ビールが飲みたいんよ」 「ん?」 「ビール。それにさあ、ご飯も食べたい」  忘れていたが、そういえばたしかに、スタッド氏のとなりには女が残っていたのだ。頬骨の張った黒い皮膚に石油ランプの炎を映し、澱んだ目で、ぼんやりとスタッド氏の顔を見あげている。  スタッド氏がうなずき、女が手をあげると、物陰から、待っていたように十歳ほどの子供が飛び出してきた。性別の分からない、汚れたシャツを着た裸足の子供だった。女が子供になにか言い、子供がまた物陰に消えて、スタッド氏はタバコに火をつけながら、多すぎるほどの星を茫然とふり仰いだ。下水の流れる音が聞こえ、建物の裏手の、どこか遠くのほうで、赤ん坊がカラスのように泣き叫ぶ。 「ミスターはさあ、丘の上に住んでるスタッドさんつう人?」 「わたしは、そんなに有名かね」 「金持ちのことはみんな知ってるもん。この店で使う氷ね、あんたんとこから買ってくるんよ」  言われてみれば氷は角氷で、家庭用の冷凍庫で作ったものらしい。この国で冷蔵庫をもっている家庭は数が知れている。タロンに並んでいる屋台は、そうやって氷を集めてくるのか。使った覚えもないのに、たまに冷凍庫の氷が切れている理由は、なるほど、マチコ・エリザベスが密《ひそ》かにアルバイトをしていたからなのだ。  さっきの子供がビールと皿を持ってきて、女の前に置き、不思議そうにスタッド氏の顔をうかがいながら、また闇の中に消えていく。皿には大盛りの米飯と、缶詰の鯖《さば》が添えられていた。魚なんかいくらでも捕れるし、タロ芋もパンの実もバナナもある。それでもズッグ人にとって一番の贅沢《ぜいたく》は、ビールを飲みながら、米の飯に鯖の缶詰をかけて食べることなのだ。 「君は、ズッグの出身なのかね」と、自分でグラスにウイスキーを注《つ》ぎ、皿に指を使い始めた女を眺めながら、スタッド氏が言った。 「タキア」と、飯を頬ばったまま、女が答えた。 「ズッグから近いのか」 「ギミーヤのとなり」 「島が多すぎて、わたしには覚え切れんな」 「小さい島。だけどサメはよく捕れるんよ」  ズッグから近くても遠くても、サメが捕れても捕れなくても、どうせヘブテンのような小島に決まっている。男は漁に出て、女は子守をしながらパンダヌスのゴザを編む。海亀が捕れたら祭りをし、台風が来ないように祭りをし、子供が生まれたら祭りをする。単調な生活ではあるだろうが、少なくとも米や缶詰を食べるために、躰《からだ》を売る必要はない。 「トポルに来てどれぐらいになるんだね」 「一年かな、もっとかな」 「トポルは面白いか」 「んー、分かんない」 「島に帰りたいだろう」 「分かんない」 「この商売をいつまでやるつもりだ」 「分かんない」 「歳は?」 「んー、分かんない」  スタッド氏はハンカチを取り出し、日焼けで痛む首筋の汗を、そっと押さえ込んだ。燐鉱石を掘り尽くしたあとの、荒涼としたテワイの風景が目に浮かんでくる。椰子の茂る浜辺や夾竹桃の咲くヘブテン島の光景が、自然に思い出される。白人としてのロマンチズムであれ、罪の意識であれ、この国の歴史は、やはりどこかが狂っている。 「さて、お嬢さん、勘定をしてもらおうかね」 「帰っちゃうん?」 「年寄りの夜更かしは躰に悪いんでな」 「遊んでけばいいのに」 「年寄りのセックスも、躰に悪い」 「ふーん。そいじゃね、ウイスキーとビールとご飯と、ぜんぶで七ドル」 「今夜は楽しかったよ。あの日本人が戻ってきたら、先に帰ったと伝えてくれ」  十ドル札をテーブルに置き、女に手を振って、饐えた風と下水の音の中を、スタッド氏は悄然《しょうぜん》と港に向かい始めた。闇の向こうからは相変わらず女たちの視線がそそがれ、どこに隠れていたのか、痩せた犬がまた足元に絡みつく。十二時を過ぎたというのに、酔っぱらいが性懲《しょうこ》りもなく屋台を冷やかしつづける。タロンのこの界隈《かいわい》だけで、いったいなん人の女が春を売っているのか。躰で稼げる女はまだいいとして、漁にしか能のない男たちは、この先どうやって貨幣経済に対応していくのか。  小石を踏み、贅肉で重くなったスタッド氏の重心が、不覚にも横にかたむく。たいして飲んだ覚えもないのに、ずいぶん弱くなったものだ。それとも自分で女に言ったとおり、夜遊びには歳を取りすぎたのか。アメリカで暮らしている家族の顔が、柄にもなく、ふと脳裏を横切る。息子のケビンに子供が生まれたという葉書が来たのは、あれはもう、二年も前のことだ。  スタッド氏は欠伸をかみ殺し、タロン通りから路地に入る手前で、落ちていたタバコの空き箱をぽーんと蹴飛ばした。考えても悩んでも、なにもかも、たいして意味はないだろう。今日はクリフ・ウインタースを空港まで見送り、テワイやヘブテンにまで渡って、心身ともに疲れている。早く家に帰ってバスタブに身を沈め、探偵小説を読みながらワインでも飲んで眠ればいい。覚悟はしているが、明日もどうせ、朝から熱い日になる。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  椰子の木を荒く削った柱が並び、穴の開いたトタン屋根に青い星が白く照り返る。壁のない吹き抜けの通路には木箱やビニール袋が並び、魚臭や香辛料の臭気が靄《もや》のように充満する。朝には賑わう市場もまだ濃い闇におおわれ、石油ランプや蝋燭の灯が軒下にかろうじて人間の気配を感じさせる。屋台は折りたたみのテーブルに椅子が五、六脚。料理も蒸したタロ芋か、せいぜいチチと呼ばれる魚の煮付け程度だった。店によってはビールも出すが、ほとんどの客は椰子酒かインスタントのチャカウで我慢する。  キャスリン・キンスニは米の飯にチチをかけ、アルミのスプーンを不器用に使いながら、屈託なく夜の食事をつづけていた。朝が早く、夜が遅いのは熱帯のどこにでもある生活習慣で、そのぶんをたっぷりとした昼寝で補充する。亜寒帯圏の習慣からは怠惰に見えようとも、それが気候環境に適応した、人間としての当然なあり方なのだ。  リモーアの浜辺では毎日毎日、来る日も来る日も、夜が明けるまでただ海を見つめていた。市場の星空を見あげながら、デチロは島での生活を思い出す。気の合った仲間がなん人か集まり、言葉を交わすわけでもなく、浜辺に並んでひたすら海を見つめる。近くでは酋長や長老たちが陽気に椰子酒を飲み、焚《た》き火を囲んで女や子供が即興の歌を和唱する。空が白み始めるころ、多ければ週に一度ほど、遠い海に鰯《いわし》の群れが押し寄せる。酋長が一声叫んで立ちあがり、それを合図に男たちが黙々とカヌーの支度を始める。ざわめくのは女と子供だけ。男は決められたカヌーに、決められた人数で乗り込む。もちろん漁の目的は鰯ではなく、鰯を追って浅海に紛れ込むサメだった。サメ漁は命をかけた男の儀式であり、単調な島での最大の娯楽でもある。デチロの父親も、その親もまたその親も、ずっと海を見つめ、ずっとサメを捕りつづけてきた。今のデチロはGパンやスニーカーを穿き、埃《ほこり》っぽい屋台で椰子酒を飲みながら、チチ飯を頬ばるキャスリンと『ベイ・イン』の窓明かりを眺めている。給料は安いが、好きなときにタバコも吸えるし、ビールも飲める。裸で海を見つめていたリモーアでの生活とは、まるで違う。たしかに違うとは思うのだが、それではいったい、本当のところ、何が違うのだろう。 「だけどさあ、その荷物って、どうやって見つけるんよ」と、スプーンを動かしながら、頬杖《ほおづえ》をつき、好奇心の強い目でデチロの顔を見あげて、キャスリンが言った。 「世話ねえやな。おいら海に詳しいし、友達はどこにでも居らあ」 「ボーナスなんて凄《すご》いよね。給料の一年分だと、いくらになるんさあ」 「三百六十ドル」 「凄いなあ。そんだけあれば飛行機だって買えるじゃん」 「おめえなあ、飛行機なんて、ズッグからハワイまで乗るんにも五百ドルかかるんだぜ」 「へええ、そう」 「この前も言ったじゃねえか。だからよ、おいらもおめえも、ハワイどころかグアムにも行けねえってよ」  コップの椰子酒を飲み干し、キャスリンの手元を眺めながら、タバコをくわえて、デチロは空のコップを屋台の年寄りに差し出した。冷えたビールを飲みたかったが、『ダイアナ』は終わっているし、冷蔵庫を持っている友達も思い当たらない。三百六十ドルのボーナスで、果たして冷蔵庫が買えるか、どうか。 「あんたのためならさあ、探すの、あたしも手伝うよ」 「他人に言うんじゃねえぜ。高えもんだからよ」 「荷物って、なに?」 「さあなあ。スタッドさんは爆弾だっつうけど、おいらどうも、違う気がする」  キャスリンがスプーンを皿に置き、コップの水で口をゆすいで、ぺっと地面に吐き出した。ズッグ人ならだれでもする行為に、それでもデチロは、説明のつかない疎ましさを感じる。 「だってよ、見つけるだけでボーナスだぜ。爆弾なんて、そんなに高えもんかなあ」 「スタッドさんが誰かに売って、もっと儲けるんよ」 「そうかも知れねえ。だけんどそれならラーソンさんは、なんで爆弾なんか使った。死ぬだけならクレーンから飛び降りりゃよかった。首吊ったってよかった。ただ死ぬだけのことによ、そんな高え爆弾、なんで使ったんだよ」 「ふーん。そうなの」 「なんだよ」 「あんたって、面倒なこと考えるんだね」 「どうでもいいじゃねえか。とにかく荷物さえ見つけりゃ金になる。おめえにもラジカセぐれえ買ってやらあ」  キャスリンが目を丸くし、毛の薄い腋の下を見せながら、髪を大きく頭の上に掻きあげた。凹凸の少ない顔にランプの影が揺れ、貝殻のネックレスが、平らな胸でじゃらりと音をたてる。 「ラジカセ買ってやったら、父ちゃんと母ちゃん、喜ぶね」 「そうだんべなあ」 「ヘブテンのラーソンさん家《ち》は探したん」 「あそこにゃ何もねえ。見りゃ分かるさ。おいらが探してるんはカヌーだ。ラーソンさんはズッグに来るとき、カヌーに乗って来たに違いねえ」 「そりゃそうだわ」 「カヌーさえめっけりゃなにか分かるだんべ」 「だけどさあ、カヌーって、もうないよ」 「どうして」 「捨てたもん」 「だれが」 「マリアさん」 「いつ」 「あのさあ、あれよ、ほら、だから、あのラーソンさんが死んだ日」  タバコの灰がGパンの膝《ひざ》にこぼれ、いやな胸騒ぎを感じて、椰子酒を飲みながら、デチロはゆっくりと脚を組みかえた。キャスリンは『捨てた』と言うが、そんなこと、今まで誰も言わなかったではないか。 「妙な話だぜ。カヌーのことなんか、どうしておめえが知ってるんだ」と、キャスリンの前からチチ飯の皿をどけ、新しいタバコに火をつけて、デチロが言った。 「だって、あたし、見たもん」 「なんで見たんだよ」 「仕方ないじゃん。見ちゃったもんは見ちゃったんだから」 「おめえなあ、どうでもいいけど、最初から分かりやすく話してみろいや」  キャスリンが下唇を突き出し、テーブルに頬杖をついて、ネックレスに指をからめながら、退屈そうにまばたきをした。汗と一緒に、額に浮いたニキビが脂っぽい光を放つ。 「工事現場の人がね、あのあと、お店にあれを持ってきたんよ」と、デチロの顔を覗きながら、頬をふくらませて、キャスリンが言った。「プラスチックのバケツに、足とか太い骨とかが入ってた。だけどマリアさん、二階の部屋に運んで、そのまま夜は仕事をしたんよ。どうするのかなって思ったけど、訊けないしさあ。それであたしも仕事をして、十二時にお店を閉めたの」 「キャシーよう……」 「話はこれから。それでね、市場でご飯を食べて、部屋に帰って、シャワーを浴びて、寝る気がしなくて海に出てみたんよ。貨物船や漁船が着くほうじゃなくて、漁師の家があるほう。そしたらさ、マリアさんがバケツをもってカヌーに乗ってるの。うしろにはタンジェロさんが乗ってて、それをね、エンジンのついた船が引いて沖まで運んでいった。夜だから見えなかったけど、あれ、珊瑚礁より外へ行ったと思うよ」  要約するまでもなく、キャスリンの説明は、事件のあったその日の夜中、マリア・ラーソンが父親の遺体を抱いて外洋に乗り出した、ということだ。古くからズッグ諸島の漁師には、死後遺体を愛用のカヌーとともに水葬にする習慣がある。遺体だけでなく、カヌーも『捨てた』とキャスリンが思ったのは、ズッグ人としては当然の判断なのだ。『エンジンつきの船で沖まで運んだ』となれば、デチロからみても、その判断は正しいことになる。 「分かんねえなあ。マリアさん、親父さんを嫌ってたんになあ」 「親子だもん、いいじゃん」 「だってよ。おいらにも言ったし、葬式を出すんもいやがったんだぜ」  自分の店で、マリアは父親のことを『あんなやつ、だれかが殺してくれればいいのに』とデチロに言ったことがある。ヘブテン島のケネディー・カギバには『非国民の葬式は出したくない』とも言ったという。マリアと父親が不仲であったことは、ズッグの人間ならだれでも知っている。遺体をプラスチックのバケツに入れたまま、人知れず外洋に流してきた。それを非人情な行為と思うか、マリアの、父親への愛情と受けとるか。 「面倒なことをしてくれたな。カヌーさえめっけりゃ、なにか分かると思ったんによう」  コップの椰子酒を呻り、湧きあがってきた苛立ちに、思わず、デチロは舌打ちをした。デチロだってスタッド氏の探し物が爆弾であると、本気で信じたわけではない。どこかに転売するにしても、見つけただけで一年分のボーナスは多すぎる。クリフ・ウインタースとかいう客の様子も気にくわなかったし、スタッド氏の気配も、どこかが違っている。わざわざ爆弾を使って死んだアキカン・ラーソン。不仲でありながら、水葬という形で、父親の死に敬意を払ったらしい娘のマリア。身内しか関わらないはずの水葬に立ち会ったスーサン・タンジェロ。なにもかも、理屈に合わない出来事の連続なのだ。クルマを運転し、貨物の管理と配達をして、三十ドルの月給をもらう。自分がそれだけの人間でしかないことは承知しているが、それだけでは済まされない予感が、いやいやながら、デチロの背中を緊張させる。 「世話ねえかさあ。カヌーが漁師の浜にあったんなら、そのうちなんか分かるだんべ」と、椰子酒を飲み干し、安タバコを遠くの地面に弾いて、デチロが言った。 「あたしさあ、今夜、あんたんとこ泊まっていい?」 「おいらは一人で寝るんが好きなんだ。この前も言ったんべえ」 「あたしは一人で寝るの、好きじゃないな」 「おめえは子供だからよ。人間てのは、そのうち、みんな一人で寝るんが好きになるんさ」 「あんたの言うことは難しいね」 「どうでもいいけどよ。カヌーを引いてった船には、だれが乗ってたんだや」 「うしろ向いて運転してたもん」 「店の客か客じゃねえか、それぐれえ分かるだんべ」 「怒んないでよ。マリアさんとタンジェロさんのことだって、やっと見えたんだから」 「ボーナスがかかってるんだ。おめえも本気になれや」 「見えなかったんだから仕方ないじゃん。それにああいう船って、早くて、どんどん行っちゃうんだもん」 「ああいう船ってのは、どういう船だよ」 「エンジンがついてて、白くて、大きいやつ」 「クルーザーか」 「名前なんか知んない。港によくあるじゃない。ほら、あんたんとこの、スタッドさんが持ってるみたいなやつ」 『エンジンつきの船』という言い方で混乱したが、キャスリンが見た船は、カヌーに舟外機をつけた、手づくりボートではないということだ。ラーソンのカヌーを引いて外洋に出たのがクルーザーだとすると、どういうことになるのか。スタッド氏の『ケビン号』を含めて、ズッグ湾には十艇前後のクルーザーしか停泊していない。ほとんどはサントス一族の所有で、マリアやスーサン・タンジェロは持っていないはずだ。水葬のために調達したとしても、国家に反逆したラーソンのために、だれがクルーザーを貸したのか。そんなことがジョージ・サントスやウガウ・タントラーに知れたら、たとえ身内であれ、政府内での立場は悪くなる。 「仕方ねえか。ちょいと散歩に出てみんべえ」と、五十セント玉をテーブルに放り、立ちあがって、デチロが言った。 「どこ行くんよ」 「港」 「あんたんとこ、泊めてくれるん」 「船を見に行くんさ。クルーザーの数なんか高が知れてらあ。時間をかけりゃ、おめえにも見分けがつくべえよ」  キャスリンが舌の先をのぞかせ、眉を歪めながら、腰を浮かせて、デチロのポロシャツに人差し指を引っかけた。うすい汗の匂いが交錯し、鬱屈したデチロの気分に、一瞬ほほえましい爽快《そうかい》感が流れ去る。風でも渡ったのか、市場のトタン屋根が軋《きし》んだ音をたてる。 「あたしさあ、ああいう白い船、一度乗りたいな」と、ゴムサンダルを鳴らして、キャスリンが言った。「ボーナスもらったら、あんたも買えばいいじゃない」 「冷蔵庫がついてる、でっけえやつをな」と、無力感をおさえ、苦笑しながら、デチロが答えた。「おいらがクルーザー買ったら、ハワイでもグアムでも、好きなところへ連れてってやらあ。アメリカでも日本でも、どこでもおめえの好きなところへよ」  市場の敷地を抜けると、すぐ大通りに出る。ザワオの『トロピカル』もシャッターをおろし、道ぞいの病院や官庁舎も黒く明かりを落としている。星明かりが明瞭《めいりょう》な影を刻み、遠近のない空に南十字星が特出した光を放っている。オーストラリアへ飛ぶ航空機が、星空の中に認識灯を暗く点滅させていく。  大通りを海岸につき当たり、右へ行くと漁港から席の工事現場、左に曲がると『ペイ・イン』の前から貨物港へと向かう。デチロとキャスリンはT字路を左に折れ、無人の波止場を海ぞいに歩いていった。ホテルを過ぎるとすぐ倉庫街になり、反対側の港に、五隻ほどの貨物船がひっそりと停泊している。防波堤の内側には古タイアが並び、ヨットやクルーザーが揺れもせずに静まり返る。威圧的な大型ヨットは国家財産で、磨きあげられた船体が夜月にも白く浮き立って見える。波のない海面に星が映り、湾の出入り口を示す標識ランプだけが、エルロア側の空にぼんやりと灯《とも》っている。 「ねえ、間に海があるだけで、どうしてズッグはハワイじゃないのかな」  海岸通りから桟橋に降り、ヨットの帆柱を透かすように、背伸びをしながら、キャスリンが欠伸をした。 「いい加減にしろや。ズッグにだって、ちったあいいところがあるだんべ」 「へええ。どこ?」 「道を歩いてても鉄砲で撃たれねえし、ズッグ人だからって、だれからも馬鹿にされねえ」 「ズッグじゃないところへ行くと、ズッグ人は馬鹿にされるん?」 「おめえ、テレビは観ねえのかよ」 「観たって、あたし、分かんないもん」 「アメリカでも日本でも、ズッグ人はみんな馬鹿にされるんだ」 「どうして」 「馬鹿なんだから仕方ねえさ」 「どうして、ズッグ人が馬鹿なんよ」 「白人や日本人じゃねえと、人間はみんな馬鹿なんだ」 「どうして」 「スタッドさんとこで働いてりゃな、そういうことはいやでも分かる。ズッグ人が馬鹿だからよ、世界中のうめえ話は白人と日本人が、みんな持っていっちまう」  タバコを海に捨て、固くなっている背中を伸ばしながら、髪を掻きあげて、ふとデチロは溜息をついた。自分が苛立っていることは分かるが、なぜ苛立つのか、理由までは分からない。今日はスコールが来なくて、蒸し暑くて、それにキャスリンが、あまりにも単純すぎるからだろう。リモーアからトポルに出てきた五年前、そういえばデチロ自身、クルーザーぐらい、すぐにでも買えると思い込んでいたのだ。 「とにかくよう、どうでもいいから、船を探すべえ」と、キャスリンの肘に手をかけ、桟橋を先に促して、デチロが言った。 「分かるかなあ」 「分かるさ。横の文字とかデッキの形とか、みんな違ってるんだ」 「船が分かると、どうなるん」 「知らねえけどよ。おめえは黙って探せや。そのあとどうするかは、おいらがゆっくり考えらあ」  防波堤の内側の、岸から離れたところにはサントスのヨット。クルーザーはそのヨットを遠巻きに、十艇ほどが無秩序に繋留《けいりゅう》されている。昼間テワイやヘブテンに出かけたスタッド氏のクルーザーも、白い船体に星明かりを青くにじませる。デッキにシートをかけた船、真鍮《しんちゅう》の手摺《てす》りを渡した船、横腹に赤いロゴを入れた船。形も大きさも、よく見れば少しずつ異なっている。慣れた人間なら一目で見分けるのだろうが、『エンジンのついた白い船』という認識しかないキャスリンに、ラーソンのカヌーを曳航《えいこう》していったクルーザーが、識別できるかどうか。 「あのランプのたくさんついたやつ……」と、立ち止まり、海のほうに顎を突き出して、キャスリンが言った。「あれ、見たことあるな」 「キンタロウの船だ」 「キンタロウって」 「銀行に勤めてるキンタロウ・イナミ。おめえが見たのは、あの船か」 「違うと思うけど、あれ、恰好《かっこ》いいじゃん」 「キャシーなあ、こんな夜遅くに、遊ぶんじゃねえよ」  キャスリンが鼻をふくらませ、唇の間から、低くふてくされた音を出す。 「あんた、怒ってばっかし」 「おいらだって疲れるときはあらあ。おめえの面倒みるんは、仕事より疲れる」 「あたしに惚れてんの」 「どうだかよ。おめえがそう思うんなら、そうかも知れねえ」 「うしろに緑色の字が描いてあるやつ……」 「トロピカル、か」 「凄いね。ちゃんと字が読めるんだね」 「中学に行ったもんよ。途中でやめたけどなあ」 「あたしが見たの、あの船だよ」 「あれは……」  くわえかけていたタバコを、指の間に残したまま、背中を走った悪寒に、思わずデチロは肩をすくめた。その船はだれが見ても中古と分かる小型のクルーザーで、操舵室の屋根には赤と青を単純に色分けしたズッグ共和国の国旗が描いてある。海と太陽を象徴させたデザインだというが、いつからこれが国旗と認められているのか、ズッグ人はだれも知らなかった。 「あの船、だれの船なん」 「どうだかよ。見たことはあるけど、知らねえなあ」 「ボーナスで買える?」 「どうだか……うまくすりゃあ、買えるかも知れねえ」  そのクルーザーがマルカネ・ザワオの持ち船であることが、なぜこれほど不気味なのか。自分がなにを恐れ、なにを興奮しているのか。 「あたし、でも、ランプのたくさんついたやつがいいな」 「キャシー、ビールでも飲むべえ」 「だれの船か調べなくていいん」 「そのうち分からあ。あんなクルーザーじゃ、どこにも行けねえしな」  サンダルを鳴らしたキャスリンの腰に、腕をまわし、忘れていたタバコをくわえて、デチロはゆっくりと桟橋を戻り始めた。マリア・ラーソンとザワオという組合せなど、だれが考えるだろう。ザワオはなんの理由があって、ラーソン父娘に関わったのか。それとも本人が知らないあいだに、クルーザーだけが利用されたのか。  潮の匂いが深くたちこめ、気温のさがった陸地に向かって、海からゆるい風が吹いてくる。自分には関係のないことだと思いながら、不安と興奮がデチロの足元で揺れ動く。この問題にどう対処したらいいのか。知らぬ顔を決めたほうがいいのか。スタッド氏が約束したボーナスなんかより、もっと大金を掴《つか》むチャンスがあるのか。チャンスはあったとして、自分の身に危険はないのか。 「冷えたビールが飲みてえな」と、遠目にザワオのクルーザーをふり返り、タバコの煙を吐いて、デチロが言った。「ホテルに寄って、氷でも貰っていくか」  キャスリンがスキップを踏んで前に進み、黒い髪を闇に溶かしながら、ワンピースの裾《すそ》を大きくひるがえす。貨物船のカンテラが太股《ふともも》を照らし、まるで白人の脚のように、一瞬だけ長い残像を引いていく。海の匂いに機械油の臭気が混じり、丘の上からはサントス一族がともす、白い電気の光が届いてくる。昼間見たヘブテン集落の光景が、デチロの頭の中でリモーアの光景に重なってくる。ヘブテンでもリモーアでもタキアでも、ズッグでもエルロアでも、それぞれの浜でそれぞれの男たちが、この瞬間、なにかを待ちながら、じっと海を見つめているのだ。 「海亀の精霊を、椰子やバナナの精霊を、捨てちまったプライドを、捨てちまった伝統を……」 「なあに」 「ん?」 「なんか言った?」 「一人ごとだ。気にすることはねえ」  アキカン・ラーソンの演説がなぜ耳に残っているのか、なぜ口をついて出てくるのか、理由を考えてみたが、やはりデチロには分からなかった。 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 6 [#ここで字下げ終わり] 『ベイ・イン』の一室に借りた事務所で、スタッド氏はデスクに向かい、注文書のコピーを前に気力もなく計算機を叩《たた》いていた。『B・P・C(ビッグ・パシフィック・カンパニー)』をエド・ビーンズから買い取って以来、この五年間見事なまでに横ばいの業績がつづいている。米と石油はザワオに押さえられているし、クルマや政府調達物資は日本の商社が扱ってしまう。四千八百人の国民にビールや雑貨を売って上がる利益など、高が知れている。橋梁《きょうりょう》景気で少しはビールも売れているが、目に見えるほどの営業収益ではない。国民所得が向上しない限り、『B・P・C』の売上げも伸びない経済構造なのだ。それでもホテルにオフィスを構える理由は、貨物港に近い立地条件と、電話の都合だった。国際電話の回線が民間に割り当てられない以上、利用できる施設は限られる。それにホテルを年間契約しておけば、ズッグ政府にもマルカネ・ザワオにも、一応の顔は立つ。  交換台からの案内のコールが鳴り、スタッド氏は電話のスイッチをファクシミリに切りかえ、老眼鏡をはずして、タバコに火をつけた。窓からはエルロアの空港も眺望できるが、あと三日間はヤップからの飛行機も飛んでこない。クリフ・ウインタースを追い返してしまったことが、凶とでるか、吉とでるか。今の問題は穏便に処理して当たり前、悪くするとCIA現地駐在員という立場に、致命傷的な打撃も受けかねない。アキカン・ラーソンの爆死が自殺でなかったと仮定して、台湾漁船との繋《つな》がりもなかったとして、それではプラスチック爆弾など、だれが手配したというのだ。他殺ということなら、だれが、どんな理由で殺したのか。  ファクスが音をたて始め、ロール用紙にプリントアウトされた文字が、三行だけ呆気《あっけ》なく吐き出されてきた。発信元はハワイにある輸出入品取り次ぎ業者で、文面は『ソニー・カンパニーは電気|釜《がま》を製造しておらず、発注は不可。ミツビシやトウシバなど、他メーカーでは如何《いか》に』というものだった。  スタッド氏は用紙を機械から切取り、デスクに放って、一つ欠伸《あくび》をした。いくら米を炊く専用の鍋《なべ》とはいえ、ソニーともあろう会社が、そんなものも造れないのか。日本の技術程度も恐れるほどではないらしいが、メーカーを指定してきたタントラー大臣には、どう説明したものだろう。  また内線電話が鳴って、タバコを吹かしながら受話器を取ると、今度は下のフロントまで来ているマイケル・デチロだった。部屋まであがって来ればいいものを、最近のデチロは、よくこういった手抜きをする。 「やあスタッドさん。さっき着いた船なんだけどね、一つ分かんねえ荷があるんだよ。暇があったら、ちょいと見てもらえねえかさあ」 「発注書と納品書は照らし合わせたのか」 「当然だいね。注文したんは十二品目で、その荷以外はみんな符合してるよ。スタッドさん、追加でなんか頼んだかね」 「ペルーへの発注分だったら、追加はしておらんな」 「そいじゃ間違いかなあ。どっちにしてもおいらじゃ判断できねえ。やっぱ、スタッドさんに見てもらうしかねえよ」 「荷は陸あげしてあるのか」 「はあ倉庫だいね。船は二日|停《と》まるっつうから、返品でも間に合うだんべ」 「一つファクスを送ったらすぐ行く。念のために、おまえはもう一度書類を確認しておくんだ」  電話を切り、デスクに脚を投げ出して、タバコが短くなるまでに、スタッド氏は二度小さい溜息《ためいき》をついた。ペルーへの発注品は鯖《さば》の缶詰が主なもので、その他ジャガ芋《いも》や唐辛子を除けば、数量的には微々たるものだ。発注書にない荷物は相手側の間違いに決まっている。それぐらいのことが、なぜ陸あげ前にチェックできないのか。税関も通したわけだし、返品となれば手続きは煩雑になる。ズッグ人にしては要領のいいデチロも、実務的な神経は欠如している。ナカガワは『千年か二千年でズッグ人も経済をわきまえる』と皮肉を言ったが、こういう民族的な体質は、時間や訓練で解決する問題ではないだろう。  スタッド氏はタバコをもう一本吸ってから、注文用紙に送り状を書き込み、ファクシミリにセットして、事務所の部屋を出た。相手はハワイの取り次ぎ業者で、文面は次のようなものだった。 『用件了解。電気釜はミツビシで可。航空貨物で至急送られたし。ただしミツビシのプレートは外し、その上にソニーのステッカーを貼付《てんぷ》すること』  日射《ひざ》しは西に傾いているが、それでもうんざりするほど暑い。ほとんどのズッグ人は物陰にひそみ、日が沈みきるまでの時間を罪の意識もなくやり過ごす。青い空に積乱雲は見あたらず、ひょっとしたら今日も、スコールは来ないのかも知れない。  スタッド氏が港に近い貨物倉庫に入っていくと、奥の暗処《くらみ》からデチロが顔を出し、書類を振りながらのんびりと扉のほうに歩いてきた。荷役人夫も一人残っていて、風の通る戸口で身じろぎもせずに海を見つめている。 「缶詰は奥に納めちまった。他のもんも数量は合ってらいね。問題はこの荷だんけど、ちょいと見てくんない」  デチロが指さしたのは、ビールの空き瓶が積んである入口の壁際で、トランクほどの木箱にはたしかに『BPC行き』という英語のスタンプが押してある。品名は『茶』となっていて、デチロが差し出した納品書にも、最下欄には『茶一箱』というペン書きの文字が入っていた。 「やはり発送ミスだな。こちらから茶なんぞ、注文するはずがない」と、納品書と発注書を見くらべ、舌打ちをして、スタッド氏が言った。 「そうだんべね。茶の荷はスリランカだけだもんなあ」 「おまえ、なぜ箱を開けてみないんだ」 「それがよう、ちょっと……」  デチロが白い歯をむき出し、人夫に視線をやりながら、スタッド氏のほうに肩をすくめるジェスチャーをした。 「箱の大きさがね、どうもおいら、気にくわなかった」 「どういうことだ」 「昨日言ったじゃねえかよ。例の、ほれ、トランクぐれえの大きさだって」  昨日デチロになにを言ったか、正確には覚えていないが、たぶん『ラーソンの荷物』のことを言ってるのだろう。 「しかし、この荷は、今日の船で着いたわけだろう」 「そうだけんど、丸ごと余るんは初めてだがね」 「妙なことは考えるな。正式な貨物で、そんなことがあるはずはないんだ」  また肩をすくめ、デチロがバールを拾いあげて、首を振りながら、スタッド氏に目で合図をした。思い付きで口に出したボーナスの話を、スタッド氏が思っているより、デチロのほうは真剣に受け取ったようだった。  デチロがバールの先を木箱に差し込み、力を入れると、簡単に蓋《ふた》が開いて、中に油紙の内装が現れた。その下はまたビニール梱包になっていて、中身自体は外箱の半分程度だ。 「ご大層な包みだけんど、例のものじゃなさそうだ」  荷物がプラスチック爆弾でないことぐらい、スタッド氏なら重さで見当がつく。それをデチロに言っても仕方はないが、余った荷物に不審を抱くだけ、他のズッグ人よりは増しということか。  出てきたのは、小分けにされた透明な袋で、色や形はスパイスに使う、セイジの葉のようだった。乾燥しているとはいえ、中心の葉脈にそって、両脇に二本の副葉脈が浮いて見える。 「へんな茶だいね。ペルーの連中は、こんな茶を飲むんかさあ」  袋の一つを手に取り、ガムテープをはがしながら、そのときにはもう、スタッド氏は頭の中にいやな記憶をよみがえらせていた。葉の形は茶ではないし、マリファナでもない。しかし記憶に間違いがなければ、これはコカインの原料になる、コカの葉ではないのか。ベトナムの戦場では阿片もマリファナもコカインも、あらゆる麻薬が充満した。北ベトナム側が作戦として持ち込んだという噂《うわさ》もあったし、アメリカ軍自身が広めたという噂もあった。兵隊は阿片で神経を麻痺《まひ》させ、コカインの勇気でベトコンの潜むジャングルに突進した。部下の若い兵隊が、なん人ジャングルの中で命を落としたことか。その原因が戦闘そのものにあったのか、コカインを初めとした麻薬にあったのか。  汗と一緒に寒気が背中を流れて、デチロに見られない角度に、スタッド氏はそっと顔をそむけた。葉の袋の下には白い粉の袋もあって、匂《にお》いは、確かめるまでもなくコカインだった。手違いとはいえ、よりによって、なぜこんな荷物が入ってきたのか。 「マイケル、ペルーの貨物船は、どこを経由してきたんだ」と、小袋を木箱に戻し、意識的に不機嫌な声で、スタッド氏が言った。 「ポナペやトラックをまわって、これからニューギニアへ行くんだと」 「税関のヨシオは荷物検査をしなかったのか」 「いつもの通りだがね。荷が陸にあがったときは、はあ書類にサインがしてあったよ」  ズッグに税関がないに等しいことは、もちろんスタッド氏も承知している。爆薬だろうがコカインだろうが、持ち込んだところで消費する経済力がないのだ。しかしそれを送り返すとなると、話はちがう。相手方には立派な税関があるし、麻薬関係のチェックは世界のどこでも厳しくなっている。納品書にも箱の蓋にも『BPC』の文字が入っていれば、スタッド氏が疑われないはずはない。ここでトラブルを起こすことが、得か損か、考えなくても分かることだ。 「どうするね、スタッドさん」と、箱の中を遠くから覗《のぞ》き、頭を掻《か》きながら、デチロが言った。「人夫に船まで戻させべえかね」 「その必要もあるまい。こんな荷物、返品する手間のほうが面倒だ。引き取っても大した金額ではないだろう」 「放っとくわけかね」 「倉庫に置いておけ。邪魔にもならんし、始末は、ペルーと連絡を取ってから決めればいい」  冷たく流れつづける汗を拭《ふ》き、二人の人夫に目をやって、胃のあたりをさすりながら、スタッド氏は低く鼻を鳴らした。西日の色は濃く、港は穏やかで、男たちは精神活動を放棄したように、じっと海を見つめている。いつもと変わらない平和な小島だというのに、爆弾だのコカインだの、なぜ面倒な事件ばかりつづくのだろう。平和だと思っていたのはスタッド氏一人だけで、この国での静かな余生という計画も、どこかに変更の余地があるのだろうか。 「ところでマイケル……」と、戸口のほうに歩きながら、ふり返って、スタッド氏が言った。「例のカヌーは、まだ見つからないのか」  木箱の蓋を閉めながら、首をかしげ、欠伸をかみ殺すように、デチロが大きく歯をむき出した。 「そりゃあスタッドさん、簡単にはいかねえよ。ズッグにはなん千ものカヌーがあって、そいつがみんな似たような形だもんね」 「せいぜい気合いを入れて探してくれ。情報だけでもボーナスは考えてやる」  指でOKサインをつくったデチロに、むっつりと会釈し、日射しを恐れるような顔でスタッド氏が通りを歩き始めた。波止場の汚れた海で子供が遊び、三角帆を張ったカヌーが湾をエルロア側に渡っていく。どこかで南洋|蝉《ぜみ》が鳴き出して、やはり今日も、スコールは来ないらしい。  事務所に戻ったスタッド氏が最初にしたことは、冷たいシャワーを浴びることと、冷たいビールを一本飲むことだった。  首にバスタオルを掛けたまま、ソファに躰《からだ》を投げ出し、デスクの電話機を眺めながら、頭では倉庫に残してきた木箱のことを考えていた。貨物船はポナペやトラック諸島を経由してきたというが、納品書に品名が記入されている以上、積み込まれたのはペルーの港を出たときだろう。特別な状況を除いて、人間でも貨物でも、出国時の検査はどこの国も簡単に済ませてしまう。危険物や危険人物が自国を出ていくことに、チェックの必要はないと考えるのだ。  問題はなぜ、コカイン入りの木箱がズッグに届けられたのか、ということだ。中身のほとんどは乾燥させたコカの葉で、それだけならカフェインに似た興奮剤程度の作用しかない。コカの木はペルーの中高地に自生する常緑灌木で、葉は野菜と同じように市場でも売っている。精製してコカインを抽出しなければ、商品としての価値はないに等しい。木箱には粉末の袋も入っていたが、重量は五百グラムにも満たなかった。純正品の末端価格を一グラム百ドルと計算して、五万ドル前後ということだ。それもアメリカや日本といった需要国での話で、ズッグでこんなものを買う人間は皆無だろう。ビールも買えない現地人が、コカインなどに手を出すはずがない。サントス一族の冗談か、だれかが観光客相手の商売でも企《たくら》んだのか。単純なミスか、故意のミスか、それともCIA要員としてのスタッド氏に対する、何者かの罠《わな》だとでもいうのか。  スタッド氏はたるんだ頬の肉を、ぴしゃりと叩き、デスクに歩いて、ホテルの交換台にペルーへの国際電話を申し込んだ。一分ほどで電話がつながり、『インカ貿易』という商事会社の社長が、スペイン語なまりの英語で陽気に話しかけてきた。これまで二度ほど電話で話したことがあるが、会社の規模は『B・P・C』と似たようなものらしかった。 「ミスターロドリゲス。今日おたくからの荷が入りましてな、唐辛子の品質は立派なものでしたよ」 「最高級。ねえ、唐辛子も砂糖も缶詰も、みんな最高級。うちの品物、みんな最高級ね」 「今後ともよろしくお付き合い願いたいもんです」 「鯖の缶詰、鮪《まぐろ》の缶詰、なんでもあるよ。コーヒーなんか最高よ。うちの品物、ぜんぶ最高ね」 「ところで、当方からの発注書、お手元にございますかな」 「あるある。うちのファイルは最高よ。アメリカ、イギリス、フランス、ファイルはみんな手元にあるよ」 「実は発注書と納品書の記載に、不一致がありましてな。お手数ですがちょいと調べていただけませんか」 「OK。最高、ミスなんか簡単に直せる」 「いつも迅速なお仕事で感心しておりますよ。で、納品書の最下欄には、やはり『茶一箱』と記入されておりますかね」 「あるある。茶一箱ね、うちの茶は最高級よ。イギリス人も中国人も、みんな泣いて喜ぶね」 「それがですなあ、当方としてはどうも、茶を注文した覚えはないんですよ。発注書にも記載はありませんし」 「OK。簡単よ。おたくの発注書、うちのほうで直しておくよ」 「いや。そういうことではなくて、注文をしていない荷物が届いたもので、困っておるんですよ」 「注文はしてるよ。うちのファイルは最高。ちゃんとメモがあるね。『追加、茶一箱。BPC』……ああ、これね。ちゃんと覚えてる。料金前払い。品質最高。安全確実。うちの仕事はみんな最高よ」 「ミスターロドリゲス。追加注文をしたのは、BPCの人間ですかな」 「もちろんペルー人よ。船に直接持ってきたね。割り増し料金もキャッシュ。最高の紳士よ」 「あなたは、荷を、確認しておられないわけですか」 「とんでもない。わたし、ちゃんと確認したよ。わたしが『茶か』と訊《き》いたら、その紳士は『最高級』と答えたね。仕事は完璧《かんぺき》、うちのほうにミスはないよ」 「その紳士の、お名前は?」 「ああ、ええと、メモにはドミンゴとあるね。あれはメスティソか日本人との混血だったよ」 「荷受け人として、間違いなく当方を指定したんですな」 「間違いないね。うちの仕事は完璧よ。品物は最高級。料金は最低。安全確実親切丁寧。だから返品は、一切お断りね」 「や、そういうことなら、こちらの手違いでしょう。おたくの仕事にはいつも感謝しております。今後とも、よろしく取り引き願いたいもんですな」 「OKOK。ミスタースタッド。そちらのミスはうちのほうで直しておくよ。信用第一、友好第一。善意の人間はいつも神様が見守ってくれるね。人生は最高、商売も最高。それじゃミスタースタッド、お互いにいい仕事をね。サンキュー。グッバイ」  受話器を置き、汚れた天井をふり仰いで、腹の底から、スタッド氏は溜息をついた。荷物を直接ペルー舶に持ち込み、受取人を『B・P・C』に指定して前金まで払った手口は、ズッグの事情とローカル貿易の実態を知り尽くした人間のやり方だ。目的地は最初からズッグと決められていた。意図がなんであれ、この国でそんな芸当のできる人間は、経済実務に精通したマルカネ・ザワオしか考えられないではないか。  スタッド氏はしばらく窓の外を眺めたあと、デスクの引き出しからバーボンのボトルを取り出し、グラスに半分ほど注いで、一気に飲み干した。それからまた同じほどの量をグラスに注ぎ、口の中でゆっくり味わってから、ホテルの交換台にハワイへの長距離を申し込んだ。相手はホノルルの郊外で老人ホーム暮らしをしている、前任者のエド・ビーンズだった。  スタッド氏がビーンズと知り合ったのは、朝鮮戦争に出兵した一九五〇年のことだ。ビーンズはスタッド氏より十以上も歳上で、第二次大戦では沖縄戦にも経験を持つ古参の上等兵だった。節度と自制心があり、敵を殺すより自分が生き延びることを良心と考えていた。若いスタッド氏はビーンズの考え方に反発も感じたが、戦闘が長びき、勇気ある兵士の無謀な死を見つづけるうち、ビーンズの戦争観に同調する気持ちが湧《わ》いてきた。戦争とは為政者のパフォーマンスであり、兵士のための戦争などこの世に存在しないこと。敵側には敵側の論理があること。兵隊は機関銃や大砲と同じ消耗品であること。そしてそれらの理屈をいくら理性で理解しようとも、現実の戦闘では、一切が無意味であること。 「よう、ピーターかい。どうした、しばらく顔を見せんじゃないか」  電話がつながり、しわがれた声と一緒に、年寄り斑の目立つ皺《しわ》だらけの顔が、懐かしくスタッド氏の脳裏に浮かびあがった。 「あんたから買った会社、儲からなくてなあ。そうはハワイにも遊びに行けんよ」 「儲かっておったら売るもんか。騙《だま》されたおまえさんが悪いと思って、諦《あきら》めることじゃな」 「死にそこないの年寄りにしちゃ、相変わらず威勢がいいね」 「わしゃあ青春を謳歌《おうか》しておるよ。ナースはピチピチギャルで婆さん連中も色気たっぷりじゃ。歳なんぞ取ってる暇はありゃせんわい」 「なあエド、来月には会いに行くが、その前に二、三、ズッグのことで教えてもらいたい」 「あんなつまらん国のこと、わしゃあみんな忘れちまった」 「覚えていることだけでいい。それとも歳を取りすぎて、惚《ぼ》けがまわったか」 「ピーターよ、今わしが付き合ってる女を見たら、おまえさんも腰を抜かすぞい」 「来月にはたっぷり腰を抜かしてやる。それよりズッグのサントス大統領が膵臓癌《すいぞうがん》とかで、もう先はないらしい。そのせいで国の中がごたごたしてるんだ。役所の仕事にも関わることだ。ちょいと協力してくれ」 「生真面目な性格は変わらんなあ。サントスが死のうと生きようと、おまえさんには関係なかろうよ。それともジョージの馬鹿が、ズッグを共産国にでもしようと企んでおるのか」 「やつにそこまでの頭はないさ。大統領もジョージになるか甥《おい》のタントラーになるか、それも分からん。問題は次期大統領のことではなくて、マルカネ・ザワオだ。覚えているか。この国の経済を牛耳っている、あのマルカネ・ザワオ」  エド・ビーンズがしわがれた咳《せき》払いをし、電話の向こうで、喧《やかま》しく鼻を鳴らした。五年前の発作で左半身は不自由になっているが、言語中枢に異常がないのは、いずれにしても幸いなことだ。 「食えねえ野郎じゃったなあ。あの男、まだでかい顔をしておるんか」と、受話器でも握り直したのか、一呼吸をおいて、エド・ビーンズが言った。 「五年前と変わらずさ。ただここに来て状況がおかしくなってきた。ジョージもタントラーもザワオを嫌っている。サントス大統領が死ねば、どちらにしても失脚するだろう」 「あのマルカネ・ザワオがなあ、簡単に失脚なんか、するもんかいなあ」 「訊きたいのはそこだ。ザワオが独立前にサントスの使用人だったことは知っている。しかしそれだけのことで、なぜ今ほど成りあがった。簡単に失脚しないとすれば、その理由がどこにあるのか、どうも納得できない」 「ピーターよ、なあ、そのことはわしだって不思議に思ったよ。じゃがわしが仕事に就いたのは一九八一年。ズッグが独立してから二年もたってからだ。そのころザワオはもうホテルの支配人に収まっておった。経済を握ったのは、案外やつの実力かも知れんよ」 「実力だとしても、きっかけは、なにかあったはずだ」 「そいつが分からんのじゃ。なんせあの狭い国じゃろう。奇妙な動きがあればいやでも知れ渡る。一つだけ気になったのはプラワ・イリンギという男の死じゃが、イギリスの行政官も引きあげたあとだし、もう調べようがなかったよ」 「プラワ・イリンギ?」 「エルロア島の大|酋長《しゅうちょう》だった男でな。サントスの対抗馬じゃったが、選挙の前に海で溺《おぼ》れ死んだ」 「死に方に、不審でもあったのか」 「分からんよ。独立前の混乱期で記録も残っておらん。わしが勝手に勘ぐっただけさ。ザワオとのつながりも探っちゃみたが、なにも出てこなかった。ズッグを掘って出てくるのは貝殻と、コーラの栓ぐらいなものじゃろう」 「エド。アキカン・ラーソンというのは覚えているかね」 「イギリス人に島を追い出されて、頭に来た野郎じゃったか」 「そのラーソンが爆死をした」 「ほうう」 「抗議の自殺かとも思ったが、それも怪しくてな。奇妙なことがつづいて困っているよ」 「弱音を吐くのは歳のせいじゃい」 「愚痴を言う相手がおらんだけさ。あんたもハワイで惚けてないで、現役に復帰したらどうだね」 「わしゃ今の生活が気に入っておるんだ。頼まれてもズッグには戻らん……おう、そういえばピーター、この前ショッピングセンターでエリスに出会ったぞ。おまえ、彼女に電話もせんそうじゃないか」  突然出てきたエリスという名前に、スタッド氏の平常心が、痛みながら動揺する。エド・ビーンズの口からエリス・ランバートの名前が出てくることなど、思ってもみなかった。 「電話なんかしたら、向こうが迷惑するよ」と、掌の汗をズボンにこすりつけ、タバコに火をつけながら、スタッド氏が言った。 「歳では頑固も治らんか。おまえさんが意地を張るなら、これ以上は教えんよ」 「教えるって、なにを」 「聞きたいじゃろう」 「いや……」 「無理をせんでもいいさ。彼女な、二年前に亭主と別れたそうだ。わしの勘じゃが、ありゃおまえさんからの連絡を待っておるな」 「まだ、陸軍病院に、勤めているのか」 「そう言っておった。どうだね、ザワオの情報よりはビッグニュースじゃろう。役所[#「役所」に傍点]の仕事なんぞ放り出して、すぐハワイに飛んでこんかい」 「考えておくよ。とにかく何か思い出したら、電話をくれ。いずれにしても来月には、ハワイに行くつもりだから……」  エド・ビーンズが咳《せ》き込むように笑い、それを合図に、礼と別れの挨拶《あいさつ》をして、スタッド氏は電話を切った。効いているはずの冷房もまるで効果はなく、首筋と腋《わき》の下には流れるほどの汗が噴き出していた。忘れようとしていたエリス・ランバートの顔が、記憶の深いところで、はにかむように微笑《ほほえ》みかけてくる。面倒な事件に巻き込まれながら、まだエリスに未練を残している自分が、気の毒でもあり、嬉《うれ》しくもあった。エリスの離婚が本当なら、そしてもし一緒に暮らすことが可能であるなら、このズッグも、本物の楽園になってくれるだろうに。  スタッド氏は茫然とタバコを吸ってから、エリスの微笑みと肌の匂いをふり払い、ビールの栓を抜いて、ソファに長く躰を投げ出した。余生も私生活も大事だが、当面の問題は今この国で起きているトラブルだ。アメリカの対ミクロネシア政策という観点に立てば、大統領がジョージ・サントスになろうがウガウ・タントラーになろうが、大した違いはない。一般の国民生活を考えても、それは同じことだ。利益分配の不平等さが変わらない以上、貧しいものはいつまでも貧しく、そこから抜け出す知識すら与えられない。それならラーソンの爆死や台湾漁船が積んでいた十キロのプラスチック爆弾、それに今日陸あげされたコカの葉や精製コカインなど、政変に関係なく、たまたま発覚したアクシデントなのか。独立国家としては日常的なトラブルであり、CIAやスタッド氏だけが要らぬ心配をしているのか。そう決めつけても構わないし、支部への報告だって、それで済まないこともない。ズッグ共和国に陰謀など存在しない。住民は穏やかで、無愛想ながらも節度があり、海と陸の恵みで日々を満足に暮らしている。余計な詮索《せんさく》は平和を乱す元であり、一介の雑貨輸入商として、自分はこれまでどおり平凡な生活をつづければいい。マルカネ・ザワオがコカインを持ち込もうと、あるいはプラスチック爆弾の購入を企てようと、政治体制に変化がない限りズッグもアメリカも困らない。世界中の人間がだれも困らないというのに、こんな瑣末《さまつ》な出来事に、なぜ自分だけが腐心するのか。一切を無かったこととして、今すぐエリス・ランバートに会いに行って、どこが悪いのか。  スタッド氏は横になったままビールを呷《あお》り、ふくらんだ腹の肉をさすって、息を長く天井に吐き出した。戦場を離れてから二十年、体力や気力が衰えるのは、当然のことだ。エリスとの関係も中途半端なまま投げ出し、自覚もなく安逸な日常を求めようとする。人間に対する好奇心は、人生に対する情熱は、どこへ行ってしまったのか。『義務も責任も放棄して君に会いに来た』と言ったら、エリス・ランバートは、それで喜んでくれるのだろうか。 「面倒なことだが……」と、躰を起こし、ビールを飲み干して、スタッド氏は一人ごとを言った。「人生は面倒なものに決まってる。なあエド、覚えているか。ピーター・スタッド軍曹が、これまでに一度でも、弱音なんか吐いたことがあったかね」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  西日を受けた倉庫の影が、防波堤を越えて桟橋の突端まで射しかけている。エルロア側の海岸にもカヌーが散在し、変化のない島国に夕方の賑《にぎ》わいが見え始める。南洋蝉が狂ったように鳴き、外海《そとうみ》からは貨物船の遠い汽笛が聞こえてくる。女たちがパンダヌスで編んだ籠《かご》をさげ、市場の方向にそぞろ歩く。昼間の漁から帰ったカヌーが漁港の付近に密集し、通りを古いオートバイが音たかく走り抜ける。湿度の高い空気の中に、海からの照り返しが錆《さ》びた色に反射する。  デチロは倉庫の外壁に寄りかかり、タバコを吹かしながら、桟橋で遊ぶ子供たちをぼんやりと眺めていた。ダイブしたり貨物船の繋留《けいりゅう》ロープに掴《つか》まったり、遊具も使わずに子供たちは単調にはしゃぎまわる。一キロも離れれば清潔な浜があるというのに、トポルの子供は油の浮いた波止場で遊ぼうとする。クルーザーや貨物船に外の世界を感じるのか。それとも外国人が気まぐれに放る十セント玉を、一日の仕事として待っているのか。 「マイケルやい、はあ用はねえかさあ」と、倉庫の奥から出てきて、額の汗を腕で拭きながら、人夫のヨハネが声をかけた。 「ライスワインはクルマに積んだかや」と、桟橋を眺めたまま、デチロが言った。 「積んだ。ウイスキーも積んだい。唐辛子の箱はコーラの上にでよかんべえ」 「ご苦労さんよ。明後日《あさって》にゃフィリピンからの荷が入るから、またおめえに頼まあ」  汗を拭くヨハネにビルマタバコを差し出し、火をつけてやってから、壁ぞいにしゃがんで、デチロが大きく欠伸をした。昨夜は朝まで起きていたし、貨物船からの荷あげがつづいて、今日は昼寝もしていなかった。気だるくて、神経は尖《とが》っていて、眠いのか興奮しているのか、よく分からない精神状態だ。 「マイケルよ、おめえにゃ世話んなったけんど、明後日は来られねえ」 「橋の工事でも始まるんか」 「ありゃいけねえよ。当分は中断っつう噂だいね」 「どうした。新しい仕事をめっけたかや」 「島へ帰るんさ。トポルにいてもいい事はねえ。島へ帰って、また漁師でもやるべえと思うんさ」  ヨハネもデチロのとなりにしゃがみ込み、波止場に目を細めながら、長くタバコの煙を吐き出した。ヨハネの太い指はささくれに血がにじみ、爪には黒い汚れが皮膚の色よりも濃くこびりついている。  三年前までのデチロも、ヨハネと同じ船人足だった。港にたむろして貨物船を待ち、一週間に二、三度、かろうじてその日の仕事を確保する。デチロが他の人夫と異なっていたのは、スタッド氏への関わり方だった。気後れからか、へつらいを嫌うためか、ズッグ人の無愛想はミクロネシアでも突出している。顔を見てもスタッド氏に声をかける人足はなく、ただデチロだけ、一年間黙々と笑顔を向けつづけた。そのうちに人足の手配を任され、クルマの運転を教えてもらい、月給二十ドルで正式に雇われた。デチロが特別に優秀だったわけではなく、『アメリカ人は陽気に声をかけてやると喜ぶ』という、中学での教えを実践しただけのことだった。 「おめえ、島は、どこだっけな」と、痰《たん》を吐き、タバコを通りに弾《はじ》いて、デチロが言った。 「コナカイよう。テヌプ岬のずっと北だい」 「トポルにゃどれぐれえ居たんだ」 「はあ二年かさあ。橋の工事で来てみたけんど、銭なんか残らねえや」 「漁に出たって、やっぱ銭は残らねえだんべ」 「だけんどなあ、コナカイなら銭がなくても飯が食える。親父もお袋もいてよう、その気んなりゃ嫁さんだってもらえらあ」 「トポルにゃ、戻らねんかや」 「オレにゃ町は向かねえよ。銭がなきゃ酒も飲めねえ。女ともやれねえ。アメリカ人だの日本人だの、やつらばっか威張ってやがる。トポルなんてのはよう、はあズッグじゃねえやいなあ」  トポルもズッグ。コナカイもズッグ。カヌーに乗るのもズッグ人で、クルーザーに乗るのもズッグ人だ。しかし離島のズッグ人がトポルで暮らす方法を、だれが知っているのか。カヌーからクルーザーに乗り換える方法は、だれが教えてくれるのか。 「正解かも知んねえ。どうせいい事がねえなら、島のほうが楽だんべえよ」 「おめえにゃ世話んなったい。北の海に出ることがあったら、コナカイに寄ってくんな」  ヨハネが腰をあげ、くわえタバコのまま、無表情にまばたきをした。そのヨハネにデチロは一ドルの日当を手渡し、倉庫に戻って、ケースから缶ビールを一本抜き出した。 「そいじゃあよ、元気で暮らせや」と、ビールをヨハネに放って、デチロが言った。「嫁さんでももらったら、一度顔を見せに来いやな」  うなずいただけで、ヨハネが市場のほうに歩き出し、その汚れたランニングシャツを見送ってから、またデチロは欠伸をした。トポルに出てきていい事がなかったのは、なにもヨハネ一人ではない。人足も市場の売り子も夜の女も、だれにも『いい事』なんかありはしないのだ。扇風機もきれいなシャツも幻想で、屋台で椰子《やし》酒を飲みながら、いつかはだれもが自分の幻想に疲れていく。デチロ自身は幸運だったが、その幸運だって、いつまでつづくか、知れたものではない。  デチロは欠伸をかみ殺しながら、板戸を内側から閉め、シャツとGパンとスニーカーをコンクリートの上に脱ぎ散らした。それから水道の栓をひねり、水の下に胡座《あぐら》をかいて座り込んだ。マルカネ・ザワオのクルーザーが目に浮かび、そのクルーザーがアキカン・ラーソンのカヌーを引いていく光景が、自分の記憶のように明確な輪郭をもってくる。なぜスタッド氏に告げなかったのか、自分が何をしようとしているのか、判断はできなかった。リモーアに帰る気にはならないし、このままトポルで歳を取ることにも耐えられない。もし今以上の幸運があるのなら、それはどんな形のものか。自分の知らない世界が、疲れ果てて島に帰る以外の人生が、はたして、あるのかどうか。  デチロが髪に椰子油を塗りつけて倉庫を出たときには、もう南洋蝉は鳴きやんでいた。町に光の色はなく、海にも家並みにも、曖昧《あいまい》な黄昏《たそがれ》がぼかし絵のように押し寄せる。日が沈むと躰を動かしたくなる体質は、ズッグ人だけの特性ではなく、熱帯圏に共通した環境適応だ。南洋蝉は夕方の一時間だけを驟雨《しゅうう》のように鳴き、以降はコウモリが昆虫を求めて遠慮がちに飛びまわる。ズッグでは犬も人間もニワトリも、日没以降を活動の時間と決めている。ワゴン車のハンドルを握るデチロの口からも、父親が歌っていた『ラバウル小唄《こうた》』のメロディーが、無意識にこぼれ出す。  T字路をすぎ、『ダイアナ』の前で止まりかけ、思い直して、デチロはそのままクルマを走らせつづけた。橋梁の工事現場をすぎると舗装路は終わり、海岸に沿う無舗装の椰子並木が現れる。この辺りでは珊瑚《さんご》礁が浜の間近まで迫り、もう大型船は入れない。砂浜にはカヌーが引きあげられ、椰子の木に囲まれて漁師の掛け小屋が点在する。群青色の海では女が躰を洗い、水際を豚と子供が集団で転げまわる。リモーアの風景にも似た夕暮れだが、人家の配置と海の色に、多少の他所《よそ》よそしさが感じられる。  デチロは道の端にクルマを停め、群がる羽虫を手で払いながら、ぶらりと浜におりていった。海風に混じって魚を干す臭気が鼻をつき、静寂を豚の鳴き声と子供の喚声が掻きまわす。所どころに石蒸し料理の炎が見え、焦げたコプラ油の匂いも流れてくる。  五分ほど浜をぶらつき、タバコを一本吸ってから、カヌーに腰をおろしている年寄りを見つけて、デチロは足を止めた。年寄りは裸足に半ズボンを穿《は》き、深い皺の奥まで日焼けさせて、暗い目で凝然と海を眺めていた。歳は八十にも九十にも見えるが、実際には六十にもなっていないだろう。顎髭《あごひげ》には白髪が混じり、落ちくぼんだ目にはうすく目脂《めやに》が溜《た》まっている。デチロが横に立っても、視線を向けようとはしなかった。 「旦那《だんな》さん、今夜は漁に出るのかい」と、カヌーの舳先《へさき》を撫《な》でながら、海に話しかけるように、デチロが言った。  年寄りは返事をせず、表情も変えず、消えていく水平線の辺りに、じっと目を凝らしていた。 「ここんとこ月がねえから、漁も悪いやねえ」  やはり返事はなく、しばらく間を置いてから、またデチロが言った。 「月が出たって同じことか。魚はどうせ、みんな日本の漁船が捕っちまう」  年寄りが砂浜に足を投げ出し、初めてデチロの存在を認めたように、かすかに右の目尻《めじり》を動かした。 「おめえさん、漁師にゃ見えんがのう」 「昔は親父を手伝ったさ。外の海に出て鮪やシイラを捕ったがね」 「そうかい。じゃがはあ、鮪は捕れねえやね。わしの若えころにゃ、筌《うけ》や網でいくらでも捕れたがのう」  トポルの市場を見れば分かるが、ズッグの海では鮪や鰹《かつお》の回遊魚も、鯛《たい》やカワハギといった根つき魚も、あらゆる魚が捕れる。回遊魚漁はラグーンの外まで出かけねばならず、昔から多くの漁師が命を落としていた。商品価値の高い外洋の魚を求め、男たちは危険を承知で荒れた海にもカヌーを漕《こ》ぎ出す。漁法は流した筌に網の魚を追い込むもので、そんな人海戦術では漁獲量の高は知れている。外国漁船が定置網や流し網を仕掛ければ、ズッグ漁師の収穫が落ちるのは当然のことだ。外国の漁業権料はすべて政府に入り、漁民への保証にはまわらない。文明と一緒に必要な物資は限りなく持ち込まれるのに、それを買う漁師の収入は、毎年確実に減少する。 「なあ旦那さん。あんた、先日《こないだ》の爆発は、見てたかい」と、年寄りにタバコをすすめながら、デチロが言った。  年寄りは眉《まゆ》をひそめただけで、タバコは受け取らず、目の端でじろりとデチロの風体を眺めまわした。 「おめえさん、役人かや」 「おいらはただの運転手だ。ラーソンさんに義理があるんで、ちょいと訊いてるんだいね」  ズッグでGパンやアロハシャツを着る現地人は、サントスの一族か、グアム帰りの役人ぐらいなものだ。スニーカーまで履いたデチロのいでたちを見て、年寄りは役人だと思い込んだのだろう。  デチロがまたタバコをすすめ、年寄りが受取り、ライターの先から、無愛想に火を吸い込んだ。 「ラーソンさんは、カヌー、この浜にあげてたってね」 「どうだかなあ。わしゃあ、知らねえ」 「いいんさ。あのあと外の海に流したことは、おいらも知ってる」 「本当に役人じゃねえのか」 「上のクルマ、見えるかね。おいらはあの会社に勤めてる。昔ラーソンさんに世話かけたっつう、それだけのことさ」  年寄りが土手のワゴン車に目をやりながら、鼻から煙を吐き、ひからびて艶《つや》のない裸の胸に、そっと掌を這《は》わせた。まだ警戒しているのか、ただ戸惑っているだけなのか、表情の分かりずらい顔だった。 「あの爆発にゃあ、おいらも吃驚《びっくり》したなあ」と、自分でもタバコに火をつけ、年寄りのとなりにすわって、デチロが言った。「ラーソンさん、怒ったんだんべねえ」 「わしゃあ何も知らねえのう」 「演説は聞かなかったかい」 「わしゃあ、聞いてねえ」 「橋のことで怒ってたっけ。カヌーがありゃ橋はいらねえ。椰子やパンダヌスがありゃビールもシャツもいらねえって」 「ラーソンは腕のいい漁師じゃった」 「海や星に詳しかったらしいね」 「わしらズッグ人は、昔はみんな、詳しかったさあ」 「おいらの親父もいい漁師だよ。だけどいい漁師は、貧乏だいね」  年寄りが初めて、可笑《おか》しそうに歯をむき出し、膝《ひざ》を抱えて、顎の先を海の彼方《かなた》に突き出した。 「罰が当たったかのう。昔からの精霊を忘れたもんで、海の神さんが怒っただよ。サントス酋長だって、はあ海亀の祭りもやりゃしねえ」 「エルロアじゃサメの祭りをやってるのにね」 「昔は賑やかじゃったなあ。海亀の祭り、サメの祭り。遠い島からもみんなカヌーを漕いできたがよ。昔は魚も捕れた。コプラだって高く売れたい。若《わけ》え衆は知るめえけんど、ラーソンの言ったことは、わしにも思い当たらいなあ」  この年寄りが六十だとすると、死んだアキカン・ラーソンと同じぐらいの歳か。知らぬと言いながら、話し始めれば、ラーソンのことはずいぶんよく知っている。 「おかしいやねえ」と、水際を歩く痩《や》せた犬を眺めながら、頭を掻いて、デチロが言った。「ラーソンさん、トポルじゃ、見かけなかったのにねえ」 「親なら子に憚《はばか》るべえ。『ダイアナ』のマリアがラーソンの娘ちゅうんは、みんな知ってることじゃ」 「あの二人、仲が悪かったいね」 「仕方ねえやな。サントス酋長に逆らっちゃ、マリアは店なんぞやってけねえ」 「ラーソンさんは、よくこの浜に来てたんかい」 「そうだいなあ、週に一ぺんは来てたかさあ。だけんどカヌーを着けるんは、決まって夜中じゃった」 「遇に一度、夜中にねえ」 「気の毒になあ。娘の手前を憚ったんじゃろう。じゃが最後はマリアにおくられて、案外ラーソンも幸せだったんべえ」  週に一度トポルに上陸していたラーソンを、なぜ町で見かけなかったのか。市場ならエルロアにもあるし、まさか夜中に魚を卸に来たわけでもあるまい。わざわざ漁師の浜にカヌーを乗りつけて、アキカン・ラーソンは、どこへ出かけていったのか。 「いつも夜中にカヌーを出して、ラーソンさんも大変だったいね」 「おめえさん、やっぱ、漁師じゃねえのう」 「おいらは運転手さ」 「星さえ知ってりゃ、海は夜のほうが具合いよかんべ。日も照らねえし、海風も吹く」 「そんなもんかい。ところで旦那さん、ラーソンさんのカヌーは、他にだれが見ていたね」 「若《わけ》え衆は漁に出らあ。この辺りで浜に残るんは、わし一人じゃ」 「爆発のあった日もかい」 「わしは腰が動かんでな。もう漁にゃ出られねえ」 「あの夜に見たことを、だれかに喋《しゃべ》ったかね」 「他人様のことに興味はねえや。他人様のことをだれかに喋るんも、わしゃあ好きじゃねえ」 「おいらにゃ喋ったよ」 「思い出してなあ。おめえさん、リモーアから出てきたマイケル・デチロだんべ」  ふと名前を言われて、年寄りの顔を見返してみたが、どうにも、デチロには思い出せなかった。 「立派んなってて、先《せん》にゃ見違えたわい。わしゃおめえにチャカウをおごられたことがある」 「そうだったかね」 「はあ三年も前かのう。市場の屋台で、一緒にチチ飯を食ったがよ。アメリカのズボンなんぞ穿いて、出世したもんじゃ」 「よけりゃあんたにも買ってやるぜ。コネがあって、おいら、安く買えるんだ」  年寄りが自分の名前を覚えていたことも、三年前にチャカウをおごっていたことも、ただの偶然だった。その偶然を幸運には思うが、今は船人足時代のことを思い出す気分ではない。デチロは残ったタバコを箱ごと年寄りに渡し、カヌーから尻をあげて、砂の上をゆっくりと歩き始めた。海にも椰子並木にも薄闇《うすやみ》がかかり、カナカ山の中腹には細く下弦の月が覗いていた。 「マイケルよ」と、手を振ったデチロに、皺だらけの首を伸ばして、年寄りが言った。「おめえさん、ぷれーぼーいにコネはあるかね」 「はあ?」 「ぷれーぼーいじや。アメリカの雑誌の」 「そこまでは、ちょっと、ねえな」 「ねえか。残念じゃのう」 「『プレイボーイ』が、どうかしたかい」 「わしゃなあ、ズボンなんぞいらねえが、死ぬまでに一度、ぷれーぼーいが見てえよ」  年寄りの目脂の浮いた顔に、うなずいてやり、もう一度手を振って、デチロは足跡ぞいに浜を土手に歩いていった。珊瑚の砂は粘度が高く、蹴《け》散らしても埃《ほこり》はあがらなかった。林の上をコウモリが舞い、クルマの周りには裸の子供たちが騒ぎもせずに群がっている。リモーアにもヘブテンにもどこにも、まだクルマを見たことのない子供はいくらでもいる。毎日空を飛ぶ飛行機を見あげて、中に人間が乗っていることを信じない子供は、いくらでもいる。  貨物船の船員に貰《もら》ったことがある『プレイボーイ』のグラビアを思い出して、椰子殻のかけらを、デチロは深く砂の中に踏みつぶした。  土手の上でクルマの向きを変え、デチロが向かったのは、メインストリートから丘をのぼったところにあるトポル中学校だった。ズッグ共和国にはズッグ島に三ヵ所、エルロア島に二ヵ所、それぞれに生徒数二、三十人の国立中学校がある。小学校数はその十倍ほどだが、学齢をまっとうする子供は少なく、中学への進学も三割には至らない。就学率の低さは、アフリカのように子供が重要な労働力だから、という理由ではない。読み書きを覚えたところで仕事はないし、日常的に教科書や学用品に費やせる現金が不足しているだけのことだった。  夕闇のせまる中、デチロは学校の敷地にクルマを乗り入れ、官舎の明かりを確認してから、サイドブレーキを引いて、エンジンを切った。太平洋戦争が終わるまで、この土地では日本人がサトウキビのプランテーションをやっていた。校舎は当時の作業小屋を改造したもの、校長官舎は経営者の私宅だった。サトウキビの畑は雑草の原に変わり、今は野生化したバナナと葛《くず》科の蔓草《つるくさ》が、カナカ山の中腹まで鬱蒼《うっそう》と茂っている。戦後に戻ってきたイギリス人はアフリカに植民地を持っていたせいか、ズッグのサトウキビには興味を示さなかった。そしてズッグ人自身は、労働集約型の農作業が、なによりも苦手なのだ。  デチロはクルマをおりたところで、窓ガラスの嵌《は》まった校舎をふり返り、タバコのない手持ち無沙汰《ぶさた》に、ちっと舌打ちをした。トポル中学はデチロのかよった田舎学校とはちがい、一種のエリート校なのだ。優秀な卒業生はグアムで高校教育を受け、離島やその他の小学校に教員として赴任する。全ズッグの教育システムを管理する機関でもあり、校長は文部大臣のスーサン・タンジェロだった。  明かりの漏れている官舎のポーチから、タンジェロが顔を出し、ゴム草履をつっかけてデチロのほうに歩いてきた。白い長ズボンに開襟シャツを着込み、腕には黒い防水時計を巻いていた。汗のない広い額には、困惑と不審の混じった太い皺が浮かんでいる。クルマ自体が珍しいのに、それがサントス一族のものでなかったら、タンジェロでなくても不審に思うだろう。 「やあタンジェロさん。港が見えて、景色がいいやいねえ」と、のぼってきた道をふり返り、白い歯をむき出して、デチロが言った。 「君は、スタッド氏のところの……」 「マイケル・デチロだいね。たまにゃ『ダイアナ』でも行きあうよ。ここにゃ初めて来たけんど、豪勢な学校だいねえ」 「改善の余地は多いんだ。予算があれば充実も図れるがね」 「校舎の窓ガラス。あれはもしかしたら、クーラーがあるってことかさあ」 「学生が勉強に集中できるよう、配慮しているからね」 「豪勢なもんだなあ。おいらも一年タスニの中学へ行ったけんど、あったのは椰子の葉の屋根だけだい。そこに通うんだって、カヌーで二時間もかかったいね」 「マイケルくん。校舎の見学なら、もっと早い時間に願えないかね。今は生徒も職員もおらんのだよ。それに私も、できればすぐに出かけたい」  スーサン・タンジェロが端正な眉を歪《ゆが》め、頬に冷淡な苛立《いらだ》ちを浮かべて、遠くからデチロの顔を見おろした。漁師や船人足ではないにしても、タンジェロが自分をまともに扱う必要のないことは、デチロにも理屈で分かっていた。 「『ダイアナ』へ行くんなら、クルマで送るけんどね」と、頭を掻きながら、ワゴン車のドアに寄りかかって、デチロが言った。 「用があるのは『ダイアナ』ではないんだ。『ダイアナ』に行くにしても、まだ時間が早すぎる」 「そういやタンジェロさんは、いつも九時すぎだったいねえ」 「どんな用件かは知らないがね。マイケルくん、私が出かけたらこの辺りは闇になってしまうよ」 「世話はねえさ。学校を見せてもらって、おいら満足だい。タンジェロさんとも話ができて、本当によかったよ」  デチロがスニーカーの踵《かかと》で、軽くクルマの前輪を蹴り、タンジェロが肩をすくめて、顔を官舎のほうにふり向けた。夕方の闇はまた色を濃くし、空の頂点にかろうじて青みを残すだけになっていた。 「ねえタンジェロさん。おいらなんかでも、また中学に入れるかねえ」  戻りかけていたタンジェロが、立ち止まり、首をかしげながら、ゆっくりとデチロをふり返った。 「ほうう。そういう向学心があるのか」 「運転手ばっかしはやってられねえ」 「君、出身は?」 「リモーアだよ」 「教員にでもなりたいのかね」 「そいつはご免だ。先生んなっても金は儲からねえ」 「中学を出ただけでは、やはり金は儲かるまい」 「どうだかなあ。タンジェロさんもマリアさんも、おいらから見りゃ金持ちだよ。ザワオさんなんか大金持ちだ。中学さえ出りゃあ、おいらも金持ちになれる気がする」 「マイケルくん……」 「ラーソンさんのカヌーを海に流した三人は、だれもサントスの一族じゃねえ。だからおいらも金持ちになる資格がある。そうじゃねえかい、タンジェロさん」  タンジェロの色のうすい皮膚に、赤みと青みが瞬間に交錯し、怒気を含んだ神経がまっすぐデチロの眉間《みけん》を貫いてきた。デチロはタンジェロの迫力に圧倒され、クルマのドアに背中を押しつけて、唖然《あぜん》と鉄板の熱に耐えつづけた。突然の恐怖に膝が震え、指先が震え、それでもデチロは立ちつづけた。ここで座ってしまったら、運転席に逃げ込んだら、もう自分には海を見つめる暮らししかなくなってしまう。 「カヌーの件は、君以外のだれが知っているね」と、不意にデチロから視線をはずし、横向きに息をついて、タンジェロが言った。 「おいら以外にゃ、だれも知らねえよ」と、震える指を腋の下に隠して、デチロが答えた。「あの夜たまたま浜に出て、見かけただけだい」 「マイケルくん、君は幸運だったな」 「おいらはいつも運がいいよ、ズッグ人に生まれたこと以外はね」 「ズッグ人に生まれたことも、そのうち、幸運だったと思うようになる」  タンジェロが静かに目を見開いて、口元に深い皺を刻み、額に浮いてきた汗を、素早く手の甲で拭きとった。 「君、見ざる聞かざる言わざるという諺《ことわざ》を知っているかね」 「はあ?」 「見たことを他人に喋らない分別が、君にあるかということだ」と、執拗《しつよう》にデチロの表情を値踏みしながら、タンジェロが言った。 「おいらは約束を守る男だよ。タンジェロさんが喋るなというなら、はあだれにも喋らねえ」 「いい心がけだ。君が幸運であることは私が保証しよう。用件は分かったから、今日のところは引き取りたまえ。君も私も、どうせこのズッグからは出られないんだから」  一歩つめ寄って、タンジェロがデチロの顔を確認し、深呼吸でもするように、肩で大きくうなずいた。いくらも歳上ではないはずなのに、タンジェロの安定した威厳と視線の圧力が、デチロにひたすら恐縮を押しつける。『ダイアナ』で見かける物静かなスーサン・タンジェロとは、まるで別人のようだった。  タンジェロが背筋を伸ばして官舎に歩いていき、デチロは流れ出そうとする冷汗を、意思力で強く皮膚の内側に押し戻した。まだ膝は震えていたが、課題を克服したことの誇りに、不遜《ふそん》な安らぎも感じ始めていた。他人の秘密を一つ握っただけで、ただの運転手が文部大臣と対等に向かい合える。肩幅が増したように感じ、皮膚の色が白くなったように感じ、ポケットの財布が、少しだけ重くなったようにも感じていた。  デチロはタンジェロの姿がポーチに消えるのを待ってから、車のドアを開け、運転席に戻って、『ラバウル小唄』を歌いながらイグニションにキーを差し込んだ。不安と安堵《あんど》が神経の表面に渦を巻き、ハンドルにかけた指は、まだ震えていた。ヘッドライトをつけると、校舎の窓ガラスが一斉に反射し、逃げ遅れたコウモリが慌ただしく飛び去った。雑草の匂いが充満する中、官舎の明かりがいっそう白さを増してくる。星は低く輝き、魚臭も野菜くずも匂わない。今まで考えたこともなかったが、港を見おろしながら丘の上で暮らすというのは、いったいどんな気分なのだろう。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ふり返るまでもなく、丘からメインストリートに曲がっていったクルマは、デチロの運転する『B・P・C』のワゴン車だった。丘の方向にはサントス一族の家も多いが、デチロはどこへ、何の配達に行ったのだろう。  スタッド氏は流れる汗をハンカチで拭き、小道の途中で、深く呼吸を整えた。昼間からビールを飲んだせいか、のぼり坂では息がつづかず、噴き出す汗も腹が立つほどの量だ。海にも風景にも文句はないが、この湿度の高い空気だけは、なんとかならないものか。  しばらく呼吸を整えてから、まるで明かりのない小道を、スタッド氏は急ぎ足でのぼり始めた。百メートルほどで道は二股《ふたまた》に分かれ、左に入ると、その先は藪《やぶ》を切り開いた教会の敷地になる。独立前のズッグにはカソリックもプロテスタントも教会を置いていたが、現在残っているのはイギリス教会派の一ヵ所だけだった。信者数のわりに荘厳なチャペルを構えているのは、イギリス人が居住していたころの名残りだろう。  スタッド氏は人気《ひとけ》のない敷地をチャペルの入口まで進み、開いている戸口にそっと足を踏み入れた。蝋燭《ろうそく》がともっている祭壇を、遠くから眺めてみる。祭壇にもベンチにも人影はなく、澱《よど》んだ空気の中を肌色の蛾《が》が優雅に飛びまわっている。神がいるとも思わないし、いないとも思わない。スタッド氏が教会と無縁になってから、もう二十年がたつ。  スタッド氏は戸口に立って汗を拭き、それから外に出て、チャペルを裏側の神父館のほうに進んでみた。粘りつく夜気をすかして窓明かりがこぼれ、クーラーの室外機が喧しい稼働音をたてている。義理ほどにも風はなく、背後の森からは山蛙《やまがえる》の鳴く歯ぎしりのような声が聞こえてくる。昼間なら尖塔《せんとう》に十字架も望めるのだろうが、今は建物も前庭も、すべてが湿度の高い闇に覆われている。  重厚な木製ドアをノックすると、中に人の気配が動き、待つまでもなく、そのドアが内側に開かれた。立っていたのは不安そうな目をした、小柄な現地人の女だった。短パンにTシャツを着て、ゴムサンダルを履き、髪の毛をヘアバンドで頭の後ろにまとめている。シスターではなさそうだから、小間使いか神父の愛人だろう。  取り次ぎを頼もうとしたとき、奥から神父のエドワード・ラウエルがあらわれ、気さくに腕を広げながらフロアを横切ってきた。腹まわりはスタッド氏の倍ほどもあり、昔はブロンドだったと思われる銀髪を、長く耳のうしろに流している。服装は神父用の詰襟ではなく、肥満体に合わせてあつらえたような、木綿の白い貫頭衣だった。 「この国ではドアをノックする人間なんぞおりませんでな。どなたかと思って、飛び出してきましたわい」  ラウエル神父が右手を差し出し、握手を交わした手で、スタッド氏を強く館の内側に招き入れた。 「どういうことですかな。ミサにも顔を出さんスタッドさんが、まさか懺悔《ざんげ》にお見えということもありますまい」 「神父さんのお知恵を拝借願いたいんですよ。夜分に申しわけないが、ちょいとお時間をいただけませんかね」 「紳士はいつでも歓迎します。ちょうど食事を始めたところですよ。ご一緒にいかがです」 「お気づかいくださるな。夕飯は済ませてきました」 「ではワインだけでも……フランスから取り寄せた、上物があるんですよ」  神父が身振りでフロアの奥を示しながら、貫頭衣をひるがえし、先にたって陽気に歩き始めた。床は灰色のコンクリートで、天井から古いシャンデリアがさがり、レンガを積んだ壁には南側を向いて白い小窓が並んでいる。暗くてだだっ広いホールだったが、冷房が効いていて、スタッド氏の汗も一気にひいていく。  通された部屋は、ホール脇《わき》のダイニングルームで、明るい間接照明の中、テーブルにはミートローフとマッシュドポテトが山のように盛られていた。客があるわけでもなさそうだから、これだけの量を、神父は一人で腹に納めるつもりなのだ。 「エマニエル。お客様にワインのグラスをお持ちしなさい。皿とフォークも忘れんようにな。それからナプキンもだ」  神父が女に命令し、スタッド氏には陽気な笑顔をふり向けて、ジェスチャーでテーブルの向かい側を指し示した。 「ところでスタッドさん。私にはあなたが教会に見えた記憶が、ないんですがね」 「わたしにもありませんな。もうなん年も、教会からはご無沙汰しています」 「お見受けするところ、アイルランド系のプロテスタントのようだが」 「昔はそんな気もしていましたが、もう忘れましたよ。罪を背負いすぎて、どうせイエスも呆《あき》れていらっしゃる」 「悲観なさってはいけません。わがイギリス教会派はどんな罪人《つみびと》にも寛容です。なんせ一六四九年には、国王の首を切った大罪人まで許したんですからな」  女がグラスと皿を持ってきて、スタッド氏の前に置き、ボトルの赤ワインを注いでドアの向こうに下がっていった。小間使いにしては身ぎれいだし、歩き方や仕種《しぐさ》が、どことなく色っぽい。 「一九七八年のシャトー・オ・ブリオンですか。この国でこんなワインが飲めるとは、思ってもいなかった」と、グラスを取りあげ、ラウエル神父に会釈をして、スタッド氏が言った。 「ネットワークからの寄贈品ですよ。スタッドさんには申しわけないが、ワインと牛肉は教会互助会から空輸させています。タニ芋とチキンだけでは、身がもちませんわい」 「二十年この国に暮らしておっても、食習慣は変わりませんかね」 「私にはあなたのように、五年で同化する体質が信じられない」 「わたしだって食事には苦労していますよ。ミサに出れば、という条件つきでなければ、毎日でも夕食に伺いたいものです」  神父がグラスをかかげて、屈託なく笑い、厚切りのミートローフを、ぽいと口にほうり込んだ。信者の寄付など考えられないから、この教会の経済は本部からの支援金で賄っているのだろう。ラウエル神父は新型の日本車も所有しているし、港にはクルーザーも繋留している。女も愛人らしいから、神に仕えるというのも、なかなか優雅な商売だ。 「わたしが今夜お邪魔したのは……」と、神父の健啖《けんたん》ぶりに呆れながら、ワインに口をつけて、スタッド氏が言った。「商売上の問題で、神父さんのアドバイスをいただけたらと思いましてね。この国で何が起こっているのか、先が見えんので困っておるのですよ」 「お分かりでしょうが、私は神に仕える身です。個人の現世的利益に関して、特別なご協力はできかねますな」 「そのことは承知しておる。神父さんの貨物をわたしの会社で扱いたいとか、そういうお願いではないんです。困っておるのは、この国の政情です。サントス大統領が危篤だという噂は、神父さんもご存知《ぞんじ》でしょう」  皿の上で動いていた神父のフォークが、宙で止まり、肉を噛《か》みちぎる口の音が、殺風景に響きわたった。 「ほうう。あのサントス大統領がねえ。そういえばしばらく、顔を見んと思っていましたよ」 「教会に、情報は入っていませんか」 「私の仕事は信者の教化と神への奉仕です。現世の権力構造には、立ち入らんことに決めています」 「ご立派な心がけだ。聖職者というのは、神父さんのように常に清廉であってほしいものです」  ローマ時代以来、教会が情報収集機関であり、戦略機関であることぐらい、だれでも知っている。ラウエル神父がサントスの動向に無関心だったとすれば、それはスタッド氏と同じように、この国を平和なだけの楽園と思い込んでいたせいだろう。 「国が乱れたらわたしの商売は成り立たない。そのことは、ご理解願えるでしょうね」 「貿易業では、難しい問題も出てきますかな」 「特に次期大統領の行方《ゆくえ》が定まらんと、手の打ちようがないのです。片方に協力しておって、逆の人物が大統領になった場合は利権を失いかねない。そういう事態だけは、なんとしても避けたいのですよ」  神父が静かにグラスをかたむけ、不気味なほど色のうすい目で、なめるようにスタッド氏の顔を眺めてきた。なにを考えているのか、あるいはなにも考えていないのか、肥満した赤ら顔から表情は読み取れなかった。 「片方はジョージ・サントスで、もう片方はウガウ・タントラーです。それは神父さんにもお分かりでしょう」 「あの二人のどちらかが、大統領にねえ。世の末がこの国にもやって来たということですかな」 「サントスは進歩派。タントラーは保守派。一応そういう区別はできますが、どちらが大統領になるのか、見当もつかない。ジョージ・サントスは日本の支援を取りつけて、さかんに多数派工作をしているらしい」 「この国にはたしか、母系相続の習慣があったはずだが……」 「それを覆そうと、ジョージ・サントスは動いているのですよ。本人はすでに手応《ごた》えを感じているようです」 「スタッドさんのお考えでは、なんらかのトラブルが持ちあがる、と?」 「もうトラブルは起きていますよ。橋の工事現場でアキカン・ラーソンが爆死した事件も、ただの偶然ではありません」  神父の手が止まり、赤ら顔に包まれた色のうすい目が、じろりとスタッド氏の顔を窺《うかが》ってきた。 「あれは野蛮人が神の怒りに触れた、当然の報いだと思っていましたわい。偶然ではないとすると、どういう必然です」 「その事情を神父さんにお尋ねしたいのです。独立前からこの国に住んでいる外国人は、もうあなたしかおられない。わたしにはどうも、独立前後のトラブルが、現在まで尾を引いているように思えるのです」  神父がワインを飲み干し、舌の先で唇をなめながら、のんびりとグラスにワインを注ぎ足した。大統領がだれに代わっても、だれがどんな事情で爆死しても、ラウエル神父にとってはすべて神の罰《ばつ》、ということらしい。 「なんのことやら分かりませんが……」と、ポテトと肉を小皿に取りながら、首を横に振って、神父が言った。「私に言わせれば、この国はトラブルが国家という衣装を着ているようなものですよ。アフリカでも他の南洋諸国でも、ズッグほど不信心な国は例がない。まさにこの国は、神から見放された土地というのが相応《ふさわ》しい」 「ご苦労は分かりますが、独立前の事情を、お聞かせ願えませんかね」 「そんなものあなた、我が祖国イギリスがこの罪深い国を見捨てたという、それだけのことですわい。ついでにイギリス教会派本部は、私まで見捨ててしまった」 「プラワ・イリンギという男を、覚えていらっしゃいますか」 「プラワ……おう、そういえばおりましたかな。エルロアの大酋長だった男で、これがまたサントス以上の罰《ばち》当たりだった」  ラウエル神父の神経を興奮させたのは、不信心なズッグ人なのか、自分を見捨てた教会本部なのか。独立前後の状況を思い出してくれれば、スタッド氏としてはどちらでも構わない。神父は気づいていないらしいが、ズッグの不幸は神やイギリスに見捨てられたことではなく、神やイギリスに発見されたことなのだ。 「しかし十五年も前に死んだ男の名前を、なぜスタッドさんが知っておられるのです」 「噂はどこからでも入りますよ。死に方が不自然だったという噂も、やはり聞こえています」 「無知な人間はつまらんことを言いふらす。イリンギの死に方に不自然な点などありませんわい。勝手に海に出て、勝手に溺れ死んだのです。強《し》いて言えばやはり、神の罰《ばち》が当たったということでしょう」 「そこまでの罰を受ける、イリンギの罪とは?」 「キリスト教への改宗を拒みつづけたと、その一語につきますな。実態は不明なのですが、キリスト教が入る以前から、この国には民族主義的な土着宗教集団があったらしいのですよ。馬鹿な日本人は、その教団の活動を黙認しておったのですな。戦後我々が戻ったあとも、イリンギは土着宗教を標榜《ひょうぼう》して、キリスト教への改宗を拒否しおった」 「それぐらいのことで罰を当てられたら、わたしなどは、とうに破滅しておる」 「イリンギの罪はそれだけではありませんぞ。『ズッグ民族党』とかいうものをつくって、この国からイエスを追放しようとした。あの男はユダヤ人より質が悪かった」 『ズッグ民族党』などという名称は初耳だが、名前からして反白人主義の団体であり、プラワ・イリンギを中心にしたサントスへの対抗勢力でもあったのだろう。今ではだれも口にしないから、事実上消滅した団体に違いない。しかし死んだアキカン・ラーソンの行動は、限りなく『ズッグ民族党』に相応しいではないか。 「当時のイギリス行政府は、イリンギの死に対して、調査をしなかったのですか」 「土人が一人海に溺れたところで、だれも問題にはしませんわい。今だって無知な漁師が、毎年なん人も海で命を落としている」 「当時は大統領の選挙をひかえていた。今とは状況が違うでしょう」 「正直に言って、当時はサントスのほうが好ましいとは思いましたな。礼拝にも来ていたし、一族もみなキリスト教を装っていた」  民族主義を標榜し、キリスト教を追放しようとしたプラワ・イリンギに対して、行政府の役人も教会関係者も、一様に悪意を抱いていた。当時のイギリス行政府が直接イリンギの死に関ったとも思えないが、その死を黙認し、歓迎したことは事実だろう。 「私らはまんまと連中に騙されたわけです。独立以降、サントスもタントラーも、だれも教会に関心を持たなくなった。イリンギに対抗するため、やつらは教会を利用しただけなのです。この国の人間はみな偽善者で、神を恐れぬ不届き者ぞろいだ。私がイエスなら、こんな国は、喜んで地上から抹殺してやる」  ズッグ共和国がそれでもまだ『地上』に存続している理由は、ラウエル神父より、キリストのほうが、少しだけ心が広いからだろう。 「神父さん。仮にですね、もしイリンギが死ななかったら、政権はどちらに渡っていたと思います?」 「票の行方が読めなくて行政府でも苦労していましたわい。イリンギが死んだことによって、みんながほっとしたことは事実ですかな」 「エルロア側に後継の候補は立たなかったのですか」 「イリンギが死んだのは波のない夜だった。そういう海で男が溺れ死ぬのは、ズッグでは恥とされている。だから後継も立たなかったし、大統領も素直にサントスでおさまった」 「反対勢力に不満が残らなかったというのは、少し解《げ》せませんね」 「だからイリンギの一族を閣僚にしているのでしょう。文部大臣のスーサン・タンジェロは、イリンギの母方の甥にあたります」  聞いてみれば、なるほど、理屈はそういうことなのか。サントスの一族でもないタンジェロが文部大臣におさまっている理由は、本人の能力でも、実力でもないのだ。スタッド氏にしてみれば『母方の甥』などはほとんど他人で、そんな人間が権力を相続することなど、思いも及ばない。しかしこのズッグでは、機能的にも傍系こそが直系と呼ぶのに相応しい。サントス政権としてはタンジェロを取り込むことによって、エルロア側を懐柔し、反対勢力を権力機構の中に組み入れようと考えたのだ。しかもポストが文部大臣であれば、利権や金銭的な恩典は、まず絡まない。 「あのタンジェロという男が、また大いに罰当たりでしてなあ」と、赤ら顔をいっそう派手に紅潮させ、灰色の目を鉛色に光らせて、神父が言った。「民族主義というか、反キリスト教主義というか、そういうものを裏で煽《あお》っているらしいのですよ」 「見かけは礼儀正しい紳士ですがね」 「この国の人間で、見かけなんぞ誰が信じられます。あの男が文部大臣になってから子供が教会に通わなくなった」 「考えすぎでは、ありませんか」 「いや。現実に、子供の親も教員も、政府の役人も教会を無視するようになった。そういう男が教育の頂点に立っておるわけですから、この国の人間は、遠からず、首をそろえて地獄に落ちる運命ですわい」  朝鮮半島、フィリピン、タイ、ベトナム。それぞれの戦場や基地を渡り歩いて、キリスト教徒以外の人間を、スタッド氏はいくらでも見てきている。アメリカにだってユダヤ教徒やイスラム教徒は数多くいる。それらの人間がすべて地獄に落ちたら、地獄は罪人で溢《あふ》れてしまう。それに自慢ではないが、いく人もの敵兵を殺してきたスタッド氏だって、どうせ天国には召されない。  神父が遠くから腕を伸ばして、スタッド氏のグラスにワインを注ぎ、自分の体重を持て余すように、肩で深呼吸をした。顔の赤みは頬から額にまで広がり、目にもアルコールの濁りが浮かんでいるようだった。 「神父さん。もう一つお訊きしたいのだが……」と、注がれたワインに口をつけ、天井に息を吹いて、スタッド氏が言った。「マルカネ・ザワオ氏について、神父さんは、どういう感想をお持ちですか」 「あの金に汚い、小商人《こあきんど》ですか。私はあんな男にまで感想は持っていませんがね」 「ザワオ氏はこの国の経済を一人で仕切っている。そのことはご存知でしょう」 「経済にまで興味はないが、なにか、だいぶ、手を広げているようですな」 「米、石油、その他の政府調達物資は、すべてザワオ氏が扱っています。ザワオ氏がそこまで大物になった理由に、心当たりはありませんかね」 「あの男はチョモロ人ですよ。だからどうだと言われても、そこまではなんとも、分かりませんがなあ」  女がドアから出てきて、暇そうにテーブルをまわり、神父とスタッド氏の顔を見くらべながら、ワインを注いでまた奥の部屋に消えていった。色の黒い平板な顔で、どこにでもいるズッグ人の女に見えたが、それがチョモロ人だと言われれば、スタッド氏にも否定はできなかった。  もともとチョモロ人は、グアム島その他マリアナ諸島に勢力を張っていた民族で、マゼランの侵略を受けるところから西洋の歴史に登場する。十七世紀以降、民族がたどった道は、インカ帝国の滅亡と様相を同一にしている。キリスト教の布教を名目にスペイン軍が攻め込み、百年間にわたって男女を問わぬ大虐殺を展開した。当初は十万もあったと思われる人口も、百年後には女と子供のみ、千五百人に減少していた。ラウエル神父の言うとおり、マルカネ・ザワオがチョモロ人だとすれば、虐殺を逃れて太平洋諸島に散っていった民族の、数少ない生き残りということになる。 「たとえザワオ氏がチョモロ人だとしても、それだけでは経済は握れますまい」 「私も裏の事情は知りませんよ。ですがチョモロ族はムンダニの集落に住みついて、代々サントスの一族に隷属して生き延びてきた。ザワオがどこかでサントスの弱味を握り、隷属から脅迫に方針を変えたとしても、不思議はありませんな。いずれにしても野蛮人のやることで、私個人としても教会としても、まるで興味はありませんわい」  スタッド氏には想像もできないが、ズッグ人自身の持っている人種的偏見とは、どんなものだろう。ジョージ・サントスやウガウ・タントラーがザワオを嫌う理由は、ザワオがチョモロ人だから、というだけのことなのか。それとも経済を握っているザワオに対する、政治家としての嫉妬《しっと》なのか。現サントス大統額がなぜザワオを優遇したのか。二人の大臣はその理由まで知っているのか。政権が委譲されたのち、自分にどういう運命が待っているのか、ザワオ自身は承知しているのだろうか。  沈鬱な気分になって、スタッド氏は咳払いをし、飲み干したワインのグラスをそっとテーブルに滑らせた。こんな島国でも民族が対立し、その構造を難民や西洋人や日本人が、無自覚に掻きまわす。スタッド氏が感じる焦燥《しょうそう》は、たとえ悪意はないにせよ、自分の存在もまたズッグの平和を混乱させているという、否定できない事実だった。 「久しぶりに結構なワインをいただいて、恐縮いたしました」と、席を立ち、テーブルの横を神父の前まで歩いて、スタッド氏が言った。「せっかくのお食事中を、失礼いたしました」  神父も立ちあがって、ナプキンで指と口を拭《ぬぐ》い、目を見開きながら、陽気に腕を広げてきた。 「ミートローフも召しあがっておられない。もう少しゆっくりなさってはいかがですか」 「やぼ用が残っておりましてな。この次はそのつもりで、腹を空かせてまいりますよ」  近寄ろうとする神父を、身振りで制し、うしろに下がりながら、スタッド氏が会釈をした。 「見送りは要りません。食事をおつづけ下さい。神父さんのお話をうかがえて、今夜は参考になりました」  ラウエル神父が相好を崩し、うなずくように頬の肉を揺すって、胸の前で小さく十字を切った。布教の意欲もなく、海にも住民にも興味がないとしたら、この単調なだけの島国は、たしかに退屈以外の何物でもないだろう。政変や爆発物やコカインなどのトラブルがなければ、今ごろはスタッド氏だって、南国の安逸を無防備に貪《むさぼ》っているところなのだ。  スタッド氏はダイニングルームからホールのフロアを横切り、神父にも女にも見送られず、ドアを押して外に出た。山蛙が合唱を再開し、星が息苦しいほどの明るさで降りそそぐ。コプラが匂わないのは、さすがに町から離れているせいだろう。教会の敷地を歩きながら、スタッド氏はタバコに火をつけ、眠くもないのに、小さく欠伸をした。理解しにくいというだけで、この国の人間関係や権力構造は、実は単純なものなのだ。十五年後の今から判断すれば、プラワ・イリンギの死だってただの事故とは考えにくい。アキカン・ラーソンも思想的には『ズッグ民族党』そのものではないか。プラスチック爆弾は、常識的に考えて、マルカネ・ザワオが入手したものだ。ザワオは今も昔もサントス大統領の意向によって動いてきた。見返りとして経済を任され、結果的に後継候補からは疎まれる状況を招いた。構図自体はそんなところなのだろうが、しかしそれをどう証明し、CIAの南洋支部に、どう報告したらいいのか。 『次期大統領は流動的だが、国民生活は平穏。スコールもなく、トラブルは一切存在せず』  それでいいと言えば、もちろん、それでもいいのだろうが。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  小道を分岐点まで戻り、少し町の方向にくだって、枝道を今度は左に入っていく。ブーゲンビリアの植え込みや薔薇《ばら》の花壇があらわれ、芝生の前庭には室内の照明が明るくこぼれ出してくる。ポーチの椅子《いす》にはタントラーが陣取り、小山のような上半身をはだけて、港に向かいながらテーブルにビールの瓶を並べていた。風はなく、一度はひいたスタッド氏の汗も、すでにシャツを濡《ぬ》らすほどに流れ始めている。 「やあ大臣。近くまで来たもので、またお邪魔しますよ」  タントラーに声をかけ、生け垣の間から庭に入って、気さくに、スタッド氏が手を振った。タントラーが躰を揺すっただけで顎をしゃくり、目玉をぐるっと回して、口から白い歯をむき出した。確認はしていないが、対面時に歯をむき出すのは、ズッグの伝統的な挨拶なのかも知れなかった。 「閣議はいかがでしたかな。ラーソンの件は、丸く納まりましたか」と、すすめられた椅子に座って、ハンカチを取り出しながら、スタッド氏が言った。 「簡単なもんだがね。イギリス人だって文句は言えねえよ。あいつらはズッグに、一ドルの金も出してねえんだ」  ポーチのガラス戸から、いつものようにタントラー夫人が顔を出し、無言のままビールと大皿を置いて部屋に戻っていった。スタッド氏に話しかけないのは好意を持っていないからではなく、昔からの、ズッグのそういう習慣らしかった。 「ほほう、椰子|蟹《がに》ですか。こいつはお珍しい」 「漁師の子供に捕らせたんだい。昔はいくらでもいたけんど、最近じゃこんなものも手に入んねえ。スタッドさん、よかったら食ってくんな」  皿の上に鎮座しているのは、直径が三十センチもある椰子蟹で、殻が鮮やかな赤色に変化しているのは、すでに茹《ゆ》であがっている証拠だろう。名前はカニでも分類上はヤドカリの一種なのだ。コプラを常食とし、その肉は濃密な甲殻類の味がする。ハワイやグアムで需要が急増し、最近ではズッグからも輸出しているという。昔は大事なタンパク源でもあったが、当然ながら、もう地元民の食卓にはのぼらない。 「遠慮なくいただきますよ。魚もタロ芋も結構だが、この国での珍味は、椰子蟹につきますからな」 「わしの子供の時分なんざ、腐るほど捕れたがねえ。金持ちはだれも食わなかったもんだよ」  タントラーが胸と腹の肉を揺すり、愛敬のある丸顔に、くちゃっと太い皺を浮かべた。顔も胸も黒々と光ってはいるが、汗は流れていない。これだけの巨体でも、躰さえ動かさなければ、ズッグ人は汗をかかない体質に環境適応しているのだろう。 「タントラー大臣。いつもご馳走《ちそう》になるお礼という訳でもないが、ちょいと、気になる噂を聞きましてなあ」  丸い目に好奇心を浮かべ、瓶のビールをラッパ飲みしながら、遠くから、タントラーが見くだすようにスタッド氏の顔を眺めてきた。ジョージ・サントスよりも反応が鷹揚《おうよう》なぶん、政治家として、いくらか器量も上なのか。 「わたしなどが口を出していい問題か、にわかには、判断もつきかねますが……」 「なんでも言ってくんない。ズッグ人でも外国人でも、わしゃあ区別なく意見を聞く主義だいね」 「サントス大蔵大臣が、なにやら不穏な動きをしているらしいのですよ。わたしの言う意味が、お分かりですかな」  部屋の中で影が動き、タントラーがちらっと視線を動かしたが、夫人も子供も、犬もニワトリも現れなかった。 「スタッドさんは知るめえがよ。わしに言わせりゃ、ジョージの野郎は、はあ生まれたときから不穏だったいね」と、空のビール瓶をテーブルに置き、ぴしゃりと腹の肉をたたいて、タントラーが言った。「あいつのお袋はよう、やつが生まれたとき、産後の肥立ちが悪くて死んじまったい。若え時分にゃマリアと駆け落ちはするし、あの野郎は一族の疫病神だいね」 「サントス大臣が、駆け落ちを……」 「なあ、歳をとったぐれえじゃ、生まれつきの馬鹿は治らねえ」 「次期大統領の座を狙《ねら》うのも、馬鹿な行為でしょうかね」  タントラーの口が、半開きのまま途中で止まり、風のない夜の中に、荒い息がしばらく響きつづけた。丸い目には好奇心以外の表情はなく、次の台詞《せりふ》を考えながら、スタッド氏の困惑を楽しんでいるような顔でもあった。 「身内の恥は晒《さら》したくなかったがよ。スタッドさんの耳にも、もう噂は入ってるわけかい」 「大臣もご存知でしたか」 「ジョージのやることなんざ可愛《かわい》いもんだい。あれでも本人は政治をやってるつもりでいるんさ」 「しかし後ろに、日本の商社が控えているとなると、楽観はできんでしょう」 「なあスタッドさん。この国じゃ倅《せがれ》が親父の跡を継がねえ。継ぎたくても継げねえんさ。財産も地位も母方の甥っこが継ぐように決まってる。ジョージの馬鹿がもがいたって、昔からの決まりは変えられねえよ」 「大臣が思っておられるより、貨幣経済は、浸透していませんかね」 「おめえさんの言うことは分からい。ジョージが酋長連中に、金をばら撒《ま》いてるんだんべ」 「それをご存知で、傍観しておられるのですか」 「わしゃあそこまで甘くねえよ。ジョージの手口なんぞお見通しだがね。やつが使うのと同じ金をわしが使やあ、結局はチャラになるだんべ。政治にや金も必要だけんど、駆け引きも必要ってことだい」  タントラーが腹を突き出して、ピールの瓶を手に取り、頬をふくらませながら、にやっとウインクをした。同じ金額を使えば状況は元に戻るわけだから、なるほど、大統領の椅子は習慣どおりタントラーに転がり込む。自慢するほどの駆け引きでもないが、金さえ積めば票が買えると信じているジョージ・サントスよりは、少しは筋が通っている。 「心配はしていなかったが、大臣が用心しておられて、安心しましたよ」と、たっぷり椰子蟹を味わってから、ビールに口をつけて、スタッド氏が言った。 「スタッドさんの忠告にゃ感謝するよ。この国で話の分かるんは、おめえさんぐれえなもんだからね」 「今後とも末永くお付き合いしたいものです」 「ところでよう、あれはどうしたい。そろそろ荷が、入ったんじゃねえのかい」 「や、うっかりしておった。ラーソンの事件で混乱しておりましてな。ソニーの電気釜は、あと二、三日お待ちください」 「電気釜のことじゃねえ。わしの言ってるんはペルーからの荷のことだい。今日は港に船が入ったんべえよ」  返事をしかけ、ふと背中に寒気が走って、指先をハンカチで拭きながら、スタッド氏は固く息を飲んだ。ペルーからの荷は缶詰や唐辛子が中心だが、タントラー大臣は、いつからそんなものに興味を持ったのか。 「大臣。まさか……」 「おめえさんにゃ断らなかったが、ちょいと私物を注文したいね」 「つまり……」 「コカの葉と種。それに見本のコカインとよ、外交ルートで手を回したんさ。スタッドさんにもやっぱ、コカインぐれえは分かるんだんべなあ」  目の前を羽虫が飛び、それを手で払ってから、噴き出した汗も忘れて、スタッド氏は、一息にビールを飲み干した。 「あの荷を注文したのが、大臣だとは、思わなかった」 「明日にでもデチロに届けさせてくんない。言うまでもねえが、ジョージの馬鹿にゃ内緒だぜ」 「コカインがどういうものかは、ご存知なんでしょうな」 「アメリカや日本に持っていきゃ、高く売れるって話だいね」 「金額はともかく、あれは麻薬ですよ」 「麻薬だから高えんだんべ。自分で使わなきゃ危険はねえやい。わし個人とすりゃ、コカインよりビールのほうが好きだがなあ」  熟れすぎた椰子の実のような顔を、タントラーが太い首の中にうずめ、念力でスタッド氏を押しつぶすように、じろりと視線を送ってきた。外務大臣なら外交ルートはあるだろうし、『B・P・C』の取引実態だって把握できる。タントラーに金が必要な状況は理解できるが、それにしても、コカインの密輸など、いくらなんでも無茶が過ぎるではないか。 「大統領問題といい、コカインといい、大臣にはいつも驚かされる」 「わしは外務大臣だがね。いま少しすりゃあズッグ共和国の大統領もやることになる。国民を食わすにゃ金がかかるってことさ」 「旅行者でも相手に、大臣がコカインの売人をなさるのですか」 「わしの腹はそんなに小さくねえよ。こいつがうまくいきゃ国家的プロジェクトになる。わしゃジョージの馬鹿と違って、本気で国民の生活を考えてるんだい」 「分かりませんなあ。国民生活とコカインの密輸が、どう関連するんです」 「政治も経済も奥が深えよ。ポリシーやアイデンティティーも必要だい。強力な指導力とグッドアイデア。そいつが国家発展の鍵《かぎ》になるんさあ」  なにを言ってるのか分からないが、タントラー自身は理解しているようで、目元に気楽な笑いを浮かべ、タロ芋を口いっぱいに頬張りながら、大きくゲップを吐いた。こういう男でも従兄弟のジョージ・サントスよりはまし[#「まし」に傍点]、というところが、ズッグ国民にとっては、基本的な不幸なのかも知れない。 「おめえさん、ナカガワが言ってたコーヒープラントの話は、どう思うね」と、眼球の厚い丸い目を室内からの明かりに光らせ、タロ芋の滓《かす》を腹の上に撒きちらしながら、タントラーが言った。 「ズッグにもなにがしかの産業は必要という、そういうことでしょうな」 「そういうことだんべ。今ある産業はコプラだけだがね。昔はサトウキビもバナナも輸出してたけんど、この国土じゃ高が知れてらい。それにズッグ人は、朝から晩まで、農園じゃ働けねえよ。だからって自動車は造れねえ。コンピュータも作れねえ。もう燐《りん》鉱石もねえし、アラブみとに石油も湧かねえ。コプラと魚を捕るだけじゃ、いつまでもズッグは貧しいだけだがね」 「コーヒーの輸出というのは、一つの考え方では、ありますな」 「冗談を言うない。わしだってテレビで情報は集めてるよ。コーヒーなんざ南米やアフリカで腐るほど作ってる。ズッグが豊かになるためにゃ、他の国にはねえ特産品が必要なんさ。マリファナも考えたけんど、ありゃあ安くていけねえ。ケシの花は気候が合わねえ。そこでな、わしゃあ、コカインをズッグの特産品にすべえと思うんさ」  タントラーが冗談ではないと言うなら、たぶん、冗談ではないのだろう。表情にも殺気はないし、精神に破綻《はたん》があるようにも思えない。無邪気に、平静に、本心から、麻薬を国家的な特産品にすると宣言しているのだ。 「タントラー大臣。あなたの仰有《おっしゃ》ることは、アイデアだとは思いますがね。しかしそれでは、国家犯罪になってしまう」 「ズッグは独立国だもんよ。国の事業としてやる分にゃ、犯罪にはならねえさ」 「仮にですな。コカの木が栽培できたとして、コカインを精製できたとして、製品はどこへ売るんです」 「そりゃあ世界で一番金を持ってる、アメリカと日本だんべ」 「それこそ冗談ではありませんよ。アメリカはズッグに、年間六百万ドルもの無償援助を与えている。日本からのODA資金だってそれ以上の額でしょう。ズッグがコカインなど輸出すれば、援助はたちどころに打ち切られますよ」 「そんなことは計算済みだがね。コカインで一億ドルも儲かりゃ、援助もODAも要らなくならあ」 「しかし……」 「なあスタッドさん。わしは外務大臣だぜ。テレビのニュースで国際情勢は研究してらい。アメリカがズッグに無償援助してるんは、太平洋に共産国ができるんを防ぐためだんべえ。ソビエトの軍事基地でも出来たひにゃ、アメリカ本土が危なくなる。だけんどよ、もうソビエトはなくなっちまった。中国だって北朝鮮だって、こんなところまで出て来ねえがね。だとすりゃ、アメリカは、ズッグへの援助なんざいつでも打ち切れる。来年から金はくれねえと言われりゃ、はあそれまでだいね。日本のODAだって理屈は同じだい。ナカガワも言ってたんべ。ODAなんてのは、商社と政治家が儲けるための口実でしかねえ。ズッグのためにやってるんじゃねえわけよ。日本の景気でも悪くなりゃ、やつらはさっさと打ち切っちまう。だからズッグとしたら、どうしたって、自分で金を稼ぐ必要がある。それが独立国の宿命なんだい」 「理屈はそういうことでしょうが、方法がコカインというのは、倫理上、問題がありすぎます」 「善人じゃ政治家はやっていけねえ。まともな商売じゃ金は儲からねえ。なあスタッドさん、おめえさん、アメリカの特産品はなんだと思うね」 「コンピュータも、クルマも、もちろん、世界一ですよ」 「そんなものは特産品じゃねえよ。知ってるべえ。アメリカの特産品は、なんつっても戦争だがね。戦争が世界一じゃなきゃ、だれもアメリカの言うことなんざ聞かねえさ」 「しかし、その戦力のおかげで、世界の平和が保たれておる」 「その理屈は無理があらいね。世界中で戦争をやってることは、わしだって知ってるさ。だけんどその武器はアメリカが売ってるんだんべ。イギリスもフランスも中国もロシアも、みんな武器を売ってるけんど、一番の大手はアメリカだい。自分で武器を売って、他人に戦争をやらして、その戦争をおさめるために今度は軍隊をくり出す。結局儲かるのはアメリカで、武器を買わされたほうじゃねえわけよ。倫理がどうとか言うなら、そういうアメリカに、倫理の問題はねえのかい」 「タントラー大臣。それは、話が、飛躍しすぎませんかね」 「わしは素直な理屈を言っただけだい。スタッドさんを責めちゃいねえ。アメリカも日本も責めていねえよ。ただ政治に倫理は通用しねえし、経済に善悪はねえってことさ。国民を食わせていくためにゃ、政治家ってのは、それぐれえの度胸は決めるもんだよ」  ガラス戸が開き、タントラー夫人がビールの追加を持ってきて、ちょっと星空を眺めてから、また無言で部屋の中に戻っていった。タントラーの理屈はあまりにも単純で、外交でも経済でも戦争でも、前線の人間がどれほどの努力と犠牲を払っているか、まるで考慮から外している。それでも理屈として間違っているのかといえば、スタッド氏も、一応は考えてしまう。東西の冷戦が存在しない今、たしかに、アメリカとしてはズッグに経済援助をする名目はない。日本だって経済は沈滞し、権力構造にも変化があるという。明日にでもズッグへの援助停止を表明しないと、だれが断言できるのか。ナカガワの言うとおり、テレビを普及させてコーヒーのプランテーションを展開しても、ズッグの経済は自立しない。経済だけを考えるなら換金作物としてコカを栽培するほうが、ずっと理に適っている。エルロアとズッグの丘陵をコカ畑として開発し、コプラ工場をコカインの精製工場に変えて、製品をアメリカと日本に輸出する。受入れ側は抵抗するだろうが、麻薬を水際で防ぎ切れないことは、汚染の現状が証明している。コカインだけの年間押収量でさえ、アメリカ一国で、軽く百キロを超えているのだ。 「アイデアとしては、ユニークですがなあ」と、椰子蟹の皿を退け、タバコに火をつけて、スタッド氏が言った。「現実には無謀な試みでしょうよ。ズッグが国の事業としてコカインを輸出すれば、アメリカは経済封鎖に踏み切ります。日本も他の西側諸国も、共同歩調をとることは確実です」 「そんなもの怖かねえやい。封鎖されるほどの経済なんぞ、最初からありゃしねえべ。ズッグは軍隊を持ってねえ。だからアメリカも軍事介入はできねえ。独立国ってのは、そういうふうに、フェアな権利を持ってるもんだがね」 「たとえ、そうだとしても、国際的な孤立は招きます」 「ふふーん。どこまでもスタッドさんは、人がいいやなあ」  タントラーがくちゃっと口を鳴らし、白目をむきながら、腹を揺すって、タロ芋の滓を大きく芝生に弾き飛ばした。スコールのないせいか、芝生には埃《ほこり》の臭気が沈殿し、建物の裏手からはヤモリの鳴く低い声が、切なく聞こえてくる。 「なあスタッドさん。この地球にズッグ共和国ってのがあることを、世界中で、なん人の人間が知っていると思うね」 「そう言われると、困りますが」 「知ってるのはズッグの人間と、国連の職員ぐれえなもんだんべ。ズッグなんて国は誰も知らねえ。知らなきゃ存在しねえのと同じで、今だって飽きるほど孤立してるがね」 「だからといって、麻薬の輸出というのは……」 「その話はやめべえよ。わしゃ倫理や道徳のことなんか言ってねえんだ。スタッドさんとは立場が違うんさ。そんなことより、なあおめえさん、わしが大統領になったらズッグの経済顧問にならねえかい。わしはあんたの善人ぶりに、大いに期待してるんだい」  タントラーの肉の厚い顔に、一瞬生真面目な表情が浮かび、次の瞬間にはまた、いつもの陰影のない、とぼけた表情が浮かびあがった。コカインを密輸したりその意図を打ち明けたり、あげくの果てに、スタッド氏を経済顧問に迎えたいという。タントラーはスタッド氏がアメリカ政府に通報する可能性を、なぜ考えないのか。それともすべてを承知で、故意に情報を流しているのか。この暑苦しい贅肉《ぜいにく》の向こう側で、タントラーはいったい、なにを目論んでいるのだろう。 「ズッグの緊急課題は、やっぱ経済改革さあ。今まではザワオにやらせすぎたいね。これからはちょいと、国家管理を厳しくすべえと思うんだ」 「外国人のわたしに、その国家管理を、やらせようと?」 「あんたの気心は知れてらい。ザワオみとに私腹を肥やす性格じゃねえさ。それにあいつを追放しちまったら、この国には経済の専門家がいなくなる。わしとしてはどうしても、スタッドさんの力を借りてえんだよ」 「ありがたいお申し出ですが、即答はしかねますな。大臣の計画どおりに事を進めれば、やはりアメリカとの関係に問題が出てくる。わたしとしては、アメリカとは、トラブルを起こしたくない」 「まあなあ。そのへんのところは、ゆっくり考えべえよ。わしとしちゃスタッドさんの意向を打診しただけだい。それにわしが大統領になるんだって、まだ先の話だがね。政治も経済も国家の構想も、まだちょいと先の話だい」  ビールの瓶を鷲掴《わしづか》みし、雨水でも受けるように、口を上に向けて、タントラーががばりとビールを流し込んだ。構想はまだ先の話だと言いながら、コカの種も手配し、ザワオの追放まで明言している。表情から真意は読み取れないが、意外に、かなりの部分まで決心を固めているのではないか。この国で余生を送るつもりの外国人としては、そしてCIAの現地駐在員としては、今の状況に、どう対応したらいいのか。  またガラス戸が開いて、タントラー夫人が顔を出し、うつむいたまま底の浅いアルミ鍋を運んできた。テーブルにはすでに椰子蟹や魚料理が溢れているというのに、これ以上タントラーは、なにを食べようというのだ。 「スタッドさんよう。椰子蟹も珍しかんべけど、これこそ真のご馳走だいね。わしだってこれを食うのは一年ぶりだい」  鍋の中には、スープに黒い塊が浮いていて、確認したとたん、スタッド氏の指から、火のついたタバコが猛然とこぼれ落ちた。 「やああ、なるほど、逸品ですなあ」 「そうだんべえ。こんな太ったコウモリ、最近じゃ捕れねえからなあ。スタッドさんにゃ悪《わり》いが、こればっかしは食わせられねえ。コウモリは親でも別もんだからよ」 「わたしは、椰子蟹で、満腹しておりますよ。コウモリは大臣お一人で、存分にお召しあがりください」  このコウモリが普通のコウモリではなく、木の実や果実を食べるフルーツバットであることは、スタッド氏も承知している。だからといって姿かたちはコウモリに変わりなく、それが丸ごと鍋に浮かんでいるのだから、二の腕に鳥肌が立ってしまうのは、仕方のないことだった。 「今夜はだいぶ、長居をしてしまった」と、呼吸を整え、新しいタバコに火をつけてから、立ちあがって、スタッド氏が言った。「大臣のお申し出は、真摯《しんし》に考慮いたしますよ」 「そうしてくんな。わしのほうは本心だからよ」と、鍋からコウモリをつかみ出し、幸せそうな溜息をついて、タントラーが言った。「先の長《なげ》え話といっても、なあ、はあそれほど長くはねえだんべ」 「政治というのは、いろいろ、難しいもんですな」 「だから顧問も必要だがね。善人で、分別があって、アメリカにも太えパイプの通る、立派な顧問がよう」  コウモリを口にくわえて、タントラーがにやりと笑い、スタッド氏のほうに、悠然と親指を突きあげた。その仕種がコウモリの味に満足したものなのか、スタッド氏の意向に期待するものなのか、判断はつかなかった。 「大臣。一つ、聞き忘れておりました」 「ほうう、なんだいね」 「マリアさんと駆け落ちをして、サントス大臣は、どうなさいました」 「見りゃ分かるだんべに。捨てられて、グアムからのこのこ帰って来やがったさ。ああいう女を死刑にもできねえんだから、やつにゃはあ、キンタマもねんだいね」  スタッド氏は暗闇に向かって、軽く眉をしかめ、うしろ手に手を振りながら、庭を暗い小道のほうに歩き出した。サントス大統領の容体が、どこまで進んでいるにせよ、もう鷹揚に構えている事態ではない。次期大統領にはタントラーが納まり、マルカネ・ザヮオが追放されて、国土の大半はコカ畑に変容してしまう。そのことが事実だとしたら、自分は人生の設計図をどう描き直し、このズッグとCIAの間に、どういうポジションを取ればいいのか。たかが小国の権力争いなどと、甘く考えすぎていたのか。タントラーは見かけ以上の食わせ者だし、ザワオの正体だって、不気味なほど不透明だ。そして、ここまで状況が煮詰まっていながら、クリフ・ウインタースに報告できるほどの事実は、なにも掴んでいないのだ。  まるで照明のない小道に、突然人間の気配が漂い、条件反射でスタッド氏は身構えた。痩せて背の低い男が無言で通りすぎ、足音を立てずに丘を教会の方向にのぼっていった。慣れてはいるはずなのに、闇の中から突然姿を現すズッグ人には、いつもながらスタッド氏は閉口する。コウモリの姿煮にも、人肉食いのようなビンロージュ嗜好《しこう》にも、慣れてはいるはずなのに、やはり生理的な嫌悪を感じてしまう。  ハワイのビーチをエリス・ランバートとそぞろ歩く自分の姿が頭に浮かび、タバコを道に弾いて、スタッド氏はそっと胃を押さえ込んだ。流れ星がエルロアのはるか上空を、尾も引かずに飛んでいく。ハイビスカスの香りが丘の上から濃く降りそそいでくる。スタッド氏は弛《ゆる》んだ腹をなで、欠伸をし、うんざりしながら、また新しいタバコに火をつけた。看護婦のエリスはスタッド氏の喫煙を『人類全体に対する犯罪だ』と、真顔で非難したものだ。エリスのかすれた声を思い出し、目尻の小皺を思い出し、唇の甘い匂いを思い出す。しかしエリスのアパートや勤め先の陸軍病院の電話番号までは、スタッド氏は、どうしても思い出せなかった。 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 7 [#ここで字下げ終わり]  見おろす湾全体が、珍しくうすい雲におおわれている。常に熱暑で、常に晴天の南国といっても、雨季に入れば月に一度ほどは気休めの曇り空があらわれる。カモメの羽ばたきにも安堵の表情が見え、カヌーの三角帆は慎ましく軽い風を孕《はら》んでいく。台風が発生したというニュースも聞かないから、たまに赤道西風が引き起こす、一時的な気候現象なのだろう。毎日太陽とその照り返しに悪態をつくくせに、実際に霞《かす》んだ湾を眺めると、やはり物足りない気分になる。  スタッド氏はポーチのデッキチェアに身をまかせ、庭に洗濯物を干すマチコ・エリザベスの巨大な尻を、恐縮しながら眺めていた。昨夜は寝酒のスコッチを飲みすぎたせいか、息が酒臭いばかりでなく、頭の芯《しん》に頭痛が残っている。寝酒の間に巣くい始めた疑問が、朝になってもまだ、スタッド氏の頭に二日酔いのような耳鳴りを響かせる。  昨夜、スタッド氏は、自分で夜食のフレンチフライを作り、ミステリー小説を抱えて居間のゆり椅子に腰をおろした。そのとたんに湧きあがった疑念は、この五年間で、一度も考慮したことのない可能性だった。タントラーの目つき、表情、言葉の端々。それらのものは、ひょっとしたら、一介の貿易商というだけではないスタッド氏の身分を、承知しているのではないのか。  ウガウ・タントラーが顔に似合わない策謀家であることは、行為の断片からもうかがい知れる。『B・P・C』を利用したコカの輸入は、見かけほど単純なものでない。貨物の流通を調べ、ペルーの国内事情や取り引き相手まで調査をしているのだ。それだけの機転がきくなら、スタッド氏がCIAの現地駐在員であることぐらい、どこかで割り出せるのではないか。自宅にもホテルの事務所にも、疑われそうな証拠はなにも残していない。しかし郵便物や国際電話のチェックなど、外務大臣のタントラーならどうにでも手配できる。そしてなによりも、別れぎわに言った『アメリカに太いパイプを持つ顧問』という台詞は、言葉以上に意味が深いのではないか。  昨夜一晩中ひねくり回した思考のプロセスを、霞んだズッグ湾を眺めながら、スタッド氏はまた頭の中で再現してみる。『コーヒーやコプラではない特産品』という考え方は、なるほど、理には適っている。しかしコカはケシや麻のような、一年生の本草ではない。種を蒔《ま》いて発芽させても、葉を製品として収穫するまでに五年はかかる。それにコカが生育するのは南米でも中高度の山地で、アマゾンのような熱帯地域ではない。土質だって向こうは堆積岩が隆起したもの。ズッグは地味の低い火山岩土だ。地質も違うし、気候も違う。発芽は可能だったとして、商品にまでまともに生育するものなのか。どうやってズッグやエルロアの森を切り開き、だれが大規模なプランテーションを展開するのか。仮に成功するとして、五年もの時間を、ズッグ経済はどうやって乗り切るのか。それ以前に援助は打ち切られ、経済封鎖や軍事介入を待つまでもなく、翌日からズッグは原始時代の孤島に戻ってしまうではないか。そんな理屈に合わない国家戦略を、タントラーのような食わせ者が、本気で考えるものだろうか。  思いつく妥当な可能性は、すべてを承知で、タントラーが駆け引きを仕掛けている、というものだ。アメリカにも日本にも、本気でコカインを輸出する気はないのだ。核兵器の開発をちらつかせ、その停止を条件に大国からの援助を引き出す。タントラーの思惑は、それと同じ方程式ではないのか。コカインやコカの種を入手し、それをばら撒くという脅しによって援助をつなぎ止める。場合によっては援助金の増額だって可能にしたい。へつらうだけでなく、切り札を持って援助国との交渉にあたる。タントラーの狙いは、たぶん、そういうことなのだ。しかしそれには、タントラーのコカイン計画を、だれかがアメリカ政府に通報しなくてはならない。スタッド氏が通報しなくてはならない立場であることを、最初から、タントラーが知っていなければならないのだ。  スタッド氏は二日酔いで痛む頭を、デッキチェアの角に押しつけ、目をこすりながら、苦いコーヒーを一すすりした。昨夜出した結論は、まず妥当なところだろう。問題はタントラーの思惑に、どこまで乗ってやるか、ということだ。現状をそのまま支部に報告した場合、CIAの起こすアクションは、どんなものか。ミクロネシア人の工作員を潜入させ、同時に資金面からジョージ・サントス大統領実現に向けての画策をする。常識的にはそんなところだろうが、ズッグの相続習慣や伝統を考えると、それでタントラーを葬れる保証はない。冷戦時のように暗殺を決行するというのも、世論動向からは危険が大きすぎる。CIAの長官やアメリカ大統領が、タントラーとの相討ちなんか、望むはずはないのだ。  支部に報告したところで、CIAが工作したところで、ズッグはあまりにも狭く、国民はあまりにも保守的だ。多少の軋轢《あつれき》や曲折があっても、結局はタントラーが大統領の地位につく。伝統的にもタントラーは正当な後継者だし、それを妨害する必然は、とりあえず見当たらない。アメリカや日本にとって、交渉相手としてはジョージ・サントスよりも手強いだろう。稚拙ながらも陰謀は企むし、駆け引き好きで、要求も大きい。それでもこのズッグ共和国の次期大統領として、サントスとタントラーの、どちらがより相応しいのか。不毛の選択ではあるが、不毛な大地にタントラーのほうが一本だけ毛が多いというのは、案外に的を射た判断ではないのだろうか。  アメリカ人でありながら、しかもCIA要員のくせに、いつの間にかズッグ側からものを見るようになってしまった。スタッド氏は胸に溜まりはじめた汗を掌でこすりながら、コーヒーを飲み干して、大きく欠伸をした。タントラーに身分は悟られているかも知れないが、だからといってこの五年間に、スパイらしい仕事はなにもしていない。ズッグに機密保持法やスパイ防止法が存在するのか、そんなことも調べていなかった。たとえあったとして、スパイとしての仕事をしていなければ、スタッド氏はなにも法律は犯していないのだ。 「旦那《だんな》さんもなあ、女でもこさえりゃ、酒も減るべに」と、庭を歩いてきて、立ち止まり、腰に太い腕を構えながら、エリザベスが言った。 「酒を飲みたいから女はつくらんのだよ」と、欠伸をかみ殺し、薄目をあけただけで、スタッド氏が答えた。 「もったいねえよう。タロンにでも行って遊びゃいいべ。ズッグの女はみんな上等だがね」 「おまえさんに言われて、タロンは覗いてみたがな。どうも、わたしの趣味には、合わんのさ」 「珍しいねえ。ズッグに来て女を買わねえお人は、旦那さんぐれえのもんだねえ」  エリザベスが腰に腕を組んだまま、呆《あき》れたように首をふり、丸太のような足で、ぎゅっとゴムサンダルを踏みしめた。本人はいわゆる、未婚の母というやつで、相手はイギリス領時代に貨物船でズッグにやって来た、フィリピン人の船員だということだった。 「なあ、ミスマチコ……」と、薄目のまま、タバコを口にくわえて、スタッド氏が言った。「この国にチョモロ人というのは、どれぐらい住んでいるんだね」 「なんだいね。その、トトロ人って」 「チョモロ人だ。昔グアムから逃げてきた連中だよ。ムンダニの周辺に住み着いているのではないのか」 「そういや聞いたことはあるかねえ。だけんどそれ、ずいぶん昔の話じゃないかさあ」 「三百年とか四百年とか、それぐらいの昔さ」 「そんな昔のこと、誰が覚えてるんだね」 「おまえさんは覚えていないのか」 「やだよう。旦那さん、おらはまだ三十七だがね。そのころにゃ生まれていなかったよ」  聞いたことはあるが、覚えてはいない。チョモロと言ってもトトロとしか理解できない。エリザベスだけではなく、ほとんどのズッグ人にとって、部族区分や民族問題など、その程度の認識なのだろう。だとすればマルカネ・ザワオの経済進出は、その出自と、直接は関係ないことになる。  曇り空を透かして、太陽の位置に目をやり、タバコの煙を長く吹いて、スタッド氏はまた生欠伸をした。 「ミスマチコ。わたしにアスピリンをくれんかね。今日は正午まで、仕事をさぼることにする」 「意気地のねえ旦那さんだよ。大統領がおっちんで、町じゃ騒ぎだってのにさあ」  ぼやけていた集中力が、あわてて隊列を組み直し、エリザベスの言葉が二日酔いの頭痛を攪拌する。聞きづらい英語ではあるが、おっちぬとは、たしか、死ぬ、という意味ではなかったか。 「おまえさん、今、なんと言ったね」 「アメリカ人は意気地がねえって、そう言っただよ。酒ぐれえ飲んだって、ズッグの男はみんな漁に出るがね」 「そいつは済まなかったな。しかしわたしが訊いたのは、そのあとだ」 「大統領のことかね」 「死んだと、言わなかったか」 「言ったのはおらじゃねえ。ラジオのニュースだよ」 「今朝の、ラジオで?」 「旦那さん、聞かなかったかね。はあ昨夜のおそく、ハワイの病院でおっちんだと。どこかが癌だとか言ってたいねえ」 「サントス大統領が、ハワイで……か」  足を芝生に下ろしてはみたが、立ちあがる気にはならず、デッキチェアに腰かけたまま、スタッド氏は、またコーヒーを一すすりした。『よく持って半年』という大統領の寿命も、結局は『まるで持たなかった』ということだ。昨夜のタントラーは気配にも見せなかったから、死んだのはあれ以降のことだろう。この死は予定より早すぎるのか。それともタントラーやジョージ・サントスにとっては、予想どおりの事態なのか。いずれにしても方向は決まっているわけで、死そのものについての混乱はないだろう。どういう選挙が展開され、どういう結果が出るのか。二人の後継候補にとっては、ついに、本番が始まってしまったのだ。  エリザベスが水と錠剤を持ってきて、スタッド氏に手渡し、Tシャツからはみ出すほどの胸を、ゆったりと振ってみせた。本人は歳を三十七だと言うが、スタッド氏にはどうみても、四十七にしか見えなかった。 「ミスマチコ。シャツとズボンを出して、卵を焼いてくれんかね」 「あれまあ。さぼるのはよしたんかい」 「おまえさんに意見されて、心を入れかえたよ。たかが二日酔いだ。這ってでも仕事に出かけるさ」 「それがよかんべ。旦那さんが家にいたら、邪魔くさくて掃除ができねえよ」 「なあマチコ。おまえさんは、次の大統領はだれがいいね」 「どうだかさあ。はあタントラーのでぶじゃないんかね」 「倅のジョージもやる気になってる」 「そうかね。だけんどおら、そんなことはどうでもいいなあ。大統領なんぞ、だれがなっても関係ねえがね」 「ズッグがどういう国になってほしいとか、どういう政治をしてほしいとか、希望はないのか」 「子供たちが腹いっぱい食えりゃいいがね。腹いっぱい食って、元気に育ってくれりゃいい。魚がたくさん捕れて、タロ芋やバナナがたくさん取れりゃ、はあおら、文句はねえなあ」 「腹いっぱい食えて、子供たちが元気に、な。そういう当たり前のことが、なぜ男には、分からんのか……」  アスピリンを口に放り込み、チェアから腰をあげて、霞んだズッグ湾とトポルの古ぼけた市街地を、スタッド氏は感慨もなく見渡した。スラムにはトタン板の屋根が低く密集し、メインストリートが一本だけ、廃棄された滑走路のように短く町を区切っている。人間も蠢《うごめ》いてはいるようだが、見えるのは帆を張ったカヌーと貨物船だけで、空にはカモメ以外の鳥も飛んでいない。飴《あめ》色の日射しを受けていないと、町も港も海も、なぜこれほど貧相に見えるのだろう。  そういえばしばらく、魚釣りにも出ておらんなと、建物に入りながら、頭の中で、スタッド氏は一人ごとを言った。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  日射しがなくても、それで気温に変化があるわけでもない。丘をくだってメインストリートに出たころには、スタッド氏の背中にはもうコップ一杯ほどの汗が流れていた。行政機関の集まっている合同庁舎に入り、女子職員に手を振っただけで、スタッド氏はまず四階の外務大臣執務室にあがってみた。タントラーや秘書の姿はなく、となりの大蔵大臣室には、ジョージ・サントスも見当たらない。五階の会議室にも大統領の執務室にも、人間の姿は一人も見当たらなかった。  冷房のきいていない階段を一階まで戻り、玄関に歩こうとして、ふと思い直し、廊下の奥にある中央警察署のオフィスを覗いてみた。署長のノブナガ・サントスだって顔見知りだし、この国では閣僚の一人なのだ。  驚くほど冷房の効いたオフィスには、署長と二人の制服警官がいて、署長は来客用の長椅子、警官は自分たちのデスクで、それぞれ恒例の居眠りを決め込んでいた。 「署長さん。お忙しいところを、申しわけありませんな」  署長が一発いびきを鳴らし、おもむろに目を開けて、口の中でなにか言いながら、ゆっくりと頭を持ちあげてきた。 「やあスタッドさん。毎日暑いやねえ。お宅に泥棒でも入ったかね」 「この国に泥棒なんか、おるのですか」 「そりゃなあ。一年に一遍ぐれえ空き巣は入るがね。だから警察だって忙しいんだい」  空き巣のことなんか聞いたこともないし、それ以外に事件が起こるという話も、まず聞かない。スタッド氏が住んだ五年間、一度だけ殺人事件が起こったが、それだって酔っぱらいが喧嘩《けんか》をして手加減を誤っただけのことだ。クルマがないから交通事故もなく、詐欺や横領を働きたくとも、騙し取る金そのものが欠乏しているのだ。 「大統領がなくなられたと聞いて、駆けつけたんですがな。外務大臣も大蔵大臣も、オフィスにおらんのですよ」 「ははーん。ホテルのバーで、ビールでも飲んでるんだんべ。なんせ夜中から閣議さ打《ぶ》ってて、みんなくたびれたからよう」 「急なことで大変でしたな。わたしからもお悔みを申しあげます」 「ありがとさんよ。はあこれから忙しくならいね。日本の総理大臣だのアメリカの大統領だの、みんなやって来べえからなあ」  冗談としては面白いが、日本の総理大臣もアメリカの大統領も、地球上にズッグという国が存在すること自体、たぶん知らないだろう。 「閣議の結果を教えていただけませんか。葬儀の日程などは、どういうことになりました」 「そいつがよう、ジョージもウガウも勝手なことを言いやがって、それでもめてたんさ。まあスタッドさん、そっちの椅子にでも掛けてくんないね」  署長が挨拶がわりに歯をむき出し、白髪頭を掻きながら、大きく欠伸をした。スタッド氏は空いている椅子に腰かけ、かんたんにオフィスを見まわして、タバコに火をつけた。二人の署員は居眠りをやめず、署長も気にする素振りは見せなかった。 「国民にゃ内緒にしてたけんどよう、大統領がいけねえ[#「いけねえ」に傍点]ってのは、はあ分かってたんさ」と、スタッド氏からタバコを受け取り、ライターの火を吸い込んで、署長が言った。「そいでも一ヵ月や二ヵ月は、持つと思ってたいなあ」 「葬儀の日程も段取りも、決まらないということですか」 「もめたんはなあ、葬式をだれが仕切るかってことだい。ジョージはてめえがやると言う。ウガウも聞いちゃいねえ。スタッドさんなら分かるだんべ。ほれ、例のことがあるんで、二人とも自分のほうが目立ちてえわけさ」 「例のことは、たしかに、面倒ですな」 「ジョージの気持ちも分かるんさ。外国の役人だの外交官だの、引き回してたんはやつだもんなあ。そういう[#「そういう」に傍点]習慣だからって、納得はできねえべ」 「選挙をすれば結果は出るわけでしょう」 「それがよう、俺たちゃだれも、選挙なんかやりたくねえわけよ。なあ、どっちが勝ったって、一族に遺恨は残るべえ」 「大蔵大臣はあとに引かないわけですか」 「やつも意地だいね。選挙をぶって、どうしても大統領になるんだと」 「困りましたなあ。で、結局、葬儀はだれが仕切るんです」 「仕方ねえからよ。葬式は選挙のあとにすべえと決めたんさ。大統領を先に決めて、はあそいつに仕切らせるんだがね」 「一ヵ月も二ヵ月も先、ということですか」 「一週間だい。大統領が死んだら、一週間以内に次の大統領を決めにゃなんねえ」 「一週間とは、ずいぶん、性急だ」 「今から考えりゃ、ちょいと無理がきついやなあ。だけんど独立んときゃ、それでいいと思ったんさ。時代も変わりゃあ、習慣も変わるってことだいなあ」  署長が立ちあがり、自分のデスクに歩いていって、丸めた紙くずを、署員の一人にぽいと投げつけた。 「おい、チャーチル。食堂へ行って、スタッドさんにビールでも持ってこいや」 「わたしはけっこう。二日酔いで、気分が悪いんですよ」  目を覚ました警官と、署長に手を振り、タバコをくわえたまま、のっそりとスタッド氏が腰をあげた。 「お邪魔をしましたな。いずれにしてもこれから、署長も忙しくなりますなあ」 「ジョージもウガウも甥っこだがね。できりゃ二人して、塩梅《あんばい》よくやってもらいてえが……チャーチル、やっぱ俺には、ビールを持ってきてくんな」 「サントス大統領の遺体は、まだ戻らないわけですか」 「この暑さだよう。運んで来りゃ一日で腐っちまわい。ハワイの病院で防腐処理とかやって、戻るんは一週間も先だんべ」 「どちらが大統領になるにしても、平和だけは、守ってもらいたいものです」  警官がのんびりとオフィスを出ていき、署長に軽く会釈をして、スタッド氏も、フロアをドアに歩きはじめた。法律だから仕方はないのだろうが、一週間で大統領を選挙するというのも、ずいぶん無茶な話だ。それでもジョージ・サントスさえ野心を抱かなければ、今ごろは次期大統領にタントラーが内定し、葬儀も政権の移行も、ただのセレモニーで終始するはずだったのだ。もちろん、だからといって、日本の総理大臣やアメリカの大統領は、間違っても出席はしないだろうが。  合同庁舎をあとにし、メインストリートを港に向かって進むと、百メートルほどでマルカネ・ザワオの『トロピカル』があらわれる。市場は朝の喧噪《けんそう》を終息させ、売り子も客も売れ残りの魚も、みな気怠《けだる》く昼の休みに入ろうとしている。  スタッド氏は通りをななめに横切り、ショーウインドゥから店の中を一瞥《いちべつ》して、ガラスのスイングドアを押してみた。店内には二人の店員と、観光客らしい白人男が三人、暇そうにぶらついているだけだった。宿泊も買い物もダイビングもクルージングも、すべてザワオが手中に収めているのだから、観光客からの売上げだけでも、相当な収入になる。  腰ガラスの嵌《は》まったドアの向こう側に、ザワオの怒り肩が見え、店員や客を無視して、スタッド氏は奥の事務室に入っていった。サントス大統領の肖像写真は相変わらず部屋を睥睨《へいげい》し、ザワオ自身は旧式の電卓に向かって、肉の厚い顔に粘っこい脂汗を浮かべていた。スタッド氏を見あげても、視線は動かず、口もとに漂わせた薄ら笑いもひたすら不可解だった。 「橋の事件や私事に追われて、ジープのお礼を言うのを忘れておりました」と、勝手に向かいの椅子《いす》に座り、シャツの胸元にクーラーの風を入れながら、スタッド氏が言った。 「や、や、や。お互い様だがのう。わしのほうこそ申しわけねえことをした。港のスタンドでガソリンを入れるよう言ったけんど、行き違ったらしいやねえ」 「文化も習慣も違う国ですからな。多少の間違いはありますよ」 「お客さんは、はあ帰られたってか」 「喜んで、感謝して帰りました。風景も人間も、非常に気に入ったということです」  ダイアが光る太い指で、電卓のスイッチを切り、下唇をめくって、歯の隙間《すきま》からザワオが短く息を吐いた。 「そりゃあ何よりだった。あのお人がリゾートホテルを造るべえということんなりゃ、誠心誠意、わしゃ協力させてもらうがね」  タントラーがスタッド氏の身分に気づいているとすれば、ザワオだって、知っている可能性はある。ホテル計画がでたらめであることも、クリフ・ウインタースがCIAであることも、ザワオはすべて承知していた。ジープのガソリンは故意に抜いたもので、その理由は、アキカン・ラーソンが爆死をした日、あの時刻、ウインタースをトポル市街から遠ざけておくことだった。証拠はなにもないが、それぐらいの可能性は、考慮しておくべきだろう。 「ところで、いよいよ、大変なことになりましたなあ」と、大統領の肖像写真を見あげながら、胸ポケットからタバコを取り出して、スタッド氏が言った。「こういう事態になるとは、思ってもいませんでしたよ」  ザワオが細い目の向こう側を、いやな色に光らせ、口元を隠すように、両手で顔の脂を一|拭《ふ》きした。 「偉大な指導者を亡くしちまって、国民としては、悲しみに耐えんがのう」と、腕のロレックスをじゃらりと揺すり、眉間《みけん》に太い皺《しわ》を刻んで、ザワオが言った。「あんましも急なこんで、わしゃあ涙も出ねえがね」 「ザワオさんにとっては、これからが正念場ということですな」 「わし一人の問題じゃねえよ。サントス大統領は建国の父だがね。国民にとっちゃ神様みてえなもんだよ。その神様がおらんかったら、ズッグ人はだれを頼りに生きるんかいの」 「一週間でまた次の神様が登場するでしょう。ズッグという国も、案外奥が深いもんです」 「スタッドさん。そりゃあ、皮肉かや」 「わたしは国政の安定を願っているだけですよ。次の大統領も前回同様、ザワオさんにとって、神様であればいいと思いましてね」  ザワオが目を動かさずに、ひっそりと瞬《まばた》きし、鼻をうごめかせて、痰《たん》を吐くような低い咳《せき》払いをした。スタッド氏は悟られぬようにザワオの顔を注視したが、チョモロ人とズッグ人にどういう差があるのか、見た目での区別はつかなかった。 「おめえさんもアメリカ人だのう。なあスタッドさん。ズッグのことは、ズッグ人に任せておきゃいいがね」 「なにか、気に障《さわ》ったことを、言いましたかな」 「次の大統領がだれになろうと、おめえさんには関係ねえよ。スタッドさんにも、アメリカにも、だれにも関係はねえがよ」 「ザワオさんには情報が入っておりませんか」 「わしゃなんでも知ってらあ。一週間後に選挙をやって、サントス大統領の葬儀は、新しい大統額が仕切るんだんべ」 「問題はその後の経済運営です。わたしはタントラー大臣から、経済顧問へと要請を受けました。タントラー大臣は、今まで民間に委託していた経済権益を、すべて国家の管理へと移行するそうです」 「ウガウの、あの……」  無表情だったザワオの顔に、突然大粒の汗が噴き出し、硬くて短い半白の髪の毛が、湿気《しけ》った空気の中で、音をたてるように逆立った。スタッド氏を経済顧問に据え、民間の権益を国家管理に移行させるということは、単純に、ザワオからの権利|剥奪《はくだつ》を意味する。その方向はザワオも予感しているはずで、サントス大統領の死によって動きだした現実を、スタッド氏はただ、言葉で輪郭を持たせてやっただけなのだ。 「十五年前、あなたは、プラワ・イリンギという男を暗殺したでしょう。命令をくだしたのは故サントス大統領だった。その功績であなたはズッグの経済を任された。しかし、サントス大統領が死んだ今、もうだれもあなたを必要としなくなった。時代の流れというのは、恐ろしいもんですな」  旧式のクーラーが、壁を震わせるほどの音をたて、スタッド氏が吹かしたタバコの煙を、ヒステリックな早さで天井に巻きあげていく。店のほうでレジスターが軽快に鳴り響き、白人男の鼻にかかった、耳障りな笑い声が聞こえてくる。眉間に刻まれていたザワオの皺が、いつの間にか影をなくし、目蓋《まぶた》も頬も唇も厚い表情のない黒い顔が、騙《だま》し絵のように、飄然《ひょうぜん》とデスクに投げ出される。 「なんだか知らんがのう。アメリカ人というのは、訳の分からんことを仰有《おっしゃ》るがよ。プラワ・イリンギなんぞという男、見たことも、聞いたこともねえがね」 「わたしも噂《うわさ》を聞いただけでのことです。証拠も証人も資料もない。ザワオさんが肯定しなければ、そんな事件は、この世に存在しないことになる」 「甘えなあ。二十年も戦争をやってたわりにゃ、スタッドさんは、人が良すぎらあ」 「タントラー大臣にはその人の良さを買われたんですがね。わたしが戦場を渡り歩いていた事実を、ザワオさん、ご存知《ぞんじ》でしたか」 「先《せん》にも言ったんべえ。この国でわしの知らねえことなんぞ、なにもねえってよ。だれがどういう素姓でどこから来たか、それぐれえのことは最初《はな》から承知してらあね」  ザワオがスタッド氏やクリフ・ウインタースの身分を知っているとして、お互いに、これまで実害はなかったのだ。CIAが暴くほどの秘密も、暴かれて困るほどの秘密も存在しなかった。ザワオにしてみれば、スタッド氏にプラワ・イリンギ殺しを証明する手段がないことも、ちゃんと知りぬいているということなのだろう。 「たとえなん人の人間を殺しても、十五年もたてば、忘れてしまいますがね」と、タバコの煙を長く吹いて、スタッド氏が言った。「そのお陰でわたしも、今は呑気《のんき》に暮らしていられる」 「お互い様……と言いてえが、その手にゃ乗らねえよ。わしゃあ今も昔も、ただの商人だがね。子供の時分は燐《りん》鉱石を掘らされたい。日本人が来てからは、サトウキビの畑。戦争が終わってからはサントスのコプラ工場。わしが他のズッグ人と違ったのは、やつらの十倍も働いたことだがね。それ以外に、悪いことなんか、なにもしてねえがよ」 「残念なことです。そうやって築かれた地位も財産も、あと一週間で、すべて失ってしまう」  腕に巻かれたザワオのロレックスが、じゃらりと音をたて、重い目蓋の向こう側から、濁った白目がいやな光を反射させた。表情は心の動きを映さず、目の中に混乱も動揺も浮かんでこない。利権の崩壊が目前に追っているというのに、この異様な自信は、どこから生まれてくるのだろう。どんな背景があって、ザワオは、スタッド氏の挑発に乗ってこないのか。 「おめえさんは、まあ、知るめえがなあ」と、黒い手で頬の肉をこすり、掌で口元を隠すように、ザワオが言った。「わしらチョモロ族がグアムを追われたんは、はあ四百年も前だがね。それ以来お他人様の土地で、しつこく生き延びてきたんだい。塩梅《あんばい》が変わったからって、簡単にゃくたばらねえよ」 「あなたがチョモロであることは存知ていますよ。しかしそのこととプラワ・イリンギ殺しとは、関係ないでしょう」 「分からねえお人だがよ。わしはプラワ・イリンギなんぞ、見たことも聞いたこともねえがね」 「エルロア島の大|酋長《しゅうちょう》だった男です。ザワオさんが知らないはずはないんだ」 「殺すの殺されたのと、ねえ、そういうことは知らねえという意味だい」 「言葉というのは便利なもんです」 「おめえさん、わしに恨みでもあるんかや。わしは殺しなんかやってねえ。たとえやっていたとして、おめえさんになんの関係があるかね。ズッグにゃあズッグの事情がある。余計な口をきかねえで、はあズッグ人に任せておきゃいいだんべえ」 「ズッグ人になったり、チョモロ人になったり、ザワオさんもお忙しいことだ」  笑ったのか、欠伸《あくび》をしたのか、ザワオの口に舌の先が赤く覗《のぞ》き、黄色い歯と灰色の歯ぐきが、生き物のようにこぼれ出た。 「なあスタッドさん。ジョージやウガウがなにを言ったか知らねえ。おめえさんがわしに対して、どんな意趣があるのかも知らねえ。じゃがわしゃあ、己の才覚だけでこの財産をつくってきた。わしゃあサントスの一族ほど甘くねえよ。生き延びる方策はいつだって考えてる。ウガウがなにを謀ろうと、おめえさんがなにを動こうと、わしゃあ金論際くたばらねえ。苦労のねえ馬鹿野郎どもに、なんでわしが、この国を勝手にさせてなるもんかいね」 「その、生き延びる方策というやつを、ご教授願いたいもんだ」 「スタッドさんにゃ分からねえよ。ズッグにはズッグの事情が……」  そのとき、ほんのかすかな前兆がして、次の瞬間、地響きをともなった爆発音が、身がすくむほどの大音響で、猛然と建物を貫いてきた。ドアのガラスが怒ったように震えつづけ、壁も天井もザワオのデスクも、余韻の振動で、執拗《しつよう》な共鳴をくり返す。二人の女店員は通りに飛び出し、市場から港の方向へ、もうなん人ものズッグ人が駆けはじめている。雷鳴のはずはなく、空襲のはずもなく、そして音の程度も地響きも、ラーソンがクレーンを爆破したときとは、比較にならないほどの規模だった。  直前までなにを話していたのか、すぐに思い出したが、かまわず、スタッド氏はザワオを残して事務所を飛び出した。倉庫の方向に噴煙があがり、ホテルの壁越しに火の手もかいま見える。空は相変わらず灰色で、煙と炎が見える以外に、カモメも羽虫も飛んでいない。男たちが悠長にゴム草履を鳴らしていき、半裸の子供が犬と一緒に、頼りない足取りで大人の跡を追っていく。  店からザワオが顔を覗かせ、それを無視して、スタッド氏は港へ急ぎ始めた。なんの爆発音か、なんの噴煙か、可能性はいくらでも考えられる。しかし今は頭を動かすより、足を動かすほうが手っとり早い。警察署長とチャーチルという警官が、うしろから自転車の相乗りで群衆を追い抜いていく。ラーソンの事件で懲《こ》りたのだろう、署長は肩に銃身の長いライフルを担いでいた。  メインストリートをT字路につきあたり、左手側にホテルの方向へ曲がると、防波堤の向こう側に燃えている海が浮かびあがる。濃い黒煙が天を突くように膨脹し、重油の赤い炎が錐揉《きりも》み状に迷走する。スタッド氏は緩慢な見物人を掻《か》きわけ、防波堤に沿って、桟橋の入口まで進んでみた。最初は貨物船が燃えているのかと思ったが、炎に染まっている海は桟橋の右側、普段は十艇ほどのクルーザーが繋留《けいりゅう》されている場所だった。なぜそんなものが爆発したのか。なぜ炎上しているのか。しかしとにかく、炎の中で船尾を沈め始めているのは、国家が所有している、あの大型ヨットだった。クルーザーが一艇沖に流されている以外は、貨物船にも他の船にも被害はなく、スタッド氏の『ケビン号』も波間に長くロープを引いているだけだった。  桟橋の入口には、ウガウ・タントラーとジョージ・サントスが距離をおいてたたずみ、その中間と前後を、他の大臣や警察署長が石のような顔で取り囲む。見物人の密度はまだ高まりつづけ、カヌーやエンジンボートも港を遠巻きに囲み始めていた。 「これは、いったい、何事ですかな」と、タントラーのとなりに並び、小手を燃えるヨットにかざして、スタッド氏が言った。 「何事だかよう。知ってるやつがいたら、わしのほうが訊《き》きてえがね」 「燃えているのはお国のヨットのようだが」 「もったいねえことだよ。あの船は五百万ドルもしたんだい。独立の十周年記念に、日本の会社で造らせたんさあ」 「人間は乗っていたのですか」 「さあなあ。なにしろよう、ホテルで飯を食ってたらあの音だんべ。出てきたときにゃ、はあ半分がところ燃えてたがね。五百万ドルなんざ、簡単に燃えるもんだいねえ」  そのヨットがいつから繋留されたままなのか、正確なところは、スタッド氏にも分からない。生前のサントス大統領が自慢にしていた船で、外交官や商社員など、外国からの客を乗せて船上パーティーを開いていた。スタッド氏も二、三度招かれたことがあったが、そういえばもう半年ほど、このヨットの船出は見かけていない。優秀な諜報《ちょうほう》員なら、その事実だけで、大統領の容体を疑っていたところだろう。 「ほーい、警察署長」と、躰《からだ》じゅうの肉を大儀そうに揺すり、よろめくように歩いて、タントラーが言った。「ヨットにゃ、今日、だれが乗ってたんだや」 「俺が知るもんけえ。ヨットなんざ俺の管轄じゃねえやい」 「事件がありゃおめえの管轄だんべ。火事だって泥棒だって、みんなおめえの責任だい」 「冗談いうねえ。俺の管轄は陸の上だけだぜ。こういうことは中央銀行の総裁か、運輸大臣の責任だんべや」 「やあ、わしゃあ、関係ねえべえ」と、署長のうしろから、影絵のように顔をつき出して、小柄な年寄りが言った。「船のことは運輸大臣の管轄だあなあ。いつだったか、閣議でそう決めたがや」 「おう。思い出したい。カヌーも犬も含めて、動くもんは運輸大臣の管轄だべや。ベルヌはどこへ行ったい」  大臣たちの間から、派手なアロハシャツを着た男が悄然《しょうぜん》とあらわれ、肩をすくめながら、気弱そうに一座の顔を見くらべた。サントスの従兄弟の子供かなにかの、三十前の若い男だった。 「ああ、やあ、ねえ、そんだけんど、おいらにゃ関係ねえべえ。みんなも知ってべえな。あのヨットは、はあしばらく使ってなかったがね」 「使っていたか、使っていなかったか、そういう問題ではないだろう」と、一歩前に進み出て、ベルヌの顔と海を見くらべながら、ジョージ・サントスが言った。「ヨットのことは運輸大臣の管轄だということだ。管理責任は、全面的に君にある」 「ジョージさん。なあ、だけんど、おいらの仕事はヨットを管理することだけだよ。管理はちゃんとやってた。一週間に一遍、人夫を使って掃除もやらせてた。ロープだって、切れねえようにいつも見張ってたい」 「それでは、掃除の人夫が、タバコの火でも落としたというわけか」 「ああ、なんだかなあ。だけんど、この前の掃除は、三日も前だったがよ」 「馬鹿なことを言いたまえ。三日も前のタバコが、今日になって突然燃え出すはずはないだろう」 「おいらは、よう、そう言われたって、困っちまうよう。とにかくおいら、なにも知らねんだからよう」  そのとき、制服の警官がランニングシャツの男を連れてきて、倉庫街のほうから、人波を桟橋に割り込んできた。警官が連れていたのは、踵《かかと》のすり切れたゴムサンダルを履いた、見苦しいほど眉間の狭い男だった。 「署長さんね。こいつ、人足なんだけどよう、ちょうど爆発を見たんだと」と、男を桟橋に突き出し、一同に敬礼をして、警官が言った。 「ほうう。見たってことは、そんじゃ、おめえが犯人かや」と、ライフルを肩からはずし、じろりと男の顔を睨んで、署長が言った。 「おいらは見ただけだがよう。今日は船が入らなくてなあ。桟橋に腰かけて、海を見てたんさあ。仕事のねえときゃずっとそうするよ。ズッグの男はみんな海を見るべえ。ただそれだけのことだがね」 「海さ見てて、そいでどうしたや」 「知んねえ。おいらにも分かんねえ。だけんど吃驚《びっくり》したなあ。ヨットが突然火を噴いて、煙が出てあの音だんべ。おいらすぐ海に飛び込んだい」 「どうしておめえが飛び込むんだ」 「おいらの癖だがね。吃驚すると、おいら、海に飛び込むんだい。海に入ると安心するからよう。それだけのことだがね」 「ヨットにゃどんな野郎が乗ってたい」 「はーあ。そりゃねえよ。おいらずっと見てたけんど、人は乗ってなかったなあ」 「人が乗ってねえで、どうして火が出るんだや」 「難しい理由はあるべけんど、おいら、知らねえ。一時間もヨットは見てたけども、人は乗ってねえよ。カヌーも他のボートも寄ってねえ。とにかく急なんさ。火を噴いて煙を出して、でっけえ音を出して、そいでおいら、海に飛び込んじまったい」  ジョージ・サントスが、犬を追い払うように手をふり、見物人に流し目を送りながら、気取った咳払いをした。いつもながらのスーツに臙脂《えんじ》色のネクタイだが、ランニングシャツやTシャツに取り囲まれていると、風景として、激しく浮きあがって見える。 「署長。そんな男に用はないんだ。とりあえず牢屋《ろうや》にでも入れておけ」 「牢屋ってのはひどかんべえ。この野郎は海を見てただけだぜ」 「そんなことは分かってる。しかし見物人の手前もあるじゃないか。政府の仕事ぶりも見せる必要がある。それにたまには牢屋も使わないと、黴《かび》が生えてしまう」  署長がライフルを肩に掛けなおし、額の汗を拭《ぬぐ》いながら、制服警官に向かって、ちっと舌打ちをした。自分の甥《おい》でも大統領代行ではあるし、間違って、一週間後には、その『代行』もはずれる可能性がある。  警官が船人足を連れて人垣を掻《か》き分けていき、ざわめきと炎の音が広がる中、港には貨物船も、漁船も入ってこなかった。桟橋と防波堤には人間だけがたたずみ、ヨットは三分の二ほどが海中に沈んで、天を向いた舳先《へさき》は黒煙を吹きあげながら、まるで老朽ビルが地底に沈むように、静かに存在を抹消していく。放水車が駆けつけるわけでもなく、消火艇が取り囲むわけでもなかった。人間の傍観に晒《さら》されながら、愚痴も言わず、しかし確実に、淡々とこの世から姿を消していく。 「くそ。大統領の就任レセプションには、使えなくなった……」と、唾《つば》を海の中に吐き、うしろ向きに歩いて、ジョージ・サントスが言った。「この大事なときに、どこの馬鹿が、何をしやがった」 「ジョージよ。気を落とすない。はあ俺が、しっかり調べてやるからよう」 「てめえに任せて碌《ろく》なことはねえ。とにかくミスターナカガワに、相談ぶたにゃあいかん。こんなことが日本に知れたらODAがぶっ飛んじまわい」  一人ごとのように言いながら、ジョージ・サントスが歩き出し、見物人の間を縫って、早足に市場の方向へ姿を消していった。三人ほどの大臣が後につづき、残ったのはタントラーと警察署長、それに中央銀行の総裁だという、小柄な年寄りだけだった。スーサン・タンジェロは最初から見当たらず、マルカネ・ザワオも防波堤の向こう側で、遠く人混みに紛れていた。船舶火災に対処する設備がない以上、燃えつきて、沈みきるまで、だれにも、なんの方策も講じられないのだ。  スタッド氏は目立たないように桟橋を離れ、防波堤の石段をのぼって、まだ集まってくる見物人とは逆方向に、『B・P・C』の倉庫の前に歩いていった。政権の行方《ゆくえ》にばかり気を取られていたが、ヨットの爆発は、もしかしたら、ラーソン事件のつづきということなのか。 「えれえ騒ぎだい。ねえスタッドさん。最初にゃ炎が、ホテルの高さぐれえまで上がったがね」  倉庫の戸口にはデチロが寄りかかっていて、スタッド氏のほうに肩をすくめ、歯をむき出しながら、呆《あき》れたように首を振ってみせた。 「うちの荷物に問題はないのか」と、デチロの前を横切り、倉庫の暗処に目をやって、スタッド氏が言った。 「世話ねえよ。水を出して待ってたけんど、火の粉も飛んでこなかったい」 「それにしてもひどい火事だったな。おまえ、見ていたのか」 「コーラの仕分けをしてたんさ。そんときあの音がしてよう、はあ爆弾でも落ちたんかと思ったがね」 「爆弾というのは、意外に、正解かも知れんなあ」  灰色の雲間から、かすかに薄日が射《さ》しはじめ、その日射しを避けるように、スタッド氏は戸口のビールケースに腰をおろした。 「なあマイケル。爆発のあったとき、なにか臭《にお》わなかったか」 「そりゃ煙が臭ったがね。今だってこんなに重油の臭気《におい》がすらい」 「重油やペンキの臭気ではない、別の臭気だ。ラーソンが橋の工事現場で死んだとき、おまえだってあの場所にいただろう」 「はああ、スタッドさん、言いてえのはそのことかね。意味は分かるけんど……」  コンクリートの上にしゃがみ込み、Gパンで掌をこすって、シャツのポケットから、デチロがのんびりと安タバコを取り出した。 「今日は海の上だしなあ。風だって逆だがね。おいら、臭気《におい》にまでは、気がつかなかったなあ」 「自然発火など考えられん。不審な人間とか、変わった出来事とか、なにか見かけなかったか」 「貨物船も入らねえ。子供も遊んでなかったい。港は静かなもんだったよ」 「心配していたことが、ついに起こってしまったわけだ。あの音からして、爆薬の量は、二キロをくだらなかったろう」 「ラーソンさんが死んだときと、同じ爆弾ってことかい」 「種類までは分からん。ダイナマイトにしても、プラスチック爆弾にしても、もうズッグには入っている。だれが、なんのために、あのヨットを爆破したのか……サントス一族の人間がやったとは、考えられんが」  デチロを相手に、半分一人ごととはいえ、なぜここまで、具体的な話をする気になったのか。次期大統領が決まった時点で、CIAには辞表を出す。その後の暮らし方は、そのときになって考えればいいことだ。 「今日はたまたま人は死ななかったが……」と、デチロの吸うタバコに目を細めながら、薄い髪を撫《な》でつけて、スタッド氏が言った。「この次も被害者が出ないとは、だれにも保証できんからな。実際に、アキカン・ラーソンは、爆薬で殺されている」 「はああ。あれは、自分の仕業じゃねえのかい」 「おまえもヘブテンの小屋は見ただろう。自殺をする人間が新しいカヌーを削るはずはない。時限装置かリモコンで、だれかが爆薬を点火させた」 「おいら、そんなこと、思ってもいなかったよ」 「だれかが人の知らんところで、奇妙なことを考えているんだ」 「だれかって、だれだんべえね」 「見当は、つく。しかし証拠もないし、動機も分からん。ラーソンを殺して、ヨットなんぞを爆破して、あいつに、なんの得があるのか……」  マルカネ・ザワオの顔を思い浮かべ、不愉快になった肺のあたりを、スタッド氏は、こつんと拳《こぶし》で叩《たた》いてみた。どれほどの量かは知らないが、爆弾なんか手配できるのは、タントラーかザワオしかいないだろう。タントラーが私物同然のヨットを破壊するはずはないし、大統領の座を狙《ねら》っているジョージ・サントスにしたって、理屈は同じことだ。ではなぜ、ザワオはラーソンを殺し、ヨットを爆破したのか。ラーソン殺しだけなら、故サントス大統領の指令で政治的禍根を取り除いた、という判断もできる。しかしヨットの爆破には、理由も動機も思い当たらない。自分を排除しようとしているサントス一族への、単純な嫌がらせなのか。爆弾テロなどというのは、大方ヒステリックな思い込みや思想的|怨念《おんねん》ではあるが、あのザワオがそういう憂さ晴らしをするとも思えない。『生き延びる方策はいつでも考えている』というなら、爆弾テロなんか、逆に墓穴を掘るようなものではないか。 「五年もこの国に住んでいて、けっきょく、なにが分かったのか……」 「ねえスタッドさん。ボーナスの話は、どうなるんだんべねえ」 「この前も言ったろう。情報だけでも金は払う」 「分かんねえなあ。爆弾なんかめっけて、スタッドさん、どうする気だい」 「海にでも捨てるかなあ。やたらなところで爆発されたら、みんなが困る」 「海へぶちゃるために金をかけるんかね」 「わたしはこの国で平和に暮らしたい。それだけのことだ。もちろん、平和が金で買えるとは、思っておらんがな」  まだ黒煙をあげるヨットの燃え残りを、しばらく黙って眺め、ビールケースから腰をあげて、スタッド氏はほっと溜息《ためいき》をついた。 「それからな、マイケル」と、ホテルの方向に歩きかけ、足を止めて、スタッド氏が言った。 「昨日ペルーから着いた『茶』は、タントラー大臣の家に届けてくれ。向こうの手違いで、政府の貨物が紛れ込んだらしい」  CIAには辞表を出すとしても、ヨットの件や大統領選挙の動向は、とりあえずクリフ・ウインタースに報告の義務がある。次期大統領はだれでもいいとして、マルカネ・ザワオがなにを企《たくら》んでいるのか、それだけはどうにも気にかかる。『生き延びる方策』などというのは、ただのはったり[#「はったり」に傍点]なのか。それともこの一週間の間に、状況をくつがえす、とんでもない手を打ってくるのか。CIAからズッグの経済顧問へ横滑りするというのも、案外に気楽な転職かも知れないし、少なくとも諜報員よりは性に合っている。ズッグの行く末も、自分の生活も、いずれは納まるところに納まるのだ。そしてその両方に障害があるとすれば、当然それは、マルカネ・ザワオの存在だろう。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  木箱をタントラーの家におろし、メインストリートに戻って、そのままカナカ山の方角に向かう。五分ほどでコプラ油の精製工場があらわれ、その前を過ぎると、もう道は無舗装の石ころ道に変わる。メインストリートから北に向かうこの道は、島のどこかに迂回《うかい》するわけではなく、カナカ山に突きあたって行き止まりになる。ズッグ人に山に対する信仰がないのは、もともと海洋性民族で、思考が海にばかり向かうせいだろう。カヌーを削るパンの木を切り出すときか、チャカウの根を掘り出すとき以外、ズッグ人は好んで森には入らない。森には森の精霊がいて、海の民である自分たちとは、相性が悪いと考えるのだ。  デチロは道の突き当たりでワゴン車を停め、ジャングルがつづくカナカ山の頂上を、目を細めて眺めてみる。火山性のカナカ山は円錐形に裾野《すその》を広げ、山頂のあたりにわずかな白い雲をひっかける。自動車道の終点は開《ひら》けた空地になっていて、中央に一メートルほど、灰色の変成岩が頼りなく積みあげられている。戦前まではこの場所に、日本人が南洋神社を祀《まつ》っていた。石は観光客が神社を忍んで積んだものだ。鳥居が立っていた跡には、まだコンクリートの礎台が残っている。鳥居を破壊したのも、社殿を焼き払ったのも、戦後ズッグに戻ってきたイギリス人だった。 「山ってさあ、暗くて、気持ち悪いなあ」と、髪の毛を両手でまとめながら、ふて腐れたように、キャスリン・キンスニが言った。 「暗《くれ》えんは山の中だけよ。上に出りゃ空が開けて、ウエック島まで見渡せる」 「あんた、山なんか、よく来るん」 「考え事をするときはな。トポルもエルロアも島の反対側も、みんなよく見えるんさ。鳥んなったみとな気分で、心が鎮まるんだい」  ズッグの今の状況が、かなり切迫したものであることは、デチロにも分かっている。ラジオでは朝からサントス大統領の死を伝えている。一週間後には選挙があることも、立候補者がウガウ・タントラーとジョージ・サントスであることも、みんな知っている。しかしそんなことよりも、デチロにとっての問題は、昨夜目撃した港での出来事だった。カヌーをヨットに横付けし、甲板に乗船したのは、『ダイアナ』のマリア・ラーソンだったのだ。  デチロはパンダヌスの籠《かご》を肩にかけ、キャスリンの背中を押して、山頂につづく踏み分け道に入っていった。籠の中にはホテルのコックに作らせたハンバーガーと、氷袋に詰めた缶ビールが入っていた。  森に入ると、突然湿度が高くなり、バクテリアに分解される枯葉の臭気が、埃《ほこり》のように充満しはじめる。同じ熱帯のジャングルでも、東南アジアやアマゾンとは生態系が異なる。大陸と陸つづきになったことがないため、植生は貧弱で、昆虫も動物も種類は限られている。植物の多くは木性や草性の羊歯《しだ》類で、高木といったらタコの木かパンの木ぐらいしか見当たらない。その中間にコルデニアやクサトベラの小灌木《かんぼく》が密生し、所々に野生の蘭《らん》が静かな花を咲かせている。猿の咆哮《ほうこう》はなく、人間を驚かせて飛び立つ雉《きじ》や山鳩《やまばと》もいない。毒を持つ昆虫も爬虫《はちゅう》類もいないから、キャスリンが『気持ち悪い』というのは、心理的なものなのだ。それでもこの小道を踏み分けたのは、現地人ではなく、山頂にトレッキングする観光客たちだった。  羊歯や野生|生姜《しょうが》の葉を蹴《け》散らしながら、山道を一時間ほどのぼり、せり出した玄武岩を右側に迂回すると、風が渡って、天上がぽっかりと明るくなる。キャスリンの尻《しり》を押しあげ、切り開かれた台状の土地に出る。もうカナカ山の山頂で、昔はイギリス人が広い展望台を作っていた場所だ。のぼっている間に雲が切れたのか、青空からは見慣れた飴《あめ》色の光が降りそそいでいる。海岸より涼しく感じるのは、すべての方向に開けた視界と、南洋杉がつくりだす濃い日陰のせいだった。 「ありゃあ。ほーんと、こりゃ凄《すご》いわ」  キャスリンの驚声を聞いて、心なしか、デチロも嬉《うれ》しい気分になる。さっきまで文句を言いながら歩いていたキャスリンが、丸太を並べたベンチの上に立ち、背伸びをするように、大きく深呼吸をする。 「あたしさあ、今まで椰子《やし》の木より高いところに、のぼったことがないんよ」 「いい景色だんべ。もっと晴れてりゃ、ハワイやアメリカまで見えるんだ」 「ズッグってこういう形してるんだ。あっち側の、あれ、エルロアだよねえ」 「滑走路も見えらい。なあ、飛行機ん乗りゃあ、この辺がこういうふうに見えるわけだい。ズッグの連中は、どうしてこの景色を見ねえのかなあ」  パンダヌスの籠をベンチに置き、氷の袋から缶ビールを取り出して、腰をおろしながら、デチロが栓を抜く。すごい量の泡が飛び出し、飛沫《ひまつ》がシャツの胸元を大袈裟《おおげさ》に濡《ぬ》らしていく。トポルでかく汗と、カナカ山の山頂でかく汗と、もう汗の粘度が違っている。頭の上を二十羽ほどのアジサシが、羽音もたてずにエルロアの方向に飛んでいく。 「おい。とにかく座って、ビールでも飲めや」と、キャスリンのスカートをつまんで、デチロが言った。 「あんた、前にも、女の子を連れてきたん」 「つまらねえこと言うない。考え事をするんに、女なんか連れてくるかよ」 「男ってさあ、いい加減なんよねえ。今日言うことと明日言うこと、まるで違うんだもの」  キャスリンが丸太のベンチに腰をおろし、汗で上気した顔を、深くTシャツの肩に押しつけた。安物の香水が匂《にお》い、皮膚からはコプラ油の甘ったるい匂いが流れてくる。どこかで枝にでも引っかけたのか、左足のすねに小さい切り傷が浮いてみえる。  半分まで飲んだビールの缶を、キャスリンに渡し、シャツの胸をはだけて、デチロはタバコに火をつけた。そんなつもりはなくとも、キャスリンの汗の匂いが、なんとなくデチロの性欲をかき立てる。 「あたしの友達ね、日本人とつき合ってたんよ、橋の工事で来てた人」 「今日あたりは、スコールも来べえかなあ」 「結婚とか言ってたんよ。そしたらね、この前の飛行機で帰っちゃったの。他の人に聞いたらさあ、日本に奥さんがいるんだって」 「おめえなあ、黙って、景色が見られねえのかよ」 「ちゃんと見てるよ。あれがエルロアだから、こっちがベルベラじゃない。ヘブテンて、どっちかなあ」 「あっちのほうに見える、どっかの小せえ島だんべ。こうやって上から見るとよう、ヘブテンもリモーアも、みんなゴミみてに小せえなあ」 「そしたらね、今度はその友達、ザワオさんに誘われたんよ。やらせてやったら、給料をあげてくれるって。男ってさあ、お金を出してまで、ああいうことしたいのかなあ」  昨夜、港でマリア・ラーソンが何をしていたか、もう結論は出ている。あんな夜中に、一人でカヌーを漕《こ》いで、ヨット見物に来たはずはないのだ。スタッド氏には言わなかったが、今日の爆発でも、たしかに、アキカン・ラーソンのときと同じ臭気が漂った。時限装置とかリモコンとか、もしスタッド氏の言うとおりなら、ヨットの爆破にも同じ手段を使ったことになる。それならアキカン・ラーソンを殺したのも、娘のマリアなのか。いくら父親が邪魔だからといって、マリアがそこまでの非道をするものだろうか。水葬にはスーサン・タンジェロや、マルカネ・ザワオまで関わった。ヨットの爆破にも、やはり二人は関係しているのだろうか。ラジオのニュースでは、サントス大統領の死は昨夜の夜中だという。マリアがカヌーをヨットに横付けしたのは、それから二時間ほどあとだった。大統領の死も、ラーソンの死もヨットの爆発も、すべてが偶然で、スタッド氏が海へ捨てるだけの目的で爆発物を探していることも、みな偶然の現象なのか。一週間後には次の大統領が決まり、ズッグに昨日までと同じ日常が戻ってきて、そして夜が明けてみたら、自分がザワオやマリアと同じ金持ちになっている。そんなうまい話が、このズッグに、この世の中に、果たしてあるものなのだろうか。 「なんだかなあ。おいらにゃ、訳が分かんねえ」と、籠からハンバーガーの包みを取り出し、一つをキャスリンに渡して、デチロが言った。 「店のお客にさあ、あたしも誘われることがあるんよ」 「はあ?」 「お金をくれるからって。でも十ドルじゃいやだよねえ。好きでもない人とやるんなら、五十ドルは欲しいよねえ」 「気楽な女だぜ。おめえ、それしか考えることはねえのかよ」 「あたしがなにを考えるんよ」 「人生設計とか、将来、どうしてえとか」 「あたしだって考えるよ。ディスコも見たいし、ハワイにも行ってみたい」 「おいらの言ってるのは、生きがいとか、人生の目標とか、そういうことだい」 「あんたって、面倒な性格だよねえ」 「男ってのは自然に人生を考えるんさ。このままで終わるんか、別な生き方があるんか……」  キャスリンがハンバーガーに齧《かじ》りつき、横目でデチロの顔を眺めながら、ふんと鼻を鳴らした。人生設計や将来の目標や、そんなもの、ズッグ人のキャスリンが考えても、たしかに、たいした意味はないのだろう。 「だけど、ここ、気持ちいいね」 「最初っからそう言ったんべに」 「飛行機なんかで来れたら、もっと気持ちいいよねえ」 「そのうちな。おいらが金持ちんなったら、ここまでロープウェイを引いてやらあ。観光客のためじゃなく、ズッグ人が自分の島を見るための、専用のロープウェイをよう」  水平線のはるか彼方《かなた》を、黒い貨物船が悠長に航行し、背後からは白い入道雲が襲いかかるように湧《わ》いてくる。下の森ではクイナが悲しそうな声で鳴き、海風がかすかにカポックの葉を揺らしていく。  デチロはまた缶ビールの栓を抜き、東から帆走してくる大型カヌーを眺めながら、少し喉《のど》をうるおした。小島づたいには小型のカヌーも帆を張っていて、波のないラグーンをのんびりとズッグ島に向かっている。 「大きいねえ。どこのカヌーだろうねえ」 「ウエックかサタマルだんべえ。あんなカヌー、まだ造ったやつがいるんだなあ」 「あたしの祖父《じい》ちゃんね、昔は大きいカヌーで、ヤップやポナペまで行ったって」 「昔のやつらは双胴カヌーで日本へも行ったらしいや。あの伝説、案外本当かも知んねえなあ」 「あの伝説って?」 「おいらたちの祖先は、カヌーに乗ってアメリカ大陸から来たってやつ」 「そんな伝説、あるん」 「今じゃ聞かねえがよ。今は年寄りも伝説より、プレイボーイのほうがいいんだと」 「なに、それ」 「こっちの話だ」 「だけどさあ。祖先って、馬鹿だよねえ」 「どうしてよ」 「アメリカにいたんならさあ、ズッグなんかに来なければいいのに。祖先がズッグに来なければ、今ごろあたしたち、アメリカ人だったんよ」 「おめえ、なにも知らねえんだなあ。アメリカにいたら、おいらたちはインデアンだぜ。今ごろは白人に、皆殺しにされてたい」 「へええ、そう」 「生きててカヌーに乗れたからって、それで幸せってことも、ねえだんべけどなあ」  キャスリンがハンバーガーを齧りおわり、羊歯の若葉で指先を拭って、尖《とが》った肩から、声を出して力を抜いた。首筋に汗のしみが貼《は》りつき、ヘアバンドでとめた髪から、枯れたヤム芋《いも》の葉がひらりとこぼれ落ちる。 「それにしても、あのカヌーは、でけえなあ」と、キャスリンの匂いに顔を背けながら、ふっとタバコの煙を吹いて、デチロが言った。 「二十人は乗れるねえ。帆がパンダヌスで編んであるよ」 「帆はビニールだんべえ。あんなもの編んだら、半年はかかっちまう」 「うちの祖母《ばあ》ちゃんなら三ヵ月で編めるけどね」 「編めてもよう。帆はビニールのほうがいいんだ。腐らねえし、軽くて、丈夫だからよう」 「だって、あのカヌーは、パンダヌスを使ってるじゃん」 「目が悪《わり》いなあ。光り方を見ろいや。それにちゃんと、字だって書いてあらあ」 「そうかなあ。模様は祖母ちゃんのパンダヌスと同じだけどなあ」 「おめえ……」  キャスリンの顔を覗きかけ、その視線の方向に気がついて、くわえタバコのまま、ちっとデチロは舌打ちをした。キャスリンの顔はまるで別な角度に向いていて、視線が追っているカヌーも、水平線の手前を泰然とズッグの方角に向かっている。 「まったく、おめえって女は……」 「あたしが、なによ」 「だから、おめえは……」  キャスリンの頭の上に首を伸ばし、ななめうしろを見やって、タバコの煙に、デチロはなんとなく眉《まゆ》をしかめた。 「ねえ。あたしが何なのよ」 「目と同じっくれえ、頭も使えってことだい」 「あんたみたいにさ、無駄なことをいくら考えたって、そんなの、無駄じゃん」 「無駄でもいいからよ。ズッグ人はどこから来て、どこへ行くんかとか、たまにゃ考えるもんだぜ」  キャスリンの視線の先にも、たしかに大型のカヌーがあって、その帆の張り方は、なるほどパンダヌスらしい。しかし大型のカヌーは西側の、まうしろの方角からも迫っている。それらがみな二、三十艇の小型カヌーを従え、最初にデチロが認めた大型カヌーも、やはり小型のカヌーに取り巻かれてズッグの方向に進んでくる。気がつくと、北側からも東側からも、すべての角度から、大小のカヌー舟団が茫洋とズッグ湾を目ざしているのだ。 「キャシーよう、ちょっと、カヌーが、多くねえかよ」 「あんたもそう思う? あたしもね、さっきから思ってたんよ」 「早くに言いやがれ。祭りじゃあるめえし、このカヌーは、ちょっと……」  舟団は近くからも遠くからも、右からも左からも、あらゆる方向から、ズッグ湾を目ざして粛々と進んでくる。とっさには数も知れないが、視界に入るだけでも、百や二百ではない。選挙は一週間も先だし、サントス大統領の葬式だって、それ以降のことだ。これほどのカヌーが、申し合わせたように、なんの目的で、ここまで一斉にズッグ湾へ向かうのか。 「このカヌー、ヘブテンからも来てるかなあ」 「知らねえが、こいつは、ずいぶんの数だ」 「なんだろうね。こんなにたくさん、どうしたんかねえ」 「知らねえけんど、こいつは……」  このカヌーの集合と、ヨットやクレーンの爆発と、どこかで、なにかが繋《つな》がっている。人足のヨハネがトポル暮らしに疲れたこと。女たちがタロン地区で躰を売ること。漁師の貧しさや若い連中の無気力さや、そんなものが、みんな、たぶん、どこかで繋がっている。 「遠くから見ると、カヌーって、きれいだねえ」  膝《ひざ》が震え、頭から血の気が引いて、浮かせていた腰を、デチロは、思わず丸太のベンチに落とし込んだ。それから肩で荒く呼吸をし、膝の震えを自覚しながら、目を閉じて、静かにタバコを吸いつづける。イメージの中でもカヌーの数は限りなく膨脹し、デチロ自身を責めるように、圧倒的な迫力で押し寄せてくる。 「父ちゃん、乗ってないかなあ。もう一ヵ月も会ってないんよ。父ちゃんにも母ちゃんにも、姉ちゃんにも会いたいなあ」  理屈ではなく、本能が、事態の異様さを明確に解説する。デチロの足は震えつづけ、背中に悪寒が走り、それでも躰の深い部分から、なにか、勇気に似た興奮が湧き起こる。逃げ出したい衝動《しょうどう》と、火中に身を晒すことの陶酔が、混沌《こんとん》としてデチロの神経を鎮めていく。『ズッグ人に生まれたことも幸運だと思うようになる』と言ったスーサン・タンジェロの言葉が、不思議な現実感で、頭の中に、じわりとよみがえる。  目を開け、空と雲と海の色を確認し、光の中で無言の帆走をつづけるカヌーの群れを、生まれて初めて、デチロは、美しいと思った。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  送信の終了したファクスが、低い合成音を神経質にくり返す。狭い部屋にはタバコの煙が渦を巻き、換気口の網蓋が耳鳴りのように振動する。ラジオから流れるのはサントス大統領の死と、選挙の予定だけ。それ以外には音楽も、爆破に関するニュースもない。次期大統領が決まり、故サントス大統領の葬儀でも終われば、ヨットの炎上など、どうせ『イギリス人観光客の不始末』という程度の結論で片づいてしまう。  スタッド氏はタバコの空き箱を握りつぶし、ファクスから送り状の用紙を抜き出して、つぶした空き箱と一緒に、ブリキ缶の中で火をつけた。そこまでの用心も不必要だろうが、CIAズッグ共和国現地駐在員として過ごした、五年間の習慣なのだ。送信の内容は、ヨットの爆発と犯人の見当、次期大統領選挙の動向と、自分自身の進退うかがい。ズッグに大使館か領事館でもあれば、こんな情報提供は日常の業務報告にもならないだろう。  ブリキ缶の中身が燃えつきるのを待ってから、スタッド氏はユニットバスに歩き、トイレの貯水槽からビニール袋を取り出して、またデスクに戻ってきた。  タオルで水を切り、包みを開くと、中からコルトのリボルバーとプラスチックの弾薬箱があらわれる。引き金と回転バネをテストし、三十八口径の弾装口に、六発の弾を装填《そうてん》する。安全装置をかけ、拳銃と弾薬箱を机の引き出しにしまう。久しぶりに手にした金属の重量感と、マルカネ・ザワオの陰気な表情が、スタッド氏の胃を限りなく不愉快にする。無分別と言われようと、無慈悲と言われようと、存在するだけで他人に害を与える人間が、やはり、この世にはいるものなのだ。  スタッド氏はホテルの窓から、日の射しはじめたズッグ湾に目をやり、一つ息をついて、ファイルから商用の便箋《びんせん》を抜き出した。 『親愛なるエリス……』  書き出しは分かっているのだが、万年筆を構えても、つづく言葉が出てこない。 『親愛なるエリス。エド・ビーンズに聞いたところによると、すでにあなたは、離婚されたとか……』  万年筆を放り出し、便箋を丸めて、ブリキ缶に捨てる。それから新しいタバコの封を切り、ついでにバーボンの瓶を取り出して、グラスに、なみなみと注ぐ。拳銃まで用意し、最悪のケースにも覚悟を決めたというのに、自分はいったい、エリス・ランバートに、なんの手紙を書こうというのだ。  バーボンを一口なめ、タバコの煙を吐き出したとき、なにか、普段とは違う光景が、眼下のズッグ湾からスタッド氏の目に紛れ込んできた。スタッド氏は椅子から腰をあげ、グラスを口の前に構えて、もう一度穏やかなズッグ湾を眺めおろす。フェリーがエルロア側の港に留まっているだけで、それ以外に特別な変化はなく、工事の中断された架橋現場にも人の動きは見当たらない。貨物船もなく、大型漁船もなく、それに今日は、ヤップからの飛行機も飛んでこない。いつもと変わらぬ波の静けさだというのに、この不安は、なにが理由なのか。  スタッド氏はタバコを一本吸い、バーボンをグラスの半分まで飲んで、そこでやっと、風景の違和感に思い当たった。まだ日も高いズッグ湾にしては、カヌーの数が、あまりにも多すぎるのだ。  サントス大統領は死んだ。ズッグ人にとって、特別な日ではある。大統領であると同時に、イチタロー・サントスはズッグ島の大酋長でもあった。島民には死を悼《いた》む気持ちもあるだろう。宗教的な行事が予定されているなら、人々が集まってくるのも当然だ。しかしラジオでは、遺体がハワイから戻らないことも、葬儀が新大統領の決定後であることも、くり返し流している。今日、このとき、なにかの国家行事が行われることなど、だれ一人噂もしていないのだ。  スタッド氏は残ったバーボンを飲み干し、双眼鏡を取り出して、窓からテラスの外に場所を移してみた。ズッグ湾はエルロア島との間に東西の外洋水路を開いている。トポル港に入る船は、カヌーでも貨物船でも、必ずどちらかの水路を通過する。そして今は、その両方の水路から、唖然《あぜん》とするほどのカヌーが湾の内側を目ざしている。毎年の独立記念日にも、エルロアのサメ祭りの日にも、これだけのカヌーが集まったことなど、一度も見かけなかったというのに。  スタッド氏は噴き出す汗にも構わず、窓を開けたまま、テラスの鉄柵にもたれて、息もせずに湾を見おろしていた。最初は百艇ほどが散っているように見えていたカヌーも、徐々に舟影を増し、一つの意思をもった集団として、もう毅然《きぜん》と港を取り巻いている。一人乗りのカヌーから四、五人乗りのカヌーまで、種類はさまざまだ。中には今まで見たこともない、十人以上も乗れそうな大型のカヌーも混じっている。光景が異様なのは、カヌーの舶先がすべてこの貨物港に向いていることと、乗っている人間のすべてが、あのスンという椰子の葉の民族衣装をまとっていることだった。  突然ラジオの声が消え、スタッド氏は部屋に戻って、スイッチとダイアルを確認してみた。電気も来ているし、雑音も入る。放送の中断は局側の問題なのだ。混乱は電話も同様で、合同庁舎もスタッド氏の自宅も、呼び出し音すら鳴らさない。交換手に他の回線を試させても、つながるのはホテルの内線電話だけ。海外への通信など、試すまでもないことだった。機械の故障なのか。ラジオ局や電話局のストライキなのか。組織的なストライキを組むほどの職員はいないし、そんなことより問題は、ズッグ湾に集結しつつある、このカヌーなのだ。なんのために集まってきたのか、なにをしようとしているのか。そして現実に、今、なにが起こっているのか。  スタッド氏は、グラスに一杯だけバーボンを呷《あお》ってから、腰のベルトに拳銃を装着し、上着をはおって事務所の部屋を出た。カヌーの集合はスタッド氏の知らない、十年に一度の椰子|蟹《がに》祭りか。それとも沈んだヨットの慰霊祭か。しかしもう、この期に及んで、そんな気休めにどれほどの意味がある。  エレベータでロビーにおり、タントラーを探してみたが、見当たらず、ホテルを出て合同庁舎まで歩いていく。『トロピカル』はシャッターをおろし、市場もメインストリートも、傾いた日射しの中で湿気っぽく静まり返っている。この長閑《のどか》で殺伐とした風景が、上着の下のスタッド氏の背中に、冷水のような汗をにじませる。  タントラーやジョージ・サントスをはじめ、閣僚が顔を揃《そろ》えていたのは、五階の大統領執務室だった。外部の人間は商社員のナカガワだけで、マルカネ・ザワオの姿はなく、床には大量のビール瓶と、ヌードルやポテトチップスの空き袋が散らばっていた。冷房は効いているから、発電施設にまで影響は出ていないらしい。 「よう、スタッドさん。いいところに見えられた」と、ソファに座ったまま、疲れたように首を伸ばして、ジョージ・サントスが言った。「あなたからもナカガワ氏を説得してもらえませんかね。橋の工事を、中止するとおっしゃるんですよ」 「サントス大臣。わたしは中止とは言ってませんよ。ヨットの件は本社に報告する、日本の外務省にも届ける必要があると、そう言っただけです」 「あれはただの事故なんだ。清掃人の、タバコの火の不始末だ」 「たとえそうであっても、クレーンの件もあるでしょう。ここまで事故がつづくからには、日本へ調査団を要請すべきです」 「そんなことをしたら……」 「お話中では、ありますがね」と、部屋の中央まで進み、一同の顔を見渡して、スタッド氏が言った。「みなさん。今、この国では、ラジオと電話が不通になっております。どなたかその理由を、ご存知ありませんか」  ジョージ・サントスが、口を開いたままタントラーと警察署長をふり返り、背伸びをしながら、大きく欠伸をした。 「機械の故障か、オペレータの不始末でしょう」 「ラジオと電話が、同時にですか。それに窓の外をご覧ください。わたしにはどうも、カヌーの数が多すぎる気がする」  五、六人の大臣が、一斉に首を伸ばし、警察署長は席を立って、わざわざ窓の前まで歩いていった。 「なるほどなあ。気がつかなかったけんど、こいつはちょいと、多いやなあ」 「ズッグ湾にカヌーがあって、どこが不思議なんだね。離島の連中が親父の死を悼みに来たんだろう」 「葬式は選挙のあとだと、ラジオで流してるんにか」 「偉大な大統領だったからな。国民の悲しみも理解してやりたまえ」 「どうだかよう。イチタローにそれほどの人気は、なかったんべと思うが……」  署長がごま塩頭を振りながら、大統領用のデスクに歩き、窓の外を睨《にら》んだまま、大儀そうに受話器を取りあげた。それから番号をプッシュし、二、三度同じ行為をくり返して、天井を仰ぎながら、気難しそうに肩をすくめてみせた。 「ホテルにも『トロピカル』にもかからねえ。スタッドさんの言うとおりだい。ちょいとこいつは、変だいなあ」 「変なら変で調べるまでだ。事故も故障も署長の管轄だろう」 「電話やラジオは文部大臣の管轄だい」 「それならタンジェロに調べさせたまえ」 「タンジェロなんざ、はあ今朝から見かけてねえよ」 「どこへ行ったのかね」 「知るわけねえべえ。大臣の行く先は大統領代行の、おめえの管轄だんべな」 「この面倒なときに、無責任な野郎だなあ。私が大統領になった暁には、あんな男、閣僚から追放してやるぞ。エルロアの人間を大臣にすることなど、もともと反対だったのだ」 「ジョージよ。演説はいいけんど、電話はどうするい」 「君が出張《でば》ればいい」 「わしの管轄は……」 「四の五の言うなよ。ODAが中止されれば、署長だって困るのではないかね」  署長が首を振り、ほかの大臣をうんざりした顔で見まわしてから、一つ鼻を鳴らして、大股《おおまた》に執務室を出ていった。ナカガワだけが不安そうに窓の外を覗き、しかし大臣たちは欠伸をするやら、タバコを吹かすやら、まるで緊張の色は浮かべなかった。大統領の死、ヨットの爆発、通信網の混乱や異様なカヌーの集結。これだけ異常事態がつづいているのに、状況の深刻さを、だれも理解していないようだった。  熊が起きあがるように、タントラーが腰を浮かせ、窓の外に向かって、丸い目玉をぎょろりと回してみせた。 「ほーい。だれか、ラジオをつけてみろいや」  年寄りの大臣が一人、床を這《は》ってラジオのスイッチに手をかけたが、聞こえてくるのは当然、電波を受信しないスピーカーの、ぴりぴりという雑音だけだった。 「大統領の死で、綱紀が弛んでしまったか……」と、狭い額に苛立《いらだ》たしそうな皺を刻み、腕組みをして、ジョージ・サントスが言った。「それだけ親父は、偉大な大統領だったということだ」 「偉大な父親に不肖の倅《せがれ》ってのは、ありがちな話だいね」 「ウガウよ。皮肉を言えるのもあと一週間だぞ。一週間後には、望みどおり、おまえをコプラ工場の監督に任命してやる」 「困った野郎だいね。親父さんもあの世で、馬鹿な倅に愛想をつかしてらい」 「き、き、貴様……」 「いいからよう。おめえはせいぜい、橋のことでも心配してろや。どっちがコプラ工場の監督になるんか、選挙をしてみりゃ分かることだい」 「タントラー大臣……」と、広い背中をうしろにまわり、窓の外に顎《あご》をしゃくって、スタッド氏が言った。「そんなことより、今の事態を、なんとお考えです」 「なんだんべねえ。なんだか知んねえが、いやな感じではあらいねえ」 「電話、ラジオ、それにこのカヌー。なにか特別な祭りでも、始まるんですかな」 「昔の海亀祭りでも、これほどのカヌーは、来なかったい」 「みな貨物港に向かっていますよ。正面は『ベイ・イン』です。とりあえず、あちらに、場所を移しませんか」 「それがいいかさあ。はあ閣議にも疲れたいね。ホテルならビールも飲めるし、飯も食えるだんべ」  タントラーがぶるんと腹の肉を揺すり、サントスや床に座った大臣に、両手を広げて、暑苦しいウインクをした。歩き出したタントラーを追うように、大臣も二人腰をあげ、転がるようにドアへ向かい始める。ナカガワや残った大臣がジョージ派なのだろうが、この期に及んでその区分にどういう意味があるのか、スタッド氏には、見当もつかなかった。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  丘を五分ものぼれば、もうトポル中学につく。デチロは昨日と同じようにクルマを校庭に乗り入れ、平らな敷地を一周りしてから、校舎の横でブレーキを踏む。並んだ窓ガラスが整然と西日を反射し、灰色の瓦《かわら》屋根もみごとな金色に染まっている。校庭に人影はなく、変化のない灌木林がカナカ山に向かって、ただ鬱蒼《うっそう》とつづいている。下校時間は過ぎていないはずなのに、校舎や校長官舎に人の気配はない。  助手席にキャスリンを残し、クルマをおりて、校舎の窓から中を覗き込む。机と黒板が見えるだけで、生徒の姿は見当たらない。官舎に歩いてドアをノックしても、タンジェロもほかの教師も、人間は一人も現れなかった。遠くのズッグ湾にはカヌーの三角帆が林立し、午後も遅いせいか、カモメばかりが数を増す。校庭や官舎の無人感が、デチロの静かな興奮に、軽い不安を与える。  クルマに戻り、居眠りを始めたキャスリンを乗せたまま、丘をくだる。まだ昼寝からさめないのか、市場にも通りにも、人間は一人も歩いていない。シャッターをおろしている『トロピカル』を右手に見てから、T字路を右折し、『ダイアナ』の前でクルマを停める。風通しのいい建物の陰で、犬と年寄りがうずくまっている。寝ているようでもあるし、死んでいるようでもある。建物も漁船も、埃も日射しもすべてが寝ているようであり、死んでいるようでもある。  舌打ちをし、道に唾を吐いて、デチロは店を裏口にまわってみる。ドアは開いているが、厨房《ちゅうぼう》にもフロアにも人影はない。一度外に出て、階段を二階にあがる。ノックに返事はなく、ベランダを乗り越えて窓の前に出る。ベッドと化粧台と木の衣装戸棚。見えるのはそれだけで、待っても注視しても、マリアの姿は現れない。中学の官舎にスーサン・タンジェロがいなかったことに、この結果も当然のことのように思われる。しかしなぜ当然なのか。タンジェロの不在やカヌーの集結と、マリアの不在がどう重なるのか。混沌の中に納得した気分が顔を出す。市場にも通りにも、これほど誰もいないのに、デチロは自分を、まるで孤独だとは感じなかった。 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 8 [#ここで字下げ終わり]  圧倒的な積乱雲が、決心したようにズッグ湾を襲ってきた。雲の切れ間には日射しがあり、かすかな青空と、レンガ色の光が切り絵のように覗いている。スコールは南の空から忍び寄り、傲慢な雨粒が無慈悲に風景を叩き過ぎる。埃っぽい道路も桟橋も、石壁の倉庫も民家のトタン屋根も、青い海面も居並ぶカヌーも、すべてが雨粒と跳ねとぶ飛沫で被《おお》われる。子供の歓声も犬の遠吠《とおぼ》えも、音はすべて、厚いスコールの中に一つの雨音として密封される。  ホテルのロビーで、ソファに座り、スタッド氏は風景を遮断するだけの雨を、ほとんど放心状態で眺めていた。奥のソファには白人の観光客が集い、制服のボーイやメイドが手持ち無沙汰《ぶさた》にフロアを徘徊《はいかい》する。若い運輸大臣はタバコを吹かし、中央銀行の総裁は腕組みをして、気楽な居眠りをつづけている。どこから現れたのか、マルカネ・ザワオも頭を並べ、肉の厚い目蓋の向こうから、じっと窓ガラスを見つめている。サントス大統領が死んだことも、ヨットが沈んだことも、だれも話題にせず、このスコールさえ晴れれば事態は解決すると信じているような、奇妙に楽観的な静寂だった。  玄関ドアが開き、警察署長と四人の制服警官が、スコールの中から忽然《こつぜん》と現れた。服を着たまま海に落ちたような、完璧《かんぺき》なまでの濡れ方だった。そういえばこの国ではだれも傘を持っていなかったなと、スタッド氏は妙なところで、妙なことを思い出した。傘の代わりに、署長も警官たちも、みな肩にライフルを担いでいた。  濡れ雑巾《ぞうきん》のようにロビーを歩いてきて、肩で息をつき、あえぐように、署長が口元を引きつらせた。 「ウ、ウガウよう、大変だい。電話局とラジオ局が、へんな連中に、占拠されてらい」  報告の意味が理解できないのか、タントラーもほかの大臣も、とっさには、だれも返事をしなかった。 「そりゃあ、どういうこったい」と、十秒ほどの沈黙のあと、ぎょろりと目玉をまわして、タントラーが言った。 「分かんねえよ。だけんどとにかく、占拠されてるんさ。みんな弓や銛《もり》を持ってやがって、そばにも寄れねえ。どっちの局にも、はあ五十人がとこ集まってらい。その連中がよう、なんだか、みんなスンを着てるんだよう」 「ほーい。だれか、こいつらにタオルを持ってこいや」 「ウガウ。それどこじゃねえだんべ。おめえ、これがどういうことか、分かんねえのかや」 「署長だって分かんねえと言ったんべ」 「分かんねえけどよ。大変なことは分かるべえに。連中、わしらが近寄ると、銛を投げやがるんだぜ」 「おめえも嫌われたなあ。ふだんの取締りがきつすぎるんだんべ」 「タントラー大臣……」と、降りやまぬスコールに目をやったまま、腕組みをして、スタッド氏が言った。「事態は、もう少し、深刻ではありませんかね」 「スタッドさんの言うとおりだぜ。いわゆるこいつは、深刻ってやつだい」 「深刻は分かってらい。わしだっていやな気はしてらあな。カヌーの数だって尋常じゃねえ。どこの馬鹿が、こういう面倒をお越しやがったか……」  そのときまた玄関ドアが開いて、ジョージ・サントスを先頭に、十人ほどの大臣や役人が、滴を飛ばしながらロビーに駆け込んできた。雨を気にしているのはナカガワだけで、他のズッグ人は濡れたシャツにもズボンにも、まるで無頓着だった。 「ウガウよう、聞いたかや。若《わけ》え連中が、暴動を起こしやがったとよう」  さっきまでの流暢《りゅうちょう》な英語も、スコールのせいか、混乱のせいか、ジョージ・サントスの言葉は、すっかり訛《なまり》の強いズッグ英語に変わっている。 「暴動なら治めりゃよかんべ。なんのために警察は鉄砲を持ってる。銛や弓なんぞにびくつくんじゃねえよ。わしらが慌てちまったら、それこそ向こうの思う壺《つぼ》だんべえ」  一瞬まわりが静かになり、咳払いの声や、濡れたゴムサンダルを床にこする音が、気まずく響き渡った。観光客も事態の異様さに気づき始めたらしく、ロビーの隅で、輪を小さくして額を寄せ合っていた。  ナカガワがタオルを首にかけながら、スタッド氏のとなりに座り、目配せをして、蒼白《そうはく》な顎を、小さく横に振った。 「スタッドさん。どうもいけません。この連中には事態の重大さが、理解できていないらしい」  それには答えず、スタッド氏はタバコに火をつけ、吐き出した煙の向こうに、マルカネ・ザヮオの顔を盗み見た。色の黒い肉厚な顔は微動だにせず、細い目も窓の外を見つめたまま、一切の表情を拒否していた。ザワオが言った『生き延びる方策』とは、このことだったのか。暴動がどういう規模であるにせよ、平穏な政権移譲など、もう不可能だろう。この混乱を引き起こしたのがザワオであるとしたら、タントラーもジョージ・サントスも、少しばかり、ザワオを見くびっていたことになる。  音をたてていたスコールが、神の奇跡のように過ぎ去り、西日が一筋、鋭い角度でエルロア島に射しはじめた。風景にも明るさがよみがえって、まだはるか日没前であることを、不思議な実感で思い起こさせる。  突然床が振動し、ロビー中の人間が、どよめきながら、一斉に腰を跳ねあげた。振動の原因は朝と同じ爆発音で、それが十秒ほどの間隔をおいて、つづけて三発も鳴り渡ったのだ。観光客も大臣たちも、だれも声を出さず、窓の外を覗いてから、思い出したように一人二人とドアに向かいはじめた。タントラーもジョージ・サントスも玄関に向かい、ナカガワと一緒に、スタッド氏も外に飛び出した。道も防波堤も倉庫も、すべてが雨に濡れ、そして白煙があがっているのは、湾を挟んだ向こう側、エルロア島の架橋工事現場だった。敷設されていたコンクリートの礎台は、魔法のように姿を消し、その上に名残りの白煙が形も変えずに浮かんでいる。湾の途中にも煙は残っていて、そこに中間の礎台があったことなど、もうだれも思い出きなかった。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「あれ、まあ。なんか知らんけど、今日はよく花火があがる日だよう」  マチコ・エリザベスはたたみかけていた洗濯物を脇《わき》にどけ、しばらくポーチから空を覗いたあと、雄大な腰に肘《ひじ》を張り、のっそりと庭に踏み出した。スコールの雲はカナカ山の向こうに姿を消し、水平線に取り残された千切れ雲を、西からの日射しが濃い茜《あかね》色に染め分ける。芝はたっぷりと水を含み、薄いゴムサンダルの底から、踝《くるぶし》のあたりにまで生温い露が這いあがってくる。 「へーえ。ズッグのどこに、こんなカヌーがあったかさあ」  一人ごとを言いながら、椰子の陰まで歩き、トポルの市街からズッグ湾を見渡してみる。海の色は深さをまし、その油を敷いたような黒い海面を、帆をおろした無数のカヌーが貨物港を扇形に取り囲んでいる。見かけないキノコ雲のような煙が、西水道を中心に三本も立ちのぼっている。煙が直前に聞こえた爆発音のせいであることは、エリザベスにも想像はつく。スコールの前までは見えていた橋脚台が、エルロア側からもズッグ側からも、さっぱりと消え失せているのだ。  ブーゲンビリアの植え込みに影が動き、パンダヌスの籠を担いだナタリー・ヌアクが、黄色いTシャツで、ひょっこりと顔を覗かせた。 「いい雨がきて、気持ちよかったねえ」と、肩から籠をおろしながら、庭に入ってきて、ナタリーが言った。 「籠まで濡らしちまって、あんた、重くねえかさあ」 「島じゃコプラの籠を担いでたもん。てんで平気よ」 「若《わけ》え子は元気がいいねえ。おらなんかこの道をのぼるだけで、息が切れちゃうよ」  巨体をゆったりとポーチまで運んできて、敷居に足をかけ、手|真似《まね》で、エリザベスがナタリーを招き寄せた。 「昼にも大きい音がしたけんど、港で火事でもあったかさあ」 「大統領のヨットが燃えたんよ。だれかがタバコの火を投げたんだって」 「もったいねえよう。あのヨット、売りゃあ高かったんべにね」 「また日本から貰《もら》えるんじゃん。あたいらには関係ないよ」 「ウガウのでぶが乗るとしたら、今度貰うヨットは、倍の大きさが要らいねえ」  けたたましく笑いながら、エリザベスがキッチンに入っていき、冷蔵庫の製氷室から、二枚の氷皿を抜き出した。ポーチではナタリーが籠の蓋を開け、中からプラスチックの洗面器を取り出して、戻ってくるエリザベスを待ち受けている。製氷皿二枚ぶんで、五十セント。一晩の仕事を賄うためには、冷蔵庫のある家を、あと二軒まわらなくてはならない。 「おばちゃんさあ、氷を作るお皿、増やせないん」と、エリザベスから氷を受取り、洗面器にあけながら、ナタリーが言った。 「増やしてもいいけんど、旦那《だんな》さんにばれるがね」 「スタッドさん、あたいがここで氷を買うこと、知ってるよ」 「あれ、まあ。だれが言ったんかさあ」 「あたいが言ったん」 「やだよう。それじゃ知ってて、とぼけてるんかね。あの旦那さんも人が悪いよう」 「お皿を倍にすればおばちゃんの儲《もう》けも倍になるじゃん。あたいの手間だって省けるしさあ。お皿だけ、たぶん、『トロピカル』で売ってると思うよ」  氷の入った洗面器に、ビニールをかけ、それを大判のバスタオルで包んで、パンダヌスの小籠に入れる。その上からまたタオルで覆い、手提げのついた大籠の中にしまう。これだけの支度で、洗面器一杯の氷が、なんとか夜中までは溶け残る。 「そりゃあいいけんど、あんた、港を見たかいね」と、籠を担ぎあげるナタリーに、手を貸しながら、エリザベスが言った。「橋を乗せる台がどこかに行っちまってるよ」 「道の途中で音がしたっけねえ」 「一年もかけて造った台を、どうしたんかさあ」 「造って壊して、造って壊して、そうやってれば工事はいつまでも続くじゃん。日本人てね、どうせそういうことが好きなんよ」  小柄な肩に、パンダヌスの大籠を担ぎあげ、躰を引きずるように、ナタリーがブーゲンビリアの向こうに歩きだす。エリザベスは腰に腕を組み、日の陰り始めた小道から、立ったまま、首だけズッグ湾のほうに巡らしてみる。立ちのぼっていた煙は姿を曖昧《あいまい》にし、海風が吹き始めた夕焼け空を、けし粒のようなカモメが騒ぎながら渡っていく。日本人のすることは分からないが、製氷皿を倍にすれば儲けも倍になるという理屈だけは、しっかりと、マチコ・エリザベスは認識した。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  スコールは目に見えるほどの速さで北に流れ、よみがえった青空に、爆発あとの白煙がキノコ雲のように浮かんでいる。いつ隊列を組んだのか、港の遠くをアウトリガーを張ったカヌーが、整然と取り囲んでいる。カヌーはすべて帆をおろし、波のないズッグ湾を厳粛な速度で進んでくる。民族衣装のスンも見分けられ、どのカヌーにも二、三人から四、五人、黒い皮膚が黙々と筋肉を運動させている。見物人も集まりはじめ、T字路のあたりを中心に、無言の人波が押し寄せる。ホテル前に並んだ男たちにも、声はなく、港に向かって弧を狭めてくるカヌーの列を、ただ唖然と眺めている。倉庫の裏側で南洋|蝉《ぜみ》が鳴きはじめ、スコールあとの濡れた地面に、海からの熱い風が吹き渡る。  海面を滑っていたカヌーが、岸の二百メートルほどのところで停止し、大型のカヌーを中心に小さく舟体を集めはじめる。声を出せば届きそうな距離まで来て、それでもカヌーは沈黙を守り、エルロア島を背景にして、静かに隊列を整えている。見物人も声を出さず、タントラーやジョージ・サントスも無言で、南洋蝉だけが暑苦しく擬音を響かせる。  なん百という視線が見守る中、舟団から一|艘《そう》の小型カヌーが漕ぎ出し、ホテル前の桟橋に向かって、颯爽《さっそう》と海面を滑りはじめた。艫《とも》では男が短い櫂《かい》を捌《さば》き、船首にはもう一人、腰蓑《こしみの》の女が長い髪を昂然《こうぜん》と風になびかせている。男たちは声を出さず、近づいてくるカヌーに重苦しく息を止める。舶先に片膝をつき、西日に惜しげもなく乳房を晒しているのは、『ダイアナ』の、マリア・ラーソンだった。  咳払いと溜息と、息を飲む音だけが揺れ動く中、カヌーが接岸し、マリアの肢体が軽やかに上陸する。裸足に椰子の葉を編んだ腰蓑を着け、ほかに纏《まと》っているのは草の冠と、パンダヌスの腕輪だけ。尖った乳首を高く突き出し、怯《ひる》みのない足取りで毅然《きぜん》と近づいてくる。浅黒い肌は濡れたように輝き、歩を進めるごとに、贅肉《ぜいにく》のない肢体が簡単にレンガ色の夕日を跳ね返す。胸も腹も脚もこれほど完璧で、これほどむき出しなのに、それを直視する男は、一人もいなかった。  五メートルまで近づき、マリアが腰に腕を組んで、仁王だちに立ち止まる。彫りの深い顔に動揺や羞恥《しゅうち》はなく、うすい色の瞳《ひとみ》がまっすぐに男たちの顔を見つめてくる。 「わたくし、アキカン・ラーソンの娘マリア・ラーソンは、ズッグ民族党の名において、ここに宣言する」  突然発したマリアの声は、衒《てら》いがなく、一途《いちず》さの中にも余裕が感じられる、透明に安定したものだった。叫んでいるわけでもないのに、言葉のすべてが南洋蝉の騒音を切り裂き、はるかT字路の見物人にまで届いていく。 「わがズッグ共和国は、本日、この時点以降、サントス一族による専制支配を廃し、西洋文明の侵略を拒否し、伝統的な氏族社会への回帰を標榜《ひょうぼう》する。混乱と流血を避けるため、ズッグ民族党は、全国民と全居住者に、以下の如く要求する」  腰蓑から縦長に折った用紙を抜き出し、それを目の高さにかかげ、乳房を固く揺らして、マリアが大きく息を吸い込んだ。 「一つ。ウガウ・タントラー、ジョージ・サントスをはじめ、サントス一族につながる全閣僚を、明朝をもってわが国土から追放する。  一つ。ズッグに居住する神職者、外交官、商人等、すべての外国人を追放する。  一つ。観光客等短期滞在者は、明日のヤップ便にて退去することを希望する。  一つ。漁船、貨物船等外国船舶は、明朝までに出国することを希望する。  一つ。以上の勧告に背いたものは、財産を没収し、共和国に悪意ありと判断されるものに対しては、伝統に従い『サメ食わせの刑』に処するものとする。  一つ。明日の正午をもって、ホテル、庁舎、教会、空港等、国民生活に害を与えうる施設に関しては、これを破壊するものとする。  一つ。わがズッグ共和国国民は、民族の誇りと伝統を堅持し、西洋文明の侵略を許さず、今後はスーサン・タンジェロを中心にした氏族合議制により、勇気ある孤立を達成するものとする」  マリアが宣誓書を読み終えたあとの空白に、だれが、どう対応するのか。  熱気なのか、傍観なのか。群衆は野次も声援も飛ばさず、道や防波堤にたたずんだまま、色の濃い夕日にただ黒い顔面を晒している。自分たちの生活が変わることに、運命が変わろうとしていることに、覚悟もなく、無防備に、ひたすら大衆であることに拘《こだわ》りつづける。蝉の声がよみがえり、カモメが滑空し、太陽がすとんと、カナカ山の向こうに消えていく。  マリアが宣誓書の用紙を折りたたみ、男たちの顔を見まわしてから、裸足の足で、ゆっくりと距離をつめてくる。タントラーとジョージ・サントスの顔を見くらべ、会釈をして、用紙をジョージ・サントスに差し出す。サントスは身動きをせず、瞬きもせず、心臓でも止まったように、猛然と頭から汗を流しつづける。マリアが紙を足元に投げ、きびすを返して、汚れのない背中をカヌーのほうに遠ざけはじめる。腰蓑が揺れ、髪がなびき、脹《ふく》ら脛《はぎ》の筋肉が踊るように体重を運んでいく。  ジョージ・サントスが、突然絶叫し、署長の肩からライフルを奪って、わめきながら、がちゃりと撃鉄を撥《は》ねあげた。 「あ、あ、あの女。ぶっ殺してやる。俺があの女を、ぶっ殺してやるぞ」  横からタントラーが手を伸ばし、むんずと銃身をつかんで、スモウレスリングの張り手のように、呆気《あっけ》なくサントスの躰をつき飛ばす。 「と、止めるんじゃねえよ。はあ我慢がきかねえ。お、俺があの女を、ぶっ殺すんだい」 「馬鹿野郎。マリアを殺《や》るんなら、先《せん》にやっときゃよかったい」 「ぬかしやがれ。し、紳士ってのは、時と場合をわきまえるんだい」 「だからおめえは、紳士じゃねんだい」 「ウ、ウガウ、てめえ、マリアの肩を持つんかよ」 「頭を冷やしやがれ。おめえが今マリアをやれば、わしらが連中に殺される。わしゃあまだ、馬鹿の巻き添えにゃなりたくねえがね」  振り向きもせず、マリアがカヌーに乗り込み、舳先を返して、波のない海面を悠然と漕ぎ出していく。ホテルの影がマリアの背中を包み、舟団の方向から、抑制のきいた低い歓声が湧き起こる。 「マリアが、マリアが、行っちまうよう」 「今は仕方ねえやい。とにかくホテルに戻るべえ。外はコンクリートが熱くていけねえ。ビールでも飲んで、いい思案をひねり出すべえよ」  立ちつくしていた連中が、列をつくって戻りはじめ、スタッド氏も宣誓書の用紙を拾いあげて、そのあとに着いていった。すでに日射しはなく、市場へ歩く買い物客もなく、南洋蝉も、いつの間にか鳴きやんでいた。貨物港を取り囲むカヌーの集団がなければ、マリア・ラーソンの演説が耳に残っていなければ、ただ殺風景なだけの、文明に取り残された、もの憂い港町の夕暮れだった。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  姿の見えないエマニエル・ソンダンを探しながら、ラウエル神父はワインのグラスを片手に、神父館の裏庭に広がっている洗濯物を憤然と眺めていた。乾いていたはずのシーツやピロケースが、滴をたらして洗濯|綱《つな》に絡みつき、神父のパンツなどはスコールの風で、遠くバナナの根元まで飛ばされている。キリストの教えが理解できないのは仕方ないとして、毎日シーツを取り替えろという自分の教えを、なぜエマニエルは守らないのか。倉庫裏の売春宿から拾いあげてやった恩を、なぜ気楽に忘れてしまうのか。  ワインをちびりとなめ、怒りの治まらないまま、神父は濡れた芝生をチャペルのほうに歩いていった。市場に買い物に行くなら、当然自分に断っていくべきだ。今夜の晩餐《ばんさん》はチキンの丸焼きだと、昨夜からちゃんと命令してある。正しい食事時間に合わせるには、そろそろオーブンに火を入れるべきではないか。この時間に対する無神経さ。義務に対する無責任さ。それら生活の一切に対する現地人の怠惰さに、ラウエル神父は毎日毎日、沸騰する怒りと暗澹《あんたん》たる絶望を感じるのだった。ゼウスは万能ではあったろうが、こんな海の果ての島国にまでは、ほんのちょっとだけ、目が届かなかったに違いない。  チャペルの石段をのぼり、開いたままのドアを覗いて、そこで神父は、ぎくりと立ち止まった。失敬な現地人の雨宿りかとも思ったが、蝋燭《ろうそく》をともした祭壇の前に跪《ひざまず》いているのは、どうやらエマニエル・ソンダンらしい。しかしその姿は、神父が買い与えたワンピースでもブラウスでもなく、あの冒涜《ぼうとく》的な、胸をむき出しにした、スンという民族衣装だったのだ。 「エマニエル。おまえ、神の御前《みまえ》で、なんという格好をしておる」  エマニエルがふり返り、平板な横顔に蝋燭の光を受けながら、腰をあげて、ゆっくりと近づいてきた。暗い建物の中で目だけが不気味に輝き、不愉快なコプラ油の臭気が、濃い密度で漂ってくる。 「洗濯物も片づけんで、こいつ、何をしておるんだ」  神父を無視して、エマニエルが脇を通りすぎ、足音もたてず、むき出しの胸で、思いつめたようにチャペルの石段をくだっていく。 「どうした。買い物は済ませたのか。今夜はチキンの丸焼きのはずだぞ」  エマニエルは見向きもせず、敷地をまっすぐ小道の方向に歩いていく。神父館は教会の裏手で、エマニエルの進む先とは、逆の方角ではないか。 「この馬鹿者。気でも触れたのか。おい、戻ってこい。洗濯物の始末をして、早く夕飯の支度に取りかかれ。エマニエル。エマニエル……」  なおもエマニエルは歩きつづけ、たたずむだけの神父を残して、青い夕闇《ゆうやみ》の中、教会の敷地から丘をくだる小道のほうへ、すっと姿を消していった。しばらくエマニエルの消えていった闇の中を見つめ、それから神父は、残っていたワインを呷《あお》り、突如爆発した怒りに、グラスを強く石段に叩きつけた。サントス大統領は死んだというし、昼間から奇妙な爆発はつづいている。しかしだからといって、野蛮な現地人が破廉恥な衣装で神を冒涜することなど、断じて許せない。あんな大統領が死んだことぐらいで、なぜ自分が洗濯物のあと始末をさせられるのか。あんなヨットが燃えたぐらいのことで、なぜチキンの丸焼きが食べられないのか。いくら神のしもべではあっても、我慢には限度がある。エマニエルは怠惰で無精で反抗的で、料理も下手だし、ベッドでもただ躰を投げ出すだけなのだ。明日になって許しを請うてきても、こんな無礼は、もうぜったいに許さない。倉庫裏かタロンにでも行けば、女はいくらでも売っている。半年も神父館に住まわせていて、そろそろ飽きてきたころでもある。洗濯物や今夜の食事は仕方ないとして、明日あたりタロンに行って、新しい女を見つけて来ればいい。自分と一緒に清潔なベッドで寝かせてやり、食事を与え、小ざれいな服と月に十ドルの小遣いでもやれば、ズッグの女はだれでも泣いて感謝する。エマニエルが不遜《ふそん》にも神父館を出ていくというなら、勝手にすればいいのだ。新しい女に文明と神の愛を教えることによって、また一人、無知な現地人を野蛮から救済することができる。そうやってキリストの教えを広めていくことこそ、遥《はる》か一万キロも離れたイギリス教会派本部から派遣されている、聖職者としての、自分の務めでもあるのだ。  ラウエル神父は怒りで噴き出した顔の汗を、筒頭衣の袖《そで》で拭い、大きく息をついて、傲然と神父館に引き返した。いつまでたっても怒りは治まらなかったが、ダイニングに戻り、ラジオのスイッチに手をかけたのは、キッチンの冷蔵庫から新しいワインの瓶を抜き出してきた、そのあとのことだった。 「わがズッグ共和国は、本日、この時点以降、サントス一族による専制支配を廃し……」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ホテルのロビーでは、すでにビールが運ばれ、異様な殺気と湿度の高い沈黙の中、警官を含めた二十人ほどの男たちが、黙々と酒盛りをつづけていた。ボーイもメイドもマリアの演説は聞いているはずなのに、態度にも表情にも、特別な変化は見せていなかった。革命という概念を知らず、実感も湧かないのだろう。白人や日本人の観光客だけが、車座の酒盛りを横目で眺めながら、ロビーとフロントの間を慌ただしく動きまわる。  不意にラジオ放送がよみがえり、ロビーのスピーカーから、癖のない英語で、男の落ち着いた声が流れはじめる。テープに収めたスーサン・タンジェロの声らしく、一語一語言葉を切り、感情を込めず、ただ事態の推移だけを簡潔に伝えてくる。内容はマリアが読みあげた宣誓書と同様なもので、この放送によって、離島から僻地《へきち》まで、ズッグ民族党は正式に革命を宣言したことになる。 「ウ、ウガウよう、あの反逆者ども……」  ビールを瓶ごと呷り、濁った白目に網目状の血管を浮きあがらせて、ジョージ・サントスが、かちりと歯ぎしりをした。麻の背広に臙脂色のネクタイを締めているが、ゴムサンダルはどこかに脱ぎ捨て、指先を小刻みに震わせながら、男たちに混じって床に胡座《あぐら》をかいている。 「鉄砲で撃ち殺すべえ。ラジオ局に乗り込んで、皆殺しにしてくれべえ。政権はサントス一族が握ってることを、こ、国民に思い知らせるべえよ」 「落ち着きやがれ。鉄砲なんぞこの国に、いくつあるんだい」 「十丁はあるだんべに」 「十人殺してどうなる。五人ずつ殺したとして、五十人殺してどうなるや」 「署長が言ってたんべ。ラジオ局を占拠してるんは、五十人だい」 「ハワイの大学に行ったくせに、おめえ、算数もできねえのか。カヌーには四、五百人がとこ乗ってらいね。わしらが鉄砲をぶっ放しゃ、やつらは一遍に上陸してくる。そうなりゃ銛《もり》で最初に突き殺されるんは、おめえだんべえよ」  ジョージ・サントスの顔色が、赤黒から青黒に変わり、目尻と口の端に、神経症的な痙攣《けいれん》が横切った。 「それじゃ、ウガウ、言いなりんなって、追放とかされるんかよ」 「そいつは勘弁だがよ。せっかくわしが造ってきた国を、簡単にゃ手放さねえ」 「こ、こ、この国は、おめえが、造ったわけじゃねえやい」 「いいからよう。大統領選挙は当分おあずけだがね。大統領なんぞいなくても、国民はだれも困らねえ」 「だ、だから、俺たちだけで大統領選挙をやるんにゃ、やつらをぶっ殺すより、方法はねえだんべえ」 「ジョージよ。政治ってのは交渉と駆け引きだがね。向こうだって犠牲は出したくねえんだ。今わしらが不利なんは準備が出来てねえことだんべ。準備さえ出来りゃ、はあタンジェロなんか目じゃねえよ」  全員の視線が、凝縮されてタントラーの顔に集中し、期待のこもった重苦しい呼吸音が、五秒ほど、無秩序に響きわたった。タントラーの膨大な肉塊と鷹揚《おうよう》な口吻《こうふん》だけが、かろうじて連帯の崩壊を救っているようだった。 「んだけどよう、ウガウ……」と、舌の先で唇をなめ、眼球を目蓋の上に引きつらせて、ジョージ・サントスが言った。「準備って、いったい、なんの準備だや」 「準備は準備だんべえよ。弓や銛ぐれえ、ズッグ人ならだれでも持ってらいね。わしらがやつらに負けてるんは、人間の数だけじゃねえのかい」 「だからよう、その人間の数が……」 「サントスの一族だけだって、百人はいるべえな。それ以外にもわしら、長《なげ》えこと国民の面倒を見てきたい。港の連中も、市場の連中も飛行場の連中も、みんなわしらが食わせてきた。今まで目えかけてやった連中から、なあジョージ、たまにゃあお返しをもらうべえよ」  ジョージ・サントスが、喉の奥で息をつまらせ、なにを納得したのか、落ちくぼんだ赤い目に、きらっと蛍光灯を光らせた。 「そうだったい。ウガウの言うとおりだい。あ、あっちが数なら、こっちも数で対抗すりゃいんだい。数さえ揃《そろ》えりゃ負けはしねえ。一族を動員して、人数を集めるんべえ」  ビール瓶を床に転がし、ジョージ・サントスが立ちあがって、車座に座っている男たちに、突然、高く拳を振りあげた。 「野郎ども。は、話は決まったぞ。女でも子供でも、根こそぎ集めるべえ。サントス一族に恩を受けたやつらを、ぜんぶホテルに集めてこい。金にいとめはつけねえぞ。国の金庫も開けちまえ。千人でも二千人でも、歩けるやつはみんな連れてこい。ホテルの前にサントスの仲間を並べて、反逆者どもに思い知らせてやれ。だれが偉《えれ》えんか、この国をだれが支配してるんか、非国民どもに目にもの見せてやれ」  ジョージ・サントスの語気に押されて、署長や運輸大臣が立ちあがり、ほかの大臣も役人も、憑《つ》かれたように、一斉に腰を浮かした。事態は理解できなくとも、この数比べに負ければ、自分たちの生活は破綻《はたん》する。そのことをだれもが、急遽《きゅうきょ》、本能で感じたようだった。  男たちがゴム草履を鳴らしてロビーを飛び出し、しばらく遅れて、ナカガワも迫ってきた夕闇に、頬を引きつらせて消えていった。ロビーに残ったのはタントラーと、スタッド氏と、それから遠い席で窓の外を睨んでいる、マルカネ・ザワオだけだった。ラジオからはスーサン・タンジエロの宣言テープが、低く、単調に、明瞭《めいりょう》な声で流されつづける。 「スタッドさん。わしゃあ、迂闊《うかつ》だったよ」と、長い沈黙のあと、ゆったりと腹の肉を揺すりながら、苦しそうな笑顔をつくって、タントラーが言った。「タンジェロに足元を掬《すく》われることまでは、考えていなかったい」  手段の正当性はどうであれ、スーサン・タンジェロも伝統的には、大統領の後継に名をあげて当然の立場だった。そのことを忘れていたのは、サントスの一族と、ナカガワやスタッド氏のような、外国人だけということか。 「タントラー大臣。宣誓書にある『サメ食わせの刑』というのは、果たして、どんなものですかな」 「罪人《つみびと》をサメのいる海に連れていって、放り出すんだとよ。それで一時間も食われなかったら、無実にするんだと」 「お気づきでしょうが、これは暴動とか反乱ではなく、革命ですよ」 「そりゃあ成功したらの話だんべえ。わしらが勝ちゃ、ただの暴動になるがね」 「勝利すると、お考えですか」 「どうだんべねえ。人数的には勝てるかも知んねえ。だけんどやっぱ、立ちあがりが、遅かったかねえ」  直前に一族を鼓舞した言葉とは裏腹に、タントラーは意外にも、状況を把握しているらしい。金や権力の存在場所とは別に、政変の帰趨《きすう》は時の勢いに左右される。大統領の死を契機に選んだ洞察力も、戦略も統率力も、今はタンジェロ側が上まわっている。スタッド氏に予想できないのは、サントス一族にどれほどの結束力があり、どれほどの人数を味方にできるのか、ということだ。十五年間政権を握りつづけてきたことの成果は、いったい、どれほどのものなのか。 「大臣。仮にですが、彼らの主張を受け入れるとなると、財産の運び出しを急がねばなりませんな」 「問題はそこだい。明日の朝までに人数が集まりゃ、そりゃわしらの勝ちだんべ。だけんどズッグは離島ばっかしだがね。電話もねえし、ラジオもきかねえ。ジョージの馬鹿にゃ分かるめえが、朝までに五、六百人がとこ揃えるんは、ちっと骨かも知んねえ」 「結果が出てから財産を運び出していたら、手遅れになる可能性が、ある」 「タンジェロを甘く見ていたんさ。やつの動きに気づかなかったんが、とにかく手遅れだいね。人数を集めるんにも、財産を処分するんにも、はあ時間がなさすぎるよ」  タントラーがガスタンクのような腹から、ごぼっとゲップを吐き、飲み残しのビール瓶を引き寄せて、底を天井に向けて逆立てた。政権の中枢にいるタントラーの予感なら、この悲観的な見解も、ある程度的を射たものかも知れない。 「スタッドさんよう。そこで、頼みがあるんだが……」と、口の端からビールを滴らせ、ぎょろりと目玉をまわして、タントラーが言った。「おめえさん、やつらと、交渉してくんねえかね」 「わたしが……」 「客観的な第三者ってやつだい。サントスの一族じゃ連中は耳を貸さねえ。だけんどおめえさんなら、どうにでも話を聞くべえよ」 「わたしに時間かせぎをしろ、と?」 「タンジェロが政権を取ったらスタッドさんも困りゃしねえかい。やつらは商人もCIAも、みんな追い出すつもりだぜ」 「たとえ、時間をかせいだとして、どういう結果になりますか」 「わしにはなあ、アメリカが現政権を見放すとは思えねえ。たとえ小国でもズッグは独立国だがね。太平洋のまん中に、アメリカの言うことを聞かねえ国ができるなんて、顔が立たねえべえ」  冷戦時代ならいざ知らず、ただの面子《めんつ》だけで、今のアメリカが、動くかどうか。そんなことはタントラーだって承知していて、だからこそ昨夜は、コカインで脅迫してきたのではないか。 「どんなものですか……麻薬の輸出を計画する政権よりは、いくらか、ましに思えるが」 「あれは取り消しだいね。コカインも種も、はあ海に捨ててやるよ。その代わりグアムかヤップあたりから、軍隊をよこしてくんねえかい。プロの兵隊が百人も来りゃ、こんな騒動、一晩で治まるだんべえ」 「要請したくても連絡の手段がありません」 「そいつは世話ねえやね。外海《そとうみ》に出りゃ貨物船の無線が届くべえ。そこからスタッドさんがCIAに連絡する。CIAが動いて、海兵隊が動いて、そこでどっと正義の味方が駆けつける。だからよう、そのためにも、一日や二日の時間は必要ってことだいね」  タントラーが不敵に、丸い目を笑わせ、首の肉を水袋のように揺すって、また大きくゲップを吐いた。ズッグ民族党が教条的な民族主義を標榜する以上、アメリカがサントス側に付くと見るのは、間違った判断ではない。しかし今夜のうちにズッグを脱出し、CIAに連絡がついたとして、アメリカ政府が軍隊の派遣を決定するまでに、少なくとも三日はかかる。その間に革命が成功し、スーサン・タンジェロが新政権の成立を世界に発表してしまえば、アメリカとしても迂闊には手を出せない。特にこの革命が、無血で、平和|裡《り》に成功するとなれば、なおさらのことだ。 「難しい局面ですな。いずれにしても、わたしには、荷が重すぎる」 「そこを頼まれてくんねえかい。頼りはスタッドさんだけだがね。ズッグが救われるんも、アメリカの顔が立つんも、すべてはスタッドさんの働きにかかってる」 「大臣。わたしがCIAであることは、いつからご存知でしたか」 「スタッドさんの責任じゃねえんだ。前の、ほれ、エド・ビーンズって人、あの人のときから分かってたことだい。だけんど今回のことは話が別だんべ。タンジェロたちの動きに気づかなかったんは、おめえさんにも責任があるじゃねえか」  言われなくても、事態の責任が自分にもあることは、スタッド氏にも分かっている。一週間か、少なくとも三日早く気づいていれば、対応の方法はいくらでも考えられた。最初からズッグ民族党に干渉し、現政権側と話合いの機会を持たせることだって、あるいは可能だったかも知れないのだ。 「時間……か。たしかに、どういう対応をするにも、明朝では時間がなさすぎる」 「連中もうまく仕組んだいなあ。わしも勉強させてもらった。だからよう、ここは一発、談判をまとめてくんねえかね。事がまるく治まりゃ、はあぜったい、おめえさんを悪いようにゃしねえがね」  どういう交渉をするのか、退去や追放の時間を遅らせて、どういう結果が出るのか。アメリカが動くのか、動かないのか。軍隊の出動が自分の裁量に関わるとすれば、どう判断し、どう行動するべきか。CIAの辞職は決めたといえ、ズッグで暮らした五年の時間に対して、自分は、どう責任をとるのか。  そのとき、窓際の席にいたマルカネ・ザワオが腰をあげ、ゴム粘土のような顔に奇妙な熱気をたたえて、素早く近寄ってきた。 「スタッドさん。交渉に出向くなら、わしもお供させてもらいてえ」  スタッド氏がザワオの存在を忘れていたこと自体、事件の展開に、集中力が散漫になっていた証拠だった。 「ザワオやい。おめえなんかの出る幕じゃねえべえ。政治のことは政治家に任せておきないね」 「貴様らに任せておいたから、この結果になったんじゃい」 「原因はおめえの儲けすぎだんべえ。資本家が儲けた金を国民に還元しねえから、大衆が怒ったんだい」 「外国からの援助金を私物化してたんは、貴様らだんべが。正当な経済活動を疎外しおって、わしの財産まで没収しようと考えた。そんな根性だから、海神の罰が当たったんだや」 「大きなお世話だがね。この暴動を鎮圧したら、タンジェロやマリアと一緒に、おめえもサメに食わしてやらあ」 「ザワオさん……」と、タントラーの巨体を押し返し、ザワオの動かない目を窺《うかが》いながら、スタッド氏が言った。「連中を交渉に応じさせる自信が、おありですかな」 「タンジェロもマリアも、わしの言うことなら聞くと思うがのう」  ザワオがなぜホテルに残っていたのか、なぜ交渉に同席を申し出たのか、理由は分からない。革命騒ぎを裏で操っているなら、さっさとタンジェロ側に寝返ればいい。事の顛末《てんまつ》に予想がつかず、どちらが勝利するか、趨勢《すうせい》を見守ろうという魂胆なのか。しかしそれなら、傍観者を装《よそお》っていればいいものを、なぜわざわざザワオは、表舞台に顔を出す気になったのか。 「やいザワオ。タンジェロたちが、なぜおめえの言うことを聞くんだいね」 「知れたことよ。わしは長年、国民の生活向上に尽くしてきたんじゃい」 「嘘《うそ》こきやがれ。おめえのどこが……」 「大臣。ここはザワオさんのお力も、借りようではありませんか。将来の経済運営に関しては、あとでゆっくり話し合えばいいでしょう」  舌を鳴らしたタントラーに、スタッド氏が目で合図をし、ザワオの肉厚な顔にも会釈をして、そっと玄関をふり返った。すでに日は沈みきり、道路も港も桟橋も貨物船も、驚くほどの闇に包まれている。ズッグ共和国にとって歴史的な瞬間だというのに、フロントでは受付け係が欠伸をし、フロアの隅ではボーイが居眠りを決め込んでいる。 「キーは持っておる。わしのクルーザーで行くんべえ。そのほうが連中も、要らぬ警戒を起こさんわい」  鼻を鳴らしながら、ザワオが怒り肩で歩き出し、唸《うな》り声を発したタントラーを残して、スタッド氏もゆっくりとフロアを歩き始めた。腰の拳銃からいやな冷たさが伝わり、痺《しび》れるような悪寒が、肩から右手の指先に抜けていく。忘れていた引き金の感触が、はじける薬莢《やっきょう》の音や飛び散る血の記憶が、たいした興奮もなく、スタッド氏の脳裏に、単調によみがえる。この交渉がどういう結果に終わるのか。交渉の結論を、どういう方向に導こうと思うのか。そして二十年も封印していた拳銃を、なんの経緯で、今、自分はベルトに装着しているのか。  外に出ると、粘度の高い夜気が深く港を覆っていて、松明《たいまつ》をともしたカヌーの舟団が、輪郭もなく、寡黙に静まり返っていた。ホテルの窓から、自宅の庭から、これまで飽きるほど眺めつづけたズッグ湾だった。それが今濃紺の海にちっぽけな松明の光を連ね、スタッド氏に納得のいかない孤独感を押しつける。松明は小さく光り、輪になり、攻撃の意思は示さず、ただ赤く静かに揺らぎつづける。マリアたちがなにを希求し、外の世界になにを要求しているのか、宣誓書の文句以上に、光の穏やかさが的確に物語っている。  桟橋からザワオのクルーザーに乗り移り、エンジンをかけ、たかだか二百メートルほどの距離を、慎重な速度で近づいていく。操舵竿《そうだかん》を握るザワオの横顔は、平板で肉厚で目蓋ばかり重く、もしそれが表情というなら、存在するすべての感情に悪意を抱いているような表情だった。  クルーザーが松明の輪に近づくと、小型のカヌーが一艇二艇、ざわめきもなく、遠慮がちに水路を開きはじめる。珊瑚《さんご》礁の海は黒く色を変え、水|海月《くらげ》の目が夜光虫のように、小さく明滅する。行く手には怪異なほどの双胴カヌーが見え、周囲を圧倒した松明が幻想的な影をつくっている。エンジンを止め、妨害も受けず、惰性の推力で、クルーザーは音もなくカヌーに身を寄せていく。  舟上に人影が動き、カヌーの双胴に渡した敷き板の上から、黒い腕がクルーザーに伸びてくる。ザワオがカヌーに這いあがり、つづけてスタッド氏の躰も、二本の黒い腕でカヌーに引きあげられる。舟体も敷き板も予想以上に広く、中央には物見のような櫓《やぐら》が組まれ、舷側《げんそく》のなん箇所かに椰子殻繊維を加工した太い松明が固定されている。炎や臭気に鉱物質の煙はなく、柄《え》も燃料も、すべて椰子と椰子油らしかった。  櫓の向こうから、腰蓑に草冠《そうかん》を被《かぶ》ったスーサン・タンジェロが現れ、ザワオとスタッド氏に会釈をしただけで、パンの木の敷き板に、胡座をかいて座り込んだ。ななめ後ろにはマリア・ラーソンがつづき、それ以外に二人、スタッド氏の知らない若い男が民族衣装を着て座に加わる。スタッド氏もザワオとは離れて腰をおろし、緊張を和らげるために、意識的に咳払いをした。  カヌーの船倉から、椰子殻の椀《わん》が差し出され、タンジェロが受け取って、それを無言でスタッド氏に渡してきた。スタッド氏は泥臭いチャカウを口に含んだだけで、椀をザワオにまわし、改めてタンジェロとマリアの顔を見くらべてみた。二人とも厳格な目に松明の炎を明るく映し、浅黒い肌に海風を受けて、端然と背筋を伸ばしている。装飾を拒否した顔には品位があり、美しさがあり、自分たちが海と一体化していることの、安らかな自信が漂っている。波でカヌーのロープが軋《きし》み、松明からはじけた炎が火の粉となって、舞いながら海に飛んでいく。 「タンジェロさん。マリアさん。こういう結果になるとは、意外でした」  二人が同時に、唇でほほえみ、タンジェロが裸の肩で、慇懃《いんぎん》にうなずいた。 「この行動の経緯は、理解されていると思うが……」と、静かに顔をあげ、抑揚をおさえた響く声で、タンジェロが言った。「私たちに妥協の余地はありません。宣誓は要求ではない。あなたにも不満はあるでしょうが、平和裡に事態を治めるため、率先して協力していただきたい」 「革命であることは、お認めになるわけですな」 「言葉の定義づけに興味はないのです。私が望んでいるのは国民の平和だ。精神的にも物質的にも、他民族からの侵略を受けない、真の意味の独立を達成したい」 「あなたの理想は分かります。しかし、手段が、性急すぎる」 「準備は以前から進めていましたよ。性急だと思うのはサントスの一派だけでしょう」 「わたしが言うのは、革命という行為についてです。国連が、あっさり、新政権を承認すると思いますか」 「ズッグが目指すのは完全独立です。したがって、当然、国連には参加いたしません」  タンジェロにないのは、妥協の余地だけでなく、取りつく島も国際世論も、きっぱりと拒否しているのだ。問題はタンジェロたちが、どこまで革命の意志を固めているのか、ズッグ人のだれが、どういう形で革命の恩恵を受けるのか、ということだ。 「宣誓書を読んだ限り、鎖国を指向しておられるようだが、現実に、可能でしょうかな」 「私は鎖国など考えておりませんよ。不必要なもの、害のあるものは排除するということです。欧米人が考える必要なものと、ズッグ人が考える必要なものと、結果的には、異なる場合も出てきます」 「明日中に外国人のすべてを追放するというのは、強権主義ではないのですか」 「どんな外国人が必要か、どんな物質文明が必要か、私たちにはこれまで、考える時間が与えられなかった。最初はスペイン人が、つづいてイギリス人と日本人が、私たちの意向には構わず、勝手に侵入してきた。勝手に資源を持ち出し、勝手に不必要なものを売りつけ、ズッグの伝統と民族の尊厳を踏みにじった。それを回復するには、時間がかかるのですよ。外国人にも外国文明にも、私欲を貪《むさぼ》ったサントスの一族にも、一度国外に出てもらう必要がある。私たちの手で氏族合議制社会を建て直し、その上でもし西洋文明が必要なら、私たちは改めて招聘《しょうへい》を考えます。しかしその場合も、ズッグ国の主体はあくまでもズッグ人です。あなた方アメリカ人や、日本人やイギリス人ではないのです。民族が独立するということは、結果と同時に、そのプロセスも大事だと思うのです。これは私一人の意見ではなく、マリアも、ほかの氏族長も、今回の決起に参加した、ズッグ人すべての考えなのです」  またチャカウの椀がまわってきて、スタッド氏はそれを飲み干し、次に提言するべき言葉を、必死で考えた。しかしスタッド氏の抱いた疑問には、もうタンジェロが、明解に答えているのだ。理念の問題で、どこかに追及の余地があるのだろうか。問題となるのは、たんに技術的な部分だけではないのか。国際世論にどう立ち向かい、日本の非難をどうかわし、アメリカの軍事介入を、どうやって回避するのか。 「一つ、お訊《き》きしたいのだが……」と、チャカウの椀を若い男に返し、たばこに火をつけて、スタッド氏が言った。「あなた自身が大統領選挙に出馬し、民主的な手段で政権を獲得する方法を、なぜ選ばなかったのです」 「選挙だけが民主的ではないということを、スタッドさんは忘れている。貨幣経済に毒されている人間の心を、短期間で改善することは不可能です。選挙となれば、サントス側は票を金で買い占めます。票や権利や心を金で売ることを、金で買うことを、私は民主的だとは思いません。スタッドさんの仰有《おっしゃ》る民主主義では、金持ちと権力者だけが、いつまでも利益を受けつづけます。その構造を改めることこそ、本物の民主主義ではありませんか」 「信念は変えない。サントス側との妥協もしない。それはいいでしょう。しかし退去の時間を明朝に区切られたのは、無茶ではありませんか」 「スタッドさん。ズッグには『善はいそげ』という諺《ことわざ》があります。漁船も貨物船も残しています。発電設備も稼働させています。明朝までの時間があれば、サントスの一族も、あなたたち外国人も、最低限の財産は持ち出せます」 「タンジェロ。マリア。おめえら、ずいぶんの勝手をすらいのう」と、暗処《くらみ》の中から、突然松明の光に顔を晒し、チャカウの椀を海に放って、ザワオが言った。「空港やホテルにゃ手を付けねえと、最初に約束したんべえ」 「申しわけないが、ザワオさん、戦略の変更をしたのですよ」と、臆《おく》しもせず、冷厳な声で、タンジェロが言った。 「本気で言ってるんかや。おめえら、気でも狂ったんか。資本主義体制は崩さねえ。サントスの一族を追い出すだけだ。そのあとでズッグを観光国にする。おめえら、ちゃんとそう言ったんべ。だからわしゃあ協力した。爆弾の手配もしてやったい。それをここにきて、わしを裏切るんか」 「方針の変更をしただけだと、タンジェロも言ったでしょう」と、胸の前で腕を組み、細い顎をザワオのほうに突き出して、平然と、マリアが言った。「変革期にはよくある現象です。最初の予定は変えて、ザワオさんにもサントス一族同様、明朝にはこのズッグから出ていってもらいます」 「マリア、おめえ、だれに向かって口をきいてる。てめえの親父を匿《かくま》ってやったのは、わしなんだぞ。『ダイアナ』を持たせてやったのもこのわしだ。そのわしに向かって、ズッグから出ていけなんぞと、どの面さげて言いやがる」 「金のために仲間を裏切る人間は、いつでも同じことをするものです。十五年前、あなたは金のためにズッグ民族党を裏切った。今回もまた、金のためにサントス一族を裏切った。父はあなたの正体を知っていました。クレーンの爆発が、タイマーの操作ミスだったなどと、だれが信じますか」 「ぬかしやがれ。ありゃ真実、アキカンが間違えたんだい。おめえらだって、そのことは納得したんべに」 「ザワオさん。わたくしたちは、もうそのことの詮索《せんさく》はいたしません。父も国のために死ねて、満足だったかも知れません。ですがあなたの追放は、すでに決定したことです。家財も『トロピカル』も商品も、すべて没収し、今後どんな事情があろうとも、あなたのズッグ入国は拒否します。これはズッグ民族党としての、正式決定なのです」 「マ、マリア、貴様ら、謀《はか》りやがったな」 「たんなる計画変更です。相手の人格に合わせて、計画や予定は変わるものです。計画や予定を変えるのは、本来あなたが、一番得意としていたことではありませんか」  ザワオの口から、荒い息と涎《よだれ》がこぼれ出し、肉厚の平板な顔面に、黒い怒気が噴きあがった。松明の火がザワオの怒りを赤く照らし、脂っぽい汗が、額から直接、音をたてて敷き板に滴り落ちる。これだけの怒りの中で、それでも顔の筋肉は動かず、厚い目蓋の向こうで、細い目が異様な光を放つだけだった。 「会談は、これで、終了ということです」と、胡座を組み直し、草冠の下から素直にスタッド氏の顔を見つめて、タンジェロが言った。「だれが交渉に来ても、結果は同じことです。夜明けを待って私たちは上陸し、勧告に従わなかったものに対しては実力を行使します。ジョージ・サントスとウガウ・タントラーに、その旨を正確にお伝えください」  しばらく、スタッド氏はタンジェロと無言の視線を交わし、それから返事の代わりに、片膝を立て、腰のベルトから、静かに拳銃を抜き出した。交渉の余地はなく、革命の意図も経緯も、明瞭に解説されている。この民族主義革命が成功するのか、失敗するのか。成功でも失敗でもない中間地点に、穏やかな着地は可能なのか。たとえ一時的に成功したとして、共産主義者が犯したあやまちを、タンジェロやマリアがくり返さない保証が、どこにあるのか。インテリの理想と実生活者との乖離《かいり》を、タンジェロやマリアは、どこまで認識しているのだろう。  気がつくと、スタッド氏の躰は四、五本の銛に取り囲まれ、離れたカヌーからも人間の腕が伸びて、暗い炎に矢じりの先を、鋭く光らせていた。海に音はなく、人の口に声はなく、銛先や矢じりや透明な目が、星空に溶け込んで、黙然とスタッド氏の銃口を凝視する。 「おやめ下さい。あなたにそんな意思は、ないはずだ」と、手の合図で周囲を制したまま、音調も変えずに、タンジェロが言った。「あなたと私が相討ちをして、だれが喜ぶのですか。これ以上サントス政権を持続させることに、どういう意味があるのです」 「革命が簡単に成功しては、世界の秩序が、崩壊する」 「それは世界の秩序ではなくて、あなた方、アメリカ人の秩序です」 「アメリカの秩序を守ることが、わたしの、任務でもある」 「スタッドさん。あなたは情報部員としては、失格であったかも知れない。それでも愛すべき隣人であり、尊敬にあたいする紳士だった。私はあなたに死んでもらいたくはない。この革命で米国人に犠牲者が出れば、アメリカは軍事介入をする。その結果サントス政権が存続し、しばらくはまた搾取の構造がつづく。しかし私は、この十五年間、子供たちに民族の誇りを教えつづけてきた。ズッグ人は、もう後戻りをしないのです。私が死んでも民族の伝統は生きのび、真の独立と平和を勝ちとるまで、無言の革命をつづけるのです。あなたの行為は、すでに見えている結果を、なん年か遅らせるに過ぎません。死ぬと分かっているサントスという豚を、意味もなく太らせるだけのことです。あなたがもしズッグを愛しているなら、無力な国民と穏やかな風土を愛しているなら、どうか、黙って、外側から見守っていただきたい。私たちが民族の中に縮小していく方向も、また善であるという事実を、アメリカ人であるあなたに、是非とも理解していただきたい」  スタッド氏の腕に、予定していた諦《あきら》めと自嘲《じちょう》が這いあがり、構えていた銃口が、下に向かって、萎《な》えるように頭をさげ始めた。  忘れていたザワオの体臭が飛び散ったのは、まさに、その瞬間だった。ひるがえったザワオはスタッド氏の手から拳銃を奪い去り、敷き板の上を一回転して、起きあがりざま、銃身の方向をぴたりと、タンジェロの胸に固定した。この一秒か二秒の瞬間に、どれだけの怨念が凝縮し、歴史と記憶と感情が、どういう形で交錯していったのか。  スタッド氏が身を起こす間もなく、闇の中から圧縮された矢音が飛び出し、一本の矢がザワオの右腕を掠《かす》めて、暗い海の中をロケット花火のように飛んでいった。弾《はじ》かれた拳銃は宙を舞い、クルーザーの甲板まで飛んで、そこで不愉快な、金属的な音を響かせた。ザワオは右肘を押さえ込み、敷き板の上にうずくまって、ぶ厚い目蓋の向こう側から、呻《うめ》き声も出さず、ひたすらタンジェロとマリアの顔を睨みつける。矢はそれ以上射られることはなく、舟上の男たちは動揺も殺気も見せず、天上からの指示を待つように、暗い炎にひっそりと平板な顔を晒していた。  ベトナムのジャングルで、不意に敵兵と顔を合わせたときの恐怖と親和感が、スタッド氏の記憶に、なま温かくよみがえる。あのときはお互いに銃を構えず、遠くから目礼を交わしたまま、それぞれがそれぞれの方向に、脱兎の撤退を開始したのだ。スタッド氏が笑い出したのはジャングルを三十分も走り抜け、マリファナ煙草の煙が充満する野営地にたどり着いた、そのあとだった。あの敵兵はなぜ銃を構えず、目礼だけで、なぜジャングルに消えていったのか。スタッド氏はなぜ跡を追わず、任務も義務も忘れ、恍惚《こうこつ》としてジャングルを走りつづけたのか。そしてこの直前、スタッド氏が銃の引き金を引かないことを、なぜタンジェロは知っていたのか。銛も弓矢も自分の躰を突き抜けないことを、スタッド氏は、なぜ確信していたのか。スタッド氏はこみ上げる笑いを我慢できず、二、三度首を横にふり、膝を立てながら、マリアとタンジェロに、小さく敬礼をした。目礼を返すマリアとタンジェロの顔には、厳粛な微笑《ほほえ》みが浮かび、人間が放つそのちっぽけな尊厳が、老いたスタッド氏の感性に、はにかみに似た勇気を惹《ひ》き起す。スタッド氏はもう一度マリアとタンジェロに敬礼し、ザヮオの躰を抱き起こしてから、伸びてきた黒い腕に支えられて、深呼吸と一緒に、カヌーからクルーザーに乗り移った。  腕の感触か、汗の匂いか。なにか予感のようなものがスタッド氏をふり向かせ、たたずんでいるマリアとタンジェロの顔から、腕を貸した男のほうへ、視線が、無意識に引き戻された。裸足の脚に腰蓑をつけ、草冠にパンダヌスの腕輪を巻いてはいるが、歯をむき出して笑っているのは、この三年間運転手に雇っていた、マイケル・デチロだった。 「やあスタッドさん。スコールが来たせいか、ちっと涼しいやねえ」 「マイケル……」 「スタッドさんにゃ悪いけんど、こういうことになっちまったよ」  息がつまり、血管の血が唖然として、スタッド氏の汗腺も、一瞬、機能を停止させたようだった。 「マイケル。おまえも、仲間だったのか」 「そりゃ違うよ。おいら、今日までは仲間じゃなかった。マリアさんやタンジェロさんが何をするか、そいつも知らなかった。だけんど話を聞いて、こりゃあ、いいことだと思ったんさ」 「いいこと……か」 「おいらたちズッグ人は、白人や日本人に、支配されるために生きてるんじゃねえ。白人や日本人に、観光されるために生きてるんじゃねえ。スタッドさんにゃ世話んなったけんど、おいらもやっぱ、ズッグ人なんだい」  言葉を出そうとしたが、言葉は浮かばず、十秒か二十秒、静止した風景の中で、スタッド氏は感情もなく、黙ってデチロの顔を眺めていた。デチロの顔にも興奮や気負いはなく、海風も松明の炎も、すべての意思を放棄して、静謐《せいひつ》な闇の中に、茫洋と二人の影を迎え入れていた。  スタッド氏がデチロの手を握り直し、クルーザーのエンジンをかけたときも、まだ意識は曖昧だった。感情は皮膚と空気の境目を、抵抗なく漂いつづける。怒りもなく、不安もなく、親和感と安堵感が、心の深い部分に、快い和音を響かせる。クルーザーは自動操縦のように滑りだし、小型カヌーの間を割って、無表情なザワオの顔を風に晒したまま、淡々と岸に向かっていく。ホテルの窓明かりが水に映り、丘陵の途中からは人家の灯がとどき、頂点の空には、網《あみ》で掬えるほどの星が輝き出す。背後にはカヌーの松明が漁火のように燃え、防波堤には物静かな見物人の群れが、海に向かってのんびりと黒い足を投げ出している。見物人は男も女も、黒い肌をむき出し、夜の海とカヌーの松明を声もなく見つめている。  桟橋にクルーザーをつけ、土人形のように座ったままのザワオを残して、一人、スタッド氏はホテルに向かって歩きだした。防波堤とホテルの間には奇妙な喧噪《けんそう》が流れ動き、足をとめて、つかの間、スタッド氏はその情景を注視する。小ぎれいなワンピースやスーツ姿の女たちが、トランクや自転車を押して、足早に貨物船へ向かっていく。どこから持ち出したのか、行列には日本時代のリヤカーまで加わり、低くざわめきながら、黙々と貨物船になだれ込む。中には政府の役人の顔も、派手なアロハシャツを着た運輸大臣の顔も、子猿のような中央銀行総裁の顔も混じっている。  喧《やかま》しいクラクションが響き、漁港の方向から、大型のワゴン車が無遠慮に人波を蹴《け》散らしてきた。クルマはスタッド氏の鼻先で速度を落とし、助手席側のドアから、憔悴《しょうすい》した顔のナカガワを吐き出してくる。ナカガワは腋《わき》の下に肩|紐《ひも》のついた革カバンを抱きかかえ、ポケットのふくらんだ紺色の背広を着込んでいた。 「役人まで退避を始めている。もうどうにも、動きは治まらない」と、首を横にふり、眼鏡を曇った色に光らせて、ナカガワが言った。「間抜けな政治家どもは、この事態を、だれも予測していなかった」 「わたしにもナカガワさんにも、予測は、できなかった」 「私たちの仕事は経済活動なんだ。政治のトラブルには関係ない。責任はすべて、タントラーとサントスにある。あいつらが政権争いなどに奔走するから、狂信者どもに足元を掬われる。工事関係者からも同調する者が出た。タンジェロたちの、これは、周到な計画なんです」  荷車とトランクの列が通りすぎ、湿った土|埃《ぼこり》が舞いあがって、空の低い場所を、コウモリの群れが市場の方角に飛び去っていく。 「私は、とりあえず、グアムに引きあげますが……」と、肩で口元を隠し、周囲をはばかるように、ナカガワが言った。「見通しはいかがです。アメリカはいつ、軍隊を送ってくるんです」 「今回は出動の名目が、見当たらない」 「だって、今までは、どこにでも軍隊を出したでしょう。必要のないところにも顔と口を出すのが、アメリカ人の主義ではないですか」 「時代の変化でしょうな。非友好的政権ではあっても、実害がなければ大目に見る。今のアメリカには日本のように、金をドプに捨てる余裕はないのですよ」  ナカガワが口を開けたまま、蒼白な顔を横にふり、生唾を飲み込んで、頬の筋肉を、ぴくりと痙攣させた。 「軍隊は、来ない?」 「来ませんな」 「政権は、タンジェロ側に?」 「人々の動きを見る限り、大勢は決まったようだ」 「そんな馬鹿な。そんな……」  カバンを抱え直し、放心した顔でクルマに戻りながら、くり返し、ナカガワが一人ごとを言った。 「そんな、馬鹿な。日本のODAが、すべて、無駄になる。私の努力が、すべて無駄になる。この国にODAを要請した私は、日本政府から、本社から、責任を取らされる」  かたくなにカバンを抱えたまま、ナカガワが助手席に姿を消し、苛立った排気ガスを撒《ま》きちらしながら、人波を割ってクルマを貨物港に進め始めた。見物人はクルマにもスタッド氏にも関心を示さず、防波堤に行儀よく腰をおろし、貨物船に急ぐ行列と遠くに揺れる松明の明かりとを、無心な顔で眺めている。  スタッド氏はタバコに火をつけ、星空に長く煙を吹いてから、喧噪《けんそう》を掻き分けて、海岸通りをホテルの側に渡って行った。玄関の前にはウガウ・タントラーが待ち構え、他にサントス一族の姿はなく、ただ黒い式服を着たラウエル神父だけが祈るような仕種《しぐさ》で立ちつくしていた。  タントラーが口を半開きにして、スタッド氏に問いかけの視線を送り、スタッド氏も身振りと視線だけで、その答えを送り返した。にやりと笑ったタントラーの表情に、どういう意味があるのか、スタッド氏は、詮索する気にもならなかった。  T字路の方向に、白い影が動き、民族衣装の黒い肌に紛れて、背広姿のジョージ・サントスが、ふらりと現れた。肩には三|挺《ちょう》のライフルを担ぎ、重さに打ちひしがれているのか、ほとんど這うような足取りだった。横にも後ろにも、大臣や役人の姿はなく、小間使いの少年が一人だけ、無邪気につき従っていた。  玄関前まで歩いてきて、ジョージ・サントスが座り込み、タントラーとスタッド氏の顔を見あげながら、うつろな目で、なにやら、熱心に口を動かし始めた。聞こえるのは間欠的な呼吸音だけで、紛れ込む吃音《きつおん》も擬音も、泣き声も笑い声も、一切言葉にはならなかった。  ラウエル神父が式服の裾をひるがえし、両手を差し出しながら、よろけるように詰め寄ってきた。 「スタッドさん。こ、これは、いったい……」  掴《つか》みかかったラウエル神父の腕を、スタッド氏が肘でふり払い、その赤ら顔に向かって、二度、首を横にふった。 「おう、神が怒っておられる。おう、わしには神の声が聞こえる」  ラウエル神父が突如、肥満体を舗道に跪《ひざまず》かせ、十字架を高くかかげて、明瞭な声で、朗々と祈祷《きとう》をとなえ始めた。意識的にか、無意識的にか、十字架の方向はカヌーの結集する海ではなく、大英帝国本土がある、北西の空だった。祈祷は同じフレイズのくり返しで、無神論者であるスタッド氏の耳にも、あまり上品な文句とは聞こえなかった。 「くそ土人どもめ。地獄に落ちやがれ。くそ土人どもめ、地獄に落ちやがれ。くそ……」  桟橋の遠くにはマルカネ・ザワオの姿が浮かんでいて、背中にホテルからの明かりを受け、肩の張った肉厚な躰を、海に向かって石像のように硬直させていた。 「スタッドさん。やっぱ、いけねえかいねえ」と、躰を寄せてきて、にやりと笑い、行列の方向に陰気な白目を向けて、タントラーが言った。 「やはり、いけないようですな」 「わしゃあね、思ったけんど、人生を間違えたらしいやい」 「自分の人生は、だれでも間違えたと思うものですよ」 「だけんどなあ、政治家なんぞになるんじゃなかった。日本へ行って、スモウレスラーになりゃよかった」 「残念なことでしたな。すべて、残念だった。明日には航空貨物で、ソニーの電気|釜《がま》が、届くはずだったのに……」  一発、桟橋に短い拳銃音が響きわたり、硬直したままのザワオの躰が、廃屋《はいおく》が倒れるように、重い放物線を残して、桟橋から、ゆっくりと海に落ちていった。神父の祈祷で地獄へ落ちたのか、賄賂《わいろ》をつかって天国までのぼっていったのか、そんなこと、だれ一人、気にはしなかった。  行列は止まらず、顔もあげず、リヤカーや荷車や竹かごを引きずって、ひたすら、通りを貨物船に向かっていく。見物人のほうは防波堤に腰をおろし、言葉も交わさず、みな腰蓑の民族衣装で、呑気に海を見つめている。T字路からも、海岸通りの西からも東からも、まばらな群衆が、裸足の脚で、腰蓑をひるがえし、寡黙に、黙々と、遠慮がちに、確実な足取りで港に集まってくる。  ふり返ると、舟団はもう大きな輪郭となり、松明の炎は個別の光ではなく、海全体を照らすほどの、一つの明瞭な意思と希望に変わっていた。スタッド氏は海に向かって背伸びをし、潮の匂いとコプラ油の匂いを、静かな気分で、胸いっぱいに吸い込んだ。  ズッグで暮らした五年の時間の中で、自分がなにを得、なにを失ったのか。丘の上の家や『B・P・C』のオフィスが、『ケビン号』と名づけた白いクルーザーが、湿度の高い光やスコールの雨音が、ずいぶん古い記憶のように、輪郭のない風景画のように、目蓋の裏側を揺れながら流れ去る。なにを得てなにを失ったか、しかし考える時間は、いくらでもある。  エリス・ランバートの顔を思い出し、エド・ビーンズの皺顔を思い出し、マリアやタンジェロの厳粛な微笑みを思い出し、カヌーを離れるときのデチロの精悍な顔を思い出し、そしてあのとき、デチロのとなりから民族衣装で手を振った少女の顔と名前も、ついでに、スタッド氏は思い出したのだった。 [#改ページ] 底本 単行本 角川書店刊 一九九四年一〇月三〇日 第一刷