[#表紙(表紙.jpg)] 夏の滴 桐生祐狩 [#改ページ]     1  魚尻《うおじり》駅は、地図で見た通りたんぼのど真ん中にあり、青い稲穂をゆらしている風がホームを吹きすぎていった。僕と河合《かわい》は、がらんとした駅の階段を、なれた手順で徳田《とくだ》の車椅子を押し上げた。が、だれも注目していないと思ってたのに、待ちかまえるようにしてそこにいた若い駅員さんに見つかった。 「あ、車椅子の人がいるね。乗せるの大変でしょう。手つだいを呼んであげよう」 「あ、いいです、いいです」  僕たちは、その親切そうな駅員さんに向かってあわてて手を振った。 「僕たちふたりで運べます。いつもやってますから」 「いやあー、そのための駅員さんだしね、それにすごく重いよ」  そんなことは知ってるってんだ、バカ。  だが、その駅員さんは、さっさと構内放送で別な初老の駅員さんを呼んでしまった。ふたりの駅員さんは、きょろきょろとあたりを見回した。 「あれ、親御さんは?」 「もうすぐ来ます」  と河合が、いくつか用意しておいた嘘のひとつを選んで言った。 「東京に帰るの?」 「はい」  と答えたのは、予定していなかった質問に対するものだからとっさに出た言葉だったのだろう。だがこの答えが僕たちを窮地に陥れた。若いほうの駅員さんが首をひねった。 「でもお嬢ちゃんさあ、N県のほうのアクセントだよね」  僕の心臓はでんぐりがえった。もうひとりの、年配の駅員さんがのんびりと言った。 「わかるんけ、そんなこと?」 「うん。オジイチャンって言ったとき、チャにアクセントがあった」 「それは、お爺ちゃん家《ち》に、ずっといたから……」  河合がそう言うと、駅員さんは疑ぐり深そうな表情になった。 「お爺ちゃん家《ち》は魚尻にあるんだろ? でも君のアクセントはN県ぽいよ。名字なんていうの? お爺ちゃん家《ち》の住所は?」 「住所?」  河合は小首をかしげた。無邪気さを装っているが、内心あせっているのが僕にはわかった。若い駅員さんは言った。 「住所はわからなくても、電話番号くらい知ってるでしょ? ちょっと確認させてよ、なんか事故でもあったら困るでしょう。その子は、体が不自由なんだし」 「僕なら大丈夫です」  憤然として徳田が言った。駅員さんは、まるで徳田がはっきりとした口調でものを言ったのがさも意外そうな目で彼を見た。 「自分の面倒くらい自分で見られます」  その言いかたにむっとしたのか、駅員さんは口をへの字に曲げて、手袋をした手をぱんっと打ちならした。 「手助けしてもしなくても、文句言われんだからさあ、こっちは」  まるで体の不自由なやつの存在が迷惑であるかのようだ。そのとき、ホームにアナウンスが流れた。間もなく上りの特急がホームに入ってくる。 「保護者の人が来なかったら、乗せるわけにいかないからね」 「ああいいですよ」  そう僕は答えたが、内心、この窮地をどう乗り切ろうと必死で考えをめぐらせていた。涼しい顔はしていても、河合も徳田もそれは同様だっただろう。くそ! ちょっとばかし長く生きてるってだけの理由で、僕らはこいつに東京行きを邪魔されなくちゃいけないのか?  たんぼの連なりの上に長くのびた線路のかなたに、いま飼っているアサマヒョウモンガの鼻づらのようなものがぽつんとあらわれ、たちまちそれはどアップとなってホームにすべり込んできた。長い時間をかけて、ゆっくりと停車する。ホームと電車の間の仕切りが開き、続いてドアが開く。 「さーて」  若い駅員が、楽しんでいるように手袋の手を打ちならした。徳田が僕の背中を押した。そして僕と河合の顔を交互に見た。  自分を置いて早く乗れというサインだ。  そんなことができるだろうか? いま飛び乗ったとしても、この駅から運転士に連絡が行き、車内で捕まえられてつぎの駅で降ろされる危険は十分にある。だけどその時点でなんとかして逃げて、つぎの新幹線に乗りこめば…… 「あら、もう少し前で待ってるかと思ったのに」  とても親しい感じのする、優しい声が僕の頭の上でした。と同時に、発車を告げるセンスの悪い金属音の音楽が鳴りだした。 「早く乗りましょ。お父さんたち、おみやげいっぱい買ってくれてるわよ」  僕も河合も徳田も、タラップに片足をかけて発車を阻止しながら、こちらに向かって手をさしのべている巻毛の女の人を見た。  江上さんだった。  それは四年生の夏、僕と徳田|芳照《よしてる》、そして河合みゆらとで上京したときのことだった。その数日後に「母と子のサバイバル体験キャンプ」の予定があり、知力体力ともに消耗するだろうから、その計画を実行に移すには八月の前半、世間ではお盆と言っている時期にするのが都合がよかった。大げさに言ってはいるけど、僕たちの計画というのは、転校していった友達に会いにいくという単純なものだった。  僕は、藤山真介《ふじやましんすけ》。僕と徳田と河合、そして転校していった友達は、本が好きという共通項で寄りあつまった仲だったのだ。それに今では、あれから五年も経っている。  その友人|桃山《ももやま》ヨハネは——  冗談を言っているのではない。これが、転校していった友達の名前だ。親はなにを考えていたんだって? こっちが知りたいくらいだ。  ヨハネはカタカナの名前がまるで似合わない小太りな男でアトピー持ち、ソバと卵が駄目というアレルギー体質で運動音痴、そして「渡る世間に鬼はない」と言えば「人を見たら泥棒と思え」と返すことわざオタクだった。なにはなくとも国語のテストだけは百点の僕、徳田芳照、河合、そして桃山ヨハネは、授業中に京極夏彦を回し読みしてる不気味なガキ共だった。しかし英語教室に通ってる河合みゆらが、 「ヨハネってのは英語で言うとジョンなんだって」  と言ってから、ヨハネは「ジョン、こっちこい」「ジョン、ピーピー(口笛)」と、「犬」の地位に下落してしまった。まあ彼もけっこう、そういう扱いを喜んでいたのだが。  そのジョン——そっちの呼びかたになじんでるからそう言うが、そのジョンが何の別れも告げずに転校してしまったのは七月のことだった。週あけの月曜日に登校せず、火曜日になっても登校せず、水曜日になっても木曜日になってもつぎの週になっても、要するにずっと登校しなかった。電話をかけてみても誰も出ないし、メールを送っても返事がない。担任の根本《ねもと》先生からはなんの説明もなかったが、僕たちは、前まえから噂されていたことがついに自分たちのクラスでも起こり始めたかという気分だった。この一年、僕たちは街なかのデパートがばたばたと閉店したり、近所の大きな家が急に空き家になったりということを経験してきていたのだ。  僕の住んでいるのはN県の県庁所在地に近い街だ。その一年前、『伝統工芸博覧会』というのの開催地になったところと言えばわかるだろうか。観光と農林業、それに日本有数の漆器《しつき》の産地であることで有名だ。有名だと思ってるのは県内の人間だけなんじゃないかと僕なんかは思うのだが。  しかしその、農林業と漆器という特色を生かそうとしておこなった『伝統工芸博覧会』が悲惨な結果を迎えたことは周知の事実だと思う。遅々として進まない工事、まともな接客のできる従業員ひとりいないホテル、あらためて検討してみたら意外に貧弱な内容しかなかった肝心の伝統工芸、建設事業に関するあれやこれやのスキャンダルと海外の環境保護団体からの突き上げ。市役所の課長がふたりと委員会の理事が三人自殺し、世界各国に伝統工芸の職人を求めても、主催者には足代《あしだい》と宿を用意するという常識すらなかった。やっとこさ開催を見た日のメイン会場は開会式の最中に天井のボルトが抜けて梁の一本がけたたましい音とともに落下し、さいわい死傷者はなかったがセレモニーを台なしにした。  天気は最悪で、バスを増発しても仕切りが悪くて渋滞し、過労でふらふらになった運転手の運転するバスが小学生を轢《ひ》き殺した。もちろん客なんて来るわけがない。  残ったのは莫大《ばくだい》な(とにかく、何度聞いてもおぼえられないくらい莫大な額なのだ)借金と、はなくその役にも立たない、「竹のしなやかさを最高に生かした」と称するぶさいくなパビリオン、マンションに流用するつもりで工事が間に合わなかった、かなり変わった美的感覚の持ち主が設計したらしいホテル。  僕の町には今関グループといって、建築用資材と漆器工場におろす材木の流通を一手に引き受ける、言うなれば城下町における城、とまではいかなくても代官所くらいの位置にはある会社がある。全盛期にはホテル経営やアミューズメントパーク、食品産業に金融業にまで手をのばしていた。もちろん、『伝統工芸博覧会』の強力なスポンサーでもあった。ジョンの父親は、そのうちの会社のどれだかに勤めていたのだが、なにかの損失を補填《ほてん》するのに社外の金融業者に手をのばしただとか、ただの株の失敗だとか、どうも小学生だったので息子のジョンすら詳しいことは知らなかったのだけど、とにかく借金まみれになってしまったのだそうだ。あの当時、僕の街ではそこかしこで聞かれた話だ。とにかく僕たちが直面した事実は、ある日突然ジョンが学校に来なくなり、家へ行ってもなんの気配もしなくなったということだ。  正直言って、そのときは来るべきものが来たという感じだった。ジョンだけじゃない、僕も河合も徳田も、クラスのほかのみんなも、いつそんな運命に見舞われるか、わかったものじゃなかったからだ。  あと一週間余りで夏休みだという月曜日。学校に行ってみると、教室のすみに人だかりができていた。徳田芳照愛用の電動式車椅子もその人だかりの一部だ。僕はランドセルを机の横のフックにかけると、そっちのほうへ近づいていった。  人だかりがしているのが、八重垣潤《やえがきじゆん》の机の周りなので、僕は少しいやな予感がした。のぞきこむと、八重垣はいつものように黒ずくめの格好で、机の上になにかの本を広げていつもの不気味な表情を浮かべている。  八重垣は、とにかくクラスのだれもが嫌いぬいている。いつも薄ら笑いを浮かべていて、授業中は決して発言しない。先生にさされても「わかりません」の一点張りを繰り返すだけだ。そのくせテストはよくできる。掃除や給食当番はさぼるし、無理にやらせると窓ガラスを割ったりシチューのバケツをひっくりかえしたりするのでだれもやらせなくなり、そのせいで彼女だけどの班にも属していない。壁新聞もヒヤシンスの水やりも、彼女だけは免除になっている。いちど学級会でつるし上げたら、立ち上がってにやっと笑ったままばったり気絶し、翌日医者から課外のことは何もしなくていいという書きつけをもらってきやがった。そしていちばん許せないのは、みんながいやでしょうがない音楽の時間になると生き生きするということだ。高音がよく通るソプラノの声の持ち主で、独唱の時間は八重垣の独壇場だ。そりゃたしかにいい声だけど、小学生が「流浪の民」の最高音を出せたからって、どうだっていうんだろう。あれをやられると、その後一日じゅう頭ががんがんする。当然、いじめられっ子である。  なのにときどき、八重垣はクラス中のだれもが魅せられ、巻き込まれずにはいられないブームを作り出すことがあるのだ。たしか去年は、アレイスター・クロウリーとかいうおっさんの本を学校に持ってきて、掃除のために机をどかせた床の上に、彼女が魔法陣をチョークで描くことをだれも止められなかった。それどころか、彼女の命ずるままに魔法陣の周りに並び、ニワトリ小屋からおんどりを略奪してくるやつ、理科室から蝋燭《ろうそく》を持ち出してくるやつまであらわれた。このときは、彫刻刀でニワトリの首をちょん切ることができなかったので失敗した。なにに失敗したかは知らないし、知りたくもない。でもあのとき、僕もまた息をのんで事のなりゆきを見守っていたのだ。  あのときのことを思い出し、やだなあと思いつつ僕はうしろからみんなの会話を盗み聞いた。同じ班の松島公彦《まつしまきみひこ》の小学生にしては野太い声がなにか言っている。彼はナガグツとハチマキの異常に似合う、子供料金で映画を見ようとすると止められるおっさんくさい顔の持ち主だ。 「俺、90年の7月25日。それってさ、なに、なに?」  みんながもごもごと何か言っている。電卓や携帯電話を取り出す子もいる。八重垣が、あのおぞけをふるうような高音の耳ざわりな声でゆっくりと言う。 「答えは122」  続いてページをめくる音。  なんだ、動物占いをやってたのか。がっかりした僕は、思わず声をあげた。 「松島よー、おめー前に自分はタヌキだって言ってねかった?」  クラスの連中が僕のほうを向き、それからいっせいにへっへっへっと笑った。僕は全身が青ざめるほど狼狽《ろうばい》した。 「ななななな、なんだよ」 「真介、古いよそれは、もう……」  とぬかしたのは、車椅子に乗った徳田芳照だ。 「ふ、古い……」  昨日まで動物占いに夢中で、自分はこじかだから繊細なのだおまえらみたいな鈍いのとは違う、とぜんぜん繊細でない発言を繰り返していたのはどこのどいつだ。 「122は、いぬたで[#「いぬたで」に傍点]」  八重垣の声が言った。  いぬたで[#「いぬたで」に傍点]って、なんだ?  八重垣は続けた。 「いぬたでの人の性格。あなたは道ばたにひっそりと生えている、赤いかわいらしい実をつける控えめな草です。だれのことも友達として受け入れ、また去っていかれても恨みません」 「うーん、そのとおりだなあ」  と、松島はにこにこしながら言う。だれのことも友達として受け入れ、去っていかれても恨みません? こいつは給食の牛乳に入れるミルマークの取り合い程度のことですぐ人に絶交を言いわたすくせに。さらに八重垣は言う。 「反面、距離をおいて人と付き合うので冷淡な印象を与えることも」 「そーかやっぱり、俺ってクールだから」  松島が腕組みをして言う。僕は思わず、 「フールのまちがいじゃねえの」  と言った。すると、人だかりの中にいた数人の女子がものすごい目で僕を睨《にら》んだ。僕は首をすくめた。  上山芽衣《うえやまめい》という、いまからがみがみ婆《ばば》あになったところが想像できる痩《や》せっぽちの女子がわめいた。 「これ、すっごく当たるんだから。あたし、ぞーっとなっちゃったんだから!」  女子の連中が、うんうんとうなずきながら互いの顔を見回している。僕は、女子を敵に回したが最後人生は終わったも同然なので、素直に、 「ごめん」  と謝った。八重垣は僕など眼中にない様子で(これがまたむかつくのだ)「いぬたで」の項の最後のほうを読む。 「表面に出てぱっと咲くというタイプではなく、どちらかといえばサポート的なポジションで実力を発揮するほうでしょう。向いている職業は税金などのアドバイザー、映画・演劇のプロデューサー、音楽のアレンジャーなど」  どれも、なりたいと思うだけでなれるものとも思えないが。 「友人にするならきんぽうげ[#「きんぽうげ」に傍点]かはりえにしだ[#「はりえにしだ」に傍点]」  なんだそれは。 「恋人にするなら、つるばら[#「つるばら」に傍点]かほていあおい[#「ほていあおい」に傍点]」  恋人、という言葉を聞いただけで集まっているみんながぴいぴい、とかひゃあひゃあ、とかいう音を出した。そんなことで興奮して、まったく子供というのはバカだ。でも、最後の二つの名前は僕にもわかった。つるばらというのは、園芸部が時計台のフェンスで作っているあれのことだろうし、ほていあおいは理科で習ったし中庭のカメ池にいっぱい浮かんでいる。そこで遅ればせながら僕は、八重垣の読みあげた妙な名称に共通することをやっと理解し、車椅子に乗った徳田芳照の、僕の胸のあたりにある耳にささやいた。 「あのさ、これって、もしかして、『植物占い』とか言うつもり?」 「やっと気がついた?」  徳田は、ふんと鼻で笑いながら答える。僕は大げさにずっこけてみせた。 「『動物占い』ときて『植物占い』? ちょっと簡単すぎるんじゃねーの」 「おはよー」  聞きなれた声に振り返ると、河合みゆらだ。これで「国語トリオ」が一堂にそろった。以前はジョンを含めた「カルテット」で、他の三人が痩せがたなところでジョンの肥満体がいいバランスを与えていたのに、いまはなんだか顔を揃えても心もとない。河合は僕と徳田のむこうの人だかりをのぞきこんだ。 「なにやってるの、みんな?」 「八重垣が、なんか変な本持ってきてるんだよ」  僕が答えると、また女子のひとりがじろっと睨んだ。 「つるばら[#「つるばら」に傍点]とほていあおい[#「ほていあおい」に傍点]の女って、何年の何月生まれ?」  松島がせっぱつまった声で何か言う。本気で占いで彼女を決めるつもりだろうか。八重垣が、 「5と18と29」  と答える。たちまち女子がぎゃーぎゃー騒ぐ。 「あんたなんじゃない」 「違うよー」 「ねえねえ、あんた誕生日いつよ」  あんまりうるさいので、僕は言ってやった。 「あんがい、八重垣だったりしてな」  一瞬の間。松島が泣きそうな顔になり、 「じょーだんじゃねえ、だったら俺、死ぬよ!」  と叫び、みんながげらげら笑った。そっとうかがうと、八重垣の頬のあたりがぴくぴくと震え、薄ら笑いのかたちに固まった表情に緊張がみなぎっている。もう一度、 「じょーだんじゃねえ!」  と松島は叫び、八重垣の背中を回し蹴《げ》りで蹴飛ばした。それを合図に、いままで八重垣の口から出る予言(?)を神妙に聞いていた連中が八重垣をど突きはじめ、女子たちは肩をすくめてその場を離れた。八重垣は薄ら笑いを浮かべたまま、黙って蹴られたり殴られたりしている。  始業を告げるビッグベンの鐘が鳴って、担任の根本先生ががらりとドアを開けて入ってくる。いつもの灰色のジャージ姿だ。 「とっとと席につけい、このくそガキめら」  二十七になる根本|有里子《ゆりこ》は、陽気な声で威勢よくどなる。僕たちは、 「くそババー」 「売れ残り」  とぶうたれながら席につく。何人かは名残り惜しそうに八重垣にもう一発くらわせてから席に向かう。  起立、礼、着席が終わると先生は話しだした。 「えー、すでにプリントにして渡してあるが、明日からまたあれが始まる」 「あれ」と言われただけで僕たちにはぴんときたが、後ろの席の松島公彦がとぼけて言う。 「生理ですか」  根本先生は松島の机の前まで行き、すごみのある笑顔を浮かべて、 「もういっぺんおぬかしになってごらんなさい?」  とうなるように言ってから教壇に戻った。 「NBNの取材ですね」  と河合がフォローを入れる。先生はすごみのある笑顔のままで答える。 「そ。夏休みの母子キャンプをメインにしたいんだそうだ」  NBNというのはN(県)ブロードキャスト・ネットワークの略で、要するにこの辺一帯のローカルな話題を取り上げるケーブルテレビ局だ。でも意外と地元の評判は高く、映画紹介はメジャーな評論家よりいいとこついてるとよく言われるし、NBNで制作した番組が全国放送で取り上げられることもときどきある。 「またあの安藤《あんどう》っていうお姉さん来るんですかあ?」  徳田が、車椅子が出入りできるように少し幅をあけて置いてある机に肘《ひじ》をついたままで言う。先生はとぼけた顔で聞き返す。 「なんだよ徳田、おまえ安藤さん嫌いなの?」  根本先生が尋ねる。 「嫌いってんじゃないけどー」  徳田は車椅子についているリクライニング機能を利用して背もたれを行ったりきたりさせながら、顔をしかめて言った。 「ドジなんだもん、あの女」 「去年の釣り大会、餌のミミズが死んでないって掴《つか》んでから気づいて、ぎゃあって言って川にはまったもんな」  とだれかが言い、またみんながわははと声をあげて笑う。その笑い声をついて、かん高い笛のような声が教室の隅からあがった。 「あの人はにせのエコロジスト」  教室がしーんとなった。誰もそっちを振り向かない。 「蜘蛛《くも》の巣から蝶《ちょう》を救っていい気になっているような女」  その声は、急に静まりかえった教室の雰囲気をどう思っているのか、ぜんぜん変わりない調子で続ける。 「だれも、キャンプ場まで行く林道が造られたときの自然破壊を見もしないで」  根本先生は、出席簿で教壇の机を叩《たた》いた。 「いまそんな話してないだろ!」  がったんという派手な音がした。八重垣潤が立ち上がった拍子に椅子を倒したのだ。 「あの道は蝶の道を寸断した!」 「わかった。わかったから。いまはとにかく、NBNの取材の話」 「あの道……」 「もうわかったから、それはいいっ!」  根本先生は、八重垣を怒鳴りつけた。一瞬間を置いて、つぎの瞬間、沸騰したやかんがたてるようなぴいーという音が僕たちの頭上三十センチのところを駆け抜けていく。いったいどういう意味があるのかわからない、感情が高まったときに八重垣が発する正体不明の音声だ。先生は、なにごともなかったかのように話を続けた。 「明日の朝からカメラが入るから、各自いつものとおりのこきたないつらで登校すること」  これは、以前の撮影のとき七五三みたいな服を着てきたやつ、化粧をしてきた女子なんかいたことに対する反省だ。 「あとは言うまでもないが自由にやれ。ま、いつものことだがな。そんじゃ、みなさんお待ちかねの授業にはいります」  八重垣潤の笛のような声はまだ続いていたが、先生はそれには一切かまわず、黒板の上に広げたN県の地図を棒でさしながら県の産業の話をしはじめた。僕がノートを広げると、うしろのほうからたたまれた紙が回ってきた。見ると、 「ジョンの引っ越しさき、わかったぞ」  と書いてある。  驚いて振り向くと、徳田が教科書を見つめたまま、親指を立ててみせた。     2 「どやってつきとめたんだ、おまえ?!」  昼休み、僕はまだ給食を食べ終わっていない徳田に詰め寄った。徳田はしーと口に指をあてた。僕はあわてて声をひそめた。 「何がしーだ! いつの間に」  横から河合みゆらが口を出した。 「あたしが調べてみろって言ったの」 「河合が?!」 「そう。芳照、そういう技術持ってるんじゃないかと思ったから」 「技術って、どうやって?」 「簡単だよ」  徳田は、食べ終わった皿をワゴンに置き、戻ってきて車椅子の背をリクライニングさせた。アームチェア・ディテクティブのような気取ったしぐさだ。そして背中と背もたれとの間に手をつっこんで、大きな封筒を取り出した。中から出てきたのは、単なるノートをちぎった紙だ。のぞきこむと、いくつも電話番号が書いてあって、ひとつ残して全部が線で消してあり、消してないひとつの下にはある住所がメモされている。 「市内の桃山姓のうちに片っぱしから電話をかけた。桃山という名字はこの町では珍しい。電話帳で十二軒くらいしかなかった。そしてこう言う。『おたくの親戚《しんせき》の、桃山|孝之《たかゆき》氏に金を貸しているものですが』」 「桃山孝之ってだれ」 「ジョンのお父さんじゃないの。名簿見りゃ載ってるじゃない」  と河合がバカにした声を出す。 「ジョンのパパ、生まれも育ちもこの町だって聞いてたからさ。近所に絶対親戚いると思ったんだ」 「でも徳田、電話したって、その子供の声でか?」 「ばか、なわけねえだろ。ちゃんとボイスチェンジャーを使ったわさ」 「あ、それでか」  僕は机を叩いた。 「だから徳田に頼んだんだな」  徳田の両親は夫婦で興信所、つまり私立探偵をやっているのだ。市内随一のぴっかぴかのファッションビルの最上階の一部を借りて、「秘密探偵T&T」というはでな看板を出している。よっぽど儲《もう》かっているらしい。T&Tというのは、徳田夫妻という意味だそうだ。探偵なら、電話で探りを入れるときのためにボイスチェンジャーくらい持っているだろう。徳田は話を続ける。 「『実は保証人の欄にあなたの名前がありまして』って言うと、大あわてしたのが二人いてさ。片方はジョンのとうちゃんのお兄さん、もうひとりがいとこだった」 「ひどいでしょ」  と、自分が立案したくせに河合があきれたように言った。 「そうなんだ、犯罪じゃないかと俺は気にしてる」  徳田の顔が暗くなったので、僕は急いで言った。 「いや、俺はジョンに五百二十円貸しっぱなしになってんだ。金貸してるというのは嘘じゃない」 「なるほど。それでだな、『ちゃんとおたくの印鑑が押してあります。こっそり持ち出したものかもしれませんが、それはこちらの知ったことではありません』って言ったら、『待ってください。本人の居場所を教えます。いまの住所は……』ってぺらぺら喋《しやべ》ってくれた。ばかみたいに簡単だったよ」 「やあねえ大人って」  河合はため息をついた。 「自分のことしか考えないんだから。それで、ジョンに連絡ついた?」  徳田は首をふった。 「電話番号きいたら、ないって言ってた。電話もないとこに住んでるらしい」 「ふーん……携帯は?」 「とっくに、『使用されておりません』だよ。あいつがいなくなったときに確認したじゃん」  携帯電話の使用料を払う金もないのだろう。 「手紙は?」 「いや」  僕は、本物の借金取りのように頭を働かせて言った。 「突き止められたと知ったら、相手が俺たちでも逃げ出すかもしれない。ジョンはともかく、親のほうはさ」  僕たちは、しばらく黙りこんだ。河合がぽつりと言う。 「でも、会いたいよ」  僕たちは河合を見た。最初にヨハネをジョンと呼び、いつも犬ころ扱いして女王様のようにふるまっていた河合は、僕や徳田よりももっとジョンの不在をさびしがっているようだった。僕は身をのりだした。 「うちのママさ、送り火の日になると陣屋町のおばさんとこに、どっさり酒と串焼《くしや》き持ってって朝まで帰らない。大宴会になるし、行くと飲ませようとする親戚がいるから、僕は行かなくていいって最初から言われてる」  河合と徳田は一瞬けげんそうに僕を見たが、徳田はすぐにうなずいた。 「うちはさ、急にたくさん仕事が入っちゃったみたいで、パパもママも朝早くから夜おそくまで飛び回ってんだ。八月いっぱいくらいまではそうだろうって」 「へえ。忙しいんだ。いいなあ」  どんどん需要が落ち込んでいるという町工場の娘である河合がため息をつく。 「でも不思議だよ。そんなに離婚訴訟とか多いのかなあ、いま」  と徳田が首をひねる。 「離婚訴訟は多いと思うよ。うちもお母さんがね、もう実家に帰りたいって……」  河合の口調が暗くなった。僕はなんと言っていいかわからず、目の前の紙の字に没頭するふりをした。夏休みが終わったら、今度は河合が姿を消していたりするのだろうか。徳田がつきとめたというその住所は、東京都杉並区、のうしろに三種類の番号が並んでいる。N市|紐手《ひもて》16、で手紙が届くこの町とはえらい違いだ。河合は頭を振って、暗い考えを追い払うように笑うと身をのりだした。 「つまりさ、それって、親たちに内緒でこっそりジョンに会いに行こうってこと?」  僕たちはちょっとの間黙った。そうだ、行って行けないことはない。いまは新幹線だってあるし、東京までは二時間ちょっとだ。いっしょに勉強するとか言って朝早く家を出て、ゲーセンに寄るとか電話を入れればそうとう遅くまで時間は稼げる。問題は資金だが……  そのとき、教室の反対側でどっと笑い声が上がった。     3 「すっごーい、よく当たるう」 「あんたの気くばりってぇ、そういう意味だったのねえ」 「たしか二組の林田ってやつが、2月14日生まれだったとか言ってたよー」 「ひえー、ああいうのをはこべ[#「はこべ」に傍点]って言うんだあー」  八重垣の周りで、十人ばかしの女子連中が騒いでいる。僕は耳をおさえた。 「またやってんのか、野菜占い」 「『植物占い』だよ」  徳田が笑いながら訂正した。河合が首を振りながら言った。 「とてもよく当たるんだって」  僕は思わず口走った。 「あのなー、性格判断なんてのは、当てはまってるって思や当てはまってるし、だいたいだれにでもある一面をとりあげてさも特徴であるみたいに言うもんなんだよ」  そんな大きな声で言ったつもりはなかったが、ちょうど笑い声がおさまった瞬間だったのがまずかった。またしても僕は女子連中にじろりと睨《にら》まれた。 「ああ、そう。じゃあ、藤山くん」  理由はわからないが、フジヤ[#「ヤ」に傍点]マ君とヤにアクセントを置いた呼びかたをする上山芽衣は、立ち上がり僕のほうへゆっくりと近づいてきた。 「そう思うんだったら、あんたも占ってもらったらどう」 「いーよ、別に」 「なんでよ。どうせ信じてないんだったら、かまわないじゃない。生年月日、言ってみなさいよ」  僕は肩をすくめ、それから答えた。 「90年の8月20日。だったらどうなんだ?」 「118、118」  と八重垣の周囲から声があがる。八重垣はしずかにページをめくり、 「たまごたけ」  と歌うような声で言い、それから文章を読みあげた。 「一見油っこくなく、ようぼう[#「ようぼう」に傍点]もたんせい[#「たんせい」に傍点]なあなたは実は意外な猛毒の持ち主。実力を発揮するのは夜で、あやしいムードをかもし出して人をひきつけます。本音に辛辣《しんらつ》なものが隠されているので、うっかり人を怒らせると一生たたります。向いているのはミュージシャン、ルポライター、水商売など」 「当たってる当たってる」  と女子たちが口ぐちに騒ぎだした。 「藤山くんって、ときどきぐさっとくること言ったりするよね」 「顔だってジャニーズ系だし」 「おうち串焼き屋さんだし、夜おそくまでやってんでしょ」  上山は八重垣から僕に視線を移し、どうだというふうに鼻息をふきだした。僕はため息をついた。 「驚いたね。まったくよく当たってるよ」 「でしょ」  僕は続けて言った。 「それで僕の誕生日が、8月21日でさえなかったらね」 「は……8月21日? 20日ってあんた言ったじゃないの!!」 「あんまり素直に信用しちゃいけないよ。なんたって僕は、たまごたけ[#「たまごたけ」に傍点]なんだから。あ、それは間違いなのか」  上山の、広がっていったんは戻りかけた鼻の穴が、ふたたび拡張を始めた。 「わかったよ! じゃあつまり、あんたは118じゃなくって、119なんだね! 119のとこ見ればいいだけじゃない!」  上山は、ばっと八重垣の机の上からその謎の本を奪うとめくりだした。 「だあから、僕が言ってるのは、性格判断なんてだれにでも当てはまることしか言わない——」 「……ない」 「え?」  上山は、あっけにとられた顔つきになって僕を見た。周りの連中も、えっ、という顔で上山を見る。その向こうがわで、正面を向いて座ったままの八重垣が長いまつげの——そう、八重垣は、昆虫の触角を思わせるまつげをしていて、それがまた気味がわるいのだ——そのまつげのついたまぶたを、二、三度まばたかせるのが見えた。他の女子が上山に訊《き》く。 「なに、『ない』って。どういうこと」 「だから、119の植物、書いてないの、藤山の番号」  上山は、怒りを忘れたきょとんとした表情で言った。一瞬間をおいて、周りが騒ぎだした。 「えー、なに」 「どーいうこと、ないって」 「藤山って、正体不明ってこと?」  失礼な。ふいに、八重垣がついと立ち上がり、上山の手からすっと本を引き抜いた。「返して」ともなんとも言わずに。上山は白けた顔をした。こういうところも、八重垣の嫌われる原因なのだ。  八重垣はうす緑色の本をぼろぼろのランドセルにしまい、さらに机からなにかを取り出してランドセルに装着した。よく見ると、小さな錠前だった。首の周りの鎖を引っ張って先端についた鍵《かぎ》を取り出し、かちっと施錠する。そして八重垣は、空中をすべるような歩きかたで無言で教室を出て行った。女子たちはあっけにとられ、一瞬後に、 「なにあれー」 「感じわるー」  とぶつくさ言う。 「だったら無視すりゃいいじゃんよ、その『植物占い』なんての」  と僕が言うと、女子たちはとんでもない野蛮人でも見るような目で僕を見た。僕は、ついむきになって言った。 「だいたいさあ、占いってのは性格判断じゃなくて、未来のことがわかるから占いだろ。その本そんなことぜんぜん書いてないじゃん」 「未来が知りたい?」  突然背後で、平板な、それでいて粘っこさを感じさせる声がしたので僕は跳びあがり、振り返ってもう一度跳びあがった。さっき教室を出ていったはずの八重垣が背後に立っている。僕は思わず手を上げて八重垣の横っつらをひっぱたいた。 「断りもなく後ろに立つんじゃねえよ! バイキン!」  八重垣は、僕に叩《たた》かれた方角に顔を向けたまま、もう一度ランドセルからそのうす緑色の本を取り出すと、裏表紙をこちらに向けた。電話番号と、「占いテレホンサービス」という字が書いてある。八重垣は、みんながその番号を暗記できるだけの時間、本をかざしてから、ふたたび八重垣はすべるような足どりで教室を出ていった。不気味なことに、僕に叩かれて顔が横を向いた姿勢のままで。あいつは気が狂っているにちがいないと思うのはこんなときだ。  女子連中が騒ぎだし、みんなてんでに自分の机のほうに走っていった。なにが始まったかと思ったら、携帯電話を持って駆け戻ってくる。そして上山の手にある紙をのぞきこみ、真剣な表情でプッシュし始めた。なんといつの間にか、河合みゆらまでそれに混じっている。教室に残っていた数人の男子までもが、女子のだれかれに耳うちされると、興味しんしんといった顔で携帯を持って集まっていく。  ガキ共の(自分だってガキだが)バカさも極まれり、という気分で眺めているさきで、携帯をプッシュして耳にあてがった連中がしきりと「わー」だの「ぎゃー」だの「やだー」だの言っている。 「聞いてみたら? 真介」  車椅子に座って僕を見上げ、徳田がにやっと笑って言った。僕は笑って手を振ったが、自分の「運勢」を聞き終わったらしい河合がやってきて僕の正面に立ち、妙に真剣な表情で尋ねた。 「聞いてみる? ほんとに」 「いいよ。河合はどうだった?」  河合は黙って携帯をリダイヤルすると、僕に向けて差し出した。 「番号のあとに、シャープ押して自分の生年月日をたした数をプッシュすればいいの」  河合の携帯を耳に当てると、録音らしいゆっくり喋《しやべ》る声が聞こえた。 『……ゆきのした[#「ゆきのした」に傍点]の人の運勢。午後、拾いものあり。……南東の方角は凶。腹部の病気、ケガに注意』  もの柔らかな、澄んだ女の声だった。僕は河合に携帯を返した。 「腹部の病気に注意って、いま暑いからどっちみち食中毒には注意じゃん」  河合は少しむっとした顔をした。本当に、なんで女ってやつはこう占いが好きなんだろう? 徳田がからかうように言った。 「真介の聞いちゃえよ」 「よせよ」 「どうせ信じてないならなんだって同じじゃん」  止めるひまもあらばこそ、河合はその時にはもう「僕の番号」を押し終わっていた。だが、携帯を耳に当てた次の瞬間、河合のみけん[#「みけん」に傍点]に何本ものしわ[#「しわ」に傍点]がよった。 「え? ……なにこれ。なにこれ。……なあにこれ」 「どした?」  徳田が河合の手から携帯を取り上げ、自分の耳に当て、しばらく聞いてから、 「わっ」  と言ってそれを落とした。僕はあわてて拾いあげ、自分の耳に当てたが、落ちたときにボタンが押されたらしく、電話は切れていた。 「なんだよ」  ふたりとも、どういうわけか少し赤い顔をしている。河合は僕の手から携帯を奪い、ぶるぶると首を振ると、 「図書館行ってくる」  と言って教室を出ていった。それを見送っている徳田の肩を僕は揺すった。 「おい。なに聞いたんだよ!」  徳田は、 「あ?」  と言って僕の顔を見た。僕はいらいらしてきて、自分の携帯をとるためにランドセルを開けようとした。そのとき、教室のドアに、何かがぶち当たるどーんという音がして、はめられている半透明のガラスがびりびりと揺れ、ぴいーっという笛のような叫び声が響いてきた。徳田が笑いだした。 「なんだ、八重垣のやつだよ。遊んでやってんだな、松島たち」 「サッカーか」  僕は取り出しかけた携帯をランドセルに戻した。 「腹ごなしにいっちょいくか」  僕と徳田が教室を出ると、足もとに不気味女の八重垣が転がってきた。松島公彦を含めた五、六人の男子の「踊り場サッカー」のボールをつとめているのだ。松島が僕のほうへ手を振った。 「おー藤山。早くこないと駄目じゃんかよ、ストライカーなんだから。芳照、おまえ聡《さとし》とキーパーかわれ」  おーし、と返事をして僕と徳田はポジションについた。相変らずぴいぴいと意味不明の音を立てている八重垣の腹にキックをかますと、八重垣は本物のボールのように転がって、それを相手がたのディフェンスが蹴《け》りかえし、徳田はみごとな車椅子さばきをみせ、八重垣の手の上に車輪で乗りあげて相手がたのポイントを阻止した。徳田が、足のある連中にはとてもかなわない腕の力で八重垣を投げかえすと、僕は膝《ひざ》をまげて受けとめ、床に叩きつけると満身の力をこめて相手がたのキーパーである佐藤のほうへと蹴りこんだ。八重垣はごろんごろんと転がり、佐藤の横をすりぬけて向かいの教室のドアに激突した。僕と徳田と松島は手を叩いて得点を喜びあう。いつもの昼休みの光景。     4  結局、河合と徳田が携帯電話の「僕の番号」でなにを聞いたか、ちゃんと確認するひまのないまま午後の授業は終わってしまった。親が今日はいないので(くわしく尋ねるわけにはいかないが工場の金策だと思う)幼稚園に妹を迎えに行くという河合、塾に行くという徳田とあまり話もできないまま、僕はとぼとぼと国道ぞいを歩き、たんぼの中に続いている横道のさきに突如として存在する飲み屋街、(とこしえに栄えあれ)「スターロード横森《よこもり》」へと帰っていった。そこの、五軒お店の入った二階建てのビルのいちばん右側の店、「串焼《くしやき》きとカラオケ・ふじや」というのがママの店、その真上の2LDKが僕とママの住居だ。  家に近づくと、まだ五時前だというのに店の中からげらげらとおっさんたちの笑い声が響いていた。ママがなにか、ハゲがどうとかデブがこうとかお客をからかう声が聞こえ、続いてさらに笑い声がする。その響きが、僕はそう嫌いではない。ママが厳しくよりわけたせいで、うちにはたちの悪い酔っ払いはこないし、なんといってもママとバイトの浦上《うらかみ》さんの焼く串焼きはじつにうまい。  僕は店の入り口の隣にある、ネコの通り口みたいに低いドアをあけて二階の住居部分へと上った。冷蔵庫を開けるとマグロのづけが作ってあったのでネギをきざみ、ジャーからどんぶりに盛ったご飯の上にてんこ盛りのワサビとともにあけ、一気食いして夕飯をすませるとゲームをやり、宿題をやり、それからまたゲームをしてたら「金田一少年の事件簿」の時間になったのでゲームをテレビに切り替えた。するとなんとしたことか、店にあるのと親子になっている電話が鳴った。僕はあきらめて録画ボタンを押すと、立っていって受話器を取り上げた。 「専務」  とやや酒の入っているらしいママの声が言った。専務とはもちろん僕のことだ。正式な役職ではないが、客の前では「真介」とも「うちの息子」とも言わずに専務と呼ぶ。 「非常事態発生。至急救援たのむ」 「あいよ」  僕は、「よいこ修繕キット」と書かれたガムテープの貼られたクッキーの缶を抱えて階段をおりていった。  店の引き戸を開けると、むわあっと煙草の煙が押し寄せてきた。 「おー専務」 「なんにも専務」 「毛は生えたか専務」  と口ぐちに酔っぱらいが、言葉と煙といっしょに酒くさい息を吐き出す。こうしょっちゅう副流煙を吸いこんでいては、僕は成人式を迎える前に肺ガンで天に召されるであろう。薄幸の少年、藤山真介。カウンターの中のママにしてからが、ゴロワーズなんて強い煙草をもくもくふかしている。本当は地味で影のうすい顔立ちなのを、濃い化粧で迫力満点に見せている。細い体は、日焼けサロンに行ってるせいで褐色の牝豹《めひよう》のようだ。 「なに、社長?」  僕もお客の前では、ママとは言わず社長と言う。社長は美容院に行ってきたばかりのふわっとした髪を揺すって、カウンターの中から目線で修理必要箇所を示した。カラオケの機械が、音は鳴っているがモニターが消えている。僕は機械に近づいて、壁との間の狭い隙間にかがみこんだ。その間も、常連の小宮山《こみやま》というおっさんの歌う「憧れのハワイ航路」が両側のスピーカーからがんがん響いている。僕はペンライトを、ごちゃごちゃにからまっているコードの群れへと向けた。  わざわざ説明するまでもないだろうけど、僕には父親がいない。いやもちろん、生物学的に父親がいないなんてはずはないけど、ママは古い言いかただと「未婚の母」で、僕は「婚外子」だ。どういう事情があったかは知らない。聞けば教えてくれるかもしれないが、愛していたが結婚できなかった人、なんてんじゃなくてもっとみもふたもない事情の可能性もあるので、あえて聞こうとは思っていない。実は最近オナニーを覚えて、生殖行為ってものにあまりロマンチックなイメージが持てなくなってきてるのだ。反面、自分の存在がただの若気の至りの結果だとしたってしかたないと思えるようにもなった。  故障は単なる接続の不良で、工具がなくても直せるようなものだった。客の中には電気店の社長もいるんだから見てもらえばいいのに、こういうとき、いつもママは僕をかりだす。 「おー、絵が戻った絵が戻った」  歌っていた小宮山さんが、マイクを口にあてがったままそう言って喜んだ。僕はうずくまっていた場所から這《は》いずり出した。 「小さいのに感心だなあー、専務。あれかやっぱ、理科系に進むのか」  小さいのに、とはなんだ。僕は想像の中で浜崎あゆみを犯したことだってあるんだぞ、と言おうかと思ったが、「だれだそれは」と言われかねないので適当に返事した。 「はあ、まあ」  もちろん嘘だ。国文学関係以外の進路はまったく考えてない。 「そーかそーか。いま、分数もできねえような大学生増えてるっていうからな、理科と算数がきっちりできりゃそれだけで食いっぱぐれはねえ。一杯いくか」 「いただきます」  売り上げにつながるのでそう答えた。一杯いくとは言っても、僕の場合はもちろんコーラやオレンジジュースだ。今日はジンジャーエールにした。小宮山さんは、社長《ママ》から瓶とコップを受け取るとテーブルに戻って僕を手招きする。「憧れのハワイ航路」はまだ終わっておらず、伴奏だけが能天気に店内に流れていく。僕が小宮山さんのテーブルにつこうとしたとき、ガラスのはまった引き戸を開けて、ひとりの女の人が飛び込んできた。 「澄子《すみこ》ちゃん!」  その人はママのことを名前で呼んだ。でも、それは僕の知らない人だった。 「たまちゃん……」  とママは、その見知らぬ人に向かって言った。たまちゃん、なんて名前でママがだれかを呼ぶとこなんて一度も聞いたことがない。おばさんからばあさんになりかけといった年ごろで、小ぶとりの体型で体があちこちだらしなくたれさがっていて、まん丸な目の下にはパチンコ玉が楽に隠せそうなほどのたるみがある。 「澄子ちゃん、ミチオがもう危ないの」  ミチオ? 危ない? なんの話だろう。 「集中治療室へ入らせてくれって頼んだのよ。でも駄目だった、感染の危険がありますなんて言って。でもあたしにはわかる、母親の勘なの、あの子は危ない、もう、今日か明日にははっきりしてしまうの!」  どうやらだれかが死にかけているらしく、それはたまちゃんの子供であるらしい。ママは自分の腕を掴《つか》んだたまちゃんの腕をやさしく叩き、あやすように言った。 「だいじょうぶ。わかってるから。なんとかしてあげるから」 「ほんと?! ほんとなのね?! 澄子ちゃん言ったよね、もしものときにはなんとかしてくれるって言ったでしょ? だったらいますぐなんとかして!!」 「わかった」  なにを決めたかは知らないが、なにかを決めるとママは動くのが早い。ぱっとエプロンをはずし、それをカウンターに放り投げると、 「専務、浦上さん、あとお願い」  と言うなり飛び出していった。僕はため息をついた。「金田一少年の事件簿」の録画を見直す時間は、今夜はなさそうだった。 「ミチオって言ってたよね」  十一時をすぎて、ようやく最後のお客を送り出した僕は浦上さんに言った。 「言ってましたねえ」  と浦上さんも答えた。 「たしか集中治療室に入っているとか。たぶんうちの大学でしょう」 「うちの大学」というのは、「自分が行っている松広大医学部の付属病院」を縮めた表現だ。県下一の大病院である。 「インターンやってる先輩がいるから、聞いてみましょうか。最近夜勤だって言ってたから、問い合わせれば集中治療室にミチオって子がいるかどうかわかるかもしれない」  が、浦上さんが店の電話に手をのばしたとき、のんびりとしたママの声が響いた。 「ただいまあ。ごめんなさいねえ、遅くなって。浦上くん、あがっていいわよ」 「はーい」  浦上さんは、洗ってしぼっておいたタオルをカウンターの上に広げ終えると、エプロンをたたんで椅子の背にかけ、 「お先に失礼しまーす」  と言って出ていった。まもなく浦上さんのバイクの音が聞こえ、遠ざかっていった。 「ご苦労ね、真介」  呼びかたを「真介」に戻したママは、冷蔵庫からビールを取り出すとうまそうに飲みはじめた。 「浦上さんが電話しようかとか言ってたんだ」  僕が言うと、ママはきょとんとした顔をした。 「電話? どこに」 「集中治療室がどうとかって言ってたじゃん。松広大病院でしょ?」  コップを傾けていたママの動きが、一瞬だけ止まったように僕には見えた。 「なーんだ。あんたたち、そんなこと考えてたんだ……違うわよ、病院なんかじゃない。ほんとにもう、たまちゃんったら、たしかにあのあわてぶりじゃね」 「あの人、なに」 「子供のころ、近所に住んでたお姉さん。お姉さんっていっても、もう子供がいたけどね、どっかいいとこからお嫁にきたって人でぜんぜん家事とかしないで、よくあたしや近所の子呼んで遊ばせてくれたっけ。うんと年上なのに、たまちゃんたまちゃんって呼んで。先月町でばったり会ってね。離婚していまひとり暮らしなんだって。それでね、ついこないだ、アパートの整理もすんだから遊びにこないかって誘ってくれたのよ。そんときに、真介おぼえてる、去年まで飼ってたサボン」 「うん」  サボンは、「ソレガドーシタノ?」というのが口癖の黄色いセキセイインコだった。 「サボンにあげてた餌が残ってたから、持ってってあげたのよ。たまちゃんとこなんと、十五羽も文鳥がいるっていうから」 「あのまさか……じゃあ、ミチオって、鳥の名前?」  ママは目を細くし、僕を窺《うかが》うような顔をしてうなずいた。 「真実ってのはつまんないもんよ。そう、ミチオのほかにもたくさんいたわ。えーと、ユタカ、ケイジ、コンタロウ……」 「鳥が集中治療室に?!」 「あらいま多いのよ、鳥を診るお医者さん」 「でも、ママが死にかけた鳥になにができるのさ」 「つい喋《しやべ》っちゃったのよ、このあたしの『奇跡の手』のことを」 「『奇跡の手』?」  言われて僕は思い出した。ある寒い朝、暖房用の電球をつけるのを忘れていてサボンが冷たくなっていたときだ。まだ心臓は動いていたので僕がサボンを胸に抱き、ママが車を運転して南山《みなみやま》いぬねこ病院に二人して駆けこんだが、羽根のあるものは診たことのない南山先生はサボンを右に左に引っくり返したあげく、 「眠らせますか?」  とまことに男らしいことを口にした。ママは絶句し、診察台の上のサボンをさっとすくい上げると、まるでなにかにお供えするかのようにサボンを天井に向かって、いや天井のもっと上にあるなにかに向かって差し上げた。十秒ほどもじっとしていただろうか。ちっちっという聞き慣れた鳴き声がして、つぎの瞬間僕が見たのは、ママの手の上から黒いつぶらな瞳をきょとんと見張って僕を見下ろしているサボンだった。 「その話をたまちゃんにしたのよ」 「つまり……」 「そ。たまちゃんは、あたしがなんの気なしにしたその話を、ほんとうの奇跡だと思っちゃったわけ。うちのミチオが最近食欲がないんだけど、もしものときはよろしくね、って言われてたの。まさか本気だと思わないから、いいわよ、って答えたんだけどね。サボンだって、そのときは持ち直したけどそれから一週間たって、やっぱり死んじゃったんだから」  そのとおりだ。電球はちゃんとつけておいたのに、サボンは冷たく、かちかちになっていた。 「じゃあ、その文鳥のミチオに触るためにだけ行ってきたの、その鳥のお医者んとこに?!」 「約束だもの」 「助かった?」 「駄目だった」  ママはあっさり言った。 「しょうがないでしょ? しょせんあたしは、本物の聖人じゃないんだし、だけど行ってあげないままにミチオが死んだら、たまちゃんはできるかぎりのことをしてやれなかったって思いに苦しむことになるんだもの。ミチオの死体を抱いて泣いてるたまちゃんをずっと慰めてたの。だからよけい時間くっちゃって。電話すればよかったわね、ごめんごめん」 「ママそれで、うらまれたりしなかった? あの……たまちゃんに」 「どうして?」 「だって、結局ミチオは死んじゃったわけだから、『うそつき!』とか言われなかった?」  ママはにっこり笑った。 「言ったでしょ、子供のころよく遊んでもらったって。あたしが嘘つくつもりでサボンの話をしたんじゃないってことくらい、わかってるわよ。事実、うらみごとなんてひと言も言わなかった。そのかわり、『ありがとう』って言ってくれたわ。『ミチオのために力をつくしてくれて、ありがとう』って」  二階の住居の台所でざっと作った冷凍チャーハンを(僕が)ママに食べさせてやり、風呂はもう面倒だというので歯だけは磨かせ、そのままベッドに引っくり返ったママに毛布を(七月下旬でもこのあたりはけっこう寒いのだ)かけてやり、眠かったが意地で「金田一少年の事件簿」の録画を見、それからやっとシャワーを浴び歯を磨いた。  僕のベッドは、居間にロフト状に作りつけられており、上から見るとママのベッドとは直角になっている。そこまで登るには、ママのベッドの足もとにある梯子《はしご》を使わなければならない。僕は洗面所から出ると台所を通りぬけ、寝ているママのわきを通って梯子へと向かった。ママが、 「うーん」  とうめいて寝返りを打ち、足が乱暴に動いてせっかくかけてやった毛布を勢いよくすっとばした。僕は毛布をのばし、横向きになったママの上にまたかけ直してやり——、  そして、ママの枕のファスナーが少し開き、そこから紙の袋のようなものが見えているのに気づいた。  ちょっとどきどきした。ラブレターだろうか。  僕の頭の中には、見知らぬ男(お店の常連だったりして)を紹介されたときの反応が即座に10パターンくらい浮かんだ。その男が酒乱、やくざ、少年愛好家、あるいはその全部である場合の対応方法も。僕は封筒の端をつまんでひっぱってみたが、ママの頭の重みでぜんぜん動かない。無理にひっぱろうとしたら、かさりと音がしてママのまぶたがぴくっと動き、僕はあわてて手を離した。まあいいか、ママにだってプライバシーはある。  明かりは、窓から入ってくる飲み屋街の街灯の光だけなので、わかったことは、それが夜目にも赤い、とても赤い色をした封筒なのだということだけだった。  僕はロフトに上がり、敷きっぱなしにしてあるふとんに横たわると目をとじた。眠りにつくまでまぶたの裏では、真っ赤な空を背景に一羽の文鳥がホバリングしながら浮かんだり沈んだりを繰り返していた。     5  翌日、登校しようとして学校の近くの角を曲がると、なんだか真っ赤な色をした異様な物体が目の前を通り過ぎていった。ぴいぴいと電子音のようなものを発しているところを見ると、我がクラスの嫌われものの八重垣潤らしい。やってきたほうに目をやると、コンビニの前で徳田芳照が、なんだか怒ったような顔をして車椅子の上でもぞもぞやっている。体をひねって、手に持ったタオルでうしろの把手《とつて》のところを拭《ふ》こうとしている。僕は声をかけた。 「おはよっさん。どした、徳田?」 「あー、真介」  徳田は、相変わらず渋い顔のまま返事する。 「八重垣菌[#「八重垣菌」に傍点]がなんかたらしながら走ってったけど、なにかあったんか」 「あのゲロ女!」  徳田は、力をこめて車椅子の把手をごしごし拭いた。 「俺がコンビニ入ろうとしたら、後ろから押しやがんの! 俺の車椅子《あし》が腐っちゃうよ、あんなのに触られたら! だからこれで追い払ったんだ。顔に当たったみたいだけど」  徳田は、なにかを指し示したり引き寄せたりするときに使う、折り畳み式の金属の棒を背中の後ろから取り出した。僕は笑った。 「たっはっは。そんなんで殴ったら壊れちまうんじゃねえの。血ぃ出てたみたいだし」 「だから? 死にゃいいんだあんな物体[#「物体」に傍点]」  僕と徳田は、コンビニでマンガをざっと立ち読みし、それから二人そろって学校へ向かった。校門に近づくにつれ、校庭の周りに張られたフェンスに近所の人たちがとりついて、中をのぞきこみながらざわざわ話しているのが目についた。 「あっそうか!」  すっかり忘れていた。 「そーいや、今日からまたNBNの撮影があるって先生が言ってたっけ」 「あー俺も、すっからかんに忘れてた」  これは本当のことかどうかわからない。なんと言っても、NBNが年一本のペースで連続して撮っているドキュメンタリーの主役は、徳田本人なのだから。題して、「とっきーと3組のなかまたち」。  校庭に入っていくと、見覚えのある人が、 「よう」  と言って僕たちのほうへ手を上げた。ディレクターの弥刀《みと》さんだ。毎年毎年、会うごとに濃くなってゆくヒゲがもじゃもじゃと下半分を覆った顔は、まるで草原の中の屋敷みたいな雰囲気だ。 「今年のキャンプは七馬岳《しちうまだけ》のほうまで登るんだって? やることが野性的だねえ。ま、いつもの調子でよろしく頼んますよ、藤山くん」  一年近く会ってないにしては、名前をちゃんとおぼえてくれている。 「七馬っていうと、冬場は遭難者も出るけっこうきつい山だよねえ。今年からそこにしたそうだけど、どういうわけで?」  そんなの学校側から説明受けてるだろうに、と思ったが、よく見ると校庭にのびた僕の影に重なる影がある。後ろにカメラマンがいるに違いない。もう撮影は始まっているのだ。 「あのですね。実は最近になって、鳴神岳《なるかみたけ》を形成している地層のプレートが、この街の中心部まで入りこんでいることが判明しました」  僕は、わざともったいぶった顔で答えた。鳴神岳というのは、ここからだいぶ離れた県南部にある山だが、僕が生まれる十年ほど前に一度噴火したことがあるそうだ。記録のあるかぎりさかのぼってみても有史以来一度もなかったことだそうで、それ以来定期的に調査をおこなっていたそうだが、最近「地震のモト」とも言える地層の断裂だかなんだかが、県のど真ん中をまっすぐにつらぬいていることがわかったのだそうだ。 「サバイバル生活を体験すれば、万一のときに生きのびられるんじゃないかって」 「地震でライフラインが断たれたら、山へ行ってキノコ採って生きろっていうわけ? 発想が過激だねえ、おたくの先生も」  そのとき、背後から聞きなれない声が近づいてきた。 「去年花ムコ募集中とか言ってたわよね、ここの先生」  いつもレポーター役をしてくれるアナウンサーの安藤さんの声とは違う。僕は振り向き、息をのんだ。 「江上《えがみ》さん、あんまりそういうことは」  弥刀さんがあわてたように言い、そばに立ってカメラを回していたお兄さん(去年と同じ人、たしか目高《めだか》さんとかいった)に手を振った。止めろという合図だろうか。 「まずけりゃあとでカットすればいいじゃない。こんにちは。初めまして。あなたがとっきー。徳田芳照くんね」  その人はすっと手をのばして、徳田の上腕部にふれた。 「なるほど。さすが腕の筋肉はすごいわね。パラリンピックとか目指してるの?」 「いえ。けんすい[#「けんすい」に傍点]で下着ドロができるようになるためです」  放映したら大変な騒ぎになるようなことを、徳田はさらっと言ってのけた。その人は手を叩《たた》いて笑い、そして言った。 「犯罪はまずいわよ。それくらいだったら風俗になさい。最近はこの県にもちらほらあるから。ドアの広いとこもね」 「え、江上さん」  弥刀さんがあわてた声で言ったが、江上さんと呼ばれたその人が笑顔のままにそちらを向くと、文句を言うのをやめて、 「いや、まあ」  とだらしない笑いを浮かべて手を振った。  その江上さんという人の年のころは、二十五くらいだろうか。顔だちは、外国のむかしの絵の貴婦人みたいな感じだった。たまごのような輪郭、上下ともぷっくりしていて見方によっては眠たげに見えるまぶた、その中の瞳《ひとみ》は黒目のところにうすい緑がかって[#「かって」に傍点]いて、くちびるは桜とか梅とかよりもっとゴージャスな花の感じ。肌の色はまっ白、それも、雪の白さじゃなく、あたためたミルクにちょっとだけバターをとかしたような白さ。髪は染めたふうじゃない自然な茶色で、それがいくつものこまかいウエーブのかかった束にわかれてたまご型の輪郭をいろどっている。白い綿のブラウスにジーンズの上下というカジュアルな格好だが、それがすごく似合っている。いつの間にかぞろぞろと周りに集まってきていた3組の他の連中のことも江上さんは眺めまわし、にっこりと笑った。 「初めまして。今年から、『とっきーと3組のなかまたち』のレポーターをつとめさせていただきます、江上|理沙子《りさこ》です」  男子たちの間に、言葉にならないどよめきが走った。 「安藤さんはどうしたんですか?」  女子の間から、心なしかきつさ[#「きつさ」に傍点]を含んだ声で質問が飛んだ。去年までのレポーター、安藤|貴《き》代美《よみ》さんもまあまあ可愛かったが、江上さんと比べたらアゲハチョウとだんご虫だ。 「元気よ」  女子の質問の真意をわかっているのかいないのか、江上さんはそんな答え方をした。女子たちは顔を見合わせ、それからまたなかの一人がおずおずと質問した。 「どうして、今年は来てくれないんです?」 「あら」  江上さんはうす緑色の瞳をきらっと光らせ、優しい声で尋ねかえした。 「わたしじゃ駄目ってことかしら?」  女子よりも、男子たちのほうに困ったような空気が流れた。僕たちのほうは、安藤さんから江上さんにレポーターが替わってくれて大歓迎だったが、へたに女子を怒らすと番組収録が終わってからあとが怖い。 「安藤さんはね、今年は自分からおりたんだよ」  マイクの角度を調整していた目高さんがさいわい助け船を出してくれた。 「七馬岳で今年の春、ニシキヘビが目撃されたってニュースが流れたのおぼえてる?」  僕たちはいっせいにうなずいた。だれかがげてものペットショップから買って来て、手に負えなくなって山に捨てたものらしい。 「安藤さん、そのニシキヘビが捕獲されるまでは七馬岳の周辺十キロ以内には近寄らないと断言してる。せっかく仲良くなった3組のみんなに会えないのは残念だけど、どうかよろしくって言ってたよ」  音にならない不満のため息のようなものが、女子ぜんたいから漂ってくる。と、江上さんは、いちばん近くにいた寺西《てらにし》という女子(ずるそうなハムスターみたいな顔をしている)の右手をふいに掴《つか》むと手のひらに目を走らせ、 「ね、あなたいままでに、好きになった人三人いるでしょう」  と言った。僕も含めて、男子は全員心の中でのけぞった。寺西がだれか好きになるなんて、考えただけで不気味だ。だが寺西は顔をぽっと赤くして(おお気持ちわるい)、うつむき、小さな声で、 「ど、どうしてわかるんですか?」  なんて言ったのだ。 「わかるわよ。だってあなたの手に、あなたの過去が書いてあるもの」  寺西は驚いて顔をあげた。他の女子連中が、わっと江上さんの周りに集まる。僕たち男子ははじき飛ばされた。 「み、未来のこともわかるんですか?」 「あ、ねえ、あたしのも見て見て」 「大好きな人と結ばれますかあ」  女子たちが江上さんを中心にしてわいわい騒いでいると、背後から、 「なんのさわぎ?」  と河合の声がした。ふり向いて河合の顔を見た僕は少しぎょっとなった。徳田も同じだったらしく、 「なんだよ河合。すげえ顔色|悪《わり》いじゃん」  と言った。 「きのうね、妹を幼稚園で拾った帰り、バープリによったの」  青息吐息といった顔で河合は言った。バープリというのは、正式名称を「バーガープリンス」というハンバーガーのチェーンで、N市支店がつい一週間ほど前開店したばかりだ。 「へえ、よくそんな金あったな」 「バスの座席にドリンク無料券がはさまってたから。それがさ、うちの妹、シェーキを何種類も、めちゃくちゃに注文すんだよ! やっぱり途中で食べきれなくなって、『お姉ちゃんあげる』だって。あたしだって食べきれないってのに」 「残しゃいいじゃん」  と徳田が言うと、河合は顔をしかめて首を振った。 「どうしてもそれあたしできないの。無理して食べたら、家へついてすぐおなか痛くて痛くて、薬飲んだら痛いのとまったけどこんどは吐き気。ぜんぜん寝れなかった。宿題もできなかったし」 「ふうん……河合おまえ、ゆきのした[#「ゆきのした」に傍点]だっけ?」  僕が言うと、河合はけげんそうな顔をした。 「おまえ、きのう携帯で自分の『植物占い』聞いたろ? あんとき、俺にも聞かせてくれただろ。何て言ってた、たしか——」 (……午後、拾いものあり。障害が取り除かれる気配。南東の方角は凶。腹部の病気、ケガに注意……)  ただでさえ悪い河合の顔色が、さらに青白くなったので、僕はあわてて手を振った。 「ぐーぜんだよな、もちろん、ぐーぜん。あの連中見ろよ、もう『植物占い』のことなんか忘れて、江上さんに手相見てもらってるぜ」 「江上さん?」 「ほら、いま沢谷《さわたに》の手見てやってる人。今年はあの人がレポーターなんだって」 「真介」  徳田がそう言い、校庭のすみを指さした。かたまりかけの血を洗いもせずに、八重垣潤がふらついた足どりで、それでも目は相変わらず正面をきっと見すえて校舎に向かって歩いていく。その姿を見つけて、女子連中がいっせいに声をあげた。 「八重垣!」 「八重垣ー、あの本出せよー」 「ゆうべ両親ケンカした、テレフォンサービスのとおりだったよ! ねー、どしてそういうことわかるのー?」  僕は呆然《ぼうぜん》として、八重垣に走り寄っていく女子連中を眺めた。どうも、江上さんの登場くらいでは、「植物占い」のブームは去りそうにはなかった。 「こらあー、おめーら、予鈴鳴っただろーがあ!」  校庭いっぱいに、根本先生の怒号が鳴りひびいた。見ると、二階の僕たちの教室の窓枠に、巨大な乳房を乗せた先生が僕たちを睨《にら》みつけながら出席簿をぶんぶん振り回している。女子に取り囲まれていた江上さんが見上げ、高く細いくせによく通る声でにこやかに言った。 「まあ、すいません先生! わたしが引きとめちゃったんです。さあみんな、教室に行きましょう! これからひと月、どうかよろしくね!」 「みなさんも知ってのとおり、八月十九日から二十一日まで、母子サバイバル体験キャンプが七馬岳にておこなわれます」  もう二か月も前に聞いたことを、根本先生が黒板の前に立って繰り返した。番組に「流れ」をもたせるための、一種の再現ドラマだ。僕たちの座っている机はぜんぶ五十センチずつ前へとずらされ、あいた後ろのスペースにNBNのスタッフが機材とともにぎっちぎちに詰め込まれている。カメラマンの目高さんが、音をたてないようにゆっくりと机の間を行き来している。 「災害はいつ襲ってくるかわかりません。地震がくるかもしれないし、異常気象で町がそっくり雪に埋もれるかもしれない。そうでなくても、東京や大阪、あるいは新潟に異変が起きて輸送ルートが断たれたら、食品産業にとぼしいこの地域に暮らす私たちは、あっという間に飢えかねません。キャンプでは、ナイフを使ったシェルターの作りかた、食べられる植物の見分けかた、そして希望者にはハンティングの講座もあります」  前にも聞いていたことだが、これには胸がときめいた。ほかの連中もざわざわと声をあげる。男子のひとりが手を挙げて質問した。 「拳銃《けんじゆう》、撃たせてもらえるの?」 「こらあ」  根本先生は苦笑いして首を振った。 「拳銃じゃなくて猟銃でしょうが。ワルサーやスミス&ウエッソンでカモシカ撃つかっての」 「先生、カモシカは天然記念物だからどっちにしろ撃てません」  松島公彦がすました顔で言い、僕たちは笑った。たいしたジョークじゃないが、これが放映されれば驚くなかれ、一か月くらいは松島のとこにもファンレターが来たりするのだ。 「だからあ」  先生も笑いながら答える。 「天然記念物だろうが無形文化財だろうが、銃は免許のある人しか撃っちゃいけないの! 猟友会の人が撃つところを見せてはもらえるけどね。あと、兎を捕えるためのワナの仕掛けかた、殺しかた、皮のむきかた……」  女子ではなく、男子のほうから、 「げー」「ざんこくー」  などの声があがる。女子はあんがい平気な顔で聞き、 「わー、申し込む申し込む」  なんてささやいてるのまでいる。 「そういうわけで、今日はキャンプ時におけるおのおのの役割を決めます。記録係、食事係、掃除係、観察係、遊戯係。では、班ごとに机つけて」  がたがたがたと、僕たちは五人ひと組の班ごとに、机をくっつけて話し合いの態勢に入った。番組の目玉である徳田と僕がいっしょの班なので、当然カメラは僕たちD班へと近づいて来る。もちろん江上さんもいっしょだ。香水とはまた違ういい匂いが漂ってきて、僕はとても幸せな気分になるとともに、お尻《しり》の筋肉が何か甘ずっぱい力でぎゅっと掴《つか》まれるのを感じた。 「それじゃあ係を決めます」  班長の河合みゆらが言う。僕と河合と徳田のほかは、松島と上山芽衣がD班の構成員だ。 「なりたい係のある人は言ってください」  僕と松島が同時に手を挙げ、 「遊戯係」  と言った。河合がため息をつく。 「じゃ、遊戯係の仕事ってどんなんだか言ってみて」 「プロジェクターを持っていってテントにゲームの映像を映し、トーナメント制で対戦ゲームをおこなう。遊戯係は当然シード」  と松島が答える。 「馬鹿。プリント読んでないの。五郎太《ごろうた》牧場って電気ないんだよ。それに遊戯係は、自分が遊ぶ係ってことじゃないんだし」 「じゃ、なにするんだよ」 「ドッジボールの線ひき。キャンプファイヤーのための焚木《たきぎ》あつめ。なにかおもしろいレクリエーション・ゲームを考えたりして、自由時間をとりまとめるの。あと、夜は真っ暗だから、小説一冊ぶんくらいお話を暗記してみんなに話して聞かせるとか」 「あ、俺パス」  松島はあっさりと引き下がった。僕も引き下がりたかったが、松島が続けて、 「話すんだったらさ、藤山が得意なんじゃねえの」  なんて言ったもんだから窮地に陥った。 「あたしは班長なんだから他の仕事にはつけないの」  河合がすました顔で言う。と、黙って聞いていた徳田がすっと手を挙げた。 「俺やるよ、遊戯係」  視界の隅で、カメラマンの目高さんがズーム機能を調節するのが見えた。徳田は言った。 「焚木あつめって得意なんだ。もし雨が降ってて木が濡《ぬ》れてても、うまくつける方法知ってっからさ」 「そう」  河合みゆらは、「だいじょうぶ?」とか「できるの?」とかは一切言わず、静かにうなずいた。以前掃除の分担を決めるとき、徳田が窓ふきを志望したときみたいに。徳田は、腕と腿《もも》の力だけで窓枠を登ってゆき、落っこちたらただではすまない二階の高いところに腰かけて、すべての窓を拭《ふ》ききったのだ。 「それじゃあ、徳田くんに遊戯係をやってもらいます。じゃあほかに、やりたい係なんかある人」  遊戯係の次に人気があるのは記録係で、これはキャンプが終わったあといいかげんに作文を書いて出せばいいと思われてるからだが、僕はいいかげんどころか作文だったらちょっとしたものを提出する自信がある。僕はその点を力説した。放映されたりはしないだろうが、文芸に関心のあるというところを江上さんに知ってほしかった。  ところが、記録係に自分を推薦しながら目のすみでうかがうと、江上さんは僕たちの班のエリアから離れてしまっている。教室全体の感じを掴むためだろうか、ショッピングでもするような感じで、ぶらぶらと周りを見渡しながらゆっくりと向こう側へ歩いて行く。僕はがっかりしてしまった。 「じゃあいいよ。記録係、藤山くんね」  あっさりと河合みゆらが断をくだしたので、僕はそれ以上話し合いに参加する気をまったく失い、堂々と後ろを向いて江上さんの動きを目で追った。  江上さんは、A班のかたまってるほうへ近づいていった。なにか質問でもするのか、と思っていたら、江上さんはそのまま通り過ぎ、教室のいちばんすみっこへと近づいていく。なにか落ちてるものでも見つけたのだろうか。だがそうではなかった。江上さんは、ひとりだけどこの班にも入らずにじっと目の前の中空を眺めている八重垣潤に話しかけたのだ。 「どうしたの?」  返事はない。根本先生だろうがほかの組の先生だろうが校長先生だろうが、八重垣は大人とはほとんど口をきかないのだ。 「あなたの班はどこ? どうしたの、話し合いは、きらい?」 「あ、江上さん」  根本先生がささっと近寄っていって、江上さんの腕を掴むと彼女を引っ張ってきた。 「当日のスケジュールについてお教えしておきましょうね」 「それは、局ですでにうかがっております」  江上さんは言い、自分の腕から先生の腕を外すと、八重垣のほうを振り向いた。 「あの子はどうしたんです? なんであんなところに座らされてるんですか、なにかの罰? 見たところ、ケガをしてるようですが」 「江上さん、それはいいんです」  根本先生がおだやかに繰り返す。江上さんはびっくりしたように根本先生を見た。 「それはいい?」 「ええ。あの子はちょっと、授業を妨害する癖があるものですから。あそこがあの子にいちばん居心地がいいんです。わたしたちにとってもそのほうが」 「わたしたち?」  江上さんが急に馬鹿になったように見える。どうして根本先生の言葉を繰り返すのだろう。なにか不審な点でもあるのだろうか。江上さんは、ふたたびつかつかと八重垣の前まで寄っていった。 「あなた、その顔の血はなに? だれかにやられたの? だれにやられたの?」 「えー……それではつぎに食事係を決めます」  河合みゆらが言い、僕たちははっと気がついて話し合いの続きをした。 「やっぱカレーだよな」 「だれがメニューを決めるって言った」 「メシはやっぱり火で炊くのか?」  それをきっかけに、他の班もがやがやと話し合いの続きに入った。教室は話し声で満たされ、止まっていた歯車がまた回りだした。 「江上さん」  ディレクターの弥刀さんが江上さんを呼んだ。江上さんは奇妙な目で周囲を見渡してから弥刀さんのところに戻った。弥刀さんがなにかを耳うちしている。きっと、まだこのクラスの雰囲気をよくのみこんでいない江上さんにアドバイスをしているのだろう。江上さんは何度もうなずきながら聞いていたが、やがてパンプスのかかとをかちっと鳴らして向きをかえると、元どおりおだやかな笑みを浮かべて僕たちのところへ戻ってきた。そう、彼女の番組の主役は、徳田芳照と僕たちD班のなかまたちなのだから。     6  午前中の授業が終わり、給食の時間になっても撮影は続いた。と言うより、徳田が車椅子で汁もののバケツを運んでくるところを、目高さんが後ずさりながら撮るというのが撮影予定に入っていたのだ。本当は今週の給食当番はA班であって僕たちD班ではないのだが、演出上の都合により僕たちは、徳田を特別扱いせず重いものだってみんなと同じように運ばせる、という場面を撮るために交替することとなった。その代わり次回当番の週は一回とばしてもらうことになっている。  給食を配る間、女子たちがすみっこのほうに集まって手もちぶさたそうにしていた。袋入りの卵サンドをくばっていると、聞くともなしに、 「江上さんは?」 「知らない。どっか行っちゃった」 「じゃ、八重垣は。『植物占い』の本見せてもらおうよ」 「それが、あいつもいないんだ」  などと話している。なるほど、さっき江上さんが前に立ってつくづくと眺めおろしていた八重垣の姿はなく、ひとつだけぽつんと離された机の上には、まだ止まっていなかったらしい血のあとが点々とついている。見るからに汚らしい。僕は近づくのがいやで、八重垣の机の上にどさっと卵サンドを投げつけた。狙いがそれ、サンドイッチの角と机の角がぶつかってサンドイッチは床に転がった。それを見つけた女子のひとりが、にやっと笑って卵サンドを踏みつぶす。周辺にいた連中がけたけたと笑った。 「きっと食べるぜあいつ、これ」  いままで、当番がわざと床に落としたパンなんかを八重垣が黙って食べてた点からいって、それは十分ありえた。ほんと、汚いやつ。  女子たちの何人かは、携帯電話を耳にあて、またしても、 「うそー」  とか、 「やりー」  とかぶつぶつ言っている。どうやら、今日の運勢を聞いているらしい。僕は、昨日河合と徳田が、「僕の番号」で何を聞いたのか尋ねるのを忘れていたのに気がついた。撮影が始まった緊張で、いままで思い出さずにいたのだ。  ふいに目の前にトレイが差し出され、見上げると江上さんが立っていて、静かにほほえみながら僕を見つめていた。心臓がどきんとなった。 「わたしたちもおなじものをいただくわ」 「あ、は、はい」  僕はばかみたいにどぎまぎしながらそのトレイに卵サンドをのせた。江上さんはトレイを、廊下に積んであった使ってない机を運び込んでくっつけた、テレビスタッフ用の間に合わせのテーブルの上に置くと、ゆっくりした足どりで女子のかたまっているところに戻ってきた。 「わー、江上さん」 「手相見て見て」  朝見てもらっただけでは満足できないらしく、女子たちがあとからあとから江上さんに手を突き出す。 「あらあなた、けさも見てあげたでしょ? 一日に何回も同じこと占うのはよくないのよ」 「え、そうなんですか」  携帯を耳にあてて熱心に聞いていた、山本温子《やまもとあつこ》という女子が困ったような顔を上げて江上さんを見た。 「そうよ。占いは、生きてくうえで最低限参考にするためだけのもの。もっと言えば、自分を知り、自分で考える力をやしなう手伝いをする、それだけのものでしかないのよ」  僕は江上さんの言いたいことがよくわかったが、女子連中はやっぱりぽかーんとしている。ああしろこうしろとお告げで言ってくれたほうが、彼女たちは安心するのだ。 「げー、朝から八回も聞いちゃった、これ」 「一日の運勢なんだから、あしたんならなきゃなんべん聞いたっておんなじでしょうがよ」  他の女子に言われて、山本は不満そうな顔でうなずいた。 「『とくに吉でも凶でもない一日です』なんて言われたっておもしろくないんだよねえ」 「さっきからみんなでぴこぴこやってたみたいだけど、なあにそれ?」  江上さんが興味深そうに尋ねた。女子たちがいっせいに言った。 「『植物占い!』」  江上さんはおかしそうに首を振った。 「『動物占い』じゃなくて?」 「あれ、たった十二種類だもん」  女子が口ぐちに言う。 「『植物占い』は二百二十種類あるの」 「あたしはジギタリスだって」 「あたし、むじなも[#「むじなも」に傍点]だって。むじなもって、なに?」 「ふーん」  江上さんはかるくうなずくと、女子たちの輪の外側にある八重垣の机にすっと近づき、その表面に散らばっている血のあとに軽く触れた。それを目で追っていた女子たちばかりでなく、なんとなくそっちを見ていた男子連中も、ぎょっとなって息をのんだのがわかった。女子たちは顔を見合わせ、やがて山本がおずおずと言った。 「そこに座ってる子が本を持ってきて、それで——」 「ここに座ってる——」  江上さんは、各人の机のわきにある紙のネームプレートをのぞきこんだ。もとより八重垣のネームプレートは、ガムをなすりつけられたりマジックで「キチガイ」とか「バイキン」とか書きなぐられているせいで、判読できたしろものではない。 「八重垣って子」 「そう」  江上さんは顔を上げ、八重垣を探すように首を動かした。教室内に見当たらない。よく見るとランドセルがない。帰ったのかもしれない。よく、先生に無断で姿を消したりするのだ。江上さんは、床でつぶれている八重垣のぶんの卵サンドをじっと見た。女子連中が、居心地悪そうにもじもじした。 「その子は、どこでそんな本手に入れたのかしら?」  江上さんが言うと、シチューをつぎながら教室を回ってきた徳田が江上さんのわきにすっと車椅子をつけて言った。 「あいつときどき古本屋にいたりするから、そこで手に入れるのかもね」 「あらそう」  江上さんはほほえんで徳田を見た。 「徳田くんもそういうお店によく行くのね。本の貸し借りとかもするの?」 「げっ、よしてよー」  徳田は、シチューの入ったずんどう鍋《なべ》を手のひらで叩《たた》きながら笑った。 「あいつが店にいるの見たら、俺はすぐ出ちゃうもん」 「へえ、そう」  そのとき、根本先生が職員室から戻ってきたので、僕たちはそれぞれの机に戻り、いただきますをして給食を平らげにかかった。NBNのスタッフたちも後ろのほうで僕たちと同じものを食べているが、カメラマンの目高さんだけは、昼食もそっちのけで僕たちD班の食事風景を撮影し続けている。目高さんのカメラはずっと徳田のほうを向いているが、わき役のはずの僕たちも、いつの間にかアップにされていることがあり、これで三回目なので慣れてるとはいえ、やっぱり少し緊張する。  サンドイッチの包装をはがしていると、班長の河合みゆらが顔を低くして僕に話しかけてきた。 「なに八重垣、帰っちゃったの?」 「俺ちょっと強くどつきすぎたかな」  徳田のその言葉に、河合はなにがあったのとは聞きもしない。のべつクラスのだれかに殴られている八重垣のことだからだ。僕は言った。 「血が出たせいじゃねえだろ。前、足折ったときだって放課後までいたしさ」  男子連中で追いかけて階段から突き落としたときだ。  河合は、どこか憂鬱《ゆううつ》そうな顔で、皿にもったトマトシチューをスプーンのさきでかきまわした。腹具合がわるいらしく食がすすまない。松島公彦と上山芽衣は、とっとと食べ終わって席を立って遊びに行った。それを待っていたかのように河合が言った。 「真介、芳照、帰り、つきあってくれない?」  僕と徳田は河合を見た。 「別にいいけど。お前のほう、今日は妹迎えにいかなくていいのか」 「うん。ゆうべ遅く、お母さん帰ってきたから」 「どこ寄るんだよ」 「八重垣ん家《ち》」  と河合が言ったので、僕と徳田は牛乳を噴き出した。 「や、や、や、八重垣ん家《ち》?」 「どうせ、だれかパン持ってけって言われるでしょ」  河合は、すみっこの机の上に載っている、靴底の模様のついたつぶれたパンを眺めた。 「よせよ。バイキン伝染《うつ》ったとか言われるかもしれないぜ」  僕が言うと、河合は、 「だからいっしょに行ってくれって言ってんじゃない」  憤然としてかかとを打ちならした。 「芳照はぜったい、菌伝染らないん[#「菌伝染らないん」に傍点]だから」  そのとおり。僕たちクラスメイトは、ぜったいに徳田を傷つけたりはしない。かといって特別扱いもしない。僕たちは三組の仲間たちだ。河合は僕を見た。 「真介」 「わーった、俺もつきあうって」 「真介にも関係してることだよ」 「な、なにが」 「昨日携帯で、真介の運勢聞いたときのことおぼえてるでしょ」  あ、と僕は河合を見た。そうだ、聞こう聞こうと思っていて、また忘れていた。徳田も、奇妙な目で僕と河合を見比べている。 「おまえら、いったいなに聞いたんだ、あれで……」  河合と徳田は目と目を見交わした。僕は苛立《いらだ》ち、ランドセルをあけて携帯を取り出した。 「ほら言ってみろよ、その占いサービスの番号」 「よしなよ」  河合が声をひそめる。僕は思わず大声になる。 「なんで!」  僕は、思わず手を握りしめた。 「俺、死ぬのか?」 「へ?」  徳田が、質問に似つかわしくないまぬけな声を出した。 「それとも病気か。何年も苦しむような。将来変態殺人鬼になるとか」 「おまえいったい、なんの話してんの?」 「だって、電話で聞いたんだろ、俺の運勢! 不吉なこと言ってたから、それで俺に教えたくないんだろ!」  徳田は河合と顔を見合わせ、それからぶっと噴き出した。僕は憤然となった。 「なんだよ!」 「そんなふうに思ってたん?」 「そんなふうにって……」 「違うよ。全然。ちゃうちゃう。大はずれ」 「一つだけ言やわかる!」 「あのね、音だったの」  河合が言った。 「音?」 「そう。きいーんっていうか、ぶうーんっていうか、すっごくいやな音。言葉じゃなかった」 「きーんやぶーんとは違うだろ」  と徳田が言うと、どういうわけか河合は顔をあかくした。 「うん、うまく言えない。とにかく、いやな気分になったことはたしか」 「それが俺の運勢?」  僕はあっけにとられて言った。 「だから、運勢なんてもんじゃねえよあれは。たまたま、おまえの誕生日の番号んとこだけ、テープだかMDだか知らんけど、録音がどうにかなってたんだろ」 「でも真介の誕生日、八重垣の持ってきた本にもそのページなかったよね……」 「だから帰り八重垣んとこ寄ろうっての? 俺の語られざる運命が気になるからって?」 「違うよ。まったく個人的なことだよ。今日はたまたまいるけど、このごろお母さんとお父さん、ふたりそろって夜いるときってないの。うちの工場はどうなるかわかんないし、お母さんは、『みゆら、京都が好きだって前言ってたよねえ』なんて不吉なこと言うし」 「なんでそれが不吉なの」 「京都に子供のいない伯母さんが住んでるの。あたしのこと可愛がってくれるんだけど、だからってそこの子になるなんてやだよ!」 「やだったって」  と徳田が冷静な口調で言った。 「もしおまえん家《ち》倒産して、一家ばらばらになるとしたら、おまえに選択権はあまりないと思うぞ」 「だから」  河合はスプーンを取りおとして顔を覆った。 「さっきまた、『植物占い』で今日の運勢聞いたの。『午後、つきあい薄き人を訪ねれば有益な情報あり』だって」 「なんだそりゃ」  僕はあきれて言った。 「それが八重垣のことだっての? 『つきあい薄き人』だけじゃわかんねえじゃないか。角のパン屋のおっさんかもしれないし、クラブの先輩かも。校長先生って可能性もある」 「あたしは自分の運命を知りたいの」  どうも僕の意見を考慮してはもらえないようだった。 「バスの中でバープリ(バーガープリンス)のドリンク券拾って、それでバープリに行って買い食いしたらお腹こわした。つまり、占いは当たったってことよ」 「悪いことがたまたま起きたから、的中したみたいに思えるだけだよ」  河合は、ひどく飲み込みの悪い相手を見るような目で僕をじっと見つめた。僕は苛立ってさらに言った。 「それに八重垣に会ってどうするってんだ。あいつだって、ただどっかで見つけてきた本を読みあげてついでにテレフォンサービスの番号広めてっただけだろ。本格的に占ってほしいんだったら、その本書いたやつやテレフォンサービスやってるやつを突き止めなきゃ」  そう言ってしまってから、僕は口をつぐんだ。 「そのとおりだよ」  河合は言った。 「もし八重垣が知ってるんだったら、それを教えてほしいんだ。少なくとも、あの本をどこでどうやって手に入れたかを」  僕は何と言っていいかわからずに徳田を見た。徳田はあきらめたような顔でかすかに首を振っている。僕たちのうちのひとりだったジョンが父親の借金が理由で消え、いままた河合が消えてしまったら、僕たちにはもうお互いしかいなくなる。まるで、干上がる水たまりの中で中心に追いつめられているカエルみたいな気分だった。  こつこつ、と軽やかなパンプスの音がしたので、おやと顔を上げると、江上さんが給食のワゴンに近づいてゆき、ずんどう鍋からシチューをおかわりした。 「よく食う女だなあ」  と徳田が言うと、教室に残っていた連中がどっと笑った。 「だっておいしいんだもん」  江上さんはすました顔で言う。僕は、肉だんごが二つ残された自分の皿を見下ろした。 「うまいですかあー?」 「ええ。味つけは濃いし、おかわりしてもいいし」 「普段何食ってんだよー」  と徳田が言い、江上さんは、 「さあ、何かしらね」  と言いながら、使ってないスプーンをとって僕のとなりの松島の席に座った。 「しばらく町をはなれてたの。今日から撮影なのは前から決まってたから、大いそぎでゆうべ戻ってきたのよ」 「遠くにいたんですか?」  僕は尋ねた。 「まあ、そんなもんね」  江上さんは、にっこり笑って言った。  その日の、掃除の時間のことだった。僕らD班はトイレ掃除で、もちろん徳田も同じように当番をやるから狭いトイレに目高さんと照明さんと僕たちとで、超現実的な人口密度を楽しんでいると、踊り場のほうから女子の悲鳴が聞こえた。僕たちは掃除の手をとめた。続いてまた悲鳴。  僕と徳田は顔を見合わせ、うなずきあった僕は徳田の車椅子を押し、とっさにトイレの壁にはりついた目高さんの前をすり抜けてドアの外の踊り場へと出た。  C班の連中が、階段の下を指さして何か騒いでいる。昼間なんだかんだ江上さんに話しかけていた山本温子が、駆けつけた僕たちを見て叫んだ。 「甲田《こうだ》は、びわ[#「びわ」に傍点]なんだよ!」  びわ? びわって、あのオレンジ色をした丸い、タネの大きなくだもののことか?  階段の下をのぞきこむと、よく踊り場サッカーでディフェンスをつとめる甲田周一が尻《しり》もちをついて痛そうな顔をしており、そのそばでバケツが引っくり返って汚れた水がぶちまけられている。僕は呼びかけた。 「甲田! 大丈夫か、立てる?」  甲田は顔をゆがめて首を振った。 「保健室の先生呼んでこい」  僕が言うと、C班の宮内《みやうち》という女子がすっ飛んでいった。僕は階段を駆けおりた。後ろから山本の声が追いかけてくる。 「びわの種が飛ぶ季節だから! 風の強いときは注意しろって! 種が大きいように、実体があまりない人間だからって!」 「うるせえ! なにが実体がないだ!」  痛みに顔をしかめながら甲田がどなりかえす。 「風吹いてたからテラスの窓閉めとけっていうのに、ゴミをはきだすから! 風で飛ばされたんだよ、あんたびわだから!」 「なにがあったんだよ。ほんとに風のせいか?」  僕が甲田のほうを向いて聞くと、甲田はいまいましそうに言った。 「窓ふきやってた連中が窓あけたんだよ。そしたら急に強い風吹いてさ。カーテンがぶわーってなって。俺、テラスにごみ掃きだしてたんだけど、ほうきの端がカーテンにからまってさ。こっち戻ろうとしたらほうきが足につっかえて、体勢たて直したらバケツに足つっこんで。ほんで落っこちた」  甲田は上を向いて山本にどなった。 「だから風で飛ばされたわけじゃねえよ! 俺の運勢なんか聞かねえでいいって言ったろうが!」 「だって、心配だったから!」  そういえば山本は甲田のことが好きだとかいう噂だった。  そこに保健室の芹沢《せりざわ》先生と、なぜかいっしょに根本先生もかけつけてきた。 「どうした、無事か、甲田!」  階段を駆けおりてきて、甲田を助け起こそうとする。甲田の足に触った芹沢先生は、 「折れてはいないみたいです。打撲と捻挫《ねんざ》だけでしょう」  と言った。  校内一のデブでさえ片手で持ち上げる、別名「女力士」の先生が甲田を抱えあげて去ると、根本先生はC班の連中を見渡し、それからずっとカメラを回していた目高さんをきっと睨《にら》んだ。 「こんな場合です。撮影はよしていただけませんか」  ディレクターの弥刀さんの姿は見えなかった。目高さんは、素直にカメラをおろした。 「さて。なにがあったかちゃんと説明してくれる?」  根本先生は、C班の連中を順に睨みつけながら言った。僕は先生の後ろに立っていたのだが、肩をつつかれて振り向くと、帰る用意をすませた河合が立っている。いつの間にか徳田の姿が踊り場から消えている。騒ぎの詳細が知れると同時に、さっさと帰る態勢に入ったらしい。いまごろは校内で彼だけが使うのを許されている教員用エレベーターで降りて、裏門のところで僕たちを待っているのだろう。     7  河合のうちの工場が倒産するとして、離ればなれにならないでいられる方法はないかと考えた。手紙やパソコンを使って、「子どもの権利条約委員会(実在するかどうか知らんけど)」に連絡をとり、引っ越しを強制されない自由を保障してはもらえないだろうか。三人で貯金をかき集めて、腕ききの弁護士を雇えないだろうか。子供の小遣いで仕事を引き受ける弁護士の話だって小説の世界ではあることじゃないか。それにいまはインターネットというものがある。世界に訴えかけることだって可能だ。問題は、世界に訴えるには英語力が必要だということだが……  でもそんなことはなにひとつ口に出せず、僕は河合と、車椅子をあやつる徳田とともにとぼとぼと歩きつづけた。するとふいに河合が立ち止まった。ランドセルのひもを握り、背中を緊張させている。その視線の先をたどると、坂を降りきったところに、奇妙な影がうずくまっていた。  それはなんだか、傷ついた大きな虫のように見えた。「風の谷のナウシカ」に出てくる王蟲《オーム》が、どろどろと血を流すクライマックスシーンを思い起こさせた。河合が、吐き捨てるように言った。 「あいつ、待ってる」  八重垣潤だった。会いに行こうとしていた相手なのに、河合の顔にみるみる嫌悪感が広がる。  地面にへばりついているその姿は、八重垣にとてもよく似合って見えた。本当は、地面に住むみたいに這《は》いつくばってずるずる進むのがあってるんじゃないだろうか。むりに僕たち人間の間に入って来ようとしないで。おばけ屋敷にでもつとめればいいのに。  八重垣は立ち上がり、あのなんとも僕たちをいらつかせる、いつも顔にへばりついている笑いの表情のままで、空中を歩いているような不思議な足どりで、僕たちのほうへすうっと近づいてきて、河合の前まで来てぴたっと止まった。こんな顔はどこか別のところで見たおぼえがある。なにかの図鑑で見たアフリカの仮面。狂った笑いのかたちに凍りついた表情。この顔と対面する勇気をふりしぼって(根本先生だって、直視するのがいやだから八重垣の机をあんなすみっこに追いやったのだ)校門を出てきたにもかかわらず、じっと見ているうちに僕は吐き気がしてきた。それは徳田も同じだったろうと思う。河合は口をきっとひきむすび、唇《くちびる》のあいだから言葉を絞りだした。 「なんだよ」  自分から会いに行こうとしたくせになんだよもなにもないものだが、僕には河合の気持ちがよくわかった。八重垣は、喉《のど》の奥から出る笛のような不気味な声で、 「うふふふふふふふふふ」  と笑った。 「なんだよ!」  河合が叫んだ。 「前に立つんじゃねえよ、ゴミ! 空気が汚れるだろ! 病気になったらどうしてくれんだ! 弁償できんのか!」 「パン持ってきてくれたんでしょ。いやだってのによくやるよね、みゆらちゃん」  と八重垣は言い、僕と徳田はのけぞった。河合は嫌悪感丸だしの顔で横を向き、 「みゆらちゃんなんて呼ぶなっ! あたしの名前が腐っちゃうじゃないか!」  と叫んだ。八重垣は一瞬黙り、その笑い顔のまま下から河合の顔をねめつけて言った。 「じゃ、河合さん」 「じゃ?!」  河合は腕をぶん回して八重垣の横っつらを張りとばした。八重垣は関節が存在しないかのようにぐにゃっと地面に転がった。 「名字でも呼ぶなっ! おまえに呼ばれるとすべてが腐る!」  河合は僕たちのほうを振り向き、首を振ってみせた。八重垣に用がありはしたが、やはりこんなやつと話すのは耐えられないというサインだ。僕たちは歩きだした。もういっぱつ八重垣の腹に蹴りを入れ、その顔の上で靴をこねくり回すと、体をまたいで歩きだした。徳田は例によって八重垣ののばされた指さきを車椅子で轢《ひ》き、僕も八重垣の背中を踏んづけて通った。 「そう急いで帰ることもないんじゃない?」  突然背後からしたその言葉が、だれに向けられてのものなのかとっさにはわからなくて、僕らはきょとんとなった。声は続けて言った。 「この人に用があったんでしょ? 藤山くん、とっきー、河合さん」  僕たちは驚いて振り向いた。そこにいたのは江上さんだった。八重垣を助け起こして、体についた埃《ほこり》をぬぐってやっている。そしてにっこり笑って手を振る。周りに、NBNのスタッフたちの姿はない。 「あの、みなさんは……」  河合が、あわてて頬に残った涙の跡をぬぐって尋ねた。江上さんは、視線で町の方角を示した。 「もう今日のぶんの撮影は済んだから、ホテルに戻ってるわ。温泉入って、晩ごはん楽しみにしながら宴会の始まるの待ってるんじゃないかしら」 「それで、江上さんは、どうして……」  僕は尋ねた。江上さんは、ここで待ちぶせでもしてたのだろうか。 「お昼のときに聞いた『植物占い』の話に興味があったものだから」  江上さんは、それがとても自然なことのような口調で言った。 「わたしの役目は、みんなと仲良くなって、みんながわたしの見てるとこでも自然体で撮影されてくれるように気を遣うこと」 「僕たち、自然体じゃありませんでしたか」  もうなんべんもやってることなのに。いささか憮然《ぶぜん》として僕は言った。 「て言うか、学校ってとこには、大人にはよくわからない影の部分ってあるじゃない? 山本さんだったかしら、あの人は占いっていったら『恋占い』くらいしか連想できないタイプの人でしょう。あの人と話してても、あなたたちの間ではやってる占いの負の部分はうかがい知れないものよ」 「負の部分ですか」  徳田が皮肉な口調で言った。江上さんは平気な顔で答える。 「それぬきに人生は語れないわ」  どうやら江上さんは、子供は慰めや希望よりも真実をいちばん欲しがるということを知っているみたいだった。僕は言った。 「今日掃除のとき、『植物占い』のことでちょっとした騒ぎがあったんです。甲田ってやつが階段から落ちて」 「らしいわね。学校出るとき聞いたわ。へたすると『植物占い』は禁止されるかもしれないわね」 「どうして?!」  河合が青ざめて一歩踏み出した。江上さんは言った。 「わたしが子供のころ、『こっくりさん禁止令』というのが出たことがあるの」  こっくりさんなら、ホラーマンガで読んだことがある。無意識の力で十円玉を動かしてるだけの、果てしなくばかばかしい錯覚だとしか思えなかった。江上さんは、遠くを見るような目つきをした。 「何人か、やってる最中にひきつけ起こしたり、体が硬直して動けなくなる子が出てね。精神病院に入った人もいたわ。それで結局、市の教育委員会まで乗りだしてきて全面禁止。馬鹿みたいね、表面しめつけたって、見えないところにもぐりこむだけなのに。そして、禁止されたものはもっと陰険な内容を持つ、強迫的なものになってくのよ。ある女の子は、部屋で首をつってるところを発見されたわ。机の上にあいうえお五十音を書いた紙と十円玉が置いてあった。いったいどんなお告げを受けたのかは知らないけど。禁止令が出たあとのことよ。そんな迷信がなければよかったって? わたしは、禁止されたことでかえって迷信に力を与えてしまったことが原因だと思えるんだけど」  江上さんは、また僕たちに視線をもどした。 「人間には非合理なものが必要なのよ。クリスマスはよくてこっくりさんは悪いだなんて、だれにも言えないわ。『植物占い』もね。それがなんの危険もないものであれば、先生や学校が禁止しようとしたときに、わたしが君たちの味方をしてあげられるかもしれない。だから彼女に話を聞きたかったの。君たちのあとをついてけば会えると思ってた」  江上さんは、じっと黙って立っている八重垣の肩にさわった。 「そのとおりだったでしょ?」  江上さんは、八重垣の肩を抱いたまま僕たちのそばを通りすぎた。僕たちは、糸に引っ張られるようにしてその後をついていった。河合が、歩きながら足もとにあった小石を蹴った。それは八重垣のふくらはぎの後ろに当たったが、八重垣は無反応だった。が、江上さんが僕たちのほうを振り返り——にこりと笑った。河合はびくっとなり、それきりなにも手出しをせず、僕たちはとぼとぼと江上さんと八重垣の後を歩いていった。     8  八重垣の家が、赤茶色のペンキを塗った板塀に囲まれた、だいぶ古いが落ち着いた感じのする木造の家だったのが、僕には少し意外だった。クラスの連中はみんな、八重垣が「壁がぼろぼろで三十匹もの野犬と暮らしているらしい」「むかし変態が少女をさらって切り刻んでいた家に住んでる」「橋の下でごみを拾って食っている」なんて噂していたのだが、いつのまにかてっきり本当のことだと思い込んでいた。  八重垣は江上さんに支えられながら木戸をくぐった。僕はいささかむかっとなって八重垣に言った。 「ひとりで歩けるんだろ? 弱ってるようなふりすんなよ」 「藤山くん」  江上さんがたしなめるように僕を見た。徳田が言った。 「本当ですよ江上さん、八重垣はすぐまいったふりするんです」 「江上さん」  と河合も言った。 「江上さんは、そいつのことよく知らないんです」 「そう」  江上さんは、とくに反論はしなかった。 「じゃ、八重垣さん、こっから先はだいじょうぶ?」  江上さんの質問に返事もせず、八重垣はすっと江上さんから離れると、ポケットから鍵《かぎ》を出して玄関をあけた。ふらついてはいない。 「ほらね」  と僕は言ったが、江上さんはなにも言わなかった。 「ただいま」  そう言った八重垣の声が、教室では聞いたことがないほど明るくて普通だったので、僕たちは一瞬驚いてあとずさった。続いて家の中から、 「おかえりー」  というこれも明るくておだやかな声がする。江上さんが玄関に顔をさし入れて、 「ごめんください」  と言うと、その声は一瞬間を置いて、 「お客さんなの? 潤」  と言った。 「うん!」  と答えた八重垣の声はあくまで明るかった。僕たちが江上さんの後ろからうかがっていると、廊下をまがって小太りで色白のおばさんが姿をあらわした。江上さんが挨拶《あいさつ》する。 「潤ちゃんのお母さんでいらっしゃいますか」 「はいそうです」  おばさんはにこやかに答え、玄関マットの上に座って頭をさげた。 「江上と申します。潤さんのクラスでつくる番組のレポーターをやらせていただいております」 「まあ、あの、『とっきーと3組のなかまたち』のシリーズでしょう! いつも楽しみにしてるんですよ」  そう言っておばさんは、江上さんの後ろの僕たちのほうをうかがう。 「まああなた、藤山くんでしょう。去年、安藤さんといっしょに川に落ちた……あなたは、河合さん? カレー作りの炊事長してた……まあ、とっきー本人まで!」  おばさんは立ち上がり、玄関先まで出てきた。 「まあ、潤の友達がうちに来てくれるなんて、初めて! どうか上がってください、あ、すいません、いま奥にお客が来てますけど、あとで潤の部屋にお茶もっていきますから」  そう言っておばさんは、徳田の車椅子をさっさと玄関の中に押し込む。そして、徳田を車椅子の上から抱き上げようとした。徳田はあわてた。 「あの……」 「だいじょうぶだよ、お母さん」  教室では出したことのないおだやかな声で八重垣は言った。 「徳田くんは自分で階段上れるから。なんだってひとりでできるの」 「まあそう! そうだったわよねえ、いつも番組で見てるもの!」  おばさんはそう言い、いそいで徳田から手をはなした。 「どうかお客の相手をなさっててください。わたし、番組の進行について潤さんたちがなにか提案があるとおっしゃるもので、それでついてきただけですから」  江上さんは言った。 「まあ! 潤の意見がなにか、番組に反映されるんですか?」  おばさんの質問に、江上さんはにこやかに答えた。 「ええ、もしかしたら」 「あらまあ、どうしましょ」  おばさんは、善良そうな顔に誇らし気な笑みをあふれかえらせて、小太りの体をよじり、嬉《うれ》しそうに笑った。  腕の力だけで階段を上っていく徳田を先頭に、僕たちは二階の八重垣の部屋へと向かった。江上さんが八重垣に言う。 「ほがらかなお母さんね」 「そうですか」  再び、脳がきしむような妙な高音にもどった声で八重垣が言った。 「お客さんていうのは?」 「近所の人たちです」  八重垣は答えた。 「母はとても人に好かれるんです。気前がいいし、だからってバカってわけじゃない。人づきあいがもともと好きなんです」 「だけど母親参観であのおばさん見たことねえぜ」  腕の力で階段を上りながら徳田が言った。 「あたし、プリント渡さないから」  と八重垣は答えた。母親参観お知らせのプリントのことだろう。 「それがいいね」  と河合が言う。 「あんたがクラスのみんな気持ちわるくさせてるとこ、あのお母さんに見せないほうがいいよ」  八重垣は階段の途中でぴたりと歩みを止め、振り返って奇妙な目で河合を見た。河合は顔をしかめて八重垣を見返した。 「なによ」  八重垣は首を振り、なにを思ったかくすりと笑った。河合はもういちど、 「なによ!」  と言ったが、八重垣はもう聞いていなかった。二階の廊下に到達した徳田の横を通り、白くぬられたドアをあける。  中は、これが女子の部屋かと思うほど殺風景だった。ぼろっちい木の机がひとつ置いてあるきりで、ポスターもファンシーグッズも、なんの装飾品もない。部屋のすみにダンボールが二、三個積まれてあって、まるで引っ越しのときにいらないものを置いてった物置みたいだ。床はじゅうたんもなく、むきだしの畳である。八重垣はそのまま部屋のすみに座りこみ、江上さんは畳の上に正座する。河合は、ちょっと考えてランドセルからノートを出すと、なにも書かれていないページを三枚ちぎってそのうちの二枚を僕と徳田に渡した。河合がちぎったページを下に敷いて座ったので、僕たちもそうした。江上さんは、そんな僕たちを静かなまなざしでじっと見ている。 「それで」  八重垣は、いつものにちゃっとした、高くきしんだような声でそう切り出した。 「江上さんはなにが知りたいんですか」 「『植物占い』のこと」  単刀直入に江上さんは言った。 「あなたどうして、それをはやらせたの?」  八重垣は肩をすくめた。 「去年からずっと、『動物占い』がはやっていて」  そう答える。 「たまたま、『植物占い』の本があったから、学校へ持ってったらうけるかと思って」 「人気者になりたかったってか?」  徳田が鼻を鳴らす。 「人気にはなったじゃない」  八重垣が言うと、河合が吐き捨てるように答える。 「あんたじゃなくて、占いのほうがね」  八重垣はちらっと河合を見たがなにも言わず、ランドセルを開けるとあのうす緑色の本を取り出して江上さんに渡した。江上さんはぱらぱらとめくり、そのまま八重垣に返した。 「どこで手に入れたの?」 「博覧会の会場」  八重垣は簡潔に答え、僕たちはちょっとぽかんとした。江上さんが重ねて訊《き》いた。 「博覧会って、『伝統工芸博覧会』?」  八重垣はうなずいた。河合が、 「嘘だよ!」  と叫ぶ。 「あたしたち、学年の見学であの博覧会行かされたじゃない! だれかそんなもの売られてるの見た?」  僕も徳田も首を振った。 「いいかげんなことばっか言って! 嘘つき!」  河合がなおも叫ぶのを、江上さんは河合の膝《ひざ》に手を置いてとめた。 「落ち着いて。八重垣さん、いまの意見に対してはどうなの?」  八重垣は、なにを考えているのかわからないうすら笑いの表情のまま言った。 「本番では売られなかったから」 「どういうこと?」  八重垣はうす笑いの表情のまま畳に目を落とした。 「うち、おじさんが博覧会の電気の仕事やってたの。その関係でプレビューの招待状が回ってきたの」  工事が遅れているというのは噂にすぎないことを関係者に証明しようとして、かえって噂の信憑性《しんぴようせい》が高まってしまったという悪名高い前夜祭のことだ。八重垣が続けた。 「お父さんとお母さんとあたしとお兄ちゃんとで行ったの。そのプレビューに」  僕たちは八重垣を見た。なんだか意外な気がした。八重垣は、一家|揃《そろ》ってなにかするようなこととは完全に無縁な、家族がいたとしてもその家族からさえ嫌われてるに違いないと、僕たちは頭から思っていたからだ。こんな落ち着いた木造の家と、あのほがらかな母親を八重垣が持っているということがなんだか腹立たしく、あの母親の目には、この醜い軟体動物がそうは映ってないんだろうかと僕はぼんやり思った。 「お父さんとお母さん、立食パーティーっていうのから離れなくなっちゃって。お兄ちゃんは自分で勝手にどっか行っちゃうし。だからあたしだけ、ひとりで売店とか回ってたの」 「つまり、販売はすでに始まってたわけね?」  と江上さんが訊いた。八重垣はうなずいた。 「でも、まだできかけのお店とかがずいぶんあった。ジュースもらって飲んだんだけどまずくて、捨てるところ探して階段上ってったの」 [#ここから1字下げ]  八重垣潤は、ざわざわ音のしている階下のパビリオン中央部を見やり、肩をすくめた。大人たちが、なにか声をあげては近づき、名刺を交換し挨拶《あいさつ》を交わしている。挨拶が大事なことはわかるが、わからないのは、どうしてだれひとりとしてこの会場全体に漂うなんとも貧相な雰囲気とすかすかの展示物について話そうとしないかだ。申しわけ程度に並べられた竹の籠《かご》や鳩の形をしたおもちゃに、見いるふりをする者さえいない。代わりに、会場の一隅にしつらえられた売店から、関係者にはただで配られる水割りやビールをさかんに取っては乾杯している。潤もジュースを一杯もらったが、天然一〇〇%だというそれは子供の口にはひどくまずかった。開会したら、これは有料になるのだ。売店の掲示に書かれた一杯八〇〇円という金額は、やはり子供の目にはひどく高いもののように思えた。捨てる場所が見つからず、潤はジュースがはいったままの紙コップを上がってきた階段の手すりの水平になったところに置いた。そして、背後にあいていたドアをくぐり、何か見物するものはないかと辺りを見回した。  廊下を少し行ったところに、だれもおらず照明だけがこうこうと照っている売店があった。竹と、何か赤い石(天然ガーネットと札に書いてあった)を組み合わせたストラップが気に入りはしたが、買うには0がひとつふたつ多すぎた。そろそろ両親のもとにもどろうと思い、廊下に並んだドアのどれを通ってきたのかわからなくなっていることに気づいた。当てずっぽうにそのうちのひとつを選び、階段を下りて踊り場のドアを開けると、そこはがらんとした倉庫のような場所だった。乱暴に置かれた絵画や掛け軸、蓑《みの》や唐笠《からかさ》、開いてガラスケースにおさめてある古文書《こもんじよ》のたぐい。潤は、博覧会の期間中開催される、民俗学会の出席者に向けた展示物だと直感した。  背後でぴしゃっ、とガラス戸の閉まる音がした。潤は振り返り、そこに人の姿を認め、しずかに後ずさった。足になにかがさわって倒れそうになったのを、細いが筋肉質の手がのびてきて潤の腕を掴《つか》んだ。その人物は、思いのほか潤にやさしく話しかけた。 「だいじょうぶ?」  潤は見知らぬ男を見上げた。森本レオを若くしたような感じだと潤は思った。落ち着いていて優しそうななかに、傷つきやすさとはにかみを隠したような表情。ハンサムではないが、安心できるタイプだと潤は思った。  男は、 「どうしたの、ひとり?」  と訊いた。潤は黙ってうなずいた。男はうなずき返し、 「業者さんの家族だね」  と言った。そして潤をじっと見つめている。優しそうに見えるが、変質者なのだろうか、と潤は思った。潤は子供のころから、大人にたびたびいたずらされたことがある。  男が身じろぎしたので潤は後ずさったが、男はガラスケースの蓋《ふた》を開けただけだった。中から、きらきら光る緑色の大きなかたまりを無造作につかみ出す。潤はその輝きに見入った。 「きれいでしょう。国内ではこのあたりにしか産出しない、天然ベリルだよ」  と男は潤に解説した。潤は、 「ベリルって、エメラルドになるやつ?」  と尋ねた。男は一瞬驚いた表情をしたが、すぐににこにことうなずいて、 「そうだよ。よく知ってるなあ、きみ」  と言った。その笑顔を保ったまま、謎の男は腰の後ろに手を回し、なんと細長い金づちを取り出した。通りすがりの子供を殴りつけて楽しむ変態もいると聞いている。だが、その金づちを見つめている潤の心は妙に無感覚だった。男は、金づちを振り降ろした。  ぐわき、と音がして、男の手にあった緑の石の端っこが欠けた。床に落ちたそのかたまりを拾いあげ、男はそれを潤に向かって差し出した。潤はそれをじっと見返した。男は言った。 「これをあげてもいいんだけど」  男はあたりを見回した。 「代わりに頼みたいことがある」  やはりただのロリコンか、と潤は思い、また少し後ずさった。だが男は、ガラスケースの向こうがわに手をのばすと、そこから一冊の本を取り上げた。 「これをもらってほしいんだ」  潤は本と男と石を交互に見比べた。 「これは見本刷りなんだけど、売れないことになってしまってね。僕も、持ち続けてるわけにはいかないだろう。いま読んでもいいし、もう少し大きくなってから読んでくれてもいい。これを焼きすてようが、あるいはなんらかのかたちで活用しようがきみの自由だ」 「どうしてあたしに?」  潤は尋ねたが、男はなにも答えなかった。そして、石と本とを潤の手に握らせると背後のドアを指さした。 「メイン会場に戻るには、出て左はしのドアの外の階段を使うといい」[#ここで字下げ終わり] 「それが博覧会をやる少しまえにあったこと」  意外によどみなく、要点の明確な話を八重垣は語り終えた。 「で、あなたはその本をすぐ読んだの?」  江上さんが尋ねると、八重垣はなぜか少し沈黙したのち、 「ううん。すぐには。もらった石のほうに興味あったから。あたし——本ってあまり読まないし」 「そう?」  八重垣はうなずいた。江上さんはなにかもっと言いたいことがあるようだったが、やめたらしく、代わりに、 「その男の人は、その後見たことある?」  八重垣は首を振った。 「それでなんで、最近になって学校に持ってくるようになったわけ?」  河合が、厳しい口調で八重垣に訊いた。八重垣は河合をじっと見つめた。河合は、苛立《いらだ》ったように言う。 「人気出るかと思ったってあんた言ったね。どうして急に人気者になりたくなったの? そんな手しか思いつかないの? なんでもっと、普段から普通にしてようとか思わないんだよ」 「普通?」  八重垣は、その言葉をとても奇妙な調子で発音した。 「そうだよ、普通! どうしてあんたって、身動きするだけであたしたちを気持ちわるくさせられるの? どうしてあんただけ、そんなに人と違うんだよ」  八重垣は顔をそらし、肩をすくめた。そして、うす緑色の本を僕に向かってかざし、 「かけてみる? テレホンサービス」  と言った。  徳田がばしっと畳を叩《たた》いた。江上さんは徳田を見た。 「どうしたの?」 「あ、いえ……」  徳田は、畳を叩いた手をもじもじとさまよわせながら、要領を得ない。河合が言った。 「芳照、真介がその番号聞いて自分の運勢聞くのが心配なんです。そうでしょ、芳照?」 「心配ってわけじゃねえけどよ。そんなの、真介の自由だし」  徳田はふてくされたように言った。 「なに、藤山くんが自分の運勢聞いちゃどうしていけないの?」  江上さんが尋ね、河合と徳田は、「僕の番号」を押したときに聞こえてきたという妙な電波のような音について話した。 「気持ちが悪いって、どういう感じに?」  徳田と河合が顔を見合わせ、なぜか河合が赤くなった。徳田が言う。 「身体検査でさ、耳の検査ってするだろ、身体検査んとき。ヘッドホン耳にあてて」  難聴かどうか測定する検査のことだ。 「あれって、聞こえたか聞こえないかわかんないような音がして、気持ちの悪いときってあるじゃん。あれをもっと、暗ーくしたような感じ。それでその、なんてゆうか……」 「なんてゆうか?」 「…………」 「言いにくい?」  徳田はうなずいた。江上さんは微笑して言った。 「てことは、猥褻《わいせつ》な気分になったわけね」  僕は驚いて河合と徳田を見た。ふたりとも下を向いてもじもじしている。やがて徳田が言った。 「エッチな気分とか、そーゆーのとは微妙に違うんだけど。なんていうかさー、そうだなー、もし、もしだぞ、自分のだな、両親がその、エッチしてるとこ目撃したら、こんな気分になるかなーって気分」 「わかったわ。たいへん適切なたとえでした」  江上さんが笑って言った。部屋のすみで、かすかにかちという音がし、僕たちはそのほうを見た。  いつの間にか起き上がっていた八重垣が、自分の携帯電話をプッシュしている。そしてそれを、僕に向かって差し出した。 「な、なんだよ」 「聞いてみれば? 聞く権利あると思う。藤山くん本人の運命なんだから」 「よせよ!」  徳田が叫んだ。 「あんなの運命なんてもんじゃねえよ! ただの音だ、きっしょくの悪い、ただの音なんだぜ!」 「余計なことすんな、八重垣、バカ!」  河合も叫んだ。だがそのときにはもう、僕はなにかに導かれるように八重垣の手から携帯を受け取り、耳にあてていた。     9  最初に僕を襲ったのはなんとも甘ったるい、体をとろかすようなそれでいて暴力に満ちた一撃だった。徳田や河合が言うような不快感はなかった。それどころか、それはぜんぜん難聴検査の電子音なんかには聞こえなかった、まったく少しも。 「真介?」  河合の声がやけに遠くで聞こえた。体が思うようにならず、指さきがしびれた。そのくせその指は、甘い天国みたいな音を響かせている携帯電話をぎっちりと握りしめている。  だれかの指が、僕の手から携帯をひきはがそうとするのを感じた。だが、僕の意思と関係なく僕の手も体も彫刻のようにこわばって、相手の意図をあざわらうばかりだ。そして、僕は自分の骨格がゆるやかに、なにか熱く抱きしめて食いこんでくるもののなかで溶けてゆくのを感じていた。  僕は、西も東もわからない、うっそうと茂った森のなかに立ちつくしていた。空気はねっとりと甘く、あたたかくてこまかい水蒸気が一面にたちこめている。ジャングルのようだけど、周りに生えている木はみななじみのある姿をしていた。  どこか遠くのほうで声がした。僕は声の出どころをさがした。うちに帰らなくちゃいけない。うち——うちとはどこだったろう?  僕は、自分がどうしてその場所に来たのか考えようとした。そして辺りの状況を探ろうと体を回しかけ——  足が動かないのに気がついた。  僕は自分の足もとを見、驚きにうたれた。  僕の足は地面にめり込み、靴下をはいた足首のあたりが、まわりの土と溶けあったようになっている。そう、融合している。僕の足が、地面に。  僕は足を土から引き抜こうとした。びくとも動かない。悲鳴をあげようとした。だけど、口のまわりの皮膚がこわばったようになっていて叫ぶことができない。ばさばさと音がして、僕の肩に鳥がとまった。頭のてっぺんの赤い、黒い羽根の可愛らしい鳥だ。だけどその鳥は、とんでもないことをはじめた。僕の目玉をそのくちばしでつつこうとするのだ。僕は必死で首を振り、逃れようとした。だが、とうとう鳥の鋭いくちばしは僕の目をえぐり——  鳥がぐいと身をひくと、そのくちばしの先には長くて細い、気持ち悪くうごめく虫がくわえられていた。こんどこそ僕は大声で悲鳴をあげ——  闇のなかで、「グリーンスリーブス」が鳴り響いていた。  僕は頭を振って悪夢の余韻をはねのけると、枕元をめくらめっぽう探った。ランドセルが見つかったので、手をつっこんで携帯を取り出す。そして混乱した頭で考える。ここは家? いつ戻ってきた? 暗い——パジャマを着ている。何があったのか、よく思い出せなかった。僕は携帯を耳にあてた。 「もしもし?」 〈藤山?〉  徳田の声だった。 「あ、芳照。なんだ、こんな……」  僕はビデオデッキに表示されている時間を見た。 「こんな時間に。一時じゃねーか」  窓から、カラオケの音が聞こえてくる。まだママはのれんをしまっていないのだろう。 〈なんだじゃねーよ。おまえ、だいじょうぶかよ、体〉 「へ?」  僕は片手で体をまさぐり、手足を動かしてみた。どこもなんともなっていない。夢とは違い、どこでも自由に動く。 「だいじょうぶって、なにがだ?」 〈覚えてねーのか。八重垣ん家《ち》で具合おかしくなったの〉 「あ……」  急に記憶がよみがえってきて、あの奇妙な音を聞いたあとに意識が遠のいていったことを思い出した。 「わりい。俺、なんか迷惑かけたか?」 〈迷惑ってほどのこたーねえけど、タクシー呼んでもらって、俺と河合とで送りとどけたんだぞ〉 「タクシー? あの芳照、おまえその……」 〈江上さんが、車椅子で乗れるタクシーある会社の番号知っててな〉 「あ、そうか。えっ、じゃあ、うちのママ見たのか、その……俺が変になってるとこ」 〈それがそうでもねえんだよ。タクシーがうちに着くと、おまえ急にすっと立って、普通にすたすた家に入ってったぞ〉 「全然おぼえてねえ……」 〈そうみたいだな。心配だったから俺と河合もちょっと上がらしてもらった。おまえそのまま下のベッドにもぐりこんでぐうすか寝だすから、しょうがねえから帰ったんだけど。おばさんは店で仕込みやってたから、いちおう挨拶《あいさつ》はしてった。おまえが寝てるって言っても平気な顔してたけど〉 「俺よく、帰ってすぐ仮眠するからなあ」 〈そのまま爆睡すんだろ。おまえ、あの音聞いてやっぱり気分悪くなったんだろ?〉 「え、ああ、まあ……」 〈気持ち悪い音だろ? でもひっくりかえったのには驚いたぞ〉  心地いい音だったとは言いかねた。 「なんでおまえや河合は、ひっくりかえらなかったんだろ……」 〈それはあれが、「おまえの番号」だったからじゃねえの? 河合がそう言ってたぞ〉 「おいよせよ、バカ。一九九〇年の八月二十一日に生まれたのが俺だけだとでも思ってんの? そいつらがみんなあの音聴くと気絶して、そうじゃないやつは気分が悪くなる? そんなこと信じられるか」 〈信じられないね〉  と徳田はあっさりと言った。 〈それはともかくさ、おまえが枕はずしたんで直してやったんだ〉 「そりゃどーも、ありがとさん。いい奥さんになれるよ」 〈なんのなんの。そんときちらっと見えたんだけど、それおっ母さんのベッド?〉 「なにが見えたって? うんそうだよ、いま寝てんのはママのベッド。本格的に寝るときはロフトに行く」 〈おっ母さん、枕んなかになんか入れてるだろ〉  あっと叫んで、僕は体を起こした。そういえば、僕はゆうべ、ママの寝ている枕の中に封筒があるのを見ているのだ。僕はどもった。 「な、なんだよ、人ん家《ち》の枕なんて見るなよ」 〈見たくて見たんじゃねえよ。死んだばーちゃんも印鑑やら権利書やらそこに入れてたけどな〉 「いいじゃないか、金庫にしまうより安全かも」 〈あの封筒、うちんのだぞ〉 「へ?」  一瞬、言われた意味がわからなかった。徳田が言った。 〈だから、うちの両親が報告書入れるのに使ってるやつだってんだよ。うちの、「T&T探偵社」で〉  前にも言った通り、徳田の両親は駅前の大きなビルに事務所をかまえて夫婦で興信所を経営している。徳田が僕に尋ねた。 〈おまえ、おばさんから何か聞いてるか?〉 「聞いてるかって……なにを」 〈だからあ、俺ん家《ち》の親になんか調べもんを頼んだかどうか、聞いてるかって言ってんだよ!〉  徳田の声にややいらつきが混じりだした。 「聞いてるわけないだろ、そんなこと! うちのママがいったい、なに調べさせるってんだ」 〈こっちが知りてえや〉 「親に訊《き》けないのか」 〈んなこと訊いたらめちゃくちゃ怒られちまう。守秘義務ってもんがあるんだ。それでなくたって、最近両親とろくに顔合わせてねえのに〉 「なんだよ、家庭崩壊か?」 〈バカ。忙しいんだよ、両親。ひと月くらい前からさ。言ったろ、夏休みどこにも連れてってもらえねーって〉  そこで徳田は言葉を切り、そして言った。 〈悪いとは思ってるみたいだけどな。このごろよく小遣いくれるし。ガキにあんま大金持たせんなって俺は言ってんだけど〉 「いいじゃないか、珍しいよな、この景気悪いのに」 〈景気が悪い……おまえ本当にそう思うか?〉 「えっ、だってそうだろ、河合だって自分とこの工場がやばいからって、それでわざわざ八重垣なんかに会おうなんて言い出したんじゃん」 〈ああそうだな。ただ俺は、うちの調査費用ってけっこう……まあいいや。そういうわけだ〉 「どういうわけだよ」 〈封筒のことなんか気にするな。おっ母さんにだってプライバシーはある〉 「とんでもねーこと教えといて今さらなんだ」 〈確かめるつもりかよ〉 「当たりめーだろ」 〈見たくないものを見るかもしれねえぞ。おやじさんが浮気してるとか〉 「うちにゃおやじはいねえよ」 〈そうだったな。それじゃまた、明日〉 「ああ。いろいろありがと」  僕は電話を切り、携帯をランドセルに戻すのももどかしく、ベッドの上の枕を取り上げて横のファスナーをおろし、手をつっこんだ。  何も入っていない。  どういうことだ?!  僕は混乱した。ゆうべはあった。徳田が僕が寝込むのを確かめ、枕から封筒がはみ出しているのを発見したときも。ということは、徳田と河合がママに挨拶して帰ってからさっき電話で叩《たた》き起こされるまでの間に、封筒はどこかに行ったことになる。僕は天井の電気をつけて、くずかごをさぐった。ママが化粧に使ったティッシュやコットン、こまごましたレシートのほかは何も入っていない。待てまて、と僕は落ち着いて考えようとした。徳田はその封筒を枕から取り出して確認したわけじゃない。色と、大ざっぱな大きさだけで自分の親の会社のだと判断しただけだ。ただの私信だったのかもしれない。  でも、僕が寝てる間にわざわざ店の仕込みを中断し、ママがあの封筒を回収しにきたのだと思えるのはなぜだ。僕は台所へ行き、燃えるゴミを収集日までまとめておく大きなビニール袋をのぞきこんだ。紙ゴミのほかに生ゴミやお茶っぱなんかもいっしょに放りこまれている。僕は床に耳を近づけて、お店のほうのどんちゃん騒ぎを確認して菜箸《さいばし》を手に取り、ゴミ袋の中をかきまぜた。底のほうに何やら真っ赤なものが見える。僕は気持ちわるいのを我慢して手を突っ込み、その赤いものを引っ張り出して—— 「なにやってんの?」  背後でママの声がいきなりして、僕は跳び上がった。僕は振り向き、けげんそうな顔で立っているママを見た。ママは小首をかしげ、 「ん?」  と言って近づいてきた。僕はうろたえ、手に持ったものを隠そうとした。ママがずいと手をのばしてそれを僕の手から奪い、一瞥《いちべつ》して—— 「あら、そんなにお寿司《すし》食べたかったの」 「は?」  よく見ると、ママが僕から取り上げたのは、新聞にいっしょに入ってくるチラシだった。真っ赤な地に寿司|桶《おけ》の写真が並ぶ、宅配寿司の宣伝だった。 「冷蔵庫におかず入れといたのに。食べなかったの。よく寝たのね」 「あ、うん。放課後サッカーやったから疲れて……」  ママが服を脱ぎだしたので僕は驚いて言った。 「お店もどらなくていいの」 「浦上くんにまかせてきたわ。あたしもなんだか疲れちゃって。ああいやだ、八百屋のおやじだの自転車屋のあんちゃんだの。すぐに胸がでかいの俺が慰めてやるだの言って」  僕はさらに驚いた。ママが、お客さんのことをそんなふうに言うのを一度も聞いたことがなかったからだ。 「年がら年じゅう煙と肉の脂《あぶら》にまみれて。ねえ真介、ママねえ、若いころはいまよりもっと色が白かったのよ」  そう言って自分の腕をなでる。 「見てよこの肌。昔は吸いつくようだって言ってくれた人もいるのに」  ママは唇を噛《か》んだ。 「ねえ真介。ちっちゃなラウンジでもいい、シャンデリアの下がってるようなとこで静かなお酒を楽しめる場所があれば、どんなにいいかしら」 「静かなお酒」と「シャンデリア」がややミスマッチのような気がしたが、僕は、 「そうだねえ」  と答えた。ママはシャワーも浴びず、下着姿でベッドに転がった。枕のファスナーを開けっぱなしにしておいたので心臓が止まりそうになったが、枕ではなくかけぶとんに顔を埋めたママが気づく様子はない。 「本物のシャンデリアよ真介。角の共済組合結婚式場に下がってるような俗っぽいのじゃない。銀と白を組み合わせたデザインでね。その光の下では、どんな女でも魔女と妖精《ようせい》のあいのこみたいに美しく見えるの」  若いころ、ママはそんなお店にいたんだろうか。  ママがかけぶとんをかけないまま眠りこんだように見えたので、僕はタオルケットを出してかけてやろうとした。するとママは僕の腕をぐっと掴《つか》み、そのまま自分のほうに引き寄せた。僕はだまって、ママに抱きしめられるままになっていた。ママは目を覚ましたわけではないらしく、僕の背中をまさぐりながら、 「好きよ……好き……」  とつぶやいていた。僕はなんだか、ひどく悲しくなった。そして、ママに僕を生ませた男のことを知りたいと急に思った。そんなふうに思うのは、ずいぶんひさしぶりのことだった。     10  翌朝、学校に行くと校庭のすみで、クラスの連中が男子も女子もまぜこぜでサッカーをやっていた。かたほうのゴール地点に中年小学生の松島公彦、そしてもうかたほうにいるのは車椅子姿の徳田だ。テレビ局のスタッフが周りをとり囲んで、「健常児といっしょに遊ぶとっきー」の絵を撮っている。僕が近づいていくと、腕を組んでサッカーを見ていた江上さんが僕に気がつき、近づいてきて、 「だいじょうぶだった? あれから」  と心配そうに尋ねてくれた。 「あ、なんでもないです」  と僕は答え、 「すいません、迷惑かけて」  と謝った。 「いいのよ、そんなこと」  江上さんは軽く手を振り、また視線をサッカーをしているクラスメイトたちにもどした。なぜ気絶したのかとか、いったい携帯でなにを聞いたのかとか、訊《き》かれないのがどういうわけかなんとなく不満だった。  松島がたのチームに入っていた男子のひとりが、徳田の守っているゴールにいいボールをキックした。徳田は車椅子を巧みにあやつり、ボールに向かって突進すると手をのばした。と、ボールは徳田の手首にあたって弾み、そのまま徳田の顔面にぶち当たった。テレビ局のスタッフの間からどよめきが上がった。  徳田の顔面ではねたボールは、そのまま反対側へところころ転がっていく。徳田は衝撃を振り払うように首をぐるぐる回している。僕は手を叩き、親指を突き出して、 「ナイスキープ」  と言ってにやりと笑った。徳田もこっちに向けて親指を立て、にやりと笑う。松島公彦が、 「ちっ」  と言い、テレビ局スタッフたちは、かえっていい絵が撮れたと思ったらしく安堵《あんど》のため息をもらした。  ゲームが再開され、徳田のキーパー姿を後ろから撮ろうと思ったのか、カメラマンの目高さんが校庭のすみに回りこんで、そこに植わっている桜の木を背後にした。そして次の瞬間、目高さんは、 「うわっ」  と叫んで地面に転がった。カメラが大きな音をたてて一緒に落ちた。 「どうした!」  ディレクターの弥刀さんが目高さんに駆け寄った。目高さんは、 「いてててて。いやなんでもないす。きみ、だいじょうぶ?」  と言いながら、地面にのびたぼろくずのようなものを指さした。それはもぞもぞと動き、あざだらけで古い血のこびりついた顔を上げた。  八重垣潤だった。八重垣は立ち上がるとカメラを拾いあげ、目高さんに差し出した。 「ごめんなさい」 「なんで木の上なんかにいたの?」  目高さんはカメラを受け取りながら尋ねる。松島が大声で、 「あーあ、そのカメラもう使えねーなー」  と言った。目高さんはカメラをとりあげてのぞきこみ、 「だいじょうぶだよ。あの程度の衝撃で壊れたりしない」  と言ったが、クラスの全員からブーイングがとんだ。 「違うよ、八重垣がさわったから」  目高さんは松島たちのほうを向き、なんだか妙な目つきをして弥刀さんとなにか話しながら校庭のすみへ行った。江上さんが僕に、 「八重垣さん、どうして木の上なんかに?」  と言ったので、僕は答えた。 「朝って眠いでしょ。だから元気だすために、八重垣を追いかけるんです。そうするとあいつ、よくあそこ登るんですよ」 「いまは毛虫がすごいんじゃない?」 「ええ、顔がぶんむくれになってすごくおもしろいです。でも撮影中に落ちてくるなんて、つくづく迷惑なやつ」  八重垣はよろよろと歩きだした。教室に戻るらしい。女子の何人かも、サッカーをぬけて戻りはじめた。それが合図のように、みんなばらばらとその場を離れだす。徳田が車椅子をあやつって僕のそばに来た。 「おっ母さんになにか訊いてみたか?」  徳田にそう訊かれ、僕は乱暴に答えた。 「訊いてねえよ」 「なんで」 「必要ねえだろ。親にだってプライバシーはあるって言ったのはおまえだぞ」 「俺が探り出してやろうか」  と徳田は、とんでもないことを口にした。 「なんだって?!」 「気にならないか?」 「そりゃ、気になる……でも、守秘義務とかゆーものがあるって、おまえ言ってたじゃないか」 「今朝珍しく、朝めしんときママがまだいてさ。ちょっと、変なこと言われたんだ」 「変なこと?」 「『ママはね、小学校のときの友達のことなんてだれもおぼえてないわ』だってさ」  そう言って徳田は僕を見た。僕は意味がわからず、ただやみくもに首を振った。徳田は続けた。 「『いまは、こいつとは一生親友だとか思ってるだろうけど、はかないものなのよ。いなくなったらそのときはさびしいけど、それだけのこと』」 「それを、おまえのママが?」 「ああ」 「それって、ジョンのことか? いなくなった友達って」  親のボイスチェンジャーをこっそり使って、ジョンの現住所を探り出したのがばれたのではないだろうか。そう思った僕は徳田に訊いた。徳田は首を振った。 「そうじゃない。ママはこれから先のこと言ってたんだから」 「これから先のこと?」 「ママはこう言ったんだ。『だから、必ずくる別れを恐れないで』」  僕はわけがわからず黙りこんだ。卒業式のことを言っているのか? でもそれはまだ二年以上も先だ。  また八重垣の机の周りに人垣ができていた。八重垣のことは、だれもがぞっとするほど嫌いだが、「植物占い」を聞きたいという気持ちはそれよりもっと強いらしい。あのうす緑色の本を八重垣から奪って自分で見たっていいはずだが、八重垣の持ちものにさわると腐る、ということにこのクラスではなっているからそれもできない。 「つぎあたしー。91年の1月5日」  女子のひとりが言うと、しばらくおいて、 「97のあなたはげんのしょうこ[#「げんのしょうこ」に傍点]。どんな場所でも自分のポジションをしっかり確保できる隠れた実力者。傷ついた人、ついふさぎがちの人などが、あなたのそばにいると気持ちが落ち着くと言ってくれるはずです」 「うわー、当たってるうー」  すごいほめ言葉だが、言われた本人も周りも、そうだそうだとはやし立てている。ふと見ると、人垣の外側で河合がつま先立ちしてうかがうように見ている。僕は近づいた。 「河合」 「真介!」  河合は目をみはって僕に向きなおった。 「だいじょうぶ? どうだった、あれから具合とか悪くならない?」  河合のその言葉に、人垣の外側にいた何人かが振り向いた。みんな、具合が悪いだとか病気だとかいう言葉には興味を持つ。 「だいじょうぶだよ。あっちで話すよ」  僕は河合を、徳田の待っている自分の机のほうまで引っ張っていった。僕はもういちど、あの音を聞いたときの気分、甘ったるいものが頭の中に広がって(本当は頭の中だけじゃないのだが)、すうっと気が遠くなっていったときのことを、思い出せるかぎりふたりに話した。要するに、あまり話すことはなかったってことだ。 「とにかく、俺が聞いたときはそういやな感じじゃなかったよ」  僕がそう言うと、河合も徳田も信じられないという顔をした。 「なんだったら、もういっぺん聞いてみちゃ?」  僕が言うと、ふたりとも首を振った。とんでもないという顔だった。続いて徳田が、僕の部屋で見つけた封筒のことを河合に話した。 「そんなもんあったっけ? あたし、気がつかなかった」 「普通気がつかねえだろ。ジッパーがちょこっとあいて角《かど》んとこが見えてただけだから。うちの封筒だと思わなきゃ俺だって気にとめねえ」 「それで真介はどうしたの」  そこで僕は、封筒がすでに枕から消えていたこと、ゴミの中を探してみたが結局見つからなかったことを話した。そして徳田が、今朝母親から言われたこと、 (————子供のころの友達なんてすぐに忘れる、必ずくる別れを恐れないで——) を話すと、河合の顔色がさっと変わった。 「ひどい!! なにそれ!!」 「怒んなよ。大人から見たらそんなもんだろ」 「あたし忘れないよ、真介のことも芳照のことも! それからジョンのことも!! いったいどうして、そんな——ジョンのこと——そうだ、おたくの両親、ジョンのこと調べてるんじゃない?」 「なんでだ?」  僕は驚いて河合を見た。 「だって借金取りに追われてるわけでしょう」 「もし芳照の親がジョンのおやじさん探してたら、あっちゅう間に見つけてるよ。俺たちに探り出せたんだぞ」 「そうか……」  河合は残念そうに言って腕組みした。が、すぐにまたなにか思いついた顔になった。 「ジョン一家のいどころはもうわかってるんだよ。いまきっと、何かの証拠を集めてるんだ」 「証拠? なんの」  徳田がきょとんとして言った。 「だから、なんかのだよ! ほら、『伝統工芸博覧会』がぽしゃって、何人か関係者が自殺したじゃない? あれって、自殺じゃなかったんだよ、きっと! ジョンのお父さんの会社って、会場の建設のなんだかんだで、いろいろ言われてたじゃん」 「なんだ、なんだかんだって」  こういうとき、すぱっと説明する適当な言葉が出てこない。ビジネス用語や時事問題は、そろいもそろってまるで駄目なのだ。 「つまりほら、談合とか……裏取引とかマネーローンだとか……」 「ロンダリングか、もしかして」 「そうかもしれないけど、なにそれ?」 「さあ」 「とにかくそういうのに関わって、消された人がいるんだよ。その証拠をいま集めてる。でも敵のほうが動きが早くて、ジョンは一家みなごろしになるかもしれない」  しばしの間ののち、徳田がゆっくりと区切りながら言った。 「あのなあ、うちの両親の専門は、浮気調査だって言ってんだろ?」 「それしかしないってわけじゃないでしょ。おたくの看板には、『調査一般』って書いてあるよ」 「じゃなにか、ジョンのうちは借金が原因じゃなくて、おやじさんが会社にとってやばいことの証拠を掴《つか》んでるから、それで逃げてるってのか」  そのとき教室のドアが開き、根本先生が入ってきた。同時に始業ベルが鳴ったので、教室中に散らばっていた連中もそれぞれの席に戻る。 「起立、礼! ホームルームを始めます」  そう言った根本先生は、何かぶ厚い封筒をわきの下にはさんでいる。江上さんを含むNBNのスタッフたちが相変わらず教室の後ろのほうに陣取って撮影している。ところが、先生は妙に機嫌がよさそうな声で、 「後ろのみなさん。ちょっと、カメラ回さないでおいてもらえます?」 「え?」  とディレクターの弥刀さんが言った。江上さんは振り返って見ると、楽な姿勢で壁にもたれ、驚いた様子もなく落ち着いた表情をしている。先生は続けた。 「けさの話は、番組の内容とは関係ないことですから」 「いやでも、関係ないかどうかはこちらで」 「生徒のプライバシーにも関することですから」  先生は、相変らずにこやかな顔で言う。弥刀さんは肩をすくめ、目高さんに向かってうなずいてみせた。目高さんはカメラを降ろした。先生は、ひとつ咳《せき》ばらいをして話しはじめた。 「みんな、きのうの甲田くんの事故のことは知ってるね」  僕は、きのうの掃除のとき、甲田が階段から落ちたことを思い出した。そういえば甲田は欠席している。 「あれから甲田くんはタクシーで家に帰りましたが、夜おうちから連絡がありました。やっぱり骨が折れていて、しばらく入院するそうです」  わあっとみんながどよめいた。 「折ったってよ、すげー」 「ずっと木当てて縛っとくんだよな」 「古《ふり》ーよ、いまは切ってボルト入れんの」 「トイレとかどうすんだろ」  河合が言った。 「お見舞いに行かなくちゃ」  先生は黙っていた。河合は続けた。 「松広大病院ですか?」  と言ったのは河合だ。すると先生は、 「そうですが、当分は面会謝絶ということで……」 「面会謝絶? 足折っただけで?」  河合が驚いた顔で訊いた。僕も、足の骨折で面会謝絶はおかしいと思った。先生は咳ばらいして、 「いえ、病院が面会謝絶にしたわけじゃないんだけど、行くとみんなどうせ病室で騒ぐでしょう? 大部屋だからまわりに迷惑になるのよ。手紙出すといいわ。千羽鶴折るとか。それよりみんな、どうして甲田くんが階段から落ちたかは知ってる?」 「風が吹くときはあぶないって、占いで言われてたんです!」  甲田にそう警告した山本温子が大きな声で言った。 「だからテラスに出るなってあたし言ったのに! 占いの注意を無視するから!」 「山本さん」  先生の顔から笑みがすっと消えた。 「それが暗示となって、甲田くんは自分から足をすべらせたのかもしれないじゃない?」 「暗示?」 「いいですかみなさん」  先生は黒板のほうを向いてチョークを取ると、大きな字で、 「算命占星術」「西洋星占い」「陰陽五行」  と書いた。そして僕たちのほうを向き、 「これらは、人間が昔から信じているものよ。みんながはま[#「はま」に傍点]っている『植物占い』というのは、これのバリエーションにすぎないの」  そうして先生は、黒板に楕円形《だえんけい》を描くと、その円周上に小さい白丸をたくさん描きながら言った。 「太陽が地球の上をめぐる軌道のことを黄道といいます。みんなはもちろん、自分がなに座かってこと知ってるわよね」  たちまち教室中から、「あたしやぎ座」「俺おとめ座」などの声があがった。先生はうなずいた。 「占星術の十二星座というのは、この黄道の上にある十二の星座のことをいいます」  みんな口をあけて聞いている。女子のひとりが言った。 「星の引力が、地球の人に影響するんでしょう? あのー、ちゃんと本に書いてありました」 「あらあら。なんの本を読んだか知らないけど」  根本先生は、勢いよくチョークを黒板につき立てた。チョークがばきっと折れ、僕たちは数ミリほど椅子から腰を浮かせた。 「そんなことは絶対にありません!」  先生は手に残ったチョークのかけらを投げ捨てた。そして、黒板の前の自分の机をばん[#「ばん」に傍点]と叩《たた》いた。 「引力なら、先生とあなたの間にも働いています。あえて言うなら、遠く離れたお星さまが地球におよぼす引力より、この机がわたしにおよぼす引力のほうがはるかに大きいくらいです」 「でも、星と机は違うじゃん」  別な男子が、不満そうな声で言った。 「おなじです。誕生日がいつかによって運命が決まるなんて、あまりにも馬鹿げています」  先生は背すじをのばし、いちだんと声をはりあげて言った。 「『植物占い』は、今後いっさい禁止とします」  でた。江上さんの言っていた、「『こっくりさん』ケース」の再現だ。僕はふたたび江上さんのほうをうかがった。相変わらず、何も面倒なことは起こっていないという顔で教室を見渡している。クラスのみんなも黙っていた。「えー」とか「そんなー」とか言うやつはだれもいない。それが、かえって不気味だった。いつもなら、「オニ代官」とかなんとかまぜっかえして緊張をほぐす役目の松島公彦もなにも言わない。先生はそんな僕らをぐるっと眺めまわして続けた。 「余裕をもって遊びで楽しむとかならなにも言いません。でもそれを信じこんで、予言のとおりに行動しようとするなんて、ね? ばかげてるでしょ?」 「でも甲田くんは『植物占い』を信じてなかったんです!」  やっとのことで山本はそう言った。その山本を先生は冷たい目で見た。 「本人は信じてないつもりでも、まわりの雰囲気にのまれるってことがあるわよ。甲田くんは協調性のある子だものね」  なんだか釈然としなかった。昨日、江上さんに過去のこっくりさん騒動を聞くまでもなく、大人たちは何か問題が起こるとただ表面に現れていることを禁止すれば済むと思っている、そのことは僕だってわかっている。それにしても、どうして僕には、先生が僕たちを甲田の見舞いに行かせまいとしているように思えるんだろう。 「じゃあ、わかったわね。『植物占い』の話はこれでおしまい。ところで、みんなにすてきなお知らせがあります」 「『植物占い』といっしょに、宿題が禁止されました」  と松島公彦がようやく本領発揮し、教室は笑いに包まれた。先生も笑いながら続けた。 「旧校舎の工事が中止になっていたでしょう。あれの再開が決定したんです」  そう言われても、僕らはなんの反応も示せなかったが、 「へ?」  という感想しか抱かなかったが、後ろにいたNBNのスタッフ連中が、 「ほー」  と言った。あれのことか、と僕は思った。  僕らの学校は明治中ごろの創立なんだそうで、その当時の校舎を復元したものが道をへだてたところに建っている。建築学上のなんたらかんたらとかいう記述を読んだおぼえがあるが、率直に言って発狂したケーキ職人が、ゴシック様式の教会を模したウエディングケーキを作ろうとして途中で断念した、といえばいちばんしっくりくるような外観をしている。そんなとんちんかんな建物でもわが町の重要な観光資源らしく、例の『伝統工芸博覧会』の開催にともなって、大々的な補修工事がおこなわれることになった。ところが、博覧会の失敗がだれの目にも明らかになってくると、市は突然補修工事の費用を打ち切ったのだ。市内にごろごろいるわが校の卒業生たちも、財布の紐《ひも》をかたく縛って寄付の募集に応じようとはしなかった。だって博覧会にかかった費用のせいで、僕の町の人は赤ん坊まで含めてひとり二百七十二万円の税金を課せられる計算になるっていうんだもの。  あの補修工事が再開? いったいどこにそんな財源があるっていうんだろう。さらに先生は、出席簿を開くとそこにはさんであった封筒を取り出し、中から青っぽい紙の束を取り出した。 「週番。これ配って」  週番の子がそれを配っている間、先生は説明した。 「市のほうから、市内の小学校に配布されたチケットをまとめたものです。美術館、博物館、テーマパークの入場券、デパートの商品券、映画の招待券などなど。帰っておうちの人に渡してくださいね」  ほかのみんなは、へーとかはーとか言っているだけだが、僕はひどく驚いていた。ジョンの一家が夜逃げをし、いままた河合のうちの工場が危ないっていうのに、このおおばんぶるまい[#「おおばんぶるまい」に傍点]はなんのさわぎなんだ? 「国に頼っちゃいられないから、地方自治体みずから景気回復に乗り出したってわけですか」  僕たちは、束にしてホチキスでとめたチケットをめくる手をとめてそう言った人を見た。江上さんだった。いつもの微笑を浮かべ、机の間をゆっくりと前に向かって歩いて行く。 「そういうことじゃないでしょうか。教員は、朝の職員会議のときに配布を命ぜられただけで」  負けじとにこやかな笑みを浮かべて根本先生はそう答える。と、江上さんは根本先生の目と鼻のさきまで進み出て、そこですっと立ち止まった。 「夜逃げをしなくちゃいけない生徒だっているっていうのに」  先生の顔は、笑いのかたちのままに引きつって凍りついた。しばしの間ののち、先生はしぼり出すように言った。 「そんなの、子供の前で話すようなことじゃありません」 「そうかしら?」  江上さんはそう言い、いきなり手をのばして先生の胸をさわった。先生の巨乳に顔をうずめては張りとばされている男子連中がわっと叫び、女子もどよめいた。でも別に江上さんはみんなの前でレズってみせたわけじゃない。江上さんは、先生の着ていたジャージの下から、金色の鎖を引っ張り出してみせたのだ。先生は硬直した表情のままかすかに身じろぎした。あばれて鎖が切れるのを心配しているようだ。江上さんは手の中の鎖をつくづくと見て言った。 「金鎖に、スタールビーを配したダイヤのトップのペンダントなんて、すてき。ティファニーね」  そう言って手をはなす。先生はあわてて金鎖をジャージの下におしこみ、ついにはどなり始めた。 「江上さん! 何しにいらっしゃったんです?! 撮影でしょう?! 撮影のためでしょう?!」 「もちろん撮影です。『とっきー』を取り巻く学校の環境を記録しに来たんです。目のつけどころに工夫をこらして、ね」  そう言うと江上さんは、くるりと回れ右し、また壁際へともどって行った。先生は額の汗をぐいと手の甲で拭《ふ》くと、足音もすさまじく教室のすみで、いつものように目の前の空中を見つめている八重垣のところへと近づき、手を差し出した。  僕たちがいつも、八重垣に感じる不気味さはここだ——八重垣は、先生をまるで無視してしまうのだ。どこか遠い遠いところにいるみたいに。昨日、あの本を手にいれたいきさつを長ながと話した八重垣と同じ人間だとは思えない。うす笑いの表情を顔にはりつかせたまま、先生を通りこしてその向こう側の空間を見つめている。先生は言った。 「本を出しなさい」  八重垣は無反応だ。 「八重垣さん!」  先生がどなると、八重垣はようやく目の焦点を先生にあてた。そして口をひらくと、あのねちゃっとしたきしるような高音でゆっくりと言った。 「ほ……ん……?」 「そうよ! 『植物占い』の、あのくだらない本! とっとと出しなさい!」  八重垣はしばらく先生をうす笑いの顔で見上げていたが、やがてすっと目をそらし、先生がずっと脇にはさんだままだった封筒を見た。先生は気がついてそれを開け、中からさっき配ったチケットの残りを取り出すと八重垣の机にばん[#「ばん」に傍点]と置いた。 「これでいいんでしょう。さっさとあの本を出しなさい!」  八重垣は、また視線を動かして机の上のチケットの束を見るとすっと手を伸ばしてそれを取り上げ——そして、両手を使ってふたつに引き裂いた。先生だけでなく、教室中が、NBNのスタッフも含めて全員が体を硬直させた。ひとり江上さんだけが、窓の外の遠くに連なる山なんかをおだやかな顔で眺めている。口もとにかすかに笑みが浮かんでいると思ったのは僕の見まちがいだろうか。  八重垣の足もとに、引き裂かれたチケットの束がばらばらと落ちた。一瞬の間をおいて、根本先生は八重垣の机をひっくりかえした。僕たちはさんざんやったことだが、さすがに先生がそれをするのを見るのは初めてだ。教科書やノートのほかに、大小さまざま色とりどりの箱、何枚もの色つきの紙、くすんでぼろぼろになった装丁の古本らしいかたまりなどが床にぶちまけられた。先生は乱暴にそれらを足でかきまわしたが、目当てのものは見つからない。先生は机の横にかかった八重垣のランドセルをちぎり取るようにして持つと逆さにした。開かない。八重垣はランドセルに、自分だけの鍵《かぎ》を使っている。先生が血走った目で言った。 「鍵は?」  八重垣は目を中空にすえたまま、首にかかった鎖を引っ張って鍵を取り出した。先生が乱暴にそれを引っ張ると、鎖はぶちっという音をたててちぎれた。先生は鼻息も荒く鍵を鍵穴につっこみ、ぐいと回してランドセルをあけ、逆さにした。  電卓とものさし、それとトランプ、虫めがね、何かの砂の入った小さなビン。それが八重垣のランドセルに入っていたすべてだった。先生はランドセルを床に叩《たた》きつけ、どなった。 「本は?!」 「先生、あの……」  根本先生の近くにいた女子が先生の注意をうながした。そのときになってやっと、先生はNBNのスタッフたちが、ぽかんとした顔で自分のしていることを見ているのに気づいたようだった。先生は小きざみに震えながら、八重垣を見下ろして言った。 「一時間目が終わったら……職員室にいらっしゃい」  一時間目? 一時間目と二時間目のあいだは十分しかない。職員室に呼ぶのは、ふつう昼休みにするはずだが。先生は、めちゃくちゃになった八重垣の机の回りをそのままに、なにごともなかったような顔で黒板の前まで戻り、 「では国語の授業を始めましょう。今日は『杜子春《とししゆん》』を最後のほうまでやります。高崎《たかさき》くん、読んで」  と言った。指名された高崎というあまり漢字の読めない男子が、つっかえつっかえ読む杜子春の地獄巡りは、いま教室に漂っている冷たい緊張にくらべたら、ひどく居心地のいいもののように思えた。     11  八重垣は、たしかに言われたとおり職員室に行ったらしい。らしいというのは、散乱した机やランドセルの内容物もそのままに、二時間目から八重垣の姿が見えなくなってしまったからだ。先生は一時間目から二時間目の間ちょっとだけ姿を消していて、またすぐ戻ってきてさっさと二時間目の授業を始めた。撮影も昨日と同じようにおこなわれた。ところが、四時間目が終わると、NBNのスタッフたちは機材をたたみ始めた。そして、給食の用意をする僕たちの横を通って階段を下りていく。僕は、食器の入ったかごを運んでいるとき、玄関へと向かうディレクターの弥刀さんとすれ違った。 「あれ、弥刀さん、給食は?」 「え? あ、ああ、いいよ、僕たちのぶんは。外で食べるから」 「まずいですか、うちの給食、やっぱり。このへんの食べ物屋のよりだいぶましだって先生たち言ってますけど」 「うん、そうだろうね。あ、いや、つまりそういうことじゃないんだ。とにかく僕たちのぶんは配らなくてもいいから」  そう言って弥刀さんは、そそくさと廊下を出口のほうへ向かっていってしまった。  給食を配り終わり、教室の後ろのほうにNBNのスタッフたちがいないのにはそこにいる全員が気がついていたが、なにも言わなかった。なにか用事があっていったん局に戻ったのだろうとは思っていたが、それにしてもなんとなく拍子ぬけな気分だった。例年のように、一週間くらいははりつかれるかと思ってたのに。  いちばんそのことで動揺しているように見えたのは根本先生だった。ものすごい早さでパンを食いちぎり豚汁《とんじる》を飲み、まだ食べかけのフルーツサラダを乱暴に生ゴミ入れにぶちこむと、早足で教室を出ていってしまった。やや呆然《ぼうぜん》となってその後ろ姿を見送った僕は、やはりトレイを持って早ばやとワゴンへと食器を置きに行く者がいるのに気がついた。河合みゆらだった。  河合は、僕にも徳田にもなにも言わず、図書館から借りた本を机から出すと図書カードを持って教室を出ていった。だれでも、それを見れば河合が図書館へ行くものだと思うだろうが、河合は図書カードはいつも財布にしまってポケットに入れてゆき、むきだしのまま持ったりはしない。  僕と徳田は目くばせをすると、自分たちも大急ぎで給食を片づけ、教室を出た。  徳田が乗るのを許されている教員用のエレベーターに便乗させてもらい、図書館へ行って探したが、あんのじょう河合の姿はそこにはなかった。たまたま本を返しに来ていた、河合と同じ図画クラブの上級生が、河合なら第二校舎のほうへ行くのを見たと言ってくれたので、僕と徳田はそっちのほうへと急いだ。  河合は、第二校舎の裏にある焼却炉のところにいた。去年、煙を出さない完全ダストロースターとかいうのが導入されてから使われていなかったやつだ。誰かが何か燃やしたらしく、薄く煙が出ている。河合は、散乱しているゴミの中から金属の棒を見つけると苦労して焼却炉の蓋《ふた》を開け、つま先立って中をのぞきこんだ。 「河合!」  僕が呼ぶと、河合は驚いた様子で棒を落とした。 「なんだよ、探しもんか?」  僕がそう聞いても、河合は驚いた表情のまま僕と徳田をじっと見ている。徳田は、車椅子をあやつりながら河合に近づいてゆき、 「八重垣か?」  と尋ねた。「八重垣か」というのはどういう意味かとっさに僕にはわからなかったが、河合はうなずいた。 「気になんのか——二時間目から戻ってこないって。よくあることじゃねえか、あいつがなにも言わねえでフケんのは」 「そうだけど——でも——」 「先生に訊《き》いてみりゃいいじゃないか。職員室に呼びつけたあと、どうしたのかって」  僕が言うと、 「そんなの」  河合は顔をしかめて、 「だれかに聞かれたら、あんなのの心配してるのかって、変な目で見られちゃうじゃん」  たしかにそれは、だれにとっても避けたい事態だ。  河合は、ポケットから携帯を取り出すと、プッシュして耳にあてた。そして、呆然とした顔で言った。 「現在使われておりません、だって……」 「『植物占い』のテレフォンサービスか?」  河合はうなずいた。  遠くのほうから、「オーライ、オーライ」と車を誘導する音、大きな車が通る音、がちゃがちゃと重い金属がぶつかり合う音が聞こえてきて、僕たちは何となくそっちのほうを向いた。 「旧校舎の修復か」  徳田があざ笑うように言う。 「だれがやってほしがってるってんだろな、それを! よくそんな金があったもんだ」 「いとこのうちもそうだった」  とつぜん河合が言い、僕と徳田はなにを言われたのかよくわからなくてきょとんとなった。河合がまた言った。 「同い年のいとこがいるの。お盆もお正月も、いつもどっちかのうちにお泊まりしてた。こんどの夏休みは、あたしがむこうに泊まりに行く番だった」  河合は僕たちを見た。 「ゆうべ寝るまえに、夏休みのこと話そうと思って電話したら。『現在使われておりません』ってテープが言ってた。お母さんに話したら、『そういえば引っ越すようなこと言ってたねえ』だって……。でも引っ越す予定だったら、あの子があたしに直接知らせないはずないと思うの」 「あの、それが……?」  いまどうしてそんな話が出るのかわからずに、僕は河合を見た。 「思い当たることあるか? その子のうちも河合んとこみたいな自営? それともジョンの家みたいな不良債権企業?」  徳田が尋ねると、河合は首を振った。 「あたしおじさんに——その子のお父さんに、ついこないだ会ったの」 「へえ?」 「むこうの親戚《しんせき》の法事の帰りだとか言って……あたしん家《ち》にちょっと寄ってったんだけど、新しい車に乗ってた」 「新しい車?」 「うん。車の名前とかくわしくないけど、すっごく大《お》っきいの。後ろの座席なんて、あたしが十人くらい座れそう。銀色で、目がつりあがったようなかたちにライトがついてて、運転席なんてまるで操縦席みたいで……」 「つまり、高価《たか》そう?」  僕がそう訊くと、河合はうなずいた。 「おじさんてさあ、見栄っぱりで借金してもそういう車買うような人?」  徳田が訊くと、河合は激しく首を振った。 「ぜんぜんそんなタイプじゃない」 「株か宝くじか、なんかそんなんで儲《もう》けたのかもしれない。それで、もっといい家に引っ越したとか」 「だったらちゃんと知らせてくるはずでしょ?」  がらがらぴしゃん、というドアが激しく開閉される音がして、僕たちは口をつぐんだ。僕たちがよりかかっている壁のむこう、理科実験室のほうから聞こえたようだった。  ほどなく、その音をさせた者の正体はわかった。 「話があるんだったら職員室でうかがうと言ったでしょう!」  と、とんがった調子で言っているのは根本先生の声だった。 「どうもすみません。あなたを他の先生がたから引き離しておきたかったもので」  と答えた声は江上さんのものだ。一瞬間をおいて、先生の声が言った。 「どういうことです?」 「事情を知っている人に邪魔されたくないし、知らない人の前では頑として喋《しやべ》ってくれないでしょうからね、あなたは」 「事情って、なんです」 「それをあなたに聞きたいんです」 「なにを聞きたいっていうんですか。そりゃ、今朝はちょっと撮影をお断りしたけど、だからって撮影隊を帰らせることはないじゃないですか」 「いえ、学校風景は最小限におさえて、キャンプの模様をメインにしようって、ゆうべみんなで話し合いをしたんです」 「じゃあ、そうおっしゃってください。校長の前で。何か失態があって、番組がぽしゃったんじゃないって!」 「あのペンダントはだれから?」  江上さんはいきなり切り出した。先生は答えない。 「彼氏から送られたものでしょうけど、どうして急に金まわりがよくなったのか、訊きましたか?」  江上さんが言うと、ようやく先生は笑い声をたてた。あまりほがらかとはいいかねる笑い声だった。 「男の財布をのぞきこむのは、最低の女だって教わりませんでした?」 「いいえ」  江上さんは答えた。 「出どこのよくわからない金でプレゼントを買わせるのは最低の女だとは教わりましたが」 「給料が上がったのよ。いいでしょう。働きがあるのよ、あたしの彼は!」 「どちらの会社にお勤めで?」 「そんなこと……大森セメントの、営業だけど」 「大森セメント……数年前、今関グループの系列に入った会社ですね」 「それがどうしたの。この町では、ちょっと大きな会社はみんなあそこの系列よ」 「『植物占い』はどうして禁止されたんです?」  江上さんは、どんどん関係なさそうな質問をくりだしてくる。先生は自分を取り戻した声で答えた。 「なんでそんなこと訊くのかさっぱりわからないけど……どういう過程もなにもないわよ。甲田くんのご両親が朝早く学校にみえて、妙な占いのせいで息子が階段から落ちた、これは学校でそうしたものを禁止しなかったせいだっておっしゃって……だから禁止よ。どこも変なとこはないでしょ」 「『禁止しなかった学校のせい』ねえ……。ご両親が朝早くみえられたと」 「あんた、しつこいわね」  先生の江上さんに対する呼び方が、「あんた」になっている。 「先生もお会いになったんですか?」  江上さんが訊くと、先生は、 「もちろん」  と答えた。 「さっき、ADの者が甲田くんの家に行ってきたとこです」  江上さんにそう言われ、先生は、 「えっ?」  と言ったまま絶句した。 「いいでしょう、住所録つきの名簿をおあずかりしてるんですから。カーテンがぴっちりしまって、ベルを鳴らしてもだれも出てこなかったそうです」 「そんなの知りません! 息子の入院してる病院にでも行ってるんでしょ」 「そうかもしれませんね」 「もういいでしょ? まったく、わけのわからない質問ばっかりして」 「もうひとつだけ」 「なによ」  めんどくさそうに答えた先生に、江上さんは、 「どうして桃山ヨハネくんのことを、生徒に話してあげないんです?」  ……そう言ったのだ!  僕たちは、壁のこちら側で顔を見合わせた。どうしていまここでジョンの話を? 「桃山……ヨハネ」  鸚鵡《おうむ》がえしに繰り返す先生の声はバカみたいだった。 「そうです。今月はじめに一家揃って失踪《しつそう》してますよね? あなたは突然登校しなくなった彼のことを、生徒たちに説明もしなければ、みずから進んで行方を知ろうとした形跡すらない」 「なんであたしがそんなことを」 「だって、生徒じゃないですか」 「江上さぁん」  先生は、冷笑しながら言った。 「あなたこそ教師になればよかったですね。いえ、やっぱりならなくてよかったわ。そんな熱[#「熱」に傍点]血[#「血」に傍点]なことしてたら、いま目の前にいる生徒からも、校長からもPTAからもなに余計なことしてんだって思われるだけじゃない。桃山くんのお父さんは、住宅ローンが払えなくなって夜逃げした。だれからも探してほしくなんてないでしょうよ。桃山くんだって永久に生徒じゃないのよ。いつかくる別れが早まっただけ。違う?」 「いつかくる別れ」——僕がその言葉を聞くのは、きょう二回めだ。 「住宅ローンが払えなくなった……」  江上さんは、どこかうつろに響く声でそう繰り返した。先生がふてぶてしさを取り戻した声で言った。 「よくある話よ」 「先生」 「なによ」 「桃山ヨハネくんのお父さん、桃山孝之さんの借金は完済されてます」  なんで先生はなにも言わなかったのだろう。僕たちのほうは、わっと声をあげそうになり、あわててお互いの口をおさえた。  カンサイとはつまり、借金はもうない、という意味か?  どういうことなのかもっとはっきり聞こうと思ったが、それきり声はやんだ。と、かつかつと靴音がして、渡り廊下に江上さんが現れた。壁にはりついている僕たちを見、一瞬驚いたような顔をしたがすぐに笑顔になり、そのままなにも言わずに歩きだし、また振り返って手まねでその場を離れろというしぐさをした。言うまでもなく、根本先生に見とがめられないためだ。僕たちは急いでそうした。身をかがめながらふたりで徳田の車椅子を押し、理科実験室の隣にある準備室の西側にまわりこむ。僕たちはそこで呼吸をととのえた。 「江上さん……なんて言ってた?」  僕が言い、河合と徳田はちょっと急いだだけなのに息を切らして首を振った。聞いてなかったという意味ではない、聞いたことがよくのみこめなかったのだ。  ジョン一家の失踪は借金苦のためだとばかり思っていたのに、江上さんは違うという。だとしてもなぜ江上さんがそんなことを知っているのか。  江上さんは、そのほかの疑問も箇条書きにしてみせた。職員室に呼び出された八重垣はどうして戻ってこないのか。階段から落ちた甲田の入院先を教えてもらえないのはなぜなのか。タダ券を気前よく配ったり旧校舎を建て直したり、一介のサラリーマンが彼女に金のペンダントをプレゼントしたり、なんで突然景気が良くなったのか。そして僕たちの個人的な疑問。  急に仕事の増えた徳田の両親。その両親になにかを依頼したらしい僕の母親。  家に帰ってみると、店の戸が開いており、内側に入れたのれんの下で、ママが知らない男の人と話していた。 「ただいま」  と僕が言うと、ママはうなずいてその人に、 「息子です」  と僕を紹介した。きのうまでヤンキーやってたみたいな感じの若い男の人だったが、ぺこりとお辞儀をして、 「勉強ごくろうさまです」  と言ってくれた。 「なにがごくろうさまなもんですか。勉強で苦労してくれるといいんだけど」  とママが言うと、男の人は、 「ゆくゆくは支店をまかせるので?」  とママに尋ねた。  支店? 支店って、なんの話だ? 「まさか。この子にそんなことさせません」  そうママははっきりとした声で答えた。  二階に上がって冷蔵庫から出したプリンを食べているとママが入ってきた。僕は単刀直入に訊《き》いた。 「支店って、なんの話?」  ママは洗ってならべておいた皿を拭《ふ》きながら背中で答えた。 「駅前のビルにいい物件があるの。そこで、ここよりはちょっとおしゃれな居酒屋をやろうかと思って。さっきのお兄さんは信用金庫の人」 「へー……」  僕はちょっと言葉を切り、そして訊いた。 「銀のシャンデリアの下がったお店?」  ママはきょとんとした顔をし、それから噴き出した。 「まさか。なに考えてるのよ、もっとシックな、木目を強調したようなお店にするつもりよ」  なんとなく僕はホッとし、プリンの残りをすくいながら言った。 「でも、よく信用金庫がお金貸してくれたね」 「うまいぐあいに保証人が見つかってね」 「保証人?」 「そう。前、話したことなかったっけ。ママのお母さんね、再婚だったの。前のだんなさんと離婚するときに子供を置いてきてて。父親違いの兄ね、ママにとっては。お母さん、ときどきこっそりその子と会ってたの。ママがだいぶ大きくなるまで。ママのことも連れてね。そんな事情よくわからなかったけど、あたしはあのお兄ちゃんと遊ぶのが好きだったのよ。いっしょに暮らせてたら、仲のいいきょうだいになれたと思う。あれからいろいろあって、お互いの消息がつかめなかったんだけど……」 「あっ!」  思わず僕は声をあげ、ママはびっくりして振り向いた。 「どうしたの?」 「え? う、ううん、なんでもない。その人、つまり、見つかったんだね」 「ええ」 「どうやって見つけたの?」 「色んな方法があるのよ」  ママはそう言って片目をつぶってみせた。  そうだったのか!  ママが徳田の親に依頼して調査してもらっていたのは、その父親違いの兄のことだったのだ。目の前から霧が晴れていくような感じがした。僕はいったい、なにをあんなに心配していたんだろう。 「やっと見つけ出したの。何年ぶりかしら。このあいだ会ったのよ、あんたが学校行ってる間に。むこうもあたしに会いたがってたんだって。保証人の件、こころよくひきうけてくれたわ」 「僕にとってはおじさんだね」 「そうよ。こんど紹介するわ」 「いつ?」 「新しいお店のめどがついたらね」  僕は少し心配になった。 「だいじょうぶ、ママ? そんなにその……手を広げて」 「下のお店を持つときだって、だいじょうぶかって訊かれたわ」  ママは、食器棚の戸を勢いよく閉めた。 「なんだって大変なことはわかってる。でも、びくついてたらとても人生を乗り切れないわ」 「人生を」 「そうよ。あたしは負け犬ではないの」  ママはそう言って髪をたばね、三面鏡の前に座ると鼻歌を歌いながらお店用の化粧をはじめた。なんだか十歳ぐらい若返ったような感じだった。  そうか、事業を拡張するのか、ママは。  僕はふと思い出して、ランドセルにつっこんでおいた紙の束を取り出した。今日先生から配られた、美術館や博物館のただ券だ。ほかにも商品券やビール券が何枚もたばねられている。それを見ているうち、僕はあることを思いつき、ためすつもりでママに言ってみた。 「ママ、ちょっとゲーセンに行ってきたいんだけど」 「ああいいわよ、十時前にはもどりなさいね」  ママは、ビューラーでまつげを押し上げながらそう答えた。僕はさらに言った。 「ちょっといま、財布の中身がさびしいんだけど……少し、くれない?」  ママは、鼻歌を歌いながらテーブルの上に放り出してあるバッグのほうを身ぶりで示した。 「中に財布あるから、抜いてきなさい」 「五千円くらい?」 「いいわよ」  僕はママの背中を一瞬見つめてから、そのとおりにした。  なんだってママはこんなに気前よくなったんだろう? つい最近まで、水道代がもったいないから蛇口はちゃんとしめろと言ったり、ご飯を炊きながら卵をゆでるケチケチ家族の番組を熱心に見たりしていたのに。それに、いくら保証人を立てたとは言っても、これからローンの返済に追われることはわかりきっているのに。  外に出ると、国道を越えたずっと先に、真っ赤な夕焼けに染まった七馬岳が見えた。夏休みの中盤、あそこでキャンプがある。だが、その前に……  僕は家から十分離れたことを確かめ、それから携帯電話を取り出した。     12  夏休みが近づきつつあった。僕たちは、いつもの年のうきうきしたのとは違う、はやく海面に出て呼吸をしたいと願う潜水者のように、重苦しい気分でそれを待ち続けていた。クラスの雰囲気は、夏休み前の数日間で、どんよりとにごったなにかに汚染されていた。  ひとつには、キャンプ直前までのみんなの様子をじっくり撮るだろうと思っていたNBNのテレビクルーが引き揚げてしまったことにある。とうぜん、江上さんも僕らの前から姿を消してしまった。あの理科実験室での、根本先生と江上さんのやりとりを聞いた僕や河合や徳田ならずとも、なにかとても奇妙なことが起きているという印象を抱いたはずだ。だがなによりも、クラスのみんながどこかよそよそしく、探るような目つきで互いを見るようになったのは、あの日以来登校しなくなった八重垣のせい——と言うより、八重垣の不在のせいだった。  僕たちはいらいらしていた。あの薄気味のわるい軟体動物、造化の神の悪ふざけである八重垣潤。あいつのいない教室というものがこんなにも落ち着きなく、しらちゃけた雰囲気に包まれるものだとは知らなかった。  休み時間になり、いつものように教室を出がてら八重垣を蹴飛《けと》ばそうと思っていた僕たちは、それがあまりにも日常のことだったので、そうできないのがこんなにも心をむなしくさせるものと知って愕然《がくぜん》となった。八重垣をボール代わりにサッカーやアメフトをやる以外に、昼休みの過ごしかたを知らない連中は手もちぶさたとなり、意味もなく廊下の壁なんかを蹴飛ばしてほかの組の先生に叱られた。僕たちは腹を立てた。八重垣は、こんな方法で僕たちを不愉快にさせることもできるのだ。僕たちはバケツで校庭から砂を取ってきて、主のいない八重垣の机のなかに詰め込んでやったが、八重垣がいつ戻ってくるかわからない状態では、効果のほどがどれくらい期待できるかもわからなかった。  八重垣が、戻ってこないかもしれない?  その想像は、僕たちをひどく落ち着かなくさせた。八重垣がいれば、「少なくとも自分は八重垣よりはましだ」と思うことができる。八重垣潤は進化の失敗で、歩く生ゴミで、人間というよりおばけに近いものだが、そういう存在はまた周りの連中の人間らしさを保つ装置でもあるのだ。  そんなことを考えながら、僕は日曜日のバスに揺られていた。どうせあと二日で終業式なんだから、そのぶんくりあげて夏休みの始まりを早くしてくれりゃいいと思うんだけど、なんかよく知らないがうちの県はそのへんがシャクシジョーギで、「夏休み冬休み春休みあわせて何日、これ以上まかりならぬ」って条例があるとかで、そういう間抜けな飛び石連休をよくやらかす。  だけど夏休み前に一回日曜日があってくれて助かった。なんせ夏休みといえばドリル帳に絵日記にラジオ体操に学校プールに工作に花火にスイカの一気食いだ。今年はその上に徳田や河合と立てた「計画」、かてて加えて例の撮影隊つき母子体験サバイバルキャンプがひかえている。その中でも、休み明けの発表の成果いかんでは二学期中の人気を左右しかねないのが「自由研究」だ。去年は松島公彦の、「ホットカーペット利用のニワトリの卵の孵化」の記録に話題をさらわれた。松島を親だと勘違いしたひよこが松島のあとをついて歩いてるビデオつきでだ、くそ! (成長したおんどりの処理に困って結局河原に捨てにいったそうだけど)  なにごとも前だおしにするのが嫌いなよいこの僕は、というか、予定が押せ押せになるとパニックに陥る小心ものの僕は、そんなわけでその日曜日、バスに乗って亀ノ岩植物園への道を揺られていた。格好は捕虫網に虫カゴに半ズボン、これじゃまるで図書館にあった古い童謡集のさし絵である。その格好でおりた亀ノ岩植物園というのは、実はとっくに廃園になっていて、停留所の名前だけが残っている。  鉄(だかなんだかとにかく金属)の、先端のとがった柵《さく》のなかは草ぼうぼうで、そのずっとむこうに、赤茶色をした小さな石の小屋みたいなものが見える。あれは植物園の施設ではなく、なんとかかんとか言う明治の人(郷土史授業でやったはずなのにちっとも憶《おぼ》えられない)の別宅なんだそうだ。  錆《さ》びの激しい柵の内側には鉄条網が張り巡らされ、いちおう立ち入り禁止ということになってはいるが、裏手のほうに生えている大きな柿の木を利用すれば簡単に侵入できる。事実、よくここはシンナーをやる高校生とかに利用されているのだ。もちろん、入ってはいけないと学校からもママからもきびしく言われている。  鉄柵の横棒に足をかけ、柿の木の枝に飛び移った僕は幹を滑り降り、植物園への侵入に成功した。すぐそばに車道が走っているのに、車の音はそのとたんふっつりとだえて、僕はばかになりそうなほどやかましいみんみん蝉の声と、息がつまりそうな青草の匂いにつつまれた。  狙い目は、毛虫、芋虫《いもむし》、なにかの幼虫のたぐいだった。アゲハ蝶《ちよう》が何羽もひらひら舞っていたが、アゲハの幼虫ではポピュラーすぎて面白みにかける。何だかよくわからない幼虫を捕えて、どんな虫になるかを観察するつもりだった。ひょっとしたらたいへんな新種で、アカハダカシンスケチョウとかなんとか名前がつくかもしれないではないか。  僕は、手近な木の一本を蹴飛ばした。たちまち、ばらばらと毛を生やした気持ちの悪いかたまりが落ちてくる。捕虫網ではなかなか捕まえにくい。ピンセットを持ってくるべきだったと思った。なかに、あざやかな黄色と青で色わけされた、トゲのようなものをいっぱい生やした大ぶりな毛虫がいたので、それをつかまえることにした。ポケットにあったハンカチをたたんで指を保護し、つまみ上げて虫カゴに入れる。虫カゴの蓋《ふた》をかちゃりと閉めた、その時——  深く、甘い感じのするある感覚に見舞われた。その感覚には覚えがあった。夏休み前のある日、八重垣潤の殺風景な部屋で、あいつの携帯電話を耳にあてたときに感じた、ひきずりこまれるようなめまい——  僕は、自分が転んで膝《ひざ》を打った痛みで正気にかえった。また周囲は、のんびりとした蝉の声と強い日差しの世界に戻っている。僕は少しすりむけた膝につばをつけて立ち上がり、周囲を見回した。  植物園のもっと奥のほうへと通じる小道——ひび割れ、苔《こけ》だらけになったレンガがしきつめられている——がのびており、それは真っ黒な、先端の茂りをたがいにからみつかせた何本もの木がかたまって立っているほうへ続いていた。親にも先生にも注意されずとも、本能がそっちへ行くなと告げるであろう暗がり——  気がつくと、僕はぼんやりと手を両側に垂らしてその木々の間に立ちつくしていた。さっき立ち上がった時点から時間の経過はまったく感じられなかった。なのに、周囲いちめんに黒い茂みをはびこらせた木の下に立つ僕は、もう捕虫網も虫カゴもさげておらず、腰につけていたポーチまでもどこかに消えてなくなっていた。かぶっていた帽子までもが、ない。  僕は方向感覚をうしなってぐるぐると回りながら、木と木のあいだをすかして見ようとした。かろうじて、白くぼんやりとした昼間の光が太い幹の向こうにちらちらと見える。だがそちらのほうへ行こうとしても、するどいトゲをたくさん生やしたなにかの蔓《つる》がからまりあい団子となり、草の壁となって僕を阻むのだ。いったい僕はどうやってこの場所までやって来たのか? はっと気づいて体を眺めまわすと、細かい切り傷がたくさんできている。こんな傷を作りながら、ここに?  遠くで雷の音がした。見るまに、葉を茂らせた木の下は、さっきよりももっと暗くなる。たちまち、葉に雨つぶが激しく当たる音がしだし、雷の音が間断なく響きはじめた。そして、稲光とつぎの稲光がきらめくあいだ、僕の立っている場所は本物の夜みたいな暗闇に包まれた。 「…………!」  僕は、傷を負ってもかまわないからと、さっき白い光が見えた気のする方角に向かって駆けだした。が、たちまち太い根っこに足をとられて転んだ。顎《あご》を木の幹にぶつけ、痛みで涙がこぼれそうになった。僕は、根っこにからんだ足を引き抜いた。いや、引き抜こうとした。だが——足が抜けない!!  僕はわけがわからなくなった。そんな、変な足の突っ込みかたはしていないはずだ。それに僕は、つまずいたのであって根っこの下に足をさし入れたわけじゃない。なのに、いつの間にか僕の足は——つまずいたつま先ではなく、足首の上に根っこが横たわっている!!  根っこに足をはさまれたまま、白骨化して枯葉に埋もれている自分の姿がちらりと浮かぶ。僕は大声でわめき、目の前の地面を叩《たた》き——  叩くことができなかった。木のまわりでは風と雨が荒れくるっているらしく、太陽の光はかけらも見えずそこは真っ暗に近かったが、それでも僕の目の前で僕の腕には奇妙なしわ[#「しわ」に傍点]がより、皮膚がかたくこわばって、腕の上げ下ろしができない——じりじりとは動くのだが、まるでそれは高速写真で見た植物の育つ様子のようで——  僕の腹のしたで、地面が突然熱をもち、泥沼のような感触となり、ゆっくりと、だが確実に僕を飲みこみはじめた。  こんなの現実じゃない。  と僕は自分に思いこませようとした。僕の体は、地面がめり込んでいくにつれて後ろへとすべり、こわばった指さきが石ころや砂利の上をこすっていく。  夢だ、これは夢だ——もう一回悲鳴をあげればきっと目がさめてママが僕をのぞきこんでいる——  僕は声をあげようとした。そして、口もまた、腕同様動かなくなっていることをさとった。そして、泥に半分以上埋まった自分の体の、腹のあたりでなにかがうごめいていることを。こまかい、触手でなでられているような感触——  地面のしたにいる虫が——! と僕は、硬直した体でのみこまれていきながら、頭のなかでパニックを起こしていた。だが、その触手のような感触は、僕がまだ身にまとっていたシャツの外側から押しよせるものではなかった。  それは、僕の皮膚のしたにいた。  まるで、水が注がれるのを待っていたプランクトンの卵のように、僕のなかでなにかが生命を得て、体の外に出ようとしている。僕を、内側から、つ・き・や・ぶ・っ・て——  ついに僕は大声をあげた。こわばっていた口を押し広げて、吠《ほ》えるような悲鳴がほとばしった。その瞬間、僕は顔の表面が破けたような、痛くはないがとても物質的な感覚をおぼえた。次に、耳に感覚がよみがえった。それまで、すぐそばに、鉄柵のむこうのすぐそばには車道があって、そこをひっきりなしに車が通っているのだということを忘れていた。だが車の音が聞こえる。何台も何台も、道にたまった雨水をはねちらかして通りすぎていく車の音が聞こえる。  ばきばきばき、という音をさせて、木と木のあいだを埋めつくしていたトゲだらけの茂みがなぎ払われた。僕の体はあらかた土に埋まって、指さきがかろうじて地面を這《は》う根のひとつにひっかかっているだけだったが、その茂みの向こうがわでだれかのふるっている大きな刃物が見えた。  それはとても大きな刃物で、おそらくは「大なた」と呼ばれる道具なのだろうけど、実際に使われているところを見るのは初めてだった。その人物は、切っても切ってもからみついてくるその茂みを、それでも半分がたうち倒した。そして、大きな声で僕に言った。 「だいじょうぶか、きみ。がんばれ、いま助けてやる!」  叫び声だったが、その中にも落ち着きとおだやかさを感じさせる声だった。僕は自立心もなにもかなぐり捨て、ようやく動くようになった口で、 「は、は、は、早くー!」  となさけなく叫んだ。  その人は、腰の太いベルトのようなものにさっと刃物を収めると、これもベルトにつるしてあったハーフサイズのペットボトルを手に持ち、蓋をあけると僕を捕まえている木に向かって中身をぶっかけた。  僕の足にからみついていた木の根が、ふっとはなれた。そのとたん、僕は地面が崩れてできた窪《くぼ》みにすべり落ちそうになった。細身だがしっかりと筋肉のついた腕がさっと伸びて僕の腕を掴《つか》み、窪みのふちに引っ張りあげてくれた。その人はもう一度ペットボトルの中の——なんだか水にしか見えないもの——をあたりにぶちまけた。そして僕の手を引いて走りだした。  僕の行く手を、あれほどしつように阻んでいた茂みが、硬さをなくし、ただのからまりあった蔓となって、僕たちの前でへんなりとなっていた。僕たちはその蔓のかたまりの上を駆け抜けた。トゲに刺されもせず、どこに切り傷をつくることもなしに。  気がつくと、暗い小部屋のような場所でココアをすすっていた。 「落ち着いた?」  さっきと同じ、さっきよりずっと明るく優しそうな雰囲気をたたえた声が僕に話しかけた。僕は顔をあげた。  最初に目に入ったのは、にぶい灰色の光をたたえたすりガラスだった。緑色の、なにかの葉が揺れているのがすけて見える。そして、周囲に立てかけられた何枚ものベニヤ板。そのすき間から見える、灰色の粘土のような色をした、あちこちにひびが入りあちこちがかたまりで剥《は》げ落ちている壁。足もとに目をおとすと、床は穴だらけでささくれ立った木の板がしきつめられていた。その床の穴から、水滴のまじった冷たい風が吹き込んできて、僕はぶるっと身をふるわせた。 「ああ、やけどするよ、こぼしちゃ」  あさ黒く日焼けした腕がのばされ、僕の手のなかにあったマグカップを支えた。見上げた顔は、どこかで見たような気がした——どこだろう? 「これ、君のだろ?」  その人は、そばにあった大きなダンボール箱の上に置かれていた捕虫網と虫カゴ、それに帽子を指さした。 「あ、はい、そうです……どこで?」 「くぬぎの木の下」  とその人は言ったが、どの木がそうだったのかわからない。その人はくすっと笑って言った。 「柿の木のところから入ったんだろ? それで石畳にそって手近な木のところでこのアサマヒョウモンガを採集した」 「アサマ……なんですか?」 「この毛虫の親の名前」  その人はそう言って、虫カゴを軽く指でつついた。なんだ、新種の発見じゃなかったのか。世の中は甘くない。 「食草《しよくそう》を一緒に採取しないと、餓死させることになるよ」 「ああ、はあ、じゃあ、あとで……」 「バスで来たの?」 「はい」 「じゃあいちいちとりに来れないね。君ん家《ち》の近くに、くぬぎの木ある?」 「えーと? はあ? くぬぎ、あのう、その」  どんな木なのかよくわからない。その人が尋ねた。 「家どのへん?」 「横森のほうです」 「あ、じゃあ市立図書館の裏手に行くといい。秋んなるとどんぐりがいっぱい落ちてる林があるだろ。あれが、くぬぎだよ。幹に名札がかかってるからすぐわかる。ここも昔はそうだったけど、廃園になったときに外しちゃったんだな、解説の札も。だからきみ、うかうかとミヤマスギのコーナーに近づいたりして」 「ミヤマスギ?」 「朝からしばらく町をぶらついてて、戻ってきてみると、捕虫網と帽子と虫カゴが落ちていた。ははあ、昆虫採集の小学生が入り込んだな、と思って探してみたらあんのじょうだ。百メートルも離れた、ミヤマスギのコーナーにいたんだよ」 「百メートル?」  ミヤマスギのなんたるかはわからなかったが、とにかくそんな距離を移動したおぼえはない。その人はうなずいた。 「あの牧野富太郎先生の詳細な解説を書いた看板を読めないとは、いまの子供は不幸だ。もっともあれが立ってたって字も文体も古くて古くて、わかったもんじゃないだろうけど。スギとはいえどまったくことなる種で、この地方独特のものだということがわかったのは昭和に入ってからだ。なんと野末湖《のずえこ》の象の化石とともに花粉が発見されてる。この県にも、亜熱帯のむかしがあったんだよ。ミヤマスギが根と根の間に、二酸化炭素を溜《た》めるための空洞をつくる木であるのは、マングローブなんかと近縁性があるためらしい。見たろ、あの太い根? そのために、ミヤマスギ周辺の地面はしばしば陥没を起こす。岩盤とかで守られてる山中ならともかく、あまり植物園に移植するような木じゃないね。条件さえ整えばすごいよ、ミヤマスギの作りだす天然の洞窟《どうくつ》は」  とすると、さっき穴の底であらぬ妄想にかられたのは、パニックを起こした頭が、なんでもないことを大げさに解釈したにすぎないのかもしれない。そう。木が僕をつかまえよう[#「つかまえよう」に傍点]としたとか、僕の体が木のように[#「木のように」に傍点]こわばっただとか…… 「あの水はなんですか?」  ふいに記憶がよみがえり、僕はそう訊《き》いた。 「水?」  その人はいぶかしそうに尋ねかえした。 「水まいてたでしょう、あの、そのミヤマスギの木のところに……」 「そうだったかな」  その人は、首をひねった。 「ひょっとして、これのことかな」  と、その人はそばのダンボール箱の上に置いてあるペットボトルを指さした。 「炎天下で作業をしていると、脱水症状を起こしかねないから持ち歩いてる。飲んでみる?」  僕はためらった。あのトゲだらけの藪《やぶ》が、急に力をなくしたように見えたのだ。有害なものかもしれない。だが、その人はボトルの蓋《ふた》をとるとラッパ飲みをはじめた。 「血がうすくならないように、塩を少しまぜてある。あと、レモン水とか」 「スポーツドリンクでは?」 「あれ、うまくないもん。からからに乾いてるときでも」  その人は、もう一度ボトルをかたむけ、喉《のど》をごくごく鳴らしながら飲んだ。どうやら、毒ではないらしい。でもそのペットボトルは、僕がさっき見たのより大ぶりなサイズのように思えた。僕は、周りのベニヤ板を見回して言った。 「あのー、ところでここって……」 「あれ、まだわからなかった?」  ボトルを口からはなしたその人は、おかしそうに言った。 「記念館だよ。植物園のなかの」  ああ、と僕はうなずいた。明治のなんとかいう人の別邸とか言われている建物だ。外からはそれなりに古い建築の良さを感じさせる建物だが、中はこんなに荒れはてているのか。 「廃園にするときに、事務所にあったいらないものをなんでもかんでも放りこんでったみたいだね」  と、僕の考えを読みとったようにその人は言った。でもここがただの廃物置き場だとしたら、僕が持っている熱いココアはどこから出てきたのだろう。  そう思って床のあたりを見ると、カセットコンロにやかん、小さな食器戸棚のようなもの、ペンケースのようなものに立てられたお箸《はし》やスプーン、などといったものが目に入った。 「ああ、僕は、よくここに泊まるよ」  くったくのない調子でその人は言った。 「実は宿なしでね」  ホームレス? しかし、着ているTシャツやGパンに泥こそついているものの、薄汚れた感じはしない。それにさっき、なにかの作業をしているとか言ってなかっただろうか。 「でも勤め先はちゃんとあるのさ。営林署で、植物相を調査する部門のバイトをしてる。アパートもあったんだけど、いちいち帰るのが面倒でね。引き払っちまった。それからは、行ったさきの山ん中で寝たりとか平気でやってる。ここは、いくつかある行動拠点のひとつ」 「手紙とか、電話とかどうするんですか」  僕は尋ねた。 「姉が市内に住んでるから、そっちの住所と電話を友達には教えてある。友達ったって、あまりいないんだけどね」 「そうですか?」 「そんなふうに見えない?」 「ええ」 「たしかに、第一印象は優しそうだって言われるよ」  僕はさらにその人の顔をまじまじと見た。この人とはたしかに初対面だ。なのに、どうしてどこかで会ったような気がしてならないんだろう。その人は僕の視線を不思議そうに見返した。 「どうかした?」 「い、いえいま、何時かなと思って」 「ああ、おうちの人、心配してる?」  その人は腰を浮かせた。 「ええ」  それは本当のことかどうか、当の僕にもわからなかった。最近のママは、駅前に出す支店の準備だとかで、朝から出かけ店をあける時間まで帰ってこないことが多いのだ。いまだって、うちに戻っているとは思えない。その人は、ベルトにとめていた、おっとりした外見には不似合いなごつい腕時計の文字盤を見た。 「もうすぐ午後三時」  植物園前でバスを降りてから、三時間以上が経過しているのだ。考えれば考えるほど、どうして自分があんな木の下にいたのかわからなくなる。 「じゃあ、出口まで送ってってあげよう。ケガはしてないみたいだけど、泥水を飲んだと思うから、帰ったら薬を飲みなさい。もし具合が悪くなったら、すぐお医者に行くんだよ」  その人は、もう一度僕をタオルで拭《ふ》いてくれ、それから光の漏れてくるベニヤ板をどかした。午後の太陽光線がわっと顔に当たって、僕はちょっとよろっとなった。その僕の腕を掴《つか》んで支えながら、その人は、 「だいじょうぶ? なんだったらおうちの人に連絡しようか?」  と言った。僕はあわてて——なんであわてるのかよくわからないが——首を振り、 「い、いいです。まぶしかっただけですから」  と言った。入るときよじ降りた[#「よじ降りた」に傍点]柿の木のところに向かう最中も、その人はずっと横をついてきた。 「横森のほうだって? 飲食街だね。君ん家《ち》も食堂かなんか?」  なんでそんなこと訊くんだろうといぶかしく思った。 「学校は、やっぱり空知《そらち》に行ってるんだろうね」  そういえば学校でもらった「こんなおとなにであったら」とかいうパンフに、個人情報を根掘り葉掘り聞きたがる知らないおじさんは、実は誘拐する相手を物色しているのだとか書いてあった。僕は体をかたくした。ところがその人はテレパスででもあるのか、ぷっと噴き出すと言ったものだ。 「君を誘拐して金がとれるとは思ってないよ。ええと、藤山くん」 「な、なんで」  名前を知ってるのかと言おうとしたが、考えてみれば帽子にも虫カゴにも、ごていねいにも捕虫網の竿《さお》にまで名前が書いてある。学校が「お子さんの持ちものには必ず名前を」なんてプリントをよこすからだ。くそ。 「少ないけど、これ持っていきたまえ。あまりたくさんとっても、ひからびちゃうからね」  その人はコンビニの袋の口をしばったものを僕によこした。受け取るとがさっとした感触があった。なにかと思ってその人を見ると、にっこり笑って、 「くぬぎの葉っぱ」  と言った。僕はもごもごとお礼を言って、それを丸めてポケットにつっこんだ。  柿の木はもとの場所に、なにごともなかったように立っていた(あたりまえだ)。相変わらず、柵のむこうの車道を、こちらには何の関心もなさげに車がびゅんびゅん通っていく。  僕は柿の木によじ登り、いったんふり返ってその人に向かって頭を下げた。その人は手をのばし、一瞬なにか言いたそうにしたがほほえんで、その手を振るときびすを返して記念館のほうへと戻っていった。  僕は道におり立ち、バス停に行くのにわざわざ反対側を回り、あの〈陥没〉があった木の茂みを探そうとした。それらしい木立はたしかにあったが、柵《さく》の外から見るそれは、どう見てもただ単に、おもしろくも何ともないただ太いだけの木が二、三本かたまってつっ立っているようにしか見えなかった。  バスに揺られて来た道を引き返しながら、僕はなんとなく、 (いまの人の声って、癒《いや》し系だよな)  と考え、それからあることに思いいたってあっと声をあげ、それをごまかすためにわざとらしく虫カゴのなかをのぞきこんだ。アサマヒョウモンガに成長するとかいう毒々しい幼虫が不思議そうに僕を見返したが、それどころではない。  あの、僕を助けてくれた人。見覚えがあるように感じたのは、会ったことがあるからじゃないのだ。あの日、八重垣の家で聞いた、八重垣が『伝統工芸博覧会』の会場で会ったという青年の顔。森本レオに似ているという、その言葉から想像した顔に、あの人はよく似ているのだった。     13  僕は植物園で遭遇した出来事をだれにも話さなかった。徳田にも河合にも、もちろんママにも。ママは支店の準備で忙しい上心配させるだけのことになるだろうし、徳田にしろ河合にしろ大事な計画の最中に妙な、確信の持てないような話をして混乱させたくはなかった。そう、その計画を煮詰めている最中だった、あの騒ぎが起こったのは。  それは植物園に行った二日後、一学期の終業式の日。  先生たちは、終業式の準備のため体育館のほうへかかりっきりで、校舎が無警戒状態だったこともあるかもしれない。こんなとき決まって学期の総仕上げとばかり思いきり蹴《け》ったり殴ったりできるのが八重垣なのに、その楽しみを奪われた男子たちは、意味もなく階段の踊り場でたむろしていた。そして僕と河合と徳田は——  僕たち三人だけは、踊り場から続く教室のテラスに出て、ここ何日か話し合ってきたことを再確認していた。徳田が神経質にせわしなく車椅子の車輪を前後させ、それがゼラニウムの花瓶に当たってごつっという音をたてた。踊り場でたむろしていた連中が、じろっとこちらを見た。  テラスのドアが開き、松島公彦が顔を突き出した。 「クラスの花を壊すなよな、とっきー[#「とっきー」に傍点]」 「その呼びかたやめろよ」  徳田は笑って手を左右に振った。 「いまテレビ局はいないんだからさ」 「へえ?」  そう言った松島の顔は、なんだかいつもと違っていた。 「じゃ、もう、おめーの引立て役やらなくっていいってわけだ」 「引立て役だなんて」 「なんだよ」 「そんなふうに思ったことないよ」 「そうかい」  松島は、いままで見たこともないような冷たい表情で言った。 「俺はずっとそう思ってたよ。俺たちゃ、とっきーがいる限り『3組のなかまたち』でしかないんだってな」  河合が身じろぎした。僕も、何とはなしに身がまえた。なにかいやな予感に包まれて。松島は、携帯電話を取り出し、プッシュして徳田に向けて差し出した。徳田は、無理に作ったような笑顔で言った。 「なんだよ」 「聞いてみろよ。お前の運命だ」  嘘だ。あれはとっくに、「現在使用されておりません」になったはずだ。 「『植物占い』は禁止になったじゃないか」 「へえー」  松島は鼻を鳴らした。 「生徒が先生用のエレベーターに乗るのだって禁止だろ」 「あれは……」  なにかがおかしい。それはもう決定的だった。僕たちは一年のときから、なにか徳田の手にあまることがあればいつでも行動が起こせるように、それでいて徳田の自立をさまたげないように、自然と訓練ができていた。「とっきーと3組のなかまたち」が放映されるたびに、新聞の地方欄には「障害と言わず個性ととらえることの大切さ」「おぎないあう人間の自然な姿」への称賛の投書が殺到するし、僕たちはみんなそのことを誇らしく思ってたんじゃないのか。 「俺たちだってエレベーター乗りてえよ。疲れてんのはみんないっしょなんだからよ! 差別って言うんだろ、そういうの。おめえが俺たちを差別してんじゃねえか!」 「公彦!」  僕がたまらず叫ぶと、松島はいままで見たこともないようなガラス玉の目で僕を見た。 「おまえらいいよな、いつも徳田とくっついてるせいで、テレビにもよく映ってよー」  エレベーターのことで難癖をつけたことをなじろうとしたのに、論点をすりかえてこられて僕は言葉につまった。テラスの出入り口には、松島の後ろに男子たち、それとクラスの中でもとりわけ品のない噂ばなしの好きな女子の数人がだんご状態にかたまり、世にも嬉《うれ》しそうな目でこっちをうかがっている。 「なんで急にそんなこと言い出したんだよ」  僕が力なくそう言うと、松島は目を吊り上げた。 「急にだって?! 俺らずっと思ってたよ、よくおまえらのいないとこでそう言ってたよ、気がつかなかったのかよ、とっきーの仲間[#「とっきーの仲間」に傍点]!」 「よせったら! 公彦、おまえおかしいぞ」 「おかしいだと?!」 「いいよ、もう」  耳をふさぎたくなるくらい悲しい声で徳田が言った。顔はほほえんでいた。だが、松島はやめようとしなかった。 「なにがいいんだよ。ぜんぜんよくねえよ。俺は、おかしいって言われた。ブジョクを受けたんだぞ」 「あやまれ、真介」  徳田にそう言われて、逆上したのは僕のほうだった。 「何でだ?! おかしいじゃないか、今までそんなことひと言も言わなかったのに急に——」 「公彦」  徳田が、松島に向かって手をのばした。 「聞くよ。『植物占い』。聞かせてくれよ」 「ふふん」  松島は、鼻先で笑いながら携帯電話を差し出した。 「かけっぱなしにしといたから電話代つかっちまったよ。あとで弁償しろよな」 「それはおまえが、勝手に……」 「真介!」  勝手にやったことだ、と僕が言いかけるのを、徳田が強い口調で止めた。河合はなにも言わず、徳田の車椅子のレバーを手が白くなるほど握りしめたまま小刻みに震えている。徳田は、悲しそうにほほえんだまま松島の携帯電話を耳にあてた。そして顔色をかえた。松島が言った。 「どうだよ。それがおまえの運命だよ。どう思う?」  僕は徳田の手から携帯をひったくり、耳にあてた。響いてきたのは、テープの声じゃない。はやしたてるような、子供の声だ。 〈死ぬ! 死ぬ! おまえは絶対死ぬ! 足のないところにハエがたかって全身くさって死ぬ!〉  僕の頭の中が真っ赤に燃えて沸騰した。これは『植物占い』なんかじゃない、松島がどこかに仲間を潜ませておいて、携帯で呼び出してこんなことを言わせているのだ。僕は松島に殴りかかろうとした。その僕の袖《そで》を、河合が強く引いた。 「やめて。真介」 「こんなこと……」 「相手にするんじゃない」  その言葉に、松島の顔がぴくりと痙攣《けいれん》した。 「相手にすんじゃないって? 河合、おめーどっちと結婚すんだ、将来?」  河合はすっと前に出ると、自分の携帯を出してプッシュもせずに耳にあてて言った。 「松島くん。あんたの家にはおばあさんがいて、みんなでそのおばあさんのことをゾンビと呼んでるでしょ。動かないししわくちゃだし、早く死んでくれないかって言ってるんでしょ、お母さんが。帰ったら確かめてみなさい、お母さん、おばあさんに出すミソシルにゴキブリ入れてるわよ。そしてあんた、松島公彦、あんたは兄弟のなかで特別バカだって言われてる。あんたのお父さんはお母さんに、あんたの目の前で言ったことがある。このバカはだれの子だ? おまえ浮気でもしたんだろうって!」  松島の顔が赤くなったり青くなったりし、口のはしにあぶくが吹き出した。かくかく震えながら松島は体勢を立て直し、悪意のこもった声で言い返した。 「失礼。おめーがもう結婚してんの忘れてたよ。最近太ってきたじゃねえか、ニンシンしてんのとちがうか? とっきー[#「とっきー」に傍点]の子、それとも藤山の? ま、生まれてみりゃわかるよな、その子に足がなかっ……」  僕はテラスを走り、床を蹴って松島にむしゃぶりつき、そのまま踊り場へとなだれこんだ。たちまち、そこはものすごい騒動に巻き込まれた。だれかの足とげんこつが、僕の腹や背中に食い込む感触があった。ひとりやふたりのものじゃなかった。どこか近くで悲鳴がとどろいた。それが河合のものと知って僕は手近なひとりの腕にかみつき、そいつを振りはらうと立ち上がった。  河合が、男子数人に組みしかれてスカートをまくり上げられ、胸をわしづかみにされていた。僕は頭のなかが真っ白になった。そのとき、だんご状になった僕たちの群れのなかに徳田の車椅子がつっこんできた。河合のパンツを引きずり下ろそうとしている連中の上に腕を使って飛びおり、引きはがそうとする。だがたちまち徳田の姿は、殴りかかる男子たちの山の下に見えなくなり——  そのとき、大きな金属的な音が踊り場に鳴りひびいた。  がちゃり。  本当は、そんな大きな音ではなかったはずだ。だって、思わず暴れるのをやめて音のしたほうを見た僕たちの目にとびこんできたのは、床に転がった小さなブローチだったのだから。 「あら。留め金が壊れちゃったわ」  上のほうから声がした。僕たちは身動きできなかった。かつかつとパンプスのかかとを響かせて階段の上からあらわれたのは——江上さんだった。NBNのレポーターだという、謎の女性。江上さんは、ブローチを拾いあげ、巻毛をふわっと揺すると、女神の笑顔で僕たちを見回して言った。 「元気ねえ、みんな。じゃ、キャンプ場でまた会いましょう」  そう言って階段を下りていく。そして僕たちをひどくあわてさせたのは、江上さんのあらわれた階段の上から、ばつの悪そうな顔をして下りてきたカメラマンの目高さんの姿だった。 「目高さ——」  そう言って絶句したのは、いままさにリンチまがいの扱いを受けそうになっていた徳田本人だった。目高さんはカメラを持っておらず、ショルダーバッグ一個という格好だったが、バッグのファスナーは端のほうが不自然に開いていた。  目高さんは、 「いやあのね、実はね、機材をいくつかあいた教室に置かせてもらってたんで、それを取りにきただけなの。じゃ、じゃ、またね、きみたち」  そんなことを言ったって、目高さんはバッグ以外に何の機材も持ってはいなかった。目高さんはそのまま、そそくさと江上さんの後を追った。  僕たちは、しばらくその場から動けなかった。  明日からは、楽しい楽しい夏休みだ。     14  恐怖の宿題帳「夏休みの友」を、得意な国語と苦手な社会のページだけ超特急で終わらせ(こういうことをするから小心ものだと言われるのだ)、プールで泳ぎ月刊少年マガジン夏休み特別号(でも九月号[#「九月号」に傍点])を読破し、ママがお客さんたちに出す二百通あまりもの残暑見舞いの宛名書きを手伝ってるうちに、もう明日は徳田や河合と計画を実行に移す日、というところまで来てしまった。僕は土をしきつめ小枝をいれた金魚鉢をのぞきこみ、少し大きくなったアサマヒョウモンガが古くなったくぬぎの葉っぱをつまらなそうに鼻先でつっつき、そっぽを向くのを眺めていた。やっぱり、新鮮な葉っぱじゃないといやなんだろう。明日は留守にするし、餌を補充しといてやらなくちゃ。でもどこで?  そうして僕は思い出した。植物園で会った、森本レオ似のあの人が、たしか市立図書館の裏の林にくぬぎの木があるって言ってたじゃないか。  さっそくいらなくなったママの買い物かごを自転車のカゴに入れ、ついでに返し忘れていた新本格の話題作(ここだけの話だけど、いわゆる児童虐待トラウマネタでものすごく退屈でつまらんかった)を抱え、僕はえっちらおっちら図書館へと向かった。明日の徳田たちとの待ち合わせ場所も図書館だし、学校で溜《た》まり場にしてるのも図書館だし、考えると僕は本当に行動半径のせまい人生だ。  まあそんなことはどうでもよく、図書館の駐輪場に自転車を置いて裏手に回り、ひとりがけの石のベンチが点在している芝生の上を横切っていくと、その人が言っていた林らしきものはすぐに見つかった。たぶん人工の林なんだろう、高い木や低い木を適当に配置して、猫のひたいほどしかない面積を、うまいぐあいにいっぱしの雑木林に見せている。その中へ続く舗装されていない遊歩道を入っていくと、花壇の手入れをしているおじさんがいた。市の職員が着るような作業着じゃなく、このへんの農家の人が農作業のときに着るような薄手のシャツとださいズボン、それにタオルをかかしがするみたいに頭にかぶっている。僕は校門のまえの看板に書いてある、「雨でも風でも元気にあいさつ」というあほな標語の通りに、 「こんにちは」  と大声で言いながらおじさんの後ろを通りすぎた。それでなくても思索型(わはは)の人間である僕は、黙っていると変な子だと思われるおそれがある。  秋にどんぐりが落ちる木ってどれだっけ? と探していると、だしぬけに背後から声をかけられた。 「くぬぎは、木扁《きへん》に楽しい」  その声を聞いて、僕はびっくりするよりもあきれ、目をむきながらゆっくりと向きなおった。タオルの下から、森本レオを若くしたような温厚でいたずらっぽい顔がのぞいていた。 「なにしてんですか、こんなとこで?」  僕が訊《き》くと、その人はタオルをはずして額をぬぐいながら、 「いやあ、花壇に堆肥《たいひ》を少し混ぜといたほうがいいと思ってね」 「営林署って、そんなことまでやるんですか?」 「いや管轄は、図書館になってるはずだけど、館長が替わってからこっち放ったらかしだね」 「ごまかさないで。僕がここに来るってわかってたんでしょ?」  その人は肩をすくめた。 「待ち伏せなんかして。警察に言いますよ」 「ほっほう。それで君、立ち入り禁止の亀ノ岩植物園に自分がいたってことも堂々とばらすわけ」 「う。痛いところを」 「まあ、幼虫がどれくらいで食草を食いつくすかの計算くらいはたつからね。このへんをぶらぶらしてたらきっと会えるだろうとは思った」 「どうして?」 「ちゃんと薬は飲んだかな、あれから具合わるくなったりしてないかな、ってそう思ってさ」 「僕の体が心配で?!」 「そうさ、君の体が心配で。なんだい、大人が心配だ心配だって言うのは、口さきだけのことだと思ってた?」  そこでその人は急に真顔になり、 「それでどうだい、あれから腹いたなんかは」  と訊いてきた。僕は首を振った。 「じゃ、他に変調はない? たとえば、ええと、どっか筋肉がこわばるとか、関節がつっぱるとか」  なんでこの人はこんなこと訊くんだろう。 「ない?」  その人は気づかわしげに僕の顔を見、それから全身に視線を這《は》わせた。なんだろう。この人は知っているんだろうか。僕があの、ミヤマスギが作ったとかいう穴の底で、まさしく体がこわばり、木のようにつっぱるのを感じたと思ったことを。僕は一瞬ぶるっとなったが、すぐに首を振って答えた。 「ありません」 「そう」  その人は、本当にほっとしたらしかった。そして横を向くと、口のなかでなにかぶつぶつと言った。 「え?」  僕が尋ねると笑って手を横に振った。なんだか、「……然な状態じゃないから幸いした……」  とかなんとか言ったような気がした。僕は、その人の横顔に向かって唐突に言ってやった。 「あの去年、『伝統工芸博覧会』の会場にいませんでした?」  その人がさっと顔を上げたので、僕はびくっとなった。でもその顔は、怒ったりうろたえたりはしていなかった。むしろ、おもしろがっているような表情が浮かんでいた。 「『伝統工芸博覧会』?」  とその人は鸚鵡《おうむ》がえしに言った。 「ええ。あの、あなたを見かけたって人がいるんです」 「どうして、その人の見たのが僕だってわかるんだい?」 「えーと、あのその」  その人はふいに顔をしかめて言った。 「ダチョウ倶楽部の左はしのやつに似てるとか言ってなかった?」 「いえ違います。森本レオです」 「あんまり変わらんなあ」  その人は苦笑しつつ顔をなでた。 「ほんと言われるんだ、全共闘顔だって。三十年、生まれるのが遅すぎた。名前だってさ……まあいい、それで、僕を見かけたって人ってのは?」 「八重垣っていうんですけど。本をもらったって言ってました」  その人は、僕をじっと見た。僕は続けて言った。 「『植物占い』っていう本です。すごく当たるんです、いえ、当たるって言われてます」 「言われてる? ということは、君は信じてない?」 「わかりません」  僕は正直に答えた。 「僕自身の占いは、見ることも聞くこともできないもんで」 「ほう。それはなぜ?」 「その本には、僕の誕生日のページだけなかったし、テレフォンサービスでは……つまり、雑音しか聞こえないんです」  あの音を聞いたときの奇妙な感覚を、言葉で伝えられる自信はなかった。 「ふーん」  その人は、そう言って目をそらした。 「あの本を八重垣に……僕の同級生に渡したのは、あなたじゃないんですか? 覚えてませんか、八重垣潤っていって、はっきり言って気持ちわるいやつだから、会ってたら忘れないと思います」 「気持ち悪い?」 「ええ、いつもうすら笑い浮かべてて、全体の感じがなんか、ねばーっとしてて」  その人は僕をちらりと見た。苦笑しているような、少し皮肉っぽいような、不思議な目つきだった。僕はなぜか急いで言った。 「……八重垣、何日も学校に来なかったんです、夏休み前。学校で『植物占い』が禁止されて、それで、あの本を先生に渡さなかった八重垣が職員室に呼ばれて、それっきり……」  ふと見るとその人はみけんに深くしわ[#「しわ」に傍点]をよせ、片手で顔をおおっていた。 「あの……」 「ああごめん。ちょっと考えごとをしてたものだから。占いが禁止になった?」 「はい」 「それが夏休み前のこと?」 「ええ」 「どうしてそんな最近になるまで、その子、八重垣さんか、本を学校に持ってこなかったんだい?」 「人気出るかと思ったって言ってました」 「それじゃこんなに間のあいた理由にならない……そうか……」  その人はなにか思いついたらしく、視線を宙にさ迷わせた。そしてまた僕を見つめ、奇妙なことを言った。 「いいかきみ、おうちの人や先生と、遠くに行くのはしばらくひかえたまえ」 「どうしてですか?」  その人は答えず、かわりに尋ねかえしてきた。 「最近、身のまわりで変わったことは?」 「大人たちの気前がよくなりました」  すると、その人はわけのわからないことを口にした。 「ウシゴメコーか、くそっ!」 「え?」  その人はまた考えこむ顔に戻った。僕は尋ねた。 「いまなんて言いました?」 「あ、いやいい、忘れてくれ」  そう言ってその人は手を振った。僕は口をとがらせた。 「それじゃ先生と同じだ」 「先生?」 「うちの担任の。かんじんなことはちっとも僕たちに教えてくれないで、自分たちさえ承知してればいいと思ってる。大人って……」 「きたない?」  その人はにこっと笑い、首を振った。 「まあそのとおり。たしかにフェアじゃないな。でもひとつ言っとくけど、大人が子供にすべてをうちあけないのは、子供を馬鹿にしてるせいだけとも限らない。大人じしん、なにをどうしていいかわからないからって場合もある。現に僕がそうだ」 「なにをどうしていいか、って?」 「もう少し……せめて彼女がそれを……」  その人は、もうちょっとでなにか喋《しゃべ》ってくれそうだったのに、またそこでふっと口をつぐんでしまった。僕はいらいらしてあたりを見回した。 「じゃあせめて、名前くらい教えてくださいよ。助けてもらったんだし、ちゃんとお礼も言いたいし」  その人は、しばしためらいがちに僕を見つめ、それからとても恥ずかしそうにぼそっと言った。 「等々力《とどろき》貴政《たかまさ》」  ひと呼吸おいて、僕は悪いと思ったけどぷっと噴き出した。横目で見ると、その人はなんともなさけなさそうな顔を赤くして横をむいた。 「す、すみません、なんか、まるで……」 「時代劇みたいな名前?」 「はあそのお、どんな字ですか」 「ヒトしいがふたつにチカラ、貴族のキに政治のセイ……笑うなったら」 「いやあ、大河ドラマみたいでかっこいいすよ」 「なんとでも言ってくれ。そうだよ、大学時代だって僕のあだ名は『殿《との》』だ。いちど新宿駅で待ち合わせしたやつが『殿ーっ』て言って走ってきたときゃ、そこら中の人に見られて恥ずかしかったのなんの」 「新宿? 東京にいたんですか?」 「大学時代はね」 「あのじゃあ、杉並区ってとこにはどう行ったら」 「杉並のどこ? どうしたの、東京行く用事でもあるの?」  その人にそう訊《き》かれて、僕は喋りすぎたと思ってはっとなった。おまけにさらに余計なことまで言ってしまった。 「だ、だいじょうぶです。大人といっしょにじゃありません」  その人があきれた顔で見たので、もっとまずいことを言ったのだと気がついた。だがその人は、それ以上追及せずに簡潔に電車の乗りかたを教えてくれた。僕はつい、愛想のいいところを見せて、 「なんか東京で買ってきてほしいもんありませんか」  なんて言わずもがななことを言ってしまう。その人が冗談めかして、 「そうだねえ、じゃあ新宿駅地下の食料品売り場にある、卯月《うづき》屋のどら焼き」  なんて言うものだからつい、 「わかりました、じゃあ、あさって」  と言ってからまた舌を噛《か》み切りたくなった。これでは明日行くんですと言ってるのと同じじゃないか。しかしその人——等々力貴政氏は気づいた様子もなく、タオルをまた頭に巻きつけると花壇のほうへと戻り、土の手入れを再開した。僕は少しもじもじしてから、 「あの……とにかくありがとうございます、等々力……貴政さん」  等々力貴政は、自分の名前に苦笑しながらスコップを振ってみせた。  僕は林から出ると、図書館の中に入って本を返却した。返却日が遅れていたのでカウンターで文句を言われた。あまりにもつまらないので読むのが遅くなったのだと言いたかったが賢明にもやめた。そしてトイレに行ってもどってくるとき、ふと思いついてひと気のないドアのまえで足をとめた。ドアの上に、「郷土資料室」というプレートがかかっている。僕や徳田や河合でさえいっぺんも入ったことのない、人が入ってるとこを見たことのない開かずの部屋で、ドアのガラス越しに見えるぶ厚い本の背表紙は、どれもぴかぴかだ。  僕はそっとドアを押してみた。開かずの部屋なんてことはもちろんなく、ドアはすっと開く。中は、ながいことだれにも読まれていないせいだろうか、新しそうな本ばかりなのにひんやりとしていて黴《かび》くさい。僕は書棚をじゅんに見てまわり、『松広藩士系図大鑑』の「つ」から「ね」という、僕の上半身ほども大きさのあるハードカバーの本をひっぱりだした。うちは城下町だから、あんなものものしい名前の人は、きっとしっかりたどれる先祖を持ってるはずだと思ったからだ。  新聞よりでかいページを苦労してめくり、「戸田家」の項目をめくり終えたとたんに、「等々力家」という見出しがあっけなく目にとびこんできた。最初に書かれているのは等々力敦政氏、なんと貴政氏と「敦」以外の字が全部おんなじだ。なんてわかりやすい家系だろう。この町がかつて所属していた松広藩の家臣たちの、その系図だけをただ次から次へ並べただけの本、だれがなにがおもしろくて調べて書いて特装本にして出すのか、だがそのほとんど無駄とも思える情熱のおかげで、森本レオ改め等々力貴政氏がれっきとした武士の出(江戸時代に生まれてたらきっと不肖の子)であることがわかったわけだ。じーん。  等々力家っていうのはよほどの名家なのか、家系図が一ページでおさまりきらず折り込みになっている。その、たぶんいままでだれもひっぱりだしたことのない家系図を広げて目を落とした僕は、奇妙なことに気がついた。  等々力満政、妻ぬいというふたつの名前をつないだ線から下にのびた線は、他とは違って点線になっている。重一郎、とあり、その横に、カッコでくくった、 「島本家より養子」  という文章がある。満政の父親は是政、重一郎の息子が時政、跡とりはみんな「政」の一字がつくのに、この重一郎だけどうしてそうじゃないのか。  気になるのは、重一郎のとなりに並んだもう一本の点線だ。そのさきが|×《バツ》印になっているのだ。  点線で書かれているところを見ると、これも本当の子供じゃなく養子らしい。跡を継ぐまえに死んだのだろうか。それにしたって、名前くらい書いてあってもいいのに。僕は、等々力満政氏に子供をくれてやったという「島本」という人物について調べようとしたが、その時ポケットの中で携帯電話が鳴った。  あわてて周りを見回したがだれもいないので安心して出ると、ママだった。いま図書館だと答えると、串焼《くしや》きのたれ[#「たれ」に傍点]にすって入れるリンゴが足りないので至急買ってこいとの指令だった。僕はぶ厚い松広藩士の記録をまた苦労して書棚に戻すと、図書館を出て駐輪場へと向かった。自分の自転車のところまでたどり着いたとき、幼虫に食べさせる葉っぱを採りにきていてころっと忘れていたことを思い出した。  なぜ思い出したかというと、例によって住所と名前がれいれいしく後輪カバーに書かれた僕の自転車のカゴの中の、ママの古い買い物かごの中には、誰が採ってくれたのか[#「誰が採ってくれたのか」に傍点]緑色のみずみずしい葉っぱがぎっしりと詰まっていたからだった。     15 「真介。ママね、あしたおばさん家《ち》からまっすぐ内装の打ち合わせにいって、そのあと伯父さんと会って食事してくるから」  ママが、うすいピンクの口紅を塗りながら、背中ごしに僕にそう言った。 「あー」  アサマヒョウモンガの幼虫に餌をやっていた僕は、いいかげんな声でそう答えた。 「だからね、あしたも夜まで帰れそうにないの」 「あそう」  僕は、「モスラハウス」と名づけた金魚鉢にダンボール紙の蓋《ふた》をし、さらにいいかげんな声で答えた。 「仕事の打ち合わせと、あと大事な話もあるから、携帯は切ってるかもしれないわ」 「別にいいよ、心配しないから」 「そう言ってくれると気が楽だわ」  目のすみでちらりと見ると、三面鏡のなかのママはとても嬉《うれ》しそうにほほえんでいた。最近、ママの化粧が薄い[#「化粧が薄い」に傍点]。本来、化粧が濃くなることのほうが心配すべき事態なんだろうが、ママの化粧はもともと濃いので、かなり俗っぽさの抜けた[#「俗っぽさの抜けた」に傍点]最近のママは、ときどき僕の知らない人のように見える。  今日はお盆の入りで、ママは毎年大量の串焼きを親戚《しんせき》のうちに届け、お泊まりしてくる。それは前からわかっていたが、明日もなかなか帰ってこないとは、僕にしてみれば非常にラッキーな事態だった。 「俺も、デパートとかゲーセンとか行くから、電話してもいないと思うよ。ケータイも切っとくし」 「あそう。みゆらちゃん誘って『トリアノン』でも行くかと思った」  僕は、ぶっとふきだして新聞紙のうえに並べておいたくぬぎの葉を吹き飛ばした。『トリアノン』というのは、国道から少しはずれたところにあるど派手なラブホテルの名だ。もちろん、学校でだれはだれが好きだとか噂が立つと、すぐに「あいつら『トリアノン』だぜ〜」なんて言ってはやしたてるのだ。 「小学生に母親が言う言葉か」 「あはははは」  散らばった葉っぱをかき集めてる僕の後ろで、ママは笑う。 「そうだねえ、あんたヘタそうだし。みゆらちゃんに悪いわ」 「もういいってば」 「でも、なにかあるかもしれないからね。はいこれ」  とママは、僕の肩の後ろから、手の切れそうな万札の束を突き出した。僕はなぜかあわてた。 「な、なにこれ」 「なにって、見てわからんか」 「い、いいよこんなに」  本当は、お金はあるほうがよかったのだが、はいと受け取るのがちょっとためらわれるような枚数だった。 「いいのよ。ここんとこ、支店のことで忙しくてあんまりかまってあげてないし」 「かまってあげてないってなんだよ。俺は専務だぞ。社長は専務のお守《も》りなんてしないもんだ」 「はいはい」  ママはそのまま、札束を無造作に台所のテーブルに置き、串焼きをいっぱいに詰めた紙袋を持ち上げた。 「じゃ専務、留守中社内でなにかあったら穏便に対処しといて。これはそのための費用だからね。じゃ、行ってきます」  ママは、そう言って黒地に銀のラメをちらしたヒールの高いサンダルをつっかけた。 「ママ」  思わず僕は呼びとめた。 「なに?」 「ウシゴメコーって知ってる?」  ママは振り向いた。その顔は、心底きょとんとしているように見えた。 「なにそれ?」 「えーと、あの」  僕は口ごもった。 「夏休みの宿題。方言について調べてきなさいっていう」 「知らないわねえ」  ママはドアを開けた。 「コーってつくんだから、むかしのえらい人かなんかじゃないかしらねえ。ほら、楠木《くすのき》公とか、頼朝《よりとも》公とか。図書館で調べてみたら? それじゃ、よろしくね」  ドアが閉まり、階段を軽快に下りて行く音が聞こえた。僕は立っていって窓を開け、ママの姿が国道のほうへと消えるのを確認し、携帯電話を取り上げた。相手はすぐに出た。 「もしもし」 「河合?」 「藤山くん?」 「うん。いまママ出てった。三十分後に、図書館裏で会おう。徳田は?」 「一階でスタンバイしてる」 「わかった。じゃ、三十分後」  ママからもらった小遣いでぶ厚くなった財布を入れたポーチを腰にくくりつけ、僕はリュックをしょって家を出た。今日は自転車には乗らず、農業用水の流れる細い川のほとりの道を、農作業をしているおばさんに挨拶《あいさつ》されたりしながら図書館へと急いだ。  図書館の裏につくと、昨日等々力貴政が変装(?)して花壇をいじっていた場所に徳田と河合がたたずんでいた。 「待った?」  河合はうなずき、 「早く行こう」  とささやいた。だいぶ緊張している。僕もうなずき、徳田は右手を突き出して親指を立てた。僕はちょっとだけあたりを見回した。今日は、タオルをかむって怪しげなことをしている人影はない。  僕たちは、図書館の横を流れる小川の護岸壁に設けられたスロープを降りていった。よくこんなどうでもいいような川にまで目をつけて、建設省は意味のない工事をしたもんだと思うが、おかげで川の両岸は平坦なコンクリートが延々と続き、通路として利用することができる。  川の上流に行くにつれ山のなかへと入っていき、ペンションがまばらに建つばかりの地域に入ったところで川岸から道路にあがった。一方通行の林道を時おり通る車のドライバーが、余計な気を回して停車したりしないように、河合は双眼鏡を、僕は捕虫網を、そして徳田は折り畳み式の釣竿《つりざお》を用意してこれ見よがしに体の前にかまえている。釣りと虫とりとバードウォッチングが好きな田舎のバカな子供たちが、夏休みの宿題もせずに山に遊びに来たと、そう思ってくれるといいと考えつつ。  驚いたことに(さいわいにと言うべきか)、すれ違う車のドライバーたちは、ちらりとこちらに目をくれるくらいで、なんの興味の色も、確かめようというそぶりも見せなかった。考えてみればあれはこのへんのペンションの客か、この町を通りぬけて隣県の海水浴場あたりへ向かうレジャー客が大半で、自分たちの楽しみだけにしか関心がないのだろう。  太陽が中天にかかろうかというころ、僕たちは私鉄の無人駅に着いた。  これは、かつて養蚕が盛んだったころ、山と山のあいだに点在していた村々を結び、その人たちの生活物資を運ぶために作られた路線——だと、その駅前にぽつんとある「おかいこ地蔵」という気色のわるい石のかたまりのとなりの看板に書いてある。顔が普通のお地蔵さまなのに、体の部分が繭《まゆ》のかたちをしているのだ。  とにかくもう一時間に一本あればいいような路線で、廃線にしないのは、いまだにバスの通れる道の整備されてない山間部に住む百戸ばかりの人たちのためだ。でも地図をよく見ると、終点の駅はJR新幹線の駅のすぐそばだった。地図で見るかぎりたんぼの真ん中としか言いようのない場所だったが、河合が言うには「セージ的配慮」が働いているのではなかろうかということだった。理由はともあれ、僕たちは助かる。  だれに見とがめられることなく、二両編成の、床が木でできているあずき色の電車にがたごとと揺られて、僕たちは一度も行ったことのない魚尻という駅に着いた。そしてそこで、車椅子に乗った少年を含む子供だけの三人組ということで駅員に目をつけられ、補導さえされかねないところを、江上さんに助けられたのだ。     16 「ありがとーございましたぁー」  グリーン車のデッキで、僕たち三人はいっせいに江上さんに頭を下げた。本当に知り合いなのか責任は持てるのかと食いさがるあの駅員に、江上さんは身元が確認したければここに電話しろと、NBNの名刺を投げつけて僕たちをデッキに引っ張り上げてくれたのだ。 「でもどうして、僕たちがこの電車に乗るって」  僕が尋ねると、江上さんは大きな目をまじまじと見張った。 「あら、わたしのパソコンにメールが来てたわよ。きみたちのだれかじゃないの!?」  僕は河合を見、それから徳田を見た。徳田は、少しもじもじした後、こっくりとうなずいた。僕は体じゅうから力が抜けた。 「なんだあー。それ早く言えよ」 「すまん。余計なことだとか言われるかと思ったもんで」 「お前、江上さんのメールアドレスなんてどうやって知ったの」  僕がそう訊《き》くと、江上さんが代わって答えた。 「初めておたくの学校に行ったとき、徳田くんに挨拶《あいさつ》したでしょ。あのとき名刺渡しておいたの」  あのとき僕はずっと徳田のそばにいたが、そんなことあったっけ? 「江上さん」  河合が、真剣な顔で言った。 「芳照は、あたしたちが東京へ行く目的も教えたんですか」 「突然転校した桃山ヨハネくんに会いにいく、そうよね?」  江上さんは、僕たちを明るく眺めまわしながら言った。徳田は黙っていたが、やがてうなずいた。河合は言った。 「あの、理科準備室の外であたしたちが立ち聞きしてたの、江上さん知ってますよね」  江上さんは、くすりと笑ってうなずいた。理科準備室での江上さんと根本先生との、わけのわからない言い争いのことだ。 「あのとき江上さん、ジョン——桃山くんのお父さんの借金は、もうすんでるって言ってました。本当なんですか。どうしてなんですか。なんで江上さん、そんなこと知ってるんですか」  江上さんはしばらく黙っていたが、顔は相変わらずほほえんでいた。そして口を開く。 「うちのニュース部がね、真菰《まこも》銀行倒産のスクープをつかんでたの。ことしの四月ごろよ」  真菰銀行というのは、うちの県内でだけ絶大な預金額を誇る一大地方銀行だ。最近になって、銀行の不祥事やら何やらが報道されるようになるまで、僕は日本全国どこでも「真菰」の支店があるもんだと思ってたくらいだ。 「ニュース部の知り合いから聞いて、わたしそれ知ってたの。正直言って、それを聞いたときはぞっとしたわ。町が失業者であふれ返るかと思った。それが、いつまでたっても、倒産の発表がないでしょう。不思議に思って、リークしてくれた人に改めて聞いてみたの。あの話はどうなったんだって」 「どうなったんですか?」  どうして、みんなから預かった金をたくさん持ってるはずの銀行がばたばた倒産するのか、何度新聞を読んでも僕にはいまいち理解できないのだが、それでも真菰銀行がつぶれたら、たくさんの人が困るということくらいはわかる。江上さんは言った。 「答えは簡単だったわ。『倒産はなし』だって」 「なし?」 「そう、なし」 「どういうことですか?」 「どこかでだれかが、救援策をとったんじゃないかって言ってたわ。不良債権のかなりの部分が、回収できたんじゃないかって。でもそんなことってある? 言っちゃなんだけど、どんな大手だろうと地方銀行よ。税金が投入されることなんてないと思う。合併の噂もないし、あそこはがちがちの同族会社で創業者は健在、外国に売りに出す案を出した役員がクビになったくらいだってのに。どっから見ても、底に穴があいて甲板が火事になって周りでサメがうようよしてる沈没寸前の船だったわけよ。ところがそれが、いつのまにか立ち直ってしまっていた」  江上さんは、僕たちをゆっくりと見回した。 「真菰銀行の不良債権のほとんどは、今関グループとその関連会社に貸付けたものよね。今関グループはあの『伝統工芸博覧会』の最大手スポンサーだった。最初スポンサーをやるはずだったのは南郷コーポレーションっていう東京の大手の会社だったんだけど。そこの社長が博覧会の運営方針のことで運営委員と衝突したせいで、今関グループにスポンサーの話が来たわけよ。当時はしめしめと思ったはずよ。信じられないことだけど、運営委員も『今関』の重役たちも、博覧会の成功を少しも疑ってなかったそうだから」  江上さんは言葉を切り、首を振った。 「度しがたい田舎もの」  その、情け容赦のない口調に、僕たちはちょっとたじろいだ。 「いつまでたっても、悪い先例をなぞることしかできないんだから。とにかく——」  江上さんは話題を戻した。 「いろいろと調べてみたのよ。真菰銀行や今関グループの経営状態。ある時点までは、おなじみの容赦のない首切り、支店つぶし、自主退職勧告。ところがあるとき突然……ほんとに突然って感じに、それらの流れがぴたりと止まったの」 「突然に」  僕たちは三人揃って、あほみたいにその言葉を繰り返した。江上さんはうなずいた。 「今関グループの関連会社の社員で、最後の自主退職者が、桃山孝之さんだったの」  ジョンの父親の名だ。 「わたし、桃山さんのお宅へ行ってみたの。もちろん、とうに引っ越したあとだったけど。ねえ、ヨハネ——ジョン君はある日突然いなくなったのよね」 「そうです。転校するともなんとも言わないで。よっぽど切羽詰まってたんだと思う」  と僕は答えた。江上さんは声をひそめた。 「夜逃げにしては、おかしな点があったわ。借金がかさんで夜逃げして、所有者の行方もわからなくなった家には、それなりの特徴があるものよ。たとえば、破産管財人の宣告が紙に書いて貼ってある、庭木や自転車が手つかず、表札の上に突然別な名前の紙が貼られる。桃山さん家《ち》はそうじゃなかった。それどころか、外から見ただけだけどカーテンは取り外されて、中には家具はなくて、池の水は抜いてあって、そして信用のたかい不動産業者の『売家』の札がかけられてた。夜逃げだと、正式に売りに出されるまでには時間がかかるものよ。あれは、なにもかもおっぽり出して逃げ出した人の家って感じじゃない」 「それで調べたんですか、ジョンの家の借金の状況を」  徳田が尋ね、江上さんはうなずいた。 「桃山さん家《ち》の借金の大部分は、バブルのときに建てた家のローンの返済なんだけど、ボーナスと重役手当のカットで、もう二年も返済がとどこおってたらしいの。ところが銀行に勤めてる人に頼んで調べてもらったら、きれいに返し終わってるって言うのよ。最後の返済金が振り込まれたのは、桃山さん一家が失踪《しつそう》して一週間くらいしてからだったわ」  僕たちは、しばらく黙りこんでいた。やがて河合が言った。 「どういうことです?」 「わたしもそれが知りたいの」 「江上さんは——それを探り出すために、うちの学校に来たんですか?」  江上さんは首を振った。 「『とっきーと3組のなかまたち』の企画に参加したいって、ずっと思ってたのは本当よ。去年までレポーターやってた安藤さんの降板が決まってすぐに、わたし自分から名乗りをあげたの。本当に、ずっとやりたいと思ってた番組なの。それは嘘じゃない」 「そんなに……」  徳田が照れたように言った。 「興味持っててくれたんですか」  江上さんはにっこり笑った。 「もちろん、興味持ってたわよ。わたしけっこうへらへらしてたけど、取材はちゃんとしたわよ。ひょっとすると、担当できないかもしれなかったから、なおさらちゃんとね」 「担当できないかもって?」 「ちょっと体調を崩してたの」  江上さんは、短くそれだけ答えた。河合が、話題を元に戻した。 「ジョンのお父さんの会社は——それに銀行も、町の人たちも——どうやってお金を返してるんでしょう」 「返してるだけじゃないよ、見ろよこれ」  僕は財布を取り出して、ぱんぱんにつまったピン札を見せた。 「わからない。もしジョンくんのお父さんに会えたら、直撃インタビューするつもり。あの町の中じゃ、なにかと取材しにくいけど、町を捨てた人からなら、あるいはね。あなたたちは、ジョンくんに会ってどうするつもりなの?」  僕たちは、顔を見合わせた。しばらく黙っていて、やがて徳田が口を開いた。 「元気か、って、訊くつもりです」  江上さんはうなずいた。ジョンは元気か? そう、それが何より、いま僕たちが確認したいことだった。  車椅子用の指定座席をインターネット経由で買っておいたので、東京に着くまで、休んでおいたほうがいいという江上さんの言葉にしたがって、僕たちは座席に座った。江上さんは、自由席ということで、僕たちはいったんデッキのところで別れた。東京に着くまでの時間をほとんど寝てすごした。僕たち、というのは僕と河合のことで、時おり目を覚ますと、通路をへだてた車椅子用の座席に座った徳田は、目を開いてどんどんビルの増えてゆく景色をじっと見つめながら、なんだか考えこむような顔つきをしていた。気にかかったが、いまはとにかくジョンに会うまでなにも聞かないほうがいいだろうという気がした。  やがて到着した東京駅の混雑にも呆《あき》れかえったが、総武線というのに乗り換えるために降りたった新宿の人ごみと熱気には、思わず倒れそうになった。 「これがお盆で人出が少ないってえの?!」  新宿駅の構内で、僕たちはそろって大声をあげた。前後左右どっちを見てもどとう[#「どとう」に傍点]のような人の流れ、それが全員、とくにぶつかりあいもせず、どころか周りにはだれもいないかのような顔で歩いていく。人の流れはあとからあとから押し寄せ、まるで切れ目というものがない。いちばん驚いたのは、車椅子に乗ったのを含めたガキ三人に綺麗なお姉さんというかなり目立つ構成の僕らに、だれもまったくなんにも関心を示そうとしないことだ。わざわざ遠くの駅まで行って私鉄に乗り、新幹線に乗り換えるときにもひと苦労だったのが嘘みたいだ。  電車の中は冷房が効きすぎで寒く、電車の外は日陰だろうとどこだろうと逃げようのないねっとりした暑さがたちこめている。荻窪駅に降り立ったときは、もう三時を過ぎていたのでそのむし暑さは筆舌につくしがたかった。僕たちは、電車を降りて一挙に襲いかかってきた熱気に、そのまま押しもどされそうになった。 「ぶはー」  改札を抜けたところで、徳田がため息をついた。足に毛布をかけているから、なおさらつらいだろう。 「どこですって、桃山くんの住所?」  江上さんが僕に尋ね、僕がメモを見せると江上さんはその辺を歩いている人に訊《き》いてくれた。なんだかんだ言っても、大人がひとりいるとこういうときはスムーズにいく。  僕たちは、駅前とは信じられないほど狭い場所を器用にぐるぐる回って客を乗せていくバスの一台に乗りこんだ。さいわい、車椅子の自動昇降機つきだった。途中の停留所の名を、河合がメモしている。ヘンゼルとグレーテルじゃないが、帰りに間違いなく同じ路線のバスに乗るためだろう。僕は感心した。そうだ、この街ではバスの路線は一種類じゃないのだ。  やがて、つぎはなんとか寺の前というアナウンスがあり、江上さんが、 「降りるわよ」  とささやいた。周りの数人の人たちが、徳田が昇降機を使ってバスから降りるのをなんとも迷惑そうな、いやな感じのする目で見つめていた。  僕たちが降りたった停留所は、これがさっきのごちゃごちゃした駅から続く場所なのか、と思えるほど静かで人気《ひとけ》のない場所にあった。停留所の標識を頂点として左右にお寺の壁がずっと伸びていて、その中から蝉の声だけがひっきりなしに聞こえてくる。 「静かなとこね」  あたりを見回しながら、不審そうに河合が言った。 「こんなとこに隠れてるの、ジョンたち?」  陽に照らされてゆらゆら空気の揺れている道を、買い物カートを押しながら痩《や》せたおばさんがやってきた。片方の手で紫色のパラソルをさしている。江上さんが呼びとめ、またジョンの現住所を記した紙を見せた。おばさんは何度かうなずきながら紙を見ていたが、やがて小さな声で何か言いながら、お寺の壁にそった細い道を指でまっすぐに示した。僕たちがせいいっぱい元気な声でお礼を言うと、おばさんはかえってびっくりしたように体をすくませて、もごもごと口のなかでなにか言うと早足でカートを押して遠ざかっていってしまった。 「たぶん、公民館の裏手あたりが五丁目だったと思うって」  江上さんが言い、僕たちはおばさんが示した道にそって歩きはじめた。蝉の声と、徳田のあやつる車椅子のういーんという音がやけに大きく響く。僕は歩きながら、なんだか強い違和感をおぼえていた。はっきり、こうとは表現できないなにか変な感じ。やがて江上さんがずばりと言った。 「おかしいと思わない? ここってどう見たって高級住宅地よね。夜逃げして、住所もめったに明かせないような人が住むようなとこじゃないわ」 「この住所、ほんとに確かなの?」  心細そうな声で河合が徳田に言った。 「確かだよ。親戚《しんせき》って人が教えてくれたんだから」  例の、借金とりをかたってかけた電話のことだ。 「でもジョンのお父さん、借金で夜逃げしたんじゃないんだったら、その人の言うことだって嘘かもしれないじゃない」 「複数かけてみたんだよ! ジョンのおやじは、少なくとも親戚にだけは連絡とってんだ。それは間違いない」 「嘘を言えって頼まれてるかも」 「うるさいな! だったらどうしろってんだよ!」 「あったわよ」  ケンカごしになってきた河合と徳田の頭の上に手をのばして、江上さんがある方向をさし示した。  その方向を見た僕たちは思わず絶句した。そうそこには、確かに「桃山」と記された表札がかかっている。その名前は緑の複雑な縞《しま》模様のある石に刻まれており、なにかとても高級そうな表札だということがひと目でわかった。  それにしてもこれは、いったいなんていう家《うち》なんだ? 「『トリアノン』みてー、まるで……」  徳田が、ぽかんと口を開けたまま、それでもよくわかるたとえを口にした。そう、「桃山」と、ジョンの名字の表札のかかったその家は、白くて大きくて、家のあっちこっちが角みたいに突き出していて、窓のいくつかにはステンドグラスなんかはまっちゃってて、屋根のてっぺんでは風見鶏がゆーらゆら面倒くさそうに向きを変えていて、西洋ふうなんだろうけどものすごく安っぽくて、まさしくわが町の名物、国道ぞいのラブホテル「トリアノン」を連想させるのに十分すぎる外見をそなえていた。  僕たちは顔を見合わせ、どこからどうこの家を「攻めた」ものか、途方にくれた。僕たちは、狭いアパートに身をよせあってびくびくと暮らすジョン一家をばくぜんと想像していたのであり、こんな、玄関にたどり着くまでに石畳を踏んでいかなくてはならない家に遭遇して、どうしていいかわからなくなっていた。  ぐいと手をのばして江上さんが、僕たちが「あ」という間もなく門の横のチャイムを押した。しばらくして、女の人の声がする。 〈はい〉 「昨日お電話した、沢口不動産のものですが」  突然、江上さんは僕たちが聞いてもいない話をすらすらと始める。江上さんはインターホンの通話口をおさえ、小さな声で、 「『売家』の札の下に書いてあった会社よ」  と言った。 〈まあ……〉  インターホンのむこうの声は、少し虚をつかれはしたが不審がってはいない、という感じだった。 〈電話をお受けしたのは主人ですか?〉 「はいそうです。今日おうかがいして奥様と、以前のお宅の売却のことで話をつめると……お話くださっているということでしたが」 〈まあ〉  インターホンのむこうの声は笑いだした。 〈きっと自分で、話したはずだって思ってるんだわ。あの人いつもそうなんです。自分ばっかり承知してて、話をぜんぜん通さないんだから〉  ほがらかな声だった。河合が僕に耳打ちした。 「ジョンのお母さんの声だよ。まちがいない」 〈今開けますね。階段上ったとこに玄関がありますから〉  江上さんは、早口で僕たちにささやいた。 「門が開いたら、さきにすべりこんで裏手にまわりなさい。子供部屋があるとしたら二階だと思う。どこか、入れる場所があるはずよ」  僕たちがうなずくと同時に、ぐいーんと重々しい音をたてて、すかし彫りをした鉄の門が両側に開いた。僕と河合が中になだれこみ、徳田も車椅子を巧みにあやつって庭さきに侵入した。  玄関へと続く階段の横を通って、よく手入れされた花壇のところを曲がるときに振り返ると、江上さんが親指を立ててガッツポーズをしてみせた。僕たちも同じ動作を返した。  家の裏手にまわると、そこは大きな池のある庭になっていて、錦鯉《にしきごい》が何匹も泳いでいた。池を眺められるようにだろう、庭に面した和室には長い縁側があり、江上さんの言ったとおりそこの窓が少し開いていた。僕たちは徳田を見た。徳田は、けわしい顔をしてうなずく。自分も入るという意思をあらわしたのだ。僕と河合はうなずき返し、和室の窓を大きく開け、ふたりで徳田を抱えあげると縁側に降ろした。徳田はひょいと両腕で立ち、縁側をすいすい進み始め、僕たちのほうを振り返って早く来いとあごをしゃくった。僕と河合は急いで靴を脱ぐと、脱いだ靴をリュックに押しこんでその豪華な家に上がりこんだ。  家のどこかで、ジョンの母親と江上さんが話し込んでいるはずだが(それにしてもいったいどういう話で時間かせぎするんだろう)、物音ひとつしない。外からでもそう思ったが、なかに入るとなおさら大きな家に感じられる。やっと階段が見つかったので僕たちは上に上がった。  二階は、山小屋ふうのホテル、といったかんじの木で統一された内装で、長い廊下の片側の壁にドアが四つ並んでいる。僕たちは、階段に近いほうからドアを開けていった。  最初のドアの中は、寝室だった。ベッドがふたつ並んでいるがマットレスだけでふとんも毛布もかかっていない。お客用らしかった。ふたつめの部屋は、オーディオルームのようだった。大きなステレオ、大画面のテレビ、いくつものビデオデッキ、棚にきちんと並べられたCDやビデオテープやDVD。読みとれるのはビデオのタイトルだけで、「人情紙風船」とか「女人哀愁」とか、僕が一度も聞いたことのない名前が並んでいた。三つめのドアの中は、カーペットが敷いてあるだけでなんにもなかった。エアコンやビデオデッキを包装していたらしいダンボール箱が広げられ、忘れ去られた様子で床に放っぽらかしてある。  いよいよ最後の、四つめのドアだった。僕たちは、以前遊びに行ったジョンの部屋で見たみたいに、雑誌から切り取ったグラビアが統一性なく貼られた壁、天井からぶら下がった戦闘機のモビール、そして陽に灼《や》けて茶色くなった勉強机、なんかが目に飛びこんでくることを期待してドアを開けた。  最初に見えたのは、灰色のスチール製の枠組だった。すぐにそれは、本をいっぱいに詰めこんだ本棚だと気づいた。細長い部屋で、それが本棚のせいでさらに狭くなっており、大人なら体を横にしないと奥まで行けないだろう。その奥には小さな机があり、上にノートパソコンが蓋《ふた》を閉じた状態で置かれている。徳田が、僕たちの足もとをひょいと通りぬけて部屋に入り、本棚の下のほうの段から一冊抜いて表紙を眺めた。河合が切羽詰まった声で言った。 「なにやってるの?! ここ、ジョンの部屋じゃない。ジョンはどこにいるの?」 「夏休みだから……あいつもどっか出てるのかもしれない」  僕は、馬鹿みたいな声でそう答えた。 「ジョンの部屋がない!! どうして?」 「きっと……一階だよ。江上さんの勘がはずれたんだよ」 「ここには……」  本棚に本をもどして徳田は言った。 「ジョンは住んでない」 「なんだって?!」  大きな声が出そうになったので思わず口をおさえた。徳田はしいっという動作をしてからささやいた。 「おぼえてないか? ジョンのうちに遊びに行ったときのこと。あいつ、自分の部屋じゃないとこにも、ポスターとかシールとかべたべた貼るやつだったじゃないか。廊下に野球の道具が転がってたし、ベランダにはなわとびの縄がぶら下がってた。そうじゃなくても、子供のいる家ってのはこんなきちんと片づいてねえもんだ」 「探偵の子供としての意見かよ」 「そうだ。それに、裏にまわったとき洗濯もの干してあったろ? 子供のものは何も干してなかったぞ、シャツも、パンツも、靴下も」 「じゃあ……」  河合が押しころした声でささやいた。 「ジョンはなにか病気してるのかしら。それで今、入院しててうちにいないとか……」 「台所はどこだ」  だしぬけに徳田は言った。僕は一瞬きょとんとしたが、河合がすぐに答えた。 「下だと思う……必要なの?」 「たしかに、ジョンがしばらくのあいだ家を離れてるだけって可能性もある……でもとにかく、どんな買い物をしてるか見ておきたいんだ」  そこで僕たちは階段を下り、さっき上がってきた和室とは反対の方向へ進んだ。玄関脇のドアのそばを通るとき、明るく笑うジョンの母親の声と、なにかを説明しているらしい江上さんの声が聞こえた。少しも緊張している感じがしない。さすがだ。  台所はすぐに見つかった。ぴかぴか輝く、ダイニング兼用のシステムキッチン。大きな冷蔵庫の前まで徳田が腕歩きで進み、僕がドアを開けた。三人でいっせいに中をのぞきこむ。  冷蔵庫の大きさのわりに、たいしたものは入っていなかった。一パック分の卵、しょうゆのボトルに、二、三種類の野菜。河合が冷凍庫を開け、 「あ、これ」と言って中を指さす。僕はのぞきこめるが、徳田は顔がとどかない。苛立って床をたたく。 「音立てるなよ、ばか!」 「なんだよ、なにが入ってんだ?!」 「これ、高血圧用の病人食だよ」  河合が、冷凍庫の中に重ねられた弁当らしきパックを指さしながら言った。 「うちのじいちゃんが、死ぬ何年か前ずーっとこれ食べてたの」 「じゃあ、ジョンのやつやっぱり病気?」 「まさか……いっくらジョンが太ってたからって、いまからこんなの食べるほどじゃないと思う」 「ケチャップがねえな。ソースもだ。肉っぽいものってか、ジョンが食いそうなもんがなにもねえ」  徳田はそう言い、そっと冷蔵庫のドアを閉めた。 「まるっきり、夫婦ふたりで暮らしてるとしか思えねえ家ん中だ」 「いえ、お茶なんて結構ですから」  廊下の端のほうから江上さんの声がし、僕たちは跳び上がった。ジョンの母親の声がさらに大きく響いた。 「いえいえ。そんないいお話を聞かせてくださったんですから。そうですか、あなたもアルフォンス・ミュシャがお好き。嬉《うれ》しいわ。こんどいっしょにオークションにまいりません? お茶、すぐ入りますから。わたしハーブに凝ってるんです、庭をご覧になりました? タイムとセージを植えてますの。ハーブ入りのクッキーも焼いてあります」  僕たちのあわてふためきようといったらなかった。勝手口から外に飛び出そうとしたが、外側になにか置いてあるらしくドアが開かない。徳田が、床を指さし、切迫した声でささやいた。 「地下室だ」  徳田は、床にあった銀色の枠組のなかの把手《とつて》を引っ張り、持ち上げた。木目の床が50センチ×50センチほど持ち上がり、下に下りる階段が見える。徳田がさっさとなかにもぐりこんだので、河合、そして僕の順にあとに続いた。最後に蓋《ふた》を閉めるときぴっちり閉まらず少しずれたが、もう直しているひまはなかった。  頭の上で、ジョンの母親が入ってきた足音と、ずっと歌っているらしい鼻歌がひびく。しばらく辛抱していると、やがて江上さんもあとから入ってきたらしく、足音がふたりぶんになった。 「まあ素敵なキッチン」  と江上さんの声が言う。 「ときどきご近所を招きまして、お菓子作りをやってますの」  ほがらかに、ジョンのお母さんは答える。  穴ぐらの中は、夏の夕方の熱気でむしぶろのようだった。みるみるうちに僕たちの顔には汗が浮かび、河合が荒い息をつき始める。みるみるうちにとはいっても、真っ暗なので実際見たわけではない。それでも、ずれて閉めた蓋のすき間からもれる光に、じょじょに目が慣れ始め、やがて僕たちは、いくつもの容器に囲まれて座っていることに気がついた。 「おつけもの好きなのね、ジョンのお母さん」  河合が、手で顔の汗をぬぐいながら言った。 「つけものじゃねえ、これ梅酒だよ。匂いでわかるだろ」  と徳田が言う。たしかに、ぷーんと甘ったるくておいしそうな、少し刺激のあるいい匂いがしている。 「あたし、ふらふらしてきちゃった……」  そう言いながら河合は、容器と容器の間に尻《しり》もちをつき地下室の壁にもたれた。僕もまた、むしぶろのような中にこもった酒の匂いに、頭がくらくらしてきたところだった。  ちょうどそのとき、やかんのお湯のわくぴーっという音がし、続けてティーポットにお湯を注ぐ音、お盆を持ち上げるかちゃかちゃという音、そして、 「じゃ、あちらに戻りましょうねえ」  というジョンの母親の声がし、僕たちは救われた。足音がじゅうぶん遠ざかるのを待って、僕たちは慎重に、しかしできるだけ早く地下室から這《は》いずり出た。まず僕が蓋を持ち上げて這い出し、徳田をひっぱり上げ、それを河合が下から押す。徳田の体が完全に外に出たとき、河合の「きゃっ」という声がした。 「大きな声出すな!!」  廊下のはしのここまで聞こえる、ジョンの母親の大きな笑い声からすれば、少々の物音や声で気づかれる心配はなかったが、それでも僕は押しころした声でそう言った。 「ごめん。瓶《かめ》を踏みぬいたの……」 「瓶《かめ》?」 「うん、これ、形だけがそうなんじゃなくて、ほんとの瓶《かめ》だ。むかしの。プラスチックじゃないやつ」 「遺跡から出てくるようなやつか」 「そんなむかしじゃないって!! 最近、自然食品のお店なんか、瓶《かめ》でつけたっての売り物にしてつけもの売ってるよ」 「どうでもいいけど早く上がれよ!! おまえ、自分の足梅酒にするつもりか?」 「いま行くよー、なんか、どろどろしてて気持ちわるーい」  そして、台所の床に這いあがってきた河合の足を濡《ぬ》らしているものを見て、僕と徳田は絶句し、台所の床に手をついたまま硬直した。 「え、なに、なに?」  僕と徳田のあぜんとした表情を見て、河合はその視線をたどり、瓶《かめ》から抜いてきたばかりの自分の足を見た。そして僕たち同様絶句した。  それは、赤黒いどろどろしたもので、いくつかの丸い、ぶどうのようなつやつやしたかたまりが、カエルの卵のように透明なゼリーにくるまれているものだった。それは河合の白い靴下をはいた足にからみつき、どろどろした幾本もの糸がずっと床の穴の底に続いていて、それはおそらく河合が蓋を踏みぬいた瓶《かめ》の中までつながっていると思われた。  河合は、上半身を硬直させたまま、足にからみついた腐ったぶどうゼリーのようなものを振り落とそうとした。そのたびに、そのゼリーからは赤黒い液体が飛びちり、台所の床や壁をみるみる内出血したみたいな色に染めていく。どろどろしたものにはすごい粘着力があり、セメダインのように河合の足にへばりつき、足を振りまわすほどによけいまとわりついていくように見えた。  河合はほとんどパニック状態だったが、おかげで悲鳴を上げる余裕もないらしく、ふんとひとつ深呼吸すると力をため、思いきり足を上に振りあげた。  河合の足にからみついたものは、ぐいーんと伸びて半透明の長い橋を空中にえがいた。そのゼリー状のなかに、赤黒いつぶつぶのほかに黒い海草のようなもやもや、肌いろをしたきたならしい痰《たん》みたいなかたまり、白くてひも[#「ひも」に傍点]のようにも見える卵のからざ[#「からざ」に傍点]に似た筋なんかが混じっているのを僕たちは見た。そして天井に向かってのびたゼリー状の橋は途中で切れることもなく、ぺちゃっとひとつ気持ちの悪い音をさせると、逆にその端っこにくっついていたものを、反動で台所の床の上まで打ちあげた。  それは、ぶっ、というような音をたてて床の上で放射状につぶれた。その、豆腐のようなかたまり。豆腐にしてはめ[#「め」に傍点]があらく、表面がぬらぬらしていて、飛びちった破片ひとつひとつのなかに、顕微鏡で見た細胞核のような黒い点をもっている。そのぶつぶつした破片のかなりの量を顔にあびて、とうとう河合は悲鳴を上げた。ジョンの母親と江上さんの談笑する声がとぎれ、ドアの開く音がした。気づかれた!  僕たちはいっしゅん身動きもできなかったが、勝手口のむこうでがたがたと物音がし、そのドアをふさいでいたものが取り除かれたのだろう、がちゃりとドアはむこうがわへ開いて、きょとんとした顔の人が姿をあらわした。  それは、麦藁《むぎわら》帽子をかぶった痩《や》せたおじさんで、たった今まで庭いじりをしていたらしく土のこびりついたスコップを持っていた。この人が庭にいたのなら、僕たちは家の角をへだてただけのすぐそばを通ったかもしれない。庭でぶつからないですんだのは、えらく幸運だった。 「なんだね、きみたちは?」  おじさんは、きょとんとした顔と声のままでそう言った。すばやくパスされるボールのような速さで、腕を使ってジャンプした徳田が、その人の腰に激突した。その人は、スコップをにぎりしめ、驚いた顔のままどっと後ろに倒れた。僕は河合の腕を引いて立たせ、外にかけだした。戸口のところで、僕はとてもいいものを発見し、 「徳田!」  と叫んだ。徳田は、僕の視線のさきにあるものを見、すばやくうなずくとそれを両手で掴《つか》み取り、飛びのるとすごい速さで車椅子を置いてある場所へとすっ飛んでいく。  僕が見つけたのは、古ぼけてはいるがまだ十分使えるスケボーだったのだ。  和室の外に置いた車椅子のところまで戻り、徳田をそれに乗せて僕たちはあたりを見回した。不思議なことに、おじさんもおばさんも追ってくる気配がない。と、家の角のむこうがわから江上さんが顔を出した。 「こっち! 裏木戸があるわ!」  木戸とはいっても別に木でできているわけではない小さなドアを開けて静かな住宅街の道へと出る。僕は完全に方向感覚を失っていたが、 「こっちよ」  と江上さんがさし示す方向へついて行くと、驚いたことに角を曲がったところにタクシーが待っていた。もちろん、徳田が車椅子ごと乗れる特別仕様だ。 「奥さんが、席をはずしたすきに呼んでおいたの」  僕たちが乗りこみ、「新宿」と行き先をつげ、タクシーが走りだすと江上さんはそう言った。 「お茶を淹《い》れに行ったとき?」 「そうよ。あとからわたし行ったでしょ? 地下室の蓋がずれてるの、すぐ気がついたわ。わたし、奥さんにまとわりついてなんとかばれないようにしてたのよ」  それからはもちろん、運転手さんの耳をはばかって、タクシーが新宿に着くまで、僕たちはずっと無言だった。     17  その日の夜、僕たちは江上さんのすすめで、西新宿という場所にあるきれいなホテルに泊まった。江上さんの勤めるNBNのキー局の系列が経営してるとかいうホテルで、豪華ではないかわりに落ち着いた和風のつくりで、プライバシーは完璧《かんぺき》で従業員は何を見聞きしても絶対外部にはもらさないということだった。助かった。なにしろ、本人の責任ではないが車椅子姿の徳田は目茶苦茶目立つ。  僕のほうは、明日まで連絡入れないとあらかじめママと決めておいたから問題はなく、僕のうちに泊まるという徳田、徳田のうちに泊まるという河合の電話を、双方の親もなんの疑いもなく受け入れたのだそうだ。  ホテルに着くとすぐに、河合はロビー横のトイレに駆け込んで足についたねばねばを洗いおとしてきた。江上さんがついていっていっしょに洗ってあげたそうだが、それでもだいぶ時間がかかった。そうとうしつこい汚れだったんだろう。  僕と徳田、江上さんと河合の二組で一つずつ部屋をとったのだが、部屋に落ちついてすぐに江上さんの部屋に電話をすると、河合は風呂に入っているという返事だった。トイレで洗っただけでは足りず、全身こすっているらしい。  そこでちょっと散歩してくると徳田に言いおいて、僕は急いで新宿の駅ビルへと向かった。しかし駅ビルには小田急と京王と書いてあり、等々力貴政が言った「卯月屋のどら焼き」などどこで売っているかまるでわからない。しかたなく駅の地下に降りて、地下鉄の改札のそばにあった和菓子の売り場でどら焼きを買ったら、しっかり袋に「卯月屋」と書いてあった。箱と袋はトイレに捨て、箱から中身だけ出してリュックにつめこむ。ホテルに向かって歩きながらひとつ食べたらなるほど、たしかにうまかった。  ホテル一階の和風レストランで夕食をすませた僕たちは、ティーラウンジへ移動してあったことを話し合った。 「わたしが、沢口不動産から来たもので、今これこれの買い手がついてますがどうなさいますか、と言ったら奥さんすぐ信用したわ」 「買い手の名前とかどうしたの」  と僕が尋ねると、江上さんは笑って上着のポケットを叩《たた》いた。 「職業柄、名刺はくさるほど持ってるわ。社長、専務クラスのでもね。とにかくなるたけ時間を稼がなきゃいけないと思ったから、部屋にかかっていた絵をほめたの。ひとつだけ、ミュシャっていう画家の絵だってわかるのがあったからそう言ったら奥さん喜んじゃって。本物だって言ってたわ。うん百万するんじゃないかしら」 「そんなに」  ピカソとかゴッホとかならともかく、聞いたことのない名前だったので僕は目をむいた。 「そう。あの奥さん、若いころからアールヌーボーが好きで、コレクションしたいと思ってたんだって。今度フランスに買い付けに行く、そのついでにヨーロッパの古城を回るんだっていって……少女みたいな人。お城って、ほとんど要塞《ようさい》だってことも知らないんだわ」 「助かりました」 「いいのよ。それで、ジョンくんは見つからなかったの? どうして台所なんかにいたの?」  江上さんにそう訊《き》かれて、僕たちはなるたけ細かくあったことの話をした。話をしたのはもっぱら僕と徳田で、河合はあのどろどろしたものに足をからめとられた経験がまだ忘れられないのか、ぼうっとして黙りこみがちだった。  話を聞き終わった江上さんは、腕組みをして言った。 「その、勝手口から入ってきたおじさんてのは、ジョンくんのお父さんかしらね」  江上さんは、河合のほうを向いた。 「お父さんのほうの顔は知らないのね?」  河合はうなずいた。 「ジョンのうち遊びに行っても会ったことなかったし……おやじいっつも帰りが遅いってジョンも言ってたし……」 「ジョンは殺されたんだ」  ぼそっと徳田が、僕たちが言いたくても言えなかったことを口にした。河合はびくっとなって徳田を見たが、すぐにうつろな顔つきにもどってうなずいた。 「あの瓶《かめ》の中のどろどろしたもの……ああ、あれ、あれが、あたし、あれは……」  河合の言葉はとりとめがなく、やがて何も言い終わらないうちに消えてしまったが、何が言いたいかはわかった。 「……でもなんで、酒漬けなんかに?」  僕は、やっとのことでそう言った。 「腐らないようにするためだよ。いや、もちろん腐るけど、土に埋めるよりもっと臭わない」  徳田が、そんなのは疑問のうちに入らないとでも言いたげな口調で答えた。 「でもどうして、両親がジョンを殺すんだよ!」  僕は思わず大きな声で言った。ティーラウンジにいた他の二、三人の客がこっちを振り向き、江上さんが指を口にあてた。僕は首をすくめた。  河合が、 「保険金かしら?」  と言うと、徳田がぶんぶんと首を振った。 「死んだことが確認されなきゃ保険おりないだろ。ああやって隠してるってことは、死んだのを知られたくないってことだ」 「でも、保険が入ったんじゃないんだったら、あの大きな家は、借金は! それに絵に、旅行に……」 「保険金でもまかなえないほどの贅沢《ぜいたく》よね」  江上さんが、さめたコーヒーの入ったカップのふちを指でなでながら言った。 「殺されたんじゃなくて……普通に死んだのかもしれない」  ジョンは殺されたと言ったばかりの徳田が、また別に意見を述べた。僕はいささかあきれて言った。 「『普通に』って、どういう死にかただよ」 「病気とか」 「ぜんぜん具合悪そうじゃなかったぞ、ジョン、いなくなる前の日まで。なんでそう思うんだよ」 「二階に、本棚とパソコンの置いてある部屋あったろ。俺あんとき、一冊抜いてちらっと見たんだ」  そういえばそんなことをしてたっけ。徳田は言った。 「『血液の病気と遺伝工学』って本だった」 「なんだよそれ。血液の病気って、なんだ」 「白血病とか……」 「ジョンがか? 冗談ぬかせ!」 「そんなこと言わなくたっていいじゃない」  河合が、泣きそうというよりはさみしそうな顔になって言った。 「ジョンはたしかにでぶ[#「でぶ」に傍点]だったけど……だからってそんな……」 「ごめん」  僕は素直にあやまった。そして言った。 「でもジョンが、殺されたんじゃなくて病気で死んだんなら、どうして瓶《かめ》につける必要があるんだ? こんな遠く離れた場所で、あんな大きな家の地下で!」 「お墓に入れるのがいやだったのかもしれない」  河合はそう言ったが、いかにも自信がなさげだった。徳田が言った。 「ひとりぼっちにするのがかわいそうだからとかか? それだって、ジョンが死んだことを隠す理由にゃならねえぞ」 「警察へ行きますか」  僕は江上さんの顔を見た。江上さんは、目を閉じて考えている。そして、しばらくしてから言った。 「どうかしら。児童虐待防止法だなんて言うけど、実際は当の親から捜索願いでも出ないかぎり、子供の失踪《しつそう》を調べるなんてこと警察はしてくれないものよ。その場合だっておざなりで、一年も追えばいいほうだわ。もしあのご両親のところへ警察が事情を聞きに行ったとして、親戚《しんせき》の家にあずけてますとか言われたら、ああそうですかって引っ込んでそれで終わりでしょうね」 「まさか」  僕が言うと、江上さんは首を振った。 「そういうものなの。そういうケースをいやんなるほど見てるわ。わたしは、これは特集番組にする価値があると思う」 「『ある少年の失踪』って感じにですか」  徳田が、興奮のおももちで身をのりだした。江上さんはにっと笑ってうなずいた。 「NBNの特集番組として制作して、なおかつキー局に売り込むの。もちろんニュースでも取り上げてもらうわ。テレビが取り上げれば世論が動く。世論が動けば、警察は動かざるを得ない」 「でももし」  河合が心配そうに言った。 「全部……かんちがいだったらどうするんですか? あの瓶《かめ》の中身は、なにかただ珍しいだけのくだものかなにかで、ジョンはちゃんと生きていてほんとに親戚の家かどこかにいて、ジョンの親たちはぜんぜんあやしくない手段で借金を返しただけだったら」 「その場合、恥をかくのはわたしであってあなたたちじゃないわ」 「ジョンの親たちも」  江上さんはちょっと黙り、それからうなずいた。 「そうね、たしかにその危険はあるわ。だから、友達に頼んでこれを調べてもらうつもり」  江上さんは、ポケットから小さな金色のまるい容器を出した。塗り薬を入れるケースみたいだったが、きらきら光るビーズが蓋《ふた》を飾っている。 「ピルケースよ。これに、河合さんが足につけてきたねばねばが入ってる」  僕たちは驚いて江上さんの顔を見た。 「さっき洗うのを手伝ってあげたときにとっておいたの。調べればわかるわ、このねばねばに含まれてるのがただの珍しいくだものなのか、それとも——人体の組織なのかどうか」  部屋に引き揚げると、和室と洋室とある和室のほうにふとんがしかれていた。お風呂《ふろ》に入ってふとんに横たわると、どっと眠気が襲ってきた。うつらうつらしながら、僕と交代した徳田が風呂を使っている音を聞いていた。徳田は、風呂も着替えも完璧《かんぺき》に一人でできる。僕はそのまま寝入ってしまった。  夜中にふっと目を覚ますと、どこかからかすかに風が吹き込んできているのに気がついた。横を向くと隣のベッドはからで、反対側を見るとベランダに通じる窓があいていて、カーテンのむこうでまるいものがゆっくり前後に揺れているのが、ホテルの外壁の明かりに浮かびあがっていた。徳田の車椅子の車輪だった。身を起こすと、徳田がベランダの囲いに顎《あご》をのせ、なにかもの思いにふけっているところが見えた。なぜだかは知らないが、ひじょうに声のかけにくい雰囲気だった。  僕はなぜかいそいでふたたび横になり、やけにふわふわしてて重みにかけるふとんを顎までひっぱりあげた。二度目の眠りに落ちるまでに、徳田がベッドに戻ってくる気配はなかったが、翌朝江上さんからのモーニングコールで起こされたときには、徳田もなにごともなかったように自分のベッドでまどろんでいた。     18  翌日、まだ夜が明けきらない時間に僕たちはホテルを出た。帰りの切符は買ってなかったので、待たずに、目立たず帰るにはそれが一番だろうという江上さんの提案だった。ひとつ手前の駅で降りて、タクシーで送ってやると言ってくれたので、ありがたく甘えることにした。おごられっぱなしでは悪いので、僕たちは駅弁を持ちきれないほど買いこみ、お礼だといって強制的に江上さんに押しつけた。江上さんがそれをまた、痩《や》せの大食いってやつだろうか、ぺろりぺろりと平らげていく。 「ジョンの失踪についての番組を作るんなら、あの……」  がらがらの車内で、ほとんど唯一の乗客となりながら帰る僕たちの中から、河合がおずおずと江上さんに尋ねた。 「うちのクラスの番組はどうします? あの、『とっきーと……』」 「『……3組のなかまたち』ね? 心配しなくて大丈夫よ。番組かけもちなんてごく普通のことなんだから。あとは、キャンプに密着取材して、それを編集するだけ」 「だけったって、そこがハイライトシーンなのに」  僕はあきれて言った。 「取材費でキャンプに行けるってんで、弥刀さん以下スタッフ一同張りきりまくってるわ。いくつになってもそういうこと好きね、男の人って。わたしが動かなくても、あの人たちに任せとけばだいじょうぶ。あら、徳田くん」  江上さんは徳田の顔をのぞきこんだ。徳田は、なんとなく暗い顔をしている。 「どうしたの? キャンプのことが心配?」  徳田ははっとなって江上さんを見、それから目をそらした。江上さんは、ため息をつきながらも微笑してみせた。 「あの松島くんって子のことね。いや、彼を含めたクラスの連中の微妙な変化ってやつかな」  徳田の沈んだ横顔を見ていた河合が、視線を江上さんに移した。 「江上さん、見てたんですよね、松島たちが芳照をフクロにしようとしてたとこ……」 「ええ。もっと早くブローチを落とすべきだったけど、機材を取ってくるのに手間取っちゃって、あそこ通りかかるのが遅れたの」  本当だろうか。江上さんもカメラマンの目高さんも、機材らしいものはなにも持っていなかった。江上さんは、手をのばして徳田のひじを叩《たた》いた。 「だいじょうぶ。キャンプでは、友達だったころの松島くんに会えるわよ」 「そうでしょうか」  徳田の声は、悲しくなるほどか細く、頼りなげだった。 「あいつの言ったとおり、俺だけは先生たち用のエレベーターを使うことができるし、日常生活でもなんだかんだ助けてもらわなくちゃいけないことは、どうしたってある。このばか高い車椅子だって、いくらかは募金で買ったもんだ。俺は甘やかされてて、逆に健常者を差別してるだけなのかも」 「そんなこと考えちゃいけないわ」  江上さんは強い口調で言った。 「健常ってなに、まともってなに? ひとりで生きてる人間なんている? いい、あなたが堂々と生きていけない社会では、わたしたちもまた生きられない。小さい違いをあげつらって、それに優越を感じるような心を許してはいけないわ。与えることを苦痛に思うようではいけないわ」 「与えることを……」  河合が顔を上げ、江上さんの言った言葉をささやいた。 「そうよ」 「いい言葉ですね」 「そう?」  江上さんがほほえみ、僕たちはようやくくつろいだ。  タクシーをばらばらに降りた僕たちにとって、昨日ジョンの両親の家で得たことに進展のないかぎり、つぎに会うのはキャンプ当日となるはずだった。それまでに江上さんからなにか連絡があるかもしれない。  うちに近づいていくと、のれんはしまわれているが一階に明かりがついているのに気がついた。僕はどきりとした。外泊するかもしれないとは言ってあるが、ママが心あたりに電話してないとも限らない。まあその点、信用されてることについては自信があるが。  恐る恐る店の引き戸を開けて、僕は一瞬たじろいだ。十人くらいの大人たちが、ビールを飲み串焼《くしや》きをつまみながら談笑していた。それだけならいつものお店の風景だが、なんとなく集まっている人たちの感じが違う。なんていうんだろう、この感じは。 「あら、真介」  自分もテーブルのひとつについて、小太りのおっさんと話をしていたママが僕に気づいて手を上げた。真介? いつも、お客の前では「専務」って呼ぶのに。  ママは、テーブルの間を泳ぐみたいにしてやってくると、僕の手を取ってそのおっさんの前に連れていった。 「息子です」  そう紹介したママの声はなんといったらいいか、いままでに聞いたことがないほど自慢そうだった。なんだか僕は落ち着かない気分になった。僕はママに、そんなに誇りにされるような息子だろうか。ママは、大人を子供に紹介する必要はないと思ってるらしく、おっさんのほうの名前を教えてはくれない。  僕を紹介されたおっさんは、 「ほほう」  と言いながら僕を下から上まで眺めまわした。僕は尻《しり》のあたりがもぞもぞしてきた。おっさんは、僕を眺めながら指さきでネクタイをしごいている。  ネクタイ。そうだ、店に入ってきて、この人たちを眺めたときに感じた違和感のひとつはこれだった。ほとんどの人間が背広にネクタイをしている。片や、いつもこの店に来る常連の服装といえばアロハにバミューダパンツ、ひどい場合にはうちわ持参のランニングにももひきだ。 「学校は楽しい?」  とおっさんは僕に尋ねた。僕は如才なく、 「ええ」  と答え、それから、 「夏休みがありますから」  とつけ加えた。たいしたギャグでもなかったが、おっさんはゆたかな腹を揺すってはっはっはと笑い、つぎに、 「人生を楽しんどるかね」  と妙なことを訊《き》いた。僕はわけがわからないながらも、 「はい」  と答え、無意識のうちに後ずさった。僕の背中がママの胸にぶつかった。ママは僕の肩をぎゅっと掴《つか》んだ。痛いくらいだった。まるで、僕をその場に縛りつけておこうとするみたいに。  それは一瞬のことで、ママはおっさんに軽く会釈すると、僕の手を引いて今度は、すみのほうでグラスを前にじっと座っていた、これはまたやけに痩せこけて幽霊みたいな顔つきの、影のうすい中年男のそばへと連れていった。男の人は、近づくママと僕に気がつくと、頬のこけた顔を上げて、膜のかかったような目で僕たちを見た。ママは僕の肩に手を乗せて言った。 「ご挨拶《あいさつ》なさい。このあいだ話したでしょう。ママのお兄さんよ」  そう紹介されても、そのママのお兄さんなる人物は、ぼんやりと僕たちを眺めてるだけで、挨拶じみたことは何もしなかった。  ということはこれが、ママが探偵社まで使って探しだしたという父親ちがいの兄なのか。つまり、僕にとっては伯父さんだ。 「こんにちは。初めまして。真介です」  できるだけはきはきした声で、ちゃんとそう挨拶すると、その伯父さんはやっと立ち上がり、上半身をゆらっとかがめて、 「鶴居《つるい》です……」  と言ったっきり、また座ってしまった。長い首が、すわりが悪そうに前後に揺れている。名前どおり、ほんとに鶴みたいな人だと思った。よくあんな人が保証人で、信用金庫が金を貸してくれたもんだ。  挨拶(と言えるのか?)がすむと、ママは僕をすみに連れていって、 「上に行っててちょうだい。どっかで遊んできてもいいけど」  と言った。僕は店内を眺めまわした。自分のベッドでひと眠りしたかったが、このざわつきは二階まで聞こえるだろう。カラオケと笑い声の中でならいくらでも眠れる僕だが、この、声をひそめながらの談笑というやつは、すごく耳につきそうだった。 「図書館行ってくる」  そう言うと、ママはほっとしたようにうなずき、また財布を出そうとした。 「いいよお金は……あんまり使ってないから」  僕がそう言うと、ママはなぜか済まなそうな顔をした。 「そう? 悪いわね……伯父さんが、知り合いの会社の人たちを紹介してくれたの……こんど開くお店の、お客になってくれそうな人たち……ちょっと、今までのお客と感じが違うでしょ?」  たしかに違った。ママはその違いを喜んでいるみたいだが、僕は、この人たちにはこの店のいつもの客の持っているなにかがひどく欠けているような気がした。いったいなんだろう?  例の図書館裏の林に、今日等々力貴政の姿はなかった。どら焼きをつめこんだリュックを抱えて、僕はあたりを見回した。どうしよう。ちゃんと時間を約束したわけじゃないし、ここで待ち合わせると言ったわけでもないのに、会えるとしたらここだろうと思っていた。  ベンチに座り、リュックからどら焼きを出して横に積みあげると、木と木のあいだを涼しい風がわたってきて、なんだかうとうとしてきた。ベンチはリクライニングしたみたいになだらかな背もたれを持っていたので、僕はすぐに眠りの中にひきずり込まれてしまった。そして、夢を見た。  ジョンの夢だった。見かけのわりに、よく動く筋肉と回る頭を持った肥満体。人の良さそうな笑顔、ときどきふっとみせる少し困ったような表情。僕とジョンは、どこだかわからない一直線にのびた道を肩をならべて歩いていた。夢のなかでも僕は、もうジョンがこの世のものでないことを知っていて、以前したいろいろなことをしきりと謝っていた。 〈デブとか犬とか言って、ごめんな〉  ジョンは笑って首を振った。 〈いいさ。楽しかったよ〉  僕の目からぶわっと涙があふれてきた。ジョンはさらに言った。 〈ありがとう、会いにきてくれて〉  僕は何も言えず涙を流しつづけた。 〈河合に踏まれて、嬉《うれ》しかったよ。変態かな、俺?〉 〈どうしてあんなんになっちゃったんだよ!〉  僕は叫んだ。叫んでジョンのほうを向き、並んで歩いていたはずのジョンが、ジョンの輪郭をした赤黒いどろどろの粘液のかたまりになっているのに気づき、凍りついたようになってそれを見つめた。  ジョンだったかたまりの頭の部分が僕のほうを向いた。ふたつの眼球がぼこっとはずれてゆっくりと糸をひきながら下へすべっていく。赤黒い怪物は僕のほうへと腕をさしのべた。僕は悲しい気持ちでいっぱいになり、自分も手を差し出そうとした。だが、できなかった。僕の腕はいつのまにか胴体に縛りつけられたようにくっつき、足は地面にめりこんで一ミリも動かすことができなくなっていた。皮膚がばりばりに乾燥し、顔はなにかかたいもので覆われ、口を開くことさえできない。  ジョンであった赤黒い粘液が、ゆっくりと僕に向かってしなだれかかってきた。それは僕の硬直した全身をおおい、やがてじんわりと中に浸透してきて——  ぱっと目をあけると、体じゅうにびっしょり汗をかいていた。暑さのせいではなく、いましがた見た悪夢のせいだ。僕はベンチの上で体を反転させ、腕を投げだして荒い息をついた。そしてふと、横に積んでおいた卯月屋のどら焼きがなくなっていることに気がついた。代わりにルーズリーフにはさむ穴のあいたノートの紙が置いてあり、文鎮がわりだろうかレンガがひとつ置いてある。あわてて見回すと、花壇をかこっているレンガがひとつはずされていた。僕は紙を取り上げ、ざっと目を通すとベンチから跳び上がり、それから図書館の中へと駆け込んでいった。  市立図書館のパソコンスペースは、おととしくらいまでかなり混んでいたけれど、置いてある機種の型が古いのとパソコン自体が普及したせいか、さいわい三つほど空席があった。そのひとつの前に腰をおろすと、僕は紙に書きつけてあったアドレスを打ちこんだ。等々力貴政氏のホームページかなにかにつながるかと思ったら、なんとピンクのカーテンが画面いっぱいにあらわれ、「ようこそ愛の小部屋へ」なんて字が花びらとともにカーテンのすき間から流れ出してきたものだから僕は目をむき、あわててあたりを見回した。打ちこんでるときは気がつかなかったのだが、よく見るとアドレスの中に「lovechat」なんて格調ひくい文字が見える。書きつけには、アドレスの下に「5号室、卯月屋の」なんて書いてある。チャットと書いてあるところをクリックしたら、部屋がぞろぞろとあらわれた。「であいチャット」、「上級者チャット(なんの上級者だ?)」、そして待ちあわせに使えるツーショットルームというのが1から10まで並んでいる。5をクリックし、パスワードを入れろとあったから、メモの「卯月屋の」に目を落とし、「DORAYAKI」と打ちこんでやるとまたピンクのカーテンがひらめいて、チャットルームに入ることができた。LEOなるハンドルネームの人物が、「真介くん、まだかな?」などと書きこみを入れて待っていた。僕はハンドルネームを「SHIN」に設定すると、挨拶なしでいきなり、 〈なんでこんなややこしいことするんですか〉  と打ちこんでやった。返事はすぐにあった。 〈どうも。どら焼きありがとう。いや、よく寝てるようだったから。東京はどうでした〉 〈楽しかったです〉 〈楽しかった、ねえ〉 〈いまどこにいるんですか〉 〈近所のマンガ喫茶。インターネットカフェもやってる〉 〈忙しいんじゃないんですか〉 〈なんで?〉 〈だって行動半径広いみたいだし、植物そうの調査してるって言ってたじゃないですか〉 〈植物相〉  とわざわざ漢字を教えてくれてから等々力貴政は書き込んできた。 〈ちょい長文になるから3分お待ち〉  そのとおり三分待とうと思ったが、実際には一分もたたないうちに文章が送られてきた。 〈調査はほぼ完了した。ミヤマスギのごとき生長力の旺盛《おうせい》な木がなぜ分布をごく一部に限られているのか。最近の研究で、植物の花粉というものが、おのれの繁殖を目的としてめしべにくっつくだけが目的じゃなく、他の種にとって毒素として作用し生殖をさまたげる要素をあわせ持つということが知られてきた。もちろん植物どうしの壮絶な戦いはもう何万年もまえに決着がついて、今はほぼ完璧《かんぺき》な住みわけがなされている。だがミヤマスギのような原始的な種は、ライバルである植物に対する耐性を持たずにほそぼそと露命をつないできたと考えられる〉  書くほうは一分ですんだかもしれないが、僕のほうは頭に入れて返事を書くのに五分かかった。 〈じゃ、ミヤマスギには植物の天敵がいるんだ〉  また一分ほど間。 〈そう、ヤマボウシ、ウリノキ、ハシカンボクなどがそれに当たる。しかしミヤマスギもさるもの、生きのびるのにじつに個性的な戦略を採択している。こないだきみが落っこちた空気の層の中に、昆虫を主としたある種完結した生態系を自然に対して提供する。ミヤマスギのおもしろいところは、そうやって生命を自分の下ではびこらせておいて、最終的にはその昆虫たちを植物化させてしまうところだ〉 〈吸収しちゃうんですか。つまり、一種の食虫植物ですね〉 〈食虫植物というのとは、微妙に違うな〉 〈じゃ、一体化しちゃうんだ。ほら、蝉とかの上にキノコ生えることあるでしょう〉 〈冬虫夏草。よく知ってるね〉 〈本で見ました〉 〈ひょっとして、白土三平の漫画?〉 〈図鑑ですけど。なんですか、それ〉 〈いや、なんでもない。ミヤマスギが昆虫に対しておこなうこれは、それとも違う。ミヤマスギの作った土の空洞のなかにあって、すっかり活動を停止しているアリ、蝉の幼虫などの組織を分析した報告がある。細胞の間に隔壁が生じ、細胞核を覆う膜が消滅していた〉  それがなにを意味するかわからなくて、キーボードの上で指をさ迷わせていると、続けて文章が送られてきた。 〈つまり、細胞が動物としての特徴を失って、植物化してるんだ〉  僕は頭の中でその言葉の意味を考え、そして書き込んだ。 〈……生きてたんですか?〉 〈その昆虫たちかい? ああ、植物が生きているという意味でなら、生きていた。だが筋肉細胞も神経細胞もひとしく植物化していて、動物の特徴である組織べつの役割分担というものはなくなっていた。つまり、アリそっくり、蝉の幼虫そっくりの、木彫りの工芸品にかわってたってことだ〉 「木彫りの工芸品……」  僕は口の中でなんとなくその言葉を繰り返し、そして急いで打ちこんだ。 〈あの、昆虫だけなんですか?〉  こんどは返事がくるのに少し間があった。やがて字がモニターに現れた。 〈自分もそうなるとこだったかもって思ってるのかい? 気持ちはわかる。ミヤマスギの地下空洞の中からは、タヌキや野兎も発見されているが、彼らは植物化はしていない。そのほとんどは〉 〈ほとんどって?〉  僕は急いで聞き直した。あの植物園で、顔や体が異常にこわばって動かなくなったような気がしたことや、さっき見た夢のことなんかを思い出して不吉な気持ちになっていたからだ。等々力貴政の返答はこうだった。 〈ただ、相性というものはある〉 〈相性?〉 〈そう。同じ、地下空洞のなかの昆虫でも、植物化したものもいればしていないものもいる。単なる偶然とも考えられるが、同じ根のごく近くに住みついた昆虫どうしの、片方だけが植物化してもう片方がしていないというのに、恣意《しい》性を感じざるを得ないんだ〉 「恣意性」が読めなかったが、あとで辞書を引いた。 〈実は大きな動物で、植物化したものが一体だけ報告されたことがある〉 〈ほんとですか?〉 〈山に迷いこんだ小犬だったけどね。春先に生まれて、飼い主の家からひとりで散歩に出て、ミヤマスギの落とし穴に落っこちたらしい〉 〈でも、タヌキや野兎が植物化してないのに、どうしてその小犬だけ〉  僕が訊《き》くと、またやや間があって、不思議な言葉が送られてきた。 〈飼い犬の繁殖期は、人間同様出たらめになってるからね〉  僕はわけがわからず、じっとモニターを見つめた。むこうにも僕のとまどいが伝わったらしい。すぐに文章が送られてきた。 〈わからないかい? 春先に生まれた小犬だよ。つまり、両親が交尾をおこなったのは冬の真っ最中だ。普通、野生の動物はそんなときに発情をむかえたりしない。いきおい、春先に誕生日を迎える動物も、そんなにはいないってことだ〉 〈誕生日?〉 〈誕生日はあるさ、動物にだって〉 〈誕生日がいつかによって、植物化するかしないか決まるっていうんですか? 星占いじゃあるまいし〉 〈誕生日は決めるよ。人の運命を〉  いきなり、ものすごく非科学的なことを言われて、僕はのけぞりそうになった。僕は座っていた椅子から跳び上がりそうになりながらキーを押した。 〈じゃあやっぱり、あの『植物占い』は——〉  だが僕が打ち込み終わる前に、その人はわりこむように文章を送りつけてきた。 〈僕の言いつけは覚えてる?〉  言いつけ? 〈大人と遠くへ行っちゃいけないっていうあれですか。大丈夫ですよ、守りませんでしたけど、僕ぴんぴんしてます。東京だって、実はきれいなおねえさんと一緒だったんですよーだ〉 〈やるね、なかなか〉 〈もうすぐ学校の仲間とキャンプなんですよ。そこでまた、そのおねえさんに会うんです〉 〈もてもてみたいで結構なことだ。だがもちろん、そのキャンプはキャンセルするんだろうね〉 〈いいえ、まさか! なぜですか〉 〈先生や、引率の人たちも来るんだろう〉 〈ええ、親たちも何人か、希望制で〉  そこでしばらく、通信がとぎれた。僕は、等々力貴政がどこかへ立ち去ってしまったかと思ってあわてて打ち込んだ。 〈誕生日によって、動物が植物に分類できるなんて、信じてるんですか?〉 〈それはさしてオリジナルな考えじゃない〉  等々力貴政は、待ち構えていたかのように長文をどっと送りつけてきた。 〈考えてもみたまえ、人類は、薬というものを天然のものに頼るしかないという生活を長く続けてきたんだよ。いきおい、植物に対する観察眼は精緻《せいち》をきわめただろう。そして、自分の周りの人間たちのなかに、よく見知った植物に似た性質をそなえている者がいるのに気づく……冬が来て、草が枯れる。あるいは飢饉《ききん》が襲う。山火事、洪水が起き、普段薬用にしていたものが手に入らなくなれば……〉  また長い間。僕はじれて[#「じれて」に傍点]キーを叩《たた》いた。 〈いったいなにが起こってるんですか? 僕たちに関することなんでしょう、僕たち、子供に〉 〈と言うことは、きみは東京で何かを見たわけだね?〉 〈それはいま言うわけにはいきません〉 〈僕だって同じだ〉 〈どうして! あなたにはなんの危険もないじゃないですか〉 〈本当にそう思うかい? まあいい、もし僕が知っていることをいまきみに話せば、きっときみはお母さんに言う。いま首を振っただろ。いいや、きみはきっとお母さんに確かめようとする。あるいは、あわてふためいてへまな行動をとる。もしくは、僕をいかれてると見なしてふとんかぶって寝てしまう。僕はそのどれもやってほしくないんだ。きみ自身の力で真実にたどりつくんだ。信頼できる友達と協力して〉 〈でも……なんの手がかりもないのに〉 〈きみはもう手がかりを得ているじゃないか。このあいだ、僕のこの大時代な名前を手がかりにかなりのことを探り出しただろ? 図書館は知識の宝庫だ。大いに利用したまえ。時間はまだある〉 〈そんな無責任な〉 〈僕は、逃げだそうと思えば逃げられるのにまだこの町にとどまっている。知ってることがあるなら告発すればいいじゃないかって? それは不可能だ。もっとひどい結果を世界にもたらすだろうから〉  せ、世界?!  話が一挙にでかくなったので僕は目をむいた。この人は誇大妄想の狂人だと思ったが、脳裏に浮かぶ等々力貴政の顔は誠実そのものだ。また文章が送られてくる。 〈たとえば、ひとりのマッドサイエンティストが、いままでだれもつくったことのない殺人兵器を開発していて、きみがそのことを知っているとする。きみはそのことを告発も公表もできない。なぜって、そうすることによって、かえってその殺人兵器の存在と技術が世間に知れわたってしまうからだ。そうなったが最後、その科学者ほどマッドじゃない他の連中が、とどめるすべもなくその技術を発展させてしまうんだ。悪を告発することが、悪を一般化させる結果をまねくんだよ〉  彼の言うことは、なぜか僕にはとてもよくわかる……  そのとき、ポケットの中で携帯電話が鳴りだし、僕はパニックを起こして辺りを見回した。他にパソコンを利用している人や職員のおじさんたちが非難の目でこっちを見ている。僕は通話ボタンを押しながら椅子を蹴《け》ってダッシュし、階段の踊り場まで退避した。携帯から流れ出してきたのは、徳田の声だった。 〈真介か?〉 「あ、ああ、そうだけど、なんだよ、今……」 〈俺、いままで寝てたんだけど、これからおまえん家《ち》行っていいか〉 「うちに? どうして」 〈けさ帰ったらさ、両親いねえんだ。まあそれは珍しいこっちゃないけど、寝て起きても、一度ももどってきた様子がねえんだよ。もしもどって来てれば、台所のホワイトボードに帰宅時間の目安と連絡先が書いてあるはずだから〉 「忙しいんだろ、よっぽど。ゆうべ、俺んとこへ泊まるって電話したときはいたんだろ」 〈いたっていうか、ありゃ母ちゃんの携帯にかけたんだ〉 「じゃ、また携帯にかけてみろよ」 〈ずっと伝言サービスになってる〉  そのまま、徳田はしばらく沈黙した。そして言った。 〈夏休みの宿題やろうかと思ったんだけど、身が入らなくてさ。だからおまえんとこ遊びに行こうかと思って〉 「俺も、いま、家《うち》じゃねえんだ」 〈ほんとか、どこだ?〉 「図書館」 〈なんだよ、おまえも宿題片づけちまおうとか、無駄なこと考えてんの?〉 「そうじゃないよ……そうだ、おまえ、いまからこっち来ないか?」 〈こっちって、図書館に?〉 「そう。俺、郷土資料室に行ってるからさ」 〈郷土資料室って、あの階段の下の開かずの部屋のことか?〉 「開かずってことねえよ。だれも利用しないだけだ」 〈なにやろうってんだ、そんなとこで〉 「話したいことあるんだ。協力もしてほしいし」  徳田は、しばらく考えるような間をおいてから、河合も誘って二十分で行くと言って電話を切った。  僕は全速力でパソコンのところまで戻った。だがモニター上には、チャットルームのいちばん上の段に、「LEOさんが退室しました」と太字で記されていた。下に、等々力貴政氏の最後のメッセージが残っていた。 〈マンガ喫茶の店長がどこかに電話をしている。気にしすぎかもしれないが、なんだか気に食わないのでこれで失礼するよ。調べものをするうえでのヒントをひとつ。僕は小中高と、修学旅行やキャンプというと夜はちょっとしたヒーローだった。なぜだかわかるかい?〉  わかるわけがねえだろ。僕は会話内容を消去する操作をしながら口のなかでぶつぶつ言った。夜のヒーロー? まさかベランダづたいに女子の部屋に侵入するのがうまかったなんてことじゃないだろう(六年生の京都奈良では、ほぼ必ずそういうやつがいるんだそうだ)。  郷土資料室へと向かう途中の廊下で僕は立ちどまって舌打ちした。またも、「ウシゴメコー」の意味を尋ねるのを忘れていたのだ。     19 『松広藩士系図大鑑』には、「島本家」はふたつあったが、等々力満政と同時代に生きた島本氏で、子供を養子に出しているのはいない。おまけにふたつある島本家の片方は、満政氏の時代より前に断絶してしまっている。だったら、等々力重一郎はどこからやって来たのか?  僕はもう一度等々力家家系図のページにもどった。重一郎は、さく[#「さく」に傍点]という女性と結婚して息子ふたりに娘ひとりを作っている。あとは順調に繁殖(と言っていいのかな)を続け、まっすぐ現代にいたっている。  僕は、『松広藩人物総覧』という、全三巻からなるくそ厚い本を、だれもいない郷土資料室の書棚から引っ張り出し、郷土史家の暗い情熱を呪う言葉を吐きながら「島本」のつく人物を探した。途中で、 「データベースにしろっ!」  と叫びたくなったが、こんな膨大な資料、キーボードで打てといったら僕だったらいくら給料が高くてもお断りだし、そんなもん打つよりたしかにページをめくってるほうが効率がいい。  系図のほうの本に載っている島本家に属する人たちを除いていくと、三人しか残らなかった。豪農で、幕末に打ちこわしにされた島本修五郎、「鳩眠派《きゆうみんは》」という俳句の流派をおこした俳人の島本鳩眠、そしてこれは個人名ではないが、「島本|吉《きち》右衛門《えもん》」という名を共通で使っている五人の人物。島本流居合術を継承する人物に代々伝えられる名前とあり、「しばしば藩の要請に応じた」とだけ書いてある。藩の要請? 殿様の前で居合抜きでも見せたんだろうか。それに、刀を使う仕事である以上きっと武士に違いないが、なぜ藩士じゃないんだろう。代々伝えられる名前を持つほどの家なのに。  考えこんでいると、資料室の横のほうの扉がふいに開いて、僕は跳び上がった。車輪の動くキイという音がして、徳田が顔を出した。 「よっ」 「おまえかよ。なんでそんなとっから入るんだ」 「横っちょのほうに車椅子用のスロープがある。玄関からくるよりこっちのほうが早い」 「河合は?」 「電話したら、ちょっといま出られないとか言ってた。家ん中が、なんかごたごたしてるらしい」 「まさか……おまえん家《ち》に泊まったんでないの、ばれたかな」 「だったらそう言うんじゃねえかな。なんとかごまかして出てくるとは言ってたけど」  徳田は資料室に入ってくると、僕が広げっぱなしにしておいた『系図大鑑』と『人物総覧』を不審そうに見た。 「で、なんで急に郷土史に興味が出たよ?」 「詳しい理由は、河合もいるとこで話したい……とにかく、今俺が探し出したいのは、この等々力重一郎ってやつの実家の島本家がどれかってことなんだ」  そう言って僕は、『人物総覧』の横に抜書きした、三人の島本の名前を指さした。松広藩士の島本家には該当しそうなのがないと説明すると、徳田はしばらくそれをじっと見ていたが、 「居合の達人……居合の達人なあ……」  と言いながら車椅子をあやつって、一般図書のスペースへ続くドアをくぐって姿を消し、五分くらいして戻ってきた。手に、雑誌というには厚い、書籍というには紙が粗末な本を二冊持っている。テーブルにおいた上の本の表紙を見ると、「別冊歴史評論/江戸のプロフェッショナル」と題されていた。 「なんだこれ」 「前、そんな話読んだおぼえがあったんだ。武士だけど、正式な役目についてるわけじゃない連中の話」  そう言って徳田は本をめくり、あるページを示した。僕は徳田の指さきにある文章を声に出して読んだ。 「『……山上家は、斬首《ざんしゆ》という家業のむくいが子孫におよばぬよう、生まれた子供は他家に養子に出し、プロの斬首人としての技術はあかの他人の子息を選んで引き取って仕込み、熟達すればそれに山上家の跡を継がせた』」  僕は顔を上げた。 「島本吉右衛門も、首切り役人だったってこと?!」 「役人じゃねえよ。よく読め。この三つ前の段落。この山上朝之助っていうのは幕府の職員じゃなくて、打ち首の判決がだれかに下るたびに臨時雇いというかたちで役目を務めたって書いてある。島本吉右衛門が、松広藩士のリストに載ってねえ理由もこれじゃねえのか」 「つまり、フリーターか」 「自由業ってとこだな」  そう言って、徳田は「別冊歴史評論」を机に置き、もう一冊を手に取った。同じく「歴史評論」の別冊で、「藩政と県民性」と書いてある。僕らの住むN県のページには「県民性」と称してこんなことが書いてあった。いわく頭が固い。柔軟性に欠ける。真面目だが話が通じないことがあり、教員に対する尊敬度の高さは日本一。離婚が少なく女性の地位が高い? 離婚が少ないにしちゃ徳田ん家《ち》の探偵社は大はやりだぞ。女性の地位が高いんだったらなんでうちのママは親戚《しんせき》からひとり身をやいのやいの言われなくちゃならないんだ。なによりおかしかったのは、「珍記録」というかこみ記事で、「江戸時代の百姓|一揆勃発《いつきぼつぱつ》件数日本一」と書いてある。 「なさけねえなあ、これ」  と僕は言った。 「ものすごく貧しくて、食うに困ってたってことじゃないか」 「それだけ農民の権利意識が高かったってことかもしれねえぞ。いまだって県会議員の補欠選挙で共産党が当選して自民公明推薦が落ちるくらいだし」 「でも一揆って、首謀者は首ちょんぱだろ、普通」 「だからこの島本吉右衛門の家、ちゃんと仕事があって栄えてたんと違うか? それで、で、その島本だか重一郎だかがどうしたんだ?」  僕は思い出した。  等々力貴政が、「自分は修学旅行やキャンプで、夜ちょっとしたヒーローだった」と言ったことを。もしも同級生に首斬り役人の子孫がいて、そいつがうそ八百でも呪いだとかタタリだとかの話をしたりしたら、僕たちだってきゃーきゃー騒いでそいつを英雄視するんじゃないだろうか? 自分にそんなドラマチックな血筋がないのを、残念に思うんじゃないだろうか。  そう考えたとき、資料室のドアが開いて河合みゆらが入ってきた。目が真っ赤で、顔が青ざめている。僕は腰を浮かせた。 「河合」  河合は資料室にある椅子のひとつに力なく腰をおろし、ため息をつく。しばらくそうしていたが、やがて顔を上げて目をふいた。 「どうも、あたしも『四年国語組』から抜けることになるみたい」  そう言って悲しそうに笑う。僕と徳田は顔を見合わせた。 「両親……ていうか工場……駄目なのか、もう?」  僕が訊《き》くと河合はこっくりうなずき、なぜかすぐに首を振った。 「軌道にのってきたって……軌道にのってきたってお父さん言ってたのに! 新しい機械がくる、どんどん注文こなすぞって話してるの、こないだ聞いたのに! 信用金庫の人とも、笑いながら話してた。だから、だいじょうぶかもしれないって……あたし思ってたのに」 「やっぱりやべえんだ」  徳田が低い声で言った。河合は、じっと机の上で組み合わせた自分の手を見つめた。 「わからない……機械は回ってるし……そういうことじゃないような気がするの、そういうことじゃないような……でも今朝、帰ると両親ケンカしてて……それでお風呂《ふろ》入って部屋で休んでたら、お母さんがなにも言わずに入ってきて、メモ渡したんだよ、あたしにメモ!」 「なんて書いてあったんだ?」  僕が尋ねると、河合はポケットからたたんだ紙を取り出した。机の上に広げたそれを、僕と徳田はのぞきこんだ。 〈みゆらへ。おとうさんとおかあさんがけんかしてたってこと、だれにも言っちゃだめよ。どうしても捨てられないものだけ、ひとつのふくろにまとめておきなさい。おとうさんが、どっかいこうって言ってもぜったいについてかないように。このかみはすぐにちぎって捨てなさい〉 「だれにも」と「ぜったいに」には、二本のアンダーラインが引いてあった。僕は顔を上げた。 「等々力さんが言ったことと似てる……」  そうつぶやくと、河合も徳田も不審な顔をした。 「なに、等々力さんて」 「等々力って江戸時代の人間じゃねえのか」 「違うよ……つまり……」  僕は亀ノ岩植物園で等々力貴政氏と会ったいきさつ、とこれまで話したことについてかいつまんで話したが、卯月屋のどら焼きをめぐる会話についてはあまりにもまぬけなので省略した。徳田がうんざりした顔で言った。 「なんでそんな大事なこと黙ってたんだよ」 「大事なことだと思わなかったんだよ」  僕はややむきになって言った。 「あの人は、自分が八重垣に『植物占い』の本を渡したとははっきり言わなかったし……それに俺だって、ジョンに会いに行く計画で頭がいっぱいだったんだから」 「八重垣」  そう河合はつぶやいた。 「八重垣も……殺されたのかな、ジョンみたいに」 「まだあれがジョンとは決まってねえよ!」  徳田が鋭く言った。 「でも、最初にジョンは死んだんだって言ったのは芳照じゃんよ」 「そうだけど……ジョンみたいに、って言うな! 八重垣なんかとジョンをいっしょにすんな!」 「そういう意味じゃないよ! とにかく……八重垣が『植物占い』のことで先生に呼ばれて、それっきり姿を消しちゃったのは事実なんだから」 「まあ待てよ」  僕はため息をつきながら二人をなだめた。 「俺たちの前から姿を消したのはまずジョンだ。それから八重垣。この町にほかにもいるかもしれないけど、そこまでは俺たちにはわからない」 「親が届けないかぎりね」  と河合。 「警察だって仲間かもしれないしね」  と徳田。河合が言った。 「いなくなったって言えば、甲田くんもだよ。ほら、階段から落ちた」 「あいつは、入院してるって話だけど……」  僕が言うと、徳田が、 「ひじょうに疑わしい」  と締めくくり、僕たちはうなずいた。 「大人たちが子供殺しを始めたとして、理由はなんだ、どうやったら防げる?」  徳田が車椅子に背中を預けて言った。僕は広げられた二冊の本のページを指で叩《たた》いた。 「だから、それを知るために調べものしろって、等々力貴政は言ったんだよ」 「そいつ、ほんとに味方か?」  徳田がうたぐり深そうに言った。 「味方なら、知ってること教えてくれりゃいいじゃねえか」 「だから、それは俺たちが子供だから親に言うだろうって」 「失礼なやつだな」 「失礼かどうか。あたし、自信ないよ」  河合がそう言ったので、僕と徳田は彼女を見た。 「いまだって、お母さんとお父さんの並んでる前で、これはいったいどうなってるんだって訊きたいよ。いまよりちょっとでもつらくなったら、東京に行ってきたことだって話しちゃうかもしれない。あの家の地下で見たことを話して、どう考えればいいのかって訊くかもしれない。きっと、なんでもない、それが死体のはずがないって言ってほしくて! その人が真介に全部話さなかったのは正解だよ。見つけ出そうよ、なんとかして、自分の力で」 「しかし等々力重一郎ってやつに関することでは、やっと島本吉右衛門って名前がわかっただけなんだぞ」  徳田がそう言い、河合が僕を見た。 「等々力重一郎は、島本吉右衛門の子供だと思う。年代から言って、たぶんこのさいごの五代目の」 「なんで五代目で絶えてんだ?」  徳田は、『松広藩人物総覧』の島本吉右衛門の項を見ながら言った。 「明治維新にはまだだいぶ間があるぞ。それにこいつ、死んだ年が不明になってる」 「なにか、不始末して首斬りの役をとりあげられたんだろ」 「だったらその不始末がここに書いてあってもいいじゃねえか」 「あの人は——なんとか言ってたぞ」  僕は、等々力貴政氏がパソコン上で言ったことを思い出しながら言った。 「昔——昔は、薬は天然のものしかなかった、いきおい、植物の観察は精緻《せいち》をきわめたろう、とかなんとか——」 「植物の観察?」  徳田は首をひねった。僕は言った。 「いくら一揆が多いったって、毎日打ち首の刑があるってわけじゃないだろ——ひまなとき、島本吉右衛門はなにをやってたんだろう?」  河合がふいに立ち上がり、資料室の中でもとりわけほこりっぽい、バインダーやファイルブックが縦横に積み重ねられている戸棚に近づき、背中のラベルを読んで何冊か抜いてきた。 「なんだ?」  僕と徳田が訊くと、河合はファイルを開きながら言った。 「ホンソウルイジュー、カッコ、コピーだって」 「本草類従(コピー)」だろうか。 「だから、なんでそれを?」 「うーん、その等々力って人、植物の研究してるっていうんでしょ? とにかく、この部屋に島本吉右衛門の資料がほかにあるとしたって、端から見るわけにいかないんだから、『植物』で探してみるのも手かなって。うー、読めない……」  河合が憮然《ぶぜん》とした顔でうなった。ファイルの中身は、草書体で書きなぐられた(のか達筆なのかぜんぜんわからない)文字をコピーしたもので、ところどころにスケッチのようなものが描きこまれていた。字は、なんと書かれてるのかまったくわからないが、さいわい現代文による説明がはさみこまれている。その説明を記した紙も黄ばんで、このファイル自体がずいぶん昔に綴《と》じられたものだということがよくわかった。  説明文には、「犬蓼《いぬたで》の分布について記録したもの」とか、「竹が開花した時の庄屋本郷小吉の日記」とか書いてある。たしかに、大昔の植物観察記録らしい。ぱらぱらめくっていくと、ファイルの最後に説明文が添えられていないページが一枚だけあった。  B5判の用紙の右上に「五月二十六日 芍薬《しやくやく》 茂太」、左上に「十二月五日 竜之玉《りゆうのたま》 みつ」、その二行の真ん中のやや下寄りに「三月二十九日 櫟《くぬぎ》 仙太」とある。左側になにかの文章が並べられているが、例によって読めない。ページをめくってみると裏は白紙で、小さなラベルが一枚貼ってあるきりだった。 「明治二年、清明寺改築の際発見された文書。島本吉右衛門妻苑寄贈の但書有」  僕たちは顔を見合わせ、ガッツポーズを作った。が、よく考えてみると、これでなにがわかったというわけでもない。  そのとき、閉館十分前を告げるチャイムが図書館内に鳴りひびいた。もう少しすると、だれかが見回りに来るだろう。  僕たちは手に手に資料を持ち、資料室を出ると階段下のコピー機のところまで行って、今日調べたページをすべてコピーした。資料室に本を戻し、退出するときに僕はあることを思いつき、資料室の外に徳田と河合を待たせておいてすばやく棚を調べた。目当てのものはすぐに見つかった。小さな、ポケット辞書くらいのサイズ。それでも背には「禁帯出」のラベルが貼ってある。僕はあたりを見回し、その本を棚から抜くと半ズボンにはさんで上にシャツを引っ張り下ろした。  図書館の外は、だんだん濃くなる夕方の光で空も山もピンク色に染まっていた。 「俺、帰ったらパソコンで検索してみるよ。その等々力とか島本とかいうの」  徳田が言った。 「おやじのパソコン使えば、ふつうより詳しく調べられるかもわかんねえ。俺、いろいろ変なパスワードとか知ってっからさ」 「じゃあ、頼めるか、そっちのほう」  僕は言い、それから河合のほうを向いた。 「なんだったら……うち来るか? 夜は店があってうるせえけど」  河合は、さびしそうな顔で微笑した。 「ううん、いい……。とりあえずは、だいじょうぶだと思う、とにかく、お母さんだけは……あたしを守ろうとしてるみたいだから」  そう言って河合は、ポケットの中で手を握りしめた。母親から渡されたメモが手の中にあるのだろう。  僕たちは、「油断大敵」と三回となえてから、ばらばらにその場をあとにした。     20  うちに帰ると、一階の店からはいつもの飲んで騒ぐ音が漏れていた。僕はなんとなくほっとし、奇妙なことに、胸がしめつけられるみたいな感じを受けた。そのまま二階に上がり、シャワーを浴びてシャツを替え、ロフトに図書館から持ち出してきた本を持って上がった。まずしたかったことは、こっそり抜き出してきた本を調べることだ。  僕が勝手に持ち出してきた本の題名は、『N県の習俗ことわざ辞典』というものだった。僕は「あ行」の印に指をかけて本を開いた。 「ウシゴメコー」はすぐに見つかった。漢字で書くと、「牛籠《うしご》め講」。 うしごめこう牛籠め講[#「牛籠め講」に傍点] 名詞。県中部〜北部。畜産、とくに牛の飼育と肉の販売を営む農家に伝わる風習。牛を肉処理する一週間から十日ほど前から放牧の時間を長くし、また夜は牛を家屋の中に入れ、上等の藁を敷き、酒をなめさせ、話しかけるなどして慰撫につとめる。このように家族と親しんだ牛は、その期間中の幸福と引き換えに、平静な気持ちで処理場に向かうものと信じられた。魚類にとぼしい県内では江戸時代においても肉食は多く行われ、馬・鶏・兎を対象としたものも一括して牛籠め講と呼ばれたが、近代ではすたれた。  すたれさせなくてもよかったのに——本を閉じながら、僕はそうつぶやいた。農家の土間に上がりこんで、優しい目で飼い主をじっと見ている牛の姿が頭に浮かんだ。家の人たちは牛のまえにちゃんと人間用のお膳を出して、その日あったことや村の言い伝えなんかを、子供にするみたいに話して聞かせている。寝る前にはお湯にひたした布で、体じゅうをつや[#「つや」に傍点]が出るまでこすってもらえる。いい気持ちだ。牛小屋と違ってそこはとても暖かくて、いろりで火がちろちろと燃えている。家族が笑っている。牛は、とても幸福な気分になる。今日は紐《ひも》でつながれていない。その気になれば、後ろにある木の戸を蹴破《けやぶ》って逃げ出すことだってできるだろう。でもそんなことをする必要がどこにある? この一時期が終われば、自分がどこへ引かれていくのか、牛はよく知っている。それでも……  ロフトの梯子《はしご》にひっかけておいたウエストポーチの中で、携帯電話が鳴って、僕は出た。 「徳田?」 〈わたしよ〉  江上さんの声だった。 「あ、どうも」 〈どう、ゆっくり休んだ? なにか変わったことない?〉  今日の図書館でのことを話そうかと思ったが、電話で話すには不向きな気がした。江上さんは、だれも聞いてはいないだろうがそれでも声をひそめて言った。 〈あの、桃山さん家《ち》の地下で、河合さんが足につけてきたどろどろの正体だけど〉  江上さんの言葉に、僕は思わず携帯電話を固く握りしめた。 〈大学時代の友達に分析を頼んだんだけど……やっぱり、人間の組織らしいって〉  僕は深いため息をついた。江上さんが電話のむこうで言った。 〈だいじょうぶ?〉  胃のあたりがきりきり痛んだが、僕はシーツを掴《つか》んでなんとか耐えた。 「だいじょうぶです。よく……こんなに早くわかりましたね」 〈ゆうべのうちに、あのホテルから電話して道具や薬品を用意してもらっといてたの〉 「江上さんて、予言者みたいですね」 〈あら、どうして?〉 「なんでも早手回しで用意がいいし……ジョンの両親の家で、僕たちが逃げ出したら、ちゃんと裏手で待っててくれたし。僕たちがあのうちであの瓶《かめ》を見つけて踏みぬくのまで予測してたみたいだ」 〈信じてもらえるかどうかわからないけど——〉  と江上さんは、どこかおもしろがっているような声で言った。 〈真菰銀行の立ち直り、それに関連した今関グループの盛り返し……そこから調べはじめて、わたしはジョン君のお父さん、桃山孝之氏までたどり着いたのよ。彼の息子が、とっきー[#「とっきー」に傍点]と同級生だって知ったとき、これは単なる偶然じゃないって思ったわ。銀行のことを調べはじめたときから、自分はきみたちへと向かって歩き出してたんだって〉 「運命論はとりあえずいいです」 〈クールな子ね、真介くん〉 「誕生日は人間の運命を左右するなんて聞いて、頭くらくらしてんですから」 〈あらだれ、そんなこと言ったの?〉 「江上さんの知らない人です」  なにがおかしいのか、江上さんは電話のむこうでふくみ笑いしていた。僕は言った。 「ジョンが殺されて瓶《かめ》に詰められてるってこと……番組にするって言ってましたよね」 〈ええ〉 「いつ放送ですか」 〈はっきり約束はできないわ〉 「僕たちも、証言しなくちゃいけないんでしょうね」 〈そうね。そのときはよろしく。だいじょうぶ、顔は隠すから〉  隠したって、近所の人たちにはバレバレだろうに、と僕は思った。そのとき僕は、短く、 「あっ」  と声をあげた。 〈どうしたの?〉  緊張した声で江上さんが言った。僕はあわてて、江上さんに見えるわけでもないのに首を振った。 「夏休みの研究。幼虫を育ててたんです、でも昨日今日と放っぽらかしといたから、駄目かもしれない」 〈まあ。じゃあ、早く見てやりなさい〉 「はい。失礼します」 〈たいへんね、小学生はやることが多くて〉  僕は電話を切ると、ロフトの梯子を滑り降りて台所の冷蔵庫の上に置いておいた金魚鉢を見た。  アサマヒョウモンガの幼虫は、トゲのいっぱい生えたぷっくりした頭をもたげると、 〈よう どこ行ってたんだ〉  とでも言ってるかのように僕に向かって振ってみせた。僕はほっと息をつき、金魚鉢を抱えあげてリビングのテーブルに持ってきて置いた。  よく見ると、下にしいておいた新聞紙が新しくなっている。それに、金魚鉢の中に食いちらかしの葉っぱがほとんどない。水滴がいくつかガラスについていて、誰かが霧ふきで湿り気をあたえておいてくれたかのようだ。  だれかが? だれかって、ママしかいないではないか。  僕はにわかに嬉《うれ》しくなった。ママはいつだってそうなんだ。あれこれ干渉しないし、他人が見たら放っぽらかしみたいに見えるかもしれないけど、ちゃんと僕のことを見ていてくれる。僕が、「今年は幼虫を飼うよ」と言ったときも、背中で聞いていて「ふーん」とか言っただけだったのに、僕がうっかり忘れてたこいつの世話をちゃんと代わりにやっといてくれている。  なにもかもばかばかしいことに思われた。あの等々力貴政氏は、 〈僕が知っていることを言うときみはそれを親に言う〉  とかなんとか言ってたが、当然だろう。 〈お家《うち》の人についてっちゃいけない——〉  なんて変なことを言う人の言うことだもの、どうせとっぴょうしもないことに違いない。ママが僕に危害を加えようとしてると思いこませるなんて——  だったら、ジョンの両親のうちの地下にあった瓶《かめ》は何だ?  僕は背筋がいっぺんで寒くなった。  大丈夫だ。ジョンはきっと、何か——何かひどく怒られるようなことをして、親に殴られるかなんかして、それで階段から落ちるとかして——自分でもかなり無理だと思う「かもしれない」をいくつも重ねながら、僕は自分を安心させようとした。そうして——打ちどころがわるくて死んだかなんかしたんだ。ジョンが生きてどこかにいるかもしれない可能性は、あの瓶《かめ》の中身が人間だとわかったことで、大幅に減少してしまったが——でも僕のママは違う。なにが違うって、ママはひとりで僕を産んで、親戚《しんせき》からなに言われたっていつも、「人は生きたいように生きる」を信念に、へのかっぱで突き進んできたんだから。よその親は違うんだ。世間の目ばかり気にして、子供をいい学校に入れることばかり気にして、エゴの犠牲にする。僕は自分でも、この年にしてはかなり常識や同情心、克己心や独立独歩の精神を持っていると自負している。それは、僕がママから受け継いで、そしてママに育てられることによって伸ばしてきたものだ。そうだ。  僕は徳田が松島公彦に侮辱されようとしたとき、体をはって戦ったじゃないか。そんな心の持ちぬしが、エゴイストの親から生まれてくるわけがない。  いまになって考えると理屈にもなにもなってないが、そのとき僕はそれで安心することができたのだ。自分で思っていた以上に子供だったと思う。もっともいまも、そしてこれからも、似たような屁理屈《へりくつ》で納得させられることがないかと言えば、自信はないのだが。そのあと発見した事実と、その夜のママの行動を考えると——  そう僕は、不自然なくらいすっかり安心して、冷蔵庫からパック入りのジュースを出して直接飲みはじめた。そして、頭のどこかがむず痒《がゆ》いのに気がついた。頭の表面ではなく、中身が。  図書館にいるときからずっと引っかかっていたことだった。なにか、「あとでもっとよく見よう」と思っていたものがある。ぱっと見て、自分がなにを見たのかもわからないのに、心のどこかに引っかかるなにか。  僕は、ごちゃごちゃにたたんで(というよりは丸めて)ポーチにつっこんできたコピー用紙を取り出して広げた。等々力家の系図、島本吉右衛門に関する素っ気ない記述、打ち首のプロ山上朝之助のことを格調の低い文章で綴《つづ》った小説もどき、島本吉右衛門の妻が寄贈したというなんだかよくわからない書きつけ。僕の心はどれに引っかかったのだろう。  今日調べたところを、どれほど睨《にら》みつけてもそれがなんなのかわからなかった。そして僕は不覚にも、考えを絞ろうとして目を閉じ腕組みした姿勢のまま、眠りこんでしまったのだ。昼間、悪夢によって昼寝を中断されて、睡魔がまだ残っていたらしい。  体を揺すられて目が覚めた。目の前にママの顔があり、僕は、 「わっ!」  と言って跳びあがった。ママも驚いて、 「わっ!」  と叫んだ。 「なによ! こっちが驚くじゃない!」  ママは笑ってそう言い、立ち上がって髪をほどき始めた。僕はあわてて、テーブルの上に広げっぱなしのコピー用紙をばさばさとまとめ、リビングのすみの勉強机に放りこんで鍵《かぎ》をかけた。時計を見ると、まだ十一時だ。 「あれ、もうお店おしまい?」 「うんそう、早じまいしたの。明日早起きして、キャンプに持ってくもん買い物してこなきゃいけないしね」  ママはクレンジングクリームを顔にのばしはじめた。 「キャンプ……」  僕はぼんやりと言った。 「そうよ、待ちに待ったキャンプ! テレビ局来るんでしょ?」  ママの声がはずんでいる。僕は、山の妖精《ようせい》みたいに見える江上さんの後ろで、油すましや子なきじじいみたいに見えるNBNのスタッフ連中が森の中でにかにか笑っている光景を思い浮かべた。 「うん、来るよ」 「あたしパエリア作るよ、今年は……」  ママはクレンジングクリームのついた手を握りしめて言った。 「パエリア?」 「うん、練習してたんだぞ、真介が学校行ってる間に」  ママはそう言い、ティッシュで顔をふきはじめた。 「パエリアってイタリア料理だっけ」  僕が言うと、ママは、 「うん、そう。あれっ、スペインだっけ? ポルトガル? エチオピア? まあなんだっていいや」  スペイン、ポルトガルはともかくなんでエチオピアが出るのかわからなかったが、ママの能天気な答えに僕は思わず笑った。 「なんでそんな練習なんか」 「だって去年の、ピクニックのときのカレー、超まずかったもーん」  ママは鏡のなかで大げさに顔をしかめた。 「子供相手だから、甘口にすればいいと思ってさ。駄目なんだよ、子供のころからいいもん体験させてやんなきゃ。あたし若いころ東京でよくパエリア食べに連れてってもらったんだー」 「だれに」 「いろーんな人。ふっふっふ」  ママは、悪だくみでもしてるみたいなふくみ笑いをした。 「そんとき一流のお店もたくさん行ったからね。スペインだかモンテカルロだか、それは知らないけど、舌は肥えてるよ。楽しみにしてなさい」 「いちおう、どんなもんか聞いといていい?」 「駄目」 「なんで」 「みんなに食べてもらってから、あたしが聞こうと思ってるからよ。『いったいぜんたい、これはどんなもんなんですか?』」 「ママ」  ふいに胸がいっぱいになって、僕はママを呼んだ。 「なに、どうしたの」  僕はなんだか言葉が出てこなかった。物心ついてから今日までの、ママとの生活、交わした言葉、繰り返された習慣のことが、どどっと記憶の中にあふれかえってきたのだ。  笑わないで聞いてほしい。いま思うと、あれは僕が僕自身の心を守ろうとして起こしたことだったんじゃないかと思う。こっぴどく叱られたあとなんかに、恨むより逆に、叱られた相手に心がもたれかかっていくことってないだろうか。ママの、乱暴ななかにも優しさのこもった物言い。そこに何かが隠されてるなんて思いたくなかった。突然涙があふれ出してきた。 「マ、ママとキャンプに行くななんて言う人がいるんだ」 「ええ?」  振り向いたママの顔は笑っていたが、僕が泣いているのを見てその顔は曇った。 「いやだ、どうしたの? あらあら、赤ちゃんみたい」  ママはティッシュを持ってきて、僕の顔をふいた。水仕事で荒れた手が頬をなでる。そのことがまた、僕の涙をあふれさせた。 「お、大人は危ないって」 「危ないって、どんなふうに?」 「こ——」  そうはっきり警告されたわけではなかったにもかかわらず、僕の恐れていたことが言葉となって飛び出した。 「殺されるかも、しれないって」 「へえー」  ママは、怒るというよりはあきれかえった声でそう言った。 「ごめんなさい、ごめんなさい!」  なぜか僕は謝った。 「どうして謝るの? その言葉を信じたの?」 「だって……だって……変なことばっかり起こるから!」  もうとまらなくなって、僕はしゃくり上げた。そのあとは、前後の脈絡がめちゃくちゃなままに、ジョンの親の借金完済のこと、八重垣の行方不明のこと、甲田というクラスメイトの入院先がわからないこと、河合の両親の不気味な仲たがいのことなんかを、僕はべらべらと喋《しやべ》った。頭のすみに、等々力貴政氏の、 〈君は必ず親に言う〉  という言葉がこだましていた。 (しかたないじゃないか!)  僕は頭の中で叫んだ。 (だって、しかたないじゃないか! 僕にはなんにもできない、江上さんが作るっていう番組だって、いつになるかわかんないんだから! 僕は安心したい、安心したいんだ!)  最後のほうは、自分でもなに言ってるかわかんないくらい言葉がぐちゃぐちゃになっていた。ママは、ずっと僕の頭を撫でてくれていた。そして、そっと胸に僕を抱きしめた。 「さあさあ。もう泣かないで」 「ママ、ごめんなさい」 「でもだれなの、そんなこと真介に言ったのは」 「よ、よく知らない」 「よく知らないって?」 「な、名前だけ。等々力貴政って」 「なにしてる人?」 「え、営林署に頼まれて、植物相ってのの調査をしてるんだって」 「じゃあいいわ。営林署に知り合いがいるから、あした電話してあげる。それで、そのアザラシなんとかって人を」 「アザラシじゃないよ、トド、等々力」 「そのトドだかアシカだかがほんとに営林署に雇われてるのか、訊《き》いてみるから」 「嘘だっていうの?」  僕はびっくりして尋ねた。 「だったらなんでそんな嘘を?」 「おいおい真介くん」  ママは、しょうがなさそうな笑みを浮かべて僕の頬をつっついた。 「きみは自分で思ってるより、ずっと美少年なんだよ」  その意味するところを考え、僕はぶーっと息をふきだした。 「げーっ!」 「真にせまったおとぎ話や怪談で子供をつって、だんだんに言いなりにさせる。そしてある日、『安全な場所へ行こう』と誘われてついていった子供は、二度と戻ってこない。そういうことする連中がいるって、聞いたことない?」  聞いたことはあるが、僕がそういうのに目をつけられるとは思いもしなかった。ママは立ち上がった。 「とにかくあした、確かめてみるから。もし本当に営林署に雇われてるんだったら、厳重に抗議する。じかに会ってぶん殴ってやってもいい。もし嘘だったら警察に行く。人相書にして、貼りだしてやるわ!」  最後のママの言葉には、本物の怒りがこもっていた。それが、僕をさらに感動させた。 「さてと」  ママはころっと怒りを消し、給湯器のスイッチを入れた。 「風呂でも入るかあ」  ママがバスルームに入り、まもなくお湯をためる音がし始めた。僕はティッシュで涙をふき、なんだか急にばかばかしく思えるようになったすべてのことに対して、「でへへ」と意味もなく照れ笑いした。それから、目の前のテーブルの上に、アサマヒョウモンガの幼虫を入れた金魚鉢が出しっぱなしなのに気がつき、急いで冷蔵庫の上にもどした。よくは知らないが、夜は暗くなるという自然のリズムを尊重したほうが虫にとってもいいだろう。去年まで飼っていたインコのサボンにも、夜は暗く、インコの原産地の気温に合わせるために冬は暖かくと、ずいぶん気をつかったものだ。  ……インコのサボン?  インコのサボンは去年、死んだ。死ぬ少し前、いったん死んだかと思われたとき、ママが手に持ったら息をふきかえして。  違うそんなことじゃない、思い出したかったのは。  その話を聞いて、ママに自分の鳥——文鳥だっけか——を救ってくれと頼みに来たおばさん。あのおばさん、なんといったっけ?  僕の頭の中に、なにかが押しよせてきた。僕は勉強机のところまですっ飛んで行くとひきだしの鍵《かぎ》をはずし、中に放りこんでおいたコピーの束を取り出した。 『松広藩士系図大鑑』、そう、僕があとでもっとよく見ようと思っていたのはこれだった。等々力重一郎から現代に続く、無意味に膨大な家系図。なぜか三代前から直系でないものたちの名前(生存しているからだろうが)までが記載されている——  僕はそこに、御園家三女たま子という名前を見つけた。 〈子供のころ近所に住んでたお姉さん。御園たま子ちゃん〉  等々力家当代、康政氏の父親の妹が、その嫁ぎさきでもうけた子供。康政氏のいとこ、彼女にとって等々力貴政——たったいま僕のママによって変態少年愛好家に決めつけられた人物——は、なんにあたるのか、これは、はとこ[#「はとこ」に傍点]か? とにかく、親戚には違いない。偶然? そうかもしれない。だが、実質的に現在の等々力家の祖先である島本吉右衛門は植物の研究をしていた、そして等々力貴政も植物相の調査をしている(と称している)、この一家が「植物」というキーワードでつながっているとしたら、あるいはあの「たま子ちゃん」も—— 「真介」  バスルームのドアがあいて、ママが顔をつきだした。 「久しぶり、一緒に入るか?」  僕はびっくりした。ほんとうに、もう思い出せないくらいむかしから、ママは僕がとっとと一人きりでお風呂に入れるようにしつけてきた。五、六歳のころから火を使わせてもらったし、鉛筆が持てるようになるとすぐ包丁を握らされた。それどころか、ママが苦手なちょっとした配線の修理なんかを、独学で習得するよう要求もされた。いまさら、ママと一緒にフロに入るなんて、そんな赤ん坊みたいなこと—— 「うん」  間髪を入れずに僕はそう答えていた。答えてから、自分がどんなにそうしたかったかをはっきりと知った。僕はふらふらと服を脱ぎ、気がつくと狭いバスタブの中で、体を折り曲げてママと一緒につかっていた。僕の体はそっくり、あぐらをかいたママの膝《ひざ》の上にあった。お尻《しり》をさわさわとくすぐっているのは、お湯に揺れているママのあそこの毛だ。ママは、バスタブに直接ボディシャンプーを注ぎこんで、僕の顔や体をていねいに洗い、いったんお湯をぬいてまたバスタブをみたした。ぬるいお湯の中でママに抱かれていると、なんだか天国とはこういうところかと思われた。 「真介」  ママが言い、顔を上げると目の前にママの胸があった。そんなに大きくはないが。白くてふっくらとしていて、ゆっくりと息づいている。その胸に、天井から落ちた湯気がしたたった。一滴、また一滴と。そして僕は、それが湯気でないのに気がついてママの顔を見た。ママはほほえんでいた。そして、その両目から涙を流していた。 「ママ?」 「真介」  ママは、お湯の中でぐっと僕を抱きしめた。僕の顔はママの片方のおっぱいに押しつけられた。 「愛してるわ、真介。あんたを産むまで、こんなにだれかを愛せるなんて思ったこともなかった」  僕の体に、甘い電流のようなものが走った。僕はママのおっぱいに頬ずりし、そっとその乳首をくわえた。ママは小さくうめき声をあげ、片方の腕を自分と僕の間にさし入れると、僕自[#「僕自」に傍点]身[#「身」に傍点]をそっと握りしめた。背骨にびりびりと快感が走って、僕は夢中でママの乳首を吸った。ママの指が前後に動いて、オナニーのときより何倍も激しい白い光が頭の中で炸裂《さくれつ》して、僕は射精した。そのとき、僕とママは口と口でキスをしていた。  何秒、何分たっただろうか。僕はママの肩に顔をもたせかけて、 「僕、こんなに幸せでいいのかな」  とつぶやいた。 「もちろんよ」  ママはもういちど僕をぎゅっと抱きしめ、それからくすっと笑って、お湯の表面に卵の白身みたいになって浮いている精液のかたまりをタオルですくった。  その晩、僕とママは当然のようにひとつのベッドで寝た。僕がおっぱいに指を伸ばすと、ママはなにも言わずに、静かに僕の股間《こかん》に手を置いた。今度は前よりゆっくりで、前よりずっと素晴らしかった。僕は僕がやって来た場所へ帰還をはたした。ママの教えかたは適確で、僕の快感を刺激しながら引きのばし、そして自分も十分に楽しんでいた。ママの中はあたたかくてぬるぬるしていて、お風呂よりもずっと気持ちがよかった。できたら、全身で入りこみたいくらいだった。 「ああ、真介」  ママが堪《こら》えきれなくなったような声をあげた。僕は、だれに教わったわけでもないのに、自然にぐいと腰をつき動かしていた。僕は僕の先端をほとばしらせながら、ピンク色の雲のなかをどこまでも昇っていった。その雲のなかに、飼い主たちに囲まれて幸せそうに口を動かしている、牛の姿が見えたような気がした。     21 「やっほうー!」  その日、駅前のバスターミナルに集合した僕たち四年三組は、はでに体をぶつけあい手を打ちならしあった。もちろん、松島公彦ともだ。松島とは、夏休みまえになにかいざこざがあったような気もしたが、そんなのはすっかり忘れてしまっていた。 「元気だったかー」 「オメーこそ生きてたか」 「東映まんがまつり行ったか」 「俺はこの夏休みプール皆勤賞ねらう」  とかなんとか、くだらないことで騒ぎながらわいわいとバスを待つ。そしてふと、僕は自分に注がれている視線に気がついて振り返った。  みんなから少し離れた場所で、車椅子の徳田芳照と河合が僕をじっと見ている。僕は、ポケモンカードがどうしたこうしたという話をしはじめた松島に、 「ちょっと」  と言ってその場を離れようとした。すると、その僕の腕を松島がひっぱった。 「よせよせ」 「なんだよ」 「おまえ、まだおまえらが三人組だと思ってっだろ? でもよ、徳田と河合さ、このごろ二人っきりでいるとこモクゲキされてっぞ。あっちこっちでさ」  僕は松島をじっと見、それから顔を振って苦笑すると、ちっちっちと指を立て、それから徳田たちに近づいていった。 「よっ」  二人とも黙っている。 「どーしたんだよ。今日から楽しいキャンプじゃねえか」 「なんで電話くれないの?」  河合が、青ざめた顔で言った。 「電話?」 「まめに連絡するって言ったじゃねえか!」  たまりかねたように徳田が言った。 「そうだよ、ほんとに……」  河合の目が真っ暗で、まん中の丸いところがないみたいに見えるのに僕は気がついた。河合は言った。 「携帯ずっと切ってるし……うちに電話しても、おばさんは真介いないって言うし……」 「ふーん。だからふたりでずっとデートしてたの?」  僕が言うと、ふたりの顔が前よりもっと青ざめた。 「おまえがつかまんないから、俺たちだけで清明寺へ行ったことか?」 「清明寺? なんだそれ」  徳田の顔がこんどは青から赤に変わった。 「島本吉右衛門の書き付けが発見されたっていう寺じゃねえか! 城山《しろやま》の上のほうにあるんだよ、尼さんがやってる寺だ」 「行ってどうしたんだ? なんかわかったのか?」 「ぜんぜん。ばあさんの尼さんがひとりいるきりで、それも戦後に出家したって人だった。吉右衛門とか、植物占いとかいったってぽかんとしてるだけだったよ」 「だったら無駄足じゃないか」 「無駄足どころか。おまえがいないから、俺のこれ動かすの大変だったんだぞ、石段上るとき! 河合、一人で持ち上げようとして、転んで腰打ったんだぞ! 今日だって、医者から登山なんてやめろって言われてんのに来たんだぞ!」 「無理することねーじゃん」  僕が言うと、二人は信じられないものを見るように僕を見た。 「母子キャンプは別に義務じゃないんだからさ。キャンセルすれば費用払いもどしてもらえるじゃん」 「藤山」  徳田は、やけに確信のこもった声で言った。 「おまえ、なにか盛られたな」 「なんだよ、盛られたって。時代劇じゃあるまいし。俺はお岩さんか」 「ジョンのこと忘れたのか」  ジョンのこと。なんだか、幼いころのお化け屋敷の記憶みたいに思える。 「こないだ別れたあと、江上さんから電話あったぞ。おまえにも連絡したって言ってた。あの瓶《かめ》の中身は人間だ、ジョンだ! わかってんのか、俺たちは友達を殺されたんだぞ」 「人間の組織だって、死体とは限らないじゃないか!」  僕は思わず言った。徳田は目を細めて僕を見た。 「なんだって?」 「たとえば、えーと、医学部とかの標本かもしれないじゃないか」 「あれがそんなもんに見えたか? 赤黒くてどろどろしてて、標本ってのはおまえ、白くてしなびてるもんだぞ」 「どうしても俺に連絡取りたいんだったら、夜に押しかけてくるとかでもできたろうが!」  すると徳田は、血走ったように見える目で僕を見つめた。 「おまえ、俺たちが東京へ行くってこと、だれかに話したか?」 「えっ」  ふいにそう言われ、ぎくっとなって僕は固まった。肯定したように思われるとまずいので、急いで首を振ったが、言葉は出てこなかった。徳田がゆっくりと言った。 「俺は江上さんにメールなんて送ってない」  一瞬なんのことかわからなかったが、次の瞬間頭の中に火花が散った。僕はぽかんと口を開けた。 「なんだって?!」 「東京に行った日だ、俺たちが魚尻の駅で、あのむかつく駅員に引き留められてたときだ。江上さん、俺からのメール受け取って、魚尻の駅にあらわれたなんて言ってたろ。でも俺、そんなことまったくやってない。東京に出てジョンに会いに行くってのは、最初から最後まで俺たち三人だけの秘密のはずだった。俺はもらしてない」 「あたしだって」  河合が、悲しそうな顔で言った。僕は思わず二、三ミリ後ずさった。 「お、俺だっていうのか?」 「他に誰がいる?」 「芳《よつ》ちゃーん」  突如、麦藁《むぎわら》帽子にポロシャツ、ジャージのズボンという涙が出るほどおばさんくさい格好をした眼鏡のおばさんが僕の背後から出現した。 「やっほうー、みゆらちゃん、いつも可愛いわねー。あら真介くん。なんですっておたくのママパエリア作るんですってね。あたしむかしスペインで食べたわ。スペイン知ってる? スペイン。カスタネットこう両手に持って、たからったったったったって踊る人いるの踊る人」  異常にテンションの高いこのおばさんはだれかと思ってよく見ると、徳田の母親だ。一、二度会ったことがあるが、何度見ても私立探偵には見えない。もっとも探偵が探偵に見えたら尾行するときなんか困るだろうが……。 「ママどこ行ったの? 駄目じゃない、女性を一人きりにするなんて」 「あ、え、えと」  ママというフレーズを聞いて、僕は甘酸っぱい気分になった。実はここ数日、僕とママは夜の営業時間のほかは、ずっとベッドで寝てるか食べてるかお風呂《ふろ》に入るかビデオを観てるかで、携帯を切っておいたのも電話で居留守を使ったのも、それ以外のことが馬鹿馬鹿しく思えてしょうがなかったからだ。アサマヒョウモンガの幼虫は死んでしまった。僕が外出が面倒で、餌のくぬぎの葉っぱを採りに行かなかったからだ。僕は、徳田の母親のまえで顔を伏せながら、ママがさっきから他のおばさんたちとお喋《しやべ》りしてる方角を指で示した。 「あらほんと。じゃあねー」  そう言って徳田の母親は、手とお尻《しり》をふりふり去って行った。年はママより下っぽかったが、若さも美貌《びぼう》もぜんぜんママに及びもつかない。いや、ここに集まった母親のだれもがだ。僕は優越感でいっぱいになった。とたんに、河合の恨みがましい声がとんだ。 「なにがおかしいの?」 「おかしい?」  僕は徳田と河合を見た。ふたりとも、不審の念を顔にいっぱいに浮かべている。僕は咳《せき》ばらいして言った。 「わかった。ちゃんとわかるように説明する」 「本当だな?」  徳田が念を押した。 「ただし、いますぐは無理だ。向こうに着いて、テントも張ってゴハンがすんでからだ。ラジャー?」 「ラジャー」  ふたりは、しかたなさそうに答えた。徳田が、腿《もも》を覆った毛布を叩《たた》いた。こんという音がした。 「俺のほうも、ぜひ聞いてもらうことがある」 「なに隠してんだよ」 「ノートパソコンだ」 「なんだって? 持ちこみ禁止だぞ」 「知るかそんなこと! おまえが連絡くれないから、今日持ってくるしかなかったんじゃねえか!」 「わかった、わかったよ。パソコンのことは言わないどいてやる。じゃ、また後な」  僕は、後ずさりにその場を離れた。なんだか急にふたりが子供っぽく、とるに足らないことで騒いでるような気がした。まさか人に話すわけにはいかないが、もう僕は童貞ではないのだ。それはなんだか、世界がひとまわり大きくなったような感じを僕に与えた。実際には、何日ものあいだ家にこもっていたのに。  松島たちがひと足先に見た東映まんがまつりの話をしているところに戻ると、突然周りで歓声がおきた。  歓声のなかには悲鳴と、ひんしゅくの笑い声が混じっていた。男子たちがいっせいに口笛を吹き、「げーっ」とか「おえー」と叫んでいる者もいる。なかにはそのへんの植え込みから石を拾って投げてるのまでいる。その注目とあざけりの輪のど真ん中にいるのは、そう、あの直立軟体動物、八重垣潤だった。 「おー、八重垣菌——」 「うげー、目くさる目くさる」 「生きてやがったかー、残念!」  八重垣は元気そうだった。あのいつもの、うすら笑いを固めた気持ちのわるい表情で、地球上のどこにいようと必ず場違いという独特の雰囲気を放出しながら、そこにのたーっと立っている。あの、親切そうな母親の姿は見えない。それを言うなら、そもそも八重垣はキャンプの格好すらしていなかった。いつもの黒ずくめの服装で、手に紙袋を提げているだけで、帽子もかぶってない。  たちまち、男子たちが八重垣に飛びかかって殴る蹴《け》るのいつもの儀式を始めた。僕はほっと安心した。やっぱり三組はこうでなくちゃ。 「おまえら、ぎゃあぎゃあ騒ぐな! バスが来たぞ!」  旗を振り回しながら、ちょっと見ないうちにだいぶ太った根本先生がわめいた。 「おめーが一番うるせーよー」  と松島が応じ、その頭の上で先生は旗を立てたポールをぐりぐりとねじる。近づいてきたバスを見たら、車椅子用の昇降装置のないタイプだった。 「おい、徳田を先に乗せるぞ!」  松島が、ずっと広場のすみにいる徳田と河合の方へと駆けより、それに続いてみんなが駆けていく。そう、僕たち三組はずっとこうだった。夏休み前のあの異常な事態は、八重垣がいないことによってたまったストレスが噴出しただけだったのだ。八重垣さえいれば、僕たちは「とっきー」に手を貸すことを少しもいとわない気のいい子供たちだ。  バスが停まり、ぷしゅうといってドアが開くと、僕たちは徳田の車椅子を何人もで持ちあげた。そのかたわらを通って、さっさとバスに乗りこむやつがいる。見上げると、八重垣だった。中空を見つめたボタンのような目で、周りで起きていることなんかまったく興味がないといった感じでとっとといちばん後ろの席へ行って座ってしまった。まったく、嬉《うれ》しくなるくらい嫌われやすいキャラクターだ。 「おい」  車椅子の車輪の下を支えていた松島が僕にささやいた。 「八重垣菌さ、洞窟《どうくつ》でもあったらそこ閉じこめちまおうよ」 「それいいな」  車椅子の上で、さっきより少し元気を取り戻した徳田が言った。 「きっとぎゃーぎゃー泣きわめくぞ。あのきっしょくわりいソプラノで」 「ひえー。山の動物たち、狂って死んじまうんじゃねえの」  おばさん連中は前のほう、僕たちは車酔いしにくい中央部にかたまった。バスが走り出すと、すぐにカードゲームが始まった。当然のことながら、八重垣がひとりで座っている最後部に近づく者はいない。いや、八重垣のことを気にしている人間がひとりいた。河合だ。  河合は、窓際の僕と通路の徳田との間に座って、ときどきちらちら後ろのほうを見て、なにか言いたそうにしている。 「なんだよ」  僕は河合に言った。 「八重垣がなんか気になんのか」 「どうしてあんたは気にならないの、真介?」  河合はかたい声で言った。 「先生に『植物占い』のことで呼び出されてから、ずっと姿が見えなかったんだよ。この前まで、真介だってなんか怪しいって言ってたじゃない!」 「俺もう、そういうこと考えるのやなんだ」 「やって、どういうこと? ジョンのことも? なにもかも、どうでもよくなったってこと?」 「そういう話はあとでするって言ったろうが」  河合と徳田は顔を見合わせた。僕は言った。 「気になるんだったら八重垣に訊《き》いてきたら。どうしてずっといなかったんだって」 「いや」  河合は前を向いて唇《くちびる》をひきむすんだ。 「それはいや」  それはそうだろう。みんなから離れて八重垣と喋ってるところを見られたりしたら、河合のほうがバイキン扱いされてしまう。『植物占い』の本を持ってきたときは女子が周りに群れたが、あれは大勢でいっぺんに、だったからできたことだ。 「河合さん、なにしてらっしゃるの、こっちいらっしゃいよ」  とおばさん連中の間から声があがった。この場合の河合さんというのは河合みゆらではなくて、河合についてきている彼女の母親のことだ。町工場のおかみさんで、河合のことでなにか父親のほうと対立してるとか言っていたその母親は、バスのいちばん前にひとりで座り、話の輪に加わらないでじっと前を見ていた。そう呼ばれて振り返った河合の母親は、なるほど河合が家庭にいざこざがあると言っていたとおり、目の下が落ちくぼんで頬が悲惨にたるんでいた。 「いえ、わたしはここで」  河合の母親は、か細い声でそう言ったが、それで承知するようなおばさん連中ではない。 「いいからいらっしゃいよー」 「そんなところで一人で外見てると、酔っちゃうわよ」 「みかん食べましょうよ、みかんみかん」 「バナナもあるわよ。もなかもプリンも」  キャンプにつかないうちにそんなに腹につめこんでどうするつもりだ、と僕はあきれたが、河合の母親はまた静かに首を振った。 「それが、もうわたし酔っちゃって」  これがいけなかった。 「まあたいへん」 「トラベルミン飲む?」 「横んなってたほうがいいわよ、ほら、ここ空けるから」 「枕出したほうがいいんじゃない、空気枕、あたし持ってきたから、どこどこ、どっからふくらますの」  かえって大騒ぎになってしまった。河合が立ち上がり、おばさんたちの間をなかば強引に通って母親にかけよった。 「お母さん」  河合がなにかささやくと、母親は小さくうなずき、ささやき返した。河合はそのまま、母親のそばの通路に立って、ドアのそばのポールをつかみ、ときどき振り向いて睨《にら》むようにおばさん連中を見た。おばさんたちは首をすくめ、なにもなかったかのように、最近ワイドショーで行動を取り上げられているとある相撲部屋のおかみさんの悪口を言い始めた。僕のママはと言えば、話の輪のなかにはいるが、どちらかといえば聞き手にまわって、ゆったりと座席に背をあずけてうちわを使っている。ママの格好はドレッシーにアレンジされた迷彩服に濃い色のジーンズ、首に黄色のスカーフをまいて他のおばさん連中とはひと味もふた味も違う。徳田の母親のほうは、絵にかいたようなおばさんなので、大勢のなかにまじると冗談ぬきでどこにいるのかよくわからない。  僕は軽口をたたく気分ではなさそうな徳田をひとまず放っておいて、松島たちのやっているカードゲームにまざった。敵のウシドラゴンを撃破したころバスは山道へと入り始め、召還カードを使い果たして自爆したころには、周囲はすっかり緑色に覆われていた。ときどきバスがむこうがわから来る車を通すために停まると、そのたびに木々がわさわさいう音、ひぐらしの声、鳥のさえずりなんかが僕たちの上に落ちかかった。そして間もなく、僕たちはキャンプの設営場所である五郎太牧場へと到着したのだ。  牧場といってもそこには入り口も出口もなく、低い木がまばらにつらなっているのが、まあ仕切りといえば仕切りに見えなくもなかった。僕たちは、相変わらずわあわあ騒ぎながらバスを降り、徳田の乗った車椅子を降ろすときにはもちろん協力して、道のわきに続いている細い道をのぼりはじめた。徳田は車椅子の電動スイッチを切り、腕の力だけで登っていく。その根性と体力には、いつもながら感心した。  小さな林をぬけるとぱっと視界がひらけた。広い、やわらかな草がいちめんに生えた小高い場所。本物の牛や羊が草を食べたりぼうっとたたずんでいたりし、その向こうがわに、牧舎というにはかなりすさまじいほったて小屋のようなものがあるのが見えた。 「はーいみなさーん」  と聞き慣れた声がした。見ると、そのほったて小屋の陰から、江上さんを先頭にNBNのスタッフたちがぞろぞろとあらわれた。みんな、機材をかつぎながらにこにこ笑って手を振っている。僕たちも、歓声をあげて跳びあがり手を振り、それでも足りない連中は帽子を放り投げたり足をばたばたさせたりした。 「意外と早くついたじゃない」  僕たちに向かって歩み寄りながら江上さんは言った。 「加速装置を作動させました」  と松島がふざけたことを言い、みんなで笑いながら松島の頭を叩《たた》いた。 「ゆうべのうちに来て用意しておいたの。ほら、セッティングってけっこう時間かかるから。すぐに設営始めてくれていいわよ、こっち気にしてくれなくてもどっからか撮ってるから」 「きれいに撮ってえ」  と松島がまたふざけた。根本先生が辺りを見回して言った。 「サバイバル指導の人は来てないのかしら?」  夏休み前にあった、理科準備室での言い合いなどなかったかのようなさっぱりした顔で江上さんは答えた。 「わたしたちも、鍵《かぎ》管理してるロッジから直《ちよく》で来たから……その指導の人って、さきに来てるはずなの? 名前は聞いてない?」  根本先生は、ポケットからコピー用紙を取り出すと広げた。 「講師・遠藤良一、カッコ登山家って書いてあるけど」 「会ったことは?」 「ないわ」  そのとき、かたまって江上さんのほうを向いていた僕たちの背後から声がした。 「空知小学校四年三組のみなさんですね。お待たせしました、遠藤です」  ああ、と安堵のため息をつきながら根本先生は声のしたほうを向いた。僕たちも、いっせいに。そして僕は、わっと声をあげた。 「どうしたの?」  近くに立っていた河合が不思議そうに僕を見た。だけど僕が声をあげたのも無理はない。なぜって、そこに立ってママのとは違う本格的な迷彩服をまとい、頭に赤いバンダナを巻いて腰にサバイバルナイフをぶら下げた人物こそ、この前会ったときより無精髭《ぶしようひげ》が伸びてはいるものの、草食動物的だが知的な目をしたその顔はまごうかたなく僕に不可解な警告をし、系図を調べさせることによって結局島本吉右衛門という人物にまで僕たちをたどり着かせた張本人、ようするに等々力貴政以外の何者でもなかったからだ。  登山家の遠藤だと名乗っている等々力貴政は、僕にまったく目もくれないでつかつかと根本先生に近づき、 「よろしく」  と言って手を差し出した。先生もその手を握りかえす。僕は急いであたりを見回して八重垣を探した。八重垣は、開催前の『伝統工芸博覧会』会場でこの人物と会っているはずだ。だが、例によってみんなから離れた場所でぼーっと中空を見つめている八重垣は、遠藤と名乗っているその男になんの興味も示さないし、向こうも八重垣に目を留める気配さえない。 「それじゃあさっそく、テントを張ろう!」  等々力貴政は、腕を振り回して元気いっぱいにそう宣言した。手分けしてバスの荷物入れから運んできていたテントが地面に並べられた。放りなげればすぐに開いて設営完了、なんていうお手軽なやつじゃなく、地面に杭《くい》を打ちこまねばならない本格的なやつだ。地面に打ちこむ杭の材料と、ハンマーがわりの石を拾うために散開しながら、僕はまたべつな人物が、じっと等々力貴政を睨《にら》んでいるのに気がついた。  それは江上さんだった。  江上さんは、ディレクターの弥刀さんがカメラマンや音響さんに与えている指示を、後ろで聞いているようなふりをしていたが目はずっと等々力貴政を追いかけていた。それは僕がいままで見たこともない、江上さんのつめたく、非難の気持ちにみちたまなざしだった。等々力貴政は、三組のみんなと冗談をかわしながら、ナイフで木を手際よく削ってみせながら、決して江上さんのほうを見ようとはしなかった。が、江上さんの視線のさきで、ときどき顔を上げては、ゆっくりと首を振り、そして深くうなずくのだった。それは、僕にはわからない何かのサインのように思われた。等々力貴政がそうしたそぶりを見せるたびに、江上さんのまなざしはますますつめたく、研ぎすまされたような光を帯びていくのだった。     22  ママのパエリアは大好評だった。  だいたい、本格的とかプロの味とかいうやつは、へんに薬くさかったり味つけが薄かったりするものだが、ママは凝った香辛料を使いつつも、食べるのは小学生だとちゃんと承知していて、カレー粉やケチャップもばんばん投入してくれるのだからうまくないわけがない。腹いっぱいになって、焚火《たきび》をぼんやり眺めていると、背後から声がした。 「真介」  河合の声だとわかっていた。食事がすんだら話をすると約束していたからだ。なんとかごまかしたかったが、適当な言い訳は見つからなかった。それに、体を動かしてるうちに、僕も河合や徳田、それに江上さんと一緒に東京へ行ったあの冒険行をだんだん思い出してきたのだ。それは、あれからの僕が友達をないがしろにした罪悪感と、そのことをまだママにも打ち明けていないことの罪悪感の両方を僕に感じさせた。  焚火の向こうで、子供たちと母親数人に囲まれて、等々力貴政だか登山家の遠藤だかがハモニカを吹いている。かなりベタな光景だ。僕は、立ち上がり尻《しり》についた草をはらうと河合について歩き出した。  徳田は、小さな流れのほとりにある、使われていないなにかの家畜小屋の中で待っていた。電気だけが通っているらしく、小さな豆電球がぽつぽつと灯《とも》っている。エアコンはもちろん扇風機も、冷房の役をするものは何もないが、山のなかなので夜は寒いくらいだ。  徳田は車椅子から下り、大きな木の箱の上に腹ばいになってパソコンを叩《たた》いていた。 「よう」  僕は声をかけた。徳田は、挨拶《あいさつ》を返さずにいきなり切り出した。 「変な薬や毒を売り付けるやつがいるから、取り締まりがきつくて『薬』で検索しただけじゃろくなサイトに当たらない」 「なんだ?」  僕は、徳田の前にあるパソコンの画面をのぞきこんだ。薄型の液晶なので、斜めからだと見えづらい。なんとか見える角度をみつけた僕は驚いた。英語がずらずらと並べられている。 「なんだこれ?!」 「驚くことねえだろ。英語はパソコンの世界じゃ標準だぞ」 「俺の標準じゃねえよ」 「安心しろよ。俺だって読めるわけじゃない。翻訳ソフトなんてねえから、辞書をひきひき、たいへんだったのなんの」 「しばらく芳照からも連絡なかったから、あたしそのことも気が気じゃなかった」  河合がぼそっと言った。僕は徳田に訊《き》いた。 「で、なんて言ったっけ? これが、『薬』、『薬のページ』なのか?」 「ちょっと待っとけよ。いま混んでるらしくてなかなかつながんねえから」 「混んでる?」 「オークションだ」  徳田は画面を眺めながら頬づえをついた。 「いつ行ってもだれかアクセスしてる。商売繁盛でいいねえ。もう少し待て」  そう言われたので、僕は河合のほうを向いた。 「おまえん家《ち》の母親、元気なさそうだな」  河合は、暗い顔でうなずいた。 「おまえ連れて逃げるとかいう話はどうなったんだ?」 「あたし、聞いたの、ゆうべ。お母さんがキャンプのしたくしてるとき……」  河合は、豆電球のむこうの闇に目をやった。 「本当に、お父さんと離れて二人で暮らす気か、それでやってけるのかって。そしたら、なんて言ったと思う? 『キャンプが終わったら結論が出るよ』だって」 「なんだそりゃ。どういう意味だ?」  河合は首を振った。 「わからない。芳照はなんか知ってるみたいなんだけど」  僕は徳田を見た。徳田は、キーボードを断続的に二本の指で叩いている。河合は言った。 「真介のいるとこで話す、三人で相談しようって言って、教えてくれないの」 「俺だって、自分の仮説に自信があるわけじゃねえ」  腕をついて身を起こしながら徳田は言った。 「だから、真介に相談したかったんだ。河合は……悪いけど、家のことでちょっと精神的に不安定だろ? 俺の言ったことをそのまま親に確かめられちゃ、かなわないと思ったからさ」  僕はぎくりとした。徳田は僕を、河合よりしっかりしてると思ってる。だが本当は、等々力貴政の懸念したとおり、僕だってただの口の軽い子供なのだ。 「見ろよ。つながったぞ」  徳田は、僕たちのほうに向かってパソコンの画面を回した。僕と河合はのぞきこんだ。依然として、そこに並んでいるのは英語だ。つまり、ぜんぜんわからない。 「とくだー」  と僕はうんざりした声をあげた。 「どこの国でも、薬の売り買いにはちゃんとした許可がいる。民間療法っていって、なになにの煎《せん》じ薬が効果がある、と言って人に分けるのはいいけど、『治る』って言って金をとったら法律違反だ」  と徳田は言った。 「よく知ってんなおまえ、そんなこと」 「見ろこれ、これは世界じゅうからつながるオークションのページで、中でも特別やばいもんだ。たとえばこれ」  そう言って徳田が、ある一行をクリックすると、やや間があってからじわーっと写真があらわれた。白人の女の人の顔のアップで、顔半分に石かなんかで殴ったみたいなものすごい傷がある。どうも死んでるみたいだ。 「殺人ビデオのオークションだ。〈リアル〉とか〈ライブ〉とか書いてある」 「てことは、本物?」 「だろうな。その下は幼児売春。オークションぬきでも買えるけど、白人で、履歴書つきだと競りにかけられる。そのまた下は絶滅寸前動物のペット販売だ。〈ニッポニアニッポン〉なんてのまで出品されてる」 「トキのことだよ」  と横で河合が言った。 「マジか? どうやってとってきたんだ」 「中国のトキじゃねえかと思うけど。どうせ外人にはわかんないし、俺だってわかんない」 「こんなやばいページで、何見つけたんだおまえ」  徳田は、画面をぐーっと下に下げた。すると後ろのほうに、「Medicine」という項目があるのが見えた。 「めじしね?」 「メディスン。薬だ」 「麻薬か?」  僕の頭にあることがひらめいた。 「つまりあれか? 植物の研究をしていただれかが新しい麻薬を発見した。それを売ることによって、俺らの町は金持ちに……」 「だったら、まだいいような気がする」  徳田は、押しころした声で言った。そして、その「Medicine」の文字をクリックした。  何が出てくるかと思ったが、出てきたのは四角い枠だった。下に文字を入力する部分、その上に「なんとかかんとかプリーズ」と書いてある。 「なんだ?」  僕が尋ねると、徳田は、 「パスワードだ」  と答えた。 「わかるのか?」  と言うと、徳田は肩をすくめた。 「わかるわけあるか」  僕ががっくりして「うーっ」と言うと、徳田は暗い笑みを浮かべた。 「と言いたいとこだけどな。俺は、おまえが図書館で会ったっていう男の言ったことってのを考えたんだ。等々力一族のなんたらを調べろっていう」  そう言った本人は、いま焚火のそばでハモニカを吹いているのだが、それを言うとまたややこしくなるので黙っていた。 「真実にたどりつくカギは、この秘密のページにあるんじゃないのか? そう思った俺は、まず『TODOROKI』と打ってみた。でも駄目だった」 「『JUICHIROU』は?」  僕が訊くと、それにも徳田は首を振った。 「もちろんやってみた。駄目だった」 「『SHIMAMOTO』は?」  突然河合が言った。僕は彼女を見た。 「なんだって?」 「島本吉右衛門。いま残ってる等々力一族の、直接の先祖なんでしょ?」  僕は徳田を見た。徳田は無表情でキーを叩《たた》いた。 「『SHIMAMOTO』」  と徳田は言い、派手に「ERROR」という字の出た画面を僕に見せてにやっと笑った。僕が「なんだよー」と言うと、徳田は薄笑いを浮かべたまま別なキーを叩いて言った。 「『KICHIEMON』!」  徳田がリターンキーを押すと、画面が一瞬真っ暗になり、その中に青い、宇宙空間をイメージしたような背景がじょじょに浮かびあがってきた。ぐるぐると渦巻型星雲が回転し、周囲を音もなく星が流れていく。その上に、黄色い英語の文章があらわれた。 「び……びんご」  僕はささやき、画面をのぞきこみ、それから徳田を見た。 「わかるのか?」  徳田は画面を下に動かし、そこにアンダーラインつきで並べられている行を示した。横のほうに、20000とか35000とかいう数字が書いてある。字は商品をあらわし、数字は値段だろう。たぶんドルだろうと思う。とっさに計算できないが、なんだかすごく高そうだ。オークションだっていうから、まだまだ上がっていくかもしれない。どうして、薬がそんなに高いのだろう。 「見ろ」  徳田は、画面の一点を指さした。「EFFECTIVE MEDICINE」となっている。 「なんのことだ?」 「特効薬」  徳田は短く答え、ゆっくりと画面を上にスライドさせていった。中にいくつか、僕でもわかる単語があった。「HIV」と「EBORA」だ。どっちも病気の名前だ。 「これは? エイズにエボラって……」  僕が画面を指さして訊《き》くと徳田は言った。 「それを治す薬ってことだよ」 「んな馬鹿なあ!」  僕は思わず叫び、河合にしーっと言われた。 「エイズってたしか、進行を遅らせることはできても、完全に治す薬なんてまだないだろ?!」 「その下見ろ。CANCER、ガンだ。ご丁寧に、『末期』なんて上についてる。その下がまた、ずらーっと病気の名前だ。重いのばっかり。俺はずいぶん辞書を引いたぞ。薄いのじゃ載ってなくて、親父の部屋からぶ厚いの持ち出してこなくちゃならんかった。これは白血病だ。こっちが再生不良性貧血。これが筋ジストロフィー、アルツハイマーまである」 「詐欺かこれ!!」  僕は叫んだ。 「どういう病気か詳しくは知らねえけど、飲み薬で治るもんじゃないってことくらいわかるぞ。詐欺なんだろ?! どうしても死にたくないやつとかをだまして、治る薬があるとか言って金を巻き上げるんだ」  そこで僕は、はっとなって徳田を見た。 「まさかおまえ。これが、うちの町の資金源だって」 「俺がどうやってこのページにたどりついたと思ってんだ!!」  徳田は、突然怒ったようになって言った。 「俺がふつうにアクセスできるページじゃ、情報は限られてる。うちの両親なら探偵だから、ヤバそうなリンクとかにも通じてるだろうと思って、親の会社のパソコンに入らせてもらったんだよ」 「なんだって? そんなことできんのか? だったらお前、俺ん家《ち》でおまえんとこの紙袋見たとき調べてくれりゃ……」 「駄目だよ。俺はそういうことは——わかんねえかな、たとえできてもやりたくねえんだ。できねえんだよ。守秘義務ってやつを芯《しん》まで叩《たた》きこまれてんだ、それはあんとき言っただろう」 「でも親のパソコンに侵入したってことは」 「客の記録になんか手ぇつけてねえ、真介、お前の母ちゃんの依頼にもだ、ほんとだ、俺はそういうことはしない。俺はただ、『植物』や『薬』の検索で手がかりが掴《つか》めるかもって思っただけだ。そうしたら、ほとんど直《ちよく》でこのオークションのページにつながった」 「じゃあ、芳照の親が、このいんちき薬売ってるっていうの?」  河合がそう口走った。徳田はこぶしで、自分が乗っかっている木箱を叩いた。 「そんなわけねえだろ?!」 「信じたくないのはわかるけど、でも芳照の両親、このひと月ものすごく忙しそうだったって言ってたじゃん」 「違う……うちの親か、会社か、このオークションに関係してることはたしかだ……でもうちの親はいんちき薬なんか売らねえ。効きもしねえキノコの粉だのなんだの、売るような連中をほんとにバカにしてんだ……だから、てことは、俺は思ったんだ。ここで売られている薬はいんちきじゃねえ」 「え?」  と僕は訊きかえした。予想もつかない言葉だった。 「効くんだ。どうしてか知らねえけど、この薬は効くんだよ。ガンだろうが白血病だろうが、老人ボケだろうが!」 「なんで芳照の親がそんなもん作れるの?」  河合がもっともな疑問を口にした。徳田は首を振った。 「作れるとは思わねえ。たぶん、仲介とか、そんなことを引き受けてるんだろうと思う。薬の受け渡しとか、連絡とか……」 「じゃ、じゃ、薬を作ってるのはだれよ」 「この町の人間で、突然びっくりするくらい金がもうかった人間はだれだ。俺たちの知ってる範囲でだぞ」 「ジョンの親か」  僕は叫んだ。あの白いケーキだかラブホテルだかよくわからない、趣味のわるい大邸宅が頭に浮かんだ。徳田はうなずいた。 「このこと自体が町ぐるみなんだと俺は思う。でも、始めたのはジョンの親だ。少なくとも、最初に実行に移したのは」 「でもジョンの親は商社マンだよ。薬の作りかたなんて知ってんの? それにあの家《うち》、そんな実験室みたいなとこなかったじゃない」  河合が言うと、徳田は暗い目で僕たちふたりを見た。 「おまえら、鴆毒《ちんどく》って言葉、知ってるか?」 「え?」  僕たちはいったん沈黙したが、やがて河合が言った。 「鴆《ちん》って、伝説の鳥でしょ。羽根をひたした酒で百人殺せるっていう毒を持った。架空の存在だよ」 「そうか?」  と徳田は言った。 「鴆は、いたかもしれねえぞ」  目つきが、少しあぶなくなっていた。 「毒だけじゃなくて、薬になる動物だっていたかも——いや、いるのかもしれねえじゃねえか! 面倒な化学合成なんてなにもいらない、なにかに、そうだな、濃い酒とかに漬けとけば自然とエキスが染み出て、それはそのまま薬に使えるのかもしれねえじゃねえか!」  徳田はそう言って、そのまま押しだまった。虫がまた鳴きはじめた。河合が静かに、ほとんど歌うような調子で言った。 「……読んだことある……むかしね、人の肉は、なんだっけ、とっても重い病気に効くって信じられてたって……」  あの、瓶《かめ》の中身。  江上さんの友達によって、人間の組織だと断定された、あの酒漬けの赤黒い肉塊。  ジョンの両親の大きな家、くったくのない笑い声——そこにくっきり浮かびあがった、ジョンの不在。高値で取引される、不治の病の特効薬。  ふいに、がさっという音をたてて僕たち三人の真ん中に小石が投げこまれてきたので三人とも跳びあがった。徳田などは転げて台から落ちそうになったので僕と河合とであわてて支えた。だれかに見つかった!!  いまの会話をだれか付き添いの大人に聞かれたなんて事態は死んでも避けたかった。文字どおり、死んでも[#「死んでも」に傍点]だ。いま三人ともが達した結論にそえば、大人たちが僕たちを生かしておくかどうかは、早いか遅いかの違いに過ぎないだろうからだ。だがそれきり、こちらに近づいてくるような足音はしない。僕たちは、石が投げこまれてきたらしい方角の闇を見つめた。すると、木々の間で、ライターの火らしき光が二、三度またたいてまた消える。  僕たちは顔を見合わせ、それからうなずきあってそろそろと光の見えた方角へと入っていった。徳田は足場のわるい場所を行くとき用の松葉杖《まつばづえ》をつき、僕がノートパソコンの運搬を引き受けた。  僕たちは、小川にそった、昼間見れば遊歩道なのかもしれない細い道をそろそろと進んだ。道がまっすぐでない場所にくると、そのたびに前方で鬼火のように明かりが揺れて正しい方角を示す。罠《わな》かもしれなかったが、もうだれも信用できなくなった以上、いっそ罠におちて一刻もはやく真相を知りたい気持ちだった。徳田も河合も、それは同じだったろう。  やがて僕たちは、遊歩道の途中休憩所であるらしい、四本の柱のうえに屋根をのせただけの建造物のそばまでたどり着いた。ガラスのはまってないただの穴である窓から裸電球の光がこうこうともれていて、かえって周りの暗さを強調している。僕たちはその窓の下の壁にそってそろそろと腰をおろした。なかから話し声が聞こえてくる。 「遅かったじゃない」 「ハモニカのリクエストがなかなか終わんなくて」  僕たちは闇のなかで顔を見合わせた。僕にはある程度予想がついたことだが、江上さんと等々力貴政、徳田と河合には登山家の遠藤として知られている男の声だった。 「どうしてたのよ? 何か月も連絡もなしに」 「連絡はしたでしょう。このあいだのメール」 「ああ、やっぱりあんただったの。真介くんたちが東京へ行くって知らせてくれたの」 「魚尻駅から乗るとふんだのは、当たってましたか?」 「ええ。あの子たちの性格の組み合わせなら、たぶんそうするだろうと予測できたから」  闇のなかで、徳田と河合が僕を見る気配がし、僕はしょうことなしにうなずいた。僕が等々力貴政に、東京行きをばらしたことが、これでばれてしまったわけだ。 「それでどうなの、抱いてくれる気になったの?」  僕たちは草のうえで一センチばかり跳びあがった。さいわい、同時にふくろうだかなんだかが枝のあいだを渡る音がしてごまかせた。貴政氏は、うんざりしたような声をだした。 「あのねえ、姉さん」 「だれだってあたしを抱きたいと思うわ」 「どうぞ好きな相手をお選びください」 「そういうことじゃなくて——」 「なにを考えてるんだ、姉さん。あの子たちと行動をともにしてるのは、犠牲者を増やしたくないからでしょう? あの親たちと同じことをしようだなんて、恥ずかしくないの?」 「同じじゃないわ」 「同じことです」 「だから男の人って感傷的だっていうのよ。子供じゃあない、ほんのこれっぱかしの、胚芽《はいが》の話をしてるのよ。受精が確認できたらすぐ掻爬《そうは》するって言ってんのよ。あとは細胞が死なないようにシャーレに入れて、そしてちょうどいい誕生日が来るのを待って薬にする。おばあちゃんも、おばさんもアルツハイマーになった、たぶんお母さんも。最近……。あたしとあんたの誕生日の組み合わせで薬が作れる確率、七五%以上あるってわかってるくせに」 「わかってるから会いたくなかったんだ」 「お母さんを助けたくないの?」 「老病死苦は世のならいです」 「病気の人の前で言える、それ?」 「僕だって、中絶はよくないとか近親|相姦《そうかん》はよくないとか、そこまでがちがちのモラリストじゃない。中学のころまでは、まじに姉さんに童貞を捧《ささ》げたいって思ってたよ。でも駄目だ、打算がみえてしまうと。肝心のものが言うこときかない」 「そうかしら、じゃあ、試してみる?」  ぷちぷちとボタンを外す音がしはじめたので僕たちはどうしていいかわからずに闇の中で無意味に手足をばたばたさせた。だが貴政氏はまるで無愛想な声で言ったものだ。 「よしなさい。姉さんが14禁映画の規制は下らないと思ってるのは知ってますが、いくらなんでも小学生にライブ中継はまずいでしょう」 「なんですって?」  つかつかと木の床を歩く音がし、窓から江上さんのふわっとした巻毛をまとった頭が突き出された。窓枠ぎりぎりまで押しあげてた僕たちの三つの頭の上で、いい匂いのする髪が揺れ、僕たちはしょうことなしに愛想笑いをし、徳田はなにを思ったかVサインをだした。江上さんがため息をつき、貴政氏のいるらしい方向を振り返った。 「あんたが連れてきたの?」 「まあ、そうとも言いますね」  江上さんはしかたなさそうに首を振ると、ほったて小屋から出てきて僕たちをつくづくと見回し、僕の抱えているノートパソコンに目をとめた。 「あ、あの、これはその、あの」  僕が口ごもると、江上さんはまたあの天使の笑顔を見せて言った。 「あのサイトを見つけたのね? よくやったわ。いまの聞いてたんでしょ? どう思ったか知らないけど……わたしは、知恵も理性もあるきみたちをあんな目にあわせるのは阻止しなくちゃいけないと、それは本気で思ってる。でも中絶や掻爬は殺人とは違うの。河合さん、あなた女ならわかるでしょ?」  どう答えるかと思ったが、河合はこっくりとうなずいた。 「それを決められるのは、その女の人当人だけだと思います」  江上さんはうなずき、ほったて小屋のほうを振り返った。等々力貴政が出て来て、木々のあいだへと歩き出そうとした。 「貴政」  江上さんが呼びかけると、等々力貴政は早口で言った。 「キャンプに戻ります。焚火《たきび》を子供たちだけに任せておくのは心配だから」  そして江上さんのほうを振り返って言った。 「その子たちはあのサイトを見つけた。話してやってください、僕たちが知ったこと、それから姉さんが隠してることを」  そして等々力貴政は、暗い小道を遠ざかっていった。     23  斬首《ざんしゆ》人島本吉右衛門の妻、お苑《その》の手記(清明寺尼聞き書き)  わたくしが最初に夫、島本吉右衛門の異変に気がついたのは、息子重一郎の養子さきである等々力家が、重一郎の節句祝いがてらの菖蒲《あやめ》見物に招待してくださった日から、数日してのことでございました。いえ、わたくしの子供は重一郎ひとりでございます、当時は、という意味でございますが。べつに跡の継げない次男三男だからという理由で、等々力満政さまお縫《ぬい》さまのご夫婦にさしあげたわけではございません。  ご存じの通り、罪人の斬首をもって生業《なりわい》となす島本家は、もう五代をかぞえるれっきとした世襲の家柄ながら、また松広藩お抱えの藩士ではございません。身分こそ武士ですが、誰かに打ち首のお裁きがくだされるたびに臨時に召し抱えられる、はなはだ心もとない稼業でございます。また、世の中というものは悪人はどんどん死罪にするがよいなどと言いたてるわりには、その死罪をほんとうにおこなう者をもいまわしく思うもののようで、斬首人の一族にわるい因果のふりかからないはずはない、と、実は夫吉右衛門もわたくしもあまり信じてはおらぬことを噂するものでございます。これはうえはご公儀のお役をなす方から下は田舎どろぼうの首|刎《は》ねを担当する乞食ざむらいまで共通することだと思うのですが、斬首人は実子を跡とりにはいたしません。わたくしはそれこそ十二人も子供のいる、藩の事務に使う筆や墨の管理が役職というどうにも出世のめのない家の末むすめとして生まれ、兄たちも姉たちもおよそ笑うということをしないあの陰気な家から出られるのでしたら、いずれはわが子と引き離されるさだめの家に嫁ぐのにも、それはわたくしにとってはながい冬がやっと明けたような心もちがしたものでございます。  夫となった吉右衛門とは、わたくしが小さいころからの知り合いでございました。というのも、親にも兄姉たちにもあまりかまってもらえず、またじしんあまり人になつく性格でもなかったわたくしは、よくお墓やお寺を遊び場にしていたからでございます。庵主さまにはたいへん申し訳のないことですが、わたくしはたまに墓地を通ったりするかたがたが、おのれの縁者のものでもない墓に手を合わせたり、ふっとふところから饅頭などを出してお供えしたりする気持ちがあまりよくわかりませんでした。大人となった今でもお墓は石のかたまり、卒塔婆はへんなかたちの板としかみえません。それはともかく、わたくしはよく寛徳寺の裏手でのちに夫となる吉右衛門と相まみえました。当時吉右衛門はまだ前髪をおろしたばかりの若もので、どうしてなかなか見ばえがしたものでございます。  なぜそうしばしば、吉右衛門が寛徳寺にあらわれたのか、庵主さまにはもうおわかりでございますね。  定期的にくだされる禄《ろく》をはむ身でなく、また必要とされながら時としてさげすまれる立場にあるものの役得として、死罪にたずさわるものは、処刑された罪人のむくろをいかようにすることも許されております。いいえべつに、そのようなご定法があるというわけではございません。いわば黙認、不文律というものでございます。ご存じの通り、罪人の肝を干したものはたいへんな薬効があると世間では信じられております。また、神経をおかすある種の、たいへん重いやまいには、人の肉を煮た汁が効くという言い伝えもございます。吉右衛門も、その義父であるところの先代吉右衛門も、もちろんその先代も、ずっとずっと島本家はその余禄にあずかってまいりました。他藩のことは存じませんが、斬首人というのはどこでもそうでございましょう。  わたくしでございますか? もちろん、嫁ぐまえからそのことは知っておりました。知っているどころか、寛徳寺の裏庭で、ご住職とのちに夫となる吉右衛門が罪人のむくろを腑分《ふわ》けしているところを、物陰から見ていたことさえございます。近所の誰かれがそうした薬を買った、あるいは近ごろ藩内で刑死者がでないので他国まで人をやってそうした薬をもとめた、などの噂が年に一、二回は聞こえてきたものでございます。とくに父の朋輩《ほうばい》であらせられた、文庫番の福井さまの姪ごさまなどはお気の毒に、もう何年もその「薬」を服用し続けているとのことでございました。福井さまのご当主の先代はご当主の兄うえで、若いころ江戸詰めをしたさいに、なにやら遊郭でご病気をもらったとのことで、ご息女もそのため癲狂《てんきよう》の気になやまされているとのお噂でした。  でもおかしいのは、肝心の吉右衛門本人は、そうした「薬」の効能をまるで信じてはいなかったということです。 「神経をおかし軟骨をとかす難病が、人肉を煮た汁で治るなどとばかげた話だ」  とつねづね申しておりました。たしかに、福井さまのご息女が何年も服用していて治っていないのですから、夫の申す通りだとわたくしも思いました。吉右衛門本人は、それで信じて気がやすまったり、その結果病気がよくなったように感じる人間がいるならば構うまいと、それだけの気持ちで罪人の臓《わた》を抜き、肉を切りとり、それをわが家で陰干しにしたり鍋《なべ》で煮たりしておりました。もちろん、わたくしもせっせと手伝ったものでございます。わたくしたち夫婦がとくに強欲な人間だとはけして思いません。貧乏武士の内職など、どこにでもある話でございます。  さきほど、夫がおかしくなったのは、等々力さまのご招待にあずかって重一郎の節句祝いに行ったときだと申し上げましたが、よく考えますと夫は、それよりひと月ほど前に処刑のおこなわれた、赤木村の衆のむくろを貰《もら》いさげてきたとき、いえ正確に申しますれば薬種問屋美寿々屋の文六がそれから作った薬を受けとりに来て話しこんでいった日に、すでに気がかりを抱えこんでいたのでございます。本人もそれきり忘れていたようですので、これもあとになって思いあたることでございますが。その日|夕餉《ゆうげ》がすんで、茶をすすっていた夫はぽつりとこう申したのでございます。 「福井家のご息女どのの縁組がまとまったそうだ」  茶葉を入れかえていたわたくしは思わず手を止めました。夫がつづけて申しました。 「美寿々屋文六がそう申しておった。まあ、相手はそうたいした家柄ではないそうだが」 「それにしても」  わたくしは耳を疑いながら申しました。 「福井さまのご息女と申されますと、いまのご当主の姪ごさま」 「うむ、お露どのだ。文六のやつ、これはわれらの渡す薬の効能と、たいそうほめちぎって帰りおったが」  夫はそう言ったきり黙って茶をすすっておりましたが、時おり小さく首をかしげておりました。わたくしと同じ疑問を抱いているのがわかりました。ぜんたい、生まれながらの癲狂が、わたくしどものあの「薬」で、はたして快癒するものなのでしょうか。  等々力家のお縫さま、重一郎のご養母どのがわたくしたちを花見に招待してくださったのは、明川寺という藩内でも指おりの名刹《めいさつ》でございます。それは広い庭園がございまして、まあ夫となまぐさ坊主が罪人の腑分けをしていたあの寛徳寺とはえらい違いでございました。菖蒲がそれは見ごろでご馳走《ちそう》もおいしく、あれでお客があれほど多くなければわたくしどもももっとくつろげたのでしょうが、重一郎のご養父となられた等々力満政さまはこう言ってはなんですが面白みのない、おまけに酒ぐせのあまりよくないお方のくせに、お客が少ないと何日も拗《す》ねるという子供のような方で、その日も知るかぎりの人々をまねいているようでした。もっとも、わたくしは腹をいためた子供とはいえ乳離れするとすぐに引き取られていった子供ですので、あまり重一郎とゆっくり対面する時間がもてても、それはそれで困ったことでございましょう。久しぶりに見る重一郎はまだ十一だというのにもう夫吉右衛門の肩のあたりまで背たけがあり、大事に育てられているにしては色があさ黒く、大人の会話を聞きながらときどきあまりその内容がくだらないと横を向いてしょうがなさそうに笑ってみたりして、なかなか利発そうにみえました。そう申しあげましたところご養母のお縫さまはたいそうお喜びになり、重一郎は書画に非常に興味があり、とくに絵に関しては自分でも能《よ》くするし、なかなかの目利きだともおっしゃられました。まるでご自分がお産みになったかのように重一郎のことが自慢であるようでした。お縫さまは満政さまとは正反対の、明るくほがらかな性格で、あのかたの前ではわたくしの心もほっとほどけていくように感じたものでございます。  その満政さまは、お酒がはいるといつものようにむっつりが多弁へと変わり、同席しているだれそれの娘は嫁《い》き遅れだのだれそれは借金があるのと、みなが困るような話を大声ではじめるのでございます。わたくしも夫も、そうなってくるとなんとか退散する言い訳はないかと、困ってあたりを見回したりいたします。するとお縫さまが満政さまの袖《そで》を引いて、 「まああなた、久蔵のところのおむらちゃんですよ」  そうおっしゃったので、わたくしもお縫さまの見ている方角を見ました。満政さまはと言えば、ろれつ[#「ろれつ」に傍点]のまわらなくなった口でこう答えております。 「久蔵……おむら?」 「出入りの大工さんですよ。よくおむらちゃんがお弁当を持ってきたじゃありませんか」  おむらというその娘さんは、豪華な振袖をまとったどこぞのお嬢さまのうしろを、風呂敷包みを持ってとことこと歩いてゆきます。お嬢さまのかたわらには、おこそ頭巾《ずきん》をしっかりとかぶり眉《まゆ》をぬいた恐ろしげな四十がらみの姥《うば》が付き添っておりました。 「なかなか水気《みずけ》があるな、あの振袖」  酔っ払った満政さまが扇子の要《かなめ》でお嬢さまのほうを指し、いやらしい動きでくるくると回してみせました。お縫さまがしっと言ってたしなめ、 「福井さまのところのお露さまですよ。おむらちゃん、福井さまにご奉公にあがったと聞いておりますもの」 「福井の娘? じゃ、脳病の噂のある先代の娘ってのはあれか?」  満政さまが大声でおっしゃるので、お縫さまがあわてて袖を引っ張りました。 「失礼なことをおっしゃるんじゃありません! あのお嬢さまのどこが脳病だって言うんですか」  確かに、今しがた菖蒲池の向こうを通って如来堂の方へと姿を消したあのお嬢さまはとても落ちついた風情があり、目には輝きが、口もとには意志がみえ、とても精神に問題のあるかたとは思えませんでした。  ふと気づくと、少しはなれた場所で手酌で飲んでいたはずの夫吉右衛門の姿が見あたりません。しばらくして戻ってきた夫は、小用だと申しましたがお手水《ちようず》とは反対の方角からやって来たように思えました。それから数日してまた薬種問屋の文六がやって来たとき、夫がなんのためにあのとき中座したのか、わたくしは知ったのでございます。わたくしは文六と夫に茶を出したあと、ねずみとりを仕掛けるために階段下の納戸に入っていたのですが、そこからだと縁側でする会話がよく聞こえるのでございます。 「そなたの話した福井家のお露どのを、先日目撃したぞ」 「さようですか。いかがでしたか」 「確かに脳病にはとても見えん。如来堂の前で若いさむらいとふた言み言かわしておったが、受け答えもはきはきしているようだった」 「それは大沢藤太郎さまでしょう。お露さまが近ぢかお輿入《こしい》れなさるという。藤太郎さまのほうはもうすっかり夢中で、あれじゃ武士の婚礼というより下じもの野合《ひつつきあい》みたいなもんだという者までおりますよ。家柄は大したことないし、親代々の会計係でそれ以上いく目もない。言っちゃなんだが福井さまん家《ち》のほうが格は上のはずです」 「脳病の噂が膾炙《かいしや》しておるので、福井家としてはお露どのを下級武士にめあわせたというところか。しかしお露どのはそんな、父ゆずりの病気持ちにはとても見えなんだぞ」 「だから申しあげたでしょうが。島本さまが分けてくださった秘薬が効いたのでございますよ」 「まさか」  そう言って夫は笑いました。 「いつも高い金を払ってくれるのにこう言ってはなんだが、どうしてあれは深刻な病気だぞ。人の肉を煮た汁で快癒するとはとても信じられんが」 「でも、事実なんですから」  文六は、夫の理のとおった意見を平気で笑いとばしました。 「わたしらは学問はないが、経験がございます。島本さまがどうお考えになろうと、お露さまがおつむりを病んで最近まで幽閉どうぜんの暮らしをなさっていたのは事実、島本さまからいただいた薬を飲んで、すっかり健康になったことも事実なんですから」 「しかし——いつもいつもそのように、薬効あらたかというわけではなかろう」 「確かに、ここ半年ばかりのことでしたけれどね、あの薬がお露さまにめざましく効いたのは」  文六は、なんの考えもなしにでしょうが、そう申すとお茶を飲みほし、数枚の金を置く音をさせて辞去いたしました。  その日の夕方、夕餉のしたくができたので夫を探していましたところ、夫は文六と話を交わした縁側にまだじっと座りこんでおり、暗くなった庭を見つめながら、腕を組んでなにやら考えこんでいるのでした。  他藩のことにはさして詳しくないわたくしではございますが、それでも松広藩はずいぶんと一揆《いつき》の多い土地柄だと思います。ご政道にもんくをつけるわけではございませんが、なんでも松広女は江戸の遊郭ではなかなかの顔であるとか。つまりそれだけこの界隈《かいわい》から売られていく娘が多いということでございましょう。夏は暑く、冬は寒く、山がちで田んぼにできる土地がすくなく、貧しいくせに妙に手習をさせるお寺などが多く百姓も読み書きをする。それが理由かどうかはわかりかねますが、とにかく、吉右衛門のところへまいりましてから十四年というもの、夫の斬首用の銘刀|是宗《これむね》は、半年と鞘《さや》の中に収まってはいなかったものでございます。それがあの年は、あいにくなどと申してはいけないかもしれませんが、春に大きな一揆とそれに続く多くの処刑がおこなわれたのみで、平穏な日々が続いておりました。処刑人のいない斬首人がどうやって時間をつぶすかと申しますとまず畑仕事、腕をなまらせないための巻藁斬《まきわらぎ》りや木刀の素振り、それから趣味の書画——吉右衛門はあまり上手とは申せませんでしたが雀やかぼちゃの絵をよく描きました。書のほうは、これは達筆といってもいいくらいの手でございました。重一郎は夫のほうに似たのでございましょう——そうしたことが主《おも》ですが、それにしても、ある日紙屋と筆屋がやって来て、ひと抱えもある紙の束と何本もの墨を置いていった時には、わたくしはたいそう驚いたものでございます。夫の注文になるものだそうですが、最初わたくしは、なにか近所の寺かあるいは古い家柄のかたから、文書《もんじよ》の写しかなにかを頼まれたのかと思いました。以前にもそんな内職をしたことがあったからでございます。それにしてもあの紙と墨の量は尋常ではございませんでした。わたくしが何か尋ねても夫は「まあそんなとこだ」だの、「いささか根をつめる仕事だ、さきに寝なさい」などと言うばかりで、はっきりしたことを教えてくれません。さきに寝ても、夜中お手水などに立つと夫の部屋にはまだ灯《あか》りがついていることが多く、書きものをしている気配はたしかにするのですが、同時になぜか算盤《そろばん》を弾《はじ》く音、頭をかかえてなにかうなっている声までが聞こえ、わたくしは気味がわるくて仕方がありませんでした。朝は朝で、習慣にしている刀の手入れもそこそこに、編笠《あみがさ》をかぶってどこかに出かけてしまいます。夫は、そうしてためこんだ書き付けを、小さな箪笥《たんす》におさめてそこにしっかり鍵《かぎ》をかけて出かけました。わたくしは、夫といえども他人の書いたものをのぞき見するような性質ではございませんが、そんなことをされればかえって好奇心がつのるというものでございます。  とはいえ、夫がそんな調子では家計にもひびいてまいりますので、わたくしは庭の小さな畑をたがやし、鶏をそだてて卵を売り、近所の娘さんたちに裁縫を教えなどして忙しく暮らしておりました。ある時、たっぷりの雨とよい天気にめぐまれてえんどう豆がたくさん採れましたので縁側で筋とりをしておりますと、薬種問屋の文六がおじぎをしながら畑のなかをやってまいりました。顔も手も、真っ黒に日焼けしております。 「まあ、美寿々屋さん。島本は昨日から外出しておりますが。あの、近ごろは例の薬も手に入らないようですし」  わたくしが笊《ざる》を膝《ひざ》からおろそうとすると文六は、 「いやそりゃ、わかっておりますよ奥さん。おかまいなく、どうぞそのまま」  と申しました。気のせいでしょうか、顔になんとなく気づかわしげな色が浮かんでおりました。わたくしは申しました。 「このところ一揆さわぎも起こりませんし、泥棒も出ませんからね」  すると文六は首を横に振ったのでございます。 「わかってると申しましたのは、島本さまが外出なさってるということですよ。道すがら、お見かけしましたもので」 「まあそうでしたか。美寿々屋さん、どこからかお帰りですね。よく日焼けなさってる」 「その通りで。夷蘇《いそ》街道をずっと下って、遠州のほうまで仕入れに行っておりました。あのへんでとれる海草は、ご婦人の肌にとてもよろしいから。あとでお分けいたしますよ。富士のお山もよかったが、それでも鳴神《なるかみ》のお山が見えたときにはほっといたしました」 「それで、街道すじで島本に会いましたの」  そうわたくしが尋ねますと、文六は誰もいないのに辺りを見回すような動作をして、 「実は、権現谷《ごんげんだに》のある山から下ってくるところをお見かけしたんです」 「権現谷?」  権現谷といえば、霊山七馬の足もとをぬって続く、上州方面へいそぎ旅をする者などがたまに利用するだけの狭隘《きようあい》な渓谷でございます。とはいえ夫がその辺りで目撃されてもべつだん不思議はございません。幽玄をもって知られる権現谷は、古来よりよく絵の題材になってきたからでございます。しかし文六はさらに、わたくしがそれは魂切《たまぎ》れるようなことを申したものでございます。 「それも、不帰岩《かえらずいわ》で封じてあるほうの道でして」  わたくしはあっといって口をおさえ、膝のうえにあったえんどう豆の笊を引っくり返してしまいました。  夫が帰ってきたのは、その日も日暮れてからずいぶんと経ったころでございます。わたくしがもうやすんでいると思える時間をねらったのでしょうか、じっと耳をすましていると、井戸のそばで手足を洗っている音がかすかに聞こえてまいりました。  夫は、縁側に面した障子をそうっと開け、真っ暗ななかでわたくしがじっと座っているのを見て、たいそう驚いたようでございました。夫が、 「お苑」  と呼びかけてきても、わたくしはわざと黙っておりました。夫が、昼にそばを食っただけなので腹がへった、いや冷や飯で茶漬にするなどと言って厨《くりや》のほうへ行きかけたのでわざと大きなため息をついてやりました。  厨でごそごそとお櫃《ひつ》のなかをあさっていた夫のかたわらに立ち、いったい権現谷の、それも不帰岩のある方の道で、なにをしていたかと問いつめました。そして夫の目の前に、あの小さな箪笥から取り出した紙の束を放りだしてやりました。釘《くぎ》ぬきを使ったところ簡単に裏の板が外せたのです。夫はあわてふためいて茶碗《ちやわん》を落として割り、怒った顔を作って武士の妻ともあろうものが泥棒のようなまねをするなと申しましたが、その声は震えておりました。  夫はそんなに慌てる必要はなかったのです。なぜならわたくしには、夫が熱心に書き付けていたものがなんなのか、読んだところでまったくわからなかったのですから。人の名前らしきものの下に月日をあらわす数字が書かれ、その下には「ゲンノシャウコ」だの「テンヂクボタン」だの、草や花の名前が連ねてあります。これでなにを理解せよというのでしょうか。  けれど夫は、なにもかもわかってしまったのかというようにうなだれて、蝋燭《ろうそく》をともしてわたくしを自分の部屋までいざなうと、残りの書き付けをまえにわたくしに説明を始めたのでございます。肩の荷をおろしたような顔でございました。くれぐれも、お書きわすれなきようお願いいたしますが、夫は決して決して悪人ではございません。むしろ気のちいさい、妻のわたくしに隠しごとなどしようものならその心労でおのれがまいってしまうような男でございます。そして夫が期待した通り、その夜からわたくしは夫の協力者となりました。  その年の暮れもおしつまったある夜半のことでございました。息子重一郎の養子さきである等々力満政さまのお屋敷より使いのものがまいり、重一郎が寛徳寺近くの松林に友人と写生に出かけたまま帰ってこないと告げられたのは。わたくしは、いいえ重一郎はここにはいないと申しました。ちょうど外出していた夫吉右衛門も、帰ってきて使いのかたからそれを聞くなり、提灯《ちようちん》を持って辺りを探しに出てゆきました。  重一郎はなにかと大人にさからいたい年ごろにさしかかっておりましたから、養母お縫さまのつけてくださったおはま[#「はま」に傍点]という侍女を、寛徳寺の住職をつかって追いかえしてしまったのでございます。住職は「拙僧がよく見ていてさしあげる」などともうしたそうですが、そのよく見ていてくれるはずの住職は般若湯《はんにやとう》をくらって等々力家の人々が騒ぎだすまで木魚を枕に昼寝をしておりました。重一郎と一緒に写生に出かけた友人はともうしますと、重一郎のほうが自分より絵がうまいことにつむじを曲げ、午《ひる》すぎには帰ってしまったのだそうです。そのあと一度だけ、通りかかったものが熱心に筆を動かしている重一郎を見かけたそうですが、その後の消息は、どこからも聞こえてはまいりませんでした。  ご養母お縫さまの悲嘆ぶりは見るもあわれでございました。実の両親であるわたくしどもにもうしわけない、喉《のど》をついて自害するなどともうされるのですもの。逆にわたくしたちが必死におなぐさめせねばなりませんでした。意外だったのは酒乱で口下手な満政さまが、断酒をし出仕を休んでまで重一郎の捜索の先頭に立ってくれたことでございます。実は芯のつよい人物だったとわかり、かなり面目をほどこしたようでございます。あの、重一郎の失踪《しつそう》した日、寛徳寺に行くまでは付き添っていた侍女のおはま[#「はま」に傍点]はと言いますと、ご夫婦に叱責《しつせき》されて大いに反省するどころか、ぷっとふくれてさっさと暇をとってしまったのだそうです。  諏田《すだ》の清太《せいた》と名乗る、あまり出も素性もよろしくなさそうな若い男、いえはっきり申しますればやくざ者に声をかけられましたのは、年もあけてしばらくしてから、わたくしが磯むらという呉服屋から帰る途中のことでございました。わたくしもそうした一連の騒ぎに心弱り、また重一郎の運命を思って涙したりもしておりましたので、気をまぎらすものが必要だったのでございます。そうしたときに、わたくしがまずおのれをかたむけたいものは、着道楽《きどうらく》でございました。それで磯むらで布地と、あれやこれや身につけるものを選んでの帰りだったのでございます。  諏田の清太は、まずひととおり気づかいの言葉をならべてみせてから、自分は諸田《もろた》の万作《まんさく》から盃《さかずき》をもらっているものだと申しました。  諸田の万作!  ええそうなのです、この、地元ではたいそう評判のいい侠客《きようかく》、この男がわたくし共の躓《つまず》きの石でございました。なんでも出は武士の家柄だそうで、七男坊の冷やめし食いだったと聞けば、どんな育ちかただったか五男七女の末っ子であるわたくしにはよーくわかります。お定まりの悪い仲間に博打《ばくち》、あげくは借金が返せなくなって出奔、いつの間にやら無宿無頼の連中と命が百もあるかのような深いまじわりをなし、気がついてみたら大向こうがうなりそうなやくざ者となりはてる。よくあることでございます。  親分などと呼ばれるやくざ者にはよくあることですが、諸田の万作は十手をあずかっておりました。俗に言う、二足の草鞋《わらじ》でございますわね? 街道すじのへんぴな村では何か事があってもなかなかお役人が出張っていくこともならず、顔が広く祭りなどのとり纏《まと》め役でもあるやくざ者が、その代わりをするというのも無理からぬこととはいえ、この万作はひじょうに変わったやくざ者でもありました。なんでも庄屋さまのうちでご新造が亡くなられたのを、毎日すこしずつ毒を盛られていたせいだと突き止め、下手人が夫と妾であることまであばいたことがあるのだそうで、なにか怪しいことがあれば決してないがしろにせず、お役人でさえしないような聞き込みや調査を能《よ》くするのだそうでございます。おかげで盃をもらっている子分連中もすっかり町方きどり、諏田の清太の質問ときたら無礼きわまりなく、果てはわたくしがしていたかんざし[#「かんざし」に傍点]にまで手を伸ばしたのでございますよ。ですから、それから数日して清太のむくろが見つかったと聞いたときには思わず快哉《かいさい》をさけんだものでございます。そうですよ、清太の死体が、です。なんでも、とある大店《おおだな》の裏の雪だまりに、なます切りにされて埋もれていたのだそうで、雪かきに出た番頭さんが気を失ってあやうく凍え死ぬところだったそうでございます、ほほほほほ。  夫としてはこれといった欠点のない吉右衛門ではございましたが、人間である以上|珠《たま》に瑕《きず》というのはあるものでございまして、吉右衛門の場合はさしずめ博打好きがそれにあたるでしょうか。若いころからかなり熱心に賭場《とば》がよいをしておりましたようで、人肉薬作りの内職も、なればこそあれだけ勤勉にやっていたのだと申せましょう。ぜんたい賭《か》けごとなどというものは、かならず胴元が儲《もう》かるようにできているものでございます。わたくしには隠しているつもりでしたが吉右衛門にはいつも借金があり、そうしたことはあちらこちらへ嫁ぎなかには農家のおかみさんになった者までいる姉たちのだれかれから、しぜんと聞こえてくるものでございました。それでもそのころには、そうした噂も流れてこなくなってはおりました。  ですからわたくしは、諸田の万作と隣あわせの縄張りに一家をかまえる木那《きな》の寛蔵《かんぞう》なる老人が吉右衛門に色よい申し出をしたときに、うまい話には裏があるから用心したほうがいいと忠告したのです。せっかく賭けごととも縁が切れそうなのに、なぜ今さらやくざと関わりを持とうとするのだと。  夫の答えはこうでした。  賭けごとというのは決して下品な遊びでも無頼な道楽でもない。ほんらいは、金もちの武家やお公家《くげ》衆などが社交の一手段としてなごやかに楽しむものなのだ。切っただの張っただの鉄火だの縄張りだのという殺伐とした雰囲気はほんらい自分のこのむところではない。木那の寛蔵が提供してくれる縄張りと収入の一部は、そのような明るくたのしい賭けごとの場を自分に持たせてくれるかもしれない。  聞いていて馬鹿ばかしくなりましたが、夫の話はまだ終わりません。それだけではない、自分はいちど本格的に剣の修行がしてみたかったのだと言うにおよんで、わたくしはあいた口がふさがりませんでした。こう申し上げてはなんですが、夫は実際的な利をもたらしもしないもののために、痛みや苦しみ、暑さや寒さを耐えしのぶような性格ではございません。そう指摘いたしますとあっさり認め、 「もちろん、風雪に耐えひもじさを忍ぶような旅をしたいと言っているのではない。金さえあれば、みずから剣豪をまねいて指導をこうこともできる」 「死なない程度に、でございましょう?」 「そうだもちろん、死なない程度に、だ」  悪びれもせずに夫は申しました。そしていそいそと、木那の寛蔵のところへと出かけてまいりました。寛蔵には、男を磨かせるために流れ旅に放りだした長男がいて、それが病をえて帰ってきたのの治療をしてやるのだと言って。  それが、わたくしが夫吉右衛門を見た最後でございました。  夫が、木那の寛蔵のところへゆくと言って消息を絶ったことをわたくしはだれにも知らせず、捜索も頼みはいたしませんでした。なにか[#「なにか」に傍点]、とても奇妙なことが起こっている[#「とても奇妙なことが起こっている」に傍点]。そう感じていたからでございます。けれど、いつまでも隠しおおすことができるわけもございません。またなにかあって斬首《ざんしゆ》のご用ができ、藩のかたが吉右衛門を呼びにくれば、その不在はいっぺんでわかってしまうことなのですから。わたくしは気に入った着物やかんざし、当座の金などを荷物にまとめ、怪しまれるといけないのでいつも通りに近所の娘さんに裁縫を教えにゆき、帰宅してからいよいよ出立のためのお弁当を作りはじめました。  竈《かまど》の火をおとし、ご飯をむらしているあいだ、わたくしは持っていったものか考えあぐねている一枚の紙を取り出し、うすぐらい厨でぼんやりとそれを眺めておりました。見るうちに涙がにじみ始め、格子から差し込む月あかりのなかで、それがわたくしに語りかけてくれるような気がいたしました。強く生きよと、おのれの分まで生を享受せよと。  わたくしがその紙を竈にくべようとしたとき、ふいにお勝手口があいてひとりの男が顔を出しました。 「奥様」  わたくしはひっと言って跳びあがり、思わず紙を取り落としました。とっさにそばにあった麺棒《めんぼう》を掴《つか》んで構えました。門前の小僧で、わたくしは小刀ていどの得物があればけっこう戦うことができます。けれどその男はべつにわたくしに襲いかかってくるふうでなく、ゆっくりとしゃがみこむとわたくしが落とした紙を拾いあげ、月あかりのなかでためつすがめつしてから、わたくしのほうを向いて静かにこう申しました。 「重一郎坊ちゃんの絵ですね」  そして男は厨の中に入ってくると、お辞儀をして言ったのです。 「ご主人には、うちの清太がずいぶんとお世話になったようで。お初にお目にかかりやす、諸田生まれの半端者で、万作と申しやす」  それがあの、ただのやくざ者の二足の草鞋のくせに、いっちょう前に捜査をおこなうのだと評判の、諸田の万作でございました。 「どこへ落ちのびる気だか存じやせんが、いくら待っても吉右衛門さまはやっては来ないでしょうよ」  そう万作は切り出しました。口調に残酷そうなところはなく、むしろわたくしをいたわるような調子でございました。けれどわたくしにはこの男が、ひどく容赦ない気持ちを抱いているのだということも、なぜかわかったのでございます。わたくしはなるだけ平静になろうとつとめ、構えた麺棒をおろすと万作に尋ねました。 「夫はどこにいます」 「権現谷に」  そう言って万作は、七馬のお山のある方角へと顎《あご》をしゃくってみせました。そして続けて申しました。 「とは言っても、もうこのお月さまを眺めることはかなわねえ。俺も決して、あの方を地面より上には出さねえつもりだ」  それを聞いて、思わずわたくしはくたくたと頽《くずお》れてしまいました。助け起こそうと万作が近寄る気配がしましたが、わたくしは手をあげてそれを制し、言いました。 「わかりました。どうぞ奥へ」  もしわたくしが(そんなつもりはまったくなかったのですが)万作を家の奥へ連れこんで殺《あや》めるなりなんなりする気だったとしてもそれは無理だったでしょう。勝手口のほうを振り返った万作がうなずくと、その後ろから額のせまい、忠犬のような顔をした子分らしき若い男が一緒に入ってきたからです。 「こいつは蓑助《みのすけ》ってんで」  万作はそう言いましたが、わたくしはなにもこたえずさっさと夫のつかっていた部屋へと歩きだしました。ふたりは厨から上がりこみ、黙ってわたくしのあとについてまいります。  蓑助という男が行灯《あんどん》をともしてくれました。わたくしと向かいあって座った万作は静かに喋《しやべ》りだしました。 「なにがあったかお話ししやしょう。もし途中で、俺のほうになにか間違ってることがあったらそのつど直してくだせえ。もう察しがついてるでしょうが、木那の寛蔵がご主人の吉右衛門さまを呼びだしたのは、俺に頼まれてしかけた罠《わな》だ。俺は、うちの衆に最近おたくのご夫婦の行状がどうであるか探らせてたんでさ」 「わたくしどものことを……?」 「そうです。ご存じの通り、俺はこれでも十手をあずかる身だ。おたくの坊ちゃん……いや等々力さまのところの坊ちゃんが失踪《しつそう》なさった件についちゃ、いくら俺ごときが出張るすじあいのことじゃないとはいえそれでもご近所だ、気にはなる。それに、天狗《てんぐ》のしわざにしろ人のしわざにしろ、かどわかしがうろついてるとなっちゃ剣呑《けんのん》な話だ、そうでしょう?」 「わたくしどものことを……?」  わたくしは、呆《ほう》けたように繰り返しました。まさか重一郎の実の両親である夫とわたくしに、疑いの目を向けるものなどあり得ないと、意識にのぼらせることもないくらい信じこんでいたからです。 「そうです。調べてみたら重一郎さまがいなくなってしばらくしてから、吉右衛門さまは木那の寛蔵のところにたまりにたまっていた賭けのつけ[#「つけ」に傍点]をきれいにした。磯むらの主人は、奥様が高価な布地をどっさり買い込んで仕立てを注文していったと言った。純銀に珊瑚《さんご》のかんざしを即金で買っていったとも。なんで急にそう羽振りがよくなったのか。それに、それはいなくなった子供の行方を心配する親のなさりようとしちゃ、少々おかしいような気も俺はした」 「……しかったからです……」  わたくしはやっとのことで声をしぼり出しました。万作はけげんそうな顔で、 「ああ?」  と言い、わたくしは今度ははっきりと申し上げました。 「悲しかったから、胸をかきむしられる心地だったからそうしたのです。どうしろと言うのですか? 借金を返したのが悪いことですか? 借りたものを返すのはあたりまえでしょう。また子供をなくしたからといって、母親というのはただ嘆き悲しんで家にこもっていればいいのですか? 母親だとておのれの趣味も楽しみもあります。それに、死んだものはかえらないではありませんか」 「死んだんじゃない、殺されたんだ、それも実の両親の手で」  万作はふとい声音で申しましたが、わたくしはひるみはいたしませんでした。 「自分たちのためだけにそうしたと思ってるのですか? 聞いてみなさい、美寿々屋の文六に。開沢村の庄屋の娘さんに。朝科《あさしな》の差配のお姑《しゆうとめ》さんに。みんな……みんな……夫がつくりあげた『薬』のおかげで……」 「薬種問屋の文六には、もう話は聞きやした。吉右衛門さまと組んで、急にやたらめったら効くようになった薬の値段を吊り上げはしたが、くわしい製法までは知らないと言った。あれは本当でしょう。うかうかと利益を他人のものにはしないあんた方だ」 「では文六は遠州のどこでよい海草がとれるか人に教えますか。磯むらの主人が、よい蚕《かいこ》を飼っている農家を手ばなしたりしますか。ひとつの見方だけでものを言わないでください」  わたくしはかっとなって申しました。万作は、なんとも奇妙なふしぎな目でわたくしをじっと見たのち、またおだやかな口調になって話しはじめました。じょじょに渡世人らしいところが消え、武家の出だという育ちがうかがえました。 「順を追って話しましょう。美寿々屋の文六から、権現谷の不帰岩《かえらずいわ》のあたりでいぜん吉右衛門さまを見かけたと聞いたわたしは、前にちょっとかかわりを持ったことのあるのあ[#「のあ」に傍点]という娘を権現谷の集落から呼びだして話を聞きました。ご存じでしょう、権現谷の集落を。治るみこみのない、さりとてあっさり死ぬこともかなわない、何十年も苦しみだけが続くだけの病人の捨て場所がそのまま人の暮らす場所になったところだ。捨てられたものたちは自害することを期待されたが、どうして生きたいという気持ちは強いものだ。連中はそこにほったて小屋を建て、きまりを作り、山菜や兎《うさぎ》をとり、夫婦になったりして代をかさねている」 「だから何だというのです。わたくしにその者たちを救えとでも?」 「おたくのご主人は救ってやるといって持ちかけた。誤解しないでくれ、俺は苦しみを負ったものがそのぶんきれいな心を持っているだなんてまったく信じない。むしろ苦しみを負った心は弱っていて、誘惑に負けやすいものだ。お前たちの子供は死んで人の役にたつ、極楽へ行けると説かれれば、間引きをする気の咎《とが》めがいいことをした気持ちのよさに変わるんだ。ちょいとした救い主ってかんじだったそうだ、ここ半年ばかりの吉右衛門さまは。その点えらいと思わないわけじゃない、あの場所に入りびたるなんて、わたしでも恐ろしくてできないだろう」 「そうそう伝染《うつ》る病でないということを、島本は知っておりましたからね。理屈を知らないのはあなた方のほうですよ」 「そうかもしれない。集落のものたちの体にとりついた麻痺《まひ》が治ると、島本さまはわがことのように喜んでいたそうだ。それもたしかにあの方の一面だろう、それは認める。だがどうして子供なんだ。どうして親たちに、生まれ日を確かめさせ、条件にあてはまる子供たちをあんな目にあわせた。あなた方はもともと、処刑した罪人の肝やら肉やらを余禄《よろく》としてくすね、それを薬として売っていたはずだ。どうしてそれじゃ満足できなかった」 「福井さまのところのお露さまの病気が治ったからです。気のせいでなく、本当に治ったからです」  わたくしは、わかってもらえるかもという一縷《いちる》の望みを抱いてそう申しました。 「吉右衛門は申しました。なぜ今年になってから作った薬だけがそんなふうに効いたか考えたと。そして思いだしたのです。春にあった一揆《いつき》のことです。あのときは首謀者たちがたまたま子沢山《こだくさん》だったので、子供の処刑がたいへんに多かったということを。子供である理由ですって?」  わたくしは、そんなこともわからないのかとおかしな気持ちになって申しました。 「満《まん》で十《とう》を迎えた子供は、薬にしても効果が薄れることを吉右衛門がつきとめたからです。それも、ほほ、あの一揆でずいぶんと、いろんな年齢《とし》の子たちの首を勿《は》ねたおかげでございますが」  万作がいっしょになって笑わないので、わたくしは咳ばらいをして、行灯の光を見つめながらじっと座っておりました。どうしてこの男にはわからないのでしょう。しあわせになれないのなら、永らえることにいったいなんの意味があるでしょう。やがて万作は申しました。 「わたしは見たんだ。島本さまが、集落に植わってる化けもの杉の根かたから瓶《かめ》をいくつも掘りだすのを。わたしは子分たちと待ち伏せしていて、すぐにその瓶《かめ》を押さえた。島本さまは抗《あらが》おうとなさったが、あの方はこう申し上げてはなんだが、首を落とすのは上手でも向きあっての剣術はへただ、あっけなくわたしの峰打ちで引っくり返りましたよ。むしろ子分たちをおさえるのが大変だった、何せ諏田の清太は、みんなから好かれてましたからね。そうですよ、吉右衛門さまが手にかけた清太ですよ」 「わたくしはそれには……」 「関わりない。そうかもしれません。しかし話くらい聞いているはずだ。いったんは木那の寛蔵の差し金かと思って、あやうく出入りになるところだった。それで人死にがでたとしたって、あなた方の知ったことではないというわけか。や失礼、話がそれました。わたしたちは島本さまが掘りだした瓶《かめ》を開け、中身を地面にこぼしてみた」  万作のうしろに影のように座っていた蓑助という男が、うっと言って口をおさえました。万作は振り返って言いました。 「まだ気持ちが悪《わり》いか」 「へえ……目に焼きついて消えてくれねえ、あの赤《あけ》えような黒いような……どろどろした、なんていうか、こう……うちの雌犬の後産《あとざん》のような……」 「あれが重一郎坊ちゃんですか」  万作はわたくしに向き直り、冷たい声でそう尋ねました。 「それとも権現谷の衆の子供の誰それか。それともはした金で近在から買ってきた娘っ子か。島本さまに頼まれたっていう、何人かの女衒《ぜげん》からも話は聞いてるんですよ」 「『薬』をどうしたんです」  わたくしは、強い不安にかられてそう尋ねました。万作は、またも奇妙な目でわたくしを眺めてからため息をついて答えました。 「ぜんぶ瓶《かめ》ごと叩《たた》き割って、上から土をかぶせました」  わたくしが絶望のうめき声をあげるのに、万作は容赦なく申しました。 「がっかりしましたか。あの人は連中にうまいこと言って子供を殺させ、酒漬けに——」 「それであの人たちの病気も快方にむかったのですよ。ええそうですとも、夫はついにつきとめました。そうしてできたものが毒になるか薬になるか、なにに効くのかどのていど効くのかは、材料になった子供がいついっか生まれたかによって決まるのだと」 「おふざけですか?」 「なんとでもおっしゃいなさい。ほかの誰が、権現谷の衆とそこまで親しくまじわります。親身になって相談に乗ります。吉右衛門は、そんなふうにいつまでも他人の子供を利用していてはならないと、そう考えるだけの人情を持っていたのですよ。それに重一郎は、とりわけよい薬になることがわかって……」  わたくしが口ごもったのを、万作は見逃しませんでした。 「どうして重一郎坊ちゃんだけが、とりわけよい薬に?」  わたくしが黙っていると、万作はまたため息をついて申しました。 「それについては、いくらでもあとから喋《しやべ》ってもらいましょう。どうやって坊ちゃんをかどわかしたんです」 「かどわかしたなんて。松林で写生をしていたところに近づいて、うちに古い掛軸があるから見に来ないかと誘っただけです」 「で、薬かなんか眠らせてから吉右衛門さまが首を落としたと」 「違います。二人がかりで、帯で首を絞めたのです」 「あんまり変わりはないと思うが」 「夫もわたくしも、どれだけの涙をながしたと思っているのです! 実の親でなければあの気持ちはわかりません! だけど重一郎は数えで十一、時間がなかった、親子のなごりを惜しむ時間さえ!」  わたくしはしばらく、両の目から涙のあふれるまま座っておりました。そして、さいごの恐ろしい質問をいたしました。 「夫はどこです」 「権現谷の、穴ぐらの底です」  万作は、残念そうなような、少し同情しているような顔で申しました。 「権現谷の化けもの杉の根かたの洞窟《ほらあな》は、あそこの衆が年とって動けなくなりそうになると自分からこもる姥捨《うばす》ての穴でね。いちど入ると二度と出口が見つからないそうだ。いや、わたしたちは吉右衛門さまを捕まえたかったんだ。だが吉右衛門さまは自分からそこへ逃げ込んでいった。たった一つだけ、最初から抱えこんでいた瓶《かめ》をたずさえてね。そしてわたしたちは、二度と吉右衛門さまを地上に出さないために、あちこちに開いた洞窟への入り口を、念のため石と土でふさぎました」 「それでは夫は……」 「誰かが外側から掘り出さない限り、出ては来れないでしょう。地下水や苔《こけ》を舐《な》めてればいくらかは保《も》つかもしれないが、それでも……」 「夫は、瓶《かめ》をひとつ持って入ったのですね?」 「そうです。蓋《ふた》のところに墨で黒丸の描いてある、青い瓶《かめ》でした。——お悲しいですか。わたしだってそんなことはしたくなかった」  万作は、わたくしが袖《そで》で顔を覆ったのを、泣いているのだと思ったのです。でもそれは間違いでした。わたくしは、笑っていたのです。万作はわたくしに申しました。 「おさむらいの家を家《や》さがしまでする権限はわたしにはない。でもどこかに、島本さまが研究した『薬』に関する書き付けがあるはずだ。それを出してください」 「そんなもの、どうするつもりです?」 「奥様の見ているまえで火にくべます。信じてもらえるかどうかわかりませんが、わたしはそんな研究、永久に闇に封じるべきだと思う。奥様も、島本さまがいないでは、まさか子供を買い上げたり、権現谷の衆と交渉したりすることは、まさかできますまい。ましてや——」  万作はわたくしの体をじっと眺めてから申しました。 「奥様は身重の体でいらっしゃる」  わたくしはため息をついてしばらく座りこんでいましたが、やがて立ち上がり、箪笥《たんす》のなかから夫の手文庫を取り出し、それを万作に向かって差し出すと——  その手をぱっと空中に広げ、手文庫の中身を部屋中に撒《ま》きちらしました。驚いた万作と蓑助が紙をおさえようとするのに、そばの行灯《あんどん》を蹴《け》りたおし、さらに懐紙を火に向かって投げつけました。油が畳に広がり、たちまち部屋は炎につつまれました。わたくしは隣室に駆けこみ、このような時のために油をみたして置いておいた樽《たる》を渾身《こんしん》のちからで傾けると裏ぐちに回り、井戸に飛び込みました。飛び込むまぎわに振り返ったわたくしと吉右衛門の家は、障子をつらぬいて真っ赤な光をあたり一面にまきちらしておりました。  水というものは底がつながっていれば、どれだけ遠く離れていようとも同じ高さの水面をたもつものだと、吉右衛門がわたくしに教えてくれたことがありました。そんなわけでわたくしが、そこのひょうたん池のほとりに建つこちらの清明寺に拾っていただいたというわけでございます。庵主さまはみ仏に仕える身、まさか仏の保護をたのみにする者を、わたくしを探している者たちに突き出したりはいたしますまい。ええわたくしは、諸田の万作が、井戸をさらったに違いないと考えております。井戸に横穴があり、わたくしの遺骸《いがい》がないいじょう、万作は今でもわたくしを探しておりますでしょう。けれど万作は決してわたくしを捕まえることはできないのです。いいえ庵主さま、自分の体のことはわかっております。今隣室で泣いております子、あの子はことのほか難産でございました。重一郎を産みましたときは、こんなひと月も枕から頭があがらないなどということはございませんでした。正直申しあげて、もう腰からしたに感覚がございません。  庵主さまにお願いがございます。どうか等々力満政さまのお宅まで使いをおやりになって、お縫さまをこっそり呼びよせてくださいまし。あの子の行く末をたくしとうございます。きっと重一郎の生まれかわりだと、同じ名をつけ、いとしんでくれることでございましょう。重ねて申しますが、わたくしたち夫婦だとて、重一郎の運命にはしんじつの涙を流したのですよ。ええ、あれは重一郎の運命だったのです。今お書き留めになったことと、あの紙の束、わたくしが油紙に包んで帯の下にずっと隠しておいたあの書き付けは、どうなさろうと庵主さまにおまかせいたします。  家とともに焼けてしまったあの手文庫の中身——ほほほほほ、あれですか、あれは夫吉右衛門がつれづれに記した、およそ見られたものではない和歌《うた》の書きちらかしで、煙管《キセル》を掃除するこよりにするためにとっておいたものでございますよ。     24 「江上理沙子というのは芸名よ。もうわかってるだろうけど、旧家の末裔《まつえい》がテレビに出ると、いろいろうるさいこともあるの」 「じゃ、本名は、等々力理沙子?」  今にも切れそうな裸電球の灯《とも》ったほったて小屋の中で、河合が江上さんにそう尋ねた。江上さんは 「え?」  と訊《き》きかえした。 「だって遠藤さん、じゃない、等々力……貴政さんが、姉さんって呼んでたじゃないですか」 「ああ、等々力の姓ね」  江上さんは、等々力貴政の去ったほうを見ながら、しょうがないといったふうな口調で言った。 「違うわ。あんな家に生まれなくてよかった。あっちは本家。子供のころお盆やお正月に一族大集合するようなときは、広くて遊べて楽しかったけど、そこの子になるなんてのは真っ平だった。むこうはわたしのほうがまだ欲しいみたいだったけど、冗談じゃないから貴政に代わりになってもらったの。喜んで行ったかと思ったのに、そうでもなかったみたい」 「代わりって」 「養子よ。本家の奥さん、子供ができなかったの。あかの他人から養子をとった江戸時代のご先祖より、もっと保守的なんだからあの人たち」  そうして江上さんは、僕たちのほうを向いて言った。 「お苑の告白を書きとめた、当時の清明寺の庵主……尼さんの住職っていったところね、その人は託されたものをどうしていいかわからなくて、結局お苑の産んだ二人めの子供といっしょに重一郎の養母お縫にそっくり渡してしまったらしいわ。らしいとしか言いようがないけど」 「でも図書館の『本草類従』に、一枚だけ島本吉右衛門が書いたものがはさまってました。清明寺から見つかったって」 「お苑は吉右衛門が達筆だって言ってたでしょ? 一枚とっておきたくなるような筆跡だったんじゃないかしら。庵主さんには、書いてあることの意味はあまりよくわからなかったと思うわよ」 「それは、俺たちだって」  と徳田が言った。いま長ながと江上さんが話してくれた、島本吉右衛門の妻お苑なる人は、何か重大なことを告白しないまま終わったような気がする。 「お苑の残した子供を引き取って、また同じ重一郎という名をつけて養育した等々力満政とお縫があの告白と書き付けを読んでどう思ったのか、あるいはお縫はそれを満政には見せなかったのか、お縫は漢書を能《よ》くしない人で理解できなかったのか……それはわからない。わかってるのは、わたしと貴政が、子供のころ本家の土蔵で見つけたそれをずっと解読しようとしてたってこと。最初は草書体なんてとても読めたものじゃなかったけど、そのために町の書道教室にまで通ったりして、古文を勉強して、それはいろいろ努力したものよ。努力って、むくわれることもあるのよ。おぼえておいたほうがいいわ」  その時、他人の声がして、僕たちは跳びあがった。 「ミチオー」  とその声は言っていた。ミチオ? どこかで聞いたことがある。その言葉も、声も。江上さんはさっとほったて小屋から飛び出すと、困ったような声で言った。 「お母さん! トレーラーの中にいてくれって言ったのに!」  叱るようなその口調にひるみもせず、その機嫌のよさそうな声のぬしはぬっと明かりの下に顔を出した。 「ミチオ、薬のんだ? ちゃんと薬のまなきゃだめじゃない……あら、お友達?」 「トレーラーにもどって、お母さん」 「ミチオ、薬を……」 「もういいのよ、お母さん、わたしもうすっかり治ったんだから、もうだいじょうぶなんだから」  その、にこにこと赤ん坊のような笑顔を浮かべている、ずでーんとしたノースリーブの花柄ワンピースを着て、髪を頭のてっぺんで丸くまとめたおばさんを見ていた僕は、やっとそこで口をはさむことができた。 「たまちゃん……たまさん?」 「え?」 「御園たま子さんじゃないですか、ほら、前、夜にうちの店たずねてきた! 僕あれです、串焼《くしや》き『ふじや』の息子です!」 「『ふじや?』」 「僕、藤山澄子の息子です。あの、おばさんと近所だったって」 「ふじやま……すみこ……ああ、すみちゃんね!」  やっと思い出してもらえたかと思ったが、「たまちゃん」は続けてもっととんちんかんなことを言った。 「すみちゃんはなに、今日も塾にいってるの?」 「は? 塾?」 「たいへんよねえお母さん厳しいから。すみちゃんは私立なんて別に行きたくないって言ってるのに」  どうも、言ってることが二十年ばかりワープしているようだ。江上さんはため息をつき、僕たちと反対側に「たまちゃん」を引っ張って行こうとした。 「いいからお母さん、お願い、とにかくトレーラーにもどって」 「だってミチオ、あんた学校で風疹《ふうしん》がはやってるって……」 「ミチオ?!」  そう言った僕のほうを、江上さんは「たまちゃん」をかばうようなポーズをとりながら見つめた。 「そう、わたしがミチオよ。御園|三千緒《みちお》。それが本当の名前。文鳥なんかじゃないわ。わたし、NBNの取材で行った過疎の村に残ってた井戸の水を飲んで、肝炎になったの。手遅れだって言われたわ。それがあの朝、ぴんぴんして目が覚めた。医師《せんせい》が言うには、母がどこからかもらってきた何かの液体を、看護婦が目をはなしたすきにわたしの口に流しこんだんだって。そしたら一時間もしたら顔色がよくなって、呼吸も安定したって……命が助かったのは嬉《うれ》しかった。でも同時にぞっとしたわ。だってわかったんだもの。あの『薬』を実用化した人がどこかにいる!」  江上さん——本名御園三千緒は、腕のなかの母親を痛ましそうに見た。 「あのころはまだ母の人格もはっきりしてたから、かろうじて藤山澄子って名前を聞き出すことはできたの。前からきみたちのクラスの名簿は見てたから、そういう名前のお母さんがいたのを思い出したわ。そういえば、わたしが小さいころときどき遊びに来てたあの子だったのかって。それもジョンくんがいたクラスに。それで仮説をたてることができたの。桃山さん——ジョンくん一家の失踪《しつそう》は、わたしを助けてくれた『薬』と何らかの関係があるんじゃないかってわたしは思った」 「あ、あるわけないじゃないか!」  思わず僕は叫んでいた。江上さんは厳しいまなざしで言った。 「どうしてそう言えるの?」 「だって、その『薬』をくれたのはうちのママなんでしょう! ジョンの親が売ってる『薬』はそれとは違う!」 「違わないんだよ、真介」  後ろで、残念そうな声で徳田が言った。 「そんな、飲むだけで危篤の人間を回復させられるような薬が、そうあっちこっちにあるもんか。ジョンの親が……大人連中が売ってる『薬』は、つまりおまえの母ちゃんが江上さんに飲ませた『薬』と同じだ」 「だ、だって……」 「ミチオ、この子たちにファンタでも出してあげようか?」  相変わらず「たまちゃん」はのんびりした声で言い、江上さんはちょっとためらってからにっこり笑った。 「ええそうね。だからトレーラーにもどりましょう。あそこには冷蔵庫があるし。この子たちね、もうちょっと遊んでから行くって」 「あらそう。ねえ、花火もやらない? ありがとうねえ、みなさん、ミチオと遊んでくれて……」  江上さんは、痛ましそうにほほえむと「たまちゃん」の背中をそっと押した。河合がたまりかねたように声をかけた。 「江上さん、あのう、お母さんは……」 「ごくたまによ。たまになのよ、こんなのは。でも見ててくれる人がいないから、連れてきたの」  江上さんはつらそうな声で言った。河合はさらに尋ねた。 「それであの、お母さんを治すためにあの、弟さんと……あの……」  江上さんはゆっくりと振り返り、さみしそうに微笑した。 「ええそうよ。貴政に、打算だって言われちゃったわ」 「でもその、あの、どの子供がどんな『薬』になるかを決めるのは誕生日なんでしょう? どうして相手が弟さんじゃないといけないんですか」  江上さんは答えず、そしてしずかに首を振った。 「今夜はもう説明するのに疲れたわ。でも貴政に会ったら、打算だけで寝たがったんじゃないって伝えといて」  そう言って江上さんは、「たまちゃん」と肩をならべてキャンプと反対側の方向へと遊歩道を去っていった。  等々力貴政は消えかかった焚火《たきび》にまた木をくべ、バナナを枝に突き刺して焼いていた。僕が近づくと、彼は黙って湯気のたつバナナを僕に差し出した。僕は座って、枝ごとバナナを受け取り、彼の横に座った。 「きみの友人連中は?」  と等々力貴政はたずねた。 「徳田は遊戯係だから、明日の釣りで獲れるかもしれない魚の名前をおぼえるって言ってました。河合は班長だから、先生に一日のことを報告しないと」 「どんなときにも責任を忘れなくて結構なことだ。いささか痛々しいが」 「それどころじゃないって言いたいんですか?」 「それどころじゃなかろうがそれどころであろうが地球は回る。昨日爆弾さわぎがあったところにも定期バスは通るしボスニアヘルツェゴビナにだって郵便はとどく。そしてきみたちは、どんなに自由に見えようと大人たちが決めた『夏休みのけいかく』の奴隷だ。それくらい僕にもわかる。子供であるってことの本質的な不幸はそれだ。きみがどれだけ本を読んでいて、知性をはぐくんでいようと、まだきみの生命はきみじしんのものとなっていない。権利の話をしているんではないよ、現実としてだ」 「逃げ出すことだってできます」  ——ジョンのようにならないために。等々力貴政は首を振った。 「ではそうしたまえ。友人や同級生を誘って、いますぐ子供たちのモーゼとなればいい。いまをおいてチャンスはない。小遣いが増えたと言っていたね、じゃあ北海道でも沖縄でも、国境近くの離れ小島でもどこでも、好きなところに」  僕の目に涙があふれだし、体がふるえた。等々力貴政はため息をついた。 「できやしない。できやしないんだよ。逃げ出して、それでどうなる? わかりすぎるくらいわかるだろう?」 「お金はすぐ底をつきます。僕たちが働けるとこなんてないし、あったとしても児童ポルノでしょう。大人を頼ろうとすれば保護者に連絡される。逃げのびたとしても悲惨な生活が待ってるだけ」 「そのとおり。人食い人種に捕まった探検家はね、いずれ茹《ゆ》でられテーブルに供されるのがわかっていながら逃げられない。鍵《かぎ》はかかっていないのにね。その村を一歩出れば広がっているジャングルと、茹で殺される日までの待遇の良さが彼を死刑台にとどまらせるんだ」 「それで?」 「え?」 「それでどうなんですか。島本吉右衛門の奥さんの話は江上さん——お姉さんから聞きました。でもあの、それだけじゃその、どうしてお母さんを治すためにあのその」 「姉が僕と寝たがるか、かい?」  ずばりと言われて、僕は恥ずかしくなった。同時に江上さんはどうして僕と寝たがらないのかというしょうもないいらだちを感じて、さらに恥ずかしくなった。 「べ、別に打算だけで寝たいわけじゃないって、言ってましたよ」 「そりゃあどうも。ありがたくて涙がでる。なぜ姉が胚芽《はいが》でもいいから僕との子供を欲しがるか、だったね。お苑はそれをはっきり言い残す前に死んでしまったが、夫の吉右衛門の書き付けのほうに記録が残っていた。子供の誕生日だけではなく、両親の誕生日の組み合わせで、薬の効果が倍増するということを吉右衛門はつきとめた。かつて権現谷に暮らしていたしいたげられた人々を実験台として研究をかさねるうちにね。吉右衛門がどうしても息子の重一郎を殺さねばならなかったのも、自分とお苑の誕生日の組み合わせが、ある絶妙な配合を生みだすとわかったからだろう」  そう言って等々力貴政は、あぶったリンゴを刺した枝のさきで、星空にぎざぎざの線を描いている山のひとつを示した。 「あす、その権現谷で渓流釣りの実習だ」 「じゃあ、江上さんと等々力さんは」 「脳の側葉部にあらわれるシナプスの枯死に有効な『薬』を生みだす組み合わせなわけさ。しかし協力はしたくない。僕としては母に、さっさと僕という息子がいたことすら忘れてほしいくらいの気持ちだ。僕が姉の代わりに本家に行くって言ったときのあの嬉しそうな顔ったら。母親ってのは娘を手もとに置きたがるもんだと、いまではわかるけどね」  こんな無精髭《ぶしようひげ》のはえたあんちゃんが言うにしてはあまりにトラウマチックな言いぐさだと思ったが、僕だってもしママに捨てられたら一生恨みに思うことだろう。等々力貴政は、あぶったリンゴをひと口かじって言った。 「地域振興の役に立つと本気で思ってたんだ、当初はね。もともと、『伝統工芸博覧会』の企画委員たちは、地域の特色を生かした学術研究をしている人たちをピックアップして、彼らに発表の場を与えるという案を持っていた。それ自体は結構な考えだったが……彼らがきっと優秀な人材がいる、と思って探しだしてきた『在野の研究者』なるものはひどいしろものだった。やれ六が岳神社は古代にUFOが降りたった跡だとか、ノストラダムスの最終解読をおこなっただとか、N市市民はモーゼの末裔《まつえい》だとか、そんな主張をするとんでも学者ばかり。そんななかでかろうじて残ったのの一つが、ミヤマスギをメインテーマに研究を続けてきた在野の植物学者の論文だった。植物学者っていっても、学位があるわけじゃない。営林署の職員を勤めるかたわら、こつこつ続けてきた研究だった。言っとくがそれは僕じゃない。もうけっこういい年だ」 「かろうじて残ったのの一つが、って言いましたよね。あと一つ残ったのが、おたくの『植物占い』の研究」 「『幼くして伸びた知恵は成長するまで長持ちしない』」  等々力貴政がおごそかな声で言ったので、僕はつけ足してやった。 「シェイクスピア、『リチャード三世』」 「まったくかわいくないガキだねえ、真介くん」 「まーたほめられちゃった」  等々力貴政は、笑ってまた山のシルエットのほうに顔を向けた。 「むかしはよかった」 「シェイクスピアの時代ですか?」 「もうちょっと最近だ。島本吉右衛門の研究をもっと安全な、もっと穏健なものにするべくしてきた研究を『伝統工芸博覧会』で発表できそうだと思えたときのことさ。君は誕生日と『薬』の効果についての話を聞いたとき、違和感をおぼえなかったかい?」 「違和感?」 「ほら、むかしは月のことをなんていった?」 「ああ、睦月《むつき》、如月《きさらぎ》、弥生《やよい》……」 「卯月《うづき》」 「屋のどら焼き——そうか、むかしは太陰暦だ」 「そのとおり。ただ、むかしの人も普段は一月、二月って言ってたよ。しかし太陽暦とは一か月もずれる。そのへんの調整を、たまたま知り合った例のアマチュア植物学者にたのんだのがまずかった。旧暦に詳しいなんて言うもんだから、ついね。大いに僕の研究に興味を示したのにももう少し警戒すべきだった。僕は能天気にも、あの鶴居氏と研究の成果を語りあったりもしてたんだ」 「つ、鶴居さん?!」  僕は、地面の上で一センチも跳びあがった。 「知ってるの?」 「ぼ、僕の伯父さんです」 「へえ」 「このあいだ初めて会ったんだけど」  そこで僕は、ママとその父親違いのお兄さんのことを手短かに話した。 「なるほど、君のお母さんのお兄うえね」 「探偵まで雇って調べたんだから、間違いないと思います。伯父さんのほうは、なにを研究してたんですか」 「ミヤマスギは、明日渓流釣りに行く権現谷の住民たちによって、その皮や樹液が万能薬として知られていた」  前後の説明をせずにいきなり要点にはいるのはこの人の癖らしい。 「万能といっても、ただミヤマスギの樹皮を煎《せん》じて飲んだだけでは、せいぜい風邪がよくなったり胃痛が治まったりといった程度の効果しかない。ミヤマスギの個性をそなえた人間のエキスこそ、真の万能薬だということを発見したのが島本吉右衛門だ」 「ジョンは、ミヤマスギの個性を持った人間だったってわけ」 「ジョンって、姉が言ってた桃山孝之氏の息子? 違うね。彼はミヤマスギじゃない。よく効きはするが、それほどの効果のないものだろう」 「でも、エイズやエボラまで治るって、パソコン通信で売ってるんですよ! それよりもっと効果のすごい薬ってなんです、なんに効くんですか!」 「エイズにエボラか。言わせてもらえば、目じゃないねそんなの。それくらいなら、そこらに生えてる薬草の個性を持った子供を使えば十分だ。おそらく、ジョン君の他にも犠牲になった子供はいるはずだ。ほかのクラス、ほかの学校に。届け出がされず、葬式もおこなわれないからだれにもわからない。親がどこかへそっくり引っ越してしまえば、夜逃げしたんだろうくらいに思われる」  ジョン一家のように。 「でも、ジョンの親はともかく、ほかのうちの親は!」  僕が言うと、等々力貴政は哀れむように僕を見た。 「だれが主導して、『薬』の製造販売をやってると思ってるんだい? 町の人たち、町の大人たちじゃないか。きみらの父さん母さんだ。僕はね、島本吉右衛門の残した資料から、人間を酒漬けにして薬に転用するという部分を取り除いて、植物と個性の対応というだけの観点からあの『植物占い』の本を書き、『伝統工芸博覧会』に出展しようとした。鶴居氏が在野の研究者だから、現世利益に関心のない人物だと思った僕が馬鹿だった。あいつは博覧会の関係者に資料を見せて、僕が危険な研究をおこなっている精神異常者だと吹き込んで、出展をできなくさせた。そのつぎに、博覧会が失敗に終わっておたおたしてる関係者たちに、こんどは実はあの研究は有効なのだと持ちかけた。あの男は臆病《おくびよう》で研究を推し進めようとはしないが自分は別だとか言ってね。それに、真菰銀行も今関グループも飛びついた」 「嘘だ。そんな大会社が、そんな馬鹿な話に乗るなんて」 「おやおや、世界に名だたる大企業に、永久機関の研究所や星占い課があるのを知らないのかい。むしろ大企業ほど、そういった話に乗るもんだと思っておいたほうがいい。バブルが崩壊して、彼らは売れるものはもう売りつくしてしまった。となると、最後に開拓すべき場所は、次元のことなる世界にしか存在しない」  等々力貴政は、食べ終わったリンゴの芯《しん》を、指さきで地面を掘って埋めながら言った。 「あの子が会場に迷い込んできたのは、出展を禁じられて僕が撤収しなくちゃいけない日だったんだ。どこかの店で売ったりしたら警察に逮捕させるぞとまで鶴居におどされてね」 「あの子って、八重垣のことですか?」  彼はうなずき、ふと悲しそうな顔になって言った。 「昼からずっと、きみたちの彼女に対する態度を見ていたが、子供というものは変わらないものだね。表面的な価値に左右され、へたな大人よりもはるかに保守的で」 「変わらない……って?」 「きみたちの彼女への排斥、いまにはじまったことじゃない。むかしから繰り返されてきたことだ」 「嘘だ!」 「嘘?」 「あんな気持ちのわるいおばけみたいな女がむかしからいたなんて。僕たちはめずらしい妖怪《ようかい》といっしょに授業を受けさせられてるだけですよ」 「どうして僕があの子にあの本を渡したか……」  等々力貴政は、途中から僕の言葉を無視して言った。 「なぜなら、あの子はとても似てたからだ。あの誇り高さ、深い内面、どうしようもない孤独な雰囲気。ちょうどあの年ごろの彼女に」 「彼女——って?」  等々力貴政はふっと笑って指さきの泥をこすり落とした。僕はなんとなく話を変えたくなって言った。 「どうしてうちのママが、『薬』のことなんかに関わってたんだろう……」 「というより、きみのお母さんは首謀者がわの人間だと思ったほうがいい」  等々力貴政はあっさりと言った。 「鶴居の父親違いの妹なんだろう?」 「だって、鶴居さんがママと会ったのはつい最近ですよ」 「なんでそれがわかる?」  等々力貴政は僕に尋ねた。 「きみのお母さんが最初から鶴居に誘われてて、そのジョンって子の失踪《しつそう》からなにから、最初から把握してなかったってどうして言えるんだい?」 「だって、探偵に——」  言いかけて僕ははっと気づいた。ママは鶴居さんに会えたとは言っていたが、それが徳田の両親に調査を依頼した結果だとは、ちゃんと聞いたわけではないのだ。 「探偵に?」  等々力貴政が訊《き》いた。僕は、口の中で言った。 「……調べさせたんだから……」 「鶴居の居所を? 彼は、有名人てわけじゃないが郷土研究家の間じゃなかなかの名士だよ。市内に住んでるし電話番号だってちゃんと載ってる。探偵に居所をつきとめさせる理由がどこにあるんだい?」 「だったら、ママは、なにを!」 「探偵に依頼したかってことかい?」  等々力貴政は、しばらく黙っていたが、やがて尻《しり》から草を払い落としながら立ち上がった。 「さて、明日の渓流釣りのために、今日も元気に寝よう」  そして僕を見た。 「機会はそのときにきっと訪れる。事情を知るもの同士が一堂に会するだろう。明日僕は、あることをするつもりだ。きみたちが知ってしまったことを知って、それで彼らがあきらめてくれるなら、僕はこんどこそ島本吉右衛門の遺《のこ》したものを完全に封印して、町を出ていこう」 「あ……あきらめてくれなかったら?!」 「そしたら僕は、この世に地獄をもたらそう」  それきり黙ってしまった。なにがなんだかわからなかったが、これ以上訊いても無駄だろう。彼は子供の口の軽さを警戒している。そして僕には、それは誤解だと言う資格はすでになかった。 「さあ、あまり遅いと班の仲間が心配するよ」  等々力貴政は、ゆっくりと夜風に揺れている木の茂みのむこうに歩いていった。途中で僕ははっとなって声をかけた。 「ねえ、小さいころ八重垣に似てたっていうの——江上さんのことですか?」  だがそのときにはもう、等々力貴政の姿はとけるように木立の中に消えさっていた。風がにわかに、枝を揺らしてひゅうひゅうとさわぎだした。     25  翌朝は、早く目が覚めてしまった。と言うか、まだ夜が終わってもいない時間だったと思う。僕は、トイレに行きたくなってテントを出た。入り口近くに寝ていてよかったと思った。  このキャンプはサバイバル実習という名目なので、トイレも手づくりだ。あの恐るべき板でかこった穴のところまで行く気はとてもせず、僕は小川のほとりで用をたした。戻ろうとすると、背後の藪《やぶ》のなかで物音がし、僕は跳びあがった。あわてて足もとに落ちていた石ころと枝を掴《つか》み、身構えた。なにを警戒していたのだろう——それがなにか大きな動物であれ僕に害意をもって近づいてくる大人であれ、僕に撃退できるはずもなかったのに。  茂みを揺らしてあらわれたのは八重垣潤だった。僕ははっとなった。彼女はシミーズ一枚で、長い髪が水に濡《ぬ》れていた。腕に黒い服を丸めたものを抱えている。八重垣は僕を——そのときは、いつもの何を見ているかわからないまなざしではなく、まっすぐに見た。そして、横を通り抜けて行こうとした。 「待てよ」  僕が言うと、八重垣は振り返った。そして言った。 「そこに水がわいてるとこあるの。だれにも言わないで。あたしが体を洗ったって聞いたら、みんな水飲むのいやがるから」 「じゃあ、いやがるようなことするなよ」 「あたしだって体は洗うんだよ。それに、悪いのはあたしじゃなくて、飲むのをいやがる人たちのほうでしょう」  僕はむっとなった。 「自分は悪くないと思ってんだな」 「じゃあ、どこが悪いか言ってくれる?」 「先生がさしても答えないだろ!! 掃除手伝わねえだろ!! どこの班にも入らねえだろ!!」 「だからって、あたしの触ったものが腐るってことになる? 触れた水が毒になる?」  そう言ってから、八重垣がふっと笑った。 「なるかもね。もしもあたしが、『たまごたけ』だったら」  僕は、はっとなって八重垣を見た。八重垣は、髪をふきながら僕を見た。 「ゆうべ、焚火《たきび》のそばであの人と話してたね。登山家の遠藤だとか言ってる。あの人、あたしに『植物占い』の本くれた人よ」 「知ってる」 「そう」  八重垣は、黒い服を広げると袖《そで》を通し始めた。 「何日も学校来ないで、なにやってたんだよ」  僕が訊くと、八重垣は冷たく見返した。そんな八重垣を見たことがなかった。 「待っててくれたってわけ。そうみたいね。今朝あたしがあらわれたら、ほんとに嬉《うれ》しそうだったもんね、あんたたち」  僕はむかっとなった。被害者づらするつもりか、こいつは。 「おまえの母ちゃん、なんでキャンプに来ねえんだ」 「来るもこないも、お母さんこれが親子キャンプだって知らないもの。あたし、学校からもらうプリントほとんどお母さんに渡さないから。あたしの許可も得ずに、教師と親でものを決められるのってがまんできないの」 「お前もうちょっと素直になったらどうだ」 「なってどうするの?」 「だから協調性がないって言われんだぞ」 「協調性なんてもんはクソよ」  八重垣はそう言って、背中のジッパーをあげた。そしてタオルでもういちど髪をふき、歩き出して背中で言った。 「時間おいてもどったほうがいいわよ。あたしと話してたってわかったら、あんたまであたしといっしょに洞窟《どうくつ》かどっかに閉じこめられるわ。松島くんたち、ずっとその相談してたから」  僕はいささかショックを受けた。 「それ知ってるのに、みんなといっしょに渓流釣りに行くのか?!」 「あたしはなにも悪いことをしていない。だからあたしが、そうならないよう努力する必要はないの。あんたたちが自分から気づいてやめるまでね。いいのよどっちみち、あたしが死ねば終わることだわ。それじゃね。釣りを楽しみましょう」  そして八重垣は立ち去った。  権現谷へ続く道は、上がすっかり葉に覆われていて涼しかった。僕たちは、釣竿《つりざお》に使えそうな枝を取ったり、餌のミミズを掘ったり、きゃあきゃあ騒ぎながら山道を登ったり下りたりした。もちろん僕もだ。なんだかんだ心配なことがあっても、みんなと騒ぎながら歩くのは楽しく、そして楽しみは僕を複雑な考えから解放した。先頭を行くのは、登山家の遠藤こと等々力貴政だ。相変わらずなにくわぬ顔で松島たちとふざけあい、鳥の声がするたびにその鳥の名前を言って尊敬をかちえている。僕たちのあとを母親たちの一団が歩き、そのまたあとを機材を抱えたNBNのスタッフたちも登ってくる。さっき平気な顔で遠藤=等々力貴政に挨拶《あいさつ》した江上さんは、歩きやすそうなスラックスに着替え、ブラウスの上に濃い緑色のジャケットをはおっている。途中、大きな岩が道端に立っているところを通り過ぎ、しばらく森のなかの細い道が続いて、上に突き出した崖《がけ》の下を通ると、ふいに視界がひらけた。 「さーて着いたぞ」  と等々力貴政が宣言した。わりと幅のある石ころだらけの川の両側に、高い緑色の壁が斜めにそびえ立っている。僕たちは、さっそく枝と糸、あぶって曲げた針なんかで手製の釣竿を作り始めた。「親子体験キャンプ」だからみんな自分の母親といっしょに作業している。僕は、もちろんママといっしょだ。僕が、ミミズに触れなくてびびっていると、ママはいともかんたんにミミズをひきちぎり、二、三本こねて丸めてミミズだんごを作り、それを針にさして、 「ほれ」  とよこした。まだひくひく動いているミミズのついた針を川に投げ込む。なにかが糸を引っ張ったといっては騒ぎ、水中でなにかがはねたといっては歓声をあげる。離れたところでは徳田も河合も、それぞれの母親と同じようにして、ゆうべの話し合いなんかなかったみたいにくつろいで遊んでいる。ママが笑い声をあげるたびに、僕の頭の中のどこかから「幸福の雲」のようなものがわいて、僕の感覚をいっぱいにみたす。何度かママとミミズだんごのやりとりをしているうちに、僕は思い知った。  この人が、僕を殺す気でいるのなら、僕に逃れる道はない。  それは奇妙に甘く、せつない認識だった。命を授けてくれた人に、僕はそれを返すのだ。  やがて昼休みになり、みんなで釣りあげた川魚が、ササの葉を敷きつめた上に並べられた。自分の中の残酷さを解放したい何人かが、等々力貴政の指導のもと、まだ生きてぴくぴくはねている魚の腹に小枝を刺していく。僕と徳田ももちろんその中にいる。 「おらおら、成仏しろ成仏」  そう言いながら、虹色の斑点《はんてん》のある魚にぶすっと小枝を刺した松島公彦が、僕にささやいた。 「おい、あの岩のかげな、やっぱり洞窟あるぜ」  僕は、松島の指さした方角を見上げ、そして小さくあっと声をあげた。むかいの斜面の上のほうに岩が突き出していて、その岩に根っこをはさまれるような形で何本もの木が生えている。そのどっしりとした幹、乱れた髪のように土の上にはみ出した根、そしてびっしりと生い茂った濃い緑の葉は、等々力貴政と知り合ったあの亀ノ岩植物園で僕がその下の穴に落ちそうになった、ミヤマスギの群落に違いなかった。僕は松島を見た。 「洞窟だって?」 「そう」  松島は嬉しそうにうなずいた。 「徳田がよ、八重垣洞窟に閉じこめちまおーって言ってたけど、本当にあるなんてな。もちろんやるだろ、徳田?」 「あたりまえだ」  徳田は強くうなずいたが、僕は不安を感じた。 「その洞窟って、中まで入ってみたのか?」 「ああ、ちょっとな」 「周り、木の根っことか生えてなかった?」 「あれっ、なんでわかんの、お前。うん、両側びっしり、木の根っこだらけだった。あれなら天井が落ちてくることもねえだろうから、殺す心配もねえし」 「どうやって閉じこめる?」  徳田が、腰かけた岩の上で身を乗り出した。岩場では徳田は、例の短い松葉杖《まつばづえ》を使って器用に歩く。いまその松葉杖は、徳田の隣に重ねて置かれている。 「奥の方さ、ちょっとのぞいただけだけど、だいぶ深くなってるみてえなんだ。下ぬるぬるしてるし、せーので放りこみゃなかなか上がって来れないと思うぜ」 「だいぶ釣れたわねえ」  そう言いながら、僕たちの上から江上さんが顔を出した。相変わらずというかいつもにも増して美しく、はつらつとしているように見える。 「はいみんな、岩塩をすりこんで。ここに並べて」  魚の腹に小枝を刺すのをパスした連中が作った焚火のそばで等々力貴政が言った。徳田は小枝の端をくわえて魚を運びながら、松葉杖をひょいひょいと石と石のあいだにつき立てて移動していく。それをカメラマンの目高さんが熱心に撮る。やがて魚の焼けるいい匂いがし始め、母親たちが朝作っておいたおにぎりを出し、僕たちはのんびりとお昼にした。  お昼のあとは、だれから言い出したわけでもないが昼寝の時間となった。なにしろ指導員をよそおった等々力貴政が、さっさと岩を枕に寝ころがっていびきをかきはじめるのだ。親たちと対決するとかいう話はどうなった。  みんな、いっぱいになった腹を撫《な》でながら、涼しい木陰や平らな石の上に身を横たえていく。特におばさん連中の寝つきは早かった。クラスメイトたちも、大部分は眠ってしまっている。NBNのスタッフも、自分たち用に張ったテントから足を突き出して眠っている。  僕はそういうわけにはいかなかった。松島の「八重垣洞窟に封じ込め計画」を聞いてしまった以上、参加をのがれるわけにはいかない。それにしても、ミヤマスギの根もとの空洞に八重垣を放りこむという案には、あまりいい気分はしなかった。僕はいまでも、亀ノ岩植物園のミヤマスギの空洞に落ちたときの、根っこに捕まえられてもう逃げられないような気分になったときのことを忘れられない。それでも、松島のさそいを断ることはできなかった。  斜面を登ってミヤマスギの群落のところにたどり着くと、松島、徳田、それに数人の男子がすでに待ちうけていて、足もとに八重垣が転がされていた。木の蔓《つる》でうしろ手に縛られていて、松島たちが昨日と今日でかなり野性の知恵を身につけたことがわかる。 「それではいまから、生き埋めの儀式をおこないます」  松島がおごそかな声で言った。八重垣は、もうそうとう痛めつけられたのだろう、目の上に血のかたまりを作ってじっとしている。 「おい、バイキン。おめーこれから、くらーい地面の底に入るんだかんな」  そう言って松島は靴のさきで八重垣の尻《しり》をこづいた。みんな笑った。もちろん僕もだ。八重垣が、あのいつもの奇怪なソプラノで長く悲鳴を上げた。僕たちはひとしきり、八重垣の蹴《け》りあいをして遊んだ。八重垣の悲鳴は木のあいだを通りぬけ、鳥たちがばたばたと飛び立っていったが、それ以外だれも駆け付けて来るものはない。  それから僕たちは、蔓の端をみんなで引っ張って八重垣を引きずりながら、岩の下のぽっかり開いた穴のところまで行った。ミヤマスギの例の長く突き出した根の後ろに、松島の言った通り穴の入り口が、それも身をかがめれば大人でも入れそうな穴が開いている。僕はぞくっとし、それ以上近づくのはいやだと思ったが、どうせ八重垣を放りこんでしまえば戻れるのだと思って、なんとかそこに踏みとどまった。  僕たちはたれ下がった蔓や根を押しひらき、八重垣の体を持ち上げて、 「せーの」  で放りこもうとした。そのとき。  僕らの立っていた足場が突然崩れた。それは、僕には見覚えのある現象だった。ミヤマスギの根本にできた穴が、突如崩落して人を飲みこむときの。  僕たちは悲鳴を上げ、ごろごろと団子状にかたまりながら、息づまるような土の臭いのする闇の中を滑り落ちていった。土の下に岩の層があり、松島の言ったとおりそこはぬるぬるしていた。  どれだけ滑り落ちたのか、ほんの一瞬のことだったかもしれないが、僕は自分の体がふわっと広い空間に投げ出され、それから柔らかい地面にバウンドするのを感じた。そのまま少し転がって、僕は停止した。その僕に、やはり転がりながらぶつかって来たものがいる。僕は身を起こし、そいつの体を探りながら叫んだ。 「だいじょうぶか?!」 「だいじょうぶだ」  答えた声は、徳田のものだった。僕はほっとため息をつき、それからあわてて周りを見回した。  地下の空洞のような場所だった。六畳間ほどの広さがあり、足の下は土だが、両側が、岩ではないが何かの材料——しっくいとか、モルタルとかいうのだろうか、そういう感じの色をしている。 「おいこれ、だれかが工事してるぞ」  徳田が、僕が思ったとおりのことを言った。僕は、別な疑問を口にした。 「それに、なんで俺たち、それが見えるんだ?」  そう、その空間は完全な闇ではなかった。明るくはないが、どこからかぼうっと光がもれている。空気も新鮮だし、風の流れも感じられる。 「密室ってわけじゃねえな。助かった」  徳田はそう言って身を起こしたが、彼に関する限りあまり助かったとは言いにくい状況だった。徳田は、歩くのに必要な松葉杖を持っていなかったからだ。 「芳照、松葉杖は?」 「どっか落としてきた」  徳田は軽い調子でそう答え、僕に、 「おまえ、助け呼んできてくれ」  と言った。 「肩打っちまってよ、腕の力だけじゃ前に進めそうにねえんだ」  僕はあたりを見回し、そして、おそろしいことに思い当たった。 「ここって……ゆうべ江上さんの話——吉右衛門の奥さんの話にでてきた洞窟だよな?」 「だったらどうした?」  肩をさすりながら徳田が言い、そしてむりにほほえんだ。 「入ったら二度と出られねえっていう、あれか? いまは江戸時代じゃねえぞ」  僕はごくりとつばを飲みこみ、それからポケットを探って釣竿を作るときに使った糸巻きを取り出した。 「この端っこ握ってろ。どっかで道が分かれてっかもしんねえから」 「ギリシャ神話だな」 「ビーナスの糸か」 「アリアドネじゃなかったか?」 「ひとりでだいじょうぶか」 「ふたりでずっとここにいるほうがだいじょうぶじゃねえよ。歌でも歌ってっからさ、頼む」  僕はうなずき、それからつばをごくりと飲み込むと、糸巻きをほどきながら歩き出した。穴は、やはりしばらく行ったところでふた手に分かれ、より明るいほうを選ぶと、そのさきの少し広いところの床に、電池式のランプが置かれていた。安心すべきなのか不安になるべきかわからなかった。すると、だれかの足音が聞こえたような気がして、僕は急いで糸をほどきながらそちらのほうへと走った。角を曲がったところで、黒いかたまりのようなものがすみの暗がりの中に隠れるのが見えた。人間? それとも動物?  僕は思いきって声をかけてみた。 「あの……だれかいるんですか?」  暗がりから、影のかたまりが分かれ出た。  最初僕は、それをいっしょに穴に落ちた同級生のだれかかと思った。身長が、僕と同じくらいしかなかったからだ。けれどその人物は髪をぼうぼうに生やし、明らかに正気とは違う目つきと不健康な肌の色をした中年のおじさんだった。体じゅうに、布なのかゴミなのかわからないきれ[#「きれ」に傍点]を巻きつけて、はっきり言って第一印象はホームレスだ。それなら、どっかからこの穴の中に迷いこんできていても不思議じゃない。僕は話しかけてみた。 「あの……出口、わかります?」  するとその人物は、くるりと振り向いて、ものすごい速さで走り出し、そのまま闇の向こうへ消えた。 「あっ、待って!」  僕がそう叫んだとき、徳田を残してきた方角から、 「わっ」  とかすかな声が聞こえた。僕はあわててまわれ右をし、糸をたぐりながら戻ろうとした。が、道がふた手に分かれたところで、僕は糸がそこで切れていることに気がついた。 「芳照!」  僕は叫んだ。穴の中で、声がこだまし、何度も行ったり来たりした。僕は焦り、たぶん自分が来たほうだと思う穴へと入って行った。しかし、それは見当ちがいだったらしい。道がどんどん狭くなってゆき、両側は、いつの間にか誰かが塗りかためた壁ではなくなり、あの不気味な——長く地中にのび、びっしりと周りを埋めつくすミヤマスギの根っこになっていた。僕の背中がざわついた。この通路は、もとから狭かったのではなく、根っこが僕に向かってせばまってきているのではないのか?  そう考えると恐怖がこみあげてきて、僕はわっと言って走り出した。 「ママ!」  そう叫んだ。 「ママ、助けて、ママ!」 「もちろんよ」  そして僕は、まごうかたなきママの声を聞いた。やみくもに走り続けて僕はいつの間にか、いままで見たなかでいちばん広い穴の底に立っていた。そこでは、さっき見たのと似たような電池式のランプがいくつも灯《とも》され、その向こう側には木の切りかぶを利用したらしい椅子がいくつか置かれ、その上に何人かの大人たちが座っていた。見知らぬ人も何人かいたが、ゆっくりと立ち上がった人たちのなかには、僕のママと、徳田の母親と、そしてこの前店で会った鶴居——等々力貴政の研究を盗み、『薬』のことを町の人たちにもちかけたという男の、ひょろ長い影のうすい姿が混じっていた。     26  ママ。徳田の母親。そのほかクラスメイトの母親たち数人。知らない大人たち数人。鶴居氏。中にひとり、たしかに見覚えがあるのにどうも思い出せないおじさんがいた。その人たちを見つめながら、僕は知らず知らずのうちに後ずさった。だがすぐに背中が、どんと当たった。肩を掴《つか》まれて見上げると、それは根本先生だった。 「ご苦労さま、八重垣」  先生の言葉に、僕は驚いて先生の視線のさきを探った。穴ぐらのすみで、八重垣がまたいつもの中空を睨《にら》んだポーズで座っている。僕は、飛び出して行きそうになったが、先生が肩をがっちり掴んでいた。 「僕たちを穴に落っことすために、わざと抵抗しなかったってのか!!」  八重垣は答えなかった。宙を見て、なにか歌を口ずさんでいるように見える。 「なんとか言え!! ひきょう者!! バイキン!! ゴミ!!」 「まあそう怒るんじゃない」  先生が、ぽんぽんと僕の頭を叩いた。 「もし八重垣が抵抗したとしても、もっとひどく殴られてひっぱってこられただけだ。そうだろ?」  それはそうなのだが。 「八重垣を穴ぐらに落っことすってのを思いついたのはあんたたちなんだからね。大人はそんな残酷なこと、考えもしないよ」  先生はそう言うと、僕の手をひっぱって部屋の中央に進み出た。体がしびれたようになって、僕は抵抗できなかった。ママの横で、徳田の母親が言った。 「よくおできになる坊ちゃまで、結構ですわねえ」 「いえいえ」  ママはころころと笑った。 「算数と理科が、いまいちで困りますわ」  まるでPTAで世間話をしているみたいな調子だ。 「お誕生日、いつでしたっけ」 「八月二十一日。あしたですわ」  そうだ、そういえばあしたは二十一日、僕の十回目の誕生日だ。それを過ぎれば[#「それを過ぎれば」に傍点]、間に合わ[#「間に合わ」に傍点]なくなる[#「なくなる」に傍点]。ママは僕を見た。 「『薬』のことはもう知っているわよね」  僕は、なにかに後頭部をおさえつけられてるみたいに、うなずいた。 「でもよく、ママから逃げないでいてくれたわ。真介、約束する。ママ、もいちどあんたのこと産んであげる。もいちど、ママの子供になって帰ってきて」  まるっきり葬式されてるみたいな言葉なので、僕はすごく悲しくなってきた。僕は言った。 「その子のことは、どうするの」  ママは、優しい目で僕をじっと見た。 「その子のことも殺すの。大切に育てて、仲良くして、いい気持ちにさせて、時期が来たら殺すの」 「殺すなんていわないで」  ママはかぶりを振った。 「世界中に、重い病気で苦しんでる人がいるわ。ママはね、ママだけがすばらしい子供を持ってるってことに耐えられないの。あたしにそんな資格はない。この世界がどれだけ苦しみに満ちているか知れば、なにかをせずにはいられないものよ。そうでしょ、真介?」  一瞬納得しそうになったが、すぐに疑問が頭に浮かんだ。 「僕を『薬』にして売るあてがあるから、お金を借りたんじゃないの。そのお金は人助けのためじゃなくて支店を出すためでしょう。それはママの欲望だろ、ママひとりの夢のためじゃないか」  ママが悲しそうに僕を見たので、僕はたちまち後悔した。僕さえいなければ、どこかもっと賑《にぎ》やかな町、あの東京の銀座とかいう場所にでも店が持てた人だった。いくらでも金を貸してくれる人がいただろう人だった。ママのまなざしのなかに、僕はママが犠牲にしてきたものの大きさをくみとった。 「わかってちょうだい」  ママはため息とともに言った。 「真介もわかってると思うけど、『伝統工芸博覧会』が失敗して、この町は貧乏神を背負いこんだの。去年からこっち、かかってくる税金のすごさなんて子供には絶対わからないわ。払うのはあたしたち大人なのよ。よその人になんてわからなくていい。これは、沈みかけの船に乗ってる人じゃないとわからないわ。救命ボートは満員なの。全員を乗せるわけにはいかないのよ」  僕は顔を上げてママを見た。ママは首を振った。 「大人がボートを子供に譲るわけにはいかないわ。子供には町を再建できない。大人が生きのびて、つぎのチャンスを作ることのほうが重要なの」 「そのとおりだ」  根本先生が言った。 「飢えた国々を見てみろよ、みんなそうしてるだろ? 骨と皮ばかりになった大人の写真なんてそう見ないだろ? この町は、飢えた国なんだよ」 「ティファニーのネックレスしててかよ」  僕は思わず言った。先生は顔色も変えずに、襟もとの鎖を引っ張ってみせた。 「こんどはシルバーにしたの。こっちのほうが趣味がいいでしょ」 「まあそう。素敵。本店で?」  徳田の母親が、うらやましそうにその銀鎖を見つめた。 「名古屋のほうでですけどね。奥さんだってこれくらい買えるでしょ?」 「そうですけど、もうここひと月忙しかったですからねえ」 「そうだ」  僕は言った。 「芳照のおばさん。ママになに頼まれたの」  ママと、徳田の母親は顔を見合わせ、どういうわけかにたっと笑った。 「とても忙しかったって、めったに顔も合わせられなかったって芳照が言ってた。いったい町の人たちになに頼まれてたの。そうだ芳照、第一芳照をどうしたんだ!」  ママ、徳田の母親、それに前列にいるおばさん数人がなんとなく後ろを向くと、そこにかたまっていた何人かがさらに奥に姿を消した。たしかにママはだまされて、あるいはさそわれて『薬』作りの仲間に入ったんじゃない。明らかに、この中では指示する者の立場にいる。だけど完全にボスなんじゃなくて、ちょっと発言力の強い数人のおばさんたちの間で、なんとなく合意に達したことが実行されるという感じだ。まるでPTAだ。 「なにを探っていたのか、教えてあげたらどうです、お母さん」  だしぬけに背後で声がして僕は跳びあがった。と同時に、かすかな希望のようなものも感じた。それは、等々力貴政の声だったからだ。彼が進み出ると、ママの隣にいた鶴居氏は身を縮こまらせ、ママは目を細くして彼を見て言った。 「なにしに来たの、遠藤さん?」 「こ、これは等々力貴政です」  鶴居氏が、等々力貴政の視線を避けるようにして言った。徳田の母親は目を見開いた。 「まあ。探しても見つからないはずだわ、ずいぶん写真と違うのね。色白の美青年って感じだったのに」  だれのことだ。 「恐縮です、奥さん。野外生活を続けてるうちに、こんなんなっちゃいましてね」 「登山家の遠藤じゃないの?!」  根本先生が唾《つば》を飛ばした。 「ほんものの遠藤さんには、学校関係者だと言って予定変更の電話を入れておきました。キャンセル料は振り込んだから、文句はないはずです。みなさん、みなさんは我が祖先島本吉右衛門が発見した理論に基づいて『薬』の製造をおこなっている。それは僕たち子孫の権利の侵害ではないですか?」 「独占する気はありませんとも」  ママはおだやかな声で言った。 「邪魔さえしなければ、ちゃんとあなたの権利については考えてあげます」 「考えてあげます、ね。そこに控えてる青びょうたんは、そんなこと思いつきもしなかったようだが」  鶴居氏が、ママのとなりでまた首をすくめた。 「異父兄《にい》さん。お金貸すとき、あとで面倒はないでしょうねって念を押したのに」  ママは鶴居氏を睨《にら》んだ。僕は叫んだ。 「お金を貸した?!」 「そう。ほんとはママが伯父さんに保証人を頼んだんじゃなくて、伯父さんが、等々力さんに教わった研究を発展させるためのお金をママが貸してあげたの。どうなることかと思ったわよ、定期まで解約したんだから」 「だったら、伯父さんの居所が最初からわかってたんなら、ほんとに芳照のおばさんになにを頼んだの、ママ!!」  後ろから、等々力貴政が僕の肩を掴《つか》んだ。 「真介くん。きみは自分が、なんという植物の個性を帯びてるのか、もうわかってるね」  そう訊《き》かれて、僕はなぜか確信をもってつぶやいた。 「ミヤマスギ……」 「そのとおり。テレフォンサービスを聞いたきみが、奇妙な音を聞いて気絶したという話を聞いてすぐに僕にはわかった。君は、万能薬のミヤマスギの個性の持ち主だ。だがそれは、きみがただ単に八月二十一日の生まれであるというだけでは、完璧《かんぺき》なものとならないんだよ」  僕は振り返って等々力貴政を見た。 「どういうことですか?!」 「ゆうべ話しただろう。両親の、生まれ日の組み合わせだ。それによって薬の効果は強くもなるし弱くもなる。そしてどうやらきみは、たいへん幸運な、じゃないな、災難なことに非常によい組み合わせの両親を持っていたようだ」 「だって、僕、父親の誕生日なんて……」  そこまで言って、僕は絶句した。ママが、なんでかにこにこしながらとなりにぼっと立っているさえないおじさんのほうを見ている。 「ママが徳田さんの探偵社に頼んでおいたのは、この人の行方よ」  おじさんは目をぱちぱちさせて僕を見た。その目つきになんだか見覚えがあった。そして、あっと言った。その人は、もし眼鏡をかけていれば、あの日東京の、ジョンの親の家で逃げる寸前に会った麦藁《むぎわら》帽子のおじさんだった。 「ジョンのお父さんじゃないの?!」  僕は叫んだ。ママはちょっとびっくりしたような顔をして、それからふふっと笑った。 「そういえば桃山さんの家まで行ってきたんだってね。しょうがない子。違うわ、ジョンくんのお父さんは、向こうでちゃんとした会社に再就職してばりばりやってるわよ。この人はね、ママが若いときちょっと付き合ってた人。あのころは長髪の似合うハンサムだったのに、まあなんてことでしょ、こんなんなっちゃって」  ずいぶんな言われようだったが、帽子をかぶってなくてうすらハゲが剥《む》き出しのそのおじさんは、にやにや笑っただけだった。ママは言った。 「紹介するわ。ママが銀座に勤めてたときバーテンダーやってた人。みんな、『かずきくん』て呼んでたけど、名字はたしか石上だったわよね? 石上和基《いしがみかずき》さん、今は無職だそうよ」  僕はその人物をぼうっと見つめた。徳田の母親がもどかしそうに言った。 「もう、真介くんわからない?」  ママが笑った。 「わかるわけないわよ。一度も会ったことないんだから」 「ほんとに、十年前銀座の店に勤めてたイシガミカズキ、ってだけの手がかりで探すのたいへんだったんだから」  僕は思わず後ろに倒れそうになった。その僕の体を等々力貴政が支えた。 「そうだ、あれはきみの父親だ真介くん。おそらくお母さんは、自分を妊娠させて行方をくらました男の捜索を探偵社に頼んだんだろう。君と感激の対面をさせるため? そんなわけがあるもんか、彼の誕生日を知るためだ!」 「誕生日……」  僕はぼんやりと言った。 「そうだ。お母さんは、きみがどの程度よい『薬』になるか知りたがった。そして彼を見つけ出し、誕生日を探りあてた。お母さんの態度を見るところ、きみは単なるミヤマスギじゃなく、もっともよいミヤマスギでもあるようだ」 「この子もよ」  ママは、自分のお腹を撫でさすった。僕は気絶しそうになった。 「ちゃんと体温の調節をしたから、だいじょうぶのはず。でもこの子、わたしのなにに当たるのかしら? 子供? 孫?」 「真介くんは九歳だ。射精はしても造精能力があるかどうかはわからない」  等々力貴政がそう言い、僕は顔が赤らむのを感じた。ママは恥ずかしがらないどころか、血相をかえてくってかかった。 「いいえ、私は受胎してます! 女にはわかるの!」  そこに、どやどやとさっき奥に消えた連中が戻ってきた。何人かで騎馬戦の馬みたいのを作っていて、その組んだ腕の上にぐったりして乗っているのは、徳田だ。 「芳照!」  僕は叫んだ。芳照は、何か薬でもかがされたのか、ぐったりとして動かない。僕の体に戦慄《せんりつ》が走った。僕の視線に気がついた徳田の母親は、ふいに怒りをあらわにして言った。 「なに考えてるの? 芳照がもう殺されてるとでも? 冗談じゃないわ、芳照がこれまでしてきた苦労を考えて。『薬』にならなくちゃいけないのはね、きみたちみたいな甘やかされた、生まれてから一ぺんだって辛《つら》い思いしたことない、幸せいっぱいの子供なのよ。ずいぶんいい思いをしたんでしょ、ここ数日?」  解体される牛のように。  そのとき、妙なうめき声が穴ぐらのなかに響いて、みんないっせいに徳田のほうを見た。徳田は、抱え上げられた状態から降りようともがきながら喋《しやべ》っていた。 「……てしてない……」 「え? なに、ゆっくり喋ってごらん、芳《よつ》ちゃん」  徳田の母親が優しく言った。徳田は、顔を上げて声をふり絞った。 「苦労なんてしてない! 母ちゃん、母ちゃんは苦労だって思ってたのかよ! 俺の足のこと、そんなに気にしてたのかよ! 俺と真介が、そんなに違うって思ってたのかよ! 真介みたいな子供でなくて、俺のこと恥ずかしいって思ってたのかよ!」 「違う違う、なに言ってるの?!」  徳田の母親は叫んだ。 「そんなふうに思うわけないじゃない! だけど、だけどね芳《よつ》ちゃん、母ちゃんは芳《よつ》ちゃんのこと、天使だと思ってた。でも、人間に生まれ変われるんなら、そうすべきだと思うだけ」 「なんだよ、人間に生まれ変わるって! 障害と呼ばずに個性と言えって、母ちゃん役所の人とやりあってたじゃないか! なのに人間じゃないって思ってたのかよ、俺のこと!」 「そんな体に産んで、すまないと思わない母親がいる?!」  徳田の母親は足を踏みならした。 「よその子の健康な足を気にせずにいられると思う?! 障害は個性だなんて、人と人との違いにすぎないんだって、そんなふうに本当に思える母親なんているもんですか!!」  そう言うと徳田の母親は、徳田を支えている連中に向かってぐっと腕を突き出した。その連中は、徳田の体を母親にあずけた。さすが、なにかにつけて補助のいる徳田の母親だけあって、腕の力はものすごく強い。徳田の母親は徳田を抱えたまま、しゃがみこんで徳田の半ズボンをぬがせた。 「な……なにするんだ、やめろーっ!!」  パンツをむきだしにされて、徳田は泣き叫んだ。その声が、大人たちの耳にはまったく入っていないようだった。僕は徳田の母親に向かって突進したが、途中でママに捕まえられそうになり、恐怖心に負けて等々力貴政の立っているところまで逃げもどった。  母親と周囲の人間にがっちり掴まれ、じたばたもがいている徳田の前に、だれかがあの、ジョンの親の家にあったのとよく似た瓶《かめ》を置いた。そしてその中にペンキを塗るときのはけ[#「はけ」に傍点]が突っ込まれ、糸をひく赤黒い液体が、徳田の膝《ひざ》の上で立ち切られた足に塗られた。 「しみる……しみる……痛いーっ!!!!!!!!!」  徳田は絶叫し、それを聞いた僕は目まいがして吐きそうになった。友達が苦痛を味わっていることを怒るというような感情じゃなく、とにかく一刻も早くその声の聞こえないところに行きたいという感覚。 「あの瓶《かめ》の中身、甲田くんだよ」  耳もとで声がした。はっとなって見ると、それまでそこにいた等々力貴政のかわりに、八重垣潤が立っていた。 「甲田……?」 「そう。おぼえてるでしょ、階段から落ちてそのまんま入院したなんて、先生が大ウソついた子」  等々力貴政はなにをしているのかと思って目で探ったら、徳田をおさえつけている連中の背後を、そろそろと這《は》うようにして抜け出そうとしている。僕を置いていく気か! と思ったとき、徳田がひときわ激しい絶叫をあげた。 「ぎゃあああああああああ!!!!!!!!!!!!」  そして徳田は全身の力をふり絞って腕をふり回し、母親の膝から落下して転がった。大人たちが、 「おやおや」 「男の子なのにねえ」  と言いながら駆け寄る。みんな笑っているのが、なんともいえず恐ろしかった。ふいに八重垣が僕の袖《そで》を引いた。 「こっち」  大人たちのほうを見ると、注意はいまのところ徳田のほうを向いている。僕は身をかがめ、八重垣の引っ張るほうへと動いた。狭い、子供じゃないと通れないくらいの横穴があって、僕と八重垣はそこへ飛び込んだ。真っ暗闇の中をしばらく走ると、背後から、 「真介ーっ!」  というママの悲鳴に近い声が聞こえてきて、僕の足を凍らせた。     27  立ちすくんでしまった僕を引っ張って、八重垣が僕を案内したのは、本当に小さな穴ぐらだった。行きどまりになっており、それ以上先には進めない。僕たちは、とりあえず腰をおろした。背中に岩が当たる。岩に亀裂《きれつ》でもあるのか、外の光がほんの少しだけ、どこからかさしこんできていた。僕は岩を押してみたが、もちろん動くはずがない。僕はため息をついて膝のあいだに頭をさしこんだ。そして言った。 「なんで僕を助けるんだ? おまえ、あいつらの手先なんだろ」 「等々力さんに耳打ちされたの。あんたのこと頼むって」  八重垣は、いつものねばつくような、なにを考えているのかわからない声で言った。 「僕のことを、頼む?!」 「そうだよ。あのままじゃあんた、お母さんの言うなりに首絞められて酒漬けにされるとこだったじゃない? 逃げ出したんで、お母さんきっと驚いてるよ。仲間に責められてるかもしれない。そう聞けば、戻りたくなる?」  僕は答えなかった。八重垣は勝手に続けた。 「あたし、先生に呼ばれたとき、『薬』のこと知ってるって言ったの。先生、真っ青になって、あたしを縛ってロッカーに閉じ込めて仲間に電話かけたの。あたし、暑いのと空気が悪いのとで気絶してたんだけど、いつのまにか出されてたのね。気がついたときは車に乗せられてた。どこの家かわかんないけど、だれかの家に連れてかれて、根ほり葉ほり訊かれた。といっても、大して知ってることがあるわけじゃなかったけど。ただあたしは『植物占い』を読んでて、人間に植物の個性があるんなら、それを『薬』に使おうって人だって絶対いるはず、そう思っただけ。先生たちが『植物占い』を必死で禁止しようとしてるの見たとき、きっとそれが実行に移されてるんだと思った。あたし、あの人たちに言ったの。あたしは、普通とは逆の意味ですごく男の子たちをひきつける。だから、あたしを生かしておけば、男の子たちを一度におびきよせたいときとっても便利だよって。ああそうだ、そこにあんたのママもいたわよ。これから信用金庫の人と話があるって言って、先に帰ったけど」  そうだたしかに、それは八重垣がいなくなり、ママが信用金庫の人と会っていた日だ。 「あたしはその日から、学校に行くって言って家を出ると、その足であんたの家に行ってたの」 「う……うちに?! うちなんかで、なにしてたんだ!!」 「べつになにも。テレビ見たり、持ってった本読んだり。あんたのママ、あたしにはぺちゃくちゃいろんな話したわよ。あんたのお父さんのこと、徳田くんのお母さんに探してもらったこと、鶴居さんが等々力さんから研究を盗んだこと。自慢そうだった。すてきなお店を持つんだって言ってた。それとおんなじ調子で、あんたがどんなに頭がよくていい子で、可愛いかってことも話すの。あの子はいい『薬』になるわ、って言ったその口でね」  八重垣がため息をつく声が聞こえた。 「あたしがしばらく学校に来ないほうがいいだろうって言ったのは先生なの。しばらくあたしに手出しできなくて欲求不満にしとけば、キャンプのとき爆発するだろうからって」 「なんでおまえ、それ承知したんだよ?!」  僕が怒りをおぼえてそう言うと、八重垣が暗がりのなかでじっと僕を見つめる気配がした。 「あたしの体はもう、がたがたなの」  なんの話をしてるのだろう。 「毎日毎日あんたたちにサンドバッグにされて、目まいはするし、ときどき手足がしびれるの。お母さんにも言ってないけど、前、目を殴られてから、片目がよく見えないのよ。たぶん、脳のなかがどうかなってるんだと思う。大人になっても、よく喋れないし歩けない人になるんだと思う」 「それがどうしたんだよ。自分のせいじゃないか」  僕はいらだってそう言った。 「おまえが気持ちわるいからいけないんじゃないか! いるだけで、みんな不愉快になるから! 自分で直そうとは思わないのかよ!」 「だから、あたしはもういいの。あたしはずっとこのままでいるしかない」  八重垣は、僕の質問を無視して言った。 「あたしの人生は、どうしてか、今のクラスに入ってから終わっちゃったの。信じられないかもしれないけど、幼稚園のときはけっこう人気者だったんだよ。どうしてかな。徳田くんがいたからかも。徳田くんを恨むわけじゃないけど、あの子のこと差別しちゃいけないっていう気持ちが、あたしに向けられていたのかも。でもあたしは、あんたたちに知ってほしかった」 「なにをだよ」 「すぐそこの角を曲がっただけで、だれかに殴られるんじゃないか、ううん、殴られるに違いないっていう恐怖。周りじゅうが全部敵で、守ってくれるものがなにもないっていう恐怖。今日のつぎに明日が来るっていうことが、信じられないっていう気持ち。ごく普通に生活しているのに、明日は殺されるかもしれないって思いながら生きること。どうして本をもらってすぐに学校に持ってこなかったかってあんたたち、訊いたよね。あたしにもよくわからない。でもどっかで期待してたんだと思う。だれかが『薬』を作りはじめて、もう引きかえせないところまで来てしまうことを」  僕は、さらにいらいらしてきて頭を振った。前々からそうだとは思っていたが、僕ら普通の人間と、八重垣との間には何かものすごい論理のギャップがあるらしかった。やっとのことで僕は言った。 「おまえのはぜんぜん普通の生活じゃないって……」 「関心のないことに関心をはらわないのが? 大事じゃないことを大事にしないことが? 程度の低い人たちに合わせないことが?」 「おい、程度が低いってのはだれのことだよ!」  八重垣は答えなかった。僕は、言い負かしてやったかと思って少しいい気分になったがそうではなかった。薄い光の中でよく見ると、八重垣は目を見開いて硬直している。肩のあたりのシルエットが、妙なぐあいに歪《ゆが》んでいた。 「おい……」  八重垣は突然悲鳴を上げた。あの、空気を震わせるソプラノ。狭い穴ぐらの中で、それは気の狂いそうな反響をした。八重垣の背後でぐえっという獣の吠声《ほえごえ》のようなものがあがり、それは八重垣を前に押し倒して飛び越え、僕の目の前で四つん這《ば》いになった。僕を見上げたその顔は骨格標本に皮をはりつけたみたいで、目だけがピンポン玉のように飛び出し、口からはあぶく混じりのよだれを絶えず流している。その姿かたちからすると、さっき別な穴ぐらで見た、背の低い大人のようだった。しかしその顔は、その人の精神が完全にどうかしていることを示していた。  僕は後ろに飛びのいた。もちろんそこは岩の板で、それ以上後ずさりようはなかったのだが。その人は、意味不明のうめき声をあげながら、四つん這いでじりじりと僕に迫ってくる。僕もまた悲鳴を上げた。  めりめりめりめりいっ——という音をたてて、突然穴ぐらの構造を支えていた周りの壁が、なにかに吊りあげられるようにして上にめくれ、いっきょに午後の陽の光がさしこんできた。僕は目を射られ、思わず顔を覆ったが、それ以上にそのお化けのような人にとって、光は恐ろしいものらしかった。 「きい——っ!」  と爪で黒板をひっかくような悲鳴を上げたかと思うと、僕と八重垣がさっき逃げてきた狭い通路へと、まるで細長いなにかの動物みたいに這いずりこんで、それきり姿が見えなくなった。 「だいじょうぶ?」  頭の上で声がした。見上げると、穴のふちで江上さんが僕たちを見下ろしている。 「真介!」  泣き声のような声で呼ばれてそちらのほうを見ると、江上さんの反対側に河合が立っている。僕は、 「やあ」  とまぬけな挨拶《あいさつ》をした。  穴の外に這い出してみると、そこには江上さんのほかにカメラマンの目高さんとディレクターの弥刀さんがいた。江上さんは弥刀さんを振り返って言った。 「ディレクター。これで信じていただけますか、あの親御さんたちは、子供を穴に引きずりこんでそこで殺し、『薬』として貯蔵しておくつもりだったんですよ」 「うーむ」  弥刀さんは、なんとも困ったような顔で言った。 「山に遊びに入った子供が、勝手に穴に落ちたってだけのことじゃないの?」 「じゃあどうして、お母さんがたの半数が行方知れずなんです! それに、向こうがわに停まってたマイクロバスは! あれ、市庁舎で使っているものですよ!」  目高さんが、ビデオを回しながら器用に片腕だけで八重垣を引っ張り出した。からになった穴の縁を見ると、そこに張りめぐらされていたミヤマスギの根が細くなり、じくじくあぶくを吹き出しながらじょじょに枯れていく。 「これは……?」  江上さんを見ると、江上さんはGパンのポケットから銀色の水筒を抜いてかざしてみせた。 「このなかのものをぶっかけたの。きみたちの悲鳴が聞こえたあたりにね」 「なんなんですか、それ?」 「ミヤマスギの分布が非常にかぎられているその理由よ。貴政から聞いてない? ミヤマスギの繁殖をおさえる種類の植物があるって」  そういえばパソ通で話したときそんなこと言ってたっけ。 「これは、その花粉を水に溶かしたものよ」 「それも貴政さんの発見?」 「いやね。発見や発明は男の専売特許だと思ってんの? 言っとくけど島本吉右衛門の研究を再発見したのは、わたしと貴政の二人がかりなんですからね」  江上さんが苦笑いしながら言い、僕は顔が熱くなったが、気になっていたことを言った。 「貴政さん、ゆうべ、『明日僕はあることをするつもりだ』って言ってました。ひょっとして、ミヤマスギを全滅させてあの洞窟《どうくつ》をふさぐんじゃ」 「なんですって」  江上さんは顔をしかめた。 「どんな大義名分があろうと、ひとつの植物相を滅ぼすなんて狂気の沙汰《さた》だわ。第一、貴政はまだ中にいるんでしょう?」 「ええ、そのはずです。それと、『彼らが言うことを聞いてくれなければ、僕は世界を地獄に変えるつもりだ』って」  江上さんは一瞬絶句し、それから少し青ざめて言った。 「どっちみち貴政を止めないと。あなたたちが穴に落ちたのはどこ?」 「さっき釣りしてた川のそばです。ここはどこですか」 「川はこの下よ。みんな早く、さっきの場所まで引き返して」  川に下る道は、大人一人がやっと通れるだけの草の分け目で、僕たちは最初に落ちた穴のところまでたどり着くだけで三十分もかかった。その間、僕は江上さんに、地面の下であったことを話して聞かせた。後ろで聞いていた河合が途中で泣きはじめた。八重垣はなんと、いつもの無関心な顔に戻って、しかも目高さんに背負われて平然としている。 「じゃあ芳照は、どうなっちゃったの?!」  河合が泣きながら言った。 「もう『薬』にされちゃったの?」 「いや、おばさんは、芳照は苦労してきたから殺されないって言ってた。『薬』になるのは、俺みたいな甘やかされたガキなんだって」  徳田の母親の、一方的な見方には腹が立っていたが、いまそこまで踏み込む元気はなかった。腹が立つといえば、徳田の障害を「苦労」だと言ったこともだ。あのおばさんは、僕たち3組が、ずっと徳田をお荷物扱いしてきたとでも思ってるんだろうか。  僕たちが最初に落ちた穴は、さっきよりも大きく広がってはいたが、そのぶん、垂直に落ちこんだようになっていて、底には光がとどかない。 「まかせとけ」  NBNのスタッフたちはそう言うと、あっという間にロープやヘッドランプを用意し、肩や腰に機材をくくりつけた。江上さんは、黙って僕と河合にもヘルメットを渡してくれた。気になるのは、八重垣に対してもそうしたことだ。 「江上さん、こいつ、僕たちのこと誘い出して、ママたちに渡そうとしたんだよ!!」 「でも、八重垣さんはきみのこと助けてくれたんでしょ?」  ヘルメットのベルトを止めながらしずかに言った江上さんは、きびしい目で僕を見た。僕は目をそらし、地面を見つめながらぼそぼそと言った。 「貴政さん、江上さんが子供のころ八重垣みたいだったって言ってました……ほんとですか?」  江上さんは答えずに、かちゃかちゃとロープの金具をセットし、機材をかつぎ上げた。  僕たちは、じゅずつなぎになって穴を下りた。僕や河合の体は、NBNのスタッフがしっかりと抱えてくれていた。そして、江上さんは八重垣を抱きかかえていた。まるで、なにか大事なものを運んでいるみたいだった。  先頭の目高さん、最後尾の弥刀さんにはさまれて行進を始めてしばらくして、僕の後ろにいた江上さんが話しだした。その声は、暗闇のなかでとてもよく響いた。 「わたしと弟は、すぐに物置みたいなとこへ入りこんだり、そうじゃなかったら山に行ってどうってことないぺんぺん草の名前を調べたり。そういうことが好きな子供だった。ずいぶんいじめられたもんだわ。わたしが小学校のときに最初のマクドナルドが市内にできてね。みんな、行こう行こうって騒いでるそばで、『なにそれ、くだらない』って言ってからはとくにね」 「江上さんをいじめるなんて」  僕は怒りをおぼえた。 「わたしのために怒ってくれるの? でもね真介くん、わたしには、きみたちみたいな『普通の子』たちの考えることがまったくわからなかったのよ。どうしてそんなにも、どうでもいいことしか考えられないのか。アニメやガチャガチャに夢中になるのはいっこうかまわないわ。女の子たちがファッションやアイドルに熱中するのにもね。だけど、どうしてそこで、自分たちがなにかを好きになることの不思議、そして他人はそれを好きでないことの不思議を考えないのかしら。むずかしく言うと、きみたちはどうしてそう、本質的じゃないの?」  そんなこと尋ねられたって、僕はそもそも江上さんが何を言ってるのかわからなかった。 「大きくなって、テレビ局に入って、秋のスペシャルの目玉『とっきーと3組のなかまたち』の放映に立ち会ったわ。そして思った。絶対、いるはずだって」 「いるはずって、なにが?」 「徳田くんが差別を受けないために、かわりにあなたたちのストレスを受け止めているクラスメイトがよ」  僕は驚いて江上さんのほうを振り向いた。足もとがすべり、ロープが引っ張られたので先頭の目高さんが、 「気をつけて!」  と叫んだ。 「あなたたち三組は、来たるべきバリアフリー社会にとってのすてきなモデルだったわね。援護するほうもされるほうもことさらに意識せず、外見上大きなへだたりがあってもそれは個性と見なして、互いの自立と尊厳を守る」  江上さんは笑った。それは長く、どこかとても悲しそうな笑い声だった。やがて笑いやめた江上さんは言った。 「そんなわけがあるもんですか。人間てそんなもんじゃない。とくにあなたたち子供は絶対にね。わたしは信用しなかった。画面には映ってなくても、本来徳田くんが受けるはずのいじめをかわって受けている子がいると確信してたわ。ねえ真介くん、あなたたち気づかなかったでしょう。視聴者も、たいがいの人は気づかない。あの人たちは、用意された感動を受け取って満足するだけだから。でも、『とっきーと3組のなかまたち』の映像には、いつもそらぞらしい緊張が漂ってたわ。ほがらかな3組の少年少女たち。でも子供は、決してほがらかになんか笑わないものなのよ。この仕事が来たとき、もうわたしは例の真菰銀行のことを調べはじめてたけど、真実を知るチャンスだと思ったわ。そして、あなたたちはわたしが思ったとおりの子供たちだった」 「僕のクラスに……いじめなんてありません」 「そう、あなたたちはそう思ってるでしょうね。むしろ自分たちが被害者だくらいに思ってる。八重垣さんが、義務を果たさず楽ばかりしてるとでも思ってる。わたしも、掃除さぼって裏山にいるってよくつるし上げ食ったわ。でも教えてちょうだいよ。裏山にいることより、どうして学校の掃除することのほうがそんなに偉いの?」 「だって、だって、みんなそうしてるし、そういうきまりだから……」 「あなたはなにかするとき、それしか理由を持たないの? そうじゃないでしょ? 第一、八重垣さんは義務をさぼってなんかいないわ。彼女がしていたのは偉大な仕事よ。徳田くんをみんなの攻撃から守るっていう」 「八重垣がいなきゃ、みんな徳田をいじめるっていうんですか!」 「だって、そのとおりのことが起こったじゃない。違う?」  そう、そのとおりだった。八重垣を蹴飛《けと》ばせなくてストレスのたまった連中は、自分だけいい目を見てると言って徳田に襲いかかったのだ。江上さんは静かに言った。 「あの様子は放映させてもらうわよ」 「江上さーん」  最後尾で弥刀さんがなさけない声を出した。当然だろう、いままで弥刀さんが作り上げてきた番組のイメージがぶちこわしになるのだ。江上さんはその声を無視して言った。その声はつめたく、僕は江上さんが、僕たちを本当はどう思っていたのかはじめて知った。 「残酷な子供たち。わたし、あなたたちのことが大嫌いなの。この八重垣さんを除いてね。わたしを救った薬が、子供を溶かしたものだと知っても、心なんて少しも痛まなかったわ」  そのとき、黙って江上さんに運んでもらっていた八重垣が意外なことを言った。 「でも、徳田くんや松島くんを見捨てないで」 「わかってるわよ」  江上さんは暗がりの中でため息をついた。 「好き嫌いと、人間としての義務は別だからね」 「おーい、ここかい?」  先頭の目高さんが立ち止まり、僕たちはそのまま目高さんのいるところまで進んでいった。そこは、すでに明かりのない、いくつかのヘッドランプで照らされているだけの場所だったが、たしかにさっき徳田が足に『薬』をぬりつけられていた穴ぐらだった。ママやおばさんたち、それから知らない大人の人たちは、みんなどこへ行ってしまったのだろうか。  その答えはすぐにわかった。 「なんだ、あの音は!」  と言う弥刀さんの叫びが聞こえるとすぐに、ほかのみんなの耳にも、ごおっという不吉な音が聞こえ、一瞬後には穴ぐらの中が水で満杯になった。穴には傾斜があり、僕たちは理科の法則にしたがって、いっせいにより低いほうへと押しながされた。 「息を吸い込んで! 潜るのよ!」  最後に江上さんのその言葉が聞こえ、僕はそのとおりにした。真っ暗な水のなかでもみくちゃになっているうちにロープがゆるみ、僕は息を少しずつ吐きだしながら、さらに穴の奥へと押しながされていった。     28  見上げると、スリットの向こうで星がまたたいていた。  僕は、テントのなかで目を覚ましたのだと思った。みんなでキャンプに来て、慣れないテントでの眠りのために見た悪い夢。すぐそばで、焚火《たきび》が燃えている気配だってするじゃないか。  僕は、がばっと起き上がった。そこは、岩と岩にはさまれたような場所で、その間で小さな焚火が燃えており、向こうがわにふたつの人影が見える。僕はそのほうへ行こうと立ち上がろうとしたが、ふいに足に激痛が走った。足を見ると、どこかで見たような毛布がかかっている。これは…… 「芳照!!」 「おう」  慣れ親しんだ徳田の声だった。その隣の人物は、 「あまり急いで動かないほうがいい。体をあちこち打ってるからね」  と言った。等々力貴政の声だった。僕はあたりを見回した。 「ここは……?」  徳田が答えた。 「あの穴から、少し下ったとこの支流のそばだ」 「あ、急に、水が……どうして?」 「彼ら、上流のダムを放水したんだよ」  等々力貴政が答えた。 「県の実力者や電力会社の人も、『薬』の製造には加担しているからね。きみたちとテレビ局のスタッフが穴に入るのをどこかから見ていたんだ」 「他には……河合は? 江上さんは? テレビ局の人たちは?!」 「河合ならそこに寝てる」  徳田が、自分の後ろがわを指さした。河合のはいていた青いジャージと投げ出された足が目に入った。徳田は首を振った。 「カメラマンの目高さんと、弥刀さんは死体になって向こうの川岸にいる。あと、大人もののジャケットがたくさん流されてきた」 「きみが流されてきた穴はとても狭かったんだよ。きみは通り抜けることができたが、大人連中は溺死だ」  と等々力貴政は言った。僕は、なんと言っていいかわからなかった。 「きみが姉のことを心配してるのはわかる。姉はスリムだし、水泳の達人だ。じゅうぶん望みはあると思う」  そう言いながらも、等々力貴政の手には、見覚えのある銀の水筒が握られていた。 「それ……流されてきたんですか」 「うん」  等々力貴政は水筒を振ってみせた。 「これと、僕が用意してきたぶんがあれば十分だろう。上流まで行って、川にこの水を流せば、流域のミヤマスギは全滅だ。万能薬ミヤマスギは、人体の持つ薬効を高めて引き出す物質を分泌している。きみの親たちは実にいいロケーションに住んでいたわけだ」 「じゃあ、いますぐでかけてください。町の偉い人たちが『薬』を作って売ってるんでしょう。早くしないと、邪魔されてしまう」  だが、なぜか等々力貴政は焚火をじっと見つめて立ち上がらなかった。僕は徳田のほうを向いた。 「おまえ、等々力さんに助けてもらったのか」 「ああ、まあな」  と徳田は言い、それから枝を取って火をかきまわすと、僕に向きなおった。 「なあ真介。俺たちの親って、意外と良心的だったと思わないか」 「りょ、良心的……?」 「だってそうだろう。『薬』の製法はわかった。それがあれば町の財政を立て直せる。そういうときに、よそからさらってきた子供じゃなく、自分たちの子供を犠牲にする決心をしたんだぞ」 「だ、だけど、それって……」 「まあ聞けよ。いま、世界中で何万人の子供が、働かされたり売春やらされたり、虐待されて殺されたりしてると思う。それから、何万人の人が、伝染病で苦しんでると思う。もちろん子供もだ。なあ、おふくろたちが儲《もう》けた金をどうしてたか知ってたか? 寄付してたんだぜ」 「全部じゃないだろ!」 「そりゃもちろんだ。でも、贅沢《ぜいたく》と言えるのはおまえの母ちゃんの支店、先生のネックレス……」 「ジョンの親の家」 「それくらいだろ? そりゃ、町の福利厚生に使うのはしょうがないさ、市がバックアップしてるんだから」 「おまえ、いったいなにが言いたい?」  徳田は、しばらく横を向いて黙っていて、それから言った。 「おまえひとりで、何十億っていうかせぎになるんだそうだ」  僕は、ものも言えずに徳田を見つめた。 「おまえが『薬』になってくれれば、もう他の子供を犠牲にしないですむかもしれない」 「本気で言ってんのか、芳照!」  僕は泣きたい気分で言った。徳田は、冷静な口調で続けた。 「だってどうせおまえ、いまのままじゃ母ちゃんのとこにも戻れないだろ? おまえが『薬』になれば、それを管理する権利は母ちゃんのもんだ。その『薬』が全部売れるまでは、おまえ母ちゃんといっしょにいられるんだぞ」 「何言ってんだ、芳照! どうしてそんな……どうして急に、そんなこと言うようになっちゃったんだよ!」  その言葉が合図だったかのように、徳田は立ち上がった——  そう、立ち上がったのだ、徳田は!  徳田の、腿《もも》の途中で断ち切られたように終わっていた足には、いま、立派な膝《ひざ》と関節と、長いすねが備わっていた。靴も靴下もはいてはいなかったが、その足をふみしめて、徳田は僕にゆっくりと近づいた。 「よ、芳照、おまえ……」 「そうだよ。これも『薬』の効果なんだよ。こんなことまでできるんだ、あの『薬』には! 自分の足で歩くってこういう感じか! 俺はやっとわかったよ、どんなに助けてくれても、いや、どんなに助けてくれなくっても、俺とおまえたちがわかり合うことなんて不可能だったんだ。俺はわかると思ってた。おまえもだろ。前は持ってたものをなくした人にしたってそうだ。でも、なかったものが手に入った俺は、わかり合ってたと思ったのが全部嘘だったって、やっとわかったんだ!」  徳田がさらに近づいてくる。僕は逃げようとした。だが、どうしても足が動かない。立ち上がろうとした僕の手は、そのへんの地面をやたらとひっかくだけだ。 「あれ……あれ、あれ?」 「立てないだろう、真介」  徳田がかがみこみながら言った。 「どうせ逃げることはできないんだ。『薬』にされる前に、納得してくれたらと思ったんだけど。残念だよ」  そう言って徳田は、僕の足にかかった毛布をばっとめくった。そして——  僕の悲鳴は、どこまで届いただろう。  僕の足——僕の両足は、茶色く変色し、その表面のひび割れた模様が木にそっくりだった。膝から下はまったく動かず、そしてこぶのあるすねのあたりからいくつもの細い根が分かれ、それは地面の下にめりこみ、どこまで続いているかわからない。僕の両足、膝から下は、完全に植物となっていた。それも、木。さらにはっきり言うなら、ミヤマスギに。 「だから、ミヤマスギ全滅の対策をとれないでいるんだ」  等々力貴政はそう言い、頭を抱えた。 「いま、川にこの水筒の水を流せば、きっときみの体にも影響が出る。きみの体はすでに根を出して、それが地中に伸びていきつつあるからだ!」 「どうして!」  僕は泣き叫んだ。 「どうして、こんな!」 「きみは、水に溶けたミヤマスギの樹液をたっぷりと浴びた」  等々力貴政は、悲痛な声で言った。 「あの植物園で、雨にとけた樹液にふれただけできみは動けなくなった。それは、きみがミヤマスギの個性を持っていることの証拠だ。きみの体はいま、ミヤマスギへと返ろうとしているんだ」  僕は必死になって自分の両足を引っ張った。びくともしない。そして、木化した部分と、まだ人間の肌の色をしている部分の境目は、じわじわと上がってきつつあり、皮膚がかたくなりじょじょに人間の特徴を失っていくのがはっきりとわかった。 「いやだ!! いやだ、こんな——」 「完全にミヤマスギになってしまったら、『薬』にしても効力は薄れる。たぶん大人たちは、おまえをあきらめて放っておくだろう。おまえは、木になって何百年もここに立ち続けるんだ。ひょっとしたら、意識だけは残るかもしれないぞ」  徳田が言い、僕は叫んだ。 「いやだ!! いやだ!! 助け——」 「いまならまだ、人間のままで死ねるぞ」  徳田の声は静かだった。僕はさらに叫んだ。 「等々力さん、助けて!!」  等々力貴政は、ぐったりと首を振った。 「この水を飲ませれば、いまのきみはおそらく死ぬだろう。だが、そうしたいと言うなら——」 「余計なことするな!!」  徳田は、聞いたこともないような冷たい声で言った。 「そんな死体、『薬』にすることもできないじゃないか」 「河合!!」  僕は、奥のほうに横たわっている河合を起こそうとした。徳田はゆっくり立ち上がると、河合のところまで行って、その体に手をそえて起こした。  河合の、首がなくなっていた。  もう悲鳴も出なかった。  徳田は言った。 「河合の『植物占い』、『ゆきのした』だったのおぼえてるか? ゆきのしたって、血止めになるんだって。きっと、血液の病気を治す薬になるんだろうな、河合。よかったよな、こいつよく、ボランティア活動したいって言ってたもんな」  徳田は僕を見、それからまた河合の首のない体に目をおとした。 「ああ、首? そりゃ、いちどに酒漬けにはできないだろ? 作業はさっき始めたばかりだ。そろそろ、手とか足とか取りにもどってくるんじゃないのか?」 「どう、説得できた?」  頭の上で声がした。見上げると、なつかしいママの顔がそこにあった。手にナタを持っており、つかつかと河合の死体に近づくと、いったんナタを下に置いて手を合わせ、それからそれを振り上げて河合の手首から先を切りおとし、ポケットに突っ込んでいたビニール袋に入れた。昼食はなにも腹に残ってはいなかったが、僕は吐いた。黄色い水が、口からごぼごぼとこぼれて胸にしみとなって広がった。ママは振り向くと、ハンカチを取り出して僕の顔と胸をふいた。そして、汚れるのもかまわずに僕をそっと抱きしめた。徳田が、後ろでぼそっと言った。 「母ちゃんの気持ち、わかってやれよ、真介」 「たいせつにたいせつに使ってあげるわ」  ママが僕の耳にささやいていた。 「真介は世界中の子供の中で生きる。ママはキリスト教徒じゃないけど、学生時代『一粒の麦もし死なずば』っていう小説を読んだわ。いま、その小説の言いたかったことがよくわかるわ」 「嘘ですね」  だしぬけに等々力貴政が言い、身動きしようとしてどでんとその場に転倒した。いままで火にかくれて見えなかった彼の足もとを見て、僕は息をのんだ。両方の、足首から先が切断されている。ママは言った。 「何ですって。なにが嘘よ」 「もうあなたたちは、必要な薬をほぼ揃えているはずだ。エイズだろうがエボラだろうが、ガンだろうがアルツハイマーだろうが、それぞれの病気に効く『薬』となる子供は、すでに何年ぶんも確保しているはずだ。とすれば、このうえほしいのは何の薬です? もっとはっきり訊《き》きましょうか。真介くんから、なんの薬を作りたいんです? もし、これ以上治せる病気が残っていないとしたら」  背後で、ざりっと砂利を踏む音がした。はっとなって目をこらしてよく見ると、後ろには、いつの間にかたくさんの大人たちが集まっていた。ママは、僕を抱く腕に力をこめた。 「あたしが、意味もなくこの子を死なせると思う?」 「思いませんよ。だが、いよいよそれを実行に移すのだとしたら、真の目的くらい彼に知る権利はあるはずだ」  そう言って等々力貴政は、うつろな目で僕を見た。 「もっとも彼が、それを知ってなおかつ『薬』になることを承諾するとは思えませんがね」  僕はママを見上げた。ママはほほえんでいるが、その口はかたく閉じられている。その真の目的とやらを、ママが僕に教えるつもりがないのは明らかだった。僕はママの胸に顔をうずめた。ママがいっそう強く僕を抱きしめ、それから僕の首に手をかけた。僕はママの腕の下から叫んだ。 「等々力さん。言ってたよね、もしママたちが思い止《とど》まってくれないんなら、世界を地獄に変えてやるって言ってたよね。やってよ、それを。どうやるか知らないけど、やって、今!」 「なに言ってるの、真介?」  ママは僕の首をしめる手のポーズのまま僕を見た。僕は言った。 「僕は人助けなんかしたくない。僕が死なないせいで、よその国の病人が何人死んだって僕はかまわない。僕は死ぬことより、利用されることのほうがいやだ。僕はひとつぶの麦になんかなりたくない。僕は、『薬』になりたくない! あっ!」  最後のあっというのは、ママがだしぬけに僕の横っつらをひっぱたいたからだ。こんなに強く殴られたのは初めてだった。ママはこぶしをかため、ぶるぶる震えながら目を見開いて僕を見ていた。 「なんて……なんてなさけないことを、あんたは! あんたは真介じゃないの? 真介はいい子だった。いつだって、弱い人のことを考えるいい子だった!」 「なにが弱い人のことを考えるだ!」  僕はどなりかえした。そして、そばに突っ立っている徳田に向かって言った。 「そうだよ、僕はおまえのことなんてなにもわかってなかったよ。それどころか、いま、僕はおまえが大嫌いだったってわかったよ! 等々力さん!」  等々力貴政はうなずいた。 「わかった。そうしよう」 「なにができるっていうの、ここから動けもしないのに」  ママはあざわらったが、等々力貴政は胸ポケットから携帯電話を取り出した。 「僕の足をちょん切っておきながら、通信手段を奪わないとは奇妙な人たちですね」 「警察呼ぼうっていうの? 署長も刑事部長もあたしたちの仲間よ」 「そんなことはわかってます。僕はね、世界中に方法を教えてやろうというんですよ」 「? 方法? なんの?」 「『薬』の作りかたに決まってるじゃないですか。あなたたちは、ネット販売で世界中に難病の特効薬をばらまいた。それで病気の治った人たちのなかには、その薬の正体を知りたいという人もいるでしょうし、あるいは家族や知り合いがそうしたところに目をつけるかもしれない。薬品業界では、有名な話になっていると見るべきです。薬オタクというのは異常に多いものでしてね。僕はこれから、ネットを通じて『薬』の秘密を全世界に発信するつもりです。すべては文章にしてはるか彼方《かなた》のパソコンに入れてあります。島本吉右衛門の残した研究もすべてデータベースにしてあります。あとは、送信保留を解除するためのコードを送るだけです」  等々力貴政がぴ、ぽ、ぱと携帯のボタンを押すのを、しばらくはみんなぼうっとして見ていた。あまりの意外さに言葉が出なかったのだろう。が、大人たちの間から悲鳴が上がり、ママが叫んだ。 「なに言ってるの! そんなことしたら……どういうことになるかわかってるの?!」 「もちろんわかってますよ」  落ち着いた声で等々力貴政は言った。 「ただでさえ子供の命の安い国では、あからさまな子殺しが横行することになるでしょう。みんながみんな、自分の、あるいは他人の子が『薬』に使えはしないかと誕生日をチェックするようになるでしょう。そのために、決まった誕生日の相手と子供を作るものも出てくるだろうし、殺されるためにだけ生まれてくる子供がどっと増えるでしょう。国連やユニセフがどんなに制止しても歯止めはきかず、計画出産とそのつぎにくる子殺しは世界の経済をうるおすでしょう」  等々力貴政は、必要なことを打ち込み終わったらしい携帯を高くかざした。 「そうしたことが、僕にはよくわかっています」 「やめさせろ!」  背後で野太い男の声がし、とびかかろうと身構える何人もの気配がした。だが等々力貴政は鞭《むち》のような声で言った。 「近づいたら、その瞬間にメッセージを送信します」  そう言われて、大人たちはぎりぎりと歯がみをしながらふみとどまった。ママがしぼり出すように言った。 「どうして……どうしてなの? あなた、いい人じゃないの?! あたしたち、そうなってはいけないと思ったから、これは町の中だけの秘密にしておこう、犠牲になるのは自分の子供だけで十分だって……そう思ってるからこそ……」 「一度発見されてしまった技術は、だれもが使えるようになるまでは互いの抑止力を持ちません。それまでに、何度も地獄が繰り返されるとしても。あなたたちが自分で自分を止めないのならば、だれかが同じ技術を持ち、あなたたちから利益を独占する権利を奪うのを助けるまでだ。それになにより、僕はあなたたちのことが嫌いなんですよ」  等々力貴政は目を閉じた。そのプッシュボタンにかけた指が震え、ボタンを押そうとする。大人たちがいっせいにどよめいた。  がしっ!  そう音を響かせて、宙を木の棒が一閃《いつせん》し、等々力貴政の携帯を持った手を打った。 「うっ!」  うめき声をあげて等々力貴政の手から携帯は飛び、五メートルくらい後ろの地面に転がった。 「いいかげんにしろよ、おっさん」  棒を握って徳田が言った。そのまま、もう一回枝をスイングさせて等々力貴政の頭をぶん殴る。等々力貴政は、ぐっと音をもらしながら地面に倒れた。 「なに考えてんだ、まったく。火事を消すために爆弾を落っことすつもりか?」  うおうと、奇妙な動物みたいな声をあげて、大人たちが等々力貴政に襲いかかった。骨の折れる音、なにかが潰《つぶ》れるような音が聞こえてきた。 「やめて、やめて、やめろ、みんな、やめろーっ!」  僕のそんな叫びはまるで役に立たなかった。だが—— 「きえ——っ!」  突如起こった、鋭い笛のような声には、等々力貴政を袋叩《ふくろだた》きにしていた連中の手がとまった。一瞬の間。そして、小柄な黒い影のようなものが宙を飛び、大人たちはわっと両側に分かれた。等々力貴政の血まみれの体があらわれた。  そのさきに着地したもの——それは、僕が地下の穴ぐらで見た、あの小柄で目の飛び出した、動くミイラみたいな狂った人物だった。その人物は、何年のばしっぱなしにしてるかもわからない髪をふり乱し、よだれをあたりにまき散らすと、くるっと一回転し、少し高いところにある岩の突き出たところに着地した。そして——その手には、等々力貴政の手からはじき飛ばされた携帯電話が握られていた。  その人物が、それを意図的にやったとは思えない。だが、その長い爪が触れでもしたのだろうか。僕たちの耳に、ボタンがプッシュされるかちっという音が、たしかに聞こえた。  だれも見ていない、だれもなにが起こったのか知らない、大爆発がその瞬間、見えない電波の中で炸裂《さくれつ》した。  大人たちは、じっと固まって動かなかった。その人物は、携帯電話をおもしろくもなさそうに地面に叩きつけると、また一回転して等々力貴政の頭のわきに着地した。その人物が奇妙なうめき声をあげると、等々力貴政は血まみれになった片目をあけ、その人物を見てにやっと笑い、こう言った。 「やあ、ひいひいひいひいひい爺《じい》さん」  僕は、呆然《ぼうぜん》としてその人物と等々力貴政を見比べた。等々力貴政は言った。 「真介くん。紹介しよう。島本、吉右衛門氏だ」  まだよく飲みこめてない僕に、等々力貴政はあえぎながら説明した。 「つまり、こういうことだ。これが、島本吉右衛門が失踪《しつそう》する前、最後の書きつけで残していった秘薬の効果というやつだ。お母さんがきみを殺さなければならなかった理由だ。島本吉右衛門の最後の発見、それは、不老不死の妙薬だったんだよ」  ばらばらばらばらと、ヘリコプターの音が上空でした。大人たちはそれに気づいてあわてはじめ、中の何人もがその場から走って姿を消した。ばらばらという音はものすごく近くまで来てから、こんどはまた遠ざかって行った。それでほっとした連中もいたみたいだが、そうではなかった。幅のせまい川岸を走って近づいてくるのは江上さんだった。そして、その後ろに、消防団員のような格好をしたおっさんたちと明らかに警察とわかる青い作業服の人たち、そして機材をかついだテレビクルーたち。江上さん以外はぜんぜん事情がわかってないらしく、ほっとした表情で「だいじょうぶですか?」と叫び、「生存者発見」とトランシーバーに向かってどなっている。ママは、真っ青になって僕と押しよせる人たちとの間に立ちはだかった。当然だろう。あの人たちがこの場所まで来れば、河合の首なし死体と血まみれの等々力貴政が見つかることになる。まだ残っていた大人たちのひとりが機転をきかして、 「あっちに岩にはさまれた人が!」  と叫んだものだから、救援隊はおうとうめいてそっちのほうへ走っていった。だが江上さんは騙《だま》されなかった。僕のいる岩の隙間《すきま》に走りこんでくると、等々力貴政をひと目見るなりうっとうめき、駆けよって抱き起こした。 「貴政!」 「やあ、姉さん。ゆうべはあまりゆっくり話せなかったね」  等々力貴政は、血のりであかなくなった目を江上さんに向けながら言った。 「いまもあんまり時間はなさそうだ。なんだったら僕の精子だけ採取して『薬』を作る?」 「だいじょうぶ、すぐ治るわよこんな傷、あたしが治してあげる!」  江上さんの叫びの意味を悟って、僕はぞっとなった。等々力貴政は言った。 「『薬』で? いいよ、結構だ。ずいぶんたくさん引き連れてきたみたいだけど、どこで調達してきたの?」 「隣の県からよ。テレビクルーもそう。ダムの放水で、キャンプに来ていた親たちと児童が流されたって言ったの。県境に近いから、すぐ飛んできてくれたわ」 「姉さん。僕たち、少し遊びがすぎたようだね——テレフォンサービスまで設置したのは、やり過ぎだったかも」 「ええ。でもあたしは、それで救われる人だっていると思ってた。いまでも、間違っていたとは思わない」  江上さんは、ふと視線を移して、膝《ひざ》の上のところまで植物化した僕の姿を見、そして叫んだ。 「真介くん?!」 「その子はもう死んだほうがいいんです」  僕の後ろに立ちはだかったママが言った。その声は氷のようで、まるでもう死んだ人間のことを話してるみたいだった。江上さんは、きっとママを睨《にら》むと、等々力貴政のそばに落ちていた銀色の水筒を取り上げた。ママが叫んだ。 「なにするの?!」 「まだ間に合うかもしれない。真介くんの、ミヤマスギ化した部分を殺さなきゃ」 「余計なことするな!」  江上さんの背後から、徳田が駆け寄った。だが江上さんは目にも止まらぬ早さで立ち上がると、一回転して徳田を蹴《け》り飛ばした。そして吐き捨てるように言った。 「このくそ餓鬼」  そして水筒の蓋《ふた》を取ると、中に残っていた水を僕の足にぶちまけた。  足だけではなく、下半身ぜんたいに激痛が走って、僕はがくがくと痙攣《けいれん》した。ママが絶叫した。僕の足はしゅうしゅうと白い煙を吐き、ミヤマスギ化した部分がみるみるうちに萎《な》えて溶け、それは見るまに液体となって流れ去り、僕には腿《もも》の途中で断ち切られた足だけが残った。僕は体じゅうに残る激痛にうめいて、倒れふした。足がなくなっただけではなく、体の内部から、命のもとが流れだしていくような気分だった。 「真介が! 真介が! 不老……不老不死の薬があああああ!」  ママは顔を覆ってうめき、足もとに置いておいたナタを取り上げるとなにやらわめきながら江上さんに襲いかかろうとした。だがそのとき、黒い小さな影がママに体あたりし、ママはナタを取りおとした。きえ——っという人間ばなれした声をあげて、島本吉右衛門がぴょんぴょんと飛びはね、手を打ちならしていた。笑っているらしかった。なにか、とてもおかしくてたまらなそうに笑っていた。  ママはがっくりとうなだれ、うつむいたまま石のように動かなくなった。そして、口のなかでつぶやいた。 「真介。おまえを、一生許さない」  そのママのうつむいたポーズ、じっと動かない頭をさしだしたポーズが、なにかを思い出させたのだろうか。島本吉右衛門は、落ちたナタを拾いあげた。気配でわかったのだろう、等々力貴政が叫んだ。 「お母さん、あぶない! 島本吉右衛門は——」  ママはうつむいたまま、 「え?」  と言った。等々力貴政がもういちど叫んだ。 「——斬首《ざんしゆ》人なんです」  そして島本吉右衛門は、ママの首を一刀のもとに斬り落とした。 [#改ページ] [#1字下げ]エピローグ  以上が、僕が十歳になる直前の夏に体験したことのすべてだ。その翌日、晴れて僕は十歳の誕生日を迎えたが、僕を見てもだれもそんな年だとは思わなかっただろう。  あの、ミヤマスギを枯らす水をあびた僕の肌には皺《しわ》がより、髪は真っ白でしかもその下の表皮はただれ、足はもとよりなく、残された体のほかの機能もがたがたになってしまっていたからだ。  等々力貴政はあのあと間もなく病院で死亡したが、彼の意図した通り、その後世界が地獄に突き落とされたのはご存じのとおりだ。『薬』の製法が世界中に公表されたことで、貧しいいくつかの国では乳幼児の生存率が0%に近いところまで落ち込んでしまった。その国の大人たちは将来のことを考えてないのかって? それはどこの国でもいっしょじゃないか。  さほど貧しくない国では、逆に障害のある子供は『薬』としての適性を調べて積極的に利用したほうがいいのではないかという議論が起こり、それがまたいくつかの国で合法化された。障害があるかどうかは厳密に審査するなんて言ってるが当然ザル法だ。そうした国では、子供を複数持つ夫婦にとって、そのうちのひとりを『薬』要員として財産化するのが常識で、『薬』適性の高い子供がいればお金が借りやすいのだとか。逆に、『薬』にする機会をのがしたまま十歳を超えてしまった子供の養育をいやがる親も増え、ストリートチルドレンが世界中で急増した。  もちろんいいことだってある。いまや、治せない病気はほとんどない。世界的な数学者が脳《のう》腫瘍《しゆよう》から生還したせいで、五百年来数学の世界を悩ませていたある定理の証明がなされたそうだし、エイズやエボラが駆逐され、アフリカの国々は共同で亡き等々力貴政に栄誉勲章を与えた。  だが、まだ不老不死の妙薬のことを知るものはない。等々力貴政は、島本吉右衛門の書き残したものから、そこだけを削除しておいたのだ。  だからこそ、僕がまだこうして生きていけるのだろう。  徳田芳照の、車椅子が使いやすくなっている家の奥まった一室で、僕は週に一回ほどヌード写真を見ながらオナニーをし、精液を容器に入れて徳田に渡す。ミヤマスギとしての個性は、両親の誕生日の組み合わせによるもので遺伝ではないと言っているのだが、徳田とその両親には、べつな考えもあるらしい。どうも、同じ組み合わせの子供をさらってきて実験したが、いい結果が出なかったらしいのだ。ひょっとしたら僕は、誕生日の組み合わせプラスアルファかなにかで生まれ出てくる何百年にひとりの逸材なのかもしれない。  徳田はいまや健康な手足のそろった元気いっぱいの中学生で、どうやら彼女もできたらしい。よく僕の部屋にきて彼女の話をしてくれる。僕は黙って聞いている。徳田は僕のことを、老人のような外見になってしまったので、中身までオナニーだけで満足している老人だと思っているらしい。ひとしきり話をしたあと、僕の精液を入れた容器をふざけたしぐさで押しいただき、部屋を出ていく。あの精子を、だれに受胎させるつもりなんだろう。 『薬』の秘密が公開されて、世の中が大混乱に陥っているさ中、「とっきーと3組のなかまたち」堂々の最終回はどさくさまぎれに放映され、僕たちが八重垣を殴る蹴《け》るしているシーンも、松島たちが徳田を殴る蹴るしているシーンも、ばっちり人目にさらされた。客観的になって見ると、僕たちが八重垣にしていたことはたしかにひどい。どうしてあのときは、そう思えなかったんだろう。番組の反響はものすごく、大多数のヒステリックな非難と、少数の皮肉屋の称賛を受けて、江上さんはさっさと退社し、今ではフリーライターをやっている。得意なジャンルは、もちろん「『薬』と児童売買」だ。  その江上さんがときどき来て話をしていく。『植物占い』の本を半分以上執筆し、テレフォンサービスに声をふきこんでいたのは自分なのに、その名誉と不名誉の両方を背負いこんだまま死んだ弟のことを、切れぎれに話す。たまちゃんことお母さんの病気は悪くなるいっぽうだが、たとえ貴政氏と同じ誕生日の男を見つけたとして、その男の子供をいっときでもお腹に宿す気になるかというとなれないのだそうだ。 「わりと古い人間だったわ、わたし」  このあいだは、そう言いのこして帰っていった。  松島公彦といえば、あのあと捜索された穴の底で、松島とあのときいっしょに穴に落ちた男子数人の死体、というか死体を切断したものが瓶《かめ》の中の酒に漬けられているのが発見された。なかには親が『薬』のことを知らされておらず、事後承諾で殺害を決行されてしまった連中もいた。ママたちは、大金が入ると言いさえすれば、どこの親も承知するものだと思っていたらしい。たしかに、たとえば河合の母親は、最初は河合を連れてどこかへ逃げるつもりだったが、結局だんなや親戚《しんせき》、工場の取引さきに要求されて、娘を『薬』にすることに同意していたのだそうだ。  そして、八重垣の行方だけが今にいたるもわかっていない。八重垣の母親はポスターを作ったり、テレビの公開捜査番組なんかに出て娘の行方を追っているが、効果はないようだ。  島本吉右衛門は、あのあとあの場所から姿を消してしまった。首をすっぱり落とされたママの死体を前にして、江戸時代から生きつづけてきていまは正気をうしなっている人物のしわざだと言うこともできず、僕も江上さんもあいまいなことしか言えなかった。結局、金をめぐっての仲間うちのトラブルだろうということで落ちついた。  僕はときどき夢想する。結局、島本吉右衛門は、また地下の穴ぐらにもどったんじゃないだろうか。諸田の万作とかいう十手持ちにすべての出口をふさがれ、光から遮断されたとき、自分の精神力に自信のあった吉右衛門は、最後に持ち込んだ『薬』を飲んで——そう、僕はそれが、息子重一郎を原料として作ったものだと確信している。重一郎は言うなれば、僕の遠いソウルメイトだったのだ。——それは吉右衛門の望みどおり不老不死をもたらしてはくれたが、かわりに人間らしい外見と理性を奪いさった。百なん年も経ってから、あるときいきなり穴ぐらを押しひろげ、いくつもの瓶《かめ》を設置してはときどきそれを取りにきていた連中、彼らの会話を物陰で聞いて、吉右衛門はどう思ったろう。なんとはなしの勝利感を感じたんじゃないだろうか。あの万作とかいう二足の草鞋《わらじ》は、親の情というものを必要以上に重要視していたらしいが、その者たちの会話は、むしろ自分が正しかったことを示してるじゃないかと。  そしていま、あの騒ぎのあとやってきた多くの人間によってふたたび出口はふさがれ、吉右衛門はその前に穴の中に戻ったんじゃないだろうか。いまさら、外で生きていくつもりはないから。  そしてそれは、八重垣も同じなんじゃないか。八重垣は僕たちがそうしようとしたとおり、あの洞窟《どうくつ》の中で、こんどこそだれにもいじめられず、邪魔されずに安らいでいるんじゃないか。そうしてあの美しい——いまでは美しいと思える——ソプラノで歌っているんじゃないか。ときおりは、じっと耳をかたむける吉右衛門のそばで。僕たちに殴られたせいで、じょじょに麻痺《まひ》していく頭脳で幸福を味わいながら。  ママの異父兄の鶴居氏は、なぜか罪に問われもせず、相変わらず今関グループや真菰銀行に支援されながら『薬』の研究を続けているらしい。らしいというのは、いちおう世間からは姿をくらましてしまったからだが、企業のなかにある研究所で手厚く保護されているという話だ。僕は、自分の精子がそこに持ち込まれているのではとふんでいる。  ある日徳田が、珍しい人を連れてきてくれた。あの穴ぐらの中で「感激の再会」をした、僕の父親だという人物だ。相変わらずぼうっとして、ときどきへらへら笑う。その日飲む酒さえあれば、あとはどうでもいいという性格のようだ。『薬』をめぐって世界で起きていることはもちろん知っているが、人間なんてそんなもんだの一言で終わらせる。その父親が、あるときこんなことを言った。 「あの芳照ってガキの彼女、見たぞ」 「ふーん。かわいいって聞いてるけど」 「ああ、上玉《じようだま》だな。おまえ、あの子この部屋に呼べないか」 「それは……まあ、芳照にその子と会いたいって頼めば連れてきてくれるかも」  というわけで、僕は徳田に頼んでその奈美江という子に会わせてもらった。奈美江は僕の境遇を珍しがり、僕は奈美江と意外と話が合うことに気がついた。最近では、奈美江は徳田のいないときに勝手に上がりこんで僕と話していったりする。僕がよぼよぼの老人同然で、なんの危険もないと思ってるからだろう。おととい帰るとき、またあさって来ると言っていたから、そろそろ訪ねてくるころだ。  僕には、もちろん奈美江をどうこうする力はない。しかし実は、今日、僕の部屋のベッドの下に僕の父親が隠れている。僕は奈美江と父親の誕生日の相性を調べておいた。ビンゴ! ふたりの間に子供が、それもいまから二百九十日のちに生まれる子供ができれば、その子を使って作った『薬』は僕に失われた足を取りもどさせてくれるとわかったのだ。必ず受胎させろと父親には言ってある。産むのをいやがるだろうから、なんだったら奈美江を監禁してもいい。僕はかなり広い部屋を与えられていて、奥には納戸がある。徳田は、最近では障害があったころのことなど忘れてしまったらしく、不必要なまでに僕に優しくしたりする。その優しさが不愉快だ。僕はここから脱出してみせる。徳田は、そんな気力とっくに僕にないと思っているようだ。  おまえは正しかった、徳田。いまでこそ立場は逆だが、僕たちはまったくわかり合っていなかったんだね。 角川ホラー文庫『夏の滴』平成15年9月10日初版発行