[#表紙(表紙.jpg)] 美しき殺人法100 桐生 操 [#改ページ]   まえがき  殺人法と一口に言っても、まあ古今東西いろいろあるものである。第一、殺人の目的からして一様ではない。復讐のための殺人、嫉妬のための殺人、欲望のための殺人……。  人はどんな理由のためにでも人を殺すことが出来る。そして歴史の移り変わりのなかで、殺人法は少しずつ変化してきた。人間の欲望や価値観の変化とともに。  風変わりな殺人法といえば、たとえばつぎのようなものがある。バラの花びら、接吻、浣腸、毒グモ、ヒル、衣装箱、サウナ室、癌カクテル、こうもり傘、ウラニウム……。  このように、「えっ? そんな方法で人を殺せるの?」と思わせるような奇想天外な殺人法から、はては血抜き、乳房裂き、塗りこめ、釜ゆで、牛裂き、鋸引き、三段斬り、肉きざみ、逆さはりつけなどの、残虐きわまりない殺人法まで。  ここにずらり陳列された殺人法の数々を見て、あなたは改めて、人間の業の深さ、恐ろしさに、目を開かれずにはいないだろう。そして遠い昔から、人が人を殺すためにどれだけの工夫をつづけてきたかという事実に、あらためて驚かないではいられないだろう。  一九九六年十月 [#地付き]桐 生  操 [#改ページ] 目 次  まえがき  花びら  ワイン  人身御供  毒ニンジン  バ ラ  包 丁  愛 撫  免疫体質  ペニス  逆さ十字  乳 房  血 管  殺人ゲーム  接 吻  浣 腸  ルネサンスのサディストたち  塗りこめ  カンタレラ  衣装箱  刃  麻 袋  水漬け  人肉供食  悪魔の軟膏  「聖セバスチャンの殉教」  なぶり殺し  氷の像  鉄の処女  鳥カゴ  手 袋  毒 矢  解毒剤  ネズミ  砒 素  タバコ  心臓の犠牲  殉 葬  酒のサカナ  狩 猟  ガス室  焼き殺し  人体実験(マラリア)  人体実験(気圧実験)  人体実験(氷水)  人体実験(塩水)  人体実験(結核菌)  入れ墨  セックス  グルメ  ヒ ル  殺人旅行  ソーセージ  血  鏡  ウラニウム  毒グモ  トランク  人 形  安楽死  呪 殺  こうもり傘  シャンプー  サウナ室  血抜き  尻  殺人工場  感 電  癌カクテル  発癌性物質  臨 月  膝  肉きざみ  逆さはりつけ  大量処刑  鋸引き(1)  鋸引き(2)  牛裂き  釜ゆで(1)  釜ゆで(2)  焼き殺し  火あぶり  箱  三段斬り  すまき  六所斬り  見せ槍  駿河問い  石抱き責め  海老責め  キリシタン迫害(温泉岳地獄)  キリシタン迫害(水磔)  キリシタン迫害(蓑踊り)  キリシタン迫害(はりつけ)  キリシタン迫害(ためし斬り)  キリシタン迫害(火刑)  キリシタン迫害(一寸きざみ)  人肉スープ  SMごっこ  陰部切り  フェラチオ  主要資料表 [#改ページ]   花びら  クレオパトラは毒蛇に噛まれて自殺したというのが定説だが、それも決して確かなものではない。ほかにも、毒入りのイチジクを食べたとか、ヘアピンに毒が塗られていたのだとか、一酸化炭素中毒だとか、さまざまな説がとなえられている。  いずれにしても、毒が自殺の手段だったことだけは確かなようで、クレオパトラは生前から、熱心に毒物に関する研究をしていたという。その目的はなんといっても、苦しまずに死んでいく方法を見つけることだった。  そこでクレオパトラは、罪人をモルモットに、医者にさまざまな実験をこころみさせた。これらの実験で分かったのは、まわりの早い猛毒ほど、ものすごい苦しみ方で死んでいくということだ。  さらにクレオパトラが求めたのは、肉体が醜く変化しないで死んでいくことだった。たいてい毒殺といえば、口から泡を吹いたり、体が醜くふくれあがったり、全身の皮膚があばたになったりと、ろくなことがない。クレオパトラが何より嫌悪したのは、そんな死に方だったのである。  そして実験の結果、毒蛇の毒がいちばん優れていることが分かった。確実に死ねるし、苦しみも比較的少ないし、肉体もあまり醜く変化しない。そこでつねづね生前の美貌をそのままに死にたいと思っていたクレオパトラが、毒蛇を用いて自殺したのではないかと考えられたのである。  クレオパトラと毒薬といえば、こんなエピソードがある。クレオパトラの愛人として名高いアントニウスは、ある時期から、自分が彼女から毒殺されるのではないかと恐れるようになり、毒味させた料理しか口にしなくなった。  愛人から自分が信用されていないことを悲しんだクレオパトラは、ある日、毒を塗った花の冠をつけて、食卓にあらわれた。食事が終わるころ、彼女は酒にその花びらを入れて、アントニウスにすすめた。アントニウスが疑うようすもなく杯を口に運ぼうとすると、クレオパトラはふと彼の手をおさえ、 「私はあなたを殺そうと思えば、いつでも殺すことが出来るのです。そんなチャンスはいくらでもあるのですよ。でも、私はあなたなしでは生きてはいけないのです。どうぞもう、私をお疑いになるのは、やめて下さいませ」  そしてクレオパトラに、一人の奴隷が、その酒を飲むように命じられた。彼はたちまちその場に倒れ、すさまじい形相で苦しみ悶えながら死んでしまったという。 [#改ページ]   ワイン  古代ローマのティベリウス帝は、カプレアエに引退すると、性的乱行をほしいままにする大規模な売春宿を建造した。ここに、全国各地から選り抜きの少年少女たちが狩り集められた。そしてティベリウス帝のまえで、三人ずつ組になってさまざまな淫乱行為を演じては、帝の衰えた性欲をかきたてるというわけである。  邸内のいたるところに設けられた寝室は、淫乱そのものの絵画や彫刻で飾られ、本棚には古今東西の性愛の手引き書が並べられた。これによって、この部屋ではセックスのときどういう体位をとったらいいか、どんな行為を行なったらいいのか、手本に不自由しないようにしたのである。  また、森や林のいたるところに魔窟をもうけ、洞窟や岩屋のなかで、パン(森の神)やニンフ(水の精)に扮した少年少女に売春を行なわせた。とりわけ少年好みだったティベリウス帝は、フェラチオをさせるために少年たちの歯をのこらず抜いてしまった。  そして少年たちに、泳いでいるティベリウスを追いかけ、その股ぐらに頭を突っ込んで舌で愛撫させたり、あるいはまだ乳離れもせぬ赤ん坊に、彼の陰茎に乳に吸いつくように吸いつかせたりして楽しんだ。  ついムラムラッとくると、神聖な式の最中でもかまわず少年僧を押し倒し、思いをとげるのだった。そんなとき抵抗でもしようものなら、大変な目にあわされる。あるとき、儀式の途中で、とつぜんティベリウス帝から床に押し倒されてもてあそばれた少年僧は、彼に抗議したため足を叩き折られてしまった。  ティベリウス帝の治世では、人はごくつまらない罪で死刑を宣告された。たとえばアウグストゥスの立像を傷つけたり、アウグストゥスの像を彫った貨幣を売春宿で使ったり、あるいはアウグストゥスの生前の言動を批判したり……。  ティベリウス帝が考えだした拷問に、こんなものがある。犠牲者にワインをたらふく飲ませてから、ころあいを見て、やにわに男根を紐で締めくくるのである。紐が肉に食い込む痛みと、尿がつまって出ない痛みと、二重の責め苦を与えられた犠牲者は、あまりの苦しみにあたりをのたうちまわるというわけである。  元旦だろうと祭日だろうと、一日として処刑の行なわれない日はなかった。古来の習慣では、処女を処刑することは許されていなかったので、処刑人がまず彼女らを凌辱してから、そのあとで処刑した。  カプレアではいまも、ティベリウス帝が処刑を行なわせた場所が公開されている。長きにわたる残酷な拷問のあと、彼の命令で、犠牲者がそこから真っさかさまに海に突き落とされる。すると下で待ち受ける兵士たちが、完全に息の根をとめるために、竿や櫂で殴りつけるのである。 [#改ページ]   人身御供  古代ギリシアには、いわゆる人身御供の習慣があった。アテネでは、男女二人の乞食を、一年間、国費で養っておき、穀物の穫り入れ前のお祭り(贖罪の意味がある)で、イチジクの枝で二人を鞭打ちながら、にぎやかな音楽にあわせて、町中を引き回す。  二人に課せられるのは、市民たちのあらゆる罪や汚れを、その身に引き受ける運命だ。そのあとは町外れに連れていかれ、崖の上から突き落とされる運命が待っていた。生け贄のからだが無になってしまうことで、はじめて市民の罪も、消滅して無に帰するというのである。  無力な人間を犠牲にして、自分たちだけは救われようというのだから、まったく無茶苦茶な話である。しかし一見平和な現代でも、じつはこのような弱肉強食の話は、けっこう多い。  ギリシアの植民地マッサリア(現在のマルセイユ)でも、町に疫病がはやるたびに、人身御供を神に捧げる習慣があった。やはり生け贄になるのは、国費で養われた乞食だ。その日、生け贄は花の冠をつけ祭りの衣装を着せられて、町中をひきまわされる。  人々は男に悪口雑言を投げかけては、自分にふりかかっていると思われる害悪を、すべてその男にふりむける。そしてそのあとは、男を情け容赦もなく、崖のうえから突き落とすのだ。 [#改ページ]   毒ニンジン  毒ニンジンは沼辺に豊富に生じており、容易にすりつぶせるため、古代ギリシアでは死刑や自殺用に用いられていた。これを服用すると、しだいに全身が麻痺して、苦しむこともなく死んでいく。  古代ギリシアの哲学者ソクラテスが、死刑を宣告されて獄卒から渡されたのも、この毒ニンジンだったのである。ソクラテスが毒ニンジンを服用し、しだいに死に近づいていく様子を、弟子のプラトンは冷静に観察している。  毒ニンジンを飲んだソクラテスは、しばらく独房の中を歩きまわっていたが、足がだるくなってもう歩けないと言って、床に横たわってしまった。獄卒はソクラテスのからだを、足からだんだん上の方へとさわっていき、指先で足を強く押して「痛いか」とたずねた。  ソクラテスが「痛くない」と答えると、さらに獄卒は向こうずねからだんだん上のほうに向かって同じことを調べていき、しだいに冷たく硬くなっていくことを確認した。そしてプラトンに、この麻痺が心臓にまで来たら、死が訪れるのだと説明した。  痛みや苦しみはほとんどなかったようで、最後にソクラテスがプラトンに話しかけ、プラトンが返事をしたときには、もう答えは返ってこなかった。やがて体がぴくりと動いたので、獄卒が調べてみると、もうほとんどソクラテスの意識はなくなっていた。しばらくして獄卒がおおいを取りのけてみると、ソクラテスの目はすでにじっとすわっているばかりだったという……。 [#改ページ]   バ ラ  ローマ皇帝ヘリオガバルスは、希代のサディストだった。彼の趣味は、象牙作りの龕灯返しの天井から、無数のバラの花をふらせて、気に入らない相手を、バラの花の香気のなかに埋めて、窒息死させてしまうことだった。  あるいは大きな車輪に美少年の手足を結びつけ、それを水中で回転させて、少年が水中を出たり隠れたりするさまを見物した。さらには円戯場の高座から罪人たちの処刑を見物したり、罪人の体から性器を切り落として、自分の飼っているライオンやトラに投げ与えることもあった。  ヘリオガバルスは、生け贄の少年を選ぶときは、できるだけ両親のそろった、高貴な家柄の美貌の少年を選んだ。それは、少年の死が、少しでも多くの人間に悲しみをもたらすようにと考えたからだ。 [#改ページ]   包 丁  ギリシアの歴史家クテシアースの伝によると、ペルシア王アルタクセルクセスの母パリュサティスは、憎い息子の嫁スタテイラを亡きものにするために、こんな手段を用いた。  鶏を半分に切り、その一方を自分が食べ、もう一方をスタテイラに食べさせて、まんまと彼女を毒殺したというのだ。  いったいどうやったかというと、種明かしは簡単。つまり、鶏を切った包丁の片側だけに、毒を塗っておいたというわけである。 [#改ページ]   愛 撫  このうえない快感を与えてくれるはずのセックスも、ときには残酷な殺人の手段になることもある。  たとえば紀元前のポエニ戦争で活躍したローマの勇将カルプルニウスは、夜、床につくまえに指先に毒をぬっておく。そしてその指先で、妻のクリトリスをやさしく愛撫すると、毒は膣を通して全身にゆきわたり、妻は哀れにも、苦しみぬいて死んでいくというわけである。この方法で何人も妻を殺したというから、恐ろしい。  また、ナポリ王ラディスラスは、敵のまわしものである絶世の美女に殺された。その殺し方というのが、こうである。前もって美女の膣内に猛毒を塗っておき、その美女をラディスラス王に贈る。そしてラディスラス王がそうとも知らず、その絶世の美女を腕に抱くと、ペニスから毒が侵入して、あえない最期を遂げるというわけである……。 [#改ページ]   免疫体質  昔は食べ物や飲み物に毒を混ぜたり、毒を染みこませた品物をプレゼントして、邪魔な相手を殺すことが多かった。そこで王侯貴族たちは食事をとるまえに、毒味役の者に料理や飲み物を味見させ、大丈夫とわかってから、初めて自分も食したものである。  毒殺がごく日常的なものになってしまうと、一方では解毒剤を開発したり、毒に打ち勝つ体質を作ろうとする研究が発達した。ここにご紹介するミトリダテス王も、解毒剤の研究に打ち込んだ一人である。 �解毒剤�は、英語ではミスリデイト(mithridate)という。この言葉は、小アジアの東方にある小国ポントス王国を統治した、ミトリダテス六世(紀元前八〇年代から約一七年間)の名前に由来する。  ミトリダテス王はなかなかの戦略家で、ローマとの戦いで八万人もの属州アジア人を虐殺し、ギリシアや小アジアを治めるほどの大国に成り上がった。一方でミトリダテス王は、毒物研究家としても知られていた。  戦争に行かないときは、バビロニアやスキチアの医師団を招き、王宮の庭に広大な毒草園を造営して、全生活を毒薬研究に捧げた。実験のモルモットには、もっぱら死刑囚を使用した。一方で、自分自身も少量ずつ毒を飲んでは、免疫体質に変えていった。  しかしあいつぐ戦争の日々に疲れ切った王は、ついに六五歳のときローマのポンペイウスに敗れ、国を追われる身となった。親戚のアルメニア王のもとに逃げこんだが、そこにも攻めこまれて、大切な寵姫の一団はポンペイウスの一隊に奪いとられてしまった。  生き甲斐をなくしたミトリダテス王は、ついに自殺を決意した。自分で作った毒を一気に飲んだが、日頃からの訓練で免疫体質になっていたので、なかなか効かない。そこで仕方なく、側近に命じて剣で喉をつかせて死んでいった。紀元前六三年のことである。  博物学者プリニウスによると、ミトリダテス王は、ポントス地方の鴨の血を解毒剤に混ぜていたという。鴨が有毒性の魚や虫を常食としているからだそうだ。史上初めての一種の血清療法ともいうべき方法で、学術的見地からも、無視できない発見ではないだろうか。 [#改ページ]   ペニス  ローマ皇帝のユスティニアヌス帝は、西暦五二七年に帝位につき、三八年間にわたって帝国を支配した。彼が皇妃テオドラと知り合ったのは、皇帝になる前である。テオドラは競技場の動物飼育係の娘で、歌って踊るスターだった。  夜は高級コールガールに変身し、歴史家プロコピウスによると、テオドラはフェラチオが大の得意ワザだったので、人々は彼女の顔には第二のヴァギナがあると噂したそうだ。  しかし皇妃になってからのテオドラは、コールガール時代の地金を剥き出しにして、つぎつぎと愛人を取っかえ引っかえするようになった。が、好色な彼女の愛人になることは、命にかかわることと同義語だった。  ひとりの男がテオドラを魅惑すると、彼女は彼に富と権力を与える。しかしその権勢は短いもので、彼女が他の男に気をうつしてしまうと、即座に以前の愛人は、男色とか、尼僧と性行為をしたとかの大罪で告訴される。そうなると彼の財産はすべて剥奪され、公衆の面前で裸にされ、激しく鞭うたれて、さらに去勢されてしまうのがふつうだった。  そんな昔の愛人の一人が、あるとき彼女に同性愛として告発されて、教会のなかに逃げこんだ。激怒したテオドラは、教会のなかに兵を連れて踏み込み、その男のペニスを切りとらせ、彼が出血多量で悶え苦しみながら死んでいくのを、嬉々として見届けたという……。 [#改ページ]   逆さ十字  イタリアはアッシジの小高い丘のうえに、「ロッカ・マジョーレの聖人拷問・殉教博物館」というものがある。入口を入ると、いきなり実物大のギロチンが、居丈高にそそり立っている。  もと牢獄だったという石造りの部屋が展示室になっており、たとえば罪人の肉をはぎとるペンチ、首をはねる斧、体に突き刺す太い錐、一面に釘の突き出た鉄の椅子、車輪やハシゴや鉄の処女など、それこそ考えられるかぎりの拷問用具が陳列されている。聖フランチェスコゆかりの聖地には、およそふさわしくない代物である。  さらに一室には、天井までとどきそうな高い木の十字架が備えられている。十字架といってもどこか普通と違うのは、一般の十字架をちょうど逆さまにした形で建てられているのだ。  この逆さ十字はイエスの直弟子の一人、聖ペテロの十字である。聖ペテロの生きたのは、あの暴君ネロの時代。当時、ネロによるキリスト教徒迫害は、ひたすらエスカレートするばかりだった。  あるキリスト教徒は獣の皮をかぶらされ、犬をけしかけられて噛み殺された。ある者は闘技場で野獣の餌がわりに与えられ、またある者は、全身にタールを塗られて柱に縛りつけられ、暗くなると灯火がわりに燃やされた。  イエスの死後、ペテロは迫害を避けてローマから逃れようとするが、途中のアッピア街道でイエスの幻を見て思いとどまり、すすんで殉教を願いでた。このときペテロは死刑執行人に、自分を逆さ十字にかけてくれと懇願する。主イエスと同じ形で磔刑にされるのは、あまりに恐れ多いからという理由である。 [#改ページ]   乳 房  では、陳列された拷問用具のなかで、いくつかをご紹介しよう。まず、見るからに生々しい鉄製ペンチ。これはシシリーの敬虔なキリスト教徒、アガタに用いられたものである。シシリーのローマ総督は、美しいアガタに恋心を抱いたが、信心深いアガタは彼の誘いを拒否した。そんなときローマ本国からキリスト教弾圧の布告が下り、自分を拒んだアガタに復讐心を燃やしていた総督は、このときとばかり、アガタを捕らえて拷問にかけさせる。  アガタは燃える炎で全身をあぶられたあげく、特製のペンチで豊かな乳房を引きちぎられた。さらには真っ赤に燃える炭のうえを引きずりまわされ、ついに牢獄に向かう途中で息をひきとったという。  さて、もう一つの拷問用具は、人間をくくりつけて回転させる�車輪�である。紀元四世紀、アレクサンドリアの若き乙女カテリナは、その希有な美しさゆえに皇帝に結婚を迫られるが、敬虔なキリスト教徒だった彼女はそれをつれなく拒否する。  なんと生意気なと怒り狂った皇帝は、鉄の釘がびっしり突き出た車輪を用いて、カテリナを拷問にかけるように命じる。伝説では、危機一髪というときに、神のはなった稲妻が、車輪を打ち砕き、カテリナは拷問を免れたということになっているが、事実は確かめようがない。 [#改ページ]   血 管  暴君ネロの好んだ殺し方は、縄で全身を縛りあげ、四肢の血管をすべて切ってしまうことだった。かつてのネロの家庭教師で、名高い哲学者のセネカも、ネロへの謀叛を疑われ、この自殺法を命じられた。  セネカは雄々しく覚悟を決めて、自らナイフで自分の腕の血管を切った。が、七〇近い高齢のセネカは、思うように血が出てこない。そこで足首の血管まで切ったが、苦悶が長引くばかりで、なかなか死にきれない。  今度は毒薬を口にふくんだが、それさえ効かないほど手足は冷えきって、全身の感覚がマヒしていた。結局は熱湯の風呂に入れられ、さらにスチーム・バスの熱気で命を絶つことになった。  ネロのかつての寵臣ペトロニウスも同じ死に方を命じられたが、ペトロニウスはせめてもと、趣味的な死に方をえらんだ。血管をみずから切ってから、気の向くままに切り口を閉じたり開いたりして、血の流れを調節しながら、そのあいだずっと友人たちとお喋りをつづけたのだ。  そしてネロを悔しがらせるため、死ぬまえに自分の高価な家具や宝石をすべて叩きこわした。それから饗宴の席に横になり、しだいに眠気におそわれ、うとうとしたまま、ついに目をさまさなかった。できるだけ自然死を遂げたように、よそおいたかったのだ。 [#改ページ]   殺人ゲーム  西暦四世紀のあるとき、ローマ領だったギリシアのテッサロニーカの住民が、ローマ駐屯軍の武官と、部下数人を惨殺した。  原因は、当時の庶民のヒーローだった、闘技場の競技者の一人が、同性愛の嫌疑で捕らえられ、牢にぶちこまれたためである。そうでなくても住民たちは日ごろから、ローマの重圧で苦しい生活を強いられていた。このとき、耐えに耐えていた怒りが爆発し、「彼を釈放して競技に出場させろ!」と、大騒ぎになったのである。  当時のローマ皇帝であるテオドシウス帝のもとにも、その報せは届いた。もともとテオドシウス帝は気短かなタイプだったが、このときも、「よくもかわいい部下を殺して、ローマ皇帝の権威を愚弄してくれたな」と怒りまくった。  テオドシウス帝は、テッサロニーカの住民どもに思い知らせてやろうと決意した。しかし計八〇〇〇人の住民一人一人を相手にしていたのでは、埒《らち》が明かない。そこで全員を束にして、闘技場に招待したのである。  何も知らない住民たちは、ただで競技が楽しめるとでも思ったのだろうか? しかしそれは、とんだ思い違いというもの。テオドシウスの罠に、まんまと引っ掛かってしまったのである。八〇〇〇人の住民が競技場に集まってしまうと、すべてのドアが、突然バタバタと閉められたのだ。  そして「殺せ!」の合図が下るとともに、ローマ兵たちが住民のなかになだれこみ、剣や槍をふるって、つぎつぎと無防備な住民を殺しまくったのだ。地獄のような数時間が過ぎ、ふと気がついたときには、競技場の地面に、八〇〇〇人の住民の血みどろの死体が、累々と横たわっていた。  しかし、ニュースを聞いたミラノ司教は、テオドシウス帝の非道な仕打ちに激怒した。テオドシウス帝はただちに破門を宣告され、公衆の面前で屈辱的な懺悔を強いられたあげく、やっとのことで破門を解いてもらえるという騒ぎになったのである。 [#改ページ]   接 吻  一三世紀イランの地理学者アブー・ヤフヤー・ザカリヤー・アル・カズウィニーの『諸国の名所と人間の物語』には、インドにしか産しない、「ビーシュ」という珍しい植物が紹介されている。致死の毒物で、これを食べたものは、たちどころに死んでしまうという。  聞くところによると、インドの王たちは誰かを殺害しようと企んだときは、生まれたばかりの女の子の揺りかごの下に、一定期間のあいだこの毒草をまいておく。その後は、また一定期間のあいだ、その子の布団の下に毒草をまいておく。  さらにその後は、また一定期間のあいだ、その子の衣服のなかに毒草を入れておく。つぎには乳のなかに混ぜて、その子に飲ませる。こうすると、その子は成長するにつれて、すっかり体が免疫性になり、その後はたとえその毒草を食べても、なんの害も受けない。  そうなったとき初めて、王はこの娘に豪奢な贈り物をつけて、殺したいと思っている相手の王のもとに送り届ける。相手の王がその娘を抱いて、甘い接吻をかわしたとたん、猛毒に見舞われ、苦悶しながらその場で息絶えてしまうというわけだ……。  のちの研究で、この毒草�ビーシュ�が、トリカブトであることが判明したとされる。ナザニエル・ホーソンの小説『ラパシーニの娘』のなかで、バッリオーニ博士が語る、アレクサンダー大王が受けとった贈り物の美女というのも、実はこのようにして育てられた�毒娘�にほかならない。 『アリストテレスの養生訓』という書物には、アレキサンダー大王がインドに攻め込んだとき、インドの王様から四つの贈り物を贈られたと書かれている。四つとは、�絶世の美女、酌めども尽きぬさかずき、患者の尿をみただけであらゆる病気をなおす医者、日月の運行であらゆることを予言する占星家�である。そのなかの絶世の美女というのが、ほかならぬ毒草ビーシュで育てられた�毒娘�なのだ。  この『養生訓』は、アリストテレスが愛弟子だったアレキサンダー大王の健康を気づかって書き送った書簡集であるというが、じつは偽書であるとも言われているから、真偽のほどは分からない。いずれにしても、その後アレキサンダー大王が命をとりとめてインドからバビロンに帰ったことは確かだが、それからまもなく、彼は三二歳の若さで世を去っている。毒殺だという説もあり、アレキサンダーの死後、アテナイを追われた師アリストテレスも、トリカブトを用いて自殺したという説もある。 [#改ページ]   浣 腸  ひとくちに毒殺と言っても、時代や国によって、さまざまな奇抜な方法がある。たとえば、指輪の石のなかに粉末の毒薬をかくし、油断をみすまして、相手の飲み物のなかにぱらぱらと粉末をこぼすという方法。  あるいは針の先に液体の毒薬を付着させ、握手をするときに相手の皮膚をちくりと刺す方法。あるいは敵の手がふれやすいカードや鍵に、あらかじめ毒を塗っておく方法。これらはみな、権謀術数を一種の芸術として見たルネサンス時代には、ごく一般的なものだった。  手袋や長靴やシャツや下着まで、毒を染み込まされていた。カルロス大帝の息子オーストリアのドン・ジュアンは、下着に染み込まされた毒によって死んだといわれる。また、アヴィニヨンの法王クレメンス七世は、松明から発散する砒素の蒸気を吸い込んで悶死したという。  ドイツ皇帝ハインリヒ七世と、ルイ一三世の説教師だったベリュル枢機卿は、ふたりともミサのとき、聖体パンに染み込まされた毒によって絶命した。珍しい例に思われるかも知れないが、じつは名高いボルジア家の僭主やビザンチンの女帝たちは、こんな冒涜的な手段を日常茶飯としていたのである。  さらにナポリ王コンラッドやルイ一三世は、浣腸器のなかに仕込まれた毒によって殺されたらしい。その証拠に、彼らの直腸粘膜の襞に、砒素が発見されている。 [#改ページ]   ルネサンスのサディストたち  ルネサンス時代のイタリアの暴君には、残酷なサディストが多い。まず一四世紀のミラノ公ジャンガレアッツォは、捕らえた政敵から自白を引き出すとき、「四旬節」と名付けられた残虐な拷問法をもちいた。犠牲者はまず関節を断たれ、舌を抜かれ、さらに鼻をそがれて、最後に耳を切り落とされる。四〇日かけての拷問なので、「四旬節」と呼ばれたのである。  つぎに一五世紀のミラノ公ジョヴァンニ・マリーアは、人間を噛み殺すよう訓練された犬をたくさん飼っていた。彼の趣味は、囚人を生きながら飼い犬に投げあたえ、犬たちが唸りをあげて囚人に突進してその肉をむさぼり食うさまを、見物することだった。  ある日、あいつぐ戦争に苦しんでいる民衆が、通りかかったジョヴァンニの行列に駆け寄って、「平和! 平和!」と訴えた。すると激怒したジョヴァンニは、民衆のあいだに傭兵を斬りこませ、たちまち二〇〇人もの民衆を虐殺させてしまった。その後は祈りのときさえ、「平和」と「戦争反対」という言葉を口にすることを固く禁止したという。  一五世紀のナポリ公フェランテは、ミイラ・コレクションという変わった趣味を持っていた。彼は捕らえた敵を牢獄にぶちこみ、食事のかわりに緩効性の毒薬を与えて、わざと生かしておく。そしてときおり牢を訪れ、「どうだ苦しいか、もっと苦しめ、もっと苦しめ」などとさんざんからかう。  こうしていたぶるだけいたぶっておいて、ようやく処刑してからも、すぐに相手を天国に行かせたりはしない。今度は死体に香油バルサムを塗り、生きていたときの服を着せて、自分の部屋に飾っておく。それを腹心の者や客たちに見せびらかし、一緒になってミイラをさんざんからかっては、ワイワイ浮かれ騒ぐのだ。  彼のミイラ・コレクションは、しだいに増えていった。新しくそれに加えられるのは、彼を裏切った者たちである。まず相手を食事に招き、思いきり御馳走して安心させては、不意をついて捕らえるというのが、彼のやり方だった。 [#改ページ]   塗りこめ  ヨーロッパの身分の高い人々のあいだでは、いわゆる「塗りこめ」刑がときおり行なわれていた。罪人を生きたまま壁に塗りこめるやり方である。処刑場はたいてい、罪人の自宅。刑は秘密裡に行なわれるので、罪人の家族が汚名を受けることもないし、罪人自身も執行吏の手にかかって殺されずにすむというわけである。  やり方は、壁をくりぬいて、罪人をその隙間に閉じ込めて、周囲を煉瓦で塗りかためるという方法である。穏便なほうでは、壁に穴をあけて空気を通したり、食べ物を差し入れたりしていた例もあるようだ。いわば終身禁固のようなものだが、生き埋めとくらべて、どちらが残酷かはちょっと判定しにくいことである。  塗りこめといえば、こんなエピソードがある。ルネサンス時代、ローマのフィリッポ伯は傭兵隊長としてあちこちから引く手あまただったが、留守ばかりしているあいだに、二〇歳の若妻が部下と浮気していることが発覚した。彼は現場をおさえてやろうと決心し、「明日からフィレンツェ出張だ」と嘘をついて、城の近くに待機して妻を見張った。  夫の留守をいいことに愛人を城に連れ込んでいちゃついていた妻は、かくて愛人とのぬれ場を、夫とその手下どもに襲われたのだ。愛人の青年はその場で首をくくられたが、妻にはもっと残酷な刑罰が待っていた。  まず、城の地下牢に引きずっていかれ、釘抜きで一本、一本、野蛮に歯を引っこ抜かれる。ギャーッと狂ったような悲鳴をあげて暴れてもおかまいなしだ。口から流れ出る血で白いガウンを真っ赤に染めたまま、夫人は地下牢に閉じ込められた。  垂れ流す汚物にまみれ,歯のなくなった口で必死に許しをこう妻を、毎日フィリッポ伯は見物にきて楽しんだものだ。が、彼の刑罰はここでおわらなかった。ある日突然、兵士らが牢に押し入ってきて、いやがる夫人を無理やり城の一室に連れていった。そこでは部屋の一方の壁が、一メートル四方に大きくくりぬかれていたのだ。  兵士らは泣きわめく夫人を両側から捕らえて、無理やり壁のくぼみに押し込み、手早く壁の煉瓦を積みはじめた。またたくまに煉瓦の壁が出来上がると、つぎに兵士らは白い漆喰を煉瓦のうえに塗りはじめた。  季節は夏、たちまち漆喰もかわき、他の壁面と見分けがつかなくなるだろう。なかで夫人がどんなに泣こうと暴れようと、誰にも聞こえない。このまま恐怖のなかで狂い死にするか窒息死していくのが、彼女の運命なのだ。  兵士らはさっさと道具をしまって部屋を出ていき、城はまた、何もなかったようにシーンと静まりかえった。こわーい、男の嫉妬のお話である。 [#改ページ]   カンタレラ  ルネサンス時代のローマ法王たちの破廉恥さは、目にあまる。たとえばヨハネス二三世は,二〇〇人以上の人妻や未亡人を玩んだし、ユリウス二世は、たび重なる女遊びで梅毒にかかり、鼻はかけ、足は腐り、晩年には手押し車に乗ってミサを主催した。パウルス三世も実の妹と関係を結んだりしている。  しかしなんといっても筆頭は、ボルジア家のアレッサンドロ六世だろう。彼はサン・ピエトロ聖堂で行なわれた処女受胎節のとき,貧民の娘たち百余人のなかから、特に美しい娘たちを選んで、接見と称して無理やり処女を奪ったという。  アレッサンドロといえばなんといっても、ボルジア家の毒薬が有名だ。だが、この毒薬が本当のところ、どういうものだったかは不明である。ただ、ボルジア家の人々が、古代の毒物学を研究し、これをもとにプトマイン(屍毒)の調合法を発見していたことは、間違いないようだ。  殺した豚の内臓に亜砒酸をくわえ、これを乾かして粉状にしたのが、有名なボルジア家の毒薬「カンタレラ」だという。これは少しずつ長期にわたって用いることも、一瞬に相手を殺すこともできた。そのときの都合で、相手の死を一日後とか、一年後とか、決めることもできたのだ。  これを飲まされると、急に肌がしぼんでからだの力が抜け、髪は真っ白になり歯は抜け、息苦しくなり寒気がしてきて、狂ったように苦しみぬいて死んでいく。その瞬間になってようやく,そういえば、しばらく前にボルジアの毒を飲まされたと気づくのだ。 [#改ページ]   衣装箱  一四世紀イタリアのブルジョワ家庭に生まれた、パンドルフォという美青年は、キアラという四〇歳の人妻と不倫を楽しんでいた。このままいけば、ごく普通の火遊びで終わるところが、ある日からだに変調をおぼえたキアラが、医者にいったことから事情が変わった。医者から突然、不治の病にかかっていると宣告されたのだ。  死への不安より、キアラは、自分が死んだら、パンドルフォがさっさと自分を忘れてしまい、若い女とくっつくだろうと考えると、いてもたってもいられなかった。出来れば彼も、一緒に道連れにしたい。  考えあぐねているうち、ふと名案が浮かんだ。部屋のすみにあった、長さ二メートルばかりの木製の衣装箱である。横には息ぬきの穴もあるし、外から鍵をかけると、中からは絶対に開かない。  さっそくキアラは口実をもうけて、パンドルフォを呼び出した。夕食後、夫が別室に引きあげたころ、パンドルフォが到着した。ふたりが抱きあっていると、突然、召使が駆け込んできて、旦那さまがすぐここにやってきますと告げた。  慌てふためくパンドルフォを、キアラはうまく言い含めて、衣装箱のなかに隠れさせ、外から鍵をガチャリとかけた。そして、部屋に入ってきた夫に、こう言ったのである。 「私が死んだら、この衣装箱も墓に入れて下さい。大切な思い出の品々が入っているの」  夫は涙ながらにうなずいたが、中のパンドルフォはそれを聞いて、びっくり仰天。よほど叫んで助けを求めようかと思ったが、当時、浮気は死罪にあたる。ここで早まっては大変と、ぐっとこらえた。  計画が成功してホッとしたのか、キアラはその夜明けに急死した。墓地に運ばれた彼女の遺体は、大きく掘られた墓穴に、例の衣装箱と並んで安置された。だがいよいよ墓穴を埋めるだんになって、あまり穴が大きいので疲れてしまった墓掘りは、あとは明日だとばかり、穴を重しでふさいで帰って行ってしまったのである。  さあ、これでキアラの計画も大成功。あわれパンドルフォは墓のなかまで、女の道連れかと思われたが……。ひょんなことからこの計画は失敗する。夜中すぎの墓地に、キアラの甥をふくむ三人の男がひそんできたのだ。  キアラが衣装箱を墓に埋めてくれと懇願したという話を聞いた彼らは、衣装箱に何か高価な財宝でも入っているのではないかと考え、盗みに来たのである。彼らが重しをのけ、ふたのすきまにヤットコを入れて力いっぱい押し上げると、ついにギーッと音がして衣装箱のふたが開いた。  夢かと喜んだパンドルフォは、けたたましい叫びをあげて外に躍り出て、そのまま一目散に走り出した。こうして万一のところを命びろいしたパンドルフォだが、心にのこった傷はその後もいえず、酔っぱらうと、手当たりしだい相手をつかまえては、「女ってのは恐ろしい。キミも妙なのに引っ掛かると、大変な目にあうぜ」と、むきになって忠告したとか……。 [#改ページ]   刃  北イタリアの名門スカラ家の当主、コングランデ・スカラが、一三二九年に突然世を去った。病死というが、じつはミラノ領主ヴィスコンティ家の刺客に殺されたのだという噂がたった。  コングランデの後を継いだ甥のマスチーノ二世は、伯父の不審な死を調査して、一族の一人で、ソアベ城(スカラ家の持ち城の一つ)の城主である、オルチノ・スカラが犯人らしいという情報を突き止めた。スカラ家の当主になろうと企んだオルチノが、ヴィスコンティ家と結託し、人を使ってコングランデを毒殺したのだという。  伯父の仇を討とうと決意したマスチーノは、ある日素知らぬ顔で、ソアベの城にオルチノを訪問した。オルチノのほうは本家の当主が来るというので、御馳走を用意して丁重にむかえた。ここを訪れるのは初めてのマスチーノは、オルチノの案内で丘のうえのソアベ城を見物してまわった。  そのときマスチーノは、城の主塔に仕掛けられた、世にも恐ろしい�殺人装置�を見て驚いた。なんと塔の内部は空洞になっていて、なかをのぞきこむと、内壁の下のほうに、鋭い刃物が刃を上向きに植えられているのだ。さらにもっと下の底のほうにも、同じような鋭い刃物が、やはり刃を上向きに植えられている。  つまり塔の上から落ちると、人の体はこれらの刃物にひっかかって、肉という肉をずたずたに切り裂かれてしまうのだ。あたかも獲物が落ちてくるのを、口を開けて待っているサメのようだ。事実、多くの人が塔から突き落とされ、この殺人装置の犠牲になったらしい。実際に使われた証拠に、塔内には悪臭がただよい,刃物に血痕のようなものが見える。  その夜、まんじりともせずに復讐の方法を考えつづけたマスチーノは、恐ろしいことを思いついた。オルチノを、例の処刑の塔のうえから突き落とすのだ……。  翌朝、マスチーノは素知らぬ顔で、もう一度、処刑の塔を見てみたいと、オルチノに所望した。お安いご用ですよとオルチノは快諾し、供もつれず彼を塔に案内した。マスチーノはいかにも興味をそそられたように、塔のなかをのぞきこみながら、 「あれ、あそこの刃物に引っ掛かっているのはなんだろう?」  と、何かを発見したように、背後のオルチノに聞いた。オルチノが怪訝そうに、「なんのことでしょう?」と手すりから身を乗り出すと、マスチーノはやにわに彼の脚をすくって、手すりの外に逆さに吊るしてしまったのである。 「お前はヴィスコンティと計って、伯父コングランデを殺したな。罰としてお前をここから落としてやる。あの世にいって伯父にわびるがいい」  吊るされたオルチノはがたがた震えて、「めっそうもない、私には身に覚えのないことです。どうか助けて下さい……」と懇願した。しかし、最後まで言い終わらないうちに、マスチーノは彼の足を握っていた手を離してしまった。  ギャーッという悲鳴を残して、オルチノの体は真っさかさまに落下していった。途中の刃物にぶつかった体は、肉を細切れにされて下に落ちていき、頭が下の刃物にぶつかって、串刺しになってしまったという。  この殺人装置はいまでも、処刑の塔の下で、不気味に光っている。実際に見学することが出来るので、旅の土産話がてら、あなたも見物してみてはいかがだろう? [#改ページ]   麻 袋  一四世紀パリのセーヌ河の左岸に、二五メートルもの高さの塔がそびえる「ネールの城」という古い王家の城館があった。夕暮れになると、城館に面した通りに、顔をベールでおおった美しい貴婦人があらわれた。深くえぐった胸のデコルテから、ゆたかな乳房がのぞいていた。  女は通りかかった男に声をかけて、ネールの塔のなかに誘い込んだ。室内にはシャンデリアがともり、テーブルには豪華な御馳走や酒が並んでいる。男は、夢を見ているような気分だった。  夜がふけ、酒やごちそうを堪能したあとは、男は美しい貴婦人に案内されて、隣の寝室に消える。天蓋つきの豪奢なベッドのうえでは、全裸の美女がにっこり微笑んで男を迎えた。  そしてそのあとは、くんずほぐれつ、激しい快楽によいしれて……。  朝日がのぼるころ、塔の高窓から、大きな麻の袋がセーヌ河に投げこまれ、あっというまに波間にかき消えた。袋に詰められていたのは、昨夜ネールの館に迷い込んできた男の、無残な死体だった。  パリの町には、不気味な噂が流れた。夜毎に若い男たちがさらわれて、それっきり帰ってこないというのだ。  捜査がすすめられ、信じがたい事実が分かってきた。ベールに顔を隠した貴婦人とは、じつはルイ一〇世の王妃マルグリット・ド・ブルゴーニュと、シャルル四世の王妃ブランシュ・ド・ブルゴーニュだった。  これらの王妃たちが、気に入った男をつぎつぎとネールの塔に誘いこんでは、セックスの相手をさせ、ことが終わると、男を殺して麻袋に詰め込み、セーヌ河に投げ込んでいたというのだ。  かくて一三一四年、ついに王妃たちは捕らえられて、ガイヤール城に幽閉された。このエピソードはのちに、作家の大デュマによって戯曲化されている。 [#改ページ]   水漬け  スイスは山や湖にかこまれた風光明媚な国だが、ジュネーヴから一時間あまり先にあるシヨン城は、「レマン湖の女王」とよばれ、�水の城�としての美しさを讃えられている。はるか彼方にスイスの連山をのぞみ、湖にくっきりと浮かびあがる城は、まるで一幅の名画そのものである。  しかしこの美しい城は、じつは昔は牢獄だったのだ。入口を入って、地下に向かってすすむと、石のアーチ天井を支える柱がならぶ、ひんやりした空間がひろがる。昼間も薄暗い、石の肌を剥き出しにした地下牢には、冷え冷えした空気がたちこめている。打ち寄せるレマン湖の水の音がぴちゃぴちゃと絶えまなくつづいている。床が濡れているところを見ると、波風の強いときは湖水の泡沫が窓から吹き込むのだろう。  サヴォワのピーター二世の時代、この城にはその従兄弟にあたるピエール・スタニェールという貴族が住んでいた。その妻カトリシアは、フィレンツェの豪族出身で、美人ではあるが、気性の激しい女だった。  家臣に、ボレン・マイヨールという騎士がいた。まだ若い美男で、戦場でも勇敢で、城主からも信頼されていた。カトリシアは、ボレンに妻を持たせようと侍女の一人をすすめたが、ボレンは言を左右にしてよい返事をしない。相手が気に入らないのかと、今度はサヴォワ一の美女と言われる女性を紹介したが、これも首をたてにふらない。  じつはカトリシアは、ボレンと夫ピエールとの仲をずっと前から疑っていたのだ。夫とボレンは、戦争がはじまると嬉々としていっしょに出陣する。城にいるときも二人だけで森に狩りに出掛けて、いっしょに野宿してくることもたびたびだ。ただの主従関係にしては、いやになれなれしすぎるのではないか。  当時、城主の寝室と夫人の寝室は別々なのが普通だったが、ピエールが彼女の寝室にかよってくることは滅多になかった。かといって、他に女がいるという噂も聞かない。苛立ったカトリシアは、ついに決意して、夫や重臣たちが狩りに出掛けたあいだに、ボレンの部屋の壁にのぞき窓をつくらせた。  ある夜、カトリシアは廊下を忍び足でつたっていき、隠し窓からひそかにボレンの部屋のなかの様子をうかがった。するとなんと薄明かりのなかで、ベッドのうえで抱き合っている夫とボレンの裸身が見えるではないか!  なんということだ! カトリシアは怒りと嫉妬に気が狂いそうだった。しかしここで取り乱しては、何にもならない……。やっとのことで怒りをおさえたカトリシアは、その夜は何事もなかったように、自分の部屋にもどっていった。  それから数日後のことである。夫のピエールは朝から本家のサヴォワ家の祝い事で出掛けていった。ところが彼が夕方、城に帰ってみると、とんでもないことが起こっていた。留守中に、なんとボレンが地下牢につながれているのである。  何があったのか聞いてみると、ボレンがカトリシアの寝室を襲って、暴行しようとしたという。「まさか!」とピエールは、驚いた声をあげた。しかし事件には二、三人の証人までいるので、いかにボレンの無罪を信じるピエールも、どうすることも出来なかった。そして悲劇は、レマン湖の満ち潮のときにやってきた。その夜は北風が吹き荒れて大嵐となり、城の地下牢に湖の水があふれ、岩に鎖でつながれていたボレンは、水漬けになって死んでしまったのだ。  翌日地下牢に降りてみたカトリシアは、ボレンの怨みに満ちた形相に悲鳴をあげ、そのまま自室に走り込んでベッドにつっぷしてしまった。ボレンの亡霊が出るようになったのはその夜からである。それから毎夜のように、夫人の部屋のまえで、甲冑をつけた騎士の足音がコツコツと響くようになった。恐怖に震えながら侍女とともに扉を開くと、そこに人影はなく、ただ水たまりが点々と廊下につづいているだけだった。  毎夜あらわれる亡霊に悩まされた夫人は、ついに一カ月後に狂死してしまった。そして不思議にもその夜以来、騎士の亡霊はぷっつりとあらわれなくなったという。地下牢はいまも残っている。ボレンをはじめ、そこに閉じ込められた囚人たちの怨みを残して……。 [#改ページ]   人肉供食  ソーニー・ビーンは、一三六〇年ごろ、スコットランドのエジンバラ近郊に貧しい百姓の子として生まれた。彼は物心つくと、そのころ知り合った一人の女とともに、寂しい海岸にある洞窟に住むようになった。彼らは二五年間もこの洞窟に住みついて、八人の息子と六人の娘をもうけた。しかもなんと、孫たちが三二人もできた。  こうしてたった一組の男女から五〇人もの大家族が出来、生産らしい生産もないまま、通りかかる旅人を襲うようになったのである。しかも彼らの追剥ぎは、ただ金や品物を奪うだけではない。その肉体をも食料として奪いとったのだ。  ビーンは必ず一家総出で旅人を待ち伏せし、集団を襲うときは、誰かが物陰に待ちぶせして、万一にも逃げる者がないようにした。一家の住む洞窟には、食料を保存するための天然冷蔵庫もあったようだ。それでもあまった肉は塩漬けにして、獲物のない時期にそなえた。  この地方を旅する者がつぎつぎと姿を消すので、さまざまな噂が立った。が、一人も逃げ帰った者はいないので、追剥ぎ一家の存在は誰も知らなかった。一家はますます傍若無人になり、要らない腕や足を海に投げ捨てるようになった。海岸に打ちよせられた人間の手足は、人々の恐怖をひきおこした。  少しでも疑わしい者は捕らえられて処刑され、行方不明になった旅人を泊めた宿の主人も、濡れ衣を着せられて首をはねられた。しかしこんなことをしても何の効果もなく、しまいにはこの地方の人口が目立って減るほどになった。  一家の逮捕は、偶然の産物だった。彼らの恐れていた、獲物の逃走があったのである。通りがかりの夫婦を襲ったところ、妻のほうは仕留めたのだが、他の旅行者の一団が通りかかってビーン一家を追い払ったため、夫の命は助かった。  夫は命からがらグラスゴーへ馬を走らせ、人々に殺人鬼どもとの戦いのてんまつを告げた。かくて四半世紀ものあいだ人々を戦慄させてきた殺人鬼一家の姿が、ついに白日のもとにさらされたのである。  しかし捕らえられた妻のほうは、喉を切り裂かれて溢れる血を飲まれ、ついで腹を裂かれて腹《はらわた》を引き出され、ビーン一家によってたかって貪り食われてしまった。  事件は国王の耳にまで達し、国王みずからが四〇〇人の兵士とブラッドハウンド犬の一群をつれて、ビーン一家狩りに出発した。一家の住処を探りあてたのは、ブラッドハウンドである。人間なら気づかずにすませたかも知れないが、犬には肉の臭いがあまりに強烈だったのだろう。  どっと踏み込んだ兵士たちが目にしたのは、地獄のような惨状だった。曲がりくねった穴の奥に、人間の肉や塩漬けの手脚が、所せましと吊り下げられていた。ビーン一家は抗おうともせず、兵士たちを呆けたような顔で眺めていた。  一家はその場で全員捕らえられ、鎖につながれてエディンバラの拘置所に入れられた。判決はすぐに下った。全員が、審理なしで処刑。彼らの犯罪が世間に与えた恐怖は大きかったが、国王が彼らに対して行なった処刑は、それ以上に残虐なものだった。  ビーン一家は、ゆっくりと時間をかけてなぶり殺しにされた。男たちは四肢を切り落とされ、死ぬまでその状態で放っておかれた。女たちは男たちの処刑をたっぷりと見せられたあと、生きたまま火あぶりにされた。しかし彼らはみな、犯した罪を悔い改める様子は少しもなく、死ぬ寸前まで呪いの声をあげつづけたという。 [#改ページ]   悪魔の軟膏  一四世紀のアイルランド。アリス・カイトリーはこれまで、三度も夫に死に別れてきた。そしていま、四人目の夫も死を前にした危篤状態である。これまでの夫と同じように、今度の夫も指の爪がはがれ、髪の毛はごっそり抜け落ちるという、見るもおぞましい症状だった。  あまりのことに、召使や前の夫の子供たちが疑いだした。前の三人の夫も、そして今度の夫も、あまりに症状が似すぎている。子供たちはためらったあげく、ついに母の部屋を調べることを決意した。  母の留守をねらって部屋に入ってみると、厳重に鍵をかけた、何やら意味ありげな箱が見つかった。鍵をあけてみると、なかから出てきたのは薄気味悪い軟膏のようなものと、悪魔の名を彫りこんだ聖餐用パン……。  恐れおののいた子供たちの手で、それらの品々はさっそく、教会の司教のもとに届けられた。そして調査の結果、アリスが�悪魔の軟膏�を用いて、三人の夫をつぎつぎと殺したことが判明したのである。  実はアリスは、これまで定期的に魔女集会を開いていた。そして一一人の仲間たちと一緒に、動物の腸、毒草、虫、死人からとった髪と爪、生まれてすぐ死んだ赤ん坊の肉、打ち首になった囚人の頭蓋骨などを、一緒くたにぐつぐつ煮て、軟膏を作っていたのである。  司教はさっそく、アリスと一一人の仲間たちを逮捕するように指図した。しかし残念ながら、いかに躍起になっても、司教自身にアリスを逮捕する権限はない。ようやく教会裁判で裁く許可が下りたのはいいが、そのときはすでに、アリスは親しい貴族の手配で、イギリスに逃げてしまったあとだったという。 [#改ページ]   「聖セバスチャンの殉教」 「聖セバスチャンの殉教」と題する一連の絵画を、ご存じだろうか? 腰布をまいただけの青年が、木に縛りつけられ、肉体に数本の矢を射こまれて苦しんでいるという無残なテーマで、これまでマンテーニャをはじめ、多くの画家たちによって描かれてきた。  一四〇一年、ミラノ公ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティの軍は、イタリアに南下してきたドイツ皇帝ループレヒト率いる軍隊を雄々しく迎え撃った。このとき多くのドイツ兵が死んだりアルプスを越えて逃げ帰ったが、さらに多くの者がミラノ側の捕虜となった。  当時、ミラノ公は壮麗な宮殿を造営させている最中だったが、その壁画を、ミラノで一、二の評判を得ていた、一人の画家がまかせられることになった。画家はいつもは穏やかな男だったが、仕事熱心で、絵のことになると別人のようになる男だった。  画家は注文された壁画に、「聖セバスチャンの殉教」のテーマを選び、それを描くには実際のモデルが必要だと言いだした。そこでドイツ兵捕虜のなかで、もっとも若く美しい体の持ち主が、彼のまえに連れて来られたのである。  画家の弟子たちはその青年を、腰布だけの素裸にして、木に縛りつけた。そして水も食べ物も与えないまま放置して、青年が弱っていくにまかせた。こうして弱り切ったところを、今度は弟子たちが鞭や棒切れで力まかせに殴りつけた。  こうして苦悶しながら衰弱していく青年を、画家は冷徹な目で観察し、スケッチしていった。そしてついに彼は弟子たちに、青年の体に矢を射こむように命じた。それもたっぷり苦しんだあげくに死ぬように、一カ所一カ所を時間をおいて射こむようにというのである。それもこれも苦悶する人間の表情を、出来る限りリアルに描きたかったためだった。  蒼白の肌を染めていく鮮血、頬の削げた痩せおとろえた顔、痛みにあえぐ半びらきの唇……。これほどの虐待を叫び一つあげず耐えようとする青年の姿は、人間ばなれした美しさを感じさせた。画家は何かにつかれたように、その美神のような姿を描きつづけた。  ついに青年は、心臓を槍でつかれて息たえた。数カ月後に完成した「聖セバスチャンの殉教」は、予想を超えた見事な出来ばえで、ミラノ公に大きな満足を与えたことは、言うまでもない……。 [#改ページ]   なぶり殺し  一五世紀フェラーラの領主ニコロ三世は、賢明な統治者として慕われていたが、唯一の欠点は女好きだった。それこそ無数に愛人をつくり、領民たちは、「一区ごとに愛人がいるのは、侯爵さまの平等政策だろう」と、皮肉を言うほどだった。  無数の愛人のなかで、ニコロがもっとも愛したのはシエーナの豪族の娘ステッラだったが、彼女は三人の男の子を残して、若くして病死した。正妻のパドヴァの姫君も、夫に見放された身を嘆きながらも,やはり若くして病死してしまった。  妻を亡くし、愛する寵姫にも死なれたニコロ三世は、まだ三五歳の男盛り。フェラーラ領主としての立場からも,女好きな性格からも、このまま独身をつづけるのは無理だ。そこで選ばれたのは、チェゼーナの領主の娘でわずか一五歳のパリシーナである。花のつぼみの美しさに、ニコロは一目惚れしてしまった。  再婚後、しばらくは幸せな日々がつづいた。ニコロも二〇も年下の初々しい妻に首っ丈で、つづけて二人の男の子も生まれた。パリシーナも、やさしい夫の愛撫に満足していた。  ところが結婚から四年たったころ、二人のあいだに波風が立ちはじめた。それまでおさまっていたニコロの浮気の虫が動きだしたのである。ニコロはよく国を留守にした。政治向きの用件というが、そのあと女のところに寄り道してくるのは分かりきっていた。パリシーナは夫の帰りを待ちながら、むなしく時を過ごすようになった。  そんな彼女の孤独を慰めたのが、夫と前の寵姫ステッラとのあいだに生まれた長男ウーゴである。義理の息子とはいえ、ウーゴは彼女より一つ年下というだけ。すらりとした美青年で、豪放磊落な父と違って物静かなところが、かえって好感を持たれていた。  パリシーナは本を貸してくれとか、読んだ本の粗筋を話してくれとか、口実をつくってウーゴを自室に呼び寄せた。そしてついにある日、耐えきれなくなって彼への思いを打ち明けてしまうのだ。 「エステ家からお話があったとき、エステ家の跡継ぎのあなたに私を欲しいというお話だろうと思ったものです。それが二〇歳も年上の父上との結婚話と知ったときから、私の不幸が始まりました」  パリシーナは青年のまえにくずおれて、その膝にとりすがった。彼女の涙はウーゴのひざのうえの書物を濡らし、さらにはウーゴの胸を濡らしていった……。  こうして二人の忍ぶ恋は始まったのである。が,幸福は長くはつづかなかった。ウーゴに仕える従者が、主人の行動を不審に思い、ある夜そのあとをつけてパリシーナの部屋に消えるのを見届けたのだ。そして彼女の部屋の真上にある部屋の床にあいた穴から、真下でくりひろげられる情事の一部始終を見てしまったのだ。  従者の密告でただちに二人は捕らえられ、城内の別々の塔の牢にとじこめられた。二人を待っていたのは、身も凍るような恐ろしい運命だった。愛する息子だから、妻だからといって、ニコロ三世は容赦はしなかった。その殺し方はまた、いかにも手がこんでいた。ひと思いには殺さず、二人の首、手、足をそれぞれ牢獄の壁に鎖でつなぎ、今日は片方の耳をそぎ、今日は片方の目をつぶし、今日は指を一本ずつ切り取るという、残虐ななぶり殺しである。  殺されるほうにとっては、これほどの苦しみはない。歯は抜かれ、舌も切られているのだから、舌を噛んで自殺するわけにもいかない。こうして二人は、苦しみに苦しみ抜いて死んでいった。 [#改ページ]   氷の像  若さと美貌を保つために、七〇〇人の娘たちを殺してその血を浴びたといわれる、一六世紀ハンガリーの伯爵夫人エリザベート・バートリ。彼女が娘たちに加えた拷責はさまざまだが、そのなかでも壮絶なのが、つぎにご紹介する拷責だろう。  ある冬の日のこと、エリザベートは散策の途中、湖のほとりで急に馬車をとめさせ、隣にのせていた召使の娘をおろした。  従者たちが松明をかかげるなかで、娘はあっというまに服を脱がされる。凍てつく風に吹かれて全身は紫色になり、ガタガタ震えながら娘は泣きさけぶが、両側から男たちに押さえつけられて、身動きすることも出来ない。  そのあいだに、下男がつるはしで叩いて湖の氷をこわし、その奥に凍らないまま残っている水を、手おけで汲み出し、ゆっくり娘の体にそそぎはじめたのだ。  凍てついた水の灼《や》けるような感触に、娘はのたうち、松明の火にむかって力なく動こうとした。しかし零下何十度の気温のなかで、水はたちまち肌のうえで凍りつき、第二、第三の水がつぎつぎと氷の層を厚くしていった。こうして娘は半透明の氷の像に変身したのである。  作業が終わると、エリザベートは馬車から降りて、豪奢な毛皮にくるまって娘に近づいた。この氷の像に、まだかすかに命が残っているのに気づくと、彼女はからからと愉快そうに笑いながら、ゆっくりと像のまわりを一巡するのだった。 「これを持って帰って、部屋に飾っておけないなんて、本当に残念だわ……」  かくて氷の像は積もった雪のうえに打ち捨てられ、馬車は何事もなかったように、また出発していったのである。 [#改ページ]   鉄の処女  さらにエリザベートの用いた拷責のなかで、「鉄の処女」という、恐ろしい殺人器具もある。それは等身大の裸の人形で、皮膚は人間そっくりの肌色。いろんな肉体の器官が、人間そっくりにそなわっている。機械じかけで目や口も開き、歯も生えていて、口を開くと残忍な微笑を浮かべる。頭に美しいブロンドの髪の毛が、地面にとどくほどたっぷり植えられている。 「鉄の処女」の拷問は、こうしてはじまる。いつものように、その日の生け贄に選ばれた娘が、後ろ手に縛られて、エリザベートの前に連れてこられる。娘は裸にされ、無理やり「鉄の処女」のまえに押しやられる。  人形の胸についた宝石のボタンを押すと、歯車がきしんで、人形はゆっくりと両腕をあげる。ある程度まで上げると、人形は両腕で自分の胸を抱えこむような仕種をする。すぐ前にいた娘は、逃げるまもなくその腕に捕らえられてしまうのだ。  つぎに人形の胸が観音開きに割れると、なかは空洞になっていて、無数の尖った針が生えている。人形の体内に捕らえられた娘は、それらの針に全身を突き刺され、肉を砕かれ、血をしぼられ、恐ろしい苦悶のなかでもがきながら息たえるのだ。  事が終わってふたたび胸の宝石のボタンを押すと、人形の腕はまたもとの位置にもどり、娘からしぼりとられた血は、人形の体内からみぞを通って、下の浴槽に流れこむ。そしてここに、エリザベートは裸になってゆっくりとからだを浸すというわけだ。 [#改ページ]   鳥カゴ  エリザベートの気まぐれを満足させるため、もう一つの殺人器具が、同じころ鍛冶屋に注文してつくられた。人間を閉じ込めるための、巨大な円筒形の鳥カゴである。その日も一人の犠牲者が、彼女のまえに連れてこられる。女中のヨーが、壁にとめられた紐を操作すると、金属のギーッときしむ音がして、天井から巨大な鉄の鳥カゴが下りてくる。奇妙な物体が地上に下りたつと、ヨーがその扉を開いた。  何が起こるのか想像もつかないまま、娘はカゴのなかに押しやられた。そのなかは立っているには低すぎ、すわるには狭すぎたので、娘は犬のようにぶざまな形で身をかがめるしかなかった。  扉が閉まると鳥カゴは滑車の助けを借りてするすると宙に上がった。それがすっかり天井まで吊り上げられたとき、ヨーが壁にとりつけられたスイッチを押した。すると何十もの尖った刺がいっせいにカゴの柵から内側にむかって、飛び出してきた。  恐怖に狂って娘はカゴのなかで身をくねらせ、刺から身を逃れようとした。けれどもたちまち、カゴは空中で右に左にと、振り子のように大きく揺れはじめる。こうして娘の肉体はカゴのなかで細かく切りきざまれ、その血は底に穿ったいくつもの小さな穴から、真下のたらいのなかに裸で待っていたエリザベートの白い肉体のうえに、驟雨のようにふりそそいだ。身も凍るような叫びをあげて娘は息たえ、エリザベートはたらいのなかで、血を全身にくまなく塗りつづける……。 [#改ページ]   手 袋  一六世紀のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディチは、希代の毒薬愛好家として知られる。フィレンツェのメディチ家から、アンリ二世に嫁ぐとき、カトリーヌは占星術師や香水調合師や魔術師や錬金術師をおおぜい伴ってきた。  カトリーヌに毒薬を提供したのは、そのなかのルネ・ビアンコという香料商人で、彼はサン・ミシェル橋のうえに香料の店をかまえていた。 「今度も、イタリア女のしわざかな」 「間違いないさ。見てみろ。母后のあの得意気な顔を」  カトリーヌにとっての邪魔者が、あまりにも都合よくつぎつぎ死んでいくのを見て、フランス宮廷の人々はこう噂した。実のところ、新教と旧教の戦いに引き裂かれたフランスで、一人の女が自分を守りぬいていくには、毒薬ぐらいしか手段がなかったのであろう。  フィレンツェから最先端の流行を持ちこんだカトリーヌの影響で、フランス宮廷の人々も、ハイセンスなお洒落を楽しむようになった。このファッションを、何か毒殺に役立たせることは出来ないものか……。  そのときカトリーヌが思い出したのが、亡き夫アンリ二世と結婚した二十数年前、ともに訪れた南フランスのグラースの町だった。グラースは、皮革加工で有名な町である。  町をあげて歓迎式をもよおしてくれたとき、市長から、まだ革のもつ独特の匂いを消す方法がないと聞き、カトリーヌは自分が故郷から持ってきた香水を提供した。  そして故郷から連れてきた香料商人のコジモ・ルッジェーリとルネ・ビアンコに、彼らが考案した香料の製法を、グラースの人々に教えるよう命じたのだ。市長は大感激して、カトリーヌを救いの女神と讃えたものだ。  このときのことを思い出したカトリーヌは、さっそくコジモとルネを呼んで命じた。 「革手袋に香料を染み込ませる方法を思いついたのは、そなたたちでしたね。同じ方法で、今度は手袋に毒を染み込ませて欲しいの。それもあまりの芳しい香りに、相手が思わず鼻を近づけたり、握手しただけで毒が効き目をあらわすようにお願いしますよ」  やがてカトリーヌの手もとに、完成した新兵器、「毒の手袋」が届けられた。大喜びしたカトリーヌは、何組もつくらせて、衣装棚の奥にしまいこんだという。  この毒手袋の犠牲になったと考えられているのが、のちのアンリ四世の母でナヴァル王妃のジャンヌ・ダルブレである。彼女は息子とマルグリット・ド・ヴァロワ(カトリーヌの娘でマルゴの名で知られる淫蕩な王妃)の結婚式に参列するため、パリにやってきたが、到着後六週間で、ぽっくり死んでしまったのである。  母を毒殺されたことに懲りたのか、アンリ四世はその後、自分でセーヌ河に水をくみに行き、自分の部屋で卵を茹でて食べていたという、涙ぐましいエピソードがある。  実はカトリーヌは、秘蔵っ子の三男(のちのアンリ三世)に王位を継がせるために、邪魔になった次男のシャルルを毒殺したとも言われている。  シャルルは一五七四年に二四歳の若さで死んだが、毒殺を疑われた主な理由は、かなり前から顔に奇妙な斑点が出来たことと、彼が血のまじった寝汗をかくようになったことである。  それにしても、野心のためには実の子を殺すことも辞さない。これが本当なら、やはりカトリーヌは恐ろしい女だ……。 [#改ページ]   毒 矢  未開地の原住民たちは、文明人の鉄砲や大砲のかわりに、毒を塗った吹き矢や弓矢を使用する。東インドの原住民の用いるストリキニーネなども有名だが、なかでも興味深いのが、アメリカ・インディアンの使う�クラーレ�だろう。  しかしそれについて、くわしいことはほとんど知られていない。原始民族の共同体をおおう、秘密主義のベールをはがすのが非常にむずかしいのだ。アフリカや南米の原住民たちは、いまでも狩りや戦いに毒矢を用いているはずだが、何からその毒をとるかということは、彼らのあいだだけの固い秘密になっている。  南米の原住民の使うクラーレは、エリザベス一世の家臣だったウォルター・ローリー卿が、一六世紀末にヨーロッパに持ちかえったことで知られるものだ。文豪ゲーテと親しく、探検家としても有名だった、ドイツの自然科学者アレキサンダー・フォン・フンボルトは、壺のなかから流れでたクラーレが、虫にさされた傷から侵入して中毒しているし、同行者の一人も、指の傷からクラーレが侵入したため気を失っている。このようにクラーレは、昔からよく探検家らのあいだに恐慌を巻き起こしたものである。  クラーレが体内に侵入するときは、なんの痛みも苦しみも感じない。筋肉のなかの運動神経末梢をマヒさせるからだ。この矢で射られた動物は、たいして苦しむこともなく、しだいに呼吸困難になって死んでいく。しかも奇妙にも、クラーレは内服しても中毒しないので、この毒で殺された動物の肉を食べても、毒にやられることはないのだ。  現代では、ソ連に捕らえられたアメリカのU2型機事件のスパイが、自殺用にクラーレと注射器を所持していたというので評判になった。スパイが自殺用に毒薬を携帯することはよくあるが、クラーレというのがめずらしかったのだ。  クラーレのとれる植物は、ストリキニーネと同じ馬銭《マチン》科に属する植物で、毒はその皮部と木部にふくまれている。ブラジル、ペルー、アマゾン流域などにすむ原住民は、この植物の恐ろしさをよく知っている。  興味深いことに、原住民がこの毒のエキスを調整するときは、お祭りのような儀式が行なわれる。「毒男」という役目の者が、作業にあたる者たちを指図する。鍋のなかがぐつぐつ煮えてくると、有毒ガスが立ち昇るので、みな周囲から離れてしまうが、鍋の様子を見るために一人だけはわきに残っていなければならない。その役は、老婆が引き受け、種族の犠牲となって死ぬのである。毒のエキスが煮詰まったころ、みなが鍋のまわりに集まってみると、すでに老婆は冷たくなっているというわけだ……。 [#改ページ]   解毒剤  ある貴族が、スペイン産の糞石を、フランス国王シャルル九世に贈った。王はその解毒の効果を、生きている人間を使って試してみようと考えた。そこで侍医アンブロワーズ・パレが呼ばれて、王は彼に、あらゆる毒にきく解毒剤というものがあるのかと訊ねた。  パレは,いろんなタイプの毒があるから、そのどれにもきく解毒剤というのは、まず有り得ないだろうと答えた。すると糞石を献上した貴族が,この石はどんな毒にでもきく特効薬だと言ってどうしても譲らなかったので、では試してみようということになった。  裁判所に問い合わせると、ちょうど翌日、絞首刑になる予定の罪人が一人いる。そこで王はその罪人を呼びつけ、もしお前がモルモットになって、毒と解毒剤を飲み、万一、命が助かったら、無罪放免してやろうと言った。  その罪人はいやがるどころか、大勢のまえで絞首刑になるよりは、毒で死ぬほうがまだましだと言ったので、さっそく彼は、毒とあの糞石の粉を飲まされた。すると罪人は、突然ゲーゲー吐きはじめ、つぎにはひどい下痢になってトイレに行き、全身が焼けるように熱いと言い出した。  さらには立っていられなくなり、獣のように四つん這いになって這い出した。そして顔中真っ赤にして、汗をたらたら垂らしながら吐きつづけ、耳,鼻、口、肛門など、体中の穴という穴から血を流しながら、壮絶な死を遂げたという。結局、糞石とやらの効き目は、期待はずれだったようだ。 [#改ページ]   ネズミ  ドイツのエレンフェルズの城主が、ある日突然、何処へともなく姿を消した。家族や召使たちは、城のなかをあちこち探しまわったが、無駄だった。そのうち、彼らは奇妙な話を聞いた。領主が何かに追われるように、必死にボートを漕いで、ライン川の中州に建つ時計塔に向かったというのである。  話を聞いて、三人の召使が、さっそく島の時計塔にわたった。ライン川を通る船から通行税を集めるための見張りの塔だったが、いまは使われなくなり、無人になっていた。  時計塔のなかは五階に分かれ、急な階段がついている。階段を上がっていくにつれ、召使たちはキーキーという不気味な鳴き声を聞いた。驚いて周囲をみまわしたが、何も変わったものはない。  しかし四階まで上がったとき、召使たちはゾッとした。巨大なネズミが、五、六匹のネズミを従えて、こちらを凄みのある目で睨みつけている。召使たちがかまわず進んでいくと、大ネズミはキーッと鋭く鳴いて身をひるがえし、五階への階段を駆け上がっていった。  ピストルを手に五階へと上がった召使たちは、ハッと息をのんだ。床のうえに、一個の死体がころがっていたのだ。衣服は食いやぶられ、骨にわずかに残った肉を何十匹もの小ネズミがたかって食っている。そばには何十匹ものネズミの死体と、城主のものであるピストルがころがっていた。  部屋の天井といい壁といい床といい、何百匹というネズミがひそんで、召使たちをじっと睨みつけている。まるで彼らを襲えという、ボスの命令を待っているかのようだ。恐怖に身がすくんだが、召使たちはピストルをかまえ、後ろ向きに用心深く階段をおりていった。全身の神経を尖らせていたが、ネズミたちは動かなかった。ただ小ネズミたちが城主の肉を食べている音だけが、静けさのなかにシャリシャリと聞こえていた。  やっとの思いで塔を出ると、召使たちは命からがらボートを漕いで城に舞いもどった。話を聞いた城主の夫人は、集められるかぎりの犬と猫を集めて、島の時計塔に放ったが、すでにネズミは嘘のようにいなくなっていた。白骨と化した城主の死体だけが、床のまんなかにころがっていた。  もともと城主は、領民からの年貢の取り立てが厳しく、召使たちに対しても冷酷で、家族たちからも嫌われていた。  彼はかねがね厳格な父をけむたく思っており、ある日、とうとう父を断崖から突き落として殺してしまった。その後自分が城主の地位につくと、今度はその地位を奪われることを恐れて、我が子に毒を飲ませて殺してしまった。  城主は強欲で淫乱な男だった。これという女に目をつけると、嫌がるのもかまわず城に誘拐してきて、思うさまもてあそんだ。そして飽きてしまうと、おもちゃを捨てるように、ポイと捨て去るのだった。  あるときは、アーレンという美しい村娘に目をつけ、無理やり城に連れてくると、その汚れない肉体を残酷にもてあそんだ。絶望のあまり、アーレンは城の塔から、身を投げて死んだ。彼女は一匹の大ネズミを飼っていたが、彼女が自殺したあと、その大ネズミは何処へともなく姿を消してしまったという……。  ショックは大きかったが、夫人も召使たちも、この事件については沈黙を守った。しかし人の口から口へと噂は伝わり、ライン川地方の人々は誰いうともなく、この時計塔をモイゼターム(ねずみの塔)と呼ぶようになった。時計塔はいまも、ビンゲンの町の近く、ナーエ川がライン川に合流する近くの島にひっそりと建っている。 [#改ページ]   砒 素  あの大ナポレオンは一八二一年五月五日、流刑の地セント・ヘレナ島で、五一歳の生涯を終えた。彼は生前から、「自分が死んだら遺体を解剖してほしい」と、口癖のように言っていた。自分の病いについて、強い疑いを持っていたらしい。  ナポレオンの死の翌日、七人の医師が解剖を行なったが、意見はてんでんバラバラで、わずかに�胃の潰瘍�と�肝臓の肥大�が認められただけだった。結局、ナポレオンの死因は、胃ガンか肝臓病というところに落ちついた。  ところが一九五五年になって、スウェーデンのフォーシューフットという歯科医が、ナポレオンの晩年の症状をくわしく調べた結果、「砒素による毒殺の疑いがある」と主張した。彼が信頼すべき筋から手に入れたナポレオンの遺髪からは、通常の一三倍もの砒素が発見されたのだ。  これに対して、たった一本の髪の毛の分析だけでは,信用できないという反論が出てきたため、フォーシューフットはさらにナポレオンの他の遺髪を用いて、分析を行なった。するとたとえば一三センチの長さの髪の毛を五ミリずつ刻んで測定したところ、砒素量は各部分に必ずしも平均して含まれているのではないことが判明した。つまりナポレオンが、致死量とはいわずとも、相当量の砒素を何回かにわけて飲まされた疑いが、きわめて濃いものになったのだ。  さらにフォーシューフットは、ナポレオンの侍従の回想録から抜き書きしたナポレオンの病状の経過と、遺髪の分析から出た砒素含有量の変化を、ナポレオンのセント・ヘレナ島での生活状況に照らしあわせてみた。すると、彼の病状の変化と砒素量の増加の時期が、恐ろしいまでに一致したのだ。  フォーシューフットは調査の結果、この毒殺は、ナポレオンのセント・ヘレナ行きに同行した、フランス人士官の犯行だと主張している。その士官はこの恐ろしい犯行を行なうかわりに、自分の過去の横領事件を、現政府から帳消しにしてもらう約束になっていたのだ。セント・ヘレナ島で、ナポレオンの葡萄酒係となった彼は、なんとナポレオンが飲む酒のなかに、毎日少しずつ砒素を入れていたというのである……! [#改ページ]   タバコ  フランス人のイッポリト・ド・ボカルメ伯爵は、若いころから旅行家として名をはせていた。ジャワ、マレー半島、アメリカなどを転々としたあげく、一八四三年に帰国して、突然リディ・フウニイという女性と結婚した。莫大な持参金つきという触れ込みだったから、そのころ衰退の一途をたどっていた名門ボカルメ家にとっては、願ってもない縁だった。  結婚後、夫婦はベルギーのモンス近在の、ビトルモンという村にある先祖代々の城に住んだ。夫婦はそこで、それこそ金にあかせて贅沢三昧の生活をおくった。それというのも、リディにはいまにもくたばりそうな独身の兄がおり、いずれこの兄が死んだら、莫大な遺産がころがりこむ公算があったからだ。  ところが夫妻の思惑は、大きくはずれた。病弱な兄がある女性に夢中になり、どうしても結婚すると言い出したのだ。もし結婚してしまえば、兄が死んだあと、残された財産は当然ながら未亡人のものになる。それでは、これまでの期待が水の泡だ。ボカルメ夫妻は必死に結婚に反対したが、兄は二人の反対に耳を貸そうとしなかった。  このままでは莫大な財産がみな、どこの馬の骨とも知れぬ女のものになってしまう……。ボカルメ夫妻は、顔をつきあわせて、必死にどうしたらいいか相談した。そのときボカルメの頭に浮かんだのが、東洋を旅行中に身につけた、ある植物学の知識である。  思い立ったら、実行あるのみ。ボカルメはさっそく約八〇キログラムのタバコを購入し、これを蒸留してニコチンを採取したのである。当時、ニコチンはまだ、毒薬としてはほとんど知られていなかった。  結婚式の前夜、ボカルメ夫妻は、口実をつくって兄をビトルモンの城に招待した。そしてすきを見て、ボカルメが義兄に飛びかかり、用意しておいたニコチンを、無理やり飲ませたのである。  義兄は苦しみぬいて死んでいったが、その死はあまりに怪しいものだった。床に残る爪で引っ掻いたあとが、犠牲者の苦悶を物語っていた。招ばれた医者は、毒のあとを消すのに用いられた酢の臭いにも気づかず、卒中の診断を下したが、それだけではボカルメ夫妻に対する疑いはとても晴れなかった。  結局、ボカルメ夫妻は、一八四九年に逮捕される。トゥルネ裁判所の要請で、名高いベルギーの毒物学者シュタッスがさまざまな動物実験を重ねたすえに、ついにタバコからアルカロイドを遊離させることに成功した。このとき実験に協力したのが、ボカルメ家で、主人とともに毒物を扱っていた一人の召使である。  かくて犯罪はあばかれ、ボカルメ伯爵は死刑に処された。ボカルメ伯爵にしてみれば、ニコチンこそ絶対に誰にも見破られない毒薬だと、勝手に思い込んでしまったのだろう。結局、召使を信用しすぎたことが、彼の命とりになったのだろうか? [#改ページ]   心臓の犠牲  アステカ族にとって、人身御供はなくてはならない大切な儀式だった。だから彼らはときに、生け贄を確保するためだけに、近隣の諸国に戦さを仕掛けたという。  アステカ族の人身御供の儀式は、四季の運行、つまり農業での穀物の種蒔き、生長、穫り入れなどと、密接に結びついていた。  たとえばトウモロコシの種を蒔く前に、捕虜を月の神に捧げるのが、いわゆる「矢の犠牲」だ。捕虜を木のやぐらに縛りつけ、これを矢で射殺すと、流れた血で土地が肥沃になるというのである。  もっと有名なのが、恐ろしい「心臓の犠牲」だ。これは呪いの力で、太陽の力を盛り返させるためだった。まず生け贄の衣服をぬがせ、あおむけに石のうえに寝かせ、五人の祭司がしっかりおさえつける。  別の祭司が黒曜石の刃でその胸をさき、心臓をきりとって太陽にかかげ、それを皿に入れて香でいぶす。からだは皮をはいで、相手が勇敢な戦士の場合は、祝儀礼としてみなでその肉を食べてしまう。  この儀式がひとりの生け贄で終わることはまずなく、祭りのときは、生け贄にされる人間の列が、えんえん数百メートルもつづいたという。  四月には、大祭が行なわれた。特に美貌の捕虜を一年のあいだ,養っておく。なにしろ王と神の仲介者なのだから、着せられる衣装も立派なものだ。  祭りの三週間前になると、生け贄は四人の乙女をあてがわれる。これは花嫁のつもりで、穀物と花と塩と母という四人の女神をあらわしている。  当日は、テノチティトランの神殿で、生け贄は「心臓の犠牲」の儀式にならって殺される。その直後にはもう後継者が選ばれた。  穫り入れ直前の祭りでは、熟したトウモロコシをあらわす乙女が、祭りの最中に生け贄にされる。前の日から昼も夜も踊りつづけ、くたくたになった乙女の首を、祭司らがかたっぱしからはねていくのだ。 [#改ページ]   殉 葬  中国の最古の王朝である殷(紀元前一六〇〇〜一一〇〇年ごろ)では、兵士たちの殉葬という、残酷な習慣があった。  一九二八〜一九三七年に発掘された殷時代の遺跡で、一〇の大墓と一〇〇〇近い小墓がみつかった。なかでも侯家荘で見つかったある大墓は、墓室の面積四六〇平方メートル、深さ一二メートルと巨大なもので、たぶん殷の王さまの墓だろうといわれている。  地下のほうに墓室があり、そこにいくまでの東西南北の四方には、広い墓道がつくられている。北と西と東の道には、それぞれ一つずつ殉教者のものらしい墓がある。  ところが南の墓道から、六〇近い首なしの人骨がごろごろ出てきて、発掘者を驚かせた。この道を埋めるとき、八組に分けて、首を切りながら埋めていったらしい。みな後ろ手に縛られ、前のめりにつっぷしている。ひざまずいたところを、背後から首をはねられたのだろう。  墓室の中央には七×六メートルの槨室があり、主人の木棺がおかれて、その下にさらに小さな穴があり、武装兵士と犬が埋められている。槨室の四隅と墓室の四隅にも、兵士と犬が埋められ、結局、大墓全体で計七三人分の骨が見つかった。  王墓のまわりには、頭だけの骨や胴体の一部の骨がごろごろころがっている。南の墓道に埋められた犠牲者たちの、残りの骨に違いない。つまり家畜を捧げるように、人間を殺して生け贄として捧げてあるのだ。頭がゴロゴロころがり、体骨がうずたかく積まれた凄惨な光景には、誰もが息を呑まずにいられまい。  同じような光景が、小屯の住居遺跡でも見つかった。宮殿の基壇のそばに、四頭だての馬車に乗った指揮官らを中心に、戦車隊や歩兵隊が首をはねられ、整然と隊をくむようにして葬られている。その数は五〇〇人を越えた。殷王朝が外征に動員した兵力は三〇〇〇〜五〇〇〇人というから、ここの人骨だけでその六分の一になってしまう。  が、一見愚かに見えるこの習慣も、当時の人々にはそれなりの理由があったのだろう。これは一種の、血による浄めの儀式だったらしい。人間の血が沢山流されれば流されるほど、死んだ王はあの世で安らかな生活を保証され、王朝の安泰も保証される。軍隊は目にみえぬ敵に対して国家を守るものだから、当然あの世でも勇敢に戦うだろうと、国家の六分の一にもなる兵力をすすんで葬ったのだろう。  犬が埋められたことについては、犬は動物のなかでいちばん人間に親しいし、人間より耳も鼻もよい。古代エジプトでも、犬は死者の霊魂をあの世に導く不思議な力をもつ生き物とされていた。殷の人々も、犬が死んだ王をあの世にみちびく、みちしるべになってくれると考えたのではないだろうか? [#改ページ]   酒のサカナ  西晋の初代皇帝、武帝の叔父は、名は王《おうがい》。彼は自分が大金持ちであることを誇示するため、しばしば豪華な宴をもよおした。  当然ながら、宴にはつきものの美女が、酒席に花を咲かせている。美女が吹く笛にあわせて、もう一人の美女が踊りを踊り、宴はますます盛りあがってきた。ところが……。  笛を吹いていたほうの美女が、ちょっとトチってしまったのである。ふつうなら、それもご愛嬌というところ。軽い冗談や苦笑いぐらいで済むところだ。ところが、王は許さなかった。つかつかっとその美女に近づき、一発で殴り殺してしまったのである。「よくもオレさまの顔に泥を塗ってくれたな」とでも、言うつもりか……。  王の残酷さは、これでは終わらなかった。宴の席では、客の一人一人に美女たちがお酌してまわる。そのとき、杯につがれた酒を、客が飲み干してくれれば幸いだが、万一、客が飲もうとしなかった場合……。これもまた、王はお酌した美女につかつかっと近づき、彼女をその場で斬り殺してしまったのである。  心やさしい男なら、たとえ下戸であっても、無理して杯をかさねた。それに対して意地の悪い男は、飲めるくせにわざと杯をとろうとしない……。  つまりこれらの宴会では、殺される美女は、一種の酒のサカナだったというわけである。 [#改ページ]   狩 猟  中国の皇帝には残酷な暴君が多いが、五胡十六国の後趙の皇帝、石虎もその一人である。石虎は、後趙を築いた石勒の甥である。石勒が死ねば、本来ならその子の石弘が帝位につくのだが、石弘は父の死後、さっさと石虎に殺されてしまった。  君主となった石虎は、ますます傍若無人になっていった。彼は狩猟が大好きで、何十万人もの兵隊を引き連れて、大々的な狩りをよくもよおした。あるときは、高官をずらりと並べて「人垣」をつくらせ、そのなかに動物を放って騎兵に追いまわさせたという。  万一動物が垣根の外に逃げれば、高官は鞭打ちの刑を受ける。矢にあたって死ぬよりは鞭打ちのほうがまだましに思えるが、高官らはじっと立って垣根に徹していたようだ。  石虎にとって、人も動物もたいした違いはなかったのだろう。それどころか、垣根になった高官たちが、騎兵の放った矢でばたばたと倒れていくのを、面白がって見物したという。  石虎は女性に対しても、残酷な仕打ちをした。家臣の家を訪問して、その妻を手ごめにしたり、相手が美女とあらば、首を切り落として盆に乗せ、その美しい顔を思うさま撫でまわして愛撫した。さらには動物の肉と一緒に煮込んで、味わったりもしたという。  あるとき、石虎が子供たちのなかでいちばん可愛がっていた、息子の石韜が殺された。殺したのは、腹違いの兄の石宣。つまり、石虎の子の一人である。もともとこの兄弟は、仲が悪かった。  石虎は石宣を捕らえさせると、まるで犬のように首に鉄環をはめて、牢のなかにぶちこんだ。そして石韜を殺すのに使われた凶器をつきつけ、石宣にきれいになめさせてから、その刃物で石宣をばらばらに切り刻んだ。その一部始終を、石虎は官女をしたがえて、愉快そうに見物したという。 [#改ページ]   ガス室 「シラミ駆除の消毒だよ」……、アウシュヴィッツの強制収容所に入れられたユダヤ人のうち、ガス室に連れていかれる者は、こう言われておとなしく衣服を脱いだ。ガス室が�殺人部屋�であることは、言うまでもない。  ユダヤ人らが押し込められると、ドアが手早く閉じられ、待ちかまえる消毒員が、ガス室の天井にあけた投入孔から、床までとどく空気穴のなかに、ガスを投入する。収容所所長ルドルフ・ヘスの証言によると、ドアののぞき穴から観察していると、投入孔のすぐそばに立っている者が、たちまちバタバタと倒れて行くのが見えたという。  三分の一は即死。残る者はよろめき、叫び、空気を求めてあがきはじめる。隣の人の背中や、周囲の壁に爪を立ててもがく者もいる。しかし叫びはやがて喉のひゅうひゅうなる音にかわり、数分のうちに全員がたおれ、二〇分後にはもう身動きする者もなくなる。  天候、寒暖、乾湿の度合い、ガス発生の状況、ユダヤ人に健康者が多いか老人や病人や子供が多いかなどで、ガスの効果があらわれるのに、五〜一〇分ぐらいの差がある。  ガス投入三〇分後、ドアが開かれ、換気装置が作動し、死体の引き出しが始められる。痙攣や変色などの、肉体的変化はまったく見られない。汚物で汚れることもまれだし、外傷も全くみとめられないし、顔にも苦悶のあとは見えない。  山のように折り重なった死体はガス室の外に放り出され、作業員の一団が駆けつけて、鉄の鉤で死体の口をこじあけて金歯を探す。別の一団は、死体の肛門や生殖器に隠された宝石を探す。  アウシュヴィッツの第一、第二の死体焼却所では、一日に二〇〇〇体、第三、第四の死体焼却所では、一日に一五〇〇体、第五の死体焼却所では、多いときは一日に九〇〇〇体を焼いたという。これだけでも残酷なのに、ナチの連中は、ただ死体を焼くだけではもったいないと考えたらしい。ユダヤ人の死体は、焼くまえに再資源化されるに到ったのだ。  たとえば髪の毛。男性のものは人工フェルトに加工されてロープに、女性のものは潜水艦乗組員のスリッパや、鉄道職員のフェルトの靴底に利用された。皮膚ははぎとって、電灯の笠、しおり、ハンドバッグ、手袋など、いろいろな家庭装飾品をつくる材料になる。また、脂肪は石鹸の、骨は肥料の原料になる。かくてユダヤ人の死体は、一片の無駄もなく、骨の髄まで利用されたというわけである。 [#改ページ]   焼き殺し  ガス室だけが、ユダヤ人たちを殺すのに用いられた唯一の手段ではない。戦争も末期になったころには、生きながら焼却炉のなかに投げ込まれた人々もいたという、恐ろしい証言さえあるのだ。  一九四五年四月当時、ラヴェンスブリュック収容所にいた囚人の一人であるオデット・サンソムは、自分の房の窓からその光景を目撃している。そのころ、焼却炉は昼も夜も活動を続けていたが、サンソム夫人は焼却炉の扉が開き、なかに押し込まれた人々が叫んでいる声を、たしかにその耳で聞いているのだ。  つぎに引用するのは、ラヴェンスブリュック裁判で裁判官の質問に答えた、彼女の証言である。 「あなたは数人の人々が生きたまま焼却室へ押し込められたと言っているが、それについてあなたが見たことを、出来るだけはっきりと述べていただきたい」 「終戦も間近なころ、私は数人の人が焼却室へ連れこまれるのを見ました。そしてその人たちが悲鳴をあげてあらがう声を聞き、扉の開く音と閉まる音を聞きました」 「あなたは、誰かが力ずくで焼却室のなかに押しこめられて、そこで焼き殺されたことを、宣誓できますか?」 「人々が引きずり込まれるのは、はっきりこの目で見ました。でも、その人たちが焼却室のなかでたしかに焼かれたということは、お誓いできません」 「その人たちは、焼却室へ引きずり込まれてからどうなったのですか?」 「私は、その人たちを二度と見なかったのです」 「つまりその人たちは、あなたの目の前から、消えてしまったのですね?」 「そうです」 「あなたがその人たちを見ることが出来なかったとすれば、いったい何処へ行ってしまったのでしょう?」 「分かりません。たぶん焼却炉のなかだと思います」 「その建物のなかに、入っていくのは見たのですね?」 「はい」 「ふたたび出てくるのを目撃しましたか?」 「二度と、その人たちの姿を見ませんでした」 「そして、その人たちが消えたなかから、あなたは物音を聞いたのですね?」 「はい」 「そして、そのさいに聞いた音を、あなたは焼却炉の扉が開けられて、また閉められた音だと思われるのですね?」 「……たしかにそうだと思います」 [#改ページ]   人体実験(マラリア)  ナチのダッハウ強制収容所は、ミュンヘンから約一二マイルの同名の村の近くにあった。数百人の人間モルモットを相手に、いわゆる医学実験が行なわれたのは、じつにこの収容所においてのことである。  一九四一〜四二年にかけて、ナチ親衛隊の医師や医学生の手で、計五〇〇以上の手術が、ユダヤ人捕虜を実験台に行なわれた。なかには二年の経験しかない医学生に、膀胱を除去する手術を行なわせたこともある。  せいぜい四年間の外科経験のある医師というのが、上の部類だった。手術を受けた患者の多くは、手術中に死んでしまうか、手術後の併発症で死んでしまうかの運命をたどった。  ヒムラーの命令下、シェリング博士の手で、約一二〇〇人のユダヤ人捕虜を相手に、マラリアの実験が行なわれたこともある。実験台に選ばれたユダヤ人たちは、一室に閉じ込められ、無数の蚊をはなたれてその餌食になるか、あるいは蚊からとったマラリア血清の注射をされた。  目的は、マラリア熱のための特効薬をテストすることだったというが、その結果、犠牲者の三、四〇人がマラリアを発病して死亡した。その後も数百人の犠牲者が、体の組織を病原菌に冒されたあげく、別の病いを併発して死んでいった。 [#改ページ]   人体実験(気圧実験)  ダッハウ強制収容所では、空軍少佐のジグモント・ラシェル博士によって、こんな人体実験が行なわれたこともある。  その日、二五人の男子捕虜が、特別仕様の車のなかに押し込められた。じつはこの車は、車内の気圧を、自由に増大・減少できるようにしてあったのである。高所にパラシュートで急速に飛び出したときの、結果を計ろうというのが、目的だった。  まさに、拷問にも等しい実験である。生け贄となったユダヤ人たちは、そのほとんどが肺や脳の内出血のために死亡した。死んだ者たちの内臓器官は、ただちに調査のためにミュンヘンに送られた。  そして幸いにして生き残った者たちも、結局はその後、処刑されてしまうのが運命だったのである。 [#改ページ]   人体実験(氷水)  やはりラシェル博士の指揮でおこなわれた人体実験に、収容者を長いあいだ、極度に冷たい水のなかに漬けておいて、観察するというものがある。  実験台となったユダヤ人たちは、全裸にされて、氷水のなかに漬けられ、意識を失うまで放置された。首からは血が採血され、水の温度を一度下げるごとに、体温が計られた。もっとも体温が下がったのは、摂氏一九度を記録したが、たいていの人は、二五〜二六度ぐらいになると死んでしまった。  実験台になった捕虜を氷水から出すと、これをよみがえらせようとして、太陽灯や湯や電気療法がもちいられた。あるときなど、意識を失っている捕虜のからだを、二人の淫売婦の体のあいだに置いて、暖めようとこころみられたことさえある。  この実験を大変愉快だと考えたヒムラーは、ときどきパーティを開いては、これをナチの友人たちに見せたほどだ。すっかり満足のていのヒムラーは、親衛隊司令官のポールに、犠牲者をよみがえらせるのに利用する女性を、ダッハウ収容所で探してくるよう命令した。  さっそく四人の少女が用意されたが、それはヒムラーによると、「その女たちが強制収容所でも、とくにふしだらな淫売婦だったから、潜在的病毒を持っていると思われたから」だそうだ。 [#改ページ]   人体実験(塩水)  さらにシュッツ博士らの命令で、捕虜となった多数のポーランド人やチェコ人の僧侶のなかから、一グループが選ばれ、静脈に膿汁を注射された。  この実験を受けた僧侶たちは、炎症や化膿を起こして、苦しみ抜いたあげく、ほとんどの者たちが敗血症で死んでいった。幸い命だけは助かった者も、永久に寝たきりの病人になってしまった。  また一九四四年には、多数のハンガリー人とジプシーの捕虜が、塩水の実験のモルモットに使われた。飲み物も食べ物もいっさい与えず、塩水だけを毎日飲ませつづけて、そのあいだの彼らの血液や大小便を分析する実験である。 [#改ページ]   人体実験(結核菌) 「人為的に発生させた皮膚結核による重度肺結核の根治」を実験するため、ハイスマイヤー医師はユダヤ人捕虜を用いた生体実験を行なうことを決意した。その舞台となるのが、ハンブルクのノイエンガンメ強制収容所である。囚人舎四aの一角は、木の柵で仕切られ、窓ガラスは白く塗りつぶされた。ここで何が起こっているかを、他の囚人の目から隠さねばならない。  一九四四年二月、五〜一二歳のフランス、ロシア、ユダヤの子供たちが二〇人、収容所に運ばれてきた。ハイスマイヤー医師の実験用モルモットとして、選抜されたのである。  最初、子供たちは大切に扱われた。囚人舎には暖房が入り、四人のポーランド人看護婦が子供たちとともに寝起きして、一緒に遊んでやった。親が恋しいと泣く子は、抱いて慰めてやった。もっとも、親たちはもうこの世にいなかったのだが。実験には、健康な子供たちが必要だったのだ。  いよいよ二〇人の子供たちは、実験を受けるために囚人診療所に行かされることになった。つらい体験だった。怯え、疲れはて、空腹で、寒さにかじかみ、子供たちは朝六時に起きて、囚人居住区から囚人診療所まで一キロ半の道を歩かされた。  厳しい寒さのなか、暖房一つない実験室で、しばしば子供たちは裸のまま、一五分のあいだレントゲン透視画面のまえに立たねばならなかった。透視したままでレントゲン像が検討され、議論されるからだ。囚人居住区にもどると子供たちは熱を出しはじめ、扁桃腺を腫らしたり、激しく咳き込んだり、肺炎を起こした。  一九四四年六月はじめ、ハイスマイヤー医師は成人を対象に実験を開始した。人間に結核菌血清を用いたときの効果を知りたかったのだ。彼はまず、ノイエンガンメ強制収容所の成人の囚人何人かに、結核菌血清を注射した。  ガラス棒で培養バクテリヤから特定の量を取り出し、生理食塩水に溶かしこんだ溶液を,ハイスマイヤーは病棟Iのレントゲン室に運ばせた。そこでは囚人が、腰かけに座らされて待っている。ハイスマイヤーは、この囚人の気管から肺のなかにゴム管を挿入する。  囚人は激痛を覚えて、ひどく咳き込む。しばしば傷つけられた気管から出血し、囚人は叫び声をあげた。それから囚人はレントゲンの前に立たされ、カテーテル(ゴム管)の位置を修正し、レントゲン撮影を行ない、両肺のなかに結核菌の浮遊液を注入された。  ハイスマイヤーは肺だけでなく、皮下にも結核菌の浮遊液を注射した。また別の囚人には、皮膚を切開し、結核患者の喀痰を塗布した。何人の成人囚人がハイスマイヤーの手にかかったか不明だが、一〇〇人以上と推定されている。  はじめに両肺に結核病巣のある重症患者のグループ、つぎに片肺だけ結核に感染したグループ、そしてつぎに肺結核にかかっていないが、他の臓器に結核病巣のみられる者たちのグループを使って、実験された。最後にハイスマイヤーは、結核にかかっていない健康な囚人を数人、�対照健康被験体�として連れてこさせた。  実験の目的も、それに伴う危険も、囚人たちには教えられなかった。菌を注射された囚人たちが高熱をだし、結核病巣が肺のなかに広がる様子を四週間にわたって観察したのち、ハイスマイヤーは今度は彼らの死体を解剖にふすため、死体置き場に運ばせた。  この時点で、生きた結核菌の接種は結核を治すどころか悪化させるだけだと判明した。にも拘わらず、ハイスマイヤーは二〇人の子供に同じ結核菌血清をもちい、結核に対する免疫形成と、場合によっては既得の免疫性を確定する実験を行なおうと考えていた。かねてより計画中だった、教授資格請求論文を完成させるためだ。  こうして二〇人の子供たちは、皮膚に切開を受け、培養結核菌を植え込まれ、そしてみな二、三日後に発熱しはじめた。さらに新たな責め苦が待っていた。結核病原体に対する防御物質がリンパ腺に集積しているかどうか、ハイスマイヤーは確認したかったのだ。  一九時ごろ準備がととのうと、看護囚人が子供たちを病棟Iに連れていった。子供たちは上半身裸にされ、手術台にのせられた。脇の下の皮膚にヨードがぬられ、ノヴォカインの二パーセント溶液が一〇CC注射され、局部麻酔された。ハイスマイヤーは、脇の下の皮膚を五センチにわたって切開し、リンパ腺を摘出してから傷口に綿球をつめた。  二人の囚人医師が、摘出されたリンパ腺をホルマリン溶液の入ったビンのなかにいれ、子供の名前と番号をラベルに書き込んだ。こうしてリンパ腺を切除された子供たちは、全員寝たきりになり、感覚マヒにおちいった。空襲警報がなり、ハンブルクやベルゲドルフに爆弾が落とされても、ここでは子供たちが夜も昼もベッドに横たわっていた。  刻々とイギリス軍がハンブルクに近づき、ファシズムの終末が近づきつつあった。そして子供たちにとっても、運命のときがやってきた。一九四五年四月二〇日、囚人監督部長、親衛隊中尉トゥーマンがノイエンガンメ強制収容所医師のトルツェビンスキ博士のもとにやってきて、ベルリンから、子供たちをガスか毒薬で殺すようにという命令が来たと報告した。  四月二〇日二一時半、報告主任のドライマンは、二人の看護囚人に、子供たちを起こして服を着せるよう命じた。揺り起こされても寝ぼけ顔だった子供たちは、これから旅行するのだと聞かされると、喜んで目をさました。ひどく弱っている子は、服を着せてトラックに運んでやらねばならなかった。小さな子供たちは、おもちゃを持参した。  トラックがノイエンガンメの強制収容所本部に到着し、子供たちはトラックを下りて防空設備のある一室に通された。子供たちはあちこちのベンチに腰をおろし、外に出られたことを喜んでいた。自分たちをどんな運命が待っているのか、夢にも知らなかったのだ。  そのとき、そこにつかつかと親衛隊兵長フラームが来て、子供たちに服を脱ぐように命じた。子供たちが驚いた顔をしたので、その場にいた収容所医師のトルツェビンスキ博士は慌てて、「チフスの予防接種をするから、服を脱がねばならないのだ」と言い訳した。  彼はフラームをそっとドアの外に連れ出し、子供たちをいったいどうするのかと聞いた。フラームは青い顔で、「吊るし首にするんだ」と答えた。  子供たちの運命を哀れんだトルツェビンスキは、少なくとも最後の瞬間、子供たちを楽にしてやりたいと思った。彼はモルヒネの一パーセント溶液二〇CCに、さらに一〇〇グラムの蒸留水を加えて薄め、子供たちの年齢に応じた投与量をはかった。  彼は部屋のドアの外に二つの椅子を置いて、子供を一人ずつ呼んだ。子供を椅子のうえに横たわらせると、少しでも痛みの少ない臀部に注射した。やがて子供たちがぐったりし始めると、彼は子供たちを床に寝かせた。  親衛隊兵長フラームが、子供たちのなかの一人を抱えて、別の部屋に連れていった。その部屋にはもう、輪になったロープがフックにかけられている。フラームはロープの輪に眠っている少年の首をいれ、ロープが締まるように少年の体に全体重をかけてぶらさがった。こうして彼は機械的に、つぎつぎと子供を吊るしていった。  すべてが終わったという報告を受けて、トルツェビンスキ博士が部屋に入ってくると、子供たちは全員、首に吊るし首のあとをつけて横たわっていた。彼は完全に死んでいるかどうか、一人ずつ調べていった。かくて、この余りにも悲劇的な一日は、閉じられたのである……。 [#改ページ]   入れ墨  ダッハウとザクセンハウゼンの強制収容所が手狭になったので、ヒトラーは、ワイマールから六マイルのブッヒェンワルトに、もう一つの収容所を建設させた。  ある日ブッヒェンワルト強制収容所で、捕虜たちに対して奇妙な命令が出された。皮膚に入れ墨をしている者は、薬剤所に報告するようにというのである。  はじめは皆、なんのことだか分からなかったが、この謎はやがて明らかにされることになる。皮膚にみごとな入れ墨を持っている収容者は、選びだされ、さっさと注射をうたれて殺されてしまったのである。その死体は病理部に引きわたされ、ていねいに皮膚をはがされた。  はがされた人間の皮膚は、ブッヒェンワルト収容所長夫人である、イルゼ・コッホのもとに送られた。イルゼはそれらを用いて、電気スタンドの笠、しおり、手袋、ハンドバッグなどを作らせたのである。まさに、人類残酷博覧会だ。  イルゼは戦後、終身刑を言いわたされ、一九六七年に刑務所でシーツを使って首吊り自殺することになるが、権力の絶頂にあるころは、高価な酒を沸かした風呂に入り、指には夫が囚人からとりあげた、巨大なダイヤの指輪を光らせていたそうだ。 [#改ページ]   セックス  一九四五年四月、ブッヒェンワルト収容所にやってきたアメリカ軍は、グロテスクなしろものを発見した。犠牲者の頭蓋である。それも、二人のポーランド人に、ドイツの少女とセックスさせ、そのさなかにポーランド人の首を切り落としたものだという……。  頭蓋は切りとられると縮んだので、なかに充填物を入れて保存された。頭の大きさはこぶしぐらいの大きさに縮まってしまっていたが、髪の毛は、まだ残っていた。  第二次大戦前後のころ、日本に住む華僑が、奇妙なしろものを持っているという噂が立った。男女がセックスをしたままの形の、ミイラがあるというのだ。  いまから七〇〇年ほどまえ、トルコで大豪族の妻と召使が不義密通をはたらいた。それを知って激怒した豪族が、二人を自分のまえでセックスさせ、男の首をはね、妻の喉を突き刺した。その状態のままで、ミイラにしたというのである。  話を聞いた「ワシントン・ポスト」の東京特派員が、戦後、なんとかミイラの持ち主にインタビューをとこころみたが、持ち主はついにOKしなかったそうだ。  長く九州の温泉町の鑑識医をつとめてきた相川氏は、このミイラの写真を実際に目撃した、数少ない一人である。相川氏は戦前、朝鮮にあった京城医科大学を卒業した。写真を見たのは在学中、法医学の担当教授が、さまざまな死体の写真を教材として回覧した。そのなかの一枚だったというのだ。 「何かの雑誌にのったもののようで、確かにペニスが挿入されていました。ひからびてくしゃくしゃになってはいるが、はっきり写っていました。しかし首を切り落とすときは人体に相当な衝撃を与えたはずだし、そのはずみではずれてしまうのではないでしょうか。結局、別々の死体を、こういう形に組み合わせたのだろうというのが、そのときの結論でした。それにしても、死体を使ってそんなことが出来るなんて、人間の趣味には際限がないんだなということを感じさせられた点で、いまも忘れられません」  ちなみに七〇〇年前かどうかは記憶にないが、たしかにトルコ人の男女という説明が記されていたという。 [#改ページ]   グルメ  断食や絶食で死にいたることはあっても、おいしい食事を腹いっぱい食べて死ぬというのは、あまり聞いたことがない。しかし世のなかには、そんな変わった殺人法も存在するのである。  殺人犯の名は、ピエール・グリエ。つねづねイヤな奴だとか、邪魔な奴だとか思っている相手を、ターゲットにする。彼らに、「うまいレストランがあるんだが、一緒にどうだい?」と、さり気なく誘うのである。  誘われたほうは、どういう風のふきまわしかと思うが、誘われて悪い気はしない。ほいほいとついていき、腹いっぱい食べ終わると、グリエは、 「どうだった? 満足した?」 「うん満足、満足。なかなか悪くないじゃない、ここ」  相手がニコニコしてそう答えると、待っていたように、 「まだまだ、ここなんか序の口。もっといいところを知ってるんだ。今度、一緒にどうだい?」  誘われた相手も、またタダ食いが出来るならと、ほいほい乗ってくる。かくて、豪勢な食べ歩きが、始まるというわけだ。じつは医学的には、過食をつづけると二、三カ月で病気になり、一年もつづければ死にいたるとさえ言われる。  案の定、グリエにターゲットにされた相手は、半年もたたないうちに肝炎や糖尿病にかかってしまい、床についたあげく、やがて緩慢な死にいたるのである。このようにして死にいたらされた、グリエの犠牲者は、なんと計八人にも達したという。  ところで、グリエが最後に選んだ相手は、死刑執行人の下働きを務めていた男。グリエはその男と、はりきってステーキの大食い競争にいどんだ。ところが、一四枚目を食べ終わったところで、ついにグリエのほうがダウンしてしまった。そして皮肉にも、そのまま心臓マヒであの世に行ってしまったのである……。 [#改ページ]   ヒ ル  クラリータ・ゴメスは、若き人妻。夫のレナルドとのあいだはまあまあだったが、子宝に恵まれないのが悩みの種だった。そんなある日クラリータは、レナルドに古くからの愛人がいることを知ってしまう。  嫉妬に狂ったクラリータは、愛人の住所を調べあげ、ついにある日、その女のアパートに単身のりこんだ。ところが出てきたのは、まだあどけない顔をした男の子。室内にどんどん押し入って、その女を問いつめると、女は言いにくそうに、その子が、自分とレナルドとのあいだの子であることを認めたのだ。  ショックと悔しさで、クラリータはくらくらと眩暈がした。なんということ、私をうらぎって浮気したばかりか、彼女とのあいだに子供まで……。私に子供が出来ないことを知っているくせに、これはなんてひどい裏切り……。  しかしクラリータはなぜか、その晩帰ってきた夫を、問いつめようとはしなかった。彼女が思いついたのは、実のところ、それよりはるかに恐ろしい復讐だった。夫に生きた�ヒル�を、エスカルゴの一種といつわり、一年以上ものあいだ食べさせつづけたのである。 「生きたままのを食べるのが、通なのよ」、これがクラリータの口癖だった。夫のほうも、最初は奇妙な味だと思ったが、だんだん慣れて、「なかなかおつな味だ」と思うようになっていた。しかし食べつづけていくうちに、しだいに腹部がちくちくと痛みだし、顔色も悪くなり、げっそりと痩せて、皮膚がかさかさになってきた。  それがヒルであると分かったときには、彼の体は衰弱しきって、もはや治療の余地もない状態だった。もともと彼は胃潰瘍だったので、胃壁のくずれた部分からヒルが外に出て、胃に巣をつくっていたのである。  腹痛を訴える夫をいたわるどころか、クラリータはしまいには、無理やり夫の口をこじあけて、ヒルを流し込んでいたらしい。解剖の結果、驚いたことに、レナルドの体内には一〇〇匹あまりのヒルが、うようよしていたということだ……。 [#改ページ]   殺人旅行  インドには紀元前から、「サッグ」という秘密結社がある。ヒンズー教の女神カーリーに生け贄を捧げるため、殺人を行なう一派である。普段は普通に生活しているから、その実体はなかなかつかめなかったらしい。その存在が明るみに出たのは、ようやく一九三五年になってからのこと。インドに駐留していたイギリスの陸軍大尉ドン・マッキネが、驚くべき事実を暴露したのだ。  彼によると、一九三五年にサッグがやった殺しは、なんと一五六二件! すべて女神カーリーに捧げられたという。団員は「殺人旅行」と呼ばれる二カ月間のツアーで、人を殺しまくるのだ。  ただし彼らのルールでは、成人した女性や僧侶、鍛冶屋、洗濯屋、大工、牛を連れた人間などは、対象からはずされていた。また殺人のさいに、流血させることはいっさい禁じられていた。  彼らはつねに四人以上のグループで殺人を敢行した。足音もたてずにターゲットに近づき、首をキュッ! 一瞬にして絞め殺したあと、あらかじめ仲間が木の根本に掘っておいた穴に埋めてしまう。これが殺人の手口だった。  木の根本から二〇〇体以上もの白骨が出てくることもしばしば。あまりの恐ろしさに、警察も手が出せなかったらしい。カーリーは死と破滅の女神。サッグの団員は、生け贄を捧げることで、魔力を与えてもらえると信じていたようだ。 [#改ページ]   ソーセージ 「ハノーバーの吸血鬼」ことハールマンは、二四人の少年を殺して、その肉をソーセージにしたことで有名だ。二四人というのはあくまで正式に告発された数で、実際はもっと多かったという。当時の新聞には、「一九二四年の一年間に、人口四五万のハノーバー市で、六〇〇人の少年と五〇〇人以上の男娼が消えてしまった」と書かれたほどだ。  一九二四年五月一七日、ハノーバーの河岸で、人間の頭蓋骨が見つかった。警察がさらに捜査すると、周辺で袋につまったバラバラの人骨が発見された。ほとんどがノコでひかれたもので、一〇代から二〇代の青少年のもののようだった。  しかし、これで驚くのはまだ早い。捜査がすすむにつれ、ほとんどハノーバーの全域から人骨が出てきたのだ。とくに骨が沢山発見されたライネ川の運河で,捜査当局は大掛かりな川ざらいを行ない、ここだけで少なくとも二二人分の人骨が発見された。  市民の不安がたかまるなかで、警察は二四年六月二三日、フリードマン・ハールマンという男を逮捕した。四五歳の同性愛者で、闇取引や未成年誘拐などの前科があった。彼の住むアパートを家宅捜査すると、大量の男物の上着やズボンが発見され、犠牲者の家族たちはそのほとんどに見覚えがあると証言した。  ハールマンは同性愛の相手であるハンス・グランスと組んで、少年誘拐を行なっていたのだ。当時のドイツは大戦後の食料難だったので、駅前やカフェのまえにむらがる少年たちを、パンをエサに誘って家に連れてくるのだ。  グランスが連れてきた少年を、ハールマンは縄でしばり、その肉体を好きなだけもてあそぶ。その後は少年の喉に噛みついて生き血をたっぷり吸い、生肉を食べる。さらに死体をノコギリでばらばらにして、骨だけ残してきれいに肉をそぎとる。  そして人肉を細かく刻んでハムやソーセージをつくる。死体からはぎとった服や靴などは、古物商に売って金に換える。当時ハールマンの店は、手に入りにくい新鮮な肉を提供する店として繁盛していた。事件の発覚後、市民たちはいつのまにか、自分たちが知らないあいだに、人肉を食わされていたことを知って愕然とした。 [#改ページ]   血 「ロンドンの吸血鬼」と恐れられたジョン・ヘイという男は、一九四四年から四年間のあいだに、九人の男女をつぎつぎと殺害してその喉から血を吸った。彼が飲みほした血の量は、ビール瓶二ダースは下らないと言われている。  最初の被害者は、彼が働いていた遊戯場の主人スワンで、ヘイは彼を自宅におびきだしてガス管で殴り殺し、その首をナイフで切り裂いて、傷口に口をつけて思いっきり血を吸った。血をしぼったあとの死体は、地下室の水槽に硫酸をいっぱいにたたえて放り込んだ。ジュッという音とともにものすごい白煙があがり、肉はもとより、骨や臓物までアッというまに溶けてしまった。  さらにヘイは、殺されたスワンの両親までおびきだして毒牙にかけ、スワンの筆跡を偽造して、スワン家の遺産四〇〇〇リーヴルをせしめとった。  つぎの犠牲者は、ロンドンの上流階級の医者であるヘンダーソン夫妻。妻のローズは若いときは美人コンテストで一位になったほどの美人だった。彼らが売りたがっていた持ち家を買いとるという話で、ヘイはたくみに夫妻に近づいたのである。  外見は華やかだが、じつはヘンダーソン夫妻の財政は窮迫していた。高価な宝石に目のないローズの浪費癖が問題で、夫妻は金のことで毎日のように口ゲンカをしていた。ヘイが目をつけたのは、その点である。  ある日とうとうヘイは口実をもうけてヘンダーソン夫妻を自宅におびきだし、前もってヘンダーソン邸から盗んでおいた拳銃で撃ち殺した。その夜、彼の家の地下室では、ゾッとするような血の饗宴がくりひろげられた。ヘイは二人の死体から思う存分血をすすり、このうえない陶酔を味わった。  部屋中の壁という壁、床という床が二人の血しぶきで染まったころ、ようやく満腹したヘイは、血を吸い取られて蝋人形のようになってしまった夫妻を、さっさと硫酸のなかに投げいれて始末してしまった。  結局ヘイは、合計九人の犠牲者を出したあげく、ついに発覚して捕らえられ、イギリスのワンズワース刑務所で絞首刑になった。彼が最後のときに、「希代の吸血鬼」として自分の蝋人形を造り、世紀の英雄や天才たちと並べて、名高いロンドンのマダム・タッソーの蝋人形館に飾ってほしいと懇願した話は有名だ……。 [#改ページ]   鏡  鏡は予言や予知能力を呼び起こす力があるとして、古くから用いられてきた。事業に失敗したり友人に裏切られたり、当時不運つづきだった、ニュージャージー州に住むオリバー・バーンバウムは、この鏡の能力をもって、他人の命を自由にあやつる力を手に入れようとした。  そこで彼が行なったのは、中世ヨーロッパでひそかに行なわれていたスペキュラムという儀式だった。バーンバウムは毎晩、人々が寝静まったころになると、自室に閉じ籠もり、精神を集中して鏡のなかをのぞきこんでいた。  はじめのころは、ただ彼の顔がうつっているだけだったが、しだいにそのなかに何か白い煙のようなものがかかり、その煙がしだいに何かの形をとりはじめたのだ。そしてとうとうある日、いつものように彼が鏡をのぞきこむと、みるみる一つの光景が、鏡のなかにはっきり浮かびあがってきたのである。それはバーンバウム自身がどこかの通りを歩いている光景だった。  それはバーンバウムが一度も見たことのない景色だった。ところがその数日後、彼は商用でよその町を訪ねることになり、通りを歩いているとき、それが鏡にうつっていたのと寸分たがわぬ光景であることに気付いたのだ。  こうして数カ月後に、ついにバーンバウムは自分の未来を鏡のなかに読み取ることができるようになった。それだけではない。彼はこの儀式を使って、自分の思いどおりの未来を作り出せるようになったのだ。  が、困ったことに、人一倍ねたみ深いバーンバウムは、未来をあやつる力を、ひたすら自分の嫌いな人間を破滅させるほうに傾けたのだ。たとえば彼が日ごろから憎んでいる人間の未来を鏡に映しだす。そしてその人間が飛行機に乗っている光景が映ったとすると、そこで「飛行機が墜落してしまえ!」と念じるだけでいい。数日のうちに、彼が念じたのとまったく同じことが、相手の身にふりかかるというわけだ。  こうしてバーンバウムが何人の犠牲者を血祭りにあげたかは定かではない。しかしある日、バーンバウムはまるで悪魔にみいられたように、スペキュラムの儀式でとんだ間違いをしてしまう。よりによって憎い相手にふりむけるはずの災難を、自分にふりむけてしまったのだ。  かくて悪霊たちが群れになって彼のもとに押し寄せ、ものすごい騒ぎがはじまった。家のなかを走り回ったり、ドアがばたんばたん音をさせて開いたり、家具が空中にうかんだり,いわゆるポルターガイスト現象が起こったのだ。このときは悪魔ばらいで有名なワーレン氏を呼んでどうにか呪いをといてもらったが、その後二度とバーンバウムはスペキュラムの儀式を行なわなかったという。 [#改ページ]   ウラニウム  一九五一年、メキシコの大富豪アルフォンソ・テッサダが世を去った。その死体は防腐処置をほどこすのが困難なほど、動脈が硬化しており、最初は砒素による毒殺ではないかと疑われたものだ。  ところが、のちに調査のため死体を発掘したとき、マヌエル・ヴィラルタ博士が、死体に四ミリグラムの硝酸ウラニウムを発見して、大問題になった。  四ミリグラムの硝酸ウラニウムを手に入れるには、当時の金で一八万ペソという巨額の金が必要だった。よほどの大金持ちででもなければ、おいそれと手に入るものではない。  いったいテッサダを殺したのは誰なのか。やはり彼と同じ大富豪で、不倶戴天のライバル同士だった人物なのか、などと騒がれたが、結局、事件は迷宮入りになってしまった。  二〇世紀は、毒ガスや細菌戦争や核実験の時代である。ラジウムやウラニウムや放射能が相手となると、世界規模の大殺戮になることを免れない。  しかし、普通は大殺戮の道具と考えられているウラニウムが、一人の男を殺すのに利用されたという、前代未聞の例がこのテッサダ事件なのである。 [#改ページ]   毒グモ  一九七五年二月一六日、南アフリカのケープタウンで、盛大な結婚式が行なわれた。ケープタウン南西に広大な土地を有する大地主のフィチャード家では、ダブル結婚式で、二人の娘を同時に嫁がせたのだ。  二二歳の美しい姉ジョージナは二七歳のエイドリアン・ドライヤーの妻に、かたや愛くるしい二〇歳の妹カロリンは二七歳のダニエル・ローレンスの妻になった。実にお似合いの縁組だった。婿であるエイドリアンとダニエルは二人ともやはり大地主の出身で、最近、ケープタウンの農業技術大学を優秀な成績で卒業したばかりだからだ。  が、それから七年もたたぬうちに、お似合いとみえた二組のカップルが、それぞれ伴侶の非業の死で幕を閉じる結果になろうとは、誰も想像もしなかったろう。最初の悲劇は八〇年一月二八日に起きた。  その夕方、ダニエルとカロリンはレストランに食事に出かけたが、その帰路、少々飲み過ぎたダニエルが車のコントロールを失い、九〇〇メートルもある絶壁の底に突っ込んだのだ。カロリンは絶壁の縁で車がよろついた瞬間、一か八かで飛び下りた。幸い岩棚に倒れこんだので、かろうじて道路に這い上がって助かったという……。  第二の悲劇は、二年後の八二年二月一九日に起きた。その夜、寝室にひきとったジョージナは、脇腹にものすごい痛みを感じて、悲鳴をあげた。なんとベッドのなかに、恐ろしい毒グモがひそんでいたのである。  大きさはエンドウ豆ほどもないが、致命的な猛毒を持つボタングモ。たちまち猛毒が体内にまわりだし、ジョージナはゾッとするような苦悶のうめきをあげた。それを聞いて駆け込んできた夫エイドリアンが、毒グモを見つけて踏みつぶしたが、すでに遅く、救急車が到着するまえに、ジョージナはあっけなく息を引き取った……。  警察は、彼女の死に不審を抱いた。ボタングモはありふれた種類のクモではなく、ケープタウンの北方七〇キロほどのマルズベリ以外の場所ではほとんど見られない。それがウォルセスター(ジョージナの住居のある場所)の人家のベッドに現れるのは、百万分の一の確率だそうだ。  マルズベリの農業大学で昆虫学者たちがボタングモの研究に従事していると聞いて、警察はさっそく聞き込みを始めた。それらの昆虫学者によると、ボタングモは比較的限られた地域に生息しているが、なにせ毒性が強力なので、なんとか絶滅させようと様々な手段をこうじているという。  しかし興味深いのはつぎの話だった。二週間ほどまえ、ウィットウォーターズランド大学の、ヘレナ・ディッペンサー博士なる人物が訪ねてきて、研究用にボタングモを一〜二匹分けてほしいと言ったというのだ。背の高い大柄な女性で、ブロンドを後ろにひっつめ、濃いサングラスをかけて、地味なツィードのスーツを着ていたという。  二月五日に偽名を使って珍種の毒グモを入手した女性がおり、二月一九日に別の女性がその種のクモに殺された。これは偶然の一致だろうか? 警察はディッペンサー博士なるものを探して捜査を開始したが、ジョージナやエイドリアンの親族にそんな人物はみつからなかった。  しかし捜査をすすめるうちに、警察は、故ジョージナの夫のエイドリアンが、義妹のカロリンと男女の関係であることを知った。結婚式以来その関係はつづいており、召使たちは二人の情事の現場を目撃したこともあるという。  警察は、二年前のダニエルの事故死にも疑いを持って捜査を再開したが、彼の死因が断崖から車ごと転落したためであり、解剖の結果、血中にかなり高濃度のアルコール分が認められた事実も明らかだった。  ただ、ダニエルの友人たちに聞き込みを続けた結果、ダニエルが死の一年ほど前から急に深酒をするようになり、いつもむっつりふさぎこんでいたという証言が得られた。彼が妻カロリンとエイドリアンの不倫に勘づいていたことは明らかだ。  警察はカロリンに疑いをかけたが、ディッペンサー博士を名のって毒グモをもらいにきたという女性と、彼女との共通点は、ただがっしりした大柄の体格というだけだった。ディッペンサー博士はブロンドでフォードを運転していたというが、カロリンは茶色の髪でビュイックに乗っている。  当初警察がむしろ犯人とにらんだのは、ジョージナの夫のエイドリアンだった。ダニエルの死が事故だったかどうかはともかく、ダニエルについでジョージナまであの世に行ってくれれば、愛人同士にはあまりに都合の良い話ではないか?  さらに調査をつづけると、あるレンタカーの店に、ディッペンサー博士らしきブロンドの女性がビュイックで乗りつけて駐車場に入れると、そのかわりにフォードを借り出して運転して行ったという事実が判明。レンタカーの店側では、ビュイックを置いていってもらっただけで充分で、あえて運転免許証も身分証明書のたぐいも見なかったという。  警察はカロリンの自宅を家宅捜索することを決意した。その結果、彼女が毒グモや毒蛇など有毒生物に関する参考文献を、相当数コレクションしていることが判明した。みな最新の文献ばかりで、かなり読み込んだあとが見られた。  しかし警察が家宅捜索をつづけているうちに,階下でズドン! とにぶい音がひびいた。もう最後だと悟ったカロリンが、一二口径の猟銃で自殺をはかったのである。時すでに遅くこと切れていたが、あとには書き置きが残され、すべての罪を告白していた。  例の晩、カロリンは夫をそそのかしてしこたま飲ませ、わざと酔っぱらい運転をするよう仕向けた。崖ぞいの危険な区間にさしかかったとき、彼女はだしぬけにハンドルを思い切りひねった。自分はすぐに飛び下りたが、不意をつかれたダニエルは急停車出来ず、そのまま断崖をこえて突っ走っていったという……。 [#改ページ]   トランク  一九七八年一一月一五日、場所はイギリス北西部の都市マンチェスターの郊外を流れる小さな川の土手。メアリ・ジョーンズ(三四歳)は、大型トランクのなかに、丸くなって横たわっていた。両手は縄で縛られ、スカートは太股もあらわにまくれている。トランクの四隅、自分の体の周囲に重い石が何個もつめこまれるのを見て、彼女は自分にどんな運命が待ち受けているかを悟った。  もう、何をするにも遅すぎた。身動き一つできず、悲鳴さえあげられない。ハンカチを口のなかに詰めこまれているので、何か言おうとしても悲鳴とも呻き声ともつかぬ声が漏れるだけだ。  悪い冗談だわ。そうに決まっている。ついさっき熱いセックスを交わしたばかりじゃない。そのすぐ後で相手を猫か何かみたいに水のなかに放り込むなんて、出来るはずがない。ここ何年というものなかったほどの、素晴らしい快楽をともに味わったというのに。  しかし彼女のほうに身をかがめている男の目には、哀れみの色など微塵もない。メアリの心に、言いようのない恐怖の波が押しよせてきた。わたしはもうじき死ぬのだ……。  そのときトランクのふたが閉じられ、光がぷっつりかき消された。つぎにトランクは持ち上げられて、砂利道を引きずられはじめた。トランクのなかのメアリにも、振動でそれと分かった。  そして男は突然立ちどまると、えいやっとばかりトランクを持ちあげ、川のなかに投げ落としたのである。つめこんだ石の重みで、トランクは川底まで真っさかさまに転がり落ちていき、水しぶきがあがり、枝編み細工のトランクの編み目という編み目から、川の水がなだれこんできた。  水は泥まじりのうえ、氷のように冷たい。さして深くはないが、ぴったりふたをしたトランクのなかに閉じ込められたメアリは、立ちあがることも外に這いでることも出来ない。  恐怖と絶望で胸を押しつぶされながらも、メアリは必死に息をとめていた。しかしそれも、トランクが水底を流されはじめたときには、もう耐えられなくなった。悲鳴をあげつづけていた肺がついに音をあげ、泥水が口といわず鼻といわず押しよせてきた。苦痛、恐怖、窒息、そして……、ついに死がおとずれたのである。  その晩、マンチェスター郊外、リバプールのある住宅では、ヘンリー・ジョーンズが、電話で妻メアリの消息を親戚知人に尋ねまわっていた。しかし誰も心あたりがないというので、翌朝、ヘンリーはリバプール警察に妻の行方不明を届け出た。  刑事に事情を聞かれて、ヘンリーは夫婦間には何の問題もなく、妻がなぜ失踪したのか見当もつかないと答えた。が、少しためらってから、妙なことを言い出した。立ちより先を問い合わせようと、妻のアドレス帳をめくっていると、トニイ・ソーンダーズという名前が目についた。知り合いにそんな人はいないし、妻がそんな名前を口にするのも聞いたことがない。  刑事がアドレス帳を調べると、確かに「S」の欄にその名前が見つかった。が、住所も電話番号も書いてない。ヘンリーの家を辞去してから、刑事は近所で聞き込みを始めた。夫が会社に出掛けているあいだに、メアリに男の訪問客があったかどうか調べるのである。  ある家で何げなくソーンダーズの名をもらすと、そこの主婦が聞き覚えがありますと答えたのには驚いた。あごヒゲを生やし眼鏡をかけた若い男が先週訪ねてきた。が、何かのセールスだと思ったので、結構ですと言ってドアをばたんと閉めてしまったという。  方々をまわったあげく、結局ソーンダーズなる人物は、他にも二軒の家を訪問していることが判明した。一軒は門前払いをくわしたが、もう一軒はトイレを借りたいと言ったので、上に上げてトイレに通したというのだ。  刑事は署に引きあげると、メアリ失踪事件に関する報告書に、こう書き記した。 「ジョーンズ夫人は、若い男と駆け落ちしたと信ずべき理由あり。駆け落ちの相手は、トニイ・ソーンダーズなる戸別訪問のセールスマンとみられる」  五日後の一一月二〇日朝、土木課所属の現場作業員が、砂州に打ちあげられた枝編み細工のトランクを発見した。中をあけてみて卒倒しそうになったが、ただちに警察に通報した。  マンチェスター署から一分隊が急派され、トランクが川から引き上げられて死体保管所に運びこまれた。それがメアリの変わり果てた姿であることは、すぐに確認された。運転免許などの入ったハンドバッグが、わざとらしくトランクに突っ込んであったのだ。さらにトランクには、石がいくつも重しがわりに詰め込まれていた。  解剖の結果、死後、約五日たっていると推定された。川の水が冷たいので、遺体はかなり良好な状態だった。直接の死因は溺死だが、水中に投げこまれたときはまだ意識があったようだ。  その証拠に、息をぎりぎりまでこらえようとしたため、毛細血管が多数切れていた。遺体には暴力を加えた形跡はなく、両腕を縛る縄が深々と食い込んでいたが、これは身をふりほどこうと必死にもがいたせいらしい。膝、腰、尻などに小さなすり傷がいくつかあったが、溺死する瞬間、トランクのなかで死にもの狂いに暴れたのだろうと推察された。  性器を調べた結果、彼女が死の直前、血液型O型の男性と肉体関係をもった事実が判明した。肉体の最深部で射精が行なわれ、ヴァギナに体液が多量に分泌されている点から、かなり気を入れていたようだ。  両腕を縛った縄も、あまり相手に苦痛を与えないようなやり方をしていることも注目され、犯人はセックスプレイの一部だと言い聞かせ、相手の了解を得て縛ったのだと推量された。そして肉体関係を持ち、終わると身動きできない相手をあっさり川に放り込んだのだ。不要になったものを袋につめて河のなかに放り込むように……。  リバプール警察は、謎の男トニイ・ソーンダーズを追って捜査を開始した。同時に、ジョーンズ家の近所でしらみつぶしの聞き込みが始まった。ソーンダーズの人相については、どの証言も一致していた。がっしりした背の高い男で、あごヒゲを生やし、角ぶちの黒眼鏡をかけている。やや派手めのチェックのスーツを着ており、ハスキーな声でなかなか話上手だ。  さらにメアリが友人たちにした打ち明け話のなかから、ジョーンズ夫妻の夫婦間のもつれが浮かび上がってきた。三年前の七五年夏ごろ、急にメアリが化粧品や洋服に金を惜しまないようになった。友人たちには、夫が浮気しているので、相手から夫をとりもどしたいのだと打ち明けている。夫は離婚を求めたようだが、メアリはとりあわなかった。  毎度おなじみの三角関係である。結婚一〇年になる三〇代半ばの男が、若い女性と不倫の関係になり、妻に離婚を要求したが、妻は相手にしてくれない……。そんな状況に追い込まれて、人殺しに走る夫も、ままある。特に彼が社会的地位が高く、スキャンダルを避けたい場合は……。  ヘンリーの不倫の相手はすぐに判明した。なんと彼がつとめる貿易会社のオーナーの一人娘である。都合よくいけば、いささか鼻についてきた古女房にかわり、二二歳のぴちぴちした女性を手に入れ、さらに会社のオーナーになることも出来る……。  しかし彼は離婚を要求して、はねつけられた。ここまでくれば、妻を亡き者にしてまたとない幸運をつかもうと決意するのも、あと一歩だ。そして彼は、その一歩を越えた。身元はさっぱりつかめないが、ソーンダーズなる人物をやとい、メアリを殺害させたのだ。  メアリのアドレス帳に何度も目をとおすうち、刑事は妙なことに気付いた。トニイ・ソーンダーズと書かれた字体が、どうも他の字体と違っているのだ。筆跡鑑定家に鑑定してもらうと、確かにそれらが同一人物のものではないという結果が出た。  さらに今度はヘンリーの筆跡との比較をたのんだところ、アドレス帳にソーンダーズの名を書き入れたのは、ヘンリーその人であるという結果が出た。やはりメアリを殺したのはヘンリーなのだ! が、直接の下手人であるトニイ・ソーンダーズとヘンリーの接点が見出せないかぎり、彼を追いつめるのは困難だ……。  ところが数日後、事件を新聞で見た、六八歳の老人から警察に通報があった。一一月一五日午後、犯行現場付近を通ったところ、川岸に配送用の小型トラックが停められているのを見たというのだ。そして老人が記憶していた、トラックの横腹に記された社名こそ、ほかでもないヘンリーの勤め先の社名だったのだ!  ヘンリーが勾留され、鑑識班の一行がジョーンズ家に走った。これという発見はなかったが、ヘンリーのものらしい芝居装束がいくつか見つかった。聞き込みの結果、彼が素人芝居が好きで、子供のころからさまざまな舞台に出演していたことが判明した。しかも日ごろから、つけヒゲやカツラをつけて、変身することが好きだったらしい。  そんな彼が、あかの他人に化けて目的をとげ、追跡の目をくらましてやろうと考えたのも自然の成り行きである。犯行のひと月ほど前には、眼鏡、カツラ、つけヒゲ、変装用の衣装を買いそろえた。  一式を身につけて他人になりすまし、セールスマンを装って、まず手始めに自宅に赴いて呼び鈴をならした。メアリが夫である自分を見破れなければ、他人が見破れるはずがない。そして確かにメアリは、見抜けなかったのだ!  つけヒゲをとって素顔をあらわすと、彼女は心底、驚いた。彼女は別人のように変わった夫に興奮し、ヘンリー自身も新鮮な刺激をおぼえ、二人はいつになく激しく求めあった。それからひと月というもの、情熱的な夫婦関係がつづいた。一方で、彼は着々と計画をすすめた。トニイ・ソーンダーズになりすまして近所の家を訪問し、たくみに既成事実を作りあげたのである。  犯行の日、会社の小型トラックを運転して仕事場を抜け出すと、いつもの扮装をして自宅にもどった。メアリは�恋人�トニイの突然の帰宅に、大喜びだった。 「どうだ、野外でセックスしてみないか。おたがいエキサイトするぜ」  そういうと、メアリは二つ返事だった。さっそくヘンリーは後部座席にトランクを積み込むと、川岸に走らせた。  両手を縛られても、メアリは不思議がらなかった。それまでも緊縛その他の変態プレイを、夫婦で実行していたからだ。それどころか、野外で縛られて猿ぐつわをはめられ、他人に扮した夫に犯されることにすっかり興奮したとみえ、何度も絶頂に達した。そしてこれが、この世での最後の享楽となった……。 [#改ページ]   人 形  だいぶ前の話だが、ハイチ島から北アメリカに向けて、ブードゥー教の儀式に使われる人形が輸出されたことがあった。ところが奇妙なことに、この人形を買った人は、必ず毒にやられて気分が悪くなってしまうのだ。  ジョージア州アトランタでは、この人形を買った五〇人の少年少女たちが、おかしな不快感をおぼえた。まさか不幸をもたらす人形というわけでもあるまいしというわけで、アメリカの保健省が調べると、この人形がカシュー(インド産まめ科の有毒植物)の木で作られていることが分かった。  人形の頭には、カシューの油が染み込ませてあって、そこから毒が蒸気になって発散しているのだった。おかげで子供たちが人形を手にして、一時間もするともう、胸がむかむかして、皮膚の色が変わってくるのだ。  そのうえ、人形のくりぬかれた目の内側には、アブリンという毒が、人一人殺せるぐらいの量をひそませてあったというから、恐ろしい。もちろん、この人形はアメリカ保健省の命令で、ただちに発売禁止にされたという……。 [#改ページ]   安楽死  アーンフィン・ネセット医師は、ノルウェーのとある地方都市で、大きな総合病院を経営している。  その夜、ネセット医師は、夜中近くになってもまだ、カルテを眺めながら一人うなずいていた。そして突然思い立ったように席を立ち、廊下をすたすたと、入院患者の病棟に向かった。  病棟内はしーんと静まりかえっている。ネセット医師が足を止めたのは、今年九〇歳になる入院患者の部屋の前だった。医師はドアをあけ、音もなくその部屋に忍び込んだ。患者は歯のぬけた口をぽかんと開けて、死んだように眠りこけている。  もうこの患者が長くないことは、あらゆる検査の結果が一致して語っていた。このまま生きつづけていても、本人も家族の者もつらいだけだ。早くあの世に行ったほうが、結局は本人や家族のためなのだ……。  ネセット医師はそう自分に言い聞かせると、患者の静脈にすばやく注射をうった。南米のインディオが使う、クラーレという猛毒である。これなら他の毒薬と違って、時間がたつと一切の痕跡が残らない。完全犯罪が可能なのだ。  かくて老人は、ぐっすり眠ったまま、静かに息をひきとった。このようにしてネセット医師は、一九七七年から一九八一年までのあいだに、計六二人もの老人を、注射で天国に送りこんだのである。 「患者は苦しみもなく、おだやかな顔で死んでいきました。私は医師として、当然やるべき義務を果たしただけです」  これが、ネセット医師の法廷での主張だった。しかし実のところ、一人、二人と殺しているうちに面白くなり、だんだんやめられなくなったというのが、本当のところらしい。  一九八三年にも、オーストリアで、やはり患者たちを安楽死させた、看護婦三人が捕まっている。ワーグナー、グルーバー、ライドルフの三人で、ウィーンのラインツ市立病院で働く看護婦たちである。  七七年に初めて老人患者を注射で�安楽死�させたが、一切疑われなかったことに気を良くして、なんとその後はつぎつぎ安楽死候補者を選びだし、予定表まで作った。初めのうちは目立たないように、三カ月に一人という割合で殺していた。しかしどんどんエスカレートして、しまいには一カ月に三人も�安楽死�させていたという。まるで、一種の殺人工場である。  この三人に憎まれたらもう最後で、わがままだったり、口うるさかったり、ちょっとでも態度が悪い患者は、さっそくリストに名をのせられる。このようにして六年間で、四四人の患者があの世に送られた。ついに死因を疑いだしたオーストリア警察が調査した結果、この三人の看護婦が浮上したのである。  逮捕された三人は、患者を殺した動機について、「重病患者が、死を前にして苦しむのを見ていられなかったの」などと殊勝ぶっていたが、実のところは、「態度のデカい患者に、さっさとあの世に行ってもらったまでよ」というのが、本音だったようだ。 [#改ページ]   呪 殺  一九六九年設立の、シカゴの魔女集団「ウィッチ」は、現在、メンバー数四〇〇人以上を誇るという。星占いと神秘学の研究団体を装っているが、じつは三人の女ボスが、メンバーに呪殺術を手ほどきしているとか。  人形に針やピンをさして呪文をとなえ、別室の箱に入れられた実験動物を呪い殺すのだ。最初はモルモット、つぎには犬やネコで実験し、最後はいよいよ人間相手に呪いをかけるのだという。  ときにはメンバー一〇〇人で大がかりな集団呪殺術をもよおすこともある。木に相手の名を書いた人形をくくりつけ、みんなで一晩中呪いをかけるのだ。森のなかの集会では、悪魔の生け贄になる女性が、肺や心臓をえぐられ、一〇〇人の団員からつぎつぎ呪い釘を打ち込まれる。  その死体は荒野に放置されるが、ハゲタカに食われて骨だけになってしまうため、たいてい身元不明で片づけられるという。  砂穴の呪殺術という、深く掘った砂の穴に水をみたし、そこに相手を投げこんで呪い殺す方法もある。いずれにしても被害者の体に外傷はいっさい残らないのが特徴だ。  ウィッチは警察をもっとも手こずらせている魔女集団で、内情をあばくため潜入したシカゴ警察の女性刑事が、これまで何人も変死している。一九七八年には、組織にもぐりこんだ若い女性捜査官が無残な死体で見つかり、死体からえぐられた心臓がシカゴ警察署に投げこまれるという事件まで起きている。  現在もFBIがあの手この手を使って調査しているが、依然恐るべき犯罪の実情はつかめていないという。 [#改ページ]   こうもり傘  一九七八年九月七日夕方、ロンドンのBBCワールドサービス・ビルでの仕事を終えたゲオルギ・マルコフは、ワーテルロー橋でバスを待っていた。彼が突然、太股の裏に激しい痛みを感じて振りむくと、一人の男がたったいま落としたらしい、こうもり傘をひろいあげていた。男は失礼とつぶやくと、そのままタクシーに飛び乗ってしまった。  マルコフは帰宅し、何事もなかったように妻と食事をとったが、ベッドに入ってまもなく、急にからだの調子が悪くなった。午前二時には四〇度という高熱になり、救急車で病院に運ばれ、四日後にはあっけなく病院で息をひきとった。  原因不明の死に当惑した医者たちは、彼の遺体を拡大鏡を使って徹底的に調べ、大腿上部の裏側に、直径わずか一・五二ミリの小さな金属製の玉を見つけた。ジェット機のエンジンに使うプラチナとイリジウムの合金で出来ており、〇・三五ミリの極小の穴が二つ、なかで連結するように巧みに彫り抜かれていた。そしてそれらの穴にはなんと、ヒマからひまし油を抽出するときに出てくる、コブラの毒の二倍もの毒性のあるリシンがつまっていたのである……。  報せを受けた刑事たちは、マルコフの妻の証言で、死の四日前にマルコフが見かけたという、例のこうもり傘の男を探した。その男が乗り込んだというタクシーの運転手を探したり、バス待ちの列の人から目撃者を探したりしたが、無駄だった。  マルコフはブルガリア生まれの劇作家だが、風刺的な戯曲を書いて当局に睨まれ、一九六九年六月に西側に亡命した。その後は放送キャスターとなり、イギリスや西ドイツのラジオ放送で、共産主義を歯に衣着せず、ずけずけと批判した。  東側の国のなかでももっともスターリン主義の強いブルガリアは、しだいに彼への憎しみをつのらせた。こうして一九七八年八月、ついに一人の殺し屋が二つの使命をおびて西ヨーロッパにやってきた。  その使命はまず、パリで地下鉄に乗っていたブルガリア人のラジオ・TVレポーターのウラジミール・コストフの背中に、例の玉を打ちこむことだった。しかしコストフは命拾いした。チェコスロバキアで製造された玉に、致死量に充分な毒が入っていなかったため、死の一歩手前で助かったのである。  しかし殺し屋は、二週間後のワーテルロー橋では失敗しなかった。例のこうもり傘は、柄のところが皮下注射用ピストンになっていたと推察される。針のとりつけ台はピストン内にプレスで填めてあり、ふつうはピストンのなかに引っ込んで飾り金具に隠れている。  傘の握りをもって先端を相手に突き刺すと、針をとりつけた部分が、空気圧で前進する。このとき針が相手の体に侵入し、ピストンに圧力をかけつづけると、毒が注入されるというわけだ。  それにしても臨終の床で、マルコフが苦痛にあえぎながら、「毒をもられた。殺される……!」と洩らさなかったら、西側はソヴィエト側の巧妙な殺人手法の一つを、まだ知ることはなかっただろう。 [#改ページ]   シャンプー  一九八二年三月、デンマークのドイツ国境近くのパドボルグ。イェルンベーンゲイド一八番地のアパートでは、ここ数カ月、住民たちはひどい悪臭に悩まされていた。三月二九日、家主から依頼を受けた修理職人たちが、屋根の古タイルを剥がしはじめた。屋根の頂上から軒端へとだんだん下がっていくと、悪臭はさらにひどくなった。  軒端にほど近いところでタイルを一列ほど剥がしたとき、職人は空間に何かが長々と横たわっているのを発見した。それが死体と分かった瞬間、彼は恐怖の叫びをあげた。真っ白な粉でおおわれたかたまりのあいだから、白骨化した片腕が突きでて、頭頂部には肉のそげ落ちたグロテスクな頭蓋骨がのっかっている。ブロンドの髪が、束になってかたわらに落ちていた。  真下はちょうど、ルイジ・ロンギという、二九歳の青年の屋根裏部屋にあたっていた。ただちにロンギ青年は警察に連行され、あっさり犯行を認め、その女性が急死したのでどうしていいか分からず、あそこに置いたのだと弁明した。  解剖の結果、死因は絞殺と分かった。首を細ひもで絞めただけでなく、手足を縛り、猿ぐつわも噛ませていた。彼は、その女性がハイケという名前で、昨年の五月三〇日の夜、鉄道の駅近くの軽食堂で会ったこと以外、何も知らないと答えた。その晩泊まるところを探しているというので、自分のアパートに誘ったのだという。  じつはロンギは一七のとき、奇妙な理由で逮捕されていた。ある女性が仕事を終えて出てくるのを待ち伏せし、ナイフで脅して部屋に連れ込み、無理やり彼女の髪を洗ったのである。  洗髪以外には何もしておらず、当局側はどんな罪名を適用していいか頭を痛めた。が、結局、凶器をふるって脅したかどで起訴され、二年間の保護観察処分になった。  じつはロンギは子供のころから、母親のカツラにマスターベーションするという奇妙な習慣があった。しかも使用前に、そのカツラにシャンプーをたっぷりかけて洗うのだ。  が、しだいにカツラで満足できなくなり、生身の女性、それもブロンドの長い髪がほしくなった。もはやマスターベーションも必要なくなり、相手の髪にシャンプーをふりかけて洗うだけでオーガスムを覚えるようになった。  彼は、日に三回も四回もたてつづけに女性の髪をあらい、クライマックスに達するのだった。それ以外に暴力をふるうということもなかったので、精神科医らは懲役より精神的治療が必要だと勧告した。が、効果はなかったようで、一年とたたぬうちに彼はまたも若い女性をナイフで威嚇し、縛りあげて猿ぐつわをかませ、洗髪を強要したのだ。  数回、若い女性ばかりを相手に洗髪事件を引き起こしたため、一九七七年、スイス当局はついに彼を国外に追放した。 「僕にはブロンド女性の長い髪を洗う以外に、性的満足を覚える道がないんです。いろんな方法を試しましたが、みなさっぱりでした。相手が抵抗しないで応じてさえくれれば、何もかも無事に運ぶし、面倒なことは何もありません。  ところが一度、予期しない結果になって慌てたことがあります。その少女は一四歳でしたが、肉体関係を求めたのです。僕にそれが無理と分かると、がらりと態度を変え、あんたに乱暴されたと、警察に訴えでてやるといって脅すのです。  相手の年が年だから怖くなって、ぼくはドイツを去ってデンマークに逃げこんできました。でもここパドボルグには娼婦はいてもブロンドは少ないし、欲求不満になっていました。そんなおり、ある軽食堂でハイケをみかけ、のっけからシャンプーで髪を洗わせてくれないかと頼んだんです」  気のいいハイケは、簡単に承知した。洗髪だけで終わるはずはないと思ったし、ロンギはまんざら魅力がないわけではない。最初のうちはヒモも猿ぐつわも必要なかったが、四回目の洗髪が終わると彼女は、落ちつかなくなってきた。要注意と思ったロンギは縛りあげ、猿ぐつわをかませた。大声をあげて他の住人に気付かれては大変だ。  ハイケはだんだん腹がたってきたようで、両足でどんどん床を叩きはじめた。慌てたロンギは、首にまきつけていた細ヒモをちょっときつく締めつけた。気がついたときには、彼女はすでに息がなかった。あまりあっけなくて、信じられないほどだ。ハイケが絶命してからも、髪を洗いつづけたかと聞かれ、彼は悲しげに答えた。「いいえ、僕は生きた女性でなければ駄目なんです」  これまでロンギは、一二人の娘の髪をシャンプーで洗った。ハイケは不吉な一三番目の犠牲者となる。どの娘も無理強いでなく、合意のうえだったという。陪審員は彼の供述を聞いて、どんな宣告を下したらいいか首をひねった。  あらかじめ殺意を抱いてなかったのは明白だが、ロンギが潜在的に危険な人物で、プレッシャーがこうじてくると、また洗髪を再開する恐れは強い。結局、法廷は「殺意なき殺人」とみとめて、終身刑を宣告した。ただし送り込んだ先は、刑務所ではなく、性変質者を治療するための精神医療施設である。 [#改ページ]   サウナ室  スウェーデンのオーベルリダに住む、一七歳の少年エリック・ラルソンは、友達と遊んで夜中に帰宅したが、父がいつになく食堂で酔い潰れているのを見て、変だなと思った。  母親を探してサウナ室に行ってみると、そこには母が、腕や肩に吹き出た血はかさぶたのように固まり、全身は無残な黒焦げになった、見るも恐ろしい死体となって倒れているではないか……。  警察が駆けつけ、食堂で酔い潰れていた父は、重要参考人として連行される。ショックを受けたエリック少年は、ただちに病院に運ばれた。母カリンの死は、とうてい自殺とは考えがたかった。  なにしろ、死にもの狂いに暴れまわった形跡があるのだ。サウナ室のベンチをドアに向かって力いっぱい投げつけたようで、ベンチの破片がドアの板材にのめりこんでいる。自分自身もドアに何度も体を叩きつけたらしく、肩の部分の肉が裂けて、板材に血痕が飛び散っている。  しかしそれでもびくともしないので、半狂乱になったカリンは、今度は灼熱した溶岩のかたまりをヒーターからむしりとり、それでドアを滅多うちにしたらしい。その証拠に、指の皮膚が剥がれ、真っ黒に焼け焦げていた。しかし必死の試みもかいなく、ついに無残にも、熱気でじわじわと蒸焼きにされていったのだろう……。  実験の結果、使用温度の摂氏八〇度からぐんぐん温度が上がって、摂氏二〇〇度以上になり、それからかなりの時間のあいだ、そのような高温がつづいたらしいことが分かった。その証拠に、サウナの内壁が広範囲にわたって焼けこげている。  警察の調査で、カリンが少しまえからかかりつけの医師と不倫の関係になっており、夫アンデルスと離婚して、医師と再婚しようと計画していたことが判明した。離婚話を持ち出された夫が、逆上して、復讐のために妻をサウナで焼き殺したのだ……。  カレンがサウナ室に閉じ込められたのは午後七時ごろ。それから彼女は死を逃れようと三時間ほど悪戦苦闘を繰り返したが、ついに午後一〇時前後に力尽きて意識を失った。しかしそれから絶命するまでは、さらに三時間を要したと考えられる。したがってほぼ正確な死亡時刻は午前一時。そしてサウナ室が室内温度なみにもどるには、最低二時間は必要だ。ちょうどその午前三時ごろ、エリックが母の変わりはてた姿を発見した……。  これは、カリンとほぼ同じ体重の子牛の死体を使って、サウナ室で実験した結果である。  一九八五年五月一〇日、ついにアンデルス・ラルソンに終身刑の判決が下された。妻に浮気された夫にも同情の余地がないとはいえないが、それにしてもサウナで丸焼きという殺し方が、あまりに残虐すぎるということで、陪審員の意見が一致したのである……。 [#改ページ]   血抜き  サリー・ポタートンは若くして夫を失い、看護婦をつとめながら、一人娘のペニーを女手一つで育てあげた。ペニーは幼いときは母に従順ないい子だったが、一六歳ごろから急に人が変わったように不良少女になった。あげくはモーリス・シャールというごろつき同然の若者にだまされ、母を捨てて家を出てしまったのである。  それからのペニーの人生は、ひたすら堕落の一途だった。モーリスにフリー・セックスと麻薬の世界に引き入れられ、身売りを強いられ、売春と麻薬に身をもちくずしたあげく、妊娠したことを理由に、モーリスから殴る蹴るの暴行を受けて捨てられ、ついに自殺してしまった……。  娘を失って怨み骨髄に徹した母サリーは、泣いて泣いて泣き暮らしたあげく、ついにモーリスに対する残酷そのものの復讐を決意した。モーリスを自宅の陰で待ち伏せして誘拐し、自宅に連れ帰ってベッドの上に縛りつける。そして採血器具の管に連結した注射針を、モーリスの腕に突き刺した。  彼女が思いついたのは、なんとモーリスの全身の血を吸い取ってしまうことだったのである。おりしも採血用の管を通って、モーリスの血が、ビンのなかにぽたりぽたりと流れ落ちていく。数分、数十分……、流れ落ちる彼の血は、真紅の鮮やかさをさらに増しながら、ビンのなかで増えつづけていった。 「助けて! おばさん、僕が悪かった、後生だから助けて!」  モーリスは死にもの狂いだった。頭をめぐらせて知っている限りの言葉を並べたて、必死にあやまり、懇願し、命乞いをする。しかしどんなに懇願しても、サリーは意地悪い笑いを浮かべ、彼の顔をじらすようにのぞきこむだけだった。  そのあいだもガラス瓶のなかの血液は、確実にその量を増していく。ときにサリーは、相手の訴えに心を動かされたふりをして、ゴム管にそっと手をのばしてみたりする。だが、すぐまたスッと手を引っ込め、あとはまた、ぽたりぽたりと、鮮やかな血のしずくが容赦なくすべり落ちていく……。  朝が近づき、窓から夜明けの光が差し込んできた。もはやモーリスの声は泣き声というより、意味不明な呻き声でしかなくなっていた。一晩かかって、たっぷり死の恐怖を味わわせてやった。そう思うと、サリーはこれでもはや、思い残すことはなかった。  サリーは黙ってモーリスの顔をのぞきこみ、彼の腕をつかんで、不規則にうつ脈を読み取った。脈がしだいに遠のき、やがてついに止まってしまうと、サリーは彼の真っ青な顔をじろじろと見て、憎しみをこめて唾を吐きかけた。  そして部屋をきれいに片づけてから受話器をとり、警察の番号をまわした。 「ここに一人の男が殺されています。私が殺したんです。いついらしてもかまいません。私は逃げも隠れもいたしません。これから愛する娘のもとに参りますので……」 [#改ページ]   尻  米国カリフォルニア州に住むベティ・メントリーは、体重一〇五キロという巨体の持ち主。当時、ベティは八歳のわんぱく息子スティーヴンスに、ほとほと手を焼いていた。ある日、前の通りでマッチをすって遊んでいた息子に、ベティは「なんて危険な」と驚いて、厳しく叱りつけた。 「火事にでもなったらどうするの。おうちが焼けるだけではすまないのよ!」  ところがそれでも懲りずに、今度は息子が、彼女のサイフから、こっそり五セント白銅貨を盗みだしているのを見てしまったのだ。ついにプッツンしてしまったベティ。今日こそは、徹底的にお仕置きしてやろうと決心した。  まず、外から帰ってきた息子を呼びとめ、耳を引っ張って床にすわらせ、頭を床にすりつけさせて、「もう二度としません」とあやまらせた。  しかしそれでもまだ気のすまないベティは、一〇五キロの巨体で、どっかとばかり息子の上に腰かけてしまったのである。超重量級の巨体に押しつぶされた息子、なんとか逃れようと必死にバタバタもがく。するとベティのほうも、逃がしてなるものかと、巨大なお尻をますますグイグイ押しつける……。  そんな葛藤が、ざっと三時間ばかりつづいただろうか。わんぱくな息子も悪いが、そうとうベティのほうもしつこい性格だったようだ。三時間もたったころ、「さあ、もうそろそろいいだろう」と、ようやくベティは立ちあがった。  ところが、お尻の下では息子がぐったりして、ビクとも動かない。真っ青になったベティは、あわてて病院に駆け込んだが、すでに手遅れ。息子は、彼女の巨大なお尻に押しつぶされて、あわれ息絶えてしまっていたのである。  じつはベティがこんなお仕置きをしたのも、かつてカウンセラーに、「子供が言うことをきかなかったら、その体重を使いなさい」と、忠告されたからだそうだ……。それがなんと皮肉な結果に……。 [#改ページ]   殺人工場  一九世紀アメリカのホームズという医者は、つぎつぎと金持ちの女をたぶらかして金をだましとり、あげくは奇妙な「殺人工場」を建設して、二〇〇人もの女をつぎつぎ殺していった。  彼が一八九三年のシカゴ博覧会にそなえて建設した、豪華なホテルの各部屋には、さまざまな不気味な仕掛けがあった。  各部屋の壁がスライドすると、その向こうは迷路のような秘密の廊下がつづいており、廊下の覗き穴から客の動きを観察したり、オフィスにいるときも、床下にとりつけた探知機で客の動きを逐一知ることができた。  リモコンでガス栓を操作して、客を窒息死させる装置や、死体を地下室に運ぶ大掛かりなリフトもあった。こうして運ばれた死体は、そのときによって焼却炉で灰にされたり、硫酸槽のなかで溶かされたり、生石灰のなかに埋められたりした。  ホームズ医師が発明した拷問用具のなかでも、特に変わっていたのは、足の裏をくすぐる自動装置である。被害者はこれにかけられると、文字どおり笑いつづけながら、死んでいかねばならないのだ。  この「ホームズ城」は一八九二年に完成し、翌年の五月一日、いよいよシカゴ博覧会がはじまった。半年間、ホームズ医師の殺人工場は、おおいににぎわった。ホームズは客の選択に関しては、贅沢だった。金持ちの独身女。出来れば美人のほうがいい。しかも友達や親戚が探しに来たりしないように、出来るだけ遠くから来ていることが望ましい……。  いったいホームズ城でどれだけの女性が拷問されて、殺されていったのだろうか? 警察側は二〇〇人と推量し、ホームズ自身は三〇人に足りないとうそぶいている。その中間と見るのが、妥当なところだろう。  のちに逮捕されたホームズ医師は、死刑を宣告され、一八九六年五月、三五歳の若さで絞首台にのぼることになるが、シカゴ博覧会が終わってホテルの客がガタ減りになると、ふところが寂しくなったというので、よりによって自分のホテルに火をつけ、保険会社に保険金を請求するなど、破れかぶれの晩年だったようだ。 [#改ページ]   感 電  結婚式を間近にひかえ、シンシアは浮かない顔だった。いったいどうしたの? と花婿に聞かれても、ただ黙って首をふるだけ。誰にも打ち明けることは出来ず、ひとりで悩んでいる様子だった。  いよいよ晴れの結婚式も無事に終わり、これからハネムーンに出発と、花婿は喜びを隠し切れない様子。シンシアも、つとめて明るくふるまおうと努力した。しかし本当いって、不安で胸はつぶれそうだった。 「でも、誰にも打ち明けることはできない。打ち明けたって、誰も信じてくれるはずはないもの……」  と、シンシアはハネムーンの飛行機のなかで、ひとり、心につぶやくのだった。そして、彼女の恐れていたことが、とうとう起こってしまったのである……。  その夜、初夜のベッドのうえ、シンシアは夫の厚い腕に抱かれ、燃えるような激しさで互いを求めあっていた。ところがそのとき、とつぜん彼の体にピリピリッと電気が走ったと思ったとたん、ひきつったように痙攣して、心臓がぴたりと止まってしまったのだ……。 「あなた! あなた! しっかりして!」  シンシアは必死になってベッドのうえの夫をゆすったが、もはやぴくりとも動かない。夫は死んでしまったのだ。彼女の心配していたことが、とうとう起こってしまったのだ。しかしそれにしても、それがこんな形で、ハネムーンの場所で起こってしまうなんて……。  あまりのショックでシンシアは、「彼が死んだ。わたしが殺したんだ……」と、茫然として、口のなかでつぶやくだけだった。  実はシンシアには、長いあいだ悩みのたねである一つの秘密があった。彼女は静電気をおびやすい体質で、電化製品にさわるだけで、ヒューズが飛んでしまうようなことが、しばしばあったのだ。  シンシアは毎日、不安だった。掃除機も洗濯機もトースターもミキサーも、電源が切れてしまうのではと、毎日おそるおそる使うのだ。そしてついに……、ハネムーンでの激しいセックスで、今度は夫を感電死させてしまったというわけである。  信じられないことだが、本当だ。電気人間は、本当に存在していたのである。いまとなっては遅すぎるが、せめてもっとマイルドに愛しあえばよかったのか……? [#改ページ]   癌カクテル  スティーヴン・ハーパー(二六歳)は、有能な生物学者である。彼のコンプレックスは、ハゲだった。周囲の女性たちは聞こえよがしに、「ハゲの男なんて最低ね」などと言ったり、ときには彼を指さして嘲笑った。ハーパーのハゲは遺伝で、父親も三〇歳のころにはすっかりつるつるだった。彼自身にも、ついにそのときがきたのである。  毛が減っていくにつれ、彼のまわりにいたガールフレンドの数も減っていった。最後に残ったのが、サンドラ・シェルトンである。三カ月ほどの交際のすえ、もう彼女しかいないという悲痛な覚悟で、ハーパーはサンドラにプロポーズした。しかし返ってきた答えは、悲惨なものだった。 「悪いけどわたし、わざわざ髪の毛のない人と結婚しようとは思わないわ」 「カツラをかぶるよ。そうすれば、ハゲだなんて、誰にも分からないだろ?」  彼はサンドラを、引き止めようと必死だった。 「そういう問題じゃないの。ハゲが遺伝するっていうのは、あなたのほうがよく知ってるでしょ? あなたのこと嫌いってわけじゃないけど、結婚を考えたことはないわ」  顔色も変えず、しゃあしゃあと答えるサンドラは、冷酷そのものだった。それでもあきらめきれないハーパーは、その後もしばらくは未練がましく食い下がった。なんとか考えを変えてもらおうと、サンドラを一流レストランに連れていったり、ティファニーの高価なネックレスを贈ったりした。  無理に無理を重ねたため、借金は相当な額にのぼっていた。そんなある日、ハーパーはサンドラのアパートに招かれた。何か大切な話がありそうだと感じた彼は、一張羅の背広を着て、花束と指輪のプレゼントを用意して、彼女のアパートのまえに立った。  ところがさんざん気をもたせたあげく、そろそろ帰るころになって、サンドラは初めてハーパーに、彼を招いた目的を知らせたのだ。 「実はわたし、結婚することになったの。あなたとのことは、良い思い出にしたいのよ」  ハーパーは、そのあと自分が何を喋ったかももう覚えていない。彼は放心状態でサンドラのアパートを出て、近くのバーにふらふらと入っていった。あおるように水割りを飲んだハーパーは、そばの客にまくしたてた。 「あの女、さんざんおれをじらせたあげく、おれを捨ててほかの男と結婚するんだと。そんなこと、させるもんか。おれを捨てて、あいつだけが幸福になれると思ったら大間違いだ」  サンドラはデュアン・ジョンソンという男性と結婚し、幸せな新居をかまえた。しかし三カ月後のある朝、一人の男が彼らの新居の前に立っていた。あのハーパーが木陰に隠れ、じっとライフル銃で狙いをさだめていたのである。  サンドラが新聞をとりに出てきたとたん、つづけて三発の銃が発射された。一発は彼女のすぐ脇のドアに命中し、我を忘れて家のなかに駆けこんだサンドラは、即刻、警察に通報した。  狙撃者の姿を目撃していたサンドラは、スティーヴン・ハーパーの名を捜査担当官に明かした。警官たちはハーパーの家に急行し、彼を殺人未遂で逮捕した。ハーパーのほうは、こんなに早く足がつくとは思っていなかったらしく、銃を隠してさえいなかった。 「殺そうなどという気はありませんでした。ただ、驚かそうとしただけなんです」  彼は、陪審員に向かって主張した。 「脅かせば、彼女がもどってくるとでも思ったのかね?」  判事はハーパーに三年の実刑を言い渡した。サンドラはほっとしたが、それもつかのま、収監中の態度がよかったハーパーは、わずか一八カ月後に釈放されたのだ。  生物学の修士号を持っていたハーパーは、オマハにあるエプリー癌研究所に就職した。ここで彼は、発癌性物質であるロケット燃料の研究員としての生活を始めた。  そのころサンドラの心のなかで、ハーパーの存在はしだいに薄れつつあった。しかし実際は、さらに恐ろしい殺意が、ハーパーのなかで育っていたのである。  ハーパーは自分の研究材料である、ロケット燃料を使った復讐法を考えついた。そしてモルモットを使って生体実験をくりかえし、一九七九年、ついに「殺人カクテル」の開発に成功したのである。  一九七九年八月のある日曜日、ハーパーはごく高い純度のジェット燃料を容器に入れて、ふたたびサンドラ一家の家のまえに隠れひそんだ。台所の窓があいているのを見定めると、なかに忍びこみ、持ってきたロケット燃料を冷蔵庫のなかの牛乳瓶にそそぎ込んだ。そしてまたフタをして,もとの場所に置いた。  その日、サンドラの家には、兄のブルースと兄嫁のサリーと、二歳になる甥のチャドが泊まっていた。娘のシェリーと夫のデュアンも、もちろん家にいた。  翌朝、食堂に入ってきた夫のデュアンとブルース、それにシェリーとチャドが、ミルクをかけたコーンフレークを食べた。とたんにチャドが激しい痙攣をおこし、二杯も食べたデュアンは床に倒れた。ブルースとシェリーは、何か変な味がしたので、途中で食べるのをやめた。  結局、ブルースとシェリーは救急車で運ばれた病院で処置を受けて、一命をとりとめたものの、デュアンとチャドは苦しみぬいたあげく、息を引きとった。  司法解剖の結果、ロケット燃料による中毒死が判明した。怨恨の犯罪という筋から、ハーパーをたどるのに時間はかからなかった。  検察側はハーパーが冷酷な殺人者で、動機もきわめて自己中心的であるとして死刑を求刑し、陪審員もこれに賛成した。結婚をことわられてからも、長い年月をかけて復讐をとげようとした彼の執念は、不気味としか言いようがない。 [#改ページ]   発癌性物質  ドイツ南部のウルム市に住むインゲボルクは、化学博士で大学教授のジークフリート・ルオップの妻だった。何不自由ない生活のはずなのに、不運にも四二歳の若さで癌に冒され、あと一年の命と宣告されていた。  余命いくばくもない妻を慰めようと、夫は毎日のように手作りのキイチゴのジャムを病室にとどけた。堅い職業にもかかわらず、彼はキイチゴジャムを作る名人なのだ。夏につんだキイチゴを使って作るジャムの、舌にとろりと溶けるようなその味……。インゲボルクはベッドのうえでジャムを口に運びながら、やさしい夫の愛にふと涙ぐむのだった。  じつは彼女には、一〇年前、夫を裏切った苦い経験があった。不倫相手は夫の友人のボルツァー医師。たがいに家庭を捨てて一緒になろうと思いつめていたのだが、ある日、スピード狂のボルツァー医師を、突然の交通事故が襲う。猛スピードで走らせるポルシェを道路わきの木にぶつけ、ダッシュボードにぶつけた頭の中身を一面にぶちまけて即死。  しばらくはショックで廃人のようだったインゲボルクだが、なんとか立ち直っていった。夫のジークフリートは妻の悲しみを思いやるかのように、彼女の裏切りについて一言も触れようとはしなかった。そして何事もなかったように、二人の結婚生活はつづいた……。  夫にも子供たちにも、なんの不満もない。ただ、四二歳の若さで世を去らねばならないとは……。なんとかしてもっと長生きしたい……。  その日いつものように夫が持ってきてくれたジャムを口に運んでいた、インゲボルクの頭を、ふと奇妙な考えがよぎった。それにしても、どうして夫はこんなにおいしいジャムを一度も口にしないのだろう。そして子供たちも……。  いつも、太る恐れがあるから食べ物は控え目にするようにと言う夫が、なぜこのジャムだけは熱心にすすめるのだろう。まるでなにかにとりつかれたみたい。持ってきてくれるのも、もっぱらジャムだけ。いったい何故なの……?  鎮痛剤でぼんやりしたインゲボルクの頭をある疑いがよぎったが、その途端ぞっとして、思わずスプーンを放り出してしまった。こんなことを考えるなんてどうかしている。よりによってあんなによくしてくれる夫を疑うなんて……。  でも彼は科学者だから、毒物の知識にかけては専門家だ。それに学部長なんだから、学校の予算を使ってどんな化学薬品も毒物も好きなだけ手に入るはず……。  いてもたってもいられなくなったインゲボルクは、担当医師を呼んでもらい、夫が持ってきたキイチゴのジャムを、検査にまわしてくれるよう懇願した。絶望のあまり異常なことを言い出したのだと思った医師は、「いいとも」とやさしくジャムを受けとっていった。  ところが信じられないことに、検査の結果、確かにジャムに異常物質がまぎれこんでいることが発覚したのである。ごく少量が口から入っても、百パーセント肝臓癌を発生させるという、強力な発癌物質だった。そのうえ体内からすみやかに排泄されるので、死亡直後でないかぎり、遺体を解剖しても痕跡を発見するのは困難だという。  ではジークフリートは、妻を癌にして、殺害しようとたくらんだのか?  その物質が自然界に存在しており、何かの拍子にジャムのなかに紛れこんだ可能性も検討されたが、それはまず無理だという。関係者なら素人には名も明かさないだろう危険な物質で、ふつう簡単に手に入るしろものではないという。  そんなに危険な物質なら、出所は限られており、売るほうも記録をつけているはずである。学校ルートか個人的ルートかは分からないが、購入先を突き止める方法はむしろ簡単なはずだった。  捜査にあたった警部補は、まもなくジークフリートが何度かにわたってその物質を購入していた事実をつきとめた。最初に購入したのが一九七五年一一月で、量は三〇グラム。一九七六年六月には、やはり三〇グラム。最後に購入したのは今年の七七年五月で、二五グラム……  費用の総額約一五五マルクは学校の予算から支払われており、売主は、これだけあればウルムの全市民に癌を起こさせることも出来ると請け合った。  ついにジークフリート・ルオップ博士は逮捕されたが、あの薬品に発癌性があるなど、ついぞ知らなかったと言い張った。 「私の教室で実験用に購入している、化学物質の一つに過ぎません。発癌性があるなんて、うかつですが知りませんでした。そりゃ学校の実験室には、毒性のある化学物質もいろいろ置いてあります。だからといって……」 「奥さんは、毒よりはるかに悪質な物質を与えられたんです。癌細胞が増殖して、確実に死んでしまうのですから、なまじっかな毒物よりよほどたちが悪い」  警部の追及にも、ジークフリートは終始、動揺の色一つ見せなかった。それにしても、なぜ手製のキイチゴ・ジャムのなかにそれが紛れ込んだのかという質問には、 「じつは金魚池の藻をとりのぞくため、いくらか自宅に持ち帰っていたんです。台所道具に付着したのかも知れません。まさか発癌性があろうとは知らなかったので、別に注意をはらわなかったんです」  事実、彼は金魚池の藻にそれを使用したばかりか、効果を示すため実験結果を教室まで持ち込んでいた。ごく微量を水中に投じると、あっというまに池のなかの金魚は残らず息たえ、実験に立ちあった学生らは異口同音、そのとき教授は当惑して「量が多すぎたかな」などとつぶやいていたと証言した。  ついに事件は一九七八年四月、法廷に持ちこまれた。そのあいだもインゲボルクは,癌にむしばまれたからだを、大学付属病院の集中治療室のベッドに横たえていた。  裁判でもジークフリート側は終始、その物質に発癌性があることを知らなかったと主張しつづけたが、検事側証人として出廷した化学者たちは、本当にそれを知らなかったとすれば、ルオップ教授が博士号を持っているとは信じがたいと皮肉った。そしてその物質のごく微量が実験室の床にこぼれたのを知らずにいたため、少なくとも一名の研究者が命を落とした事実があると指摘した。  さらに科学者らは、万一ルオップ教授の言われるように、台所道具に付着していたとしたら、いまごろはルオップ家全員が末期癌におかされているだろうとも証言した。  依然、ジークフリートは無実を訴えつづけていたが、七八年四月一三日、陪審員は起訴状どおり有罪を宣告。その結果、終身刑、特にいかなる理由があろうと早期釈放は不可なるむねの、条件つき終身刑が申し渡された。  三カ月後、獄中でジークフリートが五一歳の誕生日を迎えたその日に、ついにインゲボルクが激痛にさいなまれながら世を去った。彼女は「自分自身の殺人事件」解決の主役となり、しかも殺人犯の有罪宣告と投獄をみずからの目で確かめた、おそらく犯罪史上唯一の人間だろう……。 [#改ページ]   臨 月  武烈天皇が皇位につく前のこと。彼は物部|麁鹿火《あらかび》の娘の影媛に思いをよせたが、すでに影媛が、大臣の平郡《へぐり》真鳥の子である鮪《しび》と恋仲になっていることを知る。嫉妬の炎を燃やした武烈は、鮪を捕らえさせて処刑し、さらに父真鳥の邸を攻めて焼き殺してしまったという。  この武烈天皇も、むごたらしい拷問や処刑を好んだことで知られる。たとえば囚人の頭の毛を全部引き抜いてから、木のうえに追い上げ、その木を切り倒して、囚人を落として楽しんだり、木のうえの囚人を下から弓で射殺し、落下するのを見て楽しんだ。  あるいは囚人の両手の爪を全部剥がして、その手で芋を掘らせ、血だらけになって苦しむのを見て楽しんだ。さらには、囚人を池の堤の水路に投げて、外に流れて来るのを待ち、それを矛で刺し殺したりもした。  またあるときは、女の囚人を全裸にして板のうえに引きすえ、そのまえで馬を交尾させた。その後で女の陰部を点検し、そこがしめっている者は殺し、そうでない者は官婢に取り立てたともいう。  さらに、特に武烈の愛した処刑法が、臨月の女を生きながら、腹を刃物で真っ二つにすることだった。傷口からは血しぶきが上がり、臓物があふれ、子宮があらわになる。女の絶叫を無視して、刃の切っ先でさらにそれをえぐると、中から血まみれの胎児があらわれる。それを刃の切っ先でえぐり出して、楽しむのである。  我が国の正史で、これほどの悪虐ぶりを記された君主は他にはいない。しかしこれは、武烈天皇のあと、仁徳王朝を倒して新王朝を築いた、継体天皇の存在を正当化するために、武烈の残酷さをことさら強調したのだという説もある。 [#改ページ]   膝  雄略天皇は武烈天皇と並んで、残酷刑を好んだ天皇として知られる。この天皇が行なった刑罰のなかには、たとえばつぎのようなものがある。  かねがねお上に不満を抱いていた畿内の豪族が、ある日、兵をあげて宮中に火をはなった。火は見る見るうちにひろがり、雄略天皇の居る場所のすぐ近くまで迫ってきた。天皇は側近たちに助けられ、ほうほうのていで逃げようとした。が、そのとき、一人の老人がつめより、御粮《みかしろ》を奪い去ったのだ。  ようやく奇襲がおさまったあと、怒りさめやらぬ雄略天皇は、さっそくその老人を捕らえるように命じた。捕らえられた老人は飛鳥川の川原に引き立てられ、そこで首を落とされた。が、これで、天皇の怒りがおさまったわけではない。  雄略天皇は老人の一族を一人残らず捕らえて、なんとその一人一人の、膝の筋を切断するよう命じたのだ。刑場に引きすえられ、執行人につぎつぎと膝を斬られていった一族郎党の者たちは、立ちあがることもできず、ひたすらもがき苦しんで、その場をのたうちまわるばかり……。それこそ、見るも無残な光景だった。 [#改ページ]   肉きざみ  平治元年(一一五九)、藤原信頼と結んだ源義朝は、平清盛が熊野詣でに出かけているあいだを狙って、兵をあげた。これがいわゆる平治の乱。義朝の軍は後白河上皇を誘拐し、さらに藤原通憲を討ちとった。  しかし六条河原の合戦で戦況は一変、平家側の優勢となり、義朝は命からがら東国に落ちのびた。源氏ゆかりの地、美濃(岐阜県)に辿りつくと、ここで義朝は将来にそなえて一族を各地へ散らし、自分は尾張(愛知県)に落ちていこうとした。昔からの源氏の家臣である、長田忠致《おさだただむね》を頼ろうとしたのである。  長田忠致・景致親子は一行を歓迎したが、実は平家に与して義朝を討ちとろうという腹だった。その晩、忠致は「どうぞこれまでの疲れをお癒し下さい」と、親切ごかしに義朝を風呂に誘った。義朝は疑う様子もなく、剣も帯びない裸身になって風呂に入った。ところが、潜んでいた手の者に不意を襲われ、あえない最期を遂げたのである。  そのとき、鎌田正清は別室で御馳走ぜめになっていたが、騒ぎに驚いて立ち上がろうとしたところを、背後から切りつけられ、討ちとられてしまった。  時は流れ、二一年後の治承四年(一一八〇)、源義朝の子である頼朝が兵をあげた。追いつめられた長田忠致は、今度は一変、頼朝側に寝返った。頼朝は寛大にも彼をもちいたが、実はちょっとした過失を口実に、断罪してやろうと考えていた。彼は恨みを決して忘れない男だった。  ついにある日、頼朝は長田忠致、景致父子を、罠にかけて捕らえさせた。源氏の荒くれ武士たちに、腰を蹴られ、背をつつかれ、二人はよろめきながら、頼朝の父義朝の墓前に引き立てられた。 「主君殺しの末路がどんなものか、思う存分思い知らせてやれ」  頼朝の冷酷な声が飛ぶ。父義朝は、この二人を信じたばかりに、裏切られて殺されたのだ。恨みを晴らす日を、幾度、夢に見たことか……。  役人らが地面に板を敷き、そのうえに竹竿をおき、あらがう二人を押さえつけて大の字に寝かせる。両の手を竹竿に縛りつけ、鉄釘で板と土に釘づけにした。つづいて両の足も同じように打ちつける。肉が破れ、骨がくだけ、血しぶきが上がった。  二人は悲痛な叫びをあげて許しを乞うたが、まだまだ刑は、いま始まったばかりだった。 「すぐに殺すな。出来るだけ苦しみを長引かせろ」  土のうえに打ちつけられ、身動きできなくなった二人は、つぎに役人らの手で、刀で一寸刻みに四肢を刻まれ、肉を少しずつけずり取られた。一けずりごとに、すさまじい叫びが上がり、見る間に周囲は血の海と化した。  二人が苦しまぎれに「早く殺してくれ!」と絶叫するのを、役人らはかまわず、さらに鼻をけずり、耳をけずり、目をえぐる。ついに絶叫する声も出せなくなったまま、それでも二人は血の海のなかで、数時間、生き続けていたという……。 [#改ページ]   逆さはりつけ  美濃国岩村城主、秋山|伯耆守《ほうきのかみ》晴近は、織田信長に背いて武田方についたが、彼の妻は信長の伯母にあたるお万の方だった。兵を率いて岩村にせまった信長は、城に使いを出した。「なんといっても伯母の夫である秋山殿のこと。命も領地も助けるから、安心して一日も早く城を明け渡すように」と勧告したのである。  武田勝頼に裏切られるのではないかと疑心暗鬼におちいっていた秋山晴近は、これを一も二もなく呑んでしまった。しかし案に相違して、城を明け渡して出てきた晴近は、さっさと信長の配下に捕らえられ、信長の前に引き立てられたのである。  晴近は、義理の伯父にあたる自分をよくも罠にかけたなと怒りまくったが、信長は冷たくせせら笑うばかりで、さっさと彼に死刑を宣告した。それも逆さはりつけという逆臣に対する刑の一つで、逆さにしてはりつけにかけ、そばに竹のこぎり[#「竹のこぎり」に傍点]を添えて、道行く人に首を引かせるという残酷そのものの刑だ。  はりつけにされて半日もたつと、晴近は全身の血が顔に下がり、目も口も無残に腫れあがった。三日目には、目や鼻や口など、あらゆる穴から鮮血が吹き出した。四日目になると、とうとう目玉がつぶれてしまい、その目から赤綿のような血のりが尾をひいてしたたったという。その二目と見られぬ顔を、通行人らが面白がって竹のこぎり[#「竹のこぎり」に傍点]で引いていったというから、ほとんど信じられない話だ。  この他にも、はりつけのなかには、柱に何日間も縛りつけて放置して餓死させるものや、遠くから矢で射るものや、なかには逆さにはりつけて、猛犬に噛み殺させるという方法もあったそうだ。 [#改ページ]   大量処刑  天正一九年(一五九一)、豊臣秀吉と愛妾淀殿とのあいだに生まれた鶴松が、わずか三歳で世を去った。もう男の子を得ることは不可能だろうと考えた秀吉は、甥の秀次を養子にし、関白職をゆずった。  ところが、まもなく秀吉にふたたび子が生まれた。のちの秀頼である。秀吉はこの子を溺愛し、秀次のことは冷たくあつかうようになった。  宣教師フロエーによると、秀次は、罪人を立たせて首を一刀両断に斬り落としたり、板のうえに寝かせて、死体でも解剖するようにその四肢を切り刻んだ。あるいは罪人を的にして銃や弓矢を射たり、妊娠女の腹を割いてなかの胎児を見たりしたという。しだいに秀次は、�殺生関白�とあだ名されるようになった。  やがて秀次は捕らえられ、関白職を剥奪されて高野山に幽閉された。秀次は頭を剃ってひたすら恭順の意をあらわしたが、いまさらどうにもならなかった。文禄四年(一五九五)七月一三日、秀次のもとに使いがきて、ついに死刑を宣告した。  初めに秀次の近臣山本主殿が、つぎに山田三十朗が、そのつぎに不破万作が自害をとげ、秀次みずから三人の介錯を行なった。最後に秀次自身が、正宗の脇差しで切腹をとげた。秀次の首は伏見で秀吉に首実検されたあと、京都三条河原にさらされた。  しかし、これで終わりではない。秀次の妻妾と子供たちも、斬刑に処されることになったのである。妻妾は、秀次の子を妊娠している恐れがある。秀頼の将来のために、秀吉としては秀次の血を根絶しておかねばならなかった。  その八月二日、三条河原に三六メートル四方の堀が掘られ、垣にかこまれた。東側に塚が築かれて、秀次の首が据えられる。秀次の妻と三人の子供、さらに二四人の愛妾たちが、京都市中を引きまわされたのち、三条河原で車から下ろされて、垣のなかに引き据えられた。  正妻は、右大臣菊亭晴季の娘で三四歳。妻妾のほとんどが一〇代〜二〇代で、三人の子供たちはほんの赤ん坊かやっと三〜四歳だった。みな高い身分の生まれだったが、昨日までの華やかさと一変、今日は全員が真っ白な死装束姿である。  女たちも子供たちも、みな秀次の首に駆けよって、最後の別れを告げた。女たちは、それぞれ辞世の歌をしたためた。みな色好みの秀次が集めた、絶世の美女たちである。  ひげ面の残忍そうな処刑人が、まず愛らしい若君を母親の手から奪いとり、まるで犬でも扱うように、二刀で刺し殺した。母親も他の女たちも見物人たちも、声を忍ばせて泣いた。  つぎに処刑人は、泣き叫んで母親にしがみつく姫君を奪いとり、片手でひょいとつかみあげると、小さな胸を刀で二刺しにして投げ捨てた。さらにつぎの若君を母親から奪いとると、一刀のもとに首を切り落とす。  最後に、いよいよ妻妾たちの番である。女たちはすでに涙も涸れはて、みずからの運命を覚悟していた。ただ、出来るなら少しでも早く斬られて、この恐怖から逃れたい。それだけが、彼女たちの願いだった。  そんな妻妾たちを、男たちは一人ずつ引き立てると、長く豊かな黒髪もろとも、首をつぎつぎとはねていく。首の切り口からは真紅の血がほとばしり、白い死装束は見る見る朱に染まっていった。三十余人を斬り重ねたあとは、三条川原の大地も真っ赤な色に染まったという。 [#改ページ]   鋸引き(1) 「鋸引き」という刑罰も、昔よく行なわれたものだ。『言継卿記』によると、天文十三年(一五四四)八月一一日、和田新五郎という男がモドリ橋に縛りつけられ、まず、左右の手を鋸でひき切られた。  切断された手の傷口からは骨がのぞき、罪人は血の海のなかでのたうちまわって苦しんだ。それも意にかいさぬように、役人はつぎに、罪人の首に鋸の刃をあてて、ゆっくりとひき切った。ひくほうもひかれるほうも血みどろになるという、とても見てはいられない光景だった。 「鋸引き」は特に、�主殺し�や�親殺し�のような、人道上許せない大罪に科された極刑である。昔は、首から上を地上に出し、立ったままで土に埋め、毎日少しずつ鋸で首をひき切り、一週間ほどかけてじわじわ殺す方法だった。  江戸時代以降になると、罪人を土に埋めておき、「希望者は勝手に鋸で引いてよろしい」と書いた札を立てておいた。とはいっても、実際にひく者はほとんどいなかったが。 「鋸引き」には普通、引き回しとはりつけがセットになっていた。罪人は二日間、縛られて市内を馬で引きまわされたあと、日本橋南詰の広場に連れてこられる。そこには三尺四方、深さ二尺五寸の穴が掘ってある。  穴のなかには晒し箱が置かれ、箱の底にはむしろが敷かれている。囚人は馬からおろされてむしろに坐らされ、箱のなかに立てた杭に縛りつけられる。  囚人の首には首枷板をはめ、首だけを地上に出して、その周囲は土をかけて固めてしまう。それでも逃げられる恐れがあるので、砂俵六個を重しがわりに、板のうえに置いた  傍らに長さ三尺もある鋸を置き、さらに、囚人の肩を切って出た血を塗った、竹鋸を立てかけておく。罪状とともに、「首をひきたい者はひけ」と書いた掲示板とともに、さらしものにするのである。  とはいえ、通行人が実際に罪人の首を鋸でひいたという記録はあまりない。一度だけ、日ごろの恨みを晴らそうとでもしたのか、近づいて鋸で罪人の首をひこうとした者がある。ところが、罪人があまりすさまじい顔で睨みつけたので、ギョッとしてそのまま逃げかえり、あげくは熱を出して寝ついてしまったという話も伝えられている。  罪人は二日間そうして晒されたあげく、はりつけにかけて処刑された。 [#改ページ]   鋸引き(2)  天正元年(一五七三)四月、武田信玄が病死した。息子の勝頼は父の遺言だとして三河(愛知県)・遠江(静岡県)を攻撃しつづけて、それらを支配する徳川家康をはらはらさせた。  天正二年、勝頼は美濃東部へ進軍すると、折りかえし東の要衝である高天神城を落とした。そこから遠江への進出をつづけ、ついに三河への大攻撃を企んだ。まず敵の内部を攪乱してから、一気に攻め落とすという戦略である。  その道具に選ばれたのが、家康の寵愛する大賀弥四郎という男だった。弥四郎は生まれは卑しかったが、すぐれた経済能力で家康に重く用いられていた。ただの足軽から、あっというまに、三河渥美郡二十余郷を一手に牛耳る代官に取り立てられた。  しかし弥四郎の異例の出世ぶりは、同僚たちには、我慢ならないものだった。自分たちよりはるかに生まれが卑しいくせに、なぜ大きな顔をして、我々にいろいろ指図するのか。彼らは弥四郎を毛嫌いし、何かというと仲間外れにした。  疎外感を強まらせていた大賀弥四郎は、武田側の誘いに容易にのってきた。水面下の接触がつづき、武田側はついに弥四郎の籠絡に成功した。が、もう一歩のところで、彼の反逆は密告されてしまったのである。  弥四郎を可愛がっていただけに、徳川家康の怒りは激しかった。おりしも武田勝頼の侵入が始まっており、家康は家臣たちに対して、反逆者の末路の悲惨さを徹底的に思い知らせねばならぬ立場にあった。  徳川家康は、信長や秀吉にくらべて残酷な男でなかったように言われるが、実際はそうではない。彼の評判が良いのは、徳川二六〇年のあいだに、御用史家から神格化されてしまったおかげである。  弥四郎の処刑は、残虐ショーのごとく演出された。彼は顔を馬の尻に向けて乗せられ、鞍に縛りつけられた。首金もはめられ、背には旗がくくりつけられた。彼が反逆を起こしたとき、味方を集めるために使おうと用意していたものだったという。  こうして馬上の弥四郎は家康の拠点である岡崎から、新拠点の浜松へと、町中を引きまわされた。大勢の人々がその周囲をとりまき、手に手に笛や太鼓やほら貝を持って、にぎやかにはやしたてた。  最初に、弥四郎の妻子八人が、はりつけにかけられた。弥四郎自身は岡崎の町中に連れてこられ、まず両手の指をすべて切断され、足の筋を切断された。  さらに首だけを出して、生きたまま土中に埋められた。土から突き出た首には板がはめられ、そばに竹製の鋸が置かれた。通行人に、この鋸を引かせようというのだ。竹製の鋸だから、無論、切れ味は二の次三の次で、できるだけ苦しみを長引かせようとしたのである。  何人の人が竹鋸をひいたかは、定かではないが、日頃の異例の出世ぶりから、弥四郎を妬んでいる者は多かった。何人もの男たちが、彼に悪態をついては、竹鋸で少しずつ首をひき切った。弥四郎は血みどろになってのたうちながら、それでも六日間そうして生き続けたという。 [#改ページ]   牛裂き  元亀三年(一五七二)、讃岐国の領主である三好長治が、山田郡木太郷で鷹狩りをもよおした。鷹狩りといっても、鷹と鴨を紐で結びつけて飛ばして遊ぶ、残酷な遊びである。  ところが、なんといっても相手は、羽のはえた鳥のこと、バタバタと空中を飛びまわったあげく、勇利権之助という侍の屋敷のまえに落ちてしまった。たまたまそこにいあわせた若松という名の幼僕は、突然目の前にわけの分からないものが降ってきたのに仰天。思わず持っていた棒で、それらの鷹と鴨を打ち殺してしまったのである。  これを聞いた三好長治は激怒して、さっそく若松を捕らえさせ、牛裂きの刑を宣告した。  いよいよ刑場に、まだあどけない少年が、引き立てられてきた。顔は血の気がひいて、真っ青になっている。役人は中ほどまでくると、少年を地面に腹這いにさせて、手足をおさえつけた。  つぎに、二頭の牛が引き出されて来る。牛は早くも殺気だって、鼻をふくらませ、息づかいを荒くしている。そして役人が、必死にあらがう少年の両脚を左右にひらき、その右脚を右側の牛の脚に、つぎに左脚を、同じように左側の牛の脚にくくりつけた。  刑場に集まった人々は、思わず哀れさに息をのんだ。少年が狂ったように泣き叫ぶのも意にかいさないように、役人は火をつけた松明を、何本も牛と牛のあいだに入れて、挑発した。恐怖のあまり猛り狂った牛は、それぞれ反対の方向に、火がついたように走りだした。  そのときゾッとするような悲痛な声がひびきわたると、少年の体は股から真っ二つに引き裂かれた。おびただしい血が吹き飛び、内臓はあちこちに四散して、少年は一塊の肉片と化して、別々の方角に引きずられていった……。  これが元亀三年、讃岐の国で行なわれた、聞くも恐ろしい処刑の情況である。この刑は、戦国時代にはかなり一般的なものだったと見え、美濃の領主、斎藤秀龍は、幼い子供までを�牛裂き�で殺したと言われる。 [#改ページ]   釜ゆで(1)  関白だった豊臣秀次に依頼され、ちどりの香炉を盗みに秀吉の寝所に入った石川五右衛門は、仙石権兵衛、薄田隼人正に捕らえられてしまう。拷問にかけられても依頼主をはかないばかりか、さらに五右衛門は秀吉を、「王位を盗み、天下を盗み、六十余州を奪いとった盗賊」と、ののしったという。  五右衛門の処刑に関して、車裂、鋸引き、逆磔、釜ゆでと、いくつかの方法が提案されたが、秀吉は当時もっとも見物人を集める処刑だといって、釜ゆでを選んだ。こうして五右衛門は、「石川や浜の真砂は尽くるとも、世に盗賊の種は尽きまじ……」の一句を残して、いよいよ冥土に旅出する……。  五右衛門といえば、強盗の元祖のように言われるが、豊臣秀次のはなったスパイだとか、伊賀の忍者百地三太夫の弟子だとか、さまざまな異説も唱えられる。とにかく『古老茶話』などによると、ただの盗賊ではないようだ。その処刑も、ただの盗賊の処刑にしては、あまりに大がかりなものだった。  三条河原の処刑場は、四方を三重の竹矢来でかこみ、そのなかに大釜が置かれている。使用したのは水ではなく、大樽一〇個以上もの油だった。柴は一〇〇ぱ、油がかり一〇人、柴がかり一〇人の足軽。しかも京都所司代みずから指揮して、五〇〇名以上の役人が、厳重な警戒にあたった。  縁座して殺されたのは、五右衛門の息子と母親と、その他同類一一人だった。煮殺しというより、生きた人間のカラ揚げ刑といったほうがふさわしく、秀吉の憎しみが、よほど深かったことが察せられる。  五右衛門は煮えたぎる油のなかで、苦しみ悶えながらも、子供の苦しみを少しでも軽くしてやろうと、両手で高くかかげていた。しかし最後に、子供を油のなかに投じて、自分の足で踏みつけたという。熱さのために狂乱して、そうしてしまったのか。それとも一気に殺すことが、子供のためだと思ったのだろうか?  ところで、�五右衛門釜ゆでの釜�だと伝えられるものが、日本各地にあるが、そのどれも、本物とは断定しがたいという。本物はたぶん三脚の大釜で、脚は外ぞりのものと推定されるが、残っているのは四脚だったり三脚だったり、脚が内ぞりだったり外ぞりだったりと、まちまちである。  慶長年間、奈良奉行の井上源五郎が、伏見城にあった五右衛門の釜をもらい受け、奈良に運んだといわれる。その釜らしいものが奈良監獄分署に保管されていて、警務協会に寄付されたというが、その釜というのも大変小さいもので、とても人を煮殺すような代物ではないという。恐らく、同型の模型ではないかと推定される。 [#改ページ]   釜ゆで(2)  釜ゆでといえば、石川五右衛門が油で煎り殺されたのに対して、水から茹でる方法もあった。会津の領主、蒲生家の処刑は残虐なことで知られるが、なかでも蒲生秀行(氏郷の息子)は、とくに釜ゆでの刑を好んで行なった。そのやり方も、きわめて残忍な趣向をこらしたものだ。  まず、大釜のふたに孔をあけ、そこから首だけを出せるようにする。罪人の手足を縛り、木履《きぐつ》をはかせて、水の入った釜のなかに入れてふたをかぶせる。なるべく急に熱くならないように、釜の下からとろ火をたき、ふたのすきまから徐々に油を入れながら、長い時間をかけて湯を沸かす。  ようやくぐらぐらしてきたころ、いよいよ釜のなかにドクドクと油をそそぎ込む。沸騰する湯と油で煮殺されるのだから、罪人はたまったものではない。必死に釜のふたを破って這い出そうともがき、わめき、救いを求める。秀行は、それを見て、ひそかに楽しむのである。ときには罪人の肉親に火の番をさせたというから、想像を絶する冷酷な男だったようだ。  やはり釜ゆで刑を好んだ男に、美濃の斎藤秀龍がいる。『太田牛一雑記』に、「山城(秀龍)は小科(微罪)の輩をも或いは牛割きにし、あるいは釜を据え置き、親子兄弟の者に火をたかせ煎殺事、冷たき成敗なり」とある。煎殺すという以上、こちらは油でゆでたらしい。  釜ゆでとか煮殺し刑とかいうが、特に決まったやり方があったわけではなく、『信長記』には「釜にて煮る」、『土津霊神言行録』には「熱殺」、『甲陽軍鑑』には「いり殺し」と書かれている。それぞれに、文字にふさわしい方法をとったのではないかと考えられる。 [#改ページ]   焼き殺し  わが国の権力者の行なった大量殺人といえば、やはり織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちが、その最たるものだろう。延暦寺は平安初期に最澄が開いて以来、多くの偉大な仏教者を出した、わが国最高の寺院である。しかし信長の時代は、僧侶たちは酒や女に溺れ、堂舎は荒れはてていたという。  が、延暦寺の僧侶がいかに堕落しようと、信長がそれだけで焼き討ちまでやるはずはない。実は延暦寺の僧兵が、朝倉と浅井に加担して、織田側を攻めたことが、信長を立腹させたのである。  元亀二年(一五七一)九月一二日、織田信長は三万の軍勢を率いて、比叡山焼き討ちを開始した。まず坂本に突入して延暦寺の鎮守、日吉山王神社と、坂本の町を焼きはらった。内の社一〇八社といわれた日吉山王神社は、すべて灰塵に帰し、僧侶たちは命からがら山上に逃げた。  それを追って山上に攻め上り、延暦寺へ突入した織田軍は、山の四方に火を放って逃げ場を絶ち、老若男女をことごとく焼き殺すという、むごたらしい殺し方をとった。『信長公記』は、こう記している。 「九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一社を初め奉り、霊仏・霊社・僧坊・経典一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰塵の地となすこそ哀れなれ。山下の男女老若、右往左往に廃忘致し、取る物も取りあへず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、社内へ逃げ籠る。諸卒四方より鬨声を上げて攻め入る。僧侶・児童・智者・上人、一々に頸をきり、信長の御目に懸くる。是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、其の外、美女・小童・其の員をも知らず召し捕へ召し列らぬる。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、其れは御扶けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を討ち落とされ、目も当てられぬ有り様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合はせなり」  家臣らが助命を乞うているさまが察せられるが、信長はそれにも耳を貸さず、悪魔のような冷酷さで、三〇〇〇人もの人々を、いとも無造作に虐殺したのである。  たしかに延暦寺の僧侶のなかには、堕落した者も多かったろう。が、なかには真面目に修行にはげんでいた僧侶もいたはずだ。あるいは金で買われて、悪僧たちの相手をさせられる女たちもいただろう。が、信長はそんなことに頓着するような男ではない。  山王二一社三千余坊はあとかたもなく焼け、伝来の仏も経典も宝物も火のなかに消えた。比叡山からあがる紅蓮の炎は、四日間にわたって空を焦がしつづけたという。  三年後の天正二年(一五七四)元旦、信長は岐阜城で家臣たちから年始の挨拶を受けていた。他の家臣たちが辞去して、馬回りの者だけになったとき、信長は、「珍しいものを見せてやろう」と、小姓たちに命じて三つの頭蓋骨を運ばせた。  さんざん自分を手こずらせて死んでいった、妹婿の浅井長政、その父の久政、そして朝倉義景の頭蓋骨である。漆塗りにして、金粉まで塗られている。家臣らが思わずいやな顔をすると、 「どうしてそんな顔をする。これまでにないような珍しい肴ではないか。これを眺めながら酒をのむと、味も格別だ」  と言った。実は四年前、信長は朝倉義景を越前に攻めたとき、味方と思っていた浅井に背後をつかれ、危機一髪で戦場を逃亡したという苦い経験があった。信長の三名に対する憎しみは、そのときから一度も消えたことはなかったのである。 [#改ページ]   火あぶり  しかし信長が行なった大量虐殺のなかでも、もっとも残虐なのは長島一向一揆の捕虜二万人の火あぶりだろう。  元亀元年(一五七〇)、石山本願寺は各地の門徒組織に、織田信長との徹底抗戦を命じた。以来、信長は、美濃(岐阜)・尾張(愛知)・伊勢(三重)国境の長島願証寺に結集する長島一揆を何度も攻めては、苦汁をなめさせられていた。  天正二年(一五七四)七月、信長は伊勢長島の一向一揆討伐のため、岐阜を出発した。三度目の攻撃である。このたび一揆側は武田や浅井の支援を得られなかったのに対して、信長のほうは当地方の水軍を支配する九鬼|嘉隆《よしたか》を味方につけ、一〇万の兵を擁していた。  前回と違い、信長は伊勢湾を海上封鎖して、持久戦の兵糧攻めに持ちこんだ。一向一揆側は、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の五カ所の城にこもって抵抗した。  八月二日、台風が襲ってきた。大鳥居にこもっていた一向一揆勢は、闇のなかを外に打って出たが、包囲していた織田軍は大砲をぶっ放して、一〇〇〇人あまりの兵を殺傷した。  運良く逃げた者たちは、長島、屋長島、中江の三つの城に入った。が、長期抗戦の準備がしてなかったので、海上からの物資が尽きて、老人子供がつぎつぎ餓死していった。  九月二九日には、長島輪中もついに力尽き、全面降伏を申し出た。信長は快く許したが、それは真っ赤な嘘だった。武器を捨てて船で輪中を出た長島の人々を、鉄砲隊の一斉射撃で迎えたのである。  激昂した一揆側は、刀を抜いて水に飛び込み、織田軍に斬りこんでいった。その数七〇〇〜八〇〇。「窮鼠猫をかむ」の言葉どおりに彼らは戦って、「留守の小屋小屋へ乱れ入り、思ふ程、支度仕り候て、それより川を越え、多芸山、北伊勢口へ、ちりぢりに罷りたり退き」、門徒の中心地の石山本願寺に命からがら辿りついたという。  のこる中江・屋長島の籠城勢については、生け捕られた者だけで二万人。信長はそれらを、一人残らず火刑に処すと宣告した。さすがの門徒らも恐れおののき、泣きわめいたり、手をあわせて命乞いする始末だった。家臣らも止めたが、信長は耳を貸さなかった。  二万人の捕虜は数珠つなぎにされて、広場に引き出された。彼らは柱に縛りつけられ、周囲に薪や柴が積みあげられて火がつけられた。吹いてきた風にあおられて、あたり一面が巨大な紅蓮の炎に包まれた。  広場には悲鳴や絶叫が鳴りひびき、二万の捕虜たちは、灼熱地獄にのたうちまわった。阿鼻叫喚のひびくなか、見物人はたちこめる悪臭と煙に、息も出来ないほどだった。まもなく一人残らず死んでいったが、刑場からは黄色い煙と悪臭がいつまでも立ちのぼったという。  本願寺の門徒らは来世を信じているから、世俗権力の支配に恐れ知らずに徹底的に抵抗する。これらの門徒を根だやしにしない限り、自分の支配が完成しないことを、信長はよく分かっていたのである。 [#改ページ]   箱  昔の日本では、全裸にした女を箱のなかに閉じ込め、四肢を釘で打ちつけて、河や海に投げこんで水死させるという、�箱磔�の刑もよく行なわれた。 『武道伝来記』のなかに、一人の男をあいだに争って、同僚の女七人をつぎつぎに殺害した女が、この刑に処されたという記録がある。  殺された女の遺族たちが、復讐のため厚い木で大きな箱をつくり、その女の手足を箱のなかに押し込み、大の字に寝かせて手足を釘で打ちつけ、生きたまま海に流したというのである。 [#改ページ]   三段斬り  金沢藩で行なわれた極刑のなかに、「三段斬り」というめずらしいものがある。  はじめに、罪人を後ろ手に縛りあげ、縛った縄を高い横木にかけて引っ張りあげ、罪人を宙吊りにする。  罪人は後ろ手に吊るされて、だらりと足を下げている。この状態で、三段斬りを行なうのである。  まず、下半身を一刀のもとにえいっとばかりに斬り落とすと、残った胴より頭のほうが重くなり、これまで上にあった頭が、くるりと半回転して下になる。  そこをすかさず、今度は首を一刀のもとに斬り落とすのである。落とされた頭が地面に落ちて勢いよくころがる。  この三段斬りは見せしめのため、外の刑場で、大勢の見物人の見守るなかで行なったというから、いってみれば残酷ショーのようなものだったろう。 [#改ページ]   すまき  囚人を縛りあげて柴でつつみ、荒縄でぐるぐる巻きにして、大石をおもりとして結びつけ、水底に沈めて殺す方法を、「すまき」と呼ぶ。  賭場あらしやインチキ賽《さい》を使ってイカサマ賭博を行なった者に対して、用いられた処刑法である。俗に「水を飲ませてやれ」というのが、このすまきのことだ。  簀《す》(よしを並べて数カ所を紐で編んで作った日よけ)をひろげ、そのうえに囚人を寝かせて、簀でぐるぐると海苔巻きの寿司のように巻く。そしてそのうえを荒縄で厳重に縛りかためて、二、三人でかつぎあげて運び、大石のおもりをつけて河中に放り込んでしまう。簀の材料は水に浮くので、しばらくは沈まないで、河の流れにまかせて、浮き沈みしながら流されていき、やがて海に出てしまう。溺死しないあいだに救助されれば助かるが、引きあげてもらえなければ、いかんとも仕方ない(もちろん本人は泳げない状態にされているのだから、水をのむか、窒息して死んでしまう)。あわれ溺死してしまうというわけである……。 「すまき」は、もっと昔には「柴漬け」と呼ばれ、日本の各地で数多く行なわれていた。有名史実としては、源頼朝の命令で、源義経と愛妾である静御前のあいだに生まれた嬰児を、�柴漬け�と称して鎌倉の海にしずめた記録がある。 [#改ページ]   六所斬り  昔から、浮気した人妻に与えられた拷問は、陰湿でサディスティックなものが多い。  たとえば両手の指一〇本を、根本から斬り落とさせる方法。これは、「お許し下さい。もう二度といたしません」などと言いながら、自分で自分の指を、一本ずつ斬り落としていかねばならない。  しかしそれ以上に残虐なのが、「六所斬り」という処刑だろう。六所とは、耳、鼻、両腕、乳房、局部、両脚の、計六カ所のこと。  それを上のほうから一つずつ、ゆっくりと時間をかけて斬り落とし、あるいはえぐりとっていく。そのあいだも、女が苦しみ悶えるのを楽しげに見物しながら、「どうだ、苦しいか。もっと苦しめ、もっと呻け……」などと、悪態の限りを投げかけ、ありったけの憎しみを刃物にかけて、思う存分、女を責めさいなんでいく……。 [#改ページ]   見せ槍  江戸時代には、斬罪以上の重刑者は、処刑前に柱に縛りつけ、馬に乗せて町をまわり、公衆に見物させた。先頭には六尺棒を持った五人の男が進み、その後に幟《のぼり》持ち、棄て札持ち、朱槍持ちの順でつづく。  罪人は白衣を着て、首に白数珠をかけ、後ろ手に縛り上げられ、裸馬に乗せられてつづく。幟には、姓名、生国、罪状、刑罰が記してある。このように大掛かりなものだから、沿道の人々は店を閉め、通りには大勢の群衆が集まってきた。通りがかりに罪人が店をみて、何か欲しいと訴えたとき、それを与えなければならない慣習になっていたので、みな気味悪がって、店を閉めたのである。  男性と女性とは磔に使う柱が異なり、男性は棒三本をキの字型にした柱、女性の場合は十字架型の柱を用いた。市中を引き回されたあと刑場に到着すると、男たちが罪人を馬からおろし、地上に置かれた磔台のうえにあおむけにして縛りつける。そのとき、肌を突きやすいように、衣類を切り裂いておく。その後、十数名で、柱を起こして立てる。  処刑開始を命じられると、磔槍をたずさえ、白衣|股引《ももひき》脚絆に縄たすきの、男二名が進み出る。二人は磔柱の左右に立ち、囚人の鼻先で、二本の槍の穂先をカチリと交差させる。これが「見せ槍」である。  つぎに片方が「ありゃ、ありゃ、ありゃ」と声をかけながら、罪人の横腹から肩先にかけて、力いっぱい突きあげる。研ぎ澄まされた穂先は、肩から上に一尺ほど突き抜ける。  ひとひねりひねって槍を引き抜くと、間髪をいれずもう一人の男が、反対側から同じように刺しつらぬく。こうして左右交互に二〇〜三〇回突きまくり、最後にとどめとして、喉をつくのである。  たいていの罪人は、初めの見せ槍で気を失った。最初の一突きだけでも内臓を貫通するから、罪人は大声で泣きわめき、傷口から血が滝のようにあふれ、臓物も一緒に流れだして惨憺たる光景となる。  ときに手もとが狂って槍が骨に突き刺さり、にっちもさっちもいかなくなる。仕方なくこじるようにして槍を抜くが、そんなときの囚人の苦しさがどんなものかは言うまでもないだろう。  二突きか三突きで死ぬのが普通だが、それでもかまわず突きつづけるので、最後は脇腹に大きな穴があいた。死骸はそのまま三日二夜のあいださらし、三日後に柱からおろして、穴に投げ捨てるのである。 [#改ページ]   駿河問い  駿河町奉行、彦坂九兵衛が創案した、「駿河問い」という悪名高い責め方がある。  まず、罪人の両手首を背中にまわし、両足首も背中にそらせて、しっかりと縛りかためる。背中のくぼみに重たい石を乗せ、手足を縛った縄を、上の横木にかけて引っ張りあげる。  体を弓なりに反らせ、縄で吊るされるだけでも苦しいのに、背に石の重りを乗せられているのだから、その苦しみはたとえようがない。罪人は体中が紫色に変わり、額からは汗が滲みだし、うんうん唸りだす。しかしこれはまだ、序の口だ。「駿河問い」の恐ろしさは、むしろこれからの責め方にあるのだ。  吊り下げられた罪人を、右まわりなら右の方へ、何回もぐるぐる回すと、吊っている縄が、だんだん捩じれていく。これ以上捩じれないというところまで来て、手をパッとはなすと、罪人の体は、ものすごい勢いで、反対方向にぐるぐる回転しはじめる。その勢いで、今度は逆の方向へ縄が捩じれていき、それがまたよりをもどして、ものすごい勢いでぐるぐる回転しはじめるというわけである。  このようにして何回となく、右まわり左まわりと、遠心脱水器みたいにぐるぐると勢いよく回転させる。これを繰り返すと、罪人は口や鼻など、体中の穴から血しぶきをあげ、全身から汗と脂をしぼり出し、それこそ地獄絵図のようなすさまじい光景になる。  罪人がぐったり動かなくなると、下におろして、水をかけて蘇生させる。そしてまた気がつくと、同じように繰り返し責めさいなむのである。当時の拷問に回数や時間の制限などはないから、それこそ何十回でも何時間でも、自白するまで繰り返される。  結局、罪人には、自白するか、それとも死んでしまうかの、二つの道しか残されていないのである。たとえ運よく命をとりとめても、一生、障害者として生きていく運命が待っていた。 [#改ページ]   石抱き責め 「石抱き責め」というのも、他の多くの拷問と同じく、まかり間違えば死にいたる拷問である。実際これを受けて死んでいった者も数多い。  まず、「十露盤《そろばん》板」という台を用意する。約六〇×五五センチの大きさの台に、三角形に削った、長さ六〇センチ余りの木材の棒を、五本打ちつけたものだ。このうえに、後ろ手に縛った罪人を正座させ、背筋をまっすぐのばして、後ろの柱に縄で縛りつける。  三角形の角が突き出た台に正座させられるだけでも、尖った角がすねに食い込んで飛び上がるほどの痛さ。これに取り調べの役人が、「白状しないと、石を抱かせるぞ」と責め立てる。罪人が白状する気がないと見るや、いよいよ「石抱き責め」が始まるのである。 �責め石�は、伊豆石と呼ばれる水成岩で、長さ約九〇センチ、幅三〇センチ、厚さ一〇センチで、重さが四五キロほど。それが一〇枚は用意されている。  罪人が白状しないと、膝のうえに責め石が一枚ずつ重ねられていく。二枚でも九〇キロ。それが三枚、四枚と重ねられると、三角棒の角が完全にすねに食い込み、それこそ骨まで達する。ここまで来ると、罪人は脂汗を垂らしながら悲痛な呻きをあげ、それがしだいに息もたえだえの喘ぎに変わっていく。  そこへ二人の下男が左右に立ち、石を揺さぶって、「どうだ、参ったか、さっさと吐いてしまえ」と責め立てる。おまけに笞で力まかせに打たれるものだから、罪人はたまったものではない。  しかしそれでもなお白状しないと、責め石はつぎつぎと積み重ねられていき、しまいに顔近くまで来ることもある。ここまでくると、いかに剛の者でも鼻や口から血を吹き出し、意識はもうろうとして、やがては悶絶してしまう。  立会いの医師は脇で、罪人の様子を見ながら、命が危なくなったときは拷問を中止させようと身構えている。見分け方は、罪人の足からしだいに、膝、腿、腰と、血の気が引いて真っ青になって行く。それが腹部のあたりまで来ると、もう危ないというわけだ。  責め殺してしまうのもしばしばだったが、役人には特に何の咎めもない。この拷問にかけられるのは人殺しや盗賊などの重罪人で、どうせ最後は死刑になるのだから、殺されてもともとというわけである。  拷問の時間にも回数にも制限はなく、それこそ自白するか死にいたるまで、何十回でも何年でも繰り返される。責め石を一〇枚積まれても白状しなかった者も二、三人はいたというが、一〇枚というと、重さは四五〇キロはある。これに耐えたというのだから、相当な剛の者であったのだろう。 [#改ページ]   海老責め  江戸小伝馬町牢屋敷内に、ぶ厚い漆喰の壁にかこまれ、一つしか入口のない、見るからに陰惨な小部屋があった。罪人たちはここを、「拷問蔵」と呼んで恐れていた。ここに押し込まれて扉を閉められてしまうと、もうどんなに悲鳴をあげようと、外には何も聞こえない。ここで、世にも恐ろしい拷問、「海老責め」と「釣るし責め」が行なわれたのだ。 「海老責め」は、背を曲げて縛ったかたちが、どこかエビに似ているので、こう名づけられた。まず、上半身を裸にして、両手を後ろにまわし、左右の手首を重ねて縛る。両足はあぐらをかくようにして、左右の足首を重ねて縛る。  そして後ろ手首を縛った縄を、一本ずつ左右にわけ、背をエビのようにまげ、あごを足首にくっつけて、後ろからの縄で、肩、腕、すねと一緒に、横一文字のかたちに縛りつけるのだ。  まるでアクロバットのような真一文字の形にされてしまうのだから、時間がたつにつれ、じわじわと苦しみが増してくる。そのうえ、ときにはこの姿勢のまま、棒で力まかせに打ちすえられるというから、たまったものではない。  半時間もたつと血行障害を起こし、全身がうっ血で真っ赤になり、脂汗が流れ出て、意識がもうろうとしてくる。もっとひどくなると、この真っ赤が不気味な紫色に、さらにはもっと黒みを帯びてくる。そうなると、血管が盛りあがり、呼吸がみだれ、あげくは口や鼻から血があふれ出して、仮死状態になる。  その場には医師が立ち会い、死のぎりぎり寸前まで見届けると、拷問を中止するよう指示を出す。すると縄をとき、薬や水を与えて、いったんは牢に返すという。だが、記録によると、この拷問を受けて、生き残ったものはほとんどいないのだそうだ。 [#改ページ]   キリシタン迫害(温泉岳地獄)  わが国の死刑史でも、外国にまで悪名をひろめた刑罰は、やはりキリシタン宗徒に対する拷問だろう。『日本西教史実』『耶蘇会日本年報』など、むごたらしい処刑のさまがつぎつぎと報道され、日本は残忍な国家として知れ渡るようになった。  歴代の支配者たちは、キリシタンの弾圧に対しては考えうる限りの残酷刑を用いており、そのむごたらしさは、世界死刑史上、例のないものかも知れない。  雲仙岳の硫黄泉に信者をつけて転宗をせまる、いわゆる「温泉岳地獄」の拷問をはじめたのは、九州の松倉重政である。寛永四年(一六二七)には、パウロ内堀作右衛門らの一六人を、翌々年には長崎の信者六四人を、雲仙岳の地獄におくった。  この拷殺法は、こうである。まず、キリシタンを馬にのせて温泉岳に連れていき、裸にして両手両足を縛り、地獄谷の池に立たせる。背中を断ち割って、熱湯を傷口にひしゃくで注ぎこむ。  つぎに硫黄がたぎっているなかに、キリシタンの全身をつけたり、引き出したりを、くりかえす。体中がただれ、皮膚はやぶれ、つぎつぎと苦しみながら息たえていく。  この拷問を経験した宣教師によれば、「硫黄分をふくむ熱湯はすさまじく沸きたち、チーズのような臭いを発散している。その湯をかけられると、肉は溶け、あっというまに骨があらわになる。煮え立った飛沫がかかると、骨まで溶けてなくなった」という。  少しでも長く苦しめるため、焼けただれた傷を手当てし、なおりかかるとまた責めさいなんだそうだ。この拷問にあって棄教したものは六十数人、そして殉教した者は三三人にのぼった。 [#改ページ]   キリシタン迫害(水磔) 『武門諸説拾遺』によると、寛永一七年(一六四〇)、徳川幕府は、改宗をこばむキリシタン七十余名を捕らえて、品川沖で水磔にかけた。「水磔」とは、囚人を磔柱に逆さに釘づけにして、海中に放置しておくものである。  満ち潮時になると、囚人の顔はもとより、首から肩あたりまで、水にどっぷりとつかってしまう。鼻から口から水が容赦なく流れこみ、それこそ囚人は息をつくことも出来ない。あまりの苦しさにもがこうとしても、体は磔柱に釘づけになっているので、身動きも出来ない。叫ぼうとしても、いたずらに水を飲みこむばかりで声も出せない。その苦しさはまさに、言いようのないものだったろう。  干潮時になるとようやく水が引いて、水面から顔があらわれるが、そのときにはもう、顔面は無残に腫れあがり、二目とみられない凄まじいものに変わりはてている。  それでも人間の生命力は強いもの。八日間,水のなかで苦しみながらも生き続けていて、ようやく息たえた者もあったという。  これに良く似たので、「水漬け」というものもある。税金を収めなかった農民を、目籠に入れて汚水のなかにしずめ、ときたま引きあげては責めさいなむというものである。  木の枝に逆さにして吊りさげ、滑車を通した吊り綱をゆるめて水中にしずめる。気絶しない程度の時間を見て、吊り綱を引いて水中から吊りあげる。これを何度も何度もくりかえすと、息は出来ず、血液が頭に集まって鬱血し、やがて悶絶してしまう。すると枝からおろして、水をぶっかけて正気に返らせては、また同じ拷問をつづけるのである。 [#改ページ]   キリシタン迫害(蓑踊り)  キリシタンを相手に行なわれた刑罰のなかに、「蓑踊り」というものがある。  竹矢来でかこまれた広い刑場に、男女子供の区別なく、転宗しないキリシタンを引きずりだして、全裸にむいて、肩から蓑をきせ、頭に蓑笠をかぶせる。そして、蓑藁がべとべとになるほど、頭上から油をたっぷりそそぎかける。  キリシタンらは、これから何をされるのかと、恐怖のなかで必死にイエス、マリアとつぶやいている。やがて、一人一人の蓑に、火がつけられる。蓑は恐ろしい勢いでめらめらと燃えあがり、あっというまに、炎のかたまりが幾つもできあがった。  燃えさかる炎に包まれ、火だるまのようになったキリシタンらは、苦しみ狂いまわり、たちまち阿鼻叫喚の生き地獄を現出する。彼らが狂ったように動きまわるさまが、まるで手や脚をふり乱舞しているように見えるので、意地悪い執行人たちが、「蓑踊り」と名付けて嘲笑したのである。  狂いまわるキリシタンらが、ついに力つきてその場に倒れると、すかさず獄吏たちが、囲いの外から柄の長い熊手や棒などでつつき起こし、さらに息絶えるまで責めつづけるのだ。  狂乱の舞踏をつづけさせられたのち、信者のある者は発狂し、またある者は、全身黒こげになって、苦しみ悶えながら息たえていくという。 [#改ページ]   キリシタン迫害(はりつけ)  キリシタンに好意的だった織田信長の死で、日本におけるキリシタンの地位は急変した。かくて島原の乱、出島、鎖国体制の確立、宗門改役の設置と、暗いキリシタン迫害の時代が明治六年(一八七三)までつづくことになる。  慶長元年(一五九六)九月、メキシコに向かっていたイスパニア船サン・フェリペ号が、台風にあって土佐に難破到着した。報告を受けた豊臣秀吉の命で、船の積み荷はすべて召しあげられてしまう。航海長のデ・オランディアは、これに腹をたて、 「イスパニアは広大で勢力もある。こんなことをしたら、あとで思い知らされるぞ」  と、検使として派遣された増田長盛を脅かし、 「わが国では、まず相手の国に宣教師を送ってキリスト教信者を育て、そしてその後に、信者保護のために軍隊を派遣するのだ」  と、うそぶいた。驚いた長盛は、ただちに秀吉にこの話を報告する。ちょうどそのころ秀吉の耳には、南米やフィリピンに進出したイスパニア人の暗躍ぶりが伝わっていた。話を吹き込んだのは、当時イスパニアのライバルだったポルトガル人たちである。  すでに天正一五年(一五八七)に、ばてれん追放令が布告されていたが、控え目に行動していたポルトガル系のイエズス会士らに対して、イスパニア系のフランシスコ会士らは、許しもなく教会を建てたり、ことごとく秀吉の布告にさからっていた。  そんなときのデ・オランディアの一言で、ついに秀吉の堪忍袋の緒は切れた。かくてイエズス会の三人、フランシスコ会の六人、日本人信徒など、総勢二六人が処刑されることになったのである。  慶長元年一一月一五日、彼らは上京《かみぎよう》の辻で、片耳ずつを殺《そ》ぎ落とされる。二六個の耳が切られ、宣教師も信徒たちも血まみれになった。つぎに首に縄をつけられ、数珠つなぎにして市中を引きまわされることになった。寒風ふきすさぶなか、獄衣一枚という恰好で、京都から伏見、広島から博多、長崎へと、陸路二百里を引きまわされたのである。  翌年二月五日、長崎立山の丘の頂上に、二六個の十字架が一列に並べられた。中央の十字架に六名の白人宣教師が、その左右に、日本人信徒のパウロ三木やヨハネ諏訪野など、一〇名ずつが架けられた。  囚人は長崎の方を向かせられ、両手足を横木に鉄環でとめられ、首にも鉄枷をはめられた。メキシコ人修道士ヘスースは、腰かけの横木に尻がとどかないので、鉄枷に首吊りになってこと切れ、舌がぺろりと口からはみ出ていたという。  冬の太陽が沈みかけるころ、いよいよ大処刑がはじまった。立会いの長崎奉行が刑吏に処刑を命じると、信徒らはいっせいに天をあおいで聖歌を歌いはじめた。  左右両端の十字架から始まり、刑吏は槍を手につぎつぎと信徒の体を突き刺した。ある宣教師を突き刺したとき、槍が折れて体のなかにとどまると、刑吏は十字架にのぼってこれを抜きとり、再び下から突きあげたという。  九州一帯に住む信徒は刑場におしかけ、涙ながらに祈りながら、残酷に殺されていく仲間たちを見守っていた。処刑が終わったときは、すでに周囲は深い闇だった。信徒らは十字架に押しよせ、十字架上の遺体からしたたり落ちる血を、着物の端や持ってきた布にひたした。血がしみこんだ土を大切に持ち帰る者もいる。  二六人の死体は八〇日間さらされたが、この処刑は見せしめとなるどころか、「二六聖人」と呼ばれて海外にまで伝わり、堅固な信仰のシンボルとなった。のちにこの刑場は、信徒たちから聖者山と呼ばれるようになる。 [#改ページ]   キリシタン迫害(ためし斬り)  慶長一五年(一六一〇)八月、オランダから家康に「ポルトガルは世界侵略が目的で、ヤソ教布教の名目で、日本も併呑しようとしている」という、ポルトガルに対する中傷文がとどいた。  そんなとき大久保長安事件が起きる。長安は卑しい生まれだが、家康に取り立てられ、財政を一手に握っていた。彼の死後、遺品のなかから小箱に入った密書が出てきた。スペインの兵力を借りて徳川の世をくつがえし、家康の六子忠輝を将軍に擁立するという陰謀計画だ。  さらに駿府城にひんぱんに怪火が起こり、キリシタンの犯行だという噂が立ったため、ついに家康はキリシタン弾圧を決意した。ポルトガル船イスパニア船の来航を禁じ、二度にわたって禁教令を発布し、みずから残虐な処刑を行なって手本を示したのである。  キリシタン大名有馬晴信の斬罪、岡本大八の火あぶり、高山右近のマニラ放逐もその一例である。元和三年(一六一七)には、日本人信徒ルイス、トマス、ビセンテなど、十数人が、死刑を宣告される。そのなかのルイスは、ある武士の新刀の切れ味をためすための、生け贄にされることになった。その武士の家に連行され、まず首を切り落とし、そのあと五体を無残に斬りきざまれたのである。 『キリシタン風土記』は、計三七九二名のキリシタンがどのような刑に処されたかを、つぎのような表で示している。  はりつけ…六〇  斬首…二一五三  火刑…四八一  獄死…六八五  寸断…二〇  穴づり…一二一  溺没(生きながら海に沈める)…二四  水責め…二二  その他…二二六 [#改ページ]   キリシタン迫害(火刑)  二代将軍秀忠は、父家康にならって、元和五年(一六一九)に京都で五二名のキリシタンを虐殺した。当時の京都所司代板倉勝重さえ、これには不快な顔をした。勝重は寛大な男で、キリシタンが挑戦的な態度をとらないかぎり、できるだけ弾圧を避けようとしていた。  ところが元和五年一〇月、秀忠がただちに信徒を一人残らず捕らえて皆殺しにするよう厳命してきた。勝重は仕方なく六三名のキリシタンを捕らえたが、それでもすぐに処刑しないで、牢に入れたまま放っておいた。  しかし秀忠に呼びつけられ、なぜ刑を行なわないのかと責められたため、勝重はしぶしぶ一〇月七日、五二名の処刑を行なうことになった。刑場は伏見街道に近い、加茂川の川原である。  当時の大名たちはキリシタンを火刑にするとき、出来るだけ苦しめるために、少ない薪を使い、さらに水をかけて火勢を弱めた。薪はわざと囚人の体から少し離れた場所に積んだ。それでも炎が燃えあがるとすぐ窒息死してしまうので、水をそそいで火勢を弱め、とろ火で長い時間をかけてじりじり炙り殺したのである。  さらに刑柱への縛り方もゆるやかで、自分で縄をほどいて逃げ出すことさえ可能だった。しかしそうすれば、殉教の栄誉は失われてしまうのだ。逃亡の機会を与えながら、遠火にかけて炙り殺すという、人間心理の弱みをついた前代未聞の残酷刑である。  ところが勝重は配下に命じて、薪をできるだけ多く用いて火力を大きくさせた。従来のとろ火でじりじり炙り殺す方法を避けたのである。川原には二六本の十字架が立てられ、信徒が二人ずつ背中あわせに縛りつけられた。  盲目の少女が姉とともに十字架にかけられたり、六歳の幼な子が母とともに十字架にかけられた姿は、人々の涙を誘った。刑がはじまり、炎と煙が周囲をおおいはじめると、幼児の母を呼ぶ声や、女の悲痛な叫びが刑場いっぱいにこだました。老人や子供は足に火がついただけで気を失ったり、縄が切れて炎のなかに落ちてしまう者もあった。 [#改ページ]   キリシタン迫害(一寸きざみ)  元和八年(一六二二)九月一〇日には、長崎立山で二六聖人いらいの大虐殺が行なわれた。イタリアのイエズス会神父スピノラほか外人宣教師九名、日本人宣教師、武士、一般信徒など、計五五名である。  みな四〜五年の獄中生活のあいだに、虐待と栄養失調で体は衰えきっていた。デ・サンフランシスコという司祭は、牢のなかの様子をこう書いている。「病人が多くて動けないまま用便を足すため、耐えられない臭気にさらされた。汚物が身を汚し、絶望のあまり病人の頭を柱に打ちつけて殺す者もいる。奉行の許しがないと死体を動かせないので、七〜八日も放ったままの死体があり、腐乱した膿汁が吹き出て、下にいる者のうえに糸のようにしたたり落ちた。あまりの臭気に牢内の者はうめき、叫びを発したものだ」  このときの処刑の犠牲者のなかには、ルシアとよばれる八〇歳の老婆もいた。彼女は皆に労《いたわ》られながら、「主の御名により天国へ召されるのですもの。どうぞご心配下さいますな」と、気丈に言い放った。火がつけられたが、薪は水に浸されているのでなかなか燃えず、哀れな老女一人を焼き殺すのに二時間以上かかった。それでもルシアは気も失わず、叫びもあげずに、ひたすら耐え抜いて神に召されていった。  この年、九州だけでも、一五〇名以上が残忍そのものの方法で処刑された。出来るだけ長時間かけて苦しめる目的で、つぎつぎと残虐な方法が考え出されたのだ。元和八年一〇月二日、長崎で死刑になった日本人信徒ルイスは、最初に真っ赤に焼いたハサミで体中の肉を一寸きざみに刻みとられ、つぎに局部を竹槍で突き刺された。  寛永元年(一六二四)一二月には、信徒のベントラ左伝次ほか九人が、氷の張った池に一日中漬けられて、凍死してしまった。家光の家臣の中川某は、土のなかに首だけ出して埋められ、三日間、首を少しずつ竹鋸で引いて殺された。  寛永九年には、ある日本人神父が穴吊るしという方法で殺された。体をぎりぎり巻きに縛って、地中に深く掘った穴のなかにさかさ吊りにするもので、血が逆流し、数時間もたつと口や鼻から血がしたたってくるという、凄惨そのものの刑だ。  これも、血が頭部に下がると早く絶命してしまうので、わざわざ頭や額やこめかみから血を抜いて、死までの時間を長引かせるという工夫がなされたという。  島原では、素裸にした女を髪の毛で木に吊るし、体にさまざまな拷問を加えてなぶり殺したり、男女を素裸にして口まで水につけ、引き出すと焼鏝を体中にあてて、また水につけ、今度は引き出して額にキリシタンと烙印をおし、石をつけて海に沈めて殺したともいう。ほかにも駿河問い、たいまつ焼き、竹籠入れ、俵責め、指切り、木馬責め、蛇責め、皮はぎなど、ありとあらゆる虐殺方法が考え出されている。 [#改ページ]   人肉スープ  明治三八年(一九〇五)、いわゆる「臀肉切り事件」が起きて、世間を騒がせた。河合荘亮という一一歳の少年が、銭湯帰りに殺害され、臀部の肉を刃物で切り取られた事件である。その犯人と目されるのが、「臀肉切りの男三郎」と呼ばれる、有名な人食魔だった。  明治三八年五月二八日、東京麹町飯田町の停車場に、数人の人々が集まった。将校の制服姿で、腰にサーベルをさげた野口男三郎と、彼の出征を見送ろうとする友人たちである。  当時は日露戦争の真っただ中で、巷は日本海大海戦の話題で持ちきりだった。そんなご時世、男三郎は自分が、帝国陸軍�満州司令部付の通訳官�として、戦地に赴くのだと吹聴していたのである。  午後六時、ホームに汽車がすべりこんできた。仲間たちは口々に男三郎に激励の言葉をあびせた。男三郎は笑顔で礼をいい、汽車に乗り込もうとした。しかしその瞬間、麹町署の刑事たちが、物陰からぱらぱらと飛びだしてきたのである。  男三郎は一瞬うろたえたが、すぐふところに手を入れ、隠し持っていた毒薬ストリキニーネを取り出して自殺を企てようとした。しかし刑事らはストリキニーネを手からはたき落とし、彼をとりおさえた。 「野口男三郎だな!」  唇を噛んで悔しがる男三郎を、刑事らはそのまま麹町署に連行した。友人たちは茫然とした顔でホームにたちすくみ、彼らの後ろ姿を見送ったのである。  発端はこうである。明治三八年三月二七日、東京麹町で、河合荘亮という一一歳の少年が、夜道で何者かに殺害される事件が起きた。少年の死体は、頸部に鋭利な刃物による切り傷があるだけでなく、左右の尻の肉が切りとられ、さらに両眼がえぐり出されるという残虐さだった。  事件は当時の人々を驚愕させ、さまざまな推測が飛びかった。少年の肛門が損傷されていることから、当初は男色愛好者の犯行とみられたが、その線の捜査はすぐに行きづまった。  ところがやがて、野口男三郎が真犯人として浮かびあがったのである。当時二三歳で、外国語学校の学生だった男三郎は、高名な漢詩人である野口寧斎の家に下宿していた。下宿中に、寧斎の妹で当時二六歳の曾恵子と肉体関係を結び、その婚約者のような立場になっていたのである。  野口家は、寧斎、妹・曾恵子、弟・文三郎、そして母の四人暮らしだったが、寧斎は五年前からハンセン病に冒されていた。当時ハンセン病といえば、遺伝か伝染による不治の病として恐れられていた。そして、人肉がハンセン病の特効薬であるという迷信が、ひそかに流されていたのである。 「臀肉切り事件」が起きて五日後、当時の読売新聞は事件の動機として、人々のあいだで噂されていた人肉薬用説をあげ、「大阪の人肉事件のように、人肉を医薬上に用いようとする迷信によって起こったものではないか」と推量している。  大阪の事件というのは、同じ年の二月に起きた、土葬された死体を掘り起こして、その首を売った事件である。そんな社会的背景のなかで、男三郎に、恋人の兄である寧斎のハンセン病をなおすため、河合荘亮を殺害したのではないかという嫌疑がかかったのだ。  麹町署の厳しい取り調べで、ついに男三郎は犯行を自供した。彼の供述はつぎのようなものだった。  男三郎が出先から野口家に帰りかけていた夜九時ごろ、近所の写真屋のまえを、一人の男の子が歩いていくのが見えた。すぐに計画を実行しようと、男三郎は後ろからその子を羽交い締めにして抱きかかえた。子供が声をあげたので、あわてて手で口をおさえた。  そして井戸のそばに連れていき、何処の肉をけずろうかとしばらく考えたが、尻の肉がいちばんいいだろうと、ナイフで尻肉を切りとって、ハンカチで包んで野口家に持ち帰ったという。  男三郎は翌朝、学校に行くふりをして、少年の肉を書籍と一緒に風呂敷にくるんだ。途中、京橋でコンロとナベと石炭を買い、木挽町の釣り舟屋で舟を借り、櫓を漕いで一人で海上に出た。  御浜御殿から一丁ほど離れた海の沖でいかりをおろし、釣りをしているふりをしながら、持っていった肉を塩水で清め、二時間ほどぐつぐつ煮こんだ。コンロ、ナベ、肉などの残りものは、すべて海に投げ捨てたという。  尻肉を煮込んだスープだけを持ちかえり、それから、赤坂の交番のそばの店で鶏のスープ一合を購入し、野口家に帰った。午後三時ごろのことである。それから義兄(寧斎)に、今日はよいスープを買ってきたと言って、人肉の汁にスープをまぜ、さらに五香という中国の香料をくわえ、飲みやすいようにして義兄にすすめた。寧斎は何も疑う様子もなく、それを飲み干したという。  その後、男三郎は自室に曾恵子を呼んで、今日はよいスープを買ってきたと話した。自分が飲まなければ曾恵子は疑うだろうと思ったので、自分から鶏だけのスープを飲んでみせた。すると曾恵子は、義兄に飲ませたのと同じスープを、何も疑う様子もなく飲み干したというのである。 [#改ページ]   SMごっこ  大正六年三月二日午後五時ごろ、龍泉寺町の開業医、末弘順吾は往診をたのまれて、近所の患者の家に向かった。二階に若い女が寝ており、そばに三〇ぐらいの男がすわって、布団のうえから女の胸をさすっている。  室内には、病人の体から発しているらしい、異様な臭気がただよっていた。医師が布団をめくって目にしたのは、世にも無残な女の姿だった。手足の指が何本も切断され、さらに焼け火箸による火傷跡や鋭い刃物による切り傷が、あちこちに発見されたのである。  異常を感じた末弘医師は、応急処置をすませると、所轄の下谷坂本署に通報した。坂本署からは織本警部補が係官をつれてその家を臨検。男を引致するとともに、証拠品数点を押収した。なお女は、警察医の手当てもむなしく、同夜死んでしまったという。  取り調べの結果、男は栃木県那須郡生まれの大工、小口末吉(二九歳)、女は小口の内妻で、府下瀧野川三軒家の矢作森之丞長女、よね(二三歳)とわかった。よねは以前、吉原のある遊郭で女中として働いており、そこで小口と知り合ったという。  取り調べの結果、ついに三日午前二時になって、末吉は逐一自白におよんだ。  小口とよねが同棲を始めたアパートの隣室に、山岸広治(二八歳)という妓夫が間借りしていた。妓夫とは遊郭の客引きのことで、昼間は部屋でぶらぶらしている。この山岸が、よねと肉体関係を持ってしまったのである。  最初まったく気付かなかった小口は、大工仲間からそれを知らされた。小口は一二月のある日、仕事先に行くふりをして、屋根にのぼって自分の部屋をのぞきこんだ。そこで山岸とよねが乳くりあっているのを目撃し、カッとした小口は、山岸とよねを殴りつけたのである。  結局、よねが小口に詫びを入れ、小口が山岸に一〇円の手切れ金をやって、けりがつき、翌年一月、二人は新規まきなおしとばかり、龍泉寺町の鈴木新吉方に転居した。しかし、生まれつき嫉妬深い小口は、よねの犯した不倫を思い出すたびに、よねを手荒く責めた。四肢を細紐で縛り、タオルで猿ぐつわをはめ、刃物で両足親指を切断したのを手始めに、焼け火箸で背中に「小口末吉の妻」と烙印を押したり、残忍きわまる凶行に出た。よねは生き地獄にも等しい折檻を浴びたあげく、ついに連日の虐待で死にいたらしめられた……。  以上が、警察が小口の自供から引き出した結論である。要するに、内妻よねの浮気を知って嫉妬に狂った亭主が、残虐きわまりない手口で殺害したというのが、当時の警察の見方であった。  よねを往診した医師が目のあたりにした光景は、死体解剖に立ち会った東京帝大法医学教室助手、古畑種基氏の著書『今だから話そう』(中央公論社)に、こう書かれている。(抜粋) 「部屋に入るなり、ゾッとするような悪寒を背筋に感じた。病人を寝かせたそばに、亭主らしい男が茫然とした顔ですわり、それでもフトンのうえから女の胸のあたりをさすっている。女のほうは頭からフトンをかぶったまま、苦しそうにあえいでいる。フトンをめくった医師は、いっそう強い悪臭に、思わず手をハナにあてた」  警察医が調べると、両足の親指がない。また、左手の薬指は第二関節以下がなく、同じ左手の小指の第二関節以下もない。しかも、全身が傷だらけで、腰から膝にかけては、二二カ所の傷が、体の前と後ろに二つずつ並び、陰部にもやはり左右に二つずつ並んだ傷が六カ所にあった。  さらに背中と右腕には、焼け火箸で「小口末吉の妻」と書かれている。背中のほうの傷は古く、字の形が崩れかけていたが、右腕の文字はまだ生々しかった。直接の死因は、数々の火傷のあとが化膿した自家中毒だと分かった。よねが死亡したのは、当日の夜九時ごろと見られる。  初めは小口末吉がよねを折檻死させたと見られたが、取り調べが進むにつれ、事件は意外な展開を見せた。二人はいわゆるサド・マゾの関係で、SM行為が加速するうちに、ついに殺してしまったことが判明したのである。  小口によると、 「よねが、山岸と関係を持ったことのお詫びとして、指を切りたいといいます。私が嫌だといったら、嫌だというのは別れる気だろうと言って、あくまで指を切ってくれと言い張るのです。  初め右手の小指を切ってくれと言いましたが、右手はいろいろ使うから、それだけはやめたほうがいいと言いました。すると、それでは左手の薬指だと言うので、そのとき左の薬指を切りました」  という。  小口によると、手足の指を切断したのは、たいてい肉体関係を持った直後で、女のほうから切ってくれと言うのだという。彼がためらっていると、女は自分で俎のうえに指をのせて、ノミで切りにかかる。しかしなかなか切れないで、おびただしい血が出てどうしようもなくなる。そこで仕方なく、小口が金槌でノミをたたいて切断することになるのだという。 「指の根を糸でしばって血の出ないようにして切ったのです。指はポーンと飛びました」  よねに迫られ、恐れおののく小口の姿が目に浮かぶようだが、これはまだ序の口で、よねの欲求は、さらにエスカレートしていくのである。  つぎによねが求めたのは、焼け火箸で「小口末吉の妻」と体に書くことだった。それを見て、自分が他の男に心を動かさないようにするためだという。最初、背中に書いてやったら、よねが「これでは自分で見えない」というので、改めて右の上膊部に焼きつけた。 「ところが、腕を下げると字が逆さになってしまうので、書き直してほしいという。そこで今度は向かい合いになって、左手に書いた。火箸はよねが、みずから炙ってくれた。  二、三日すると、今度は腕の外側にばかり書いてあるので、寝ていて見ようとしても何も見えない、寝ていても見えるように書いてくれという。なるほどと思って、今度は腕の内側に書いてやった。これで三通り書くことになった」  という。想像するだけで、何やらゾッとするような光景だ。小口の精神鑑定にあたった浅田一によれば、「小口は精神病者というわけではないが、生まれつき性格は愚鈍、だから判断力、抑制力は普通人より乏しい」という。よねがそんな小口を、好きなように動かしていたようにも思える。  焼け火箸を、よねは痛がっただろうと聞かれると、 「彼女は手ぬぐいを固くくわえて我慢して、熱いなどと言ったことはありません。むしろ、大きなお灸より楽だと言っていました」  と、小口は答えた。そして、 「私は(性行為のとき)、臭くっていやだと言いました。私の股のところに妻の膿がくっつくからです。妻は人に見られるのがいやだと、長いあいだ湯にも行っていないので、体が汚れて膿があちこちにくっついていて汚いのです。それで嫌だといっても、承知しないのです。 (左上膊と右大腿部前面を示し、)ここを切ったときには、私は嫌だから、切らなくてもいいと言いましたら、切らないのはきっと別れるつもりだろうから、もう死んじまうといって、着物を着替えて出掛けようとしました。妻は死ぬ死ぬというので、おっかなくて仕方なかったのです。  切るかわりに傷をつけてくれといって、妻が着物をつまんだので、私は皮膚をつまんで匕首でちょっと切ってやりましたが、そのときも痛いともなんとも言いません。血も沢山は出ません。今度は足だといって、足を出しました。私が嫌だと言ったら、あなたが切ったも同じだといって、自分で切りました」  よねのなかで、苦痛がどのように快楽に変化していったのかという点について、セックス心理学者の高橋鐵氏はこう述べている。 「よねはあくなきオルガスムス追求のため、衝動的な自己破壊をおこなうにいたった。つまり性交によっても満たされない欲求不満を、指を切ったりするマゾヒズムで満たした」  小口はよねをもてあますどころか、心から気にいっていたようだ。ただ、小口自身が本当にサディストだったかどうかは、疑わしい。彼が言われるままによねを傷つけたのは、結局、彼女に逃げられたくない一心にすぎなかったようだ。  結局、マゾヒストのよねが、小口をいいようにあやつり、快楽の道具にしていたというのが、一番正しいところだろう。SMが行き着くところまで行ったのちの死は、彼女の望むところだったのかも知れない。浅田一の『法医学講義』にのったよねの写真を見ると、見るも無残に傷つけられた体とは裏腹に、美しい死に顔はかすかに微笑しているようだ。 「ほれられたのが悪いのです。もう決して惚れも惚れられもしません」と、小口は浅田との談話で語っている。まさに、本当の被害者は、もしかしたら小口末吉なのかも知れない。  起訴後の小口については、一審で懲役一二年の判決を受け、控訴中に死亡したという説と、判決を待たずに亡くなったという説がある。死因は脳溢血とも肺結核ともいう。 [#改ページ]   陰部切り 「陰部切り」で名高い阿部定事件が起きたのは、昭和一一年(一九三六)五月。二・二六事件の少しあとで、国内には戦争の気運が満ちていた。政府はこの猟奇事件で、世間の目をほかにそらそうとしたようだ。  そこでこの事件だけは、警察はすすんでマスコミ関係者に情報を提供したし、裁判所は裁判所で、裁判記録を積極的にもらした。事件があそこまで有名になったのは、そんな事情があったのである。  阿部定と石田吉蔵の二人は、事件の五月一一日から、東京、荒川の「満左喜」という料亭に泊まっていた。風呂にも入らず、何も食べず、酒だけ飲んで、一日中セックスしていた。一度は芸者を呼んだが、二人は芸者のまえでクンニリングスやフェラチオをくりかえし、石田のものが立つと、そのまま性行為におよんだという。  お定によると、一六日の夜、石田と寝ていると、彼がどうしようもなくいとおしくなり、腰ひもを彼の首に巻きつけ、女性上位でセックスしながら、首を絞めたり緩めたりしていた。彼女に言わせると、首を絞めると陰茎がぴくぴくして、快感が高まるのだそうだ。  その後、ぐっすり寝込んだ石田の寝顔を見ていると、彼を誰にも渡したくないという気がつのってきた。ついに腰ひもを彼の首にまわすと、石田がパッと目を見開き、「お定!」と叫んでふるいついてきた。お定は彼の胸に顔を押しつけ、「許して!」とすすり泣きながら、ひもを持つ手に力をこめた。  石田自身も、いつか自分がお定に殺されることは覚悟していて、「絞めるときには途中でゆるめるなよ。あとが苦しいから」と言っていたという。  一八のときから芸者をしてきたお定は、それまでの男のなかで、もっともセックスのうまい石田に、夢中になってしまった。そのときから、いわばお定がサド、石田がマゾという、SM関係が始まったのである。  首を絞めたあと、お定は石田の左腕に自分の名をきざみ、彼の陰茎と陰のうを切りとり、死体や布団に血文字を書き残してから、料亭を逃亡した。石田を殺してしまうと、奇妙だが、何かほっとした気分になったという。  生きているとき以上に、石田のことがいとおしくなり、死体の陰部をいじったり、自分の局部に押しあてたりした。そのうちに、このままでは捕まるだけだと思い、一刻も早くここを逃げ出さねばと考えた。  どうせ死体を持っていくのが無理なら、せめて石田の陰茎を切りとって持っていきたい。大切なものを誰にも触らせたくなかったし、それがあれば、何処に行っても、彼と一緒のような気がして寂しくないと思ったのだ。  死体や布団に『定・吉、二人』と書いたのは、石田を殺したことで、彼が完全に自分のものになったことを、他人にも知ってほしかったから。そして石田の左腕に定と刻んだのは、石田の体に自分をつけてあの世に行ってもらいたかったからだという。  一八日の夜は品川の旅館に偽名を使って泊まったが、その夜は一晩中、石田のものを愛撫したりしゃぶったり、果ては横になって自分の局部に押し込んだりしたそうだ。  この事件では、ここまでしたのに、なぜ彼女が石田の陰部を食べてしまわなかったのかが、一つの謎になっている。詩人の深尾須磨子も、「あれほど高まった愛なのに、何か尻きれトンボのような感じがする」と書いている。  その後、お定は、尋問者に心の変化をこう述べている。警視庁にいるころは、石田のことを話すのが嬉しかったし、夜になって石田の夢を見ると、なんだか嬉しかった。けれど最近では、石田にすまないことをしてしまったと、後悔するようになった……。 [#改ページ]   フェラチオ  これなどは、いわゆる殺意なき殺人と言ったらいいのだろうか?『科学警察研究所報告法医学編』の昭和六二年八月号に掲載された、奇妙な事件である。ある日、徳島県に住む二三歳の女性が急死した。身長一五六センチ、体重六二キロと、やや肥満体で、そのとき生理中だったという。  調べによると、女性は前夜の午前二時に水割りを二杯のみ、一時間後、ごはんとハンバーグを食べて床についた。翌日の午後〇時三〇分ごろ目をさますと、隣に寝ていた同棲中の男性が急にいどんできた。  そのとき男のたっての希望で、生まれて初めてフェラチオを行ない、その精液を飲みほした。ところがその後まもなく顔を真っ赤にして苦しみはじめ、一時間後にあっけなく死んでしまったというのだ。  徳島県警科学捜査研究室で死体を解剖した結果、つぎのような結論になった。もともと肥満体で血圧が高かったのが、生理中でさらに高くなっていたこと。そこに、生まれて初めてフェラチオを行ない、精液を飲み干すという経験で、ショックを受けたことなどが重なって、死因となったというのだ。  それにしても、相手の男にしてみれば、彼女に�天にものぼるような�快感を味わって欲しいとは思っても、まさか本当に天国に行ってもらいたいとは思っていなかっただろうが……。 [#改ページ]  主要資料表(洋書は省略させていただきます) コリン・ウィルソン「世界犯罪百科 上下」青土社 片岡啓治編訳「血で書かれた言葉」サイマル出版会 ミハイル・クリヴィッチ他「52人を殺した男」イースト・プレス コーフェノン博士他「貞操帯の文化史」青弓社 ブライアン・マリナー「毒殺百科」青弓社 枝川公一「現代アメリカ犯罪全書」光文社 龍田恵子「バラバラ殺人の系譜」青弓社 ジョン・ダニング「秘儀殺人」中央アート出版社 ロバート・K・レスラー「FBI心理分析官」早川書房 ロバート・K・レスラー「快楽殺人の心理」講談社 リチャード・ラウリー「撫で肩の男」文藝春秋 ロバート・カレン「子供たちは森に消えた」早川書房 ジョン・ダニング「倒錯殺人」中央アート出版社 プシビルスキ「裁かれざるナチス」大月書店 下川耿史「死体の文化史」青弓社 吉田八岑「悪魔考」薔薇十字社 中田耕治「鞭打ちの文化史」青弓社 マーク・スミス、ジョン・ミネリー「ザ・暗殺術」第三書館 ジョン・ミネリー「ザ・殺人術」第三書館 山口椿「闇の博物誌」青弓社 ジョン・ゾンダーマン「アメリカ犯罪科学捜査室」廣済堂出版 シリル・ウェクト「大統領の検視官」徳間書店 下川耿史「殺人評論」青弓社 マリオン・ジョンソン「ボルジア家」中央公論社 西丸與一「法医学教室の午後」朝日新聞社 上野正彦「死体は生きている」角川書店 會津信吾他「近代日本の殺人ファイル」光栄 コリン・ウィルソン「殺人の迷宮」青弓社 コリン・ウィルソン「猟奇連続殺人の系譜」青弓社 平山夢明「異常快楽殺人」角川書店 N・ルーカス「セックス・キラーズ」中央アート出版社 コリン・ウィルソン「現代殺人百科」青土社 沢登佳人「性倒錯の世界」荒地出版社 ブライアン・マリナー「カニバリスム」青弓社 コリン・ウィルソン「殺人百科」弥生書房 北原童夢「フェティシズムの修辞学」青弓社 コリン・ウィルソン「コリン・ウィルソンの犯罪コレクション 上下」青土社 コリン・ウィルソン「殺人狂時代の幕開け」青弓社 マイク・ジェイムズ「死刑囚監房」青弓社 下川耿史「セクソロジー異聞」青弓社 ウィリアム・E・オライリ「FBI捜査官」光文社 ジョン・ダニング「冷血殺人」中央アート出版社 ジョン・ダニング「狂気の殺人」中央アート出版社 コリン・ウィルソン「情熱の殺人」青弓社 T・J・リーチ「絞首刑執行人の日記」青弓社 ジョン・ダニング「正真正銘の殺人」中央アート出版社 チャールズ・アッシュマン他「ナチ・ハンターズ」時事通信社 キティ・ハート「アウシュヴィッツの少女」時事通信社 塩野七生「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」新潮社 タイム・ライフ編「未解決殺人事件」同朋舎出版 タイム・ライフ編「大量殺人者」同朋舎出版 タイム・ライフ編「有名人殺人事件」同朋舎出版 コリン・ウィルソン「世界残酷物語 上下」青土社 ヴァルテル「ネロ」みすず書房 アンリ・トロワイヤ「イヴァン雷帝」中央公論社 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録「アウシュヴィッツ収容所」サイマル出版会 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角川ホラー文庫『美しき殺人法100』平成8年12月10日初版発行                  平成16年4月10日9版発行