唐木順三 無用者の系譜 目 次  一 無用者の系譜   一 在原業平——身を用なき者に思いなして——   二 一遍上人——遊行の捨聖——   三 連歌師俳諧師及びデカダンの世界——風情終に菰をかぶる——  二 文人気質   一 文人としての永井荷風——附、成島柳北・大沼枕山   二 文人気質の成立過程、並びに文人群像   三 文人気質の歴史的位置   四 終りに  三 雲がくれ  あとがき  新版にあたって [#改ページ] [#見出し]  一 無用者の系譜 [#小見出し]   一 在原業平        ——身を用なき者に思いなして——  業平は天長二年(西暦八二五年)に生れ、元慶四年(八八〇年)五十六歳で亡くなった。  都をいまの京都に遷した桓武天皇の後をついで平城天皇が立った。平城天皇の子に阿保親王という方があった。わが子たち四人を臣籍に下させ在原氏を名乗らせた。業平は阿保親王の子であり、兄に行平がいた。業平はだから平城天皇の孫に当る。生母は桓武天皇の女、伊登内親王である。まさに高貴の家柄である。  業平は二十五歳にして始めて従五位下に叙せられた。三十九歳のとき左兵衛権佐という役目につき、翌年権少将に登り右馬頭となった。五十一歳で右近衛権中将になり、翌々年従四位上になった。これが彼の最上の官位である。伊勢物語が在五の物語、在五中将日記等とよばれたのは、五位の中将であった在原の業平の物語の略記である。  家柄は高貴であったが、官位は遅々として進まない。藤原良房が太政大臣になったり、摂政になったり、源|融《とおる》が左大臣になったり、藤原基経が右大臣になったりしている時代に、皇孫である業平はたかだか在五中将の名でしたしまれていた程度である。ここには何か原因がなくてはならない。  業平の祖父にあたる平城天皇は、経書に通じていたばかりでなく、文藻に巧みであったといわれている。事実、当時の漢詩集である凌雲集などにもその詩が載っているし、また和歌も作られている。古今集春歌下にも、「故郷と成りにしならの宮こにも色はかはらず花はさきけり」の御作が載っている。古京となって荒れてしまった奈良の都にも、昔通りの花が咲いているというのだが、これは単なる感傷ではない。天皇は在位わずかに三年余にして位を弟の嵯峨天皇にゆずり、平安京を去って奈良に転居された。新しい都の空気、新興の勢力、新来の制度文物にあきたらぬものを感じられたのであろう。  桓武、平城、嵯峨、淳和の四代の天皇の時代の年代記で特にめだつのは、渤海や新羅から、ひんぴんとして使節がやってきたことである。集団的な帰化人も多くでてきた。ある場合には百八十人という新羅人が一時に帰化している。そういう来朝者また帰化人が現実にどういう働きをしたかは詳かではない。恐らく平安京の新しい造営、新しい建設のひとつの力とはなっていたであろう。また唐制、唐儀の採用にも力となっていたであろう。また漢学、漢詩文の隆盛の力ともなったであろう。そうして新興の宮廷勢力としての藤原氏は、それとどこかで手をつないでいたであろう。  そういう新しい勢力に反撥した、ひとつのあらわれが藤原薬子の乱であった。薬子等は一旦退位した平城上皇にすすめて旧都奈良に再び都を遷すことをすすめた。こと成らずして薬子は毒を飲んで自殺し、上皇は落飾し、皇太子であった上皇の第一皇子|高岳《たかおか》親王は廃せられ、その弟であり、行平、業平等の父であった阿保親王は一時太宰権帥に遠ざけられたのである。高岳親王は僧籍に入り、名を真如とあらため、空海について仏典をおさめ、さらに老齢にして唐に渡り、歩をすすめて天竺までの求法の旅に出られたが、途中で病歿された。高邁にして不羈の精神の所有者であったことがわかる。この親王は業平の伯父にあたるわけである。  業平の兄の行平に、「わくらばに問ふ人あらばすまのうらにもしほたれつつわぶとこたへよ」の歌があることは有名だが、古今集はこの詞書に「田むらの御時に、事にあたりてつのくにのすまといふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける」と書いている。田むらの御時、というのは文徳天皇の時代に、ということである。事にあたりて、というのが具体的にどういう事件であったかはここだけではわからない。然し、「事」が次のような事件ではなかったかという推定は無理ではない。文徳天皇には惟喬親王という第一皇子があった。母は紀名虎《きのなとら》の女である。名虎には有常といふ男子があり、その女は業平の妻である。惟喬親王はだから業平の妻とは従兄妹である。ところで天皇の第四皇子の惟仁親王が、生後九ヶ月という赤ん坊のまま皇太子につくという異例なことが起った。その母は藤原良房の女である。良房は当時右大臣で、やがて太政大臣となるというところである。紀氏は惟喬親王の立太子を願い、またその運動をした。紀氏に近い在原行平もこれに加わったとみても不自然ではない。結局良房の勢力に圧倒せられて事は成らなかったが、これが行平の須磨|流謫《りゆうたく》の因となったのであろう。  伊勢物語の一節、いわゆる布引の滝を観る段にもいかにも行平らしい行平の歌が出ている。「我が世をば今日か明日かと待つかひの涙の滝といづれ高けん」という、鬱勃たる歌である。志を抱いて志をえない者の述志である。もしほたれつつわぶと答へよの語感にも既にそれがあらわれている。(布引の滝での歌は、古今集巻十七では、「こきちらすたきの白玉ひろひをきて世のうき時の涙にぞかる」となっている。伊勢の作者はこの歌の心を汲んで、更に一層行平らしい歌に作りかえているわけである。)  平城天皇御自身といい、その長子の高岳親王といい、また、紀名虎といい、在原行平といい、それぞれに高邁の志をもって世に容れられず、落魄の境にありながら、なほ鬱勃の情をおさえかねているというところがある。私の主人公の業平の近親、姻戚、兄弟はそういう人たちである。ところで業平自身はどうであったか。  業平の歿したとき、三代実録の筆者は業平を次のように評したという。「体貌は閑麗、放縦にして拘せず、略才学無し、善く和歌を作る。」ここの才学無し、といふのは、当時流行の漢才漢学の物差からいっていることであろう。あながちに軽侮の心でもないであろうが、もとより尊敬の心でもない。放縦にして奔放であったことへの評価もそれと同様である。ただ体貌の閑麗であったことと、和歌に長じていたことだけは認めざるをえなかったわけである。私はたったこの四句から想像するのだが、業平においては、祖父の平城天皇、伯父の高岳親王、兄の行平、義祖父の紀名虎には無いものがあらわれていると思ふ。発生の地盤はもとより共通だが、そのあらわれ方がそれたものになつている。つまりはデカダンの徒のにおいがするのである。フランスの世紀末のデカダンを単に頽廃堕落の無頼の徒とはひとは思わないであらう。頽廃において美しく、無頼において倫理的であるというイロニイが、すでに九世紀の日本にあらわれていると私は思うのである。伊勢物語の作者が業平において感じたもの、またかくの如きものが業平の姿であったとして描いたもの、その「昔男」の像は、私の感じた業平であった。いや逆に、実は私の業平像は、伊勢物語の「昔男」を通してのそれであるということになろう。  伊勢物語の作者の問題に入るまえに、ここでこの物語の伝えている二つのことを書いておきたい。  ひとつは例の惟喬親王の春の宴遊のことである。親王は水無瀬に別荘をもっていた。桜の頃にはそこへゆかれるのが例年のことであったが、今年も右馬頭である業平をともなってゆかれた。業平四十歳台、親王二十歳台のころである。桜狩という名目であったが、その方には心もいれず、もっぱら酒ばかり飲んで歌を作り合った。業平の歌は「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」というのである。これは言外に花の如き親王、当然に皇位をつぐべき筈であった親王に対する業平の愛惜と無念とあわれを言っているのである。すると居合せた一人が、「散ればこそいとど桜は愛《め》でたけれうき世に何か久しかるべき」と詠んだ。皇位に望みを失われた親王が反って自由でよいのではないか、とき世を讃えている良房一門も「何か久しかるべき」という、これも諦観のあわれの意味を含んでいる。  日暮になってまた酒ということになった。酒また酒を飲んで、即興のなぐさめ歌を誦し合った。水無瀬の宮へ帰られてまた夜の更けるまで飲み交わしたが、親王は酔って寝所へ入ろうとした。業平がすかさず、「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ」と詠んだ。一緒にいた紀有常(名虎の子、業平の妻の父)がそれに合せて、「おしなべて峰も平になりななむ山の端無くば月も入らじを」と詠んだ。伊勢物語の八十二段は右のようなものである。次の段ではこの親王がその翌年に出家され、比叡山の麓に隠遁されたことが書かれている。  この親王にはいまさら政治的術数をつかって勢位を回復されようとする志はない。業平もひごろ親しみ仕えた親王ではあるが、また心の通じ合った間柄ではあるが、兄の行平のように、もう一度親王をして春の世に合わせたいというような意図はない。そういう話をするのも互に物憂いばかりである。しかし心の底にはまた互に鬱するもの、時世を慨するものをひそめている。それが酒になる。酒になっていささかの鬱を散じ、それによって落涙するのである。落涙をまた恥じて、さらにまた酒になり、一夜を飲みあかすという仕儀に立至る。賢人の清談とも遠いがまた自暴の慨世でもない。憂いも慨きも美しい三十一文字となって、互に了解しながら春の一日一夜を興ずるというわけである。恐らくこの遊楽の裏には次の年の出家も黙々のうちに了解されていたのであろう。それを口にはださずに飲み交すところに友情の濃いものもあれば、たしなみもあるというものである。業平におけるデカダンスとはそういうものであった。  もうひとつ書いておきたいのは、藤原国経、基経の妹高子と業平のことである。高子は後に二条后といわれ、清和天皇の后であり、陽成天皇の母である。伊勢物語の四、五、六の三段はこの女性とのいきさつである。業平は高子を想う歌をいくつか作っている。   思ひあらば葎《むぐら》の宿に寝もしなむひしきものには袖をしつつも   月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして   白玉か何ぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを  これらの歌にはそれぞれの曰くがついている。それをここで書く余裕はない。いずれもあわれな歌であり、恋いわびた歌である。基経は陽成天皇の摂政となる人である。高子はその妹にしてやがて天皇の母となった人である。そういう身分の女性を愛する資格は、業平においてはもちろんある。平城天皇の孫としての業平であってみれば恋しても不釣合ではない。しかし現実の勢威といふ点になればはるかにかけ離れている。かけ離れていても懸想はできる。この懸想に己がいのちをかけることもできる。いのちをかけても勝利のよろこびを味わえないことは、ここでは既にわかっている。高子には高子を守る鬼どもがついているのである。「打ち泣きて」「泣く泣く帰りにけり」「行けどもえ逢わで帰りけり」「足ずりして泣けども甲斐なし」。そういう言葉が度々出てくる所以もそこにあるのである。「月やあらぬ」の歌、「白玉か」の歌の生れてくるところもそこにある。世間はこのいきさつから業平を「すきもの」「おそろしきすきもの」と呼んだが、業平の心に恋わびはあっても、好色のすきはない。すきものであったことを否定はしないが、このすきは西鶴の好色物の人物とはまるで違ふ。ここには一種のきよらかなあわれがある。  これだけのことをいっておいて伊勢の作者について考えたい。  私がここで最も書きたいのはいうまでもなく、業平あずま下りといわれている七、八、九の三つの段である。各段の初めを引いてみよう。  第七段、「昔、男ありけり。京にありわびて、東に行きけるに。」  第八段、「昔、男ありけり。京や住み憂かりけむ、東の方に行きて住み所求むとて。」  第九段、「昔、男ありけり。その男、身をえうなき者に思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。」  問題はこの中の「京にありわびて」「京や住み憂かりけむ」「身をえうなきものに思ひなして」である。  第七段の歌、「いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくも返る波かな」は後撰集十九羈旅の業平朝臣の歌である。この歌には、「東へまかりけるに、過ぎぬる方恋しく覚えけるほどに云々」という詞書がついている。しかしここには「京にありわびて」の言葉はない。第九段の、「唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」という有名な歌は古今集巻九羈旅哥からきている。これにも長い詞書がついているが、またその詞書を伊勢の作者はすべて利用しているが、この詞書には、「身をえうなき者に思ひなして」の言葉はない。  伊勢物語の作者は誰か、という点については古来諸説がある。然し今日のところ、誰というきめ手がないというのが専門学者の通説となっている。ただ古今集より後にこの物語ができたであろうことは大体確かだといわれている。  後撰集や古今集から歌をとり、またそれらの詞書をすべて利用しながら、詞書にはない「京にありわびて」とか、「身をえうなき者に思ひなして」という言葉を新しく付け加えたのは何故であろうか。ここには新しい業平解釈がある。現実の業平を一個の業平像として造型しようとする意志がある。理想的な人間像、一典型を創造しようとする意志である。私はこれを重要視せざるをえない。三代実録にも既に「業平体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作和歌」という記事のあることは書いた。これも解釈である。しかしこれは説明であって、新しい人間像の創造ではない。美男の業平が放縦であり不羈であったのは何故か、また如何なる歌を如何に作ったかの解明はここにはない。私は東下りにつけられた、「京にありわびて」「京や住み憂かりけむ」「身をえうなき者に思ひなして京にはあらじ」の言葉こそ業平という人間像創造の核心をなすものだと思う。直接存在としての業平から、自覚存在としての業平への飛躍がここに行われていると考える。直接吐露の抒情詩人から、物語の主人公への飛躍といってもよい。そしてこの飛躍をなしとげたのは業平自身であったとみてもかまわない。古来から伊勢物語は業平の自作という説があった。そうであってもかまわないのである。また業平をかくの如き業平として造型した他の作者があったとしてもかまわない。要はここに一個の新しい人間像が日本の歴史の上に造型されたということである。  私は「京にありわびて」、また「住み憂かりけん」、さらに「えうなき者に思ひなして」の原因を、物語の序列に従って、例の高子との脱走、その失敗、また世間の忌憚によるものとは思わない。物語の順序に拘泥すればそうなるが、そうでなくともよい。それはこの物語自身が示している。あり佗び、身を益なく、用なき者と思いなす理由は業平の全存在にかかわっている。業平のおかれた時代と社会の環境、業平の性格と意志、そういう全体にかかわっている。平城天皇、高岳親王、惟喬親王、紀名虎、有常、また兄の行平、そういう業平に近い人たちの生き方、生かされ方に関係するとともに、業平という一個独立の個性人の生き方、考え方に関係している。  私はもどかしい思いをして、ここで足踏しているのだが、言いたいことは、京にありわびること、身を用なき者と思いなすことによって、新しい世界、現実とは次元を異にする抽象、また観念の世界が開かれたということである。抽象とか観念といえば直ちに誤解に突当りそうだが、しばらくそういう言葉を敢て使っておこう。京を捨て、京を住み憂く思い、京にはあらじと決意して東へ下るという旅によって、新しい世界をもった。それは東国という未知未開な場所という新しさ、地理的な新しさだけではない。むしろそれは問題とする程のことではなく、京を捨て離れることによって、京が新しくよみがえってくるという新しさである。肉体をもった恋人、近接した色恋から離れることによって、心の恋、観念の恋が開かれてきた。 「白玉か何ぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」と詠ったとき、また「わが身一つはもとの身にして」といったとき、すでに業平はこの世のものではないものをみていた。そういう激情を経て、そういう終末観をへて、東国に下ったのだが、この旅での第一句、「いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくも返る波かな」で京やまたおのが恋が、ほのぼのとした形で見返されてくる。「唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」「駿河なる宇津の山べの現にも夢にも人に逢はぬなりけり」という旅中の歌は京から遠ざかれば遠ざかるほど、抽象的な思慕の情がつのってくることを示している。隅田川までたどりついたとき、「限りなく遠くも来にけるかな」と佗びあったことが誌され、例の「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありや無しやと」がつくられ、「船こぞりて泣きにけり」と書かれている。東への旅の果において、激しく都が心のなかによみがえってきた。佗びはてたところにおいて、「わが思ふ人はありや無しや」と問うことによって、思い人が心の中にきわだってよみがえってきた。こぞって泣いた号泣のなかに、京やそこの恋人たちが現実よりも一層具象的に、匂いたったことであろう。  業平の兄の行平が流謫の地にあって、「わくらばに問ふ人あらばすまのうらにもしほたれつつわぶとこたへよ」の歌を、「宮のうちに侍りける人に」つかわしたことは既に書いた。業平とも交りのあった小野|貞樹《さだき》は甲斐守として遠い任地にあったとき、「京へまかりのぼりける人につかはしける」という詞書のついた歌、「みやこ人いかにととはば山たかみはれぬくもゐにわぶとこたへよ」を読んでいる。行平の「わぶ」も貞樹の「わぶ」も、都を離れた僻地にあることを「わび」たものであり、京へ上ることをのぞみながら、また都で一はたらきすることを願いながら、いまの自分の失意と落魄を述べたものであった。ここには競望の心がある、自負の心が動いている。  業平の「わぶ」は、それらとは違う一面をもつ。「露と答へて消えなましものを」といふ体験を通過している。祖父にあたる平城天皇以来の政治勢力の更替をみてきている。惟喬親王の失意を酒において忘れようとし、浮世の勢力よりもむしろ酒中の歓をつくそうとしている。「うき世に何か久しかるべき」が彼等の感慨であった。つまりはデカダンの徒であった。だからこそ、「京にありわびて」東に下るのである。京にあって京をわびるのである。「京や住みうかりけん、あづまにゆきて住む所もとむとて」ということが当然にそこから出てくる。東国や流謫地にあって、わが身をわびるのではない。京にありわびて、新しい天地を求めようというのである。「身をえうなき者に思ひなし」て、京にはあらじ、あずまの方に住むべき国をもとめることが帰結として出てくる。業平の場合、わぶの根柢には、自分を無用者《ヽヽヽ》として自覚したということがあった。つまりは憂き世をわびたのである。世間における無用者であることを選びとったのである。その無用者において始めてひらかれた観念の世界、つまりは憂き世から離れることによってひらかれた心の世界を歌にした。「名にし負はば」の歌はそれを具体的に示している。これは万葉や記紀の歌とは違う世界である。直接具体の世界とは次元を異にする境である。  憂き世をわびたといったが、これは仏教の厭離穢土《おんりえど》、欣求浄土《ごんぐじようど》とは違う。無常観とも違う。露と答へて消えなましものを、といったのは、恋愛の最高の姿の表現、つまりはみやびの表現であって、無常観ではない。京をわびて東へ下れば下るほど、いよいよ鮮明に京が映像として出てきている。遠くなればなるほど、心は京の空に馳せている。厭離と欣求がここでは別の対象ではない。離れることによって近く、遠ざかることによつて強烈な思いにかられる。そういう矛盾が業平文学、つまりは伊勢物語を生んだのである。私の使いなれた言葉でいえば、自分を無用者として自覚することによって、現実世界はひとつの変貌(トランスフィグレイション)をきたし、旧来の面目をあらためたのである。観念世界の誕生といったのはこの意味である。これは日本の歴史において画期的なことといってよいだろう。もののあわれも、みやびも、この業平体験なくしてはありえなかったに違いない。源氏物語が伊勢物語なくしてはありえなかったといわれる所以もそこにあるのだが、単にそういうことばかりではない。古代にはなかった遠隔作用がここに始めてできて、それが王朝文化、文学の基礎をなしていると思うのである。  放縦不拘と簡単にいわれている業平を、業平体験にまでたかめ、古今集の詞書に、身を用なきものという一句を加ええた伊勢の作者を私はあらためて考える。従四位上を極官として死んだ業平を、また他の物語類が、「おそろしきすきもの」としてしか解しえなかった業平を、業平像という典型にまで造りあげた作者の功績を思わないわけにはゆかない。業平像の根柢をなすものは、「身をえうなきものに思ひなして」の一点にあると私は考える。 [#改ページ] [#小見出し]   二 一遍上人        ——遊行の捨聖——       1 一遍の先達たち  私には空也について二つの思いがある。ひとつは芭蕉の句   から鮭も空也の痩も寒の中 である。この句は妙に頭にこびりついている。これは比較的晩年の句である。芭蕉には「雪の朝ひとり干鮭を噛み得たり」もあれば「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚」の句もある。私にはそれぞれ忘れえないものだが、空也の痩の句が殊に印象が深い。芭蕉はこの句について、「心の味を云とらんと、数日はらわたをしぼる」と弟子の土芳に語っている。鮭と空也と寒でひとつの冷えさびた世界ができ上っているといってよい。ここに空也の痩というのは空也自身の痩ととってもよいし、空也念仏僧ととってもよいだろう。具体的には当時の念仏僧であったろうが、遠くは空也上人自身につながっている。なお芭蕉には「長嘯の墓もめぐるか鉢叩」「納豆きる音しばし待て鉢叩」などの句がある。鉢叩というのは京都の空也堂の念仏僧たちが、十一月十三日から四十八日間、市中を瓢をもち鉦をたたいて念仏称名しながら歩くのをいうのである。その他俳諧世界には鉢叩が多く出てくる。芭蕉以後の時代までこの行事はさかんであったのであろう。  もうひとつ空也で忘れ難いのは、かつて京都でみた空也上人の木彫の像である。鎌倉期の康勝の作だという。この像はおのずからにして空也の痩を思わせる。左の手に鹿の角のついた杖をもち、胸に鉦をかけ、右手は撞木をもって、念仏行脚しているところである。口から六人の小さい仏の姿を吐きだしている。念仏三昧の枯痩の僧形である。草鞋をつけた脚は細いが何百里を歩きつづけた脚である。衣は短かく袖は風にゆらいでいる。鎌倉期の特徴で、それがありのままに表現されている。  以上のふたつから私はかねて空也に対して関心をもっていた。踊り念仏行者の痩せ枯れた姿に妙なかかわり合いをもっていたわけである。ところで今度一遍を読んでゆくうちに、たびたび空也上人に言及しているところがあり、上人を自分の先達といっているところもあった。私はあらためてこの上人について手元の資料をしらべてみる気になった。  空也上人は天禄三年に七十歳をもって歿した。西暦でいえば九七二年で、藤原兼通が関白になった年である。醍醐天皇の皇子とか、仁明天皇の皇孫とかいう伝えもあるという。若くして仏法に帰し、弘法や行基と同じように、各地を周遊して嶮道を平にし、橋梁を架し、井戸を掘ったという。その脚は陸奥、出羽にまで及んだが、三十何歳かのとき京都におちつき、市聖《いちひじり》、阿弥陀聖、市の上人等とよばれた。市中に食を乞い、念仏して歩き回ったという。あるとき鞍馬山の近くで平定盛が鹿を猟して帰るのに会い、殺生の恐るべきことを教えたところ、定盛は直ちに悔いて剃髪して弟子になりたいことを申しでたが、今すぐに出家しては妻子が困るであろう、俗形のまま、これをたたいて念仏せよといって瓢を与えた。定盛はそれ以来毎夜この瓢をうちながら市中を念仏して回ったという。これが念仏鉢叩の始めともいわれている。  空也の法語に次のようなものがある。 「心に所縁無く、日暮に随って止み、身は所住無く、夜明に随って去る。忍辱の衣厚くして杖木瓦石も痛からず、慈悲の室深くして罵詈誹謗を聞かず、口に任せて三昧、市中はこれ道場、声に随って仏を見る、息精は即ち念珠。夜々に仏の来迎を待ち、朝々に最後の近きを喜ぶ。三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る。」  また次のようなのもある。 「孤独にして境界無きに如かず、称名して万事を抛つに如かず。間居隠士は貧を楽となし、禅観幽室は静を友となす。藤衣紙衾はこれ浄服、求め易くしてさらに盗賊の怖れなし。」  空也は弘法や行基と同じように橋をかけたり井戸を掘ったりしたというから、そういう点では無用者どころではない。然し私がここで特に言いたいのは一遍の空也理解の仕方である。一遍は語録のなかで次のように言っている。「むかし空也上人へある人念仏はいかが申すべきやと問ひければ、捨ててこそ、とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の選集抄に載せられたり。これ誠に金言なり。」一遍の根本はまさにこの「捨てる」こと、それを徹底的に行うことであった。また「空也上人はわが先達なり」の語についで、前記の空也の法語をひき、自身も空也にならって、「身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ、機縁に随つて徒衆を領し給ふといへども、心に諸縁を遠離し、身に一塵をもたくはへず云々」という生活を送ったことが誌されている。一遍には己が先達として、空也の痩姿があった。室町中期の作といわれる一遍の彫像は、前記の空也像に似ている。しいていえば一遍像の方がさらにもまして庶民的で、空也のもっている杖もなければ鉦もなく、跣足で念仏行脚している姿である。空也が市聖とよばれたのに一遍が捨聖《すてひじり》とよばれたのは、捨ててこそを空也から受けながら、捨てに捨てることを実践によって示しているからでもあろう。 『一遍聖絵』第四には、例のおどり念仏が空也に由来していることを書いている。建治二年といえば一遍の三十八歳のときだが、その年の秋にはじめてたまたま信州の佐久にあった一遍は踊躍大歓喜のおどり念仏を始めた。その踊躍念仏の先達として京の四条の辻で踊った空也のことを書いている。空也以来おどり念仏はないことはなかったが、その「利益あまねからず、しかるをいま時いたり機熟して」一遍の大歓喜となったことを書いている。「はねばはねよ、をどらばをどれ、はる駒《こま》の、のりのみちをばしる人ぞしる。」「ともはねよ、かくてもをどれこころごま、みだのみのりときくぞうれしき。」これがそのときにできた一遍の歌である。  一遍が己が精神的先達としてあげているもう一人は教信沙弥である。『一遍聖絵』第九には、弘安九年(一二八六)に播磨国の印南野《いんなみの》に行脚の足をとどめたことを次のように書いている。「本願上人(教信)の練行の古跡なつかしく思ひ給ひながら、やがてとほり給ふべきにて侍りけるに、いかなる事かありけむ、教信上人のとどめ給ふとて一夜とどまり給ふ。人あやしみをなし侍りけり。」また一遍は教信と同じ土地で最期をとげたいとも語っている。  教信の伝はつまびらかではない。十歳にして仏門に入り、南都興福寺に学び、殊に唯識また因明に精通したという。ひとかどの学匠でもあり、また寺内にいれば何一つ不自由でない生活ができたのに、深く厭離穢土、欣求浄土の心を発して、本寺を出て跡を晦まし、身に灰をぬって西へ西へと歩み、播州賀古に至りつき、そこに草庵を結び、僧に非ず俗に非ずの生活を送った。髪も剃らず、爪もきらず、袈裟もきず、本尊もなく、妻女を帯して里の人たちに雇使されて、或いは田畑を耕したり、荷物を運んだりしていたが、常に念仏称名していたので、阿弥陀丸とよばれた。念仏の外万事を亡失せるが如し、ともいわれている。貞観七年(八六五年)に歿した。葬るに資なく屍を群犬の食うにまかせたという。一遍は往生の前に、「わが門弟子におきては、葬礼の儀式をととのふべからず、野に捨て獣にほどこすべし。但し在家の者結縁のこころざしをいたさんをばいろふにおよばず」と語っているが、ここにも一遍の教信との精神的なつながりをみうるだろう。  なお『改邪集』の筆者は一遍を斥けながらも、親鸞が「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」といい、みずから愚禿《ぐとく》と名のったのは、「僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべし」の意であるといっている。  親鸞や一遍が、教信をおのが先達といったのは、この沙弥が興福寺という大寺の碩学であり、また裕福な暮しのできる身分でありながら、そこを脱出して韜光晦跡、乞食生活をしながら念仏三昧の生活を送ったという点にあった。天下の無用者となりながら、念仏だけを用としたことにあった。この伝統は日本の文化の中に案外に深くまたたちきられずにつづいている。最澄や空海の死歿のときから三、四十年して歿したこの一沙弥が案外に深い影響を及ぼしている。葬儀の費用もなかったといわれた草庵の跡には、歿後間もなく、清和天皇から寺領八百石と三千貫を下賜され立派な寺院が出来たという。それがまた衰微したが、その衰微のままに、数百年をへて親鸞や一遍に直接のひびきを与えているのである。ここへ詣でた一遍が、四百余年前にここで死んでいる教信と、直接の会話をしていることは、前記の聖絵のいう「教信上人のとどめ給ふとて云々」の言葉からも察せらるわけである。  一遍とは直接の関係はないが、ここにもう一人長増について書いておきたい。これは『今昔物語』巻十五にもでているし、鴨長明の『発心集』巻一にも出ている有名な話である。私はこの両方から適宜にとって誌しておく。  昔、比叡山の東塔に長増という僧がいた。顕密の法文を学び、信仰も深く頭も良かったが、ある日厠に入ったまま、ふと消えてしまった。一物ももたず、念仏袈裟までおいたままで行方不明になったので、寺では大騒ぎをして探してみたがとんとわからないまま長い年月がすぎた。たまたま伊予の守となって任地へゆく藤原の某の祈りの師として、かつて長増の法弟子であった清尋といふ僧が選ばれて、ともに任地へいった。国守はおのが祈りの師を敬い立派な房を造ってそこに住わせ、警護の者もそこにつけておいた。ところである日のこと、縁のびろびろに破れた田笠という垢じみた笠をかぶり、そそけた蓑を腰にまとった乞食姿の老法師が門に立った。宿直の者どもが追い帰そうとして騒いでいるとき、清尋が障子をあけてこれをみた。よくよくみれば、叡山で我師であった長増法師である。二人は内に入って往事を涙ながらに語った。長増は厠にあって急に道心を発して山を離れ、淀に出て便船をえて伊予に下って、念仏しながら乞食をして過してきたこと、里の者が自分を門乞食と呼んでいるが、誰にも妨げられず、専ら念仏して後生を願っていること等を言葉短かに語ったまま、そそくさとして立去ってしまった。早速に清尋は衣服や食物を用意して、長増の小屋を訪ねてみたが、もはや師はそこにはいなかった。村の者に探さしたがみつからない。その後ほどへて、人もかよわぬ深山の、清水の湧く所に死人がみつかったというので、そこを尋ねてみると、法師は西に向って合掌したまま亡き人になっていた。鴨長明は最後に、「今も昔も実に心を発せる人は、かやうに古郷をはなれ、みずしらぬ処にて、いさぎよく名利を捨てて失《う》する也」と書いている。『今昔物語』では最後に、仏がかりに乞食の身となって現じたのだといって、里人が貴んで葬ったと書いている。  私がこの長増について特に興味を感じるのは、道心を発して山を捨てたという一条である。道心を発して出家入山することが普通であるべき筈なのに、往生の道心を発した者が反って山を離れなければならなかったという事情が既にこの時代には顕著だった。叡山や南都の世俗化、堕落の問題もさることながら、そこでの顕密諸学の研究も、法文の読解も、自己の救済には役立たないという自覚がでてきたのである。みずしらずの異郷に出て、つまりは跡を晦まして、乞食姿になって始めて安心立命を得たということ、里の者にまじって念仏称名するところに始めて自他の安心をえたということである。聖《ひじり》と呼ばれたのはそういう人たちであった。叡山や南都を捨て離れて、跡を晦ましながらの念仏者が、聖とよばれたことが、私の注意をひくのである。高徳にして聡明な僧をよぶに用いる聖という字が、いまや聖人の聖ではなくて、ひじりとなり、乞食姿となって顕現したということ、それが王朝末期から鎌倉にかけての一般であったことはこの際記憶すべきことである。 『今昔物語』巻十三の第二十九に明秀《めいしゅう》のことを次のように伝えている。 「今昔、比叡の山の西塔に明秀と云ふ僧ありけり。天台座主|暹賀《せんが》僧都と云ける人の弟子也。幼にして山に登て出家して、師に随つて法花経を受け習て日夜に読誦す。亦真言の密法を受て毎日の行法怠らず(中略)。而る間年四十に成る時に道心発して西塔の北谷の下に黒谷と云う別所有り、共の所に籠居て、静に法花経を読誦し云々。」  この「幼にして山に登り云々」は『今昔物語』に度々出てくるおきまりの文句であると同時に「道心を発して」山を下って別所に隠遁することもまた屡々でてくる言葉である。恐らく天台数学や真言の密法に通暁し、叡山において位置をうるということよりも、自己自身の生死の問題が切実なことになってきたのであろう。学よりも行が重んぜられ、教学よりも往生が問題中の問題となってきたに違いない。道心を発して山を下るという場合の道心とは、往生に対しての道心である。山を下って別所に隠遁するというときの別所は、本山を離れたところにある草庵であった。この別所の起原は、正暦年間(九九〇年頃)に起きた叡山の慈覚大師と智証大師の派閥争いの結果、智証派の千人を追放した事件に由来し、この派は山を下りて別所に拠ったという。そしてこの別所が聖を多く生んだわけである。隠遁の聖は、このようにして出てきたわけだが、さきに書いた明秀の籠居した黒谷の別所からやがて法然が出てくることになる。別所は次第に庶民に近づき、庶民的になり、凡愚としてみずからを自覚し、凡愚の往生の問題が中心になってきたのである。  いま我々の当面の人である一遍はこの方向を最も徹底的に行じた人であった。       2 一遍とその周辺  数年前、海音寺潮五郎氏の『蒙古来る』が数百回にわたって読売新聞に連載された。私は終始これを愛読したが、その終りの方にわが智真房《ちしんぼう》一遍が登場してくる。海音寺氏の筆は智真房が出てくると、ひときわ情熱が入って、この踊念仏の遊行《ゆぎよう》の聖を遺憾なく書き尽していた。私にはその挿絵まで忘れられない。そのとき以来、一遍は私の頭の中にあった。  一遍と同時代人であった親鸞、道元、日蓮や、また一遍の生存中に生れた夢窓や大燈については我々はよく知っている。よくは知らないとしてもその名前に親しみを感じている。然し一遍は我々にあまり知られていない。知られてはいないが、この捨聖と呼ばれた遊行僧は実に徹底した行者であり、法然や親鸞の他力を更に徹底させた人であった。このひとはもっと知られなければならない。戦後浅山円詳氏の詳しい註や紹介のついた『一遍聖絵六条縁起』が再版されたり、また柳宗悦氏がその著『南無阿弥陀仏』の中で一遍を高く評価して以来、一部にはこの上人に対する関心が高まったが、然し一般にはまだ知られてはいない。  さきに書いた明秀が道心を発して籠居した黒谷という別所のもつ歴史的位置について、最近菊地勇次郎氏が詳しい考証をしている(雑誌『日本仏教』第一号)。またそこで黒谷に入った法然についても歴史家として詳しい位置づけをしている。法然は十三歳で叡山に登り、十五歳で皇円について出家受戒した。ところでこの皇円の一派は一時勢力があったが、その頃は座主をめぐる教権の中枢からは遠い存在となっていた。その上、地方武士の子として生れた法然の家系では、将来山内で高い地位を得るだけの背景もなかった。皇円の一派やまた家系にめぐまれない者たちは、教団の俗化を嫌い、叡山の中心を離れて、別所に隠遁するという例が多かったという。法然の黒谷に移ったのもそれによると菊地氏は言っている。これは穿ちすぎた考えのようにみえるが、法然の言動にてらしてまた思い当るところがある。  さらにまた菊地氏は、法然の智行はもともとは天台の智行であったといっている。法然が勢至菩薩の化現であるといわれたのも、また知恵深遠 形相炳焉といわれたのも、それを指しているといっている。知恵第一の法然房といわれる場合の知恵の具体的な内容は天台教学であるというのである。  このような二つのことから、菊地氏は、「法然の所謂新仏教の布教のある部分が、天台の別所聖の形態に埋没してしまふ」といっている、そういいながら、その前提の中から如何にして専修念仏の他力になっていったかを考えようとしている。この菊地氏の説は私にとっても興味がある。つまりは法然が叡山と別所の両方、天台と浄土の両方、貴族と庶民の両方にまたがっていたということ、またがりながら、「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同うして、智者の振舞をせずして、只一向に念仏すべし」の方向に強く傾いていったということである。  右の『一枚起請文』中の「智者の振舞」はもちろん天台教学の智者を指している。また知恵第一といわれた嘗ての法然自身をも指している。だからこそ、「愚鈍の身になして、」「無智の輩に同うして」云々という文章にならざるをえない。高いものが、賢いものが、ここでは愚の粧いをしているといってもよいだろう。法然は堅く持戒の一生を貫いたという。彼は煩悩具足の貴族また庶民に念仏往生を説いたが、自らは戒を守って「僧」の生活を貫いた。「十悪の法然房、愚痴の法然房」といいはしたが、「源空智行の至徳には、聖道諸宗の師主も、みなもろともに帰せしめて、一心金剛の戒師とす」という趣があった(親鸞の『高僧和讃』中の『源空聖人』)。法然は在家の者には悲をもって対したが、自己を持することはあくまで厳であった。彼はその意味で模範的な「僧」であった。  親鸞が法然門から出ながら法然と違う点は、十悪、愚痴をひとごとならず体験し、また体験したればこそ、自己自身の、己れ一人の救いを求めてやまなかったことである。この救いが弥陀の本願によって成就されるという信楽《しんぎよう》と歓喜を、同じく煩悩に苦しむ衆生に伝えたかったのである。「己れは僧に非ず俗に非ず、この故に禿の字を以て姓とす」は正直に自己の在り方を語っている。彼は法然の如き持戒の「僧」ではない。かといって俗に満足できる俗人でもない。虚仮《こけ》不実ならばこそ、煩悩具足の凡夫ならばこそ、一層切実に救いを求め、念仏してやまないのである。  ところで一遍はどうであるか。彼はその『法語集』のなかで次のように言っている。 「念仏の機に三|品《ぼん》あり。上根は妻子を帯し家に在りながら、着せずして往生す。中根は妻子を棄つると雖も、住処と衣食とを帯して着せずして往生す。下根は万事を捨棄して往生す。我等は下根の者なれば、一切を捨てずば、定めて臨終に諸事に着して往生し損ずべきなりと思ふ故に、かくの如く行ずるなり。」  柳宗悦氏はこれに注して、ここにいふ上根は親鸞に、中根は法然に、下根はまさに一遍に当るといっている。  法然の門弟中、証空は最も念仏義に徹した人といわれている。今日西山派といわれる一派の祖であるが、この専修念仏者の弟子の聖達《しようたつ》が、わが一遍の師である。一遍は年十五にして叡山に登り、慈眼《じげん》のもとに修学したとも一説には伝えられているが、それが事実であったとしても、恐らく一遍の揚合、天台教学は法然におけるような薫染力をもたなかったであろう。彼には法然における『選択本願集』もなければ、親鸞における『教行信証』もない。死が近づいたとき所持した一切の書ものを自らの手で焼き捨て、「一代の聖数皆尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と口ずさんだという。一遍の一遍たるところはその捨聖にあった。聖道の教学はもとより、浄土の教義もない。義なきを義とする義もまたない。法然にあった天台との対抗意識、親鸞に残っている文章意識、修辞意識もここにはない。「万事を捨棄」する下根の行に徹しきった。わずかに自他一体、いや自他もない不二の、いや不二の二もない独一の、南無阿弥陀仏だけが残った。残ったというのは捨てに棄てた最後に、その極限において残ったというのではない。捨て果てたところが即ち念仏であり、捨てることによって一変した世界が即ち称名であった。世界が六字の名号において面目をあらためて現前したのである。一遍という名は、一にして遍から来ているという。一にして遍なるものが念仏であった。  さきに空也の「称名して万事を抛つに如かず」云々の言葉をひいたが、一遍はこの文に触発されて、始め四年は身命を山野にすて、「居住を風雲にまかせ」たと『聖絵』は書いている。次のような旅中吟がある。   旅衣木の根かやの根いづくにか、身のすてられぬところあるべき   身をすつるすつる心をすてつれば、おもひなき世にすみぞめの袖 『語録』に収めてある『消息法語』の中で、一遍はある僧都に向って、例の、空也の「捨ててこそ」を書いた後でこういっている。 「念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨、善悪の境界もすて、貴賤高下の道理をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて、念仏申すこそ、弥陀超世の本願にかなひ候。かやうに打あけ打あけとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも念仏ならずということなし。」  語録の巻上には、一遍が禅の法燈国師の会下《えげ》に参じたときの模様を次のように書いている。法燈が、念起即覚を言えと一遍にせまった。一遍は直ちに   となふれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして と呈した。法燈は「未徹在」と一蹴した。まだまだ徹しきっていないぞ、というほどの意味である。一遍はさらに次の歌を呈した。   となふれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏なむあみだ仏  法燈は莞爾として手巾と薬籠を与えて印可したという。  柳宗悦氏は前掲書のなかで法然、親鸞、一遍の立場を次のように要約している。法然においては、仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給う、であり、親鸞においては、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏は人を念じ給う、である。ところで一遍においては、仏も人もなく、念仏みずからの念仏である。「されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり」(『播州法語集』)である。また「名号が名号を聞く」とも一遍はいっている。念仏が念仏する姿の当体が即ち一遍であった。一向専念の念仏の行者であった。  ところで念仏者、真の念仏者になるための条件が、すでに書いたように、一切を捨てること、捨てる心をも捨てることであった。「身心の放下《ほうげ》」であった。そのような徹底的な捨棄、放下はどのようにして果しうるか。一遍において最大の問題は死であった。彼の長い和讃の初句は次のように始められている。「身を観ずれば水の泡、消えぬるのちは人もなし。命を思へば月の影、いでいる息《いき》にぞとどまらぬ。」これは当時流行の無常観だけではない。無常観の体験が一遍にはあった。「独《ひとり》むまれて独死す」という体験、身にしみての問題があった。「生ぜしもひとりなり。死するも独なり。されば人と共に住するも独なり。そひはつべき人なき故なり。」この「ひとり」の問題が彼を苦しめ、苦しみぬいたが故に一遍が一遍になりえたのである。ひとはひとりで死なねばならぬ。死は既定の事実である。何人も死をまぬがれえない。この実存的な不安、無常からどうしたら脱却できるか。それが宗教者の最大の問題であった。問題は生にではなく、死にある。如何に生くるかではなく、如何に死するかにある。一遍は死を積極的に選びとることによって、更にいえば死を覚悟し、或いは死ぬことによって、死の問題を超えた。死は必然であって、生は僥倖事にすぎない。この僥倖に頼ってはならぬというのである。臨終、往生が最大の関心事であり、この関心事はみずから生きながら往生することによってそれ自身を超越する。 「生ながら死して静かに来迎を待べし」(語録下)。 「一切を捨離して孤独独一なるを死するとはいふなり」(同右)。 「明日までも生きて要事なく、すなはちとく死なんこそ本意なれ」(同右)。  彼は生くるための必須条件である衣食住の三つを三悪道として斥ける。衣なく、食なく、住もまた無きところへゆく。「飢死こそはせんすらめ」という。「山林にしてねぶらむにはしかじ」ともいう。そういう道の果に、一遍は空也に邂逅したのである。心に所縁なく、日暮にしたがって止まり、身に住所なく、夜の明くるにしたがって去る云々という空也の言葉がそこへ出て来ている。「三業《さんごう》を天運に任せ四儀を菩提に譲る」ことが出てきた。このときの踊躍大歓喜、騰神踊躍入西方が、即ち感きわまっての大踊躍が、いわゆるおどり念仏の始めで、『聖絵』はこれを建治二年の歳末とし、「紫雲はじめてたち侍りけり」と書いている。  この大転換、死すること、死につくすことによる大歓喜という体験こそ一遍をして一遍たらしめた契機であり、この転換によって一遍一人が変ったのでなく、尽天尽地、全世界が面目を一新して現成したのである。「身をすつるすつる心をすてつれば、おもひなき世にすみぞめの袖」と彼は歌った。自分のおもい、すつるおもいさえ捨てたところに、念仏が念仏する姿があらわれた。自分が念仏するのではない。仏のために念仏するのでもない。念仏三昧、念仏一体の専修が出てきた。このときの大歓喜をひとにも知らせたい、わかちたいという心がおのずからにしてでてきた。一遍はこの歓喜を賦算《ふさん》(ふだくばり)という行事にして示した。六字の名号をしるしたお札をくばり歩くのである。彼の足跡はかくして九州の南端から北は奥州にまで及び、六十万人|決《けつ》| 定《じよう》| 往《おう》| 生《じよう》の札をくばって歩いたといわれる。   口にとなふる念仏を  普《あまね》く衆生に施して   これこそ常の栖《すみか》とて  いづくに宿を定めねど   さすがに家の多ければ 雨にうたるる事もなし。 また   詞をつくし乞あるき  へつらひもとめ願はねど   僅に命をつぐほどは  さすがに人こそ供養すれ。  そういう境を彼は和讃の中にしるしている。  飢死を覚悟し、野のはてにされこうべとなることをも覚悟した一遍に不可思議な世界があらわれてきた。念仏者のよろこびにあふれた世界である。苦痛の行脚ではなく、よろこびの遊行《ゆぎよう》がでてきた。遊行上人と彼はよばれたが、遊行こそ彼の栖《すみか》であったといってよい。「山河草木、ふく風たつ波の音までも念仏ならずといふことなし」(語録)という世界がひらかれたのである。  この遊行の捨聖のあとに従って念仏して歩く同朋同行がやがてでてくる。それを「時衆《じしゆう》」といった。一種の移動教団であろう。『聖絵』の中に、これらの時衆が、「数百人踊り廻り、板敷踏み落し」たこと、「竹馬の童子も是を学んで踊り、寡婦もこれになずらへて声々に唱ふ」というありさまをしるしている。前記の海音寺潮五郎氏はその小説の中で、最下層の庶民、旅芸人までが加わった大念仏踊のことを書いている。  一遍は正応二年(一二八九年)にその五十年の生涯を閉じるにあたって、「一代の聖教皆尽て南無阿弥陀仏となりはてぬ、」「法師のあとは跡なきを跡とす」という言葉を残したのみである。時衆がやがて時宗として一派をなしたが、その派も初めの中は多くは遊行者であった。  道元(一二〇〇—一二五三年)も、捨つ、棄つの言葉を多く使っている。試みに『随聞記』の第二の第四節の一頁分から拾ってみよう。「学道の人は人情を棄べきなり。」「世情をすて仏道に入る。」「よしと思ひあしと思ふことをすてて。」「吾が意《ここ》ろをもすてて。」「身心をば一向にすて。」「法門の思量をば棄てて。」「文字の功もすつべき道理あらば棄てて。」そういう捨棄の言葉が無数にでてくる。同様にまた「はなる」の言葉も多い。試みに『正法眼蔵』中の『行持』の巻の一節を引いてみよう。「ただまさに家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利等なからんもまたはなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理あきらかなり。それすなはち一条の行持なり。生前に名利をなげすてて一事を行持せん、仏寿長遠の行事なり。いまこの行持さだめて行持に行持せらるるなり。」  道元においては捨てに捨て、はなれのがれたいわゆる身心脱落の世界が、反って万法によって証せられる世界、諸法の実相なる世界、本来の面目の現成世界であった。「自己もし名利身心を不措《ふしやく》すれば、谿山(谿声山色《けいせいさんじき》)また恁麼《いんも》の不措あり」等とそれを言いあらわしている。「見ずや、古人身命を拾て、国城妻子を棄てて、之を視ること瓦礫の如くに相似たり。然して後|劫数《ごうすう》を経歴し、山林に独棲し、身心を枯木にして、方に始めて道に相応す。既に道と合すれば、便ち山川を借《か》つて言語と為し、風雨を拈《ねん》じて舌頭と為し、大虚を説破して無等輪《むとうりん》を転ず。何の用か不能なる、何の法か不可なる。」この若い禅人たちに示した法語の中に、反って道元の全き姿があらわれているだろう。捨棄によって始めて天地山水、仏道、仏祖と面々に相会うことができるというのである。  道元はまた『生死』の巻で、「ただし心をもてはかることなかれ、言葉をもていふことなかれ。ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家になげ入れて、仏の方《かた》よりおこなはれて、之に従ひもてゆくとき、力をも入れず、心をも費さずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か心にとどこほるべき」といっている。これは自力の禅家というよりは、むしろ他力の念仏門に近い。また『随聞記』ではしばしば、「任運」とか、「運にまかせる」という言葉を使っている。「世間衣食の資具は生得の命分ありて、求に依ても来らず、求ざれども来らざるに非ず。只任運にして心を挾むこと莫れ」の類である。運に任せることが、逆に仏法に従うという対応をよび起してくる。こちらから捨て棄てることが、やがて運に任せること、仏法に従うという対応となるのである。捨てるという積極的な行為が、仏の方より行われるという受身をよびおこし、積極と受動が相応してくるのである。積極消極一如、不二、独一の動態がここに生ずる。これは既に書いた一遍に共通する。一遍もしばしば任運という言葉を、空也からの伝統において言っているのである。  道元も念仏門と同じく、捨てること、放れのがれること、放下を言っている。ただ道元が念仏門と違うところは、非僧非俗の聖ではなかったということである。道元には、彼が常に先師古仏と呼んでいるところの如浄《によじよう》からの面々授受の嗣書があった。釈迦、達磨を貫いて嫡々相承してきた正統の保任の自覚があった。またこの正統を次代後代に伝える責任があった。「跡なきを跡とす」というような遊行の聖となることはできない位置にあった。世間での無用人ではあったが、仏道の相承という点では有用不可欠の人物であることを自覚していたのである。そこが親鸞や一遍とは違うところである。だから彼の弟子に対する鉗鎚《けんつい》は厳しい。道元に『学道用心集』の如き著のあるのはこれによるのである。「機は良材の如く、師は工匠に似たり。縦ひ良材たりと雖も、良工を得ざれば綺麗未だ彰はれず。」道元はみずからをよき工匠として任じている。参師問法と工夫坐禅が学道者の必須の条件であった。  だが、そういう正統の保任者また伝授者という堅いところだけが道元ではない。道元には詩人の胸懐がある。工匠であるとともに、絶学無為の真人を讃えるという奥がある。老梅樹を相手にする住山の頑石、叢林の陳人を以て自任するという風流があった。  吉田兼好(一二八三—一三五〇年)の『徒然草』の第九十八段は、「尊き聖の言ひ置きけることを書きつけて、一言芳談《いちごんほうだん》とかや名づけたる草紙を、見侍りしに、心に会ひて覚えしことども」として、『一言芳談抄』からの五つの短い句を挙げている。 [#ここから1字下げ]  一、為《し》やせまし為《せ》ずやあらましと思ふ事は、大《おお》やう為《せ》ぬが宜きなり。  一、後世《ごせ》を思はむ者は、糂汰瓶《じんだがめ》一つも持つまじき事なり。持経、本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。  一、遁世者は、無きに事欠けぬやうを計らひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。  一、上臈は下臈になり、智者は愚になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。  一、仏道を願ふと云ふは、別の事無し。暇《いとま》ある身となりて、世の事を心かけぬを、第一の道とす。 [#ここで字下げ終わり]  この『一言芳談抄』は法然以下の念仏門の祖師たち二十数人の言行を百数十条にわたって簡潔に編集したものだが、誰が何時それをしたかはわからない。恐らく建武年間(一三三四年以降)には既に出来ていたろうという。或いは一二八九年に死んだ一遍の在世中には既にあったろうというひともいる。  いま兼好にならって、この書から、少しばかりの引用をしておこう。 [#ここから1字下げ] 「ひじりはわろきがよきなり。」 「居所の心にかなはぬはよき事なり。心にかなひたらんには、われらがごとくの不覚人は一定執着しつとおぼえ候なり。」 「遁世しなん後は、ほだの上に、みそやきなどうちをきて、はさみくふふぜいにて有《あり》なん。」 「ただ何事も、要にたたぬ身に成たらん、大要の事なり。」 「身はいやしくて、心はたかくありなん。」 [#ここで字下げ終わり]  然し、この書の際立った特色は、死を選べといっている点にある。道元やまた一遍は、捨てる、はなれる、のがれる、忘れるという言葉を多く使っているのに、ここでは、死ぬる、ということがしばしば語られている。一遍が捨聖ならば、ここには死聖《しにひじり》がゐる。死の到来を覚悟して、そのために俗世、俗事の一切を捨棄するというのではない。端的に死を願っているのである。いまその三、四の例を引いてみよう。 [#ここから1字下げ] 「世間出世至極ただ死の一事也。しなばしねとだに存ずれば、一切に大事はなきなり。この身をあいし、命ををしむより、一切のさはりはおこることなり。あやまりてしなんは、よろこびなりと存ずれば、なに事もやすくおぼゆる也」(敬仏房)。 「八万法門は死の一字をとく。然れば、則ち、死を忘れざれば、八万法門を自然に心得たるものにある也」(聖光上人)。 「我は遁世の始よりして、とく死なばやと云事《いうこと》を習ひしなり。さればこそ、三十余年間ならひし故に、今は片時も忘れず。とく死にたければ、すこしも延たる様なれば、むねがつぶれて、わびしき也」(顕性房)。 「年来死をおそれざる理をこのみ、ならひつる力にて、此所労もすこしよき様になれば、しなでやあらんずらむと、きものつぶるる也」(敬仏房)。 [#ここで字下げ終わり]  ここにはいわば死の讃歌がある。浄土へいそぐ心がある。ここには一遍がいう「生《いき》ながら死す」とか、「わがなくして念仏申すが死するにてあるなり」とは色合いが違う死がある。念仏が念仏するといふ独一のものがここにはない。「いまこの行持《ぎようじ》、さだめて行持に行持せらるるなり、この行持あらん、身心みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし」(道元)というところとは全く違う。生をいとい、死にすがり、死から放れえないのである。私はこれは念仏門の頽落形態だと思う。そうしてこの頽落を起さしめる原因が、社会の中にも宗門の中にもあった。死の問題のむずかしさを示す事例である。  私は一遍の語録や『一言芳談抄』をひもどきながら、そこに芭蕉に直接につらなるものに出会うことしばしばであった。そのことも書加えておきたい。 「自受用といふは、水が水をのみ、火が火を焼がごとく、松は松、竹は竹、其体おのれなりに生死なきをいふなり」(語録)。  これは芭蕉のしづかにみれば物皆自得すといへり、の言葉を思ひ起させ、また松のことは松に竹のことは竹に習へ、の言葉、私意を去つて誠を責めよ、の言葉を想起させる。 「後世者はいつも旅にいでたる思ひに住するなり。雲のはて、海のはてにゆくとも、此身のあらんかぎりは、かたのごとく衣食住所なくてはかなふべからざれども、執すると執せざるとの、事のほかにかはりたるなり。つねに一夜のやどりにして、始終のすみかにあらずと、存ずるにはさはりなく念仏の申さるる也。いたづらに野外にすつる身を、出離のためにすてて、寒熱にも病患にもをかさるるは、有がたき一期のおもひ出かなと、よろこぶ様なる人のありがたきなり」(敬仏房)。  これは、日々旅にゐて旅を栖《すみか》とす、故人も多く旅に死せるあり、の『奥の細道』の書きだしを思わせる。野ざらしをこころに風のしむ身かな、の野ざらし紀行を思わせる。さらには晩年の「ここかしこうかれありきて」で始まる『栖去之弁』を想起させ、「なを放下して栖去《すみさり》、腰にただ百銭をたくはへて柱杖一鉢に命を結ぶ。なし得たり風情|終《つひ》に菰《こも》をかぶらんとは」の結びを思わせる。さらに芭蕉がその手紙の中でたびたび書いている、「風に身をまかせ申すべき哉」の言葉は、一遍の任運の遊行に通ずるものがあろう。『一言芳談抄』にはまた「生涯をかろくし」とか、「今生の事おもくおぼえて」等の言葉もでて、そこでもまた芭蕉を思わせるのである。  もちろん芭蕉が直接に一遍の語録や『一言芳談抄』を読んだという証拠はないであろう。しかし『抄』は元禄の初年に版行せられたものであることなどを考えて、芭蕉がこれを知らなかったという証拠もまたないであろう。私が一遍や『抄』をよんで芭蕉を連想したのは、ひがごとであるといわれても、それを反駁する証拠もないが、芭蕉が遊行の詩人であったことは争えない。此一筋以外はすべて捨てた俳人であったことは間違いない。最後には此一筋とたのんだ風雅の道を、「風雅の魔心」とかりにも呼んでいるところをみると、此一筋への執着をもまた執着として捨てようとするところがあったといってよい。芭蕉は臨終に当って、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句をなしたが、下を、「なほかけ廻る夢心」にしようか、いづれがよきかと案じはて、生死の一大事を前にして、かかる妄執にとらわれていることを悔んだと終焉記は伝えている。芭蕉は捨聖ではない。此一筋だけは捨てえないところにいた。しかし、一切を放下しようとする、俳諧までを妄執とする、そういう危きところでよく遊んだといえよう。俳聖と後代からいわれているが、俳譜のひじりであったことはたしかである。  堀一郎氏の大著、『我が国民間信仰史の研究』(昭和二十八年)は、いわば「ひじり」の総括的な研究が大部分をしめている。ここでは遊行者自身が、自己の大先達として行基をあがめていること、一〇四三年前後に執筆されたであろうと推定される『法華験記』の中には非常に多くの遊行者の名前とその遍歴がしるされているが、その中に一宿沙門行空という人物があったことを特に誌しておきたい。行空については次のように書かれている。 「発心以後、住処を定めず、なほ一所において両夜をすごさず、況んや庵を結んで住まんや。」  その上、身には法華経一部をもつのみで、三衣一鉢も具することなく、五畿七道、ゆかざるところなく、六十余国、みざる国なし、と書かれている。我々はここにも一遍の先達としての捨聖の姿をみるのであるが、行空と同様の遊行者が、数も多く、また大峰、葛城、熊野、那智等、また京都の近くでは清水、石山、長谷、粉河等に去来する遊行者が多かったという。『梁塵秘抄』巻二には僧歌として、次のような廻国の遊行僧のものを載せているともいう。 「我等が修業せしやうは、忍辱袈裟をば肩にかけ、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の遍路をぞ常に踏む。」  堀氏はまた近世におけるひじりの在り方を詳細にわたってしるしている。一所定住、土着を根本とし、移動や漂泊を禁じた徳川の封建制度の桎梏のもとでは、遊行者はその本来の姿を失わざるをえなくなり、特殊な階層として、特殊なわざをなりわいとして村の一角に、また村はずれに定着せざるをえなくなった。関所をおいたり、五人組の連帯制度をつくったりした幕府が、遊行者にとってはまさに桎梏となった。遊行者の定住化はこの幕府下においてはやむをえないことであった。また逆に、幕府に利用されて諸国の国状を偵察する内報者になりさがった者もあった。そういう幕府の下にありながらも、なお遊行の聖が跡をたったわけではない。私たちの少年時代にはまだときどき彼等の姿を路上にみつけた。私の郷里(信州伊那)には、イナゴ、バッタの類のひとつにコモソとよんでいるのがある。二本の触覚が長くのび、頭は小さく、翅の強い昆虫である。またコモソという雨具があった。頭からすっぽりかぶるいぐさでつくったものである。この二つは形も感じも似ていた。然しなぜこれをコモソというのか知らなかった。いまにして考えれば、両者とも薦《こも》僧、菰僧、虚無僧から来ているわけであろう。また本当の虚無僧が深編笠をかぶって尺八を門で吹いている姿にも度々会った。無気味な姿であったが、どこかに好奇心をそそるものがあった。芭蕉の『栖去之弁』の中に、「風情終に菰をかぶる」の言葉があるが、虚無僧はその実践者のなれのはてであったのかもしれない。芭蕉には、菰かぶりを讃える言葉が多い。元禄二年のある手紙の中で、「一鉢境界乞食の身こそたふとけれとうたひに佗し貴僧の跡もなつかしく、猶ことしのたびはやつしやつして、こもかぶるべき心がけに御座候」と書いている。「たれ人か菰着ています花の春」の句もある。「行脚乞士」と自らを呼んでいるところもある。そういう菰僧が大正初年頃までは相当に多かったのである。  ところで虚無僧は法燈国師覚心に由来するという。法燈国師というのはさきにも書いたように、一遍が参じた禅僧である。「となふれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして」を呈して「未徹在」と一喝を食らったというのである。法燈は師を求めて宋に渡り、普化《ふけ》禅師十六世の法孫にあたる張尽から尺八の一曲をうけて帰来し、紀伊の興福寺に住んで普化宗を開いた。これが虚無僧の起りだという。菰をかぶって尺八をふき、その妙音を介して禅の妙旨を得せしめようというわけである。妙旨というのは普化禅師の、「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打、四方八面来、旋風打、虚空来、連架打」というのである。普化佯狂という言葉があるように、狂をよそおって市中にさまよい、明頭来、明頭打を言って衆生を喝したといわれる。そうしてこの虚無僧は遠く空也上人の鉢叩きに通ずるともいわれ、一遍の遊行にも通ずるといわれている。暮露《ぼろ》また馬聖《うまひじり》とも後世はこれを呼んだが、これもひじりの一形態であった。       3 妙好人  江戸末期にさまざまな妙好人《みようこうにん》伝が版になり、そこで扱われている妙好人は百人を越しているというが私は未見である。妙好人というのは阿弥陀仏の本願を信じて、美わしい、また常識を超えた一生を送った民間人である。  鈴木大拙さんの『日本的霊性』(昭和十九年)の中には蓮如上人に仕えたという赤尾の道宗という妙好人について書いているが、ここでは同氏の『妙好人』(昭和二十七年)によって、浅原|才市《さいち》というひとのことを紹介しておきたい。才市は島根県石見の国の人で、昭和七年に八十三歳で往生した。五十歳まで船大工、後、履物屋となり、一生を終った。この学問もない妙好人が二十余年間書きつづけたノートは六十冊以上にのぼり、六千首以上の、歌詠がしるされていたという。ただし戦災で焼失したり、散逸したりしたものが多く、現存するものは八冊だけであるといわれる。 「あさまし、あさまし、じやけん、京まん(驕慢)、あくさいち。」「このさいちわ、まことにあくにんで、ありまして。」「あさましの、ばけのかわとわ、さいちがことよ。」そういう慙愧、懺悔の言葉が無数に出てくる。まことに天上天下、唯我独悪というところである。それが、「ざんぎで、かけば、こころうきます」と急に一転してくる。 [#ここから1字下げ]  あさましわな、あさましかなれど、じひ(慈悲)があるからな。  じひは、くわんぎ(歓喜)のなせることでな。  わたくしわな、じやけんものでわありますけれど、  じごくものでわありますけれど、  じひのかたにひかれまして、  あさましが、でましたり、またよろこびのくわんぎが、でましたり。  わたくしが方は、なんだら、かんだら、ちんぷん、かんぷんで、わかりや、しません。  これでうきよをくらす、らくらく、なむあみだぶつ、なみあみだぶつ。 [#ここで字下げ終わり]  そういう転換、慙傀が歓喜の転換をへて、ごをんうれしや、なむあみだぶつ、この息《いき》ろくじのなむあみだぶつ、ありがたいな、という讃嘆の声となり、さらにすすんで「わしが、ねんぶつを、となゑるじやない。ねんぶつの、ほをから、わしのこころにあたる、ねんぶつ、なむあみだぶつ」となり、「ほどけが、ほどけを、をがむこと、なむがあみだに、をがまれて、あみだがなむに、をがまれて、これが帰命の、なむあみだぶつ」というところまでゆく。  親鸞の『正像末浄土和讃』にも、「底下の凡愚となれる身は、清浄真実のこころなし」といい、「如来の遺弟悲泣せよ」といいながらも、「五濁悪世の有情の、選択本願信ずれば、不可称不可説、不可思議の功徳は行者の身にみてり」という急転換が言われている。しかしこの和讃には、達した親鸞が衆生に示そうという言葉の文《あや》や論理がめだつ。才市のそれはこの和讃を地でいっている。言葉が即ち念仏になっているというところがある。「わしがよろこび、よるひる、なしで、でいりの息も、よるひるなしで、これが六字のなむあみだぶつ」というそういう実態がある。  鎌倉期にできた空也像は、空也の出入《でいり》の息に六人の菩薩の姿を出現さしたことを示しているが、才市にもこの、いき、をいっているところが実に多い。彼の息が直に根底のものの吐出となっている態である。風のプノイマと息のプノイマが、才市においては不二であるというところがある。  この才市と、空也また一遍と相似ながら、違うところは、空也や一遍が、「捨てる」ことに重点をおいているのに、才市が、「とられる」ことに重点をおいている点である。   好いも、悪いも、みなとられ、   なんにもない。   ないが楽なよ、安気《あんき》なよ。   なむあみだぶつに、皆とられ、   これこそ安気な、   なむあみだぶつ。   さいちや、このたび、しやわせよ、   悪もとられ、自力もとられ、   疑もとられ、みなとられ、   さいちが身上《しんしよう》みなとられ、   なむあみだぶつをただ貰うて、   これで、さいちが苦がないよ、   これが浄土にいぬるばかりよ。  この石見の片田舎に、下駄をつくって一生を終った老念仏者に、鈴木大拙翁のいういわゆる日本的霊性が、或いは空也よりも、一遍よりも、さらに端的直接にあらわれているともいえるであろう。 [#改ページ] [#小見出し]   三 連歌師俳諧師及びデカダンの世界        ——なし得たり風情終に菰をかぶらんとは——  能ではまず初めにワキが登場して、次第を謡い、名乗の言葉をいって道行《みちゆき》を謡うというのが通例である。誰でも知っている『高砂《たかさご》』を例にとってみる。まずワキツレが登場して「今を初めの旅衣、今を初めの旅衣、日も行く末ぞ久しき」と謡う。ついでワキが自らを名乗る。「抑もこれは九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。われ未だ都を見ず候ほどに、この度思ひ立ち、都に上り候。又よきついでなれば、播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。」これが終って道行の謡となる。「旅衣、末はるばるの都路を、末はるばるの都路を、今日思ひ立つ浦の波、船路のどけき春風の幾日来ぬらん跡末も、いさ白雲の遥々と、さしも思ひし播磨潟高砂の浦に着きにけり、高砂の浦に着きにけり。」  ここで気づくのは、旅、旅衣という言葉がしばしばでてくること、舞台が即ち長途の旅の行きついた場所としてでてくることである。旅をかさね、旅の遊歴のひとつの場所として舞台があるということである。舞台は定着固定した場所ではない。動きの中の一場面である。  ところでこのワキには、回国の遍歴者、遊行僧が実に多い。『誓願寺』では先に書いた一遍がワキとして登場し、前記の順序をくりかえしている。『放下僧』の中には、「此頃人の翫び候は、放下にて候程に、某は放下になり候べし。御身は放下僧に御なり候へ」という詞がでてくる。私はこの代表的なものとして『卒塔婆小町』のワキを考えてみたい。このワキは高野山の僧で、いま都へ上ろうとしているのだが、それが次のように謡う。 「それ前仏は既に去り、後仏は未だ世に出でず。夢の中間《ちゆうげん》に生まれ来て、何を現と思ふべき。」さらに謡いつづけて、 「千里《ちさと》を行くも遠からず、野に臥し山に泊る身の、これぞまことの栖家《すみか》なる、これぞまことの栖家なる。」  前仏とは釈迦、後仏とは弥勒である。いまは釈迦は既になく、釈迦のなき後を救うという弥勒はまだ現われない。まさに末法澆季の中間の時代、既にない、未だないの虚無の時代だというのである。このような時代に生くる生き方は、まさに旅人、野伏山伏のそれでなければならず、旅、中間こそ、栖家に外ならないという。旅にいて旅を栖家とするというのである。ここでは舞台が道行であるばかりでなく、人生そのもの、時代そのものが道行に外ならない。どこに住むべき所、どこに落着くところがあろうというのである。  この途上に百年の姥となった、かつての美女、小野小町が姿をあらわす。まったくの乞食姿、乞丐人《こつがいにん》である。それが卒塔婆に腰かけている。ここでワキの高野の僧とシテの小町との問答となる。問答の果に突然に小町が狂乱を見せる。若い頃の思い人であった深草少将の霊が小町にのりうつってきたのである。九十九夜むだに小町のもとに通いつめた末に、思い死をした少将の怨念が小町に憑いて、物狂いの、しかも美しい舞を演ずるのである。暗の中問、末法の濁世に狂い咲いた束の間の花であり、一瞬の忘我である。野伏山伏の聖もこの花に酔って一瞬の恍惚を味わうのである。  鎌倉以下、室町、殊に応仁の乱の時代は、多くの流離のひとを生みだした。平家は壇の浦に亡んだが、残党は諸国に流離して身をかくしたであろう。源氏の世となっても同族の争いは絶えず、足利が室町に幕府をひらくと、朝家、公卿の側に失意落魄のひとを生みだした。まして南北朝の対立以後、下剋上が相つぎ、新は旧に換り、権力は月をまたずして換るという状態であった。戦国の世に勝利者がでるということは敗北者がそれより多く出るということである。諸行無常の諦念者もでたが、無頼放浪の徒もでた。  すでに藤原俊成の撰んだ『千載集』(一一八七年)あたりから、無常観がつよくでてきて、たのむべき終《つい》の栖家はこの世にないという思いはあった。「定めなき憂世の中と知りぬれば、いづくも旅の心地こそすれ」(覚法親王)。「旅の世にまた旅寝して草枕、夢のなかにも夢を見るかな」(慈円)。そういう歌がでている。慈円と同時代の西行の旅もまたそうであった。現世の不安、無常を、月、花において忘れようというのである。源頼朝が伊豆で平家討伐の兵を挙げ、平家が周章してこれに当ろうとしたとき、「紅旗征戎、非吾事」といった定家の吾事は、有心の和歌であったが、それは西行にとっての、月、花であったろう。  世が更に下って、室町から応仁の乱にかけては、無常が反って常となり、変転は反って通常となった。末法は末法に相違ないが、末法をおいて外に現世はない。旅こそまことの栖家という考えが起きてきたのは当然であるばかりか、現実の遊行者、流離者、放下、乞食の行脚僧も数多くでてきた。いわゆる俗ひじりである。刀や槍をたずさえた武装移動団もでてきたには相違ないが、筆と硯をたずさえて遊狂する連歌師俳諧師もでてきた。彼等は無常において自由であり、漂泊において享楽した。そういう傾向が戦乱の生んだ時代の必然であったことをいうのが私の問題ではない。戦乱は不幸であり、流離は苦痛であったに相違ないが、その不幸や苦痛を契機として、従来の宮廷中心の文化、文学、思想とは質を異にするものが生れてきたこと、いわば遊狂、風狂、遊楽の文化がでてきたことを言いたいのである。  猿楽や田楽が堂上貴族から下賤乞食の所行といわれたこと、それらの楽師がいわば地方のドサ回りであったことは事実だが、そういうものから、観阿弥、世阿弥の幽玄の能が生れてきた。小野小町は前記の能では百歳の乞食姿の姥となって舞台に現われる。それが物狂いとなって、はじめてかつての優婉な美女に立帰るというような構成は、この場合象徴的であるといえよう。乱世においては遊狂においてより外に美を現わしえないという哲学といってもよいであろう。  一段風※[#「眞+頁」、unicode985a]大妖怪と自らを名乗った一休禅師のことはまた他のところで書きたいが、この応仁の乱の時代を生きぬいた風狂風流僧、風を食らい、水に泊ると歌った放下僧が、中世文化の源であったことは忘れてはならない。世阿弥の養子の禅竹、茶の珠光、連歌の宗長、みな一休の弟子であり、一休の一喝、毒舌によって、みずからの芸道を見出した人たちであった。  私はここで連歌の宗祇(一四二一—一五〇二年)のことを書いておきたい。  西行も旅の詩人であり、宗祇も一生を旅に送った連歌師である。然し三百年をへだてている両者の旅はどのように違っているか。  西行の生きた王朝末期には、末期とはいえなお様式をもった社会があり、文化があった。様式をもっていたればこそ、その固定したマナリズムの世界から西行は脱出を企てたのである。社会から出家遁世して歌のひじりとなったわけである。宮廷の本歌取や題詠にあきたらなかったからこそ、思うことをふつふつという自然詩人となり、おのが「すき」の世界に入ったということになる。その意味で、身を用なき者に思いなして、都を捨てて関東へ下った在原の業平に通じている。西行も都にありわびて、旅に出たのである。西行の|すき《ヽヽ》は|わび《ヽヽ》からきている。  西行にくらべていえば、宗祇の旅はいわば運命的であった。すきに由来する旅、都にありわびての東下りではない。都はすでに荒廃している。単に戦禍による荒廃ばかりではない、都は都らしい様式、雅びの伝統はたちきられて、坂東武者の末裔である足利氏、いわゆる京侍の支配下にある。その足利氏がきずきあげた北山の文化、たとえば金閣寺が示しているような文化の創造力も既に下剋上によって失われ、陪臣が擡頭してきている。陪臣はそのまた陪臣によってとってかわられようとしている。破壊に破壊がつぎ、旧家、旧勢力は音をたてて崩れてゆく時代であった。例の二条河原の落書が出た建武の時代から百年をへているが社会は一層混乱するばかりである。夜討強盗は跳梁し、倉破りや徳政一揆が頻発した。室町の幕府にはそれをおさえる程の実権もなくなってきている。アナーキイの時代、応仁の乱の時代である。「天下は破れば破れよ、世間は滅べば滅べよ。人はともあれ、我身さへ富貴ならば、他より一段|瑩羹《えいこう》様に振舞はんと成行けり」と『応仁記』は書いている。  公卿の身分や勢力は崩壊したが、しかしそれにかわって新しい力が生れでようとしていたことも事実である。坂東の田舎武者が京侍となってたとえ一時にせよ文化荷担者となり、武家が古い文化遺産をうけついで、これを保持するとともに、武士本来の持味をそれに加えたことの意昧をみのがしてはならない。具体的には、戦場に死することを覚悟するという生死観や、鑑賞の享楽ではない実践の修行を加えたこと、殊に禅に由来する洒々落々底の空無観、無常これ常、寂滅これ本来というような従来になかった性格を新しくもってきた。一条兼良というような旧来の文化人、教養人、即ち下剋上の乱世を目前にみて、ただ「前代未聞のこと」と嘆ずる守旧派がいたとともに、「一切のもの、みなむなしくなりて、一つもとどまらざりけるとみるを道心とはいふなり」という一休の如き風狂人もこの時代のなかから出てきた。  宗祇はこの時代を文学の上で代表するといってよい。宗祇の生国は紀伊ともまた近江ともいわれているが、下賤の出である。あるいは伎楽師の子という説もある。若くして禅門に入り、京に出て宗砌《そうぜい》、心敬から連歌を、東常縁《とうつねより》、一条兼良から和歌や古典を習った。彼の学習は、自らが下賤の出であるだけに、殆ど苦学力行という努力をともない、同時に貴族から庶民への古典継承という役を果している。彼は東常縁から古今伝授をうけ、これを三条西実隆に伝えたが、実隆への伝授に当って、「精進魚味憚りなし、房事は二十四時間隔つべき也」といましめている。そういうところが宗祇らしい。宗祇の数度の関東下向や滞在は、上州の長尾氏、越後の上杉氏、武蔵の太田氏というような豪族たちに、伊勢や源氏の物語また古今和歌集についての講義をするためであった。このことは地方の武家たちが、伝統的文化を積極的にわがものとしようとする意欲に燃えていたこと、京と田舎の文化水準が平均化してきたこと、伝統文化の普遍化の傾向ができたことを示している。近畿の動乱、京都の荒廃は同時に文化の地方伝播をよびおこしてきたのである。またれっきとした公卿貴族の三条西実隆が、礼を厚くして、地方下賤の出である宗祇から古今伝授を受けたということは、この時代の文化荷担者の変遷を如実に示しているともみられる。  宗祇は旅の詩人といわれている。四十六歳のときの関東下りを最初の大旅行として、八十二歳で旅先の箱根で死ぬまで、幾度か長途の旅に出ている。「古人も多く旅に死せるあり」と芭蕉が言ったとき、芭蕉は具体的には宗祇の旅姿を思っていたのである。もちろん宗祇の旅は、さきに書いたように、古典学の地方伝播のためという意味もあった。然しまた、旅が生活であり、旅が日常であるという従来にない新しい観念もでてきている。京都は動乱で荒廃している、そこの旧い様式は亡んでいる。もはや捨てるに価するほどのものを京都はもっていない。京にありわびるほどのものも京には既にないのである。西行の出家遁世の旅ではもうない。流離漂泊が反って日常の姿である。  芭蕉の、「世にふるもさらに宗祇の宿りかな」は、宗祇の、「世にふるもさらにしぐれのやどり哉」から来ていることは周知である。もちろんこの句はわびしい現実をうたったものであろう。「露におき霧にあさたつ山路かな」も同様であろう。次の、宗祇七十五歳のときの『独吟百韻』の表八句もわびしい世界には相違ないが、わびしさが反って日常として諦観され、これこそ真の人生の姿だとして歌われているようなところがみえる。   かぎりさへ似たる花なき桜かな    しづかに暮るる春風の庭   ほのかすむ軒ばの峰に月出て    おもひもわかぬ仮臥《かりふし》の空   こしかたをいづくと夢のかへるらん    行人見えぬ野べのはるけさ   霜まよふ道はかすかにあらはれて    枯るるもしるき草むらのかげ  宗祇の臨終にあたって定家の亡霊があらわれて、「玉の緒よ絶えなばたえね」の歌を吟じたが、宗祇がそれに、「ながむる月にたちぞうかるる」とつけたことを弟子の宗長がその終焉記の中に書いている。箱根路の旅宿に八十余の高年で死んだ宗祇の最期に浮んだ句が、「たちぞうかるる」であったことは、わびしい流離において、反って一種の俳諧の軽みを得ていたとみてよいだろう。そしてこれは遠く二条良基の『筑波問答』中の次の言葉に呼応するものであった。 「連歌は前念後念をつがず、又盛衰憂喜のさかひをならべて移りもてゆくさま、浮世のありさまにことならず。咋日と思へば今日に過ぎ、春とおもへば秋になり、花とおもへば紅葉にうつろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからむや。」  連歌形式はここで人生形式につらなり、人生形式は宗祇の、「時をうるともあやふきをしれ」に「世こそただ風待つ花の一盛」とつけている連歌そのものとなって示されている。  西山宗因(一六〇五—一六八二年)にいたると、宗祇とは大分様子が違ってくる。 「西国行脚の無用坊、無用の用あり、無楽の楽あり、無作無分別にして無病の一徳あり。遊行心にまかせ、あしにまかせて行くほどに、ここの里かしこの人々、めんめん木々の花にめで、紅葉にたはぶれて、年も漸く暮なんとす。旅のつれづれなにわざをかせん。ここに俳諧とかや云々」と書き始められた『釈教百韵』の自序は、「ともあれかくもあれ、やがて煙に、なにもかも不可もなし」というしゃれで結ばれている。これを書いたとき宗因は七十歳であった。  同じ年に宗因はまた次のようなことを書いている。貞徳派の俳諧に対抗して自分の立場を明らかにしたものである。 「抑俳諧の道、虚を先として、実を後とす。和歌の寓言、連歌の狂言也。連歌を本として連歌を忘るべしと、古賢の庭訓なるよし(中略)。古風、当風、中昔、上手は上手、下手は下手、いづれを是と弁へず。すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻の戯言《けげん》也。」  いわゆる宗因の談林派というのは右の「無用坊」の立場でものする「夢幻の戯言」の自由奔放の俳諧であった。  宗因がみずからを無用坊と規定し、俳諧を連歌からきりはなして、虚に遊ぶ狂言、戯言といった背後にはどのような理由、条件があったであろうか。宗因の『飛鳥川』という短文はこの間いに対する手掛りとなる。これは彼の二十九歳のときのものであるが、その冒頭は次の如くである。 「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世は、今更おどろくべきにしもあらねど、過ぬる寛永九年五月のころほひ、大守おもひがけぬ事にあたりたまひて、遠きさかひにおもむき給ふ。」  寛永九年に、肥後の藩主加藤清正の子、忠広は、将軍家光から領地を没収されて、出羽の国にあずけられた。忠広の子光正も捕えられて飛騨の国にあずけられた。忠広父子が家光に対して陰謀を企て、幕府の転覆を計ったというのがその理由である。当時宗因は肥後八代の城代加藤正方の家臣であったが、正方も加藤家の一族としてこの罪に連坐して流離の身となった。宗因は主君とともに京に上り、また東国に下り、また故郷に帰ったりしているが、そこでも落着くことができず、漂泊の旅をすることになった。これが「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世」という言葉の背後にある具体的な事件である。そしてこの事件が宗因の一生を大きく決定している。彼が夢幻の戯言の中へ韜晦したのはこの事件が大いに関係している。即ち実の世界の常ならぬむなしさを身にしみて体験したのである。『飛鳥川』の中に、室の津を旅しているとき、たまたま出会った法師に、「いづくよりいづくへ行く人ぞ、と問はれ」たとき、腹の中で、「人とはばそもそも是は九州の肥後牢人のわぶと答へん」という歌をよんだことが誌されている。即ち「牢人のわび」を味い、みずからを浪人と感じとったのである。過去の重臣の位置に対比した現在の浪人のわび姿が、やがて、実に対する虚、和歌に対する寓言、連歌に対する狂言、即ち実世間を茶化する俳諧滑稽の談林世界をよび起すことになるのである。無用坊の世界、無楽の楽の、ひざをくずした世界である。  連歌の狂言、すいたことして遊ぶ戯言の世界は宗因において特に著しく歴史の上にでてきた。これは松永貞徳(一五七一—一六五三年)と比較してみれば明らかなことである。貞徳はその『御傘』の中でこういっている。「俳諧は、面白き事ある時、興に乗じていひ出し、人をもよろこばしめ、我もたのしむ道なれば、をさまれる世のこゑとは是をいふべき也。」貞徳の祖父は高槻の城主であった。父は一時僧となったがやがて俗に還って連歌師となって名を得た。貞徳は幼時から天才として聞え、細川幽斎、大村由己、里村紹巴、藤原惺窩、林羅山、木下長嘯というような当代一流の文化人と交りがあった。また秀吉に仕えてその祐筆をつとめたことがある。徳川の時代に入っては多くの地下の門下生を養い、広大な邸宅に数奇の生活を営み、また多くの著作を残した。ここではわびようがないのである。いわば文化の大御所的存在である。泰平の世の中の安泰の学者であり、また俳諧の数奇者である。寛永から慶安と改元したことを祝って、「御せいじんの君に来て逢ふや千代の春」の句をつくり、米価の低きを祝って、「米《よね》の値も吉やす国の今年哉」というような、平凡な句を作っている。「宗因なくんば、我等が俳諧今以て貞徳の泥をねぶるべし」と芭蕉がいったのは尤といわねばならぬ。貞徳は実の世界にいて実の世界をたのしみ、実の句を作った。虚の世界はここにはない。虚の世界に遊ぶ必要もない。談林とはその居所が違うのである。  宗因をして宗因たらしめた契機は、主家の没落によって浪人となったこと、それにおいて飛鳥川の淵瀬の常ならぬことを身にしみて知ったことにあった。彼は自分にかかってきた転変を積極的に選びとった。そして虚の世界、狂の世界において自分の鬱を散じようとした。徳川も三代になって漸くその地歩をかため、ゆるぎのない統制を行い始めた。家光になると定とか法度とか禁令とかが、ひっきりなしに出てくる。行住坐臥から衣類わらじのつけ方まで規定してくる。士、農、工、商の身分は固定してしまって、下剋上の自由もなく、移動、移住の自由もない。箸のあげおろしまで厳重に統制されてきた。信長や秀吉の時代の自由奔放の空気は地をはらってしまった。ここでは千利休のように、黄金趣味に対抗して藁屋の四畳半にわびることもできない。わびによる抵抗ももうかなわないのである。片桐石州とか小堀遠州の茶道が、利休のそれと違うのは、わびの自由がなく、仁義忠孝の政道の道具になってしまっていることである。こういう社会は詩人にとって住みよいところではない。宗因が浪人を選びとったのは尤なことといわねばならない。即ち現世の秩序からはみでた虚の世界、夢幻の世界において始めて戯言、狂句の自由をえたのである。「無用坊」となることによって始めて詩人となりうるという条件がそこにあった。  宗因をついで出てきた芭蕉(一六四四—一六九四年)も、伊賀の藤堂家から脱藩することによって初めて狂句の世界へ入ることができた。彼にも「乾坤を忘れたる隠士、世間寺無用房」と名乗って言葉に興じた談林時代があったのである。然し己が実世界における無能無芸のほどを告白し、「此一筋」として俳諧の道を選びとったとき、即ち竹斎の乞食姿に似た己れを自覚したとき、狂句の世界は、さびの世界として独立した。宗因には最後まで虚と実、連歌と俳諧、正言と戯言が対立していた。意識の中で戯言を選んだが、それが夢幻の戯れである限り、戯れではない現実の世界が一方では存在していたのである。これは対立する二元である。二元を忘れようとして幻の世界へ一時の逃避を企てても、忘れようとする限り、忘れようとする当の現実から全く自由というわけにはゆかない。芭蕉は虚に徹することによって虚実の境を超えた。「なを放下して栖み去り、腰にただ百銭をたくはへて柱杖《しゆじよう》一鉢に命を結ぶ。なし得たり風情終に菰をかぶらんとは、」と書くにいたったとき、ここには二元の対立は消えている。ここでは菰をかぶった乞食行脚において風雅の極みを表象しているのである。高く心を悟りて俗に還るという、にくきことまで言っている。  芭蕉の弟子の内藤丈草もまた無用人として、伴蒿蹊の『近世畸人伝』に書かれている。丈草はもと尾張の犬山の成瀬家の臣であったが、故意に右の指をきずつけ、「刀の柄《つか》が握りにくいから」といって仕えをやめて禅宗に入った。そのときの詩は次の如きものである。 「多年屋を負ふ一蝸牛、化して蛞蝓となつて自由を得たり、火宅最もおそる涎沫の尽きんことを、たまたま法雨を尋ねて林丘に入る。」  芭蕉を葬った琵琶湖畔の義仲寺内にあった無名庵にこもって丈草は三年の喪に服したといわれる。「ゆりすわる小春の湖や墳の前」というような句がある。芭蕉が亡くなって間もなく丈草は『寝ころび草』を草しているが、その冒頭は、「心にまかせたる身ならば、いかでか、かかるものうき世の中に生れ来たらん、すでにかく生れ来て、ものうき世の中に、いかで此身の心まかせならんや」というようなものである。人生の師、俳諧の師とたのんだ芭蕉に先立たれて、この病弱の俳僧の心がひどく傷んだことがわかる。丈草はまた別のところで、「出家は出家以後の出家を遂ぐべし」とも語っているが、彼は芭蕉歿後、その死を利用してまで「世の中に立めぐる」旧弟子たちの挙動をにがにがしく思ったに違いない。意識してみずからを「懶窩《らんか》」と呼んだりしている。「春雨やぬけ出たまゝの夜着の穴」という句もある。喪があけてから程なく、別に仏幻庵を近くに結んで、そこに懶の生活を送った。鍋一つ釜一つの生活であった。「着てたてば夜の衾もなかりけり」「紙子着てよればゐろりの走り炭」という生活であった。火燵と酒のみが友であったらしい。「守りいる火燵を庵の本尊かな」「酒買ひの戻は樽に野梅かな」の句がある。  懶僧とか懶衲とかみずから呼んだ丈草は、晩年殆ど閉関のくらしをした。「閉関迎春」とまえがきして、「白粥の茶碗くまなし初日影」といっている。こういうところに、丈草の丈草らしいところがあろう。人を避けて、「枝疎老樹不※[#「口+金」、unicode552b]風」という句のある漢詩を作ってもいる。惟然坊はその追悼記に、「湖南の波上孤独貧窮の散人丈草懶雲に嘯き」云々と書き、「ただ酒呑腕押などして愚を云ひ、功を隠されけん」といっているが、「死んだとも留守ともしれず庵の花」「木枕の垢や伊吹にのこる雪」等の句はその境を示しているだろう。「とりつかぬ力で浮むかはづかな」「水底の岩に落つく木の葉かな」などには彼の禅境がうかがわれよう。江戸の其角などには思いもよらぬ境地であった。  芭蕉の弟子の服部嵐雪も、『俳家奇人談』の伝える限りでは、世間寺無用房であった。彼は新庄の隠州公に仕えていたが、やがて山色を楽しまんとする志やみがたく、剣も衣類も一切身につけずに居宅を捨てたという。「風雲とともに漂ひいで、いつしか蕉門に遊ぶ」と書かれている。  ただに丈草や嵐雪にとどまらず、そういう経歴の俳諧師や詩人は多かったことであろう。そうしてそのさきの方に、良寛や桃水、一茶や乞食井月、更には『猫』の苦沙弥先生等の太平の逸民を私は考えているのである。「咳をしてもひとり」という句にならない句を残して死んでいった尾崎放哉も頭の中にある。  折口信夫氏に『無頼の徒の芸術』という一文がある。昭和十一年に雑誌「水甕」に載ったもので、全集第十七巻に収められている。これは講演筆記で、そのためにくりかえしが多い。折口氏がここでくりかえしていっていることは、鎌倉、室町の時代は武家の土地に対する執着は少なかったのに、徳川の時代になると土地に対する執着が強くなり、土地を放さなくなったということである。小田原の早川氏が中国に移って小早川氏となったり、伯耆の名和氏が懐良親王に従って九州へ下り、さらに琉球まで移動したり、さらにさかのぼれば木曾義仲が信州を歩くと、多くの従うものがでてきて行を共にし、都に入っても、そこに一時落着き、主君が没落すればともにそこで没落してしまうというような例があげられている。いわばそれらは移動村落であった。  折口氏は武士という言葉は野伏、山伏の、野や山がとれたものであり、いわばもともと流離の民であったことをその言葉が示しているといっている。そういう流民はいくつかあり、今日まで残ったものが山窩だといっている。ところが、江戸時代になると、それまで動いていたものが次第に土着し、残ったものは所謂非御家人、浪人として浮浪をつづけた。浪人は歩き歩いて江戸に出て、いわゆる奴の生活、不良の生活を始めるようになる。それがここにいう無頼の徒なのである。この奴風は不良であり、自由であり、モダンでもあるため、次第に世を風靡して、旗本奴がでてきたり、歌舞伎者がでてきたりする。歌舞伎という言葉はもともとは、かぶく、即ち乱暴の振舞いをすることを意味したという。そして元禄までの文学はこの無頼の徒の文学であり、近松にも芭蕉にもまた西鶴にも無頼の味がある。芭蕉の隠者ぶりも、無頼の味をもって、世間を見たものであると折口氏は言っている。  折口氏はまた世をしのんだ隠者は幇間のようなことをやっていたといっている。一方では彼等は新興貴族たちに、男女の間のもののあわれや、その教材になる和歌などを教えた。またそういう弟子たちを新興特殊階級である遊女のもとへつれていって、実地にあわれを味わしめた。遊女はまた遊女で、いきとかあわれとか、はりとかいう様式をつくりあげたが、それらは無頼の幇間、いわゆる通によって教えられたものであった。とにかく江戸の芸能、文学は無頼の徒のそれであったというのが折口氏の意見である。  この折口説は伊藤整の『小説の方法』に示された逃亡奴隷説に系統をつたえている。伊藤説は、自然主義作家、殊に私小説作家は文壇という特殊部落にたてこもり、健全な公民、市民から逸脱し、無頼放蕩の特殊人として、自己の情痴、不健在、のろけを、思うままに書いたというのである。いわば現世放棄者、市民社会から逃亡した無頼の徒の文学である。岩野泡鳴、徳田秋声、近松秋江、葛西善蔵もその代表であろうが、私の頭の中には永井荷風がある。江戸時代の文人墨客の最後の名残として私は荷風散人を考えている。行住坐臥のはしはしまで法度、禁令によって縛りあげられ、食物衣類まで制令によって規定される絶対制のもと、デスポティズムの支配下では、詩人は意識してデカダンの徒とならざるをえない。江戸期のいわゆる文人墨客の生き方である。明治が一応の市民社会となり、文明開化の世となったとき、成島柳北等の旧幕臣もその『柳橋新誌』の示すように新時代に背をむけたが、始め文明批評家としてとにかく新時代に協力的であった永井荷風も、大逆事件を契機として時代に背をむけた。文明開化、西欧化のもたらした俗物性、ブルジョワ的俗物根性にがまんがならず、十九世紀のボードレール、ヴェルレーヌが、生国のブルジョワジイにそむいたように、そむいた。江戸趣味、戯場と遊女の戯作者世界が偏奇館主人荷風の唯一のいきぬきの場所となった。  世にふるもさらにしぐれのやどりかな、これは宗祇のものである。世にふるもさらに宗祇のやどりかな、これは芭蕉のものである。この二つはどこが違うか。宗祇と芭蕉との間には二百年の年月が流れている。歴史は二百年においてどう変ったか。戦乱に戦乱がつづき、勢力が年々に更替する応仁の乱では、むしろ流離放浪こそ常の姿であった。さらにしぐれのやどりかな、はこの時代の詩人の実感であり、それ以外ではありえなかったわけである。ところで芭蕉の生きた江戸初期は、長くつづいた戦国の乱世が漸く治まり、生活も身分も固定化してきた。徳川三百年の泰平の基礎ができ上ってきたのである。しかし西行以来、詩の精神の本流としてつづいてきた超俗、叛俗、捨聖、漂泊の精神を、武力征服によって固定、凝着させることはできない。宗因や芭蕉が主家を離れ、また脱藩して流離の身にならざるをえなかった理由もそこにある。芭蕉は眼前に固定化してゆく社会、人間をみたればこそ、一層激しく風狂、不住の旅を思わざるをえなかった。世俗におもねり、立身出世をはかる連中をみたればこそ、無能無才、夏炉冬扇の無用者の世界を此一筋とたのまざるをえなかった。そのとき、西行、雪舟、宗祇、利休が道を貫いた先達として眼の前に大きくあらわれたのである。さらに宗祇のやどりかな、は宗祇に己が感懐を託したもの、宗祇にあやかって蟄息しそうな閉じた社会を超えようとしたものであった。いわばこれは現実ではない観念、また想念の世界であったのである。芭蕉はリアリストではない。芭蕉の詩の世界が、観念世界でありながら、抽象に終らなかったのは、此一筋とたのんだ心のはりによるのである。おのが想念に賭けた悲痛な精神によるのである。  現実と想念が対立する限り、私の用語法によればなお「わび」の世界である。わびは、豪奢に対する簡素、巨大に対する微細、黄金に対するいぶし銀、金泥に対する墨絵、そういう対比において起り、簡素、清貧の後者を選びながら、豪奢、豊富の前者を軽蔑する。利休の佗びずきの如きはその代表とみてよい。ところが芭蕉においては、わびにありながら、そのわびをもさらにわびようとする。対立、対比の世界にありながら、その対立、対比をさらにわびて、わびの極限にまでゆこうとする。 「笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり。佗つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。」こういう前書のついた「狂句こがらしの身は竹斎に似たるかな」の『冬の日』の一句において、芭蕉はまことに蕉風の芭蕉になったのである。わびつくしたるわびびとの世界が、さびの世界、風狂、風流、風雅の、風の世界であった。ここへ出るためには、禅の媒介が必至であった。芭蕉が仏頂和尚のもとで参禅したのは延宝九年即ち元和改元の年といわれる。「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」という談林調とは本質を異にする句のできたのはその年であり、彼は三十八歳になっていた。桃青の上に芭蕉翁という名を冠したのもそれから間もなくであった。『野ざらし』の旅にでたのはそれから三年後であり、『冬の日』もその年になった。  わびをもわびつくして、さびの世界、「いづ方へなりとも風にまかせ申すべし」と言った自在の世界へ芭蕉はでていった。一笠一杖の旅を、「旅の栄華ともいはん」というようなところへいったのである。「無心所着の場に遊び給へ」というような、良寛を彷彿させるような言葉も吐いている。芭蕉が最後に到り着いたところはそういう世界であった。西行、雪舟、宗祇、利休は、ここでは単に歴史上の先達ではなく、さびの世界に席をわかつ仲間である。歴史の協同態世界で芭蕉は彼等と庵を並べて住んだのである。芭蕉にとっての現実とは反ってそういう世界であったといってよい。 [#改ページ] [#見出し]  二 文人気質 [#小見出し]   一 文人としての永井荷風        ——附、成島柳北・大沼枕山  四月三十日に永井荷風が市川の自宅で急に死んだ。近所に住んでいる通い手伝いの婆さんが、いつものように朝の八時頃行ってみると、古びた紺の背広に、よれよれのこげ茶のズボンをはいたまま、血を吐いて死んでいたというのである。数え年で八十一歳であった。死因は胃潰瘍から来た吐血であったという。私は心がけによっては、自分らしい最期をとげられるものだな、と思った。若い時から書きつづけてきた『断腸亭日乗』が、「四月二十九日。祭日、陰」で終ったことにも、感慨を催さずにはいられなかった。かつて敗戦後の、まだ諸事不自由な時代に、粗末な紙にすられた『罹災日録』を読んだとき、荷風文学の亡びるときはあつても、『断腸亭日乗』は残るだろう、という感慨をもらしたことがある。荷風散人の急死を同じ日の夕刊が報じた夜、私は配本になったまま、机上につんでおいた『永井荷風日記』の第五巻をあらためて繙いてみた。昭和十二年の六月二十二日の日記は、「快晴、風涼し。朝七時楼(吉原の山本楼)を出で京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。起稿の小説中主人公の住宅を定め置かむとてなり」で始まっている。散人はその途上、浄閑寺をみつけてそこへ入り、比翼塚をみいだしたり、遊女若紫の塚をみつけて、その碑背の文を丹念に写しとっている。そしてこういうことを書きつけているのである。 「六月以来毎夜吉原にとまり後朝のわかれも惜しまず、帰道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十余年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど、心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変りたれど、寺の門と堂宇との震災に焼けざりしは、かさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域、娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず。名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」この日記を書いたとき荷風は数え年五十九歳であつた。私はこの老文人の墓が浄閑寺内に建てられるのも悪くはないと思った。浄閑寺の方からも、そのような申出をしたということも、その後の新聞に出たこともあったが、結局は雑司ヶ谷の永井家の墓地に葬られることに決ったようである。  五尺を超ゆべからず、という文字は、私に相当豪勢なものだな、と思わせ、往年嵯峨野落柿舎の裏でみた去来の墓の小ささを思いださせた。たしか、手でもちあげられる位の自然石に、去来という二字が刻んであった。また「荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」の文字は、例の森鴎外の、しかつめらしい遺書を思いださせた。「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ。奈何ナル官権威力ト雖モ、此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」云々と書き、更に、「森林太郎トシテ死セントス」と繰返した後、「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ」と言っている。鴎外の墓はこの命令の通りに実行された。「何人ノ容喙ヲモ許サズ」が実行されたわけである。荷風の場合はおのが死の二十余年も前に、日記の中に綴ったものであるのだから、他からの容喙が入ってもかまわないわけだろう。然し私は荷風が終生尊敬し敬慕してやまなかった鴎外と、荷風自身との相違を、こんなところにも発見するのである。森林太郎墓の五字と荷風散人墓の五字との相違といってよい。林太郎として死なんとした鴎外と、散人として死なんとした壮吉との相違といってもよい。荷風に『七月九日の記』といふのがある。大正十一年七月九日は鴎外の亡くなった日である。死の前日荷風はおそるおそるこの文豪を見舞った。賀古鶴所の特別の計らいで病室に入ることを得た。「我はひらき戸の傍に坐し、一礼して後打騒ぐ心やうやうに押静めてみまもれば、森先生は袴をはき腰のあたりをしかと両手に支へ、掻巻を裾の方にのみかけ、正しく仰臥し、身うごきもだにしたまはず、半口を開きて雷の如き鼾を漏したまふのみなり」と荷風は書いている。袴をはいて臨終を迎える鴎外と、よれよれのズボンをはいたまま、うつぶせて死んでいた荷風と。また荷風のこの記には、「奥の間の床には、天朝より御慰問の下賜品うやうやしく打並べられしを見ぬ」と書いてある。荷風の死の床には、食い残しの、チィズクラッカアが散らばっていたという。  私は誰にもみとられず、ひとりで死んでいった荷風散人に、「文人」というものの、最後の型を感じる。最後というとき、多少のためらいが残るのは、なほ石川淳がいるからであるが、江戸中期以来の文人気質が、とにかく荷風において最後の光を放っていた。私は荷風の死を契機として、文人とは何か、文人気質とはどういうものであるかを、あらためて考えてみようと思いたった。荷風から次第に溯っていって、その源にまで達してみたいと思った。  私は荷風をもって、文人の最後の型といったが、その最後という言葉のなかには、頽落形態という意味をも含んでいる。頽落という言葉は、ここでは、おのずからの文人として悠々自適したのではなく、意識して自己を文人に仕立てあげた、ということ、またその文人ぶりのなかに、意外な生物的存在や計算的人間を発見すること、等を意味する。いわば荷風においての虚と実の問題であるが、虚実相即という段には至りえなかったのではないかと、私は思う。例の『矢はずぐさ』(大正五年)の中の有名な言葉を引いてみよう。 「大凡《おおよそ》の人は詩を賦し絵をかく事をのみ芸術なりとす。われも今まではかく思ひゐたり。わが芸術を愛する心は小説を作り劇を評し声楽を聴くことを以て足れりとなしき。然れども人間の欲情もと極る処なし。我は遂に棲むべき家着るべき衣服食ふべき料理までをも芸術の中に数へずば止まざらんとす。進んで我生涯をも一個の製作品として取扱はんと欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事能はざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻は其の最も大切なる製作の一要件なるべし。」  衣食住の芸術化、また自己自身の芸術化は実際にはどういう風に、またどの程度に行われたろうか。世にいう荷風の「やつし趣味」「変装趣味」がこれに無意識に答えているわけであろう。とにかく、「山林の楽を談ずるものは未だ必ずしも真に山林の趣を得ず」(『菜根譚』)とはいえるわけである。変装がいつしか変装でなくなって正体になるというところまではいかなかった。そういう虚実の不相即を、彼の日記を読んでいるうちに感じる。これはもともと文明批評家であった荷風にとっては避けがたい制約であったろう。つまりは荷風には常に社会に対する関心があった。裏返しにされた関心といってもよい。だからこそ、やつす必要もあり、気取りもあったわけである。  私は文人または文人気質とはどういうものであるかという概念規定をここでやろうとは思わない。荷風について書いてゆくうちに、おのずからそれは明らかになると思う。  既に引用した昭和十二年の浄閑寺訪問の日記をみただけでも、荷風の韜晦ぶり、無用者ぶり、戯作者ぶりは明らかであろう。そしてこれらの「ぶり」の由来するところは彼の生立ちにあるとみてよい。  荷風の父、久一郎は禾原と号した漢詩人で成島柳北とも交わりがあった。旧幕臣であったが、大学南校へ入ったり、アメリカへ留学したりした後、文部省に入り、その会計局長を最後に辞職し、日本郵船に移って上海支店長などをやった。『来青閣集』という詩集をもつ漢詩人であると同時に、一方ではハイカラな人であり、「洋癖家」でもあった。  荷風の母は鷲津毅堂の女である。毅堂門下であつた禾原と結ばれたのである。この毅堂については荷風の『下谷叢話』に詳しい紹介がある。儒者であると同時に文人で、大沼枕山などと親交があった。その二女でありながら、荷風の母はクリスチャンであり、ドイツ人の宣教師等と親しく交っている。  荷風の両親には、旧いものと新しいもの、儒学的なものと西洋的なものが同居している。旧い文人気質、幕臣気質をもちながら、新時代の立身出世主義からはずれてはいない。文人と紳士が、儒教とキリスト教が並びすんでいるわけである。父は長男の壮吉を自分の後継者として正業につかせようとする。父からみれば小説稗史の類に憂身をやつすのは河原乞食の所業であった。 「官僚の世に立たうとするには、官僚最高の学府に学ばなければならない。されば大学の予備科なる高等学校の入学試験に合格しなかつた学生はまづ一生涯立身の見込のないことを宣告されたのも同様である。『貴様見たやうな怠惰者《なまけもの》は駄目だ。もう学問なぞよしてしまへ』と自分の父はその時絶望と憤怒との叫びを自分の頭にあびせかけた。」こう荷風は誌した後で、「数学の知識の欠乏を自覚していた自分は、幾度試みても、到底高等学校には這入れないと諦めていたので、絶望の揚句は遂にさまざまな世の渡り方を空想し出した。小説家、音楽家、壮士役者、寄席芸人なぞ、正当なる社会の埓外に出て居る日陰者《ひかげもの》の寧ろ気楽な生活にあこがれ始めた」と書いている(『紅茶の後』中の「九月」。明治四十三年)。  明治三十二年、数え年二十一歳の荷風は外国語学校の三年生であったが、殆ど登校せず、下谷の落語家朝寝坊むらくの弟子となって夢之助を名乗った。翌年には福地桜痴の門に入り、歌舞伎の座附作者の内弟子となって、拍子木の入れ方から稽古を始めた。内弟子といえば、いわばその小間使をかねたもので、来客の草履を揃えることまでを勤めたのである。 「学校は退校される。父母からは信用を失ふ、友人からは擯斥される、而して日本を形造る古今の道徳宗教とは全く一致しない美しい『形』と美しい『夢』より外に私の身を慰めるものはない。退校の当時、母は『世間に顔出しができない』と泣き、父は『親の顔に泥を塗る』と怒つたが、私の懐疑主義は私をして、子孫は父母の虚栄心の玩具であるのかと驚かせたばかりである。」後年荷風は当時をこのように語っている(『歓楽』明治四十二年)。  この『歓楽』のなかで、よき詩、芸術を作るためには、血縁の繋累を断って、寂寞を愛さねばならぬこと、通常の家庭を離れて彷徨、無頼の徒にならねばならぬこと、己が父母兄弟の代表する俗社会を離れて、無用の徒になり、社会の悪草、雑草となって、そこに「悪の花」を咲かせねばならぬことが、繰返し語られている。  荷風の明治三十六年のアメリカ行、それにつづくフランス行は、荷風にとっては、まさに俗社会からの脱出であり、彷徨であった。「昔から、生れた郷土の迫害を憤つたものの心に、『外国』といふ一語は何れだけ強い慰藉であつたらうか」(『新帰朝者日記』明治四十二年)。外国で彼は、寂寞と孤独を、無頼と自由とを心おきなく味った。と同時に、フランスにおいて、現代文明のなかになお生きつづけている古いもの、伝統的なものの美を新しく発見した。「僕の見た処、西洋の社会と云ふ者は何処から何処まで悉く近代的ではない。近代的なものが、どんな事をしても冒すことの出来ない部分が如何なるものにも、チャンと残っている。つまり西洋と云ふ処は非常に昔臭い国だ。歴史臭い国だ」(『新帰朝者日記』)。  荷風はアメリカにおいて近代文明の築いたものを既に見ている。フランスに渡った彼はそこに残っている古いもの、前近代的なものに注意をむける。近代的なもの、近代文明のもたらしたものがすべてではない。外国へ脱出したことによって、かつて自分がそこはかとなくあこがれていた江戸的なものの、現代における意味を、自覚的にくみとった。明治の日本が大忙しに輸入した近代的なもの、西洋的なものが、如何に形だけであり、皮相なものであるかを自覚してくる。明治は結局は「九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な」時代にすぎない(『深川の唄』明治四十一年)。  ここから荷風の江戸趣味への脱出が意識的に行われることになる。現に住む近代日本からの脱出、ここにもやはり寂寞と彷徨があったわけだが、然し外国への脱出と違って、明治にはまだ江戸が形をもって残っていた。いわゆる花柳界である。花柳界こそ江戸文明の保護者であったと彼はいう。※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東の世界こそ彼の孤独を医す世界、アット・ホームを感じさせる世界であった。 「江戸芸術は社会から追放流鼠された為めに、却つて社会道徳に妨げられる事なく、自ら恣に独特の発達を遂げ得たのだ」と荷風は『紅茶の後』の中で書いている。これは、いわゆる大逆事件の発覚された明治四十三年の夏に書かれたもので、荷風の江戸趣味への韜晦を一層はっきりと示している。文芸は社会から隔離したところでだけ花を開きうる。「流竄の楽土」という言葉をも使っている。社会から河原者と卑しめられた戯作者こそこの楽土の王者ではなかったかというのである。後年『花火』(大正八年)で、この幸徳事件のことが再びとりあげられ、「文学者」であるならば当然この不当な裁判に抗議しなければならぬ筈なのに、自分はそれをやりえなかった。自分は文学者たるの資格はない、戯作者にすぎぬ、戯作者となって社会から逃避し、三味線をもてあそぶに如くはないと思ったと書いた。  荷風はそれまで『冷笑』をはじめ多くの文明批評、現代批評としての小説を書いてきた。荷風のいう「文学者」という概念はそういう批評的な作家を意味している。文学者から戯作者への転移は具体的には批評的なものから趣味的なものへ移ったということである。そしてこの転移は、さきにも書いたように、現代という社会の浮薄さ、蕪雑さに絶望したという批評意識のもとに行われたとともに、従って戯作もまた裏側からの批評であるとともに、彼の生来の気質にもかなったものであった。『偏奇館吟草』の中に収められている、「絶望は老樹の幹のうつろより深し」に始まる『絶望』のなかの、「屈辱にひしがるる老の身は、義憤にうごめき反抗に悶えて、あはれいたましき形骸を世に曝す」云々の句も、一面ではまさにその通りでありながら、他面では、いたましき形骸に反って楽土の王者をも感じて、そこに安住の処をえてもいたのである。  右の批評と趣味、義憤と自得の二元を、そのままに示しているのが「大正元年初冬稿」と示されている『散柳窓夕栄』であろう。これは武士出身の戯作者柳亭種彦と、その死を扱ったものである。天保期の老中水野忠邦による緊縮政策、倹約令の弾圧をうけながら、なお『偽《にせ》 紫《むらさき》 田舎源氏』をかきつづけることが書かれている。然し種彦、従ってまた作者の立場が、どっちつかずで、一貫していない。幕府の倹約令、そこから起る遊女の追放や浮世絵師また戯作者への弾圧を当然のこととする考えが一方にある。長いものには巻かれよの立場がある。他方ではその弾圧に抗して、おのが芸術を書きつづけようとする情熱がある。このふたつが、種彦という人物に、ばらばらにあらわれてくるだけで、筋の通ったものになっていない。時勢に対する義憤もあれば戯作者たることへの卑下もある。かと思うと戯作者たることの恍惚もでてくる。「狂歌川柳の俗気を愛する放蕩背倫の遊民にのみ云ふべからざる興趣を催させる特種の景色」のなかに自得しているところもあるのである。そういう分裂をもったままこの主人公は、公儀からの出頭命令のあった日に、「散るものに極る秋の柳かな」の一句を残して死んでゆく。  西の丸の御小姓を勤めたこともある武家の出という意識が厳として一方にある。然しまた「御奉公の束縛なき下民の気楽を羨み、いつとしもなく身を共の群に投じて茲に早くも幾十年、」「心なき世上の若者|淫奔《いたずら》なる娘の心を誘ひ、勘当の息子達からは師匠と仰がれ世を毒する艶《なまめか》しい文章の講釈。遊里戯場の益もない故実の詮議」に没頭してきた自分も他面にある。そして、「異人の黒船は津々浦々を脅かすと聞くけれど、あゝ此の身は今更に何ともしやうもないではないか」といふ諦観がそこからでてくる。この種彦像はこの時代の荷風の心を過不足なく示しているとみてよいであろう。  相磯凌霜氏の編輯した荷風年譜の明治四十五年(大正元年、荷風三十四歳)の項には次のようなことが書かれている。「此年九月材木商の次女ヨネと結婚す。十二月下旬、新橋の妓巴家八重次を携へ箱根に遊ぶ。二十九日、一旦帰京すと雖も、俄に袂を別ち難く、夜来の大雪を幸ひ猶教坊に流連す。然るに三十日、厳君禾原先生突如脳溢血に倒れ、忽ち危篤状態に陥る。家人心痛百方先生の行衛を求むれども杳として所在不明なり。三十一日、籾山庭後氏の電話に由り初めて厳君の凶報を知る。急遽馳せ帰れども厳君今や意識全く不明なり。」この父はそれから三日後に亡くなった。  父の死の五ケ月後に書かれた『父の恩』は荷風の一転機を示しているとみてよい。なるほどここにも従前と同様な、現代日本の借物文明や無知な政治家への抗議や罵倒も書かれているが、一層色濃く出ているのは、時勢に対する絶望を経た「あきらめ」といってよい。作中の荷風の分身は次のように言っている。 「いや。絶望するの、しないのと、一切もう、さういふ面倒な誤解を招きやすい問題には考へを向けない事にしてゐるんです。ですから美術の名に托して、能くは知りもせぬ骨董の事を論じたり、此間は又屈原の事を芝居にかいて失敗したなぞも、要するに私は今の時勢からは善悪ともに私の心から隔離させやうといふ方便に過ぎないのです。私はつまり、一日も早く年をとりたいと急《あせ》つてゐるやうなものです。」それにつづいて近代の「隠栖辞致」の傾向が語られ、西欧世界の世紀末思想と、それからの脱出としてのロマンチシズムが語られる。そして一転して自分の父のことが書かれているのだが、これは先に書いた立身出世主義者また洋癖家としての父とは凡そ違う父である。荷風は父の死を契機にして、父のもっていた一面、即ち漢詩人禾原を新しく認識したといってよい。そこには書画詩文によって人生の憂苦を忘れようとしている父が書かれている。花鋏みをもって盆栽の手入をしている父の姿に、平和と哀愁とともに寂寞の美を見出したことが書かれている。旧幕臣の出でありながら、薩長中心の新政府のもとに官吏となり、退官の後銀行につとめた父が、計るべからざる忍耐と克己を以て世をすごしたであろうこと、その胸底の苦悩を経て、悠々として天命を待つという東洋の文人の境に出たであろうことがいわれている。そして羅隠や王摩詰によって代表される東洋の文人趣味は、この作の結末において次のような言葉で要約されているのである。 「むかしむかし唐とよぶ広大無辺の強国に、長安と呼ぶ豪奢の都会があつた。その華麗を極めた宮殿には奸獰邪智の権臣どもが党をなして己れに媚びざる正義の士を排斥した。排斥された正義の士の或者は痩せた駿馬に乗つて都門を落ち、気候の険悪な遠い国境へと旅立つ。或者は漫々たる大河に孤帆の夢を泛べて、貧しい故郷の村落に隠退します。彼等はこの寂しい端てしのない旅の途すがら、己れと同じやうに失意の道にさまよふ昔の友達に出会つて、廃れた駅路のほとりなる、薄暗い酒亭の燈火の下に、苦味《にが》い酒を酌み交して、せめてもの心やりに互に詩を賦し又いつ逢へるか知れぬ別れを惜しむ。然し彼等は吾々の如く女々しく泣かず、慎みなく罵りもせぬ。彼等はその詠ずる山の如く安らかに水の如く清からん事を冷かな単純な文字に托して凡ての感情を眼に浮べない涙と共に呑み込んで了ふ」云々。  長い引用をしたのは、このなかに東洋の文人の姿、文人気質が、やや感傷にすぎてはいるが示されていると思うからである。  この文人ぶりの最もよく出ている作品は、『雨瀟瀟』(大正十年)であろうか。彩牋堂主人という好適な相手をえて、荷風の詩情がおのずからにして流れだした作品である。王次回の『疑雨集』、レニエの詩的な小篇が引かれ、荷風の心と響を交わしている。 『散柳窓夕栄』のなかで、柳亭種彦の門人柳下亭|種員《たねかず》が、時勢の圧迫のもとで、春本を書きだすくだりがある。「種員は草双紙類御法度の此頃いよいよ小遣銭にも窮してしまつた為め国貞門下の或絵師と相談して、専ら御殿奉公の御女中衆が貸本屋の手によつてのみ窃に購ひ求めると云ふ秘密の文学の創作を思ひ立つたのであつた」と書かれている。私は『腕くらべ』(大正五年)に私家版のあることをここで思い出した。その私家版にはわざわざ扉に花柳小説と誌し、荷風小史戯著と書かれているという。「流竄の楽土」における手なぐさみというべきであろうか。ただ種員と違うのは、荷風小史が別に小遣銭に窮しているというわけでもなかった点である。然しまた単に文人の余技といってすまされるものでもあるまい。私は荷風のなかに、師の種彦とは違う門弟の種員的要素があったこと、それが小遣銭のためではないだけに、なかなか複雑であることだけをここでは言っておくにとどめる。  さて、荷風によって示されている文人気質をここでまとめてみよう。  その第一は離俗また叛俗の精神である。既に荷風のやつし趣味、変装趣味については書いた。みずからの宅に、「偏奇館」の名をつけたこと、葷斎といふ斎号をもったことなどからもそれが察しられよう。奥野信太郎は荷風の発想が、「東洋文人的な市隠精神が、近代的文明批評への表現をとらうとする願望」に基いていることをいい、「市隠は花卉を楽しみつつ、小窓から社会を眺め人生を眺めて、鋭くこれを批評してやまない」といっている。高見順は、『麻布襍記』の序文の末尾に「荷風病客麻布窮巷の陋居にしるす」と書いていることから、「落魄趣味」という言葉を考え出している。  荷風は身に近い俗を最も嫌った。青年期の両親への反撥、妻をめとれば妻への反撥、妾をおけば妾への反撥があった。『歓楽』では両親を偽善者の中に数え、『雨瀟瀟』では、「十年前新妻の愚鈍に呆れてこれを去り、七年前には妾の悋気深きに辟易して手を切つてからこの方、わたしは今に独で暮してゐる」といっている。荷風の孤独、また人間嫌いは、周囲に俗気の近づくを嫌ったためといってよい。明治に住んでは明治を嫌って江戸趣味にのがれ、大正に住んでは大正を嫌って、「われは明治の児ならずや、去りし明治の世の児ならずや」と詠った。『葷斎漫筆』(大正十五年)では、「大正以降、我文運の衰頽と趣味の低落とに至つては、何人か能く之を挽回することを得べき」と書いた。  荷風のフランスへの憧憬も、近い日本に対する絶望に由来していた。然しボードレールやヴェルレーヌの十九世紀のフランスと、江戸とはどういう共通点をもっていたろうか。日本に対するフランス、明治に対する江戸という比較では共通しながら、神の問題、罪の問題に苦しんだ世紀末のフランスと、奇妙に明るく洒脱な江戸末期とでは大きな差違があろう。こういう差違など、日本を嫌い、明治を嫌った若い荷風にとっては、大した問題ではなく、嫌いなものからただ脱れでればそれでよかったということになろう。父の死を契機としてよみがえった東洋文人趣味において、始めて荷風は流竄の真の楽土をみいだすことになる。  荷風の陋巷趣味、落魄趣味が、花柳界や私娼や踊子の世界において姶めて満足しえたこともまた当然といわなければならない。彼女等は意識しないひかげの花であった。文明開化に抗する毒草であつた。荷風の離俗、叛俗の精神は、ここへ逃亡することによって、恰好なたまり場をえたといってよい。  文人気質の第二は、自分の行動また判断の基準を、自分の好悪によってきめたことである。ここでは善悪よりも美醜が、道徳よりも趣味が重んぜられる。もちろんその背後には当代社会の道徳や政治の頽廃という事実がある。権力を握ったものの横暴もある。そういう社会を嫌ったが故に、己が趣味にたてこもるということになる。だからデスポティズムのもとでは趣味にこもるということのもともとの動機は道徳的である。  荷風の趣味は、江戸伝来の通とかいきによるとともに十九世紀後半のフランスのダンディスム、デカダンス、またロマンチシズムに負っている。彼には明治の新時代を、「九州の足軽風情」の経営と皮肉をとばす旧幕臣意識、江戸ッ児気質があった。江戸の文化荷担者の意識である。荷風は文明開化にともなった旧物破壊を強く非難した。千代田城の松を一本残らず伐ってしまえという開化論者、古い堂塔を取壊してしまえという廃仏論者を攻撃し、また浮世絵の海外流出も、美の何たるかを知らない時代の犠牲になるよりも反って幸運であったといっている。近代文明のうみだしたテクノロジイ、また政治経済教育の制度を輸入し模倣しながら、文明そのものを生みだした近代ヨーロッパの自由主義、個人主義またヒューマニズムの何たるかを知らない鹿嗚館式新時代を冷笑しまた嫌悪した。藩閥政府の野暮に対して眉をひそめたのと同様に、自然主義を田舎者の文学、野暮な文体として非難している。通とかいきとかはもともと野暮や半可通を嘲笑する遊里から起った言葉であった。彼は成島柳北また大田南畝を大通人として尊敬するとともに、ボードレールを介してのダンディスム、いわばブルジョワに対する貴族的といってもよいそれを身につけていた。壮年時のハイカラな服装もダンディを示すものだが、老年にいたっての買物かごをぶらさげた姿もまたどこかダンディであった。彼のダンディスムも当代の俗物性へのレジスタンスといってもよい。 『父の恩』のなかで、未知のもの、遠いものへの憧憬をロマンチシズムの重要の要索といっているところがある。ゴーガンのタヒチ脱出によってもわかるように、ブルジョワ擡頭期の俗社会、人間万事金の世の中という社会に我慢がならず、世紀末の作家連は自己の実存にたてこもって、みずからを例外者とか地下室人とか単独者と呼んだ。天才を狂人とのアナロジイで論ずる科学の優勢な時代において、天才たちは、みずからを意識的に狂人にした。科学に対する、また合理主義に対する戦いが、おのずからにして狂気にかりたてたといってよい。それが十九世紀末の実存の具体的な生き方であった。ロマンチシズムも、その淡いあらわれといってよいだろう。それは現実から眼をそむけ、異常なもの、異国的なもの、ひかげのもの、不健康なもの、落魄したもののなかに、反って美を見出す。世に敗れた者の中に反って高貴を見出し、背徳の中に反つて愉理を見出す。それを美しい言葉で示すものが浪漫詩人というものであろう。  荷風における文人気質の第三の要素は、博雅ということである。博雅というやや生硬な言葉を使ったのは、それが博識とも違い、多知多解とも違うからで、風流韻事といってもよい。ディレッタンティズムと共通した面をもちながら、ディレッタンティズムには欠けている耽溺をもっている。多方面な知識をもちながら、単にそれが知識としてだけではなく、ひとつの見識となり、おのが趣味によって掩われている。荷風は晩年までフランスの文学書を好んで読んだが、その選択も解釈も荷風好みであった。漢詩文にも通じていたが、漢詩一般に通じていたというのではなく、たとえば王次回とか李長吉とかを殊に愛読している。また『下谷叢話』は江戸末期の漢詩人たち、殊に文人的傾向の強い人達を扱ったものである。戯作も多く読んだであろうし、浮世絵にも強い関心を示しているが、その読み方、感じ方は荷風一流のものであって、学者のそれではない。  荷風もまた俳句を作り、書をかき、また多くの雅号をもった。みずからを散人、小史、また山人とも名乗っている。『断腸亭日乗』を死の前日まで書きつづけたのも、文人の伝統に立つものであったろう。私は殊に日記の文体のうちにそれを感じる。試みに昭和十二年九月九日のそれを引いてみよう。 「九月初九。※[#「日+甫」、unicode6661]下雷嗚り雨来る。酒井晴次来り母上咋夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。酒井は余と威三郎との関系を知るものなれば唯事の次第を報告に来りしのみ。葬式は余を除き威三郎一家にて之を執行すと云。共に出でゝ銀座食堂に夕飯を食す。尾張町角にて酒井とわかれ不二地下室にて空庵小田其他の諸氏に会ふ。雨やみて凉味襲ふが如し。」そして母の略記を書いた後、「追悼」として次の二句を掲げている。   泣きあかす夜は来にけり秋の雨   秋風のことしは母を奪ひけり  私は荷風散人の死を動機に、散人において示された文人気質をとりだしてみたいと思った。そして散人から次第に逆に溯ってゆき、文人気質の源にまで達してみたいと考えた。然し私の実力では到底シナにまではゆけない。日本における文人気質の何であるかを倒叙の形で示しながら、その成立を明らかにしてみたいと思った。然しこれは早急な計画であって、十分なことはとてもできない。そしてこういうことを扱った文学史や評論が案外に少いことに気づいた。栗山理一氏とか中村幸彦氏の仕事ぐらいが、私の知りえた参考であった。私は手さぐりでこの未知の世界へ歩み入ったわけである。尤も私は昭和二十七年に出版した『詩とデカダンス』のなかで、殊に蕪村を扱ったところでこの問題にふれている。だがそれは芭蕉との聯関において蕪村を考えたのであって、今日の私の焦点からは少しずれている。私は前著の扱い方を訂正する必要は認めないが、今度はそれに新しいものを幾分かは加えようと思う。      成島柳北  荷風に『成嶋柳北の日誌』『柳橋新誌につきて』の文がある。大正末から昭和初期のもので、ともに柳北に対する傾倒の情を示している。昭和十八年に出版された大島隆一氏の『柳北談叢』には数葉の柳北の写真が載っているが、荷風とどこか似ている。面長で、なで肩で、ハイカラである。柳北は荷風の父禾原とも交りがあったが、荷風は先にも書いたように、新政府につかえ立身出世を説く父に強い反感を示した時代があった。荷風は父においてあきたらない点を、柳北によって充したのではないか。  代々儒者として徳川家に仕えたという名家に生れた柳北は二十歳で奥儒者となり、侍講となり、『徳川実記』の校訂を監督し、また若くしてヨーロッパの学問を学んだ。二十九歳で一転して歩兵頭になり、やがて騎兵頭に転じて、フランス式の軍隊教練を行った。慶応四年即ち明治に改元される直前、将軍慶喜の依頼で外国奉行に就任、会計副総裁を兼ねたが、幕府の倒れるに及んで一切の公職を去って向島に隠栖した。時に三十二歳であった。なお会計副総裁として三千円の年俸をうけていた。これは後年の、たとえば夏目漱石の松山中学での待遇が月八十円で、しかも破格といわれたのと比較すれば超破格のものであり、柳橋で豪勢に遊ぶことのできたのも故あるかなである。依田学海は能吏としての彼を讃えて、「決断如[#レ]流、事無[#二]流滞[#一]、人服[#二]其潁敏[#一]、豈非下奇[#二]於才[#一]者上乎」といったというが、隠退後は専ら「無用人」を粧った。  騎兵頭であった頃の詩、「率[#二]兵馬[#一]、発[#二]太田営[#一]帰[#二]江城[#一]、有[#レ]感而賦」の前半を引いてみよう。   旭日旗頭旭日明 兵馬肅々発[#二]山営[#一]   剣鋩射[#レ]人秋霜凛 銃声連[#レ]雲晨雷轟   一将有[#レ]令万卒応 宛似鐘鼓[#(ノ)]随[#レ]※[#「手へん+過」、unicode64be]鳴   命[#レ]行則行止則止 靴尖斉揚歩々軽  柳北はこれについで紙上プランのみに拘わる「俗吏」を嘲い、「竹帛当[#レ]要身後名」ともいっている。まことに意気揚々たる馬上の青年将軍の姿である。この柳北がやがて向島に「我楽多堂」を建てて、そこに引籠ったのである。大島隆一氏は前掲書のなかで、「旧幕臣といふことは、そのころの柳北に、はつきりと刻みこまれてゐた文字である。それゆゑ榎本武揚たちが新政府につかへたことを、柳北はむしろにがにがしい気持でながめてゐた。かつて徳川の禄をはんだものは、こんにちいさぎよく野に在るべきである。これは当時の柳北の信条であつた」と書いている。『柳北全集』(文芸倶楽部第三巻第九編臨時増刊)の巻頭の『※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]上隠士伝』(明治元年秋、野史氏しるすと末尾にある)はこれを次のように伝えている。 「大痴公曰、隠士生れて、人に短なる所少なからず、色を好むこと甚し、酒を嗜むこと亦甚し、百般の遊戯好まざる所なく、好んで人を罵り、世に悖る、何事をなしても、無益の勉強をなさず、やゝもすれば、懶慢を楽んで、検束せず、これ其短処なり。然れどもまた長処あり、人と争ふ事を好まずして、人に欺かれず、己に私すると雖も、人の害となることをなさず、遊蕩に耽るといへども、常に家国の安危を心にとどめり、これ長ずる所ともいふべき歟。隠士妙齢より今日に至るまで遊戯連年、いまだ其倦たるけしきを見ず、古の所謂情痴者なる者歟、隠士風雲花月の妙処に逢ふ時は、涎を流し、魂を飛し、酒を把て、陶々として楽む、時に詩歌を草す、所謂風流客なる歟、隠士盛宴に臨み、紅裙前に満るに当て、時として感激扼腕、嬌娜の色も眼に上らず、痛憤按剣の志あり、所謂慷慨悲壮なる者歟。隠士頃者一書を読まず、一事を為さず、空々として日を渉る、所謂馬鹿者なる歟、蓋隠士の言に曰、われ歴世鴻恩をうけし主君に、骸骨を乞ひ、病懶の極、真に|天地間無用の人《ヽヽヽヽヽヽヽ》となれり、故に世間有用の事を為すを好まずと、それ或は然らむ、それ或は然らむ。」  若年の荷風は、柳北の「天地間無用人」という生き方、考え方に同感したのではないだろうか。大学予備門としての高校入学を強請し、立身の道につくことを要請した家庭、殊に父の態度と比較したとき、同じ旧幕臣でありながら、風流人、無用人となってくらしている柳北に荷風は反って親近さを感じたのではないだろうか。  然し柳北の無用人ぶりと荷風のそれとはまたおのずからにして違う。柳北は一時なりとも騎兵隊を指揮したという経験をもっている。勇ましい詩を作っていることも既に示した通りである。なるほど『柳橋新誌』第一篇の自序には、「余や狂愚の一書生」と書き、第二篇に附した尭田大島信の序の中では、柳北が「我今無用の人なり、故に無用の書を著して自ら楽しむのみ」と言ったことが書かれてはいるが、柳北の狂愚や無用には、健康で新鮮なものがある。第一篇は柳橋案内記といってもよいが、しかしその中には、例えば次のような言葉がある。「風流の遊は亦何ぞ齪々営々(コセコセケチケチ)の輩と偕にするを得んや。其の偕にすべく語るべき者は、則ち唯天地間第一等の達士、古今第一流の才子のみ。達士や才士や、いづくんぞ多く得べけんや。」「夫れ風月の情事花柳の遊趣、痴に似て痴ならず、俗にして俗ならざる、其の訳は之を自得するに在るか。」第二篇は明治新政府時代の野暮に対する多くの諷刺をふくんでいる。然しその中には、十七歳で死んでいったお清という芸妓に対する次のような弔詩もでてくる。「旧情説かんと欲して聴く人稀なり、涙は満る当年の旧舞衣、借問す嫦娥何れの処にか去る、夢魂長く月中に向つて飛ぶ。」 『柳橋新誌』にみられる右の如き情況は、明治七年からの朝野新聞時代、『花月新誌』時代に至っても変っていない。明治十七年四十八歳を以て肺を病んで死んだ時まで変ってはいない。つまりは無用人といいながら、社会から逸脱してはいない。いわば明治の官権に対して無用をいったのであって、社会に対してそれをいったのではない。だからこそ朝野新聞の社長となって健筆をふるい、社中に『花月新誌』を創めて毎月そこに書きつづけ、しかも両社から月々六百円を貰うという生活ができたのである。当時の福地桜痴が東京日日新聞牡から貰っていた月給も二百五十円という高額のものであったが、柳北のそれとは比較にならない。信夫如軒はその『文鈔』のなかで、柳北の豪遊ぶりを、「その飲むや声妓なくしては楽しまず、頗る一擲千金の概あり」と書いているというが、そういう生活もできたのである(大島隆一著『柳北談叢』による)。柳北の遊びにはデカダンスの影がない。健康でまた御大名式である。全集にある『独語』の一章は柳北をよく語っている。 「あな煩はしの世の中や、既に牧民の職に在れば、議会を開き治法の善し悪しを討論せざる能はず、既に理財の任に当れば、国債を募り、会計の足ると足らざるとを慮らざるを能はず。其の眦を血にし其の拳を石にして、高く論じ細かに議る、亦煩はしき限りならずや。然るに吾人の花月社会に於ては、議す可き事とては無く慮る可き務めとても無し。花開けば其の開くを賞し、花落ちれば亦其の落ちるを憐み、月虧れば共の盈つるを待ち、月陰れば更に其の晴るるを望む、人も取り我れも取れど、真に無尽蔵にして、此処にも遊び彼処にも遊べば、豈帰去来を要せんや、吟ずる者は鶯と互に和し、酔ふ者は蝶と共に舞ふ。金風と玉露と盗跖もその富を奪ふ能はず、毀誉も敢て問はず栄辱も亦何ぞ関せん。一年三百六十昼夜、唯だ花月の情味を甘んじて其他を忘る。誰か吾人の社会の甚だ楽しきを知らんや。」  柳北が花月社会の風流人であったことは、『柳北遺稿』中にみられる多くの風流韻事、たとえば納凉記、観流燈記、看花記、看月記、看菊記、看梅記等々によって十分に推察され、それが江戸の伝統の上にあることも納得されるのである。  荷風の『新橋夜話』の中に収められている『見果てぬ夢』の主人公は、「荒廃衰頽のさまに対して押へ切れぬ詩味を感ずる」といっている。荷風にとっては、すみだ川も深川も荒廃の美であった。※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東もまた頽廃の花の場所であった。花柳の巷への彷徨は粉飾と虚偽の間に兆す夢の場所であることを自覚し、そこになお見果てぬ夢を夢みたということになる。つまりは荷風は明治の児であり、明治から江戸をあこがれたわけで、近代日本への絶望が旧い江戸趣味への憧憬をよび起している。ところで柳北にとっては江戸は現実であり、柳橋はまっとうな歓楽の場所であった。そこはまだ荒廃してはいない。荷風のロマンチシズムは柳北にはないといってよいだろう。  さらにいっておきたいのは、柳北にとっての文学が福沢諭吉等の啓蒙家の実学に対する反撥であったことである。実学を有用の学とすれば文学は無用のものでありながら、柳北はそれに文明の尺度を求めている。『柳北遺稿』下巻のなかの一文を引いてみよう。 「世は開化に進みし歟、曰く然り。世は文明に至りしか、曰く否。若し我輩は何故に斯る奇怪なる答を為すと問ふ者有らば、将に其問に対へて言はん、汽車走り汽船走せ電信達し瓦斯燿く、人民の智見も亦漸く蠢愚の幾分をか脱し去れり。我輩之れを目して開化に進みしと云へるのみ。然り而して今日の天下文学の凋零し、文辞の卑※[#「さんずい+于」、unicode6c59]甚しきを見れば、知らず何れの処に文明の二字を下す事を得んや。夫れ文明とは其邦の文運隆盛にして士君子各其品行を整粛にし、其言辞を高雅にし、所謂郁々乎たるの景況を称して謂へるものに非ずや。我輩窃に今の所謂大家先生なる者(其他は咎むるに足らず)に就て論ずるに、能く高妙の和文を草するか、曰く我輩之を保証せず。能く精巧の漢語を綴るか、曰く我輩之を保証せず。然らば則能く泰西諸国の学士に愧るなき洋文を書し得るか、曰く我輩亦保証の二字を呈し難し。若し然らば縦令其人実学を研磨し、政治律令其他百般の技術に熟達するも是れを文学の大家と称して可ならんや。而して世間の文学の大家の斯く寥々たるは是れを文明の邦と称するも妨げ無かる可きや。我輩は未だ之を信ずる能はざるなり。」  右の文は柳北に諭吉などの実学に対抗しうる文学が現実の力としてあったこと、朝野新聞や花月新誌が対抗の機関であったことを示している。柳北には文学また文辞が何であるか、どういうものでなければならぬか、という悩みはなかった。自分自身がそれを代表していると思っていたのである。そしてこのことが明治十七年に死んだ柳北と、その頃から興ってきた新しい文学、たとえば鴎外や二葉亭との相違であるといってよい。      大沼枕山  私は主として荷風の『下谷叢話』(大正十五年)によって大沼枕山のことを録しておきたくなった。『下谷叢話』は荷風の外祖父、即ち永井禾原に嫁して荷風を生んだ恒子の父鷲津毅堂と大沼枕山の二人を軸にして、江戸末期の儒者また文人の消息を綴ったもので、明らかに森鴎外の抽斎伝や蘭軒伝の手法に倣っている。大沼枕山は鷲津幽林の長男でありながら大沼家の養子となった竹渓の子である。毅堂は幽林家をついだ三男松隠の子である。従って枕山と毅堂は従兄弟の間柄で枕山の方が七歳年長である。  荷風五歳のとき弟貞二郎が生れたので、荷風は下谷にあった鷲津家にあずけられて、そこの祖母によって二年ほど養育され、明治十八年、小学校に上るに当って小石川の実家に帰った。鷲津家には子なく、弟貞二郎が入って鷲津家を継いだ。荷風に『下谷の家』という小品がある。明治四十三年、即ち発売禁止になった『歓楽』の翌年に書かれたものだが、そこでは幼時の記憶をなつかしく綴っている。荷風が幕末の儒者たちの伝を書いたこの書に『下谷叢話』と名づけたのも、恐らく下谷に住み、そこで亡くなった外祖父毅堂を中心にして書きたいという心があったのであろう。ところで書きすすむに従って荷風の同感は毅堂にではなく、枕山の方に寄せられていることに気づく。『下谷の家』には次のような記述がある。 「あゝ下谷の祖父《おじい》さま、其の人の過去に属した存在は少年時代の私の心に如何に幽暗なる神秘の光を投げたであらう。下谷の祖父様は尾州家の儒者であつたが維新の折勤王の志士と交際し三条実美公の知遇を得て明治初期の重立つた官吏になつたとやら。子供の時語り聞かされた斯の如き一家族の歴史は私が成人した後までも長く心の底に動かすべからざる感化を与へてゐたらしい。」  ここで「其の人の過去に属した存在」というのは、祖父の形見である鎧や槍や刀剣のことである。それがうすぐらい床の間に置いてあるのをみて子供ごころにも「幽暗な神秘」を感じたというのである。それはわかるとして、それ以後の文章をどう解したらよいのであろうか。動かすべからざる「感化」を受けたというのだが、その内容はどういうものであったのだろうか。またこの小品の末尾に祖母の臨終が書かれ、死の床にスピンネル博士という「独逸の伯林《ベルリン》から来た宣教師」がいたことが報告されているが、ドイツ嫌いで通っている荷風はどういうつもりでこれを書いていたのだろうか。「鎧と十字架と、全く両立しない二つのものを見た其の下谷の家が、神秘に思はれてならぬ」といわれているだけである。  毅堂もまた父祖の血をうけて、ひとかどの文人であった。成島柳北に招かれて詩会に列したり、「半間社」と名づける書画の会を起したりしている。然し明治改元早々にして、四十四歳の毅堂は新政府に仕えて太政官権弁事となり、二年には陸前|登米《とよま》県の知事となり、二年後司法省に転じ、十年には大審院判事となった。明治十五年、五十八歳を以て歿したが、そのときは司法権大書記で、死に臨んで従五位に叙せられている。荷風は『下谷叢話』の中で、明治十九年に出版された中根香亭の『天王寺大懺悔』という諷刺の書から、毅堂に関する部分を引いている。その中に、毅堂が小造りの「官員体」の人であったこと、身分の進むに従って、「何だかやたらに高ぶつた」ことが書いてある。荷風はそれについて次のように言っている。「毅堂が晩年往々にして人より倨傲の誹を受けたのは全く故なき事ではない。毅堂は三礼の攻究に最力を尽した学者で、其の平生に於ても辞容礼儀には極めて厳格で毫もこれを忽せにしなかつた。且また毅堂は軽々しく人と交を結ばず、其門に来つて教を受けやうとするものがあつても其の人物を見た後でなければ弟子たることを許さなかつた。学者にして斯くの如き性行を有するものは往々誤つて辺幅を修るものと見なされやすい。」荷風の言葉は毫も褒貶にわたっていない。事実を報告して、多少の弁解を加えているだけである。  ところで大沼枕山は従弟の毅堂とは別の道をたどっている。  枕山は明治の新政府には仕えなかった。むしろ新時代に背をむけていた。時事を諷した詞をつくり、政府から糺問を受けたこともある。枕山は明治二十四年に七十四歳をもって歿したが、毅堂に対しては辛辣であった中根香亭も、枕山に対しては非常な敬慕の念を抱いていたらしく、その訃を聞いて書いた次のような書簡を残している。「小生は少年の頃隣家に住ひ居りし故、能く人品を存居候が、翁は実に迂人にて世間利口に立廻る学者の様でなく、誠に貴き所有之人なりき。」信夫恕軒の枕山伝の一節には、枕山の言葉として、「中興以後世と疎濶す。彼の輩名利に奔走す。我が唾棄する所。今寧餓死するも哀みを儕輩に乞はず」を引いている。恕軒は枕山の行状をしるして次のようにいっている。「平素他の嗜好なし。終日盃を手にし、詩集を繙く。尚古人を友とす。看花玩月の外復門を出でず。貌は痩せて長し。首髪種々たるも猶能く髻を結ぶ。一見して旧幕府の逸民たるを知る。」枕山は晩年にいたるまで、というのは憲法が制定され、議会が開かれ、教育勅語が発布せられた時代にいたっても、なほ髻を結んでいたわけである。死後二年にして『枕山先生遺稿』が出たが、それに附した杉浦梅潭の序の中に、「先生詩酒に跌倒し傾倒淋漓、磅※[#「石+薄」、unicode7934]際無し」の句が見える。  こういう逸民ぶりの枕山と官員となった毅堂とのわかれめは、嘉永七年にあったとみてよい。この年の正月にアメリカの黒船が再び浦賀にやってきた。三月に毅堂は江戸橋の料亭で吉田松陰と会談している。松陰がアメリカ密行を企てた数日前である。毅堂には志士たちと結んで事を計ろうとする志があったわけである。この年の冬安政と改元され、幕府は英米露と仮条約を結んだ。志士たちは慷慨して国論は沸騰した。そういう折、枕山は「偶感」という一詩を書いた。自分は俗にそむいていて東奔西走などしない。孤独を守って世事に関しないことを言ったあとに、「莫求杜牧論兵筆、且検淵明飲酒詩、小室垂幃温旧業、残樽断簡是生涯」と綴っている。  毅堂に対しては褒貶の辞を書かなかった荷風だが、枕山のこのときの心情には強い同感を覚えたらしく、次のような讃辞をつらねている。 「わたくしは此律詩をここに録しながら反復して之を朗吟した。何となればわたくしは癸亥(大正十二年)震災以後、現代の人心は一層険悪になり、風俗は弥頽廃せんとしてゐる、此の如き時勢に在つて身を処するにいかなる道をか取るべきや。枕山が、『求むる莫れ杜牧兵を論ずるの筆、且つ検せよ淵明が飲酒の詩、小室に幃を垂れて旧業を温めん、残樽断簡是れ生涯』、と言つてゐるのは、わたくしに取つては洵に知己の言を聴くが如くに思はれた故である。」  荷風はまた枕山の「飲酒」の詩(安政三年)、即ち、時人と相容れざるに至った自分を書くとともに後進の青年たちが漫に時事を論ずるの軽佻浮薄を詈った詩であるが、それを引いた後に、次のように書いている。 「枕山がこの『飲酒』一篇に言ふところは、恰もわたくしが今日の青年文士に対して抱いてゐる嫌厭の情と殊なる所がない。枕山は酔郷の中に遠く古人を求めた。わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以も亦之に他ならない。」  私はみずから「酒痴」といい、「最人」といった枕山に対する並々ならぬ荷風の傾倒を見出し、おのずから外祖父の毅堂に対する態度とは別のもののあることを知った。  私は枕山と毅堂とは明治維新を境にしての文人の二様の生き方を代表していると思う。髻を結んでいた逸民酒痴の枕山と、倨傲の印象を人に与えた司法権大書記の毅堂と、即ち新時代の文明開化に背をむけた文人と、文明開化の浪に乗ってその指導者となった文人との両様である。枕山と親交のあった成島柳北の如きは枕山傾向の人であったろう。然し柳北は朝野新聞社長として野には在ったがなお豪勢な生活を送っている。私は枕山とともに陋巷に酒を飲み、古詩を愛して世に知られることなく死んでいった多くの逸民のあったことを想像せざるをえない。夏目漱石の『猫』のなかの諸人物、なかんずく苦沙弥、独仙の徒はこの逸民の名残りであろうか。  我々の世代はもう漢詩を存分には読めなくなっている。近代文学の濫觴を逍遥の『小説神髄』や二葉亭の『浮雲』に求める近代においては、髻を結んだ漢詩人などはもう問題の外におかれている。しかし、江戸中期以来の文人気質をその本質の姿で伝えているのは反ってこの逸民たちであったろう。伊藤整のいう文壇における逃亡者、実生活、実社会からの逸脱者たち、即ち自然主義以来の私小説家たちも、枕山系の逸民が明治においてなお生存しつづけていなかったならば、現われえなかったであろう。いわゆる破滅型の作家、織田作之助、坂口安吾、太宰治の徒にも、支脈ながら連りはあろう。私はここで『下谷叢話』中に出てくる竹内雲濤なる人物のことを誌しておきたくなった。  雲濤は枕山と深く交った。雲濤は神田旅籠町に住み、海堂詩屋と称した。枕山等と詩会を詩屋に開いた時の句に「客来窮巷深泥裏」というのがある。狭い路地の奥で道はどろんこであったというのであろう。雲濤は酔死道人と号したが、酔死を以て本願としていたという。横山湖山はこの道人の人となりを書いて、「性放誕不羈、嗜酒任侠、動もすれば輙ち連飲す。数日にして止むを知らず。稍意に当らざれば則ち狂呼怒罵して其座人を凌辱す。又甚生理に拙し。家道日に艱しむ。琴嚢書※[#「竹/鹿」、unicode7c0f]典売して殆尽く。是を以て朋友親戚挙つて其の為す所を咎む。而も傲然として顧ず。誓ふに酔死を以て本願となす。奇人と謂ふ可し。」文久二年に、四十八歳或いは九歳を以て歿した。友人西島秋帆の作った墓誌中に、「既に風月を楽み、又美禄に飽く。杯を抛つて一たび臥するや、長に眠つて覚めず。誰か薄命と謂ふ」とある。いわゆる破滅型は昭和の特産ではなかったことがわかる。  枕山系統の人として成島柳北をあげたが、荷風の父永井久一郎(禾原)は毅堂の系統であった。禾原は毅堂の門生であったが、詩は枕山に学んだ。既に書いたように、明治十年二十六歳の久一郎は毅堂の二女恒子と結婚した。明治十年といえば毅堂は大審院五等判事となった年で、久一郎は数年前アメリカ留学から帰り、東京女子師範の訓導をしていた。毅堂のおめがねにかなった人物であったことが察せられる。久一郎がやがて文部省に入り、その会計局長となり、転じて日本郵船の上海支店長、横浜支店長をつとめた。長男の荷風に立身出世を期待したことは既に書いたが、彼みずからそういう経歴であった。  さて荷風自身はどうであったか。荷風が枕山に対する同感の言葉を強い調子で度々書いていることは既に言ったところである。然し荷風は果して枕山流に生きたかどうか。彼が立身出世主義を説く父を俗物といったこと、自分を俗世間からみれば無用者であり、無頼漢であるといったことも既に書いた。彼は詩人を非俗人として設定した。その限りでは枕山流といってよい。然し同時に彼の非俗人たることの標榜は即ち文明批評遂行の拠点ともなっている。彼はみずからを無頼漢として設定することによって、俗世を批評する根拠をみいだした。私は荷風追悼の座談会で武田泰淳が言つている次の点に深い興味を感じた。 「このくらゐ自己主張があつたら、政治家にもなれる。現代がいかにだらしないかといふことを、たえず言はないと、踏み切れない。もともとだらしないことが嫌ひなんだから、そのだらしないところに行くといふことは、非常に憤りがある。その憤りが、もしかしたら一種の愛国心だつたんぢやないか。それが荷風を明確にしてゐるやうな感じがする」(『中央公論』、昭和三十四年七月号)。  愛国心という言葉と荷風の小説とは一見結びつかないようにみえる。然し『断腸亭日乗』にはいたるところに愛国心の流露がみられる。そういう点で国事を論じ、国政に与った毅堂の血が荷風の中に流れていたといえないことはない。父へのいわゆるアンビヴァレントな態度にもそれがみられるだろう。父の死の直後に書かれた『父の恩』については既に書いたからここではいうまい。母の臨終のときにも、見舞うことを意識して避け、長男でありながらその葬儀にも列しなかった無頼の子は、その日記の中に、ひそかに、「泣きあかす夜は来にけり秋の雨」「秋風のことしは母を奪ひけり」の追悼句を書いている。ここにも離れていることによっていよいよ近い慟哭がある。荷風は韜晦することによって、実は現実世界に非常に近いところにいたのではなかったか。そういう一面があったことは否定できない。枕山も毅堂も、もとをただせばともに鷲津幽林の孫である。荷風の中には鷲津家の両様の血が流れていたとみてよいだろう。 [#小見出し]   二 文人気質の成立過程、並びに文人群像  私は永井荷風の死を動機として、文人気質なるものを具体的に究めたいと思い、いわゆる倒叙の形をとって成島柳北、大沼枕山と遡ってきた。然しここまで来て、倒叙の形式では十分に尽しえないことを感じた。もししいてこれをなせば痩せたものになる。ある一つの系統は尋ねうるが、他流にわたることが困難になる。私は倒叙の形を捨てて、寧ろ一気に源流に遡り、そこから下る方法をとることにした。文人気質なるものを綜合的にみようとする場合、そうせざるをえないのである。  いわゆる文人には詩人あり歌人あり、狂歌師また俳諧師あり、画家また篆刻師あり、学者また随筆家あり、好事家もあり書家もあり、またその二、三を兼ねるもの、四、五を兼ねるものもあって多種多様である。そうしてその多芸多才こそ文人気質の性格のひとつである。そういう多種多様な文人を、ひとつの系統をたどることによっては書きつくせるものではない。と同時にまた私の関心は、そもそもから文人気質であって、文人列伝ではないのだから、一々その多様性を人物を通して示す必要もない。何故に江戸中期以後において、多芸多才な文人を生んだかということが中心問題なのである。  ここでも荷風の『下谷叢話』の一節が私によい手引となった。 「そもそも江戸時代の支那文学が稍明かに経学と詩文との研究を分つやうになつたのは、荻生徂徠の門より太宰春台、服部南郭の二家を出してより後のことである。徂徠は林羅山出でて後幕府の指定した宋儒朱氏程氏の学説に疑を抱き、之を排斥して専ら明の復古学を主張し、その才学と豪邁の気性とは能く一世を風靡するに至った(中略)。江戸の詩文は徂徠の古文辞を唱へてより茲に始めて其形式と体例とを完成し、其感情と思想とを豊醇ならしむる事を得るに至つた。然しながら明の復古学は元来古文辞の研究にのみ重きを置いたがため、徒に形式修辞の末端に拘泥する傾があつたので、之を祖述した徂徠の末派に至つては、正徳享保の盛時を過ぎて宝暦明和の頃に及ぶや早くも沈滞して、当初の気魄を失ひ、遂に一転して蜀山人等が滑稽なる狂詩を生むに終つた(中略)。恰好しこの時代に至つて江戸の文物は一般に円熟し、詩賦文章は経学倫理より分離し、純然たる芸術として鑑賞せらるべき気運に到着してゐた。安永天明の時代に在つては狂歌川柳の如き庶民の文学すら既に渾然として其体例を完備させてゐた。されば是より先、儒者の中より詩を専攻するものの輩出したのは敢て奇とするに当らない。」  文人気質の成立過程は右の荷風の提示に肉づけをすれば足りるといってよい。それほどにこの文は簡にして要を得ている。  徂徠門下の春台、南郭によって、経学と詩文が分離したというのは江村北海(正徳三年、一七一三年—天明八年、一七八八年)の『日本詩史』(明和七年)以来の通説といってよい。「物門之学、分而為[#レ]二、経義推[#二]春台[#一]、詩文推[#二]南郭[#一]」というのである。然し徂徠自身の中に既にこの二つの要素があった。私はここでいきおい荻生徂徠(寛文六年、一六六六年—享保十三年、一七二八年)に言及せざるをえない。 「学寧ろ諸子百家曲芸の士たるも、道学先生たることを願はず」(『学則』)。徂徠が口をきわめて罵り斥けたのは、道学先生であった。ここに道学とは主として朱子学また林家の学問を指すが、ときに伊藤仁斎の仁義優先の思想までを含んでいる。道学先生とは、それらを「講釈」することを以て任としている徒をさしている。そこでは素人の耳にも入りやすい通俗的な講釈が即ち儒教であると考えられている。「講釈ばかりを儒者の勤のやうに人々存候より、儒者どもいづれも御用に立たざる事に成行候」と『学寮了簡書』でいっている。  徂徠は当代を歴史的な過渡期として自覚していた。「近世世上学問はやりて、下には能き学者も出来候へども、御家の儒者は、弟子どもまで好き学者出来しを承り申さず候。御家の儒者は林家の流儀多き処に、林家の学問、道春春斎立おき候家法やぶれ、三四十年以来、ことの外衰微仕候」(『学寮了簡書』)。これには甲午七月という日附がついている。甲午は正徳四年(一七一四年)で、吉宗が八代将軍となる二年前である。恐らくこれは時勢の推移をみた徂徠の幕府へ献言した文教政策であったろう。ここに「下には能き学者も出来候」といったとき具体的には京都の一材木商の家から出た伊藤仁斎が頭の中にあったであろう。既に柳沢吉保の家臣となっていた徂徠自身が、林家の朱子学に換り、己が率いる※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園学派を背景にして、天下に己が信ずる文教政策、また政策を実現しようとする決意もこの文には含まれてゐる。  仁斎も徂徠も当時の官学であった朱子学に真向から反対している。徳川も六代、七代にいたってようやく柳営といふ戦時体制から平和体制に移り、羅山の創始した思想統一策としての朱子学に対する自由な批判が可能になってきた。学の自由、思想の自由の空気が流れこんだのである。然し仁斎と徂徠は一面に共通な面をもちながら、また大いに違っている。仁斎は朱子学の窮理の傾向を嫌って、孔子の原始精神は仁義の実行にあったという。道徳を自己の実践によって現実に実現することが中心となった。徂徠は仁斎のいう仁も結局は個人の意志とか心とかにかかわっている、その点ではやはり宋儒と同じではないか、という。仁とは「長人安民の徳」であって、治者の則るべき徳である。仁の実現は従って治国平天下の政治にまたねばならない。ところで古代の唐虞の文化、即ち尭、舜、禹の理想の時代にあっては、それが現実的に行われていた。「先王の道」というのが即ちそれである。易、書、詩、春秋、楽等のいわゆる六経はその記録に外ならない。ここでは、「事」と「辞」とは一致している。「物」と「名」とは相即している。歴史は同時に詩文である。経学は同時に文辞である。ここがいわゆる「古文辞学」の成立する根拠である。「惣じて学問の道は、文章の外これなく候」(『答問書』)と徂徠はいう。古文辞を古代の流通のままに理解することは同時に先王の道を明らかにすることである。古文辞を真に理解するためにはみずから古文辞を使用し、古文辞を以て文を作りうるところまでゆかねばならぬ。そうすることによって、現代において先王の道を実現しうるのである。それが文章というものであり、同時に学問(経学)というものである。徂徠はその『弁道』において次のように言っている。 「不佞天の寵霊を藉《か》り、王李二家(明の王世貞、李攀龍)の書を得て以て之を読み、始めて古文辞あるを識《し》る。是に於て稍々六経を取りて之を譲み、年を経るの久しき、稍々物と名とを合するを得たり。物の名と合し、而して訓詁始めて明かに、六経得て言ふべし。六経はそれ物なり。礼記論語それ義なり。義必ず諸《これ》を物に属し、而して後道定まる。乃ちその物を舍《す》て、独りその義を取る、その泛濫の自肆せざるは幾《ほとん》と希《まれ》なり。是れ韓柳程朱以後の失なり。」  さて徂徠はしきりに「礼楽刑政」を説いている。『弁名』においては、『道は統名』であり、孝悌仁義から礼楽刑政までを含めてこれを道と名づく、と一応は言いながら、やがて「道は礼楽なり」と率直に言いきり、『弁道』においては「礼楽刑政を離れて別に所謂道あらざるなり」と単純に言い放っている。ここから徂徠の政治論、即ち『政談』が出てくるわけで、政治を離れ、実践を無視した道学先生の「講釈」を罵倒する根拠もまたここにあるわけである。道の実現は治者による礼楽刑政によって始めて可能になる。個人の心、意志の修養の如きは第二、第三のことにすぎない。治国平天下が第一で、修身斉家は二次、三次のことである。「たとひ何程心を治め、身を修め、無瑕の玉の如くに修行成就候とも、下をわが苦世話に致し侯心御座無く、国家を治むる道を知り申さず候はば、何の益もこれ無き事に候」(『答問書』)と徂徠は言っている。  徂徠の役割は儒教を修身斉家や孝悌仁義という個人道徳から開放することにあった。国家社会また天下を治めるための具とするにあった。「講釈」が要するに庶民に対する勧善懲悪であったのに対し、治国平天下の王者の道を説いた。それが仁斎を君子と形容したのに対し、徂徠を豪傑といわしめているところである。『先哲叢談』では徂徠の人となりを評して、「其豪邁、卓識、雄文宏詞、一世を籠蓋す」といい、北海の『日本詩史』は、「徂徠才大気豪、言多[#二]過激[#一]、故其行也驟、而其弊亦速」といっている。そしてこの小事や修身に拘泥しない豪邁さが、君子や士大夫に対する文人の生れる条件ともなっているのである。  私は『弁名』の第八則「文質体用本末」に興味を感じた。ここでは「文」とは何かが、やや哲学的に論ぜられている。道は礼楽刑政なり、といわれたことは先に書いたが、ここでは、「古先聖王は天に法《のつと》り以て道を立つ。故に其の状たるや礼楽粲然たり。是れをこれ文と謂ふ」と語られる。道は自然ではなく、先王の作為であるというのは徂徠の持論であるが、その作為した礼楽が相整って粲然たる形状をとったときこれを文という、というのである。狩猟という実用から起った射が、射という礼をともなって文となり、飲食といふ生理の要求から起ったものが、置酒饗宴となって文となるが如くである。実用から起ったものが、その実用性をみたしながら形式化され、それが整然たる体系をなすとき文というというのである。  また文は質と並べて論ぜられている。「質、文に勝てば則ち野、文、質に勝てば則ち史」といわれる。ここでアリストテレス風な素材と形式が聯想されるが、そういう純粋なものではない。質は「質行」といわれ、孝悌忠信の類がこれであるとされる。孝悌忠信の如きは教わらずとも愚民まで合点していると、「学寮了簡書」に書かれていることがここで思いだされる。おのずからの素質であって、教化をまつまでもないというのである。「質にして文なきは郷人のみ」で、これが即ち「野」である。また逆に文にして質行なく、学んでも徳をなさない場合は、唯「記憶」のみであって、それが即ち「史」である。質と文と相かない、「詩書礼楽を学んで、其の言辞威儀煥然たる」ことが、真の文である。いわば社会のなかで現実に行われ、個人の身心にあらわれたものが文である。  このような文は、戦乱の時代には成りがたい。「礼楽は平日にあり」である。新井白石もまた礼楽をいい、文治主義を言ったが、徂徠もまたこれを言っている。開幕以来百年の泰平が、おのずからにして、礼楽や文を言わしめることになったわけである。  徂徠門下には多数の才俊があつまった。『読史備要』が挙げているところだけでも五十人に近い。徂徠がもともと豪放不羈であったために、門下には諸種雑多な人が集った。太宰春台は、「徂徠は其の人を取るに才を以てして徳行を以てせず。二三の門生亦徳行を屑とせずして唯文学のみを称す。是を以て徂徠の門に|※[#「足+斥」、unicode8dc5]弛《たくし》の士多し」(『紫芝園漫筆』)といい、北海は『日本詩史』の中で、門弟には虎威を仮りる者、騏尾に附するものが多く、羊質虎文の徒も少くなかったといっている。  徂徠の治国平天下の論、礼楽刑政の論は、時の実力者柳沢吉保また将軍吉宗と結びついていたために具体性をもち、また力を以っていた。現実の治者の側近であったからこそ徂徠はみずからの学説や政談に情熱をもったのである。然し徂徠の門弟にいたると、そうはいかない。治者を目当にしての治国平天下論を、現実の勢力と関係のない門弟がそれを学びとったところで仕方がないのである。少くとも一部にはそういう気持をもった門弟がいた。徂徠はまた豪放の性格であったので、そういう門弟をも門弟として自己の※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園の中で自由にふるまわせていた。服部南郭(天和三年、一六八三年—宝暦九年、一七五九年)はそういう傾向の代表であった。『先哲叢談』中の南郭の項に次のようなところがある。 「南郭経済を語らず。毎《つね》に曰く、熊沢了海(蕃山)の如き、才経世を抱き、身要地に居る。故に言行はれ功|建《た》つ。世儒の当世を談ずる、或は靡靡聴く可しと雖も、時に施す可からず。彊ひて施すときは則ち果して国を誤る。之を要するに身枢※[#「竹/完」、unicode7b66]に居らず。徒らに弁給己を售《う》るのみ。老子曰く、知者は言はずと。斯の言、諒《まこと》なりと。」また湯浅常山の『文会雑記』巻之五には南郭の言葉として次の如きものが載せられている。「学者の料簡に出て、国を治めばかやうかやうにすべきなど云。この方の理窟を心に持て、時勢をも知らず、大かたは出て経済を以て誤国の罪を得べきものなり。それゆゑ米のことを文に書てをくべしと思ひたれども、又思ふに、左やうに書たればとて用ゆべきにあらず、又書たればとて用らるると用られぬは天なれば、無益なりと思て文にも作らず。大方今の学者は紙上の空談にて、山川をありきたることも無く、民の情合をも知らずして人を治めんと思ふは、にがにがしきこと也。」  私は南郭の『送[#二]田大心[#一]序』(『南郭先生文集第三編』)によって、その行状と思想をここで示しておく。田大心とは如何なる人物かは私には解らない。京都に生れ若いときから江戸に出てきて諸侯に学を以て仕えていたが、故郷の親が老齢になったので、任を辞していま京都へ帰り、隠棲しようというのである。南郭は心をゆるした友の帰郷の旅立を送るにあたって、思わず年来の心の中を吐露してしまったという形のものである。なお南郭はこの文中で、しきりに「吾徒」とか「吾党」という言葉を使っているが、これは徂徠門下中の文人派を指しているとみてよい。原文はもとより漢文であるが、ここでは読み下しにする。 「吾徒の学を為す、固より已に世に贅疣なり」という、徂徠の経世済民の学とは全く反対の言葉を以てこの文は始められている。学問の政治に対する無力、無用がまず語られている。そしてそれについで、寧ろ学の無用が次のような老荘風の言葉で弁護される。「至徳の世、無為にして治を為し、明明として上にあり、済済として位に在りて、民、老死に至るまで逸楽富厚、衣食甘美、以て其の俗に安んずるのみ。固《もと》より亦縫掖空言の徒を竢つことなし。」ここに縫掖空言の徒といったなかには、ひそかに徂徠への反撥をふくませていたかもしらぬ。空言之徒から離れて、「文史星暦、之と伍を為し、医卜有用の士と優遊し、大平の幸民に厠《まじ》る事を得ば亦楽しからずや」という。自分は世の贅疣である学を計らずも学んで、それがついに性となってしまって、いまさらそれを捨てるわけにはいかない。無用と知りながらも、それにたずさわって老死に至るより外ない。せめて孔子の徒であった曾点と志を同じくして舞《ぶ》|※[#「雨/(咢の口口を除いたもの)」、unicode96e9]《う》の志を己が楽しむところとしたい。山水形勝の地に遊び、良辰懐を安んじ、美景心に適すという境に入りたいとそれにつづけて言っている。ところでわが友田大心は故郷の京都に帰り、世から隠れようとしているのは羨しいかぎりである。京都は自然も美しく、林園石泉に富み、上、青山を仰ぎ、下、流水を聴くというめぐまれた士地である。自分も幼い時は京都にいたが、そこを離れて江戸に来てもう四十年になる。いつも京都をなつかしく思っている。大心の帰隠を聞いて羨しく思うばかりでなく、自分の心に慚るばかりである。大心は京に帰れば美しい自然山水の中で琴を弾じ、詩書を誦読し、優游としてくらすことだろう。これ即ち当世において尭舜の化をこうむり、其道を※[#「田+犬」、unicode754e]畝の中に楽しむ仕合せ者というべきである。以上のように言って南郭はこの文を終っている。なお南郭は「送[#三]人[#(ノ)]帰[#二]隠長安西山[#一]二首」を作っているが、その中で「為[#レ]耽[#二]幽討[#一]身将[#レ]隠、好事何妨文且工」といっている。この詩をみれば如何に南郭が婦隠を羨んでいるかが解る。  ここには徂徠のいう礼楽刑政もなければ、経世済民もない。むしろ老荘の無為を理想とし、隠逸無用の徒となることを望んでいる。楽しみは琴と詩書、太平の逸民となって風雅風流の生活をしたいというのである。  なお右の文は南郭の五十四歳頃のものと思われる。南郭が京都から江戸へ出て来たのは十四歳のときであったといわれ、江戸に住むこと四十年と書かれているので、そういう推察がつくわけである。徂徠が歿して凡そ十年を経ているので徂徠の制約を離れて自由になっていたことも推察される。なおこの文を書いてから更に十年を経て京都への旅をした南郭は、帰遊の詩を残しているが、そこでは既に親類も旧知もみな死んでしまって故郷は他郷の如くになってしまった、長いこと人寰裏に流転していたことがおのずからにわかって、愧じ入るばかりであるという意を詠じている。 『先哲叢談』は南郭の人となりや生計を次の如く書いている。「南郭人となり風流温藉、芸苑の士雅慕せざる者なし。其来つて束修を薦むる者甚|衆《おほ》し。大※[#「低のつくり」、unicode6c10]、歳に金百五十余両を得。凡そ儒を以て生理を為す。其饒裕此如き者鮮し。嘗て荘子を講ず。聴徒|寔《まこと》に夥しく、門外市を為す。」また『文会雑記』にも南郭が風流であったこと、講書によつて年収百五十両があったことを誌している。  ここにいう温藉とは他面からいえば常識的であったということを指す。己れの素質に従って過激にわたらなかったことを指す。南郭が七十を過ぎての戯文に『寐隠弁』というのがあるが、それは温藉の内容を具体的に示しているといってよい。世を棄て山林にかくれることを羨まないではないが、自分は元来都会人で体がなまなので自ら耕したり、粗食に甘んじるわけにはいかない。酒を飲んで世の憂いを忘れたいと思うが、自分は胃腸が弱いので痛飲酩酊するわけにはいかない。仕方がないから寐を以て楽とし、眠ることによって無思無慮の境に入る寐隠となろう、等と語られている。自分の制限を制限として意識し、そこを過激な精神主義を以てこえないことを語っているのである。南郭はいわゆる教養人であったといってよい。  次に風流であったということの内容だが、これも芭蕉の風流とは全く違ったものといってよい。『文会雑記』は、「南郭は物ずきありて屋敷かまへの庭の景、竹樹などうゑられし所風流なり」と書き、「唐絵の掛物をかけ、書だななどもあり、水ばちに花をいれ、庭にもいろいろの物をうゑられたり。甚風流なり」等と書いている。風流の工夫が風流であって、風とともに行き、水とともに流れ、造化に従い、造化に帰ることを風流とした芭蕉の心はない。ここにも南郭の教養人ぶり、やがて文人ぶりを見出すのである。  さきに文人のひとつの性格として多芸多才を挙げたが、南郭もまたその資格を十分にもっていた。歌人であり画家であり、書家であり、漢詩人であり、学者であった。その交友の広さ、その人その人の人となりに共鳴しえたことも多才を物語っているといってよい。『南海先生文集』は夥しい数の墓誌、墓碑、墓碣、祭文、序、跋、伝を載せている。それぞれの人をそれぞれの人として誌しているわけでいわゆる多知多解の人といってよい。太宰春台が偏僻のあったことと比較してみれば、いわゆる温藉の性格であったことがわかる。  さらにひとつ、南郭において色濃くでてきた傾向を書き加えておきたい。南郭と十数年の交りのあった高野蘭亭は彼を評して、「平生己の好む所に随ひ、毀誉拘はらず、物と競ふ無し」といったという(『先哲叢談』)。同じことを『文会雑記』は「人にかまはず、我物ずきを立られし人なり」と書いている。ここにいわれている「好む所」「物ずき」は、南郭においてあらわになってきた作詩における自由の心を指しているだろう。文学を経学から開放して、自由な表現としたことを意味している。礼楽の範疇に属するものとして治国の具とされていた詩を解放して、個人の感情の自由な発現としたわけである。このことは次の松崎観海(君修)(享保九年、一七二四年—安永四年、一七七五年)によって十分につくされている。 「とかく詩文は面白くすべし。聖人の定たまひたることに非ず。人倫の教名礼楽治術等、聖人の定たまひたることは少もそれにたがひてはならず。詩文は聖人の定めたまひたることに非ず。とかく面白して後世に伝べし(中略)。経学はとかく聖人の定めたまふあとをさへふまば、それにて其足るべし。詩文は人のあとに立べからず。われと一家をなすべし」(『文会雑記』巻之三)。  この松崎観海の門から大田南畝が出てきたのも故なきことではない。観海はもともと春台の門下であったが、その父の観瀾の墓碑銘を南郭が撰していることをみても、南郭との関係もあったことがわかる。彼は経学を春台に、詩文を高野蘭亭にまなんだといわれるが、こういう二人の師をもったということが、既に経と詩の分離を示しているといってよい。  徂徠及び右のような形で※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園を継承した南郭に対する批評また非難は、この二人の生存中からもあった。林家及び朱子学派からの攻撃もあり、経学中心の考えからの反対もあった。私はここで太田錦城(明和二年、一七六五年─文政八年、一八二五年)の『梧窓漫筆』に示されている反対論を書いておきたい。太田錦城はいわゆる折衷派である。勤倹尚武、勧善懲悪を説く道学先生である。仁義忠孝を飽くことなく説く修身斉家の徒だが、それは学説というほどのものではない。その思想に体系はなく、我とわが心の希望と道義によって、支那日本の古典や人物の行状を批評し、取捨選択を行っているわけである。私が錦城を引くのは、それによってその時代の常識的な通念が、徂徠また南郭を如何に見ていたかを知りうるとともに、裏側から※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園学派の実態を知りうると思うからである。  錦城は儒者の天命は「学を講じ道を明にし、天下の人の惑を解きて天下の悪を戒め破り、天下の善を勧め導く」ことにあるという。それをせずして、「詩酒沈湎華奢風流に陥つて、人の家にては滅亡の助となり、国天下にては、乱亡の助となる者は、儒者の名を冒《おか》して、天道人道を乱る、国家の大蠧賊なり。聖世の戮を免れ難し」という(『梧窓漫筆』巻下)。これは明らかに※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園一統を目当にしたきつい発言だが、巻上の最後のところでそれが具体的に示されている。  学問が変じて老荘放蕩の流となったのは天下の一厄である、修身の術を講ぜずして無用の虚無清談に耽り、その結果「文墨風流」の傾向を起したのもまた天下の一厄であると錦城はいう。「百年前までは、学者質実にて、皆有用の学を為したり。近時物茂卿(徂徠)の徒より、学問皆、空詩浮文に流れて経義道学など講ずる人少し。此二十年以来は、学問益々浮薄にして、書画文墨にのみ走り、風流を以て学問となす。恐るべきの甚しきなり。」「近年は奢侈の余習にて、学者学問して書を読み義理を講ずる事は得知らず、唯書画古器を好み、筆硯文房の具を集て学者の態を装飾し、無学不文にて芸苑へ濫入し、学者文人の名を冒さんと欲す(中略)。典籍、書画器物と一様の玩物となり、学問も風流好事茶人|古《ふる》 董《どうぐや》 の部類となれり。」文政六年に出たこの『梧窓漫筆』は裏面から※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園学派の末流の実態を示しているといえよう。いわゆる無用の事をなす文人たちが輩出してきたことがわかる。さきに南郭が自分の好むところに従って読詩弾琴、山水を友としてわが生涯を送りたいといっている言葉を引いた。これは親しい友人が京都に帰隠する折に書かれたものである。同じく京都生れの南郭にはこのとき多少の感傷が動いたであろう。隠逸の文人になりたいという心が※[#「言+虚」、unicode8b43]であったというのではないが、それが全部ではない。南郭は一面では常識的な世間人であった。『文会雑記』には、「文雅」にすぎることを警告している南郭の言葉が度々引用されている。太平の世には礼楽はもはや無用で、老子の無為の治こそ当代には適当であり、文雅にして駘蕩たることを望んだ南郭ではあったが、この傾向の過大になることを心配もしているのである。学問が「浮過」になり、そのため無頼の徒が出てきたことに心を寒くしていた。錦城のいう玩物喪志の傾向がすでに南郭門下からも出ていたことの逆証明といってよい。南郭の憂慮にもかかわらず、文雅とか文華また浮過へ向って舟をだしてしまった以上、時代が太平の世であっただけに、とどまるところを知らない。また徳川の治政が既に盛りをすぎて頽発の時代に入ったという歴史の事実が、デカダンスを生みだす地盤でもあった。それが狂詩、狂歌を生み、戯文、戯作を生み、また浮世絵を生んだのである。遊里が文化の中心となって、「通」とか、「いき」という通念が出てきたのも当然の成行であった。  私は太田錦城の論を紹介しながら、思わず先へすすみすぎてしまった。『梧窓漫筆』は文政期のものである。私はもう一度延享、宝暦に遡り、文人気質の原初形態を考えてみたい。  私はここで平野金華のことを書いておきたい。金華は通称は子和、本名は玄中、徂徠を物茂卿、服部南郭を服元喬というように、平玄中といった。諡は文荘である。東北地方の生れで、始め医を学ぶために江戸に出たが、医は性に合わず、徂徠の門に入ってやがて儒官として東北の守山藩に仕えたこともある。ときの藩主頼貞公は「書画を善くし、頗る禅を愛し、諸禅客と方外の交りをなして以て相楽しむ」の人といわれている(南郭『守山荘公墓碑』)。奇を以て鳴った金華にとって恰好の主であったわけである。亨保十七年(一七三二年)に、四十五歳をもって歿した。生年は元禄元年(一六八八年)で、南郭より五歳の年少である。  江村北海の『日本詩史』では、金華の詩には甚だ佳品もあるが、またひどくまずいものもある。佳なるものは、その骨格が雄にして華、金石鏗鏘という趣があるが、不佳なるものは浅陋にして支離、剽窃の仕方も陳腐で、まるで別人の作の如き観があると評した後で、「唯負[#レ]才不[#レ]能[#二]精思[#一]」といっている。才気を負うて一気呵成に詩をなすの風で、詩の則などに拘らず、従ってときに支離滅裂、収拾のつかぬものもあるというのである。徂徠はこの新来の弟子を大いに奇として、「進取」なることかくの如き男は未だ見たことがない、論語に出てくる「狂簡」とはかくの如き男を形容したのであろう。自分はこの男の是非の判定をつけかねるといったと伝えられている。私はこの「狂簡」という言葉に興味をもつ。字典によれば、「志大にして事に略なり」とある。出所は『論語』の「公冶長篇」で、「吾党の小子、狂簡にして斐然として章を為す、之を裁する所以を知らず」である。金華という人物はほぼこの狂簡という文字に尽されているといってよい。  原念斎の著『先哲叢談』は、金華を評して、「器宇偉然、才鋒儕輩に出づ」といい、「少《わか》うして曠達、一世を侮弄す。官に服するも尚ほ縦任拘はらず」と書いている。金華を書いてその磊落にして奔放、痛飲して※[#「りっしんべん+亢」、unicode5ffc]慨すに及ばぬものはない。余程の酒豪であったばかりでなく、酔えばひとにからむ癖があった。からんで憎まれなかったのは彼の人徳によるのであろう。金華は豊かではなかったが、猫を愛して次第に繁殖し、ついに十八匹にいたったというが、私は猫を愛するという方にではなく、子猫を捨てえなかったところに反って金華という人物の特性を感じるのである。  江村北海は前掲書のなかで、世間では南郭と金華を並び称しているが、南郭と並べられるのは金華の僥倖であって、過褒というべきである、金華は南郭と兄弟の交りをしているが、詩に於ては格段の違いで、これを並び称するのはもってのほかだといっている。私には両者の詩の品定めをしうるほどの素養がない。漢詩を鑑賞評価することは私には困難である。だから北海のいうところの是非については及びえない。ただこの両人が兄弟の交りを結んでいたことは事実で、南郭の金華を思う情には並々ならぬものがあったことを書いておきたい。南郭文集の各編に収められている詩文の中で、子和(金華の字《あざな》)に贈った詩、子和のことに及んだ文は、数十を数える。南郭はさきにも書いたように常識的な一面があった上に、当時の詩壇のいわゆる大御所であったため、義理によって書いた文章も多く、諸侯のためにその讃辞を書いているようなものも相当に多い。然し子和を語った詩文はそれらと全く違って、南郭の子和を思う深い真情があらわれている。両者がまさに兄弟同様な交りを結んでいたことがわかる。両人の性格、人柄は相当に違っていたが、殊に南郭の側から示されている情は、単なる友人以上のものである。恋情のようなものさえ感じさせる。北海は、金華が南郭に贈った詩の中に、「白髪如[#レ]糸混[#二]弟兄[#一]」の一句のあるのを、礼を知らざるものとして詰っているが、才を負うて奔放不羈であつた金華が、五歳年長の南郭になれしたしみ、甘えていたことがわかる。几帳面な太宰春台は、金華が春台に書を与うるとき、みずからを老とよんでいることを非礼として責めたが、その後も金華は老と書くことを改めなかったといわれる(『先哲叢談』)。南郭には春台のような厳格さは、少くとも金華に対しては示されていない。むしろ金華の増長ぶりを肯定していたのみか、金華に遠慮しているようなところもある。それだけ金華の才を認め、その磊落を愛していたとみてよい。南郭文集初編の成ったとき、享保七年七月の日附で金華はそれに徂徠とともに序を書いている。金華の墓碣を南郭が書いている。太宰春台はその南郭に与えた書簡の中で、「金華平日、足下をば泰山北斗と仰ぎ、徂徠をも足下の御弟子に致度ほどの所存にて候へば」云々と書いている。果して金華が南郭を北斗と仰いだかどうかはわからない。ただ徂徠よりも一層南郭に馴染んだことは事実である。なおこの書簡によって、金華の死後、その子彦次郎の指南役を南郭が引受けたことが解る。  さてその墓碣のなかに金華の人となりを次のように誌している。彼はいつも「俶儻瑰※[#「王+韋」、unicode744b]の事」を好んで人を驚かせようとした。俶儻云々というのは、どうせなさるなら、でかいことなされを、むずかしく云っているのである。また滑稽にして多才、一世を愚弄したので、狂にして奇を好むとひとにいわれた。酒を飲んでは※[#「りっしんべん+亢」、unicode5ffc]慨悲憤、ときに激烈、号泣にいたることもあった。然しもともと善根であったので、憎めない存在であった。殊の外に貧乏であったが、人来ればこれをとどめて置酒、帰るに帰れないほど厚くもてなした。「人を愛する、その天性にいづ」と書き、その死するや、知るも知らぬも皆彼のために流涕したといっている。金華は朝鮮の使節が三河を通過するに当って、そこの藩主から招かれて、書記として接待にあたることになった。そのとき南郭は「送子和序」を作って送別の辞とした。その文でも彼を「奇士」とよび、流俗とおのずから好みを別にしたといっている。もとより貧乏であったがたまたま火災に会い、無一物になった。そのとき南郭に書を送って、吾党は常に造化に還るということをいっているが、いままさに火災によって自然の裸児になったといったといっている。彼はもとより奇であったが、その根柢に老荘風の自然があったというのである。金華の三河にあるとき、南郭が彼を思って詠じた三首があるが、いずれも心のこもったものである。最後の一首の最後のところは、「離情安[#(ンゾ)]可[#レ]諭、且君非[#二]無衣[#一]、努力慎[#二]草露[#一]」となっている。奔放な金華が例によって愚弄したり、※[#「りっしんべん+亢」、unicode5ffc]慨したりして失敗することなきようにとの婆心のほどもうかがわれて、ほほえましい。なお子和が京都に旅立とうとした折に、南郭の彼に与えた文がある。旅仕度は整ったかどうか、出発は何日か等々と書いたあとに、「往反両月不[#レ]見[#二]子和[#一]、離別固[#(ヨリ)]不[#レ]易也。第《タダ》悲歌扼腕、顧[#(ルニ)]非[#二]其時[#一]、亦惟忍[#レ]之耳」と書いて結びとしている。私がさきに恋情の如きものといったのはこういうところを指すのである。  南郭の『歳暮贈[#二]子和[#一]二首』のうちの一つに次のような意をうたっている。  金華よ、君は全く世の無用者だ。ひとと交りもせず、ときに世人を嘲っていたずらに人をして怒しめ、ひどく孤独で自ら悲しむ文章をかくばかりではないか。いつも懶けてばかりいて、醒めた時の少い君だが、殊にこの歳の暮になにをして時間を消しているのかと書いている。最後のところは原文のままに引こう。「歳晩為[#二]何事[#(ヲカ)][#一]、応[#(シ)][#レ]裁[#二]憶[#レ]我詩[#(を)][#一]」。こういう詩をみても、友情以上のものを感じる。  金華の死を悲しんだエレジイが三首あるが、その一では、日に月に竹林に酔わんことを相思うとうたっている。その三では「想来海内風流尽、泣罷天辺草木愁」とうたっている。一世の狂客去って、涙、襟に満つとも言っている。南郭の金華を想う情は尋常のものではない。  以上、専ら南郭と金華との関係をみてきたが、ここに『先哲叢談』から、一、二の挿話を写しておこう。  主君の守山侯が、佳節には新衣を着して見《まみ》ゆべしという令をだした。ところで金華は自分の女房の衣を着て挨拶に出た。お側にいた者がこれをとがめると、金華は従容として言った。薄禄の小臣で新衣を購いえない。仕方がないので女房のやや華なるものを着てまかりでたと。このことが守山侯に伝えられた。侯は即日禄数石を加賜したというのである。これは主君と家臣との関係が、道学先生の思い及ばぬほど自由なものであったことを意味している。  さらにもうひとつ。金華は徂徠とともに一日隅田川に舟を浮べた。金華は師の徂徠に試みに問うた。吉原の倡家はここから東の方向か、西の方向かと。徂徠は東を指して言った。江上に長い堤がある。それが日本堤だ。吉原の妓楼はその堤の下にあると。金華は師の答を聞いて笑って言った。先生の妄言はただに文字の上のことばかりではなく、地理においてもまた妄言をたくましうすると。これは師匠と弟子との関係が、道学先生の眉をひそめるほど自由になったことを意味している。  さきにも書いたように守山の藩主は居士号を義山といった禅家であり、書画を好み、文人禅客と方外の交りを結んだ。金華の死するや侯の嫡子はこれを悼んで、文荘先生という諡をおくり、南郭に頼んで碑を作らしめている。金華の如き放縦不羈、道徳に拘しなかった男をよく仕えしめたのは、全くこの藩主の豁達な精神によるのであろうが、然しこういう主従関係を成立せしめえたのは、その時代に兆した自由の空気であったといってよい。  徂徠との師弟関係においても同様である。徂徠には小事に拘わらない豪邁な大度があった。内弟子の一人が徂徠の侍婢と通じたが、寛容にこれを許したというような逸話、雨森芳洲はその子を徂徠のもとに託したが、いくばくもなくしてこれを引取った。芳洲はその理由として徂徠は一代の豪傑、常儒と同一視すべきではないが、その家塾のやり方は徳行を先にしないために、秩序を失っている、だから子供を安心して託すべき場所ではないというのである。徂徠はもともと仁義孝悌を講釈するを以て足れりとする道学先生たちに反発して立ったわけだから、徳行の徳目を弟子たちにかれこれとはいわなかったに相違ない。一つの才能をもつものは、その才能を重んじて、他を許したであろう。だからこそ金華の如き人物をよくその門下にかかええたのである。これもまた当時兆してきた自由の精神の一表現に違いない。六尺去って師の影を踏まないというところとはかけはなれて、吉原のありかはどこかと、隅田川に舟を浮べて問答し、師の妄言を笑う如き空気は、林家の官学では想像だに及ばないことであったろう。この舟のなかには酒もあり、詩もあり、また女もはべっていたかもしれない。  かくの如き主従関係、師弟関係がでてきたということが、いわゆる文人の世に現われるにいたった社会的また歴史的地盤である。勧善懲悪の道徳、現代の鑑としての歴史、また現在の秩序維持のための学問から解放され、己が「すき」を立て、好むところに従って取捨選択をなし、己が趣味によって自由に批評し評価しうるにいたったことが、文人という自由人、趣味人を生みえた条件である。私はそれを具体的に示している典型として、南郭の在原業平論をここに紹介しておきたい。  南郭はいう。史書に業平の人物を評して、体貌閑麗、放縦| 《ニシテ》不[#レ]拘| 《セ》とあるが、まことにその通りであったろう。その人物や行状はこの二句に尽きていると思うから、ここではそれ以上云々することは無用である。自分の関心はただその文にある。その文は一見なげやりにみえながら実に微妙で、諧謔の語を使いながら気骨を失ってはいない。かくの如き世を玩するの徒は、日常の縄墨規矩を以て是非すべきではない。その色を好んで閨房のことにまで筆をのばしているのは、いまからみれば病というべきかもしれぬが、業平の時代にあってはそれが習いであって、業平だけが好色とはいわれない。ただその好色の事実をいかにうるわしく書きのべているかがここでは問題である。後世がその悪徳たることのみを云々するのはそれを風雅に解しないからである。風雅の道を失っているからである。歌人たちが伊勢物語を珍重してこれを誦してやまないのは、その文を愛するからであって、道学者と違ってまことにわけを知っているものというべきである。南郭は右のように書いた後で、次のような歴史的解釈に及んでいる。  業平の生きた貞観の時代は天皇の外戚たる藤原氏の専権時代で、王家の出であっても政治にあずかることはできなかった。業平は平城天皇の子阿保親王を父として生れた高貴な身でありながら、阿保親王は藤原氏と縁戚がないため志を政治においてのべることができなかった。業平や業平の周囲は、志を政治に断って、優遊としてその好むところに従うという人たちであった。流俗のこととは拘わらない風があった。業平の生き方は、その時代その環境をみれば当然のことといわねばならない。南郭は以上のような歴史解釈をしたあとで、さらに語を換えて、自分はそういうことをいう筈ではなかった。自分はただ伊勢物語の文を愛しているだけであるといって文を結んでいる(『南郭文集』初編所載、「在中将論」に依る)。  私は南郭が業平に同感していることを面白く思う。「身を用なき者に思ひなして」といった業平と、学者が政治を論ずるのは「贅疣」にすぎないといい、「遁るる所は則ち風雅」といった南郭との間には一脈の相通ずる所があったわけである。南郭時代の朱子学系統の儒者には伊勢の好色を斥けた者もあったに相違ない。業平をその文において認め、その風雅を高しとした南郭は、それらの道学先生と軌を異にしていたことがわかる。「放縦不拘」という業平についての評に、南郭は例の平野金華を類推して微笑してゐたかもしれない。  業平の人物や行状の是非に及ぶことを避け、ただその文と風雅にのみ関心を示した南郭の態度は、やがて賀茂真淵、本居宣長等の国学と相通じている。南郭は儒に入る前は和歌を学んだといわれている。また真淵とは交りがあった。真淵は次のように言っているという。「南郭と云し者は、通学の上にて、からの道は無益なる空談にて世の治れる事なきを知りて、よりより人にもいひたり、故にただ詩をのみ作りて心をやるよすがとし、経書の事をすべていはざるなり」(相良亨著、『近世日本儒教運動の系譜』による)。常に排仏排儒を言った国学者真淵が、経書を云々しなかったという南郭を買ったことは当然であろう。また老荘の自然無為の道を尊んだことも両者共通している。ちなみにいえば、私は村岡典嗣氏の『本居宣長』中に引用されている契沖の『勢語臆断』をよみ、南郭の『在中将論』もこれに影響されたのではないかと思った。具体的にいえば伊勢の第四十九段、「昔、男、妹《いもうと》のいとをかしげなりけるを見居りて、うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ、と聞えけり」についての解釈だが、従来の細川幽斎等の代表する道徳的弁解を曲解として、すべてをすなおにありのままに受取るべきだといっている。外典からいえば悪であろうとも、それは事実であったのだから是非をみだりに論じてはならないというのである。南郭が契沖を学んだという実証があるかどうかは知らないが、両者の伊勢観は共通している。  さらにここにつけ加えておけば、真淵、宣言長等の古学また古道は、徂徠の古文辞学から影響をうけること大であったことが村岡氏の前掲書、また同氏の『徂徠学と宣長学との関係』(単行本『日本思想史研究』第三所収)に実証的に示されている。もとより儒学を根本とし、己れを物茂卿と唐風に呼び、東夷とまで呼んだ中国崇拝の徂徠と、漢心《からごころ》の一切を斥け、神ながらの道を言う宣長とはその方向は全く違っているが、その方法は全く共通している。そしてこの方法を可能にしたのは、秘伝の権威や官学の権威を否定した当時の自由な批判精神であった。  安永天明にいたって各地に詩社が結ばれた。南郭の芙※[#「くさかんむり/渠」、unicode8556]館は直ちに詩社とはいえないだろうが、ここには学を習う者と同時に詩客も多く会している。下って安永天明期に入ると盃盤交錯の間に韻を拈り、詩を賦し、互に批評するというような文人たちの会合が詩社を中心にして催された。京都に於ては江村北海の賜杖堂、龍草盧の幽蘭社、大阪では片山北海の混沌社、江戸では安達清河の市隠草堂等である。これらは文人墨客たちのいわばサロンであった。これらの詩社、吟社の流れは江戸末期においても決して衰えてはいない。永井荷風が『下谷叢話』にあげているものを拾ってみても、市河寛斎の江湖詩社、釈雲室の小不朽社、山本北山の竹堤社、さらに下っては梁川星巌の玉池吟社等がある。湯浅常山の『文会雑記』巻之四に、「日本の古へは文物朝廷に盛なれば、文在[#レ]上也。今の世は文章上にはなくて、下にさまざまの学者出来たれば、文は下にありと云ふべきなり」とあるが、この傾向は時代の進むにいたって一層著しくなっていった。地方にも多くの文人、また文人まがいが出て来ておのおのがおのおのの風流韻事に心をはせるという風が起った。天明以後狂詩、狂歌が世にもてはやされたことも不思議ではないであろう。  ここで寛政異学の禁について書いておきたい。寛政二年(一七九〇年)六月に時の老中松平定信(白河楽翁)から林大学頭信敬に対して次のような諭達書が送られた。 「朱学之儀、慶長以来御代々御信用之事にて、既に其方家、右学風維持之事被仰付置儀に候得者、無油断正学相励み、門人共取立て可申儀候。然所近き頃世上種々新規之説を写し、異学流行風俗を破候類有之、全く正学衰微の故に候哉。甚不相済事にて、其方門人共の内にも、右体学純正ならざるの、折節は有之儀に相聞え如何に候。此度聖堂御取締、厳重に被仰付、柴野彦助(栗山)、岡田清助(寒泉)儀も、右御用被仰付侯得ば、態々此旨申談。急度門人共異学相禁之。不限自門他門申合。正学講究致し、人材取立候様、相心可申候。」  この諭達は幕府中心の思想統制であった。この諭達を支持する側の岡定太郎(鼎)が小簗川主膳に答えた『答問愚言』の中でいっていることはこの統制の意味を現わしているとみてよい。 「学は躬行の学にて、気質のゆがみを直す事に御座候へば、すき嫌ひを可申わけに無御座候」といい、すき嫌いを超えた天下の「大権衡」としての学が必要であり、その学は「天下一体一流」でなければならぬと言っているのである。この統制の具体的方法は、『小学』『近思録』等を教科書として用いることである。何故にこのような統制が必要であるかを、西山拙斎はこういっている。仁斎、徂徠以来、程未の学は聖人の道にもとるというような邪説が天下に拡がってきた。その門流は競って門戸を張って新奇を衒い、その好むところに従って各人各説、異学を専らにしている。地方の諸藩の中にはそういう徒輩を儒官にしているものも相当にある。実践よりも詩文を重しとするそれらの学風のために習俗浮華淫靡になって極まるところがない。いまにしてこれを矯めなければ天下の道徳も秩序も崩壊してしまう。異学の禁は緊急の必要事であるというのである。  このような統制に反対する学者も少くはなかった。ひとたび興った自由の精神は、容易には屈服しない。当時七十歳の赤松滄洲は柴野栗山に書を与えて直言し、これを受け、これを聴くか、それとも老中に執奏して己れを罪するか、唯命を奉ずるのみという意気を示している。滄洲のいうところは凡そ次の如くである。享保以来、文学漸く開け、治道ますます備ってきた。この際に当って異学を禁じようとするのは何事か。ところでいま栗山の建言している統制策は、その偏僻のほどは山崎闇斎の徒以上である。迂濶陳腐で、四書小学近思録の外に読むべき書を知らない。栗山は専ら程朱の学に拠っているが、そのためにたまたま宰執、定信の信頼するところとなり、その権勢を頼りにして、宋学以外の学を禁止しようとしている。これは甚だ心外なことで、文学の士で非議せざるものはない。もし小学近思録等の数書の間に埋没するとすれば、其弊はついに不立文字、教外別伝の類にいたるであろう。学者は己れの好むところを自由に学び、それに従えばよい。みだりに統制をすれば「頭巾気習を以て其陋を飾るのみ」という道学先生のみになるだろう。速かに令を出して禁を弛めよ、というのである。  尾張の藩主宗睦に意見書を出した冢田多門も滄洲と同意見で、「学問も必ず程朱之流に無御座候共、人々の好みに任せて、漢魏以上唐宋以下之嫌なく、修行致させ度と奉存候」といっている。  滄洲も多門も、ともに「好み」をいい、各人の好むところに従えといっている。太平の世ではそれで障害も起らないというのである。好むところに従って取捨し選択し、是非を批判するということは、さきにいった自由の精神である。  然し幕府の執政が開幕以来正統の学風としてきた林家に下した諭達書は、地方の諸藩に対して直接の政治的拘束力はないとしても、精神的な拘束とはなる。平野金華の如く、儒官として藩公に仕えながら放縦不羈であるというようなことはありえなくなった。朱子学から古学へ移り、古学から折衷派へと再転してきた学風の推移は、ここでまた一転して朱子学ということになったわけであるが、政治とからみつき、権勢を背景にした学問には、情熱もなければ純粋さもない。外形的に復興した朱子学は、その内面において反って功利的、迎合的となり、他面において志を儒に断ち、修身斉家はもとより治国平天下の礼楽もうるさしとする自覚的な野人無用者を生んだ。金華にはなお儒官として禄を食む一面があった。半官人半野人であった。同じく文人風の生活をしながら、南郭は多くの大名と文の交りをし、それらの墓碑銘を作ったりしている。寛政異学の禁にいたって、全野人、全無用者が出てきた。私はその代表を亀田鵬斎(宝暦二年、一七五二年—文政九年、一八二六年)においてみる。  鵬斎にうつる前に、ひとつの挿話を誌しておきたい。大田南畝に『細推物理』と名づける二巻がある。享和三年(一八〇三年)、南畝五十五歳のときの日記で、当時の江戸文人の生活ぶりを隈なく示しているものといわれている。南畝は幕府の小役人でありながら、一方では文人また狂歌師であった。然しその狂歌狂詩はいわば戯れ、洒落であって豪邁な気性を失っている。こころみにいわゆる文人ぶりをこの日記で探ってみると、正月十九日には、狂歌堂真顔、吾友軒米人、山東京伝、曲亭馬琴等の定連と会して、馴染の芸妓に三味線をひかせて、つまらない狂歌を作って興じている。単にこの日ばかりではなく、「終日聞[#レ]絃飲[#レ]酒」とか、「酒のみ物くふ」の言葉が度々出てくる。葛飾北斎をむかえて席画の会をした日もある。熱海から温泉の湯を樽ではこばせて、これに浴し、温泉水滑にして凝脂を洗うという貴妃の詩をうたって、和製貴妃の到来を待ったという記もある。そういう記事で埋まっている中に、珍らしい一日がある。亨和三年一月十一日、陰寒という日附のある日記である。これは例の寛政異学の禁の公布から十四年の後に当る。  この日、県令岡田清助(寒泉)のところへ古賀精里、尾藤二洲、頼春水、鈴本白藤その他が集った。寒泉に琴碁書画の趣味があったので同好の士が会したということになっている。南畝もその席末に加わったのであるが、これらの連中はみな異学の禁をすすめた当の者である。聖堂に参与している者もいる。官学のお歴々といってよい。いよいよ酒宴となり、まず二洲が正月の会の祝いの詩を呈したが、その終りの四句は次の如くである。「燭影揺描画、棋声雑管絃、狂夫唯傲態、酔語任人伝」。ついで古賀精里が詩をなしたが、その中に、「卜夜酒酣双耳熱」の句がみえる。頼春水は「半醒半酔相談笑」といっている。南畝はこの日記の最後に、「寒泉は平生初更を以て門を閉ざし、出入を禁じていた。吏人の縦放を恐れたからである。ところが此日は禁を忘れて三更に至った。これまた一虎渓というべきか」と書いている。  修身斉家の道学先生が酒を飲んでは悪いというのではない。ただ蜀山人をも招いて琴棋書画の会をひらき、みずからを狂夫といい、酔語人の伝うるに任すといっているのは、まさに彼等の排斥した当の敵である文人と軌を一にしていることを言っておきたいのである。殊にこの夜宴の主人公たる岡田清助(寒泉)は、山崎闇斎系で、陰謀をもって異学禁止の令を出さしめ、林家の名をかりて崎門派の勢力を扶植しようとした当人である。彼は後には儒官をやめて代官となった。南畝の文に「県令」とあるのはそのためであろう。柴野は名は彦助、尾藤は良助、岡田は清助である。定信に招かれて各禄二百石を領した。時人は「三助に六百石は過たもの」といって、ひやかしたといわれる。崎門は偏僻といわれ、狭量といわれている。頼春水も君子の学を云々し、異学の果は禽獣に等しといって、要路に学統統一を献策した当人である。始めは徂徠の古学派に属しながら時勢をみて宋学に転向した男で、当世に合する智者ではあるが、風韻に乏しいと広瀬淡窓に評せられている人物である。学はないがただ書をよくしたとも書かれている。そういう性格のお歴々が、内々では浮華放縦として詰った当の文人と同じようなことをやっているのが興味を引くのである。逆からいえば前記の如き岡田寒泉が、たまたま夜更まで門を閉じるのを忘れた位のことを以て、彼を今様の虎渓だなどと言っている大田南畝の幇間ぶりに興味があるのである。そうしてこういう連中のこういう行状をもって文人のしぐさと言っている後世史家にも興昧はないことはない。さらにいえば化政期の頽廃は、骨なしのそれであったといえる。粛学の張本人であった松平定信も引退後はその浴恩園に詩人文人をあつめたり、『春窓秘辞』などという書物まで求めて、精神的放蕩をしていたといわれている(中村幸彦『文人意識の成立』。——岩波日本文学史近世篇中の一項——に依る)。  さて亀田鵬斎であるが、鵬斎は井上金峨の門下である。金峨はいわゆる折衷学派である。折衷学派の歴史的位置とその性格については広瀬淡窓(天明二年、一七八二年—安政三年、一八五六年)の『儒林評』の冒頭の一文が要を得ている。 「二百年来の儒風、大略三変せり。国初に惺窩羅山の諸公、初て仏を出でて儒に帰し、儒術を中興せり。本邦儒道の中興にして、又程朱学の開祖たり。之に次で藤樹、闇斎、了介、益軒、錦里の諸賢競ひ起り、其人と学と不同ありと雖も、大抵性理に本づき、躬行を主とせり。其志す所、専ら仏法を擯斥して、聖人の道を明すにあり。是一変なり。伊仁斎復古説を唱ふるに及んで、物徂徠之に次で起る。其説務めて宋儒の古を失へることを弁じて、古義を再興するにあり、是に於て儒流の争ひ盛んになり、仏を排するに遑あらず。其学訓詁を精くし、詩文を主として、躬行を務めず。是再変なり。其後伊、物の説盛にして、程朱の学衰へしに、儒者多く浮華放蕩に流れて、躬行を務むる者なし。是に於て世人之を厭ひて、再び宋学に帰する者多し。然れども宋学の弊も亦覧みざるに非ず。故に程朱、伊物の説に於て、互に取捨する処あり。世之を折衷学と称す。当時高名の儒者、十に七八折衷学なり。其行状中頃の放蕩にこりて、少く収斂に赴けり。然れども其利に走ること極て甚だし。是三変なり。凡二百年来儒風人気、大略此の如し。此後如何に変ずべきや予知しがたし。」  折衷学派の特色は動かすべからざる権威の存在を否定したことにある。程朱の権威を否定すると同時に聖人の権威、六経の権威を否定した。人間の則るべき軌範は自己をおいて他にはない。自分が中心となって、是非善悪を取捨選択せよというのである。従って学祖を戴く学派をも否定せざるをえない。師弟相承もまた否定せざるをえない。井上金峨はその『師弁』のなかで次の如く言っているという(相良亨、『近世日本儒学運動の系譜』に依る)。「その可なるものを取りて之を用ゐ、其の不可なるものは之を捨つ」。「孟子の性善、荀子の性悪より降りて程朱陸王及び我が伊物に至るまで、必しも古に合せずと雖も、要は己に得るにあり。」ここでは「己」が最大にして最終の問題となる。折衷学派は、己を唯一の基準にして、学統、学派の存在を否定した。従って折衷学派そのものも、学派としての存在を自己否定せざるをえないのが理の当然として出てくる。各人各説を肯定せざるをえなくなる。自己を唯一の権威として、客体的な権威を否定することが近代の個人主義の性格とすれば、折衷学派はそういう個人主義の上に立っている。そういう点では明治を経た大正期の教養主義と似ている。取捨選択の基準を己の好みにおいて、世界の古典から蜜を吸集しようというのが大正期の教養派であった。江戸末期の折衷学派は己れを中心にして儒学の諸学派からその好むところを取ろうとしたわけである。ここで己れとか個人の自覚は兆したわけだが、個は確固としたものではない。確固としない個からは終始一貫した学の体系は生れ難い。また終始一貫した道の行者にもなり難い。前記の広瀬淡窓が、当代の儒者、十人のうち七八人は折衷学派だが、「其利に走ること極めて甚だし」といっているのも当然の成行として出てくる。御都合主義、日和見主義となるわけである。寛政異学の禁に会って、異学たる折衷学派が動揺したのも無理はない。新に官学とされた朱子学また宋学に転向し、三助といわれた柴野、尾藤、岡田の聖堂門をたたくにいたるものが出てきても不思議ではないのである。  さて亀田鵬斎は金峨の門下である。折衷学派である。然し、淡窓がいうように、利に走ることをしなかった。折衷学者は、徂徠門下の放蕩にこりて、少く収斂に赴いたと淡窓はいっているが、鵬斎は例外であった。彼はこの学派において特にあらわれてきた「己れ」を強く持した。折衷派に属しながら南郭に強いつながりをもち、詩文をよくした。異学の禁に会って、門下千人といわれた家塾を閉じて酒徒となって放浪した。私は鵬斎自らの書を探してついに求めえなかった。ここでは諸家の誌す断片を綴り合せて鵬斎なる特異の人物を示すより外に仕方がない。  鵬斎は書画を好くしたが、それに書き入れた名は二十数種に及んでいるという。風顛生、太平酔民、惰々子、老鈍、斗酒学士、塵寰狂夫の類である。彼は官儒の側から冢田大峯等とともに江戸五鬼のうちに数えられた。盛んであった家塾は、一人去り二人去って、遂に門を閑じなければならなかった。彼は異学の禁という弾圧政策そのものに対して怒ったとともに、権力に屈して官学に転向し、自分のもとを放れてゆく者に対して怒とともに悲しみを感じたに相違ない。自分は何のために学塾を開いていたのか、そこに集った門下は何のために学んだのか。信を教え、誠を教えた果がかくの如くだとすれば教えること自体が無意味ではないか。元来折衷学派は権威を外《そと》におかない。自分の心、己れの判断に重きをおく。その学派から個人たのむに足らず、人心拠るに足らずという結論が出るということは致命的といってよい。現に千人に余った門下は、官学という権威に屈したではないか。己れの心、己れの好みをすてて立身出世の道を選んだではないか。「吾事已んぬ」がこのときの感慨であった。そういう現実認識が彼をして「関東第一風顛生」と自ら名乗らせ、詩酒に沈湎して狂夫、酔民を名乗らせたのではないかと思われる。そして鵬斎の鵬斎らしさは、終生その風を変えなかったことにある。鵬斎の父の生地は上野国五箇庄村であるが、若くして水戸に出て鼈甲の製法を学び、江戸に来て馬喰町の鼈甲商長門屋に奉公し、やがて迎えられてその家を継いだといわれる。この父は元来学を好み、殊に禅に馴染んで、家に雲水を多く泊めたという。たまたま来泊した老僧が、幼い鵬斎をみて、その頴資を見ぬき、学に専心するようにすすめたという逸話が伝えられている。そういうことから私は想像するのだが、鵬斎の中には禅骨があったと思う。後に触れるが、抱一、良寛との交りもこの禅骨の然らしめたものであろう。  文化十二年に版になった『都下名流品題弁』という戯文集がある。編者は未詳である。この編書の冒頭に、角力番附になぞらえて当時の文人たちの品定めを載せている。大窪詩仏、菊池五山等のいたずらであるといわれる。それには東の大関に鵬斎、西の大関に谷文晁を挙げ、東の関脇は詩仏、西は五山、以下十六人である。行司の一人に大田南畝、勧進元の一人に抱一が加わっている。  文化十二年といえば寛政異学の禁があってから二十五年を経ている。異学の五鬼の一人に数えられた鵬斎はいまは酒徒となったが、やはり人気はあったらしい。もちろんこの番附に対して「愛僧を以つて優劣を為し、大いに公議を犯す」というような批評もあったが、同時に鵬斎に対する讃辞もまた多く載せている。鵬斎を以て「新状元」としているものが多い。第一人者の意である。試みにその二三を引いてみよう。   経学文章占[#二]旧門[#一]  白頭爛酔隠[#二]寒村[#一]   曲江院裏春風満  博得当年新状元  これは葛西因是の作である。   投[#二]老田園[#一]掩[#二]竹門[#一]  誰知名士在[#二]寒村[#一]   惜君豪気未[#二]除去[#一]  枉被[#三]人呼[#二]新状元[#一]  これは錦城の息太田敦のものである。   当年儒雅在[#二]君門[#一]  晩節屏[#レ]蹤水竹村   白頭所[#レ]得何栄幸  一榜双題画[#二]状元[#一]  これは太田錦城のものである。  詩の佳不佳は問うところではない。経学を去って河畔の寒村水竹の村に隠れ、爛酔して白頭をゆるがしている鵬斎になお世間が拍手をおくっているところに興味がある。この裏にはさきに引いたように、「三助に六百石は過ぎたもの」といって官学の三人男を冷評した世間が存在しているわけである。  天保年間に出た『当世名家評判記』の序の中に鵬斎の言として次の如きものが引かれている。「者《しや》なる者《もの》は一ならず。役者第一、芸者第二、医者第三、儒者第四、占者第五、神道者修行者第六七。拙者は遠国の勤番者、おのづから此の数の中に在らず。」幕末のしゃれ、ざれの世界を示しているのだが、「放屁《へつぴり》儒者」や「偽造《にせ》文人」と類を異にしたところに鵬斎がいたということは解るというものである。  私はここで酒井抱一(宝暦一一年、一七六一年—文政一一年、一八二八年)と鵬斎との関係を、抱一側の資料によって書いておきたい。資料といっても、昭和二年出版、日本美術協会報告第六輯の『抱一上人』所載の年譜だけである。然し相見香雨の編輯によるこの年譜は『軽挙観句藻』その他酒井家所伝の根本資料に拠っているもので、信をおいてよい。  抱一は播州姫路十五万石の藩主酒井雅楽頭忠恭の世子忠仰の次男として江戸に生れた。大名の子としてまた元来風雅の家柄の酒井家の血を引いて幼い時から武術とともに俳諧や仕舞を習い、青年に及んで国学、儒学を学んだが、同時に蜀山人について狂歌に興じたりした。二十五歳頃(天明五年)には歌川豊春流の浮世絵を書き、松平不昧の席に加わって茶道にも親しんだ。三十歳(寛政二年)のとき、それまでいた本邸を出て蠣殻町の中屋敷に移った。このころの俳号を「筥崎舟守」という。三十三歳(寛政五年)に江東の番場の河岸に移ったが、この地は文人墨客の集るところであった。三十三歳の若さで隠居の身となり、閑寂の地に隠棲したわけである。このころしばしば吉原に遊んだことは「夜は明てまた虫はなく別かな」「暁の枕に入るや雨の雁」などという遊里の句のあるところからも察せられる。三十七歳(九年)に西本願寺の文如上人の江戸へ来たのを機に出家剃髪して僧籍に入った。さきの隠居といい、この出家といい、その由って来るところがあったに相違ないが、確とした記録はない。ただ次のことはありうべきこととして挙げられる。松平定信の寛政の改革、なかんずく異学の禁について抱一は不満を抱き、意見書を老中定信のもとへ提出した。酒井家の家老たちがこの改革反対の意見書が一家に患いを招くのを恐れて抱一を隠居さらに出家せしめるという計いに出たというのである。もともと自由な文人肌であった抱一が定信の統制政策を快く思わなかったことは自然といってよい。抱一は出家の折、「いとふとて人なとがめそうつせみの世にいとはれしこの身なりせば」の歌をつくったという。彼もまた異学ではなくとも異端の一人であったのである。翌十年に千束の「いとせまき住居」に居を移し、さらに浅草の弁天の池のほとりに幽棲した。僧籍に入ったがそれは名だけで吉原通いはやんではいない。  記録の上で鵬斎の名で出てくるのは享和二年、抱一四十二歳のときからである。鵬斎はこのとき五十一歳であった。この年の五月、抱一は鵬斎と谷文晁を誘って常州若芝の金龍寺へ出掛けている。そこにある東坡の像を写し画くのが目的であった。文晁が二本臨※[#「莫/手」、unicode6479]して、同行の二人に一本ずつを献じたが、鵬斎がその由来記を書いている。抱一は鵬斎とは「断金の中」だと後にいっているが、この親交は恐らくこの頃から始ったのであろう。ともに定信によって斥けられた仲であるのみか、その世を捨てた文人ぶりに於て共通していた。前記の名流番附の勧進元の一人に抱一の名のあげられているのも故なきことではない。ちなみにこの番附の世に売られたのは文化十二年であるが、同じ年の十一月、千住の中六亭において競飲大会が催され、これを記録した『闘飲記』が伝わっている。いま相見氏の年譜の文をそのまま引こう。 「巻頭には文晁の太平余化の四大字あり、次に鵬斎の高陽闘飲序、蜀山人の後水鳥記、文晁文一合作の酒戦場内外の絵、寛斎詩仏の詩文、大玄斎素川が六大盃の画などがある。元来抱一は下戸で此会に出席する資格はないのであるが、鵬斎抱一文晁の三幅対男はかかる場合には引張出されねばならぬ人物、殊に千住には懇親な鯉隠がゐるから、右三老を主賓として招待したのであらう」といい、蜀山人の『後水鳥記』からその光景を叙した一部を録している。 「賓客の席は紅氈をしき、青竹をもて界をむすべり。所謂抱一君、写山(文晁)鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ女四人、酌をとりて酒を行ふ。写山鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小盃のめくれる数をしらず。」  以上の『闘飲記』所載の人物の大半は前記の番附に顔をつらねている。またこの番附を載せている『名流品題弁』には翌十三年の日附のある文も輯録されているので、この闘飲会の行われた十二年の十一月は、都下にこの番附が噂話の種になり、文人たちの間に喧伝されていた頃に違いない。そういうことを前提においてこの飲会は開かれたものと思われる。いわば反官学、反道学の異端の徒のうさばらしであったろう。なお前記『年譜』には、文晁の養子文一の筆になったという闘飲記図巻の一部分を載せている。抱一、鵬斎、文晁の風貌もさることながら、当時のいわゆる文人墨客たちのいわゆる書画の会がいかなる様相のものであったかも察せられて興味深い。  抱一鵬斎の深い交りは終生変らなかった。文政九年三月九日に鵬斎は七十五歳を以て歿したが、その一周忌に、抱一はその墓のある今戸称福寺に詣でて、追悼の歌一首をつくっている。「いかにせん賢き人もなきあとに、ことしもおなじ花ぞ散りける。」抱一が六十八歳を以て歿したのはその翌年の文政十一年である。笹川臨風は抱一をよぶに「天晴れ風流随一の通人」を以てしている。  ここに鵬斎の「放歌」という一首を引いておこう。   人竢[#二]河清[#一]寿幾何  功名富貴亦無[#レ]多   古今興廃一邱貉  日月往来雨擲梭   秦朝草荒埋石馬  漢門霜冷仆[#二]銅駝[#一]   桑田碧海須臾夢  我学[#二]一盃[#一]君試歌  さらに越後の良寛(宝暦八年、一七五八年—天保二年、一八三一年)のことを書いておきたい。鵬斎と良寛とに関してこれもまた有名な逸話が伝えられている。森銑三の『近世高士伝』は松島北渚の『良寛伝』を収めているが、その中に次のような記録がある。「江戸の人亀田鵬斎北越に遊びて良寛の書を観て大いに驚きて往いて其の居を訪ふ。たまたま良寛坐禅す。鵬斎侍坐すること半日、良寛其の俗士に非ざるを察して、款晤※[#「日/咎」、unicode6677]を移せり。鵬斎退いて喜びて曰く、吾草法に於て一格を長ずと。鵬斎は草書を以て天下に名ある者、亦以て良寛の是の技に於て精なるを想ふべきなり。」森氏はまた中村確堂の『釈良寛伝』を紹介しているが、その中にも右と同様な記録がある。また芳野金陵の『了寛伝』をも載せているが、それには、「鵬斎北越に遊び、※[#「竹/(工+卩)」]を停むること三年」とある。鵬斎が一日荘子を講じているとき、良寛がたまたま来会したが、笑いながら鵬斎にむかって、「先生妄言、已めよ、予妄聴に倦めり」といったことも書いてある。良寛と鵬斎とは、しばしば往来したともいっている。鵬斎の北越遊行は文化七年の頃といわれている。六十歳に近い頃である。良寛は鵬斎よりも六年年少であった。  この二人についてはまた次のような逸話が残っている。長岡市の本町三丁目に上州屋という醤油屋がある。この店のために良寛が、「酢醤油 上州屋」という招牌を書いてやった。ところがある日、品のよい老人が入って来て、お店の看板はどなたの書か、と訊ねた。良寛の筆だと答えると、その老人は言った。良寛さまの書を店頭に曝しておくのはもったいない。蔵の中へ入れて大切にしまっておけ、代りは私が書いてやろうといって老人は筆をとった。この老人が鵬斎であったという。鵬斎筆の看板を出しておくと、しばらくしてまた一人の男がやって来た。鵬斎先生の書を雨曝らしにしておくのは何事か、代りは私が書いてやるから大切にしまっておけ、といった。これが巻《まき》菱湖であった。菱湖は市河米庵と並び称された書家である。同じくまた他の一人がやってきて、菱湖先生の文字を云々と同じことをいい、代りを書いてやったのが富川大塊という書家であった。『良寛』の著者東郷豊治氏はこの四つの看板を実際にみたといっているから、まんざらのつくり話ではあるまい。大塊、菱湖、鵬斎、良寛という順位がおのずからにして示されていて、そういう点からいっても面白いものだが、私にはまた別の関心がある。  そのひとつは、雪の深い越後にも、遊歴の文人墨客が多くの足跡を残しているということである。単に良寛という風変りな人物が其処にいたから、それを慕って文人たちが訪ねたというわけでもない。一般に幕末まではそういう遊歴の詩客書家が思いの外に多かったのである。別な側からいえば、地方にそれらの墨客たちを迎えて、これを遇するパトロンたちがいたということである。江戸時代の地方文化は、今日の我々が想像しているよりずっと高い。質においても量においても高かった。たとえ中央に名は聞えなくとも、また版となった文字を残さずとも、詩人、歌人、俳人、また書家が、それを業とはしないながらに田舎にかくれていたのである。私の郷里は信州伊那であるが、明治の初め越後から流浪してきて、伊那におちつき、「何処やらに鶴の声きく霞かな」を辞世の句として、路傍に死んだ井月と、井月をとりまいた伊那の宗匠たちを想って、右のようなことを考えているのである。乞食井月といわれたこの人物の学識も相当なものだったが、井月を保護し、井月をかこんだ伊那の田舎文人たちの教養も、見さげたものではない。そういう連中の句集も残っていて、それが察せられるのである。この推察が偏したものではないことが、斎藤隆三の『近世世相史概観』によって保証される。そこにはこう書いてある。 「各国に城下町も多かつたが、それから離れた農村山邑に至つては、在来交通に恵まれぬまゝに、文化も後れて進展観るべきものもなかつたが、それも泰平の永続きによつて、此頃(文化文政期)に及んで漸くその恩恵に浴するやうにもなつた。それには暮し向きの安易なるがまゝに、農村に位置をなす豪家などには、たへず地方巡歴の学者俳人画家などの廻り来つては、一月二月或は一年二年の多きさへ寄寓するものがあつて、おのづから習を為したが、それ等の輩の手によつてもたらされては、文化の流通普及に甚大の効果を致したことなども否めない事実とする。かくて寒村僻地にも存外の文運の展開を観たものもあつた」(一六〇頁)。  私は良寛書簡集をみて、良寛の周囲に相当な文人また蔵書家のあったのをみる。いんきんたむしの薬をたのむというような手紙とともに、古典の拝借を乞う手紙が多い。万葉、古事記、万葉略解、李太白、杜子美、王羲之の法帖、趙州録、そういう名が挙げられている。越後にも家業のかたわらに、そういう教養をもっていた人たちが多くいたのである。  私はここで良寛私観を書いておきたい。私は良寛にも時代の制約をうけて、文人墨客風なところがあったと思う。ただ文人でありながら文人を超え、墨客でありながら墨客を超えた唯一人であったと思う。そしてこの超脱を可能にしたのは禅である。南郭にしろ、金華にしろ、また鵬斎にしろ、みな無用人、風顛生とみずからいったが、彼等はみな儒の出であった。儒から出て儒に反抗した。古文辞学を以て朱子学に、また折衷学を以て官学である宋学に反抗したのである。彼等は儒でありながらともに老荘を好んだが、そこにとどまり、そこを出なかった。わずかに鵬斎において父の影響による多少の禅味をみるのみである。文人となって世俗や権威に反抗したが、その離俗や自由は同時に詩酒に沈湎し、花柳の狭斜に流連する放縦を意味してもいた。そこにはデカダンスはあったが、同時に自己満足、自己陶酔があった。文人墨客たちの書画の会、詩酒の会はそういうものであった。白河楽翁公定信の寛政の改革、即ち勤倹尚武の政治を冷笑して、「万代にかかる厳しき御代ならば、長生きしても楽しくもなし」「白河の清きに魚のすみかねて元の濁りの田沼こひしき」というような落首があったが、そういうものの示す空気と共通のものがそこにあった。蜀山人に「詩は詩仏、書は米庵に狂歌おれ、芸者小万に料理八百膳」の狂歌があるが、文人や墨客が芸者や料理人とならべられているわけである。  和田香雲が良寛上人と鵬斎の書を並べてみて、「上人は無為、鵬斎は有為」と評したということが、前記東郷氏の著書にでているが、鵬斎の書は巧みであろうともなお己れを脱してはいなかったであろう。良寛も大愚、風顛であり、鵬斎もまた風顛であったが、鵬斎のそれにはなお反抗意識が残っていて、己れの優越を意識するところがあった。良寛はそこを超脱しているのである。然し良寛もまた鵬斎の不羈にして拘泥のない点を認めて心を許していたことは良寛の次の詩によってもうかがわれる。鵬斎※[#「にんべん+周」、unicode501c]儻士、何由此地来、昨日鬧市裡、携手笑※[#「口+台」、unicode548d]々。  良寛に九十ヶ条の「戒語」がある。その第一は「ことばの多き」であるが、中に、「学者くさき話」「風雅くさき話」「さとりくさき話」「茶人くさき話」があり、別本の「戒語」の中には、「学者めきたるはなし」「さとりくさきはなし」「風雅めきたる」がある。良寛が如何に「くさき」と「めきたる」を嫌ったかがわかる。似而非なるもの、擬似、擬装、天真に出ないものに我慢がならなかったわけである。古来良寛伝は「不[#レ]好[#二]流俗事[#一]」とか、「幼而不[#レ]甘[#二]流俗[#一]」とか「少有[#二]抜俗之韻[#一]」とか、そういうことを挙げないものはない。しかし叛流俗を気取ること、風雅めいて文人くさきことを更に一層斥けていた。良寛は自分の性に合わないものとして「詩人の詩、書家の書、膳夫の調食」の三つを度々挙げている。良寛の道友大忍は「良寛禅師、如[#レ]愚又如[#レ]痴、身心総脱落」といい、「騰々任[#二]天真[#一]」とまた言っているが、未脱落のもの、天真ならざるものを遠ざけたのである。「城中乞食了 得々携嚢帰 帰来知何處 家在白雲陲」の詩、「いざ歌へ我立ちまはむぬば玉の今宵の月にいねらるべしや」の歌が良寛の境涯であった。  私はここで一転して上田秋成(享保一九年、一七三四年—文化六年、一八〇九年)のことを誌してみたい。余斎、無腸翁、剪枝畸人、和訳太郎、鴨塘乞丐翁等と名乗ったが、この名だけをみただけでも、世をすねた者であったことがわかる。不思議な才能、つまりは尋常の能才とは類を異にする才能をもちながら、世俗を信ぜず、文人をも信ぜず、己れに強く執しながら時には己れ自身さえも信じないというほどの己れを底の方に持って世に臨んだ。儒者から出た文人、儒を以て諸侯に仕えたものは、たとえばあの無頼放縦を以て鳴った金華でさえ儒官として収入をえていたのである。異学の故を以て追放された鵬斎においても全く権門との関係が断たれていなかったことは、異学の禁令を出した当の白河楽翁定信が、自分の「後園の記」を書いて貰いたいと鵬斎に頼んだところ、鵬斎がこれを筋違いの依頼として拒絶したことが佳話として伝えられていることからも察せられる。儒家出の文人で仕官しなかった者は稀であったといってよい。稀に仕官せずまた致仕した者があっても、多かれ少かれ諸侯と関係をもち、またみずから詩社吟社を開いて門戸を張って酒撰豊かな者が多かった。画家また墨客も己が書画を以て権門や富豪に近づいた者が多い。定信に接近して勢力を張った文晁の如きもいた。上田秋成はそういう儒者また墨客に対して強い批判を加えている。「儒者も今の世のは文章詩作の商人で(中略)、世をみれば、酒のんで餅くふて、こい茶ねぶつて風流じやと覚つた人のみ也」(『胆大小心録』「書おきの事」)。  秋成はみずから「生れて父無し、其の故を知らず」と書いている。父についても、母についても詳しいことは知られていない。四歳で大阪堂島の油と紙とを売る嶋屋という一商戸の養子となった。養父は教育に熱心で、当時の文雅な教養の一切を秋成につけさせようとした。秋成もそれを利用して肉体の放蕩とともに精神の放蕩をした。五井蘭洲について漢学を、青年期には勝部青魚とともに俳諧を、木村蒹葭堂を相手にして茶を、富士谷成章とともに日本古典を、賀茂真淵を先達として和歌を、都賀庭鐘とともに中国の小説を、といった具合である。然しそれらはみな「独学のあそび」であったと彼はいう。「此すぢゆけ、と(師に)示された後に、又それよりよい道を見付けて学ぶが、真の好者《すきしや》じや」ともいう。「文雅に友なし」ともいう。「我をなぐさむる心、人のなぐさむとは異なり。我非彼是、彼是我非、我佗彼此のたがひなり」ともいう。「山の大将我一人、お相手がござらしやるまい」ともいう。それが彼のいう「わがまま」ということの意味である(以上、『胆大小心録』より)。彼が余斎と名乗ったのは、また和訳太郎と戯れたのは、単に世俗にとっての無用者、いたずらものを意味したのみではない。文人仲間からもはずれていたことを指す。秋成はこの孤独な境に堪えて、強烈な自我意識をもっておし通した。その「わがまま」ぶりの一端を同じく前掲書の中から随時に拾ってみよう。  柿本人麿は、やつし形の女房ぐるい、大伴家持は婬首、貞徳も宗因も芭蕉も、皆口がしこい衆で、つづまる所は世わたりにすぎぬ。檜の木笠、竹の杖とは田舎商いの上手者じゃと秋成はきめつけている。儒者で文人の皆川淇園はあほう、その弟は女ずき、中井竹山は山師、その弟の履軒はにせもの、伴蒿蹊もまたにせもの、国学の本居宣長は文学を知らない田舎者だまし、建部綾足は漢字のよめないわろ、といった具合である。画家の応挙、大雅、蕪村も、金に応じてわけのわからぬものをいくらでも書く商売人といわれ、わずかに、知己として江戸の南畝、京都の村瀬栲亭、小沢蘆庵があげられているが、栲亭もまた別のところでは小才がきくが風流しらず、南畝の狂詩狂歌は下手ときめつけられている。そして儒者、歌人、文人、ひっくるめて「あわれの者どもぢや」と総決算の一句でやられているのである。  然し私が真に秋成の秋成らしいところと思うのは、右にしるしたような、人をやっつけて快を叫んでいるところではない。秋成は自己の属する世代を小つぶの時代、下降堕落の時代として自覚していた。「詩人の書生|涌《わ》けども涌けども傑出なし。ないはづ也。師の半徳をさへ得かねる事ぞ。その師の徳が又さきの師の半徳なるべし。なんで段々おとる事じやしらぬ。」相撲取もその例にもれず「小魚の盆池にあそぶやうな」者のみになったとなげいている。そういう時代にあって、秋成もまたこの時代の中にあることを自覚していた。歌の師匠が新弟子の秋成に向って、お前は貫之、定家の才能があるといっても、それを阿諛としてうけながし、俳諧の素質があるといわれても信ぜず、友の蘆庵に歌の師匠になれといわれても、人の愚を賢くするほどの力はないと答え、総じて世間の口車に乗らないところがあった。こういう心は『胆大小心録』異本の次の言葉につくされている。もとは漢文だが仮名まじりにして録することにする。秋成は無腸と号したが、無腸とは蟹のことである。 「蟹石翁なる者あり、形、醜なるのみならず、心亦醜なり。横行を以て直となし、眼は高く腹は大なりと雖も、性は躁にして※[#「日+之」]々として志変り、二螯八脆の剛、以つて人恐れず、口吃りて常に涎沫流れ、言語分らず、螯を以て筆となし、理論弁説を好めども、人必ずしも其言を用ゐず、ここにおいて崖下に穴居し、一天地ありとなす。春秋順ならず、花卉鳥虫時なし。近(近は余の誤りか)曾発憤して言ふ。『人は美といふ、我これを見て醜となす。美醜相分れず、則ち又善悪邪正あるなし』と。甲堅く螯振へども、遂に爪折れ、身廃物となる。ここにおいていよいよ逡巡し、独幽を守るのみ。」  秋成はみずから「五歳の時、痘瘡の毒つよくして、右の中指短かき事第五指の如し、又左の第二指も短折にて用に足《た》たざれば云々」といっているが、この指の不具が彼の性格をかたくなにしたという者もいる。そういうこともあったろうが、事態はもっと深刻なところから兆している。  人を信じず、また学説を信じず、慣習道徳を信じなかった秋成に残されたところは、ただロマンの世界であった。現実社会において孤独であり、自己自身をもまた頼まなかった彼は、ロマンの世界においてひとつの協同体をみいだした。ここでは故人と自由に語ることができる。妖怪変化とも交通することができる。実世界に対する想世界、まめの世界に対するあだの世界、善に対する美の世界の発見といってよい。「のら者」「わやく者」「いたづら者」の、勧善懲悪とは縁をきった世界である。伊勢物語について「しひては何ばかりの益なきいたづら言」といい、「これらのあだ物もて、世のをしへになるものにとりはやすは、いとおろかなり」といっているというが、それをロマンとして読むべしというわけであろう。美しきことを美しき言葉で表現することが文学というものである。そしてここが彼の『雨月物語』の生れたところであった。  なお伊勢物語を註釈した『よしやあしや』の中で「或博士の在中将の論」として、さきに引いた服部南郭の言葉をそのままに引用した上、「この論、実にいはれたり」といって同感していることも注意してよい。『三代実録』という国史書に記録されているためそれが後世にまで定説の如くに扱われていた例の「体貌閑麗、放縦不[#レ]拘」云々の言葉をここでは反駁しているのであるが、要するに業平のいわゆる放縦は、彼の時代ではむしろ貴族の子弟のあそびであって、後世の道学先生がこれを悪徳として挙げているのは、風雅の心、文学の本質というものを解せないものだというのである。秋成はこの『よしやあしや』の末尾で、おのが文学論、物語論を述べているが、文学とは「物学びて才ある人の、時にあはぬ」憤りの表現であるといっている。その憤りや所懐を直接に吐露するよりも、むしろ昔をかりて今を言うという形式をとるのが物語、小説というものである。「ただ今の世の聞えをはばかりて、むかしむかしの跡なし言に、何の罪なげなる物がたりして書つづくるなん、かかるふみの心しらひなりける」と秋成はいっている。  さきにも書いたように、『胆大小心録』はいまや死を待つばかりという時にいたって書かれたものだが、その中に、自分の半生を語った一節がある。「翁、商戸の出身、放蕩者ゆへ、家財をつみかねたに、三十八歳の時に、火にかかりて破産した後は、なんにもしつた事がない故、医者を学びかけたが」云々の節である。堂島の養家は紙や油を商う裕福な家であり、養父は自由な人であったため、秋成の思うがままにふるまわせたが、この養父が死に、間もなく養家は火災にかかった。それが明和八年、秋成三十八歳のときである。秋成は医を開業し、一時はその親切のため患者も相当に多かったが、本来医を学んだ者でないことから来る不安と秋成一流の癇症のため五十五歳のとき医をやめて加島という田舎に隠棲し、その居を「鶉居《うずらい》」と号した。閉戸閑人のくらしに入ったのである。秋成の不如意の生活はこのころから始まる。妻の母、養母が相ついで亡くなり、妻は尼となる。秋成は左眼の明を失った。大阪から京都に移って、所々を転々したが、蓄えは次第に乏しくなり、居は次第に小さくなった。癇癖の強い秋成に侍して生涯の好伴侶であった妻も秋成の六十四歳のとき歿し、友人たちの好意で日を送ったが、彼の孤独はいよいよ増すばかりで、ついには身元を世話するひともなく、友人の家に寄寓することになる。しきりに死を待ち、死を口にし、旧稿などを井戸に投じたりした。秋成はこう書いている。 「尼(妻、瑚※[#「王+連」、unicode7489])が頓死の後は、目が見えぬやら何じややら、不幸づくしの世を、又一年余くらして、羽倉といふたくらう人《ど》の所へ、ちよとこしかけたは、ついしぬであろの覚悟であつたが、しなれぬ故、又|南《なん》ぜんじの昔の庵のあつた所へ、小庵をたてて、七十三さいの春うつり申した。大阪から金五十両で上つたが、ことしで十六年、なんでやらくらした(中略)。麦くたり、やき米の湯のんだりして、をしからぬ命は生きた事じやが、書林がたのむ事をして、十両十五両の礼をとつて、十二年は過したが、もう何もできぬゆへに、煎茶のんで死をきわめている事じや。」これを書いた一年の後歿した。煎茶は晩年の唯一のたのしみで、田能村竹田とは煎茶道を介して知り合った。「老いて友なきには、茶の酔泣して、いよよ人にうとまるる事をもとむるなれ」とは秋成の言葉である。  ここで『方丈記』の鴨長明と秋成をくらべてみれば、おのずからにして中世と近世との違いを明らかにすることができると考えた。  まず外形の類似をみよう。長明も父の死に合って鴨神社の禰宜の職をつぐことができなくなり、家を捨てて鴨の河原に庵を結んだが、その庵はもとの住居の十分の一ぐらいのものであった。さらに日野に移って、そこに方丈の庵を結んだが、それは河原の庵の百分の一にも足りないといっている。この数字に誇大があっても、「齢は歳々に高く、住処は折々に狭し」ということは事実であった。彼はここで「ひとり(琴を)しらべ、ひとり詠じて、みづから情《こころ》をやしなふばかりなり」という「すきもの」の生活を送った。春は藤の花、夏は郭公《ほととぎす》、秋はひぐらし、冬は雪を相手にして、世捨人の生活をむしろ享楽した。方丈の小さい庵にこもったのも彼のダンディスムのあらわれであり、そこで彼は自己ひとりの|すき《ヽヽ》をたのしんだといってよい。外形を小さく、表向きを縮小して、そのかわりに内容を緊密にし、内心を充実させることが、中世以来の「わびずき」であり、また「幽玄」であった。そこにはわびとかさびとかいう否定の精神がある。長明の場合はそれが無常観となってあらわれているのだが、存在するものはすべて亡びへの存在、色はやがて空に帰するのが運命という認識があった。中世初期の貴族政治から武家政治へという過渡期を真に過渡期として受取ったということもさることながら、長明の場合、この無常の世界のつかの間をおのが|すき《ヽヽ》を立てて、しばし楽しむというところがあったといってよい。  秋成の場合も、大阪の富裕な家を火事で失ってから所々を転々としたが、転々するたびごとに貧しく、みすぼらしく、不幸になっていった。秋成はそれを特別に苦にしはしなかったが、同時に小さく貧しい住居を誇りもしなかった。自らも病み、妻や親しい者たちを次第に失ってゆくごとに、その不幸を率直にのべている。閉戸閑人になっても、特別な無常観を抱いて、来世を夢みるわけでもなく、地獄におちるのを苦にしているわけでもない。ただ死を待つのみであるが、その死をまた生死事大という風には考えていない。「煎茶のんで死をきわめている事じや」といっているが、喫茶はここでは茶道の閑寂を意味しているのではない。「茶の酔泣して、いよよ人にうとまるる事をもとむる」のみである。秋成の場合は、隠棲はしてもひどく人間臭いのである。宗教的なものもなければ、現世否定もない。最後まで自己というものを持ち、それに頼っている。それはたとえば『方丈記』の気負った文体と、『胆大小心録』のぶっきらぼうな口語体とをくらベてみただけでもわかることである。  秋成に『癇癖談《くせものがたり》』という二巻がある。五十九歳の頃の執筆であろうという。その下巻の末尾に自分の閑居を自分で批判する文が載っている。深草の里に住む隠逸人の庭に、駒鳥がおとずれて、梢にとまってこんなことをいう。ここの主は、「何をわたらひにするともなき、いたづら人なり。かくても世にすむかひありや、いと悪むべきものなり云々」。それを聞いて、下枝にいたうそどりがいう。いや、ここの主は、「生れつきて心せばく、世をわたらむとすれば、おひかりのおそろしく、」くらしているにすぎない。書物を読んでみても、芸に遊んでみても、すべて昔の方がすぐれているので、いまの世をつまらなく思っていたずらに暮している、あわれな人間だと主のために弁じてやる。これを聞いて駒鳥が笑っていう。それならここの主は自分のみ高しと思っている「おごりもの」で、あさましき心ざまではないか。世の中の人間をみな濁れるものと思って癇をつのらしている輩ではないか。ところで太古以来ここの主が思っているような理想の社会は一度もなかった。濁った世といっても、己れ一人清しとするのは偏狭で、「ただ世のあり様と見ば、ことごとしく忌むべきにもあらず」である。世の推移を、怒もなく怨みもなく、ただ見ているのがよいので、自己の考えに違っているといって嘆いたりするのは、自分を賢いと思っている心のおごりではないか。いまここの主は淡きをくらい、薄きを着ているが、人がよき衣を与えればそれを重ねるであろうし、うまいものを供すればそれを食うであろう。だからいま隠逸閑居しているが、それは「貧しきがなす身の行ひ」にすぎない。さう駒鳥がいって重ねて笑うと、百千の鳥どもが一緒になって笑った。うそ鳥も遂に衆鳥とともに笑い、最後には山もわらい、野も笑ったというのである。  これと『方丈記』の次のところとくらべてみれば、その相違の著しいことがわかる。 「夏は郭公をきく。語らふ毎に、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。空蝉の世を悲しむほど聞ゆ。」  総じて『方丈記』はモノローグである。秋成はダイアローグである。ここの例でいえば、たとい長明が郭公とともに語ったとしても、郭公は長明のあやつりにすぎない。ひぐらしがでてきてもレトリックにすぎない。ところで秋成の場合は、主人公はかくれていて、そのかくれている主人公を、駒鳥(本文では駒王)とうそ(本文ではうそひめ)に自由に批判させている。この擬人化された二羽の鳥が一方は攻撃側、他方は弁護側に立って、ディアレクティックな進展をみせている。こういうところにも、長明の時代にはなかった自由な批判精神をみることができる。隠逸閑居は、そのままに、いわば即自的に肯定さるべきことではない。秋成は隠者の側にいながら、即ち無用の「いたづら人」でありながら、その隠者精神、無用者ぶりを、他の側に立って反省もし、批判もしているという構造を示している。秋成は自我意識が強く、自己の「わがまま」を通した人物ではあったが、己れの「わがまま」を、もうひとつ奥の自我から批判もし反省もしているのである。「放蕩者」「のら者」とみずから言ったが、それは単純な放蕩や無為の讃美や自讃ではなく、その名乗り自体のなかに自己批判をふくめていたといってよい。これは近世精神というよりもむしろ近代精神というべきであろう。ただ秋成の場合、この近代的批判精神が、一途に批判の方向に向わなかったのは、現実とは層を異にするロマンの世界を設定して、そこにおのが興味をむけていたからでもあろう。  享和二年(一八○一年)に歿した木村蒹葭堂の晩年の日記には、秋成が度々蒹葭堂を訪れて閑談したことが誌されているという。当時の名のある文人で蒹葭堂内に足を入れなかった者は稀である。画家の竹田、玉洲、文晁、儒者の栗山、精里、二洲、また売茶翁など、いずれもここに参じているが、ここの亭主に見えるよりも、むしろ堂内所蔵の書画や名器珍什を観覧する方に関心があったかと思われる。私は少しくこの蒹葭堂のことを書いておきたい。彼は浪速の無双の奇人と世人からいわれた人である。通称は坪井屋太吉郎といって富裕な造酒家に生れた。生来蒲柳の質であったため、家業を修めず、おのが趣味に生きた。幼い時から草本花樹を植え、本草を学び、書画に親しんだ。たまたま大阪に滞留した柳里恭、池大雅、鶴亭その他によって花鳥山水を学んだ。山本北海について漢学、漢詩文を、売茶翁からは茶を学んだ。そういう多芸多趣味を一生もちつづけ、奇書をもとめ、客を愛し、好事家を以て聞えた。『蒹葭堂雑録』は彼の雑学とともに好事家、蒐集家たることを示すものだが、その中で自己の履歴を語った後でこういっている。「世上名本分士農工商ありといへども、余、微質多病にしてこれに堪へず。故に父母の遺業にて頗る文字を知る。実《まこと》に昇平の一楽なるべし(中略)。余、家君の余資に因《よ》つて、毎歳受用する所三十金に過ず。其他親友の相憐を得るが為に、少し文雅に耽ることを得たり。百事倹省にあらずんば、豈今日の業を成さんや。世人余が実を知らず。豪家の徒《ともがら》に比す。余が本意にあらず。」  私は木村蒹葭堂には特別の関心をもたない。それを何故にここで扱うかといえば、江戸末期の文人の周辺に、蒹葭堂が代表しているような亜文人、好事家が実に多く、またそういう人物のバックによって、文人が文人として生活もでき、世に迎えられたことをいっておきたいのである。  彼は造酒を業とする大阪の富家に生れた。決して儒や士の出ではない。町人の出でありながら文雅の道に生きた。江戸末期の太平の所産であると同時に、町人の文化への進出を示している。彼の雑学、多芸ぶりは遺憾なくその『雑録』五巻に示されているが、まことに名の通り雑録で、何の体系もない。ディレッタントの記録、雑記帳である。そうしてこの種の随筆の類が無数に版になったこともまたこの時期の特色を示している。昭和初期に吉川弘文館から刊行された『日本随筆大成』数十巻は、この種のものの集大成であるが、執筆者は総計百数十人にのぼるであろう。まことに文運隆盛というべきだが、ともに玉石混淆で、しかも玉は稀である。ここには趣味はあるが思想はない。好事はあるが体系はない。多芸ではあるがこの一筋がない。玩物喪志といいたいが、既に失うべき志をもっている者は少い。そして蒹葭堂の如きは右の一代表といってよいだろう。  しかも蒹葭堂の背景には、さらに無数の小蒹葭堂がいたに相違ない。都会にもいたが田舎にもいたに相違ない。富裕で多趣味で、しかも自家の業には不熱心な旦那衆が無数にいたに相違ない。これが文人墨客の生活基盤をなしていたであろう。上田秋成は、いまの儒者は昔の俳諧師にも劣っている。懐徳堂という学問所の先生方も、ただ金持のむすこたちを集めて、少しばかりお説教をするだけで、それでも道楽むすこの悪所通いを減らすぐらいの役目はつとめていると皮肉っているが、金持からの束修によって、町儒者も結構に生活できたのである。同じく秋成はまた大雅堂が祇園の芸子にたのまれて、一枚百文で、何やらしれぬものを書いてやっていると皮肉をいい、蕪村の絵はこのごろでは馬鹿相場になったが、島原遊廓の桔梗屋には、そのむかし蕪村に書いて貰ったものが無数にあるといっている。「芸技諸道さかんにして涌くが如し。是亦治国の塵芥也」というのが秋成の文運隆盛にあたえた結論であった。治国の塵芥というのは太平の世のために、うずたかくつもったちりあくたというほどの意味である。しかし秋成そのひとも、この治国の塵芥を背景にして出て来て、塵芥を皮肉りながらおのが生を保っていたのである。  蕪村(享保元年、一七一六年—天明三年、一七八三年)については既に小著『詩とデカダンス』の中で書いているので、ここには詳しくは述べない。佐藤春夫はその『風流論』のなかで、蕪村の風流はおのずからのそれでなく、風流の為の風流であり、芭蕉の風流は自然の直接の子であったのに対して、蕪村の風流は工夫されたもので、自然に対しては孫になってしまったといっている。これは正しい。単に蕪村に限らず総じて文人墨客の風流韻事は、行雲流水のそれではなく、自分たちによって考えだされ、巧まれたそれであったといってよい。いわば風流はその風性を喪失してしまって、主観化され、人間化されてしまったといってよい。ここに風性とは、「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」とか、「乾坤の変は風雅の種なり」とかいう芭蕉の言葉から推察されるものを指す。  ここで私はまた『春泥句集序』に示された蕪村のいわゆる離俗論を問題にしたい。春泥舎とは召波の別号である。召波が歿した後その子の維駒《これこま》が遺稿を整理し、版にするに当って、蕪村がそれに序を与えたのである。召波は蕪村門下の高足であった。この序の冒頭にある離俗論は有名なもので、あらためてここに引くのもおこなことであるが、然し私の言いたいことは従来あまりに注意されていないので、煩を厭わずここに写すわけである。 「余曾て春泥舎召波に洛西の別業に会す。波すなはち余に俳諧を問。答曰、俳諧は俗語を用て俗を離るるを尚ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最かたし。かの何がしの禅師が、隻手の声を聞けといふもの、則俳諧禅にして離俗の則也。波頓悟す。却問、叟が示すところの離俗の説、其旨玄なりといへどもなほ是工案をこらして、我よりしてもとむるものにあらずや。しかじ、彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや。答曰、あり。詩を語るべし。子もとより詩を能くす。他にもとむべからず。波疑敢問、夫詩と俳諧といささか其致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云、迂遠なるにあらずや。答曰、画家に去俗論あり、曰、擾去[#(ルコト)][#レ]俗無[#二]他[#(ノ)]法[#一]、多読[#レ]書則書巻之気上升市俗之気下降矣、学者其 慎《つつしむ》 旃《べきはこれ》 哉《なるかな》。それ画の俗を去だも、筆を投じて書を読しむ。况詩と俳諧と、何の遠しとする事あらんや。波すなはち悟す。」  従来右の離俗の論は蕪村の側からのみみられていた。私はむしろ召波の側からみたい。私はさきの小著において、最後の「波すなはち悟す」は、召波が師の蕪村に示した儀礼にすぎなかったのではないかと書き、召波の問いに対する蕪村の答えはすべてちぐはぐであるとも書いた。私はいまもそう思っている。離俗論は蕪村の制限を遣憾なく示していると思っているのである。  召波は明和八年、四十五歳を以て歿した。蕪村はこのとき五十六歳、大雅との「十便十宜」が成った年である。蕪村は十歳余も若い召波の死に遇って、「我俳諧西せり、我俳諧西せり」といって三度泣いたとみずから語っている。遺句集『春泥句集』が成り、これを知友に贈るにあたって、蕪村は、「召波と申人は平安にめづらしき高邁之風流家にて候」といって紹介している。蕪村を亭主とする夜半亭の門下において、いかに召波が高く認められていたかの想像がつく。蕪村がいかに召波の死を悲しんだかもわかる。  しかし私は召波は蕪村とやや傾向を異にしていたのではないかと思う。私は召波に関する資料はすべて潁原退蔵氏の『蕪村』(創元選書)所載の「召波」なる一章に負っているのだが、私は潁原氏とは違う解釈をしている。召波と同じく夜半亭門下であった几董は、召波について、「句々離俗の境に入つて、嵐雪が高邁なる語勢ありけり」といっているという。俳友の嵐山は、「去来、嵐雪が風骨をしたひ、篤実の人物也」と評しているという。  召波は本名は黒柳清兵衛、京都に生れ、江戸に出て服部南郭について漢詩を学び、柳宏の名においていくつかの漢詩を残した。別に廷遠、また万年とも号した。京都に帰って蕪村に俳諧を学び、初老の頃から生家を離れて洛西に閑居し、酒盃を雅客とともに挙げて日を送った。これがいままでに解っている召波の伝記である。蕪村も南郭のもとに召波と同じ頃学んだのではないかともいわれている。  潁原氏は召波の俳諧の佳きものは、蕪村の作ではないかと疑われる程で、「あまりに師を摸するに過ぎる憾みさへある」といっている。「所詮彼の俳諧は蕪村の小なるものとして終つた」ということを肯定している。私はこの論に異論を立てるほどの造詣はない。然し召波には蕪村とは違う志があったことは事実である。一言にしていえば召波は蕪村よりも深く芭蕉の境をねらっていた。それが極端に支考麦林を嫌ってこれを俳魔とよび、嵐雪、去来の風骨を慕ったところの高邁な風流家であったといわれた所以であろう。  そして召波のこの芭蕉への傾倒が、蕪村の離俗説に対して、さきに示したような疑問を提出させているとみてよい。即ち蕪村の離俗の説は、結局は俗から離れるという法であって、それは白隠の隻手の声を聞くというような、声なきに聞き、色なきに見るという境、畢竟すれば自他一体、物我同時の境とは違うのではないか。あなたのいう離俗は、なおこちらから、即ち私意を以てする工案工夫であって、物が我に呼びかけ、我がこれに応ずるという呼応の関係がないではないか。彼もしらず、我もしらず、自然に化し、造化に従い、造化に還るという芭蕉の風流風雅とは違うではないか、これが召波の蕪村に対する問いの意味であった。  蕪村はこの召波の疑問に答えて、詩を語れ、それによって俗を離れ、自然に化することができると、とんちんかんなことをいっている。だから召波の第二の問いがおのずからに起されてきたのである。詩と俳諧は違うではないか。自分も南郭についていささか漢詩を学んだものだが、詩は雅語を以て雅事をいうのであって、俗語を用いて、しかも風雅をねらう俳諧とはおのずからにその趣を異にしているわけである。ところでいま俳諧の風雅に達するために、詩を語れというのは迂遠でしかも見当違いではないか、というのである。この当然の問いに対して蕪村はまたしてもとんちんかんな返事をしている。『芥子園画伝』に出ている去俗の方法、即ち、書を読み、教養を高めれば、画家は名利の心を去ることができる、ということを借りて、俳諧は画よりも詩に近いのだから、詩を読み、詩を語ることによって俳人は俗気を去ることができるというのである。ここには詩は何故に俳諧に近いかということは答えられていない。召波の疑問には答えていないのである。これを聞いて、「波(召波)すなはち悟す」と蕪村は書いているが、もしそうであったならば、これは召波の師に対する一応の儀礼にすぎないジェスチュアで、内心には一層の疑問をもったのではないかと私は思う。  蕪村のここでいっていることは、召波の問いに対する答えにはなっていないが、然し、それときりはなしてみれば、蕪村の意見ははっきりしている。第一には俗から離れるということ、第二にはその方法として詩文を読んで心を高くすることである。  離俗には俗から離れる、俗念を去るという方向はあっても、俗に還るという契機はない。往があるが還がない。芭蕉は俳諧とは往きて還る心だといったが、その一方だけしかないのである。「高く心を悟りて俗に還るべし」ともいっているが、還帰の方向が蕪村にはないのである。だから高踏的ではあるが、現実感に乏しいということが起る。智的で構成的であるが、物と心とが別れているということになる。風流には違いないが、それは一座のなかの風流で、一所不住、杖と笠のそれではない。蕪村には造化という観念はないといってよい。  詩文を多く読むとは要するに教養をたかめ、智識を豊富にするということである。この方法は単に蕪村ばかりではなく、この時代に共通した、また流行した方法でもあった。建部綾足にも、田能村竹田にも、渡辺崋山にも同様な言葉がある。さらに万巻の書を読むこととともに千里の路を行くことが、おのれを高くする最高の方法であることが、池大雅等によっていわれ、また多くの人々によって実行されている。私は夏目漱石の処女作『木屑録』のなかに千里の行、万巻の書の言葉のあったことを思いだし、漱石にまでこの伝統が伝わっていることをあらためて考えた。しかしここではそれには触れまい。  万巻の書を読むことは知識の蓄積である。博識多才になるためである。ここには拾い集めることがあって、捨てることがない。ところで中世以来の生き方の理念は、余分のものは一切捨棄することにあった。捨聖といわれた一遍上人はもとより、法然、親鸞、道元いずれも捨棄放下を説いた。家を捨て世を捨てた。それが出家遁世である。ついには己れを捨て、自己執着を捨て、最後には捨てることさえ捨てた。それが浄土門では自然法爾であり、曹洞門では身心脱落であった。芭蕉が「無能無才にしてこの一筋につながる」といったのは、この中世の精神にもとづいての放下を意味している。最後にはこの一筋をもすてて、※[#「手へん+主」]杖一鉢に命を結び、風情終に菰をかぶるというところまでいった。そしてその一切放下において意外に広い世界へ出た。「風情胸中をさそひて、物のちらめくや風雅の魔心なるべし」と『栖去の弁』でいっている境地である。去私の世界では、物の方から呼びかけてくる。松や竹や山や川が、その本来の面目を発揮して、詩人に言語表現をせまってくる。物来るに従って応ずという世界である。柳は緑で花は紅、雪のふる日はさぶくこそあれ、花のふる日はうかれこそすれ、という自然とともにあって美しいというのが詩人の境というものであろう。  蕪村はこの捨棄を知らない。つまりは中世精神とは縁がなかったのである。芭蕉へ帰れといった蕪村であったが、この中世精神の体得なくしては帰りえないのが道理である。蕪村にはついに芭蕉の本質はわからなかった。それが元禄と天明の違いであり、違うところに蕪村の蕪村らしさがあったわけである。芭蕉は晩年の「軽み」について、「鴻雁の羹を捨てて芳草を食へ」といっているが、蕪村にはどこか鴻雁の羹のにおいがする。野草の芳しさが乏しい。読書は鴻雁の味つけ、調味料であったといってよい。  さらに蕪村及びその時代の「千里の行」は芭蕉の「旅」とは違う。要するに千里の行は多読と同じく博覧のためであり、「胸中山水」の資であった。これも経験の蓄積である。芭蕉の旅は、西行や長明に由来しながら、彼等の終の栖家であった庵さえも放棄するところ、「旅こそ栖家」であった。放下の極限でもあり、人生行路を旅とすれば、即ち生と死との中間が即ち人生とすれば、旅こそまことの人生の姿という自覚があった。千里の行を種にして句をなし、画をなすのとは雲泥の相違といってよい。これもまた元禄と享保天明以後の相違といってよい。  以上、万巻の書、千里の行が、いかに芭蕉の世界と相違しているかを書いたが、この相違は単に芭蕉と蕪村との相違ではなく、時代の相違であるとともに、ひろく中世詩人と近世の文人との相違である。そして文人とは多かれ少かれそういうものであり、それが文人の性格ではあるが、同時にまた制限であった。  ここまですすんでくると、いきおい池大雅(享保八年、一七二三年—安永五年、一七七五年)を書かざるをえないはめにたちいたった。  ところで大雅を書くことはむずかしい。むずかしいばかりではなく、なんとなく気おくれがする。書くことがつまらない所行にみえてくる。市販の写真版でもよい、大雅の画をみている方がたのしいのである。この画はただみているだけでよい。それについての解説は専門家にまかせておけばよい。この画は説明を拒否している。いわば存在そのものである。リルケが『ロダン論』のなかで使っている「もの」というのはこういう作品を指しているのであろう。そのものが、みずから語っていて、こちらから、かれこれいうのが、ばかげてくるのである。よほど身を小にしなければ書けない。売文意識におちなければ書けない。それがいやである。いやであるが、大雅はひきつけてやまない。大雅の外に類を求めるなら良寛がそうである。この二人は、その画を見、書を眺めているだけで十分に楽しい。なにを苦しんで、それについて書く必要があろう、という気におのずから、させられてしまう。  良寛と大雅、この二人は、江戸中期以後で私の関心をひくこと最たる人物である。この二人だけである。ところで二人とも、それについて書くことを拒否している。説明という所行が、詩を散文にすること、そのもののもつ美を平板きわまるただごとにしてしまうものであることを、おのずからに気づかせる、というそういうたちのものである。我について語るな、とどこやらの神はいったが、それに似たものといってよい。しいて語れば市井の噂話に陥ちる。床屋の政談に類する。良寛、大雅についての噂や逸話がむやみに多いのはそのためである。逸話などを書き綴るよりも、彼等のにせものを書いた方がどのくらいましかもしれない、とつい思いこませる。二人の書画を写している方が楽しいに違いない上に、ことによったら商売になるというものである。二人のにせものが、これまたむやみに多いのもそのためであろう。  私は良寛を書いたとき、文人でありながら文人を超脱しているといったが、大雅においても同様である。大雅は南宗画また文人画の祖といわれている。また当時の文人墨客たちと交わり、文人という空気の中にあった。柳里恭(柳沢淇園)、祇南海、高芙蓉、韓天寿、売茶翁、秋成、蒹葭堂、蕪村等、彼と親しかった文人は挙げればきりがない。そういう空気の中にありながら、それを超えている。真葛ヶ原の小庵をおのが天地として、実は孤独であった。玉瀾という好配偶をえて孤でもなく独でもなかったわけだが、二人合せてもやはり孤独であった。『近世畸人伝』が彼の瓢逸の性格や事実を報じながら、なお「人と為り粛敬」と書き、「内、実修、人と交りて謙損し、」云々といっているのは、内心の孤独の証とみれないこともない。大雅の場合、人と人との間にいるよりも、天地山川の中にいる方がよほど性に合っていたに相違ない。詩酒歓談、風流の書画会よりも、立山や富士山をみている方が意にかなったに違いないのである。大雅の作とつたえられる俳句も、なげやりの一興にすぎず、伝えられる三味線向の作詞も、唐人おどりの歌詞も、ともに文人のそれではない。文人意識も風流気取も微塵もないところで、嬉々として手をうって雀躍している風情のものである。  元来文人気質というのは修身斉家を口先だけで説く道学先生に対するレジスタンスとして起ったものであった。尋常為政者の期待に応じて支配者に好都合な学説をしかつめらしく学習する官学に対する野人、ディレッタントであり、意識して修身斉家をふみはずしたデカダンであった。彼等はそこにおのおの好むところの詩の世界をたてようとした。それが彼等の風流風狂の世界であった。しかし文人墨客の輩出とともに、本来自由放逸なるべき風流がマナリズム化して、いくたの風流きどり、文人まがいがでてきた。上田秋成のいう「治国の塵芥」である。良寛のきらった「まがひ」である。  大雅の周辺にもこの塵芥やまがいが多かったに相違ない。或いは文人という概念規定を敢てするとすれば、このまがいという要素を何パーセントかはいれなければならぬかもしれない。物茂卿以来、彼等は好んで唐人気取りの三字名をつけている。柳里恭、祇南海、謝春星みなしかりである。三字名をもつことが文人、雅人の条件であったのである。蕪村の如きはわざわざ、唐服をまとわした芭蕉翁図を画いている。唐人まがいといってよいだろう。彼等のイメージのなかには或いは屈原がいたり、また陶淵明がいたり、李攀龍、王元美がいたり、ときに老荘がいたりした。絵の方でも何々の筆に、また筆意に倣うと、みずから書いているものが多い。何々は或いは清の伊孚九であったり、元の黄大痴、倪雲林であったりである。大雅といえどもこの点では例外ではない。文人の多くが二流三流の詩人画人に終ったのはそういうところから来ている。  ただ良寛と大雅だけが、このまがいから超えているといってよい。彼等はその点で、ほんものであり、文人でありながら文人を超えていた。すでに桑山玉洲は大雅を評して、「古人の好所を斟酌して其跡を踏襲せず、尽く画家の習気を脱して自ら一家をなすものなり」といい、「本朝逸格の始祖」と呼んでいる。もちろん大雅に天賦の才があり、不世出の質があったからには相違ないが、大雅が大雅になったのは、やはりその背後に禅があったからだと私は思う。良寛、大雅、ともに禅である。禅くさくない禅、まがいものでない禅である。しいていえば、良寛、大雅、ともにその素質の中にすでに禅によって大成すべきものを蓄えていたというわけであろう。彼等においてはその生れながらの素質が、禅によって自覚にまで高められ、それによって文人習気を超脱したということになろう。  大雅と黄檗山万福寺との関係は五歳のときから始っている。これも伝説であろうが、伝説であってもかまわない。万福寺の千呆禅師が五歳の小児に「檗※[#「穴/果」、unicode7aa0]」の二字を書かせ、その筆勢に驚異したというのである。それ以来黄檗山と大雅との関係は深い。また大雅は白隠の会下に参じたともいわれている。白隠に呈したという大雅の偈も伝えられている。「耳豈得聞隻手響、耳能没了尚存心、」云々というものだが、これも後来のつけ加えであろう。ただ、私はこの偈をみて、蕪村の『春泥句集序』の、さきに引用したところを思いだしたから、これを書きとめておきたくなったまでである。例の「離俗論」の中で、「何がしの禅師が、隻手の声を聞けというもの、則俳諧禅にして離俗の則也」といっているところである。蕪村のここのところが、たどたどしいことは既に書いた。蕪村は大雅から、或いは間接に大雅の言葉として、白隠の隻手の声の公案を聞いて、わからないままに書きつけたのではないか、ということを私は想像し、この想像によって多少の笑いを催した。蕪村にはもともと禅の素質も習練もなかったのである。  白隠門下の俊秀、遂翁、東嶺はともに絵を書く、白隠も書く。このうち遂翁は大雅を絵の師とし、大雅は遂翁を禅の師としたとも伝えられるが、この伝説はありそうなところから起っている。  二十五歳の大雅が柳沢権太夫(柳里恭)に当てた手紙の中に、「慈典和尚許罷越、色々禅の話承候。禅の奥儀一喝に有之候趣、貴殿と御話致しし通りに有之候」というところがある。この慈典というのは、大雅の図像に賛を書いた六如であるという。その賛によってみるに、一時大雅と六如は近所に住んでいたので、度々往来した。それで大雅の人となりは、ほぼ納得しているが、「葆[#レ]真※[#「耒+禺」、unicode8026][#レ]俗、隠[#二]于小伎[#一]者也」といっている。破れ衣に蓬の髪であったが、心は常に怡然としていて、言うところは禅に近く、形は仙に肖ていた。それはよいとして、世を避けて済世の志を懐いていた、というくだりは、どうも曖昧といわざるをえない。六如のこの賛は『近世畸人伝』の大雅の項に載っている。  大雅を評してその禅機にふれたものもかなりに多い。伴蒿蹊が「善く物と化す」といっているのも、玉洲が、大雅の出現によって「名山大沢真の面目を生ず」といっているのもそれだが、安積艮斎の文をここに引く。 「大雅の人となり、繊毫の塵垢も以て其の懐を溷すにたらず、而して之を済くるに江山の助を以てす。故に奇致※[#「分/土」、unicode574c]涌、雲烟腕を遶る。気は五采の外に起り、而して韻は六法の中に発す。勉強して致る可らざる者あり。」  右は小杉放庵の『池大雅』中から借用した。  評者の言よりも一層に禅機を蔵した言葉が大雅自身の言の中にある。いや、大雅のすぐれた画に禅機のないものはない。画を載せないこの小冊なるが故に、言を以て間に合せるのだが、南画においては字も絵の中だからこれもまたよいだろう。例の蕪村との合作『十便十宜』の中の大雅の「浣濯便」の題語を仮名まじりにすれば次のようなものである。「塵を浣ぐことは渓を繞つて行くを用ひず、門裏の潺湲分外に清し。是れ幽人の偏へに潔きを愛するに非ず。滄浪我を引いて冠纓を濯はしむ」。この最後の一句はいうまでもなく、滄浪の水、清からば、以て吾纓を濯ふべし、の楚辞からきている。そして、それは「滄浪の水濁れば以て吾足を濯ふべし」とつづいている。ところで大雅では滄浪の水が主体となって、「我を引いて」と化している。主客はここで顛倒しているわけである。総じて大雅においては主客顛倒、山川草木が主となって人間は客となっている。人間は自然の点景にすぎない。人物は自然の一部と化して、山川とともに語りあい、草木とともにささやいているといった具合である。別ないい方をすれば、人物にすこしも気取りというものがないのである。我執がない。風とともにそよぎ、雲とともにたなびき、栖々落々とはこんなところをいうのであろう、と思わせられる。  さらにこの「浣濯便」の中には人物は一人も見当らないのである。冠纓もみえなければ人物もみえない。叢竹が風に戯れ、水がその根を洗っているばかり、潺湲の音は聞えるが、人語は絶えている。幽人は画中のどこかにひそんでいるのか、それとも大雅となって叢竹を画いているのか。叢竹に招かれて筆がおのずから動いているとみえる。画き終って、印を捺したが、この印が「方九皐」となっている。九方皐とすべきを、方をさきに彫ってしまって、そのまま使っていたわけである。九でも方でも、というところがあった。  石濤に「題春江図」というのがある。その中に、「吾写[#二]此紙[#一]時、心入[#二]春江水[#一]、江花随[#レ]我開、江水随[#レ]我起」の句がある。ここでも自然・人間一体である。人間が自然の中へとけこみ、自然が人間と歩みを共にしている。私は大雅の十便図においてこの石濤を聯想した。  大雅を書いて大雅の真に迫ったものとして、さきに小杉放庵があり、いま石川淳がある。石川淳の『南画大体』がそれであるが、まさに文人、文人を知るというところであろうか。その中で、蕪村を大雅にくらべて論ずることの無意味をいって、蕪村独特の境を探りながら、やはり『十便十宜』の蕪村の十宜は、大雅の十便とは、とても同日の談ではないと言っている。石川は文人画の文人画たる所以は詩書画三位一体にあるといい、蕪村の場合の詩は俳諧であったとしている。私のみるところでは蕪村の画はあまりに俳諧にすぎる。佐藤春夫は蕪村の風流は風流のための風流で、自然から離れた人口となってしまったといったが、同じくその俳諧も、俳諧のための俳諧の観がある。気取りが目につきくさみが鼻につく。たとえば彼の双幅の「桃源図」をみよ。三人の仙人たちは一生懸命に仙人になろうとしている。しかも仙にはなりきっていない。浮世の噂話に心をはずましているようでもある。「松林帰樵図」は薪を負った二人が松林を背にして立っている。前なるが後なるを顧みている。大雅ならばすたすたと歩いてゆく二人のうしろ姿を書いたに違いないところである。脚のはこびも写実にすぎて風流を失っている。「芭蕉図」は唐服の芭蕉が、月に嘯いているといった顔になっている。賛には、もの云えば唇寒し云々の「座右の銘」が書きこまれている。甚だ芭蕉らしからぬ芭蕉にみえる。蕪村のイメージに浮ぶ芭蕉がこれであったとすれば、なさけないものといいたくなるほどのものである。「三俳僧図」というのがある。蕪村が宮津滞留の折、親しんだ三人の僧の写生的戯画といわれているが、これらの俳僧、ことごとく俳僧にすぎて、反って俳を失っている。私はこれらの人物の鼻をみて、大雅の画く鼻との極端な対立を思った。大雅の鼻はだんご鼻で至極朴訥たるもの、蕪村の鼻は筋が通って細い。この鼻は秀才、才士のそれであろうか。「李白観瀑図」、これは、さも一詩をものせんという、肩をいからした李白である。いやはやごたいそうなおん姿である。  田能村竹田が「大雅は正にして譎ならず、春星(蕪村)は譎にして正ならず」といったのは周知だが、譎とはさきに書いた気取りを言ったものに違いない。大雅の天真に対する蕪村のだてをいったのであろう。俳諧においては芭蕉、画においては大雅という格別な人間にくらべられるという損な立場に蕪村はいた。そして、それが文人というものの位置ともいえるだろう。大雅は文人にして文人を超えていた。蕪村はまさに文人らしき文人である。文人の一典型といってよいだろう。頭がよくて趣味を解し、多芸にして教養に富む。詩と書と画と、ともによくして、しかもこの一筋を欠く。道が無く禅がないのである。  ここまでくれば田能村竹田(安永六年、一七七七年—天保六年、一八三五年)に及ぶのが常識であろう。ところで私は竹田の絵にはあまり関心がない。竹田を論ずる評者は多くその人格高潔をいい、学識の深いことをいう。もちろんこれには私といえども異論はない。然し詩画双絶といい、詩書画三絶というとき、私は首をかしげざるをえない。神韻高雅というとき、私は二の足も三の足もふむ。同じがたいのである。  竹田ほどの名のある作家に対して、ただ同じがたいといっただけでは失礼であろう。私はその理由の二、三を書きつける義務を感じる。竹田の和歌がとりたてて論ずるほどのものでないことは大方の諒解をえることと思う。次に詩はどうか。   露湿[#二]蒼苔[#一]天未[#レ]明  仙禽徐踏[#二]竹根[#一]行   一声啼起扶桑日  緑露紅煙取次生  これは「朝陽鳴鶴図」というものである。私はことさらにまずい詩を選んでいるのではない。竹田の詩は一般にひどく説明的であると私は思う。ゆきとどいた優等生の詩である。「一昨不[#レ]死又昨日、昨日不[#レ]死又今日、今日不[#レ]死又明日」云々の有名な「不死吟」もまたそうである。  また五十四歳のときの「亦復一楽帖」の第一図の題語は、「雲無[#レ]心而出[#レ]岫入亦如[#レ]此、人之処[#レ]世能如[#レ]此亦復一楽」である。私は句中の「能如[#レ]此」というような仮定の語を好まない。修身の匂いはしても詩味を加えるものではない。この一楽帖の第九は芭蕉の大きな葉を三、四枚敷いて、胸をはだけて午睡している図だが、その題語は、「有[#レ]目而無[#レ]所[#レ]睹、有[#レ]耳而無[#レ]所[#レ]聴、有[#レ]鼻有[#レ]舌而無[#レ]所下分[#二]香臭[#一]弁中辛酸上、五官備而無[#レ]為、混然与[#二]天地[#一]参而無[#二]間隔[#一]、生[#二]于晩近之世[#一]而処[#二]陰陽未[#レ]判之初[#一]者、唯[#一]睡眠之間為[#レ]然也、是亦一楽」である。つかのまの一睡にもこれだけの文句がいるとすれば、なかなか安眠もできかねるというものであろう。  竹田はまたこういっている。「余詩画外無[#二]復嗜好[#一]、以[#二]詩意[#一]写[#レ]画、画作[#レ]詩、二者相須、以寓[#二]間興[#一]、聊爲[#二]自娯[#一]。」竹田においては詩と画とはそれぞれ一応独立している。詩意が画を触発し、画が詩を誘うという形になっている。独立していながら、実はどちらかが、どちらかへ従属するということになる。二者渾然一体、詩画双絶とはいいがたい。だから題語の場合は説明的になり、ながながとなくもがなのことばを書きつけるという事態が生ずるわけである。  私は竹田の画をみているうちに、「いひつくして、なにかある」という芭蕉の言葉を思いだした。竹田の画は、いいつくしている。余韻、余白に乏しい。そしてこの余白、余韻こそ風韻や神韻の出所ではないかと思う。『玉洲画趣』には、王維の画には「空開」があり、それが幽遠の体をなしているといい、「若充[#レ]天塞[#レ]地、満幅画了、便不[#二]風致[#一]」の宋人の言葉を引いている。この位のことは読書家の竹田が知らなかった筈はない。しかもなお私は、竹田の画には「空開」するところが乏しいと思うのである。私のいうのが単に余白の量をさしているのではないことはいうまでもない。含蓄をいっているのである。「紙上に一物もなき所こそ為し難し」と大雅堂は言ったというが、それを指しているのである。  竹田はその『山中人饒舌』の中で、「李日華云く、絵事は必ず微茫惨憺を以て妙境と為す」の言葉をひき、「昔人此くの如からざるを苦しむ。或は再び滌去して後に揮染し、或は細石を以て絹を磨するに至る。要するに墨色をして絹縷に著入せしむ、其の心を用ふる知るべきなり」と説明している。ここの惨澹は惨淡と同じで、ものすごくうすぐらく、形のさだかならぬことを指しているのであろう。それはよいとして竹田のこの附語は正しいであろうか。桑山玉洲も前掲書で李日華の同じ言葉を引いているが、そのつづきは次のようなものである。微茫惨澹が妙境であるの言葉の次に「非[#二]性霊廓徹者[#一]未[#レ]易[#二]証入[#一]、所謂気韵必在[#レ]生、如[#二]止《タダ》虚澹中所[#レ]含意[#一]耳、其他精刻遍塞、縦極[#二]功力於高流[#一]、胸次間何関也。」といっている。ここでは微茫惨澹は虚澹とおきかえられ、それが気韵の生ずるところ、ということになり、これがまた北宗と違う南宗即ち文人画の特色をなすということになっている。玉洲はこれを「空開」と同様にみているのである。ところで竹田においては、この妙境を画きだす手法、即ち滌去したり、細石で絹をこすったりすることを問題にし、要するに墨色を絹に著入させることが問題だといっているわけである。もちろん竹田ほどの学者が、前記の意味の微茫惨澹を知らぬ筈はない。然もなおその手法だけを云々していることに私はやはり竹田の制限を感じるのである。竹田は前掲書のなかで大雅を口をきわめて讃え、「実に共人品風格の企望及び難き」ことをいっているが、私はこれは謙辞とはとらない。竹田の実感であったと思う。『田能村竹田』(中央美術註刊)を書いた松林桂月が、竹田の大雅への讃辞を過褒といい、大雅は名実相伴わざる作家だといい、その画は粗鹵だといって、反って竹田をほめあげているので、わざわざ右のことをいっておきたくなったわけである。 『田能村竹田』(豊南書堂)という大冊の著者大島豊南は「填詞」の一章の中で、「竹田生涯の功績は、南宗画と填詞、即ち詩余との二大事業に在りし也」といっている。填詞とは詞である。私は紅荳詞人と名のって『清麗集』『秋声館集』等を書残している竹田に一種の興味をもつが、ここで論ずるほどの力をもちあわせないのが残念である。「長相思」という題の、「山一村、水一村、飛絮落花春一村、酒旗風一村、愁十分、懶十分、扇底襟辺恨十分、思人病十分」の如きものが詞の一例である。  竹田は豊後の岡藩に二十二歳のときから儒を以て仕えた。三十五歳のとき、藩中に百姓一揆が起り、竹田は建白書を書いて藩政の改革をせまった。翌年再び一揆が起り、再び建白書を書いて藩政を批判した。建白書が因となって三十七歳で致仕した。「田園閉居」中の「做[#(シ)][#レ]官能[#(タ)]貴[#(キモ)]終[#(ニ)]塵務、致仕雖[#レ]貧猶我身」の如きはこのときの感慨であろう。また「雲山草堂」に題した語の中に、自分と松尾芭蕉とをならべて世の二棄物といい、芭蕉は痴、我は狂といい、自分を狂愚なる竹田頑民と呼んでいる。竹田の中にそういう要素もあったに相違ない。しかしその方向へは進まなかった。ひとつには致仕してもなお藩校の詩文総裁として遇し、扶持をかかさなかった藩主との関係もあろうが、他面には竹田にあった温厚な人柄にもよるであろう。彼もまた幕末の文人であり、その特色とともに、その制限を負っていた。しかも自分の世代が、百川、淇園、大雅、蕪村の世代よりもなり下った時代であることを自覚していた。「今人却つて及ぶ能はず、愈々詳にして愈々降り、益々工みにして益々俗なり。他無し、古の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為めにす」(『山中人饒舌』)。竹田はおのが時代を知り、また己れ自身を知っていた人であったといわなければならない。 [#小見出し]   三 文人気質の歴史的位置  このごろ出た岩波の『日本文学史講座』第七巻に、中村幸彦氏の『近世儒者の文学観』という三十余頁のものが載っている。これは短いがよくまとまったもので、江戸期の儒者中心の文学観を時代に従って、勧懲論的、人情論的、風雅論的、清新論的の四つに区分して、具体的に叙述している。また丸山真男氏はその『日本政治思想史研究』(昭和二十七年)の第一章で、朱子学、仁斎学、徂徠学の特質を考察し、その歴史的展開の必然性を詳細に論述している。この両著ともよく整理されたもので、江戸期の思想史を扱った好著といってよい。私はこの二つに頼りながら、いままで書いてきた文人気質なるものの歴史的位置づけをしてみたい。もちろん既に前章の中でもそれに触れているわけだが、それを整理しながら、新しく考えてみたいのである。殊に文人と戯作者との関係が、ここで新しく考慮せられるであろう。江戸時代の儒学を中心にした思想史及び文学観の展開は、さきに書いた両氏に負うているが、これはほぼきまっている図式といってよく、私はこの図式に拠りながら、重点を私の問題において、新しい材料を使いながら考えてみたいというわけである。  慶長十九年(一六一五年)の大阪夏の陣で豊臣氏は滅亡し、二ヶ月後に元和と改元されて、徳川の天下はほぼ安定した。元和偃武といわれる所以である。翌年家康は死んだが、やがて東照宮にまつられ、神君とよびならうようになった。それから八年、家光が三代将軍となり、年号を寛永と改めた頃から、江戸幕府の制度は定まったといってよい。鎖国の実施、キリシタンの禁止、武家諸法度の制定、参勤交代や関所駅伝制もこの時代にきまった。武家諸法度は林羅山の筆になるもので寛永十二年に公布された。これは慶長二十年のそれを更に精細に規定したもので、衣裳の品質を身分の上下によって分ったり、乗輿者の資格までを規定するという煩瑣なものとなった。  一体にこの時代には法度、禁令、定、覚、触書の類がむやみに多い。公家中法度、五山十刹諸山諸法度から始まって、駄賃のこと、夜番のことにまで及んでいる。慶安年中に出た定には町人が長刀や大脇差をさして、奉公人のまねをした場合にはみつけ次第に捕えること、相撲取の下帯は木綿でなければならぬこと等を規定している。百姓の行住坐臥を微に入り細にわたって規定した御触書もある。要するに士農工商の世襲的身分制度が、厳格以上に厳格に規定され実施されたわけである。同じく士といってもきびしい階層があり、将軍、大老、老中から始まって与力、同心にいたるという驚くべきほど多数の職制があった。秀吉は天正十五年、北野の大茶湯会を開くにあたって、「茶湯熱心之者は、若党、町人、百姓已下によらず、釜一つ、つるべ一つ、のみ物一つ、茶はこかしにてもくるしからず候、ひつさげ来可[#レ]然事」というお触れをだしたが、こういう自由豁達な空気はもう薬にしたくともなくなった。厳格な階級制度と、箸のあげおろしまでを規定する法度、そしてその最高の位階に家康がいまや「神君」となって存在し、徳川の天下を象徴すると同じく、その子孫たる将軍が「大君《たいくん》」として現実的勢力をもつ。その勢力下に譜代や外様、老中や奉行や旗本が組織され、それらの支配階級のもとに農工商が各その職分をつくすわけである。地方の各藩主も中央幕府のアナロギイの上に運営される。これが江戸幕府の制度であった。大正末期に日本にきて東大教授として三年ほど滞在したエミール・レーデラーが、その著『過渡期の日本』(一九三八年)において、徳川時代は終始政治力によって支配され、型に入れられた時代だといっているのは、右のような事態をさしているのである。  こういう制度を実施した幕府が、思想、学問、文芸を自由のままに放任しておく筈がない。既に書いたキリシタンに対する禁令、また糾問はそのあらわれであるが、また公家に対する法度、仏教諸山に対する法度も幕府の思想統制であった。  藤原惺窩(永禄四年、一五六一年─元和五年、一六一九年)、林羅山(天正二年、一五八三年—明暦三年、一六五七年)が、換言すれば儒学の中での朱子学が、いかなる自覚的な動機を以って家康や家光に迎えられるにいたったかは、具体的にはわからない。ただ家康、家光の側から、従来の日本の思想文芸を支配していた仏教、殊に五山の思想文芸とは異なる清新なものが求められていたことは事実であり、また彼等が構想している位階制、即ち徳川を最高とする階層的秩序に合うような、できるならばそれを理論的に基礎づけうるような思想、理論が要求されていたことは、推察がつく。ところで惺窩、羅山、ともに仏に入り、仏を棄てて儒に帰したものである。これは家康、家光にかなう条件のひとつである。仏に一旦は入ったのだから仏教界の内情にも理論にも通じている。しかもそれを邪として儒を正として選んだのだから、為政者のよろこび迎える条件にかなっている。ところで儒教のうちいかなる自覚をもって朱子学を選んだかも、明らかではない。然し結果において朱子学が草創期の幕府の制度に適合したものであったことは事実である。幕府の位階的新秩序が朱子学によって道徳的に基礎づけられるとともに、朱子学が唯一の官学として、やがて林家が湯島の聖堂を主宰する大学頭として迎えられるという事実が起った。魚がしかるべき水をえたという関係であると同時に、水は魚をえて殺風景でなくなったという関係であろうか。仏の出家遁世の行実、厭離穢土の政治経済蔑視を嫌い、いうところの俗世において聖人の道を実現しようという朱子学の実践性、現実性が新政府の気に入ったわけである。さらにいえば周濂渓の大極図説の形而上学、即ち太極を窮極的な絶対とし、そこから両儀を生じ、さらに分れて四象を、八卦を生ずるという統一的な世界観、具体的にいえば太極から陰陽二気が生じ、それが男女としてあらわれて人間を生んだが、人間殊に聖人の霊は万物にすぐれているから、世界秩序におのずからに合している。人倫の道はかくして天地自然の道と合しているというわけである。これが形而上学である。ところで朱子学の実践道徳は例の理と気の論である。人間の性は本来は太極即ち理の内在したものであるが、しかし理は肉体と結びつき、人間に内在することによって、気ともなる。気には清明なものがあると同時に混濁したものもある。肉体に内在するがために、その制約をうけるのである。そこから気質による情欲、人情もでてくる。これは悪ではあるが、やがて性の善に、即ち理によって清められる途中のものにすぎない。  さて、朱子学の形而上学は、神君を太祖とする幕府の体制、制度の合理的基礎づけとして採用され、それによって制度もまた強化されたが、朱子学の実践道徳はこの形而上学を背景にして君臣道徳、主従道徳、いわゆる仁義忠孝となり、気の昇化、純粋化の方法として勧善懲悪となる。勧善懲悪は人間の一人一人の課題としては、自己の情欲、人情、本能を克服して、自己の内の理性に合致し、やがて天地自然の道に合致するという個人道徳であると同時に、文教政策としては、もともと情欲や人情を土台として発生してきた文芸や美術を、道徳のもとに屈服させ、または道徳を鼓吹するための手段としてこれを用いるということである。だから儒者の間に、また為政者の側から勧善懲悪的な文学観がでてきて、これを強制するにいたったことは、時代の必然であった。「道は文の本なり、文は道の末なり。末は小にして本は大なり」という羅山の主張がそれを示している。源氏や伊勢を淫乱の書とする者もでてきた。 『先哲叢談』に次のようなところがある。「羅山、国家創業の時に際《あ》ひ、大に寵任せられ、朝儀を起し律令を定む。大府|須《もち》ふる所の文書は、其手を経ざる者無し。謂つて我が叔孫通と為すも可なり。」羅山が叔孫通に比べられる人物であったかどうかは問わないとして、彼が新政府の文教政策に強く関与したことは疑いない。現に寛永年間の「武家諸法度」や「長崎港禁令」や「誅[#(シ)][#二]耶蘇[#(ノ)]徒[#(ヲ)][#一]諭[#(ス)][#二]阿婿港[#(ニ)][#一]」の諭等はいずれも羅山の起草であった。彼の孫の鳳岡が、六代の好学のデイレッタント綱吉の親任を得て、湯島に聖堂をひらき、元禄四年を以て大学頭に補せられ、名実ともに官学のもとじめとなったことも故なきことではない。五山の僧侶の手にあった文芸の主導権を儒者が奪ったというものの、惺窩、羅山、ともに髪を剃っていた。鳳岡にいたって始めて士籍に入り、髪を蓄えて信篤《のぶあつ》と名乗り、「制外の徒」ではなくなったのである。これにならって、各藩の儒者がみな名を改め、形を変えて士の列に入ることになった。「儒教の世用を主とするを知れるは、実に鳳岡の力なり」と『先哲叢談』はいっている。朱子学はここに官学となり、専ら世用をつとめることになった。世をあげて朱子学の門下となり、それによって官禄をはむにいたったのだが、それから外れて、不遇の境涯にいたものは、「卜医酒徒の中に在りて、独り自ら陸沈す」(『先哲叢談』)ということになった。  林一家を頂点とする朱子学が世用の学となって全盛を極めたといわれるこの時代の中に、既にその衰徴を示す多くの事象があらわれてきていた。絶頂において既に頽廃を含んでいたのである。御用学が既に御用をつとめかねるような現実の事態が既に起きてきていたのである。  大きくいえば、神君を頂点として、ピラミッド状にひらいたゆるぎのない幕府の体制が開幕以来八十年にして、ゆらいできた。士農工商の身分制度は名目的には維持されながらも、町人の勃興は経済の上では武家を圧するにいたった。整備された体制を体系づける朱子学も、それによっては包括しえないような事情に当面せざるをえなくなった。天下国家を既にでき上つたものとして前提し、その国家を安泰づけるために専ら唱道された君臣父子主従の道徳、修身斉家の道徳だけではすまされないような時勢となったといってもよい。修身斉家にかわって治国平天下のことが、つまりは天下の政治が問題になってきた。幕府はただ祖業を継承持続するだけでは保てなくなってきたのである。それを私は五代の綱吉の時代、更に限定していえば元禄時代にみる。慶長以来の金銀の蓄積が乏しくなって、貨幣の改鋳を余儀なくされたのはその著しい例である。幕末まで経済たてなおしの策として頻々として行われた悪貨への改鋳の第一回は元禄八年の荻原重秀の建策によるそれであった。これは幕府の手元不如意を、即ち財政的実力の低下を示している。元禄十四年の赤穂義士の仇討を、従来の主従道徳からは律しえなくなり、天下の法秩序という観念から之を切腹せしめたという事件も考慮すべきであろう。  私は将軍綱吉にある関心をもつ。林鳳岡が初代大学頭信篤となった頃、将軍みずから席に臨んで四書、殊に『大学』を講じている。そういう記事が度々出てくる。いまその一例として元禄四年三月二十二日の記を『徳川十五代史』から引用してみよう。 「(綱吉)側用人柳沢保明(後に吉保と改名)が邸に臨む。保明為に殿舎を作る。方五十間。北の間中の屋、東西の屋、納所、台所、舞台、楽屋、又は供奉の輩の休所等、悉く構造し、泉石心をつくして造りなせり。将軍臨んで飲宴あり、又自から大学を講じ、保明は八条目の章を講ず。次、家人等進講す。僧正隆光等は仏経を講す。了つて散楽あり、将軍自から数番を舞ふ。保明に物を賜ふこと巨多なり。献上の物も亦少なからず。黄昏に及んで帰城あり。」  柳沢吉保は微録から出世して元禄初年には万石、やがて川越城主となって老中以上の力を与えられ、甲府に転封されて十五万石を領したという寵臣であった。芝増上寺前に住んで赤貧洗うが如く、わずかに近所の豆腐屋から、きらずを貰って生活していたという荻生徂徠が、ふとしたことから柳沢吉保の知遇をえて、力を幕政にまで及ぼすにいたるのであるが、これはまた後に述ベることにしよう。  私は綱吉が大学を講じた同じ席上で僧の隆光なるものが仏典を講じたことに興味をもつ。この男が綱吉にすすめて「生《しよう》 類《るい》 憐《あわれみ》 の令」を発布せしめた発頭人であるという。子なき綱吉はたまたま戌年の生れであった。犬をあわれめば、その功徳によって子孫をうるであろうというのである。それはとにかくとして、綱吉は頻々と大学を講ずるかたわら、これも頻々として犬を大切にすべしという令をだしている。元禄四年の末、林大学頭信篤を白書院拝賀の列に加えたという記録の側に、次のような「覚」が記載されている。「子犬、道筋え出、麁相に見え候間、母犬を付、道筋障無[#レ]之様可[#二]差置[#一]旨、度々御触候処、不[#レ]用[#レ]之、大犬共に無沙汰に相見候間、御見分御廻、於[#二]相背[#一]者、急度曲事可[#レ]被[#二]仰付[#一]候条、此旨堅相守、名主月行事、弥無[#二]油断[#一]、町中並番人共、堅可[#二]申付[#一]候、少も油断有間敷もの也。」  大学の講義と、子犬憐の令とはなかなか調和しがたい。この調和しがたい二つは、次のような大規模のものとなって、綱吉から吉保に「教戒」として元禄五年九月に下令されているのである。 「釈迦孔子之道、専慈悲、要[#(ス)][#二]仁愛[#(ヲ)][#一]、勧善懲悪、真若[#(シ)][#二]車[#(ノ)]両輪[#一]、最可[#(キ)][#二]篤[#(ク)]恭敬[#(ス)][#一]者也。然[#(ルニ)]学[#(ブ)][#二]仏道[#(ヲ)][#一]者[#(ハ)]、泥[#(ミ)][#二]経録之説[#(ニ)][#一]、離[#(レ)][#レ]君遺[#(ツ)][#レ]親、出家遁世而[#(シテ)]欲[#(ス)][#レ]得[#(ント)][#二]其道[#(ヲ)][#一]、如[#(ケレバ)][#レ]此[#(ノ)]則世[#(ハ)]将[#(ニ)]至[#レ]乱[#(スニ)][#二]五倫[#(ヲ)][#一]、是可[#(キノ)][#レ]恐[#(ル)]之甚[#(シキ)]也。学[#(ブ)][#二]儒道[#(ヲ)][#一]者[#(ハ)]、泥[#(ミ)][#二]経伝之言[#(ニ)][#一]、祭[#(リ)]或常[#(ニ)]食[#二]用[#(ス)]禽獣[#(ヲ)][#一]、是以[#(テ)]不[#レ]厭[#(ハ)][#レ]害[#(スルヲ)][#二]万物之生[#(ヲ)][#一]、如[#(ケレバ)][#レ]此[#(ノ)]則世[#(ハ)]将[#(ニ)]至[#(ル)][#三]悉[#(ク)]不仁[#(ニシテ)]而如[#(キニ)][#二]夷狄[#(ノ)]風俗[#一]、是可[#(キ)][#レ]恐[#(ル)]之甚也。学[#(ブ)][#二]儒仏[#(ヲ)][#一]者、不[#レ]可[#レ]失[#(フ)][#二]其本[#(ヲ)][#一]矣。」  この将軍の戒を読んで、「世用を主とする」にいたったという朱子学の巨頭、林大学頭はどういう顔をしていたであろうか。朱子学を以てしては、生類憐の令を合理づけることはできない。子犬のよちよち歩きを差とめる法令を合理づけることはできない。私はただ冗談をいっているのではない。朱子の合理主義を以てしては解きえない事態が、子犬問題ばかりでなく、世上に頻々としてでてきたこと、合理主義では解明できない事態が起きてきたことをいいたいのである。  荻生徂徠が吉保に重用せられるにいたった動機となったのは、元禄九年の次の如き事件であった。吉保の領内の一農民が窮乏し、田地屋敷を手放し、妻を離縁し、髪を剃って道入と僧名を名乗り、母を伴って流浪の旅に上ったが、道中で母が病気になった。その母を道においたまま、江戸に上ったが、母は近隣の人々の保護によって故郷の川越に送り返された。道入は親を遺棄したという罪によって捕えられたが、これに如何なる刑をあたえるべきかが、問題になり、吉保は藩中の儒者たちに諮問した。ところで儒者たちは、親捨ての刑は明律にも見えず、古今の書籍にも書いてなく、先例がない。そこで一同案じて、道入の所行は親捨てではなく、畢竟は乞食非人の所行であるから、罰すべきではないという答えをだした。ところで吉保はこの答案を納得しない。そのとき徂徠は末席から次のように発言した。世間が飢饉の場合は、道入の如き類が多く出てくるであろう。これは親捨てではない。このようなことの起るそもそもの原因は道入という一個の人物の心がけに問題があるのではなく、飢饉という社会的条件の中に原因がある。だからもし科《とが》があるとすれば、それは第一に代官や郡奉行の責任である。その上の責任は藩政をあずかる家老である。さらにさかのぼれば、その上にも責任者があることになろう。道入の罪の如きは甚だ軽いといわねばならぬ。そう徂徠が申したてたところ、吉保が初めて合点して、道入に母の扶養料として一人扶持を与え、徂徠は「用に立つべき者」として、ねんごろに扱われるようになったという。これは徂徠の『政談』の載せるところである。  私はこの記録によって、さまざまなことを考える。朱子学者が現実の問題にうとく、形式主義に終始していることである。「世用」に役立たず、反って反朱子学の徂徠が「用に立つ」ことになったのである。徂徠が後年、彼等を口舌の徒、道学先生といって揶揄しているのも故なきことではない。なおここで徂徠が「美濃守(吉保)は禅者にて儒者の理筋は余り平日は信仰せざりし也」と書いていることも注意してよい。禅者か否かは問わないとしても、儒者たちの、こちこちの合理主義にはあきたらなかったに相違ない。いわば自由主義者であった。だからこそ、綱吉を自邸に迎えて、朱子学の講席もひらけば、仏教の説教も散楽も同時に行うということにもなるのである。吉保は和歌も好み、北村季吟の教えをうけたともいわれる。さらに右の逸話は、修身斉家の個人道徳以上に、治国平天下の政治が問題になってきたことを示している。道入という一人物の行為が主問題ではなく、飢饉の場合多く起るべき同類の処置が為政者の問題であるべきこと、これが徂徠のいういわゆる先王の道の問題、つまりは「政談」が考えられねばならぬ時勢に至っていることを示している。個人的な勧善懲悪だけでは事はすまされなくなったのである。朱子学の人間解釈が通じなくなってきたのである。  私は一躍徂徠に飛んだが、徂徠にいたる道程を、考えねばならない。それが勧善懲悪の文学観から、いわゆる人情論的文学観への展開の究明になるわけである。  既に熊沢蕃山(元和五年、一六一九年—元禄四年、一六九一年)や山鹿素行(元和八年、一六二二年─貞享二年、一六八五年)において、羅山の朱子学とは異なる思考がでてきている。人間に内在する情、情欲を肯定する考えである。義理の理に対する人情の情をやむをえないものとして消極的に、或いは人間性を完成するための不可欠の要素として積極的に肯定するのである。  蕃山は岡山の池田侯に仕えて国政に参与した実践的な学者であったと同時に、音楽を好んで琵琶を弾じ、笙を吹き、ときに和歌を談ずる風流人であった。風流の側面はたとえば『詩経』を人間の至情をのべたものとして、朱子学と違う解釈をとるということにもなる。『源氏物語』は決して淫乱の書ではなく、人情の機微を示した書であるという。詩歌は理窟を先としては解きがたい、その風体と吟情をみるべしというのである。  素行になると一層はっきりした主張になる。「人物の情欲は各々已むを得ざるなり。気稟形質なければ情欲発すべきなし。先儒無欲を以て之を論ず。夫れ差謬の甚しきなり」(『山鹿語類』巻三十三)。「人欲を去ものは人にあらず、瓦石に同じ、瓦石皆天理明なりといはんや」(『謫居童問』)。私は以上の引用を丸山真男氏の前掲書から借りたのであるが、素行は毛を吹いて疵をもとめ、すみからすみまで一筋の塵なきが如くにしようとする朱子学の非行動性を嫌ったのである。人間の気質は単に本然の性や理によって純化さるべき素材としてあるのではない。情は理によって整理さるべきマイナスではない。反って人間を表現にかりたてる力である。人間を内部からつき動かすエネルギイである。人間を感ぜず動ぜずという瓦石に化することが目的であってはならない。情をして美しく発散せしめよ、ただ過ぐるをつつしめ、乱雑を避けよというのである。礼楽はそのためにある。過ぐるを規整する枠である。溺れないための準縄といってよい。「人の礼を定むには、人情に通じて以て其過不及を制し、或は事の品をわけ、或は物の大小高下文質をきはめて、これを以て心を制する也」(『謫居童問』)。  伊藤仁斎(寛永四年、一六二七年—寛永二年、一七〇五年)は朱子学の理気の二元論、理の優位を前提とした二元論を斥ける。「天地の間は一元気のみ、」といい、「理有りて後に気の生ずるに非ず、所謂理とは反つて気中の条理のみ」という(『語孟字義』)。動いてやまない気を宇宙の根源としているのである。これを人間にとっていえば、朱子学のいうが如くに、人間に本然の性と気質の性の二つがあるのではなく、性は生であるという。情も生の一様相である。情の純なる表現としての文学は、人間そのものの表現として肯定されねばならぬ。宇宙の根源を一元気とし、性は生なるが故に近しとし、情は性の欲なりとすれば、人間には根源的な悪はない。人間肯定、人間性肯定といふことになる。私は『先哲叢談』の伝えている仁斎についての逸話に興味をもつ。  仁斎は或る夜郊外に散歩に出た。四五人の盗賊が彼をかこみ、剣をつきつけていうには、自分たちは酔わないと楽しくない、ところでいま酒代がないからだせ、もし金がなかったら着物をぬげと。仁斎は、今夜は金をもっていないから、きたない着物だがこれをとれ、ところで汝たちは何を以て業としているのかといった。賊どもは、夜になって横行し、掠奪以って自ら給するのが業だと答えた。仁斎は、かかる所為を以て業としているならば、吾れ何ぞ拒まん、といって着物をぬいで之をさずけて帰ろうとした。賊どもはいつもと勝手が違う人物なので、驚きあやしんで、一体そなたは何を以て業とするか、と聞いて来た。儒者と答えたところ、儒者とは何かときく、人道を以て人に教うる者と答え、人にして道なければ禽獣の如しとつけ加えた。賊どもは頓首涕泣して、非を悔い、教えを奉ぜんと誓ったというのである。  私の面白く思うのは、「かかる所為を以て業となす、吾れ何ぞ拒まん」といっているところである。盗賊もひとつの生き方であるというのであろうか。それを生き方のひとつとして肯定しながら、その内部からの自覚をまつというところが面白いのである。『先哲叢談』には同類の逸話を多く載せている。そのひとつ。大高坂清介という儒者がその著書で仁斎をやっつけた。仁斎の弟子が憤慨して、先生自からこれを駁しないならば、私が代ってやっつけるといったところ、仁斎は、「君子は争ふ所無し、もし彼果して是にして、我果して非ならば、彼は我に於て益友たらん、もし我果して是にして彼果して非ならば、他日彼其学長進せば、則ち自ら之を知るべし」と答えたという。自分だけを絶対とし、または聖賢として他に臨んでいるのではない。各人はおのおの異なりながら性相近しである。現実的には絶対の聖人君子はいない。ただ進んでいるものと、おくれているものがいるだけである。進んでいるだけで己れを絶対とし、他を非として批判是非するのは間違っている。ここに人間性を以て相近しとする人間肯定の思想と実行がある。文学もその人間性のさまざまな表現として受取らねばならない。  仁斎の思想を右の如くであるとすれば、神君を頂点とする固定的な位階制、士農工商の身分制、いわゆる絶対主義にとっては危険なものといわねばならぬ。人間には相対的な相違はあるが、性相近しで絶対的な相違はない。現実的には聖人君子はいない。それは今日の時代、今日の現実からみればイデエである。己れをこのイデエ自身と粧うのは儒者の僭越にすぎないとすれば、絶対主義は崩れてくる。事実この京都の材木商の家に生れた町人出身の儒者仁斎の中には、また生涯官禄を拒み、仕えることをしなかった京都堀川の私塾の教師の中には、大学頭や藩儒の知らない自由な精神が流れていた。  荻生徂徠(寛文六年、一六六六年—享保一三年、一七二八年)は仁斎の古義学に反対していわゆる古文辞学をたてたが、仁斎からまた多くのものを受けついでいる。人情の説もまたそのひとつである。徂徠にとっては、道とは具体的に尭舜の、即ち先王の道であつた。先王の道を記述したのが六経、即ち詩、書、礼、楽である。だから後世の者が先王の道を学ぼうとするなら、先王の制度文物を記述した六経によって学ぶより外にない。しかも今日の恣意によらず、専ら古文辞に通じてそれによって古人の意を解するのが正当である。そこに古文辞学が起る。また古文辞を真に理解するためには、古文辞を自分で使って文をなしうるようにならねばならない。そこに古文辞を使う詩文もあらわれてくることになる。  ところで、先王の道は歴史的事実であるが、これを今日において再び実現し、治国平天下の策としようとするならば、今日の人情を知らねばならない。「聖人の道は人の情を尽すのみ」と徂徠は『学則』でいっている。聖人即ち先王は人情に基いて礼を制した。いま礼を現実の社会に行わんとすれば、今日の人情に通じなければならぬ。ここに「学問は只広く何をもかをも取入置て、己が知見を広むる事にて候」(『答問書』)といふ徂徠における第二の面がでてくる。  古文辞学によって先王の道を、客観的事実として知ることが第一の面であり、それによって知りえた先王の道、即ち治国平天下の道を今日の社会に実施しようとするならば、今日の人情、人間を広く知らねばならぬ、という、後に雑学、随想となっておびただしく世にでてくる博聞強記が第二の面である。  さて六経の一つである『詩経』についての徂徠の考えはどうか。ここは古文辞学と人間学が一致する場所であった。古文辞学によって詩経を理解した結論は何かといえば、『詩経』は「古の人のうきにつけうれしきにつけうめき出したる言の葉」であるということであった(『答問書』)。その、うめき出したる言葉のうちから、「人情によく叶ひ、言葉もよく、又其の時その国の風俗をしらるべきを、聖人の集め置き、人に教へ給ふ」たものであった。詩経によって深く人情に通じることができる。ところで人情は、異国でもわが国でも、古でも今でも異なるところがない。心の声は変らない。だから『詩経』によって、ひろく人情に通じうるとともに、自分の中の情をねることができる。  ところで『詩経』についてのこの態度は、同時に詩文一般論となしうる。詩は心のうめきであり、それを美しい形に表現したものであるという見解は既に、古今集の序にも通じ、和歌一般にも通じてくる。詩歌は、人間感情の直接表現として、倫理や義理から独立し、即ち道学先生の思考以外のところにその存在理由をもつということになろう。徂徠の門下即ち※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園学派から文人が生れてきたのも不思議ではないのである。  ※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園門下だけではなく、当時の詩人文人たちは、徂徠が六経をもって古典中の古典としたのと同じ方法で、『詩経』とともに盛唐の詩文をその範とした。それが「風雅に参ずる」(南郭)ということであった。祇園南海(延宝五年、一六七七年—寛延四年、一七五一年)はその『詩訣』の中の「詩法雅俗弁」で次のように言っている。 「大凡詩を作るは風雅を本とす。風は国風、雅は大雅小雅、分けて云へば風とは里巷歌謡とて、当世のはやりうたなり。雅は賢人君子の作れる詩なり。」即ち風雅を『詩経』の国風や大雅小雅によって分けているのである。即ち詩体によって分けていながら、実は風雅は詩の詩たる本質であるというように論をすすめている。「真情言外にあふるる、此れを風とす」ということになる。雅とは「賢人君子材学の人の語」であって、「しほらしき辞」であるという。風雅は詩の本質を示すものとして、風と雅との区別を超えて、一体とみなし、これを縮めて雅ということができる。雅は俗に対する言葉である。俗はもと世上の風俗をいう言葉で、一概に嫌うべきものではないが、雅に対していうときの俗とは、「いやし」ということである。たとえば「凡下卑劣の常談、尺牘小説の語、又は金銀売買飲食狼猥の詞、田夫野人婦女倡劇の語」等が俗である。詩人は「ひらたき」俗なる言葉を避けて、「をりめだかなる」雅なる言葉を用いねばならぬ。南海はそう論じて、俗にして下卑た言葉、詩人の避くべき句を具体的に列挙している。「開[#二]酒樽[#一]」などもその中にあげられている。また俳言は猥雑なものとして斥けられ、倡劇婦女の語は一時の流行にすぎないから採るべきではない。  南海は雅に至る道として、「古詩を覚ゆる事」をいい、古人の名詩を日夜くりかえして誦読すべしという。古人の中の古人としては李白と岑参が挙げられている。中村幸彦氏のいう「風雅論的文学観」とは凡そ右の南海の論によって代表されているといってよい。いわば古典主義である。制作の上からいえば擬古主義である。後の皆川淇園(享保一九年、一七三四年—文化四年、一八〇七年)の如きも、この系列の上にある。淇園はその『詩話』の冒頭で、詩は体裁と格調と精神の三つを不可欠とするが、その中で精神が「総要」であるといい、盛唐の詩は興趣を主としているが、興趣のよって来るところは精神にあるといっている。精神は冥想によって体得されるのだが、冥想とは古人の詩を聞いて、其の意を黙会し、その制作動機を理解することをいう。要は古人の詩を朗誦し、その心に参ずることによって詩精神をわがものにすることができるというのである。古人の詩として唐詩、殊に杜甫、岑参、李白が挙げられている。  ここにあげた服部南郭、祇園南海、また皆川淇園はいずれも儒から出た文人であった。儒から出ながら、反って文の道徳からの独立をいった人々である。文には善悪という区別はなく、たた雅俗の別があるのみといい、雅の準拠を古典に求めている。  然し※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園学派の中には、もともと雅ではなく、俗の中に人情の自然を探るという他の要素が含まれていた。徂徠の政治論、治国平天下の理想は先王の道の再現にあったが、再現の場面は今日の社会をおいて外にない。先王の道は「人の情を尽す」ことにあるが、それを今日に及ぼそうとするならば、今日の人情のあり方に通じねばならない。人情に合することによって始めて今日の政治たりうるのである。従って今日の人情を知り、今日の人間の実態を広く知ることが要請される。『文会雑記』に記載する、「徂徠は諸国の咄し、色々のこと、人の語るを随分心をとめ聞れしと也。歿後箱の中に、状うらや、反古などにさまざまの咄を広間などにて聞たるとて書分置れたるを尋出したると也」というようなことも、そこから出てくるのである。  戯作者は遊里や戯場に場所は限定されてはいたが、世間通であり、人情通であった。総じて通人であった。俗に通じ、下情に明るかった。※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園門下と戯作者との間には相親近する要素が相互に含まれていたといってよい。また両者を結びつけるような空気が社会の中にあった。一般に自由な気分に傾いていた。『先哲叢談』は徂徠の門人平野金華を評して、「少《わか》うして曠達、一世を侮弄す。官に服するも尚ほ縦任拘はらず」といっているが、そういう人物が輩出してきた時代であった。  既に享保の前の正徳三年(一七一三年)に、服部南郭が藤本由己の『春駒狂歌集』のために序を書いたことが『南畝莠言』の中に伝えられている。南郭はこの中で、文人才子や庸人孺子と異なる範疇に属するものとして狂歌師の藤本由己を挙げ、彼は「雅に似て古ならず、俗に似て野ならず」といっている。「雅に在りても亦得、俗にても亦得」たるもので、雅俗に拘泥しない「天下の大風流、大快活」であるといっている。私は果してこの序が南郭のものであるや否やを確めえないが、少くとも狂歌集の序に南郭が書いていても不思議とはいえないものが南郭の中にあったといえよう。  大田南畝(寛延二年、一七四九年—文政六年、一八二三年)の『寐惚先生文集』が風来山人(平賀源内)の序をつけて刊行されたのは明和四年で、南畝はこのとき十九歳であった。狂詩もあれば戯文もあり戯論もあるが、その中の「水懸論」は平賀源内を感心せしめたというだけあって、なかなかに面白い。ここでは寐惚先生の名において一種の文明批評、社会批評がなされているといってよい。先生の上に寐惚をつけ、陳奮翰子角著という形で出されたこの文集自体が、道学先生に対する揶揄であった。この文体は原文そのままでないと面白くないが、煩をはぶいて適度に私の文をまじえて書く。  世に生きている者をみるに、まず士、農、工、商の四者がいる。その外に浪人と乞食がいる。またその外に一芸をもって衣食を足らしている者がいる。僧侶と神主はしばらくおくとして、「儒者となるにあらざれば医者となるもの、手習師匠にならざれば絵師となるもの、詩人にならざれば歌読となるもの」がいる。その外に立花、連誹、鞠、楊弓、三味線、茶湯でくらしを立てている者がいる。剣術、柔術、弓馬、軍学でくらしている者もいる。彼等はみな相互に商売がたきとなって互に張り合っている。儒は僧を敵にし、遊芸は武芸を笑うといった始末であるが、いまは同業相敵する者がでてきた。儒が儒を憎み、遊芸が遊芸を敵にするという次第である。儒には朱子学派と徂徠学派、詩には唐宋元明の各派がしのぎをけずっている如きはその例である。ところで朱子学派は、面《つら》は火鉢の如く、体は金甲の如くで、縛るに三綱五常の縄を以ってし、嘗《な》めるに格物致知の糟《かす》を以てする。まことにこちこちに固く、生きた聖人というべきである。ところで一方徂徠学派は、髻《まげ》は金魚の如く、体は棒鱈《ぼうだら》の如く、陽春白雪を以って鼻歌とし、酒樽妓女を以って会読にまじえ、足下と呼べば不佞と答えて、やがて文集の一冊も出すことを理想としている。朱子学派、徂徠学派は互に手前味噌をならべているにすぎない。どちらがいいか悪いかは水懸論にすぎない。これは単に朱子、徂徠の儒のことばかりではなく、医者仲間でも、書家の間でも絵師の間でも同然で、ただ互にわめき合っているにすぎないと南畝はいっている。  この「水懸論」でわかることのひとつは、十八・九歳の南畝の時代、即ち明和の頃にいたって、一芸を以て世を渡るものが非常に多くなったことである。この傾向は八代の吉宗時代、即ち享保の頃から著しくなった傾向といってよい。士、農、工、商以外は、浪人と乞食ぐらいしかいなかった徳川初期にくらべて、いわゆる自由職業のものが多く出て来たのである。学者や医者や遊芸人、そして文人といわれる一種のインテリゲンチヤもこの時代にいたって、その性格をはっきりとして来た。 『先哲叢談』には「元禄中、文教大に煕《おこ》り、家読戸誦す」とある。元禄頃から町人、また一般庶民の間に読書人が多く出てきたことをいっているわけだが、二、三十年後の享保の時代、即ち江戸中期にいたって、いよいよ学問、文芸が一般化してきた。南畝の『仮名世説』の中には次のような記述がある。 「此御国、文雅の盛なりしは、宝永正徳の間なり、享保の中|比《ごろ》より、文雅草莽に下りたり。有識の士、是を前知せるにや。赤石蛻岩先生(梁田蛻巌)の詩に、『登[#レ]高作[#レ]賦今誰是、海内文章落[#二]布衣[#一]』と。俊述先見の明、恐るべきにあらずや。民間にばかり文あらば、文衰なり。無位無官の者の詩文を作るは、虫、草間に吟ずるなり。それさへ近年傑出の者なし。枯草の虫、霜枯の音といふべし、とある人申しき。」ちなみに『仮名世説』は文政七年、南畝歿後一年にして版になったもので、逸話、名言の集録である。  伊藤仁斎、荻生徂徠というような大儒はもういなくなり、新井白石という碩学も享保十年に亡くなった。朱子学派、古学派、古文辞学派、それに陽明学派、みな二代日、三代目となり、片山兼山、井上蘭台等のいわゆる折衷学派が出てきたのが享保以後である。許六の句に十団子も小粒になりぬ秋の暮というのがあったが、江戸中期以後は学者も詩人も小粒になった。寛文十年(一六七〇年)に生れ、宝暦七年(一七五七年)に死んだ本来の詩人梁田蛻巌は、青年期に元禄を見、壮年期に享保の時代を体験し、時勢の推移を敏感に味った人であった。文雅、風雅の内容が次第に変質してゆくのをみてとったといってよい。だから、「登[#レ]高作[#レ]賦今誰是、海内文章落[#二]布衣[#一]」には実感がある。さきにも書いた享保末年生れの皆川淇園はその『詩話』の中で、「登[#(ツテ)][#レ]高[#(ニ)]能[#(ク)]賦[#(ス)]」の古言を引き、高山の大景の境に入って「精神」を練り、「冥想」によってイメージを獲得すべきことを主張し、格調高き風雅を主張してはいるが、大勢はこの方向にはすすまず、反って祇園南海の憂えた「俗」の方にすすんだ。南海のいう「雅」は高踏にして擬古、骨董文章にすぎず、今日の言を以て今日の情を陳ぶべしという、たとえば山本北山(宝暦二年、一七五二年—文化九年、一八〇九年)の方向が有力になった。古文辞学を唱うる※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園の詩人たちが、自作の詩文中に、たとえば品川を級済と書き、虎の門を白虎門といい、奉行を尹侯と呼ぶという擬古の気取りをなすにいたれば、北山の如き反対派の出てくるのもまた当然であったろう。  南海はまた「素人を悦ばしめんため、卑俗凡庸の語をなして面白がらす事」を以って「俗」としたが、やがて「雅人の俗を弄ぶばかりは、却りて雅の沙汰になるも味なものなり」(『仮名世説』)という南畝の勢力に圧倒される時代に入ったのである。北山等は古典主義を擬古主義、骨董趣味として、清新を以って作風とした。北山に準拠すべき古典が無かったというのではない。彼も漢詩人であり儒でもあったのだから、準拠なくして立ちうる筈はない。経は孝経、文は韓、柳を以て標準としたと伝えられるが、仁斎、徂徠の古学、古文辞とは違う、いわば自由主義、今日の言葉、今日の情を根本とするという風があった。「詩は趣の深ふして、辞の清新ならんことを要せよ」といい、「人の詩を剽襲して巧ならんよりは、吾が詩を吐き出して拙きが優れると心得べし」というのがその主張である(中村幸彦氏前掲書に拠る)。個人の好み、自分の趣味が前面に出てきたのである。これは文人趣味の表現といってよいだろう。古人の詩を誦し、古人に習うことに代って、自分の好み、己がすきをそのままに表現するという傾向である。たとえそれが異国の準拠からみて俗であってもかまわないというのである。  南畝のいう「雅人の俗を弄ぶ」というのは彼にあっては狂詩文を指しているのであろう。寐惚先生の方が反って雅で、弄ばれている朱子学、※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園の徒が逆に俗だという趣もないではない。かの味噌も糞も一しょくたにした「水懸論」によって推察のつくことは、各人各派、各々異をたてながら、異をたてて独立独歩するほどの形姿は既に失われて、惰性によって己が旧城に拠っているが如き観を呈するに至ったことである。即ち各派各流がひとしく批評の対象になり、批評しえないほどの権威をもつものがなくなったということである。批評精神の興起は自由の空気なくしてはかなわないが、同時にそれは権威の頽廃を意味している。儒教各派、仏道各流、国学諸派に始って、諸芸一般を批評の対象として手玉にとった南畝に、では汝は一体何ものかとつめよれば寐惚先生と答えたに相違ない。ときによって、蜀山人とも四方赤良とも答えたであろう。世を茶にするが面白いのである。雅を気取るものの面を剥ぐのが面白いのである。味噌を糞にするところに「狂」があったわけであるが、自分のよって立つところを問われれば、韜晦するより外にない。世事百般に趣味があり、考証有職にも通じているが、さて自分の立場というものはない。博識多解の教養はもっているが、核になるものはない。世を茶にした揚句は自分自身をも茶にせずばやまない運命が待っている。雅にいて俗を弄ぶところから、俗にいて俗を弄び、弄ぶ自己をもまた弄ぶにいたるという経路である。文政二年といえば南畝の七十一歳のときで、その前年には胃潰瘍のためか血を吐いたりした。その年に『四方の留粕』が刊行されたが、その中に「吉書初」というのがある。大晦日から元且にいたる相変らずの酒と遊楽の生活を書いた後で次のようにいっている。「まだしも酒と肴に憎まれず、一盃の酔心地に命をのべ、一椀の吸物に舌をうてば、二丁鼓の一音をおもひ、三線枕《さみせんまくら》のむかしを忍ぶ。やみなんやみなん。我年十に余りぬる比《ころ》は、三史五経を経緯《たてぬき》にし、諸子百家をやさがしして、詩は李杜の腸をさぐり、文は韓柳が髄を得んとおもひしも、いつしか白髪三千丈、かくのごとくの親父《おやじ》となりぬ。狂歌ばかりはいひたての一芸にして、王侯大人の懸物《かけもの》をよごし、遠国波濤の飛脚を労し、犬うつ童も扇を出し、猫ひく芸者も裏皮をねがふ。俳優人《わざおぎびと》の羽織に染め、うかれめの晴衣《はれぎぬ》にも、そこはかとなくかいやり捨てぬれば、吉書《きしよ》はじめともいふなるべし。」自嘲とも自己卑下ともみえる。しかもそこに掩うことのできないのは、狂歌師、戯作者、狂詩人の孤独である。世を茶化し、自分を茶化し、茶化すことをも茶化した者のみがもつ孤独といってよい。  私は飛躍して唐突に孤独というような近代的な言葉をついもちだしてしまった。もちだしたついでにもうひとつのことを書添えておきたくなった。芥川龍之介は『澄江堂雑記』のなかで、徳川末期の文芸は一般に不真面目だといわれている、然し彼等戯作者も肚の中では如何に人生の暗澹たるものかは心得ていたに相違ない。「しかもその事実を廻避する為に(たとひ無意識的ではあつたにせよ)、洒落れのめしてゐたのではないであらうか」と、山東京伝を例にして言っている。戯作者にあって自覚にまで達しなかったものを、意識の表面にもちだして綴ったのが芥川の初期の作品『孤独地獄』といってよいだろう。これは芥川が自分の母から聞いたことを書いたものであることを鴎外に語っている。芥川の母は細木伊三郎の娘である。伊三郎は細本香以の姉の壻である。芥川は母の叔父にあたる香以のことを母から聞いて例の『孤独地獄』を書いたのである。「山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現はれる」という孤独地獄の主人公は香以であった。  ところで我々は森鴎外の『細木香以』によって詳細に香以の伝を知ることができる。香以は二代目|摂津国屋《つのくにや》藤次郎、通称津藤である。前田や上杉や浅野というお歴々の大名に用達をするいわば金融業である。香以の父龍池は、狂歌もやり俳諧もたしなんで仙塢と号したほどの通人でもあった。龍池は戯場や遊里に取巻を大勢従えて豪遊した。取巻の一人に為永春水がいたというから文政の頃と思えばよい。龍池は自ら筆をとって、戯著もつくったというから、これを文人の一人に数えてもさして不自然ではないであろう。龍池の子香以は少年のとき経学、書道をそれぞれ当時の然るべき師について学んだが、十七歳の頃から遊里にしげく通った。後の仮名垣魯文はその頃の香以の御伴をして歩く丁稚であったという。香以の取巻には河原崎座の作者もいれば俳諧師狂言師もいた。彫工もいれば画工もいた。力士もいれば正伝節の家元もいた。それらをひきつれて日夜豪遊にふけり、今紀文をもって呼ばれるにいたった。香以とは俳号で、みずから俳諧をひねったりしている。さすがの身代も香以の二十年にわたる豪遊で傾いた。「年四十露に気の附く花野哉」の句がある。家産を蕩尽した後、浅草馬道に市隠となって、市村座の作者として売文をしたり、俳諧狂歌の判者になったりした。『狂歌本朝二十四孝』『狂歌調子笛』等があるという。浅草にも居を張ることができなくなって千葉の寒川に退隠し、やがて明治三年に四十九歳を以て瞑目した。辞世の句は、「己れにも厭きての上か破芭蕉《やればしよう》」というのだそうである。  私は鴎外の香以伝を読んで、辞世の句に及んだとき、芥川ならずともその孤独を思わないわけにはいかなかった。産を蕩尽して寒居に住んだから孤独になったというのではない。豪遊のさなかにおいて孤独であり、取巻に文字通り取巻かれ、遊女妓女の間にあって孤独であったという想像がわいてくる。鴎外の『百物語』の主人公である飾磨屋《しかまや》という大尽の孤独と類を同じうする孤独である。  摂津国屋も飾磨屋も大尽である。飾磨屋は知らず摂津国屋の龍池、香以父子は、津藤という商売名でない雅号を以って呼ばれているところをみても、まず文人仲間といってよい。この二人には版になった筆の蹟もあるのである。彼等はその周囲に多くの取巻をもち、それらに多くのものを恵与している。取巻の中には文人を以て称してよい者もいた。恐らく江戸末期の文人たちはこういうパトロンを背景にして詩酒に沈湎しえたのであろう。さて蜀山人を幇間といえば直ちに苦情がでるかもしれない。蜀山人は辞を卑うして王侯貴人や大尽に附合ったのではあるまい。またその恵与を当にしたのでもあるまい。然し貴人や大尽が山人と席を同じうすることを光栄に思ったとばかりにはいえまい。結果において幇間に近いものとして席につらなったことも多かったろう。それが先に書いた「王侯大人の懸物をよごし、俳優人《わざおぎびと》の羽織に染め」ということになって現われてもいるのである。ところで山人自身、孤独であったとしたらどういうことになるのであろう。自分を茶化すことまで茶化しているということが芥川の言う「洒落れのめ」の実態であったとしたらどういうことになるのであろうか。大尽も孤独、取巻も孤独、ただ互にそれを口にせず、反って狂歌や遊びに騒がしかったという風景も想像に難くないのである。  私の右のような想像を山東京伝(宝暦一一年、一七六一年—文化一三年、一八一六年)が既にその『世上洒落見絵図』で反対の方向から示している。私は小著『詩とデカダンス』のなかでかなり詳しくこれを書いているから、ここではその大要を書くにとどめよう。この戯作には京伝が京伝という名をもって登場している。作中の京伝は、「あゝ、つらつらおもんみれば、世の中の人心、かうでもないあゝでもないと、むしやうにしやれしやれしてみた所の、末は如何なる物になるやらん」と案じくたびれた形でまず出てくる。作中の京伝はいろいろな洒落た場面を構想してみる。血の道の薬を飲む男とか、猟人を釣る狐とか、狐を客にとる女郎とか、餅を喰う上戸とか、いろいろな洒落を考えてみるが、いずれも常識以上ではない。考えあぐんでいるところへ、天帝が「白化《しらばけ》」の姿で現われ、「洒落のとどの詰りを見せよう」といって、わけのわからぬ塊がごろごろ転がっているところへ案内する。天帝はその塊をさして、「これがみな洒落の高じた者ぢや」という。武士、百姓、職人、儒者、仏者、神道者、医者、俳諧師、芸者、幇間といった連中が、妙ちくりんな塊になってごろごろしている。なかでも通人と女郎が異様である。天帝はそれらを指していう。「かうでもない、ああでもないと、段々洒落れ洒落して、遂にこんな分らぬものになる。今時の洒落はしやれてえしやれてえで、皆ゆきなりだから、本意を失つて、このやうに始めの形をなくして仕舞ふ。無上に洒落だしやれだと思つて、元を忘れるやからが多いから斯様だ。」京伝は真顔になって、洒落は結局洒落損に終る、少しも洒落のないことが、本当の洒落というものだというところへ話を落している。  洒落の空しさは、結局は芸文のむなしさ、文化というもののむなしさに通じるであろう。文を売り、詩書画を作ることのむなしさ、結局は己がむなしさにも通じるであろう。一言にしていえばニヒリズムである。京伝はこのむなしさを徹底させて、白化の、素顔の、ありのままの世界、柳緑花紅の世界にいたることを暗示している。洒々落々、胸中一物の蔵することなき光風霽月の世界が、洒落《しやらく》の真の姿だというのである。然し戯作者はそこまでいけば禅居士に早変りしてしまう。洒落《しやれ》のむなしさをいうところで京伝は足をとめているわけだが、ニヒリズムと、ニヒリズムを洒落れのめとして回避するところとが紙一重のところまではいっている。文化文政期の爛熟期のニヒリズムとデカダンスのかなり深い面を我々は京伝において見ることができる。  右のことを北村透谷はいちはやく看取している。明治二十五年二十三歳の透谷はその『徳川氏時代の平民的理想』の冒頭で次のように書いているのである。 「焉馬、三馬、源内、一九等の著書を読む時に、われは必らず彼等の中に潜める一種の平民的虚無思想の絃に触るるの思あり。就中一九の著書『膝栗毛』に対してしかく感ずるなり。戯文戯墨の毒弊は世俗の衆盲を顛堕せしのみかは、作者自身をも顛堕し去んぬ。」  透谷によれば十返舎一九は人間の精神的存在であることを頭から尾まで茶にしてかかったものであり、「無無無の陋巷に迷ひ、無無無の奇語を吐き、無無無の文字を弄して、遂に無無無の代表者」となったもので、その罪は時代の中にあったといっている。即ち完成され、固定された封建的身分制度の中にあっての「平民」は、殊に平民中の自覚分子は、「放縦豪蕩にして以て一生を韜晦し去るより外はなかつた」のである。虚無思想が彼等の間に起ったのは当然だというのである。透谷によれば、戯作の根柢には人間を蔑視し、自己を蔑視し、実世界の苦から韜晦し、人生の虚無、無意味をいうニヒリズムがあり、そのニヒリズムを狂言奇語において裏側から表現しているということになろう。私が山東京伝の『世上洒落見絵図』においてみたものはまさしくそれであった。  私は南畝の「享保の中比より文雅草莽に下る」とか蛻巌の「海内文章落[#二]布衣[#一]」の言葉にちなんで、ついに飛躍して戯作戯文、狂歌狂詩に及んだ。そして蜀山人や細木香以、また山東京伝に、文人という言葉を与えた。然しこれは狭義にいえば妥当ではない。文人はまず士大夫に属すると解すべきである。士大夫の文学は漢文漢詩という伝統は遠く王朝期から続いている。江戸期の文人はその当初において儒であり、時に医であった。漢詩文の作家であった。詩と書とが、文人を資格づけるものであったといってよい。後にいたって画がこれに加わり詩書画三絶という言葉もでてきた。画はこの場合舶載の南宗画をさしていることはいうまでもない。詩も書も画もすべて舶載、唐人であることが理想であったことは、物茂卿、祇南海等の三字名を以て文人が呼ばれたことを以てしても解る。狂歌師に唐衣橘洲を以って名とした者がでてきたのは、文人への揶揄であった。漢詩文が雅であり、俳言奇語が即ち俗であった。  しかし享保以後、雅を雅とすべき根拠が失われた。古典主義、擬古主義に換って、自由主義、批評主義が出て来たことは既にみた通りである。文学は人情の、また個人の感情の直接表現である、己れの言葉で己れの好みを表現すべしという「清新」な文学論がでてきた。然し漢詩文には漢詩文の制約がある。五言七言もあれば平仄もあわさなければならぬ。禁句もあれば使ってはならぬ野卑な言葉もある。南海の『詩訣』は多く読まれた標準書といってよいものだが、使ってはならぬ「凡下卑劣の語」を多く列記している。杯酒興無[#レ]窮の如きもその中に入る。煮[#レ]茶、囲[#レ]炉の如きも入る。米価|貴《タカシ》、無銭、一文銭の如きは言うまでもない。とにかく漢詩はもともと日本のものでないから日本人にとっては窮屈である。古人の詩を読み、また吟誦することを文人修業のひとつに数えているが、実は返り点をつけて日本式にこれを読んでいるのである。徂徠の如きは唐音唐字を言ったが、これは現実には行われなかった。  自由主義を徹底させ、個人の刹那の感情の吐露を以って詩とする考えをつきつめてゆけば、漢詩の制約まで突き破りたくなるのは道理である。自由な文体、自由な形式を選ぶことになるのは勢である。文雅草莽に下るとき、文章布衣に落ちるとき、殊に然りといわなければならぬ。もちろん士大夫の旧套を守って漢詩漢文を作るものはいた。明治の末年までいた。鴎外も漱石もその処女作を漢文で作っていることによっても解る。鴎外の『航西日記』、漱石の『木屑録』がそれである。その上、鴎外も漱石も晩年まで漢詩を作っている。鴎外のそれは形式ばったものだが、漱石のそれは、或いは漱石の根本思想の表現形式であったかもしれぬ。私は『明暗』を以って過不足なく漱石の思想を表現したものとは思わない。漱石の言葉でいえば「俗了」された頭で書いているのである。その俗了を洗い清めて漱石は漢詩を綴っていた。恐らく明治の末年まで、文人というときは漢詩文との関係において考えられていたであろう。江戸の文人の伝統は士大夫であったとすれば、明治の文人はインテリゲンチヤであったが、明治のインテリゲンチヤは武士の伝統につらなり、儒教の教養を多かれ少なかれその少年時代においてうけていた。そういう伝統はたしかに一方においてあった。  然し草莽、布衣に下るとき、文学は士大夫のそれと違う文学形式を選ぶことはまた当然である。上方《かみがた》から新しい形式が現われてきた。江戸期の京大阪は政治とは縁が薄い。然し平安と呼んだ京都には王朝以来の文雅の伝統があり、大阪には堺を継いだ新興商業都市の特異性がある。ともに士大夫意識から自由であったといってよい。私は考証に暗く、上方の漢詩人たちの戸籍を明かにしない。伊藤仁斎が京都の材木商の出であったことは先に書いたが、この諸侯に出仕することを拒んだ大儒の中にも、政治からの自由、いわば布衣の心があったとみてよい。儒雅といわれた服部南郭もたしか京都の町家の出であった。下っては上田秋成は大阪の油と紙を業とする商人の養子であり、木村蒹葭堂は大阪の酒造家から出た。池大雅には棄子説もある。その養われたのは京都の扇子屋においてであるといわれる。蕪村も大阪の田舎の毛馬村に生れたといわれながらもその来歴は明らかでない。秋成も養父は解っているが、みずから「生れて父無し、其の故を知らず」といっているほどで、その出所は伝説の中に埋もれている。秋成や蒹葭堂は町人の中から、大雅や蕪村は文字通り草莽の中から出てきたといってよい。然しこれ等の人たちもみな一応は文人たるの修業をつんだ。漢詩文に縁がなくては文雅の資格のなかった時代に属していたのである。然し今日秋成の名を残しているのは『雨月物語』等の創作か『胆大小心録』等の随筆である。蒹葭堂も好事家、蒐集家として名を残し、その考証的百科全書的随筆で知られている。大雅はいうまでもなくその文人画、蕪村は俳句である。彼等にあっては文人としての一般的素養はありながら、自己の感情や思考の表現の場は、創作、随筆、或いは絵画、俳句であった。それらが最も自由に自己表現の出来る形式であったのである。文章布衣に落ちることによって、このような新しい形式が生れたといってよい。この新形式に拠ったからといって、文人でないとはいえまい。ここにおいて江戸中期以後、具体的には享保以後において文人という概念は相当に拡大されてくる。狭義のそれに対して広義のそれがでてくる。  然し江戸に起った狂詩狂歌戯作は、その狂の字、戯の字を冠することによって、前記の創作、随筆、俳句とは違うことはいうまでもない。それらはむしろ道学先生化した文人を揶揄するアンチ・テーゼとして勃興してきたといってよい。大まかにいえば士大夫に対する庶民の、透谷の言葉でいえば平民のものであった。少くとも庶民的町人的であった。宿屋飯盛とか大屋裏住とか浜辺黒人とかいう名がそれを示している。初期においては、たとえば大田南畝としては漢詩人または文人、蜀山人として狂詩人または狂歌師、四方赤良として戯作者というように、一人で三役をかねるようなひともいた。南畝を文人とするに誰も異論はないであろう。然し四方赤良が果して文人であるか否かの決定には躊躇がある。春水や三馬や一九が果して文人といえるかという疑いの方が尤といわねばなるまい。しかし文人と戯作者との境界線をどこでどうひくかということになればこれもまた困難である。この困難はたとえば永井荷風にまで及んでいる。『下谷叢話』『雨瀟瀟』『断腸亭日乗』の荷風はいうまでもなく文人である。然し巷間伝える『四畳半襖の下張り』はどうか、『腕くらべ』の私家版は果してどうか、ということになれば、躊躇の方が当然といえるだろう。文人と戯作者との間の線はなかなかに引きがたい。  私は寛政の異学の禁(一七九〇年)以来、殊に文人と戯作者は接近したと思う。異学というのはもちろん朱子学に対する異学である。寛政の三博士といわれる博士らしくもない朱子学者、柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里等が、衰微した朱子学の再興を企て、松平定信の勢力にすがって湯島聖堂の官学を粛正しようとしたわけである。学問の統制であり、自由への圧迫であったが、一旦目覚めた自由精神は江戸時代においてすら一片の命令で屏息するものではなかった。正面から反対するものもあったが、我関せずの態度をとるものもあり、かかる禁令を出した当局や、それによって仕立てあげられた御用学者に背をむけ、または社会に絶望して詩酒に沈湎するものもでてきた。酒井抱一、亀田鵬斎の如きがそれである。鵬斎は権臣をみること田夫の如くであったといわれ、酒中の老仙を以て任じた。抱一、文晁、鵬斎、寛斎、詩仏、それに蜀山人が加わった千住での書画会もしくは闘飲会のことについては他のところに書いたからここにはいわない。私はただ抱一、寛斎、詩仏等の壮々たる文人と蜀山人との接触の一例をこの闘飲会においてみるのである。蜀山人はこの席上で「後水鳥記」という戯文を書いている。  私は鵬斎が文化元年の版である山東京伝の『近世奇跡考』に序を書いていることを知った。  松平定信が老中になって、さきにも書いた異学に対する禁令をだした寛政の初年には、奢侈や淫靡に対する禁止令が頻々として出た。異学を禁じた同じ年に絵本読本絵草紙等の取締令が出た。翌三年には男女の混浴を禁ずる令が出た。緊縮政策、粛正政策は風俗や戯作にまで及んだわけで、京伝の『仕懸文庫』もその禁にふれ、寛政三年の春、五十日の手鎖という刑に処せられた。これが転機になつて、爾後京伝は洒落本に筆を絶ち、『忠臣水滸伝』『本朝酔菩提』等の昔話や故事、考証にすすんだ。前記の『近世奇跡考』もこの種のものである。京伝は自序のなかで、「此書すベて、よしなしごとをかきつけたるものにはあれど、今にありて百歳《ももとせ》のいにしへを見、昔の質素をおもひて、費《ついえ》をはぶかむには、すこしくもちうる所なきにしもあらじ」云々と書いている。この書は文化元年の版であるから、寛政三年から十数年の後である。それでもなお、手鎖五十日の傷痕は残っていたのである。京伝は若いときから遊里に入りびたり、むかえた妻は二人とも遊女であったという。文魚という大通大尽の取巻の一人であった。そういう前歴がある。そしてこれは当時の戯作者一般に共通したものであった。それが老年に及んで『近世奇跡考』を書いた。これは考証とともに、力士、俳優、大尽等の逸話を輯めたもので、文人の仕事といってよい。亀田鵬斎に序を求めたのも、当代随一のこの文人に文人としての仕事を認めて貰い、併せて世間の信用をえたかったためである。  鵬斎の序は漢文であるが、そこには次のようなことが誌されている。これは文人と戯作者との釣合いを知る上に興味のある資料といってよい。  鵬斎は初夏の一日、例によって根岸の自宅で客とともに酒を飲んでいた。そこへ一樽を携えて京伝がうやうやしく訪れた。「老人不[#レ]解[#レ]飲」といっているところをみれば、京伝は下戸であったらしい。席末にあって、おそるおそる懐中から小冊子を出して、どうか先生の序をえてこれに附したい、それによって市価を増すことができることを言った。「余已浩酔、乃笑而頷[#レ]之」と書いているから、酔ったまぎれによしよしと軽く応じたわけである。そしてその晩、老人の『近世奇跡考』五巻の原稿を読み初めた。鵬斎はもともと京伝を戯文に長じ、鵬斎の頤を解くの才に富んだ者と思っていた。ところが今度の稿はそういうものではない。実に「博稽細捜」で、二百年以来の世に埋もれた故事や美談を、粲然たる今日の言葉で再表現していて、「士君子之眼」を醒すばかりである。京伝のかつての戯文は「構[#レ]偽取[#レ]媚之類」であったが、これはそれと同日の談ではない。実に新鮮でしかも実証的である。感じ入って全巻を夜明けまでかかって一気に読み了った。朝にいたって元気づけのために三杯の酒を手ずから酌して、筆をとってこれを書いたという次第である、といって序を結んでいる。  右の序は過不足なく、文人というものと戯文家との位置の比例を示している。特別に鵬斎が尊大であったというわけではない。京伝がことさらに卑屈であったわけでもない。文人とは右の如きもの、戯文家とはかくの如きものであったのである。そういう歴然たる相違を示しながら、両者は互に相近づいている。鵬斎は戯に、京伝は文に歩みよっている。秋成の皮肉な言葉を借りれば、両者はともに太平の時節の生んだ逸民であり、塵芥だということにもなろう。ただ文人には士君子の伝統が残り、漢詩文の名残りがあるのに比して、戯文家には俳言奇語の流れがあり、町人の意識があるわけだが、それも江戸末期に至れば絶対的なものではない。ひとり高しとして、野にあって官を蔑んだ文人気質も、随筆考証を事にするにいたって次第に世間人となってきた。戯筆を弄して世間を笑わせ、洒落れだの通だのといって野暮を笑っていた戯文家や狂歌師も、ふと自省してみれば、大尽の取巻きにすぎず、洒落れもしゃらっくせえものにみえてきた。大尽自身も取巻かれている自分が、反って実は取巻の役を遊女や幇間にやっているにすぎないのではないかということに気付くことがある。いわゆる枯寂の空に顔をつき合せる一瞬がある。後世の文筆家は孤独地獄などといったが、そういう大げさなところまで身を顕わにしないたしなみを失ってはいないが、空々漠々たる思いに落ちることはあった。それが文化文政及びそれ以後の文人世界遊里戯場の空気であったといってよい。  天保六年に出版された『南柯の夢』は文人墨客の世俗化を知る上に便利な本である。著者は平亭主人畑銀鶏である。銀鶏は金鶏の子である。挿給は歌川貞広が書いている。この絵はかなりに写生的である。平亭では毎月二十五日に書画会が催された。そこへ集る連中が名札をつけられて画かれている。先生と書いていたり先醒と書いていたりする。その先醒の一人に稼堂がいる。成島柳北の父であろう。その他儒者、文人、戯作者、浮世絵師、役者数十人が画かれ、席画の筆をふるっているもの、拳をするもの、酒杯をかたむけるもの、実にさまざまで、仲を十数名の遊女がとりもっている。凡そ当時の書画会とはこういう風景のものであったろう。  ところで『南柯の夢』の本文は夢に託して書画会を諷したものだが、こんな風に書き初められている。九月の初め両国柳橋辺の書画会に招かれていってみると、会場ははや盃盤狼藉、「文人変じて俗人となり、雅談なかばにつきて」筆袋を膝にしいたり、扇が酒びたしになったり、芸妓《げいしや》にうつつをぬかしたり、さまざまである。「画家筆をとれば見物首をのべてうかがひ、芸妓酌をとれば文人涎を流してのめり、収納の甲乙は雅客によらず。俗客却つて檀那にして、雅人いづれもお供なり」といった次第である。  そういう席で酒を飲んでいると、十二、三の女の童が忽然としてあらわれて、別席に御面会の方が待っているから御案内いたしましょうという。いざなわれて別席へいってみると、これはまた如何に、そこは化物《ばけもの》どもの会所で、魔王が正座に直り、三つ目の入道、野狐、化猫、古狸以下異形の面々が列座している裁きの庭であった。この庭にひきすえられて、わが主人公は魔王の裁きをうけることになる。化物界の王はいう。このごろ人間界も化物ばやりで、ついに尻尾を見せず上手に世を渡るというずるい化物もいる。書画会の面々などもまさしく化物で、汝の如きは化上手の小才子だ。「種々ざつたのやから、文人と化けて俗客の眼をくらまし、儒者のかた衣をかけて、高慢な顔つきをしながら、拳酒にうつつをぬかして、芸妓に戯むるるなど、」まさに我々化物の顔負けする程だ。汝の如きも「近頃、書画会の席に連なり、文人顔して先生がたと交れど、汝いかなる芸能ありて、此席には出る。書を学ぶや、画を好むや、詩を作るや、文をかくや、歌を読むや、俳諧をするや。」汝は父奇々羅金鶏の子として生れ、幼きより詩画会の教養をそれぞれの先生について習った筈なのに、何一つに達することもできず、「二十三、四のころより青雲のかけはしをふみはづし、南畝六樹園の行状をうらやみ、出来もせぬ狂歌、狂文に、あたら月日を費やし、たまたま書見するときは『うづら衣』や『風俗文選』に眼をさらし、風来山人の『六部集』がいまだ再板ならざるとき、ばかばかしき高価にてもとめ、」そういうことに憂身をやつすたわけ者になりきって、「ざれ歌、ざれぶみの道に堕落し、狂歌師や戯作者を友として其の日をおくり、書画会の席にいたりて、わからぬうたをよみ、悪筆にかきちらし、夫よりして芸妓の美醜を論じ、酒のよしあしを評し、大声あげて拳をうてども、生れ付たるへぼけんなれば、只の一度も勝利をみず、」まことにみさげはてたる化物なり、と魔王は一気にののしった。  魔王はさらに似而非文人の無学ぶり、故事知らずの程を一々例をあげて具体的に示してきめつけている。  私はこの『南柯の夢』は、文化文政以後の文人ぶり、洒落ぶり、しみったれぶりを遺憾なく示しているものと思う。文人も戯作者も画家も取巻も、味噌も糞もいっしょくたになってしまっているのである。江戸の文化の頽廃、文人墨客の自己喪失を示している資料である。この外にも化物仕立の戯著は多い。風流志道軒をいんちき坊主の大化物と罵った馬場文耕の『当代江都百化物』の如きは、そのさきぶれであった。  荻生徂徠は武士たちは「旅宿の境界」にあるものだといった(『政談』)。おのが在所を離れて城下に集り、また故国を離れて江戸に勤務するところの放浪者だというのである。「今の世の人、百姓より外は、武士も商人も故郷と云ふ者を持ず、雲の根を離れたる境界、哀なる次第也」といっている。故郷喪失者は、恒産もなければ恒心もない。「町人の風俗と傾城町、野郎町の風儀、武家に移り、風俗悪き慰め多き所なれば、武芸、学文の嗜も薄くなる」ということが当然に起ってくる。かくして武士は本来の性格を失って、軟弱になり、「町奴の様になる。」ここから徂徠の武士の土着論がでてくるわけである。江戸や城下から去って知行所の田園に帰り、自給自足の生活をせよ、そのように制度を改めよというのである。『政談』の書かれたのは享保十一、二年(一七二六、七年)の頃であるといわれている。爾来、徂徠の土着論とはいよいよ反対に、即ち百姓以外は世を挙げて故郷喪失の方へ進んできた。生産物の商品化と、商品の流通に携わる町人の勃興、隆盛という歴史の事実がそれを示している。  元来、わが国の詩人歌人には中世以来、旅宿を以てこれ境界となす伝統があった。西行や芭蕉を想うだけでも推察はつくであろう。一所不住、旅にいて旅を栖家とし、旅に死するのがその理想の境涯であったのである。そこには係累を離れ、世俗を離れ、自己執着をはなれ、世とともに自己からも脱落して、真に自由な天地に遊ぶという仏教、殊に禅の背景があった。出家遁世からくる優游自得の世界があった。  ところで江戸期の文人墨客には、そういう背景はない。江戸期の支配的イデオロギイは修身斉家の儒教、殊に朱子学であった。脱落無所有の禅はすでに文人たちの骨格をなしてはいない。彼等もまた千里の行をいい、それを実行もしたが、それは万巻の書と並ぶ教養の資をうるためのものであった。旅のメタフィジークは失われて、旅の認識論に変ったといってよい。私がそこに芭蕉と蕪村との相違をみていることは、すでに他のところで詳しく書いたからここでは繰返さない。芭蕉は、旅人とわが名呼ばれん初しぐれ、とうたい、旅に病んで夢は枯野を辞世の句とし、年暮れぬ笠きてわらぢはきながら、の生涯を送った。蕪村は芭蕉の「年暮れぬ」の句をひき、蕉翁去ってのちまた蕉翁なく、「そののちいまだ年くれず」といい、名利の街に走り、貪欲の海に溺れている身を歎いている(『歳末弁』)。芭蕉を旅の詩人とすれば、蕪村は夜半亭亭主であった。蕪村の作句を以て「渡世の具」といえば怒るひともあろう。然し、徂徠が医者のなりわいを「渡世」といっているのと同じ意味では渡世といってよいであろう。徂徠のいう「旅宿の境界」にある者においては、芸もまた商品化され、渡世の媒となるという危険にさらされているのである。  中世的伝統の上にあった芭蕉は、己れを夏炉冬扇といい、無用坊といった。世外の民であることをいったが、そこには「風情終に菰をかぶる」という乞食行脚の覚悟があり、そこにおいて初めて彼の理想が成就されるという宗教心があった。ここにおいては旅宿の境界は宗教によって支えられ、世外の民は同時に自由な人間を意味していた。  ところで江戸中末期の文人墨客は、武士以上に旅宿の境界にいながら、宗教的背景がない。(私が良寛と大雅を文人でありながら文人を超えた例外として考えていることは、別のところで書いた。)だから詩社吟社の門を張って弟子たちからの束修によって生活するか、富豪や権門に取入ってその保護をうけるか、ということが起る。それのできないものは書画会を開いて即売するか、さらに下って狂詩狂文を書いて傾城や役者と交るか、ということになる。徂徠は旅宿の境界の武士たちが放逸無慚になることの必然性をいっているが、文人においてはそれが一層顕著であった。  幕末において江戸の文人墨客たちが、前記の『南柯の夢』の示すようなていたらくになっているとき、これと全く違う類のものが、地方の各藩の下級武士の間から現われてきた。文人とはもともとは御用学者や道学先生に対する批判的存在であり、野にありながら野にあることの自由な精神を代表するものであったが、時代の降るとともに、上田秋成のいう太平の逸民、治国の塵芥という観を呈してきた。然しいうところの太平や治国は、実は内憂とともに外患が日本という島国をゆさぶっていたときであったのである。宝暦以後、明和、安永、天明という時代は天災人災相ついで起り、一揆や打毀しが飛躍的に多くなってきたときである。それに加えてロシヤの南下による北辺の不安もこの時代に一層顕著になってきた。江戸幕府の弱体化がめだつとともに、日本国家の独立維持という意識と実践が、幕末に近づくとともに強くなってきた。倒幕がいわれ維新がいわれ、攘夷がいわれ巨艦大砲がいわれるようになった。各藩から志士といわれる少壮の人物が歴史の上に出てくることになる。彼等はみずからを狂夫、狂児といい于拙男児といった。吉田松陰の長門狂奴、品川弥二郎の春狂などがその例である。然し彼等の狂は憂世の狂であった。先憂の狂であった。危機の自覚というよりも危急存亡の憂が彼等を狂客にしたのである。藤森天山は、衆はみな自分の狂を笑うが、今日の如き危急な時において狂せざる者のあることの方が反って不思議だといっている。彼等の狂が、風狂の狂、風雅の騒客とは全く縁のないもの、中世的な風流人の狂にも、江戸期の文人的な逸狂にも全く通じないものであることはいうまでもない。いや彼等の頽風こそまさに姦吏、迂儒とともに斬るべきものであった。「書画真玩具、詩歌亦閑事、腰間三尺龍、進鏖百万騎」といったのは松陰である。  私はここで志士の出現にいたるまでの経過を考えてみたい。  江戸の中期以後、具体的には宝暦以後、地方の各藩は競って藩校を建てた。名古屋の明倫堂、熊本の時習館、松江の修道館、鹿児島の造士館等々有力な各藩が藩士養成のために学校を建てた。それらは単に幕府の官学であった朱子学のみを講じたわけではない。各藩はその伝統と必要とによって、各自好むところの学風を建てた。ここにあつまったものは単に「旅宿の境界」のものばかりではない。長州藩では既に享保年間からその藩校明倫館に、「百姓町人たり共、講釈等承りに参度志有之ものどもは、是又勝手次第、袴着用可[#二]罷出[#一]候事」という令を出している。有為の材を民間からも募って、藩の隆盛に役立たせようとしているわけである。各藩は各自の藩を強くまた豊かにしようとすることを一心に心がけた。学問はここでは単に学問のためのものではない。文学ももとより風流韻事のためではない。各の藩校はこぞって「文学武芸」と並んでこれを呼び、その各に該当する教育課程をつくっている。地方の儒者は藩主の江戸詰に従って上京し、そこで有名な文人たちと交りを結んだ者も多い。たとえば山口の山県周南の如きは徂徠の直弟子であり、南郭、金華とも親しく交った文人であったが、藩に帰れば育英を楽みとする長藩学館の責任者であった。  中村幸彦氏は江戸時代の儒者の文学観を時代によって勧善懲悪的、人情論的、風雅論的、清新論的の四つの段階に分けている。清新論的というのは個人主義的といってもよい。ここまで進んできた文学は、幕末の志士たちによって再び一種の勧懲論的乃至政治論的なそれに帰ったといってよい。政治や道徳からの独立の方向へ進んできた文学が、危機において再び政治や道徳と結びついてきたのである。私はこれを横井小楠が嘉永及び万延に福井藩に与えた二つの答書によって考えてみたい。小楠は士道の振興すべきをいった論の中で、「文武一源」をいい、文学に励まなければ武士は「偏廃」になるといっている。ところでいまの文学をなす者はただ空理に走り、博通に流れ、甚しきは記誦詞章に止っている。文と武とが離れ離れになったところに「日本国中の通弊」がある。他のひとつは福井に学校を建てようとして、小楠にその方針を諮ったのに対する答え、いわゆる『学校問答書』であるが、その中で、「学政一致」ということをしきりに言っている。学問が無用の俗学になってしまったのは、それが政治から離れてしまったからであるというのである。だから藩校においては、その根本において両者の一致を考えねばならぬ。ただ性急にこれをいえば政論のみやかましくなって学校は「誼譁場所」になってしまう恐れがあるから用心せねばならぬが、己を修むることと同時に人を治むることが一致せねばならぬ。修身の道徳と治世の政治とは根本のところで共通した地盤をもたねばならぬというのである。そのためには教官の人選に留意せねばならぬことはいうまでもない。たとえ経学詩文の芸に通じていなくとも、世の道理がわかり、心術正しく実行力のある人でなければ、人の徳義を磨き風俗を正しくすることはできない。そういう性の人は従来は教授ではなく、多くは側用人とか奉行とかに適する者として、政治の方に向けられていたが、これからは、そういう人を教授にして、学政一致を謀らねばならぬ。ただ経学詩文に長じているにすぎない儒者だけが教授になるのは避くべきである、学校が従来人材を出しえなかったのはそういう迂濶無用の学者が事に当っていたからであるといっている。  福井藩は右の小楠の主旨に則って藩校明道館を興した。「文武相資、政教一致、倫理整正、上下誠一」の文を含む『明道館之記』は同藩の橋本左内の撰であり、左内はみずからそこの学監となって所信を実行したが、国事急にして左内は江戸に赴かざるをえず、いわゆる安政の大獄に連坐して、安政六年の秋刑に処せられた。二十六歳であった。  私は横井小楠とか吉田松陰とか、また橋本左内とかいう幕末の志士たちが、どのようにして出てきたかを考えてみたい。また維新の実行力となった各藩の下級武士のことを考えてみたい。彼等は徂徠のいうような「旅宿の境界」とはまるで違うところの地方出の憂世の志士であった。地方の各藩はおのおの自藩の富強を心がけた。幕府の財政が窮乏し、支配力が減退すればするほど富強を心がけた。しかも同時に日本をおびやかした外患によって、各藩に共通する問題として日本の自衛独立ということの大事たるを自覚した。恐らく地方の藩校において文武両道の練磨を素朴な心で励んでいた朴訥の士の中には、江戸の太平の文人とはまるで違うところの、現実のきびしい生活と結びついた刻苦精励があったであろう。それが文学に対する実学に関心をもたしめ、経世済民の思想ともなってあらわれてきたのではないであろうか。  然し幕末から維新へかけての志士たちの犠牲によって、開国進取の明治の新政府が樹立され、世をあげて文明開化を讃えていたときは実は藩閥出身が官僚群となって支配層に上っていたときでもあった。ここに江戸の文人気質はまたその本来の姿をとりもどして、野における批評精神となってあらわれてきた。性急な欧化、近代化、合理化によって失われてゆく伝統文化への限りなき愛惜もでてきた。彼等は新政権下の無用者となることによって、野蛮でわけしらずの近代病者を批評し冷笑した。成島柳北とか永井荷風がそれである。漱石頑夫と名乗った『猫』や『坊つちやん』の作者にもそれがある。枕石漱流を漱石といってあらためなかった頑固さの中には、ブルジョワ文化に対する文人のレジスタンスがみられるだろう。葷斎の荷風、庸斎の佐藤春夫、夷斎の石川淳の中にもまたそれがある。葷とか夷とかの斎号を選びもつこと自身が、現代の文人の在り方を示している。葷でなく夷でなくともよい、文学者作家が雅号をもつという伝統は、白鳥、犀星あたりを最後として断絶しようとしている。伝統に反対して起った自然主義者にも雅号のないものはなかった。実名素顔は恐らく『白樺』から始まるであろう。文学上の伝統破壊者は案外に自然主義者ではなく白樺派であったかもしれぬ。太宰治、三島由紀夫は変名であって既に雅号ではない。歌人俳人や書家また日本画家にわずかに雅号が残っているというのが現状である。  岩波版鴎外全集第十九巻には編輯部の作成した年譜が載っている。その第一年は次のようなものである。 「文久二年(一歳)。一月十九日(陽暦二月十七日)島根県鹿足郡津和野町字横堀に生る。森林太郎姓は源、諱は高湛、鴎外漁史、観潮楼主人、千朶山房主人と号す。又牽舟居士、小林紺珠、鍾礼舎、帰休庵、隠流と号す。他に臨機の仮号多し。父は静男、母は峰子森氏。家世津和野藩主亀井家典医たり。静男吉次氏より入りて第十三代を襲ふ。」  私は鴎外を明治の代表的な文人だとは思わない。ただ手元にある年譜をかりて、文人の名乗り方の型を示しただけである。これは『先哲叢談』に載せている、たとえば荻生徂徠の項の次の冒頭の紹介に対応している。 「物茂卿、名は双松、避くる所ありて字を以て行はる。荻生氏、小字は右衛門、徂徠と号す。又※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園とも号す。江戸の人。柳沢侯に仕ふ。」  このような名乗り方は遡れば李白にも杜甫にも通じているであろう。そしてこれが東洋の詩人文人の在り方を示すものであった。俗名と異なる雅号をもったということは、俗世間と異なるところに雅の世界をもったということである。それはどこかで俗名を捨てて法名をとり、出家遁世した僧の世界と通じている。死して居士大姉の戒名となる人生観にも通じているであろう。  俗に対する雅、透谷の言葉を借りれば実に対する想、俳諧に遡れば実に対する虚、そういう対立があり、好んで後者を選ぶところに文人世界が成立した。この前者後者の対立がある限りにおいて文人には雅号が必要であった。雅号たらずともたとえば二葉亭四迷の如き戯作者名が必要であったのである。  この対立は生活と文学、現実と思想とを一元化そうと努力したわが国の自然主義文学運動によって解消さるべき筈のものであった。ところで田山花袋、徳田秋声が紅葉の硯友社の社中から出たというつながりがあって、彼等は花袋、秋声の雅号を惰性でつけている。この二人ばかりでなく自然主義者は皆雅号で通っている。このことのなかには文学界同人たち、たとえば透谷などが代表的に示しているロマンチシズム、実と区別したところに想の世界、詩の世界を築こうとしたロマン精神が、そのままに流れて自然主義につながったという我が国の特殊事情も含まれている。さらに遡れば東洋の文人気質に通じるものが自然主義者にまで及んでいるといってよい。彼等が「ありのまま」を書くといいながら、現実社会の「ありのまま」を書きえず、ただ「私」の「ありのまま」を書くにとどまる、いわゆる私小説家になっていったのも、文壇という特殊世界が、実人生と違うところに成立していたという事情があったからである。明治以来の「文壇」には、なお文人気質が残っていたといってよい。  ところでこの伝統は明治四十三年に創刊された『白樺』の同人たちにおいて断絶する。同人の中で、初めから絵を以て立った二、三の人をのぞいて、他は本来の名前以外のものをもたない。いいかえれば、俗と雅と、実と想を初めから一元化そうとしたのが『白樺』というものであったのである。彼等においては「如何に生くべきか」が最初でしかも最終の問題であった。しかもそれを哲学や論理の抽象を借りずに、具体的に、別な言い方をすれば、「私」において実現しようとした。それが彼等のいう「個性」というものである。「自我」というものである。個性は二重、二元を許さない。俗と雅の対立を認めない。俗において、俗を通して、個性がいかに生き、いかに伸び、いかに結実するかが問題である。ここには文壇という特殊地帯はもともと無いのである。生きるということはここでは全身的具体的である。生の理論や生の哲学ではない。彼等においては文学は自己の個性の実現の場であり、形成課程であり、カタルシスであった。ここには哲学ではない宗教がある。生の根源的具体的問題がある。彼等は雅号や変名で身をやつすことができない。擬装や韜晦は直ちに生ける個性の敗北を意味した。「白樺」が当時のいわゆる文壇から、学習院育ちの坊っちゃん連の気まぐれごととみられたのも右の事情によるであろう。  ところで日本の伝統のなかには、彼等のいう個性をつちかうべき要素はない。文人気質は殊に彼等の嫌うところであった。それと対応また逆対応する儒教も嫌うところであった。国も家も、つまりは国家という制度も家族主義もそれにともなう立身出世主義も、ともに個性の自由な伸長を妨害するものとして斥けられた。個性を絶対化するところでは、すべての制度、組織、団体意識が邪魔物になる。だから彼等は同人という組織、友情というきずなにまで反抗し、同人同志で時に争い、時に絶交したりしている。そういう中間の介在物を一切邪魔物として斥けるとき、ほのぼのとして出てきたのが「人類」という観念であった。個性と人類、具体と普遍の問題が、つまりは宗教的問題が中心になってくる。  国境をもたない人類普遍の立場にたてば、日本も外国もない。本物は本物、偽物は偽物、彼等の個性的評価に頼ればよい。有島武郎におけるホイットマン、トルストイ、ベルグソン、クロポトキン、武者小路実篤におけるキリスト、トルストイ、ロダン、長与善郎におけるトルストイ、ベックリン。さらに武者小路や長与は漱石の『それから』、また長与は西田幾多郎先生から強い影響をうけている。 『白樺』同人たちの人類普遍と個性具体との直結を可能にするような地盤が当時の日本の社会にあったことは事実である。日露戦争は当時、また現在考えられているよりはるかに重大な事件、まさに時代を劃する大事件であった。あそこで明治の精神は沈滞する。遠くは古来の伝統とつながり、日本国家の独立維持に懸命であった明治精神は終熄する。国家観念を離れて人類普遍を思考し、志向することが可能になったとともに、伝統的遺産が邪魔物になってきた。 『白樺』同人たちがかつては学習院の学生であり、それへの反抗、具体的には乃木院長の教育方針への反抗として出発していることは、ひとつの象徴的事実であろう。孝明天皇時代に京都に設立された学習院の前身は、「履[#二]聖人之至道[#一]、崇[#二]皇国之懿風[#一]、不[#レ]読[#二]聖経[#一]何以修[#レ]身、不[#レ]通[#二]国典[#一]何以養[#レ]正、明弁[#レ]之、務行[#レ]之」が学則の大本であり、教科は儒学を主としたものであった。明治四年に東京へ移り、ここでは文明開化の風潮は掩いえなかったが、しかし「夫れ華族の務たるや、皇室を輔翼し、人民を保安するに在り」ということには変りはない。爾来教科内容は一般の学校なみになっていったが、「抑学習院は皇室の藩屏となり、社会の上流に位す可き華族の子弟を教育する学校なるが故に、最も力を学生の品性陶冶に尽さざる可からず」(明治三十七年、菊池院長訓示)に変りはなかった。陸軍大将乃木希典が特に選ばれて院長になったのは明治四十年であり、その自刃にまで及んだ。この新しい院長の教育方針は全寮主義をとり、智徳兼備の至誠純忠の人物を養成することであった。乃木院長にいたって、「聖人之至道」と「皇国之懿風」の順序が逆にされたのは、国家や皇室が、至上存在となったことを示している。それへの忠誠が日本臣民の生き方と規定されたのである。この院長はみずから寮に起居し、実践躬行の範をたれた。その毎日の訓示は、富国強兵、家名尊重、身心鍛練で、微に入り細にわたった。たとえば口笛は下賤のもののなすもの、落書は卑屈な行為、マントの襟を立てるのは見苦し等々。つまりは国家、皇室を至上とし、修身斉家を実践する教育であった。ここでは「個性」はむしろ陶冶さるべき素材であり、個人の好悪、判断はわがままであった。最近出た長与善郎の『わが心の遍歴』にはたびたびこの乃木院長のスパルタ的教育に対する反抗が語られている。この院長の「誠意過多症」はわからないことはなかったが、教員も学生も、表面は質朴剛健を装いながら、実は意気地のない御機嫌とりになったと書かれている。 『白樺』同人たちは、自我や個性を圧迫し、家名と皇国のために一身を犠牲にさせようとする院長への反抗において、反って同志的に結合していったと考えられる。志賀直哉の家族制度への反抗もこの同じ地盤から出てきたものであろう。元来皇室の藩屏となる上流階級の子弟を教育することを方針とする学習院へ好んで入学させた家庭と、自己の個性を絶対化そうとする青年とが衝突しない筈はない。その衝突において個性は反って訓練され、文字となって表現されるまでに強烈になったといってよい。  日露戦争に勝ったことによって、維新以来の念願であった日本の独立維持は、一応達成された。国家体制は安定したものとなった。この安定下においてなお皇国之懿風を至上とする乃木院長は旧式のものであったに違いない。時勢は藩閥と財閥が結託して、新しいブルジョワジイの擡頭に向っていた。「白樺」同人たちは、旧式な院長に反抗するとともに、ブルジョワの俗物性に反抗した。漱石の『それから』の主人公代助の反抗はなお消極的なものであったが、それによって点火された反抗は、積極的なものになった。同人たちの家族が華族とブルジョワの結託を如実に示せば示すほど、その反抗は具体的かつ積極的であった。長与家と松方公爵家との結婚に由来するブルジョワへのレジスタンスが長与善郎という一作家の形成にどれほど強い要素となっているかは、この作家の『心の遍歴』が示しているところである。 『白樺』の同人たちは戦闘的な個性をもち、それを文学という形で表現したことにおいて、私のいう大正期の教養派とは違うところがあった。教養を豊にし、多知、多解になることが同人たちの目的ではなかった。自己の個性を人類普遍の場において如何に生かすか、いかに生くべきかが問題であったのである。  然し彼等が個性を圧迫するさまざまなものと対立し、殊に家族主義と闘い、それを超えたとき何が残ったか。有島の場合、個性をひしいでいる社会や階級の問題が残り、それとの戦いにおいて挫折した。武者小路の場合、国家や社会の問題を「新しき村」において解決しようとしながら、それは結局において、極めて特殊な、即ち普遍性をもたない事例にとどまって今日に及んでいる。  歴史の背景のない個性観念は、体制と体制との衝突という現実社会の中にあっては弱い。個性を抹殺するメカニズムの進行途上においては、個性観念はひとりよがりのものになるか、もろくもくだけるものになるかが運命である。私は乃木夫妻が白装束姿で古風な型のままに殉死したのと、有島が幼稚な歌を残して人妻と情死し、その腐欄した屍体を残したこととの違いが、明治と大正との違いを象徴していると思う。明治にはよかれあしかれひとつの型があった。生活様式とともに思考様式を規定するノルムがあったのである。ところで個性という観念はこの型をやぶるところにその存在理由があったのだが、然し現実の機構はすでに個性を生かしえないところへ移っていた。この自覚において、有機的植物的な個性観念から、自己を例外者、単独者として規定する実存が出てくるのだが、ここではそれに言及する暇はない。  武者小路はいまは文学の創作よりも画の方に情熱をそそいでいる。ここには言語の障害はない。元来国境のない絵画の方が普遍性をもっていることになろう。武者小路は、詩、書、画ともによくする。詩書画三位一体が文人の理想であったことは既にいった通りだが、武者小路は依然として文人ではない。私のいう文人気質のもち合せはない。むしろそれとの対立がその出発点であり、模倣とまがいを嫌うところに彼の個性があり、そのオリジナリティがあった。詩の体も彼独特のものであり、その言葉も文人のマナリズムとは全く縁がなかった。書も画と同じく独特なもので、ここにも墨客の臭いは全くない。然し彼の画は美しい。個性的でありながら、いまや個性という臭気を脱して、「物」に近い。個性をつきぬけて、個性脱落の感がある。そこで彼は彼なりの安定した所をえているといってよいだろう。ここまでくれば時間的な縦の伝統を超えて、横の伝統ともいうべき伝統の共同体世界がひらけてくる。さきにいったように文人でありながら文人を超えた良寛や大雅の世界である。伝統無視が反って伝統につながるという構造がここにある。  武者小路の晩年の作である『真理先生』や『馬鹿一』はテクノクラシイと計算主義の現代における無用者といってよいが、そこでは真理は馬鹿につながりながらも、世俗に対してすねたところはない。無用の用を作者は意識しているわけである。世俗と別のところに自己の世界を立てるというのではなく、世俗の中にあって世俗とかかりあいながら超俗の馬鹿と真理の一体が悠然として生きているという恰好である。 [#小見出し]   四 終りに  旧幕時代の文人が、明治の新政府下で、二つのタイプに分れたことは、既に『文人としての永井荷風』で書いた。鷲津毅堂や、その娘を娶った荷風の父永井禾原の如きは、新政府の官僚となって、立身出世の道を歩いた。しかし、薩長を中心とする藩閥が中心勢力であった時代において、旧幕臣の出世には限界があり、そこからくる不平不満が、鴎外流のレジグナティオンともなり、文人気質への郷愁ともなった。禾原に『来青閣詩集』のある所以である。鴎外の『寒山拾得』『空車』『渋江抽斎』もこれと無縁ではない。  もうひとつのタイプの代表は大沼枕山である。憲法が発布され、議会が初めて召集されるまで生き残ったこの漢詩人は、死ぬまで髻を捨てなかった。詩酒に沈湎し、※[#「りっしんべん+亢」、unicode5ffc]慨の逸民として終った。枕山流の頑固な漢詩人はその他にも少なくなかったに相違ない。  この二つのタイプを両極として、その中間にさまざまな生き方があった。たとえば成島柳北の如きは、新時代に対する批評家的存在であった。文人としての教養を存分に身につけていたと同時に、旧幕時代に洋学を学び、幕府の重職にまで就いたが、新政府下では野人で通した。しかし彼は新聞や雑誌の主宰者として時代に即した批評を書いた。福沢諭吉流の実学、及び功利主義に対する批判家であつた。また一方では仮名垣魯文、条野有人の如き者もいた。彼等は山東京伝、曲亭馬琴、柳亭種彦、十返舎一九等の戯作者の系譜にたつことを自任し、戯作とは「虚を主とし実を客とする」ものであることをいってはいるが、同時に新時代への協調を次のようにも言っているのである。「素《もと》より戯作は識者に示すに非ず、不識者を導くものに候。尚依然として守株仕候ては、迂遠に陥り、曖昧に流るる而已《のみ》ならず、其弊つひに人を過つに至るべし。依て爾後従来の作風を一変し、乍《おそれ》[#レ]恐《ながら》教則三条の御趣旨にもとづき著作可[#レ]仕と商議決定仕候。就ては下劣賤業の私輩に御座候得共、歌舞伎作者とは自然有[#レ]別儀に候間、右可[#レ]然御含被[#二]成下[#一]度云々。」これは彼等が明治五年に教部省へ差出した書面の中の言葉である。戯作者の幇間性を如実に示しているものといってよいだろう。彼等は作者として残りながら、その作の内容を変えることによって新政府に協調しようとしたわけである。  明治という新しい時代は、その新しさのために、文人たちに政治や現実社会の事業に積極的に参加させる可能性を与えた。幕府時代の専制主義下の文人たちが、意識して社会から逸脱したのとは違って、筆を以て経世済民の事業に協力しうる条件ができたと思わせるにいたったのである。文明開化がデスポティズムと違う所以であり、政治小説が出現した理由もそこにあったのである。  然し文明開化が初期の福沢論吉が示したような庶民性を失って官僚主義化された上で立身出世に結びついたとき、作家たちは再び現実社会から逸脱せざるをえなくなった。そしてこの再逸脱の表明が日本の近代文学の第一歩となったというところに日本特有の複雑さもあり、アナクロニズムもあるわけである。  森鴎外の『舞姫』(明治二十三年)の主人公は東大を最優等で、しかも最年少で卒業した秀才で直ちに某省に出仕してドイツへ留学した。恩賜の銀時計と官費洋行とは、当時の立身出世のシンボルであった。ところでこの主人公はベルリンで舞姫との偶然ないきさつから初めて自由な恋愛を経験し、自分のいままでの器械的な生き方、考え方に不満をいだき、出世コースをふりすてて恋愛に殉じようとした。愛人との貧しい中でも幸福な生活が始ったが、折柄ドイツ視察にやってきた顕官や友人の諫めをいれて、みごもった愛人を捨てて、再び出世コースに入るために帰国してしまう。愛人はその悲しみのために狂人になる。  この『舞姫』を批評して、石橋忍月は、鴎外を非難し、作者は何故に主人公をして最後まで恋愛に殉ぜしめなかったか、あのような結末は首尾一貫していないではないか、作者自身も動揺しているではないか、といった。「詩境」と「人境」の区別を知らないというのである。作者自身、詩の世界から俗人の世間へ堕ちたというのである。この評は当っている。  鴎外は忍月の右の非難に答へて、下男下女の類でもよく恋愛に殉じうる。この主人公がそれをしなかったのは、「僥倖のみ」といった。苦しい弁解である。鴎外の一家眷族は、作中人物の僥倖をよろこんだと同時に、鴎外自身の僥倖をよろこんだ。鴎外を日本まで追ってきたベルリンの舞姫があったのである。それを誰にも知られないように故国に帰らせて、やれやれと安心したことを、鴎外の実妹が書いている。この僥倖を許した鴎外は以後着実に出世街道を歩いて六十年の生涯を終ったことは周知である。  忍月が「詩境」と「人境」を区別し、文学は「詩境」に殉ずべきだと言ったことは、文学史の中で重要な意味を含んでいる。忍月はやがてそれを『想実論』として詳しく書いた。詩の世界と俗人の世間との分離の上で、近代日本文学が出発したわけである。  北村透谷も年少のときは政治家たろうとしたことを語っている。経世済民の実事業こそ男児の本懐を果す場であると思ったことをいっている。ところで彼のエッセイはこの年少時の夢の自己否定から始っていることはまた周知であろう。彼は「想世界」と「実世界」とを厳密に分けた。山路愛山が、文芸は人生に相渉るべきであることをいったのを、強い調子で反駁した『人生に相渉るとは何の謂ぞ』(明治二十六年)を思いだせばよい。更に彼が外部に対して内部をいい、性慾に対して純粋な恋愛をいったことを考えればよい。政治の自由、民権の平等の如き実社会の関心から離れたところで、彼は内部生命や精神の自由を説いた。  二葉亭四迷の『小説総論』(明治十九年)は坪内逍遥の『小説神髄』の浅薄な模写論を、遠慮しながら否定したものであるが、その要は、「模写といへることは実相を仮りて虚相を写し出すといふことなり」の一句にある。逍遥のいうありのままの模写は、ただ実相の模写、現象のありのままにとどまっているというのである。現象は偶然をふくみ、雑多な様相を呈している。作者はその雑多な偶然に眼をくらませられることなく、それに示されている本質的なるものを感動によってつかみ、それを文字に表現せよというのである。この場合、虚相というのは「意」であり、イデヤである。そのものの本性といってもよい。二葉亭においては、すくなくとも『小説総論』においては、虚と実とは相即していた。実の中に虚をつかみ、雑多な現象を媒介にしてその本性を表現することが作家の任務とされていたのである。逍遥の『書生気質』(明治十八年)が単に書生たちの諸類型をうつしているにとどまるのに比して、二葉亭の『浮雲』(明治二十年—二十二年)の主人公文三が、よく一個の典型でありえたのは、右の根本的な考え方から来ている。文三において、文三がよく文三である本性が、彼の思惟や行動を通じて描かれているのである。  ところで二葉亭は世評の高かった『浮雲』に満足しえなかった。くたばってしまえ、という自嘲をみずからの戯作者名として選んだこの作者は、みずから文学から足を洗おうとした。鴎外が二葉亭を追悼した文の中で、「浮雲、二葉亭四迷作」の八字は、稀なるアナクロニズムとして永遠に残るだろう、といった、そのアナクロニズムを、彼は発表の当時において深くみずから感じていたのである。「実相を仮りて虚相を写す」という芸術本来の正しく高い理念を実現する条件が、当時の日本語の中にも、人物の中にも出来ていなかったのである。  二葉亭は文学を断念して、「実相」に下った。実世界において働こうとした。満洲問題やロシヤ問題への没頭はそれを語っている。ところで木下尚江は、二葉亭における「第一世界」と「第二世界」を区別し、実社会の事業は後者であり、文学は前者であったが、第一世界を重視し、尊敬したがために、反ってなまじっかにこれに参与することを嫌ったのであるといっている。島村抱月も、「第一義」と「第二義」を区別し、二葉亭は、故意に第一義を忘れようとして、ますます第二義へ入りこんだのだといっている。  透谷が「実」を強く拒否して、「想」にこもろうとしたのは二葉亭の逆であったといってよい。彼は『人生に相渉るとは何の謂ぞ』で、たびたび「虚界」とか「虚想」をいい、イデヤをいっている。「空の空の空を撃つて、星にまで達することを期すべし、俗世をして俗世の笑ふまゝに笑はしむべし」といい、「現象以外の別乾坤」即ち虚界にこそ「大自在の風雅」があるといっている。  右にいった第一義と二義、虚と実は、夏目漱石の『虞美人草』(明治四十年)にもそのままでている。当時の漱石の道徳観と結びついて、第一義は「悲劇的」として、第二義は「喜劇的」とおきかえられ、喜劇ばかり流行している当代なればこそ、第一義は悲劇となってあらわれるより外はないとされている。  漱石における第一義的なるものの追及ということは、そのまま一個の漱石論となりうるであろう。彼がその処女作『木屑録』(明治二十二年)の表紙に「漱石頑夫」と書きつけていること、その翌年の子規宛の手紙に、「漱石又枕石、固陋歓二吾痴一」と書いていることからみても、実社会と妥協を許さない「変物」また風狂の徒であったことが解る。彼の一生は俗物や俗世間との絶えざる闘いであったといってよい。  ここでさらに島崎藤村、国木田独歩、また自然主義的な私小説作家のことをつけ加えて考えてみてもよい。詩人時代の藤村は、或いは「この世はあまり実《み》にすぎて、あたら吾身は夢ばかり、なぐさめもなき幻の、境に泣きてわれはさまよふ」という『幻境』(明治三十三年)の末尾の四行あたりに、その象徴的な姿がうかがわれるといえるかもしれない。独歩の『空知川の岸辺』(明治三十五年)中の、「彼は如何にして社会に住むべきかといふことは全然其思考の問題としたことがない。彼はただ何時も何時も如何にして此天地間に此生を託すべきかといふことのみ思ひ悩んでゐた」の一節も、彼の内心の祈りであったろう。近松秋江等の私小説作家たちが、文壇という特殊社会の砦にたてこもり、伊藤整のいう現実社会からの逃亡者となって、自己の痴愚のほどをはばかるところなく書きつくしたのも、荷風のいう「流竄の楽土」の意識があったのであろう。太宰治の『人間失格』(昭和二十三年)も坂口安吾の『堕落論』(昭和二十一年)も、失格することによって反って人間を恢復し、落ちきることによって反って高まる逆説以外ではない。風顛、風狂の昭和版といえないことはないのである。  近代日本文学は既にその発足の当時から、詩境と人境、想世界と実世界、虚相と実相、虚と実との二元に苦しんでいた。そして現実から分離し、或いはそれを捨てたところに、詩や文学の世界、真の人間の本性をみようとした。これは一方からいえば当時の社会に、文学者たちの理想をうけいれる地盤も条件もなかったことによるであろう。現実の必要にせまられた早急の文明開化や富国強兵時代には、人間の本来の姿や内心の要求を顧慮する暇がなかったのである。そういうことはたしかにあったに相違ない。然し同時にまた他方では、大沼枕山の徒が現実にいて、それが文人の在り方を暗々裡に示していたことも忘れてはならない。庶民の間や市井にかくれて、古風な漢詩や俳諧を綴りながら、なおその生活の型としての文人気質をもちつづけていた人々が相当に多かったに相違ない。漱石の『猫』の中の太平の逸民たちはその系譜の上に出てきているのである。紅葉や露伴もそれとの関係なくしては具体的に考えられないであろう。我々の通常の文学史は、旧幕時代の文人と近代作家との間の断絶を説くのが普通であるが、案外に旧きものと新しきものは、たちきられてはいない。誇張していえば、明治の文学、少くとも『白樺』出現以前の文学を支えていたものは、反って文人気質であり、無用者意識であったと考えられもしよう。もちろん今日漢詩や俳諧や書画が、そのままの姿で現実の勢力として恢復されるというようなことはありえない。だが、かつて魯文や有人が「守株」を嫌い、「迂遠に陥入り、人を過つをさけて、」「作風を一変」することを新政府に歎願したように、マス・コミという版元に、「然るべく御ふくみなし下されたく」と頼み入ることばかりが、文学者の能ではないだろう。現代において、もう一度、詩境と人境、虚と実を、自分の問題として考えてみるのが、むしろ文学者の文学者である所以であろう。虚と実は今日においては一層直接には結びつかなくなってきている。組織と人間という問題、メカニズムと個性という問題は、虚と実の問題の再提出といってよい。それは第一義と第二義の問題としても考えられよう。ただ社会全体が次第に組織化されてきた今日、虚実や第一、二は、居所の相違ではありえなくなった。文学者の特殊地帯、逸民や市隠的在り方は、在り方としては一層困難であり、絶望に近いであろう。しかし絶望的であればあるほど、詩や虚が強く要求されているという逆説は単に観念ではない。実存主義や抽象絵画が再びみずからに絶望するとき、「虚」の問題は一層具体的になるに違いない。空や無や逆説や百非や風狂や顛倒しかいわない禅が、世界の処々で問題になってきたことは偶然ではない。 [#改ページ] [#見出し]  三 雲がくれ  西鶴の『置土産』のなかに「人にはぼうふり虫同前に思はれ」という咄が載っている。これは忘れがたい一篇である。私には西鶴の文章は読むに従って流れてしまい、記憶のなかに表象をともなって残るものが少いが、この咄だけは例外である。  正宗白鳥はその『西鶴について』のなかで、西鶴の好色本には帽を脱がないが、晩年の名作『置土産』には脱帽せざるをえないと語り、その中でも前記の一篇を「絶章」という言葉でほめている。『置土産』は五十二歳で死んだ西鶴の歿後二ヶ月の元禄六年(一六九三年)に初めて版となった。白鳥は、この作品は、色欲生活のどんづまり、即ち人生のどんづまりを書いたもので、作者はこのどんづまりのうちに、自から安立している心境を示していると語っている。  上野の池の端に大きな金魚屋があった。当時は金魚はよほど珍しいものであったとみえて、大きなのは一尾五両も七両もした。大名の「若子《わこ》さまの御慰み」に買っていったという。その金魚屋へ毎日棒振虫を小桶にいれてもってくるむさくるしい男がいた。棒振虫というのは今日のぼうふらで、金魚のえさにするのである。この男は一日中走り廻って泥沼や溝の中からすくいとったぼうふらを、二十五文で売ってゆくのである。ここで一寸余談をしておこう。江戸の初期、といっても明暦から万治、寛文という年号の時代だが、江戸の旗本奴に対抗して町のダテ者、やくざが組を建てていわゆる町奴となった。彼等は幕府の警邏の者が棒を振って取締りに当ったのをさげすんで、それを棒振虫と呼んだ。なかには警備の者を殺してしまうという荒い奴も出てきたりしたので金魚組という名をえた組もあった。旗本奴と町奴との対立闘争は、例の旗本奴の頭梁株の水野十郎左衛門の邸へ誘致されて殺された町奴幡随院長兵衛の頃その頂点に達したが、やがて幕府の思いきった処断によって旗本奴も町奴も次第に屏息していった。西鶴が『置土産』を書いたのは、長兵衛が殺されてから四十年も後であるが、なお、捧振虫とか金魚組という言葉は、前記のニュアンスを帯びて世に通用していたであろう。西鶴は意識的に同じ言葉を使いながらその内容をかえて、殺伐な時代と違ってきた元禄という泰平な時代を示そうとしたのかもしれない。  さて話をもとへもどして、たまたま三人の物持が例の金魚屋へ金魚を買いに来ていた。いま小桶をはこんできた、むさくるしい男を三人のうちの一人がふとみると、これはなんと、昔、伊勢町の利左衛門という名の通った大金持で、彼等とともに吉原の廓で大尽ぶりを発揮した遊び仲間の変りはてた姿であった。利左衛門が、家をたたんで、いずこともなくたちのいてしまってから幾年月、遊び仲間の心のなかに彼のことが気になっていたが、その当人にゆくりなく、ここ金魚屋でばったり出会ったのである。利左衛門に同情した三人は、いまから金を出し合って、十分とはいかないが「貧楽」に世を渡るほどの助けをしようと申し合せたが、利左衛門は、「女郎買の行末かくなれる習なれば、さのみ恥しき事にもあらず、いかないかなおのおの方の御合力は受まじ、利左ほどの者なれども、其時にしたがひて、悪所の友の好誼《よしみ》に、けふを送るといはれんも口惜し」といって拒絶する。だがみなさんの御志のほどはまことにありがたく「千盃」に価する。いまをおいてまた会う日もないだろうから、ひとつ茶碗酒の一杯も飲もうではないか、といって先にたって飲屋にでかけ、これっきりないがといって二十五文を飲屋のおやじに投げ出した。  三人は利左の志と行為に感じて涙にむせびながら酒を飲み、更に利左の佗住居へでかけて一夜の語らいをすれば、今生の思い出になるだろうなどといいながら、利左の家庭の様子をきく。吉原からうけだした女房に、いま四つになる子供もできて、貧しいながら、夢のように暮してきたと利左は語る。利左の家は餌指町のはずれにある。折柄秋も中ばすぎで、朝顔の末葉もかれがれになっている。その蔓のなかから、来年の種にするために実を探している老婆に、声をかけたりして、裏の小路をたどり、利左は三人を案内して佗住居に近づいた。家の窓から父親の顔をみつけた四つ五つの子供が、「ととさま、銭持つて戻らしやつた」というのが聞えてきた。三人の旧友は、もともと利左の女房とは顔見知りの間柄であった。家の内へ招きいれて、まずお茶と思ったが、湯をわかす薪も炭もない。仏壇の扉の蝶番がはずれて、ぶらぶらになっていたのを庖丁で打ち割って薪にするという始末。子供は裸のまま、つぎはぎだらけの蒲団にくるまっている。溝におっこちて着物をぬらしてしまったが、着がえがないので、裸でねかされていたのである。  しばらく語りあった昔友達は、帰りぎわに、持合せた金をあつめて、そっとおいてきた。三人が帰路をいそいでいると、利左があたふたと、おいすがってきて、これはどういう金か、筋なき金は貰うべき仔細なしと、道に投げ捨てて後をもむかず立帰った。それから中二、三日おいて、三人はいろいろ心づいた品物を求めて、彼の佗住居へ使の者にもたせてやったところ、家は既に空家となっていた。方々せんさくしてみたが、行方知れず、三人ともこれをなげきながらも、利左の高い志に感涙をしぼった。三人はこれをしおに廓通いもやめたといって、西鶴はこの話を結んでいる。  西鶴の最初期の作品に『近代|艶隠者《やさいんじや》』というのがある。版になったのは『一代男』より後の貞享二年(一六八五年)であるが、これは恐らくそれより以前に書かれたものだが、そのままに筐底にあったのを、『一代男』が評判になったので、書肆にすすめられて印行したものではないかと推定されている。元政の『扶桑隠逸伝』(一六六八年)が評判になったので、それに刺戟されて、艶隠者伝を綴ったのではないかとも考えられる。これは文章も思想も幼いので、ひとに知られていない。然し私はこの作品には興味をもっている。この最初期のものは、最後期の『置土産』に通じている。途中のいわゆる好色物や武家物、町人物は、まさに途中のものであるといってよい。 『近代艶隠者』はいくつかの小話から成っているのだが、各篇に共通した方法といってもよいのは、風人《ふうじん》と風流男《たわれお》とよばれる二つの型がでてくることである。風人というのはすでに悟道の域に達した人で、隠者とか異人とか非人となってでてくる。風流男は、いまだ色や慾の世界に沈んで、苦しみもがいている男である。そしてそのたわれおが、風人の手引によって、貧しいながら楽しい境涯に入るという筋が多い。風流男から風人への媒介となるのは、西鶴流の考えによって色である。たとえば巻二の『岡崎の市隠』では、異人が「色を知らぬは其様卑しく、心|硬《かた》ましく、世に住甲斐無し。色より至道に入るこそ誠の道なれ」とたわれおに教え、色によって「人の心ばせを知り、世の儘ならぬ常を悟り、契りし約束《かねこと》の夢なる事を思ふは此初めたり」と語っている。閨に曙の鐘の音を哀れみ、廓の中に月、花をめずるところまですすみ、さらには遊びながら遊ばず、遊ばずして遊ぶというところ、「知るを捨てて愚に入る時は色道の至極となる。」風人のこの言葉で、風流男は、心をあらためて、古物棚に佗びながら、浮世を安く暮すにいたったことが書かれている。  若いときに色の道に迷い、傾城に心を傾けたたわれおが、その迷いによって反って人の心のあわれさ、愚かさを悟り、艶《やさ》隠者となるというのが大体の筋である。艶隠者となった男は、或いは草花を作って市中にあきなってくらしていたり、また古物商になったり、草双紙やお経を市中に売り歩いたり、楊枝を削って裏棚に佗び住居をしたり、さらには、農家の手伝いをして「貧楽」な生活をしたりしている。ところでこの「貧楽」はさきに書いた「人には棒振虫同前に思はれ」にそのままでてくる言葉である。艶隠者として棒振虫を売ってくらしを立てている男があっても少しも差支えないばかりかいよいよ似つかわしいのである。  風流男と書いてたわれおと読まれているのもいかにも、西鶴らしい。大阪の町人の子として生れた西鶴は、一方では宗因門下の談林派の俳諧師、ときに独吟二万何千の大矢数をやってのけた風流人でもあったが、色と慾の世界の描写にその本領を発揮した日本最初の町人作家であった。然しその西鶴が、風流人の上に風人をもちだしてきて、色即是空を単に地口や洒落でなく書いてこの世への「置土産」にしているのも興味あることである。  風流人をたわれおとしか読めなかった西鶴を、彼と同時代の芭蕉は「浅ましく下れる姿」として軽蔑した。風流という字は同じでありながら、芭蕉と西鶴とではその使い方がまるで違っていたことはいうまでもない。然し、西鶴にも風人という観念のあったことは知っていてよいだろう。  ぼうふら売の利左衛門は、旧友たちの喜捨をことわった。湯をわかす薪もなく、ぬらした着物の着かえもない生活に同情して、なにがしの品をたずさえて、再びそこを慰問したときは、既にどこかへ立退いた後であった。この雲がくれは、公金を懐にして行方知れずになったり、収賄してどろんをきめこんだり、選挙違反で逃げ廻ったりする当代流行の雲がくれとは違う。利左衛門は現在のぼうふら売の境涯を別に恥とも思っていない。親譲りの大金を懐にして吉原に通って大尽ぶりを発揮した昔を別にくやんでもいない。色道に迷いこみ、傾城にあわれを感じ、人のこころのまことを、遊びのうちにくみとったからこそ、律義一点張の測ることのできない世界を知りえたのである。西鶴は『置土産』の序の第一行に「世界の偽《うそ》かたまつて、ひとつの美遊《びゆ》となれり」と書いているが、廓はうそがまこと、まことがうその世界である。それを知りながら、そこに遊んで、野暮な詮議をしないところに、ひとつの文化が起った。遊蕩することはむずかしいことではない。遊蕩を美遊と化することがむずかしいのである。それをなしえたのがいわゆる通人というものであった。利左は大尽の通人であったろう。だからこそ自分の過去を悔んでもいないのである。その上、うそがまことのなかから、まことがまことの傾城に邂逅した。いまわが女房にしてみれば、律義以上の世話女房であった。この女房も、ぼうふら売になりさがったかつての大尽を別に恨んではいない。恨むどころではない、むしろ喜々として貧を楽しんでいる。仏壇の扉を庖丁で割って、旧知の珍客をもてなすほどの意気ももち合せている。旧知のおなさけを受けまいとする志も利左と同様であったに違いない。夫婦共同して、現在の貧を楽しんでいればこそ、物持ちの旧友とのそれ以上の交りを嫌って、雲がくれしたのである。  私はここで、このぼうふら売と同じような例を歴史の上に探ってみたい。  そのひとつは長増《ちようぞう》という供奉の話であるが、これは既に別のところで詳しく書いたから多くは触れまい。長増は比叡山で相当な位についていた僧であった。ところで或る日、急に道心を発して山を捨て、雲がくれしてしまった。四国の讃岐へわたって、誰にも知られずに乞食になっていたのである。たまたま国守がかわり、新しい地方長官とともに、かつて叡山で長増の弟子であった男が顧問格として讃岐にやってきた。この顧問の門に、ある日乞食が立った。よくみればもとのわが師長増供奉のかわりはてた姿であった。始終をあらましに語って長増はそこを辞した。翌日、たべもの、衣類、その他くさぐさのものを供にもたして、その顧問が乞食小屋を訪れたとき、長増は既にいずくともなく立退いていた。国守の権力で処々方々に捜索の手をのばしたが杳として不明である。ややあって、炭焼であったか、杣であったか、とにかく奥山の清水のわく泉のほとりで、西に向って合掌したまま、息たえていた長増を発見したという報告を国守のもとへ届けた。これは『今昔物語』にも、鴨長明の『発心集』にもでている話である。  その二は、風外という江戸初期の曹洞の隠者である。風外については私にひとつの思い出がある。もうかれこれ十年の昔になったが、私は或る日、京都から来た西谷啓治さんと一緒に本郷の通りを歩いていた。たまたま森江という古書肆のショウ・ウィンドに、かなりの大きさの達磨図を発見した。私は絵になった達磨を好まない。白隠のそれをも好まない。大げさで、どこか嫌味である。ところで森江でみつけた達磨には何の嫌味もケレンもなかった。この絵の筆者が風外であることを、森江の主人から聞いた。私には風外という名前は初耳であった。風外は二人あるが、この風外が通称穴風外といわれていることも聞いた。穴に住んだ穴風外の書画を、わざわざ贋せる者もあるまい。万一贋物であったとしても、それはそれで立派な画であった。  ところで同行の西谷さんは、私より以上にこの風外に惚れこんだらしい。黙っていた西谷さんが、よし、この絵は俺が買う、といった。私はまんまとだしぬかれてしまったのである。くやしかったがこれにもまた因縁がある。その前年、私は京都へいって、西谷氏と北野を歩いていた。そこで慈雲尊者の書をみつけた。二幅あった。私はたちどころにその一幅を求めた。誰がみても他の一幅とは雲泥の差のあるものである。くやしがった西谷氏は、うん、なかなかいいよ、といって、ふんまんをかくしていた。そのかたきを江戸は本郷でとられたのである。慈雲東来し、達磨西去すと、そのあと私は西谷氏に手紙を出した。  そのとき、森江にたしか『風外』というパンフレットがあった。私が風外についてなんとなく興味をもちだしたとき、再び森江にいってみたが、既にこのパンフレットは無かった。私はおしい本をまた逸してしまったのである。そのあと、何かで風外のことを読んだ。小田原近くの洞窟に住んでいた風外の、風とともに伝わる噂を聞いて、小田原城主の某が、城中に招こうとして使をだしたが動かない。さらに礼をつくした使を送ったところ、洞窟はもぬけの空であったという話である。私はこの話をどこで、何によって読んだか、どうしても思いだせない。仕方なく仏教辞典に当ってみた。  辞典の風外|慧薫《えくん》は次のようなものである。  幼にして出家し、深く諸宗を究め、名識を歴訪して生死の大事を決した。衆に請われて相模の成願寺に出世したが、数年にしてその席を去り、近くの曾我山の巌窟に隠棲した。慶安元年(一六四八年)、小田原の城主稲葉氏に請われて城中に巡錫したが、小田原にあること三年にして、遠江の金指郷に引退した。病篤くなったとき、地に穴を掘らして、みずから穴中に投じて寂した。辞典は最後に、「頗る画をよくし、殊に達磨に得意なり」と書いている。  その三は寂室である。寂室元光は江州永源寺の開祖である。然し私は開祖としての円応禅師には余り興昧がない。備州作州のあたりに韜晦すること二十五年といわれるこの禅僧に興味をもつのである。私が寂室について特殊の関心をもつにいたったことにもまた因縁がある。洛北に住む深瀬基寛老はトゥインビーの飜訳者であり、エリオットの祖述者であり、またすぐれたエッセイストであると同時に、掘出しものの名人である。私は老の家で、寂室の幅をみた。これももう十年近く前になる。楷書で「唯尽凡情別無聖解」と一行に書いてあった。文句もよいが字が一層によかった。凡情をつくした字であった。その後、私は方々の墨蹟展で寂室のものを度々みたが、この書ほどの感動を覚えたことはない。それに墨蹟展でみたものは殆ど行草の書体であった。楷書は深瀬老所持の一幅をみただけである。久松真一氏に鑑定を願ったところ、まずまず間違いなしということであった由も聞いた。私はこの書を契機にして寂室に注意するようになった。永源寺からでている語録も求めたが、ここにはすぐれた詩人としての寂室が感ぜられる。たとえばこんなのがある。   白雲深処掩[#(フ)][#二]茅茨[#(ヲ)][#一]  漸※[#「女+鬼」、unicode5abf][#(ス)]禅人問[#(フコトヲ)][#二]旧知[#(ヲ)][#一]   相送[#(テ)]出[#レ]門[#(ヲ)]両[#(ガラ)]無[#レ]語  長松影下立[#(ツコト)]多時   閑田一片在[#二]山前[#一]  耒耜抛[#(チ)]来[#(ル)]三十年   只採[#(ツテ)][#二]松花[#一]充[#(ツ)][#二]午飯[#(ニ)][#一]  煙蘿深処掩[#(テ)][#レ]扉[#(ヲ)]眠 その他、白雲は実にこれ無心の友、とか、煙暖かにして林丘に臥す、とか、午眠一覚茶三椀、とか、蘿窓に枕して怠情を 縦《ほしいまま》 にす、とか、そういう句が多い。晩年の詩に次のようなものもある。   風[#(ハ)]攪[#(シテ)][#二]飛泉[#(ヲ)][#一]送[#(ル)][#二]冷声[#(ヲ)][#一]  前峰[#(ノ)]月上竹窓明[#(ナリ)]   老来殊[#(ニ)]覚[#(ユ)]山中好[#(キコトヲ)]  死[#(シテ)]在[#(ツテ)][#二]巌根[#(ニ)][#一]骨|也《マタ》清[#(シ)]  寂室の周囲には実に俊秀卓抜な禅僧知人が多かった。仏燈国師はその師であり、寧一山、中巌円月、夢窓国師、春屋妙葩等と交っている。また元にわたったときの同舟には可翁がいたし、元では古林茂、清拙澄等に接している。そういう有名人に知られながら、門をかたく閉して二十五年の間世に出なかったのである。詩にも招きを辞した折のものが相当に多い。永源寺に出世したのは康安元年(一三六一年)で、七十歳を過ぎていた。その翌年、夢窓国師の跡をついで天龍寺に住すべき旨の勅命があったが、固く辞した。ついで鎌倉の建長寺に住するように、将軍足利義詮からの度々の要請があったがこれも固く辞した。このときの招きは実に懇であったとともに騒々しいものであったらしく、寂室は永源寺を脱出して、伊勢に跡を晦ましてしまつた。「一生我を放つて、安閑を得せしめよ」というのが寂室の真情であり、午眠一覚茶三椀の世外の境涯こそ捨てえないものであった。元政の『扶桑隠逸伝』には、芋を焼く煙が、戸外に出ることを恐れるほどの、閉戸閑人の生活を送ったと書かれている。七十八歳で寂したが、遺偈は次の如きである。   屋後青山。檻前流水。鶴林[#(ノ)]双趺。熊耳[#(ノ)]隻履。又是空華結[#(ブ)][#二]空子[#(ヲ)][#一]。  風狂人や隠士の系列を遡ってゆけば、どうしても例の寒山拾得までゆくであろう。その奥にまた源泉があるかどうか、私は知らない。寒山の詩に「尋究無源水、源窮水不窮」というのがあって、これは私の頭を離れないものになっている。寒山拾得が風狂子の元祖であるかどうかは問題ではない。ただ風狂、風顛の徒が、どうしたことか東洋には跡をたたない。そうして後人はこの二人あたりに隠逸の典型を求めていることは多くの寒山拾得図によってわかる。  まず梁楷や夏珪や馬麟の寒山拾得図がある。十二、三世紀のものであるが、下って十四世紀に因陀羅がまた箒をもった拾得、やぶれ芭蕉をもった寒山をかいている。同じころ日本では可翁が寒山図をかいている。単に可翁ばかりではない、多くの禅坊主、禅画家がこの二人を描き来り、破りきたったに相違ない。達磨をどれだけ達磨に書けるか、とともに、寒山拾得を書いてどれだけ寒山拾得子たりうるかということは禅坊主にとって試金石のようなものであったろう。  寒山詩をどれほど禅僧たちが読んだか知らないが、これも恐らく文藻に富む禅者の試金石だったかもしれない。江戸期の大力量者の白隠にいたってようやく『寒山詩闡提記聞』三巻が出来た。現代の専門家は白隠の語釈や訓読の中に妥当でないものがあるの、どうのというが、とにかく記聞をつくりあげただけでも大度胸といわねばなるまい。寒山詩に註釈をつけるにはよほどの勇気がいる。  大正になって森鴎外が『寒山拾得』という短篇を書いた。鴎外専門家のなかにはこれを以て鴎外第一級の作とする者もあるが、果してどうだろう。私はやや頭をかしげる側であるが、とにかくこの天台山の国清寺の厨へいって残飯を貰って生きていた拾得と、その残飯のおすそわけをして貰って洞穴に住んでいた寒山といふ風顛狂士を小説にするということだけでも大変な度胸である。鴎外はこの短篇の縁起を書いているが、その中で、自分もまた寒山同様に実は文殊なのだが、ひとがそれを認めないだけだ、といっている。文殊とみずからをかりそめにもいいえた男によって、初めて書けるという性賀のものであろう。  ところで私がこの鴎外作に首をかしげる点はどういうところか。鴎外は殆ど閭丘胤の名で書かれている『寒山詩集序』をそのままに使っている。そのままでないところには、これを書いた当時の鴎外の不平不満が、けちくさい顔をだしている。豊干が一ぱいの水の咒で、閭の病気を直してしんぜるといったときは、たとえ間違ったところで、たかが水一ぱいでは危険もあるまいと思って、治療を依頼した云々というくだりがある。そのあとへ鴎外は、「丁度東京で高等官連中が紅療治《べにりようじ》や気合術に依頼するのと同じ事である」と何気ない風を粧ってつけ加えている。これは余計なつけ加えである。しかしこれをつけ加えざるをえない心が鴎外にあった。心ならずも陸軍省の医務局長を退職させられることになった森林太郎は官界に対して不平不満をくすぶらしていたのである。またこの小説の最後のところで、乞食姿の寒山と拾得の傍へすすみよった閭が、二人に恭しく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」と名乗って、二人に呵々大笑される場面がある。それはこの小説の構成の上では大いに面白いところだが、一体このとき、軍医総監医務局長、陸軍中将、医学博士文学博士、正何位勲何等、森林太郎がどういう顔をして書いていたかということが私の気にかかるところである。さきにも書いたように鴎外に対して大正五年の四月十三日に正式に解職の辞令が出た。鴎外はその当時の漢詩の中で、「世上争[#(ヒ)][#二]名利[#(ヲ)][#一]、群蠅逐[#(フ)][#二]腥羶[#(ヲ)][#一]、惟吾甘[#(ジテ)]守[#(ル)][#レ]拙[#(ヲ)]」というような感慨をもらし、間房有[#二]至楽[#一]、足[#(ル)][#三]以[#(テ)]送[#(ルニ)][#二]暮年[#(ヲ)][#一]の句を以てこれを結んでいる。『寒山拾得』の書かれたのは正式の退職の前年の十二月であるが、このときには既に解職は内定していたのである。鴎外は長い間着つけていた軍服をぬぎ、サーベルをはずした心境で、即ち生れて初めて野人になるという境で『寒山拾得』を書いた。だからこそ長い肩書をつけて名乗った閭丘胤を寒山とともに笑うことができ、紅療治や気合術に頼る高等官連中を揶揄することもできたのである。また「甘んじて拙を守る」とか「間房至楽あり」というところで、わずかに大閑人、大拙人の両仙人の風懐に近づきえたのである。『寒山拾得』はなるほどすぐれた短篇ではあるが、細かく点検すれば、鴎外の当時の不平のかたまりが、それとはなくにおいを発しているところがある。これはまた作品そのものとは無関係のことだが、解職の翌年、即ち大正六年の十二月二十五日という日附で、帝室博物館長兼図書頭に任ぜられ、高等官一等に叙せられている。鴎外には間房は不似合だったらしい。館長になろうと高等官一等になろうと、それは自由である。しかし、そのとき作った、「老ぬれど馬に鞭うち千里をも走らんとおもふ年立ちにけり」の中に俗臭を感じても無理ではあるまい。辞令を貰って大いに欣喜し、「好んで君主のために蠧魚を除かん」で終る七言を作っているが、これもまた皮肉にとれないこともない。  私はつい、ながながと鴎外のことにかかずらってしまったが、鴎外森林太郎は稀代の有用人であったことをいいたかったのである。ときにレジグナティオンなどといったが、これも、小倉という僻地へ左遷されたときの記念物ぐらいと思えばよいであろう。鴎外は生涯官に居り、官を好み、上からみていた人であった。その稀代の有用人、器用人であった鴎外が貧寒の風狂人の代表の寒山拾得を書き、それが一部の評者には第一級の作品といわれているそのことに、なにか時代の皮肉、イロニイを感じるのである。  頭脳明晰の鴎外に寒山詩がわからなかった筈はない。頭でわかるということは、心で感ずることとは別の作業である。私は鴎外のこの作を頭の作業だと思っている。閭丘胤の前にまず豊干がでてきて、次に道翹がでてきて、最後に寒山拾得が、ほんの少しその実の姿を現わしている。いわば論理的な遠近法という仕組になっている。直接にはこの風狂士にせまりえないのである。ワキや道行を長くだして、急な終結でとじているわけである。この作に示された頭のよさには感心するが、どうも全幅の感動をともなわない。  その上、いま私の扱っている題目からいって、問題がひとつ残っているのである。  鴎外の『寒山拾得』は、長々と官位職名を名乗った閭をみて呵々大笑した二人は、国清寺の厨を一目散に逃げだした、逃げしなに寒山が、「豊干がしやべつたな」と云ったのが聞えた、というところで終っている。ところで鴎外の依拠した寒山詩集序にはその後があるのである。国清寺を逃げだした二人は、寒山の住む寒巌に帰った。閭は両人が再び国清寺に帰るに都合のよいような処置をとっておいて、任地へ引上げた。閭は二人のために浄衣を二通りつくり、香薬等をそれにそえて使を送って寺にとどけしめた。ところで二人はその後さらに寺へ近づかない。仕方がないので閭の特使は寒巌にまででかけていって贈物を呈上しようとした。寒山はこれをみて大声をだして、「賊々」とよばわって、巌窟の中へ入ってしまったまま、いっかな出てこない。本文のこの最後のところはいささか神仙譚じみていて、寒山が洞窟へ入ると、穴がおのずから合して入口をとじてしまったと書いてある。拾得の迹は沈んで所無しと書いてある。  寒山の書いた詩が、石の壁や竹や木の幹に残されているのを僧の道翹があつめて成ったのが、この寒山詩集だといって、序は、寒山と拾得をたたえる閭の頌で終っている。寒山詩の、一、二をいま新訳によって誌しておこう。   ここに寒山に住みてより   曾て幾万載を経たる   任運に林泉にのがれ   棲遅して観自在   巌中に人いたらず   白雲は常に靉靆たり   細草を臥褥となし   青天を被蓋となす   快活に石に枕し   天地を変改に任す。   のびやかに高僧を訪ぬるに   烟山万万層   師親しく帰路を指させば   月 一輪の燈を掛く。 [#地付き](終) [#改ページ]   あとがき  昨年の夏であったか、新潮社から日本文化に関することならなんでもいいから百枚ほど書けという依頼をうけた。七人が各百枚ずつ書いて、それで一巻とし、十巻ほどの『日本文化研究』という叢書にするというのである。私は『無用者の系譜』という題を選んだ。在原業平から永井荷風にいたる世の無用者を書こうと思ったのである。ところでいざ書いてみると百枚ではとてもつくせないことがわかった。無用者がぞくぞくとでてきて、つくるところがないのである。新潮社の分はしりきれとんぼのままでうちきって、あらためてその続編を書こうと思ったまま、今年の春になった。四月の末日に荷風が急に亡くなった。私は散人の死を機にまた稿を起した。そしてできたのが『文人気質』である。江戸中期以後の無用者をここで扱っている。  日本には昔から今にいたるまでなぜかくも無用者が多いのか。質において高い者が、なぜ意識して無用者となったのか。日本の高級な思想や文学が、なぜ世の無用者によってかたちづくられてきたのか。そしていまそれを私が問題にするのはなぜか。  現実社会で勢力のあるものと、思想や文化に携わる者とが、不幸にして分れていたということもある。俗世間と異なるところに文雅な世界を築かざるをえない事情が、日本の歴史の中にあったことも事実である。専制主義や強圧政治のもとでは高い思想や文学は、それと次元を異にするところでなければ育ちえなかったということもある。総じていえば、日本の歴史や社会の条件が、殊に中世以後、多くの無用者を生んだことは否まれない。  然しこれは無用者に対する、歴史や社会の中での解釈や位置づけである。今日では日本は民主的になった。或いは民主的になろうとしている。文化と政治とが結びつきうる条件ができていると同時に、実際にそれが行われてもいる。そういう時代にことさら無用者をもちだすのは無用ではないか、逃避ではないかという議論があるが、私はそうとは思わない。  人間の知識は日々に進歩し、科学や技術は無限に進歩している、それによって我々は現実のさまざまな困難や不幸を克服しうる、人間は自分の力で、現実の歴史や社会の中で、自由で幸福な生活を送りうるではないか、そういう論もあり、事実もある。然しそれだけではおさまらない。我々の生活空間が、月にまで伸びても、なおそれを狭しとして、無辺際に遊ぼうとする本性が人間の内にある。  雅と俗、虚と実、想と実、空と色、そういう二元がでてきたのは、一方では歴史や社会の条件からであろう。歴史や社会の条件から生みだされたという発生時間を無視して、ひとたび、雅や虚や空にいたりついた者は、それを本質的に先なるものとして自覚する。世間無常、諸行無常において反って常を自覚し、遁世、韜晦において反って真の現実を自得し、旅こそ栖家という逆説を実行することが起る。実が虚によって、色が空に貫かれて、反って本来の面目を発揮するということは単に議論の遊戯ではない。すぐれた詩人が事実によって示しているところである。みずからの詩業を夏炉冬扇といった無用詩人の業蹟を思いだせばよい。虚や空や詩を、歴史の条件や科学の進歩でぬりつぶすことはできないのである。そして虚や空を反って現実の根柢とする伝統が、日本において実践的にうけつがれてきたのである。  無用者の系譜を書きながら、禅僧たちに多く及ばなかったのは、本家本元を忘れているものといわれても仕方がない。読者は本書中の芭蕉や良寛や大雅の項、また寂室や風外のところで多少禅味の如何なるものであるかを感じうるだろう。無用者は禅にいたって始めてほんものになりうることも察しがつくだろう。残念ながら私の今の力では禅や禅僧を如実には書けない。これを書きうるのはいつのことかもわからない。もし書きうる時機が到来したとしても、この書のような書き方にはならないだろう。系譜というような歴史の概念を私が使っているのは、私がまだ歴史の繋縛の中にいるからだといわねばならない。  本書中の『無用者の系譜』は昭和三十四年二月発行の新潮社版『日本文化研究』第二巻に載せたもの、『文人気質』中の「永井荷風」の一章は雑誌『心』の昭和三十四年十二月号に、『雲がくれ』は同誌の同年四月号に寄せたもの、他はここに初めて発表するものである。   昭和三十四年暮 [#地付き]唐木順三   [#改ページ]   新版にあたって  私はこのごろ『無常』と名づけた著書を、筑摩書房から出した。その第一章は、「はかなし」という観念を一本の筋として、王朝の『かげろふの日記』以下の女流文芸を扱ったものである。第二章では「無常」を筋として、鎌倉の新仏教の開祖たち、法然、親鸞、一遍を扱い、更には、『徒然草』や、心敬、宗祇、芭蕉の「飛花落葉」の観念を書いた。そして第三章「無常の形而上学」で道元、即ち禅の「無常」、「無常仏性」を書いた。 『無常』が私のいままでに書いた『中世の文学』(昭和三十年)や『無用者の系譜』(昭和三十五年)や『中世から近世へ』(昭和三十六年)を背景にしてのものであることは当然である。しかし今度『無用者の系譜』を新しく筑摩叢書に入れるに当って、それをひもどいてみて感じたことは、この旧著を、もう少し新著『無常』に利用すればよかったものを、ということである。特に旧著の一節「連歌師俳諧師及びデカダンの世界」をもっと拡大して考えてみればよかったと思った。能や狂言に出ている「無常」、新古今集の歌人たちの「無常」、談林俳諧、殊に西山宗因の「無常」を、旧著におけるよりも一層立入って書くべきであったと思った。また溯って『伊勢物語』と王朝の女房日記との相違、京にありわび、身を用なき者に思いなして、東《あずま》に下った在原業平の男性的行為と、宮廷という停滞社会の中から一歩も出ることができず、そこにいて、世のはかなさ、身のはかなさを縷々として綴った女房たちの日記との相違、実在の業平という人物を、文学的業平像として結晶せしめた「物語」と、おのが身辺や心理から自由ではありえない「日記」との相違、単に相違ばかりではなく、物語から日記への経路を、あらためて考えてみるべきであったと、そうも思った。  そうは思ったものの、すべて後の祭である。せめて『無常』の読者に、『無用者の系譜』の第一章を読んで貰い、自分で補って貰いたいなどと、虫のいいことを書いて新版のあとがきとする仕儀である。   昭和三十九年四月三日 [#地付き]唐木順三   唐木順三(からき・じゅんぞう) 一九〇四年長野県生まれ。旧制松本高校を経て、一九二七年京都大学哲学科卒業。一九三二年に処女評論『現代日本文学序説』を刊行し、以後、法政大学予科教授、明治大学教授などを歴任しながら、実存哲学と豊かな感受性を融合させた独特の評論活動を展開した。一九八〇年没。著書に『鴎外の精神』『中世の文学』『千利休』『日本人の心の歴史』などがある。 本作品の元版は昭和三九年四月、筑摩叢書として刊行された。 電子化にあたって、旧漢字・旧かなづかいを新字・新かなづかいに改めた。ただし古典の引用部分は旧かなづかいのままとし、ルビはすべて新かなづかいに改めた。