唐木順三 千利休 [#表紙(表紙.jpg)] [#利休の肖像画(fig1.jpg)] 目 次 一 千利休  一 |さび《ヽヽ》と|わび《ヽヽ》——世阿弥と利休——  二 堺商人の性格  三 信長と茶湯者  四 山崎の妙喜庵  五 大阪城と山里丸  六 書院と草庵  七 利休以後の茶  八 利休の切腹  九 日本の近代化世俗化の問題  十 |わび《ヽヽ》から|さび《ヽヽ》へ——利休から芭蕉へ——    1 芭蕉の|わび《ヽヽ》    2 |わび《ヽヽ》から|さび《ヽヽ》へ 二 長谷川等伯と利休 三 『南方録』の問題 四 初花経歴譚  あとがき  新版にあたつて  関係人物生没年表 [#改ページ] [#見出し]  一 千利休 [#小見出し]   一 |さび《ヽヽ》と|わび《ヽヽ》        ——世阿弥と利休——  さびとわびは一般に同意語として、または近親語として使はれてゐる。然し、事実はかなり違ふ、或ひは相当なへだたりがある。わびには、さびとは異質的な要素が入つてゐる。少くとも千利休以来の侘茶、侘数寄のわびには、さびとは異る心理と事実が入つてゐる。その相違を抽象的に語る前に、まづ世阿弥と足利義満の関係を、利休と織田信長・豊臣秀吉の関係と比較してみたい。世阿弥と利休をここへ並べるのは、単に思ひつきではない。また日本の芸能史上の二つの巨峯を比較するといふ文化史的な興味につきるものではない。利休は金春流の太夫宮尾道三について謡を習つたことがあるばかりか、彼の後妻宗恩は道三の娘であつたといふ伝へもある。利休がこの道三の好意によつて金春禅竹の手に渡された世阿弥の伝書『風姿華伝』やまた『至花道』を見たといふ推定もでてくる。また天正年間にはそれらの伝書の写本が出てゐたのである。利休の使つた「炭の花」といふ言葉や、彼が己が運命を予知して、切腹の一ヶ月余り前に作つたといはれる「枯のこる老木の桜枯折て今年ばかりの花の一房」の歌の中にも、世阿弥の花、残れる花の影響をみることができる。さらに利休の茶の師であつた武野紹鴎は、その前身は三条西実隆について学んだ連歌師であり、「枯かじけ寒かれ」といふ心敬法師の言葉に特別な注意を払つてゐる。世阿弥が心敬に近かつたことは周知である。この近さの背後に禅のあることはいふまでもない。禅竹も珠光もともに一休禅師の弟子であつた。世阿弥も利休もその背景には禅がある。  世阿弥と利休は右のやうな点で相似ながら然も異つてゐる。世阿弥の最後に到達した境地のさびと、利休のわびとは相当に違つてゐるのである。 『花伝書』(『風姿華伝』)は世阿弥の四十歳頃に書かれたものといはれる。二十年前に死別した父観阿弥の庭訓を忠実に録したもので文中にも次のやうな言葉がある。「凡そ、花伝の中、年来の稽古より初めて、この条々の注《しる》す所、全く自力より出づる才学ならず。幼少より以来《このかた》、亡父の力を得て、人となりしより廿余年が間、目に触れ、耳に聞き置きし儘、その風を受けて、道の為、家の為、これを作《さく》する所、私に有らむものか。」  この父子相伝の『花伝』の序に、「好色、博奕、大酒、三重[#(ノ)]戒、是[#(レ)]、古人[#(ノ)]掟也」「稽古は強かれ、情識は勿れ」の二項を特に注意してゐるが、これはこの父子のおかれた位置と覚悟を率直に示してゐるといつてよい。花伝第二の『物学条々』の冒頭に、物真似こそ此の道の肝要といひながら、そこに濃き薄きの別のあることを示してゐる。「先づ国王、大臣より始め奉りて、公家《くげ》の御起居《おんたたずまゐ》、武家の御進退は、及ぶべき所にあらざれば、十分ならん事難し。さりながら、よくよく言葉を尋ね、科《しな》を求めて、見所の御異見を待つべきをや。その外、上職の品々、花鳥風月の事態《ことわざ》、いかにもいかにも細に似すべし。田夫野人の事にいたりては、さのみに細々賤しげなる態《わざ》をば似すべからず。仮令《けりやう》、木樵、草苅、炭焼、汐汲などの、風情にもなるべき態をば、細にも似すべきか。それより猶賤しからん下職をば、さのみには似すまじきなり。これ上方《うへつかた》の御目に見ゆべからず。若し見えば、あまりに賤しくて、面白き所あるべからず。此|宛行《あてがひ》をよくよく心得べし。」  これは物真似の対象が、国王、大臣、公家、武家であること、またそれ以外の対象を選ぶ場合には、高貴な人々の理解しまた面白しと思ふ限りにおいて似すべきであることを言つてゐる。能の先行芸能である田楽や猿楽がもともと田舎のものであり、それを演ずるものが、下賤の身分に属してゐたことは多くの人の実証してゐるところである。この田舎廻りの旅芸人から、みづからを解放して、その芸を高貴な象徴芸術にまでたかめることが観世父子の課題であつた。好色、博奕、大酒を禁じたのは、彼の支配する一座全体への宣告であつたらうし、稽古は強かれは、自らにも課した掟であつた。稽古の目標は一言にいへば「ただ言葉賤しからずして姿幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか」の達人の境に入ることである。『年来稽古条々』は、七歳から始まる当芸の稽古の、その年齢年齢に応じての心得をしるしたものだが、十七、八歳の頃の心得として、「此の頃の稽古には、指をさして人に笑はるるとも、それをば顧ず、内にて、声、喉突かんずる調子にて、宵暁の声を使ひ、心中には願力を起して、一期の堺ここなりと、生涯に懸けて、能を捨てぬより外は、稽古あるべからず」と示されてゐる。心中に願力を起して、一期の堺ここなりと、といふ覚悟は、恐らく全生涯を貫くものであつたらう。観世一座のきびしい訓練が察せられるのみか、農民の間に生きてゐた信仰の力、ストイックな厳粛主義の程が察せられるのである。一説によれば、田楽、猿楽の徒は、時宗の阿弥教団に属し、すべて阿弥号をもつてゐたといふ。この阿弥教団の集団的情熱的な信仰と生活規律が、観世父子において姿をかへて能の確立といふひたすらな情熱に凝集し、言葉賤しからずして姿幽玄ならんとする一徹な稽古に表現されたとみてよい。世阿弥の録した能楽理論には、実践家のみのもちうる激しい気魄が充ちあふれてゐる。ここには都会人の享楽気分は微塵もない。高見の見物人のいふ批評もなければわけしりの高言もない。田舎出特有の生真面目な努力、ひたむきの稽古があるばかりである。観世父子はこの道に没頭した。己れを捨ててこの一筋に生きた。『花伝書』の中の「私儀[#(ニ)]云[#(フ)]」の一条、殊にその最後の一節は、この父子の道念の表白といつてよい。「此の寿福増長の嗜みと申せばとて、ひたすら世間の理《ことわり》に関《かか》りて、若し、欲心に住せば、これ第一道の廃《すた》るべき因縁なり。道の為の嗜みには、寿福増長あるべし。寿福の為の嗜みには、道正に廃るべし。道廃らば、寿福自ら滅すべし。正直円明にして、世上万徳の妙花を開く因縁なりと、嗜むべし。」  応安七年(一三七四)今熊野で行はれた足利義満御覧の神事猿楽は、観世父子にとつてばかりではなく、今日の能にとつてもまことに画期的なことであつた。それまでの将軍御覧の能芸は田楽ばかりであつたのに、ここで初めて猿楽が選ばれたこと、観世父子がここで将軍家と結びつくことによつて、田舎の旅芸人から都会の能楽師になつたばかりでなく、これを契機にして能そのものの性格の革新が行はれたのである。四十二歳の観世清次は、やがて世阿弥を名乗る十二歳の長子藤若丸に面箱をもたせて、『翁』を舞つた。蒔絵の面箱を目高に捧げて太夫に先行する役は、美貌の少年を使ふのが例である。十八歳の青年将軍義満にこの面箱を持つ藤若の美しい姿が特別の注意を引いた。義満藤若の関係は次第に緊密なものとなつていつたことは、周知の『後愚昧記』が誌してゐる永和四年(一三七八)六月七日の祇園祭の記事によつて明らかである。二十一歳になつた青年将軍は十六歳の藤若丸をつれて、四条東洞院の桟敷で酒宴を催しながら、山車行列の渡るのを見た。日記の著者内大臣押小路公忠はかう書いてゐる。「大和猿楽児童(称[#二]観世猿楽[#一]法師子也)被[#レ]召[#二]加大樹(義満)桟敷[#一]見物也。件児童自[#二]去項[#一]、大樹寵[#二]愛之[#一]、同[#レ]席伝[#レ]器。如[#レ]此散楽者乞食所行也。而賞翫近仕之条、世以傾[#二]奇之[#一]。連連賜[#二]財産[#一]、与[#二]物於此児[#一]之人、叶[#二]大樹之所存[#一]。仍大名等競而賞[#二]賜之[#一]、費及[#二]巨万[#一]云々。此興事也。」  藤若を呼ぶに大和猿楽児童を以てしてゐるのは、九条兼実の日記『玉葉』が、頼朝の伊豆での挙兵を聞いて「義朝之子謀叛」と書いてゐるのを連想させる。観阿弥を呼ぶに大和猿楽を以てしてゐるのは、大和に座をもつ田舎廻りの旅芸人の、くらゐの侮蔑の意を含んでゐる。それではなほをさまりかねて散楽(猿楽)を乞食の所行とも呼んでゐるところからも、当時の堂上公卿が、いかなる態度で能楽師をみてゐたかは察しがつくのである。  かういふ貴人たちを観客として舞台に立つ大和猿楽の倅とその父はどういふ心構へをしてゐたか。さきに書いた「先づ国王、大臣より始め奉りて、公家の御起居《たたずまゐ》、武家の御進退は、及ぶべき所にあらざれば、十分ならん事難し。さりながら、よくよく言葉を尋ね、科を求めて、見所の御異見を待つべきをや。」さらには、「女御、更衣などの似事《にせごと》は、輙《たやす》くその御振舞ひを見る事なければ、よくよく伺ふべし。衣、袴の着様、すべて私ならず、尋ぬべし。」さういふ田舎者のひたすらな物真似に彼等親子は情熱を傾けてゐたのである。 『花伝書』また『申楽談儀』などに、「貴人の御意に叶へる事」「貴人の機嫌を伺ふべき事」等の言葉がたびたび出てくる。義満の同朋衆の一人として世阿弥は次のやうなことさへ書いてゐるのである。東の洞院の傾城に高橋殿といふ女がゐたが、この女性は殊の外に義満の御気に入りであつた。義満がもう少し酒を飲みたいといふときには、言はれない前にそれと察して酒を強ひる。惰性で飲んでゐるときにはそれを察して、扣《ひか》へさせる、といつた次第で、将軍の心をよくみぬき、気転が利いてソツがなく、ために御機嫌を損ずることなく生涯を終つた。さういふ点はまた世阿弥が高橋殿以上の名人であつたと人々に褒められたといふ。これを「人の中を莞爾となすべし。然れば色知りにてなくば、住する時節あるべし」といふ例として引いてゐるのである。室町時代の将軍に仕へた同朋衆は、またの名を童坊また佞坊といはれ、色々のたはけ事をし、たはごとを言ふ幇間的存在であつたといふ一説もあるやうに、貴人の御意に叶ふことを専らにするといふ点が世阿弥にもまぬがれがたかつたに相違ない。  観世父子の大和猿楽が、まづ物真似を取立てて、それを根本とし、基本の出来上つたところで幽玄の風体を取入れようとしたのに対し、近江猿楽は、まづ幽玄の風体を第一とし、物真似を次としたことは、『花伝書』の奥儀に示されてゐることである。観阿弥はこの大和猿楽の流儀をそのままに実行したやうにみえる。「物真似の品々、筆に尽し難し。さりながら、此の道の肝要なれば」の言葉を以て『物学条々』が始つてゐるのをみてもそれはわかることである。観阿弥の子として、また弟子としての世阿弥の出発がここにあつたこともまたいふまでもない。然し二十二歳で父に死別した世阿弥は、父に依拠しながらも次第次第に自己独特の境を展いていつた。それは、たとへばさきにも引いた、「女御、更衣などの似事《にせごと》は、輙くその御振舞ひを見る事なければ、よくよく伺ふべし云々」、「国王、大臣より始め奉りて、公卿の御起居、武家の御進退は、及ぶべき所にあらざれば、十分ならん事難し云々」の言葉と、彼の晩年の作といはれる『花鏡』の次の言葉とを比較してみれば、世阿弥の独自の境は明瞭にならう。 「公家の起居《たたずまゐ》の、位高く、人貌世に変れる御有様、これ、幽玄なる位と申すべきやらん。然れば、ただ美しく、柔和なる体《てい》、幽玄の本体なり。人体閑かなる粧ひ、人ない(体)の幽玄なり。又、言葉優しくして、貴人、上人の御慣はしの言葉遣ひを、よくよく習ひ伺ひて、仮初なりとも、口より出ださんずる言葉の優しからん、これ言葉の幽玄なるべし。」  世阿弥は此の節の冒頭に、「当芸に於いて、幽玄の風体第一とせり、」といひ、また、「何の物真似に品を変へてなるとも、幽玄をば離るべからず」と書き、「ややもすれば、その物その物の物真似許りを為分《しわけ》たるを至極と心得て、姿を忘るる故に、左右無く幽玄の堺に入らず」といつてもゐるのである。『花修』で、「人に於いては女御、更衣、又は優女、好色、美男、草木には花の類、か様の数々は、その形、幽玄のものなり」といひ、かういふそれ自体幽玄な対象をよく真似れば、「自らも幽玄なるべし」といつてゐる。  それ自体、即自的に幽玄なものと、それを芸術的に物真似したところに生れる舞台上の幽玄が、美的に同等であると幽玄自体の方から思はれる段階から、更に進んで、芸術上の幽玄こそ真の幽玄と思はざるをえない境に達し、逆に舞台姿の幽玄を物真似することによつて、真の幽玄に近づかうといふ意識が、生《なま》の幽玄の側に出てくるとき、そのとき、能楽は、芸術として真に独立したといつてよい。  世阿弥は『申楽談儀』の中で、亡父は大男であつたが、女能を舞ふときは、その姿がほそぼそとなり、また、『自然居士』で黒髪をつけて高座に直つた折には、十二、三ばかりの児《ちご》に見え、それを見物してゐた義満が、側にゐた藤若を顧みて、「ちごは小股を掻かうと思ふとも、ここはかなふまじ」といつたといふことが書いてある。同じ筆法を以てすれば、及びがたしとされた大臣、公卿、武家、また女御、更衣を演ずるときには、その言葉遣ひも立居振舞も、ほんもののそれよりも、さらにほんものらしい格をもちうるにいたつたといひうるだらう。公卿や武家や女御などが反つて、みづからの風情を、舞台姿から学び、真似るといふ逆な方向が兆し始めたことにもならう。同じ書のなかで、「万の物真似は、心根《こころね》なるべし。まづその心根心根を思ひ分ちての上の風情、懸りなり」といふ不逞といつてもよい余裕を示してゐるところがある。見所の貴人たちが、気を詰め、息をこらして、満座が「あは止むるよ、止むるよ」といふ気色にみなぎつたときには、その予期に反して、「そと止むべし」といひ、また、満座がゆつくりとして、悠々として、これから面白くなると思つてゐるやうな気色のときは、その気色を裏切つて、「きと気を持ちて、きと止むべし」といつてゐる。「当座の人の気に違へて止むれば面白し。これ人の心を化《ばか》すなり」とさへつけ加へてゐるのである。「化かすとは、上手の、悪きとは心得ながら、年などよりて、世子出家以後、内にて舞を化かすこそ、化かすにてあれ。下手の化けの現はるるといふ事、ただ目が利かぬなり」といつてこの文を結んでゐるが、六十歳を越えた世阿弥は既にさういふところにゐた。  田舎廻りの興行師から身を起した大和猿楽師、内大臣から乞食の所行といやしめられた能楽師が、そのひたすらな精進努力の末に義満に認められ、更には後小松天皇の前で能を競ふことになつた。物真似を基本とした観阿弥が、下賤の身では及びがたしといつた国王、大臣、公卿、武家の起居《たたずまゐ》、また見る事なければよくよく伺ふべし、といつた女御、更衣の振舞ひを、「言葉を尋ね、科を求め、」尋ねに尋ねた末に、その物真似を完成態に仕上げたのみか、遂には、貴人、美女の幽玄をよく似せたらばこれもまた幽玄といふところに達した。世阿弥にいたつては更に一歩を越して、「心」の能、「動十分心、動七分身」の能を説いた。「姿を善く見するは心なり」(『花鏡』)の言葉は、それ自体で美しく、またおのづからにして位高く人貌世に変れる公卿たちの即自的な幽玄を一段と高く抜いた高次の対自的な幽玄、心の幽玄を明らかにした、いはば画期的なものである。世阿弥が花といふ語をしばしば使つてゐることは周知だが、生れながらに備はつた身体的な花やかさ、美しさの花から、心の花に転じて来たのも、これと軌を一にするのであらう。身体的、外貌的な花を、真に美しくするものは心だといふのである。心をともなつた姿こそ最上といふのである。風体とか人体とか人ない(内)とかと区別して使ふ姿といふ意味はここにあらう。人体の幽玄に対して、「真《まこと》の幽玄」と区別して言つてゐる本意もそこにある。「その物その物の物真似許りを為分けたるを、至極と心得て、姿を忘るる故に、左右なく幽玄の堺に入らず」といつてゐるのもそれである。偶然的偶有的な幽玄から、真の幽玄への工夫、稽古、それによつて自身のうちに「幽玄の種」をもつべきことを説いた。たとへば、高貴な身分に生れたといふ偶然のために、美しく雅なる言葉を使つてゐるといふ即自的な幽玄に対し、歌道を習ひ、発声法を工夫し、幽玄の種を備へる等である。それらの「理《ことわり》を我と工夫して、其の主《ぬし》になり入るを、幽玄の堺に入る者とは申すなり」の言葉など、まことに堂奥をうがつたものとして、いまさらに『花鏡』を書いた世阿弥に感歎するばかりである。  乞食の所行の猿楽の舞師の子が、大樹将軍に殊の外の寵愛をうけたときにも、高貴の側からの嫉妬があつたらう。然しこの嫉妬は多少の羨望はあつても、優越感から来る侮蔑を含む限り安全であつた。然し身体的即自的な高貴、幽玄が、精神的対自的な幽玄な姿を目前にみたとき、一方には感歎の心が動くとともに、また嫉妬の心も動くだらう。自分たちより本格的な幽玄を、もとをただせば下賤な男が実現してゐる。ここには劣等感とともに優越感のまじつた、危い嫉妬が動いてゐる。既に世阿弥は「化す」といふ不逞な言葉をさへ使つてゐるのである。かつては恐れ懼れた物真似の対象を、いまは心憎くも化してゐるわけである。化された、と気付かせるほどに世阿弥の演戯がまづくないだけに、化される側には内攻するものがあつたに相違ない。凡そ名人の危険はさういふところに兆すのである。  義満の死後、名実ともに将軍となつた義持が田楽法師の増阿弥をとりわけ引立てたことにも、その後をついだ義教が、世阿弥及びその子の元雅を斥けて音阿弥を重用したことにも、もちろん種々の理由はあらうが、その背景には前記の如き嫉妬があらう。七十二歳の老年で将軍の怒にふれて佐渡へ配流されたのも名人の危さが昂じたものといへる。名人の域に達した芸術家の専制権力者からうける報いの一典型である。  義満も、もともとは坂東武者の血筋である。二条河原落書で、「きつけぬ冠上のきぬ、持もならはぬ笏持て、内裏まじりは珍らしや」と、からかはれてゐる京侍の頭梁といふところである。内大臣公忠が「大樹将軍」と彼を呼んだ折には、若干の侮蔑の気味も入つてゐたであらう。この坂東武者が、みづからを宮廷文化に近づけようとする意志と、大和猿楽師の子が、貴人公卿、女御更衣の風体をわがものにしようとする意志には一脈共通するものがあつたらう。また義満が単なる武辺ではなく、すぐれた芸術感覚、美意識の持主であつたことは、彼の造営した金閣寺によつても推察できる。この京侍の頭梁は、すでに創造力を枯渇してしまつた宮廷文化人どもの、思ひもよらない新しい形を築きあげてゐる。旧い形がくづれ去つた荒びの時代を経過して、禅を根柢とする新しい文化が築かれ始めてゐる。宮廷の幽玄嬋妍とつづく幽玄を超えた、さびた幽玄が出てきてゐる。  世阿弥が義満の寵を得たことも、単に藤若時代の美貌や端麗によるものではないであらう。両者の形成力には相通じたものがあつたればこそ、義満在世中、世阿弥は安心して自己の芸を磨きえたのである。彼が幽玄を超出した幽玄、生の幽玄から象徴の幽玄の範型をつくりだしえたのも、義満と軌を一にしてゐるところである。義満の没後、急速に中心勢力から斥けられ、やがて佐渡へ配流の憂目に会つたのは、守旧の側からの白い眼とともに、相続争ひに血眼になつてゐる将軍家筋の無理解、また同じ芸能家仲間からの嫉妬や貶斥が原因であつたらう。さういふ不遇のなかにあつて、彼はみづから歩み出した道を懈怠なく進みつづけてゐる。「初心不[#レ]可[#レ]忘、時々初心不[#レ]可[#レ]忘、老後初心不[#レ]可[#レ]忘」といひ、また「能は、若年より老後まで、習ひ徹るべし」の言葉は、嫉妬や貶斥やまた不遇の間にあつて、一徹に我が道を歩みつづけた不遜ともいつていいほどの高邁な芸術家気質を示してゐる。  元亀元年(一五七〇)の四月に利休は信長に会つてゐる。今井宗久が信長の御前で、利休の手前による薄茶を賜はつたといふ記録によるわけだが、これが両人の最初の出会ひであるかどうかはわからない。しかし信長の勢力が堺へ進出してきたのはその二年ほど前からにすぎないから両者の出会ひは恐らく宗久の記録の頃とみてよいだらう。利休はこのとき四十九歳、信長は、三十七歳である。やがて利休は茶堂として信長に仕へ、禄五百石を貰ふことになつた。一説には三千石ともいはれるが、秀吉からの禄が三千石であつたことから推して、五百石ではなかつたか。  四十九歳の利休が、十二も年少の信長に会つたことは、十二歳の藤若が、十八歳の義満に会つたこととは違ふ。茶堂も同朋衆には違ひないが、これは童坊でもなければ佞坊でもない。天下の堺商人にして高い文化人が天下をねらふ武人にいはば教師格として奉仕したのである。  利休が居士号を貰つたとき、大徳寺の古渓和尚はそれを祝つて頌をおくつたが、その序に「泉南之抛筌斎宗易居士三十年飽参之徒也」と書いてゐる。利休が抛筌斎を斎号としたのは何時頃であつたか。弘治四年(一五五八年)、利休は三十七歳のとき、三好実久の茶会に招かれた記録から推して、このころが堺において茶人としての位置が社会的に認められた最初であらうとし、抛筌斎を号したのも、恐らくこの前後であらうといふ説があるから、しばらくそれによるとして、抛筌を自ら名乗つたことは、利休にとつて精神的な一時期を劃したことがらであるとみてよい。筌とは、やな、またはふせごの類で、魚をとる具である。「筌者所[#二]以在[#一レ]魚、得[#レ]魚而忘[#レ]筌」の荘子の句から、魚を得るまで必要な具であつて、目的を達すれば不用となるもので、忘筌の字句の出る所以もそこにある。利休が筌で目的を達したかどうかは知らないが、自らの意志でそれを抛ち棄てようとしたことは察しがつく。具体的にいへば父与兵衛の家業であつた魚商《ととや》の当主たる位置を抛つたのである。少くとも、魚商与四郎としてよりも抛筌齋として世に出ようとしたわけである。茶湯者を以て立たうとする意志の表白とみてよい。  魚商といつても浜に倉庫をもち、堺の市政に参与する納屋衆の一人である位置を捨てることは容易なことではない。堺の魚問屋がどれほどの勢力をもつてゐたかがわかる話がつたへられてゐるから、余談ながら書きとめておかう。時代はややさかのぼつて南北両朝の対立してゐた頃である。堺の魚商が足利方の和泉守護の監視を裏切つて吉野方に内応し、物資を送つてゐたことがばれて、守護は営業停止を命じた。ところが程なく幕府から直接の命令が下つて、守護はその停止を解除せざるをえなくなつた。これは堺の魚商が室町の幕府へ運動した結果であるか、また堺の魚商が営業をとめれば和泉はおろか、京都までその影響が及んで、将士の膳に魚がのぼらなくなつた結果か、のいづれかであらう。さういふ勢力をもつたのが堺の魚商であつたのである。  納屋衆といふ豪商の長男に生れた与四郎の利休も、茶湯をたしなまざる者は人非人といはれた時代だけに、幼くして茶を学んだに違ひない。十六歳の与四郎主催の朝会が京都にあつて、そこへ松屋久政が招かれたといふ記録の残つてゐるところをみれば、相当の名物をもつてもゐたであらう。若い頃の利休は、刀や脇差の目利に長じてゐたばかりでなく、書画についても一隻眼をもつてゐたともいはれる。茶器に対する関心よりも以前に刀剣に対する興味があつたともいはれる。いづれにしても豪商の長男として、相当の教養を身につけ、また堺といふ土地柄だけあつて、自由で不屈の空気を吸つて、のびのびと生長したことであらう。  義満対世阿弥の関係と、信長対利休の関係の違ふのは、単に年齢だけではないことが、右の事実によつても知られよう。大和猿楽師の倅が、その美貌をもつて認められた縁とは違つて、堺の豪商の嫡男、すでに美術に対する眼も肥え、人生智も豊かで、しかも不屈な精神をもつた四十九歳の利休が、尾張の地方豪族からのし上つてきた三十七歳の信長に会つたわけである。利休の祖父の千阿弥が、足利義政に仕へた同朋衆であつたこと、それが応仁の乱の余波で堺に難を遁れ、そこにゐついたといふ経歴の人であつたといふことも、ここで一応考慮に入れておくべきである。清和源氏の流れをくむといふ田中姓の末裔が、風流将軍のもとで阿弥号をもつ同朋となり、戦乱のため流離の身となつて自由な都市であつた堺に住みつき、いはば侘び人の生涯をそこで送つたといふことが、利休の侘び茶の考へに隔世遺伝的に伝はつてゐるかもしれない。利休は単に一代成金の魚商の子ではなく、相阿弥、能阿弥等とともに義政に仕へた芸術人の孫であり、巨商の豪快と、同朋の繊細とを共に血の中に受けついだ人であつた。だからこそ彼の「侘び」が複雑な様相を呈することにもなるのである。  若し強ひて世阿弥の義満に対して果した役割を茶の方に求めるならば、義政に対した珠光のそれであらうか。珠光は奈良春日社の社僧村田杢市検校の子である。十一歳で北市の称名寺に入り、出家の身となつて珠光と名乗つた。彼は青年時代闘茶に耽り、寺役を怠り、ために寺から追放されて諸国を流浪し、旅の先々で闘茶の判者をつとめたといふ。闘茶には賭がつきものである。賭け物がなくなると袈裟や仏具まで質に入れたといふことが追放の理由だといふのだから、相当なしたたか者であつたことがわかる。奈良興福寺傘下の一寺院では、夏は涼をもとめて風呂場で、湯女づきの闘茶をやり、珠光もそこへ度々顔をだしたといふのだから、或ひは相当以上の破戒僧だつたかもしれぬ。然し判者の役をつとめるには、茶の良否ばかりではなく、その製法にも産地にも、水質にも、また茶の礼法にも通じてゐなければならぬ。流離の間に相当な勉強もしたに相違ない。二十四歳の頃、義政の同朋をつとめてゐた能阿弥と知り、立花の法を学び、また器物鑑定にも長じてゐたといふ。京都六条堀川に草庵を結び、また大徳寺に住した一休に参じて印可をうけ、その記念に圜悟の墨蹟を貰つて珍重したことは有名な話である。珠光を義政に紹介したのは恐らく能阿弥であらう。いま庶民の間に茶湯が流行してをり、珠光といふなかなかの達人がゐるから会つてみてはいかが、といふことで珠光が出頭し、数寄の道が上流に及んだといふのである。珠光の子に宗珠といふ者がゐて、これも茶を以て立つてゐたが、その宗珠が公卿たちの茶会へ伺候したとき、「下京地下入道也、数寄之上手也」と紹介したことを『二水記』の著者が書いてゐるといふから、珠光父子が殿上人たちからどういふ眼でみられてゐたかは察しがつく。然し、一休から「仏法も茶湯の中にあり」の言葉を貰つて、以後それを貫いた珠光によつて、書院台子の茶に侘びの精神が入りこんだことは否まれない。『太平記』のつたへる佐々木道誉の、はなやかでにぎやかな大盤ふるまひの茶くらひから、侘数寄の茶への転換は珠光なくしては考へられぬことである。  義政はなるほど八代将軍には違ひない。然し幕府の財政難や相つぐ土一揆に対処する政治的能力もなく、政治への意志すら放擲して、専ら夫人の日野富子にまかせきつて、自らは東山に退隠し、慈照院殿となつて銀閣寺に数寄者の生活を送つたところからいへば、彼もまた「侘び人」であつた。長びく応仁の乱をよそめに、「都人いかにと問はば山高みはれぬ雲居にわぶと答へよ」の『古今集』の一首におのが胸懐をもらしてゐたかもしれぬ。腐つても鯛の余力で世にいふ『君台観左右帳記』の示す東山名物をあつめ、鋭い芸術的感覚で庭をきづき、派手でない遊楽に日を送つたことであらう。佐々木道誉の示したやうな賭物づきのにぎやかな遊びに豪奢や気概を示す衒気も稚気も彼にはない。六条堀川に草庵を結び、「布子紙衣にてわびたる体」の茶湯をひらき、「麁相」な道具、墨絵、墨蹟を尊んだ珠光と縁を結ぶ機は熟してゐた。地下人の侘数寄が将軍に入りこみ、その趣味に何程かの影響を及ぼしうる条件はでき上つてゐたのである。  義満に相対した観阿弥、世阿弥が、貴人、公卿の心理や動作への、ひたすらな物真似によつてみづからの位置をたかめていつた大和猿楽師であつたのに対し、義政はみづから下つていつて珠光の手をとつたといつてよい。先のを向上の方向とすれば、これは向下といつてもよい。既に始つてきた下剋上の趨勢は、上なる者を下に、下なる者を上にする。成り上れる者に野暮な豪勢があるとすれば、成り下つた者には侘びた数寄がある。侘数寄が、けちな負をしみや、ひかれ者の小唄に堕さなかつたのは、もともと俗世の権力や富貴を邪魔物とする禅、殊に林下の禅を背景にもつてゐたからである。珠光が一休に邂逅したことの意味は大きい。奈良でしたたか者の生活をし、諸国を闘茶の判者として流浪した珠光が、たまたま一休に参じて、仏法も茶の中にありとさとされ、草庵の茶を立てたことは、いはば茶道における劃期的な事件である。その草庵の茶へ、将軍の義政がみづから下つて手をのばしたわけである。東山文化が墨色の、いぶし銀の文化である所以はさういふところから兆したものであらう。  相つぐ下剋上の戦国の乱世は、ときどきの勝利者とともに、ときどきの敗北者を生むは必定である。敗北者のなかには文字通り消え去つた者も多いであらう。はかなき反抗に浮身をやつした者もあらう。また失意落魄の生涯を送つた者もあらう。然し、政治的現世的には失意の人でありながら、失意そのものが反つて従来知りえなかつた広大な世界への門出となつた、といふたちの人もあらう。珠光は、侘の本質を「藁屋に名馬つなぎたるがよし」といつたが、自分自身が名馬となつて、侘びた藁屋に、美しい姿をとどめた人もあつたに相違ない。現に麻といふ変物がゐたことを歴史は伝へてゐる。自領を没収されても人を怨まず、貧しさを守つて、スギナを食つて生き、「侘び人は春こそ秋よなかなかに世をすぎなのあるにまかせて」の歌をよんで友に送り、全く競望の気を洗ひ去つた生き方をしてゐたといふのである。然しこれは侘びのいはば極限である。「古へは奢れりしかどわびぬれば舎人が衣も今は着つべし」といふ『拾遺集』中の一首あたりが、わびの中心領域である。失意落魄の感情は一方に残りながら、他方では失意において落魄以上の、貧しさにおいて貧困以上の、非現世的なあるものを心にもつてゐる状態とでもいはうか。草庵において金殿玉楼以上の、わびたる美を感じとるのもそれである。草庵はしかし、そのどこかに、一縷の金殿との対比記憶を残してゐる。羨望とか抵抗とかいふほどきつい、くつきりしたものではないが、そこはかとなき憂ひの感情がある。「わび人は月日の数ぞ知られける明暮ひとり空をながめて」(『宇津保物語』)。「わびぬれば強ひて忘れんと思へども心弱くも落つる涙か」(『詞花集』)の歌の示すやうな思ひから、洗ひつくされてはゐない。藁屋にも名馬がつながれてゐなければならず、いぶす土台は白銀でなければならぬわけである。  さういふ侘びの境涯にありながら、われとわが命をかける芸をもつたとき、いはゆる侘数寄が生れるのである。侘数寄が茶の道に限定されたのは歴史の条件によるのであつて概念によるのではない。戦国の時代において茶こそ数寄の代表となつたのは、その時代の特質からくるのである。  然し茶に入る前に、もう一度、侘びについて考へておかねばならぬことがある。侘びが単に侘び人の侘びでなく、ひとつの社会現象として出てきたことがそれである。みづからの過去に得意で豪奢な時代があつて、いまは失意の境涯にあるといふのではなく、乱世における実力競争や権謀術数、また必然に起る人の世の浮沈に、あるはかなさを感じて、世から退隠して隠居の身に自らをおくといふことが起きてくる。さきに書いた義政の東山引退の如きが、その例であるが、義政のやうに高い位置にあるのではなくとも、浮沈きはまりなき時代に、いはば沈の方を選びとるといふ人もあつたであらう。世間の、また俗世の、或ひは金力、或ひは権力を卑しとして、無権力、無金力のなかに、ひとつの広い世界をきづくといふ生き方である。侘びを言葉を以て説明しようとさまざまに工夫をこらしてみたが、どうしてもそれができず、ただ「侘びといふ言葉は故人も色々に歌にも詠じけれ共、ちかくは、正直に慎しみ深くおごらぬさまを侘といふ」と書いた紹鴎のいはゆる『侘の文』は、それを比喩によつて例証しようとしてゐる。「天下の侘の根元は天照御神にて、日国の大主にて、金銀珠玉をちりばめ、殿作り候へばとて、誰あつて叱るもの無之候に、かやぶき黒米の御供、其外何から何までも、つつしみ深くおこたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候。」世に侘人、侘数寄の代表として伝へられる粟田口善法はそれを地でいつた人であつたらう。山上宗二が、「かん鍋一つにて一世の間、食をも茶湯をもする身上を楽、胸のきれいなる者とて珠光褒美候」と書いてゐる善法である。善法の侘び人としての存在の仕方は、善法の意識如何にかかはらず、世間への批評的存在といつてよい。事実善法は無言の批評者として扱はれてゐる。善法といふ存在が、一種の批評を含むものとして扱はれてゐるのである。善法が生きてゐたら、何といはれるかが怖いといふわけである。「正直に慎しみ深くおごらぬ様」の典型的存在として考へられてゐることになる。然し「藁屋にかん鍋」では茶は文化にはなりえない。やはり名馬は必要なのだが、名馬所持を誇つたり、名馬をゴテゴテと飾りたてないといふ精神の頂点にはかん鍋の善法がゐるといふ構造である。利休が野村宗覚に宛てた伝書で、「紹鴎老、袋棚を作り給ひし時名言あり。袋棚を或は塗り、或は蒔絵し、結構にはすべからず。其儘の板にて麁相なる所に物数寄はありと宣給へり。惣じて物数寄といふは、麁相にして奇麗に、りこうなるを云ふ也。結構にこしらへたる事は、数寄道には用ひがたし」といつて、己が師の武野紹鴎の侘びを説いてゐるのもそれにあたる。麁相にして奇麗の極限に善法をおいて、りこうなる作意工夫をこらすところに茶が文化として設定されてきたわけである。紹鴎がこのやうな侘数寄に至つたのは、阿弥陀信仰を捨てて禅に入り、堺の南宗寺にゐた大林和尚に参じて「茶味同禅味」を悟つたからだといはれてゐる。しかし茶味同禅味は、なかなかに警戒を要する言葉である。  わびとすきとを結びつけた侘数寄といふ言葉自体がそもそも単純なものではない。すきが多情の好色みを意味することもあれば、辟愛を意味することもある。辟愛の対象が花鳥風月の場合もあれば歌の場合もある。絵画や管弦の場合もある。鎌倉時代の数奇者といふのはさういふ対象に没入した風流文雅の人をさしてゐる。数寄者と書けば直ちに茶数寄を指すやうになつたのは何時の頃からか正確には知らないが、珠光、或ひはその前に、喫茶が、また闘茶が一般庶民、殊に町人の間に流行した以来のことであらう。勢力ある武家にとり入れられて大書院のなかで名物の道具を台子に並べての、書院台子の茶湯者が数寄者であつてもかまはないわけで、さういふ流れをたとへば義政の茶やまた能阿弥やその弟子の空海また北向道陳の如きが示してゐる。利休といへどもその流れから自由ではないのである。然し日本の伝統、少くとも平安末から鎌倉時代へかけて起つてきた伝統のなかには、もともと過剰、多情を意味したすく、すきを、その外延に於ては、極度にまで狭めながら、その内包を強く豊かなものにするといふ方向がある。心敬法師のすきはもとより連歌であつたが、「枯れかじけ寒かれ」といふのが連歌の最高の姿とされてゐるやうに、冷え、さびながらも、また己がすき以外の一切を捨てさりながらも、そこに反つて豊かさ、広さを持つといふ方向である。さういふ数奇が往々にして「道」の名で呼ばれてゐたのである。中世とはさういふ時代であつた。  侘数寄ももとよりこの伝統の上にたつものである。然し茶の数寄は、喫茶といふ口腹ごとを中核にしてゐる。ひろくいへば食を中心にしてゐる。食といふ生物現象、動物本能をもとにしてゐるわけである。和歌管弦や花鳥風月へのすきとは本質的に異なるものがある。風流韻事とは凡そ遠いものが、いまや数寄の代表になつてきた。さういふ食を中心にしての道具と住をふくめて、「食は飢ゑぬほど、住はもらぬほど」の食住のわび文化を築かうとするわけである。然もすでに中世から一歩ふみだして、近世の経済的繁栄に入つた時代に、即ち衣食住の生活が未曾有の豊富さを示してきた時代に、枯れかじけた侘数寄を起さうといふのである。ここにはどこかに無理がある。この無理が無理と意識されないのみか、茶湯をたしなまざる者は人非人といふほどに流行したのは何故だらうか。  ここで話をもどして、さびについて考へてみたい。さびをはつきりした形で示したのは世阿弥である。彼の父の観阿弥の中心観念は花であつた。この花からさびへ転じたところに、中世の性格が明確に提示されたといつてよい。「何と見るも花やかなる為手、これ幽玄なり。」「されば、肝要、此道は、ただ花が能の命なるを」(『花伝書』)といつたのが観阿弥であつた。童形の勝れたる美男のもつ、即自的な花、いはゆる「時分の花」を、たゆまざる稽古によつて「真の花」にまで仕上げることにその眼目があつた。老齢に及んでなほもつてゐる堪能は、「老骨に残りし花」「老木に咲く花」として表象されてゐる。父の影響から一歩を超えて世阿弥自身の芸論を誌したと思はれる『花鏡』の問題は、むしろ「老骨の花」からの再出発であつた。それはもはや「残りし花」ではない。いはば心の花である。「万能綰一心」の心のもつ花である。「申楽も、色々の物真似は、造り物なり。これを持つものは心なり。この心をば人に見ゆべからず。若し見えば、操りの糸の見えんが如し。返す返すも心を糸にして、人に知らせずして万能を綰ぐべし。」心の能をいつた世阿弥はその究極として「無心」をいふのである。無心の心の姿にあらはれた「形なき姿」「無文の能」を妙体といひ、その境に入つたところを「闌《た》けたる位」幽玄の最高所といつてゐる。 「心より出来《いでく》る能とは、無上の上手の、申楽に物数の後、二曲も物真似も切《きり》もさして無き能の、寂々《さびさび》としたる中に、何とやらん感心のある所あり。これを冷えたる曲とも申すなり(中略)。これを心より出来る能とも言ひ、無心の能とも、又無文の能とも申すなり」といつてゐる。『花伝書』においては、老いたる為手は「為《せ》ぬならでは、手立あるまじ」が、ここでは「せぬ所が面白きなり」に変つてくる。「せぬ所とは、その隙なり」で、隙のもつ面白さ、実は隙の無動作のなかに働いてゐる心の激しい働きを観取ることの面白さについていつてゐるのである。 「衆人|愛敬《あいぎやう》をもて一座建立の寿福とせり」といひ、「故に余り及ばぬ風体のみなれば、又諸人の褒美欠けたり。此の為、能に初心を忘れずして、時に応じ、所によりて、愚かなる眼にも、実《げ》にもと思ふ様に、能をせむ事、これ寿福なり、よくよくこの風俗の際目《きはめ》を見るに、貴所、山寺、田舎、遠国、諸社の祭礼に至るまで、おしなべて譏りを得ざらんを、寿福達人の為手とは申すべきや」といふのが観阿弥のおかれた位置であつた。ところで『花鏡』においては、それは心より出来《いでく》る能に対する、見より出来《いでく》る能として否定されてくる。「指寄《さしより》から、やがて座敷も色めきて、舞歌、曲風面白くて、見物の上下、感声を出だして、映々《はえばえ》しく見えたる当座、これ見より出来る能なり。」さういふ能は、「諸人の目、心|隙《ひま》なくなりて、能少し紛るる相あり、為手も心逸りして、風情を尽す所にて、見手の心、為手の心、間《ひま》無くなりて、善き所の境紛れて、能の向き、けてうになる方へ行きて、悪くなる相あり。これを能の出来過ぐる病とす」といひきられてゐる。そして「心より出来る能」は、「よき程の目利《めきき》も見知らぬなり。況して田舎目利などは思ひも寄るまじきなり。これは、ただ無上の上手の得たる瑞風かと覚えたり」といふところへ超出してしまふ。衆人愛敬も一座寿福もここにはもうない。至高の達人の孤独な芸境があるばかりである。「寂々」とした「冷え」たる境である。  これはしかし一人の天才だけがもちうる特権的また悲劇的な孤独、さびさびと冷えたる境ではあるが、いまだにさびの様式、時代の様式にはならない。世阿弥の真の偉大さは、この孤独を超えて、さびを時代の様式、今日からいへば中世様式に築きあげた点にある。『花鏡』の完成後に書かれたといふ『遊楽習道風見』の一篇は遺憾なくそれを文字で現はしてゐる。 「梟は、雛にして美しくて、次第に後にはをかしき様の鳥なりと言へり」といふ『毛詩』の一句、「苗而[#(ニシテ)]不[#(ル)][#レ]秀[#(デ)]者有、秀[#(イデテ)]不[#(ル)][#レ]実[#(ラ)]者有」の『論語』の一句を引いて、老枯の美をつくりあげることのむづかしさと共に、その方法を説き、成長完成の美を冬枯の美、銀椀裏の雪として象徴し、それを「色則是空」の境としてゐる。いはば寂々として冷え枯れたる世界への登りつめである。ところで彼はここで一転して「空則是色」への却来を説く。「有は見、無は器なり。有を現はす物は無なり。」即ち空を根柢としての色を説くのである。「遊楽万曲の花種をなすは、一身感力の心根なり。ただ水晶の空体より火水をなし、桜木の無色性より花実を生《お》ふる如く、意中の景より曲色の見風をなさん堪能の達人、これ器物なるべし。凡そ風月延年の飾り、花鳥遊景の曲、種々なり。四季折々の時節により、花葉、雪月、山海、草木、有情、非情に至るまで、万物の出生をなす器は天下なり。此の万物を遊楽の景体として、一心を天下の器になして、広大無風の空道に安器して、是得遊楽の妙花に至るべき事を思ふべし」といふ達文を以てこの一篇は結ばれてゐる。  世阿弥は低きより高きに登る芸風を九位にわけてゐて、それを三位づつに区切つてゐるが、その最高位に登つたならば直ちに「却来して下三位にも遊通《いうづう》して、其の態《わざ》をなせば、和風の曲体ともなるべし」といつてゐる。いはば往相と還相である。色から空へ、空から色へであるが、この却来によつて、色の世界は一変するであらう。生《なま》の、所与の色から、空に定位する色に変貌《トランスフイギユア》するであらう。下三位の風も最高位の風に浴することになる。登りつめたところにあらはれた|さび《ヽヽ》が、却来するところに、さびが様式をもち、山海草木有情非情がさびの色をもつて立ちあらはれる。心が無心を、有文が無文を、形が無形を、総じて色が空を根柢としてたちあらはれるであらう。無の芸術、空の様式、すなはち有や色がそれ自体として固定定着するのではなく、ひとつの象徴として出現するといふ世界こそ中世の中世的性格、すなはちさびの世界である。  わびがさびと違ふところは、さびのもつ却来の契機をもたないといふ点である。色則是空から、空則是色へ転ずる機がわびにはない。いはば有の根柢としての無をもたないのである。色則是空は王朝末から鎌倉初期へかけての、たとへば西行や長明にみられる世間無常諸行無常の無常観の基底であつた。さういふ無常観は、たとへば|ノ貫《べちくわん》が利休を評した次の言葉のなかに片鱗を示してゐる。いま柳里恭の『雲萍雑誌』巻之一に載せてゐる全文を引いてみよう。 「山科の隠士ノ貫は利休と茶道を争ひ、利休が媚ありて世人に諂多きことを常にいきどほり、又貴人に寵せらるる事をいたく歎きて、つねに人にかたりけるは、『利休は幼きときの心はいと厚き人なりしに、今は志薄くなりて、むかしと人物かはれり。人も二十年づつにして志の変ずるものにや。我も四十歳よりして、自ら棄るの志気とはなれり。利休は人の盛なることまでを知りて、惜しいかな、その衰ふる所を知らざる者なり。世のうつりかはれるを飛鳥川の淵瀬にたとへぬれども、人は替《かは》れることそれよりも疾し。かかれば心あるものは、身を実土の堅きに置かず、世界を無物と観じて軽くわたれり。みなさやうにせよとにはあらねど、情欲限りありと知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり。蓮胤(長明)は蝸牛にひとしく、家を洛中に曳く。我は蟹に似て、他のほれる穴に宿れり。暫しの生涯を名利のためにくるしむべきやと、いとをしくおもふ』といへりとぞ。ノ貫世を終るの年、みづから書きたる短冊を買得て灰となし、風雅は身とともに終るとて没しぬ。無量居士と号す。」  ノ貫はあの有名な北野の大茶会(天正十五年)に出て、秀吉にその変つた侘茶を褒められたこともある。彼はその先輩筋の粟田口の善法とともに侘数寄中の侘び者といつてよいだらう。いはばわびをもわびたわけである。  堺の豪商出の茶人たちには、ノ貫の示す無常観はない。色則是空もないわけである。だから紹鴎の侘びは、「正直に慎しみ深くおごらぬ様」といふにとどまつた。堺の皮革問屋であり、大黒庵を称した紹鴎は、みづからの富はそのまゝにしておいて、富あつておごらぬことにわびを見出し、金銀珠玉の宮殿を造営できる実力があるのに、白木茅ぶきの伊勢神宮を営んだところにわびを見出すといふことになるわけである。  さきにもいつたやうに、わびは対比において起る。過去の豪奢に対する現在のわび、世間の豪勢に対する自分のわび、また自己の豊富に対する自己のわび等である。豪奢や豊富に対していへば隠逸や貧寒であるが、これは量的な相違はあつても有に対する有であることには違ひがない。極小の量によつて極大の量を批評するといふ性格はたしかにある。緊密にして凝つた量は粗大にして乱雑な量よりも高い。密度の高い量にこもつて散漫に対抗することがいはば侘数寄であつた。量的な不足、不如意において、反つて放漫な外形を批評するところに侘数寄があつたのである。だから贅沢や豪勢に対立し、それを白眼視はするが、対立する対象がなくなれば、わび自体の存在理由があやしくなる。藁屋に名馬といふところがその限界といつてよい。名馬意識から離れえないのである。利休の悲劇の根本原因もそこにあつた。結局において利休は秀吉に対立する批評的存在の域を超えることができなかつたといつてよい。  貴人や宮女の、それ自体幽玄なものの物真似から出発し、つひに自己自身を幽玄化し、その対自的な立場に於て即自的なものを逆に止揚し、反つてかつての真似の対象をして自己に真似させ、そこにさびの様式を生みだした能と同じ道を何故茶が歩けなかつたか。能が高く心を悟りて俗に還るといふ却来の契機、色則是空から空則是色に転ずる機をもつたのに、何故に茶が対立並存の域を超えることができなかつたか。一言にしていへば何故に無に徹することができなかつたか。わびといふ言葉をさびと違つて使はざるをえなかつたか。  これらの疑問に答へる道はいくつかある。しかしそれに綜合的にまた整一的に答へることはむづかしい。強ひていへば、それが中世と違ふ近世といふ時代的制限によるとでもいふ外はない。私は私なりに、いくつかの現象をあげて、この問ひに対する答へにせまらうと思ふ。 [#小見出し]   二 堺商人の性格  さきに大林和尚が紹鴎にあたへた「茶味同禅味」をあげ、この言葉には警戒を要すると書いた。今日でも茶禅一味といふやうにいひふるされてゐる。なるほど利休を初め、茶人たちは禅に接しまた参じてゐる。茶道と禅は近い。然し一味といへるかどうか。  もちろんここでは茶の方式の発生が禅の法堂の清規を手本にして起つたとか、茶室に墨蹟をかけたとか、さういふことを問題にするわけではない。もうひとつ奥の問題を考へたいのである。  無とか空とか、また却来とか、空即是色が禅の根本であらう。唯嫌揀択とか身心脱落とか庭前の柏樹とかがその最高の境地であらう。さういふ禅に接しながら何故茶が対立概念のわびにとどまらざるをえなかつたか。何故更に一歩をすすめて、さびにいけなかつたのか。  正和四年(一三一五年)三十四歳で紫野の大徳寺を建立してそこに住した大燈国師は翌年、花園天皇と対坐した。年譜は「天然[#(ノ)]気宇如[#(シ)][#レ]王[#(ノ)]、無[#(シ)][#二]人[#(ノ)]近傍[#(スル)][#一]是[#(ノ)]故[#(ニ)]数年罕[#(ナリ)][#レ]有[#(ルコト)][#二]檀越外護者[#(ノ)][#一]」といふ状態のときであつた。天皇と国師の問答は「勅[#(シテ)]曰、仏法不思議、与[#二]王法[#一]対坐[#(ス)]。師奏[#(シテ)]曰[#(ク)]、王法不思議、与[#二]仏法[#一]対坐[#(ス)]。天皇動[#(カス)][#二]龍顔[#(ヲ)][#一]」となつてゐる。王法対仏法のこのやうな関係が、禅と茶との間に何故に生じえなかつたか。また覇道と茶道の間に生じえなかつたか。仏法も茶湯の中にありの一休の句から珠光の侘茶は起つたといはれるが、茶湯の中に仏法はありに、果して転じえたかどうか。ここで当然『南方録』を問題にしなければならないが、しばらく後に廻すことにして、まづ堺の禅僧たちと茶人たちの交り方を考へてみたい。  ひとつは堺の南宗寺、後には京都の大徳寺に住した大林、笑嶺、古渓等の禅僧の器量の問題だが、私はそれを断定するほどの資料も力量もない。三好長慶ほどの英傑も、大林和尚の辛辣な機用に接しては冷汗淋漓たるものがあつたといはれ、大林の住む南宗寺の近辺に来ると必ず下乗して敬意を表したといふことが伝へられてゐるから、大林以下の人物が相当なものであつたことは確かであらう。当時京都五山を圧してゐた大徳寺に出世するからには相当の禅僧であつたに違ひない。しかし、紹鴎利休時代の禅僧に果して一休の如き名利を蛇蝎の如くに憎んだ風狂人がゐたかどうか。一休の年譜の永享十二年、四十七歳の項には、次の如く書かれてゐる。一休は見るもあはれな、人の住むとも思はれないほどの破屋に住んで、道を求むる者以外の者を悉く拒絶してゐたが、たまたま耆老の請によつてやむなく大徳寺内の塔頭如意庵に移り、直ちにそこで先師華叟和尚の十三回忌の法要を営んだ。その折、同じく寺内大用庵に住む一休の法兄養叟のところへ「泉人」がわいわいとおしよせてきたのみか、如意庵へもことのついでに「香銭を懐にして」やつてくる仕末で、到底そのやかましさ、きたなさに我慢がならず、一偈をわが庵の壁に貼つて一笠一杖の旅に飄然として去つたといふ。将[#二]常住物[#一]置[#二]庵中[#一] 木杓笊籬掛[#二]壁東[#一] 我無[#二]如[#レ]是閑家具[#一] 江海多年簑笠風。又庵を出づる際、彼が畜類とも癩人とも言をきはめて侮蔑してゐる養叟和尚に宛てて、住庵十日意忙々 脚下紅糸線甚長 他日君来如問[#レ]我 魚行酒肆又婬坊 といふ偈を残して立去つたといふ。  ここにいはれてゐる「泉人」を泉州堺の商人ども、と解してもよいと思ふのは、彼の詩偈集『狂雲集』のうちに「泉堺衆絶交」といふ題の二首があるからである。  耽[#レ]利好[#レ]名天沢孫 霊光失却大燈門 [#1字下げ] 梨冠瓜履人疑念 伎倆当機報[#二]仏恩[#一]。  参学之徒無道心 紅紫朱色以鍮金  [#1字下げ] 忠言可[#レ]逆人々耳 牛馬面前空鼓[#レ]琴。  かういふ潔癖にして率直な一休に反つて心をよせる堺衆もあつたといふ。全財産を大徳寺に寄進したといふ巨商も出てゐる。とにかく一休、養叟によつて堺と大徳寺の縁が深くなり、大林以後、堺の南宗寺から大徳寺住職に出世するといふコースが普通になつた。この出世の背後には堺財閥がゐる。豪商たちのあとおしを出世の資とするといふ風が起きた。皮革商の紹鴎と大林、魚商の利休と古渓との関係も右の風潮の延長線上のものであり、利休が切腹を命ぜられた直接の動機といはれる大徳寺山門楼上に自己の木像をあげて秀吉の怒を買つたといふ事件もそこに兆してゐる。  堺商人は戦国末期になると禅宗よりもむしろ現世利益を肯定する日蓮宗に傾き、さらには浄土系が盛になり、石山の本願寺は堺の富によつて相互に利益をえたといはれる。またザビエル以下のバテレン、イルマンたちが堺に来て相当の成果をあげてゐる。  右の事情から、禅と茶の結びつきが、大燈と花園天皇の間の仏法王法の如き関係ではなかつたであらうと推定してもさほど強引とはいはれまい。禅僧たちが果して一休の如く空と無と真実を、堂々として茶人たちに示したかどうかもあやしまれる。信長、秀吉また権力者たちと、たとへば島井宗叱、神谷宗堪等の富商たちとの間の政談商談をふくんだ茶の会合の如きであつたとはいはないが、趣味の上での禅味の授受がまづ普通ではなかつたかと、さういふ推察ができるわけである。一休と奈良生れの珠光のやうな立入つた面々授受は、堺の町人衆と南宗寺との間にはなかつたやうに思はれる。紹鴎が大林和尚に参じた動機を、『堺数寄者口実』は次のやうに伝へてゐるが、この辺がまづ本音であつたらう。「紹鴎と道陳と其中うるはしく、毎日御出会有けるに、或時、道陳、紹鴎に申さるるは、茶の道には禅座も捨がたき事を語り給ひて、其時より両人ともに心を禅に帰し給ひ、当所に紫野大林和尚と申せし貴き人のおはせしをおきふしいやまい給ひしよしなり。なお紹鴎も道陳も家富饒にてともに虚堂和尚の墨蹟を求め、秘蔵し給ひし事見えて伝ふ。」  ここで当時の堺といふ市、及びそこの町人たちの性格を書きとめておきたい。  まづ『耶蘇会士日本通信』所載のバテレンたちの眼に堺がどういふふうにうつつたか。 「堺の町は甚だ大きく、且つ富み、住民は理事を解せり(中略)。此町は住民多数にして富み、且好地位を占有せるため、常に平和にして侵すべからず。我等此地に留るにいたらば、戦争の時は此処に退き、その止むに至りて此処より出づるを得べければなり」(一五六一年(永禄四年)八月十七日付、パードレ・ガスパル・ビレラの書簡)。 「堺の町は都より数レグワあり。甚だ富み、多数の住民あり、ヴェニスの如き政治を行ふ所なり」(一五六一年、トルレス)。 「日本全国、当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に動乱あるも、此町には嘗てなく、敗者も勝者も此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては紛擾せることなく、敵味方の差別なく、皆大なる愛情と礼儀を以て応待せり。市街に悉く門ありて、番人を附し、紛擾あれば直に之を閉づることも一の理由なるべし。紛擾を起す時は犯人其他悉く捕へて処罰す。町は甚だ堅固にして西方は海を以て、又他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり。此町は北緯三五度半の地にあり」(一五六二年、ビレラ)。 「当国民、殊に堺の人は傲慢なるが故に神の言葉の収穫大ならず」(一五六四年、ビレラ)。 「予が数年間滞在せし堺は人口多き富裕の市にして、海の良き港なるが、百を越えたる多数の宏壮なる僧院あり。其地は富裕にして坊主等は富の大部分を収納するが故に、彼等の堂、及び其国風に応じ贅沢に住む所の家は立派にして見るべきもの多し。此市の人は富み且怠惰なるに依り、毎日僧院を訪問し、宴会遊興及び之に類する肉体の娯楽に時を消すが故に、此等の僧院は好く整備せり。又市の重立ちたる者の子息等、僧院に在り、一層之を隆昌ならしむるが故に、庶民之を尊敬し、丁重に遇せり。住民多数なるが故に、僧院及び住宅は多くの金銭を所有す。予は僧院数ヶ所を見たるが、其の一より出づる時、壮麗なること之に勝るものなしと思へるが、次の僧院に入れば、第一は之に比すべくもあらずと思はれたり」(一五七一年(元亀二年)、十月六日、ビレラ)。  堺の豪商日比屋了慶がダルメイダのため送別の茶会を催したが、そのときのダルメイダの報告。 「茶は非常に優良なもので、それは一ポンド九乃至十クルサドーもする。私は日本に於て行はれるより以上の清浄さと秩序とを以て宴を張る事は不可能だと思ふ。たとへ多くの人が食事についてゐても、此人々の給仕をする者が一言たりとも物を言ふのを耳にすることがない。つくも髪といふ名の茶入は二万五千乃至三万クルサドーもする。かういふ器で三千、四千、五千、八千、一万クルサドーの値のするものは幾らもあり、其の売買は何時もの事である。」  ルイス・フロイス『日本史』、一五六一—二年の項。 「堺は日本のヴェニスである。ただに大なる町にして富裕であり、多数の商取引があるばかりでなく、一般諸国の共同市場の如きものであつて、常に各地から人々が流れ集つてゐた。堺の市民の傲慢にして気位の高いことは非常なもので、彼等はただ欲望を縦にし、暴利を貪り、逸楽に耽り、快楽に浸つて飽くことを知らない。」  幸田露伴の『雪たたき』といふ小篇は、堺と堺商人をこにくらしいほどに浮彫してゐる。この一篇を読んで貰へばそれでよいのだが、便をはかつてかいつまんで誌してみよう。明応二年といへば一休が入寂して十三年目、利休の生まれる三十年ほど前にあたるが、その年の冬の出来事である。堺の臙脂《べに》屋《や》といへば能登屋とならんで納屋十人衆のうちでもひときはぬきんでた豪商であり、また堺の町政にも携つたなかなかの器量人でもあつたが、その娘の嫁いでゐるのがやはり手広い貿易商で、主人は商用で安南かルソンかへでかけてゐる。その留守の間の出来事である。奥女中が下駄の歯の間についた夜のべた雪をおとさうとして門の裾板にトントンと下駄をうちつける音を、ひそかにおとづれる筈の例の男の信号と間違へて、木沢左京といふとんでもない男をひき入れてしまふ。木沢といふのは、もと管領畠山政長の家臣であつた。政長は同族の細川政元にはかられ攻められ河内の正覚寺で自害し、その子の尚慶(尚順)は紀伊から大和方面へのがれて身をひそめてゐる。木沢たちの同志は堺へ流れこみ、そこで管領家の復興をひそかに企ててゐたのである。悪いことに木沢左京はいま南方に出かけてゐるこの屋の主人とは相識の間柄の上、不義不正には一分の我慢もならぬといふ一徹者、若い夫人や奥女中の歎願も、また黄金をつんでの謝罪にも耳をかたむけないばかりか、床の間にあつた主人辟愛の横笛をつと懐に入れて立去つてしまふ。不義の証拠物件として横笛をもちさられ、やがて帰つてくる主人にこれこれしかじかといふ次第を話されてしまへば、夫人の立つ瀬はない。ことの事情をあかされた臙脂屋の老人は、娘のいのち、家の名を救はうとして、木沢左京を訪れて、笛を返してくれるやうにと歎願するが、左京は「いやでござる」の一点ばりでとりつくしまもない。堺納屋衆の威勢をかつて、礼にはそむかないがきついところをみせて威してみても聞入れない。「金銀財宝、何なりと思召す通りに計らひましても」と願つても、臙脂屋の身代を残らず傾けても、と言つてみても「いやでござる」以外の返事はない。この二人の対談をひそかに聞いてゐた同志の丹下右膳が、そこへ飛出してきて、宿志達成の資金獲得には絶好の機会だから笛を返してやれと左京にすすめながら、もう一度臙脂屋に、身代を差出してもといふさきほどの申し出に詐りはないなとたしかめた。そのときのこの豪商の返事は引写さねばならない。 「臙脂屋虚言詐りは申しませぬ。物の取引に申出を後へ退くやうなことは、商人の決して為ぬことでござりまする。臙脂屋は口広うはござりまするが、商人でござりまする。日本国は泉州堺の商人でござる。高麗大明安南天竺、南蛮諸国まで相手に致しての商人でござる。御武家には人質を取るとか申して、約束変改を防ぐ道があると承はり居りまするが、其様なことを致すやうでは、商人の道は一日も立たぬのでござりまする。御念には及びませぬ、臙脂屋は商人でござる。世界諸国に立対ひ居る日本国の商人でござりまする。」  臙脂屋の献金によつて事は上々にはこび、尚慶は再び勢力をとりもどすことができたが、その挙兵の夜、「誰がしたことだか分らなかつたが、臙脂屋の内に首が投込まれた。京の公卿方の者で、それは学問諸芸を堺有徳の町人の間に日頃教へてゐた者だつたといふことが知られた」といふ含蓄ある言葉でこの小篇は終つてゐる。  私は小説のなかの数行をもつて、当時の堺商人の性格を一般的に裏づけるわけではないが、とにかく、露伴によつて描かれたやうな人物が堺の商人のなかにゐたこと、それが町人気質にまでなつてゐたことは他にも例証があるし、利休の豪毅な切腹の仕方にまでそれは伝はつてゐるといつてよいと思ふ。また嚥脂屋の娘のところへ、ひそかに通つてゐた京の公卿出身の斜陽族が、そのなりはひに教へてゐたといふ学問諸芸のなかには、恐らく茶湯も入つてゐたことだらう。露伴によつて軽くあしらはれてゐるこの男の浮薄な茶湯が、堺町人によつて、豪毅なもの、またわびたものになつたことも事実である。  ちなみにいへば、永禄十一年根拠地の岐阜を発して京都に入つて天下統一への道を歩みだした織田信長は堺に対して二万貫といふ巨額の矢銭(軍資金)を課した。堺の会合衆三十六人は一致してこれを拒絶し、三好の三人衆の軍事力を背景にして防戦の構へをとつた。その時の指導者が能登屋と臙脂屋である。『雪たたき』の示す事件から既に七十何年かへだたつてゐるが、臙脂屋の資力が衰へなかつたばかりか、あの隠居の吐いた堺の町人気質もなほ生きつづけてゐたことがわかる。然し、堺の反抗も信長の威力には抗しかねて、矢銭二万貫を出した上に、町内に浪人を抱へないことなどを条件として、やうやく戦火をまぬがれた。その上、信長が個々の問屋納屋衆にきびしい年貢を課したため、十人の代表者を信長のもとへ派遣してその軽減方を交渉したが、信長は怒つて十人を獄に投じた。八人はそこで自決し二人は堺に遁れ帰つて事情を報告したが、これもまた捕はれて堺の北の口でさらし首にされた。堺はやがて全面的に信長に屈服し、その直轄地となり、松井友閑を奉行として迎へるに至つて、臙脂屋的な気概は次第に衰へていつた。それに換つて出て来た勢力が津田宗及、今井宗久などである。 『雪たたき』の明応二年は一休没後十三年目とさきに書いたが、この年京都の大徳寺で一休の十三回忌の法要が行はれた。その際に天王寺屋一族の二人が五百文と三百文を寄進してゐる。天王寺屋といふのは津田の屋号である。津田宗及の父宗達は既に名器の所蔵者として聞え、兄弟に宗閑、了雲、道叱などといふ富商があり、会合衆中の有力一家であつたことがわかる。応仁の乱後、世は戦乱につぐ戦乱と、いはゆる下剋上の時代となつた。今日の勢力者は必ずしも明日の実権者ではない。さういふはげしい更替が殊に堺の近辺に興つてゐる。ひとつは堺が地理的に海陸の交通の要点であつたのと同時に、堺のもつ富が武将たちを誘つたからである。さきに出てきた管領家の畠山一族間の勢力争ひ、つづいて細川一族の権力争ひ、やがて細川にかはつてでてきた部将三好一族はしばしの繁栄を誇つたがやがてまたその老臣の松永久秀がこれに換るといふ、めまぐるしい時代である。堺の商人たちはみづからの力で町を防衛するとともに、ぬけめなく明日の勢力者に接近したり、また軍用金の寄進に応じたりすることによつて、平和をたもつてきたのである。津田の天王寺屋一族は殊に外交的手腕に長じてゐたらしい。  津田宗及は永禄八年頃から石山本願寺の老職下間丹後一族と通じて互に連携をとり、本願寺攻略をめざす信長に拮抗したが、やがて信長に通じて、京都の妙覚寺の信長の茶会に出席したり、天正二年には岐阜の本城に出頭して、信長秘蔵の書画また名器の拝見に及んでゐる。玉澗の遠寺晩鐘の絵、紹鴎茄子の茶入外数点の名あるものである。信長の方からいへばこの堺の巨商を厚くもてなすことによつて、本願寺援助から手をひかせて、本願寺攻略を容易にしようといふ魂胆もあつたに違ひない。宗及の方からいへば、信長と結ぶことによつて将来の保証をえておきたかつたのであらう。宗及はまた明智光秀とも親しく交り、その茶会にも出て、ともに連句に興じたりした。さらには秀吉とも疎遠ではなく、すでに天正六年頃からその茶会にも出てゐる。さういふ生き方を彼はしてゐる。堺の財閥としてやむをえない生き方でもあつたらう。  然しまた一方、宗及にも臙脂屋の気骨に通ずる町人気質がなかつたわけではない。天正十年六月山崎合戦の時、秀吉の陣へ堀久太郎同道で陣中見舞に参上してゐるのも抜目のないわざではあるが、それから二ヶ月後、明智光秀滅後の八月の名月の夜の銭屋宗訥の許での連句会では、「われなりとまんずる月のこよひかな」といふ大胆に秀吉を諷した一句を残してゐる。光秀が紹巴などと愛宕神社で催した連句会の折の、「ときはいまあめが下しる五月《さつき》哉」の有名な一句が物議をかもしてゐるとき、光秀の三日天下とまた同類ではないかと秀吉の「慢ずる」顔に水をかけてゐるわけである。華奢な茶杓をにぎつた手が意外にしたたかなものであつたことがわかる。  宗及は南宗寺の大林和尚のもとに参禅してゐる。彼の二男が江月和尚であることから察しても禅との関係は浅くない。また武術、蹴鞠、生花、聞香、歌道にも通じ、刀剣の目利、挿花の術は最も得意であつたといはれる。一方では堺会合衆中の頭梁株であつたと同時に、またすぐれた文化人、趣味人であつた。決して隠逸の茶人ではない。永禄九年から天正十三年までの二十年間に千六十五回の自会を催しまた七百回以上の他会の茶席に臨んでゐるといふが、単に茶数寄仲間の趣味事ばかりではなかつたらう。政治、軍事、外交、さまざまなかけひき事も茶のあとに話し交されたに違ひない。宗及の如き活動と性格が、当時の堺商人を代表してゐるといつてよい。  後に津田宗及、千利休とともにいはゆる茶家三宗匠として秀吉に仕へ、三千石の知行を受けた今井宗久もまた堺商人の一代表であつた。近江の武家の血統をひく宗久は、堺に移住して茶湯を武野紹鴎に学び、その女婿となつて家財茶器を譲りうけた。紹鴎の嫡子新五郎(宗瓦)と土地争ひの訴訟まで起してこれに勝つてゐるところから察しても、なかなかの現実家であつたことがわかる。とにかく一代にして産をきづいた新興財閥である。薬屋がその業であつたが、信長が浅井長政を攻めたとき、部将の藤吉郎秀吉は、今井宗久に宛てて、鉄砲火薬三十斤と、煙硝三十斤を至急調達して欲しいと言ひ送つてゐる。新式の武器の供給者が今井であつたことがわかる。宗久はまた信長から二千二百石分の代官職を与へられ、淀川の自由航行権を獲得してゐる。例の矢銭を拒否して抗戦の構へをとつた頑固な堺町人衆を説得し、松島といふ名物茶壺などを献じることによつて信長に取入り、堺を信長の保護のもとに安泰させるとともに、自己の置位を安定させることをも忘れなかつたといふのが今井宗久の本領であつたらう。決してわび専一の茶人ではない。 [#改ページ] [#小見出し]   三 信長と茶湯者  永禄十一年、信長の威に屈して二万貫の矢銭に応じ、やがて信長の直轄地となつて松井友閑が奉行となつて乗込むに及んで、自由都市堺の置位は変らざるをえなくなつた。これはまた堺商人衆の気質にも影響をあたへずにはゐなかつた。豪商たちは相ついで信長に款を通じ、自己保全の道を計つた。元亀元年、信長の行つた堺の名物道具の徴収、天正四年、安土城落成後、そこへ津田宗及、今井宗久、千利休を茶湯者または茶頭として迎へ、五百石の知行で抱へたこと等は、堺の変化を具体的に示す例である。安土の天主を狩野永徳等の障壁画で飾つたこと、安土にバテレンたちを招いてそこにゼミナリヨを建てさせたこと、名物茶器とともに茶湯の名人たちをあつめて度々茶会を催したこと等は信長の文化意識また文化政策をものがたる一連のできごとである。  或るひとは信長をよぶに「天下一の数寄者」の名を以てしてゐるが果してさうであつたらうか。名物蒐集も茶人吸収も果して数寄者の好みだけによつたものであらうか。  この問ひの間接の答へを、私は信長のキリシタン政策のうちに見出すことができると思ふ。天正初年の『耶蘇会士日本通信』には、度々「信長ひそかにキリシタンたりと信ずる者あり」とか、「諸人は彼にキリシタンとならんとする意ありと推断せり」とか、「信長は既に半ばキリシタンなりといへり」といふ言葉がでてくる。彼の長子の信忠も、三男の信孝もキリシタンに非常な関心を寄せてゐたといふ報告もでてくる。然し次の事件はどうであるか。天正六年の秋、荒木村重が石山本願寺と通じ茨木の城に拠つて信長に叛いたとき、キリシタンの高山右近も村重の部将として高槻城にこもつて信長に抗戦することになつた。右近の子と姉妹は村重のもとに人質としてとられてゐた。このとき信長のとつたやり方をパードレ・フランシスコは次のやうに報告してゐる。「信長は我等を集めたる後、其宮廷に於て重要なる地位の人(松井友閑)をして左の意を伝へしめたり。汝等守将ジュスト(右近)に告げ、直に予が味方となり、其子及び姉妹の死を以て我が領内のパードレ及びキリシタン等と交換せしめよ。若し然せざれば予は直に彼の眼前に於て彼等一同を十字架に懸くべし。キリシタン等は信長の決心を聞くや大声をあげて泣きたり。」この事を『信長記』は次のやうに書いてゐる。「然而高山右近だいうす門徒に候。信長公被[#レ]廻[#二]御案[#一]、伴天連を被[#二]召寄[#一]、此時高山御忠節仕候様に可[#レ]致[#二]才覚[#一]、さ候はば伴天連門下何方に建立候共不[#レ]苦、若御請不[#レ]申候はば宗門を可[#レ]被[#レ]成[#二]御断絶[#一]之赴被[#二]仰出[#一]、則伴天連御請申。」  信長のキリシタンヘの関心も、その天下統一策以上には出てゐない。彼は自己勢力拡充のためにあらゆるものを利用した。名物茶道具も茶頭もいはば彼の装身の具にすぎない。信長の築いた岐阜城をまのあたりにみたフロイスは次のやうな報告をしてゐるが、かういふところに信長の本領があつたとみてよい。「信長は来世なく又観るべき物の外存せざることを主張し、又其富は非常に裕にして何事に於ても他の王彼に勝ることなく、彼は諸人に超越せりと信じ、其の宏大なるを示し、歓楽を尽さんと欲して美濃の人の所謂地上の天国を己の為めに造らんと決し、云々。」安土の城はこの岐阜城を更に一層拡大したものであつたらう。永徳も利休もまたゼミナリヨも地上天国構築のための一道具にすぎない。堺の富があつめた名器を安土に吸収するとともに、堺の豪商たち、津田、今井をも身辺において、直接に堺を支配しようとしたのである。三十七歳の「尾張の王」を、長身痩躯髪少く、声高く、武技を好み、粗野なりと一人のバテレンは描写してゐるが、粗野で傲慢な信長が、風流将軍義政にあやかつて自らを都雅なものにしようとした意欲もなかつたわけではないだらう。また部下将士の輪をかけた武辺を礼あるものにしようとする意志もあつたらう。また名物茶器を文化勲章として部将にあたへたこともあつたらう。然し信長自身を天下一の数寄者とは数寄の名においていはれまい。  利休が同じ茶湯者の津田宗及、今弁宗久と違つた点はどこにあつたらうか。宗及も宗久も利休よりは年長であり、また現役の豪商であつた。すでに抛筌斎を名乗つた利休は、ととやとしての納屋株を棄ててゐたのではないかといふ想像が湧く。また津田や今井に比較すれば、利休の財産は小さいものではなかつたかといふ想像も出てくる。「胸の覚悟」ひとつをたよりの茶湯者の道を歩み出してゐたのではないか、といふ想像もでてくる。利休が死に臨んで誌したといふ遺言状のなかの財産目録は、私には解読しがたいものであつたが、豊田武氏の近著『堺』によつてその一部分は明らかになつた。  「問ノ事、泉国ある程の事   同佐野問しほ魚座ちん銀百匁也」  これは利休の家が和泉一円の問丸を支配し、堺の南方佐野に問塩魚座をもち、そこから銀百匁を徴収してゐたことを示してゐるといふ。さきの今井やまた小西隆佐の如く、信長や秀吉に結びついて御用商人となつて産を築いてゆくいはば進歩的な豪商たちの中にあつて、地方の魚の座を維持し、発展は望まないが旧地盤は失ふまいとした保守的商人が利休の家のやり方であつたといふ。これによつても、利休がわび数寄専一の茶人でなかつたことは証されるわけだが、また財産の方は伝来の維持につとめるにとどまつて、積極的な活動はしなかつたこともわかる。『南方録』の示す「露地草庵一風の」趙州の茶とも遠いが、すすんで権力者に奉仕しそれによつて利を求めんとする風とも遠い。さういふところにゐて信長と対してゐたとみるのが至当であらう。  信長と利休の関係、殊にその内的関係を示す資料は少ない。ただここでは『津田宗及茶湯日記』の誌してゐるといふ天正五年(一五七七)閏七月七日の朝会を注意しておきたい。主催は信長、茶頭は利休、客は松江隆仙、天王寺屋道叱、津田宗及の三人、安土城内の茶屋開きである。茶屋とは庭のうちに設けられた茶亭であつて、茶座敷とは違ふ言ひ方であり、後の囲《かこひ》とか数寄屋に通ずるものであつた。茶屋の内には大釜を吊り、葦棚《よしだな》に水指と飯銅の茶入を置き、小烏の天目茶碗と高麗茶碗で茶を点てた。料理はから鮭汁、膾《なます》、蒲鉾、菓子は二種といふ質素なものである。これは書院台子の茶とは凡そ違ふ趣向といつてよいだらう。桑田忠親氏も「茶屋を背景とした茶湯は頗る庶民的な性格をもつ侘びた茶事である」といつてゐる。恐らくこの茶会は大阪城内の山里丸の茶事にも通ずる利休精神のあらはれとみてよいと思ふ。金色まばゆい天守をもつ城内で、ひそかに永徳流の安土桃山式に抵抗したのがこの茶会ではあるまいか。(私は桑田忠親著『新版千利休』四七頁に依拠してこれを書いたのだが、後に『信長公記』をしらべてみると、この茶会のあつた前日、即ち天正五年、閏七月六日に信長は京都に上り、新しく築建した二条城へ入つたことになつてゐる。これを正しいとすれば信長主催の七月七日の朝会といふのはをかしいことになる。専門家の示教をえたい。)  この茶会のあつた同じ年に一人のバテレンは、信長の新たに築いた安土の城は、キリスト教国においてもみられないほどの宏荘なものであると報告してゐるし、ここを訪れたパードレ・フランシスコは、城内の天守についてかう書いてゐる。「七階を有し、其室甚だ多ければ信長も此の家の中にては迷ふべしと言へり。足を置くべき床は天井と同じく清浄にして磨き出し、戸及び窓は塗りて鏡に対するが如く己の形を見ることを得べし。壁は頂上の階の金色と青色を塗りたる外は、悉く白く、太陽反射して驚くべき光輝を発せり。瓦は製作巧にして外より之を見れば薔薇又は花に金を塗りたるが如し。」  安土城趾は今日実地に行つてみれば、その規模の狭小にむしろ驚くのであるが、当時にあつてはその宏荘豪華に異国人すら眼をみはつたことが知られる。信長は多くの人をここに招いて観覧せしめ、自己の強大を誇示したのである。『信長公記』の「安土御天主の次第」は遺憾なく豪華絢爛たる様をつたへてゐる。七層の天守の各階の模様がうつたうしいほど誌されてゐるが、二階の一間には狩野永徳の梅の絵があり、「下より上迄御座敷之内、御絵所悉金也」とある。六階目は「外柱は朱也、内柱は皆金也」と示され、七階目は「三間四方御座敷之内皆金也、外輪《そとがは》是又金也」等と誌されてゐる。さういふ金づくしの中に「色々様々あらゆる所之写絵」があつたわけである。金地に濃《だ》み絵がここの特色であり、金の柱、金の壁が安土の象徴といつてよい。富の強大を直接に示す金がいたるところに使はれてゐたのである。  前記の利休の茶屋開きのあつた翌年、即ち天正六年、正月の元旦に行はれた茶会を小瀬甫庵の『信長記』によつて示してみよう。年頭の挨拶に安土在住の諸将が、夥しい献上物を持参して登城する。その中での御茶会である。信長、秀吉、秀忠等の十一人が客である。茶席は六畳に四尺の縁。床には波岸の絵、中に万歳大海、右に松島、左に三日月がへり。花の水差、周光茶碗、うば口の釜、竹筒の花入、といふ道具である。信長公が手づから配膳されたのでおそれ多くて何をたべたのか、一切物の味も覚えなかつたと後に語つた者もある。さういふ茶会や数寄道具拝見を書いたあとに、「誠に善尽し美尽させ給ひけり」といつて結んでゐる。  黄金づくしの天守閣や、善美をつくした茶会のなかへ、利休の茶屋開きの侘びた茶会をおいてみれば、多少とも利休の存在理由が判つてくる。信長が利休の侘びをどんな眼でみたか、利休が信長の黄金をどんな心でみたかは明らかではないが、とにかくここに或る対比があつたことは事実である。この対比は次の秀吉対利休の関係で一層はつきりと、また利休の側においては自覚的にあらはれてくる。 [#改ページ] [#小見出し]   四 山崎の妙喜庵 『利休の茶室』『利休の茶』の二つの大著を出された堀口捨己氏は、その前者の序の中でかう書いてゐる。「妙喜庵の躙口から中へ入つた時の感じをもつと卑近な表現をとるなら、脊すぢの中ヘサッと何ものかを受けた感じである。私はぞくぞくとして全く我を忘れた。魅せられると云ふのはかう云ふ事であらう(中略)。利休の作品でも妙喜庵ほどの感じを与へるものは未だ他に接したことがない。言ひかへれば、妙喜庵茶室あるがために、利休のえらさを知るのである。」また本文四三一頁ではかういつてゐる。「妙喜庵囲を他において利休好み茶座敷はないと云ふ含みに於て、利休の調べにはこれ程に重く要めなものはない。またそれは一二の作り変へを受けた所はあつたが、然しよく古い形を総てに渉つて保つて居て、数寄屋造の古典として何よりも先づ初めに挙げらるべき最も美しい、最も茶座敷らしいものであつた。」  私は堀口氏の著書にたよりながら、この山崎妙喜庵の茶室待庵のもつ歴史的意味について考へてみたい。  江戸時代の『莵芸泥赴』には「山崎に妙喜庵とて禅室あるに、利休作れる数奇屋有。其さまよのつねに異にして、世にうつし作りて茶事をなす」とあるといふ。  この「其さまよのつねに異にして」といふのは、具体的にはまづその二畳敷といふ間取にあつた。山上宗二記の誌す、「二帖ノ座敷、関白様ニ有。是ハ貴人カ名人歟。扨ハ一物モ持ヌ侘数奇歟。此外平人ニハ無用也」の秀吉の二畳の茶座敷もこの待庵をモデルにして作られたものといふ。この貴人か名人か、又は一物も持たない侘数寄にだけ向くもので、常の人には用のないものだ、といふ言葉について堀口氏は、「総てか無しかと云つた烈しい茶の湯の相《すがた》のものであつたらしい。このやうな二畳座敷は、その頃の世に叶ふ『ぬるさ』を突き破つて、少くとも新しく厳しい次のものを胚む構へであつた」といつてゐる。  またこの座敷の東壁の二つの窓とその形の違ふ障子について、「茶座敷の窓は後に一つの型となつて、そのまゝ踏み襲はれるのであるが、その如き形のものは他に例がない」といはれ、新しく非相称的な形で構へをまとめようとした試みであらうといふ。  その床の間の壁は、一寸余りの藁※[#「くさかんむり+切」、unicode82c6]《わらずさ》を入れた土壁で、農家と同様な荒壁仕上げであるが、これも、従来の紙張付けの仕上げとくらべて思ひきつた新工夫である。  またここの躙口は、恐らくその形式の最初の試みのものであつたらうといはれるが、このやうな試みを刺戟したのは、「大坂ひらかた(枚方)の舟付にくぐりにて出るを、侘びて面白しとて、小座敷をくぐりに、易(宗易利休)仕始るなり」(『松屋日記』)によつて察せられるやうに、漁家の狭い出入口から示唆をえて造つたものであつたといふ。  利休以前の茶座敷は、「座敷之広狭、貴人御茶湯之座ハ六畳敷相応、其謂レハイカニ茶湯と申共、膝詰ニアラヌ物也。御相伴モ少間ヲ置テ、恐アル風情ニミナ着座ス。ソウナミ(総並)ハ四帖半ヨシ」(『数寄道大意』)が通例であつた。利休も多く四畳半を使つてゐる。利休の創意は一般に北向四畳半であるのを南向に向をかへたとか、柱のすがたをかへたとかいふやうなところにとどまつた。堺の利休の座敷も京都大徳寺門前のそれもともに四畳半である。 「三畳敷は紹鴎の代迄は道具なしの侘数寄専とす。唐物一種成とも持候者は四帖半に悉座敷を立る。宗易(利休)異見候。廿五年以来、紹鴎の時に同じ。当関白様御代十ヶ年の内、上下悉三帖敷、二帖半敷、二帖敷用[#レ]之」(『山上宗二記』)。「此二畳半の事、紹鴎の時は天下に一つ。山本助五郎と云ふ人、紹鴎第一の弟子也。其人のために好みて、茶の湯をさせられしに、侘数寄也」(同上)。四畳半が何故二畳半、二畳になつたか。侘数寄専一の二畳敷が何故関白秀吉にまで及んだか。総並の平人は四畳半、貴人と名人と侘数寄は二畳といふ異例なことが何故起つてきたか。貴人は六畳敷が相応といはれてゐたのに、何故貴人の側から侘数寄の側へ降りてきたか。この問ひに答へるものは、貴人と侘数寄を媒介した「名人」をおいて外にない。具体的には従来の公式に「異見」をたて、みづから新意を工夫した千宗易利休より外に答へうるものはないのである。侘数寄と貴人、数寄屋と書院といふ対立する両極が、利休において相接してきたのである。相接す、といふよりもむしろ、貴人の方から侘びの方へ歩みよつてきたのである。これを可能にしたのは利休の器量、力量といふ外ない。  天正十年(一五八二)といへば、元亀以来たぎりにたぎつた時代が本能寺の変において頂点に達し、それを契機としてゆるく弧を描いて秀吉の時代の安定へ移りゆく当の年である。武田、上杉の甲信越勢の滅亡と衰退、浅井、朝倉の討滅、一向一揆との長い間の争闘と征服、比叡山や高野山に対する血なまぐさい対策等々、ただ信長を中心としてみただけでも閑日月などあつたとは思はれない。然し信長のもとに次第に勢力は集中されてきて、最後に中国の毛利勢との総決算の期に向つてゐた。四国の長曾我部等の問題はいはば中国問題の支脈といつてよい。天正初年、東から進んできた織田の勢力と西からの毛利の勢力が但馬において相接した。相接することは直ちに戦争を意味する時代である。そしてこの方面の織田勢力の代行者が彼の部将羽柴筑前守秀吉であつた。天正五年以来、中国十二ヶ国を領有し、その上強大な海軍をもつ毛利勢と姫路を本拠として対陣した秀吉との間には時に勝利、時に敗北があつたが、決定的な打撃を双方ともに与へえなかつた。然し秀吉の攻城法が次第に成功し、播磨、但馬、因幡、伯耆が彼の支配下に入つた。天正九年の歳暮に、秀吉は姫路から、おびただしい進物をたづさへて安土の信長のもとに伺候した。小袖二百以下、二百の台の上に並べきれないほどの量であつたと伝へられてゐる。信長はこの「大気者」を懇に迎へ入れ、秀吉のために茶会をひらき、茶の道具十二を与へた。秀吉は後になつてこのことを、「御茶湯之道具以下まで取揃被[#レ]下、御茶湯御政道雖[#レ]在[#レ]之、我等をば被《ゆる》[#レ]為《され》[#二]免置《おかせられ》[#一]、茶湯を可[#レ]仕と被[#二]仰出[#一]候事、今生後世に難[#レ]忘存候。たれ哉《ぞや》之人がゆるし茶湯させらるべきと存出し候へば、夜昼涙を浮べ申候」と書いてゐる。茶会を自分の主催で開くことの出来るのは特権であり、信長は特賞として秀吉にそれを与へたわけである。  信長に面目をほどこした秀吉は姫路に帰つての春、山陽道を大挙して攻め下つた。四月四日に岡山に入り、やがて問題の備中高松城の水攻めが始められた。この攻略はただ時間の問題となつたが背後の毛利勢は、秀吉の進撃をむしろ待つてゐるといふ陣を敷いてゐる。秀吉は毛利を一挙に粉砕するために五月の中旬に信長に援軍をたのみ、信長自らの出馬となつた。『信長公記』は中国一帯はもとより、この際、九州まで一挙に手に入れようとしての出陣であつたと書いてゐる。信長の天下統一がこれによつてほぼ実現するといふところへ来てゐる。中国、九州を支配するにいたれば、信長は大阪へ本拠を移すつもりであつたといはれる。  五月二十六日に明智光秀は中国への出発のため、本城の坂本を出発し、翌日愛宕山に参籠して、例の、「ときは今あめが下知《したし》る五月《さつき》哉」といふ句を作つて一旦丹波の拠城亀山へ帰つてゐる。五月二十九日に信長は安土を発つて京都へ向ひ、本能寺に宿をとつた。本能寺の変は六月二日の早朝である。  高松城を水攻めにしてゐた秀吉は、四日に本能寺の変事の報をきくと、直ちに進行しつつあつた毛利方との和議をとりまとめ、誓紙を交換して七日に姫路に帰り着いて、東上の準備にかかつた。金《かね》奉行に現在の持高を尋ね、銀子七百五十貫、金子八百余枚とわかると、すぐこれを部下に分配せしめた。蔵奉行が八万五千石の米があることを報告すると、籠城の意志は毛頭ないから部下に五倍の扶持米を与へよと命じてゐる。姫路城の留守居役には、若し合戦に負けて打死することがあれば、在城の秀吉の母も、妻も悉く処分し、城中に一宇も残さず焼払へと申し含め、主君信長の弔合戦を印象づけるために自ら剃髪した。光秀はあくまで「謀叛人」である。  秀吉は十三日には既に山崎に入つて、直ちに明智軍攻撃の命を発した。戦ひは一日で決した。光秀は武装土民のために同じ日の夜、山科で槍で刺され、五十五歳の一期を終へた。彼が「天下人」と自称しえたのは二週間に足りない。 「天下人」の僭称を「謀叛人」と断じきり、光秀討滅に全力を即座に傾注したのは秀吉だけである。この一筋に自己の活路を求めたのは秀吉の乾坤一擲の賭であつた。洞ヶ峠をきめこんだのはただに筒井順慶ばかりではない。五月十五日に安土に参向して一週間にわたつて信長からいたれりつくせりの待遇をうけた家康は、そこから上洛、京、大阪、奈良、を見物して堺にゐて本能寺の変を聞き、あわてふためいて伊賀越をして三河へ帰城してゐる。織田家の第一の宿将柴田勝家は越中で上杉景勝と対陣してゐて、遅参組である。瀧川一益も関東にあつて大軍を動かすわけにはゆかない。信長の嫡男信忠は、本能寺の変のとき二条城にあつて光秀に攻められて自殺した。二男の信雄、三男の信孝は、主となつて父の仇を報ずる程の力量も、才覚も示してゐない。毛利の大軍に相対してゐた秀吉が光秀討滅の主役となりえたのは、単に秀吉の幸運ばかりではないだらう。  七月の清洲会議は信長没後の処置をきめる重大な会議であつたが、信長の三男信孝を立てようとする柴田勝家と、信長の嫡男信忠の子を立てようとする秀吉との対立は、丹羽長秀等の主張によつて秀吉の勝となり、天下の大勢はやゝその方向を明らかにしたといつてよい。あとは勝家と秀吉との賤ヶ岳の一戦によつて決定するはこびになるのだが、清洲を引上げた秀吉は領地の姫路へは帰らずに、山崎の宝寺に城郭を新にかまへて、そこに屯してゐた。  その年の十月大徳寺で執行された信長の葬儀もまた秀吉の主催であつた。これは未曾有といつてよい盛大のもので、「目を驚かす所なり」と時人が書いてゐるのも尤である。警固の侍三万、行列に加はるもの三千といはれ、遺憾なく秀吉の威勢のほどを天下に示したわけである。「四十九年夢一場 威名説[#二]什麼存亡[#一] 請看火裡烏曇鉢 吹作[#二]梅花[#一]遍界香」といふのが大徳寺和尚の偈であつた。信長がときに愛誦したといふ、「人間五十年、化転の中をくらぶれば、夢幻の如く也」が連想される。  葬儀執行にあたつて、朝廷は従一位太政大臣を信長に贈つたが、その執行者の羽柴筑前守は、やうやく昇殿を許される従五位下、左近衛少将に任ぜられただけである。かういふ位置が、また見方が、当時にあつたといふことは、単に公卿の伝統主義からくるものではないだらう。その後の秀吉に対する相つぐ贈位贈官を思へば、この時代の秀吉はまだ「天下人」になりうるかえないかの危惧に包まれてゐたに違ひない。  私が不得手な軍記、戦記、また軍事政治の情勢を史書を借りて長々と書いたのは外でもない、この天正十年といふ年を秀吉にとつても利休にとつても重大な年と見るからである。 『妙喜庵縁起』の中にかう書いてある。「当庵第三世功叔禅師の時に有名なる山崎合戦起り、羽柴筑前守秀吉、明智光秀を討たんと欲し、此地に来り当山に陣す。実に天正十年六月十三日なり。秀吉の矢石の間を奔走するや常に当庵を安息所に充つ。既にして中原事定まるの後も此処に在つて軍機を運らし、大勢を揣摩せり。当時茶博千利休を安土より聘す。利休、功叔と共に公の傍に近侍して、或は茶を点じ或は禅を談じて、以て公が陣中の無聊を慰せしと云ふ。秀吉は利休に命じて山内に茶亭を構へしむ。利休凝思之を経営す。其結構数奇を極め、高雅幽寂忽ち名を天下に播す。今の茶室待庵は利休独得の構想によりて建てられ、茶室建築物として現存する最古のものといふべし。この茶室の天井、壁、床、窓、躙口等は利休の創案にして非凡の構想力を窺ふ一端ともならん。後世数奇屋なる者皆之を模す。」  妙喜庵が、秀吉の居城となつた宝寺(宝積寺)の一部であつたことを示してゐる絵図も残つてゐて、さういふ点から考へても、右の縁起は一応うなづけることである。この庵の三世功叔和尚もまたひとかどの名ある茶人であつた。  天正十年の八月二十七日附の妙喜庵の功叔宛の利休の手紙に、「筑州、於在山崎は不図可罷上候」の言葉も見え、同じ年の十一月七日には、宗及、宗易、宗久、宗二の堺衆茶人四人を客とする秀吉の茶会が山崎で開かれたことが今井宗久の日記によつて知られてゐる。  私は文書には公に書かれてゐない秀吉と利休の交りを想定したい。縁起のいふ「利休、功叔と共に公の傍に近侍して、或は茶を点じ或は禅を談じ」云々といふことをありえたことと思ひたい。史家にとつては記録なきところは空白であらう。然し史家にとつての空白は無事実を意味さない。史上の記録に載らない幾多の事件や事実のあることは常識である。かくかくの事実があつたといふ証明を出せといはれれば当惑するが、事実がなかつたといふ証明もまたできないといふ事柄はいくらでもある。ここに歴史は可能性といふ興味深くまた広い領域をもつ。歴史がゲシヒテでありまたヒストリであることに我々は考証学以上の意味を感じる。  天正十年に秀吉は四十七歳、利休六十一歳である。もとより両者はそれ以前において相識ではあつた。羽柴筑前守の名で「宗易公」とわざわざ尊称をつけて宛てた秀吉の手紙も残つてゐる。然しこの二人が直々に面々相会つたのは山崎においてであらう。  利休は安土にゐて日々見てゐた七層の天守閣が兵火にかかつて焼け失せたことを知つてゐる。閣内の各層を飾つてゐた永徳筆の金泥の絵、金の柱、黒漆の柱、朱の柱が無残に焼け尽したことを知つてゐる。また光秀の叛で幾多の名物茶道具の散逸したこと、幾多の相識の将士やその家族が死滅したことを知つてゐる。彼が茶頭として仕へた独裁の権力者信長が、夢幻の如く消えてしまつたことも実感であつた。  前記の妙喜庵宛の八月末の手紙、筑州が山崎においでならば、ふと参上するやもしれない、といふ後へつづけて「乍去、力著とは付申間敷候。猶重而可申候。恐惶謹言」と書いてゐるところには、躊躇と関心が半々であることがわかる。なほ秀吉を「筑州」とだけ呼んでゐるところをみれば、さきの秀吉が「宗易公」と呼んだのと対照して、両者の心理的位置も察しがつく。なほ利休の手紙をみれば、天正十一年にも「秀吉」と書いてゐる。十三年にいたつて始めて「内府様」と呼び、十四年からは「関白様」と呼んでゐる。天正十年には即ち筑州と宗易公といふ関係である。然し筑州がやがて天下人になるであらうことは既に予約されてゐるといふさういふ時期である。  山崎に筑州を訪ねようかどうか、とややためらつた利休も意を決してでかけていつた。将来の天下人のもとに挨拶に出向くといふ下心もなかつたわけではあるまい。津田宗及が、「われなりとまんずる月の今宵かな」と詠んで秀吉を諷したのは同じ年の八月の名月の夜であつたが、同じ月の下旬には、もはや天下人の名声が京都、堺にひろまつてゐたかもしれぬ。宗及、宗久とともにやはりぬけめのない堺商人である宗易の利休も、挨拶は早きに如かず位のことは考へたことであらう。  然しまたそれだけが山崎出向の理由ではなかつた。六十一歳の利休は、やうやく心、技ともに老熟してきた。或ひは心、技の頂点にあつたかもしれぬ。あつたかもしれぬといふのは、もちろん待庵の結構から逆に推定するのだが、ひとは往々にして自らも知らない頂点をもつ。待庵をみてさういふ推定に達するのも無理ではない。さきに、現代屈指の建築家が待庵に接して息をのんだことを書いたが、この茶室は何かさういふ迫力、一種鬼気に通ずるものをもつてゐる。  さて、利休は秀吉に会つた。秀吉にとつては利休は彼の主君と仰ぐ信長の茶頭である。秀吉は自会の茶席を開くことを許されたばかりの、茶でいへば新参の弟子である。然し秀吉は信長以上に数寄の道の理解が深かつたと私は思ふ。秀吉は利休にその好むところの茶室を妙喜庵内に工夫してみてはどうかとすすめた。このすすめが利休の内面に熟した心、技を触発した。熟し欝してゐた心内の創造意欲が、形となつてあらはれる機会が到来したのである。  俎板が一分うすすぎても、香炉の脚が一分高すぎても、露地の敷石を一寸ずらしても、直ちにそれに気付き、直さなければゐられないほどの、鋭い感覚をもつた利休のことだから、秀吉に面面対して、その器量のほどを割引も割増もなく感じとつたに違ひない。しかもこのときの秀吉は、羽柴筑前守といふ信長麾下の一部将として、鞠躬如として主君に仕へた秀吉では既にない。といつて関白となつて天下をひとりで切廻す秀吉では未だない。山崎に仮の城を築いて、天下の形勢を見計ひ、自己の出所を考へてゐる時代である。山崎といふ処がそれにふさはしい位置である。京都と大阪をつなぐ要衝であるに違ひないが、宝寺に立つて見下せば、豊かな大阪の平野が淀川に沿つて開けてゐる。秀吉の心は恐らくこのとき既に大阪にあつたらう。広い大阪平野の首といつてよいところが山崎である。未だ不安定ではあるが、広い展望をもつといふところに秀吉はゐた。利休はさういふ秀吉にさういふ場所で会つたわけである。妙喜庵第十四世の南嶺和尚は「元是東征西伐際 英雄胸腹別乾坤」といつてゐるが、山崎の秀吉は、危い、たぎつたところにゐただけに、ふとした純粋の空白な場所を心にもつこともあつたらう。山崎合戦における戦死者は双方各三千以上であつたといはれるが、それらの死者の亡霊もいまだ近くの戦場から立去りかねてゐるときである。諸行無常をこの一点でかちつと食ひとめてくれるものを、心のどこかで望んでゐるときである。  利休が茶頭として安土の信長に仕へた時にも侘びの茶屋開きをしたことは既に書いた。茶頭である以上、金ぴかの天守城中で御点前をやつたこともあるに違ひない。名物茶器の管理や飾り立もやつたに違ひない。さういふ職掌であるだけに一層、粟田口善法とか山科のノ貫とかいふ侘一徹の数寄者のことも心に浮んだことであらう。胸のうちのきれいなる者と、利休はこの両人を呼んでゐるが、そのきれいさが利休をよぶといふこともあつた筈である。「去年は、ならしは(楢柴)の事、度々候つる。唯今は初花、近日徳川殿より来候。珍唐物到来に候。我等かたへは不珍候。年来に迄様々迷惑迄に候。」これは天正十一年の六月二十日附で博多の島井宗室宛に書いた利休の手紙中の言葉である。従つてここで去年といふのは天正十年である。楢柴だの初花だのといふ茶入を後生大事にもち廻つて、碌々茶事のわからない連中が、いはば胸の中がきれいでない連中が騒ぎ廻つてゐるのを、苦々しく思つてゐるわけである。さういふところに天正十年の利休はゐた。  ここにもう一度、山崎の妙喜庵の景色を考へてみたい。いまはこの妙喜庵は国鉄山崎駅のいはば構内といつてもいいやうな場所柄になつてしまつて、殺風景なところである。国鉄工員のバラック建の宿泊所の窓にほしたうすぎたない蒲団を横眼にみて入るやうなところである。然しいまでもうしろの山に登れば、ここの景色は捨てがたい。淀川は眼下、摂津河内の遠い山々から近くの丘のなめらかな起伏、「暮煙」の多い場所である。ここの風色が利休の心に適つたことも、うなづけるのである。  妙喜庵三世の功叔和尚については知る由もないが、さきにも書いたやうに、茶を通じて利休とは相識であり、また相適つた人物と思はれる。  とにかく、待庵を待庵として作りあげる条件は、利休の心のうちにも、また外のさまざまな条件においても、ととのつてゐたと私は思ふ。  待庵の結構については、専門家の著書にゆづつて、ここにあらためて書かないが、いはば利休の侘びの想念が、凝つて固まつて、形をなしたものといつてよい。二畳の空間の中へ、世界の空間を圧縮しつくしたといつてもよい。杉と松と竹といふありふれた材料を使ひ、藁※[#「くさかんむり+切」、unicode82c6]の入つた荒壁を使ひ、漁師の入口をまねて躙口をつくつたこの待庵が、不思議にも数寄屋といふものの典型となつて残つた。山崎の滞留が一時のものといふことは秀吉にはもちろん解りきつてゐた。待庵が一時の使用といふことは利休にもわかりきつてゐた。この仮の茶室がはからずも利休の想念の結晶となり、またこの結晶として形をとつた待庵によつて逆に利休の想念が自覚的に明らかにされたのである。二畳といふ侘数寄専門の囲《かこひ》が、この造形によつてやがての関白を招じ入れる場所となつた。やがての関白は、恐らくこの二畳において始めて利休の茶の精神に触れたであらう。いはば世界を極小に限つたこのきびしい空間において、利休といふ名人の点前をうけ、そのきびしく圧縮された一動一所作のなかに、この素朴な田舎武士は何か不思議なものを感じとつたであらう。「貴人」を二畳の侘座敷に坐らせたのは利休であるが、秀吉はまさにここに坐つたのである。両者の面々対面が、ここで始めて成就したわけである。  実をいへば、私は堀口捨己氏の『利休の茶室』にをさめられてゐる妙喜庵図の写真をみるまで、また自分の眼で妙喜庵を見るまで、それまでは、何か利休に意地の悪いものがあつたのではないか、とさう疑つてゐた。秀吉をせまい躙口をくぐらせ二畳といふところへとぢこめてみたいといふやうな心が動いてゐたのではないか、といふ利休の晩年の行動からみれば、さして不自然ではない疑ひをもつてゐたのである。さうして、|わび《ヽヽ》についての私の解釈、つまりはわびは対比概念、巨大豊富に対する狭小素朴、金色に対する墨色といふやうな、対比においてのみありうるといふ解釈の適用を、この待庵においても内々に適用し、さういふところから秀吉対利休といふことを考へてゐたわけである。  然し、私は現にこの茶室をみるに及んで、さういふ疑惑があてはまらないことを感じた。私は高台寺山内の傘亭をみたときは、私の考への正しいことを感じた。これはまた後で論じたい問題であるのだが、然し待庵の場合は傘亭とは違つたものを感じたのである。何かここにはそれ以上のものがある。かういふ曖昧な言ひ方でしか言へないのだが、いつてみればごまかしのない激しい気性がここにはある。純粋な、といへば誤解も生れようが、たとへば、これを作る前の利休の頭に、或ひは去来したかもしれない侘数寄の気取りが、いざ作るといふ動作に出たとき、その造形意志、きびしい造形感覚に圧倒されて吹き消されたといふ、さういふところがここにはある。さらに、私の疑念が、かすかにいきをふきかへすのは、実は次の間の釣棚を釣つてゐる細い竹のややあやしきすがたなのだが、それは、私がもともとさういふ感じをもつて、ここへ行つたが故の、思ひすごしの故であるかもしれない。  いはば待庵はわび自体である。わびの極北である。わび自体といふことは、私のわびを対比とする考へからいへば矛盾概念である。対立物を失へばわびもまた消失してしまふのがわびの運命である筈なのに、不思議にここにはわび自体といふ形がある。わびが消え失せようとする危いところ、或ひは一歩飛躍すべきところで、待庵は成立してゐる。利休を中心にしていへば、利休の頂点が一挙に、或ひははからずもここに形をとつたといへる。冒険な推定を敢てすれば、安土の絢爛を誇つた七層の天守が、兵火にかかつて一瞬にして消失したといふ事件、明智の一万六千、秀吉の二万何千の軍隊がここに衝突し、六千の死体を残して、ここで勝ちここで敗れたといふ事件、柴田勝家との衝突が必然性をもつて出てきてゐる情勢、さういふ大事件の渦の中にあつたればこそ、わびが自分の性格を突破して、みづからを矛盾のなかに定着したといへようか。歴史のなかには、殊にたぎつた時代においては往々にしてさういふ瞬間がある。「其さまよのつねに異にして」といはれ、「平人には無用」といはれた二畳の座敷が、反つて「天下に妙喜庵一宇のみ」として数寄屋の典型とみられるといふことが現実に起つてゐるのである。 [#改ページ] [#小見出し]   五 大阪城と山里丸  天正十一年は秀吉にとつて実に多端な年であつたが、またすべてがとんとん拍子にうまくはこんだ年でもあつた。賤ヶ嶽の一戦で強敵柴田勝家に勝つてつひにはこれを亡ぼし、織田信孝は自殺し、信雄は服し、瀧川一益も佐々成政もみな降伏し、四国も平定し、家康もまた名物中の名物初花肩衝を贈つて秀吉に敬意を表してくるといつた具合であつた。七月には大いに論功行賞を行ひ、三十六人の有功者に、それぞれ分に応じて所領を与へまたは領地を再確認した。秀吉の威令はほぼ本土全体にゆきわたることになつたわけである。  大阪の築城は既に五月から始つてゐる。六月二十日附で博多の島井宗室にあてた利休の手紙に、「唯今秀吉公従山崎大坂へ移被申候。細々見舞を申事候て、堺にもしかしかと無之候。おかしき体共に候」と書かれてゐる。『豊鑑』の「山崎も住べき所にあらずと思ひ給ひければ、摂津国大坂こそ要害に付ても、西国舟の出入の便、都にも遠からざれば、爰をなん住所に定め、城がまへ殿作りひたたきけほどにし給ふ」の言葉はよく事情を明らかにしてゐる。秀吉は石山本願寺の趾をそのまま利用したのである。この本願寺に拠つた光佐を、さすがの信長も攻め抜くことが出来ず、天正二年から八年までかかつて、やうやくにして勅命をえて光佐を紀州雑賀に退去せしめることができたといふ曰くづきの要害の地、堅固な城である。この城は光佐の退去後、一宇も残さず三日間にわたつて焼け続けた。『信長公記』巻十三にも、「抑大坂は凡日本一之境地也」と書き、奈良、京都に程近く、淀、鳥羽から大坂城の戸口まで舟は素直に通じ、西は滄海漫々として、唐土高麗、南蛮の舟が自由に出入し、五畿七道の商人が相集つて富貴の港である等と書いてゐるところをみても、信長がやがてこの大坂へ進出する意志のあつたことが察せられるわけである。秀吉の大阪移転も凡そこの『信長公記』の記するところの好条件によつて行はれたのである。  大村由巳はこの年の十一月の吉辰に既にかう書いてゐる。「天王寺、住吉、堺津三里余、皆立[#二]続町店辻小路[#一]、皆為[#二]大坂之山下[#一]也。諸国城持衆、大名、小名、悉在大坂也、人々構[#二]築地[#一]連檐双[#二]門戸[#一]事、奇麗尽[#二]荘厳[#一]者也、此先争[#レ]権妬[#レ]威輩、如[#レ]意令[#二]退治[#一]、為[#二]秀吉一人之天下[#一]事、快哉、是併所[#レ]致[#二]武勇智計[#一]也。寔国家[#(ノ)]大平此時也。仍忝今上皇帝、叡感不[#レ]斜、為[#レ]之無[#下]不[#(ル)]ノ[#二]早朝[#(シ玉ハ)][#一]日[#上]。始[#二]摂家清華[#一]、諸卿百官、並三管領四職、其外所々国司、各来往、無[#下]不[#二]随逐[#一]之人[#上]。風雅之興、茶湯之会、日々楽遊、不[#レ]遑[#二]枚挙[#一]、※[#「こざとへん+爾」、unicode96ac]於[#下]専[#二]政道[#一]撫[#中]育人民[#上]者、非[#二]千秋長久之濫觴[#一]乎、至祝万幸。」  東は大和川、北は淀川、西は東横堀川、南は空濠をめぐらした、本丸、二丸、三丸の周囲は合計三里八町に及ぶといふ。その中心に大天守閣がそびえてゐる。  秀吉の大阪城及び城下町の経営は、信長の安土の経営の構想にかたどつてゐることは否まれまい。然しその構想の大きさは比較にならない程のものである。今日安土城趾を実地にみれば、その狭小にむしろ驚くのであるが、大阪城を実地にみれば、その巨大さにあらためて眼をみはるといふわけで、秀吉が信長の死後わづか一年にしてこのやうな、途方もない構築を実現しえた富と権力にむしろ不思議の感さへいだくのである。  堺といふ特殊な自治組織をもつて繁栄した都市も、既に書いたやうに、信長の矢銭賦課、ついで代官の設置によつて、著しくその性格を変へてきた。秀吉が大阪を根拠地とするにいたつて、堺商人を大阪に強制的に移住せしめて新都市の繁栄を計つたり、また天正十四年に秀吉自ら出馬して堺が防御のためにつくつてあつた南北の濠を埋めてしまつたことによつて、自由独立の都市としてはもう立ちゆかず、せいぜい大阪の衛星都市としての存在といふ位置に下つてしまつた。臙脂屋の如き豪儀なたんかをもう堺商人は吐くことができなくなつたわけである。  堺といふ市の変化が、利休の私的経済にどれ程の影響を与へたかは知る由もない。然し心理的な影響はあつたに相違ない。利休が秀吉から貰つた三千石といふ知行は、額でいへば相当なものだが、今日の月給取の如きお抱へ茶頭になりきつたとはいへない。然し、その知行のもつ魅力は、信長からの五百石よりかなり大きいばかりでなく、信長対利休の関係は比較的自由で、安土に常駐する必要はなかつたのにくらべて、秀吉との関係はもつと密着したものとなつたことは事実である。いはばお抱へ茶坊主の方に相当に接近したのである。と同時に、その事実が反つて利休に秀吉からの独立を思はせることになつた。秀吉に密着しながら、反つて離れようとする意志と行動にいでさせるといふ事態が生じてきた。  五月に工を起した築城工事は十一月にいたると、前掲の大村由巳の誌してゐる如くに、大名、小名がここにあつまり、奇麗荘厳を尽す、といふところまで進んでゐる。七ヶ月間にこの大工事をなしとげた秀吉の速仕事は驚くべきものである。然しこれは、ただ凡その規模ができ上つたまでで、完成したわけではない。三万人、後には六万人の人夫を動員して昼夜兼行で働かせ、三ヶ年を要したといふ記録もある。近隣の諸侯に命じて石を運ばしめたが、日に二百隻、ときに千隻の石をのせた船が港に入つたといふ。工事を督励するため、諸侯に各工事を分担競争せしめ、遅滞に及べば直ちに放逐に処した。  このやうな工事をこのやうな仕方で仕とげたことは秀吉の勢威が諸侯を圧し、諸侯が先を競つて忠勤を励んだことを物語つてゐる。近畿において秀吉に楯をつく者の皆無であつたことがわかる。秀吉一人に権力が集中してきたのみならず、天下の富が彼の手の中へ転がりこんできたことを証明してゐる。佐渡や生野を始め諸国の金銀銅の鉱山の独占による巨利、堺や博多の貿易を管理することから生れる利益が彼の手に入つてきた。天正十三年に本願寺の使者が大阪城を訪ねたとき、金貨を入れた箱十八、合計七千枚を見せられて驚いたといふ。天正十六年にはつきりした武器私有の禁止命令の形をとつた例の刀駆りは、徐々に既に開始されてゐたし、四公六民、乃至五公五民の率の年貢をとりたてる基礎調査としての検地も天正十年来徐々に行はれてゐる。下剋上の名をもつてよばれた実力主義の時代、商人と農民と武士の身分が固定されたものではなく、幅のある自由をもつて動いた時代は次第に過去のものとなつてきた。秀吉といふ人物を中心にして、次第に周辺が固定してきたわけである。大田牛一の『天正記』はこれを次のやうに要約してゐる。 「去程に、太閤秀吉公御出世以降、日本国々に金銀山野に涌出、其上、高麗、琉球、南蛮之綾羅、錦繍、金紗、有とあらゆる唐土、天竺の名物、我も我もと珍奇の尽[#二]其員[#一]、奉[#レ]備[#二]上覧[#一]、寔に似[#二]積宝之山[#一]、昔者黄金を稀にも拝見申事無[#レ]之、当時者如何成田夫野人に至迄、金銀沢山に不[#二]持扱[#一]云事なし。」  天正十三年と十七年に、秀吉は前代未聞の派手な「金賦《きんくばり》」をやつてゐる。第一回は金子五千枚、銀子三万枚を聚楽第の南門につみかさねて、諸侯、大夫に順次にわけ与へた。第二回目は金銀二万六千枚、合計三十万五千両の金を分配した。かういふ破天荒の行為と、大阪城内に設けた黄金の茶室とは、互に相通じてゐるが、それが茶室であり、茶に関する限り、利休がこれに与らない筈がないわけだから、「金賦」とは違ふニュアンスを我々は感じざるをえないのである。  天正十四年の四月に九州から上つてきた大友宗麟は城内の黄金の茶室に案内されたが、それを次のやうに書いてゐる。「其後金屋之御座敷御見せ候。三畳敷。天井、壁、其外皆金。あかり障子のほね迄も黄金。」それに、水こぼし、茶入、茶碗、盆、茶杓、蓋置から茶入、火箸にいたるまですべて黄金づくしで、「御茶宗易(利休)たてられ候」といふわけである。  この大阪城内の本丸にあつた黄金の茶席について桑田忠親氏は、「これもかうした雰囲気の裡に出現したのに相違ないが、これが十畳や三十畳の書院造の広間でなくて、僅か三畳の小座敷であつたところに、きらびやかなるものと侘びしきものとの相照美、即ち、さびの境地を尊んだ時代的風潮を窺ふことが出来る」と書き、それは、「『藁屋に名馬繋ぎたるがよし』と称した茶湯の開山珠光以来の伝統的嗜好と云つてよく、そこに、珠光流茶道の理念を受けついだ堺の茶湯者千利休の茶事に対する見識を感得することが出来る」といつてゐる(『新版千利休』八七及八九頁)。  桑田氏のこの書き方は贔屓の引倒しのやうなものである。秀吉の朱印状によつて利休がこれを設計したといふ新史料が発見されたことに対して、桑田氏は、「さもあらうと、小生は思つてゐる」と書いてゐるが、これはコンテッキストから察すれば、「いかにも利休らしい趣好」といふやうな意味である。つまり三畳敷といふ狭さにしたことを利休の功に帰してゐるわけである。これもをかしい。  いくら秀吉が富裕であつても、二十畳の黄金座敷はつくれまい。その証拠には、この茶席は移動式になつてゐて、京都の禁裏へはこんで、ときの天皇にお茶を献上してゐるし、朝鮮戦争のときには、本営のあつた肥前まではこんでゐる。移動式にしたといふことは、茶席につひやす黄金に限度があつたとみる方が自然であらう。また黄金づくしの茶席が、三畳といふ侘数寄の広さであることによつて、果して、きらびやかなものと侘びとの相照の美をもつたり、「さびの境地」がそこに窺へたりするであらうか。三畳の黄金座敷の黄金茶器が「藁屋に名馬」といふことになるであらうか。秀吉の朱印によつて始めて利休がこれに与つたといふことは、むしろ、利休が始めこれを拒んだこと、口頭では肯じなかつたことを示してゐるとみた方が適当ではないか。利休は苦笑してこれに当つたに違ひない。  利休のこの苦笑がまた苦痛が、秀吉に対する復讐となつてあらはれてゐるのが城内山里丸の茶室であらう。山里丸の数寄屋の方が黄金の茶室より前につくられたであらうが、利休には、秀吉の黄金趣味に対する抵抗は早くからあつたに違ひない。安土の金ぴかの天守に対する茶屋の関係が、大阪城内ではもつと露骨なもの、露骨といへば誤解を招くが、内攻して執拗なものとなつてゐたに違ひない。大阪の天守には、安土のやうな装飾はなかつたやうだが、城内の殿館は金銀珠玉にかがやいてゐたといふ。「秀吉の築造を興す、永徳をして其金壁を画かしむ。永徳細画に暇なく藁筆を用ひ、十丈の松梅、三四尺の人物を揮灑すと云ふ」(『国史眼』)といふ記事もある。さういふ黄金の派手に対して意識的に抵抗したのが山里丸の数寄屋であつた。  山里丸といふ名前、また山里の座敷といふ名前も恐らく利休の命名であつたと私は思ふ。室町時代末期に、例の『体源抄』の著者豊原統秋は、自分の家の庭に庵をつくり、それを山里庵と名づけ、三条西実隆に茶を進めたこともあるといふ。「山にてもうからむときのかくれやか都のうちの松の下庵」といふ歌もつくつたといふ。都のうちの山里庵、都の中に反つて山里の侘びを味はふといふ趣向である。利休の師の紹鴎も統秋の風を慕つて二畳の庵を結んで同じく山里庵と名づけたといふから、利休も紹鴎を介して統秋の都のうちの山里を思ひ出し、金色の大阪城内に山里丸といふ侘びの一角を作つたのではないか。 『南方録』については後でまた詳しく考へるつもりであるが、いま有名な一ヶ所をここで触れてみたい。紹鴎はわび茶の精神を最もよくあらはしてゐるものとして『新古今集』の定家の歌、 [#1字下げ] 見わたせば花も紅葉もなかりけり、浦のとま屋の秋の夕ぐれ を挙げてゐる。利休はこれを解釈して、花紅葉は書院台子の結構のたとへであり、浦のとま屋は無一物の境界を示すといつてゐる。そして「花紅葉を知らぬ人の初よりとま屋には住まれぬ所、詠《なが》め詠めてこそとま屋のさび住居たる所は見立たれ。是茶の本心なりと云はれしなり」とつけ加へてゐる。仮にこれが利休自身の語つたところとすれば、これは恐らく大阪城内の体験を経た後のことであらう。利休はこの定家の歌に加へて、同じく『新古今集』の家隆の歌、    花をのみ待らん人に山里の、雪間の草の春を見せばや を挙げてゐる。『南方録』がこの歌について書いてゐることは、私には得心がゆかない。「世上の人々、そこの山かしこの森の花がいついつさくべきかと明暮外に求めて、よの花紅葉も我心にある事を知らず、只目に見ゆる色ばかりを楽む也。山里は浦のとま屋も同然のさび住居也。去年一とせの花も紅葉も悉く雪が埋みつくして、なにもなき山里に成て、さびすましたれば、浦の苫屋同意なり、」等々と冗長の説明をくりかへしてゐるのである。  私はこの「山里の雪間の草」の山里は、具体的的には山里丸の山里を指してゐるとみる。花は大阪城内の金色の殿館を指したとしても、また天正十四年に完成した聚楽第を指したとしてもよい。また、十四年の春、禁苑で観桜の会が催され、秀吉はそれに列つたが、ときの正親町天皇は    木立より色香も残る花ざかり、さらで雲井の春やへぬらむ の歌を秀吉に賜はり、秀吉は    忍びつつ霞とともに眺めしも、露はれけりな花の木のもと の歌を奉つたといはれる。この年の冬に秀吉は太政大臣に任ぜられたのであるが、利休の「花をのみ」の花は、かういふ花めいた行事を指してゐるものとみてもよい。  さういふ花の御殿、花の行事との対比において山里がいはれ、雪間の草の春がいはれてゐるのである。黄金の茶室で茶頭をつとめるといふ苦々しい経験があればこそ、一層に山里を言ひたかつたのである。「雪間の草の春を見せばや」の見せばやの口調に溜飲の下るのを感じたかもしれない。天正十六年正月二十一日といふ日附で、『山上宗二記』は、次の如く書いてゐる。「慈鎮和尚の歌に    けがさじとをもふ御法のともすれば、世わたるはしとなるぞかなしき 常に此歌を吟ぜられし也。宗易を初、我人ともに、茶湯を身すぎにいたす事、口をしき次第也。」利休がこの歌を常に口にしてゐたのも、黄金対山里、桜の花対雪間の草の対比を濃厚に感じてゐたからであらう。 『南方録』は前記の紹鴎、利休愛誦の二首を挙げた後、「かやうに道に心さし深く、さまざまの上にて得道ありし事、愚僧(南坊宗啓)等の及ぶべきにあらず。誠に尊ぶべく有難き道人、茶の道かと思へば、則祖師仏悟道なり。殊勝殊勝」と書いて文を結んでゐるが、利休の山里の心は、得道とも祖師仏悟道とも遠い。もつと苦味のあるものである。秀吉と拮抗するものである。私は、さきにわびはもともと対比、比較の概念だと書いたが、この両首の「浦のとま屋」「山里の雪間の春」はそれを強度に、激しい形で示してゐるといつてよい。かういふ点を見のがして、ただ「得道」といつたり、「祖師仏悟道」といつたり、また、「さびすます」といつたりしてゐるところに、『南方録』の利休解釈が一面的かつ恣意的であることを感じるわけである。 [#改ページ] [#小見出し]   六 書院と草庵  桑田忠親氏はその近著『世阿弥と利休』のなかで、山里のわびた数寄屋は取壊し自由の組立式にできてゐて、文禄元年の朝鮮役のときには、肥前名護屋に移されて、この茶室で朝会の催されたことを考証し、さらにすすんで、秀吉の晩年には伏見城中に運ばれ、「戊亥の座敷」として納つたのではないかといふ推定をし、さらに一歩すすめて、秀吉の死後秀吉の夫人高台院によつて京都の高台寺山内に移され、現在の時雨亭か傘亭がそれに当るのではないかと言つてゐる(同書一五三−四頁)。堀口捨己氏は、傘亭、時雨亭が、果して伏見城から移されたかどうかも不確かであるといつてゐるが(『利休の茶室』六五四頁)、若し桑田氏のいふところが事実とすれば、私にとつてはひとつの手がかりとなる。  私は高台寺にゆくすぐ前に、西本願寺の大書院をみた。三十ヶ月とかを要するといふ大修繕を始めた折で、畳があげられたり、ゆかがはがされたりしてゐる中を、大いそぎで見て廻つた。伏見城の遺構を寛永年間に移したといはれる桁行十八間、梁間十四間のこの書院は豪華の一語につきる。天下の富と技巧をあつめて秀吉一人を荘厳するために成つたといふつくりである。桃山といふ時代がどんなものであつたかが、ここへくれば一目でわかるやうなところである。これにくらべれば、さすがの二条城もうすでにみえる。ここはどこまでもぶあつである。金の箔までが厚いやうに、重くさびて光つてゐる。この書院の何の間《ま》、何の間と区別されてゐる十数の間の障壁画は、十数人の画工の筆によつてなつたといはれてゐるが、恐らくその一人一人は数人の弟子たちをひきつれ、それに手伝はせたことであらう。永徳とか探幽とか了慶とか、また海北友雪といふ名前が筆者としてあげられてゐるが、ここでは画家の個性などは実はどうでもよいのである。この書院を荘厳すればそれでことたりるのである。障壁画には元来落款も、署名もないといふことはうなづけることである。あたかも聚楽第や伏見城の設計家また建築家がただ「番匠」の名を以てよばれてゐるだけで、たまたまその一人の名が岸上九右衛門として残つた如きは僥倖にすぎない。唐門をかざる恐るべき手のこんだ精巧な彫刻も、欄間の大きな彫刻も、これまた大工の棟梁たちの仕事であつて、左甚五郎といふ名の如きも恐らく伝説の中のものであらう。すみからすみまでゆきとどいたこの精巧さ、豪華さも、上段正面へ秀吉といふ一人物を坐らせるための道具立といつてよい。彼の威勢を、ここへ伺候する諸将や外国使臣に示すための装飾であつた。秀吉の手にあつまつた富と、彼の趣味と、それに応じた番匠や画工たちが、このやうな桃山時代をつくりあげたわけである。  この西本願寺内に移された書院はもとは伏見城内にあり、建築史的にいへば、遡れば聚楽第の広間、降れば江戸城内の大広間につらなるものだといふ。ところで聚楽第の建築に利休が直接また間接に参加したであらうといふのが堀口捨己氏の意見である。「大工たちの上にあつて、利休は城構そのものはともかくとして、住居向の主な座敷や数寄屋について少からずその考へを述べ、その好みを致したことは疑へないことである」(『利休の茶室』六〇七頁)。さうして伏見城造営にあたつての秀吉の手紙の一節、「ふしみふしんの事、りきうにこのませ候て、ねんごろに申つけたく候」をひいて、利休切腹後一年余をすぎてゐるときに書かれたこの手紙は、秀吉の利休を惜しむ心のあらはれともとれないこともないが、単純に利休好みの建物にしたいといふ程の意味だらうといつてゐる。この手紙からして、伏見城造営にあたつての利休好みも、恐らく書院をふくめての住居全体にわたつたのではないかといつてゐる。  右のやうであるとすれば、我々が今日西本願寺内にみる書院が、やはり「利休好み」のひとつといふことになる。山里丸の数寄屋や妙喜庵のみを利休好みとするわれわれの常識また従来の伝説からすれば、この推定に出会つて少々まごつかざるをえないのだが、利休の一面に、さういふことも敢てなしうる度胸と才能のあつたこともまた否まれない。秀吉の側からいへば、単に数寄屋の茶人としてばかりでなく、書院づくりの桃山人として利休を遇し扱つてゐたこともここからわかつてくる。秀吉からいへば、書院づくりに喜んで参加し、金地濃絵までに積極的に加はつたと思つてゐたのに、利休の側からいへば、宮仕への身すぎの手段としてやむをえない仕事をやつてゐるといふ位の差はあつたであらう。ここでも利休は前掲の慈鎮和尚の歌を口ずさんだかもしれないのである。  然し右のやうな利休への同情的な解釈は、九州から大阪へ出て来た大友宗麟が国許の家老へ報告した文書を読むとやや動揺せざるをえない。天正十四年の四月に、薩摩の島津から圧迫をうけてゐた豊後の大友宗麟が秀吉の援助をえようとしてやつてきた。彼はおのが身のさしせまつた情勢を知つてゐるだけに、大阪での観察は真剣なものであつたに相違ないのだが、その報告は次のやうなものである。大阪城で秀吉に会つた後、秀吉の弟の美濃守宰相秀長のところへゆくと、秀長は宗麟をあつくもてなしたあとで、「何事も何事も美濃守如[#レ]此候間、可[#二]心安[#一]候。内内之儀者宗易、公儀之事者宰相存候。御為に悪敷事不[#レ]可[#レ]有候。弥可[#二]申談[#一]」といつたといふのである。宗麟はこれを聞いて、次のやうな注意を加へてゐる。「此元之儀見申候て、宗易ならでは関白様へ一言も申上人無[#レ]之と見及申候。大形に被[#レ]存候而者、以外候。とにかく当末共、秀長公、宗易へは深重無[#二]隔心[#一]御入魂専一候。」  利休が秀吉の側近として政治外交の中枢に参与してゐたことは、たとへば天正十三年の秋に、島津家の重臣伊集院右衛門太夫に宛てて書いた降伏勧告の手紙によつてもわかる。天正十四年の春から秋にかけての対家康工作にも利休が関係したであらうことは、家康の使臣榊原康政を迎へての茶会、家康と織田信雄を迎へての大阪城内の茶屋の様子からも察せられる。このやうな傾向がいよいよつのつていつたことは、利休の切腹のすぐ前、伊達政宗工作について利休が松井康之に書いてゐる書状によつても知られるのである。  かういふ側近の位置を利用して、利休が私利をはかつたことは、たとヘば天正十四、或ひは五年に、芝山監物にあてて、「鴈塩引などは被[#レ]下候ても入不[#レ]申候。自然銀子など候はば一折可[#レ]給候」といふやうな手紙、また天正十六年閏五月十九日に博多の島井宗室に宛てて書いた手紙でも明らかである。宗室へは、彼の所有してゐる一軸を秀吉が買上げようとして、金子五十枚に般若の壺をそへて送るやうに自分が申しつかつたが、その壺といふのは、元来は自分が金子三十枚で買つたものだから、その壺が御入用でなければ、三十枚に代へて差しあげよう、といふのである。般若の壺が秀吉所有か利休所有かわからない言ひ分で、秀吉の威光をかりて難題をふつかけてゐるやうなところがみえる。かういふところが利休の一面にあつたことは否まれない。  私は高台寺の傘亭の外貌をみて、本願寺の書院とのきはだつた対照を感じた。これがたとへ桑田氏のいふやうに、大阪城内の山里の茶屋を移したものであるとしても、その内部が甚しく造りかへられたものであることは多くの人の一致してゐるところである。私にとつての問題は、この亭の外観の与へる印象であつた。さきにわびは対比の概念だと度々書いたが、傘亭はその意味で、勝義にわびをあらはしてゐる。「さびたるはよし、さばしたるはわるし」といふ言葉があるが、それを利用すれば、これはわびではなく、むしろわばしてゐるといつてもよい。わびのなかには、その本性として既に一種の気取りを内包してゐるわけだが、傘亭にはこの気取りが一層はつきりうかがへる。わざわざわびてゐるやうな姿である。江戸初期のある禅僧が、ここに遊んで、その草葺の姿をみて、「甚だ朴略なり」と詠つてゐるが、朴略そのものではなくて、朴略を意識的に気取つてゐるといふところがみえる。ここにはきびしい端的なものはない。  利休の作るところといひ、或ひは利休好みの茶亭と長くいひつたへられてゐるこの茶屋は、桃山時代の桃山式のものと、きはだつて対立してゐるが、そこには、それ自身で立つ何か第一義的なものが欠けてゐる。もしこれが桑田氏のいふ如きものであるとするならば、利休は、大阪城内の黄金の茶室、また本願寺書院の示す「利休好み」、自己自身の中にある前記の世俗的才能と実力への、対抗または反抗の意識で作つたに違ひない。黄金や金箔に対してわびると同時に、自身の世俗性に対してわびたといつてもよい。この場合、わびはその語のもつ「詫」の意味をも多少含むが、同時に、黄金、金箔に対する反抗として消極的な傲りをも含む。自身が金箔のなかにあつて金箔を否定するときには弁解が必要にならう。気取りはそこから起るわけである。私が傘亭をみて感じたのは、さういふ印象であつた。  傘亭のいはゆる利休好みに、はからずも露出してしまつたわびの気取りは、実はわびのなかに本来かくれてゐる要素でもあらう。藁屋に名馬といふ意識も実はそれを語つてゐるわけである。派手に派手に、豪華に豪華にと向つてゆく桃山式のなかにあつて、抑制へ抑制へ、めだたぬ方へめだたぬ方への方向もまた同時に動いてゐた。同じ数寄の間にあつても、書院台子の派手な茶と、草庵露地のわびた茶があつた。侘数寄の極北には善法とかノ貫がゐる。これはその極北の故に、わびのもつ対比性をも既に失つて、側目がわびの極端な姿として認めるにすぎないといふ域にまでつきすすんでゐる。ところで利休が一体どこに位置してゐたかを決めることは実にむづかしいことである。利休を論ずることのむづかしさは、実にこの一点にかかつてゐるといつてよい。 『南方録』の示す利休の如くに、わびの方へ単純化しえないからむづかしいのである。と同時に、利休の不逞といつてよいおもしろさは、この不安定なところにゐて、美しい形をつくりだしてゐることにある。いはば気取りながら、傘亭のやうに気取りと気づかせないところに利休がゐる。極端ないひ方をすれば、わばしながら、わびてゐるやうな姿をとつてゐるところが利休である。彼はある伝書のなかでかう書いてゐる。「数寄道はりこうになく、ぬるくなく、只取まはしの奇麗なる様に、たしなむ事肝要也と紹鴎老宣ひ候也。枯木の雪におれたる如く、すねすねしく手前の中に、またしほらしきこう(効)をなす事、成がたき物にて侍り、よくけいこすべし。」  ここにいふ、すねすねしく、と、しほらしき、とが利休において一致してゐた。意識的な、すねすねしく、が、意識的と外へはみえず、反つてしほらしくみえるところに、彼の手前があつた。この両者の統一といふ「成がたき事」を、成しとげたのが利休の茶であつたわけである。堀口捨己氏は、『利休の茶』のなかで、「茶杓は利休の茶の湯の心の象徴である」といひ、利休形の「茶杓之削様」を伝へた茶書のなかに、「茶杓ハ美《イツクシク》成不[#レ]申様ニ削物也」の句と、茶筒の切様として、「如何にも麁相に、そこめんなどもあらくふとく切て置也」の言葉を引いてゐる。美しくならないやうに削ることによつて美しさをだし、如何にも麁相にあらく切ることによつて反つて繊細な心遣ひを示すといふ複雑な働きがここにはある。  利休がいつた、すねすねしく、と、しほらしきの統一が、彼の実際の手前のうちにどうあらはれたかは、いまは知る由もないが、利休作の茶杓の中には、危いところでそれを示してゐるものがある。私は堀口氏の前掲書に載つてゐる写真によつて判断するのだが、気取りを気づかせない気取りが、実に紙一重のところでやうやく維持されてゐるやうな感を受ける。あやふい美しさである。私は紹鴎作とつたへられる筒と茶杓の実物をみたが、それには安定した、平凡な美しさはあつたが、利休のそれに感じるあやふさは全く感じなかつた。利休茶杓の共働者は『南方録』の作者である南坊宗啓であつたと伝へられるが、もしさうなら宗啓のなかにも、なにか危いものがあつたに違ひない。  すねすねしく、と、しほらしく、気取りと素直、麁相と繊細を、利休が現実の手前において示したと思はれるのは『細川忠興家譜』の伝へてゐる逸話である。「福島正則、或時忠興君に御申候は、其元には利休を御慕ひ被[#レ]成候。彼は武勇もなく、何共不[#レ]知者也。何処を御慕ひ候やとなり。忠興君仰に、彼は名誉ある者也、些御逢御覧候様とて有[#レ]之、利休所に御同道被[#レ]成候而、御茶の湯有しと也。正則我を折て、其元利休を御慕ひ候事尤也。我等如何なる強敵に向ひ候而も、ちぢけたる事無[#レ]之候。然るに利休に立向ひ候へば、臆したる様に覚え候。扨々名誉なるものと被[#レ]感候と也。」  さすがの福島正則をちぢけさせるものが利休の中にあつた。何とも知られざる者、といふなかには、利休の怪物性も含まれてゐよう。また茶室に臨んでのさばきに、単純な正則には解しかねる複雑なものの統一があつたのであらう。  然し如何に利休といへども、秀吉に三千石の茶頭として仕へ、時に黄金の茶室で田舎大名相手に茶を点じ、時に外交の枢機に参加する自分と、侘数寄専一を願ふ自分とを統一することはできない。これは統一するには余りに違ふ両つの要素である。また派手八分侘び二分、或ひは九分一分の秀吉と、ねずみ色とごまめ汁の利休とを統一することはできない。紅の小袖、紫の袴、赤地金襴の足袋といつた室内着、出掛けるときは作りひげ、かね黒といふいでたちの秀吉に、利休はどういふ顔をして対したであらうか。利休における侘びと派手との比率は一体どの位であつたのだらうか。秀吉に妥協し、また協力しうる要素は利休の全人格のうちでどの位の割合であつたのであらうか。所詮この二人は衝突せざるをえない運命であつた。  若し利休の派手と侘びとの間に見出した安定場所を強ひて示せといへば、それは次のところであつたらうか。佐久間不干斎の『明記集』がゑがく、利休の聚楽屋敷のさまである。 「近代太閤の御世、聚楽盛の時節、大名小名の屋形数百軒、いづれも金銀いらかを磨く。其中に寺ともなく武家とも見えざる家あり。其門二重屋根に作る。瓦をならべ、うちの住家よし有げにして、高くもなく、ひきくもなく、こうばいそらず、こうばいはやくもなく、ぬるくもなく、破風口、狐口に至るまで、他家にかはり、様子しほらしき事、絶[#二]言語[#一]。」  利休は一般に、東山流、即ち能阿弥、空海、道陳とつながる書院台子の茶と、珠光、紹鴎とつながる草庵の侘茶との統一者といはれてゐる。利休におけるこの統一の仕方はどのやうなものであつたらうか。桑田忠親氏はその『乱世と茶道』のなかで、秀吉対山上宗二のドラマを書いてゐる。このドラマは案外に事実を穿つてゐるやうにみえる。天正十一年正月に催された山崎妙喜庵の茶会の折、茶はいづれが真で、いづれが草であるか、といふ問題が秀吉から出された。秀吉みづからの主張は、「さる年われらが信長公の御前にて宗易より受けし口伝には、茶湯は台子が根本なり。真の台子を知らずば、行の風炉もなしがたく、草の炉もなすべからず、とあつたが、いかがじや。そちは宗易の一の弟子ではないか」といふのである。これに対する宗二の答へは、「さようでござります。しかし、信長公御他界いらい、世情はとくと変り申した。われらの茶湯は炉の薄茶をたつるが専一なり。これを真の茶と云ふ。世上濃茶を真と云ふは非なり。台子四っ組、小壺の大事も濃茶の中なり、共に真の茶にあらず。」  かういふ宗二の秀吉に対する抗弁を、利休は「差出がまし。ひかえられよ」と圧へてしまつた。もちろんここには秀吉の怒がどのやうな結果を招くかを考へ、愛弟子の宗二の生命をかばはうとする計ひがあつたに違ひない。然し秀吉に仕へる限り、利休は案外に、「ひかへられよ」といふ仲裁者の場所に、ひとつの安定を得てゐたのかもしれない。  秀吉からいへば書院台子の茶が本式、侘茶は略式である。これは利休も表向には肯定してゐることである。宗二からいへば草庵の侘数寄こそ根本で、書院の大名茶は末葉である。これも利休から直々に教はつたことである。利休は秀吉に向へば書院、宗二に対すれば草庵といふところにゐた。一徹者の宗二が秀吉の怒にふれて耳と鼻を削ぎ落されたといふのも、師説をまげなかつた結果といつてよい。  秀吉対宗二の場合には仲裁者であつた利休に、利休自らが自己の態度を決定しなければならぬ時機がやつて来た。書院か草庵かの二者択一を自分で決定しなければならぬことになつた。秀吉対利休といふ対立においては既に仲裁者はない。利休の切腹はまぬがれがたい運命であつたらう。 [#改ページ] [#小見出し]   七 利休以後の茶  利休の死後の「利休好み」の解釈は、解釈するものの自由である。秀吉は伏見城の造営に当つて、屋敷構への「利休好み」を云々する。『南方録』は草庵の侘専一を「利休好み」と強調する。ともに可能な主張である。『南方録』を茶の古典として、また聖典として受取つたのも、これも後世の解釈である。  利休が制裁された後、茶湯者の生きる道は侘びの方に徹するか、秀吉と協調するかの二つしかない。前者をとつたのが千宗旦、後者をとつたのが古田織部であらう。  利休の死後、その連坐を恐れて、長男の道安は細川三斎のもとに、次男の少庵は蒲生氏郷のもとにかくまはれ、その保護をうけた。利休在世中はともかく、世をしのぶ身としては侘びに向ふより外はなかつた筈である。少庵の子宗旦は祖父の切腹のとき十四歳であつたが、家を出て大徳寺の喝食となつて春屋和尚に参禅した。秀吉が千家再興を許し、少庵が京都へ帰つて不審庵を建てた後は、宗旦もここに移つた。宗旦はやがて今日の表千家の事実上の祖となるわけだが、彼は咄々斎、隠翁、寒雲と号したことによつて察せられるやうに、侘び専一を志し、乞食宗旦とさヘ呼ばれて、権門との交渉を断つた。  利休が切腹したのは天正十九年二月末日であるが、それから二ヶ月たつて津田宗及が死んだ。二年の後には今井宗久が死んだ。天下の三宗匠といはれた堺出身の茶人が相ついで亡くなつたわけである。秀吉の側には二十数人のいはゆる御咄衆、また御伽衆がゐた。織田有楽とか佳吉屋宗無などがそれに加はつてゐたのであるが、利休、宗及、宗久の去つた後は古田織部がおのづからその筆頭格になつた。織部によつて茶道は大きく変化した。  織部はもともと美濃国の武士の出である。初め信長に従つて功があり、後に秀吉に属して山崎合戦、賤ヶ嶽に参加し、功によつて山城国西岡領三万五千石の大名に登つた。慶長年間に西岡領を子に譲つて隠居格となつて秀吉に茶湯者として仕へたのである。従つて秀吉対織部の関係は初めから主従である。織部にとつての秀吉は主筋である。命令者と服従者の関係であつて、決して秀吉対利休の如き関係ではない。山崎の妙喜庵で利休が初めて秀吉に見えたとき、秀吉は四十七歳、利休は六十一歳であつた。利休は秀吉をただ筑前と呼びすて、秀吉は利休を宗易公と呼ぶやうな関係にあつた。しかも利休は堺の納屋衆の一人であり、自己の財産を投じて大徳寺の山門を造るほどの資力をもつてゐる。また当代の文化人として秀吉の所行を批評しうる眼力をもつてゐる。三千石の扶持を貰ひながらも、単純な主従とはいひきれないものがあるばかりか、茶室へ入れば天下の秀吉も利休門下の一人といふ位置である。秀吉には利休の点前に感心し、その能力を信じながらも、どこか煙たいところがあつた。政治家と芸術家との間にはいつもなにか煙たいものがあらう。つけひげ、はねぐろで、胸をはつて出かける自分を、利休がどんな眼でみてゐるか、といふ心理がどこかに動く。両者の衝突はかういふところからも必至であつたといつてよい。  古田織部は利休の弟子である。利休七哲のなかに加へられてゐる弟子、また利休の追放処分をうけたとき、細川三斎と彼とだけが、ひそかに淀の渡し場まで見送つたほどの間柄である。然し同時に織部は秀吉の臣下で、お伽衆の一人である。利休の弟子といふ点からいつても、秀吉と織部は同格である。しかも織部には堺出身の茶人がもつてゐた自由な批評精神はない。秀吉にとつては気楽な相手である。織部にとつては秀吉は命これ従はなければならぬ主君である。茶が秀吉対織部にいたつて大きく変つたことは当然であつた。「古織(古田織部)や吾等(小堀遠州)は、武門に身ををき、台命に応じて只天下の諸人、上下左右に座敷に膝をつらね、したしく相交る導きをのみ心にし侍れど、露地数寄屋の大体をかり用たるまでの事なり。自己の茶湯には利休風を仕度はおもへども、夫さへ人に見とがめられ、他の指南と我茶湯と別の事をするなどいはれ」といふ小堀遠州の述懐は織部にも共通してゐたであらう。いはば彼等のつくりだした茶は大名茶、貴人茶であつた。『古田家譜』の「利休歿後秀吉公に茶事御指南申上て、其節台命有之、利休が伝ふ所の茶法、武門の礼儀薄し。其宗を考へ茶法を改定むべきよし蒙、上意依[#レ]之織部正新に武門の茶法を制し」は、この間の消息を遺憾なく語つてゐる。  要するに、利休にあつた雪間の草の春の要素が姿を消してきて、花の茶、書院台子の茶になつたのである。「式正織部流」といふのは、書院式の「真」の茶であつて、露地草庵の「行、草」の茶、略式のそれではないといふ意味である。道具なしの茶湯を「あさましき侘のわざ」とする台子の茶、式目の茶である。身をかがめなくては使へない蹲踞が、中腰の高さの棗形に変つてくる。身を低くして入る躙口が、堂々と入りうる貴人口に変つてくる。自分の手で履物を揃へたのが、その役を茶室に任せることになる。露地の植込みにたんぽぽを咲かせたり、山鳩を鳴かせたり、ときに琴の音さへそへるといふ風が起きてきた。「織理窟奇麗立派にその他はお姫宗和にむさい宗旦」といふ狂歌が当時行はれたさうだが、むさい宗旦と極端に対立したのが式正織部流であつた。(秋元瑞阿弥氏に『古田織部正と其茶道』(昭和十三年)といふ好著がある。それに依ることが多い。)  利休の一身のなかにあつた二つの要素、即ち侘数寄と書院式、草と真が、二つに分裂して、一方はむさい宗旦、乞食宗旦となり、他方は式正織部流となつた。ともに時代の変遷のしからしめたところといつてよいが、ここで利休にあつた激烈にたぎるもの、きびしく凝るものは消えた。また権力者への批評精神も消えた。堺といふ自由都市の生んだ近代的批評精神、バテレンをして傲巌とまでいはしめた個人精神は、堺の経済的置位失墜とともに弱まり、封建制の主従関係のなかへ解消した。また逆に、信長、秀吉が代表した一種の近代性、即ち世俗性、無宗教性、現世謳歌に対立し、中世的な伝統、即ち枯れかじけ寒かれ、に立つ侘びも、その対立性を失つて四畳半の茶室のなかに孤立した。利休のなかにあつた不思議な二重性、即ち近代的批評精神と、中世的美的精神の合奏は利休の切腹とともに終つたのである。利休を分析してゆけば、不整合な分裂、矛盾としかいふよりほかにないものが、利休といふ一身で、危い調和をたもつてゐた。利休の行動と造形活動が、分析すれば矛盾にならざるをえないものを、美しく、また危く支へてゐたといふより外にない。  利休が死んだ頃に生れて七十余歳で死んだ清巌和尚は大徳寺また堺の南宗寺の住持であつて、小堀遠州とも親交のあつたひとといはれてゐるが、その『茶 十六ヶ条』の冒頭は既に次のやうなところへいつてしまつてゐる。 「若し茶の湯する人は、大名ならば大名に似合、有力の人ならば有力の人に似合ひ、また侘道人ならば侘道人に似合たるごとく、それぞれの分量に応じてせば何の誹かあらん。大名、有力、あるひは侘閑居の人、それぞれに応じて住居するなり。」  ここには貴人と茶湯者、大名と商人、侘茶と書院茶が、数寄の名において相会し、互に賓主となるといふことはない。二畳敷に関白を招じ入れることもなければ、黄金の茶室で博多商人を待遇するといふこともない。天正十五年に行はれた有名な北野の大茶会の触れ書には、「茶湯執心之ものは、若党、町人、百姓以下によらず、釜壱、つるべ一、のみ物、台、茶はこかしにても不苦候、ひつさげ来可然事。」「日本之義は不申及、如右之条、数寄心掛在之者は、唐国之もの迄不苦候事」といふ太閤命令が書かれてゐるが、江戸初期には既にさういふ豪毅な気運は失はれてしまつた。大名、有力者、侘人といふ身分が固定化して、それぞれその分に応じた住居、茶室にこもつてする仲間同志の遊びごとになつてしまつたのである。茶湯は「遊慰の一事」であると清巌はいつてゐる。  江戸初期の数寄大名として、四代将軍家綱の茶道師範をつとめたといふ片桐石州の『侘びの文』といふのも、「無心の花梢に白く、鳥の声さへ稀に、呉竹の枝打たわみ、軒端に昏ゐる四畳半に炉を囲み」といふやうな幼稚な美文調で始まつてゐるもので、ここにはもう「たぎつた」もののない、いはゆる「ぬるき」精神しかない。石州は「心を楽しむ数寄」とか、「茶の湯は慰み事」といつてゐる。松平不昧の『贅言』は立派な文章で、筋も通り、彼の茶の精神の深さの程も窺ひうるものだが、然しここにも「大は大、小は小にて、一家を治め一身の治めとなすこと」とか、「茶の本意は知足を本とす。茶道は分々に足ることを知ると云ふ方便なり」の句が見える。儒教の修身斎家治国の臭ひが強く、何か窮屈である。  乞食宗旦とまでいはれた利休の孫の不審庵主の遺書といはれる『禅茶録』は、その名のやうに茶を禅に結びつけ、禅において茶を行じたもので、「点茶は全く禅法にして、自性を了解するの工夫なり」とか、「茶意は即ち禅意なり。故に禅意を置きて茶意なく、禅味を知らざれば茶味も知られず」等の言葉が見える。彼は自己の「趣」を立てて行ふことを嫌ひ、侘びを趣とすることをも「奢」として斥けた。知足を趣とすればまた知足にとらはれ、禅に心を囚はれれば邪法に堕するとさへいつてゐる。彼は侘びに徹しようとして、「侘を仮りる」こと、「侘風流」を気取ることを斥けた。侘びに徹するためには無に徹しなければならぬ。自己の「思慮作為」を捨てねばならぬ。「物に執して心を動かす」ところの計ひを去らねばならぬ。捨てようとする心、去らうとする心をまた捨てねばならぬ。「無の一字を添へざれば、俗茶にて、全く遊興の戯れに落べし」と彼は書いた。「名物など云ひて世に賞玩する茶器は貴ぶに足らず」といひ、「円虚清浄の一心を以て器とするなり」といつた。かん鍋ひとつの侘数寄者の粟田口善法の茶を禅の背景にして行つたといふことができる。  この宗旦と、「それ茶の湯の道とて外にはなし。君父に忠孝を尽し、家々の業を懈怠なく、ことさらに旧友の交をうしなふことなかれ、春は青葉がくれの郭公鳥、秋はいと淋しさまさる夕の空、冬は雪の曉、いづれも茶の湯の風情ぞかし」と書いた小堀遠州とをくらべてみれば、中世的禅的精神と、江戸期の御用儒教のマナリズムとの相違のほどが知られるといふものである。宗旦の後に宗旦なく、侘びの極北として侘びを否定した乞食宗旦を最後として、侘びもまた時代から消えたといつてよいだらう。禅茶が消え、侘びの批評精神も消え、「遊慰」のたのしみ茶、忠孝と知足の道具としての茶となつていつた。少くとも文書の上ではさうである。(私は『新修茶道全集』巻九、文献篇下巻(昭和三十一年春秋社発行)所載の『禅茶録』によつてこれを書いた。解題者は桑田忠親氏である。それによれば、『禅茶録』は一名『茶禅同一味』、また『宗旦遺書茶禅同一味』といはれ、宗旦の遺書といはれてゐるもので、文政年間に上梓されたもの、といふことになつてゐる。私はそれによつて宗旦遺書として扱つたわけである。ところが、そのあとで気づいたのだが、『茶——私の見方』(昭和三十一年、春秋社発行)所載の『禅茶録』につけた古田紹欽氏の解説によれば、この書の著者は寂庵宗沢であり、ただ東都の人といふだけで履歴不明であるといふ。宗旦の歿した万治元年から、この書の上梓された文政十一年までの間に在世した人であらうといふ推定である。私にはこの二つの解説のいづれをとるべきかがわからない。『禅茶録』中に、沢庵和尚、小堀遠州の名前が出てくるが、この両者の歿年をしらべてみても、宗旦遺書としても矛盾しない。又文中に宗旦の名が出てくるが、それは、「是は利休好み、彼は宗旦好みなど、種々の新奇を創めて云々」といふコンテッキストからみれば、やはり宗旦遺書としても差支へない。さきに書いたやうに『禅茶録』は文章も立派な上に、諸学に通じ、殊に禅の修業の深い人でなければ書けない性質の書である。一体寂庵宗沢とは何者であらうか。わびにわびて咄々斎、寒雲、隠翁を名のつた宗旦の、世をしのんでの名が寂庵であり宗沢であつたのではないかといふ想像もでてくる。また沢庵宗彭の沢庵和尚ではないか、沢庵が幕府から流謫されて出羽の上の山に蟄居してゐた頃の筆のすさび、世をはばかつた名ではないか、といふ想像もでてくる。また沢庵門下が沢庵の口述を筆記したものか、さらには門下の侘数寄の著かといふ想像もでてくる。いづれにしても寂庵宗沢はただものではない。)  大徳寺の塔頭聚光院にある利休の墓は墓としては風変りな宝塔とも燈籠ともいへる形のものである。聚光院に伝来する利休の寄進状によれば、天正十七年、即ち死の二年前に、利休は聚光院に米七石を永代寄進し、父母及び二子の冥福を祈り、かねて逆修ながら利休夫妻の名を朱で刻した石燈籠を置いたといふ。その燈籠がいまの墓石だといふのである。これを事実とすれば、この墓は利休の生前に、彼自身の好みによつて選ばれたものであるわけである。いまは重要文化財に指定されてゐるといふこの墓には、やはり利休の一種の気取りが感じられる。美しい形ではあるが世の常のものではない。この墓の左に利休の一族の墓があり、そのなかに宗旦のが小さく、つつましく控へてゐる。高さは利休のそれの四分の一ぐらゐであらうか。形もありふれたものである。この二つの墓が利休と宗旦をそのままに語つてゐるやうにみえる。抛筌斎と咄々斎、利休居士と寒雲居士の相違といはうか。  わびは元来、対比においてなりたつものであつた。豪奢に対し、また過剰に対して、意識的に自己を対比するのがわびであつた。あるときはそれが失意の形をとり、落魄の感情をともなつた。あるときはみづからの閑居をたのしみ、俗人の知らない出世間の簡素を楽しんだ。然し対比である以上、そこに何等かの気取りをまぬがれない。わびた心によつて、対比の対照を批評し、また評価するといふ性格をもつ。秀吉と利休との衝突もそこから当然に起きてきたものであつた。利休の場合、当の相手は関白であり、絶封権を握つてゐるものであつた。権力者への批判、評価は死を賭しての行為である。利休の茶が、また一般に彼の行為が、はげしく「たぎつた」ものであつたのはそのためである。生死を賭けての茶であつたわけである。ところで徳川政権が安定すると、戦国以来の下剋上は失はれ、勢力を窺ふことは禁ぜられ、士農工商の身分制度は固定してきた。成上りの得意なものもでなければ、成下つた失意のわび人もでなくなつた。その上、自由な批評精神は危険なものとして禁ぜられ、各自がその分に応じての知足が要求された。かくしてわびはいはばその対比すべき相手、批評すべき対象を失つたわけである。対比を失つたわびは既に本来のわびではない。気取りはなくなつたが、気位もまたうすれ、「ぬるい」もの、わびすましたものとなる。私は利休の墓と宗旦の墓をみて、その時代の相違を感じるとともに、わびそのものの変質を感じた。対比物を失つたわびは、その性格を変へねばならぬ。 『禅茶録』は、わびに対して次のやうにいつてゐる。 「侘の一字は茶道に於いて重じ用ひて持戒となせり。然るを俗輩陽《ウハベ》の容態は侘を仮りて、陰《ウチ》には更に侘る意なし。故に形は侘びたる一茶斎に許多の黄金を費耗し、陳奇の磁器に田園を換て賓客に衒《テラ》し、此を侘風流なりと唱ふるは抑何の所謂ぞや。」 『禅茶録』によれば、不自由なるも不自由と思はず、不調も不調と思はず、また不自由や不調を気取らず誇らないのが、真のわびであつた。ここに禅茶は「自性を了解する工夫」であり、「自得」の公案となる。ここには対比などありえようがない。対比において始めてこちらがあるのでなく、対比なくしてあるところの本来の面目を探し出せといふのである。有と有との対比を去つて、無賓主にしてなほあるところを了解せよといふのである。「もし無の一字を添えざれば俗茶」といふ無はここから当然に出てくる。  ここから「物皆自得」をいふ芭蕉へは案外に近い。ここで|わび《ヽヽ》は再び|さび《ヽヽ》に還る。然しこの問題へいそぐ前に、なほしばらく利休にかかづらはなければならぬ。 [#改ページ] [#小見出し]   八 利休の切腹  私はここに利休の茶会のうち、興味あるもの四、五を選んで書きとめておきたい。  一つは、小宮豊隆氏がその著『茶と利休』のなかで、客振の模範として挙げてゐるものである。 「或暁雲にて面白かりけるに、宗及不斗思立て利休へ参られたり。案の如く露地の戸細めに儲てあり。腰掛に入て案内してやすらはるる内、名香遠く薫じて、灯幽か也。偖こそ蘭麝なることを利《きき》知られしと也。及(宗及)は香方の達者也。さも有べきこと也。宗易は紙子に十徳にて迎に出らるる。座入の後名香のすがりをと所望有て、香炉其儘に出さるる。主客差向ひて何角《なにか》と挨拶の内に、水屋の潜りの明《あ》く音したり。易(宗易)申さるるは、醒《さめ》ヶ井に水汲に遣したるが、遅なはりて只今来ると覚え候。迚もの事水を改め可申候とて、釜引上げて勝手へ持入られし其跡に、宗及其儘台目に行て見らるるに、即寅の火相えもいはれぬ火相也。棚に炭取に炭組て有けるを、宗及取卸して炭を置添、羽箒にて台目を掃き行れしに、利休堂口を開き釜持出らるる時、及の云、火相勿論に候へ共、水改り候間、一際火相御強め候半と推量申候故、御老足を厭《いとひ》て其炭加置候由申さる。休殊の外感じ、かやうの客に逢てこそ湯沸し茶点《たて》たる甲斐はあれとて、此客振後迄語り出されし也。夜長き比にて、其後明離るるまで良久しかりしかば、此火相にて茶を進じ度との挨拶にて、未だ闇き内に懐石出され、食の間に夜明たり」(『南方録』巻之七)。  この朝会はいかにも美しい。雪の早朝といふよりも未明に、雪をたのしんで宗及が利休のもとを訪れる。利休はひとり折柄の雪をたのしみ、茶の用意をしてゐる。季もよければ景物もよく、賓主互によい。客振り、亭主振り、喜々として然も礼節があり、心がとどいて互に互を慮りながら然も自由である。茶のたのしみ、茶の心のしみじみとうかがはれる会である。  その二つは堀口捨己氏がその『利休の茶』のなかで、「鋭くはげしい茶会」の代表として書いてゐる天正十六年九月四日の利休主催の朝会である。所は京都聚楽第内にあつた利休屋敷の四畳半の茶室で、客は正客が春屋和尚、次客が古渓和尚、三の客が玉甫和尚、以上三人は大徳寺である。詰は三井寺の本覚坊で利休の弟子である。古渓和尚は事によつて石田三成との間に隙ができ、秀吉の機嫌を損じて九州博多に流されることになつたが、この茶会はその古渓和尚の西国へ向ふ折の送別のためのものであつた。送別の会にふさはしく客を組み、心おきなく朝を過さうといふのである。床には生島虚堂の文字を掛けた。これは「天下一の名物」といはれた秀吉所有のもので、折しも表装がいたんだため、その修繕を命ぜられて利休が預つてゐたものである。それを隠密に使つたのである。文字は「木葉辞柯霜気清 虎頭戴角出禅※[#「戸/冂/口」、unicode6243] 東西南北無之処 急々帰来語此情」の四行である。第一句の木の葉は枝をはなれて霜気が強い、は、九月のいまの季に会つてゐる。第二句の頭角をぬきんでた傑僧が禅門を出る、は、古渓和尚の現状を尽してゐる。第三、四の句の、門を出でて人なき境を悟り、急ぎ帰り来つて、その情を語れ、は、送別の主の、やがての帰還を祈る心を直接に示してゐる言葉といつてよい。  豪胆を以て聞えた利休でも、秀吉から特に預つたものを無断で私用に供するといふやうなことは常はなかつたであらう。ただこの際、彼の参禅の師であつた古渓を送るには、この軸の、この詩句以上に適したものはないといふ判断のもとに、どうしてもこの軸を掛けざるをえない心にせまられたのであらう。秀吉のゐる聚楽第の中で、秀吉の勘気にふれた人物を送別する会に、秀吉所有の天下一といふ名物を無断で使用するとは、思ひきつたやり方である。洩れれば利休の首も即座に飛ぶかもしれぬ。それを覚悟で、なほかつこれを客のために掛けるところに、鋭くてはげしい利休の気性と茶会の在り方が窺へるといふのが堀口氏の意見である。  この茶会は、第一の雪の会とちがつて、決して、たのしいものではない。雪の未明を宗及とともにたのしんだ会にも、利休の心遣ひはくまなくあらはれてゐるが、この送別の会にもまた利休は鋭い心を働かしてゐる。深く参禅の師を思ふと同時に、師の心を、命をかけていたはつてゐる。茶人利休の平常底の心が、ときには雪の朝会の如きものとなつてあらはれ、ときには秋霜烈日の会ともなつてあらはれるといふわけである。  ことのついでに、幸田露伴が『蒲生氏郷』の中で書いてゐる会の様子を書き添へておかう。これには利休は直接の関係はない。然し利休も往々このやうな会にも立会つたらうことは確かで、当時の茶会が単に侘数寄専一ですませるものではなかつたことがこれでわかるのである。  利休切腹の二ヶ月たらず前、即ち天正十九年正月二日附で利休が奥羽二本松に出陣中の松井佐渡守宛に書いた手紙の中で、「奥州一揆蜂起の事、偏に政宗(伊達)謀反之段無紛候様に上様(秀吉)御耳へも入申候」と書き、それにつづけて、「羽忠(羽柴中三郎氏郷)を政宗武略の覚悟、羽忠油断之様に被思召候」といつてゐる。秀吉は小田原征伐の際、言を左右にして遅参した伊達政宗の封を削つて会津四十余万石を蒲生氏郷に与へて奥羽の鎮護とした。米沢三十万石にとぢこめられた政宗は内心おだやかであらう筈はなく、奥羽奥地の土豪を指嗾して土一揆を起さしめ、氏郷をして奔命に疲らせるといふ悪だくみを企てた。政宗自身も太閤の命によつて表面は一揆討伐に協力するが如くに装ひながら、裏では氏郷を窮地へと誘ひ入れ、折柄の厳冬と相まつてその自滅を計つた。この相抵抗する二人の豪傑が、はからずも陣中の茶会で会つてゐる。政宗は自領のはづれの前野に陣をとつたが、明日はいよいよ敵陣へ入るわけだから、一席の茶会をひらき、ともどもに語り合ひたいといふ書状を氏郷のもとへやつた。氏郷は家来どもの心配をよそに、御懇情忝けないといつて明朝の会への出席を応諾した。次の朝、氏郷麾下の猛将七八人は甲冑姿で氏郷に従ひ、氏郷一人を入れて数寄屋の潜《くぐり》門を閉ぢようとする政宗の家来を突飛ばし、相伴つかまつるを口実にして座敷に坐つた。茶は型の如くに無事に終つたが、帰途、氏郷は印籠から「西大寺」といふ薬をとりだして、水をもたせてこれを飲み、茶も懐石も一時に吐いて、急いで自陣に馬を走らせたといふのである。これは『氏郷記』といふ蒲生方の記すところで、政宗に果して毒殺の企てがあつたかどうかはわからない。利休が松井宛の前記の手紙を書いたのは、このことあつて約一ヶ月半の後で、氏郷、正宗の間が両立しえないほど危いものになつてゐたことがわかる。  秀吉はこの二人に上洛を命じた。両人は太閤の命をきかないわけにはゆかず、京都に来たは来たが相変らず対立は解けない。この犬猿の調停役を秀吉は前田利家に頼んだ。両人の仲悪きは天下のために不為《ふため》であるから、といふのが秀吉の言ひ分である。然し両虎一澗に会へば相搏たずんばやまずは必至である。危い役を引受けた利家は細心の注意を払つて両雄を自邸へ招いた。相客としては浅野長政、細川忠興、佐竹備後守等、蒲生方、伊達方から公平に数人を選んだ。会はもとより殺気をふくんでゐる。互に少しの無礼もゆるさないといふ風情である。みると政宗は朱鞘の大脇指をさしてゐる。一尺八九寸もあらうといふ脇指にしては途方もなく長いものである。このあとは露伴の生き生きした文章にゆづつた方がよい。「何にせよ政宗の大脇指は目に立つた。人々も目を着けて之を読んだらう。仲直り扱ひの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけに流石に好かつた。其大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御ん仕方、と挨拶ながら当てた。綿の中に何かがある言葉だ。実に味がある。又左衛門大出来、大出来。——如何に政宗でも、扱ひ役である利家に対《むか》つて此語を如何ともすることは出来無かつたらう。殊のほか当つたに相違ない。然し政宗も悪くはなかつた、遠国に候故、と云つて謹んでおとなしくしたといふ。田舎者でござるから、といふやうなものだ。」氏郷、政宗の調停は利家の気転の一語によつて無事に終つたといふのである。  恐らく右の一幕は利休切腹の後、いくばくもない時期に行はれたものであらう。利休はこのとき控へにもゐなかつたわけだが、この種の会には幾度か立合つてゐるに違ひない。一語の気転作略で好転もするかはりに、一語一動の粗略でたちまち命にかかはるやうな、また一席の不首尾が全生涯の不運を招くやうなさういふ危い席に茶頭として出もするし、亭主として応対もしたに違ひない。島津方や徳川方の客を迎へたり、また軍略戦略を議する秘密会合をやつたり、さては神谷宗湛、島井宗室等の博多の富豪を客にして、茶話以外の軍資調達の議を計つたりしたに相違ないのである。利休にはさういふ策略もあればまた貫禄、度胸もあつた。また逆にさういふいきづまる会に臨んだからこそ、一方に二畳半に侘びすます草庵露地一風の茶を心に願つたに違ひないのである。  宗及と利休の会は、茶人同志の心あたたまる会であつた。古渓和尚の送別の会は、それにふさはしい心をこめた会であつた。氏郷と政宗また利家の会は、戦国といふ時代の示す真剣勝負であつた。以上の三つはその性格を全く異にした会ではあるが、どことなくすつきりしたものがある。第三の会といへども後味は悪くない。ところで秀吉と利休の会には、なんとなくすつきりしないものを感じる。一方が力でおさへつけようとすれば、他方は皮肉を以て応じて負けまいとするやうなところがみえる。  そのひとつの例は、後世の語り草になつてゐる朝顔の会である。この話の出所は千宗旦が弟子の宗偏に与へたと伝へられる次の文によるといふ。 「利翁庭に朝顔盛りの節、秀吉公御望にてなられ候事有。かこいの床にただ一輪、朝顔の葉まじへ生置《いけおく》。庭前の朝顔、前夜に翌朝咲迄に、莟を一輪も残らずつみ取、庭前にはすべて朝顔なかりけるよし。秀吉公は感賞斜ならざりしとかや」(堀口捨己氏の『利休の朝顔の茶』による)。  この文では、ただ莟を残らずつみ取つた、といふだけになつてゐるが、後の語り草では朝顔をすべて苅りとつたとか、また掘りぬいてしまつた、とかいふ風に誇張されてきてゐる。さういふ誇張の方がこの場合一層面白いわけである。当時朝顔は渡来早々で珍らしい花であつたといふ(竹内尉氏の『千利休』による)。利休は早速にこの珍花を庭に植ゑて、それを珍重してゐたわけである。噂を聞いて秀吉が花の盛りを見計つてみにきたのである。折角関白がお越になつたのに、噂に聞いた花は庭にひとつも見当らない。不審を抱いて茶室に入つてみると、たつた一輪が、実に手際よく挿してあつた。その趣向をみて秀吉は感賞斜ならずであつたといふのである。右の話の解釈の二、三を紹介してみよう。  堀口氏は、これを利休の茶の厳《きび》しさ、鋭さ、辛《から》さを示す一つの例だといつてゐる。そして次のやうに書いてゐる。「秀吉が、朝顔を見たいと云つて来たのに、その花を総て取り捨ててしまつた仕打は、ことによつたら、そのまま腰の刀に手が掛らないものでもありません。これはただの茶飲み友達の場合とは、事が違ひます。恐らく彼の心構は動かす事の出来ない一つの悟りの境に立つて、その力によつて、茶の心を秀吉に教へるにあつたのでありませう。利休はそれを命を懸けて行つたかと思はれます。そこに彼の心入の深さと大さが、常の場合よりも物に即いて、輝き出してゐたに違ひありません。それ故にこそ、秀吉も思はざるところに、然し正に在るべき所の床の間に、一輪の朝顔を見出して、然も庭に幾花も吹き乱れた美しさより、遥かに秀れた美しさを見たのでありませう。」  小宮豊隆氏も大体は堀口氏と同意見で、庭の朝顔をすべてひつこぬいて、たつた一輪を示したのは、「美の単化であり、集中であり、圧縮である」といつて次のやうにつけ加へてゐる。「美は移ろひ易いものの一つであります。その最も移ろひ易い朝顔の美を、最も鋭く、最も凝集した形で表現するために採つた利休のこのやり方には、恐らく利休も最も心肝を砕いたことと想像されます。秀吉が大変に感心したと言はれてゐるのも、当然であると言つていいと思ひます」(同氏著『茶と利休』所載)。  私は堀口氏とともに、利休の厳しさ、鋭さを認めるし、小宮氏とともに、一輪のうちに凝集した美にもちろん感心するのだが、然しここにはなにか争気また匠気といつたものを感じざるをえない。堀口氏の言葉でいへば、秀吉に「教へよう」とする気がある。小宮氏がつづいて書いてゐるところに従へば、秀吉が利休の隙を狙つて一本スパリと打込まうとすれば、利休はそれをひねつてかはしてしまふといふところがある。私はむしろ竹内尉氏が「皮肉」といつてゐるものに同感する。利休は秀吉に対するとき、なにか素直なものを失つてしまふ。黄金の茶室に対して傘亭をもちださざるをえないやうな、宿命的といつてよい対立をここでもやはり感じるのである。「秀吉公感賞斜ならざりしとかや」の中にも、単純なそれではなく、一本してやられたときの感嘆の声であつたらう。利休はこの感嘆を聞いてどのやうな顔をしてゐたであらうか。声には出さなかつたに違ひない。黙つて茶筅をふつてゐたことであらう。その姿に、皮肉といつて悪ければ、私はシニシズムを感じるのである。  利休が切腹を命ぜられた原因、また切腹の仕方についてここで考へてみたい。  利休の娘を秀吉が所望したのに拘らず、利休がこれを拒否したので、秀吉の怒を買つて死を命ぜられたといふ流説は、これを伝へてゐる資料の一つが、この事件を天正十七年二月の出来事としてゐることによつて、少くとも直接の原因ではないことは明らかである。  大徳寺山門の楼閣に自身の像をあげたことがわかり、秀吉の激怒を買つたといふ説は、利休の娘の事件にくらべれば近因ともいへる。連歌師の宗長が苦心して資金をあつめて山門を寄進したが完成するに到らず、そのままになつてゐたが、新に利休の献金によつて成つたものといふ。この楼閣は金毛閣といはれ、天井の雲龍は長谷川等伯の筆といふから立派なものである。その棟符銘は大徳寺の春屋和尚によつて書かれたが、その中に、「檀越泉南利休老居士修造」といふ大袈裟な文句がある。ともかくこの楼の上に、雪踏をはき杖をついた利休の木像をおいたといふわけである。この山門は勅使でも関白でも、その下をくぐらなければならぬのに、それを雪踏ばきで見下すとは不遜極まるといつて秀吉はこの木像をひきずりおろし、聚楽の大門の戻《もどり》橋で磔に処した。木像の磔とは前代未聞のことと京中の評判になつたといふ記事があるさうだから、秀吉の激怒のほども察せられるのである。秀吉はかかることを敢てゆるした大徳寺そのものの責任を問ひ、寺をも破却しようとしたが、大政所や諸将のとりなしでやうやくそれをまぬがれたといふ。  木像事件がこのやうな結果をもたらしたのは、ときの京都奉行であつた前田玄以、また石田三成の進言によるものだといふ説がある。この二人は利休とは合はず、その専権を憎んでゐたから、或ひはさうかもしれない。金毛閣が完成したのは天正十七年であるから、切腹の一年余り前のことである。それがいま俄かに問題とされたのだから、なにびとかの進言があつてのこととみても不自然ではない。何故このときにいたつて始めて問題化しえたかといへば、天正十九年の正月二十二日に秀吉の弟で利休の保護者であつた秀長が病死したから、といふ条件があげられる。当時秀吉の側近は二派に対立してゐた。一は大政所、北政所、秀長、それに利休を加へた一派で、他は淀君、石田三成、前田玄以などでかためたものである。海音寺潮五郎氏の『茶道太閤記』はこの両派の対立抗争を小説ではあるが巧みに描いてゐる。淀君と対立する側に、いまは秀吉の妾となつてゐる蒲生氏郷の妹三の丸殿と前田利家の娘加賀様をおき、淀君対両妾の間に利休の娘お吟をおいて、大奥の対立を茶を通して描いてゐる。とにかく秀長、例の内々のことは利休、公儀のことは自分といつて大阪城内の勢力を折柄登城した九州の大友宗麟に語つた大納言の秀長が病没したことは、石田派を圧へてゐた重石がとれたやうなものであつたらう。孤立した利休を一挙に葬るために、木像事件が秀長の死後日ならずして明るみに出されたといふ解釈ができる。  利休の切腹の原因といはれるもうひとつは、例の売僧《まいす》云々といふ宣伝である。『多聞院日記』は二月二十八日に切腹してはてたといふ知らせを聞いた日、「近年新儀の道具共用意して、高値にうる売僧の頂上なりとて歟、」と書き、「誠悪行故也」と秀吉の処置を肯定してゐる。『細川忠興家譜』にも同様なことが誌されてゐるし、『豊鑑』にも利休が茶器売買で大いに儲けて、「おごりを極めた」と書いてゐる。利休に右に類する行為のあつたことは事実であらう。然しこれも長い年月にわたることであつて、切腹の直接原因ではない。ただこれらの記事によつて察しうることは、常時利休の勢力またおごりを憎んでゐたひとたちが多くゐたといふことである。  以上にあげた三つの原因、即ち利休がその娘に対する秀吉の所望を拒否したこと、大徳寺山門に木像を置いたこと、売僧の所行のあつたといふことは、たとへ遠因ではあつても直接の原因とはいへない。では直接原因は何であらうか。  千宗守氏はその『利休居士の茶道』(昭和十八年)のなかで次のやうにいつてゐる。「利休は次第に秀吉に信用を深くした事によつて、諸将も直接秀吉に依頼したい様な事があると多くこの利休を介した。又秀吉も利休に茶道の関係によつて知られて来る諸将を懐柔する為に利休を用ゐたと云ふ事も随分窺はれる事である。さう云ふ事の間に何か深い抜き差しならぬ事情が起つた為に遂に死を賜つたのでは無いかと思はれる。」また秀吉が島津を征伐する前、その家老の伊集院忠棟が利休の茶の弟子であつたといふ因縁をたどつて、利休に忠棟宛に、降伏を勧告する手紙を出さしめたことを挙げ、さういふ機密に参画してゐるうちに、「何か公の事で許すべからざることが生じた結果、遂に死なねばならなくなつたのではないか(中略)。恐らく秀吉と諸大名の誰かとの間に起つた機密に関する重大事件に介在してゐたのが死の原因であつて、其為に遂に誰もその真髄に触れる事が出来なかつたのであらう」といつてゐる。  千宗守氏の右の考へは、利休の遺偈を併せ考へるとき、再考に値する示唆を含んでゐる。私にとつては利休の遺偈は長い間の謎であつた。  大徳寺の古渓和尚の語録の中に次の如きものがある。    青黄二碗  青師一閑紹鴎伝[#二]千利休宗易居士[#一]、居士一生喫茶持用之器也。  天正十九年二月念八目、居士因[#レ]事而卒、寿七十余、末後与[#レ]衲喫茶、衲問末後之一句|乍麼生《ソモサン》、居士答曰、白日青天怒電走、言了伝[#二]于衲[#一]。清正(加藤)来見而打[#二]破之[#一]、衲修理而伝[#二]于末世[#一]焉。  黄衲一生喫茶持用之器也。  さきにも書いたやうに古渓は天正十四年、秀吉から九州へ配流されたこともある人物である。舟岡山に一寺を創建せんとして石田三成とあはず、ために追放の処分にあつたといはれる。天正十八年に大徳寺に帰参がかなつたのは、恐らく利休などのとりなしによるものであらう。天正十九年正月に歿した秀長の法要のときには秀吉の請によつて導師をつとめてもゐる。木像事件が明るみにでたとき、秀吉は大徳寺をも破壊しようとして家康等四使を派遣したが、古渓は自己の死を以て寺を救はうといふ気概を示したので、家康等のとりなしによつて破壊をまぬがれたと伝へられてゐる。  古渓と利休との関係は既に度々書いたが、天正十三年の禁中茶会を機に、利休が居士号を貰つたとき、古渓は次のやうな賀頌を作つてゐる。  泉南之抛筌斎宗易廼予三十年飽参之徒也。禅余以[#二]茶事[#一]為[#レ]務、頃《コノゴロ》辱特降[#二]綸命[#一]賜[#二]利休居士之号[#一]、聞[#二]斯盛挙[#一]不[#レ]堪[#二]歓抃[#一]、贅[#二]一偈[#一]以抒[#二]賀忱[#一]云。    ※[#「まだれ/龍」、unicode9f90]老神通老作家 飢来喫飯遇[#レ]茶々    心空及第等閑[#(ニ)]看[#(ル)] 風露新香隠逸花  二人は三十年以上の交りであつた。禅では古渓が師、茶では利休が師の間柄である。  右のことを条件に入れてさきの語録を読んでみよう。  居士、事に因つて卒す、といふ短い言ひ方は、それが短いだけに意味を含んでゐるやうにみえる。事に因つての、事を或ひは古渓だけは知つてゐたかも知れないといふ想像もでてくる。二人で末後の茶を喫したといふが、利休は二月十三日に京都を追放されてゐるのだから、これはそれ以前でなければならぬ。追放以前に既に末後を承認し合つてゐるのだから、この二人の間には腹の底を割つた話が交されたに違ひない。他人には言へないことを言つたに違ひない。古渓が最期の覚悟のほどを聞いたときの一句、「白日青天怒電走」も、尋常のものではない。何か裏に秘密をふくんでゐるやうな気配である。末期の一句を呈した利休は、かたみとして青色の茶碗を古渓に贈つた。後に加藤清正が寺に来たとき、この茶碗をたたきこはした。それを自分が修理して後に伝へるのである、といふのだが、清正が何故この青茶碗を毀したか、についても種々の疑問がでてくる。  秀吉から破壊の命令をうけてやつてきた家康は、大徳寺及び古渓をかばつてこれを救つてゐる。清正は利休相伝の茶碗をたたきつけてゐる。この単純な二つの事柄から家康対清正の対立関係を帰納するのは冒険だが、単純な清正が石田三成に躍らされてゐるといふ想像がわいてくる。大徳寺を毀ちえなかつた腹いせに茶碗を毀したのかもしれぬ。激怒した秀吉から破壊せよとの命をうけながら、家康がこれを救ひ、秀吉もまた納得して、寺と和尚の命が長らへたのも単純なことではない。何か裏に潜在するといふ想像は無理ではない。 「白日青天怒電走」の出所は、『江湖風月集』の重慶霊叟源和尚の詩偈だといふ(千宗守氏前掲書)。      守[#レ]口如[#レ]瓶    明々只在[#二]鼻孔下[#一] 動著無[#レ]非[#二]是禍門[#一]    直下放教如[#二]木※[#「木+突」][#一] 青天白日怒雷走  この最後の句から由来するのだが、青天と白日が逆になり、雷が電に変つてゐる。  口を守ること瓶の如し、といふのは、瓶が傾けば忽ち流れ出る水を、口をとざして流さないといふ意味であらう。鼻孔の下にあるこのなんでもない口が、ことにかかづらつて動かせばまた禍の門となる。第三の句の木※[#「木+突」]の如し、といふのは私には解しかねる。恐らく二句の動著に対して直下放教といつたのであらうか。かれこれと思ひ惑はずに、青天白日を怒雷の走るが如く大声一番せよ、といふ意味であらうか。これはもう一つの遺偈にある「力囲」即ち※[#「囗<力」]に通ずるものである。  利休の白日青天の句は、千宗守氏によれば、「悟後達観の名言として禅家の間に重んぜられてゐる」さうである。なるほどさういふ節もある。然し、何故利休が末後の一句にこの句を選んだか。「守[#レ]口如[#レ]瓶」とか、禍門といふ連想がなかつたかどうか。  石田三成にふとして傾くべきでない瓶を傾けてしまつたことの禍があつた、とみれないかどうか。津田宗及が持前の外交で石田三成に取入つてゐたのに、利休はそれを敢てしなかつたといふことが伝へられてゐる。「内々の事は宗易、公儀は秀長」といふ勢力の一方の秀長が既になく、利休一人なほ傲然として内々の事に関与してゐたのでは、三成と不仲になるのは当然である。『堺市史』はその第二巻で利休の死因にふれ、「利休も持前の自負豪放が祟つて、不用意の間に秀吉の怒を招いた気味もないではなかつたらうが、秀吉の寵臣として日夜其左右に侍し、迎合に巧みであつた石田三成の魔手の動いた事を見遁すことはできぬ」といつてゐる(五四四頁)。  では、利休はどのやうなことを三成にしやべつたか。私は千宗守のいふやうに、天下の大事にわたる機密を入れた瓶の口を開いたとは思はない。恐らく利休の娘お吟にわたることではなかつたか。或ひはお吟がかういつてゐた、といふやうなことを、ふとしたはずみに三成にしやべつたことが、禍の門をなしたのではないか。これ以上は海音寺氏の小説や、また今東光氏の『お吟さま』にゆづるが、お吟事件に三成が関与してゐたこと、またキリシタンの高山右近が、これに関係があつたことは考へられる。利休の死んだ翌月、三成の手が利休の妻女をとらへ、きびしい拷問にかけて死にいたらしめたのは、三成と利休の娘との間に、三成及び秀吉を怒らせるやうな事件があつたに違ひない。若し利休自身の罪によつてその一統が連坐しなければならないとすれば、利休の子、道安や少庵こそ拷問にかけらるべきであるのに、一人は忠興、一人は氏郷のもとにひきとられ、やがて少庵による跡目復興が許されてゐるのである。千家再興を斡旋したのは、家康、利家であつた。  利休が死の四日前、即ち天正十九年二月二十五日といふ日附で書いてゐるもうひとつの偈は普通には次のやうに書かれてゐる。    人生七十  力囲希咄    吾這宝剣  祖仏共殺    提ル我得具足の一ッ太刀今此時ぞ天に抛 「提ル」の方は読み易いが、「人生七十」の方は読み難い。利休自筆のものは    人世七十力※[#「囗<力」]希    咄吾這宝剣祖仏    共殺 となつてゐる由である。  問題は「力囲希」のところで、一般には利休は、力囲と書くべきところを、力※[#「囗<力」]希と書いてしまつたらう、といふことで、普通には力囲希となつたわけである。力囲は、元来は※[#「囗<力」]《カ》と書くべき一字であるが、力と囗を分ち、囗を囲または圍に書いたといはれる。さうすると、意は※[#「囗<力」]希といふことになる。※[#「囗<力」]はもともと禅家の間にはよく使はれる語で、※[#「囗<力」]地一声などと出てくる。思はず発する一声、一喝であるやうである。「蓋し師を尋ね、道を訪ふの人、参究三二十年にして忽然心花発現し、此時を会得し、覚えず※[#「囗<力」]地一声」といふやうな使ひ方がある由である。  近重物安氏によれば(千宗守氏前掲書に、近重氏の『力囗希』といふ文章が転載されてゐる)、蜀の成都に幹利休といふ禅家がゐて、それが次の偈を残してゐるといふ。    人生七十力囗希 肉痩骨枯気未微    這裏咄提王宝剣 露呈仏祖共殺機  幹利休と千利休と、不思議な一致といはねばならぬ。幹の偈と千の遺偈も似てゐる以上である。ここには何か因縁があつたに相違ない。  近重氏は希は本来は唏であるとし、※[#「囗<力」]も唏も咄も皆感投詞であるといふ。氏の解釈は次のやうである。「我も今日まで七十の齢を重ねた。ウンと力み、嗚呼と歎じた過去であるが、ソレも何んだ、咄、ナニクソ、我が這裏には金剛王の宝剣がある。霊妙、活機、仏もなく祖もなく、天地一枚の極致を得てゐる。世間の煩累も万物の糾縄も、我身には指も触れさせぬぞ。」古田紹欽氏の『禅茶の世界』にもこの問題が出てきてゐる。なほ同誌によれば柴山全慶氏に『利休居士の遺偈に就て』(『禅学研究』四十一号)といふ文があるさうだが私は未見である。私はいまは近重氏の解に従つてゐる。※[#「囗<力」]! 希! 咄! といふやうに、ここは読みたい。かう読んでそのまま味得しておきたい。  右の偈といひ、「提ル我得具足の一ッ太刀」といひ、随分気負つたものである。幹の方の利休の「肉痩骨枯気未微」どころではない。もちろん※[#「囗<力」]地一声は、もともと腸をしぼつて天地に吐きだす一声に違ひない。その点で前記の「白日青天怒電走」と同じである。利休のうちに元来幹利休に通ずるものがあつたからこそ、それにあやかつて利休を仮の号としたといふこともあらう。(利休居士の号は、天正十三年、禁中茶会に出仕するとき、始めて居士の資格を得たのではなく、既に利休が二十五歳のとき、即ち天文十四年に、堺南宗寺の普通国師から授けられてゐたもので、禁中出仕のときそれを再確認されたものだといふ。)然し死を前にして何故にこれを遺偈の句として選んだか。私はやはり利休のうちに気負つたあるもののあつたことを思ふ。光風霽月底のものではない何ものか、何クソ、といふ何ものかがあつたと思ふ。怒電走ル、の怒はもちろん雷電の激しく急な走り方であつて、心の怒りではない。然し「怒」といふ字のなかにやはり利休の心の在り方をも感じる。「一ッ太刀」、ひとつ太刀でなく、一ッ太刀といふ読み方も、なにか激しいもの、激怒するものを感じる。  この「怒」はどこに由来するであらうか。たとへ石田三成、または前田玄以の讒があつたとしても、三成、玄以風情が怒の対象では利休の器量が下る。相手はどうしても秀吉といふことになる。  白状すれば、私はかねて利休切腹問題の資料として、芳賀幸四郎氏が雑誌『史潮』一九五二年九月号に書いてゐる『利休の切腹とその時代』といふ論文を手元に用意しておいた。いま私はこの問題を書くにあたつて、これを読んでみて、私がこれから書かうと思つてゐる推定と余りに似てゐて、しかも理路整然と書かれてゐるので、自身でこれをあらためて書く気力をそがれてしまつた思ひである。なにか、いまいましい気さへしてくる。仕方がない、芳賀氏の文を長く引いてこれを利用してやらう。 「秀吉は一旦追放を命じ切腹を仰せつけた後も、利休が大政所や北政所などを通じて謝罪し、助命運動をしてくるのを、むしろ期待してゐたのではなからうか。謝罪してくれば、彼の利休征服は一応それで成功したのであり、あへて彼を殺す必要もないからである。否、利休の価値を知る彼は、殺したくはなかつたはずである。利休に連坐した大徳寺の長老たちは大政所らの助命運動で、あつさり赦免されてゐる事実を看過してはならない。利休も助命運動をやれば、少くとも謹慎程度に減刑されたものと思はれる。『千利休由緒書』によれば、堺追放後、前田利家が大政所や北政所にすがつて赦免を願へとすすめたのであつた。しかし利休は『天下に名をあらはしし我らが、命をしきとて御女中方を頼候ては無念に候。たとひ御誅伐に逢ひ候とも是非なく候』と、自分から助命の綱をたちきつたのであつた。彼にとつてここで助命運動をすることは、秀吉との抗争にやぶれ、茶の湯即ち芸術を政治や俗的権威に屈服させることであつた。すでに齢古稀に達してゐた彼は、今更生きながらへて自己の生涯をかけた茶道を政治に屈服させるよりは、芸術の独立をまもつて従容として自刀する道をえらんだのではなからうか。彼は最後まで昂然として秀吉の意志に屈せず、ここでも秀吉に肩すかしをくはせて、つひに秀吉の征服の及びえない悠久の世界に超入したのであつた。彼の辞世の偈にみる鋭い気魄に、秀吉の暴力的征服に対する最後の飜身の気合ともいふべきものを感ずるのは、私の主観的妄想にすぎないのであらうか。」  九州を伐つて島津を降伏させ、小田原に北条氏を亡ぼし、奥羽の伊達をして膝を屈せしめた秀吉は、天正十八年をもつてほぼ天下を統一した。征服すべきものを征服しつくしたとき気付いたのは、自己の側近にあつて自己に対立し、茶の道にかけては一歩も譲らない利休の存在であつた。芳賀氏はこれを次のやうに言ふ。「秀吉の征服欲と、利休のそれに対する頑固な反撥、征服しようとする意志と、征服をがへんじない意志との内面的抗争、芸術をも政治的権力の下に屈服させようとする暴君と、茶の世界、ひろくいへば芸術の世界では、最高の俗的権威をも容認しまいとする芸術家との、内にこもつた対立、これが利休晩年の両者の関係ではなかつたらうか。それは利休が幇間になつて屈服しない限りは、両者いづれかの死をもつてしか解決されがたい争であつた。」  秀吉は天正十九年の秋、即ち利休の死の年の秋、フィリッピンの執政官にあてて次のやうな書簡を出してゐる。 「夫れ我国百有余年、群国雄を争ひ、車書軌文を同うせず。予や誕生の時に際し、天下を治むべきの奇瑞あるを以て、壮歳より国家を領し、十年を歴《ヘ》ずして、而かも弾丸黒子の地を遺さず。域中悉統一するなり。之によつて三韓、琉球、遠邦異域、款塞を来り享す。今や大明国を征せんと欲す。蓋し我所為にあらず、天の授くる所なり」といひ、フィリッピンは未だ聘礼を通じないから、早く来り服せよ、若し服さなければ速に征伐するから、悔ゆる勿れ、といつてこの書簡を結んでゐる。  このときから二年の後に台湾に対して与へた書簡では次の如く言つてゐる。「夫れ日輪の照臨するところは、海岳、山川、草木、禽虫に至る、悉く此の恩光を受けざるなし。予、慈母の胞胎を処せんと欲するの時に際し、瑞夢あり。其夜已日光室に満ち、室中昼の如し。諸人驚懼にたへず、相士聚つて之を占筮して曰く、壮年に及んで徳色を四海に輝かし、威光を万方に発するの奇異なり云々。」  他にも同様なものが多い。秀吉は天正十五年に九州博多において、突如としてキリシタンの追放令をだしたときに、「日本は神国なり」の言葉を使つた。いまや神国の日輪の子となつて、威光を世界に輝さうといふのである。バテレンたちは信長においても既に自らを神にせんとするの傲慢のあつたことを報告してゐるが、秀吉は進んで自らを日の御子として位置づけたのである。  ところで一方、利休は利休で、「趙州を亭主にし、初祖(達磨)大師を客にして休居士(利休)と此坊(南坊宗啓)が露地の塵を拾ふ程ならば、一会は調ふべきか」といつて、南坊とともに呵呵大笑してゐる(『南方録』)。また「大名の気に入る茶会に長ずるを専と心得」てゐる茶人どもを嘲つてゐる(同上書)。『南方録』自体が問題の書であり、ここにしるした言葉が果して利休自身のものであるかどうかは疑問であるとしても、利休のうちに、右のやうな考へのあつたことは否まれない。  日輪の子を以て任ずる秀吉と、達磨を客にせんといふ利休が同じところに生き、同じところで一方からいへば主従、他方からいへば師弟といふ関係を持続することはできない道理である。若しこの対立を解消する途は、と問ふならば、利休自らが達磨となり、廓然無聖然として、達磨が梁の武帝に対した如く秀吉に対するのが一法であらう。武帝が達磨に、「朕に対する者は誰ぞ」と訊したとき、達磨は「不識」といつただけである。武帝と会つて会はず、達磨はさつさと梁をきりあげて魏の国に去つたが、三千石の知行取の利休にはそれができない。利休のわびはもともと秀吉を越ええないのが宿命である。秀吉の派手あつてこそのわびであつた。すでにしばしば書いたやうに、わびは対比において始めてその存在理由をもつものである。秀吉に、一般的にいへば桃山式のものに対立するところに利休の侘数寄があつたのだから、秀吉を超ええないのが運命である。世阿弥は貴人たちを「化す」ことをいつた。化されたとは意識させずに化す心術をいつてゐる。これは稽古に稽古をつんで登りつめ、そこから「却来」して下に降つたとき始めて可能なことであつて、奥義中の奥義とされてゐた。さて却来を可能ならしむるには無聖の無、有をあらはすものは無なりの無の介入が要る。無の媒介があつて始めて有と有は平和的に共存できる。ところで秀吉は一歩も譲らない有、利休もまた同じ有であるのだから、ここへ無が入る余地はない。秀吉は利休をも制圧しようとし、利休は秀吉を「化す」のでなく「教へ」ようとしてゐる限り、この衝突は必至である。  秀吉が若し花園天皇が大燈国師に対した如く、仏法不思議、王法と対す、といひ、国師が王法不思議、仏法に対す、と答へたとき、龍顔を動かした如くならば、秀吉と利休はまた両立しえたであらう。ところがそれができないのが征服者といふものの本質である。秀吉の側からみても対立衝突は必至であつた。  かういふ根本的な対立感情が、秀長の死後、三成か玄以の策謀をきつかけにして爆発したといつてよい。木像事件、売僧云々、お吟事件等はこの爆発によつて挙つた火の子のやうなものであつたらう。 [#改ページ] [#小見出し]   九 日本の近代化世俗化の問題  利休の遺偈の白日青天怒電走も、※[#「囗<力」]希咄も、利休の心事としては単純なものではなかつたらう。堺の魚問屋に生れた利休が、伝来の得具足である魚具の筌を抛つて、抛筌斎を名乗り、ときに傍道に立寄らざるをえなかつたが、志としては茶一筋に生きようとしてきたのに、いまその得具足である茶筅を天に抛たざるをえなくなつたことにも無量の思ひを感じたであらう。然し彼が或ひは赦免が可能であつたのに、みづから死を選びとり、秀吉の政治、秀吉の桃山風なものとの対立の極点を、芸術家の誇り死において実践したとき、対立をすでに超出したといへる。※[#「囗<力」]地一声の怒電はまさに対立の頂点であつたが故に、その故を以て対立を超える。私風のいひ方をすれば、侘びの極地であつたが故に侘びを超える。まさに自己とともに祖仏共殺である。己れを刺した剣は秀吉また祖仏まで刺し、空の空たる所へ出た。  利休が禁中茶会に出仕するため居士号を確認されたとき、それを祝つて古渓和尚は、「風露新香隠逸花」といつたが、私はそれを信じない。もともと利休は隠逸の花ではないのである。然し利休の死後、その絵像に讃した古渓の「莫[#レ]問斯翁帰去処 天遊睡後一清風」には実感をもつ。利休は対立を全うすることによつて対立を超え、死を選びとることによつて一清風を薫じたのである。それが利休の時代的運命であり、侘びの時代的性格であつた。  幸田露伴に『骨董』といふ小品がある。そのなかでかういつてゐる。 「当時に於て秀吉の威光を背後に負ひて、目眩いほどに光り輝いたものは千利休であつた。勿論利休は不世出の英霊漢である。兵政の世界に於て秀吉が不世出の人であつたと同様に、趣味の世界に於ては先づ以て最高位に立つべき不世出の人であつた。足利以来の趣味は此人によつて水際立つて進歩させられたのである。其の脳力も眼力も腕力も、尋常一様の人では無い。利休以外にも英俊は存在したが、少々は差が有つても、皆大体に於ては利休と相呼応し、相追随した人々であつて、利休は衆星の中に月の如く輝き、群魚を率ゐる先頭魚となつて悠然として居たのである。秀吉が利休を寵用したのは、流石秀吉である。足利氏の時にも相阿弥其他の人々、利休と同じやうな身分の人々は有つても、利休ほどの人も無く、又利休が用ゐられたほどに用ゐられた人も無く、又利休ほどに一世の趣味を動かして向上進歩せしめた人も無い。利休は実に天仙の才である。」  露伴はさきに、利休の選んだ茶器骨董が、「黄金何枚、何十枚、一郡、一城、或は血みどろの悪戦の功労とも匹敵するやうなことになつた。換言すれば骨董は一種の不換紙幣のやうなものになつたので、そしてその不換紙幣の発行者は利休といふ訳になつたやうなものである、」と書き、利休の発行した不換紙幣は今日にいたつてもなほ市価を維持してゐるといつてゐる。そしてその利を最も多く受けたのは秀吉であつたが、「秀吉は恐ろしい男で、神仙を駆使して吾が用を為さしめたのである。扨祭りが済めば芻狗は不要だ。よい加減に不換紙幣が流通した時、不換紙幣発行は打切られ、利休は詰らぬ理窟を付けられて殺されて終つた」といつてゐる。  私がおもしろく思ふのは露伴が利休を「趣味の世界」の王者であり、先頭魚であるといつてゐる点である。そしてその趣味は、「足利以来の趣味」であると規定されてゐるのである。私がまた露伴の右の解釈に不満を感じる点は、歴史認識を欠いてゐることである。秀吉と利休との関係を利用関係とだけみてゐることである。足利義政と相阿弥と同様な関係として、秀吉と利休をみたのでは、歴史の認識はできない。義政と相阿弥には対立はない。同時代を同時代として共に生きてゐたのである。ところで秀吉と利休とは同時代に生きながら、秀吉の「兵政の世界」と、利休の「趣味の世界」にはずれがあつた。越すことのできない断層があつた。私の言葉でいへば、利休が侘数寄にならざるをえない時代的理由があつた。利休の「足利以来の趣味」と、秀吉の桃山風の間のずれが利休をして侘びにゆかしめたといつてよい。もつとはつきりいへば、同時代にありながら、秀吉は近世的世俗的であり、利休は中世的いぶし銀的であつた。兵政の世界は何よりもまづ進歩的であらざるをえないのが当然である。進歩的近代的兵器、またそれに応じた戦略が常に勝利を占めるのが歴史の現実であり、また理の当然である。然し趣味の世界においては進歩的なものが常に美しくまた流行するとはいへない。もちろん進歩的な時代はそれに応じた趣味また芸術を生みだすことは事実である。現に桃山芸術、なかんづく狩野永徳などの絵画はそれである。然しそのなかにあつて、利休が趣味の世界の王者であつたことは事実である。ねずみ色、宗匠頭巾の二畳半の亭主が堂々と金色の安土城や大阪城の主に対抗してゐたのである。この対照はだが不自然に違ひない。不自然であるが故に、侘びはいよいよ侘びに行かうとし、派手はいよいよ派手に行かうとする。南坊宗啓の『南方録』は侘びへ侘びへの方向で書かれたものといつてよく、永徳は派手へ派手への方向を意図したといつてよい。もちろん同時代に同領域で生活し、その上、主従また師弟の関係があるところでは妥協または協調の一面がなくてはならない。秀吉も利休に一面では協調してゐるし、利休も茶頭としてまた設計家として秀吉に協力したことは既に書いた。だがこの種の協調は何時破綻を来すかわからない。相反するものの協調は、その相反性によつて激烈な破綻の仕方をする。  いま秀吉を近世的世俗的といつたが、それは具体的には次のやうなことを指してゐる。  近世化世俗化の点でも信長は秀吉の先輩であつた。  信長は元亀二年(一五七一)の九月に比叡山を焼いた。信長の敵の浅井、朝倉と通じてゐるといふのがひとつの原因だが、また婬乱に耽り、金銀の賄をうけ、出家の作法を怠り、天道を恐れない恥知らず、といふのが討滅の理由であつた。九月十二日に根本中堂を始め一宇を残さず焼払ひ、数千の僧俗を斬つたといふ。この行為を詰問して武田信玄は「大僧正信玄」と署名した書状を信長に送つたが、信長はその返事に、「天道時刻到来して、山上山下悉く燼と成る事、更に信長断行にあらず。自業自得果の理也」と書き、「大俗の身として、大僧正号の事其例をきかず」「まいすの僧のごとし」と附加へてゐる。バテレンのフロイスによれば、信玄は信長に「天台座主沙門信玄」と名乗り、信長はその返書に「第六天の魔王信長」と署名したといふことになつてゐる。信玄と同じく上杉謙信もまた社寺に調伏を祈願する信心家であつたが、信長にはそれが無い。信玄はその家法で「参禅可[#レ]嗜事」「仏神可[#レ]信事」といつてゐるが、信長は、「化転のうちを観ずれば夢幻の如くなり」を愛誦し、バテレンたちの報告にも、彼は来世あるを信ぜずと書かれてゐる。  小瀬甫庵の『信長記』第十三には、信長が無辺といふ僧を手づから斬刑に処したことを伝へてゐる。無辺といふ廻国の僧があつて、「我に生所も父母もなし、一所不住の僧なり」といつて若干の神力をあらはし、在々所々の信仰をあつめてゐた。一郷一村に一日二日づつ滞留するのみで、銭米の供もうけず、秘法によつて病患をまぬがれしめてゐるといふ評判がたつた。たまたま無辺が安土の近くに廻つてきたとき、信長は彼をつれてこいと命じた。無辺はことによるとお抱への僧となるかもしれずと思つて勇んでやつてきた。ところで信長は厩でこれを迎へ、「客僧、生国はいづこ」と問うた。無辺が「無辺」と答へた。「無辺といふところは唐土の内か、天竺の内か」と信長が睨みつけると、「天にあらず地にもあらず、又空にもあらず」と返答した。信長は「天地を離れて何れの所にか安心立命す」と問うたところ、まごついて返事ができない。信長はすかさず、「有情非常に至るまで、天地を離る事はなし。さては汝は化生変化の者か、いで試みん」といつて、馬の灸をする鉄棒を赤く焼いて面上に当てんとした。無辺は怖れて「出羽の羽黒の者なり」とふるへ声でいつた。信長は「さてこそ生国は顕はれけり、誠に此頃弘法大師の再誕なりとて、奇特を多く見せたるとなり。信長にも奇特を見せよ」とつめ寄つた。無辺はただわなわなとをののくばかりで口もきけない。信長は「斯様の売僧擅に徘徊させば、諸人猥りに神仏を祈り、筋なき幸を願ふべし。最も世の費なり。唯信長の手にかかり、其後神変通力を以て再生して見よ」とて刀をひきぬいて斬り殺してしまふ。甫庵は「この僧一人を害し給ひしは、吁、億兆の惑を解くにあらずや」と附加へてこの文を結んでゐる。  信長は二条城を築くにあたつて、墓石をもちきたつてそれを以て城壁を組んだとも、また奈良の諸寺院の釣鐘を回収して、それを以て鉄砲製造のための鞴をつくつたともいはれてゐる。彼の仏教また坊主嫌悪は徹底したものといつてよい。彼は近代的な意味での合理主義者、また実証主義者であつた。『耶蘇会士日本通信』は遺憾なくそれを写しだしてゐる。永禄十二年のフロイス書簡は次のやうに書いてゐる。「信長はよき理解力と明晰なる判断力を有し、神仏其他偶像を軽視し、異教一切の卜を信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂不滅なることなく、死後何物も存せざることを明に説けり。」また同じ人の元亀二年九月の手紙。「信長は都の諸僧院の重なる収入の頗る巨額なりしを取り上げて、兵士等に与へ、死したる人に仕ふる坊主等は食する必要なし。収入は国を守護保全する為めに働く、生きたる兵士に与ふべきなりと公言せり。」  信長が如何なるものに興味をもつたかについて、天正八年九月のパードレ・メシヤの書は次のやうに伝へてゐる。 「又前に見たることある地球儀を再び同所に持参せしめ、種々質問応答をなし、最後にパードレ及びイルマンの彼に答へし所に悉く満足を表し、諸人の面前において大に彼等を称讃し、パードレの知識は坊主の知識と大に異なる所あり、彼は一切につき十分に悟り得たることを告白せり。」 「信長は最後に、パードレ・オルガンチノに対ひ、欧州より日本に来る旅程を説明せんことを請ひ、地球儀を見て大に喜び、此の如き旅行は大なる勇気と強き心ある者にあらざれば実行すること能はずと云へり。」  また信長のとつた経済政策の近代性について、奥野高広氏はその『信長と秀吉』のなかで次のやうな例をあげてゐる。 「信長の行つた関所の廃止と道路改修による交通政策の遂行は、都市の発展を制限してゐた悪条件を取除いたものであつて、ここに中世の城下町を近世に進展させる基礎ができた。しかも信長は分国内の土豪の城郭を破壊し、領主の居城だけを残し、その居城中心主義をとつた。信長はまづ尾張清洲を城下町として経営し、天正四年から天下統治の中心拠点として、近世的な大城郭の最初でまた典型的な安土城を築き、その山下に大規模な都市を建設した。そのとき十三条の掟書を安土の山下町に下して、城下町の性格を規定してゐる。その第二条では往来の商人は必ずこの町を通過宿泊すべしとし、第十三条では博労馬の売買は悉くこの町で行ふことを定めた。これらは安土山下町へ商人を強制的に集中することを目的としたものである。第一条では楽市、楽座を宣言して、諸種の座を認めず、自由に商売をするのを認めた(中略)。近世的政策が綜合整理され、革新的条項を加味して見事な都市法として公布されたのは、わが国の都市法史上画期的な業績とされてゐる」(一三五頁)。  以上、数例を以て示したにすぎないが、叡山の焼打が象徴する信長の対仏教政策、またパードレたちが示してゐる自然科学への関心、また彼のとつた自由主義の経済政策等は、いづれも信長の近代的な性格また方針を示してゐる。近世的といふよりもむしろ近代的といつた方が適当であるといふ感じをもたせるほどである。  ヨーロッパにおいては十九世紀になつて始めて神の死が問題になつた。神は人間の悲惨がつくりだした幻影、観念にすぎないとして、神学を人間学の中へ、神を人の中へ解消しようと試みたのがフォイエルバッハであつた。神は支配階級が労働階級をたぶらかすために工夫した阿片にすぎないといつたのはマルクスであつた。人間理性と、人間の認識が一切で超越的なものは神話的なものと同じだといつたのはコントであつた。十九世紀は実証科学が宗教や形而上学を無用なものとした時代、認識が信仰に換つて登場した時代である。然しヨーロッパの伝統の中核をなしてゐるキリスト教、また教会の勢力はなほ強い。科学と宗教、認識と信仰とは互に争ひながら、次第に科学が文明の名において優位に立つてきた。然し神を否定し、超越的なものを無用とし、絶対の権威を無視する人間中心、人間理性中心主義は、一方ではニヒリズムの名を以てよばれてゐる。無神論がニヒリズムなのである。パンのみにて生くる社会はニヒリズムの社会なのである。文明の進歩はだからニヒリズムヘの進歩といふことになる。価値否定への進歩といふことになる。文明の進歩にともなふニヒリズムの深化は十九世紀の哲学者や詩人たちを苦しめた最大の問題であつた。それは別言すれば現代文明とキリスト教の問題、また機械と伝統の対決の問題である。さらにいへば、機械の進歩、機構の進歩によつてメカニズムの中に解消する人間喪失と、人格の保持、価値の尊厳との格闘の問題である。  だから無神論の必然性を認めながら、人間の平均化、機械化に堪へられない者は、みづからを神にせんとする。みづからを神にすることによつて価値を再獲得し、平均化を脱して価値の体系を樹立しようとする。「神は死せり」と叫んだニイチェは、それにつづけて、「さらば超人よ生きよ」といはざるをえなかつた。我々は十九世紀の文学のうちに、みづからを神にせんとした幾人かの超人、即ち人神を知つてゐる。またナポレオン以来、現実にみづからを神、絶対権威者とし、他に命令し服従を強ひた独裁者また赤色権力者を知つてゐる。神々の死と人神の出現は十九世紀以来今日にいたるヨーロッパの現実的な問題である。  私が岐道にそれて、こんなことをここに書いたのは、ヨーロッパにおける十九世紀的な問題が、十六世紀後牛の日本に、違つた形ではあるが起つてゐるからである。即ち日本における近代化世俗化の問題、信仰抛棄の問題である。具体的にはさきに書いた信長の問題である。叡山を焼払ひ、従来の仏教を否定した信長は、みづからを神にしようとした。天正元年三月の手紙で、フロイスはさきにも書いたが、天台座主沙門信玄に対して、第六天の魔王信長と署名して返事を送つたことを書き、それにかういふ註釈を加へてゐる。第六天の魔王とは、悪魔の王にして諸宗の敵なる信長といふ意であり、今日までの日本の偶像への尊敬及び崇拝を妨害したことを指してゐる。諸宗が信長に神仏の罰が下ること必定といつたとき、信長は、「日本に於ては彼自ら生きたる神及び仏なり」といつたと。  神仏を否定した信長はみづから絶対権力者となつて、彼の抱懐する合理主義、実証主義を実践した。坂田吉雄氏はその『戦国武士』において、「信長にあつては人力が、そしてその中でも自我の力が第一原理であつた」といひ、従来の武士社会で最も重んぜられた「筋目」の観念にかはつて、「恩義」の観念を一層重んじ、「恩義」をほどこしうる主体としての「器量」を尊んだといつてゐる。筋目とは主君筋、家来筋の筋目である。主従関係は筋目の尊重によつて絶対化されるわけだが、下剋上はこの筋目を事実の上でふみにじることから起きた。信長が主君中の主君将軍足利義昭を奉じたのは明らかに筋目の尊重また利用であつたが、彼が将軍を恩義を知らざるものとして追放して自ら「天下様」となつたとき、下剋上はここに完成し、完成することによつてこれ以上の下剋上を不可能にした。彼はみづからの実力、器量の程によつて天下様になつたのであつて、筋目によつたのではない。器量こそ乱世における勝敗を決定するものである。信長は「天下布武」のためにはあらゆる手段をとつた。「武略」「計策」の点では従来の武士社会ではタブーであつたもの即ち「弓矢に瑕」であつたものを平気でやつてのけてゐる。勝利のための合理的方法を従来の観念に頓着なく実行しうることが器量人のひとつの性格であつた。器量をもつて筋目にかへた信長は、部下の器量をも尊重した。器量器量に応じて之を用ゐた。即ち実力第一主義であるが、最高の器量人が天下様となつたとき、即ち絶対権力者となつたとき、新しく恩義による主従関係が結ばれる。各人の器量は恩義と結ばれてしまふことになる。いかなる器量人も天下様を侵すことはできない。天下様、即ち生ける神のもとでの自由競争の社会がひらけたわけである。  坂田氏は、筋目の観念は宗教意識と通ずるといつてゐる。主君の主君、そのまた主君と筋目を追つてゆけば、究極の権威へ到達するだらう。逆にこの究極の権威によつて筋目の各段階は権威づけられるわけである。権威への帰一は自己抑制において成立する。ところで器量の観念は自己信頼、自己中心である。信長が器量を重んじて筋目を軽んじたことは、同時に究極の権威としての神、絶対者を否定したことに外ならぬ。この見地があつたからこそ叡山を焼払ふこともできたわけである。天台座主を名乗つた信玄入道、高野山の真言密教を信じた不識庵謙信等と、第六天の魔王との相違は、いはば時代の相違、新旧の相違であつて、個人の人格の相違だけではない。明智光秀は本能寺に信長を討つ五日前に、愛宕山に一宿参籠してゐる。神前で二度、三度と御みくじを引いてゐる。吉と出るか凶と出るかによつて信長を討つか討たないかを決めてゐるわけである。その翌日、神前で連歌の会を催し、例の「ときは今あめが下知る五月哉」を発句してゐる。かういふ光秀は全く信長とは遠いところにゐる。信長によつて開かれた新しい時代とは遠い。光秀には細川幽斎に通ずる古い教養があつた。その教養が新時代の武人としての資格を邪魔したわけであらう。光秀がいはゆる三日天下に終つたのは、時代の必然であつた。  坂田氏は、秀吉には信長と同様な「器量」があつた上に、信長にはなかつた「度量」があつたといつてゐる。その度量を示す例は、たとへば『氏郷記』の次の箇所である。 「其御治世の賢き事を案ずるに、信長将軍は義と剛とをのみ用給ふ為、敵者をば不義なりとて、御身剛なるまゝに其根を断、其葉を枯し給ふ。又敵の方より降参する者をも、主に不義して来る者なればとて、後には害し給ひけり。されば降人もなく、故に天下静ならざりき。関白秀吉公は柔と剛とを兼用給ふ為、敵者をば或ひは先づ扱ひを入て(和議を提議して)聞ざるを攻らる。或ひは先づ押寄て、而して後扱ひ給ふ。降参する者には過分の領地を給はりけり。故に天下早く治りしとかや。」蒲生氏郷は幼時信長のもとにあつて、その人物をみこまれ娘をめあはされたといふ人物で『氏郷記』がさういふ側の文書でありながら、信長、秀吉を右のやうに比較してゐるのである。  秀吉が度量をもつて部下を推服せしめた例は、いくらでもあるが、坂田氏の引いてゐる『武功雑記』を再び引用しておきたい。 「土屋検校は信長、信玄其家へ召出されて尊貴の前に侍りて御伽をせし事多し。氏政にも侍りしなり。検校物語りに、甲州もの申すは、信玄長命にましまさば、天下を取りたまはんとなり。其節吾等も左様に存ぜしが、只今存ずるには左にはあらず。子細は、昔佐野天徳寺家来藤野下野をつれたち信玄謙信へ目見えに出しに、両人ながら、きつと致したる挨拶なり。佐野顔をあげ対せんと存じつれども、威つよくて其儀に能はずと申せしなり。後又天徳寺、下野、用の事ありて太閤へ目見えに出し時は、披露するとひとしく、やれ天徳寺まいられたるかとて、傍へ御寄り、扨々久しく逢申さず、能こそまいられたりとて、膝をたたき、殊の外御念ぶりにて、染々と大切に存じてありしと云々。是を以て考ふるに、か様の器量にてこそ、人も和し、天下も自ら掌握に入るべし。信玄、謙信とものの違ふたる事なり。」  秀吉の度量もまた人なつこさも、その天性であると同時に、また天下統治のための武略でもあり、懐柔でもあつたらう。彼の示した信義も律儀も、相手を篤と目利きした上での武略でなかつたとはいへない。信長の合理主義は、個々の細部にまで苛責なく及んだが、秀吉のそれは天下統治といふ大眼目のための合理主義であり、その眼目のためには細部に拘泥しなかつた。少くとも、晩年、殊に鶴松及び秀頼の生れる以前はさうであつた。彼の戦略は物量戦であつて、個々の戦術は個々に任せてゐる。数と富とを以て敵を気長に圧倒した。  秀吉が信長の破壊した叡山の再興を許したのは、決して彼の信仰によるものではない。これも彼の政略のひとつで、問題は彼の許可によつて始めて再建された点にある。叡山はもはや敵ではない。彼の威令に従ひ、彼の天下を謳歌するひとつの機関にすぎない。  また彼が京都の方広寺に大仏を築いたのもいはば彼の巨大欲のひとつのあらはれ、土木道楽のひとつにすぎない。決して聖武天皇と奈良の大仏造営の如き関係ではない。  然しいかに政略また道楽とはいへ社寺を再興すること自体、合理主義、現世主義の近代精神の後退を意味してゐる。信長においては非常に明確であつた近代の合理精神が、秀吉においては、ぼかされてきてゐる。このことは何を示してゐるであらうか。『氏郷記』は信長が義と剛を堅持したため、天下静まらず、秀吉は柔と剛を兼ね用ゐたため、天下を治めることができたといつてゐる。信長が義昭を追放した当時京都にゐた毛利家の智恵者であつた安国寺恵瓊は国許にあてて、「信長の代五年三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに成らるべきかと見及申候。左候て後、高ころびに、あをのけにころばれ候ずると見及申候」と申し送つたといふ。以上のやうな意見は、信長の合理主義では天下を取ることも治めることもできないといふことを示してゐる。当時の日本に近代的な合理主義を受け入れる条件は備つてゐなかつたとみるわけで、明智光秀に殺されたのも、その宿命であるといふことになる。  然し之に反対する意見もある。たとへば和辻哲郎博士がその『鎖国』の中で示してゐる見解の如きはその顕著な例である。博士は日本には近代化の諸条件が備つてゐたのに拘らず、為政者の、具体的には秀吉及び家康の「精神的怯懦」の故にそれを遂行できなかつたといひ、彼等に欠けてゐたものは、信長にあつた「世界的視圏」であるといふ。信長にあつた合理的思惟と冒険的精神が失はれたが故にキリシタンの迫害、ひいて鎖国といふことになつた。和辻博士はかういつてゐる。 「侵略の意図(ポルトガル、スペインの)などには恐れずに、ヨーロッパ文明を全面的に受け入れれば好かつたのである。近世を開始した大きい発明、羅針盤、火薬、印刷術などは、すべて日本人に知られてゐる。それを活用してヨーロッパ人に追ひつく努力をすれば、まださほどひどく後れてゐなかつた当時としては、近世の世界の仲間入りは困難ではなかつたのである。それをなし得なかつたのは、スペイン人ほどの冒険的精神がなかつた故であらう。さうしてその欠如は視界の狭小に基くであらう」(七三一頁)。 「文化的活力は欠けてゐたのではない。ただ無限探求の精神、視界拡大の精神だけが、まだ目ざめなかつたのである。或はそれが目ざめかかつた途端に暗殺されたのである。精神的な意味における冒険心がここで萎縮した。キリスト教を恐れて遂に国を閉ぢるに至つたのはこの冒険心の欠如、精神的な怯懦の故である」(七四五頁)。 「合理的思考の要求こそ、近世の大きい運動を指導した根本の力である。わが国における伝統破壊の気魄は、ヨーロッパの自由思想家のそれに匹敵するものであつた。だからたとひ日本人の大半がキリスト教化するといふ如き情勢が実現されたとしても、教会によつて焚殺されたブルーノの思想や宗教裁判にかけられたガリレイの学説を、喜んで迎へ入れる日本人の数は、ヨーロッパにおいてよりも多かつたであらう。さうなれば林羅山のやうな固陋な学者の思想が時代の指導精神として用ゐられる代りに、少くともフランシス・べーコンやグロティウスのやうな人々の思想を眼中に置いた学者の思想が、日本人の新しい創造を導いて行つたであらう。日本人はそれに堪へ得る能力を持つてゐたのである」(七四七頁)。  キリシタン迫害、また鎖国政策は、信長において芽生えた近代的精神、冒険心、合理的思考といふ新しい力を押へつけて「古い軌道へ帰す」ところの「純然たる保守運動」であり、秀吉は、「その視圏は極めて狭く、知力の優越を理解してゐない」とされ、家康は、「この保守的運動を着実に遂行した人である」といはれてゐる。博士はこの著の副題に「日本の悲劇」とつけてゐるが、信長の早い死が悲劇であつたばかりでなく、禁教もまた鎖国も悲劇であり、その影響は現代の日本にまで及んで近代化を阻む要素となつてゐるといふのである。  鎖国によつて日本人が萎縮し、日本文化が矮小なものになつてきたことは事実である。たとへば茶の湯においても、小堀遠州の『書捨文』にいたると、既に誌したやうに、「君父に忠孝を尽し、家々の業を懈怠なく、ことさらに旧友の交をうしなふなかれ」が茶の精神とされてしまつてゐる。片桐石州にいたると、心を楽しむための数寄者、しやれた茶湯者になつてしまつてゐる。江戸の中、末期における文化の萎縮と頽廃は誰の目にも明らかで、わづかに戯場と遊里が美術や小説の舞台であつた。浮世絵と戯作が芸術を代表するといふことは誰がみても健康ではなく、その由来を遡れば鎖国について起つた保守政策といふことにならう。かういふ点で和辻博士の論は肯けるのであるが、然し現在からみれば博士の所論も疑問の点が多い。  たとへば信長に芽生えた合理的思考、冒険的精神、世界的視圏の拡大の方へ、延びたとすればどういふことになつたか。恐らくいはゆる膨脹政策へ向ふであらう。博士は秀吉の外征を、「必要な認識を伴はない、盲目的衝動的なものである」といつてゐるが、これが若し合理的計画的に行はれたらどういふことになつたか。信長が若し生き長らへたとしても、国内だけを合理化し、近代化する政治家となる筈であつたといふ保証はない。貿易の巨利、また必要を知つてゐる信長は、海外問題へ眼をつけたに違ひないと判断する方がむしろ自然であらう。膨脹政策をとつたとすれば、ポルトガルやスペインとの角逐が南支やフィリッピンで行はれざるをえないだらう。更に伸びればインドネシヤでオランダと、インド、ビルマでイギリスやフランスと争ふ事態が生じたかもしれぬ。その場合、日本は何を土産物にすることができたらうか。西洋人が東洋へもたらしたキリスト教は日本には未だない。科学は西洋の方が進んでゐる。また合理的精神の故に否定した仏教や神道を持出すわけにはゆかない。ただ合理的に、ギヴ・アンド・テェクをなしうる平和貿易が時代の制限によつてできない時代に、「器量」だけを看板にして外国を征服するわけにもゆかないだらう。  また若し、日本が膨脹主義で成功したとすればどうなつたか。世界的視圏は拡大されたに違ひないが、さうすればどうなつたか。日本は近代化されたかもしれないが、さうすればどうなつたか。その答へとして単にプラスの面ばかりが出てくるわけでもなからう。  和辻博士は家康が仏教と儒教をもつて保守的運動の基礎づけとしたことを非難して、特に儒教について、「二千年前の古代シナの杜会に即した思想が、政治や制度の指導精神として用ゐられたのである」と書いてゐる。もちろん儒教を以て国内制度固定の支柱としたことを私も支持するのではないが、たとヘキリスト教を採用したとしても矛盾は残つたに違ひない。  さきに、十九世紀のヨーロッパのニヒリズムについて書いたが、そこでは科学が進歩し、科学的認識が信仰に優越し、機械が人間を支配する情勢が即ちニヒリズムヘの運動として理解されてゐるのである。ニヒリズムは、ある特定の個人の所説ではなく、ヨーロッパの歴史的運動として理解されてゐるわけである。ヨーロッパの近代は神の殺害史だと言つたひともゐる。キリスト教の伝統が力強く残つてゐたればこそ、科学文明の発達にともなふ人格観念の喪失がニヒリズムとして問題化されたには違ひない。また近代の合理主義が社会組織や生活にまで及んだからこそ、逆に人間喪失としてのニヒリズムが出て来てもゐるわけである。近代ヨーロッパの機械文明を輸入した非キリスト教的後進国は、従つてニヒリズムをニヒリズムの意識なくして迎へてゐる。文明開化の謳歌はそれであらう。然しキリスト教の伝統はなくとも、機械や組織による人間喪失の事実には変りはない。科学と宗教の対立なくして迎へた科学も、科学としての公平な歩み、世界普遍的な歩みをし、普遍的な結果を残してゐる。ただニヒリズムをヨーロッパ的の意味での体験なくして、経験してゐるわけである。ニヒリズムが世界史的運動であることは否まれない。さういふ事態が今日の原水爆とか弾道弾とかの出現によつて、いよいよはつきりしてきた。かういふものの出現を機として近代の合理主義、また近代精神が反省され、批判され、限界づけされねばならぬ歴史的時代に到つてゐるのである。  和辻博士の『鎖国』は昭和二十五年に出版されたものであるが、それが戦時中、東大の倫理研究室でやつた「近世」とはどういふ時代か、の共同研究に由来するものであることを序の中でいつてゐる。恐らく「近世」を研究テーマとして選んだのは、戦時中の日本軍部、及びそれに迎合する者の、狭小な、また偏向した日本精神論また国粋論への抵抗としてであつたやうに思はれる、世界的視圏に立てとか、世界へ眼を開けとか、視野を拡大せよとか、合理的思考を育てよ、とかいふのは、戦時中の日本指導者へのアドバイスであつたと思はれる。それが直接に信長論、秀吉論にまで及んでゐるとはいへないかもしれないが、博士の時勢への姿勢が右のやうなところにあつたとすれば、その立論に何程かの影響はしてゐるであらう。さういふ意味でも『鎖国』はやはり時代の制約をうけてゐるといつてよい。  ここでキリシタンについての一私見を書いておきたい。天正十五年、九州陣中で宣教師追放令が秀吉によつて布かれる前、信長、秀吉を通じての天正年間におけるキリシタンの増加は驚くべきものであつた。『日本西教史』は、「フランシスコ・ザビエル師が初めて日本国に聖教の光を輝し、此遐方に其種を播かれたるは已に三十八年前にして、其後ますます聖教大に行はれしは、恰も実を結びたる蜜柑、及び満林に蕾を生ぜる花に譬ふ可し。又耶蘇聖教は田畝に耕作する人に由て苗を生じ、雨露の沢に由て漸く長じ、遂に豊饒の熟成を期する如く、或は順風の時、充分に揚帆して航海し、毎日新地新国を発見するに比すべし」(第九章)と、いつてゐるが、それが追放令宣布直前の実相であつた。この本は天正十五年の日本における信者を二万といつてゐるが、これはあたらない。元亀二年に既に三万といふ報告もあるし、天正九年には十五万に達したといふ記録もある。天正八年十月のパードレ・メシヤの書簡には、高山右近の高槻領内には一万四千のキリシタンがゐて、そのうち三千人は本年一年のうちに改宗したもので、なほ六、七千人が洗礼を受ける準備をしてゐる等と書かれてゐる。追放令の出た頃は二十万、三十万に達してゐたかもしれない。  何故にこの時期にこのやうな発展をみたのであらうか。  その原因は種々であらう。彼等のもたらした新しい器具、たとへば地球儀、地図、時計また寝台、楽器等が興味をもたれたこと、また印刷術、造船術、製図法、採鉱冶金術、天文学等の技術や学問が迎へられたこと、タバコ、葡萄酒、カステラ、合羽、ビイドロその他が珍重されたこと、等々が挙げられる。信長も彼等の贈つたラシャの帽子を愛用したといはれ、秀吉の寝室には四ッのベッドがあつたといはれる。右近のジュスト、忠興夫人のガラシャを始め、フランシスコとか、モニカとか、レオとか、さういふ名前をつけることが流行し、十字架のしるしを頸にかけることが宗徒以外にも及んでゐる。いはばときどき日本を見舞ふ外国崇拝、又外国模倣の一形態ともみられる。  さらには諸侯が外国貿易を歓迎し、鉄砲、弾薬等を欲したこと、貿易とキリシタンとは切はなせなかつたこと等も原因であらう。信長の仏教嫌ひもまた原因である。彼等のもたらした医薬の効が民衆をなびかしたことも挙げられる。これ等のことは既にいろいろな書物に挙げられてゐることである。  私見といふのはそれらの原因以外の次のことを考へるのである。  サンソムの『日本文化史』下巻によれば、応仁の乱(一四六七)前の日本には凡そ二百六十余の諸侯がゐた。それが関ヶ原戦(一六〇〇)のときまでに十二の諸侯を残して、他は全部没落また滅亡してしまつたといふ。新旧の更替また下剋上がどんなに激しいものだつたかがわかる。さういふ百年にわたる激変期、また動乱無秩序の時期を経て、信長、秀吉にいたり、始めて天下の統一となつたのである。ザビエルの来た一五四九年(天文十八年)はさういふ混乱の時代であつた。高山右近を初めとして、当時の武将たち、たとへば小西隆佐行長父子、蒲生氏郷、牧村長兵衛、瀬田掃部等の俊秀がキリシタンになつたのは、動乱を身を以て体験した彼等がキリスト教のもつ秩序、また体系的宇宙観世界観また人世観にひきつけられたのではないか。秩序と体系を喪失して、自己自身の力量のみに頼らざるをえなかつた時代なればこそ、内心では整然とした秩序、また価値の体系を求めたのではないか。デウスを最高とする整つた秩序が彼等にとつては異常な魅力であつたらう。一糸ゆるがない精神の王国、神の国が、現実の動乱不安の故に強く求められるといふことはありうることである。  秀吉が天正十五年の七月に公表した追放令には、その理由の第一として、「日本は神国である。キリシタンは邪教の徒である」といふことを挙げられてゐる。『日本西教史』は発令の理由として、「その第一は己れ(秀吉自身)自ら神の位に登り、衆民より日本の大軍神と崇拝せられんとの希望あり。然るに基督信者は之を抵拒すべきを知る。故に信者等が党を結ばざる以前に之を廃棄するの決定を示したるなり」と書いてゐる。信長にも自らを神にせんとする志があつた、といふこと、少くともキリシタン側がさうみてゐたことはさきに書いた。秀吉が神国日本の神たらんとしたことは、さきにも誌したフィリッピン総督へあてた手紙で、自己の誕生を奇瑞をもつて飾り、神子誕生の伝説をつくりあげてゐることによつて明らかである。自らを神にし、その神を中心として統一国家を築かうとするとき、キリシタンの徒が整然とした体系と組織をもてばもつほど、その故を以て追放せざるをえなくなるのは自然であらう。自己に敵対する王国は、それがたとへ天上のもの、精神のものであつても許しえないのである。それは神を殺して、自己を人神とした場合の、洋の東西を問はず共通した性格であらう。ニイチェのアンチ・クリスト宣言、ヒトラーのユダヤ人迫害、スターリンの宗教禁止、みなさうである。  利休もまた動乱の時代、乱世に生きた。諸侯の興亡、武将武士の生死、さらにはキリシタンの隆盛また衰亡をまのあたりみてゐる。利休の茶の弟子のうちには、右近、織部、氏郷、掃部等の有力なキリシタン武将がゐたが、それがどう利休に影響したかは具体的には解らない。利休キリシタン説の如きは俗説にすぎないことは確かである。利休は従来の諸価値の崩壊してゆくなかにあつて、ただひとつ確かなものとして美を認めたのではないであらうか。美しいと感じるもの、これは誰が何時、何といつてもゆるがない。そのただひとつのたしかなものを確実に掴み、しつかりと表現する道をみづから選んだのではないか。  彼は価値没落の中にあつて、自らを神、権威とする者とは別の道をとつた。崩壊と興亡の渦中にあつて、崩壊するものを崩壊せしめ、興亡するものを興亡せしめるといふ、それをみながら拘はらないといふ一種シニカルな態度があつたと思はれる。彼は大書院における台子の大名茶に対立して数寄屋の茶を立てた。六畳の茶座敷は四畳半に、三畳に、二畳半に、二畳に、つひには一畳半にまで縮小された。安土の城が七層になり、大阪の天守が九層になつてゆくのを眼前にみて、彼の茶室は小さく小さく、その極小までに狭められてゆく。外形を極度に縮小することによつて、反つてその内容を豊富にする方向へ志す。遂には耳かきを少し大きくした程の一本の茶杓に、茶の象徴を見出すといふところまでゆく。外形を極度に縮小しながら、その内容を豊富にするためには、さまざまな規矩準縄を必要とする。指一本動かすにも寸法によらねばならぬ。そこに禅堂の清規に似た茶の方式が興る。 「書院台子草庵に至る迄、かねわり(曲尺割)の数を定する事根本。何れかのかねに本づきて極めたる事を人皆知らざるが故に、事によりて迷惑するなり。凡天地順行のかねあり。四季に土用を加へて、節を五つに立て、四方に中央を加へて五を立、一日を辰より申の五時に分ち、夜を五更に分ち、陰陽五気にあらはれて、人も五の体を受る等の基きにて、五つかねを定規として、大も小も此かね違ふことなし」(『南方録』)。  二畳の侘座敷に天地を入れ、陰陽を入れ、四時の運行をいれて、一服の茶に天下の味を味はふといふ別天地、別乾坤、別の王国が成立したわけである。秀吉の眼が唐天竺南蛮と大広域へむけられてゐるとき、利休はこの別王国へ趙州達磨を唐天竺から迎へ入れようとしてゐるわけである。  乱世における武将たちがキリスト教のもつてゐる体系と秩序に魅力を感じて入信したことはさきに書いた。同じやうに戦国の武士たちは、その行動所作が猛烈であり乱雑であればあるほど、秩序と規則ある生き方、行ひ方を求めてゆく。二畳の狭い座敷に窮屈な膝を折つて、一碗の茶をかしこみかしこんで喫しようとする。亭主への挨拶の仕方、手足のさばき方がかしこまつてゐればゐる程、魅力を感じるといふ不思議なことが起つてくる。様式を欠いた戦場の武辺者であればこそ一層に行住坐臥の様式を求めるわけである。太閤といへども例外ではない。  利休は兵馬の世界、政治の世界とは別なところへ趣味の世界を立てた。それは極小の空間ではあつたが、王侯は愚か天地一切を招きよせる底のものであつた。芭蕉に「山も庭も動き入るるや夏座敷」の句があるが、招き入れられるものは単に山川ばかりではない。仏法もそのうちにありといはれるほどのものであつた。利休はさういふ世界での王者であつた。露伴の言葉を借りていへば、「趣味の世界に於ての最高位者」であつた。  みづからを神にせんとする者は、自己以外の別乾坤を許しえない。趣味の世界といへども王者の存在を許しえない。二畳に侘びに侘びることは反つて彼にとつての抵抗とも受取れる。かつてデウスを中心にする精神の王国、神の国を許さなかつたやうに、秀吉は趣味の王国まで許しえなかつたのであらう。利休が怒電となつて光芒を放ちながら消えざるをえなかつた理由はさういふところにあらう。 [#改ページ] [#小見出し]   十 |わび《ヽヽ》から|さび《ヽヽ》ヘ        ——利休から芭蕉へ——      一[#底本では「括弧付き一」、unicode3220] 芭蕉の|わび《ヽヽ》  芭蕉と利休の関係を考へてみようとするとき、すぐ頭に浮ぶのは『笈の小文』の冒頭である。これは周知の文章だが、重要だと思ふので原文を引いておきたい。 「百骸九竅の中に物あり。かりに名付て風羅坊と云。誠にうすものの風に破れやすからんことを云にやあらん。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごととなす。或時は倦て放擲せんことをおもひ、ある時はすすんで人にかたん事をほこり、是非胸中にたたかふてこれが為に身安からず。しばらく身を立んことをねがへども、これがためにさえられ、しばらく学で愚をさとらんと思へども、是がために破られ、終に無能無芸にして只此一筋につながる。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫通するものは一なり。しかも風雅における(もの)、造化にしたがひて、四時を友とす。見る処花にあらずと云ことなし。おもふ処月にあらずと云ことなし。思ひ花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣にたぐひす。夷狄を出で、鳥獣をはなれて、造化にしたがひ、造化にかへれと也。  神無月の初空さだめなきけしき、身は風葉の行方なき心地して、    旅人とわが名よばれん初しぐれ。」  この芳野への旅は、貞享四年(一六八七)十月二十五日から翌年の元禄元年四月半ばにいたる長途のものであつた。旅から帰つてすぐこの紀行を書いたものだといふ。  和歌の西行、連歌の宗祇、絵の雪舟、茶の利休をあげて、「その貫道(通)するものは一なり」といふときの一はどういふ意味であらうか。なほ貫道、貫通の両様の版があるが、私の好みからいへば貫道の方をとりたい。  芭蕉は狂句、俳諧の道に「此一筋」をみいだし、それによつて生き、それを生かした。西行、宗祇、雪舟、利休は各その託した芸は違ふが、「此一筋」といふ点では変りはないといふ意味であらうか。さうだとすれば芸術家の精神、またその生き方を貫くものは根本において同じだといふ意味にならう。  貫道するものは一なり、にすぐつづく、「しかも風雅における」はどういふ意味であらうか。三省堂版『芭蕉講座』第八巻でこの評釈を担当してゐる横沢三郎氏は、「一なり」の一を条件をつけながらも風雅、または風雅の誠であるとしてゐる。岩田九郎氏の評釈では、「しかも風雅における」の風雅を俳諧の道ととつてゐる。私は「しかも」の一句を重くみるために岩田説をとる。ここの風雅論は芭蕉自身の風雅論である。小宮豊隆氏は前記『芭蕉講座』に載せた『紀行文総説』のなかで、『笈の小文』の冒頭は、直接には芭蕉の風雅を説いたものであること、この風雅に全生命をかけるとするならば、それは彼の生き方一般を説いたものであり、旅に全体的な生き方を示した芭蕉であるから、彼の旅は、彼の風雅を彼の志す風雅にまで、即ち造化に従ひ造化に帰る底まで磨き上げる為の行為であつた、といつてゐる。別な言ひ方をすれば風雅は旅にきはまり、旅は風雅を象徴するといふことになる。「旅人とわが名よばれん初しぐれ」はさういふ感興を託してゐるわけである。 「しかも」以下を芭蕉の風雅論、旅論とみれば、これは一応独立した文とみてよく、その前の文とはきり離せる。貫道するものの一とは直接にはかかはらないことにならう。然し、「西行の和歌における、宗祇の連歌における」までは、芭蕉の頭の中に、風雅、旅の観念が浮んでゐたとみてよい。雪舟の絵、利休の茶が、ここへ浮んできたのはどういふ因縁であらうか。殊に利休が。  芭蕉の西行へのつながりは深い。すでに『虚栗』(天和三年刊)の跋文に、「侘と風雅のその生《つね》にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕《むしくひ》栗也」と書いた。『柴門辞』では「ただ釈阿、西行のことばのみ、かりそめに云ひちらされしあだなるたはぶれごとも、あはれなる所多し」と書いた。『甲子吟行』には伊勢渡会郡の西行谷を訪れ、そこに芋を洗つてゐる女たちをみて、「芋あらふ女西行ならば歌よまん」と一句した。吉野の奥の院に西行の草の庵の跡を訪ねては、「露とくとくこころみに浮世すすがばや」とうたつた。さらには伊勢神宮に詣でて西行の「何事のおはしますかはしらねども」にちなんで、「何の木の花とはしらずにほひかな」の名句をものし、西行像に讃して、「雪のふる日はさむくこそあれ」の西行の歌に「花の降る目はうかれこそすれ」とつけた。その他探せばなほいくつかの材料がでてくるだらう。貞享二年の半残宛の書簡中に、「李、杜、定家、西行等の御作等、御手本と御意得可[#レ]被[#レ]成候」とあり、元禄五年の曲水宛のものの中に、「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸をあらひ、杜子が方寸に入やから、わづかに都鄙をかぞへて十を指ふさず」といつてゐる。芭蕉の心の中に西行は生きてゐた。  宗祇と芭蕉のつながりについては『渋笠』の銘によつて、自分で竹をさき、紙をはり、渋をぬつて、二十日あまりをつひやして出来上つた手製の侘笠の裏に、「世にふるも更に宗祇のやどり哉」と書きつけたことがわかる。もちろん宗祇の「世にふるもさらに時雨のやどりかな」といふ旅中の句をふまへてのものである。また俳諧の先蹤として宗祇、宗鑑、守武をあげ、その三聖のすがたを許六に画いてもらつて、芭蕉みづからそれに、「月花のこれや実のあるじ達」の一句を書きそへてゐる。『奥の細道』の冒頭の一句、「古人も多く旅に死せるあり」は、具体的には河内で死んだ西行とともに、箱根の旅先で亡くなつた宗祇のことを念頭に浮べてゐたであらうといはれてゐる。いづれにしても、西行についで宗祇との精神的つながりは深い。  ところで雪舟に言及してゐる文は、私の知る限りない。  芭蕉が利休に言ひ及んでゐるのは、恐らく次の『洒落堂記』(元禄三年)だけであらう。 「山は静にして性をやしなひ、水はうごいて情を慰す。静動二の間にしてすみかを得る者有。浜田氏珍夕といへり。日に佳境を尽し口に風雅を唱へて、濁りをすまし塵《ちり》をあらふが故に洒落堂といふ。門に戒幡を掛て、分別の門内に入事をゆるさずと書り。彼宗鑑が客におしゆるざれ哥に一等くはへてをかし。且それ簡にして方丈なるもの二間《ふたま》、休、紹二子の侘を次《つい》で、しかも其のりを見ず。木を植、石をならべてかりのたはぶれとなす云々。」  近江瀬田の医、浜田珍夕の洒落堂の紹介記で文中の休はもちろん利休、紹は紹鴎である。洒落は洒々落々光風霽月からきて、門内に利害の分別の入ることを禁じた風雅に通じてゐる。この堂内に茶室があつた。しかしその茶室は「休、紹二子の侘」をついではゐるが、「そののりを見ず」といふのである。茶式のむづかしく厄介な法則にかかはらない、または規矩を越えてゐるといふほどの意味であらう。書院台子の曲割もなければ、伝書のつたへる方式にもよらないが故に、洒々落々であり、露地には木を植ゑ、石を据ゑてはゐるが、それは「かりのたはぶれ」ごとで、利休、紹鴎の好みではないといふわけである。芭蕉がこの洒落を肯定しまたよろこんでゐることは、この文の末尾を、「心匠の風雲も亦是に習ふ成べし」で結び、「四方より花吹入てにほの波」の一句を添へてゐることによつてもわかる。ここには利休への傾倒の気は微塵もうかがへない。  芭蕉は西行、宗祇、雪舟と並べて何故に利休の名を挙げたのであらうか。さきにも書いたやうに、日本の芸術精神の象徴としてあげたことはわかる。然し利休に関する限り、芭蕉の文献からその裏づけを探すことはできない。だからこちらで推定するより外ないわけである。利休が秀吉に対してとつた毅然たる態度、煎じつめれば、その芸術家としての切腹の態度に芭蕉が感銘をもつたのであらうか。然しこれは旅人芭蕉の風雅と響き合ふものではない。芭蕉には「あらたうと青葉若葉の日の光」の一句を残して、さつさと東照宮を後にしてしまふやうなところがあつた。時の権力者に対する直接の抵抗は芭蕉にはない。芭蕉と利休とではおかれた条件も違ふばかりでなく、その性格も違ふ。しかし性格が違つたといつて、伝統精神の顕現者として、その名を挙げて悪いといふ法はない。法はないが、直接の響き合ひがないとすれば、勢ひ抽象的といはざるをえない。芭蕉が茶の湯に没頭したとは思はれず、恐らく貞享、元禄のころ筑前黒田の家臣立花実山によつて書写され、世間に流布したといはれる『南方録』から感銘をうけたのではなからうかといふ想像もでてくる。たとへば「家はもらぬほど、食事は飢ぬ程にて足る事なり。是仏の教、茶の湯の本意なり」といふやうなところ、また、「侘の本意は清浄無垢の仏世界を表して、此露地草庵に至ては、塵芥を払却し、主客ともに直心の交りなれば、規矩寸尺式法等あながちに云べからず。火を起し湯を沸し茶を喫する迄の事也。他事有べからず。是仏心の露出する所也。」といふやうなところ、それに芭蕉が感銘したのではなからうか。ところで現在ではこの『南方録』は江戸時代の初期にできた偽書であらうといふのが専門学者のほぼ一致した意見である。私はまた私で、偽書であらうとなからうと、南坊宗啓の利休解釈が一面的すぎるといふ考へをもつてゐる。また『笈の小文』の成立年代からいつて芭蕉が『南方録』を読んだといふ想定にも無理がある。  なるほど利休は茶道といはれるものの確立者であり、露伴のいふやうに趣味の王者であつたに違ひない。然し果して「造化に従ひ、造化に帰る」底のものをもつてゐたかどうかは少くとも疑問である。芭蕉がその貫道せるもの一なりといつて、利休の名を挙げてゐるのは当時の利休伝説によつたのであらうか。とにかくその必然性を証明する資料は稀薄である。  芭蕉は利休と性格が違ふと、さきに書いたが、性格の相違をいふことが私の目的ではない。私は利休における侘びが、芭蕉にいたつてひとつの変質をきたしてゐることをいひたいのである。芭蕉の風雅が利休の侘数寄とは非常に違ふといふことを考へたいのである。芭蕉も侘び、わぶ、わびる、といふ言葉を随分多く使つてゐる。然しここには数寄と結びつく侘びはない。数寄といふ趣味、心理、主観、辟愛を示すものは芭蕉にはない。芭蕉のわびは、それに対していへば形而上的である。芭蕉のわびを勝義に示してゐる二、三の例を引いてみよう。  千春撰『武蔵曲《むさしぶり》』(天和二年刊)に芭蕉は次の言葉を寄せてゐる。 「月をわび身をわび、拙きをわびて、わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほわびわびて、 [#1字下げ] 侘てすめ月侘斎がなら茶哥」  この「わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし」は、在原行平の「わくらはにとふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答へよ」をふまへてゐる。わぶと答へるところのないところでわびることが、芭蕉のわびであつた。「わびわびる」こと、わびをもわびること、さういふわびの極北が芭蕉の志向するわびであつたといつてよい。利休の侘びを対比の概念だとさきにいつたが、芭蕉では対比なくしてなほ侘びるのである。わびることの不可能なところでなほわびようとするのである。わぶと答へる対象のないところで、ひとり侘びて住むわけである。これはわびの自己否定といはねばならぬ。 『冬の日』(貞享元年)の「木枯の巻」は次の言葉で始められてゐる。 「笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此国にたどりし事を、不図おもひ出て申侍る。 [#1字下げ] 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉」  ここには「侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえる」ところの芭蕉がゐる。「こがらしの」の上に字余りの「狂句」を冠してゐることは偶然ではない。我さへあはれにおぼえる我を、この上ない風狂人の竹斎に似たりといつてつき離しえたところに、芭蕉はやうやく生きる道を見出しえたのである。我を狂句の中へ結晶せしめることによつて、狂句を詠ふ我は、あはれを超出しえたのである。私はこの句を芭蕉の生の発見、或ひは生き方の発見であるといつてよいと思ふ。      二[#底本では「括弧付き二」、unicode3221] |わび《ヽヽ》から|さび《ヽヽ》へ 「こがらし」の句のできた貞享元年は芭蕉にとつて大変な年であつた。四十一歳になつた芭蕉はこの年の八月、例の「野ざらし」の旅に出た。翌年四月末までの八ヶ月にわたるものである。 「千里に旅立て路糧を包ず。三更月下無何入といひけん、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋を立出るほど、風の声そぞろさぶげなり。    野ざらしをこころに風のしむ身かな」  いはゆる蕉風開眼の第一歩が、野ざらしの白骨の句を以て始められたのである。  この紀行で大垣に泊つた夜、「野ざらしを思ひて旅立ければ」といつて、「死もせぬ旅ねのはてよ秋のくれ」の句を書残してゐる。大垣から熱田を経て名護屋に入る途中に、前記の「狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉」をえたのである。近江の水口で、二十年をへだてて古人に会つたときの、「命ふたつ中に活《いき》たる桜かな」も尋常のものではない。  侘びつくしたるわび人となつて、風狂人竹斎を心に描いた芭蕉には、自己を旅の乞食或は乞食僧として表象してゐる例はいくつかある。露命つなぎがたき己れがやうやくにして生きてゆく姿である。 「去年たびより魚類肴味口に払捨、一鉢境界乞食の身こそたうとけれとうたひに侘し貴僧(貴い僧の意)の跡もなつかしく、猶ことしのたびはやつしやつして、こもかぶるべき心がけに御座候。其上能道づれ、堅固の修業、道の風雅の乞食尋出し、隣庵に朝夕かたり候而、此僧にさそはれ、ことしもわらぢにてとしをくらし可[#レ]申云々」(元禄二年、猿雖宛書簡)。 「五百年来のむかし西行の撰集抄に多くの乞食をあげられ候に、愚眼故能人見付ざる悲しさに、二度西上人と思ひかへしたる迄に御座候。京の者どもこもかぶりを引付の巻頭に何事にや申由、あさましく候。    たれ人か菰着ています花の春」(元禄三年、此筋、千川宛書簡)。 「行脚乞士之癖として、常々の御厚恩は胸に有ながら云々」(元禄四年、曲水宛書簡)。  右の行脚乞食は元禄五年の『栖去之弁』に要約的に語られてゐる。 「ここかしこうかれありきて、橘町といふところに冬ごもりして睦月、きさらぎになりぬ。風雅もよしや是までにして口をとぢんとすれば、風情胸中をさそひて物のちらめくや風雅の魔心なるべし。なを放下して栖去、腰にただ百銭をたくはへて柱杖一鉢に命を結ぶ。なし得たり風情終に菰をかぶらんとは。」  ここではいままでの漂泊の旅、魚も口にしなかつた精進の行脚、露命をやうやくにしてつないだ竹斎姿の乞食行が、「ここかしこうかれありきて」と、うかれ歩きとして規定されてゐる。極端にいへば『野ざらし紀行』以来の幾多の旅が、うかれ旅行として否定されてゐる。四十九歳の芭蕉は、更に一層徹底し、更に放下した柱杖一鉢の旅、乞食以上のお菰となつて終らうといふのである。  ここにはしなくも「なを放下して」の言葉にであつた。談林から離れた芭蕉は、いはば放下、また放下をつみかさねてきた。捨てうるものはすべて捨ててきた。最後に残つたものが「此一筋」であるが、いまやそれさへ捨てようといふのである。私はこの経過を、周知ではあるが、『幻住庵記』(元禄三年)によつて確めておきたい。 「かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず、やや病身人に倦で、世をいとひし人に似たり。倩《つらつら》年月の移こし拙き身の科をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たよりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。楽天は五蔵の神をやぶり、老杜は痩たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の栖ならずやと、おもひ捨てふしぬ。    先たのむ椎の木も有夏木立。」  芭蕉の旅は、「生涯のはかり事」となつた俳諧宗匠といふなりはひの否定であつた。曲水宛の元禄五年二月十八日附の手紙をここに思ひ起してもよい。芭蕉は風雅に三等のあることをいひ、最下等は、点取に昼夜を尽し、勝負をあらそひ、道を見ずして走り廻る職業的俳諧師で、それでも妻子の腹をふくらかしてゐるから、ひが事をするよりは勝つてゐる。中等は、自身は富貴であるのに派手な遊びはせず、日夜俳諧興行をたのしみ、勝つてほこらず、負けて怒らず、小童の、いろはがるたに夢中になつてゐるやうな遊び三昧の者。上等は、志をつとめ、情をなぐさめ、あながちに他の是非をとらず、みづから修行して、定家、西行、楽天、杜子の方寸を探らうとする者。上等の風雅人は、都鄙を含めて十人とはないといつてゐる。芭蕉の放下の旅は、下等、中等はもとより、上等の風雅、また此一筋の道をも捨てようとしたものであつた。野ざらしを思ひ、菰着て臥たる人を思ひ、竹斎を思ひ、自己自身の命のつきはてるところを覚悟したのも故なきことではないのである。  私は既に昭和二十七年に出版した『詩とデカダンス』のなかで、芭蕉における「風」の問題を詳しく書いたが、いま『栖去の弁』を媒にして、再びそれをここで考へてみたい。  この三行程の文の中には風の字が多い。「風雅もよしや是までにして」「風情胸中をさそひて」「風雅の魔心」「風情終に菰をかぶる」。またこころみに、彼の三大紀行の冒頭だけから拾つてみよう。『野ざらし紀行』では、「風の声そぞろさぶげなり」といひ、「こころに風のしむ身かな」とよんでゐる。『笈の小文』では自らを「風羅坊」とよび、「風に破れやすし」といつてゐる。『奥の細道』では、「片雲の風にさそはれて」と書いてゐる。  さらに直截に私のここにいはうとすることを示してゐるのは元禄三年の小春宛の書簡の中の、「残生いまだ漂泊やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候。猶とち風に身をまかすべき哉と秋立比を待かけ候。」また同年の牧童宛の中の「名月過にはいづ方へなりとも風にまかせ可[#レ]申と存候」の風である。この風は何であらうか。  私はさきに利休の侘数寄の侘びは趣味であり、心理的また主観的な好みであつたのに対し、芭蕉のそれは形而上的であるといつた。それがこの風に関連する。私は前著『詩とデカダンス』の中で、ヨハネ伝の「風《プノイマ》は己が好むところに吹く。汝その声を聞けども、何処より来り何処へ往くを知らず。すべて霊《プノイマ》によりて生るる者も斯くの如し」を引き、ハイデッガーが『森の道』の中に引いてゐるリルケの『オルフォイス』中の   In Wahrheit singen ist ein anderer Hauch.   Ein Hauch um nichts. Ein Wehn im Gott. Ein Wind. を写した。私が芭蕉の「風」において感じとるものは、まさにこの種のプノイマであり、また Wind であり、Hauch である。「いづ方なりとも風にまかせ可[#レ]申」の風はこの風以外にない。  芭蕉が侘びに侘び、侘びをも侘び、侘びる自分をもなほ侘びつくして、此一筋ともたのんだ道をも放下して、野ざらし、乞食、菰かぶりの旅に出ようとするとき、彼を誘ふものはこの風であつた。いや風に誘はれて一杖一笠の旅に立つたのである。物来つて我を照す、といふやうに、こちらが放下しつくすとき、あちらのものが呼びかけてくる。主体や主観を超出してゐる何物かが、風となつて彼の耳をうつのである。こちらからいへば「誠を責める」ことになるが、あちらからいへば、「胸中をさそひて、物のちらめくや風雅の魔心」といふことになる。ここが「狂句こがらしの身は竹斎」の句の生れる場所である。  私は芭蕉の風羅坊、「風雨に破れやすき」芭蕉の葉を愛した風羅坊、また彼の度々以上に使つてゐる、風雅、風情、風流、風狂、風葉等は、前記の形而上的な風の、自己における、また日本の伝統を通じての顕現であると思ふ。自己を超えた風が自己に現はれたものが風雅、風情、風流といふものの本来の、また芭蕉的な姿である。従つて、風雅や風流は、風流気取り、伊達風流と本質的に違ふ。さびと、さばしたの相違である。我々が日常世間に埋没してゐるとき、さやう、しからばの中にあるとき、この風の音をきく耳をもたない。従つて風雅、風流を失ふ。詩人が風狂の徒と目されるのはここから起る。芭蕉が生涯のはかりごととした此一筋をも捨てて柱杖一鉢の旅に出なければならなかつた理由もそこから起る。其角には察しもつかない世界である。世間を「栖み去つて」、「造化に従ひ、造化に帰れ」といつた趣旨はここから理解され、解釈されねばならぬ。本来的には、風=霊(ともにプノイマ)であるものが、世間人情の介入によつて分裂し、自己執着によつてくらませられてゐる。花に会つて花を見ず、月に対して月に対せず、夷狄、鳥獣のたぐひになりさがつてゐる。そこを超え、そこから出て、造化に従ひ、帰れ、といふのである。従ひ帰る方便が芭蕉においては「風葉の行方なき」旅であつた。彼は旅において、旅を通して、風=霊、霊=風、 Wind = Hauch, Hauch = Wind, を体験する。それが彼の風雅といふものである。  しかし、ここからはまだ、詩人は出てこない。詩人の世界は展かれたが、詩は誕生しない。芭蕉の句はどこから、どうして生れたか。「造化に従ひ、造化に帰る」とは、具体的には、自己執着、私意を去つて、造化に参入することであらう。もし造化をスピノザにならつて、「生み作る自然」と「作られた自然」とにわけるならば、作られた自然、森羅万象を媒にして、生み作る自然へ参与することであらう。然しこれは、そこへ、の道であつて、そこから、の道ではない。向上であつて向下ではない。俳諧師、詩人の道は、そこから、の方向において始めて成る。世阿弥の「却来」である。 「高く心をさとりて俗に帰るべし」といふ芭蕉の言葉を、土芳は、「常に風雅の誠をせめさとりて、今なす処俳諧に帰るべし」の意と解してゐる(『三冊子』)。然し、この俗は単に俳諧の俗(「春雨の柳は全体連歌也、田にし取烏は全く俳諧也」や、「花に鳴く鴬」に対する「餅に糞する」鴬、等の示すものがここにいふ俗の意味)に帰ることを意味しない。向上に対する向下、下への却来と一応みてよい。作る自然から作られた自然へである。然しまた詩人は、単に自然一般へ帰るわけではない。俗の世間一般へ帰り住むわけではない。ちらとみた一葉に、自然を感じ、古池に飛込む蛙の音に、宇宙の音を感じとる。感じとつたものが句に結晶する。「常風雅にいるものは、思ふ心の色、物となりて、句姿定る」といふことが起る。「師の曰、乾坤の変は風雅のたね也といへり。静なるものは不変の姿也。動くものは変也。時としてとめざればとどまらず。止《とむ》るといふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散乱るも、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。その活たるものだに消て跡なし。又句作りに師の詞|有《あり》。物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」(『三冊子』)。「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」といふのが俳人芭蕉の最奥義であつた。ひかりの中に物が見える。この場合の物は尋常の物ではない。作られた自然としての存在物ではない。造化、乾坤のなかに位置をしめる個物、全体の中における特殊である。あはれに消え去る変の中に、不変が光る。或ひは不変が変において光りかがやく。この消えゆく瞬間を言葉によつて定立せよ、といふのである。風雅のたねはここをおいて外にない。この瞬間をつかまへうる条件は、詩人の側において、常に風雅の誠をせめること、自己の霊を風につながせること、風を自在に心に吹き通らせることであつた。「物に入てその微の顕《あらはれ》て情感《かんず》るや、句となる所也」がここである。物我一体、物来つて我を照す瞬間を句にせよ、といふのである。  さういふ体験において生れてくる句を、芭蕉は「なる句」(成る句)といつた。「する句」(為る句)に対するものである。「句作《くづくり》になるとするとあり。内につねに勤めて物に応ずれば、その心のいろ句となる。内をつねに勤ざるものは、ならざる故に私意にかけてする也」(『三冊子』)。  する句といつてゐるのは、いはゆる「功者の病」であらう。「ただ能句《よきく》せんと私意を立て、分別門に口を閉て案じ草臥る」の類である。然しこのやうなする句と芭蕉は無縁であつたわけではない。『三冊子』の著者土芳は、俳諧の歴史を次のやうに簡潔に書いてゐる。 「夫俳諧といふ事はじまりて、代々|利口《りこう》のみにたはむれ、先達終に誠を知らず。中頃難波の梅翁(宗因)、自由をふるひて世上に広むといへども、中分以下にして、いまだ詞を以てかしこき名也。しかるに亡師芭蕉翁、此道に出て三十余年、俳諧初て実を得たり。師の俳諧は、名むかしの名にしてむかしの俳諧に非ず。誠の俳諧也」。  これは俳諧史の略図である。これに肉付をすればよいわけだが、私は既に『中世の文学』の中の一章、「芭蕉への道」で、詳しくそれを書いてゐるのでここには略さう。ただ芭蕉も宗因の談林の俳諧、詞をもつてかしこき俳諧、分別門にくたびれる俳諧に、みづから入り、そこにたはぶれ、そこにきらきらしたこともあるのである。『野ざらし紀行』はそこからの脱却の記録、そこに死して、生れ変つてくる再出発の告白であつた。いはば「する」から「なる」への転化である。この転化を可能にしたのが、「侘びつくしたる侘人、我さへあはれにおぼえける」の破れ笠、紙衣の旅であつた。私意の否定、造化への参入、そこからの却来であつた。さきの関連においていへば、侘びをも侘びつくし、自己を放下しつくすことによつて、松のことは松に、竹のことは竹に習ふといふ境地へ出た。これはすでに侘びではない。対比すべき対象もなければ対比する己れもない。むしろ侘びの否定である。私はこれを私の用語に従つて、「さび」の境地といはう。すでに私が、芭蕉のわびは主観的な趣味を超えた形而上的なものであるといつたとき、そこにさびが含意されてゐたのである。造化とともに自在に心が転じ、風の音に心の色がひびき合ふといふ境が私のいふさびである。なる句の生れるのは即ちこのさびの境地であらう。私は去来の「さびは句の色也」といふ解釈にとらはれない。またさびを句の余情にあるといふしをりと並べては考へない。むしろ芭蕉の風雅、風情、風流、風狂、せんじつめれば風を心にしみる境をさびと解してゐるのである。それが、すき、また、わび、と並んで考へられる日本の美的理念、生活と芸術とを掩ふ美的理念であるところの、さび、である。  私がここにいふさびにおいては、無の介入、否定の契機の介入が必須の条件となる。有と有との対立、また対比からはさびはでてこない。しかもさびが単に個人の心境ではなく、ひとつの様式であるためには、無からの出発、否定からの創造がまた必須の条件である。世阿弥でいへば、登りつめたところからの「却来」である。芭蕉でいへば、「高く心をさとりて俗に帰る」の帰るである。また「格に入つて格を出る」ところに生ずる自在である。この却来また帰来において文化はさびの様式を形成するのである。色即是空から空即是色と転ずることによつて、なまの色は空に媒介されて変貌する。私がトランスフィグレイションといふのはこの変貌をいふのである。山は山、水は水に違ひはないが、山是山において山は本来の面目を現成するといつてよい。藤の花は藤の花に違ひないが、くたびれて宿かるころや藤の花と芭蕉にうたはれることによつて、本来の藤の花の面目を顕現する。認識の対象としての藤の花から、天地山水を背景にし、物我両境にわたつての藤の花が出てくるのである。蛙も蝉も烏も、また糞も虱もその例にもれない。俳諧は俗談平語を正す、と芭蕉がいつたのは、深いところからいへばさういふ意味があらう。言葉の日常性からの解放であり、全体のなかにおける個別の復活である。私の用語でいへば象徴主義である。この点に詞のしやれ、地口、くすぐり、軽口、またはぐらかしをねらつた従来の俳諧、談林までの詞の俳諧と類を異にする心の俳諧、誠の俳諧の特質があるといつてよい。芭蕉の風雅、風流とはさういふものであつた。これが禅を根底にしてゐることはいふまでもない。さびは禅の精神の、美的表現であるといつてよい。それが芭蕉にきはまり、芭蕉できれたと私は思つてゐる。蕪村と比較して考へれば明らかであらう。  芭蕉が、「宗因なくんば、我等が俳諧今以て貞徳の涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山なり」といつたといふ談林の西山宗因(慶長十年(一六〇五)—天和二年(一六八二))は、もと九州肥後八代の城代加藤正方の家臣であつた。彼が二十九歳のとき書いた『飛鳥川』は次の文章を以て始められてゐる。 「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世は今更おどろくべきにしもあらねど、過ぬる宝永九年五月のころほひ、大守おもひがけぬ事にあたりたまひて、遠きさかひにおもむき給。」  ここにいふ「おもひがけぬ事」といふのを内藤恥叟の『徳川十五代史』によつて紹介すると、加藤清正の子の忠広は、父の後を継いだが、驕侈で苛斂誅求が甚しく、また忠広の子光正も暗愚で遊享に日を送つてゐる。その光正が将軍家光が日光の東照宮へ登つてゐる留守を見計つて陰謀を企てたといふ嫌疑で捕へられ、飛騨の国にあづけられ、その父の忠広も所領を没収されて出羽国にあづけられた。宗因の主君正方も、八代を捨てて流離の身となつた。宗因は主君とともに京に上り、また東国に赴き、また故郷に帰つたりしたが、結局また郷里に落ちつくことができず、再び京へ上つてくる。さういふ体験が、「常ならぬ世」といふ言葉の示す内容である。  松永貞徳もなるほど戦乱の世の悲劇を味はつてゐる。彼の祖父は高槻の城主であつたが、天文十年の騒乱で倒れてゐる。父の永種は東福寺に入つて一時僧籍をもつたが、やがて還俗して連歌師として立つた。貞徳はこの父によつて諸学を伝授され、早熟の天才として聞えた。彼の交友は上流貴族であり、細川幽斎からは特別の愛顧をうけた。秀吉の佑筆をつとめたこともあるといふ。  宗因は貞徳の高弟松江重頼に俳諧を学んだといはれるが、宗因のなめた体験、またその体験を通してえた人生智において、到底貞徳一門にはついてゆけないものがあつた。彼が晩年自ら「西国行脚の無用坊」と名のり、「無用の用」「無楽の楽」を説き、また俳諧を「虚を先として実を後とす」といひ、和歌の寓言、連歌の狂言が俳諧といふものであり、「すいた事してあそぶ」ところの「夢幻の戯言《けげん》」といつてゐるのはその人生智の総決算といつてよいだらう。いはば宗因は戯言の中に始めて自分の安定した世界を見出したのである。「常なる世」、世間、現実社会からはみだした「虚」の世界に遊ぶことによつて、現世の苦悩と己が苦しい過去から脱出したわけである。  若い芭蕉は宗房の名で伊賀の藤堂家に仕へ、三歳上の良忠公に親しく文を以て交はつたが、良忠公が二十五歳で夭折し、仕官を辞したいとの申出がききとどけられないまま、芭蕉は脱藩して流離の身となつた。  私は宗因の流離、芭蕉の脱藩の、たつた二つの例から推察するのだが、当時の藩政、またひろく政治のなかに、芸術家また詩人の心を蟄息せしめるやうな空気がただよつてゐたのではないかと思ふ。宗因の場合、正方が失脚したといふ事実が、その流離しなければならないほどの条件であつたとは思はれない。現に故郷の人々は彼に肥後滞留をすすめてゐる。それをふりきつて放浪の旅に出る心根の中には、詩人の心を鬱結させてしまふやうな凝滞が武家社会のなかに兆してゐたのではないか。芭蕉の場合も、単に若い主君の不幸な死が亡命の原因とは思はれない。後を継いだ良忠の弟良重も芭蕉の出仕を願つてゐる。それをおいて藩を脱出するといふことのなかには、やはり、仕官にたへられない詩人の感情が動いてゐたと思ふ。  家康が七十五歳を以て歿したのは元和二年(一六一六)で家光が将軍となつたのは、それから八年後である。このころになると幕府の基礎がかたまり、重要政策が実現されてくる。耶蘇教の禁止、外国貿易の制限、諸大名の妻子の江戸駐在、参勤交代制の実施等がそれである。幕府の職制も確立し、家康は東照大権現の神号を受け、神君として日光東照宮に安んじて鎮座することになつたわけである。  家光の治政になると、定とか法度、式目、礼法の類がむやみに多くなつてくる。喧嘩口論のときの心得、火事のときの心得、道中の禁止事項、町人が脇差をさすことの禁等。中には中々の傑作もある。元和九年家光上洛のときの条例は微に入り細にわたつてゐる。「馬上町入に馬之上にて扇つかひ候者過料銀壱枚、」「かちもの、町入に、鞋之緒しめなをし候もの過料銀壱枚、」「道中に大便仕間敷事。」かういふ法度の類をみてゐると身分制の確立と同時に、がんじがらめに身辺をしばられてゆく様子がわかる。制度機構が確立し、動きがとれない窮屈なものになつてゆく。信長、秀吉時代の開放された空気はもうない。武家政治が中央勢力の強大化とともに、すみずみまでゆきわたつてゆく。  西山宗因や芭蕉の生きた時代は右のやうなものであつた。私は宗因、芭蕉の流離また放浪の理由を右のやうな政治、社会の条件のうちに見出しうると思ふ。利休の時代には政治の中にあつて政治と対立、抵抗する自由が芸術家になほ許されてゐた。桃山式の豪華な中にあつて「侘びる」自由がなほ残つてゐたのである。黄金の茶室に対する藁屋、書院に対する数寄屋の自由、また数寄者の自由があつた。然し石州、遠州になると茶湯もまた政道のなかへくみいれられてしまつたことは既に書いたところである。  日光の東照宮には「侘び」の要素は一毫もない。大阪城にあり、聚楽第にあり、また伏見の城中にあつた利休好みはもう東照宮にはない。ごてごてとした装飾だけになつてしまつてゐる。「侘び」ることももうここでは許されないのである。私はこの「侘び」の喪失が却つて「さび」への道をひらいたと思ふ。宗因には、無用坊と名乗りながら、なほ侘びが残つてゐた。『飛鳥川』のなかに、室の津である法師から、「いづくよりいづくへ行人ぞととはれ」て、腹の中で、「人とはばそもそも是は九州の肥後牢人のわぶと答ん」といふ歌をよんでゐることが誌されてゐる。実に対する虚、和歌に対する寓言、連歌に対する狂言、また夢幻の戯言は、宗因の二元的思考を示してゐる。彼はその虚と戯言の側に立つて、世間を茶化し、俳諧滑稽の世界に遊んでゐたのである。それが談林といふものである。  ところが談林をぬけでた芭蕉には、もはや前記の二元はない。彼は狂句を生きた。わびつくしたるわび人といふ、わびの否定のところへゆきついた。夏炉冬扇もまた世間寺無用坊には違ひないが、ここには世間との二元はない。「此一筋」の俳諧だけがある。彼は俗世との縁をたちきり、俗世との対立、対比といふ二元を超えることによつて意外にひろい世界へ出た。去来の落柿舎の制札の第一、「我家の俳諧に遊ぶべし、世の理窟を言ふべからず」はまた芭蕉のものであつたが、世を超えたところで、彼は天地山水とともにあり、千変万化する四時とともに歩んだ。  これはもちろん幕府の専制的官僚主義、法度と式目で身動きのできなくなるまでに、しばりあげた社会条件とつらなつてゐる。彼はさういふ社会から意識的に脱落した無能無芸のものとして、この細き一筋に身をなげいれたのである。わびとは違ふさびの世界が、この脱落を通してひらけてきた。対立、批評、抵抗を許さない杜会における詩人の生き方の典型がそこにできた。  尾形仂氏の『蕉風への展開』(雑誌『国語と国文学』昭和三十二年四月号)によれば、芭蕉が談林風からぬけだして、いはゆる蕉風を確立した時代は、『方丈記』の記するやうな天変地異、また火事飢饉が相ついで起り、『犬方丈記』といふ名の報道文学もあらはれてゐるといふ。延宝年間から天和、貞享へかけて、飢饉による物価騰貴、また疫病の流行があり、天和二年から三年にかけて江戸は頻々として大火に見舞はれ、いたるところに焼死者の屍を残したといふ。談林俳諧の地盤であつた寛文、延宝初期の、肯定的な庶民的楽観主義とは違つた、不安と苦渋にみちた時代が延宝末から天和にかけての特徴であるといふ。芭蕉はかういふ社会また時代に対する直接の批評家ではない。「富家[#(ハ)]食[#二]肌肉[#(ヲ)][#一]丈夫[#(ハ)]喫[#(ス)][#二]菜根[#(ヲ)][#一]予[#(ハ)]乏し」と前書して、「雪の朝ひとり干鮭を噛み得たり」(延宝八年)と詠むことによつて、裏側から民衆に結びつく。古米五升をもらつて新年をよろこび、盥に雨を聞いて野分の夜をいとほしみ、冬の夜、軋る櫓の音をきいて腸を氷らせる。さうして貞享元年に「野ざらし」の句をうるに至るのである。風情つひに菰をかぶつたところから、人間のあはれとよろこびを美しい言葉でうたつた。芭蕉は世阿弥の舞台、利休の二畳から解放された一笠一杖の旅において造化の不思議を人間の声で写しだしたのである。 [#改ページ] [#見出し]  二 長谷川等伯と利休  画家の長谷川等伯が、利休と深く交つてゐたことは、たとへば等伯が例の大徳寺山門金毛閣の天井に雲龍を描いたといふことによつても察しがつく。この山門は連歌師の宗長の寄進によつて成つたのだが、資金がつきたのか下層だけしか出来なかつた。後利休の寄進によつて上層即ち金毛閣が成つたことは既に書いた。利休寄進の楼閣に画いたのだから等伯と利休との親交のほどが察せられるのである。また等伯の画いた利休像が表千家にある。  私は絵画については殆ど知らない。然し等伯についてはある記憶がある。  数年前、たまたま南禅寺内金地院をおとづれ、ゆくりなく等伯の猿をみた。それまで私は等伯については何も知らなかつた。等伯といふ名も知らなかつた。だが私はこの猿に実に感心した。誰かの心ないいたづらであらう、猿の額は鉛筆でよごされてゐた。この猿猴捉月図は実に豁達で、しかも気品がある。私はそれ以来等伯に注意し、京都の博物館での展観で、猿を描いた屏風をみた時もこれに感心した。私はその外のものは実物をみてゐない。みづから雪舟五代を称しただけあつて、大徳寺山内真珠庵の商山四皓図などの写真をみても雪舟の影響のあつたことはわかるが、等伯には雪舟にはない一種のさわやかさ、のびのびとしたところがあるやうに思はれる。土居次義氏は醍醐三宝院の柳の間も等伯派によつて描かれたものとしてゐるが(同氏著『桃山障壁画の鑑賞』一二一頁)、この柳は私も実地にみて強く心に残つた。寺伝によればこれは狩野山楽といふことになつてゐる由だが、私の素人眼にも等伯とみた方が似つかはしいやうに思はれた。  私がこの書で特に等伯に言及したくなつたのは、智積院の障壁画がこのごろ等伯等の長谷川派によつて描かれたものだといふ説が有力になつてきたことによるといつてもよい。従来狩野派殊に山楽の筆といはれてゐたこの画が、たとへば前記の土居次義氏の著書において、総じて長谷川滋の作品として扱はれ、そのうち楓図は等伯自身の筆によるものとしてゐる。最近にでた久松真一氏の『禅と美術』も土居氏と同じ意見で、等伯であることに何の疑もはさんでゐない。等伯の水墨のみをみてゐた私にはこの金地の画もまた等伯であるといふことは一種の驚きでもあるが、しかしよくこれをみれば、やはりどこかにさわやかなものが感じられる。葉のそよぎにも軽みがあつて、三宝院の柳の葉に通じるものがある。久松氏がこの濃彩画に禅味を感じられたのも故なきことではない。私は永徳の金碧画は多くは知らないが、たとへば狩野探幽の筆といはれてゐる二条城内の金碧画の松の図、または松鷹の図は、智積院の楓図とは全く質を異にしてゐるといつてよい。ここにはさわやかさは微塵もない。すべてゴッテりしてゐて余白がない。いま東京芸術大学の所蔵となつてゐる六曲の松鷹が、真に永徳の作品であるとするならば、私は前記の二条城の松鷹との間に一致したものを感じ、永徳のなかに探幽の萌芽を見出すわけである。然しこの伝永徳の図には専門家はなほ多少の疑念をもつてゐる。だが、永徳系統に属するものであることはまた認容されてゐる。  信長、秀吉に寵用され、安土城、また大阪城に雄大な筆をふるつたといはれる永徳の位置づけは私にはできない。狩野永納はその『本朝画史』の中で、秀吉が大阪城や聚楽第をきづいて以来、諸侯大夫がきそつて大厦を営み、その内部を金碧画で飾ることが流行したので、永徳は細筆で描く暇がなく、専ら大画をものした。梅松の高さ一、二十丈に及ぶものもあれば、人物の三、四尺に及ぶものもある。その筆法は粗にして草であつたと言つてゐる。恐らくさういふものが安土や大阪の金碧画の特色であつたらう。またそれが信長や秀吉の英雄主義、豪壮な気性に適合して寵をうけることにもなつたのであらう。芸術大学所蔵の松鷹はさういふ画とのつながりをもつやうに思はれる。  然し永徳の初期(一五六六年、二十四歳)の作といはれる琴棋書画(聚光院)や、また一五八〇年代の作といはれる国立博物館所蔵の檜には、前記の粗にして草とはまるで違ふ繊細なところもうかがはれ、檜の葉のうごきには、むしろ智積院の楓の葉のそよぎと類似したものさへ私には感じられるのである。また有名な洛中洛外の金屏風の示してゐる風俗画にはこれとは違ふ感覚と趣味が感ぜられ、永徳といふ人物が統一した姿をとつて私の前にあらはれてこない。  私は別にここで永徳論を企ててゐるのではないから、それはそれでまたいいのだが、私の関心は、永徳、山楽系統に対する等伯、利休の対立があつたのではないかといふ点にある。私は安土、大阪の城内の金碧画に対する利休のアンティパシイを推定し、このアンティパシイが利休をして等伯に結びつけたのではないかといふ想像をもつてゐるのである。関衛氏の『日本絵画史』には次のやうに書かれてゐる。 「桃山時代には、狩野一門の画風が天下を風靡し、大抵の画家は其の風に私淑したが、独り長谷川等伯は、別に一派を立てて狩野派に対抗した。等伯は、本朝画史には能登七尾の人とあるが、丹青若木集には越前の人としてある。最初彼は曽我紹祥(曽我蛇足の子紹仙の嗣)に師事し、次に狩野直信(又の名松栄、永徳の父)の門に入つたけれども、当時永徳や山楽や友松などの名声が高くて、到底其の右に出る事の不可能な事を自ら看破し、退いて雪舟の風を学び、自ら一家を樹てて雪舟五世と称し、斯くて狩野派に対抗した(中略)。元来此等伯といふ人は、狩野派の隆昌を嫉んだ人である。当時茶人の千利休も亦狩野家と仲が悪かつたので、二人は相結んで狩野家を誹譏し、之を陥れようとしたけれども、目的を達することが出来ず、却つて世に容れられなくなつた。僅かに雪舟五世の名をかりて、時俗を欺いて居たに過ぎなかつた。ところが等伯と同時代に、等顔といふ画家が出て、雲谷三世(雪舟三世)と称したので、両人の間に軋轢が生じ、正邪を法廷に争つたが、併し訴へた方の等伯が負けになつた。故に後世の人々は等伯の方を長谷川派といひ、また雲谷風ともいつた。等伯は慶長十五年の二月に江戸で歿した。享年七十二歳であつたといふ」(二一八頁)。  私は等伯に対するこの散文的解釈に特別に異議をさしはさむものではない。然しこの解釈で十分であるとは決して思はない。なるほど等伯にも狩野家に対する嫉妬があつたであらう。狩野一派に対抗しようといふ名声欲もあつたに違ひない。利休と結んだことも事実であらうが、それが狩野家の失脚を謀つたものとはいひきれまい。等伯にはその画風から察してももつと高い精神があつた筈である。  信長や秀吉が己が威勢を誇らうとして示した黄金趣味、安土城内の金の壁、金の柱から金の瓦にいたり、大阪城内の黄金の茶屋、黄金の茶道具、さらには聚楽第での何十万両の金貨の分配に及ぶ黄金の洪水に対して、それに適応したのが永徳一派であり、それに反撥を示したのが等伯や利休であつたといふ推定は無理ではない。宋元風の幽玄からぬけだした写実的でしかも装飾的な永徳の画風が、安土城主、また大阪城主の趣味には直接に適合したに違ひない。墨一色の枯淡な画よりも、濃厚な色彩を金地に塗つた方がよろこばれたこともうなづけるわけである。初期の永徳にあつた繊細にして幽玄なものが、年とともに次第に豪壮にして濃厚なもの、粗にして草なるものに換つていつた。そしてそれが安土桃山時代を特色づける画風となつたのである。  利休が大阪城内山里丸に、藁葺の数寄屋をつくつたのは、秀吉の黄金の茶室に対する抵抗であつたといふことは既に書いた。天正五年の七夕の日に催されたといふ安土城内の数寄屋でのわびた朝会も信長、永徳への抵抗とみてもよいだらう。等伯の猿の画には、なるほど牧谿の猿の影響があり、柳の画は伝牧谿の豊干竹雀柳燕図中の柳の葉に暗示をえてゐるかもしれない。しかし永徳の全盛時代にあつて牧谿を選び、それを単に模倣したのではなく、その精神を深く汲みとつてゐるところに、私は利休のわびと同類のものを感じるのである。関氏はさきに引用した文のなかで、等伯が世に容れられなくなり、時俗を欺いてゐたといつてゐるが、たしかにさういふところもあつたのである。然し単にそれを嫉妬やひがみと解しただけでは等伯の画の精神とは遠い。私は信長、秀吉に仕へた芸術家仲間であつたところの永徳と利休が結びつかず、反つて利休が等伯と親しく交つたことに特殊な注意を払ふものだが、この二人に共通する精神は、永徳の捨てたわびであつたと考へるのである。  なほ、私は智積院に楓の図を残してゐる等伯にも格別な興味をもつ。墨絵だけでなく金地に書いた画を残してゐるところにやはり桃山時代の特色を感じるのである。あの楓の図がどういふ因縁で描かれたのかわからない。恐らくどこかの大邸宅のための装飾用のものとしてかかれたに相違あるまい。猿や柳の方へ徹底してゆかずに、金地濃彩のを残してゐることに、私の注意はひかれるのである。土居次義氏の説によれば、もともとこの楓の図は、秀吉が幼くしてなくなつた子の棄君の菩提寺として天正の末年に建てた祥雲寺のために描かれたもので、後に智積院に移されたものだといふ。等伯はそのとき五十四歳、円熟期の作品といつてよいといふのである。若しこの説が正しいならば、秀吉の命によつての作であることがわかり、金地もまた秀吉の意をたいしてのものであつたらう。  私は等伯の楓の図は、利休の黄金の茶室での点茶のやうなものではなかつたかと考へる。秀吉の茶頭としての利休は、わび専一の茶人にはなりきれなかつた。命令があれば、黄金の茶座敷で黄金の茶杓をつかつて茶をたてたのであり、また黄金づくめの座敷の設計にも参加したのである。さういふことをしながらも、なほそのなかに利休ならではのこなしがあり、利休特有の雰囲気をかもしだしてゐたに違ひない。それと金地に楓の大樹をかきながら、なほ松鷹式の粗大画と違ふさわやかさ、幽玄といつてよい感じをだしてゐる等伯との類似を私は思ふのである。この二人の結びつきは偶然ではない。  これを書き終つた後で、私は平凡社の『日本の名画』といふシリーズの一冊としての『等伯』を手にした。土居次義氏の編で一昨年に出版されたものである。この中に表千家蔵の利休居士の像がある。この像には大徳寺の春屋和尚の書いた賛があり、それによつて等伯がこれを書いたのは利休の死後四年の文禄四年であることが知られるといふ。これは利休晩年の風貌を最も正確に伝へたものであるといはれてゐる。肩から腰にかけてのどつしりした重みには禅者のみの持ちうる強さ、不動の精神が感ぜられる。顔及びその表情は我々にいろいろな連想を起させる。大きな口は堅く結ばれ、意志の強さの程がわかるが、単に強さばかりではない。眼は憂愁の色を帯びてゐると土居氏はいつてゐるが、単に憂愁ばかりではない。眼には鴎外の言葉を借りていへば Resignation とでもいつてよいやうな、さういふものを感じさせる。自己の運命についての諦観とでもいはうか。激しくきびしい世に生きた生涯と同時に、既に己が最期を予知してゐるやうな表情がある。憂愁ではあるがメランコリイではない。喉のあたりも口と同様に強い線で描かれてゐるが、口元にはやはり「不道不道」(いはじ、いはじ)といふ正受老人の最期の一句を連想させるもの、不道において実は非常に多くのことを語つてゐるやうな複雑さがある。等伯はこの像のやうな利休と深く交つてゐたのかもしれない。  なほ前記の春屋和尚の賛語の中に、利休に親しく随従してゐた宗慶といふ人物がゐて、その宗慶の請によつて賛語を書いたことが誌されてゐるといふ。堀口捨己氏も言つてゐるやうに(『利休の茶』二五八頁)、この宗慶が『南方録』の南坊宗啓と同一人であるかどうかを決めることは、後に記する『南方録』の真偽の問題を決める重要な手がかりでもあるが、『南方録』の宗啓が、利休の三回忌に、その霊前に茶菓を供養し終つて、飄然として何処かに消え去り、その行方を知らないと伝へられてゐることと、この賛語が死後四年に書かれてゐることの間には、なほ考へなければならぬ疑問がある。 [#改ページ] [#見出し]  三 『南方録』の問題  従来茶道第一の書といはれてゐた南坊宗啓の『南方録』が、このごろにいたつて或ひは擬書といはれ、また後人の書入れの多い疑はしい記録で、参考史料程度のものといはれるにいたつた。小宮豊隆氏はその著『茶と利休』のなかで、精緻にその疑点を挙げて、疑はしいところは疑ひながらも、なほ『南方録』が利休の言行を記録した重要な典拠であるといふ立場に立つてゐられる。久松真一氏もほぼ小宮氏と同じ意見である。  堀口捨己氏はその『利休の茶』のなかで、種々の理由を実証的にあげて、『南方録』はその六巻以下の追加分が疑はしいばかりではなく、「恐らく総てに渡つて疑はしいもののやうに思ふ。それ故にこの中から利休の言葉として拠れるものは極めて少いものであらう」といつてゐる(五七頁)。また「南坊宗啓が利休の言葉を聞き、それを基にして、彼の考を展げた仕方が、どれ位のものであつたか。例へば『南方録』に出てゐる茶会記のみに、彼の名が出て、他には一度も表はれなかつたのは、その茶会記が、他の事から作り物であつた事を、証し得ることは問はないにしても、何故であつたか。また利休が道庵や少庵などにも伝へなかつた程の秘伝を、利休から伝へられ、その後の教をさへたのまれたと云ふ彼が、利休の後の人に、茶杓の下削り位の名で、辛じてその名を止めてゐたのは、何故なのか。これらの事を明かにしない限り、『南方録』の中の利休の言葉は、あまり拠り所とするわけには行かない」ともいつてゐる(二五八頁)。  私の如き素人は、小宮氏また堀口氏が疑はしいとして実証的に挙げてゐる点、たとへば年代の矛盾や、時日の相違等はすべてそのまま肯定せざるをえない。その上で小宮・久松説をとるか、堀口説をとるか、即ち『南方録』の記述する利休の言行を典拠となしうるか、またなしえないか、といふことになれば、私の自由な判断の領域といふことになる。  小宮氏もいつてゐるやうに、従来利休の茶、また利休の茶の世界、一般に利休像は『南方録』を主要資料としてつくりあげられてゐた。さういふ傾向が一般であつた。利休を茶聖にしあげ、茶道の開山にしあげたのは『南方録』といつてもよい。私ももちろん利休像の一斑はこの書に負つてゐるが、『南方録』には常に頸をかしげるところがあつて、不安を感じてゐた。私ははじめからこの書には一種の警戒心を以て相対した。土芳の『三冊子』が芭蕉の精神を伝へてゐると同じ意味で、『南方録』が利休の精神を伝へてゐるとは到底思はれなかつた。南坊宗啓といふ人物が記録したとしても、或ひはまた宗啓の名をかたつた他の人物の擬書であらうとも、私には大した問題でなく、この書全体のもつてゐる一種の臭味に作為の跡を感じたのである。  例へば第一巻『覚書』の冒頭から既に利休(宗易)自身には無いと思はれる、また若し有つたとしてもかほどに濃厚に発散したとは思はれない仏法臭さを私は感じる。 「宗易或時集雲庵にて茶湯物語ありしに、茶湯ハ台子を根本とすることなれども心の到る所ハ草の小座敷にしくことなしと常々の給ふハ、いか様の子細にてと申。宗易の云、小座敷の茶の湯ハ第一仏法を以て修行得道する事なり。家居の結構食事の珍味を楽とするハ、俗世の事なり。家ハもらぬほど食事は飢ぬ程にて足る事なり。是仏の教、茶の湯の本意なり。水を運び薪をとり、湯を沸し茶をたてて仏に供へ、人に施し我ものみ、花をたて香をたき、皆々仏祖の行ひのあとを学ぶなり。尚委しくは和僧の明めにあるべしとの給ふ。」  ここには、ことさらに仏法をもちだしてゐる跡がある。文章も説明的である。「仏法を以て修行得道する」といふいひ方、「俗世の事なり」といふ説明の仕方、「仏祖の行ひのあとを学ぶ」といふいひ現はし方は、利休の直々の口から出たものとは思はれない。南坊宗啓、またはその名を騙る男の、意識的な解釈と附加が入りこんでゐるやうに思はれる。  同じ巻の「愚僧も二代の菴主南ノ坊と申て、茶修行のミの隠者。大笑大笑」といふところなど、この愚僧と名乗る人物が、ひどく俗物にみえてくる。例の「花をのみ待らん人に山里の雪間の草の春を見せばや」の家隆の歌を利休が茶の本心といつたといふことに対しての宗啓のつけたしの言葉、「かやうに道に心さし深く、さまざまの上にて得道ありし事、愚僧等の及ぶべきにあらず。誠に尊ぶべく有難き道人、茶の道かと思ヘハ、則祖師仏悟道なり。殊勝々々」の如きも俗臭紛々である。「愚僧の及ぶべきにあらず」の如きは宗啓僭上と一喝をくらはしたくなる。それはまたいはゆる『滅後の書』のなかの「趙州ヲ亭主ニシ、初祖大師ヲ客ニシテ、休居士と此坊ガ露地ノ塵ヲ払フ程ナラバ、一会ハ調ベキカ、大笑々々」の場合にもあらはれてゐる。この茶杓の下削りしかできなかつた此坊の大笑を、こちらでまともに引受けてやりたいといふほど、意地が張つてくる。  また各巻の奥書についてゐる証明書の如きもの、例へば第一巻の、「右覚書、心得相違に候ハバ、被仰聞候。御物語承候度々に付置候得共、愚僧の得心不成就之故、雲泥の事候半より殊に書様疏略に候。書改候も又不本意存候故、此まま進し候。しかじか」といふ南坊の伺ひに対して、「右数々の雑談、御書留に成候而、後悔之事に候。併相違の所存無之候。同じくハ反古張に成し候へ。かしこ」と宗易が答へたことになつてゐるが、これももつたいぶつたやり方である。「同じくば反古張に成し候へ」といひ、その下へ「かしこ」と書くやうな利休は、私の利休像ではない。ここにも作為の痕跡を感じる。  右のやうに書けば、私はおのづから堀口説に従つてゐるといふことになる。然し私もまた小宮氏と同じく、『南方録』のなかに、いかにも利休らしい、利休の言葉らしいものをも感じる箇所がある。さういふところをとびとびに拾つてみよう。 「互の心に叶ふがよし。然れども叶ひたがるハあしし。」 「夏ハいかにも涼しきやう、冬ハいかにも暖かなるやうに、炭ハ湯のわくやうに、茶ハ服のよきやうに、これにて秘事ハすみ候。」 「心之働ハ引替/\何様にも可有候。所作、飾、置合の珍敷事ハ不快会にて候。」 「返ス/\茶ノ湯ノ深味ハ草菴ニアリ。真ノ書院台子ハ格式法式ノ厳重ニ調ヘル世間法也。草ノ小座敷、露地ノ一風ハ、本式ノカネヲ本トスルト雖、終ニカネヲハナレ、ワザヲ忘レ、心味ノ無味ニ帰スル出世間法也。」  私にとつて南坊宗啓といふ人物は不可解である。利休と同格としてみづからを示してゐたり、また無二の高弟として書きしるしてゐるところがある。然しそれを傍証する資料はない。利休のかくれたる友、また禅を語つては利休より先達のごとくにみえるが、然し利休ほど名の通つた人物の周辺が、それほどの宗啓の存在をも知らなかつたといふことは解しがたいことである。また一方には宗啓自身不当と思はれるほど卑下してゐるところもある。一々利休の裏書を求めてゐることなどもそのあらはれとみてよい。利休から道安や少庵といふ血脈をも無規して秘伝を授けられたといふほどの宗啓なら、もう少し自信があつてよささうに思はれる。宗啓にはちぐはぐなところがめだつて、統一した宗啓像といふものがでてこない。  従来の解説書は宗啓を次のやうに伝へてゐる。宗啓は堺の富豪にして数寄者の家筋でもあつた淡路屋の出身で、同地の禅通寺の春林和尚に参じて得度し、喝食から蔵主に進み、慶蔵主、やがて慶首座とよばれた。永禄元年頃から利休に師事した。春林和尚の歿後、南宗寺の塔頭集雲庵の岐翁和尚に参学し、禅を深めた。彼は清貧に甘んじ、名物茶器もなく、露地さへもない集雲庵の三畳に侘びつくした。天正十九年利休の切腹するや、怏々として楽しまず、師からききとつた茶道の逸話などを集録して、これを『滅後の書』と名づけ、従来の聞き書と併せて全七巻を完成し、文禄二年二月二十八日、利休の三回忌にその霊前に香華を供養しをはり、そのまま何処かへ立去つたまま、終るところを知らないといふ。一説には筑後に下つたともいはれる。  この最後のところを『滅後の書』の末尾のところから直接に引用してみよう。 「右此一巻ハ、文禄二癸巳二月二十八日  先師利休宗易大居士第三回忌辰香華茶菓ヲ供養シ、誦経回向シ畢ツテ、燈下懐旧ノ涙シタシテ、アリシ物語共ヲアトサキトナク書ツヅケ、已ニ一巻ト成者也。執筆序、一偈唱テ牌下ニ呈ス。利休大居士清茶門弟南坊宗啓稽首    孤灯油尽花僅白 一鼎水乾茶不青    師去草房三覚夢 東風報暁涙空零  私はこの文章全体に作為の跡を感じる。文章に脈絡がない。殊に「誦経回向シ畢ツテ、灯下懐旧ノ涙シタシテ」云々のあたりの書きぶり、また門弟南坊宗啓とみづからの名を書きつらねるあたりに素直でないものを感ぜざるをえないのである。 『南方録』が今日の形で残つたいきさつを簡単に紹介しておかう。九州黒田藩の家臣立花実山が、貞享三年藩主に従つて江戸に上る途中、蒲刈に船をとどめてゐたとき、京都の何某といふものから手紙がきて、利休秘伝の茶湯書五巻を所持する人があり、それを密々に書写してもよいといふ趣であつたので、縁に感じて写しとつた。その後この書の残部を探してゐたが、元禄三年にいたり、堺に宗啓の遠孫にあたる納屋宗雪なるものがゐて、残りの二巻を所持してゐることがわかり、懇望して書き写した。ここに七巻が成つたのだが、そのうちの秘奥と思はれる九ヶ条を実山自身がぬきだして別巻としてこれを筐底に秘めておいた。その後『追加』一巻を加へ、全九巻となり、これを実山の実弟巌翁が書き写したものが即ち今日の『南方録』であるといふ。なほこの成立事情は小宮豊隆氏の前掲書に詳しくしるされてゐる。  さて『南方録』を擬書または偽書とした場合、その下手人は誰かといふことになれば、立花実山か、または実山が書き写したといふ京都何某の所持した原本の筆者か、それとも実山の実弟巌翁かのいづれかである外はない。実山は原本となづけてゐるものの筆者を南坊宗啓といつてゐるが、ここにも宗啓の名を騙つた第三の者の介入を許せないことはない。  小宮氏は実山自身が偽作また創作したものではなく、典拠によつたもの、少くとも五巻まではさうであるとみてゐる。然し実山の拠つたといふ原典がかなりのあやまり、また疑はしい点をふくんでゐることも認めてゐる。堀口氏は『南方録』全部を擬書と断定してゐるが、私の知る限りでは、擬書の成立事情には及んでゐない。  とにかく利休の死後まる百年たつて、初めて発見され流布されたこの記録には、いくたの疑問をさしはさむ余地がある。私が冒険と知りつつ、空想的推定をすれば、凡そ次のやうなものではないかと思ふ。  利休の側近の一人が、利休の言行、また点茶の方式を断片的に書きとめておいた。側近は誰とはいへないが、少くとも南坊宗啓より以上に利休に直接に近いものである。専門の茶湯者ではなく、いはゆる利休七哲のうちの一人とみてもよい。高貴とはいはないまでも相当な禄高の者である。利休の切腹が秀吉の怒にふれたものである以上、その言行録を公にすることができず、秘しておいた。この断片的な秘録を、南坊宗啓か、または宗啓の名を騙る第三の者が、ある機会に手に入れて、種々の書入れをしたりして、もつたいをつけた。第三の者がもしあつたとするならば、それは大徳寺系統、または南宗寺あたりの禅家で、宗啓とは親しい茶数寄、侘数寄の者であらう。これが実山のいふ「利休秘伝茶湯之書五巻」の原型と思はれる。立花実山が更にこれに手を加えなかつたといふ保証はない。実山は、この五巻を所持する人があつて、若し希望するなら、写しとつてもよいと言つてゐることを、「京都何某」から書状でいひよこしたといつてゐるが、この辺があいまいである。私は小宮氏のいふやうに、実山を正直な人物とは直ちには思へない。実山とその弟巌翁との合作、または巌翁が合作をよそほつて一人で書いたとも思はれる八巻九巻も、また実山が宗啓の遠孫納屋宗雪所持の原本から写しとつたといふ六巻七巻にも、前五巻以上にあいまいな節がある。然し前の五巻と後の四巻をきりはなして、前五巻だけは少くとも利休直伝の正銘なものだと断定するほどの根拠もない。またさういふ印象もない。  以上は私の印象をもとにした臆測にすぎない。既に小宮氏が実証的に相当程度まで証明してゐる『南方録』の疑点を、更に一層詳細にしらべあげる人のでてくることを願ふ。専門の学者なら、その用語、また文体などからも取扱へる問題であらう。百年を距ててゐるのだから、さういふ点から明らかにしうる点も少くないと思ふ。 『南方録』の真偽の問題は重大問題を含んでゐる。といふのは、従来『南方録』を茶道第一の典拠として、そこから利休の茶の精神を汲みとり、または利休といふ人物の姿をきづきあげたといふ傾向が強い。例へば西堀一三氏の『南坊録の研究』(昭和十九年)の如きがそれである。(一体この書が『南方録』であるか、また『南坊録』であるかも決定されてゐない。私はこのごろの傾向に従つて『南方録』の方を採つてゐるにすぎない。)西堀氏は、この書が、「利休の弟子のうち精神的方面に最も理解の深かつた南坊宗啓が、その所説を筆録し、利休の検閲を得たものである」といひ、「利休の精神を正しく伝へるものである」といつてゐる。西堀氏のやうな立論の仕方は、もしこれが擬書、または偽作といふことになれば、相当の改変を余儀なくされるだらう。  利休を侘び専一の茶人、露地草庵一風の茶人として解釈し、侘びた数寄者として印象づけた資料は、単に『南方録』ばかりではない。たとへば『山上宗二記』がある。「茶湯者ハ無能ナルガ一能也」とか、「茶湯ハ禅宗ヨリ出タルニ依テ、僧ノ行ヲ専ニスル也。珠光、紹鴎、皆禅宗也」とか、「古人ノ云、茶湯名人ニ成テ後ハ、道具一種サヘアレバ侘数奇スルが専一也。心敬法師連歌ノ語曰、連歌ハ枯カジケテ寒カレト云。茶湯ノ果モ其如ク成タキト紹鴎常ニ辻玄哉ニ云ハレシト也。」「宗易茶湯モ早冬木也。」等の言葉がそこにある。もちろんこれは珠光、紹鴎を経て利休に伝つた侘び茶の精神をいつたものだが、「紹鴎逝去三十余年已後、宗易先達也」といふのが山上宗二の立場であつたのである。また久保権太夫の『長闇堂記』の中にも、「宗易華美をにくまれしゆへか、わびのいましめのための狂歌、よみひろめ畢」といつて、利休の、「振舞はごまめの汁にえびなます亭主給仕をすればすむなり」外一首をあげてゐる。外にもなほ資料があらう。  然し、利休の侘びを直接にまた濃厚に仏法、殊に禅に結びつけ、利休の言行を禅の立場から解釈するやうになつたのは『南方録』の影響といつてよい。「侘ノ本意ハ清浄無垢ノ仏世界ヲ表シテ、此露地草菴ニ至テハ、塵芥ヲ払却シ、主客トモニ直心ノ交リナレバ、規矩寸尺式法等アナガチニ云ベカラズ」(『滅後書』)。「又大秘事ト云ハ、カノ山水草木、草菴主客、諸具法則規矩トモニ只一箇ニ打擲シ去テ、一物ノ念ナク無事安心一様ノ白露地、コレヲ利休宗易大居士的伝ノ大道ト知ベシ」(『秘伝九ヶ条』)。かういふ文字の間に、私はごてごてとした禅臭を感じるのだが、同時に利休を露地草庵の侘茶人と解する仕方がここから生れてゐることも事実である。宗啓を利休の精神的方面の深き理解者とする西堀氏などの説もかういふところから起るのである。  利休には利休直筆の文書が少い。また多少の文書から利休像をきづきあげることは困難である。従つて従来の利休伝説から利休の像を描くより外ないのだが、この際『南方録』的利休に偏向のあることは疑へない。私がわびをさびと区別して、わびを対比から起る概念と規定したのも、『南方録』のしるすわびとは違つた解釈である。『南方録』を離れても、利休が大茶人、大趣味人であり、豪毅な人物であつたことに変りはないのである。 [#改ページ] [#見出し]  四 初花経歴譚  京都に思文閣といふ古書肆がある。そこから度々目録を送つてくる。去年の春であつたか、目録のうちに梅園高橋龍雄著の『茶道』をみいだして手に入れた。昭和十年に大岡山書店から発行されたものである。この書の巻頭に初花肩衝の実物大の写真が載つてゐる。原色版である。とにかく美しい。掌の中へ入れて撫でてみたい思ひが湧いてくる。玩物喪志といふ言葉があるが、初花の色合ひ、肌、形をみてゐると、うなづかれる思ひがする。新井白石の『紳書』には、初花の由来を揚貴妃の油壺と誌してゐるさうだが、私にはさういふなまめかしさは感じられない。やさしいなかにもなにか毅然としたものがある。  高さ二寸七分五厘、口径一寸五分五厘、胴幅二寸二分、底径一寸五分強といふこの小さい名器が日本の歴史の百五十年に亙つて相当の波紋を残してゐる。  記録上の最初の所持者は足利義政である。いづれ入宋の禅僧によつて持ち来されたものか、或ひは堺の商人によつて天龍寺船で舶載されたものであらう。義政から奈良の鳥居引拙の手にわたり、さらに京の大文字屋疋田宗観の手にあつたのを信長が召上げた。信長はこれを安土城主の信忠に与へた。安土の城は本能寺変後、光秀によつて火をかけられてゐる。初花はなんびとかの手によつて火難を脱れ、三河の住人松平親宅のところにあつたが、本能寺の変の翌年、これを家康に献じた。家康は大いに悦んで所望のもの何でもかなへる由を伝へた。親宅は領地の拝領よりも、酒役蔵役其の外一切の諸役御免の御朱印を戴きたいと申し出て、いとやすいこととかなへられた。無税で酒造りと蔵敷料との権利を得たわけで、この方が実益ははるかに多かつたに違ひない。念誓といふ坊主臭い名前までもつたこの親宅はなかなかぬけめのない男だつたとみえる。元来浪士の身分で初花をどうやつて手に入れたかも不審であるが、これに関する記録はない。  家康はこれを所持することわづか一ヶ月にして秀吉に贈つた。柴田勝家討伐の祝品としてである。あれほど入手をよろこんだ家康が月余にして手離したことを思ふと、秀吉と家康との勢力の均衡が、秀吉の柴田討滅によつて急角度にくづれたのではないかといふ想像がわく。秀吉は初花をかつて安土城で拝見に及んでゐる。手の出るほどに欲しかつた品であるが、主筋の所持で如何ともなしえなかつたものである。家康は或はこのことを知つてゐたのかもしれない。一ヶ月で祝品としてこれを贈つた家康の心根は、たとへば『藩翰譜』等の徳川期の史料の伝へてゐるやうな剛毅のものばかりではなささうである。なほ桑田忠親氏の『千利休』(創元選書版)によれば、当時秀吉のもとにあつた利休が天正十一年六月二十日附で筑前の島井宗室に宛てた手紙の中には次のやうに書いてあるといふ。去年は楢柴の茶入の話がたびたび出たが、ただ今は、初花の茶入のことで持切りで、先日それを徳川殿から贈つてきた。珍らしい唐物だが、拙者にとつては別に珍らしくもなんともない。年来そのやうなことばかりで、迷惑至極である云々。この手紙によつてみても、利休が政治的な掛引の臭ひのする贈り物に倦きてゐたことが察せられる。  ところで秀吉がこの名器を愛用したことは当時の茶人達の日記にもでてゐる。天正十三年二月、小牧の役の後信長の遺子信雄と媾和が成立し、それを機に信雄とともに信長の弟有楽を招いて大阪城山里の数寄屋で茶会を催したが、この重大な茶会には秀吉自ら初花の茶を点前したといふ。同じ年の九月七日の禁中茶湯にも出てゐるし、十五年十月朔の北野の大茶会の宗及の席にもでてゐる。秀吉はこれを養子の宇喜田秀家に与へた。秀家は関ヶ原で敗れ、薩摩に亡命したが、やがて亡命先から初花を家康に献上した。当然討滅すべき秀家を薩摩に亡命させて、知らぬ態にしておいたのは、初花を家康に献上した故の計ひであつたかもしれない。  家康は大阪城攻略に第一の戦功をたてた越前少将松平忠直に引出物としてこれを授けた。忠直は結城秀康の子で家康の孫である。  私はこの忠直には興味をもつてゐた。むかし読んだ菊池寛の『忠直卿行状記』が頭のなかにあつたわけである。菊池寛のものはあまりにうまくできすぎ、また当時の人間心理偏重の傾きもあつて、いま読直してみれば物足りない節もある。然し封建時代に生きた多感で聡明な若大名の複雑な気持は理解できる。私は家康から忠直への初花授受を知つて、手元にある資料にあたつてみた。 『難波戦記』の巻二十三、二十四には、元和元年、大阪夏の陣の先陣で武勲第一であつた忠直麾下の越前勢の奮戦の模様を書いてゐる。五月六日の夕方、忠直の領袖が家康の柳営に参上して、明日の戦略を伺つたところ、家康は明日の先陣は前田筑前守と決つた。今朝の合戦に井伊掃部頭、藤堂和泉守等が力戦してゐるのに、「越前の者共は朝寝して知らざるか、」さういふ者共に先陣の名巻は与へられないといふのである。忠直はこれをきいて大いに恥入り、切腹して臆せざるところを証するか、直に城に攻めこんで討死して辱をそそぐか、それとも明日の先陣といふ筑前守勢に矢をかけて同士討をやるか、その三つの中の一つをとれと部下に諮る。戦歴十分の老将の計ひによつて、その夜のうちにひそかに先陣の構へをつくり、翌七日の戦ひには一同奮起して、首級三千六百五十をあげて武功第一の誉をえたことが誌されてゐる。 『難波戦記』の如き物語が、歴史の事実をそのままに伝へてゐるとは思はないが、若い忠直を前にしての家康の老獪なおだて方、二十歳の青年忠直の血気で一途な気性のほどは察しがつく。 『大阪物語』下には、「越前の少将は駈け合ひの合戦は、今日が始にておはすなれば、軍の掟もいかがあらんと、家老の面々も訝《いぶか》に思ふ所に、共心根元来丈夫におはしければ、少しも臆したる気色なく、自ら麾を取り、軍勢共に先立つて懸けられければ、本丸へ一番に、越前の少将の者共乱れ入りけり」と書いてある。なほこの物語の「頸帳」には、越前勢のあげた頸を三千七百五十三とし、その中に、真田幸村のが入つてゐたことを誌してゐる。  梅園翁の書物には、『徳川実記附録』からの次の引用がある。 「朝臣(忠直)御本陣に参謁せられしが、朝臣の手を取らせ給ひ、今日の一番の功名あつてこそ、げに我が孫なれとて、いたく御賞誉あり。又、二条城へ諸大名群衆せし時も、朝臣を召し、云々。我が本統のあらん限りは、越前家又、絶ゆることあるまじとて、当座の御引出物として、初花の御茶入をたまはり、云々。」  初花は当座の引出物で、「恩賞は追て沙汰あるべし」といふのであつた。ところで恩賞の方はなかなかこない。領地の加増がなければ部下に実質的なねぎらひができない。越前勢にも相当の死傷者があつたに違ひなく、その遺族の保護も思ふやうにはできないわけである。恩賞は追つて、といふ沙汰をえた忠直は、部下たちの功労の浅深をただせ、軽卒までに及べといふ下知までして、領地加増を待つてゐたのである。正直で一途な忠直が次第にじれじれしたことはうなづける。『新東鑑』や『寧固斎談叢』には、「増封遅滞しける所、性質、短慮激烈にして、憤甚しく、拝領の茶入を微塵に砕き、家臣に分ち与へられしと」とか、「忠直卿、諸士を集め、件の茶入を鉄槌を以て細に打砕き、匙にて御すくひ、軍功の者どもに給はる。是より御乱気なり」とか書かれてゐるといふ。  忠直は乱心の故をもつて元和九年、二十八歳のとき豊後萩原に配流され、慶安三年五十六歳で歿してゐる。  忠直卿が微塵にくだいたといふ初花は、前記のやうに現存してゐる。忠直配流後の所在は不明だが、七十七年後の元禄十一年にいたつて上総大多喜の藩主松平備前守が将軍綱吉に献上し、四万両をたまはつてゐる。『茶道』の出た昭和十年までは徳川家の所有であつた。その後のことは知らない。四万両といふ値打を梅園翁は六十万円と換算してゐるがこれを現在の貨幣価値にかへれば五百倍として三億円といふことになる。  忠直が砕いたといふ茶入は別のもので、現に継目の沢山ある茶壺が福井藩主のもとにあるといはれる。戦功のあつた部下に与ふべき所領のないのに悩んだ忠直の芝居であつたといふ解釈でもしなければ始末がつかないところである。忠直の乱心も佯狂にすぎないといふ人もある。  ところで去年の九月十三日の朝日新聞の学芸欄の「素描」といふかこみ記事に、福井県立図書館から藩の裏面史『片つんぼ記』が出版されたといふ記事がでた。この出版を若し菊池寛が知つてゐたならば、『忠直卿行状記』はもつと違つたものになつたらうといふこともつけ加へてあつた。私は早速にこれを手に入れた。『片つんぼ記』『続片つんぼ記』が入つてゐるが、続の方は四巻までしかでてゐず、更に二冊を刊行する予定だといふ。既刊のこの集だけでもA5版八五八頁の大冊である。この記のなかから忠直に関係のあるところを拾ひだしてみると次のやうなことが解る。  忠直の夫人は二代将軍秀忠の娘であつたが夫婦仲はなかなか険悪であつたらしい。「高田様(夫人)は忠直公と御不和にて御傷害も可被成など申す説」があつたことが誌されてゐる。夫人との不和も乱行への一誘因になつたかもしれぬが、忠直の児小姓をつとめ、運強く命ながらへて、長寿を保つた早崎善左衛門といふ男の話をかきしるしたといふ「忠直卿御乱行之事」といふ三頁余の記録によれば、一国といふ名前の妾がその直接原因であつた。  いまその記録を私の言葉に直して書きとめてみよう。  越前国七十五万石の領主としてなかなかの善政をしいてゐた忠直が、ある夏の暑い日に天守へ上つて涼をとつた。その時風に乗つて一枚の紙が飛びこんで来た。みると美人の姿絵である。「其容顔うるはしく、かやうの女もがなと心浮れた」若い大名は、ひそかにこの姿絵に似た女を求め始めた。領内の遊女町や敦賀の廓、更に京都まで人を派して探させたが思ふ女を求めることができない。たまたま関ヶ原の問屋某の息女が例の姿絵にそつくりだといふので存分の計ひをして召出したところ、果して気に入つて「御悦無[#レ]限、昼夜彼女を愛し、酒宴日々に長ず」といふ仕儀になり、つひには「右の女に溺れ、一国にも替まじきとて、即ち一国と名付けて」寵愛してやまず、所行次第に乱れた。さういふある日一国が忠直にいふには、自分は女のこととて、まだ人を殺すのをみたことがない。領主の御側に侍るものとして、女なりともそのさまをみて自分の度胸のほどを計つてみたいと云々。忠直は直ちに死刑囚をよびだして、御書院の白砂の上で首をはねて、「ずたずたにためした。」一国はこれをまじまじとみてゐて、殿達のすかせられるのはまことに尤と納得できた。「さてさて面白き慰めかなと笑《ゑ》みを含んだ」と記録は誌してゐる。  一度この快味を味はつた一国はつぎつぎに忠直にせがみ、死刑囚がなくなると牢屋へ入れられてゐた者を次第次第によびだして一国の前で斬るといふことになつた。つひには忠直自らが気に入らぬことをいふ児小姓などを御手討にする、さては誰彼の見境もなく御手討にすること日に二、三人といふまでになる。一国のサディズムはますますつのつて、小姓の腹の上に灸のもぐさ百匁を丸めて火を点じ大うちはであふぎ、悩乱してのたうちまはるのをみて楽しんだといふ。小姓がゐなくなると近隣の百姓をからめとつてなぶり殺すといふところまでいつて、忠直一国に殺された者一万余に達した。  あまりの乱行にたへかねて、家中のものが江戸表へ陳情したところ、公儀では隣国の加賀藩へ命じて忠直を討滅せしめることに話がすすんだ。尋常の手段では改易できないと読んだためであらう。加へて越前は大藩でもあり、実力もあなどりがたい。隣国の大藩の兵を向けるより外に方法がないといふわけである。たまたま忠直の母の清涼院殿が江戸にあつてこの決定をきいた。母のとにかく一度自分に諫めさせてくれといふ願ひが聴きとどけられて、清涼院は夜を日についで越前に帰り、直ちに忠直に会つて次のやうに諫めたと記してある。「如何なる事にかかる酒犯の乱行、もつたいなき次第なり。隣国より押寄せつぶし候様の仰付けられ候へども、一応の御詫びを申し我等はるけく是まで来る上は、暫く上の御憤を休み奉らし、程なく御機嫌を伺ひ申し開くべし。秀康卿の御家武辺に疵を付給ふな。承引あるまじきにおいては、其刀にて我等を害し給へ。」この母の諫めによつて忠直は畏れかしこみ、やがて討滅の儀は解かれ、豊後国萩原へ配流といふことになつた。忠直の配流の直後、愛妾の一国は何者かのために駕籠の中で殺されたまま道路に遺棄されてゐたといふ。 「御乱行事」の記録はまことに血なまぐさいものであるが、『続片つんぼ記』の伝へてゐる忠直歿後の次の記事はまたどう解すべきであらうか。「或人近年豊後へ下り、御廟所(忠直の)を拝し申し候。海端にて御石塔のほとり瑞籬を結び、里人神と崇め尊敬し奉る体の由。終に御代参もこれなきは如何なるやらんと、所にて申候由。」  もしここで豊後府内の城主竹中采女正重次が、その家臣に忠直の行状を綴らせ、時の幕府の執政土居大炊頭利勝に報告したといふ『忠直卿行状記』を探し出しうれば、右の解釈も妥当にできるかもしれない。私も多少はこれを探してみたが探しだせない。菊池寛が同名の小説の末尾に引いてゐる一節を孫引しておく。 「忠直卿当国|津守《つのかみ》に移らせ給うて後は、些の荒荒しきお振舞もなく、安らけく暮され申候。兼々仰せられ候には、六十七万石の家国を失ひつる折は、悪夢より覚めたらんが如く、ただすがすがしうこそ思ひ候へ。生々世々国主大名などに再びとは生れまじきぞ。多勢の中に交りながら、孤独地獄にも陥ちたらんが如き苦艱を受くる事屡々なりなど仰せられ、御改易の事に就いては些の後悔だに見えさせられず候。徒然の折には、村年寄僧侶などさへお手近く召し寄せられ、囲棋のお遊びなどあり、打ち興ぜさせ給ふ有様、殷の紂王にも勝れる暴君よなど、噂せられ給ひし面影更に見え給はず、殊に津守の浄建寺の洸山老衲とは、いと入懇に渡らせられ、老衲が「六十七万石も持たせ給へば、誰も紂王の真似なども致したくなるものぞ。殿の悪しきに非ず」など、聞え上げけるに、お怒りの様もなく笑はせ給ふ。末には百姓町人の賤しきをさへお目通に引き給ひ、無礼《なめげ》に飾なく申し上ぐる事を、いと興がらせ給へり。御身はよろづ、お慎しみ深く、近侍の者を憫み、領民を愛撫し給ふ有様、六十七万石の家国を失ひたる無法人と見えずと人々|不審《いぶか》しく思ふ事今に止まず候。」  忠直は豊後萩への動座のときは、五千石を台所料として貰つた。後津守(片つんぼ記では津森)では一万石となつたものらしい。なほ六十七万石といふのは越前一国の高で、七十五万石といふのは他国の領から上るものを含めてのやうである。  忠直は配流に当つて名をあらためて一伯といつた。これは法名である。一伯となつた忠直と、洸山老衲とは案外に常人の知らぬ世界をもつたかもしれぬ。『行状記』に記してゐるやうな甘い言葉だけを洸山が言つたとは思はれない。一伯となつた初心者は洸山の手きびしい棒喝をくぐつたかもしれぬ。忠直の心内に起つた単なる心境、心理の変化で、あのやうな転換が行はれたとは思はれないのである。徳川の初期或ひは中期までは、九州豊後のやうな田舎にも洸山のやうな和尚のゐたことはいまの時代と合せて興味がある。田舎の文化がかういふ禅坊主たちによつて維持され、また高度の人生体験が老衲たちのしぶい口を通して庶民に伝へられてゐたやうに思はれる。無法者をも吸収しうるやうな人物がどこの田舎にもゐたといふことは注意すべきである。それは単に地方分権の時代であつたといふことだけでは片づかない問題であらう。  正続の『片つんぼ記』にも、もちろん初花拝領の記事は度々でてゐる。たとへば、「恩賞は追而沙汰あるべし、先その印にとて初花の茶入を給ふ」の如きである。然しこの記には初花を微塵に砕いたといふことはどこにも書かれてゐないやうである。やうであるといふ曖昧ないひ方をするのは、この大冊の一々を読みきつたわけでもなく、また未刊の分もあるからのことである。だが恐らく破砕の件は書かれてはゐまい。忠直御乱気の始めから、大多喜城主松平備前守の綱吉へ献上までの七八十年の間、この初花は一体どこに姿をくらましてゐたのであらうか。梅園翁のもう一つの著、『名物茶器伝来』では、初花破砕の件は芝居であつて、初花は依然として一伯となつた忠直の手にあつたとしてゐる。公儀を以て配流の刑に処せられた者が、初花はここにありともいひかねて、ひそかに所持したまま、やがてその血族に渡り、頃合をみて備前守正信が越前家復興のためにこれを綱吉に献じたのであらうといふ。これも梅園翁の呈出した仮説といへば仮説にすぎない。  ここで思ひつく仮説を推理してつくり上げれば次のやうないくたの場合を想定しうる。  第一には忠直の破砕を事実として、現存の初花を初花二世とみることである。既に八十年の戸籍不明の年月を含む以上、また写真もなかつた以上、第二の初花をつくりだすことは可能といへば可能である。これは血気の忠直の気性を併せ考へれば寧ろ当をえてゐる。  第二には忠直の破砕したのが擬初花で、本物の初花は忠義だての家老か側近によつて他にしまはれたのではないかといふことである。忠直は本物と思つてこれを破砕したとみるわけである。この場合でも血気の若者としての忠直像はこはされないままに成立する。また、たとへば後にいたつて忠直が右の事実を知り、部下の不信を怒つて乱気を起したとすれば、これはまた菊池寛のとつてゐる見方と共通してくる。自分が十重二十重に真実からかくされてゐること、大名といふ位置は不可避に孤独地獄に追ひこまれてゐるといふことの意識が、忠直を乱気に追ひやつたといふやうな見方である。  第三には、忠直の意識した芝居とみる見方で、さういふ見方のあつたことは既に書いた。この場合は一伯となつた忠直がひそかに豊後へ持参したといふ梅園翁の仮説が成立する。然しこれは若い忠直像とも一伯となつて尊敬を集めたといふ老忠直の像とも調和しない。  若し私に右の三つの推定のうちのいづれかを選べといはれれば、私は第二の仮説をとる。  梅園翁はこの初花を、「名物茶入の中で第一位を占めるもの」といつてゐる。また完全無欠の姿とか、十全具足の器とか、さういふ言葉を惜気もなく使つてゐる。大正に入つてであらうか、徳富蘇峰の肝入で、この名器がたつた一日松坂屋に出陳され一般の展観に供されたさうだが、その送迎には前後をオートバイでかこみ、高貴な方の御成りのやうであつたと伝へられる。  私はこの名器を撫で触つたさまざまな手を想像する。いくたの指紋がこの器につけられまた消されていつた。ある時は愛撫の手が、ある時はまた政略の手がこれに触つた。さういふ手はつぎつぎに姿を消していつたが、この小さい、高さ二寸七分余の陶器が、いまなほ現存して、私にまでこのやうな雑文を書かせてゐることを考へると、多少の感慨が湧いてくる。私は小説の作者でもなく、また想像力も強くはない。だからここにそれぞれの個性と思惑のある手の形や色を書きつらねることはやめる。然し義政の手、信長の手、家康の手、また秀吉の手は、私の脳裡に思ひ浮べることができる。忠直の手もどうやら想像の中にある。この茶入に触つた商人や茶人たちの手には余り興味もない。ただ利休の手だけは強い興味を感じながらも想像できない。私はかねがね利休居士には深い関心をもちながら、つひに利休像を描きえないでゐる。多くの人の利休伝や利休を扱つた小説を読んではみたが、だれ一人利休の正体にせまつた人がゐないのではないかと思つてゐる。私は海音寺潮五郎氏のいはばファンであるが、氏の『茶道太閤記』には未だしの感を持つ。秀吉や三成や淀君や、また利休の娘やその愛人、愛人の母などは実に生々と描かれてゐながら、利休の像はぼやけてゐるやうに思ふ。利休を書くといふことは至難の業である。秀吉と利休といふ組合せは多くの人の興味をそそる問題であり、私も政治家と芸術家、政治と芸術の在り方を示す一つの典型であると思ひながら、利休の方がぼやけてきて、この対比がまとまらない。芭蕉に、「命二つの中《なか》に活《いき》たる桜かな」の句がある。二十年を経てたまたま土芳に相逢うたときのよろこびの句である。私は秀吉と利休の二人を坐らせ、その中へ初花をおいてみたい。どぎつい個性と自信とをもつた命二つの中に、この小さい、物いはぬ名器をおいてみたい。芭蕉と土芳といふ師弟の情の濃やかななかの桜とちがつて、同感と反撥、支配と被支配、友情と敵意、優越と劣敗が奇妙にからみ合つたなかに、この冷たくて温く、物言はずして物言ふニ寸七分強の茶入をおいてみたいのである。然しこの画面はまだ枠の中へ入つてこない。 [#改ページ] [#小見出し]   あ と が き  日本の文化史また生活史のなかで千利休(宗易)の占める位置はみのがせない。現在の日本人の衣食住にいたるまで利休の影響は及んでゐるといつてよい。また茶の湯の稽古は若い子女の間では決してまだ衰へてはゐない。幸田露伴は利休を趣味の世界の王者といつたが、今日我々がしぶいといつてゐるやうな好みのなかにも利休の影を残してゐる。  ところでこの利休の正体をつかむことはなかなか困難である。もともと一筋縄でつかめる人物ではない上に、利休自身の書き残した文書は僅かなもので、そこから正確に利休を描くことはむづかしいのである。従つて利休像はいまなほ伝説のうすもやのなかにつつまれてゐるといつてよい。なるほど利休を扱つた評伝も多く、研究書もまた少くない。小説家たちも彼の切腹といふ異常な死に方や、また謎めいた行動に興味をよせて書いてはゐる。然し利休といふ人物がそれらによつて全部明るみに出たとはいへない。また彼の文化史の上に占める位置が明確に規定されたとはいへない。たとへば従来茶道第一の書といはれ、利休を知る上に不可欠の文献とされてゐた『南方録』が、このごろにいたつて、その真偽の程が、といふのは偽書ではないかといふことが、問題になつてきたといふ一事によつても、およその察しがつくであらう。  私はかねがね利休には関心をもつてゐた。ひとつには芭蕉がおのが芸術精神の先蹤として西行、宗祇、雪舟とともに利休の名を挙げ、その「貫道するものは一なり」といつてゐることからくる刺戟によつてである。また私は三年前に出版した『中世の文学』のなかで、日本の中世芸術を特色づける観念として、すき、すさび、さびの三つを挙げ、その歴史的展開を扱つたが、そのとき以来、もうひとつの観念としての|わび《ヽヽ》といふものを規定してみたいといふ考へを抱いた。  この書で利休を世阿弥と芭蕉との中間に据ゑて考へたのも、世阿弥のさび、芭蕉のさびの間のものとして利休のわびを明らかにしてみたかつたからである。世阿弥の死後八十年にして生れ、芭蕉の生れる六十余年前に死んだ利休の生涯を、政治や文化の歴史のなかで考へ、それを世阿弥の生涯、芭蕉の生涯と比較することによつて、さびとは違ふわびの性格を規定しようとしたわけである。一言にしていへば、さびは無を根柢としてゐるのに対して、わびは有と有との対比の観念である。巨大なものに対する狭小、派手に対する地味、豊富に対する欠乏、豪奢に対する謙虚でありながら、どこかに自己の優越を感じてゐるといふところにわびがある。  利休が無を根柢とするさびにまでゆけずに、わびに終つたのは、信長、秀吉といふ独裁的武断政治家と直接に結びついたことに由旅する芸術家の必然の運命であつた。そして今日においても、政治と芸術、政治家と芸術家との交渉の仕方、関係の仕方のひとつの範型として利休のわび、わびずきの在り方、またそこから当然に由来した切腹の仕方を考へうるだらう。  一般にはさびと殆ど同意語として使はれてゐるわびの性格を右のやうに規定し、それを歴史の中で考へたといふ点に、この書のいささかの特色があるといへるだらうか。  私は勤め先の明治大学から国内調査研究のためといふ名目で、昨年十月から今年の三月にいたる六ヶ月の休みと、若干の研究費を貰つた。その間二ヶ月余り京都へいつて利休関係のものをみたり、大阪や堺の辺をぶらついた。これはいはばそのおみやげとしてでき上つたものである。この書の初めの三分の一ほどは雑誌『心』の四月、五月、六月号に連載した。附録の『初花経歴譚』は同じ雑誌の昭和三十一年七月号に載せたものである。  本文の中では一々出所を示さなかつたが、左記の書物から多かれ少なかれ恩恵または示唆をうけた。  茶道全集全九巻・鈴木半茶編千利休全集・堺市史・三浦周行著歴史上の大堺・堀口捨己著利休の茶室・同利休の茶・桑田忠親著千利休新版旧版・同乱世と茶道・同日本茶道史・同茶の心・同世阿弥と利休・小宮豊隆著茶と利休・春秋社版茶(私の見方正続)・古田紹欽著禅茶の世界・千宗守著利休居士の茶道・竹内尉著千利休・秋元瑞阿弥著古田織部正と其茶道・高橋龍雄著茶道・徳富猪一郎著近世日本国民史中の織田氏時代及び豊臣氏時代・日本歴史地理学会編安土桃山時代史論・小野清著大坂城誌・宮本又次著大阪・豊田武著堺・笠原一男著一向一揆・史学地理学同攻会編京阪文化史論・芳賀幸四郎著東山文化の研究・奥野高広著信長と秀吉・坂田吉雄著戦国武士・村上渡邉訳耶蘇会士日本通信・西村貞著キリシタンと茶道・吉田小五郎著キリシタン大名・日本西教史・和辻哲郎著鎖国・土居次義著桃山障壁画の鑑賞・内藤恥叟著徳川十五代史・その他     昭和三十三年四月 [#地付き]唐木順三    [#改ページ] [#小見出し]   新版(筑摩叢書)にあたつて  千利休探究は、その後いよいよ盛になつたといつてよい。最近では芳賀幸四郎氏の『千利休』が、吉川弘文館の人物叢書の一冊として出た。野上弥生子さんは『中央公論』に十八回にわたつて、『秀吉と利休』を連載してゐるが、まだ完結にいたらない。野上さんのは、歴史小説といふ形をとりながら、従来公刊されてゐる多くの文献を漁り、また実地の検証もしてゐて、その意味では実証的といつてよい。野上さんは文献や実地でつなぎえないところを、創作家の推定でつなげて、かなりはつきりした利休像をうちだしてゐる。然しこの謎を多く含んだ人物は、依然としてまた新たな謎を投げかけてくる。世に安土桃山時代とよばれる我国で最も興味深い時代を解明するには、どうしても利休といふ人物の謎を解かねばならないわけで、さういふ意味からも、なほ利休探究はつづけられなければならないだろう。この小著がこれからの探究の一助になりうれば幸である。     昭和三十八年六月 [#地付き]唐木順三    [#改ページ]    関係人物生歿年表 足利義満  1358(延文三年)——1408(応永十五年) 世阿弥   1363(正平十八年)——1443(嘉吉三年) 一休    1394(応永元年)——1481(文明十三年) 足利義政  1436(永享八年)——1490(延徳二年) 宗祇    1421(応永二十八年)——1502(文亀二年) 珠光    1422(応永二十九年)——1502(文亀二年) 武野紹鴎  1506(永正三年)(?) ——1558(永禄元年)(?) 津田宗及  不詳——1591(天正十九年) 今井宗久  1520(永正十七年)——1593(文禄二年) 千利休[#「千利休」はゴシック体]   1522(大永二年)——1591(天正十九年) 山上宗二  1544(天文十三年)——1590(天正十八年) 古田織部  1544(天文十三年)——1615(慶長二十年) 小堀遠州  1579(天正七年)——1647(正保四年) 片桐石州  1605(慶長十年)——1673(延宝元年) 狩野永徳  1543(天文十二年)——1590(天正十八年) 長谷川等伯 1539(天文八年)——1610(慶長十五年) 宗因    1605(慶長十年)——1682(天和二年) 芭蕉    1644(正保元年)——1694(元禄七年) 信長    1534(天文三年)——1582(天正十年) 秀吉    1536(天文五年)——1598(慶長三年) 家康    1542(天文十一年)——1616(元和二年) 唐木順三 (からき・じゅんぞう) 一九〇四年長野県生まれ。旧制松本高校を経て、一九二七年京都大学哲学科卒業。一九三二年に処女評論『現代日本文学序説』を刊行し、以後、法政大学予科教授、明治大学教授などを歴任しながら、実存哲学と豊かな感受性を融合させた独特の評論活動を展開した。一九八〇年没。著書に『鴎外の精神』『中世の文学』『無用者の系譜』『日本人の心の歴史』などがあり、その文業は『唐木順三全集 全十九巻』に纏められている。 本作品は一九五八年五月筑摩書房より刊行され、一九六三年七月、筑摩叢書に収録された。