つかこうへい 長島茂雄殺人事件 この物語はすべて大嘘《おおうそ》であり、氏名・社名などが実在の人物・団体等と一致する場合も含めて、実在の人物・団体等とはいっさい関係ないことを、おことわりいたします。 (著者、編集部)     序    昭和三十二年、東京大学文学部民族学科助教授|愛宕《あたご》良明、言語学者|朝田錦一《あさだきんいち》がこれまでかたくなに国交を結ぶことのなかった北モンゴル共和国第三自治区に学術調査隊としてその第一歩を印すことに成功した。  シラ山から第三自治区の東南にまたがる小さな沼《ぬま》の群を見渡し、仲介《ちゆうかい》の労をとった日本化学、結城《ゆうき》喜一の喜びはひとしおだった。  愛宕が感極《かんきわ》まったように結城の手をとった。 「先輩《せんぱい》、ありがとうございました。いよいよですね」 「ああ」 「これでジンギスカンの謎《なぞ》が解けます」  民族学者の愛宕が広大な砂漠《さばく》の秘境に執拗《しつよう》にこだわったのは、一点はジンギスカンの生地がここであるという通説を再確認したかったからである。 奥州平泉《おうしゆうひらいずみ》に追われた源義経《みなもとのよしつね》が中国大陸に渡り、ジンギスカンとなったという伝説は、一般に広く流布《るふ》している。そして近年になって、それを裏付ける資料が続々と発見されている。  しかし、愛宕は、勅命《ちよくめい》によって、承和《じようわ》十二年に編纂《へんさん》された「遠島百景」に、伏歌《ふせうた》となっている読み人知らずの、  �白雲の湧きたつかなたはるかなる     国滅びたり国のかなしさ�  という歌の中に、ジンギスカンとなった源義経が再び日本に帰って来たことを読みとった。  事実、ジンギスカンは一二二七年、世界史の中から突如として姿を消している。  そして同時に、  �没《いり》つ陽に大利根はるかかがやきて     岸のなぎさに蒙古藻そよぐ�  という歌の中に書かれた、蒙古藻《もうこも》というこの地方の沼や湖にしか生えないはずの植物が、なぜか日本の、利根川《とねがわ》流域に繁茂《はんも》しているという、驚くべき事実を発見したのだ。  この蒙古藻がどのようなルートをたどり、日本の千葉県の利根川流域に繁茂を許したのかを愛宕《あたご》は知りたかった。  そして言語学者の朝田がこだわったのは、この地方で話される言語が日本語に酷似《こくじ》しているという事実である。  彼らは朝夕のあいさつに「モワタネ」という。これは明らかに「燃えたね」と同義語である。彼らの口ぐせに、「ウーン」とうなり首をかしげ、「イワオルヒーツ」というのがある。これは「いわゆるひとつの」という意味ではないかと類推したのである。  そしてもうひとつ、彼らは数をかぞえる時、1、2、をテェ、ウェというが、「3」は発音せず唾《つば》を吐《は》き捨て大地を蹴《け》りつけ、4にうつるという。  モンゴルでは、ジンギスカンが愛したこともあり、「3」は聖なる王者の数としてあがめたてまつられているはずである。それがなぜ使われず、唾棄《だき》すべき数となっているのか。  その秘密について聞いても、だれも口を閉ざし教えてくれなかった。  愛宕らが第三自治区に入って、十日という期限はまたたくまに過ぎた。村人たちはめったに姿をみせず、限られた場所しか案内してもらえず、成果はほとんどあがらず苛立《いらだ》つ毎日が続いていた。  しかし、結城《ゆうき》だけは真夜中に人知れずキャンプを抜け出し、沼《ぬま》から何物かを採取し、満足の笑みを浮かべていた。  帰国を明日に控《ひか》えた朝、朝田は若者たちがなにやら騒いでいるのに気がついた。見れば、彼らは馬にまたがり棒切れを持ち、馬の皮でできた球を打っていた。千年ほど前から伝わる「荒玉《あらたま》」という遊びらしい。  朝田は元|甲子園《こうしえん》球児であり、野球に関してことのほか造詣《ぞうけい》が深かった。  朝田がポツリとつぶやいた。 「ほう、野球がアジアで生まれてアメリカインディアンに伝わり、白人によって完成されたという説があるけど、本当だったんだな」  と言っては、棒切れをとりあげ、昔をなつかしむように素振《すぶ》りした。  それを見て若者の一人の目が光り、朝田に近づいてきた。 「荒玉《あらたま》、好きか」 「荒玉はわからないけど、野球ならやったことがあるんだ」 「打ってみろ」 「いや、打てないよ」 「打て」  他の若者たちも馬から降り、興味深そうに集ってきた。  すすめられるまま、ひょうきんな朝田はバッターボックスと思える菱形《ひしがた》の石の横に構えた。  朝田が素振りをくれるのを見て若者の一人が言った。 「ダウンスイング」 「なにっ!?」  朝田の目が光った。たしかに朝田がいま振ったフォームはダウンスイングだ。しかし、近代野球の用語をなぜこのような辺境の若者が知っているのだ。  ためしに朝田は構えを変えてもう一度素振りしてみた。すると、守りについていた若者が、いっせいに「アッパー」と叫んだ。たしかにスイングはアッパースイングなのだ。 「行くぞ!」  ピッチャーとおぼしき若者のフォームは、足の蹴《け》りも腕の振りも無駄《むだ》がなく完璧《かんぺき》であった。  朝田はそのあまりの球速に空振《からぶ》りして尻もちをついてしまった。それを見て若者たちが手をたたいて喜んだ。  それがきっかけで村人たちは少しずつ心を開いてくれるようになった。  聞けば、「3」は盗《ぬす》まれたという。  数字が盗まれるというのはおかしな話だが、おそらく、ジンギスカンが戦いの際、服の背中に「3」を付けていたという説が一般に流布《るふ》しているので、その服が盗まれたという意味ではなかろうか。  長老ムササムハンは、ひときわ大きなパオの中で、朝田たちをとりかこむ筋肉|隆々《りゆうりゆう》とした九人の若者の肩をたたき「いずれの日か奪《うば》い返しにいくのだ」と、東方を指さした。  すると若者たちが、「殺せ」「殺せ」と合唱した。  長老は若者たちをたしなめるように、 「われらの王は決してこの蒙古《もうこ》を捨てて逃げたのではない。きっといつの日か立ちあがる時期を待っているのだ」  が、若者たちはそんな長老から軽蔑《けいべつ》したように顔をそむけた。  長老が必死に言った。 「王は必ずおまえたちを率《ひき》いて、和《わ》への侵攻を試みて下さるのじゃ」  朝田は、パオの隅《すみ》の方で鋭《するど》い目を光らせるひげもじゃの男を指差して聞いた。 「彼は誰だ?」  若者たちは頼《たの》もしそうに振り返り、言った。 「われらが荒玉の先生だ」  期日がきて、出発の準備に追われている時、 「遠投を見せるから」  と、投手をつとめていた若者が迎えに来た。  案内されたのは蒙古藻《もうこも》が水面を覆《おお》うようにして岸まで繁茂《はんも》した沼《ぬま》のほとりだった。  長老が、百メートルほどむこうの岩にしばられた結城《ゆうき》を指さした。結城は猿《さる》ぐつわの下でなにやらわめいていた。 「あっ、先輩《せんぱい》!」  愛宕が叫んだ。  長老が重々しく告げた。 「彼は約束を破った。殺せ!」  若者は一言、 「モタワ!」  と叫び、投げた。  球は尾《お》を曳《ひ》き一直線に走り、結城の頭上で一瞬うなりをあげ、鋭角《えいかく》に落ち頭天を砕《くだ》いた。 「うむ」  朝田はうなった。  球は優に五十センチは落ちていた。  朝田は懸河《けんが》と落ちるこのドロップをかつて見たことがあった。朝田の脳裏に幼い日の草薙《くさなぎ》球場が浮かんだ。雲をつくようなベーブ・ルース、ゲーリックをバタバタと三振に葬《ほうむ》るまばゆいばかりの勇姿が……。 「そうだ! これはあの時の沢村栄治の懸河のドロップだ」  先生と呼ばれる鋭《するど》い目の男が、傷跡《きずあと》のある肘《ひじ》を撫《な》ぜ、言った。 「青田や千葉たちにバットを持って待ってろと言え」  奪われた「3」の発音は「チョーサン」という。     (注) 沢村栄治(一九一七年—一九四四年)元巨人軍投手。昭和九年、来日した大リーグを静岡県|草薙《くさなぎ》球場に迎え、まだ高校生ながら、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックといった三番四番を得意のドロップで三振に切ってとった。   その後、太平洋戦争で応召《おうしよう》、南方で戦死したといわれる。 (日本野球辞典より)   〈第一章〉    昭和五十五年十月二十日、広島球場を埋《う》めつくした超《ちよう》満員三万五千の観衆の見守る中、長島茂雄ひきいる読売巨人軍は、広島カープとの最終戦を悲壮な決意でたたかっていた。  コーチャーズボックスに立つ長島の肩を濡《ぬ》らす雨は冷たく、その髪《かみ》には白いものが混じり、額《ひたい》には深いシワが刻《きざ》み込まれていた。  八回表、柴田の犠牲《ぎせい》フライで一点を加え、巨人はスコアを5対3とした。  いよいよ九回の裏、広島最後の攻撃《こうげき》。  降りしきる糸のような雨は止むことはない。  ダッグアウトに位置をかえた長島の目に、痛そうに肩をさする江川卓《えがわすぐる》投手の姿が映《うつ》った。 「どうする、代わるか?」 「いえ、続投します」  実際、代えようにも、もうピッチャーはいなかった。西本聖《にしもとたかし》は肩を、角盈男《すみみつお》は肘《ひじ》を壊《こわ》し、戦列を離れていた。 「すまん」  長島が煙草《たばこ》をくわえると、横から杉下ピッチングコーチが火を差し出した。 「ミスター、禁煙《きんえん》してたんじゃなかったんですか」 「ミスターはよして下さい」  ——もうオレはミスタープロ野球などではない。無能な一管理者にすぎない。  長島は濡れてくしゃくしゃになった煙草を大きく吸い込んだ。 「今日勝てば……」 「三位だ!!」  長島は力強く言うと、煙草を投げ捨て、スパイクで踏《ふ》み消した。  そこには屈辱《くつじよく》の長島がいた。  すでに他球団との全日程を終え、その日までの一二九試合の成績が六十勝六十敗九引きわけ、つまりこの試合の勝敗に勝率五割がかかっているのだ。そして五割という数字は巨人の単独三位が決定することを意味し、それは来季の後楽園における開幕試合開催権につながっている。  常勝を義務づけられた巨人軍にとって、三年連続優勝から見放されたうえに、最終戦まで三位にあえぐなど、屈辱以外のなにものでもなかった。しかし去年、五位という成績に終わったことを考えれば、Aクラスに残ることが王者としての最低限のプライドである。もし負けて四位転落ということになれば、いくら日本プロ野球界が生んだ最大のスターといえども責任をとらざるをえない。マスコミも執拗《しつよう》に�Bクラス=辞任�の記事を書きたてていた。  ライトル三振、衣笠《きぬがさ》内野フライと、すでに江川はツーアウトをとり、いよいよ主砲《しゆほう》山本浩二を打者に迎えていた。たとえホームランを打たれても、まだあと一点のアヘッドがあった。  そして、もはや優勝を決めている広島の選手たちは、ぜがひでも勝つといった執念《しゆうねん》に欠けていた。  コーナーぎりぎりをついた臭《くさ》い球を二球続けてファウルにされたあと、江川は肩の痛みに顔をしかめながら、力いっぱい速球を投げ込んだ。  山本浩二のバットが大きく空《くう》を切り、「ゲームセット」の主審《しゆしん》の声が響《ひび》きわたった。 「勝った」  全身の緊張《きんちよう》が解け、長島はコンクリートのベンチの床《ゆか》にガクリと膝《ひざ》をついた。  おそらく長島茂雄の人生において、これほど緊張に全身をうち震《ふる》わせ、ゲームを見守ったのは最初のことだろう。  解説者席の元阪神タイガースの村山実《むらやまみのる》は、江川のウイニングボールがキャッチャーミットに納《おさ》まった瞬間《しゆんかん》、満面にあの人なつっこい笑みを浮かべた長島が、いちばんにダッグアウトをかけ出る姿を想像した。 「危い!」  叫びが村山の口をつくと同時に、低くくぐもった銃声《じゆうせい》が響《ひび》き、ダッグアウトを走り出た男のが吹き飛んだ。 「しまった!!」  しかし、それは長島ではなく杉下ピッチングコーチだった。その場に尻モチをついた杉下は、頭に手をやり、キョロキョロあたりを見回して、何が起きたのか理解できないふうだった。  観客もまた、巨人の勝利に歓声をあげ、誰も杉下に注目する者はいなかった。長島はと見ると、ダッグアウトに膝《ひざ》をつき、うつむいてじっと涙をこらえているようであった。 「よかった……」  村山は、一塁内野席でサングラスにハンチングを目深《まぶか》にかぶり、コートの襟《えり》を立てた男が、ゴルフバッグをかかえて足早に立ち去るのを見た。 「あの男だ!」  村山は叫んだ。  またしてもあの男だ。昭和三十四年の天覧《てんらん》試合のときの男だ。  犯人は長島の性格を読み、いの一番に飛び出してくると思ったのだろう。  けれど、長島はそうはしなかった。それほどに追いつめられていたのだ。  涙を拭《ぬぐ》い、ようやく長島が両手を大きくひろげ、江川を迎えにグランドに出てきた。  見上げると、それまで空をおおいつくしていた黒雲は割れ、みるみるうちに晴れ間が広がり、あっという間に一面の抜けるような青空となっていた。  球場をおおいつくす木立ちの緑は、たっぷりとしずくを含《ふく》んだまま陽差《ひざ》しを受け、キラキラと輝《かがや》き始めた。  グランドからは水蒸気がたちのぼり、そのかげろうに包まれるようにして、長島茂雄は三塁側、巨人ベンチのお立ち台の上にあがった。試合が終わっても誰一人立とうとしない観客席から、ごく自然に拍手がわきあがる。血気《けつき》盛んな広島ファンが相手チームの人間に対し、これほどまであたたかい拍手を送るなど例のないことだ。  長島は帽子をとると、顔面を紅潮《こうちよう》させ、スタンドに向かい軽く手を振って見せる。天真爛漫《てんしんらんまん》な長島は、ここが敵地であるなどと思ったこともなかった。この男にとって日本中すべての球場がフランチャイズなのだ。 「みんな、ありがとう」 「ウォー、長島、日本一!!」  村山も狙撃《そげき》のことをいっとき忘れ、立ち上がって手を叩《たた》いた。  長島のそのつやつやとした肌《はだ》と人なつっこい笑顔は、現役時代と少しもかわることがない。  村山は隣《とな》りの解説席の青田昇《あおたのぼる》に嬉《うれ》しそうに声をかけた。 「チョーさんは、どこ行っても人気者ですね」 「そや、そや」  青田も涙ぐんでいた。かつて、長島巨人のヘッドコーチ就任《しゆうにん》の話がもちあがったとき、あらぬ噂《うわさ》を週刊誌に書きたてられ、泣く泣く辞退したいきさつを思い出しているのだろう。 「オイ村山、見てみろ。長島はいつまでたっても若いなあ」 「そうですね」  たえず選手たちと一緒《いつしよ》にトレーニングをしている身体《からだ》はひきしまり、背番号を90からあの栄光の3番に変えさえすればそのまま、すぐにでも巨人軍の四番打者としてバッターボックスに立ってもおかしくないだろう。  長島はインタビューに来た日本テレビアナウンサー、徳光和夫《とくみつかずお》のマイクをとり、声を限りに叫んだ。 「今年一年ありがとうございました。これから東京に戻《もど》り、すぐ一力《いちりき》オーナーと会って、秋の伊東キャンプの打ち合わせをします。来年こそ、巨人軍として恥《は》ずかしくない成績を残すつもりです」  長島は声をはずませ、全国の巨人ファンに向かって力強くVサインを送る。  とたんにスタンドから拍手がおこった。 「そっ、そうですね、去年の秋の伊東は成果が上がりましたものね。中畑、篠塚《しのづか》、松本、山倉、江川、西本、定岡と、これからの若手がめきめき力をつけてきましたものね。これからですよ」  徳光も涙をいっぱいためた細い目をいっそう細め、ふっくらとした顔いっぱいに笑みを浮かべていた。  実際、去年の秋のキャンプではすさまじい猛練習《もうれんしゆう》で、若手の個々の力は確実にあがってきている。あと一、二年|鍛《きた》えあげれば間違いなく巨人を背負ってたつ選手が続々と生まれてくるだろう。そうすればかつての常勝巨人軍がよみがえるのだ。  V9戦士といえども、川上から監督を引き継《つ》いだときには、すでに全員が盛《さか》りを過ぎていた。今こそ、一気に新旧交代する時期だった。長島が手ずから育てた若いチームをその手で率《ひきい》てたたかう姿を想像しただけで徳光の胸は張り裂《さ》けそうだった。 「チョーさん頑張《がんば》って下さいね、来年がありますよ」  長島にあこがれて立教に入学し、長島に恋《こ》いこがれて、日本テレビに入社した徳光にとって、長島は人生のすべてである。  しかし、三位というのは問題だ。いくら開幕戦の権利を確保したからといって、読売本社は黙《だま》ってはいないだろう。そのことを考えると、徳光の胸に不安がよぎった。  ——どうにかしなくては。 「チョーさん、来年こそはいよいよ第三期黄金時代の幕あきですね」 「そう願いたいものです」 「オーナーから来年もやれって言われてんでしょう。ねっ、そうでしょう」 「もちろんです」  力強く答える長島に、徳光は胸をなでおろしていた。 「そうですか。じゃ、これで妙《みよう》な噂《うわさ》を打ち消せますね」 「噂?」 「いっ、いえ、なんでもありません」  徳光の不安は、今朝《けさ》、本社筋から伝えられた怪情報《かいじようほう》に関連していた。  長島|解任《かいにん》というその噂に、徳光は腰をぬかすほど驚いた。が、冷静に考えれば、ありうることだ。しかし、そうさせてはならない。徳光は長島留任を自分のマイクで既成《きせい》事実にしたかった。そのために予定以外の広島行きを希望したのだ。 「全国のみなさん、ご安心下さい。われらが長島は来年も指揮をとります。来年も燃えます」  が、言葉とは裏腹《うらはら》に、徳光は全身に水でも浴びたように汗びっしょりだった。 「ではこれで広島球場からお別れします」  中継《ちゆうけい》が終わると長島はハンディカメラをかついだ若いカメラマンのお尻を「ご苦労さん」とポンとたたき、徳光の方に向き直った。 「ねえ徳ちゃん、どんな噂が流れてるの?」  この人は何も知らないのだ。それともとぼけているのか。 「いや、別に大したことじゃ……」  長島の純情そうな目にのぞきこまれると、すべてが見すかされるような気がして、徳光は思わず顔をふせた。 「チョーさん、おめでとう」  すでに優勝の決まっている広島の木葉一文《こばいちぶん》監督が歩み寄り、笑顔で握手《あくしゆ》を求めてきた。  長島は、「いやあ」と両手を大きく広げ、大げさに喜びを表現してみせ、そのまま木葉の手を両手で包むようにしてとった。 「ありがとう。でも木葉ちゃん、あの場面では北別府《きたべつぷ》をリリーフに出すべきだったよ」  長島の甲高《かんだか》い声に、木葉が一瞬顔をこわばらせた。  ——なんのため五回六回と続いたピンチに福士《ふくし》を続投させたというのだ。すべては君のためじゃないか。  この試合、勝とうと思えばまちがいなく勝てたと木葉は思っていた。木葉だけではない、グランドの選手たちも知っているはずだ。北別府だけでなく、つぎこむ投手は大勢いたのに、なぜわざとワンテンポ投手交替を遅《おく》らせたと思う。 「チョーさん、まっ、いいじゃないですか」 「甘《あま》いなあ、木葉ちゃんは、そんなことじゃ日本シリーズに勝てないよ」 「まいるなあ、チョーさんにかかっちゃ。勘弁《かんべん》してよ」 「どうして北別府を出さなかったの? 肩でも痛めていたの」 「もう勘弁してよ。いろいろ僕なりにわけがあったんだよ」 「でも僕は日本シリーズで木葉ちゃんに勝ってもらいたいんだよ。どんな事情があるのか知らないけど、指揮官というものは、情に溺《おぼ》れてちゃだめだよ。冷徹《れいてつ》に状況《じようきよう》に対処しなくちゃ。それとも選手に受けようと、いい子になろうとしたのかな」 「なにっ」 「ねえ、どうして北別府を出さなかったの」  長島のあまりのしつこさに、木葉が顔をしかめた。 「困っちゃったなあ」 「困ることはないのよ。だから、ほら、日本シリーズってのはいわゆるひとつの短期決戦じゃない。先発の北別府をリリーフにまわすことだってあるだろうから、いわゆるひとつのテストケースとして、あそこは北別府に投げさせるべきだったんじゃない? ねっ、どうして北別府を出さなかったの?」 「いや、そうひとつのと言われても……」 「ねっ、どうして? ほら、今年広島は早めに優勝を決めちゃって、北別府もここんとこ投げてないじゃない。あっ、やっぱり肩でも故障してるの?」  さしもの木葉も長島の無邪気《むじやき》な執拗《しつよう》さに顔をしかめた。 「しつこいなあ、もう」 「しつこいって木葉ちゃん、勝負はあくまでシビアにいくもんだよ」  そのとき、満員のままのスタンドから声が飛んだ。 「木葉、武士の情!! 見直したぞ」 「木葉、それでこそ男!! 広島県人だ」  広島名物、私設|応援団《おうえんだん》の鉦《かね》や太鼓《たいこ》でスタンドはドッと盛《も》りあがった。観客は木葉の気持ちを知っていた。  木葉は恥《は》ずかしそうに帽子を振った。  東北は岩手出身の木葉にとって、広島は異郷の地だった。地元意識が強いこの土地で、よそ者の木葉がチームをここまで育てるには、どれほどの苦労があったことだろう。  自分からは絶対表に出ようとせず、ひたすら裏方に徹《てつ》しようとする木葉の気持ちは、試合中ダッグアウトの隅《すみ》に隠《かく》れるようにして、じっとゲームの進行を見つめる姿に現われていた。  スタンドを見上げると、あろうことか木葉の年老いた両親と妻が、ジャイアンツの帽子をかぶり、声もかれよとばかりに長島コールを送っている。  歯ぐきから入れ歯を半分飛び出させた母は妻と手を取り、キャーキャー年甲斐《としがい》もなく黄色い声をあげ、喜寿《きじゆ》を迎えたばかりの父など、わざわざ家から用意してきたのだろう、ザルに入れた紙《かみ》吹雪《ふぶき》をまき散らし、踊《おど》り出さんばかりだった。  野球選手のほとんどは、最終戦ともなると、肉親を球場に呼ぶのが普通《ふつう》だった。今日も試合前、選手たちから「監督のご両親や奥様は観に来られないのですか」と聞かれ、返答に詰《つ》まってしまった。まさか家族全員が長島のファンで、長島見たさに三塁側スタンドに陣取《じんど》っているなどとは口が裂《さ》けても言えなかった。  木葉はやるせない思いで、ユニフォームの尻ポケットに入れた、ま新しいボールをまさぐった。今年八歳になる息子の和也に、長島のサインをもらって来るように頼《たの》まれたのだ。和也もまた父親が監督をする広島のことなどそっちのけで長島巨人に夢中になっている。広島が巨人を破った翌日など、怨《うら》みがましい目で木葉を見つめ、口さえきこうとしなかった。よしんば百歩|譲《ゆず》って、家族全員が長島ファンなのはよしとしても、ノコノコ長島にサインボールをもらいに行く屈辱《くつじよく》だけは耐《た》えがたかった。  ひまわりのように明るく屈託《くつたく》のない長島を見つめながら、木葉の心は暗く落ち込むばかりだった。  ふと見ると、いつのまにか自軍、広島の選手たちまでが長島のまわりに集まり、握手《あくしゆ》を求めている。なかには色紙《しきし》を持っている選手もいる。  長島もまた、「コージ」「キヌ」「ヨシヒコ」などと呼び捨てにし、まるで自分の教え子であるかのようにふるまっている。  若い選手などは長島に声をかけられたとたん、まっ赤になって返事もできない。無理もない、現役プロ野球選手のすべてが長島にあこがれて野球を始めたといっていいのだ。  お調子ものの池川がひょうきんに言った。 「長島さんを胴上《どうあ》げしようか」 「よし、やろう」  全員が声を合わせ、「ワッショイ、ワッショイ」のかけ声とともに、長島は胴上げされ始めた。  木葉は静かにその輪からはずれた。  長島を胴上げする選手たちをにらみつけるその顔はひきつっていた。たかが三位で胴上げをされているというのに、五十年に広島悲願のV1を達成させ、昨年、今年と巨人以外のチームでは初の連覇《れんぱ》を成しとげたオレは握手さえ求められずにいる。  一瞬テレビカメラが、さびしげなその顔をとらえた。    その頃、帝国ホテルの最上階VIPルームでは、警視庁|捜査《そうさ》一課長|神崎《かんざき》幸一郎が、部屋の中央に据《す》えられた二十六インチ大型テレビの画像を食い入るように見つめていた。 「おい、今の中継《ちゆうけい》の間、VTR回しっぱなしだったな」 「はい」  部下の味川《あじかわ》が緊張《きんちよう》した声で答えた。 「アナウンサーがいってたが、杉下コーチの帽子がすっ飛んだところが映ってないのか?」 「映ってません」 「よし、じゃもう一度最後の木葉の顔、見せてくれ」  神崎の顔には脂汗《あぶらあせ》がにじみ、目はまっ赤に充血《じゆうけつ》している。もう何日も眠《ねむ》っていない。頭が朦朧《もうろう》とし、目を閉じるとそのまま泥《どろ》のような眠りに落ちてしまいそうだった。  味川がテープの再生スイッチをかけたとたん、中央のソファーに腰かけた巨人軍オーナー一力強司《いちりきつよし》ががまんできず声を荒《あら》げた。 「神崎さん、あなたは木葉まで疑うのですか。彼はスポーツマンなんですよ。あなたたち刑事さんにはわからないだろうが、純粋な勝負の世界に生きる男が、そんなことするはずがない。まったくだれでもかれでも疑ってかかるんだから」  大声をあげる一力に神崎は答えようともせず、木葉の顔を何度もくり返して再生させた。 「味川君、このVTR、資料として残しておいてくれたまえ」 「神崎さん、もういいかげんにしてください」 「一力さん、私はあなたでさえ疑っています」 「わかりました、わかりましたよ」  一力は鼻白《はなじろ》み、その大柄《おおがら》な身体《からだ》を深々とソファーにうずめ、両手で頭をかかえた。 「しかし、今日の試合、負けてほしかった。なぜ勝ったんだ」  試合中あれほど手に汗握《あせにぎ》り、勝利を願うかのように巨人の闘《たたか》いぶりを見守っていた同じ人間の言葉とは思えなかった。 「……そしたら、長島に思い残すことなくやめてもらえたのに」  一力は泣いていた。 「私は最初から長島監督|就任《しゆうにん》には反対だったんだ。こうして泥《どろ》にまみれることは、わかりきっていたんだ。長島は永遠の現役選手なんだ」  一力は今日、自ら長島に監督解任を言い渡さねばならない。 「また悪者になるのは私なんでしょうね。いつもそうだった。私は巨人軍のガンだと言われてきました。私が巨人軍を、長島を、愛せば愛するほどまわりはそう見るのです」  恰幅《かつぷく》のいい身体を高級そうな仕立てのダブルの背広につつんだ一力は、厚い黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をはずし、ハンカチで何度も顔の汗をぬぐった。  このところたてつづけに「長島|狙撃《そげき》予告」を受けた心労のせいか、四十五歳という実際の年齢より十は老《ふ》けて見える。 「神崎さん、最後にもう一度聞きます。警察は長島を守りきれませんか。たとえ百年、最下位を続けても、私は長島のユニフォーム姿を見たいんです。確かに監督は荷が重すぎました。しかし一度監督にしたからには、泥にまみれさせたまま長島の監督生活を終わらせたくないのです。ねえ神崎さん、世界に名高い東京警視庁でも、狙撃予告から長島を守るのは無理なのですか?」  ふざけるな、これまで何人の人間が長島の犠牲《ぎせい》となり命を落としていると思う。どだい、五万もの観衆の中で長島を護衛しろというのが無理なのだ。おまけに極秘護衛というハンディも負っている。長島本人が狙《ねら》われていると知っているのならなんとか護衛の方法もあるが、本人はなにも知らないのだ。  神崎は腕時計に目をやった。  三時三十分だ。  テーブルに置かれた電話がけたたましくベルを鳴らした。味川がはじかれたように受話器を取った。 「なっ、何事でしょう」  一力の顔が蒼《あお》ざめた。 「広島県警の安岡さんからです」  長島がいま飛行機に乗り込んだという。 「なに!」  神崎は拳《こぶし》でテーブルを殴《なぐ》りつけた。前日の打ち合わせでは、ハイヤーをわざと故障させ、広島にくぎづけにする段取りだった。とにかく、今日、長島を東京に帰してはならないのだ。味川から受話器をひったくると、神崎は安岡にかみついた。 「なぜ止めなかったんですか!」 「本人がどうしても今日中にオーナーに報告をしたいことがあると、聞かないものですから。でも神崎さん、ご安心下さい。乗客名簿のチェックの結果も異常ありませんでしたし、あとは羽田での受入れの方、よろしく頼《たの》みます」  名簿だと!? 広島県警は犯人を甘《あま》く見過ぎている。一人一人の身体チェックはしたのか。 「しかし、神崎さん、長島ってのはカッコいいですね。肌《はだ》なんかしゃけの切り身みたいにピンク色ですよ。じっと見つめられたら、身体《からだ》が震《ふる》えてもう動けないですよ。女ならきっと強姦《ごうかん》されたいって気持ちになるでしょうね。私も今日から巨人ファンになりますよ、ハハハ」  安岡の声がはずんでいるのは、きっと長島から色紙でももらったせいだろう。神崎は興奮を押えるかのようにゆっくりと受話器を持ち直した。 「安岡さん、ひとつ聞きますが、杉下コーチの帽子がフッ飛んだとアナウンサーがいいましたが、何かあったんですか?」 「さあ、そんなことありましたっけ? とにかく、私はもう長島に夢中でしたものね」 「もう結構《けつこう》、協力感謝します!!」  神崎は受話器をたたきつけるように置いた。  一力はオロオロとして、すがるような目を向けてくる。 「神崎さん、犯人が飛行機もろともぶっとばすことは考えられませんか」 「それはありえないでしょう。ねらいは長島一人のはずです」 「でも犯人は頭が狂《くる》ってることもあるし」 「彼は狂ってはいない!!」  いままでも何度もチャンスはあったはずだ。それなのに狙撃《そげき》してこなかったのは、他の人間を巻き込むことを恐《おそ》れているからだ。  柔道《じゆうどう》で鍛《きた》えた神崎のガッシリした体躯《たいく》が、怒りのために小刻みに震《ふる》えていた。 「人一人殺すのに、二百五十人の乗客を道連れにするなんて人間が世の中にいますか」  その言葉を神崎は祈《いの》るような思いで、自分に言い聞かせていた。  午後四時四十分、羽田に張り込んでいる部下の五十嵐《いがらし》刑事から電話があり、飛行機が無事着いたことを知らせてきた。 「いま長島が護衛に付き添《そ》われ、ハイヤーに乗り込んで出発しました」 「そうか、よかった」 「車は国賓用《こくひんよう》のもので、窓ガラスは強化ガラス、もちろんボディもタイヤも装甲車《そうこうしや》なみの防弾《ぼうだん》になってますし、運転手は変装《へんそう》したSP、前後を覆面《ふくめん》パトカーで護衛してますから首都高速は大丈夫《だいじようぶ》でしょう」 「ありがとう」  一力もそれを聞いて安心したらしく、フーッと大きく息をつきテーブルの葉巻き入れに手をのばした。 「羽田から高速にのれば、ここまで三十分はかからないでしょうね。すると、五時三十分近くにはこの部屋に着けるか」  腕時計をのぞき込んでいた一力の顔色が一瞬変わり、味川が女のような金切り声をあげた。 「五時三十分? 五時三十分と言えば、課長、犯人の狙撃《そげき》予定時間じゃないですか!!」 「犯人はこの部屋で長島を狙撃しようというのか」 「まさか」 「フザけやがって!!」  神崎は拳《こぶし》を握《にぎ》りしめ、窓に近づくと、一面の広いガラス越《ご》しに外に目をやった。  夕陽《ゆうひ》の下、正面に皇居《こうきよ》の緑が広がり、左手に新築なった警視庁ビルが望めるほか、建物らしい建物はなかった。この部屋を狙《ねら》おうにも、これでは狙撃する場所がない。まさか、あの警視庁の屋上からでも狙撃してくるというのか。  万が一を思って、神崎はカーテンを閉めた。 「しかし、五時三十分にこの部屋を狙《ねら》うとしたら、広島球場で狙撃《そげき》に失敗した犯人は、長島よりも先に東京に戻《もど》ってなければならなくなりますね」  味川のなにげない言葉に、神崎の顔色が変わった。 「オイ、至急《しきゆう》広島県警に電話だ。球場での狙撃から長島が乗った機が離陸《りりく》するまでの間に、東京行きの便があるかどうか。それと、もしあれば、その搭乗者名簿《とうじようしやめいぼ》をチェックしたかどうか」 「はっ」  味川が受話器を取り、県警からの報告をメモにとった。 「神崎さん、ありました。東洋国内航空の便が、長島の乗った全日空機よりも二十分早く羽田に着きます」 「乗客名簿は?」 「安岡さんは長島に会えた興奮で、そこまで気がまわらなかったそうです」 「あのバカヤロウが」  神崎はくやしそうに時計を見た。  ——あと三十分。  一力が言った。 「神崎さん、私にはどうしてもわからないんですよ。なぜ長島が狙《ねら》われなきゃならないのか。長島を憎《にく》む人間が本当にいるんですかね。日本人ならみんな長島が好きなはずなんだ。そうでしょう」  また始まった。神崎は一力から何度この話を聞かされたかわからない。 「神崎さん、あんた長島が嫌《きら》いですか」 「…………」 「味川さんはどうです。嫌いですか? そういう人間がいたらぜひ会ってみたいもんです」 「もちろんぼくは大好きです」  味川は決まりきったことを聞くなとでもいうように、ムキになって答えた。 「でしょう。野球ファンはたとえ巨人が嫌《きら》いでも長島だけは好きだって人ばかりなんです。長島を好きな人間に悪い人間はいません。もし長島を嫌いな人間がいたら、そりゃ性格にどっか欠陥《けつかん》があるんです。ねえ、神崎さん」 「…………」 「長島の出現で初めて戦後は終わったんです」 「…………」 「長島のデビューの時、覚えていますか。国鉄スワローズの金田投手から四打席四三振。キリキリ舞《ま》いさせられました。でもそのとき金田は言ってたんですよ、長島のバットが空《くう》を切るブルンブルンという音を聞いていて、いつか打ち込まれる日が来ることを確信したって。三振しても三振してもボールにくらいついてゆこうとするしたたかな闘志《とうし》に、明日の大打者の片鱗《へんりん》を見たって」  一力はデビュー当時の長島を心に思い浮かべているのか、夢見るような口調で喋《しやべ》りつづけた。  今日の長島解任の決断を思うと、神崎は言いたいだけ言わせてやろうと思った。この優柔《ゆうじゆう》不断な男が、生まれて初めて自分で決断したのだ。 「私は今年で四十五になります。いまでも長島と会うと、好きな女と会う以上に胸がときめくんです。長島が入団してからの二十三年間は夢のような日々でした。あの男は太陽です。長島の天真爛漫《てんしんらんまん》さ、あの純粋さ、天衣無縫《てんいむほう》さ、それだけが私の支えなんです」  一力の口調が柔《やわ》らかくなり、夢見るような目つきになった。長島について語るとき、この男は長島以上の天真爛漫さをみせる。  一力|強司《つよし》は新聞王一力|剛士《ごうし》の長男として生まれている。が、現在、一力|財閥《ざいばつ》のあとを継《つ》ぎ、読売グループの総帥《そうすい》として君臨しているのは、剛士が神楽坂《かぐらざか》の芸者に産ませた腹違いの弟、貴士《たかし》である。  兄の方は強司であるのに、弟には貴士と、剛士から一字とって名をつけていることでもその愛情の深さがわかる。 「長島は何したっていいんです。人を殺したっていいんです」  一力は熱に浮かされたようにつぶやいていた。  午前中、緊急《きんきゆう》に開かれた読売の役員会に神崎は一力強司と同席していた。弟である貴士に何を言われても一力は一言も言葉を返せなかった。貴士は椅子《いす》にふんぞり返り、カサにかかって責めたてた。 「君はいくつだね。四十|面《づら》下げて、いつまで甘《あま》ったれたこと言っているんだ。私は高い給料を払《はら》って、君におもちゃを与《あた》えているつもりはないからね」  貴士は年下にもかかわらずネチネチと一力にからみ、あげくは、 「いいか、長島はわが社の社員なんだ、商品なんだ」 「…………」 「これほどまでマスコミにたたかれて、伝統ある読売巨人軍の権威《けんい》が地に落ちたとあっては、もうあの男にまかせておけん。いますぐ長島を解任したまえ。それとも君がオーナーを辞任するのか!」  一力は役員会の中で完全に孤立《こりつ》していた。弟から頭ごなしに怒鳴《どな》りつけられても、唇をかみしめ、ひたすら平身低頭するばかりであった。  神崎は今、自分が哀《あわ》れみをもって一力を見ていることに気がついていた。  一力はその視線をさけるようにゆっくり立ちあがると、部屋の隅《すみ》のキャビネットボックスからグラスを取り、ウィスキーを半分ほど注《つ》いで、水も足さずに一気にあおった。 「貴士《たかし》はまちがっています。長島は読売の商品なんかじゃありません。読売こそが長島の商品なんです」 「そうです。そのとおりだ」  味川が拍手した。 「貴士はね、長島の仲人《なこうど》をやりたかったんですよ。それを断られたものだからムキになっているのです」 「長島が断ったんですか」 「ええ、長島は私に頼《たの》んできました。あのときほど嬉《うれ》しかったことはありません。もちろん貴士はあらゆる手で、仲人の役を自分のものにしようとしました。でも、私は会社は譲《ゆず》れても、あれだけはどうしても譲りたくなかったんです。私は長島の結婚式にかかりきりでした。そして気がつくと、役員会決定として、すべての役職を奪《うば》われていました」 「偉《えら》い。そういう一力さん好きだな」  味川は感極《かんきわ》まったように一力を見つめた。  一力は再びグラスにウィスキーを注ぐと、グビグビ音をたてて飲み干《ほ》した。手が小刻みに震《ふる》えているのはアル中のせいだろう。 「でも、もしかしたら長島を一番殺したいのは、この私じゃないですかね。私は長島のために一力|財閥《ざいばつ》の総帥《そうすい》の座を弟に譲ったんですからね、フフフ。が、いま、その唯一《ゆいいつ》の役職さえ取りあげられようとしている」 「それを調書にとらせてもらっていいでしょうか」  一力は静かに向き直って言った。 「本当にあなた、私のことも疑っていらっしゃったんですね」 「はい。それが私の仕事ですから」  神崎は淡々《たんたん》と言った。  一力は神崎の目を見据《みす》えたまま、くぐもったような笑いをもらした。 「どうとでもして下さい。もう、私は失うものは何もないんだ」  ウィスキーを注《つ》ぎ足す一力の目から涙がポロポロ溢《あふ》れ出た。神崎はこの男が内に秘めた屈折《くつせつ》の大きさを思った。 「神崎さん、私の母はね、最愛の人との結婚式を翌日に控《ひか》えた夜、父に強姦《ごうかん》同然に身体《からだ》を奪《うば》われたんです。母の婚約者だった人はあまりのことに命を絶ち、母ももちろん一度はあとを追おうとして、思い直したのだそうです。生きて、いつか父に対して復讐《ふくしゆう》してやろうと思ったのです。ただそれだけを心に秘め、母は父と結婚しました」 「…………」 「十年前、父を殺したのは母なんです。いえ、直接手を下したわけじゃありません。ただ救急車を呼ぶのが遅《おく》れただけなんです、ハハハ」 「…………」 「父と母の関係は、子供心にも、見ていて背すじが寒くなるようなものでした。小さい頃から私は母にその話を聞いていました。そして、母と同じように父を憎《にく》んでいたんです。が、母と私の違うところはたとえそんな男でも、私には血のつながった父なんですからね。わかりますか、その苦しみが。私はそんな家庭に育ったんです」 「…………」 「長島でも好きにならなきゃ、やっちゃいられませんでしたよ。長島のあの明るさに触《ふ》れたときだけ、私は心が安らぐんです」  そう言って一力は切なそうに笑ってみせた。    五時二十分、一階のロビーにいる友田刑事から、電話が入った。長島が到着し、エレベーターに乗り込んだという。これでひとまず安全だ。  ボーイもエレベーターガールもすべて神崎の部下でかためてあった。 「これでひと安心だな」 「神崎さん、あなただけは知っていて下さい。私が長島をやめさせるのは、弟から命令されたためでも、巨人軍の不成績のためでもありません。私は、私は……」  ふざけるな、オレたちがどれほどの犠牲《ぎせい》を払《はら》って長島を守ってきたというのだ。現役引退試合の時、グランドを一周するエレキカーを運転していて長島をかばい、狙撃《そげき》された今川は、オレの妹のフィアンセだったのだぞ。  神崎は喉《のど》まで出かかった言葉を必死で飲み込んだ。 「では、一力さん、私共は隣《とな》りの部屋で待機しますから」 「神崎さん、一度ぐらい長島に会ってみませんか、あの男に触《ふ》れてみると人生観がかわりますよ」 「コミッショナー事務局は極秘裡《ごくひり》に長島を護衛しろと言ったんじゃありませんか」 「ですが」  一力の声にかぶさるように、ノックの音がし、ドアが開いた。神崎たちが隣室《りんしつ》に隠《かく》れるひまはなかった。  ベージュ色のスーツを見事に着こなした長島がさっそうと入ってきた。もうそれだけで部屋の中はパッと明るくなり、華《はな》やいだ雰囲気《ふんいき》に変わっている。長島の後ろからボーイ姿の友田が神崎に向かい目くばせし、すばやくあたりを見回してからドアをしめた。長島と向かい合うようにして立つ神崎には、その姿がまぶしかった。 「あっ、どうも、久しぶり」  長島がニコリと笑いかけ、神崎も一礼した。 「久しぶりって、あれ、長島君、神崎さんを知ってるの」  一力が不思議そうにたずねた。 「いっ、いえ、その、どこかで会ったような気がするんですけど、思い出せないなあ」  長島はあっけらかんと首をかしげてみせる。  やはり覚えていなかった……。  長島、キサマはオレを忘れられるのか。オレがおまえのためにどれほど尽《つ》くしたと思うのだ。神崎は思わず叫びたくなる自分を抑え、長島をにらみつけた。  が、長島はそんな神崎を見ることもなくやりすごすと、一力の前に歩み寄りその手をとった。 「オーナー勝ちました。三位になりました。これで来年の開幕戦は後楽園でできます」  長島の声ははずんでいた。 「長島君!!」 「はい」  一力の悲痛な声も気にすることなく、明るく返事を返す。 「私はオーナーをやめることにした」  一力はうつむいたまま、長島と目を合わせようとしなかった。 「そりゃ残念でしたね」  長島はあくまでもあっけらかんとしていた。 「……それで、君に巨人軍監督を辞任してもらいたい。私も必死の工作をしたのだが無理だった」  うめくような一力の言葉に、一瞬、長島の顔にとまどいの色が走った。  が、決断はいかにもスポーツマンらしく早かった。 「わかりました、辞任しましょう。しかし、オーナー、もう一年やらせてくれませんか。伊東で今年若手をビシビシ鍛《きた》えれば、来年は絶対に優勝をねらえると思うんです」 「私はやめてもらいたいと言ったんだよ」 「辞めます。今年は辞めますから来年、もう一度やらせて下さい」 「今年辞めるということは、来年も辞めるということなんだよ」 「わかりました、今年も来年も辞めます。そのかわり監督は続けます」 「長島君、落ち着いて聞きたまえ。私は監督のすべてを辞めろといってるんだよ」 「えっ、監督を辞めろってことなんですか」 「そうだ」  頭の切りかえもスポーツマンらしく早かった。 「じゃ、コーチで使って下さい」 「そんな……」 「コーチが無理ならスコアラーでもいいです。私はジャイアンツのベンチにいたいんです。スコアラーが無理ならもう一度選手としてやってもいいです」  長島の目は本気だった。  一力はうめくように言った。 「前監督をスコアラーというわけにもいかないだろう」 「いえ、僕は肩書きなんかどうだって構わないんです。僕は肩書き人間じゃありません。その証拠《しようこ》に永久欠番にしてくれるという僕の背番号6を断ったじゃありませんか」 「君の背番号は3だったよ」 「そうでしたっけ。僕はそんな数字なんか何だっていいんです。来た球を打つ、VIPの客が来たときは打つ、これです」  その時、長島の頬《ほお》がピクリと反応し、肌《はだ》がみるみるピンクにかわっていった。 「暑いですね、この部屋」  顔をあげ、あたりを見回す。 「おかしいな、オレどうしたんだろう」  長島は背広を脱《ぬ》ぎ捨てると、なにかを押さえきれないかのように、そわそわと落ち着きなく部屋の中を歩きまわった。 「どうしたんだろう、オレ。燃えてきたんだよな、どっかにVIPがいるのかな。それとも今の時間、ツーダウン・フルベースで一打逆点のゴールデンタイムかしら」  長島の目がキラキラ輝《かがや》いていく。神崎はこの光景をいつか見たことがあると思った。そうだ、現役時代、長島がバッターボックスに入るときの目だ。  長島はハッと何かを思い出したように、一力の巨大な執務《しつむ》机の方に目をやった。 「オーナー、あのバット貸してくれますか」  机のうしろにあるガラスケースの中には数々の楯《たて》やトロフィーに混じり、一本のバットが飾られていた。  長島から贈《おく》られ、一力がなによりも大事にしているものである。それは昭和三十四年、天覧《てんらん》試合で村山からサヨナラホームランを打ったあのバットだった。  ケースからそれを取り出し、一力が渡すと、長島はグリップをたしかめてから二、三度|素振《すぶ》りをした。  一力は頼《たの》もしげに長島を見つめ、 「神崎さん、ねっ、偉《えら》いでしょう。ミスターはね、どんな時でも素振りを欠かしたことがないんですよ」  ビシッビシッという空気を切り裂《さ》く音がかすかに聞こえた。それはバットスイングの速さが現役時代となんらかわっていないことを意味していた。 「暑いですね。ちょっとあのカーテンをあけましょう。来る球は直球、相手はサウスポーですよ」  長島は目を見すえたまま、窓に近づくとカーテンを開けた。  長島は伸び上がるようにして窓の外を見た。夕陽《ゆうひ》がいままさにビルの谷間に吸い込まれようとしていた。 「ど、どうしたんだね、長島君」  一力はあっけにとられてその様子《ようす》を見ていた。 「あっちからボールが来るんですよ。速いなあ、これは打てるかな」  長島は窓の外をにらみ、スタンスの位置を決め、大きく構えた。尻をつき出し、バットを揺《ゆす》らせるそのフォームは絶好調のフォームだ。額《ひたい》のはえぎわにこまかい汗がうかび、キラキラと光る。 「あの投手、いいファイトしてますよ。まっこうから勝負してくる気ですよ。近頃《ちかごろ》こういう気迫《きはく》のこもったタマを投げてくる投手がいなくってねえ、江川にも西本にも見習ってほしいな。デビューの時を思い出すなあ。金田さんは僕を殺してやろうとタマを投げてましたからね。それと同じです。投手なんてバッターを殺す気で投げなきゃ魂《たましい》の入ったボールは投げられませんよ。バッターだって、四の五の考えずにきたタマを思いっきりひっぱたきゃいいんです。こりゃ打ちがいがありますよ」  そこまで言って、長島は口を真一文字《まいちもんじ》に結んだ。こめかみに血管がプッとふくれた。  五体の筋肉がみるみる盛《も》りあがり、ワイシャツのボタンがちぎれ飛び、腕のところがビリビリと裂《さ》けていく。  神崎の刑事としての勘《かん》が、しきりに危険信号を送っていた。  なにかが起こる。  が、神崎も、味川《あじかわ》も一力《いちりき》も長島の熱気に押され、かなしばりにあったように一歩も動けなかった。 「長島君、一体なにを言ってるのだね。なにが飛んでくると言ってるのかね」 「ほら、あそこでモーションにうつっているじゃありませんか。うん、腰が入った大きないいフォームだ」  神崎と一力は同時に長島が左手に持ったバットを水平に向け、指し示す方向を見た。 「あっ、あれは一体なんだ!」  警視庁のビルの屋上で馬にうちまたがり、古代|蒙古《もうこ》の武人を思わせる民族|衣裳《いしよう》に身を包んだ人影《ひとかげ》が、まっ赤な夕陽《ゆうひ》の中に黒く浮かびあがった。  長島を狙《ねら》うライフルの銃身《じゆうしん》が鈍《にぶ》く光った。 「ミスター、伏《ふ》せろ、伏せるんだ!!」  神崎は思わず叫んだ。 「バカ言っちゃいけませんよ。こんな剛速球《ごうそつきゆう》、めったに打てるもんじゃありませんよ。しかし、いい投手だなあ、全然タマすじが読めないな。内角だろうか、外角だろうか。さっ、来い、あれ、あいつ、オレの頭をねらってやがらあ」  揺《ゆ》れる長島のバットが一瞬ピタリと止まった。  来る。  その瞬間《しゆんかん》、「ビシリ」という音とともにガラスがくだけ散った。 「ウォッ」  カッと目を見開いた長島の額《ひたい》に黒点があき、次の瞬間、そこからまっ赤な血しぶきが吹き出した。長島の身体《からだ》がスローモーションのように崩《くず》れ落ちていく。  一力の黒髪《くろかみ》が逆立ち、一瞬のうちにまっ白にかわった。引きつった顔でかけより、長島の身体を抱《だ》きかかえる。  神崎は硝煙《しようえん》のたちこめるビルの屋上に目をやった。  あかね色の夕陽に染まり、その男は馬の手綱《たづな》を引き、こちらをにらみつけていた。 「課長、あれは!?」  味川が茫然《ぼうぜん》として、男と神崎を見くらべていた。  神崎の身体からも血の気が引いていった。  ライフルの長い銃身《じゆうしん》を光らせ、不敵に笑うその男の顔は、神崎とうりふたつだった。  神崎は無惨《むざん》に横たわる長島の死体を見下ろし、それを狂《くる》ったように蹴《け》りつけていた。 「このヤロウ、このヤロウ、ざまみろ」  涎《よだれ》を垂らし、憎悪《ぞうお》のこもった言葉をうめくように吐《は》き捨てながら、神崎は満身の力をこめ、蹴り続けた。  神崎にとって、どれだけ憎《にく》んでも、まだ憎み足りないほどの存在が長島茂雄だった。汗を飛び散らせ、狂《くる》ったように、神崎は蹴り続けた。どこからかかすかに声が聞こえてきた。呆《ほう》けたように見ていた味川の顔がたわんだ。 「……お兄さん、……お兄さん」 「ざまあみろ、長島!! ざまあみろ!!」  唾《つば》を吐《は》きかけ、靴《くつ》の底で踏《ふ》みつけていた長島の顔がゆっくりと融《と》け、それが若い女の顔に変わっていった。 「お兄さん、どうしたの。お兄さん」 「桐子《きりこ》!?」  ガバとはね起きると、妹の桐子の顔が目の前にあった。  神崎の顔を心配そうにのぞき込む。 「……夢か……よかった」  唾を飲み込み、神崎は大きく息をついた。気がつくと、全身、水をかぶったように汗をかき、びっしょりと濡《ぬ》れた浴衣《ゆかた》が身体にはりついていた。 「長島はどうした、生きているのか!?」 「長島って?」 「ジャイアンツの長島だ!!」 「まったくお兄さんも今川さんも、長島、長島って困ったもんね。今朝《けさ》の新聞で、またホームラン打ったって書いてあったわよ」 「長島はまだ選手か」 「なに寝呆《ねぼ》けてんのよ」 「いま昭和何年だ」 「四十九年よ」 「長島が引退する年だ!! 今川が死ぬぞ!! 長島の身代わりとなって狙撃《そげき》されるんだ」 「なによ、今川さんが死ぬなんて縁起《えんぎ》でもないこと言わないでよ」  桐子が神崎の二の腕を思いきりつねった。 「わかった、夢だったんだ。フーッ」  全身から吹き出た汗を吸い込んだ浴衣《ゆかた》がじっとりと重く、神崎は布団《ふとん》の上に座《すわ》り込《こ》み、タオルで身体《からだ》中を拭《ぬぐ》った。  ……オレはなぜ蹴《け》りつけていたのだ。それほどまでに長島が憎《にく》かったのか。とうに忘れたはずなのに。  それにしてもリアルな夢だった。額《ひたい》の弾痕《だんこん》から血しぶきをあげ、崩《くず》れ落ちていく長島の姿がまざまざとよみがえってきた。  しかし、警視庁の屋上で馬にまたがっていた武将は一体なんなのだ。 「いま何時だ。どのくらい寝《ね》た」 「もう九時よ。十時間近く寝てたわ」 「そうか、このところ疲《つか》れがたまってたからな」  昨日は目黒坂殺人事件の容疑者を追って歌舞伎町《かぶきちよう》の安ホテルを四十八時間、寝《ね》ずの見張りを続けていたのだ。 「大変ね、刑事って仕事も。私、今川さんとの結婚考えちゃうわ。でも義ちゃんは現場には出たくないって言ってるし、安心は安心なんだけど」 「今川? 今川は生きてるのか!?」 「なに寝呆《ねぼ》けてるのよ。いいかげんにしてよ」 「すっ、すまん」  あまりにも、鮮烈《せんれつ》な夢で、神崎の頭はまだ混乱していた。 「ちゃんといつもどおり、お兄さんを迎えにいらしてるわ。義一《よしかず》さあん、起きたわよ」  居間から桐子の婚約者の今川義一が、カミソリ片手に顔中シェービングクリームの泡《あわ》だらけにして、のっそり姿を見せた。 「課長、おじゃましてます」 「おう」  今川は去年大学出たての新米《しんまい》刑事だ。身長は一メートル六十センチしかないが、体重が八十キロ近くあり、筋肉にも締まりがなくブヨブヨし、神崎の一番|嫌《きら》いなタイプだ。  刑事でありながら死体を見て失神したことも二度や三度ではなく、警視庁での仇名《あだな》も�お殿様《とのさま》�で、みんなから馬鹿《ばか》にされている。  どうして桐子のような聡明《そうめい》な美人がこんな男を好きになったか、不愉快でならなかった。身長だって百七十以上もある。つりあうわけがないのだ。 「どうしたんですか、課長」  今川がけげんそうに神崎の顔をのぞき込んできた。  桐子《きりこ》が笑いながら言った。 「夢を見てたらしくおかしいのよ。それともそろそろボケが始まっちゃったかな」 「えっ、もうボケちゃったのか。しかたない、僕が面倒《めんどう》みるよ」 「何言ってるの、冗談《じようだん》よ、冗談。さっ、お兄さん、顔を洗ってらっしゃいよ。ご飯の仕度《したく》するから。それとね、さっきルポライターの明智《あけち》さんという人から電話があったわよ。明日《あす》の新聞を楽しみにしててくれって。何かすごいことを発表するんですって。兄さんにも喜んでもらえるって言ってたわ」 「うむ?」  明智はルポライターとは言うものの、暴露《ばくろ》記事専門の業界ゴロのような男だった。資格もないのに警視庁の記者クラブに入りびたり、ハイエナのように毛嫌《けぎら》いされていた。が、不思議と神崎にだけはなついていた。 「なんでも長島さんに関することなんですって」 「長島!」  洗面所に立っても神崎の震《ふる》えはおさまらなかった。鏡にうつる顔はまだ青ざめている。  洗面器の冷たい水を両手ですくったとたん、神崎の脳裏《のうり》にさっきの夢がよみがえってきた。  夢は長島現役引退の日から始っていた。  長島の現役引退試合のセレモニー中、護衛《ごえい》のためにと、リリーフカーを運転していた今川義一は長島の身代わりとして頸動脈《けいどうみやく》をライフルで射《う》ち抜かれ、吹き出る血を手で押さえるようにして全身をケイレンさせていた。  洗面所から戻《もど》ると、今川は新聞をひろげ、ズボンのバンドをゆるめ、腹をつき出しのんびりとメシを食べていた。 「ほら義ちゃん、ご飯食べるとき、新聞読まないでよ」 「うん」 「まだ私たち結婚したわけじゃないのに、義ちゃんたら毎日うちにご飯食べにくるんだもん、図々《ずうずう》しすぎるわよね」  と顔をしかめてみせながらも、桐子はすでに世話女房《せわにようぼう》気どりだ。 「でもお兄さん、あたしが義ちゃんのところにお嫁《よめ》に行っちゃったら炊事《すいじ》とか洗濯《せんたく》とかどうするの」 「どうにかするさ」  神崎はわざとズルズル音をたててみそ汁《しる》をすすった。 「どうにかするって、お兄さん、縦《たて》のものも横にしたことないのよ」 「わかった、わかった。時に今川君、君のその腹どうにかならんかね。いざという時、犯人を追いかけられんだろう」 「兄さん、いいじゃないの、私が好きなんだから。義ちゃん、気にしなくてもいいのよ。あたし、ポッチャリしたのがタイプなんだから。あっ、瑠璃子《るりこ》さんだ」  と、桐子はテレビを指差した。  テレビのモーニングショウに新作の映画の主演キャンペーンで瑠璃子が出ていた。  紅葉《こうよう》の嵐山《あらしやま》をバックに京|友禅《ゆうぜん》の着物を上品に着こなした瑠璃子は、まるで深水《しんすい》の美人画から抜け出たように麗《うるわ》しかった。 「あいかわらずきれいねえ、お兄さん」 「…………」  神崎はうつむき答えなかった。  性悪そうなレポーターが、マイクを差し出し、 「瑠璃子さんはこんなにきれいなのにどうして独身なんですか」  としつこく聞くが、瑠璃子は薄《うす》く笑って答えない。  レポーターはなおもマイクをつきつけ、 「昔、野球選手の方と噂《うわさ》がありましたよね。なんて名前の方でしたっけ」 「…………」 「どうしてその方とダメになったんですか」 「……私がいたらなかったもんですから」  と瑠璃子《るりこ》は紅葉からの照り返しにまぶしそうに目を細めた。桐子《きりこ》がしみじみと言った。 「きっと瑠璃子さんまだお兄さんのこと愛しているのよ」 「バカ言え!!」  今川が二人の会話を聞きとがめ、 「へー初耳だな、一条瑠璃子と課長がね。課長、昔、野球選手だったんですか」 「ちがう、その話はやめろ」 「いいじゃありませんか。野球選手上がりの刑事なんてカッコイイじゃありませんか」 「やめろと言ったらやめろ。今川君、二度とこの話はするな」 「わっ、わかりました」  今川は神崎のあまりの剣幕《けんまく》に驚いたように口をつぐんだ。 「あっ、それから、僕らの結婚のことですけど」 「なんだ!?」 「仲人《なこうど》を三井長官に頼《たの》んでくれませんか」 「三井に?」 「あの人に仲人をやってもらっとくと、将来、楽だと思うんですよ」 「楽って、どういうことかね?」 「三井さん、来年あたり参議院に立候補するって噂《うわさ》があるんですよ。そうしたら子供が生まれたって、いい幼稚園に入れてもらえたりするんじゃありませんか」 「…………」 「一度、長官に頼んでくれませんか。長官が僕らの仲人やってくれりゃ、課長だって悪いようにはならないと思うんですよ」 「オレは別にいいようになったって仕方ないんだけどね。それに今川君、失礼だが君の出た大学は三流だ。出世は考えないことだね」  桐子が顔をしかめ、 「お兄さん、そういうイヤミを義ちゃんに言うのはよしてよ。そういう性格だからお嫁《よめ》のきてがないのよ」 「オレのことはほっといてくれ」 「そんな性格だから、瑠璃子さんにも愛想つかされたのよ」  桐子はムッとした表情で立ちあがり、今川もオロオロしてそれに従った。 「お兄さん、私たち今日|遅《おそ》くなるから、ご飯どっかで食べてきて」 「…………」 「私たち、今日後楽園に野球|観《み》にいくのよ」 「うむ?」 「実は課長、きのう新聞記者たちと麻雀《マージヤン》やりましてね。借金を楯《たて》にとって切符取りあげたんですよ。なにせ巨人戦の切符はプラチナペーパーですからね」 「私、映画の方がいいんだけどな」 「また桐子さんはそんなことを言う。君も一度長島が打つところを見たら絶対好きになるって」 「ほら、また義ちゃんの長島びいきが始まった。そんなに好きなら長島と結婚したらいいでしょう」  神崎はガバと立ちあがった。 「今川君、いまなんと言った。長島が打つ?」 「ええ、いっぺん見たら桐子さんだって」 「いや、打つって……。長島はもう監督なんじゃないのかね」  神崎の頭はまだ混乱していた。 「えっ? そりゃ二、三年先にはそうなるでしょうが、まだバリバリやってますよ。解説者たちが今年かぎりって言ってんのは、あれはひがみからですよ。やれ、年だの、やれスイングがどうの、やれ腰のひらきがどうだの文句《もんく》言ってる評論家たちが、現役のとき、長島以上に打ってりゃ話は別ですが、みんな成績は長島以下の奴《やつ》らですよ。来た球を打つ。これで三割打ってんだから誰にも文句言われる筋合はありませんよ」 「まっ、まだ選手なのか?」  今川がさすがに心配そうに桐子を見た。 「ほんとにボケてきたんじゃないのか」 「いっ、いま昭和何年だね」  桐子《きりこ》がイラつき、 「もーっ、何度同じこと聞くの。昭和四十九年だって。義ちゃん、こりゃダメだわ。本格的にボケてきているわ」 「なに!」  夢の中で、長島は、昭和四十九年に現役を引退している。  だとしたら……。  その時電話のベルが鳴った。 「お兄さん、三井さんからよ」  と、桐子が受話器をさしだしてきた。 「すいません、ついでに仲人《なこうど》の件も話しといてくれませんか」 「うるさい」 「はっ、すいません」  三井から直接電話が入るなど、何事だろう。 「はい、電話代わりました」 「神崎君かね、くつろいでいるところをすまん」  胸さわぎがし、三井の横柄《おうへい》なもの言いも気にならなかった。 「実は伊藤君が多摩川《たまがわ》の巨人の二軍練習場で張り込み中、酔《よ》っ払《ぱら》いに石で撲《なぐ》り殺されたそうだ」 「なんですって!?」 「フン、張り込みとは口実で、どうせアベックでも冷やかしに行っとったんだろうが困ったことをしでかしてくれたもんだ」  三井は苛立《いらだ》たしげに舌打《したう》ちをくり返した。  神崎は今川から新聞を奪《うば》い、あわててひろげてみたが、なにも載《の》っていなかった。 「新聞にはなにも……」 「伊藤君が表沙汰《おもてざた》にできないことをやったんだよ!!」 「何ですか?」 「覚醒剤《かくせいざい》だよ。現職の刑事がシャブをやってるなんて、言語道断《ごんごどうだん》だよ」 「まさか!」 「尿《によう》検査でそういう結果が出たんだから、仕方ないじゃないか!!」  伊藤は今年で五十になる叩《たた》きあげの刑事だった。普段《ふだん》から大人《おとな》しく真面目《まじめ》で、決してシャブに手を出すような人間ではない。 「ついては君に伊藤君の仕事を引き継《つ》いでもらいたい。伊藤君が息を引きとる時、君を指名したらしい。どういう事情かよく知らんがよろしく頼《たの》むよ。で、至急こちらに来てもらいたい。会ってもらいたい人がいるんだ」 「わっ、わかりました」  受話器を握《にぎ》りしめたまま、神崎は立ちすくんだ。 「どうしたの、お兄さん」  受話器を置き、振りむいた神崎の顔は蒼白《そうはく》だった。 「いや、なんでもない。今川君、話があるんだ」 「なんでしょう」  つまようじをくわえたまま、今川が顔を上げた。 「君に刑事をやめてもらいたいんだ。いますぐだ!!」 「はっ?」 「桐子と旅行でも行ったらいい。とにかくこの東京を離れるんだ」 「ど、どうしたんですか」  今川がきつねにつままれたような顔でポカンと口をあけている。 「刑事をやめてほしいと言っとるんだ!!」 「どうして僕が刑事やめなきゃならないんです」 「どうしてもだ。君が刑事をやめないと言うなら桐子《きりこ》との結婚は認めない」 「そ、そんな……」 「義ちゃん、気にしなくたっていいわよ。お兄さん、今日はおかしいんだから」  桐子も、もう口をききたくないという顔をして、茶碗《ちやわん》を流しに運んだ。 「今川君|頼《たの》む、オレの言うことを聞いてくれ」  神崎はその場に手をつき、畳《たたみ》に頭をつけた。いくら虫が好かない奴《やつ》でも、妹の結婚相手が死ぬとなれば話は別だ。 「まっ、いずれは家業を継《つ》ぐことは考えてるんですけど……」 「とにかく今すぐ辞表を提出するんだ!!」    警視庁へ到着した神崎は、鑑識課《かんしきか》の富川を呼び出し、地下の死体置場へと直行した。  死体置場の重い扉《とびら》が開いたとたん、ひんやりした空気が流れ出し、すえた匂《にお》いがプンと鼻を突《つ》いた。 「富川君、伊藤さんが覚醒剤《かくせいざい》をやってたってのは本当かね」 「その反応は出てるんですが、どうもよくわからないんですよ」  富川はキリギリスのように痩《や》せて細面《ほそおもて》の顔を何度も傾《かし》げてみせた。 「この種の覚醒剤反応を見たのは初めてなんです。この種の覚醒剤は、まだ日本に入って来てないはずですよ」 「えっ?」 「東大に問い合わせていますから明日《あす》ははっきりしたことがわかると思います」 「そうか。で、伊藤さんの死因は酔《よ》っ払《ぱら》いに石でやられたってのは本当かね」 「そこなんですよ」  と、富川は白衣《はくい》のポケットから野球ボールを取り出し、 「伊藤さんの頭には野球のボールの縫《ぬ》い目の跡《あと》がついてるんです」 「なにっ!?」  神崎の細面《ほそおもて》の顔が、蛍光灯《けいこうとう》で青白く光った。 「まあ見て下さい」  と、富川は鉄製のベッドに横たわった伊藤の死体を覆《おお》う白布をはぎとった。 「これは……」  神崎は、そのあまりのおぞましさに思わず目をそむけた。 「……死因はこの頭蓋骨《ずがいこつ》の陥没《かんぼつ》かね」 「そうなんです。が、ここを見て下さい」 「あっ、ボールの縫《ぬ》い目のあとだ」  頭頂部《とうちようぶ》のかたまった血の跡《あと》、富川の手にしたボールの縫《ぬ》い目と同じ盛《も》りあがりがあった。 「伊藤さんは河原に腹這《はらば》いになって双眼鏡《そうがんきよう》で多摩川の巨人の二軍練習場を張り込んでいたといいますから、そこに飛んで来たボールがぶつかったんじゃないですかね」 「まさか。練習場から河原までは五十メートルはあったんだろう。そんな球を投げられる人間なんていやしないよ」 「そうなんですよ」  富川は自分で言って頭をかいている。 「これだけの衝撃《しようげき》を与《あた》えるとなると、ボールは真上から直撃《ちよくげき》したことになるんですよね。普通《ふつう》、こういうものは放物線を描《えが》いてゆるやかに落ちてくるもんなんですよ。当たったって死にゃしません」 「それほどボールにスピードがあったということか」 「それに難問はもうひとつあるんです」 「なんだ」 「伊藤さんが腹這《はらば》いになってた前に、一メートルほどの土手があったといいますから、ボールはこうまっすぐに飛んで来て、五十センチは垂直《すいちよく》に落ちたということになるんです」 「五十センチ!?」  そんな落差をつけた変化球を投げられる人間などいるものか。 「神崎さん、僕も野球が好きなんですが、こんな変化球を投げられる投手がいれば、そのチームはすぐに優勝ですよ。あっ、申しわけありません、不謹慎《ふきんしん》でした」 「しかし、富川君、それにしても、このすえた匂《にお》いは何なのかね」 「伊藤さんの胃から出てるものと思われますが、もずくが腐《くさ》ったような匂《にお》いですね。これが新しい覚醒剤《かくせいざい》の匂いと思われます」  神崎は腕時計を見た。  十一時二分前だった。 「……三井に呼ばれてるんでゆっくり説明が聞けないが、何かわかったら知らせてくれ」  死体置場を出ようとする神崎に富川があわてて声をかけた。 「神崎さん、これ」  富川が差し出したのは、一枚の領収書だった。 「なんだね?」 「伊藤さんの背広のポケットに入ってたものです。『義経荘《ぎけいそう》』という奥州平泉《おうしゆうひらいずみ》にある旅館の領収書です」 「奥州平泉?」 「ほら、源義経《みなもとのよしつね》がそこから大陸に渡り、ジンギスカンになったって伝説のあるところですよ」 「…………」 「日付はおとといになってますから、多摩川へ行く前に平泉に行っていたんだと思われます」 「そうか、ありがとう」 「頑張《がんば》って下さいね」  富川は神崎を励《はげ》ますように大げさに敬礼してみせた。    三井長官の部屋は警視庁の最上階にあった。  ノックをし、ドアを開けると、部屋には先客がいて、三井と楽しそうに言葉をかわしていた。肩幅《かたはば》の広い上半身をトックリセーターとツイードのジャケットで包み、ウェーブのかかった髪《かみ》を少し長めに横わけした男だった。太い眉《まゆ》のわりには、まつ毛が長くやさしそうな目をしている。甘《あま》いマスクといってよいだろう。彫《ほ》りは深く、外人の血が混じっているようにさえ見えた。 「おっ、来たか。これが伊藤の後任の神崎です」  三井の言葉に、男は立ちあがり、人なつっこい笑みを浮かべ握手《あくしゆ》してきた。  指の長い大きな手の感触《かんしよく》に神崎はオヤと思った。男の方も親しげに神崎の顔を見た。  三井がソファーに座《すわ》り直し、なにやら感極《かんきわ》まったように声をかけてきた。 「いやあ、しかし神崎君、今、いろいろ話をうかがってたんだけど、野球ってのは文学だねえ。私は球を打って投げるだけの、土方《どかた》と似たようなもんだと思っていたが、バカにしたもんじゃないよ」 「…………」 「ほら、知ってたかね。ピッチャーが投げてて、ツーナッシングになると必ず一球あきらかなボールではずすだろう。私はあれがわかんなくてねえ、なんであんな無駄《むだ》なことをするのか、不思議でならなかったんだよ。いっそならズバーッと三球三振とりにいったらいいじゃないかってね。その方がカッコいいと思うんだよね。いつもテレビ見てて、意味のないことしてるなあと思ってたんだよ」 「…………」 「でもあれにもちゃんと意味があるというんだ。つまりこういうことなんだそうだ。ピッチャーという人種は、ポジション柄《がら》、こぞってプライドが高く自意識の強い人間ばかりだから、2—0になると、どうしても三球三振をねらいたくなってしまうんだってね。そうなると、次の球にはその意識からどうしたって余分な力が入ってしまい、球威《きゆうい》にもコントロールにもほんのわずか狂《くる》いが生ずるそうなんだ」  男は人なつっこい笑みを浮かべながら静かに三井の話に耳を傾《かたむ》けていた。  三井はよほど嬉《うれ》しいらしく、口から泡《あわ》を飛ばして喋《しやべ》りまくる。 「そこで、さあ三球三振と意気込むピッチャーにあえてムダ球を投げさせ、いったん2—1としておいて、ピッチャーの方も、もう三球三振などという見せ場はないものと自分自身を納得《なつとく》させておいてから、バッターと勝負した方が、確率的に失投につながる率が少ないそうなんだ。プロ野球というのは、技術が高度になればなるほど、ほんの数ミリの差が勝負のわかれ目だそうだからね。いやあ、野球の勝負というものが、これほど緻密《ちみつ》で繊細《せんさい》なものだとは、初めて知ったよ。こう言っちゃなんだが、大学時代、東大で小説の同人誌なんか出してたほうだから。でも村山さんからこの話を聞いて、野球こそ文学だと認識を改めたよ」 「村山?」 「神崎君、君には捜査《そうさ》一課を離れて村山さんの下についてもらうから」  男はあごをなでながら笑っていた。 「失礼ですが、検察庁《けんさつちよう》の方ですか?」 「いえ、いまは日本野球連盟で探偵《たんてい》の真似事《まねごと》をしております。探偵といっても、野球選手のトラブル処理が主な仕事ですが」 「どうもお顔に見覚えが」 「私、もと阪神タイガースの村山実《むらやまみのる》と申します」 「あっ、おみそれしました」  男はまごうことなく、昨年十八勝八敗とリーグ最多勝をあげながら、肘《ひじ》の痛みを訴《うつた》え、突如《とつじよ》引退した村山実だった。  三井がなんと無粋《ぶすい》なやつだと言わんばかりに、 「すまないねえ村山君、どうも神崎君は、日頃《ひごろ》からなぜか野球選手を毛嫌《けぎら》いしてるところがありましてね。交通違反なんか、相手が有名人だったら大目に見ろって指導してるのに、野球選手とみると、かたきみたいに取り締まるんだよ。でも、神崎君も、長島の名前くらいは知っとるだろうね」 「はっ、はあ」 「その長島が狙《ねら》われとるんだよ」 「えっ!」  神崎は全身から血の気の引いていくのがわかった。 「どうかしましたか」  村山が心配そうに顔をのぞき込んで来た。 「い、いえ、別に」 「とにかく神崎君、資料はそろってるらしいから、今までの経過だけでも頭に入れといてくれたまえ」 「あの、伊藤さんはやはり、長島の事件にからんで殺されたんでしょうか」 「バカなこと言っちゃいかんよ、あれは単なる酔《よ》っぱらいの犯行だ」 「しかし、その酔っぱらいはまだ逮捕《たいほ》されてないと聞きましたが」 「なんだね、えらく不満そうだね。君も富川君の言うとおり、誰かにわざとボールでもぶつけられたとでも言うのかね。富川君から説明を聞かなかったのかね。人を殺せるほどの球を投げられる人間なんていやしないと言ってたろう。それも五十センチも落ちるやつだよ」 「しかし」 「不満かね。そんなに不満なら君がいまここで百五十キロで垂直《すいちよく》に落ちるような球を投げてみたまえ。そしたら信じてやるから」  三井は、勝ちほこったように部屋を出ていった。  と、同時に村山はホッとしたように息をついた。 「私、三井さんのような方はどうも苦手《にがて》です。さっ、地下の資料室に行きましょうか。伊藤さんの残した資料でも整理しましょう」 「はい」  三井の部屋をあとにして、殺風景なコンクリート床《ゆか》の廊下《ろうか》を神崎と村山は肩を並《なら》べて歩いた。 「神崎さん、伊藤さんの通夜は明日《あす》だそうですね」 「はい、さっき同僚《どうりよう》がそう言ってました」 「もし長島が顔を出してやることができれば伊藤さんも喜んでくれるでしょうにね」 「出ないんですか?」 「もちろんです。長島本人はこの事件のことを全く知らないんですから。もちろん私のこともあなたのこともね」  村山がいたずらっぽく笑いかけてきた。  村山は地下室へと続く階段のところで立ち止まった。 「でも神崎さん、どうしてさっき三井さんに言われた時、お投げにならなかったんですか。見せてあげればよかったじゃないですか、あの豪速球《ごうそつきゆう》を」 「……私のこと、ご存じでしたか」 「もちろんですとも」 「…………」 「阪神の藤本監督は、どうしてもあなたが欲しくて、長崎の壱岐《いき》に渡る船をみな買い占《し》めてスカウト連を足止めしたのです。いつもながら巨人は汚《きたな》い手をつかうもんだとこぼしていました」  暗い廊下《ろうか》が一転してまばゆい光で満たされ、あの真夏の太陽に焼かれた灼熱《しやくねつ》の多摩川《たまがわ》グランドで、汗と泥《どろ》にまみれて白球を追ったあの青春の日々が、神崎の脳裏に鮮《あざ》やかによみがえった。 「しかし、皮肉《ひにく》なことだ」  神崎は小さくつぶやいた。  恨《うら》みのつきないオレが長島の護衛《ごえい》をすることになろうとは。  廊下のつきあたりを折れたとたん、暗闇《くらやみ》からヌッと人影《ひとかげ》が現われた。 「あっ、一力《いちりき》さん」  村山の顔が青ざめた。 「村山君、きみもいずれ、野球殿堂《でんどう》入りする男だ。おかしなことに首を突っ込まん方がいいよ」  そこには夢に出て来たのとそっくりな一力がいた。恰幅《かつぷく》のいいダブルの背広に大柄《おおがら》な身体《からだ》を包み、厚い黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけていた。 「神崎君、久しぶりだね」 「お久しぶりです」 「君には随分《ずいぶん》、恥《はじ》をかかせられたよ。長島にホームランを打たせるためにヨクルトに出したというのに、ちっとも役に立ってくれなかったもんな、ハハハ」  村山が口元を震《ふる》わせ、 「一力さん、私は巨人のそういうやり方を曝《あば》こうとしているんです。巨人の脅威《きようい》になる選手や長島に強い投手を金にあかせて巨人に取り、二軍で飼《か》い殺しにする。そんなやり方で野球界が発展すると思いますか」 「ハハハ、村山君、巨人に入って後悔《こうかい》した選手は誰もおらんよ。なあ神崎君、きみだって他の球団へ行くよりも長島のバッティング投手として一生を捧《ささ》げたいと言っとったじゃないか」  そのとおりだ。オレは長島用に飼育《しいく》された男だ。  オレは長崎県|壱岐《いき》高校を卒業し、新人としては破格の一千万という契約金で巨人軍に迎えられた。しかし、オレに与《あた》えられた仕事は長島のバッティングピッチャーだった。  でもオレは試合に出られなくても幸福だった。  長島の調子が悪いときには決まって呼ばれ、緩急《かんきゆう》やコースをさまざまに投げ分け、他球団のピッチャーのクセをいろいろアドバイスしながらバッティングの調子を上げてやった。オレはその役目を誇《ほこ》らしくさえ思っていた。  その頃、長島は口癖《くちぐせ》のようにくり返していた。 「幸ちゃんの球、ほんと打ちやすいよ」 「ありがとうございます」 「幸ちゃんは根っからのバッティングピッチャーだね」  が、誰がバッティングピッチャーとしての才能を誉《ほ》められて嬉《うれ》しいことがあるだろうか。 「ねえ、ワンちゃん、打ってごらんよ。本当に打ちやすいよ。ねえ、イサオ、打ってごらんよ。本当にバカみたいに打ちやすいんだから」  と長島は誰彼《だれかれ》なくオレの球を打たせようとした。が、オレにしても、長島だからこそ、バッティングピッチャーに甘《あま》んじているのだ。柴田や黒江につくすいわれはない。オレだってプロとしての野心はあったのだ。  たしかに世間《せけん》知らずの長島は、相手の心を傷つけるようなことを平気で言う。  しかしそのあと、本番の試合でホームランしてくれる喜びは何物にも代えがたかった。長島も調子が落ちるとオレを指名し、遠征《えんせい》先まで呼んでくれた。二軍の連中と多摩川《たまがわ》で練習してる時に長島から来てくれとの呼び出しがかかろうものなら、オレはもう鼻高々だった。  オフの時、田舎《いなか》に帰り、二人で撮《と》った写真を配り、「チョーさんがね」「チョーさんがさ」と、長島語録やそのエピソードを話して聞かせ、みなが喜んでくれることが嬉《うれ》しくてたまらなかった。  が、二年目の冬、なぜかオレはヨクルトにトレードされたのだ。  が、長島は巨人をお払《はら》い箱になったオレに、「ありがとう」のひと言も言ってくれなかった。別れの挨拶《あいさつ》に行くと、 「へえ、ヨクルトで牛乳売るの?」  と真顔でトンチンカンなことを言うのだった。  言うに事欠いて、「牛乳売るの」とはなんだ。  おまけに、 「残念だな、もう僕の家、森永とってるんだよね。たくさんとっても牛乳は腐《くさ》りやすいからね。でもまあヨクルトおじさんやるのも人生だよ」  とまで言われたのだ。  オレはただ、一言長島の口からねぎらいの言葉がほしかったのだ。  その時オレは、ヨクルトでエースになり、きっと長島を三振に斬《き》ってとって恨《うら》みをはらしてやると心に誓《ちか》ったのだ。  ヨクルトの自主トレ開始早々、オレは一力《いちりき》オーナーから直々《じきじき》に銀座のクラブへ呼ばれた。  まばゆい光を放ち豪華《ごうか》なクリスタルのシャンデリアや重厚な大理石の内装、高級そうなふかふかの絨緞《じゆうたん》にオレは無言のうちに圧倒《あつとう》されていた。美しいホステスたちはみな見るからに高そうな着物やドレスで着飾り、ひとつひとつのアクセサリーのどれをとっても、一流のものを身につけていた。  中央のボックスのソファーに一力は深々と腰を下ろし、ヨクルトの園田《そのだ》オーナーを従えてオレを待ちうけていた。  一力は場違いな雰囲気《ふんいき》に落ち着かないオレを見て、クスリと笑いをもらし、カン高い神経質そうな声で聞いてきた。 「どうかね、ヨクルトの居心地は」 「はっ、みんないい人ばかりで」  小柄《こがら》な猿《さる》のような園田が、大阪商人らしくもみ手しながら大きくうなずいて言った。 「そう、みんな長島はんが好きやねん」 「はっ?」 「せやから、うちも球団カラーを巨人用につくりなおそうと思うて君に来てもろうたんや。わての球団は優勝なんかせんでもええんや。巨人が優勝してればプロ野球は安泰《あんたい》なんやから。そうでっしゃろ、一力《いちりき》さん」 「フフフ」  園田《そのだ》は一力と顔を見合わせ、猫《ねこ》なで声でつづけた。 「つまり、長島はんがわての球団とやるときに、必ずホームランを打たせたいんや。四打席全部だってよろしい。ヨクルトとやる時に長島はんがホームランを打つとなりゃ、神宮《じんぐう》はお客さんであふれまっせ」  その時、ボーイに連れられて来た男を見て、オレは愕然《がくぜん》とした。田舎《いなか》の兄だった。兄は壱岐《いき》でヨクルト牛乳の販売店を開かせてもらうことになったという。  兄は一着しかない背広を着て、窮屈《きゆうくつ》そうにネクタイを締《し》めていた。初めて入った高級クラブが珍しいらしく、しきりにキョロキョロあたりを見回していた。いままで、どんな仕事をしても長続きしなかった兄だ。が、今回はこれに賭《か》けてみたいと言う。おたがいかしこまってボソボソと言葉を交わす兄とオレを、一力と園田はブランデーをなめながら満足そうな笑みを浮かべてながめていた。  オープン戦が始まるとオレは長島を打席に迎えるたび、言われた通りどまん中に投げた。しかし、長島はそのどまん中の一番打ちやすい球を投げると必ず三振するのだ。オレはもうノイローゼになりそうだった。そのたび一力と園田オーナーから呼びつけられ、 「キサマ、長島を三振させて名前を売ろうなんて妙《みよう》な色気を出してんじゃないだろうな」  と脅迫《きようはく》まがいに怒鳴《どな》りつけられた。  そしてそのたび、兄の販売成績を見せられた。兄は園田からお墨付《すみつき》をもらったせいか、浮かれ、遊び呆《ほう》けていたのだ。  オレはもうヤケクソだった。長島を打席に迎えると手の届かないクソボールやワンバンドの球を投げた。ところがそうすると、長島はなぜか決まってホームランを打つのだ。  しかし、オレもスポーツマンだ。長島に対し片八百長《かたやおちよう》している自分に耐《た》えられなかった。またそれ以上に、オレを信じてバックを守ってくれているヨクルトの仲間たちのことを思うと、気が狂《くる》いそうだった。  オレは耐えきれず、姿を消した。  オレは一度も公式戦のあの熱いマウンドで投げたことがないのだ。オレが壱岐《いき》の海で船の櫓《ろ》を漕《こ》いで手首を鍛《きた》えた百四十キロを超《こ》すライジングボールは、一度として陽の目を見たことはなかった。    非常口の蛍光灯《けいこうとう》が鈍《にぶ》くまたたいた。  一力は、つき出た腹をさらにつき出すようにして、また見下すような目つきを神崎に向けた。 「君も伊藤君のようなぶざまな死に方されちゃ困るよ。まったく伊藤君は何の役にもたたない男だった。死ぬんなら、長島の楯《たて》になって死んでくれりゃよかったんだよ」  伊藤のことを思うと、この一力の言葉は許せなかった。 「どういう意味ですか!」 「言ったとおりだよ。長島という男は日本の高度成長を支えた男だ。閑古鳥《かんこどり》が泣いていた球場が、あの男が現われてから満員になった。バットも売れ、ボールも売れた。彼が日本経済に貢献《こうけん》した額は、一千億や二千億じゃきかないんだよ」 「だからといって伊藤さんが死んでいいという言い方はないでしょう」 「僕は長島のためならなんでもするよ。たとえ人殺しだってね」  そして神崎にニヤリと笑いかけ、 「きみ、まだ長島を愛しているかね」 「…………」 「長島君のこと、よろしくたのむよ」  しかし、去ってゆく一力の背中には言い知れぬ哀愁《あいしゆう》があった。  村山はその後ろ姿を見ながら、 「あの人が一番長島を愛しているんでしょうね。長島のために地位も名誉《めいよ》も、妾腹《めかけばら》である弟の貴士《たかし》に奪《うば》われたんですから」  と、しみじみとした口調で言った。  通用口のわきにある外の非常階段をつかい、留置場のある地下一階をやりすごして、二階まで降りて行くと、ボイラー室に通じる扉《とびら》の隣《とな》りに古ぼけた木のドアがあり、小さく�資料室�と書かれていた。  村山は立ち止まり、 「たしかにこの日本では巨人の影響力《えいきようりよく》にはすごいものがあります。そして長島のファンは八千万といわれています。つまり、この事件にかかわるということは、日本を相手に戦うことだと覚悟《かくご》して下さい」 「はっ、どういう意味ですか」 「神崎さん、明智《あけち》というルポライターを知ってますか?」 「知ってます」 「明智は、日本の歴史構造を根底からくつがえすような秘密を知ったと言っていました」  村山の静かな語り口は、それが誇張《こちよう》でないことを物語っていた。 「なんでしょう、その長島の秘密というのは」 「わかりません。ただ、伊藤さんもその秘密を知って殺されたのではないかと思います」  いや村山はなにか知っている。 「今朝の新聞で何か公表するつもりだったらしいんですが、新聞には何も載《の》っていません」  村山の、せわしげに煙草《たばこ》をふかす指が震《ふる》えた。狭い入口を身をかがめるようにして中に入ると、こもっていたなまあたたかい空気がムッと押しよせ、一瞬息苦しさを覚えた。  裸《はだか》電球の明りをつけ、神崎は上着を脱《ぬ》いだ。部屋の中の湿《しめ》った暖気で、すでに背中はジットリと汗ばんでいる。窓のない八畳ほどの部屋には、隣《とな》りのボイラーのうなる音が、絶えまなく壁《かべ》を通して伝わってくる。  几帳面《きちようめん》な伊藤らしく、机の上は整然とかたづけられ、電話機が一台あるきりだった。が、机をとり囲むように壁に吊《つ》り込《こ》まれた棚《たな》に捜査《そうさ》ファイルがぎっしりと並《なら》べられていた。  神崎は「1」と書かれてあるファイルを取り出し、読みはじめた。  驚いたことに、最初の長島|狙撃《そげき》は、まだ長島が立教大学在学中、神宮で八本目のホームランを打って新記録を達成したときに起きていた。つまり犯人は十八年間も、長島をつけ狙《ねら》っているのだ。  村山がため息をつきながら、 「長島は、それほど怨《うら》みを買うような人間じゃないんですがね」と言って額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》った。 「十八年も恨《うら》みを持続させるなんて、どんな仕打ちを受けたんですかね」  村山はチェーンスモーカーらしく、つづけざまに煙草《たばこ》に火をつけた。たちまち狭《せま》い部屋に煙《けむり》がこもった。 「入るよ」という声とともに、ドアが開く音がして、三井が姿を現わした。 「神崎君一人じゃなんだろうから、部下を連れてきたよ。今川君、入りたまえ」  三井が手招きすると、今川が大きな身体《からだ》を横にするようにして入ってきた。 「なんだ、君ら後楽園じゃなかったのか?」  神崎の声は震《ふる》えていた。 「長島さんがかかわってるとあっちゃ、他の人に任せとけませんものね。志願したんです」  三井が、 「あっ、それともう一人いるんだ。まあ村山君、力にはならんと思うが、どこの課ももてあましてね、神崎君とはウマがあうらしいし……。結城《ゆうき》君、入りたまえ。じゃ私は行くから。とにかくよろしく頼《たの》むよ」  そう言って、出ていく三井と入れかわりに、痩《や》せて白髪《しらが》の男が足をひきずりながら姿を現わした。 「結城さん!」 「よろしくお願いしますよ」  穏《おだ》やかな笑みを浮かべ、会釈《えしやく》を返す男は古参刑事結城順二だった。 「身体《からだ》の方はいいんですか」 「まあ、なんとかね。こいつがちょっと言うことを聞かなくなっただけだ」  結城は右足の太腿《ふともも》のところをパンパンとたたいてみせた。  一年前、神崎と結城はコンビを組み、マル暴と呼ばれる捜査《そうさ》四課と連携《れんけい》して、情婦殺しの暴力団員を追っていた。そして、ようやく犯人を追いつめたところで発砲され、神崎をかばう形で結城《ゆうき》が負傷したのだった。それ以来結城は休職していた。 「結城さんと一緒《いつしよ》なら、心強いですよ」 「結城でいいよ、君の下につくんだから」 「でも」 「まあ、足がこうだから、立ち回りは無理だ。情けないが資料調べでもさせてもらうよ」  結城はさびしそうな笑いを浮かべた。そんな結城の様子に神崎は胸がつまった。かつては、結城と聞いただけで関東一円のヤクザたちが震《ふる》えあがったものだった。  今川は屈託《くつたく》なく、 「でも、長島の警護か、燃えるなあ。色紙《しきし》用意しとかなきゃ」 「なにをバカなこと言ってるんだ。いいか今川、長島は自分が狙《ねら》われているのを知らないのだ。だからオレたちも本人とは一切接触できないんだ」 「えっ、残念だなあ。こんなチャンスめったにないのに」  あれほど辞表を出せと言ったのに。神崎は殴《なぐ》りつけたい気持ちだった。 「しかし極秘となるとかなり大変ですな」  結城が眉《まゆ》をひそめた。 「コミッショナーとしてはプレーに身が入らなくなって、成績が落ちるのが心配なんでしょう」  が、今川は口を尖《とが》らせ、 「そんなこと心配ないのになあ。自分が狙われてるってわかったって、それで打てなくなるような長島じゃありませんよ」  神崎は今川を無視し、村山に向き直った。 「結城さん、紹介しときます。野球連盟から派遣《はけん》されてこられた村山さんです」 「よろしく」 「こちらこそ」  村山に気づいた今川が軽薄《けいはく》な声をあげた。 「あっ、村山さんだ。本物ですか」 「はあ」 「あの、サインしてくれますか」 「いいかげんにしないか」 「すっ、すいません」  神崎に激しくにらみつけられ、今川はふてくされたように唇をとがらせた。 「具体的な査察《ささつ》の打ち合わせは、明日《あす》にまわすとして、今日のところは伊藤さんの残した資料を読みましょう」 「そうですな。さっ、今川君どうぞ」  結城が古ぼけたパイプ椅子《いす》を引き寄せた。  が、今川は、 「あの、今日は僕、帰らせてもらってもいいでしょうか。後楽園のスタンドに桐子《きりこ》さんを待たせたままになっているんです。別に今日のうちに長島が狙撃《そげき》されるってわけでもないでしょう?」 「めったなことを言うんじゃない!!」  がまんしきれず、神崎は今川の胸倉をつかんだ。あわてて結城が二人の間に、割って入った。 「まあ、いいじゃないですか。この先、私が動けないぶん、今川君には活躍《かつやく》してもらわなきゃならないんですから。今川君、行っていいよ」 「じゃ。あっ、村山さん、今度きっとサインして下さいねっ」  今川は上着をひっつかむと、そのまま飛び出していった。 「あのバカ!」 「ハハハ、やっぱり噂《うわさ》どおりの�お殿様�ですな」  その時、電話のベルが鳴った。  神崎が取った。 「村山さん、中日の星野仙一さんからです」 「なんだろう」  村山は濃《こ》い眉《まゆ》をひそめ、受話器を受け取った。 「どうした仙、村山だ。なに助けてくれ? 今日も投げる? きのう完投したばかりじゃないか。よしわかった、すぐ行く」 「どうしたんです」 「星野がおかしなこと言ってるんですよ。ちょっと気になるんで、後楽園に行ってきます」  村山は首を傾《かし》げながら部屋を出て行った。  急にガランとした雰囲気《ふんいき》になった資料室で、結城《ゆうき》がポツリとつぶやくように言った。 「まさか長島の事件を担当するとはな」 「結城さんは長島をご存じなんですか?」 「いえ、もう二十年も前になりますか、弟がよく利根川《とねがわ》の河口になんか変な�藻《も》�みたいなものを採集に行ってましてね」 「藻?」 「ええ、私も、一、二度ついていったことがあったんですよ。その時、まだ高校生の長島を見たことがあるんです。あの頃から人気者で、練習試合だというのに、女子高校生が鈴《すず》なりでした」 「弟さんはお亡《な》くなりになったとうかがいましたが」 「ええ、外国でね。遺体は日本に送られてきたんですが、それが奇妙《きみよう》な死に方なんですよ」 「と言いますと?」 「まっ、いいじゃないですか! その話はあまり思い出したくないんです」 「はっ、申しわけありません」  資料を読み始めてから小一時間もたったろうか、それまでしかめっ面して読みふけっていた結城が突然《とつぜん》あきれたように声をあげて笑い始めた。 「こういう人には負けますな。やはりこういう人だったんですな」 「どうしました」 「いえ、読めば読むほど長島って男は運の強いやつなんですよ。ほら、まずここです。プロ入りして初めての狙撃《そげき》のときなんですけどね」  そう言って、結城はぶ厚いファイルの中のページを示してみせた。 「入団したばかりの昭和三十三年九月十九日、対広島戦です。ホームランを打ったのち、一塁ベースを踏《ふ》まずにアウトになった、有名な試合ですよ」 「そういうこともありましたね」 「ホームランなのに記録はピッチャーゴロですよ。まあ、それだけなら珍《ちん》記録というわけですが、このとき、一塁|塁審《るいしん》の水木の証言で、長島がベースを回る瞬間《しゆんかん》、その頭を何かがよぎったと言うんです。試合後の現場検証で、白線につきささったものを発見した捜査官《そうさかん》が拾ってみると、ライフルの弾《たま》だったんですって」 「ほう……」 「犯人は一塁ベースを踏む瞬間に照準《しようじゆん》を合わせていたんでしょうね。ところが踏み忘れたもので助かった。しかし、運の強い男だ」 「…………」 「こういう例がまだいっぱいあるんです。昭和三十五年の対大洋戦です。敬遠のボールに腹をたてて、飛び上がってひっぱたいたところ、レフト前のヒットになり、びっくりした野手が後逸《こういつ》する間にランニングホームランにしてしまってるんです」 「そのときも一塁ベースのそばのグランドからライフルの弾《たま》が発見されているんですか?」 「犯人はまさかクソボールに手を出すなんて思わなかったでしょうからね。おまけにランニングホームランということは、一塁なんか全力|疾走《しつそう》で駆《か》け抜けるわけでしょうから、弾ははずれるに決まってます。とにかく狙撃犯《そげきはん》としてはやりづらい相手だったでしょうね」 「信じられませんな」 「いや、そういう例はまだまだたくさんあります。三角ベース事件のときもそうです。次の打者の打球で一塁から三塁まで走り、それがフライとなって捕球されるとわかると二塁を踏《ふ》まずにまっすぐ一塁まで駆《か》け戻《もど》ったやつです。長島はこういうことを二、三度やってるんです。そのときも、二塁ベース付近で狙撃弾《そげきだん》が発見されてるんです」 「よほど運の強い人なんですね」 「ええ、本人は自分が狙《ねら》われてることなどいっさい知らないんですからね」 「…………」 「まあ人間、地震《じしん》の時、飛行機に乗っていて助かるタイプと、家の中にいて仏壇《ぶつだん》が倒《たお》れてきて頭打って死ぬタイプと二通りあるとしたら、長島は前者でしょうな、ハハハ」  そして結城は伊藤が残した�重要�と書かれた書類をひろげた。それは伊藤が作成した容疑者リストだった。結城がそれを読みあげ、神崎がメモをとった。 「さてと、この小寺勉《こでらつとむ》ですが、たしかこの男は長島が巨人軍に入る前に千葉茂《ちばしげる》のあとをうけて背番号3をつけてた選手ですよね」 「そうです」 「どうして容疑者にリストアップされているのでしょう」 「野球選手の背番号ってのは顔と一緒《いつしよ》ですから、それを入団したばかりの新人にとられるというのはやはり屈辱《くつじよく》でしょう」  小寺は、前の年は二割八分の打率にホームラン十五本という立派な成績を残しながら、背番号3を大学出たての長島にとられたのだった。小寺のうちひしがれた姿が、いまも神崎の目に焼きついていた。  結城が首を傾《かし》げた。 「この木田という選手はどういう選手でしたかな?」 「バッティングコーチです。四十五年の長島スランプの原因は、この人の誤った打撃《だげき》理論にあると言われ、石もて追われました」 「ほう。この二田川《にたがわ》というのは?」 「審判《しんぱん》でしょう」  球界には�長島ボール�と�王ボール�というのがあって、あの長島が見送ったのだからボールだろうという考え方があって、きわどい球はほとんどボールになっていた。もしストライクにとろうものなら観客が騒ぎ出し、なんども試合が中断したことがあった。  二田川はその�長島ボール�や�王ボール�に敢然《かんぜん》とたちむかった審判だった。 「ああ、思い出しました、息子さんが横浜の海上保安庁で麻薬Gメンをやってますよね」 「ええ」  二田川の息子とはスポーツセンターで時おり会っていた。モデルのような彫《ほ》りの深い顔だちで陽気な男だった。  資料をめくる結城の顔がくもった。 「この男はちょっと大物すぎて手が出せないでしょうね」 「誰です」 「パ・リーグ会長の能代《のしろ》です」 「えっ」 「こりゃ、お飾りなんですけど、その裏にいる鮫島《さめじま》って男がくせものでしてね。能代とは刎頸《ふんけい》の交わりと言われています」 「どういう人物です」 「戦時中|満州《まんしゆう》で、特務機関の地位を利用してあくどいことをやってた男でね、いわゆる政商なんですよ。ほら東南アジアの某国《ぼうこく》の大統領にホステス紹介したって噂《うわさ》があったでしょう。あの男ですよ。たしか今朝《けさ》の新聞に写真が載《の》ってたなあ。ほら、ここんとこ、利根川《とねがわ》で淡水《たんすい》マグロの養殖《ようしよく》を始めると言って地元の漁業組合ともめているでしょう」  結城はコートのポケットから四つ折りにされた新聞を差し出してきた。  見ると、白髪《しらが》で目つきの鋭《するど》い痩《や》せた七十くらいの老人だが、写真からでさえ、その凄味《すごみ》が伝わってくる。 「なんですかね、淡水マグロって」 「もともと房総沖《ぼうそうおき》のマグロで、トロの部分が多くてうまいんですけどね、それは利根川と海と交わるところに生まれるプランクトンのせいだと言われてるんですよ。これが食った人の話を聞くとうまいらしいんですよ。鮫島がその利権を独占《どくせん》しようとしてるんです」 「そんなことがあったんですか」 「しかし、鮫島がこの件にからんでるとなると、ややこしくなりますね。鮫島は、日本化学の大株主で、弟が所属していた北モンゴル学術調査隊のスポンサーだったんですよ。弟が死んだ時、談判《だんぱん》に行こうとしたことがあるんですけど、警視総監《けいしそうかん》から呼びつけられ、怒鳴《どな》りつけられたことがあります」 「そうですか」 「しかし、鮫島《さめじま》にしても能代《のしろ》にしても、うさん臭《くさ》い人物には違いありませんが、長島を利用することはあっても、狙撃《そげき》するとは思えません」 「そうでしょうね」  この日本で長島のネームバリューを利用さえすれば、できないことがないと言っても過言《かごん》ではない。  利にさとい政商が長島を殺すはずがない。 「それにもう一人」  結城《ゆうき》が目を光らせた。 「村山実《むらやまみのる》という名の上に二重丸がついてます」 「そっ、そんな!!」  結城はファイルを両手で持ち、読みあげた。 「昭和三十四年の天覧《てんらん》試合で、長島は村山からサヨナラホームランを打っていますが、村山のおやじさんというのは、元陸軍士官学校出のバリバリの軍人さんで、陛下《へいか》の前でサヨナラホームランを打たれるなどと、恥《は》じて、割腹《かつぷく》自殺をしています。そして……あっ!」  結城が声をあげた。 「どうしました」 「ファイルの後半がむしり取られているんです」 「えっ」  そのとき、けたたましく電話のベルが鳴った。一瞬、不吉な予感がした。 「なんだろう」  受話器をとると、女の声が響《ひび》いた。 「神崎さんですか、私、伊藤の家内です。今、外の公衆電話からかけているんです」  その声は誰かに追われているかのように上ずっていた。 「あれは酔《よ》っ払《ぱら》いの犯行なんかじゃありません。主人は長島のために殺されたんです」 「なんですって」 「主人は秘密を知ってしまったんです」 「なんです、秘密って」 「長島が覚醒剤《かくせいざい》を……」  夫人が声をあげ、受話器がなにかにぶつかったような音をたてた。電話のむこうでもみ合うような音が聞こえた。 「どうしました奥さん、奥さん!! 長島が覚醒剤をどうしたんですか?」  ガチャリと受話器を置く音がして、それっきり電話は切れてしまった。  神崎の耳の奥でツーッという発信音がいつまでも虚《むな》しく鳴り続けた。  覚醒剤《かくせいざい》!? まさか、あの長島が……。  受話器を握《にぎ》りしめたまま、神崎は口の中でつぶやいていた。 「どうしました、神崎さん」 「結城さん、いまの外線電話の発信地を至急調べてもらえますか。伊藤さんの奥さんがもしかしたら殺されてるかもしれない」 「えっ!」  結城があわてて電話機に飛びつくと、指令センターに指示して発信地を調べ始めた。 「急げ、人が殺されてるかもしれないんだぞ」  受話器の向こうの相手を怒鳴《どな》りつける結城の声を神崎は遠く聞いていた。まさか、あの長島が覚醒剤にかかわりがあるなんて……。  多摩川グランドの焼けつくような陽差《ひざ》しの下で見せた長島の笑顔の底抜《そこぬ》けの明るさが、一瞬よみがえった。  結城が叫んだ。 「わかりました。青山三丁目周辺の公衆電話のどれかだそうです」 「よし」    桜田門《さくらだもん》から青山へ向かう車の中で、神崎の胸騒《むなさわ》ぎはますます強くなっていた。いてもたってもいられない気持ちだった。青山通りに入ったあたりから、かなり渋滞《じゆうたい》が続いている。 「おい、サイレン鳴らせ」 「はい」  まるでそれに呼応するように、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。  あっという間にその音は大きくなり、神崎のパトカーの音ととけあい、対向車線を走り抜けて行った。  青山三丁目の角に建つ、真新しいファッションビルの前に人だかりができ、車道に一台のパトカーが停車しているのを見つけたのは、それから三百メートルも行かないうちだった。渋滞は、この事故の交通規制のためだったのだ。  歩道に立つ電話ボックスがふと目に入り、一瞬、神崎の身体《からだ》に電流のようなものが走った。 「停《と》めろ!」  完全に車が停止しないうちに、神崎は助手席から飛び出し、現場に駆《か》け出していた。  人混《ひとご》みをかきわけ、のぞき込むと、ロープが張られ、中では交通課の警官たちによって事故の現場検証が行なわれていた。アスファルトの上に、白いチョークでゆがんだ人形《ひとがた》の線がひかれ、まだ乾ききっていないどす黒い血のひろがりがなまなましかった。  ロープをくぐろうとすると、あわてて警官が駆《か》け寄ってきた。神崎は背広の内ポケットから手帳を出した。 「捜査一課の神崎だが」 「はっ、失礼しました」  敬礼しながらも、その警官には不審《ふしん》そうな表情が浮かんだ。 「事故か?」 「はい、単なる轢《ひ》き逃《に》げです。突然《とつぜん》車道に飛び出したご婦人が乗用車に轢かれたらしいんですが、車はそのまま逃げてしまったらしいです」 「婦人!?」 「はあ、中年の女性ですが」 「身元は!!」 「はい、ハンドバッグの中の免許証でわかりました。名前は伊藤静枝、住所は東中野です」 「なに!?」  神崎の声の激しさに警官はビクリと身体《からだ》を震《ふる》わせた。 「それで容態は!」 「それが……首をやられているので、まず絶望でしょう」 「…………」  神崎の耳の奥で夫人の最後の悲鳴のような声が反響《はんきよう》した。 「おい電話ボックスだ。あの電話ボックスの指紋《しもん》をとれ!」  神崎があわててドアを開けると、その電話ボックスには大きな紙袋をかかえ、でっぷりと太った身体《からだ》を押し込むようにして、中年の女が受話器を握《にぎ》りしめていた。 「君らは一体なんてバカなことをしたんだ!」 「何言ってるんですか。轢《ひ》き逃《に》げで、どうして電話ボックスの指紋をとらなきゃならないんですか。いいかげんにして下さいよ。交通課の仕事に口出ししないでもらいたいですね」  警官の方もとうとう我慢《がまん》できず声を荒《あ》らげた。メジャーで測ったり、調書をとっていた他の警官たちも何事かと集りだした。ヤジ馬たちもそれを見て騒ぎ出した。 「これはただの交通事故なんかじゃない。殺人事件だ」 「えっ!」  警官たちの顔色が変わった。 「目撃者《もくげきしや》はいないのか」 「それがはっきりしたのは……。ただガツンという音とともに黒い大型の外車が走って行くのを見た人がいるだけで……」  電話ボックスの中の太った女がしきりにクンクン鼻をうごめかせていた。  神崎はそこに、死体置場で嗅《か》いだのと同じ、すえた匂《にお》いを感じていた。  そのとき、歩道にひしめき合うヤジ馬の中から、 「あれーっ! ちょっとおかしいなあ」  という、ひときわ大きなカン高い声が起こり、それに応えて、 「おかしいです。絶対におかしいです」  と相槌《あいづち》を打つ声が聞こえた。  何事かと神崎が顔をあげると同時に、警官やヤジ馬たちもいっせいにその声の主を振り返った。瞬間《しゆんかん》、神崎は、「おっ」と驚きの声をあげた。すぐにまわりの者たちの口からも、「あーっ」という歓声ともため息ともつかない声がもれた。  人混《ひとご》みの中から、頭を半分出し、ガッチリした身体《からだ》を鮮《あざ》やかなブルーのセーターで包んだ男が立っていた。  神崎は我が目を疑った。そこにいるのは誰あろう、長島茂雄だった。 「いやあ、何か変だなあ」 「おっ、またチョーさんのカンピュータが始動しはじめたでゲスよ」  一緒《いつしよ》にいるのは徳光和夫《とくみつかずお》だ。長島の隣《とな》りでピョンピョンと飛び上がって、人垣《ひとがき》から丸っこい顔を出している。  長島は勝手にロープをくぐると徳光とともにズカズカと事故現場に近づいた。警官たちもボッとしたままそれを見ているだけで、誰もとがめようとはしなかった。  神崎も同じようにその場に立ちつくしていた。  十五年ぶりに見る長島の素顔《すがお》だった。  多少|額《ひたい》の両ぎわが切れあがり、目尻《めじり》のしわが増えているものの、まるで少年のような好奇心《こうきしん》いっぱいの瞳《ひとみ》は変わっていなかったし、まわりの人間をフッと包み込んでしまうような雰囲気《ふんいき》もむかしのままだった。  しかし、もうそろそろ後楽園で試合が始まる時間だというのに、なぜこんなところにいるのだろう。  長島は白いチョークの線のところまで来ると、不思議そうな顔でそれを見下ろしたまま、まわりをグルグルと歩きまわり始めた。 「違うな、これ」 「やっぱ、違うでゲスか」  徳光がしたり顔でうなずいた。  長島は立ち止まり、今度は腕組《うでぐ》みしたまま首をひねった。 「すみませんが、一般の方は入らないでいただけますか」  神崎の声は震《ふる》えていた。その声に気づいたかのように警官たちも動き出し、興奮した面持《おもも》ちで長島を遠巻きに囲んだ。 「やっぱ、長島さんだ」 「こんなところでなんですけど、どうぞ、どうぞ」  と警官たちはみな顔を上気させている。 「ほらほら、ミスターの灰色の脳細胞《のうさいぼう》が働き始めたでゲスよ」  徳光が、まるでたいこもちのような口ぶりで言った。 「これ、轢《ひ》かれた人の倒《たお》れてる形だよな」  長島は白いチョークの線を目でたどりながら、ブツブツと言い出す。 「はい、そうです」  警官の一人が嬉《うれ》しそうに駆《か》け寄り、直立不動で答えた。 「殺人に興味おありですか」 「おあり、おあり。ミスターの好奇心は人一倍でゲスよ。ねえ、ミスター」  が、長島はそれには答えず、腕組《うでぐ》みしながら、 「車がむこうから走って来たんだろう。それでここでぶつかったのか。あれ!?」  と、すっとんきょうな声をあげると、肩から下げていた黒い革《かわ》のケースの中から一本のバットを取り出し、ちょうど人形の頭の横あたりに立った。そして車の進路に平行スタンスをとると、バットを立て、スイングを始めた。 「こりゃやっぱ、出会いがしらでゲスよ。初球から打ちに行くミスターは、大リーグに行っても通用するでゲスよ」 「軌道《きどう》はこうで、落下地点がこのあたりだということはほぼ一、二塁間の当たりだな、しかし、スイングがダウンの場合は……インローにくい込まれて5—4—3のゲッツーのケースだ。一、二塁間のわけないんだ。おかしいな、やっぱり!」 「うん、おかしいでゲス」  徳光が気張った。  あっけにとられ、みなが見守る中、長島はしきりに首をひねり空を見上げ、今度はキョロキョロとあたりを落ち着きなく見回した。 「ただ轢《ひ》かれただけじゃ、こんなふうに倒《たお》れるわけないなあ。刑事さん、この傷からみて、インパクトの瞬間《しゆんかん》は通りの向こうの電話ボックスですよ。あっちの電話ボックスで一旦《いつたん》撥《は》ねられ、その衝撃《しようげき》でこっちに飛んできて、こっちでまた撥ねられたんですよ。つまり5—4—3のゲッツーの形ですよ」  そばで徳光が「543、543」とつぶやきながら、捕球してセカンドへ球を投げる長島のフィールディングを真似《まね》ている。  なにが5—4—3のゲッツーだ。話がメチャクチャじゃないかと神崎が言おうとすると、 「さすが!!」 「そのとおりだ!!」  と、交通課の巡査たちから歓声があがった。 「じゃ、あっちの電話ボックスの指紋《しもん》をとったほうがいいな」 「いわゆるひとつの見解ですね」 「出ましたよ、いわゆるひとつが。ウォー!」と声をあげ、満面に笑みを浮かべて拍手しながら、徳光が長島のまわりをグルグルと回った。  出会いの衝撃《しようげき》がさめ、冷静さをとり戻《もど》すにつれ、神崎の胸に疑惑《ぎわく》の念がふつふつとわきあがってきた。  ——なぜ長島がこの場にいるのだ。長島の八百長《やおちよう》を知らせようとした伊藤夫人の死亡現場に? 「長島さん、失礼ですが、なぜこんなところに?」 「ん?」  と、長島が目をキョロンとさせて首をひねった。  神崎は、自分の顔をまるで覚えていない様子《ようす》の長島に深い憎悪《ぞうお》をおぼえた。  キサマのためにオレの人生は狂《くる》わされたのだ。キサマからバッティング投手に指名されてさえいなければ、今頃《いまごろ》は二百勝投手として名球界入りもできたのだ。  神崎は昂《たか》ぶる心を押さえ、つとめて冷静に尋《たず》ねた。 「いえ、いつからここにいらっしゃったのですか」 「…………」 「今日はどうしてここへと聞いているんですが」  神崎の厳しい表情を見て、長島は、「あっ、いかん!」と大きな声をあげ、駆《か》け出そうとした。 「どうしたんですか」 「いや、渋滞《じゆうたい》で車が動かないもんで、走って神宮《じんぐう》まで行こうと思ってここを通ったら……」  長島は両手をひろげ、まるで外人のような大きな身ぶりでそう答えた。  となりの徳光が、「そうでゲス、そうでゲス」としきりにうなずいていた。 「神宮?」 「中日戦です。もう試合始まっちゃうな」 「中日戦なら後楽園で行なわれるんじゃありませんか」 「えーっ!」  長島はまた頭からぬけるようなカン高い声をあげ、目を丸くした。 「こりゃまたチョーさん」  徳光が大げさな身振《みぶ》りで額《ひたい》を手の平でピシャリと叩《たた》いた。まわりのヤジ馬からドッと笑い声が上がった。 「参ったなあ……ねえ、パトカーで後楽園まで送ってくんない? 遅《おく》れると困るんだよね。この長島が顔を見せないとお客さんが帰っちゃうよ」  長島に声をかけられ、警官の一人が、 「あっ、いいですよ、もちろん。現場検証も終わってますし」  と、嬉《うれ》しそうに顔をほころばせた。 「あっ、きたねえ、オレが行くよ」 「えっ、オレに行かせてくれよ」  警官たちが口々に言い出し、とうとうじゃんけんまで始める始末だった。  神崎はあきれはて、彼らを苦々しく見つめるだけで止めることもできなかった。  ようやく一人の警官が送り役に決まり、ドアを誇《ほこ》らしげにあけ、長島と徳光を招き入れると、すぐにサイレンを鳴らしパトカーを発進させた。  長島は車に乗り込む瞬間《しゆんかん》、残った警官とヤジ馬たちに向かい軽く手を上げてみせ、あたりにドッという歓声と拍手がおこった。 「あっ!」  長島の言った向かいの公衆電話を見に行った警官の叫び声が通りの向こうから聞こえた。 「どうした!」 「大変です。この中で人が死んでいます」 「なに!」  神崎は車を手で制し、走った。  その時、目の端《はし》に、その場から足早に立ち去る和服姿の女が映《うつ》った。 「あっ」  そのうしろ姿は神崎には見覚えがあった。だが思い出せない。 「だれかあの女を追え!!」  と言っても警官たちはキョトンとしている。 「おまえら、いつまで浮かれてんだ!! どけ!!」  と、見ると、電話ボックスのガラスが直径二十センチほどの円形に破られていた。 「な、なんだこれは」  中を覗《のぞ》くと、血まみれのボールを握りしめたジャンパー姿の男が口から血を吹き出して倒《たお》れていた。 「おまえは……」  ルポライターの明智正義《あけちまさよし》だった。  抱《だ》き起こしてみるとまだ息があった。明智は血染めのボールを突《つ》き出し、必死に口を開き何かを言葉にしようとしていた。ボールに直撃《ちよくげき》されたのだろう、喉《のど》は砕《くだ》かれている。 「どうした、明智。何が言いたいんだ」 「長島は……ジンギスカン」  なに……。  明智は苦しい息の下から、電話ボックスの一方の壁《かべ》を指差した。そこには血文字で和歌らしきものがしたためられていた。  �かの打球ファウルなりしか後|吾子《あこ》の     あはれさすらふ大君故に� 「明智、どうした。これは一体なんだ」  明智はその血文字を指差したまま、こときれた。  と、そのとき背後から、 「沢村や、沢村のドロップや。沢村|栄治《えいじ》は生きとったんや」  という、驚きと恐《おそ》れの入り混った叫びが聞こえた。 「ドロップ?」  若い警官が耳慣れぬ言葉に首をひねった。 「タテに割れるカーブのことや。沢村のは垂直《すいちよく》に五十センチも落ちよった。沢村以外、誰にも投げられへん。そやから特に沢村のカーブをドロップって呼んだんや」 「どなたです、あなたは」 「私は元巨人軍の青田昇《あおたのぼる》です」 「どういうことですか、沢村が生きているとは」  昭和九年、まだ京都商業の学生だった沢村栄治が、静岡の草薙《くさなぎ》球場で米大リーグの三番四番、ルー・ゲーリック、ベーブ・ルースをその得意のドロップでキリキリ舞《ま》いさせたという話は、今や伝説となっていた。  しかし、沢村は第二次大戦中、南方で戦死しているはずだ。  青田昇は蒼白《そうはく》な顔で声を震《ふる》わせた。 「ボールが、この円形にガラスの割れたところから入って、この男の人の喉《のど》を直撃《ちよくげき》したとしたら、五十センチは落ちとるで。五十センチもの落差のある変化球が投げられるのは、プロ野球の歴史上、沢村しかおらんのです。これは伝説の沢村栄治のドロップや。沢村が復讐《ふくしゆう》のために帰って来たんや」 「復讐? 青田さん、復讐とは一体何ですか」  神崎は事件全体を覆《おお》う不吉な暗雲を思った。    その頃、後楽園球場では、川上|哲雄《てつお》巨人軍監督が額《ひたい》に脂汗《あぶらあせ》をにじませ、ベンチ前で選手全員に円陣《えんじん》を組ませていた。試合開始まであと五分と迫《せま》っていた。川上は選手たちにむかって憮然《ぶぜん》とした口調で言った。 「実は長島がまだ来てない」 「えっ!?」  さすがに全員が蒼《あお》ざめた。  ヘッドコーチの浅野はくやしまぎれにスパイクでダッグアウト前の砂を蹴《け》りあげた。 「だいたい川上さんが甘《あま》やかしてるからこうなるんですよ。きのうはきのうで、ミーティングの最中にマンガ描《か》いてるし、一度ガツーンとやってやんなきゃわかりませんよ、あのアホは」 「うるさい、黙《だま》ってろ」 「でも、あいつにやりたい放題やらせてたら、もう日本のプロ野球はムチャクチャになりますよ」 「うるさい!! でだ、河野は背格好《せかつこう》が似ているから帽子を深くかぶって長島が来るまでかわりに守れ」  河野は不服そうに、 「そんなのバレますよ」 「サングラスでもかけてやりゃいいだろう」  川上の顔はひきつっていた。 「いいのかなあ」  サングラスというのが気に入ったらしく、河野はそう言いながらも満更《まんざら》でもなさそうな顔をした。  他の選手たちも、 「オレらも、全員サングラスかけて守るというのはどうでしょう」 「バカモン!!」 「オイ柴田、うちの攻撃《こうげき》になったら、できるだけ打席にいる時間を引き延ばせ」 「はっ、はい。でもミスターは?」 「いま、パトカーで大至急こちらに向かっていると、警察無線を使って電話があった」 「なんでパトカーに乗って来るんですか」 「一日署長やって、試合のあること忘れたのかしら」  土井が小さく叫んだ。  その土井の言葉にみんながドッと笑った。 「バカモン、笑いごとじゃないんだ。どうも捜査《そうさ》しとったらしい」  川上は怒鳴《どな》りつけたものの、声に力はなかった。  まったく長島ってヤロウは、サインは見落とす、ベースは踏《ふ》み忘れる、そして今度はパトカーだ。オレの髪《かみ》が薄《うす》くなったのもすべて長島のせいなのだ。  思えばあのヤロウは、今まで育てられた恩も忘れやがって自分が監督になったら、石橋を叩《たた》いて渡る野球なんてしないと、あちこちで喋《しやべ》りまくっていやがる。いつか復讐《ふくしゆう》してやる。それにオレは、川上一族の恨《うら》みをはらさねばならない。  徳川家康に鯛《たい》のテンプラを食べさせて、食中毒で殺したのは、あいつの祖先長島|茂佐衛門《しげざえもん》だ。まったく人|迷惑《めいわく》な一族だよ。家康はいやがったのに、「燃えます」だの「いわゆるひとつの南蛮渡来《なんばんとらい》の珍《めずら》しいものですから」などと言って無理矢理食わせたんだ。それでもって家康が食中毒で死んじゃって、責任とって切腹《せつぷく》させられたのがテンプラ種《だね》の鯛《たい》を献上《けんじよう》したオレの先祖の魚屋だってよ。  ほんと、オレん家《ち》ってのは代々|貧乏《びんぼう》くじ引かされるようになってんだなあ。  待てよ、もしかしたらオレも長島に変なもの食わされて殺されるんじゃないかしら。川上はゾクリと身震《みぶる》いした。 「チョーさん、刑事になったのかしら」  王がギロリと丸い目をさらに大きくひろげて言った。 「ワンちゃん、君までそんなバカな冗談《じようだん》言うなよ。打って走るしか能のないバカタレどもの中で、君だけはまともなんだから」 「はっ、すいません」 「もう、わしゃ知らん。あの男のために、ワシの野球人生は終わりじゃ」  川上はもう我慢《がまん》できないといったふうに帽子をむしりとり、手の中でねじりつぶした。その目がだんだんつりあがり、白髪《しらが》をかきむしり始める。柴田たちはまた例のやつが始まるとばかり首をすくめた。 「まったくオレも自分で偉《えら》いと思うよ。おまえらみたいなバカ引き連れて九回も続けて優勝してんだからよ。だけど何回優勝したって長島のおかげってことになっちゃうんだから、ホントたまんないよ。じゃあ一回監督やってみろってんだよ。普通《ふつう》の人間なら気が狂《くる》うぞ。このノータリンども相手にしてるんだから。ろくろく九九も言えないようなのが、いっちょまえに社会人|面《づら》できるのは誰のおかげだと思ってんだよ。  いいか、おまえらみたいな学校に弁当だけ食いに行ってたようなやつらは、ホントは高い給料もらっちゃいけないんだよ。  いいか、どこの世界にメシにサイダーぶっかけて食うやつがいるんだ。いや、名前は言わん、名前は。それと背広。ふつうああいうの着るか? 黒地にエンジと白の縦縞《たてじま》が入ってる背広に、馬車の絵のついた金のバックルのベルト、よく街中《まちなか》歩けるな、おい。名前は言わん、名前は。  車だってそうだよな。ベンツはふつう黒だろ。まっ赤に塗《ぬ》ってレザーシートにしてくれなんて誰が言うんだ。ヤナセのやつが泣いてたよ。西ドイツに注文するたんびに笑われるんだって。日本人の面汚《つらよご》しだよ。いや名前は言わん、名前は。この中にいることだけは確かだけどな。  それと、これもあえて名前は言わんが、新聞記者のインタビューで『座右《ざゆう》の銘《めい》は?』って聞かれて、『ハイ、1.2と1.0です』って答えたバカがいる。そりゃ『左右の眼《め》』だろうが」 「ハハハ」 「笑うな、他人事じゃないだろうが」  川上のイヤミはとどまるところを知らない。 「そろいもそろってもらう女房《にようぼう》がホステスかスケバンだろ。仲人《なこうど》する方だって辛《つら》いぜ。引退したら引退したで『解説者のクチを紹介して下さい!!』漢字もろくすっぽ読めないようなのが、何解説するんだよ。マイクの前に座《すわ》って言うことが、『ここはまず先頭バッターが塁に出ることが先決です』あたりまえじゃねえか。『ここでヒットが出れば一点ですからね』そんなことあたりまえだっての。『やはり最後は気合いです。男としてキンタマがついているんなら、やったるでの気合いです』これのどこが解説だってんだ」  いつしか川上は巻き舌になり、うつろな目のまましゃべり続けた。 「『いみじくもですねえ』っていみじくないときにも『いみじくも』だよ。言葉知らねえんだよ。ちょっと誰かに聞くと意味もわからず、すぐ使うんだからたまんないよ。  はっきり言っとくぞ、引退しても本は出すな。ろくに字も読めねえのが、どうして本が書けるんだ。まあ、一冊はいい。しょせんゴーストライターに書かせてんだからよ。二冊はよせ。レコードもやめろ。飲み屋でカラオケがうまいだけで、ありゃ歌じゃねえんだ。それとミュージカルはやめろ」  みながドッと笑った。 「笑うなって、他人ごとじゃないだろうが。しかしよ、オレもなんで野球選手にミュージカルに出るななんて言わなきゃならんのだ。もう死にたいよ」  川上はそう言いながら両手で握《にぎ》ったバットでダッグアウトの下のコンクリートの角をバンバンたたき出した。 「とにかく芸能人やゴルファーとばっかり友だちになりたがってよ、愛嬌《あいきよう》振りまく前に球ほうる練習でもしてろってんだ、バカタレ。おい、山田、おまえジャイアンツの意味知ってるか」  突然《とつぜん》名ざしされた山田がキョトンとした顔をした。 「あれ? 何だろう。ジャイアンツ? 馬場さんが付けたのかな」 「バカ、ジャイアンツってのは英語だよ。巨人って意味なんだよ」 「えっ!」 「なんだと思ってたんだよ。じゃなんで、読売《よみうり》ジャイアンツと読売巨人軍って言い方が二つあるんだよ」 「オレたち偉《えら》いから、名前が二つあると思ってた、なあ」  選手たちがザワつき、「へえッ」「知らなかったなあ」と口々に騒いだ。 「だいたい読売ってなんなのか知ってるのか」 「えっ……? なんかウリの種類じゃないの」  川上が「ギャーッ」と声を上げ、バットをグルグル回しながら、選手たちの中に躍《おど》り込み、みなクモの子を散らすように逃げ出した。 「このクソバカどもが!!」  追い回す川上を、後ろから王と高田がはがいじめして止め、ようやく川上はハッとしたように我に返り、ハアハアと息をつきながらあたりを見回した。 「すまん、とにかく長島君が遅《おく》れて来ても、素知《そし》らぬ顔で迎えてやってくれ。本人も傷ついていると思うから。いいか、長島に逆《さか》らうということは、天皇陛下に逆らうということだよ、わかってるね」 「はい」  王の返事をきっかけに、みな何事もなかったように「オウ」と声を上げた。  この選手たちの単純さに、川上はまた、大きくため息をついた。  ——とにかく気をつけなきゃ。テンプラだけは気をつけよう。    後楽園球場三塁側スタンドでは、今川と桐子《きりこ》が肩を抱《だ》きあうようにして、グランドを見下ろしていた。すでにライトが点灯され、オレンジ色のカクテル光線の中に浮かぶ緑色の芝生《しばふ》の上で動き回る選手たちを、桐子は興奮して見つめていた。 「ほら、来てよかったろう」 「うん、まるで絵を見てるみたい」 「本当は一塁側で見たかったんだ。なるべく長島をそばで見たいから」 「ねえ、どれが長島なの?」 「それがいないんだよ、おかしいなあ」 「あっ、あの大柄《おおがら》な人じゃない?」 「ちがうよ、長島はピンク色の肌《はだ》をしてるからすぐにわかるんだよ」  今川と同じように、他の観客たちも不思議そうに首をひねっていた。  スコアボードにスターティングメンバーが発表され始めた。中日選手の名がアナウンスされるたびに、三塁側から拍手がおこる。 「中日、今日は誰が投げるのかなあ。星野《ほしの》だといいんだけどなあ。でも、きのうの大洋戦で投げてるからなあ」 「星野ってすごいの?」 「うん、長島との対決は見ものだよ。ドラフトで、巨人のスカウトは必ず星野を一位に指名すると約束してたんだよ。ところが、いざ蓋《ふた》を開けてみると、巨人が一位指名したのは、無名の高校選手の島野だった。それで傷ついた星野は、裏切った巨人に復讐《ふくしゆう》を誓《ちか》って、ライバル球団中日に入ったいきさつがあるんだ」 「へえ、因縁《いんねん》の試合ってわけね」  いよいよ中日の先発ピッチャーの発表になった。一瞬球場全体がフッと静まる。 「9番ピッチャー星野」のウグイス嬢《じよう》の声に、五万観衆は大きくどよめき、そのどよめきはしばらくおさまらなかった。 「ヨオシ、星野の連投だよ!!」  今川はポップコーンをまきちらし、 「こうこなくっちゃな!! やっぱ、男星野だよ。長島との対決、みすみす逃す手はないもんな!!」  三塁側の中日のダッグアウト裏のロッカールームでは、星野|仙一《せんいち》が大きなバケツに氷をつめ、その中に右腕を入れ冷やしていた。昨日九回完投し、腕がぬけるように痛いのだ。昂《たか》ぶる気持ちを必死で押さえ、試合開始を待っていた。  長島が動物的な勘《かん》を持つ男なら、星野もその類《たぐい》の男だった。星野の胸は、えもいわれぬ不安感でいっぱいだった。  長島の頭をねらい飛んでくるライフルの弾《たま》を叩《たた》き落とせるのはオレの球しかない。しかしそのためにはオレも長島の頭を狙《ねら》って投げなければならない。  もしオレの手元が狂《くる》えば長島は死ぬことになる。  ああ、オレは一体どうしたらいいのだ。  鈴木|孝政《たかまさ》が見かねて言った。 「星野さん、やっぱり僕が投げましょうか」 「バカヤロウ、おまえのコントロールの悪さで長島さんを救えると思ってるのか」 「救うってなんですか?」 「それがわからないから、おまえにエースの座は譲《ゆず》れないんだよ」 「はあ」 「エースってのは、ただ勝ちゃいいというわけじゃないんだ。お客さんが今、なにを求めているか、いま何が起こっているのか、すべて読みとれる力のあるやつがエースなんだ。おまえが満員のスタンドを見て何も感じないようだったらオレのかわりは務《つと》まるわけがない」 「スタンドになにかあるんですか」 「おまえはスタンドに殺気を感じないのか!?」 「いえなにも」 「もういい、おまえはすっこんでろ」  ヨナミネ監督が顔をしかめて入って来た。 「仙《せん》ちゃん、連投での登板志願なんて、今回だけよ」 「ここは私じゃないと、長島さんを助けられないでしょう」 「助ける? ユーはさっきから一体、何を言ってるのよ」  外野出身のヨナミネには、わからなくて当然だ。  星野の腕がまた疼《うず》いた。 「うっ!」 「仙ちゃん、本当に大丈夫《だいじようぶ》?」 「ええ、そろそろウォームアップをしないと、もう試合が始まりますから」  星野がそう言って立ちあがりかけたとき、ロッカールームのドアが開き、男が飛び込んで来た。 「星野君!」 「あっ、村山さん!」  村山の顔も蒼《あお》ざめていた。 「やはり来るかね」 「来ます」 「しかし五万からの観衆を一人一人調べるわけにはいかない。そんなことをしたら暴動が起こる。ここはどうしても野球人だけで阻止《そし》しなくては」 「もし、僕の勘《かん》がはずれたら長島さんは死にます」 「うん」 「村山さん、僕は長島さんの頭を狙《ねら》おうと思ってるんですよ。それしか助ける方法がないんです」 「うーむ」 「村山さん、たぶん僕は一回しかもちません、そのあと投げてくれませんか」 「私はもう引退した人間だ」 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが。スピードがあり、ライフルの弾《たま》を押さえつけ、叩《たた》き落とせる重い球を投げられるのは、ロッテの村田|兆治《ちようじ》、阪神の江夏豊《えなつゆたか》、そして村山さん、あなたしかいません」  と、そのとき、野太《のぶと》い声がロッカールームに響《ひび》いた。 「ワシが投げてやってもええんやが」 「あっ、江夏」  どうしたことだ、いま神宮での対ヨクルト戦の先発を発表されたばかりだというのに。 「ワシもなんか胸騒《むなさわ》ぎがして、試合ほっぽり出して駆《か》けつけてきたんや」 「大丈夫《だいじようぶ》か」 「こんなとこに居ると知れたら、クビやで。しかし、ワシの球の重さとコントロールやないと長島はんは救われん」 「江夏!」 「仙《せん》ちゃん、気張ってや。もしあんたが倒《たお》れたら、ワシが投げたる。誰かユニフォーム替えてや」  江夏がつき出た腹をポンと叩《たた》いてみせた。    巨人の選手たちが守備位置に散り、球審《きゆうしん》の右手が大きく上がり、「プレイボール」の声とともに、試合開始のサイレンが鳴り渡った。  サングラスが受けた。 「長島カッコいいぞ」  との声援《せいえん》に河野も燃え、華麗《かれい》なグラブさばきで三塁線のきわどいあたりを次々とさばき、三人で中日の攻撃《こうげき》を終わらせた。  いよいよ巨人軍の攻撃となった。長島はまだ来ない。  一回裏。マウンドに立つ星野にいつもの豪放《ごうほう》さはなかった。血の気の引いた顔をひきつらせ、慎重《しんちよう》にキャッチャー木俣《きまた》のサインをにらみつけている。  星野は大きくふりかぶると、第一球を柴田に投げた。球をリリースする瞬間《しゆんかん》、星野のヒジに鋭《するど》い痛みが走った。  柴田はスッポ抜けの高めのボール球をライト線にファウルした。星野を見つめる柴田の目が燃えていた。が、星野はそのあと気力を振りしぼり、三球三振に斬《き》ってとった。おそらくスピードは百五十キロは超《こ》えていただろう。  つづく高田を、レフトに大きく切れる「高田ファウル」でねばられながらも、最後は三塁ゴロに仕止めた星野だったが、三番王にセンター前に持って行かれ、2アウト一塁でいよいよ四番長島を迎えることになった。  星野は一球投げるたびに痛みに顔をしかめていた。キャッチャーの木俣が心配そうにマウンドに駆《か》け寄った。 「仙、こりゃ飛ばしすぎだぞ」 「ええ、わかってます」  ヒジの痛みは全体に広がり、指先の感覚が痺《しび》れたように薄《うす》れ、肩が根元からぬけてしまいそうだった。しかし、ここは燃える男の気力で踏《ふ》んばらねば。  三塁側ベンチに、心配そうな江夏の顔が見えた。  長島がホームランを打つ瞬間《しゆんかん》、何かが起こるという予感が星野にはあった。決して打たせてはならない。  なかなかベンチから出て来ない長島に球場内が焦《じ》れたような大喚声につつまれ、すりばち型のグランドの中でそれがウォンウォン反響《はんきよう》していた。  川上はベンチ裏で時計とにらめっこしながら、気が気ではなかった。打席がまわってきているというのに、長島がまだ現われないのだ。 「どうした、長島」 「じらせるな」 「トイレか」  スタンドは騒然《そうぜん》としていた。  すでにスコアボードには、四番長島が掲示《けいじ》されている。まさか第一打席から代打を出すわけにもいかない。 「ど、どうすればいいんだ」  川上はオロオロとうろたえ、一ぺんに白髪《しらが》が増えたようだった。  浅野ヘッドコーチは完全に開き直り、そのウラナリ顔にせせら笑いを浮かべ、鼻クソをほじっている。 「ですから僕が言ったんですよ。あのアホを早いとこクビにして健全な野球をやりましょうって」 「クビにするったって、あいつ人気があるから仕方ないだろうが」 「でも、ほんとのバカですよ、あいつは。身体《からだ》にいいから玄米《げんまい》食べろって言ったら、白米のおかずに玄米食べてんですよ」 「黙《だま》ってろっておまえは。自分の現役の時考えたら人のこと言えるかよ」 「自分のことすぐ棚《たな》にあげることができるから、コーチやれるんじゃないですか」 「わかったから黙ってろって」 「川上さん、実はですね、今まで内緒《ないしよ》にしてたんですけど、僕んち、ほら、『忠臣蔵《ちゆうしんぐら》』で有名な浅野|内匠頭《たくみのかみ》のうちなんですよ」 「ほんとかよ」 「あの松の廊下《ろうか》の真相はですね、前の日に家臣の長島|茂佐衛門《しげざえもん》ってやつからテンプラ食わされて、それで下痢《げり》して松の廊下で長島と便所のとりあいやって、突《つ》き飛ばされてすっ転んで、吉良《きら》に斬《き》りつけたんですよ」 「えっ、テンプラ!?」 「どんなに苦しくたって、自分のところの殿様に便所をゆずろうって気持ちがないんですよ。ですからその子孫のあいつを信じちゃいけないんです」 「ほんと、いろいろ迷惑《めいわく》をかけてんだね、あの人の家は」  と、そのとき、ロッカールームのドアが勢いよく開き、長島の明るい声が響《ひび》いた。 「へえ、ここんとこをこうすればタマが出るんですね」 「ど、どうしたの、長島君」  すがりつかんばかりの思いで長島を見た川上と浅野の目に、警官を引き連れ、ピストルを手にした長島の姿が飛び込んだ。 「あっなんだ」  銃口《じゆうこう》は川上に向いていた。 「徳光《とくみつ》ちゃんとテンプラ食ってて遅《おく》れてしまって。川上さんの分、おみやにしてもらってきましたから食べて下さい」 「はっ、テンプラ!?」  二人の顔が蒼《あお》ざめた。  やっぱり殺しに来たのだ。テンプラ食わなかったら殺すと言っているのだ。そうでないにしても、この男ならばヒョイと引き金を引きかねない。  しかし、長島は川上の異様な表情にも、悪《わる》びれるところがなかった。 「いやあ混《こ》んじゃってね、高速のインターが」  が、あろうことか、平常心を失っているこの老監督は、この「インター」を「引退」と聞き違えてしまったのだ。 「なっ、なに、引退するの!?」 「えっ?」  長島は撃鉄《げきてつ》を起こしたまま、指でピストルをクルクル回している。いつ暴発するかわかったものじゃない。  川上は両手をあげた。 「う、撃《う》つな。わっ、わかった。わしも賛成する。なっ、浅野、そうだろ。おまえも日頃《ひごろ》から言ってたんだよな。早く長島君が指揮をとるべきだって」 「はっ、もちろんですとも」  が、いま長島に引退されたら、悲願のV10が幻《まぼろし》になってしまう。川上は目の前がまっ暗になった。  長島はピストルをもてあそびながら、ひょいとグランドに顔だけ向ける。 「オッ、中日は仙《せん》ちゃんか。二試合続けて完投する気だな」  長島の何気ない言葉が川上に追い討《う》ちをかけた。ただでさえ、狼狽《ろうばい》していた川上は、「完投する」を「監督する」と聞き違えたのだ。決して川上は耳が悪かったわけではない。一流のスポーツマンになると、よく聞き違える。  長島がこの試合を最後に引退して、来年は自分に代わり監督に就任する——これが川上の解釈《かいしやく》だった。 「でも長島君、君は監督は無理だと思うんだけどな。君、バント嫌《ぎら》いでしょう。今の野球、バントってとても大切なのよね、素人《しろうと》は欲をかいてヒッテンドランしたがるんだけど、たいてい失敗するんだよね」 「えっ?」  またピストルをクルクルまわした。 「わっ、わかった。わしも時期だと思っとった。これからは少年野球の指導をする」  川上は夢遊病患者のような足どりでロッカールームを出ると、通路にたむろする新聞記者たちに長島現役引退と監督就任を告げた。 「なんですって。来季から長島が指揮をとるんですって」 「オイ、長島監督の誕生《たんじよう》だ」 「いやこれで日本の野球は明るくなるよ」 「今まで暗かったもんな」  記者たちは一大スクープとばかり、一目散《いちもくさん》に電話に向かって駆《か》け出した。  川上は空《うつ》ろな表情でグランドにフラフラ進み出ると、審判《しんぱん》にタイムを要求した。そしてバックネット下の放送席のマイクを握《にぎ》りしめ、 「みなさま、お待たせしました。実は本日の試合をもちまして、長島君は引退し、監督に就任することになりました」  と力なくアナウンスした。 「ウォー!!」という大歓声が怒濤《どとう》のようにスタンドに広がった。 「えっ、誰が引退するの?」  バッターボックスをはずして素振《すぶ》りをくり返していた長島はキョトンとして、スタンドをグルリと見回した。それがまた観客に対する挨拶《あいさつ》と受けとられたらしく、「ウォーッ」と歓声がわいた。  そのころ、巨人軍オーナー一力強司《いちりきつよし》は、後楽園球場の貴賓室《きひんしつ》でテーブルの上のマグロ片をにらみつけながら、迫《せま》りくる妄想《もうそう》とたたかっていた。断続的に起こっていた禁断症状《きんだんしようじよう》は、うねりのようになって全身を襲《おそ》う。 「クソー」  一力はついにがまんできず、マグロ片に手づかみでむしゃぶりついた。  胃の腑《ふ》がじょじょに覚醒《かくせい》し、やがて痺《しび》れるような快感が全身に拡《ひろ》がった。心臓が喉《のど》から飛び出しそうなほど高鳴り、ややもすれば持病の狭心症《きようしんしよう》の発作を起こしそうなほどだった。 「もう長くはないな」  一力はつぶやいた。一力が覚醒剤《かくせいざい》を常用するようになったのは、生来《せいらい》の小心さを覆《おお》い隠《かく》す意味もあったが、妾腹《めかけばら》の弟、貴士《たかし》に読売コンツェルン総帥《そうすい》の座を奪《うば》われたことにある。貴士は一力に、読売を取るか長島を取るか迫《せま》り、一力は長島を選んだのだ。  思えば長島にささげた一生だった。長島のあのひまわりのような笑顔が浮かんだ。  その時秘書の松川がドアを蹴破《けやぶ》るようにして飛び込んできた。 「オーナー、大変です。長島が引退して監督に就任することを表明しました」 「なに!?」  半開きのドアの向うから、長島のカン高いアナウンスの声と、記者席のざわめきが流れ込んできた。  一体何が起こったのだ。長島に監督などできるはずがないのだ。彼は永遠の選手なのだ。このことを一番|恐《おそ》れていたのだ。権謀術数《けんぼうじゆつすう》を弄《ろう》する監督など、長島にできるはずがない。長島を監督にというマスコミの声を、どれほど押さえつづけてきたことか。  長島は来た球を打ってきたのだ。しかし、他の選手は来た球が打てないから、皆苦心して野球をやっているのだ。  長島は天才なのだ。  つまり、長島にとっては、来た球を打てないのが不思議なのだ。ツーアウトフルベースで一打逆点というとき、人間ならそういう見せ場で打てないはずがない、打ってダイヤモンドを一周して観客に拍手される快感を思えば、打てないはずがないという発想なのだ。  監督は、そういうとき、腕がすくんで打てない凡人《ぼんじん》を教えて、何回かに一回は打てるようにするのが仕事なのだ。そんな凡人は、長島のような�来た球を打つ�などという発想にはとてもついていけっこない。  それにいまの巨人軍は長島ほどの素質がないくせに、気持ちだけは長島になりたがっている選手ばかりなのだ。長島が長島のいない巨人軍を率《ひきい》て戦えるわけはない。一力は長島が泥《どろ》まみれになる姿を見たくなかった。 「アナウンスを中止させろ!!」  一力は松川に向かって叫んだ。  と、そのとき、弟の貴士《たかし》が皮肉っぽい薄《うす》ら笑いを浮かべながら貴賓室《きひんしつ》に入ってきた。 「何をおたおたしてるんだね」 「あっ」  一力は思わずテーブルの上のマグロ片を身体《からだ》ごと隠《かく》すようにした。 「薬がきれたのかな。兄さん、いいかげんマグロ食うのやめたらどうだ。経営者が商品に手を出すようになったらおしまいだよ」  貴士はすべてお見通しと言わんばかりに一力を揶揄《やゆ》するように見つめた。 「それとも自ら実験材料になってくれてるのかね、ハハハ」 「いや、その……」  弟に対する劣等《れつとう》意識で、一力は面と向かって声をかけられただけでもブルブル震《ふる》えている。 「震えてないでちゃんと話をしてみたまえ!」 「なっ、長島が現役を引退して監督をやるって言い出したんです」  一力は読売社内での力関係を物語るように、弟に対して自然に敬語を使っていた。 「なに、ようやく引退を決心してくれたか」  恰幅《かつぷく》のいい一力とは対照的に、貴士は、その痩《や》せて青白い顔に満面の笑みを浮かべ、後ろに付き従う男たちを振り返った。一人は鮫島《さめじま》伊助、もう一人は内閣官房長官の大前田《おおまえだ》一誠だった。 「よし、長島に背番号3を持ってモンゴルに渡ってもらおう」  鮫島が大きくうなずき、 「そう、ユニフォームを着たままだ。喜んでくれると思うよ」  大前田も、わが意を得たりとばかり、 「十五年来の懸案《けんあん》だった北モンゴル共和国との国交が回復するぞ」  それをうけて貴士が力強く言った。 「よし、近々に記者会見を開こう。いまこそ長島がジンギスカンの血を引く人間だと明かすときだ」 「そのとおり!」 「そして今度こそ、利根川《とねがわ》の蒙古藻《もうこも》の精製を成功させるのだ」  一力《いちりき》は思った。たしかに長島の底抜《そこぬ》けの明るさは、じめじめした日本の風土から生まれたものではない。が、けっして長島はジンギスカンの血など引いていない。  古くからの親友で民族学者の愛宕《あたご》がモンゴルから持ち帰った『蒙古荒玉始源』を解釈すれば、二度の日本への侵攻の失敗をつくったのは、料理長の作ったテンプラを食べて下痢《げり》をして、台風が来ても船をたてなおすことができなかったせいだという。そして、その料理長こそ、長島の祖先なのだ。たとえ長島がジンギスカンの子孫として北モンゴル共和国に迎えられても早晩|馬脚《ばきやく》を現わすに決まっている。  モニターテレビのスイッチを入れ、グランドを見ると、マイクを握《にぎ》りしめた長島が、いつものカン高い声で熱弁をふるっていた。 「私はみなさまの期待に応《こた》えて、来年からは監督を守り、監督を打ちます」  観客はドッと笑った。  貴士《たかし》があきれたように一力を見た。 「何を言っとるんだね、長島君」  だが一力は、モニターにとらえられたグランドの長島を頼《たの》もしげに見やりながら、 「彼は常々、二塁と三塁の間にショートがあるのに、一塁と二塁の間に誰もいないのはおかしいと言っておりました。多分、そこを守るつもりだと思います」 「なに?」 「そして監督を打つと言っているのは、三番と四番の間に監督番というのを作り、自由に打っていいというふうにルール改正しようとも言ってました。私は好きなようにやらせてやろうと思うんです」  と嬉《うれ》しそうに声をはずませた。 「長島ってほんとにパーなんじゃないのか」 「なんか不安になってきたな」 「ひとつまちがえたら北モンゴル共和国と戦争になるんだけどね。長島にまかせて大丈夫《だいじようぶ》か」 「わしゃ、一度長島がヒット打って三塁に走るのをみたことがある」 「私も動物園に子供を置き忘れて帰ってきたとこに居あわせた」 「わしら戦時中、満州《まんしゆう》で特務機関として悪行《あくぎよう》のかぎりをつくしてきた男だが、どうもあのタイプはわからん」  憮然《ぶぜん》とした表情で鮫島《さめじま》と大前田《おおまえだ》が顔を見合わせた。 「バッター、ラップ。プレイボール」  審判《しんぱん》が試合続行を告げた。  興奮と熱気につつまれたスタンドでは、今川がパンフレットを筒型《つつがた》に丸めてメガホンがわりにし、いよいよ登場した千両役者、長島に声援《せいえん》を送っていた。  桐子《きりこ》が今川の袖《そで》を引き、一塁側を指さした。  一塁側のダッグアウトの上には二十人ほどのカメラマンたちが長い望遠レンズをつけてシャッターチャンスを待っている。 「私、さっきから気になってたんだけど、あの中で右から八番目のカメラにはレンズが入ってないみたいなのよね」 「えっ?」 「だって他のカメラはカクテルライトに反射してピカピカ光るのにあれだけは光らないのよ」 「ふーん」  今川の目はウェーティングサークルで素振《すぶ》りをくり返す長島にそそがれていて、うわの空だ。 「ねえ聞いてったら。シャッターだってね、普通《ふつう》のカメラなら上にあるはずなのに、あのカメラだけは下で引きがねみたいになってるわよ」 「うるさいな。長島がバッターボックスに入ったんだもん、なにがあるかわかんないよ。だからスターなんだ」  今川は桐子の言葉にとりあおうともしない。  大声援《だいせいえん》を浴びて再びバッターボックスに入った長島は、星野に明るく声をかけた。 「さあ、仙《せん》ちゃん、お待たせ。神宮《じんぐう》の方へ行って遅《おく》れちゃった、ハハハ」  長島は、バットのヘッドをピタリと星野の顔に向けてから構えに入った。スタンドのファンは、待ってましたとばかりわきあがる。ほれぼれするような大きな構えだった。  マウンド上で星野は蒼《あお》ざめながら、ロージン・バッグに何度も手をやった。帽子をとり、ゆっくりと汗をぬぐった。  一球目、二球目と星野は、外角低めに速球を投げ込んだ。長島がインハイの球を待っているのがわかっていた。星野の手首は白く血の気を失い、腕の痛みは限界に達していた。  星野の耳の奥で「頭にぶつけろ」の、悪魔《あくま》のような囁《ささや》きが幾重《いくえ》にも谺《こだま》した。しかし、もし予測がはずれていたら、一体どうなるのだ。  星野は意を決して狙《ねら》いを長島の頭に定めた。プレートを踏《ふ》み、セットポジションの姿勢で長い間《ま》をとった。    黒い帽子にサングラスをかけたその男は、マスクの奥でニヤリと笑みをもらした。  星野の一本気な性格は誰もが知っている。小細工《こざいく》はしてこないだろう。自分の一番速い球をどまん中に投げ込んでくるはずだ。長島がそれを真芯《ましん》でとらえようとすれば絶対ヘッドアップすることはなく、したがって頭は動かない。  男はファインダーの中の十字の焦点《しようてん》を長島の頭にセットし、引き金に人差し指をかけた。  星野は思った。その一塁側スタンドにいる見えない相手は、長島を殺す気なのだ。だとしたらオレも殺す気にならなければ、ライフルの弾《たま》とボールがぶつかりあうことはない。勝負と殺意は紙一重の差だ。  星野が憎悪《ぞうお》に満ちた顔で振りかぶると、後楽園球場はウォーッという大歓声に包まれた。足を高く蹴《け》りあげ、身体を鞭《むち》のようにしならせ、星野は渾身《こんしん》の力を込め、長島の頭を狙《ねら》って投げた。 「死ね!」  スタンドの男も同時に引き金を引いた。ブスッというサイレンサー特有の音が響《ひび》き、弾丸《だんがん》は長島の頭めがけて一直線に飛んでいった。  そして星野の腕から放たれた白球も尾《お》をひき、長島の頭に向かっていた。 「あっ、頭に当たる!!」 「長島が死ぬぞ!!」  すさまじい悲鳴が観客たちから起こり、ほとんどが目をおおった。星野の投げたボールのスピードは百六十キロを超《こ》えていただろう、人間のよけきれるスピードではない。誰もがそのボールが長島の頭を直撃《ちよくげき》するものと思った。  長島の全身はバットだった。この天才は頭突《ずつ》きをしてでも打ってやろうと、首を一瞬、亀《かめ》のように肩に埋《う》め、目をロンパリにして身構えた。  その瞬間《しゆんかん》、川上はダッグアウトを飛び出し、「死ね、死ね、死んでしまえ!」と狂《くる》ったように叫んでいた。  星野の目には一塁側から発射されたライフル弾《だん》の軌跡《きせき》が見えた。百万分の一秒でも狂《くる》えばどちらかが頭を直撃《ちよくげき》して長島は死ぬ。計算通りだと、二つはぶつかり合い砕《くだ》け散る。 「頼《たの》むぞ」  星野は思わず目を閉じて念じた。 「あっ!!」  ボールが、まさにロンパリ目の長島の肩から突《つ》き出した頭にぶつかろうとした瞬間《しゆんかん》、「パーン」という炸裂音《さくれつおん》とともに粉微塵《こなみじん》になった。まっ白な粉が長島の頭にゆっくり舞《ま》い落ちてきた。 「ウォーッ」という、安堵《あんど》とも驚きともつかぬ声がスタンドからもれた。 「あれ、ボールが消えちゃった」  長島のすっとんきょうな声が聞こえた。 「よかった」  星野の全身から力が抜け、ドサリとその場に崩《くず》れ落ちた。マウンドに倒《たお》れこんだ星野の右腕は、肘《ひじ》のところが奇妙《きみよう》にねじれ、肩から完全にはずれているようだった。 「星野、キサマ、長島を殺す気か!」  スタンドを埋《う》めた五万の大観衆が嵐《あらし》のような罵声《ばせい》を星野に浴びせかけ、コーラのびんやビールびんが星野めがけて投げ入れられた。  駆《か》け寄ってきた木俣《きまた》に星野は言った。 「木俣さん、江夏に言ってくれ、もう一発来る」  審判団《しんぱんだん》がホームプレート上に集まり、協議していた。 「どうして、ボールがなくなったんだろう」 「不良ボールだったんじゃないか」 「じゃ、やり直しだ」  担架《たんか》で運び出される星野の耳にその声が届いた。  ベンチではヨナミネが困りはてていた。代りのピッチャーの用意ができていないのだ。  それを見て江夏がヨナミネの肩に手をかけ、力強くうなずいて見せた。 「ヨナミネはん、ワシが投げたる」 「江夏君、でもユーは、阪神の選手でしょう。大丈夫《だいじようぶ》か?」 「ワシがプロ野球に入ったのはこういうときのためや。お嬢《じよう》さん野球やロンパー野球見せたってしゃあない」 「わかった、ユーの言うとおりだ。私も日本の野球はせせこましくていけないと思ってた」  ハワイ育ちで万事大ざっぱなヨナミネがピッチャー交代を告げた。  ウグイス嬢が、「ピッチャー江夏」とアナウンスしたとたん、後楽園球場は天と地がひっくり返ったような大騒ぎとなった。  江夏は放送席のマイクをひっつかむと、 「プロレスかて、乱入があるんじゃ。長島さんの最後の試合を、ワシが指食わえて見とれるかい! 野球連盟、それがなんぼのもんじゃい!」  その江夏の男気|溢《あふ》れる言葉に、スタンドから拍手が巻き起こった。  長島までが感激に顔を紅潮《こうちよう》させ、バッターボックスの中で拍手していた。  江夏はそれに手を上げて応《こた》えると、何か言いたそうな球審《きゆうしん》をギロリとにらみつけ、ノッシノッシとマウンドへ進んだ。  江夏はロージン・バッグにちょっと手を触《ふ》れただけで、「肩慣《かたな》らしなんかいらへん」と、ウォーミングアップもなしに、大きくふりかぶり、「ぶち殺したる」とつぶやいて、バッターボックスで構える長島の頭めがけて、豪速球《ごうそつきゆう》を投げ込んだ。    後楽園球場に向かうパトカーに神崎《かんざき》とともに乗り込んだ青田は、表情をひきつらせながら、「沢村は復讐《ふくしゆう》に帰って来よったんや」と執拗《しつよう》にくりかえした。 「落ち着いて下さい青田さん。復讐とは一体どういうことです」 「次に狙《ねら》われるのは、三原や水原や、川上や、千葉や、そしてこのわいや。わいら、みんな殺されるんや」 「殺される?」 「そや、みんなあのドロップで脳天《のうてん》をうち砕《くだ》かれて殺されるんや」 「青田さん、落ち着いて、どういうことか説明してくれませんか」  青田はハンカチで顔を拭《ぬぐ》い、震《ふる》える声で話し始めた。 「わいらが徴兵《ちようへい》されたんは昭和十九年やった。野球人ばかり集められて日本の生命線ともいえる石油基地のあるインドシナ戦線で戦っとった。わいらバット一本ひっさげて、インドシナを死守しとったんや。敵が投げて来よった手榴弾《てりゆうだん》を、わいらみんなでバットで打ち返しとったんや。せやけど、なんちゅうてもいちばん凄《すご》かったんは沢村やった。飛んで来た手榴弾をグラブで受けては、得意のドロップで敵陣に投げ返しよるんや。それでアメリカ軍はほぼ全滅《ぜんめつ》や」 「…………」 「けど、向こうも考えよった。司令官にニューヨークヤンキースのステンゲル監督を起用しよった。ステンゲルは本土からベーブ・ルースやルー・ゲーリックを呼びおって沢村の投げる手榴弾を打ち返そうとしよったんや。けど、静岡の草薙《くさなぎ》球場のときと同じやった。沢村のドロップにかすりもしよらんのや。百五十キロのスピードで垂直に落ちよるドロップや。沢村はどういう投げ方しよったんか、そりゃすごい球やった。キャッチャーが捕《と》りそこねると、地面に半分ほど埋《う》まるほどの破壊力《はかいりよく》や。わいらそれで油断したんや。ある日、気がついたら敵に四方を囲まれて捕虜《ほりよ》になってしもた。ステンゲルは、沢村を拷問《ごうもん》にかけて、五十センチの落差のドロップの投げ方を教えろと言いよった。けど、沢村は教えんかった。そしたらステンゲルは、沢村の右肘《ひじ》の腱《けん》を切れってわいらに言いよった」 「…………」 「わいらもちろん断ったんや。が、その時、あの男が、『日本に帰って野球やりとうないんか』ってわいらの耳元にささやきよったんや。ふだんオッチョコチョイで働かん男やったが、悪知恵《わるぢえ》の働く男やった。その男は日本にいた時、沢村から全打席三振にとられて憎《にく》んどったことは確かや」 「…………」 「たしかにわいら生きたかったんや。日本に帰って野球やりたかったんや。そやからわいら、沢村の肘の腱を切ったんや」  青田は両手で顔を覆《おお》うようにして声を震《ふる》わせた。 「その耳元でささやいたという男は誰です」 「それだけは死んでも言えん」 「なぜです」 「そいつの息子が天皇陛下より偉《えら》い男やからや」 「えっ!?」 「その夜、沢村はどこへともなく姿を消して消息《しようそく》を断ったんや。わいらはそこで終戦を迎えて日本に帰ったんやが、沢村はその後、台湾沖《たいわんおき》で潜水艦《せんすいかん》にやられて死んだっちゅうことやった。わいらに恨《うら》みをもって死んだ沢村が、わいらに復讐《ふくしゆう》するために生き返ってきよったんや」 「しかし、沢村は肘の腱を切られているんでしょう」 「そや、わいらがこの手で切ったんや」 「だったら、得意のドロップも投げられるはずないじゃありませんか」 「しかし、あの球は沢村以外には絶対投げられんのや。そのドロップの投げ方さえ知ったら刑事はん、あんたかて二十勝投手は夢やないんや」 「……とにかく急ぎましょう」  後楽園で何かが起こるはずだ。神崎はなぜか心がせき、いてもたってもいられないほどだった。  しかし、犯行現場から逃げるように去ったあの和服の女は一体誰なのだ。オレは見覚えがあるのだ。  後楽園球場に向かう通りは戦争でも起こったかのような渋滞《じゆうたい》だった。サイレンを鳴らして走り抜けようにも、車道いっぱいに車がひしめきあい、まるで身動きがとれないのだ。 「どうなってるんだ、これは」  そのとき、本庁の結城《ゆうき》から無線が入った。 「結城さんですか、こっちは渋滞に巻き込まれて大変ですよ。一体どうなってるんですか」 「そうでしょう、長島が突然《とつぜん》引退を表明したもんですから、ファンがいっせいに後楽園に向かってるんです」 「なに、長島が引退!?」  神崎はすぐさまカーラジオのスイッチをひねった。スピーカーから、アナウンサーの興奮した声が流れ出した。 「信じられません、一体何が起こったというのでしょうか。星野、江夏という日本球界を代表するピッチャーが、つづけて長島にビーンボールを投げるとは。しかも、手元が狂《くる》ったのではありません。どう見ても狙《ねら》って投げたとしか思えません。しかも、そのボールは二つとも、いずこともなく消え去ったのです。  しかしこの初回の信じられない出来事のあとは、長島、二度の打席とも、四球で一度もバットを振ることはありません。さあ、回は七回。あのミスタープロ野球、栄光の背番号3の長島引退まで、あと二回しかありません。  思い出しますれば、千葉県|佐倉《さくら》高校から立教大学に入学。神宮《じんぐう》で八本のホームラン記録を残しプロ入り。初打席で国鉄スワローズの金田正一投手に四打席連続三振に打ちとられるという苦《にが》い経験を経て、数々の記録を塗《ぬ》りかえた天才長島が、まもなくグランドを去ろうとしています。  さあ三沢、長島と今日三度目の対決。やはり投げづらそう、サインに何度も首を振ります。無理もありません、スーパースター長島引退を見届けるには荷が重すぎるのでありましょう。  ようやくサインが決まった。三沢も男、ここは潔《いさぎよ》く勝負する模様です。三沢、サイドスローのフォームから第一球、投げた」  長島が危い。犯人は三沢のモーションと同時に引き金を引いているはずだ。  神崎《かんざき》は祈《いの》るような気持ちだった。 「あっ! 何でしょう。バックスクリーンから一直線に白い光が流れ星のような尾《お》を引いて長島に向かってきます。あっ! 危い」  アナウンサーの絶叫《ぜつきよう》に神崎は思わずラジオにかじりついた。 「いや、消えた、消えました。長島の顔の直前で粉々になって消えてしまいました。同じです、全く同じです。星野、江夏のときと全く同じです。長島も茫然《ぼうぜん》と立ちつくしております。一体、いまのは何だったのでありましょう!!」  ホッとした神崎の腕を青田がつかんだ。 「やっぱり沢村や!」 「えっ?」 「バックスクリーンからホームまで百二十メートルの距離《きより》をものともせずに速球を放《ほう》れるのは沢村栄治しかおらん」  その言葉を裏打ちするかのように、ラジオの解説席の鶴岡一人《つるおかかずと》と小西得郎《こにしとくろう》の興奮した声が聞こえてきた。 「鶴さん、今のバックスクリーンからの球筋、あっ、ありゃ沢村栄治と思われんかな」 「わっ、わしもそう思っていたところです。あっ、あのスピード、そしてホームベース上で五十センチは落ちたあの球は、さっ、沢村のもんです」  マイクをつかむ手が震《ふる》えているのか、ガタガタという音がする。 「しかし、沢村はたしか戦死したんじゃなかったのか」 「一応、そう言われてますが、誰も死体を確認していないわけですから、たとえ生きていたとしても本人が名乗らなければ、誰にもわからないんです」 「しかし、戦後三十年がたとうという今になって……」 「生きとったらもう五十すぎや」 「そんな男がいまみたいに速い球投げられますか」 「沢村やったら、わからん……」  二人の声は、まるで亡霊《ぼうれい》でも見たかのように震《ふる》えていた。  その時、無線から結城の声が流れ出した。 「神崎さん、星野は署員立ちあいのもとで警察病院に入院しました」 「江夏は」 「はっ、なにやら、頭めがけて投げたから長島の命が助かったなどと、わけのわからんことをわめき散らしているそうです」  星野と江夏は長島の頭を狙《ねら》ったライフルの弾《たま》をボールを楯《たて》に防いだのだ。 「急ごう!!」  後楽園には村山がいるはずだ。なんとかしてくれるだろう。  しかし、神崎は次の言葉に再び慄然《りつぜん》となった。 「試合後、引退のセレモニーをするので、そのとき誰かリリーフカーに乗って長島の護衛をしてもらいたいと一力オーナーが申し入れています」 「なにっ!?」  今朝の夢と同じだ。このままだとリリーフカーに乗った今川が狙撃《そげき》されて死ぬ。 「だっ、誰がその護衛にあたるんです?」  神崎の喉《のど》はカラカラに渇《かわ》いていた。不吉な予感に全身の震えを止めることができなかった。 「スタンドにちょうど今川君がいたもんでポケットベルで呼び出して、ユニフォームに着替えて乗ってもらうことにしました」 「いかん、すぐに止めさせて下さい!!」  神崎《かんざき》の目に、頸動脈《けいどうみやく》から血を噴《ふ》き出させて倒《たお》れ込む今川の姿が浮かんだ。  神崎は夢の一部始終を結城《ゆうき》に話して聞かせた。無線機の向こうで、結城がブルブル震《ふる》え出したのがわかった。 「しかし神崎さん、今川君はもうブルペンにスタンバイしていて、止めようがありません」  神崎は運転席の警官に血走った目を向けた。 「オイ、今、試合は何回まで進んでる」 「はあ、八回の裏です」 「よし、オレは降りる」  神崎はパトカーを降り、駆《か》け出した。通りは、カーラジオのボリュームをいっぱいに上げた車でひしめきあっていた。誰もがオイオイ声をあげ、運転席で泣きじゃくり、ほとんどパニックと言っていい状態だった。  と、背後でバイクの爆音《ばくおん》が響《ひび》いた。振りかえると、渋滞《じゆうたい》した車の間を縫《ぬ》うように一台のバイクが近づいて来る。神崎はバイクの前に立ちはだかると、「どけ」とライダーを突《つ》き飛ばし、バイクを奪《うば》い取った。  間に合ってくれ!  神崎は祈《いの》るような思いでエンジンを全開にした。 「死ぬなよ、今川!!」  後楽園球場のまわりを十万人ほどの、中に入りきれないファンが幾重《いくえ》にも取り巻いていた。手前でオートバイを乗り捨てた神崎は、人混《ひとご》みを泳ぎわたるように通用門へ近づいていった。と、そのとき、球場全体を揺《ゆ》るがす大歓声とともに、あの長島のカン高《だか》い声が聞こえてきた。 「みなさま、長い間ありがとうございました」 「しまった!」  神崎は係員に警察手帳を見せるのももどかしく、門をくぐり、スタンド裏の階段を駆《か》け上がった。  超《ちよう》満員にふくれあがったジャンボスタンドにたどりついた神崎の目に、マウンド上でスポットライトを浴び、涙で顔をくしゃくしゃにした長島の姿が飛び込んできた。その脇《わき》にはリリーフカーに乗った今川が、目をまっ赤に泣き腫《は》らし、ミスタージャイアンツの最後を食い入るように見つめていた。  長島は右手に帽子を掲《かか》げ、感極《かんきわ》まったように叫んだ。 「わが読売巨人軍は永遠に不滅《ふめつ》です!」  大観衆の割れんばかりの拍手とすすり泣きが嵐《あらし》のようにスタンドに沸《わ》き起こった。  長島は今川のリリーフカーに守られながら、タオルで涙を拭《ふ》き、ライトからセンター、レフトへと、外野フェンス沿いにファンの大声援《だいせいえん》とその引退を惜《お》しむ声に手を振って応《こた》えながら、ゆっくりと歩いてゆく。  神崎は通路の階段を駆《か》け降り、最前列へと出た。ミスタープロ野球、長島茂雄はその栄光の背番号にサヨナラを告げるべくスタンドのファンの歓声に応《こた》えながらフェンス沿いにゆっくり歩いていた。レフトポールのあたりで立ち止まり、スタンドに向かって両手を高々と挙《あ》げ、ファンの引退を惜《お》しむ声を浴びながら、手を振った。  犯人はこのチャンスを狙《ねら》ってくるはずだ。  長島はもう一度、ホームの方へ向き直り、涙で顔をグシャグシャにして帽子をとろうとした。 「いかん、止まるな」  耳を聾《ろう》する大歓声の中、今川が感極まって立ちあがり、長島に抱《だ》きつこうとしたそのとき、照明の絞《しぼ》られた一塁側ダッグアウトの上で、閃光《せんこう》が光った。 「あっ!!」  神崎の目に、弾丸《だんがん》がスローモーションのように今川の首に吸いこまれていくのが見えた。そして次の瞬間《しゆんかん》、今川の頸動脈《けいどうみやく》から噴《ふ》き出した鮮血《せんけつ》が長島のユニフォームを朱《しゆ》に染めた。 「今川!!」  長島よ、君のおかげでもう四人の人間が死んでいる。君はなにをしてそれほどまでに憎《にく》まれているのか。神崎の目に熱い涙が溢《あふ》れた。  その溢れる涙の向こうに、一塁側スタンドから、サングラスにマスク姿の男がゴルフバッグをかついで逃げ去るのが見えた。  あの怒り肩《がた》のガッシリした体型は、どこかで見たことがある。  そうだ。小寺勉《こでらつとむ》だ。  神崎の胸が早鐘《はやがね》のように打ちだした。小寺を追おうにも、狂喜《きようき》した観客に押され、一歩も動けなかった。なぜ村山は投げてくれなかったのだ。今川を助けてくれなかったのだ。  〈第二章〉    その夜は、神崎はそれからどこをどう歩いたか、まるで記憶《きおく》にない。  気がつくと巨人軍練習場を見わたせる小雨のけぶる多摩川《たまがわ》土手にポツリと立っていた。  これは夢なのか。おとといは伊藤、昨夜は伊藤夫人、明智《あけち》、今川と、もう四人が殺されている。  土壇場《どたんば》で今川を救えなかった自分が、何としても情けなく、腹立たしかった。  雨に濡《ぬ》れた身体《からだ》は芯《しん》まで冷えきっていた。  いつしか、多摩川からほど近い長島家を見下ろす高台に立っていた。 「あっ!」  神崎は思わず声をあげた。  なんと数十|騎《き》の騎馬《きば》軍団が長島家をグルリととりまいているではないか。神崎は何度も目をこすったが、軍団は闇《やみ》の中に、確かに立っている。オレはついに狂《くる》ったのか。  神崎はわけのわからない恐怖《きようふ》にかられ、逃げるようにその場から駆《か》け出した。  東横線《とうよこせん》の鉄橋の向うに朝陽《あさひ》が昇《のぼ》り始めた頃、通りかかった新聞少年を呼び止め、朝刊を買い求め広げてみた。  が、今川の死や、狙撃《そげき》に関する記事は一切|載《の》っていなかった。  きっと三井が政界に手をまわしてもみ消したのだろう。 「クソッ、三井のヤロウ」  激しい怒りが、うちのめされていた神崎をふるい立たせた。    合同|捜査《そうさ》会議は午前八時から始った。  伊藤夫人の検死鑑定で、夫人に覚醒剤《かくせいざい》中毒の兆候《ちようこう》があったことが発見され、一課の担当刑事たちは、中毒と夫を失ったショックとで、心神|喪失《そうしつ》の状態で車に飛び込んだのだろうという結論を出した。 「バカな!!」  神崎は思わず叫んだ。 「バカなとは何事だ!」  とたん三井が怒鳴《どな》りつけてきた。 「君らは性根《しようね》がいやらしいから、なんでもかんでも殺人に結びつけるんだ。それよりも今川君を狙撃《そげき》した犯人でも探したらどうだ」 「…………」 「伊藤夫人は自殺だ。これで捜査《そうさ》を打ち切る」  だとしたら、あの電話は一体何だったのだ。それに、伊藤夫人の死に顔は、くやしそうにゆがんでいた。それはどう見ても、無念さを表わす正常人の反応に思えた。  伊藤夫人を撥《は》ねた黒い車に関しては手がかりがまるでなく、必死の聞き込みにも、ナンバーを目撃《もくげき》した人間を発見できなかった。 「それに今川君のことだが、心臓発作ということにしておく」 「なんですって」 「そうとんがるなよ。表向きだよ」 「もう長島狙撃の事実をマスコミに明かして、各方面からの応援《おうえん》をあおぐべきです」 「そんなことしちゃ、警視庁が赤っ恥《ぱじ》をかくことになるよ」 「しかし、五万からの観衆の中で、極秘に長島を守るなんて不可能ですよ」 「プロ野球連盟から申し入れがあったんだよ。野球|観《み》に行って狙撃されたとでも発表するのかね。そんなことしたらパニックになって、これからは誰も野球を観にいく人間がいなくなる。とにかく来年まで、めんどうを起こしてもらっちゃ困るんだ」  三井は来年三月で退官が決っていた。それまではなにがなんでも、自分の責任問題になるようなことは避《さ》けたいのだろう。  �かの打球ファウルなりしか後|吾子《あこ》の     あはれさすらふ大君故に�  三井が黒板に書かれた和歌をアゴでしゃくった。 「しかし、いい歌だねえ。陛下にホームランを打ってさしあげようとしたらファウルだった。いつの日か打ってさしあげたいって歌だよ。さっき宮内庁の知り合いに意味を聞いたらさ、来年の歌会始めに使ったらどうだって言われたよ。これは名誉《めいよ》なことだよ」 「でも誰がつくったものかわからないでしょう、明智も死んだことですし」 「何言ってるんだよ、君、長島がつくったにきまってるじゃないか。こういう歌は、VIP観戦の時、八割の打率を誇《ほこ》る強打者、長島以外誰がつくれるというんだね」 「しかし、吾子というのはわが子という意味でしょう。ですから、これは父が子をあわれむ歌だと思いますが」 「知ったかぶりするんじゃないよ、君。だから君は頭が固いと言うんだよ。和歌なんて三十一文字だよ。どうだって解釈できるんだよ。もちろんそういう不明瞭《ふめいりよう》な部分は宮内庁の偉《えら》い先生が書き直してくれるよ」 「…………」 「なにが不満なんだね。いいじゃないか、長島がつくったってことにしたら。売れてる男が売れてる歌をうたう、これでいいじゃないか」  神崎はやりきれぬ思いで廊下《ろうか》に出た。  ——三井のあの和歌の解釈は絶対に違っている。あれは父が子をあわれむ歌だ。「ファウルなりしか」の�しか�というのは「なってしまった」ということではない。きっと「——であった」という意味だ。とすると、「実はファウルであった」ということだ。ということはどういうことだ。つまり自分の息子の打たれた球は、本当はファウルだったが、ホームランにされて悔《くや》しいという歌なんだ。ファウルであったのが、ホームランにされてしまったという意味だ。しかし、あの和歌をつくったのは一体誰なのだ。  その時、鑑識課の富川が血相《けつそう》変えて追って来た。 「神崎《かんざき》さん、電話ボックスで殺された明智の胃の残留物の中からちょっと変わったものが見つかりましてね」 「一体何が見つかったのかね」 「藻《も》です、それもごく珍しい」 「も?」 「ほら、沼《ぬま》とか池に浮かんでる藻ですよ」 「おい、ちょっと待ってくれ、富川。そういえば、伊藤さんの死体置場で匂《にお》ったのも」 「そうです、伊藤さんも�もこも�を……」 「もこも?」 「正式には蒙古藻《もうこも》なんですが、日本ではなぜか利根川《とねがわ》流域の元佐倉《もとさくら》のチョーサン沼にだけ繁茂《はんも》し、�もこも�と呼ばれているんです」 「うむ……」 「さらに、二人とも死ぬ前にマグロを食ってるんです」 「マグロ……」 「そのマグロは飼料にそのもこもを与《あた》えられていると考えた方がいいでしょう」 「うーむ、一度オレも元佐倉《もとさくら》に行ってみる必要があるな」 「元佐倉ってのはおかしな町でしてね、僕も千葉の銚子《ちようし》出身なんですけど、小さい頃利根川流域の元佐倉について変な噂《うわさ》を聞いたことがあります」 「教えてくれたまえ」 「よそ者をけっして入れない町でしてね。とにかく年がら年中お祭りみたいな町なんです。長島さんの『もえたね』ってのは町の人の口ぐせでしてね。メシ食っちゃ『もえたね』、煙草《たばこ》買っちゃ『もえたね』と言うらしいんです」 「うーむ」 「なにかの参考になりましたか」 「うん」 「頑張《がんば》って下さいよ。神崎さん、あなた元プロ野球の選手だったんですってね。署内で評判ですよ。あなたがなぜ煙草も酒もやらずトレーニングセンターに通っているのかわかりましたよ。いつか現役に復帰しようとしてたんですね」 「いや、もうあきらめたよ」  神崎はポケットの白球を握《にぎ》りしめた。なぜオレは投げなかったのだ。  そう思ったとたん、涙がボロボロ溢《あふ》れ出した。妹の婚約者一人救えなくて、プロで通用などするものか。    小寺勉《こでらつとむ》を訪ねるため、神崎は結城《ゆうき》と上野駅で待ち合わせていたが、その結城も、昨夜から眠っていないのか目をしょぼつかせていた。 「結城さん、どうやら長島を狙撃《そげき》した犯人と伊藤夫人と明智《あけち》を殺した犯人は、別のようですね。青山での犯行推定時間から考えてみても、同一犯人ならば後楽園で狙撃の準備をする時間的|余裕《よゆう》がありませんからね」 「まあそうですが、やろうと思ってできないことはありませんよ」 「どういうことです」 「カメラはあらかじめセットしとけばいいじゃありませんか」 「それはそうですが」 「それより神崎さん、あれから村山さんから何か連絡はありましたか」 「いえ?」  結城が顔をしかめて言った。 「私はあのファイルの後半を持ち去ったのは村山さんのような気がしてならないんですよ」  神崎は唖然《あぜん》とした。 「結城さん、あなたは村山さんまで疑うつもりですか。彼は立派なスポーツマンです」 「ほう、スポーツマンは人殺しをしないとだれが決めたのです」 「はっ、しかし」 「村山さんは引退したといっても昨年のことです。まだ、あの針の穴を通すコントロールと重い速球は衰《おとろ》えていないはずだ。その気になれば今川君を救えたはずです」  そうだ、村山はなぜ投げなかったのだ。そしていま、どこにいるのだ。 「……しかし、村山さんを疑うなんて」 「神崎さん、我々は刑事です」 「村山さんには長島を恨《うら》む動機がないでしょう」 「それを私たちが探すのです。それに村山さんの煙草《たばこ》を持つ手の震《ふる》えは、常人のものではありません」 「……ヤクをやっていると」 「まっ、断言はできませんが」  強く肯定はしないものの、結城の目は厳しかった。  国電上野駅からほど近い下谷界隈《したやかいわい》は、かろうじて戦災をまぬがれた戦前からの古びた木造の家屋が、軒《のき》を突《つ》き合わせるようにひしめきあっていた。古い木造の二階屋や三階屋は、都内では、もうこのあたりでしか見られない。  二人は所轄署《しよかつしよ》で書いてもらった地図を頼《たよ》りに、迷路のように入り組んだ細い路地を何度も折れ、小寺のアパートをさがした。  目差すアパートはなかなか見つからなかった。二人はさがし疲《つか》れ、小さな公園の古びた木のベンチに腰を下ろし、ひと息入れることにした。 「今川君の葬式《そうしき》に間に合いますかね」  クシャクシャのハンカチで額《ひたい》の汗をぬぐいながら結城が口を開いた。  神崎は腕時計をのぞいた。すでに一時を少しまわっている。今川の葬儀は三時からだ。 「多少葬式に遅《おく》れても、犯人を逮捕《たいほ》するほうが何倍か今川の供養《くよう》になるでしょう」 「でも神崎さんが元プロ野球選手とは知らなかったなあ」  結城が、さっき駅の売店で買ったスポーツ新聞を広げながら言った。 「すみません、お話ししとこうと思ったんですが」 「いやいや、誰だって聞かれたくない過去の一つや二つありますよ」  スポーツ新聞はどれも長島監督|就任《しゆうにん》を一面で報じていたが、今川が長島の身代わりになって死んだことにはもちろん一行も触《ふ》れてなかった。  記者の質問に答え、陽気な長島は、これからは、ただの三振はさせない、三振してもお金のとれる三振のしかたを教えると、コメントしていた。誰もが長島のコメントに絶賛の声を寄せていた。中には「どうして今まで誰も思いつかなかったのか」とか、「革命的発想だ」とか、見え見えのもちあげ方をしている某《ぼう》巨人軍OBまでいた。相変わらずこの連中は、長島さえ誉《ほ》めておけば食いっぱぐれがないと考えているのだろう。  結城が二面に目を移し、すっとんきょうな声をあげた。 「神崎さん、長島は監督就任の抱負《ほうふ》として、マグロを吊《つ》るして、それを叩《たた》いてバッティングの練習にするそうですよ」 「はあ!?」  見ると、長島が喜色満面で二メートルはあろうかという巨大なマグロを抱《だ》いた写真が載《の》っている。 「パ・リーグ会長の能代《のしろ》のうしろについている例の鮫島《さめじま》が、マグロを提供するそうです。二軍じゃさっそく今日からマグロでバッティング練習してるって書いてありますよ。この人はやることがいろいろ変わってますな。あんなもん打って練習になるんですかな」 「…………」 「提供するのは使いものにならなくなったマグロだそうですが、マグロは食べる以外どう使うんですかな」  神崎《かんざき》は富川に聞かされた淡水《たんすい》マグロと蒙古藻《もうこも》の話を結城《ゆうき》に聞かせた。 「なんですって……」  なぜか一瞬、結城が真っ青になって身震《みぶる》いした。    ようやく探し当てた小寺の住む「清風荘」は、木造モルタル二階建てで外階段式の、ごくありふれた共同アパートだった。築年数は相当になるらしく、モルタルはあちこちはがれ落ち、鉄製の階段も手すりも錆《さび》でボロボロだった。  かつて、栄光の巨人軍の三番打者として打率二割八分、ホームラン十五本を打ち、映画スターを女房《にようぼう》にして派手なスポーツカーを乗りまわしていた男がまさか住んでいようとは誰も思わないだろう。  神崎と結城はギシギシ音をたてる外階段を昇《のぼ》り、二階の一番奥の二〇四号室の前に立った。かろうじて小寺と読める、雨ににじんで薄《うす》くなった文字を確認して、おもむろにドアを叩《たた》いた。  が、部屋には人のいる気配はなかった。  玄関|脇《わき》の鍵《かぎ》のかかっていない流しの引き戸を少し開け格子越《こうしご》しに中をのぞいていると、突然《とつぜん》背後から、 「何してるんです、あんたたち」  と声がかかり、神崎たちがビクリと振りむくと、トレーニングウェアの裾《すそ》をまくり、素足《すあし》にサンダル履《ば》きの男がいぶかしげな目で立っていた。 「あっ、いえ」  神崎はあわてて警察手帳を出した。  それを見て、男は少したじろいだように神崎を見た。 「小寺さん、何か悪いことしたんですか? 私は隣《とな》りのもんですけど、あの人はそんな人じゃありませんよ」 「いや、ちょっとお話をうかがいに来ただけで。どこにいるかご存じありませんか」 「四丁目じゃないかな。予備校生の人から仕事がきたって喜んで出かけていきましたよ」 「仕事って?」 「キャッチボール屋さんをしてるんですよ」 「キャッチボール屋?」  神崎が怪訝《けげん》そうに目を細めた。 「ほら、便利屋さんみたいなもんですよ。ストレスのたまった人に一時間二千円でキャッチボールの相手をしてやってるんですよ。無口な人だったんですけど、キャッチボール屋を始めてから陽気になりました」 「四丁目ってのはどのあたりですか」 「あそこの角を曲って二筋目を右に曲ったところですよ」  男に教えられ、四丁目の路地に行くと、ビシビシという小気味《こきみ》よい音と小寺の明るい声が聞こえてきた。 「いやあ、いい球ですね。ほら、もう手が腫《は》れちゃって。いやあ、嬉《うれ》しいですね、こういう球を受けられるっていうのは。こっちがお金を払《はら》いたいくらいですよ」  小寺は現役の時代に比べると、いくぶんやつれ、身体《からだ》に贅肉《ぜいにく》はついてるものの、ユニフォーム姿でキャッチャーミットを構え、陽気にお愛想を言っていた。 「じゃ内角のバッターをのけぞらすコース狙《ねら》って下さい。ほう、ナイスピッチ!! いい球だ。ひょっとすると甲子園で投げたことがあるんじゃないですか。球が重くて百二十キロは出てますよ」  本当に野球が好きでたまらないのだろう、小寺はニコニコこぼれんばかりの笑みを浮かべて相手の予備校生に片目をつぶってみせた。 「ほっ、ほんとですか」 「よし、じゃあ次はカーブいってみましょうか」  予備校生は返球を受け止め、ヒョロヒョロした体型でハアハア息を切らせていたが、それでも嬉《うれ》しそうにほほえみ、次の球を投げ込んだ。 「ナイスボール!! この落差は、堀内が甲府《こうふ》商業から入団してきたときとそっくりだ。しかし、受験のストレス解消にはこれが一番ですよ。また呼んで下さいね」  予備校生も小寺のお愛想に乗せられ、投げるたびにみるみる顔を紅潮《こうちよう》させていった。小春日和《こはるびより》の陽差《ひざ》しの中で、二人とも気持ちよさそうな汗をかいていた。垣根《かきね》の陰《かげ》に身を隠《かく》しその様子を見守る神崎は少しうらやましいような気がした。  小一時間ほど球を受けてやり、金をもらい、律義《りちぎ》に領収書を切り、小寺はグラブを自転車のバスケットに放り込んでアパートに戻《もど》っていった。  結城《ゆうき》がその後ろ姿をまぶしそうに見送りながら、しみじみとした口調で言った。 「小寺はいい顔していましたね」 「えっ?」 「やっぱり野球選手ってのはボールいじってる時が一番いい顔しますね」 「…………」  小寺のアパートに戻ると、繁盛《はんじよう》しているらしく、ドア越《ご》しに電話の受け答えが聞こえてきた。 「はい、あの二丁目ですか? あそこの路地は夕方六時から一方通行になっちゃうんで、公園の裏にしませんか?」  拳《こぶし》を固めてドアを叩《たた》こうとする神崎を押しとどめ、結城がゆっくりとドアを叩いた。 「小寺さん、警察のもんです。ちょっとお話をうかがいたいんですが」 「はっ、はい」  一瞬、間《ま》があって、ガタガタと何かを押し入れに入れる音が聞こえた。 「どっ、どういうご用件でしょうか」  ドアを開けた小寺の声はうわずり、顔はひきつっていた。  差し出された警察手帳をオドオドした落ち着きのない目で見ていた小寺は、ようやく神崎の顔を思い出したらしく、目を丸くして、声をあげた。 「あっ、おまえは」 「神崎だ。オレが何しに来たかわかってるな」 「…………」  小寺は少し蒼《あお》ざめながらも、観念したかのように二人を部屋に招き入れた。  四畳半に小さな流しが付いただけの狭《せま》い部屋は、男の一人暮らしにしては小ざっぱりと整頓《せいとん》されていた。  ファンシーケースと、テレビが置かれた座机があるだけの殺風景な部屋の壁《かべ》には、手描きの町内の地図が貼《は》ってある。 「オイ、小寺、昨日後楽園の三塁側スタンドで一体何をしていたんだ」 「そっ、それは……」 「キサマは背番号3を長島に奪《と》られ、人生をメチャクチャにされた。それを恨《うら》みに思って長島を付け狙《ねら》っていたんだろう。過去の長島狙撃未遂《そげきみすい》事件も、すべておまえがやったことだろう」 「なんだ、長島の狙撃って?」 「しらばっくれるな、オレは、マスクで顔を隠《かく》し、サングラスをかけたおまえが、後楽園の三塁側スタンドをゴルフバッグをかかえて逃げ去るのを見たんだ!!」 「ちっ、ちがう。オレは狙撃なんかしていない。それに、オレは長島を恨《うら》んじゃいない。長島に対する恨みなら、神崎、おまえの方が深いはずだぞ」 「なにい!」  神崎の顔面が朱《しゆ》を注いだように赤黒くふくれた。 「……ああ、オレは野球選手が憎《にく》い、長島を殺してやりたいほど憎んでいる。が、オレは今、刑事だ。殺したくても殺せない!」  神崎は、思わず小寺に把《つか》みかかろうとした。 「神崎さん、いい加減にしなさい」  結城がとっさに神崎をはがいじめして止めた。そして身体《からだ》を入れ替えるようにして神崎をドアの方へ押しやると、それを背で押えるようにして小寺に向き直った。 「まあまあ小寺さん、もう少し詳《くわ》しく話を聞かせてくれませんか」  結城の穏《おだ》やかな目の光に、小寺の興奮が少しずつおさまってゆく。 「たしかに神崎の言うように、僕は長島に背番号3を持っていかれました。長島入団の前の年、オーナーから君こそ明日の巨人を背負って立つスターだと言われていましたし、3番を譲《ゆず》ってくれた千葉茂《ちばしげる》さんからも、背番号3は君をおいて他にいないと言われていました。でも僕は、入団して来た長島のフィールディングやバッティングを一目見て、とうていかなわないことを悟《さと》ったんです。華麗《かれい》で優雅《ゆうが》で物おじしない長島なら背番号3を譲ってもいいと本気で思ったんです。あの人は、スターに生まれるべくして生まれて来た人です。凡人《ぼんじん》である僕が、どんなに死にもの狂《ぐる》いで努力したって勝ち目はないんです」  小寺は目に薄《う》っすらと涙さえ浮かべ、切々《せつせつ》と語った。 「他の人はどう思うかしりませんが、僕は長島のことなんか、まるで恨《うら》んじゃいません。女房《にようぼう》に逃げられたのも、こんなふうに落ちぶれたのも、みんな僕がだらしないせいなんです。この世界は誰に頼《たよ》るのでもなく、自分がすべてなんです。それがわかって、やっとキャッチボール屋の仕事が面白くなりはじめました。僕はこの仕事に今は誇《ほこ》りさえ感じてるんです」 「じゃあなぜ昨日、後楽園の三塁側スタンドにいたんだ。しかも、サングラスとマスクで顔を隠《かく》して、ゴルフバッグを担いで。オレはこの目でおまえの姿をハッキリ見てるんだぞ」 「そっ、それは……」  小寺が、急にぎこちないそぶりを見せた。 「言いたくなければ言わんでもいい。その代り、押し入れの中を見せてもらうぞ。さっき何かを隠したのはわかっているんだ」 「そっ、それだけはやめてくれ」  小寺が悲鳴に近い声をあげ、弾《はじ》かれたように立ちあがると、押入れを背にして身構えた。  神崎は小寺を柔道《じゆうどう》の払《はら》い腰《ごし》の要領で床《ゆか》に叩《たた》きつけ、押し入れの戸を勢いよく引いた。その拍子《ひようし》に、中に立てかけてあったゴルフバッグが手前に倒《たお》れ、中から五十個ほどの野球のボールがゴロゴロ転がり出て部屋中に散らばった。 「何だ、これは!?」 「……ワンちゃんのサインボールです」 「なに」 「ワンちゃんが僕の生活を心配してくれて、定期的にサインボールを届けてくれるんです。僕、これを球場で売って生活費にしてたんです。モグリだからいつも顔を隠《かく》してゴルフバッグに入れてたんです。でも、キャッチボール屋が軌道《きどう》に乗り始めたんで、残りを返そうと思って球場まで持っていったんです。それが、あんな騒ぎになったものだから、返せなくて……」 「…………」 「お願いです、これは内緒《ないしよ》にしといて下さい。ワンちゃんのくれたサインボールを球場でモグリで売ってたことが世間に知れたら、ワンちゃんに迷惑《めいわく》がかかりますから。お願いします」  小寺はガマガエルのように這《は》いつくばり、床《ゆか》に額《ひたい》をこすりつけた。  神崎は打ちのめされたような思いで小寺のアパートを出た。  陽《ひ》はすでに傾《かたむ》き出し、つるべ落としの秋の夕暮《ゆうぐ》れの近さを思わせた。  腕時計を見ると、三時半を過ぎていた。すでに今川の葬儀《そうぎ》は始まっている。  二人は無言《むごん》で上野駅まで歩いた。  道すがら結城が、しみじみとした声で言った。 「いい人ですね、小寺さんって人は」 「はい。刑事なんか選んだ私は性根がひんまがってたんでしょうね」  神崎は恥ずかしさで穴があったら入りたいほどだった。すると結城がクスリと笑った。 「どうしたんです?」 「いやね、一〇四号室の表札見ました?」 「いえ」 「永島茂夫って書いてあったんですよ」  そう言いながら結城はまた思い出し笑いをした。 「ちょうどお客が訪ねて来ていて、ドアの隙間《すきま》からチラリと姿を見ましたが、背格好なんか長島そっくりでおかしくなってしまいましたよ。それにそのとき訪ねて来た男が、どこかで見覚えのある男なんですよね。テレビか何かで見たような気がするんですけど、目の細い丸顔の男なんですが、どうしても思い出せないんですよ」 「もどってみますか」 「いや、そんな時間はありません。私、元佐倉《もとさくら》にいってきます」 「えっ」 「いえ、この事件、すべての源《みなもと》は元佐倉にあるような気がするんです」 「じゃあ、私もご一緒《いつしよ》します」 「いや神崎さんは今川君の葬儀に出ないと。私一人で大丈夫《だいじようぶ》です。なにかあっても私は一人者ですし、残されて困るような人間はいませんから」  結城の声はなぜか悲壮だった。 「結城さん、なんかあったらって、たかが長島の生地に行くだけでしょう」  神崎の言葉に結城が少し語気を強めた。 「たかが長島の生地じゃありませんよ。あの長島を生んだ町です。まともな所じゃありません」 「…………」  そして結城はあたりを注意深く見まわし声をひそめた。 「それにこれは私自身のための検証でもあるんです」 「はっ?」 「私は弟の死に不審《ふしん》感をいだき、独自に日本化学を調査しました。すると、たかが従業員三百人の小規模な薬品会社にもかかわらず、株価が異常に高いことを知りました。そしてその異常とも思える株価の高さの秘密は、ある新薬の開発にあったんです。それがこれです」  結城はポケットから化学式の書かれた紙切れをとり出した。そこには、「CH—OSAN」と書かれていた。 「これをどこで?」 「弟の遺品の中にありました。はじめは意味がわかりませんでしたが、富川君の蒙古藻《もうこも》の話で謎《なぞ》が解けました」 「それはどういう薬なのです?」 「いま病院での手術の時などの痛み止めの麻酔剤《ますいざい》には、モルヒネが使われています。いわゆる麻薬です。よく効くのですが、骨を腐《くさ》らせる作用があり多くは打てないとの弊害《へいがい》がありました。が、日本化学は蒙古藻から抽出《ちゆうしゆつ》されるHG—Oにその副作用がないことを発見したんです。弟が興奮していたはずです。世界中の病院のモルヒネに新薬がとってかわるのですから、これは莫大《ばくだい》な利益を生みます。政治家どもが北モンゴル共和国にこだわるわけです」 「伊藤さんは、その事実を掴《つか》み、殺されたんでしょうか?」 「きっとそうです。蒙古藻をしみこませたマグロを食べさせられたにちがいありません。マグロを使って新薬の人体実験をしているのでしょう」 「まさか長島も」 「食っているはずです。でないと酒も飲まないのにあんな赤ら顔で陽気なはずがありません」  結城は唇を噛《か》みしめ、にらみつけるようにして言った。    ドアの隙間《すきま》から神崎たちを見送ったその男は、黒光りするライフルを磨《みが》きながら、イラ立《だ》たしそうに小太りの男に話しかけた。 「神崎はなぜ投げなかったんだ。あいつは真夜中の神宮|外苑《がいえん》での壁投《かべな》げをこの十五年間一日も欠かしたことはなかったのに」  この男は、バッティング投手という日陰《ひかげ》に甘《あま》んじ、長島のために犠牲《ぎせい》となっていった神崎に、自分と同じ哀《かな》しい境遇《きようぐう》を思っていた。 「それは無理だよ。元国鉄の金田投手が言ってたんだけど、誰も見ていない練習場で肩につく筋肉と、満員のお客さんの前で投げた時つく筋肉は違うんだって」 「だったら十五年前とちっとも変わっちゃいないじゃないか。本番では使いものにならないブルペン投手のままじゃないか」  男は吐《は》き捨て、皿《さら》の上のマグロの固まりをむさぼり食った。 「よしなよ、シーちゃん。普通《ふつう》の人が常用したら身体《からだ》がダメになってしまうって」 「長島ならならないと言うのか」 「チョーさんは天才だから」 「じゃオレはなんだというのだ。オレが長島に劣《おと》るとでもいうのか」  男はまたマグロをむさぼり食った。 「……ねえ、シーちゃん、もうよそうよ、こんなこと」 「イヤだ。オレは太郎の仇《かたき》をとってやるんだ。長島はオレの人生を台無しにしただけじゃない。たった一人の息子の太郎を殺したんだ」 「しかし長島さんは悪気があってやったことじゃないんだ」 「そうだ。たしかにあいつはいいやつだ。悪気のないやつだ。その悪気のなさが何人の人間に迷惑《めいわく》をかけていると思う」  小太りの男が困り果てたように男を見やった。 「あれは長島さんが君たちのことを思って……」 「バカ言え、あいつは他人のことなんて考えたことのない男なんだ」 「それは無理だよ。あの人は自分のためにやることこそが他人のためになると思ってる人だから」 「もしオレが倒《たお》れるようなことがあれば、徳ちゃんが志を継《つ》いでくれよ」  徳ちゃんと呼ばれた男は、日本テレビアナウンサー徳光和夫《とくみつかずお》だった。  男はライフルを構え、噛《か》みしめるように言った。 「長島を一番愛している人間だけが、長島を殺す権利があるんだ」    上野駅で結城と別れ、神崎は今川の葬儀《そうぎ》会場へと向かった。  今川の葬儀は、杉並《すぎなみ》の名刹《めいさつ》、照円寺《しようえんじ》で警視庁葬としてとり行なわれていた。今川の実家は、かつては静岡で大病院を構えていたらしく、白壁《しらかべ》に沿って並《なら》べられた花輪はどれも立派なものばかりだった。  ふと見ると、葬儀社の社員たちが�長島茂雄�と書かれた花輪を立てかけようとしていた。すると、今川の父親とおぼしき老人が出て来て、 「その花輪を飾《かざ》ることは金輪際《こんりんざい》許さん!!」  とすごい剣幕《けんまく》で社員たちを怒鳴《どな》りつけ、花輪をズタズタに壊《こわ》してしまった。 「あの、神崎と申しますが」  神崎はおそるおそる老人に声をかけた。 「なんだ、キサマも長島の手先か! ワシの一族になんの恨《うら》みがあるというんだ。なぜ義一まで殺さなきゃならんのだ」  老人は泣きじゃくり、神崎の胸倉《むなぐら》をつかんできた。 「いえ、その、桐子《きりこ》の兄でございます」  神崎はあわてて首を振った。 「おう、あんたか。義一が随分《ずいぶん》世話になったようだな」  老人は胸の手を離し、照れたように頭をかいたが、怒りはまだ納まらないようだった。 「いえ、このたびは申しわけありませんでした」 「私は義一に、長島にだけは近づくなと言っとったのに……。あの疫病神《やくびようがみ》に近づいたが最後、こうなることはわかっとるんじゃ」  今川の父は力なく泣き崩《くず》れた。  神崎が老人を抱《だ》き起こし、服の泥《どろ》を払《はら》ってやっていると、喪服《もふく》姿の桐子《きりこ》がやってきた。 「桐子、お父さん、一体どうしたんだ」 「実はね、前にチラッと聞いたことがあるんだけど、義一さんの家ってのはほら、桶狭間《おけはざま》で、織田信長に攻められた今川義元の子孫なのよ」 「へえ、それが何か関係あるのかい」 「今川軍の指揮官という人が、長島茂佐衛門といって長島さんの祖先だったらしいのよ」 「フーン」 「桶狭間で、明日あたり信長が攻めて来るんじゃないかってみんなが言ってるのに、『大丈夫《だいじようぶ》だ。こんな狭《せま》いところに攻めて来ない』って一人で言い張って、その夜は飲めや歌えのどんちゃん騒ぎしてたんですって。『きっと来る』って言ったって『もえたね』とか『いわゆるひとつの』とか言ってケムにまいてたそうなの。そしたら案《あん》の定《じよう》、攻め込まれて全滅《ぜんめつ》。四万人で二千人に負けたんだもの、今川家の長島一族に対する怨《うら》みは深いわよ」  すると、今川の父が、怒りの表情でうめくように言った。 「それだけじゃないんだ。長島はうちの病院をつぶしたんだ。長島はうちの病院に見舞《みま》いに来ては、寝《ね》ている人間をつかまえて、『アッ、あんたガン? 野球やってりゃ治るよ』『あんた白血病? 大丈夫《だいじようぶ》、野球やってりゃ治るよ』を連発していたんだ。野球やったからってガンや白血病が治ってたまるか。あげくが、土産《みやげ》だといって持ってきたバットを患者《かんじや》に配って、素振《すぶ》りさせたんだ。これから毎日素振りしようと言って、バットを振らせたんだ。患者もわしら医者の言うことより、天下の長島の言うこと信じるに決まっている。心臓病の人に、振れば治ると言って素振り千回させたんだ。ガン患者には二千回、高血圧の患者には、生活態度がだらしないから血圧が高くなるんだと言って毎日五千回振らせたんだ。患者はバタバタ死んで行った。そして長島から、毎日のように患者たちが素振りをしてるかどうか、確認の電話がかかってくるんだ。患者たちは全員バットを持って死んでいったんだ」  桐子は今川の父にハンカチを渡してやり、通りかかった弔問客《ちようもんきやく》に、気丈《きじよう》に挨拶《あいさつ》していた。 「今川のことは助けられなくてすまなかった」  桐子の目に見る見る涙がわいてきた。 「ううん、義ちゃんの大好きな長島さんに抱《だ》かれて死んでいったんだもの、本望だと思うわ」  長島に対するグチをひとつもこぼさなかった桐子を立派に思った。 「やさしいいい人だったわ。お兄さんのこと大好きだったのよ」  桐子はつとめて感情を押え、淡々《たんたん》と語っていた。が、かえってそれが桐子の深い哀《かな》しみを思わせた。 「……そうそう、お兄さん、あの公衆電話に残された和歌の意味ね、やっぱりお兄さんが考えたとおり、ファウルだったのをホームランにとられて息子があわれだっていう歌よ」 「やっぱりそうか」 「大学のお友だちが調べてくれたんだけど、昭和四十四年度の朝日|歌壇《かだん》で入選し、作った人は村山正則という人よ」 「村山!?」 「阪神の村山実さんのお父さんよ」 「なに!」 「それとこれ。今朝《けさ》、明智《あけち》さんから小包みで届けられたの」  桐子はそう言ってハンドバッグの中から油紙に包まれた虫食いだらけの古ぼけた和綴《わと》じ本を出した。その表紙には墨痕鮮《ぼつこんあざ》やかに、『蒙古荒玉始源《もうこあらたましげん》』としたためられていた。パラパラめくってみると、わけのわからない字や絵が書かれてあった。 「あっ!!」  偶然《ぐうぜん》開いた頁《ページ》の絵を見て、神崎が声をあげた。そこには夢で見た、あの警視庁の屋上で馬にうちまたがり、長島を狙撃《そげき》した男とそっくりの服装の男たちがライフルのかわりに棒をふりあげる姿が描《えが》かれていた。  そしてなんと、中央で白馬にうちまたがり、九人の屈強《くつきよう》な武将を率《ひきい》るその男は、長島だった。 「こっ、これは」 「多分ジンギスカンのことなのよ」  神崎の喉《のど》がカラカラに渇《かわ》いていた。 「ところがもうひとつあるのよ」  そう言って桐子《きりこ》が最後のページの絵を開いた。そこには、ねじりハチマキに割烹着《かつぽうぎ》姿でテンプラを揚《あ》げている長島が描かれていた。 「どういうことだろう」 「あたし、朝早く大学院に行ってる友だちにこれを見せにいったんだけど、このどちらかが長島さんの祖先らしいのよ」 「この絵の人間は同一人物じゃないのか」 「ここを比較してみて。ホラ、胸毛の生え方が違ってるわ」 「うーん、おまえにこれを預けるから、もう少し詳《くわ》しく調べてくれないか」 「わかったわ」  その時、黒塗《くろぬ》りのハイヤーが寺の前に止まり、喪服《もふく》姿の村山が数珠《じゆず》を手に降り立った。  神崎は村山の前に立ちはだかるように向いあった。聞かねばならないことが山ほどある。 「ああ村山さん、どちらにいらしたんですか。おさがししていました」 「江夏のことでコミッショナーに呼ばれまして」 「そうですか」  神崎は村山のどんなわずかな表情の変化も見逃《みのが》すまいと、隙《すき》のない目を向けた。が、村山はその視線を避《さ》けるかのように、けっして目を合わせようとしなかった。 「江夏が今回のビーンボール事件で、連盟から追放処分されることが決まりました。日本の野球を見限って、江夏は大リーグに行くそうです」 「で、星野さんの方は?」 「星野の場合は肩を壊《こわ》して入院していることですし、連投|疲《づか》れで手元が狂《くる》ったということで処分なしだったんですが、江夏の場合は自軍の試合を放棄《ほうき》して、他チームで投げてのビーンボールですから、私の力もおよびませんでした」  そして、村山はハンカチでしきりに汗を拭《ぬぐ》いながら、 「今川君のことは残念でした」  と短く言った。 「どうして投げて下さらなかったんですか!? あなたのザトペック投法の重い球なら救えたはずです」  神崎の声の険《けわ》しさに、あたりにいた参列者が思わずこちらを振り返った。  村山はじっと目を閉じ、首を振りながら物静かに言った。 「無理です。現役を引退してから一度も投球練習をしていません。ライフルの弾《たま》を叩《たた》き落とすほどの球はそうそう投げられるもんじゃない」 「あなたは本当に肘《ひじ》の痛みで引退したんですか。他に何か理由があるんじゃないですか」 「……私には投げるべき時があります」  村山は何かに耐《た》えるように歯をくいしばった。 「いつです」 「お聞きにならないで下さい」 「私はあなたのことが心配なのです」  神崎は村山の不可解な行動に腹を立てながらも、何か憎《にく》みきれないものを感じていた。それは基本的に村山が犯罪にかかわれる男ではないという、ある種の好意からくるものだった。  その時、仮設テントの受付のあたりで、何やら言い争う声が聞こえてきた。見ると、一力《いちりき》オーナーが今川の親戚《しんせき》たちとなにやら押し問答していた。  一力のうしろには医者らしき白衣《はくい》の男と、看護婦が三人ほどつきそっていた。持病の心臓がよほど悪化しているのだろう。  一力は医者の制止を振り切り、 「入れてくれ、私は村山君に用があるんだ」  と、今川の親戚の一人を突《つ》き飛ばすようにしてこちらに駆《か》け寄った。 「村山君、現役に復帰してくれんか」  顔は死人のように青ざめ、ろれつもまわっていない。 「なんですって」 「長島君のためなんだよ」 「はっ?」 「来季の長島君の監督が心配なんだ。わしは長島が泥《どろ》まみれになる姿を見たくないんだ。長島はサードの守りにレフトの高田をコンバートするといってる。塀際《へいぎわ》の魔術師《まじゆつし》といわれた高田をどうしてサードにする必要がある。それにドラフトで篠塚《しのづか》を一番指名するといってるんだ。篠塚なんて胸をやられていてどこの球団も指名するはずはないんだよ。君にそういうアドバイスをしてもらいたいんだ」 「長島さんの思いのままやらせたらいいじゃないですか」 「長島は監督というものをわかっておらん」   (注) ちなみに高田|繁《しげる》選手は、レフトからコンバートされた急造の三塁手だったが、その華麗《かれい》なフィールディングは往年《おうねん》の長島茂雄に勝るともおとらず、ダイヤモンドグラブ賞を五回|獲得《かくとく》している。そして、篠塚利夫のドラフト一位指名は世間を驚かし、心ある巨人ファンまでも長島の無謀《むぼう》さを責めたてた。が、好守好打で常に三割をキープし、首位打者までとった現在の活躍ぶりはご存じのとおりである。 「もうすでに阪神からも田淵幸一《たぶちこういち》を放出してもらうことにしたし、広島からも山本浩二《やまもとこうじ》を譲《ゆず》ってもらおうと思ってるんだ」  一力の目はうつろで、とても正常人のものとは思えなかった。 「なんですって」 「田淵、王、山本浩二と揃《そろ》えば恐《こわ》いものなしだよ」 「しかし、阪神も広島も手離《てばな》さんでしょう」 「たのむ、長島を男にしてやってくれ」 「一力さん、野球選手は長島だけじゃないんだ。僕の身体《からだ》をこんなにしたのは一体誰なんだ」  村山は悔《くや》し涙で目をまっ赤にして吐《は》き捨てた。が、一力はなおもすがりつかんばかりに言った。 「私は巨人軍のことばかり考えているわけじゃない。きみや田淵たちが来てくれないと日本の野球は破滅《はめつ》させられるんだ」 「どういうことです」 「十一月二十三日にオールジンギスカンが来日するんだ。もしその時、長島の正体がバレたらどうなるかわからんのだ」 「なんです、その正体というのは」 「今は言えん。頼《たの》む、この通りだ」  一力は医者が制止するのも聞かず、その場に土下座《どげざ》した。が、村山はそんな一力を冷ややかな目で見つめ、決して口を開こうとしなかった。  医者と二人で両脇《りようわき》をかかえるようにして、一力を駐車場まで送り、神崎は村山と肩を並《なら》べるようにして杉並の住宅街を駅に向かって歩いた。西に大きく傾《かたむ》いた秋の陽差《ひざ》しがアスファルトに長い影《かげ》を落としていた。 「村山さん、村山正則という方はあなたのお父さんのことですね。説明してもらいましょうか」 「…………」 「公衆電話に残された和歌、あれはあなたのお父さんが作ったものですね」 「神崎さん、私にしゃべらせないで下さい。それをしゃべると、この村山実は男でなくなる」  村山の声は悲愴感《ひそうかん》にみちていた。 「もう四人もの人間が死んでるんです。そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」  神崎が焦《じ》れて声を荒《あら》げた。 「僕の身体《からだ》をこんなふうにしたとは、一体どういうことです」 「…………」 「村山さん、あなたには不可思議なところが多すぎます。これじゃコンビは組めません」  その時、前を歩く喪服姿《もふくすがた》の女に、神崎は思わず「あっ」と声をあげた。そのうしろ姿はまぎれもなく青山の公衆電話から逃げるようにして去った女だ。  神崎が「待て」と声を出そうとした時、その女は振りむいてきた。 「幸一郎さん、久しぶりね」 「あっ瑠璃子《るりこ》」 「うれしいわ、あたしのこと覚えていてくれたのね」 「…………」  神崎は声も出なかった。  村山は立ち話をするふたりに遠慮《えんりよ》するかのように、足早やに先へ歩いていった。 「江夏さんがあなたに会いたいと言ってるんだけど」 「オレに?」 「今日の飛行機でアメリカに行くそうよ」  まぶしい光の中で逆光になった喪服姿の瑠璃子は、ことのほか美しかった。  苦く甘《あま》い思いが神崎の胸を締《し》めつけた。 「やはり君か、バックスクリーンから投げたのは」 「そうよ」  瑠璃子《るりこ》はこともなげに言った。  一条瑠璃子。本名、沢村瑠璃子という。    羽田空港の出発ロビーに現われた江夏は、タートルネックのコットンセーターにベージュのスラックス、濃紺《のうこん》のブレザーというラフないでたちだった。 「豊さあん」  手を振る瑠璃子の姿を見て、江夏の目が糸のように細くなった。 「よう、瑠璃ちゃん」  羽田までのモノレールの中で、瑠璃子は江夏と幼なじみだと話してくれた。  江夏は急に気付いたように瑠璃子のうしろに立った神崎に目を移した。 「この人かいな、あんたの元フィアンセというのは。大丈夫《だいじようぶ》かいな、こんな男にドロップの投げ方教えて」 「だって愛してるんだもの」 「へえ、お熱いこって。神崎はん、わしが江夏だす。よろしゅう」 「はっ、こちらこそ」  江夏は神崎の差し出した手を大きな肉厚の手で力強く握《にぎ》り返して来た。 「先日の後楽園の時、ありがとうございました」 「妹さんのフィアンセの方がお亡くなりになったそうですな」 「はい」 「ワシに完投させてくれてたらあの若い刑事はんも死ぬことはなかったんや。連盟も石頭ばっかり多くて困る。ワシを除名して、だれが長島はんを守るんかいな」  江夏を囲む見送りの人の輪が大きくうなずいた。神崎は江夏の人望の厚さに少し驚いた。 「ほんとにワシは損な役回りやで。それにワシの日頃《ひごろ》の素行《そこう》のこともあるし。どっちかというとワシは悪役のキャラクターやから、こういう事件があるとすぐにマスコミがおもしろおかしゅう書き立てよる。ほんま、引退したらすぐにNHKの解説者が決まっとる星野がうらやましいですわ。ワシなんかひっくり返ってもNHKからお呼びなんかかからん」  そう言って江夏はさびしそうに笑った。 「ワシはどうしてこう嫌《きら》われるんかいな。なあ、あんたら」  江夏は取材に集った記者たちに、皮肉たっぷりの目を向けた。 「たとえば酒飲んでて一緒《いつしよ》に写真撮《と》らせてくれと言われたら、一緒に撮りまんがな。相手がヤクザやったら、なおのこと一緒に撮ったりますがな。相手も、こんなヤクザから声かけられて江夏も迷惑《めいわく》やろと思いながら、声をかけてくれるんです。その気持ちを知ってて断ることはできまへん。まっ、そんな性格やから日本を追放されるようなことになったんかもしれんな」  記者たちがいっせいに視線をはずし、バツが悪そうに肩をすくめた。  それを見て瑠璃子《るりこ》が場をとりつくろうように、言葉を添《そ》えた。 「でも、それでアメリカ行きの決心がついたんだから、結果的にはむしろよかったじゃないの」  その言葉に江夏は大きくうなずきながらも、 「結果は行ってみてからや。この腹が本場で通用するかどうか、まっ、スモウレスラーに間違われんよう、あんじょう気張りまっさ」  と瑠璃子の方を目を線にして見やりながら、大きくせり出した腹をポンポンと叩《たた》いてみせた。 「でも、わしの左腕が中南米野球のデスマッチルールに通用するんかいな」 「えっ、江夏さんは大リーグに行かれるんじゃないんですか」 「わてはもうルール、ルールでしばられる野球はやりとうないんや。中南米の殺すか殺されるかの野球やないともう燃えんのや」 「殺すか殺されるかって?」 「日本だけでっせ、引きわけとかフォアボールなんてしょうもないルールがあるのは。たいていの国はどっちかが倒《たお》れるまでやりあうんや」 「…………」 「一番こわいのはモンゴルの荒玉《あらたま》野球や。今朝《けさ》の新聞読むと、十一月二十三日に、いま南米巡業中のオールジンギスカンが来日すると書いてあったわ。一力《いちりき》はんが青うなっとるのもそのせいや。下手《へた》したら日本の野球なんてつぶされるで」 「…………」 「まっ、心配いらんわ。わしが先鋒《せんぽう》として乗り込んで、やつらの日本上陸を阻止《そし》したる」  江夏はそう言って武者震《むしやぶる》いしてみせた。が、すぐに一転して神崎をすがるような目で見た。 「神崎はん、長島はんのこと、あと頼《たの》みまっせ」 「はっ」 「いざとなったらあんたが投げるんやで。長島はんの頭を狙《ねろ》うて殺す気で投げんと、ライフルに勝てしまへんで」 「今度は村山さんも投げてくれると思います」 「ハハハ、アホなこと言うたらいかんがな。村山はんが投げたらほんまに長島はんを殺してしまいますがな」 「はっ?」 「村山はんはかわいそうなお方や。いま必死に苦しんどる」  江夏は鞄《かばん》を持って立ちあがると、瑠璃子をじっと見つめた。そして、神崎にチラリと視線を走らせると、 「こんな男のどこがええんかいな。わしにあのドロップの投げ方教えてくれりゃええのに」  と、意味ありげにニヤリと笑い、飛行機に乗り込んでいった。    羽田から東京へ戻《もど》るモノレールの中で、神崎は隣《とな》りに座った瑠璃子《るりこ》がまぶしかった。  喪服《もふく》の合わせめからのぞく胸の白さはまぶしいほどで、香《こう》をたき込《こ》めてきたのか、伽羅《きやら》の匂《にお》いが妖《あや》しく鼻孔《びこう》をくすぐった。�手弱女《たおやめ》�という言葉が似つかわしいほど瑠璃子の指は白く細く、全体に小づくりな印象を与《あた》えた。こんな華奢《きやしや》な手から、どうすれば百二十メートルもの遠投ができたのか、不思議でならなかった。  海面からの明るい陽差《ひざ》しが、瑠璃子の健康そうな白い歯にキラリと反射し、神崎は思わず目を細めた。 「ひとつ聞いておきたいのだが、なぜ青山の現場から逃げるように立ち去ったんだ?」 「私、犯人を追っていたの」 「じゃあの殺人ボールを投げた犯人を目撃《もくげき》したって言うのか」  瑠璃子はコックリとうなずいた。 「だれだったんだ」 「今は言えないわ」 「なぜだ」 「じゃ教えるかわりにあなた、お父さんのドロップの投げ方おぼえてくれる?」 「断る!!」 「なぜなの。あのドロップを覚えないと、あなたの大好きな長島さんは救えないのよ」  瑠璃子の涙でいっぱいの目が、あの別れの日を思い出させた。  なぜオレがおまえとの結婚を断念したと思うのだ。どこへ行くにもなにをしても、映画スター一条瑠璃子のヒモのように、ダニのように言われたのだ。 「ロクな球投げられないのに女をたらしこむことだけ上手なんだから」 「フィアンセが稼《かせ》ぎがいいから根性がない」  たしかにオレはしがないバッティングピッチャーだった。しかし、男の意地はある。そして野球はオレの生きがいだ。もしオレがおまえに沢村|栄治《えいじ》のドロップを教えてもらい、それで勝ち星をあげて嬉《うれ》しがるとでも思うのか。オレはオレの力でエースの座を勝ち取りたかったのだ。 「いつもあなたはそうだったわね。私が沢村栄治の子だというのがそんなに気にいらないの」 「そうじゃないよ」 「だったらなによ。たまたま沢村家に生まれただけで、私に罪はないわ。そりゃ、沢村家に男の子が生まれなくて、お母さんがあなたを養子にしようとしたかもしれないわ。でも、あたしたち愛しあってたんじゃないの。それにもうお父さんは戦争で死んでるわ」 「まだ生きているんじゃないのか。それを確かめに青山の電話ボックスに行ったんだろう」 「…………」  瑠璃子は黙《だま》ったままうつむき、それっきり一言も口を開かなかった。    警視庁に戻《もど》り、地下の資料室に着いたとたん、三井が資料室のドアを蹴破《けやぶ》るようにして血相変えて飛び込んできた。 「まずいよこりゃ、神崎君、長島君に選挙の応援演説、たのめなくなっちゃったよ!」 「どうしたんです、一体?」 「二田川《にたがわ》君、話してやってくれたまえ」 「ええ」  後ろに海上保安庁の二田川が立っていた。  二田川は、三ツ揃《ぞろい》のスーツを一分の隙《すき》もなく着こなし、髪《かみ》をポマードでキチンと分け、オーデコロンの匂《にお》いをまき散らしていた。 「よう」 「久しぶりだな。どうだ、壁投《かべな》げやってるか」 「いや、それよりも今日はどうしたんだ」 「まっ、これを見てくれ」  二田川は二枚の写真をとり出した。  一枚は、横浜中華街のドヤらしいところでアポロキャップをかぶった男がシャブを買う写真で、もう一枚にはその男がスプーンに溶《と》いたシャブを注射しているところがとらえられていた。  その男の顔を見たとたん神崎は思わず、「あっ」と小さく叫んでいた。  なんとその男はまぎれもなく、長島茂雄その人なのだ。  二田川の目が光った。 「やはりこれは長島か?」  神崎の、写真を持つ手の震《ふる》えがその答えだった。 「しかし、妙《みよう》な魚がひっかかったもんだよ。オレが追ってたのは、実は伊藤の奥さんだったんだ」 「えっ」 「伊藤夫人が覚醒剤《かくせいざい》中毒ってタレコミがあったもんで張り込んでたそうだ。一体どうやってシャブを買っているのか、かいもく見当がつかなかったらしいんだ。張り込んでてわかったらしいが、とにかくよく喧嘩《けんか》する家だということだ。『それで刑事の妻か』とか『オレは最後まで戦うぞ』とか怒鳴《どな》りちらす声が聞こえたという。多分、なにかをつかんでいる伊藤の口を封《ふう》じるため、ある組織が奥さんを麻薬中毒患者にしたてたんだろう」 「ちょっと待ってくれ。この写真は合成じゃないのか」 「極秘に長島の尿《によう》検査をしてみたらマイナスと出た」 「なんだと」 「本当なんだ」  二田川は手にしたアタッシェケースから検査票をとり出してみせた。 「まったくオレのおやじも、こんな麻薬をやるようなクズのために命を縮めたとはなあ」 「…………」 「でだ、オレとしてはすぐにでもしょっぴきたいんだ」 「しょっぴくったって、長島は日本の希望の星だ。そんなことすれば、青少年の夢を土足で踏《ふ》みにじることになる」  三井が横からイヤミったらしく口をはさんだ。 「えらく長島に肩入《かたい》れするんだな。キミが喜ぶと思ったんだが。君は長島のために野球界にいられなくなったんだろう」 「……それと、これとは話が別です」  一瞬、言葉に詰《つま》った神崎を見て、二田川が冷たい笑いを浮かべた。 「もし疑うなら、明日、夜の十二時に横浜の三号|桟橋《さんばし》に来てくれ。取り引きがあるらしいんだ。そこに長島も顔を出すって情報を掴《つか》んでるそうだ」 「なんだと……」 「でもまあ、どうせ集まるのは下《した》っ端《ぱ》の連中ばかりだろう。大物は直接手を下したりしないもんだよ。しかし、どうやってシャブを売りさばいているのか、その方法を知りたいんだが、抵抗《ていこう》するようだったら」  と胸のポケットから拳銃《けんじゆう》を取り出し、 「射つ」  と冷やかに言い放った。 「なに」 「だから抵抗したらだよ」  顔はニヤついているが、二田川が本気で言っていることはすぐにわかった。  二田川はピストルをしまい込むと、神崎の手から写真を抜きとろうとした。  が、神崎はそれをもう一度、まじまじと見つめた。 「アッ!」  なんとシャブを打っているところの写真に顔が半分写っている男は、徳光和夫だった。 「どうした?」 「いや」 「神崎、知っていることがあったら教えてくれよ。結城《ゆうき》さんは何をしに元佐倉《もとさくら》へ行ったんだ?」 「いや、オレは何も知らない」  神崎の頭は混乱していた。 「神崎、いいかげんにしないか。鮫島《さめじま》たちが元佐倉にヤクの精製工場をつくろうとしてるんだ。いいか、オレが相手にしてるのは、鮫島と、その後ろにいる官房長官の大前田だ!」  言い放つ二田川の目は血走っていた。    翌日、神崎は『ズーム・イン・朝』を放送中の徳光を日本テレビに訪ねた。  玄関《げんかん》をくぐりながら、きのうの写真をもういちど取り出して見た。まさか長島がシャブをやっているとは……。  マイクの前では、ちょうど徳光が青田昇《あおたのぼる》相手に長島について陽気に喋《しやべ》っていた。 「青田さん、プロ野球におけるスターの条件っていったらなんですかね」 「そりゃ予告ホームランを打つことができるかどうかやね」 「予告ホームラン」 「いくら天才かて、今日、この打席に打てるって言葉に出せる人間はおらへん。打てんかったらボロクソやしね」 「ほお」 「野球には百年の歴史があるが、ワシのみたところそれができたのはベーブ・ルースだけや」 「日本にはいませんかね」 「なに言っとるんや、長島がいるやないか」 「そう。みなさん、長島さんの凄《すご》いところは、予告ホームランが打てるところなんですよ。はい、今日もひとつ勉強になりましたね」  モニターいっぱいにひろがった徳光の顔が街頭からのロケ風景に切り替わり、�ウィッキーさんのワンポイント英会話�のコーナーが始まった。  徳光は神崎の姿を見ると一瞬ギクリとした様子で、まぶしそうに目をしばたたかせ、うつむいた。あの頃の、応援団《おうえんだん》の中心になって神宮で長島に声援《せいえん》を送っていた若き日の学生服姿の徳光と違い、髪《かみ》に白いものが混じり、腹のあたりに脂肪《しぼう》がついていたが、そのポッチャリとした童顔は、昔と少しも変わらなかった。 「久しぶりだな、徳光」 「……神崎さん」  徳光の唇はなぜか乾き、ピクピク震《ふる》えていた。 「この写真を見てもらいたいんだ」  神崎は二田川に借りた写真をおもむろにとり出した。 「これはどういうことなんだ」 「しっ、知りませんよ」  急に徳光の身体《からだ》が小刻みに震え出した。 「これは君じゃないのか。そしてもう一人は長島茂雄だ」  神崎はいきなり徳光の胸倉《むなぐら》をつかまえ、ねじりあげた。  神崎の目が涙で曇《くも》った。 「オレの目をよく見ろ」 「…………」 「オレは泣いてるんだ。たまらなく哀《かな》しいんだ」 「…………」 「いいか。こんなことが表沙汰《おもてざた》になっていいのか。子供たちの夢を壊《こわ》すことになるんだぞ。オレは長島を殺したいほど憎《にく》んでいる。バッティング投手させといて、ありがとうの一言も言わなかった長島を殺したいほど憎んでるよ。が、覚醒剤《かくせいざい》をやってるなどというのは耐《た》えられない。言え」 「知らないって言ってるでしょう」 「嘘《うそ》つけ。キサマはすべてを知ってるはずだ」 「知らない、僕は何も知らないんだ」 「じゃあ、これは一体、何をしているところだというんだ」 「長島さんが、よくこうしてふざけて遊んでるんです」 「なんだと」  どこまでもしらを切りとおそうというのか。 「徳光、オレは長島を愛しているからこそ真実が知りたいんだ!」  神崎はポロポロ涙をこぼしながら叫んだ。  が、徳光の冷やかな口調は変わらなかった。 「やめて下さいよ、大声出すのは。今、放送中なんですよ。それとも逮捕状《たいほじよう》でもあるというんですか」 「なにっ」  フロアディレクターが本番十秒前を告げた。  神崎は仕方なく徳光から手を離し、番組が終了するまで待つことにした。  が、徳光は番組が終了するやいなや、裏口から逃げるように姿を消した。    その夜、横浜三号|桟橋《さんばし》の倉庫のマグロの山の陰《かげ》に身をひそめ、神崎は息を殺してじっと待ち続けた。  コートを通して、寒さが刺《さ》すように襲《おそ》ってくる。潮の匂《にお》いを含《ふく》んだ冷たい風が、息をするたびに鼻孔《びこう》の奥を突《つ》いた。  背後に海上保安庁の二田川が四、五人の警官をひきつれて待機していた。二田川は胸のホルスターから拳銃《けんじゆう》を抜き、意味ありげに笑いかけてきた。 「もし本物の長島だったら神崎はどうする」 「逮捕《たいほ》する」 「さらしものにするより一気にやった方がいいんじゃないか、ハハハ」  二田川は拳銃を指でクルクル回しながらうそぶいた。 「しかし村山は、遅《おそ》いな」 「えっ? 呼んであるのか」 「ああ、事と次第によっちゃ村山もしょっぴく」 「なに?」  二田川は冷たい笑いを返してきた。  そのとき背後でかすかな物音がした。  ふりかえると今着いたばかりの村山が、息をはずませて立っていた。 「遅《おそ》くなってすみません」  村山は神崎たちの顔も見ようとせず、竹べらで土を掘《ほ》り返し、入念に足場を固めた。そして、手にしたロージンをはたいて感触《かんしよく》を確かめるようにボールをしごいた。  それを見て二田川が、 「村山さんは、肘《ひじ》が悪いんじゃなかったんですか」 「一球くらいなら投げられます」  村山は恐《こわ》いくらい厳しい顔つきで腕をさすった。 「ほら神崎、村山さんも長島を殺す気でいる。どうだ、おまえも銃の用意をしたら。それともボールにするか、ハハハ」 「…………」  港は漆黒《しつこく》の闇《やみ》に閉ざされ、大きく湾曲《わんきよく》した対岸の灯《あか》りが、海の向こうにおぼろにうるんでいた。  午前一時ちょうど、その対岸の灯りにくっきりとシルエットになりながら、すべての灯火を消した船がゆっくりと接岸された。  それと同時に一台の黒塗《くろぬ》りの車が音もなく桟橋《さんばし》を走り抜け、接岸されたばかりの船のそばに止まった。  車の中から黒背広の男たちと、アポロキャップをかぶり、トランクをかかえた用心棒らしい男が降り立った。車のルームライトにチラリと照らされたアポロキャップの男は、まぎれもなく長島茂雄だった。 「まさか……」  神崎が思わず叫んだ。 「間違いないな、フフフ」  二田川が冷ややかに笑い、撃鉄《げきてつ》を起こした。 「なんということだ」  村山がロージンをたたきつけ、涙ながらに吐《は》き捨てた。 「こんなもんですよ、スポーツマンの正体って」  二田川が皮肉《ひにく》っぽく言った。 「うるさい!」  神崎も溢《あふ》れる涙を、どうすることもできなかった。  かつて多摩川《たまがわ》で純粋に白球を追った長島が、あの世紀のスーパースターが、一方で、このような裏の世界にかかわっていたとは……。  そう考えただけで、ひたすら青春を野球に賭《か》けた神崎の人生までもが、泥靴《どろぐつ》で踏《ふ》みにじられてゆくような気がしてならなかった。戦後の青少年にとって長島の存在が夢であったように、神崎の中でも長島は夢だった。たとえ長島のせいで球界を石もて追われたいきさつがあってもなお、神崎は長島を愛していたのだ。  神崎は、自分の中で培《つちか》われた長島に対する憎悪《ぞうお》が、愛情と紙一重のものだったことを、今、はっきりと感じとっていた。  トランクを確認するために灯《とも》された懐中電灯の光りの中に、再びアポロキャップの男が浮かびあがった。その男の、青々としたヒゲソリあとと、Tシャツの胸にのぞく胸毛を見て、神崎と村山はうなずきあった。  ボス格とおぼしき男が、船から降りた男の差し出す冷凍マグロをナイフで一切れ切り取り、口に含《ふく》んだ。 「上物だな」  ボス格の男がニヤリとうなずいた。 「マグロの方ですか、シャブの方ですか?」 「両方だ。フフフ」  と、アポロキャップの男も同じように一切れ口に入れると、ボス格の男が、 「チョーさんは味をみなくていいよ。あんたの場合は普通でも覚醒剤《かくせいざい》やってるような気分なんだから、ハハハ」  つられたように、そこにいた全員が笑いを洩《も》らした。 「しかし、いわゆるひとつの、試《ため》しとかないとですね……」 「チョーさんのいわゆるひとつのがまた始まった」  アポロキャップの男は、まわりの男たちから笑われ、小突《こづ》かれていた。  二田川が狙《ねら》いを定めながら、 「わかったぞ、やつら、マグロに麻薬をしみこませて、それを売ってやがったんだ、クソー」  そう言って引き金を引こうとした手を村山が押えた。  その顔は涙でくしゃくしゃだった。 「待て、私がやる。私にやらせてくれ」  村山はボールを握《にぎ》りしめ、上着を脱《ぬ》いで立ちあがった。  そして神崎に向かって涙声《なみだごえ》で言った。 「私は明智《あけち》に過去をほじくるのはよせと言ったのです」 「過去とは?」  村山はポロポロ涙を流しながら、嗚咽《おえつ》を必死でこらえながら言った。 「あれは昭和三十四年、後楽園球場に天皇陛下をお迎えした巨人—阪神戦でした。九回裏、4対4の同点、先頭打者長島、投げていたのは私です」 「長島さんがサヨナラホームランを打ったのでしょう」  村山は足場をかためた。 「ところがあれはファウルだったのです」 「えっ!?」 「本当です。ボールはレフトポールの外を通過したんですよ。主審《しゆしん》も線審も僕もみんな知ってたんです」 「じゃなぜホームランになったのです!?」 「客の熱気ですよ。陛下を前にしてあの試合にはどうしても劇的なホームランが必要だったのです。そしてその主役が長島でなければならなかったのです。長島はそんなとき、いつも打つ男なんです。あそこで審判《しんぱん》がファウルのジェスチャーなんぞした日にゃ、暴動が起こってますよ」  村山は再び入念にロージンに手を当て球をしごいた。 「でも、たとえあれがファウルでそのあと三振とって、まああと二人を凡打《ぼんだ》に打ちとっても引きわけですよ。それなら長島のホームランの方がいいですよ。打ってくれた相手が長島なら私だって本望《ほんもう》です。実際そう思ったんです。しかし、私も男です。投手です。つらかったです」  村山は天を仰《あお》いで唇をかみしめた。 「父が死んだのは、私が陛下の前でホームランを打たれたからではありません。私は苦しくてせめて父にだけはわかってもらいたいとファウルのことを言ったのです。その時父は男らしくないと言って烈火《れつか》のごとく怒りました。が、父は内心では私をあわれみ、あの歌を残して死んだのです」  村山は神崎の前でワイシャツの袖《そで》をまくりあげた。その腕には青黒い注射針の跡が無数についていた。 「一力《いちりき》さんは僕を哀《あわ》れんでシャブを教えてくれました」 「…………」 「クソッ、なぜ父は死ななければならなかったのだ。その長島が麻薬などやる下衆《げす》になりさがったのなら、この私の手で殺してやる」  村山は高々と足を上げて大きく振りかぶった。村山独得のザトペック投法が闇の中にほの白く浮かんだ。 「神崎さん、この球は呪《のろ》いの一球です」  村山が高々と蹴《け》りあげた足が、横に積んであった木枠《きわく》の荷物にぶつかり、ガラガラ音をたてて崩《くず》れた。  男たちがピクリと肩を震《ふる》わせ、いっせいにこちらを振り返り、弾《はじ》かれたようにバラバラの方向に走り出した。  二田川《にたがわ》が小さく舌打ちして銃《じゆう》を構えて飛び出した。それを合図にして、あらかじめ配置されていた捜査官《そうさかん》たちがいっせいに男たちを追った。  海上保安庁の巡視艇《じゆんしてい》が、海側からサーチライトをいっせいに灯《とも》した。  桟橋《さんばし》は、まるで真昼のような明るさに浮かびあがり、逃げる男たちをそのまばゆい光の輪の中に照らし出した。  村山はアポロキャップの男だけを目がけて懸命《けんめい》に走った。  男は立ち止まり、ゆっくりバットをとりあげ、構えた。  村山が大きく振りかぶった。 「長島、死ね!」  と叫んだ。  球はうなりをあげてまっすぐに長島の心臓部を直撃《ちよくげき》しようとした。  神崎は祈《いの》った。  打て、長島。ミスタージャイアンツ、あなたなら打てるはずだ。そして、これは夢だと言ってくれ。  村山が渾身《こんしん》の力を込めて投げた時速百六十キロの球が心臓めがけて飛んでくる。    しかし、その男は喜びに打ち震《ふる》えていた。まさか自分の生涯《しようがい》に、ザトペック村山の球と対決する機会があろうとは。  思えば顔が似て、名前が同音であるばかりに、わびしい人生であった。  打ちそんじればバットがくだけ、確実に死ぬ。  物かげの徳光《とくみつ》が声をかけた。 「シーちゃんよかったね」 「ああ」 「不世出の天才投手、村山さんが投げてくれるんだもんね」 「偉《えら》いよね、村山さんは。天覧《てんらん》試合のこと十五年も黙《だま》ってたんだもんね。オレはあのとき村山さんがかわいそうで、レフトスタンドで『ファウルだ!』って叫んだんだよ。そのとき村山さんは嬉《うれ》しそうにオレを見てくれたんだ。その時、いつかこういう時が来ると思ったんだ。いま来る球は、天覧試合に投げたのと同じ球なんだよ。オレは長島とちがって、それをセンターバックスクリーンへ、誰が見てもホームランとわかるように打ち返してみせるよ」  球がうなりをあげて向ってくる。  その男、永島茂夫の脳裏に幼い時の長島との出会いが走馬燈《そうまとう》のごとく甦《よみがえ》った。    オレは町の明るい人気者だった。中学の時から野球部の主将をつとめ、佐倉《さくら》高校に入学してからも、背番号3、四番サードのスラッガーはかわることはなかった。  オレが二年の時、長島茂雄が入部してきた。  長島はだれもが見まちがうほどオレそっくりの顔をし、ピンク色に肌《はだ》を上気させた、大輪のひまわりのように明るい男だった。  たしかにオレは人を思いやりすぎるきらいがあった。たとえば練習試合で勝っても、負けた相手チームのことを思いやり、恥《は》ずかしそうに嬉《うれ》しがるタイプだった。  しかし長島はちがった。  彼は補欠だったけれど、勝てば満面に喜びをあらわし、負ければ地を蹴《け》りつけてくやしがった。そして、その喜びようは相手チームも明るくしてくれた。その悲しみように、相手チームも共に泣いた。  長島が二年の時、別の高校との対抗試合の日だった。オレが試合前にトイレに行って戻《もど》ってくると、なんと長島がグラブをはめて三塁のポジションを守っていた。相手は弱い高校なので、軽い気持ちでいた。ところが、試合が始って、相手の先頭打者が打ったライナー性の当たりを横っとびにファインプレーした。練習もろくにしないおっちょこちょいだったが、人から見られることで、燃えたのだろう、つづけざまにファインプレーをした。  スタンドで見ていた女子学生から拍手|喝采《かつさい》を浴び、そうすると目に見えて動きがスムーズになっていった。信じられないことだけど、それはもう華麗《かれい》と言っていいほどのフィールディングになっていった。長島は試合で成長する男だった。  長島はどんどん気をよくして、チェンジになって、初めてまわってきた打席で、大ホームランをかっ飛ばした。その日の四打席、すべてがホームランだった。  それでオレはあっさり三塁のポジションと四番の打順をもぎとられたのだった。  長島が活躍すればするほど、オレが野球選手になることだけが夢だった父は、勘違《かんちが》いして大喜びし、オレも違うとは言い出せなかった。地方新聞にのる写真はオレそっくりなのだから。  長島は何かにつけ、「先輩《せんぱい》、先輩」とオレを実の兄のように頼《たよ》り、オレもまたその明るい性格を憎《にく》めず、練習に明け暮《く》れる長島のために授業に出てやり、学期のテストもかわりに受けてやった。立教大学の入学試験も身代わりで受けてやった。  大学に入ってからも、オレは長島に代わって授業に出、学期末試験も受けてやった。オレは生活のすべてを長島にささげたんだ。オレはただ長島が活躍してくれれば、それで満足だった。長島の巨人入団が決まったとき、オレは自分のことのように喜んだんだ。  オレの父はそのときになって長島とオレが別人と知ってショックで自殺した。  ところが巨人に入団してからの長島は、礼の一つどころか、オレのことすら、すっかり忘れてしまっていた。まあ、オレも昔、世話してやったなんて、しゃしゃり出るような人間ではなかった。  が、身体《からだ》の弱い一人|息子の太郎にポツリと、「お父さんと長島は知りあいなんだよ」って言ってやった。  太郎は目を輝《かがや》かせて、ほんとうに喜んでいた。ところが太郎からそのことを聞いた級友たちが、「嘘《うそ》だろう」って言い出した。オレは太郎の名誉《めいよ》のために、その級友たちを連れ、後楽園にサインボールを貰《もら》いに行ったんだ。よもや忘れていないだろうと。オレが「ヨウ」と声をかけると、長島は、「どなたでしたっけ」って顔をした……。  太郎は学校でホラ吹き呼ばわりされ、それがショックで病状が悪化し、入院するはめになった。  長島は一旦《いつたん》家に帰って、ようやく思い出したのか、病院に訪ねてきてくれ「太郎君のために明日絶対ホームランを打つよ」と約束してくれた。  そして打ってくれたのはいいが、お立ち台に立ち、「ヨシオ君だっけ、えっと、ほら筋《きん》ジストロフィーでもう長くない子、君のためにホームラン打ったよ」  と叫び、それが、全国のテレビに放映された。   「来るぞ!!」  永島の回想をさえぎるように徳光が鋭《するど》く叫んだ。 「ああ!!」  永島はバットを構えた腕に力を込め、鷹《たか》のような目でボールを追った。    東横線|田園調布《でんえんちようふ》のアメリカンスタイルの白い駅舎を出ると、広い駅前広場に柔《やわ》らかな冬の陽差《ひざ》しが反射した。 「まあ、東京にもこんなところがあるのね。なんだか外国の駅に降り立ったみたいだわ」  瑠璃子《るりこ》はまぶしそうに目を細め、神崎に微笑《ほほえ》みかけた。 「腕を組んでもいい?」 「こんな時によせよ」 「いや、腕を組んでみたいの」  瑠璃子は神崎の腕に強引に手を回してきた。 「一度、こうして歩きたかったのよ」 「よせって」  神崎はその手を荒々《あらあら》しく振りほどいた。  昨夜、横浜の桟橋《さんばし》で村山の投げた球で粉々に砕《くだ》けたバットの破片が長島の右肩に突《つ》き刺《さ》さった光景で頭がいっぱいだった。 「心配ないわよ。その人は長島さんじゃないわよ」 「しかし」 「だって私、きのう一緒《いつしよ》に今日のテンプラ会の買い出しに行ったんだもの」 「…………」 「村山さんはそれからどうしたの?」 「ゆくえ不明だ。少しそっとしておいてやろうと思ってる」  ——あれから村山は呆《ほう》けたような顔つきになり、捕《と》り物のどさくさにまぎれるようにどこへともなく消えた。  神崎は、村山の注射の跡《あと》を思い哀《あわ》れでならなかった。心の傷をいやすため、またシャブに溺《おぼ》れなければいいのだが。村山のためにも、きのうの男が人違いであってほしかった。 「二田川《にたがわ》さんって人もいい人なのね」  二田川は村山のことを過去のこととして不問にしてくれた。  舗道《ほどう》に沿って植えられた銀杏並木《いちようなみき》は、すでに葉も散り落ち、露《あら》わになった幹や梢《こずえ》の間を、ときおり冷い北風が吹きぬけてゆく。  白やベージュを基調にした豪邸《ごうてい》の建ち並《なら》ぶ街並《まちなみ》は驚くほど閑静で、子供連れで散歩を楽しむカラフルなペアルックのセーター姿の外人夫婦がいる。  豊かな緑に囲まれた白亜《はくあ》の長島|邸《てい》は、近所でもひときわ目を惹《ひ》く建物だった。  その時背後から、 「神崎じゃないか」  と声がかかり、振りむくと川上と浅野の悲痛な顔が並んでいた。ふたりとも目の下に隈《くま》をつくり青白い顔でやつれ果てた様子だった。 「いま刑事やってるんだって?」  川上はどうにも腹に力が入らないらしく、声が弱々しい。 「はあ」 「なんだ今日は」 「長島さんに用がありまして」 「おまえも呼ばれたのか」 「はっ?」 「オレはきっと殺されるんだよ。あいつのあげるテンプラはいろいろと因縁《いんねん》があるんだよ。今日はマグロのテンプラだってよ。チャレンジはいらないから普通《ふつう》の白身の魚とか野菜とかにしてほしいよ」 「でもチョーさんには逆《さか》らうわけにはいきませんからね」  と浅野が目まいでもしたのか、今にも倒《たお》れそうな風情《ふぜい》で言った。 「オレらって本当に不幸よ。噂《うわさ》じゃ沢村が復讐《ふくしゆう》に来るって言うしさ。でもオレ、何もしてないのよ。その現場にもいなかったんだ。あんときガムほしさにアメリカの手先になってみんなをそそのかして沢村の腱《けん》を切らせたのは、内緒《ないしよ》だけど、元佐倉《もとさくら》の長島のオヤジなんだ。親子して調子のいいヤロウだよ」 「そうだったんですか」 「オレたち時間があるからちょっと病院寄って、注射してもらってくるよ、当たり止めのさ」  川上と浅野は下腹を押さえ、ブルブル震《ふる》えながら今来た道を引き返していった。  大谷石《おおやいし》の門柱にとりつけられたインターホンのスイッチを押しながら瑠璃子《るりこ》が言った。 「もし、長島さんの右肩に傷があったらどうするの」 「わからない」  神崎の胸が熱くなった。あんなに愛していた長島に手錠《てじよう》などかけられるはずがない。  玄関《げんかん》に亜希子《あきこ》夫人が出て来た。 「まあ瑠璃ちゃん、お久しぶり」 「お久しぶりです」 「この前の映画|観《み》たわよ、よかったわ」 「ありがとうございます」 「こちらの方、神崎さんって?」 「はい」 「昔、主人がずいぶんお世話になったようですね」 「いえ」 「忘れっぽい人だから気になさらないで下さいね」 「はっ」 「おとといもね、うちでお酒を飲んでたんですが、どこをどう勘違いしたのか必死に私を口説《くど》くんですよ。『妻と別れるから』って。どこかのクラブとまちがえたんでしょうね、ハハハ」  亜希子夫人の屈託《くつたく》のない笑いがまぶしかった。 「ちょっと応接間で待ってて下さいね。テンプラ揚《あ》げる準備で大忙《おおいそが》しなんですよ」  応接間に通された神崎は、フカフカのソファーに半《なか》ば身を埋《う》ずめるようにして長島を待った。 「おまたせ」  応接間に現われた長島は、まるでフランス料理屋のシェフのようないでたちで、いつもと変わらぬ屈託《くつたく》のない笑みを浮かべ、好奇心《こうきしん》いっぱいの目をキラキラ輝《かがや》かせて神崎たちを見つめた。 「いやあ、どうもお待たせしちゃって。瑠璃ちゃん、元気にしてる?」 「はい」 「そう、元気がなにより。あっ、この人が瑠璃ちゃんが言ってた好きな人?」 「あっ、いえ」  瑠璃子と神崎が同時にまっ赤になってうつむいた。 「あの、失礼ですが長島さん、右の肩をはだけてみせてくれませんか?」  長島は、 「ええ、構いませんよ」  と、返事も終わらぬうちから料理用の白衣《はくい》の上半身をはだけ、胸毛のびっしりと生えた鍛《きた》えぬかれたぶ厚い胸板を、自信たっぷりにグイとそらせてみせた。 「いやあ、よく新宿のサウナで触《さわ》らせてくれって人がいて、困っちゃうんですが触らせてあげるんです。そうか、僕の肉体が見たかったのか、だったら最初からそう言ってくれればよかったのに」  長島は満更《まんざら》でもなさそうな表情で、「右、左」「右、左」と自分で掛け声をかけながら、左右の胸の筋肉をピクリピクリと交互に動かして見せる。  が、村山の豪速球《ごうそつきゆう》によって砕《くだ》かれたバットの破片が突《つ》き刺《さ》さったはずのその肩には、傷跡《きずあと》はおろかカスリ傷ひとつ残ってはいなかった。  ——なぜだ! あのとき、長島の右肩から血しぶきが吹き出すのをオレは確かに見たはずだった。しかも、長島が追跡《ついせき》を振り切って逃げた舗道《ほどう》には、血の跡が、点々としたたり落ちていたというのに……。 「どうです、美しいでしょう、僕の肉体。一流選手の肌《はだ》は総じてマグロ色をしています。なにせ僕は小さい頃から利根川《とねがわ》名物|淡水《たんすい》マグロで育っていますからね。食ってみるとうまいですよ、ハハハ」 「淡水《たんすい》マグロ?」  瑠璃子《るりこ》が不思議そうに口の中でくりかえした。 「ええ、佐倉《さくら》名物なんですよ。今日テンプラにするんです。食べて行きませんか?」 「長島さん、もう結構です。ガウンを着て下さい」 「触《さわ》ってみなくていいんですか」 「はっ、いえ、結構です。もうこれでおいとまします」 「そうですか。いい肌してるんですがね。自分で言うのもなんですが、こういう肌を持っていると、女の肌が恋《こい》しいなんて思いません。自分で自分の肌を触ってりゃいいんですもんね、ハハハ。仕事に疲《つか》れてボクの肉体が見たくなったら、いつでも来て下さいね。そのための、いわゆるひとつのボディビルドなんですから」  長島は神崎と瑠璃子を玄関《げんかん》先まで見送りに来て、小声で神崎の背中に問いかけた。 「刑事さん、次の狙撃《そげき》の日時を犯人は指定してきましたか?」 「えっ?」 「さっきはとぼけててすみませんでした。女房《にようぼう》の亜希子に心配かけたくなかったものですから」  神崎の目に長島の不敵な口元が飛び込んだ。  ——バカではない、長島は狙《ねら》われていることを知っていたのだ。 「いや、この間はセンとユタカに邪魔《じやま》されて打てなかったから、今度こそジャストミートしてやろうと思ってるんですよ。あの日打席に入るときピンとひらめいたんです。ライフルに狙われてるって。あのときの緊張感《きんちようかん》と快感が、僕は忘れられないんですよ」  長島は玄関先に置かれた素振《すぶ》り用のバットを取り上げ、 「しかし、その僕を狙《ねら》ってる人、なんだかかわいそうですね」 「えっ?」 「いわゆるひとつの、こういうことなんですよ」  長島独得の言いまわしが、神崎の神経を逆撫《さかな》でした。 「どういうことです! いわゆるひとつがどうしたんです」 「ピッチャー返しってことですよ」 「なんです、そりゃ!?」 「その人、もしかしたら死ぬことになりますよ」 「なぜですか!?」  神崎の激しい声にドアの脇《わき》のガラス戸がビリビリと鳴った。 「僕のスイングなら、ライフルの弾《たま》なんか軽く打ち返しますよ。投げた所へ打ち返す、いわゆるひとつのピッチャー返しですね。だからその人、自分の打った弾《たま》に当たって死んじゃいますよ」  やっぱりバカだった。 「ほんとです。これが僕が若い時だったら、急所をはずして傷を負わせ、逮捕《たいほ》させることもできたと思うんですが、最近、打率も落ちてますし、しかもなにせライフルの弾ですから、いくらこの長島をもってしても、はじきかえすのが精一杯《せいいつぱい》だと思うんですよ」  そう言って長島は広い玄関先でゆっくりとバットを構え、後楽園の打席を彷彿《ほうふつ》させるような鋭《するど》い目をつくった。 「そうだな、あの速さだったら、残念ながらピッチャー返しが精いっぱいだろうな」 「長島さん、いくらあなたでも時速五百キロ以上あるライフルの弾は打てんでしょう。それに飛んで来るのはゴムのボールじゃないんだ、鉛《なまり》の玉なんだ!!」 「いや、それは関係ないですよ。タイミングさえピタリと合えば、紙のバットだって弾《は》じき飛ばせるんです」 「バカな」 「いえ、本当なんです。前に東大の力学研究所で実験したことがあるんです」 「何の実験をしたのです!?」 「なんの実験か忘れましたが、実験はしたんです」 「はあ? あまりおかしなことは言わんで下さい」 「おかしなことじゃないんです。ただ問題は、ライフルの弾《たま》とピッチャーの投げた球の両方をひと振りで打たなきゃならないんで、バットスイングが波をうって、ファウルになる可能性が大きいんですよ」 「もうわかりましたよ、僕らこれで失礼します。いわゆるひとつのあんたに、これ以上つきあっていられないんだ!!」  そう吐《は》き捨て、瑠璃子《るりこ》をうながして神崎が立ち去ろうとしても、長島はバットを構えたまま、目をロンパリにして宙空《ちゆうくう》をじっとにらみつけている。  と、突然《とつぜん》「球を見切った!」という声とともに、空気を切るヒュンという鋭《するど》い音を響《ひび》かせ、バットを一閃《いつせん》させた。そして、その感触《かんしよく》を確かめるように、「そうか、ボールとライフルの弾《たま》の二つが交わる点を狙《ねら》えばいいんだ」と、よしとばかりに素振《すぶ》りをくり返した。 「しかし、待ち遠しいなあ。やっぱ次に狙《ねら》ってくるとしたらオールジンギスカンを招待してやる僕の引退試合ですかね。ワクワクするなあ。でも、あの球筋、どっかで見たことがあるなあ」 「球筋って、ライフルの球筋ですか?」 「ええ、あれは左ききの人が投げたもんですよ」 「えっ?」 「ナチュラルにシュートしたんです」 「そこまで見えましたか?」 「ええ縫《ぬ》い目も見えました」 「ライフルの弾《たま》に縫い目なんてあるわけないでしょう。そんなもんが見えますか」 「見えますよ。野球選手は目がいいんですよ」 「ほう、野球選手ってのは目がよくて耳がよくて勘《かん》がよくて、なんでもいいんですね」 「これで頭がよけりゃ文句ないんですけどね、ハハハ」 「…………」 「どうしてマスコミに発表しないのかなあ。この長島が、ライフルで命を狙《ねら》われているという緊張感《きんちようかん》の中でホームランを打つ。お客さんは喜んでくれると思いますがねえ。まったく商売が下手《へた》なんだから」 「…………」 「ねえ刑事さん、いま拳銃《けんじゆう》もってますか」 「もってますが」 「一度私をねらって射ってくれませんか」 「なんですって」 「お願いしますよ、人一人の命がかかってるんですから」 「バカな」 「チェッ、これだから素人《しろうと》は困るんだよ、たかがピストルの弾ですよ。プロがうちくずせないと思ってるんですか」 「なんですって!!」  さすがの神崎もここまで言われてはひきさがるわけにはいかない。 「じゃあボールをかして下さい、投げます」 「えっ」 「私のボールを打ちくずせたらピストルを射ってさしあげます」 「ほんとですか」  と長島は顔を紅潮させ、ボールを押しつけてきた。 「じゃ投げさせてもらいます」  ふたりは長島|邸《てい》の裏へまわり、広い庭に出た。そこにはマウンドとバッターボックスが球場そのままの距離《きより》でつくられていた。 「どうぞ、力いっぱい投げて下さい。素人《しろうと》の球なんて、僕、止って見えますから」 「素人?」  神崎は吐《は》き捨てるようにつぶやき、ゆっくりとマウンドに向い、ボールを握《にぎ》りしめたまま、長島がボックスに入るのを待った。 「行きますよ」 「さあ、どうぞ」  神崎は渾身《こんしん》の力をその右腕に込め、投げた。  長島が独楽《こま》のようにクルリと一回転し、バットが音をたてて空を切った。  瑠璃子が嬉《うれ》しそうに拍手した。  バッターボックスで一回転した長島は、射るような目で神崎を見つめた。そこには素人相手に空振《からぶ》りした屈辱《くつじよく》が火のようにメラメラ燃えていた。 「うむ……」 「どうです、球が止って見えましたか?」 「なるほど、ようやく思い出しましたよ、あの神崎さんですね」 「そうです」 「百四十キロは出てましたね。あなた鍛《きた》えればモノになりますよ」  天下の長島にそう言われ、神崎はみるみるまっ赤になった。 「もう一回投げてくれませんか」  長島はネットに当たって足元に転がったボールを拾いあげ、神崎に投げ返した。 「さあ、どうぞ」  神崎はもう一度、大きく振りかぶって力いっぱい投げた。が、またしても長島のバットは空を切り、結果は同じだった。 「いい球だ」  渋《しぶ》い、落ち着きのある声だった。 「ありがとうございます」 「なぜ昔、いまの球を投げなかったんです」 「私はあなたの調子をととのえるためのバッティング投手でした」  瑠璃子が涙をいっぱいためてささやいた。 「よかったわね」  いや、長島はわざと空振《からぶ》りしてくれたのだ。そうでなければ、あの栄光の長島が、ミスタージャイアンツが、オレのような者を相手に空振りするはずがない。きっと背番号3はライフルの弾《たま》だって打ち返せるんだ。  長島が言った。 「瑠璃ちゃん、明日、あいてる?」 「あっ、マネージャーに聞かないとわかりませんけど、あいてると思います」 「アメリカに一緒《いつしよ》に行ってくれないかな」  長島は軽い調子で言うが、アメリカなら明日だけというわけにはいかないだろう。  さすがに瑠璃子も困った様子だった。 「江夏がビーンボールを連発して裁判|沙汰《ざた》になってるらしいんだ。野球界広しと言えども英語をこなせるのは僕ぐらいしかいないからね」 「何をなさるんですか」 「弁護士だよ」 「法廷での英語は専門的な用語が多く、むずかしいでしょう」 「うん、むずかしいのは大丈夫《だいじようぶ》なんだけど、日常会話がね」  長島邸の表に悲壮な顔をした選手やコーチたちがゾロゾロ集り始めた。 「さっ、お客さんが来たぞ。腕によりをかけるか。さっ、中に入ろう」 「じゃあたしたちもごちそうになりますわ」 「なぜかうちの一族ってのがテンプラあげるの好きなんだ、ハハハ」  長島はコック用の白く高い帽子を得意げにかぶり、屈託《くつたく》なく笑った。    翌日、羽田に現われた瑠璃子は、腰のところをサッシュで結んだシルバーグレイのワンピースに、ベージュのトレンチを肩から無造作に羽織《はお》っていた。  ガラス張りの空港ロビーには光があふれ、瑠璃子の彫《ほ》りの深い顔立ちが一層映え、いやがうえにも目立ち、広いロビーにいる客たちが瑠璃子を見つけサインをねだりにくる。そのたびに「ごめんね」と神崎をかばうように隠《かく》し、瑠璃子は小声でわびた。  しかし、本当のところ、ふたりともそれどころではなかった。昨日、長島邸でテンプラを食べて以来、激しい下痢《げり》が止まらないのだ。ふたりは腹を押え、青白い顔でトイレの前にしゃがみこんだ。 「ひっ、ひどいめにあったわね。川上さんの言うとおり、あんなテンプラ食べなきゃよかったわね」 「ああ。ウッ……まっ、まただ」  神崎は壁《かべ》にもたれかかるように立ち上がり、ヨロヨロとトイレに入ろうとした。が、瑠璃子がその上着の裾《すそ》をつかんだ。神崎の腹がグルグルと切羽詰《せつぱつま》った音をたてた。 「待って、あたしが先よ」 「あたしが先って、男と女の便所は別々だろうが」 「いやなの、あたし。あなたに待っててもらいたいの」 「そんなわがまま言うなよ」 「なにがわがままなのよ、女の気持ちが全然わからない人ね。あっ、ウッ……」  ふたりは先を争うようにトイレに入り、今、出たと思うとまたすぐにトイレに戻《もど》ってゆく。神崎はまだいいが、瑠璃子は出てくるたびにファンに囲まれ、サインをねだられ、そのたびに脂汗《あぶらあせ》を浮かべた作り笑顔で応対する姿が痛々しかった。 「ちょっと幸一郎さん、あたしの代わりにサインしといてよ」 「ムチャ言うなよ。あっ、ウッ……」 「待って、あたしが先よ」  小一時間ほどトイレを往復し、ようやく小康を得て、ふたりはトイレの前で顔を見合わせて微苦笑《びくしよう》した。 「フーッ」 「フーッ」 「あたしたち、こういうふうになりふりかまわずつきあえてたら、うまく行ったろうにね」 「そうだな」  二人は人ごみをかきわけるようにして、ロビーの隅《すみ》にあるコーヒーショップのテーブルにいた。  しばらくして、レジのあたりで歓声が湧《わ》き起った。見ると、頬《ほお》をピンク色に上気させ、スカイブルーの目の覚めるようなスーツに身を包んだ長島が、さかんにまわりに愛嬌《あいきよう》を振りまきながら大股《おおまた》でこちらに近づいてくる。 「やっ、遅《おく》れちゃって」  長島は軽く右手を上げてみせると、神崎の隣《とな》りの椅子《いす》にドッカと腰を下ろした。 「どう、きのうのテンプラおいしかった?」 「ええ、まあ」 「いやあ、出がけに川上さんと浅野コーチの入院騒ぎがあってね、大変だったよ」 「えっ!」 「なんか食い合わせが悪かったらしいね。だから僕がきのうの残りのテンプラ揚げて持っていって食べさせてやったよ」 「ええっ?」 「いやがってたけどね、病人は栄養をつけるのが一番だからね」 「たっ、食べたんですか」 「だからムリヤリ食べさせたよ、ハハハ。まったく病人はわがままで困るよ」  陽気に笑う長島を見ていると、ベッドに寝《ね》たきりになってしまった川上たちが哀《あわ》れでならなかった。 「しかし神崎君、友人に話をしたらアメリカは子供まで英語をつかうというじゃありませんか。こりゃ少しふんどしをしめてかからなきゃいけないな」 「長島さん、ほんとうに弁護士として呼ばれてるんですか。参考人じゃないんですか?」 「何を言ってんの、裁判の四番として呼ばれたんですよ。そんな参考人程度で行くようじゃ、ファンが黙《だま》っていませんよ」  長島は自慢《じまん》げに鼻をピクリと動かし、みなまで言うなとばかりに胸をたたいた。 「万事、この長島に任しといて下さい」  瑠璃子が心配そうに神崎を見た。 「ねえ幸一郎さん、一緒《いつしよ》についてきてくれない。私の英語だって女子大で習ったっきりで自信ないのよ」 「僕だってできやしないよ」 「そんなこと言わないでよ。あたしお腹の調子が悪いのよ」 「そりゃ僕だって悪いよ。でも君が悪いからって僕は何をすりゃいいんだ」 「だから傍《そば》にいてよ」 「またそんなわがままを言う」  その神崎の言葉を長島が耳ざとく聞きつけ、 「ほう神崎君も一緒にいってくれますか。そりゃ助かるな。なにせロスまで十一時間ですからね。シートに座っているのも飽《あ》きるもんですよ。飽きたらキャッチボールでもしましょう」  と、まんざら冗談《じようだん》とも思えぬ口ぶりで言った。  空港のアナウンスが出発ゲートの案内と搭乗《とうじよう》手続きの開始を告げた。  長島が勢いよく立ちあがり、 「それじゃ神崎君、一緒《いつしよ》に行きましょう」 「いや、僕はパスポートを持って来てないんで、遅《おく》れてあとの便で行きます」 「じゃ、僕のを貸しましょう」 「はっ?」 「この長島にパスポートはいりません。『よっ!』これで充分《じゆうぶん》です。そういうもんですよ、スターってのは。よく北海道へ行くんですが、そんときも大抵《たいてい》、税関はフリーパスですもんね、ハハハ。バット一本ありゃこの長島通用しないところはありません、ハハハ」  長島の行くところすべて陽気な笑い声がある。新聞記者たちが、 「長島さん、もう教えてくれませんか。背番号『3』は一体誰に譲るんですか」 「東海高の原辰徳ですか」 「それともまだ小学生の清原ですか」  このストーブリーグは、なんといっても背番号3を誰が譲られ、誰が後継者として認められるのかが、一番の話題だ。長島は心中期するところがあるらしく笑ってこたえない。 「教えて下さいよ」 「お願いしますよ」  新聞記者たちは執拗《しつよう》に食いさがる。と、長島の顔が一瞬ひきつり、キョロキョロとロビーを見まわしはじめた。 「どうしました長島さん」 「ボールが来ます、いやボールじゃない、鉛《なまり》の玉だ」  長島はバットをひきぬき身構えた。その肌《はだ》がみるみるピンク色に上気しはじめ、全身の筋肉が緊張《きんちよう》し、盛《も》りあがるのがスーツの上からでもはっきりわかる。 「なっ、何が来るんです」 「あなた、まだわからないの」  瑠璃子の声がうわずり、顔色が青ざめた。 「ダメね、現役からしりぞくと。狙撃者《そげきしや》が長島さんに照準を合わせてるのよ」 「な、なんだって!」  胸のホルスターのピストルに手をかけ、あたりを素早《すばや》く見まわす神崎に、瑠璃子はハンドバッグの中から白球を取り出し、差し出した。 「さっ、投げて。握《にぎ》りはこうよ。肘《ひじ》をねじり込むように使うの。足は思いっきり蹴《け》りあげてね」 「しかし……」  ここは危険だ。広いロビーには千人ほどの客がいる。こんなところで渾身《こんしん》のドロップなど投げたら、一般の客を巻添《まきぞ》えにすることになりかねない。 「あなたの欠点は、ズバリ内角をえぐれないことよ。まちがったら人が死ぬかもしれないのよ。長島さんを助ける道は投げるしかないのよ!」 「しかし……」 「いくじなし、投げてみなきゃわからないじゃないの」  瑠璃子は涙ぐみながら神崎の胸をたたいた。 「あなたがあたしと別れようって言い出したときもそうよ。野球選手の寿命は短いから幸せにできないかもしれないって言ったわね。でも人間なんて暮してみなくちゃ幸せになれるかどうかなんてわかりはしないじゃない。それにあたしは野球選手と結婚したかったんじゃないのよ。あなたと結婚したかったのよ」  ボールを握りしめた神崎の手は汗でびっしょり濡《ぬ》れていた。 「来るぞ!!」  長島が叫んだ。  来るといっても一体どこから来るというのだ。  神崎は血走った目を広いロビーに走らせ、身構えた。  そうだ、あの二階からだ!  神崎の中に現役時代の勘《かん》がよみがえった。  と、突然《とつぜん》、 「あっ、殺気が消えた!」 「うっ、投げてこないのか!」  長島と神崎が同時に叫んだ。  その時、狙撃者《そげきしや》のいるはずの二階のロビーの方でざわめきが起こり、警備員たちがロビーを横断するように駆《か》けていった。  神崎がその中の一人をつかまえ、警察手帳を見せ、かみつくように言った。 「なにがあったんだ」 「男の人が血だらけで倒《たお》れたらしいんです」 「えっ」  長島が顔を輝《かがや》かせ、すかさず言った。 「その人まだ息がありますか」 「はい」 「じゃ素振《すぶ》りやらせて下さい。素振りが一番です」 「素振り? あんた頭がおかしいんじゃないですか」 「いえ、私はガンの末期患者も素振りをさせて治したんです」  その警備員はそこでようやく長島に気づいたらしく、口の中で小さく声をもらした。 「わっ、わかりました」 「私も一緒《いつしよ》に行ってあげましょう。下手《へた》な医者にいじられたら大変だ」  長島が二階ロビー目ざして走り出し、神崎と瑠璃子もそれに続いた。  階段を駆けあがると、徳光が泣きながら肩口《かたぐち》の包帯から血をにじませている男を抱《だ》きかかえていた。その男は長島そっくりだった。 「チョーさん、シーちゃんが」  徳光が涙で頬《ほお》をぐっしょり濡《ぬ》らし、長島を見上げた。腕の中の男は右の肩から血を流し、すでにこときれていた。横浜の三号桟橋に現われた長島は、この男だったのだ。 「徳さん、わけはあと。さっ、シーちゃん素振《すぶ》りだ。起きろ」  長島は男をひきずり起こし、むりやりバットを握《にぎ》らせようとした。 「チョーさん、シーちゃんはもう息がないよ」 「いや、大丈夫《だいじようぶ》だよ」  長島は男をうしろから抱《だ》きかかえるようにしてバットを握らせている。 「ほら息を吹きかえしてきた」 「あっ、ほんとだ」 「あとは注射だ。素振りに注射、これが一番だ」  男の傍《そば》に転がったライフルを徳光が拾いあげ、胸に抱きかかえるようにした。  駆《か》けつけた救急隊が、男を病院へ運んで行った。  搭乗《とうじよう》アナウンスがロスアンゼルス行きの最終案内を始めた。 「あっ、時間だ。徳さん、病院でもちゃんと素振りさせるんだよ」 「わかりました」 「さっ、行こう」 「僕はのこって徳光に事情を聞きます」 「なんの事情です? すべてはこの長島がお見通しですよ」  と、徳光からライフルを取り上げ、ゴミ箱に投げ捨てた。 「おもちゃですよ、こんなもの、さっ、行きましょう」  長島が強引に神崎の腕を引いた。  送迎デッキに出た徳光は、長島たちの乗り込んだJAL五〇八便が飛び去る空をいつまでもにらみつけていた。  �長島を一番愛している人間が、長島を殺す権利がある�  徳光は長島に抱かれていた永島茂夫に異常な嫉妬《しつと》を感じていた。徳光は空をにらみつけたまま、愛する男にむけて静かに心の照準を合わせた。    ジャンボ機が離陸《りりく》するなり、瑠璃子がささやきかけてきた。 「長島さんはすべて知っていたのね」 「ああ」  長島は機内に入っても、隣りの外人とカタコトの英語で陽気にしゃべっていた。カタコトの英語といっても、ほとんど日本語で、日本にきている外人が「私は」を「ワタッシワ」とおかしなアクセントでしゃべるのと同じ言いまわしで言っているにすぎない。それで通じるのだから偉《えら》いものだ。  禁煙《きんえん》とベルト着用のランプが消えた頃、瑠璃子が、陽気に外人とトランプをする長島の十くらい後ろの席に、病院を抜け出した川上と浅野が座っているのを見つけた。  ふたりはゲッソリやつれていたが目だけは異様な光をおびていた。  すでにドジャースのオマリー会長にライフルを一挺《いつちよう》用意するよう連絡を入れてある。「殺される前に殺すのだ」ふたりは目をらんらんと輝《かがや》かせ、こぶしを握《にぎ》りしめた。  神崎は席を立ち、川上たちに近づいた。 「やあ、川上さん」 「よっ、よう、きっ、奇遇《きぐう》だな」  ふいを突《つ》かれ、ふたりは狼狽《ろうばい》した。 「お身体《からだ》もういいんですか」 「あっ、ああ」 「アメリカには大リーグの視察かなにかで?」 「いや、ちょっとソゲキに」 「えっ」 「いや、なんでもない」  川上はしどろもどろになった。  その時、機内にスチュワーデスの案内が流れ出た。 「みなさま、ようこそ日本航空をご利用下さいましてありがとうございます。本日のディナーの予定でございますが、お客様の中に、ミスタージャイアンツ、長島茂雄様がお乗りになっています。長島様は料理に大変、ご造詣《ぞうけい》が深く、本日は特別にテンプラを揚《あ》げて、みなさまにふるまいたいとおっしゃってくださいました。どうぞご賞味下さいませ」  客たちの「ウォーッ!」という歓声の中、長島は立ちあがり陽気に手を振った。 「テンプラ!!」  瑠璃子が口元を押さえ、トイレに走った。神崎も胃から酸っぱいものがこみあげてきた。  川上と浅野は弾《はじ》かれたように席を立つと、 「おろしてくれ。途中下車だ。わしは死にとうない」  と非常口のハンドルをあけに走った。    午前九時にロス国際空港に到着したJAL五〇八便からは、筆舌に尽くしがたい異臭《いしゆう》が漂《ただよ》っていた。他の飛行機の機長や空港職員も臭《くさ》くて近寄れないほどだった。  タラップを降りてくる客は、みな顔面|蒼白《そうはく》で、十時間にも及ぶ激しいトイレの奪《うば》いあいで疲労困憊《ひろうこんぱい》していた。  神崎も瑠璃子も脱水《だつすい》状態で、肌《はだ》はカサカサに乾き、目には黒い隈《くま》をつくっている。  そんな中で、ただひとり、長島だけが元気いっぱいで、カリフォルニアの刺《さ》すような陽差《ひざ》しを浴び、まるで水を得た魚のように晴れ晴れとした表情をしていた。  神崎たちは、そのままホテルで眠《ねむ》りたかったが、ロスアンゼルス地裁に直行するという長島に無理矢理《むりやり》タクシーに押しこまれた。 「いやあ神崎さんたちは幸せだよ。僕のテンプラを二度も味わえるなんて」  瑠璃子がまた吐《は》き気を催《もよお》したか、顔をしかめてタクシーの窓をあけた。 「今夜はね、知り合いの日本料理屋でパーティーをする予定なんだ。一緒《いつしよ》にどう?」 「いえ、けっこうです」 「えっ、この長島の誘《さそ》いを断ったのは君たちが初めてだよ。川上さんと浅野さんたちだって来るっていうのに」  長島はプイと横を向き、それっきり口をきこうとしなかった。    ロス地裁の小法廷で、検事が容疑事実の説明を行っている間中、長島はまるでそれに耳を貸そうとせず陪審員《ばいしんいん》に色目を使い、しきりに愛嬌《あいきよう》を振りまいていた。  アメリカの裁判の有罪無罪は、十二人の市民からなる陪審員の投票によって決められる。今回の裁判では、加害者と被害者がともに野球選手ということもあって、特に元大リーグの選手たちやその関係者ら十二人が陪審員に選ばれていた。  十二人の陪審員たちは、長島得意のスマイル作戦に、ときおりクスリと笑いを洩《も》らすものの、金にあかせて野球選手を買ってゆく日本人に反撥《はんぱつ》を抱《いだ》いているらしく、そのほとんどが腹の中では長島をせせら笑っている様子だった。  が、長島はそんなことはまるで意に介《かい》さず、これでもかこれでもかとばかりにカタコト日本語で媚《こび》を売りまくっていた。  大きなガラス窓から差し込む陽差《ひざ》しが、汗の浮いた長島の顔をテラテラ光らせていた。  そして傍聴席《ぼうちようせき》には、そんな長島を複雑な目でにらみつけるオールジンギスカンの一団がいた。  彼らは、まさか長島が本当に弁護に出てくるとは思わなかったのだろう、明らかに動揺《どうよう》していた。彼らは、どことなく長島に顔つきが似ていた。  瑠璃子は力なく目の前の連邦ビルを指さし、 「あの場所からは長島さんを狙《ねら》えるわね」  と言いながら下腹を押え顔をしかめた。二日続きのテンプラで、体内のすべてを排泄《はいせつ》したかのようにゲッソリやつれていた。    瑠璃子の指差した連邦ビルの屋上には、ライフルをかかえた川上と浅野がいた。  ライフルをセットしては便所へ行き、戻《もど》ってきてはまたセットしなおして便所へ行く。二人は完全に狂《くる》っていた。 「とにかく殺される前に殺すんだ」 「はい」  スコープをのぞきながらそう気張ったとたん、二人をまた強烈な便意が襲《おそ》った。 「今夜もテンプラに誘《さそ》われてるんだ。わしら絶対に殺されるぞ」  川上の目は焦点《しようてん》が定まらず、すでにうつろだった。    江夏は被告席ですがるような目を神崎たちに向けていた。あの強気をもって鳴る江夏が、 「よう来てくれはりました。アメリカの弁護士は大阪弁をよう通訳しよらんのです」  と心細そうに訴《うつた》えかけてくる。  一見してやり手とわかる鋭《するど》い目をした検事の、容疑事実の陳述《ちんじゆつ》が終っても、長島はなおも陪審員《ばいしんいん》に愛嬌《あいきよう》を振りまきつづけ、さすがに見かねた裁判長がコメカミの青筋をふくらませ、木槌《きづち》で机を叩《たた》いて注意をうながした。 「瑠璃子、検事は何と言ってるんだ?」 「豊さん相当、分が悪いみたいね。いつものあのふてくされたような態度から、殺意があったと判断されたようだわ」 「なんやて、チョーさんはどう答えてはるんや」 「いえ、その、オーケーって言ってるのよ」 「オーケー!?」  江夏が泣きそうな声をあげた。 「……瑠璃ちゃん、ほんとにチョーさんは英語ができるんやろか」 「さあ」  長島に英語などできるわけがないのだ。見ていると、どうやら検事もそのことに薄々《うすうす》気がついているらしい。が、そのくせ、検事が「ユー アンダスタンド?」と問いかけると、自信ありげに「オウ イエス アンダスタンド」と相槌《あいづち》を打つものだから、検事も気味悪がっている。  突然《とつぜん》、瑠璃子が「あっ!」と声をあげ、頭をかかえた。 「どうしたんですか?」 「長島さん、江夏さんに殺意があったことを認めたの」 「なんやて!」  さしもの江夏が飛び上がり、長島の袖《そで》を引っぱった。 「ちょっとチョーさん、テキはわしに殺意があったかどうか聞いとるんやおまへんか。それを認めたら、わし縛《しば》り首でっせ」 「オーケー、オーケー」 「オーケーじゃ困りますがな。なあ、瑠璃子はん、この人、ほんまに喋《しやべ》れますんか?」  と、すかさず長島が、 「イエース」 「イエスとオーケーばっかりで、ほんま難儀《なんぎ》なこっちゃ」 「マカセナサイ」 「マカセナサイってそりゃ英語やおまへんで。日本語の外人読みや」  が、長島は、検事が懲役《ちようえき》二十年を求刑しても、笑顔で「プリーズ」を連発している。 「プリーズは困りますがな、誰ぞ弁護士を代えてえな!」  すると、長島は何を思ったか、突然《とつぜん》、 「リメンバー パールハーバー!」  と叫び出し、廷内の人々が色めきたった。そして、長島の「リメンバー パールハーバー!」の声に応《こた》えるように、江夏を指差し、「キル ザ ジャップ、キル ザ ジャップ」の大合唱が巻き起った。 「こっ、こりゃ完全に縛り首や……」  江夏が目を点にして、うつろにつぶやいた。  長島は完全に自分が受けているものと錯覚《さつかく》し、「リメンバー パールハーバー!」を連呼していた。  長島が顔を紅潮させ裁判長に握手《あくしゆ》を求めに行こうとした時、巨大なガラス窓が音をたてて崩《くず》れた。  長島を狙《ねら》ったライフルの銃弾《じゆうだん》は、裁判長に礼をした長島の頭をかすめて、江夏のいる被告席にめり込んだ。  突然《とつぜん》の長島|狙撃《そげき》と、混乱した廷内の収拾不可能な状態によって第一日目の裁判が中断したまま、裁判長は閉廷を命じた。  長島は宿舎のホリデイ・インにもどっても興奮さめやらぬ口調で、 「いや、とにかくアメリカはこわいですよ。どこからピストルの弾《たま》が飛んでくるかわかりませんものね。いやご心配なく、明日はちゃんとバットを持って行きますから」  と、唾《つば》を飛ばさんばかりにまくしたてたかと思うと、 「どうします、今朝話した知り合いの日本料理屋、行きませんか」 「まさかそこで長島さんがテンプラを揚《あ》げるようなことはないでしょうね」 「なに言ってるんです、この長島がアメリカに来てテンプラ揚げずに帰ったとなると、ファンが黙《だま》ってません」 「いや、その、結構です」 「そうね、あたしたちあんまり食べたくないものね」  神崎と瑠璃子はひきつった笑いを返した。 「長島の誘《さそ》いを断って畳《たたみ》の上で死んだやつはいませんよ」 「いや、ですから、その、長島さんのアメリカでの活躍を日本の新聞社に送らなきゃいけないんですよ」 「見え透《す》いた嘘《うそ》をつくんじゃない」 「はっ、すいません」 「この長島が日本にいなくて新聞が出るわけがない。長島のいない時は新聞は休刊に決まってます」 「はあ?」  見かねて瑠璃子が助け船を出した。 「ほら、休刊日でもみんな長島さんのこと知りたがってるんですわ。だから今度から号外を出すことになったんです」 「なんだ、そうならそうと初めから言ってくれなきゃ」 「すいません」 「しかし今日の裁判、アメリカ人ってのはタチが悪いですな。もろ英語で来ますもんね、まいりますよ。私のブロークンじゃ手に負えないかな。とにかくヒアリングがせいいっぱいで汗のかきどおしでした。でも最後に笑うのはこの長島です。ご安心下さい。明日《あす》は一発ユニフォーム姿でおどかしてやりますかな。僕のユニフォーム姿天下一品ですもんね」  長島は部屋の大鏡《おおかがみ》に全身を映し、ポーズをとってはひとり悦《えつ》に入っていた。  神崎はとりあえず、ロス警察に連絡をとり長島を厳重警戒し、二十四時間体制でガードしてくれるよう依頼《いらい》した。  日本料理屋へテンプラを揚《あ》げに行くという長島を送り出し、神崎と瑠璃子はホッとひと息ついた。 「しかし、今日の狙撃《そげき》は一体誰がやったのだろう」 「直感だけで言うのは悪いんだけど」 「言ってごらんよ」 「徳光さんがやったんじゃないかと思うの。成田を発つときの長島さんを見る目が異常だったわ」 「でも徳光はロスにはいないよ」 「それもそうなんだけど。あたし、東京で徳光さんがバーのカウンターにとりすがって長島さんの名前を呼びながら泣いていたのを見たことがあるのよ」 「どういうバーだ?」  と、瑠璃子は顔をしかめ、言いづらそうに、 「あたしも映画のプロデューサーから無理矢理《むりやり》連れて行かれたとこでよくわかんないんだけど」 「だから、どういうバーだと聞いてるんだ」 「……あの男の人が女装するバーなのよ」 「えっ!」 「徳光さん、そのお店の常連らしくって、金髪《きんぱつ》のかつらをかぶって赤いロングドレスを着て派手なお化粧《けしよう》してたわ。ベロベロに酔《よ》っ払《ぱら》ってカウンターに突《つ》っ伏《ぷ》して長島さんの名前をつぶやきながら声を出して泣いてたのよ。徳光さんの長島さんへの思い入れって、尋常《じんじよう》じゃないみたい。私、ゾッとしちゃったもの」 「フーン」 「私はものの一分もしないで帰ったのよ、信じて」 「それはいいよ」 「ほんと。じゃもうこんな話やめて食事でもしましょう」 「……そうだね」 「テンプラ以外のものをね」  ふたりは顔を見合わせ、どちらからともなく吹き出した。    ホテルの最上階のレストランから見下ろすロスの夜景は、郊外へ帰る長い車の列が赤い尾灯《びとう》をひき、まるで光の大河のように思えた。  腹の調子は良くなく、神崎はディナーを食べきれなかったが、機内のテンプラパニックの様子を話しては笑いあい、楽しかった。  キャンドルライトの揺《ゆ》れるカクテルラウンジでブランデーに頬《ほお》を上気させながら夜景に見入る瑠璃子にボソリと告げた。 「この事件が終ったら刑事を辞めようと思うんだ」 「そう」 「そしてトレーニングしてプロテストを受けてみる」 「えっ」 「この年で難しいと思うが、もう一度プロのマウンドで投げるのが夢だったんだ」 「そうね」 「それが終ったら、結婚してくれないか」 「えっ」 「就職は小寺にたのんでキャッチボール屋を手伝わせてもらうつもりなんだ」  瑠璃子が肩を震《ふる》わせ、うなずいた。    肩を寄せあうように部屋に戻《もど》り、神崎が明りを消そうとしたとき、電話のベルが鳴った。日本から国際電話が入ってるという。  瑠璃子は、「もう」とかわいく拗《す》ねたように舌打ちした。 「神崎、オレだ、二田川だ」  せき込むような声の調子だった。 「どうした」 「結城さんが多摩川の二軍練習場で殺された」 「なに!?」 「いま、そっちの時間は何時だ」  神崎はサイドテーブルのデジタル時計を見た。 「十一時だ」 「じゃテレビをつけてくれ。ABCのジャパンニュースでやるはずだ」 「わかった、電話は切らないでくれ」  神崎が身体《からだ》をのばすようにしてスイッチをひねると、テレビの画面には、ヤジ馬と報道陣でごった返す巨人軍の二軍練習場が映し出されていた。 「どうしたの?」 「結城さんが殺された」 「まあ」  瑠璃子が身ぶるいしながらすがりついてきた。  カメラが不安げな表情の選手たちをかきわけ、雨天練習場に入ってゆくと、天井《てんじよう》から何本ものマグロが吊《つる》されている中、ひときわ大きい百キロほどのマグロが一本|床《ゆか》に下ろされ、その脇《わき》に両手両足を縛《しば》られ、猿《さる》ぐつわをかまされた男の死体が転がっていた。  多摩川署の刑事が、インタビューを受けていた。 「いやあ、もうひどいもんです。マグロの中に人間が入ってたんです。それを知らずにバットでガンガン叩《たた》いたもんだから、骨はグチャグチャ、クラゲみたいになって死んでましたよ」  結城は魚肉にまみれ、全身|打撲《だぼく》で血だらけの無残な姿をさらしていた。  瑠璃子が思わず口を押え、画面から目をそむけた。 「二田川、これは一体どういうことだ」 「鮫島《さめじま》たちが動き出したんだ。オレは今日、検察庁に鮫島と大前田官房長官の逮捕状《たいほじよう》を請求《せいきゆう》した」 「大丈夫《だいじようぶ》か」 「結城さんが資料を残してくれていた。裏もとれている。伊藤さんや明智をやったのもみんな鮫島たちだ」 「鮫島はともかく、現職の官房長官は逮捕できんだろう」 「ところが法務大臣から総理に打診《だしん》したところ、やむをえんというんだ」 「どういうことだ」 「実際のところ、大前田を刺《さ》したのはアメリカらしいんだ」 「なにっ」 「蒙古藻《もうこも》の精製権をアメリカも欲しがっているというわけさ」 「うーむ」 「そっちに長島がいるな」 「ああ」 「北モンゴル共和国は蒙古藻の精製権をアメリカに渡すか日本に渡すか迷っている。だからアメリカは明日《あす》の法廷で長島がジンギスカンの子孫ではなく、その料理人の子孫だとバラす腹だぞ」 「なにっ」 「そうなったら生きては帰れんぞ」 「…………」 「それとな、村山さん、元佐倉に行ったらしいぞ」 「だったら村山さんもあぶないじゃないか」 「オレは鮫島のことで手がいっぱいなんだ」 「わかった。オレが日本に帰ってなんとかする」 「おまえのことだからまちがいはないと思うが、充分《じゆうぶん》気をつけろよ」 「長島は日本の宝だ、もしものことなんかあってたまるか」 「……実はな、オレ、長島好きのアンチ巨人なんだ、ハハハ」  二田川はそう言って電話を切った。  神崎は拳銃《けんじゆう》を取り出し、弾《たま》を込めた。  しかし、すべてが鮫島の陰謀《いんぼう》とすれば、誰が明智を殺すドロップを投げたのだ。 「せっかくいいとこだったのに」  瑠璃子が興ざめしたようにサイドボードのポーチから煙草《たばこ》を取り出した。 「瑠璃子、いまから屋上にいって沢村のドロップの投げ方を教えてくれないか」 「いやよ。もうこんな事件、こりごりよ。あたしはあなたと結婚して女優もやめるの」 「長島のためだ」 「なによ、長島、長島って。あたしたちには関係ないことじゃない。あなたも刑事をやめて幸せになりましょうよ」  瑠璃子は煙草を灰皿《はいざら》にもみ消し、明りのスイッチに手を伸ばした。  神崎はその夜、一睡《いつすい》もすることができなかった。  瑠璃子は満足そうに神崎の腕を枕《まくら》に軽い寝息《ねいき》をたてている。  やはり日本の捜査権《そうさけん》がおよばないアメリカで拳銃《けんじゆう》を発射するわけにはいかない。やはり白球で勝負するしかないか。    裁判二日目。  二田川の電話で覚悟《かくご》はしていたが、案の定、陪審員《ばいしんいん》の顔ぶれがガラリと変わっていた。全員ガムをニチャニチャかみながら、意味ありげにニヤついている。  被告席でうなだれる江夏はすっかりしょげかえり、一夜で髪《かみ》を白くしていた。 「なあ神崎はん、弁護士かえてもらえんやろか」 「でも長島さんがやることですから」 「困ったなあ。わて小さい頃からおやじに長島はんは天皇陛下より偉《えら》い人やて聞かされて育ちましたよって、ムゲにできんし」 「…………」 「きのうの陪審員の人たちが言いよった�キル バイ ハンギング�ちゅうのは、吊《つる》して殺せという意味でっしゃろ。それなのに、あの人、バイキング料理が用意されてると思って、イエス オーケーでっしゃろ、参りますわ。どうでっしゃろ。わし二、三年くらいなら刑務所行ってもええさかい、裁判長にそう言うてもらえんやろか。このまま長島はんに弁護頼《たの》んだら、確実に死刑ですわ」 「そうね、それがいいかもしれないわね」 「瑠璃子、バカなこと言うなよ」 「だってあたし、早く二人きりになりたいんだもん」  頼みの瑠璃子にそう言われ、江夏は青くなって身震《みぶる》いした。 「瑠璃ちゃん、アホなこと言わんといてや。あんたらに見捨てられたら、わし、どないなりますねん。とにかく早よう、長島はんの来る前に……あっ、来よった」  そのとき、まぶしいほど白いユニフォームを着た長島がバットをぶら下げて入廷して来た。 「やっ、お待たせ」  長島が陽気に手をあげ、背中を参考人席に向けたとたん、オールジンギスカンの大男たちがいっせいに「ウオッ!」と叫んで立ちあがった。長島のあまりのユニフォームの見事な着こなしに、ほれぼれと見とれているかのようだった。事実、彼らの目にはなによりも、その背に「3」の数字が輝いて見えていたのだ。  大男たちが、われがちに叫んだ。 「王よ、ジンギスカンよ、共に闘《たたか》ってくれるというのか」 「オー、イエース」 「そうだ、われらが王は日本に逃げたのではない。いつの日にか立ちあがるために時を待っていたのだ」 「オー、イエース」 「やはりあなたがジンギスカンでしたか。どれほどお会いできる日を楽しみにしておりましたことか。さっ決戦の日は近づいております。和を討《う》つの志をなさずして蒙古《もうこ》はありません」 「オー、イエース」  涙ぐむ者もいれば、その背番号3に両手を合わせひれふす者もいる。  アメリカの陪審員《ばいしんいん》がいっせいに立ちあがり叫んだ。 「彼はジンギスカンではない。テンプラを揚《あ》げて侵攻を失敗させた料理人にすぎない!!」 「テンプラ、イエース。アイ アム グルメ」  長島の言葉に廷内がいっそう騒然《そうぜん》となった。  オールジンギスカンの若者が、 「しかし、この背番号3のついたユニフォームはジンギスカンしか着こなせない」 「ちがう」  陪審員《ばいしんいん》の一人が、法廷のうしろの方に隠《かく》れていた日本人らしい目の鋭《するど》い初老の男を指差し、 「なんとかしろ!」  と怒鳴《どな》った。  その男はボールを持ち、長島をにらみつけた。 「お父さん、もう人殺しはやめて!!」  瑠璃子が目にいっぱい涙をためて、金切り声をあげた。  神崎は遂《つい》に目の前に姿を現わした伝説の男、沢村栄治《さわむらえいじ》をまじまじと見つめた。    神崎たちが羽田に着いたのは次の日の昼下がりだった。  九死に一生を得て帰国した江夏は、税関を出たとたん、生き返ったように大きく深呼吸した。 「やっぱ日本はええなあ」  長島がそんな江夏を見やりながら軽い調子で言った。 「しかし、オールジンギスカンの人たちには気の毒なことをしたよ。でも、僕のようなオッチョコチョイがジンギスカンの子孫なわけないものね、ハハハ」 「けど、彼らショックやったでっしゃろな。なんせ長島はんがジンギスカンの末裔《まつえい》やのうて、逆に日本侵攻のとき、テンプラ食わせて下痢《げり》させて敗走させた料理人の子孫と知った時には、みんなショックで泣いとりましたで。せめて背番号3だけでも返してあげりゃ良かったのに」 「いや、あれはあげたい人がいるんだ」 「誰ですねん?」 「ないしょ」  そのとき、徳光和夫がテレビカメラをかついだスタッフを連れて現われた。 「お帰りなさい、長島さん」 「あ、徳ちゃん、ただいま」  江夏がカメラの前に立ちはだかるようにして言った。 「おう徳ちゃん、あいかわらず長島行くところ徳光ありやなあ。いまな、背番号の話をしとったんやが、長島さんは徳ちゃんに背番号を譲《ゆず》るらしいよ」 「えっ、ほんとですか」  徳光の顔が輝《かがや》き、これ以上ないほど赤らんだ。  次の瞬間《しゆんかん》、徳光はポロポロ感激《かんげき》の涙を流しながら、声をあげて泣き出した。 「嬉《うれ》しいなあ、僕本当に嬉しいなあ」  それを見て、江夏の方がオロオロしはじめた。 「嘘《うそ》や。冗談《じようだん》や。民間人に譲れるわけないやろ」 「えっ」  徳光がショックでよろけた。 「そっ、そうですよね」 「しかし、徳ちゃんはチョーさんをほんとに好きなんやなあ」  江夏がすまなそうに頭を掻《か》いた。  徳光はつくり笑いを浮かべた。 「はっ、その、で、長島さんがジンギスカンの子孫だという説はどうなりました」  徳光の質問に、長島が屈託《くつたく》のない笑いを返した。 「そこなのよ、徳ちゃん。あのあとアメリカ側は、ジンギスカンが着ていた服に染み込んだ汗を分析《ぶんせき》して、血液型がO型だったという証拠《しようこ》を出してきたのよ。これはむろん、この長島の栄光のAB型とは明らかに違うよ。でもオールジンギスカンの若者には、よほどのショックだったんだろうね、来日を中止して国に帰ると言い出したんだ。二、三人、いい若者がいたんだ。コーチしてあげたいんだけどね」 「でも」  と、徳光はスポーツ紙を差し出してきた。  それを見ると、一面は、長島茂雄引退記念として行なわれる全日本対オールジンギスカンのこと、そして二面は、青田や千葉といったOB連までがその日を楽しみに往年のユニフォームを引っぱり出し、腕を撫《ぶ》しているという記事で埋《うま》っていた。  開催は明後日、場所は千葉県佐倉の長島茂雄記念球場で行なわれるという。  江夏が心配そうに神崎の顔をのぞき込んだ。 「どうしたらええんやろ」 「連盟に連絡が行ってるでしょう」 「せやけど、切符も売り出しとるというし、こら、混乱が起きるで」  が、当の長島はまるで意に介《かい》していないらしく、 「どうにかなるよ。ならないなら阪神の選手にちょっとメークしてもらって出てもらえばいい」 「そりゃそうやな」  と、江夏も納得してあっさりとうなずいた。  スポーツマンはどこまでも屈託《くつたく》がない。  そのとき、川上と浅野が死人のような顔をしてトランクを積んだカートを押して税関を出てきた。 「やあ川上さん」 「やあ」  手を上げて応《こた》える川上は、もうそれだけで大儀《たいぎ》そうで、カートを押すというよりも、それにすがりつくようにして神崎たちの前をヨロヨロと通り過ぎていった。  それを見送りながら江夏がけげんそうに言った。 「なんや、テンプラに当たったんかいな。長島はんに失礼やで」  長島は帰りの飛行機でもテンプラを揚《あ》げたのだ。 「江夏さん、なんともありませんか?」 「わしゃ、なんともないがな」  江夏は軽蔑《けいべつ》したように言った。  一流のスポーツマンは胃袋の出来が違うのだろう。  空港ターミナルを出ようとすると、大型の黒い車が止まり、医者に抱《だ》きかかえられるようにしてひどく衰弱《すいじやく》した様子の一力が降りてきた。恰幅《かつぷく》のよかった身体《からだ》が、ハリガネのように痩《や》せこけていた。  しかし、長島の顔を見たとたん、満面に笑みを浮かべ、駆《か》け寄ってきた。 「長島君、篠塚と江川を両方|奪《と》る方法が見つかったよ。一応ドラフトでは篠塚を一位指名しといてだな、江川の方はだな」  と、震《ふる》える手で野球協約のページをめくり、長島に差し示した。 「ほら、ここ読んでみたまえ、各球団のドラフト指名選手に対する支配権は、ドラフトの日から、翌年のドラフト前日までなんだ。つまり事務手続き上の空白の一日があるわけだ。だからこの日に、江川と契約してしまうんだ」 「へえ」  一力のはしゃぎぶりに比べて、長島はまるで興味のなさそうな顔つきをしていた。 「汚《きたな》い手だが、すべて私が仕組んだことにしてマスコミにリークする。だから、君には迷惑《めいわく》はかからんよ」 「でも、江川なんてあんまりいらないんですけどね。あの子、ほんとに野球が好きじゃないと思うんですよ。野球より金もうけが好きなんじゃないですかね」 「そっ、そうか……必死で考えたんだけどな。喜んでもらえると思ったんだ」 「まあ、オーナー心配することはありません。私くじ引きじゃちょっと自信がありますから」 「そっ、そうだね。じゃ、わしは帰るから」  一力はあまりの長島のつれなさに、ガクリと肩を落とし、医者に抱《だ》きかかえられるようにして、車に戻《もど》ろうとした。  長島がその淋《さび》しそうな背中に声をかけた。 「あのオーナー、背番号3をもらってもらえませんか」  一力が驚いたように振り向いた。 「私にくれるって言ってもキミ、私は民間人だぞ」 「そんなの関係ありませんよ」 「しかし」  一力は少女のように顔をあからめた。 「まあ、あんなものもらっても仕方ないかと思いますが、亜希子《あきこ》が、いちばんお世話になったオーナーに背番号3をお渡しするべきだって言うんですよ。ま、いわゆるひとつの内助の功なんでしょうがね。亜希子ってのはいい女ですよ。特に頭がいい。僕はそんなものより、ブランデーの一本も下げて行った方がいいって言ったんですけどね。第一、背番号は飲めませんものね」 「しかし」  一力はあまりの喜びに声を詰《つ》まらせた。 「せっかくの長島はんの好意でっせ。素直《すなお》に受けたらええがな」 「でも江夏君、そうは言っても……」 「受けとってもらえないと、亜希子に叱《しか》られますから。私を助けると思ってお願いします。さっ、ここで着て下さい」 「しかし」 「もう恥《は》ずかしがる年じゃないでしょう。それに顔色見たら、もう長くなさそうですよ」 「うんうん」 「うんうんと人ごとみたいに。オーナーには死相がでてるっていってるんですよ」 「うんありがとう」 「まあいい、さっ着ましょう」  旅行客たちが何事かと集りはじめたのもまるで気にすることなく、長島は手にした鞄《かばん》から背番号3のユニフォームを取り出すと、一力に着せてやった。 「僕のことを一番大事にしてくれたのは、なんといってもオーナーでしたものね」  一力の目から大粒の涙が溢《あふ》れ出た。長島の手を両手で握《にぎ》りしめ、何か言おうとするのだが胸がいっぱいで言葉にならなかった。 「よく似合いますよ。ほら、まわって」  一力は涙で顔をくしゃくしゃにして、ユニフォーム姿でクルリと一回転してみせた。そしてその泣き笑いした顔をもう一度長島に向け、 「ありがとう僕は幸せだったよ」  といったとたん、突然《とつぜん》全身を棒のように硬直《こうちよく》させ、その場に昏倒《こんとう》した。あわてて医者が抱き起こしたが、顔が激痛《げきつう》にゆがみ、脂汗《あぶらあせ》が全身の毛穴から吹き出した。苦しそうに胸をかきむしるその顔はみるみる血の気を失ってゆく。 「救急車を呼んでください!」  医者の声に、瑠璃子がはじかれたように公衆電話に走った。 「オーナー、素振《すぶ》りです。素振りをすれば治ります」  長島がバットケースからバットを取り出した。そして一力にそれを握《にぎ》らせようとしたが、むろん一力にそんな力は残っていなかった。  一力は薄《うす》れていく意識の中で、えも言われぬ喜びにうち震《ふる》えていた。滂沱《ぼうだ》の涙が純白のユニフォームを熱く濡《ぬ》らした。  けたたましいサイレンの音とともに救急車が到着し、救急隊員たちが飛び降りた。隊員たちは一力を担架《たんか》に乗せ、酸素吸入器のマスクを口元に当てがうと、きびきびした動作で車に運んだ。 「素振《すぶ》りやらせようとしたけど間に合わなかったんですよ。僕ですね、前に病院で素振りやらせて随分《ずいぶん》病人を助けたことあるんですよね」  長島が憑《つ》かれたようにくりかえした。  が、担架を救急車に固定し終ったとき、脈をとっていた医者が首を振り、静かに言った。 「ご臨終です」 「遺恨《いこん》試合だ!」  突然《とつぜん》、長島がすっとんきょうな声をあげた。 「何に対しての遺恨試合なんですか、落ち着いて下さい、長島さん」 「神崎さん何を言ってるんですか、僕を育ててくださったオーナーが亡《な》くなったんですよ、遺恨試合に決ってるじゃないですか」  長島の目から大粒の涙がポロポロしたたり落ちた。次の瞬間《しゆんかん》、長島はガクリと膝《ひざ》を折り、一力の遺骸《いがい》にとりすがって、あられもなく泣きじゃくり始めた。  立ちつくす徳光和夫《とくみつかずお》の目は殺意に燃えたぎっていた。    一力の遺体にとりすがる長島の姿を見て、瑠璃子がいつまでも泣いていた。  神崎と瑠璃子は、一力の遺体とともに都心に戻《もど》るという長島たちと別れ、空港からモノレールに乗り込んだ。  車内はオールジンギスカンとの一戦の切符を手に入れるため今日から徹夜《てつや》で並《なら》ぶのだろう、寝袋《ねぶくろ》やザックをかついだ人々で満員だった。  乗客たちの視線からのがれるように車窓に顔をくっつけ、暮れなずむ風景に見入る瑠璃子を、神崎は目を細めて見守っていた。  一瞬、まぶしい残光の中、背番号3のユニフォームを着て背中にバットをくくりつけ、馬にまたがり、何千何万という騎馬《きば》軍団を率《ひき》いてモンゴル平原を疾走《しつそう》する長島茂雄の勇姿を見たような気がした。 「何を考えてるの?」 「長島さんが本当にジンギスカンの末裔《まつえい》だったら楽しいだろうなと思ってたんだ」 「フフフ、そうね。でもオールジンギスカンの若い人たち、たとえ料理人の子孫だとわかってもいっぺんで長島さんの明るさにひかれたみたいね」 「うん、長島って人はそういう人なんだよ」 「でも一力さん幸せそうだったわね」 「うん」  一力はこれ以上はないというほどの幸せそうな死に顔をしていた。 「あなたも、ああして長島さんに抱《だ》かれながら死んでいきたいんでしょう」 「バッ、バカ言え」 「ウソ、顔にそうかいてあるわ」 「そんなことないって」 「じゃ、あの時、徳光さんがどんな顔してたか覚えてる」 「いっ、いや見なかった」 「ほら、ごらんなさい。あなたも徳光さんもうらやましそうに一力さんを見てたのよ」  神崎はあわててハンカチを取り出し、額《ひたい》の汗をぬぐった。  ぬぐってもぬぐっても次々と汗が吹き出して来る。  瑠璃子は、神崎を楽しそうにいたぶった。  二人は東京駅から総武線に乗った。車窓の右手の風景は、夕陽《ゆうひ》に照らされて朱を浴びたようで、思わず声をあげたくなるほどだった。  神崎は、ふと瑠璃子のまつげが濡《ぬ》れているのに気がついた。 「瑠璃子、アメリカにもう一日いて、お父さんとゆっくり話でもすればよかったのに」 「ううん、いい」  父、沢村栄治が出征《しゆつせい》したのは、瑠璃子が五歳のときだった。それ以来、瑠璃子は父はいないものと思い、生きてきた。お華《はな》を教えながら瑠璃子を育ててくれた母も、今は再婚している。  沢村は、インドシナでアメリカ軍の手先になって北モンゴルに潜入《せんにゆう》して、荒玉の指導をしながら蒙古藻《もうこも》を採取してアメリカに渡していたのだ。  きっと、伊藤も伊藤夫人も明智も、すべての殺人を犯したのは彼なのだろう。思えば哀《かな》しい人だ。 「村山さん、ほんとに元佐倉にいるのかしら」 「うん、きっとそうだ。村山さんに長島を救ってもらいたいんだ。あの人の心を和《やわ》らげるのは、それしかない」  神崎は村山の心境を思いやった。長島を愛する者は、みな心に傷がある。傷があるから陽気な長島に惹《ひ》かれる。が、長島はそんな人々を無意識のうちに傷つけてゆく。傷はひろがり、そして愛はつのる。  佐倉駅からほど近いホテルに着き、窓の外を見ると、すぐそばにオレンジ色の巨大な長島茂雄記念球場が見えた。神崎と瑠璃子は荷物を解くのももどかしく、所轄《しよかつ》の佐倉署に聞き込みに行くため、町の大通りに出た。町始まって以来のイベントが始まるとあって、通りは祭りのようなにぎやかさだった。実際、沿道には提灯《ちようちん》がつるされ、その下に露店がズラリと並《なら》び、祭りそのものと言ってよかった。 「こんなに大勢の人が集ってるんだから、今更《いまさら》中止にはできないでしょうね」  瑠璃子が困ったように顔をしかめた。  佐倉署で応対に出てくれたのは沼田という風采《ふうさい》のあがらぬ四十がらみの刑事だった。目が異常に落ちくぼみ、入れ歯なのかフガフガ物を言う。そして何かいうごとに頭をかき、そのたびにフケが飛び散った。 「本庁から連絡があり、私たちも写真を持って聞き込みにまわったんですが、たしかに村山さんは佐倉に来ています」  沼田は保全のためのビニール袋に入った、白い土埃《つちぼこ》りをかぶった黒い靴《くつ》を取り出した。  それは横浜の埠頭《ふとう》で村山がはいていたものに間違いなかった。 「これ、どこにあったんですか?」 「それが……」  沼田は言いにくそうに口ごもった。 「……実は元佐倉の村の入口なんです」 「その場所に案内してくれませんか」 「それだけは、かんべんして下さい」  沼田は、とんでもないというふうに身震《みぶる》いしてみせた。一体何を恐《おそ》れているのだろうか。 「どういうことですか?」 「いや、あの、実はその村の人たちは変わってましてね、極端に他所者《よそもの》を嫌《きら》いまして。いったん入るとなかなか出られないんですよね」 「えっ?」 「それに長島茂雄記念球場を元佐倉に建てなかったことで、かなり苛立《いらだ》ってるんです。どうです、試合が終わるまで待てば」 「バカなことを言わないで下さい」 「バカなことじゃないんです。ほんとに変わってるんです、あすこは」  沼田は耳をほじくりながらのらりくらりと言う。  神崎はいきなり沼田の胸倉《むなぐら》をつかんでねじあげた。 「ふざけるな! 村山さんにもしものことがあったら、おまえが責任をとるのか」  神崎の耳の奥に、村山の人なつっこいソフトな喋《しやべ》り口調がよみがえった。 「早く元佐倉の入口まで案内しろ。おまえはそこで帰っていい」  神崎の剣幕《けんまく》に恐《おそ》れをなしたか、沼田はしぶしぶ案内することを承知した。  絶壁《ぜつぺき》のような崖《がけ》を何度もまわり、佐倉署からパトカーで二時間も行ったところに元佐倉の村はあった。海が近いらしく、遠く近く潮騒《しおさい》が聞こえ、磯《いそ》の匂《にお》いがかすかに鼻孔《びこう》をくすぐった。  すでに夜のとばりはすっかり降りていた。 「へえ、こんなところで長島さん、生まれ育ったのか」 「じゃ、わたしはこれで」  村の入口の目印らしい道祖神のところで二人を降ろすと、沼田は逃げるように帰っていった。 「君も帰ればいいのに」 「もうあなたから離れないって言ったでしょ」 「だって仕事はどうするんだ」 「もう、うっちゃってるからどこも使ってくれるとこないわよ」  瑠璃子はニッコリほほえんで夜空を見上げた。 「うわー、きれい」  さすがここまで来ると空は限りなく澄《す》みわたり、降るように星が見える。  パトカーが見えなくなってしばらくすると、暗い森の中から村人らしい数人の男たちが現われ、たいまつを手に神崎たちを遠巻きにした。が、彼らはそれ以上、何をするわけでもなく、ただじっと奇怪《きかい》な目を向けてくるだけだった。  村人たちは全員、ジャイアンツの野球帽をかぶり、チャンチャンコを着てパッチをはき、スパイクをはいていた。 「やあ、こんばんは」  と神崎が声をかけると、村人のひとりが暗闇《くらやみ》からカン高い声を発した。 「燃えたか?」 「はっ?」 「燃えたかと聞いとるべ」 「はい、あの、もっ、燃えてます」  瑠璃子がそっと身をすり寄せてきた。 「あたし、なんだか恐《こわ》いわ」 「大丈夫《だいじようぶ》さ」  とは言うものの、神崎も名状しがたい不気味《ぶきみ》さを感じていた。 「何をゴチャゴチャ言っとるべ」  暗がりから焦《じ》れたように出て来た男の顔を見て、神崎が「アッ」と声をあげた。  その男は長島そっくりの顔をしていた。 「いわゆるひとつの何しに来ただか?」  男は喋《しやべ》り方まで長島に似ていた。 「いや、村山という人を探してるんです」 「いわゆるひとつの村山をリサーチに来ただか?」 「はい」 「返事は�燃えたね�と言うずら」 「村山さんはここにいるんですね」 「ヘン、オラの投げる球を打てたら教えてやるっぺ」 「はっ?」 「返事は�燃えたね�だべ」 「はあ�燃えたね�」 「よっしゃ」  神崎はバットを差し出した男の顔をまじまじと見つめた。見れば見るほど長島に似ている。 「そんじゃ、打ってみれ」  男が大きくふりかえった。が、神崎の構えを見て急に投球動作を中止して、プイと横を向いた。 「だめだ、そったら構えじゃ話にならん。哀愁《あいしゆう》も哲学もあったもんじゃなかっぺよ。オラ、あさっての全日本戦に殴《なぐ》り込んで先発して完封《かんぷう》するつもりのエースピッチャーずら。そったら素人《しろうと》相手に肩はつかわんでよ」 「いや、ちょっと君、すまないが、あいにく僕はピッチャー出身なので、僕の球を打てたら教えてくれるということにしてくれないか」 「ピッチャーだからってバッティングをおろそかにしていいって法はないっぺよ。そったらことだから大和《やまと》の野球は堕落《だらく》したっぺよ」 「すっ、すまない」 「まあいい。あんだの正直なところに免《めん》じて許してやるっぺよ。おい」  男が口笛《くちぶえ》を吹いた。すると暗闇《くらやみ》から、またひとり長島そっくりの男がバットをぶらさげて現われた。 「みなさん長島そっくりな顔してるんですね」 「ああ、東京さ行ったシゲは一番できの悪かった男ずら」 「と言いますと」 「三割三十本なんて、元佐倉じゃ子供でも打つっぺよ」 「そうですか」 「来た球を打つ? こくでねえ。そっだこど、あったりまえでねえの」 「そっ、そうですね」 「来た球を打たなんだら、何を打つだ、そうだっぺ?」 「はい」 「それがシゲばっかりちやほやされてよお。大きな声じゃ言えんべが、あいつは村長の息子だから威張《いば》っとるずら」 「うんだ、うんだ」  まわりの男たちがいっせいにうなずいた。 「さっ、ノボルが相手するっぺよ」  ノボルという男は片膝《かたひざ》をつき、ウェイティングサークルで打順を待っていた長島そっくりの男だった。 「さあ、投げてみれ」  神崎はボールを受け取ると、軽く肩ならしをしてバットを持った男と対峙《たいじ》した。 「おい、何しとるだ」 「はっ、肩慣らしを」 「ド素人《しろうと》が、カッコつけるでねえ」 「はっ、すいません」 「さあ、投げろや」  男は尻をやたらうしろに突《つ》き出した、いわゆる屁《へ》っぴり腰《ごし》の構えで、その尻をくねくね動かしてリズムをとっている。こんなに腰が引けていては、打てる球も打てなくなる。カッコばかりの素人打法だ。 「いいんですか?」 「四の五の言わずに早よう投げろや」 「はい」  神崎は力いっぱい外角カーブを投げた。 「モワタ!!」  と叫んだものの、男のバットは空を切り、勢い余って、その場に尻もちをついた。バットとボールは二十センチ以上|離れていた。 「なんだ今の球は」 「はっ?」 「インチキしたな」 「いえそんな……」 「どこまで性根が腐《くさ》っとるだ。オラ、いまインチキするでねえって言ったばかりでねえか」  男は脳天が割れるようなカン高い声で言うと、しきりに首をかしげながら再び打席に立った。  が、二度目も同じようにカーブに泳いで空振《からぶ》りして、大きく尻もちをついた。 「インチキするでねえ!」  男は思いっきりバットを地面にたたきつけた。  それを合図のように、闇《やみ》の中からウォーという声がわきあがり、人々が神崎のまわりに集ってきた。どの顔もどの顔も、長島にひどく似ていて、瑠璃子が気味悪がってしがみついてきた。  神崎を取り囲み、みな興奮した口調で口々に喋《しやべ》りたてた。 「どうしてすぐ反省してインチキやめねえだ」 「だからインチキなんかしてませんよ」 「インチキでなきゃ村一番のスラッガーのノボルが尻もちつくはずがねえっぺよ」  顔は長島ソックリだが、でっぷりと肥えた男が言った。 「うんだ、うんだ」 「いまのインチキ教えろや。教えるまでこの村は出さんずら」  さすがの神崎もカッとした。 「村山さんはどこです」 「いまのインチキ教えたら連れてってやるべ」 「インチキじゃないと言ってるでしょうが」 「こん男はいっぺん性根をたたき直してやらんとわからんずら」 「わかりました、インチキでした。教えます。だから村山さんに会わせて下さい」 「最初っからそうやって素直《すなお》になればええだに。こっちだ。ついてくるっぺ」  男は意外に愛嬌《あいきよう》のある笑い顔を見せた。 「はっ、はい」  神崎たちは手に手にたいまつを持った村人たちに案内され、深い森をくぐった。   「神崎さん、ほら、あれ」  瑠璃子の言葉にうながされ、指差す方向を見ると、利根川の支流らしい川の土手の上で、夜間照明に照らされた村山が憑《つ》かれたように若者たちにピッチング練習をさせていた。 「あの先生、いい球投げるだども、マグロの食いすぎでシンキングベースボールにならんずら」  男が困ったように言った。 「あんたたち、シンキングベースボールが何か本当にわかってるんですか」 「うむ」 「もういい」  神崎があわてて駆《か》け寄っても、村山は一心不乱で、コーチを止めようとしなかった。 「村山さん、どうしたんですか!」  神崎がその肩をつかんで激しく揺《ゆ》さぶってはじめて、村山は憑《つ》きものが落ちたように我に返った。 「ああ、いわゆるひとつの神崎さんですか」 「村山さん、一体何をしてたんですか?」 「何をって、そう私はいままでひとつの何をしてたんだろう?」 「はあ? とにかく宿に行きましょう」 「わかりました。いわゆるひとつの宿舎のホームラン寺にご案内します」 「ホームラン寺!?」  村山は、若者たちに向って、 「おまえたち、いわゆるひとつの五百球の投げ込み開始! モワタ!」 「モワタ!!」  村山はガッツポーズをとり、神崎たちをホームラン寺へ案内した。  村のはずれにあるホームラン寺は、一見何の変哲《へんてつ》もない古寺に見えたが、本堂の屋根の中央に白球を模した巨大な銅製の玉が乗っていた。そして、建物の柱という柱がすべてバットの形に仕上げられていた。  そして村山は、お堂に入るやいなや、庫裡《くり》に声をかけ、「マグロ・アンド・チー」という耳なれぬものを持ってくるように言った。 「なんですか、村山さん、マグロ・アンド・チーって」 「おいしいんです、とにかくいわゆるひとつの」  村山の手が突如《とつじよ》、何かの中毒症状のようにブルブル震《ふる》え出した。 「どうしたのかしら?」 「麻薬中毒にされたんだ」  村山は「モワタ、モワタ」とつぶやき、待ちきれないらしく、部屋の中を苛《いら》ついた様子で歩き回った。 「村山さん、落ち着いて話してくれませんか!」  神崎が声を荒《あら》げると、村山は急に身体《からだ》の力が抜けたように崩《くず》れ落ち、オイオイ声をあげて泣きじゃくり始めた。 「神崎さん、ここはいわゆるひとつの恐《おそろ》しい町です」 「その�いわゆるひとつの�を使わずに話してくれませんか」 「もう治らないんです」 「村山さん、長島さんを守り切れません。あなたしかいないんです。狙撃《そげき》はまだ続いてるんです。しっかりしてください」  そのとき、ふすまの向こうから「先生、マグロ・アンド・チーを持って来たっぺよ」という声が聞こえた。  受け取りに行った瑠璃子が、ふすまを開いた瞬間《しゆんかん》、「アッ!」と声をあげた。  入って来た小僧《こぞう》は、つるつる頭で小柄《こがら》だが、長島にソックリの顔をしていた。 「どうも」  とカン高い声で言って右手をヒョイと上げると、ニコニコ人なつっこい笑みをうかべた。  村山が小僧の持ったマグロ・アンド・チーをむしりとったかと思うと、猛烈《もうれつ》な勢いでむさぼるように食べ始めた。  小僧は冷ややかに村山を見やりながら、 「長島のシゲは元佐倉の宝ずら。おめえらの天皇陛下より偉《えら》いっぺ。もし、おどしめるような奴《やつ》がいだら、どんなことでもするがんな」  と憑《つ》かれたような目でにらみつけ、野球帽をつるつる頭にかぶると、ピシャリと音をたててふすまを閉めた。 「なに、あれ……」  瑠璃子が震《ふる》える声で言った。 「みんなああなんです。駅員も交番の巡査も野良《のら》仕事してるお百姓さんも、みんな同じ顔してるんです。目が丸くって、毛深くって、ピンク色の肌《はだ》をしていて、せっかちであわて者が多くって、なにかというと�燃えたね�を連発するんです。たとえば食堂でメシを食っても、�おいしかった�の代わりに�燃えたね�って言うんですよ。銭湯に入って湯が熱いと�燃えたね�、道端で子供が転んでも�燃えたね�、年寄りが死んだって�燃えつきたね�ですもんね」 「ほんとですか!?」 「ほんとです。みんなすごいんです。町を歩く人は全員腰にバットぶら下げてて、目の前にあるものを打つんです。そしてまたそれが飛ぶんです」  村山はヒクヒクしゃくりあげながら、 「きっと、このマグロのせいなんです。�いわゆるひとつの�がくちぐせになるんです」  と身体《からだ》を震《ふる》わせた。  その時、ふすまが開き、ピースの缶《かん》を持って、かすりの着物を着た細面《ほそおもて》の上品そうな中年男が顔を見せた。 「やあ、神崎さん」 「あっ、愛宕《あたご》先生!」  男は、妹の桐子《きりこ》の大学の民族学の教授だった。 「びっくりなさったでしょう」 「ええ。でも先生はどうしてこんなところに?」 「いや、この地方を研究して、かれこれ二十年になりますか。実に興味深いところです。それと、村山さんのことですが、ご心配なさらなくていいですよ。軽い麻薬中毒にかかってますが、そう毒性の強いものじゃありませんから。明日《あす》になれば治りますよ」 「そうですか」 「そうそう、桐子さんから調べてくれと言われてた『蒙古《もうこ》荒玉始源』ですが、あれは実に面白い。近々、世界的な発表ができるかもしれませんよ。長島さんはもしかしたら、本当にジンギスカンの子孫かもしれませんよ、フフフ」 「……でも血液型が」 「長島さんが自分の血液型なんか覚えていると思いますか」 「あっ、そうか」 「しかし、長島さんなんか小さいときから蒙古藻《もうこも》やそれを食べたマグロを食べているから、あんなすごい生命力が出るんでしょうね」 「愛宕先生、僕らはとにかく村山さんを連れて佐倉へ戻《もど》ります」 「そうですね、村山さんは相当お疲《つか》れの様子だ。それに奇妙《きみよう》な強迫《きようはく》観念にとりつかれている」 「強迫観念?」 「どうやら、ご自分が長島を殺したと思い込んでいるようなんです」 「そうですか」  神崎は、お茶うけのマグロにむしゃぶりつく村山をあわれに思った。  これが阪神タイガースのエースとして君臨したザトペック村山の姿なのか。  愛宕がクスリと笑いをもらした。 「でもね、一歩、この村に入った以上、勝手に出ることはできないんですよ」 「なんですって」  窓の外に目をやっていた瑠璃子が叫んだ。 「見て、囲まれてるわ!」  神崎が外を見ると、寺をぐるりと取り囲むようにして、手に手にたいまつを持ち、バットを腰に差した屈強《くつきよう》な若者たちが立っていた。その顔のどれもが長島そっくりだった。 「彼らは何をしようというのです」  マグロ・アンド・チーをたいらげた村山が顔をあげ、ニヤリと笑った。 「東京に攻め込もうと言ってるんです」 「何のためにです」 「天皇制を長島制に変えようというんです」 「あんまりバカなことを言わないで下さい」 「ここの人たちは本気なんです。三種の神器もあるんですよ」  村山が自慢《じまん》げに言った。 「なんです、それは?」 「黄金でできたバットとグラブとボールなんです。ほら、あそこにあります」  村山は本堂の正面の三方《さんぼう》にかぶせた紫の袱紗《ふくさ》の上にうやうやしく載せられた金ピカの三種の神器なるものを指差した。が、それは、みやげ物屋などによくある安物のメッキだ。 「村山さん、しっかりして下さい。あなたは病気なんだ」 「私は、いわゆるひとつの病気じゃないモワタ」 「しかし」 「神崎さん、この地こそいわゆるひとつの伝説の高天原《たかまがはら》なんです」 「えっ!?」 「たしかに、いまは牛が昼寝《ひるね》してますけど」 「はあ?」 「いや、邪馬台国《やまたいこく》もあるんです」 「こんな小さい村に高天原があって、そのうえ邪馬台国もあるんですか?」 「ええ、いまはソバ屋になってますけど。とにかくこの村には歴史に出てくる大抵《たいてい》のものがあるんです。長島のお父さんは二・二六事件に参加したと言っています」 「ひょっとすると水戸黄門《みとこうもん》もいたんじゃないですか?」 「八百屋《やおや》の留さんがその子孫とか言ってたかな?」 「バカな」 「ほんとですよ、この村にはヒトラーもきたことがあります」  村山はムキになって言い張った。  愛宕《あたご》はふたりのやりとりを聞きながらクスクス笑っている。 「とにかく忙《いそが》しい村だということはわかりました。さっ、佐倉に帰りましょう」  そのとき、さきほどの小僧《こぞう》が赤ら顔でつるっぱげの老人を連れて現われた。老人はユニフォーム姿で長いキセルをくわえていた。  老人はカン高い、空気がもれるような声を発した。 「はじめまして、私が長島茂雄の父の十五代|茂佐衛門《しげざえもん》です。雌伏《しふく》六百年、いよいよ征伐《せいばつ》のときは来たれりですわ、ハハハ」  老人は長島ソックリの顔で笑った。長島が年をとったらこうなるだろうと思わせる顔だ。  老人の背後には九人の屈強《くつきよう》な若者がつきそっていた。 「私たちをどうするつもりです」 「シゲに、共に立とうと伝えてほしいんです。あいつはジンギスカンの血をひくくせに、日本に寝返《ねがえ》って困っております」 「長島さんはジンギスカンの子孫なんかじゃありません。明確な証拠《しようこ》が出ています」 「この元佐倉で証拠なんか通用せん。シゲがジンギスカンの子孫で、わしが天草四郎の子孫じゃ」 「なにを根拠《こんきよ》にそんなこと言ってるんです」 「根拠、思い込んだらそれが根拠じゃ」 「なにを言ってるんだ、あんたは」 「とにかく、おまえたちを人質にして佐倉へ乗り込むんじゃ。そしてまず、ニセモノのオールジンギスカンを退治して、そのあと全日本を打ち負かして、即位式《そくいしき》を行い、日本に長島制を引くんじゃ!」  九人の若者たちが「ウォー!」というときの声をあげた。  茂佐衛門はキセルをポンと叩《たた》き、言った。 「それでだ、おまえらに大和ルールを教えてもらいたい」  村山が「モワタ」と叫び大きくうなずいた。    翌日、村の中央グランドに集った若者たちは、白日のもとで向いあうと、さほど長島に似てはいなかった。 「整列!」 「燃えたね」  思い思いに身体《からだ》慣らしをしていた若者たちが、口々にそう言いながら神崎の号令一下、バックネット前に集まり始めた。 「燃えたねはいらん!」 「なんでだ」 「うるさい! これからは�燃えたね�と�いわゆるひとつの�と言うたびに殴《なぐ》るぞ」 「あん?」 「とにかくカッコはいらん。基本を忠実にやるんだ」 「それはイヤミだか」 「うるさい!」  長島を好きで体調のいい時「燃えたね」を聞くのはなんとも感じなかったが、こいつらと面と向かっていると吐《は》き気がしてくる。さすがに瑠璃子はバカバカしくなったのか、さっさとホームラン寺に戻《もど》っていった。 「いいか、サインを決めとく」 「フン、サインなんていらんぞなもし」 「そうだ、サインなんかに頼《たよ》る管理野球は好かんぞなもし」 「うるさい。おめえら一体どこの方言つかってんだ。ひとつにしろ」 「燃えたね」 「燃えたねはいらんと言っとるだろう」  血が頭に昇《のぼ》り、後頭部が痛みはじめた。 「まったく口うるさい先生だべ。こりゃいわゆるひとつの門限守らんかったら罰金だべ」 「いわゆるひとつのはいらんと言っとるだろう」 「フン」  若者たちは不満そうに鼻を鳴らし、神崎をバカにしたように冷ややかな目で見つめた。 「じゃあ、練習を始める」 「燃えたね」 「キサマ、そこのデブ、出て来い。燃えたねはよせって言ったろう」  神崎はその男をいきなり殴《なぐ》りつけた。  発見だが、長島にそっくりな男を殴るのも快感だ。 「どうしておまえらは、そう落ち着きがないんだ」  みな長島そっくりで落ち着きなくキョロキョロしている。 「聞いてんのか!」 「練習なんか、かったるいべ。試合じゃねえと燃えんだべ」 「うんだ、うんだ」 「やっぱ実戦が一番だっぺ」  若者たちが口々に叫んだ。 「うるさい、静かにしろ」  村山が、 「まあまあ神崎さん、やらせてみたらどうです。こいつら本番だとすごいんです、長島ソックリなんです」 「何を言ってるんです、村山さんまで。よし、わかりました。やってやろうじゃねえか」  神崎は腹わたが煮えくりかえり、こめかみから血が吹き出しそうだった。 「よし、わかった。紅白に分かれて試合をやる!」 「ウォーッ!」  若者たちが二手に分かれ、一方が守りについた。 「わしが審判《しんぱん》やるでよ」  長島茂佐衛門がしゃしゃり出て来た。 「プレイボール!」  主審《しゆしん》をつとめる茂佐衛門が右手を上げ、叫んだ。 「じゃ、投げるど」 「おい、肩慣《かたな》らししなくてもいいのか」 「そんなもん、素人《しろうと》のやることだ」 「まったく口のへらないやつらだよ」 「なんか言っただか?」 「なんでもねえよ、早く投げろ」  初球、ピッチャーのケンが投げたのは打ち頃《ごろ》のド真ん中のゆるい球だった。が、バッターボックスで尻を突《つ》き出し、クネクネ腰をくねらせていたノボルは、大きく空振《からぶ》りしドッとばかりに尻もちをついた。 「ストライク」 「いやー、相変わらずケンの球は早いっぺ。百八十キロは出とったずら」  尻についた泥《どろ》を払《はら》いながら、ノボルが言った。  何が百八十キロだ。実際は百キロも出ていないド真ん中のヘロヘロ球だ。  ケンは自慢気《じまんげ》に神崎を見やった。 「どんなもんずら」  ノボルがバッターボックスに戻《もど》った。ケンはゆっくりと振りかぶり、投げた。初球と同じコースの、ド真ん中のゆるい球をノボルは見逃《みのが》した。 「ボール!」  茂佐衛門がカン高い声で叫んだ。かつては快く聞こえていたカン高い声が、今は苛立《いらだ》たしくてならない。 「どこがボールなんです!」  神崎は思わずバッターボックスに駆《か》け寄った。 「初球と同じ、ド真ん中のストライクじゃないですか」 「どこに目がついとるずら。いまのは完全にボールだっぺよ」  ノボルも「うんだ、うんだ」とけげんそうに、クレームをつけた神崎をにらむ。 「さっきは同じコースでもストライクだったろ」 「さっきは尻もちついてみっともなかったずら」 「うむ? よし、わかった。好きなようにしろ!」  神崎はがまんできず、吐《は》き捨てるとさっさとベンチに引きあげた。  ノボルは三球目も空振《からぶ》りした。 「ボール!」  茂佐衛門がまた首を横に振った。 「いま、空振りしたじゃないか!」  が、茂佐衛門は、 「いや、今のはピッチャーのケンのフォームもよかったが、うけを狙《ねら》いすぎてあざとかった。それに、なんといっても空振りしたノボルの背中に哀愁《あいしゆう》があったずら。なあ、ノボル」 「そったらこと、オラの口からは言えんずら。ばってん、まあこれは練習で体得できるもんではないっぺ」  ノボルは自慢《じまん》げに鼻を鳴らした。 「哀愁?」 「そうじゃ男の哀愁があったっぺ。このままベンチには帰せんずら。帰すってことはノボルに死ねということだっぺ」 「バカバカしい」 「なにがバカだ!」  茂佐衛門がまっ赤になってマスクをかなぐり捨てた。 「たいがいにせんとわしも怒《おこ》るだっぺずら」 「わっ、わかりました」  二番のアキラは、ケンの山なりのゆるい球にかろうじてバットを合わせた。  ボテボテのゴロを三塁手が派手に横っ飛びしてとらえた。が、絶好のゲッツーコースだというのに、なぜか三塁手は投げようとせず、腹這《はらば》いのポーズのままで審判《しんぱん》を見ている。 「なにやってんだ、早く投げろ」 「うるさい、黙《だま》ってるだ」  と、茂佐衛門は額に汗を浮かべアキラと見合った。  そして、 「よし、アウト!」  拳《こぶし》を振りあげ、叫んだ。 「どこがアウトなんです!」 「いまのフィールディングが華麗《かれい》じゃった。それに歯が白かった」 「歯なんか白くってどうするんですか。セカンドに投げてないじゃないか」  茂佐衛門は露骨《ろこつ》に「なんとセンスのないやつだ」と言わんばかりの顔をした。 「その必要はないじゃろが。投げても充分《じゆうぶん》まにあうし、投げる必要はないだっぺ」  たしかに長島も昭和三十八年、対大洋戦で横っとびのファインプレーをして満足し、一塁に投げず、そのままベンチに帰ってきたことがある。そして相手チームもそのまま守りにつき、次の回になってようやく一塁に投げてないことに全員気がついたのだ。 「長島はこんな野球で育ったのか……」 「心配ないずら。客が入りゃ、実力出すっぺよ。シゲのVIP観戦の時の打率が四割なんてチャンチャラおかしいでよ」  アウトになってベンチに戻《もど》るノボルが鼻にかかったカン高い声で言った。  村山もしたり顔でうなずきながら、 「うむ、そのとおりだ」 「村山さん、あんたまでたいがいにして下さい」  愛宕が姿を見せ、さすが心配そうに声をかけてきた。 「大丈夫《だいじようぶ》ですかね、彼ら」 「ええ、守らなくてもいいよう手は打ってあります」  神崎が唾《つば》を吐《は》き捨て地を蹴《け》った。    十一月二十三日、長島茂雄記念球場の一塁側ベンチには、当の長島をはじめ、三原、水原、鶴岡らの御大《おんたい》や、青田、藤村、千葉、稲尾、別所、尾崎ら往年のスーパースターから、王、田淵、山本、東尾ら現役まで、日本球界を代表するプロ野球選手がズラリと顔をそろえていた。  三万五千を収容するスタンドには、初来日するオールジンギスカンと全日本の対決を一目見んものと、徹夜《てつや》で並《なら》んだファンたちがひしめきあっていた。そしてそのファンの人波の中に、徳光がまぎれこんでいた。徳光はゴルフバッグに入れたライフルをかかえながら、心の中でつぶやいた。�一番長島を愛している人間だけが、長島を殺す権利がある�  同じように、長島を狙撃《そげき》すべく、スタンドに忍《しの》び入ったもう一組の男たちがいた。付けヒゲで変装した川上と浅野だった。彼らは、試合後、長島主催の打ち上げテンプラ大会が開かれると聞いて慄然《りつぜん》としていた。「殺《や》られる前に殺れ」ふたりは、望遠カメラに擬装《ぎそう》したライフルを三脚に固定しながらうなずきあった。  今朝も打ち合わせという理由で長島|邸《てい》に呼ばれ、テンプラを食わされ、ふたりとも、もう死にそうだった。  川上は階段を昇《のぼ》るのも必死だった。ハアハア、ゼーゼー息をつき、そしてその自分の吐《は》くテンプラの匂《にお》いに吐気《はきけ》をもよおしていた。 「とにかく長島の姿を見たらすぐに射《う》て。一刻も早くあいつを始末するんじゃ。それ以外、わしらが生きのびる手だてはないんだぞ」 「はい」  川上の尻を押していた浅野が大きくうなずいた拍子に下痢便《げりべん》が洩《も》れた。プーンとあたりに異臭《いしゆう》が漂《ただよ》った。 「あっ」  浅野は尻を押さえ、便所にかけこんだ。  彼らはギリギリまで追い詰《つ》められていた。  川上は今朝から妙《みよう》な予感がしていた。狙撃《そげき》されるのは自分ではないかと。川上は、絶対このライフルのレバーから離れるまいと心に誓《ちか》った。が、そのとたん、激しい便意が襲《おそ》いかかった。 「もうだめじゃ」  川上は這《は》うようにして便所へ急いだ。狙撃されないにしてもこの下痢できっと死ぬのだ。何度便所に通ってもくりかえし便意が襲い、二人ともクソまみれになりながら、ナマコのようにスタンドの階段を這い便所にむかった。  三塁側にベンチ入りしてきたオールジンギスカンのメンバーを見て、便所から戻《もど》った川上が思わず「アッ!!」と声をあげた。なぜか全員が長島そっくりの顔をしているのだ。これでは、試合が始っても、どれを狙撃していいかわからない。 「わしは狂《くる》ったのか。それとも殺されて地獄《じごく》に落とされたのか」  と見ると、長島ソックリのつるつる頭の老人が、マイクをとりあげ、 「もしわしらが勝ったら、この日本を天皇制から長島制に変えるだっぺずら」  とおかしなことをわめいている。  しかし、ありゃ一体どこの言葉だ。 「みんな、みなさま、私はいわゆるひとつの長島茂雄の父だっぺです。今日はオールジンギスカンのかわりにわれわれが戦うっぺよです」  そのあまりの長島とのソックリさと素朴《そぼく》な田舎《いなか》なまりに、スタンドがドッと笑った。 「燃えるど」 「燃えるど」  観客たちもいっせいにこぶしをつきあげた。  ウグイス嬢《じよう》が、先発メンバーの名前を読みあげ始めた。  先攻、オールジャパンの四番はもちろん長島。その前後を王、田淵、山本浩二らが固めている。村山はベンチ前で懐《なつか》しげに長島と談笑していた。 「あれはやっぱりファウルだよ」 「いや、ホームランだった」  ふたりは幸せそうに笑いあっていた。  村山も仲間たちと会い、ようやく正気に戻《もど》ったらしい。  アナウンスはいつしかオールジンギスカンの発表に移っていた。  ベンチの中央で現役《げんえき》選手たち相手ににらみを利《き》かせていた青田が隣りに座《すわ》っている猛牛、千葉に声をかけた。 「川上は来とらんのか?」 「近頃えらそうになりくさって、遅れてくるんやろ。ところで青ちゃん、相手のピッチャーは誰や、得意のライト打ちでど肝《ぎも》抜いたろか、ダハハ……」  久し振りのゲームの雰囲気《ふんいき》に興奮ぎみの千葉は鼻息が荒い。  その時、 「九番、ピッチャー沢村栄治《さわむらえいじ》、背番号14」  ウグイス嬢の声が響き渡った。 「ウォ?」  一瞬スタンドは虚をつかれたように無音化した。 「沢村って、あの……巨人の……永久欠番の……」  我に返った客の一人がうなされるように叫んだとたん、「沢村」「沢村」の声がドミノ倒しのようにスタンドを駆《か》け回った。 「まさか」 「あの栄光の沢村栄治は生きていたのか」  沢村は騒然とするスタンドに一礼し一塁側の青田と千葉をにらみつけた——もどってきたぞ俺《おれ》は。  青田と千葉の顔から血の気が失《う》せ、目だけが異様に飛び出した。力の抜けようとする腰をバットで支えながら青田は悲愴《ひそう》な声で叫んだ。 「えっ、栄ちゃん、わしやないで、わしは止めたんやで」 「そやそや、わしも止めたんやで」 「かっ、川上や、筋《すじ》切るのん賛成したんは」 「そやそや、そやからここにきとらんのや」 「そや、怨《うら》むんなら、てっ、哲を怨んでや」  その声は川上にも聞こえた。 「なに!? 人のおらんのをいいことに。みな殺しにしたる」  川上が気張った瞬間《しゆんかん》、下痢便《げりべん》が洩《も》れた。 「臭《くさ》い!」  まわりの客がいっせいに川上をにらんだ。  ネット裏に座っていた瑠璃子が神崎を振りかえって言った。 「あんたが呼んだのね」 「うん、僕にとってもお父さんになる人だからね」 「……ありがとう」  瑠璃子は目を潤《うる》ませ、それだけ言うのが勢いっぱいだった。  神崎のうしろに座った刑事たちが目くばせしてきた。この試合が終れば沢村は逮捕《たいほ》される。 「じゃあ僕はスタンドを見まわってくる」 「がんばってね」 「うん」  何が何でも長島|狙撃《そげき》を阻止《そし》せねば。神崎は双眼鏡《そうがんきよう》を目に当て、注意深くスタンドに視線を走らせた。  沢村栄治はもの静かにウォーミングアップをくりかえしていた。ヒゲはきれいに剃《そ》られ、しわはあるものの若々しい表情で久しぶりの日本の空気を胸いっぱいに吸いこんだ。  その頃、誰もいない女子トイレで、女性用のロングドレスに着替えた徳光が入念に化粧《けしよう》をしていた。  徳光はカツラをかぶり、口紅をひき、つけまつげをつけた鏡の中の自分をうっとりと見つめた。黒いシルクのドレスが徳光の小太りの身体《からだ》をひきしめて見せた。そして、そっと「長島」とつぶやいてみせるその姿は自分で自分を抱《だ》きしめたくなるほどだった。  徳光はスコアボードの横に立ち、ゴルフバッグからライフルを引き抜いた。  試合開始を告げるサイレンの音とともに、主審《しゆしん》の「プレイボール」の声が、澄《す》みきった秋空に吸い込まれていった。  一塁側ベンチは、ピッチャーが沢村と聞いたときから、親善気分など吹っ飛び、全員が殺気立っていた。  マウンドの沢村栄治は、一球ごとに「モワタ!」と叫び、全日本の一、二番を伝家の宝刀のドロップで見事、三球三振に切ってとった。彼らのバットは球にかすりもしない。スタンドにどよめきがひろがった。 「あれが伝説のドロップか」 「すごいぞ、沢村」  観客たちはみな伝説の男をまのあたりにして感激《かんげき》のおももちだった。  沢村は帽子をまぶかにかぶり直し、涙を隠《かく》した。 「バッター王貞治、背番号1」  とのアナウンスがあり、スタンドのどよめきは更《さら》に高まった。  王は緊張《きんちよう》したおももちで右足をあげ、独得の一本足打法の構えで第一球を待った。  沢村の剛腕《ごうわん》からくり出された豪球《ごうきゆう》は大きく落ち、うなりをあげてキャッチャーミットに吸い込まれた。 「はっ、早い」  思わず王が目を丸くしてつぶやいた。  が、さすが、球界の至宝、三番王は、カットするつもりで出したバットがボールに当たり、ラッキーな内野安打で一塁に生きた。  そしていよいよ、四番長島を打席に迎え、スタンドの声援《せいえん》は最高潮に達した。 「長島打て」 「負けるな」  球場全体が、長島と伝説の男、沢村の世紀の対決に息を飲んでいた。  神崎は胸騒《むなさわ》ぎがしてならず、ポケットに入れたボールを握《にぎ》りしめた。  テレビ中継《ちゆうけい》のアナウンス席の、渡辺謙太郎が、マイクに向って叫んでいた。 「どうしたんでしょう、日本テレビの名物男徳光和夫の声が聞こえません。長島を愛し、長島とともに歩んできた徳光の声が聞こえないのは淋《さび》しい限りです」  さすがの長島も目が輝《かがや》いている。沢村のあげた足が天にも届くように思えた。  が、期待の長島のバットは、沢村のドロップの前に空を切った。  球は五十センチは落ち地にめり込んだ。  長島の顔にあせりの色が浮かんだ。内角を鋭《するど》くえぐるようなドロップにまったく手が出ない。長島はタイムをかけ、ボックスをはずして深呼吸した。 「まったく、五十男の球も打てんのか」  川上が苦々しげに吐《は》き捨てた。  と、また腹が疼《うず》き始めた。 「浅野、もうやれ!」  川上がバッターボックスの長島を指差した。 「はっ、はい」  さすがに浅野も震《ふる》えている。 「殺《や》らんとわしらがやられるんじゃ。これ以上もうテンプラは食えんじゃろが」  浅野がカメラのファインダーに擬装《ぎそう》したスコープの照準を合わせた。 「あっ」 「どうしたんじゃ」 「バックスクリーンからライフルでわたしたちを狙《ねら》っている男がいます」 「ウゲッ」  川上がまた下痢便《げりべん》を洩《も》らした。 「だっ、だれだ」 「女の格好をしていますが、あれは徳光です」 「あのガキ、長島の手先になってわしらを殺そうとしとるんじゃ。射《う》て、徳光を射て」  川上は狂ったように叫んだ。  長島に照準をあわせ終えてライフルのスコープをのぞく徳光の目に熱いものがあふれた。その目に映る長島は、「90」番の背番号をつけ、フルスイングしていた。いま、この引き金を引きさえすれば、天災、いや、天才長島茂雄は永遠にこの地上から消え去るのだ。�長島を最も愛するものが、長島を殺す権利がある�無念の形相《ぎようそう》で倒《たお》れた永島の言葉が徳光の耳の奥に響《ひび》いた。すべてが、すべてがこれで終るのだ。  オレが愛した背番号3、あの大輪のひまわりのような長島茂雄がオレのこの手でオレだけのものにいまなろうとしている。  沢村が大きくふりかぶり投げおろした。 「いまだ」  万感の思いを込め引き金を引こうとした徳光の肩を誰かがたたいた。  ビクリとして振りかえると、神崎の顔があった。 「徳ちゃん、もういいよ」 「神崎さん、長島茂雄は僕だけのものなんです」  そう言って肩を震《ふる》わせ泣きくずれる徳光の額《ひたい》に小さな穴があいた。 短歌協力/成瀬 有   発表/「野性時代」昭和61年5月号〜11月号連載作品に、大幅加筆昭和61年11月、カドカワノベルズとして刊行。  角川文庫『長島茂雄殺人事件』昭和63年2月25日初版発行