色川武大 離  婚 目 次  離  婚  四  人  妻の嫁入り  少 女 た ち [#改ページ]   離  婚 [#この行2字下げ]私たちは再々にわたる協議の末、このたび、めでたく、離婚いたしました。 [#地付き]羽鳥 誠一   [#地付き]会津すみ子    そういう通知を友人知己にばらまいたわけではありません。シャレに離婚をしたつもりもないし、こういう結果を見るにいたるまでには、ともかくかなり長い道程をへてきたわけでして、だから、競馬の当りはずれや、水洗便所のコックがこわれて水が便所の中に満ち溢れたなどという困惑よりは、もちろん、ずっと大きな問題であります。  かといって、一生の中の大事件扱いをして、泣いたり叫んだりする性質のものでもないように思えます。 「ことさら深刻ぶるのはよそうぜ」  ぼくは、そういいました。 「要するに、我々が結婚生活を営む値うちがないということなんだ。値うちのない者が、自分の値うちに応じた暮し方をしようということなんだから」 「そうね」  とそのときは、彼女も固い表情でそう応じました。しかし内心では、男ゆえの身勝手なセリフと受けとっていたかもしれません。  そもそも、子供でもあったら、きっとまた問題の中身がかわっていたでしょう。ぼくたちは、幸か不幸か、子供をつくりませんでしたから、まだそれほど年齢を喰ってない夫婦が初志をかえて二人べつべつに暮していく、或いは、いかざるをえないというだけのことで、結婚したときとおなじく、成人した人間がそれぞれの責任でことを処していけばいいように思われます。いや、そうするほかいたしかたがないということでもありましょう。ですから、吹聴《ふいちよう》もしないし、秘密にしておけることでもなく、親しい人たちにはその事実をそれとなく告げ、彼等は我々のその真意をはかりかねて、遠巻きに眺めている様子でした。  もともとぼくたちは、その端緒の段階で、誰に相談したわけでもなく、仲人ひとつたてることもせず、二人だけで話し合って一緒に暮しだしたのです。完全な、くっつきあいであります。結婚式もなにもしておりません。だいいち、当初はただの野合《やごう》同棲で、特別に長続きしようとか、させようとか、思っていなかったのです。  ぼくは学校を出て、一応ジャーナリスト志望だったけれど、在学中アルバイトで某ライターの取材を手伝ったことがあり、見よう見真似が縁で(というより大手出版社に入社することが果せなかったせいでもありますが)宮仕えより名ばかりでもフリーの方がかっこいいような気がしはじめて、フリーの取材記者の世界に入りました。もちろんマイナーの週刊誌で最初は嘱託《しよくたく》の記者見習いです。嘱託というときこえがいいけれど、要するに臨時工です。近頃は組合があって、その出版企画が失敗し廃刊する場合も人員整理ができにくいところから、社員外の人間を好んで使う傾向があるのです。そんな中で五、六年働いているうちに、まァなんとか自分の書いた記事が通用するようになり、先の見通しも病気怪我のときの保証もないけれど、とりあえず今日は喰っていけるようになりました。  その世界にまだ入りたての頃、ぼくのせまい下宿にも何人かの女友だちが出入りして、諸事不潔な身の廻りの世話を焼いてくれたり、当時のぼくの日常の色どりになっていたわけですが、すみ子もその中の一人だったのです。そのうちぼくは、若くてお面も身体《からだ》もよかった彼女を人一倍かわいがるようになりました。外を連れ歩くのにふさわしかったせいもあるし、その頃のぼくが、身近に華やいだものを求めていた、その気分のせいもあるでしょう。  彼女はのっけから相当にかわった娘で、一番最初知り合ったとき、 「ねえ、あたし、お妾《めかけ》にしてくんない」  そういったのです。もちろんそれは親しい連中で車座になって呑んでいたときで、かなりリラックスした空気にはなっていましたが、ちゃんとした親もとに居り、水商売に染った噂もきかないのに、かわった冗談をいう子だなと思いました。けれども、そのあと、部屋で二人でいるときも、同じようなことをいうのです。 「あたし、お妾になりたいわ。それが一番いいと思うの」 「何故《なぜ》」 「だって、女房って、面白くなさそうだわ。あたしには合ってない」 「妾なら、合ってると思うのか」 「責任がないもの。楽そうだし。──あんたならいいわよ。お妾にしてよ。あたし、親のところに居たくないのよ。妹も、結婚相手がきまっちゃったみたいだし」 「しかし、俺は、一応独身だぜ」 「独身だと、お妾は駄目なの」 「ううん、どうだかなァ。君を妾にして、妾宅をかまえると、俺はときどき本宅へ帰らなくちゃならない。しかしその場合、本宅というのは意味ないなァ。──妾じゃなくて、本妻でもなく、単なる同棲じゃいけないのか。お互い、あきたら別れるという」 「それじゃ本妻と同じじゃないの。あたし、あんたの世話なんか見られないわよ」 「妾なら、世話しなくてもいいわけか」 「たまならいいわよ。生活費と寐《ね》る場所をつくってくれれば。──でも、誤解しないでね、誰にでもこんなこといってるわけじゃないのよ。あたしって贅沢《ぜいたく》なんだから」  妾の暮しが本来どういうものか、見て知っているわけでもないらしいこの娘の、どうも知能おくれみたいな発言をぼくは内心笑っていました。同時に、この娘とその後六年も暮すことになるとは露知らず、フラッパーな魅力のようにも思っていました。  けれども、考えてみれば、無責任で楽そうだからいいという彼女のいいぶんは、ぼくが今の職業をえらぶときの気持と五十歩百歩のもので、自分のそういうところを忘れて、なんで彼女を笑うことができましょう。ぼく自身が、いいかげんに、身勝手に、無節操に、それこそ妾のように計算ずくで世の中に対しているのに、パートナーには本妻的なものを要求するのは、高望みなのではありますまいか。  彼女は、ぼくより先に、本能的にそういうものを感じていたのでしょう。 「誠ちゃんとあたしは、同類項ね」 「そうか、そういうものかもしれないな」 「誰かに愛されるような人間じゃないわ。そんな値打ちはないのよ。だから、誠ちゃんと居ると、気楽なんだわ」 「そんなものかな」 「誠ちゃんは、誰かを愛したことがある」 「愛とか恋とか、女はそんなことばかりいうからいやだなァ」 「あるの」 「つき合った女はいろいろいるがね。厳密にいうと、どうかなァ」 「そうでしょ。そうだと思ったわ」  ぼくが彼女をかわいがったと同じくらい、或いはそれ以上に、彼女も出入りする他の娘たちを意識してぼくの視線を自分に固定させようとしていました。それは女の本性ともいえましょう。そればかりでなく、積極的に他の娘をぼくから遠ざけようとしていたふしも見られます。というのは、彼女と親たちがひどく折り合いが悪くなっていたらしく、なんとかして親もとを飛びだそうとしていたようなのです。ぼくはその原因をあえて問いつめず、彼女のわがままさゆえと思っていました。父親に殴られるのだ、と彼女はくりかえしいうのです。 「死ぬほど殴るのよ。殴られるのは絶対にいや。誠ちゃんは暴力をふるいそうに見えないものね」 「そうとも限らんぜ」 「じゃ、殴るの」 「場合によっては、だろうな」 「いやよ、そんなだったらもう来ないわよ」 「まあ、比較的、手を出さない方だろうな、俺はそんなに情熱的じゃない」  ぼくの下宿の隅っこにおいてあったデッキチェアの上で、彼女と関係ができてしまった夜、 「あたしを、ここにおいてよ」と彼女はいいました。「もう家に帰らないわよ」 「うむ、──居たかったら、居ろよ」 「誠ちゃん、あたし、好き?」 「──そうだな」 「好きとはいえないでしょう。ただちょいとつまみ喰いをしたつもりでしょう。いろんな人がそういうわ、あたしは遊び女だって」 「うん──」  女を手もとにおいておくのも悪くはない、とぼくは思いました。彼女が遊び女タイプだったとしても、誘導の仕方によって一緒に暮す女になりうるのではないかと思いました。そう思いたかったともいえましょう。ぼくは孤独だったのです。いいかげんに日を送って、小いそがしく働いたり遊んだりはしていましたが、それでも、淋しく、諸事、心が臆していました。  が、このへんの言葉のかわし方については彼女の主観と喰いちがっているでしょう。ぼくが積極的にいい寄ったと彼女は口に出していうばかりでなく、本気でそう思っているようですし、またまぎらわしいことに、その頃の睦言《むつごと》で一再ならず、ぼくの方からそうしたことを口走っているのです。──君が好きだよ。三十年俺はそんなことを口にしたことはないが、君と一緒に暮したいと思っているよ。 「いいの──?」  そのたびに彼女は挑発するようにいいました。 「あたしはかわいくない女よ。暮すタイプじゃないのよ。かわいくなろうとも思ってやしないわよ」 「しかし、君もここに居たいんだろう」 「──じゃあ、暮す?」 「ああ──」 「あたしを守ってくれる」 「──君を失望させないつもりだよ」  時の勢があったにせよ、たしかにそういいました。事実そうも思っていたのです。そうして同時に、ごく楽天的に、駄目になれば別れちまえばいいんだ、とも思っていました。  これが二人のなれそめです。こう記述してみると、二人とも実にどうも、うそさむい男女でありました。  ぼくたちはまもなくせまい下宿を出て、マンションに越しました。無理をしたのです。ぼくはそのために働きを増やす必要があり、仕事関係の誰彼の機嫌をとりながら夜っぴて遊び歩いたり、取材や原稿に追われたりして日をつぶしていました。それが二人のためと思っていたのですが、彼女はそう受けとりませんでした。蜜月らしくない、というのです。 「どんなカップルだって最初はもっと甘いものだわ」 「そうかね」 「二度とない月日なんでしょう。もっとあたしを喜ばしてよ。あたしのために暮してよ。普通は毎日、抱いてくれるのよ」  彼女は以前、外国人と、結婚にやや近い同棲を少しの間していたことがあって、彼は朝に晩に彼女を讃美し、愛の言葉を投げ与えてくれたのだそうです。あんたは女のあつかいかたを知らない、ああ、アラン・ドロンかポール・ニューマンと一緒になればよかったわ──。 「しかし、細部の礼儀はつくしたかもしれないが、彼は、本筋の礼儀は守らなかったんだろう。何故って、君を捨てて行っちまったんだからね」 「捨てるなんて、よしてよ、あたしが出てきたのよ」  何故──というふうにぼくは訊《き》きませんでした。何事につけ、問いつめるのは好きではありません。ぼく自身が、問いつめられればはかばかしい答えができないことばかりです。そういう部分は、ある程度自分でもわかっていて懸命に抱きかかえているので、問いつめたところでどうなるものでもない、というふうに思っていました。  ある日、彼女の作った食事を喰べながら、なんの気なしに、 「閑《ひま》でしょうがなかったら、料理学校へでも行って、このさい基本を習ったらどうかね」 「あたしの料理がまずいっていうの。前の彼はそんなひどいこといわなかったわよ」  おやおや、ここにも問いつめてはいけない部分があったのか、と思ったほど、彼女はたいそう怒りました。  まもなく、ぼくは彼女がひどく眼がわるいのを知りました。一緒に道を歩いていて、そのときちょっといそいでいたので彼女の歩調に合わすことをせず、小走りに、しかも変則的に道を横切ろうとしたところが、ぼくのあとを懸命についてきていた彼女が、歩道と車道の境の窪みに足をとられてバランスを失い、もろにひっくりかえってしまったのです。  それでもぼくは、駆け寄って助けおこそうともせず、周辺の視線にかっこをつくって、うすわらいしながら、 「なんだい、よく見て歩けよ」  彼女はひしゃげたような表情で、やっと起き直りましたが、多分口もきけないほど自分を呪《のろ》い、ぼくに腹を立てたことでしょう。  彼女が隠し持っている眼鏡のレンズの厚さを見て眼がよくないことは知っていましたが、片眼はほとんど視力なし、いい方の眼が、0・0いくつという状態で、道を歩くのもそろりそろりだし、包丁を使うと指先を切りつけてしまう按配《あんばい》だったのです。それを知って、ぼくの気持に微妙な変化がおきました。ぼくはそれまで、自分がいいかげんで、彼女との関係もいいかげんだったのに、ともかく一緒に暮しだしたのちは、彼女にはいいかげんでないものを要求しているようなところがあり、さらに、彼女が至らないぶん、結局五分五分だと思って自分でも勝手をしているふうだったのです。それが、彼女の条件も考え合わせねばならんぞ、と思いだしました。視力のハンデですべてを許すというわけではないが、ハンデのことを頭に入れて彼女用の特殊な対応をしていかねば、と思ったわけです。  彼女の話によると、小さいときから、家庭でも学校でも、いたわられ、或いは特殊あつかいされて、一丁前の社会訓練をへることができなかった、そのうえ、片眼に近い視力のなさは疲労感が烈しく、忍耐力が育ちません。たとえば、彼女は文字を知っていますし、書けますが、書物というものをほとんど読んだことがありません。したがって知性がいびつになるはずです。テレビを眺めても、終ると疲れて寐こんでしまうほどですから。  彼女のこれまでの人生を支えてきたものは、だから、感覚、官能、だといういいかたもできましょう。彼女は部屋を飾ることが好きです。花や動物にひどく関心を示します。自己愛が強い。そうしてセックスの世界などは彼女にとって特別な意味のある世界だったでしょう。一方また、社会性のなさ、責任というものに対する無知、短気、いびつな感受性、刹那《せつな》主義、甘ったれ、そういう特徴をつくります。  ハンデというものは多少なりとも誰にでもあるものだといってしまえばそれまでですが、相棒たるぼくは、特別な配慮をしてやろうと思ったのです。常々、特に心づかいのこまやかな方でもないぼくは、この点についてくだくだと考えこんだのは何故なのか、よくわかりません。いいかげんな関係だと思っていたのに、存外に彼女を愛していたのでしょうか。それとも、日常というものの重さが、知らず知らずぼくを考えこませる結果になっていたのでしょうか。  彼女は一面で、まことに気楽な女でした。明日というものをあまり考えないので、ぼくに関して、女関係以外は、何をしようと関心を持ちません。ぼくは放縦《ほうじゆう》なので、自分の収入の範囲で濫費し、まったく建設的でないのですが、今日の彼女の出費に、困らないかぎり笑っています。ぼくがばくちで負けて家賃が払えないとき、親もとへ行ってさっさと借りてきたりします。 「あたし、毛皮も宝石も指輪も買いたがらない、そんな女でよかったでしょう」 「まァね、しかし、買いたくたって買えやしない」 「でも、欲しかったら買っちゃってたわよ。借金したって。あんたが使う額くらい、あたしだって使う権利はあるわ」  たしかに彼女は大きく濫費はしません。彼女の世界は小さくて、ある意味でつつましいともいえるのですが、しかしその埒《らち》の中ではぼくと同じように、放縦ではあるのです。日常の買物でも、魚を買って、肉が眼につくとそれを買い、それからべつの魚をぼくに喰わせてやりたくなって買ってしまうという具合に、計画、或いは規制ということができません。  起床はおおむね昼すぎです。夜遊びをします。ぼくも放縦だから大きなことはいえませんが、彼女の帰宅は夜中の三時、四時、明け方も珍しくありません。彼女のすることは、入浴、洗濯(この二つはなによりも彼女自身にとって欠かせぬことでした)、部屋の飾りたて、たまの食事づくり。こまかいことですが、彼女は靴を大事にしていて、下駄箱いっぱいにきちんと整理して並べ、ぼくの予備の靴は物置。洋服ダンスも彼女のためのもので、ぼくのコートは丸めて廊下の隅にあったために一年で鼠に喰われて大穴があき、着物は箱にいれたままこれも物置。  これではなんのために一緒になったかわからないな、と思いながら、ぼくはそのひとつひとつに短気をおこせませんでした。短気をおこせばすぐに瓦解するのです。瓦解したってもともとだという気持と、こんなつまらないことで瓦解するなんてという気持と両方あり、結局、気長に説得するつもりで、物の道理を諄々《じゆんじゆん》と説いたり、人間関係のルールのようなものをしゃべったり、そんな柄でもないぼくのそのときのしかつめらしい顔を思いだすと今でも笑いがこみあげます。彼女の方も大半きいておらず、耳に入れるために彼女の快い方角から話の筋をはこぶと、そこだけはきいて覚えているという具合で、日暮れて道遠しという按配《あんばい》でした。 「なにさ、あんただって立派な人間じゃないじゃないの」 「そりゃそうだ──」とぼくは苦笑してしまうのです。「だから、俺はきつい要求をしていない。普通の要求でもない。これは最低だ。最低でもルールはあるんだ。おたがい最低として、まァ五分五分になろう。それでなくちゃ関係というものは成立しない」 「あたし、男と寐ちゃいないわよ」 「男と寐なければ、何をしてもいいというものでもない」 「じゃ、あたしを満足させてよ。女一人も満足させられないくせに」  ぼくの書いた週刊誌の記事が某スターに訴えられ、それがわりにごてついて、とどのつまり謹慎という感じでその週刊誌からオロされたことがありました。その雑誌はぼくの仕事先の中では大きなところで、直接の収入減も痛かったのですが、同時に他社に対しても弱い立場になるかもしれず、しょげかえりました。 「少し倹約しよう。ピンチなんだから、君もそのつもりでいてくれ」 「あたしは知らないわ。倹約ったって、あんたが主に無駄使いしてたんじゃないの」 「もちろん俺も考えているよ。だから君も──」 「男なんでしょ。働きなさいよ」 「働いてるよ」 「文句いうことないわ。なにさ、仕事ったって、女優にあったり、お酒を呑んだり──」  ぼくは�痴人の愛�という小説を思いおこしていました。あの小説の主人公のようには女の官能の世界に浸りこまないで、ぼくはひたすら我慢していたのですが、我慢に甘んじていた点では同じかもしれません。  あれやこれやいいながらもぼくは彼女を離さず、荷厄介《にやつかい》に思いながら、そういう彼女を抱えてこの先もすごしていこうとしていました。彼女が籍をいれてくれと不意にいいだして、それには双方の親たちの意見も反映しており、いくぶん気持がひっかかりながらも結局、形のうえで完全な夫婦ということになりました。  しかし、もちろん、不満、不充足だったのはぼくだけではありません。彼女は、一緒に暮しだしてから痩せ、声音も顔も、暗くなりました。  ぼくのところへ来て、彼女のまったくあずかり知らぬぼくの関係の人間や出来事にぶつかるのが解せないという表情でした。彼女は自分の世界に居たかったのです。そのために父親と多年にわたって衝突し、父親の折檻《せつかん》をのがれるためにぼくのところに来たので、もしぼくが暴力をふるったら、ぼくのところも出ていったでしょう。そうやって、その末に居所をどこにも失い、墜落していったでしょう。  彼女の側からいえば、ぼくが暴力をふるわなかったために、辛うじて居続ける気になっていたというところでしょう。しかし、ほかならぬぼくがそこに居るために、彼女の恣意《しい》だけではまとまらず、まごつき、不必要に遠慮し、その反動で高調子になり、欲求不満がどんどん内攻し、そのうえ、彼女自身は口にもしませんし、どこまで意識していたかも疑問ですが、劣等感や、普通に生きしのいでいるかに見える人たちへの憧れが裏側にあるものだから、一人|相撲《ずもう》でまいって、食物を口に入れるたびにもどすし、だらだらと寐つくということになります。 「あたし、夜の蝶になりたい。銀座にいいお店があるんだって」  そういいだしたとき、ぼくは最初、お妾になりたい、というセリフをきいたときほどおどろきませんでした。それは彼女流儀のいいかたで、要するに、感触の世界で生きたいのです。そうでなければ息がつまってしまうのです。だからこそその望みは執拗《しつよう》で、いっときの出来心ではないのです。  そんな彼女が心を開くのは、主に女友だちに対してでした。男友だちもあったかもしれませんが、男はたいがい彼女に対しては遊び女あつかいをするだろうし、それでは男のペースになってしまって彼女自身の世界には不似合なので、その場その場の必要以上にあまり近寄ろうとしません。  女友だちとは、自分本位で感情的ゆえにめったに長続きはしませんでしたが、あとからあとからと実によくできました。都会には、閑《ひま》で、生活力に恵まれていて、いやがうえにも感触的な女性が多いものと見えます。その一人一人をぼくはよく知りませんが、充分自立できる職業を持っていたり、亭主が資産家だったり、若かったり、それぞれ彼女よりは無理のない状況に身をおいていたでしょう。彼女はそのいずれの利点も持っていない。交際していくうちにどこかでそのギャップを味わっていらだつのです。 「昔、宝塚に入りたかったのよ。親に猛反対されて、やめちゃった。あのとき親が許してくれていたら、今頃は一人で喰べていられたかもしれないわ」  彼女は長年そのことをしつこく思い続け、今では父親に対する恨みのひとつにもなっている様子でした。 「あたし、あんたの商売のこともまるっきりわからないし、自分で何をやるというわけでもない、いつも、独房よ。宙ぶらりんよ。やりきれないわ。あんたがいつも抱いていてくれるんでなくちゃ、気が狂っちゃうわ」 「今からでもおそくはないぜ。気ままを捨てて、長期戦覚悟で何かひとつのものを深く身につけることだってできる。もっとも、忍耐が要るがね」 「駄目よ。今すぐそうならなきゃ。三十すぎてそうなったって、そんな頃まで生きてないもの」 「すると、どうするんだ。──わかった、夜の蝶だな」 「そうよ。あたしだってまだ通用するわ」  ある夜半、彼女があきらかに大きな手傷を受けて、うちしおれて帰ってきました。行きつけの酒場で呑み騒いで、深夜、看板となり、ぞろぞろと腰をあげて路上へ。常連客か店側の人間かそれは知りませんが、タクシーに数人の男たちが乗り、同じ方向なので気軽に彼女も乗ろうとすると、 「馬鹿、図々しいぞ。なに様だと思っていやがるんだ」  いきなり平手打ちを喰ったのです。  感触の世界も恣意《しい》だけで対しているかぎり楽しさは幻影にすぎないというたったそれだけのことを、平手打ちを喰わなければわからなかった彼女を、ぼくは依然としてひっそりと見守っておりました。愚かしいことにはちがいありませんが、ぼく自身も男の世界で、平手打ちを喰い、はじめてびくんと心に刺さり、しかしそれでも直らないというくりかえしがあるのです。今からでもおそくない、と彼女にいったけれど、それは説得などできるわけのないいいかげんなセリフで、実際は、彼女もぼくも、もうおそいのです。気ままを捨てて、なんてことができるならよっぽど前にそうしているので、その点でぼくは彼女の他人ではありませんでした。彼女が、哀れで、いとおしく思いました。  ぼく自身もその頃、例の週刊誌の某スターに関する素っぱ抜き記事が与太とわかって、やはり苦境に追いこまれていました。仕事が全然ないわけではないが、今まで以上に格下の雑誌が多く、ギャラは叩《たた》かれるし、どぎつく刺激的なだけの役割を受けもたされる。フリーの世界はその点容赦がありません。ギャラが安いから数でこなさなければならない。いくらスターが材料でも現実に刺激的なことはすくないから、嘘っぱちばかり。しかも、以前はけっこう面白がって書き飛ばしていたのに、彼女と暮しだしてとりとめもない情感や、愚かしさや、我慢や、もろもろの日常がそれなりに深まってみると、恋愛とか、浮気とか、欲望とか、出世とか、そういう概念的形式的な言葉を書き連ねて記事をでっちあげるのがなんとなく阿呆らしくもなってくるのです。  かといって、その点を充足させるような原稿は書けそうにありません。他の充実感のある職業に転向することも、口でいうほどたやすくはない。かさかさに乾いた毎日で、宙ぶらりんでやりきれないといった彼女と同じく不充足でした。ぼくはそれまで人並み程度にしかやらなかったギャンブルに深入りして、しょっちゅう手傷を受けていました。家の中では、彼女がバランスがとれていなかったのでそれほど目立たなかったけれども、もし彼女がまともに暮していたら、つるしあげられていたでしょう。  とうに家計は失調し、高利貸しに金を借りてばくち場での借金をやりくりするようになっていました。その帳尻は、結局、与太原稿の量産でおぎなうより他はないのです。  彼女の方は、夜の蝶志望はもちろん、酒場などへもぴったり足を運ばないようになりました。そうして感触の世界を他へ求めはじめたのです。  おそらく友だちの入れ知恵がきっかけでしょうが、彼女は自分の部屋を拡張して、ベッドをはじめ自分の道具類いっさいを持ちこみ、鍵がかかるようにしました。いつのまにか新しい電話もついていました。 「あたしの長電話で、あんたの仕事の電話に不便をかけたくないわ、だから──」と彼女はいいました。「電話を一本買ったわよ。電話ばかりでなく、あんたのお邪魔はしないつもり。だからあんたも邪魔しないで」  おかしなことに、彼女は、夢にまで見た自立を、せまい家の中で実現させようとしたのです。これなら平手打ちを喰う心配もすくないし、難儀なことをやらなくてもいい。なるほど、彼女らしい発想だわい、とぼくは思いました。なかば感心したくらいだから、今度もまた、不愉快をかみ殺しながら、だまって傍観していました。しかしそれは、結婚生活に対する未練からではありません。いうところの愛のせいでもありません。 「誠ちゃんて、すばらしい男ね」  なにをいやがると思いながら、ぼくはだまっていました。 「あたしを殴らないのね。でも、どうして殴らないの」 「たしかに俺は殴れない男だな。自分を主張することができないよ。他人が皆立派だと思っているわけでもないが、自分を主張する権利が俺にもあるなんて、どうしても思えないんだよ。君だってそうだ、権利を主張できるような人間じゃない。俺は君を、君は俺を、養っていく必要はそもそもないんだ」 「じゃ、どういう人間が、権利があるの」 「さあ、な。俺にもよくわからんが、他人のために役立っている人間だろう。それから、何等かの意味で、自分の責任を果している人間かな。君は失格してるが、しかし自分が生きているのは当然だと思ってる。俺と君がちがうのはその点だけだろう。その分だけ、俺は君をさげすんでるよ。俺が黙ってるのは許してるんじゃない。さげすんでるのだ」 「嘘──。あんたはあたしにかかわりあってじたばたしたくないんだわ。他の人間のことでバランスを崩したくないんでしょ。あたし知ってるわよ。あんたナルシストでしょう」 「そうか、それも当っているかもしれんな」 「殴らないんじゃなくて、殴れないくせに。男っていやね、いちいち恰好《かつこう》つけてさ」  ぼくもよく家をあけておりましたが、彼女の部屋にもよく女友だちが集まり、そうでないときはパーティがあると称して朝帰りが多くなりました。掃除や洗濯はやっていましたが、住んでいる人間の心を反映して家の中に荒廃の空気がただよっていました。  夫婦関係ももうその頃は不通になっていました。当初は彼女の欲求を満たしそこねていた形だったのに、だから、ともいえましょうが、ぼくが番《バン》をかけても応じないのです。たまに触れあっても死んだ人形のようでぼくの方が萎《な》えてしまうばかりです。 「夫婦も、こうなっちゃおしまいだな」 「何故、あたしはやっと自分らしい生活になったわよ。あんただってあいかわらず好き勝手なことをしてるじゃないの」 「しかし、君は主婦のつとめをほとんど放棄している」 「あんたはどうなの」 「──俺は、ともかく、働いてるぜ」 「そりゃ男だもの、当然よ。あたしが居なくたって働くでしょう」  子供でもつくっていれば、とぼくの友人などはいいます。しかし、当初、彼女の母親から、視力がもっと落ちてしまうから子供を産ませないでくれ、と釘をさされていましたし、彼女自身も子供などのぞんでいませんでした。そのうえぼくも、我々のどちらもが子供をちゃんと育てることなどできそうもないと思っていました。自分たちの生活さえ何も造りあげられない者が、なんで子供に責任をもてるでしょう。それは建前で、一生添いとげる自信が最初からなかったせいかもしれません。  我々は何度もおろしました。その何度目かのとき、少しおくれてしまったせいで、子宮に風船をいれ、難手術になったようです。そのときひどく苦しんだせいで、妊娠恐怖症になったようです。なにしろ、いやだと思いだしたら彼女にはそれが絶対的で、膣《ちつ》が痙攣《けいれん》して閉じてしまうのです。接触をこばみだしたのはそれからで、だから自分は他の男にも触れる気はない、あんたは安心していいのだ、などといっていました。  ある日、友だちにすすめられたといって、ソフトコンタクトをつけはじめ、悪い方の右眼はともかく、よい方の左眼の視力が〇・七ぐらいになったといって顔色を一変させて帰ってきました。  人生はばら色だ、と彼女はいいました。 「もう、道路を這《は》うようにして歩かなくてもいいのよ。わかる、この気持。あたし、自信が出ちゃったわァ。テニスだってやったのよ」  彼女は油絵の道具や、ラケットや、トレーニングウェアや、次々に買いこんで来、このときばかりは朝早く一人で起きだして出かけるのです。  前に敗訴した記事を書いた週刊誌の十何周年のパーティがあり、ぼくなど正式に呼ばれてもいなかったのですが、もうほとぼりのさめた頃でもあるし、以前のような関係をとりつけられればと思ってでかけました。以前の担当編集者が編集長になっており、そこで彼から、女房のことをききました。彼女がレズってる、というのです。 「噂だがね、しかし奥さんが自分の口からしゃべってるらしい。注意した方がいいよ」  そういえばその前にも、女狂いしちゃったのよ、という彼女の発言を又聞きしたことがあります。しかし、夜の蝶のときと同様、ぼくはおどろきませんでした。いかにも彼女らしいコースです。  おどろかなかったけれど、考えこみました。ぼくは定見がなくて、相手が燃えれば燃え、冷えれば冷えるというところがあります。そのときも心がかなり冷えこんでいました。それから、前にもいろいろ我慢してきて、今度、我慢しないとしたらどうだろう、と思いました。あれを我慢してこれを我慢しないというはっきりした理由もないが、そんなことをいってたらきりがない。ものには度というものがある。そうだ、問題は度だ。  頼りない経緯ですが、要するに、どんなことがあっても一生添いとげてみせると誓ったおぼえもないし、どこからみても結婚してる意味はないということでしょう。  そんなことはこの六年の間に数えきれぬほどの回数考えたし、意思表示して彼女が数日間も家を出ていたことも何度かあったのですが、いよいよ最終的に気持を固めました。  けれどもなおしばらく、ぼくはそうした意思表示をしませんでした。  別れるとしても、できるだけお互いに納得をして別れたい。たとえ離婚の原因が那辺《なへん》にあるとしても、ある程度のお金をぼくの方で用意しなければならないだろう。そうするのが、何故かわからないけれども、男というものなのだ。  ぼくはあいかわらず、高利貸しとの縁が切れていませんでした。離婚のために余分に働きました。「スターの性愛白書」という本を書きました。「悩殺! オナペット名鑑」というのや、「ガールハントテクニック全集」というシリーズも出しました。みな書きなぐりでしたが、来る夜も来る夜もそんなことを書き記しているのもわびしいものです。  高利貸しには秘密で貯《た》めた金がある程度の額に達するまでに半年かかりました。その間、ぼくは、彼女がうす気味わるがったほど沈黙し、いっさいの要求をしませんでした。もう別れるのだから、というのがその理由でしたが、その一方で、別れ話をどう切りだしたものか苦慮していました。  知人の中に、離婚の内容はそれぞれちがうにせよ、女が籍を抜かないで困惑しはてている人が何人も居ます。それは女性側の近来の流行の手であるようで、 「あいつを一生縛ってやるのよ。別れないで金を使ってる方がトクじゃない」  という女たちの言葉をきくたびに、暗澹《あんたん》となります。なにしろ彼女は一度もつれたら話し合いのまとまらぬ女なのです。そうして、自立できる手腕もないのに、親もとには死んでも帰らないと平素からくりかえしいっているのです。男をこしらえてくれたら、トランプの婆抜きのようにその男にバトンタッチできたら、どんなによかったでしょう。  ぼくの母親が国元から出てきまして、もちろん彼女とは折り合いがつかず(自分の両親も家へ寄せつけないくらいですから)、ぼくは母親を旅館に泊めて行き来していたのですが、その最中に、彼女が、友だちとハワイヘ行ってきたい、といいだしたのです。行かせる気はないね、とぼくはいいました。 「何故なの。ハワイなんて安いものよ。それも普通よりうんと安く行けるのよ」 「駄目だ」 「けち。──あんただって香港《ホンコン》へ行ったじゃないの」 「仕事がからんでいたからだ」 「仕事仕事って。向こうで何をしてたんだか。それじゃ仕事のないあたしなんか一生行くことはできないの。あああ、退屈ねえ。よその奥さんがうらやましいわ」 「別れようじゃないか」  彼女は一瞬だまりこみましたが、いいわよ、といいました。 「あんたに嫌がられて居たくないし、あたしだってそうしたいわ。別れましょうよ」 「君がそうなら、意見一致だ」 「ただねえ、あたしは親もとへは帰らないし、といってすぐには自立もできないわ。当分の間の生活費を──」 「できるだけのことはしてやるよ」 「ほんとはマンションの一つも欲しいところだけど、誠ちゃんにお金のないこと知ってるし、重たい負担はかけたくない。余分なお金なんかいらないわ。あたし働く気よ」  ぼくは懸案の第一段階がスムーズに進んでほっとしていました。と同時に、ただ感触の方角からのみこの世というものに対しているだけで、あとは赤ん坊みたいな彼女を哀れに思いました。今が幸せかどうかはさておき、ぼくと別れてけっしていいことはないだろう彼女を。 「俺がいう筋合いじゃないが、一人になったら、まず両親と折り合いをつけろよ。世間というやつはきっと君を正当にあつかうだろうからな」 「それがどうしていけないの」 「世間は君を正当にあつかうよ。正当にあつかわずに尻ぬぐいをしてくれるのは保護者だけだ。俺が離れれば、また男をつくらない限り、残る保護者は両親だけさ」  ぼくたちは連れだって、区役所に離婚届を出しに行き、その足で彼女は早速《さつそく》部屋さがしに行きました。今度こそ自分だけの世界をつくれるつもりで浮き浮きしていたことでしょう。  彼女が探してきたのは、スペースこそ小さかったが赤坂の高層ビルマンションで、敷金だけでも相当な値段でした。 「時価としたら安いし、友だちと会うのも都合《つごう》がいいんですもの。額としてはまとまるけど、これだけは誠ちゃん、しようがないわね」  高い、と思ったけれどもぼくは黙っていました。この場合、これが妥当《だとう》な出費かどうかではかるのでなく、最後の志のようなつもりで呑みこみたかった。だいいち、彼女を一生背負うことにくらべれば、安いにきまってるのです。 「それで、当面、月いくらあったら暮せる」 「三十万でしょう」 「三十万、か」 「部屋代が十万だものね。それでも贅沢はできないわ」 「三十万というのは、中小企業なら重役クラスの月給だな」 「ギャンブルをやめればそのくらい出せるわよね。仕事がみつかりしだい減らすわ。もちろん喰べられるようになったら一銭もいらないわよ」 「三十万も稼げる仕事って、いったい何をやるつもりだ」 「──友だちにきいてみるわよ」 「一年だな。それでも俺には辛《つら》い。守れるかどうかわからない」 「喰べられるようになるまで、じゃないの」 「それじゃ、永久にってことかもしれないじゃないか」  彼女は存外にテキパキと運送屋を手配し、必要な道具はなんでも持っていっていいとぼくがいったせいもあるけれど、ぼくの仕事机とベッドと本とがらくたを残して、どんどんトラックに積みこみ、あとも振りかえらずに行ってしまいました。  ぼくはとにかく、両腕をいっぱいにひろげて深呼吸をしました。ああ、これで、やっと一人になれたんだ──。  彼女とすごしていた我慢の日々の辛さを改めて思いおこしました。次男坊のせいもあり、ぼくもやっぱり野放図に育った人間で、人に踏みつけにされたり、本当になりふりかまわず争ったりした経験に乏しいのです。いつも自分に都合よく暮し、他人に見せたくない面はおおい隠して、それでどうやらバランスをとってきた、だから彼女から受けた大小の傷の痛さは強烈で、貸借対照表でいえば、誰かと一緒に暮すことで得られる便宜《べんぎ》など物の数ではないと思えました。その傷の鮮烈さが逆に悦虐的傾向を産みだしたともいえるでしょう。いずれにせよ、もう結婚はこりごりだ。たとえ満点の世話女房だったとしても、人と一緒に暮すことでトクなことなんかひとつもない──。  が、しかし、がらんどうの室内に坐っていると、腹立たしいことに、彼女の笑顔、彼女の胸乳、彼女のくびれた腹やむっちりした尻のあたりがしきりに頭に浮かんでくるのでした。今、別れたばかりだからな、当分は、頭に残るのは仕方がない。  ぼくはいそいで、好意を抱いているあちこちの知り合いの顔を想《おも》い浮かべました。不思議なことに、どんなことがあってももうごめんだと思っている彼女の顔が消えないのです。六年間だからな、とぼくは思いました。残像もあるだろうさ、しかしすぐに忘れていくだろう。  彼女から電話がかかってきました。 「ご機嫌よ、部屋の飾りも終ったのよ。なかなかいい部屋だわ。今夜は引越しパーティで友だちが大勢集まるの。来ない。面白いわよ」 「阿呆、俺が行くわけがないだろ」 「そうなの。いいじゃないの、気にしなくたって──。それはそうと、そちらはどう」 「どうって、ストーブもないから寒くてしようがない」 「あ、そう、申しわけないみたいね。こっちに三つあるからあとで一つ持っていくわ。でも、そこ、どうするの、引越しちゃいなさいよ、引越しはあたしも手伝うから」 「引越したいが、俺の引越しまで金が廻らないよ」 「借りちゃうのよ。あんた、借りるの得意じゃない」 「俺の心配なんかいいよ。自分のことを考えろよ」 「ねえ、誠ちゃん、好きな女、居るの」 「何故」 「あたしはむずかしいけどね、誠ちゃんは男だから、すぐあとができるんじゃないかと思って」 「俺も、結婚は、こりごりだよ」 「そう。それじゃ、一人なら、洗濯と掃除、当分してあげる。お菜もつくって持ってってあげるわよ」 「当てにしないで待ってるよ」 「ここのマンション、まだ部屋が空いてるわよ。ここに移ってこない。そうしたら掃除や洗濯もわざわざそっちへいかなくたっていいし」 「そんな高いところへ移れるもんか」 「あ、そうだ、あたしの部屋に越してこない。仕事する場所くらいつくるわよ。だってどうせ誠ちゃんがお金だしてるんだものね。いいわよ。そのかわりパーティするときは居場所がなくなるけど」 「馬鹿も、休み休みいえ」  がらんどうにはすぐ慣れました。元来、不潔でも平気な方だし、わずらわしくないのが最高の取柄です。家事なんてものは誰もやらなくたって死にやしません。  洗濯機のおき場所がないとかで、そのせいもあって彼女は連日のようにのぞくような恰好で現われ、汚れたパジャマや下着を洗ったりしてくれましたが、親もとの方へは一度も顔を出してないのです。  で、結局、ぼくが彼女の実家に謝罪がてら破綻《はたん》の報告に行ったときに、住所と電話を知らせました。早速電話をかけた母親に、身体がわるいから来ても会わない、といったとかで、母親は、ぼくとそこに居ない彼女とを等分に眺めるような表情で悲嘆にくれていましたが、父親の意見は、このさい甘ったれ癖を除去するために、獅子の子を蹴落したつもりでいっさい援助しないことにしよう、それで彼女が傷ついても仕方がない、ということでした。  ぼくは表面同意して帰りましたが、心中では、無駄だ、と思っていました。だいいち、それでは、目一杯の負担がぼくにかかってくるでしょう。  ぼくはこの機会をしおに、仕事の方でも立ち直りをはかるべく、少しずつ動きはじめていました。スポンサーがあるのを幸い、友人である写真家の妻と一緒に小さな事務所を借り、友人の写真集を編纂《へんさん》しようという話も進んでいました。ギャンブルも思いきってやめました。  そんなふうなある日、うっかり鍵を机の上において昼飯を喰いに出かけ、管理人も留守で、急ぎの仕事があるのに自分の巣からしめだしを喰い、仕方なしに合鍵を持っている彼女のところに電話をして道順をきき、そのマンションを訪れました。  それは不思議な気分でした。考えてみると、ぼくは一緒になる前から彼女の住居を訪れたことなど一度もないのです。受付けで名前をとおし、彼女の許可を得て建物の内部へ踏み入りました。下駄ばきのぼくを管理人がうろんな眼で見ておりました。柱がふとくて廊下にも接客のためのセットなどおいてあるのを見廻しながら、おそるおそるベルを押し、彼女流に飾りたてた(少女っぽい飾りでしたが)室内を見廻しました。飾りは飾りとして、どこを見ても見馴れた道具類なのです。見馴れた彼女も居ります。けれどもそれ等は、もうぼくとは無関係です。すると、彼女が家を出ていったのではなくて、ぼくがとり残され、はずれ者になったのだという気持に、ふとなってくるのです。  彼女は布団の中に寐そべったままで、 「ねえ、前借りしてもいい」 「何をいうか」 「お金ないのよ。箪笥《たんす》と冷蔵庫買っちゃったんですもの」 「鍵は──?」 「ハンドバッグの中よ。あ、それから、お膳の上のもの、喰べていいわよ」  昨夜の喰べ残しらしい皿が、膳の上に一面に散らかっています。 「一人になると、けっこう働いてるんだな」 「そりゃそうよ」 「そりゃそうよとはどういう意味だ」 「だって、しっかりしなきゃいけないでしょ。男が居ないんだから。これでも緊張してるのよ。ものが喰べられないくらい。喰べても吐いちゃうの。毎晩誰かに来てもらって一緒に喰べて貰《もら》うんだけど、そうすると少しは喉《のど》をとおるのよ」 「そりゃけっこうだ」 「誠ちゃんに高いお金だして貰ってるんですものね。あんたを苦しめる気なんてないのよ。それはわかってるでしょ。今、いろんな人に働き口を頼んでるわ」 「で、あったかね」 「ないのよ、今のところはね」 「じゃあ、お先まっ暗だな」 「泊ってかない、ここで仕事していきなさいよ」  と彼女は不意に濡《ぬ》れた視線を当ててきました。 「おや、妊娠恐怖症はどうしたね」 「もしできたら、産むわよ、今度は」 「冗談いうな。我々はもう別れたんだぞ」 「でも、産むわよ。それで親もとへ帰るわ。こぶつきなら、哀れがって、親たちもまさかそのうえあたしを殴らないでしょ」  ぼくはそのまま自分の部屋に帰りましたが、慣れたはずのがらんどうに戻ってみると、ひとしお彼女のことが頭に浮かぶのです。別れた女房というものが男心をそそるものだという話はきいたことがないけれど、しかしとにかく彼女の無茶な物言いや、身勝手で烈しい動きや、傷ついたときの寒々しい表情などがなつかしく思われるのです。  これはいけない、とぼくは思いました。うっかりするとまた地獄の我慢をしいられることになる。もう彼女に会うのはよそう。掃除も洗濯もことわろう。月々の仕送りは直接わたさずに親もとに送ろう。そう思いました。  ところが、そんな具合にいかなくなったのです。週刊誌の仕事で、印刷所の校正室に泊りこんで早書きをやっていたとき、朝方になって急に、おこりのように発作的に身体が慄《ふる》えだして来、原稿だけはどうやら書き終えましたが、烈しい発熱が来てるのが自分でもわかります。それでタクシーの中でもガタガタ慄えながら家に戻って布団をかぶりました。  しかし寐られません。布団の中でも慄えが烈しくてとまらず、体温計を当ててみると四十度を越しています。風邪だろうとは思いましたが、とりあえず適当な人が思い浮かばぬままに、一度は逡巡《しゆんじゆん》したものの、彼女のところに電話しました。 「身体がおかしいんだ。もしその気があったら、ちょっと来てくれないか」  彼女はすぐに飛んできました。実際、この六年間に、寐ついたりすることなど一度もなかったのです。  ありあわせの風邪薬を呑み、医者を呼ばうとする彼女を制してストーブを全開にし、うとうとしました。眼をさましてみると、まだ彼女は居て、氷枕が頭の下に入っています。熱はさがらなかったけれど慄えは下火になったので、 「もう帰っていいぞ」 「居るわよ。用事がないもの。でも、医者を呼ばなくていいの。このがらんどうじゃ、呼べないわね」 「寐てりゃなおる。もう大丈夫だ」 「でも、あたしが居てよかったでしょう。そう思わない」 「まあ、な」 「病気ってことがあるからねえ。一人もいいけれど」 「いや、一人の方がいい。君の看護じゃおちおち寐てもいられない。機嫌をそこねたら何をされるかわからないからな」 「だってあたしのところへ電話してきたじゃないの。サービスするわよ、それが当然よ。別れる前から、思ってたわよ、誠ちゃんみたいな男にはもう会わないなって。だからあたし、もう誰とも一緒になる気はないの」 「別れてから操をたてなくたっていいよ。もっとも君は、病人みたいな弱ったらしいものには比較的いいんだ」 「一緒に居ると駄目なのよ。ああ駄目だな、って自分でも思ってても、一緒に居ると息がつまっちゃうの。この男、殺したいと思うものね。そういう眼で何日も見ていたときがあるわ。今、もう、あんたを見てもそんなふうに思わない」 「荷厄介でなくなったからな、お互いに」 「誠ちゃんもそう思うの」 「一年で、枷《かせ》がとれると思うと、君を眺めても気楽で、魅力的に見える。一緒になる前のように。どうまちがったってもう一緒にはならないんだから、一番いい間柄だよ。俺たちはやっぱり、無責任なのがぴったりするんだな」  ぼくは四五日寐ていて、起き直りました。その夜、全快のお祝いと称して外で飯を喰い、帰りに彼女の部屋に行ったのです。 「あんな埃《ほこり》の中に居たらまた風邪をひくわ。本当に恢復《かいふく》するまででもここに居なさいね」 「阿呆だな、俺も」  ぼくたちはずいぶん久しぶりに抱き合いました。以前とちがい、彼女は主人側の余裕のせいで充分リラックスしており、ぼくはぼくで、新しい女をはじめて抱くときのように昂奮しました。 「よかったわね。あんたとセックスが合うなんて思わなかったけれど」 「何度もくりかえせば、まただれるだろう」 「でも、どう、あたし、まだ魅力ある」 「──だろうな、俺には」 「よかった。自信が戻ってきたわ。ねえ、また、よりを戻さない」 「おそろしいことをいうな。それだけは金輪際《こんりんざい》いやだ」 「結婚じゃないわよ。こういう関係」 「うむ──」  まことに阿呆なことですが、ぼくはときどき彼女のマンションを訪れて泊っていくようになりました。そうして心の中で、離婚をしたあとで同棲するというのも悪くないかもしれぬ、と考えていました。すくなくともぼくたちにはぴったり合った関係かもしれないと思いました。  事務所にかかってきた電話の彼女の声が、最初から慄えていました。 「誠ちゃん──」 「──なんだ」 「──ひどい人ね」 「なにが──」 「もう女をつくってるっていうじゃない」 「女、誰のことだ」 「かくしたって知ってるわよ。いろんな人からきいちゃったもの。すごく綺麗なひとですってね」  彼女は電話の向こうでひきつるような声で泣きました。 「あたし、二三日前から眠ってもいないし、ものも喰べてないわよ」 「なんのことかわからんが、俺がなにをしようと君がいいがかりをつけてくる筋合いはない。君がなにをしても俺が文句をいえんのと同じだ」 「いいがかりじゃないわよ。いくら行っても電話してもずっと家なんか帰ってないじゃない」 「事務所に寐椅子があるんだ。あんな所、帰ってもしようがないだろ」 「事務所の女と寐てるんでしょ。評判なんだから」  小さな事務所には、ぼくと、写真家の妻君と、二人しか居りません。 「ああ、あれは人妻だ」 「人妻だってわからないでしょ。あたしみたいな馬鹿女じゃなくて、あれが誠ちゃんの好みなんだって、Aさんがいってたわ」 「まあおちついたら話す。また飯でも喰いにいこう」  やれやれ、と思いました。これじゃ別れたって、なにも変りやしない。都心の高い中華料理を無理しておごって、友人の妻→友人→ぼく、という簡単な図式をいくら説明しても納得しません。 「あたしがまだ男もつくらないで、こんなになやんで痩せてるのに、誠ちゃんが女をつくるなんて、ひどいわ」 「じゃ、彼女に会ってきけ。根も葉もないことがすぐにわかる」 「そんなこといや。これ以上傷つきたくないわ」 「なぜ君が傷つくのだ。それがわからん」 「あたしはあんたと別れたつもりはないわ」 「判を押して、サインして、二人で書類を出したぜ。君は引越して、生活費を受けとった。ありゃどういうわけだ」 「でも、別れた気ではいないわ」 「そんな馬鹿な」 「いいこと、別れたつもりじゃないのよ。あたしの男は誠ちゃんだけよ。この前、あんただってそうだったじゃない」 「俺はそんなつもりなもんか」 「じゃあ、どんなつもりだったの」 「いっさい責任はとらない。お互い、拘束《こうそく》もしない。だから愉快だったんだぞ。君だってそうだろ。無責任で、無原則。俺たちは結局そんなところでしか関係をつけられないんだ。ちがうか」 「なんでもいいわ。あんたが他の女と寐るなんて我慢できない。あたしが男と寐ていたら、我慢できる」  ぼくはちょっと口をつぐみました。我慢はできる。しなければならない。しかし不愉快にはちがいありません。おやおや、では彼女と五十歩百歩ではないか。  ぼくたちはいったいどういう関係なのか。お互い離れがたいが、ただ責任をとったり拘束されたりすることが嫌なので、おたがいの勝手ないいぶんを活かすためには、離婚して同棲するというのがきわめて自然な道筋ではありますまいか。  その夜も、我々は彼女のマンションに行きました。そうして、離れがたい気持だけを存分に発散させました。 「やっぱり、こんなこと続けたら、まちがって妊娠しちゃうかもね」 「できたらどうする。おろせるか」 「産むわよ」 「結婚はしないぜ」 「あんたには関係ないわよ。あたしが育てるわ。でも産むのはあんたの子供だけよ。愛してるんだもん。別れてみてよくわかったんだけどね。あんたなしではいられないのよ」 「それじゃ、尽くし型の女房になるか」 「馬鹿ねえ、なるわけないじゃないの。そんなになるんなら死んだ方がましだわ」 「そうだろう。だから、愛、なんてそんないいかたはよせ。たとえそうであろうと、我々はそんなこと口にする権利はないんだ」 「じゃあ、やっぱり一人じゃ暮せないわ、あんた、養ってよ。こういえばいいの」 「そうもいいづらいだろう。だからこれでいいんだよ。無理しないで、行けるところまで、今夜のような形を続けようぜ」  ぼくはほとんどの夜を、彼女のマンションですごすようになりました。けれども事務所にも泊りますし、がらんどうのもとの住居にもときおり帰ります。だから厳密にいうと同棲といえるかどうか。愛人とか、妾とか、そういう形に近いので、ただ本妻が居ないだけです。  もちろん、彼女が僕の妾だということは、僕が彼女の男妾でもあるので、どちらも相手を拘束しているかわり、また全然拘束することはできないともいえるわけで、嫌になれば関係が瓦解するだけの話です。  目下のところは、彼女の方がいくらか現実を理解しないところがあって、 「事務所はやめにして、ここだけで仕事をすることはできないの」  とか、 「あんたが死んだら、あたしどうやって暮そうか、そんなことも考えておいてよ」  とか、ときおりぶつくさいっておりますが、 「みっともないから朝帰りだけはやめておくれ」  などとぼくが頼んだところで無駄なのと同じことで、彼女自身がどんなふうに思っていようと、世の中のあつかいはかわるわけではありません。  今のところ、ぼくはこの関係にほぼ満足しています。ぼくや彼女程度の人間は、これ以上充実した暮しは高嶺《たかね》の花でしょう。そうして彼女も時がたつと、今よりもっとそのことを諒承するか、せざるをえないようになるでしょう。  ぼくたちの関係もおちつくところへおちついた感じですが、こうなるまで、ぼくはじたばたしながら六年余もかかったのに、彼女は最初、妾にしてくれ、といってぼくのところに来たわけで、女の第六感のおそろしさはただただ呆《あき》れかえるばかりであります。 [#改ページ]   四  人  電話のベルが鳴ったとき、ぼくは、レポート記事を書かして貰っている週刊誌の編集者と打ち合わせかたがた都心で酒を呑み、濁り疲れた身体で自分の巣へ戻ってきたところでした。  腕時計を見ると、もう午前三時すぎ。こんなにおそい電話は、元カミさんにちがいないと受話器をとりあげてみると、はたしてそうで、 「寐てたの」 「──いや」 「仕事してたの」 「──いや」 「じゃ、何してたのよ」 「──煙草《たばこ》を吸ってたところだ」 「ねぇ、あたしたち、ほんとに別れたの」 「そうだよ」 「ほんとに、離婚届、出したっけ」 「判を押して、サインして、二人で区役所に行ったぜ。君はマンションを移って、生活費を受けとった。どこが不足かね」 「そんなこといってるンじゃないわよ。誠ちゃん、あたし、御飯が喰べらンないの」 「どうして」 「喉の下のあたりが、げっと鳴るの。呑みこもうとすると、戻しちゃうの」 「神経だよ」 「神経ねぇ。友だちが居たりすると、そうでもないの。で、皆に来てもらうんだけど。もちろん、女の子よ」 「飯なんか喉をとおらなくたって死にやしない。気にしないで寐ろよ」 「寐らンないわよ。ねぇ、小料理屋ってむずかしいの」 「何故──」 「月給で、切り盛りしてみないか、ってある人がいうの。カウンターのほかに座敷が三つあって、従業員は──」 「無理だよ。君は家に来客があっても挨拶ひとつできなかったろう。こっちは寐るぜ」  やれやれ、という感じです。ぼくの書斎や寝室にあったものをのぞいて、所帯道具はあらかた彼女が移転先に携行してしまったので、暖房器具がありません。茶の用意もないし、風呂がわいているわけでもない。雑誌や新聞や汚れた下着が散らかった居間に腰をおろして、煙草を一服。  一人で、笑うほどのことも思いださないし、部屋の中の寒々しさに対抗する工夫がつかないのです。いや、だから離婚なんかするんじゃなかった、とそんなことを思ったのではないので、離婚万々歳。寒々しかろうが、少々不便だろうが、ひとつ家に住みながらまったくばらばらな気持を抱いて暮すというあの地獄にくらべれば、このくらいの不充足はしかたがありません。  ぼくはベッドに急ぐことをやめて、もう一本、煙草に火をつけました。  また電話が鳴ります。 「──ねぇ、誠ちゃん」  元女房からです。 「眠れないのよ、来てよゥ」 「こっちは少し寐て、仕事だよ」 「仕事道具持って来れば」 「そう君の思うとおりにはなれんよ」 「───」  返事がしばらくないので、 「起きてりゃいつか眠くなる。いつ寐ようと君はどうせ仕事が──」  バサッと受話器をおく音がひびいて。  畜生奴、甘ったれやがって、あのくらい徹底して手前の都合《つごう》しか考えずに生きてみたいもんだ。こっちは深夜、火の気もないようなところへ帰ってきて、お前の遊び代を仕送りするためにコツコツ仕事をしなきゃならないんだ。ああ早く、仕送りの期限の一年がきて、お前なんかと無縁の人になりたいよ──。  ぼくは煙草を吸いながら内心でそう毒づき、同時に向こうも、受話器の前で全然逆の毒づきをやっているだろうなと思い、いや、ひょっとすると、コトリとも音をさせずに布団の中に横たわって寒々しい表情をしているのかもしれない、と思ったりします。彼女は何か気に染まないことにぶつかると、弱い獣のように何時間でもそうやって動かずにいることが、ふだんでもよくあるのです。  同情しだすときりがないのですが、彼女は弱い動物にありがちの生理反射が敏感で、たとえば食事中に彼女の発言をぼくが無視したり、悪い反応を示したりしたとします。すると、もうそのとたんに、げッ、と喰べた物をもどす感じになるのです。そういうふうに生理的に反射されると、発言の内容やその要因がなんであれ、なんとなくこちらはおろおろしてしまう。  おそらく、喰べられないというのも、眠れないというのも本当でしょう。別れて飛び出してはみたものの、ぼくが仕送りを保証した一年間はともかく、他に彼女好みの男がつかない限りやがて自立せざるをえず、そう考えると不安で、もうそれだけで追いつめられてしまうのです。それはぼくたちの六年間の結婚生活がいきつくべくしていきついた結末にはちがいないのですが、しかしそれにしても、そういうふうに追いこまれてしまう彼女を見たくありません。彼女に限らず、誰をも、追いつめていきたくないのです。  別居してから、ぼくが部屋の鍵を忘れて外出してしまって、合鍵を持っている彼女の新居を訪ねたことがありますが、がらんどうのぼくのところと対照的に、ピカピカのマンションで、家具に埋まり暖かそうな部屋に居る彼女を、これは虚構に近い暮し方と思いながら、ほっと安らいだおぼえがあります。そのときぼく以上に安らいで、ぼくに優しくしてくれた彼女を見て、いつもこんなふうに虚構の世界においといてやればよかったと思いました。それと、彼女の無責任さや、恣意や、手前勝手を放置したのでは、ぼく自身がたまらないと思う感情は、別筋のものです。  だいたいぼくは次男坊のせいか、親兄弟に対する執着もうすい方らしく、東京に出てきて一度も故郷を恋しく思ったことがありません。また、中学、高校、大学、そして社会に出てからも、離れがたく思うような友人もできませんでした。そのくせ、映画やテレビなど見ていて、物語《ストーリー》自体にはすこしも乗っていないのに、人と人が誤解をといたり、心を触れ合わせたりする場面があると、不意に、どっと涙が溢れてきたりするのです。小さい頃から他人に理解されにくく、また理解されるに足るほどすぐれてもおらず、そういう自分をぽつりッと孤立させたまま育って、なんとなく世の中の表面と歩調を合わせながら、実は誰とも深い提携をすることなく生きてきてしまったぼくの泣きどころなのかもしれません。  ぼくは長いこと、他人との深い接触を避けて、誰との結婚にもふみきりませんでした。そのくせ内心のどこかでは、男女にかかわらず人との触れ合いに渇えていました。その渇えはしかし、夢精のように眠っているときにぽこっと排出されるていのもので、ほとんど平常の自分の表面には出しません。多分、その方が楽だったからでしょう。なんとはなしに年頃をすぎて、所帯を持つ必要が濃くなったとき、学校や実社会といいかげんに関係してきたように、やっぱりいいかげんで、不必要に深くならないような結婚をしてごまかしてしまおうと考えたようです。  それが、会津すみ子のような、無難とは正反対の娘と一緒に暮しだしたので、誰よりもおどろいたのがぼく自身なのです。おどろきながら、ぼくはなんとか彼女を無難な女に仕立てようとして、ことごとく失敗しました。  けれども、考えてみると、彼女がぼくにはじめていったセリフは、 「ねぇ、あたし、お妾にしてくれない──」  でした。その理由は、 「責任がないもの、楽そうだし──」  ぼくはそういう彼女を突飛な女と思いましたが、実はこの言葉こそ、結婚というもの、或いは人生というものに対する(内実にはそうでないものを抱えながら)ぼくの態度でもあったわけです。  そうして一緒に暮しだしてからも、ぼくは、ぼくばかりでなく彼女もですが、関係を深まらそうとしないで、ひたすら、ぼくは内心のバランスを、彼女は生理のバランスを、とろうとばかりしていました。その結果、お互いがどれほど孤立し、救いがたい存在であるかを実証しあったといえましょう。ぼくたちの六年間の結婚生活は、こういう次第で幕をおろしました。  元女房は三日にあげず、旧居をのぞきにくるんです。洗濯機を新居にいれるスペースがないとかで、自分の汚れ物を持ってやってきて、ついでにぼくのものも洗濯していってくれます。 「掃除でもなんでも遠慮なくいいつけてよ。あたし、まだ誠ちゃんのお金で暮してるんだから」 「遠慮はしないがね、まずこの家の自分の持ち場を整理してくれよ。めぼしいものは運んだろうが、半分捨てるような屑《くず》がまだ君の部屋にいっぱいあるだろう。別れて身二つになればそれでいいってものじゃない」 「ええ、わかってるわよ」 「最終的にこの家を大家さんに引渡すまで、君も半分責任はあるんだから」 「そんなこといったって、あんたが居坐って動かないんじゃないの。誠ちゃんも引越すっていってたでしょう」 「アヤがついたからな。だが金がないよ」 「借金しなさいよ」 「そう簡単にいうな」 「じゃ、どうすんのよ」 「それに、俺は毎日仕事してるんだ。部屋探しを優先させるわけにはいかない」 「あたしが探してきてあげようか」 「いいよ」 「あたしんところ、まだ空いてる部屋があるんだけどなァ。誠ちゃんはマンション嫌いだものねぇ」 「俺が、君のところを追いかけていってどうするんだ」 「追いかけてきて、泊っていくじゃないの」  それはそうなんです。実際、二度三度、ぼくは元女房の部屋に行って、充分に情緒的な夜をすごしていました。目茶苦茶といえばそのとおりですが、一緒に暮すには障害になった彼女のマイナス要素が、もう少し責任のない立場になってみると、そっくりそのまま、風変りな可愛い女の子、という要素に早変りするのです。  もっとも、風変りな可愛い女の子が他に居ても、ぼくは後難をおそれて手を出さなかったでしょう。彼女の場合、後難はもうすんでいるので、どんなことをしたってそれが結婚に結びつくはずはないのですから、気が楽なのです。  また彼女の方でも似たような形があったはずです。もともと彼女は自分を律してくるようなものに所属しきれなかったので、別れたとたんに五分五分の関係になり、それで伸び伸びとぼくを迎えられるのでしょう。そうして、ここが矛盾はしているのですが、まだ半分保護者のようなぼくを見ると、自立の心細さも慰められるのです。  多分、ぼくは妾宅に居るような顔つきをしていたでしょうし、彼女は自分が主人役で、ぼくをごく親しい来客のようなつもりで遇していたでしょう。  実際、別れてから、彼女の肌は急に艶やかさをとり戻しましたし、三十に手が届いた女とは思えないほど、眼も鼻も口も若く柔らかく、優しさすら感じさせるほどなのでした。 「おかしいわね。こうなってみると誠ちゃんはやっぱり必要だわ。好きよ」 「好きも嫌いもそんなこと無意味だ。これは変則なんだから」 「変則って、どういうこと」 「長続きしないって意味さ」 「じゃ、誠ちゃんはどういうつもりでここに来るのよ」 「俺もそれを考えてるんだけどね」 「考えなくちゃわからないの」 「俺はだいたい君を憎んじゃいない。客観的に見ると、君みたいな女は大嫌いだがね。一緒にいる間お荷物で、縁が切れたらどんなにせいせいするだろうといつも考えていた。それなのに、いざ切れるとなると、いつも、なんだか引っ張るものがあるんだ。そいつは何だろう」 「ずいぶんひどいいいかたね。そんなふうなこと訊いてやしないわ」 「もちろんその都度《つど》、魅力の部分もあるんだが、それはいつも条件つきでね、否定的な要素を凌駕《りようが》しない。長く暮しているから肉親愛に似たものか、それもある。身体に馴れ親しんだ余韻か、それもあるな。孤立を反響しあう間柄から単なる孤立に戻ってしまったゆえの淋しさか、それもある。いろんなものがあるが、それらを皆取り払ってしまっても、あとに何かが残るんだ。それが不思議でしょうがない」  ぼくは彼女と決裂する三月ほど前から、友人たちと外国語を勉強しなおす会を造り、毎週一回、日を定めて集まっていました。いずれもマスコミ関係のフリーランサーで、専門技術のようなものは持っていましたが、もうひとつ極め技としては不安定で、今からでも武器をいろいろ身につけておこうという発想でした。  その席で、たまたま教師格で出てきていた植木純子ことベティ・ジェーン・植木と知り合ったのです。ベティは植木敏春という、ロンドンでサム・ハスキンの内弟子をしていた若い写真家の女房で、父親が日本人、母親がユダヤ系アメリカ人というハーフでした。  ベティはぼくの語学能力の貧しさをたちまち見破ったようでしたが、ある夜、勉強のあとみんなで酒を呑みながらポーカーなどして遊んだとき、ぼくがばくち場で見おぼえた手ホンビキのやり方を得意になって披露すると、突然彼女が烈しい興味を示したのです。 「それ、教えて──」  彼女は日本語も実に達者でした。 「手ホンビキ、ぜひ教えて」  ただ概略だけでなく、細かいセオリイや遊び人の世界のことまでしつこくきいてくるのです。ぼくは少々面喰らいながら、 「どうして、そんなこと知りたいの」 「興味があるのよ、日本のことならなんでも。お父さんの国ですもの。ベティね、十八のとき日本に来て女子大に三年ほど居たの。でもとおりいっぺんのことしか教わらなかった。学校で教えてくれないようなことなら、なんでも知りたいわ」  ベティはまたこうもいいました。 「鎌倉にお父さんのお墓があるの。だから鎌倉のこともっと知りたい。本に出ていることだけじゃ駄目。鎌倉じゅう、ずいぶん歩いたわ。一本一本、自分で道を歩いてみたかったの。そうしたら、一軒一軒に住んでいる人たちのことまで残らず知りたくなっちゃった」 「凝り性なんだな」 「小さいときに両親に死に別れたから、だから、両親のことをもっと知りたい。お父さんは鎌倉で育ったの」  彼女はぼくを、父親にどこか似ている、といいました。もちろん年齢的にはだいぶちがうはずなのですが、彼女は十何年前の若い父親しか知りません。  ベティの父親は戦争前に日本のK研究所で細菌学を研究しており、そこからアメリカにスカウトされて国籍を移したのです。そうしてハワイで彼女の母親と結婚したのです。  彼女は最初からぼくに対して隔意なしに近づいてきたようですが、何故、ぼくのような諸事うすっぺらい男に興味を持ったのかわかりません。ぼくの方も、彼女の亭主とは出版社などでときおり顔を合わせていましたので、人妻だと思っていましたし、情緒的な交際とはいえなかったでしょう。  彼女も私もジャズが好きだったり、議論好きだったりして、話題には困らなかったけれど、人妻のくせに深夜私と二人で酒を呑み歩いたりする彼女の真意をはかりかねていました。  ぼくの元女房も深夜までよく出歩いていましたが、タイプが少しちがいます。おそらくベティの方はずっと仕事を持って男社会の中でもまれてきているからでしょう。  ある日、ぼくは自分の巣にベティを連れていきました。がらんどうの家内を見せて彼女が眼を丸くするだろうと思ったのです。   羽鳥 誠一     すみ子  そんな表札がまだかかったままでした。  しかし彼女は、がらんどうを見てもべつに驚いたふうでもありません。 「カミさんと別れたばかりでね。半分、空家だ」  彼女は台所をのぞいて、「ゴキブリがすごいわねぇ」といっただけでした。 「ああ、犬が居たもんだから、薬がまけないって、カミさんはいってたな」  ぼくは散らかった自分の部屋にベティを招じ入れましたが、そこでも彼女はたじろぎません。 「汚ないだろう」 「いいえ、平気よ」 「僕も平気なんだ。散らかってないと気分がおちつかなくてね」 「あたしなんか、最高二カ月お風呂に入らなかったわ。お風呂なんかこの世になくても平気。ロンドンの撮影所で働いていた頃、下着を含めて二カ月間同じ服装をしてるって、友だちが注意してくれたことがあったわよ。あたしは気がつかなかったけど」  そういえばベティは、ほとんどジーパンスタイルで化粧もしてません。 「ベティ、掃除も洗濯もたまにしかしないわね。食事もつくらないし」 「外食かね」 「いいえ、ベティ、たまにしか喰べないもの」 「旦那は?」 「旦那は自分の喰べたいものをつくってるわ」 「それで文句をいわないかね」 「べつに。ごく自然にやってるようよ。我慢してやるくらいなら、旦那もやらないし」 「両方がやらなかったら困るだろう」 「そんな気配があれば、あたしがやるわよ。だってあたしはべつに、旦那を不愉快にさせたいなんて思わないもの。たとえば汚れ物が三日も放り出してあるとするでしょう、あ、何かの理由でやりたくないんだな、そういう感じはわかるから、すぐにやってあげる。向こうもそれを見てても黙ってるわよ」 「それが、西洋流ってやつかなァ」 「どうして、別れたんですか」 「俺たちか。カミさんに男ができたわけでも、俺に女ができたわけでもなかったんだ」 「そうすると、性格の不一致?」 「まァ、それかな。どうも、こういうとますます馬鹿馬鹿しい理由になるんだが、お互いに、つくづく一緒に暮したくなくなったんだ」 「そういうのって、あるわね」 「君は、植木君がはじめての結婚?」 「とんでもない。三度目、四度目かしら。結婚までいかないボーイフレンドがその間に二人ほど居るしね。トシ(旦那)の方も二度目かな」 「そうすると、離婚なんて慣れてるわけだ」 「でもね、ロンドンでトシがプロポーズしてくれたとき、結婚なんて紙きれ一枚の問題だが、お互いにどんなことがあっても今度は死ぬまで添いとげよう、そのために結婚しようよ、っていってくれたの。ベティ、それでトシと結婚しようと思ったんだわ」  ぼくは一人になって、すぐに不便を感じはじめました。  食事は、ちょっと面倒だが外ですればよろしい。洗濯は、今のところ元女房がやってくれる。掃除は、しなくても平気。  不便というのは、来客の応対、不在の場合の連絡事務、税金対策、日常の諸払い。  第一、こんな半分空家のようなところにいつまでも居るわけにはいきません。無名であれ何であれ、フリーランサーは自宅が仕事場兼事務所のようになるものです。  ベティ夫妻のマンションに空部屋があるという話に、ぼくは飛びつきました。そこは外国から赴任してくる若いサラリーマン向きのマンションで、スペースはそう広くないが、家具つきという点が便利です。家賃も青山という土地がらを考えれば手頃でした。  見にいくと、ベッド、クーラー、ステレオ、テレビ、冷蔵庫、応接セット、簡単な食器から夜具まであります。このうちダブるものがいくつかあるので、すぐそばにもうひとつ小さな部屋を借りるつもりにまでなりました。  その部屋は、植木、ベティ夫妻の隣りでした。 「ちょうどいいわよ、当分の間、あたし、あいてるときは秘書役をやってあげるわ」 「それはありがたいね、ぜひ頼むよ。お礼はさせて貰うから」  元女房に仕送りする月三十万という枷《かせ》もあり、ぼくとしては仕事の量をいやがうえにも増やさなければなりません。それはぼくに能力があって売れたということでなく、見境いなく仕事を取ったということなのです。そうして、仕事の量が増えれば、それに附随していろいろな雑用が増えます。ぼく一人では、その側面の用事の方が足せません。  で、とにかくベティがある程度助けてくれるというのは、もっけの幸いなのでした。  そういう話が出る前に、洗濯にやってきた元女房と、ちょうど来合わせていたベティが、初対面の挨拶を交したことがあります。そのときは他に編集の人も居たので、ただ挨拶をしたという程度でした。  それから十日ほどして、ベティと映画を見に行こうという電話の打ち合わせができたときに、元女房が顔を見せたので、 「映画見に行くかね」  何気なく誘いました。ベティの旦那のトシはそのとき、写真の仕事で出張中だったと思います。その頃は部屋の件がおおむねきまっていました。  ぼくはベティと待ち合わせた喫茶店へ、元女房と行き、 「今度、部屋を世話して貰ってね、同じマンションにこの夫妻と住むんだ」 「部屋って、どんな?」 「まァ、仕事部屋みたいなものだな。家具つきだから、俺にはちょうどいい」 �スラップショット�という映画をその夜見ました。その映画は存外に苦い主題を持っていて、人間の生き方が全体に行きづまってもはやにっちもさっちもいかなくなっている様子をパロディックに写していました。  その夜簡単な食事をしながら、ぼくたちは映画によって触発された話題を口にしたのですが、それは主にベティとぼくとの応酬でした。元女房の方がどうしても話の外におかれてしまうのです。  元女房と二人きりなら、そういう話題を口にしないか、解説風に語ってきかせるか、どちらかだったでしょう。もちろん、ぼくだって学識豊かな方ではないし、そんなことは離婚の因とは別なのですが、とにかく、元女房との会話をはずませるつもりなら彼女の方にぐっと合わせるより仕方がなかったのです。  まもなくぼくは気がついて、話題を三人でしゃべれることに変えました。つまり、離婚について。  それで元女房も息を吹き返したように、これから何をして働こうと思っているか、というようなことをしゃべりはじめました。多分、彼女としてはその前の話題のときのけ者にされた不満、乃至《ないし》劣等感から、いっぱしのことができるという恰好がしたかったのでしょう。  例の小料理屋の代理ママの話が出てきました。そしてそれはベティに一言で否定されました。ベティの発言は、一年間の仕送りがあるならその間にできるだけ自分の将来にプラスになりそうな仕事を選定するべきだ、というふうなものでしたが、元女房の気質をよく知らないベティは、日本語を考え考えいうせいもあって、男性と事務的会話を交すような飾りのないいいかたになってしまいます。  元女房はあまり愉快そうでない表情でちょっとだまりこみました。 「明日の晩、家でパーティをやるのよ」  彼女は突然こういいだしました。 「ベティさんも来ない。七八人、友だちが集まるんだけど」 「あたし、パーティって嫌いなのよ」 「そう──。じゃ今夜いらっしゃいな。いいでしょ、あたしの家へ行きましょう」 「そうしようか、ベティ、ちょっと寄ってみようよ」  とぼくもいいました。ぼくは元女房と長いから、彼女の反応は大体わかります。あたしの家、という言葉を昂然というのをきいて、彼女が飾りたてた�あたしの家�をベティに見せて、今までの失点をはね返したがっているのだ、と思いました。  そうさせてやろう、とぼくも思ったのです。ぼくは、元女房に限らず、誰かが窮地においこまれていくのを見るのが好きではありません。|0《ゼロ》敗はいけない。彼女にも何点かとらせてやりたい。  車中、当りさわりのない話題だったせいもあって、彼女の機嫌もほどなくなおり、赤坂のマンションにつくと、酒を出したりしてベティをもてなしはじめました。 「綺麗な部屋ね」とベティがあまり乗らぬ調子でいいました。「すみ子さんが自分でなさるの」 「そうよ、安物ばっかりだけどね」  すぐ帰ればよかったし、元女房としては、すくなくともベティは、部屋をのぞく程度ですぐ帰るものと思っていたかもしれません。ぼくがいくらか酔いもあり、それに第一、元女房が宵っぱりだと知っているので、ついだらだらと話しこみ、ベティも席を立とうとしません。  元女房は二度目の茶を入れに立ち、その時点では彼女自身、まだもてなすつもりだったのでしょうが、茶を入れて席に戻ったとき、我慢がなりかねるというふうにこういいました。 「あんたたち、なにをあたしの前でイチャイチャしているの。ここはあたしの家よ、帰って頂戴」  ぼくたちはマンションの裏門から出てタクシーをひろい、元女房はタクシーのところまで送ってきました。  ぼくは仕事の円滑をはかるために、とりあえず旧居をそのままにして、仕事道具だけ持って、ベティ夫妻の隣りの部屋に移りました。 「念のためきくけど、旦那はこの件について諒承なんだね」 「ええ。トシは最初から知ってるわよ。あたしがなんでも話してるから」 「なんでも?」 「ベティ、羽鳥さんを特別な人と思っちゃったんだもの。しばらく、っていつまでかわからないけど、この人に添っていってみようって」 「それをトシにいったの」 「ええ、話したわよ」 「妙な夫婦だなァ、君たちは」 「だって、トシを裏切るようなことじゃないんだもの。トシはその点は、あたしをよく知ってるわ」 「トシが忍耐しなければならないようなことは、やらないって、いつか君はいったね」 「トシは不思議な人よ。羽鳥さんとは面識があるという程度でしょ。それが、あたしの考えをきいて、大筋では賛成してくれたわ」 「君の考えって、ぼくにひっつくってことか」 「ええ──」 「ぼくは特別な人間なものか。優秀な男でもない。無名のライターだ。いいかげんな仕事ばかりしてる」 「あたしは貴方《あなた》から技術を教わろうなんて思ってないもの。羽鳥さんが無名だとか、専門分野の才能がどうだってことは関係ないの」 「じゃ、何故、特別な人なんだ。ああそうか、父親に似てるっていってたな」 「父親に似てるけど、貴方を父親のように思ってるわけじゃないの。それは単なる付帯条件ね」 「いつから、そう思ったんだ」 「最初からよ。英語の勉強をしていたときから」 「そんな馬鹿な。英語はからきし駄目さ。目立つところなんかない」 「技術じゃないっていったでしょ。──眼力よ。ベティ、眼力だけはあるのよ。小さい頃ね、ジャズどころか音楽もききわけられなかった時分、ラジオでオスカー・ピータースンの音《ピアノ》をきいてね。すごい和音《コード》だなァと思ったの。だからピータースンの名前だけは小さい頃におぼえちゃったのよ」 「トシも、その眼力を信用してるのか」 「引越しの手伝いにいこうか、そういったくらいですもの。あたしは前にも、他の国であるのよ。人に夢中になって、その人を特別な人に思ってしまうの。ハリウッドにも居るわ、わたしに映像美学を教えてくれた先生、ロンドンにも居る、広告代理店の人でね。トシははじめ面喰らったようだけど、結局はベティの好きにさせるよりしょうがないと思ったみたい」 「ふうん」 「でも、一度、こういったことがあるわ。黙ってるからって、許してるとは限らないぜ、って」 「うん」 「だから、いつもトシの気配に神経を当ててる必要があるのね。だってトシは無口だから」 「それはわかる」 「トシはグレートよ。でもあたしは贅沢だから、他にグレートな人が居たら、その人のこともよく知りたくなるの」 「ぼくもグレートだっていうのか」 「ええ」 「何故」 「眼力だもの。どうしてっていわれても困るな」 「でも、説明してくれないか。でないと、からかわれてるんだと思う。ひと眼ぼれだっていわれるなら、まだむしろ納得するかもしれないがね。グレートとは意外だ」 「あたしはマウイ島育ちでしょ。四つか五つの頃、父親に崖から突き落されて、海の中でどうやってバランスをとるかおぼえたのよ。それから野ッ原や山で、絶えずいろんな動物たちと一緒になってすごして、それで知恵を身につけていったから、それで直感のような本能的なものが発達したのかもね」 「もうひとつは──」とベティは続けました。「この十年の間、何度かの結婚や広告制作の仕事なんかで、いろんな民族、いろんな階級の雑多な人たちと接してきたの。特に二度目の亭主はジャズ屋だったから世界じゅう飛び廻ったわ。あたしの年齢としては、人間を見つけてると思う。その中で人らしい印象を残してるのは、五本の指にみたないわね。だからそれを感じたときに貴重な存在になるの」 「君のいう人らしいというのは、具体的にはどういうこと」 「ハートがある。あたしが手をさしのべるとその人の心臓にさわれるの」 「それは世間でよくきくセリフだな」 「ハウアーユー、いい天気だね、君は元気かね、九十九パーセントがそれ式の会話でしょ。グッドモーニングといわれて、ノー、バッドモーニングとはいい返さないわ。そういうロボットとはつきあいたくないの」 「ぼくはグッドモーニングの口だよ、にこやかに笑いながら」 「そうなの」 「ああ、いつもそうしてきた。いい加減にね」 「本当をいうと貴方はまだ具体的には研究対象なの。第一段階の直感、第二段階として感触、ここまではたしかな手ごたえがあるんだけど」 「待てよ、そうか、今、思いだしたが──」 「なんなの」 「まァいい、先をきこう」 「感触だけで羽鳥さんを捕まえるのは危険だけど、貴方の持ち物であたしの眼をひくものというと、ナイーブさと、居ずまいのよさ、じゃないかしら」 「二つともちがう。居ずまいなんて、ぼくはよさわるさというより、無い。ぼくは元カミさんとおんなじさ。彼女からも同類項だといわれたが、これからつきあってみるとわかるよ。他人から眼をつけられるような男じゃない。これは卑下じゃないよ。卑下なんかしたって意味はない。本当のことだ」 「そうかな。──すみ子さんとのことでも、離婚してから、かえって同棲に近い要素が出てきたっていったでしょ」 「それが、居ずまいのよさかね」 「あるいはそうかもしれないじゃないの。居ずまいってのは、つまり、やることとやらないことがはっきりしてるってことでしょ。それはあくまでも羽鳥さん流儀のやることとやらないことだから、わかりにくいんだけど、夫婦の間柄なんて深い関係だから、世間流でない羽鳥さんの居ずまいが、出てきてるはずだと思うわよ」 「眼に見えたところは、くだらない関係なんだ」 「くだらないかどうか、あたしが評価したってしょうがない。あたし、ソサエティってものに関心がないの。あれはユニオンみたいなもので、そこに加わらなくちゃ生きていけないから便用してればいいものよ。だから羽鳥さんの書く記事なんて、無関心。あたしがつくる広告文がいいかげんなものと同じでね」 「そう思えたら、気が楽だろうな」 「あたしはね、両親ともに早く死に別れたわ。一人娘だから兄弟も居ない。ユダヤ人と日本人の血は流れてるけど、故国もない。国籍なんか誰にしろどうせ仮りのものだと思ってるけど、一生涯居られると保証されたところはどこにもないし、死ぬところはあそこだという場所もない。だから、残るのは個人的な規範だけ。自分流の居ずまいをただしていないと、どこまでも流れていきそうでね」 「ぼくも、そういう世界浪人の臭《にお》いがするってわけか」 「ええ──」ベティは強い視線をぼくに当てながらいいました。「本質的には、そうじゃないかしら──」  彼女は、ぼくにかこつけながら、むしろ自分を語ったのでしょう。  ぼくはあいかわらず仕事を山のように抱えていたので、昼夜兼行で仕事場に居る感じになりましたが、その間もベティが現われると好んで机を離れて、会話にふけってしまうのです。  とにかく、ベティとの交流はこのあとも、徹底的に言葉の世界だけでありまして、どんな状況の中でもその枠を一歩も出たことはありません。もちろん手ひとつ握ろうとしたことすらないのです。  彼女は、血球生産が円滑にいかない病気があるせいか痩せてはいますが、聡明さに加えて女性的魅力も充分にあるといえましょう。  ぼくは、最初から植木敏春の妻という眼で眺めていたせいで、情緒の入口から闖入《ちんにゆう》する気持を自分でふさいでいたのかもしれません。それは充分にありますが、ぼくだって、学校を出たての頃は、人妻と恋を語らったこともありますし、たとえ知人の妻であろうと場合によっては一線を踏み破ることがないとも限りません。  実際、知り合った頃、一瞬ですが、ぼくの内心が情緒の方を軸にしていた時期もあったのです。といって、その後、手ひとつ握らないからといって、ぼくたちの世界が観念的なだけのものであるかというと、それもちがうのです。  ひどく伝えにくいのですが、ベティから、グレートだ、といわれたとき、ぼくの内面にひょいと浮かびあがった状態は、映画やテレビを見ていて、人と人が触れ合い心を通じあったときなどに、涙の塊りがむらむらッと出てくる、あのときに似た昂揚がおこったのです。涙こそ流しませんでしたが、ぼくは至純の状態になってしまって、ぼくの、或いはベティの身体でお互いの関係をたしかめあおうなどという気持には、てんでならなくなってしまったのです。  それは不思議な状態でした。仕事場で毎日のように見交す一瞥《いちべつ》に、血のつながった親族のような色があり、また、ちがう種類の生き物が稀《ま》れに抱く友情のようなものもこめられていました。それは大仰な形容ではありません。  はじめ、手空きのときだけ手伝うようなことをいっていたベティが、ぼくの量産態勢を見かねたせいもありますが、ほとんどの時間をぼくの部屋ですごすようになり、ぼくが徹夜していれば、彼女も寐ないで長椅子に坐っているようになりました。  血球生産がわるくて人一倍体力気力に欠けるはずの彼女がそうしていること自体に迫力があるのです。 「帰って寐なさい」とか「無理をしないで」とかいうぼくのセリフは、彼女にいわせれば、ハウアーユー、天気はどうだ、の類《たぐい》のセリフにすぎなかったでしょう。  けれどもぼくは、壁一重隣りのトシに気をかねていました。旦那に忍耐をさせるようなことはしない、とベティはいいましたが、この場合、トシは必ず耐えているはずで、黙っているから許しているとは限らない、と彼女にいったセリフが思い出されます。  トシとは廊下や表の道路などで、折り折り行き会います。たまにぼくの方が、屈託のない顔つきで隣りの部屋にお茶を呑みに行ったりします。  トシの方は、用事でベティを呼びにくる場合も、遠慮してドアのところで小声で呼ぶか、隣りから電話をかけてきたりします。  いずれにせよ、ぼくの元女房と対照的に、トシは牛のように沈黙していました。 「──誠ちゃん」  受話器の向こうで、うッ、ううッ、とむせび泣く気配があり、受話器に叩きつけるような息声で、 「ひどいわよ、ひどい──!」 「待て、おちつけよ」  仕事場にはベティのほかに、編集者も来ていました。 「ベティとできてるってじゃない。あたし死ぬわよ」 「まァとにかく、おちついて話そう。ぶらっと出てこいよ」  ぼくは青山通りの喫茶店で彼女を待ちましたが、現われません。夜になって、下着を替えに旧居へ帰ると、やがて電話があって、先刻よりは少し落ちついた声音でしたが、 「ひどすぎると思わない。できてる女をこれみよがしにあたしの部屋まで連れてきて。あたしはね、一人ぼっちで、御飯もろくろく喉にとおらないっていうのに」 「君が思ってるような関係じゃないんだ」 「評判よ。誰にきいてもそういうわよ。ベティは夜なかも居るんだって」 「だが、そんな関係じゃない」 「で、どうなの」と彼女はいいました。「あたしはもういらないでしょ。二度と誠ちゃんに会いませんからね」  ぼくは寒々しい旧居の寝室で、ただ寒気を防ぐためにベッドに横になりながら、もう一度、ベティとの間柄を反芻《はんすう》しました。  彼女とは最高に緊迫した、乃至は、打ちとけた間柄であるような気もします。しかしまた、まったく何もない関係であるということもできるのです。  昔読んだ旧約聖書の記憶では、姦淫《かんいん》とは、実生活上の戒律としては、肉体の関係のことをいうので、但し、心の姦淫はその前段階だという前提のもとに道徳的に戒められていたような気がします。  けれども、ぼくたちの心の姦淫は、必ずしも肉体関係の前段階ではなく、それ自体で完結してしまうようなところがあり、そこが戒律にどうひっかかるのか、微妙なところです。  一方また、ぼくはこういうふうにも考えました。ぼくは日常の諸問題を処理するための助手を欲していた。ベティがみずからその役を買って出てくれて、我々は職場での相棒や家庭での兄と弟のように、琴瑟《きんしつ》相和した。そうだとしても、姦淫でしょうか。  いや、姦淫にこだわるようですが、ぼくは元女房とは離婚しており、道義上は何をしても、彼女に遠慮することはないはずです。  そもそも、彼女が妻としての義務を放棄した(彼女にもいい分はありましょうが)ようなところから、ベティが助手役を買って出てくるようなことにもなったわけで、自分が退いたあとへ、かりに新しい女が来たとしても、元女房が何をいう権利がありましょうか。  二度と会わないといった口の下から、その一時間後、元女房が不意に訪ねてきました。彼女はたしかにやつれていました。そうしてその姿を眼にすると、ぼくの方もそれに対応して、つい数分前に念頭にあったこととはまったくべつの、彼女をいたわってやりたいような思いが浮かんでしまうのです。  それは、トシにも、この元女房にも、どちらにもある思いです。また同時に、トシにも元女房にも、いい開きをする段になれば諤々《がくがく》とできるのですが、その二つの気持がさして矛盾なしに混在しているのです。 「どうした──」  ぼくはつとめて気楽にいいました。 「まだ、飯が喰えないのか」 「当り前じゃないの」 「君の方も、にぎやかにやってるんだろうと思ってるんだが」 「──ねえ、誠ちゃん」と彼女はそれが来た用件のように、「ここの家、どうするの」 「移るさ」 「昨夜きいたんだけどねえ、あたしの友だち夫妻が外地赴任で二年ほどマンションを貸したいっていってるんだけど、見てみない」 「俺一人だし、小さいところでいいんだ」 「安いのよ。敷金その他も無し。そのかわり彼女たちが戻ってきたとき、出て貰えることが条件なの。誠ちゃんどうせ、転々とする人だものね」 「寒いから中へ入れよ」  彼女はそのまま、ぼくの隣りへ無造作に横になりました。 「脱げよ」  びっくりして、ぼくの方をのぞきこみます。 「なによゥ、そんな必要もうないでしょ」 「いいだろう、俺もちょっと餓えてるんだよ」 「けがらわしいわね、さわらないでよ」 「しかし、俺は君一人だぜ、こんなことをするのは」 「あらッ、別れといて」 「別れたさ。普通、別れた亭主ってものは、女房のあとを追わないものだろう。別れた亭主をもそもそさせるんだから、君はたいした女だ」 「ばかなことをいわないでよ。どうかしてるわよ今夜は、あたしなんか軽蔑《けいべつ》しきってるくせに」  ぼくの手に力が入ったので、彼女は仕方なさそうに脱ぎました。 「おい、自信をもてよ。君は美しいよ」 「あたし、痩せたでしょ」 「しかし、まだおとろえちゃいない。まァ一緒になる前とくらべりゃあね──」 「老けこんだわね。いやんなっちゃう。美容院の男の子がね、ずいぶん髪の毛が抜けるなァ、っていうのよ」 「髪の毛は多すぎるっていってたんだから、ちょうどいいよ」 「──これでもまだ、捨てたもんじゃない?」 「ああ」 「誠ちゃん、ほんとはあたしを好き?」 「嫌っても憎んでもいない。ただ、一緒に暮すのはこりごりだ、それだけの話さ」 「──いい仕事がなかなかないのよ」  彼女はぽつりといいました。 「話はいろいろあるんだけどね、みんな、はっきりしなくて──」 「うん」 「男もできそうにないし。誠ちゃんはいいわね。いい人ができて」 「ベティのことか。あれは人妻だ」 「人妻じゃいけないの」 「まァ、大切な友人というところかな。俺はベティとトシの結婚生活を乱したくない。トシが、死ぬまで添いとげるために結婚しよう、といって、二人は一緒になったんだそうだ」 「あたし、ベティ、嫌いよ」 「うん」 「そりゃ、別れたんだから、誠ちゃんに女ができても不思議じゃないわね。でも、ベティは嫌、あたし、友だちになれないわ」 「わかってるよ。俺は君と長い。いわなくてもわかってる」  ぼくはその翌日、元女房と部屋を見にでかけました。そして、とにかく市価よりぐっと安いのが気にいりました。旧居の方に無駄に払っている家賃だって馬鹿にならないのですから。 「どう、気に入った?」 「借りてもいいよ」 「じゃ、ベティのところは引き払う」 「両方借りるよ」 「両方、無駄じゃない」 「あすこは仕事場だから、無駄といえばこっちだ。道具の置き場に借りるんだから」  元女房はあきらかに機嫌をそこねてぼくのそばを去りました。  彼女もいろいろと知恵をしぼっているようで、その次は知人の娘さんを秘書役に推薦して、ぼくと知人の両方に運動しはじめました。が、ぼくがうんといいません。 「あの娘さんじゃ駄目なの」 「駄目じゃないが、そう君の思うようにはならないよ」 「何故? ベティは広告の仕事で一人立ちしてるんでしょ。誠ちゃんが彼女の仕事を邪魔してるようなもんじゃないの」 「うむ──」  ぼくはある雑誌に自分が考えた企画を提出していました。それはレポートのような、小説のような、文明論のような、雑文そのもののような、なんともジャンルを形容しがたい原稿なのですが、その取材にベティを相棒にして世界の各地をまわるというものでした。  これまでいいかげんなことしかやってこなかった自分が、はじめて主体性を持って原稿を書こうという、その覚悟のようなものは内心で徐々に固まってきているのですが、ベティにそれを頼むことがためらわれるのです。  一方、ベティの方も、元女房が指摘するように、広告文案の仕事の契約をほとんど解いて縮小してしまい、ぼくの仕事場に入りびたっている状態でした。  ある日彼女が、笑い話のようにして、こんなことをいいました。 「トシがね、ぼくもパンツの紐《ひも》をしめ直してかからなきゃァ、そういったのよ」  ぼくはだまってベティの表情を眺めていました。 「ロンドンでも強敵がいたけど、今度も強敵らしいなァ」  トシはそういったそうです。そしてベティが自分の意見を補足しました。 「あたしがいつも、人にのぼせると一直線になるものだから、トシはまた脅威を感じてるのよ」  仕事場の長椅子でうとうとしていて、夢を見ました。  その黒い皮張りの長椅子に、夢の中でも横たわって寐ているのですが、長椅子の向こうに小学校の運動場が見えるのです。どういうわけか、南平台小学校だということがわかるのですが、ぼくは現実に南平台小学校なんて見たことも聞いたこともありません。  小学校の校庭を掃いているお婆さんがいて、彼女は紫色なのです。児童たちも散らばっているのですがぼくの点景にしか感じられず、お婆さんが掃きながら移動してきて、長椅子のぼくをみつけます。彼女は子供を誘いこむように、向う側からぼくの手をつかんで運動場に曳《ひ》きずりだそうとします。ぼくは抗《あらが》い、お婆さんはひっぱって──。ふと気がつくと、お婆さんはベティの顔をしてるのです。  眼をさますと、そばの机に向かって、ベティがぼくの税金のための金銭出納日計表を造っています。  ぼくがまじまじと彼女の顔を眺めているので、どうしたの、とベティがいい、ぼくは眼を和《なご》ませて答えました。 「ああ、へんな夢を見たんだ」  ぼくは夢の概略を話しましたが、お婆さんがベティだったとはいいませんでした。 「わかったわ、そのお婆さんが──」  ぼくは途中で笑いだして、 「そりゃ、考えすぎだよ」  それから二三日して、彼女からぼくにあてた伝言用紙に、 [#ここから1字下げ]  打ち合わせでは、電話することになっていましたが、考えなおして電話するのをやめました。ずいぶん久しぶりに(私の知るかぎり)外で呑んでいるところを、またベティの声がしたりすると、幻の中で、南平台小学校の掃除のお婆さんどころではなくなると思って。  ベティはお札のように、ペタッとくっついていたいけれど、どうもそれだと�夢見�がわるくなりそう。  どうぞ、お化けにしないでください。 [#ここで字下げ終わり]         Good Night  彼女が毎日取組んでいてくれる日計表造りは、青色申告用のもので、仕事にからんだ出費がどれくらいあったかを証拠だてるもの。四五年前から女房の受持ち仕事になっていたのに、毎年実行できず、担当の税理士を弱らせていたものでした。  ぼくはあいかわらず放縦で、出費がどんどんかさむうえに、ベティも大半の時間をぼくのために割いてくれる以上、ちゃんとしたギャラを支払わなければならず、そこへ、たとえ安い家賃のところへ移るにせよ引越しの費用もかかるというわけで、いくら働いても毎月赤字で頭が痛かったわけですが、そこへまた新たに、外国遠征のための大借金を抱えこもうとしていました。 「完全な家計失調ね、あたしのギャラは計算上だけでいいわよ」 「いや。借金も財産のうちさ。大体、いいかげんにやってきたから今まで無難だったんだ。失調が本ペースさ、気にしちゃいない」  引越しはベティ夫妻も手伝ってくれると申出がありましたが、ことわりました。元女房が、すでに手を出していたからです。彼女は旧居を整理するうえで半分の責任があるのです。  明日引越しというときの前夜に、仕事場への電話で、不意に、 「──誠ちゃん、あたし、戻るわよ、戻っていい?」  元女房は、切口上になるべき用件はいつも電話で切りだすのでした。面と向かうと、自分で怖がってしまっていいだせないのです。  そしてぼくも、電話では、例によって絶句気味になるのです。 「待てよ、おい、そっちへすぐ行くから」  ぼくは旧居に駈《か》けつけ、そこに固い表情で待っていた彼女と向かいあいました。 「どうなの──?」 「どうって、俺の意思をきいてるのか。俺はきまってる。しかし──」 「見てよ、こんなにやつれちゃった」  それは独立の苦しみで、君が望んでいたことなんだろう、とはぼくは口に出しませんでした。そんなことをいいだせばきりがなくて、彼女の身体じゅうに手傷の穴があいてしまいます。しかもそこで血を流したとて何の成果も期待できない不毛の穴ぼこなのです。  言葉の世界でならば、無数にいいたいことがありますが、ぼくはすべて胸の中に押さえました。  また彼女も、いろいろのことをいいましたが、ぼくはきいていませんでした。たしかに彼女はその瞬間、口に出した言葉にひっついた気持を持っているのですが、明日、明後日とくるくる変ってしまいます。昨日のセリフ、昨日の気持は、影も形も残っていないし、彼女にとってそれでべつに不思議なことでないのです。  彼女との六年間の大半は、そういうことのくりかえしでした。今また、そのくりかえしがはじまろうとしています。ぼくたちは復縁はしませんが、同棲という形になるでしょう。形はそうなりますが、もう一度最初からやり直すということはできないでしょう。彼女はまたそれでなやむでしょう。  それがわかっていて、ここで尻をまくれないのは、無限の哀れみのような形で彼女を愛しているのだと思うほかはありません。  ベティヘの傾斜が変則であるように、彼女への傾斜も変則なのでしょう。ぼくを中心とした三角関係は、変則ずくめといえます。 「元女房が、戻ってきそうだよ」  と、翌日、ぼくはベティにいいました。 「いずれ、そんなことになる予感がしたわ」 「馬鹿馬鹿しいだろう」 「そうしようと思ったんだから──」とベティはいいました。「そうすればいいわ」 「ベティ、お願いがあるんだ。ぼくとコンビを組んで外国を歩いてくれないかな」 「どうするの」 「うん──」とぼくは口ごもりました。 「自分で何を本当にやりたいのか、まだわからない。この年齢になってもだ。だからなんだかわからないけれども、無性にそうしたいんだ。ベティが知ってる外国の土地を次々に襲って、そこを喰ってみたい。行けば行っただけの原稿は書くが、本当は原稿が目的かどうかもわからないんだ」 「それじゃやっぱり、そうするよりほかないわね」 「──だが、ベティと二人でだ」 「トシのことが気になるの」 「気になる。元女房のこともね、同じく気になる」 「気にしてどうするの」 「ぼくと元女房の関係のように、どこまでいってもふっ切れないだろうな。ぼくと元女房がくりかえしに耐えなければならないように、トシとの間柄も、いろんな度合を葛藤《かつとう》させていくよりしようがない。そうして、ぼくは君との関係を一歩進めようと思うよ」  何日かして、ベティが風邪で寐こんでいるとき、ぼくはトシを芝居見物に誘いだし、その帰りに酒を呑みました。  彼はふだんも無口でしたが、酒を呑んでもほとんど変りません。かなり酒に強いらしいのです。  ベティからきいたのですが、トシと深くしゃべるには、写真の世界のことになぞらえていう必要があるとかで、ところがぼくが写真のことに暗いものだから、どんなふうに切りだしたらよいかわかりません。  当りさわりのない話をしながら、かなり酒がまわってきた頃、トシが、 「ぼくがベティと知りあった頃、彼女はもっとグラマーでした。──ぼくは、だまされました。あんなに痩せるとは思わなかった」  彼はポケットから、ベティの以前の写真を出して見せてくれました。 「なるほど、グラマラスだ」 「ですが、ぼくは彼女を、愛しています」 「──ええ」 「あのゥ、ですね、ベティからききました。彼女は本当は、酒が呑めるんです。けれども血球の生産がすごくすくないから、活性がつきません。がんばり屋で動いてますけれど、あれは医者の薬の力なんです」 「そのことは、おおよそは知ってます」 「あんなに痩せちゃって──、喰べすぎても血を使いますから貧血するくらいなんです。酒を呑むと血がうすまりますから、これも影響があります。彼女の寿命を、けずるんです。酒は呑ませないでください。それだけは約束してください。彼女に酒を呑ませることは、いくら貴方でも、ぼくが許しません」  ぼくはその言葉に打たれ、顔をひきしめてうなずきました。同時に、ぱッと気が楽になりました。  ぼくたちは二軒三軒と、はしごをして呑みました。 「この前、トシと呑んだとき、羽鳥さん、一軒の店で三十分くらい眠っちゃったんですって」  とベティが、後日になっていうのです。 「ああ、そうだ、そんなことがあった」 「トシがいうのよ、不思議なんだって。トシは強いから、めったにそんなことはないんだけど、貴方が眠ったら、つりこまれて自分も居眠りしちゃったんですって。あれは、うつるのかなァ、って」  トシという男は、なるほど、グレートだわい、とぼくは思いました。  最初の旅は地中海沿岸で、私とベティは向こうで新年を迎えることになっていました。 「な、仕事だから──」  ぼくは元女房がこしらえてくれたトランクを片手に、そんなセリフをぼそっと呟《つぶや》いたのでしたが、彼女はベッドに埋まりこんだまま、固い、ひしゃげた表情をしていました。 「いってらっしゃい。楽しんでくるといいわ──」 「正月はどうやって暮す──?」 「心配することないわよ。あたしは友だちと楽しくやるわ。──だからせいぜい保険でもたくさん掛けていってちょうだい」  そのときはまだ、ぼくと彼女がばらばらに暮していたときで、彼女は赤坂でぼくの荷物を造ってくれ、したがってぼくは彼女の部屋に泊りこんでそこから旅立ったわけですが、彼女の固い表情が頭の中から消えないままに、夜が明けたばかりの表通りへ出ていくと、そこにもう、ベティの乗ったタクシーが停まってぼくを待っているのです。  トシが、空港まで送るといって、一緒に乗っていました。 「どうしたんですか──」とベティがいいました。きっとぼくも、寒々しい顔をしていたのでしょう。 「え、なにが?」 「──すみ子さんは」 「寐てる」  空港で別れるとき、トシが何気ない調子でいいました。 「よろしくお願いします」 「こっちこそ、ちょっとお借りします」  もっともそのときは、経費を節約するために知人の一行に加えて貰って団体切符にしたので、他に大勢連れが居たのです。昼間の行動は我々独自のものでも、行く先々の旅館は二人部屋、男は男同士、女は女同士。それは出発前からきまっていることでした。 「おや、同室じゃないのですか」 「いいえ」 「へええ、奥さんかと思ってたが」 「弟子なんです──」とベティがいいます。「師匠の介添でして」 「──それは結構ですな」  二人が同室でないということを、ぼくはもちろん不満に思っていませんでした。ぼくたちは情緒を味わいに国外に出たわけではありません。たとえ二人だけで旅したとしても別室は当然で、ぼくたち自身も規律にのっとっていた方がすごしよいのです。  その旅の後半、ぼくたちは団体と別れて二人だけでロンドンに行きました。そこでは、ベティは養父母にもなっている叔母夫妻のところに泊り、ぼくは付近のホテルに泊っていました。  当初、正月休みを利用した十日間と思っていたのが、半月以上にもなって、多分、元女房の印象としては、二人が羽を伸ばしているという感じが強くなっていったことでしょう。ベティはトシのところに、折り折り、国際電話をいれて、状況を説明しています。そうしてトシに、ぼくの元女房のところに電話をして予定が伸びたことを説明してくれるように頼んだといいました。 「でもね、すみ子さん、トシのところに来たらしいわよ」 「ほう──」 「喫茶店で、いろいろ話しあったらしいけど──」 「どんなことを?」 「トシは無口だし、国際電話だから、あまりくわしくいわないの。ただ、すみ子さんはベティのことを誤解しているようだ、もう少し長い眼で彼女のことを見てやってください、そう彼女にいっておいたといってたわ」  多分、元女房は、トシがあまり騒ぎたてないのを不審に思い、トシとベティの間に波紋を増させるために、ジャッキを捲きに行ったのでしょう。それと同時に、一人で宙に浮いているような毎日に耐えられずに、同じ渦中に居ると思える男のところに会いに行ったのでもありましょう。  ベティを誤解しないでくれ、というトシの言葉は、そうにちがいはありませんが、あまり解決にならないでしょう。元女房にとってはベティを理解しうるかどうかでなく、ベティが私から離れるかどうかに関心があるだけなのですから。  ぼくたちは夜こそ離れ離れでしたが、昼間は片刻《かたとき》も離れませんでした。ぼくが言葉が不自由なので、かりに離れたくとも離れることができないのです。  ベティは長く寐ていなければ活力をとり戻せない体質なので、昼すぎでなければ現われません。午前中はぼく一人で、電話が鳴っても出ないし、街を散歩してもいっさい口を利きません。だからベティが部屋に現われると救われたような気分になります。それから、ベティをもう休ませなければいけない深更まで離さないのです。 「それで、収穫にはなってるの」 「さァ、それなんだ。自分でもはっきり見当がつかないんだよ」 「心細いのねえ」 「来てよかったことはたしかだ。君に感謝もしてる。けれどもね、これという確かな腹案を持ってなくて、出たとこ勝負みたいなところがあるものだから、いや、まったく目標がないわけでもないんだけどね、どうすれば自分が思っているようなものを取材し感得していけるか、それもわからないんだ。で、結局、出たとこ勝負の中で捕まえられうるものをと思っているものだから──」 「ベティ、よくわからないけど、とにかく、来てよければいいわ」  ロンドンからの安い切符がなかなか手に入らず、結局、週刊誌の仕事に拘束されているぼくが一人で先に帰り、ベティは少しおくれて別の航空会社の便で帰ることにしました。  空港で、チェックインまでの世話をベティが全部してくれます。キャンセル待ちでようやく席をとったため、出発時間がもう迫っていました。 「それじゃァ、ね」 「ありがとう。じゃ、東京で待ってる」  ぼくたちは握手しました。ベティの柔らかい掌が、細く小さく感じられました。  ぼくは長い廊下を歩いて、持物検査の列に並ぼうとしましたが、ふと気がつくと、搭乗券がありません。パスポートはたしかにあります。が、一緒にベティが手渡してくれたはずなのに、搭乗券がないのです。  ぼくは廊下を引返しましたが、日本の航空会社ではなし、ベティが帰ってしまっていたらどうしてよいかわからず、途方に暮れたでしょう。  運よく、ベティが航空会社の人とまだ談笑していました。 「ベティ──」  ぼくは彼女の背中を軽く叩きました。 「切符がないんだよ」 「アラッ、どうしたの、まだ行かなかったの」 「切符が、どこかへ行っちまった」  彼女は呆れたように、つまり、一生つきあうように運命づけられた連れ合いを眺めるような眼で、ぼくを見ました。 「時間がないわよ、とにかく、いそがなきゃ──」  ベテイは航空会社の人に何か口早にいうと、一緒にゲートまで附添っていって欲しいと頼みこみました。それでやっと、ぼくは飛行機に乗れたのです。 「それじゃァ、今度こそ──」  別れしなにぼくはいいました。どうしてか、そんなことが気持を昂ぶらせるものがあったのでしょう、ベティが泣きそうな表情になっていました。  空港から帰宅して、もちろんそのときは一人暮しだから元女房が居ないのは当然ですが、翌日の昼すぎに電話が入ってきて、 「帰ってたの──」 「ああ」 「何故、電話をくれないの」 「うん──」 「気がとがめてたの」 「そんなことはない」  しかし、億劫《おつくう》だったことは事実です。彼女の方も私の部屋へやってはきましたが、土産だよ、といって出したハンドバッグに眼もくれません。 「それで──、お仕事にはなったの」 「──わからないな、どうなるか、やってみなくちゃ」 「そんな程度のことを強行したの。あたしがわるい女房だったから、今度は当てつけにやってるのね」  ぼくたちは続いてアメリカ西部に行きましたが、これも他に連れがありました。ぼくのものした原稿は自分で予期した出来栄えに遠いどころか、他人の評価もあいまいで、要するに読み捨てられているようでしたが、一応毎月連載する約束になっていましたので、約束の期間は、個人的になにがおころうと、ベティとの旅を続行せざるをえないことになっていたのです。  サイパンで、我々ははじめて二人きりでした。そのうえ、ツインが一室しか空いてなくて、同じ部屋に泊りました。これももちろん予期しなかったことです。フロントで、それを定めたとき、ベティはほとんど平生と変らぬ表情をしていました。そうして、横に立っているぼくに、そのことを相談すらしませんでした。  宿帳には、ミセス羽鳥でなく、秘書ベティ・ジェーン・植木、と書きこみましたが。  しかし、外国語ができないぼくは、彼女と同室の方がすべてに都合よかったのです。別の部屋では、電話が鳴ってもぼくは出られないし、誰か部屋に入ってきても処置に困ります。彼女が部屋の中でも一緒なら、ぼくは安心して手足が伸ばせるのです。多分、彼女も前回の旅でそのことを感じていたでしょう。  ぼくたちはサイパンでの四日間、ツインのべッドを使って、朝夕、寐起きしましたが、まったく瞬間的にも情緒が入りこむ余地がない時間をすごしました。ぼくたちは親子か、兄妹という間柄でした。  すぐそばのべッドですやすやと寐ているベティを眺めながら、いかになんでも、こんなふうにお互いに平静で居られるのはおかしいじゃないかと思っていましたが、そうした話題を口にするのがためらわれて、その旅の終りまでぼくは黙っていました。  いよいよホテルを引きあげるというときになって、 「考えてみると、東京の仕事場だって、べッドがついてるんだものね。ぼくは昼間でもしょっちゅうそこで寐ているし、ベティだって長椅子で寐ているときがある。土地が離れてるというだけで同じことだよな」 「そうよ、ふだんと変らないわよ」 「ああ。つまり、その気になれば東京でだって、いくらでも深くなれたんだから」  エジプトでも、中近東でも、ぼくたちはごく自然に、ひとつの部屋をとりました。彼女には、その方が宿賃が安くついてぼくの懐中が助かるという配慮もあったでしょう。  けれども、そうしたことが度重なるにつれ、ひとつの部屋で、何事もなく寐起きしている形が、ある安定を持ってくるのです。  ひとつの部屋で寐起きしていることが普通ではなく、静穏にせよ新鮮に思える間はそれほどにも思わなかったのですが、これが普通に思えてくると、まるで、何年も何十年も年月をへた夫婦が、肉体を触れ合わすまでもなく、当然そこに居るような形でベティが居るように思えてくるのです。ひょっとしたらベティも、ひそかにそのへんを刺激的に味わっているのかもしれないと思いました。 「──トシにわるい。トシに申しわけないことをしている」  と、カイロのホテルでぼくはいいました。 「何故? あたしたち、トシを裏切るようなこと、これっぽっちもしてないわ」 「戒律で、一生懸命それをやらないように努力しているのならいいんだ。ぼくたちは、我慢してやらないんじゃない。そんなこと、どうだっていいんだろう。普通の関係を飛び越えちゃったんだよ、ぼくたちは」 「そういうものかしら──」 「そうだとも。だから気がとがめる。ぼくたちのこの越えた関係は、君とトシとの関係を冒涜《ぼうとく》するものだよ。それから、ぼくと元女房の関係に対しても同じことがいえるんだ」  ベティは、カイロのホテルのディスコルームで、ある夜、珍しくカクテルを註文しました。ココナッツのジュースに、ジンと、もう一種類なにか入っていたと思います。 「あたしが生まれ育ったマウイ島では、皆よくこれを呑むのよ。なつかしいから」  トシに釘をさされていたけれど、そのときは彼女自身の発意だったのでぼくは黙っていました。彼女は二杯おかわりをした後、綺麗な足を翻して黒人やアラブ人たちと踊りました。それからアメリカ人の楽士と親しくなりました。その楽士は、ベティの二度目の亭主である著名なジャズマンの弟子だということでした。  彼女はその夜楽しそうに情念を発散させていました。ぼくは踊れないので、途中で一人でカジノヘ行きましたが、ディスコが閉店する頃、楽士がカジノのぼくのところへやってきて、 「ベティさんとぼくの部屋でパーティをやってます。ジャズのレコードもたくさんあるし、お酒も、ハッシシだってありますよ。貴方も来てください」  彼は手真似もまじえてそういう意味のことをいい、部屋番号を教えて姿を消しました。  ベティは彼を気に入ったんだろうか。ぼくの心の中で、すっとどこかが軽くなったような気がしました。それは本当です。ぼくの彼女に対する気持とは関係なく、すっと軽くなったのです。彼女が気散じをするのをぼくも望んでいるような気持がありました。それから、逆に、トシのために、彼女の気散じをある点までで喰いとめねばならぬと思いました。トシのためにでしたが、トシのためだけだったかどうか。  ぼくは何度か思い返したりしながら、結局、おそい時間に楽士の部屋を訪ねました。ベティは椅子に埋まって眠そうな顔つきでレコードをきいていました。薬が効いていたのでしょう。楽士の方は逆に、饒舌《じようぜつ》になっていました。  彼女たちの間には、薬と音楽と、ただそれだけしかないように見えました。ぼくが現われてしばらくすると、 「本当に眠くなったわ。おやすみなさい」  ベティはそういって立ちあがりました。楽士もとめませんでした。 「おやすみ、そのうち東京へも仕事で行きますよ」 「ええ、また会いましょう。いい夢をね」  そういって私たちは部屋へ戻りました。  元女房は、その頃すでに赤坂のマンションをひき払って(ぼくは移転費用ばかり負担していることになります)ぼくの新居に合体してきました。  彼女は、本当に心から、ぼくとの結婚生活をやり直そうとしていたようです。だから、すぎ去った六年間のどの時点かに立ち戻って、今度は甲斐甲斐しい女房として新出発をしたい。彼女なりの決意と未来図を心に描きながらやってきたのではありますまいか。  けれども、それは無理なのです。  別れたときから、ぼくの方にも新展開があって、仕事場ができ、相棒のベティの存在があり、出費にしたがって仕事の量が増えているために、連日、深夜にならなければぼくの身体があかず、仕事場に泊りこんで彼女の居るマンションの方に帰れないこともしばしばなのです。  ベティが日計表をつけているため、ちょうど会社の経理部門のように、出納事務もベティの手に移り、せっかく元女房が決意だけしてきた主婦らしい仕事は、ほとんど手を出す余地がないのです。彼女の持ち場としては、新しく移ったマンションの方の飾りたてと、家事。  端的にいえば、元女房としては身をもって、ベティをぼくのそばから駆逐するために戻ってきたといえましょうが、現実には、ぼくとベティとで固めた体制のわきに、ぺたりと貼りついたような恰好になってしまったわけでした。  当然、彼女としては、じたばたします。  しかしまた、ぼくの方としても、家計の切り盛りを彼女の手に戻すわけにはいかなかったのです。六年間、何度いっても家計簿さえつけられなかったのですから。  ガス、電気、水道、地方税、そんなものの払いが、彼女にまかせれば、たちまちいつもとどこおってしまって、電話などはしょっちゅうとめられています。  日計表は、彼女の手に戻したら三日でほうりだすにきまっているので、税理士がどんなに嘆くでしょう。 「じゃ、永久に、ベティと暮すつもりなの」 「先のことはわからない。しかし、たとえベティが居なくなっても、家計は君にはまかせない」 「ベティにうまくやられてるんだわ。あれはおそろしい女よ。トシと誠ちゃんを両手であやつって。今、ベティと誠ちゃんが一番幸せね。両手に花なんだもの」 「君は、俺をベティにとられたように思ってるが、そうじゃないぜ。君が居ない間に現われて、代理ママをやりだしたんだ」  ぼくたちがエジプトから帰ってきたあと、元女房が、ぼくの仕事場に不意に現われたことがあります。  彼女はまっすぐベティに向かってこういいました。 「よかったわね。カイロじゃお楽しみだったんですってね」 「──どういうことですか、それは」 「ギターのアメリカ人、いい男だったんでしょう」  ベティは唇を噛《か》みました。  ぼくが住居の方で元女房と向き合っているとき、つい、彼女の凝り固まった気持をときほぐそうとして、そのための効果のあがる話だというふうに思っていたので、 「ベティが珍しく、アメリカ人の楽士に気を持ってね──」  というふうな話し方で、当夜のことをしゃべったのです。 「そのとき、俺は、もし本当にベティが気を持っているのだったら、同行者として、トシのために制止すべきか、それとも大人なんだからそこまで介入せずに居るべきか、迷った──」  もちろん、すぐに、結局それはベティの軽い旅情の現われにすぎなかったと言い添えたのですが、元女房はそんなことはほとんどきいていません。  仕事場のキッチンに入って、汚れた茶碗を洗っているベティに、元女房は追いかけるようにキッチンに入っていき、 「あたしは彼の女房よ。少しは女房の顔も立てなさいな」  といったそうです。  それはまことに彼女らしいストレートで荒っぽい戦法ですが、ベティはほとんど相手になりませんでした。ずっとあとで、何かの折りに、 「羽鳥さんの元奥さんでなかったら、あのとき、彼女を殴っていたわ」  元女房がゆきついたところは、結局、元女房としてサボタージュすることでした。で、別居前とまったく同じことになったわけですが、今度は、ぼくがほとんど一緒に居ないので、一人相撲にならざるをえません。 「君もほんとに、かわいそうな女だな。客観的に見て、薄幸だね」  ある夜、ぼくはつくづくいいました。 「同情してもらわなくたって結構よ。誠ちゃんこそでしょう。ベティはトシとわかれないし、あたしは誠ちゃんを愛したことなんか一度だってないし」 「うん──」 「ほんとよ。愛してなんかいないのよ」 「わかってる。君は自分じゃ誰も愛さないよ。そうだっていいじゃないか。そうしたいんだから。それならそれでそこに自信を持てよ。くそ自信でもいいから」  ニューヨークのホテルのフロントで、ベティははじめて、秘書でなく、ミセス羽鳥、と宿帳にサインしました。  ぼくはそれを、やはり横でだまって眺めておりました。 「アメリカ本国では、やかましいのよ。観光地のようなところを除いて、夫婦以外の男女が同室をとることはできないの」 「パスポートを見れば、君の名前はちがうぜ」 「パスポートをフロントで見るわけじゃないもの」 「何か事があってパスポートを見せると、我々は恥をかくわけだな」 「そのときはそのときよ。やかましいといったって、ホテルは信用のために建前にしてるだけなんですもの」  むろん、我々に新展開があったということではありません。ミセス羽鳥、と宿帳にはじめて記したことそれ自体が、新展開として刺激をおぼえる、といった程度です。  ぼくは、よっぽどのことがないかぎり、ぼくの方からは元女房を離さないつもりです。彼女の立場は、どう振舞っても損な役どころで、今のところオールマイナスの気に満ちていて、当事者のぼくすら、息のつまる思いがするくらいです。 [#改ページ]   妻の嫁入り  ある夜ふけ、歩いて十分ほどの距離にある仕事場から、元女房と私の住いということになっているマンションの四階にトコトコ昇って、ポケットの鍵で扉を開けましたが、無人の感じが濃いのです。  腕時計を見ると十二時すぎ。彼女の夜遊びは今にはじまったことでなく、型どおり結婚していた頃から珍しくもないので、今さらおどろいたわけではありません。  いったんはあがって、風呂の用意をしかけたのですが、ふと思いついて、近くの盛り場にある昔なじんだ小さな酒場にでも行って、一二杯呑んでやろうという気になりました。  サンダルを突っかけたままの姿でその酒場に入っていくと、隅のボックスに居た中年の夫妻らしき客がしきりに笑顔を送ってきます。ぼくはカウンターの前に坐ったばかりでしたが、その笑顔を認め、一瞬、都心で画廊を経営している大阪さん夫妻だと気づき、立ってその席の方に行きました。 「──羽鳥さん、奇遇ねえ。貴方もこの店にいらっしゃるの」 「昔ね。もう七八年ぶりです」 「すみ子さん、お元気?」 「──ええ、まァ」  ぼくは意味のない笑顔を浮かべました。大阪さん夫妻とは、ぼくも交際がないわけではないが、どちらかといえば大阪夫人とすみ子の交友が濃いのです。  すみ子が可愛がっている犬のうち一匹が、大阪家に移籍しています。  元女房はにぎやかなことが好きなので、というより、にぎやかでない時間をうまく過ごす習慣がうすいために、知人の小パーティや寄り合いに顔を出すことが多く、交際も多岐《たき》に亙《わた》っています。ぼくがそういう女の世界に関心を示さず、また同行してもひきたつような亭主でもないので彼女はいっさい単独行動ですが、しかしもともとぼくの交際範囲を根にして拡がっているので、おおよそはぼくの顔見知りであることが多いのです。  大阪夫人ともそういう交際の中のひとつでしょう。大阪夫人は中年にはなっていましたが美人で、男まさりというか、諸事積極的な人で、すみ子は不思議に美人ばかりを好きになるのです。そうして、そういう友達と別れて家の中で一人でいるときは、反動的に気持がひどく落ちこんでしまうのです。その落ちこみが耐えがたくて、そのうちの誰かと電話の長談義がはじまるのです。  実際、彼女の長電話は、彼女の長所魅力とはまたべつに、周辺からうとまれていました。女の電話というものは多くそうしたものかもしれませんが、自分の切迫した話題ばかりを際限なくしゃべって他人の時間を奪うからでしょう。相手が男だったり仕事を持っていたりすると、いいかげんのところでつきあいきれなくなってそういう意思表示をするので、彼女は一度たしなめられたりするとふっつりとその相手を敬遠して近寄りません。  大阪夫人はわりに相手になってくれるようで、だから、すみ子から、彼女流に潤色《じゆんしよく》された情報が伝わっているな、と思いました。 「羽鳥さん、駄目よ、冷たくなさっちゃ、奥さん、泣いてるわよ」 「そうですか」 「お宅へほとんど帰らないんですって」 「実は、彼女とは、別れたんです」  大阪夫人が驚いた表情になりました。 「──そんなことおっしゃってなかったわ、奥さんは」 「ええ、別れたけれども、また一緒に居るものだから、つまり、同居しているものだから、表面上かわったところはないといえばないんですがね」 「──ご夫婦のことはよくわかりませんけどね、だから、弾劾《だんがい》しているわけではありませんのよ。でも、ご一緒に居られるくらいなら何故お別れになったの」 「別れた理由は一言でいえないまでも、ある程度固まっているんです。ですが、どうして一緒に居るのか、ぼくにもよくわからないんですよ」 「そんなのってあるの」 「あるんです」 「でも、結局は元どおりにおなりになったと思ってよろしいわけね」 「それがちがうんです。お互いに、もう絶対に夫婦にだけはなるまいと思ってるんです。そのうえで同居しているので、元どおりにおさまったわけじゃないんです」  大阪氏は完全に傍観で、ウイスキーをなめているだけです。男はこんな場合、いろんなことがあらァな、といって終りにしてくれるんですが。 「じゃあ──、酔ってるから失礼なことを訊いちゃうわよ。混血《ハーフ》だという女の人とは、どうなの」 「ベティですか。仕事の相棒です」 「恋人じゃないの」 「人妻ですよ。亭主も友人で、ぼくの仕事部屋の隣りに住んでるんです。そういう関係ならば、まずあちらの夫婦にひびが割れるはずでしょう」 「こちらのご夫婦はひびが入ってるわね」 「しかし、順序が逆なんです。我々がひびが入ってから現われたので」 「順序はよろしいけど、すみ子さんは、電話では、ベティにとられたといってるわ」 「そう思ってるでしょうね。その方が楽だから」 「実際はどうなんですか」 「かりにそうだとしても、自分で妻の座を放棄しておいて、そういう権利はありませんね。しかし、実際にはそうですらないんです。ぼくか彼女かどちらかに、女、或いは男ができてじゃなくて、ただお互いに、夫であり妻でありえなかったんです。元女房が今になってどうとりつくろおうと、それは事実ですよ」 「でも、奥さんは、別れたくないんじゃないの」 「今はそうかもしれません。自立するのは相当に大変なことだと思ったでしょうから」 「一時の気の迷いだったわけね」 「一度やっちゃったことは、気の迷いですむこととすまないことがありますから」 「そうですけれども、女よねえ、気の迷いが多いのよ」 「それは認めますが、ぼくの方も仕事がありますし、ただじっと彼女のためにだけ、都合を合わせるわけにもいきません。それなりの手を打たなければね。離婚した時点でぼくは自由で、元女房に遠慮することはなにもなかったわけです」 「それじゃァ、またご一緒にいらっしゃるのはどうして?」 「ええ、そこなんですよ。もちろん、彼女が舞い戻ってきたときに、拒絶することもできたんですが、だまって受け入れざるをえませんでした。彼女の一人飛行が危いのは眼に見えていましたし、墜落するのを見たくもありませんでしたから」 「あわれみ、ですか」 「そうです。しかし、そうばかりでもないんです。ばかばかしい、或いは、いい気なもんだ、ととっていただいてかまわないんですが、別れたとたんに、すっぱり断ち切れないものをぼくも感じたんですよ。結婚生活を続けるのはまっぴらだが、というより、そう立派な形は続けられないが、かといって執着がないわけではないんです」 「勝手ね。男の人ってほんとにエゴイストだわ」 「ええ。勝手はお互いさまなんです。僕は自分が立派で彼女が半人前だなんて思っていません」 「変ねえ、貴方たちって。じゃ、最後に、あたしは女で単純だから、整理するために伺いますけれど、羽鳥さんは、すみ子さんを、愛していらっしゃるの、いらっしゃらないの」 「愛っていうと、どうもぼくはその言葉は苦手なんですが、照れずにいえば、きっとこれ以上そうするのはむずかしいほど愛してるんでしょうね。彼女を相棒にして生活する気はまったくないのに、食客に近い形でおいておくくらいですから」 「それじゃ、混血のその人妻という方は?」 「これも、現在のところ、夫婦になるというような段どりはまったくつけておりませんし、その意志もありませんが、ぼくにとって特別な人であることはたしかですね」 「そんなことが許されますか」 「許されそうもないようなことは何もしておりませんよ。元女房との離婚は完全に合意でしたし、ベティの方とは手も握っておりません。──もっとも、そう主張して、あっけらかんとしているわけでもないのですが」 「──ねぇ」  ぼくが寐ているベッドのそばに来て、元女房がいうのです。 「──ねぇ、誠ちゃん」  ぼくはうす眼をあけます。この瞬間が彼女にとっておそらく一番不本意な刻《とき》なので、その感じは見なくともわかるのですが、 「──お金を少し、頂戴」  ぼくはだまって、財布を持ちだしてきて、なにがしかを手渡します。固い、ひしゃげた表情になってお金をつかんで、身をひるがえすように部屋を出ていく彼女を見ていると、苦笑まじりにぼく自身の子供の頃を思い出すのです。  毎日定めて貰う小遣いがどうしても足りなくなってしまって、自分ではケチケチ工夫して使っているつもりでも、どこか底が抜けていて、それにどうしても必要なことが多すぎて、それでも他にどうする当てもなく親に頼らねばならない。あの瞬間のいやな感じ。  多分、彼女もそれに似た気持でしょう。彼女はもう子供ではなく、年齢的にはいっぱしの大人なのですから、日常の他の部分では、一人前のことをいうのです。 「誠ちゃんが、パッパッ使うんだから、あたしだって使う権利があるわ」  とか、 「あたしだって、自分の世界というものがあるわよ。おつきあいもしなくちゃならないし、いろいろとお金もかかるのよ」  その他、自分はただ従属しているわけではないんだ、という気持をいろいろの機会に表わします。  それを、ぼくは否定したことはありません。しかし、ぼくが否定しようと肯定しようと、彼女の財布が空になったときに、否応なしに、お金を貰いにぼくのところへ来なくてはなりません。彼女にすれば、日常でどんなに自立しているようなことをいっていても、その瞬間、誇りがみんな崩れおちてしまうわけで、これ以上いやな気分はないでしょう。  ずっと以前、なにか気にいらないと、三日も四日も口をきかない、ひとつ家の中で顔を合わせもしない、そんなことがよくありましたが、その最中に、財布が空になってしまうことがあって、彼女の気持のうえでの建前を、一瞬、犠牲にせざるをえません。  ぎりぎり歯を噛みならすようにして、ぼくの前に出てきて、 「お金、頂戴──」  口惜しさと困惑の入りまじった彼女を、うっかりぼくが噴きだしたことがあって、そのときは顔をまっ赤にして怒りました。 「悪かった。笑ったのは悪い」 「殺してやりたいわ。悪魔ね」 「子供の頃を思いだしたんだ。俺も子供のときにそうやって怒ったことがあるよ」  こう記すと、家の中の経済を一手にぼくが握って、女房を身動きさせないようにしているかのようですが、それとも少しちがうのです。ぼくは自分が放縦だから、財布を管理することなど不得意でまた負担にもなります。相棒に託せればそうしたい。現に、今は仕事場の相棒であるベティに管理をしてもらっています。  ぼくは無名の週刊誌ライターですが、一応フリーランサーだから収入が一定していません。たとえ放縦でも、出銭をそのときどきの収入と見合わせなければならない。ぼくの家の財布を預かるには、ぼくと心を合わせて、時々刻々の状況を頭に入れておく必要があるのです。  それからまた、月給取りとちがって、収入全部を生活費に廻すことはできません。収入は商店でいう売上げなので、宣伝費、社交費、材料費、その他死金とはいえない無形の出費が重なるのです。ぼくは才能もすくないし、他人を納得させるような肩書もなく、わずかに営業に熱心だというだけで、これまでなんとかしのいできたのです。それらのことに無関心な者には財布を託するわけにはいかないのです。  そのうえ彼女自身に計画性がまったくありません。結婚していた六年間、彼女の主体的な責任感を養うためにも、何度か、ひと月分の生活費をまとめて手渡すこともやりました。いつも、月のなかばぐらいになると、お金、頂戴、がはじまるのです。  ひと月分を三つに割って、十日ごとに渡していた時期もありました。これはもう、そのルールが無いも同然で、彼女の財布にいつだって、お金がないに近いのです。 「ガス代の集金が来たわ」 「うん──」 「ないのよ」 「ないって、ガス代だの電気代なんてものは毎月一度のものだろう。そのくらいの分をわけておいとかなきゃ駄目じゃないか」 「だって、この十日間にくるか、次の十日間にくるか、わからないじゃないの。それに暖房費がかかるから、ぐっと高いのよ」 「うん。しかし冬になったらガス代分だけ収入が増えるわけじゃないんだから、君は他の出費を減らして、その分を暖房費に──」 「いいわよ。来月まで待ってもらうわ」 「おい。来月になったらどうするつもりだ」 「そんなことより今の問題よ。出すの、出さないの」  仕方がないから、ぼくは自分で立っていって払ってきます。 「守銭奴《しゆせんど》ねえ、誠ちゃんは。あきれたわ」 「守銭奴のわりには金がないな。借金ばかりある」 「それは誠ちゃんが悪いんじゃないの。あたしはそんなに大きなお金は使わないわ」 「まァね、俺もたしかにえらそうなことはいえない。しかしね、実際の話、二人のうちどっちかは守備に廻らないとな。二人でエラーばかりしてたんじゃお話にならん。それなら一人は不要ということになってくるな」  ぼくのいいかたも意地悪にひびくのでしょうが、彼女はひどく口惜しそうな顔つきになって、 「女がお金を取ってこないので、馬鹿にするのね。男がしたくないことばかり女にさせて。あたしはなにも、誠ちゃんに縛られていたいってわけじゃないんですからね」 「じゃ、どういうつもりで居るんだ」 「女だもの、外で働くようには育ってきてないもの。しようがないから居るんじゃないの」  ぼくたちの結婚生活を通じて、彼女が家庭経済の実権を握ることはありませんでした。もちろん彼女はたびたびそれを望みましたが、ぼくは許しません。離別後、復帰したときには、すでにベティが仕事部屋の方に居て、税務署に提出するための諸経費日計表を作製していましたし、銀行通帳からの出し入れなどもベティの手を通じてする仕組みになっていました。その日計表は、家庭経済の方に流れる金も洩らさず書き止めましたから、彼女がいくら使ったかも、ひと眼でわかるようになりました。  ガス、水道、電気、家賃、その他銀行を通じて払うようなものは、いっさいベティの手でおこなわれます。ベティはただ私の代行をしているだけで実権を握ったわけではありませんが、元女房の眼にはいかにもそう映るらしいのです。そうしてそれが、ぼくの愛情のバロメーターのように思ってしまうのです。 「ひどいじゃない、ベティには通帳から印形《いんぎよう》まで預けるくせに、あたしには一銭も使わせないのよ。ひどいと思わない」  などと彼女は来る人ごとに訴えます。彼女の友人の中には本気で憤慨する人も居て、 「やっぱり虐待の一種よ。すみ子さんが居《お》りながら、外の女性に財布を預けるなんて」  本間夫人という、やはり八頭身のすばらしい美人に難詰されたことがあります。 「ええ、ぼくも、元女房がやってくれるなら一番助かるんですよ。外の女性に家事を頼むには、それだけのギャラを払わなければなりませんからね」 「じゃ、何故そうなさらないの」 「彼女が、手続きを示さないからです」 「手続きっていうと」 「あれが欲しいといって泣くだけなら赤ン坊です。大人なら、望みを達成するためには、それだけの手続きをとるのが当然でしょう」 「この場合は、どういう手続きをとればいいんですの」 「たとえば、家計簿をつけるとか。彼女はとうとう家計簿も、税金対策のための帳簿も、六年の間一度もつけることができませんでした。家計簿がつけられないならば、せめて、予算の概要を想定して提出するとか、彼女の実績からいって、そういう手続きというか、今までとはちがう決意のようなものを形にして示さなければ、任せる気になりませんね。それが人間関係のルールのような気がするんです」 「それじゃ、その手続きの仕方を教えてあげてくださいな。すみ子さんはそういうルールを知らないんですから」 「試験官がこっそり解答を教えるんですか。まァそれもいいでしょう。そこまで庇護《ひご》を加えるとしましょうか。けれどもそうなれば、ぼくと彼女は庇護者と被保護者の関係ですよ。五分と五分という関係じゃなくなる。それも彼女にとっちゃ不本意なんでしょう」 「でも、どうせ五分五分とは思っていらっしゃらないんでしょう」 「それは、現実にはいろいろの面での力関係がありますからね。しかし原則的には五分五分だと思っています。原則ですでに不平等になっているなら、ぼくもおおいに反省の要ありですが」  しかし、実のところ、彼女は家計そのものには無関心なのです。ベティという存在が自分をさしおいているように思えるのが口惜しいのと、お金を頂戴、という屈辱的なセリフをいいたくないためと、この二つの悪い条件をなくすために家計を手に入れたいだけなのです。  だから本間夫人から示唆されたかもしれないが、手続きはおこなわれません。そうして、ここがもっとも馬鹿馬鹿しいところなのですが、お金を頂戴、というセリフを間遠にするために出費をセーブするというわけではないので、三日にあげず、表情の失《う》せた顔つきになってそのセリフが出てくるのです。  かりにぼくが出金をセーブしても、どこかで借りてきてしまうのですから、結局、彼女にとって必要な金額は(彼女の理想には達しないとしても)、どんな形をとろうとも、流れ出ていってしまうのでした。  ぼくはあいかわらず、一日の大半を仕事場ですごしておりました。  二所帯分の経費を稼ぎだすために、売文の量を増やさねばならず(こうした世界では単に量を増やすことが収入増に直結するとは限らないのですが)、表面の理由はそういうことにしていましたが、仕事は、住居の方に持って帰ってできないことはありません。  ぼくにとって、仕事場の方がいろんな意味で居心地がよいのです。ベティは、とにかくぼくの仕事を立てて、それに沿うような形で居てくれますし(アシスタントを買って出てくれた以上、当然のことでしょうが)、もちろんぼくが仕事場に居る間じゅうそばについているわけではありません。彼女の家庭に戻っていることも多いので、それがいいのです。ベティが亭主のトシのところに居るのは当然で、なにも不思議なことはありません。  これが元女房の場合だと、彼女はムラで、そのときの気分によって一生懸命つくそうとしてくれたり、またひどく冷淡になってしまったりするのですが、いずれのときも住居の中に居るのです。部屋がちがっても、その存在の気配は消えません。また外出するとしても、住居以外に当然居る場所というものはないわけですから、どこに行って何をしているのかが気になります。  ぼくは仕事のためと称して(事実仕事をしているのですが)、仕事場に泊りこんでしまいます。けれども、二日続けては泊りません。二日目には、時間はまちまちですが、元女房の居るマンションの四階にトコトコ帰っていきます。お義理ではなく、そうしたいのです。帰ってみれば不愉快な成行きになることが多いのですが、なんだか、戻ってやりたいのです。 (──どうも俺は、とんでもなく贅沢なことをしているらしいぞ)  そう思います。平凡に学校を出、他に抜きんでる能力があるわけでもなく、いいかげんでうさんくさいような仕事を乱発して、その場の小技巧で世間を渡っているような男が、いつのまに、こんな贅沢を当然と心得るようになったのでしょう。 (──そのうえ俺は、わがまま勝手をやっているようだ。結局は、自分の立場だけを尊重してことに当っているのだから)  ぼくはどんなときにも、仕事を最大の建前としてすごしてきました。いいかげんでうさんくさいと自認しているような仕事ですが、だからこそ、ガラス細工のようにこわれやすいもので、ちょっとの油断や手抜かりがあっても、失調してしまう種類のものです。  ぼくは、仕事を建前とすることが、結局、配偶者のためにもなるのだと思ってきました。そうして、あたかも人生には別種の建前があるのだという調子で生き、そのことはよいとしても、それでいながら別の建前の男と家庭を持とうという女の甘えを軽んじていました。元女房の幼い身勝手さのせいで、ぼくの身勝手はあまり目立たず、ぼくはいつも説教師のような役割を家の中で演じており、そのうちにぼくの建前はいやがうえにも揺るがなくなってきたようです。  もともと、ぼく自身、本質的には彼女と五十歩百歩の人間だと思っていたのです。いくらかちがうという幾つかのポイントがあって、そこが、彼女を軽んずる原因になっているのですが、たとえば、甘ったれ、というポイントにしても、女の甘ったれ方と男の甘ったれ方、というちがいだけなのではありますまいか。  ぼくは、自分にとって役立つような女を配偶者に求めていました。いうならば、ぼくの建前に沿う女です。結婚するのはそのためで、それ以外に配偶者など必要でないのです。そうして女もそうでした。自分の建前に沿う男を求めていました。そうならお互いさまで、そこに何の不思議がありましょう。  お互いに自分の建前に固執して二人三脚はうまくいきませんでした。当然、別離のときを迎えて、それだけの話であるはずです。  ではなんで、別れたあと、ぼくは追っかけていったのでしょう。彼女が戻ってきたとき、拒めば拒めたのに、けっして長くは続かない関係と思いながらずるずると同居してしまったのは何故でしょう。  身体でいえば、古女房の馴染《なじ》んだ身体の、馴染み加減のところに捨てがたいものを感じていたようです。気配でいうなら、彼女の何気ない声音、動き方、息の匂い、そんななんでもない部分すべてとたち切れてしまうのが辛いのです。それらはいずれも建前と関係がありません。ぼくは臆病で、容易なことでは他人と深く関わろうとしない男です。ぼくと元女房は、建前以外の海の底のような部分で断ちがたいつながりができていたといえましょう。  では、結婚解消はまちがいだったのか。いやいや、ぼくの身勝手な立場でいえば、この結婚はなんの果実もつけなかったし、続行すればなおさら不毛になっていくでしょう。  ある夜ふけ、ぼくが住居に帰ってくると、元女房が、彼女の犬たちと一緒に居間に転がって、つまらなそうにテレビを見ています。  ぼくは自分で茶を入れ、彼女のそばに坐りました。 「なんのテレビだね」 「宇宙人が地球を攻める話よ。毎晩おそくやってるの。つまらないんだけど癖になっちゃってね。これ見ないと眠れないの」  彼女は、そのテレビドラマの二枚目ふうの主役を指して、魅《ひ》かれているのだ、といいました。それはよく見るまでもなく、安手な風貌《ふうぼう》をした役者でした。 「妙ね。ちっともよくないでしょ。それなのに毎晩見るせいかしらね。馴染んじゃったわ」  そのテレビドラマが終ると、彼女はこういいました。 「誠ちゃん、あたし、働きに出るわよ」 「──そうか」 「毎日、誠ちゃんとベティが一緒に居て、あたし一人で待ってるなんて、耐えられないわ。もう決めちゃったのよ。──いい?」 「──もう決めちゃったんだろ」 「友だちが経営してるブティックでね、人手が足りないんですって。店長でやってみないかっていわれたんだけど、勝手も全然わからないし、当分見習いってことで、一日おきに週三回、行くの」 「──ブティックか」  彼女は性格がムラなので、外見とはちがい、客商売には向いていないと思われますが、唯一、装飾品や衣服の見立てなどは好きで、当今の世間一般ぐらいになら通用する程度の眼もあるようです。将来、彼女が自立するとして、両親の力で店を出すとしたら、ブティック以外にないでしょう。 「まァ、やるなら将来のことも考えて、店のやりかたを覚えるんだな。それと、飽きたからやーめた、ってのはみっともないぞ」 「十一時から八時まで、ですって。本当はもう少し長いらしいんだけど」 「場所は──?」 「自由が丘」 「だいぶ遠いじゃないか」 「そう遠くもないわよ。一時間五百円なの」 「一日九時間として、四千五百円か」 「ええ──」 「まァいくらでもいい。働いてお金を貰うってことがどういうことか、わかるだろう」  ぼくは、ニヤニヤしました。 「なにがおかしいの」 「いや、──週三回で、つまり月に約十二日だろう。するとひと月五万円足らずだ」 「稼ぎがすくないから、軽蔑するのね」 「いや、軽蔑なんかしない。ただ、君の今までの小遣いの額とじゃ、月とスッポンだ」 「最初は仕方ないわよ」 「そりゃそうだ、しっかりやれよ」 「ベティには、いくら払ってるの」  ぼくは真顔になって、だまりこみました。この質問は剣呑《けんのん》です。 「その月によってちがうんだよ。礼金に近い性質のものだから」  彼女は珍しく、それ以上追及してきませんでした。 「それでね、──お金、頂戴」  スパッと、わりに明るくいいました。 「靴を買うのよ」 「靴なんか、君は山のように持ってるじゃないか」 「通勤用の靴がないのよ。まさか、夜会用の高いヒールで行けないでしょ」 「そんなもんかね」 「いいわよね。あたし、働くんだもの」    ぼくは、彼女のブティック通いについて、いっさい傍観することにしました。  邪魔はしない。しかし応援もしない。  これまで式の説教師流にいえば、彼女の自立の芽は、庇護してはいけないのです。月五万円ではほんの芽にしかすぎないから、生活の根底はぼくがこれまでどおりみるのですが、あくまでも彼女自身がその芽を育てるべきなのです。  が、ぼくの本音をあけすけにいえば、勝手にしやがれ、でした。  毎日孤立している感じが辛いことはよくわかりますが、だからといって、ここで外に働きに出て、家の中のことを捨ててかかれば、ぼくと彼女の関係が好転するとはとても思えません。このことで彼女がより以上に損な立場になったとしても、俺のせいじゃないぞ、というわけです。  またもうひとつの考えとしては、しかし、結局はばらばらになるわけなのだから、外に向かう彼女の衝動は喜ぶべきことに思わなくてはなりません。  初回と二回目は、緊張したままにすぎたようです。三回目の出勤日に、ぼくの朝昼兼用の食事をつくっているうちに、時間がきてしまって、 「おい、行かなくていいのか」 「だって、食事は喰べるんでしょ」 「いいよ、あとは俺がするから、行けよ」 「どうせもう遅刻よ」  彼女は悠々と出て行きましたが、その晩、仕事場の方に電話してきて、 「店長に叱《しか》られちゃったわ。甘ったれちゃいけないって」 「そりゃそうだろう。そういうよ」 「ところで、お金、頂戴ね」 「なんだい」 「女店員の人たちとお昼を喰べに行くでしょ。あたしは新米だから、おごっちゃうもの」 「新米はおごらなくてもいいんだ」 「だってあたし、年上なんだもの。もう電車賃ぐらいしか残ってないわよ。今夜、帰ってきてね」 「君は働いてるんだろう。だったら小遣いぐらい、自分のギャラの範囲でやったらどうだ」 「わかっちゃいないわねえ。給料は月末なのよ。月末までどうするのよ」 「どうするって、勤めはじめは皆そうなんだよ。できるだけ倹約して給料日を待つんだ」 「冗談じゃないわよ。あたし、遊んでるんじゃないのよ」  ぼくは、受話器をおいてから、ベティに向かっていいました。 「おい、えらいことになってきたようだぞ」 「どうしたの」 「元女房どのは、試行錯誤がはげしいからなァ。働きだしたとなったら、錦の御旗をかついだみたいに、なんでも許されると思っている」  その次に住居の方に帰ってみると、布団に横たわって動かないのです。一日じゅう店土間に立っているので、両足が腫《は》れてきたのだそうで、 「たとえいくらでも金を貰うってことは、なかなか大変なものだろう」 「うん、よくわかったわ。容易なこっちゃない」  こういうところは素直でいいのですが、いささか素直すぎるひびきがあって、また次に何をいいだすかと思わせます。 「熱い風呂に入って、よく足をもむといいよ」 「もう動きたくない」 「湯を出しといてやろう。それともマッサージでも呼ぶか。もっともマッサージにかかると、それでもう日当の半分ぐらいなくなっちゃうんだからな」 「本当ねえ。もう無駄使いできないわ。外で昼御飯をたべても千円や千五百円はすぐ出ちゃうものね。お店じゃもちろん出してくれないし、御飯を喰べに行ってる間、時間給から引くんですって。今度からお弁当持ってくわ」  その気持はよいけれど、翌《あく》る朝はなかなか起きられなくて、弁当をつくるどころか、マンションの前からタクシーをひろって駈けつけるという騒ぎです。  それからまた三日ほどたって、 「あたし、変ったでしょう」 「うむ──」 「夜遊びしなくなったでしょう。ばからしいわよ、友達の行くとこ、ちょっと坐っただけで五千円なんだもの。よくあんなところへ行くわね、みんな」 「夜寐て、朝早く起きた方がいい」 「そうね」 「健康にだっていいさ」 「あたし低血圧だから、朝が辛いのよ」 「朝ったって、君のは重役出勤みたいなもんなんだから」 「お金おいてってね、誠ちゃん」 「いきなり、なんだまた」 「明日は早いのよ。お店が開く二時間前にみんな出て、模様替えですって。ペンキ塗りまでさせられるのよ。そんなのペンキ屋に頼めばいいのに。それで時間給に入らないんですって。ひどいと思わない」 「そういうこともありうるだろうな、個人商店なんかじゃ。君の実家だってお店で、使用人がたくさん居るんだろう」 「うちは時間給なんかじゃないもの」 「いや、アルバイトなら時間給だろう」 「とにかく、明日はタクシーで行かなきゃ、おくれると店長がおこるンだもの」  タクシー代が片道で千何百円とかかるのだそうです。 「どういうこっちゃ。タクシーで往復して、昼飯を喰ってたら、日当が飛んじまうじゃないか」 「そんなこといってられないわよ」 「結局、俺から出てる金だけ、損という形かな」 「ケチねえ。せっかくあたしが一生懸命やろうとしてるんじゃないの」 「いずれにしても、君が損するわけじゃないというところが、不思議だな」 「でも、あたしはもう家の中のことはなんにもできないわよ。喰べ物なんかも買っておけないから、お腹《なか》すかして戻ってこないで、外で喰べてきてよ」  そうなると、仕事場の方で食事もすますことになり、住居の方に帰る必要がなおさら減ってきます。仕事の能率からいえば、一カ所で動かない方がいいのですから。  下着を替えるのと、風呂場が住居の方が広いのでゆっくり浸《つか》るために、たまに住居に帰ると、彼女が、ひしゃげた表情で、へたりこむように転がっているので、あ、かわいそうなことをしてしまったな、と思うのです。  帰宅して、無人の家というのはわびしいもので、以前彼女がよくぼくにそれを味わわせていたのですが、なんであれ外で働いてきて、帰ってくると一人ぽつんと寐転がっているだけという状態は、もともと一人暮しではないだけにこたえるでしょう。  多分、友だちと長電話などしているのでしょうが、たしかに彼女はあまり外出しなくなりました。彼女の体力では、働きに出るだけで精一杯なのでしょう。 「週三回じゃ駄目だって、店長がいうのよ。毎日出てきてくれって」 「ははァ、そうすると、今は毎日、行ってるのか」 「ええ。それでお店が閉まるまで居るのよ。十一時頃まで。だから家へ帰ってくると十二時よ」 「ふうん──」 「女店員が居つかないはずよねえ、あの店。あたしもときどき休んじゃうんだけど、だから月末に、いくら貰えるんだかわからなくなっちゃったわ」  まァ何にしても、ぼくが口を出す筋合いではありません。彼女の経験だし、彼女の自由意志です。 「お店の休みはいつなんだ」 「それが年中無休なのよ。店員は交代で月二回、休むことになってるんだけど、あたしはふだん休んじゃってるから」  その翌日、ぼくが起きだして風呂に入ろうとしていると、彼女が寐床の中から、 「もう、行くの?」 「いや、今日は珍しく仕事がないんだ。家で寐てるよ」 「あたしも、休もうっと」 「じゃ、こっちへ来て寐ろよ」  彼女は犬と一緒に、テレビの前に布団を敷いて寐ているのです。 「またァ、いやなことするんでしょ」 「君がいやならしないよ」 「いやなことしないでよ。ほんとよ。あたし、お店じゃ、処女だっていってるんだから」  そういいながら、ぼくのべッドにもぐりこんできます。 「人妻のアルバイトの処女か」 「人妻でも処女だわ、っていうと、お店じゃそうでしょう、ってうなずいてくれるわ」 「そうかね」 「あたし、若いのよ」 「そうだろう、多分」 「多分じゃないわよ。わ、か、い、の。疑《うたぐ》らないでよ」 「疑るものか。疑る余地はないよ」 「ね、あとでスーパーに一緒に行かない。ひと眠りしたら」 「ああ──」  ぼくたちは、さもさも仲のよい、屈託のない夫婦のようにひっついてスーパーマーケットに出かけていきました。実際、この瞬間は問題など内攻しても居りませんでしたし、彼女は特に平常の反動で、浮きたっていたでしょう。 「よし、俺がひさしぶりにコロッケをつくってやろう」 「うん、それじゃ、あとはサラダの材料と、果物ね」  帰ってきて、ぼくがじゃがいもの皮剥き、彼女が挽肉と玉葱《たまねぎ》を炒《いた》めます。 「コロッケはどんな形にするの。俵型、それとも小判型」 「どんなのでもいいよ。小さいひとくちコロッケもいいな」 「あたしは大型の方がいいわ、小さいのは面倒だもの」  突然、彼女が笑いだして、 「──ね、誠ちゃん、これ」 「なんだい、それは──」  長細い棒のような形を作って、油におとしているのです。 「アレよ、──アレ型、ウフフフフ」  彼女は面白がって、先を少し太くしたり、これは、しなびちゃったの、とか。 「やっぱり、相当な阿呆だなァ」 「いいじゃないの、楽しいンだから」  元女房は、それでも気にしてはいるらしくて、ブティックからときどき仕事場に電話をしてきます。 「喰べ物、買っといたから、今夜は帰ってから食事つくるわよ」 「何時頃、帰るんだ」 「そうね、やっぱり十二時近くなるわね」  ぼくもできるだけそれに合わせて、住居に帰るようにしているのですが、それとは関係なく、食事どきに仕事場に居れば、ベティがぼくの分までつくって持ってきたりするのです。いい気なものだと思われるでしょうが、素知らぬ顔をして両方とも少しずつ喰べて、食欲がすくないのを隠すために、 「夕方、ソバを喰ったものだから──」 「ベティは、つくってくれないの」  つくってくれる、と答えてはまずいし、つくってくれない、と答えると、高いギャラを払っているのに、というような言葉が返ってきて、どっちにしてもうまくないのです。  彼女は折りにふれて話題にしようとしますが、ベティに関しては、だから逐一避けてとおらざるをえません。けれどもそのために彼女の想像がとめどなくふくらんで、収拾がつかなくなってしまうことがあるのです。  ある夜半、不意に泣いて、ぼくの寝室に入ってきて、 「ベティにばかりお金を使わせて、あたしには、ちっともくれない──!」 「──どうしたんだ、夢でも見たのか」 「あたしはこの家の何なのよ。何だと思ってればいいのよ」 「──何だっていいじゃないか。君はどうせ、そのときどきでどんなふうにでも思うんだろうから」 「とにかく、誠ちゃんにこんなに苦しめられるとは思ってなかったわ。ずっと前は、あたしが苦しめてたかもしれないけど、すばらしいお返しね」  ぼくは黙りました。 「あたしを一人で働きに行かして、誠ちゃんとベティは二人で居るのよ」 「そりゃちがうぜ。ブティックに行きだしたのは君が自分できめたんだ」 「働きに出なくたって同じよ。あたしは一人なんだもん。あたしはいつのまにか一人にさせられちゃったわ」 「そりゃ、お互いに責任があるだろうな」 「お互いなもんですか。じゃ、何故、今、こんなにちがうの」  こういうふうになると際限がないので、彼女が不機嫌な気配を感じると、つい、仕事場に泊りこんでしまうのです。なんといっても仕事にさしつかえてしまうのですから。仕事を口実にしてという気味もなくはないのですが、実際にその余裕もないのです。  ぼくが連続して帰らないと、例の固い、ひしゃげたような声で、電話がかかってきて、 「今夜、帰るの」 「あ、帰るよ」 「食事はどうするの」 「まァ、君も疲れてるだろうから、こっちですます」 「──お金、少し、ない」 「おや、もう月がかわってるぜ。先月のギャラを貰ったんじゃないのか」 「途中からだし、いろいろ引かれて、いくらでもないのよ。すぐなくなっちゃうわよ」 「ふうん──」 「今夜おそく、本間さんが遊びに来るのよ。誠ちゃんの大好きな本間さん。帰ってくるわね」  本間夫人は八頭身で、彫りの深い、日本には珍しいような美女ですが、ぼくはある点で苦手なのです。何故かというと、彼女のご亭主、建築家ですが、この本間氏が全面的に夫人に対して献身的で、 「ぼくの生甲斐は女房だ、彼女を美しく幸せにすることが、ぼくの務めなんですよ」  そう言っているというのです。  実際、本間夫人は家事一切を使用人にまかせ、ダンスに、お酒に、社交に、芸術鑑賞に、優雅に日を送り、いやがうえにも洗練されていくのですが、ご主人は、酒も煙草もやらず、ひたすら家に閉じこもっているのです。 「本間さんはまた車を買い換えたのよ。すごい車よ。誠ちゃんはあたしに何か買ってくれたこと、ある」 「あるよ。君が忘れてるだけだ」 「安物をね」 「そりゃ本間さんは高収入だから。俺とはちがう」 「大阪さんの奥さんだってそうだわ。この夏はご主人とホテル住いですって。のびのびしてるわよ、あたしなんかとちがって」 「君は一面しか見てないからだよ。誰だって、のびのびするために、一方ではいろいろとコントロールをしてるんだ。君はコントロールをしないだろう」 「ねえ本間さん、どういうふうにすれば、ああいうご主人がみつかるの」 「うちの主人のやりかたがいいとは限らないわよ。人さまざまのやりかたがあるんじゃないの。それに、あたしはうちの主人のやりかたを、理想とは思ってないわ」 「一日でいいから交代したいわねえ。あたし、大切にされてみたいのよ」 「すみ子さんは、大切にされてないの」 「大切にされてるように見える。このおとろえたあたし、ひきつった顔」 「大げさねえ──」 「亭主が居るからって、そんなに遠慮しないでよ。いつも話してるでしょう。攻撃してよ」 「あたしはすみ子さんの気性を知ってるから、一概に旦那様を攻撃しません。でも羽鳥さん、他の女性と二人で外国へいらっしゃるのは、やっぱり奥さんとしたら問題ね」  ぼくはベティの外国語を頼りにして、何度もコンビで外地に取材に出かけているのです。そうして、本間夫人もぼくたちが離婚しているのは知らないはずでした。 「ぼくも勝手なんですよ。けっしていい亭主とは思いません。でも、ぼくみたいな無名のライターでも、仕事への欲はあるんですよ。この世界へ入ってもう十年ですからね。で、このへんでもがいてみなあかんと思ったんです。そうなったら、カミさんの機嫌は考えてられませんなァ」 「お仕事のことはそうでしょうね。でも、他にも方法があったんじゃなくて」 「そんなに選択するほどの余裕はないんです。眼の前に来たものに、ガブリッと喰いつくのがいっぱいですね」 「それじゃァ、あたしたち女は、いつどうなるか、一刻も安心して生きてはいられないわけですね」 「そうですよ。ぼく自身が明日も知れぬ命なんですから。本来ならぼくたちは、二人ともまっ黒になって働いている身の上なんですよ。それがいやなら、本間さんのように何不安のないエリートの亭主を探してくれというほかはありません」  その夜、午前三時頃になって、本間夫人が「うちの運転手を呼ばなくちゃ」といって電話をご亭主にかけると、二十分ほどしてちゃんと迎えに現われるのです。  どんな時間だろうと、たとえ明け方の五時でも、往復は本間氏の運転する車に限るので、楽しかったかい、と訊かれて、楽しかった、と答えると、そりゃァよかった、といって本間氏も喜ぶのだそうです。 「夢みたいな話ね」 「そりゃァしかし、ていのいい拘束じゃないか」 「あたしはね、でも、本当は、これでもずいぶん変ったのよ。夢みたいな話は夢でいいの。それより、べつのことを考えてるの」 「どんなことを──?」 「うん。──もうお金も使いたくないし、遊びたくもないわ。なんというのか、しっかりとしてきたのね」 「そういう話は、本人がいうほど変っとらんのさ」 「姉たちが、お婿さんをとって、うちのお店をやってるでしょう。つまんないかもしれないけど、わかってる世界よね。こういうときにはどうすればいいってことがわかるし、また自分の身体がそういうふうに働くわ。ああいう生き方がいいなァって思いはじめたの」 「ふうん。──それで?」 「あたしはもともと、贅沢な女じゃないわよねえ」 「つましい女でもないなァ」 「つましいことがしてみたいの。つましくていいから、あたしも一緒になって力をつくせる家庭がほしいの」 「今さら何をいうんだ。まァおそまきでもいいが、空想と実際はちがうからな。つましさってのもそうやさしいことじゃないぜ」 「できるかできないかわからないけども、そう思ってるってわけ」 「それなら、実行にうつしたらどうだ」 「誠ちゃんとじゃ、できないわ」 「──うん」 「あたしにはよくわからないんだもの、誠ちゃんが。無茶苦茶すぎて」 「そういわれれば、俺も無茶苦茶だな」 「無茶苦茶だわよ。それに、無茶苦茶でないところだって、あたしはついていけないのよ。そりゃァ誠ちゃんはいい人よ。あたしにもよくしてくれたわよ。だからあたしも、本当は、よくしたいんだけど──」 「できないってわけだな」 「でも、病気のときは優しくしたでしょ」 「ああ、まァね」 「病気の誠ちゃんはわかるの。病気の誠ちゃんはかわいいわ。だから、病気がこのままだんだん重くなっていって、死んじゃえばいいと思ったわ」 「そりゃ君らしい感じ方だ」 「ふだんの誠ちゃんには、ごはん炊きとか洗濯とか、そんなつまらないことしかしてあげられないわ。ちゃんとした居場所がないんだもの。辛いわよ」  それからしばらくたった、やはり夜半のことです。彼女は、本間夫人に、そんな悪い条件のところに勤めていたってなにもプラスしない、といわれたとかで、ブティック通いをいつのまにかやめてしまっていました。これまで何かをやりはじめようとして、きまって途中で挫折《ざせつ》してしまう、それとほぼ似た経緯ですが、ぼくはただ黙って傍観しているだけでした。  ぼくは彼女をぼくの寝室の方に呼んで、なんとなく身体をまさぐっていたのですが、 「誠ちゃん──、話しちゃおうかな」 「なんだい」 「お話があるのよ」 「いってみろよ」 「どうしようかな、──又今度にしようかな」  ぼくは顔を起こして元女房を見ました。彼女が口ごもるなんて、珍しい。 「どうしたんだ」 「あのねえ──」  彼女にしては、静かな、沈んだ声音で、こういいました。 「あたし、好きな男の人が、できちゃったのよ」  ぼくは彼女の身体から、指を離しました。 「怒った? だってしようがないんだもの」 「本気か」 「ええ、そうなの。生まれてはじめてなのよ、こんな気持。あたしの方から男の人を好きになるなんて」 「ヤレヤレ、俺は形なしだな」  ぼくはしかし、ちょっと笑いました。元亭主にせよ、こういういいかたでぬけぬけと告げてくるところがいかにも彼女らしいし、また隠されているよりよいことは確かです。 「──それで?」 「それでって、──誠ちゃんに黙っていたくなかったから」 「まァ、君は隠し事なんかできない。それはいいが、相手はどんな男?」 「若いのよ。あたしより五つ下」 「独身か」 「ええ。──不思議ねえ、お金持じゃないし、かっこよくもないわ。それなのに、彼のことで、今、いっぱいなのよ」 「相手も本気なんだな」 「──だと思う。手も握ったことないのよ。本当よ。あたしは触って貰いたいんだけど、彼がきちっとしてるの」 「彼にはその気はないのとちがうか」 「羽鳥さんの奥さんでいる間は、礼儀を守るって。あたし、本当は離婚してるの、っていっても、一緒に暮してるんだから同じだって」 「俺の知ってる男か」 「──ええ」 「困っちゃったなァ」 「出版社の人か」 「いいえ」 「仕事以外の知り合いだな」 「お兄さんも独身よ。兄弟仲がいいの」 「──林の弟か」  彼女はだまって眼を伏せていました。 「そうか、なるほど」 「いい気持がしないでしょ。ごめんね」 「本気なら、しょうがなかんべ」 「どう、誠ちゃんの眼で見て、彼はどんな人間に見える」 「チラホラとしか会ってないからなァ」 「新宿で偶然会って一緒に呑んだことがあるっていってたわ」 「うん。まァ、普通だな。それ以上はわからない。普通ってことは、精神的に片よっていないって意味で、この場合、悪い評価じゃないよ」 「一緒になりたいのよ、どうしても」 「彼もそういってるのか」 「彼はまだそこまでいってないわ。ただ、あたしと会っていろいろ話をきいてくれるし、彼の方もブティックに電話くれたり──」 「どうも、君の話は例によって、はっきりしない点があるが、要するに、君が惚《ほ》れこんでるだけじゃないのか」 「彼はきびしいのよ。あたしが誠ちゃんのことなんか話すと、そんなふうにあの人を傷つけるのはよくない、って叱られるの。いろいろ叱られてばかり居るわ。自分が亭主なら、許せないことは絶対に許さないって。でも、あたしを嫌いじゃないって」 「そういったのか」 「そうもいったし、感じでわかるわよ」 「それでこの前、お金もいらないし、遊びたくもないなどといってたんだな」 「彼はサラリーマンだし、今度はあたしも、つましくやらなきゃならないわ」 「できるかな」 「覚悟だけはしてるのよ。もし一緒になれたら」 「気持はわかるが、むずかしいぞ」 「でも、彼のことはわかるの。わかるのよ。誠ちゃんみたいにグレートじゃないし、無茶苦茶でもないから」  ぼくはこの件に関して、ごく大ざっぱにいって、好感を抱きました。妙ないいかたで、ただ簡単にそうとだけはいえませんが、相手の青年に対しても、特に嫌悪の情が湧《わ》いてきません。  それよりぼくが案じていたのは、彼女が軽はずみな男関係で傷つくことでした。また彼女くらいだまされやすく、軽はずみをしがちな人間もめったにありません。浮気みたいな関係で誰もが傷つくことにくらべれば、本気(本気というのも錯覚がないとはいえませんが)をしてくれた方が、どんなにかいいのです。  それに、彼女とぼくはどこまでも元のつく関係で、保証も実体もほとんどありません。ぼくがこの先どうするにせよ、彼女は彼女で、それこそもっと実体のある自分の居場所をみつける必要もあったはずです。  ぼくとベティの関係に対抗して、意地ずくで彼女も男をつくったというふうに、ぼくは受けとりませんでした。彼女は嘘で自分を飾りたてはしますが、そういう持ってまわったような企てはしません。  かえってぼくの方に、肩がわりをしてくれる男性があればもっけの幸いという計算が湧いてきていました。いやらしい計算ですが、しかし、彼女が心からそう願っていることなら、その実現に応援する気持は、単なる卑しさばかりとはいえません。ただし、相手の男性の心情が問題です。  自分の気持も相手の気持もよくたしかめて、それから行動をおこすんだぞ。どうも君は、そそっかしいところがあるから──。ぼくはそういいました。  仕事場に行ってから、ベティに早速このことを話しました。 「どうもいそがしくなってきたようだよ。元女房に恋人ができたんだ」 「あら、そうなの」 「それで、彼女の参謀になって、この件をできたらまとめてやろうと思う」  ベティは笑っただけで、なにもいいませんでした。彼女はすみ子のことになると、慎重でほとんど何もいいません。いつか、元女房が血を頭にのぼらせて、自分という存在をもっと尊重しろとどなりこんできたのを見送ったあとで、 「羽鳥さんが一緒に居るひとでなかったら、ひっぱたいてやったわ」  といったのが唯一のことです。  おそらくベティは、この件に関してぼくの態度が楽天的だと思っているでしょう。  ぼくは毎晩、住居の方に帰るようになりました。風呂に入り、食事をすませたあと、ぼくの方から率先して、林くんのことを訊《たず》ねます。  ところが、二三日たたないうちに、彼女が林くんと会って、二人のことをぼくに告げてしまった、と話してしまったのだそうです。彼女は、これもただ胸に畳んではおけなかったのでしょう。 「それはまずいな。──ところで、彼はどういったね」 「顔がさっと変ったわ。こういうことは、誠ちゃんに自分から話したかった、って。それで、あたしと結婚してくれますか、っていったの」 「そうしたらね、ぼくはそんなところまで考えていなかった、って」 「そうれ見ろ」 「でも、あたしがそんなふうに考えてしまった責任は、ぼくにもあるな、っていったわ」 「たしかめろとはいったがね、そんなふうに単刀直入にいったら相手はおどろいて尻ごみしてしまうよ。どうも君のやりかたというものは、いまさらながら呆れかえるな」 「じゃ、どうすればよかったの」 「せっかく俺も応援してやろうと思ったって、ぶちこわすばかりじゃないか」  男をひっかけるつもりなら、釣りと同じなんだ、とぼくはいいました。魚が餌にしっかり喰いついてから、竿《さお》をあげるんだ。男というものは女とちがって、本能的に、一人の女に縛られちまうのを望んでいないのだから、釣られるとわかれば逃げちまうよ。  ところが、考えてみると彼女は釣りもできないし、トランプのゲームをやってすら、悪い手がくるといらいらして、カードを放りだしてしまうくらいなのです。 「彼はまだ手も握ってこないといったろう。その段階でいきなり仕かけたって、逃げるにきまってる。もっと機が熟して、彼の方に具体的に責任があるという形で縛らなければ、無理だ」 「じゃ、あたしに誘惑しろというの。それはできないし、彼だって嫌うわ」 「むろんそうさ。だから気早にならずに、今のうちはお互いにじっくり確かめあうところだったんだ。本気のものなら、そのうち一歩近寄るチャンスがあるものさ。そうやって一歩一歩と行って、君の方からいえば、相手を捕まえていくんだ。特に相手は年下なんだから、君があせったら、相手は冷めるよ」 「もういいわ。彼の気持を誤解してたんだから。いいのよ」 「いいのよ、って、君はそれでどうするつもりなんだ。またここに居坐るのか」 「いいわよ、どうなったって」  どうしていいかわからずに、涙ぐんでしまうのです。ところがまた二三日たって、 「彼が、誠ちゃんに会いたい、っていってるわ」 「ふうん、どういうつもりで」 「しらない。謝る気なんじゃないの。まわりもうるさいのよ」 「兄貴がか」 「お兄さんじゃなくて、誠ちゃんを知ってるまわりの人たち。他人の家庭を乱すなって」 「謝りにくるんなら、会う必要はないよ。もし軽い冗談で君とつきあっていたのなら、謝ったって許さない。ただし、本気なら、謝る必要なんかない。謝ったってしようがないだろ」 「そういうわ」 「おい、君が本当に本気ならだな、知恵をやろう。ここを出るんだ。実家へ帰れよ」 「実家はいやよ」 「じゃ、姉夫婦でも妹夫婦のところでもいい。俺との間を清算したことにする。事実、俺はもう触れてないだろう。それで、相手の出方を見よう」  そのとき、旧友が来合わせていまして、事情の概略をきくと、やはり笑うのです。 「こりゃどういう関係だ。君は父親なのか」 「父親でもあるんだ」とぼくはいいました。 「彼女とは、もうとっくにどういう関係だかわけがわからなくなっていて、ただ、つながりだけがあるんだ」  それからぼくは、ちょっと気になって、彼女の方にもう一言いいました。 「そうだ、やっぱり、林くんに一度会おう。ついでのときでいいから、仕事場の方に電話をくれるか、訪ねてくるかしてくれ、そう俺がいってたと伝えるんだ」  彼女はその翌日、二匹のスピッツを籠に入れ、当座の手廻品だけ持って、すぐ上の姉夫婦のところに行きました。 「おい──」  ぼくは、犬じゃなくて彼女を品評会にでも出すような言葉を吐きました。 「がんばるんだぞ」  林くんとは数日後、盛り場の喫茶店で会いました。彼はぼくを認めると固い顔つきで近寄って来、立ったまま、深々と頭をさげました。 「いろいろと、申しわけありません」 「いやなに、──お互いに仕方のないことさ」 「責任は充分感じています」 「君が謝ることもないし、ぼくが怒ったってしかたがない。それにぼくは怒る権利もないんだ。ぼくたちは離婚してたんだから」 「これだけは信じてください。ぼくはふざけた気持ではありませんでした」 「しかし、結婚までは考えていなかったんだろう」 「はっきりいって、その段階ではありませんでした。兄貴もまだ独身ですし、ぼく自身、当分独身のつもりでした」 「そうだろうね。彼女だけが一人で先行していたんだ」 「気持の問題なら彼女だけじゃありません。ぼくも同じような気がします。最初はすみ子さんの相談相手、或いはこぼしの聴き手のつもりだったんですが、途中からそれだけじゃなくなりました。ぼくは羽鳥さんを、うらやましいと思いました。ただ、羽鳥さんから奪ってまで、すみ子さんを幸せにできる自信がなかったんです。ぼくは、とても彼女を、あんなふうに野放しにはしていられません。ぼくはなやみましたが、この段階で引き退《さが》るべきだと考えました」 「そうか、それならそれでいいんだ」 「いや、すみ子さんが姉さんのところに居るときいて、これは、お二人の仲を割った責任はとらなければならない、そう思いました」 「責任をとるというと、どういうふうに」 「うまくいくかどうかわからないけれど、お許しがあれば、すみ子さんを引き受けます。ただし、ぼくが退いて、お二人が和解する可能性があるのでしたら、ぼくが出る幕じゃないような気がします」 「俺は捨てられたんで、彼女は君をえらびたいんだ」 「羽鳥さんはどうなんですか」 「うん、俺は複雑なんだよ。とにかく君は、進むにしても退くにしても、君の気持を中心に考えたまえ。女というのは一生の問題になりうるからね。俺はだいたい、あの女が君のところで女房としてうまくおさまる確率はすくないと思ってる。君でなくて誰の場合もだ」 「それは、わかりません」 「俺はわずらわしい思いをいろいろとしたからね、正直いって、次のランナーにバトンを渡せれば荷厄介がなくなるということもあるよ。そしてもうひとつは、すみ子の気持だ。あんな女だからどこまで確かか計りようがないんだが、とにかく君に惚れてる。あれはなかなか人を好きになんぞならないんだよ。君さえ承知なら、俺は彼女の望みを実現させてやりたい。しかし君に押しつけるという気もない。君は君で、俺に遠慮なく、どちらか定めてほしい。もちろん返事はすぐでなくていいよ」 「ええ、よく考えてみます」  その間の経緯は似たような語り口になるので記しません。ぼくは林くんの兄とも会いました。揃って東京に出てきた林くんの両親とも会いました。元女房からは毎晩のように電話がかかってきて、逐一報告するのです。  そういう日々がたったあとで、林くんとすみ子が、一緒に暮しはじめることになったとききました。但し、正式な結婚ではなく、そこに至るまでの前段階らしく、知人はもちろん、故郷の親たちも呼ばず、兄貴と三人きりで、林くんのアパートで、固めの杯をとりかわしたそうです。どういうわけか、前亭主のぼくも呼ばれていたのですが、行きませんでした。  ぼくはあいかわらず、仕事場に日参しており、夜だけ住居の方に戻ります。そのマンションは、借りたときの条件が、知人夫妻が外国出張から帰るまでという約束で安く借りたゆえ、整理したいが勝手に出るわけにもいかないのです。  元女房が居なくなっても、ベティとの関係が変ったわけではありません。ベティはトシの女房ですし、ぼくとは一指も触れあわない間柄であり、しかしまた、特別な交友でもあります。  ぼくの仕事は、これはもうますます安直に量産し、質は下落する一方で、そのうえこの世界は若い体力のある人たちがどんどん出てきており、収入を確保しようと思えば、より下級の雑誌で使って貰うしかなく、破綻は眼に見えているといえましょう。  そういうピンチに対するもがきのような形で、ぼくはベティの力にすがってアメリカに十日間わたり、彼女の知り合いを頼ったりしながら、いろいろと取材してきました。  まァそれも、どの程度に読物誌で使って貰えるか、そんな屈託を胸にしながら、マンションの四階に昇って、鍵を扉にさしいれると、犬の鳴声がします。  おや、と思って玄関を入ると、居間のテレビの前に、元女房が、以前のように寐転がっているのが直接眺められるのです。 「どうした──?」  あがりこんでくるぼくに、 「戻ってきちゃったわよ、──いい?」  あれからまだひと月とたっていません。ぼくは何も訊かずに、荷物をもって寝室に入り、上衣やシャツを脱ぎ散らしました。  彼女が音もなく入ってきて、珍しく、脱いだ物の始末をし、下着をさしだします。  駄目な女だなァ──。  まず、そう思いました。  それから、普通は、出戻りという場合は、実家へ帰るというのがきまり相場なのに、此奴《こいつ》は、元亭主のところへ帰ってくるんだなァ、かわった奴だなァ、そうも思いました。  ぼくはちょっと笑いかけて、辛うじて頬を崩すのを押さえました。 「居ても、いいの?」  固い、ひしゃげたような顔で、そういうのです。  ぼくはベッドに横になっていて、 「まァ、ここへ来いよ──」  どうして彼と駄目になったか、訊く気はありません。ぼくは彼女の首の下に腕をさしいれて、 「まだ彼を、好きかい」  彼女は眼を伏せたまま、 「──うん」 「いいさ、いつまでも居ろよ」  とぼくはいいました。 「もっともそれは俺の気持に即していったんで、俺も早晩、喰いつめるがね」  彼女は、声を出さずに泣いているのです。 「俺たちの間柄も、実にどうも、なんともかとも、わけがわからないものになったなァ。これで、続いていくんだから、いいさ」  彼女はやっぱり、返事もしません。 「他人の女と暮すってのも、これでひと味あるもんなんだぜ」  とぼくはいいました。 [#改ページ]   少 女 た ち  牛込納戸《うしごめなんど》町にある美味《うま》い豆腐屋で水を張った鍋を借りて豆腐を浮かし、ちょっと重たいけれども、バスに乗って麹町《こうじまち》の鈴木重雄さんの事務所に行った。行ったというべきか、帰ったというべきか。  その頃、私は長年の放埒《ほうらつ》のせいで身体に変調をきたし、四十近くなって無産無一物、おおかたの日を鈴木さんの事務所に寐泊りさせてもらっていた。鈴木さんは近年でこそ、望月優子の旦那という感じの方が濃くなってしまったが、昔、若い頃は三田文学系で嘱目《しよくもく》された作家だった。新聞社に入り、そこで重用されたせいもあるが、遊び好きで、ついつい何十年かを浮かれすごしてしまったというふうだった。  先輩は、私を、重《しげ》さんの二代目だといって笑った。私もその何年か前に新人賞を貰ったきり、忘れたようにほとんど物を書かなかった。何をしていたかというと、日本全国五十数カ所ある競輪場をぐるぐる廻っていたのである。けれども、よく考えてみると、私などは、放埒のせいで書けないのではなく、きちんとしたものが書けないから仕方なしに遊び呆《ほう》けていたきらいがある。あるいは鈴木さんもそうだったかもしれない。  その頃、娯楽小説ではあったけれど、五年ぶりぐらいで或る週刊誌に原稿を書きだした。身体の調子がおもわしくないので、ひょっとしたら入院という事態を迎えるかもしれず、一年くらい芸者になった気でお金を稼いでおこうと内心で思っていたのである。そのために、電話のある場所に居ついてくれると便利なのだが、と担当編集者がいった。そんなことで、私の方がやや押しかけ気味に、しかし鈴木さんも、来いよ、と快く応じてくれて、そこの応接間が私の仮りの寐ぐらになった。鈴木さんはわがままな半面やさしい人で、この同タイプの後輩を、なかば案じ、なかば面白がり、なにかと応援してくれていたようである。  けれども、遊び屋が二人そろったからたまらないので、昼夜をわかたず誰かが訪れ、ポーカーや麻雀に打ち興じる。鈴木さんは自宅に帰るひまがなくて、とうとう応接間にベッド兼用の長椅子をいれた。そうして寸暇を惜しんでぐったりと眠った。  その事務所は一応出版社であり、四五人の若い社員が居たが、働きづらかったろうと思う。私はどこででも遊ぶが、仕事場で遊ぶのは特に好きで、洗面所で即席の料理をつくって皆に喰べさせたり、尻とりに類するゲームをやったりした。私はなんだか人恋しくてたまらなかった。鈴木さんは、本来の会社らしい空気に戻そうとして懸命に私に逆らったが、結局は私と同じようなことをしてしまうので示しがつかない。平和な団欒《だんらん》がそこにあったけれど、会社の形はなさなかった。もっとも、そんな中で何気なく出版した�ミコのカロリーブック�という本が猛烈に当って、鈴木さん自身が呆れかえるほど儲かったのであるから、因果応報などという言葉はこじつけにすぎない。  半年ほどで週刊誌の連載が終り、終ってみればもう働く意志はない。私は当時あまりお金を使わなかったし、キャリアに比して高額のギャラを貰っていた。ちょうどその時分、友人の家の離れがあいていて、そこへ移り住んだらどうかという。鈴木さんのところも面白いけれど、ひっついているとお互いに身体によくない。このへんでお別れしましょう。鈴木さんは私が迷いこんだときよりも一層喜んでくれた。  私は豆腐の鍋をかつぎこんで、送別のしるしに一同に冷や奴をふるまった。私はその日の退社時刻を期して、社員たちと一緒にこの事務所を出、一度出たらけっして戻ってこない、安心してくれ、と告げた。 「でも、遊びにはくるでしょう」 「それは、くるかもしれない」 「じゃ、おんなじだ」と社員たちはうなずきあった。  私は風呂敷包みひとつ持っていたわけではないので、ただポケットに手を突っこんでその事務所を出た。佐久間瑞子という女子社員と連れだって四ツ谷駅の方に歩いた。私は彼女を食事に誘った。私は折り折りに女子社員たちの身上相談に乗ったりしていたので、彼女たちはいずれも私を警戒しない。  新宿に出て、中華料理屋に入った。彼女は自分も近いうちにあの社をやめたいと思っている、といった。やめて結婚するとか、親もとに帰るとかいうのではない。やめたい理由を二三いったが、いずれもさほどのことに思えなかったから、あるいは口にしない理由があったのかもしれない。 「でも、移り先が、いいところがなかなかないだろう」 「ええ──」  佐久間瑞子は二十一か、二十二になっていたか。短大の家政科を出ていた。当時から、女子社員特に短大出は特殊な会社以外あまり喜ばれない。 「それじゃァ、いっそ──」と私は口ごもりながらいった。「俺のところでいろいろ手伝ってくれないか。昼間だけ。どうもね、俺一人じゃ、家なんかに住んだってなんにもできないよ」  私はそれから早口になった。 「しかし、事務所ではないし、俺は独身男だし、おかしいかなァ。人眼には変に見えるだろうね。やっぱり君のためにはならないなァ。俺としては、君が毎日来てくれれば嬉しいんだが」  私は鈴木さんの事務所の一人一人に好意を寄せていたが、佐久間瑞子は特にかわいいと思っていた。彼女は一見おとなしくて冷静な感じだったが、存外におっちょこちょいで、面長だったけれど笑うと眼だけがおかめの眼のようになった。 「あたし、行きたいです」  と彼女はまじめな表情でいった。  私は彼女の給料の額をきき、それから、いくらあれば一応の生活ができるかと訊ねた。そうしてその線でギャラをきめた。彼女はちょっとの間、無言で、ポロポロと涙を流して泣いた。  それはとても印象的だった。初々しく、すがすがしく見えた。何故泣いたのか、私は問わなかったし彼女も口にしなかった。路上で別れるとき、彼女はちょっと固い表情で、ありがとうございました、といった。私は、私の新しい扶養家族が、コマ劇場の前の道を人混みに歩み消えるまで見送っていた。  私は早速、鈴木さんにその件を申し出た。 「──うん、まァね」と彼はいった。「彼女の父親とは昔の友人でね、彼女が親もとを離れているから保護を頼まれているんだが、君のところで大丈夫かな」  取って喰う気ではないことを私は力説し、諒承をとった。  家主の友人は私が無一物であることを知っているので、不要のベッドや家具を置いてくれた。佐久間瑞子が甲斐甲斐しく掃除したり、布地を買ってきてカーテンを作ってくれたりした。鈴木さんたちが揃って来てくれて、車座になって酒を呑んだ。 「妙だね。ずいぶん前から知っているが、君の家を訪ねたというのはこれがはじめてだよ」  と鈴木さんがいい、私も笑った。  もっとも、居心地がよかったかというと、そうでない。私は窓から樹を眺めたり、膝小僧を抱えたり、ぽつねんとしてすごしていた。自分の家という考え方に馴染まなかったし、理由ははっきりしないがなにか恥ずべきことをしているような気分でもあった。私はごく身近の人をのぞいて、大方の知人に、住所ができたことを知らせなかった。  私の匿名の小説は偶然当って、その週刊誌との間に、毎年、六カ月間だけ同じようなタイプの読物小説を連載するという約束が生まれた。それで生活には充分だったし、他になんにもしていない。  だから私自身は、用事が果てしなくあるような気もしていたが、移った当初は浮浪者がひょいと住みついたのと大差はなかった。  佐久間瑞子には、来客の応対や小説の下調べや、そういう秘書的な役割もして貰うようなことをいっていたが、それはただの家政婦では不足に思うだろうからお体裁でいったまでで、私自身が身をいれないのだからその種の仕事があるわけはない。  だから、いくらかの家事をしてしまうと、なんにもすることがないのである。 「あたし、こんなことでいいんですかァ、毎日、遊びに来ているようで──」 「いいんだよ、それで」 「何か用事をつくってください。手持無沙汰で困るんです」 「しかし、俺も用事がないんだから、君の用事があるわけはないよ」  日ならずして彼女もそのペースになれてきて、自由にふるまいだした。 「ねえ、どうして、靴下をはいたまま、寐てるんですか」 「靴下なんかはいてないよ」 「はいてました。朝、来たときチラッと寝室を見たら、そうでした」  私の足の裏があまりにまっ黒だったので、彼女には靴下をはいていると見えたのだった。それに類したことで、彼女は毎日、キャッキャッと笑いころげていた。 「今、母屋の奥さんに、貴女《あなた》は何なの、と訊かれました」  奥さんじゃなさそうだし、妹さんは居ないはずだし、と母屋の妻君はいった。娘さんじゃないわよねえ、何かしら。 「秘書です──」と彼女はいったという。 「秘書って、色川さんは何か仕事をやってるの」 「仕事はべつにしてないようですけど、でも秘書なんです」 「なんにしてもいいわよねえ。若い娘さんがそばにいて」  と母屋の妻君はいったという。 「ほんとにそうですか」 「なにが?」 「いいですか」 「ああ、いいよ」  彼女は眼を無くして笑った。そうしてこういった。 「ほんとに叱ってください。あたし、いわれないと気がつかないから」 「べつに、どうしなくちゃいけないということはないんだ。ただ自然にしてればいい」  私はそれにつけたして、二度とくりかえしていわないつもりで、少し声を強めていった。 「もっとも、世間はもっときびしいよ。お嫁にいっても甘えてばかりはいられない。そのことはいつも忘れないでおく必要があるね。そのうえで、ここは世間とはちがうと思っていなさい」 「はい」  彼女は最初のうちこそ九時頃来ていたが、私が寐ていることが多いので、まもなく十時頃になり、十一時すぎになってやっと姿を見せるようにもなった。私はべつに何もいわない。何時に来ようがかまやしないのである。  帰りの時間もまちまちであった。夕飯を喰って夜まで話しこんでいくことがある。日曜日も、彼女の用事がなければ現われる。  表面の規律はいっさいつくらない。規律をつくって、それにつきあうようになったら私自身が困るということもあったけれど、もうひとつ、せっかく与えられたこの住み家を、普通にいうところの�家�ではなく、遊園地のようなものにしてみたいと私は考えていた。  佐久間瑞子のように、親もとを離れ、地方から上京して一人でアパート暮しをしている女性は、実に非常に危うい状況に居るといえるのである。彼女たちが東京で住みつきたいと思って自分でそうしているのだから仕方がないことでもあるのだけれど、女子社員の給料で自立するのは大変で、多くは三畳、せいぜい四畳半ひと間の部屋に住み、極端に切りつめた毎日を送っている。つましくするだけならまだ耐えられるが、孤独、孤立、という色が濃くなるのが辛い。  私は男だからよく承知しているが、大方の若い男にとって、親もとを離れた一人暮しの娘というものは、ライオンと羚羊《かもしか》の関係であって、まことに適当な獲物にすぎない。男たちは最初から喰う気で近寄ってくる。また彼女たちもあっけなく喰われてしまう。そうして、こりずに何度でも、いくらかの精神的なものを期待しながら喰われてしまうのである。そうならずに、俗にいう清潔にすごしている場合も内容は同じで、胸中は砂漠のように乾ききっているのである。  佐久間瑞子が、あのとき不意に流した涙も、自分が必要だと評価された、ただそれだけの言葉が烈しいうるおいになるほど、心が乾いていたからであろう。  彼女にかぎらず、このあとに現われる似たような状況の娘たちにもいえることだが、甘えられる場所、肉親に対するように内心が打ち明けられる場所、自由に伸び伸びできる場所、そんなところが一カ所ぐらいあってもいいような気がした。私は佐久間瑞子の涙を見たとたんに、ひょいと発意したのである。  佐久間瑞子は私のところに移籍したことを親もとへは内緒にしていたようだが(多分説明しにくかったのであろう)、鈴木さんから書面で報告がいったらしく、母親から、事情が呑みこめず案じている旨の手紙が来、彼女はそれを私に見せて笑った。  彼女は、放っておいてもいいのだといったが、私は、母親宛に手紙を書くことを約束させた。 「君は、どうして東京に居たいの」 「親もとに帰りたくないんです」 「どうして」 「結婚しろってうるさいんですよ。あっちの人といろいろ見合いさせようとするんです。ほんとは短大を出たらすぐに帰ることになっていたんだけど、あたしのわがままで、強引に東京に残っちゃったんです」 「結婚したくないのか」 「あっちの人は嫌い」 「だって、会いもしないで、わからないじゃないか」 「嫌なんです。土地も嫌い。なんだか性に合わないんです」  彼女の父親は、勤務先の関係で転々と居住地をかえた。彼女は小学校のときから転校しつづけて、父親が停年で退いたあたりでやっと瀬戸内海をのぞむ小さな町に家を建て、そこを定住の地にした。彼女はその町にほとんど馴染んでいない。私から見るといいところのように思えたが、若い娘にとって都会が魅力的ということ以上に、肉親と意思の疎通を欠く点があったのかもしれない。  私自身も、彼女の母親に対して手紙を書いた。それに対して母親から、いくらかとまどったような気配は見えたが、よろしく頼むという返信が来た。そうなって見ると私は正式に彼女の保護者になったような気がした。これは大変に厄介なことでもあるので、何故かというと、私のところに居る時間はよろしいが、一歩私のところを出てしまえば、何をしているか眼が届くわけはないのである。にもかかわらず、親たちは私に預けたようなつもりになりがちであって、私としては、眼の届かないところでまちがいがないようにひたすら祈るよりほかはない。  それでなおさら、佐久間瑞子が私には少女のように思えてくるのだった。  鈴木さんのところのもう一人の女子社員の伊原洋子もちょこちょこ遊びにくるようになった。昼間、社の仕事の合間にチラリ姿を見せたり、社が退《ひ》けてから寄ったりする。彼女は料理に凝っていて、佐久間瑞子が作る物より数段手をかけたなんだかよくわからないものをこしらえてくれた。  彼女もこっちへ移籍してきてしまいたいふしを洩らしていて、私はべつにかまわなかったのだけれど、 「うちの娘をみんな取ってかないでくれよ」  と鈴木さんに釘をさされていた。  伊原洋子は佐久間瑞子より四つか五つ年上だったろうか。オールドミスになっちゃいそうだ、といつも自分で冗談のようにこぼしていたが、私にとって少女に見えたことにかわりはない。  伊原洋子の母親は童話作家だったというが、素封家《そほうか》の一人娘で、婿養子に入った洋子の実父を捨て、十五も年下の青年と駈落ちした。そうして幾多の経緯の後、その青年に捨てられ、現在は洋子と二人で淋しく暮している。青年に捨てられたあとは酒や薬に溺れたことがあるらしく、その影響でか、時折り街で深酒をして警察の厄介になったり、心神耗弱のような状態で近隣に迷惑をかけたりするらしい。  洋子の妹は洋裁の勉強をするといって、若くして単身アメリカに渡り、向こうで結婚していた。多分、母親を負担に感じてそうなったのだろう。洋子は妹に先んじられた恰好で、母一人娘一人の生活に甘んじていた。  そんなふうな環境が影響して、感じやすい向こうッ気の強い娘だった。勤務先も折り合いがつかずに転々とおちつかず、母親の古い知人だった鈴木さんのところへ来て、彼があやすようにするものだからやっと居ついているという感じだった。  身体も手足も細く鋭くて、おっとりした顔立ちの佐久間瑞子と対照的に猫のような風貌をしていた。母親が酒を呑みに外へ行かないように、食事だけつくり、外から鍵をかけて会社に来る。しかし、時折り、母親は二階から電信柱を伝いおりて外へ出ていってしまう。  母親が鈴木さんの事務所までやってきて、ヒステリーをぶちまけていったとかで、伊原洋子は私のところへ来て、瑞子のそばで泣いた。  瑞子は奥の畳敷きの部屋にいる私のそばでしゃべっているときのほかは、リビングルームに居た。彼女たちの話はおおむね他愛がないが、そこに私が加わっても似たようなもので、要するに口を開いて風にそよがせている類の会話である。  どんな男性が魅力的か、という話になると、田村正和、と佐久間瑞子は必ずいった。彼女のあげる男性は、いずれも若くて、華奢《きやしや》で、ぺットにするような男ばかりだった。内心ですこしがっかりしている私の気配を察したように、キャッキャッと笑う。伊原洋子の好みの男性は、ゲーリー・クーパーとか、ジミー・スチュアートとか、やや父親を感じるタイプが多かった。いずれにしても男性観は幼いので、それはそれで特に悪いことでもない。  伊原洋子は、まだ処女だ、と自分でいった。 「瑞子は──?」 「あたしも──」といって瑞子は例の眼になって笑った。 「でも、あたしの年齢で──」と洋子がいう。 「処女なんて珍しいでしょ。いやになっちゃう」 「自分で大切がってるからだろう。ほんとにいやなら捨てればいい」 「居ないんですもの。値いする男なんて居ないわよ、ねえ」 「居ると思うけど」と瑞子がいった。「向こうで相手にしてくれないんです」 「田村正和か」 「ええ──」  伊原洋子は何につけ虚勢を張って自分を主役にしたがる娘だった。一人でやる芸事や、その他いろんなことに凝る性格らしく、どういうことにも知識だけは持っている。彼女が居ると瑞子は二割か三割しか口をはさめない。洋子は強引に自分が話の主題の口火を切っていたが、それは雑学をひけらかすとか、相手を無視しているとか、そんなものでなく、要するに強がりにすぎなかった。洋子の話はいつもあまり面白くはなかったけれど、私は辛抱して相手になっていた。彼女の虚勢をいったん全部放出させて、強がらずにすむようにしてやりたくて仕方がない。もっとも、私一人がそう思っても、彼女の全生活を解決しえないので徒労にすぎなかったが。  瑞子と洋子は美容体操を習っていた。瑞子は私のところで私と一緒に食べて、肥《ふと》ったといって真剣だった。そうして中年肥りになった私にもすすめてきた。私は瑞子のあとに従ってリビングルームの中を駈足でぐるぐる周回した。でんぐりかえしや逆立ちもやった。もちろんそうやって遊んでいたので、夜半にお酒を呑みに出かけ、ほとんど朝帰りだったから、痩せるわけはないのである。  年がかわって、週刊誌の連載がまたはじまったが、週のうち、まる一日働けばよかった。もう少しあとに仕事がやや増えて三四種類の週刊誌の読物を担当することになるが、それでも働く時間はたかが知れていた。  ちょうどその頃、知人の秋野卓美夫人から電話があって、学生アルバイトが居ると伝えてきた。秋野さんは画家だから、画学生がたくさん出入りする。 「週に何日かアルバイトしたいというのですけれど、もう人が居るんでしょ」 「かまいませんよ、希望者が居ればよこしてください」 「でもダブってるのなら無駄な出費ですから」 「いいんです。何人でも。今、少女趣味に凝っておりまして」 「ホホホ、変れば変るものですね」  私は、閑は充分にあったが、彼女たちが居ない夜半をのぞいて、どこへも遊びに出かけなくなっていた。遊園地のオーナーで、けっこう退屈せずに日がすぎていくのである。  秋野さんの紹介で来た田宮初美は、十八歳だったが、俗にいう男好きのする美女タイプで、一見してもう男に喰われ慣れているという感じだった。世間智という点では、或いは瑞子や洋子より、或いはあったのかもしれないけれど、年下なので瑞子にも洋子にも遠慮をして、あまり自分のペースを主張しない。  私はかまわず遊園地の中に放っておいたが、初美や洋子が煙草を吸うので、瑞子も一生懸命煙草の練習をはじめたということぐらいで、あまり交流の影響はないようだった。初美の方は、先輩たちをいくらか軽視してあまり親しくなろうとしない。  それにしても用事がないのにおどろいたらしく、そこでこの遊園地の方も軽視して、来てもあまり動かず、そのうちよほど日当が欲しいとき以外現われなくなった。  私は約束どおり現われようと現われまいと少しもかまわなかったが、田宮初美は自分が不定期なことの弁解をするように、土屋由美子という娘を連れてきてアルバイトさせてくれといった。  二人とも文化学院の油絵科だといっていたが、初美の方は絵の話ひとつしたことはない。それに比して土屋由美子は、絵画に関する造詣《ぞうけい》はまるでお話にならず、ピカソのことを、うーんと、と口ごもって、テペソが、といったくらいであったが、学校の宿題だといってデッサン帖に何か描きなぐったものを見せたりする。  田宮初美は、由美子の話によると、家庭が継母で複雑とかでグレているのだという。男が北海道に帰省してしまって、彼女もそこまで追いかけていこうかどうしようか、なやんでいるのだといった。そうきくとやっぱり少女であって、私のところでは、やっぱり虚勢を張って背伸びして懸命に貫禄をつけていたのかもしれない。  土屋由美子の方は信州に両親が健在で、そう豊かではないにしろ、家の中で愛されて育ってきた気配に満ちていた。もっともそれがバランスのとれた形にならず、猛然と天衣無縫で、さすがの私を毎日、驚倒させることばかりした。  昼間は瑞子が居るし、由美子も学校があるから、夕方から夜にかけて私のところに来ると自分からいったが、学校などほとんど行ってやしない様子だった。だから、朝来たり、昼頃来たり、勝手なときに来て、突然、あたしもう帰ります、という。時間給を受けとって、サヨナラァ、と帰っていく。  下宿のそばにうまいパン屋があるとかで、できたての大きなバゲットを片手に持って、電車の中でむしり喰べながらやってくる。私のところへ来たときはそのパンが三分の一ほどになっている。  三四日現われないと思ったら、風邪をひいていたとかで、トイレ用の巻紙を持ってきた。途中でそれで鼻をかみかみやってきたのである。  その翌日は、風邪がもっとひどくなったとかで、右手にトイレットペーパー、左手に大きな紙袋をさげてきた。鼻をかむ頻度が増えたので、鼻紙を捨てるために袋をさげてきた、といった。  夜、居るときは瑞子と交代して、飯をつくってくれるが、最初のときは妙な献立だった。台所で懸命に、じゃが芋をいくつも大根おろし器ですりおろしている。それを味噌でこねあわせて、ネトネトした味噌汁のようなものをつくってくれた。 「これ、お母さんの大好物です」といった。  それはいいけれども、じゃが芋サラダと、ポテトフライと、卓上にあるのはすべて芋ばかりだった。 「じゃが芋、好きかね」 「好きです」  といって幸福そうに笑った。 「他に好きな物は──?」  由美子ははずかしそうに、 「里芋──」  といった。  佐久間瑞子も手もとの軽率な娘で、よく食器類をこわしたが、土屋由美子が来てから、しょっちゅう食器類を買い足さなくてはならなくなった。しかし一生懸命であることはよくわかるので、かわいいのである。  伊原洋子は、ほかのことでもそうだが、料理に関しては特に辛辣《しんらつ》で、由美子は圧倒され、懸命に洋子の手際を真似るようになった。もっとも私としては、誰の料理も上下をつける気持はない。  洋子が大凝りに凝って、手製の飛竜頭《ひりゆうず》をつくってくれたことがあって、由美子が早速、その翌晩、同じ物をつくろうとはかったことがあった。  飛竜頭を浸すタレをまずつくろうとして、洋子が彼女らしくシャレて、鍋に酒をまず入れ、煮立たせたのにマッチの火をつけ、アルコール分を抜いた。その印象が由美子の頭にあったらしい。  鍋に酒を注ぎこみ、しかし適量がどのくらいなのかわからなくなって、優柔不断に注ぎこんでいるうちに、とうとう一升瓶の酒をまるごとあけてしまった。私が偶然通りかかったとき、大鍋いっぱいに煮立った酒にマッチの火をつけようとしているときだった。 「おい、由美子は一人でおけないね」と私は瑞子にいった。「火事を出されるのだけはごめんだ。自分の家ならいいけれど、借りている家だからね」  けれども、それだけに由美子のかわいさというものは傑出している面もあった。  ある夜、私は重い背中の痛みで小一時間ほど汗だらけになって苦悶したことがあった。私は畳にうつぶせになったままだった。  そのときは由美子一人しか居ない。彼女はおろおろして、医者を呼ぼうか、といった。 「いいよ。じっと我慢してりゃ、そのうちなおっちまう」 「そうですか」 「ああ、大丈夫だからそろそろ帰りなさい」  由美子はタオルを冷やして私の汗をときどき拭いてくれた。そうして帰らずに私のそばに坐っていた。やっと苦痛が下火になって、なにげなく彼女の方を見ると、坐ったままポロポロ涙をこぼしているのだった。  私がいくらか元気になったのを見て、由美子はこういった。 「あのね、皆が笑う話をしてあげましょうか。実話ですよ。私のお父さんの話」 「ああ──?」 「お父さんがはじめて東京に来て、上野駅で汽車をおりたんですって。ホームを歩いていたら、そばに人が来て、お父さんはいきなり首をひっぱられたの」 「──?」 「お父さんの財布がその人のポケットに入ってるんですって」 「掏摸《すり》だな」 「でもその財布には紐がついていて、お父さんの首に巻きついてたの。その人が駈けだしたから、お父さんもひっぱられながら走ったのね。長いホームを駈けとおして、改札口の方まで、息せききってその人と一緒に走っていって、それでその人に訊いたんですって、どこまで走ったらいいんですか──」  私はまだ痛む背中を意識しながらやっぱり笑った。この親にしてこの娘ありという感じがおかしい。  伊原洋子の母親がまた小さな事件をおこして検束されているという。洋子は事務所から飛んで帰ったらしいが、こういうことがあってしばらくは、洋子の気持も平衡がやや失われるのだった。 「ママが死んじゃえばいい──」と私のところでも彼女はいった。「ママにもそういってあるの。ふだん、なんでもないときに、これ以上娘を苦しめるようなことをしたら、死んじゃってね、って」  青酸加里を母親の鏡台の中に入れてあるのだといった。多分嘘だろう。洋子の話は彼女流の飾りが多い。しかしそれからしばらくして、母親が出奔したきり、もう五日も帰ってこない、といった。 「それは大変じゃないか。心当りには居ないの」 「ええ」 「おかしいね。警察、なら向こうから連絡がくるものね。捜索願いは?」 「いいえ」 「何故」 「死んじゃってくれてると思う。ママも知ってるんだもの。自分のことも、あたしのことも」  沈痛な表情ではあったが、何かもうひとつ頷《うなず》けなかった。私はなお数日、彼女の様子を眺めて、多分、母親を施設のようなところへ預けたのであろう、と推察した。彼女流に表白すれば、母親が出奔した、ということになる感じなのである。  その同じ頃、佐久間瑞子の母親も上京して、瑞子の下宿から一緒に私のところへ挨拶に来た。娘の暮しぶりをたしかめに来て、それは一応安堵したのであるが、もうひとつの用件である見合い写真と略歴を何枚もおいていった。瑞子は中も見ないで送り返すのだといっていた。 「だって中を見てことわったら、かえって相手に失礼でしょう」 「しかし、いつまでも東京にこうしてるわけにもいくまい」 「ええ、今が青春のまっさかり」と瑞子はいった。「これがあたしの青春なんでしょうか。こんなんでいいんでしょうか」 「望めばきりがないがね。しかし君の青春はまだこれからだろう。本格的な男性がまだ現われてないんだから」 「そんな人って居ないですよ。あたし、結局、見合いのようなことをして、いつのまにかおかみさんになっちゃうんです」  私はずっと前の瑞子の涙を思いおこした。私がちょっと優しい言葉をかけたら、瑞子が私の胸の中に飛びこんでくるような錯覚に捕われていた。辛うじて、ここは遊園地なのだと思い直した。 「あたし、旅に行きたいです」と瑞子はいった。「山に登ってみたい。何か大きなことがしたいんです。それで、青春のしめくくりにしようかしら──」 「洋子さんには、好きな人が居るんです」  とある日、瑞子が不意にいった。 「ほう、それはよかった」 「よくもないんです。洋子さん、片想いだって思ってるから。──でも、こんなこと、きかなかったことにしてください。あたしがしゃべったなんて知ったら、洋子さん、死んじゃうわ」 「──俺の知ってる人なのか」 「ええ」 「誰」 「眼の前に居ます」 「──俺か」  瑞子は烈しい眼で私を眺めていた。 「どうなんですか。洋子さんを好き?」  私は返答に窮した。伊原洋子は父親を想うような気持で私を想っているのだろうと思った。しゃべるなという形で瑞子に告げて、私に伝わることを期待していたのかもしれない。  それで思いあたったが、私が母親のために尻込みすることを恐れて、或いは、洋子自身の気持がぐらつくことを恐れて、母親を施設のようなところに隔離したのかもしれなかった。彼女はいつも母親の条件をひけ目にして男を見送ってきたはずだった。  いつも強がっていた少女の、彼女にしてみれば土壇場での決断が、痛く心にしみた。けれども、けっして洋子を嫌っていたわけではないが、私は返答のしようがなかった。  私は長年孤立してきたせいで、少女たちといくらかちがって、孤立そのものに馴れ親しんでいるところがあった。人恋しさや、お互いに労《いたわ》りあいたい気持は募っていたけれど、一定の覚悟なしに接近しすぎることの傷の痛さもよく承知していた。遊園地が、まことに適当な距離で、この線をコントロールしなければならぬといいきかせていた。けれどもそれが私の遊びで、彼女たちそれぞれに、いろいろな意味での気持の負担を与えていたのかもしれない。また、この場合の相手は洋子でなく、瑞子であったとしたら、どうなっていたかわからない。  私がなんの返答も与えなかったので、数日たってから、瑞子がまたポツリといった。 「昨夜も洋子さんと話したんです。あたしはこういったんですよ。色川さんは、たしかに他の人とちがうけれど、結婚する相手では、ないのじゃないか──」 「当ってるかもしれないな」  と、私は苦笑し、瑞子も笑った。 「あたしは、もっと普通の人を探すわっていいました。若くて、健康で、適当に生きてる人を」  瑞子は私を挑発していい気持そうだった。  伊原洋子はその後もあいかわらず私のところへ来ていて、お互いにその件はそしらぬふりをしていた。が、私はどうしてもいくらかわざとらしく優しくしてしまったようだし、洋子は弱みを現わすまいとして懸命に気を張っているようだった。  瑞子と由美子は、由美子のリードで街にお酒を呑みにいくことを覚えた。二人とも好奇心のかたまりで、そういうことが面白くてしかたがないらしい。けれども、なにしろ二人の状況が男の好餌になりやすいものだったし、特に由美子は誰にでもだまされてしまうような娘だったので、私は案じていた。 「どうしても呑みにいきたいなら、俺の顔が利く店に行け。知らない店で呑んじゃいけない」  私は二三の店の女主人に電話して、彼女たちを脱線させないように頼んだつもりだったが、あんのじょう、由美子に男がからまってきた。  由美子は得意気に男を私のところへ呼んだりしたが、一見してケチな遊び屋で、ただ彼女の身心と財布とをなぶりたかっているだけという最低の青年だった。瑞子から注意させたが、こういうときは由美子でなくても耳に入らない。  放っておくと男が親しげに出入りしはじめそうだったし、私の目前で由美子がなぶられていくのを見るのも不愉快だったので、ある夜、彼女を奥の部屋に呼んだ。 「俺は人に強制するのは嫌いだから、あまりこういうことはいいたくないんだけどね、結局、最終的に判断するのは君自身なんだが」  と私はいい、茶を呑んでひと息入れた。 「あの男は俺は嫌いだ。由美子のお母さんも多分嫌うだろう。男と別れてケリをつけるなら俺は何にもいわないが、もし男とまだつきあう気なら、アルバイトはやめということにしよう。どっちにするね」 「はい──」と由美子は固い顔つきでいった。「もっと甘えていたかったけど、そういわれちゃったらしようがないですね。長いこと、ほんとにかわいがって貰ってありがとうございました」  由美子はそれで来なくなった。  ところが偉そうなことをいっている私が、自分でも思いがけず、女にとっ捕まってしまったのである。今まで故意に伏せてきたが、私のところヘ一番あとから現われた娘で、親類の娘だった。そのことに関しては詳述を避けるが、間接的な理由ではあるが、この遊園地を閉場しようと私が思いはじめたせいもあった。  少女を保護するということのむずかしさが由美子のことでよくわかったし、また洋子の大きな代償を払った末の欲求を満たしてやることもできない。瑞子にとっても青春の立ち腐れのようなもので、要するに本当のことを何もしてやれない。してやれる範囲のことはもうしてしまったように思う。  瑞子も洋子も、すぐに感づいたようだった。洋子は遊びに来なくなった。  私は瑞子に思いきっていった。 「俺たちは──」と例の娘のことを複数にした。「しばらく一緒に暮してみようと思う。いつまで続くかわからないけどね」 「ええ──」と瑞子はいった。  この家を越そうと思っている、とも私はいった。 「あたしも、親もとへ帰ります」 「それでね、旅に行こう。俺たちと君、じゃなしに、三人でだ。以前どおりこの遊園地のメンバーとしてね。山を見に行こうよ」  私たち三人は、まず上高地に行って、穂高を見、ベッドが三つある部屋をとって寐た。私も瑞子も例の娘も、キャッキャッと笑いあい、女二人は食堂で毎日二人前ずつ喰べて、屈託なさそうだった。自転車に乗ると瑞子が一番うまかった。それから黒部ダムに行った。それからまた白馬山麓のホテルに泊った。今度は瑞子が補助べッドに寐た。  私たちはそれで帰京する予定でいた。瑞子は、帰らない、といった。 「あたし、白馬に登って、越えてみます」 「一人でか」 「ええ、一人で」 「そうか、我々は山を見てまわっただけで、登ってみなかったな」 「お世話になりました。本当に、一生忘れません。こんなことが、世の中にあるなんて思ってませんでした」  瑞子はおだやかな顔でそういった。しかし翌朝早く霧の中を、小さなリュックを背にして、本当に一人で白馬への一本道を歩きだしたときは、何か烈しいものを感じさせた。  佐久間瑞子は白馬を越えて、西国の親もとのところへ帰っていった。母親からのと、本人からのと、一度手紙が来た。母親が編んだという靴下を送ってくれたこともあった。  しかし、一番長かった遊園地メンバーとしては、意外なほどそっけなくて、たちまち音信不通になった。結婚したのだろうな、と私は思っていた。  それでもやはり娘の行末を案じるように、いつも気になった。ある年、九州からの帰り、瀬戸内海を船で来たときは、瑞子の故郷とおぼしきあたりで、カミさんと二人で、彼女の幸運を祈った。  ずいぶんたってから、当時の鈴木さんの事務所に居た人から電話があって、瑞子の消息を伝えてきた。大阪で妻子のある男性と恋仲になり、妻君の方にどなりこまれたりしたあげく、その男性と東京の方に逃げたということだった。しかも、その男性は数カ月後、元の妻子のところに戻っているのに、瑞子は行方不明だということだった。その人は、もし瑞子から連絡があったら、親もとへ知らしてやってくれ、といった。  瑞子ちゃんが来るかもしれない、とカミさんは彼女のための部屋を用意したりしたけれど、私は、来ないだろう、と思っていた。 「それにしても、電話ぐらいしてきてもいいのに」 「うん──」といったが私はそれにも答えなかった。瑞子、がんばれよ、と心の中でいった。  彼女の周辺は最悪のケースも思ったようだったけれど、そうではなくて、その男性かどうかはきき洩らしたが、東京周辺で所帯を持っているという噂を、その後耳にした。  土屋由美子は、例の男にすぐに捨てられて、某大学のそばのスナックで働いているということだったが、そのうち、サラリーマンと結婚式をあげた。私は行かれなくて祝電だけ打ったが、これは恵まれた結婚であるらしかった。  それから十年近くたって、昨年の暮、夜半すぎに突然電話をくれた。 「びっくりしたでしょう、あたしよ」と由美子はいい、これからすぐ訪ねていきたいから住居を教えてくれ、といった。私はその夜のっぴきならない仕事をかかえていたので、又近いうちに電話をくれ、といってことわったが、夜半の二時すぎになって押しかけてきた。  顔つきには幼さが残っていたが、由美子は酔っていた。  私はそのとき、カミさんと別居していて、寒々しい部屋でぽつんと机に向かっていた。 「去年、病気したでしょう。あのときも看病に行こうと思ったんだけど、やめたの」  それからこうもいった。 「なんでも知ってるのよ。奥さんと別れたって新宿の呑み屋で小耳にはさんだものだから、来たのよ。あたし、あの奥さん、嫌い」 「旦那とは、うまくいってるのかね」 「ええ。旦那はあたしのいいなりよ。子供ができないもんで、退屈でね、今、毎週三日だけアルバイトしてるんです。酒場で」 「旦那は反対じゃないのか」 「お前の好きなようにしていいって。亭主なんて嫌ァよ。お酒呑んでる方が面白い」 「しかし、こんな時間に、酔っぱらって飛びまわってるようじゃ、いい女房じゃないね」 「亭主がいいっていうんだからいいでしょ。あのね、部屋を片づけてあげましょうか」  あいかわらず独り合点な娘だと思った。人の都合も考慮せずに土足で踏みこんでくるような態度も、生活の模様も好感が持てなかった。そのうえ私は、妻とのことで、やはり人間に深くかかわりすぎた悔恨をかみしめている最中だった。  もういいかげんに帰れ、と私はいった。 「じゃ、今度ね、お掃除や洗濯や、本の整理や、やりに来てあげる。いつがいいですか」 「そんなことより、自分の亭主の世話をしろよ」  私はそっけなく送りだした。  その後、もう一度電話がかかってきたけれど、そのときも来訪をことわった。  しかし日が経《た》ってみると、少し考えも変った。由美子の発言はそっくり事実かどうかかなり疑わしいので、彼女流に構えて、せいいっぱい大人の仕草をしているつもりだったのかもしれない。私がかつてのように優しくすれば、彼女の反面の貴重な魅力を充分にまき散らしていってくれたのかもしれなかった。 初出誌   離婚     別冊文藝春秋143号・昭和五十三年三月   四人     別冊文藝春秋145号・昭和五十三年九月(のちに加筆)   妻の嫁入り     オール讀物・昭和五十三年十一月号   少女たち     オール讀物・昭和五十三年九月号 単行本   「離婚」昭和五十三年十一月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年五月二十五日刊