[#表紙(表紙.jpg)] 黒魔術白魔術 桐生 操 [#改ページ]   まえがき  黒魔術、悪魔礼拝、錬金術、呪い、秘密結社……。これらの言葉には、秘密めいたおどろおどろしい雰囲気がある。そもそもオカルトは、�隠されたもの�という意味。それは遠い昔からこの世に存在しながら、�裏の学問�として迫害されつづけてきた。  公表すると悪用されて、社会に悪影響を及ぼす恐れがあるからだ。あえてその危険な知識をここにご紹介するのも、世界が大変動のきざしを見せているいま、その変化に対応するには、魔術や神秘学を認識し理解しなければ何も始まらないと考えるからである。  さらにこの書には、六千年も昔から現代までひそかに生き続けてきた、西洋呪い術の数々もご紹介してある。憎い相手をひそかに呪い殺すことのできる呪い術は、あまりにも恐ろしい効果を発揮することから、昔のヨーロッパ各国では法律で禁止されてきた。  呪いは決して強者のためのものではない。悪徳や悪人がひしめく弱肉強食の社会に、弱者が呪い術を使うことで、なんとか生きぬこうとする、最後の手段なのだ。だからくれぐれも、悪用されることのないようにお願いしたい。  一九九五年十月 [#ここで字下げ終わり] [#地付き] 桐 生  操 [#改ページ] 目 次   まえがき  ㈵ 魔術と魔女狩り[#「魔術と魔女狩り」はゴシック体]     魔術の儀式     魔術の歴史     恐怖の魔女狩りと魔女裁判     魔女イゾベル     人造人間ゴーレム     夢魔という悪魔  ㈼ 秘密結社[#「秘密結社」はゴシック体]     薔薇十字団     悪魔教会     ブードゥー教     薔薇十字のカバラ団     慈善カルメル会     テンプル騎士団  ㈽ 錬金術[#「錬金術」はゴシック体]     錬金術     ファウスト博士     錬金術師フラメル     錬金術師サン・ジェルマン伯爵     錬金術師フルカネッリ  ㈿ 黒魔術の呪い[#「黒魔術の呪い」はゴシック体]     呪いの歴史     呪殺法とさまざまな呪い     恐怖の殺人呪術師ウラ     呪われた黒魔術     黒魔術の呪い     母親に呪われた男  ㈸ 呪われたものたち[#「呪われたものたち」はゴシック体]     �コーイ・ヌール�のダイヤ     呪われたホープのダイヤ     呪われたオルロフのダイヤ     死神ベンツ     Uボートの呪い     ツタンカーメン王の呪い     呪われたヴァレンチノの指輪     呪われたルイーズの指輪     呪われたケネディ家   参考資料表 [#改ページ]  ㈵ ———————————————————————————— 魔術と魔女狩り [#改ページ]   魔術の儀式  魔術の儀式でもっとも重要なのは、魔術師自身の�清め�である。ギリシア・エジプトの魔術教書をもとに、清めの過程をご紹介しよう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] 1、新月の三日目の夜、魔術師はナイル河畔におもむき、祭壇にオリーヴで火をおこすこと。 2、日の出まで祭壇のまわりを厳かに歩きまわり、太陽が地平線から離れたらすぐ、処女の白い雌鳥の首をはね、その血を右手にそそいで、ペチャペチャ音をたててなめること。つぎに雌鳥の死骸《しがい》を火に投じてから、魔術師はみずから川に飛び込むこと。 3、魔術師は岸にあがると、濡れた服を脱ぎすてて、新しい服を身につけること。そして、肩ごしに後ろを見たりしないで、その場を立ち去ること。 [#ここで字下げ終わり]  雌鳥の血から吸収された処女性、河への入水、新たな自我を象徴する服の着用によって、魔術師はしだいに日常から切り離されていく。後ろ向きに河からあがり、後ろをみてはならないのは、古い自我との関係を断ち切るためである。  つぎに必要なのは、魔術師の�自制、断食、貞節�である。魔術師は儀式の前には、女色を絶ち、酒や肉を断ち、睡眠も最小限にすることが必要だ。純潔をたもつことで性的エネルギーが蓄積され、食事や睡眠を制限することで、肉体は弱り、逆に精神力が強まっていくからだ。  儀式は一切の邪魔が入らぬ、人目につかない場所で行なうこと。場所は、神秘的で邪悪な雰囲気にあふれた、城、教会、修道院の廃墟《はいきよ》、墓場、森、砂漠などがふさわしい。個人の家でもいいが、その場合は四方の壁に黒い布をかけ、床も黒い敷物でおおい、すべての窓とドアに鍵《かぎ》をかけること。  魔術師は儀式の場所を、月桂樹の葉・樟脳《しようのう》・塩・白い樹脂・硫黄を混ぜあわせた溶液で、よく清めること。月桂樹の葉は麻酔薬、樟脳は貞節をたもつ力を持ち、純潔の白を意味する塩は、邪悪な力から魔術師を守るとされている。  さらに儀式には、様々な道具やアクセサリーが必要である。重要なのは、これらの道具が、すべて「処女(初もの)」であるということだ。魔術師自身の手で道具を作るか、それとも新品を購入することが望ましい。  これまで魔術以外の目的に使われた中古品を使うのは、非常に危険である。その品物がすでに、魔術師が意図しているものと相いれない、何かの影響力を受けているかも知れないからだ。道具の内に秘めた力が、以前の使用によって浪費されていないことが望ましいのだ。  魔術的儀式には、強力な力が作用する。一つ間違えば、その力が�ショート�し、魔術師や助手たちが、打ちのめされたり気絶させられるような危険も起こりうるのである。  儀式には、剣、短剣、鋭いナイフといったものが必要である。これらの品は、月満ちたときに、成功と繁栄の印である�木星�の日と時間に購入すること。それらと力を一つにするため、それらに向けて呪文《じゆもん》をとなえること。 �魔術の杖�は、ファロスのシンボルであり、魔術的力の至高のエンブレムの一つである。『大いなる教書』によると、魔法の杖は日の出に切りとったハシバミの木から作らねばならない。こうすることで、新たに生まれた太陽の、活力にあふれたエネルギーを捕らえることができるのだ。杖の長さは、一九インチ半であることが望ましい。  魔術師は、アドナイとエロイムとエリアルとエホバの名で、杖に対して、「自分の意志に従うよう、自分が引きつけたいと望むものすべてを引きつけるよう、自分が破壊したいと望むものすべてを破壊し、混沌《こんとん》に帰すよう」に命じる。  これらの剣・ナイフ・魔法の杖は、使用のときまで、黒や茶色以外の絹の布で包んでおくこと。使用前に聖水をかけたり、香りでたきこめて、清めておくこと。  魔術師が着る衣装も、重要な要素である。『魔術の諸要素』は、神聖な力が宿っているという理由で、僧侶が礼拝のとき着用した衣を着るようすすめている。それに対して『第四の書』は、頭から足の先まで白い亜麻布でおおうようにすすめている。下着や靴や帽子も、純潔のしるしである白を選ぶこと。  つぎに魔術師は、きわめて重要な、魔法陣を描くという作業に入る。くれぐれも魔法陣は正確に描くこと。でないと、アメイモン、エジン、ベルゼバブなど、恐ろしい力を持つ悪魔を召還する儀式のとき、魔術師の即死のような恐ろしい結果を生むことになろう。  現代の魔術師マグレガー・メイザーズは、そんな現場にいあわせた経験があるという。魔術師がうっかり上体をかがめ、それが魔法陣の端にかかってしまった。つぎの瞬間、手にした魔法の剣に強いショックが走り、魔術師はそのまま魔法陣の中に引きずりこまれてしまったというのだ。  第一番目の円は直径九フィートで、魔法の剣かナイフかチョークか石灰で描くこと。朱色の顔料で描いても良い。朱色の顔料は、�賢者の石�の成分である水銀と硫黄から出来ており、魔力を帯びていると考えられているのだ。  二番目の円は直径八フィートで、一番目の円の内側に描くこと。そのなかにいくつかの魔力を有する名前を書き、魔法陣の外側のまわりに聖水をまくこと。  魔法陣には、邪悪な力が侵入できるような、裂け目や亀裂を作らないこと。円の線を足で消してしまったりしないよう、十分に注意すること。魔術師や助手たちが円のなかに入って所定の位置についたら、すみやかに裂け目を閉じること。  魔術師エリファス・レヴィは、外側の円を�魔法の剣�の先で描くようにすすめている。内側の円は、子羊の皮か子供の皮膚で作ったヒモを、処刑された罪人の棺オケからとってきた四本の釘《くぎ》で止めて作ること。  その内側には三角形を描き、左右には、クマツヅラでかこった、人間の脂からつくったロウソクをおく。円の一番そとの柱には、五日のあいだ人肉を食べさせられた黒猫の頭、血のなかで溺《おぼ》れ死んだコウモリ、少女と交接した山羊の角、そして親殺し人の頭蓋骨を置くこと。  これらの簡単に手に入るとは言いがたいさまざまなものは、魔法陣から邪悪な力を取り除くためだけでなく、その内部に力を集中するためのものである。さらにこれらのおぞましい小道具は、死・苦悶・暴力・倒錯と結びついたことで、常軌を逸した力をおびている。たとえば処刑された罪人と結びつくことで、釘は、罪人が死の瞬間に覚えた苦悶と怒りの強力なエネルギーを与えられるのだ。罪人が拷問で死んだ場合、そのエネルギーはさらに強いものになるという。  人間の脂から作ったロウソクや、血液のしみついた布は、生命エネルギーを内に秘めている。五日のあいだ人肉を食べさせられた黒猫の頭、血のなかで溺れ死んだコウモリ、少女と交接した山羊の角、そして親殺し人の頭蓋骨は、残酷なおぞましい儀式において呼び起こされる、エネルギーの強力で刺激的な流れをつかさどるものたちである。  そして魔法陣は、これらの力の焦点であり、魔術師が自らの存在の深みから作業に注ぎこもうとするエネルギーの焦点なのだ。  つぎに円のなかに小さな火鉢を置き、木炭に火をつけて、ドクニンジン、ヒヨス、黒ヘリボー、インド大麻、アヘンなど、さまざまなものを燃やすこと。これらの植物はみな強力な麻酔薬で、麻痺《まひ》や幻覚を引き起こす力を持っている。これらを燃やすことで立ちのぼる煙は、霊を引きよせ、霊に姿をあらわすようにうながす役目をするのだ。  魔術教書の大半が、儀式のさなかに、動物を殺すようすすめている。『真実の書』では、魔術師は魔法の剣で一撃のもとに子供の喉をかき切り、呼び出そうとする霊の名を挙げて、「われはNを讚え、汝を殺す」ととなえる。 『ソロモンの鍵』では、魔術師は子供の頭を一撃のもとにはね、霊の名を挙げて、「ああ、尊き力強きお方よ、この生《い》け贄《に》えが汝《なんじ》を喜ばし汝に受け入れられんことを。どうぞ我らに忠実に仕えたまえ、さればさらによき生け贄えが汝に与えられよう」ととなえる。『ソロモンの鍵』は、善霊に対しては白い動物を、悪霊に対しては黒い動物を捧げるようすすめている。  生け贄えは、若く健康で処女でなければならない。たいてい生け贄えは、儀式のクライマックスで殺されることが多い。古代より、動物はエネルギーの宝庫で、殺されるときにそのエネルギーの大半を解き放つのだと考えられていた。  そのため生け贄えは、円のなかに動物のエネルギーを閉じこめて凝縮するため、円のなかで捧げられる。生け贄えが殺されるときに解き放つエネルギーの総量は、動物の大きさや強さと不釣り合いに大きいのだそうだ。  魔術師は、決してそれを手からもらしてはならない。万一、集中力を欠くようなことがあれば、魔術師は自分が解き放った生け贄えの力によって圧倒され、身を滅ぼしてしまうようなこともあるという。  かくて、清め・儀式の準備・呪文・煙をたくという一連の行為によって、魔術師が自分のなかに引き起こした�狂気�は、生け贄えを殺すというおぞましい行為と、どくどく流れ出る赤い血によって、ここで頂点に達するのである。 『赤い竜』は、こうすすめている。まず一羽の処女の雌鳥を捕まえてくる。これを二つの道のぶつかる十字路に連れていく。時計が真夜中を打ったら、イトスギの棒で円を描く。イトスギは墓場の木で、死の象徴なのだ。  そして魔術師は円のなかに立ち、魔力を最大限に集中し、両手で生きた雌鳥を二つに裂きながら、「エロヒムよ、エサイムよ、わが呼び声を聞け」と、ラテン語の呪文をとなえる。それから東を向き、悪魔に自分のもとに来るよう命ずると、悪魔はすぐ姿をあらわすのだそうだ。  しかし、人間を生け贄えにするほうが、はるかに効果的だという。エリファス・レヴィは、魔術教書が�キッド(子牛、子山羊など)�を殺すと述べている場合、それは動物ではなく人間の子供のことを意味しているのだと言い切っている。  同性愛者の魔術師アレイスター・クローリーは、「至高の霊的なわざにおいては、それに応じて、最も強力で純粋な力を有する生け贄えを選ばなければならない。完全に無垢《むく》で高い知性を持った男子が、もっともふさわしい生け贄えである」という。  しかし人間の生け贄えが手に入ることは滅多にないので、魔術師は動物を殺したり、自分や助手のからだを、血がどっと吹き出るまで傷つけたりした。これが、オルガスムでの性的エネルギーの発散と結びつくと、魔術師の狂気はさらに高まり、円のなかの力はいっそう強まるのである。  こうして円が描かれ、火鉢に火が灯され、魔術師と助手たちが所定の位置について、すべての準備がととのうと、いよいよ降霊術がはじまる。魔術師は呼び出す霊に全神経を集中してから、呪文をとなえ、霊に円の外にあらわれるように命じる。  呪文の内容はさまざまだが、重要なのは、魔力を帯びた名が正確に発音されることである。次に挙げる呪文は、『レメゲトン』からの引用である。無数の魔術教書のなかでも、『レメゲトン』はもっとも強力な呪文の数々を列挙している。 「ああ、我が欲する霊Nよ、我は全能の神の力を得て、ここに汝を呼び出す。そして我はバララメンシス、ポーマキエ、エポロロセデス、最も強力なる王子ゲニオとリアキデ、タータルスの玉座の大臣たち、第九天のアポロギアの玉座の王子たちの名において、汝に命ずる。  我は汝を呼び、汝に命ずる。我が霊Nよ。この降霊術は、もっとも神聖で光栄なるアドナイ、エル、エロイム、エロエ、ゼバオス、エリオン、エシェルス、ヤー、テトラグラマトン、サダイの名によってなされる。今ここに現われて、汝の姿を我に見せよ。この円の外側にはっきりした人間の姿で、恐れも躊躇《ちゆうちよ》もなく、一刻も早く。  世界のいかなる場所からであれ、すみやかに現れ、我が質問に答えよ。すみやかに現れよ、眼に見えるかたちで躊躇することなく。そして我が望むところをいかなることであれ、汝は永遠の命をもつ真の神、ヘリオレムの名によって呼び出されたのだから。われは、汝が従わねばならぬ汝の真の神の名をもって、また汝を支配する王子の名をもって、汝を呼ぶ。  来て、我が意を満たしたまえ。そして我が意に従い最後まで行ないたまえ。我は、あらゆる創造物が従う神の名によって、不滅の名、それによって四大元素が攪乱《かくらん》され、海が引き戻され、火が掻き乱され、大地が揺らされ、天上のもの、地上のもの、地獄のものすべての群れがうち震え混乱に陥る名テトラグラマトン・エホバによって、汝を呼び出す。  姿を現わし、嬉々《きき》として、はっきりと、欺くことなく我に語りかけよ。アドナイ・ゼバオスの名前において来たれ。来たれ。躊躇することなく。王の中の王、アドナイ・サダイが汝に命ずるのだ!」  霊があらわれるまでこの呪文を、三度にわたってくりかえす。初めのうちは穏やかな調子でいいが、しだいに激しく命令的な調子でとなえるようにする。三回同じ呪文を反復しても霊が現れない場合は、さらに強力な呪文をとなえること。  霊が現れたらすぐに火を消し、甘い香りを焚《た》いて丁重に迎えなければならない。しかし、言うことをきかせるため、ペンタグラムとソロモンのしるしを、霊に示すのを忘れてはならない。  霊に命令が下され、霊が魔術師の疑問に答えたなら、儀式は、霊に立ち去ってよいという許可をあたえて、儀式は終了する。魔術師は霊が立ち去るまで、円を離れられない。 「ああ、我が霊Nよ、汝、我が求めに答えたれば、我はここに人や獣を傷つけることなく、立ち去る許可を与えよう。行け、しかし神聖なる魔術の儀式によって呼び出された時は、いつでも時を移さず現われるよう用意をととのえておけ。我は、汝が平穏に立ち去ることを願う。神の平和が、汝と我のあいだに永久にあらんことを、アーメン」  これでも霊が立ち去らない場合は、事態はきわめて深刻だ。魔術師は、この許可を繰りかえし、悪臭を放つ物質を燃やさねばならない。たとえ霊がまったく姿をあらわさず、儀式が失敗に終わったようにみえても、去ってよいという許可をとなえる必要がある。霊が魔術師の知らぬまま、円の外をさまよっている可能性があるからだ……。 [#改ページ]   魔術の歴史  今日見るような魔術の原型が形づくられたのは、五千年以上も前の古代エジプトである。たとえば人を呪《のろ》い殺す術、死者をよみがえらせる術、霊をよぶ術、絵画や彫刻に命を吹きこむ術、海や川の水を支配する術、動物や虫に変身する術、黄金を造りだす術、そして予言や占いなど……。  魔術の守護神とされるトートは、月の神であると同時に、書記と知恵の神でもある。錬金術を発明したのもトートで、ギリシア人はこれを天の使者ヘルメスと同一視して、ヘルメス・トリスメギスツス(三倍も偉大なヘルメス)と呼んだ。『トートの書』とは、この伝説的人物が書き記したとされる、魔術の奥義書である。  当時のエジプトでは、ざっと挙げるだけでも、つぎのような神々が地方ごとに崇められていた。たとえば黒蛇神セト、イシスとオシリスの夫婦神、ワニの頭を持つセベク神、ネコの頭を持つバスティト神、獅子頭の女神セケト、太陽神ラーなどなど……。  そんな状態を嘆いたのが、エジプト第一八王朝時代のファラオ、イクナトン(紀元前一三七五年即位)である。彼は最高神をアトンとさだめ、それ以外の神をすべて追放することを決定した。  このころエジプトに生を享けたのが、のちにユダヤ民族の指導者となるモーゼである。当時エジプトのヘブライ(イスラエル)人は、奴隷として強制労働を課せられ、男子が生まれたら残らず殺すようにという過酷な命令を受けていた。  しかしモーゼは生まれてすぐ両親の手でかくまわれ、その後、ある縁からエジプトの王女にひろわれて養子にされる。しかし自分の出生の秘密を知ってから、同胞を救うことこそが自分の使命だと感じるようになるのである。  野心的なモーゼは、エジプト時代に、弾圧された宗教の神官から、神聖文字に秘められた魔術知識を盗みとったらしい。この知識が、のちにユダヤの秘儀とされる�カバラ�だったのだ。  さて、繁栄を誇ったエジプト王国も、紀元前一世紀にはローマの属州となったが、エジプトの魔術はヘブライ文明に受けつがれていった。旧約聖書によれば、ヘブライの民アブラハムの孫にあたるヨセフは、ファラオの見た夢を解きあかした報いとして、奴隷から副王にまで出世している。  その後名宰相ぶりをいかんなく発揮したヨセフは、故郷のカナンから一族を呼びよせ、このときからヘブライ人は四十年にわたって、エジプトに住むことになる。  旧約聖書の「出エジプト記」には、ヘブライ人の解放を要求するモーゼと、エジプトの魔術師との魔術合戦が描かれている。このときモーゼの演出した奇跡は、いわゆる�十の奇跡�と呼ばれるものだ。  たとえばモーゼが杖を王のまえに投げると、それが蛇に変身し、川の水がことごとく血に変わり、魚は死に、川は悪臭を帯びて、エジプト人は水を飲めなくなったという話。さらにモーゼが天にむかって手を差しのべると、暗闇が全エジプトにひろがり、三日のあいだ人々が互いの顔を見ることも出来なくなったという話……。  ファラオは馬にひかせた二輪の戦車と六百の精鋭部隊その他大軍を率いて、ヘブライ人一行を追いかけた。このとき一行は砂州の切れ目に差しかかって立ち往生するが、モーゼが海のうえに手を差しのべると、「主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は別れた」(第一四章二一節)のである。  ヘブライ人らはあらわれた陸地を、全力で駆けた。エジプト軍も闇と嵐のなかを突進してきたが、それまで引いていた水が、いつのまにか押しよせてきて、気がついたときは全軍が海に飲み込まれてしまったのである。  これこそが、モーゼがエジプト時代に学んだ魔術、�カバラ�だったとされる。いわゆる�カバラ�は、旧約聖書のなかにあらわされた隠れた象徴を読みとろうとする密教で、それを正しく解いた人間は、自然界のすべての秘密を読み取ることが出来るとされた。  言葉と数の魔力によって、カバリストらは信じがたい奇跡を実現する。燃えさかる大火を鎮め、悪疫を追い払い、戦火を遠い地に転じさせたりする。ある者はカバラの最古の聖典『創世の書』を利用して、人造人間まで作ったとされる。これが、いわゆるアート・マジックである。  いっぽうで、エジプトの魔術はギリシア・ローマにも流れこんだ。魔術の土俗的信仰のベールをはぎとり、哲学の衣装を着せたのはギリシア人である。ギリシアは高い科学文明を発達させていたが、彼らにとって神々の国は、人間があと一歩足をのばせば到達することのできる距離だった。そこでギリシアでは、�死者の口寄せ�や�神おろし�などの巫術《ふじゆつ》が盛んになったのである。  こうしてエジプトやギリシアはそれぞれに魔術体系を発展させたが、それらを統合させたのが、アレキサンダー大王によるペルシア遠征である。これでエジプト、ペルシア、ギリシアまで、広大な地域の文化がたがいに交流し、魔術もたがいに影響を与えあうことになった。  ローマ時代になると、ローマ人は各地に勢力をのばし、そのとき目撃した魔術儀式に関する記録を残している。各地の魔術が紹介されたローマは、いつのまにか各種魔術の博覧会のようなものになってしまった。やがてギリシアから引きついだ哲学が、新プラトン主義として開花し、グノーシス主義などの神秘思想と混ざりあって、�ヘルメス学�という魔術体系が生まれたのである。  ローマ帝国の神殿には、ローマ神話の神々のみならず、エジプトの神々、ヒンドゥー教の神々、さらにユダヤ教の唯一神エホバまでが祀《まつ》られていた。が、ここにキリスト教という思いがけない障害が現れた。もとはユダヤ教の一分派に過ぎなかったが、二百年足らずのあいだに、ローマの国教となるまでに発展したのである。  ヨーロッパを席巻したキリストは、カバラやヘルメス学を異端として排撃したため、魔術は地下に潜伏することとなった。カバラは各地に散ったユダヤ人の司祭にだけ極秘裡に伝えられるだけで、一三世紀までその実態は闇《やみ》におおわれたままだった。  ヘルメス学のほうはラテン語文書として伝わったが、これもかたっぱしからキリスト教教会に没収され、人の目にとまることはほとんどなかった。こうして魔術は中世の時代まで、キリスト教の陰で生きることになる。  中世になると、カバラとヘルメス学は交じりあい、現在の魔術原理の原型となった。中世の魔術は、ざっと三つに分けることができる。一つはヘルメス学とカバラからなる本流魔術、もう一つは土俗信仰の呪術、そしてもう一つは、本流の魔術と土俗信仰の魔術がまじりあった魔術である。  本流魔術を研究したのは、ヘブライ語やラテン語の読める、神学者や大学教授など、ごく少数の識者たちだった。土俗信仰の呪術は貧しい農民を中心にひろまり、のちに妖術《ようじゆつ》として発展していく。  本流魔術と土俗信仰の混成魔術は、貴族や市民などの知的中流階級のあいだで普及していった。彼らは自国の神学者の書いた本流魔術の知識と、土俗信仰魔術を同時に取り入れ、独自の魔術体系を形成していったのである。  これら三種の魔術は、キリスト教の対抗勢力として闇のなかで伝えられていった。しかし一二世紀に七回にわたる十字軍遠征が終わりをつげると、カトリック教会は敵をヨーロッパ内に求めるようになった。かくて異端迫害・魔女狩りの、いわゆる暗黒時代が始まるのである。  が、魔女狩りの熱狂も、近代的な合理主義の台頭とともに衰えていく。一八世紀、ヨーロッパ諸国での魔女裁判は、つぎつぎと幕を閉じていった。たとえば、一七一七年、イングランド。一七二二年、スコットランド。一七四五年、フランス。一七七五年、ドイツ。一七八一年、スペイン。一七八二年、スイス……。  魔術師たちは、この動乱の千三百年間を何とか生きのびた。あるものは聖職者にまぎれ、またあるものは奥地に隠者として身をひそめて、少数の弟子にだけ口伝の形で魔術の秘儀を伝えていったのである。  とくにルネサンス期の科学者や文学者が、魔術に対して寛大だったことが、魔術を滅亡より救った。ガリレオ・ガリレイ、コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、シェイクスピア、ニュートンなどの人々は、単に科学や文学の巨匠というだけでなく、薔薇《ばら》十字の理想を体現した偉大な魔術師でもあったのである。 [#改ページ]   恐怖の魔女狩りと魔女裁判  華やかなルネサンス文化が花開いた一六—一七世紀のヨーロッパでは、いっぽうで魔女の疑いをかけられた人々がつぎつぎ捕らえられ、残虐な拷問にかけられて処刑されていった。約三百年にわたって、ヨーロッパ中に荒れ狂った魔女狩りの嵐。このとき殺された人の数は、数十万とも数百万とも言われる。  一日として魔女を焼く火がのぼらない日はなく、魔女が捕らえられない日もなかった。殺されていった人間のほとんどは、名もなく貧しい女たちである。地位も名誉もある高位高官たちの理性を吹き飛ばし、何万もの無実の人々を焼き殺した、集団狂気の原因はなんだったのだろうか?  原因としては、第一に当時の社会不安を挙げることが出来よう。中世末期から近世にかけて、人々はそれまでにないどん底につきおとされていた。ヨーロッパの人口の三割近くを奪ったペストの流行、極端なインフレ、各地で広まった宗教改革運動など、激動のなかで、民衆の不安は頂点に達していた。  その捌《は》け口として選ばれたのが、�魔女�だったのである。魔女は魔力で天候を不順にし、牛の乳を涸《か》らし、畑の作物を荒らし、男を不能にし、胎児を流産させることが出来る。ときに赤ん坊を殺してその肉を食らい、悪魔に生《い》け贄《に》えとして捧げることもある……  というわけで、この世の不幸の一切が、魔女のせいにされたのである。断っておかねばならないが、この魔女�ウィッチ�には、女だけでなく、男も含まれる。悪魔と契約を結んだ者なら男女の差はなく、すべてが�ウィッチ�にされたのである。  とはいえ処刑されたのは圧倒的に女性が多かったことには、キリスト教の持つ�女嫌い�の思想が、大きく作用していた。そもそも人類創世のころから、最初に悪魔の誘惑にのって禁断の木の実を食べたのは、最初の女性イブだったのだ。  このことからつねに女性は聖書のなかで男性よりおとしめられ、女性は男性より、悪に染まりやすいという考えが定着していった。一人の男の魔女に対して一万人の魔女がいる、という歴史家ミシュレの言葉どおり、こうして多くの女たちが殺されていったのである。  一二世紀ごろから南フランスなどを中心に、ヨーロッパに噴出した一連の異端運動と正統教会の激しい衝突が起こった。ヨーロッパにまきおこった宗教改革運動に対抗して、ローマ法王は修道会を結成して、異端弾圧に力を入れはじめた。こうして成立したのが、異端者を法廷で裁く、�異端審問制度�である。  魔女裁判は文字どおりの暗黒裁判で、いったん魔女の疑いをかけられれば、決して無罪になることはなかった。ありとあらゆる拷問にかけられ、自己弁護の機会は一切与えられなかった。  たどりつく先は処刑場と相場が決まっており、しかも裁判費用から死体を焼く薪《たきぎ》代まで、教会が被告から没収した財産から出させる。実は教会は、もっぱらこの没収財産目当てに、魔女を探し出そうと躍起になったのである。  一五世紀に入ると、魔女刈りは一気に頂点をきわめた。決定打になったのが『魔女の鉄槌《てつつい》』の刊行である。ドミニコ会修道士であるヤーコブ・シュプレンゲルとハインリッヒ・インスティトリスの二人が、教皇インノケンティウス八世の認可のもと、一四八五年に出版した魔女裁判マニュアルだった。 『魔女の鉄槌』は出版されるやいなや、ドイツで十六版、フランスで十一版というように、またたくまに大ベストセラーになった。この書は「人間が綴った本のなかで、これほどの苦痛を生み出したものはない」と言われるほどの害悪を、全ヨーロッパにもたらしたのである。  書物は三部構成になっており、第一部では魔女や妖術使いが、迷信ではなく確かに実在していることを、神学的立場から説明している。  第二部は、魔女たちがどんな魔術を用いて、人々に危害を加えるかを紹介している。たとえば魔女は、嵐や稲妻を引き起こす。人間や動物を生殖不能にする。水辺を歩いている子供を両親の目前で、ただし両親に見られることなく、水のなかに投げ入れることができる。魔女は拷問にかけられても沈黙を守りとおすことが出来る。捕らえようとする人々の手を震わせ、恐怖を抱かせることができる。自分の子供でさえ悪魔に捧げてしまう……。  そして第三部では、魔女裁判の方法について書かれている。たとえば被告の着ているものを全部はぎとり、魔術の道具を隠していないか、すみずみまで探るように。さらに自白しないなら、縄で縛って拷問にかけよというような、具体的なことが書かれていた。  ところで、こうして摘発された魔女は、実際どんなことをしていると、信じられていたのだろう?  魔女になるには、何をおいてもまず、悪魔と契りをかわさねばならない。これは、「悪魔との契約」と呼ばれる。魔女はみずからすすんで、悪魔に仕えるむねの契約をかわすのだと信じられていたのだ。たとえば「私より美人の○○さんが憎い。なんとかおとしいれてやりたい」とか、「もう貧乏は沢山だ。山ほどお金をもうけて思い切り贅沢《ぜいたく》したい」などという欲望を持っている人間を、悪魔はめざとく見つけ、魔女になるように誘惑するのだ。  魔女になればどんな願いでもかなえることが出来るといわれて、魔女になる決心をした者は、悪魔との契約書をしたため、それに自らの血で署名をするのである。  ところで、この「悪魔との契約書」が、現代にも伝わっている。フランスはルーダン市の司祭ユルバン・グランディエが、悪魔とかわした契約書である。とはいえ、これも真っ赤な偽物で、どうせ彼を魔女に仕立てあげようと、異端審問官たちがでっちあげた代物ではあろうが……。  いずれにしても、この契約書は、パリ国立博物館に現在も展示されている。 「わが主であるあなた(悪魔)を、わが神として認め、生ある限りあなたに仕えることを私は約束する。そしてこのときより、あなた以外のすべての神々、イエス・キリスト、聖母マリア、カトリック教会を否定することを誓う。私はあなたを礼賛し、一日に最低三回臣従の礼を捧げる。万一、私が心変わりするようなことがあれば、私の霊魂と肉体と生命をあなたに捧げる。ユルバン・グランディエ、血をもって署名する」  しかしこのような契約書が書かれることは滅多になく、そのかわり、魔女はうずくまって片手を頭のうえに置き、もう一方の手を足の裏に入れ、こう悪魔に誓うことが多かった。「私は汝に、私の両手のあいだにある一切のものを与える」  こうして魔女は悪魔に一生仕えることを誓い、十字架を踏みにじり、カトリック教会を否認し、契約のしるしとして、自分の爪、髪、血などを悪魔に捧げる。それに悪魔のほうは魔女に、超自然的な魔力、毒薬、飛行薬、使い魔(魔女の手足として働く小悪魔)を与えるのである。  そしてこの契約のとき、悪魔は魔女の皮膚の一部をそっと噛《か》む。これが悪名高い�魔女のマーク�である。一六世紀の神学者ランベール・ダノーによると、悪魔はなるべく目立たないところにそのマークをつける。マークはいつも同じ形とはかぎらず、ときにはウサギやヒキガエルやクモの形をしていることもあるという。魔女マークは男性の場合はまぶたの裏や脇の下や肛門、女性の場合は乳房の下や陰部などによく見つかるのだそうだ。  また、悪魔が魔女の手先として働くようにつかわした使い魔も、現れるときはありふれた生物の形をとる。それもネコ、鳥、カエル、いたち、子ブタ、ひよこ、あるいはゴキブリなどに化けるのだという。  魔女はそれらに愛称をつけていたらしく、ブラックシンナー(黒い罪人)、グリーディーガット(大食いの腸)、ヴィネガー・トム(ヴィネガーには酢のほかに、不機嫌の意味もある)などの愛称が、古い記録に記されている。  ではここで、魔女の入信式がどんなものだったかをご紹介しよう。魔女の志願者は、荒野で開かれる魔女集会《サバト》に出席することになる。入信式はたいてい、この魔女集会の最初に行なわれるのだ。  そこには角をはやし、コウモリの翼をつけた、見るもおぞましい悪魔が待っている。志願者はここで、それまで信じてきたイエス・キリストや聖母マリアやカトリック教会をすべて否定し、その証拠として、悪魔の前で十字架を踏みつけるよう命じられるのだ。  さらに志願者は悪魔の名において悪魔の洗礼を授けられ、クリスチャンネームを捨て、悪魔の名前がつけられる。そして悪魔に自分の歯や爪などをわたし、地面に円を描いてそのなかで悪魔への服従を誓うのだ。  さらに自分の名を悪魔の持つ�死の書�に書き込み、子供を呪術によって一カ月に一人は殺し、悪魔に捧げることを誓う。そして最後に悪魔にひざまずいて、こう宣誓するのである。 「キリスト教会のミサをすべて否定し、聖母と聖人を侮辱し、教会の設備や聖遺物を出来るだけ破壊し、聖なるロウソクや聖水を決して用いず、自分の罪を心から懺悔《ざんげ》せず、そして悪魔と自分のかかわりを決して口外しない」  入信式で志願者がめでたく魔女として迎えられたあとは、悪魔と魔女たちの宴サバトが始まる。悪魔を中心に魔女たちが集い、あらゆる冒涜《ぼうとく》行為と性的乱交をくり広げるのだ。  魔女はそれぞれが、コヴェンとよばれるグループに属していた。一つのコヴェンには十二人の魔女と一人のいわば司会者がおり、あわせて十三という神秘的な数をつくった。司会者というのは悪魔自身か、または悪魔の代理をする人間だった。  サバトが開かれるのは決まって夜中で、午後十時ごろから夜明けまでのあいだである。開催場所としては、ドイツのブロッケン山、イタリアのベネヴェント近くの森、フランスのブルターニュのカルナック荒野をはじめ、墓地、洞窟《どうくつ》、野原など、さまざまな場所で開かれる。  ときには悪魔の命令で、ある地域のコヴェン全部が、合同大集会を開くこともあった。そんなときは、数十人から、なんと一万人も集まったという。  イギリスや西ヨーロッパでは、この大集会はハロウィーンの十月三十一日の晩に開催されると信じられた。ヨーロッパのもっと東のほうでは、メーデーの前夜、つまり四月三十日の聖ヴァルプルギスの夜に開催されると考えられた。  ドイツ人は悪魔が魔女を、シュヴァルツヴァルト(黒い森の意味)の最高峰ブロッケンの上に呼び集めると信じていた。そこでは、魔女たちがほうきの柄の馬に「アウフ・ウント・ダフォン・ウント・ニルゲンツ・アン(のぼって,出発して、どこへも行くな)」と、叫ぶ声が聞こえると信じられていた。  これらの特別な夜には,ヨーロッパ中の人々が、魔女が空中旅行の途中で舞い降りてこないよう、注意をはらった。家の戸口にはヤドリギ、糸に通したニンニク、馬の蹄鉄《ていてつ》などをぶらさげた。悪い精霊をよせつけないためのお守りである。ボヘミアでは屋根のうえにイバラや割れたガラスをまき散らした。夜飛ぶ魔女が舞い降りるのを思いとどまらせるためである。バイエルン地方ではヴァルプルギスの夜に、若者たちが高い丘のうえに集まり、一晩中、鞭を打ちならす習慣があった。鞭の音が聞こえる範囲内では、魔女は何の悪さも出来ないと信じられていたのだ。  魔女たちは夜、家の人々が寝静まってからこっそりサバトに出かける。ある者はほうきにまたがって空を飛び、ある者は動物の背中に乗って運ばれ、また、自らも動物に変身したりして、サバト会場へと急ぐ。  魔女たちが到着したサバトの会場には、黒いロウソクが不気味にともり、中心には、親分である悪魔が静かに座している。このとき、悪魔は化け物や動物(特に牡山羊)に変身していることが多い。  到着した魔女は悪魔に挨拶をするのだが、これは悪魔の肛門にキスをするという、おぞましいやり方だ。肛門へのキスは、明らかにキリスト教の祝福のキスの逆である。そして輪切りの蕪《かぶ》が、ホスチア(聖餠)の代わりに出される。  魔女がそろい、悪魔への挨拶がすむと、魔女志願者の入信式を行なう。入信式がすむと、魔女たちは�親分《マスター》�に、前のサバト以来、自分たちが行なった悪事を報告しあった。  魔女マザー・シプトンは、ある日のサバトの光景を、こう語っている。 「女たちがまず悪魔におじぎし、つぎに男たちがおじぎした。明かりは説教壇のまわりに並べ立てた黒いロウソクである。悪魔が真っ黒な姿で説教壇に立つと、皆が『ここにおります』と答えた。悪魔はまず、彼らがすべての約束を守ってよい召使だったか、また前回の集会以後どんな悪事をやったか、申し述べよと命じた。  悪魔の命令で、我々は三つの墓をあばき、死体の手指、足指、鼻などを切りとり、バラバラにして分け合った。アグネスは自分の分として二本の指の節をもらった。悪魔は我々に、それらの断片を乾くまで保存しておき、その後は粉にしてそれを使って悪いことをせよと命令した。それから、出来るかぎりありとあらゆる悪事をせよという彼の戒律を守れと命令した。我々は立ち去るまえに皆、彼のガウンのある決まった場所にキスした」  そのあとは、いよいよ宴会が始まる。テーブルにならぶ食べ物は、腐った肉、生《い》け贄《に》えの子供の肉、血などである。馬の頭蓋骨でつくった打楽器で、不気味な音楽が演奏される。こうして宴会で腹を満たした(?)悪魔と魔女は、ダンスを始める。まず背中合わせに円形になり、左まわりでグルグルまわるという、奇妙なダンスだ。  ダンスがすむと、ロウソクの火を消し、悪魔の合図で、悪魔や男女の魔女が入り乱れて、セックスにふける。男同士、女同士、親子同士、兄弟同士など、手近にいた者と相手かまわず激しく交わりあう。  このとき、悪魔自身もお気に入りの魔女を選んで、乱交に加わる。こうして思うさま欲望を満たした魔女たちは、鶏が鳴く前に帰路につき、家人に見つからないようにベッドにもぐりこむのである。  一六世紀ドイツの画家ハンス・バルドゥンク・グリーンに、『魔女たち』と題する銅版画がある。数人の魔女が空を飛んだり、あるいは飛ぶ用意をしている光景が描かれている。宙に浮いた老婆が片手に杖を持ち、もう片方の手で娘の腰を抱えてさらっていこうとしている。右手前景には、片手に煙のあがる麝香《じやこう》の器を持ち、いまにも宙に舞い上がろうとしている女がいる。  しかし問題なのは、その前景左手の女だ。彼女は左手に呪文を書いた札のようなものを持ち、もう一方の手を股間に入れて、塗り薬のようなものを陰部に塗っているのだ。  昔から魔女を描くほとんどの画家が、ほうきにまたがって空中を飛行する魔女を描いた。しかし魔女が飛ぶことの出来るのは、じつは股間に怪しげな塗り薬をすりこむおかげなのだ。実はこれこそが、悪名高い�魔女の塗り薬�である。  魔女の塗り薬の成分は、いったいどんなものなのだろうか? 血や小動物の死骸《しがい》など、さまざまな不気味な成分を混ぜてはいるが、主成分は幻覚剤的な薬用植物だったようだ。  ゲッチンゲン大学の精神病理学者H・ロイナー教授は、魔女の塗り薬の成分を、およそ五種のアルカロイドに大別した。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ・イヌホオズキ属のアトロパ・ベラドンナから抽出されるアトロピン。 ・ヒヨスから抽出したヒヨスアミン。 ・トリカブトのアコニチン。 ・ダトゥラ・ストニモニウムからとったスコポラミン。 ・オランダ・パセリからのアフロディシアクム。 [#ここで字下げ終わり]  これらの各成分がかもす効果は、深い昏睡状態、性的な夢幻的幻視、飛行体験などである。媚薬《びやく》として用いられていたオランダ・パセリは、性的狂宴の幻視効果を高めただろう。アコニチンによる動悸不全は、飛翔からの失墜感覚を引き起こしただろう。  ベラドンナによる幻覚は、激しい舞踊と結びつくと、一種の飛行感覚を引き起こす。睡眠への墜落、性的興奮、飛行感覚は、こうして各成分の作用の時差になって、交互に入り交じって現れたに違いない。  使用法は、これらアルカロイド抽出物の混合液を煮つめ、赤ん坊の血や脂、煤《すす》などを加えて、軟膏状にしたものを、太股の内側や性器の周囲にすり込むのである。しかし本当に、期待どおりの効果が得られたのだろうか?  じつは現代の学者で、魔女の塗り薬を実際に当時の処方どおりに作ってみた人物がいる。自然魔術の研究で高名な民族学者、ウィル・エーリッヒ・ポイケルト教授だ。一九六〇年、ポイケルトと友人は、一七世紀の魔女の塗り薬を処方どおりに復元してみて、自分の皮膚にすりこんでみた。成分はベラドンナ、ヒヨス、チョウセンアサガオ、その他の毒性植物を混ぜたものである。  服用後まもなく朦朧《もうろう》とした陶酔状態になり、それから深い昏睡状態におちいった。目が覚めたのはようやく二日後で、頭がズキズキして口のなかはカラカラだった。  その後ふたりは、それぞれ別個に�体験�を書いてみた。するとその結果は口裏をあわせたように一致して、しかも中世の魔女たちが拷問で吐きださせられた告白と、驚くほど一致していたのである。 「私たちが長時間睡眠のなかで体験したのは、夢幻の空間へのファンタスティックな飛翔、嫌らしい醜面をぶらさげたさまざまな生き物に囲まれたグロテスクな祭り、原始的な地獄めぐり、深い失墜、悪魔の冒険などだった」(ポイケルト)  では、中世の魔女たちの証言は、必ずしも根も葉もない嘘ではなかったのだ。ルネサンス・イタリアの自然科学者ヒエロニムス・カルダーヌスも、旅の幻覚をともなう塗り薬の話を書いている。 「それは、驚くべき事物の数々を見せてくれる。大半は快楽の家、緑なす行楽地、すばらしい大宴会、きらびやかな衣装をまとう美女たち、王侯、貴族……。人の心を魅するありとあらゆるものを見せてくれ、人々は自分がてっきりこれらの快楽を享楽していると錯覚する。しかし一方で彼らは、悪魔、鳥、牢獄、荒野、絞首吏や拷問刑吏の醜悪な姿も目にする。そのため遠い奇妙な国を、旅行しているような気がしてくるのだ」  天国と地獄とを同時体験するような、快楽と恐怖がかわるがわる登場してくる、未知の空間への旅行体験は、たぶん現代の幻覚剤によるトリップと同じようなものだったろう。  魔女は、さまざまな超人的な能力を持っていると考えられていた。その一つに、人を殺して心臓を食べたあと、かわりにワラをつめこみ、もう一度生きた状態にもどすという能力があった。その人物は、外から見ただけでは、ごく普通の人間だったが、二度と笑うことがなく、愛や親切や優しさなどの感情を何も示さないのだという。  しかし魔女の能力のなかで、もっとも恐れられたのは、ワラ人形を用いて、相手に害を与える能力だった。魔女は教会に出かけて、後ろ向きのまま祭壇に近寄り、ある呪文をつぶやく。  そのあと、ムギワラの束をくくって人間のかたちにして、教会の近くの地面に埋める。そのワラ人形が湿った土のなかに埋められたら、すぐ腐って急激な痛みのない死を引き起こすと考えられた。しかし乾いた土のなかに埋められたら、かなりの期間腐らないままにあり、ぐずぐず長引く苦しい死をもたらすだろう。  さらに魔女の能力のなかで、もっとも恐れられたものに、�邪眼�(イーブル・アイ)というものがある。ひと睨《にら》みで人の命を奪ったり、病気にしたりする能力である。なかには本人が意識していなくても、相手をじっと見るだけで呪《のろ》いがかかってしまうこともあった。畑の作物が枯れたり、家畜が子を産まなくなったりすることも、邪眼の呪いのせいだとされた。まなざしにはさまざまな魔力があると信じられていたのだった。  さらに魔女は、ねらった人間に悪魔をのりうつらせることができた。いわゆる�悪魔つき�である。特に悪魔にとりつかれやすいのは、女と子供だった。悪魔につかれた人は凶暴な発作を起こしたり、泣きわめいて床をころげまわったりと、錯乱状態に陥ってしまう。  人の体から悪魔を退散させるにはさまざまな方法があったが、よく行なわれたのが、その人を裸にして鞭で打って悪魔を出す方法と、車輪に体を縛りつけ、車輪をまわし続けて悪魔を退散させる方法である。  ときには悪魔|祓《ばら》いをするために、悪魔祓い師(エクソシスト)が呼ばれることもある。悪魔祓い師が悪魔祓いのときに読みあげる言葉は、キリスト教の洗礼の儀式からとられたものもある。 「汝、不浄なる魂を祓う! この神のしもべより遠く失せよ! そこより出でよ! 汝が運命を聞け、呪われたるデヴィルよ! 呪われたるサタンよ!」  悪魔祓いの儀式は、聖書の一節を読みあげる段階から、長々と祈祷《きとう》文を読みあげる段階まで、三段階で構成される。そして悪魔祓い師の努力で、ついていた人の体から出ていくとき、悪魔は蜘蛛や煙、汚物、血などの姿になっているという。  魔女を処刑台へ導いたきっかけの大半は、「あいつは魔女かもしれない」という、人々の無責任な噂《うわさ》だった。一度魔女の噂が立ってしまったら、もう逃げるすべはなく、行きつくところは決まっていた。  なぜなら、異端審問官たちはみな、魔女の犯罪は、他の犯罪とちがって、世間の噂の真実性を詮索する必要はない。魔女の罪は、証人として喚問された法律学者でさえ、立証がむずかしいほどの大罪なのだと考えていたのである。  魔女を摘発するもう一つの方法は、�密告�だった。密告はごく日常的に行なわれ、昨日は魔女を密告した者が、明日には自分が魔女として密告されることもあった。子が親を、妹が姉をというように、家族を密告することもざらにあったという。  たとえばイギリスで、ウルスラ・ケンプという女性が、近所の女性とその娘たちを呪術で病気にして殺したという疑いで魔女にされ、絞首刑になったが、彼女を密告したのはなんと彼女の八歳の息子だったという。  魔女裁判でもっとも重視されたのが被告の自白で、『魔女の鉄槌』では、自白だけでも、被告を魔女とすることができるとしている。そしてその自白を引き出したのが、恐ろしい拷問なのである。  異端審問官らが、被告たちに与えた尋問は、たとえばつぎのようなものである。「魔女になってどのぐらいたつのか? なぜ、どうやって魔女になったのか? 悪魔にどんな誓いを立てたのか? サバトにはお前のほかに誰が参加していたか? お前は誰にどんな危害を加えたか? お前の共犯者は誰か?」  被告たちは、恐ろしい拷問道具がずらり並んだ部屋に連れこまれる。そして自分は無実だと必死に主張しているにもかかわらず、お前の共犯者は誰かなどと、冷酷な異端審問官にとんちんかんな尋問をされる。彼らは自分の言葉に耳を傾けてもらえない悔しさと、このままでは殺されてしまうというあせりで、パニックに陥ってしまう。  そして最後に訪れる拷問という決定打で、結局、彼らは自分が魔女だと自白するしかなくなるのである。これまで処刑された魔女たちの自白や、審問官の悪魔的な想像力をもとに、いつしか自白内容の定型が出来あがっていた。 「魔女になったのは○○歳のときです。サバトにも参加しました。そこで悪魔や他の魔女たちとセックスし、さらってきた子供を煮て食べました。悪魔に与えられた魔力で伝染病も流行らせたり、○○さんを呪術で殺しました。私のほかには○○さんと××さんが魔女です……」  数百年ものあいだ、魔女の自白はほとんど同じような内容だった。尋問する内容と順番は決まりきっているので、しだいに裁判官の尋問する事項の欄は、ただの数字や暗号で代用されるようになった。  異端審問官は、魔女に自分のした悪事を自白させただけではなく、その仲間を炙《あぶ》りだすことに躍起になった。一人の魔女が逮捕されると、必ず何人もの魔女がつぎつぎ摘発されることとなる。拷問にかけられ、魔女たちは地獄の苦しみのなかで、知人の名を手あたりしだいに口にする。  ともかく誰かの名をあげなければ、拷問は永遠に終わらないのだ。自分のせいで、彼らも同じような拷問を受けることになるのだと思うと、良心が咎《とが》めながらも……。こうして捕らえられた者は同じように拷問と自白を強いられ、魔女の数は鼠算式に増えていくのである。  魔女の大半が火あぶりになったが、方法は二つあった。絞殺されてからの火刑と、生きながらの火刑である。どちらも結果は同じだが、残酷さにかけては大きな開きがあった。チロチロ燃える炎で、意識があるまま焼かれていくことは、想像を絶するほどの苦しみだった。皮膚が焼け落ち、骨がむきだしても、意識だけは残っている。生きながらの火あぶりの場合、絶命するまで半時間以上も地獄の苦しみを味わわなければならなかったという。  ところで、魔女狩りが行なわれた全期間を通して、合計どのぐらいの数の人々が焼かれたかは、現在その正確な数をつかむことは出来ない。ただ、魔女狩りの開始時期を一四五〇年として、終焉期を一七五〇年にすることでは、大方の研究者の意見は一致しているようだ。  フランスだけを見ても、たとえばボルドーでは一五七七年だけで四百人。アルザスでは一五九六年だけで二百人。ストラスブールでは一五八二年十月だけで百三十四人の人々が焼かれている。  いっぽうドイツに目を転じてみれば、一五八三年にオスナブルックでおこなわれた大量処刑では、百二十一名の魔女を火刑にしたのをはじめ、一五八九年にも同地で、百三十三名を火刑に処している。またエルヴァンゲンでは一六一二年に百六十七人、バイエルンでは一六二九年だけで二百七十四人。ザクセンでは一五八九年のある一日だけで百三十三人、ヴュルツブルクでは一六二三—三一年で九百人の人々を、火刑台におくっている。  一六三一—三五年の五年間には、ドイツのケルン大司教管下にある三つの村、ラインバッハ、メッケンハイム、フレルツハイムで、それぞれわずか三百戸ばかりの村で、百五十名前後の人々が焼かれている。またロレーヌの検事総長をしていたニコラ・レミは、一五八一—九一年の約十年間に、九百人を火刑台に送ったと豪語し、バチカンの役人だったバルトロメオ・スピナは、一千人の魔女を焼き殺してやったと豪語している。  結局のところヨーロッパ全体では、一五世紀末から一八世紀初頭まで、約三十万人の魔女が焼かれたとも、九百万人とも言われている。  ヨーロッパ各地では魔女を焼く黒煙が毎日たえることなく、空をおおっていた。まさに暗黒時代という名にふさわしい光景である。あるていどの魔女の数がそろうと、処刑は�死の祭典�なるショーとして大々的に行なわれた。  これという気晴らしのない時代、人々は期待に胸躍らせてショーに参加し、裁判官が魔女たちの罪状を読みあげると、引き出されてきた魔女に石を投げたり、口汚い罵《ののし》りを浴びせた。教会と民衆が一緒になって、残酷な処刑ショーに酔いしれていたのだ。  やがて魔女たちは、燃えやすくするために体に硫黄を塗られ、衣服をはぎとられる。そして火刑台に縛りつけられ、周囲に薪《たきぎ》をうずたかく積まれて火を点けられるのである。魔女裁判では、処刑される魔女は全財産を没収されることになっていた。魔女狩りがここまで盛んになったのも、財産没収が異端審問官たちのうまみになっていたからである。  捕らえられた魔女の財産については徹底的に調査が行なわれ、魔女たちが懸命に貯金した現金や不動産は言うまでもなく、魔女が人に貸しつけていた債権も免れなかった。異端審問官たちは魔女に代わって、借金を取り立てに街をまわったのだ。  さらに魔女裁判にかかる費用もすべて、没収財産から差し引かれた。絞殺されるときの綱や、火刑のときの薪の費用まで、すべてこれからまかなわれたのだ。  拷問の恐ろしさは、想像を絶するものだった。まず被告は拷問室にともなわれ、裸にむかれて、部屋に並べられた拷問道具の数々を見せられ、自白をするよううながされる。それでも自白を拒否すれば、体を縛りあげられ、鞭打たれて尋問が繰り返される。  魔女裁判でおこなわれた拷問には、たとえばつぎのようなものがある。 ●指詰め……万力のような道具で、爪が割れ、骨が砕けるまで手をはさみこむ。またはネジのついた二台の装置に、囚人の左右の親指をはめこませ、ゆっくり締めはじめて、血が吹き出すまで締めつづける方法や、ペンチで爪をはぎとることもよくあった。しだいに指は押しつぶされ、グシャッという音とともに血が吹き出し、骨が砕ける。爪と指のあいだは神経が密集している箇所で、それこそ想像を絶する痛みだったという。 ●肝つぶし……短いハシゴに囚人の手足をくくりつけ、その綱をウインチにつなぐと、くるくる回りだす。囚人は右に左にと引きまわされ、肝をつぶしてしまうというわけだ。ドイツ皇帝カール五世の定めた刑事法典カロリナには、罪人があくまで口を割らないなら、腹から後光のようなものが出るのが見えるぐらいに引きまわすようにと書いてある。 ●スペイン風長靴……ネジのついた長靴に罪人の脚を入れさせ、ふくらはぎと脛骨を同時に締めつける。きつく締めつけると脚の骨が折れることもある。ネジの下にクサビを突っ込むと、ますます痛みは耐えがたいものになり、もし拷問に耐えられたとしても、たいてい脚が不自由になる。 ●拷問椅子……鉄の鋲《びよう》が一面に植え込まれた椅子に、無理やり座らされる。なかには六時間にもわたってこの椅子に座らされた例があるとか。 ●硫酸責め……シャツを硫酸にとっぷり浸してから、それを容疑者に着せる。あるいは服を着せてから、硫酸をかける方法もある。皮膚や髪は焼けただれ、ズルリと皮膚の表面がむけていき、想像を絶する苦しみだったという。 ●こすり責め……首に縄を巻きつけて、ごしごしこするもので、極端な例では首の骨が露出してしまった。 ●沐浴《もくよく》責め……氷がごろごろ浮かんだ水槽に、被告を真っ裸にして長い時間ひたしておく。 ●羽根火責め……羽根に火をつけて、被告の腕や股の付け根にかざしていぶる。 ●松明《たいまつ》責め……腕をピンと伸ばして縛った罪人の脇のしたを、松明の炎でじりじり焼け焦がす。 ●ブーツ責め……被告に革の長靴をはかせ、そのなかに煮えたぎった湯や油をそそぎこむ。ときには足を切り開いて、傷口に煮えたぎった油をそそぎこむことも。 ●四肢牽引……被告をハシゴに縄できつく縛りつけ、四肢を同時に四方から強い力で引っ張る。四肢の関節はすべてはずれ、身動きできない状態になってしまう。 ●吊り落とし……被告を後ろ手に縛りあげ、天井まで高く縄でつり上げる。そこから急に縄をゆるめて一気に勢いよく落とすが、地上すれすれのところで止める。たいてい一回で四肢の関節はすべてはずれ、三回目ともなると、大半の者は絶命したという。 ●万力責め……指砕きと同じような万力をすねなどにあて、骨が砕けるまで締めあげる。当然、骨は砕け、肉はちぎれて飛び出すという。その苦痛は、気絶さえ許さない壮絶なものだ。 ●焼きゴテ、焼けた鉄の靴……真っ赤に焼けた焼きゴテを体に押しつける。ジュッという音とともに、肉は焼けただれて真っ黒に染まる。真っ赤に焼けた鉄の靴をはかせ、そのうえからハンマーで打ちつけるというバリエーションもあった。被告の足はもはやその原形をとどめず、むろん歩くことなど不可能だった。 ●目つぶし……編み棒のような鉄の棒を両目に突き刺し、盲目にする。 ●水責め……被告の体を台に縛りつけ、口を無理矢理こじあけられ、漏斗《ろうと》で水を流し込む。最初に約九リットルの水を流しこみ、まだ自白しないときはさらに九リットルの水を流しこむ。胃は水ではちきれんばかりで、息もできない状態になる。 ●爪剥ぎ……尖った鉄を爪と肉のあいだの奥深くまで差しこみ、鉄をグイッと引きあげ、爪を無理やり引きはがす。爪を剥がしたむき出しの肉の部分に、針を突き刺す方法もあった。 ●不眠責め……被告を何日ものあいだ、一睡もさせないで、牢のなかを一日も休むことなく、ぐるぐると歩きまわらせる。 ●塩ニシン……猛烈に塩のきいたニシン料理を無理やり食べさせて、その後数日のあいだ水をいっさい与えない。  当時考えられた、魔女識別法には二つある。その一つは「針刺し法」だ。当時、悪魔は魔女に、家畜に化けた「使い魔」を手先として与え、魔女はこの使い魔に自分の血を分け与えると考えられていた。  そこで悪魔学者たちは魔女が使い魔に自分の血をすわせた証拠に、からだの何処かにマークのようなものが残っているはずだと主張した。そこで異端審問官たちは、被告を素裸にして拷問台に縛りつけ、ときにはからだ中の毛も剃り落としてすみずみまで点検させた。  さらに審問官は、悪魔のしるしのある場所は、魔法で感覚がマヒしているはずだと言いだして、その箇所を針で突き刺して探ることにした。それこそからだ中、肉の奥まで針で刺しまくるから、たまったものではない。のちにはまぶたの裏や舌の裏、性器のなかまで、針刺しの拷問はおよんでいった。  悪徳魔女発見業者のなかには、突き刺すと針が柄のなかに引っ込んでしまう、インチキ針を使う者もいた。こんな業者にかかった魔女は、痛みはなかったかもしれないが、当然ながら処刑台への近道を歩くことになった。  しかし針刺しでも判別がつかないと、もう一つの方法があった。魔女は水に拒否される(つまり水のうえに浮かぶ)と信じられていたため、被告の手足を一緒に縛り、「魔女風呂」と名付けられた浴槽のなかに投げこんだのだ。  もし浮き上がってこなければ無罪。浮き上がってきたら魔女である証拠である。しかしいずれにしても、浮き上がってこなかった者はそのまま命を落とすこととなり、どちらに転んでも結局は助かる見込みはないのだ。  前記のように、魔女裁判は教会にとって財産没収という恰好《かつこう》の商売になったが、裁判以前の段階である�魔女の摘発�を商売にしている人もいた。いわゆる�魔女発見業者�である。  これになるには、別にこれという資格はいらない。異端審問官でなくてもいいし、別に権力者でも教会関係者でなくてもいい。ただ、魔女の�発見�が、人一倍たくみでさえあれば良かったのだ。  魔女発見業者のなかで、もっとも有名だったのが、イギリスはサフォーク州出身の弁護士、マシュー・ホプキンズである。別名「魔女刈り将軍」と呼ばれ、一六四五年からたった二年のあいだに、三百人以上の魔女を処刑台に送りこんだ。彼とその部下たちが摘発した魔女の数は、イギリスの魔女狩りの犠牲者の、約三分の一にもなるという。  ホプキンズはエセックスを中心に魔女発見活動を開始し、魔女の恐怖におびえていた人々は、魔女を発見してくれるのならと、ホプキンズにおしげなく報酬を払った。ホプキンズは、魔女をひとり発見するたびに、高いときは二十数ポンドの金を要求した。一日の平均賃金がわずか六ペンス(一ポンド=六〇ペンス)の時代、ほとんど破格の値段だった。  ホプキンズの魔女発見のキーポイントは、使い魔の発見だった。彼はこれぞ魔女と狙《ねら》いをつけた人物の家には、必ず使い魔がいると断言した。犬、ネコ、蚊、蠅、クモなど、それこそどんな家にでもいるような生き物を、彼は使い魔だと信じていた。  ホプキンズの魔女に対する拷問も残酷なもので、魔女と見なした人間を裸にして、例の魔女マーク発見のための試し針を、全身に突き刺したが、このとき使った針は、針先を人体におしつけると、針が体内に入らずに逆に柄の部分におしもどされるという、インチキ針だったそうだ。  しかし魔女狩り名人として悪名を馳せた、そのインチキ針をある司祭にみやぶられ,ついに廃業に追い込まれる。彼は翌年の一六四七年に、原因不明の病気にかかって世を去った。肺結核というが、別の説もある。魔女研究家ハチントンの話では、ホプキンズは近所の人々に捕らえられ、これまで彼が魔女たちに対して行なってきた、水責めの拷問にかけられ、それがもとで命を落としたという。これこそ、因果応報というものだろうか。 [#改ページ]   魔女イゾベル  一七世紀といえば、恐怖の魔女狩りの真っ直中《ただなか》である。いったん魔女の烙印《らくいん》をおされたら、残酷な拷問にかけられて死刑にされてしまうのが、お決まりのコースだった。  ところがその一七世紀に、自分から当局に魔女だと名のりでた一人の女がいたのである。その名はイゾベル・ゴーディ。スコットランドのモレイシャー州に住む、農夫の美しい妻だ。  一六六二年四月十三日、イゾベルはとつぜん当局に自分が魔女だと名のりをあげ、裁判にかけられて、何の拷問も受けることなしに、魔女としての経歴を長々と披露したあと、有罪判決を下され、エルジンのウェストポートで絞首刑に処されたという。  だが、いったいなぜイゾベルは、わざわざ自分から魔女であることを告白したのだろう。当時、魔女だと告白すれば、死刑は逃れられないことを知らなかったはずはない。なのになぜ、彼女はあえてその運命を選んだのだろうか?  現在も残るこのときの裁判調書は、それこそ拷問なくして得られた、もっとも詳細で奇怪な「魔女の告白」として、今も多くの議論のまとになっている。  イゾベル・ゴーディは、スコットランド、モレイシャー地方の湖畔に住む、農夫の美貌の妻だった。夫は教養のない粗野な男だったが、イゾベルのほうは農婦にはめずらしく、読み書きもできるかしこい女だった。  貧しくはあったが、いちおう夫とも仲むつまじく、平和な夫婦生活をおくっていた。ただし、いつまでたっても子供が出来ないのが、悩みの種だった。そんなイゾベルが、一六四七年ごろ、何の魔がさしたのか、ある男と不倫の関係になった。凡庸な夫にくらべ、どこか冷淡だがニヒルな魅力のあるこの男に、イゾベルはどんどんのめりこんでいった。  その晩もイゾベルは、見えない力に引かれるように、その�灰色の服の男�との逢引《あいび》きの場である、オルレアンの教会に向かっていた。  その�灰色の服の男�が、人気のない教会の祭壇で、突然イゾベルに、自分が実は�悪魔�であることを打ちあけ、手先にならないかと誘ったというのだ。イゾベルは、ガランとした教会に雷鳴のように鳴りひびくその言葉に、一瞬気が遠くなったが、次の瞬間、何かにあやつられるように、思わず「はい」と答えていた。  夢心地のまま、さっそくその場でイゾベルの魔女入団式が行なわれた。彼女は魔女ジャネットの名を与えられ、悪魔は彼女の肩に噛《か》みついて、吸いだした血を彼女に吐きかけた。そしてイゾベルが片手を額に、片手をかかとにつけて、悪魔への服従の誓いをたてて、入団の儀式はおわった。  かくて魔女ジャネットに生まれかわったイゾベルは、夜ごと悪魔のもとで魔術を学び、一定の知識が身につくと、他の仲間たちとともに、魔女として夜の闇《やみ》に活躍するようになったのである。  審問官の、「悪魔と肉体的接触をしたことがあるか」という問いに対しては、イゾベルはうっとりとした表情でこう答えたという。 「はい、忘れられない体験でした。悪魔はいつも荒々しくわたしにのしかかってきました。彼のペニスは、人間のものとはくらべものにならないぐらい、大きくて長いものでした。彼はみんなが見ているまえで、何度もこのわたしを犯したのです……」  イゾベルの告白によれば、悪魔とのセックスは、あくまで悪魔の洗礼の儀式の一部なのだそうだ。  魔女としてのイゾベルたちが使った術は、たとえば次のようなものだったという。ほうきにまたがって空を飛ぶ術、狼や野兎に変身する術、ヒキガエルを他人の畑に放して鋤《すき》をひかせ、農作物を荒れさせてしまう術、疫病を流行らせる術、石を指先で飛ばして人を撃ち殺す「妖精の矢」の術など……。  また、イゾベルの告白によると、魔女のグループはふつう十三人からなっており、そのなかから一人、特に美しい女が選ばれて、主人であるサタンの隣にすわることができるのだという。当然ながらその美女は、いつも他の魔女たちの嫉妬と羨望を一身に集めていたそうだ。  魔女たちがよくやる気晴らしは、墓荒らしだった。墓場から死体を盗みだすのだが,なかでも特に、生まれてすぐ世を去った赤ん坊の死体が、もっとも好まれたという。死体の手足をバラバラにして膏薬《こうやく》をつくるのに用いたり、あるいは細切れにした犬や羊の肉に死体の肉を混ぜて、呪いたい相手の家に投げこんで、こう呪文をとなえるのだ。 「わが主である悪魔の御名にかけて、私はこれをお前の家に置く。最初にこれに手をふれる者の手が、焼けただれてしまうように……」  さらにイゾベルは、ウサギやネコに姿を変えて野山をかけまわったり、ほうきに跨がって呪文をとなえ、つむじ風のように思うさま空を駆けたり、またある日、ウサギに変身していた彼女が、猟犬のむれに追いかけられ、命からがらゆきずりの家に飛びこんで、やっと危機を逃れた経験などを、生々しく語っている。  ところで一六四七年以来、十五年ものあいだ魔女として�活躍�していたイゾベルが、なぜ突然自らすすんで当局に、自分が魔女であることを告白したのかということについては、実にいろんな憶測がされている。  たとえば、彼女の告白を、狂女の妄想だとして一笑にふしてしまう説。あるいは魔女であることをこれ以上周囲の者に隠しつづけることが出来なくなって、イゾベルが足を洗おうとしたのだという説だ。  といっても、いったん魔女の世界に足を突っこんでしまうと、そこから足を洗うのは容易ではない。結局、自殺か自首しかないところまで追いつめられたのではないだろうか。  かつての恋人で現在の主人である�悪魔�と、不和になったのだろうという説もあるが、すべては推測の域を出ない。  イゾベルの最期についても、エルジンのウェストポートで絞首刑にされたというが、これはモレイシャー地方の伝説にすぎず、公文書や裁判記録上にも、じつは彼女の最期については一言も書かれていないのだ。  イゾベル事件は、公文書に記録された、ほとんど唯一の自発的な「魔女の告白」であるにもかかわらず、あるところまで来ると、突然ぷっつりと記録から消えてしまうのである。  自らすすんで魔女であることを告白し、魔女界の知識を生々しいばかりに披露してみせたあと、いったいイゾベルはどうなってしまったのだろうか?  実はこのイゾベルとその魔女たちの一団が、古くはローマ人やノルマン人によるイングランド征服によって、しだいに北方に追いやられていった、前ケルト人たちの集団だったのではないかという見方もある。  その前ケルト人らがスコットランドの山岳地帯に隠れすみ、何世紀ものあいだ独自の習慣と信仰をまもって生きつづけていたのではないかというのだ。そういわれてみれば、ウサギに変身したり空を飛んだりという術も、一種の忍者の術に似てないと言えないこともない。 [#改ページ]   人造人間ゴーレム  一六世紀のプラハで、人造人間�ゴーレム�をつくった、ラビ・レーウェ・ユダ・ベン・ベザレルという人物をご存じだろうか? 神の業にも等しいゴーレムの創出は、ユダヤのカバラ思想の、奥義中の奥義である。  人造人間ゴーレムは、今世紀に入ってグスタフ・マイリンクの幻想小説『ゴーレム』で有名になった。が、その作者であるラビ・レーウェの人物像は、いまも神秘のベールに包まれているのだ。  一六世紀当時、チェコのプラハには神聖ローマ皇帝ルドルフ二世が住んでいた。ルドルフ二世は変わり者で、ヨーロッパ中から錬金術師や魔術師や占星術師を招いて、プラハに神秘的なサークルをつくっていた。  たとえばイギリスの魔術師ジョン・デイ、錬金術師ケリー、ドイツの薔薇《ばら》十字団の首領マイエル、さらには高名な天文学者ティコ・ブラーエや、惑星運動の研究で知られるケプラーなど……。  プラハの町自体が、神秘愛好家である国王の人柄を反映して、怪奇な雰囲気に満ち満ちていた。占星術師や金銀細工師や時計師や、はては詐欺師や香具師《やし》までが、ヨーロッパ中からこの町をめざして集まってきた。  黄金小路とよばれる細長い町の一角には、あやしげな占い師やカバラ学者がうようよしていたし、狭苦しいゲットーには、人造人間ゴーレムにまつわる怪奇なユダヤの伝説が息づいていた。  ラビ・レーウェの娘婿ラビ・イサーク・コーエンの回顧録によると、一五九二年二月二十三日、ラビ・レーウェは婿とともに、ルドルフ二世の城に出頭を命じられたという。一行は特別の謁見室に招きいれられ、そこで皇帝に謁見をたまわった。  このとき何が話されたかは、婿は黙して語らないが、ルドルフ二世が,カバラやゴーレムに深い関心を持っていたことは、疑いようがない。レーウェは一五八〇年に初めて人造人間ゴーレムを造り、それから十三年のあいだゴーレムは生きつづけたというから、ルドルフ二世との謁見のころは、まだゴーレムは生きていたのである。  プラハ城の丘を下ってカレル橋をわたると、旧ユダヤ人街に出る。旧ユダヤ人墓地から二〇〇メートルほど行くと、�旧新シナゴーグ�と呼ばれる古いユダヤ教の会堂がある。一五八〇年当時、プラハにはユダヤ人虐殺の嵐が吹き荒れており、このとき旧新シナゴーグの筆頭ラビだったレーウェは、深く心を傷めていた。  ある日シナゴーグで祈っていると、神の声がラビ・レーウェに、ユダヤ人の守護者としてのゴーレムを作りだすように命じられた。カバラの奥義を極めていたラビ・レーウェは、ついにゴーレム創出を決意するのである。  ラビ・レーウェは、婿のラビ・イサーク・コーエンと弟子のラビ・ヤコブ・ソッソンをともない、モルダウ河畔に出かけた。ゴーレムの材料とされる、泥(粘土)を採取するためである。  必要な泥を採取したあと、三人は闇夜《やみよ》のユダヤ人街にもどり、カンテラを手に、旧新シナゴーグに入っていった。階段を上がって屋根裏部屋に入ると、ラビ・レーウェと二人の助手は、さっそく粘土をこねて人型《ひとがた》作りを開始した。  そして四時間後、ついに人型は完成した。ラビ・レーウェの合図で、二人は完成した人型の足もとに整列した。燭台のロウソクが、めらめらと炎を揺らしている。  レーウェが手をあげると、まず婿のコーエンが祈りをとなえながら、人型のまわりを時計と逆方向にゆっくりとまわる。七回まわったところで、レーウェが重々しい声で呪文《じゆもん》をとなえた。 「メム・コフ、メム・ザーイェン……」  すると泥の人型は突然、真っ赤な炎を吹いて燃えはじめた。ところがふしぎなことに、まわりには炎が燃えうつらないのだ。レーウェの合図で、今度は弟子のソッソンが、左まわりに七回まわる。レーウェがさらに呪文をとなえると、真っ赤に燃えさかっていた人型から真っ白な湯煙が立ちのぼり、あっというまに炎が消えてしまった。  そして立ちのぼる湯煙のむこうには、いつのまにか、頭に髪が、指に爪のはえた人型が立っている。粘土の表面も、まがうかたない人間の肌に変わっている。こうしてしだいに人間に変わりつつある人型のまわりを、今度はレーウェ自身が左まわりにまわり、「創世記」の一節をとなえた。 「神である主は、土地の塵《ちり》で人を形作り、その鼻に生命を吹き込まれた。そして、人は生き物となった」  いよいよ、その息を吹きこむ瞬間である。レーウェは、聖なる神の名(シェーム・ハ・メフォラッシュ)を記した羊皮紙の護符を、人形の唇に置いた。そしてそのとたん、ゴーレムはぱっと目を見開き、おもむろに起きあがったのである。  こうして完成したゴーレムは、ラビ・レーウェの家に住むようになった。ゴーレムは喋《しやべ》ることは出来なかったが、それ以外はまったく普通の人間と変わらなかった。そのうえ、レーウェが舌の根元に置いた護符のおかげで、ゴーレムは自由に姿を消せるという超能力を持っていたというのだ。  ゲットーに孤立して生きるユダヤ人にとって、外からの情報は生きていくに欠かせないものだ。もしかしたらゴーレムは、人に姿を見られることなくあちこちに出没して、その情報を収集する役目を、暗に与えられていたのではないか。そしてユダヤ人暴動が起こりそうな気配があるときは、いちはやくラビ・レーウェにそれを知らせ、被害を最小限度に止めようとしたのではないか。  ラビ・レーウェはゴーレムが安息日を犯すのを恐れて、金曜日の夕方にはゴーレムの舌の根元に入れてある、生命の源である護符をとりはずす習慣があった。ところがある金曜日、レーウェはうっかりして、ゴーレムから護符をはずすのを忘れてしまった。  気がついたときはゴーレムは通りを自由に歩きだしており、あげくは凶暴になって手当たりしだいに物を投げはじめたのだ。旧新シナゴーグに集まり、安息日のための詩篇を朗誦しているところだったレーウェは、知らせを受けて大急ぎで帰宅し、暴れるゴーレムをとりおさえ、舌から護符をもぎとって安息を与えた。そして再びシナゴーグにもどって、祈祷《きとう》を再開したという。  こうしてゴーレムは十三年のあいだ生きつづけるのだが、一五九三年についに土に帰ることになる。皇帝ルドルフ二世がユダヤ人迫害を禁止したため、ユダヤ人街は襲撃におびえることもなく、ゴーレムも必要なくなったのである。そこでラビ・レーウェは、ゴーレムをふたたび土に返すことを決意したのだ。  一五九三年五月十日、ラビ・レーウェは再び婿ラビ・イサーク・コーエンと弟子ラビ・ヤコブ・ソッソンとともに、旧新シナゴーグの屋根裏に上っていった。そしてゴーレムの舌の根元に入れてあった、「シェーム・ハ・メフォラッシュ」の護符をとりのぞいたのだ。  こうして護符をとりのぞき、ただの粘土細工となったゴーレムが、床に横たえられた。しかしゴーレムを土に返すには、これだけでは十分でない。三人は創出儀式のときと反対に、今度はゴーレムの枕もとに並んだ。  入口で見張りを言いつけられた堂守が、ドアに耳をあてて聞いていると、部屋のなかからは、レーウェや助手たちのとなえる呪文と、コツコツという靴音が響くだけだった。  やがて堂守が呼ばれて部屋に入っていくと、そこにはすでに髪も爪もなく、ただの粘土細工でしかないゴーレムが横たわっていた。レーウェの命令で、二人の助手は人形の服を脱がし、祈祷用のマントにつつんで部屋のすみに置いた。そして書物や書類で、そのうえをすっかりおおってしまった。  それまで屋根裏部屋は書籍の保存庫として使われていたが、ラビ・レーウェは「火災の恐れがあるから、今後は絶対に使用しないように」と、屋根裏部屋を立ち入り禁止にしてしまった。  それがゴーレムを人目に触れさせないためであるのは言うまでもない。しかし、なぜそうまでせねばならなかったのか。ゴーレムは人型をとどめてはいても、もはやただの土塊に過ぎなくなってしまったのではないか……?  が、ラビ・レーウェはなんとしても、土塊に返ったゴーレムを人目に触れさせまいと決意していたようだ。そういえば、�神の息がいまだかかっていないアダム�であるゴーレムを製造するには、�聖なる祭壇の建つシオンの山からとりだされた�ような、最上質の土を用いなければならないという言い伝えがある。  つまりゴーレムの材料である�土�の採取それ自体にも、ゴーレム創出の大きな秘密が隠されていたのではないか。だからこそラビ・レーウェは、土塊にもどったゴーレムを他者の目に触れさせることを、あんなにも恐れたのではないか?  三百年あまりつづいたタブーをやぶり、二〇世紀になって、ついに禁断の屋根裏部屋に足を踏み入れた男がいる。人気ルポ・ライターのエゴン・キッシュである。  しかし当時、屋根裏部屋に通じる階段がなく、外壁をよじのぼる方法しかなかったので、危険すぎるということで、なかなか許可が出なかった。ゴーレム創出のときラビ・レーウェらが外壁づたいに屋根裏に入ったとは考えがたいから、一八八三年にシナゴーグに改修がほどこされたとき、たぶん階段は取り払われたのであろう。  さて当日の朝八時、キッシュは行動を開始した。ニクラス通りに面したシナゴーグの外壁には、一八八〇年に消防署の指示で鉄製のかすがいが打ち込まれていた。しかし一番下のかすがいも、地面から二メートルもの高さにある。  キッシュはそのかすがいにハシゴをかけた。十八段のかすがいを上がり終えると、急勾配の切り妻屋根があり、壁龕《へきがん》に古ぼけた扉が見える。キッシュは壁龕に足をかけ、重々しい鉄扉を鍵《かぎ》でこじあけた。  なかに入ると、床一面を埃がおおい、小鳥の死骸《しがい》が散乱していた。床板はなかば朽ちかけ、天窓からは幾筋かの光が差しこんでいる。見上げると、梁《はり》と梁のあいだにコウモリが不気味にぶらさがっていた。  長い時間が過ぎた。地上では、好奇心に満ちた野次馬が今か今かと待っている。おそらくキッシュは、部屋のすみずみまで必死で探しまわっているのだろう。人々がしびれを切らしかけたとき、ついにキッシュが壁龕に姿をみせ、鉄扉を閉めてかすがいを伝わり降りてきた。  野次馬がワアッと彼に殺到したが、キッシュは不機嫌な顔で物も言わず人垣をかき分けて歩み去った。会堂の控えの間で手を洗っていると、堂守が「どうです? ゴーレムは見つかりましたか?」と皮肉に尋ねたが、これにも何の返事もしなかったという。  のちにキッシュは、「ゴーレムらしきものは何一つみあたらなかった」と報告している。もし見たのなら、ルポライターである彼が特ダネを黙って見過ごすわけがない。だから、彼の報告は本当なのだろう。  そもそも三世紀以上のあいだ厳しく封印されてきた屋根裏部屋に、キッシュのような部外者を入らせたことからして、奇妙である。もしかしたら土くれはずっと屋根裏部屋に隠されていたあと、今世紀に入ってから、ひそかに関係者たちの手で何処《どこ》かに持ち去られたのではないだろうか。  しかしそれなら、その土くれはいま、いったい何処にあるのだろう。その土くれを使って、もしかしたら何処かの誰かが、ふたたびゴーレム創出を試みなかったという保証もない。いや、もしかしたら、すでにそれに成功した人物が何処かにいるのでは……? [#改ページ]   夢魔という悪魔 �夢魔�というものを聞いたことがおありだろうか? インクブスは男性の夢魔で、スクブスは女性の夢魔。それぞれ睡眠中の異性を誘惑し、性行為をせまる、一種の悪魔だと言われる。  人間と悪魔が実際に肉体関係を持つことが出来るという考えは、カトリック教会側の、たとえば聖アウグスチヌスや法王イノセント八世など、多数の人々が主張しており、その結合から子供が生まれることも不可能ではないと言う。  ただその場合、人間の女と関係する男性夢魔は、人間の男が睡眠中にもらした精液をとって用いると考えられるので、こうして生まれた子供の父親は、はたして母親とベッドをともにしたインクブスなのか、それとも精液をとられた男のほうなのかということが、問題になる。この点について聖トマスは、本当の父親はインクブスではなくて、精液をもらした人間の男のほうだと明言しているが……。  フランス王妃マリー・ド・メディチの懺悔《ざんげ》聴聞僧ヴァラディエ師は、「悪魔は眠っている男から妊娠に必要な原料を借り、これを夜の夢のなかで女性の体内に注入する。いかにも巧みなので、破瓜にもいたらないまま、原料は処女の体内に達する。処女は自らそれと知らずに、この原料を温め育てるのだ」と、語っている。 『テアトル・エウロペウム』という書によると、ポメラニアの十歳の少女は、「自分は悪魔の子供を二人生んだことがある。いまもお腹に三人目の子供を宿している」と告白して、火あぶりになったそうだ。しかも裁判官の証言では、少女は完全な処女だったという。  ルドウィコ・マリア・シニストラーリは、とある尼僧院での興味深い夢魔騒動を書いている。  ある修道院で夕食後、一人の尼僧が自分の部屋に引きとり、ドアに鍵《かぎ》をかけて閉じこもるのを、ある詮索《せんさく》好きな修道女が見ていた。修道女が隣室で聞き耳をたてていると、室内からひそひそ話が聞こえてきた。  つづいてベッドのきしむ音やうめき声が聞こえ、恋人同士が愛の絶頂感を味わっている物音が手にとるように聞こえた。彼女の密告で、修道院長自らその尼僧の部屋をくまなく調べたが、何もおかしな点はなかった。しかし修道女はそれに満足せず、仕切り板に穴を開けて、しばらく室内の様子を見張っていた。  まもなく彼女は、隣室で一人のハンサムな若者が、尼僧とベッドをともにしているのを目撃した。彼女の話を聞いて、他の尼僧たちもみな隣室を覗《のぞ》き見しようと集まってきた。修道院長も放ってはおけず尼僧を糾問すると、尼僧は長いあいだ一人のインクブスと淫《みだ》らな関係をむすんでいたことを白状したのである。  さらに『聖ベルナーの生涯』にもインクブスのエピソードが書かれている。一一三五年にベルナーがナントを訪れたとき、一人の女性が助けを求めにきた。女性はもう六年間もインクブスと関係を結んでおり、とうとう夫にこれを打ち明けて、夫とともに別の家に引っ越したが、それでもインクブスはしつこく追いまわしてくるという。  ベルナーは自分の杖を女性に与え、夜ベッドに入るとき必ずそれを脇に立てかけておくよう命じた。その夜、いつものとおりインクブスは彼女の部屋に入ってこようとしたが、ベルナーの杖が立てかけてあるので入ることが出来なかった。インクブスは怒り狂って、ベルナーに復讐《ふくしゆう》してやると怒鳴ったが、どうすることも出来なかったという。  いっぽうスクブスは女の姿をした夢魔で、男性を誘惑するものだとされる。悪魔学の概念では、女性は男性より好色なものとされていたため、悪魔学の書物にはスクブスにくらべて、インクブス(男の夢魔)のほうが九倍ぐらいの割合で登場してくる。  ジャンフランチェスコ・ピコ・デラ・ミランドラは、四年間もスクブスと同棲していた男の話を書いているが、それによると、男はスクブスと別れるぐらいなら、牢獄で責め殺されるほうがましだと言っていたという。  さらに『魔女への鉄槌《てつつい》』には、ある男が妻や友人の目前で恋人であるスクブスと性行為を演じなければならなくなり、三度まではなんとかやり遂げたが、スクブスはさらに四度目を要求したので、男は疲れはてて、ついに床に倒れてしまったと書かれている。  歴史上の聖人たちも、スクブスの誘惑に悩まされた経験があるようだ。たとえばジロラモ・カルダーは、僻地《へきち》で禁欲的な生活を営んでいたとき、からだが弱っているときに特にスクブスの誘惑に悩まされたと述べている。三世紀エジプトの聖アンソニイも、夜中にみだらな裸体の女になってあらわれるスクブスにさんざん苦しめられたそうだ。  さらに聖ヒッポリトスも、勤行中に目の前に裸の女があらわれて淫らな誘惑をしたが、彼がその裸身を隠すようにと、ミサ用の聖衣を投げ与えると、突然その女は死体になって目前にころがったという。  これは聖人を堕落させようと、悪魔が死者に生気を吹き込んで遣わしたものと考えられたので、それからは名高い『アンブロジオ聖歌』では、夢魔を恐れて、「夜のすべての幻よ、消えうせたまえ、わが肉体の穢《けが》れなきように」と歌われるようになった。  ところで、夢魔というのは遠い昔の話だと思っていられることだろうが、実は現代にも、夢魔があらわれたという話があるのだ。一九六二年、アメリカのオドンネル博士という人物が、医学雑誌に発表している事例である。  ミーカー夫人はある晩、娘の部屋から妙な呻《うめ》き声がもれてくるのを耳にした。何だろうと思ったミーカー夫人は、身を起こして、ドアのまえでじっと耳をすました。すると十八歳になる娘のドリーンが、なんと性行為特有の呻き声をあげているではないか。  仰天したミーカー夫人は、そっとドアを開いて室内に目をやった。しかしどんなに目を皿のようにしても、ベッドのうえにはドリーン一人しかいない。なのにドリーンは真っ裸になって、まるで誰かに抱かれてでもいるかのように、宙に身をのけぞらせ、快感にもだえつづけている。 「ドリーン、ドリーン、しっかりしなさい!」  夫人が叫ぶと、とつぜんドリーンの腕の力が抜けてだらりと落ち、からだも力を失ってベッドのうえにくずおれた。そして何か目に見えないものが、夫人の横をすーっと通り抜けていったのである。  夫人がベッドに駆け寄ると、ドリーンはこれまでのことが嘘のように、すやすやと寝息をたてている。ミーカー夫人は、そっと毛布を払いのけて、娘を観察した。さっきのことが幻でない証拠に、娘の肉体には性行為のあとが、ありありと残っていた。首筋や胸にはキスマークがあり、シーツには男性の精液らしいものが残っている。目に見えないなにかが、ドリーンを襲って、その肉体を犯したのだ。  夫人は悪い夢を見ているような気分だったが、やっと気をとりなおすと、必死にドリーンを揺さぶり起こした。目を覚ましたドリーンは母から一部始終を聞くと、ショックで真っ赤になってしまった。 「そういえば、このところ毎晩のように奇妙な夢を見ていたの」  と、ドリーンは言いにくそうに、 「若くてハンサムな男性がわたしを襲ってくるの。そのたびに恥ずかしいけど、本当にセックスしたような気分になるの。でも、あくまで夢を見ているのだと思っていたわ」  朝起きたときシーツが汚れていても、てっきり自分の粗相だと思い込んでいたというのだ。夫人は大慌てで、ドリーンを精神分析医オドンネル博士のもとに連れていった。博士は初めは、欲求不満からくる精神錯乱だろうと高をくくっていたが、夫人があまり熱心なので、とにかくその夜はミーカー家に泊まって見張ることにした。  オドンネル博士がミーカー夫人とともにドリーンの寝室のドアをのぞいていると、昨夜と同じように、何か目に見えないものが襲ってきて、ドリーンのパジャマをむしりとり、肉体を愛撫しはじめたのだ。  仰天した博士はあとでシーツについた液体を採取して帰り、綿密に検査してみた。まちがいなく男性の精液だった。オドンネル博士は頭をかかえた。とにかくこの姿なき訪問者を、二度とドリーンに近づけないようにしなければならない。  悩み抜いたすえ、博士が思いついたのは、寝るときドリーンに貞操帯を着けさせることだった。こうしてその夜も、オドンネル博士がドアで見張っていると、またも姿なき訪問者が訪れたのだ。  訪問者は、ドリーンがおっかない代物を身に着けているのを見ると、失望したような唸《うな》り声をあげた。しばらくは唸り声をあげながら、ベッドのまわりをうろついているようだったが、一時間ほどしてようやく帰っていったらしく、ドリーンの部屋はまた、シーンとしずまりかえった。  それでも数晩は、夢魔はあきらめきれずにドリーンのもとに通いつづけたが、やがてあきらめたのか、とうとうやって来なくなったというのだ。 [#改ページ]  ㈼ ———————————————————————————— 秘密結社 [#改ページ]   薔薇十字団  中世ヨーロッパでは、いわゆる錬金術師や魔術師は各国を遍歴して、たがいに助けあったり知識を交換するため、同業組合のようなものを作っていた。薔薇《ばら》十字団は、そんな地下組織が変化したものだろうと言われる。  バッジや合言葉を示してみせれば、組織の会員はヨーロッパのどこに行っても、一夜の宿を与えてもらえる。また逆にそれらの国や町のほうでも、新しい知識を得るため、他国者との交流に意欲を見せていた。  技術をみがくことが目的の職人組合もあれば、学問や教養を深めるのが目的の組合もある。あるいは画家や彫刻家のための修業団体もある。彼らはヨーロッパ各地を旅して、その地の親方《マスター》のもとに住みこんで、技術をみがいたり知識を深めたりするのだ。  人類の歴史を裏からあやつってきた闇《やみ》の集団、秘密結社。その会員たちは血の結束で結ばれ、組織の手は世界の権力中枢に根強く食いこんでいる。しかし組織の名が表面に現れることは一切なく、あくまでその力は陰の活動を通して働くだけだ。  そんな秘密結社の一つ薔薇十字団は、現在も世界のあちこちに潜伏しながら、神から教えられた超古代の密義を人々につたえ、「神の計画」を着々と実行にうつしているという。しかしつねに歴史の舞台裏に隠れているはずの彼らが、一度だけ仮面をはずして、素顔をのぞかせたことがある。  一六一四年、ドイツで『世界の改革』と題する書物が出版された。筆者はルター派の神学者で、薔薇十字の理想の布教者ヴァレンティン・アンドレエらしいというが、それも確証はない。  その付録として、『薔薇十字団の伝説』という書物が同時刊行され、さらに翌年には『薔薇十字団の信条』が刊行された。三年間にわたって、これら三つの著作がつぎつぎとあらわれたのである。著者も発行人も不明という謎《なぞ》だらけの三部作が、薔薇十字団をつつむ厚いベールの一端を、一瞬引きあげてみせたのである。  ヨーロッパのインテリたちは、これら三部作をわれさきにと求めた。その後も三部作はたびたび版を重ね、人々は薔薇十字団の秘密を知ろうと躍起になった。しかし不思議にも、会の本部がどこにあるかは、誰も知らなかった。目に見えぬ結社をめぐって、学者のあいだで激しい議論が起こったり、薔薇十字団の名をかたって、金品をかどわかすサギ師も出てきた。  しだいに世間の人々は、薔薇十字団員を、何か超能力を持った魔術師のようなものだと考えて恐れるようになり、そのうち薔薇十字団は,不老不死や透明人間などの代名詞にされるようになった。  ところで、これらの薔薇十字団に関する三部作は、だいたいどんな内容のものだったのだろうか? まず、そのなかには、クリスチャン・ローゼンクロイツという名の、ドイツの貴族の生涯が物語られている。  彼は一三七八年に生まれ、一四八四年に死んだことになっているので、じつに百年以上も生きていたわけだが、三部作によれば、この神秘的な怪人物こそ、薔薇十字団の創設者だというのである。  ローゼンクロイツは、ドイツの貧しい貴族の家に生まれた。早くして両親に死に別れた彼は、幼時を修道院ですごしたあと、十六のとき知識への欲求に目覚めて、東方旅行に出発した。  ダマスカスまでやって来たとき、ローゼンクロイツは、地図にはのっていないダムカルという謎の都市がアラビアにあり、そこにユダヤ神秘思想のカバラ学や錬金術に通じた神秘主義者たちが、集まっているという話を聞きつけた。  そこでローゼンクロイツは、ひたすらアラビアを目指した。そして苦しい旅の果てに、ついにダムカルにたどりついたのだ。そこでは神秘主義者や賢者などと交流して、東方の聖なる秘密の知識を学んだという。その知識は、彼がラテン語に翻訳した『Mの書』という書物のなかに述べられている。  三年後にローゼンクロイツはモロッコのフェスにむかい、ここでも賢者たちと交流して、さまざまな秘教的知識を身につけた。とくに土や火や水などの精霊たちと自由に交信して、自然界の大いなる秘密を我がものにしたという。  こうして古代アトランティス以来のあらゆる叡知《えいち》を身につけたローゼンクロイツは、世界改革という野望を抱いてドイツにもどってきた。しかし世界はまだ、彼が伝える偉大な叡知を受け入れる用意ができていなかった。ローゼンクロイツは西洋の賢者や王侯たちに、みずから翻訳した『Mの書』を進呈して理想郷の実現を訴えたが、かえってくるのは軽蔑《けいべつ》と冷笑だけだったのである。  機がまだ熟さないことを悟ったローゼンクロイツは、みずから僧院を建て、聖霊の家と名づけて、そこにこもって研究生活をおくることにした。彼のもとには、やがて少数の忠実な弟子が集まってきた。  まずローゼンクロイツは七人の弟子をとり、自分が学んだ叡知の数々をさずけていった。ローゼンクロイツとこの七人の弟子たちこそ、薔薇十字団の創設メンバーだと言われる。  こうして薔薇十字団の活動は、世間から隠れたままで、着々と成果をあげはじめた。ローゼンクロイツの僧院である「聖霊の家」では、毎年、定期的に同志の会合が開かれた。  彼らは、「無料で病人をなおすこと、特別な服装をしたり特別な習慣を身につけたりしないこと、毎年一回、聖霊の家で会合を持つこと、死にぎわに各自が一人ずつ自分の後継者を指名すること、R・Cという文字を、我々の唯一の証印・記号・符号とすること、むこう百年間は団の存在を世間から隠しておくこと」などの、六項目の規約をつくった。  彼らは、世界中を遍歴して善行をほどこす一方で、これはと目をつけた人物にひそかに会の教えを伝えつづけた。決して華々しい活動ではなかったが、特に学問や芸術の分野で着々と成果をあげていった。  そして一四八四年、突然ローゼンクロイツは、「私は百二十年後にもう一度よみがえるだろう」という謎の言葉を残して、百六歳で世を去った。彼の遺体は薔薇十字団の僧院にこっそり葬られ、墓のありかは絶対の秘密とされたのだ。  そしてその予言は達成された。不思議なことに百二十年後、たしかに彼の予言どおり、ローゼンクロイツの墓が発見されたのである。ある会員が、埋葬室に通じる隠し戸を偶然に発見したのだった。  埋葬室は七角形の壁に囲まれた地下室にあり、扉にはラテン語で、「私は百二十年後に復活するだろう」と書かれていた。天井につるされた�人工の太陽�から、室内に光がふりそそいでいた。�永遠のランプ�の光に青白く照らしだされ、羊皮紙の聖典を手にしたローゼンクロイツの死体は、墓のなかで腐りもしないでちゃんと残っていたそうだ。  彼の墓で見つかった�永遠のランプ�は、薔薇十字団員だけがその製造法を知っているもので、永遠に燃えつきない黄金の油に芯《しん》がつかっており、何世紀たっても消えないのだという。それ以外にも、蓄音機のような機械をはじめ、不思議な副葬品がいろいろ出てきた。  薔薇十字団員は、錬金術の奥義を知っているのだともいう。薔薇十字団員のなかには、錬金術師らが血まなこで探し求めている、いわゆる賢者の石を持っている者がいると信じられていた。団員からもらった金貨が、いつのまにか銅貨に変わっていたとか、団員が、見たこともないような巨大なサファイアの指輪をしているのを見たとかいう噂が流れた。  薔薇十字団員たちは、古代から伝わるさまざまな機械学的な技術にも通じていたようだ。たとえばアルキメデスの鏡とか、光学器械とか自動人形とか永久運動の装置とかである。数学や音楽の知識もそなえており、�人工の歌�と名づけられた蓄音機も、彼らが発明したものだという。  また、団員は自由にあちこちに姿を現したり消えたりする術を知っており、団員たちはつねに変名を用いてはあちこち旅を続け、各地に現れては不治の病人を治したり、さまざまな奇跡を行っては、またサッと風のように姿を消してしまうのだという。 [#改ページ]   悪魔教会  アメリカ全土では現在、三百をこえる悪魔集団・魔女集団が存在しているという。一九六六年にサンフランシスコにアントン・サンダー・ラ・ベイが設立した秘密結社、�悪魔教会�は、フランス、イタリアなど世界十三カ国に十万以上の会員を持つ、アメリカ最大の魔術結社だ。  教祖のアントン・サンダー・ラ・ベイは、みずから黒い法王と名のり、黒ミサの儀式や黒魔術の呪法《じゆほう》を会員にさずけている。さらにEviles(悪)をモットーに、黒ミサ、全裸舞踏会、人肉試食会、暴力ショーなど、あらゆる欲望と暴力の解放をうたうデモンストレーションを、大胆に押しすすめている。  ラ・ベイによると、人間は悪魔の名のもとに快楽を求め、本能に忠実に生きるべきだ、もし恨みや憎しみを晴らしたい人間がいるなら、その人間に呪《のろ》いをかけて殺すのは、人間としてごく自然な本能だというのである。  この結社に入会する者は、つぎのような規則に従うことを約束させられる。 「あらゆる悪事を徹底的に行ない、法にふれないような犯罪を研究し、実行すること。つねに復讐《ふくしゆう》心を燃やし、人に呪いをかけて地獄に落とすこと。動物的本能にめざめ、快楽と悪事に徹すること。あらゆる罪の代表者になり、サタンこそ教会の最大の友であることを忘れないこと」  悪魔教会では、二〇世紀最大の黒魔術師だったアレイスター・クローリーの教えに従って、いまも全員がときおり裸になって黒ミサを行ない、さらってきた赤ん坊を血まつりにあげているという。  ラ・ベイは催眠術や呪殺術など、十三種の黒魔術を行なっている。彼が「我らの王サタンと悪魔長官ルシフェルよ。呪いの魔力を与えたまえ!」と悪魔の呪文をとなえて、ねらう相手に呪文を投げかけると、相手は催眠術にでもかかったように、彼のいうとおりに動きはじめるという。  ある日、ラ・ベイを取材で訪ねたジャーナリストのリークは、一軒のスーパーマーケットで、信じられないような光景を目にすることになる。  このときラ・ベイは、リークとともにマーケットの前に立っていたが、彼が店に入ってきた一人の女性に魔術をかけたとたん、その女性は催眠術にかかったかのように、彼が命じるままに動きはじめたのだ。  ラ・ベイとその女性のあいだは、五メートルほど離れていたが、彼がメモ用紙にミルク三本、アスパラ缶詰一個、チキン二キログラム……などと書いて念じはじめると、なんと、まったくその順番どおりに、女性はカゴに品物を入れはじめたのだ。  あげくは彼女が金も払わないまま、夢遊病者のようにフラフラッと店を出ようとしたので、すぐ女性ガードマンが飛んできた。  そのときラ・ベイが、「裸になって、犬のように吠《ほ》えたてろ!」と女性ガードマンに呪いをかけると、ガードマンはとつぜん前の客を突きとばし、自分で服をむしりとり、四つんばいになって犬のようにワンワン吠えはじめたのだ。マーケット内は、てんやわんやの大騒ぎ。とうとうパトカーまで繰りだす騒ぎになったという。  アントン・サンダー・ラ・ベイは現在、六十歳余り。オークランドに生まれ、十六のときにサーカスに入り、ライオンの調教師の助手になった。が、二年後にはサーカスを辞めて、道化芝居小屋でオルガンの演奏をはじめた。  その後ラ・ベイはカレッジで犯罪学を専攻し、サンフランシスコ警察署でカメラマンの仕事をするようになる。このとき世間の汚れた面を目撃し、人間は四つ足獣より劣った存在だと考えるようになった。  やがてラ・ベイはオルガン弾きの生活にもどり、前から興味のあった魔術の研究に熱中した。そしてまもなく金曜の夜に、自宅で魔術に関する講義を開講した。大勢の人が受講料を払って館の居間に集まり、彼から�狼人間、吸血鬼、性魔術、魔女�などに関する講義を受けた。  あるときなど、人肉供食に関する講義のとき、ある医者の会員が、切断された人間の脚を一本、東サンフランシスコ湾病院から持ってきた。それはその場で焼かれて、勇気ある受講者たちに配られたという。  しだいに悪魔教会は、マスコミ陣の絶好のネタになった。たとえば神秘的な黒い館での講義、深夜の幽霊屋敷調査、いかがわしい心霊現象、ラ・ベイ自身の変わった性格、そして黒豹や一八一キログラムもあるヌビア・ライオンという、彼の風変わりなペットたち……。  オカルト研究に熱心な名士たちが、ぞくぞくとラ・ベイの館に集まった。小説家のスティーヴン・シュネックや、映画製作者のケネス・アンガーなど。ラ・ベイは彼らとともに�マジック・サークル�を結成し、毎週ここで秘密裏の魔術儀式を行なった。  こうして一九六六年ヴァルプルギスの夜、マジック・サークルは�悪魔教会�に変わり、ラ・ベイが大祭司に、美しい金髪の妻ダイアンが大尼僧におさまったのである。翌年、悪魔教会は全米に報道された。ラ・ベイが有名人ジュディス・ケイスと過激論者ジョン・レイモンドの、悪魔結婚式をつかさどったのだ。さらに同年の五月にも、教会はニュースの種になった。ラ・ベイが三歳の娘ジーナのため、悪魔の洗礼式を行なったのである。 �悪魔教会�の入会者には、歌手のサミー・デービス・ジュニア、歌手のバーバラ・マクネア、俳優のキーナン・ウィンなどもいる。のちにラ・ベイは、彼らに名誉司祭職をさずけている。  さらに、ラ・ベイとの交流にことのほか夢中になった芸能人が、グラマラスなセックス・シンボル、ジェーン・マンスフィールドである。  彼女は一九六六年に教会にあらわれ、ラ・ベイに、二番目の夫のマット・シンバーに呪いをかけてくれと頼んだ。このころ二人は、子供をどちらが引きとるかで争っていたのだ。結局、裁判で有利な判決を勝ちとると、ジェーンは熱心な悪魔信奉者になった。  ある日、幼い息子ゾルタンが、野生動物公園でライオンに襲われて重傷をおったときも、ジェーンはラ・ベイに助けを求めた。ラ・ベイはサンフランシスコ近くのタマルパイス山の頂きに車を走らせると、激しい嵐のなかで大声をあげ、あらんかぎりの魔力を駆使してサタンに呼びかけた。そして息子は奇蹟的に回復し、これを悪魔のおかげと信じたジェーンは、あらためてラ・ベイと悪魔に永遠の忠誠を誓ったのである。  しかし彼女の恋人のサム・ブロディは、彼女とラ・ベイの関係に嫉妬《しつと》し、今後ジェーンに近づいたら、ペテン師と触れまわってやるとラ・ベイを脅した。根に持ったラ・ベイはブロディに呪いをかけ、やがてブロディが愛車マセラティで衝突事故をおこし、片足を骨折する事故が起こった。  が、それでもブロディは脅しをやめなかったので、ラ・ベイは再び彼に対して呪いをかけ、それは今回、もっと重大な結果をもたらしたのである。ラ・ベイがジェーンに再三、ブロディに近づかないよう忠告したにも拘わらず、一九六七年六月二十九日、ニューオリンズ郊外でジェーンとブロディの乗った車がトラックに追突した。二人とも即死で、ジェーンの首は抜け落ちていたという。  ラ・ベイはのちのちまで、ジェーンの死は自分のせいだと悔やんだ。ある日彼が新聞記事を切り抜いていたとき、気がついたら裏にジェーンの写真がのっており、うっかり彼女の頭を切り落としていた。ちょうどそのとき電話が鳴って、彼女の死を知らされたのだ。  ジェーンの悲劇がマスコミに書き立てられると、一躍、悪魔教会は世間の注目のまとになり、会員は激増した。ラ・ベイの著書『悪魔の聖書』が一九六九年に出版されると、あっというまに五十万部を超えるベストセラーになった。 [#改ページ]   ブードゥー教  一九八九年、メキシコで恐ろしい事件が発生した。メキシコ東北部マタモロス郊外の牧場で、十四人の男が、ブードゥー教の儀式によって惨殺されたのだ。  メキシコ人の男の子は、生きたまま胸を裂かれて心臓をえぐられ、テキサスの大学生は頭をオノで割られて脳みそをぬかれ、脚をすっぱりと切りおとされていた。儀式あとの牧場の小屋には、脳みそ、血、ヤギの頭、雄鶏の足、薬草などを、一緒くたにして大釜《おおがま》で煮込んだあとがあった。  主犯は二十六歳のキューバ系アメリカ人のコンスタンソという男で、彼は毎月五トンものマリファナをアメリカに輸出している密輸組織のボスだった。彼はハイチを中心にドミニカ、キューバなどに広まっていたブードゥー教を、メキシコに持ちこんだらしい。彼はいつも、何か大取引にとりかかるとき、成功を念じて人間を生《い》け贄《に》えにして黒魔術をおこなっていたのだそうだ。  そして驚いたことに、このときの儀式で魔女を演じたのは、テキサス大学の「明るくて皆から好かれていた」、二十四歳の優秀な女子大生、サラ・マリア・アルドレーテだったのだ。  ブードゥー教にとって、主な儀式は二つある。一つは成人式の儀式で、もう一つは「ダンバラ」という至高の神の化身である、ヘビを讚える儀式である。祭の楽器としては、タム・タムのような太鼓、柄のついたヒョウタン型の打楽器や、小さな鐘などが用いられる。  ブードゥー教では、ヘビの象徴がもっとも多く用いられるが、この神聖なヘビは、宇宙の軸を中心として発顕する万物の生殖の象徴なのだそうだ。  儀式の場所には、中心に一本の柱が立っており、そのまわりにヘビをあらわす円形の図案が白墨で描かれる。高い樹木の枝につるされたカゴのなかに、ヘビが飼われており、祭りがクライマックスに達したときは、このヘビが人々のあいだに放たれるのだ。  生け贄えにはふつうは黒いメンドリ、ヤギ、羊などを用いるが、ごくたまに人間を生け贄えに用いることもある。ブードゥー教の密儀は、男女の祭司によって行なわれ、霊との交信のじゃまになるといって、男女の祭司は衣服はいっさい身につけない。  殺された動物の生暖かい血を、祭司が信者たちの頭にそれぞれ注ぐと、つぎに参列者全員がこれを飲み、そして生け贄えの肉を食べる。こうしていよいよ、タム・タムというドラムの音とともに、踊りと合唱が始まるのである。  暗い会堂の四隅に火が燃やされ、生け贄えの動物が大地に埋められると、男も女も、素足で大地を踏みつけ、のたうちまわり、ころがったり起き上がったりして、しだいにエクスタシーの状態に入っていく。  太鼓の調子が早くなり、しだいに男女の身ぶりは、性交の姿態をろこつに真似たエロチックな動作になっていく。これは、天と地の神聖な婚姻を、象徴しているのだ。やがてクライマックスに達すると、女の祭司は聖なるヘビを性器のなかに迎える。これはすなわち、霊を迎えたことなのである。  ところで、あなたはゾンビというものを耳にしたことがおありだろう。じつはゾンビとは、ブードゥー教の秘儀によって墓場からよみがえった、死者のことなのだ。墓石を押しあげて地上にさまよいでた死者たちが、生き血を求めてつぎつぎと人間を襲う「吸血ゾンビ」は、すでに恐怖映画の主人公として有名だ。  しかし、狼男や吸血鬼などの伝説上の人物とちがって、ゾンビだけは、現代でも、れっきとしてこの世に存在しているのである。  一九二〇年代、ハイチ沖のゴナベ島を旅行していたアメリカの作家シーブルックは、綿畑で働く、異様な三人の男を目撃した。彼らはいかつい黒人女に、鞭《むち》をもって残酷にこき使われているのだ。  シーブルックは彼らの死人のように痩《や》せこけた風体に驚いたが、それ以上に驚かされたものがある。一応開いてはいるが何も見てはいない、うつろな死人のような彼らの目だ。  顔はまるでお面のようで、なんの表情もみられない。シーブルックが男のだらんとぶらさがった手を握って、話しかけようとすると、黒人女が飛んできて、彼をさっさと追い払ってしまった。  さらに一九三〇年、フランス人の人類学者ド・ルーケも、やはりハイチ島で夕暮れに、綿畑から引きあげていく、奇妙な四人の男たちを目撃した。ボロを着て、だらりと両手を下げた男たちは、うつろな目をどんより見開いたままよろめき歩いていた。  顔も手足も肉らしいものがぜんぜんなく、まるでシワだらけの紙が骨に張りついているようだった。太陽がギラギラ照っているというのに、不思議に汗一つかいていない。ド・ルーケが彼らの目前に指を突き出してみせても、彼らは何も見えないように、瞬き一つしなかったそうだ。  じつはこれらの男たちこそ、ブードゥー教の魔術師によって墓のなかから生き返らされた死者たちなのだ。これらのゾンビを、魔術師は農園や砂糖園に売りつける。意思も感情もなく、文句一ついわずに働くゾンビは、農園にとってこの上なく便利な労働者なのだ。  だから、ハイチの人々は近親者が死ぬと、魔術師によってゾンビにされるのを恐れて、掘り起こされないように、頑丈な墓石の下や自宅の庭に死者を葬って、遺体が完全に腐ってしまうまで銃を持って見張ったりするのだという。  さらに死体が、ゾンビにされないための手段というものもある。とくによく行なわれるのが、死体の心臓にクイを打ち込んだり、心臓をえぐってから墓穴に埋めるという方法である。  また、ゾンビを撃退するのに有効なのは、火と塩だそうだ。火による浄化で相手をやきつくすのと、塩はゾンビにふりかけるか口にふくませれば、相手を撃退することが出来る。  こうするとゾンビはその場で倒れたりはせずに、はるばる自分の墓までもどっていって、そこで再び、今度は永遠の眠りにつくのだそうだ。こうして塩を与えられたゾンビは、二度とゾンビになることはないという。  しかしそれでもハイチの奥地では、現在もゾンビは出現している。ブードゥー教の祭司は、男はウンガン、女はマンボと呼ばれる。ブードゥー教ではロアという名の精霊をまつるが、ロアのなかでも、もっとも崇拝されているのは、太陽や星辰《せいしん》をつかさどるダンバラと、あの世とこの世の通り道をつかさどるレグバだ。祭司たちはウムフォールと呼ばれる神殿に信徒たちを集めて、ロアを呼びおろすのである。  祭司になるには、つぎの四段階の修業を積まなければならない。(1)は呪力のある水で頭を洗い、ロアを体内に宿す力をつけること。(2)は火の試練。(3)は死者と対話する能力を身につけること。  これらの試練を経て、一人前の祭司になるのだが、さらに第四段階で、あの世を見る訓練、�目の取得�を通じて「開眼者《ボコール》」と呼ばれる存在になる必要がある。ゾンビを扱うことができるのは、このボコールに限られるのだそうだ。  ところで、一九七九年にハイチをおとずれ、ブードゥー教の魔術師から話を聞いたコーパーによると、ゾンビにされるのは生きている人間でも死体でも、どちらでもいいということだ。  墓場の死体がほしいときは、墓を掘り返して死体を引きずりだし、魔術師はその死者の名を何度も呼びつづける。やがて魂が死体から抜けると、あとは魔術師の意のままに死体が動きだすのである。  魔術師は死体を祈祷《きとう》小屋に運んでいって、自分が調合した秘薬を飲ませ、それから三週間、この死体(?)にさまざまな訓練をほどこす。魔術の呪文にしたがって、自由自在に動くようになったら、これで晴れてゾンビの出来上がりというわけだ。  死者をよみがえらせてゾンビにするための秘薬については、魔術師は、毒ヘビや動物の血液、チョウセンアサガオなどで調合するといっただけで、決して調合法を教えてはくれなかったそうだ。  よみがえったゾンビは、魔術師にともなわれ、かつての自分の家に連れて来られる。もし本当にゾンビになっているなら、自宅や家族を見ても、なんの反応も示さないはずだ。魔術師はゾンビが生前の記憶を失っていることを確認すると、彼らをしばらくのあいだ、祈祷小屋に閉じ込めてしまう。  その後、ゾンビたちには、いっさい塩の含まれていない食事が与えられる。万一ゾンビが塩をひとかけらでも口にすれば、たちまち過去のことを思い出し、墓にもどっていってしまうと言われているからだ。  しかし魔術師にねらわれるのは、何も死者だけではない。生きている人間でも、いつ魔術師に魂を抜き取られてゾンビにされるか分からないのだ。魔術師によると、生きている人間をゾンビにする方法は、三つあるという。  まず第一は、相手に魔術師の秘薬を飲ませる昔ながらの方法だ。この秘薬を飲んだ人間は、たちどころに血を吐いてたおれ、仮死状態になってしまう。てっきり死んだものと思って家族のものが墓に埋めれば、その夜のうちに魔術師が墓を掘り出しにいく。  しかしこの方法を用いる者はいまは少ないという。現在は、魔術師の投薬で人が死ぬことがあれば、当局に逮捕されてしまうからだそうだ。  第二は、秘薬などは使わず、呪文と悪霊の力だけで生きている人間から魂をぬきとる方法だが、これはもっともむずかしいとされている。そこで、いちばん普通に用いられるのは第三の方法である。  墓地の土と死体の骨の粉を混ぜあわせて「悪魔の粉末」をつくり、ゾンビにしたいと思う相手の、家のまわりにまき散らすのだ。すると、これを踏んでしまった相手の足のうらから粉末の薬がしみ込んでいき、やがて仮死状態になってしまうのだそうだ。  ところで、魔術師たちが用いる秘薬とはいったい何なのだろう。彼らは本当に、死者をよみがえらせることが出来るのだろうか?  一説によると、魔術師は死者にわずかにのこっている生体エネルギーを、活性化させて用いているのだとも言われる。また、じつはゾンビは死人などではなく、脳をマヒさせる特殊な薬を飲まされて、記憶や意識を失って仮死状態になった人間だという説もある。彼らが死んだように見えるのは、薬の効果で、人には死んだとしか思えないほど、深い昏睡状態におちいっているからだそうだ。  しかし、本当に、人間をそこまでの仮死状態にするような薬が存在するのだろうか? これも現代の研究によると、ハイチに成育するチョウセンアサガオから抽出した液体には、強いマヒ状態や昏睡状態や記憶喪失をひきおこす作用があることが判明している。そう考えれば、小屋に隔離されてからのゾンビが、チョウセンアサガオを食用に与えられることも納得がいく。  現在、ハイチにはビンゴ・シャンポールという秘密組織があって、ハイチ各地の魔術師たちとつねに連絡をとりあって、ゾンビを計画的に大量に製造しているのだともいうから、恐ろしい話だ……。 [#改ページ]   薔薇十字のカバラ団  一八五四年、三十歳のフランス、リヨンの宗教家ジョセフ・アントワヌ・ブーランは、霊地ノートルダム・ドラ・サレットで奇妙な女にめぐり合った。このめぐり合いが、それまでごく普通の宗教家だったブーランの運命を変えてしまうのである。  そのアデール・シュヴァリエという若いベルギー人修道女は、彼にこう主張したのだ。 「自分は神のお告げを受けたり、聖母マリアによって病を治された経験もある」。あげくにある日、こんな幻を見たと言いだした。神がブーランに、宗教改革者になるように命じられている……。  ふつうなら頭がおかしいのではと一笑にふすところだが、その女に惚《ほ》れていたのか、ブーランは誘いにのってしまうのである。さっそく教団を設立することを決意して、ローマ法王に許可を願い出るのだ。が、許可をもらえなかったので、計画に賛同してくれたヴェルサイユ司教の保護のもと、つのった仲間九人とともに、ブーランはリヨンに新教団を設立した。  この教団の儀式は、かなり奇妙なものだった。祝聖された聖体パンのかわりに、馬の尿や、大便を固めた薬などをもちいるのだ。ブーランとアデールは男と女の関係になり、二人のあいだには子も生まれている。もっともその子は、黒ミサのとき哀れにも生《い》け贄《に》えにされてしまったが……。  しだいに降神術に凝りだしたブーランは、当時の名高い妖術《ようじゆつ》使い、ウージェーヌ・ヴァントラスに近づいた。聖ミカエルの訪問を受けて以来、神がかりになったヴァントラスは、一八三〇年ごろカルヴァドス県に慈善カルメル会なるものを創立していた。  並みいる人々のまえで、彼はいろんな奇跡をおこなった。彼が祈りをささげると、全身からふくいくたる香りがしたり、からの聖杯に触れると、酒がなみなみと満ちてきたり、あるいは彼が祭壇に上がると、その足あとから血の文字や心臓の形をした聖体パンが現れたり……。医者がこれを分析すると、まぎれもない人間の血だったそうだ。  ヴァントラスの行なった様々な奇跡を記録した文書は、現在もヴァントラス文庫としてリヨンに保存されている。作家ユイスマンスは『彼方』を書くとき、ブーランに頼んでこれを見せてもらっている。  一八七五年にヴァントラスが死ぬと、ブーラン師はさっそく彼の後継者を自認し、ヴァントラスのエロチックな儀礼を、みずから実行しはじめたのだ。彼は、人が神にいたる道は、性行為のなかにこそあると主張した。アダムとイヴの犯した罪をつぐなうためには、人は罪のなかで生き、性行為を実践しなければならないというのだ。 「アダムとイヴは罪を犯して堕落したのだから、人は罪を通してしか救われることはできない。私と関係を結べば、お前たちにもきっと魂の救済が訪れるだろう……」  かくて狂信的な女信者たちとのあいだに、日夜禁じられた快楽をくりひろげていたブーランは、調子にのって一八八六年のある日、入門を希望してきた二人の他所《よそ》者を受け入れてしまった。 �薔薇十字カバラ会�の会員であるド・ガイタ侯爵と、オカルト学者のオズワルト・ウィルトである。二人は言葉たくみにブーランに近づき、入団を許されてからは、すっかり彼に信頼されてしまい、乱交の一部始終までしっかり目撃してしまったのだ。  十分な証拠を集めると、ド・ガイタ侯爵とウィルトは、さっさとパリに帰っていった。そして薔薇《ばら》十字カバラ会の秘教法廷なるものを開廷して、ブーランの欠席裁判を行なったのだ。判決はむろん、�有罪�である。  ド・ガイタとウィルトが送りつけた有罪判決を受けとったとき、ブーランは怒り心頭に発して、�虎のように飛びあがった�という。かくて薔薇十字カバラ団と、リヨンの慈善カルメル会のあいだに、恐ろしい死闘がはじまった。薔薇十字カバラ会の面々は、スタニスラス・ド・ガイタ侯爵、オズワルト・ウィルト、サール・ペラダン。慈善カルメル会の面々は、ジョセフ・アントワヌ・ブーラン、作家のJ・K・ユイスマンス、ジャーナリストのジュール・ボワである。  魔術師としてのあらゆる秘術を駆使して、相手を呪《のろ》い殺そうというのである。まず、ド・ガイタ侯爵は『サタンの聖堂』という著書のなかで慈善カルメル会の所業を洗いざらい暴露し、ブーランを、�汚れた司教、卑しいソドムの偶像、最低の術師で哀れな罪人、妖術師、邪教主�と、罵詈雑言《ばりぞうごん》でののしった。  対して、ブーランの友人である作家J・K・ユイスマンスは、小説『彼方』のなかで、薔薇十字カバラ会の連中を�とぼけた薄ノロ、醜悪なチンドン屋�と、さんざんこき下ろしている。  薔薇十字カバラ会の呪いは、ユイスマンスにも容赦なく向けられた。そのころユイスマンスは、時どき顔にヒヤッとしたものを感じたり、目に見えないものに取り巻かれている気がして、何かに驚いてビクッと飛びあがったりしていた。  さらに毎晩のように、ド・ガイタの送ってくる液体の�拳固�で、顔をぶん殴られていたともいう。ユイスマンスは作家業と同時に、官吏として毎日内務省に出勤したが、呪いから身を守るためだといって、聖体パンをヒモで額に結びつけて行った。これを見た同僚が、あきれて吹き出したのは当然だろう。  ブーランのほうでも蝋人形を作り、「ド・ガイタ、ペラダンよ、くたばれ」などと唱えて、人形をこねまわしていたが、当時六十九歳の彼と、三十代の男盛りのド・ガイタでは、最初から勝負は決まっていたようなものだ。まもなくブーランは呼吸困難を訴え、めっきり体が弱っていった。一八九一年一月三日朝、彼の部屋の窓に、一羽の不吉な黒い鳥がとまったが、その夜彼は息をひきとったのである。  享年六十九歳。この死が果してド・ガイタの呪いのせいだったかどうかは、判然としない。しかし一月七日、ユイスマンスとボワが、�フィガロ�紙にブーランを悼む一文を載せ、真っ向からブーランはド・ガイタらの呪いで殺されたのだと非難した。 「ド・ガイタは悪魔を崇める教団のボスで、気にいらない人間はすぐ呪い殺す。使い魔に毒液を運ばせ、相手の鼻のアナに注ぎこむのだ。ド・ガイタは、使い魔を洋服|箪笥《だんす》のなかで飼っている……」  ド・ガイタは最初は無視していたが、ついに堪忍袋の緒を切らして、新聞にこんな反撃文を発表した。 「ブーランが死んだのは、心臓と肝臓を病んだせいだ。私に関する根も葉もない噂《うわさ》をまき散らしているユイスマンスとボワに、私は断固、決闘を申しこむ!」  ド・ガイタ対ボワの決闘でケリをつけることになったが、これはおかしな成り行きになった。まず決闘の場にむかう途中、ボワを乗せた馬車は、馬が急にガタガタふるえだして、なかなか前に進もうとしない。  また、いよいよ撃ち合いの段になり、双方が一発ずつ弾を発射したが、どちらも相手にあたらないという妙な結果になり、結局勝負のつかないまま、決闘は中断されてしまった。  三日後に、今度はパピュス対ボワの決闘となったが、今回もボワの乗る馬車の馬がつぶれてしまい、別の馬車に乗り換えたが、今度は馬が転倒して馬車が引っくり返るという散々なことになった。  ほうほうの体でボワはようやく決闘の場にたどり着いたが、彼を迎えたのは血気盛んに剣をふりかざすパピュスだった。今度の決闘の武器は剣なのだが、大男のパピュスは剣の名人でもあり、とうてい優男のボワの敵ではない。  幸い双方とも無傷でパピュスが早々に勝利をおさめたが、この機会にボワとパピュスは友達になったというのだから、まあ、めでたしめでたしといったところだろう。その後、ウィルトは磁気療法に入れあげて魔術から遠ざかり、ド・ガイタは一八九七年に麻薬中毒が悪化して死亡した。ブーランにかけた呪いが、跳ね返ってきたのだという説もある。  ペラダンは一八九〇年に薔薇十字カバラ会を脱会し、�カトリック薔薇十字会�を創立。その後は芸術とオカルトを融合させた絵画展を主催したが、一九一八年に世を去った。  ユイスマンスは信仰の人として、世捨て人のような一生をおくった。パピュスはロシアにわたり、皇帝相手に占星術や降霊術を披露して人気者になり、一九一六年に死去。ボワはその後もジャーナリストとして、多くの著書を残している。 [#改ページ]   慈善カルメル会  一八四八年十月のある日曜日、静かなティイ・シュル・スールの町の教会堂で、奇妙なミサがもよおされていた。まず、祭壇のうえには、悪魔と異教の神を合体させたような、グロテスクな像がたてまつられている。そして周囲の壁には、殺人や冒涜《ぼうとく》を賛美する不気味な壁画がびっしり描きこまれている。  さらに内陣の周囲には、さらにおぞましい絵が描かれていた。たとえば、男根像、女陰像、クル病の殉教者、はらわたの飛びだした司祭、黒くしなびた乳房を持った女神、十字架型をした陽物像に釘《くぎ》で打ちつけられた醜いキリストなど……。  御堂内では何十人もの女たちが、それぞれ湯気のたつ香炉をまえにして座っている。そのなかみは、ヒヨス、トリカブト、ベラドンナなど、いずれも恐ろしい毒草のかずかずだ。この煙のなかに、やがて魔王サタン、ベルゼブル、アスタロット、ベリアルなどの悪魔たちが現れようとしているのである。  祭壇をのぼる司祭は、裸である。祭壇のうえには、山羊に仮装した人間がいる。司祭が聖体パンをとりだして�山羊�に捧げると、山羊が司祭にむかって、「げす野郎、さっさと服を着ろ!」と怒鳴りつける。  こうして司祭はミサ服を身につけるが、服には謎《なぞ》めいた象形文字や淫《みだ》らな判じ絵がぎっしり描きこまれ、おまけに精液らしき液体で汚されている。司祭が聖書を読むあいだ、山羊は祭壇上に立ったまま嬉《うれ》しげに身をよじっている。  しかし司祭がパンにむかって「そはわが肉なり」と言うやいなや、山羊は醜い顔を司祭に近づけ、赤い舌をのばしながら、「げす野郎、聖体パンをよこせ!」と命ずる。司祭が恐る恐るパンを差し出すと、山羊はそれを受けとって体にこすりつけたり、唾を吐きかけたり、小水をかけたりしながら、小踊りして「とうとう捕まえたぞ、畜生め!」とわめき散らすのだ。 「愚かな人類愛のために、こんな粉のなかに入りこみやがった。ざまあみろ、もう離すもんか。お前の司祭がお前を売ったのさ。そもそも人類を救うなどといって、地獄よりもひどい苦しみを人類に与えたのはお前じゃないか」  こう言うと、山羊は汚れた聖体パンを高々とさしあげて、信者たちに向かってみんなでわけるんだぞと命じて、ぱっと投げだした。信者たちは手から香炉をとり落とし、煙のたちこめるなか、押し合いへし合いして狂ったようにその汚らしいパンを奪いあうのだ。  互いに組んずほぐれつして、噛《か》みついたり爪でひっかいたりするたびに、彼らの口からは苦しげな呻きがもれ、衣服は破れて皮膚がむきだし、堂内は淫らな肉の修羅場と化した……。  静かな田舎町で、この恐るべき黒ミサを司っている�司祭�こそ、当時リヨンで最大の教祖として勢力を誇っていたヴァントラスである。百年の長きにわたって、ヴァントラスの始めた�慈善カルメル会�の信徒は、ヨーロッパ全土に広がった。  ヴァントラスの主張では、黒ミサとは、悪をあらわす山羊が、善をあらわす子羊に対して行なう偉大な犠牲で、権力を邪悪のがわに置こうとする試みなのだそうだ。そもそもキリストが殺されたのは�邪悪な�権力のためなのだから、こんな考え方は、いわばキリストの犠牲をふたたび再現しようとする試みともいえよう。  ヴァントラスは昔、ティイ・シュル・スールの製紙工場で監督をやっていた。そんなある日、彼の身に驚くべき事件が起きたのである。彼はそのときのことをこう語っている。 「朝九時ごろ、ミサを告げる鐘が鳴ったので、出席しようと帳簿の整理を急いでいた。そのとき誰かがドアを叩いた。職工が用があって来たのだろうと、『お入り』と言うと、驚いたことに、入ってきたのはぼろを着た見知らぬ老人だった。  私がそっけなく何の用かと聞くと、老人は静かに答えた。『怒らないで下さい、ピエール・ミシェル(ヴァントラスの本名)。私はとても疲れています。どこに行っても、泥棒のように軽蔑《けいべつ》の眼で見られるのです』  老人は悲しげな様子でそう言ったが、なぜか私はゾッとした。私は立ちあがって、机のひきだしから一〇スーの貨幣を出し、老人に渡して言った。 『さあ、これを持ってさっさとお行き』  老人はそれ以上,何も言わず、悲しそうに部屋を出ていった。そのあとすぐ、私はドアを閉めて鍵《かぎ》をかけたが、なぜか老人が階段を降りて行く足音が聞こえないので、気味悪くなって、ベルを鳴らして職工を呼んだ。老人が隠れていそうな場所を、あちこち探させようと思ったのだ。私も部屋を出て、家中をあちこち探したが、見つからなかった」  この出来事の少し後、ヴァントラスはパリのノートル・ダム・デ・ヴィクトワール教会のミサの席で、その老人にばったり出くわした。そのとき老人は、じつは自分こそ大天使ミカエルだと、彼に打ち明けたのである。  その後もさまざまな不思議や奇跡があいつぎ、ついに一八三九年ごろ、ヴァントラスは神が自分に一つの使命を与えられたことを疑うことが出来なくなった。教会をよみがえらせ、大天使の指示した人物を王位につけるという使命である。  ヴァントラスが帰りの馬車に乗っていると、大天使ミカエルが彼のそばに来てすわり、うしろを振り返ってみるよう命じた。振り返ると、なんとパリの街が真っ赤に燃えあがり、人々の阿鼻叫喚《あびきようかん》が空にこだましているではないか……。 「娼婦の町ニネヴェ(古代アッシリアの首都)が、住民とともに燃えているのだ」  と、ミカエルは言った。  かくてヴァントラスは、「フランスに間もなく破局が襲いかかるだろう」と予言して、いちはやく人々の注目を集めるのである。その後も大天使ミカエルは、ヴァントラスのそばを離れず、使徒や司祭をいちいち誰々と指定した。  ヴァントラスは、自らはストラタナエルと名のり、集まった使徒らにも天使名を与えた。たとえば当時、彼を庇護《ひご》していた、ノルマンディ貴族のド・ラザック氏はボテラエル、その妻はアネダエル……。  初期の使徒のなかには、弁護士、医師、反革命王党派の子孫だという、ダイマイエ公爵夫人などがいた。この公爵夫人をヴァントラスは自分の霊的な妻に指名し、ティイの館に彼女を招いてベッドをともにするようになった。  こうしてダイマイエ公爵夫人は、その後つぎつぎと起こる奇跡の目撃者となったのである。  奇跡はこんなふうにあらわれた。まず、ヴァントラスが祈りを捧げると全身からふくいくたる香りを発し、からだがふわりと浮かびあがる。からっぽの聖杯に手をふれると、みるみる葡萄《ぶどう》酒が満ちてくる。祭壇にのぼるとその足あとから、血の文字や心臓のかたちのにじんだ聖体パンがあらわれる……。  医者がその血を分析すると、まぎれもなく人間の血だったそうだ。血文字のにじんだ聖体パンは、もっとも熱心な、数百人の弟子たちに分け与えられた。  広まる噂に困惑したバイユー司教の命令で、ある日二人の僧侶《そうりよ》が、ヴァントラスの�慈善カルメル会�で起こる奇跡をその目で確かめようと、ティイにやってきた。  二人はあちこちを意地悪い目で点検して歩き、ヴァントラスを罠《わな》にかけようと、激しい議論をふっかけた。が、逆にヴァントラスに説得されてしまい、とうとうヴァントラスの足もとに身を投げだし、祝福を乞うたのである。  ストラタナエルことヴァントラスは、彼らに�恩寵《おんちよう》の十字架�を差し出したが、じつはそれこそ、主イエス・キリストの血潮に触れた十字架だったのである。するとたちまち二人の僧は、見るも恐ろしい怪物に変身し、鉤《かぎ》型の爪の生えた足を床に響かせて、ほうほうのていで逃げ去った。彼らが逃げたあとには、ひどい悪臭がただよっていたという。  奇跡の噂はすぐにひろまり、教団の支団がリヨン、パリ、ポワティエ、モンペリエ、アンジェなど、あちこちに結成された。ヴァントラスは、自分の教義を述べた小冊子を作ってばらまいた。  バイユーの司教は、この冊子にはカトリック信仰に反する点が多いと言って反駁《はんばく》し、ノルマンディ貴族ド・ラザック氏のもとに二人の僧侶をおくって改宗を迫った。ついにド・ラザック夫妻は、ヴァントラスとたもとを分かつことを誓い、四二年四月、「我々はヴァントラスを憎悪しこれを否認する」と書いた文書に署名している。  時を同じくして当局の捜査が開始し、ヴァントラスの弟子の一人、アベラエルことジョフロワが、ド・ラザック氏から五千フランをしぼりとっていたという事実が発覚したのである。  運の悪いことに、ティイの隣町の町長が王妃にあてて、ルイ・フィリップの政府転覆の目的で、ノルマンディに五十万にのぼる徒党が結成されつつあると訴えたため、もはや裁判は免れない事態になった。  ついに一八四二年四月八日、警察隊がヴァントラスの住居に踏みこんだ。捕らえられたヴァントラスの一行は、カーンの牢獄につながれた。予審は着々とすすみ、八月二十日、野次馬や信徒が大勢傍聴するなかで、ヴァントラスとジョフロワは、借金を踏み倒したという嫌疑にしては、あまりに厳しい刑を言い渡された。ヴァントラスは懲役五年、ジョフロワは懲役二年である。  牢にぶちこまれたヴァントラスは、めげるどころか、信徒をそそのかして抗議行動を起こさせた。さらに、聖母マリアに仕えることを主目的とする�聖騎士団�なる新教団を結成し、毎日、獄中から「騎士たる者は、青白の地にフランス、ポーランド、スペインのしるしを縫いとった、旗を揚げるように」と檄《げき》を飛ばした。  獄外では、新たな奇跡がつぎつぎ起こりつつあった。�慈善カルメル会�に入っていたある青年が、両親の説得に負けて棄教したが、数日後に肺結核で死んだ。葬式後、墓掘り人が柩《ひつぎ》に土をかけようとすると、突然、柩の中からコツコツ叩く音が聞こえたというのだ。  同じころ獄中のヴァントラスがふと目を覚ますと、その青年が経かたびらを着て彼の前に立ち、「僕のマリア徽章を下さい。でないと安らかに眠れません」と訴えたという。  この奇跡が知れわたると、大勢の人々が青年の墓に押しかけた。皆で死者の柩のふたをあけると、遺体はすでに腐って鉛色だったが、唇だけはまだ血が通っているように艶やかに赤かったという。信者たちは、これぞ新たな奇跡と信じこんだ。  数日後、今度はアンジェ司教が食事中にヴァントラスの悪口を言った。すると司教は、席を立った直後に、原因不明の即死をとげたのである。さらにストラスブール司教も、�慈善カルメル会�に対する反駁文を書いている最中、原因不明の即死をした。ヴァントラス裁判のとき、世間体を気にしてヴァントラスの弁護を断った弁護士は、気が狂い、痴呆状態になって世を去った。  さらにヴァントラスは獄中で、ルイ・フィリップの長男オルレアン公が死んだことを直観し、同囚たちにそれを話した。すると翌日になって、新聞が実際にその死を報じたため、同囚たちはびっくり仰天し、なおも沢山の改宗者が出た。  十八カ月間の幽囚ののち、ヴァントラスは友人たちの尽力で、ようやくレンヌに移された。監視の眼もゆるみ、菓子やワインや御馳走が、毎日そっと差し入れられた。そのころ、カーンで彼にさんざん意地悪をした二人の牢獄付き司祭が死んだ。二人とも伝染病で、それも特に意地悪だった片方は、膿疱性猩紅熱《のうほうせいしようこうねつ》でもだえながら死んでいったのである。  これらの事件は大きなセンセーションを巻き起こしたが、一方でそれを自分の利益に利用する人々も出てきた。リュトナエルことマレシャル神父は、初めはヴァントラスに心服していたが、一八四五年ごろ、今度は自分にも予言能力があると言いはじめ、�神の子たちの聖なる自由�という教義を宣言し、ティイの町で宣布をはじめた。  しかし�聖なる自由�というのは口実で、じつは内実は神を恐れぬ淫乱行為だった。ガルニエ家の娘たちを先頭に、慈善カルメル会の団員がつぎつぎと、恥も外聞もなくこの教義を信奉しはじめた。とくにジョフロワ家の娘マリは、十四歳にして、誰よりもリュトナエルの�教義�を実践し、信徒らを毎日新たな破廉恥行為に巻きこんで行った。  一八四五年に出獄したジョフロワから、慈悲のカルメル会がとんでもないことになっていると聞かされたヴァントラスは、ガッツォリという男を査察に送った。神の家が売春宿に一変しているのに仰天したガッツォリは、さっそく検察官に訴え出て、リュトナエルはほうほうのていで国外に逃亡した。  一切の報告を受けたヴァントラスが、ついに釈放されたとき、さっそく向かったのはティイではなかった。まず生活を建て直さねばならない。彼の妻があちこち奔走してなんとか当座の金を工面し、パリに仮住まいを得て、いよいよヴァントラスは活動を再開した。  慈善カルメル会の祭式を完成し、自ら司祭長を名のり、自分の下に七人の司祭を任命したのだ。そのなかには、後悔の情を示して復帰した、リュトナエルことマレシャル神父も入っていた。実は売春婦相手に金を遣いはたして行き場がなくなったのだが、彼の回心は、他の信徒たちの評判になり、血を流す聖体パンがふたたびもてはやされはじめた。  今やヴァントラス教は、イタリアにまで広まっていった。脅威を感じたローマ教皇庁の提言で、一八五〇年に緊急宗教会議が開かれ、ローマは異端宣告を発した。  しかし迫害にもかかわらず、ヴァントラスの�慈善カルメル会�はその後も、外国で大いに勢力を伸ばした。ロンドンでは修道会を組織し、オカルト流行の波に乗って霊媒をかこむ会を開き、一八五八年、ついにヴァントラスは「我こそ予言者エリヤの再来なり」と唱えはじめた。  その後は、旅から旅への日々を過ごした。フランスでは一八六三年に十以上の修道会を訪ね、司祭を叙任し、スペインやイタリアへと旅行した。フィレンツェに修道会の本拠を作り、そこはオカルト的な超常現象の見せ場になった。  スタニスラス・ド・ガイタ侯爵は、ヴァントラスを�神秘の大冒険師�と呼んでいる。ヴァントラスが死んだのは一八七五年十二月七日、奇しくも聖母の無原罪の御宿りの祝日だった……。 [#改ページ]   テンプル騎士団  テンプル騎士団は、もともとは聖地エルサレムに参詣に行く巡礼者を守るため、一二世紀に第一回十字軍のあと、フランスの騎士たちによって創設された宗団である。その本部が、エルサレムのソロモン王の神殿跡に置かれたため、いつしかテンプル(聖堂)騎士団と呼ばれることになった。  団員たちは長いヒゲをはやし、胸に赤十字のついた白服に、長剣と楯を手に雄々しく異教徒と戦い、それ打ち破っては、人々の熱狂的な歓迎を受けたという。感動した諸国の王侯貴族から、やがて彼らのもとに莫大な寄付が集まってきた。いつしか宗団は大きな勢力と富を得て、各国に支部を持つようになったのだ。  彼らはフランス、イタリア、スペインなどに広大な修道院領を有し、金融業にも手を出して、国王を大きくうわまわる勢力を持つようになった。特にフランスでは各地に一万もの拠点をもち、大事業をいとなんで国王に金を貸してさえいた。  いわばフランス国内に、もう一つの国があったようなものである。貸し金庫、複式簿記など、近代の経理技術の基本を築いたのが、実はこのテンプル騎士団なのだ。法王領内の公金の取扱いや、遠隔地への送金なども、すべて彼らの組織が仕切っていたという。  そしてこの宗団の盛況ぶりに反して、フランス国王フィリップ四世のほうは、国庫の赤字に頭を悩ませていた。日ごろからテンプル騎士団の傲慢《ごうまん》さに業をにやしていたフィリップ四世は、ある日、国庫の赤字を埋めるには、この宗団の財産を没収するのが手っとりばやい方法だと思いついたのである。  そこでフィリップ四世は法王クレメンス五世に働きかけ、こうして恐ろしいテンプル騎士団迫害がはじまった。フランスの宰相ノガレが、罪もない団員をつぎつぎ捕らえては、残酷な拷問を行なったのだ。 �悪魔礼拝教団�なる烙印《らくいん》をおされた、この宗団がかけられた嫌疑は、つぎのようなものだった。 ●宗教的儀式で十字架をふみにじり、神を否認し冒涜《ぼうとく》する宗教活動を行なったこと。 ●三つの頭を持つ忌まわしい偶像を神としてあがめ、悪魔礼拝を行なったこと。 ●悪魔の宴サバトを行ない、悪魔や配下の牝夢魔らと、許されぬ性交をむすんだこと。 ●宗団への新入者が入団式で、指導者の尻に接吻して、忠誠のあかしを立てたこと。 ●宗団の騎士たちの大半が、男色の罪を犯したこと。  多くの証人が法廷に呼びだされて、団員が酒宴でらんちき騒ぎをしているとか、男色行為を行なっているとか、異教徒と通じているなどと証言した。入団式のとき十字架を見せられ、キリストを信じるかときかれてハイと答えると、「キリストは神ではなく嘘《うそ》つき予言者だ」と吐き捨てるように言われたという者もいた。  また、悪魔のような恐ろしい顔をした偶像を見せられ、これを拝むように命じられたと言う者もいたし、十字架につばを吐きかけるように命じられたり、猥褻《わいせつ》行為や非道行為を行なうように命じられ、嫌だというと牢にぶちこまれたという者もいた。  こうして五年のあいだに計五十四人の騎士団員が捕らえられ、身体に無数のクサビを打ちこまれるなどの残酷な拷問を受けて、火あぶりにされていったのである。  やがて法王クレメンス五世が発行した教書で、一万五千余の騎士や無数の団員を擁していた宗団は解散させられ、首領ジャック・ド・モレーは火刑にされ、宗団の莫大な財産は国に没収されてしまった。  ド・モレーは一三一四年三月に火あぶりになる前に、「自分はフランス国王とローマ法王に、今年中に、神の法廷への出頭を命じるだろう」と言い残したという。事実、フィリップ四世もクレメンス五世も、その年のうちに急死してしまった。フィリップ四世は四十六歳の若さというのに原因不明の衰弱死で、「余は呪《のろ》われている!」というのが最期の言葉だったという。やはり、テンプル騎士団の呪いだったのだろうか?  テンプル騎士団が本当に悪魔礼拝の結社だったかどうかは不明だが、騎士団に、秘儀やきびしい戒律があったのは事実のようだ。外部の立ち入りを禁止して行なわれた神秘的な秘儀の数々が、しだいに周囲の人々からうさんくさいものに思われるようになったこともある。  テンプル騎士団に入団する者は入団式のとき、キリストを否定するしるしとして、十字架につばを吐きかけたり足で踏みつけるよう強いられた。これがすむと初めて、団員の着る帯つきの白い長衣を与えられたという。  また、つぎのようなエロチックな入団式が行なわれたという話もある。入会者は教会堂の一室に入って服をぬいで裸になり、水で全身を洗い清め、宗団のおきてを守ることを誓わせられる。団員の質問にひととおり答えてから、バフォメットという奇怪な偶像をおがみ、宗団の長老から接吻を受ける。問題なのはその接吻で、口だけでなくお腹やヘソや、なんと性器にも与えられたというのだ!  さらに入団式のとき、男色の実行を強制されたという説もある。これも真偽のほどは不明だが、この説の根拠としてよく引き合いに出されるものに、団員たちが入団のとき授与される印章がある。印章には、一頭の馬に二人の騎士が並んで乗っているという、意味深長な図が彫られているのだ。  バフォメットは、テンプル騎士団の団員たちが拝んでいた、グロテスクな偶像だと言うが、そのイメージは曖昧《あいまい》で、たださまざまな伝説をもとに、その姿を想像してみるほかはない。  バフォメット像は真っ白なヒゲがはえ、目をぎらぎら輝かせた、恐ろしい男の顔をしているという者もいる。ネコの顔だという者もいるし、女の顔だという者もいる。両性具有者だという者もいるし、頭が二つあるという者もいる。このように幾つもの説があるのは、拷問を受けた騎士団員が、なんとか助かろうと、苦悶のなかで口から出まかせに白状したためだろう。  バフォメットは地獄の魔王のことで、血塗られた人間犠牲を要求したという説もある。騎士団員は、生まれたばかりの赤ん坊をさらってきて、バフォメットに生《い》け贄《に》えとして捧げていたとも言われるのだ。  パリのサン・メリ教会の正面入口に、おぞましい悪魔の浮き彫りがあるが、伝説によると、これこそがテンプル騎士団のバフォメットだそうだ。浮き彫り像は、背中に二つのツバサがあり、胸に大きな乳房が垂れ、両脚を組んですわっている、実に恐ろしい顔をした悪魔である。  一説によると、バフォメット像は一種の「テラピム」ではなかったかとも言われる。テラピムとは、たいていのユダヤ人家庭にある守護神のことで、その家の者が未来のことを質問すると、それに応えていろいろな予言をしてくれるという偶像である。テンプル騎士団の入団式のときも、このバフォメット像がさまざまな予言を行なったのだろうと察せられるのだ。 [#改ページ]  ㈽ ———————————————————————————— 錬金術 [#改ページ]   錬金術  錬金術師は本当にただの鉛や銅のかたまりから、黄金を作りだすことに成功したのだろうかと、あなたは自問なさることだろう。たしかに科学的に考えれば、鉛や銅を黄金に変化させるには、元素そのものを変質させなくては不可能だ。では中世の錬金術師たちは、単に不可能なことに挑戦していただけなのだろうか?  しかしじつは、錬金術というものが決してただのおとぎ話などでなかったという証拠に、錬金術師が残したたしかな証拠品がいまも陳列されているのだ。一つは現在ロンドンの大英博物館にある不思議な黄金製の弾丸で、これは一八一四年に錬金術師が鉛の弾丸から黄金に変化させた珍品だという。  もう一つはウィーンの歴史博物館に現存する大きさ四〇センチ、重さ七キロのメダルで、これはメダルの上部三分の一が黄金になっていて、一六七七年に修道士ウェンツェルが、銀から金に錬金術で変成させた証拠品だと確認されているのだ。  錬金術師たちは、古くは紀元前一世紀ごろからエジプトや中国にあらわれ、不老不死の霊薬や硫化水銀から金をつくる秘法をさかんに研究していた。一四世紀ごろから突然ヨーロッパ中に錬金術ブームがまきおこり、多くの錬金術師が、実験室に溶鉱炉や蒸留器やレトルトなどをそなえて研究をつづけた。  錬金術師の社会的地位はさまざまで、貴族、平民、僧侶《そうりよ》、学者、医者、職人など、あらゆる社会階級の人々が集まっていた。これら無数の錬金術師らが、当時のヨーロッパ諸国で放浪の旅を送っていたのである。  錬金術師らは、しばしば変名をもちいながらヨーロッパ中を放浪し、たまに何処《どこ》かの街に定住しても、いったん金属変成に成功すれば、人目にたたぬように、さっさとそこを引き払ってしまうのだった。  彼らは同業組合に似た秘密結社を介し、自分たちだけが分かる合言葉を用いて、たがいに連絡をたもっていた。長い漂泊の旅のあいだも、彼らが何処に行こうとつねに宿や食べ物の心配がなかった理由は、ここにある。  パリやプラハのような街では、いくつかの通りに立ちならぶ家々全部が、錬金術の工房として使用されているようなこともあった。錬金術師らは、永遠の放浪者としてときにはジプシーの群れに加わり、あるいは聖職者階層や聖堂建築の同業組合に入り込み、隠れた一大勢力を形成していた。  こんな不穏な勢力拡大を、権力者が手をこまねいて見ているわけがない。たとえば一四世紀の法王ヨハネス二二世は、錬金術をおさめる者すべてを破門する教書を出した。さらに宗教裁判所は、数人の錬金術師を焚刑《ふんけい》に処した。  にもかかわらず、錬金術師らは着々と勢力をのばし、ときには君侯の庇護《ひご》をも受けて、重要な政治的役割を演じるようになった。  錬金術の教育は、師から弟子への口伝えによるのがふつうで、錬金術をこころざす者は、良き師に出会うため、長い旅に出ることも辞さなかった。教育はたいていは問答の形でおこなわれ、それを暗唱させられるのだった。  錬金術師らは、�大いなる作業�と�秘密の哲学�の秘密を、一般の人々の目から隠そうとつとめた。  ロージャー・ベーコンは書いている。 「秘密が明かされると、力は減少する。民衆は秘密など理解することもなしに、それを卑俗な用途にもちい、価値をすっかり下落させてしまう。さらにまた悪人どもが�秘法�を知ったら、それを悪用して世の中を引っ繰り返してしまうに違いない。だから私は、秘密について誰にでも分かるようなかたちでは書かない」  かつて、支配者や王たちは、熱心に黄金を探し求めた。一六世紀後半、ヴェネツィア総督は、自国の窮迫した財政を建てなおすため、キプロス人の錬金術師をやとったし、イギリス王チャールズ二世は、寝室の地下に錬金術用の実験室をこしらえた。  スコットランド王ジェームス四世も、一人の錬金術師をやとい入れた。その錬金術師は黄金を造り出そうとしただけでなく、二枚の翼で空を飛ぼうとさえして、スターリング城の胸壁から飛びおり、まっさかさまに落ちて足の骨を折ってしまったそうだ。  一六七五年には、ある錬金術師が皇帝レオポルド一世のまえで、銅と錫を黄金に変えた。一八八八年の調査で、この金属の重量は、ちょうど金と銀との中間であることが判明したという。  錬金術師の究極の目的は、賢者の石を造りだすことで、この石はあらゆるものを黄金に変える力をもつと信じられていた。一七世紀の化学者J・B・フォン・ヘルモントは、こう書いている。 「私は一度ならず賢者の石を見、それに触れた。色はサフランに似ているが、もっと光沢があり、粒状のガラスにも似ている。あるとき私は、それを百分の六オンス手に入れた。これを紙に包み、八オンスの水銀を加えてルツボで熱すると、水銀は小さな音をたてて一瞬後に凝固し、黄金のかたまりになった。これを強火で溶かすと、八オンス・マイナス・一一グレーンの純金となった」  錬金術師らは、宇宙の神秘を深く理解した者だけが、賢者の石を造りだせるのだと信じた。これらの神秘は、それに値しない人々に知られる危険を恐れて,決して平明な言葉で表現されることはなく、神秘的シンボリズムとアレゴリーを通じて伝達されるだけだった。そしてそれらは、ただ神秘的経験を通じてのみ把握されることが出来るのだった。  錬金術師らは、四季のリズムを尊重して、ふつう錬金薬の製造を春にはじめた。一年中で春がいちばん�世界の精気�にあふれ、懐胎と分娩に適していると考えていたからである。また、諸惑星の位置が吉相であることを前もって確認してから、実験を始める者もいた。  ところで、なぜ金は金であり、銅は銅なのか。錬金術師らに言わせれば、それは金に含まれる元素と、銅に含まれている元素とが、種類や割合が異なるからだった。つまり金と銀は�健康で�完全な金属で、銅や鉛は�病んだ�不完全な金属なのだ。  だから、病める金属の元素を治療してやれば、健康な金属に変成するというわけである。そしてその治療にあたる方法というのが、ほかならぬ「賢者の石」なのだ……。  かつてアリストテレスは、世界は火、気、水、土の四つの元素からなっているという考えをとなえた。�火、気、水、土�の四大元素は、あらゆるもののなかにある、�温・寒・湿・乾�という四つの基本的性質の二つを結合する。�火�は温と乾、�気�は温と湿、�水�は乾と湿、�土�は寒と乾という具合である。  ある元素の性質が一つでも変化すると、それは別の元素に変わる。たとえば温と乾の結びついた火が熱を失うと、寒で乾の土に変化する。寒と湿の結びついた水が温められると、温で湿の空気に変化する。  この理論こそ錬金術の原理で、これによってあらゆる変成の可能性がひらかれる。金はある比率における、四大元素の混合物なのである。  一二、三世紀には、金属は水銀と硫黄から成っていると考えられていた。燃焼性の強い硫黄は、火のように活発な男性的原理。水銀は、水性で受動的な女性的原理とみなされた。  理想的な�賢者の石�は、賢者の硫黄と水銀が、完全なバランスで結びついたものである。二つの原料を結合することが、�賢者の石�をつくり出す基本的方法だったのだ。  ところが一六世紀の錬金術師パラケルススは、アリストテレスの四大元素説を一応は受け入れながら、それはさらにもっと根源的な三つの元素から成りたっていると考えた。物質を可燃性にする硫黄、流動的にする水銀、凝固させる塩の三つで、世界で起こるすべての現象は、これらが絡みあって生じるというのである。  硫黄・水銀・塩というのは、同名の化学物質のことではなく、物質のある種の特性をあらわしている。つまり�硫黄�は能動的特性(可燃性や、金属を腐食する力など)を、�水銀�は受動的特性(輝き、揮発性、可溶性、可鍛性)を。そして�塩�は、硫黄と水銀を結びつける手段で、魂と肉体を結びつける精気にたとえられる。  錬金術師が、能動的要素たる硫黄を金属の父とよび、受動的要素たる水銀を金属の母とよぶ所以《ゆえん》も、そこにある。地中では互いに別れている二要素は、たえず互いに引きあい、さまざまな割合で結合し、地心の火の影響を受けて、さまざまな金属や鉱物を作る。  必要なのは、硫黄と水銀を結合させることだ。水銀だけや硫黄だけでは不可能だが、両者が結合すれば、各種金属や鉱物とを生み出すことができる。�賢者の石�も,またしかりである。  賢者の石を造るための錬金術には、七つの過程があるとも、十二の過程があるとも言われる。作業は、もっとも不純な�鉛の�状態にある原料から始め、それが純金になるまで純度を徐々に高めていくのである。  イギリスの錬金術師ジョージ・リプレイは、一四七〇年発表の『錬金術の方法』で、十一の過程のリストをあげている。焼成、溶解、分離、結合、腐敗、凝固、吸収、昇華、醗酵《はつこう》、増殖、変質である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (1)焼成は、錬金術用の原料を、細かい粉や灰になるまで燃焼する過程。この作業には、一年間燃えつづける中ぐらいの熱が必要だ。この作業は、卑金属の表面を破壊して、表面的資質をすべて取りのぞく過程と考えられていた。 (2)溶解は、水銀あるいは燃焼時に発した気体を凝縮して作った水銀液のなかで、燃焼した灰を溶かす過程。一連の作業のなかでも、特に困難な過程とされている。 [#ここで字下げ終わり] 「すべてが水に変わるまで、いかなる処置も施すべからず」と言われ、原料の液化は錬金術の重要な第一段階とみなされた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (3)分離は、原料物質を�水銀・硫黄・塩�、あるいは�霊・魂・肉体�に分離することを意味する。物質をさらに純化して、もう一歩、第一原質に近づけるのが目的だった。 (4)結合は、四大元素の再統合、あるいは水銀・硫黄・塩の再結合である。これには適度の一定の加熱が必要だが、温度を維持しつづけるのは非常にむずかしかった。カマドのなかの湿度を測定する方法もなかったし、熱を一定にするのも容易でなかった。 [#ここで字下げ終わり]  ここで錬金術師は、�第一原質�と、生命の活動的生気から成る、原料のもっとも初期の形に達したことになる。つぎの段階は、原料を殺してその生気を解き放つ、�腐敗�という過程である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (5)腐敗は、原料を湿った熱にさらし、器を湯煎鍋《ゆせんなべ》のなかの、たぎる汚物のなかで温める作業である。器の底の原料はしだいに黒く変色する。これは原料が�第一原質�になったしるしなのだ。 [#ここで字下げ終わり]  腐敗には墓場の悪臭に似た、いやな臭いがともなうという。第一原質にとって、腐敗は不可欠だ。再生には、その前段階としての腐敗(死)が、欠かせないものだからだ。  同時にこのとき、気体(生気、精神)が立ちのぼる。気体は、『創世記』の闇のなかの水上をただよう霊のように、器の中の黒い物質のうえをただよう。それは第一原質に浸透してそれを活性化し、やがて賢者の石となる胚子をつくる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (6)凝固。器を温めているあいだに、気体は液体に変化して第一原質をひたし、やがて器の中の液体は、白い固体の結晶に変わる。天地創造の第三日目の、水の中から乾いた土地が出現するという現象にたとえられる、�凝固�と呼ばれる過程である。�賢者の石�の諸要素もそのとき、一緒にあふれ出るという。 (7)吸収の過程で、器の中の胚子状態の石に、生の養分が与えられる。いわば、乳児への授乳にあたる。パラケルススの弟子ガーハード・ドーンは、人の生血、クサノオウ、蜂蜜などの材料を加えることをすすめている。 (8)昇華は、一種の純化である。器の中の固い物質は、気体を発するまで温められ、すぐに冷やされて再び固体に凝固される。石の身体から誕生のときに出る汚物を取りのぞくのが目的で、この過程は何度もくりかえされる。 (9)醗酵の過程で、器の中の物質は黄化する。ここで少量の黄金を加えよと、多くの錬金術師がすすめている。この段階で、石は卑金属を変質する力を獲得する。 (10)増殖は、作業における最終的な色の変化、つまり赤化をもたらす。この段階で、石のあらゆる構成要素は、調和と統一の中で混ざりあう。かまどの熱はいまや最高温度に達し、ついに錬金術師の長い苦労の結果である、�賢者の石�があらわれるのだ。 (11)変質と呼ばれる最終過程で、卑金属の黄金への変質をうながすため、石が卑金属に加えられる。たいてい、石の一片を蝋《ろう》か紙に包み、ルツボの中で卑金属とともに熱するというやり方である。これは石の構成要素をくりかえし均衡に導き、組みあわせるという作業である。 [#ここで字下げ終わり]  こうして完成した賢者の石は、ルビー色に輝く、粉末のすがたになってあらわれるはずである。オルトランによると、「それはしだいに赤い、透明な流動性の液化可能な石となる。それは水銀やありとあらゆる物体に浸透し、金を造りだすのに適した物質に変化させることができる。石は人間の体をあらゆる病から治し、健康を回復させる。これを用いてガラスを製造したり、宝石をざくろ石のような光輝く赤色に染めることもできる」  完成した�石�は、二様のかたちで用いることができた。塩の形か、または水銀をふくむ水に溶かした液体の形である。�賢者の石�は万病を癒し、心臓の毒を消し去り、気管をうるおし、潰瘍《かいよう》をなおす。  それは一カ月つづいた病を一日で、一年つづいた病を十二日で、もっと長い病を一月でいやし、老人に若さを返すという。賢者の石は�万能薬�でもあり、�長寿のエリキサ�でもある。  さらに錬金術師らによれば、�石�は錬金術師の姿を見えなくしたり、天使たちと交流させたり、のみならず自由に空を飛ばせたりする力さえ持つということである。 �石�を手中ににぎると、その人の姿は見えなくなる。薄い布地に縫いこみ、�石�をよくあたためるように布をしっかり体に巻きつけると、好きなだけ高く空中に浮かぶことができるのだそうだ。 [#改ページ]   ファウスト博士  ゲーテの戯曲で有名な魔術師ファウストは、ドイツ文学のなかにしばしば登場するヒーローである。しかしこのファウストが架空の人物ではなく、一五—一六世紀ドイツに実在した人物であることは、ほとんど知られていないのではないだろうか?  ゲオルク・ファウスト博士は、ドイツ最大の魔術師だったが、錬金術の実験をしている最中に大爆発がおこって、肉体が周囲にちりぢりになって吹っ飛んでしまうという、悲惨な最期をとげた。  そのため彼は悪魔に魂を売りわたした忌まわしい人物として、当時の人々から忌み嫌われ、死後、その著書はすべて湮滅《いんめつ》されてしまった。さらに、少しでも彼について述べた書物も抹殺されてしまった。  天才的な予言者でありながら、たとえばノストラダムスの『諸世紀』に比較できるような、ファウストの予言書が現代に伝わっていないのはそのためである。  そのとき老人は、ラテン語らしき詩をとなえながら、火を高熱になるまでかき起こした。時は一五三九年、場所はドイツ、シュタウフェンの貧しい旅館の一室である。静けさのなかで、炎だけが激しく音をたてて燃えている。 「輝く炎のなかで、たぎる熱のなかで、凍る氷のなかで」  老人はそうつぶやきながら、白い光りの輝く炉上のるつぼの中をのぞきこんだ。るつぼのなかの物質はかすかに泡立ち、いっそう輝きを増しはじめた。  いまだ! と、老人は急いでふいごをわきに置き、白い粉の入った皿をるつぼの上にかかげた。白い粉が、煮えたぎる物質のうえに落ちる。細い火炎が立ちのぼり、まもなくまた小さくなった。るつぼのなかの輝きは消え、底のほうでおき火がふるえている。  老人は、慎重にるつぼのなかをかき混ぜた。なかの物質は、赤紫色になっている。さらにかき混ぜると、湯垢のようなものが出来た。温度が下がり過ぎないよう、これは下に沈殿させねばならない。つねにかきまわすこと。それもごくごく慎重に……。  いまに灼熱《しやくねつ》が再び発生するだろう。それもいっそう激しく、激烈に。きっと今度こそ黄金作りは成功だろう!  るつぼのなかの物質は再び煮えたち、輝きはじめた。これで、るつぼ内の物質が液状化されるだろう。ますます加熱がすすみ、予想どおりるつぼのなかは白く輝いた。部屋全体がポッと明るくなり、気体が上昇した。  いまだ! 博士はふたたび、皿をるつぼの上に高々とかざした。黒い粉末が、目がくらむような光のなかにさらさらと落ちていく……。  と、そのとき、ものすごい雷撃が宿を襲った。梁《はり》と床板はメリメリ音をたてて、砕け散った。ドアも雨戸も蝶番《ちようつがい》からはずれ、敷石が床に散乱した。そしてその直後、突然またシーンと静かになった。  恐怖のなかで数分が過ぎ、ついに宿の主人が決心して立ちあがった。背後ではおかみと小僧と二人の女中が震えながら身をよせあい、耳をそばだてている。 「何かパチパチ音がするわ」  おかみが囁《ささや》いた。主人はちょっと耳をそばだてたが、 「燃えている、火事だ!」  彼ははじき飛ばされたような勢いで、博士の部屋まで駆け上った。そこは惨憺《さんたん》たる光景だった。すべてが黒々と煤《すす》まみれになっている。すべてが破裂し、吹っ飛び、粉々になり、輝く炎におおわれ、部屋中にムッとするような悪臭がただよっていた。そして床上には、半分黒こげになった博士の死体がころがっていた……。  主人はよろめきながら急いで階段を駆け降りた。ドアの外では押しかけた群衆が、いったい何事かと彼を見つめていた。彼はたちすくみ、あえぎながら彼らに向かって叫んだ。 「悪魔だ、悪魔が博士を連れ去ったんだ!」  シュタウフェンでの事件はヨーロッパの各地に知れわたり、人々を驚愕《きようがく》の底におとしいれた。やはり噂どおり、博士は悪魔と契約を結んでいたのか? 彼のピタリあてる占星術の予言も、みごとな金を作りだすという錬金術も、不治の病人を治す優れた医術も、すべては悪魔から授かった技術だったのか?  悪魔、魔女、魔法などが信じられていた時代、悪魔と契約した人間と関わりを持ったという事実は、世間にとほうもない恐怖を引き起こした。少しでも生前のファウストと関係のあった人間は、学者の集まりや夜の社交場で皮肉たっぷりな質問を受けた。通りを歩くと、人々は互いに袖を引いて囁きかわし、彼らが通ったあとで十字を切ったりした。  そこで自分にふりかかる疑いをはねのけるため、人々がやったのは次のようなことだった。まず、ファウストが触れたかも知れないすべての品は、すべて御祓《おはら》いの言葉をとなえながら何度も洗浄され、大気にさらされたあと、何度も水につけられた。爆破のとき投げ出された博士の使用した寝具や寝衣は、ただちに炉のなかで焼かれた。  博士が住んでいた部屋は、一カ月のあいだ毎週くりかえし祝福を与え、聖水が撒かれた。そして彼が書いた書物という書物は、一つ残らず火中に投ぜられた。浄化する火炎の力だけが、魂を腐敗させる悪魔の臭気を外に追い出すことが出来るからだ。  ファウストの敵たちは、悪魔ばらいの僧らと結託して、役所や市場や民衆の手もとに残っている文章を、かたっぱしからかき集めて絶滅した。むろんファウストに関連した書物や著作も探しもとめられた。悪魔にさらわれた人物を詳述したものはおろか、彼の名に言及した著述さえ、いっさい容赦《ようしや》はされなかった。  年代記、教会関係の文章、官公庁の通達、申請書、記録文書、そして市参事会の決議や法令まで、ファウストの敵はすべてを調査し、わずかでも疑わしい箇所を削除した。  このとき、どのぐらいの量の書物や原稿や書類が始末されたかは、不明である。しかしわずか数年後にも、哀れなファウスト博士の足跡は消滅し、もはや彼を思い起こさせるものは何も残らなかった。早くも一五八五年、書簡印刷者のヨーハン・シュピースが『ファウスト博士の物語』執筆のために資料を集め始めたとき、民衆間の伝説のほかは何も見つからなかったのだ!  こうして当時の識者たちはファウストの存在を抹殺してしまおうとしたが、民衆のあいだに、魔術師ファウストの思い出はいつまでも生きつづけた。一五八五年にはヨーハン・シュピースが編纂《へんさん》した、民衆本『ファウスト博士の物語』が出版されて、ベストセラーになっている。  一八世紀には、ドイツの文豪ヴォルフガング・フォン・ゲーテが、名高い戯曲『ファウスト』を完成させて、話題を呼んだ。そのなかでは主人公ファウストは、単に知識欲に燃えた魔術師ではなく、人類の未来を創造して行く西欧的人間精神の象徴とみなされている。  ゲーテの創造したファウストはあまりに有名になったが、一五—一六世紀に存在した実在の魔術師ファウストのことは、忘れ去られたままになったのである……。  ファウストは一四八〇年、ドイツ南西部ヴュルテンベルクのクリットリンゲン村に生まれた。父は村の金持ちで、母はその家で働く女中だった。ファウストは私生児だったが、幼いときから成績優秀で、ハイデルベルク大学で学び、一五〇九年一月十五日、神学博士号をとった。  ハイデルベルク大学の記録には、「ファウストは十六人の志願者のうち、トップで博士号を授与された」とある。このとき彼は三十一歳。その後はエルフルト大学で教壇に立ったが、講義のみごとさは学生たちの人気を一身に集めたという。  その後は、ライプチヒ、プラハ、インゴルシュタットなどの各地を転々として、大学の教壇に立った。これらの大学でも、講堂はたちまち聴講生でいっぱいになり、彼が町を歩くと、大勢の弟子がぞろぞろ後についてきたという。  しかしやがて、ファウストが悪魔と手を結んでいるという噂が広まるようになった。彼が弟子を大勢引き連れて、毎夜のように町を飲み歩き、酔っぱらって悪さをしたり、騒動を巻き起こしたりしていたせいもあったようだ。しだいにファウストは、神学者たちから目のかたきにされるようになった。  その後ファウストは、ポーランドなどの各地をまわり、巡回占い師として活躍するようになる。このころ彼は、こう自称していた。「大学修士・巫術《ふじゆつ》師の元祖・占星術師・手相見・気象、火勢、水勢を観察して、世の動きを予言する、よろず占い専門家」……。  しかし彼が悪魔に魂を売りわたしたという噂がひろまると、だんだん客も減っていった。老いたファウストは、都市の広場で手品を披露して、生計をたてるという哀れな姿をさらすようになってしまった。  かつては神聖ローマ帝国皇帝やフランス国王にも召し抱えられたという彼にしては、たいへんな零落ぶりだ。  その後各地を転々としていたファウストは、一五三九年にやっとフォン・シュタウフェン男爵にひろわれて、その地に落ちついた。  しかしシュタウフェン男爵の注文で、卑金属を黄金に変える錬金術の実験をしている最中に、大爆発が起こり、肉体がまるで悪魔の手でひきちぎられたように、あたりに四散して死んでしまうという、悲惨な最期をとげたのだ。  この死に方のせいで、ファウストは悪魔に魂を売りわたし、ついに地獄に落ちてしまったのだという噂が広まった。おかげで彼の著作や彼についての記録がいっさい湮滅させられてしまったことは、前に記したとおりである。  ファウストが生前に駆使していた魔術は、大ざっぱに言って次の三つだそうだ。  宇宙に存在する善の霊、悪の霊、死人の霊などを呼びだして、彼らと自由に交渉できる巫術。つぎに石や金属の中に隠されている秘密の力を手に入れ、永遠の生命や健康や富を獲得しようとする錬金術。そして占星術、水晶の凝視、手相術など、さまざまな方法で未来を予言し、不幸を事前に察知して、安全な生活を送るための予言術だ。  ファウストが聖職者たちに非難されたのは、第一の巫術の能力を得るため、悪魔に魂を売りわたしたとされたからである。  なぜそのような危険をおかしたのかと弟子たちに聞かれると、ファウストは、「自分は若いときから魔術に専念してきたが、その道でかなりの達人になったとき、学識豊富な悪魔のメフィストフェレスと接触するようになったのだ」と語ったという。  ある日、地獄から悪魔を呼びだそうとしたファウストは、町の外れにある人気のない十字路におもむいた。そこで彼は、路上に大きな環をおいて、その端に何か神秘的な文字を描き、さらにその環を中心に、土のうえに同心円状に環を描いた。  やがて夜になって月が出てくると、ファウストは中央の環のなかに入って、悪魔の名を熱心にとなえた。すると不思議なことに、火の玉が何処《どこ》からか、唸《うな》りながら彼に向かって飛んできた。彼がさらに呪文をとなえつづけると、ついに悪魔の霊があらわれて、環のまわりをめぐりだしたという。  悪魔はファウストにむかって、「五つの条件を守るなら、お前にこの世の一切の富と幸福を与えよう」と宣言した。条件とは、(1)神やすべての天使を拒否すること。(2)すべての人間、とくに悪行にふける彼を罰しようとするものに、敵対すること。(3)聖職者には決して服従することなく、逆に敵視すること。(4)教会に行ったり、説教を聞いたりしないこと。(5)結婚制度に従って、妻をめとったりしないこと。  ファウストがこれらの条件を守れば、二十四年のあいだ、サタンの家臣のメフィストフェレスを従者として、好き放題の生活を送ることができるが、その期限がくると、肉体も魂も、悪魔に引きわたさねばならないというのだ。ファウストはこの条件を受け入れ、悪魔との契約書に、自分の血で署名したという。  悪魔に魂を売りわたしたファウストは、メフィストフェレスのおかげで莫大な富を手に入れ、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の生活をおくるようになった。周囲の人々によると、ファウストはいつも酒に酔って真っ赤な顔をして、派手なリボンや鎖の垂れさがった短い胴着とゆったりしたズボンをはき、高価な宝石の指輪をいくつもはめていたという。  以前から大酒飲みだったファウストは、その後は毎夜のように弟子や仲間を招いて、豪華な酒宴をもよおした。メフィストフェレスはファウストから命令されると、それまで何もなかった食卓に、あっというまにおいしいワインや豪華な料理を山ほど運んできて、客たちを仰天させたという。  当時ファウストに招待された人々は、みなさまざまな不思議な体験をしている。たとえばある冬の日、ファウストは大勢の貴公子や貴婦人を宴会に招待したが、客たちが彼の屋敷に到着すると、外は大雪だったにもかかわらず、庭には雪がつもっているどころか、季節はずれの美しい花が咲き乱れていたのだ。  また、やはりある冬の日のこと。ファウスト宅を訪れた貴婦人が、秋の果物を食べてみたいと言いだした。するとファウストは、二つの銀の大皿を用意して、それを窓の外につきだした。やがてそれを引っ込めると、皿のうえにはブドウやナシなどの秋の果物が山ほど乗っていたという。  さらにある日、ファウストが自宅に学生たちを招いたときのこと。彼が呪文をとなえると、とつぜんオルガン、バイオリン、リュートなど、さまざまな楽器の演奏がはじまり、そのうち、呆然としている学生たちの目のまえで、グラスや皿が飛びはねたり、互いにぶつかりあったりしはじめたというのだ。  また、ある日ファウストが弟子たちを連れて、ライプチヒの見本市を訪れたことがある。そのときファウストは、たまたま同市を訪れていたカムペギウス枢機卿《すうきけい》の一行と出会った。彼は枢機卿一行の退屈をまぎらすために、魔術を見せてほしいと頼まれた。  そこでメフィストフェレスとファウストは、二人で狩の服装をして、沢山の猟犬を引き連れてあらわれた。ファウストが角笛を吹くと、不思議にも、空中高くにキツネとウサギが、一匹ずつあらわれた。  猟犬を引きつれたメフィストフェレスとファウストは、空中に舞いあがって、獲物を追いはじめた。ファウストが空中で角笛を吹きならすので、観客は大喜び。猟犬に追いかけられて、恐れおののいたキツネとウサギは、一気に高空に逃げのびたため、地上からは見えなくなってしまった。  そうするうちに、追われる動物も狩人も猟犬も低空に再び姿をあらわし、しばらくのあいだ追いつ追われつするうちに、とうとう姿を消してしまった。  カムペギウス枢機卿はこの大がかりな空中活劇に大喜びして、もしファウストがローマに来たら、予言者として厚くもてなそうと約束した。それにファウストは礼をのべたが、「自分は十分な財産を持っているし、さらに空中に、この世の最高の君主さえ隷属する国土を所有している」のだと答えたという。  さらにこんな話もある。ある夜、彼の弟子たちがファウストの家に遊びにやってきた。酒が入り、お喋《しやべ》りに興が乗ったころ、美しい女のことが話題になった。そのうち弟子たちが、ギリシア神話に登場する、トロイ戦争の原因となったといわれる美女ヘレンを見てみたいと言いだした。そもそもあの女が、トロイの町が滅びる原因になったのだから、さぞ美しい女だったに違いないというのである。  そこでファウストは、諸君がそんなに会ってみたいのなら、あの世から彼女を呼びだしてやろうと言いだした。 「ただし、約束して欲しいことがある。そのときはみな、その席で黙ってじっとしていること。決して椅子《いす》から立ちあがったり、現れたヘレンに手を触れたりしてはならない」  そう言い残して部屋を出ていったファウストは、やがて紫色のドレスをまとい、長い金髪をひざまでたらし、美しい漆黒の目と透きとおるような白い肌をした、まぎれもない美女ヘレンを連れてもどってきた。彼女があまりに美しいので、弟子たちは興奮してしまって口もきけないようだった。  この事件には後日談がある。ファウストはこの美女ヘレンがおおいに気に入って、ついには彼女と同棲してしまい、二人のあいだには、ユストゥス・ファウストという子供まで生まれたというのだ。  例の悲惨な爆発事件でファウストが死ぬと、すでに立派な青年に成長していたユストゥスは、ファウストの忠実な助手のヴァーグナーに、「父が亡くなったいま、私と母はここを去ることにした。父の遺産はすべて、父によく仕えてくれた君にゆずろう」と言い残して、母のヘレンとともに何処かに姿を消してしまったという。 [#改ページ]   錬金術師フラメル  一四世紀フランスの錬金術師ニコラ・フラメルは,『アブラハムの書』という古代錬金術の書物から黄金製造法を知り、大量の黄金をみずから製造したことで有名だ。  一四世紀後半のパリ、エクリヴァン街のサン・ジャック・ラ・ブーシュリー教会の隣に、一人の男がひっそりと住んでいた。ニコラ・フラメルという書店主である。一三三〇年にポントワーズに生まれたフラメルは、十三歳のときパリに出た。挿絵画家のもとで何年か就業したあと、書籍販売業をいとなむようになった。  一三五七年のある夜、フラメルは奇妙な夢を見た。夢に天使があらわれて、一冊の本を差し出してこう言ったのだ。 「この本をみよ。これはお前にも、他の誰にも理解することの出来ない本だ。しかしお前はいつの日か、他の誰にも分からない秘密をここから発見するだろう」  数日後、一人の男がふらりとフラメルの店を訪れた。アラブ人のような黒い肌をした、みすぼらしい風采《ふうさい》の男だった。彼はフラメルにこのあいだ夢で見たのと瓜二つの本を見せて、金二フローリンで売り渡したのだ。  それは古い分厚い手稿本で、何かの若木の樹皮に書かれていた。フラメルには全く理解できない、古代言語がぎっしり書かれていて、どのページも錬金術らしい奇妙な記号や用語でいっぱいだった。  フラメルはその本を熱心にめくってみたが、読めば読むほど、何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。最初のページには金文字のラテン語の序文があり、この本はユダヤ人の始祖アブラハムによって書かれたもので、�屠者と公証人をのぞいて�、これを読んだすべての者は呪《のろ》われるだろうと書かれていた。  つづいて著者は、いわゆる金属変成の秘密を明かしている。ただしその秘密を解くためのキーポイントはどこにも記されておらず、そのかわり巧みに描かれた寓意画がいくつか出ているだけだ。  第一図では、足に羽根のはえた少年が、空中を飛んでいる老人にいまにも大ガマで足を切られようとしている。第二図では、山の頂に金色の葉に赤や白の花の咲いた木が立っており、まわりを竜やグリフィンが翼をひろげて飛び回っている。  第三図は、バラの花束に泉が水を噴出している絵。第四図は小さな赤ん坊を殺そうとしている一人の王の絵だ。これはヘロデ王に虐殺される赤ん坊を描いているのだという。  とにかく、わけの分からない絵ばかりだった。もっともこれらの絵はもともと人に理解させるために描かれたのではなく、解読のカギを持っている人間だけに分かる暗号なのだ。  では、そのキーポイントとやらは、いったい誰に聞けば教えてくれるだろう。興味をおぼえたフラメルは、パリ中の学者たちをたずねて、それとなく手稿本の内容をたずねてみたが、役に立ちそうな助言は得られなかった。  そうこうするうちに、ニコラ・フラメルはペルネルという女性と結婚した。ペルネルは夫の錬金術への関心をばかにするどころか、自分もすすんでそれに協力しようとした。後年フラメルが錬金術の実験を行なうときも、自分もそれに加わって助手をつとめたという。  こうして二十一年の月日がたったが、書物の解読は依然すすまなかった。いかに辛抱強いフラメルも、ついくじけそうになったが、ある日彼はふと、あることを思いついた。この本がユダヤの始祖アブラハムの書いたものなのなら、もしかしたらユダヤ人なら、これが読めるかも知れない。  そこでフラメルは一三七九年、妻ペルネルに留守をまかせて、スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラ寺院への巡礼の旅に出た。当時のスペインには、ユダヤ人学者が大勢住んでいた。巡礼というのは表むきの口実で、じつは書物の謎《なぞ》をとく手がかりを、ユダヤ人学者たちのあいだに求めようとしたのだ。  スペインに着いたフラメルは、ユダヤ教の礼拝堂を足しげく訪れて、そこに群れつどうユダヤ人たちにかたっぱしから例の書物のことを聞いてまわったが、なんの効果も得られなかった。  がっかりしたフラメルは帰途についたが、ところが帰りに立ち寄ったレオンの町で、一人の重要な人物に出会うのだ。マイトス・カンチェスという、改宗したユダヤ人のカバラ(ユダヤ密教)学者である。カンチェスは医師でもあり、貧民を無料で治療して、レオンでは尊敬されていた。  フラメルが例の書物のなかから絵図の写しを見せると、カンチェスは急に目を輝かせて身をのりだしてきた。 「それはラビ、アブラハムの『アッシュ・メザレフ』に違いありません。カバリストたちが、もう数百年前に失われてしまったと思いこんでいるものです。第四の図には、無垢な赤ん坊の殺害が描かれていますね。それは新たに生成するために破壊されねばならない、金属変成の象徴なのです。では、その本をお持ちなのですか? ぜひ見せて下さい」  カンチェスはその書物を自分の目で見るため、フラメルについてパリまで行くことになった。レオンからパリへの道中のあいだカンチェスは錬金術について自分が知っているかぎりの知識をフラメルにさずけた。  古代エジプトの知の神、ヘルメス・トリスメギストスから始まるその知識は、その後アラブ人とユダヤ人を通じて西方にひろがったが、やがて野蛮人どもが世界を制覇するにいたって、秘密の知は忘れられ、隠されてしまった。  フラメルが持っている書物は、もしかしたら宗教に関心が深かったローマの背教徒ユリアヌス帝を通じて、パリにもたらされたものかも知れないという。  ところがカンチェスは、高齢のせいか途中のオルレアンで病気になってしまい、旅館の一室で床についたまま、あえなく世を去ってしまった。死の直前に、カンチェスはフラメルに、卑金属を金や銀に変えることができる「賢者の石」の秘密をおしえたという。  こうして「賢者の石」の秘密は、カンチェスからフラメルに受けつがれたのだ。そんな一三八二年初頭のある日、フラメルの店のドアを叩く者がある。開けてみると、隣家のユダヤ人シモンだった。  当時、セーヌ河の水にユダヤ人が毒を投げ入れたという噂がたち、大量のユダヤ人が投獄されたり殺されたりする事件が起きてきた。危険が迫るのを感じたシモンは、パリからドイツに移住しようとしていた。 「でも、一つだけ心残りがあるのです。これまで死ぬ思いで貯めてきた財産です。憎い迫害者たちには死んでも渡したくはない。だが私には跡継ぎがないので、あなたにこれを預かってもらうことにしました。どうぞこの袋をおとり下さい。私がいつかここにもどってきたら返していただくが、私の身に何かあったら、あなたのものにして下さい。あなたがこれを悪いことに使ったりなさらないことは、よく分かっています」  これと前後して、フラメルはついに「賢者の石」造出に成功したらしい。一三八二年十月十七日、月曜日正午ごろ、妻ペルネルの前で、ついにひとかたまりの銀を火のなかから取り出して見せたのだ。  半ポンドほどの水銀を純銀に変える実験だったが、出来上がった銀は、銀鉱からとれた銀よりずっと良質だった。さらにそれから三カ月後に、今度は半ポンドほどの水銀を、純金に変えることに成功した。これも普通の金よりずっと良質で柔らかいものだったという。  フラメルが実験に成功しているあいだも、ユダヤ人迫害はつづいており、ユダヤ人はつぎつぎと亡命したり殺されたりしていた。そしてそのたびに、親ユダヤとして名高かったフラメルのもとに、つぎつぎとユダヤ人たちの財宝や遺産が持ち込まれたらしいのだ。  そのせいかどうか、このころからフラメル夫妻は、パリ市内の数軒の教会に寄付を行なっている。一三八九年にはイノサン墓地の納骨堂にアーケードを寄進し、聖ジャック・ラーブーシュリーの表玄関の装飾を寄進した。モンモランシー街五一番地に、建物を新築したのもこのころである。  急速にフラメル家が裕福になったのは確かだが、それが錬金術のおかげだったのか、それとも亡命ユダヤ人たちから譲られた遺産のおかげだったのかは分からない。長年にわたってフラメルが営んできた書店の仕事も、地味ながらうまくいっていたし、妻のペルネルが前夫が残した遺産から、かなりの額の持参金を持ってきたという説もある。  ニコラ・フラメルは一四一七年、九十歳近くで世をさり、遺骸《いがい》は聖ジャック教会の聖クレメンス礼拝堂に葬られた。彼の墓石は今日クリュニイ博物館に保存されている。  妻ペルネルはすでに一三九七年に死んでいたので、遺産は数軒の教会に寄進され、遺書は甥《おい》の一人に継承された。何代かあとに、フラメルの子孫であるデュ・ペランという医師が、ルイ一三世のために金粉をつくったという話が伝えられている。フラメル家に代々伝わる錬金術の手法を用いてのことなのだろうか?  ニコラ・フラメルの死からほぼ三世紀半たった一七五二年、フラメルの旧宅が地下から最上階まで徹底的に探索された。しかしどこからも錬金術の極意を記したメモも古文書も出てはこなかった。  ただこのとき部屋の片隅に何の変哲もない小さなビンが置かれていたが、誰もこれに目をとめる者はいなかった。あまりにもありふれた小ビンだったからだ。  捜査の一行が引き上げたあと、一人の女性がそのビンに目をとめ、何気なく自宅に持ち帰った。なかに何か分からない液体が入っていたが、女性はそれをさっさと台所に流して、ビンを水洗いしてしまった。  こうしてビンのなかの「液体」は、永遠に失われてしまったのだが、もしかして、本当にもしかしてだが、この「液体」こそが、錬金術の秘薬だったのだとしたら、どうなのだろうか? [#改ページ]   錬金術師サン・ジェルマン伯爵  一六—一八世紀ヨーロッパには、名高い錬金術師が何人もあらわれるが、なかでも有名なのがサン・ジェルマン伯であろう。彼は世界史上もっとも謎《なぞ》に満ちた人物といわれ、現代でさえ彼が生きていると信じる者がいるほどだ。  一七五〇年ごろ、退屈していたルイ一五世に、在オーストリア大使のベイアイル元帥がこんな話を持ち出した。サン・ジェルマン伯と名乗る不思議な人物がフランスにきているので、一度招いてみたらどうかというのである。 「なんだね、そのサン・ジェルマン伯とやらは?」  疑わしそうに問い返すルイ一五世に、ベイアイル元帥は、 「本当のところ、何者なのか、この私にも分かりません。ただ恐ろしく博学な男で、化学や錬金術に関する知識は他にならぶ者がなく、黄金や不老長寿の薬まで造っており,そのうえとほうもない大金持ちでもあるそうです」  とにかくものは試しということで、ベイアイル元帥はそのサン・ジェルマン伯を、ルイ一五世の面前に連れてきた。年のころ四十歳ぐらい。小柄な体を白サテンのネクタイと黒ビロードの服につつんでいる。洗練された物腰でなかなかの美男子だが、とくに普通と変わっているようにも見えなかった。  ところがつぎの瞬間、サン・ジェルマン伯は突然ポケットからひとつかみの見事なダイヤモンドをとりだし、テーブルのうえに無造作にばらまいて、こう言ったのである。 「どうぞ、おおさめ下さい。陛下への贈り物でございます」 「これは……」と、ルイ一五世は目をみはった。 「いったいどこで、こんな素晴らしいものを……?」 「私が造ったものです」  サン・ジェルマン伯の名は、あっというまにパリ社交界に知れわたり、どこのサロンでも彼の話題でもちきりになった。彼がさる身分高い王族の落とし子だと利《き》いたふうに言う者もあり、ルイ一五世がシャンボール城の一室を実験室として貸し与えたことから、彼がルイ一五世の政治の秘密工作に従事しているのだという者もいた。  サン・ジェルマン伯はいろんな突拍子もない話をしては、パリ社交界の人々をけむに巻いた。たとえば自分はいまから二百年ほど前、スペイン国王フェルディナンド五世の大臣をしたことがあるのだと言いはり、聞き手が本当にしないでいると、当時の極秘文書をふところから取り出して見せたという。  それどころか、彼の体験談はなんと聖書の時代までさかのぼる始末だった。キリストやシバの女王と親しくしていたとか、アレクサンダー大王がバビロンの都に入城するとき自分もそこにいたとか、あるときキリストが彼の眼前でただの水を酒に変えてしまった。これがのちにいう「カナの婚礼の奇跡」なのだとか言うのである。  ところがある日、ヴェルサイユ宮殿でサン・ジェルマン伯に会ったジェルジ伯爵夫人が、しばらく彼の顔をまじまじと見ていたあと、奇妙なことを言いだした。 「あなたはわたしが四十年前にヴェニスでお会いした方とそっくり。でもあのとき、あなたはたしか四十五歳ぐらいだった。それから全く年をとっていらっしゃらないのも変だし……。きっと人違いでしょうね?」  するとサン・ジェルマン伯は、すました顔でこう答えた。 「いいえ、マダム。たしかに私は、あなたが四十年前にヴェニスで会われたのと同じ人間ですよ。あのときあなたのご主人は、たしかイタリア大使でいらっしゃいましたね?」  もしジェルジ伯爵夫人の話が本当なら、サン・ジェルマン伯は現在、九十歳以上にはなっているはずだ。ところが見た目には、せいぜい四十歳ぐらいにしかみえないのだ。ここまで来て、人々ははっと思いあたった。  そういえば、まだサン・ジェルマン伯が食事をしているところを、誰も見たことがないのだ。晩餐《ばんさん》会に招いてもことわるし、たとえ出席しても、いっさい物を食べないし、酒も飲まない。断食中の行者のように肉食を避けているのだろうとも思われたが、それにしても、それだけのことで老化をふせげるはずもない。  そこで人々は、サン・ジェルマン伯が不老不死の霊薬を持っているのではないかと噂《うわさ》した。当時、若返りや不老不死は、貴族たちの一番の関心事で、とくにその美貌で国王に取り入ろうと競っている宮廷の貴婦人たちにとっては、垂涎《すいぜん》のまとだったのだ。  当時初めてサン・ジェルマン伯に会った、有名な色事師のカサノヴァは、こう述べている。 「彼はひどく博学で、いろんな国の言葉が話せた。大音楽家で、化学者でもあり、それに美容効果てきめんの不思議な化粧水をおしげもなくばらまくので、女たちの人気者でもあった。  彼は人の度肝をぬくようなことを、平気で口にした。溶かした一個のダイヤモンドから、もっと良質のダイヤモンドを一ダースも作ることができるとか、エリクシールという特別な養命水を飲んでいるので、自分は決してふけることがなく、じつはもう何千年も昔から生きているのだなどと……」  哲学者ヴォルテールは、「サン・ジェルマン伯という男は、あらゆることを知っている」と感嘆している。世紀の文人にこうまで言わしめた彼は、いったい何者だったのだろう。ただの山師だったのか、あるいは頭がおかしかっただけなのだろうか?  だが、ただの山師なら、カサノヴァやヴォルテールなどの、超一流の人物があんなに感心するはずもないし、ルイ一五世が秘密使命を与えるはずもない。それにただの山師にしては、彼の知識はあまりに深遠で、能力はあまりに多方面にわたっていた。  クラブサンとピアノは、大作曲家のラモーが舌をまくほどの腕前だったし、絵のほうも一流はだしで、画家のラトゥールが彼の独特な絵の具の製法を教えてほしいとせがんだが、とうとう教えてもらえなかったという。  あるときサン・ジェルマン伯は、ルイ一五世から傷のあるダイヤをあずかって帰っていった。ところが一カ月後にそのダイヤを持ってもどってきたときには、傷はあとかたもなく消えていた。宝石商はこのダイヤを、一万フランと値踏みしたという。  人々は、サン・ジェルマン伯が卑金属を貴金属に変えるための、いわゆる「賢者の石」を持っているのだと噂した。当時そんな石が本当にあると信じられ、錬金術師たちはそれを血まなこになって探していたのだ。  ルイ一五世が彼をシャンボール城の豪華な部屋に住まわせて、実験に専念させたのも、彼の技術を利用して莫大な収入をあげ、当時火の車だったフランス王家の国庫をうるおわせようという心づもりだったようなのだ。  のちにルイ一五世は、サン・ジェルマン伯に自分の私室に出入りする特権さえ与えた。身元も分からない外国人に対しては、まさに破格の待遇である。このことから、彼は薔薇《ばら》十字団の団員で、外交上の秘密使命をおびて、どこかの国から密使としてフランスに送りこまれたのではという噂が流れた。薔薇十字団は、全ヨーロッパを統一して一種の世界連邦を設立するという目的のもとで、当時ひそかに各国宮廷に密使を派遣していたのだ。  しかしサン・ジェルマン伯がパリ社交界を風靡《ふうび》してしまうと、一方でこれをこころよく思わない人々も出てきた。特に外務大臣ショワズールの一派は、国王が自分たちを差し置いて、国政のことまでサン・ジェルマン伯に相談するのを見て、面白くなかった。  そうこうするうちに、アメリカの植民地をめぐってイギリスとのあいだに戦争が起こり、ルイ一五世はサン・ジェルマン伯を外交使節として、イギリスとの和平交渉にあたらせることにした。  ショワズール一派はここぞとばかり、彼の足をひっぱって邪魔しようとした。おかげで外交は失敗におわり、サン・ジェルマン伯は国外追放の身になってイギリスに逃げだした。しかし実際には、ルイ一五世の密命をおびての渡英だったともいわれる。  その後の彼の足どりははっきりしないが、どうもロシアのサンクトペテルブルクに渡ったらしい。アレクセイ・オルロフ伯爵の知遇を得たサン・ジェルマン伯は、皇帝ピョートルを倒して皇后エカテリーナを帝位につけようとする一七六二年のクーデターに参加した。このときはヴェルダン将軍と名乗り、オルロフ伯爵の片腕として活躍していたという。  一七七四年には新しくフランス国王になったルイ一六世とマリー・アントワネットに会うため、彼はふたたびパリにもどってきた。が、留守のあいだにすっかり情勢は変わっていた。ルイ一六世は錠前《じようまえ》作りに熱中する凡庸な国王で、アントワネットは贅沢《ぜいたく》にうつつを抜かす軽薄な王妃で、どちらもサン・ジェルマン伯にはまったく関心を示さなかった。  そこでサン・ジェルマン伯は、「くれぐれも国政に注意なさらないと、やがて恐ろしいことが起こりますよ」と国王夫妻に警告して、フランスを去っていったという。  その後ルイ一六世は財政改革に失敗し、一七八九年には新しく組織された国民議会を弾圧して、国民の怒りをつのらせた。それに追い打ちをかけるように、贅沢三昧して、国庫を浪費する王妃に民衆の憎しみがあつまる。  そして有名な「首飾り事件」で王妃の人気は地に落ち、一七八九年、ついにフランス革命が起こって、国王も王妃も処刑台の露と消える。その運命をサン・ジェルマン伯は知っていたのだろうか?  サン・ジェルマン伯自身は、一七七七年にドイツのヘッセン・カッセルにあらわれ、カッセル伯チャールズの庇護《ひご》を得た。彼はこのときはトランシルヴァニアのラコッツィ侯爵を名乗っていたという。  彼にすっかり心酔したカッセル伯は、彼のためシュレスヴィッヒ・ホルシュタインのエッケルンフェンデに、錬金術のための研究所を建ててやった。ここでサン・ジェルマン伯は世間から遠ざかって錬金術の研究にはげんでいたが、一七八四年二月に世を去ってしまった。死因はリューマチと鬱病《うつびよう》だったという。カッセル伯は、「かつてこの世にあらわれたもっとも偉大な聖者の一人」と彼を讚えて、その死をおしんでいる。  ところが一七八九年のフランス革命の少しまえに、王妃マリー・アントワネットは、差出人がサン・ジェルマン伯となっている一通の手紙を受け取っている。このとき、とっくに彼は死んでいたはずなのに……。  その手紙には「最後の警告です。民衆の要求をいれ、貴族たちをしずめ、ルイ一六世が退位して去らねばなりません」と書かれていたという。けれど王妃は革命派の誰かの陰謀だろうと思って、そのまま破り捨てたという。  しかしその後も、サン・ジェルマン伯を見かけたという証言はふえつづける。国王夫妻が革命派に捕らえられていたころ、侍女の一人がサン・ジェルマン伯の使いだという男に郊外の名もない教会に連れていかれると、そこになんと、サン・ジェルマン伯自身が立っていたのだ! 「私は不死身で永遠に時間のなかをさまよっているのです。国王夫妻はとうとう、私の警告を聞こうとしなかった。もうお二人はおしまいだが、それは私には関係ないことです」  と言って、彼は忽然《こつぜん》とまた姿を消してしまったという。  他にも彼が死んだとされる一七八四年の翌年、彼がフリーメーソンの会合に出席したとか、はてはナポレオンが彼に忠告を受けたとか、あるいは第二次大戦でイギリスのチャーチル首相が彼に会って助言を受けたとかという話まである。  一八—二〇世紀にかけて、さまざまな人物の前に出没するこの人物は、いったい何者だったのだろうか? それについては、いろんな説がある。彼が死んだとされる一七八四年以降に現れてくるのは、サン・ジェルマン伯の名をかたる偽物だったのだとか、彼が薔薇十字団かフリーメーソンのメンバーで、その秘密結社から、時をこえて生きつづける秘伝を伝授されているのだとか。……  あなたはいったい、どのように思われるだろうか? [#改ページ]   錬金術師フルカネッリ  一九二六年秋、『大聖堂の秘密』という奇妙な書物が、パリで出版された。表紙の片隅には、「フルカネッリ」という著者名が記されている。前書きによると、これは錬金術師であるフルカネッリが、仲間の錬金術師たちのために書いた秘密伝授の書物だという。  この『大聖堂の秘密』のなかで、フルカネッリは、ゴシック建築が単なる寺院ではなく、一種の「石の書物」であり、その各ページには錬金術の秘密が隠されているという、驚異的な説をのべているのだ。  彼によると、ゴシック建築という言葉自体がさまざまな暗示を含んでいるという。たとえばゴシック・アートは、フランス語で「ART GOTHIQUE」とつづる。これからARTのTをとり、切る位置をかえると、「ARGOT HIQUE」となる。ARGOTというのは、フランス語でいわゆるスラング(隠語)のことだ。  さらに「ARGOTHIQUE」と続けて読めば、「アルゴーの言葉」という意味になる。フルカネッリによると、これはギリシア神話で、アルゴー船にのって黄金の羊を探しに出掛けた英雄イアソンと仲間たちが用いた言葉のことである。彼らの子孫が、その言葉を用いて、ゴシック建築に秘密のメッセージを託したというのだ。  たとえばパリのノートル・ダム寺院はその典型的なもので、大理石の彫刻は、それぞれ七つの天の金属(太陽は金、土星は鉛というように)をあらわしている。建物の寸法の比率や、ステンドグラスの配置などを丹念にたどっていけば、錬金術の奥義はかならずや習得できるというのだ。  たちまちフルカネッリの名は、フランス中に知れ渡った。一九六〇年代のオカルト・ブームの火付け役となった、ルイ・ポーエルとジャック・ベルジェのベストセラー『魔術師の朝』で、大きくとりあげられたのも原因した。  ジャック・ベルジェは一九三四年—一九四〇年にかけて、当時フランス最高の電子工学者として知られ、のちにナチに捕らえられて獄死することになる、アンドレ・ヘルブロンナーに師事していた。  ヘルブロンナーの弟子のなかに、一人の天才的な錬金術師がいたが、その男はフルカネッリというペンネームで、『賢者の住居』と『大聖堂の秘密』という奇書を発表したあと、世俗との関係をすべて断ち切って、突然どこかに姿を消してしまったという話だった。  一九三七年七月のある午後、ジャック・ベルジェは師ヘルブロンナーの使いで、パリのガス会社の実験室に出掛け、そこで一人の不思議な人物と出会った。ベルジェはその男の顔が、どこか普通ではないことに気づいた。男の顔はまるで大理石像のように無表情で、そして奇妙にも、見る角度によって老人のようにも若い娘のようにも見えるのだ。  最初に口を切ったのは、その男だった。 「あなたは、アンドレ・ヘルブロンナー博士の助手だそうですね」  ベルジェがうなずくと、 「あなたがたは核エネルギーを研究していられますね。蒼鉛線を高圧の重水素中で放電させて気化し,ポロニウムに対応する放射能をとりだすという方法で、成功を目前にしていられるようだ。しかしあなた方が進めていられる研究は、大きな危険をはらんでいます。それもあなた方にとってだけでなく、全人類にとっての危険なのです。  核エネルギーの開放は、あなた方が想像するよりずっと容易なことです。ただ、そうして作りだされた人工放射能は、数年後には地球を完全に汚染してしまいます。ごく数グラムの金属から作られる原子爆弾は、数個の都市を同時に破壊してしまうほどのエネルギーを持っているのです」  男はそういって、机上にあったフレデリック・ソディ(一九—二〇世紀の英国の化学者)の『ラジウムの解釈』という本を手にとると、アトランティス文明が原子放射能によって破壊されたことをほのめかす件《くだり》を、声に出して読み上げた。 「私は太古の昔、すでに原子エネルギーを駆使していた文明が、エネルギーを誤った目的に用いたため、滅びてしまったことを知っている。  そもそも近代物理学は一八世紀、一部の王侯貴族や自由思想家たちの遊びのなかから生まれたものです。だからそれは、きわめて危険な学問なのです」  若いベルジェは興味をそそられて、こう問い返した。 「あなたは錬金術のことを言っていられるのですね。あなたご自身は、その古代の知恵を用いて、黄金を作りだしたことがおありなのですか?」  男はベルジェを見つめて、にやりと笑った。 「どうやらあなたは、私が生涯をかけて追求してきた学問に興味がおありのようだ。しかしそれをほんの数分間で、誰にも分かる言葉で話すなど、とても不可能です。もし知りたいなら、あなた自身が時をかけて研究するほかはないでしょう」  そういうと男は、とつぜん夕闇《ゆうやみ》のなかにスーッと吸い込まれるように姿を消してしまった。たった今起こったことがすべて夢だったかのような思いにかられて、ベルジェはそのあとに呆然《ぼうぜん》と立ちつくした。  ベルジェの会ったこの男こそ、じつは現代の錬金術師として西洋史に不朽の名をのこす、フルカネッリそのひとだったのだ。  ベルジェ自身は、名前もいわず消えてしまったこの男のことを、いつかすっかり忘れてしまった。彼の人生にふたたびこの錬金術師の名前が登場してくるのは、それから八年後のことである。  第二次大戦がはじまり、ドイツ占領下にあるフランスで、ベルジェはナチス・ドイツへの抵抗運動に参加していた。そんなある日、原子物理学者として有名になっていた彼のもとに、ドイツが計画中の原爆開発計画をさぐる連合軍諜報部から、こんな依頼がとどいた。  錬金術師フルカネッリなる人物と接触して、�金属変成のある方法�を突き止めてくれというのだ。渡されたフルカネッリの肖像を見たベルジェは、びっくり仰天した。それこそ八年前にガス会社の研究室で会った、あの不思議な男だったのだ。  あのときのフルカネッリの警告は、すべて実現した。彼との出会いから八年後の一九四五年八月、広島と長崎に世界初の原子爆弾が投下され、膨大な犠牲者を出したのである。  フルカネッリとの再会は、ベルジェの人生観を大きく変えた。彼は原子物理学に疑問を抱くようになり、第二次大戦後は、錬金術の研究に熱心にとりくむようになった。現代では、この分野では世界に名をとどろかせる研究家である。  フルカネッリが一九二六年に出版した『大聖堂の秘密』は、彼の弟子を自称する、ユージェーヌ・カンセリエなる人物が編纂《へんさん》したものだ。カンセリエによると、彼自身も師フルカネッリから、�金属変成の粉�なるものを少し分けてもらい、自分もそれを用いて鉛を黄金に変成したことがあるのだそうだ。  カンセリエによると、フルカネッリは裕福なブルジョワの家に生まれ、最初のころはごく普通の家庭をいとなんでいた。しかしあるとき錬金術による神秘的変容を遂げてしまうと世間との一切のつながりを断ち切って、突然どこかに姿を消してしまったのだ。フルカネッリが姿を消してから三十年後に、カンセリエは一度だけ彼に再会したことがある。そのときフルカネッリは奇妙なことに、三十年前より逆に三十歳若返ってみえ、しかも女のような外観をしていたという。  師フルカネッリから連絡を受けたカンセリエは、指定された山のなかの古い城館に出向いた。そこでフルカネッリに丁重に迎えられ、一室をあたえられた。数日後の早朝、カンセリエは階段を降りて中庭に散歩に出ようとした。するとそのとき、中庭に一六世紀の服装をした女性が三人見えた。そのうちの一人が歩きながらこちらを振り向いたとき、彼はそれがフルカネッリであるのをみとめたという。  じつは錬金術の目的は、単に卑金属を黄金に変えることだけではない。その過程で、錬金術師の変容も、同時に達成されると信じられているのである。「溶解して化合せよ」という錬金術の標語には、二つの意味がある。一つはあまりにも有名な、錬金術の過程で卑金属が貴金属に生まれ変わることだが、もう一つは錬金術師自身も、死を通過してよりよい生へ再生することである。  古文献には、錬金術の最終過程には「愛の炎のなかで、王は女王と合体する」というプロセスが待ち受けていると書かれている。つまり錬金術に成功した瞬間、錬金術師は、男と女が合体した聖なる両性具有者に生まれかわるのだ。  その作用は、錬金術の過程で、不老長寿の妙薬を取り出すとき、副作用として起こるらしい。まず妙薬のおかげで髪や歯がぬけ爪もはがれて、新しいものが生えてくる。そして若いすべすべの肌がよみがえり、年も性別も分からない両性具有者が誕生するのだ。そしてそのときから、彼はいっさい食べ物を口にする必要がなくなるのだという。  錬金術師は、両性具有を人間の究極の理想の姿とみなしている。男も女も単体では不完全な存在であり、片割れである相手の異世界を理解することはできない。両性が合体することで、初めて真の魂の充足が訪れ、神の視点に立つことができるというのだ。  カンセリエは書いている。 「師は、彼の長きにわたる研究が成功したとき、ただちに姿を消してしまった。誰もこのおきてに背くことはできない。もし私の身にも師と同じ幸福な出来事が起こったとしたら、たとえ別れがどんなに辛かろうと、同じように姿を消してしまうだろう」  幸福な出来事とは、両性具有と不老不死への変身のことだったに違いない。 [#改ページ]  ㈿ ———————————————————————————— 黒魔術の呪い [#改ページ]   呪いの歴史  科学万能の二〇世紀にも、依然として呪《のろ》いや祟《たた》りという言葉は残っている。そして現代でもなお、呪いによって人生を大きく狂わされたり、命を失ったりした人々が、数多く存在しているのだ。  呪いは太古の昔から、他者に対して恨みや憎しみを抱く人々によって、相手をおとしいれる武器として用いられてきた。心理学者たちの意見では、相手がわに不幸や災難を恐れる気持ちが少しでもある場合、呪いは効力を発揮するというのだ。  二〇世紀に今も生きつづける呪いのルーツは意外に古く、そもそも神々や悪魔を対象に、災難をふりはらう呪術《じゆじゆつ》の儀式が行なわれたのは、数千年前の古代エジプトが最初である。当時は呪術師や神官が、呪文や護符やロウ人形を使って、呪術を行なっていた。  古代エジプトの『死者の書』には、魔法の呪文がきざまれた数百種の護符とその利用法が記されている。人々は目に見えぬ悪霊から身を守るために、これらの護符をお守りがわりに持ち歩いたのだ。  当時のエジプトでは、ロウ人形による呪殺術がさかんに行なわれていた。紀元前一二〇〇年代に、魔術師フィと手を組んだ数十人の大臣や高官が、エジプト王ラムセス三世を、ロウ人形を用いて呪い殺そうとした事件がある。  魔術師フィは、悪神アペプの名を記したパピルスとロウ人形をつくって大地に置き、左足で蹴り倒して石の槍《やり》で突き刺し、それから十二日間のあいだ毎日、ピンでロウ人形を突き刺した。  そしてラムセス三世への呪いの言葉を浴びせながら、十三日目にロウ人形を火の中に投げ込んだのである。だが、ラムセス三世につかえる魔術師に嗅《か》ぎつけられ、陰謀は発覚して、魔術師フィや大臣や高官たちは死刑にされてしまった。  いっぽう古代バビロンでも、紀元前二〇〇〇年ごろが呪術の最盛期で、『ハンムラビ法典』(紀元前一七〇〇年代)にも、「もし、ある者が他者に対して呪いを行なったら、当人は死の報いを受けるべし」と記され、呪殺術の禁止を定める法令が記されている。  古代ギリシアでも紀元前五〇〇年代、呪術師オルフェウスが�オルフェウス教�を創設し、呪術が大流行したという。悪霊の呪いをふせぐために、�魔法の手�の銅像がつくられたほどだ。悪霊が好む蛇を�魔法の手�にきざみこんで、悪霊を呼びよせ、その手のなかに悪霊を封じこめてしまう呪法である。  呪術の流行は、ローマ帝国時代にピークに達した。皇帝ネロ(紀元五四—六八年在位)は法律で一切の呪術を禁止しながらも、いっぽうで呪術師を招いて政治を行なっていたし、アウグストゥス皇帝(紀元前二七—紀元一四年在位)も、呪術禁止令を発しながらも、みずからは呪術を行なっていた。  中世に魔術が大流行したイギリスでは、一五六三年に、エリザベス女王(一五三三—一六〇三)がみずから「妖術《ようじゆつ》・呪術禁止法」を発令した。人に呪いをかけて殺そうとした者は、絞首刑に処せられることになったのである。 「妖術・呪術禁止法」が完全に廃止されたのは、なんと今世紀の一九五一年になってからのことだ。とくに魔術の荒れ狂ったエセックス州では、なんと一九三〇年代まで、魔女かどうかを判別する�魔女泳がし�の儀式が毎年おこなわれていたという。  さらに最近になって世界のあちこちで、なぜか悪魔教団や黒ミサの儀式が、大流行しはじめたのだ。そしてそれらの悪魔教団や魔女集団は、単に黒ミサの儀式をおこなうだけでなく、ひそかに呪殺法を実行しつつあるという。  そのなかのあるものは、呪殺術を使って、ある特定の人物を暗殺するという、一種の殺人結社に変貌《へんぼう》しつつあるというから、恐ろしいことだ。 [#改ページ]   呪殺法とさまざまな呪い  現在もヨーロッパやアメリカで受け継がれている呪殺法の、その代表的なものをご紹介してみよう。 ●ロウ人形の呪い(1)  ロウをこねて、呪う相手に似た人形をつくる。相手に生き写しであればあるほど、呪いの効果も大になる。つぎに、人形に呪いの言葉を刻みこむ。さらに、もし出来ればの話だが、相手の洋服の切れっぱしを人形に着せ、人形の頭に相手の髪の毛二—三本を、人形の指に相手の爪のかけらを、人形の口に相手の歯のかけらを、それぞれ植えつけてやれば、なおさら良い。  ロウ人形の代わりに、布人形、木彫人形、泥人形、絵人形、あるいは相手の写真を使うこともある。  真夜中の一三時に、ロウ人形の両眼に針を十三回ずつ突き刺して、呪いの言葉を吐き、さらに自分の小指を針で刺して出た血で、ロウ人形の心臓に×印を書く。そして相手の名前をロウ人形にきざみ、呪いの言葉を吐いて、心臓の×印部分に針を十三回ずつ突き刺す。最後にそのロウ人形を、呪う相手の家に投げつけるか、相手の墓地の土に埋めると、相手は体に変調をきたして病気になり、急死するという。 ●ロウ人形の呪い(2) (1)と同じように、相手の姿に似せてロウ人形をつくり、つぎのように唱える。 「アラトオル、レピダトオル、テンタトオル、ソムニアトオル、ドゥクトオル、コメストオル、デヴォラトオル、セドゥクトオル、汝《なんじ》ら破壊と憎悪の友にして執行人よ、呪いを行ない、不和の種をまく者よ。われ汝らに祈念す、○○〇(相手の名前)の憎悪と不幸のために、汝らがこの似姿に秘蹟《ひせき》をさずけ、祝福を与えられんことを」  そして針やクギでロウ人形の体を突き刺し、最後に心臓を一突きしたら、火のなかに投げこんでしまう。ロウ人形の体がすっかり溶けきった瞬間に、呪われた者も死ぬといわれている。 ●ロウ人形の呪い(3)  ロウ人形、石鏃《せきぞく》(石のやじり)、トネリコの枝、十枚のシソの葉などを用意し、まず、つぎのような祈りをとなえる。 「地獄にまします我らの悪魔。御名が崇《あが》められんことを。御国のきたらんことを。御心が地獄に行なわれるごとく、地にも行なわれんことを。私たちの夜毎の楽しみを、今日も我らに与えたまえ。我らが負債のある者を許さぬごとく、あなたも負債のある者を許されませんように。我らを試みにあわさず、悪しき者を遣わされんことを」  そのあとロウ人形に、呪う相手の名を石鏃で刻みつける。それからトネリコの枝で地面に二重の円を描き、円のなかに人形を置く。つぎにシソの葉をしぼって、葉の汁を石鏃に塗りつけ、それを呪いをこめて人形の胸に突き刺す。そして人形を地中に埋めたあと、呪う相手の家に行って、そこの庭にトネリコの枝とシソの葉を投げこむ。  その結果、呪われた相手は原因不明の病気にかかって、やがて死んでしまうという。 ●悪霊アペプのロウ人形の呪い  儀式を行なう時刻は、真夜中か夜明けか夕方。月日は、夏至・冬至・春分・秋分の日。場所は、墓地や沼地やくぼ地や寺院のなか。さらに悪霊の好む爪、髪の毛、胎児の死体の一部、歯、排泄物、精液、動物の内臓、そしてロウ人形(死体の脂肪からつくったものが最高)、針か細い石槍《いしやり》を用意する。  まず自分の周囲に円を描き、爪や髪の毛や胎児の死体を祭壇にそなえて、こう呪文をとなえる。 「悪霊アペプよ! この世に来て呪いたまえ。○○○(相手の名前)の頭を突き刺し、顔を切り裂いて、頭を二つに切断せよ。○○○の全身をくだき、骨を粉砕し、四肢を切り取りたまえ! 憎い相手の心臓を刺したまえ! 悪霊アペプの霊力で、相手を縛り、打ち倒したまえ!」  この呪文を六回となえながら、ロウ人形の頭、顔、手足、心臓を、針か石槍で突き刺す。一日の夕方、真夜中、夜明けと三回にわたって行ない、七日間つづけたあと、ロウ人形を火にあぶって溶かす。  相手は、ロウ人形が溶けはじめたところと同じ部分から、病気やケガをするという。そしてしだいに全身の力が衰え、頭や心臓の激痛に襲われ、苦しみ抜いたあげく世を去るのだそうだ。 ●ヒキガエルの呪い  ロウ人形では生きた人間のような感じがしなくて物足りない人は、そのかわりに動物の心臓を用いても良い。流れる血とぴくぴく動く肉は、呪いをかける者の情熱をさらに煽《あお》りたてることだろう。ヒキガエル、ヘビ、フクロウ、ネズミなどが、古くから用いられている。  ヒキガエルを用いた呪いについては、一六世紀の鬼神論者デルリオが、こんなエピソードを書き残している。 「イストリアの聖ゲルミニアスの町に、一人の青年が住んでいたが、ある女妖術使いに夢中になり、妻や子供たちを捨てて、女妖術使いと同棲するようになった。  捨てられた妻はしばらく悲嘆にくれていたが、ふと呪いのことに気づいて、夫と女妖術使いの家をたずねてきた。そしてこっそり家のなかを探すと、ベッドの下に、壺《つぼ》のなかに閉じ込められた一匹のヒキガエルを発見した。ヒキガエルの目は縫われてふさがれていた。  妻がカエルを出してその目を開けてやり、火のなかで燃やしてしまうと、たちまち夫は魔法から覚めて、家族のもとに帰ってきた」  埋めておいたものが発見されると、魔法の効力は切れるものと、相場が決まっているらしい。 ●魔女サバトの呪い  悪魔ルシフェルにささげる生《い》け贄《に》え(ヒキガエルかヘビでもよいが、子供の死体なら最高)と、呪いの秘薬を用意すること。呪術師は真紅のズボンと灰色のシャツと黒いマントを身につける。そして生け贄えの胸を切り裂いて心臓を取りだし、あふれる血を青銅の容器にそそいで悪魔を招きよせる。  つぎに十三人の選ばれた魔女が、手をつないで�悪魔のダンス�を踊り、生け贄えの心臓と血を悪魔にささげて、悪魔ルシフェルへの呪文をとなえる。 「ルシフェルよ来たれ! オウヤル、シャメロロン、アリセリオン、マルドルシン、プレミー、オリエルット、ナイドルス、エルモニル、エパリネソルト、ペアリタム、ルシフェルよ来たれ! アーメン」  そして、「呪いの秘薬を悪魔に与える代わりに、○○○(相手の名前)を呪い殺してください」と、お願いするのだ。  呪いの秘薬の製造方法は、黒ミサ教団の秘密となっているが、古来の魔法書をひもとけば、「キリスト聖体像の一部に、赤ん坊の血をまぜ、そのなかに牡山羊の骨粉、子供の頭蓋と骨の粉、人間の脳漿《のうしよう》の断片、そして髪と爪と肝臓を入れ、処刑囚の肉片を混ぜて煮つめたエキス」というものらしい。  この呪術を行なえば、相手は一週間後に健康状態がおかしくなり、毎晩のように悪夢にうなされて狂死するという。 ●心臓刺殺の呪い  犬、猫、羊、豚、ヒキガエル、あるいは赤ん坊の心臓を用意する。これを十三日間、陰干しにしてカメの中に入れ、フタなしで土中に埋めておくと、悪霊が集まって心臓にとりつくという。  心臓をカメから取りだして、呪いの言葉をはきながら針で刺し、その心臓を呪う相手の家の玄関のドアや門柱に、釘で刺しておく。そのとき相手に姿を見られると、効力は失われるので、相手の留守中や真夜中などに行なうこと。相手は心臓病にかかり、悪夢に襲われて心臓マヒでポックリ死ぬという。 ●棺おけの呪い  墓から古い棺おけを掘り出して、その釘《くぎ》をぬき、こう呪いをとなえる。「釘よ、汝、脇道にそれ、わが思う敵に危害を及ぼすべく、われ汝を解き放つ。父と子と聖霊の名において、アーメン」  それから、地面に呪う相手のつけた足あとを探しだし、一本の釘をその足あとに打ち込み、Pater noster upto in terraと、となえる。主の祈りのパロディで、「地にまします我らが父よ」という意味の、悪魔に向けられた懇願である。  さらに石で釘を打ち込んでから、こうとなえる。「われが汝を抜くにおよぶまで,汝、○○○に災いを及ぼすべし」  呪われた相手は、やがて原因不明の病気にかかって、世を去ってしまうという。 ●人型の呪殺術  牛、馬、豚、羊などの骨と、呪いをかける相手の髪の毛、動物の血液かヘビの死骸《しがい》を用意すること。  まず、動物の骨をナイフでけずって、呪いをかける相手の人型をつくり、胴に相手の名前を刻みつける。  つぎに両手と両足に十三本ずつ刻みをつけ、人型の首に相手の髪の毛を十三回巻きつけて首をしめる。このとき一回巻くたびに結び目をつけ、計十三個の結び目を作ること。さらに人型に動物の血を塗りつけるか、ヘビの死骸を巻きつけて、こう呪文をとなえる。 「悪しき獣の霊よ、集まれ! レムロ、カムロ、アムロ(三回くりかえす)、呪いの霊が死のはてまでとどけ! レムロ、カムロ、アムロ」  そして人型の首をナイフで切り落としてから火のなかに投じ、骨をくだきながら、こなごなの灰になるまで燃やす。灰はかき集めて、真夜中に相手の家の近くにまく。  相手に獣の霊が乗りうつり、言動が動物に似てきて、最後には首吊り自殺するという。 ●蛇霊の呪い  悪魔の使い魔とされるヘビに、邪悪な霊をのりうつらせて呪いをかけ、相手を発狂させたり、廃人同様にしてしまう呪いである。  ヘビの死骸をミイラ状にして金粉をまぶしたものに、動物の血を銀の盃にそそいで捧げて、こう呪文をとなえる。 「もし憎き相手を呪い苦しめようとする者があれば、○○○(相手の名前)に不幸の災いと悪霊の呪いあれ! 第一に○○○の手を縛り、つぎに足を縛る。口を縛る、舌を縛る。歯を縛る。そして目と鼻と耳を縛り、最後に骨を縛る。この呪いはすべてヘビの皮で縛る。いつもいつも○○○に不幸と災いがあるように、ヘビの皮で縛る!」  この呪文を真夜中に十三日間となえつづけると、呪いをかけた相手の家族につぎつぎ不幸がふりかかり、相手はついに発狂してしまうという。 ●邪眼の呪い術  悪霊が人間をまどわす邪眼(悪意と恨みの念をこめた視線)の仮面をつけて、悪魔に祈祷《きとう》するという呪い術。  邪眼の仮面をつけ、サタンを降霊する呪文をとなえながら、呪いをかける相手の写真をにらみつける。すると相手の心に悪霊がしのびこみ、相手は無意識のうちに悪の道に走りだす。しかもやがて手足がしびれ、全身から力を失って、死ぬこともあるという。 ●白ロウの呪い術  相手に事故やケガや病気をもたらす呪術。ロウを練り、そのなかに相手の髪の毛三本を混ぜて、白いロウソクを作る。  真夜中の午前一時に、白ロウに火をともし、 「悪の神アーリマンよ! ここにきたれ。○○○(相手の名)に呪いあれ。不幸、病気、事故、ケガをもたらせたまえ! エグログ・アフラ・マツダにそむいて呪いあれ!」  と三回となえて、白ロウが燃えつきてしまうまで、呪いをかける相手にさんざん憎悪の言葉を投げつける。これを三日間おこない、効力がなければ六日間、それでも駄目なら九日間つづけると、相手は必ず水難や病気に見舞われるという。  これまではあまり恐ろしい呪いばかりなので、今度は�愛の呪い�をいくつかご紹介しよう。 ●手鏡の呪い  小さな手鏡を用意する。鏡の部分をワクからはずし、思いをよせる相手の名を、その裏に三度書く。それから、交尾中の二匹の犬を見つけ、二匹がうつるように鏡をかかげる。相手がよく通る場所に、九日間のあいだ鏡を隠しておき、そのあとは出掛けるとき必ずその手鏡を持っていく。  こうすれば、思いをよせる相手は、やがてこちらの思いのままになるという。 ●肌の下の呪い  好きな男性をとりこにしようと願う、女性のためのまじないである。自分の体から出るものを相手に食べさせることで、文字どおり�男の肌の下に�もぐりこむ呪術法。  まず、熱い風呂に入る。その後、汗を十分に出したところで、身体中を小麦粉でおおう。小麦粉が十分にいきわたったところで、白い亜麻布でふきとり、その水分をパン焼き皿にしぼり出す。  つぎに手足の指の爪を切り、身体の毛をくわえ、粉末になるまでそれらを燃やす。こうして出来た粉を、皿のなかの小麦粉の溶液と混ぜあわせる。それから卵を一個入れてかき混ぜ、それをオーブンで焼く。これを思いをよせる男に食べさせると、相手はこちらの思うままになるという。 ●栄光の手の呪い  誰にもとがめられることなく、他人の家から好きなだけ金品を奪うための呪術法。  まず絞首刑で死んだ人の死体から、手を切りとって、経《きよう》帷子《かたびら》につつむ。これを血が一滴も残らないよう、徹底的にしぼりあげる。  それからその手を、十五日のあいだ、粒状の塩、コショウの実、硝石などと一緒に漬ける。つぎに、七月三日—八月十一日の蒸し暑いころ、狼星《ろうせい》シリウスが太陽とともに昇ったり沈んだりする時期に、その手を日光で干す。太陽の熱が十分でない場合は、ワラビをくべたかまどで、その手を温める。  手から流れでた脂を集めて、ロウソクをつくるためにロウと混ぜる。このロウソクを、死体の手の指と指のあいだに固定する。その手を見せると、みな金縛りにあって身動き一つ出来なくなるという。 ●結びの術の呪い  中世以来いちばん広く知られている愛の呪い。いわば不能の呪いで、これをかけられると、男性の性器は萎縮《いしゆく》し、性行為をいとなむことが出来なくなってしまう。  たとえば、好きな男をライバルに奪われてしまった女が、妖術使いにたのんで、相手の男にこの術をほどこしてもらう。すると男は、ライバルと結婚してからも、原因も分からないまま、夫婦生活が出来なくなってしまうというわけだ。  結びの術の方法は、以下のとおりである。  殺したばかりの狼の陰茎をとる。つぎに自分が結びの術をほどこそうとする男に近づいて、彼の名を呼ぶ。そして彼が返事をしたら、ただちに白いヒモで、この狼の陰茎を縛ってしまう。そうすれば、彼は去勢された状態と同じ不能者になってしまうだろう……。 ●ロウ人形の呪い(1)  魔法書『ソロモンの鍵《かぎ》』は、思いをよせる女が処女の場合は、新しいロウで、処女でない場合はふつうのロウで、人型をつくるように命じている。  人型をつくったら、愛と姦淫《かんいん》をつかさどる三体の神、ウェヌスとアモルとアスタロトに祈りを捧げる。それからロウに相手の女の似姿をきざみ、つぎのような呪文をとなえる。 「おお汝、東方を支配する王、オリエンスよ、西方の王パイエオーンよ、南方を治めるアマエモーンよ。おお汝、北方を治めるアイギーナよ、我はしのびやかに汝に訴える。いと力強きアドナイの名により、わが望みの達せられんがため、この人型のなかに汝の入りこまれんことを」  こうして枕もとに女の人型をおいておくと、彼女は三日目に訪ねてくるか、さもなければ手紙を書いてよこすという。四つの方位をつかさどる神々に祈るのは、めざす女を四方から取り巻いて、どこにも逃げだせないようにしてしまうためだそうだ。  あるいは、この人型に心臓の形を描いて、レモンの木のトゲで突き刺しながら、つぎのような呪文をとなえる方法もある。 「私が突き刺すのは、お前ではなくて、心臓だ。魂だ、五官だ。私の望みが達成されるまで、お前が何もできないように……」 ●ロウ人形の呪い(2)  人間の髪の毛、爪、血液、汗などを用いて、人型をつくること。そのさい、人型は生殖器にいたるまで精巧に作り、顔も出来るかぎり相手の顔に似せて作ること。  できあがった人型の胸に、思いをよせる女の名前を書く。「○○〇(女の父親の名)の娘にして○○〇(母親の名)の娘」。同じことを背中の肩と肩のあいだにも書き、こうとなえる。「神よ、あなたのご意思のもと、○○〇の娘、○○〇が、私への熱き思いに身をこがしますよう」  そして、娘の住む家の近くに行って、人型の手足がこわれないよう注意深く土のなかに埋め、二四時間放っておく。つぎに、ふたたび人型を掘り出し、一度は大天使ミカエル、一度はガブリエル、一度はラファエルの名において、これを三度洗礼する。  さらに人型を自分の尿にひたし、そして乾かす。そして娘の心に愛を呼び起こそうと念じながら、人型の胸を真新しい針でつくこと。 ●結びの呪い  自分を捨てて他の女に走った、男の心をとりもどすための呪いである。  羊毛で出来たヒモ、強い野草、匂いのきつい乳香を用意する。羊毛のヒモは霊的呪縛力を持っているとされる。  まず、自分を裏切った男の肖像画の首のまわりに、黒、赤、白のヒモをそれぞれかける。三つの異なる色を、三つの結び目で一つにむすぶ。そしてこの肖像画を持って、祭壇のまわりを三回まわりながら、こう呪文をとなえる。「私は愛のきずなを結ぶ……」  三の数が重用されるのは、神が奇数をお喜びになるからだそうだ。だから「愛のきずな……」の呪文も、三×三の九回となえられる。ヒモ三色のうち、黒は冥府の色で、赤と白は悪を予防する保護色で、黒を中心にして、呪いをかける者を庇護してくれるという。  呪いが完了すると、相手の男は、呪いをかけた者につながれてしまう。 [#改ページ]   恐怖の殺人呪術師ウラ  一九八二年十二月十七日、西ドイツ南部のランツベルクの街で、三十七歳の人妻ハンネローレ・エップと、その愛人の四十二歳のH・ムンドが逮捕された。二人はハンネローレの夫のハインリッヒを、自動車ごと池に突き落として殺そうとしたのだ。  しかし危機一髪で助かったハインリッヒが警察に訴え出たため、二人は殺人未遂罪で逮捕された。そしてその供述から、一人の意外な人物が浮かびあがってきたのだ。現代の女|呪術《じゆじゆつ》師、ウラ・フォン・ベルヌスという人物である。  ローテンブルクに住むウラは、当時五十六歳だったが、なんとこれまで一人につき一万マルク(約百万円)の料金で、二十人以上の人間を呪い殺してきたというのだ。  彼女のもとには大物政治家、貴族、芸術家など、大勢の名士が依頼にやってくる。たとえば外に愛人をつくって、家に帰ってこなくなった夫を呪い殺してくれと頼む妻。年下の男に夢中になって家を出てしまった妻を、呪い殺してくれと頼む夫……。  ウラが呪いをかけた結果、その人々は交通事故や転落死や心臓マヒ、なかには原因不明の熱病で死んでいったものもいる。そして現在も、つぎつぎと依頼が殺到しており、何カ月も先まで予約がいっぱいなのだそうだ。  このとき逮捕されたハンネローレは木材会社社長の妻だったが、少しまえから、室内装飾家のH・ムンドと、男女の関係が出来た。彼女はしだいに夫の存在がうとましくなり、ついに一九八二年六月十七日、人の紹介で女呪術師ウラを訪ねたのである。  ハンネローレが通されたのは、天井から床まで黒ずくめの布でおおわれた部屋だった。中央のテーブルは、血のような真紅の布でおおわれ、金色の燭台に赤い八本のロウソクがともされていた。  やがてドアが開いて、全身黒ずくめの小柄な中年女性があらわれた。外観は、ごく平凡な女性に見えた。ハンネローレは思わず、こんな人に、本当に呪いで人が殺せるのだろうかと、内心でつぶやいたという。 「ご用件は?」  ウラに低い声で聞かれて、ハンネローレは口のなかでつぶやくように言った。 「夫を殺して欲しいんです」 「ご主人を? それはいったいどうして? ご主人に女でも出来たんですか?」 「もう夫が愛せなくなったんです。これ以上、あの人と一緒に暮らすのに耐えられないの……」 「わかりました。ご主人の写真を持ってこられましたよね?」  ウラはハンネローレから夫の写真を受けとると、魔剣をふりかざして、重々しく呪文をとなえた。そしてこう叫びながら、手にした魔剣を、目のまえのドクロの脳天につきたてたのだ。 「悪魔よ! この写真の者ハインリッヒ・エップに、死の呪いを与えたまえ!」 「もう何の心配もいりません。ご主人は三カ月以内に、交通事故で命を失うでしょう」  ウラの言葉に、ハンネローレ夫人は大喜びでそこを辞したのだが、なぜかそれから三カ月が過ぎ、さらに四カ月が過ぎても、夫は事故にあうどころか、ピンピンして毎日仕事に出掛けていく……。 「あの女は、やっぱりサギ師だったのかしら……」  我慢できなくなったハンネローレは、ついに愛人ムンドと相談して、十二月十六日真夜中、愛車で帰宅した夫を待ちぶせして麻酔液をかがせ、車ごと近くの池につき落とそうとしたのだ。  ところが車が池に向かって動きだした瞬間、意識を失っていた夫が奇跡的に息をふきかえし、必死にブレーキを踏んで危機一髪のところを救われたのである。  警察当局は、逮捕した二人から呪殺師ウラの話を聞いても、「中世の昔じゃあるまいし、現代にそんなものがいるわけない」と、耳を貸さなかったが、あまり二人が言い張るので、ウラを召還した。するとウラは、捜査官らの前でこううそぶいたのだ。 「そうよ、私は現代の呪殺師。もう二十人は呪い殺したかしら。悪いことをしたとは思っていないわ。私が呪い殺した相手はみな悪人ばかり。当然の報いを受けたのよ」  ウラは自宅で、「魔女パンフレット」という、呪いの種類や料金の一覧表を発行している。彼女が用いる呪殺術には、なんと十三以上の種類があるというのだ。  なかでも得意なのは�人形臓針の呪殺法�だが、ときによって、ロウ人形、布人形、木製人形を使いわけている。  なかでもユニークなのは、死皮人形を使った呪殺法である。カラスやハゲタカの内臓と、死刑になった罪人の爪と墓の土を混ぜて作った人形を、罪人の死体から切りとった皮膚で包んで乾したものだ。動物の骨で作った小さなドクロを人形の頭にする。  ウラはまず、悪魔をよびだす呪文をとなえる。そして悪魔の霊が降りると、殺そうとする相手の写真に魔剣をつきたて、死皮人形にその魂をのりうつらせるのだ。  つぎに自分の指に針をさして血を出し、その血で死皮人形の心臓に×印を描く。そして、「この者に悪魔の呪いがふりかかれ! この者に呪いがとどき、地獄に落ちろ!」と叫んで、死皮人形の心臓にぶすぶす針を突き刺すのだ。  この死皮人形の呪殺術で、実際に有名音楽家である夫を殺してもらったシモーヌという女性は、こう証言している。 「二年前、『夫が暴力をふるうので困っています。一日も早く、夫を殺してください。急ぐので一番強い呪いでお願いします』と、ウラさんにお願いして、一万マルクを即金で払いました」  このときウラは、一週間のあいだ、つづけて死皮人形の呪いをおこなうと約束してくれた。そして彼女が呪いをはじめた翌日から、シモーヌの夫は急に心臓に激痛が走り、さんざん苦しみぬいたあげく、八日目の朝ついに血を吐いて死んでしまったというのだ。  突然の死だったため遺体は一応解剖されたが、死因は心臓マヒと鑑定され、めでたしめでたしだった(?)という……。 [#改ページ]   呪われた黒魔術  現代アメリカのオカルト研究家デイヴィッド・セント・クレアは、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに、もう八年も住んでいた。彼は快適なアパートに住み、エドナという愛らしいメイドをやとっていた。  エドナは、不幸な子供時代をおくった娘だった。生まれてすぐ父に捨てられ、母や弟たちとスラム街のぼろ家に住んだ。幼いときから学校にも行かず、一家を支えるためになりふりかまわず働かされた。  しかしセント・クレアのもとで働くようになってからは、彼に娘のようにかわいがられ、夢のような幸福な日々を過ごしていた。  ところがある日、セント・クレアが突然、 「じつは、急にアメリカに帰ることになったんだ」  と、すまなそうにエドナに切りだした。 「では、わたしはいったいどうなるんでしょう?」  エドナは真っ青になり、涙ぐんでそう聞いた。 「申し訳ないが、君を連れていくわけにはいかないんだ。だが、心配するな。必ずべつの仕事を見つけてあげるよ」  ところがそのときから、セント・クレアの身につぎつぎと不幸が起こりだした。まず、口述筆記のタイピストが急病で倒れ、仕事が途中でストップしてしまった。  つぎに、次作の刊行を約束していたニューヨークの出版社が、今になってことわってきた。さらに入る予定だった相続が取り止めになるわ、長年の恋人とは不和になるわ、借金を申し込んだ友人にはことわられるわ、あげくはセント・クレアは伝染病にかかって床についてしまった。 「誰かがあなたに呪いをかけている。このままではあなたは破滅してしまうだけよ」  ある日、見舞いにきた霊能者の女友達は、セント・クレアを見るなりこう言った。  さらに数日後、今度は別の友人が、こう注意してくれた。 「このあいだ魔術のクラブに行ったら、『あなたの友人が、エドナという女性に呪いをかけられて、危険な目にあっている』と言われたんだが……」 「呪いだって? まさか……」  セント・クレアは、信じられないという顔をした。 「エドナは敬虔《けいけん》なカトリック教徒だし、魔術なんかに関心はないよ。それに第一、どうやって僕に呪いをかけるんだい?」  セント・クレアが聞くと、友人は言下に、 「そんなの簡単だよ。君が身につけていたものを、黒魔術の会に持っていくだけでいいんだ。最近何か、君のまわりでなくなったものはないかい?」 「なくなったもの?」  セント・クレアは、ちょっと考えていたが、 「そういえば、靴下が片方なくなったな。エドナは干し物をしていたら、風で吹き飛んだんだと言っていたが……」  セント・クレアはその晩、複雑な思いでエドナにこうカマをかけてみた。 「今日、見舞いにきた友達が妙なことを言うんだよ。この僕に、呪いがかけられているって……」 「呪いですって? あら、まあ、それは」 「このあいだ、僕の靴下が片方なくなっただろ?」 「靴下ですか? ああ、そうでしたかしら?」 「友達は、誰かが僕に呪いをかけるために,それを盗んだんだっていうんだ」 「あれは、干しているときに風で飛んでしまったんです。前にもそう申し上げましたでしょ?」 「僕もそう言ったんだがね。話は違うけど、リオでは黒魔術の会が夜毎開かれているんだってね。君は行ったことある?」 「いいえ、ありません」  エドナはきっぱり否定したが、その言い方がかえってセント・クレアには、わざとらしく感じられた。 「一度行ってみたいな。ちょっと黒魔術に興味があるんだ」 「そんなもの下らないに決まっています。おやめになったほうがいいですわ」  エドナはそう言い張ったが、彼女が言い張れば言い張るほど、セント・クレアはますます彼女を疑わしく思うようになった。彼はとうとう嫌がるエドナを説得して、黒魔術の会に一緒に行くことを承知させてしまった。  数日後、エドナはセント・クレアを、リオ郊外の小さな白い家に案内した。壁一面に、不気味な悪魔の絵が描かれていた。真夜中になると、太鼓の響きや黒人たちの唄とともに、いよいよ黒魔術の儀式がはじまった。  そのとき突然、ウンバンダの女|祈祷《きとう》師が、勢いよく部屋に入ってきた。黒人の太った大女で、サタンの色である赤い衣装を着ている。彼女が踊りはじめると、女たちは何かにとりつかれたように、全身をぴくぴく痙攣《けいれん》させはじめた。  ひとしきり踊ったあとで、女祈祷師は葉巻に火をつけ、酒をがぶ飲みした。一息ついたとき、ようやくセント・クレアの存在に気づいたようだった。  女祈祷師は、彼につかつかと近づいてくると、酒を口にふくんで、彼の頭にふっとふきかけた。 「初めてのようだね。何が目的だい?」 「僕に呪いをかけた者が誰か、それが知りたくて来ました」 「呪いをかけられた? どうしてそう思ったんだい?」 「ええ、じつは友人が言うことには……」  セント・クレアが友人から聞いた話をくりかえすと、女祈祷師はそばの女霊媒師に向かってこう聞いた。 「この男に呪いをかけているのは、誰なのでしょうか?」 「今晩ここにその男を連れてきた女だ! 女は、その男と結婚したがっている」  女祈祷師はエドナを真っ向から見すえ、厳しい声でここを出ていくように命じると、これからセント・クレアにかけられた呪いの御祓《おはら》いをはじめると言った。ひとしきり太鼓と舞踏がくりひろげられたあと、女祈祷師はセント・クレアに重々しく告げた。 「おまえはいま呪いを解かれた。これから呪いは、それをかけた者に、二倍の魔力で返っていくだろう」  仰天したセント・クレアはそんなことは止めてくれと懇願したが、すでに始まったことだから、どうすることも出来ないと言われた。  そのときから、セント・クレアの身に、またも奇妙なことが起こりはじめたのだ。まず三日後に雑誌社から電報がとどいた。数カ月前に一度はことわってきた原稿を、改めて雑誌に掲載することになったという。  一週間後、今度は諦《あきら》めていた遠縁の遺産が入ってきた。さらにタイピストの病気が快癒し、そのうえ一旦はことわられた書き下ろし原稿が単行本として出版されることになった。さらに数日後、今度は去った恋人から、もう一度やりなおしたいという手紙がとどいた。  そしてそのいっぽうで、今度はエドナの身に急に不幸がふりかかりはじめた。胃に激痛が走ったので、医者にいくと胃潰瘍《いかいよう》だといわれ、入院して手術を受けることになった。セント・クレアが手術費を負担してやったが、手術後の回復はおもわしくなかった。  思いあまったエドナが、例の女祈祷師に聞きにいくと、「あなたがセント・クレアにかけた呪いが返ってきたためで、彼をきっぱり思い切らないかぎり、呪いからは逃げられないだろう」と言われてしまった。  かくて、彼女に出来るだけのことをしてやりたいというセント・クレアの親切な申し出をことわって、エドナはさびしく彼のもとを去っていったのである……。 [#改ページ]   黒魔術の呪い  ふとしたことから、黒魔術の呪いを招いてしまった、あるブラジル女性の話である。名前は、マルシア・F。大学の心理学部の卒業生で、事件のあった一九七三年当時、二十八歳だった。  その年五月、マルシアは家族たちと、サンパウロ近辺の大西洋岸に旅行に出かけた。ある日、みんなでぶらぶら浜辺を歩いているときのことである。マルシアは砂のうえに、何か奇妙なものを見つけた。  近づいてよく見ると、一五センチほどの背丈の女性の石膏《せつこう》像で、長いあいだ波に洗われたらしく、塗料がほとんど剥《は》げ落ちている。マルシアが拾いあげて、興味深げに眺めていると、おばが近づいてきた。 「あら、いやだ……」  おばは、とんでもないというように、眉をひそめた。 「そんなもの、早く捨てたほうがいいわよ。不吉だわ」  おばは、それが海の女神イェマンハの彫像で、明らかに誰かが、自分の願いをかなえてもらった返礼に、そこに置いたものだろうと、説明した。 「そんなものを家に持って帰ったら、大変。あなたの身に悪運がふりかかるわよ」  しかしマルシアは、おばの忠告をただの迷信だと一笑にふした。のみならず、友人と共同生活していた下宿に、その彫像を持ち帰ってしまったのである。女神像は、部屋のマントルピースのうえに置かれた。  しかしそれからが、悪運のはじまりだった。まず数日後、マルシアはチョコレートを食べたあと、急に激しい腹痛に襲われて、床のうえをころげまわった。医者にみてもらうと、悪性の食中毒だという。  その後は体重が落ちはじめ、全身がけだるくなり、どんどん活力が衰えていった。しまいには血を吐くようになり、医者に行ってレントゲンをとってもらうと、肺に影があるという話だった。  週末を両親の家で過ごしたあと、マルシアはまた下宿にもどってきた。ところがその晩、料理をしている最中、圧力|鍋《なべ》が破裂し、両腕と顔に大やけどした。災難はそれだけで終わらず、今度はなんとオーブンが爆発して、銅板がマルシアめがけてまっしぐらに飛んできたのである。  事故を調べた技師は、何がどうなっているのか、わけがわからないと言うだけだった。あとで聞いてみると、ちょうど圧力鍋が爆発した瞬間に、両親の家では、壁にかかっていたマルシアの肖像画が、何の原因もないのにはね落ちたということだった。 「やっぱり、あの薄気味悪い女神像のせいなんじゃないの」  と、両親は心配した。 「一日も早く、処理したほうがいいよ。もっと大変なことが起こらないうちに」  それでもマルシアは意地をはって、あくまでそんなこと迷信よと、せせら笑うだけだった。  ところがまた下宿にかえると、今度はマルシアは、�自殺衝動�をおぼえるようになった。横断歩道をわたっているときなど、突然走ってくる車に飛び込みたいという、強い衝動を感じるのだ。  また、マルシアの部屋はアパートの十五階にあったが、朝起きて、窓を開けるたびに、自分のなかで何かの声が、「身を投げろ」とうながすのが、聞こえるような気がするのだった。  事はますます深刻になって行った。その晩マルシアがベッドに入ると、いつもの寝室が、何か見知らぬ存在がうようよしているように感じられた。その見知らぬ者たちがベッドのなかに入ってきて、マルシアの肉体をあちこち所かまわずさわりまくるのだ。  そして数日後の晩、マルシアは自分の体のうえに、たしかに一人の男の体の存在を感じた。その体が彼女のうえにのしかかり、果ては男のペニスが、自分のなかに入ってくるのが感じられた。  見知らぬ男が彼女の肉体を犯しつづけるあいだ、マルシアはなすすべもなく、そのまま横たわったままだった。そんなことが幾晩もつづいて起こり、しまいに気が狂いそうになったマルシアは、とうとうまた両親の家にもどった。  友人の紹介で、あるオカルティストの事務所を訪ねたマルシアは、彼に一部始終を話してきかせた。オカルティストは、ただちに土地のウンバンダのセンターに行くように、彼女にすすめた。  ウンバンダというのは、ブラジルではごくポピュラーな、アフリカ色の濃い心霊主義的宗教の総称である。さっそくマルシアは、紹介されたウンバンダのセンターをたずねた。ルーム・メートの忠告にしたがって、例の女神像も持っていった。  マルシアの語る一部始終を聞いた、ウンバンダのセンターの主催者は、これは間違いなく、女神像を持ち去ったことで、彼女に向けられることになった黒魔術のトラバルホ(しわざ)だと断言した。  主催者に言われて、マルシアが女神像をあらためて見ると、わずかに残った塗料の部分が、自分の体の損傷を受けた部分と、ぴったり一致しているのに気づいた。両腕、首、顔のやけどの箇所は、彫像の塗料とぴったり一致するし、背中のしみは肺に見つかった影のちょうど上である。  ところで、女神像にはまだ、青い目の部分に塗料がわずかに残っている。 「これ以上、この像を持っていたら、つぎはあなたの目に何かが起こりますよ」  主催者におどされたマルシアは、早々にその女神像を、浜辺のもとあった場所にもどした。すると、それまで打ち続いた悪運は、てのひらを返したように、ぴたりと止んでしまったという……。 [#改ページ]   母親に呪われた男  一九六〇年一月のある日、一人の男が、アメリカのオクラホマシティにある復員軍人病院に運びこまれた。五十三歳で、フィネス・P・アースネストという、ナイトクラブの経営者だった。  オクラホマシティの復員軍人病院は、アメリカ国内でも最高の設備を持つ病院の一つで、優秀な医療スタッフがそろっていた。最初のうちスタッフたちも、治療は順調に進んでいると確信していた。  最初はもうろうとした状態で運びこまれたアースネストも、医師らの努力でめきめきと回復し、二週間後には退院の許可が出た。資料によると、それまでアースネストは、六回も入退院を繰り返してきたという。しかし発作と痙攣《けいれん》の症状があるだけで、医師らは内臓に何の異常も発見できなかった。六回ともしばらく休養すると、やがて回復して母親の待つ家にもどっている。これは今回、復員軍人病院に来てからも同じだった。  ところがアースネストは家に帰ると、また数時間のうちにぜいぜい息を荒らげはじめ、二日もたたないうちに危篤状態になるまでに悪化して、またも病院に舞いもどってきたのである。なんとか救急処置で発作をとめたものの、すっかり衰弱していて、もう自分はおしまいだと意気消沈していた。  しかしまたも回復の兆しがみえ、退院の許可が出ると、母親の待つ家に舞いもどり、また再発して病院に舞いもどってくる。そんなことが繰り返され、医師たちも、すっかり匙《さじ》を投げていた。そしてそんな何度目かの入院の末、とうとう最期のときがやってきたのである。  運命の日八月二十三日。いつものように、アースネストは順調に回復しているように思えた。その日医師の診察を受けたあと、アースネストは夕方六時ごろ、母親に電話をした。  するとその直後、突然、彼は苦しそうにあえぎはじめ、午後六時三十五分、意識がもうろうとした状態で発見された。そして六時五十五分、ついに息を引き取ったのである。  思いもよらぬ患者の死に落胆したマチス医師は、徹底的に調査することを決意した。その結果、アーネストの父親が本人がまだ十代のころ亡くなっていて、彼が母親とともに、四人の弟や妹たちの面倒を見ていたことが分かった。  アースネストは三十になるまえに、二度ほど母親の反対を押し切って結婚したが、二度ともはやばやと離婚している。それから三十一歳のとき、アースネストは母親と共同でナイトクラブを始めたが、それが大成功をおさめたのである。  三十八歳のとき、彼はようやく母親が認めてくれる女性に出会った。相手のジョゼフィーヌは教師で、彼より二歳ほど年下だった。彼らは晴れて結婚し、それから十五年間はすべてが順調だった。  しかしそれも、彼がジョセフィーヌにそそのかされて、ナイトクラブを売りわたすのを決意するまでのことだった。それを聞いた母親は猛烈に怒りまくり、「そんなこと、絶対に許すもんか。そんなことをしたら、お前の身にきっと恐ろしいことが起こるよ!」と宣言した。  そして十五年間、健康そのものだったアースネストは、それから二日もたたぬうちに、原因不明の呼吸困難を起こしたのである。ある日、彼がクラブ売却の契約に出かけようとすると、母親は怒りでワナワナふるえながら、こう叫んだ。 「お前は死ぬ、きっと死ぬ!」  そして呼吸困難になって倒れたアースネストは、早々に復員軍人病院に運びこまれたというわけである。  マチス博士は、こう報告している。 「入院回数が異常に多い。喘息《ぜんそく》の発作は週に三—四回、痙攣が三回。どんな医療行為も無力だった。医療行為が役に立たなかったことは、自分の母親が絶対的に正しいという、アースネスト氏の確信がいや増していくことと、密接に関連している。  精神科医の診察によれば、彼は極度の鬱病《うつびよう》だったそうだ。それに喘息の発作が加わったが、これらはすべて、彼にとって脅威の存在だった、母親の脅迫から起こったものだ」  マチス博士はつぎに、アースネストと母親の、最後の電話について調査した。幸いジョゼフィーヌ夫人が、夫と義母の最後の電話の会話の要点を、話してくれたのである。そのときアースネストは、勇気を奮いおこして、「ナイトクラブを売って再投資し、母親抜きで妻と一緒に事業を始める」と、母親に話したのだという。  母親はそれに反対はしなかったが、会話の最後に効果的な言葉をのこした。「お前を恐ろしい最期が待っているから、覚悟せよ」と言い渡したのだ。それから数分もたたないうちに、アースネストは苦しみだし、一時間もしないうちに世を去ってしまったのだ……。  結局、マチス博士は事件に関する報告書に、つぎのような言葉を書き記した。「複雑に変形したブードゥーの死」……。 [#改ページ]  ㈸ ———————————————————————————— 呪われたものたち [#改ページ]   �コーイ・ヌール�のダイヤ  遠い昔から、美しく輝く宝石には、超自然的なパワーが宿っていると信じられてきた。歴史に名を残す大王や権力者たちは、あらゆる犠牲をはらい、ときには戦いをしかけてまで、それらの宝石を手に入れようと夢中になった。だから古今東西の戦争の歴史のなかには、宝石にまつわる血なまぐさい物語が無数に秘められているのだ。  宝石のなかでも、あまりに神秘的な美しさゆえに、人々の欲望をそそり、運命を大きく狂わせたものは、ダイヤモンドだろう。そのなかでも、歴史上とくに有名なのは、大英帝国の王冠を飾る、�コーイ・ヌール�と名づけられたダイヤモンドである。今から五千年以上前にインドのゴルコンダで発見された、もっとも歴史の古いダイヤである。  最初は八〇〇カラットもあったが、このとき山のような形をしていたので、コーイ・ヌール(光りの山という意味)と名づけられた。その優雅な名前に反して、歴史上これほど呪われたダイヤもめずらしいだろう。  ダイヤの悲劇は、一四世紀にはじまった。ムガール帝国の二代目皇帝となるハマユーンが、一三〇四年にマルワ王国を征服したとき、王国の宝物だったこのダイヤを手に入れたのだ。  その後ダイヤは、ムガール王国の権力のシンボルとなり、クジャク王冠の石に用いられたが、その美しさは周辺の国々にもすっかり有名になった。一七三九年にペルシア王ナディル・シャーがムガールに攻め入ったのは、ダイヤを奪うのが目的だったとも言われる。  ムガール王国を征服し、残虐な略奪を働いたナディル王は、しかし目的のダイヤだけはどうしても見つけられなかった。悔しがっていると、ムガール王のハーレムの女が裏切って、そのダイヤが王のターバンに隠されていることを密告した。  ナディル王はある晩、ムガール王を和解のためと称する宴に招いた。宴も終わりに近づいたとき、ナディル王はムガール王に突然、和解のしるしに、互いのターバンを交換しようといいだしたのだ。  ムガール王はショックで心臓がとまりそうだったが、何も言うひまもないうちに、ナディル王はさっさと無数の宝石をちりばめた自分のターバンを脱ぎ、ムガール王のターバンと取り替えてしまった。  事情を知っていたナディル王の配下の者たちは、ムガール王がショックの叫びをあげるか、武力で奪《と》りかえそうとするかと思って、身がまえた。しかしムガール王は落ちつきを取りもどし、悔しそうな顔を見せなかったので、ナディル王は一瞬、目的が失敗したのかと不安にかられた。  だが、ナディル王がテントにもどってターバンを脱ぐと、長いあいだ狙《ねら》っていたダイヤがころがり落ちた。かくて彼は意気揚々とペルシアに凱旋《がいせん》したが、その途中で叛臣《はんしん》に暗殺されてしまう。コーイ・ヌールは王子のシャー・リーズに伝えられたが、シャー・リーズ自身も叛臣アガ・ムハメットに捕らえられてしまう。  ムハメットはなんとかしてコーイ・ヌールの隠し場所を知ろうと、王子の耳をそぎ、手を切り落とし、頭ににえたぎる油を浴びせた。しかしどんなに責められても白状しようとしない王子に、業をにやしたムハメットは、とうとう両眼をくりぬいてしまった。  それでもかろうじて命びろいしたシャー・リーズは、一七五一年に、アブダビ王朝の王アフマッド・シャーにコーイ・ヌールを贈った。しかし不吉なダイヤはそこでも、一族のあいだにつぎつぎと憎しみの種をまきつづけた。  アフマッド王の死後を継いだスジャーマンは、弟のシャー・ジュー・ジャに王位を奪われ、槍《やり》で両眼をつぶされて城塞につながれてしまう。しかしコーイ・ヌールの在《あ》り処《か》は、どんな残酷な拷問にかけられても明かさなかった。  じつはコーイ・ヌールは、スジャーマンが捕らえられていた城塞の壁に隠されていたのだ。数年の間は安全だったが、そのうち壁土がもろくなって、ダイヤの尖った角が壁面に頭を出してしまった。  ある日城塞の番人がおかしいと思って掘ってみると、みごとなダイヤが現れた。その後、コーイ・ヌールはシャー・ジュー・ジャのものとなり、つねに大宴会のときには王の胸できらきら輝くようになった。  が、王の幸運も長くはつづかなかった。第三王子のマフムッドに裏切られ、王位を奪われてしまったのだ。シャー・ジュー・ジャはラホールのシング王のもとに亡命するが、結局シング王に宝石を巻きあげられてしまう。  その後コーイ・ヌールは、一八四九年にラホールを征服したイギリスの東インド会社のものになり、大英博覧会に出展されたあと、当時のヴィクトリア女王に献上され、一躍世界の脚光を浴びた。  女王はロンドンの水晶宮で開かれる世界最初の万国博にそれを陳列したので、当時世界最大のダイヤとして、人々の注目を集めた。  博覧会に陳列されたときは、コーイ・ヌールは約一九一カラットにオーバル・カットされていた。ヴィクトリア女王はそれをブリリアント型に再カットするため、一八六二年にアムステルダムから宝石師を招いて、わざわざ宮廷内でダイヤのカットにあたらせた。加工には三十八日間かかり、約一〇八・九カラットほどになった。  ヴィクトリア女王は、コーイ・ヌールの呪いの話を知ってはいたが、このダイヤは男性には不運をもたらすが、女性には不幸をもたらさないと言われていたため、あまり気にしなかったようだ。  ダイヤは初めは女王が自分のブローチにとりつけていたが、女王の死後は正式にイギリスの宝器の一つとなり、アレキサンドラ王妃(エドワード七世の妻)は戴冠《たいかん》式にこれを身につけ、メアリ王妃(ジョージ五世の妻)も王冠に飾っていたが、一九三七年にエリザベス王妃(ジョージ六世の妻、エリザベス二世の母)の戴冠式用の王冠が作られたとき、それに移された。  エリザベス王妃は、たまにそれを王冠からはずしてブローチに用いていたが、現在のエリザベス二世は、一度も用いたことはないという。このダイヤの不吉な過去を恐れてのことであろうか。  かくて長きにわたって多くの悲劇に彩られたコーイ・ヌールは、英国王室の財宝のなかに、今は静かに眠っている。それら悲劇的な歴史のドラマを、怪しいまでの輝きのなかに秘めながら……。 [#改ページ]   呪われたホープのダイヤ  現在、アメリカ、ワシントンのスミソニアン博物館に展示されている、持ち主が必ず不運に見舞われるという、ホープのダイヤをご存じだろうか。  九世紀ごろ、インドの西北部ガット山脈のバルカット峠のふもとで、畑を耕していた農夫のクワに、何か固いものがあたった。掘ってみると、これまで見たこともないような,美しい青い透明な石があらわれたのだ。  さっそく宝石屋に鑑定してもらうと、なんと二七九カラットもある、世にも稀少なダイヤだということで、農夫は有頂天になった。農夫は一夜にして億万長者になったわけだが、しかしそれも長くはつづかなかった。  ペルシア軍が村に攻め入ってきて、あっというまにそのダイヤを奪いとってしまったのだ。それも、これだけは奪《と》られてならじと、必死ににぎりしめる農夫の手を、手首から無残に叩き切って……。  インド遠征から意気揚々と凱旋《がいせん》した隊長は、ダイヤをペルシア王のシャー・ゼハンに献上した。歓喜したシャー・ゼハン王は「我が王国と、このダイヤのどちらを選ぶかと聞かれれば、迷わずダイヤを選ぶ」と言ったほどだった。ところがその隊長は、なぜかその後まもなく謎《なぞ》の自殺をとげてしまう。  一七世紀になって、フランスの大旅行家タベルニエが、このダイヤを東洋から持ちかえった。彼はインドの古都ベーガンにある寺院の、仏像のひたいにはめこまれていた石を、ひそかに盗みだしたのだという。  ダイヤにすっかり惚《ほ》れこんだルイ一四世は、タベルニエに爵位と二五〇万フラン(数十億円)の大金を与えた。しかしタベルニエはその後全財産を失ってしまい、旅先のロシアの荒野で、狼に襲われて無残な死をとげることになる。  ルイ一四世の命でみごとなカットをほどこされたダイヤは、この世のものと思えぬほど、さらに怪しく輝くようになった。ルイ一四世はダイヤを、「フランスの青」と名づけ、家宝として愛でたという。  ところがこのときからブルボン王朝を、つぎつぎと不運が襲うようになった。まず、当のルイ一四世はまもなく病死し、ダイヤを彼から借りてヴェルサイユの宴に出席した、寵姫《ちようき》のモンテスパン侯妃は、夜会の途中で突然「首が苦しい!」と叫んで気を失ったのだ。  それまで王妃をしのぐ権勢を誇っていたモンテスパン侯妃は、いまわしい毒殺事件に関与し、国王からも愛想をつかされて、宮廷から追い払われてしまうのだ。  その後ダイヤはブルボン王家のルイ一六世のものになり、王はそれを妃のマリー・アントワネットに与えた。ところが王も王妃もその後フランス革命で処刑されてしまうし、王妃からダイヤを借りて身につけたことのある親友のランバル侯妃は、革命で暴徒に八つ裂きにされてしまった。  その後、ダイヤは革命のなかで姿を消していたが、一八〇〇年になってオランダの宝石研磨師ファルスの手にわたった。ところがファルスの息子がこのダイヤを父から盗みだし、売り飛ばしてしまう。  息子はその後気が狂って自殺してしまい、それを買いとった相手は喉に肉をつまらせて窒息死し、さらに一八三〇年にそれを譲り受けたイギリスの実業家エリアソンは、暴走する馬から振り落とされて死んでしまう。  つぎにこのダイヤを買いとったロンドンの大銀行家ヘンリー・ホープは、そのダイヤに自分の名にちなんで、ホープのダイヤと名づけた。しかしホープも、その後度重なる不幸に見舞われ、ついに破産してしまう。  ダイヤはその後、彼の息子フランシス・ホープと結婚した歌手のメイ・ヨーの手にわたったが、彼女もその後夫に見捨てられ、貧困のうちに世を去った。生前彼女は、「自分が幸福になれないのは、あのダイヤのせい」と、いつも言っていたという。  ダイヤをその後譲り受けたのは放蕩《ほうとう》者のロシア貴族だったが、愛人のコーラスガールを出演中に撃ち殺したのち、自分はロシア革命党員の一団に撃ち殺されてしまった。  つぎにダイヤはトルコの大王アブドゥル・ハミトの手にわたったが、当時トルコ帝国は滅亡寸前で、大王は「ダイヤに呪《のろ》われたアブドゥル」とあだなされていた。  結局、アブドゥルは退位に追い込まれ、ダイヤはディーラーの手を経て、名高いフランスの宝石商、ピエール・カルティエに買いとられた。しかしカルティエはそれを一九一一年に、アメリカの大新聞社「ワシントン・ポスト」紙の跡取り息子、エドワード・B・マクリーンに譲ってしまう。  マクリーンの妻エヴァリンは、ダイヤが気に入って、ネックレスにして肌身はなさず身につけていた。しかしダイヤはこの一族に来て、ますます呪いの勢いを増したようだ。  不幸は、マクリーン家の大切な跡取り息子、ヴィンソン少年を襲った。巨額の財産を相続する予定になっていたため、「一億ドル・ベイビー」とあだ名されていた,この十歳の少年は、召使たちがちょっと油断したすきに自宅のまえの通りに飛びだし、あっというまに車に轢《ひ》かれてしまったのだ。  その後、マクリーン夫妻のあいだも不和になり、前から大酒飲みだったマクリーンは、一連の出来事ですっかり神経をやられ、最後は精神病院で狂死してしまう。  しかしエヴァリンは、それでもダイヤを手ばなそうとしなかった。一九四六年には、エヴァリンの娘が睡眠薬の飲み過ぎで死に、新聞という新聞は、五年前の結婚式で彼女がホープのダイヤを身につけていたことを書きたてた。エヴァリン自身も翌年に風邪をこじらせて世を去ったが、最後まで呪いのことは否定しつづけていたという。  その後ホープのダイヤは、ニューヨークの名高い宝石商のハリー・ウィンストンが約百万ドルで買いとった。ところがウィンストン氏も、その後四度も車にひかれかけたうえ、事業に失敗して破産寸前になった。  意気消沈してしまった彼は、ついに一九五八年、ダイヤをスミソニアン博物館に寄付することにした。このときの彼の行動は奇妙だった。ダイヤをなんと普通小包郵便でスミソニアン博物館に送りつけたのである。  幸い、小包は無事に到着し、いまはホープのダイヤは、スミソニアン博物館でもっとも人気のある展示品となっている。ダイヤの横には、郵送されたときの包装材もいっしょに展示され、これを見て、「このダイヤは郵政省に、永遠に解けることのない呪いをかけたのだろう」などと、ジョークをとばす者もいるという。 [#改ページ]   呪われたオルロフのダイヤ  呪われたダイヤといえば、オルロフのダイヤも有名である。最初は五〇〇カラットもあった巨大なダイヤで、時価三十億円以上はするといわれる。けれど呪われたエピソードのため、現在はモスクワのクレムリン博物館にひっそりと眠っているのだ。  オルロフのダイヤはインドで採取されたが、最初の持ち主は一七世紀のムガール帝国の王子シャー・ジャハーンだった。最愛の妃の死を悲しんで、名高いタージ・マハールの廟《びよう》を建てた王子である。  このダイヤを見るなり、王子はなんという神秘的な美しさだろうと感嘆した。彼はそれをヒンズー寺院の神像の目にはめこみ、武装兵を見張りにたてた。そして、これを無理やり手に入れようとしたら、必ず神の怒りにふれ、呪いがふりかかるだろうと予言したのだ。  王子シャーの予言は、恐ろしいことにずばり的中することになる。それから約百年後の一七五一年、この巨大なダイヤは、あるフランス人兵士に盗み出されてしまったのだ。  当時、オルロフのダイヤは、マイソールのカヴェリ川に浮かぶ要塞島のヒンズー教寺院に秘蔵されていた。寺の外側は、約六・四キロの防壁に守られ、その内側にさらに七重の塀があるという厳重な警戒だった。  そのころ、インドの外人部隊から脱走した、ベッセルというフランス人兵士が、寺院の近くで働いていた。神像の目にすばらしいダイヤがはめられているという噂《うわさ》を聞いた彼は、ぜがひでもそれを手に入れたいと思ったが、キリスト教徒は寺院の四番目の塀から先は入れないことになっている。  そこで彼はヒンズー教に改宗し、寺院の僧侶《そうりよ》たちのご機嫌をとって、運よく寺の守衛にやとわれることができた。そしてある暴風雨の夜、見張りが手薄になったすきに、ついにダイヤを盗みだしてしまったのだ。その後は嵐のなかを、はるばるインド東海岸のマドラスに逃げのびた。  そこで兵士はイギリス人のタナー船長に、二千ギニー(約二百万円)でダイヤを売りわたしたが、わずか数カ月でその金を使いはたしてしまい、食い逃げしようとして、食堂の主人に殴り殺されてしまった。  いっぽうタナー船長のほうは、イギリスに帰ってから、そのダイヤを宝石商ガーデンに三倍の値段で売りとばした。ところがその後、船長はひどいアル中にかかり、「ああ、ムガールの呪いの星が……」などと叫びながら、死んでしまったのだ。  いっぽう宝石商のガーデンのほうも、ダイヤを買い取った直後、旅先で強盗におそわれ、ピストルで撃ち殺されてしまったのだ。彼を殺した強盗も、一カ月後には捕らえられて断頭台におくられた。彼が持っていたダイヤはその後しばらくはゆくえ知れずになってしまったのだ。  ところが一七七四年、突然このダイヤが、アムステルダムの宝石市場で競売にかけられた。このときは三〇〇カラットにオーバル・カットされていたが、各国から集まった宝石商たちは、「まるで化け物ダイヤだ、何か見ているだけでゾッとする」とか、「この怪しい美しさに魅いられたら、一生とりこにされてしまいそうだ」などと薄気味悪がって、なかなか買い手がつかなかった。  ユダヤ商人がすごすごと品物をたたんで引き上げようとしたとき、このときオランダを訪問中だった、オルロフ伯というロシア貴族が、とつぜん五〇万ドル(約一億一千万円)で買いとろうと声をかけた。  当時としては国の一つぐらいは買える額だったが、オルロフがここまでしてダイヤを買ったのは、じつは主君で愛人のロシア女帝エカテリーナ二世に捧げるためだったのだ。ダイヤ・コレクターとして知られるエカテリーナは、この贈り物に大喜びして、オルロフのダイヤと名づけて、それを王笏《おうしやく》の双頭のワシのうえに飾りつけた。  ところがそれからしばらくすると、オルロフの期待に反して、エカテリーナ二世はすっかり人が変わってしまった。それまでオルロフのことを嘗《な》めるように寵愛《ちようあい》していたのが、急に冷たくなってしまったのだ。  突然オルロフをお払い箱にしてしまったエカテリーナは、その後何人もの男をつぎつぎ自分の寝室に呼び入れるという、だらしない性生活をおくるようになった。彼女がその後寵愛する男の数は、二十一人は下らないという。  また、彼女の命でダイヤを王笏にとりつけた細工師は、弟子の恨みをかって殴り殺され、あのオルロフ伯もその後破産の憂き目にあい、「あのダイヤの呪いだ……」と狂ったように叫びながら、世を去ったという。  その後も、オルロフのダイヤの呪いの恐ろしさは衰えはしなかった。エカテリーナが六十四歳で死ぬまで、取っかえ引っかえした愛人は、大半が怪死している。さらにエカテリーナの死後、ロマノフ王朝では、六人の皇帝のうち三人が暗殺され、あとの三人も不吉な最期をとげた。  そして一九一七年、ついにロシア革命がおこり、皇帝ニコライ二世と皇后と皇太子と四人の皇女たちは捕らえられて、銃殺されてしまった。ほかにもロマノフ王家の親戚縁者はじめ、王家につかえた重臣から身分の低い下働きにいたるまで、みな捕らえられて処刑されてしまうのだ。  かくて数百人の命を無残に奪った恐ろしい呪いのダイヤは、一九一八年にクレムリン博物館におさめられ、人々の前から永久にその怪しい姿を消してしまったのである。 [#改ページ]   死神ベンツ  特別仕様の高級車ベンツ……。それは、それを乗りまわす者に必ず恐ろしい死をもたらす呪われた車として、別名「死神ベンツ」とも呼ばれている。  一九一四年六月二十八日、どこまでも晴れわたった青空の下を、六人乗りの真っ赤なベンツが、すべるように車庫から出てきた。ベンツ540、当時のセルビア(旧ユーゴスラビア)のサラエボでは、並ぶもののない超豪華な高級車で、オーストリア皇太子の歓迎パレードをいろどる車として、早くから人々の注目を集めていた。  後ろのシートに皇太子夫妻を、前のシートにボスニア知事を乗せた車は、さんさんと照りつける太陽の下を、静かに走り出した。期待にたがわず、豪奢《ごうしや》な内装と、フカフカしたシートの乗り心地は抜群である。皇太子夫妻はすっかりご機嫌で、互いにお喋《しやべ》りをしたり、沿道に出迎える群衆に、愛想よく手を振ってみせたりしていた。  ところが、ベンツが国会議事堂にさしかかったとき、突然、群衆のなかから一人の青年が飛びだしてきて、皇太子夫妻の車のステップに足をかけ、たてつづけに夫妻めがけてピストルを撃ちまくったのだ。皇太子夫妻はその場にどうと倒れ、おびただしい血があふれて、座席を真紅に染めていった。夫妻はただちに王宮に運ばれたが、ほとんど即死状態だった。  犯人は,十九歳の無政府主義者青年、ガブリロ・プリンチプ。これが歴史上あまりに有名な、「サラエボ事件」である。オーストリア皇太子夫妻の暗殺が引き金で、第一次世界大戦が始まったのだ。世界中が恐ろしい戦渦に巻き込まれ、合計じつに八百五十万人余の死傷者を出すことになる。  かくて死神ベンツは、不吉なスタートを切ったのであった……。  つぎのベンツの持ち主は、オーストリア軍事団長ポチオクレ将軍だったが、彼は戦場で連敗に連敗をかさね、とうとう責任の重さに耐えられず、ベンツを購入してわずか二十日目に、とうとう狂い死にしてしまったのである。  今度は将軍の部下のスメリア大尉が、このベンツを買いとったが、彼も十日目に二人の男をひき殺したあげく、自分も木に衝突して即死した。修理されたベンツはユーゴの新知事の手にわたったが、知事は半年間につぎつぎ六回も交通事故を起こして、片手片足を失うはめになり、気味が悪くなって、さっさと車を手放してしまった。  車にまつわる不吉な噂を笑いとばして、強引に買い取ったのは、知事の友人のスリキス氏だった。けれど半年後、路上でその車が横転して、その下でスリキス氏の死体が見るも無残につぶれているのが見つかった。  今度車を買ったのは、スイス人のオート・レースの選手だった。彼はこの車をレース用に作りなおし、フランスで華々しく行なわれた自動車レースに出場したのだ。出だしは好調だったが、車は途中で突然コースからそれ、石壁を越えて絶壁から五メートル下にまっさかさまに落ちてしまった。選手は首の骨を折って即死だったが、不思議なことに車自体は何の損傷もないのが、不気味だった。  つぎに車を買ったのは、パリ郊外に住む農場主だった。二年間は何事もなく過ぎた。しかしある日、農場主が買い物に出掛けようとすると、エンジンがどうしてもかからない。仕方なく車からいったん降りて、エンジンを調べようと車の前に出たとたん、突然車が暴走しはじめ、彼をひき殺してしまったのだ。  農場主の家族は、恐ろしくなって、車を捨値で売ってしまった。買いとった自動車修理業者のハーシュフィールドは、なんとなく血の色のような真っ赤な車体の色が気になった。そこでボディをライト・ブルーに塗りかえてから、「これで死神もよりつかなくなったろう」と、五人の友人を乗せて、親戚の結婚式に出かけた。ところが式場に着く途中、ベンツは急に狂ったように暴走をはじめ、建物に正面衝突して、一行の四人までが即死してしまったのだ。  さすがにそのころになると、ベンツは「死に神ベンツ」として悪名をとどろかすようになり、誰も譲りうけようなどという物好きな者はいなくなった。結局、行き場がないので、ウィーンの博物館に引き取られたが、第二次世界大戦のとき爆撃にあい、あえなく最期をとげたという。 [#改ページ]   Uボートの呪い  U65は第一次世界大戦中の一九一六年、ベルギーはブルージュの造船所で造られた新型ボートである。浮上時のスピードはそれまでの倍の一三ノット、収容人員は三十四名。まもなくイギリス沿岸に出動して、敵艦撃墜に活躍する予定になっていた。  しかしこの船には、建造のときから不吉な運命がつきまとっていた。ある日ブルージュの造船所で、二人の作業員が一休みしていたときのことである。Uボートの船体にとりつけようと釣り下げていた鋼鉄の大梁《おおはり》が、とつぜんチェーンからはなれ、すさまじい音をたてて二人の頭上に落ちてきたのだ。  危ない! という周囲の声にも、そこを飛びのくひまもなかった。一人は即死、もう一人は両脚を押しつぶされた。クレーンが故障中だったので、のしかかるものすごい重さの大梁をとりのぞくのに一時間はかかった。半死半生の作業員は急いで病院に運ばれたが、結局命をとりとめることはなかった。  このときはただの偶発事故として簡単に処理され、作業が再開された。半月後、いよいよU65の進水式を前に、三人の作業員が再点検のため機関室に入っていった。  ところが数分後、機関室のなかから、何やら助けを呼ぶ声が聞こえてきたのだ。駆けつけた人々が扉を開けようとすると、なぜかビクとも動かない。必死にこじ開けるあいだも、中の叫びはしだいに喘《あえ》ぎに変わっていく。扉に体当たりしてやっと中に飛びこんだときには、三人ともすでに有毒ガスで息たえていた。  ガスが漏れた原因も分からないまま、今度も偶発事故として処理された。第一次世界大戦の最中、たとえ潜水艦一隻でも遊ばせておくわけにはいかなかったのだろう。  そして数日後、U65はいよいよ潜水テストのため、スケルト川河口を出航した。潜水命令を下すまえに、艦長は水夫に、ハッチや甲板砲がしっかり閉じているかどうか点検にいかせた。  するとまた、妙なことが起こった。なんと水夫は早足で甲板を横切り、何かにあやつられるように、海中にドブンと落ちていったのである。探索ボートが下ろされたが、遺体はついに上がらずじまいだった。  潜水前に、なんと六人目の犠牲者である。こうなったからには、なんとしても潜水テストを無事に成功させなければ……。  いよいよ乗組員全員が艦内に入り、ハッチがすべて閉じられた。艦は徐々にしずんでいき、約九メートルの深さに達したところで、艦長は停止を命じた。  ところがU65はそこで止まるどころか、なおもどんどん沈みつづけ、海底に着地して、そこでどっかと落ちついてしまったのだ。タンクの一つに亀裂が入ったらしい。排水のため圧縮空気を送ったが、艦はビクとも動かない。乗組員は焦りだしたが、なすすべもなく数時間がすぎた。  そのままで十二時間がたち、ついに全員が死を覚悟したとき、今度は突然わけもなく艦が浮上しはじめたのである。窒息寸前になった乗組員らは、やっとの思いで甲板によじのぼった。艦の浮上があと一分でも遅れたら、たぶん全員命はなかっただろう U65はドックで整備点検を受けたが、今度も異常なしといわれ、初のパトロール任務に出発することになった……。  みな内心ひやひやだったが、艦は無事処女航海を終えてブルージュにもどってきた。艦長はじめ乗組員もみなホッとしたが、なんとここで食料や弾薬や魚雷を積みこんでいたとき、今度は積みこんでいた魚雷が突然爆発するという事故が起こったのだ。  爆発で五人が即死し、艦内はパニック状態になった。五人の遺体は、ヴィルヘルムスハーフェン墓地に葬られ、破損したU65は、修理のためドックにまわされた。  乗組員らは、呪いだと囁《ささや》きあったが、軍当局は相変わらず、今度も偶発事故に過ぎないと一蹴するだけだった。  やがてU65の修理も終わり、出航予定の数日前、乗組員に集合命令がくだった。彼らは下士官の点呼を受けるため、つぎつぎタラップを上がってきた。  下士官は全員が集合したのを見て、満足そうにうなずいた。死んだ五人の代わりに入った乗組員をふくめて、三十一人全員がそろった……。  だが、ちょっと待て。目立たないように彼らのあとに続く三十二番目の男がいるではないか。あの顔には見覚えがある。あの浅黒い顔は……?  それから半時間ほどして、艦長と新任の二等航海士が士官室にいたとき、突然ドアがノックもなしに開いた。そこには、真っ青な顔でハアハア息を切らした下士官が立っていた。 「この礼儀知らず!」  艦長のカミナリに、下士官はしどろもどろで、必死に説明しようとした。 「信じていただけないとは思いますが、実はたった今、事故死した前の二等航海士シュヴァルツェを見たのです!」  何を人騒がせなと、艦長は思わず叱りつけようとした。しかし考えてみれば、下士官は日ごろから、冗談を言って人を騒がせるような男ではない。 「バカな。夕闇《ゆうやみ》のなかで、誰かをシュヴァルツェと見間違えたんじゃないか?」 「いえ、絶対に違います」  下士官は、食い下がった。 「たしかに彼です。それに私だけでなく、水夫のペーターゼンも見ています」  下士官は、ペーターゼンは恐怖で腰を抜かしているところだと説明した。そこで艦長が甲板に出てみると、ペーターゼンは真っ青な顔でふるえながら、こう断言した。 「シュヴァルツェです。たしかに甲板のへさきに立って、海をながめていたんです。ただし、つぎの瞬間には消えてしまいましたが」  それでも艦長は、半信半疑だった。 「お前たちの仲間がシュヴァルツェに化けて、脅かそうとしたんじゃないか?」  そこで乗組員一人一人を呼んで問いただしたが、結果はさっぱりである。ペーターゼンなどこんな恐ろしい船に乗るのはもう真っ平だと、姿を消してしまったほどだ。  すったもんだののち、一九一八年の元旦、U65は北海のヘルゴランド島から、ブルージュの外港でドイツ軍潜水艦の根拠地であるゼーブルージュに帰航した。U65のつぎの仕事は、イギリス海峡で敵の商船や漁船を撃沈することである。  一月二十一日の夕方、U65はバッテリー充電のために浮上することになった。イギリスの海軍基地が近かったので、三人が念のため見張りに出た。  そのとき見張りの一人が闇のなかで、船首の突端で水しぶきに濡れながら立っている男の姿を見たのだ。 「そんなところでいったい何をやってるんだ。危ないぞ、さっさと艦内にもどれ!」  二等航海士が大声で呼びかけると、男はゆっくりとこちらに向きなおった。  そしてそれは、なんと亡きシュヴァルツェだったのである!  ワァッという悲鳴に、艦長がかけつけてきた。幽霊の射るような視線に見つめられて、艦長はゾーッとした。何を言いたいのだ。つぎの犠牲者はお前だとでもいうのか? 艦長は恐怖であとずさりしたが、つぎの瞬間、もう亡霊は消えていた。  数日後、U65はプリマスへ向かう補給船の一隻を撃沈し、もう一隻に打撃を与えた。ところが艦長は、それを撃沈せよと命じるどころか、もう少しというところで撤退を命じたのだ。亡霊のせいで弱気になってしまったのか?  数週間後、U65はブルージュに帰港し、ドック入りした。ところが艦長が上陸するやいなや、高射砲の音がしたと思ったとたん、敵機からパラパラと爆弾が降ってきた。艦長がほうほうのていで艦内に避難しようとしたとたん、爆弾の破片が飛んできて、彼の首を一気に切り落としてしまったのである……。  ここにきて海軍当局も、この船が呪われていると考えざるを得なかった。五月のイギリス海峡からビスケー湾への長旅のあいだも、U65には不吉なことがつづいた。  まず出航二日後に、とつぜんエバハート魚雷砲手が正気を失って暴れだし、手足を押さえられて鎮静剤をうたれた。ようやく鎮まったので、同僚が彼につきそって甲板に上がったとたん、突然駆けだして甲板のへりを越え、海に身を投げてしまったのだ。  それからまもなくフランス北西岸沖で海が荒れ、艦が大揺れしていたとき、機関主任がころんで脚を折った。つぎにイギリスの貨物船を甲板砲で攻撃している最中、砲兵の一人が大波にさらわれてしまった。  さすがの新艦長も弱気になって、できるだけ敵船に会わないようにした。Uボートにとりついている幽霊に、付け入る機会を与えては大変だと思ったのである。  帰途でもっとも用心せねばならないのは、ドーヴァー海峡を通過するときだった。最近ここで、三隻のUボートが撃沈されていたのである。  案の定、潜水中に敵の魚雷に攻撃されたが、危機一髪で逃げきった。が、もう大丈夫と思って、副艦長のローマンが持ち場に向かおうとしたとき、砲弾が潜望鏡を貫いて彼の首に突き刺さり、頸動脈を切断してしまったのだ。  かくてUボートは、ほうほうの体でようやくゼーブルージュの基地に帰りついた。ここでリューマチを病んでいた下士官の一人は、下船して入院することになった。  出航の前日、同僚の一人が見舞いにきて、彼に小さな包みを渡してこうたのんだ。 「これを妻に渡してほしい。おれにもし万一のことが……」  下士官は涙ぐんで、黙ってうなずいた。それ以上、何も言わなくても分かっていた。乗組員全員が、U65が刻一刻と破滅にむかって突き進んでいることを予感していたのだ。  入院中の下士官のもとに、恐れていたニュースが届いたのは、二カ月後のことである。一九一八年七月三十一日、ドイツ海軍本部がU65が消息を絶ったと発表したのだ。  しばらくは、何の手がかりも無かった。ところがアメリカの潜水艦艦長が七月十日、アイルランド沖をパトロール中、自然爆発するU65を目撃したという報告が入った。ついに乗組員全員が、恐れていたことが起きてしまったのである。  爆発の原因は分からなかった。U65の魚雷の一つが暴発したのか、それとも敵スパイの巧妙な破壊工作か。あるいは正気を失った乗組員の一人が、艦もろとも自爆して果てたのか……?  いずれにしても、U65が自然爆発を起こしたとき、甲板で海を見つめて立っている、一人の男の姿が見えたという。あのシュヴァルツェが、最後までU65とともにいたのだろうか? [#改ページ]   ツタンカーメン王の呪い  一九二二年十一月、エジプトの王家の谷は、熱い興奮につつまれていた。当代一のエジプト通であるカーター博士が、長年捜していたツタンカーメン王の墓を、ついに発見したのだ。人夫たちが土を掘り返し、片っぱしからカゴで運びだしていくと、十二段目の階段の下から、ついに封印された扉があらわれた。  しかし興奮のなかで発掘作業を見守っていた見物人たちの間に、つぎの瞬間ざわめきが起きた。扉の封印を解き、さらに掘りすすめると、大きな石壁に、薄気味悪い死神アヌビスの像がきざまれているのが目に入った。そしてその下に、「王の墓を暴いて眠りをさまたげる者は、不吉な死に襲われよう」という、呪《のろ》いの言葉がきざまれていたのだ。  恐怖と戦慄《せんりつ》でその場はしーんとしたが、発掘はかまわず続けられた。その結果、三五〇〇点あまりの副葬品や黄金製品、そして黄金のマスクをかぶったツタンカーメン王のミイラが、墓のなかから発見されたのだ。  これらをすべてあわせると、一国の予算をはるかに越えるほどの価値になると言う。ツタンカーメン王の墓の発見は、トロイアの遺跡を発見したシュリーマンなどをはるかにしのぐ世紀の発見として、世界を興奮の渦に巻き込んだのだ……。  ところが世界中の興奮とうらはらに、墓の石壁にきざまれていた死神アヌビスの呪いの言葉は、不気味なほど的中した。やがてファラオ(王)のミイラに手を触れた者や、ツタンカーメンの墓を見物にきた者などが、つぎつぎと怪死をとげはじめたのだ。  最初の犠牲者は、出資者のカーナヴォン卿だった。彼は王墓の入口で蚊に刺されて敗血症を起こし、ベッドの上で高熱に悩まされながら、「ツタンカーメン王が……」とか、「ファラオの呪いが……」などと、うわごとを言いつづけていたという。  そして一九二三年五月のある日午前二時ごろ、カーナヴォンが「おしまいだ。私を呼ぶ声がする……」と声高く叫んだとき、同時にカイロ市全体が突然停電になったのだ。原因は分からずじまいだった。そして五分後、ようやく停電がなおったときには、すでにカーナヴォン卿はゾッとするような形相で息を引きとっていたのである。  じつは同じ時間に、カーナヴォン卿のイギリスの邸宅でも、奇妙なことが起きたという。真夜中に、男爵の愛犬が突然、理由もないのに吠えはじめた。そのせつなげな鳴き声に、とうとう邸中の者が起きだして一生懸命なだめたが、犬はえんえんと鳴きつづけ、とうとう力尽きてそのまま死んでしまったという。  不思議なことに、のちにツタンカーメンのミイラをレントゲン写真で調べた医者は、王の頬に小さな傷痕のあるのを見つけたという。そしてこれは不思議にも、カーナヴォン卿が蚊に刺されたのと、まったく同じ場所だった……。  その後も、つぎつぎ不吉な事件がつづく。まず、ツタンカーメンの墓室を見物した南アフリカのジェルという大実業家が、船のデッキから河に落ちて死に、アメリカの大金持ちグールドも、やはり見物後に、急に高熱を出して急死してしまった。  一方、墓の発掘にたずさわった学者たちにも、つぎつぎと死神が訪れている。カーター博士の発掘作業に協力したメイス教授は、作業中に倒れて急死し、博士の友人のフルール教授は、数日後に原因不明の熱病にかかって死亡した。  そしてミイラのレントゲン写真をとったリード教授も、やはり原因不明の熱病で死に、ホワイト博士も王墓から外に出たとたん、急に気分が悪くなり、数日後、「ファラオの呪いだ。もう生きていられない」と、奇妙な遺書を残して、自殺してしまった。  さらにデビス教授は、ツタンカーメンの名を刻んだ水さしを発見した直後、やはり熱病にかかって死に、テリー教授も調査から数日後、同じく熱病にかかって急死してしまった。  あまり恐ろしいことがつづいたため、エジプト政府もさすがに事件の調査にのりだした。調査中に墓地で毒蛇を見た文化庁の高官ライは、�毒蛇・死因説�を強く主張した。ところがライ自身も、墓から出たあと急に気分が悪くなり、高熱を出して、うわごとで「ファラオの呪い、ツタンカーメンの呪い……」と叫びながら死んでいったのだ。  その後もつづけて、発掘や調査に協力した学者や助手たちが変死した。発掘から一年のあいだに、墓から副葬品を運びだしたガードナー教授、ウインロック教授、フーカール教授のほか、六人の助手にも怪奇な死は及び、発掘関係者だけでも二十二人も変死したことになる。  怪死の原因としてまず挙がったのは毒蛇説とマラリア蚊説だったが、たしかに毒蛇コブラは王家の谷にいないわけではないが、死者の体にコブラの噛《か》みあとは残っていない。マラリア蚊にさされて死んだという、過去の事例も、これまで一つもないのだ。  古代エジプトの神官が、何かの猛毒を墓のなかに仕掛けたのだという説も出た。たしかにピラミッドや王墓のあちこちで、古代エジプト人が用いた毒薬用のツボも見つかっている。その毒が、三千年後の今も威力を発揮したのではないかというのだ。  けれどこれまでの調査では、墓室内からは、何も毒物のようなものは発見されていないし、第一それなら、どうしてエジプト人の作業員のなかには犠牲者が出なかったのだろう?  さらに、三千年以上前から暗い墓のなかで生殖していた細菌が、抵抗力を持たないヨーロッパ人に感染したのではないかという説もある。なるほど免疫性のない体内に強い病原菌が侵入すれば、病気が急速に進む恐れはあるが、それなら王家の谷に一歩も足を踏み入れていない人々までを、原因不明の死が襲ったのはどういうわけなのだろうか?  じつはカーナヴォン卿の死後、彼の一家にもつぎつぎと不運が襲っているのだ。まず卿の義弟が狂い死にし、つぎには卿夫人が原因不明の熱病にかかって急死している。そして夫人の母親も毒虫に刺されて死に、一家の看護婦ローレルも奇病にかかって死んでいる。  さらにカーター博士の秘書のウエストバリー卿は、高層ビルの屋上から飛び下り自殺し、秘書の息子も心臓マヒで急死している。そのうえ秘書とその息子の柩《ひつぎ》を墓地に運んだ車は、ごていねいにも途中で通りすがりの青年を轢《ひ》き殺しているのだ。  呪いはなおもつづく。アメリカの作家シンキンズが、一九三四年にツタンカーメン王墓の発見をテーマにしたドラマを作ったが、ある日突然、「ああ! ツタンカーメンの亡霊が追いかけてくる……」などと狂ったように叫びだしたのだ。おかげでドラマ制作は中止になり、シンキンズ自身もその後原因不明の死をとげている。  かくてファラオの呪いの犠牲者は計三十人以上に及んでいるが、一つだけ意外なことがある。ツタンカーメンの墓を発掘した当のカーター博士だけは、一九三九年六十六歳で死ぬまで、何事もなく生涯をまっとうしているのだ。  しかし、じつはそのカーター博士にも、不運な事件があった。ツタンカーメン王の墓を発見した直後、飼っていたカナリアを、毒蛇に殺されてしまったのである。博士はそのカナリアを目のなかに入れても痛くないほどかわいがっていた。ところがその日に限って、鳥カゴを石垣に置いたほんのちょっとしたすきに、毒蛇に食われてしまったのである。  カーター博士はその死を深く悲しみ、会う人ごとに、「カナリアが私の身代わりになってくれたのだ」と、涙ながらに語ったという。 [#改ページ]   呪われたヴァレンチノの指輪  ロサンゼルスの銀行の金庫には、小さな宝石のはまったプラチナの指輪が眠っている。一見、なんの変哲もない質素な指輪だが、じつはこれこそ、名高いアメリカの美男俳優、ルドルフ・ヴァレンチノを、若くして死に導いた呪いの指輪なのだ。  ヴァレンチノはこの指輪を一九二〇年、サンフランシスコのある宝石店で見つけた。店の主人は、この指輪はあまり出来がよくないので、やめたほうがいいと忠告したが、ヴァレンチノは一目でこれが気に入ったらしく、何も耳に入らないようだった。  彼はその指輪を、次作の『若き大守』に出演するときから身につけた。ところがその映画はおよそ人気を呼ばず、それから二年のあいだ、彼は仕事にあぶれてしまう。その苦い経験から、彼はしばらくその指輪を身につけなかったが、どう気が変わったのか、今度は『大守の息子』に出演するときに、またはめて来たのだ。  映画の撮影が完了すると、彼はニューヨークで休暇を過ごすことにした。そのときも、例の指輪を身につけていた。ところが旅行の最中に、ヴァレンチノはとつぜん原因不明の激しい腹痛におそわれ、半月後にあわただしく世を去ったのである。  当時の美人女優ポーラ・ネグリは、ヴァレンチノの親しい友人だった。彼の死を悲しんだネグリは、思い出にしたいと言って、彼の遺品のなかから例の指輪をとった。ところがその日から急に病気がちになり、撮影の仕事を中断するはめに追い込まれたのだ。  一年後、ポーラ・ネグリはヴァレンチノそっくりの売れっ子歌手、ロス・コロンボに出会った。ポーラ・ネグリは彼があまりにヴァレンチノそっくりなので驚いて、彼に、「ヴァレンチノからもう一人のヴァレンチノへ」といって、例の指輪をプレゼントしたのだ。  ところがそれからわずか数日後、ロス・コロンボは撃ち合いにまきこまれ、あっけなく殺されてしまった。その後、指輪は彼の親友であるジョー・カジノの手にわたったが、その数月後に、カジノもなんとトラックにひき殺されてしまう。  このころになると、この指輪は呪われた指輪として、マスコミに派手にとりあげられるようになった。指輪はジョーの弟のデル・カジノの手にわたり、彼は呪いのこともかまわず、それを指にはめたが、別段悪いことは起こらなかった。  ところがある夜、デル・カジノの家に泥棒が入った。泥棒は現場から逃げるところを警官にみつかり、警官が足をねらって撃ったピストルが運悪く胸に命中し、即死してしまった。見ると彼が盗んだ品物のなかには、なんとヴァレンチノの指輪が入っていたのだ。  それからまもなく、ハリウッドの映画制作者エドワード・スモールは、ルドルフ・ヴァレンチノの伝記映画の制作にとりかかり、生前のヴァレンチノに生き写しの、ジャック・ダンという元スケート選手を主役に抜擢《ばつてき》した。  有頂天になったジャック・ダンは、撮影第一日目、生前のヴァレンチノが着ていた服を着て、愛用していた指輪をはめて現れた。このときダンはまだ二十一歳の若さだったが、なんとそれから十日後に、原因不明の病気にかかって、あっけなく世を去ったのである。  ジャック・ダンの死から一年後、ロサンゼルスの銀行に白昼堂々、強盗団が押し入り、現金を奪って逃走した。が、まもなく強盗団は、警察にあっけなく逮捕されてしまった。強盗団の親玉のアルフレッド・ハーンは、裁判で、「あの金庫に何が入っているか分かってたら、間違ってもあそこには押し入らなかったろう」と言ったものだ。じつは銀行の金庫には、例のヴァレンチノの指輪が保管されていたのである。  結局、ハーンは終身刑の判決を受けた。この銀行は今でも、やっかいな指輪を預かっているが、それいらい不運つづきで、一九六〇年から現在まで、強盗は入るわ、火事が起こるわ、社員の長期ストライキがはじまるわと、とにかくつぎつぎろくなことがないという……。 [#改ページ]   呪われたルイーズの指輪  一六世紀フランス、大貴族のコンデ公の妃が、若くして原因不明の病気で急死した。妃の侍女として仕えていた美しいルイーズは、ある日一人で森のなかを散歩していた。すると、赤ん坊を抱いたみすぼらしい女に出会った。  可哀相に思ったルイーズがお金をめぐんでやると、女は涙を流して喜び、お礼にと、大切そうにはめていた指輪をはずして彼女にくれた。 「これは不思議な指輪です。これを身につければ、きっとあなたは幸福になれますよ」  ルイーズは迷信深いほうではなかったが、それでも女のいうとおり、指輪を身につけるようになった。すると不思議なことに主君のコンデ公が、それまで見向きしなかった彼女に、急にやさしい素振りをみせはじめたのだ。そしてある日とうとう、プロポーズまでしてきたのには、ルイーズ自身も信じられない思いだった。  こうして一介の侍女に過ぎなかったルイーズは、晴れてコンデ公と結婚することになった。身にあまる幸運にしばらくは酔いごこちだったが、夫のコンデ公はほとんど戦争に狩りだされ、シャンティーの城に一人残されたルイーズは、しだいに寂しくふさぎこむようになった。  ある日ルイーズは、叔母のローランスといっしょに、近くの森に散歩に出かけた。そのとき、向こうの木陰に立っている一人の男に気づいたルイーズは、ハッと息を飲んだ。 「ちょっと叔母さま、ここで待っていて下さいな」  そういってルイーズは男に近づいていき、しばらく立ち話をした。男が去ったあと、叔母は急いでルイーズに駆けよっていった。あまりに真っ青な顔をしていたからだ。けれどいくら問いただしても、ルイーズは、「大丈夫よ。心配なさらないで」と、さびしげに首をふるだけだった。  数日後、例の男が今度は城をたずねてきた。それを聞くとルイーズはガタガタ震えだしたが、やがて我にかえると、侍女たちに自分が呼ぶまでは決して入ってこないようにと命じて、男を待たせてある部屋に入っていった。  しばらくして、男が先に部屋から出てきて、帰っていった。しかしルイーズのほうはいつまでも出てこないので、心配になった侍女たちがドアを叩くと、なかから鍵《かぎ》がかかっており、何の返事もない。急いで男たちがドアをぶち破ってみると、彼らを迎えたのはゾッとするような光景だった。  なんとルイーズは恐ろしい苦悶の表情を浮かべ、体は奇怪なかたちにねじ曲げられ、恐ろしい死にざまでいきたえていたのだ。苦しみのあまり胸を爪でかきむしったらしく、まっ白な肌が血まみれになっていた。  死因は、ついに分からずじまいだった。例の男を探して八方に兵士が遣わされたが、行方も分からなかった。叔母のローランスは二十三歳の若さで死んでいった姪《めい》の死を嘆き悲しみ、形見にするつもりで、ルイーズの指にはめられていた指輪をはずして、自分のものにした。  ローランスは、献身的に義理の甥《おい》であるコンデ公の世話をした。妻を失って身も世もなく嘆き悲しんでいたコンデ公は、しばらくすると、なぜか急にローランスに好意を示すようになった。  そしてあげくのはては、ルイーズが死んでまだ三カ月もたっていないのに、いきなりローランスにプロポーズしたのである。夢のような申し出に、ローランスはとまどうばかりだった。  彼女はお世辞にも美人ではなかったし、財産も地位もなく、これという魅力は何もない。フランスでも一、二の大貴族であるコンデ公から、たって妃にと望まれるような理由は、何一つみあたらないのだ。  そのときローランスの頭に、あることがひらめいた。もしかしたらルイーズの指輪のせいではないだろうか? しかしそんなことを友達に打ち明けても、「そんなバカな……」と大笑いされるだけだった。  けれど不安になったローランスは、ある日思い切って、あの指輪をはずして、川に投げ捨ててしまったのだ。まもなく、彼女の危惧《きぐ》は図星だったことが分かった。  このときローマ法王に彼女との結婚許可を求めていたコンデ公は、法王の使者が辞去するなり、この結婚は中止だと叫んだ。あっけにとられた法王は激怒し、バカなことを言わないで即刻、結婚式を挙げるようにと厳命した。  結局、一六〇一年四月、かろうじて結婚式だけは行なわれたが、ローランスは花嫁衣装もぬがないうちに、夫から「お前の顔など見たくない。すぐここから出ていけ」と命じられ、シャンティーの城を追いはらわれたのだ。  かくてあわれなローランスは、悲しみのあまり気が狂ったまま、さらに四十年を生きたという。 [#改ページ]   呪われたケネディ家  呪われた家系といえば、一番先に頭に浮かぶのは、やはりあのケネディ家ではないだろうか。ケネディ大統領といえば、ダラスの悲劇があまりに有名だが、じつは悲劇に襲われたのは、何もケネディ大統領だけではないのだ。そもそも彼の一族自体が、�呪われたケネディ家�と呼ばれ、二十数年のあいだに、なんと十人あまりの親族が、つぎつぎと怪死や不運に襲われているのだ。  その皮切りは、ケネディ家の長女ローズマリーであろう。一九四一年当時、二十一歳のうら若き乙女だった彼女は、急に精神錯乱を起こし、それ以来ずっと精神病院の壁のなかで暮らしている。  二人目の犠牲者は、ケネディ家の長男ジョゼフ。第二次大戦に軍人として参戦していた彼は、一九四四年七月、ベルギー領にあるドイツ軍基地を爆破する使命を帯びて、飛行機で飛びたった。  ところが突然、機体が空中爆発を起こし、ジョゼフは二十九歳の若さで、無残な最期を遂げてしまったのだ。  翌年の八月には、次女キャサリンの夫のハーティントン侯爵がやはり戦死し、一九四八年にはキャサリン自身も、南フランス上空を飛んでいた飛行機が墜落して、世を去っている。  そして一九五六年には、三男ロバートの舅《しゆうと》夫妻が、やはり飛行機の墜落事故にあっている。  一九六一年には、ケネディ家の当主であるジョゼフが、脳溢血《のういつけつ》で倒れて床についたきりになり、翌々年には、ジョン・F・ケネディ大統領の息子パトリックが、風邪をこじらせて死亡し、その十月にはケネディ大統領自身が、ダラスの歓迎パレード中に暗殺者オズワルドの凶弾に倒れている。  翌年には四男のエドワード(現エドワード上院議員)の飛行機が、イギリスのサザンプトンの畑に墜落し、彼はケガだけで助かったが、パイロットは命を失っている。  さらに一九六六年には、三男のロバート司法長官の妻エセルの兄が、飛行機事故死し、翌年にはその妻が喉に肉をつまらせて窒息死し、一九六八年には周知のように、ロバート司法長官自身が、アラブ青年サーハンに暗殺されている。  これだけ並べると、あまりのもの凄さに、やはりただの偶然とはとても考えがたい。一九四四年の長男ジョゼフの死から、二十数年余りのあいだ、なんと十人もの死者が出ているのだ。それも長男や長女から次男、次女へと、年齢の順に事件が起こっているというのも、何やら不気味である。  ついで一九六九年には、四男のエドワード上院議員のスキャンダルが、話題をよんだ。その七月十八日、マサチューセッツ州のエドガータウンで、前年に殺されたロバート司法長官をしのぶ集いが開かれていた。  その集いの帰り道、車を運転していたエドワード上院議員は、スピードを出しすぎて、海に転落してしまった。自分はようやく這《は》いあがることができたが、事件は思いのほか大きく膨らんでしまった。  翌朝、海に沈んでいた車が引き上げられ、そのなかには、亡きロバートの秘書だった若い女性が、無残な死体になって横たわっていたのだ。  警察の捜査がはじまり、マスコミは事件をスキャンダラスに書き立てた。事故の張本人のエドワード上院議員は、さっさとどこかに姿をくらましてしまった。マスコミ陣はいっせいにケネディ家の屋敷に押し寄せたが、エドワードの行方は、ようとして知れない。  肩透かしをくったマスコミは、腹立ちまぎれにあることないことを書き立てた。エドワードと秘書嬢のありもしない情事を匂《にお》わせたり、三角関係のもつれからくる犯罪の臭《にお》いがすると書き立てたりしたのだ。  法廷に召還されたエドワード議員は、やっとテレビに登場して、事故の弁明を行なったが、なにを今になってと、一般視聴者の反応は冷たかった。なんとか上院議員の職だけは首にならなかったが、もう大統領当選の望みはないだろうと、もっぱらの噂《うわさ》だった。  ところが、エドワードはこれにも懲りず、五十歳になった一九八二年に、またもやスキャンダルを起こしてしまったのだ。  その十一月十七日、パリの超一流ホテルから、一台の特別仕様のベンツがすべるように出てきた。そのなかにはエドワードが、愛人のブロンド美人とともに乗っていたのだ。周囲の建物のかげにひそんでいたカメラマンから、つぎつぎとフラッシュがたかれ、ついにエドワードは八四年の大統領選への出馬をあきらめねばならない羽目になってしまった。こうして彼は、大統領選出馬の機会を、半永久的に逃してしまったのである……。 [#改ページ] 参考資料表(洋書は省略させていただきます) 「澁澤龍彦集成・全六巻」 桃源社 澁澤龍彦「悪魔のいる文学史」 中央公論社 吉田八岑「尼僧と悪魔」 北宋社 吉田八岑「悪魔考」 薔薇十字社 種村季弘「パラケルススの世界」 青土社 種村季弘「悪魔礼拝」 青土社 コリン・ウィルソン「世界超能力百科・上下」 青土社 コリン・ウィルソン「世界不思議百科」 青土社 コリン・ウィルソン「ポルターガイスト」 青土社 アーサー・ライアンズ「黒魔術のアメリカ」 徳間書店 フランシス・キング「性魔術の世界」 国書刊行会 ハンスヨルク・マウス「悪魔の友ファウスト博士の真実」 中央公論社 ギイ・ブルトン他「西洋歴史奇譚」 白水社 ギイ・ブルトン他「続・西洋歴史奇譚」 白水社 マイケル・フィッツジェラルド「悪魔術の帝国」 徳間書店 ピョンヴィー社 ピーター・J・フレンチ「ジョン・ディー エリザベス朝の魔術師」 平凡社 リチャード・キャヴェンディッシュ「黒魔術」 河出書房新社 大橋博司「パラケルススの生涯と思想」 思索社 イスラエル・リガルディー編「黄金の夜明け魔法大系・全六巻」 国書刊行会 「アレイスター・クロウリー著作集・全五巻・別巻三」 国書刊行会 流智明「黒魔術の秘宝」 二見書房 ビーバン・クリスチーナ「悪魔の呪法」 二見書房 武内孝夫他「怪奇人間」 学習研究社 佐藤有文「血ぬられた呪いの報告書」 学習研究社 春山行夫「宝石・上下」 平凡社 長尾豊「黒魔術・白魔術」 学習研究社 澁澤龍彦「妖人奇人館」 河出書房新社 セルジュ・ユタン「錬金術」 白水社 ジェラルド・ブリトル「悪魔祓い」 二見書房 醍醐寺源一郎他「世界謎の10大事件」 学習研究社 鬼塚五十一他「サタンよ去れ! 戦慄の悪魔ばらい」 学習研究社 佐藤有文「ミステリーゾーンを発見した」 KKベストセラーズ 佐藤有文「怪談ブラックホール」 KKベストセラーズ 佐藤有文「謎の四次元ミステリー」 青春出版社 鏡リュウジ「戦慄の魔女狩り」 日本文芸社 フランク・エドワーズ「ストレンジ・ワールド・全三巻」 曙出版 「庄司淺水ノンフィクション著作集・全一二巻」 三修社 矢野浩三郎他「世界の怪談」 KKベストセラーズ ゲリー・ジェニングズ「エピソード魔法の歴史」 社会思想社 ダニエル・コーエン「世界謎物語」 社会思想社 N・ブランデル他「世界怪奇実話集」 社会思想社 N・ブランデル「世界不思議物語」 社会思想社 ユリイカ「オカルティズム」 青土社 ムー特別編集事典シリーズ「魔術」 学習研究社 ムー特別編集事典シリーズ「心霊」 学習研究社 「月刊ムー NO・153」 学習研究社 「月刊ムー NO・154」 学習研究社 「ムー世界ミステリー人物大事典」 学習研究社 歴史読本・臨時増刊「陰謀の黄金神話」 新人物往来社 歴史読本ワールド「世界史謎の十大事件」 新人物往来社 角川ホラー文庫『黒魔術白魔術』平成7年12月10日初版発行                平成12年4月20日5版発行