[#表紙(表紙.jpg)] きれいなお城の怖い話 桐生 操 [#改ページ]  まえがき  本書のなかには、みずからの野心や欲望のままに生きた、男や女たちの赤裸々《せきらら》な姿がある。悪い奴ほど魅力的……という言葉があるが、たしかに誰からも好かれる優等生よりも、危険な匂いを秘めた悪党は、強烈に惹《ひ》きつけられる存在である。  そしてそれらの悪党悪女たちが、皆そろいもそろって美男美女ぞろいならば、なおさらのことであろう。たいていの美しいものにはトゲがある。同じように目のさめるような美女や美青年にも、危険な罠《わな》がひそんでいるのだ。  誰でも、ときには社会の制約をはみだして、自分のなかにひそむ危険な欲望を、思い切り解放してみたいと思う瞬間があるはずだ。そんな「悪」や「サディズム」や「残酷」への願望を身をもって生きた怪人物たちの肖像《しようぞう》を、思うさま描いてみたつもりである。  本書を読んでいるあいだは、しばしあなたも退屈な現実を忘れて、神秘の世界に迷い込んだ旅人になってほしい。いつのまにか気がついたときは、あなたはもう、その世界から抜け出せなくなっているかも知れない……。  一九九八年三月 [#地付き]桐 生  操 [#改ページ] 目 次  まえがき  血に湯浴みする伯爵夫人   エリザベート・バートリ[#「エリザベート・バートリ」はゴシック体]   奇妙な噂《うわさ》   美貌の持主   残酷な快感   夫も彼女を恐れる   鉄の処女   豪華な宴《うたげ》の果てに   不審を抱いた神父   青年の直訴   捕えられたエリザベート   牢獄に三年半  倒錯の愛に生きた不遇の作家   サド候爵[#「サド候爵」はゴシック体]   二つの顔   良識への挑戦   悪名がパリ中に   異常な性癖   マルセイユ事件の顛末《てんまつ》   アンヌとの恋   幽閉生活の始まり   妻への嫉妬《しつと》   書くことの喜び   牢獄での執筆   不遇の晩年  父を惨殺した美少女   ベアトリーチェ・チェンチ[#「ベアトリーチェ・チェンチ」はゴシック体]   処刑台の聖女   野獣のような父のもとで   地獄の日々   殺害の現場   深まる疑惑   拷問の果てに   裁判官への挑戦  美少年を愛した青髯男爵   ジル・ド・レ[#「ジル・ド・レ」はゴシック体]   美少年の叫び   祖父に育てられる   敵兵の処刑に興奮   巨額の濫費《らんぴ》   闇《やみ》の世界へ   行方不明の子供たち   舞台劇のような拷問   大がかりな子供狩り   告発されたジル   四十九カ条の起訴状   恐るべき告白  残虐な串刺し公   ドラキュラ[#「ドラキュラ」はゴシック体]   吸血鬼の代名詞   「串刺し公」   厳しい性格   皮肉な最期  悪魔に魂を売った男   グランディエ神父[#「グランディエ神父」はゴシック体]   美男の青年司祭   悪魔に憑《つ》かれた尼僧たち   ミニョン司祭の企《たくら》み   もう一つの悪魔つき事件   グランディエ失脚の陰謀   悪魔祓い興行   「針刺し」の儀式   グランディエ火刑   ジャンヌの最期  社会への反抗を貫いた男   泥棒詩人ラスネール[#「泥棒詩人ラスネール」はゴシック体]   ダンディな犯罪紳士   パリ中の人気者   暗い予感   最初の殺人   名高い『回想録』  バーデン・バーデンの白い貴婦人   オラミュンデ伯爵夫人[#「オラミュンデ伯爵夫人」はゴシック体]   幽霊の正体   若き辺境伯の恋   恋ゆえの恐ろしい罪   死を予言する亡霊  ロシアを騒がせた怪僧   ラスプーチン[#「ラスプーチン」はゴシック体]   皇太子の病気を治す   隠者マカーリーのお告げ   巡礼の果てに   不動の権力   皇后からの電報   無情な歯車   皇帝の不信   不吉な予言   ラスプーチン暗殺  残酷なコキュの復讐   フィリッポ伯[#「フィリッポ伯」はゴシック体]   評判の傭兵《ようへい》隊長   浮気の噂《うわさ》   妻への復讐《ふくしゆう》   恐怖の叫び声  参考文献 [#改ページ]  血に湯浴みする伯爵夫人 ———————————————————————————— エリザベート・バートリ[#「エリザベート・バートリ」はゴシック体] [#改ページ]   奇妙な噂《うわさ》[#「奇妙な噂《うわさ》」はゴシック体]  どこまでもどこまでも続く、荒涼たる不毛の荒野。吹きわたる風、遠くから聞こえてくる狼《おおかみ》の遠吠《とおぼ》え、舞い上がる土煙……。チェイテの城は、そんな荒野の上にそびえていました。通る人々を威嚇《いかく》するように、城というより砦《とりで》のような居丈高な天守閣を高くかかげながら……。  その下を通りかかるたび、村人たちは噂したものでした。城に一人住んでいるという伯爵夫人の話。とても美しい女だといいます。四人の子を持ったあと、偉大な英雄だった夫ナダスディ伯爵と死に別れ、まだ衰えていない美貌《びぼう》を、あたらこの田舎の古城でうもれさせているのだとか……。  それだけでも興味をそそるのに、もっと奇妙な噂がたっていました。実はこのお城に侍女としてやとわれてくる村娘たちが、つぎつぎと行方不明になっているというのです。「お城には吸血鬼が住んでいるのだ。恐ろしい魔物が住んでいるのだ。娘たちはそれに食われてしまったのだ……」村人たちは顔をつきあわせると、声をひそめ身を震わせながら噂したものでした。けれど真相は分からずじまいでした。その娘たちがどうなってしまったか。どこに行ってしまったか。生きているのか。死んでいるのか……。  不審に思っていたのは、村人だけではありませんでした。もう一人、チェイテ城の伯爵夫人に疑いの目を向けている人間がいたのです。村の神父、ポニケヌスでした。彼はしばしば伯爵夫人から、奇怪な夜の埋葬に立ちあうよう呼び出されました。着くと庭や畑の隅に土饅頭《どまんじゆう》ができていて、土まみれの手に鍬《くわ》をもった男女が数人、闇《やみ》のなかに立っています。誰が死んだのだろうと思いつつも、神父は命じられた通りその土饅頭に祈りの文句を唱えます。「この娘たちは疫病で死んだのです。村中に騒ぎを起こしたくないので、誰にも内緒にしておいて下さい」伯爵夫人の使用人たちの言いわけに、初めは神父も別におかしいとは思いませんでした。が、それにしては死体の数が多すぎます。それに死体の外観をひた隠しにしようとする用心深さ、死体の異常な若さ、死者が女ばかりなこと、埋葬場所の異常さも……。  これは何かある。そう睨《にら》んだ神父は、ある日、自分の目で真相を確かめることを決意しました。その晩、彼は従者といっしょに松明《たいまつ》を持ち、城と教会をつなぐ地下道につづく薄暗い石段を降りていきました。カビ臭い臭《におい》がただよう狭く長い地下道は、やがて割石が敷かれた丸い部屋に通じました。ここにはチェイテの歴代の城主の墓があるのです。  二人は忍び足で、薄暗い石壁のあいだを進みます。しじまのなかで物音が大きく拡大されて響くので、そのたびに身がちぢむ思いがしました。さらに数歩進むと、むっと刺すような悪臭が二人を襲いました。そして……、神父は発見したのです。床の上に山積みされた、蓋《ふた》に釘《くぎ》もうたれていない、ごく簡素な木柩《もつきゆう》。蓋を開けると、腐りかけた若い娘の死体がつぎつぎと見つかり、そのどれにも明らかに拷問のあとがありました。まだ腐っていない部分には何か鋭い刃物による無数の刻み跡があり、炭のように真っ黒な血が乾いてこびりついていました。  神父は吐き気を耐えるため、口に手をあて、恐怖にわななきながら、あとずさりしてつぶやきました。「やっぱり、やっぱり私の思っていたとおりだ……」   美貌の持主[#「美貌の持主」はゴシック体]  ここは小カルパチア山脈に囲まれた、十六世紀末のハンガリー。ルネサンスの文明から取り残されたこの地方は、まだ、中世の暗い雰囲気が残っていました。森には狐や狼が出て、妖術使《ようじゆつつかい》や魔女がマンドラゴラやヒヨスなどの毒草をつんでいました。そもそもあの吸血鬼伝説も、この東欧の暗く殺伐とした風土から生まれたものなのです。  エリザベートが生まれたのは、ハプスブルグ家につながるハンガリー屈指の名家バートリ家でした。トランシルバニア王やポーランド王、ハンガリー総督などを輩出した超名門でしたが、莫大《ばくだい》な財産と広大な領地を失わないため近親結婚をかさねたので、痛風、癲癇《てんかん》、そして狂気といった病気を受けついでおり、家系には狂人や同性愛者、色情狂、悪魔崇拝者などの、変質者や奇人がたくさん生まれていました。  エリザベート自身は、まれに見る美貌の持主。おさないころから蝶《ちよう》よ花よとかしずかれ、何不自由ない少女時代を送っていました。ところが十五のとき、九百年つづいた軍人の家柄であるナダスディ家のフェレンツ伯に嫁いでから、生活は一変したのです。ガミガミ屋で口うるさくて四六時中そばに付きっきりで一挙一動を監視する姑《しゆうとめ》、トルコとの戦いに出かけて、ほとんど帰ってこない軍人の夫。人里離れた寂しい離城で、はなやかな社交生活もダンスもない退屈な生活……。おまけにいつまでも子供ができないので、姑にはまるで彼女の責任のように責め立てられて。  そんななかでエリザベートのたった一つの楽しみは、姑の目を逃れて何時間も鏡のまえにすわり、ドレスを色々とりかえたり、ありったけの宝石を出して身につけてみることでした。ほっそりした卵型の顔、細かくカールしたブロンド、くっきりした額、放心したように焦点の定まらない目……。不思議な近よりがたい美しさが、彼女には漂っていました。  わたしは美しい、美しいんだ。エリザベートは鏡にむかってそうつぶやくのでした。こんな片田舎の城で、姑にこき使われ、夫の留守を守る、子を産むための道具みたいな生活に甘んじたくはない。まだわたしは若いのだもの。この美しさのために、もっと沢山の男たちを泣かせ狂わせたい。この美しさのために幾千もの城をほろぼし、幾万もの血を流させたい。わたしの美しさには、それだけの価値があるはずだ……。  孤独な生活のなかで、エリザベートのナルシシズムだけが異様にふくらんでいきました。   残酷な快感[#「残酷な快感」はゴシック体]  けれど長い不妊のあと続けて四人の子供を産むと、エリザベートの肌にはめっきり衰えがめだつようになったのです。やがて怪しげな妖術使の女が、黒のマントに身をつつみ、森で摘んだいろんな薬草を持って、城を訪れるようになりました。毎日のように部屋では大釜《おおがま》で湯がわかされ、女たちがコンロの上でこってりした緑の芳香薬をかき回したり、薬草を潰《つぶ》して動物の脂肪にまぜ、その上に香のエッセンスを振りかけるという光景が見られるようになりました。  その朝も侍女がガラスの小瓶に入った薬液を大切にささげもって、エリザベートの部屋に入ってきました。彼女の肩と胸をむき出しにし、小瓶から青緑のどろどろした液体をすくいあげ、真っ白な肌のうえにのばします。  エリザベートはうっとり目を閉じました。頭は酔ったようにふらふらし、全身がほてり、体内の血が騒ぎます。娘の指が乳房のあいだや腋下《えきか》を軽くすべるとき、切ない快感が走ります。これまで知らなかった感触でした。夫の単調な愛撫《あいぶ》とはまるで違う、優しくいつくしみ撫《な》でさする感触……。エリザベートはわななきながら、この愛撫が少しでも続くようにと祈りました。が、やがて我に返ったとき……。 「何をするの? 手をおはなし!」  とっさに叫んで、彼女は髪にとめていたピンで、召使の手を思いきり突き刺しました。娘は叫びをあげて飛びすさりましたが、エリザベートは彼女をどこまでも追い詰めては、体のあちこちをピンでつつきまわします。娘は恐れおののいて掠《かす》れた声をあげながら、部屋中を逃げまわります。それを左右に追い詰めながら、エリザベートは残酷な快感に狂っていました。  けれど誰もこのときはまだ、これが我儘《わがまま》な奥様のただの気紛れだと考えていました。それがただの気紛れですまなくなる日が来ようとは、誰も想像したものはいなかったのです。  その朝もいつものように侍女に鏡のまえで髪をすかせていたとき、新入りの侍女の不器用な手つきに、エリザベートはヒステリックな声をあげました。 「痛い! なんてヘタクソなの?」  ふりむきざま、侍女の頬《ほお》を荒々しく打つと、娘の肌からほとばしった血がエリザベートの手にとび散りました。急いでハンカチで拭《ふ》きとりながら、何気なく自分の手を見ると、気のせいか血のついていた所が、他の部分よりスベスベしてきたように思えるのです。  エリザベートは狂喜しました。そうだ、これだ。水薬も軟膏《なんこう》も、もういらない。妖術使さえ知らなかった美容法がここにあるのだ。若い娘の血。その血をぬぐいさったあとの、この瑞々《みずみず》しい肌!  大急ぎでエリザベートは、忠実な召使のフィツコに命じて、黄金の盥《たらい》を部屋に運ばせます。ひとりの娘が後ろ手に縛られて連れてこられ、服をはがされて、無理やり盥のなかに追いやられます。召使のフィツコが娘の腕をきつく縛り上げ、女中のヨーが鞭《むち》で全身をうちのめし、助手のドルコがカミソリで娘の体にあちこち切り傷をつけます。盥のなかでのたうつ娘の全身から、驟雨《しゆうう》のように血が飛びちるのです……。  血が最後まで抜かれると、召使が娘の死体を毛布に包んで運びさり、エリザベートは裸になってゆっくりと盥のなかに足を踏み入れました。その瞬間、彼女の全身を激しいおののきが走ります。「ああ、若い娘の血、若い娘の血!」エリザベートは喜びの声をあげ、我を忘れてその血を手のひらですくっては、体中のあちこちに振りかけます。「ああ、二十歳の肌。二十歳の肌!」  このときから女中たちは、娘の血を求めて近くの村をさまよい歩くようになりました。 「伯爵夫人に仕えれば、これまでみたいな貧しい生活はなくなる。継ぎはぎだらけの服で泥のなかで働いたり、冬の寒さであかぎれを作ったりという惨めな生活はもうお終《しま》いだ。給料も食物も服も与えられ、天国のようなお城で、伯爵夫人の召使としてじきじきに召し抱えられるのだよ……」  その言葉を信じて、娘たちは元気いっぱいで城への道を上がるのでした。たしかに最初は下にもおかない扱いをされ、衣服も与えられ、風呂《ふろ》にも入れられてこざっぱりした身なりをさせられます。けれどその後彼女たちを待っていたのは、身も凍るような運命でした。まずは「家畜小屋」と称する地下の石作りの部屋に閉じ込められ、充分な食物を与えられ、まるまる太らされます。彼女らが太れば太るほど良い血が出るとエリザベートは信じていたので、市場に出す家畜のように栄養がたっぷり与えられていたのです。そしてそのあとは……。   夫も彼女を恐れる[#「夫も彼女を恐れる」はゴシック体]  エリザベートが与える拷問は、千差万別でした。わずか梨《なし》を一個盗んだところを見つかった娘は、裸にされ後ろ手に縛り上げられて、城庭に引き立てられます。縄のはしを持った召使に肩をこづかれ無理やり歩かされたあとで、娘は樅《もみ》の大木を背に立たされ、縛り上げられます。逃れようともがく娘の腕に、たちまち縄は何重にも食いこみ、召使が縄を引くと両足がふわりと宙に浮きました。腕と脚にまわされた縄に全部の体重がささえられることになり、それは口では言えないほどの苦しみでした。食い込む縄に締め上げられて四肢は湾曲し、全身がコチコチに硬直しました。  それがすむと召使は姿を消し、やがて高価な蜂蜜《はちみつ》の入った土壺《つちつぼ》をかかえて戻ってきました。エリザベートは腕をまくると、指で蜜をすくいあげ、娘のからだに塗りはじめます。その指の下で蜜はくまなくひろがり、太陽の熱と娘の体温でたちまち溶けていきました。首筋、乳房、下腹、そして手足と、全身くまなく塗り終わると、水おけで手を洗いながら、エリザベートは満足げに微笑するのでした。  翌日、戦場から帰ってきた夫を、エリザベートはその木の下に伴いました。日中の凄《すさ》まじい酷暑で、ほとんど娘は気を失っていました。首はがっくり肩にのめりこみ、陽に焼かれてひりひり赤らんだ肉体の一面を、蠅《はえ》や蟻《あり》が黒ぐろとトグロを巻いてはい上がっていました。  このままにしておいては死んでしまう、もう充分じゃないかと言う夫に、エリザベートは平然と、城中の奉公人をみんな呼び集め、見せしめとしてこの木の周囲を行進させようと提案しました。ただちに集められた奉公人たちが、目をふせて黙々と木の周囲を行進する足音が闇のなかに不気味に響きわたりました。それが済んだあとやっとエリザベートは、半死半生になった娘を解放してやったのです。  これらの行為でのエリザベートの相棒は、二目と見られない醜男《ぶおとこ》の召使フィツコと、皺《しわ》だらけのこれも醜い大女、ヨー・イローナとドルコたちでした。彼らのなかにエリザベートは、残忍で無慈悲でありながら、自分の主人に対しては絶対に忠実な性格を見てとったのでした。その後、彼らはかけがえのない相棒として、あらゆる罪をエリザベートとともに生きることになりました。  しだいに夫は彼女を恐れ、うとんじるようになりました。それまでたまには連れていってくれていたウィーンの町にも、彼女がもう若くないことを口実に、連れていってくれなくなったのです。四人も子供のある中年女が、いつまでも着飾って遊びほうけていたのでは世間体が悪い。よい妻、母として家をきりもりし、客を歓待したり子供の乳母を監督することが、そなたの務めなのではないか?  母とは似ても似つかない醜い子供たちに、エリザベートはほとんど愛を抱くことができませんでした。ただ自分の美しさを磨き、保持することだけに情熱を覚えていた彼女にとって、はなやかな社交をあきらめ、妻として母としての務めに女盛りを費やすなど、とても考えられないことでした。  あいかわらず鏡の前で過ごす時間が、一日で一番楽しいひとときでした。つぎつぎとドレスをとりかえ、ありったけの宝石を身につけてみる。ときには、鏡のまえで自分の肌の状態を徹底的にしらべ、皺や染みがないかためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]してみます。鉄をうつ職工のように、石を切る石工のように、その目は厳しく真剣でした。若い娘の血が彼女にとって欠かせなくなってくると同時に、娘たちをいじめることが、彼女の欲求不満を晴らす唯一の方法になってきました。しだいに彼女の拷問法は磨かれ、より込み入った洗練されたものになっていったのです。   鉄の処女[#「鉄の処女」はゴシック体]  一六〇四年、夫フェレンツの突然の死で、黒一色の衣装に身をつつみ、つつましい隠遁《いんとん》生活をおくることが、未亡人である彼女には要求されることになりました。  もうエリザベートの女としての人生は終わったのでしょうか。あとは老いへの階段をすべり落ちていく、孤独な未亡人の生活が残っているだけなのでしょうか。思い出だけを慈しみ、過去の幻影だけにすがりついて生きていく日が……?  そんなこと、ひどすぎる。四十過ぎたとは言え、まだわたしの女としての色香は充分に咲き香っているのに。こんな片田舎でおめおめ朽ち果てていくなんて!  こうしてますます、彼女の犯行はエスカレートしていきました。名高い時計師に作らせた「鉄の処女」は人間大の裸の人形で、全身が肉色で、化粧をほどこされ、いろんな肉体の器官が人間のようにそなわり、機械じかけで目も開き、歯も植わり、口を開くと残忍な微笑をうかべ、見事なプラチナ・ブロンドが、床に届くほどたっぷり植わっています。  その日も部屋に連れて来られたひとりの娘の服をぬがせ、エリザベートは肩をやさしく抱いてささやきかけました。「きれいな人形でしょ? ほら、愛撫してごらん。人形が目をあけて、お前に応《こた》えるだろう」  娘はつま先立ち、ひんやりした鉄の肌に口づけます。すると歯車の音がにぶく響き、人形が両腕をゆっくり上げます。逃げる間もなく娘の肉体は人形の腕にとらえられ、締めつけられていくのです。つぎに人形の胸が観音開きに割れると中は空洞で、左右に開いた扉に五本の刃がはえています。必死でもがきながらも、娘は人形の体内にとじこめられ、刃で全身を突きさされ、肉を砕かれ血をしぼりとられ、恐ろしい苦悶《くもん》のなかで息絶えるのです。  またある時は、外出から帰ったエリザベートの靴を脱がせようとして、慌てて踝《くるぶし》の皮をはいでしまった娘が生贄《いけにえ》に選ばれました。カッとしたエリザベートは娘の顔を手で力いっぱい打ちすえたので、娘の唇から鮮血がほとばしり、キャッと叫んで傷に手をあてながら、娘は後ろにとびすさり、何が起こったか分からないように、ぼんやり女主人を見上げました。  エリザベートは地団太踏んで立ち上がり、大声で召使フィツコを呼びます。ドアの外で様子を窺《うかが》っていた召使はすかさず、赤くなったおき[#「おき」に傍点]の上に、焼きごてをのせて運んできます。召使は娘に近寄って、腕を後ろにねじりあげて押さえつけます。エリザベートが娘に近づいてそのスカートをやおらまくり上げると、あばれ狂う娘の口を召使がおさえ、一方の手で頬を平手うちにします。  やおらエリザベートが、娘の素足に最高温度に熱した焼きごてをおしつけると、ジュッという音とともに肉の焼ける臭いが部屋にひろがり、娘のからだはフライパンの上のエビのように大きく飛びはねると、やがて動かなくなりました。娘が気絶したのもかまわず、エリザベートはそのコチコチに干からび褐色にかわった足裏に、なおも焼きごてを押しつけ続けます。「ほーら、お前にもキレイな靴を作ってやったわ。真っ赤な底までついてるじゃないの」そして、目をギラギラ輝かせながら、艶然《えんぜん》と召使に笑いかけるのでした。  また、ある時はこんなこともありました。冬のある日、散歩の途中でエリザベートは急に湖のそばで馬車を止めるように命じ、隣にのせていた召使の娘をおろしました。従者たちのかかげる松明のなかで、娘は服を脱がされます。凍《い》てつく風に吹かれて全身は紫色になり、激しい悪寒《おかん》のなかで、娘は泣き叫びますが、両側から男たちに押さえつけられて、身動きすることも出来ません。  そのあいだに召使はつるはしで叩《たた》いて湖の氷をこわし、そのなかで凍らずに残っている水を手桶《ておけ》でくみ出しました。そしてそれを、ゆっくりと娘の肌にそそぎだしたのです。凍った水の焼けるような感触に娘はのたうち、松明の火にむかって力なく動こうとします。が、零下何十度という気温のなかで、水は肌のうえでたちまち凍りつきました。第二の水、第三の水がつぎつぎと氷の層を厚くしていき、娘は凍った半透明の像に変わっていきました。  すべてが終わると、初めてエリザベートは馬車から降り、毛皮にくるまって娘に近づきました。氷の像にまだ命が宿っていることに気づくと、ゲラゲラと白い歯をのぞかせて笑い、像の周囲をゆっくり一巡りしました。「これを持って帰ってわたしの部屋に飾っておけないのが残念だわ!」こうして氷の像はそのまま積もった雪のうえに打ち捨てられ、馬に鞭《むち》があてられ馬車は出発していきました……。   豪華な宴《うたげ》の果てに[#「豪華な宴《うたげ》の果てに」はゴシック体]  けれどしだいに、生贄の娘を手にいれるのは、難しくなってきました。農夫らは城に連れていかれた娘たちがいったいどうなったか不審に思うようになったのです。バートリ伯夫人が十幾つも城を持っているということは分かるが、短期間に集められ城に上がっていった何百人という娘たちはいったいどうなってしまったのか。あれから娘からの便りもなく、親が会いにいっても見えすいた言い訳をするだけで、会わせてもらえない。いったい娘たちは、どこに行ってしまったのか?  しだいに農夫は娘を手放すのをいやがるようになったので、もっと遠い地域まで手を伸ばさなければならなくなりました。パン屋の女房、洗濯女などあらゆる階層の女たちが、多額の礼金にそそのかされ、この「狩」にかりだされました。娘を待っているのがどんな運命なのか、みな薄々分かっていても、気にかける者はいませんでした。ときには彼女たちの誰かが、金ほしさに自分の娘を差し出すことさえあったと言います。  そんな娘たちを集めて、ある日豪華な宴がひらかれました。農夫の娘たちは垢《あか》だらけの体をこすられ、髪をとかし、香油を擦り込まれ、きれいに着飾らされました。したくが終わって大広間に導かれた彼女たちは、思わずハッと息をのんだのです。  燭台《しよくだい》に火がともされ、銀食器やグラスがならぶ大きいテーブル、豪奢《ごうしや》な錦《にしき》のタペストリー、繊細な彫物のあるビロードの椅子《いす》と、何もかも初めて見るものばかり。ただの召使の自分が何でこんなところに招かれたのかしらと不審に思いながらも、娘たちはぎこちなく席につき、不安げに互いにヒソヒソ話をかわしました。  そこにいよいよ女主人エリザベートが、ゆいあげた髪に真珠をかざり、豪奢な紫のビロードのドレス姿であらわれました。ポカンと口をあけて娘たちが見まもるなかで、彼女はすっくと座の中央に立ち、会食者たちをゆっくり眺めわたします。  そして、饗宴《きようえん》ははじまりました。香辛料のきいた焼肉、鶏の臓物、アマンドのパテ、蜜入りケーキ、最上の葡萄酒《ぶどうしゆ》……。豪華なごちそうが次々と運ばれるなかで、気づまりに黙りこくりながら、娘たちは必死にナイフとフォークをあやつり、時おり互いに物問いたげに目を見かわすだけで、エリザベートをまともに見る勇気はありませんでした。  ドアのそばでドルコは女主人の命令を待っていました。やがて彼女が合図を受けて後ろ手にドアを開くと、ヨーとフィツコが手にナイフをもって入ってきて、テーブルのうえの蝋燭《ろうそく》のしんを切りはじめました。何かの遊びかしらと思って、娘たちは黙って見ていました。その作業も終わると、布の触れ合う音やひそひそ話もしずまり、部屋はしいんとした静寂と闇《やみ》につつまれました。  そのとき、部屋のどこかで獣じみた叫びがあがりました。娘たちがうろたえて立ち上がったりヒソヒソ囁《ささや》きかわしたりする声で、にわかに部屋はざわめき立ちました。「動いてはいけない! そのまま席にいるのだ!」そう叱《しか》りつけながらヨーとフィツコは手早く闇のなかで、娘たちの首をはねていきました。彼らが部屋のなかを黙々と歩きまわり、闇のなかで娘の首を手探りでさがしては間違って相手の手にふれ、くすっと笑いをもらすのが聞こえ、つづいて身も凍るような叫びがあがります。  ついにすべてが終わったとき、部屋はまた、果てしない静寂につつまれました。やがて燭台に火がともされ、血まみれの首や華やかなドレスをつけた首のない胴体が床にころがっているなかで、エリザベートは突然猛烈な食欲でその夜の御馳走《ごちそう》をたいらげたのです。   不審を抱いた神父[#「不審を抱いた神父」はゴシック体]  けれどこうしている間も、しだいに老いはエリザベートを侵していきました。鏡に顔をうつすたびに、目尻《めじり》の深い皺、張りのなくなった肌のあちこちに浮き出した染み、こけた頬と、老いが確実に彼女の美貌をむしばんでいっているのが分かります。薬草、香油、温泉の泥風呂、そして何百という若い娘たちの血……。それらがみな無益だったというのでしょうか?  そしてそれに追いうちをかけるように、にわかに彼女の行状に不審をいだくようになったのが、その教区の神父だったのです。死者の数がやたらに多いことやその異常な若さ、埋葬を秘密にしたがることなどに異常を感じた彼が、ついにバートリ家の墓所である地下室にしのびこみ、無残な娘たちの死体を発見したことは、まえに書きましたが、仰天した神父はそのときから、どんなにバートリ伯爵夫人に呼ばれて変死した娘たちの葬儀を行なうよう頼まれても、いろんな口実をもうけて断るようになったのです。  神父の態度が一変したことに、エリザベートは不安になりました。あの神父が教区監督のもとに駆け込んで彼女のことを密告しようなどという考えをおこす前に、なにかの手を打たねばなりません。が、村人たちに尊敬されている神父を、とくに理由もなく逮捕したり討たせることは不可能です。  神父が埋葬を拒否してから、娘たちの死体の処理はしだいに難しくなってきました。地下室には柩《ひつぎ》が山と積まれ、庭や畑に穴を掘っても城の堀に沈めても追いつきませんでした。毛布でくるんでも石灰をまいても、死体の腐乱した臭いはたちのぼり、しだいに奉公人たちも異常さに気づくようになりました。  不安がるエリザベートに、妖術使マヨラヴァは、神父を毒殺することを提案しました。聖堂区の人間が神父に贈り物を持っていくことはよく行われていることなので、自分がおいしいお菓子をつくり、ベラドンナ、アニコット、毒人参など、口にしたとたんに即死するという猛毒をそのなかに入れようと言うのです。  一方、神父ポニケヌスは、その日も前神父の時代からの教会の記録簿を熱心に読みふけっていました。どこの誰とも言わず深夜に何度も立ちあわされた埋葬のこと、ときには一晩に九つもの遺体の埋葬を行なったことなどが、淡々と記されています。なんといっても強大な権力を持つバートリ伯爵夫人のこと、いつでも教会への援助を中止したり、聖堂区の土地や十分の一税をとりあげることもできるのですから、この件について前神父が慎重だったのはうなずけます。  どうしたらいいかと、神父は長いあいだ考えました。教区監督に訴えるにしても、確固たる証拠もなしに調査に応じてくれるわけもない。失敗はゆるされません。万一身に危険が迫っているのを知ったら、エリザベートは彼の口を封じるためどんな手段でもとるでしょう。  そうしているある日、神父は奇妙な客の訪問を受けました。深々した皺のなかに目鼻がうまり、継ぎはぎだらけの服を身につけたみすぼらしい老婆で、ドアをあけると彼に薄汚れた布の包みを差しだしました。彼のためお菓子を焼いてきたので、味わってほしいというのです。時おり、野菜や麦や菓子などは聖堂区の住民から喜捨として届けられたので、神父はこのときも変にも思わず受けとりました。包みをあけると素焼の皿にこんがりした黄金色のビスケットが入っていたので喜んで礼をいい、送り主の名を尋ねましたが、老婆は返事につまって何かブツブツ口ごもるだけでした。  ちょうど空腹だった神父は、いかにも香ばしいそのお菓子をさっそく味わおうとしましたが、ふと疑惑が頭をかすめました。老婆が送り主の名を答えなかったのが気にかかったのです。そのとき彼の頭に、あのバートリ夫人の名が浮かびました。彼は思いついて、菓子を一切れ戸口におきました。近くにうろついているノラ猫で実験しようとしたのです。  翌朝彼がそこに見たのは、ノラ猫ではなく彼の飼っていた愛犬の死骸《しがい》でした。犬は唇に緑色がかった泡をふき、菓子から少し先までよろめき歩いて倒れたらしく、周囲には爪《つめ》で引っかいたあとが生々しく残って、断末魔の苦悶を物語っていました。エリザベートが彼を毒殺しようとしたのは明らかです。一刻の猶予もありません。これ以上ためらっていては、今度こそ取り返しのつかない危険に襲われるだけです。  悩みつづけた彼は、ついに教区監督に手紙を書くことを決意しました。   青年の直訴[#「青年の直訴」はゴシック体]  実は、エリザベートに疑いを抱いていたのは神父だけではありませんでした。かねてから彼女に反感を持つ、彼女の長男の後見人で政府の有力者の、メジェリ・ル・ルージュもそのひとりだったのです。ある日、ひとりの貧しい農夫の青年が、彼に目どおりを願いでました。青年はせっぱ詰まった様子で「自分の彼女が、チェイテのバートリ夫人の城で働いていて、毎朝河まで水をくみにいくのが日課だった。自分はいつも途中で彼女と落ち合ってお喋《しやべ》りするのが習慣で、彼女が城での生活をいろいろ話してくれた。が、あるとき彼女がぷっつり通らなくなって別の娘と入れかわったので、彼女のことを聞くと、行方不明になってどこにいったか分からないと言った」と言うのです。メジェリは思わず身を乗りだしました。 「それだけではないのです。また数日するとその娘もいなくなって、別の娘が入れかわり、前の娘がどうなったか彼女も知らないというのです。おかしいと思って色々聞いてまわったところ、もう何年も前から気味悪い老婆や召使につれられて、娘たちがつぎつぎと城にあがっていくが、いったん城に入った娘が出てきたのを見たものは誰もいないというのです。あげくは娘が変死して夜、秘密裡《ひみつり》に庭や畑に葬られるというが、その死目に会わせてもらった親は、いままでひとりもいないというのです」  青年はついに決心して城に行き、自分の恋人に会わせてくれと言ったところ、何を言っているんだと反対に狂人あつかいされて、追い返されたというのでした。それでもあきらめきれず、とうとう彼は命をはってメジェリに直接訴えにきたのでした。思いがけない情報にほくそ笑んだメジェリは、さっそく、国王に捜査を願い出ることを決意しました。  一六一〇年十二月二十九日、運命の日、雪と氷が城への坂道をとざしていました。いっさいは白一色のなかに埋めつくされ、ひっそり身を沈めてこれから起ころうとすることを待っているようでした。チェイテに近づくにつれ、大宮中伯ツルゾーは、村がみるから森閑と人気《ひとけ》がないのに驚きました。農民たちはなにかが起ころうとしているのを察し、家のなかにひっそり身をひそめているようでした。  その夜ツルゾーは逃亡者を出さないよう、城のあらゆる出口に見張りを配し、自分は神父を連れて正門から侵入しました。村と同じく城ももぬけのからでしたが、台所の櫃《ひつ》のなかは予備食物でいっぱいで、暖炉には薪《たきぎ》が燃えており、ついさっきまで人が住んでいたかのようでした。ツルゾーはエリザベートがどこかに逃亡したのだろうと考えました。  一行は地理にくわしい神父を先だて、各々松明を手に地下に降りていきました。異様な死臭が鼻をつく部屋は、恐ろしい状態をていしていました。柩が山と積まれ、床にはペンチや鉄棒など拷問用具が撒《ま》き散らされ、入浴に使われたらしい大盥も部屋の真中に打ち捨てられて、そのどれにも真っ黒の血がでこぼこにこびりついていました。そして彫物のある大きい木箱のなかに、サビて使い物にならなくなった「鉄の処女」が、不気味に目をとじて眠っていたのでした。  そこから廊下を通り、その先のこれよりいくらか狭い部屋にはいると、その床にはまだ新しい血が大きい染みになっていました。やはり血がこびりついたノミや焼きごてや鋏《はさみ》が散乱するなかに、なにか薄汚れた毛布につつまれた大きいかたまりが転がっていました。  毛布をはいで現れたのは、ゾッとするように恐ろしい血まみれの死体でした。かろうじて娘のものと分かる死体は、まだ生暖かかったのです。その少し先に、やはり裸で手足を切り刻まれ、ふるいのように全身、穴だらけの二人の娘が見つかりました。ひとりは死んでおり、もう一人はまだわずかに意識があって、男たちから身を隠そうとしていました。   捕えられたエリザベート[#「捕えられたエリザベート」はゴシック体]  そのとき石壁の漆喰《しつくい》のあいだからにじみ出るように、呻《うめ》き声のようなものが聞こえてきました。兵士たちは松明《たいまつ》の火のもとで壁を手探りでさがしまわり、やっと壁と同じ色をした小さい隠し扉を発見しました。そこに押し入って彼らは、排泄物《はいせつぶつ》のむかつくような臭気のなかに、所狭しと折りかさなって呻いている、二十人ばかりのぼろ服の娘たちを見いだしたのです。  まだ息のある娘たちに急いで水と食糧を与えると、娘たちは意識を取り戻し、口々に証言しました。バートリ夫人の召使としてここに連れてこられたのが、着くなりこの石牢《いしろう》に閉じ込められたこと。それ以来一度も食物を与えられず、空腹を訴えると、たがいの肉を食べるよう強いられたこと。その朝フィツコの手で二人の娘が秘密扉から連れだされ、それきり帰ってこなかったこと……。それがさっきツルゾーが見かけたあの死体でした。  そのとき神父が現れて、まだエリザベートが下の別館にいるらしいことを告げました。予想もしてみないことでした。これだけの軍隊の侵入に彼女が気づかなかったはずもなく、一隊が地下を探索しているあいだに逃亡のチャンスはあったはずです。  が、神父の主張にまけて、ツルゾーは二つの城をつなぐ地下道をおりていくことにしました。松明を先だて、彼らは湿った石壁のあいだの狭い曲がりくねった通路を進みました。  長いあいだ使われたことのないらしいサビついたかんぬきを外し、ツルゾーたちは重い鉄の扉をおし、忍び足で別館の一階に降りていきました。  玄関の大広間は錦の垂れ布がさがり、奥の部屋につづく扉が半開きになって、中からかすかな光がもれていました。  きらびやかなドレスと宝石に身を飾って丹念な化粧をほどこし、エリザベートはそこにいました。深紅にぬられた唇から白い歯がこぼれ、彼女は艶然とツルゾーに微笑《ほほえ》みかけました。 「やっとここにいらしたのね」  背筋を凍りつかせるような声で、エリザベートはつづけます。 「あなたにわたしを捕えることなどできるはずはないわ。わたしはエリザベート・バートリ。勇敢なフェレンツ・ナダスディの未亡人です。誰にも、わたしの行為を咎《とが》める権利はありません」 「この女を捕えよ」  低いかすれた声でツルゾーは、かろうじてそれだけ言えました。   牢獄に三年半[#「牢獄に三年半」はゴシック体]  ツルゾーからエリザベートに言い渡された判決は、次のようなものでした。「お前をここチェイテの城で終身刑に処する。お前には窓と扉をふさぎ、水と食物を送り込むため壁に小さな穴のあいた一部屋のみが与えられる。お前は今後、誰とも交流することを許されない。見張りをのぞいて、誰もこの城には住まないだろう。今後、私は人がお前の名を口にすることを厳禁する。お前はこの地上の空気を吸うに価せず、神の光をおがむに価しない。お前は止《や》むことのない夜のなかで、犯した罪を永遠に悔いるがいい。神の許しを乞いながら最後を迎えるがいい。今後お前の存在はこの世から、完全に抹殺される」  召使フィツコやドルコたちがビッシェの処刑場で手足の指を一本ずつ引き抜かれ生きたまま火に焼かれるという極刑に処されたにもかかわらず、バートリ家というハンガリーでもっとも絢爛《けんらん》たる栄光を誇っているこの聖域を、結局、国王さえ侵すことはできなかったのです。彼女の城と財産も没収を免れ、本当なら死刑になるところを、かろうじてエリザベートは終身刑に減刑されたのです。  愛用の鏡と深紅のビロード敷きの手箱のなかの、辛うじて兵士らの手を逃れたいくつかの宝石にかこまれ、毛皮のなかにうずくまりながら、エリザベートは大工たちが石や漆喰《しつくい》で、彼女の部屋の窓を一つ一つ埋めていく音をききました。高い所にわずかに空をあおげる明りとりと、水と食物を入れるのぞき窓をくりぬいて、扉も厚い壁で塗りかためられました。こうして彼女の周囲には強固な石の牢獄が築かれ、ここに本当なら死刑になるべき人間が生きていることを示すため、城の四方に絞首台がたてられました。  エリザベートの視界から、しだいに光が消えました。鏡のうえに影が広がっていき、もはや彼女は薄暗がりのなかで、そこに浮かびあがる自分の顔の陰画しかみませんでした。両の目だけが飢えた獣のようにぎらぎら輝いているのが分かります。  城は人気がなく、一日一度のぞき窓が重いきしみ音を響かせて開き、牢番の手で水と食物が入れられました。牢番は彼女に話しかけることを禁じられていましたが、エリザベートのほうでも話したいことなどありませんでした。  最後までエリザベートは自分の犯した罪を悔いることもなく、改心して神に許しを乞うこともなかったといいます。彼女には理解できなかったのです。なぜあれほどの身分にあった自分が牢につながれたのか。自分の欲望のおもむくまま生きることが、どうして世間では罪になるのか……。  時おり彼女は素足で、獣のように物憂く、排泄物と残飯にまみれた石の床を歩いたものでした。この下に地下室があり、かつてそこでは夜な夜な血の宴が繰り広げられ、彼女の欲望をみたすためにだけ娘たちは泣き叫び、しなやかな肉体を鞭のしたでよじらせ、ある限りの血をながして彼女に奉仕したのです。そこには神も君主もなく、ただエリザベートだけが世界の支配者であり、絶対主でした。そこで彼女はこの世界を、確かにその手に握っていたのです。  けれど、すべてを失ったエリザベートをその後待っていたのは、牢獄のなかでの栄養失調による緩慢な死でした。三年半をこの牢獄のなかで辛うじて生きつづけ、そのあいだに自分の食物を差し入れてくれる娘のカタリナに全財産を譲るという遺言状を書き残して、一六一四年八月二十一日、ついにエリザベートは世を去ったのです。肉体はやせ細って子供のからだのように軽くなり、顔には深い皺がきざまれ、かつての美貌はみるかげもなくなっていました。享年五十四歳でした。 [#改ページ]  倒錯の愛に生きた不遇の作家 ———————————————————————————— サド侯爵[#「サド侯爵」はゴシック体] [#改ページ]   二つの顔[#「二つの顔」はゴシック体]  ドナチアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サドは十八世紀、南フランスの名門貴族に生まれました。父はプロヴァンスに広大な領地を有し、母はフランスのブルボン王家にもつながる、そうそうたる名門でした。  金髪で色白のサド少年は皆からちやほやされて育ち、名門ル・グラン校から大貴族の子弟だけが入学できる士官学校にすすみ、十九の年にはもう騎兵隊の大尉に昇進……という、まあ、絵に描いたような名門育ちのおぼっちゃん。家族の期待を一身に背負っていました。ただし当時のサド家は父伯爵が金づかいが荒いため家運はかたむき、サド自身もはやくから女癖が悪いというよからぬ噂《うわさ》をたてられていましたが……。  二十三歳のとき、サドは終身税裁判所長官のモントルイユ氏の娘、ルネと結婚することになりました。サド家のほうは成金貴族である相手の莫大《ばくだい》な資産が目あて。いっぽうモントルイユ家のほうは、この縁談で王家と親戚《しんせき》になれるのが目的でした。ミエっぱりなモントルイユ夫人はこの縁談にもう有頂天。いろいろ入ってくる婿の女あそびの噂にも、「そんなの若いときのハシカみたいなものです」と、理解あるところを見せていました。のちにこの義母が態度を一変。不倶戴天《ふぐたいてん》の敵としてサドの前に立ち塞《ふさ》がることになるのですが……。  一方、新妻のルネは特に美人じゃないけど、控えめだし大人しいし、夫のすることには口を出さない理想の妻タイプ。彼女のほうでは美男で秀才のサドに一目ぼれ。一方サドのほうも、つつましく出しゃばらない彼女が気に入ったようでした。  こうしてモントルイユ家の城で、まずは平和な新婚生活がはじまりました。義母との関係もはじめは円満で、夫人のほうではサドをちょっと軽いが気さくで面白い男だと思い、サドも何でもズケズケものを言って、たちまち遠慮のない仲になりました。夫婦仲もわがままで気のみじかいサドと、おっとりして従順な妻と……、まさに理想的な組みあわせでした。  けれど間もなくサドは、新婚生活のあいまを縫《ぬ》ってパリに通いだし、郊外のヴェルサイユやアルクイユに別宅をかまえるようになります。「なあに、ちょっと仕事に必要なんでね」との言い訳に、ルネもモントルイユ夫人もすっかり騙《だま》されていました。が、それから半年もたたない一七六三年十月、とつぜんサドは、「パリの妾宅《しようたく》でのけた外れな乱行」のかどで牢《ろう》にほうり込まれるのです。  はじめて義母と妻は、彼が結婚の翌日からパリでひそかに娼婦《しようふ》たちと乱行にふけっていた事実を知らされます。家庭ではよき婿でよき夫。ところが一歩外に出ると、恐るべき性的倒錯者……。まるでジキル博士とハイド氏です。その二つの顔をサドは、しばらくは巧みに使い分けていたのです。  娼婦たちの密告でサドが牢獄にぶち込まれると、父伯爵はショックで寝込んでしまいました。ショックを受けたのは、サド自身も同じこと。これまで他人から白い目で見られたことなどない彼が、このときはじめて自分の好む快楽が、社会から罪とよばれるものであることを知ったのです。  父や義母の奔走《ほんそう》で、このときは幸いにも、サドは十五日の拘留ののち自由の身になれました。ちょうど三カ月の身重だった妻のルネは、この騒ぎのショックで流産してしまいました。けれどその苦しみを乗りこえて、ルネは良妻賢母として生きる決意をしていました。この決意は九〇年についにサドと別れるまで変わることなく、彼女は忠実で従順な妻の役をみごとに演じぬいていくのです。   良識への挑戦[#「良識への挑戦」はゴシック体]  これまでサドは父の言いなりに軍人になり、政略結婚をし、貴族社会の枠のなかで生きるのに、何の疑問ももっていませんでした。そんな彼に、今度の事件は目の覚めるような思いでした。はじめて彼は、自分が今まで父の与えてくれた世俗的な富や名誉に何の関心も抱いてこなかったことに気づきます。では自分にとって生きる意味とは? 自分が我を忘れてしまえるような歓喜の瞬間というのは、どこにあるのか?  彼にははじめて分かったのです。彼が自分の夢を思うぞんぶん解き放つことのできる場所はただ一つ、娼婦たちのいる悪所にほかならないこと。そこだけがあらゆる制約を越えて彼が思いきり羽をのばし、自分の夢と空想を羽ばたかすことのできる場所なのだということが……。  こうして彼は一人のリベルタンとして生きることを決意します。リベルタンとは道徳的束縛や種族保存の自然法則にそむき、ひたすら性的快楽のみを目的とし、肉欲を知的に洗練させることにのみ生きがいを感じる男たちのことです。この退屈でつまらない現実を忘れ、密室での甘美なエロティシズムの世界に思うぞんぶん酔いしれること……。  けれどそんな彼に、現実は容赦なく糾弾の刃をむけてきます。今やサドは要注意人物になったのです。警察は事件後、彼の監視をいっそう厳しくし、司法警察官は、彼の行動を逐一調べあげては、次々と上司に報告するのでした。  しかしサドの乱行はおさまるどころか、激しくなっていくばかりでした。数人のパトロンから金をまきあげている怪しげな女優に入れあげたり、もとオペラ座の踊り子で今は賭博場《とばくじよう》を開いている半|玄人《くろうと》女のボーヴォワザンをかこったり……。  一七六五年にサドは、そのボーヴォワザンを連れてプロヴァンスのラ・コスト城におもむき、彼女を妻と称しては、貴族たちを招いて淫《みだ》らな宴《うたげ》をもよおして、たちまちスキャンダルになりました。この事件はリベルタンとして生きることを決意していたサドの、最初の良識への挑戦でした。自分にむけられる人々の好奇と軽蔑《けいべつ》の視線をふりはらうため、彼はわざとスキャンダラスな行為をかさねるのです。その後アルクイユ事件からマルセイユ事件まで加速度的に高まるスキャンダルのなかには、彼の世間にたいするある種の居直りが感じられます。  六七年、六十五歳で父サド伯爵が死に、同年八月ルネ夫人が長男を出産しましたが、子供が生まれてもサドの放蕩《ほうとう》は止《や》みはしませんでした。貞淑な妻のそばより、妾宅《しようたく》や怪しげな商売女のもとで過ごすほうが多かったのです。彼の放蕩はしだいにイライラしたテンポのから騒ぎに変わり、夜昼となく部屋に女を連れこんでは責めさいなんだり鞭《むち》うったりが続きます。下男は町に出かけては商売女を手当りしだい主人のために連れてくるのでした。  が、金で買える快楽に、しだいに彼は飽きてきました。ふくらむばかりの想像力を満たすため、彼はこれまでと少し違った、ある実験をすることを決意したのです。それを行うことで、再び牢《ろう》にほうりこまれる危険もあえて冒して。これが有名なアルクイユ事件です。   悪名がパリ中に[#「悪名がパリ中に」はゴシック体]  六八年四月三日の朝、パリのヴィクトワール広場に、灰色のフロックコートと白いマフ(手袋)にステッキという出立《いでた》ちのサドがさっそうと馬車から降りたちました。彼はもの乞いしている若い女乞食に近づいて、実は女中を探しているのだが、うちで働く気はないかともちかけます。女が承知すると、彼は女を馬車にのせ、馬車は牧場の間の道を走って、やがて郊外のアルクイユの町の、サドの別宅のまえでとまりました。  サドは女乞食を一階の小部屋に通しました。そして急に乱暴な口調で彼女に服をぬげと命じたのです。おびえた女がそれでは話が違うというと、「言うことをきかないと殺すぞ」と脅され、無理やり服と下着をはぎとられました。  そしてサドは女をとつぜん長椅子《ながいす》に腹ばいに押したおすと、麻縄で手足を長椅子にくくりつけたのです。脇《わき》にあった鞭《むち》を手にすると、彼はいきなり女を力のかぎり打ちはじめました。女が痛さにかなきり声をあげると、「黙らないと殺すぞ」と短剣を突きつけて脅されます。  女は必死でうめき声をこらえ、なおもサドは皮鞭で彼女の背や尻《しり》をうちつづける。こらえようとしても、うめき声はもれ、女は縄でしばられて自由にならない手や足を必死でもがき続けます。そのうちにサドが息をはずませ、鞭がだんだん激しく早くなると、なんと甲高い叫びをあげて、サドはその場で射精したのです。  拷問は終わり、背も尻も血だらけになった女は、やっと縄をとかれました。恐怖と痛みですすり泣きながら下着を着ようとすると、サドがタオルと水とコニャックの瓶をもってきました。これを傷口に擦り込むと痛みが和らぐというのです。その通りにしても、痛みは激しくなるばかりでした。  サドが姿を消したすきに、女乞食はふと思いついて、ベッド・カバーを二枚結びあわせて丈夫な縄をつくりました。そばにあった短刀で鎧戸《よろいど》のすき間をこじあけて窓をひらき、例のベッド・カバーを窓わくに結びつけて、それをつたって裏庭に滑りおりました。そして女は塀をよじのぼって裏の空き地に抜け、からだの傷がひりひり痛み、やぶれた下着が足にからみつくのもかまわず、泣きながらどんどん歩き続けました。途中で会った村の女がびっくりしてどうしたのかと尋ねるのに、一部始終を話すと、村中が大騒ぎになりました。女は村人の家に保護され、誰かが憲兵隊のところにさっそく走っていったのです。  またたく間に、サドの悪名がパリにひろまりました。女乞食をテーブルに縛りつけ、彼が解剖学者よろしくナイフやハサミを手に、恐怖の叫びをあげる女の肉体を切り刻もうとしたとか。女乞食が通された部屋には、すでにほかの女の死体が二、三個ころがっていたとか……。  のちの年代記作家たちは、中傷や興味本位の噂をもとに、嘘《うそ》八百の伝説をつくりあげ、そのなかでサドを恐ろしい怪物、生体実験家にしてしまったのです。彼が実際にやったことは、それほどたいしたことではなかったのに……?  あの大革命をまえに、貴族への風あたりが強くなっていて、とみに勢力をましていた高等法院が宮廷派貴族にきびしい態度を打ちだそうとしていたことと、彼の事件を担当した刑事部がモントルイユ家の政敵だったことが原因でした。  が、今度もモントルイユ夫人の奔走で、国王による勅命免刑状が発せられ、審理は中止されてしまいました。免刑状とは国王の署名のある司法上の至高命令で、進行中の訴訟のすべてを中断させることができるのです。   異常な性癖[#「異常な性癖」はゴシック体]  鞭で女をうつことで快感をおぼえるという性癖。これはのちにクラフト・エービングが彼の名にちなんで「サディズム」と命名した性的倒錯にほかなりません。それまで曖昧《あいまい》な疑惑につつまれていた彼の異常な性癖が、このスキャンダルではじめて明るみに出てしまったのです。  とはいえ、彼のサディズムはどちらかというと初歩的なもの。ジル・ド・レやエリザベート・バートリのようにつぎつぎと罪もない者たちを虐殺したわけでもなく、せいぜい女を鞭うったり縛ったりして、女が恐れおののく表情や涙や哀願、叫び声、血のにじんだ尻を見ているだけで十分だったのです。さしずめ現代なら、巷《ちまた》のS・Mバーとやらで、当事者の了解の上でやられているS・M行為とおなじこと。ただしそれが了解済みでなく、誘拐などの手段で女を調達せねばならなかったところに、サドの弱みがあったのですが。  教育もなく、貧乏にやつれた女乞食は、サドがこれまで相手にしてきた女優や貴族の女たちとはぜんぜん違っていました。男にちやほやされたこともなく、男をたらしこむ手管も身につけておらず、火遊びなんてしゃれた経験もない。  そんなところが、かえってサドには新鮮におもえたのでしょう。うぶで信じやすい女をいじめることで、サドの与える拷問はなお効果的になります。相手がうける精神的苦痛が重ければ重いほど、それが彼の快楽を増すのです。つまり了解済みのS・Mゲームでは物足りないというわけ。  まあ、それにしても残虐な殺人を犯したジル・ド・レたちとは違って、ごくおとなしい「サディスト」だったのですね、サドさんは。実際の行為より、イメージの助けを借りて欲望を満足させるタイプです。のちに牢に幽閉されてからは、つぎつぎ完成する作品のなかに、思いっきり自分の倒錯的欲望を発散させたとも言えるでしょう。  モントルイユ夫人は必死でスキャンダルのもみ消しにかかりました。女乞食があの虐待を受けたおかげで半身不随になって、生計がたてられなくなったと、千エキュの慰謝料を要求してきたので、モントルイユ夫人の使いがたずねてみると、女乞食はベッドに起き上がって近所のかみさんたちと井戸端会議に余念のない様子。  たいした怪我《けが》でもないようでしたが、一日もはやく噂をもみ消すことだけを考えているモントルイユ夫人は、いっさいの要求をのむことを承知しました。  十一月十六日、七カ月の拘留のあとやっとサドは解放されました。モントルイユ夫人も今度こそサドも充分反省し、もう二度と自分たちを悲しませるようなことはないだろうと考えたのです。翌年六月には次男も誕生して、サドもよき夫として妻のそばで子供の世話をしたり、庭の手入れをしてくつろいでいました。今でいう家庭サービスというところ。義母も妻も今度こそ彼が改心してくれたと、ほっとしたものでした。  けれどもその安心も束の間、またもやサドは性こりもなく、家庭に一騒動起こし始めるのです。その原因は、ほかならぬ妻ルネの妹、アンヌでした。  いつからかアンヌは南仏のラ・コストの城で、義兄一家とともに住むようになりました。何が原因かは分かりません。そろそろ年頃の彼女を、母が姉のもとで花嫁修業でもさせようと思ったのでしょうか? それならあまりに不向きな手本を選んだものでした。姉のルネより五、六歳下で、修道院で育ったという彼女について、くわしいことは分かりません。いったいいつ、彼女が義兄のサドと愛しあうようになったかということも。  けれど多分、決定的な関係ができたのは、これからお話しする「マルセイユ事件」のあとだろうと思われます。   マルセイユ事件の顛末《てんまつ》[#「マルセイユ事件の顛末《てんまつ》」はゴシック体]  マルセイユ事件はラ・コストの城にすむようになったサドが、とつぜん世間を大きく騒がせた事件です。七二年六月半ば、サドは下男のラトゥールを連れて近くのマルセイユにやってきました。下男は、街で見かけた若い娼婦に近づいて、自分の主人が遊び相手を探しているんだが、いい娘はいないかね、と話しかけました。「あたしの知りあいでよかったら、何人か集められるわよ」との返事に、とんとん拍子にまとまり、翌日、娼婦仲間の家に、朝十時に集まることにあいなりました。  その時間に、つぎつぎと娘たちは集まってきました。マリエット、マリアンヌ、マリアネット、ローズなど、みな若い盛りのピチピチした娘ばかり。さてそこにやってきたサドは、灰色の燕尾服《えんびふく》に絹のチョッキ、羽飾りつきの帽子、金の握りのついたステッキという、あいかわらずキザな出立ち。これから何が始まるのかしらと、娘たちは興味しんしん。この分じゃ、いい金儲《かねもう》けになりそうだわ、とひそかに胸算用していました。  部屋に入ると、サドはまずマリアンヌと下男だけをなかに入れて鍵《かぎ》をかけました。二人を裸にしてベッドに横たわらせ、いきなり娘を鞭で打ちはじめると、もう一方の手で下男のあそこを愛撫《あいぶ》しはじめます。そのあいだ、まるで自分が召使のように下男を「侯爵さま」と呼んでかしずき、逆に自分を「ラ・フルール(花のこと)」と呼ばせるしまつ。次にはういきょうの匂《にお》いのするボンボンをポケットからとりだして、マリアンヌにすすめます。実はこれはカンタリスの入ったいわゆる催淫薬《さいいんやく》なのですが、サドは「なんでもない、オナラの出る薬だよ」と口から出まかせを言います。娘がためらいながら二、三つぶ口に運ぶと、今度はサドは娘をいきなり押したおして、後ろから責めはじめます。  つぎにサドはマリアンヌに鞭を渡して、これで打ってくれとたのみます。ちょっとびっくりしましたが、彼女が言われたとおり、サドの尻を力まかせに打ちはじめると、「もっと、もっと!」としだいにサドは興奮してきたようす。やがて急に呼吸があらくなって、そのまま、オルガスムに達してしまいました。  次に呼ばれたのはマリエット。サドは彼女を裸にするとベッドの足下にひざまずかせ、鞭で打ちはじめます。娘のあげる甘美な悲鳴をおもいっきり楽しんだら、今度は彼女に自分を打ってくれと頼みます。打たれているあいだ、受けた鞭の数を壁にナイフで刻みつけました。八五九という数字があとに残っていたといいます。つぎには彼女をベッドに倒して犯しながら、一方で下男に自分を後ろから犯してくれと命じます。  つぎにローズが呼ばれ、やはり裸にされてベッドに横たえられます。サドの命令で、今度は下男が、彼女に襲いかかります。ひとしきり二人がくんずほぐれつやるのを見物してから、つぎにサドはさっきのように娘を鞭うちながら、一方の手で下男を愛撫。鞭うちが終わると、今度は下男に娘を後ろから犯させて見物します。  最後に呼ばれたのは、マリアネット。が、彼女はベッドにころがる血まみれの鞭を見て、キャッと叫んで逃げ出そうとします。それをサドが後ろから捕えて無理やり部屋に引き入れます。つぎにさっき出ていったマリアンヌをまた呼び入れて寝台におしたおします。そしてマリアネットに「よく見てろよ」と命じると、マリアンヌをひとしきり鞭でうってから、後ろから犯します。すると今度は下男が彼を後ろから攻めはじめ、三人の男女のからみ合いにとあいなります。あまりのことにマリアネットは、部屋のすみでじっと両手で目をふさいでいたとか。といってもこわいもの見たさが人情というもの。ふさいだ両手の指のあいだから、チラチラ見ていたのでしょうネ。  この事件の異常さはいやおうなく人々の好奇心をそそり、マルセイユからパリまで、口から口に、しだいに噂はふくれあがっていきました。「サドが舞踏会をひらいて、客たちにカンタリス入りのチョコレート・ボンボンをふるまった。これを食べた客たちはみな激しい色情的興奮にかられ、あらゆる淫乱行為におちいり、舞踏会はローマの饗宴《きようえん》に一変した。この淫乱のため、その後多くの人が死んだり体の不調に陥った」というものや、「サドが若い娼婦を集めてらんちき騒ぎをし、果ては彼女たちの数人を毒殺してしまった」というもの……。こうして毒殺者、生体解剖家という汚名が、はなばなしく語りつがれることになるのです。  事件から三日後、ボンボンを食べさせられたマリアンヌが胃に燃えるような痛みをおぼえ、黒い血のまじった液体を何度も吐いたことを訴え出たので、マルセイユ地方裁判所がうごきだしました。彼女の吐瀉物《としやぶつ》は分析され、他の娘たちもつぎつぎ呼びだされて訊問《じんもん》をうけました。  サドと下男に逮捕状が出され、ラ・コストの城が家宅捜索をうけました。九月三日にはマルセイユの裁判所で欠席裁判が開かれ、十一日には判決がくだされました。「毒殺未遂と鶏姦《けいかん》の罪で有罪とみとめられたサドと下男ラトゥールは、首に縄をかけられ、教会堂の前にひざまずき、一キロの蝋燭《ろうそく》を手に、神と国王と法律に謝罪した後、サン・ルイ広場の処刑台で、サドは断首刑、ラトゥールは絞首刑に処せられ、死体は火中に投ぜられ、焼けのこった灰は風に散らされる」……。これがサドら二人にくだされた判決でした。それにしても、媚薬《びやく》を飲ませただけで、毒殺未遂とはね……?  もっとも、本人はとっくに身をかくしていたので、翌日には二人の代わりに彼らの肖像が、町の広場で火刑にされることになりました。   アンヌとの恋[#「アンヌとの恋」はゴシック体]  この事件の直後、サドは義妹のアンヌとともに、イタリアに逃げることになるのです。七二年七月から十月にかけて、ジェノヴァ、ヴェニスを中心にイタリア北部を、二人は夫婦気取りで泊まりあるきます。警察に追われる身なのに、のんきなランデブーといったところ。それにくらべて妻のほうは、警察の注意を引くための囮《おとり》として、ラ・コストに残ったのですから、割りがあわないとはこのこと。だいたいアンヌは、「イタリアとの国境までお兄さまを送っていくわ」と姉をだまして、さっさとサドについて出発してしまったというのですから。ルネにすれば一泡ふかされた思いだったでしょう。アンヌは姉と違って大胆で現代的な女だったらしく、要注意人物だった義兄にかえって好奇心を抱き、自分から積極的にアタックしたといいます。サドのほうもこの溌剌《はつらつ》とした現代娘にどんどん惹《ひ》きつけられていきました。  アンヌとの恋は、サドの一生にとって決定的な事件でした。この軽はずみな恋のおかげで、なんと彼は、十三年ものあいだ、ヴァンセンヌとバスティーユの牢獄に呻吟《しんぎん》するはめになるからです。マルセイユ事件の罪がいかに重かろうと、十三年の拘留とは……、それはないんじゃない?  勅命拘引状で七七年二月、再びサドを牢獄に追いやったのは、なんと義母モントルイユ夫人でした。いままでサドのため、もっぱら事件をもみ消してくれていた彼女が、突如、彼の不倶戴天の敵になったのは、アンヌとの恋が原因でした。二人の不倫が世間の噂になっている限り、アンヌに良縁を見つけることはできない。さっさと娘をいいところに嫁がせるには、一日もはやくこの人騒がせな婿を牢に閉じ込めなければならない。もうこれ以上、彼のおかげで家族の名誉を傷つけられるのはまっぴら。アンヌの結婚の邪魔までされてたまるもんですか!  これはごく普通の常識家であるモントルイユ夫人にすれば、当然の考えでした。  サドが監禁されると同時に、アンヌとの短い恋は終わりました。ふたりのイタリア旅行は、あまりに短かくはかない夢でした。が、サドの心にもアンヌの心にも、失われた恋の甘美な思い出は、消えずに生々しく生きつづけていました。  暗い獄中で、自分の運命を呪《のろ》うとき、アンヌの美しいおもかげが彼の心をよぎるのでした。それこそあまりに短かいサドの青春だったのです。その後、独身のままで一七八一年、天然痘《てんねんとう》にかかってあえなく死んでいくアンヌとの恋は、サドの生涯でもっとも美しい牧歌でした。  十一月上旬、ひとあし先にアンヌを帰国させたサドは、シャンベリーの街外れの田舎家にひっそり隠れ住みました。ところが十二月八日の夜、突如サルデニア王国の警官数人に踏みこまれ、捕えられてサヴォワ州のミオラン要塞《ようさい》に運ばれたのです。  このとき彼のことを密告したのがモントルイユ夫人でした。彼女の変心を夢にも知らないサドは、隠れ家から彼女に援助を乞う手紙を出していたのです。かつての味方がいまは最悪の敵に変わったことなど、考えてもみませんでした。モントルイユ夫人の密告で、パリ駐在サルデニア王国大使からサルデニア警察に、サド逮捕の命令がくだり、サドはその罠《わな》に落ちるのです。このときからふたりは不倶戴天の敵になります。義母が家庭、良識、モラルを体現するいわゆる「小市民」の代表なら、サドは反家庭、反良識、反モラルを体現する「芸術家」の代表として……。  牢のなかで、自分を突然おそった運命をサドは呪いつづけました。そんな彼のいちばん心強い味方は妻でした。彼女はさっそく母に抵抗して直接行動を開始しました。自力で夫を救い出そうとしたのです。引っ込み思案の彼女にこんな勇気があったなんて、驚きですネ?  ルネは二月末、男装し駅馬車でパリを出発します。リヨンを通過してシャンベリーにむかい、そこで宿をとってサド救出のアイデアを練るのです。彼女に抱きこまれた御用ききのヴィオロンが、四月二十九日、庭から城のなかに入り込み、ひそかにサドと脱出計画を打ち合わせします。翌晩、ヴィオロンは城の近くに待機し、サドのほうはそのころ、城の酒保で夕食をとっていました。隣に空き部屋があって食糧置き場になっていましたが、この部屋のすみにあるトイレの窓わくがはずれていて、人ひとりが自由に出入りできるのをサドは知っていたのです。そして窓の外は城の裏手で山にのぞんでおり、窓から地面まで四メートルの高さしかないことも。  サドとともに幽閉されていた召使のラトゥールが、台所番人の目をぬすんで食糧置き場にしのびこみ、部屋の鍵をぬすみます。そしてその夜おそく、サドとラトゥールは鍵を使ってこの部屋に入り、便所の窓をのりこえ、壁の下で待っていたヴィオロンが用意した縄ばしごで下までおりて、そのまま馬でフランス国境まで逃げのびたのです。   幽閉生活の始まり[#「幽閉生活の始まり」はゴシック体]  その後サド夫妻は、ラ・コストの城にひっそりと身をひそめていました。が、警察は彼らがここに隠れているのを見ぬき、またもラ・コストの城の家宅捜索を行ったのです。翌年一月六日夜、パリ警察の検察官とマルセイユ憲兵隊の騎兵隊が、突然城を襲いました。偶然サド自身は留守でしたが、彼らは城中を探しまわり、サドの書斎を荒らして火をつけたり、原稿や手紙を押収し、捨て台詞《ぜりふ》をのこして引き上げていきました。  その年は夫妻にとって辛《つら》い冬でした。ルネはマルセイユの裁判所で夫が受けた判決を破棄させようと奔走しますが、請願は実を結ばず、パリで毎日裁判所にかよいつめたあげく、むなしくラ・コストに帰っていきました。権力という大きい壁のまえでの、個人の無力を思い知らされたのです。冬のあいだ、夫妻は誰にも会わず城にこもって暮らしました。夜には明りという明りを消し、重い鎧戸やカーテンをぴったり閉めました。南仏特有のミストラルの吹きあれる冬のあいだ、暗く静まりかえった城は、不気味な廃墟《はいきよ》のようでした。  けれど城の奥の一室には明々と暖炉が燃え、そこには想像を絶する光景が繰りひろげられていたのです。ズボンの上は半裸で、居丈高に鞭を振りかざし、仁王のようにそそり立つサド侯爵、部屋の片すみで震えおののきながら身をよせる、ルネ夫人と五人のうら若い娘たち……。  一月ほど前、夫妻はリヨンで五人の娘を雇って城に連れかえりました。女中につかうという名目でしたが、もちろんそれは表むきのこと、本当はサドの快楽に供されるためなのです。  クリスマス・イヴは、そのまま淫靡《いんび》な黒ミサの夜に一変しました。娘たちは裸にむかれ、鞭うたれ、犯され、サドの尽きることない欲望の生贄《いけにえ》にされます。妻ルネもすすんで裸になり、その乱行に加わりました。彼女にとって夫の命令は絶対でした。  城の奥深い部屋で、暖炉の炎にほのかに浮かびあがる青白い裸体が、くんずほぐれつ絡まりあいます。あがる悲鳴、皮膚に食いこむ鞭のにぶい音、しだいにぜえぜえ高まる息、肌からポタポタたれて床をひたしていく深紅の血……。  死ぬほどの羞恥《しゆうち》にふるえつつ、ルネは娘たちの目前で夫に向かってからだを開き、ときには夫に命じられて、下男に身をまかせさえするのです。あの信心深いルネ夫人、つつましやかなルネ夫人が、そこではまるで別人のように、異常な快楽にあやしく悶《もだ》え、のたうつのです。  一月十四日、突然サドの母が亡くなったしらせを受けて、夫妻はパリに出かけました。が、用心していたにもかかわらず、到着から五日後にサドは旅館で逮捕され、パリ郊外のヴァンセンヌの牢に収容されるのです。この逮捕のかげには、またもモントルイユ夫人の手が動いていました。そもそもサドをパリに呼びよせたのも、彼女のさしがねだったのです。  周囲を深さ約十二メートルの堀が囲み、切り立った石垣のうえには内がわから軒蛇腹がつきでて、獄内へのあらゆる侵入をこばんでいます。四つの塔のなかに並ぶ獄房は、それぞれ二重の鉄扉で閉ざされ、壁の厚さは約四・八メートル、天井の高さは約九メートル。暗い部屋には壁の上のほうにわずかな明りとりがあるだけで、囚人の部屋には夜も昼も錠がおろされ、閂《かんぬき》がかけられています。  この恐ろしいヴァンセンヌの牢獄で、サドは六号室という独房に収容されました。こうして十一年の幽閉生活が始まりました。彼が一人の作家に成長するには、八九年の大革命までの、この十一年の苦悩が、ぜひ必要なものだったのです。彼自身、いつの日か自分が山ほどの貴重な作品を手に、作家としてこの牢獄から出ることになろうとは夢にも思っていませんでした。それから一世紀後に彼の復権が叫ばれ、彼が文学史上、大作家として輝かしい金字塔を打ちたてる日が来ようとは……。   妻への嫉妬《しつと》[#「妻への嫉妬《しつと》」はゴシック体]  その冬は寒さが厳しく、物も乏しい辛い冬でした。ペンと紙を渡されて物を書けるようになったのは、やっと三カ月後のこと。週二回、獄吏に見はられ黙々と庭を歩く散歩が許されるようになったのはそのもっと後でした。食事は朝はシチューと添え物、晩は焼肉と添え物で、少量のパンと葡萄酒がつくだけ。皿は汚れていて肉は固く冷えていることもしょっちゅうでした。  八一年七月、ようやく四年五カ月ぶりに妻と対面が許されましたが、監視つきの短かくあっけないもの。目のまえに妻のいとしい肉体があっても、それに手をふれることも口づけすることも許されない。かえってサドは狂うような嫉妬と欲求不満に悩まされるばかりでした。  やがてサドはあることないことを妄想しては、妻を困らせるようになりました。サドの秘書のルフェーブルがサドに渡すようにと本を何冊か買ってくれたといえば、ルフェーブルと妻のあいだを疑い、有名な文学サロンを主宰しているヴィレット夫人が、ルネに同情して自分の館《やかた》にきて一緒に住むようにすすめたといえば、夫人と妻との同性愛を疑います。はては妻に命じてルフェーブルの肖像を送らせ、それを使って相手を呪い殺そうとまでするのです。なかなかイイ男だったらしいルフェーブルの顔のあちこちに、十三カ所もナイフで刺した跡のある肖像画が、いまも残っています。  それでもまだおさまらないサドは、今度はごていねいにもルネへの手紙に、ルフェーブルの性器の大きさまで勝手に計算して書いています。彼によるとそれは「長さ十八・九センチ、周囲十三・五十五センチ」なんだそう。それにしても、いったいどうやって、計算したんでしょうね?  もっとも彼はラ・コストの饗宴のとき、何度もルフェーブルの性器を間近に見たことがあり、ルネも彼に命じられ、ルフェーブルに実際、身をまかせたこともあるのですが……。  つぎにサドは、本当に浮気してないなら、いつも自分が命じるとおりの服装をしているようにと命令します。つまりつつましく地味な服装で、髪はぴっちり後ろになでつけて髷《まげ》は結わず、洋服も肌をあまり見せない黒一色のもの……。  普通ならどんなに従順な女でも、ここまで言われては、いい加減にしろといいたくなります。ところがルネは、いちいち素直にしたがうのですから、驚きます。どんな疑いをかけられ、どんな無理難題を要求されても、いちいちすなおに受け入れるのです。 「わたくしはただ、あなたが満足して下さることだけが願いです。わたくしはあなたのためだけに生きています。わたくしの心は変わっていません。そしてこれからも……」  これにサドは、なおも疑惑の種をさがしては、手紙のなかでねちねちといじめぬくのです。ルネはそのためヴィレット夫人の申し出を断ったばかりか、夫の嫉妬をさけるため住居を引き払い、五百リーブルの家賃を払って、女子修道院の寄宿舎に引越しまでするのです。それにしても、この貞節ぶりはナンなんでしょうか? 加害者と被害者の息が、あんまりピタリと合いすぎていません?  本当のところ、これは男と女のあいだの、一種の精神的S・Mごっこ。それも息が憎らしいぐらいピッタリ合っている、愛しあっている夫婦のラブ・ゲームと言っていいのじゃないかしら? 焼餅《やきもち》を焼き、いびりながらも、じつはサド、奥さんに熱々だったんですね?  一見つつましやかで淑《しと》やかで、ベッドの快楽にも積極的でなかったろうと思われるルネが、実は外見とちがって淫蕩で破廉恥で、夫に負けないくらいスケベだったと考えるのは、愉快なことじゃありませんか。  そもそもラ・コストの城に娘たちを集めて性の饗宴を開いたとき、ルネも積極的にそれに参加しているのです。はじめは夫のヘンな趣味を知ってびっくりしましたが、それでも夫に嫌われまいと、いやいや従っていたのが、そのうちにしだいに飼いならされて病みつきに? まあ、詮索《せんさく》はそこまでにしておきましょう。   書くことの喜び[#「書くことの喜び」はゴシック体]  サドの妻あての手紙には、時々ひどくエロティックな言い回しが出てきます。「お前の尻にキスするよ。お袋さんには言うなよ。彼女にいわせりゃ、ご亭主は『繁殖のツボ』以外には突っこまなかったし、それ以外のことをすりゃ皆、地獄行きなんだそうだからな。だが、お前のむっちむちの部分は手ざわりもいい。『背離』のなかはせまいし、『直腸』のなかはあったかい。だからオレはお前とはぴったりくるんだよな」  これは彼の妻とのアナル・セックスをほのめかしたものですが、こんなエッチな手紙をたのしげに書いているところを見ると、彼らの夫婦生活は、相当進んだものだったかも?  根拠のない不貞をでっちあげて自分の嫉妬をかきたて、妻を責めぬいては、勝手にカンジテいたのかもね? これはいまでも倦怠期《けんたいき》の夫婦がよくやることではないかしら? たとえば奥さんが夫とセックスしながら、美男俳優の顔を思い浮かべたり、夫のほうでも昼間会社で会うカワイコちゃんのセクシーな腰を思い浮かべたりする。そんな初歩的なものから、昼間パートに出てる妻の浮気をあれこれ詮索して、あらぬ嫉妬をしてねちねち妻をイジメる夫も……。  要するに、のぞき見趣味の心理です。疑いながらも、心のどこかにだまされたいという甘い欲望がある。信じてもいない浮気の情景を頭にえがいては、エロティックに興奮する……。サドは言います。「夢のなかのお前は本当の年よりふけていて、何かわたしに言えない秘密を持っていて、母の言うなりになっていつも私を裏切っている。そんな夢をもう何百回見ただろうか……?」そして妻も彼とぴったり呼吸をあわせ、夫に責められてうろたえる、貞淑な妻の役割を演じぬく……。  けれどサドはいつまでも、こんなS・Mゲームに興じていたわけではありません。しだいに彼は、何の楽しみもない獄中生活で、自分を唯一熱中させてくれる、書くことの喜びを発見していくのです。 「イメージの向くまま書くときが、不幸が慰められる唯一のときだ」とサドはあるとき書いています。このころ彼はすでにエロティックな空想を頭のなかで駆けめぐらせ、ひそかに執筆計画もたてていました。四年になろうとしている牢獄生活のあいだに読んだ本の量も厖大《ぼうだい》で、この知識と空想の集積が、彼の頭のなかで独自の作品に昇華され、せきを切ってあふれだすのも遠いことではないでしょう。  肉体の故障や孤独にもめげず、次第に落ち着きを取りもどしていたサドは、自分を客観的にみつめ、腰をすえて書き出せるようになりました。何度かの挫折《ざせつ》もとおりすぎ、ようやく彼は作家として生きることを決意するようになったのです。汚辱と苦悩の底をつらぬいて流れでる作家としての熾烈《しれつ》な決意が、そのころの彼の手紙には感じられます。 「私の考え方は私の存在や体質と切りはなせない関係にあるので、それを変えようとは思わない。人が非難するこの考え方こそ、私の人生の唯一の慰めで、私の牢獄での苦悩をやわらげ、私の快楽いっさいを形作っているもので、私にとっては人生以上に大切なものだ。自分の道徳や趣味を捨て去れば自由にしてやると言われても、そんなことをしようとは思わない。私の道徳や趣味は、私のなかで狂信的なほどに成長してしまったのだ!」   牢獄での執筆[#「牢獄での執筆」はゴシック体]  が、ある日サドの単調な生活に、突然変化が訪れました。八四年二月の末に、ヴァンセンヌの牢獄が閉鎖されることになったのです。二月二十九日の晩、サドは突然眠っているところをたたき起こされ、六年間を暮らしたヴァンセンヌから、バスティーユの監獄に連行されたのです。  ルイ十四世の時代から、このバスティーユは国事犯やスパイや毒殺犯などの牢獄として、フランス国民の恐怖の象徴となっていました。有名な「鉄仮面」が入れられていたのもここですし、ヴォルテールやスタール夫人などの作家も幽閉されたことがあります。このバスティーユがフランス革命のときいまわしい絶対権力の象徴として、民衆に第一に襲撃され叩《たた》きこわされたことは御存じですよネ?  とはいってもバスティーユは貴族や上流階級のための、一種のエリート監獄。友人を招いたり動物を飼ったり、召使を置くことも許されていました。牢獄内の交流も自由で、ときにはここが恋人同士の出会いの場所になることもありました。スタール夫人などはここである美男の騎士と恋におちて、釈放の日がきても、「もっとここにいたいワ」とこぼしたとか……。  ここに移ってからルネ夫人は月二回の面会を許されるようになり、四月末にはヴァンセンヌに残してきたサドの衣服や家具や、百三十余冊の本もとどきました。なんだかんだ言いながら、かなり自由な囚人生活だったようです。  紙やペンも妻からわたされ、ここでの創作はおおいに進んだようです。折しもマリー・アントワネットの「首飾り事件」が世間をさわがしているころ、サドは牢獄で、彼の代表作のひとつになる『ソドムの百二十日』を着々と書きすすめていました。  彼の執筆は猛烈なスピードで進み、八四年から五年間のあいだに三つの長編が並行して書かれました。書きためた原稿の一部は面会にきた妻にひそかに渡され、残りは牢内に隠されました。  四十歳まで何も書いたことのない彼が、十年の牢獄生活のあいだに、厖大な量の著作をもつ作家に成長したのです。いまは書くことが彼の生きがいでした。モントルイユ夫人のエゴイズムは彼の肉体を不自由な牢のなかに閉じ込めることはできても、その心まで閉じ込めることはできませんでした。むしろ牢に入れられることで彼は現実の瑣末事《さまつじ》から解放され、自由な時間をあたえられて、思いきり自分の夢と欲望を作品のなかに解き放つことができたのです。  外の世界ではサドの父や義妹アンヌの死と、いろいろ変化が起きていました。妻ルネももう五十近くになり、体力もおとろえ、脚をすっかり痛めていました。三人の子はモントルイユ夫人に引き取られて無事に成長し、軍人への道をすすみました。やっと義務をはたし終えた気がして、ルネはがっくり疲れがきていました。あいかわらず獄中の夫への面会は忠実にはたしていましたが、それももう愛情からというより、単なる義務感からでした。  一七八九年七月四日、午前一時、警官にたたき起こされたサドは、着がえるひまもなく馬車におしこまれ、シャラントンの精神病院に連れていかれました。彼の出たあと警部の手で封印された獄中の部屋には、家具や衣類や下着と、六百冊の蔵書と、残念なことに印刷屋にまわすだけになっていた十五巻の書物の原稿がのこされたのです。  そして七月十四日、あのバスティーユ占領が起こります。群衆はバスティーユの扉を打ち壊してサドの部屋にも侵入し、家具や衣類や書物を滅茶苦茶に荒らしてしまいました。サドの原稿もみな引き裂かれ、焼かれ、バラバラになってしまいました。そのなかに百年後に発見されることになる『ソドムの百二十日』の原稿もあったのです。  いいようのないショックでした。「いま、私の原稿はやっと四分の一しか残っていない。一部は失われ、一部は持ち去られた。十三年の苦労も水の泡だ。原稿の四分の三はバスティーユの私の部屋にあったのだが、十四日にバスティーユは占領され、私の原稿は六百の蔵書とともに破られ、焼かれ、持ちさられてしまった。これこそ天が私にあたえた最大の不幸だ!」  こうしてサドはシャラントン精神病院で、九カ月を狂人とともに暮らすことになります。  時代は容赦なく革命へと突き進みました。パリの生活難はますますひどくなり、庶民の女たちは「パンをよこせ!」と叫んでヴェルサイユに向かいます。ルネ夫人も娘や女中と一緒に、命からがら貸し馬車でパリを脱出しました。こうして時代は恐怖と無秩序の時代へと突入するのです。   不遇の晩年[#「不遇の晩年」はゴシック体]  三月に憲法制定議会が投獄されている容疑者を全員釈放するという訓令を発したので、ついにサドは十一年ぶりに自由を得ることになりました。が、彼の生涯は、本当のところここで終わったのです。その後、別人のように太った体で、パリの町をよろよろ歩きだした老人は、もうサドではない別の人間でした。  牢獄といういっさいの現実から隔絶された世界で、書くときのめくるめくような瞬間のためだけに生きていた彼は、まるで闇《やみ》になれた夜行性動物が昼光のなかに突然はなされたように、どうしていいか分からずオロオロしていました。  彼にとって、急激に変化した現実についていくのは大変なことでした。だいたいが芸術家タイプで、世間のことにはうとい人間なのです。その後、彼はなんとか現実に適応しようと、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、必死で努力を重ねますが、彼があがけばあがくほど、考えているのとは別の方向に行ってしまうのです。  最初の挫折は妻との離婚でした。牢から出たサドが、さっそく修道院に妻を訪ねると、奇妙にもルネは夫と会うことを冷たくこばみ、彼と別れる決意を明らかにしたのです。長年忠実につくしてきた彼女が、どうして今になって彼と別れようというのでしょうか? これはいまだにサド研究家に謎《なぞ》とされていることなのです。  サドにとって、長年連れそった妻と別れるのはやはり相当ショックでした。妻は彼が怒りや我儘《わがまま》をぶつけられる唯一の人だったのです。「ああ、なんという残酷な仕打ちだ!」こう嘆いてサドはルネを恨みます。そのうえルネはパリ裁判所を通して、持参金としてサド家におさめた十六万八百四十二リーブルを返すように申請したのです。離婚申請理由として、アルクイユとマルセイユの事件があらためて引合いに出されました。結局、この離婚は認められ、サドは彼女に年に四千リーブルずつ持参金を返却せねばならないことになりました。多分ここにもあのモントルイユ夫人の執念深い手が動いていたのでしょう。  牢から出て間もなく、サドはひとりの女性と知り合いました。三十たらずのケネエ夫人という女性で、商人の夫は彼女と息子をのこしアメリカに行ってしまったのでした。サドと彼女はやがてささやかな家を借りて、ともに暮らすようになりました。  夫人との関係はサドが死ぬまで二十五年もつづきます。身寄りのない彼の晩年を、夫人はやさしくいたわり励ますのでした。やがて彼は貧乏のドン底に落ちることになりますが、そのときも夫人はかわらぬ愛と献身をささげ、サドは「彼女こそ天がわたしに贈ってくれた天使」と書くことになります。若き日の情熱的な恋でも快楽をむさぼるような恋でもなく、彼の生涯の最後に咲いた、静かなおいらくの恋でした。  パリではインフレが進行し、サドの生活はしだいに追いつめられていきました。ラ・コスト城の差配人のゴオフリディからの送金は滞りがちで、現金収入はゼロ。質に入れるものもない惨憺《さんたん》たる生活でした。知人をとおして職を探しても、五十五歳の手になんの技術も経験もない老人に職があろうはずはありません。ついにサドは家財道具まで差しおさえられ、部屋も追い出されて、乞食のように食べ物と寝床をもとめてさまようことになります。その冬はサドの一生でもっとも悲惨な冬でした。彼はパリ郊外の薄ぎたない屋根裏部屋で、極貧のうちに厳寒の日々を過ごしたのです。芝居小屋で下働きをして日給四十ソルを得、やっとの思いでケネエ夫人とともにその日暮らしをしていました。  窮状に輪をかけるように、より以上の不運がサドをおとずれます。一八〇一年、四年まえに刊行した『美徳の不幸』が風紀|潰乱《かいらん》だとして押収され、サドは逮捕されてしまうのです。彼がこれを出版した執政時代は自由な気風があふれ、好色本がもてはやされていました。が、ナポレオンが天下をとるとそれまでの悦楽的な風潮がすたれて、人々はまたスキャンダルに厳しい態度をとるようになってきました。ナポレオンは厳格な言論統制と風紀条令で、言論の世界に圧迫をくわえてきたのです。  こうしてもう六十をこえるサドは、生きながら精神病院に葬られることになりました。もう二度と彼は自由の地を踏むことはないのです。他の患者たちとともに、なお十三年を、生けるムクロとして生きつづけねばならないのです。  ケネエ夫人はそんな彼を見捨てることなく、せっせと面会にかよってきました。当時、精神病院で彼をみかけた某作家は言っています。「彼は、身動きもできないくらい太っていた。が、彼のやつれた目にはいまだに熱をおびたものがあり、消えかけた炭火の最後の輝きのように、それが時おりパッと燃え上がるのだった」  一八一四年、死の近いのを感じたサドは、遺書を書き残しています。最後まで自分に付きそってくれたケネエ夫人に熱い感謝の言葉を述べ、自分に残るわずかな財産のいっさいを彼女に譲ると述べたうえで、彼は自分の遺体を、「何の葬式も行わず、領地であるエペルノン近くのマルメゾンの森にうめてほしい。そして墓穴のふたをしめたら、その上に樫《かし》の実をまいて墓の跡が地面から隠れるようにしてほしい。自分はすべての人から忘れさられてしまいたいのだ。ただし最期まで自分を愛しつづけてくれた僅《わず》かな人々については別だが」  現実にいやというほど痛めつけられ、もう神も人間も信じられなくなっていた、晩年のサドの孤独がゾッとするほどに感じられますね。  けれどこの遺言は、守られませんでした。ケチで狭い心の持主であるサドの長男が葬式いっさいをとりしきり、ケネエ夫人に遺産を渡すどころか、サドの残された原稿も、一部は焼かれ、あとは警察に押収されるか門外不出として邸《やしき》の奥深くしまいこまれました。そしてサドの遺体もマルメゾンには葬られず、シャラントン病院付属の墓地に、普通のやり方で埋葬されたのです。墓のうえには小さな十字架がたてられました。総計六十五リーブルのささやかな葬式に、いったいどんな人々が集まったかはわかっていません。  あまりに不遇な作家だったサド。『悪徳の栄え』『ジェスティーヌ』などキラ星のように輝く名作の数々。けれどそれらの作品を生み出すために、彼があがなわねばならない苦役は、あまりに大きすぎました。それにしても皆さん、不器用で損な生きかたばかりしてきた彼は、いかにも憎ったらしい「サディズム侯爵」のイメージとは、あまりにかけ離れていますでしょ? [#改ページ]  父を惨殺した美少女 ———————————————————————————— ベアトリーチェ・チェンチ[#「ベアトリーチェ・チェンチ」はゴシック体] [#改ページ]   処刑台の聖女[#「処刑台の聖女」はゴシック体]  一五九九年九月十一日、ローマのサン・タンジェロ広場で、チェンチ一族の処刑が行なわれました。一族がローマでも屈指の名家で、そのうえ一人娘のベアトリーチェが評判の美少女だっただけに、見物人たちは同情の涙をおさえることは出来ませんでした。  目撃者の一人は、死にゆくベアトリーチェをまるで聖女のようだったと書き、もう一人の目撃者は、「まさに美そのものである娘の死は、ローマ中の人々に哀れみの涙を流させた」と、書いています。  罪状は、ほかならぬベアトリーチェの父である、チェンチ家の当主フランチェスコ・チェンチの殺害です。�父親殺し�とは、彼女の清楚《せいそ》な容貌《ようぼう》からは想像もつかない罪名ですが、殺された父親は、強姦《ごうかん》、誘拐、暴行、殺人と非道の限りをつくしながら、富と地位のおかげで罪を逃れてきた、絵に描いたような獰猛《どうもう》な男でした。  彼らの生まれたチェンチ家は、元老院議員や枢機卿《すうきけい》など数々の名士を出した、ローマでも屈指の名門貴族でした。彼らの父フランチェスコは、一五四九年に生まれ、十二歳のときチェンチ家の莫大《ばくだい》な家督をつぎました。  このころからフランチェスコには、後年の彼が心のおもむくまま奔出《ほんしゆつ》する暴力と肉欲の芽が現れていたようです。十一歳のとき御者の息子を食べ物も与えないで地下室に監禁したり、ある男を襲って重傷を負わせ、裁判|沙汰《ざた》になったこともあります。成長してからは、暴力だけにとどまらず、ゆがんだ性欲を発揮するようになりました。  フランチェスコは目をつけた女たちをつぎつぎとさらってきては、野獣のように襲いかかってモノにしました。さらに女たちにさまざまな倒錯行為を強要し、さからうと鞭打《むちう》ったり、食べ物も与えないで地下室に監禁しました。  一五六三年、フランチェスコは十四歳のとき、莫大な持参金をもつエルシリア・クローチェと結婚し、あいだにジャーコモ、クリストフォロ、アントーニア、ロッコ、ベアトリーチェ、ベルナルド、パオロと、七人の子をもうけますが、八四年、あいつぐ妊娠に疲れはてたエルシリアは病死します。  一五九三年、フランチェスコは三十八歳の寡婦ルクレツィア・ペトローニと再婚しますが、その後も彼の暴虐はとどまることを知りませんでした。女をさらって納屋に連れこんで乱痴気騒ぎをしたり、気にくわない従兄《いとこ》を待ち伏せて襲ったり、さらに男色の罪で二、三度投獄されたこともありますが、そのたびに莫大な罰金を払って釈放されました。  おかげでいかに莫大な資産も、しだいに乏しくなりかけていました。そのうえ長女アントーニアの結婚のときは、当時の金で金貨二万スクードという莫大な持参金を持たせねばなりませんでした。まだベアトリーチェを嫁にやることが残っていますが、といって彼女に姉と同じだけの持参金をつけて結婚させるゆとりは、今のフランチェスコにはありません。  そもそもフランチェスコ自身、しだいに高まる悪評のためもあって、ローマは住みづらくなっていました。そこで彼は、妻ルクレツィアとベアトリーチェを連れて、ナポリ王国の国境に近いラ・ペトレッラの城塞《じようさい》を、領主コロンナから借りうけて移り住むことを決意したのです。   野獣のような父のもとで[#「野獣のような父のもとで」はゴシック体]  一五八四年、七歳のときに母を失ったベアトリーチェは、少女時代をサンタ・クローチェ僧院の寄宿学校でおくりました。ここで資産家の娘たちが年頃になるまで、基礎的な学習や裁縫や行儀作法などを習うのです。  ベアトリーチェは八年間を、このバラ園で埋まった美しい寄宿学校で過ごしました。草原のピクニック、戸外の散歩、先生たちとのお喋《しやべ》りなど、つい目と鼻の先で父が野獣のような生活を送っていることを知ってか知らないでか、ベアトリーチェの少女時代は、無垢《むく》な清らかさに満ちていました。  けれどそんな少女時代も、一五九二年に十五歳で寄宿学校を出て、父のもとに引きとられると一変します。何かというとガミガミどなりちらし、棒を手に追いまわす父。夜は夜で街の女や馬小屋の少年をひっぱりこみ、邸中《やしきじゆう》聞こえるほどの乱痴気騒ぎを繰りひろげる父。 「このときわたしの苦悩ははじまったのです」と、のちにベアトリーチェは言っています。ベアトリーチェは美しい娘でした。黒いしなやかな黒髪、えくぼのある愛らしい顔だち、生き生きした黒いひとみ、ほっそりした華奢《きやしや》なからだつき……。  殴る蹴《け》るの暴力を父から受けるうちに、しだいにベアトリーチェは自分のなかに閉じこもるようになり、何時間も自室のベッドに横たわったり、テヴェレ河に面した窓から、ぼんやり外を眺めていることが多くなりました。  寄宿学校での清らかで楽しい日々と、目の前の野蛮そのものの現実……。あまりに大きすぎるその落差を、いったいどうして埋めたらいいのか、わずか十五歳の少女には、見当もつかなかったのです。  ベアトリーチェと義母ルクレツィアにとって、夜寝るまえの数時間ほど、辛《つら》いものはありませんでした。夕食後、父のフランチェスコは暖炉のまえに座って脚を温めます。そのあいだルクレツィアとベアトリーチェは、そばで父のあらゆる下品な儀式に参列しなければなりません。  フランチェスコは大声でののしったり、げっぷをしたり、ありとあらゆる下品な仕種《しぐさ》をみせつけます。あげくは穴あき椅子《いす》を持ってこさせ、二人の女たちの見ているまえで、平気で排尿や排便をはじめます。さらには、ただでさえ悪寒《おかん》をもよおしている二人に、無理やり自分の尻《しり》をふかせたりまでするのです。  しばらくしてフランチェスコはかいせん[#「かいせん」に傍点]に悩まされるようになり、今度はベアトリーチェは義母とともに、ベッドに横たわる父の下半身をおおっている赤い吹き出物に、薬をぬりこみ、麻布でこすってやらねばならなくなりました。ベアトリーチェにこすられているうち、フランチェスコはしだいに興奮してきます。興奮が押さえられなくなると、手あたりしだいに侍女をベッドに引っぱりこんだり、妻ルクレツィアを犯したりして、乱痴気騒ぎを繰りひろげるのです。そんな情景を、ベアトリーチェは顔をそむけながらも見ないわけにはいきませんでした。  けれど暴力沙汰だけなら、まだぎりぎりのところで耐えることもできます。ところがある日、うちひしがれたベアトリーチェを襲ったのは、さらに絶望的な事件でした。一五九三年三月十三日の夕方、部屋でベアトリーチェがベッドに横たわっていると、突然父が現れたのです。  びっくりして、急いで毛布でからだをおおいましたが、父のほうはおかまいなしにどんどん入ってきて、ベッドの端にすわりこみます。そして驚いたことに、とつぜんベアトリーチェの毛布をはぎとり、襲いかかろうとしたのです。  ベアトリーチェは叫び声をあげて、ベッドから転がりおちました。脅《おび》えきってあとずさる彼女を、父は執拗《しつよう》に壁まで追いつめます。そしてベアトリーチェが叫び声をあげるのもかまわず、襲いかかって身につけた肌着を乱暴にはぎとりました。そしてそのあとは……。   地獄の日々[#「地獄の日々」はゴシック体]  ラ・ペトレッラ城の執事オリンピオは、堂々たる体躯《たいく》と浅黒い肌と、濃いあごヒゲを持った美男でした。フランチェスコと同じ四十五歳ながら、十は若く見えました。ローマの仕立屋で徒弟奉公をしたあと、従僕としてコロンナ家に奉公に出るようになったのです。  美しいベアトリーチェが、父に虐待されているのを見て、オリンピオはすっかり同情してしまいました。その同情がしだいに愛情に変わっていったのは、自然のなりゆきかも知れません。  すでに二十歳を迎え、肉体的にも精神的にも女として美しく成長していながら、父に肉体をもてあそばれて悲惨な日々を送っていたベアトリーチェは、オリンピオのたくましい腕のなかで、しばしの安らぎを見いだそうとしたのかも知れません。  オリンピオは城のたもとの茂みに隠した長梯子《ながばしご》を使って、時おり窓からベアトリーチェの部屋にかよってきました。オリンピオの激しい愛撫《あいぶ》のなかで溺《おぼ》れながらも、じつはベアトリーチェは冷静にまったく別のことを考えていました。このころから彼女のなかには、父フランチェスコの殺害という、はっきりした目的が生まれていたようです。  こんな地獄のような生活から抜けだしたい。女としての幸福を手に入れたい。そんな思いが、激しくベアトリーチェを駆り立てていました。オリンピオとの関係は彼女にとって、何よりもまず、彼をフランチェスコ殺害という恐ろしい企てに引きずりこむためのものでした。  ある日のことベアトリーチェは、もとフランチェスコの御者で、近憐に住むお人好《ひとよ》しの歌い手マルツィオ・カタラーノを通じて、ローマにいる兄ジャーコモと伯父《おじ》サンタクローチェに、自分の辛い状況を訴えました。なんとか自分をこの生活から救いだしてほしい。万一、自分を結婚させる十分な持参金がないのなら、少なくとも修道院に入れてほしい。  ところが伯父サンタクローチェがフランチェスコを訪ね、ベアトリーチェからの手紙を見せて彼を叱責《しつせき》したものですから、大変。フランチェスコは怒りまくり、ずかずかベアトリーチェの部屋に押し入って、野獣のような勢いで襲いかかってきました。 「どういうつもりだ、オレの悪口をあることないことバラまきおって!」 「いったい、何をおっしゃっているのでしょうか?」 「シラを切り通せると思っているのか。バカ者! ほれ、証拠はこれだ!」  サンタクローチェからとりあげた手紙をベアトリーチェの目前に叩《たた》きつけると、フランチェスコは皮鞭をとって、力いっぱいベアトリーチェを殴りつけました。鞭が彼女の服をやぶり、肌に何本も血の筋をつけるまで、打って打ちまくって、やっと気がしずまると、ベアトリーチェを物置に押しこめて鍵《かぎ》をかけてしまいました。  全身をさいなむ痛みのなかで、ベアトリーチェは物置の凍《い》てついた床に、しらじらとした思いで横たわっていました。どんなことをしても、この地獄から逃れることはできないのか。それなら自分も、最後の手段に訴えるまでだ。  三日後に、フランチェスコに命じられた義母のルクレツィアが、物置の鍵を開けにきたとき、ベアトリーチェは固い決意を見せてこう言ったといいます。「わたしをこんな目にあわせた以上、父上には死をもって償《つぐな》っていただきます」  その後はまた、二人の女たちにはゾッとするような地獄の日々がつづきました。フランチェスコの排泄《はいせつ》の世話をし、彼をベッドに運んでかいせん[#「かいせん」に傍点]を掻《か》いてやる。そして夜になるとフランチェスコは、侍女や妻をベッドに引きずりこんで乱痴気騒ぎをくりかえす。そしてときには妻を部屋から叩きだして、実の娘ベアトリーチェに性行為をいどむことさえも……。  ベアトリーチェは、どんな辱《はずかし》めも暴力も、じっと黙って耐えました。ただ父殺害の決意だけが、今の彼女を支えていたのです。父の目をかすめてオリンピオと逢《あ》いびきするときは、ベアトリーチェは彼のフランチェスコへの反感を、巧みにかきたてようとしました。  そしてある日、絶対に誰にも言わないと誓わせたあとで、ベアトリーチェは父から犯されたことをオリンピオに打ち明けたのです。彼の反応は予想どおり、激しいものでした。 「なんという恥知らずな男だ。見ておられるがいい。私がこの手で刺し殺すか、縛り首にしてやる!」   殺害の現場[#「殺害の現場」はゴシック体]  さっそく兄ジャーコモもまじえて、フランチェスコ殺害が計画されました。父の暴虐《ぼうぎやく》に耐えられないベアトリーチェや、彼女を救おうと息まいているオリンピオや、抱えている借金を父の遺産で返済したいと思っているジャーコモ。それぞれの利害は一致していました。ただ、問題は殺害方法です。ジャーコモは毒殺を主張しましたが、ベアトリーチェは大反対しました。いつも誰かに毒殺されるのではという恐怖にとらわれていたフランチェスコは、最近ではルクレツィアかベアトリーチェに毒味をさせないかぎり、何も口にしなくなっていたのです。  ベアトリーチェの提案はこうでした。自分が阿片《あへん》をワインに混ぜて父に飲ませ、父が眠っているところを杖《つえ》で叩き殺し、テラスの手すりをやぶって、いかにも事故に見えるように下の茂みに落とす。バルコニーの板敷が腐っていて、フランチェスコはあやまって落ちたのだと世間には言いふらすというのです。殺害には、義母ルクレツィアと、あのお人好しの歌い手マルツィオ・カタラーノも引き入れることになりました。  一五九八年九月八日の午後、ベアトリーチェは兄ジャーコモから渡された阿片をワインに混ぜて、フランチェスコに差しだしました。いつもの毒味の習慣どおり、このときもベアトリーチェは父のまえでワインをすすって見せました。その場にいたルクレツィアも毒味してみせたため、フランチェスコは安心してワインを飲みほしました。  最後まで弱気のマルツィオは、ベアトリーチェにフランチェスコ殺害を中止するよう説得しました。彼が父親殺しがどんなに大きな罪であるかと言うと、彼女は言下に答えたといいます。「それはわたしと神さまとのあいだのこと。他人の知ったことではないわ!」  ベアトリーチェの決意は動きませんでした。ジャーコモもオリンピオもマルツィオもルクレツィアも、彼女の鉄のように固い意志にあやつられるままになっていました。とくに恋する男であるオリンピオは、ベアトリーチェへの官能的な情熱に引きずられるままでした。  翌九日、早朝四時に起きたオリンピオは鉄槌《てつつい》を手に、マルツィオはマカロニの麺棒《めんぼう》を手に、つれだってラ・ペトレッラの城に忍びこみます。まだ暗い雲が空をおおっており、いつものように老僕《ろうぼく》は市場に買い出しにでかけました。  ベアトリーチェは二人とともに四階の父親の寝室にあがっていき、ドアを叩きました。ルクレツィアが鍵をまわすと、ベアトリーチェはすばやく中に飛びこみ、窓のブラインドを半分あけて二人の男を部屋に入れると、自分はルクレツィアとともに廊下で待ちました。  異常な緊張感のなかで、オリンピオとマルツィオは武器を手に、眠りこけるフランチェスコの巨大な図体の前に立ちました。そのときフランチェスコが目を覚まし、びっくりしたように二人を見つめました。「なんだ、どうしたんだ!」  その瞬間オリンピオは彼に襲いかかると、左手でフランチェスコの胸ぐらを押さえ、右手の鉄槌で頭をめった打ちしました。いっぽうマルツィオはフランチェスコが起きあがれないよう、例のマカロニ麺棒でくるぶしを殴りつづけます。すべてがあっという間の出来事でした。  二人の男が部屋を出ると、廊下ではルクレツィアとベアトリーチェが、放心したように立ちすくんでいました。「終わったぜ」と、オリンピオが彼女たちに向かってつぶやきました。「やっこさん、『神さま、お助け!』という暇もなかった!」  ベッドのうえはシーツやシャツが散らばり、敷布団のうえには血しぶきが飛びちっていました。オリンピオは計画どおりバルコニーのタイルを剥《は》がして床板に穴をあけ、マルツィオとともに死体をその穴からつき落としました。  その間に二人の女たちは、血まみれになったマットレスを引きさき、羊毛の詰物をひき出し、血に染まったシーツとともに便所に投げすてました。すべては予定どおりに運んだのです。  七時頃、老僕が市場から帰ってきました。ルクレツィアが悲鳴をあげて、彼をバルコニーに呼び、そのすきにオリンピオとマルツィオは城を抜けだします。「お父さまが! お父さまが、テラスからお落ちになったの!」  老僕は仰天してテラスに駆けつけます。手すりから乗りだして、下の茂みに主人が横たわっているのを見て、何度も呼んでみますが、返事は返ってきません。 「もう息をしていなさらねえようだで」  がっくりして戻ってきた老僕はつぶやき、これにルクレツィアは待っていましたとばかり、叫びます。「くさっているからテラスには行かないようにって、何度ご注意したことでしょう。さあ、早く、みんなに知らせて!」  老僕は階段をかけおり、村を一望にのぞむ窓辺に立って、大声で助けを呼びました。呼びかけは戸口から戸口に伝わり、ラ・ペトレッラの人々は何が起こったかと城に飛んできました。   深まる疑惑[#「深まる疑惑」はゴシック体]  大急ぎで部屋に運びこまれたフランチェスコの死体は、服をぬがされて傷口を洗われました。洗っているうち、死体の頭の右側に、三つの深い切り傷が現れました。二つはこめかみの上にあり、斧《おの》のような鋭利な凶器でやられたもののようでした。三つ目は耳のそばで、骨がのぞくほどの深い傷で、たぶん致命傷のようでした。  茂みの枯れ枝で出来たような傷でないことは明らかです。周囲で、がやがや騒ぐ声やひそひそ噂《うわさ》する声がうるさくなりました。第一、傷のどこにも枝の切れ端はおろか、泥のあとさえないのです。  オリンピオは、一刻もはやく葬式をはじめるよう、神父をせかしました。神父がまだそんな時ではないし、初めに鐘で信者らに連絡せねばならないと言うと、オリンピオはカッとして神父を乱暴に揺さぶると、自分が大鐘を鳴らすため鐘楼《しようろう》の下に飛んでいきました。  サンタ・マリア教会の司祭はこう述べています。「フランチェスコさまの葬式に御婦人方の名代で参列したオリンピオは、葬式を急ぐようやたら[#「やたら」に傍点]催促しました。葬式が終わると、彼はさっそく御遺体を受けとって、他の者に手伝わせ墓所に隠しました。ベアトリーチェさまが木の棺《ひつぎ》に納めたいと言われると、『お棺はない、そのまま教会の地下墓地に納めればいい』と言ったのです」  このオリンピオの不穏な振るまいは、かえって世間の疑惑を呼び、チェンチ一族を破滅に導く災難のもとでした。やがて墓はあばかれ、フランチェスコの傷だらけの遺骸《いがい》は公衆の前に曝《さら》されることになるのです。  フランチェスコ殺害の噂はひろまるばかりで、ついに十一月十四日、ジャーコモとベアトリーチェがそれぞれ訊問《じんもん》を受けました。二人とも、父はバルコニーから落ちて死んだと誓言しましたが、外出を禁じられ、それにそむけば五万スクードの科料をとると命じられました。ついで十一月十六日、ルクレツィアも訊問を受けて五千スクードの科料で同じく外出禁止を命じられたのです。  いっぽうオリンピオは、チェンチ家のもとに大胆不敵に出入りしていました。やっと隷属的身分から脱した喜びに有頂天になった彼は、ベアトリーチェやルクレツィアと同じテーブルでなれなれしく食事をとりました。夜になるとベアトリーチェの寝室をたずね、明け方まで入りびたっていたため、二人の関係に気づかぬ者はいませんでした。  オリンピオのこの振るまいに怒りを覚えたジャーコモは、時おり、どういうつもりだとベアトリーチェを責め立てました。 「あいつを、このままのさばらせておいていいのか。あいつがオレたちの破滅のもとになってもいいのか?」 「お兄さまは間違ってらっしゃるわ。そもそもわたしたちがお父さまから解放されたのは、オリンピオのおかげじゃないの!」  ジャーコモの怒りは増すばかりでした。ついにある日、ジャーコモはオリンピオが隣室にいるのに気づかないまま、ベアトリーチェの腕をつかんで乱暴に揺さぶりました。 「お前の男[#「男」に傍点]にはもう沢山だ。このままではオレたちの名誉に傷がつく。さっさとこの家から叩きだすがいい!」  そのときオリンピオがつかつかと大股《おおまた》でドアのところに現れました。 「こいつを、すぐオレの目のまえから消してしまえ。さもないと叩きのめしてやるぜ!」 「おぼえていろ。オレにそんな口をきいたからには、そのつけは高いものになるぞ」  鼻先でフンとせせら笑ったものの、オリンピオはこの脅迫にショックを受けたようでした。自分の地位が不安定であることを、誰よりも承知しているからです。  身に危険が迫るのを感じたオリンピオは、そそくさとローマに出発し、カタラーノもラ・ペトレッラをあとに、森に身を隠しました。けれども二人の逃走は、当局の疑惑を深めるばかりでした。警察長官はひろまる噂をもとに、事件の調査を執拗につづけました。  城の現場の調査で、テラスの穴が最近広げられたこと、それも偶然落ちたことを正当化するにはあまりに狭すぎることが分かりました。また、茂みに面した壁も、いかにも漆喰《しつくい》のぬりたてという感じで、捜査の結果、もとは窓だったものを、最近塗りつぶして壁にしたことが判明しました。フランチェスコの敷布団の紛失も、疑いを深めました。   拷問の果てに[#「拷問の果てに」はゴシック体]  クリスマス過ぎ、フランチェスコの墓があばかれ、あらためて検屍がおこなわれ、立ち会った医師たちは遺体の傷が「手斧《ちような》による殴打」であることを証言しました。  ついにルクレツィア、ベアトリーチェ、ジャーコモ、ベルナルド、オリンピオ、マルツィオに対する正式の逮捕状が出ました。といっても実はこのとき、オリンピオはすでに、逃亡先でジャーコモのつかわした刺客に殺されたあとだったのです。  マルツィオ・カタラーノはアスクレアの山村で捕えられたとき、フランチェスコの持ち物だった外套《がいとう》を着ていました。フランチェスコ殺害後、ベアトリーチェが彼に与えたものです。ただ一人最後まで冷静だったベアトリーチェが、唯一犯した失策でした。  拷問がはじまりました。まずマルツィオが拷問にかけられ、ついにすべてを白状しました。拷問の場には、それまで裁判官の追及を巧みにかわしてきたベアトリーチェが引きだされました。彼女の目前でマルツィオを拷問して、彼女の抵抗を弱めようという腹でした。  哀れなマルツィオは裸にされ、両手を後ろで縛られて、吊るしあげられました。彼はベアトリーチェのまえで、自分の自白が真実であることを固く誓ってから、こう叫びました。 「ああ神様、この方に会わなければよかった!」  哀れなマルツィオの拷問に顔をそむけながらも、ベアトリーチェはじっと耐えぬき、断固たる態度で言い張りました。「この男は悪党の人殺しらしく嘘《うそ》をついているのです。わたしがそれを証明してみせますわ」  マルツィオは苦悶《くもん》にうめきながら、さらに「本当です! 本当です!」と叫びつづけましたが、ベアトリーチェは「いいえ、この男はぬけぬけと嘘をついているのです」と頑《かたく》なに言いつづけました。その後まもなく、マルツィオは獄中で死んでしまいます。  つぎにジャーコモが引きずりだされ、やはり裸にされ縄で縛られて吊るされました。吊るされたとたん彼は、いくじなくも「イエスさま、イエスさま、助けて! 死んでしまいます。降ろして下さい。何もかもお話しします!」と叫びだしました。 「オリンピオは、フランチェスコが自分を城塞から追いだそうとしたことを根にもっていました。いっぽうベアトリーチェは、父親にがんじがらめにされていることに耐えられなかったのです。それらのことが、今度の出来事と我が家の破滅の原因になったのです。ベアトリーチェは、フランチェスコを殺すようにと、しつこくオリンピオを説得したのです」  つぎはルクレツィアの番でした。ルクレツィアは両手を背中で縛られ、滑車の下にすえられました。縄がピンと張られると、その肉づきのいい小づくりの体が弓なりになって痙攣《けいれん》し、関節がきしみ、苦痛の悲鳴があがります。 「お願い、お願い。降ろして下さい。降ろして下さい。何もかもお話しします!」  ルクレツィアもすべての罪を、ベアトリーチェにおしつける腹でした。「事件が起こる三カ月前のことでした。ベアトリーチェはローマの兄に手紙を書いたことで、フランチェスコ殿からさんざん打ちのめされました。そのときベアトリーチェはわたしに、『こんな仕打ちをうけたからには、死をもって償ってもらう』と言いました。その後、彼女はオリンピオと、何か企《たくら》みはじめたのです。私は言うなりにならなければ、殺されてしまうと思いました」  これらの拷問のあとでもなお、ベアトリーチェは自分の無実を言い張りつづけました。父にいつも殴られていたのだろうと聞かれれば、一度も殴られたことはないと答え、城塞に閉じ込められたことで父を憎むようになり、その死を望むようになったのだろうと聞かれれば、自分はこれまで一度も、誰かを殺そうなどと考えたこともないと主張しました。 「ルクレツィア夫人は、そなたが阿片を父君にのませたと白状した」 「わたしは阿片がどんなものかも存じません。ルクレツィア夫人がそう申されたのなら、それは彼女が継母として、わたしをこころよく思っておられないからでしょう」 「分かっているのか。ルクレツィア夫人もジャーコモもマルツィオも、すでに白状したのだぞ」 「裁判官さま。わたしはこれまで本当のことだけを申し上げました。どうしてもとおっしゃるなら、わたしをその人たちと対面させて下さいませ。きっと本当のことがお分かりになります」 「そんなことをして今さら、なんの役に立つというのだ」 「真実を知る役に立ちますわ」と、そっけなくベアトリーチェは言い返します。   裁判官への挑戦[#「裁判官への挑戦」はゴシック体]  ベアトリーチェの挑戦を、裁判官は受けて立つことになりました。ドラマチックな場面がはじまります。ベアトリーチェは兄弟や継母と対面させられたばかりか、彼らが拷問を受けるところにも立ち会わされることになります。  最初に連れてこられたのが兄ジャーコモで、彼はベアトリーチェの前で縄にかけられ、宙に吊りさげられました。ジャーコモは悲痛な声で妹に助けてくれと叫びましたが、ベアトリーチェは冷静な声で、「兄の言うことはみな、事実無根です。兄はきっと悪魔にとりつかれてしまったに違いありません」と言い放つだけでした。  つぎには髪をふりみだし、目のまわりを老婆のようにくぼませたルクレツィアが、引きだされます。彼女はふたたび縄で吊るされ、泣き叫びながら、これまで述べたことはみな本当だと誓います。けれど今度も、ベアトリーチェの返事は冷淡なものでした。 「あの女は口から出まかせを言っているだけです。継母ですから、このわたしをこころよく思っていないのですわ。きっとわたしが死ねばいいと思っているのでしょう」  これを聞くとルクレツィアは取り乱して、激しく身をくねらせ、縄で吊るされたままグッタリしてしまい、大急ぎで降ろされて、獄所に運んでいかれました。  すべてが終わったあと、ベアトリーチェと裁判官はしばらく黙って見つめあいました。何気なさを必死で装いながらも、ベアトリーチェはいらいらと指をよじりあわせ、冷汗が額を濡《ぬ》らしていました。もう四時間も法廷に立たされて、極度の緊張にさらされているのですから、無理もありません。  それでもなお、ベアトリーチェは勇敢に、ジャーコモらの白状はみな嘘っぱちだ、単に拷問で無理に言わせられたに過ぎないと主張するのでした。  彼女の強情さにほとんど感嘆した裁判官は、とことん彼女の挑戦を受けることにしました。なんと、それまでまだ若すぎるというので手をつけないでいた、弟のベルナルドまで拷問させることにしたのです。  ベルナルドはそこに引きだされ、縄で吊りさげられると、悲痛な声をあげ、身悶《みもだ》えしました。「はなして、はなして、お願いです。死んでしまいます!」  ベアトリーチェの表情に、目にみえて動揺が走りました。ベアトリーチェは顔をそむけ、必死に手で耳をふさごうとしました。多分その胸には弟のいたましい悲鳴が、針のように突きささっていたのでしょう。 「降ろして、お願い、僕は本当のことを言った。お願いです。降ろして!」  それでもなお、ベアトリーチェはほとんど死人のような真っ青な顔で言い張るのでした。 「みんな、嘘です。誰も父を殺してはおりません」  夕暮れ近くなって、ついにベアトリーチェ自身に拷問の命が下りました。ベアトリーチェは両手を背中で縛られ、兄や弟がされたと同じように、宙に吊るしあげられました。腕の骨が関節のところで突出し、胸は苦しそうにあえぎはじめ、ベアトリーチェは叫びました。「ああ! 聖母マリア、わたしを助けたまえ! 降ろして! 何もかもお話しします!」  ベアトリーチェの屈伏があまりに早いことに、意外に思われたかも知れません。本当のところ彼女は、ベルナルドが拷問されたとき、すでに自白を決意していたのです。ただ二つの誇り高い理由が、これまで彼女を持ち堪《こた》えさせてきました。一つはチェンチ家のなかで、自分だけが拷問を免れるのを潔しとしなかったこと、もう一つは自分が屈したのは決して拷問のためではないことを、そばの人々、とくに裁判官に示したかったのです。  もはや一切の抵抗は無駄だと、ベアトリーチェは観念しました。すでに共犯者の自白と証拠は、十分すぎるほどに出揃《でそろ》っていました。けれど縄から降ろされ、ぐったりとした瞬間も、ベアトリーチェは毅然《きぜん》とした態度を失いませんでした。彼女の証言はもっぱら一切の責任を、もうその結果に苦しむことのない亡きオリンピオに負わせようとするものでした。 「わたしどもがペトレッラの城塞にいたとき、オリンピオがわたしとルクレツィア殿に、父を殺したほうがいいと説得しはじめたのです。わたしがそんなことをすれば縛り首になると言ったら、心配するな、自分が殺してやろうと言いました。ルクレツィア殿もわたしも城塞に閉じこめられ、鞭で叩かれたりひどい目にあっていましたので、ついオリンピオの誘いに乗ってしまったのです」  ジャーコモ、ルクレツィア、ベアトリーチェには死刑の判決が下りましたが、無数の陳情が、時の法王クレメンテ八世のもとに殺到しました。とくにベアトリーチェへの憐《あわ》れみを訴えるものが、多数でした。けれどこれらの陳情にもかかわらず、ベアトリーチェらの死刑は確定しました。クレメンテ八世が特赦を与えなかったのは、チェンチ一族を根絶して、その莫大な資産を没収する魂胆があったからだと、もっぱら噂されました。  処刑の日が近づくと、ベアトリーチェはさまざまな教会や慈善施設への寄付を記した遺言状をしたためています。その最後で、彼女は、「ある不幸な少年」のため、五百スクードの金をサンティス夫人なる女性に委託するむねを記しています。  その金の利子で少年を養育すること、もしサンティス夫人が少年より早く世を去ることがあれば、他の誰かに同じ条件でその金を委託すること、もし少年がサンティス夫人より早く世を去ることがあれば、その金はサンティス夫人のものになること……この遺言状はさらに半月後、いよいよ処刑日が迫ってきたとき、全面的に書き改められました。それも単に、「ある不幸な少年」への養育費を、五百から八百スクードに値上げするためにだけ……。  歴史家たちは、このある不幸な少年[#「ある不幸な少年」に傍点]とは、ベアトリーチェがオリンピオとのあいだに産んだ子供だと仮定しています。死にのぞんで八百スクードの金をその子に残したベアトリーチェの行動は、わが子を思う母の、切ない心ではなかったかというのです。もっともこれは、すべて謎《なぞ》のままです。  いよいよ処刑の当日、ベアトリーチェの処刑のまえに、義母のルクレツィアがまず首を斬られ、その後、兄のジャーコモが熱したやっとこで背中や脚を焼かれ、鉄槌《てつつい》で頭を砕かれ、からだを八つ裂きにされて、処刑台の鉤《かぎ》に肉屋の肉のように吊《つ》るされました。  自分の番になると、ベアトリーチェは足早に断頭台に駆け上がり、自分から勇敢に首を斧《おの》の下に差し出したといいます。斧の一ふりのもとに切断された彼女の首を、死刑執行人は高々とかかげて、公衆にさらしました。  十八歳の弟ベルナルドは辛《かろ》うじて死を免《まぬが》れましたが、そのかわり処刑台のうえで、兄や姉たちの残酷な死にざまを、何度も気を失いかけながら、見守らなければなりませんでした……。 [#改ページ]  美少年を愛した青髯男爵 ———————————————————————————— ジル・ド・レ[#「ジル・ド・レ」はゴシック体] [#改ページ]   美少年の叫び[#「美少年の叫び」はゴシック体]  十五世紀、フランス西部……。ナントとポワチエを結ぶ街道ぞいにそびえ立つ、難攻不落のティフォージュの城があります。この地方に広大な領地を持つフランスきっての大貴族、ジル・ド・レ男爵の持ち城でした。  三重の城壁をめぐらし、豪奢《ごうしや》な大理石彫刻やきらびやかな壁織布で飾られた城の地下室には、ジルと腹心の部下以外は入ることのできない秘密の部屋がありました。今夜もいつもの時間になると、優雅な長身をナイト・ガウンでつつんだジルがその部屋に入ってきました。青い目とブロンドの整った顔立ちですが、そそけだった肌や目の下の隈《くま》が、彼がおくっている自堕落な生活をものがたっていました。  物音がしたので振りむくと、戸口に三人の部下たちが後手に縛り上げたひとりの少年を引きたててきました。淡いブロンドにつぶらな目、白く透きとおるような肌の美しい少年は、これからどんな目にあわされるのかと脅《おび》えきって泣きじゃくりますが、身をもがけばもがくほど、縛られた縄が皮膚に食いこんでいくばかりです。  ジルの合図で、まず部下たちが少年に猿轡《さるぐつわ》をかませ、壁に打ちこんだ鉄の鉤《かぎ》に釣りさげます。おびえて泣き叫ぶ少年があわや窒息しそうになると、ジルは駆けよって少年を鉤から降ろし、膝《ひざ》にのせてやさしく愛撫《あいぶ》してやるのでした。 「よしよし、泣くのはおやめ。なんてこいつらは悪いやつなんだ。だが、もう安心するがいい。この私がきっと助けてやるぞ」  その言葉に少年はよろこんで、愛らしい笑顔を取りもどします。涙にぬれた瞳《ひとみ》がキラキラ輝いて美しいこと……。それを眺めるのが、ジルにはまた、何とも言えない快感なのです。  ジルは少年に頬《ほお》ずりし、頭をなで、しなやかな体をそっと愛撫しはじめました。ところが優しく撫《な》でさすっていた彼の手に急に力が入り、少年の顔や体をあちこち引っかいたり、噛《か》みついたりしはじめました。少年はびっくりして泣きさけび、彼の手から逃れようとします。だがジルは少年の体を左腕で締めつけて動けないようにすると、隠しもっていたナイフをそのたおやかな首に、グサッと突き刺しました。  ジルの顔もガウンも少年の血で真っ赤に染まり、彼は目をギラギラ輝かせて床に倒れた少年のうえにどっかと腰をおろすと、少年の顔が恐ろしい苦痛にゆがむのを食い入るように見つめていました。  が、これで拷問が終わったわけではありません。ジルは少年が着ているものをはぎとって裸にすると、その体をベッドのうえに投げ、自分も裸になって少年の上にまたがって淫《みだ》らなやり方で思いをとげました。恐ろしい高笑いがティフォージュ城の一室にひびきわたります。  この瞬間、ジルは人間ではなく一匹の獣でした。虎《とら》やライオンが手にいれた餌食《えじき》をまえに歓喜するようにして、ジルも歓喜に酔い、吼《ほ》え、歌い、のたうつのでした。ついに少年のからだが人間の形をとどめぬ肉片になってしまうまで、彼の残虐な手はとまることがなかったのです。   祖父に育てられる[#「祖父に育てられる」はゴシック体]  ブルターニュ地方の大貴族の家にうまれたジル・ド・レは、幼いころから一流の家庭教師に教育をほどこされ、文学や芸術にも造詣《ぞうけい》が深い、最高の教養人のひとりでした。頭も切れて礼儀正しく、優雅なラテン語を話し、たくみに楽器を演奏し、絵もうまくて蔵書のエナメル装丁を自分の手でやってのけるほどでした。  ジルは十一のとき、わずか一年のあいだに両親をつぎつぎと病気で失いました。父が遺言でそれを禁じていたにもかかわらず、祖父のジャン・ド・クランが、彼と弟のルネを引きとって育てることになりました。この祖父はとても野蛮で常識はずれの人だったようで、その性格をよく知っていた父は、子供たちにその影響を与えたくないと思い、祖父に子供たちを預けたがらなかったのでしょう。  案の定、祖父は孫たちを引きとったのはいいが、やたらと甘やかすだけで教育らしい教育もほどこさず、いつも孫たちの言いなりだったといいます。ジル自身、祖父に引きとられてからは、誰にも干渉されず好き勝手な毎日をおくるようになったと、語っています。  祖父は自分の王国を築きあげることを夢みて、つぎつぎと領地を広げようとしていましたが、その年、一人息子(ジルの父)や娘婿や娘がたてつづけに死んだことで、すっかりショックを受けていました。なんだか自分の家系が死神に取りつかれているような気がして、なおさらふたりの孫を自分の手からはなれないようにと甘やかし、過保護にしてしまったのだろうと思われます。ジルが幼くして両親を失ったことや、祖父に育てられたことが、彼の後年の「罪」に悪影響を与えたことは想像できます。  当時の貴族の子弟の教育はとても厳格なものでした。三十ポンドの鎖かたびらを身につけ、十一ポンドの丸兜《まるかぶと》をかぶり、鎧《よろい》の腕あてや肩あてや脚あてで動きがとれないほど身を固めて馬にのらねばなりませんでした。それに金属の籠手《こて》をはめた手で十一ポンド以上の武器を操ったり馬の手綱をひいたり、十二フィートもある木の楯《たて》や、剣や棍棒《こんぼう》やオノまで持たねばなりませんでした。が、これらの訓練にも、ジルは雄々しく耐えぬきました。彼は大柄でガッシリした体格の、前途有望な青年でした。貴族の子弟にとって最高の出世街道である、軍人への道を着々と進み、雄々しくたくましく育っていました。  ジルが幼いとき、野心的な祖父は二度ほど彼を地方の名家の娘と婚約させましたが、なぜかそのどれも途中で破棄し、この度ジルは三度目の婚約をむすぶことになりました。祖父も今度は乗り気になっているようでした。相手の家系はいずれジルが相続する領地の隣の広大な領地の持主で、ティフォージュ、プソージュ、コンフォランその他の、豊かな領地をふくんでいました。  いずれそれは、ジルの婚約者であるカトリーヌ・ド・トゥアールの手に入ることになるので、祖父はその領地とジル・ド・レの領地の合併を考えていたのです。しかし、この結婚にはカトリーヌとジルが遠縁だという差しさわりがあり、結婚するには法王に結婚許可をお願いしたり、莫大《ばくだい》な金と時間が必要でした。  そこで気の短かい祖父は、一四二〇年十一月二十二日、なんと理不尽にも武装した兵士たちをしたがえて花嫁の城におもむき、花嫁の父が旅行に出かけて留守なのをいいことに花嫁を無理やりかっ攫《さら》って自分の城につれかえったのです。そしてさらってきたその日に、まだ十七歳の少女に、祖父はジルとの床入りを強制したのです。娘が汚され市場価値を失ってしまった以上、花嫁側の両親も、あとは一刻も早く結婚させるより他はありませんでした。  こうして十一月三十日、金で買収した司祭の立会いのもとに、この世紀の「掠奪《りやくだつ》結婚」は行われました。   敵兵の処刑に興奮[#「敵兵の処刑に興奮」はゴシック体]  けれど、一種の「領地狂い」である祖父の暴挙は、これではおわりませんでした。こんどは花嫁カトリーヌの母ベアトリスが、夫に先立たれて新しい夫を迎えようとしていると聞きつけ、そんなことになってはジルがもらい受ける領地が少なくなってしまうと考えた祖父は、彼女の領地であるティフォージュの守備隊長をそそのかして、ベアトリスを誘拐させ、地下牢《ちかろう》にほうりこんでしまったのです。  そして何日間も食べ物を与えず、城の権利を放棄するようおどしつけますが、ベアトリスはがんと首をたてに振りません。いら立った祖父は彼女を皮袋のなかに縫い込んでロワール河畔にはこび、言うとおりにしないと溺《おぼ》れ死なせてやるぞと脅して、本当に彼女をいれた皮袋をしばらくのあいだ河の水に浸《つ》けこんだといいます。恐怖と寒さにガタガタふるえ、窒息寸前になって、さすがのベアトリスも祖父の言うとおりにすると誓いました。時を移さず、祖父はティフォージュ占領をただちに実行したといいます。つくづく腹黒く残忍な男だったようです。  この一四二七年から二九年にかけては、まだ二十そこそこのジルにとって、もっとも楽しい時代でした。彼は若くたくましく美貌《びぼう》で、莫大な財産を持っていました。ときのフランス国王シャルル七世につかえる軍人として、彼はイギリス軍をむかえうつ各地の戦場で、思いっきり自分の殺戮《さつりく》趣味を満足させました。  どの戦いでも彼は軍の先頭をきって、敵陣のただ中に突進するのでした。獲物を追いかける野獣のように、彼はこれときめた敵を逃したことはありませんでした。一旦狙《いつたんねら》いをつけるとどこまでもどこまでも追いつめ、槍《やり》で突き刺し、オノを打ち降ろし、剣で一刀のもとに切り捨てるのでした。殺されて死んでいく敵兵の苦悶《くもん》の叫びが、そのからだからほとばしる血が、彼をなんともいえず酔わせました。彼ほど勇敢で恐れを知らぬ戦士はいませんでした。それを人は忠義心ととり違えましたが、ただ彼はからだの奥のあやしい血の騒ぎに従っただけなのです。  裏切った兵士を絞首刑にしたり、友人が捕えられた仕返しに敵の捕虜をみせしめとして拷問にかけたり……。拷問や処刑には、いつも率先して立ち会いました。生贄《いけにえ》が鞭打《むちう》たれてのたうち、剣で切り裂かれて血の海のなかで悶《もだ》えるのを見て、彼はからだの奥から突きあげるような喜びを感じました。生贄の苦しみが長びくほど、彼の官能は燃えあがるのでした。  幼いころ読んだスエトニウスの『十二皇帝列伝』のなかで、ネロやカラカラなど歴代のローマ皇帝が、あわれな生贄を相手に血みどろの拷問や強姦《ごうかん》をくりひろげ、残虐きわまりない処刑を行うシーンが、そのとき彼の記憶に蘇《よみがえ》るのでした。自分も彼らと同じことをやってみたい。あんなふうに生贄を手あたりしだいに犯し、むさぼり、苛《さいな》み、この手を彼らのドロドロした血や内臓のなかに浸してみたい……。その欲望で、彼の心も肉体も膨《ふく》らみあがるのでした。  彼が有名な「聖処女」ジャンヌ・ダルクの片腕として、戦場で武勲をあげていくのはそんな頃でした。イギリスとの戦いでつぎつぎと勝利をおさめた彼は、二十五歳の若さでフランス元帥に任命されるのです。そしてこのときから、彼はジャンヌ・ダルクの忠実な腹心として、彼女のそばにつねに付き添い、その身を守るのです。彼のジャンヌへの尊敬は、ほとんど崇拝に近いものだったといいます。それだけに彼女がイギリス軍に捕えられ、処刑されたときのショックは大きく、まるで生きていくための支柱を奪われたような思いだったことでしょう。  当時、ジルはフランス最大の財産家のひとりでした。年収は現金だけで二百五十万フランをこえ、資産は四百五十万フランで、その他に美術品、書籍、家具、綴織《つづれおり》などが十万フランもありました。これらは現代の貨幣価値にすると、何十倍にもなることでしょう。その上、ジルはブルターニュやポワトーやアンジューにいくつも城や砦《とりで》や村を持っていました。これらの富で、ジルはどんなものでも欲しさえすれば手に入ると思い込むようになりました。現実の世界には、どんなものにもおのずから限界があることが、彼には見えなくなっていたのです。  しかし、ジャンヌ・ダルクがイギリス軍に捕えられて処刑され、シャルル国王の軍が一時的に解散してから、ジルは一種の失業者になっていました。これまで彼を駆りたてていた残虐な殺戮や拷問の狂ったような世界から急に解き放たれて、彼は胸にポッカリ穴があいたような、うつろな思いにとらわれていました。  ジルはありあまる富と栄誉と、エネルギーを持っていました。しかし、どんな富もエネルギーも、それを費やす目的がなければむなしいだけです。これまでは、戦場での武勲をたてることが、彼の生きていることの証《あかし》でした。が、これからは、何が彼の情熱の捌《は》け口になるのでしょう。いったい彼は何を求め、何に対して、自分のありあまるエネルギーを向けていけばいいのでしょう?  庶民たちは日々の仕事や雑役や貧困があります。また神への信仰に安らぎを求める人もおり、何かを生み出すことに情熱を燃やす、いわゆる芸術家たちもいます。けれど、そんなすべを持たないジルは、いったい何をしたらいいのでしょう?   巨額の濫費《らんぴ》[#「巨額の濫費《らんぴ》」はゴシック体]  ジルと妻との関係は冷たいものでした。とつぜん城に押し入った暴徒に掠奪され、その晩のうちに凌辱《りようじよく》されたカトリーヌが、ジルをゾッとするぐらい恐ろしいいやな男と感じたのは無理もありません。ジルのほうでも、うまれつき同性愛者で、女には興味がありませんでした。  それでも世継ぎが必要なことから、ジルははじめのうちは定期的に妻のベッドにかよいました。が、三〇年に娘が生まれてからは、形ばかりの夫婦を演じるのにも飽きてきて、間もなくカトリーヌはプソージュの城に引きこもりました。この頃すでにジルは殺人を犯しはじめており、カトリーヌがふとしたことから夫の犯行をかいま見て、仰天してさっさと別居してしまったこともありえます。いずれにしても、夫婦はその後、二度と会うことはありませんでした。  三二年の祖父の死で、ただでさえ裕福だったジルは、さらに途方もない財産を受けつぐことになりました。このときから彼の生活は華やかではあるが、しだいに落着きのないものになってきました。厖大《ぼうだい》な財産をものすごい勢いで使いつくしはじめたのです。まるで湯水のように金をばらまくことで、自分のなかの空虚を満たそうとでもするように。  彼が熱中したのは、まずローマ時代の皇帝のように豪奢をきわめ、威風を見せびらかすことでした。彼は専属の聖職者団と戦士団をかかえており、戦士団のほうは先ぶれや衛兵隊長に二百人の騎兵隊や軍楽隊をふくみ、さらに大聖堂にも匹敵する聖職団は、教会参事、司教、司祭など八十人のメンバーを含んでいたといいます。彼がどこへ行くにも、豪華な仕着せを着け、専用の召使を引き連れたこれらの一団が彼に付き従い、さらに甲冑師《かつちゆうし》、ラッパ手、理髪師、彩色工、錬金術師、魔術師など、かぞえきれない大集団が彼を囲んでいたといいます。  ジルがどんなに高い物でも言い値で引きとるので、商人らは品物をもって我先にと押しかけました。せいぜい四千エキュぐらいの黄金布の大外衣に一万四千エキュも払ったり、二十五フランが相場の黄金布を八十エキュで売りつけられたり……。  さらにジルは自費でサン・ジノサン礼拝堂を設立し、聖歌隊を作ってそのなかに美しい声と容貌をもった少年たちを入れました。が、本当のところ、この少年たちの用途はもっと別のところにあったのです。少年たちは神にその身をささげるのではなく、ジルの淫《みだ》らな欲望にその身をささげることを強いられたのです。  各地から美貌と美声をえらびぬかれた少年たちが、昼間はこの礼拝堂の聖歌隊席で天使のような声を響かせ、ジルのために神の祝福を祈願するのでした。が、夜には彼らはもっぱらその幼い肉体をジルの欲望のえじきにされたのです。  昼間は濫費と豪奢の見せびらかし。そして夜には美食と泥酔と少年たち……。ジルは聖歌隊から特に美しい少年たちを選びぬいて身のまわりの世話をさせました。ときおり開かれる宴《うたげ》の席では、ほとんど全裸に近い姿をさせられたこの少年たちが、肉桂《につけい》入りの萄葡酒《ぶどうしゆ》や興奮剤入りの酒を客たちにそそいでまわるのでした。これらの酒で性欲をかきたてられた客たちは、ときにはその場で少年たちに愛の行為をいどむこともありました。自分のかわいがっている少年たちがその場に押したおされ、客人たちの淫らな手で思い切りむさぼられるのを、ジルは倒錯した喜びで見守っていたに違いありません。  三四年九月に、ジルはおびただしい数の兵士、司祭、従者、下僕、小姓を連れてオルレアンに出発しました。これだけの大集団を伴っての旅行で、出費は大変な額にのぼりました。一年たらずのうちに彼が使った額は八万から十万エキュで、現代の貨幣価値に換算すると十億フランにもなるといいます。  が、この濫費は彼の破滅のほんの始まりに過ぎませんでした。モンリュソンに滞在したときの宿泊費用の金貨八百十レアルが半分しか支払えなくて、彼は借金の担保に下男をふたり後に残すという醜態を演じています。その年十二月、彼は従弟《いとこ》に自分の名でブルターニュの城や領地のいくつかを売る権限を与えました。濫費は止められないが、かといって金を増やしていく手腕はない。そこで従弟にわずらわしい金繰りを押しつけようとしたのでしょう。  すっかり濫費が身についてしまったジルは、必然的に三つのことを急速に身につけていきました。借金、質入れ、そして不動産売却です。彼は誰かれかまわず借金をして、やがては無茶な質入れをするようになり、ちょっとした金を借りるのにも、大金をはたいて手にいれた品物を担保にしました。やがて不動産売却にも手を染め、町を売り、村を売り、荘園や荘園屋敷を、それも底値で誰かれかまわず売りました。  こうして彼は、急激に破局にむかって突き進みました。一族の者たちは彼の洪水のような浪費に不安を抱き、国王シャルル七世に、なんとか彼の財産に迫っている破産を食いとめて下さるようにと懇願しました。そこで国王は公文書を発行し、それはジルの領地のあるオルレアン、トゥール、アンジェ、シャントセ、プソージュなどの街や村で公布されました。ジルが今後、領地を売却するのを禁じられたので、誰も彼と契約をかわしてはならないというものです。が、ブルターニュ公は国王の布告を無視して、つぎつぎとジルと売買契約を結んでは、ジルの領地を奪《と》り上げていきました。国王の禁治産令でも、ジルの破局を食い止めることはできなかったのです。  この事件で、ジルの社会的信用は完全に失墜しました。もはや彼は王国一の富裕な大貴族でも、戦場で名声をはせた軍人でもなく、あわれな破産者、自分の財産管理能力を疑われた禁治産者にすぎないのです。   闇《やみ》の世界へ[#「闇《やみ》の世界へ」はゴシック体]  こうして現実社会での特権的地位を失った彼は、あとはひたすら闇の世界、神秘の世界に助けを求めるほかはありませんでした。このときから、彼の錬金術や降魔術《ごうまじゆつ》への没頭がはじまったのです。このころ彼が異端の罪で牢につながれていた騎士から錬金術の本を借りて夢中になり、騎士を獄中にたずねて色々話をしたのが発端といいます。彼はティフォージュ城に実験室をつくり、錬金術師たちの力を借りてそこに悪魔を呼びだし、悪魔と契約を結んで、卑金属を黄金にかえる秘法を教えてもらおうと考えました。  つぎつぎと錬金術師らが招かれて、その実験室で仕事をしました。ジル自身も実験に参加して、彼らとともに黄金を生み出そうと躍起になりました。こうしてつぎつぎといかさま師が現れては去っていったのですが、いぜんどんなに実験を重ねても、黄金も悪魔も現れませんでした。  そんな三九年、一人の男が登場するのです。フランソワ・プレラーティ、狡猾《こうかつ》で美貌でいきいきとして……、いわゆる悪漢小説のヒーローになるような、魅力的な男でした。イタリア人の司祭でしたが、二十前から降魔術と錬金術をおさめ、しばしば師匠のフィレンツェの奇蹟家《きせきか》フォンタネルとともに、悪魔を呼び出せるようにまでなったのだといいます。ジルに仕えていた一司祭がフィレンツェで彼に会って、自分の主人が神秘学の専門家を召し抱えたがっていることを話しました。それに説得されたプレラーティがさっそくティフォージュに到着すると、すぐにジルはいそいそと実験室に案内し、こうしてふたりは一年半のあいだ、共同で実験を行うことになりました。ジルは一目みるなり、この美貌で博学な若き天才に、すっかりほれ込んでしまったといいます。  プレラーティは彼に、悪魔はいつも二十五歳ぐらいの美青年の姿で現れるのだと説明しました。このバロンという名の悪魔に聞けば必ず莫大な富と不朽の生命を与える『賢者の石』のありかを教えてくれる、そうすればジルのもとめる錬金術の秘法がかならず彼のものになると。  そこである晩、ふたりはティフォージュの実験室にこもり、剣の先で床に大きい輪と魔法の字を書き、つぎには素焼のつぼのなかに炭火をおこし、香と没薬《もつやく》とロカイ草の種子とをつぼのなかで焼きました。立ち上る煙のなかで、「父と子と聖霊と聖母マリアの名にかけて、おおバロンよ、サタンよ、我らのまえに姿をあらわし、われらの願いを聞き届けたまえ」と呪文《じゆもん》をとなえました。が、二時間たっても悪魔はとうとう姿を現さなかったのです。  しびれをきらしたジルはプレラーティのすすめに負けて、ついに悪魔と契約を結ぶことにしました。悪魔バロンに永遠の忠誠をちかい、悪魔の要求するいっさいのものをささげることを署名して誓うのです。  プレラーティがジルに、悪魔を呼びだすには呪文を唱えたり薫煙《くんえん》をたいたりするだけでは駄目で、生き物の血が必要だとほのめかすのは、それから間もなくのことでした。プレラーティの呼び出す悪魔は、もしジルが自分と交信したいなら、少年のからだの一部を差し出すように言っているというのです。  この頃すでにジルの殺人ははじまっていました。が、このときまでは彼の殺人は、純粋に快楽のためだけでした。ところがプレラーティが初めて彼に、殺人と悪魔の結びつきを教えたのです。彼にすすめられてジルはさっそく少年を絞め殺し、手首を切り取り、心臓を抜き、目をえぐって悪魔にささげ、ふたりで祈祷《きとう》を行ったといいます。   行方不明の子供たち[#「行方不明の子供たち」はゴシック体]  その後ジルが殺した子供の数は、百四十人とも八百人とも言われます。子供の持つなんともいえない頼りなさとあどけなさが、ジルを惹《ひ》きつけたのでした。子供が無垢《むく》で信じやすければ信じやすいほど、なおさらジルは残虐さに駆り立てられるのです。逃げ場もなく、訴えるすべも知らない子供たちの天使のような信頼こそが、彼の邪悪な血を燃え上がらせるのです。  当時のジルはどこに行くときでも、部下の兵士たちだけでなく、聖歌隊の少年たちを含む礼拝堂をまるごと引き連れていました。彼の犠牲になったのはもっぱら幼い少年たちで、その多くは彼のように美貌で美しいブロンドと白い肌をしていたといいます。彼が殺そうとしていたのは、もしかしたらあまりに強烈だった、自分の少年時代の思い出だったのではないでしょうか?  子供たちはみな貧しい家の出で、誘拐されるか買いとられてきて、はじめの内は自分がラッキーだったと信じていました。なにしろ領主に目をかけられたのです。彼らの家には八人も十人も幼い子供がいて、食べるものもなく、冬の寒さや夏の暑さもひどく、煤《すす》けたボロ家にひしめきあって暮らし、いつも汚くみすぼらしいボロをまとっていました。  しかし彼らはみな稀《まれ》に見る美貌だったため、ジルの目にとまったのです。当時、貧乏人が貧しさから抜けだすには二つの道しかありませんでした。教会に入るか、あるいは美貌の場合は領主に目をつけられて小姓として引き取られるか……。彼らにとって「小姓」という言葉は、希望の響きに満ちていたのです。ジルの従犯者らがこの言葉を生贄《いけにえ》の親たちにちらつかせたのは、そのためでした。  やがて、貧しい家の子供がつぎつぎと行方不明になり始めました。事件は今晩ここに起きたかと思うと、朝にははるか彼方《かなた》でおこり、村人たちに恐怖と不安を巻き起こしました。嘆き哀《かな》しむ親たちに分かったのは、ただ、いまここにいた子供が、次の瞬間には大地に飲み込まれたように、突然いなくなってしまうということでした。  が、やがて親たちも諦《あきら》めてしまいました。当時の人々はみな耐え諦めることには慣れており、運命にさからうのは不可能なことだと信じていました。あちこちで行方不明が起こっても、誰もそのことをあまり話したがりませんでした。へたに嘆きを訴えれば、おかみの耳に入って、牢にほうり込まれる恐れがありました。だから誰も声を大に被害を訴えようとはせず、ただ声をひそめて語るのでした。   舞台劇のような拷問[#「舞台劇のような拷問」はゴシック体]  ジルの行う拷問はどれも一種の舞台劇でした。それには一定のストーリーがあり、盛り上がりがあり、舞台装置と観客も必要でした。  まず誘拐された少年が城に到着すると、風呂《ふろ》で洗い清めて髪をとかされ、新しい服を着せられました。夢を見ているような気持ちで、少年は召使に連れられて偉い領主様の部屋に向かいます。ゲームは静かに始まりました。ジルが少年に優しく話しかけ、しだいに少年も緊張がほぐれて打ちとけていきます。ジルはゆっくり時間をかけるのを好みました。彼は、子供たちの美しい顔やからだや愛らしい声を十分に楽しむことを望んだのです。  彼は満足をできるだけ先に延ばそうとしました。子供がだんだん自分の幸運に慣れていくのを見るのは楽しいものでした。少年が菓子を与えられ愛撫を受け、しだいにそれにも慣れて、自分はこれらを受けて当然なのだといわんばかりになるのを見るのは、楽しいものでした。  少年の表情が自信から、甘やかされているもの特有の無邪気な傲慢《ごうまん》へと変わっていくのを眺めながら、ジルはやさしい声で「君はかわいいね」とほめ、「こっちへおいで。ぐるりと回って見せてごらん」とささやき、しだいに少年を愛撫しはじめます。はじめは少年の機嫌をとるためのようですが、しだいにジルの愛撫は荒々しくなり。最後にはつねったり噛んだりして、どんどん興奮していきます。  ジルによって少年は容赦なくむさぼられ、犯されます。強姦がおわると、ジルは少年を召使に命じて天井から吊るさせます。そうしておいて、また引き降ろし、「こわがらなくていいよ。ふざけていただけなんだから」と言い訳をし、「ひどいことをする気はない。ただ一緒にふざけたかったんだ」と、子供が泣き出そうとするのをなだめます。こうして少しずつ、少年を拷問へと引きずり込んでいくのです。  ジルを興奮させるのは、傲慢から恐怖へ、恐怖から一変して安心への、子供たちの変化でした。あんなことをされたあとでも、子供はやさしい言葉にだまされて、たった今起こった恐ろしいことは夢を見ていただけなのだと信じてしまうのです。その変わりようこそが、彼をそそり立たせたのでした。  ジルにとって性行為は前奏であることが多く、子供を相手に二、三度情欲をみたしてしまうと、従者に命じて、子供にとどめを刺させるのでした。頭や手足をむしり取ったり、喉《のど》ぶえをかき切ったり、オノで首をへし折ったりすることもありました。子供が死にかけると彼は子供の腹にまたがって、血の気のひいていく子供の顔をじっと見つめて、断末魔の表情をとくと観察するのでした。   大がかりな子供狩り[#「大がかりな子供狩り」はゴシック体]  三二年から四〇年にかけて、ブルターニュ、アンジュー、ポワトーなどの地方で大がかりな子供狩りが行われ、またたくまに子供という子供が行方不明になってしまったといいます。羊飼いの子は野原でさらわれ、学校帰りや露地でボール遊びをしたり森で遊んでいる子供もさらわれていきました。自分たちが畑にでているあいだに子供をさらわれてしまった夫婦は泣き狂い、道で会う人ごとに取り乱して子供のゆくえを尋ねているすがたが、あちこちで見られました。  ジルの十六人もの手先たちがその張本人でした。そのひとり、ド・シエが子供を誘拐するさまはこんなふうでした。彼は村に入ってくると馬をとめ、集まった村人たちのあいだで小銭のはいった袋をぶらぶらさせます。それを村人たちは息を殺して、黙って見守っています。彼が小銭袋をますます左右に揺らすと、ついにひとりの太った百姓女が、決心がついたように自分の家にむかって走り去り、すぐに大急ぎで洗い清めた一人の少年を連れて戻ってきます。少年は身のまわりの品をまとめた、小さなボロ包み一つを持っただけです。ド・シエが子供を受けとり、手にしていた小銭袋を百姓女の足下に落とすと、これを女は腰をかがめて拾いあげてポケットにおしこみ、子供にさよならも言わずに立ち去ってしまうのでした。取引きはこうして、一言の言葉もなく行われます。あとの百姓たちは心のなかで、百姓女の勇気をたたえ、羨《うらや》ましいと思っているのです。彼らは連れていかれた子供たちの運命をはたして知っていたのでしょうか?  もう一人の手先のペリーヌ・マルタンは、謎《なぞ》めいたおとぎ話の妖婆《ようば》といった感じでした。年は五、六十。灰色の服に黒いフードをかぶり、太った赤ら顔を黒いベールに隠しています。彼女は村むらをうろつき、物乞いをしたり羊の番をしている可愛《かわい》い少年を見つけると、近づいていって話しかけ、菓子を分けてやったり、面白いおとぎ話を聞かせてやったりして、しだいに森のなかに誘い込みます。話がうまい上に人好きのする顔立ちなので、つい子供のほうもついていってしまうのです。そこで待っていた屈強な男が突然子供を捕えて袋のなかに押し込み、どこかに連れ去ってしまうのでした。  しだいに犠牲者の親たちのあいだでジルの名がささやかれるようになりました。中世の建物でプライバシーを守るのは難しかったし、あちこちにあるジルの城には大勢の人間が働いており、彼の犯行が誰にも気づかれないでいることは不可能でした。毎晩のように殺されていく子供たちの死体の処理も大変なものだったでしょうし、消費される異常な量の薪《たきぎ》や、いつも煙を出している暖炉、殺されていく子供たちの断末魔の叫び、床にこびりついた鮮血、燃え残った骨、そして獣のように興奮して狂いまわるジル自身の叫びのこともあります。  しだいに土地の百姓たちは、ティフォージュの城を指さして、「あそこの連中は人を食べる」と噂《うわさ》するようになっていました。が、貧しく無力な彼らに、いったい何ができたでしょう?  ところが、ジルの財政危機がブルターニュ公の目にとまり、公が彼の所領のいくつかを安値で手に入れようとしていたことが、一切を覆したのです。公の手先のル・フェロンという男がサン・テチエンヌの城をジルから買いとったのですが、ジルはなぜかこの取引きを中止すると言い出しました。が、ル・フェロンが一度契約して金を払ったものを今さら返すわけにはいかないと言ったので物別れになり、なんとジルは武力にものを言わせようとしたのでした。  四〇年五月十五日、ジルは七十人の兵士を率いてサン・テチエンヌに進攻しました。村人がみんな教会に行ってしまって町がひっそり静まりかえっているのを知ると、武装した兵士たちを連れて教会のなかに踏みこんだのです。驚きさわぐ人々を尻目《しりめ》に、ジルは司祭やル・フェロンやブルターニュの収税吏を捕えて牢にほうり込みました。  この暴挙が国王やブルターニュ公やカトリック教会の怒りをかってしまったのでした。ブルターニュ公は金貨五万エキュの罰金をジル・ド・レに科しましたが、ジルはこれを払おうともしなかったので、公はいとこのナント司教の力を借りてジルへの復讐《ふくしゆう》を考え出しました。彼に関する信仰上の「調査」を開始したのです。ナント司教は子供たちが行方不明になったという村むらに審議委員を派遣し、自分も各地を旅してまわり、子をさらわれた親たちの証言を聞いてまわりました。   告発されたジル[#「告発されたジル」はゴシック体]  これまでは、誰もあえてジルを非難する者のないことが、彼を守っていました。中世という身分社会では、教会が事件の捜査に乗りださないかぎり、庶民が貴族を訴えることはできなかったのです。そこで、いわゆる「誹謗《ひぼう》文書」が必要になるのでした。おかしな噂が身分高い人物をめぐって流れているときに、教会がその裏づけになる証拠や証言をあちこちからかき集め、情報をつなぎ合わせてこの「誹謗文書」が出来上がるのです。その犯罪の噂があまり大きくなって放っておけなくなると、正式の告訴がなくても、裁きを行うことができるのです。訴えられる人間が大変な権力者の場合は、これだけが彼を裁く方法でした。「調査」が行われているという情報は百姓らを安心させ、これまで泣き寝入りするだけだった人々も、やっと受けた被害を申し立てるようになりました。 「ジルが数人の手先とともに無垢な少年の多くをいまわしい手口で虐殺し、少年たちに淫らな行為とソドミーの悪徳を行い、おそるべき降魔術を行い、悪魔に生贄をささげ悪魔と契約を結ぶなどの恐るべき罪を犯した」との告発状が、司教やその代理人たちの手で作成され、ついに四〇年九月十五日、ジルが逮捕されるのです。  その日、ブルターニュ公配下の隊長ラベは三十人の騎乗兵を従えて、このときジルの滞在していたマシュクールの城にむかいました。彼らが進んできて城壁の前で立ちどまり、伝令が前に進み出てラッパを一吹き吹きならすのを、砦の上からジルは見守っていました。 「いさぎよく城を明け渡して縛《いまし》めを受け、降魔術、殺人、ソドミーの三重の咎《とが》で宗教裁判を受けよ」と、巻紙を手に読みあげるのを聞きながら、ジルはためらっていました。数人の手先が不穏な動きを感じて昨日姿を消したことで気が弱っていたこともありましたが、ジルはまだ罰金を支払うとか、敵と折りあう可能性があるのではないかと思っていたのです。自分は普通の犯罪者とわけが違う。強力な親戚《しんせき》や高い身分や過去の名声にしっかり守られているのだ。誰も自分の罪を裁こうとする力などないはずだ。  まだそう思っていた彼は、ひとまずここは一矢もまじえず、素直に兵士たちに身を引き渡そうと決心したのです。  こうして跳ね橋はおろされ、ジルは自分を捕えにきたラベ隊長を丁重に迎えに進み出ました。なんの騒ぎも流血もなく、奇妙な逮捕劇はこうして成功したのでした。   四十九カ条の起訴状[#「四十九カ条の起訴状」はゴシック体]  ジルの逮捕のとき、マシュクール城では血に染まったシャツ、燃え残りの骨、死骸《しがい》を焼いたあとの灰などが、そのまま残っていたといいます。ジルはともに捕えられたプレラーティや部下たちとともにナントのラ・トゥール・ヌーヴ城に監禁されました。逮捕後、彼のため二つの裁判所が開かれました。一つはカトリック教会の権限で彼を裁く宗教裁判所と、もう一つは国家の名で彼を裁く世俗裁判所です。  こればかりではありませんでした。神への冒涜《ぼうとく》や降魔術などを含む「教理上の罪」に問われたジルは、ナント地区での異端糾問の特別裁判所に出廷せねばならぬことになりました。  十月十三日、城の大広場で、司教や異端審問官代理ほかの面前で、検察官による起訴が行われました。四十九カ条におよぶ起訴状には、ジルの犯罪行為が詳細に列挙されていました。それによるとジルが少年を殺しはじめたのは二六年で、それから十四年にわたって百四十名の少年が犠牲にされたといいます。これらの子供たちはジルの部下たちが、ジルに仕えれば沢山の報酬がもらえると親をそそのかして連れてきたこと。その後これらの子供たちがジルの男色の相手をさせられ、喉をかき切られたり、手足を解体されたり残酷な方法で殺されたこと。極上の葡萄酒や美食がこれらの罪をいっそう熱狂的に犯す刺激剤になっていたこと。シャントセ、ラ・シュロズ、ティフォージュ、マシュクール城などが、これらの犯罪の舞台に用いられたこと……。  また、ジルの降魔術が始められたのも同じ二六年で、いろんな異端者らと交流して教理を学んだり、それについての本を読んだことが始まりだとされました。ジルが数度にわたって様々な悪魔を呼びだしたこと。少年を生贄にささげ、さらに悪魔と契約書をかわして、自分の魂を売り渡したこと。少年の手や眼球や心臓をガラス器に入れて、悪魔へのささげものにしたことなど……。  司教からこの起訴状について訊問《じんもん》をうけると、ジルはただちに反発しました。彼は裁判官を「神を食い物にする生臭坊主」とののしって、こんなやつらに返事をするぐらいなら、首を吊るされたほうがましだと悪態をついたのです。  騒ぎのなかで、仕方なく司教と異端審問官代理はジルを欠席と見なすことに決定し、彼を破門にすると宣言しました。彼の犯した罪があまりに恐ろしいもので、その数が種類も多いからであると、但書が付け加えられました。  真実をより明らかにするために、ジルを拷問にかけることが決められました。この時代、拷問は裁判の補助手段として認められていたのです。ジルにかけられる拷問には二種類が考えられました。予備拷問というものと最終拷問というものでした。前者はしらばっくれる被告にかつを入れるためのもの、後者は被告が有罪であることは漠然と分かっているが、さらに従犯者の名や場所や日づけなどを白状させるために使われ、さらに「通常」と「特別」に分かれていました。このどちらにするかは、ジルの健康状態と抵抗力にかかっていました。  ごく一般的な拷問は「水責め」で、被告の口に漏斗《じようご》をくわえさせ、後から後から水槽一杯の水を飲ませるもので、これにはどんなツワモノもドロを吐いてしまうと言われる、決定的なものでした。その他にも鞭とか木馬とか、あるいは被告を鉄の椅子《いす》に縛りつけ、その椅子を少しずつ燃え立つ炉に近づけていくとか、革の長靴を被告にはかせて煮え立ったお湯を長靴にそそぎこんだりすることもあります。熱湯は皮を貫いて肉を焼き、骨までとかしてしまうのでした。  拷問という言葉を聞くと、ジルの態度は一変しました。彼はひざまずいて拷問を一日のばしてくれるように懇願し、そのあいだに判事らの質問に答えられるよう、自分の犯した罪をゆっくり考えてみるからと誓いました。拷問がどんなものか知りすぎるほど知っていた彼は、その拷問を自分が受けるなど、一瞬だって想像できませんでした。あの死ぬほどの苦しみを、今度は彼自身が与えられるなんて。手足の自由を奪われ、鼠《ねずみ》をいたぶるように苛まれ、辱められるなんて……。   恐るべき告白[#「恐るべき告白」はゴシック体]  十月十五日の法廷で、ジルはしおらしく後悔の涙にくれ、ひざまずいて首を深くたれながら、これまでの暴言への許しを乞いました。そして彼は裁判官のしめした起訴事実のうち、異端の罪だけは否認しましたが、多くの少年を殺害したことを認め、どうぞ拷問と破門宣告だけは、許していただきたいと懇願しました。  そしてこのとき、ジルの身の毛もよだつ告白がはじまります。このときからこの恐るべき殺人鬼は自分の非を認め、後悔にさいなまれる、敬虔《けいけん》な罪人に一変するのです。  いよいよ十月二十二日、悪名高いこの犯罪者の裁きを見物しようと、四方八方から百姓が集まってきました。傍聴人は室内にはいりきれず、廊下にむらがり内庭に列をつくり、近くの小道をみなふさいで、人馬の往来もとまるほどだったといいます。  陪席判事や主任判事などの面々の居ならぶなかで、ジルの前代未聞の告白が始まりました。やつれた顔で目に涙を浮かべ唇をふるわせ、彼は自分のおかした罪の数々を、こと細かに語りはじめるのです。  どうやって自分があどけない少年たちの肉体を犯し、その首をしめ、胸をかききり、血にまみれた生暖かい臓腑《ぞうふ》をつかみ出したか、ジルを救い手と勘違いした子供たちが、どんなにかわいく彼に甘えたか。どんなにいじらしい様子で彼にしがみつき、助けてくれと懇願したか。その子供をあやしながら、ジルが気づかれぬよう、後ろからそっと首を切っていったときの、子供たちの恐怖はどんなだったか。いまわの際のあわれな叫びと断末魔の苦しみを眺めながら、ジルの手先の者たちが、どんなに楽しげに大声をあげて笑ったか。そのあとで少年たちの死体をためつすがめつして、どんなに熱心に、一番美しい首を選んだか。その首にどんなに夢中で頬ずりしたか……。  満員の傍聴席で、男たちは恐怖の叫びをあげ、女たちは卒倒しました。あらゆる大罪を裁いてきた裁判官たち、懺悔《ざんげ》に耳を傾けることに慣れた司祭たちまでが、真っ青になってひざまずいて十字を切る始末でした。  告白を終えると急にジルは全身の力が抜け、その場にがっくりひざまずくと、神に祈りを捧げ、今度は民衆のほうを向いて、心の底から自分の犯した残虐な行為への許しを乞うのでした。そして自分の魂が救われるよう、ともに祈ってくれと哀願します。身をふるわせ、大声で泣き叫び、ひざまずいて地面に顔をうちつけ、ジルはドラマチックな後悔の独演をくりひろげました。  いささか安手の大芝居という感じですが、この場面は奇妙にも民衆の心をうったのです。本来なら自分たちに目もくれないはずの高貴な大貴族が、自分たちに向かってひざまずき、頭を地にすりつけ涙を流して罪の許しを乞うている。彼が犯した行為の恐ろしさに唖然《あぜん》としていた群衆は、今度は彼の後悔の激しさにびっくりして、哀れみをそそられるのでした。いささか異常な群集心理というべきでしょうか? まだまだ庶民がお人好しで純情だった時代のことですね?  司教は地面にはいつくばっているジルを助けおこして腕に抱き、哀れみのこもった声で囁《ささや》きかけました。「祈りなさい、恐ろしい神の怒りが静まるように。泣きなさい、あなたの涙が汚れた肉体を清めるように」そしてその場の人々はみなひざまずいて、この恐るべき犯罪者のため祈りを捧げるという始末でした。  そして前代未聞のことが起こりました。ジルは裁判長に、処刑場まで司教はじめここに列席した民衆の一大群衆が彼に付きそっていき、彼のために祈りを捧げることを認めてほしいと願い出て、許可されたのです。こうしてジルの手で我が子をさらわれ、恐ろしい残虐行為の生贄にされた当の親たちが、彼のため祈りを捧げ聖歌を歌いながら、刑場まで彼に付き従うこととあいなったのでした。  なんという矛盾、なんという滑稽《こつけい》! でも、これが中世という時代でした。こうしてジルは自分の死を、いささか滑稽だが荘厳かつ神聖な悔恨劇にしてしまったのでした。どうせ死ななければならないのなら、最後まで豪華にいきたいと、贅沢を愛するジルという男の考えそうなことですね? [#改ページ]  残虐な串刺し公 ———————————————————————————— ドラキュラ[#「ドラキュラ」はゴシック体] [#改ページ]   吸血鬼の代名詞[#「吸血鬼の代名詞」はゴシック体]  現代ではドラキュラとは、夜な夜な若い娘を襲ってその血を吸う、恐ろしい吸血鬼と思われています。ドラキュラの名を聞いてすぐ浮かんでくるもの。ニンニク、月、十字架……そして萩尾望都さんのあの有名な『ポーの一族』……?  でも、このドラキュラが本当は吸血鬼でもなんでもなく、実在したルーマニアの君主だったことは、案外知られていません。  ドラキュラ、別名ヴラド・ツェペシュは、十五世紀ワラキア公国(現代のルーマニア)の大公でした。そしてこの国ではドラキュラの名は吸血鬼ではなく、むしろトルコの侵入からルーマニアを守った輝かしい英雄として知られているのです。それにしてもなぜそんな英雄が、吸血鬼の代名詞になってしまったのでしょう?  当時のワラキアでは、領土的野心をむき出しに、三つの勢力が争っていました。ギリシア正教のビザンチンと、ローマ法王庁のカトリック、そしてオスマン・トルコです。一四五三年、トルコ軍がコンスタンチノープルに侵入して、ギリシア正教の総本山である東ローマ帝国は滅びてしまいました。このときビザンチンが優勢だったワラキアは、カトリックとも手を組んで、とどまることを知らないオスマン・トルコの侵略に刃むかっていたのです。  当時のワラキアの君主は世襲制であっても長子世襲ではなく、一族のだれが君主になるかで、いつも血なまぐさい争いが繰り広げられていました。十四世紀の百年のあいだに、何と三十二人もの君主が入れかわったといいます。  ドラキュラ自身、大公の子でありながら、十七歳までトルコの首都コンスタンチノープルに人質として幽閉されるという不幸な少年期をすごしました。が、ドラキュラは十七歳のときついに脱出に成功、五六年に晴れて領主に返り咲きました。彼はさっそく憎いトルコ軍への反撃をはじめ、ガルナシュ山頂に難攻不落のポイエナリー城を築き、ここを根城にトルコの砦《とりで》をつぎつぎと落としていきました。  トルコ王スルタンのほうも彼の挑戦に怒って、数万の兵を率いてワラキア公国に侵入してきました。トルコ軍を迎えうつワラキア公国軍の兵数はわずかでしたが、ドラキュラは神出鬼没のゲリラ戦をくりひろげてトルコ軍を翻弄し、徹底した奇襲と殺戮《さつりく》で、有無をいわせず勝利をおさめたのです。  一四六一年、二人のトルコ使節がドナウ河畔の港ジュルジーにやってきました。名目は和平交渉でしたが、じつはドラキュラをだまして捕えるようにとの密命をスルタンから受けとっていたのです。たちまち敵の魂胆に感づいたドラキュラは、使者を酒と御馳走《ごちそう》ですっかり油断させ、彼らが寝込んでしまったすきに、ひそかに多数の兵士にジュルジーの町を囲ませて夜襲をしかけました。この戦いで二万三千のトルコ兵が殺され、二万の兵が捕虜になりました。  町外れの平野で捕虜たちは裸にむかれ、スルタンへの報復として生きたまま棒に串刺《くしざ》しにされました。例の二人の使者はドラキュラをあざむいた報いとして、とりわけ長い棒に突き刺されたといいます。  串刺しの棒は、長さ三キロ、幅一キロにわたって、えんえんと続きました。これら口や尻《しり》から棒の突き出た無残な死体にはカラスがたかり、周囲に吐き気がするような死臭がたちこめました。なかなか死ねないで苦しみ悶《もだ》える者、カラスに肉をつつかれ悲鳴をあげる者、血を吐くような呪《のろ》いの言葉を天にさけびながら、カッと目を見ひらいて死んでいく者……。進んできたトルコ軍は、その身の毛のよだつような光景に迎えられ思わずゾーッとして、すっかり怖じ気づいてしまったといいます。   「串刺し公」[#「「串刺し公」」はゴシック体]  そもそもドラキュラの父ヴラド二世も残虐な男として、国民から恐れられていました。父はトルコ軍と勇敢に戦った功績で、当時の神聖ローマ皇帝からドラゴン勲章を授かり、トランシルヴァニアの二地方の領主に封じられるという栄誉を与えられていました。  ドラゴンには「龍の騎士」という意味と、「悪魔」という意味があります。息子であるヴラドのあだなドラキュラとは、「小ドラゴン」のことですが、彼の場合は「龍の子」というより「悪魔の子」と訳したほうがふさわしいようですね? そして彼のヴラド・ツェペシュのツェペシュとは「串刺し公」のことなのです。どちらも彼の残虐性にはピッタリで、作家ストーカーが吸血鬼のモデルに選んだのもうなずけます。 「串刺し刑」は当時、ごく普通に行われていた処刑法ですが、ドラキュラはなによりこれがお気に入りでした。普通は両足をそれぞれ馬にくくりつけて、少しずつ股《また》を裂きながら棒に刺していくのですが、ドラキュラは棒の先を丸くして、犠牲者の断末魔の苦しみができるだけ長びくよう苦心したといいます。また、杭《くい》への刺しかたも、ときには体を宙づりにして上から刺したり、手足をむしりとってから刺したりもしました。  一四五九年四月、トランシルヴァニア山麓《さんろく》のブラショブの町で、ドラキュラが貴族たちを集めて宴会を開いたとき、なんと悪趣味にも屋外の会場には、串刺しになった死体が何百も並んでいたのです。ドラキュラにしてみれば、ほんの座興ぐらいの軽い気持ちでした。が、貴族たちのある者がたちこめる腐臭に思わず顔をしかめたのを、彼は目ざとく見つけてしまったのです。彼はすかさずその貴族を捕えて串刺しにして言ったといいます。「どうだ、もう臭くはなくなったろう!」  またあるときは、首都チルゴビシテのドラキュラの宮殿に、トルコ王の使節団が訪れました。君主のまえに通されるときはかぶり物を脱ぐのが礼儀なのですが、使節たちはイスラムの教えにそむくことになると、それをしませんでした。するとドラキュラは、「そんなにターバンを脱ぎたくないなら、一生脱がなくていいようにしてやろう」と、彼らの体を左右から動けないようにしておいて、ターバンを頭に釘《くぎ》で打ちつけてしまったといいます。   厳しい性格[#「厳しい性格」はゴシック体]  当時のワラキアは中央集権国家ではなく、貴族たちが次々と頭をもたげ、君主の地位をおびやかしていたのです。ドラキュラ自身も数回、王位を追われているし、彼の父や兄も裏切り者に殺されています。ドラキュラにとっての急務は、中央集権の強化でした。  一四五六年のある日、チルゴビシテ宮殿にワラキア中の数千の貴族や高位聖職者たちが集められました。そのなかには、ドラキュラの父や兄の暗殺に参加した人間たちもまじっていました。四方山話《よもやまばなし》のあいだにドラキュラはさりげなく、「これまで何人の主君に仕えたことがおありかな?」と、彼らに尋ねたのです。  酒がまわって口が軽くなっていた貴族たちは、にやりとして答えました。「さよう。八人でしょうか」「いやいや、私なんか三十人は下りませんよ……」  彼らは腹のなかで、ドラキュラの権力もいつまでも保《も》つまいと、ひそかにあざ笑っていたのです。もっとも少ない者でも八人の主君に仕えていました。それが乱世というものかも知れませんが、ドラキュラは彼らの過去を許しておく気はありませんでした。  自分の権力を見せつけるつもりか、彼らの傲慢《ごうまん》さを腹にすえかねてか、彼は、ただちに十人以上の主君に仕えたことのある貴族をすべて捕えて、串刺しにしてしまいました。「国の力を弱めたのは、地方貴族であるお前たちの恥しらずな陰謀と反目のせいだ」これが彼の言い分でした。処刑者の数は五百をこえたといいます。父や兄の仇討《あだうち》という目的もありましたが、一方で裏切りを許さないドラキュラの厳しい性格のせいでもありました。  かつてドラキュラが築き、トルコ軍襲撃の拠点となった山頂のポイエナリー城に行くには、千四百段の石段をのぼらねばなりません。ここを築くときドラキュラは、自分の父と兄を殺した貴族やその家族たちを、宴《うたげ》のさ中に襲ってパーティ服姿のまま誘拐してきて、ここで働かせたといいます。水もパンも与えられず、長い石段を毎日、重い石材をかかえて上り降りさせられた彼らは、たちまち過労と飢えで死んでしまいました。  ドラキュラは国民に、異常なまでに厳格なモラルを課しました。おきてをやぶった者への彼の罰のきびしさは、普通ではありませんでした。不倫した人妻は子宮を裂かれ生皮をはがれて戸外にさらされ、親にそむいた娘は乳房をえぐりとられ、ふしだらな未亡人は真っ赤に焼いた鉄の串で子宮を突きさされました。不実な妻の乳房をむしりとり、それを食べることを夫に強いたこともありました。  ドラキュラの最初の妻はワラキア貴族の娘でしたが、結婚生活はうまくいかなかったようです。彼女は不倫を見つかって虐殺されたとも、近づくトルコ軍を恐れて川に身をなげたともいいます。結婚生活に恵まれなかったドラキュラは、夜な夜な仮面をかぶっては町の通りを歩きまわり、通りすがりの女を襲っては情欲のえじきにしたといいます。   皮肉な最期[#「皮肉な最期」はゴシック体]  そんなドラキュラも、一四六二年に再びトルコの侵略がはじまり二十五万のモハメッド二世の大軍に襲われると、ほうほうの体でトランシルヴァニアに逃げ去りました。このときトルコ軍の指揮をとったのは、兄を裏切ってモハメッド二世についたドラキュラの弟ラドウだったといいます。彼はもともと「美男公」とあだなされるほどの愛嬌《あいきよう》のある美男で、冷酷な兄とは対照的でした。  しかし二千メートル級の山々を命からがら越えて、トランシルヴァニアにたどり着いたドラキュラを待っていたのは、非情な運命でした。彼を迎え入れるどころか、ハンガリー王は裏切って監禁してしまったのです。その後ブダペスト、ベオグラードと、ドラキュラは十二年を牢獄《ろうごく》で呻吟《しんぎん》することになります。  彼が幽閉されたあとは、二十四歳の弟ラドウがワラキア大公の座につきました。彼はトルコに対してとても友好的でした。そもそも彼は兄とトルコに捕えられたときからトルコの生活になじみ、兄の脱出後もトルコ領にとどまってトルコの大守と親しく交わっていました。あだな通りの美青年で、一説にはモハメッド二世に同性愛の相手としてかわいがられていたといいます。いずれにしても六二年から七四年まで、ラドウ治めるワラキアはもっぱらトルコへの忠誠をまもり、比較的平和な日々がつづきました。  一四七四年にドラキュラはハンガリー王の妹を妻に迎えるのを条件に十二年の幽閉から解放され、新妻をつれてワラキアに帰ってきました。そして二年後には弟ラドウと戦って破り、ふたたびワラキア大公の座に返り咲いたのです。  が、愛する美青年ラドウの危機に怒りくるったトルコのモハメッド二世は、たちまち大軍をひきいてワラキアに攻めよせてきました。せっかく取り戻した大公の座に落ち着く間もなく、ドラキュラはそれを迎えうたねばなりませんでした。そしてもう二度と、幸運は彼にむかって微笑《ほほえ》みまなかったのです。  トルコとの戦いは冬のブカレスト郊外ではじまり、そのときドラキュラはワラキア軍がトルコ軍を迎えうっているところをみようと、小高い丘から戦況をながめていました。ところがいつの間にか自軍に取り残されてしまい、気がついたら周りは敵ばかりになってしまいました。それでもトルコ兵の死体の服を借りて身につけ、なんとか危機を脱しました。  やっと自軍に追いついた彼は、自分の格好も忘れ、喜んで駆けよりました。ところがワラキアの雑兵《ぞうひよう》たちは、トルコ兵の格好をした者がまさか自分たちの王とは気づかず、いっせいに飛びかかってきたのです。必死で抵抗したが多勢に無勢で、彼はついに自分の兵士たちの槍《やり》に胸を刺されて息たえました。串刺し公として恐れられた彼が、部下に槍で突き殺されるとは、また皮肉な最期ですネ。彼の首はトルコ王のもとに送られて晒首《さらしくび》になり、首なしの死体はブカレスト郊外のシュナゴフの修道院に葬られました。  このように残虐のかぎりを尽くした彼が、作家ストーカーのイメージをかき立て、しだいに東欧の吸血鬼伝説と結びつけられていったのは、無理もないことかも知れませんネ。ただし本物のドラキュラが、映画のなかのように、若い娘の首に噛《か》みついて血を吸ったという記録はないそうです。念のため……。 [#改ページ]  悪魔に魂を売った男 ———————————————————————————— グランディエ神父[#「グランディエ神父」はゴシック体] [#改ページ]   美男の青年司祭[#「美男の青年司祭」はゴシック体]  十七世紀初め、フランスのルーダンという小さな町で、グランディエという一司祭が、生きながら火刑に処されました。魔法を使って、修道院の十七名の尼僧《にそう》たちに、つぎつぎと悪魔を取り憑《つ》かせたという嫌疑です。  火刑に先立って、吊り責め、水責め、焼きゴテなど、それこそありとあらゆる拷問にかけられたせいで、グランディエは自分で階段を上がっていく力もなく、ボロクズのように火刑台まで引きずられていったといいます。  青年司祭ユルバン・グランディエはなかなかの美男でしたが、困ったことに、自分がモテるのをいいことに、女とみれば手あたりしだいにモノにする女たらしでした。  ルーダンのサン・ピエール教会に転任してくるや、彼はたちまちこの田舎町に騒動をまき起こしました。町の女という女がみな彼に夢中になり、つぎつぎと彼の誘惑に落ちてしまったのです。国王の弁護士の妻も、初審裁判所検事の娘も……。この娘は、とうとう彼の子をはらんでしまったほどでした。  娘を傷物にされてしまった初審裁判所検事トランカンはカンカンになり、さっそくグランディエへの復讐《ふくしゆう》にかかりました。涜神《とくしん》・姦通《かんつう》・強姦などの罪で、グランディエをポワティエの司教に訴え出たのです。汚職の件で弱みを握られていたポワティエの司教は、陰謀の片棒をかつがされ、一六二九年十月にグランディエを逮捕させます。証拠もないままグランディエは罰金を科せられたうえ、早々にルーダンを立ちのくように、お上から命じられたのでした。  けれどもグランディエのほうも負けずに控訴したので、事件はポワティエの王立裁判所に移されました。そこで形勢は逆転し、敵側の証拠偽造がバレてグランディエはいちおう無罪となり、復職を許されることになりました。このときの判決文には、「現在のところは差しもどし」とあります。このいかにも結構な文句が、けれどどんな危険をはらんでいるかは、やがてお分かりになるでしょう。  裁判をつかさどったボルドーの大司教は、これ以上騒ぎを起こさないようグランディエ司祭に忠告しますが、いい気になったグランディエはそれに耳を貸すどころか、まるで凱旋《がいせん》将軍のように手に月桂樹《げつけいじゆ》の枝をかざしてルーダンの町に帰還し、トランカン検事らに損害賠償請求をおこしたのです。しかも彼が町に入ってきたのを見ると、町中の女が歓声をあげて手をふったといいますから、敵たちは心やすらかではなかったでしょう……。   悪魔に憑《つ》かれた尼僧たち[#「悪魔に憑《つ》かれた尼僧たち」はゴシック体]  事件のもう一人の主役となるジャンヌ・デ・ザンジュは、二年前に創立されたばかりの、この街のウルスラ会修道院の院長で、まだ二十二歳の若さでした。この地方屈指の名門、コーズ男爵の娘として生まれ、幼いときの事故で肩と腰が少しねじれているほかは、ブロンドとつぶらな瞳《ひとみ》のかなりの美人でした。  この町では十七世紀、カトリックとプロテスタントの争いがひときわ激しく繰りひろげられ、新教徒が街を占領してはカトリックが奪いかえす、それをまた新教徒が奪いとるという具合でした。『ナントの勅令』(一五九八年)で一応平和がもどりましたが、その後は新教徒のほうが優勢になり、それだけになおさら少数派のカトリックは、勝利への使命感に燃えるのでした。新しいウルスラ会修道院が設立されると、そこの修道女たちは重要な任務を課せられました。新修道院に町の上流家庭の娘たちを勧誘することです。  そんな狂熱的な空気のなかで、この事件は起こったのでした。  当時の修道院の生活は単調で退屈なもので、修道女たちは何の気晴らしもない、欲望を抑圧された生活を送っていました。その結果、女ざかりを持てあました彼女たちは、夜ごと異様な幽霊に悩まされることになったのです。  ルーダンは人口一万四千でしたが、その年(一六三二年)のペストの大流行で、わずか二カ月のあいだに三千七百人の人間が死にました。当時ペストは神の天罰と考えられ、いったんこの病気に街が襲われると、人々はそこを逃げ出すか、諦《あきら》めて死を待つほかはなかったのです。通りにはバタバタと倒れて死んでいく者があふれ、その数の多さに葬式も間に合わないほどで、町には目に見えない恐怖がはびこっていました。  そんなときウルスラ会修道院の尼僧たちは、恐ろしい幽霊を見たのです。あるときは黒い玉のようなものが部屋を飛んだり、あるときは一人の男の後ろ姿が現れました。誰も触らないのに突然ものが壊れたり、姿は見えないのに誰かの呼ぶ声が聞こえたり、とつぜん拳骨《げんこつ》や平手打ちを食らわされることもありました。  やがて尼僧たちは、毎夜、美男の幽霊が修道院にやってくると思いこむようになりました。しかもその幽霊は誰あろう、町で評判の美男司祭グランディエだというのです。といっても彼女たちは、グランディエに一度も会ったことはありません。ただこの司祭の芳《かんば》しくない噂《うわさ》について、いろいろ聞いていたことは事実です。欲求不満の彼女たちのなかに、グランディエという人物が異様な存在感で居すわり、いつのまにか彼女たちの見た幽霊とグランディエ司祭の姿が、想像のなかで一つになってしまったのではないでしょうか。  困ったことに真っ先にそれに染まってしまったのが、修道院長のジャンヌだったのです。もともと色情狂の気《け》のある彼女は、一度も会ったことのないグランディエ司祭に、なんと身も心も燃やしつくす、大恋愛をしてしまったのでした……。   ミニョン司祭の企《たくら》み[#「ミニョン司祭の企《たくら》み」はゴシック体]  けれどここまでなら、欲求不満の女たちのたわいない妄想だと、笑って済ますことも出来ます。ところがそこへ、僧院ぐるみの美男幽霊騒動を、グランディエ失脚に利用しようとする人物が現れたのです。ウルスラ修道会の告解僧だった、教会参事会員のミニョンでした。  じつはミニョンは、かつてグランディエを失脚させようとして失敗したトランカンの甥《おい》にあたるのです。叔父《おじ》に口説きおとされたミニョンは、修道女たちの見た「グランディエの幽霊」を、グランディエ失脚の道具に使おうと思いついたのでした。  やがてミニョン司祭が、悪魔にとりつかれた修道女たちの「悪魔|祓《ばら》い」を始めました。実際はグランディエを陥れるための猿芝居を演じさせようと、彼が修道女らを仕込んでいたのに過ぎないのですが。  女たちが充分彼の期待にこたえられるようになると、彼は市当局の役人たちを招いて悪魔祓いの儀式を見物させました。修道院長のジャンヌは、役人たちがやってくるのを見かけるや、身ぶるいしながらピョンピョン跳びはね、奇妙な鳴き声をあげては、ベッドの下に隠れてしまったといいます。  祈祷師《きとうし》たちはジャンヌにとりついた悪魔をのぞくためといって、いっさいの手加減を排して業にはげんだので、一日三度もおはらいを受けたジャンヌは、とうとう人事不省におちいってしまいました。名を名乗るように命じられた悪魔は、「神の敵だ……、神の敵だ……」と答えました。言葉を発しているのはジャンヌですが、祈祷師にいわせると、その声は確かに悪魔のものだったといいます。  なおも祈祷師が責めつづけると、悪魔はしばらくして、ついに自分がサン・ピエール教会司祭グランディエとのあいだに契約書をかわしたことを認めたのです。  こうしてミニョンとその助手役の祈祷師たちと、ジャンヌのなかの悪魔とのあいだに、珍問答がかわされました。 「なぜお前は、処女の肉体にもぐりこんだのか?」 「快楽のためだ」 「どうやって入りこんだのか?」 「花によってだ」 「どんな花か?」 「薔薇《ばら》の花だ」 「それを置いたのは何者なのか?」 「ユルバン・グランディエだ」  対話は支離滅裂で、錯乱したジャンヌがもらす意味不明のことばを、ミニョンらが誘導|訊問《じんもん》して、どうにか辻褄《つじつま》をあわせただけのようです。つまりはグランディエが修道院の塀の上からバラの花束を投げこんで気を惹《ひ》いておいてから、夜な夜な修道院にしのび入り、尼僧たちの肉体をもてあそんだということなのです。  ジャンヌは自分の胎内には悪魔の赤ん坊が育っているのだと言い、ほんとうに想像妊娠の兆候もあらわしてきました。こんな光景が何度か、驚き呆《あき》れる見物人の目のまえで繰り返され、ついにグランディエ司祭は、またも告訴されることになったのです。   もう一つの悪魔つき事件[#「もう一つの悪魔つき事件」はゴシック体]  奇妙なことにこの事件は、二十一年前に起こったもう一つの悪魔つき事件によく似ていました。というよりミニョンが、そのゴーフリディ事件をもとに、新しく筋書きをデッチあげたのでしょう。グランディエ告訴は一六三二年はじめで、ゴーフリディが処刑されたのは一六一一年。まだまだその事件は、人々の記憶に新しいものだったのです。  ゴーフリディはマルセイユのデ・ザクール教会の司祭で、女たちの人気者でした。事件は、彼が関係のあった一夫人から、十二歳の娘マドレーヌの宗教教育をまかされたことに始まります。彼はその少女に道ならぬ恋心を燃やし、彼女を容易にモノにできるよう、自分が告解僧をしているウルスラ修道会にあずけました。ところがそこに以前からいた、やはり彼と関係のあるルイーズという女が、マドレーヌに嫉妬《しつと》を燃えあがらせたのです。そこに、アヴィニヨン教会領の異端審問者だったドメニコ会士ミカエリスが、もってこいの獲物とばかりに、このスキャンダルに飛びついたのでした。  ミカエリスにそそのかされたルイーズは、公衆の前で少女マドレーヌを責めたてて、ゴーフリディが悪魔にとりつかれていると白状させようとしました。毎日のようにルイーズから殴る蹴《け》るの暴行を受けて、恐れおののいたマドレーヌは、すっかりその言うなりになってしまいました。  彼女は、ゴーフリディに連れられてサバトに行ったこと、その後は自分もずっとその悪霊にとりつかれていること、ゴーフリディは悪魔と契約した魔術師で、フランス、英国、トルコなど広大な地域の魔術師たちの首領で、彼が息を吹きかけるだけで、女たちは彼の思いどおりになってしまうことなどを、錯乱状態で喋《しやべ》りたてたのです。  証言しているのがいかにも清純な十二歳の少女だったため、聴衆は激しいショックを受けました。そのうえ訊問を受けていたマドレーヌが、ゴーフリディが現れるのを見るやすさまじい発作を起こしたので、被告への疑いは動かしがたいものになりました。ゴーフリディは逮捕されて、犬をけしかけられたり棍棒《こんぼう》で打たれたりの拷問を受けたあげく、火刑台の露と消えたのです。   グランディエ失脚の陰謀[#「グランディエ失脚の陰謀」はゴシック体]  ルーダンの教会参事会員ミニョンは、またも同じウルスラ修道女会を舞台に、このゴーフリディ事件を再現しようと考えたのでした。そして今回、ゴーフリディのかわりに火刑台にあがろうとしているのは、グランディエ司祭だったのです。  こうしてあおられ、責めたてられて、修道女たちのすさまじい性的妄想は、いやがうえにも燃えあがりました。この「悪魔祓い興行」で一番の花形スターは、まだ少女の尼僧クレールでした。彼女は口汚く神をののしり、ヒクヒク痙攣《けいれん》しながら床をころげまわり、下着をひきはがし、恥部をむき出しにして、ワイザツな言葉を口走りました。あまりのことに、その場の人々は思わず眉《まゆ》をひそめたほどでした。少女は両手で自分の身を辱めながら、声をかぎりに叫ぶのでした。「さあ、来て。はやく、わたしをヤッてよ!」  ここからは、ルイ十三世の宰相リシュリューの腹心、枢密院顧問官のローバルドモンが登場してきます。彼は修道女ジャンヌの遠縁で、たまたま国王の命令でルーダンの城の修復工事にきたとき、悪魔つきの噂を聞きつけました。そしてただちにトランカンやミニョンと組んで、グランディエ失脚の陰謀を練りはじめたのです。  ちょうど前年、枢機卿《すうきけい》リシュリューはルーダンの古い要塞《ようさい》の取り壊しを命じていました。彼の命令で、全国の反抗的な大領主や新教徒の城がつぎつぎと破壊されていた矢先、ルーダンでは新教徒がたちあがって要塞破壊に強く抵抗していました。そのなかには旧教徒も加わっており、グランディエもその一人でした。この件以来、彼はリシュリューからこころよく思われていなかったのです。  リシュリューはこの悪魔つき事件を機会に、騒ぎの張本人のグランディエを、やっかい払いしようと考えました。そこで国務院の評定員ローバルドモンを派遣することにしたのです。  けれど時の国王ルイ十三世は魔法好きでしたし、リシュリューも悪魔つき事件がデッチあげであることは聞き知っていました。そこで並のやり方では勝負にならないと見て、ローバルドモンに、事件を単なる一地方の悪魔つき事件から、政治的陰謀にしたてあげるよう命じました。  つまりグランディエを、当時ちまたに流れていたマリー・ド・メディチ派による匿名の反リシュリュー文書の作者で、危険な政治|煽動家《せんどうか》だということにしてしまったのです。  こうしてローバルドモンが裏工作を進めるあいだ、ルーダンではさらに悪魔つきが激化し、修道女ばかりか普通の娘たちまでが集団ヒステリーに巻きこまれていました。一説にはリシュリューが裏で悪魔祓い僧らに資金を与えて、『悪魔つき興行』をあおり立てていたとも言います。今やルーダンの修道女たちは国中の注目を集める見世物となり、グランディエとはいったい何者なのだろうと、皆噂するようになりました。   悪魔祓い興行[#「悪魔祓い興行」はゴシック体]  さまざまな裏工作ののちに、一六三三年十二月、ローバルドモンがとつぜん国王の全権委任状をたずさえてルーダンに現れました。国王の絶対権力をバックにした彼の登場で、グランディエの運命も決まりました。もうあがいても無駄だったのです。  ローバルドモンはただちにグランディエを捕え、自宅を捜査して書類を押収しました。もっとも危険文書のたぐいは何もこれといって見つかりませんでしたが。  逮捕に憤慨したグランディエの親族が告訴しましたが、ローバルドモンはそんなもの問題にもしませんでした。今度こそ、グランディエの敵たちにチャンスが巡ってきたのです。  獲物に殺到したのは、グランディエに妻や娘を誘惑され、恨み骨髄に達しているルーダンの名士たちだけではありません。事件に加わって一旗あげようとする野心家たちが、このときとばかりフランスから押しかけてきたのです。  美男司祭グランディエの女遊びからはじまった事件は、いまや権力闘争や教会内の派閥争いにまで発展し、ますます激しくなって全フランスを焼きつくさんばかりでした。  修道女たちの悪魔つきもひどくなるばかりで、悪魔祓い僧が次々に卑猥《ひわい》なイメージをかき立てると、修道女たちはこれに応じて陶酔をたかぶらせ、まるで悪魔にあやつられるサバトの魔女のような反応を見せるのでした。  修道女たちはアゴの骨がヘシ折れたように、恐ろしい勢いで頭を胸や背中にガクガク打ちつけました。肩のつけ根や手首のところで両腕をひねり曲げたり、腹ばいになったまま掌《てのひら》を足裏にぴったりくっつけたりしました。  顔はすさまじい形相に変わり、眼はまばたきもせず見開かれたまま、真っ黒に膨《ふく》れあがったブツブツだらけの舌を口からぬっと突きだすと、二つにヘシ折れんばかりに体を後ろにのけぞらせたまま、恐ろしい速さで長いあいだ走りまわるのです。ときには耳をつんざくような叫びをあげたり、目をそむけたくなるような淫《みだ》らな身ぶりをして見せました。  そしてこれでも足りず、悪魔祓い僧はごていねいにも、素人くさい手品まで演じてみせようとしたのです。  ある日、こんな布告が貼《は》りだされました。「明日の悪魔祓いのとき、悪魔がローバルドモン氏の頭から帽子をさらって、人々が聖歌を歌っているあいだ、空中に漂わせておくだろう」というのです。  いよいよ当日になって、見物人たちは「奇蹟《きせき》」がおこるのを今や遅しと待ち受けました。が、期待は裏切られました。ヘンに思った市民らが、教会の屋根裏に忍びこんだ一人の若者を捕まえたからです。彼は時がきたら天井の穴から糸で垂らした釣針をつかって、帽子を空中に漂わせようと、待ちかまえていたのでした。ガッカリした見物人たちは、ブーブー言いながら立ち去っていきました。   「針刺し」の儀式[#「「針刺し」の儀式」はゴシック体]  さてグランディエが本当に悪魔と契約をかわしたかどうか確かめるため、「針刺し」の儀式が行なわれることになりました。当時、悪魔と契約をかわした者は体のどこかに悪魔のしるしをつけており、その部分を針で刺しても、血も出ないし痛みも感じないはずだと信じられていたのです。そこで行なわれたのが、「針刺し」の鑑定法でした。  ところが悪魔祓い僧らの策略で、修道女たちが「悪魔のしるしがあるはずだ」と言った場所には、わざわざ痛くないように先の丸くなった針があてられたのです。それ以外の場所には奥深く針を刺しこむから、ものすごい悲鳴が上がります。こうして修道女たちのデタラメの証言が、おもしろいように当たってしまうというわけでした。  グランディエが悪魔と結んだ証拠とされる、「悪魔の契約書」という偽造書類も捏造《ねつぞう》されました。奇怪な悪魔のサインやまじないがもっともらしく書きこまれた珍妙なものです。ローバルドモンは自分が捏造したこの契約書に署名するよう、両足を板のあいだで締めつける拷問を加えてしつこく迫りましたが、気丈なグランディエは頑として応じませんでした。  これらのデッチ上げの数々に、さすがの修道女たちもこわくなってしまいました。なかの数人はついに決心して、自分が嘘《うそ》の証言をしたのだと涙ながらに告白しました。一方、王権をかさに着たローバルドモンを不快に思いはじめたルーダン市民らも、国王に事件をパリの議会に移し、公正な裁判を行なってほしいと訴えました。  けれどここにもローバルドモンの全権委員会の手がまわっていて、「このような教唆煽動的な陳情書は破棄し、こんなふるまいは今後重罪として罰する」と宣言したのです。  もはや一切は絶望的でした。グランディエは一六三四年八月十八日、ついに死刑を宣告されました。拷問で体がマヒしていたので横たわったまま告解を行ないながらも、彼は最後まで、町の人妻たちとの関係は認めても、ジャンヌら修道女たちとは一度も会ったことはないと主張しつづけました。   グランディエ火刑[#「グランディエ火刑」はゴシック体]  グランディエ火刑を前に、読みあげられた死刑宣告文は次のようなものでした。 「グランディエは妖術、魔法、さらに当地のウルスラ修道女会の修道女や世俗の女たちがこうむった悪魔つきの罪と、これに先だつ余の悪行悪徳の件で告訴され、罪を確認された。  贖罪《しよくざい》のためグランディエに、かぶり物を脱ぎ首に縄を巻き、手に二ポンドの燃えるかがり火を持ち、聖ペテロ寺院前と聖ウルスラ修道女会の教会堂前で懺悔《ざんげ》し、ひざまずいて神・国王・法に許しを乞うことを命じる。  その後は聖十字広場で火刑台につながれ、悪魔の契約書とともに生きたまま焼かれ、その灰を空中にまかれ財産をすべて国王に没収される」  火刑台に縛りつけられたとき、グランディエはむらがる群衆に何かを訴えようとしましたが、悪魔祓い僧たちに顔に聖水をかけられて、さえぎられたといいます。  けれど、この宣告文をよく読んでみると、あることに気づかれるでしょう。ここには罰の一部始終はのべられていても、かんじんの罪のほうはとんと忘れられているのです。たまに触れられても、妖術とか悪魔つきとか通り一遍の言葉が記されているだけです。  ただ一方にルーダンの人妻たちとグランディエ司祭の火遊び事件があり、もう一方にウルスラ修道女会の悪魔つき事件があったというだけで、二つのあいだには本当のところ何の結びつきもないのです。  だいたいグランディエ逮捕後、前よりいっそう悪魔つきがひどくなっているのは何故《なぜ》なのでしょう? ローバルドモンが登場した一六三三年末から翌年八月の処刑まで、グランディエはずっと牢に放りこまれていたのです。もし牢のなかからも魔力をあやつれるなら、どうしてそれを使ってそこを脱出できないのでしょう?  それにグランディエの死とともに、彼と悪魔のあいだにかわされた契約も無になったはずなのに、その後もルーダンの悪魔つきはどうして止《や》もうとしないのでしょう?  結局のところグランディエという生贄《いけにえ》を媒体に、王権と地方権力、宗団と宗団という対立関係が、極限まで押しすすめられたわけなのでしょう。哀れなグランディエは、ちょっとした火遊びから突然その争いのなかに巻きこまれたのです。不運といえば不運なこと……。   ジャンヌの最期[#「ジャンヌの最期」はゴシック体]  グランディエ処刑から間もなく、死刑執行者ラクタティウス神父、悪魔祓いの提唱者トランキーユ神父、悪魔祓いの助手バレ神父などの身に、つぎつぎ異変が起こったといいます。  ラクタティウス神父はその月のうちに、「許してくれ、グランディエ、私のせいじゃないんだ!」と叫びながら狂死しました。トランキーユ神父も五年後に狂死し、針刺しを行なったマヌーリ博士は、自分の嘘八百の判定に良心をさいなまれ、精神錯乱を起こして死にました。バレ神父は別の悪魔つき事件にかかわって、一六四〇年にフランスから追放されたといいます。  一方、ジャンヌの性的妄想の相手は、悪魔祓いの僧侶《そうりよ》たちから、果ては聖者やキリストにまで及んでいきました。彼女は両腕に聖痕《せいこん》をつけ、ついに自分がキリストの腕のなかで道ならぬ快楽に浸ったと言いだすのでした。  やがて集まった野次馬にかこまれ、ジャンヌを先頭に異様な姿でとびはねていく修道女らのあとには、無数の妊婦らがつき従うようになりました。ジャンヌの御利益《ごりやく》にあずかろうというのです。  ジャンヌが身につけていたものは奇蹟的な治療効果があると言われ、宰相リシュリューは痔《じ》をなおすために彼女の汚れた下着を身につけ、王妃アンヌは安産のお守りとしてそれをおなかに巻きました。いまやジャンヌは忌まわしい悪魔つきの修道女ではなく、奇蹟の治療医として人々から崇《あが》められるようになったのです。  その後ジャンヌは一六六五年まで生きて、全身不随、大小便垂れながしの、無残な最期を遂げました。宰相リシュリューからの援助金もとっくに来なくなっていたので、修道女たちは観光客相手の見世物となって、わずかばかりの資をかせいでいたといいます。 [#改ページ]  社会への反抗を貫いた男 ———————————————————————————— 泥棒詩人ラスネール[#「泥棒詩人ラスネール」はゴシック体] [#改ページ]   ダンディな犯罪紳士[#「ダンディな犯罪紳士」はゴシック体]  十九世紀フランスの詩人ラスネールは、強盗殺人の罪をかさねたのち、三十六歳の若さでギロチンの露と消えました。フロックコートのふところに匕首《あいくち》をしのばせ、シルクハットをヒョイとななめにかぶった、なんともダンディな犯罪紳士です。  お坊ちゃん育ちながら泥棒世界に入って悪の道を突っ走り、社会の偽善を思いっきりあばき立てたあげく、サバサバした顔で死んでいきました。彼がつぎつぎと何人もの人を殺したのは、金や欲のためというより、やり場のない社会への深い恨みを晴らすためだったといいます。  ラスネールは不幸な生い立ちでした。裕福な家に生まれながら、幼いときに里子に出され、両親の愛を知らずに育ったのです。彼がどんなに愛を求めていたかは、死ぬまえに書いた名高い『回想録』からもよく分かります。そしてこの恨みが彼のなかで、社会や偽善への深い恨みに変わっていったのです。  根っからの詩人だったにもかかわらず、波瀾《はらん》にみちた人生では、ゆっくり読書したり文学の勉強をするひまもありませんでした。だからボードレールやランボーのような大詩人にはなれなかったけど、そのかわり悪党詩人として名を残したのです。  いわゆる書斎人間ではなくて、みずから行動する男。身をていして社会の悪をアバキたて、社会への反抗を貫きとおした、いわゆる「硬派」の生涯でした。  ラスネール逮捕は新聞にデカデカと載り、当時のパリに大さわぎを巻きおこしました。まもなく発表された彼の『回想録』は、ベスト・セラーとなって飛ぶように売れ、彼のニヒルな美貌《びぼう》とその薄幸な生い立ちに、すっかり読者は夢中になってしまいました。  現代でいえばタレントの自伝や苦労話が売れるのと同じようなこと。テレビも週刊誌もない時代のことですから、皆がこぞってこのスキャンダルにとびついたのでしょう。  そもそも、彼が逮捕されたいきさつはこうでした。一八三四年十二月十四日、三十四歳のラスネールは、サン・マルタン街のアパートに住むある男娼《だんしよう》のもとに、手下のアヴリルとともに押しいったのです。手下が相手の首に手をまわしたすきに、ラスネールが後ろからキリで一突きし、手下がオノで最後の息の根をとめます。つぎに隣室に寝ていた病母までキリでメッタ突きにしたあと、盗んだ金を手に盗んだ毛皮のマントをひっかけ、なんとふたりで、今でいうソープランドにしけこみました。そして返り血をさっぱり洗い落としたあと、レストランで食事して、観劇としゃれこんだというのです。  なんとまあ、人を食った落ち着きぶり……。犯行後の芝居見物のくだりには、裁判の傍聴人のあいだでは、ゴウゴウと非難のどよめきが起こったといいます。  それから半月後、今度はラスネールは贋《にせ》手形を振りだして、マレ銀行の集金人をモントグルイユ街に偽名で借りていた部屋に呼びだし、殺して集金袋をうばおうとしました。今度の相棒はやはり昔のワル仲間のフランソワという男でしたが、今度は相手に大騒ぎされて、とうとう目的は達せずじまいでした。相棒のフランソワは叫ぶ集金人の口を押さえようとして、手を思いきり噛《か》みつかれたり、もう散々……。  結局ふたりは、「泥棒、泥棒!」と叫ばれながら部屋を逃げだし、集金人は刃物で刺されながらも、一万五千フランの入った集金袋を、しっかり抱いてはなしませんでした。   パリ中の人気者[#「パリ中の人気者」はゴシック体]  この殺害未遂事件後、ラスネールがついに逃亡先のディジョンで逮捕されたのは、翌年の二月になってからでした。  パリ警視庁の鬼刑事カンレールは、これら二つの事件の犯人を突きとめようと、日夜、必死の捜査を続けていました。そんなときディジョンで、偽造手形を行使しようとしていたラスネールが、網にひっかかったのです。  このときは手形偽造の別件逮捕でしたが、たまたま監獄にいた二人の相棒がカンレールの誘導|訊問《じんもん》にのせられ、ラスネールの前科と人相を喋《しやべ》ってしまったのです。捜査をすすめると、すでに牢《ろう》に入っている手形偽造の犯人がその人相にそっくりだと分かりました。たちまちラスネールは手形偽造ならぬ殺人犯として、そのほうの管轄に身柄を移されたのでした。  彼は相棒の裏切りに真っ赤になって怒りまくりました。それからは二人を死への道連れにしてやろうと、それまで否認していた悪事を、すすんで一部始終ブチマケてしまったのです。  各新聞はこの事件を大きい見出しでセンセーショナルに書きたて、犯人の生い立ちやその作品などを掲載しました。たちまちラスネールはパリ中の人気者に……。  さあ、それからが大変な騒ぎでした。監獄のラスネールの部屋に、ジャーナリストや作家や貴族や、パリの上流の人々が押すな押すなで詰めかけたのです。彼の部屋はまるで人気スターなみになり、警官は必死の思いで後から詰めかける客を整理したといいます。しまいに面会人は番をとるのに前もって予約せねばならないことになり、一度に沢山通せるように、監獄の壁が三方くり抜かれたとさえ言います。  彼を食いいるように見つめる面会人たちに囲まれて、ラスネールは乱れとぶ彼らの質問に答えて、自分の作品のことや犯した犯罪のことなどを、静かに語りました。ふだんはごく穏やかで落ち着いていますが、ときどきその薄い唇から、ピリッと切れ味のいい皮肉がこぼれるのでした。  面会人たちは、今をときめく文豪デュマでも前にしているかのようにクソ真面目《まじめ》な顔で耳をすまし、女たちは彼のさわやかな弁舌とダンディな美貌にうっとりするのでした。  とあるファンが、戯曲を書く気はないかと聞けば、「材料はいっぱいあるんですが、なんせ時間がなくて……」と答え、とある神父さんが毎日監獄に彼を訪ねて何とか改心させようとしても、彼はそのたびに、「私は神は信じません」と、ケンもホロロに答えるだけだったといいます。  いよいよラスネールの裁判が、一八三五年十一月十二日から開始しました。ここでも毎回傍聴人が外まであふれ、彼が現れると場内はドッとわいて、裁判長は騒ぎをしずめるのに一苦労したといいます。  このときも彼の落ち着きぶりとトボケぶりは相当のもので、相棒らの証言をかたっぱしから引っくり返したり、時々人を食った茶々を入れたり、ときにはさも愉快そうに、鼻先でせせら笑ったりしました。  自分の犯した罪を弁護するどころか、早く死刑になるのを待ち望んでさえいるようでした。「許してくれなんて頼みません。命なんかどうでもいいんです。この世に執着なんかもうありません。ずっと前から、私は死の世界に生きてきたのです。今さら命を助けてくれなんて、言うつもりはありません!」  判決はもちろん、三人とも死刑でした。ラスネールには本望だったことでしょう。  その後彼が移されたパリ裁判所の牢獄にも、やはり物好きな野次馬たちが、ひっきりなしに押しかけました。有名な骨相学者が、彼のデス・マスクを今のうちに作って研究資料にしようとしましたが、ラスネールはこれを丁寧に断り、のちに『回想録』のなかで、さんざん相手を笑いものにしています。  このころから彼は、夜も寝ないで好きな詩を作るとともに、自分の生涯を書き残すことに熱中しだしたのです。  死刑の執行は、事件から一年あまりたった三六年一月九日でした。凍るような朝、暗いうちからアヴリルとともに大八車で刑場に運ばれながら、ラスネールは生涯最後の冗談をとばしました。「墓穴の土は冷てえだろうな」それに相棒も「ミンクでも着せてうめてくれって頼んでみたら?」  暗い寒々とした死刑場で、まずアヴリルが首をきられ、つぎにラスネールの番になりました。彼は落ち着きはらって自分から首を差しだしましたが、奇妙にもギロチンの刃が途中で引っかかって落ちてきません。五度もやりなおして、六度目にやっと首が落とされたといいます。享年三十六歳の幸薄い生涯でした。   暗い予感[#「暗い予感」はゴシック体] 「私が金めあてにシャルドンを殺しにいったというのか? 冗談じゃない。私は自分の人生を血で正当化し、私をこばんだ社会に血で抗議するため、彼を殺しにいったのだ!」  ラスネールの『回想録』には、こんな激しい言葉があちこち見られます。裁判の最終日(三五年十一月十五日)から処刑前夜(三六年一月八日)の二カ月で書きあげられたこの作品は、人間の魂の一大記録として、つきない魅力にあふれているのです。  ラスネールは一八〇〇年、リヨン郊外の裕福なブルジョワの家庭に生まれました。六人兄弟でしたが、両親は長男ばかり愛して、下の子供たちにはかまけませんでした。ラスネールは生まれてすぐ乳母の手にあずけられ、大きくなるまで両親の顔を見たことがなかったといいます。  彼は自分が悪党になったのは、親の愛を知らない寂しい子供時代のせいだと言っています。もし母に愛されていたら! とか、子供は愛されたいとしか思わないものだ! とか、『回想録』のなかにはよくそんな言葉が出てきます。人一倍感受性がつよく、愛を求める思いが強かった彼に、人生は早くから、堪《た》え難いものに思われたのでしょう。  内向的な少年だった彼は、父のさしがねで入れられた神学校で、はやくも差別や偽善がまかり通る社会の不正を目にします。その後はちょっとした悪事を犯したり、先生に嫌われたりして、次々と転校を繰りかえしていきます。リヨンの中学に通っていたときはホモの先生が生徒に言いよっているのを見かけたためその先生ににらまれ、あることないことを校長に告げ口されて退学になったのでした。  子供をエゴの犠牲にする醜い大人たちの姿を見ているうちに、しだいにラスネールはグレていきました。親のタンスから金をくすねたり、学校の月謝にともらった金を使いこんだりするようになりました。そんな彼に、周囲の大人たちは手を焼いていたようです。  あるとき、彼が父とリヨン郊外を散歩していると、断頭台のたっている街の広場にさしかかりました。すると父はステッキでそれを示し、「お前がいい子にならないなら、あそこにかけられて死んでしまうんだよ」と脅かしたのです。  そのときから、彼とギロチンのあいだに、妙な因縁がむすばれました。彼はその後、たびたび、断頭台に引いていかれる夢を見てうなされるようになりました。  自分の犯す罪は、この不正な社会に反抗するため、やむにやまれぬものなのだ、いつの日か自分は、あの断頭台の上で死ぬことになるのだという暗い予感が、彼をひたしていったのです。   最初の殺人[#「最初の殺人」はゴシック体]  最初の殺人はイタリアのヴェロナで起きました。同じ宿に滞在していたスイス人の知人が彼あての手紙をうっかり開けてしまい、その内容を警察にタレこんだのです。怒ったラスネールはそしらぬ顔で相手を誘って人気《ひとけ》のない山中に連れこむと、「裏切り者」と相手を責め、「ここにある二つのピストルの、どっちかをとるがいい。決闘だ!」と宣言したのです。弾丸のこめられたピストルと、こめられてないピストルでした。  相手が青くなってそれをことわると、「そんならオレが先にとるぜ」と、ラスネールは目印をつけておいた弾丸の入った方のピストルを取って、一瞬のうちに相手を撃ち殺したのです。そして自殺にみせかけ、自分は空のピストルを持って、さっさと宿に引きあげていきました。  カジノでの喧嘩《けんか》がもとで、有名な政治家兼小説家バンジャマン・コンスタンの甥《おい》と決闘したこともあります。このときコンスタンと彼は同じ賭博台《とばくだい》にむかっていましたが、コンスタンが負けがこんできて、ずるいいかさまをやったのです。  これをラスネールが注意すると、相手は答えました。「私が誰か知っておられるなら、そんなことはおっしゃらないでしょうね」  この高慢ちきな答えに、ラスネールはカチン。「私には有名人の叔父《おじ》はいませんが、少なくとも二枚舌で裏切り者のおじさんもいませんよ」 「何をおっしゃっているんでしょうか?」と、コンスタンもキッとなります。 「あれ? 百日天下のときのおじさんの、みごとな変身ぶりをお忘れですか」と、ラスネール。ナポレオンの百日天下のとき、それまで敵側だったコンスタンが皇帝側にさっさと寝がえり、いちはやく皇帝顧問官という地位をもらったことを言ったのです。  決闘はブローニュの森で行なわれました。最初に撃った相手の弾がそれ、その後すばやくラスネールが一発で相手を撃ち倒したといいます。  一八二九年、ラスネールが悪の道に入ったきっかけもユカイです。彼は不正な社会に挑戦するため、すすんで泥棒になろうと決意します。けれど泥棒になるには手下が必要だし、盗みの手口や泥棒仲間のスラングも覚えねばなりません。どうしたらいいのでしょう? 答えはカンタン。監獄に入って、本物の泥棒さんたちと親しく付きあえばいいのです。こうしてラスネールは、懲役半年を食らいこむぐらいの犯罪をおかして、牢に入ってやろうと計画をたてました。  ラスネールは貸し馬車屋にいき、一日の約束で馬車を借りだします。そして途中、タンプル街のある邸《やしき》の前に馬車をつけて、ここの人に手紙を届けてくれと御者にたのんだのです。御者が疑うようすもなく手紙をもって邸内に入ると、そのあいだに彼は馬に力一杯|鞭《むち》をあててトンズラしてしまい、前から契約していた相手に、馬車を売り飛ばしてしまいました。  ところが、馬車の座席の下から警察の許可証が見つかり、馬車の持主の住所氏名が記されていたので、盗品というのは簡単にバレてしまいます。行きつけのカフェで平然とコーヒーを飲んでいたラスネールはたちまち御用に。もっともここまでは、予定の行動でしたが……。  しかし半年のつもりが、思いもよらぬ一年という長い刑を食らったのは予定外でした。   名高い『回想録』[#「名高い『回想録』」はゴシック体]  ラスネールの『回想録』は、十九世紀パリ泥棒日記としても面白く、ロシアの作家ドストエフスキーが、出していた雑誌の売れゆきをよくするため、これをのせたというエピソードもあります。  前に書いたように、監獄の彼のもとには、野次馬が押すな押すなで詰めかけましたが、それがあまりつづくので、さすがのラスネールもうんざりしたようです。  ある日ゴテゴテ飾りたてた有閑マダムが三人、彼に面会を申しこんでくると、彼は女たちを見ようともしないで、「うるせえな。動物園のサルじゃあるまいし。これ以上見物にこられるのは沢山だ!」と叫んでから、ふと向きなおって、「あっ、イイ女がいる! あんただけなら入れてやるぜ」と言ったとか。  またある貴婦人が自分は有名人の手紙コレクションをしているので、何でもいいからひとこと書いていただけないかと手紙で頼んでくると、こう返事を書いたといいます。「残念ですが、あなたに手紙を書いている時間はもうありません。ですが私もあなたのように有名人の手紙をコレクションしていますので、あなたのお手紙もそれに加えさせていただきます」  なんとも人を食った皮肉ではありませんか?  マルセル・カルネ監督の名画『天井桟敷の人々』のなかには、パリの薄汚い下町に代書屋をいとなむ、ラスネールという殺し屋が出てきます。これはラスネール自身をモデルに監督が作りだした人物なのです。ラスネール自身、代書屋をやっていたことがありました。昼間はパリの場末で乞食や娼婦にまじっていた代書屋が、陽が暮れるとシルクハットとフロックコートで変身し、ステッキを手に上流社会のカジノにあらわれ、昼間かせいだ金をパーッと派手につかってしまう。昼と夜の生活をスマートに使いわけていたわけです。  映画のなかのラスネールはニヒルな風貌と細い口ヒゲの、ダンディな紳士ぶりがなんとも魅力的でしたが、きっと本物のラスネールもあんなふうだったのでしょうネ。  それにしても、一見カッコいい悪党だが、その後ろ姿には孤独な男の一抹の寂しさをにじませて……。またそれが、女から見ればなんともカッコよくて、たまんない! その気持ち、分かるような気がしますね? [#改ページ]  バーデン・バーデンの白い貴婦人 ———————————————————————————— オラミュンデ伯爵夫人[#「オラミュンデ伯爵夫人」はゴシック体] [#改ページ]   幽霊の正体  一八五二年一月、バーデン大公レオポルトは痛風の発作におそわれてベッドに横たわっていました。侍医たちは「ただの痛風だ。大公はなんといってもまだお若いし、体力もおありだ。命に別状はない」と笑っていましたが、しだいに「大公はもう長いことないらしい」という噂《うわさ》が宮廷に流れるようになりました。侍医たちは「痛風で死んだ人間がどこにいるか」と笑いとばしましたが、気のはやい連中は旅行をキャンセルしたり、喪服を用意する始末でした。 「大公が死ぬのももうじきだろう。なんてったって、あの『白い貴婦人』があらわれたんだから……」人々は囁《ささや》きかわしました。「白い貴婦人」とは、バーデン大公の城に出没するといわれている幽霊だったのです。その貴婦人の肖像画は、ながいあいだ城の広間の壁にかかっていましたが、大公は六十をすぎたある日、それをはずして物置のすみにほうり込んでしまいました。その妖《あや》しい目で見つめられつづけることが、年老いて気が弱くなった彼には耐えられなくなったのでしょう。  その肖像を見たことのあるフランス人はこう言っています。「暗い背景にため息がでるように美しい顔が浮かび上がっていました。青ざめた肌、百合《ゆり》の花にまじった一輪の紅バラのように心を奪う唇、十五世紀ふうにゆいあげられた黒髪……。でも、弓型の眉《まゆ》の下で不思議な光でかがやいている目が、もっとも魅力的でした。わたしはそれに見つめられて目をそらすことができず、いつのまにか磁気のような力に引きつけられていました」  そして、この美しい「白い貴婦人」の肖像には、それにまつわる悲しい物語があるのです……。   若き辺境伯の恋[#「若き辺境伯の恋」はゴシック体]  昔、バーデンに心美しく聡明《そうめい》で、両親の愛を一身に受けてすくすくと育った、若き辺境伯が住んでいました。彼が青春期の憂鬱《ゆううつ》にとらえられ、物思いにしずむようになったとき、案じた父は、旅に出ていろんな国でいろんな人間や人生に触れてくるようにと提案しました。母もそれに賛成しましたが、「ただし、女のひとにひっかかってはいけない。親孝行な子なら、ちゃんと親が決めた相手と結婚するものです。バーデン公子にはそれにふさわしい相手というものがありますからね」と言うのでした。  両親に送られて青年は旅に出発しました。そしてデンマークのある地方で、彼はあちこち歩きまわっていて道に迷ってしまいました。夜も近くなり、そろそろ心細くなってきたとき、湖のほとりに美しい城がたっているのを見て、彼はここに泊めてもらおうと思いました。彼が案内を乞うと、静かな湖に面した城の庭園で、若い美しい女性がふたりの子供とたわむれている姿に出会いました。これがオラミュンデ伯夫人だったのです。  夫人は長いガウン姿で揺り椅子《いす》にすわり、じっと湖面に見入っていました。沈みかけた夕陽のなかに浮かび上がるその姿を見て、青年は心に熱いものがわきあがるのを感じました。「これが、私が夢見ていた女だ。これまで私の胸にぽっかり開いていた空洞をうめてくれるのは、この女なのだ!」一瞬にして、彼の心に夫人への恋が燃え上がったのです。彼はなんとしてもこの夫人を自分のものにしようと決意するのでした。  オラミュンデ伯夫人は二人の子をもつ未亡人でした。王家の血をひきながら事情があって王座への道をはばまれていた彼女は、なんとしてもそれに代わるものを得ようという野心に燃えていました。彼女のほうでも初々しい青年に一目で惹《ひ》かれ、その上彼の辺境伯という高い身分にも夢中になりました。彼を自分のものにすることで、これまで夢見ていた栄光が、自分のものになるかも知れない……。夫人は待っていたように、このチャンスに飛びついたのです。  その日から、夫人の心にはこのうぶな青年を自分の魅力で蕩《とろ》かし、夢中にさせることしかありませんでした。彼女はいかにも優しく魅力的な態度で青年をもてなし、しだいに彼が自分なしでは生きられないようにしむけていきました。夢を見ているような思いで、青年は半月ばかりを過ごしました。相思相愛の思いが伝わりあい、二人が燃える思いでたがいの胸に身をゆだねるのに、そう時間はかかりませんでした。あとはもう酔い心地。むさぼるように互いを求めあい確かめあう日々がつづきます。  けれどいつまでもこうしているわけにもいきません。国で今か今かと青年の帰りを待っている優しい両親のことを思うと胸がいたみます。けれどこの夢のような日々に別れをつげるのは、あまりに辛《つら》い。夫人を胸にかきいだき、心を二つの思いに引き裂かれながら、青年は感きわまって言いました。 「もう、私は行ってしまわねばなりません。もしあなたを妻として私の城にお連れすることができたら! あなたなしで生きることなど、いまの私には考えられないのです」  その言葉に、夫人はキラリと目を輝かせました。「何が、それとも誰が、あなたの夢が実現するのをはばんでいるのでしょうか」青年は深い溜息《ためいき》をつきました。「四つの目です。あの四つの目があるかぎり、あなたをバーデンにお連れすることはできないのです」「では、その四つの目がなくなったら?」震える声できく夫人に、青年は言葉少なに答えました。「ええ、むろん、そのときは……」 「そのときは、あなたの妻になれるのですわね」彼女の取り乱しように青年はちょっと驚きましたが、「そのとおりです。では今はお別れします。が、あの四つの目が万一消えるようなことがあったら、きっとあなたをお迎えにきますよ」  そして青年は、後ろ髪を引かれるような思いで、故郷へと帰っていきました。   恋ゆえの恐ろしい罪[#「恋ゆえの恐ろしい罪」はゴシック体]  それから数カ月後、バーデンからデンマークめざして馬の背に鞭《むち》うつ、ひとりの青年の姿がありました。紛れもないあの辺境伯でしたが、いまの彼は喜びいっぱいで、帰ってきたときの意気消沈した様子はなくなっていました。そう、両親が、彼にオラミュンデ伯夫人との結婚を許してくれたのです! 善意にみちた二人は、そんなに息子が愛するひとなら、自分たちも愛せないわけがないと、即座にOKしてくれたのでした。  馬に力いっぱい鞭をあてるときの、青年の頬《ほお》に抑えようもなくこぼれる笑いに、すれ違う人は思わず微笑《ほほえ》みました。心にはただオラミュンデ伯夫人のいとしい姿をかき抱いて、彼はまっしぐらに彼女のもとへと駆けつづけました。  ところが夫人の城にもう少しのところで、彼は夫人の執事に出会いました。執事は黒い喪服をまとって、悲しげな様子をしていました。「どうしたのです?」不吉なものを感じて青年は訊《き》きました。「いったい、何が起こったというのです」すると執事はしずんだ表情で答えました。「伯夫人は、ずっとあなたをお待ちになっておられました」そしてそれ以上、なにを聞いても決して口を開こうとしませんでした。  不安になった青年はますます馬に力いっぱい鞭をあて、残りすくない城への距離を走らせました。懐かしい城が見えてくると、とるものもとりあえず跳ぶように門を入っていきました。  庭や回廊を通っても、人っ子ひとり見あたりません。いやな気分にとらえられながら、彼はオラミュンデの部屋への階段をかけのぼりました。なんとカーテンも窓も閉めきられ、部屋は真っ暗にしてあったのです。「何があったのだろう。伯夫人は病気なのだろうか?」  青年がベッドのカーテンを上げると、夫人がすべてから置き忘れられたように、ひっそりと横たわっていたのです。ともあれ彼女に会えたことでほっとしながら、青年は喜びいさんで腕をさしだしました。夫人はその腕に取りすがって、息をきらしながら言うのでした。「やっと、やっと、いらして下さったのね?」  目が落ちくぼみ、頬がこけた別人のようなその姿に、青年は不安でいっぱいになりました。 「どうしたのです、オラミュンデ。どこか悪いのですか?」  それを聞くと夫人は、ゾッとするような声で笑い出しました。 「とんでもない。なにもかもうまくいっていますわ」 「いったい何が起こったのです」 「あなた、今すぐ、わたしと一緒に逃げて下さい。お話はあとでしますわ。もう四つの目は消えてしまったのですもの。あなた、わたしと結婚して下さるのでしょ?」 「オラミュンデ」  と、青年は微笑して夫人を抱きしめました。 「あいにく四つの目はいまも元気で生きています。でも、わたしとあなたの結婚を許してくれたのですよ」 「何ですって? あの恐ろしい目がまだ生きているんですって?」  気がふれたように叫ぶ夫人に、青年はあっけにとられました。 「いったい何を言っているんです?」 「いいの、とにかく逃げましょう。ここにいると危険ですわ」  夫人はワナワナとふるえる手で青年の腕をつかんで、階段を降りはじめます。何が何だか分からないながら、青年もそのあとにつづいて走り降りました。が、ふと気がついて…「そうだ! あなたのお子さんたちはどこにいるのです?」  そのとたん、夫人は燃えるような目で彼をにらみつけました。 「何を言ってらっしゃるの? わたしたちが一緒になるのを邪魔しているのはあの子たちだと、あの時おっしゃったじゃありませんの?」 「何を言っているのです。私が言っていたのは両親のことですよ。でもそれも今は、私たちのことに賛成してくれているんです」  伯夫人は悲鳴をあげました。 「嘘《うそ》だわ。そんなこと! じゃ、いったい私はなんのためにあんな恐ろしい罪を犯したの?」  その言葉に、青年はハッとしました。ではこの美しい夫人は、彼と結婚するために、それだけのために、自分の腹をいためた子供たちを殺したのか? 青年はゾーッとして、自分にとりすがる夫人の手をふりはらい、後も見ずに馬の止めてある中庭に向かって走りました。一刻もはやく、一刻もはやく、こんな恐ろしいところから遠ざからなければ……。それまでの夫人へのいとしさは一変、ただ女というものの恐ろしさをかいま見た思いで、それから逃げ出したい思いでいっぱいでした。   死を予言する亡霊[#「死を予言する亡霊」はゴシック体]  が、全速力で馬を飛ばす彼を追いかけ、風にのって身も凍るような声が聞こえてきました。「お逃げになっても無駄よ。辺境伯さま! あなたとわたしのあいだには、もう血の絆《きずな》が結ばれてしまったのですもの。あなたはわたしから逃れることができないのです!」  青年はいまにも、メドゥーッサのようにざんばら髪の血まみれの女が走ってきて、腕をのばして彼に襲いかかろうとする恐怖に襲われました。その幻影と戦いながら、彼は必死で後ろを見ないで、ひたすら馬を走らせつづけました。  何時間か後、ぼろぎれのように疲れ果てた彼は、やっとの思いでバーデンの城に下り立ったのです。息子の変わりはてた姿にびっくりした両親に、すぐベッドに横たえられて、その後青年は高熱にうなされ、生死のさかいをさまよいました。 「夢だったのよ。なにもかもお忘れ。忘れておしまい!」  そう言って両親はオロオロと息子をなだめましたが無駄でした。青年の病気は日ましに悪化し、どんな医者もついに匙《さじ》を投げました。死の近いことを知った青年は両親に頼んでデンマークからオラミュンデ伯夫人の肖像画をとりよせ、壁にかけて「白い貴婦人」と名づけました。もとはといえば自分への恋ゆえにあんな恐ろしい罪を犯した彼女が、今になってみれば不憫《ふびん》に思えたのでしょう。  ある朝、いつもより加減がよさそうなのに喜んでいた両親に、青年は静かに言いました。 「父上、母上、もう間もなくお別れです。『白い貴婦人』が私のもとにやってきました」 「馬鹿なことを言うんじゃない。夢を見ているだけだよ」 「いいえ、父上。本当です。きっと父上のもとにも、近いうちにやって来るでしょう」  予言どおり、間もなく青年はひっそりと世を去り、数年後に当の父も亡くなりました。父も死ぬ数日前に、「白い貴婦人」の亡霊を見たといいます。バーデン公家がつづくかぎり、この亡霊との縁はきれることはないのでしょう。永遠に亡霊は姿を現し、領主の死を予言しつづけることでしょう。  ところで一八五二年、あのレオポルト大公が発作を起こしたときも、「白い貴婦人」はやはり城の一室に現れたといいます。一月末に床についた大公は、普通なら死の原因になりようがない痛風のため、二カ月後にぽっくり世を去りました。侍医たちが驚き呆《あき》れるなかで、またも伝説は本当のこととなったのです。 [#改ページ] ロシアを騒がせた怪僧 ———————————————————————————— ラスプーチン[#「ラスプーチン」はゴシック体] [#改ページ]   皇太子の病気を治す[#「皇太子の病気を治す」はゴシック体]  当時は不治の病いだった血友病を病んでいた皇太子アリョーシャは、数日前からひどい発作を起こしていました。お守り役と遊んでいたとき、庭でうっかりころんでしまったのです。普通ならただのカスリ傷で済むところが、彼の場合は命にかかわる一大事。出血が何日もつづき、宮廷医師のほどこす治療も、祈祷師《きとうし》がとなえる怪しげな呪文《じゆもん》も効きめがなく、皇帝夫妻は絶望の淵《ふち》に突きおとされていました。病状は悪くなる一方で、おさないアリョーシャの呻《うめ》き声が部屋部屋をふるわせ、宮廷中を不吉な死の影がおおっていました。  そんなとき大公妃アナスターシャが、ラスプーチンのことを持ち出したのです。「奇蹟《きせき》を行なうことのできる人物です。見かけはただの百姓ですが、不思議な力が備わっているんです」皇帝夫妻はワラにもすがる思いで、それにしがみつきました。さっそくラスプーチンに使いを差しむけ、宮殿に来てくれるように懇願したのです。心の底には不安がありました。彼がロシアでも最高の医者たちさえ成功しなかったこんな難題をはたして引きうけてくれるだろうか。  アナスターシャが宮殿の裏口で何時間も待っていると、やっと戸を叩《たた》く音がして、ラスプーチンが使者に連れられて入ってきました。貧しい身なりで髭《ひげ》ぼうぼうの彼はまっすぐ皇帝の部屋にとおされ、怖じける様子もなく皇帝につかつかと歩みよって挨拶《あいさつ》しました。一種異様な感動におそわれた皇帝は、さっそくその日の日記に書き留めました。「今日、神から遣わされた男に会う。グリゴーリイ・エフィーモヴィッチ・ラスプーチン。トボリスク県の出身」  広間や廊下をぬけ、何事かといぶかる高官たちのあいだを、一行はまっすぐ皇太子の寝室に進みます。いまやロマノフ王朝のすべての期待が、この百姓一人にかかっているのです。そして彼らがむかう病室の奥では、死と隣あわせでもがく幼児の、胸を掻《か》きむしるような苦痛の叫びが今も続いているのです。  部屋に入ると皇太子がベッドの上で両膝《りようひざ》を胸におしつけ、胎児のような姿勢でうめき苦しんでいるのが目に入りました。ラスプーチンはおもむろにベッドに近づいて身をかがめ、指で皇太子の顔に小さい十字を切りました。おっかなびっくり目を開いた皇太子は一瞬ギクッ。目のまえに髭もじゃの見知らぬ男の顔があったのですから無理もありません。いったい誰だろう、この男は。僕を連れにきた死に神かしら?  けれどそれも一瞬のことで、ラスプーチンの力づよい声が、安心させるように彼のうえに降りそそぎます。「怖がらなくていいよ。私は坊やをなおしに来たんだ。ほら、もう苦しくないだろう? たちまち元気になって、明日はもう起き上がれるぞ!」  ラスプーチンの大きい温かい手がからだをさすり、やさしい声が語りかけるにつれ、快い安らぎが皇太子の全身につたわっていきました。アリョーシャがそうっと手を伸ばしてみると、これまでの恐ろしい痛みが嘘《うそ》のように消えているのに、もうびっくり。皇帝は嬉《うれ》しさに涙ぐみながらラスプーチンの手を握りしめ、皇后はひざまずいてその手に口づけせんばかり……。これこそ聖者だ。これこそ神がお遣わしになった人物なのだ……。  この日からラスプーチンの、名誉と栄光の日々がはじまったのです。   隠者マカーリーのお告げ[#「隠者マカーリーのお告げ」はゴシック体]  グリゴーリイ・ラスプーチンは一八六五年、ロシアのトボリスクに近い小さい村に生まれました。家は数頭の馬を持ち、父親は村長をしたこともある、比較的裕福な農家でした。学校にも通わず字も満足に書けないのが当時の百姓の生活でしたが、そのかわり彼は学校では学ぶことのできないいろんなことを身につけていました。大自然のなかで木や風と語り、トナカイを乗りこなし、荒馬を調教し……。彼は馬の言葉を解せるようになり、どんな手におえない荒馬も彼の手にかかるといちころだと言われていました。  ラスプーチンのもう一つの楽しみは、「スターレッツ」とよばれる人々の話を聞くことでした。彼らは奇蹟や予言を行なうと言われる修道士で、長い杖《つえ》とずだ袋とボロ服をまとい、ロシア全土を放浪していました。ときおり民家に立ちよって施しを乞うては、いろんな説教をして人々に崇拝されていたのです。彼らがラスプーチンの家を訪れたときは、父は手あつく持てなしたものでした。不治の病人を治したり、足なえを歩かせたりする彼らの能力にラスプーチンはあこがれ、いつか自分もスターレッツになって人々の役に立ちたいと思うようになっていたのです。  幼いときからラスプーチンは透視力という不思議な能力を持っていました。ある日とある農家から一頭の馬が盗まれ、村人たちはラスプーチンの家で顔をつきあわせ、どうしようかと相談していました。そのときベッドに横たわっていたラスプーチンは、突然ガバと身を起こして、ひとりの農夫を「お前が盗人《ぬすつと》だ!」と指さしたのです。指さされた農夫が村の有力者だったことから、父は彼が熱でうなされているだけだと慌ててつくろいました。が、少年の言ったことが気になった二人の村人は、あとで少年の指さした農夫をつけて行き、彼が自分の納屋から盗んだ馬を出してきて放してやるのを目にしたのです。  ラスプーチンが十二歳のとき起こった兄ミーシャの死は、彼の人生でもっともショッキングな事件でした。彼と兄が川で魚をとっているとき、石の上に張っていた氷にすべって兄は川に落ちてしまったのです。急いで川に飛び込んで助けようとしたラスプーチンも一緒に押し流され、かろうじて通りがかりの農夫に救い上げられました。が、不運にも兄は死に、ラスプーチンも肺炎にかかって生死のさかいをさまよいました。  不安のなかで家族たちが彼の枕《まくら》もとに集まっていると、突然彼がベッドの上に起き上がり、はっきりした声で叫びました。「ありがとうございます。奥さま!」そして横たわり、また眠りこけていきました。ところがその晩、数週間つづいた熱は嘘のように下がり、病いは急に回復に向かったのです。大喜びする家族たちに、ラスプーチンはいいました。 「美しい奥さまが治して下さったんだ。あの方が僕に命令なさるはずなんだ!」  この不思議な話を彼の父が司祭に話すと、司祭はそれは聖母さまかも知れないと言いました。 「聖母さまが彼に何かを望んでいらっしゃるのだ。それが何かは、もう一度聖母が現れて教えて下さるに違いない」  ラスプーチンは兄が死んで自分だけが生き残ったのは、何か意味があってのことに違いないと思うようになりました。二十歳のとき、彼は村の舞踏会で二歳年上の娘と出会って恋におち、結婚しました。やがて男の子も生まれて、一家は貧しいながら幸福な生活を送っていました。ところがその赤ん坊が半年後に死んでしまったのです。  ラスプーチンは深い悲しみにしずみました。そんなある日、彼が一日中歩きつづけ白樺《しらかば》林にまよいこんだとき、傾きかけた夕陽の光のなかに、彼は美しい女性の姿をみました。それが幼い頃みた幻の女性であることはすぐに分かりました。女性は彼に歩みよって言いました。「あなたは間もなく出発しなければなりません。あなたのいるべき場所はここではないのです」ラスプーチンは深い感動にうたれて、いつまでもその場に立ちつくしていました。  ある日ひとりの修道士にヴェルホトゥーリエの修道院への道をきかれて馬車で案内するうちに、修道士は自分が入っている「鞭身《べんしん》派」という宗派について、彼に話して聞かせました。それによると鞭身派は「罪を超越するために罪を求める」信仰であり、むしろ徹底的に罪をおかすことこそ、罪を絶滅させて心の平安を手にいれる方法だというのです。これにラスプーチンは強く心をうたれ、これこそ自分が求めていたものだと直感します。彼は修道士を送っていったヴェルホトゥーリエの修道院に、自らとどまって修行することを決意しました。  修道院でラスプーチンは厳しい修行をつみ、しだいに鞭身派の説く「自分の肉体を通して救済にいたる」道をきわめるようになりました。そのうちに彼は「真の聖者」と呼ばれている隠者マカーリーのことを伝えききました。マカーリーは現実とのつながりを絶って、少数の者しか知らない岩のなかに暮らしていると言われていました。ラスプーチンはこの隠者に会って教えを乞いたいと願い、ついに許可されたのです。  絶壁や急流を越え、とても人間が住むとは思えない奥地に隠者を訪ねると、マカーリーはひざまずくラスプーチンをやさしく抱き起こして言いました。「聖ミカエルのお告げで、私はお前がまもなくここにやってくることを知っていた。お前は新たな予言者、キリストの再来となろう。今すぐあらゆる絆《きずな》を捨てて、出発するがいい。お前の家族は、この瞬間からロシアなのだ」   巡礼の果てに[#「巡礼の果てに」はゴシック体]  こうしてマカーリーのお告げをうけたラスプーチンは、修道院に別れを告げ、はるかな巡礼の旅に出発します。彼は二年の期間、トルコ、ヨルダン、シリア、ギリシア、そして聖地エルサレムへの一万五千キロを徒歩で巡りあるきました。  それから二年後、聖地から帰郷したラスプーチンのもとに押しかけてきた村人たちは、そこにまさしく真のスターレッツを発見しました。長い修行につちかわれた鋭い射ぬくような目は、それで見つめられると心の奥まで見透かされるような気がしたといいます。このころから彼は、催眠術の才をも示すようになりました。彼は故郷の実家を改造して教会堂をつくり、村人を集めて祈祷会を行なうようになりました。真っ白の外壁、壁にまつられた聖画、地球を表す円を描いた床……。それらはこの村の人々がまだ見たことのない、エキゾチックな異教の雰囲気でした。  彼に惹《ひ》かれて集まる人はふえるばかりで、彼を敵愾視《てきがいし》するようになった村の司祭は、ついに彼を異教の疑いで告訴します。逮捕の手をかろうじて逃れ、再びラスプーチンは巡礼の旅に出かけました。一九〇〇年までは放浪生活のかたわら、彼は病人の治療に専念しました。彼が「さあ、お歩き」と言っただけで半身マヒだった男が歩き出したり、恐ろしい悪霊に取りつかれた修道女が、彼の祈りで体内の悪霊を退治されて正気にもどるようなこともありました。 「ラスプーチンに治せない病気はない」そんな噂《うわさ》が広まり、周辺のあらゆる地方から、医者から見放された重い病人たちが彼を訪れるようになりました。有名になるにつれ彼の野心はしだいに膨《ふく》らみ、現ロシア皇帝の寵愛《ちようあい》を受けて、生きながら聖人と呼ばれているヨアーン神父の教えを乞いたいと願うようになりました。神父を訪ねて、当時ロシア最大の都会である聖ペテルブルグに行こうと、ラスプーチンは決意しました。  聖ペテルブルグに着いた彼はヨアーン神父がミサをあげている大聖堂にいき、身分高い人々が一堂に会しているのを見て、自分はつつましく最後列の貧しい巡礼者たちに混じってひざまずきました。  ところが、信じられないことが起きたのです。群衆をまえに説教していたヨアーン神父は、ラスプーチンの姿をめざとく見つけて彼に前に進みでるように命じ、その頭に手を置いて重々しくこう言ったのです。「我が子よ。あなたのなかには真の信仰のきらめきがある。この小さな光が偉大な炎にそだつまで、私のもとにとどまるがよい」  そしてこの神父がラスプーチンを、当時ロシアの宗教界の大立者らに引きあわせ、さらにニコライ大公やアナスターシャ大公妃という、皇室の人々に引き合わせることになるのでした。  当時、ロシア皇帝の権力はひどく失墜していました。三十七歳の皇帝ニコライは妻や側近の言うなりで、その時々の助言にうごかされて高官をやとったり首にしたりする信用できない男だと言われていました。  ドイツから嫁いだ皇后のアレクサンドラは、祖母のヴィクトリア女王に堅くるしい教育をされた陰気な女性でした。そもそも彼女が呪《のろ》わしい血友病をロシア皇家にもたらした張本人なのです。うれいを含んだ顔立ち、夢見るようなまなざし、豊かでくっきりした胸と、なかなかの美人でしたが、夫に従うよりむしろリードしていくタイプで、満足なロシア語も話せず、礼儀作法ばかりにこだわる気むずかしい性格で、ロシアの民衆にあまり好かれていませんでした。  皇后を燃えたたせるのは皇后として母としての野心だけで、ラスプーチンを厚遇するのもそのためで、本当は誇りたかい彼女に庶民と親しくするなど耐えられないことだったのです。つねになにかの不安にかきたてられていた彼女は、奇蹟や予言などという話が好きで、そういう話になると急に目を輝かせるのでした。  皇帝の意志薄弱と皇后の迷信深さを利用して、ラスプーチンはたやすく夫妻のなかに入り込んでいきました。彼はたびたび宮殿を訪れるようになり、皇帝は日記のなかに彼のことをひんぱんに書きしるしています。「今日は楽しかった。彼が我々に、再びほほえみと笑いを返してくれた」彼らにとって何ものにもかえがたい皇太子の健康は、まさにこのみすぼらしい一農民の手に握られていたのです。  たちまちラスプーチンの名は社交界に知れ渡りました。身分高い貴族や高官の邸《やしき》に招かれて、彼は説教し教えをほどこし、なにより水を得た魚のように好色さを発揮しだしました。彼に抵抗できる女はなく、いったん彼に魅入られると女たちはみな神をあがめるように彼のまえにひざまずくのでした。   不動の権力[#「不動の権力」はゴシック体]  当時のロシアは、大きい転換期にいました。つぎつぎと政党が誕生して政府を転覆しようとしたり、労働者のストが頻発し、農民までが不作と革命の波にあおられて一揆《いつき》をおこしていました。しだいに民衆は皇帝への信頼と尊敬を失いつつあったのです。  皇帝夫妻は孤独のなかで、絶対王政の見せかけを必死に守りつづけていました。周囲の取り巻きたちは社会情勢についてあたりさわりない報告ばかりしていたので、現実からかけはなれたまま、皇帝夫妻は音をたてて軋《きし》みはじめている帝国の頂点に、ひとり取り残されているのでした。  そんな彼らに親しく近づけるのは、今はラスプーチンだけでした。皇帝夫妻は彼を予言と奇蹟を行なう素朴な百姓としか思っていませんが、それは彼らの前だけのラスプーチンの仮の姿でした。素朴な見せかけの向うには限りない野心がくすぶっていました。  罪に身も心も浸りきることが逆に罪を壊滅させる道だという彼の説は、多くの人を惹《ひ》きつけました。彼の持つシベリア農民のたくましい生命力と熱い官能性が、頽廃《たいはい》したロシアの貴族社会に新鮮な息吹をあたえたのです。  彼は自分から逃れられる女がいようなど、思ったこともありませんでした。それでいて巧みなへりくつで、ただの肉欲を崇高なものに見せようとするのです。「我々はみな罪の道を通ってはじめて悔悟にいたるのだ。犯した罪が大きければ大きいほど、改悛《かいしゆん》もますます我々を清めてくれるのだ」  彼に征服された女たちは、貴族、ブルジョワ、修道女など、あらゆる階級におよびました。政敵がやとった秘密警察は、彼の無数の情事をいちいち記録しています。「二十六日夜、女優Vはラスプーチンと一夜をすごす」「ラスプーチンはD公爵夫人とアストリア・ホテルに一泊」などなど……。彼の邸|界隈《かいわい》にひそんでいる探偵たちは、女が邸を出入りするたびに互いに目配せをかわしながら、いちいち書き留めるのでした。  彼の邸では女たちが部屋部屋にひしめきあい、彼の一挙一動をうやうやしく見守っていました。いつでも求められればすぐ彼に身を投げだす用意のあるそんな女たちは、ラスプーチンの食べかけの菓子をうやうやしく頂戴《ちようだい》し、彼の下着を洗わしてほしいと懇願する始末でした。  ラスプーチンの女の口説きかたにはお決まりのパターンがありました。狙《ねら》う女の腰をかかえ、熱い息を女のうなじに吐きかけながら、しだいにベッドに連れていき服をぬがせるのです。そして聖像をまつった壁のまえにひざまずいて、ともに祈ろうと熱っぽく囁《ささや》きかけたあとは、たちまち肉欲の野獣にかわり、持ちまえの貪欲《どんよく》さでそれこそ時のたつのも忘れ、しつこく女の肉体をむさぼるのでした。目的を達してしまうとまた優しい修道士に戻って、「さあ、これでお前も天国にいけるよ」と、しゃあしゃあと囁くのでした。  彼の権力にあずかろうと、誰もが贈答品をささげ持ってやって来ました。総督、貴族院議員、皇帝の枢密顧問官、国際銀行頭取などのそうそうたる顔ぶれの列が、ときには邸の戸口から舗道につらなるほどでした。そして彼はいつも気軽に彼らの願いをきいてやり、出された礼金は無造作にポケットにつっ込むのでした。  いまやラスプーチンの権力は不動のものになりました。ときおり警察局長が彼の女性関係について上司に報告するのですが、誰もそれを真面目《まじめ》にとりあげる者などいませんでした。せいぜい彼の途方もない情事の数が、読む者に嫉妬《しつと》と羨望《せんぼう》を呼び起こすくらいでした。  ラスプーチンがいろんな党派のサロンに出入りしていたことから、やがて彼の「ドイツ・スパイ説」が生まれることになります。彼はただ金目あてにあちこちから情報を盗み取って、スパイや諜報員《ちようほういん》に売り渡していたにすぎないのですが。彼は来る者をこばまない寛大さからいつの間にか、英・仏との条約を破棄してドイツと手を組もうとする、国内の一勢力に与《くみ》することになってしまったのでした。   皇后からの電報[#「皇后からの電報」はゴシック体]  ラスプーチンが一九一〇年晩秋、故郷の村に帰っていた時、電報がとどきました。「おいで乞う。何をおいても直ぐに出発されよ。ニコライ」彼はとるものもとりあえず、旅行のための荷物をまとめました。皇太子の容体が悪化したのだろうという彼の推測は、ズバリ当たっていました。狩で皇帝父子がボートに乗っていたとき、そばの茂みからアオサギが飛び立ち、驚いて立ち上がった皇太子は膝をクラッチにぶつけて怪我《けが》をしてしまったのです。このときは医師の手当てですぐに出血がおさまったのですが、一週間ほどして皇后が彼を散歩に連れだしたとき、馬車が穴ぼこにはまってしまい、馬車がかたむいてアリョーシャはよろめき、扉に膝をぶつけてしまいました。悪いことはつづくもので、前の傷口がやぶれてまた出血が始まったのです。  宮殿にたどり着いたときは、もう危険な容体になっていました。医師たちの手当てもむなしく出血と高熱が続き、アリョーシャはいつもの背をまるくした姿勢で苦しげにうめき続けていました。あらゆる治療法を絶たれた皇帝は、困りはててラスプーチンに電報を打ったのです。人に知られるのを恐れて漠然とした言いまわしにしたのですが、ラスプーチンはすぐ悟って近くの郵便局から返電を打ちました。「嘆くことはない。子供は治る。医者どもはただちに、これまでの治療をやめるがいい」  電報を開いたとたん皇后の目が輝きはじめ、アリョーシャに声をだして読んでやると、不思議にも彼は昏睡《こんすい》状態からさめて、「大好きなラスプーチンからの電報、もっと聞かせて」と言ったのです。そのときから絶望的だった病状が回復にむかい、夕方には嘘のように危機を脱していました。出発しようとしていたやさきに、ラスプーチンは皇帝から喜びいさんだ電報を受けとりました。「アリョーシャは元気でよろしくのこと。またも奇蹟を起こしたことに感謝する」  皇帝夫妻のラスプーチンへの敬意はさらに高まり、「皇太子の健康には、あの方が欠かせないのです」と、皇后は親バカ丸だしで人々に言うのでした。ラスプーチンを悪く言う者は、つぎつぎと宮廷への出入りをとめられました。国会議長が彼の行状の調査報告を皇帝にとどけると、皇帝はそれを熱心に読んでから首相を呼びつけ、逆に調査を行なった者への厳罰を命じる始末でした。  が、反ラスプーチンの声は日々高まり、教会や警察や政府、さらにはそれまで好意的だったアナスターシャ大公妃やニコライ大公までが、彼の敵にまわりました。一九一二年にバルカン諸国がトルコに宣戦布告し、介入をめぐって好戦的なニコライ大公とラスプーチンが激しく対立。大公が皇帝に出兵をせまると、ラスプーチンがそれを思いとどまらせようとするのでした。これが全ヨーロッパの大戦争に発展するかも知れないと、彼は予期していたのです。  盛りあがる好戦ムードにかき立てられて、人々の彼への敵意は深まっていき、秘密警察や聖宗務院などいたる所が、「ロシアの毒腫《どくしゆ》」と露骨にラスプーチンを非難していました。皇帝夫妻だけが依然これらの悪口を気にかけようとしませんでした。確かにラスプーチンは女にだらしないが、彼は神そのものではなく、ただの人間で、聖人であるにすぎないのだ。どんな人間だって多少の欠点はある。彼の場合それは女好き[#「女好き」に傍点]だが、それも許せない欠点というわけではない……。  そんなとき起こったのが一九一四年六月二十七日、故郷の村で起きたラスプーチン暗殺未遂事件でした。その日の午後二時十五分ごろ彼が村にさしかかると、黒のショールをかぶった女が近づいてきました。顔中が膿《うみ》のたまった一つの傷という感じで、跡かたもない鼻のかわりにおぞましい穴が開き、目には瞼《まぶた》がなく、むしばまれた唇のあいだからのぞく歯が薄気味悪く笑っていました。ゾッとして一歩あとにすさったとき、女はふところに隠していたナイフを取りだすなり、わめきながらラスプーチンの胸に突きたててきました。なおも突き刺そうとしたのを、彼は痛みをこらえながら拳《こぶし》を女の頭にうちおろして卒倒させました。血がふきあげる傷口をおさえながら、やっとのことで家にたどり着いたのです。   無情な歯車[#「無情な歯車」はゴシック体]  この事件はまた、迫りくる王朝の終局への不吉な鐘の音でもありました。同じ日の午前十一時、セルビアのサラエボで、オーストリアのフェルディナンド大公夫妻がドライブ中、若い学生に襲撃されて死亡しました。サラエボとラスプーチンの村とは経度で約五十度の違いで、時差は三時間二十分。つまりこれらの事件は、ほとんど同時に起こったのです。そして二つの事件が、不幸にも第一次大戦|勃発《ぼつぱつ》のきっかけとなりました。ロシア参戦に反対する唯一の人間だったラスプーチンが暗殺者に襲われ入院しているあいだに、戦争の幕は切って落とされてしまったのです。  これだけ離れていてはラスプーチンの能力も効き目がなく、歴史の宿命は抑えようのない流れになって動きだしました。オーストリアはセルビアに宣戦を布告し、七月二十九日、皇帝もついに兵力総動員の命令を全ロシアに発しました。  病室でこれを聞いたラスプーチンは、皇帝にたて続けに電報を打ちました。「恐ろしい嵐《あらし》がロシアを脅かしている。戦争に参加することで、奈落《ならく》をめがけて走っていることに、皆気づかない。我々はドイツに勝つかもしれないが、そのあと我々を待ちうけている災難は、かつて味わったことのないほどのものになろう。ロシアは自分の血のなかでおぼれ死ぬのだ。そして最後に行きつく所は破滅だ!」  が、いまや動きだした無情な歯車を誰もとめることはできませんでした。国全体が戦争という一つの目的にむかって熱狂していました。ドイツ、オーストリア、イタリア対ロシア、フランス、イギリス……。全ヨーロッパが二つに割れたも同じでした。そしてドイツ軍は八月三日、フランスとベルギーに荒々しく襲いかかったのです。  やっと傷も癒えたラスプーチンはさっそく皇帝に謁見して、いろんな情報をたてに、兵力や弾薬が底をついていることや、軍上層部で皇帝にたいする反逆の動きがあることを伝えて、戦争停止を説得しました。が、皇帝はこのときばかりは耳を貸そうともしませんでした。皇后までが「この問題には口出ししないでくれ。ドイツ皇帝を罰することが、ロシア皇帝の義務なのだ」と、きっぱり言い切るのでした。  そんなとき、またもや一つの突発事件がおこりました。皇后のお気に入りだった侍女のアンナ・ヴィルーボフが、一九一五年に列車事故で瀕死の重傷をおって、昏睡状態で病院に運ばれたのです。皇帝夫妻が駆けつけたときは、もう手のほどこしようもない状態でした。危急を知らされ、その場に呼ばれたラスプーチンは、何時間も意識のもどらないアンナの枕許《まくらもと》に立って、ささやきました。「目をおさまし、アンナ。返事をおし!」  すると驚いたことに、アンナは言われたとおりぱっちりと目を見開いたのです。「彼女は救われました」そう皇帝夫妻に告げるラスプーチンの額には、大粒の汗が吹きでていました。彼はよろめきながら病室を出ていきましたが、廊下で気を失って倒れてしまいました。あまりに過度の精神集中を要求され、体力を使いつくしてしまったのです。  七月には、ワルシャワがドイツ軍の手に落ち、この損害でロシアは兵員に大打撃をうけました。ラスプーチンは政府の好戦論者を一掃することを決意しました。まず必要なのは、好戦派の頭目ニコライ大公を抹殺することですが、これは難問で、万一失敗すれば彼自身の破滅を意味します。彼がロシアのユダヤ人社会の指導者たちに近づいたのは、そんなときでした。彼は彼らにユダヤ人解放をほのめかし、そのかわり力をあわせてユダヤ人迫害の中心人物であるニコライ大公を打倒しようと提案します。翌日、巨額十万ルーブルがラスプーチンの銀行口座にふりこまれ、はやくも九月にニコライ大公は総司令官を首になり、コーカサスの戦場に左遷されました。一応はラスプーチンの成功でした。大公の左遷と同時に皇帝自身が軍を指揮するため戦場に出発し、その留守中、権力を握るのは皇后でも皇族たちでもなく、ラスプーチンその人だったのです。  彼はこれという政治定見もなく、大臣メーカーとしてつぎつぎと皇后を通じて敵対者を首にして、自分に親しい人物を推薦しました。彼の命令で一四年八月から二年半のあいだに、首相四人、内務六人、法務・運輸・外務各三人、農林・陸軍各四人という、大量の大臣交替が行なわれたのです。  いまやラスプーチンがペテルブルグの真の皇帝でした。彼が皇后につぎつぎ書きおくる手紙、「我々の友人を愛しなさい」「彼は我々の一員です」は、そのまま、大臣や将軍を任命する勅令でした。皇后は夫にあてて書きます。「わたしたちはつねに友人の忠告に従わねばなりません。あの方の声は神の声なのですから」「わたしたちの友人は、日夜わたしたちのため祈りを捧げておいでです。今こそあなたの治世の栄光が始まるのです。あの方がはっきりおっしゃいました」  その年の暮れ貴族階級のあいだで、皇帝とラスプーチンを暗殺して皇后を修道院に幽閉し、皇太子をたてて摂政政府を設立する計画が発覚しました。ラスプーチンの独裁と、おまけに彼と皇后の不倫の噂が、人々の神経を逆なでしていたのです。  そればかりか、もっと忌まわしい噂が伝わっていました。皇后がアリョーシャを救ったお礼に、ラスプーチンに娘のオリガを捧げたというのです。「帝室の花」と呼ばれたこの美貌《びぼう》の王女はある軽騎兵大尉に恋していましたが、これを快く思わない皇后が、相手と別れるよう説得してくれとラスプーチンに頼んだのです。彼とオリガは長時間、ともに一室にこもりました。これまでの噂で、彼の治療[#「治療」に傍点]がいったいどんな性質のものか、皇后は分かっていたはずなのですが……。  この「密談」以来、オリガは人が変わりました。深い悲しみに沈み、罪の意識にさいなまれているようでした。オルロフ公爵は、オリガとラスプーチンが閉じこもっている部屋の前を通りかかったとき、ときならぬ悲鳴を聞いたといいます。彼はそのとき目撃したことをそくざに皇后に報告しましたが、皇后は一笑にふしただけで、逆にオルロフは宮廷から遠ざけられました。   皇帝の不信[#「皇帝の不信」はゴシック体]  けれどいつしか、皇帝までがラスプーチンに不信を覚えるようになりました。戦地にはなれてはじめて皇帝は、自分たちが彼に利用されていることに気づいたのです。戦地でラスプーチンから「命令」を下されるという屈辱を味わいながら、彼は現れては消える大臣や高官の「鬼ごっこ」に、誰が誰かもう分からないとこぼしていました。皇帝から皇后への手紙には、時おりギクリとさせる一節がありました。「私にはラスプーチンが私を助けてくれるというより、逆に私の方が、彼がロシアを支配するのを助けているように思える」「私はラスプーチンが勝手に大臣を任命するのは認めない。嘘つきだったり病人だったり……。こんな大臣を任命するのは、この国を墓穴に陥れるようなものだ」  ラスプーチン自身、刻々と終わりが近づいているのを感じていました。時どき彼は、もうすぐ自分がいなくなり、その後もっと深い根が断ち切られることになるだろうなどと言うのでした。これはロマノフ王朝のことなのか、それともロシア自体のことなのか?  一九一六年の復活祭に、皇帝一家と礼拝に参列して、ある御堂のまえを通りかかったとき、彼は叫びをあげ、気を失ったように座席にしずみこみました。心配する人々に、「恐ろしい幻覚が見えた。この御堂のなかにわしの死体が横たわっていた。そしてこの一瞬のうちにわしは、恐ろしい断末魔の苦しみを味わっていたのだ」と言ったといいます。 「ドイツのイヌ」ラスプーチンの抹殺を計画する、連合国イギリスの情報機関「インテリジェント・サービス」は、すでに数人の秘密|諜報員《ちようほういん》をホーア卿《きよう》の指揮のもとにペテルブルグに送り込んでいました。  すでに一二年のバルカン危機のとき、ホーア卿の前任者は、戦いが始まれば対独協力者である数人の有力者を排除せねばならないと主張しています。そのなかでも資本金の大部分をドイツ系に仰ぐ銀行の頭取ルビンシュテインが目立っており、彼にもっとも親しいのはラスプーチンでした。彼がルビンシュテインを通して、ドイツにロシアの機密をもらしていると疑われていました。その後この報告書は忘れられましたが、今その言葉は再び、「インテリジェント……」の諜報員らの胸に生々しくよみがえったのです。  ロシア国内ではなかなか決着がつかない戦争にいら立つ声があり、皇帝を廃位させ、アリョーシャが成長するまで皇后に摂政をゆだね、同時にドイツとの単独講和を結ぼうという動きもありました。万一ロシアとドイツが講和すれば連合諸国には致命的です。そしてそれを皇后に決意させることができるのは、ラスプーチンをおいて誰がいるでしょうか?  が、連合国の人間が手を下すことはできないので、暗殺にはロシアの人間を用いねばなりません。そこでホーア卿は配下のふたりをロシア社交界にもぐりこませました。ケイとグレイ夫人で、すでにケイは変名でペテルブルグの社交界に入りこんでおり、グレイ夫人は皇帝のいとこドミートリー大公に近づいて男と女の関係になっていました。  グレイ夫人はドミートリー大公に会うごとにラスプーチン抹殺を説いて聞かせ、大公もしだいにその気になっていきました。彼も皇帝夫妻のラスプーチン寵愛《ちようあい》を恨んでいたのです。彼は協力を約束しましたが、自分はラスプーチンにあまり親しくないのでと、友人のフェリクス・ユスーポフ公爵を推薦しました。  ユスーポフも、ラスプーチンを恨んでいるひとりでした。兄の婚約者が鞭身派でラスプーチンに肉体をもてあそばれたこと、ラスプーチンの進言でモスクワ総督だった父が左遷されたこと、母も何度も皇后にラスプーチンに用心するよう申し上げたため、不興をかってしまったこと……。  女性的な美青年で、皇帝の姪《めい》イリーナを妻にめとっていたユスーポフは、ラスプーチン暗殺計画にたちまち夢中になりました。  彼は何年もまえからラスプーチンを知っていましたが、気まずいことがあって遠ざかっていました。ユスーポフがラスプーチンに男色をしかけて断られたとも、反対にラスプーチンが彼に男色をしかけて彼が断ったのだとも言います。  が、彼の誘いに、ラスプーチンはすぐに乗ってきました。女性的な美しい容貌のうえ、歌を歌わせてもギターを弾かせても玄人《くろうと》はだしの彼に、ラスプーチンはつよく惹かれていたのです。ユスーポフが催眠療法を受けたいという口実で、彼とのよりを戻すのは簡単でした。  こうして何度か二人の出会いが、ユスーポフ邸やラスプーチンの邸で繰り返されました。会うたびにギターを弾いたり歌を聞かせたりして大サービスするユスーポフに、しだいにラスプーチンも心を許すようになりました。   不吉な予言[#「不吉な予言」はゴシック体]  その日もラスプーチンはユスーポフを上機嫌で迎え、マッサージをはじめました。 「ねえ、今度、僕の邸にきて下さいよ。妻も待っていますよ」ラスプーチンはロシア一の美女といわれるイリーナに会えることに、たちまち乗り気になりました。会って、それからあとは? 彼は自分が女たちにおよぼす絶対的な魅力を、疑ったことはありませんでした。  その夜十二時ころ迎えにくると約束してそこを辞したユスーポフは、同志たちと最後の打ちあわせをしました。同志たちが階上に待機している間に、ユスーポフは部屋でラスプーチンに、用意した青酸入りの菓子と葡萄酒《ぶどうしゆ》をすすめることが決められました。  その夜のラスプーチンは上機嫌でした。イリーナに会って彼女をものにできるという予感が、彼を勢いづけていたのでしょう。ところがその晩訪ねてきた友人のアンナ・ヴィルーボフは、不審そうに言いました。「あら、イリーナはいまクリミアに行っていて留守ですよ」、そして心配そうに、「いらっしゃらないほうがいいんじゃない? なんだか心配だわ」が、そのときに限って、不思議にもラスプーチンは自分を待っている運命を疑ってもみないようでした。  ところが実はその朝に、彼は皇帝夫妻に一通の手紙を出していたのです。なかには有名なつぎの予言が記されていました。「私は正月までに死ぬだろう。私を殺すのが私と同じ百姓なら、皇帝よ、汝《なんじ》は帝位にとどまり汝の子らは長くロシアを治めるだろう。が、私を殺すのが貴族なら、彼らの手は永遠に私の血に染まり、彼らは祖国を追われるだろう。彼らは兄弟どうし殺しあい、ロシアにはもう貴族も皇帝もその末裔《まつえい》もいなくなるだろう」そして……、「私の死の鐘が打ち鳴らされてから一年もたたないうちに、皇帝も皇后も皇子らも、皆死ぬだろう。ロシアの民衆が彼らを殺すだろう……」  奇《く》しくもこの予言は、一年後のロシア革命で、実現されることになるのです。  その夜おそくラスプーチンは、ユスーポフの宏壮《こうそう》な邸を訪ねました。玄関ホールを横ぎり一階のフロアから螺旋《らせん》階段をおりると、奥まったこぢんまりした部屋に通されました。ここは半地下室だったのを、ユスーポフが今夜のため改良したのです。うちっ放しの壁は華麗なカーテンや額でおおわれ、床にはみごとな絨毯《じゆうたん》が敷かれ、豪華な家具や置物が部屋を飾っていました。  イリーナはまだ来ないのかと聞くラスプーチンに、ユスーポフはいま客が来ているので……と、ゴマカしました。彼女がくるまでここで一服しましょうとの彼の誘いに、ラスプーチンは疑う様子もなく従いました。テーブルにはサモワールが湯気をあげ、ワインの瓶が何本もならび、豪華なクリルタル・グラスが暖炉の炎に照り映えていました。  ユスーポフの手でラスプーチンのまえに、グラスと菓子がなにげなく置かれました。菓子のなかにもグラスにも、どんな人間もひとたまりもないほどの青酸が入っています。部屋はしーんと静まり返って、遠くで時計が十二時をうっていました。  息をのんで待ち受けるユスーポフの前で、ラスプーチンはついに菓子を二、三個手にとり、ゆっくり口に運んでいきました。一度に大勢の人間を殺せるほどの猛毒を彼は口にしたのです。さあ、今に効いてくる。どんな男だって、これほどの毒に抵抗できるはずはないのだ……。  ユスーポフはドキドキしながら目を閉じました。ところが……、少しして彼が目をあけると、な、なんと、ラスプーチンがケロリとして「どうしたんだい?」と尋ねたのです。  なおも平気でどんどん菓子を噛《か》みくだいていくラスプーチンに、ユスーポフはわけが分からなくなりました。いったいどうなったのだろう。医師が間違えたか、それとも裏切ったのか?  階上で苛々《いらいら》しているはずの仲間たちに相談に行きたいと思っても、そうもいきません。  ラスプーチンがワインがほしいと言ったので、ユスーポフは青酸入りグラスに注いでわたし、それをラスプーチンは一気に飲み干しました。今度こそ大丈夫。今度こそラスプーチンも毒にあたって、その場にくずおれるはずだ。どんな超人的な体力だって、いくらなんでももう敵《かな》うまい……。  が、やはり今度も何も起こりはしませんでした。ラスプーチンはワインのおかわりを要求しただけでなく、またも毒入りの菓子をゆうゆうと口にいれたのです!  ユスーポフは心臓が爆発しそうでした。つぎつぎと毒入りのワインを飲み下し、菓子を口に運んでいくラスプーチン。まるで時間が止まってしまったようでした。またもおかわりを要求するラスプーチンに毒杯を差しだしながら、ユスーポフの手は思わず震えました。  ふいにラスプーチンが、目ざとく部屋の隅にあるギターを見つけました。「君の名演奏を聞きたいな?」ユスーポフはギャフンという思いでしたが、仕方なくギターをとりあげて爪弾《つまび》きはじめました。ラスプーチンは椅子《いす》に座って、じっと目をとじて聞き入っていました。  彼が歌い終えても、ラスプーチンはビクとも動きませんでした。死んだのか。それとも毒が効いて苦しんでいるのか? 思案していると、ラスプーチンは急に顔をあげて、「良かったよ。もっと歌っておくれ」と言うのです。ふと時計を見たユスーポフはゾーッとしました。もう二時間も、ラスプーチンは毒を体内に運びつづけていたのです。この二時間が、ユスーポフには永遠のように思えました。   ラスプーチン暗殺[#「ラスプーチン暗殺」はゴシック体]  そのとき突然、ラスプーチンが身を動かすと、喉《のど》に手をやりました。「胸がやける。食い過ぎたかな?」待っていたとばかり、ユスーポフは医者を呼んでくると言って階上に走っていきました。  慌てふためいて状況を説明する彼に、イギリス人のケイが最後の手段を引きうけました。往診にきた医者のふりをして、ラスプーチンを銃殺するのです。二人がおりていくと、ラスプーチンはソファの背にもたれ、息をきらしていました。その超人的な肉体のなかで、いま生と死が壮絶なせめぎあいを続けているのでした。が、彼自身はそんなことと知らず、顔をあげないままで言いました。「イリーナが来ないなら、一緒にジプシー女たちのとこへでも行こうじゃないか?」これだけの毒を飲み下しながら、なおも女を求めに行こうとしている彼を、二人は信じられないという顔で見つめました。 「君は医者かい?」はじめて顔をあげたラスプーチンは、ケイを見てそう尋ねました。うなずきながらケイはピストルを後ろに隠し、そっとラスプーチンに近づきました。そして突然ピストルをラスプーチンの背にピタリとつけて囁いたのです。「お祈りなさい、ラスプーチン」言われたとおり、ラスプーチンは両手をあわせました。そして彼が振りむこうとするより先に、ケイが発した銃弾がその心臓を貫きました。獣のように唸《うな》りながらラスプーチンは床にたおれ、からだを大きくのたうたせました。  銃弾を合図にかけおりてきた同志たちが、倒れたラスプーチンを黙って取り囲みました。ラスプーチンは歯を食いしばり手足をひきつらせ、全身をおおきく痙攣《けいれん》させていました。傷口から大量の血があふれて、たちまち床のうえに広がっていきます。その光景は見ているものをゾッとさせました。  しばらくしてようやく、ラスプーチンは動かなくなりました。同志のひとりが彼の胸の傷口をしらべ、「弾は心臓を通っている」と言いました。あとは計画の総仕上げです。スホチン大尉がラスプーチンの外套《がいとう》を着てドミートリー大公と馬車で出発し、夜の町で一遊びしてからラスプーチンを家に送りとどけるという、芝居をしようというのです。そのあとでラスプーチンの死体をシーツにくるみ、もう一台の車でネヴァ川に片づけにいくのです。  みんなが支度をするため出ていったあと、残されたユスーポフはラスプーチンの肩をつかんで揺すってみました。首がグラグラ揺れ、手をはなすと体は再び床にパタッと落ちました。ところが次の瞬間、片方の目がかすかに動いたように見えたのです。ユスーポフがハッと息をのむと、今度ははっきりと、閉じていた両眼がおおきく見開かれました。  ユスーポフはゾーッとしましたが、金縛りにでもあったようにその場を動くことができませんでした。何か超自然的な力に縛りつけられて、彼はただ一人、自分がとっくにあの世に送ったはずの相手と向かいあわされていたのです。  突然ラスプーチンがガバと跳ね起きると、見るも恐ろしい形相で、両手を前に差しだしてユスーポフに襲いかかってきました。その唇から人間のものとは思えぬ呻きがもれました。「お前か! ユスーポフ、ユスーポフ!」  ユスーポフは自分を絞め殺そうとする相手と必死で争いました。ようやく満身の力をこめてラスプーチンの手を振りほどくと、相手の体は支えを失って、ふきでる血の海のなかにどうと倒れました。手のなかには、ユスーポフの服からむしりとった肩章をしっかり握りしめていました。  ユスーポフは夢中で二階の同志たちに叫びます。「大変だ、君たち! まだ生きているぞ!」仰天してケイらが階段をかけおりていくと、たちまち血まみれのラスプーチンが姿をあらわし、膝をつきハアハアあえぎながら、血まみれの手で手すりにしがみつき、一段ずつ階段を上がってくるのが見えました。が、彼は途中でむきを変え、階段のなかほどのドアを開けて中庭に飛び出していきました。 「まさか。まさか、そんなことが!」茫然《ぼうぜん》としてユスーポフは叫びました。その出口は万一のことを考えて、しっかり鍵《かぎ》がかけてあったはずなのです。夜の冷気のなかでラスプーチンは力をとりもどし、死にかけているとは思えない軽々とした足どりで走りだしました。が、次の瞬間、彼は立ち止まり、その後ろ姿が大きく揺らぎました。ケイの銃弾が背に命中したのです。雪のうえに点々と血をほとばしらせながら、彼はどうとその場に倒れました。そしてついに、もう二度と起き上がることはなかったのです。  ケイがピストルを手に、茫然と立ちつくしていると、ユスーポフがあとに追いつきました。やっとラスプーチンが動かなくなったのを確かめると、彼は感きわまったのか、力まかせに倒れたラスプーチンの顔に棍棒《こんぼう》をふりおろしました。長いあいだ女たちを魅惑してきたあの目が唇が、見るも無残にうち砕かれていきます。脳みそが飛びだし、眼球は垂れさがり、耳もちぎれてやっとぶら下がっているだけなのに、ユスーポフはまだ足りないというように、ラスプーチンの巨体のうえを足で踏みつけては地団太ふむのでした。  彼らは二人がかりでラスプーチンの服を脱がせ、死体を毛布にくるみ縄でぐるぐる巻きにしました。それを車に積みこむと、彼らはまだ人気《ひとけ》のない町を通りぬけ、ペトロスキー島にむかいました。死体をかついで川のほとりに立ち、厚い氷をオノで打ちわると、川の水がわずかに顔をのぞかせました。その割れ目から彼らが力まかせに投げこんだラスプーチンの死体は、急な流れにたちまち呑《の》まれていったのです……。  のちに捜査が行われたとき、ラスプーチンの死体は橋の下手で、氷のあいだに閉じ込められているのが見つかりました。確認に呼ばれた彼の娘たちは、ユスーポフの棍棒が作り出したその恐ろしい形相を、一生忘れることができませんでした。検屍《けんし》解剖後、胃のなかからたしかに毒物が発見され、まだ肺には水が入っていました。  一方の腕が巻かれていた縄からはずれて、三本の指を胸のところに立てていました。これはラスプーチンが川に投げ込まれたときもまだ生きていて、力をふりしぼって十字を切ったことを示していたのです! [#改ページ]  残酷なコキュの復讐 ———————————————————————————— フィリッポ伯[#「フィリッポ伯」はゴシック体] [#改ページ]   評判の傭兵《ようへい》隊長[#「評判の傭兵《ようへい》隊長」はゴシック体]  今度はコワーイ、男の嫉妬《しつと》のお話。十四世紀イタリア。ルネサンス文化たけなわの一方で、ローマ、フィレンツェ、ミラノなど、国内が多くの都市国家に分かれて争っている時代、ローマにフィリッポ伯という名の傭兵隊長がいました。傭兵隊長というのは自分の軍隊を持って、領主や国家にやとわれてその国のために戦う「戦争屋さん」のこと。都市国家間で争いの絶えなかったイタリアでは、結構需要のある割りのいいお仕事だったのです。フィリッポ伯は二百二十の兵を持つ、傭兵隊長としては中堅どころ。勇敢で骨身を惜しまず戦うという評判で雇用が引きもきらず、今日はローマ、明日はフィレンツェと、あちこち忙しく飛びまわっていました。あんまり忙しかったせいか、四十をこえるまで、独身をつづけていたのです。  そんな彼がめとったのは、ローマの名家サヴェッリ家の分家筋にあたる、まだ二十歳のイザベッタという女性。サヴェッリ家といえばローマでも屈指の大貴族で、法王や枢機卿《すうきけい》を出したほどの名門でした。じつはフィリッポ伯は以前、何度かこのサヴェッリ家に傭兵隊長としてやとわれたことがあるのです。そのときの彼の働きが気にいったサヴェッリ家が、ぜひとも彼を自分たちの飼い殺しにしておこうと、イザベッタを餌《えさ》として与えたというのが実情でした。  こうしてうら若いイザベッタと、倍ちかく年上の夫との新婚生活が始まりました。新居となった郊外の城も、もとはサヴェッリ家の持ち城で、いわばイザベッタの持参金のようなもの。そばにかしずく侍女たちも、みな彼女が嫁ぐとき連れてきた女たち。つまり娘時代とちっとも変わらない環境のなかで、結婚生活は始まったのです。たいていの嫁なら味わうはずの姑《しゆうとめ》の陰険な嫁イビリも、小姑《こじゆうと》への遠慮も、イザベッタは経験する必要がなかったのです。  イザベッタにしてみれば、自分の実家のほうが夫の家より上なんだという思いがいつもあり、嫁にきてやったんだという意識が捨てられない。本当なら王さまや王子さまにだって嫁にいけたはずなのに、なんでこんな所に……。政略結婚の犠牲にされたんだワという腹立ちもあります。そのうえ戦争が「職業」の夫は、ローマ、ミラノと、あちこちの領主のお呼びがかかっては、軍を引き連れ武装姿もものものしく出かけていき、なかなか帰ってこない……。  物たりなくなってきたイザベッタは、しだいに他の男たちとの情事にうつつをぬかすようになるのです。当時、女の姦通《かんつう》は死をもって罰せられるほどの大罪。イザベッタだってもちろんそれを知らなかったわけではないが、油断していたんですね。  なにしろ二十も年上の夫は甘くて優しくて、妻を目のなかに入れてもいいくらいにトロリと甘やかす。どこそこの宝石がほしいワと言えばすぐ取りよせるし、どこそこの絹がほしいワといえば、大金はたいて買ってくれる。知りあいの誰の所でパーティがあるのといえば、衣装の一揃《ひとそろ》いもそろえてくれ、泊りがけのお出かけにも文句ひとつ言わない。  別に夫を愛してなかったわけじゃないんです。若い妻にベタ惚《ぼ》れでしたいようにさせてくれる夫はいとしい。容貌《ようぼう》だって浅黒い肌とがっしりした体格は男っぽくてセクシーだし、たまに帰ってきたとき夜のベッドでは、思いっきり抱いて満足させてくれる。  でも、なんといっても留守が多すぎます。二十歳の精力満点の女には物足りなかったんですネ。何をしたってどうせ許してくれるんだから、ちょっとの浮気ぐらいいいじゃない、と思って始めたところが、ついズルズルッと病みつきに……、というわけです。   浮気の噂《うわさ》[#「浮気の噂《うわさ》」はゴシック体]  妻の浮気の噂を耳にして、フィリッポ伯の心は怒りで煮えくりかえりました。どんな甘い夫だって浮気のことになれば、話は別。いや、一見優しげに見える男ほど、いったん裏切られると、別人のように残酷に依怙地《いこじ》になるという事実を、イザベッタは知らなかったんでしょうネ。愛情|云々《うんぬん》もあるが、男のメンツってものがある。それを傷つけられた男がどんなになるか……。それが分からなかったところがコワイ。  ちきしょう、なんとか浮気の相手を突きとめてやる、とフィリッポ伯はふるいたちます。が、始終家を留守にしている彼には、浮気現場をつかまえる機会はない。といってカッカしてやたら妻を責め立てては、かえってあぶ蜂《はち》とらずになってしまうだけ……。  そこで何くわぬ顔をしながら、フィリッポ伯はなにかいい案はないかと考えつづけました。そんな夫をイザベッタはまだ気づかないのかと見くびって、そこがフィリッポ伯の思うつぼなのですが、だんだん気を許して大胆になり、夫が家にいるときでも愛人と手紙をやりとりしたり、外でのデートを重ねます。そんなこんなで、あるとき伯は、妻の相手が最近彼の部下になったリッツォという男だと、とうとう突きとめてしまったのです。  ある日突然、伯は急用ができて明日から十日間ほどフィレンツェに行ってくると言い出しました。ついでにイザベッタの実家によって生まれたばかりの赤ん坊を見せてくると言うので、イザベッタは赤ん坊の乳母や女中たちにも旅の支度をさせました。城に残るのは下働きの召使のほかは、留守を守る三人の兵士だけになりました。その三人のひとりに、伯はさりげなくリッツォを選んでおいたのです。イザベッタはこれからの十日間、好きなだけ羽をのばして愛人とイイコトできると思うと大喜び。つい期待に胸はワクワクしてきます……。  夫の一行が出発したあと、イザベッタはさっそく女中に命じて、三人の兵士たちに沢山の葡萄酒《ぶどうしゆ》と御馳走《ごちそう》を運ばせます。伯爵夫人からのオゴリだと聞いて、兵士たちは大喜び。あらかじめ事情を知っているリッツォをのぞいて二人の兵士たちは、主人が留守なことも手伝って、思いっきり飲んだり食ったり、すっかり酔いつぶれてしまいます。彼らが寝てしまったのを見届けて、リッツォはあらかじめの手はず通りそっと伯爵夫人の寝室へむかう。「ああ、やっと来たのね!」待ちかねていた夫人はそう叫んで、青年の若々しい肉体のなかに身を投げます。さあ、あとは思いっきり、わたしを狂わせてちょうだい!  一方、フィリッポ伯のほうはフィレンツェに出発するどころか、邸《やしき》の近くに部下たちをひそませ、ひそかに夜がふけるのを待っていました。夜中ちかくになって少数の兵だけをつれ、城門の裏にまわります。兵士たちが二人がかりで城壁の大きい石を取りのぞくと、なんとその向うには、城内への抜け道がつづいていました。  不気味な沈黙のなかで、一行は足音をしのばせて細い抜道をぬけ、ひんやりした石の廊下を通って、イザベッタの寝室にむかいました。   妻への復讐《ふくしゆう》[#「妻への復讐《ふくしゆう》」はゴシック体]  ギーッと扉の軋《きし》む音に、ベッドの上でイザベッタはぼんやり目を開けました。狂おしい愛欲の嵐《あらし》に身をまかせ、たがいを思いきり求めあい貪《むさぼ》りあったあとの快い疲れのなかで、彼女はぐっすり眠り込んでいたのです。最初イザベッタは、なにが起こったのか分かりませんでした。が、入り口のほうを見たとき、抜身の剣をさげて立っている武装姿の兵士たちにびっくり仰天! おまけにその中に夫の姿を見つけて、恐ろしさのあまり身はすくみ声も出ません。  フィリッポ伯の合図で、兵士のひとりが剣を手にベッドに近づき、サッとシーツをはぎとります。イザベッタとリッツォのあらわな裸が松明《たいまつ》の光に照らし出されました。ふたりとも恐怖のあまり、ただ抱き合ってガタガタ震えるばかりです。  また伯が低い声で何か命じると、数人の兵士がつかつかとベッドに近づき、リッツォを引きずり下ろします。もう一人がそそくさと天井の梁《はり》に縄をわたし、縄の下に小さい椅子《いす》を用意します。リッツォは裸のまま無理やりその椅子のうえに立たされました。自分にこれから何が起ころうとしているのか気づいてないかのように、リッツォは天井から下がった縄を首にまわされるままになっていました。極限までの恐怖が、彼の肉体を金しばりにしていたのです。つぎの瞬間兵士のひとりが乱暴に、彼の乗っている椅子を蹴《け》とばしました。そのときウッと一声うめいたのが、あわれな青年の最期の声でした。  けれどイザベッタへの復讐は、これでは終わりませんでした。白い寝間着を着せられ、彼女が連れていかれたのは、罪人を閉じこめる牢獄《ろうごく》になっている城の地下室でした。高い小窓からわずかに光が差しこむだけの、冷んやりした石壁に囲まれた陰惨な部屋です。  壁には三カ所に鉄輪《かなわ》がぶら下がっていました。中央のそれは囚人の首をつなぎ、左右の二つは囚人の手首をつなぐためのものでした。イザベッタの首と手はこうして壁につながれ、頑丈な錠がおろされました。ひんやりした床に子供のように両脚をなげだしたまま、彼女はただ放心してすわっていました。  けれどそのときイザベッタは、はじめて絹を裂くような悲鳴をあげたのです。逃れようとする間もなく、近づいてきた一人の兵士が彼女の口をこじあけ、もう一人の兵士がその口のなかにやっとこを突っこんで、力いっぱい歯を引きぬきました。やっとこにはさまった血まみれの歯を無造作に床に捨て、またやっとこが口のなかに差しこまれます。イザベッタは狂ったように叫び、身をもがきつづけていましたが、首も手もつながれた身ではどうにもなりませんでした。  同じ動作が何度も繰りかえされて、とうとう全部の歯が抜きとられました。口のなかからあふれだす血と唾液《だえき》が滝のように彼女の頬《ほお》をつたって流れ、白い寝間着を真っ赤に染めていきました。その光景を、フィリッポ伯は口許《くちもと》に薄い笑いをうかべたまま、黙って眺めているだけでした。   恐怖の叫び声[#「恐怖の叫び声」はゴシック体]  翌朝、城の召使たちは伯から突然ひまを出されました。が、過分の給料を与えられたので、誰も不満をいう者はいません。昨夜のショッキングな事件を知っている者はいなかったので、事情ができて急に家族中でフィレンツェの妻の実家に引っ越すのだという伯の口実を、いぶかりながらも疑う者はいませんでした。  地下室のなかでイザベッタは、一睡もしないでウンウン唸《うな》りつづけていました。口のなかはすっかり腫《は》れあがり、頭の奥にじんじん響いてくる痛みで気が狂いそうでした。昼になるとひとりの兵士が入ってきて、パンをちぎって腫れあがった彼女の口に無理やりおしこみました。悲鳴をあげながらも、結局飲みこむほかはありませんでした。この「拷問」が、日に二回繰り返されたのです。  やがて室内には彼女の垂れながす汚物がたまり、彼女の両脚も白い寝間着も、それにまみれていきました。部屋にたちこめる汚臭に息がつまりそうでした。フィリッポ伯はそんな妻の様子を時々見物しにきましたが、彼女が泣きわめいて許しを乞うのには耳も貸さず、やはり口に薄い笑いを浮かべたまま眺めては、また去っていくだけでした。  四日目のあさ、数人の兵士が牢に入ってきて、イザベッタを鉄輪からはずし、以前彼女自身の部屋だった城の一室に無理やり引きずっていきました。部屋の一方の壁は、一メートル四方、五、六十センチの奥行きに大きくくり抜かれていたのです。  それを見たとき初めて、イザベッタは自分がこれから、どんな目にあわされようとしているかが分かりました。彼女は腫れあがった口を必死で動かしながら、「お願い、命だけは助けて!」と哀願しましたが、返ってくるのは冷たい沈黙だけでした。彼女は後ろからはがいじめにされ、無理やりくり抜いた壁のくぼみに押しこまれたのです。  彼女が泣き叫ぶのをものともせず、兵士たちは手早くレンガをつぎつぎ積みはじめました。イザベッタの狂ったような叫びが城中に響きわたるなかで、またたく間にレンガの壁ができあがりました。つぎに兵士たちは白い漆喰《しつくい》を、レンガのうえにハケで塗り込めはじめました。今は初夏、またたく間に塗った漆喰もかわき、他の壁面と区別がつかなくなってしまうことでしょう。もうイザベッタが中で何を叫ぼうと、どんなに暴れようと、誰もその声を聞いたり姿を見る者はいないでしょう。恐ろしい孤独と暗黒のなかで、やがて飢えて死んでいくのが、彼女を待っている運命なのです。  こうしてすべてが終わってしまうと、男たちは道具をしまって、さっさとその部屋を出ていってしまいました。そして城はまた、何事もなかったようにシーンと静まり返ったのです。 [#改ページ] 参考文献[#「参考文献」はゴシック体](洋書は省略) 王朝の光と影 ルイ・ベルトラン 白水社 西洋歴史|奇譚《きたん》 ギイ・ブルトン 白水社 エロスの涙 ジョルジュ・バタイユ 現代思潮社 ジル・ド・レ論 ジョルジュ・バタイユ 二見書房 青髯《あおひげ》ジル・ド・レー レナード・ウルフ 中央公論社 ドラキュラ伯爵のこと ニコラエ・ストイチェスク 恒文社 怪僧ラスプーチン マッシモ・グリッランディ 中央公論社 彼方《かなた》 ユイスマン 桃源社 フランス女性の歴史㈰ アラン・ドゥコー 大修館書店 悪徳の栄え(上・下) マルキ・ド・サド 河出書房 サド侯爵夫人 三島由紀夫 新潮社 城と牢獄 澁澤龍彦 青土社 女のエピソード 澁澤龍彦 ダイワアート ソドム百二十日 マルキ・ド・サド 桃源社 美徳の不幸 マルキ・ド・サド 桃源社 澁澤龍彦集成(㈼・㈸) 澁澤龍彦 桃源社 悪魔考 吉田八岑 薔薇《ばら》十字社 性倒錯の世界 沢登佳人・俊雄 荒地出版社 吸血鬼幻想 種村季弘 薔薇十字社 世界の悪女たち 駒田信二 文藝春秋 淫蕩《いんとう》なる貴婦人の生涯 中田耕治 集英社 ポンパドゥール侯爵夫人 飯塚信雄 文化出版局 愛の年代記 塩野七生 新潮社 タイムトリップ 田中三彦・武内孝夫 学研 怪奇人間 武内・花積・西園寺・矢島 学研 血のアラベスク 須永朝彦 新書館 悪魔|禮拝《れいはい》 種村季弘 青土社 ルイ十四世と悲恋の女たち 戸張規子 人文書院 エリザベート・バートリ 桐生操 新書館 歴史をつくる女たち(5) 集英社 ムー・世界ミステリー人物大事典 学研 ムー・大予言者ノストラダムスの秘密 学研 本書は一九八九年八月大和書房より刊行された単行本に一部加筆・訂正して文庫化したものです。 角川ホラー文庫『きれいなお城の怖い話』平成10年4月10日初版発行                    平成11年11月30日8版発行