[#表紙(表紙.jpg)] 青空のルーレット 内智貴 目 次  青空のルーレット  多輝子ちゃん  あとがき [#改ページ]   青空のルーレット [#ここから地付き] ああ あの時私は 今よりも老けていて 今はあの時よりも ずっと若い     ————ボブ・ディラン  「マイ・バック・ペエジ」 [#ここで地付き終わり]    プロローグ  東京の夏は暑い。  晴れわたった青空から、くる日も、くる日も、強烈な陽射《ひざし》がコンクリートを射る様に照りつけてくる。  人と、車と、空調機器の吐き出す澱《よど》んだ熱気が、そんなこの街の暑さを更に過酷なものへと加工し続けていく。  往来を行くサラリーマンたちは、みな汗を拭きながら歩いている。  くたびれ果てたヤクルトおばさんは、日陰で息を吐《つ》いている。  街路樹に蝉が鳴きしきり、歩道に捨てられたアイスクリームは、溶けて蟻たちに集《たか》られている。  その傍らをいろんな人間達が、右に左に今日も忙しそうに流れ続けて行く。  何処《どこ》かで救急車のサイレンが鳴っている。  何処かで右翼の軍艦マーチが聞こえている。  三割、四割、当り前っ!!  ヨドバシカメラが騒いでる。  熱されたコンクリートの街に、人が、車が、騒音が、今日も溢《あふ》れかえっている。———  ビルの壁面に垂らしたロープにぶら下がり、俺達は、そんな奴らの頭上三十メートルで静かに揺れている。  或いは激しく揺れている。  揺れながら、せっせと窓を拭いている。  サッシの眩《まぶ》しい照り返しを浴《う》けながら、窓ガラスに泡立つ洗剤水を塗りたくっている。そしてスクイジと呼ばれる車のワイパーに似た道具で、円を描く様にそれを手際よく切っていく。うす汚れた窓たちが、街の高くで、青空を映しながらたちまちキレイになっていく。  空中に並んだ仲間達は、みな汗だくになってそんな作業を続けている。—————  俺達は、窓拭きだ。  正しくは、高所窓硝子特殊清掃作業員《コウシヨマドガラストクシユセイソウサギヨウイン》、というのらしい。  面接の時に社長が舌も噛まずにそう言っていた。  俺達は、気に入ってもう何年も、このアルバイトを続けている。  もう何年も、こうして窓を拭いている。  窓を拭いて、それが世の中の役に立っていると思った事はべつに無い。  窓を拭いて、それが世の中の害[#「害」に傍点]になっていると思った事もべつに無い。  窓がキタナかろうが、キレイだろうが、世の中は知ったこっちゃ無い。  世の中がキタナかろうが、キレイだろうが、俺達も知ったコッちゃ無い。  こんな無意味にカネを稼ぐのは、すてきだ。  だからこうして、俺達は今日もビルの外に浮かんでいる。  浮かんで、窓を拭いている。—————  十階の窓を拭き了《お》え、九階の窓を拭き了え、八階の窓を拭き了え、  やがて二階の窓を拭き了えた俺達は、勢いをつけてストン、と地上に降りる。  ぎょ、っとした通行人が、突然落ちて来たツナギ姿の俺達を見る。  それから必ず、上を見る。  屋上から風に微《そよ》いでいる一本のロープを認め、(あすこから降りて来たのか)と当り前の事を考えている。考えて、目が眩《くら》む様な顔をしてみせる。————— 「一日どのくらい貰うの?」と尋ねるサラリーマンなどが時々いる。 「十万円ぐらいですね」などと言ってやる。  ええっ? と首を伸ばし、「じゃ、めいっぱいやれば、月、三百万ぐらいになるんだあ」と目を丸くしたりしている。馬鹿か。  馬鹿はぼんやり、転職を夢見たりしている。—————  ロープから体を抜き、「ブランコ」と呼ばれる座り板を外し、それを肩に掛けて俺達はまた屋上へ上がる。そしてロープをセットし直して、次に自分の受持つ列の窓を、また同じ様に作業しながら下りて行く。  十階が了《おわ》り、九階が了《おわ》り、八階が了《おわ》り、……………  陽に灼《や》かれながら一時間もそうしていると、体が強烈に水分を要求し始める。 「休憩しよう」  誰かがそう言い、それに、「おう」と、みな応《こた》える。  ウルトラマンが三分で力尽きる様に、俺達の体は一時間で干上がってゆく。  尤《もつと》も、べつに干上がらなくても俺達はよく休む。  目と目が合えば、すぐ休む。  その方が結果的には能率が上がるのだ、などと考えている訳ではべつに無い。俺達は、ただ、休むのが好きなのだ。  だから好きな時に好きなだけ休む。一個のビルさえ仕上げちまえば、誰に何を言われる事も無い。  気楽な稼業、呑気《のんき》な商売。ときどき危険、死んだ奴アリ。  それでも休日も自由にとれるし、現場で仕事ぶりを見張る上司なども無い。仕事が了りさえすれば、二時にだろうが、三時にだろうが、さっさと帰る。一日十万円貰った奴のハナシは聞かないが、半月も働けば楽に暮せる程の金にはなる。俺達の様な「夢見る好青年」どもには、うってつけの仕事。だから、皆、気がつけば二年も三年も、このバイトをやっている。  近くのコンビニで思い思いのものを買い、俺達は休憩めざしてエレベータに乗り込む。  途端にエレベータの中に男達の汗臭さが充満したりする。  そこへ銀行の封筒を手にした女子社員が駈け込む様に乗り込んで来たりする事もある。先を譲った最後の仲間が乗った途端、ブ——と荷重オーバーのアラームが鳴ったりする。女子社員が、ひとつ笑い、乗れなかった間抜けも笑う。皆が笑って、扉が閉まる。そんなエレベータがビルを静かに昇って行く。  やがてエレベータが最上階に着き、非常階段を上がって、俺達は屋上へ出る。くそったれな午後の太陽が青空でめいっぱいに自分の仕事を続けている。きっと今日じゅうに俺達を灼《や》き殺す気だと俺は思ってみる。腕も首筋も痛い程に灼けて、時計を外すと、そこだけ白い肌が残っている。互いの灼け具合を比べ合ったりしながら、俺達は屋上を歩く。そして干からびた体にポカリスウェットを一リットルも二リットルも流し込む。やがて乗りそこねた一人がのたのた[#「のたのた」に傍点]と遅れてやって来る。手にはコカコーラの大瓶を下げている。煙草に火をつけ、上半身を裸にし、陽ざらしのコンクリートに腰を下ろして俺達は暫《しばら》くの休憩をとる。誰かが買い込んできたスナック菓子などを皆であっという間に喰っちまう。満ち足りた気分でばたりと倒れて空を見る。背中のコンクリートが水の様に柔らかく感じられ、仲間達のバカ話を耳にしながら数分ほど眠ってしまう事もある。—————  そんな時、日陰で休憩をとった記憶が無いのは何故だろう。  いつもわざわざ灼けついた屋上で体を休めていた様な気がするのは何故だろう。  頭が悪かったのか。若かったのか。それともそうする事が「自由」という言葉にどこか似ていたのか。  そのどれでもあり、どれでも無いのかも知れないが、要するに俺達はただ太陽が好きだったのだろうと思う。その下にいつも居たかったのだろうと思う。だから俺達はいつも陽ざらしの石ころの様に太陽の下に転がっていた。転がりながら毎日ビルの窓を拭いていた。  昨日は何処《どこ》々々《どこ》のビル、今日は何処々々のビル、あすは銀座か、市ヶ谷か。エサを探してビルからビルを飛び歩く鳥の様だと言った奴が居た。そうかも知れない。だが、俺達に翼[#「翼」に傍点]など無かった。ただ翼[#「翼」に傍点]を探す毎日だけがあった。  コメディアンになるんだと言う奴が居た。マンガを描いている奴も居た。「芝居はラクじゃ無いよ」と昼も夜も働いている劇団員が居た。俺は仲間とバンドをやっていた。それが俺達の翼[#「翼」に傍点]だった。それでいつか飛ぶんだと思っていた。思って太陽の下に転がっていた。そして窓を拭いていた。———  まれに「水が掛かったぞ、この野郎!」と俺達を見上げて怒鳴る奴が居た。「だから何だ」と睨《にら》み返す仲間が居た。「洗剤だからキレイにナリマスヨ」などとすっとぼけた事を言ってヤクザを本気で怒らせた奴も居た。  しかし十階の窓を、九階の窓を、八階の窓を拭きながら、(一体いつまでこんな事をやってるんだろう)、皆、一度はそう思った事が有る筈だ。  おれのやりたいのは、芝居なのに  おれのやりたいのは、マンガなのに  おれのやりたいのは、音楽なのに  そのために、この街に来たのに  ———一体いつまで、こんな事をやっているんだろう  そう思った事が有る筈だ。  そして地上の雑踏を見下ろしながら、そこを歩く人々の姿にふと自分の暮しを顧みた事が有る筈だ。翼よりも地上を往く二本の足の確かさを感じた事が有る筈だ。いつ飛べるか分らぬ翼よりも、歩いた分だけ確実に前へ進む人生の確かさに胸の天秤が傾いた事が有る筈だ。  そしてそんな時、三十メートル下のコンクリートに叩きつけられて死んだ仲間の事を思い出した事が有る筈だ。ゴンドラとレールの間に挟まれて指を切断した奴の事を思い出した事が有る筈だ。  それでも、やっぱりそうし続けて居たのは何故だろう。—————  ガラスの向うに、オフィスが見える。  冷房の効き過ぎる室内で真夏にカーディガンを羽織った奇妙な社員《ひとたち》が見える。  あいつらには、なれない。  ガラス一枚隔てた空中に揺られながら、俺達は思う。そして荒々しく洗剤の泡をそこに塗りたくってみる。  べつに俺達が彼等よりマットオだと思っていた訳では無い。しかし彼等が俺達よりマットオだった訳でも無い。マットオな事など何処にも無い。そしてマットオで無い事なども。  ふと手を休め、青空にぶら下がったまま俺は煙草に火をつける。つけてそこから陽ざらしのトーキョーを眺めてみる。 (この街に来て何年になるだろう)  そんな事を思ってみる。  足もとの小さな人混みに目を落す。  さっきまでそこを歩いていた奴等は、もうそこに居ない。さっきは居なかった奴等が、今そこを歩いている。そして今居る奴等も、それぞれの目的に向って流れ続けている。すべてが、たえず、流れ続けている。  人生がそうだ、と思ってみる。  子供が産まれたという故郷の友人の事などをふと思い出してみる。「二十三歳で親父だよ」電話の向うで嬉しそうに笑っていた声を思い出してみる。奴の子供はそのうちはいはい[#「はいはい」に傍点]など始める事だろう。そしてやがて近所の保育園などに通うだろう。その間に二人目が産まれたりもするのだろう。少しずつ給料が上がり、少しずつ部下も増え、そのうち腹が出てきた友人はジョギングを始めたりもするのだろう。人生はそうして流れてゆく。そしてその間もずっと、俺はやっぱりここ[#「ここ」に傍点]でこうしているのかも知れない。地上でも無い、オフィスでも無い、もしかしたら社会でも無い空中で、こうして呼吸しているのかも知れない。  それでも全ては流れてゆく。  俺も故郷も流れてゆく。  故郷も東京も流れてゆく。  全てが、いちどきに、流れ続けてゆく。  確かな事を一つだけ知っている。  百年もすれば今生きている奴は、みな居ない[#「居ない」に傍点]ということだ。  冷え過ぎたオフィスでカーディガンを羽織っているのもいいだろう。子供の成長に目を細めながら老いて行くのも人生だ。そしてこうして、ただ、浮かんでいる事も。  昭和五十×年。  あの頃の夏は、暑かった。  秋でも、冬でも、俺達には熱かった。  その暑さに、うかされて、俺達は夢を見た。  夢を見る事は、夢がかなう[#「かなう」に傍点]事よりも上等な事だったのかも知れない。もしかしたらそうだったのかも知れないと、この頃思う事がある。  俺達が窓を拭いていたのは、メシを喰うためだ。  俺達が窓を拭いていたのは、家賃を払うためだ。  しかし俺達が窓を拭いていたのは(誓ってもいい)、夢を見続けるためだ。    1 「工藤さん」と保雄《やすお》が言った。 「ああ?」と灼《や》けつくコンクリートに顔を俯《うつぶ》せたまま、工藤が応えた。  現場の昼休みの屋上。  傍《そば》に俺と進藤が寝そべって夏の空を眺めている。 「………あの黄色いビル、こないだ臨時でやった、何とかビルってやつじゃないですか?」  屋上フェンスの向うに広がるビル群に目を向けながら、保雄は工藤に尋《き》いた。 「———ああ、きっとそうだろう」工藤は見もせずに、俯せたまま、ダルそうな声で応えた。 「大変でしたよね、アレ………」  そんな事を呟《つぶや》きながら保雄はぼんやりと遠くを眺めている。そしてその少年の様な横顔で、自分がこれまで作業したビルを街のあちこちに探してみたりしている。 「ねえ工藤さん」  と保雄は傍らで俯せる工藤の背中に、また声を掛けた。 「ああ?」と工藤が、またダルそうに応える。 「オレ、今日まで一体、何枚ぐらい[#「何枚ぐらい」に傍点]、窓、拭いたんでしょうね」保雄は、そんな事を尋く。 「何枚拭きたいんだ?」工藤が応える。 「いや、べつに、目標[#「目標」に傍点]は無いんですけど」と保雄は可笑《おか》しそうに笑い、「ただ、何枚ぐらいなんだろうな、と思って」そう言った。 「ふん」と工藤は俯せたまま少し黙り、「お前、このバイト、何年だっけ?」そう尋いた。 「二年です」 「六万枚」  どういう計算か知らないが、工藤は、そんな数字を口にした。 「ははあ………」と保雄は顔を上げ、「六万枚ですか………」とぼんやり呟いた。それから、ふと空を見やり、「………六万枚[#「六万枚」に傍点]、って、タテに繋げると、どのくらいの高さになるんでしょうね」と今度はそんな事を言った。 「知らねえよ。大気圏、出ちまうんじゃねえか」  工藤は面倒臭そうに言って、カチリ、と煙草に火をつけた。  つけて、ふと、大気圏を出て行く巨大な窓ガラスの列でも想像したのか、「………なんだかものすごく無意味な景色だな」そう絶望する様に呟いた。  俺と進藤が仰向けに寝そべったまま笑った。保雄も笑った。工藤は黙って俯せ続けていた。  満腹で、けだるくて、もはや何のヤル気も起こらない、静かな真夏の昼下がりだった。——— 「………しかし今日は、いくらか涼しいな」  寝そべって、組んだ素足[#「素足」に傍点]をプラプラさせながら進藤が呑気《のんき》そうな声で言った。 「涼しくても、おまえの足は臭ェよ、進藤」と俯せの工藤が声を上げた。「なんだって、そう、人の鼻先で揺らすんだよ。どっかやれよ、その足。オレ風下なんだぞ」工藤はやり切れない様な声で、そう続けた。 「いやだね」  と進藤は歌う様な調子で応えた。  それから、 「そんな事より工藤」と起き上がって俯せの工藤を見た。「お前、昨日の現場[#「昨日の現場」に傍点]、どこだった?」 (また始まった)と俺は空を見ながら心の中で苦笑した。進藤はそういうこと[#「そういうこと」に傍点]が気になって仕方が無いコドモの様な二十三歳だ。 「銀座の富士ビル」  と工藤が面倒臭そうに応えた。 「あ」と進藤は声を上げ、「く——っ」と妙な声を上げて体をくの字に折った。悔しがっているらしい。 「富士ビル、二時[#「二時」に傍点]には了《おわ》っただろ?」  そう尋いた進藤に、「ああ」と工藤は応えた。 「いいなあ………」と溜息をつく様に進藤は項垂《うなだ》れる。「俺なんか、おまえ、横須賀の変なビル行かされてよ、五時までギッチリだよ。キツイしよ、遠いしよ、海、近いだろ、ガラスが塩かぶってて、やると白いすじ[#「すじ」に傍点]が残るのよ、オーナーがヤクザみたいな奴でよ、�兄ちゃん、掃除[#「掃除」に傍点]に来たのか汚し[#「汚し」に傍点]に来たのか、どっちだ�なんて凄まれちゃってよ、おそろしかったよ、おまえ」そして一つ空を見て、「岸野[#「岸野」に傍点]の野郎、何だってあんな現場、請《う》けちまうんだ」と現場を割り振る業務主任の名を呪わしげに口にした。  それから、クルリと保雄に向き直り、 「おまえは、どこだ?」進藤は尋いた。 「僕は、青山の」 「田中ビルか?」 「はい」  く———っと進藤は、また体を折った。 「三時だろ? いや、お前の事だから二時半には了《おわ》ってるな、そうだろ? 二時半か?」 「ええ、まあ」と保雄は、可笑しい様な、済まない様な顔で応えた。年上ながら、そんな進藤が何かかわいくて仕方が無い[#「そんな進藤が何かかわいくて仕方が無い」に傍点]、といった顔をしている。 「アア俺はきっと東京で一番不幸な窓拭きだ」  進藤はそんな事を言って工藤の煙草を一本抜くと、それに火をつけ荒々しく煙を吐いた。「大体、五時までかかる現場なんて、そう有るもんじゃ無いってのによ、なんで俺ばっかり、それに当るんだよ、いつだってそうだよ、たいがい俺だよ、一体どうなってんだよ、岸野ォ」と居ない主任の名をまた呼んで、進藤は最後に俺を見た。 「タツオ、どこだった? 昨日」 「俺か?」と言って、俺はぼんやりと空を見た。  昨日の俺は、ここに居る四人の中で一番シアワセな男だった筈だ。新宿の○○ビル。十階建ての細長いビルだが室内はコンピュータがズラリと並んでいて殆どやる所が無い。のんびりやって、それでも昼前に了《おわ》ってしまった。実働二時間の、わが「宝栄ビルサービス」が世界に誇る楽勝現場だ。月一回の、この定期現場には仲間の誰もが行きたがる。おまけに俺の住む高円寺からは電車で十分。こいつが横須賀で泣きベソかいている頃、俺は銭湯の一番風呂に浸《つか》って春日八郎の歌なんか唄ってた。  しかし、この上そんな話を聞かせたら、こいつは余りの我が身の不幸に悶絶死してしまうかも知れない。げんに、祈る様な目で俺を見つめている。俺は大切な友人を此処《ここ》でこれ以上絶望に追い落す訳にはいかない。ヤル気を失くして午後からサッパリ働かなくなるからだ。 「俺は東和産業の手伝いで七時まで残業だったよ」思いつくまま、そんなデタラメを言ってみた。(プレゼントだ、受取れ) 「東和産業の?」  進藤の顔がパッと輝いた。プレゼントは気にいったようだ。 「そーか、おまえ、東和産業の手伝いだったのか」進藤は弾んだ声を上げた。 「——いや、あすこ[#「あすこ」に傍点]の応援は辛いんだよな。呼んだ分、使わなきゃ損、って感じでコキ使うもんな。俺も昔、行った事あるよ。そーか、おまえ、昨日、行ったのか、七時まで? そーかあ、うひゃひゃひゃひゃ」  進藤は完全に立ち直っていた。シアワセこの上ない、といった顔をしている。人間のコーフクなんて所詮こんなもんなんだろうという気がした。ともかくも、一人の大切な友人が立ち直ってくれて俺もウレシイ。 「大変だったなあ、飲むか?」  進藤はそう言って、自分の飲みかけのアクエリアスを俺に差し出した。 「いらねえよ」 「いらねえよなあ。レモン味なんだけどなあ。そーかあ、おまえ残業してたのかあ」そう言ってレモン味のアクエリアスを旨《うま》そうに飲み干した。  ふと、向いで半身を起こしている保雄と目が合った。保雄は、どこか意味ありげに俺に小さく微笑《わら》った。(東和産業なんてウソなんでしょ?)そう言っている様な顔だった。  五つ年下の、まだ幼さの残るその色白の笑顔に、(いい奴だな)、俺は何となく、そんな事を思ってみた。—————  十八歳の保雄は、宝栄《うち》に居る者の中では珍しく仕事だけ[#「仕事だけ」に傍点]をしている男だった。 「宝栄ビルサービス」は、ガラス部が五十人ほど、床清掃部がやはり五十人ほどの、業界では大きな下請け[#「大きな下請け」に傍点]などと呼ばれているヘンな会社だったが、そこに居るバイト従業員達の殆どが、それぞれやりたいこと[#「やりたいこと」に傍点]を別に持っている若者たちだった。音楽、芝居、デザイン、写真、マンガ、エトセトラ、エトセトラ………。いつかそれで喰える様になる事を夢見、そしてそれまでの縁《よすが》として、みな窓を拭き、或いは床にモップをかけていた。  そんな中にあって保雄は他にやりたい事[#「やりたい事」に傍点]などを特に持っている様子は無かった。仕事だけを淡々と、毎日こなし続けていた。よくは知らないが、母親と妹との三人の生活をそれで支えている様でもあった。  俺達は皆、保雄を弟の様に好いていたし、仕事仲間として頼りにしてもいた。実際、保雄は、仕事はできたし、頭も良かった。宝栄に来る前に、二、三の清掃会社に居たらしいが、そこで鍛えられたものも有ったのかも知れない、気が良く回り、たえず人の事に心を配っている様な優しさがあった。俺達のなかで世間[#「世間」に傍点]というものを一番知っているのは、この十八歳の保雄なのかも知れない———俺はそう思ってみる事がある。  目が合った保雄に、俺もすこし笑ってみせた。その二人の間で進藤だけが、ひとりゴキゲンだった。工藤は相変わらず、その細長い体を干物の様に陽ざらしのコンクリートに俯せ続けている。きっと、こないだ練習に掛けた新曲のアレンジの事でも、アレコレ考えているのだろうと俺は思った。  俺と工藤と進藤は、三人でバンドをやっている。工藤がベース、進藤がドラム、そして俺がギターと歌を担当していた。  主任の岸野は、そんな俺達に気をきかせてか、複数で入る現場の時は、たいがい一緒に入れてくれた。そして多くの場合、保雄も。  宝栄ビルサービスの五十人ほどのガラス清掃部は四班に分けられていて、それぞれ、一係《いちがかり》、二係、三係、五係、と十数人ずつ程がそこに振り分けられていた。縁起が悪いというので四[#「四」に傍点]係というのは無い。俺達は五係に属し、そこの業務主任である岸野は、べつに進藤が呪わしげに口にするほどいや[#「いや」に傍点]な奴では無かった。むしろ会社側の人間の中では話の良く通る奴だった。歳が近いせいかも知れない。それなりの大学を出た、この一つ歳上の主任を、俺達は本人の前でも「岸野」と呼び捨てにしていたし、タメ口《ぐち》で接してもいた。岸野もべつに、それで何の異存も無い様だった。  岸野は、もう結婚していて、子供も居る。  二年前、浜辺で酔っパラったはずみにナンパした女をそのまま嫁サンにしてしまったという、どこか情けないラブストーリーは、そのまま岸野の人柄の良さを表すハナシと言っていいのかも知れない。  その披露宴のホールで俺達は御祝いにビーチボーイズのサーフィンUSAを演奏してやったりした。顔にセメントを塗りたくった様な新婦の隣で岸野はポロポロと泣いていた。俺達の演奏に感動して泣いたのか、人生の新たな門出に感無量になったのか、それともビーチボーイズのメロディに夏の浜辺を思い出し、そこで人生を踏み誤った事にふと思い当ってかなしかったのか、それは、知らない。  なんにせよ岸野は子供にも恵まれ、今幸せそうに暮している。「幸せだ」と自分でちゃんと言っている。だから幸せなのだろうと思う。  その岸野の名前を、工藤が、思い出した様に、ひょいと口にした。    2 「岸野が言ってたんだけどよ」  そう言って工藤はムクリと起き上がり、煙草に火をつけた。そろそろ一時が近いので、一応午後の作業に向けて体をスタンバイさせているつもりでもある。 「………昨日、萩原さん[#「萩原さん」に傍点]、また奥田[#「奥田」に傍点]にネチネチやられてたらしいぜ」工藤は顔をしかめて、そんな事を言った。「……何でも、内側を作業した時、書類にポタポタ水を垂らしちゃったみたいでよ。速攻でクレームが来たらしいや」 「あ、そりゃまずいや」と進藤が声を上げた。それから溜息をつくように、「………そりゃまずいや」とそう繰り返しながら、進藤は萩原さんへの同情を、その声に込めている。 「なんか、大事な書類だったらしくってさ、萩原さん、始末書書かされてたってよ」と工藤が煙草を口に運ぶ。  俺は、すこし空を見て、 「………だけど、萩原さんが、そんな間抜けな事、するかなあ」そう呟いた。  萩原さんは、ウチで唯一人の(そして他の会社にも多分居ない)、四十五歳の中年ガラス清掃作業員だ。  奥さんと二人暮しのアパートで、こつこつ小説を書いている。背の高い人で、その高い背に気兼でもする様に、いつも前かがみで歩いている。社長との一寸《ちよつと》した縁で、半年ほど前から、バイト扱いでウチで働いている人だ。  社長は、小説などを読むのが好きな人で、萩原さんが若い頃、小さな雑誌に載せた短編なども幾つか読んでいて、そんな事で、若い萩原さんに酒を呑ませてやったり、メシを喰わせてやったりと、そんな時期が、昔、あったのらしい。喰いつめた萩原さんが、遠慮がちに相談に来た時、「ああいいよ。ウチで働きなさい」と社長は気持良く受け入れてやったらしい。「君も、もう若くは無いから、小説は小説として、奥さんのためにも生活を安定させるべきだ。ウチで仕事を覚えて、性《しよう》に適《あ》う様なら、独立すればいい、力になるから」そう言って萩原さんの肩を叩いてやったという事だった。  社長の実弟である、専務の奥田[#「奥田」に傍点]は、或いはそんな事が気に入らないのか、何かというと難癖をつけて、萩原さんを苛《いじ》めている様だった。きっとインテリに卑小な劣等感を持っているのだろうと俺は思っている。インテリに限らず、俺達の様な者[#「俺達の様な者」に傍点]一般に、奥田は、何か反感を持っている様でもあった。事務所でギターなど弾いていると狂った様に怒り出す。誰かが芝居の話をしていても怒り出す。「そんな話を会社でするなっ」などとヘンナ事を言う。「ヘンな奴だ」と皆思っていた。  奥田は確かに、誰が見てもかなりヘン[#「ヘン」に傍点]な奴だった。  奥田の偏執的な性格を示す話は幾らも有る。どこどこの現場で誰々が遅刻した、という事実をちゃんと握った上で、「今日は遅刻は無かったか」などと作業員達に探りを入れてくる。作業員達は当然、仲間を庇《かば》って、はい皆ちゃんと来ました、と応える。「そうか? 何々[#「何々」に傍点]が十時過ぎに遅れて来た筈だがな」などと言って、ひとり悦に入っている。俺は何でも知ってるんだ、という顔をしてみせる。そうして、せっせと遅刻分を従業員の給料からサッ引いてよろこんでいる。  初めは仲間の中でチクっている奴が居るのだと思っていたが、何の事は無い、奥田は、わざわざ、朝、現場に行って、こっそりビル陰《かげ》から様子を伺っては、誰々は来てる、誰々はまだ来ていない、などと自分で確認を取っているのらしかった。  ご苦労なハナシだと思う。  奥田は、若い頃からずっと水商売の世界に居た男で、四年前に、いきなり専務として宝栄に入ってきた。いきなり専務にする事も無いだろうと思うが、社長にすれば、このフラフラしている弟を何とかしてやりたい思いで一杯なのかも知れない。  そうして奥田は、突然社内でエラそうな顔をし始めたが、といって奥田にコレといった実権は何も無かった。社長も、それは与えなかった。とりあえず仕事を覚えて名実ともに立派な専務となる事を社長は期待したのだろうが、奥田は今もって現場の事など良く分ってなかったし、分ろうとする気も無さそうだった。そうして社内をウロウロ歩き回っては、俺達を睨みつけたり、意味の分らぬ説教を垂れたりしていた。俺達はべつに気にもとめずに放っておいたが、萩原さんに向ける執拗《しつよう》な敵意[#「敵意」に傍点]にだけは、さすがに俺達も不快なものを感じていた。  奥田は四十六歳。社長とは一回り近く歳の離れた兄弟だったが、或いは、奥田は、萩原さんとの、その年齢の近さ[#「近さ」に傍点]に何か近親憎悪的なものを勝手に感じたりしているのかも知れない。或いは社長である兄の、萩原さんに向ける好意[#「好意」に傍点]というものに、実の弟として歪んだ妬み[#「妬み」に傍点]などを感じているのかも知れない。何だか良く分らないが、ともかく奥田は萩原さんを嫌っていた。嫌って嫌うままの態度で萩原さんを苛めていた。社長が元気なうちは、まだ遠慮も有った様だったが、体調を悪くした社長が入退院を繰り返す様になってからは、露骨に萩原さんに当る[#「当る」に傍点]様になった。 (萩原さん、またやられていたのか)  俺は溜息が出る様な気分だった。  二十代の者が殆どの宝栄で、萩原さんは確かに飛び抜けた年齢ではあったが、しかしその事で特にウ[#「ウ」に傍点]くということも無く、その人柄は半年程のうちで皆の中に気持よく染み通っていた。  小説を書く人などを見るのは、誰も恐らく初めてだったが、しかしそのイメージとして有る様な、ヘンにくずれて[#「くずれて」に傍点]いたり、変わり者だったり、という様な所は、萩原さんには無かった。物静かで、落ち着いた、そしてとても純粋なものを一緒に居て感じさせてくれる人だった。俺達の様な者にも、いつも丁寧な言葉で接してくれ、そして何か尋ねると、実にいろんな事を良く知っていた。  人生[#「人生」に傍点]、などという言葉に、何か屈折したロマンを感じている様な俺達にとって、萩原さんは、何となく、すてきな人、にさえ感じられていた。確かに、仕事ぶりに、まだ不慣れな面は有ったが、しかし書類にポタポタ水を垂らす様な無神経な真似を萩原さんがするだろうか———俺は、そう思った。 「………誰と一緒の現場だったんだ?」俺は工藤に尋いた。 「さあ……」と工藤は首を捻《ひね》ってみせた。  保雄は、ずっと黙っていたが、ぽつりと口を開くと、「………なんか、緒方[#「緒方」に傍点]さんが、一緒だったらしいです……」と、どこかためらう様に言って俺を見た。 「なんだ、緒方[#「緒方」に傍点]が居たのか?」  と俺が声を出す前に、進藤が声を上げた。 「なんだ。じゃ、やったのは緒方だ、間違いねえよ、あの豪快な大男が腰の道具《スクイジ》からポタポタ水を垂らしながら室内を歩いたのよ」そう言った。 「俺も、そう思うな」と工藤もそれに同調した。「大体、向いてないんだよ、緒方は。大ざっぱだろ? 書類汚すくらいなら、まだいいけど、もし事故っちゃったら死んじゃうんだからな、この仕事《バイト》」 「まったくだ」  と進藤が隣で間の抜けた相槌を打った。  俺は後ろ手をついて、ぼんやり空を見た。———  緒方は気のいい大男だ。  身長百八十六センチ、体重九十キロという巨体を持っていて、ツナギの背中には�キャタツ無用[#「キャタツ無用」に傍点]�と誇らしげに書いてある。正義感が強く、仲間同士が一寸《ちよつと》したいさかい[#「いさかい」に傍点]などをやっていると必ず仲裁に入る。それでまだ分らない事を言う様なら、今度は自分が殴りつけて逆にいさかい[#「いさかい」に傍点]を拡大[#「拡大」に傍点]したりする。だから俺達は緒方の事を「アメリカ合衆国」と呼んでいる。トマホークの様なものすごいパンチを持っている。  そういう愛すべき男ではあるのだが、いかんせん、やることが全てにおいて雑で、現場からクレームが来たら、五係の場合、まず緒方がらみ[#「がらみ」に傍点]と言ってよかった。本人もよく分っていて随分気を付けている様なのだが、どうしてもミスってしまう様なのだった。そのおおらか[#「おおらか」に傍点]さは、或いは北海道という広い空の下で生まれ育ったせいなのかも知れない。緒方は、そこから東京へ出てきて、もう四年だか五年だかになるのだという。中野の安アパートでカップラーメンすすりながら、いつも持ち込みの為のマンガを描いている。その絵は、驚く程に緻密な線で繊細に描き込まれていたが、しかし少なくともこの稼業に向いている男とは言い難かった。そして恐らくは、マンガ以外の、どの稼業にも。 「あいつ、クビ、一歩手前だからな」俺は言った。 「ああ、会社からも言い渡されているらしいよ」工藤が肯く。 「………緒方さん、コンビニも、牛丼屋も、駄目だったらしいんですよ」保雄が呟く。 「………だから萩原さん、庇《かば》ってやったんかな」と言った進藤に、 「———まあ、そんな所だろうな」そう応え、俺は陽ざらしのコンクリートにばたり[#「ばたり」に傍点]と寝転がった。  晴れわたった青空に、太陽がのんきに浮かんでいる。  そんなのんきな太陽の下で、いろんな奴が今日を生きている。  太陽は、いろんな奴を見てきて、今も、見ている。  いつまで見ているつもりだろう。 (今度、そんな歌をつくろうかな)俺はふとそんな事を思ってみる。    3  ごし、ごし、ごし、ごし。  翌日、俺は蒲田の駅裏の中学校に居た。  ごし、ごし、ごし、ごし。  そこで悪ガキどもの汚しまくった窓枠のサッシをギザギザのナイロンたわし[#「たわし」に傍点]で朝からヘトヘトになって磨き続けていた。  ごし、ごし、ごし、ごし。  昨日、進藤にデマカセ[#「デマカセ」に傍点]を言ったバチが当って、俺は本当に東和産業の手伝いに狩り出されてしまったのだ[#「本当に東和産業の手伝いに狩り出されてしまったのだ」に傍点]。  ごし、ごし、ごし、ごし。  どうでもいい事だが、言霊《ことだま》というのは本当にあるのかも知れない。————— 「どうだ?」  気がつくと、東和産業の部長さんが、汗だくの顔で廊下に立って俺を見ていた。無口な部長さんが口をきいたのは、これで朝から、たしか二度目だ。 「………はあ」と俺は、汗を拭《ぬぐ》ってそれだけを応えた。進み具合を尋いているのだろうが、自分でどこまでやり了《お》えたのか朦朧《もうろう》として、よく分らない。まあ見れば分る作業だから、と別に言葉は継がなかった。 「すこし、休むか」  部長さんは、宮口精二の様な顔をして、俺に言った。俺は教室の窓枠につかまったまま腕の時計に目をやった。午後三時。 「………そうですね」俺はヘロヘロな声で応えて、ひとつ笑ってみせた。部長さんは笑わなかった。宮口精二の様な顔で、手には今買って来たらしいコンビニの袋を重たげに下げている。薄い袋ごしに、コーラのロゴが透けて見えていた。 (………飲みものよりも腹がへったな)  俺はそんな事を思いながら、窓を下りた。マジメに働くととてつもなく腹がへるのだなという事を、こうして年に二、三回は教えられる事がある。アリガタイ事だ。  俺は無人の教室を横切り、廊下に出た。  夏休み中の事で、校舎には誰も居ない。俺と部長さんは、そのまま廊下に腰を下ろし、足を伸ばした。ふう、という声が、自然に一つ出る。広い中学校の窓々を、そんなふうに、部長さんと二人で朝から黙々とこなし続けていた。校舎裏に並ぶポプラの枝々から、降る様な蝉の声がずっと聞こえている。 「———よく分らんので、適当に買って来たんだが」  部長さんは、そう言いながら、床に置いたコンビニの大きな袋をガサゴソと広げた。そしてそこから、一つずつ商品を取り出して、俺の前に並べた。  コカコーラ一・五リットル、一本。ポカリスウェット一・五リットル、一本。ウーロン茶一・五リットル、一本。そして、サンドイッチ、ハンバーガー、ポテトチップス、おにぎり、ゆでたまご………  煙草に火をつける筈の百円ライターを持ち上げたまま、俺は、ぼんやりと目の前に並べられていくそれらを見つめ続けた。そして、それらを並べ続ける部長さんのゴツゴツした手の甲を見つめ続けた。 「………いや、こんなには」俺は小さく笑った。 「残して、かまわんよ」部長さんは俺を見ずに言った。「………何が好きか、聞いて行けば良かったんだが」  そう言って、部長さんは、自分の為に買って来た緑茶の缶をスコンと開けた。———  ヘンな話だが、俺はふと、死んだ親父の事を思い出したりしていた。  親父もよく、こんな訳の分らない買物をしていたな、と思った。  玩具《おもちや》屋で目についたものを片っ端から買って帰っては、二歳[#「二歳」に傍点]の俺に、人生ゲームだの複雑なプラモデルだの、遊べもしないそんなものをよく与えていたと、いつかお袋が話していた。  そのお袋に考えの無さ[#「考えの無さ」に傍点]を叱られて、しょげかえっていた親父の姿が、俺は遠く思い出せる様な気がした。  きっとこの部長さんも、子煩悩《こぼんのう》で、やさしくて、そして誠実で不器用な人なんだろう俺はそんな事を思ってみた。  くわえていた煙草を箱に納《しま》い、 「いただきます」  一つ頭を下げ、サンドイッチを手に取った。—————  喰うだけ喰って、飲むだけ飲んで、俺は満ち足りた気分で、ゆっくりと煙草に火をつけた。  窓から入る風が首筋の汗を気持よく撫でてゆく。その風が、いつには無い、良く働いている充実感[#「良く働いている充実感」に傍点]の様なものを、俺に少し感じさせたりした。  部長さんは、黙って隣で煙草を喫《の》んでいる。二息ほど吸っては、先の長くなった灰を傍らの水に入ったバケツに、トン、と落す。ジュッ、という小さな音が、その度に、静まりかえった校舎の廊下に一つ聞こえた。——— (………校舎[#「校舎」に傍点]、って、なんか、いいもんだな………)  俺はそんな事を感じながら、すこしぼんやりしてみた。  俺が中学生をやめた後でも、やっぱりこうしてニッポンには中学生が居るんだな、とよく分らない事を考えたりもしていた。 (みんな、どうしているだろう………)故郷の同級生たちの事などが、いつになく心に浮かんだ。  風がまた一つ、廊下に流れた。  そのうち、ふと、進藤の馬鹿面が思い出された。  そして、昨日、屋上で奴をハゲマす為に口にした自分の嘘八百が思い出された。「東和産業で七時まで残業だったよ[#「東和産業で七時まで残業だったよ」に傍点]」そう言った自分の言葉が思い出された。 「………今日、七時[#「七時」に傍点]まで残業になったりしますかね」  俺は部長さんに尋いた。 「いや」と部長さんは少し顔を上げ、「ここは今日、完了する訳じゃないから残業にはならないよ」そう言って、少し不思議そうな目をすると、「———どうして七時[#「七時」に傍点]なんだね」と俺を見た。 「いや………なんとなく。ははは」と俺は、ほ[#「ほ」に傍点]っとしながら曖昧《あいまい》に、笑った。  部長さんは、傍らのバケツに灰を一つ落し、 「他社《よそ》の応援は、疲れるだろう」そう言って俺を見た。 「ええ」と俺は笑ってみせた。  部長さんは笑わなかった。代わりに宮口精二の様な顔で、重々しく肯いた。 「………君らは、ビルにブラ下がるのが本職だからな。こんなチマチマした仕事は疲れるだろう」そう言って、短くなった煙草を、大事そうに口に運んだ。 「………部長さんは、もう何年ぐらい、この仕事やってるんですか」俺は尋いた。 「十年ぐらいだね。鉄工所をやってたんだが、うまくいかなくなってね。社長が幼なじみだったから、まあ、ずっと世話になってる」 「仕事、メチャクチャ早いですよね。俺が一枠《ひとわく》やってるうちに、かるく二つは進んでますもんね。いやー、早いなあ、と思って」俺は朝から言いたかった事を、やっと三時に口にした。 「要領が有るんだよ」  部長さんは愛想も無しに応えた。「こんな古いサッシ、完璧にやろうと思ったら、いつまでたっても了《おわ》らないからね。ぱっと見た感じ、きれいなら、それでいいんだよ」  俺は頭を掻いた。 「いやあ………何か、俺、全然役に立ってない気がして」 「そんなこと無いよ」  と部長さんは少し目を開いて、俺を見た。そして、 「そんな事、無いよ」と、そう繰り返した。 「とても助かってるよ。今日は、あっち、こっちの現場が重なってしまってね。それで宝栄さんに無理言って、応援に来て貰ったんだが、ほんとに助かってるよ。正直言って、ちょっと困る様な人が来る事も無い訳じゃないんだけど、でも今日は来て貰って良かったよ。気にしないで自分のペースで時間までやってくれたら、それでいいんだから」 「はあ、そう言って貰うと」俺は嬉しかった。—————  部長さんの言葉通り、残業にはならず、その日俺は、五時には現場を後にした。  帰りしなに、 「また必要が有ったら、頼む事になると思うんだけど、君、指名[#「指名」に傍点]していいかな?」  部長さんは、そんな事を俺に言った。 「え?」と俺は、いい様な[#「いい様な」に傍点]、悪い様な[#「悪い様な」に傍点]、悪い様な[#「悪い様な」に傍点]、気持で、一瞬、絶句した。 「あはははははは」と部長さんは初めて笑った。 「いや、まあいい。いや、まあいい」といつまでも可笑しそうに笑いながら、俺を見送ってくれた。  きつかったが、そう悪くない一日だったな、と思いながら、俺は駅へ歩いた。西の空に、ようやく夏の太陽が傾き始めていた。蒲田の、町工場の建ち並ぶ狭い路地に、まだ働く人達の音がにぎやかに聞こえていた。    4  バイ———ンッ!!  始まりはいつも、|クリーデンス《C》・|クリアウォーター《C》・|リバイバル《R》だ。  スタジオに入り、楽器を取り出し、そしてチューニングが了《おわ》ると、俺達はいつも、CCRの�雨をみたかい�で音ならしをする。  これを一発やれば、とりあえずゴキゲンになれる。くさくさしてても、気が晴れる。  I won't know have you ever seen the rain  狭いスタジオのしみったれた防音板の天井に、行った事も無いアメリカ南部の青空が見える。  音楽は魔法だ。  そして俺達も、いつか立派な魔法使いになりたい。願いは、そういう事だ。  �雨を見たかい�  俺達は、この歌が大好きだ。  工藤も、進藤も。そして保雄も。  保雄は、狭くるしいスタジオの隅の長椅子に座って、今日も俺達の練習に付き合っている。いつからか、この曲を憶えて、一緒に口ずさんだりもしている。  この曲だけじゃなく、俺達のオリジナル曲の殆どを保雄は憶えていて、仕事中とかにもよく口ずさんでくれていた。 「もし売れたらば[#「売れたらば」に傍点]、マネージャーは君だ」  そう言うと、保雄はいつも、嬉しそうに笑った。  古いオリジナルを、七、八曲おさらい[#「おさらい」に傍点]して、一息つくと、俺達は、思い思いにスタジオの床に腰を下ろし、煙草を吸う。 「禁煙」と書かれた貼り紙が壁にデカデカと貼ってあったが、その脇に「ジャナイヨ」と落書きがしてあった。俺達は、そっちを信じる事にしている。  スタジオ�ムーン・リバー�。駅裏の薄汚れた雑居ビルの地下。ヘンリー・マンシーニがきっと見た事も無い、時間四百円のボロスタジオ。ベニヤ張りの薄い壁一つ隔てた向うは「白鳥」という安キャバレーのカウンター裏になっている。  スタジオは、昔、ホステス達の更衣室だったものをオーナーが改造したものだという事で、だから未だに、店とスタジオを結《つな》ぐドアがちゃんとある。しかも何のつもりだか、鍵が無い。だから店で退屈した、お姉サンやら、元[#「元」に傍点]お姉サンやらが、フラリと入って来ては、ここで暫《しばら》く遊んでいったりする。俺達の演奏を眺めながら「下手ねえ」とかシツレイな事を大声でささやきあったりしている。だから俺達には、お姉サンやら、元[#「元」に傍点]お姉サンやらの友達が、いっぱい居る。  オーナーはもしかしたら≪貧しいミュージシャンどもにエロチシズムを!!福祉財団≫の会長なのかも知れない。  或いは≪ホステス達にロックを!!協会≫の理事なのかも知れない。  だとしたら、そのこころみは、少しは実ってるかも知れない。———  その夜、休憩中のスタジオに、フラリと入って来たのは、シルビアちゃん、だった。  日本人である。  言葉にどこか、九州|訛《なま》りがある。  だからシルビアちゃんは、ちっとも、シルビアちゃん、じゃ無いのだが、店では「シルビアちゃん」と呼ばれているし、本人も「シルビアでーす」とか言っている。だから、シルビアちゃんは、シルビアちゃんには違いないのである。 「ヒサシブリー」とか言いながら入って来て、化粧やら、香水の匂いやらを撒き散らしている。 「あ、シルビアさん」  とか言って、保雄は長椅子を詰めてやったりする。  ドオモ、とシルビアちゃんは、保雄の隣にしな[#「しな」に傍点]をつくって、フワリ、と座る。辺りに化粧の匂いが、また舞い上がる。  シルビアちゃんは、二十一、二かと思われる。とりたてて美人では無い。だが色白で、愛嬌のある顔を、している。切れ長の目が、どこか色っぽい。  女は、色っぽければ色っぽい程、哀しい目に遭《あ》う事が多い様な気がする事がある。何の根拠もあろう筈は無い。けれど、その夜のシルビアちゃんは、とりわけ、そんな事を俺に思わせた。  いつもの様に明るく振舞っているが、どこか、もう一つ、笑顔が冴えない。  そのうち、黙り込んでしまった。  保雄は、そういった事に、敏感である。  ———どうか、したんですか、  とは、しかし聞けない。  チラと俺達に目をやる。俺は少し、首をかしげてみせる。  シルビアちゃんは、長椅子に置かれた誰かの煙草を一本抜いて、 「ごめん、つけて」  と保雄に首を差し出して、ちょっと、よろけたりしている。  少し酔っている様でもある。  天井に向けて、プ——と煙を吐いて、 「バンドも大変ね———」とか言っている。 「ライブのチケット、また、たくさん買ってあげるね」とか言っている。 「あたし、もう、いやになっちゃった」とか言っている。  それから、また黙って、傍らに立て掛けられた工藤のベースを、ぼんやり眺めたりしている。幼《ちい》さい頃は可愛いかっただろうなと思わせる形のいい唇が、よく見ると、すこし震えている。  暫《しばら》くそうして、工藤のベースに目を落していたが、ふとその目を上げ、俺達を見ると、 「何でも、弾けるの?」とシルビアちゃんは、そんな事を尋《き》いた。 「曲[#「曲」に傍点]、何でも弾ける[#「何でも弾ける」に傍点]?」  すこし勢いこむ様にそう尋いた。 「……あ、いや……どうかな……」と工藤が応えた。 「�島原の子守唄�、やって」  シルビアちゃんが、そうリクエストした。 「………ねえ、�島原の子守唄�やって」  床に座る工藤の膝に手を置いて、そう繰り返した。  スパンコールのドレスが重たそうだ。 「………ごめん、俺、知らねえや……その歌」工藤が済まなそうに応える。  工藤は、俺と進藤を見た。俺達も小さく首を振った。聴いた事は有る様な気はするが、ちゃんと弾けるとは思わなかった。いい加減に弾いていいリクエストじゃ無い様な気もした。——— 「———よかよ[#「よかよ」に傍点]、私《ウチ》が唄《うと》ちゃる」  そう言って、長椅子に座り直し、 「なんかこーゆーやつ、※[#歌記号、unicode303d]おおどおみゃ」  とシルビアちゃんが大きな声で唄いだした時、ダンッ、とドアが開いて、顔見知りの店長が黒いスーツ姿でスタジオに入って来た。  ドアを閉め、 「里美ちゃん、お客さん放ったらかして、何してるのっ」そう言って、シルビアちゃんを見た。  シルビアちゃんは、唄うのをやめて、床に目を落した。 「店に遊びに来てる訳じゃ無いでしょっ、お金稼ぎに来てるんでしょっ」  普段は気のいい、小柄な中年のオジサンだが、そう言って一人のホステスを見据えた目には、確かにプロの凄みが有った。 「………ごめんなさい………」  シルビアちゃんは、謝った。 「さあ」と店長はドアを開け、彼女を促した。店の、カウンター裏に結《つな》がるドアの向うに、賑やかなBGMと女達の嬌声が聞こえていた。 「………ごめんなさい………」  今度は、俺達に、そう謝って、シルビアちゃんは長椅子を立った。  ドアを出て行く時、ふと振り返り、 「………チケット、買ってあげるから………」  そんな事を言った。そして店の中に消えていった。  何かがいや[#「いや」に傍点]で逃げ出して来た店の中へ、シルビアちゃんは、また戻っていった。  ドアが閉まり、スタジオに、静けさが落ちた。——— 「さとみ………って言うんだな、シルビアちゃん」進藤が、ぽつり、と言った。 「………島原の子守唄、弾いてやれると良かったな」と工藤が煙草に火をつける。 「………うん」と俺は肯《うなず》いた。  保雄は、辛そうに床に目を落している。 「………島原の子守唄、………練習しとこおや」  工藤がそう言って、煙草を捨てた。    5 「岸野ォ」  進藤が声を上げた。  中野区を流れる、ナントカ川での事だ。 「俺はな、窓ガラス清掃作業員募集[#「窓ガラス清掃作業員募集」に傍点]、って言うから、三年前、宝栄に入ったんだぞ。三年後に、こんなドブ掃除[#「ドブ掃除」に傍点]するなんて聞いてなかったぞ。岸野ォ、ハタチの俺をダマシタな」膝まであるゴム長を履いた進藤が、流れの真ん中でスコップ片手に、そう叫んだ。 「ドブ[#「ドブ」に傍点]、って言うな、バカ、川[#「川」に傍点]だ、川[#「川」に傍点]っ」  川辺のコンクリートで電卓に目を落しながら岸野が言った。 「川ァ? 川じゃねえよ、こんなの。川ってのはな、岸野、俺の故郷《いなか》のな、愛媛《えひめ》のな、兵頭さん家《ち》の裏に流れてた様なのを、言うんだ」 「知らねえよ、兵頭さんなんか」岸野は新規現場の見積りに忙しい。電卓を叩きながら、「ムダ口きいてないで、仕事しろっ、仕事っ」進藤に怒鳴った。 「………でもよォ、スコップでさら[#「さら」に傍点]うとよォ、コンドームとかウンコとか、いっぱい出てくんだぜ、やだよ、もうオレ」  顔を上げ、岸野は呆れる様に進藤を見た。 「バカッ、生活排水の川にウンコなんか有る筈無いだろっ、流し台でクソをする奴なんか中野に居るかっ」 「浮浪者が、やったかも知んねえじゃんか。水洗だあ——、とか言いながら」  と言った進藤に、岸野は計算をやめて、少しの間、宙を見た。 「………ま、そういう事は、有るかも知れんがな」そう言った。———  ピカピカの日曜日。  晴れわたった夏空の下で、俺達は五係総出のドブ掃除を、朝からやっていた。各係が分担でやっている臨時の仕事だった。 「いいか、三係[#「三係」に傍点]の奴等は昨日二百メートル[#「二百メートル」に傍点]進んだらしいぞ、負けんじゃねえぞ。五係の底力、見せてやれ」岸野は電卓を納《しま》いながら、俺達にハッパを掛けた。 「ドブ掃除|競《きそ》って、どうすんだよ」進藤が言う。 「川だっ、ドブって言うなっ」と怒鳴った岸野に、「岸野、三時だ」工藤が声を掛けた。 「お。三時か。村田、ジュース買って来い、休憩だ」  岸野は、財布から千円札を二枚出して、村田という入りたての新人に渡した。  やがて戻って来た村田が、川辺のコンクリートで思い思いに休んでいる俺達センパイたちに、缶コーヒーを一つずつ手渡して行った。  ポス、ポス、と缶を開ける音が、夏の陽だまりにこぼれる。川面にも、川辺にも、眩しいほどの強い日射が照りつけていた。 「………しかし何だって、川掃除なんか、やんだよ」コーヒーに一つ口をつけ、進藤が尋いた。 「まあ、そう言うな。専務が取ってきた仕事なんだ」岸野が応える。 「ケッ、やっぱり、奥田かよ」と、これは別の一人。 「だから、そう言うな、って」岸野はコーヒーを飲んだ。 「儲かんの? コレ」と違う誰かが尋く。 「儲からねえよ、都《と》の仕事で儲かった奴なんて居ねえよ」 「じゃ、なんで、やんの? それでなくても求人掛けてるぐらい、忙しいのに」と言ったそいつに、「奥田の馬鹿が、東京都[#「東京都」に傍点]と、お友だちになりたくて仕方ねえんだよ」工藤が応えてみせる。 「ま、そんな所だな」岸野は苦笑して、煙草に火をつけた。 「やってられねえなあ、こんなの」と進藤は呟き、「ね、萩原さん」と隣の萩原さんを見た。萩原さんは、ただ隠かに笑ってみせた。岸野が、ふと思い出した様に、 「萩原さん、昨日、行って貰ったマンションの現場、どうでした?」と尋いた。 「ええ。べつに。三時過ぎには了《おわ》りました。完了書は、箱に入れておきましたけど」 「ええ。受け取りました。ご苦労さまでした。———でね、あすこ、これから毎月やってくれないかって元請《もとうけ》が言ってんですけど、どうですかね?」岸野は萩原さんを見た。 「………さあ、僕は、そういった事は……」萩原さんは、首をかしげてみせた。 「いや、あすこ、一階に管理人夫婦が住んでるでしょ? あのオヤジの方が、異常に、うるさい[#「うるさい」に傍点]らしいんですよ。それで、今やってる業者が、どうも捨《な》げたがってる様なんですね、若い奴が行きたがらないから——って。そーゆーの、別に、問題なかったですか?」 「ええ。———べつに」萩原さんは、応えて岸野を見た。 「………そうかあ。萩原さん、きちん[#「きちん」に傍点]としてるからなあ。きっとオヤジも安心したんだな。———いや、萩原さんが担当して構わないって言うんだったら、あすこ、請けちゃいますけど、どうですか?」 「ええ、僕は別に、構いませんけど」 「あ、良かった」と笑って、「いや、元請に頼まれると、僕も弱くてね、助かります」岸野は頭を下げた。  いえ、と萩原さんは微笑んで応えた。  岸野は、ほっとした様にまた一つ、コーヒーを飲んだ。 「いやでも、萩原さん居てくれると、助かりますよ。———ホラ、病院とか、ホテルとか、ちょっとうるさい所[#「うるさい所」に傍点]、有るでしょ。ウチもこれから、そういうの増えて行くと思うんですけど、なにしろコイツラ[#「コイツラ」に傍点]ときたら」  と岸野は、俺達、五係の精鋭十[#「精鋭十」に傍点]数人をざ[#「ざ」に傍点]っと見渡して、「口のききかたも知らない馬鹿ばっかりですからね。うっかり、どこでも行かせられなくて弱っちゃうんですよ」そんな事を言った。「だから、そういうの、萩原さんに、これから青任者《アタマ》で入って貰えたら、と思うんです。よろしくお願いしますよ」  と言う岸野に、萩原さんは、静かに微笑んで、頭を下げた。 「口のきき方も知らない馬鹿ばかりで悪かったな」と進藤。  その進藤に、「おまえら、こないだ行かせた渋谷の結婚式場な、言わなかったけど、クレーム来てたんだぞ、ヒゲぐらい、ちゃんと剃って来て下さい、って、支配人から電話が来たよ。汚ねえヒゲ面でヒトサマの人生の門出、ブチ壊すんじゃねえよ、ったく」 「あれは、岸野、比嘉だよ」  と工藤が、沖縄から出て来て演劇の勉強をしている仲間の名を言った。  比嘉は、岸野の正面に座っている。 「おまえかっ?」と目を向けた岸野に、コクリ、と朴訥《ぼくとつ》な比嘉は、笑って肯いた。 「笑ってやがる。おまえ、今も伸びてるじゃないか。ヒゲぐらい、毎日ちゃんと剃れよ。一応客商売なんだからよ」  と言う岸野に、 「………いや、毎日、剃ってるんですけど………」と比嘉は、ぼそぼそと答えた。 「剃ってるんですけど、って、じゃ、そこに生えてんのは何だ? カビか?」 「分ってねえな、岸野」と進藤が口を挟む。 「比嘉は、毎朝、ちゃんとヒゲを剃って、家を出るんだよ。でも現場に着くまでに電車の中で伸びちまうんだよ。そういう奴なんだよ。おそろしいだろ?」  岸野は絶句する様に比嘉を見た。そして、 「………おそろしいな」そう呟いた。  休憩を終え、俺達は、最後の力を振り絞って中野区を流れるナントカ川に立ち向っていた。もう一時間半ほどの辛抱だ。  しかし川は、辛抱できないくらいに汚なかった。そして臭《くさ》かった。 新人の村田は、その少し前から、顔色が白っぽく、相当、気分が悪そうだった。暑さのせいもあったのだろう、辛そうにしていた。 「村田さん、大丈夫ですか?」と保雄は盛んに気づかっていたが、そのうち、その村田が、とうとう、うげげげげげげ、と川べりのコンクリートに、いやという程もど[#「もど」に傍点]してしまった。わけの分らない吐瀉物《としやぶつ》が、どより[#「どより」に傍点]とした厚みを持って、そこに広がった。 「あ———あ」と進藤が呆《あき》れて声を上げた。  俺達は腹を抱えて、笑った。  岸野が駈け寄って来て、「バカッ」と怒鳴った。「掃除に来てんのに、何で汚すんだよっ」そう叱りつけた時、夕刻を告げるチャイムが中野の町に鳴り渡った。 「ああ五時か」  と岸野は腕の時計を見た。 「よ——しっ、そこまでっ、道具、片づけろっ、スコップ一本忘れるんじゃないぞっ、掻《か》き出したゴミは全部コンテナにぶち込めっ、ああ、そうだ、どこまで進んだか、誰かシルシ付けといてくれっ、明日オレが来て、一係《いちがかり》に引き渡すからなっ、どうだ、結局、今日は何処《どこ》まで進《い》った?」 「村田のゲロまでだ」誰かが応える。 「よしっ、明日は村田のゲロからだなっ、帰るぞっ!!」  そして長い一日が、やっと終った。  村田の衝撃のゲロデビューは、その後、しばらく、俺達の退屈をまぎらわせてくれた。    6  気がつけば、短い夏が、いつか終ろうとしていた。  俺達の毎日は、相変わらず、俺達の毎日、だった。  それでも、そんな毎日の中に、誰かの芝居の公演が有ったり、誰かのバンドのライヴが有ったり、誰かがチョイ役で出たテレビドラマが放映されたり、———とくに誰が振り返る事も無い小さな庭先の花火の様なそんなものが、それでも、この街の片隅で、誰かに気付いて欲しいと、毎日を息づいていた。  それは、そんな夏の終りの、残暑がまだ強く残り続ける夕方だった。  その日、俺達はスタジオに居た。  昼間、同じ現場だった俺と工藤と進藤は、ファーストフードで軽く腹を充たした後、そのまま三人でスタジオ�ムーン・リバー�に入った。  いつも俺達の練習に付き合うのを楽しみにしている保雄は、その時、まだ来ていなかった。六時過ぎ頃だったと思う。 「保雄、今日、何処だっけ?」  俺は工藤に尋いた。 「新宿の筈だよ」と工藤が応えた。  ふうん、と俺は肯き、あいつにしちゃ手間どってるな、とそんな事を思った。  いつもの様に、CCRの�雨をみたかい�を演《や》り、それから一時間ほど新しい曲の練習をやった。休憩に入り、表で缶コーヒーを買って来て、俺達は、いつもの様に、スタジオの床に座って煙草をふかした。壁の時計は七時を過ぎていた。 「保雄、遅いな」進藤が、ふと気がついた様に言った。うん、と俺は応えた。  胸騒ぎがした———と言うのは、あくまで、今にして思えば、という事に過ぎないのかも知れない。それでも確かに、何となく、来ない保雄が、その夜はずっと気になっていた。  その朝、保雄は、萩原さんと、もう一人井上という新人の二人を連れて三人で新宿のその現場に入った。  其処《そこ》は、確かに、ちょっと面倒臭い[#「面倒臭い」に傍点]現場ではあった。  新宿の、十階建てのビルで、三面にかなりの数の窓が有り、その最上階はオーナーの住居になっている。  オーナーは、ベランダに菜園をしつらえていて、その日当りを考えての事なのか、屋上からベランダへ続く壁面が、かなり広い角度を持った斜面になっていた。だから、九階から下の壁面を屋上から直接見る事が出来ない。その為ロープ垂らす場所の見当をつけるのに苦労する。窓の位置が分らないのだ。おまけに屋上に適当な結び所《どころ》が無い為、ロープをセットするのに、他の現場ではそう使う事も無いやや[#「やや」に傍点]特殊なロープの張り方が必要とされたりもする。  足元の滑り易いタイルの斜面に、それなりの降り方が要求されたり、ゴテゴテと並んだ沢山の鉢植に気を使わねばならなかったりと、ベテランでも、少し面倒臭い、そして神経を使う現場ではあった。  それでも、普通に仕事が出来る者が三人入れば、だいたい四時前後には了《おわ》る。ややこしいのは正面だけで、他の二面は、普通に、ただ下りて行けばいい。経験七ヶ月を積んだ萩原さんは、戦力としては充分と言えたし、もう一人が入って間も無い新人だったにしても、内側の作業をやらせる分には、そうひどい遅れは無い。 (四時半には了《おわ》るだろう)  保雄は、きっと、そんなつもりで居た筈だ。  しかし車輛部の小さなミスが、その予定を大幅に狂わせた。  現場に必要な道具類は、たいていの場合、前日までに車輛部の者によって運び込まれる。現場名、住所、置いて行く道具名などが書かれた予定表をにらみながら、朝、会社を出た彼らは、一日じゅう、そうして走り廻っている。並行して、了《おわ》った現場の道具を引き揚げ、引き揚げたそれを、どこかに回したりもして行く。「宝栄」は、そういう組織運営は割合しっかりしていて殆ど手違いの様なものは無い。だが、その日、車輛部の誰かが、小さなミスをした。  保雄たちの入ったビルには、ロープが2セット必要だった。正面側でかなりの時間を取られる事と、他の二面にも、かなりの量の窓が有るので、作業は、二人がロープをやって、残る一人が、上から内側を進めて行くという形で始まる。そして大体三時前後にロープが了《おわ》り、了《おわ》った二人が内側の者に合流して、それから一時間程で全体が完了するというのが、いつものパターンだった。  だが、その日、車輛部の者は、何を勘違いしたか、ロープを1セットしか置いて行かなかった。 「困ったな」  と保雄は呟き、ビルを出て、往来の電話ボックスから会社へ電話を入れた。  そこにもし岸野が居れば、車輛部の不手際を、まず謝り、それから然るべき処置を取っただろうと思う。駆《はし》り廻っている運転手に連絡を取り保雄たちの現場へ急行させたかも知れない。或いは会社の車《バン》に1セットを積んで岸野自身が運んで来たかも知れない。或いはまた、そのまま三人を明日にスライドさせたかも知れない。  だが生憎《あいにく》、岸野は現場の見積りに出かけていて、電話は違う者が取った。悪い事に、そいつは業務に就きたての男で、何事にも、まだ自信が無かった。だから、丁度、専務室から出て来た奥田を見ると、「こう言ってるんですが」とよりによって奴[#「奴」に傍点]に伺いをたてた。受話器を取り上げた奥田は、岸野なら絶対口にしない事を、電話の向うの保雄に告げた。命じた、と言ってもいい。もともと現場の事など、ろくに分らない男だった。三人区[#「三人区」に傍点]の現場に三人[#「三人」に傍点]入って、何を困る事が有るのだ、というくらいのアタマしか無かった。 「何とか、やれるだろう」  奥田は、まず、そう言った。 「現場は、もともと余裕を持って人間を入れてあるんだ。明日もう一人入れるなんて余裕は無い。それに一つの現場が延《の》びると全体の予定に支障が出るからな。今日三人で了《おわ》らせてくれなきゃ困る。そのまま予定通り、やってくれ。残業になる? よく分らんな。………まぁ、そうなる様だったら、三人でダラダラ残ってないで、一人で最小限のものにする様に———」  奥田は、それだけ言って、電話を切った。——— 「何を言ってるんだ、あの人[#「あの人」に傍点]は」  戻って来た保雄の話に、萩原さんは、珍しく大きな声を上げた。  だが保雄は、穏やかに笑って、「仕方無いスよ、やっちゃいましょう」  そう言って、二人に指示を出した。一番若かったが、一番キャリアの有る保雄が現場では必然的に責任者《アタマ》になる。 「萩原さんと、……ええと、井上さん、でしたっけ?」保雄はそう言って、入って間も無い新人を見た。ええ、と答えた井上に、一つ笑い、「二人で上から内側、やって来て下さい。十階のオーナーの所は、挨拶入れて一番にお願いします。挨拶する時は元請の『〇〇建設』で名乗って下さい。僕は、とりあえず西面からロープやっていきます。そうですね、十一時四十分回ったら、適当にメシに行っちゃって下さい。僕は僕で、キリのいい所で行く様にしますから。休憩は屋上で。井上さんは萩原さんの指示に従ってやって下さい」 「保雄君、ロープは僕がやるよ」萩原さんは、そう言った。「君はベテランだから、井上君に色々おしえてあげるといい」と言う萩原さんに、 「いえ………ここのロープは、一寸コツ[#「コツ」に傍点]があるんで」と保雄は笑い、「内側、お願いします」そう言った。  作業は、保雄が外面、萩原さんと井上が内面という常《いつ》に無い形で始まった。内面が早々《はやばや》と了《おわ》り、外面が大幅に遅れてしまうだろう事は、保雄にも、萩原さんにも、その時点で、すでに明白な事だった。  萩原さんが、井上を連れて昼食に出た時、振り返ってビルを見ると、保雄は西面の窓をまだやっていた。  そして近くの中華屋で食事を終えて戻って来た時、保雄は、その西面の窓の、やっと最後の列にとりかかっていたという事だった。 (メシ、喰ってないんだな)そう思った萩原さんは、往来を引き返し、目についたコンビニで保雄の為の弁当と飲みものを買って屋上へ上った。気温三十六度という、厳しい残暑に街は蒸していた。  三時前に内側の作業は全て完了した。萩原さんは、それを保雄に告げた。 「ああお疲れさまでした。帰《あ》がっちゃって下さい、あと、やっときますから」  そう言った保雄の表情に、萩原さんは、ひどい疲れが現《で》ているのを見た。  無理も無い、と萩原さんは思った。  この暑さの中で、殆ど休憩も取らずに、やり続けているのだ……… 「保雄君、あとは僕がやるから、君、帰んなさいよ」萩原さんは言った。萩原さんにしてみれば何かいたたまれない[#「いたたまれない」に傍点]気持だった。この、少年の様な、そして自分の子供の様な年齢の若者が、一人で現場の疲れを背負っているその様子が、萩原さんには、何かたまらなく痛々しかった。 「代わるよ」萩原さんは繰り返した。 「大丈夫ですよ。それに」と保雄は言って、ビルの南面に目を向けた。  作業箇所として残っているのは、少しばかり面倒な南側の正面部分だけだった。  陽射《ひざし》を避けて作業していた保雄は、通りに面した南側の面を、幾らかでも陽の柔らいだ最後にやろうと作業を進めていた。そして、そこだけが、今のこされていた。 「だから自分がやる」とこの若者は言いたいのだろうと萩原さんは思った。しかし似た様な現場は、自分も、もう幾つか場数を踏んでいる。確かにここは初めてだが、だからと言って別にそれがどうという事は無い。 「いいから。代わろう」  萩原さんは言って、保雄の肩に有るブランコ板に手を伸べた。 「いや、ほんとに」と保雄は笑って首を振り、「ここは、ちょっと、技術《テク》が要るんです」そう応えた。  ———萩原さんには無理です。  と保雄は、そんな事は言わない。だが、ここは技術が要るんです、という言葉は、それと同質の、保雄にとって出来たら口にしたくない最後の言葉だった。  萩原さんにも、それは伝わった。  責任者《アタマ》がそう言っているのだ。萩原さんは譲るしか無かった。 「保雄君、命綱[#「命綱」に傍点]、ちゃんと付けた方がいいよ」交代する事は諦めて、萩原さんは保雄にそう言った。「疲れていて、面倒臭いだろうけど、だからこそって事も有る。命綱、ちゃんと付けなさいよ」 「ええ」と保雄は笑って答えた。 (………きっと付けないんだろうな)そう思いながら、萩原さんは、後ろ髪を引かれる思いでツナギを脱ぎはじめた。—————  保雄は、確かに疲れていた。  出来るものなら、このまま正面部分を明日に残して帰りたいと思った。これから、あの面倒臭い箇所をやるかと思うと、うんざりした。だが、ここ[#「ここ」に傍点]は今日何としてでも終《あ》げてしまわなければ———保雄は、そう考えていた。  保雄は、奥田に萩原さんを苛める口実を与える事だけがいや[#「いや」に傍点]だった。  もしこの現場に萩原さんが居なければ、朝の電話の時点で保雄は腹を括《くく》っただろうと思う。他の仲間がやる様に、「やってられるか」、と奥田の言葉など適当に聞き流し、それなりのやり方をとっただろうと思う。だが萩原さんが居る以上、それは出来なかった。あの現場の事など何も分らない男は、そして今やすっかり社長気取のあの男は、三人区[#「三人区」に傍点]の現場に三人[#「三人」に傍点]入っておきながら了《おわ》らなかった、その事だけを不快に思い、そしてその不快さは、また萩原さんに向けられるだろう、保雄はそう思った。それはたまらなくムナクソの悪い事だった。  保雄を残し、萩原さんは井上と二人ビルを出た。出てすぐ右手が地下鉄の入口になっている。萩原さんは、じゃあ、と井上を見送ると、通りを渡り、ビルの向いのコーヒースタンドに入った。そこで保雄の作業の了《おわ》るのを待っているつもりだった。一緒に晩メシでも喰おう、萩原さんは、そう思っていた。  コーヒーを頼み、萩原さんは、通りに向いたカウンター席に着いた。そこから、今|後《あと》にしてきたビルが正面に見えていた。壁面の地上高くに、保雄の影が、一つ浮かんでいた。命綱は付けていなかった。    7  午後六時を過ぎ、保雄の作業は、ようやく終りを迎えようとしていた。  空はまだ充分に明るかったが、陽はもうビル街の向うに沈み始めていた。(………あと、一本)保雄は自分を励ます様に胸に呟いた。全身がひどくだるい。エレベータで屋上へ上る時かるい吐き気さえした。汗が蒸発し切ったツナギは塩を吹いてカパカパに乾いている。そう言えば今日は一度も小便をしてないな………保雄はそんな事を思った。水分はみんな汗で出尽くしてしまってるのだろう、そう考えて、ちから無く苦笑した。何か頭がぼおっとしている気がする。  ふと気づくと、ビル街の彼方が見事なオレンヂ色の夕焼けに染まっていた。  保雄はロープに掛けた手を止め暫《しばら》くそれを見た。癒《いや》しようのない疲れを優しく吸いとってくれる様な、都市の夕景だった。手前に建ち並ぶビルの窓々が夕焼けを映し返して金色に輝いている。綺麗だな、と保雄はただそう思った。企業の電飾《ネオンサイン》が黄昏《たそがれ》に浮かび上がり、その下の高速道路をスモールライトを灯した車たちが川の様に流れてゆく。(…………東京だって綺麗だ)そんなことを胸に呟いてみた。いつに無く、東京という自分のフルサトへの愛情が淡く保雄の胸にわいた。  進藤さんの愛媛も、緒方さんの北海道も、シルビアさんの九州も、きっとみんな綺麗だろうけど、(———東京だってこんなに綺麗だ)、そう思ってみた。暮れかかる空を一つ見上げ、そこにフウと息を吐いた。背筋を軽く伸ばし、保雄はゆっくりと最後のセッティングに取りかかった。  一度引き上げ移動させたロープを、保雄はまたゆっくりと地上に向けて垂らしていった。斜面のせいで屋上からは壁面が見えない。そのため窓の列に合わせて歩道の端に空き缶[#「空き缶」に傍点]を立ててある。保雄はそれを目印にロープを下ろしていった。地上に届いているかどうかはロープに付けたシルシで分る。届いたな、という所からもう一メートルほどの余裕を持ってロープを延ばし、それから結び所の少ない屋上で手間のかかるセットを、何とか手際よくやり了《お》えた。最後にぐいとロープを七、八十センチ程持ち上げ、「シャックル」と呼ばれるU字型の鉄製の器具にそれをからませた。からみ[#「からみ」に傍点]は、体重が掛かるとギュッと締まり、下から軽くロープを持ち上げると、それが緩《ゆる》んで、緩めた分だけ体を下にさげてくれる。ロープをからませたそのU字型の器具に短い鉄の棒《ピン》を差し、その棒《ピン》に自分の座るブランコ板のワイアーを吊るす。ドーナツ状になっているワイアーの先を棒《ピン》に通し、その棒《ピン》をシャックルの螺旋状の穴に捩じ込んで[#「捩じ込んで」に傍点]セッティングは完了する。  保雄は、もう無数回繰り返してきたそんな手順をただ機械の様に一人すすめていった。すすめながら、幾度となく、茜々《あかあか》と広がる都市の夕景に目を奪われた。何もせずいつまでもそれを見ていたい気がした。見ているだけで疲れが空に運ばれていく様に思われた。いつにないそんな感覚が、逆に、その疲れのはげしさを保雄に告《おし》えている様でもあった。  夕景は、確かにその時の保雄の心を癒《いや》した。同時にそれは、ここまで張り詰め続けてきた保雄の緊張を一気に緩めてしまうものでも、もしかしたら有ったのかも知れない。  保雄はセッティングを了《お》えた。  少なくとも了《お》えたつもりで居た。  だが深く捩じ込むべきシャックルの棒《ピン》は、そうされること無く、ただ浅く差し込まれているだけに過ぎなかった。  一日やりおおせてきた作業の、その、最後の最後の、自分の命を預けると言っていい棒《ピン》の捩《ね》じ込み手順一つだけが、黄昏《たそがれ》の淡い気配の中で忘れ去られた。  保雄は、危ういバランスで支えられているだけのブランコ板に身を乗せたまま、地上三十メートル近いビルの絶壁へ、ひとり出ていった。———  九階の作業を了《お》え、そのとき保雄は八階の窓にかかっていた。手をいっぱいに伸ばし、大きく体を振りながら手際よく一枚一枚の窓を仕上げ続けていった。その激しく揺れ続ける動きの中で、ぐり[#「ぐり」に傍点]、と目の前のシャックル[#「シャックル」に傍点]が斜めにかしいだ[#「かしいだ」に傍点]。傾いた棒《ピン》の上をワイヤーの輪がザザッと走って片方に寄った。保雄は気にとめなかった。傾こうが、一回転しようが、棒《ピン》で仕切られている限り、その閉じられた空間からワイヤーの輪が脱《で》て行く事は無い。保雄は構わず作業を続けた。ぐり[#「ぐり」に傍点]、とシャックルはまた動き、元の形に戻った。しかしまた、動きに連れて、ぐり[#「ぐり」に傍点]、と斜めにかしいだ[#「かしいだ」に傍点]。その時、ガクン、と体が落ちた。(え)と思うよりも先に保雄の反射神経が目の前のロープを掴んだ。ズドン、と体が下に引っ張られた。足が宙を蹴った。今の今まで座っていたブランコ板が回転しながら落ちていく。(棒《ピン》が抜けた)ぐらり[#「ぐらり」に傍点]と空気が傾く様な衝撃が保雄を襲った。遥か足元から大通りを走る車の音が聞こえてくる。両手に掴んだ一本のロープだけが保雄をビルの絶壁に繋ぎとめていた。(離したら、死ぬ)こわばる[#「こわばる」に傍点]全身が一瞬に汗ばんだ。ズルッ、と体が一つ落ちた。ガラスの向うでふと外を見た背広姿の男が大声を上げながら窓へ駈け寄って来た。慌てる手元で男が窓を開けた時、ズルッ、と体はまた落ちた。ズルッ、ズルッ、とその間合《まあい》を狭《せば》めながら保雄の体はしだいに加速を加《つ》けて落ち始めた。ビルの壁面が逆流する滝の様に目の前を流れていく。ザラついたロープの表面が手のひらを荒々しく走り抜けていった。走り抜け続けるその摩擦が、やがて両手の皮[#「皮」に傍点]を破り肉[#「肉」に傍点]を裂いた。その裂かれた肉の上を灼けたロープの滑走が更に走り抜け続けた。狂った様な痛みが全身を突き抜けた。(離したら死ぬ)喉がちぎれるほど引き攣《つ》った。(離したら死ぬ)(離したら死ぬ)生まれて初めて味わう恐怖の中で保雄の頭にそれだけがぐるぐる回り続けた。  萩原さんは三杯目のコーヒーを飲んでいた。飲みながら、通り向うのビルで黙々と作業する保雄を、もう三時間近く見つめ続けていた。母親と妹との暮しを支えているという、その小さな背中が、ビルの絶壁に、ぽつんと浮かんでいた。保雄が事故ってしまうことなど、その時の萩原さんには、思いも及ばぬ事だった。 (……………もしカミ[#「カミ」に傍点]というのが居るとしたら)遠く保雄を見つめながら萩原さんは思った。そのひと[#「そのひと」に傍点]がすきなのは、あの保雄君の様な青年なのだろうな、そんな事を考えた。  薄っぺらな観念の中に人生を探している、この自分の様な男では無く、生活力の欠片《かけら》も無いその事で人に迷惑ばかりかけている、この自分の様な男では無く、そして両親にも女房にも露《つゆ》ほどの孝行さえしてやった事の無い、この自分の様な男では無く、カミ[#「カミ」に傍点]がすきなのは、きっと、あの保雄君の様な人間なのだろう、萩原さんはそう思い、そしてそうあって欲しいとも思った。  煙草を吸おうとパッケージに手を伸ばすと、すでに空《から》になっていた。目の前の灰皿は吸殻の山だった。くしゃ、とそれを握り潰し店員を呼ぼうと振り向きかけた時、萩原さんは何か小さなものが保雄のそばから落ちて行くのを見た気がした。同時に、ガクン、と保雄の体が空中で激しくバウンドするのを見た。今の今までその体を乗せていたブランコ板が遥か足元を回りながら落ちていく。(棒《ピン》が抜けた)。どん、という衝撃が萩原さんの全身を打った。宙吊りの保雄はロープを掴んだままズルズルと加速をつけながら落ち始めている。激しい声を上げ、フロアのテーブルにぶつかりながら萩原さんは表へ飛び出した。大通りには車が唸《うな》りをあげて流れ続けていた。何度か通りへ飛び出したが行き交う車に押し戻され、その度《たび》にけたたましくクラクションが鳴った。すでに気付いた通行人が歩道で大声を上げている。萩原さんは、なすすべも無く、ただ圧《お》し潰《つぶ》される様な悲痛さで、そこに立ち竦《すく》んだ。  萩原さんは、苦痛に歪む保雄の顔がそこから見える気がした。手のひらを灼き焦す炎が見える気がした。必死で一本のロープにしがみつき続ける保雄の恐怖が、直《じか》に伝わってくる気さえした。やがて歩道の女性が悲鳴の様な叫びを一つ上げた時、保雄は、力尽きた人形の様に、その血まみれの両手をロープから離した。一瞬ふわり[#「ふわり」に傍点]と空中に静止して見えた保雄は、そのまま空気を断ち切る様にビルの壁を真直《まつすぐ》に落ちていった。路上に停められた数台の自転車をなぎたおしながら、激しい音とともに、保雄は路上に叩きつけられた。    8  岸野からの電話が練習中のスタジオに入って来たのは、その日の午後八時頃だった。  俺達の所在をさんざん捜した挙句に、やっとつかまえてくれたものらしかった。  電話を取った工藤は、一瞬、自分の耳を疑った。そして進藤と俺に、それを告げた。  俺達は楽器もそのままに、保雄が運ばれたという新宿の都立病院へタクシーで駈けつけた。  病院へ行くと、萩原さんと岸野が居た。岸野は、保雄の詳しい状態を俺達に教えてくれた。———  火傷に拠る両手のひらの烈傷、右|肘《ひじ》、並び右|踵《かかと》の複雑骨折、および顔を含む全身打撲、腰の骨にはひびが入っているという事だった。  軽症とは言えないが、死ぬよりは、よほどましだった。  ———自転車が、クッション[#「クッション」に傍点]になってくれた様だ。  岸野が一人言の様にそう言った。  翌朝、宝栄ビルサービスの事務所には、五係の作業員全員が集まっていた。早朝に掛かってきた会社からの電話で、呼び出されたものだった。その日の現場は、全て中止。奥田の指示によるものだった。  岸野は、すでに机についていて、やって来た俺達を見ると、ご苦労さん、と小さく言った。俺達は、長椅子に腰かけたり、空いてる社員の机の前に座ったり、たいして広くも無い事務所で思い思いに身を置きながら全員が揃うのを待った。保雄がとりあえず無事だった事で、俺達の気持は幾らか軽かった。小声で事故の話を交わしたりもしていた。やがて数が揃い、奥田が、俺達の前に立った。朝っぱらから、ダブルの背広《スーツ》を着込み、頭をポマードで光《テカ》らせている、その姿が、俺にはまるで馬鹿に見えた。 「おまえらっ、なんで命綱をしないんだっ」  奥田の口から出た最初の言葉は、それだった。  俺は一瞬、ぽかん、としてしまった。多分、皆、そうだったと思う。言葉自体に間違いは無いだろうが、こんな際の第一声がそれか、という気がした。  結局、その朝、奥田が口にし続けた言葉は、すべてがその調子だった。曰《いわ》く、労働基準監督所からお叱りを受けた、曰く、同じ元請関連の現場はこの事故の為に引き揚げられてしまった。曰く、この一年何とか使わずに済んでいた労災を使う破目になってしまった、要するに、「迷惑だ」、奥田の言いたいのは、ただそれだけの様だった。 (こんな奴が本当に居るのか)という気分で俺はそんな奥田を見ていた。  世の中には腹黒い奴は無数に居るだろうが、それでも、もう少しは表面を取り繕ってみせるものではないかと思った。何にせよ一人の従業員が重傷を負ったのだ。たとえ上辺だけでも作業員を労《ねぎら》ってみせ、その上で注意を促し、裏で抜け目の無い締め付けを謀《はか》る———普通は、まあそんな所では無いかと考えた。保雄の状態や、事故の状況説明や、その上での危険防止の為の確認や、本来会社側がすべきそんな話は、そこには何も無かった。有るのはただ、会社が失ったものに対する奥田の騒がしい愚痴ばかりに過ぎなかった。  所詮小物[#「小物」に傍点]なのだ、と思った。(子供《ガキ》だ)とも思った。こいつは何十人かに一人くらいは必ず居る、胸クソの悪い、クソガキだ。そう思った。  奥田は俺達の前で尚も声を張り上げ続けた。そのうち、そうせずにおれないとでもいう様に、奥田の騒がしい愚痴は、同じ現場に居た萩原さん個人に、やがて向けられていった。愚痴は、次第に毒[#「毒」に傍点]を含み始めていた。 「いい歳[#「いい歳」に傍点]をした者が一緒に居ながら、どうしてこんな事になるのか、俺には分らん」  奥田は、傍らの長椅子に腰を下ろす萩原さんを視界の隅に置きながら、そう言った。 「四十を過ぎた者にどうせ満足な作業が出来るとは思わんが、それでもそれなりのものを期待して会社は置いているのに、そういう、若い者の規則違反をたしなめる事の一つも出来んのなら、そんな者には居て貰う意味が無い」  そして何の脈絡も無く、 「会社は大損だっ」そう続けた。  もういい加減、みんな、うんざりしていた。岸野の表情にも、それが出ていた。そろそろ復帰しそうだという社長の顔が俺はひどく懐かしく思われたりした。 「いいかっ、仕事というのはなっ、小説なんかを書きながら[#「小説なんかを書きながら」に傍点]」  と奥田が、また妙な事を言い始めた時、 「もう、いい」  と萩原さんが、声を上げた。  奥田の傍らの長椅子で、萩原さんは床に目を落し続けていた。 「………僕の落度は、あんたに言われるまでも無く、分っている。もう、いい」  押し殺す様な声で、そう続けた。 「なにお」  と火が点いた様な顔で、奥田は萩原さんを睨みつけた。 「萩原っ、お前、クビだっ、出て行けっ」  奥田は怒鳴った。 「仕事はな、おまえみたいな奴が、小説なんか書きながら、遊び半分でやれる事じゃ無いんだ、甘ったれるなっ」  そう声を張り上げた。———  奥田に、人生観、などというものが、もし有ったとしたら、或いはその言葉に、それは辛うじて映っていたのかも知れない。  成程、そういう考えが有ってもいい。ただ奥田は一つだけ勘違いをしている。窓拭きの会社など、所詮、奥田の言葉を無理に用いるなら、「遊び半分」の「甘ったれた」奴等に依って成り立っているという事だ。小説を書きながら、ギターを弾きながら、マンガを描きながら、そうしながら現場へ出る者たちに依って成り立っているという事だ。そしてもう一つ。もし奥田に聞く耳が有るなら聞いて欲しい。俺達はけして「遊び半分」の「甘ったれた」気分で仕事をしているつもりは無いという事だ。仕事は仕事として、ちゃんとやっているという事だ。そして本当にやりたい事は本当にやりたい事として本気でやっているという事だ。俺達の毎日は、けして、甘ったれた遊びなんかじゃ無くて、不安や挫折がいやという程張り詰めた中を一本の綱を渡る様にして生きているという事だ。希望や夢と引き換えに、それを引き受けて生きているという事だ。それをおまえなんかにガタガタ言われたく無いって事だ。舗装された幅広の道路にふんぞり返っている様な、おまえなんかに————  俺達は、恐らく初めて、目の前の奥田に強い怒りを覚えた。そして覚えるまま、誰もが怒りを押し殺した目で、奥田を見ていた。 「………そんな話、保雄の事故と、何の関係も、ねえじゃねえか」  誰もがムカついてる沈黙の中で、そう声を上げる者が居た。  緒方だった。  巨《おお》きな体を窮屈そうに曲げて、俺の隣に座っている。見ると目元が火照った様に紅《あか》い。緒方の昴《たか》ぶっている時の顔だ。 (あぶないな)と俺は思った。こいつが本気で殴ったりしたら奥田は粉々になっちまう。気味がいいにはいいが、それはそれで、また面倒な事になるに違いない。(その時は止めなければ)俺は少し緊張する思いで体を構えた。(止めて、俺が殴ってやろう)………  奥田は、その緒方を、ジロリと見た。 「何だ、お前。いつか萩原に庇《かば》って貰った礼のつもりか? 書類にポタポタ汚水を垂らしたのがお前だってことぐらい分ってるんだ、大目に見てやったのに、なんだ、その口のきき方はっ?」  それから奥田は、不快そうに、俺達みんなをねめまわして[#「ねめまわして」に傍点]、こう続けた。 「バンドだの、芝居だのと、仕事が終ってそんなものやってるから、現場で注意散漫になるんだ、事故なんか起こして会社に迷惑をかける事になるんだ、バンドだの、芝居だの、マンガだの、———そんな奴は今までにも数え切れないぐらい居たがな、その中から一人でもプロの音楽家になった奴が居たか、役者でモノになった奴が居たか、マンガで喰える様になった奴が居たか、ひとりも居やしねえ、才能も無《ね》ェくせに、夢[#「夢」に傍点]なんて言葉で自分を甘やかしながら、ただだらしなく生きていた奴等が居ただけだ、お前らもそうだ、歌手になるだの、役者になるだの、日本一のマンガ家になるだの、そんなくだらない夢を見る前に人並の事をしろっ、お前らなんか要するに、世の中の落ちこぼれなんだっ」  ごつ、と鈍い音がして、奥田が突然、後ろの壁に吹き飛んだ。吹き飛んで、ゴン、と壁で頭を打つと思うと、反動で前に跳ね返り、そのまま床に倒れて顔面を打った。口もとに一筋の血が流れた。  長身の萩原さんが、その前に立っていた。息を荒くして、殴りつけた奥田を見下ろしていた。俺達は、声を失くしたまま、腰を浮かせて、萩原さんを見た。そして床に倒れた奥田を見た。奥田は低い呻《うめ》き声を上げていた。  岸野が、萩原さんと奥田の間に入り、「萩原さん………」とその胸に両手をあてて、それ以上の行為を制した。 「人間はな」  岸野の肩越しに奥田を見据えて、萩原さんは言った。 「夢を見るから、人間なんだっ」そう言った。 「夢を叶《かな》える事よりも、夢を見る事で、人間は人間になれるんだっ、お前なんかに分ってたまるかっ」  震える声で、萩原さんは言った。その胸に手を当てながら、岸野が辛そうに、ひとつ目を落した。    9  萩原さんは、その日で宝栄を辞めた。  事の次第を知った社長は、病院から萩原さんに詫びを入れ、また、再三、声を掛けても居た様だったが、萩原さんに、もう宝栄に戻る気は無かった。岸野に聞いた話だと、奥田は、相当激しく社長に叱られていたという事だったが、全てはもう、後の祭りだった。  それから数日を置かずに、社長は会社に復帰した。体調がほぼ持ち直したという事も有ったのだろうが、それよりも、奥田のバカをいつまでも野放しにして置けない、という事も有ったのだろうと思う。  ともかくも社長が戻って、俺達の気分も、少しは落ち着いたものになった。社長さえ、ちゃんと居てくれたら、宝栄は日当も良いし、居心地の良い会社だった。何よりも、現場の殆どが勝手知ったるやりなれたものである事が、俺達の腰を宝栄に落ち着かせて来たし、この先も落ち着かせて行くのだろうと思った。  俺達は、現場で、よく萩原さんの話をした。萩原さんは、五係だけで無く、作業員仲間全体の中で伝説の人[#「伝説の人」に傍点]となって行きつつあった。もっとも、萩原さんは、あの際に右拳の指三本をつき[#「つき」に傍点]指してしまい、暫《しばら》くはおうじょう[#「おうじょう」に傍点]したらしい。無理も無い。本来は原稿用紙にペンを走らせる、やさしい指なのだ。  その萩原さんと、保雄の事が、俺達は、いつも心のどこかで気になっていた。  もっとも、保雄の場合は、時間が解決してくれる事ではあったので、俺達はただ、頻繁《ひんぱん》に病室を見舞っては保雄の退屈を紛らわせてやれば、それで良かった。しかし萩原さんの方は、なかなか新しい仕事が見つからない様子だった。岸野も色々あたっていた様だったが、「やっぱり年齢がな」と残念そうに俺に言った。  俺は、ふと思いついて、東和産業の部長さんに電話を入れてみた。 「ああ、そりゃいいね」と部長さんは宮口精二の様に声を柔らげて言った。「ウチなんかは、そういう落ち着いた[#「落ち着いた」に傍点]年齢の人の方が寧ろいいんだよ」そう言って俺の打診を気持良く受けてくれた。 「一度、会社の方へ来て貰うといいな」と言う部長さんの言葉を、俺は、そのまま萩原さんに伝えた。伝える際に、 「ただし、よく働く[#「よく働く」に傍点]会社ですよ」  俺は、そう言い添える事を忘れなかった。  萩原さんは一つ笑い、「ありがとう」と言った。  東中野の古いアパートで、麦茶を出され、俺は久しぶりに萩原さんと話をした。開《あ》け放した二階の窓に、もう秋の空が広がっていた。色白の、体の細い奥さんが、ずっと傍らで微笑《ほほえ》んでいた。萩原さんに、よく似合う、とてもきれいな人だった。  駅まで送るという萩原さんと、東中野の坂道を歩きながら、それからもいろんな話をした。 「………自分で、小さな窓拭きの会社でもやりたいな、とか、この頃ふと考えたりするんだよ」  萩原さんは、そんな事を言った。 「や。いいですね、そん時は、俺、使って下さいよ」  俺は冗談まじりにそんな言葉を返した。 「もちろん」と肯いて、「君や、保雄君や、進藤君や、工藤君や、緒方君や、…………そういうみんなと、また一緒にやれたら楽しいだろうな」萩原さんは、そう続けて、ぼんやりと黄昏の空を見た。 「社長は萩原さんで」と言った俺に、 「夢の様な話だね」そう言って笑った。 「………でも、夢を見るから、人間———なんでしょ?」俺は微笑《わら》って萩原さんを見た。 「いや、あれは、女房が、昔良く言ってたセリフでね、パクリだよ、パクリ」萩原さんはそう言って、頭を掻いた。 「………奥さん、きれいな人ですね」俺は、そんな事を言ってみた。 「———体が弱くてね」萩原さんは、静かに応えた。 「じゃ、萩原さん、いい小説、書かなくちゃ」と言った俺に、萩原さんは、ただ、曖昧《あいまい》に微笑んで見せただけだった。  坂道の傍らを、黄色い電車が音をたてて走り抜けて行った。それを少し目で追いながら、 「………小説なんて、一体、何の役に立ってるんだろうって、この頃、思うんだよ」萩原さんは、一人言の様に、そんな事を呟いた。それから、慌てて付け足す様に、「いや、あくまで、僕の書く小説って意味だよ」と俺を見て笑った。  大通りに出て、俺達は信号の前に並んで立った。萩原さんは、静かな声で、こんな話をした。 「………事故があった日、歯を喰いしばる様にして作業している保雄君を遠くから見ていてね、何か、いろんな事を考えさせられてね。何か、こう———」  そう言って、萩原さんは、ふと喉がつかえた様に、言葉を閉じた。それから黙って数歩、歩いた後で、「………まあ、小さな清掃会社でも、やれたらいいなと、そんな事を、考えてみたりしてる訳さ」  そう言って、横顔だけを俺に見せた。  萩原さんは、その数日後から、東和産業で働き始めた。    10  保雄は、練馬のこぢんまり[#「こぢんまり」に傍点]とした医院に体を移されていた。最初運び込まれた新宿の病院は、公立の救急指定の病院という事も有って、手術の終った患者をいつまでも置いておく訳にはいかないという事の様だった。保雄は、術後一週間ほどで、ギプス姿のまま江古田駅近くの医院に移された。そこでケアを受けながら、静養して、後は快復を待つだけ、という事の様だった。「半年もすれば普通の運動が出来る程には快復するでしょう」医者は岸野にそう言ったそうだ。事故から、すでに、ひと月ほどが経っていた。—————  その日、俺は、同じ私鉄沿線の小さな現場に出ていた。それを片付け、帰りに途中下車して保雄の居る医院に足を向けた。  江古田の駅前でリンゴを一個買って、それを右手に遊ばせながら、俺は、その医院を探した。住所を一応メモしていたが、それを見るまでも無く、「〇〇医院」という看板が、すぐに目についた。矢印に従って歩くうち、程なく、それは見つかった。住宅街の中に建つそれは、昔風の、何か懐かしい感じのする医院だった。植込みに咲く金木犀《きんもくせい》の香りが、午後の風の中で歩道にまで運ばれていた。通りに静かな秋の陽が落ちていた。  中に入り、受付けを済ませ、冷んやりとした長い廊下を歩いた。病室を見つけ、形ばかりのノックをして、「タツオだよ——ん」そう言ってドアを開けた。小綺麗な八畳程の部屋に、保雄が一人、ベッドに寝そべっていた。 「へえ。個室か」  入るなり、俺は保雄に言った。 「労災の身で、ゼイタクしてやがる」  保雄はベッドに半身を起こすと、「なんか、大部屋が全部一杯みたいなんです。ラッキーでした」そう言って笑った。傍《そば》に簡単な応接セットが有り、壁際に小さなソファなどが有る。そこに腰を下ろしながら、「どうだ?」と俺は保雄に尋いた。 「ええ、元気です」と保雄は応えた。「何しろ腹が減って。夕食が四時半なんだから、参っちゃいますよ」そう続けて笑った。 「ウンコは、出るか?」と俺は尋いた。 「出ますよ、やだなあ」と保雄は苦笑した。 「そうか」と俺は肯いた。包帯と絆創膏だらけの姿は確かに痛々しかったが、人間、メシが喰えてクソが出せりゃ大丈夫なんだと、俺はいつも思っていた。メシも喰えず、クソも自分じゃ出せなかった死ぬ前の親父の事が、いつも頭に有るのかも知れなかった。 「なら、大丈夫だ」俺は保雄に言った。 「どうも」と保雄は頭を下げ、「先生[#「先生」に傍点]にそう言って頂くと」そう笑いながら、ベッドの下から灰皿を出して、傍らのテーブルに置いた。「煙草、吸っても大丈夫ですから、ココ」そう言った。 「うん」と応えて、作業着などを詰めたバッグを足元に置いた時、ガチャリ、とドアが開いて、中年の、小柄な女の人が入って来た。振り向いて、その顔を見て、それが誰なのか俺にはすぐに分った。そのひとは、保雄をそのまま女性にした様な顔をしていた。優しそうな目元が、特にそっくりだ。お母さん以外に、こんな似たひとが地球に居る訳が無かった。 「あ、お邪魔してます」俺は腰を上げて、きもち頭を下げた。 「あ」とお母さんは、少し目を開いて微笑み、「どうも。保雄がいつも、本当に、お世話になりまして」と俺の三倍程も腰を折って丁寧に礼を返した。「いえ」と俺は応えて、また頭を下げた。 「皆さんの事はいつも、この子から」そう言って、お母さんはまた深々とお辞儀をした。  それから、保雄に目を移し、 「やっちゃん、これ、お向いの〇〇さんに頂いたお花」そう言って手に持った花瓶を、少し持ち上げて見せた。それをコトリとテーブルに置き、部屋隅で手際良く御茶を入れると、「どうぞ」と静かに、それを俺の前に出してくれた。俺はまた一つ頭を下げた。お母さんは、保雄に目を戻し、気を使ってくれたのだろう、「やっちゃん、お母さん、一寸、駅前に買物に行ってくるから」そう言って、俺に、また一つ丁寧に頭を下げて、お母さんは、静かに部屋を出ていった。  その、廊下を遠ざかって行く小さな足音を耳にしながら、 「おまえ、お母さん似なんだな」俺は言った。 「ええ」保雄はテレ臭そうに微笑《わら》った。 「生きた遺伝子だな」と自分でもよく分らない事を言ってみた。ふと、思ったことがあり、「———休業保障みたいなの、ちゃんと出んのか?」とそんな事を尋《き》いた。 「ええ。労災で給料の六割。この三ヶ月平均の、って事らしいです」 「六割か。キツイなあ」と言った俺に、 「でも、社長から、一寸まとまった見舞金貰いました」保雄は応えた。 「さすが、社長」俺は大きく肯いてみせた。 「ええ、嬉しかったです」保雄は笑った。「………それに、五係からも沢山、貰っちゃったし」  皆で少しずつしたカンパの事だった。 「沢山[#「沢山」に傍点]ってのは皮肉か?」俺は煙草を取り出しながら、言った。 「いえ」と応えて、保雄は、傍らの窓を静かに開けた。 「嬉しかったです」そう、ぽつり、と言った。  保雄の開けた窓の向うに、秋の高い空が広がっていた。何処《どこ》かで運動会の練習でもやっているのか、賑《にぎ》やかな音楽や、笛の音などが、遠く聞こえていた。  俺は、カチリ、と煙草に火をつけた。金木犀の香りが、ふと煙の中に匂った。 「タツオさん………」保雄が言った。 「オレ、宝栄、辞めますよ」  え? と俺は驚いて保雄の横顔を見た。 「何でだ?」そう尋いた。 「………多分、もう使いものにならないですよ、オレ」保雄は、そんな事を言った。その意味が良く分らず、俺は、ただ黙って保雄を見た。 「夢を、みるんです」  すこし微笑んだ様な横顔で、保雄は、静かにそう言った。  その言葉が俺の頭に染み込むのに、数秒がかかった。 「………落ちてる時の[#「落ちてる時の」に傍点]、か?」俺は、尋いた。  ええ、と保雄は肯いた。 「………今、屋上に立つのも、恐いです。人間なんて、モロイもんですね。………それとも、ただオレが、弱いだけなのかな」そう言って保雄は、小さく、笑った。 「……………社長とか、岸野、とかには?」 「いえ、まだ」 「しかし、おまえくらいの腕が有れば、内側だけやるとか、いろいろ」  と言う俺に保雄は笑ってみせた。 「ロープの出来ない窓拭きなんて、どこも要りませんよ」  俺は黙った。それは確かに、そうなのかも知れなかった。 「だけど、宝栄でずっとやって来たんだし、社長や、岸野が、なんか、うまいことやってくれるんじゃないのかなあ」  そう言いながら俺は、保雄はそういうのはいや[#「いや」に傍点]なのだろう、と思った。人一倍気の回る保雄は、多分自分を足手まといな、お荷物、の様に感じてしまうに違いないという気がした。  俺達は、少し黙った。 「………まあ、仕事は何だって有りますから」保雄は、俺に顔を向けて、笑った。  気が付くと、枕元に求人誌が一冊、置いてあった。保雄は静かに微笑んで、窓を見た。 「……………オレ、宝栄で働けて、ほんとに良かったと思ってます。タツオさんとか、いろんな人に会えて、ほんとに、良かったです。感謝しています」そんな事を言った。 「………ウチを辞めたって、いつでも会えるんだし、何も、変わらねえよ」俺は、言った。 「ええ」と保雄は肯いたが、「———でも、あんなふうに、屋上で、みんなで、話したり、笑ったりする事、もう無いんだなと思うと、やっぱ、淋しいです」そう言った。 「お前、ウチで何年だっけ?」俺はテーブルの灰皿に灰を一つ落して、尋いた。 「二年です………その前に二つ、三つ、違う会社に居たんですけど………」保雄は、ぼんやりと、ベッドの足元に目を落した。 「そう、だったっけな………」呟く様に応えて、俺は、ゆっくりと煙草を喫《の》んだ。煙が、保雄の横顔の前を流れて、そのまま、窓外へたよりなく消えていった。アルミサッシに仕切られた四角い青空を、俺は、ぼんやりと眺めてみた。運動会の練習を続ける賑やかな音が、小さく、ずっと聞こえていた。 「タツオさん」保雄は、俺を見た。 「ああ?」と俺は、保雄に目を戻した。 「………オレ、タツオさん達の様な人に会った事、無かったんです」保雄は、そんな事を言った。 「………タツオさんや、工藤さんや、進藤さんや、緒方さんや、萩原さんや………そういう宝栄に居る様な人達に会った事、それまで無かったんです」  病室の、クロス張りの壁に目を向けたまま、保雄は、思い出し、思い出し、する様に、そんな事を話し始めた。————— 「………それまで居た所は、どこも、中年の人ばっかりで、べつに会話も無くて、ただ、朝、会社に集まって、ワゴン車で現場へ行って、仕事して、帰って来て、おじさん達は事務所で酒飲んで、助平な話をして………そういう人達に、いつも、いいように使われて…………。  ……オレ、十五で、高校やめたんですよ。その後《あと》、突然、親父が死んじゃって………お袋は弁当屋で働き始めて、オレも何もしない訳にはいかないから、近所の、床清掃の会社に、バイトで入って………そりゃ、いい人も居たけど、何か、つまらなくて、すぐ辞めて、また同じ様な所に入って、また、すぐ辞めて、———オレ、ほんとは、そんな奴なんですよ。根性、無いんです。根性よりも何よりも、なんか、気持に、張りって言うのか、そういうのが全然無くて、………何かが嬉しいとか、誰かがすき、とか、そういうのが、全然無くて、———無いまま、お袋と、妹と、ただ毎日、生きてたんです………  ……新聞で、求人見て、宝栄に入って、タツオさん達に会って、………ああこんな人達が居るのか、って、オレ、初めて思ったんです。……なんか、生活の全部が、オレなんかのとは全然違ってて、オレの知ってる誰のとも全然違ってて、気持が、いつも、こう、はずんで波うっている様な感じで、なんか、いいなあ、って、そう思ったんです。なんか、一緒に居るだけで、楽しかったんです………」保雄は小さく、笑った。 「………オレ、きっと、タツオさん達を通して、タツオさん達の夢を、一緒に見させて貰ってたんだと思います。……………誰かがライブをやる、って言っては観に行って、誰かが芝居の公演をやる、って言っては観に行って、いつだったか、緒方さんがマンガ描いているのを、そばで一日じゅう、ずっと見てた事も有ります。迷惑だろうなと思いながらも、タツオさん達のライブや練習なんかにも、いつも、くっ付いて回ったりして………オレ、それだけで、なんか楽しかったんです……なんか、初めて、すきな人たちを持てた様な、それが自分で、嬉しかったんです………タツオさん達と居ると、なんか、自然に、素直な気持になれて………自分に出来る事は何でも、してあげたい様な、そんな気持に、なれて、………オレなんか何も無いから、仕事でしか、つながれないから、ただそれを、一生懸命、やってただけなんです………」保雄は、ひとつ息をついた。 「……オレ、宝栄で働きだして、自分が随分、変わったと思います。お袋も、そう言ってくれます。なんか、こう、いろんなものが見えてきて、いろんなものが感じられてきて、それが、その度に、ポチャン、ポチャン、と自分の中に落ちてきて、気持がいつも、波うっている様な、張りが有る様な、そんな感じになれたんです………タツオさん達のおかげなんです、オレ、いつも、そう思ってるんです………  オレ、タツオさん達の事、すきです。でも、それはきっと、タツオさん達が先に、オレの事を好いてくれたからだと思うんです………オレ、いつか、ちゃんと、礼を言いたいなと、ずっと思ってたんです………」保雄は、そんな事を言った。  それから、少しの間、俺達は黙った。  ふと、思い出し、 「これ」  と俺は、駅前で買ったリンゴを、コトリ、とテーブルに置いた。 「見舞だ。うまそうだろ。隣にメロンが有ったけどな、こっちにした。百二十円だったよ」俺は、そう言って笑った。保雄も黙って微笑んだ。そして、 「リンゴ………妹が好きなんです……」  そんな事を言った。    11  医院からの帰り道の事を、すこし話しておこうと思う。  保雄に別れを告げて、医院を出て、江古田の駅へ向う黄昏の路を歩いていると、向うから歩いて来る一人の女に、ふと目が止まった。  まだ、ずいぶん遠かったが、その全体の印象に、何か見憶えの有る気がした。  頭の中で、知ってる女のコ達の姿が、通信販売のカタログの様にパラパラと捲《めく》れていった。言っとくが大した数では無い。  しかし、そのうちの誰であるとも、思い当らなかった。それは顔がおぼろげに分る距離まで近づいても、やはり、そうだった。ただ、知っている[#「知っている」に傍点]、という感じだけが有った。淡いブルーの、丁度その日の空の様な綺麗なブラウスを着ていた。手に大きな紙袋を下げている。(………誰だったっけ)と思いながら歩き続けていると、やがて女の方が手を上げて笑った。一応後ろを振り返ってみたが、通りには俺しか居なかった。曖昧にその挨拶を受けとめているうちに、二人の距離が随分、近いものになった。色白の、殆ど化粧っ気の無い様に見える顔に、切れ長の目が涼やかに笑っていた。 「あ、シルビアちゃん………」俺は思わず足を止めて、彼女を見た。アイシャドウも、濃い口紅も、スパンコールのドレスも無いシルビアちゃんが、やがて俺の前に立った。 「よっ」とシルビアちゃんは、一つ敬礼をして、「ヒサシブリー」と顔いっぱいで笑った。 「………うん」と笑って返しながら、俺は改めて、彼女を見つめた。彼女は、とても、爽やかで、いい感じ、だった。 「シルビアちゃん、江古田なの?」  そう尋《き》いてみた。  ううん、と首を振り、 「江古田じゃ無いし、それにもう、シルビアちゃんでも無いの」彼女は言った。「店、辞めたの」そう言って笑った。 「そう」と答えて、あれ、と思った。見ると、手に下げた大きな紙袋の中に、メロンと花束が有る。 「もしかして、保雄の?」 「うん、お見舞」  シルビアちゃんは笑った。「昨日、残ってる給料、取りに行ったら、スタジオのお兄ちゃんが、そんな事、言ってて。それで会社に電話したら、ここ、教えてくれたの」 「そう………」と俺は、何だか嬉しくなった。「有難う、あいつ、喜ぶよ」 「うん、あたしも経験あるけど、入院、って結構、人恋しいもんね。それに先輩が君ら[#「君ら」に傍点]じゃ、どうせロクな見舞も無いだろうと思って、メロン買ってきた」  彼女は紙袋を持ち上げて見せた。 「うん」と俺は笑った。 「じゃね」と歩きだした彼女を、黄昏の路に見送りながら、 「シルビアちゃん」と俺は声を掛けた。  振り向いた彼女に、俺は思ったままの事を口にした。 「いや、何と言うか、シルビアちゃん、そうしてる方が、ずっときれいだよ」 「うん、あたしも、そう思う。じゃね」  そう言って、シルビアちゃんは、笑って手を振った。俺も応えて、手を振った。振りながら、(そういや病室には、お母さんが居るな)とそれを思い出した。俺が病室を出る時、また深々と腰を折って見送ってくれた、その姿を思い浮かべてみた。買物から戻ってきて、すこし話をしたが、優しい、明るい、お母さんだった。 (お母さんも、きっとシルビアちゃんを好きになる)それは空が青いのと同じくらい当り前の事に俺には思われた。  シルビアちゃん、保雄のいいお姉さんになってくれたらいいな、と俺は思った。いい年上の恋人になってくれたら、とさえ、ふと思った。思って、可笑しくなって、俺はまた黄昏の路を駅に向って歩き始めた。  秋の黄昏は、いつだって、いい感じだ。    12  気がつけば、初冬の風が、高円寺のガード下を冷たく吹き抜け始めていた。  朝、起きるのが、だんだん面倒臭くなってくる頃だ。  そしてそんな面倒臭さと反比例する様に、その頃になると、年末に向けての臨時の現場が、事務所の作業予定表を黒々と塗《ぬ》り潰《つぶ》し始めていく。  掃除屋の十一月、十二月は、毎年、冗談じゃないくらいに忙しい。  ことに十二月ともなれば、仕事量は全体で三、四割は確実に増える。一年じゅう掃除も何もせずに放ったらかしていた会社や工場などが、年末になって慌てて「キレイニシテクレ」などとムシのいい事を言ってくるのである。年末に慌てる前に春からちゃんとやっとけよオマエラ、という気がする。「いやあ、予算が無くて」などと笑って誤魔化している。まったく、どいつも、こいつも、しみったれた奴等だ。  おかげで俺達は、十二月じゅう目一杯に働かされてしまう。  半月も働けば充分暮せる稼業のことで、大体、俺達は、少なくとも月に十日は休む。怠けものの所為《せい》も有るが、それぞれがやっている、別な事、本当にやりたい事、のために、或る程度の休みを毎月、必要とするという事情もある。だが十二月に限っては、そんなマイペースは許されない。「許さないぞ」と別に誰が言う訳でも無いが、事務所の、真黒に塗り潰された予定表の前で頭かかえている岸野を目にしたら、誰だって「明日休む」とは言い出しかねる。それに、十二月施行予定の一つ一つの現場の脇には、作業員たちの名前が、すでに、びっしりと、勝手[#「勝手」に傍点]に、書き込まれている。  タツオ、タツオ、タツオ、タツオ、タツオ、………  進藤、進藤、進藤、進藤、進藤、………  工藤、工藤、工藤、工藤、工藤、………  数えてみると、十二月だけで、俺は三十六現場[#「三十六現場」に傍点]出る事になっていたりする。一体、俺は何人居るのかと考えてしまう。 「岸野、俺を殺す気かっ」と一度、岸野に詰め寄って、「死んでくれ」と言われた事もある。幸い死ぬ事も無く、毎年、そんな年末を生き抜いてきた。おかげで十二月が終ると、俺達は、とんでもない金持ちになっていたりする。だから一月は、みな呆《ほう》けた様に、たおれている。そんな事を、もう何年も、やってきた様な気がする。—————  萩原さんが東和産業を辞めたのは、その年の十二月が、すでに中旬に差し掛かった頃の事だった。  自分で小さな会社でもやりたいと考えていた萩原さんに、或る日、一つの話が持ち込まれて来た。それは萩原さんにとって、願っても無い様な話だった。萩原さんは、それにの[#「の」に傍点]った。そして東和産業を辞めた。  その時点では、それがどんな話[#「話」に傍点]なのか、俺はまだ知らなかった。とにかく急な話で、萩原さんは、「独立」に向けて毎日あたふたと年末の街を走り回っている様だった。一方、俺達は俺達で、宝栄のハードスケジュールに追われる毎日を過ごしていた。「独立する事にしたよ」そう電話で聞かされた時、俺はただ、ぽかん、としたものだ。  有限会社「萩原商会」が、東中野の街角にひっそりと誕生したのは、十二月中頃の、冬晴れの、割に暖かな日だった。  場所は、萩原さんの住むアパートの大家が提供してくれた。大家は、近くにもう一軒アパートを持っていて、そこの一階がぶち抜き[#「ぶち抜き」に傍点]の割に広いスペースになっている。少し前までディスカウントショップが入っていたというそこ[#「そこ」に傍点]を、「使いなさい」と、大家は萩原さんに殆ど無償で貸し与えた。ともに六十を出た大家夫妻は、常々、古くからの間借人である、萩原さんと、その奥さんを、まるで息子夫婦の様に、或いは娘夫婦の様に思っていて、殊《こと》に、体の弱い奥さんを絶えず気に懸けては世話を焼いて居る様だった。 「〇〇ちゃんも、これで、ひと安心だろう」奥さんの名を口にしながら、老夫婦は、萩原さんの独立を自分の事の様に喜んだ。通り沿いの、月二十万の家賃が取れるスペースを提供した大家は、任せてある不動産屋の顔を立てて、とりあえず契約書だけは作ったものの、敷金、礼金などは一切取らず、家賃ですら、「儲かったら払っておくれ」とそういう事だったそうだ。  宝栄の現場が忙しい最中《さなか》のことで、昼間現場を抜ける訳に行かない俺達は、夕方に集合して、それから、ドッタン、ガッタンと萩原商会の事務所づくりを手伝った。真新しい机や、ロッカーや、種々の掃除道具やらがそこに揃っていた。設立資金は、殆ど、借金だった。二十人程の仲間が集まり、事務所は、あっと言う間に出来上がった。それから、近所から取った、寿司やら、鉢物やら、奥さんの手料理やらが並ぶなかで、萩原商会の設立祝いが真夜中に始まった。  大家の音頭で乾杯を交わした後、まず、萩原さんが、しどろもどろの挨拶をした。次いで、奥さんも言葉を求められた。戸惑いながら立ち上がった奥さんは、静かに頭を下げ、「子供の様な主人《ひと》ですが、どうかこれからも宜しくお願いします」そう言って、ふと声を詰まらせた。脇に座る大家夫婦が、そんな様子を優しげに見つめていた。  すべてが、あたたかな、明るい風景に見えた。  ただ、俺は、(しかし何で、こんな押し詰まった時期に)と、それが良く分らなかった。  それに、東和産業にしても、この十二月は猫の手も借りたい程の忙しさの中にある筈だった。それは辞めた萩原さんにも、分り過ぎる程に分っている筈の事だった。 (何か、萩原さんらしくないな)俺は、そう思った。 「子供の様な人ですが」と言った奥さんの言葉が、その夜、妙に、耳に残り続けた。    13  その二日後の夜、萩原さんは、高円寺の俺のアパートを訪ねてきてくれた。 「こないだは有難う。居ないかと思ったけど、一寸、寄ってみた」そう言って、手《て》土産《みやげ》の洋菓子を俺に差し出した。どうも、と笑った俺に、「一寸、いいかな?」と微笑んで、靴を脱ぎ、散らかし放題の六畳一間に、その長身の体を落ち着けた。 「寒いけど……ビールでいいスか?」と冷蔵庫を開けた俺に、「いや、車[#「車」に傍点]だから」と萩原さんは、手を上げて笑った。「へえ。車、買ったんですか?」と俺は振り向いた。 「うん、中古だけどね、どうせ必要になるから」萩原さんは、テレ臭そうに応えた。  それは、そうだな、と、冷蔵庫を閉めながら俺は思った。これからは、自分が親方として現場に道具を持ち込んで行かなくてはならない。—————しかし、その道具たちが稼動する肝心の仕事の予定[#「仕事の予定」に傍点]は、どうなっているのだろう、俺は、それを思った。 「……じゃ、コーヒーに、すっかな。御菓子、貰ったし」俺は薬缶《やかん》に水を入れ、火を点けた。 「うん」と萩原さんは煙草を取り出し、カチリ、と百円ライターを鳴らした。 「どお? この時期、宝栄も大変だろう」流し場の俺を振り返り、萩原さんは、尋いた。 「ええ、岸野のやつ、ほとんど躁[#「躁」に傍点]状態ですよ。舞い上がっちゃって、毎日意味も無くゲラゲラ笑ってます」  あはははは、と萩原さんは声を上げ、 「いい青年だよな、岸野君も」と微笑んだ。 「ま、ウツ、になって暗い顔されるよりマシですけどね」俺は火を止め、インスタントコーヒーを、二つ、いれた。 「………いや、バタバタしてて、何も詳しい話、してなかったからね」萩原さんは、そう言って、灰を一つ落した。——— 「………大東興産がね」  と萩原さんは、俺も良く知っている、大手のビル管理会社の名前を口にした。 「新しい下請を探してる、って事だったんだ。———いや、勿論、僕なんかが、あの[#「あの」に傍点]大東の直《ちよく》の下請になれる訳は、本来、無いんだけどさ、間に入ってくれる人が居てね、それでまあ、踏み切った訳さ」 「———大東の、直請《じかうけ》、ですか?」俺は、少し驚いて、尋いた。 「うん。———まあ、本格的な取り引きは、年明けから、って事なんだけど、大東さんの方で年内に、どうしても消化しなきゃいけなくなった臨時の現場が幾つか有って、それを何とか、やって貰えないか、って事なんだ。急な仕事でね、ホラ、十二月はどこも、パンパンだろ? どこも受け手が無かったらしいんだ。逆に言えば、それが条件みたいなもんでね、それを消化して貰えるんなら、面倒見させて貰います、って———実は今日、大東の本社行って、総務の部長さんと会って来た所なんだ。十《とお》ばかりの定期現場のファイルを貰ってね、人区としては、三十人区ぐらいになるのかな、一月から、とりあえず、それを萩原商会で、やるんだ。戦力さえ整えば、現場は幾らでも有りますから———って、そういう事なんだよ。五十幾つの、ローリングストーンズが好き、って言う、面白い部長さんだったよ」 「なるほど………」と俺は呟いた。ローリングストーンズはどうでもいいが、確かに、いい話だ、と思った。  宝栄も、幾つか大東興産の仕事はしているが、それでも間に二社ほど元請がか[#「か」に傍点]んでいる。言わばひまご[#「ひまご」に傍点]である。大東の直接のこども[#「こども」に傍点]としてやるなら、かなり分[#「分」に傍点]のいい仕事になる事は間違い無い。「とりあえず」十《とお》ばかりの仕事だけでも、今の所、親方一人だけの「萩原商会」を転がしていくには充分だろう。月三十人区ぐらい、現場の状況さえ許せば、萩原さん一人でも何とかこなせる[#「こなせる」に傍点]だろうし、で無くても、一人、アシストを見つければ、それで充分こと足りる。 (なるほど)と俺は、コーヒーを飲んだ。 「いい話ですね。———それで、その、年内にこなさなきゃ[#「こなさなきゃ」に傍点]いけない現場って、どんなのなんですか?」 「うん、虎ノ門の、丸総ビル、なんだけどね」 「丸総ビル?」と俺は思わず、尋《き》き返した。「あの[#「あの」に傍点]丸総ビルですか?」 「うん」と萩原さんも俺の表情を察したらしく、小さく微笑《わら》った。  俺は、虎ノ門の交差点にどしり[#「どしり」に傍点]と寝そべる、そのクソ巨《でか》いビルの姿を、ありありと思い浮かべてみた。高さは八階建てほどで大した事は無いが、フロア面積が、とにかく、広い。四面に、ぐるりと窓が並び、しかも各階の窓と窓との間は鏡《ミラー》板で埋まっている。窓を作業すれば、当然|鏡《ミラー》にも水が垂れるので、仮りに契約が窓作業だけだったとしても、並行して手をつ[#「つ」に傍点]けて行かざるを得ない。ロープ作業としては、ひどく時間を喰うタイプのビルだ。(それに)と俺は宙に目を置いた。一階の正面が確か、吹き抜けのショールームになっていた筈だ。だとすれば、延長梯子《スライダー》を使う事になる。床が確か大理石様の石だった事を考えれば、安全面から、どうしても、下に支えの者を置いた二人作業になる………  俺は、頭の中でざっと人区の見積りを立ててみた。 「あれは………どうみても、二十人以上は要《か》かるんじゃないですか?」 「うん、大東さんの話も、大体、そんなものだった」萩原さんは、呑気《のんき》な声で、コーヒーを飲んだ。 「でも………年内[#「年内」に傍点]、ったって、もう何日も無いですよ、それを何日間ぐらいの予定でやるんですか?」 「いや、先方からの指定日が有ってね、二十七日に了《あ》げなきゃいけないんだ」 「一日で?」 「うん」と応えた萩原さんの顔を、俺は、ぼんやりと見つめた。見つめながら、ふと思い出す事が有った。 「さっき、いくつか[#「いくつか」に傍点]って言ってましたね?」 「うん、品川と錦糸町に兄弟ビルが有ってね、ほぼ同じ規模なんだけど、その三つを、それぞれ、二十七、二十八、二十九でっていう事なんだ。オーナーの希望らしい」 「萩原さん、そりゃ、無理ですよ」  俺は、呆《あき》れた様に声を上げ、思わず、後ろ手を着いた。 「いや、まあ聞けよ」  萩原さんは、一つ手を上げて微笑った。 「………これが、その、間に入ってくれたという人なんだけどね」そう言いながら、ジャンパーの胸ポケットに手を入れた。「………ええと、確か、ここに」と、萩原さんは、ガサゴソと、ジャンパーに付いてる幾つかのポケットのあちこちを探し始めた。コロンボみたいだと思いながら、俺は萩原さんの、そんな様子を、ぼんやりと見つめた。  いつも着ている肘のすり切れたバックスキンのジャンパーを、萩原さんは今日も着ていた。  今年の初め、宝栄で働き始めた時も、萩原さんはこれを着ていたな、と俺はそんな事を思った。五月初めの、いい加減暑くなる頃まで、萩原さんは、いつもこれを着ていた様に思う。  そして今日も、萩原さんはこれを着て、大東の本社で部長さんに会って来たのだろう。———  そんな事を思いながら、俺は、萩原さんの、その不器用そうな仕草を見つめ続けた。  二十歳以上も年上の、この人生の先輩が、俺はふと、いとおしい様な気がした。  やがて、「ああ、あった」と、やっぱりコロンボの様な声を出して、萩原さんは一枚の名刺を俺に見せてくれた。   [#2字下げ]株式会社 高井商会 代表 高井誠一  そこには、そう書いてあった。 「………やっぱり、業界の人なんですか?」名刺から目を上げて、俺は萩原さんを見た。 「うん、五十半ばぐらいの人なんだけどね、若い頃、独立して、もう三十年近く、この会社をやってきたらしい」  そう言った萩原さんに、一つ肯いて、俺はまた、名刺に目を落した。町の印刷所が、まとめて刷ってくれる様な、どこか安っぽい名刺だと思った。 「新潟の人らしいんだけどね」萩原さんが続ける。 「先月、お父さんが亡くなられて、まあ、色々、事情が有るらしいんだけど、今年で、会社を畳んで、もう新潟へ戻られるそうなんだ。そんな時に、元請を介して、大東さんの話を持ち込まれたらしいんだけどね、会社はもう、新しい仕事を請ける様な状態では無いし、予定の定期現場を、こなすだけこなして、とにかく二十六日で全ての業務を終える段取りらしいんだ。———そんな事を、僕の所へ来て、話してくれてね」 「………何で、萩原さんの所へ?」 「社長の大学の後輩なんだよ」 「………ウチの社長の、ですか?」 「うん。やっぱり文学が好きな人でね、僕の若い頃の作品とかも読んでくれてて、———なんか、そんな話で、女房と三人で随分、話し込んじゃったりもしたんだけどね」萩原さんは、嬉しそうに笑った。  俺は、それでやっと、話[#「話」に傍点]が見えた様な気がした。  年末に体の遊んでしまう手持ちの作業員を貸すから、「それで、ひとつ、やってみたらどうか」———その人は、そう言ったのだろう。そしてその為に会社を興《おこ》す事を勧め、萩原さんと大東興産を結んでくれたのだろう。大東の直請《じかうけ》ともなれば会社としての安定は確かに約束された様なものだし、そこから何処かへ仕事を流すだけでも、それなりの利が残る程だ。高井さんは、そんな話をしながら、萩原さんに独立を勧めたのだろう。そしてその背景に、ウチの社長の厚意、というものを置けば、話は、すとん、と落ち着くように思える。この数日の慌ただしい独立騒ぎにも納得がいった。社長にしてみれば、奥田の一件に対する詫びのつもりも有ったのかも知れない。 「………つまりこの、高井さんの所の従業員を使って、やっちゃう訳ですね」俺は尋いた。 「うん」  萩原さんは肯いて、「むろん、彼らの三日分の日当は、僕が責任を持ってみる[#「みる」に傍点]けどね」そう続けた。「………とにかく、会社を興すについてのアレコレも、殆ど高井さんの世話になっちゃってね、まあ帳簿ぐらいは女房が少し出来るんだけど、それ以外の事は、何も分らないからね、本当に世話になったよ。大東さんとの折衝も、僕が最後に一度会うだけ、という所までセッティングしてくれてね、宝栄の社長の口ききで、直接、向うのトップと話をしたらしい。世話になってきた他の元請への遠慮もあって、高井商会の名前は出したくないって事でね、だから僕は、一応、宝栄の紹介[#「宝栄の紹介」に傍点]って形なんだ。総務の方にもそういう形で話は通っていた」 「———それで、作業員の数は足りるんですか?」俺は、それが気になった。 「うん、充分だと思う。三十人ほど、居るらしい。そのうちの一人を、高井さんが連れて来てくれて、こないだ会ったんだけどね、色々、話したけど、感じのいいコだったよ。今いる従業員の中で一番古いらしい。まあ、主任クラスだね。以前、丸総ビルに入った経験が有るらしくて、大丈夫ですよって、そう言ってくれてた。会社を畳む旨は、もう皆に伝えてあって、彼らも了解しているらしい。高井さんにしてみれば、作業員に最後まで仕事を供給してやりたい気持も有ったんだろうな。二十六日まではゴタゴタやっているらしくて、二十七日に、直接、虎ノ門の現場に全員来てくれる事になってるんだ。二十七、二十八、二十九、と、彼らと一緒にやる訳さ。—————一応、現場は見て来たけど、屋上も、他も、べつに問題なかったよ。一階が吹きぬけのショールームでね、梯子《スライダー》を二本買ったけど———どうだろ、二本で足りるかな?」  萩原さんは、ふと心細い表情《かお》をして俺に尋いた。俺は、少し宙に目を置き、「ええ、充分でしょう」そう応え、それから、「あと脚立《きやたつ》は、余裕を持って揃えた方がいいかも知れませんね、見た感じ、フロアの窓が、かなり高そうだから」そう言い添えた。 「ああ、脚立か、うっかりしてた」という萩原さんに、 「脚立なんか、ウチから貰っちゃえばいいですよ」俺は言った。 「倉庫に、いっぱい遊んでるんですから。俺、車輛部の誰かに言って、明日にでも十本ぐらい届けさせますよ」  萩原さんは一つ笑うと、「有難う、気持だけ貰っておくよ。いや、高井さんもね、どうせ処分するのが有りますからって言ってくれたんだけど、やっぱり、何となくね、無理してでも、ちゃんと揃えようと思って」そう言った。俺は黙って、微笑んだ。 「———金、どのくらい借りたんですか?」  そう、尋いてみた。 「………何だ、かんだで、五百万、くらいかな。女房の両親が、保証人になってくれてね。—————まったく都合のいい時だけ、顔を見せて、ろくな婿《むこ》じゃないよ………」  自嘲する様にそう言って、萩原さんは、コーヒーを飲んだ。 「………でもね」  と、ふと畳に目を落して、「今度の話があった時、どうしても、やりたいって、そう思ったんだ………」萩原さんは言った。 「………この忙しい時期に、突然辞めたりして、東和産業には、本当に申し訳なく思っているよ。特に、部長さんや、紹介してくれた君には、本当に済まないと思っている。この時期、僕みたいな者でも、そりゃ欠けると痛いからね、それは良く分ってたんだけど、でも、どうしても、やりたいって、そう思ったんだ」 「俺の事なんか、べつに」俺は微笑《わら》った。「ただ………正直言って、大丈夫かなって、実は、思ってたんです」そう言った。 「うん、そう思ってるだろうと、思った」萩原さんは苦笑した。  それから、俺達は、少し黙った。  俺は、何か安心できた気分で、ぼんやり煙草を喫んだ。ふと、設立祝いの席で声を詰まらせていた奥さんの姿を思い出した。 「奥さん、嬉しそうだったですもんね」  俺は萩原さんを見た。「———きっと、うまく行きますよ」そう言って、コーヒーを飲んだ。 「うん」と萩原さんは静かに肯いた。「………女房の事もね、色々、考えたよ。両親の事や、もちろん、自分の事もね。それに」  と萩原さんは、少し黙った後で、 「………僕は、保雄君のこれから[#「これから」に傍点]というものに、責任が有るから」そんな事を言った。 「………退院したら、一緒にやりたいんだ。………楽な立場で、手伝って貰いたいと思っている。儲かった金、全部、あのコにあげたいんだ」そう続けた。—————  俺は、ぼんやりと部屋の壁を見た。  萩原さん、そんなこと考えていたのか、と思った。  いつも見かける、ゴキブリの「太郎」が、寒さのせいか、ヨタヨタと天井近くを這っているのが見えた。—————  表に出ると、買いたての車《ハイエース》が、そこに停められていた。 「コレですか」俺はボディを叩きながら、萩原さんに言った。  肯いて、萩原さんは、小さく微笑んだ。 「沢山積めそうだ」俺は笑った。  ふと見上げると、硬くひきしまった冬空に星がまたたいていた。 「明日も晴れそうですね」そう言って、「この頃、年末に雪を見た記憶、あんまり無いなあ」俺は白い息を吐きながら、そんな事を呟いた。 「東京って、三月とか四月とかに、とんでも無い大雪になったりするんだよね」隣で同じ様に星を見上げながら、萩原さんが応えた。 「———萩原さん、実家、どこでしたっけ?」  ふと思って、俺は尋いた。 「山口だよ」 「奥さんも?」 「うん。二人で逃げる様に、東京へ出てきた」そう言って、可笑しそうに笑った。「———同じ大学でね、僕の参加してた同人誌に、彼女は詩を書いていたんだ」少し煙そうな目をして萩原さんはそんな事を言った。 「へえ……」と俺は、薄明かりの中で萩原さんを見た。それからぼんやりと夜空を見上げ、「………なんかブンガクテキな夜だなあ」そんな事を言った。「星も出てるし」。  あはは、と萩原さんは笑った。 「………考えたら、そんな話、萩原さんとした事、無かったな。萩原さんいつも、みんなの話聞いて笑ってるだけで、あんまり自分の話しないもんな」俺はそう言って萩原さんを見た。 「そうかな」と萩原さんは誤魔化す様に煙草に火をつけた。 「萩原さん………」俺は、呟いた。  うん? と俺を見た萩原さんに、ひとつ笑い、 「人生[#「人生」に傍点]って、なんスかね」  安アパートの玄関先で、俺はそんな事を尋いた。  ふいを突かれた様な顔で、俺を見た萩原さんは、 「………さあ」と困った様に微笑んで、「何だろうね………」ただそう応えた。 「何なんでしょうね」俺も笑って、そう返した。  カチリ、と煙草に火をつけて、俺はぼんやり星を見た。 「俺ね、もう東京に、五年、居ますよ」  そう言って萩原さんを見た。 「うん」と萩原さんは静かに応えた。 「十八で出てきて、五年間この街に居て、その間やった事と言えば、窓拭いて、ギター弾いて、それだけですよ」 「………うん」と萩原さんは言った。 「………拭いても、拭いても、窓は有るし、弾いても、弾いても、ギターの音は、この街に落ちて消えて行くだけだし………何やってんだろ、俺って———そう思う事、ありますよ」 「………うん」 「�何やってんだろ、俺�、�何やってんだろ、アタシ�って思いながらこの街で生きてるやつ、俺、いっぱい、知ってますよ………」 「………うん」  俺は、ぼんやり、煙草を喫んだ。 「………実家に、たまに帰るとね、お袋が喜ぶんですよ」 「………うん」と萩原さんは俺を見た。 「俺みたいな奴でも、故郷に居れば、確実に、お袋という一人の人間を、喜ばせてやれるんです」 「………うん」 「東京に戻る時は、必ず駅まで送ってくれて、やっぱ、淋しそうにしてるんですよ。この街に居て、俺がここに居る事で、あんなに喜んでくれる人間、———居ないです」 「………うん」 「………俺、何やってんだろうって、そんなとき、思うんです。  俺がこんなふうに生きているわけ[#「わけ」に傍点]は何なんだろうって、———人生って何だろうって、時々、そんなこと思うんです………」  白い息を吐いて、俺は萩原さんに小さく笑った。 「人生は、きっと」  冷えた夜気の中で、萩原さんはぼんやりと遠くを見た。 「………人生はきっと、�人生は何だろう�って問われるために僕達に有るんじゃないのかな………」萩原さんは、そんな事を言った。 「………人生は、そう問われたくて、そこに有るんだろうと思う………それを問わずに生きていける人は、確かに幸福なんだろうけど、———でも幸福は、それを問わずに居られない気持で生きている人の毎日の中にこそ、有るんだろう、と———人生というのは、きっと、そういうものだろうと、僕は思ってるよ………」  そう言って、ふと俺に目を向けると、 「………こんな話、何の足しにもならないね」萩原さんは、淋しそうに、笑った。 「いえ………」  と俺は応え、「………萩原さん、今度、そんな小説、書いて下さいよ」そう言って、微笑んだ。  萩原さんは、それには応えず、ただ曖昧な微笑を俺に返して、ぼんやりと空を見た。  その横顔にすこし目をとめ、それから、俺もぼんやりと空を見た。  佇《たたず》む俺達の耳に、終電間際の電車の音が夜の遠くに聞こえていた。  暫く、そうしていたが、ふと、 「そうだ、忘れてた」  と調子を変える様に言って、萩原さんは、俺を見た。 「三十日あたりに、ウチの事務所で忘年会やろうと思うんだけど、どうかな? 女房が、こないだの御礼に、ってそう言ってるんだ。おいしいもの作るから、って」 「ああ」と俺は微笑《わら》い、「奥さんの料理、うまかったもんなあ」そう言った。 「やろうよ。みんな連れて来てよ。———保雄君も外出できると、いいんだけどな。僕が迎えに行くから」 「大丈夫かも知れませんね、もう松葉杖でウロウロしちゃ転んだりしてるみたいですから。伝えときますよ」 「うん、悪いけど」 「了解です。皆にも言っときます」と応えて、「………そうだ、シルビアちゃんも呼ぼうかな」俺は呟く様に言った。 「シルビアちゃん?」と萩原さんが目を開いて俺を見た。 「ええ」 「フランスの人、か、何かかい?」  ははっ、と俺は笑い、「立派な日本人です。里美ちゃんって言うんです。九州産の、とっても、いいコですよ」そう言った。「まあ、保雄の姉キ、みたいなもんかな。よく見舞ってくれてる様なんです。姉キなのか、カノジョなのか、もしかしたら、そのへんが、いま微妙[#「微妙」に傍点]なところなんじゃないかと俺はにらんで[#「にらんで」に傍点]るんですけど」 「へえ、保雄君に、そういう………」と萩原さんは、ほころぶ様に笑った。 「いや、あいつはそんな事言わないけど、でも最近見舞に行くと何時《いつ》も新しい花が有って、�コレ誰からだ?�って尋くと、何だか知らないけど、あいつ、突然真っ赤にふくらんじゃって。面白いですよ」俺は笑った。萩原さんも笑って、「会いたいな、その人」そう言った。 「分りました。きっと賑やかになりますよ」と言って、「———萩原さん、社長には会ったんですか?」  ふと思って、そう尋いた。 「いや。大東さんの仕事をちゃんとやり終えて、それから二十九日の夜にでも、御礼と報告に伺おうと思ってる」 「そうですね」と肯いて、「でも、いい社長だよなあ、なんで弟は、あんななんだろ[#「あんななんだろ」に傍点]」俺はそんな事を言ってみた。  萩原さんは、静かに笑って、車にキイを差した。 「じゃ」 「じゃ」  中古のハイ・エースが、気持よく、一発で唸りを上げた。    14  電話が鳴ったのは、午前三時だった。  ふと目覚めさせられ、朦朧《もうろう》とした意識で、あーもー、とか言いながら俺は布団を引き上げて頭から被《かぶ》った。一日遅れのクリスマス・パーティを、練習がてら�ムーン・リバー�でやった深夜の事だった。毎日続く仕事の疲れと、その日の練習の疲れと、それから多少の酒とで、ぐたぐたに疲れて眠りについたのが午前二時半頃だった。  そこへ掛かって来た電話だった。日付はもう、二十七日[#「二十七日」に傍点]になっていた。  電話は、しつこく、いつまでも鳴り続けた。俺は布団にくるまり続けたが、それは止む事なく、部屋の薄闇を叩く様に、ずっと鳴り続けた。  虚ろな頭で(俺は今日どこ[#「どこ」に傍点]だっけ)とか考えていた。(ああ新橋の現場だ)と思い出し、七時には起きなきゃいけないのに畜生、と段々ムカついて来た。 「誰だ、この野郎!」俺は怒りにまかせるまま布団を跳ねのけてベッド脇の受話器を取った。途端に寒さを覚え、跳ねのけたそれを、すぐまた被った。 「岸野だ」  電話の向うで、岸野がそう言った。背後に車の流れる音がする。どこか外から掛けている様だ。 「岸野、カンベンしてくれよ、俺、今日新橋の現場」 「萩原さんの、あれ[#「あれ」に傍点]な………」  岸野は俺を遮って、そう言った。 「……え、なに」とまだ、はっきりしない頭で、俺は尋き返した。 「………萩原さんの、大東興産のあれ[#「あれ」に傍点]な、全部、奥田の仕組んだ事だったんだ[#「奥田の仕組んだ事だったんだ」に傍点]」岸野はそう言った。 「え?」  と俺は、闇のなかで目を開いた。 「今日、下請の接待で忘年会やっててな、おれたちも専務に連れられて来てたんだけどな、二次会に、高井って奴も来てて、二人で得意気に話してるの脇で聞いてたんだけど、萩原さんの、あれ[#「あれ」に傍点]、全部デタラメらしいぞ」 「………」俺は、言葉が出なかった。もう一つ頭が、よく回らなくもあった。岸野は、一体何を言ってるんだろうという気がした。 「………高井って………高井商会の」 「高井商会なんて、有りゃしねえよ。あいつは、専務の呑み友達でよ、近所の結婚式場とかで、たまに司会なんかやって小遣い稼いでる様な奴で口がうまいんだよ、若いのを何時《いつ》も一人|連《つ》れて歩いてる、遊び人だよ」 「………でも、名刺が」  俺は呆《ほう》けた様に、そんな事を言った。 「そんなもん、そこら辺で幾らでも刷れらあ」岸野は言った。俺は虚ろな目で、ぼんやりと暗い部屋を眺めた。ふと、あの名刺を手に持った時の感触が思い出された。(………そうなんだ、俺も、あの時、なんか一寸、そんな事、考えたんだ………)  少しずつ落ち着いてくる頭に、事の次第が見えてくる気がした。 「復讐だよ、奥田の」岸野が言った。 「………何て、こった………」俺はベッドの上で崩れる様に頭を垂れた。————— 「………大東興産まで、グルなのか?………」俺は岸野に尋いた。「たかが奥田の個人的な事の為に、あの大手が、何の得があって、こんな事、するんだ………?」呟く様に、そう続けた。 「いや、大東さんは、大東さんで、ほんとに困っててな、丸総ビルチェーンは大得意だから、そこからの発注を、何とか消化しようとしてただけなんだ。俺も何日《いつ》だったか、大東さんからの電話、受けた事有るんだよ。「丸総」は会長のワンマン経営だろ、色々、我儘《わがまま》な事、言うんだよ。定期清掃とは別に、仕事納めまでに一年間の垢《あか》落しやって欲しい、って、そんな予定、無かったらしいんだけどな、突然そう言ってきたらしいんだ。それも窓だけじゃないぜ、シャッターから何から、やってくれ、って言われて、大東さんも慌てちゃってな、まあ、シャッターだ何だは社員総出で何とかやる様だけど、窓は、そうは行かないからな。と言って、どこの会社もパンパンに膨らんでる状態だろ、大東さん、ほんとに困っちゃってたらしいんだよ。専務が元請の所へ遊びに行ってた時、そこに大東さんの人が相談に来てな、その元請は、恐縮しながら必死で無理な事情を説明してた様なんだけど、その時、専務の頭にランプ[#「ランプ」に傍点]が点《つ》いちまったんだよ。�独立する、いい業者が居ます�、�仕事は確かです�、そんな事を言って推薦したらしいんだよ。宝栄は、一応、それなりの信用を持ってるからな、そこの専務の口ききだから、別に大東さんも異存は無いし、それに大東さんにしてみりゃ、丸総の現場を何とかしたいばっかりだからな。それで、専務が窓口になって話を進めていったらしいんだ」  俺は、何とも言い様の無い気持で、岸野のそんな話を聞いていた。 「………それで、大東の方は奥田が当って、萩原さんの方は、その高井ってクソったれ野郎が当って、それで、まるで手ブラ[#「手ブラ」に傍点]の萩原さんに、とんでも無い大仕事を引き受けさせてしまったって事か………」 「そういう事だな……」岸野は言った。「………べつに金品を巻き上げたって訳じゃ無いけど、これはもう、詐欺なんじゃないのかな………ムチャクチャだよ、とにかく………」岸野は呟いたが、そんな事よりも、俺は、こんなくだらない事を本気でやる奴が居るという事自体、何か信じ難い気がした。しかし同時に、奥田ならやりかねない事でも有ったと、今更ながら、そう思った。こんな話にコロリと乗っちまった萩原さんが何か腹立たしくさえ思われた。 「お前の上司は、とんでもねえ野郎だな」俺は言った。 「ああ。おまえが日当貰っている会社の専務の事だけどな」岸野は応えた。 「………じゃ、今日、虎ノ門で幾ら待ったって、作業員なんか、来やしないんだな?」俺は分り切った事を確かめずにおれなかった。 「ああ、来やしない」岸野は応えた。 「明日の品川も、あさっての錦糸町も、誰も来ないんだな?」 「ああ。居ないんだ、そんなもん」  俺は、虚《うつ》ろな目で部屋の暗い壁を見た。 「………宝栄《ウチ》で、何とか、やりくり、つかないかな………」俺は藁《わら》にも縋《すが》る様な思いで呟いた。 「………タツオ、………無理、言うなよ」岸野は力の無い声で応えた。  それは、確かにそうだった。尋ねるまでも無く、無理な事に違いなかった。少なくとも岸野には。——— 「なあ、社長に相談したら、どうだろう、夜が明けてすぐにでも」 「社長は」と岸野は一つ息を吐《つ》き、「先週、入院したよ」そう応えた。俺は目を落した。  岸野が、ぼんやりとした声で続ける。 「………まあ、大東さんは、本当に感謝してる様だったと言うし、萩原さんの事も本気で面倒見るつもりだったと思うけど———逆に、赤っ恥かかされたって事になったら、あれだけの会社だからな、報復[#「報復」に傍点]に出る事も、有るかも知れないな………」岸野は、そんな事を言った。 「………名も無い小説書きに、どんな報復すんだよ、これ以上」 「………知らねえけどよ。でも実害が出たら、訴訟って事だってあるぜ」  俺は、項垂《うなだ》れた。「………萩原さん、五百万も借金して……車買って、道具揃えて……張切っちゃって………奥さんも、あんな、嬉しそうにしてたのに………」俺は、そんな言葉を、ただ虚ろに口にした。「………岸野、萩原さんな、保雄のこと、考えて」  とまで言って、俺はもう、何も喋る気がしなくなった。 「………タツオ、分るよ………」岸野が、ただ、そう応えた。  岸野との電話を切って、俺は何度か、受話器を持ちあげた。そしてその度に、溜息を吐《つ》きながら、それを置いた。置いて、やりきれない思いで、ただ、それを見つめ続けた。この夜中に萩原さんを叩き起こす勇気など、とても無かった。叩き起こして、事の次第を伝える勇気などは、更に無かった。どうせもう、夜が明ければ現場は始まってしまう[#「現場は始まってしまう」に傍点]———俺は煙草を持ち上げ、火をつけかけて、つけずにそれを投げ捨てた。—————    15  地下鉄の階段を上り、俺は虎ノ門の交差点に出た。  車の行き交う大通りの向うに、丸に「総」の文字の入ったバカ巨《でか》いビルが見える。  冬晴れの、ひきしまった青空に、それは威容を見せながら都心の一等地にどたり[#「どたり」に傍点]と横たわっていた。山の様だ。  大通りを渡り、俺は、そのビルに近づいて行った。  ビルの一階には、恐らく狩り出された大東興産の社員達なのだろう、作業着の下にネクタイを締めた大勢の者達が、シャッターを洗ったり、ビル裾《すそ》の大理石にモップを掛けたり、忙しそうに動き回っていた。だが窓を作業している者の姿などは、どこにも無かった。時計を見ると、もう九時を数分、過ぎていた。 「………萩原商会のひと、来てますか?」  俺は、ショウルームの照明具を必死で磨いている若い男に、そう尋ねた。  汗だくの顔で振り向いた男は、「あ、ご苦労さまです」と俺に笑い、「部長!」と、少し離れた場所で床にモップを掛けている中年の男を呼んだ。 「萩原商会の方です」  彼は「部長」に、そう、俺を紹介した。 「あ」  とモップを側《そば》の柱に立て掛けて、部長は破顔しながら、俺に歩み寄ってきた。 「いや、いや、ご苦労様」と濡れた手をタオルで拭いて、「総務の江川と申します」と名刺を差し出した。 「もうね、屋上の出入口、ちゃんと開けて有りますから、どうぞ、自由に、どんどん始めちゃって下さい。警備の方にも話は通ってますから、はい」部長は、丸っこい顔をほころばせながら、そう言った。それから、少し体を引くようにしながら興味深そうに俺を見つめると、「なんか、バンドでもやってそうな感じだなあ」そう言って、「�メインストリートのならず者�って感じですね」そう続けて、うひゃひゃひゃ、と笑った。なるほど、ローリングストーンズが好きそうな部長さんだ。 「えーと、萩原さんはね、随分早くに来て、道具下ろしたりしてらしたけど、今、二階かな?」と傍らの若い部下を見た。 「はい。だと思います」  部下は汗を拭《ぬぐ》って、そう応えた。 「あのビルのね」  と部長は俺に向き直り、通りの向うの、背の低いビルを指差した。 「あのビルの二階を控え室にしてるんです。やっぱりウチで管理してるビルなんですけど、二階が、丁度、空いてましてね。何しろ三十人くらい、来られるって事なんで、そこで休憩とか取って貰おうと思ってます。三十人に往来で煙草吸われたりすると、ほんとに�メインストリートのならず者�に、なっちゃいますからね」  そう言って、うひゃひゃひゃひゃ、と部長はまた、可笑しそうに笑った。  会社でこんな事ばかり言ってるんだろうな、と思いながら、「どうも」と陽気な部長さんに頭を下げ、俺は通りを渡った。  ビルに入り、階段を上がり、俺は二階のドアを開けた。—————    16  ガラン、としたフロアの隅に、萩原さんが一人、居た。  項垂《うなだ》れる様に、パイプ椅子に腰を下ろし、ぼんやりと床に目を落している。人が入って来た事にも、気が付かない様子だった。  ドアのそばに、買いたての真新しい道具類が、うず高く置かれていた。  脚立、梯子《スライダー》、バケツ、延長棒《ポール》、ロープセット…………  その一つ一つに、「有限会社 萩原商会」と丁寧にマジックで書かれていた。  その、縦に長い、優しい女文字の一つ一つが、俺に奥さんの姿を思い出させて、辛かった。  あの細い指に、マジックを持ち、それら一つ一つに祈りを込める様にして夫の会社名を書き込んでいく奥さんの姿が、道具の向うに見える気がした。————— 「………萩原さん」  俺は声を掛けた。  ゆっくりと顔を上げ、俺を見た萩原さんは、わずかに目を開き、「………タツオ君………」とだけ言った。  その顔は、もう全てを了解している[#「全てを了解している」に傍点]ふうに俺には、見えた。  俺は心の中で、首をかしげた。  確かに、出来たら、そうあって欲しい[#「そうあって欲しい」に傍点]とも思いながら、俺は、ここへ来た。  事の次第を、どう説明したらいいのかと、俺にはそれだけが、昨夜からずっと、苦痛だった。  だが俺を見た萩原さんの表情は、確かに、全てを、もう知っているように見えた。  しかし、だとしたら、それは時間的に少し早すぎる気もした。俺は少し考えた。 「………もしかして、奥田が来ましたか?」  俺は尋《き》いた。  少しの間があり、萩原さんは幽《かす》かに肯いてみせた。 「………高井商会などは、無いそうだ……」力の無い声で、そう応えた。  それで充分だった。  俺は、喜色満面の顔で萩原さんの前に立つ奥田の姿が見える様な気がした。  ポマードを光《てか》らせ、ダブルのスーツを着込み、かつて作業員達の眼前で自分を殴り倒した、憎んでも憎み足りない萩原さんを見下ろしながら、あいつはきっと、歪んだ喜悦の昴ぶるままに喋りたい事を喋って、帰って行ったのだろう。———ご苦労な事だ。  俺は、そんな奥田が、ふと何か、哀れにさえ感じた。 「もう………自分に………愛想が尽きたよ………」萩原さんは、笑う様に、言った。生気というものが、まるで、その体から失せている様に見えた。  萩原さんは両手で顔を覆った。その指の隙間から絶望がこぼれ落ちていた。  自分、というものへの絶望が。—————そして、多分、人間、というものへの絶望が。  ドス、と俺は、愛用のナップサックを床に下ろした。下ろして、そこから、ツナギやら、作業靴やらを取り出した。そして萩原さんの傍らで、さっさと着換え始めた。 「手伝いますよ」  俺は、声に張りを込めて、そう言った。 「………無理だよ……」萩原さんは、少しの間を置いて、そう呟いた。「………無理だよ……とても……」虚ろに床に目を落したまま、そう繰り返した。  ジャッ、と俺は、ツナギのファスナーを首まで上げ、窓辺に歩いた。  正面に、通りを挟んで、丸総ビルが見える。  煙草を一本喰わえ、カチリ、と火をつけた。  無人の、ビルの屋上の向うに、冬晴れの、ひきしまった青空が、ひろびろと広がっていた。  煙草を喫《の》みながら、俺は暫くの間、それを眺め続けた。  ふと目を落し、ビルの裾に目を向けてみた。一階では大東の社員達が汗をかいて働き続けている。大通りは、年の瀬を急ぐ車たちで、すでに渋滞が始まっていた。  煙を一つ吐き、俺はまた、静かに屋上に目を向けた。  暫くそうしていた。  そのうち、ふと、小さな変化が、そこに見えた気がした。  俺は、それに目を凝らした。——— 「萩原さん」  俺は、振り返って、萩原さんに声を掛けた。  萩原さんが、虚ろに俺を見た。  俺は、その目を、窓向うの丸総ビルの屋上へ誘った。  誘われて、萩原さんも、窓を見た。窓の向うの屋上を見た。  そのとき、無数の真白《まつしろ》なロープが、音をたてる様に冬晴れの青空に舞い上がった。  舞い上がって、壁を一つ叩くと、その壁を走る様に数十本のロープが、いっせいに並んで地上に向けて下ろされていった。  やがてロープの位置を確かめる作業員達の顔が、屋上の縁《へり》から次々に現れた。  萩原さんは目を開いた。  それから、ゆっくりと腰を上げ窓に歩み寄ると、たおれる様に、窓枠に手を置いた。  俺は、目の前の窓を大きく開けた。  一人が、それに気が付いたらしく、屋上から手を振った。  やがて皆が手を振って、窓辺に立つ俺と萩原さんを見た。どの顔も、萩原さんの良く知る顔たちだった。 「みんな、来てますよ」  俺は、そう言って笑った。 「三十人以上来てますね。本当に来るかどうか、俺も少し心配だったけど———やっぱり来てくれました」自分に呟く様に、俺はそう続けた。  萩原さんは、呆けた様に俺を見、そしてまた、ビルの屋上に目を戻した。手際良くセットし了《お》えた作業員どもが、思い思いに、ブランコ板に身を乗せ始めた。皆、三年から四年、浅い奴でも二年はやっているベテランどもだ。バカデカいビルの、その、向うが霞《かす》んで見える程の巨大な壁面に、やがて三十人を超す作業員達がズラリと浮かんだ。  なかなかの壮観だ。  萩原さんは、そんな様子に、ずっと目を奪われ続けていたが、ふと我にかえった様に俺を見ると、 「………彼ら……今日の現場は……?」とそんな事を俺に尋いた。 「いいじゃないスか、そんなの」俺は笑った。  萩原さんは、まだぼんやりと俺を見ていたが、「………いや……だけど」と、どこか宙に目を置いて、呟いた。「……宝栄の現場が、空《から》に、なっちゃうよ……」 「ええ、もう殆ど、空《から》、です。今日から奥田の取ってきた都[#「都」に傍点]の現場やる予定でしたけどね、誰も行っちゃいません。多分、今頃、青くなった元請から�奥田さんどうなってんだコール�が事務所じゅうに鳴りまくってるでしょう。岸野なんか、それ分ってるから、用事作って、どっか外をブラついてくるって言ってました。今頃は多摩川あたりに停めたウチの車の中で、ハナ毛でも抜いてるんじゃないスか」俺は笑った。 「………いや………しかし………せ、専務はともかく……社長に、そんな迷惑掛ける訳には、………いかないよ……」そう言った萩原さんに、 「宝栄は、潰れやしませんよ」俺は応えた。「それに、自分の弟が、どれだけ馬鹿か気付かせてあげた方が、社長の為だとも思いますよ」 「いやしかし」と顔を上げ、「……君たち……クビになっちゃうよ」と萩原さんは俺を見た。「……僕のために、そんな……」 「萩原さん」俺は微笑《わら》った。 「今日はもう、そんな面倒臭い話は、やめましょうよ。これは多分、もっと簡単な話ですよ。俺達、みんな、萩原さんがすきです。その萩原さんが困ってるから、やって来ただけです。俺達が困っていたら、きっと萩原さんはやって来るだろうと思うから、今日は俺達がやって来ただけです。明日もやって来ます。あさっても来ます。大東さんの現場、とりあえず、やっつけちゃいましょうよ。それで、萩原商会を軌道に乗せましょうよ。別に俺が格好つけてこんなこと言ってる訳じゃ無いんです。夜中に連絡とったら、皆、そうしたい、と、そう言ってくれたんです。俺も実際に見るまでは一寸不安だったけど———やっぱり、みんな、来てくれました。どいつも、こいつも、アホばっかりです」俺は笑った。萩原さんは、窓枠に置いた自分の両手を、ぼんやりと見つめ続けた。————— 「萩原さん!」  と、その時、ふいに窓下から声がした。  見ると、いつからか大東興産の部長さんが下の歩道に立って俺達を見上げていた。  そこから窓拭き達の仕事振りを眺めていたらしく、「萩原さん、いい若者が揃ってますねえ!」大きな声で、そう言った。 「見事です」と笑ってVサインなど、して見せた。 「萩原さんっ、安心しましたっ、有難うっ、本当に助かりましたっ、来年から、必ず恩返し、させて貰いますからっ、任せて下さいっ」そう言って、頭を下げた。  それで一度に全身の力が抜けたのか、萩原さんは、膝を折って、床に、へたり込んだ。  へたり込んで、ぐしゃり、と泣いた。 「萩原さん………」  俺は、少し慌てる様な思いで、声を掛けた。それから、何を口にすればいいのか分らないまま、俺はその、小さく震えている背中に目を落し続けた。四十を過ぎた男が声を上げて泣くのを、俺は初めて見る気がした。——— 「……萩原さん………小説、書いて下さいよ」俺は、そんな事を言ってみた。「………いい小説、書いて下さいよ」  萩原さんは、ツナギの膝を涙で濡らしながら、何度も肯いた。肯きながら、「………書くよ………」そう言った。「こんなに……何かを書きたいと思った事は、無いよ………」そう続けて、窓の向うに目を向けた。  萩原さんは、そのとき、そこに何を見ていただろう。  俺は、  晴れわたった青空の中、ゆっくりとまた回り始めた、萩原さんのルーレットが見える気がした。  そしてその青空いっぱいに、仲間達のルーレットが、  止まる事だけを拒み続ける、俺達のルーレットが、  幾つも、幾つも、回っているのを、見た気がした。 [#改ページ]   多輝子ちゃん   ——一個の流れ星の夜のために    1  部屋の窓からは、いつも海が見えた。  多輝子ちゃんの部屋の窓である。  深い山々が、浜を抱きこむ様に腕を伸ばし、そこに入口の狭い複雑な入江をつくっている。  昔、戦争の頃には軍艦を幾つも浮べた、そんな海だったらしい。 (なるほど、これなら敵も攻めにくそうだな)と、ふと勉強の手を休めた時などに、多輝子ちゃんは、そんな事を思ったりした事がある。  小学校、中学校の頃の多輝子ちゃんは、よくそうして窓辺の机に向って、宿題やら何やらをしたものだった。  思えば、随分と昔の事の様でもある。  今、多輝子ちゃんは、ちょっとばかり[#「ちょっとばかり」に傍点]不良である。  少なくとも周囲は、そう見ている。  髪を紅く染め、彼氏のオートバイの後ろで、キャッホウ[#「キャッホウ」に傍点]、などと大声を上げている。  困ったものである。  と、周囲は思っている。  夜は遅くまで帰宅《かえ》らない。先日などは高校《がつこう》をサボって彼氏とバイクの遠乗りに出かけていた事がバレて、お母さんは担任に呼び出されたりもしていた様である。御両親の悩みは、目下の所、そんな風な娘の一事に尽きていた。———  入江に散在する漁業町の一つに多輝子ちゃんの家はある。  のんびりと波の音を聞いている様な温《あたた》かな町である。  切り拓《ひら》かれたアスファルトの海岸線沿いに大きな水産加工場が並び、その周辺に、スーパーやら様々な商店やらが賑やかに軒を連ねて寄《あつま》っている。  灯台が一つ。神社が一つ。  防波堤の内側に繋《つな》がれた小船たちは、タプタプとまどろむ様に波に揺られている。  家々の庭先には花が咲き零《こぼ》れ、日差しは、それ等《ら》町じゅうの何もかもに眩《まぶ》しく照りつけては、そこに濃い影を落としている。  もし旅行者が、気まぐれにふとこの町に立ち寄ったとしたら、 「なにか明るい町だなあ」  と、そんな想いに気持を和《なご》ます事も有るかも知れない。  行き交う人々も、その脇《わき》で日に当っているノラ犬さえも、どこか呑気に感じられてくる、そんな町である。  多輝子ちゃんは、ここで生まれ、育った。  小学校を了《お》え、中学を了え、多輝子ちゃんは今、高校一年、十六歳になったばかりの夏である。  予《かね》てから入学《はい》りたかった街中《まちなか》の私立高校へこの春、めでたく合格し、自宅《うち》からバスで一時間ほどの、県内でも有数のその大きな街へ、多輝子ちゃんは通学《かよ》い始めた。  学校は、その地方では昔から良く知られた一種の名門校で、それだけに競争率も高い。多輝子ちゃんの志望を聞いた時、中学の担任は、うーん、と思わず首をかしげたが、それでも、多輝子ちゃんは志望をそれ一本に絞り、そして良く頑張った。  古い自宅の、その海の見える部屋で、懸命に参考書を繰《く》る夜が続いた。そうして、見事に合格した。御両親は娘の意外な所を見た気がして少し多輝子ちゃんを見直した程であった。  多輝子ちゃんは歌が好きだったので、合唱部かブラスバンド部に入りたいと考えていたが、帰りがどうしても遅くなってしまうのでそれは断念した。遠方から通う学生の為の寮も学校には備えられていたが、それも多輝子ちゃんは特に考えなかった。両親の反対があったという訳でも無く、ただ何となく、この生まれた町へ毎日帰って来たい気がした。多輝子ちゃんは、この町が、或いは、この海が、どうしても好きである。———  クラブ活動を諦《あきら》めた事は少し残念だったが、そんな事が何でもない程に、多輝子ちゃんは高校生活を満喫していた。  新しい友達も出来た。街の賑《にぎ》わいにも心が逸《はや》る。そうしてバスに揺られてこの町に帰り着いた時、多輝子ちゃんは、つまらない事などこの世界に何ひとつ無い気がする。  そんな多輝子ちゃんを、御両親は勿論、近所の人達もまた、目を細める様にして見つめてくれていた。  浜の人達は、近所の子供達をその産《う》まれた時から良く知っており、そのどの子に対しても優しい暖《あたた》か味《み》を持っている。多輝子ちゃんなどは、特に、そうした愛情を多く受けて育ったのではないだろうか。素直な、とても良い子なのである。ニコリと笑うと殊《こと》の外《ほか》、愛らしく、近所の大人達は、タキ坊、タキ坊、とその笑顔を愛した。  たとえば、春さきの朝のバス停。入学したての多輝子ちゃんがバスを待っている。多輝子ちゃんの、そのま新しい、憧れの制服が、どうしても嬉しそうに弾《はず》んでいる。バス停になっているタバコ屋の、そのガラス戸にチラリ[#「チラリ」に傍点]と自分を映しては、多輝子ちゃん、ご満悦である。 「お、タキ坊、いいなあ」  出勤する近所のお父さんが冷やかす様にそう声をかける。途端に何か気恥ずかしくなり、顔をあからめた多輝子ちゃんが一人慌てるようにして、やがて来たバスに乗り込む。  つい三月《みつき》ほど前の、そんな春だった。  そのタキ坊が「不良になっちゃった」と言うので、近所の人達もどこか心配顔である。いわんや御両親の心配はその比では無い。  夜は遅くまで帰らない。しつこく注意すると、うるせえ、などとハスっぱな言葉を吐いてふてくされる。髪を紅く染め、バイクの後ろでゴキゲンだった所を近所の人に見られたりもした。挙句《あげく》に学校をサボって男の子とデートしたりしている。この先何かとんでも無い娘になってしまうのじゃないかと、御両親の心痛は無理からぬ所である。ご近所のお父さん、お母さん達も、ウーム、と首をかしげている。たとえば夕飯|時《どき》などに、そんな、近頃様子の変わった多輝子ちゃんの話をする茶の間も、ご近所には有ったかも知れない。 「街の高校へ行き始めてからだねえ、お父ちゃん」  どっかのおカミさんが御飯をよそい[#「よそい」に傍点]ながら例えばそう言う。陰口《かげぐち》めいた響きは無く、どこか自分の娘を愛おしむ様な調子が、そこには込められているだろう。 「うむ」と日焼けしたご主人は重々しく肯《うなず》いたかも知れない。 「街へやるのは良くねえ[#「街へやるのは良くねえ」に傍点]」  てな事を言って、里芋《さといも》なんかをきっとつついている。そこへ進路指導で遅くなった中学三年の娘が帰って来て、 「お父ちゃん、お母ちゃん、私、街の高校[#「街の高校」に傍点]受けてみる事にしたよ」  などと嬉しそうに打ち明けては、この馬鹿野郎、といきなり御主人にひっぱたかれたりしている。ついでにおカミさんも一つひっぱたいたかも知れない。  そんな事も有ったようである。———  さて、多輝子ちゃんの家でも夕食どきである。  と言っても多輝子ちゃんは居ない。多輝子ちゃんが夕食に揃《そろ》う様な事は、近頃では殆ど無い。お父さん、お母さん、それから多輝子ちゃんと二つ違いの妹三人での夕餉《ゆうげ》である。お父さんと妹はすでに食卓についていて、お父さんは先程から少しお酒を呑《の》んでいる。その向いに妹が居て、妹の隣には多輝子ちゃんのお茶碗が伏《ふ》せて置かれてある。やがてお母さんが台所から炊飯器を下げて食卓につく。 「ああお腹|空《す》いた」などと妹は言っている。  お母さんはお茶碗を一つ手に取り、「よそっていいですか?」とお父さんを見る。 「うん貰おう」とお父さんは短く応えて残ったお酒を呑み干した。———  お父さんは漁師の息子さんだったが、高校を出て町の役場に就職し、今もってそこに勤めておられる。両親は先年亡くなり、その長男であるお父さんは、生家であるその家を継《つ》いだ。小さな古い平家《ひらや》であったが、お父さんには離れ難い家である。それでも、不便な事も多く、台所と風呂場を少し前に造り変えた。今思えば多少無理をしてでも一軒新築すべきだったかも知れない、とお父さんは、時折お母さんとそんな話をする。 「そうすれば多輝子も」  今みたいな風《ふう》にはならなかったかも知れない、と御両親は思ってみたりする。部屋数の少い家の事で、多輝子ちゃんは中学の後半の頃から妹と相部屋になった。 「自分一人の部屋がやっぱり欲しかったんだろうか」などと御二人は考える。御両親は何をしていても多輝子ちゃんの事で頭はいっぱいである。  三人は黙って食事を続けている。会話は、とくに無い。少し前までは二人姉妹のにぎやかな夕餉《ゆうげ》だったが、近頃は毎晩こんな風である。テレビの音だけが辺《あた》りに力無く浮いている。妹は、どうもこういう空気が苦手である。 「この魚、おいしいね」  などと妹は言ってみる。 「そうね。……」とお母さん。 「これ、何て魚?」 「たち魚《うお》」 「ふうううううん[#「ふうううううん」に傍点]」などと妹は意味もなく大袈裟《おおげさ》に感心して見せたりしている。お父さんは正面のテレビに目を向けたまま黙って煮物を食べている。  再び、沈黙。  どうも会話は弾まない。  お父さんもお母さんも、もう一つウかない表情《かお》である。 (お姉ちゃんのバカヤロオ)  妹は一つ毒づいて茶を飲んだ。  御両親は、ふと気づくと、やはりいつの間にか長女《むすめ》の事を考えている。どうにも分らないのである。こんな風になる様な子では無いのである。それを繰り返し胸に思う。そして、何故なんだろう、と娘の心を理解《わか》りたいと思う。世の多くの親達がやはりそうである。なんとかして子供を理解したいと願う。そして、ああなのか、こうなのかと色々考えるが、そのどれもが大概は当っていない。この場合もそうである。多輝子ちゃんは、グレちゃったんでも、イカレちゃったんでも無い。多輝子ちゃんは、ただ恋[#「恋」に傍点]をしているだけなのである。———    2  多輝子ちゃんとその少年[#「その少年」に傍点]が出逢ったのは一《ひと》月ほど前の事だった。尤《もつと》も、多輝子ちゃんの方はその少し以前《まえ》から少年の事を何となく知ってはいた。初夏の、若葉がやわらかく風に微《そよ》いでいる、そんな頃の事である。  授業を了《お》え、いつもの様に友達と校門を出た多輝子ちゃんが歩いている。五六人の友達と何やら笑いながら、ひどく楽しそうである。  多輝子ちゃんは勉強を嫌いでは無い。好きな授業は沢山ある。けれど校門を出てから過ごす街の賑わいもやはり好きである。仲の良い友達と街《そこ》で過ごす時間は、多輝子ちゃんにとって新しい楽しさだった。喫茶店にたむろ[#「たむろ」に傍点]し、芸能雑誌などを広げてにぎやかにやっている。アイスクリームをなめたり、お好み焼を頬張ったりもする。買えもしない高価な夏服をブティックのガラス越しに眺めては、あーだこーだと皆で騒いでいる。そんな風にしていつも時間は過ぎる。日が暮れかけ始めると、コインロッカーに制服を放り込んでディスコへくり出したりする友達もいる。そんな頃、多輝子ちゃんは時計にチラと目をやり、「じゃあ私」と微笑んで友達にそう告げる。 「多輝子も一回いっしょに行こうよ」  ディスコ組はそう誘ったりする。 「うん」と多輝子ちゃんは微笑《わら》い、「でも遅くなるから」と少しすまなさそうに応《こた》える。 「そうか、多輝子ン家《ち》、遠いもんね、船で帰るの?」と馬鹿な事を言っている友達も居る。 「じゃあ、明日ね」  多輝子ちゃんは微笑《わら》って手を上げる。うん、と皆に明るく手を振られて、多輝子ちゃんは一人、街の中央にあるバスターミナルへ歩く。———  夕方のターミナルは何時《いつ》も人でごったがえしている。県内の様々な町へ、バスはひっきりなしにそこから発車して行く。それぞれの人が、それぞれのゲートでそれぞれのバスを待っている。制服の多輝子ちゃんもいつもの長椅子に腰を下ろした。傍らに置いたカバンの止め金に小さなぬいぐるみがプラプラと揺れていたりする。  多輝子ちゃんの乗るバスは、そこから海の方に向って一時間ほど走る。その終着で多輝子ちゃんは下りる。乗客の少ない路線のことで最終便が早い。街へ勤めに来る人は、大概、車を利用している様である。  右へ左へと人が忙しく流れるターミナルの一画に多輝子ちゃんは座っている。少し離れた所にバス待ちの人を当て込んだスタンド喫茶が在る。〈ツナサンド・800円〉。そんなメニューが表に大きく書かれてある。 (高値《たか》い)  などと多輝子ちゃんは一つ呟いてみる。  それから時計に目をやり、バスの遅れに少し気をとめる。小さな欠伸《あくび》を一つして、多輝子ちゃんは何とはなしに通りを眺めている。  向いの乗場で乗客を乗せおえたバスが一台ゆっくりとその大きな車体《からだ》を通り[#「通り」に傍点]に出そうとしている。恐々《こわごわ》と覗き込む様な格好で往来の車の切れ間を探《さぐ》っていたが、やがて頃合を見計らったそれは、大きく左へ回ると通りの流れに沿って走り去って行った。——と、バスの行った丁度その辺《あた》りに、商業車《バン》が一台、スっ、と横づけして停まり、そこから一人の少年が路上に降りた。ジーンズに白いTシャツを着て、「——屋」という店名の入った前掛けをしている。まだ二十歳《はたち》前の十八九位に見える少年である。荷台を開け、其処《そこ》からビール箱を一つ抱え上げると、ほい、ほい、と少し重そうにしながら、それをスタンドへ運んだ。出て来たマスターに伝票の様なものを渡しながら何か楽しそうに話をしている。顔にいっぱいの汗をかいて少年は何度も破顔《わら》った。多輝子ちゃんは、それをぼんやりと眺めている。  それからも何度かその少年を見かけた。見かけるのはいつも同じバスを待っている時だった。  恋、などという感情を、多輝子ちゃんはまだ知らない。ただ、見かける度《たび》に、何となく、さわさわと気持が微《そよ》ぐような気がした。  たとえばクラスメイトの中にもカッコ良い男の子は居る。街なかですれ違う人混みの中にも、きれいな男の子は居る。だが、そうした誰にも多輝子ちゃんの気持が微《そよ》いだりした事は、これまでに無かった。 (なんか変だな)  ぐらいの事は、多輝子ちゃん、考えたかも知れない。  同じ時間にバスを待ってそこに座っていても少年が姿を見せない時もあった。そんな時はかすかな物足りなさを感じながら、やがて来たバスにぼんやりと揺られて帰った。  或る夕方、やはりその時間のバスを待っていたが、その時も少年の姿を見かける事は出来なかった。多輝子ちゃんは、気がつくとバスを一本見送ってしまっていた。見送ってしまった自分の心がよく分らない。三十分間隔の次のバスがやがて着き、多輝子ちゃんは、どこか残念な想いを残したまま、立ち上がり、それに乗り込もうとする人達の列の、その最後尾にぼんやりと並んだ。帰宅時間が、その時はじめて気になったりしている。  バスに乗《あ》がると、シートはすでに人で埋まっている。五六人の人達は通路に吊り革を握って立っている。(一本遅いとこれだから嫌なのだ)多輝子ちゃんは小さく愚痴ってみる。いくら十六歳でも一時間立ち続けるのはやっぱりホネ[#「ホネ」に傍点]だ。そんな事を思いながら奥へ進むと、一番後ろの窓際の席が、ポカリと一つ奇跡のように空いていた。ほっとする思いで、もはや自分のものと決めたその空席に一歩《いつぽ》歩み寄った時、乗車口が閉まりバスが音をたてて動き出した。ひとつバランスが崩れ、どすんと尻餅をつく様な格好で多輝子ちゃんは荒々しくその空席に体を落した。傍《そば》の人がチラとそのにぎやかな少女を見やり、それに少しの気恥ずかしさを覚えるまま、多輝子ちゃんは窓に顔を向けた。弾《はず》みで、ふと軽食スタンドに目が向かう。その時ビール箱をかかえた少年を、そこに見つける。 (あ)と多輝子ちゃんはパッと目を開く。少し身体がそっちを向く。バスはターミナルを出て、ぐいとその車体を左へ切った。通りに出たバスの左側に、いつもの酒屋の車が停《と》まっている。振り返る多輝子ちゃんの目にやがてそれも小さくなり、バスはまだ遠い海に向ってごんごんと走り続けている。 (いいな)  と多輝子ちゃんは思った。  何がいい[#「いい」に傍点]のか自分でも良く分らない。  惹《ひ》かれる、とは恐らくそんなものなのかも知れない。  バスは市内の賑やかさを離れ、細い県道に入っている。山を切り拓いた緩《ゆる》やかな勾配が始まり、バスはそれをゆっくりと上《のぼ》って行く。 (何歳《いくつ》位なんだろう?)  眼下に遠去かって行く黄昏の住宅を窓に眺めながら、多輝子ちゃんはそんな事を思ってみる。 (車を運転してるんだから)十八は過ぎてるんだ、とシートに凭《もた》れて一人肯いたりしてみる。高校を出たばっかりかしら、そんな事も考えながらボンヤリと窓を眺めたりしている。  暫くの間うねうねと山路を上り続けていたバスが、やがて車体を大きく曲げて、ゆっくりと下りに入る。途端に、パァっと目の前いっぱいに海が広がる。キラキラと夕陽を映しかえすオレンジ色の波が、どこまでも、どこまでも、どこまでも続いている。これにも又、(いいな)と多輝子ちゃんは思う。  いいな[#「いいな」に傍点]、とは多輝子ちゃんの持つ言葉の中で最大の賛辞なのかも知れない。  落陽の海も、汗いっぱいの顔でビール箱を抱えた少年も、それらは、ただ、(いいな)と多輝子ちゃんにはそれで全てなのだろう。 (いいな。……)と多輝子ちゃんはまた小さく呟いてみる。キラキラと輝く広い広い海が、いつか多輝子ちゃんの心の中であの少年と同じ一つのものに見えている。    3  多輝子ちゃんが少年と思いがけず言葉を交わす事になったのは、全く、ひょん[#「ひょん」に傍点]な事からであった。その日は、その夏一番の猛暑を記録した日だとかで、夕方になっても市内は茹《うだ》る様な暑さに晒《さら》されていた。  友達と別れ、いつもの時間、ターミナルのベンチに腰を下ろした制服の多輝子ちゃんは、パタパタとハンカチでもって首筋の辺りに風を送ったりしていたが、そのうち、心はやっぱり、いつか側《そば》の軽食スタンドに向けられている。 (あ、来た)。やがて多輝子ちゃんはいつもの様に少年を見つける。少年は、その日はとりわけ汗をかいている様に見えた。いつもの様にビール箱を抱え、それを置き、近頃|髭《ひげ》を生《は》やしたマスターと伝票のやりとり等《など》をしながら笑っている。多輝子ちゃんは、何となく嬉しくなってくる気分で、ただぼんやりと少年を眺めている。少年は、やがてマスターにペコリと頭を下げ、伝票をジーンズのポケットにねじ込むと、ビールの空箱を荷台に放り投げて運転席のドアに手を掛けた。——と、その時一人の老婆が少年に近づき、何か声をかけた。多輝子ちゃんはぼんやりとそれを眺めている。老婆は、何かバスの乗場を尋ねている風である。少年は開けかけたドアをバタンと閉じると、ターミナルの中を眺め、そこに並んだ様々な、行先を示した表示板に目を向けている。その様子では老婆の尋ねる行先が仲々見つからない様である。そのうち少年は老婆に何か言い含める様な仕草を見せた。  ——一寸《ちよつと》ここで待っていて下さい。そんな事でも言っている様子だった。少年は駈け出す様にしてターミナルの中を回り始めた。表示板をぐるりと見て回るつもりらしい。多輝子ちゃんから見て向いの通路に並んだ乗車口を、真剣な顔をした少年が一つ一つ確認しながら急ぎ足で歩いている。多輝子ちゃんは何となくそれを目で追いかけている。仲々見つからないらしい。少年は首をかしげている。その内バスを待つ列の中の一人の中年の男に少年は何やらを尋ねた。男は、ああ、という顔で一つ肯くと多輝子ちゃんの座る乗車口の辺りを指さした。多輝子ちゃん、ドキリ[#「ドキリ」に傍点]とする。 (こっちへ来る)  たらり、と一つ汗がながれ、多輝子ちゃんは一層はげしく首筋のハンカチを動かし始めたりする。  少年は老婆の側《そば》に戻ると、分りましたよ[#「分りましたよ」に傍点]、といった風に一つ微笑《わら》い、その丸まった小さな背中に軽く手を当てて、一緒に歩きだした。 (来る[#「来る」に傍点])  と多輝子ちゃん、何だか緊張している。パタパタパタ。右手でハンカチだけが狂った様に動いている。まるでセンプウキの様になった多輝子ちゃんの目の前に、やがて少年と老婆が立ち、表示板を眺めている。 (どうしよう)などと多輝子ちゃんは思う。  別にどうもしなくていいのだが、そんな気分である。多輝子ちゃんは、少年の、その、背中の中央が汗でぐっしょりと濡れた白いTシャツを眩《まぶ》しげに見ている。少年は、まだ何か確認し切れない様子でキョロキョロと辺りを見回した。もう一度誰かに尋ねてみよう、そんな気配である。そのすぐ後ろで、パタパタパタ。多輝子ちゃんは一人ドキドキしている。 (私に尋《き》け。いや尋くな。でも尋いて。やっぱり駄目)そんな花火が頭の中で炸裂している。——と、ぱし[#「ぱし」に傍点]っ、と音をたてる様にして少年と目が合った。 「あの」と少年が言い出すと同時に多輝子ちゃんは真っ赤になった。あはは、とだらしなく笑った様な気さえする。少年は別に何も気づかない風である。どうせこの暑さの中で皆まっかな顔をしている様でもある。 「〇〇町へ行くバスは、ここで、いいの?」  少年は尋いた。 (〇〇町、〇〇町、〇〇町)と多輝子ちゃんはその町名を頭の中で連呼した。知ってるような気がする。聞いた事も無い様な気もする。〇〇町、〇〇町、〇〇町…………… (ああ今の私には親の顔さえ分らない)  そんな事を思いながら、多輝子ちゃんは記憶の中に〇〇町を探している。 「分らない?」少年がそう言って汗を一つ拭った時、多輝子ちゃん、パッ、と思い出した。 「あ、それ、隣です」と隣の乗車口をハンカチで指した。後は言葉がひとりでに出た。 「〇〇町、という停留所は無いけど、△△病院前か××ストア前のどちらかで、大丈夫だと思います」多輝子ちゃんは少し上ずった声でそう告げた。老婆が、パン、と一つ手を打ち、「△△病院」と口に出して、その病院へ行く所なのだと嬉しそうに笑った。 「ありがとう」と少年が多輝子ちゃんに笑いかけ、老婆も隣で丁寧に頭を下げた。 「あ、いえ」パタパタパタ。多輝子ちゃんは又首筋に風を送り始める。少年は隣の時刻板を見上げ、それから時計を見た。 「行っちゃったばかりみたいだな。婆ちゃん、次のまで三十分位待つよ」少年の言葉に老婆はほほえんで一つ肯いた。 「いえ」  と多輝子ちゃんが少し大きな声を出した。二人が多輝子ちゃんを見る。 「まだ来てません。と思います。私ずっとここに居たからね」  何か変な日本語だと自分で思いながら多輝子ちゃんは二人にそう言った。多輝子ちゃん、どうも表情が硬い。 「あ、そお? じゃ、じき来るかな」  少年はそう言って老婆に笑いかけた。ハイどうも、と老婆が腰を屈《かが》めた時、プアンと音がしてバスが入って来た。 「あれです」などと多輝子ちゃん、高々とハンカチを掲《かか》げたりする。 「アレだそうです」と少年は老婆に告げ、「じゃ、オレ」と一つ笑って立ち去ろうとした。 「あ」と老婆は少年を呼び止め、手に下げたバッグからガマ口を出すと、そこから百円玉を三つばかり取り出した。 「お暑いのに、どうも。あのお嬢さんと冷たいものでもあが[#「あが」に傍点]って下さいな」そう言って少年の手を取り、そこに硬貨を乗せると何度も頭を下げながら老婆はバスに乗り込んだ。拒む間も無いままそれを受け取った少年は、 「どうも有難う」とその小さな背中に礼を言った。連《つ》られて多輝子ちゃんもペコリと頭を下げたりしている。  バスを見送り、少年は近くの自動販売機でコーラを二つ買い、多輝子ちゃんの側《そば》へ戻ると、「せっかくだから」とその一つを差し出して笑った。 「ありがとう」  と多輝子ちゃんもそれを受け取りながら、少年にほほえんだ。その時初めて、少年はドキリとした様である。 (あ。可愛いい)そんな事を思ったかも知れない。プシュッ、と缶を開け、少年は何か慌てる様にしてそれを一気に飲み干した。  それが、少年と多輝子ちゃんの恋の始まりだった様に思われる。  小さな、可憐な恋であった。    4  それから多輝子ちゃんの帰宅は確かに遅いものとなった。  だが、まあ、無理も無いと言えば、無理も無いのである。  少年は十八歳。母親と二人、市内のアパートに暮している。高校を中途退学し、今の酒屋で働き始めて、もう一年になる。真面目な子で、仕事もテキパキとこなし、店の御主人夫婦にも大層気に入られている様である。  高校二年の時に母親が身体をこわし、少年は酒屋の仕事を自分で見つけ、そして自分の意思で学校を退《や》めてそこで働き始めた。  店は七時半に閉まる。片付けを了《お》えて八時。少年と多輝子ちゃんが会えるのは、それからなのである。  多輝子ちゃんはそれまで時間を潰《つぶ》している。  友達が付き合ってくれる事も多い。  最初の頃は街なかで何かと時間を潰していたが、そのうち学校の図書館で調べものをしたり本を読んだりして過ごす様になった。  図書館を出て七時過ぎにいつもの店へ行く。街の中央の、交差点に面した二階建ての喫茶店。その二階へ上り、空《あ》いていれば、いつもの窓際の席に着く。そこからぼんやりと街を眺めながら少年を待った。 「待つ」——という事の味わい[#「味わい」に傍点]の様なものを、多輝子ちゃんは初めて知る。  それは、会っている時よりも、どうかすると充実した時の様な気がする。  会っている、よりも、もっと会っている[#「もっと会っている」に傍点]様な気さえする。その人の事がとても良く分ってくる気がする。少年を待ちながら、多輝子ちゃんは、そんな事をふと考えてみるときがある。———  やがて少年がバイクに乗って通りを駆《はし》ってくる。バイクは少年のたった一つの趣味。それを店の前に停《と》め、店内の階段を上がり、少年はやさしい笑顔を見せながら多輝子ちゃんの前に座る。多輝子ちゃんの顔が、ぱっ、と輝く瞬間である。  それから特に何をする訳でも無い。コーヒーを飲み、軽いものを食べたりしながら、ただ向きあってとりとめのない話を交わす。あのね、と多輝子ちゃんは学校や友達のアレコレを可笑しそうに口にする。少年は好きなバイクの話などを聞かせてくれたりする。二人でくすくす笑ったりしている。言葉は羽根のように次《あと》から次《あと》から紡《つむ》がれて、二人の時間に溶けて行く。———  一時間もそうしていると、もう多輝子ちゃんは帰りの時間を気にせざるを得ない。少年もそれが良く分っていて、「行こう」、そう言ってレシートを掴む。ヘルメットを渡され、それを被《かぶ》って多輝子ちゃんは少年の後ろに乗る。音をたてて駆《はし》り始めたバイクの後ろで、多輝子ちゃんはしっかりと少年を掴んでいる。よく開けていられない目に、街の景色が飛ぶ様に過ぎて行く。見慣れた筈の景色がバスの窓から見るそれとはまるで違って見える。  ———もっと一緒に居たい。  風の中で多輝子ちゃんはそんな事を思う。  そしてそれは、そのまま、少年の同じ想いでも、またある。  山路《やまみち》を越え、やがて海に出ると、多輝子ちゃんの家から少し離れた辺りで少年はバイクを停める。ライトを消し、エンジンを切るとふいに、しん、とした空気の中に波の音が浮びあがってくる。キコキコと鉄杭に括《くく》られた船の音がしている。その船着き場のコンクリートの上に腰を下ろし、二人は海を見ている。少し遠い街灯の灯りがお互いの横顔を薄《うす》く映し出している。 「これ」  と少年は、何か鎖《くさり》の様なものを多輝子ちゃんに差し出す。「何?」と多輝子ちゃんはそれを手に取る。 「友達に器用な奴が居てさ」少年が言う。  多輝子ちゃんは薄明りの中で、それを、あっちに向けたり、こっちに向けたりして見ていたが、やがて、パッと顔を輝かせ、 「あ、百円玉」と小さく叫ぶ。  百円玉を半分に割ったものに、銀色の鎖を通したペンダント。 「あの時の?」  多輝子ちゃんが少年を見る。少年は肯いて、 「二人でコーラ飲んで百円余ったろ。あの日の記念に」そう言って笑った。 「もう半分は?」  多輝子ちゃん、一応[#「一応」に傍点]、尋《き》いてみる。少年は赤いスタジアムジャンパーの胸を開け、Tシャツの下から、首に下げた同じペンダントを取り出して見せる。多輝子ちゃん、満足気に一つ微笑んで、自分のそれ[#「それ」に傍点]を嬉しそうに首に回す。回しながら、「あのお婆ちゃん、どうしてるかな」そんな事を言って優しく微笑んでいる。 「うん」と少年も微笑《わら》って街灯に映された多輝子ちゃんの横顔に目をやる。少年も嬉しそうである。———  少年は、人の笑った顔が好きである。  それも嬉しそうに笑った顔が、とても好きである。  少年には兄が一人居たが余り良い兄では無かった。都会で何かやっているらしいが、連絡はもう何年も無い。父も余り良い父では無かった。幼い頃に別れたきり、今|何処《どこ》に居るのか行方も知れない。自分の記憶をどんなに探《さぐ》っても兄や父の笑った顔を少年は思い出す事が出来ない。そんな兄や父との暮しの中で、母もまた余り笑顔を見せた事は無い。  少年は人の笑顔が好きである。見ているだけでたまらなく好きである。多輝子ちゃんの笑顔を初めて見た時、(いいなあ)と少年は心から思った。笑顔に映し出された多輝子ちゃんの心を、少年は直《じか》に感じたような気がした。  ずっとそばに居たいなあ、と会う程にそう思われてくる。こんな心が弾む様な毎日が自分に訪れるとは少年は思ってなかった。仕事をしていても張りがある。もっと仕事が出来る様になりたいとそう思う。けれど多輝子ちゃんを送って一人バイクを駆らす帰り路には、 (でもオレなんか[#「オレなんか」に傍点]が付き合ってていいんだろうか。……)そんな事をふと考えてしまう。  少年は海の遠くを見た。  十八歳のものにしては、それは少し重すぎる眼差《まなざ》しの様にもみえる。 「行こうか」立ち上がり、ジーンズの尻を軽く叩きながら少年は多輝子ちゃんを促《うなが》す。うん、と小さく応えて多輝子ちゃんも立ち上がる。バイクを置いたまま、そこから多輝子ちゃんの家の側《そば》まで歩いて送って行く。そんな風に、出会って二週間程が過ぎていた。  家の灯りが近くに見えた時、 「じゃあ、ね。……」  と多輝子ちゃんが少年を見る。少年は小さく肯いたが、 「……あのさ……」  と何か言いたげである。  多輝子ちゃんは黙って少年を見ている。少年は、ちょっと夜空《そら》を見たりしている。それから、 「……オレん家《ち》、ちょっと、複雑なんだ……」  少年は、やっと、という感じでそれだけを口にした。  短い時間が過ぎた。  夜の中に波の音だけが小さく聞きとれてくる。 (何を言いたいんだろう……)  多輝子ちゃんは黙って少年をみた。  少年が何を言いたいのかはよく分らなかったが、ただ、その、どこかかなしそうな表情だけが、夜の闇の中で不思議に分った。  トン、と一つ身体をはずませ、少年に近づくと、自分でもよく分らないうちに、多輝子ちゃんは少年に口づけていた。そして、 「ぜったいすき[#「ぜったいすき」に傍点]」  そう呟いて、少年のジャンパーを握りしめた。    5  それを誰かが偶然見かけたらしい。  多輝子ちゃんの「口づけ事件」は二三日の内に御近所じゅうの知る所となった。  しょうの無い御近所である。 「何ィ? キスしてたあ?」  と茶の間ですっかり酔っぱらった近所のお父さん。 「タキ坊にか?」  と、焦点の合ってない目でグイとどこかを睨《にら》みつけている。 「誰だ、そいつァ」などと凄《すご》んでいるが、周囲には誰も居ない。おカミさんは夕飯の後片付けに忙しいし、子供達はさっさと自分の部屋に入っている。開け放した座敷の向うに爺《じい》さんが一人|鼾《いびき》をかいて寝ているだけである。 「そのガキゃあ」  などと一人でまだそんな事を言っている。 「今度見つけたらこの俺がただじゃ置かねえ」  てな事を言いながら、コロンとひっくり返ったりしている。  う——、などと言っている。  そんな御近所を、しかし浜に暮す人達は誰もが互いに、あいしている。多輝子ちゃんのお母さんなども、例えば手の空いた午後、御近所の茶の間に上り込んで、そこの奥さんと煎餅などをかじりながら遠慮の無い話をしたりする。娘が学校をサボって男のコと遊びに行ってた事などもカラリと打ち明けてしまう。浜に照りつける乾いた日差しは暮す人達の心の中にも差していて、そこに見栄や体裁は余り育たないようである。——— 「先生が仰るには、その男のコ、何だか暴走族らしいのよ。多輝子もその中に入っているらしい、って。あの子、外じゃ髪を染めたりしてるらしいのよ」  そう言って、はあ[#「はあ」に傍点]、とお母さんは溜息をつく。 「相手の家に行ってさァ、ウチの娘にかまわないで下さいってお願いしてみたら?」  御近所の奥さんはお茶を注《つ》ぎながらそんな事を言ってみる。 「それも何だか失礼だしねえ。それに向うさんがどうって言うより、あの子自身、変《へん》になっちゃってる様で、こないだなんか少ししつこく注意してたら、うるせえっ[#「うるせえっ」に傍点]、なあんて言って部屋にこもっちゃうのよ」  うーん、と近所の奥さんも憂い顔である。  しかしそれは、お母さん達の杞憂というものであろう。なるほど、お母さんの耳に届く情報[#「情報」に傍点]の、その表面《おもてづら》だけを組みあげてみれば、確かにそうした心痛も生まれよう。無理からぬ話ではある。が、多輝子ちゃんの側《がわ》に立ってみれば、これも又そこに無理からぬ想いがある。そういう意味では一人一人が皆「無理からぬ想い」を生きている。言うなれば、この人の世は無理からぬ想いの缶詰である。缶[#「缶」に傍点]を開けるのは神様だろうか。そんな事はどうでもいい。  多輝子ちゃんの好きなその少年は暴走族などでは無いし、無論、多輝子ちゃんもその仲間なんかでは無い。ただ少年の高校の時の友達の中に、世間で言う所の暴走族的[#「的」に傍点]な男のコが何人か居るだけの事で、一二度偶然に一緒に駆《はし》ったりした事が無いでは無いが、それでも、皆べつに悪いコでは無いようである。そうしたグループの中には、確かに、人に仲々素行を誉めて貰えない様な少女なども居て、「ざけんじゃねェヨ」などと誰に言うでもなく只ふてくされてみたりしている。そうした娘《こ》が、あくまで好意[#「好意」に傍点]から、多輝子ちゃんの髪を少し染めてあげた[#「染めてあげた」に傍点]だけの事で、人間の好意[#「好意」に傍点]には色んなものが有るという事が実に良く分る話である。  そうした娘《こ》は、べつに多輝子ちゃんに悪い事を教えるつもりも無いし、また多輝子ちゃんも教わるつもりは無い。不良というのは案外に弁《わきま》えて居るもので、違う性質《たち》の者を無理に仲間にしようとするものでも無ければ、また闇雲《やみくも》に敵と見るものでも無い。環境《たち》の違う者同士の心地良い付き合いも有るのである。大工と学者が仲良しで何が不自然《おかし》かろう。互いの知らない世界の話は、ましてや興味深くたのしいものである。  多輝子ちゃんの目にも、そうした連中の振る舞いや言動は新鮮で興味深く映った。意気がっている分|一寸《ちよつと》目にはコワいものも有るが、少年が傍《そば》に居てくれるから安心だったし、安心な心で接すれば、皆、愉快で気のいい若者に思われた。楽しくて、つい、バイクの後ろで、キャッホウ[#「キャッホウ」に傍点]、などと叫んだかも知れない。多輝子ちゃんがツ[#「ツ」に傍点]いてないのは、そうした所ばかりを知ってる誰かに器用に見つかってしまう事である。 「うるせえ[#「うるせえ」に傍点]」などと言ったとお母さんは嘆かれて居《お》られるが、そんな言葉は多輝子ちゃんのクラスメイト達でも始終口にしている。「チェッ、ヤバイ」などと言っている。「うるせえんだよテメエ[#「テメエ」に傍点]」なんて笑いながらふざけ合っている。それが、つい、出た。お母さんも良くなかった。 「そんな子[#「そんな子」に傍点]と付き合って」  などと、恋をする少女にとって、最も残念な事を言う。悔《く》やしくて、「うるせえ」、まあ、そう言った。多輝子ちゃんにしてみれば、お母さんを見損なった気持である。  学校をサボった。それは確かに良く無い。ただ、少年の働く酒屋の休みは水曜日。いつも急《せ》かされる様にサヨナラを交わす二人が、一度、一日じゅう一緒に居てみたかった。無論理由にならないと言えばならない。叱られる事は百も承知であった。「明日学校サボる」そう言い出した多輝子ちゃんは良くない。それを、たしなめきれなかった少年にも罪はある。そうした、「社会の約束|事《ごと》」を破った罪[#「罪」に傍点]は、二人に確かに有るだろう。  だが、そんな罪が一体何ほどのものなのか。もっと大切なものが、人間には、きっと有る。  心の花。  とでも言ってみようか。  二人はただ、それを夢中で抱きしめているだけなのである。  が、「社会」というものは、そうしたものに価値をおかない事に拠《よ》って出来上っている。そしてその事を多くの人は別に疑わない。学校の先生方などは、或いはその筆頭であるかも知れない。  多輝子ちゃんとお母さんを前にして、担任のその教師は、少年を、「好もしからざる交際相手[#「好もしからざる交際相手」に傍点]」などと、もって回った表現で非難した。付き合いを止める様に、と何度も多輝子ちゃんの顔を覗き込んだ。 「父親が刑務所に入ってた事も有った様です」教師はそう言ってお母さんを見た。「ろくなもんじゃ有りません」口が滑ったのか、教師はそんな事すら言った。そして又、「もう会うんじゃ無いぞ」そう言って俯《うつむ》く多輝子ちゃんの顔を覗き込んだ。 「分った? 多輝子」  とお母さんも一緒になってそう言う。  多輝子ちゃんは悔《く》やしくて泣いた。腹が立って泣いた。泣きながら首を何度も横に振った。  担任と、学年主任と、生活指導の教師とお母さんと、放課後の、職員室の一画に仕切られた「相談室」と呼ばれているその小部屋の硬い椅子に座らされ、そうした大人達に口々に詰め寄られながら、多輝子ちゃんは、必死で、大切なものを守ろうとしていた。  自分が少年を「好き」と思う心。少年が自分を「好き」と思ってくれる心。他に何も無い、ただ「好き」であるだけの心。それを大人達に渡すまいと、泣きながら、泣きながら、多輝子ちゃんは必死で首を横に振りつづけた。  ——そんな多輝子ちゃんを、大人達はどこか複雑な表情で見つめている。大人達は、多輝子ちゃん達の「肉体《からだ》の関係」といったものを懸念している風でもある。もし妊娠でもしていたら、とお母さんなどは特に心配である。  多輝子ちゃん達にそうした事が有ったかどうかは、筆者も知らない。無いのではないかと思う。だが、有っても仕方なかろう、とも思う。そんな無責任な事を言ってると、お母さんに蹴り倒されるかも知れないが、——しかし、仮りにそうした事が二人に有ったにせよ、そこに濁《にご》ったものは、何も無いだろうと、そう思われる。  そこにあるのは、ただ、ちいさな、可憐な、花、である。打算も駆け引きも無い、ただ好き[#「好き」に傍点]であるだけのにごり[#「にごり」に傍点]の無い想いに咲いた、無垢な、心の花、である。  それを皆で摘《つ》み取ろうたってムチャである。  それは多分、神サマの庭に咲く、そんな花に違いないのだから。———  花。  人間は誰でも、いつか、そんな花を、ふと胸に持つ。そして誰もが、いつかしらその花を見失う。けれど、ふと見上げた空の高くには、そんな花がきっと幾つも咲いている。 「ああ花だ」そう気づく人が居る。  人間のテーマは、案外そんな所に有るのかも知れない。  社会は、人間から花を奪い取り、そして花を護《まも》ろうとする者を、迫害する仕組で充ちている。  だからこそ、守るのである。抱きしめて走り抜くのである。人生とは恐らくそうした競技である。地上はその為の競技場である。心の花——それを守り通した者こそが、人間の勝者である。永遠の勝者である。神の国の住人である。だがこんな事を書いている暇は、本当は無いのである。———筆者はもう少し、多輝子ちゃんたちの恋を語らねばならない。  ともかく、そうした「恋」の中に多輝子ちゃんは居た。周囲がどんな目で自分を見ようと、多輝子ちゃんは別に気にならない。少年と居ると、あとからあとから勇気の様なものが心に広がってくる。生まれて今日までの中で、多輝子ちゃんは今の自分を一番愛おしく思う。  少年の方は、しかしもう少し複雑ではある。何か振り払い切れない「負い目」の様なものを胸の何処かに感じている。多輝子ちゃんが自分と付き合っている事で色々言われている事も、ぼんやりと分っている。ふと責任の様なものを感じる。  少年は、社会と向き合う時、いつも何か気後《きおく》れがする。臆病な気持になる。自分でも、うまく分らない。その辺り、若者らしく無いと言えば、若者らしく無い。けれど少年に若者らしく無い事を考えさせるのは、いつも社会である。社会は狙いすました様に弱い者ばかりを追いつめる。少なくとも少年にはそんな気がする。いや[#「いや」に傍点]な目に、随分、少年は遭《あ》って来た様でもある。  少年は、いつか何者かが、突然、自分から多輝子ちゃんを取り上げてしまう様な、そんな気持になる時がある。もう二度と会えなくなるような、そんな気持になる事がある。そんな時、少年は、ひとり色んな事を考えてしまう。 「立派になりたい」  少年の想いはそればかりである。    6  或る晴れた日の午後。二人で少し遠い海に来ていた。  バイクを停め、埠頭《ふとう》のベンチに並んで座り、そこからキラキラと光る海を見ている。  少年は、今日は店休日。多輝子ちゃんの夏休みが、もう終ろうかという頃の事である。 「オレが二十歳《はたち》になったら」  と海を見たまま少年が言った。 「支店を一つ任せてくれるって主人《おやじ》さんが言うんだ———」  多輝子ちゃんの顔が、ぱっと輝く。 「すごいじゃない」  多輝子ちゃんは自分の事のように嬉しい。 「すごい、すごい」  そう言って何度も少年の肩を叩く。 「駅の北口に支店を一つ置こうかって前から考えてたらしくって、それをオレに」  少年は少し誇らしげな顔で、多輝子ちゃんに、そうほほえむ。———  少年の働く店は、この地方では名の通った大きな老舗《しにせ》である。  酒の他に、全国の名産、珍味といった食料品を幅広く扱い、輸入物なども随分|昔《まえ》から手がけている。  その何代目かに当る今の御主人は、少年の事を大層気にかけてくれ、少年が店に来た当初から、仕事の合間を見ては、仕入れや、帳簿のあれこれを熱心に、今も教えてくれている。少年も、また、それに良く応えていた。  御主人は、そういう主義[#「そういう主義」に傍点]の人のようで、現在五つ程有る支店の、その一つ一つを、やはり自分の見込んだ若者に任せていて、そのどれもが良く繁盛《はや》っていた。すでに独立して立派にやっている少年の先輩達も市内に居る。少年は、何か眩しいものを見る想いで、そんな先輩たちを見ている。 「……まあ、小《ち》っちゃな支店《もん》だろうけど」  少年は、ふと照れた様に微笑《わら》った。 「最初は、そうよ」  多輝子ちゃんも微笑む。多輝子ちゃん、本当に嬉しそうである。そして、嬉しそうに聞いてくれる多輝子ちゃんに、少年は更に嬉しそうである。  少年は十八歳。二年後の自分の生活《くらし》を、ぼんやりと思い描いたりしてみる。 「頑張って繁盛させるんだ」  少年が一人言の様に呟く。 「うん」  と多輝子ちゃんは隣で肯く。 「こんな店にしたい、こんな風にやりたいって、今から馬鹿みたいにそんな事ばかり考えてるよ」  うん、うん、と多輝子ちゃんは何度も肯いている。  夏の終りの風が、さあっと一つ吹きぬけて行く。少年は、少し黙り、沖に出て行く小さな船をぼんやりと見ている。 「二年後、か。……」  隣で多輝子ちゃんがポツリとそう呟く。 「うん。……二年後」  少年はそう応え、それから、 「そしたら結婚しよおか」  何でも無さそうに、けれどきっと思い切って、少年はそんな事を口にした。 「うん、結婚する」  そう答えた多輝子ちゃんの声に、何のためらいも無い。———    7  秋が過ぎ、冬になった。その冬、少年は死んだ。クリスマス・イブ。前夜からの細かい雨が雪に変わっていた。  呑屋だのパーティ会場だのへいつもより忙しい配達を了え、少しばかり焦《あせ》る思いで少年はバイクに跨《また》がった。  駆《はし》り始めて程なく、店の近くの信号の前でバイクのバランスが壊れた。転び、後ろから大型車。濡れたアスファルトに、多輝子ちゃんへのクリスマスプレゼントが一つ転がった。  二階建ての、いつもの喫茶店で、制服の多輝子ちゃんが少年を待っている。  窓から見下ろす街はクリスマス気分に賑わっていて、交差点を、渡る人も渡って来る人も、皆どこか浮き浮きとした白い息を吐いている。店々の灯りがチカチカと輝き、渋滞の車が大通りに犇《ひし》めいては騒いでいる。その屋根に雪が少し。店内のクリスマスソングに軽くハミングしながら、多輝子ちゃんは二枚のチケットをテーブルに並べてみる。二人で初めて行くコンサート。お気に入りのウインナーコーヒーを一つ飲む。ふと妙な感じ。(何だろう。……)多輝子ちゃんはカップを置く。(何でも無い)そう思いかえす。けれど妙に胸が騒ぐ。時計を見る。いつもより十分ほど遅い。(今に来る)多輝子ちゃんは通りに目を落す。この通りを向うからやって来て、この店の下にバイクを停めて、そうしていつもの様にこの向いの席に座る。……。多輝子ちゃんは、目の前のシートで微笑む少年を想像しようとした。それがうまく出来ない。十五分。二十分。(何かあった。……)そんな気がする。でも待ってみた。三十分。席を離《た》ち、多輝子ちゃんはお酒屋《みせ》に電話をする。死んだ。多輝子ちゃんは、それを報《し》らされる。———    8  少年は死んだ。  思えば幸《さち》うすい一生であった様にも思われる。  しかし少年は生きた。生きて恋をした。そして妙な大人になる事無く、少年は、少年として、死んでいった。  その事を、或いは我々は、祝福すべきなのかも知れない。  しかしそれは、やはり、かなしい。  多輝子ちゃんのかなしみは、どれ程のものだったろう。  多輝子ちゃんは泣いた。  骨が軋《きし》むほどに泣いた。  泣いて、泣いて、泣きつかれて、ふと気がつけば、一人ぽっちの自分だけがあった。  少年と一緒に居る時には何も気にならなかった周囲の目が、一人残された多輝子ちゃんを刺した。  教師が自分を見る目。或いは両親の目、妹の目、近所の人達の目。  それは多分に被害妄想に似たものも多輝子ちゃんの中に有ったのだろう。悲しみにくれる少女を鞭打つ様な気持は周囲の誰一人として持っては居無かっただろう。けれど衰弱し切った多輝子ちゃんの心に、それらは、ひどく辛く感じられた。  多輝子ちゃんの目には、ただ暗く塗り潰《つぶ》された街だけが見えている。  そして、或る時、少年の死んだ事に心のどこかで安堵《あんど》している両親をふと感じ取った瞬間、激しい嫌悪と怒りと絶望とが多輝子ちゃんの全身を突き抜け、そしてそのとき、多輝子ちゃんの心は、誰からも、遠く閉ざされてしまった。———    9  多輝子ちゃんはバスに揺られている。  何処へ着くのか知らない。  行先もろくに見ないまま乗ったバスである。  少年が死んで幾日かが過ぎた、午後の事だった。  学校は冬休みに入っていたが、多輝子ちゃんは制服を着て、一人街へ出て来た。図書館へ行こうと思っていた。家には居たく無かった。と言って行く場所《ところ》も無かった。友達は何かと声をかけてくれたが、そこへ出かけて行く気持にもなれなかった。図書館の、冷んやりとした静けさだけに、少し惹かれる様に思った。  だが、街へ着き、大通りを歩き始める内に、ふいに、図書館へなど行きたく無いと思った。足を止め、多輝子ちゃんは雑踏の中に佇《たたず》んだ。自分をどうしていいんだか、多輝子ちゃんはもう分らない。泣きそうになる心だけを、懸命に堪《こら》えた。気がつくと、ふと目にとまったバスに、多輝子ちゃんは乗り込んでいた。そのバスに、今、揺られながら、多輝子ちゃんはただぼんやりと、窓を眺めつづけている。———  バスは海岸線を暫く走り、それから小さな町を幾つか抜け、やがて終着のターミナルに着いた。いつのまにか窓の外に夜は深々と暮れていた。  大きな街だった。建ち並んだビルにイルミネイションが輝き、その下を人が忙しげに行き交っている。そんな冬の雑踏の中に制服の多輝子ちゃんが佇んでいる。少し、寒い。首を竦《すく》め、ふと見上げたビルの、その特徴の有る形に、多輝子ちゃんは自分が今何処に居るのかを知る。中学の頃、学校で県庁を見学に来た時、そのビルをやはりそうして見上げた記憶がある。多輝子ちゃんは、ぼんやりとそれを眺めてみた。  ふと、どこかで、懐しい音がする。多輝子ちゃんは、はっ[#「はっ」に傍点]と振り返ってみる。近くに停められたライトバンから、若者がビール箱を下ろしているのが見える。側《そば》の売店に配達に来たものらしく、若者は、重そうなそれを抱《かか》えて売店へ歩いて行く。多輝子ちゃんは、自分の白い息の向うに、その、ガチャガチャという、懐《かな》しい音を、じっと聞いている。涙が、一つ、二つ、おちた。そして、 「死のう」  初めてそんな事を思った。  そう思ってみると、それが一番自分のしたかった事の様な気がした。 「そうだ……死のう」通りを、あても無く歩きながら、そう小さく声に出してみた。  その時、———ふと自分の名前を呼ばれた様な気がして、多輝子ちゃんは大通りを振り返った。  十メートルばかり向こうで、急停車したらしいタクシーの窓から一人の女が手を振っている。 「多輝子ォッ」と女は叫んだ。化粧と派手な装いのせいで暫く分らなかったが、やがて中学の同級生の面影を其処《そこ》に見つける。 「絵美[#「絵美」に傍点]。……」多輝子ちゃんはその名を呟いてみる。そう言えば中学を出て、この街の酒場で働いていると誰かに聞いた事があった——多輝子ちゃんは、そんな事を想い出してみる。  絵美は、タクシーを其処に待たせると、多輝子ちゃんに駈け寄って来た。 「やっぱり多輝子だ。何してんのこんな所で」絵美は白い息を吐きながら懐しそうに多輝子ちゃんの肩を抱いた。中学の頃から背が高く顔立ちも大人っぽかった絵美は、どこから見ても一人前の女性《おんな》のようだったが、そう言って笑った顔には、やはりどこか、まだ少女のあどけなさが有る。 「一人?」絵美はそう尋いた。 「……うん」とだけ多輝子ちゃんは応える。 「そお。……」と絵美は少しの間多輝子ちゃんを見ていたが、どこか普通で無いと思ったのだろう、「ね、私のアパートで待ってなよ。私これからお店なんだけど、何んとか言って一時間位で早退《かえ》ってくるからさ。それからゆっくり話しようよ、ね」そう言って引っ張る様にして多輝子ちゃんをタクシーに乗せ、絵美はまた車を走らせた。  駅裏の、盛り場の露地の入口辺りで絵美は車を降り、降り際《ぎわ》に、「あと、このコ乗せてS町の郵便局の前まで行って下さい」そう運転手に頼んだ。それから財布を出し、一万円札と部屋の鍵を多輝子ちゃんに渡した。 「郵便局の前のPハウスっていうアパート。そこの205。すぐ分るよ。お腹空いてんだったら近くにお店有るから何でも好きなもの食べるといいよ。じゃ後でね」  微笑《わら》ってそう言うと絵美はドアを閉めた。ゆっくりと、また動き出した車の窓に、多輝子ちゃんはぼんやりと冬の街を眺めた。    10  絵美のアパート。  階段を上がり、教えられた部屋のドアを開け、多輝子ちゃんは内《なか》へ入った。  小綺麗に片付けられた六畳ほどの部屋。白い壁に、どこか外国の海の絵が掛けられている。その下に据《お》かれた、小さなソファにゆっくりと腰を下ろしながら、多輝子ちゃんは、先程見た、絵美の、その派手な装いを想い出していた。  皆の姉さん格で、そのせいか中学の時にはいつも損な役割を一人で引き受けていた絵美の、その無邪気な制服姿が、今は何か、ひどく遠い昔の事のような気がした。  多輝子ちゃんは、ぼんやりと部屋を眺めてみる。  テレビの前に小さな炬燵《こたつ》があり、その上に蜜柑《みかん》が二つ。灰皿が一つ。灰皿には赤い口紅の付いた吸殻が一本。その隣に中学の卒業写真が額に入れて大事そうに立ててあった。  ふいに何か切ない気持になり、多輝子ちゃんはその写真を少しの間みつめた。  絵美に、もし、今、かなしい事や辛い事があるのなら、それを全部自分が引き受けてやりたい——そんな事を思った。  自分はどうせ死ぬのだから。——そして、そう考えた。  ふと整理|箪笥《だんす》の上の薬箱が目にとまる。立ち上り、それを下ろして開けてみた。錠剤の入った様々な小瓶《こびん》がそこに転がっている。その一つ一つを手に取って多輝子ちゃんはラベルを読んでみる。やがて、(あった。……)多輝子ちゃんは手に持ったそれを暫く見つめた。  睡眠薬。一瓶まるごとに近い形で残っている。多輝子ちゃんはそれを制服のポケットに捩《ね》じ込むと、電話の側《そば》のメモ用紙に短い手紙を書いた。(絵美、ごめんね。ありがとう)そう書いて、それを炬燵の写真立の前に置いた。貰った一万円札をその横に添え、多輝子ちゃんは部屋を出た。郵便受に鍵を置き、小さな音をたてながら、アパートの階段を下りた。  それから何処をどう歩いたのか憶えていない。気がつくと大きな公園に出た。樹立《こだ》ちを抜けると大きな池が有り、その側のベンチに多輝子ちゃんは腰を下ろした。もう十時を過ぎていたが、公園にはまだ人影も多く、一定の間隔で置かれた水銀灯がそれらの人達を遠く近く映し出していた。少し離れた場所に乗用車が一台停まっていて、窓を開けているのだろう、そのカーラジオの音が辺りにずっと聞こえている。公園の入口で買った缶コーラを傍らに置き、多輝子ちゃんはポケットの小瓶に、そっと触れてみる。人影が絶えたら有るだけのそれ[#「それ」に傍点]をコーラで流し込んでしまうつもりでいた。  多輝子ちゃんはぼんやりと池を眺めた。その中央に照明が灯り、そこから幾筋もの噴水が高く上がった。近くに浮んでいる水鳥達が、小さく鳴きながら気儘《きまま》に泳いでいる。  傍らのコーラを手に取り、それを開けてみた。プシュッというその音が何故だか悲しくてふと涙が出た。それは自分への涙では無く、それは、これから[#「これから」に傍点]という時にそのこれから[#「これから」に傍点]を突然奪い取られた少年への涙に思われた。苦しさの中でやっと見つけた希望に胸を一杯に膨《ふく》らませていた少年への、それは涙である様に思われた。 (かなしい事は一体何のために人間にあるんだろう)そんな事をふと考えてみた。だけどその答を知りたいとも、多輝子ちゃんは、もう別に思わない。  多輝子ちゃんはぼんやりと池に目を落した。少し離れたカーラジオから歌が聞こえている。それは、次々とせわしない程にヒットソングを鳴らし続けていた。歌が好きだった多輝子ちゃんは、そこに聞こえるどの曲も良く知っていた。少し前までは自分でも良く口ずさんでいた歌だったけれど、今は、それらが、ひどく色褪せたものに聞こえる。(……つまらない歌)多輝子ちゃんはそんな事を思った。どの歌も本当につまらなく多輝子ちゃんには聞こえた。それが自分で少し不思議だったが、それらの歌には、少しも本当の事[#「本当の事」に傍点]が無いような気がした。  多輝子ちゃんは、落着いた穏やかな目をして池を見つめている。  死[#「死」に傍点]を置いた心というものは、その様に、ひっそりと静みかえるものなのかも知れない。  悲しみも憎しみも無い、ただゆったりと動かないあきらめの海だけがそこに広がっている。何一つ自分を引き留めるものの無い、その海の中に、多輝子ちゃんは、はやく、眠ってしまいたいと、それだけを想った。  冷えた空に、星がくっきりと瞬《またた》く、そんな夜である。多輝子ちゃんはぼんやりと星を眺めた。そこに少年の笑顔を見つけ、自分もこれからそこ[#「そこ」に傍点]へ行くのだと、そんな事を思った。  その時、近くのカーラジオから、一つの歌[#「歌」に傍点]が、多輝子ちゃんに、ふと聞こえてくる。  幾つもの歌が、ずっと聞こえつづけていた筈だったが、他のどれとも違う、その歌だけが、ふと多輝子ちゃんの心に触れた。  誰の、何という歌なのか、多輝子ちゃんは知らない。どこか無骨な感じのする若い男の声である。それが多輝子ちゃんの心に、そっと触れた。周囲の全てに関心を失くし、自分の前に据《す》えた死[#「死」に傍点]だけを見つめていた多輝子ちゃんの心が、すこし、その歌だけに、ふり向いた。  ふり向かせたのは、その、歌詞、だったろうか。  それとも、メロディ、だったろうか。  或いは、その、声、だったろうか。  多輝子ちゃんにも分らない。  ただ、それは、閉ざされ続けていた少女の心に、そっと風のようなものを吹き込んだ。  吹き込んで、静まりかえっていたその心に、ゆるやかな波を起こした。その波が今《いま》多輝子ちゃんに、そっと、うち寄せている。多輝子ちゃんは、いつか全身で、その歌を聴いている。———  さて、歌である。  筆者はその歌をたまたま良く知っている。  歌っているその男が、自分で作った歌である。此処《ここ》に楽譜を載《の》せても良いが、それ程の事も無い様に思う。まあ、歌詞ぐらいは少し紹介してみよう。以下の様なものである。  おいで この心に  泣いて いるなら  おいで この心に  あても 無いなら  と、こういう歌い出しである。八分の六拍子。ミディアムテンポの、わりにスケールの大きい感じのするバラードである。全体にシンプルなアレンジで、メロディは独特で悪くない。それがこう続く。  誰かに いつか僕が  して貰ったように  名前も知らない 君のために  して やれる事が  そしてリフレイン。  おいで この心に  泣いて いるなら  おいで この心に  あても 無いなら  筆者の様なヒネくれた者には、どうも胡散臭《うさんくさ》い気のしないでもない歌詞ではある。  や、偽善者。そんなことを思わなくもない。が、仮りにどんなにツマラナイ奴であっても、人間、長い事生きている内には、僅《わず》か一瞬位は心の底から真実を想う事も有るもので、この男のこの歌も、或いはそうした一瞬の産物ではあるかも知れない。誰かを助けたい、誰かの役に立ちたい、何でもいいからため[#「ため」に傍点]になりたい。本気でそう思い、本気でそれを願い、そうして矢も盾もたまらずに作った、そんな歌ではあるのかも知れない。  かも知れない、と筆者が思うのは、多輝子ちゃんの無垢な心がそれに反応したからである。反応し、そして共鳴したからである。およそこの時の多輝子ちゃんの心ほど、無垢で透明なものは他に無かったろう。それが共鳴した。のみならず、その全身を大切に抱きしめた。それだけでも、この歌は、何かしら小さな真実《ちから》を持った、そんな歌ではあったかも知れない。 (誰の歌だろう……)  多輝子ちゃんはそう思った。思いながら、気がつくとベンチを離《た》ち、カーラジオの鳴るその車へと近づいて行った。ラジオは、もう次の曲を流している。近づいてみると、うるさい程の音量である。 「あの」  と多輝子ちゃんは開いた窓から車の中を覗いた。二十代の前半ほどに見える若い男が二人、シートを倒して其処《そこ》に寝転がっている。どこかイカ[#「イカ」に傍点]れた格好をしていて、組んだ足の先には冬だというのにサンダルがプラプラ揺れている。ガムをくちゃくちゃと音をたてて噛み、多輝子ちゃんにはまだ気が付かないでいる。 「あの」  と多輝子ちゃんは少し声を高《あ》げてみた。やっと気づいたらしく、二人が同時に多輝子ちゃんを見た。 「あの。……今の歌、誰ですか?」  そう尋ねた。多輝子ちゃんはそれが知りたいばかりである。  二人の男は顔を見合わせた。 (お。可愛いいじゃん)てな事をきっと考えている。多輝子ちゃん、ちょっとアブナイ。  手前の男がボリュームを絞りながら改めて多輝子ちゃんを見た。 「あの、今の歌、誰が歌ってるのか、分りますか」  そう繰り返した多輝子ちゃんの言葉に、二人は又顔を見合わす。 「コレか?」と一人がラジオを指さし、暫くそれをじっと馬鹿みたいに見ていたが、やがて、 「ゴーヒロミじゃん」  そう言うとガムの音を立てながらだらしなく笑った。少し頭が悪そうである。 「いえ。その前の曲。……」と多輝子ちゃん。 「前の曲?」と二人は少し考えていたが、想い出せないらしく、「それより、何してんのこんな時間に」と多輝子ちゃんを見た。多輝子ちゃんはそんな会話に興味が無い。ふと思いつき、「あの、それ、どこのラジオ局ですか?」と尋いてみた。 「どこだっていいじゃん、それより、ちょっと、乗んなよ」  そう言って手前の男がニタリと笑った。  頭が悪いので自分達に近づきたい口実にラジオの事など聞いてきた位に考えている。  ガチャリ、とドアが開き、向う側の男が外に出た。多輝子ちゃん、それに気がつかない。 「あの、ちょっと見せて下さい」  多輝子ちゃんはグイと車の中に半身を入れ、チューナーの数字を読んだ。 (N放送……)  その周波数の数字で多輝子ちゃんはそれを了解した。受験勉強の時に良く聴いた放送局だった。 「どうも有難うございました」 そう礼を言って振り向いた時、後ろに男が立っていた。ニタニタと笑いながら、「なあ、ドライブ行こうよ」そう言って多輝子ちゃんの肩に手を回すと、そのままグイと引き寄せた。 (あ)  と思ったが、そこは多輝子ちゃん、ダテに暴走族の不良娘に髪を染めて貰ったりしていた訳では無い。 「何すんのよっ」  どん、と男を突き離すと、無我夢中、その顔に渾身の力を込めて平手打ちを喰らわせた。ピシッ、という小気味のいい音が夜の冷気の中で火花のように鳴った。 「痛《いて》ッ」と叫んで驚いた様な顔をしている男に、「ふ、ふふふふざけんじゃ無《ね》えよっ」そんな言葉をぎこちなく言い捨てながら、多輝子ちゃんは、男の脇をすり抜けてサッサと公園の外へ歩いた。多輝子ちゃん、その頃、やっと、ドキドキし始めたりしている。 「——あ、ごめんなあ」男は後ろの方で、頬をさすりながらそんな事を言って謝っている。 「気をつけて帰れよ」二人で手を振りながらそんな余計な事まで言っている。    11  多輝子ちゃんは通りに出た。財布を開け、中を調べる。数千円のお金が其処に有った。  多輝子ちゃんの体の中には先刻《さつき》のあの歌の余韻がまだぼんやりと残っている。歌詞もメロディももう[#「もう」に傍点]虚《うつ》ろになっていきそうな中で、ただ、その歌から伝わって来た、何かなつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]のようなものだけが多輝子ちゃんの心を強く捉《とら》えつづけていた。もう一度聴きたい。多輝子ちゃんはそれだけを思った。  N放送へ行ってみよう。そう思った。県庁の有るこの街に、それは有る筈だった。暫く歩いていると向いから空車のタクシーが来た。手を上げ、Uターンしたそれに乗り込み、「N放送」多輝子ちゃんは、そう運転手に告げた。  やがて大通り沿いの綺麗なビルの前にタクシーは停まり、多輝子ちゃんは車を下りた。 「このビルの七階から上がそうだよ」運転手はそう教え、少し車をバックさせると、通りを今来た方へ戻って行った。  ビルの中に入り、ホールを歩いた。奥に並んでいるエレベーターの前に立つと、その内の一つが丁度開いた。二人の背広姿の男が降りたそれに乗り込み、多輝子ちゃんは七階のボタンを押した。やがてエレベーターが停まり、扉が開くと、そこがすぐ放送局のロビーになっていた。自分でどうしたいのか良く分らないまま、多輝子ちゃんは中へ歩いた。    12 「あ、君」と制服を着た警備員が多輝子ちゃんを呼びとめた。 「どこへ行くの?」眼鏡をかけた初老の男だった。 「いえ、どこ、って……」  多輝子ちゃんは口ごもり、「あの、ディレクターの人に」と、そう答えた。 「ディレクターの誰?」 「え、……と、いえ、誰でも……」 「ああ駄目駄目、ちゃんと連絡取ってからじゃないと。それに君、高校生だろ。何やってんのこんな時間に」  警備員は腕の時計を見た。もう午前0時近い。 「あの、ちょっとでいいんです。一寸尋きたい事が有るだけなんです」  多輝子ちゃんは懸命な想いで警備員を見た。 「いや、駄目なんだよ」そう言いながら両手で軽く押し返す様にした時、警備員の手がふと多輝子ちゃんの指に触れた。その冷たさ[#「冷たさ」に傍点]に警備員は少し驚き、「……君、大丈夫……?」と、ふいに心配そうな顔で多輝子ちゃんを見た。  丁度、ロビーの自動販売機でコーヒーを買おうとしていた男が、エレベーター前のそんな遣《や》り取りを聞いていた。見ると、制服の少女は何か泣きそうな顔をしている。少し気になり、「どうしたんですか?」と男は、コーヒーに口をつけながら、警備員に尋ねた。 「ああ、井上さん[#「井上さん」に傍点]」と警備員は男を見た。 「いえ、このコがディレクターの人に会いたいと、そう言うんですけどね」 「——あの、尋きたい事が有るだけなんです」  多輝子ちゃんは警備員の肩越しに男を見た。その目に、何か喘《あえ》ぐ様な切なさがあった。 「——分りました。そこで僕が話を聞きますよ」  井上と呼ばれた三十五六程に見える大柄な男は、そう言ってロビーのソファに目を向けた。 「さあ、そこに」  先に腰を下ろすと、男は多輝子ちゃんに向いのソファをやさしく促した。  多輝子ちゃんは警備員をみた。 「じゃ、そうさせて貰いなさい」警備員はそう言って多輝子ちゃんの正面から体を外《はず》した。ペコリと頭を下げ、少し中へ歩き、多輝子ちゃんはゆっくりとソファに腰を下ろした。 「僕は制作部の井上と言います。尋きたい事って何なの?」男はそう言って多輝子ちゃんを見た。 「あの、さっき、……三十分位前にかかった曲の事、知りたくて」 「テレビの方? ラジオ?」 「ラジオです」 「三十分位前と言うと……」  と井上は少し考えていたが、「どっちにしても電リク[#「電リク」に傍点]、だな、0時まではアレだから……」と呟く様に言った。 「誰の曲?」 「……いえ、あの……きっと、まだ有名じゃ無い人だと思うんですけど……」  その言葉に、ああ[#「ああ」に傍点]、という風に井上は肯いた。 「じゃ、きっとあれだ、今月の新人[#「今月の新人」に傍点]ってやつだ」そう言って微笑《わら》うと、「待ってなさい。今、資料[#「資料」に傍点]、持って来てあげる」井上はソファを立ち、ロビー脇の通路を中へ入っていった。  しん、としたロビーで、多輝子ちゃんは、一人、井上を待った。静かなBGMだけが天井のスピーカーから微《ちい》さく聞こえている。ふいに、ガチャン、という音が辺りに響き、多輝子ちゃんは、ふとそちら[#「そちら」に傍点]に目を向けた。警備員が自動販売機の前に腰を屈《かが》め、いま落ちたらしいそれを取ろうとしている。多輝子ちゃんは顔を戻し、ぼんやりと、またテーブルを見つめた。ふと気がつくと側《そば》に警備員が立っている。 「飲みなさい」  そう言って、一本の熱い缶コーヒーを多輝子ちゃんに差し出した。渡し了《お》えて、警備員は、エレベーターの前に戻り、黙ってまた一人そこに立った。多輝子ちゃんは、それを両手で包んでみた。凍《こご》えていた自分の指の冷たさに、初めて気づく様な気がした。 (暖かい)多輝子ちゃんは、ただそれだけを思った。  程無く戻って来た井上は、ソファに腰を下ろすと、「きっとコレだと思うよ」そう言いながら、手に持った一枚のポスターをテーブルに広げて見せた。多輝子ちゃんはそれを見た。  一人の痩せた男が其処に写っていた。短くなった煙草を手に持ち、どこか物憂げな表情《かお》をして白黒《モノクロ》の写真の中に佇んでいる。その下に、プロフィールや所属事務所名などの記された枠が有り、そこにデビュー曲の歌詞が載せてあった。その一二行を読んだ多輝子ちゃんは、 「あ、……この歌です……」と向いの井上を見た。 「そう、良かった」と井上は微笑《わら》い、「それ、持ってっていいよ。あ、それとね」と背広のポケットから一本のカセットテープを取り出した。 「試聴用のヤツなんだけど、これもあげるよ」とそれをテーブルに置いた。 「ありがとうございます……」と多輝子ちゃんは頭を下げた。それから少し黙った後で、「あの」と井上を見た。 「何?」 「……此処《ここ》で、今、聴かせて貰えませんか。……」多輝子ちゃんは精一杯の気持でそう言ってみた。それを鳴らす機械《もの》も、また聴く場所も今の自分には無い。ここで、もう一度だけ、この歌を聴いてみたい。多輝子ちゃんはそれだけを思った。  少しの間多輝子ちゃんを見ていた井上は、いいよ、と応えると、奥へ振り向いて大声で部下の名を呼んだ。呼ばれて出て来たその若い局員に、小型のヘッドフォンステレオを持ってこさせると、それを多輝子ちゃんに手渡した。 「どうも……すみません」と多輝子ちゃんはそれを受け取った。 「ゆっくり聴いて構わないよ」井上はそう言ってソファに足を組むと、煙草を取り出し、それに火をつけた。———  多輝子ちゃんはそれを聴いた。  目を閉じ、少し俯《うつむ》いて、ただそうして、じっとその歌を聴いた。自分が今どこに居て何をしているのかさえがいつか虚《うつ》ろになって行くような静けさの中で、多輝子ちゃんの想いはその歌の中だけに、ゆっくりと散りばめられて行く。———   おいで  とその歌は言っている。   おいで この心に  と繰り返しそう呼びかけてくる。  呼びかけて来るのは、バイクの上で微笑む少年の様でもある。  また故郷の海の様でもある。  其処に暮す両親や妹や友人達の様でもある。  それら全ての、この現実《せかい》じゅうのものが、おいで、と自分にそう呼びかけている声の様にきこえる。  それは、多輝子ちゃんが今、遠去かって行こうとしている現実《せかい》だった。遠去かる事で少年に近づこうとしている現実《せかい》だった。けれどふと気がつくと、その遠去かろうとする現実《せかい》に、そのまま少年の笑顔が映っている。そして現実《そこ》から、おいで、と少年の笑顔が呼んでいる。戻って来いよ、と、そう多輝子ちゃんに笑っている。——戻りたい。そう思った瞬間、多輝子ちゃんは声をあげて泣きだしていた。———  井上は、そんな少女を見つめている。見つめながら、どうしたものか、と考えた。何か切羽詰まった表情《かお》をしているなとは思ったが、これは相当に何か思い詰めている様だ。  ——やはり警察に報《し》らせるべきだろう。  そう考えた。 「……どうも、有難うございました……」  多輝子ちゃんは涙を拭いながら、井上にヘッドフォンステレオを返す。それを受け取りながら、 「君……これから、どうするの?」井上はそう尋いてみた。  多輝子ちゃんは、こみあげて来る涙に声を詰まらせながら、「家《うち》へ、……帰ります……」とそれだけを呟く様に応えた。 「そお。……それがいいね……」と井上は少しほっ[#「ほっ」に傍点]とした様な顔でコーヒーを飲んだ。 「家は、何処なの」井上が尋く。 「……〇〇郡。……」と多輝子ちゃん。 「ああ、海の近く」  と井上は肯き、かなり遠いな、とそんな事を考えた。この深夜《じかん》ではもうバスも電車も無い。井上は定期入れを開け、そこから一枚のチケットの様なものを出した。 「これね、タクシー券。何処まででも乗れるから。これ使っていいから、表でタクシー拾《ひろ》って、帰りなさい」  井上はそう言いながら、少し体を乗り出す様にして、少女の制服のポケットにそれを入れた。その時、ゴロリ[#「ゴロリ」に傍点]とした何かが井上の手に触れる。一瞬何かを思い、井上は殆ど無意識の内に少女のポケットからそれを抜き取ると、自分の背広の中にそっと収めた。  涙を拭き了《お》え、ゆっくりとソファを立つと多輝子ちゃんは、井上に一つ頭を下げた。大丈夫かな、と井上は思った。やはり警察に保護を頼むべきではないのかと井上は自問してみた。しかしそんな行為は、何か、この少女の心に傷をつけてしまいそうな、そんな気もした。 「ほんとに帰宅《かえ》るんだね?」  井上は少し強い調子で尋いてみた。  コクリと肯いた少女は、まだ涙のかわかぬ目で井上をみた。  井上はそれを信じようと思った。  一緒に通りまで出て、客待ちのタクシーに少女を乗せると、「じゃあね」と井上は声をかけた。多輝子ちゃんは一つ頭を下げ、ありがとうございました、と小さく礼を言った。  車を見送り、ビルに戻り、エレベーターを待ちながら、ふと思い出した井上は、少女のポケットから抜き取った小瓶《こびん》をそこに出してみた。  睡眠薬。井上はそれを暫くの間見つめてみた。    13  ———それから十五年が過つ。  多輝子ちゃんも、今はきれいなお母さんである。  ちゃん[#「ちゃん」に傍点]、などと呼ぶのは、もはや失礼な様にも思われる。  多輝子さん。そう呼ぶ事にしようか。  多輝子さんは、あれから、高校を卒《で》て、短大へ進み、保母さんの資格を取って町の保育園に暫く勤めた。二十三の歳、役場へ勤めるお父さんの部下の青年と結婚をし、実家から程近い住宅街に新居を持った。真新しい二階家の、その日当りの良い庭には、多輝子さんの育てる花たちが何時《いつ》もきれいに咲き零《こぼ》れている。  御主人は、誠実で、とても良さそうな人である。結婚した翌年長女が生まれ、一年置いて次女を得た。今七歳と五歳である。御両親も健在で、お父さんは今年還暦を迎えたりする。二つ下の妹は、看護学校を出た後、市の病院でその職に就き、結婚をして三人の子供を産んだ今でも、変わらず其処に勤務している。姉妹は、時おり子供達を連れて実家を訪《たず》ねては、そこで賑やかな時を過ごしたりしている。  町の様子は殆ど変わる事が無い。乾《かわ》いた日差しの中、相変わらずのんびりと波の音を聞いている町である。とりたてて発展する事も無ければ特に寂れていくという事も無い。人口は特に増えもせず減りもせず、生まれた子供達は故郷《そこ》で成人し、やがて家庭を持ち、その老いた父母《ちちはは》をいつか見送る代わりに、新しい子供達を産み育《はぐく》んで行く。絶え間の無い波の音《ね》のように、そうした営みをずっと繰り返して来た町である。そして、其処に住む人々の多くが自分達の暮しを愛している様に、多輝子さんもまた、落ち着いた、平凡な営みの中で、ほほえむ様に暮している。  なんでもない、たとえば初夏の午後。  日の当る庭のそばで、いつか寝入ってしまった下の娘《こ》の寝顔を見つめ、その額のあたりにかるく浮いている汗を、そっと手のひらに拭《ぬぐ》ってやった時、たとえば、そんな時、(生きていて良かったな)と多輝子さんは、ふと、そんな事を思う。  そんな時、多輝子さんは、いつも、一つの歌を想い出してみる。   おいで この心に  そんな歌がふと心をよぎって行く時が、ある。  風に微《そよ》いでいる庭の花に、ぼんやりと目をとめながら、多輝子さんはそこに一枚の写真を想い出してみる。その歌をつくり、歌った、一人の男の写真である。どこか物憂げな顔をした男の、その指先から立ちのぼっていた煙草の紫煙《けむり》を、ふと想い出してみる時がある。———  十五年前[#「十五年前」に傍点]、多輝子さんはその歌手《おとこ》に手紙を出した。放送局で貰ったポスターに所属事務所の住所が有ったので、其処宛に出した。  便箋《びんせん》をめくり、ペンを握り、十六歳の多輝子ちゃんは自分にあった事の何もかもをそこに書きたいと思ったが、それは書かず、或いは書けず、ただ、「この歌をどうも有難うございました」とそれだけを書いて、出した。  一週間ほど過って、その事務所から一枚の葉書が届いた。  東京の、コンクリート臭い街なかから、運ばれて、運ばれて、海辺の多輝子ちゃんの家の郵便受に、それはコトリと落ちた。  ファンへの返信用なのだろう、事務所からの礼文が綺麗に印刷されたその余白に、どうもありがとう、となぐり書きの様な文字がボールペンで書かれてあった。 (これがきっとこの歌手《ひと》の字だ)  多輝子ちゃんはそれを宝物の様に見つめた。 (きっとこの人はスゴいスターになる)多輝子ちゃんはそう信じた。(こんないい歌をつくるんだからきっと)そう信じ、ああそんな事も手紙に書いてあげれば良かったと、そんな事を思いながら、それを、机の本棚の前に立てた。その向うに、いつもの海がある。 (このひとがスターになりますように)  そう願う多輝子ちゃんの目に、海は、何やら頼もしげに広がっていた。  だが、その歌が世に知られる事は無く、その歌手がスターになる事も、また無かった。奇妙なことだったが、そのレコードが発売される[#「そのレコードが発売される」に傍点]ということさえ、ついに無かった。多輝子さんは、それきり、その歌手《ひと》の事を知らない。  ただ、こんな事が有った。———  N放送の井上から或る時電話を貰った。  井上とは、あの後《あと》母親と礼に出向いたり、その歌手《ひと》の動向などが気になる多輝子ちゃんが問合せを重ねたり、そんな風に連絡を取っている内に、いつも気にはしていたのだろう、井上も何かと多輝子ちゃんに声をかけ、可愛がってくれ、多輝子ちゃんの結婚式にも列席するなど、そんな心やすい付き合いが、それから続いていた。  井上は今、局の重職に就いている。お互い何かと日々に追われ、この数年は、新年に交わす年賀状の中でのみ、お互いの近況を知る程度であった。  その井上から珍しく電話が有った。正月からの慌ただしさが、ようやく落ち着いた二月の初めの頃の事だった。良かったら出てこないか、と言う。十五年前、その歌手のマネージャーをしていた人が、現在扱っているタレントのプロモーションで、東京から今こっちへ来ていると言う。会ってみたらどうか、井上はそう誘ってくれた。    14  二月の、少し冷え込む午後。局へ出向いた多輝子さんは、その最上階に有る喫茶店でその人に紹介された。 「戸田と言います」  と、四十半ば程にみえるその人は挨拶を呉れ、差し出した名刺には「××プロダクション・チーフマネージャー」とそんな肩書きが有った。井上と三人、窓際の席に腰を下ろし、それぞれ、コーヒーを注文《たの》んだ。 「この女性《ひと》は、あの歌手の、大ファンだった人でね」  井上がそんな風に多輝子さんを紹介した。 「で、まあ、殆ど売れなかった歌手《ひと》だし、あの後《あと》の活動も聞かないし、偶然、戸田さん、こちらへ来られたんで、何か彼の話でもして貰えればと、そう思ったんですよ」  井上はそう言って二人を見た。 「どうも、当時は色々応援して頂いた様で」  戸田は多輝子さんに軽く頭を下げ、「有難い事だったと思っています」そう言って、微笑んだ。多輝子さんも静かな微笑みで、それを受けた。  それから、戸田は煙草を出し、それに火をつけ、「そうですねえ……」と少しの間言葉を探す様にした後で、 「あいつ[#「あいつ」に傍点]は、何と言うか、——不思議なヤツ[#「不思議なヤツ」に傍点]でしたね……」  そう言って、一つ煙を吐いた。 「ようするに、コドモ[#「コドモ」に傍点]だったんです」  すこしの静けさのあと、戸田は、そう口をひらいた。 「子供?」と井上が戸田を見る。 「ええ。あいつは、良くも悪くも、コドモでした。子供が夢中でオモチャと遊ぶように、あいつはただ、歌と夢中で遊びつづけていただけの、二十三歳の、コドモでしたね———」その歌手と過ごした時間を遠く探すような表情《かお》で、戸田はそう応えた。 「会社で借りてやったアパートに一人で暮してましたけど、放っとけば一日じゅう飯《めし》も喰わないで曲をつくっていましたね。中古で買った、小さなダビングデッキを持ってましたけど、それに音を重ねたり、声を重ねたり、そんな事を飽きずに一日じゅうやってました。一日で十曲つくるなんて、ザラでしたよ。そういう意味では、確かに異能でしたね———」 「もと[#「もと」に傍点]は、どういうところから?」井上が尋く。 「ええ。ウチとレコード会社の協賛で新人オーディションみたいなものを催《や》ったんです。———五十組ほど応募があったかな。ホールを借りて三日がかりでやりました。バンド編成が多い中で、あいつは生ギター一本で歌いましたけど、それがちょっとずば抜けて[#「ずば抜けて」に傍点]ましてね。ずば抜けて『うまい[#「うまい」に傍点]』、というのでも無いんですが、なにか規格が違う[#「規格が違う」に傍点]、とでも言うのか、そんな感じで、まず僕自身があいつに強く魅かれました。仲良くしていたレコード会社のディレクターのやつも、いいね[#「いいね」に傍点]、と言うんで、二人で推して、あいつを選んだわけなんです。それでデビューまでの一年間を僕が任される事になったんですけどね。———  しかしまあ———何しろ、いっぷう変わった奴でしたからね。いろいろ大変は、大変でした。放送局なんかへ顔見せに連れていっても、ろくに口をひらきませんしね。気にいらない事があると、なにしろ相手を睨みつけるんですから。�なんだい、あれは?�なんて局の者に後でよく言われましたよ。———万事につけ、そんな風で、僕なんか隣で汗ばかり拭いてましたね」ひとつ苦笑して、戸田はコーヒーを飲んだ。 「……ただ、歌に対しては、なにか誠実なものを持っていました。というより、あいつにはそれしか無かったんでしょうね。幼児にとってオモチャが全てであるように、あいつにとっては、それが全て[#「全て」に傍点]だったんでしょう。幼児は別に、オモチャに誠実であろうなどと考えて遊んでいる訳ではありませんしね、あいつの場合も、ただ歌をつくるのが、他の何より面白かった[#「面白かった」に傍点]、たのしかった[#「たのしかった」に傍点]、それだけのことだったんだと思います。真夜中だろうが、明け方だろうが、頓着なしに電話してきましてね、——メロディは思いついたものの、コード進行が分らない、いろいろやってみるが、どうも違う、教えてくれ、——まあ大体がそんなふうな事で、『今歌うから[#「歌うから」に傍点]』と真夜中の電話口で、よく大声あげて歌ってましたよ。僕もまだ独身でしたし、しょうがないんで電話口にギター持ってきて、ああでもないこうでもないと、一晩じゅうつき合ったりして———まあ僕も、好きで学生時代ずっとバンドやってたりもしてましてね、才能はまるで無いんですけど、知識[#「知識」に傍点]だけは、プロ級[#「プロ級」に傍点]なんです」  戸田は、一つ笑ってみせた。 「そのプロ級の知識を駆使しながら電話口で延々とやり合うんですが、なかなか納得しませんでね、�これでいいんじゃないか�と言うと、�いやちょっと違う�、�じゃ、こうだろう�と言っても、やっぱり違う———確かに否定されると、僕も、なる程ちょっと違うな[#「なる程ちょっと違うな」に傍点]、と思ったりもして、———つまり非常に微妙な旋律をつくるんですね。つくっておいて自分で弾けないんです。というより、たぶんコード表にも無いような音[#「音」に傍点]を欲しがってるんですね。そのことの善し悪し[#「善し悪し」に傍点]は当然あるでしょうが、いずれにしても、ちょっと他に無い独特な感覚《オモチヤ》を体に持っているやつでは、確かにありましたね。———あいつは、生まれ持ったそんなオモチャが、おもしろくて、たのしくて、ただそれとだけ[#「それとだけ」に傍点]夢中で遊びつづけていた、そんなコドモだったんだろうと思います。人間が日常を営む[#「日常を営む」に傍点]という事のなかには、様々なことが有りますが、そうした他のことに殆ど気が向うこと無く、ただ、それとだけ[#「それとだけ」に傍点]遊びつづけていた、そんなやつだったんだろうと思います。———それが幸福なことなのか、そうじゃないのか、僕には分りませんけども————」戸田は、一つ灰を落とした。 「……あいつは、そういう自分[#「そういう自分」に傍点]、というものを、自分でも持て余して[#「持て余して」に傍点]いたんじゃないかと思います。———それなりに恋愛や友情というものを求めてはいましたけど、そして実際それらを手にするような事も有ったようでしたけど、結局は、傷つき、傷つけられるだけのものとしてしか、あいつには残らなかったようです。そんな事をずっと、僕と会うまでにも繰り返して来た奴だったんじゃないでしょうか。恋人と自分、友人と自分、或いは自分が身を置く、この社会と自分、それがどうしてこう、いつもうまくいかないのか、分るような、分らないような、そんなくるしさが、いつも有ったんじゃないでしょうか。このせかいの[#「このせかいの」に傍点]、どことも[#「どことも」に傍点]、誰ともつながっていないようなさみしさが[#「誰ともつながっていないようなさみしさが」に傍点]、あいつには有ったんだと思います。オモチャと遊びつづける幼児がふと母親の居ないのに気がついたような、そんな心細さに或いは似ているのかも知れません。誰も居ない部屋に、ひとり置かれて、ただ遊びつづけてきたオモチャだけがそこに残っている———いわばそんなふうなものが、あいつの居た風景だったようにも思います。淋しい風景には違いないですが、しかし、もしかしたらそんな風景のなかでこそ芽をふく[#「ふく」に傍点]ものが人間には有るのかも知れないと、そんなことも思います。あいつのなかで、歌は、ただ歌である以上[#「ただ歌である以上」に傍点]のものに、いつからか育っていたのだと思います。  �戸田さん、歌は何か人の役[#「人の役」に傍点]にたたなくちゃいけないよ�そんな事をよく言ってました。�歌なんて、飲めも喰えもしないんだから、何か小さくても、人の心の足し[#「人の心の足し」に傍点]になるような歌[#「歌」に傍点]を、おれたちはつくらなきゃいけないんだ�  風船を空に放つようなあかるさで、僕にそんな事を言ってましたけどね。  ———おれには[#「おれには」に傍点]、そんなことしかできないから[#「そんなことしかできないから」に傍点]、  あのあかるい声で、きっとそうも、あいつは言いたかったんだろうと思います———」  戸田は、ぼんやりと店の天井を見上げた。 「……まあ、あんなことさえなければ[#「あんなことさえなければ」に傍点]、あいつは多分いいシンガーになっただろうと思いますね。やつの言う、人の心の足し[#「人の心の足し」に傍点]になるような歌を、きっと沢山うたったんじゃないでしょうか。僕は今でも、そんな事を思ってみる時があるんですよ……」  多輝子さんは顔を上げて、向いの戸田を見た。 「あんなこと[#「あんなこと」に傍点]———って?」井上が尋く。戸田は少し窓外に目を向けたあとで、 「———クスリを、やっちまったんです」そう一つ、言った。    15 「中央線沿いの街に住まわせてたんですけどね。音楽をやっている若者などが多い街で、いい刺激になれば、と思って置いといたんですが、逆の目[#「目」に傍点]が出てしまった感じでした。まあ、そういう街というのは、やはり危うさ[#「危うさ」に傍点]というものもまた同時に併せ持っていたんですね。大麻などを常用するような者たちが陰《かげ》にたむろ[#「たむろ」に傍点]しているような、そんな街でもあったわけです。  そんな暗がり[#「暗がり」に傍点]から出てきたような一人の男が、あいつに耳うちでもするようにして、声をかけたようです。練習スタジオで知りあったベース弾きで、すこしくずれた[#「くずれた」に傍点]ところのある三十男でした。  ———ト[#「ト」に傍点]ぶといい曲が書けるぜ、  男はそんな事でも言ったんでしょう、あいつは考えも無しにそれを信じ、そして返すあてもない金を借りてしまってもいました。最悪なことに、暴力団関係とも付き合いがあったような男で、恐らくそんなところから深みに取り込まれてしまったんでしょう、僕が気がついたときは、もう大麻以上[#「以上」に傍点]のものに、浸《つか》ってしまっていました———」戸田は、静かにコーヒーを飲んだ。 「———マネージャーとは言っても、そう毎日、付いている訳でもありませんしね。実質的な『仕事』に入る以前のことで、僕は別のタレントの手伝いなどにかり出されたりも、してました。それにあいつの場合、へんにあちこち連れ回すよりも、じっくり曲作りに専念させた方がいいだろう、という僕なりの判断もあって、自由にさせてたんですが、———迂闊なことでした。その筋[#「その筋」に傍点]の組織とかが、やはり絡んでいましてね、あいつは、不法に膨らんだ借金の取り立てのなかで、そうした連中から暴力をうけたりもしていたようです。期待が大きかっただけに、僕は、もう、途方に暮れる思いでした。途方に暮れて、短い時間の中でいろいろに考えましたけど———結局、僕は、会社に知らせること無く自分の手でコトを治めてしまおうと思いました。  無茶な話ですが、そうするしかない、という気がしたんです。会社が知れば、その場であいつを切る[#「切る」に傍点]ことは分りきってましたからね。もしそうなれば、ウチに切られた、そんな凶状持ちのような男を他のどこかが受け入れてくれるような事はもう無いだろうと、そんなことも考えました。当時は今よりも、そういう狭さ[#「狭さ」に傍点]が業界にまだ有ったんです。———あいつを潰してしまいたくない[#「あいつを潰してしまいたくない」に傍点]、僕にあるのは、それだけだったような気がします。半年ほどの短い交わりのなかで、どこかあいつと一つ[#「一つ」に傍点]になっていた所が、すでに僕に有ったんでしょうね、『こんな交通事故みたいなもので潰されてたまるか』そんな気分が確かに有りました。———まあ、当時は僕も三十になるかならないかの、青年[#「青年」に傍点]、と呼ばれていい若さでしたからね———」  戸田は、ちいさく微笑んでみせた。 「———確かに不安はありましたが、ただ、あいつの生活は全て僕に一任されていましたしね。それに『仕事』以前の準備段階のような時期に、たとえば上司なりが細かく目を向けるようなことは、まず、無い筈でした。デビューは半年後に予定されてましたけど、とりあえずは曲を揃えていくような作業が全てでしたからね。適当な報告を入れながら時間を稼げば、なんとかやれるんじゃないか、そう思ったわけです。  ———結果的には、なんとかやれました。もう中毒症状が出ていましたから、とりあえずあいつを専門の施設に入院させ、それから、一人、信頼していたディレクターにだけ話をして、二人で、ゴタゴタを一つずつ処理していきました。まあ、詳しい話をしても仕方ないですが、任されていた会社の金を急場しのぎに費《つか》ったりと、そんな事も、やりましたね。施設から連絡を受けた警察に事情を尋かれるといった事も有りましたが、知ってることを話し、むろんあいつに前科などは無かったですから、僕が身元保証人になり、回復したら改めて本人に事情を説明させるという事で、とりあえず警察の方でもそれ以上問題を広げる様なことはしませんでした。組織の方へは捜査が入ったようでしたが、詳しい顛末《てんまつ》はよく知りません。僕が幾つかの確認に付き合わされた程度のことです。まあ�事件�としては小さなものだったんでしょう、特に取り上げられるといった事も有りませんでした。———夢中で事態《こと》に対応《あた》りつづけてきた僕とディレクターは、そこでやっと、山を一つ越えたような気分で、はじめて自分たちの疲労に気がつくような思いでした。まあ僕も彼も若かったという事なんでしょうが、しかし若い僕らを、そう動かしたのは、ひとつにはあいつの持っていた、或る種の純粋さ、だったんだろうという気がします。  愚かで、浅はかで、殴りつけてやりたいような軽率さではありましたが、要するに、あいつはただ、もっといい歌をつくりたかった、それだけなんですよ———」戸田は静かにコーヒーを持ち上げて、言った。 「———病院へは、毎日、足を運びました。幸い、中毒としてはまだ軽かったので回復も早かったんですが、それでも神経にはまだ妙なものが残っているようで、それが求めさせるのでしょう、クスリは、やはり欲しがってました。欲しがりながら、幻覚のなかでみた音楽の話を僕にするんです。  ———戸田さん[#「戸田さん」に傍点]、広いんだよ[#「広いんだよ」に傍点]、一瞬が[#「一瞬が」に傍点]、とてつもなく広いんだ[#「とてつもなく広いんだ」に傍点]、一拍と一拍の間に永遠があるんだ[#「一拍と一拍の間に永遠があるんだ」に傍点]、無限の音符や[#「無限の音符や」に傍点]、言葉が[#「言葉が」に傍点]、その一瞬のなかに置けるんだ[#「その一瞬のなかに置けるんだ」に傍点]、戸田さん[#「戸田さん」に傍点]、時間なんて[#「時間なんて」に傍点]、本当は無いんだ[#「本当は無いんだ」に傍点]、それはもっと自由なものなんだ[#「それはもっと自由なものなんだ」に傍点]、そこでなら[#「そこでなら」に傍点]、戸田さん[#「戸田さん」に傍点]、どんな作曲家にも創れなかったうたが[#「どんな作曲家にも創れなかったうたが」に傍点]、きっと創れるんだ[#「きっと創れるんだ」に傍点]、———僕にしがみつくようにして、そんなことを言うんです。どこかまだ、常人の目ではないように見えました。ものをつくる[#「ものをつくる」に傍点]というのは、本当はとても恐ろしいことなのじゃないかと、その目をみながら、そう思ったことを、今でも憶えていますよ———」    16 「———病院を出て、しばらくアパートでぼんやり過ごしていましたけど、その時期につくった歌が、あなたの耳にした、あの歌なんです」戸田は多輝子さんに微笑んだ。 「———すみきった、いい歌だな、と、聴いて、そう思いました。それで、会社にもそろそろ動きを見せないとまずくもあったし、楽曲としてもいいものでしたからね、とりあえず、あれをシングルにして出そうと、そういう作業をディレクターと詰《つ》めていきました。あいつは、まだ後遺症にすこしくるしんでいましたが、時折、雲が切れるようにして晴れやかな気分になる時も有るようで、そんな日を選んで歌入れをしました。———いいレコーディングでしたね。アレンジャーともしっくりいきましたし、あいつも期待どおりのいい歌い手ぶりを見せてくれました。  深夜のスタジオで音調整《トラツクダウン》などをやっているとき、ミキシングを担当してくれてた青年が、ふと僕らを振り返って、———いい歌ですね、売れるかも知れませんよ、そんなことを言ってくれたりもしました。あいつは嬉しそうでね、�そうかなあ�って、そう言って笑ってました。�そうかなあ�って、何度もそうつぶやいては、僕の隣で嬉しそうに笑ってましたよ」戸田は、そんな話をした。  それから、すこしぼんやりする様に窓に目を向けていた戸田は、その横顔を見せたまま、 「でも———順調[#「順調」に傍点]にコトが運んだのは、そこまで[#「そこまで」に傍点]、でしたね……」  そうつづけて、二本目の煙草に火をつけた。 「———盤《おさら》が出来て、発売日も決まり、それに先行するプロモートでとりあえず僕ひとり地方局廻りの旅に出たんですが、出て幾日と過たないうちに、急に会社から東京に呼び返されましてね、———ええ、露呈《ばれ》ちゃったんです。病院に入れていた事や、何やかやが。上層部の一人が、どういう経緯からか、それを知ったようでした。  会社は慌てて、あいつに関するプロジェクトの全てを中止にしました。今でもそうですがクスリ関係は禁忌《タブー》の中でも、その最たるものですからね。デビューは、むろん取り止めになり、僕も殴りつけられかねない勢いで上司に叱られました。『発売前だから良かったようなものの、もしヒットでもしてたらどうするつもりだったんだ[#「もしヒットでもしてたらどうするつもりだったんだ」に傍点]』そんな不思議な事を言って怒ってましたよ。あいつ一人の事よりも、かかえている他のタレントに影響が出る事を恐れたんですね。もし売れればその履歴など簡単に暴かれてしまう、そういう前提で怒っている訳です。そうなった場合、スポンサーはウチに所属するタレントの全てに汚染[#「汚染」に傍点]の可能性[#「可能性」に傍点]をみますからね。それは会社に大きな損害を与える可能性[#「可能性」に傍点]でもありました。ましてウチは旧《ふる》いプロダクションですから。旧き良き時代を担ってきた老舗《しにせ》の大手ですからね。その看板が汚れることを、多分何よりも恐れたんでしょう。会社は、みっともない程の慌ただしさで、あいつを切る[#「切る」に傍点]手筈を整えました。———そして、放り出したわけです。企業としては当然のことなのだろうと、そう思わなくもなかったですが、———ひどく、さみしかったですね。あいつにすまない気がしました。———会社を辞めて、あいつのそばに居てやろう、そう思いました。それこそストリートライヴのようなことから始めてもいいじゃないかと、そんなつもりで奴のアパートに駆けつけたんですけど、———もう居ませんでした。経理の方が追いたてるように部屋を引き払わせてしまったようでしたね。むろん僕の了解など必要としない見事な『仕事』ぶりでした」 「ガランとした部屋に、しばらく、ぼんやりとして、それから会社へ帰る雑踏をひとり歩きながら、(——ここは大人たちの国なんだな)と、そんなことを思いました。そしてあいつは、その大人たちの国に迷い込んだ、ひとりの妙な子供だったんだな、と、そんな事が分ってくる気がしました。ここ[#「ここ」に傍点]を守る大人たちにしてみれば、あいつのような男は、有害で、危険な、自分たちの思惑の外[#「思惑の外」に傍点]に生きる危なっかしいやつでしかなかったのでしょう。しかし、あいつは、ただ歌が好きなだけの、孤独なコドモでした。そんなコドモひとりを遊ばせておく余裕さえ持たない、ここは大人達の広場なんだな、と、そんな事を歩きながら考えました。歌というものが、仮りにコドモのものであったとしても、それを売りさばくのは大人たちの仕事ですからね。どこに居ても、この広場に居るかぎり、あいつには、こうしたくるしさがつきまとうのだろうと、なんだか、かなしい帰り道でしたよ。———あいつが死んだのを知ったのは、その二年後の冬でしたね———」  戸田は多輝子さんを見た。 「……ですから、実質あいつの歌が電波にのって流れたりしたのは、———おそらく二日《ふつか》かそこら[#「そこら」に傍点]の間じゃなかったかと思います。全国の主だった放送局には、デビューに先んじて試聴盤などを送らせて貰いましたが、結果的には、放送にのせる事の無かった局が殆どじゃなかったでしょうか。ウチからすぐにストップがかかりましたからね。井上さんのところでも、あの曲を放送にのせたのは、たぶん、あの夜[#「あの夜」に傍点]だけのことだったろう、という事でした。———まるで誰にも見られずに空をよこぎって行った流れ星のようなやつでしたけど、———あなただけが、それを、みていてくれた………」  戸田は、コトリ、とコーヒーカップをテーブルに置き、それから、どこか優しい眼差しで、多輝子さんを見た。 「……あなたの事は、本当は井上さんから、詳しく聞かせて貰ってるんです。それで僕の方から、ぜひお会いしたいと、井上さんにそうお願いしたんですよ———」そうつづけた。 「……たしかに、妙な男《やつ》、でしたけど、歌ったのも、たった一曲だったですけど、そしてそれすらも、満足に世に出る事は結局はありませんでしたけど、———それでも、あいつは、一人の少女の、少なくともその小さな役[#「小さな役」に傍点]には、立てたようで、僕はそれをたしかめたい気がして、こうしてお会いさせて貰いました。  あいつは、歌[#「歌」に傍点]というものを通してしかこの社会とつながるすべ[#「すべ」に傍点]を持たない、そんなやつでした。そこにしか、いきる、ということの無い、そんなやつだったように思います。  �歌は小さくても何か人の役に立たなくちゃいけないんだ�  口癖のように言っていた、あいつのそんな言葉は、いわば、あいつの、いのちがけの願い[#「願い」に傍点]のようなものだったのでしょう。歌[#「歌」に傍点]というものでせめてこのせかいとつながっていたいという、あいつの願い[#「願い」に傍点]だったのだと思います。そんな願いを手にすることもなく、街のうねりに流され、消えていったやつでしたけど、でもこうして、僕らの手を離れた場所で、あいつの歌は、一つの心のなかにちゃんととどいていた———僕はそれが嬉しかったんです。  あなたという人が無ければ———いや、あなたという人が居たことで、あいつという男もまた、たしかにこのせかいに居た[#「居た」に傍点]のだと、それが良く分る気がします。奇妙で、そして儚《はか》ない一個の人生だったようにも見えますが、しかし、そうじゃないのだろう[#「そうじゃないのだろう」に傍点]、とも思います。百年生きても何ごとも為さない人生もあります。二十幾つで死んでも、誰かの心に生きつづける一生もある———こうしていると、あいつは、ただあなたにあの歌を聞かせるためにだけ生きた、そんなやつだったんじゃないかという気さえします。十五年前の、一つの夜に、ただあなたの心と交差するためにだけ生まれてきた、そんなやつだったんじゃないかと———そんな気さえします。  生まれて、生きて、小さな役に立った———人間なんて、それで充分なのじゃないでしょうか。あいつは満足でしょう。きっと礼を言ってますよ。僕も、おなじ思いです。ありがとうございました———」  すこし煙がしみたのか、そんな目をして、戸田は言葉を閉じた。  多輝子さんは、静かにひとつ、頭を下げた。  戸田に、———そして、戸田の向う、過ぎ去った時のなかに息づく、その一人の歌手に。 「……今でも」  一つ息をつき、多輝子さんは戸田にほほえんだ。 「あの歌を時々口ずさむことが有ります」  そして、 「あの歌は、私にとって、けっして小さな役[#「小さな役」に傍点]、どころではありませんでした」  そうつづけるとふいに胸が詰まり、多輝子さんは窓をみた。  二月の薄曇りの空の下で、せわしなく息づいている都市が其処から見下ろせた。    終段  多輝子さんは、夕刻のバスターミナルのなかにいる。  発着のインフォメイションが次々に聞こえ続けている雑踏の中を、コートの襟を立て、娘たちへの土産《みやげ》の菓子箱などを手にした多輝子さんが、ひとり歩いている。  井上らと別れた後、久しぶりに出て来たその大きな街で少し買物をしたりしている内、街は、足早な冬の黄昏の中にいつか包まれ始めていた。  地下街が増築され、少し様子の変わったターミナルの中を戸惑い気味に歩くうち、やがて目指す乗場を見つけ、表示板に次の発車時間を確かめると、多輝子さんは、売店|脇《わき》の公衆電話から自宅へ電話を入れた。  何回かの呼出し音の後、やがて結《つな》がった受話器の向うから七歳になる長女の声が聞こえた。「はい。〇〇です」と精一杯に大人ぶった声を出しているその幼い応対ぶりに一つほほえみ、「お母さんよ」と多輝子さんは受話器の向うに話しかけた。 「お父さんは?」 「まだ」  と応えた娘の声に一つ肯き、これからバスに乗るけど、遅くなるからお父さんが帰ったら先に夕食を済まして頂戴、とそう続けた。遠い海沿いの町の、その小さな屋根の下で、娘は、うん、と(恐らく)うなずいた。  それから台所の鍋の中身や冷蔵庫の中のアレコレや、隣で守《み》て貰っている五歳の妹の事などを、少し早口に伝え、——すこし早口過ぎるかな、とも思ったが、自分の娘を七歳にしては普通より一寸《ちよつと》出来が良《い》い様な気のしている母親は、ちいさな信頼をもって、手短かに、それを指示し、頼んだ。  最後に、「おみやげ[#「おみやげ」に傍点]が有るからね」と娘の好物である、その、手に持った洋菓子の名を少し悪戯《いたずら》っぽく口にしてみた。電話機にひび[#「ひび」に傍点]でも入りそうな娘のその大袈裟な歓声[#「歓声」に傍点]のおかしさに、思わず、ひとつ笑い、じゃあね、と多輝子さんは受話器を置いた。  丁度、乗場に着いて乗車口の扉を開けた、その目的のバスに少し急ぎ足で乗り込むと、自分でも気づかない、それが癖[#「癖」に傍点]なのだろう、バスに乗る時はきまって[#「きまって」に傍点]そうしてしまう様に、多輝子さんは、一番うしろの窓ぎわの席に静かに腰を下ろした。その膝《ひざ》に、老舗《しにせ》の洋菓子店の菓子箱が、そっと置かれている。  やがて、バスはターミナルを離れたが、夕刻のことで通りには車が波のように溢《あふ》れていた。  最初の信号で早くも渋滞につかまってしまい、多輝子さんは、傍らの車窓に貼り付いたまま、いつまでも流《うご》こうとしない黄昏の都市の風景をぼんやりと眺めつづけた。  街路樹の向こう、レンガ造りの教会の、その屋根に立つ十字架の先端に、まだ地平線に辛《かろ》うじて残っているのだろう、冬のたよりない陽の光が僅かに茜《あか》くあたっているのがみえた。  少し暖房が強《きつ》く感じられ、多輝子さんは細《ちい》さく窓を開けた。冷んやりとした二月の風がその隙間から絹のようにながれ込んできて、その頬《ほお》を一つ撫でた。 (夏はあんなに暑かったのに)と自分でも良く分らぬ表現《ことば》で季節[#「季節」に傍点]というものを少し想い、そのおかしさに心の中で小さく微笑《わら》いながら、多輝子さんは、人の行き交う舗道に目を向けてみた。  コート姿のサラリーマンやOL達が、一人で、或いは数人連れですれ[#「すれ」に傍点]違いつづけているその舗道の上を、塾へでも急ぐのか、バッグを握りしめた少年が人混みを縫うようにして駈け出して行く。渋滞の中で少し進んではまた早《す》ぐに停まるバスを楽々と追い抜いて駈《はし》り去る少年の、その骨張《ほねば》った幼《ちい》さな背中に目をとめながら、多輝子さんは、数時間前、放送局の喫茶店で戸田が口にした、その短い言葉を、ぼんやりと想い出していた。  〈コドモ、だったんです〉  戸田はそう言った。  〈あいつは、確かに、良くも、悪くも、コドモ、でしたね〉  その歌手との日々を想い出していたのだろう、戸田は懐しそうな表情《かお》で呟くようにそう言った。———多輝子さんもまた、戸田の話を黙って聞きながら、戸田が〈コドモ[#「コドモ」に傍点]〉と呼ぶその一人の歌手《おとこ》に、何か、ひどく懐しい想いを覚えた。  愛おしかったのかも知れない。  何故だか、わからない。わからないけれど、なぜか、たまらなく愛おしい気がした。 「———この世の中で本当に何かの役に立っているのは、利口でそつ[#「そつ」に傍点]の無い大人では無くて、もしかしたら、そういう、大人にならない[#「大人にならない」に傍点]人間《こども》たち[#「たち」に傍点]、なのかも知れませんね———」  あの喫茶店《みせ》での最後に、井上はそんな事を言って、ふと、自分に微笑んでみせた。  井上も愛おしかったのだろう。多輝子さんはそんな気がした。  ぼんやりと眺めつづけるバスの窓に、多輝子さんは、ふと、一人の少年を想像《おも》いうかべてみる。  ——それは、たとえば、夏の田舎道を、腰にブラ下げた虫カゴをぱたぱたとさせながら、網《あみ》を振りかざし、どこかこわばった[#「こわばった」に傍点]表情で、けんめいに一羽の蝶[#「蝶」に傍点]を追いかけて行く、たとえば、そんな一人の少年である。  少年は、ただ無心に蝶を追いかけている。  その目には蝶以外の何ものも見えてはいない。  それを捕《とら》えたい想いだけが、ただ少年を活《うご》かしつづけている。  蝶に心を奪われ、他《た》を顧《かえり》みる事の無い、その無邪気な足取りで、少年は例えば無雑作に花を踏みつけて行く事も有るかも知れない。汚してはいけないシューズを泥濘《ぬかるみ》に浸《い》れてしまう事も有るかも知れない。その泥だらけの靴で誰かの大切なものを踏みつけてしまう事も、あるかも知れない。  けれど、少年が無心に蝶を追いかけて行く、その風景のうつくしさを、———思わない人は居ない。  多輝子さんは、舗道に目をおとしてみる。 (その歌手《ひと》もまた、無心に歌[#「歌」に傍点]を追いかけていた、一人の少年[#「少年」に傍点]だったのだろう)  そんな事を思ってみる。———  蝶を追いかける少年には、豊かな草原と、澄んだ青空と、そして何よりも彼を見守る両親のあたたかな眼差しとがそこに有るだろう。  けれど、その歌手《ひと》の生きたこの社会《まち》は、その人にとって、利口でそつの無い大人たちが夢を埋めたてて造り上げた、コンクリートの異国[#「異国」に傍点]でしか無かったのではないか。———  そこにそのひとのくるしさが有ったのだと、戸田は言った。  けれど、そのくるしさのなかから、幾つもの歌がほとばしり産《で》て、そしてその一つが、あの日の私の心に、共鳴《ひび》いて、溶けた。そして私を救ったのだ。———  独特で孤独な男《ひと》だったと、戸田はふりかえる。  事実、そうだったのだろう。  けれど、その人の生きた、その、すがたは、———このくすんだ空の何処かにも、きっとのこりつづけてゆくのだろうと、多輝子さんは、そんな事を思ってみる。  建ち並ぶコンクリートのビルと車の流れの中に、多輝子さんは、十六の歳《とし》の、あの夏の海を、いつか、みている。  思えば、あの日の自分たちも、やはり、そんなふうな二人だったのかも知れない。  無我夢中の、その足もとで、両親や妹の心を踏みつけてしまったのかも知れない。  誰かれに迷惑をかけてしまった事も有ったのかも知れない。  何より自分自身が傷ついた、そのことを、「愚かな事だ」と、ひとは言うかも知れない。  でも———  と多輝子さんは思う。  人間は、一生のうちの、そうした一時期にこそめざましく生きるいきものなのではないだろうか。他のどの時期もが持ちあわせない何かに出会うとき[#「とき」に傍点]なのでは、ないだろうか。  そして、もしかするなら、それが全《すべ》てでさえ、あるのではないだろうか。  人は。———少なくとも、私は、あの十六の夏を生きた、そのことで、あれからも、そしてこれからも、生きていけるのでは、ないだろうか。———  車窓にひろがる都市の喧噪のなかに、多輝子さんは、そっと耳を澄ませてみる。  何処からか遠く聞こえてくる気のする、その故郷の海の波音のなかに、一台のバイクと、そのそばに座りこんだ二つのちいさな影がみえる。  想い出のなかで、いつまでもかわらない十八のままの少年《そのひと》を、多輝子さんは、いつからか、母のような想いで、あいしている。  そしてこれからも、愛していこうと思っている。 [#改ページ]   あとがき  人間は、「星空派」と「青空派」に分《わか》れるのだそうだ。  ウソだけど。  しかし毎日生きていて、つくづく自分は「青空派」だなと思うことがある。  青空と居ると、それだけで、なんだかシアワセな気分になってしまう。心が呆《ほう》けた様に、ダラーとしてしまう。そして、ただもう、安心してしまう。  よほどの馬鹿なのかと思うが、よく分らない。なんだか分らないが、青く広い空が、ただもう無条件にすきなのである。  青空というのは、あれは、けして、空の表皮[#「表皮」に傍点]などでは無いのである。ペラリと剥《む》ける様な、そんな、それだけ[#「それだけ」に傍点]のものでは無いのである。青空というのは、あれは、背中に永劫の宇宙《やみ》をズシリとかかえて、それでもニコリと笑ってみせている、痛々しい笑顔の様なものである。リウマチに痛む足をこらえながら、それでもニコニコと幼い孫に手を引かれてみせる、老婆の深々とした笑顔である。  よく分らない事を自分で書いていると思う。  おととい編集の人に会って、「あとがき、月曜までにお願いネ」とか言われて何の目算も無く書き始めた一文である。  今日、空がよく晴れていて、その青空が今、窓に見えていて、なにかただ、青空のことを書いてみたくなっただけの事である。(おまえはただ能天気に青いだけじゃないんだよな)と、そんなことを話しかけてみたい気がしただけである。  この青空の様に、たとえ背中に何を背負っていても、人は明るくありたいものダネと、取って付けた様な事を最後に言ってみるしだいである。  これで終りである。  あとどーでもいい事だが、この一冊を、あの頃一緒に窓を拭いた仲間達ひとりひとりに捧げたいと思う。うけとりやがれ。  推薦の言葉を寄せて下さった、吉村昭先生、また、この一冊に関わって下さった全ての方々に、心より感謝します。お世話になりました。そして読んでくれた、あなた、有難う。   二〇〇一年三月十八日 [#地付き]内智貴 [#改ページ] 内智貴(つじうち・ともき) 一九五六年、福岡県飯塚に生まれる。七七年、東京デザイナー学院商業グラフィック科卒業。七八年から三年間、ビクターレコードにシンガーとして在籍。後、ビクターを離れライブハウスなどでバンド活動を続ける。九九年、「セイジ」が第十五回太宰治賞最終候補作に選ばれる。二〇〇〇年、「多輝子ちゃん」で第十六回太宰治賞受賞。のびやかな文体と作家的資質に対して高い評価をえた。 本作品は二〇〇一年五月、筑摩書房より刊行された。