[#表紙(表紙.jpg)] なつかしい芸人たち 色川 武大 目 次  化け猫《ねこ》と丹下左膳《たんげさぜん》  馬鹿殿《ばかとの》さま専門役者—小笠原章二郎《おがさわらしようじろう》のこと—  アノネのオッサン  故国喪失の個性—ピーター・ローレ—  流行歌手の鼻祖—二村定一《ふたむらていいち》のこと—  ガマ口を惜しむ—高屋《たかや》 朗《ほがら》のこと—  誰よりトテシャンな—岸井《きしい》 明《あきら》のこと—  マイナーポエットの歌手たち  チャンバラ映画の悪役たち  パピプペ パピプペ パピプペポ—杉《すぎ》 狂児《きようじ》のこと—  敗戦直後のニューフェイス  浅草有望派始末記  いい顔、佐分利信《さぶりしん》  怒り金時の名寄岩《なよろいわ》  ロッパ・森繁・タモリ  青バット 赤バット  超一流にはなれないが—原《はら》 健策《けんさく》のこと—  ヒゲの伊之助《いのすけ》  パンのおとうさん  話術の神さま—徳川夢声《とくがわむせい》のこと—  明日《あした》天気になァれ—春風亭柳朝《しゆんぷうていりゆうちよう》のこと—  歌笑ノート  日曜娯楽バーン—三木鶏郎《みきとりろう》のこと—  ブーちゃんマイウェイ—市村俊幸《いちむらとしゆき》のこと—  渥美清《あつみきよし》への熱き想《おも》い  とんぼがんばれ—逗子《ずし》とんぼのこと—  エンタツ・アチャコ  忍従のヒロイン—川崎弘子《かわさきひろこ》のこと—  リズムの天才—笠置《かさぎ》シヅ子のこと—  金さまの思い出—柳家金語楼《やなぎやきんごろう》のこと—  アナーキーな芸人—トニー谷《たに》のこと—  本物の奇人—左卜全《ひだりぼくぜん》のこと—  あこがれのターキー—水《みず》の江瀧子《えたきこ》のこと—  エッチン タッチン  有島一郎への思い入れ  唄《うた》のエノケン [#改ページ]   化け猫《ねこ》と丹下左膳《たんげさぜん》  小さいころの私の夢は、映画のフィルムが家にたくさんあって、好きなときに自分も見、他人にも見せられたらいいなァ、ということだった。今、ヴィデオが出廻《でまわ》って、その夢がわりにたやすく実現できる。十六ミリや八ミリが買えるようになったころ、関心は非常にあったが、私は数が欲しいから、経済的にむずかしい。しかしコレクターとしての本筋は、やはりテープでなくフィルムを集めることであろう。それで、そろそろ十六ミリのほうにも手を出そうかと思っている。ヴィデオになっていない十六ミリのフィルムはまだたくさんあって、コレクターにとってはこれらを手中にしないではおちつかない。  しかし、ダビングが簡単にできるようになって、コレクターいずれもが手持ちのフィルムを隠すようになった。どのコレクターも、どこそこの誰が、なにを持っているかという情報は非常にくわしい。 「○○○? あ、それは誰某《たれがし》さんのところにある」  それで誰某さんのところへ行って、○○○を見せて貰《もら》おうとすると、 「私のところにはありませんよ。私が永年探してるくらいだから」  話をしているうち、×××という映画の話になる。 「それなら関西のYさんが持ってるなァ」  他人の持ち物にはすごくくわしいが、自分のところにはなんにもない。  もっともね、コレクターの気持もわかるのである。苦心して集めたものが、簡単にダビングされて流通してしまっては、腹立たしくなるだろう。コレクターの楽しみは自分一人で独占して持っているという部分にあるので、そのうえに流通すれば、そのものの値段もおちてしまう。今、ほとんど売買されないが、値段としては三百万、五百万というフィルムがざらにあるのだ。もちろん十六ミリの値段だが。  だから情報はたくさんある。けれどもそれが事実かどうか、そのご本人以外にはわからない。  九州の富士興業(不二興業かな)の倉庫には、鈴木|澄子《すみこ》の化け猫物を含めた新興映画のフィルムが二、三十本、ゴロゴロしているそうだ。  戦後の映画ファンは、化け猫というと入江たか子主演と思うだろう。戦争中までは化け物の大スターは鈴木澄子だった。今、公《おおやけ》に残存している彼女の映画は、�有馬猫��狂恋の女師匠�ぐらいだろうが、コレクターの間では、初期の�佐賀|怪猫伝《かいびようでん》�や�怪猫五十三次��暴れ出した孫悟空《そんごくう》�などもあるとされている。  しかし私の子供のころの鈴木澄子の人気、というか知名度というものは凄《すご》かった。子供なら誰でも知っている。化け猫は他の女優もやらないではなかったが、化け猫というと鈴木澄子が代名詞だった。特に�狂恋の女師匠�というのは怖かったな。これは|真景累ケ淵《しんけいかさねふち》、例の豊志賀《とよしが》の話だが、今でもちょっと見てみたいほどなつかしい。  しかし化け猫のほうは、こけおどかしなだけであまり怖くなかった。なにを演《や》っても怖かったのは、おそらく、戦後の入江たか子のほうであろう。  入江たか子は、私の子供のころの美人大スターで、美人という点では日本の映画女優の中でもNo.1といってもいいのではあるまいか。怖いような美人、というけれども、あまり美人すぎて、悪夢の中に出てきそうで、どうも私は苦手だった。ああいう細面《ほそおもて》で、背が高くて、魔女的なタイプが小学校の女教師などによく居る(こちらは美人ではないが)。  それで私は子供のころから、入江たか子の映画というと、なんとなく観《み》に行かない。今、私の家に長谷川一夫東宝入社第一回の�藤十郎の恋�とか、日活時代の�栗山大膳《くりやまたいぜん》��大菩薩峠《だいぼさつとうげ》�などあるけれど、いずれも怖いから観ない。  戦争中に、�白鷺《しらさぎ》�という映画があった。泉鏡花原作、たしか島津保次郎《しまづやすじろう》監督だったと思う。入江たか子の女主人公《ヒロイン》が、幽霊になって現れるところがある。当時のキネマ旬報にその写真が出て、もうそれだけで夢に出てきそうで、とても映画を観にいくどころではなかった。  戦後、トウがたってから、化け猫をやったとき、世間は、あの大スターが、といったが、私はうまい企画だと思う。彼女が演れば怖さはまちがいない。  鈴木澄子には、そういう美しすぎる怖さはない。もっと泥臭《どろくさ》い妖婦《ヴアンプ》型で、しかしどことなく不吉な顔をしていた。私が観ていたころ、すでに年増《としま》で、戦後もしばらく化け猫を持って一座を作って廻っていたから、不吉でもなんでもない息の長いタレントだったのだろう。名古屋でアパートをやっていたはずだが、ついこの間|亡《な》くなった。  ヴィデオの話から化け猫になってしまったが、まァどこへ流れたって不都合がおきるわけじゃない。  邦画にかぎっていうと、時代物がわりにたくさん残っている。残存していない、という定説があるものでも、時代物だと、いや、あれはどこの誰某さんの所にある、と噂《うわさ》されるものがすくなくない。  敗戦直後にアメリカ軍(GHQ)の検閲があり、各映画会社が既存のフィルムを提出した。日本人の復讐《ふくしゆう》をおそれたGHQが、チャンバラの場面、特に仇討《あだう》ちなど復讐の場面をズタズタに切ってしまった。忠臣蔵なんてのは戦後しばらくはタブーだったわけだ。  今、市販されているヴィデオでも、このときの洗礼を受けているフィルムがたくさんあって、話がつながりにくくなっている。たとえば�エノケンのどんぐり頓兵衛《とんべえ》�のごとき、おしまいの乱闘のところがそっくりないために、敵のはずの人物たちが、ひょいと皆|仲好《なかよ》くなってしまう。  市販はされていないが、山中|貞雄《さだお》の丹下左膳余話�百萬両の壺《つぼ》�でも、終幕近く、左膳とごろつきたちの乱闘場面がない。大《おお》河内伝次郎《こうちでんじろう》の魅力は立廻りのときの動きの迫力であり、特に丹下左膳は、白い着物の裾《すそ》を蹴《け》って何者にも突進していくアナーキイな動きが魅力的なのだが、これが削りとられているのである。大体、山中の丹下左膳はシナリオ構成は実にうまいが、ホームドラマ調で、左膳の鬼気のようなものが淡く、欲求不満になっているところに、立廻りがないのだから困る。私などは、無性にその以前の伊藤大輔《いとうだいすけ》監督の丹下左膳がなつかしい。これを映画館で観たのは小学校の低学年のころだが、今もって、丹下左膳の立廻りはよく覚えている。なにしろ、櫛巻《くしまき》お藤《ふじ》とチョビ安の二人をのぞいて、世間の誰からも嫌《いや》がられているヤケクソじみたアウトサイダーで、なにかというと走り廻って斬《き》りまくる。捕方《とりかた》だろうとなんだろうと相手かまわずである。  実にどうも、これが私みたいな劣等少年のカタルシスを慰めてくれる。丹下左膳とターザンは、洋の東西で期せずして現れた似たような存在であった。  しかし、伊藤大輔の丹下左膳は、いくら探しても残っていないようだ。戦後に再製作された(気の抜けたような)左膳物は残っているのだが。  さて、そのGHQの検閲が噂されているときに、どうせ切られちまうのなら、と撮影所の関係者が倉庫の古いフィルムを持ち帰って隠してしまったらしい。現在、コレクターの間で珍重されているのは、それが方々を流れたもので、だから日活時代劇に関してはわりにたくさん残存している。  同じような理由で新興や大都、その前の帝キネや東亜などの二流会社の作品も残っているかというと、これは極端にすくない。これらの会社では、時代物の映画は、映画館をひととおり廻ると、フィルムを一こまずつチョン切って、子供の玩具《おもちや》として駄菓子《だがし》屋に売られてしまうのである。新聞紙の袋に入れられて、一銭ぐらいで売る。子供たちは新聞の袋を破いて、中のフィルムの切れ端を陽《ひ》にすかして、あ、バンツマだ、アラカンだ、といって喜んでいたのである。その年齢のお方は覚えがあるだろう。  あれになってしまうのだから、残っているわけがない。つい最近も、堺《さかい》市の(多分昔の駄菓子屋さんであろう)ある家で、祖父が亡くなったので押入れを整理したら、十センチぐらいに切られたそういうフィルムが、たくさん出てきた。  大阪のコレクターが喜んで買付けに行ったそうだが、もう今はないとされた帝キネや東亜、全勝、極東というような小さな会社のフィルムがたくさん出てきた。それにしてもわずか十センチずつでは、幻燈《げんとう》が出てきたようなものだ。  それでも関西には撮影所が多くあったせいで、時代物のコレクターは多い。今、市販されてない物で、�牢獄《ろうごく》の花嫁��恋山彦《こいやまびこ》��まぼろし城��隠密《おんみつ》三国志��雄呂血《おろち》��沓掛時次郎《くつかけときじろう》�まだ書き切れないほどある。  昔の映画を観ていちばん感じるのは、セットが優れていることだ。カメラ、録音、音楽、いずれも現今のほうが格段の進歩だが、セットだけは昔のほうが丁寧だ。  そういえば、ふと思い出したが�神変|麝香猫《じやこうねこ》�の昭和十五、六年製作のものは、前篇が片岡千恵蔵《かたおかちえぞう》主演。ところが千恵蔵が肺結核かなにかで倒れてしまって(轟夕起子《とどろきゆきこ》にフられたせいだという説もある)、次の週に封切られた後篇は中田耕二主演だった。同じ主人公が前篇と後篇でちがう顔になっていて、私の近所の子供たちは、実に納得のいかない顔をしていた。ああいうことは他に例を知らない。まだどこか暢気《のんき》な時代だったのだろう。 [#改ページ]   馬鹿殿《ばかとの》さま専門役者     —小笠原章二郎《おがさわらしようじろう》のこと—  私は今でこそ幸運に恵まれてなんとか生きつないでいるけれども、子供のころはまったく世間とかみあわないで、自分の未来の姿というものがどうしてもつかめなかった。どういう生き方もできないで、どこかで行きづまって窮死するのだろうと思っていた。  それで世間のほうを見渡して、自分と同じように、社会から落ちこぼれて窮々としている人は居ないものかと思う。それらしき人間がみつかると、同胞をみつけたように安心してその人の行末を眺《なが》めていた。落ちこぼれといってもいろいろなタイプがある。中学に受験の手前のころだったと思うが、さすがに不安でそれと思える人たちの名前をノートに書き並べて番付を作ったことがある。自分一人で、それを駄目《だめ》番付と称していたが、むろん、私自身がその中の大きな位置を占めていたのである。  子供のことだから、映画や新聞に名が出てくる人たちから選ぶのだが、個人的に知っているわけではない。あくまでも私の視線だけのことで、この小文に次々に登場する名前の関係者の方、どうぞ気をわるくしないでいただきたい。  どうしても目立つのは、タレント勢であるが、この中には実に不思議な、子供の私には理解がいきかねる役者が居る。戦争前のことだから役者などは河原乞食《かわらこじき》という意識が残っており、私は乞食でもなんでも生きていければ他意はないので、なんだってかまわないが、他人の生き方となると、当時の上流階級から役者になるというのはどうしてなんだろう、とまず思う。  前回に記した入江たか子は、東坊城《ひがしぼうじよう》という子爵《ししやく》の娘で、姉は大正天皇の女官を務めていたという。それでものすごい美貌《びぼう》で、当時、特に女優というと圧倒的に下層庶民の出が多かったから、それだけでも不気味であった。  その入江たか子と対照的に、こちらは大スターにはならなかったが、小笠原章二郎という人が居た。父親は小笠原|長生《ながなり》という子爵で、あの行儀作法の小笠原流の家だろうか。学習院から陸軍幼年学校に入り、病気で中退したという。この病気というのが、なんだか意味ありげだが、彼の兄が小笠原|明峰《めいほう》といって映画監督だった。  活動屋など、当時は道楽商売で、規格はずれの人間のいくところに兄弟二人とも足を突っこんだとなると、父親は頭を抱えたろう。もっとも貴族というものは、庶民などよりずっと不健全なものらしいから、できそこないが産まれるとそのスケールも大きいということになるのか。いってみれば落ちこぼれのできそこないそれ自体が貴族的といえるのかもしれない。  小笠原章二郎は、女優の入江たか子に匹敵するほどの、ぞっとするような美男だった。特に素顔を見ると、病的で、人間の生活意識などまるで見当たらない、頽廃《たいはい》を絵にかいたような美男なのである。美男スターというものは、並の美男ではいけない。抜きん出た美男である必要があるけれども、美男もここまで到達すると、なんだかとまどってしまって、庶民の讃美《さんび》の対象になりにくいのであろう。  まずこれが私の関心を呼んだ。学習院はともかく、幼年学校というコースが実に似合わない。それで道楽息子で堅気の生活にはまらず、映画俳優になる経緯はなんとか想像がつくが、その役者生活がまた不思議である。  貴族の出で話題にもなるし、ともかく美男スターへの道を歩もうとしたかというと、これがまったく正反対で、ボケ役の三枚目になってしまったのだ。  まだ無声映画の時分で、私は初期の彼の映画を見ていない。ひょっとしたら二枚目の線で入ったのかもしれないが、誰しもがなんとなく違和感を感じたのかもしれない。あるいは美男スターの型にも人となりがはまらなかったのか。  白塗りは白塗りだが、彼の役は、馬鹿殿さまか道楽|若旦那《わかだんな》の役ばかりだった。果物の皮をむいたようにテラテラとしていて、おっとりと若い女のことばかり考えている、申し分のないノウ天気な役で、そうしてまったくの無表情、笑いもしない。  バスター・キートンも、無表情を売り物にしていたが、とにかく彼は痴呆者《ちほうしや》ばかりでまともな男の役は皆無だったのではないか。今作品目録を見ても、「ひやめしお旦那」「殿様やくざ」「お旦那|変化《へんげ》」「三ン下お旦那」というのばかりで、ただ一本「実録・小笠原騒動」どんな映画かしらないが、なるほどと思うだけだ。  思うに、役者としての習練ができておらず、無表情を売り物にするほかなかったのではないか。  そのせいかどうか、トーキーになっても、彼のセリフはいつも極端にすくなかった。声柄《こえがら》も、女々しいようなキーキー声で、美男スターには似合わない。なんという題名だか忘れたが、眼《め》ばかりぱっちりさせたまま、無表情で、 「よきにはからえ——」  それだけをくりかえしていただけの映画があった。しかし客はなんとなく笑いこける。それで一時期、添物映画だが小笠原章二郎主演の馬鹿殿シリーズが作られたこともある。  松竹下加茂で林長二郎(長谷川一夫)や坂東好太郎などの脇《わき》のコメディリリーフをやり、京都のJOトーキーに移った。いずれも準スターくらいの格か。JOが東宝に合併されたあと、アノネオッサンの高勢実乗《たかせみのる》とコンビを組んでいたこともある。けれども、だんだん戦時体制になってきて、出る幕がすくなくなった。とにかく、このくらい戦時体制と合わない役者も珍しい。大概の人は兵隊の役ぐらいできるのだけれど、小笠原章二郎では兵隊の役も駄目なのである。  それで、時代物映画に、徳川将軍とか、有名な大名の役で一カットくらい出る。ところが彼が澄ましているとドッと笑声がおきて、権威を傷つけているように見える。戦争中はそれもよくない。  私が中学生で浅草をうろついていたころ、つまり太平洋戦争のころは、浅草のアチャラカ芝居に、客演の形で出ていた。つまり、非国民で中学を無期停学になっていた私と、どう見ても非国民としか見えない彼が、はからずも同じような場所に流れこんできたのである。  なんといったらいいのか、私のほうは、実にそれが頷《うなず》けるのである。当時の状勢では、浅草はまさにそんなところだった。もっともその浅草でも、彼は戦時体制劇には出る役がない。あいかわらず馬鹿殿さま一本槍《いつぽんやり》で、愛妾《あいしよう》といちゃつきながら、 「よきにはからえ——」  式のセリフばかりいっているのだから、同一劇団では毎公演は役がないのである。したがってそういう役があるときだけ、特別参加の恰好《かつこう》で出る。客がゲートルに防空|頭巾《ずきん》などかぶって見に来ているときに、のん気至極だけれど、見ようによっては、そののん気さが行きづまった異様な見世物にもなっていた。  一度、川田義雄《かわだよしお》(晴久《はるひさ》)が病気欠場のために、彼が代役で出てきて、遠山の金さんを演じたことがある。桜の彫物をした金さんは、実に美々しかったけれど、セリフが女々しい声で、おまけに馬鹿殿さまのメエキャップそのままなので、なんだか珍な金さんだった。  もうそのころは、浅草では一応の格はあったけれど、客のほうは彼の名前を憶《おぼ》えていなかったろう。だからなんとなくちぐはぐで、珍なところが馴染《なじ》めなくて、受けてもいなかった。  その後だったか、戦争末期は、噂《うわさ》によれば精神病院に入っていたとか。ハハァ、私の行き場も、まだ精神病院という所が残っていたな、と思った記憶がある。  戦後、私のほうもあわただしい日常になっていて、忘れるともなく彼のことも忘れていたが、いつのまにか映画にチョイ役で復帰していた。といっても、往年のような馬鹿殿ではない。すっかり老《ふ》けて、禿頭《はげあたま》の爺《じい》さんになっており、病後らしいやつれも見えた。  もっともスクリーンで発見したときには、顔は往年のツルツルした美男のままのようにも思えたせいで、頭だけがツルツルに変わった不気味な老人だった。  ほとんどセリフのない通行人だとか、葬式の会葬者の中などにチョクチョク見かけて、それでも私は小笠原章二郎健在なり、と一人で喜んでいたが、そのうち、特に(これも意外だが)進歩的な独立プロの作品「蟹工船《かにこうせん》」「真昼の暗黒」などでユニークな存在を評価されはじめてきた。  おそらく、小笠原章二郎について、まっとうな評価がされたのは、このころがはじめてだったのではなかろうか。それまでは、準スター格のころも、世の識者からは、クソミソにいわれ続けているばかりだった。もっとも、誰が見てもまっとうな評価はつけにくい。せいぜい、珍優とか、奇優とかいわれるのが関の山だったろう。  もっとも、あくまで泥臭《どろくさ》い流れというものもあるもので、馬鹿殿も小笠原章二郎で一つのパターンになり、小芝居ではずいぶん彼の亜流のコメディアンが居たものだ。  老人になってからの彼は、いわゆる三枚目ではなかった。ちょっとエキセントリックなところのある老人役で、不気味な感じもするなかなかおもしろい存在だった。もう少し長生きしたら、と思うのは欲で、とにかく自分流に独走した一生だったのだろう。十年ほど前に亡《な》くなったが、折があったら一度、その心のうちをきいてみたかった気がする。  現在市販されているヴィデオでは、エノケン物の「法界坊」「爆弾児」などに三枚目時代の姿を偲《しの》べるし、前記「蟹工船」「真昼の暗黒」などもまだ見られるはずだ。小津安二郎《おづやすじろう》の「東京物語」でも、東京駅の待合室の中の客として、後景に居る。ただ居るだけでやはり一種の存在感がある。 [#改ページ]   アノネのオッサン  今のお若い方はもうご存じなかろうが、昭和十年代に活躍した珍優で、高勢実乗《たかせみのる》という人が居た。この名前では首をひねる人も、アノネのオッサン、というと、これはもうそのころの人なら誰でも知っている。子供をはじめ大人たちの間でも、知名度という点では、長谷川一夫にまさるとも劣らなかったろう。 「アーノネ、オッサン、ワシャ(儂《わし》は)、カナワンヨウ——」  活字ではなかなかこのイントネーションが伝えにくい。頭のテッペンから出るような奇声で発するこの一言が、極《き》めワザである。奇声といっても、マイクのない時代の旅役者に共通のきたえた地声ということもできる。  そうして、眼《め》の下に墨で半円を描いて眼をまん丸に見せ、鼻毛の伸びたものと自称する長髭《ながひげ》を垂らし、おおむねは殿さま髷《まげ》をつけて出てくる。  アーノネ、オッサン、という奇妙な呼びかけが、実に受けた。おっさんという言葉が一般化したのはこれがきっかけだったと思う。全国津々浦々に伝播《でんぱ》して、小学校では児童がこのセリフを口にするのを禁止したところがたくさんあった。なにしろ、アーノネ、オッサン、といわれちまうのでは、先生の権威がこけにされてしまうのである。  そうしてこの流行語は稀《まれ》にみるほど生命が長かった。今日とちがって、戦時中だから、ほかにあまりこうしたナンセンスが生産されなかったせいもある。  けれどもこの人、もともとは映画発生期あたりから居る色敵《いろがたき》役者で、衣笠貞之助《きぬがさていのすけ》監督の有名な「狂った一|頁《ページ》」なんかにも出ている。色敵時代の彼を、私も一、二本見ているが、なるほど素顔は悪役の顔で、臭い役者だった。古い映画人に訊《き》いても、「あの人は勝手に大芝居を演《や》るんで、まわりがいつも演りにくかった」なんていう。  たぶん、山中貞雄《やまなかさだお》監督の後期の作品に、鳥羽陽之助《とばようのすけ》と組んでコメディリリーフをやりだしてからだと思うが、扮装《ふんそう》にこるようになった。それが極まって、アーノネ、オッサン、になったのは東宝移籍後であろう。  素顔で見ると、ただの悪役だが、アーノネ、オッサンなら、スターである。これでは素顔を捨てたくなる。  ただし、世間には絶対に居ない漫画の中の人物のようなものだから、スターになっても、主演はできない。易者とか、がまの油売り、藪《やぶ》医者、茶坊主《ちやぼうず》、せいぜいそんなところで、キャスト順位は別格だが、たったワンカット出てきて、アーノネ、オッサン、ワシャ、カナワンヨウ、という受けゼリフをいえばよろしい。それでおしまい。  そういう使い方しかできなかった。けれども、それで受ける。彼が画面に出てくると、映画館の子供たちが、いっせいに、彼のセリフに合わせて、アーノネ、オッサン——、と合唱し、ゲラゲラ笑うという有様を私も何度も見ている。  実にどうも、(色敵時代はさておき)かりにも役者の身で、このくらい人間を演じないで、架空の存在に徹した人は珍しい。その点でも、人気の点でも、前回の小笠原章二郎とはスケールがちがう。  私は高勢実乗のことを主人公にして小説を書きたいと以前から思っており、折々に古い映画人を取材して廻《まわ》っている。それで、未《いま》だに小説化する自信がない。というのは、彼に関するエピソードが、いずれも、表と裏の判断が必要なのである。奇行の多い人で、たとえば、ロケ先で蛇《へび》を捕まえては常食していたとか、すると、それは彼の奇優ぶりをPRするためにわざと演じていたので、実際はなかなか実直な紳士だったという説がある。それに対して、いや、あれこそ地で、どうしようもない変人なのさ、という説もある。  いろいろとエピソードを集めていくうちに、実体めいたものは測定はできるのだが、実在人物をこちらの想像で限定してしまうほど、今となってはデータが豊かなわけでもない。手短に私の想像をいうと、旅廻りの小芝居から叩《たた》きあげた人で、役者としての立身出世というか、成功に、とても執着していた。そういう意味では努力型で、勤勉でもあり、実直でもあったろう。同時に、成功のためならなんでもやるというタイプで、成功と同時に、いわゆる役者|馬鹿《ばか》にもなっていっただろう。  戦争の後半期に、映画の製作本数が減って、彼も実演に出ていたことがある。「オッサンの起《た》て一億の底力」という奇妙な題名の芝居、いや芝居とは義理にもいえない目茶苦茶なもので、殿さま髷をつけた怪人物に召集令状が来る、というなにがなんだかわからん代物《しろもの》だったが、これを打って廻っているとき、地方の小屋の楽屋に虎《とら》の皮の敷物を敷き、卵を持ってこい、生きた蛇を持ってこい、あらゆるわがままをいう。ところが彼の小一座は仕こみも安くて客の入りがいいから、小屋主もそのわがままをききいれる。  ある小屋で、ライトを倍に増やせ、といった。戦時中の電源節約というころである。そいつは無理だというと、では、電信柱を新しく建てろ、といったという。  こういう種類の逸話は、非常識で馬鹿な野郎だ、という笑話になるのだが、高勢実乗の述懐によると、 「役者というものは、人気があるうちはどんなわがままでも通る。わたしはわがままをいってみることで、自分の人気の量をいつも量《はか》っていたのさ」  ということだ。これはいかにも小芝居生え抜きの人の知恵で、ある程度本心だったのではないかと思う。彼のエピソードには、いつも彼独特の頭の動きによって作られている部分があり、それが他者には理解しがたくなるところなのであろう。  もう一つナンセンスなエピソード。  ある劇場の楽屋で、彼は金貸しから金を借りようとした。書類を手にして、 「私は印形《いんぎよう》というものは使わないよ。あんなもの、ハンコ屋に行けば誰でも造れる。印形を信用して手痛い目に遭ったことがあるからね。それからは、ハンコは使わない。私だけしか持っていないもので——」  といいながら、自分の股間《こかん》の一物を印肉につけて、それを印形代りに借用証に押した。 「さ、これでちゃんとした証書になった。では必ずお返しするから——」  金貸しは安心していると、半年たっても一年たっても返してくれない。  押しかけていって直談判《じかだんぱん》すると、 「金を借りた? そんなことがあったかねえ」 「いえ、あのとき、ハンコはまちがいがあるから使わないとおっしゃって、先生の身体《からだ》の一部に印肉をつけて押してくださいました。これがそのときの証書で」 「これが——? あたしの——? そうかねえ」  高勢実乗は再び、股間の一物を出して、その代用印形の跡にあてた。 「あ、こりゃあたしのじゃない、大きさがちがう」  といったという。できすぎた話。  彼の人気の盛りのころ、つまり戦争も日本が勝っていて、軍部が威張っていたころだが、 「この聖戦の最中に、ワシャ、カナワン、とは何事だ、敗戦思想だ」  といわれて、売り文句を使えなくなってしまった。だからそのころの映画では、アーノネ、オッサン、と呼びかけてはくるが、後半は苦しくごまかしている。「磯川兵助《いそかわへいすけ》功名|噺《ばなし》」というエノケン主演物では、がまの油売りになって、どうしても血がとまらず、アーノネ、オッサン、ワシャ、困ッタヨウ、といっていたのがおかしかった。  それでも敗戦の色濃くなると、そういう規制もうやむやになったらしい。「勝利の日まで」という将兵慰問映画は、慰問爆弾というのを内地から発射し、前線に飛んで爆発すると、高峰秀子《たかみねひでこ》が出てきて歌ったり、エンタツ・アチャコの漫才爆弾だったりという趣向だったが、その中で一発だけ、不発弾になって途中の海の中に沈んでしまうのがある。それが高勢実乗の爆弾で、海中に沈みながら、ワシャ、カナワンヨウ、とやっていた。 「エノケンの孫悟空」は正月にテレビでやったからご覧になった向きもあろう。高勢実乗は化け物の大王になって、孫悟空と化けくらべを演ずる。こういう所になると、あのエノケンを圧して、彼のあざとい奇優ぶりが精彩を放っていた。もっとも、色敵役の昔と同じく、「あの人は出てきただけでほかを喰《く》っちゃうから、どうもね」と役者からは嫌《きら》われていたらしい。  年齢不詳という感じだったが、オッサンで売り出したのは五十すぎと覚《おぼ》しく、戦後、ナンセンスがどんどんできる時代を迎えたら、あっけなく死んでしまった。  敗戦直後の焼跡の映画「東京五人男」で、ヤミ太りの百姓になって出てきたが、モーニング姿で肥桶《こえおけ》をかついでいる彼が、まだ眼に残っている。  今、関西の吉本新喜劇で老《ふ》け役をやっている高勢ぎん子は、往年のムーランの名花|鈴懸《すずかけ》ぎん子で、高勢の娘だ。そうして彼女の娘、高勢実乗には孫娘に当たる人が嫁《か》している先が、レオナルド熊《くま》やコント赤信号を擁しているプロダクションの社長で、近ごろテレビでもタレントふうに受けている石井光三だ。あの異様な関西弁で、社長ッ、といいながら弁当を配ったりする怪人が、高勢実乗の孫娘と結婚しているというのが、なんともおもしろい。 [#改ページ]   故国喪失の個性     —ピーター・ローレ—  ピーター・ローレという役者をご存じか。すこし映画好きのお方ならもちろんご存じであろう。そうでない方も、彼の写真を見れば、ああ、観《み》たことがある、というだろう。いわゆるスターではないが、知名度はかなり高い。  しかし私の子供のころはそうでもなかった。「M」というドイツ映画が封切られて、その中で殺人鬼の役をやっていたが(後年それが彼のデビュー作だったと知る。その前は小劇団で三枚目を演《や》っていたそうだ。笑劇と怪奇劇はほぼ同質のものだから少しも不思議ではない)、これがなんだか可愛《かわい》くて、ヴィヴィッドで、そうして社会のどこにも居場所がないという感じが、すっと諒解《りようかい》できた。  小学校の三年か四年生くらいのことだが、勉強机の前の柱に雑誌から切り抜いた彼の写真を貼《は》っておいたことがある。後にも先にも、私は他人の写真を座右においたことはない。 「なんだい、気味のわるい顔——」  と母親にいわれたが、中学に入って戦争が烈《はげ》しくなっても、写真はそのままにしておいた。「罪と罰」というフランス映画でラスコリニコフを演じたときのものだ。まだ当時は晩年のように太っておらず、ズングリムックリで、寸のつまった顔にギョロ眼《め》、それがシャープで、成人したらああいう顔になればいいな、と思っていた。  役柄《やくがら》が特殊なわりに、当時の欧州映画には続々登場し、「O・F氏のトランク」「上から下まで」「FPI号応答なし」「暗殺者の家」「間諜《かんちよう》最後の日」などいずれも癖のある映画で、いわゆる名匠に使われていた。もっともその半面、B級映画にも出てくる。題名を失念してしまったが、彼はピアニストで殺されてしまうが、怨念《おんねん》がピアノにとりついて、自分を殺した女がくるとピアノが鳴り出す。怨念でピアノが鳴るというアイディアは後年別の映画でも見たが、これはあくまでB級作品らしく、彼の指先だけ現れて鍵盤《けんばん》の上を動き廻《まわ》る。  ピーター・ローレはハンガリー人だと思うが、たぶんナチのせいであろう、戦火に追われるように、ドイツからフランスの映画界に移り、イギリスに渡り、とうとうアメリカのハリウッドまで来てしまう。それが、最初のイメージの、どこにも居場所がなさそうだ、という感じのリアリティになって、私のような当時のはみ出し者には奇妙な親近感を感じさせたものだ。  もっとも実際の活動は戦後になってから知ったのだが。  当時、欧州映画のタレントたちは争ってアメリカに避難していて、そのうえ復員などもあって人材がだぶついていたと思う。そのせいか、故国では大きい名前だった役者がずいぶんつまらない端役《はやく》で出演していた。コンラット・ファイト、ハンス・ヤーライ、マルセル・ダリオ、アルバート・パッサーマンなどが苦闘しているわりに、ピーター・ローレは亡命先でもわりに順調だった。  戦後ひさしぶりにお目にかかったのは「カサブランカ」のヤミ旅券屋だったと思う。印象的だが役は軽い。そのころは苦闘時代だったらしく、モトさんという日本人|探偵《たんてい》になってB級シリーズを撮っている。我々が考えると日本人であんな顔は居ないが、要するに何人《なにじん》だか始末に困る顔だったのだろう。あいかわらずスパイ役だとか、アフリカに居る故国喪失者の役が多い。「望郷」のアメリカ版では、ペペ・ル・モコを追い廻す現地人の刑事を演っている。  孤独で、臆病《おくびよう》で、そのくせ世間に執着を持つためにますます正体不明になるという彼の持味は、実をいうと欧州映画、特にドイツ、フランス映画のころにもっともヴィヴィッドだったと思う。ハリウッドに来てからは、変わった個性や外貌《がいぼう》がハリウッド式にパターン化されて、やや光を失ったように思う。私もハリウッド映画から観はじめたら、単なる性格俳優としてとおりいっぺんの関心しか持たなかったにちがいない。  戦後まもなくのころだが、新聞にピーター・ローレの訃報《ふほう》が載ったことがあった。そのとき近親者に死別したようなショックを受けた。会ったことも、口をきいたこともなくても、深く身体にしみこんでいる人物というものがあるものなんだなとそのとき思った。  ところが彼は健在で、「マルタの鷹《たか》」「永遠の処女」「渡洋爆撃隊」「毒薬と老嬢」と多彩に使われ、「仮面の男」では主役になっている。このあともう一度数年してから、また新聞に訃報が載ったことがあったが、当時は外国のニュースは、かなり混乱していたのだろうか。 「仮面の男」という映画は、E・アンブラーのスパイ小説の映画化だが、なかなか小味な作品だった。ピーター・ローレは主役なので、かえって狂言廻しになっていささか精彩がないが、ピータースンという正体不明の大男に、シドニイ・グリーンストリートという巨漢の怪老人が出ていて、これが魅力だった。地下鉄の追いかけ場面など、大男の老人の動きがスピーディで迫力があった。  この二人は同じワーナーブラザースの専属のせいか、同じ映画でしょっちゅう共演しており、大男小男のコントラストがよく、ワーナーの戦時将兵慰問映画「ハリウッド玉手箱」では、はっきりコンビとしてコントをやっている。  そういえばあの映画はなんといったろうか。アラン・ポーの『大鴉《おおがらす》』の映画化なのであるが、やっぱり思い出せない。いかにもB級らしい凄《すご》い邦題がついていたが、今調べて見たら「忍者と悪女」だった。この題名ではなんとしても憶《おぼ》えられない。ホラーのスター、ボリス・カーロフとヴィンセント・プライスが、古城の中で忍術くらべをするというのもウレしいけれど、ピーター・ローレが鴉にされてしまった男を演じていた。鴉だか人間だかよくわからないなんていう人物は、この役者をおいて演じ手がなかろう。  ピーター・ローレのハリウッドにおける代表作は(たぶん、人はちがう答をだすだろうが)、私は、フレッド・アステアとシド・チャリシイの軽喜劇「絹の靴下《くつした》」だと思う。これは昔の「ニノチカ」(エルンスト・ルビッチ監督)をアステア風喜劇に直したものだが、ピーター・ローレは、こちこちの共産党員チャリシイ嬢の供をしてソヴィエトから来た軟骨人間で、花のパリで大いに楽しもうとしているのだが、やはりロシア人で、もうひとつチグハグになっている。彼は何故《なぜ》か(独特の体型からくる劣等感でもあるのか)ロシア人のくせにダンスができない。アステアとチャリシイの鮮やかなダンスを、うらやましそうに眺《なが》めているが、ついに、俺《おれ》のダンスはこれだ、という。  そうして机と机の間に肱《ひじ》をかけてぶらさがるようにし、足だけこちょこちょ動かすのである。彼はこの映画の中で、踊りたくなる気分になると、一人でその恰好《かつこう》になって足を動かしはじめる。どうも、私は涙腺がヨワいらしく、映画を見ていてしょっちゅう涙を流すのであるけれども、この場面でも、ほろりとなった。  ダンスひとつ、人と肩を並べて踊れないような、実に独特の恰好で、長いことよく生きてきたね、と私はスクリーンの彼にささやきかけた。  私もパラノイア的気質で、子供のころからどうしても人々の列からはみだしてしまう。それでひっこみ思案だけれども、内心は頑固《がんこ》で、おくればせに列のあとからついていくということをしない。ピーター・ローレの不思議なダンスは象徴的でなにをやっても自己流の不細工な形にこだわってしまう。  もっとも私のような男はやっぱり少数派で、ピーター・ローレに親近感を感じる人は、すくないのだろう。昔、編集者のころ、塩田英二郎さんとウマが合ってよく飲み歩いたりしていた。夢みるユメ子さんなどの漫画でおなじみだった人である。塩田さんに、私としては最大級の讃辞《さんじ》を呈したつもりで、 「塩田さんは、ピーター・ローレに似ていますね」  塩田さんはなにもいわなかったが、すくなくとも嬉《うれ》しくはなさそうだった。塩田さんは、漫画の人物と同じくスマートなプレイボーイを自認していた。それ以来、ピーター・ローレのことは私だけの密室においておくことにした。  ローレン・バコールの自伝を読むとピーター・ローレが友人の一人として、しばしば登場してくる。彼は人あたりのいい、なかなかのインテリとして記されている。それはそうだろう、ハンガリーなまりの小男で、二度三度、転々と亡命をくり返してきたのだから、すくなくとも表面は、ソツのない、当たりのやわらかさを備えざるを得ないだろう。  そういえば、デビュー作が、フリッツ・ラング、それからG・W・パプスト、イギリスに渡って、若き日のアルフレッド・ヒチコック、と大監督の作品登場が多い。独特の個性が眼をひいたのだろうが、人に好かれるタイプでもあったのだろう。それは、パラノイア的傾向とは矛盾しない。  もう一人、ハンガリー出身のホラー俳優で、ベラ・ルゴシという俳優が居る。ドラキュラの初代役者である。けれどもドラキュラに魂を奪われる主人公はドイツ貴族で、後年のクリストファー・リーのほうが瀟洒《しようしや》でいい。ベラ・ルゴシは短躯赭顔《たんくしやがん》で白塗りをしても似合わなかった。  ドラキュラほど当たらなかったが、「狼男《おおかみおとこ》」というルゴシ主演の別のホラーシリーズがあり、満月の夜になると牙《きば》がニュッと伸びて、月に吠《ほ》え、人を襲うという怪人、このほうが土臭くて持味に合っていたように思える。 [#改ページ]   流行歌手の鼻祖     —二村定一《ふたむらていいち》のこと—  二村定一という名前も、もう六十以上の人でないとご存じあるまい。が、私にとっては忘れがたきなつかしい名前だ。  私の子供のころ、彼は流行歌手の鼻祖といわれた。まことに適切ないいかたで、鼻が異様に大きい。愛称がべーちゃん。本人は「俺《おれ》、ベートーベンに似てたんだよ」といっていたが、これはどう見てもシラノ・ド・ベルジュラックのべーであろう。  昭和四年吹込みの※[#歌記号、unicode303d]日が暮れてェ、あおぎ見ィるゥ、の「私の青空」はB面で、A面は藤原義江《ふじわらよしえ》歌うところの※[#歌記号、unicode303d]磯《いそ》の鵜《う》のとゥりゃ、日暮れにゃ帰るゥ、だった。ところが意外にも、B面が大ヒットしてしまう。ダンスホールが盛んになりはじめて和風のジャズが歓迎されたのだ。  ※[#歌記号、unicode303d]沙漠《さばく》に陽《ひ》は落ちてェ、の「アラビヤの唄」、※[#歌記号、unicode303d]テナモンヤないかないか道頓堀《どうとんぼり》よ、の「道頓堀行進曲」、※[#歌記号、unicode303d]宵闇《よいやみ》ィせまればァ、の「君恋し」、※[#歌記号、unicode303d]俺は村じゅうで一番、モボだァといわれた男、の「シャレ男」、※[#歌記号、unicode303d]肩で風切る学生さんにィ、の「神田|小唄《こうた》」とヒットが続いて、エログロナンセンスの寵児《ちようじ》ともてはやされた。  それまでのオペラ式の、声をふるわせる唱法と反対に、二村のテノールは口を大きく開いて歌詞をはっきり歌う。そうして華やかさにつきもののペーソスがあった。  ところがなぜか、数年で二村の時代は去り、二村に刺激されて流行歌を歌いだした藤山一郎の古賀メロディの天下になってしまう。藤山の唄は清潔感があったが、やはり歌詞をはっきり歌う人で、これは二村の影響だろうか。  私は子供のころ、叔父の家のレコードで二村の唄と顔を知った。実にどうも、白粉《おしろい》と口紅のみ濃いピエロの顔で、エログロナンセンスという言葉は知らなかったが、じだらくな人を想像した。このじだらくな人がどうやって生きて行くか、なんだかじだらくの罰《ばち》が当たって転落してしまいそうで、感情移入をしたくなる。私は自分のことを棚《たな》にあげて、というより自分が劣等生なものだから、他の危なっかしい人物のことをおろおろ心配する癖がある。なにしろ当時すでに二村の新譜は出ておらず、過去の人みたいな感じだった。  やはり小学生のころ、父親に連れられて浅草松竹座のエノケン劇を観《み》に行くと、なんと、そこに二村定一の実物が出演していた。こんなところに居たのか、と縁者にめぐりあったような気がしたから不思議だ。  しかし二村は浅草では人気があり、エノケンとのコンビでおおいに売っていたらしい。もっともこの前のプペダンサントでは、二村・エノケンという格づけであり、松竹に買われてエノケン・二村と格は逆転したが、二人座長の観を呈していた。それが東宝に移り、完全にエノケン一座となり、二村は単なる幹部俳優の一人ということになる。  たぶんその屈託が原因だろう。酒に溺《おぼ》れて売り物の声も精彩がなくなった。そうしてエノケンと衝突して劇団をやめて独立|乃至《ないし》飛躍を試みる。  その当時映画でも成功し、全国の子供のアイドルになったエノケンは、もう立派な大看板、二村のほうはエノケンあっての二村だ。彼の流線型のレビューセンスや達者な芸も、漫才の受け役のように一人では半値以下になってしまう。ますます屈託し、大きな鼻を赤くさせてスゴスゴとまた戻ってくる。そのたびに一座内での格がさがる。エノケン一座は全盛時百人をはるかに越す大所帯だったが、幹部は浅草時代からの仲間で占められていた。二村、柳田貞一《やなぎだていいち》、中村是好《なかむらぜこう》、如月寛多《きさらぎかんた》。このうちエノケンの生家の小僧だった如月は終始忠実だったが、あとの三人はいずれも出たり入ったり、何度も自立を試みては失敗して復座している。  私の本能的な心配が現実になって、二村は最終的な喧嘩《けんか》をし、エノケンの所を離れてしまう。そうして転々としながら急激に凋落《ちようらく》して行った。昭和四年に一世を風靡《ふうび》し、十年後には旅廻《たびまわ》りに毛の生えたような小林千代子一座という小劇団におちついていた。  そのころ、子供ながら学校に行かずに浅草をふらついていた私は、ひょんなことから彼と知り合うのである。私の浅草での経験の中でもこれは最大の事件だった。私は、落ち行く人というものをはじめて間近に見、あつい眼《まな》ざしを注いだ。  二村が私に言った言葉で今でも印象的なのは、 「学校なんかに行っちゃいけないよ」というお説教。「あんなところに行ったってろくなことおぼえねえ」  二村の伝説はたくさんある。大巨根伝説。荷馬車の馬がおじぎをした話。楽屋|風呂《ぶろ》で熱い湯を流したら、桶《おけ》に腰かけていた二村が、アチチ、と飛びあがったという話。作り話であろう。男色家として有名な二村が巨根だという点に、作ったコクがある。  けれども、幕内の人からきいた次の話は、二村らしくてなんとなく好きだ。  朝帰りして直接楽屋に現れた二村が同室のエノケンに、吐息をつきながらいった。 「俺、つくづく堕落しちゃったよ。自分がもう嫌《いや》になった」 「どうしたんだい」 「朝、起きたらさ、女が隣に寝てやがるんだ——」  二村は生涯《しようがい》でたった一度、彼の母親の説得で、ファンだという女性といやいやながら所帯を持つが、結婚の翌日から一度も帰らないうちに女性があきらめてしまったという。こう記しても私は二村の稚児《ちご》だったわけではない。私はまるで子供で、しかも二村もロリータ趣味はなかったのだろう。彼の相手はスマートな慶応ボーイたちで、後に彼の葬式も、かつての大学生たちがとりしきったという。  奇怪なところがなくはなかったが、その点をのぞけば、私がはじめ想像していたような頽廃《たいはい》の影はうすくて、むしろ実直な芸人というタイプだった。本人が語ったが、彼がいちばんやりたかったことはオペレッタで、流行歌手じゃなかったらしい。レコード業界というものがまだ不安定な時分だったにしろ、あれほどのヒットを惜しげもなく捨てて、浅草におちついてしまったのがそれでわかる。  たしかにエノケンとの出会いから、二人の人気が拮抗《きつこう》していたころは、二人ともモダンオペレッタを志向していたところがあった。大資本に買われるにつれて、エノケン流小男英雄劇になっていく。そのうえ戦時体制になってきて、二村のようなキャラクターはますます出番がなくなってきた。  けれども小劇場にはまだ戦争の余波がおよんでいなくて、小林千代子劇団には田谷力三《たやりきぞう》などオールドタイマーが集い、小規模ながらオペレッタ風のものをやっていた。二村はその後、新興演芸で自分の小一座を作ったりしていたが、戦争の激化とともに消息が知れなくなる。  そのころ、浅草の幕内でも二村は死んだという噂《うわさ》だった。今でも古い芸人は、戦争中に彼が死んだと思っている人が居るくらいだ。  が、実は満州に流れていた。古今亭志《ここんていし》ん生《しよう》と同じ口で、満州なら酒が呑《の》めると思ったらしい。敗戦で、命ひとつで引き揚げて来て、九州|大牟田《おおむた》の収容所に一時入っていた。引揚文化人の会という怪しげなところで、小型トラックの上で歌ったり、喰《く》うや喰わずで大阪に流れ、赤玉というカフェーで歌ったり。  このころ、酒を呑むとすぐヘロヘロに崩れ、道路で小便をたれ流す始末だったという。だいたい、深酒の影響で戦争中から老《ふ》けこんでおり、声もかつての美声にほど遠かったから、ほとんどお情けの出演だったろう。  エノケンが二村の現状を発見して救いの手をさしのべた。二村にとっては屈辱だったろうが、久しぶりに座員として迎え入れ、有楽座で当たり狂言�らくだの馬さん�にかつての持ち役の大家で出た。  そのときに一度、私も遭遇している。二村は老人のような顔で、軍隊のオーバーを着ていたが、さかんに咳《せ》きこんだ。 「今度な、服部(良一)先生がレコードやれって、すすめてくれてるんだ。�南のばら�とか�ルンバタンバ�とか、戦前の曲を、俺のためにアレンジしてくれるって」  嬉《うれ》しそうにそういった。レコードを捨てた男が、レコードに望みをかけている気配を、さして不思議でもなく、それはよかった、と私もいった。  もっともその夜、渋谷の百軒|店《だな》の坂を私が背中を押さなければあがれなかったくらいに衰弱していた。舞台を務めるのも辛《つら》かったろうが、そんなことはいえない立場だったろうし、彼自身も、もう一度再起するつもりだったと思う。  家族が居ないので、上中里に住んでいた姉の亭主で、エノケン一座の老練な脇役者《わきやくしや》田島|辰夫《たつお》のアパートに同居させてもらっていた。  戦前、三軒茶屋に土地を買って、母親を住まわせていたが、自分はあんな淋《さび》しいところは嫌だ、といって行かなかったらしい。そこは焼け、山口県の徳山に買っておいた料亭は、艦砲射撃で、たった一軒だけ全壊したという。そういう点でも不運な男だった。  復帰の�らくだの馬さん�が終わらないうち、田島のアパートで、夜中に血を吐いた。入口の三和土《たたき》にしゃがんで、両手に吐いた血を、臆病《おくびよう》そうに眺《なが》めていた。 「明日から、酒が呑めなくなるかなァ」  といったという。  病院に運んだら、医者が、ここまでなぜ放《ほ》っといた、と叱《しか》った。今日でいう肝硬変の動脈|瘤《りゆう》出血で、二日後に亡《な》くなった。四十九歳で、意外に若かった。 [#改ページ]   ガマ口を惜しむ     —高屋《たかや》 朗《ほがら》のこと—  昭和の初期に、ジョー・E・ブラウン、日本での愛称を大口《おおぐち》ブラウンという喜劇スターが居た。口許《くちもと》が大きく横に裂けていて、ドーナツを横に丸呑《まるの》みにしようという図が彼のトレードマークだった。チャップリンやキートンにくらべるとマイナーな存在だったが、しかし、晩年に客演した「ショーボート」や「お熱いのがお好き」など観《み》ると、ヴォードビルで鍛えた芸の持主だったことがわかる。  すこしおくれて、日本でも大口を売り物にした怪優が、浅草に現れた。高屋朗といって、あの田谷力三の弟子だ。はじめ、田谷朗という名にしたかったらしいが、師匠に怒られて、苗字《みようじ》の間に、か[#「か」に傍点]の字を入れたという。  なにしろ顔が与太郎そのもので、奥眼《おくめ》の大口、そのうえなにを演《や》らせてもぶちこわすから、こういうタイプは、浅草ですぐ人気が出る。たちまちガマグチという愛称がついて、オペラ館の仕出しからまもなく金竜館《きんりゆうかん》でガマグチショーという一座の座長になった。  もっとも身についた芸があったわけじゃない。田谷の弟子だから唄《うた》も歌う。声は朗々たるドラ声に近い。当時の綺麗《きれい》な声を震わせて歌うような歌手の列には、はまらないが、声量もわりにあって、私は高屋の唄は好感を持っていた。流行歌手にくらべれば、エノケンとか高屋の声は、よほど人生を感じさせる。ただし、エノケンは音程もきっちりとしていて、それなりに唄はうまいが、高屋のほうはまるで投げやりで、どこまでもだらしがない。  ※[#歌記号、unicode303d]花つむ野辺にィ 陽《ひ》は落ちてェ  と霧島昇《きりしまのぼる》は柔らかくしっとりと歌う。 (が、私にはまるでつまらない)高屋朗は、はじめのワンコーラスを当人はまともに歌っているつもりなのだが、  ハァナツ、で一息いれて、ムゥノベェニィ、で切って、陽ワァ落、で一息、チィテェ、となる。実に恣意《しい》的に息を入れる歌手で、ツゥコーラス目は、これは意識的に崩しているのだが、  ハァン[#小書きの「ン」]ナツン[#小書きの「ン」]ムン[#小書きの「ン」] ノゥ ベェニィン[#小書きの「ン」] 陽ワァァン[#小書きの「ン」] オゥチィテ エエン[#小書きの「ン」]、  と、大口で、子供の悪ふざけみたいに荒っぽく歌って、ガマグチ流と自称した。たしかに我流だが、流というほど形式があるわけでもない。だから悪いかというと、いや、そのいいかげんなところがチョッピリ哀《かな》しくおかしく、なんとなくいい。  もうひとつ、「酒の中から」という唄があるが、これもお得意でよく歌っていた。有島通雄という歌手が歌った映画主題歌だが、立川談志《たてかわだんし》など、酔うと、 「高屋朗の唄、歌うよ」  といってこれを歌う。  ※[#歌記号、unicode303d]盃《さかずき》に 映る灯影《ほかげ》を 呑み干して   今宵《こよい》も唄おう 我が友よ   楽しさは 酒の中から浮いてくる   酒の中から トトント   トントトント 浮いてくる  ※[#歌記号、unicode303d]この部屋に 涙なんかは   ありゃしない   笑って唄おう わが友よ   楽しさは——(リフレイン)  歌詞を紹介したのは、後年の高屋朗の運命を思うと、まったく対照的で、実に哀しいからだ。  しかし金竜館の座長のころは、先輩を抜いた奢《おご》りもあって、当たるべからざる鼻息だった。それが西も東もわからない与太郎が出世した按配《あんばい》になる。幕内では、一度でも座長になった者とそうでない者とでは、たいへんな格の違いになるのである。  昭和十五年ころのことで、当時私は子供だったが、浅草の古手が茶受け話に高屋朗の失敗談ばかりしゃべっていて、それがまた実におかしい。 「おい、なんだ、この曲、スールブカイジョウって、なんのことだ——」  楽譜に横に書いてあ上海《シヤンハイ》ブルースを右のほうから読んじゃったのである。  もちろん譜面が読めるわけがない。立稽古《たちげいこ》で、ドラマーのところへ行って譜面をのぞきこみ、 「いいなァ、この曲、メロディがいいよ——」  ドラムの譜面にメロディなんかありゃしない。もっとも、金竜館の支配人も似たりよったりで、ドラマーを指さして、 「あの楽士はいい。ちっとも休まない。ラッパはなんだ。ときどき吹いてないじゃないか——」  やっぱり立稽古のとき、座長らしく立廻《たちまわ》りの見得《みえ》を切るとき、相手役の眼線を指示して、 「おい、あの、なんだ、サイセリアのほうを見て——」  サイセリアじゃない、シャンデリアなのである。  益田喜頓《ますだキートン》と鈴木|桂介《けいすけ》と高屋が三人連れだって、松竹座の前で車を拾おうとしたが、タクシーがなかなか来ない。  高屋|曰《いわ》く、 「あ、そうだ、きょうは電休日だな」  電力節約のために当時は週に一回、工場などが休む電休日というのがあったのだけれど、タクシーは電気で走っているわけじゃない。  もう数えきれない。ところがそのおかしさが舞台に出ない。愛嬌《あいきよう》はあるし、口唇《こうしん》をまっ赤に塗った与太郎風が出てくるから、どんなおかしいことをやるかと思うと、悪ふざけのドタバタ程度。本人は大真面目《おおまじめ》な楽屋のときが、たまらなくおかしい、という悲劇がときおりある。  私は子供心に、こんなに芸の奥行きがなくて、すぐあきられちゃったら、この先どうするんだろう、と思って(生意気にも)案じていた。そこへ、召集である。浅草じゅうの役者が、ガマグチにまで赤紙が来たのか、と、まッ青になったという。当の本人は、さほど屈託なさそうに出征していったし、私は私で、あきられないうちに出征欠場になって、よかったのじゃないかと思ったりした。  奇妙なことに彼は軍隊ではかなり受けがよかったらしい。シンガポールで慰問係をやって、元気にしている、というニュースがチラリ新聞に出たりする。  なるほど、本当は実直な好人物で、街の中に居たら皆から親しまれるオジサンだったかもしれない。コメディアンになったのがまちがいだったか。  大戦争では浅草の役者もたくさん亡《な》くなったが、高屋朗は(捕虜収容所関係の戦犯にまちがわれたとかで帰還はだいぶおくれたが)頑健《がんけん》な体格のままで元気に帰って来た。しかも、シンガポールで世話になったという人がスポンサーになって、浅草の喜劇王高屋朗帰還歓迎の夕べというのを日比谷公会堂で催すという。  やれやれ、あの珍妙な顔だから、さぞおもしろい芸人だろうと期待されすぎると、また辛《つら》いことになるぞ、と私は思わざるをえない。  生家の勝手口で、薪《まき》を割っていると、ラジオで日比谷公会堂の模様を中継している。大入りらしくて割れるような拍手だったが、前半が戦場漫談、後半が例の「誰か故郷を思わざる」。なんだか珍優らしいな、という先物買いの拍手だったと思う。  でもそれで彼の芸の引出しは、ほとんどおしまいで、日比谷公会堂の花火は一発で後が続かなかった。浅草で数年間、小劇団の座長格だったり客演格だったりしたが、なにしろ超ボケ役だから役があまりない。脇《わき》を固めるタイプでもない。  いつのまにか松竹の喜劇映画に端役《はやく》で浮かぬ顔の彼が出ているのを見かけるようになった。ギャングの手下で転がされたりする役をやっている。  川島雄三監督の「オオ! 市民諸君」ではヒロインの資産家の父親役だったが、これも紙芝居の金満家風で、しかしこれがいちばん大役だったのではないか。  それでも彼はわりに多くの人から愛されていたのであろう。端役だがちょこちょこ映画に出ていた。  新聞で、高屋朗さん自殺未遂、というあまりにも彼に似合わない見出しを見て驚いた。恵まれないにしても、夫人の十文字八重子(やはり浅草の古手女優)が呑み屋をやっていたし、窮乏の極ではなかったと思う。やはり彼なりの矜持《きようじ》があったのだろう。  私は遠くから眺《なが》めていただけで、くわしくは知らないが、知友たちで奉加帳が廻ったりもしたらしい。ところが本人がウツになっていて、もうあまりどこにも出ようとしなかった。それでそれからあまり時日を経ないうちに亡くなったと思う。私は、首を吊《つ》ろうとして果たせなかった彼の記事の印象があまりに強烈で、近年まで、再度自殺したように思っていたが、浅草の古い人にきくと、いや、病死だという。浅草の呑み屋は十文字八重子の娘さんがやっているはずだから、行けばわかるのだろうけれど、まだ出かけていない。  高屋朗の哀しい晩年のことを根ほり葉ほり訊《き》きたくない。なにしろ、うわッつらのことをいえば、若くて人気が先行して、芸の仕込みをしなかったのがいけない、とか、戦地での空白もあったにしろ時勢を見る眼がなく、楽天的すぎた、とか、なんとでもいえるのである。  それよりも、ずっとずっと前、高屋がまだオペラ館の青年部だったころ、つまり私は小学生だったが、ある朝の彼をかいま見た印象が忘れがたい。  学校をサボって、ランドセルを背負ったまま、朝の六区の興行街をうろついていた私が、まだ客を呼びこんでいないオペラ館の前で、朝帰りらしい高屋朗を見かけた。彼は、表方の呼びこみのオジサンと並んで、オペラ館の前の舗道にしゃがみこんでいた。  女のところに泊った帰りか、それとも徹夜|麻雀《マージヤン》のあとか、白粉《おしろい》焼けして妙に青白い顔をして、放心したようにしゃがみこんでいる。呼びこみのオジサンと向かい合うようにしているのだが、二人はなにもしゃべっていない。  歓楽の夜のあとの、というか、おもしろおかしい毎日に澱《おり》のようにたまってくる屈託、というのか、そんな色が表情に出ていて、それは与太郎風の顔とあまりにかけはなれて見え、オヤ、と見返った覚えがある。 [#改ページ]   誰よりトテシャンな     —岸井《きしい》 明《あきら》のこと—  この正月、テレビで、昭和十六年製作の東宝映画「エノケンの孫悟空《そんごくう》」を見た若い人が、 「猪八戒《ちよはつかい》になった人、あれは何者です」 「何者って、あれが岸井明さ」 「張りぼてじゃないでしょう。お相撲さんですか」 「いや、本職のコメディアン、ヴォードビリアンかな。売り出したころは、百八十二センチ、百二十九キロと称していたね」 「それじゃ、先年|亡《な》くなった千葉信男《ちばのぶお》のような存在かな」 「そうだけど、もっと甘くてね。あの巨漢で、たいがい少女に恋している役なんだ」  日本映画もアメリカ映画もそうだが、昔の喜劇はたいがい小男が主人公だったものだ。たとえばチャップリン、キートン、たとえばエノケンである。世間的には小馬鹿《こばか》にされている小男が、ひょんなことから喝采《かつさい》を浴びる。それが、庶民、特にふだん虐《しいた》げられていた下層庶民に受けたのであろう。  ところがそれと正反対に、デブというキャラクターがある。たとえば|S《スタン》・ローレル、|R《ロスコー》・アーバックル、この岸井明である。デブもまた、反応がおそくて要領がわるいという性格を持たされている。古いところでは日活の田村|邦男《くにお》、松竹の大山健二、横尾泥海男《よこおでかお》(デブでなくて大男であるが)だ。大都の大岡怪童、大山デブ子のコンビ、新興の国城大輔《くにしろだいすけ》と、日本映画は何故《なぜ》かデブのコメディリリーフが好きだった。  往年の喜劇のギャグというものは、とにかく身体《からだ》の外形をからかったものが多く、夏目漱石《なつめそうせき》にすらその弊があるくらいだが、昔の役者たちは楽屋でも、デブはチビを小馬鹿にし、チビはデブを小馬鹿にするという雰囲気《ふんいき》があった。  岸井明は日大の相撲部の選手で(あまり強そうには思えないが)、たぶん、そこの先輩の田村邦男にでも誘われたのであろう。田村と同じ日活時代劇部に入る。ここにはもう一人、松本|秀太郎《ひでたろう》という肥大漢が居《お》り、しかし岸井明も松本もさっぱり精彩がなかった。二人ともほかの肥大漢よりもう少しソフトな近代味があり、古い使われ方に馴染《なじ》まなかったのであろう。  松本秀太郎はついに映画では生かされず、後年、浅草の青春座、あるいは戦後の松竹新喜劇で藤山寛美《ふじやまかんび》のライバルと目されるなど、舞台で開花しかかるが、惜しいところで病没してしまう。  岸井明も、大男総身に知恵がまわりかね、のように見えるが、弁護士の息子で長兄は『五街道細見』などの著書がある江戸文化研究家の岸井|良衛《よしえ》氏である。彼自身もなかなかの才人で、ジャズに熱中し、後半自分の歌うジャズソングの詞はほとんど自分でつけていた。  日活で腐っているうち、労働争議に端を発した七人組脱退事件というのがあり小杉勇、島耕二《しまこうじ》、それに監督の伊藤大輔や田坂具隆《たさかともたか》たちと新映画社を創《つく》り、これは翌年|潰《つぶ》れたが、浅草の笑の王国創立に参加、同年PCL(東宝の前身)創立にまた参加して、第一回作品の「ほろよい人生」に、笑の王国の同僚古川ロッパたちと出演する。  これが非常に好運だった。PCLという会社の前身は録音研究所で、日本映画ではいちばんおくれていた音声の入りがよかったため、それまでの日本映画ができなかった音楽喜劇路線を敷き、軽薄なほどモダンだった。ロッパやエノケン、藤原釜足《ふじわらかまたり》などの浅草レビュー役者はPCLでなかったら生かされなかったろう。  岸井明もその一人で、映画ばかりでなく、ロッパ一座の当たり狂言「唄《うた》う弥次喜多《やじきた》」にも客演し、歌うタレントとしても売り出した。  唄はお世辞にもうまいとはいえなかったが、甘いテノールで、当時流行のマイクにささやくようなクルーナー(感傷派)だった。  岸井自身も、 「唄の師匠はビング・クロスビーさ」  といっていた。  なにしろ巨体をくねらせて愛嬌《あいきよう》たっぷり、なにがしかのペーソスも加わって、歌唱力以上に舞台映えがする。それに、これは本人の見識だったと思うが、アチラ製のジャズソングを英語で歌わず、いつも日本語化して歌っていた。日本語というものは唄に乗りにくいものだが、そこを工夫してうまく詞をつけていた。  ※[#歌記号、unicode303d]ダイナ いつでもきれいな   誰よりトテシャン[#「トテシャン」に傍点]な——  という調子の「ダイナ」。  ※[#歌記号、unicode303d]お月さまおいくつ 十三七つ   あたしのあの娘《こ》も 十三七つ   お月さまあなたも 恋の病《や》み上り   あたしもあの娘に 恋のうすぐもり  という調子の「月光|価《あたい》千金」。  ※[#歌記号、unicode303d]泣かずに涙ふいて   わけをきかせて   明るい君の顔に   涙は似わない——  という調子の「マイ・メランコリイ・ベイビイ」。  いずれもほかの歌手の歌う美文調の訳詞よりは、わかりやすくこなれていて、すくなくとも発音が音楽的になっている。  クロスビー張りの「プリーズ」、スイートスーをもじった「スーちゃん」、「世紀の楽団」など、試みにレコードで聴き直してみたが、谷口又士のアレンジも良くて今なおけっこうだ。  もうひとつ、大きな岸井明と少女スターのころの高峰秀子というコンビの、  ※[#歌記号、unicode303d]向う横丁の煙草《たばこ》屋の   きれいな看板娘——  などというかけ合いソングもなかなか楽しかった。今でいえば岸井と水森亜土《みずもりあど》というところか。戦争が烈《はげ》しくなって、ジャズが禁止されてからは、こっちの路線が主になってくる。  今、年配の人が、岸井明というとまず口にするのは、戦争後期に映画で歌った「ボクはなんでも二人前」や、褌《ふんどし》かつぎの角力《すもう》とりに扮《ふん》した「櫓《やぐら》太鼓」あたりであろう。結局のところ、彼の持ち味がいちばんよく生かされたのはこうした唄の舞台で、映画では初期のPCL時代をのぞいて、やっぱりデブという概念の枠内《わくない》でしか使われていなかったように思う。岸井明自身もその概念を離れた役が演じたかったのではあるまいか。最晩年のころの東映「大菩薩峠《だいぼさつとうげ》」のシリアスな下男の不思議な力演を見ているとふとそんな気がする。  大きい人の唄声は楽に豊かに声が出てくるように思えて、それ自体|闊達《かつたつ》な快さがあるが、そのうえ楽天的で愛嬌《あいきよう》たっぷりで、まわりの屈託まで振り払ってくれる。岸井明の舞台は芸人につきものの暗さがなくて、まことに伸び伸びしていた。  そういう個性は戦争とは正反対で、岸井明も活躍の幅が限られたろうが、それでもなおかつ、貴重な明るさとして人々の眼《め》をひいただろう。あの諸事不自由な時代に、太っているというだけでも、貴重な救いなのである。  古川ロッパの「悲食記」という戦争中の食物のことを記した随筆を読んでいると、痩《や》せてすっかり元気のなくなった岸井明がロケ先にやってきて、農村部の比較的潤沢なご馳走《ちそう》を、嬉《うれ》しそうにもりもり喰《く》うところがある。  もっともそこは役者の強みで、一般人よりはどうにかなったのだろう。餓えの敗戦前後、岸井明はあいかわらず丸々と肥大していた。彼の場合、肥大を保たなければ商売にさしつかえるが。  敗戦で復活した日劇レビューは、轟夕起子《とどろきゆきこ》や、灰田勝彦《はいだかつひこ》、高峰秀子などが売り物だったが、ある意味でいちばん精彩を放っていたのは岸井明であろう。デブというものが、あんなに特別な存在に見えたことはない。  そうしてレビュー出身ではないけれどレビューの舞台に戻ると、水を得た魚のように見えた。おそらく戦争がなくて、レビュー乃至《ないし》ミュージカルが順調に発展していたら、彼はもっともっと大きな足跡を残したろう。  浅草オペラをテーマにしてメドレーにしたような舞台で、彼が演じたブン大将の風格など、今でも眼に残っている。  ところがいつのまにか、舞台でも映画でも、あまり姿を見かけなくなった。私も戦時中までほど映画演劇の世界に近づかなかったので、ついその消息にも暗かったが、糖尿病からくる高血圧で、療養が主になっていたという。  古川ロッパが、やはり糖尿病で、せっかく自由に活躍できるようになった戦後に、急速に精彩を失った。人々が餓えているときに飽食していた罰《ばち》があたったのかな、と思ったものだが、岸井明にもその気味があったろうか。  もっともロッパも、肥満をトレードマークの一つにしていて、哀《かな》しい職業意識だったかもしれない。  ロッパも岸井明も、とにかく肥満を保った努力が裏目に出て、がっくり痩せた。特に痩せた岸井明は、いかに明るくふるまっても、今度は、痩せたということが直に観衆の屈託を呼んでしまうだろう。  アーちゃんという愛称で、撮影所でも皆に明るくふるまっていた彼が、人が変わったように狷介《けんかい》になったという。  そのせいか、宝塚《たからづか》出身の夫人ともうまくいかず、子供もなく、寝ついていた最晩年は孤立に近い状態だったようだ。  今、調べてみると亡くなったのは昭和四十年、直接の死因は心臓衰弱で、五十五歳だった。  今でもはっきり覚えているのは、痩せ細った岸井明が転居先のせまい部屋で寝ていて、看取《みと》る人も絶えがちだったとか、葬式も淋《さび》しかったとか、そんなことばかりだ。たぶん、岸井明に少しもふさわしくなかったからだろう。  もっとも昭和四十年というと、戦前戦中に彼と一緒に一時代を造ったタレントたちは、おおむね日没期にあった。 [#改ページ]   マイナーポエットの歌手たち  私が小学生のころに、学校から教師に引率されて新宿の映画館に行った。珍しいことなのでよく覚えているが、「燃ゆる大空」という戦争映画を観《み》るためだった。大日方伝《おおひなたでん》演ずる先輩士官と、月田《つきた》一郎、灰田勝彦、大川平八郎など若鷲《わかわし》たちの交情が軸で、主役は大日方と戦死してしまう月田なのだが、印象に残ったのはからみ役の灰田の甘い持味だった。  まだ練習生のころ、風呂場《ふろば》のシーンで灰田が、※[#歌記号、unicode303d]夕空はれて秋風吹き——という「故郷の空」を口ずさむところがある。それがなんとも甘美で、戦争映画で私どもも自分たちの将来を含めて観ているからそのセンチメンタリズムが身にしみて、妙なリアリティがあった。見なれない役者だと思っていたら歌手だという。  戦争映画にしては妙なキャスティングで、月田一郎(瑳峨三智子《さがみちこ》の父)は不良っぽさで売った色仇《いろがたき》役、大川平八郎はロサンゼルス育ちのアメリカナイズされた半素人《はんしろうと》俳優、大日方伝は中年で円熟していたが、喧嘩《けんか》でできた左アゴの傷痕《きずあと》が生々しく、これがまたこの映画では凄《すご》みになっていた。  が、どこからみても軍人らしくない灰田が、皆と心を一《いつ》にしていくところが逆説的な説得力になっていたと思う。  灰田勝彦の名前はこの映画でくっきりと胸にきざまれた。ところが街を歩いていると、どこのレコード屋でも、※[#歌記号、unicode303d]男純情のゥ 愛の星の色ゥ——、という「きらめく星座」が流れている。  ちょうど「秀子の応援団長」という映画が正月に封切られて主題歌が大ヒットしているときだった。  当時マイクの性能が発達してきたときで、それにつれてマイクを利してささやくように歌う感傷派《クルーナー》がオペラ式発声を駆逐しかかっているころだった。日本では顕著な傾向にならなかったが灰田勝彦あたりが嚆矢《こうし》であろう。そうして実兄の灰田晴彦のスチールギターが甘く、彼等のモアナグリークラブというハワイアンバンドも女の子たちに受けた。 「ジャワのマンゴ売り」「鈴懸《すずかけ》の径《みち》」「新雪」「バタビヤの夜はふけて」とヒットが続き、映画や舞台でも活躍しはじめる。ちょうどフランク・シナトラの売り出しのころと似た現象で、若い娘の渇仰《かつごう》の的となる。  こういう存在は、戦時体制の強化とともに後退を余儀なくされたものだったが、灰田だけは例外だった。もちろんしばしば体制からにらまれたが、不思議にプラスのほうに作用する。男くさい兵隊役者の中にあって、唯一《ゆいいつ》、セクシィな存在だったし、ここに慕い寄る全女性の波を、いかな憲兵でもさばききれるものではない。  それに、太平洋戦争とともにジャズは禁止されたが、灰田はいち早く南方民謡に逃げた。大東亜共栄圏の手前、これは禁止できない。そうしてスチールギターの調べで歌うと、ハワイの唄《うた》もジャワの唄も、甘美な点で変わりないのである。そのうえ、ハワイ生れの灰田は、南方民謡を歌う他のジャズ歌手たちより、エキゾチックなリアリティがあった。  戦争後半、つまり昭和十年代後半のNo.1スターは、長谷川一夫でも上原謙でも、バンツマでもなくて、この灰田勝彦だったと思う。  灰田は常に親衛隊に囲まれていたし、わりに開放的で、トシ坊なんて呼びかけながらうろうろしている正体の知れない連中がたくさんまわりに居たが、私も中学時代、別のクラスの友人に誘われて、一度だけ灰田の自宅をのぞきに行ったことがある。そのとき彼は、ピアノのある部屋で唄のレッスンをしていたが、甘く細い声という印象だったのが、そういうところできくと、部屋の空気がふるえるほど声量があったのは、さすがにプロだと思った。  それで思い出したが、戦時中のある時期に、電力節約のためマイク使用はまかりならぬ、というお上《かみ》の声がかかったことがある。 「マイクに頼るようなヘナヘナ声で戦争に勝てると思うか。もっと覇気《はき》を持って大声を出せ。死ぬ気で歌え」  そういう趣旨だったという。  オペラ式発声でない歌手は、それで気の毒なことになった。伴奏だけ響き唄声はさっぱりきこえない。松平晃《まつだいらあきら》も霧島昇も田端義夫《たばたよしお》も、口が動いているだけだ。  灰田勝彦にはその印象が残っていないのが不思議だ。伴奏がギター中心だからだろうか。それとも彼だけは、要領よくマイクを使っていたのだろうか。  しかし、灰田は本質的にマイナーポエットの歌手だったと思う。戦争中はマイナーなよさが非常な魅力になった。いつも戦争が主軸になっていて、彼は裏の存在だった。 「お国のために、がんばりましょう」  と彼が舞台でいえばいうほど、その言葉とかけはなれた実態が色濃く匂《にお》ってきて、それがまたなんとはなしの救いになる。  戦後になると、クルーナーも珍しくなくなり、新しい戦後の花がどんどん現れ、彼自身スターの座にあぐらをかいてしまっていて、健全ホーム型を目指したりしたためにかすんでしまう。  これも不思議なことだが、戦時中に花の開いたタレントは、清水金一《しみずきんいち》にしろ、桜井潔にしろ、広沢虎造《ひろさわとらぞう》にしろ、杉狂児《すぎきようじ》にしろ、いずれもマイナーなところに特長のあるタレントだった。そうして戦後になって、なんの制約もなく自由に活躍できる時代が来たとよろこび、メジャー志向になる。大部分はメジャーになれず、同時にマイナーなよさも失って色あせていく。  なにがメジャーで、なにがマイナーか、厳密にわけるのはむずかしいけれど、体質を変化させるのは容易でない。現在のタモリが、マイナーからメジャーへの変調の道程で、苦しみながらなかなか敢闘していると思う。  ジェリー栗栖《くるす》というギター奏者兼歌手が居た。日支事変がはじまる少し前に、灰田の実兄灰田晴彦がハワイから連れてきた人で、一般には知られていないが、ヴェテランのミュージシァンの話をしていると、今もときどきその名が出る。  灰田ほど甘くはないが唄もまずくないし、男前だし、戦争が烈《はげ》しくなるまでに間もあったから、順調にいけば灰田の後をついで一人前になったろうと思われる。実際、日本に来た当初は、モアナグリークラブの戦力の一人だったり、フロリダ(新橋のダンスホールで、ちょうどアメリカのコットンクラブのようにバンドやショーに内外のタレントを集めた)に招《よ》ばれたり、相当に派手な存在だった。  ところが、今なお不思議なのだがその後が、マイナーポエットの歌手であるばかりでなく、典型的なマイナーの道を進んでしまうのである。  同じころ、アメリカ帰りのクルーナーでリキ宮川という人が居《お》り、やはりフロリダで歌ったり映画に出たりしたが、彼はきわめつけのプレイボーイだったという。子供の私にもその噂《うわさ》がどこからか入ってきたのだから凄い。  ジェリーにもその傾向はあったようだが、ギターの技術が当時としては一級品で、唄の他に司会なども器用にやった。そのため、器用貧乏ということなのか。なんだか不徹底で、フロリダ後も、どのバンドにも定着せず、吉本興業に入ってヴォードビリアンになってしまう。  木下|華声《かせい》たちと組んだ�ザツオンブラザース�は吉本と新興の引抜き合戦の余波を受けて長続きしなかったが、ジェリーは吉本ショーに居残って、なかなかヴォードビリアンとしても活躍した。唄も英語が本物で、リズム感が和製歌手とはちがう。  この時期のジェリーを見ていて、例によって私は彼に感情移入し、一生懸命そのあとを追って観たが、このころはもう戦争期で、ショー自体が行きづまっている。結局ドサ廻《まわ》りの小劇団にまで落ちこんでいって、ギターの弾き語りを一曲歌ってひっこむという彼を哀《かな》しく眺《なが》めたものだった。私としては最後に観たのは渋谷の聚楽《じゆらく》という小劇場だった。  後年、木下華声さんとよく呑《の》むようになり、いつかゆっくり彼のことをきいてみようと思いつつ、その期を果たせなかった。戦後しばらくして淋《さび》しく亡《な》くなったということだけは知っているが、現在ジェリーについて訊《き》くとすれば、益田喜頓夫人の奈良ひとみさんか、ジャズ評論家の瀬川昌久さんぐらいであろうか。この時期の人はうっかりしているうちに、知る人がすくなくなってしまう。  灰田勝彦とほんのすこしのちがいで花が咲かなかったジェリー栗栖を思い出したら、また東海林《しようじ》次郎のことに連想が行った。記述が横すべりして申しわけないが、この人も知る人ぞすくないであろう。  東海林太郎ではない。東海林次郎。太郎の弟だと自分でいっていた。身体《からだ》つきはいくらか大柄《おおがら》だが、顔もよく似ていて、同じ眼鏡をかけ、頭髪も東海林太郎ふうにしてある。いわゆる、イミテイションタレントだが、兄とちがってバリトンで、「赤城の子守唄」だの「国境の町」だの堂々と歌う。けっして拙《まず》くない。  私は子供心に不思議で、自立してやっていけなくもない歌手なのに、どうして我れからイミテイションに自分を固定してしまうのか、やっぱり感情移入して眺めていた。  彼の活躍期(?)は相当に長く、兄が人気を得てから戦争末期まで、歌っていた。浅草の舞台に出るかと思うと場末の浪曲小屋のようなところにも出ている。どんなところでも、兄と同じく、直立不動のまま、悪びれもせず歌う。そこがなんだか哀しくいい。  マイナーの典型ではあるが、十代のころの私にとって、忘れ得ぬタレントの一人なのだが、戦後、その名を見かけない。どうしただろうか。 [#改ページ]   チャンバラ映画の悪役たち  私どもの子供の時分は、映画がなんといっても娯楽の主流で、だから子供の遊びにも映画が反映する。  チャンバラごっこなんかやっても、めいめいが、アラカンのつもりで刀を横に構えたり、バンツマのつもりで眼《め》をむいたり、中にはヒーローじゃなくて斬《き》られの悪役をやりたがる子も居た。悪役でも簡単には殺されないで、ときにはアラカンやバンツマが束になってかかっていって悪役が一人で奮闘していたりする。  昭和十年代の半ばごろ、いっとき流行したのは�まぼろし城ごっこ�というやつ。山中にたてこもる秘密宗教の一団があり、お面をかぶりマントを羽織った首領が両手を拡《ひろ》げて、 「まーぼーろーしの神よー」  不思議な抑揚をつけて叫ぶ。誰か一人が首領になって、まーぼーろーしーのゥと叫び出すと、私どもはその妖力《ようりよく》に打たれて、ダアッと総倒れになるのである。  映画では、この首領が実は意外な人物で、後半まで筋がわれないようにしているのだが、なにしろ首領に扮《ふん》したのが上田吉二郎《うえだきちじろう》で、独特のセリフ廻《まわ》しだから、いかにお面をかぶっていても、意外な人物というのがすぐわかってしまうのである。  我々にはすぐわかるが、映画の中では誰もわからない。これが実に不思議で、またおかしかった。昔の映画はこういう暢気《のんき》なところがお景物《けいぶつ》だった。  もうひとつ、子供に流行したのは、蠍《さそり》道人。 「風雲将棋谷」という映画に出てくる白髪|白髯《はくぜん》の怪老人で、 「しゅッ——、しゅッ——」  という息声で蠍を使う。その息声がきこえてくると、どこか近くに怪老人が忍び寄ってきているので、あわてて蠍がそのへんに居ないか探さなければならない。チャンバラごっこの途中で、誰かが、 「しゅッ——、しゅッ——」  といいだすと、とたんに我々は逃げ散ったものだ。  主演の阪東妻三郎だの市川春代だのは影がうすくなってしまって、蠍道人がいちばん受けた。扮したのは瀬川路三郎《せがわみちさぶろう》だが、彼の名前を知らなくても、蠍道人といえば子供たちは皆知っていた。おそらく彼の一世一代の当たり役であろう。  もっとも瀬川路三郎は、チャンバラ映画のファンにはおなじみの人で、その昔片岡千恵蔵の映画には必ずといっていいほど重要な脇役《わきやく》で出ていた。映画史上有名な「赤西蠣太《あかにしかきた》」では奸臣伊達兵部《かんしんだてひようぶ》を演じ、阪妻《ばんつま》の「血煙高田馬場」では仇《かたき》の中津川祐範を演じている。森の石松といえば次郎長《じろちよう》をやり、忠臣蔵といえば大野九郎兵衛《おおのくろべえ》をやる。  ご存じない方も大体の感じはおわかりであろう。ギョロリとした眼、エラの張った顎《あご》、なかなかの貫禄《かんろく》があって、古風なところがいい。いかにも旧劇の出身者らしいアクはあるが、セリフのツブが立っていて、今思うと時代劇のセリフ廻しの一典型だったような気がする。当時の映画は録音が悪かったから、はっきりとツブが立っていないと、なにをいってるのかわからないことが多い。彼だとか、香川良介、志村喬《しむらたかし》なんというところのセリフはわかりいい。  しかしなんといっても瀬川路三郎は、「風雲将棋谷」の蠍道人にとどめをさすので、これ以後東宝に移ってからは、やや影がうすい。戦争期に入ったし、東宝は時代劇の本数もすくなく、戦争映画に老参謀の役などでチラッと顔を出したりしていた。  息子さんが現在映画関係の会社をやっていて、 「『風雲将棋谷』のフィルムが残存していたら、一千万円出してもいいから欲しい」  ずいぶん探したがなかったらしい。コレクターの噂《うわさ》だと、辛うじてあった一本が、戦後ブラジルの人に買われていったとか。 「風雲将棋谷」にはもう一人、佝僂《せむし》の竜王《りゆうおう》太郎という怪人物が出てくる。これは団徳麿《だんとくまろ》という役者が演じていた。名前はそれほど売れていないが、彼も子供たちにはおなじみの人だった。  悪役、というより、怪物役者というべきだろうか。フランケンシュタインのボリス・カーロフ、近ごろではドラキュラのクリストファ・リーなどに匹敵するだろうが、日本の時代劇はそういう怪物シリーズを作らなかったから、スターにはなれない。  いちばんおなじみなのは鞍馬天狗《くらまてんぐ》(アラカンのだ)の角兵衛獅子《かくべえじし》の親方黒姫の吉兵衛役であろう。これは普通の扮装だが、どういうわけか大道芸人とか牢番《ろうばん》の役なども多い。「海を渡る祭礼」という映画では猿《さる》を打ち殺されて泣きわめく猿廻しの役。 「幽霊水芸師」では赤銅《しやくどう》の鍋《なべ》の底みたいにツル禿《はげ》の手裏剣打ち。「風雲将棋谷」の竜王太郎もそうだが、主演スターに刃向かう悪役がコクがないと、チャンバラ映画は面白くないのである。その点では団徳麿は理想的な悪役で、佝僂、片脚、火傷《やけど》のひきつれ、狼男《おおかみおとこ》、眼玉にピンポン玉をつけて出てきたり、私は見ていないが無声時代の「大岡政談」では、山椒豆太郎という小人《こびと》の役で、身体を二つに折りまげて死ぬ苦しみで出てきたというから、こうなると本人もお化け中毒、扮装中毒にかかっていたのだろう。  それにダントクマロという名前も、江戸川乱歩の小説に出てきそうな奇怪な感じで、彼が出ているために観《み》に行ったチャンバラ映画がすくなくない。  戦争が烈《はげ》しくなって、だんだん彼の出場がすくなくなり、日活が合併されて大映になると、まったくその名が消えた。例によって私は感情移入して、どうしたんだろう、死んだのかしら、それとも不祥事でもおこして追放されたのかしら、と心配でたまらず、子供が心配することでもないのだけれど、それがひょっこり松竹系の興亜映画という小さなプロダクションで作った「鳥居強《とりいすね》右衛門《えもん》」という映画にその名をみつけたときは、嬉《うれ》しくてたまらず、その晩夢に見たほどだ。  戦後、松竹下加茂や東映の時代劇で、小さな役でチラチラ出ていたが、いつのまにか引退して(なんでも組合の三役などやっていたらしい、これも意外だ)現在まだ健在で、京都のお寺で静かに暮しているという。  団徳麿は普通の扮装で出てきても、眉《まゆ》が濃く、眼に特有の光があって、不吉で怪しい感じがしたが、高堂国典《こうどうこくてん》という老優も、一度見ると忘れられない怪しさがあった。  キネマ旬報の名鑑で見ると新派の村田正雄の一門だというが、信じられない。新派でなくて旧劇の臭《にお》いが濃い。私がはじめて見たのは、たぶん、林長二郎の「雪之丞変化《ゆきのじようへんげ》」あたりだろう。実に貫禄のある悪旗本で、鼻にかかったよく通る声なので、セリフがわかりやすい。しかしこのころ相当な年齢だったと思う。かなりアクは強いけれども、チャンバラ映画の役者には珍しくセンチメンタルなところがなく、彼が悪役をやると映画がひきしまってくる。  忠臣蔵の持役は堀部弥兵衛《ほりべやへえ》で、昭和十年代はこの線の老人役が多く、悪役でない場合、やはりセンチメンタルでない情味を出したりしていた。  チャンバラファンでない人におなじみになったのは、戦時中の「姿三四郎」の和尚《おしよう》役であろう。三四郎が池にはまっていると大喝《だいかつ》するあの和尚である。これ以後、黒沢明に重用されて、「わが青春に悔なし」では、岡山の老農夫を演じ、非常に注目された。  当時、やはりチャンバラ映画の常連だった志村喬が大きく飛躍したときだったが、もともと達者だった志村よりも、私は高堂国典のほうに関心があった。  こういう不思議な、類型でない人が、たくさん出てこないと映画は面白くならない。残念なるかな、年齢《とし》をとりすぎて、日の目が当たるのがおそかったな、と思っていたが、どうして長命で、現代劇にもたくさん出ている。 「七人の侍」の村の長老なんて役は、どうしても高堂国典でないといけないだろう。そう思わせる役者は案外にすくないもので、軽演劇から戦後映画に転じた左卜全《ひだりぼくぜん》の、一つ前の存在といえようか。  瀬川路三郎も、団徳麿も、高堂国典も三人ともメジャーの会社でなく、マイナーの会社に長く所属していたので、映画史上に残るような作品に、ほとんど出演していない。長く生き残ったのが不思議なくらいだ。  日本映画は常にチャンバラ映画を主軸にして商売をしてきたのに、時代劇の俳優は、一部のスターをのぞいて差別視される嫌《きら》いがあった。時代劇特有の様式的な芝居が、専門職のようにも見られ、また逆に現代を演じる役者ではないように思われていた。  高堂国典や志村喬などはごくわずかな例であろう。山本礼三郎という性格俳優が居たが、病身で、惜しまれつつ早世した。あと、誰が居るだろうか。  阪東妻三郎、大河内伝次郎のような大スターは晩年、老《ふ》け役で現代物にも出ていたが、戦前の時代劇俳優でと限ると、存外に出てこない。  藤井|貢《みつぐ》、これは二枚目半の若旦那《わかだんな》役でかけ持ちしていた。本郷秀雄も同じタイプ。  河津清三郎、田中春男あたりは第一協団というグループを作ったあたりから現代劇に進出したが、チャンバラ役者とはいいがたい。東宝は時代劇がすくないので、鳥羽陽之助、清川荘司あたり、現代物でも実績をあげていた。清川などかなり通用する人だったが、なぜか戦後引退してしまう。  時代劇女優で唯一《ゆいいつ》傑出しているのは市川春代であろう。この人、ずいぶん長くスターを張っていて、万年お嬢だったが、石坂洋次郎の「若い人」などでチャキチャキの現代娘もやっていた。なかなかの女優さんだったが、今、どうしているか。 [#改ページ]   パピプペ パピプペ パピプペポ     —杉《すぎ》 狂児《きようじ》のこと—  流行歌というものが、私の子供のころは世間の識者たちからまことに軽んじられていたものだった。軽佻《けいちよう》浮薄、色情過多、退廃不健全、いろんな形容で吐き捨てられるようにいわれたものだ。  学校の先生は、あんなもの歌ってはいけないという。家庭でも、ラジオで流行歌が流れると、勉強の邪魔だといってスイッチを切られたりする。  それで、今ふり返ってみると、そのときどきの流行歌が身体《からだ》にしみついたように残っていて、昔を思い出すよすがになるから不思議なものだ。  昔よくデートをしていた女性と街の中で会っていると、岡晴夫の「啼《な》くな小鳩《こばと》よ」という曲をどこの店でもやっていて、岡晴夫の唄声《うたごえ》をきくと、今でも、さほど会話もなしに煮つまったような気分で酒を呑《の》んでいたそのころを思い出す。ところがデートの相手の女性の顔のほうは、すでに曖昧《あいまい》になっていたりする。  私の子供の時分に、二大愚歌といわれて、大の字がつくくらいだから猛烈に流行《はや》った曲があった。  その一つは、  ※[#歌記号、unicode303d]あなたと呼べェば   あなたとォ答える   山のこだまァの 嬉《うれ》しさよ   あなァた、なァんだい   空は青空 二人は若ァい  という、たわいのない唄で、「二人は若い」という曲。  もうひとつは、  ※[#歌記号、unicode303d]何かいおうと思っても   女房にゃなんだかいえません   そこでついつい嘘《うそ》をいう  (女)「なんです、あなた」  (男)「いや別に、僕は、その、あの」   パピプペ パピプペ パピプペポ   うちィの女房にゃ 髭《ひげ》がある  これは「うちの女房にゃ髭がある」という曲。  ばかばかしく愚かしいといってしまえばそれまでで、流行歌というものは愚かしい情感をきれいに掬《すく》いとるのがお値打ちだと思う。パピプペ パピプペ パピプペポ、なんていうところが、ばかばかしく天才的で、理屈っぽい上品な唄などよりずっとよろしい。  前者は「のぞかれた花嫁」の、後者は同名の、二つとも日活映画の主題歌で、いずれも杉狂児と星|玲子《れいこ》コンビの主演だった。映画では両方ともご両人が歌うのであるが、レコードでは、前者はたしかディック・ミネだったと思う。  これが大ヒットして、※[#歌記号、unicode303d]あなァた、なァんだい、などと子供たちは大人びたしぐさで歌うし、親たちが叱言《こごと》をいうと、※[#歌記号、unicode303d]パピプペ パピプペ——などと歌ってはずす。  実にどうも、心胆を寒からしめる、などと泣かんばかりに嘆いていた識者があった。  二曲ともに、当時のチンドン屋の代表演目であった。チンドン屋が好んでとりあげるようになると、当時は立派なヒット曲なのである。  今でも憶《おぼ》えているけれど、小学校をサボって、行くところがないままに、原ッぱのまん中で、叢《くさむら》の中にしゃがんでぼんやりしていたりする。原ッぱの向かいはバスの車庫で、人家はないし、人通りもない。昼さがり、中年の夫婦者らしいチンドン屋が、男はクラリネットを吹き女は囃子《はやし》の小太鼓を鳴らしながら、「うちの女房にゃ髭がある」を奏している。誰も見ている者がない。それでいて踊り狂うようにしながら、原っぱのはずれまでいくと引き返し、行きつ戻りつして飽きるところがない。白昼夢のような不思議な光景を、叢の中で私はポカンとして眺《なが》めていた。  さて、杉狂児については、子供のころの記憶がもう一つ残っている。  職業軍人で、いつも怖い顔をしていた父親が、ついぞ役者の話など子供の前でしなかったのだが、夕食のときだったかラジオの杉狂児の唄声をききながら、 「この男も、奇術の天勝一座の下《した》っ端《ぱ》だったり、ずいぶん下積みの苦労をしたらしいが、やっと花が咲いたようだな」  といった。映画雑誌かなにかで読みかじった知識だろうか。  それでいっぺんにおぼえた。名前の中に狂うという字を使ってあるのも印象が強かった一つの理由で、その時分、パピプペ、パピプペ、などといっている大人は、なにか狂っているようにも見えたものだ。  まもなく私は勝手に一人で映画館になじみはじめ、杉狂児の映画もずいぶん見た。そのころは松竹|蒲田《かまた》ナンセンス喜劇はすでに作っておらず、喜劇といえば、エノケン、ロッパを擁する東宝の専売の感があり、他社では杉狂児が一人気を吐いているという状態だった。  私の想像だが、杉狂児の進出のきっかけの一つは震災だったと思う。関東大震災で東京付近の撮影所はほとんど潰滅《かいめつ》してしまった。業績不振で気息|奄々《えんえん》だった松竹が、その寸前に蒲田から大船に移転し、被害に遭わず、それで立ち直ったという。日活は京都|太秦《うずまさ》で時代劇現代劇の両方を作っていたが、昭和九年に多摩川撮影所を新設して現代劇部門を東京にまた持ってきた。  その時分はトーキーになっており、他社でも鈴木|伝明《でんめい》など新しいタイプの現代劇俳優が出現していた。それまで、マキノ、東亜、河合映画(大都)と小さな所を転々としていた杉京二改め杉狂児が浮上したのは、そのモダンさを買われたのだろう。  そして前述の「のぞかれた花嫁」など新婚映画のヒットである。いわばサラリーマン小市民喜劇で、今日のタレントでいえばフランキー堺《さかい》といったところだろうか。フランキーはドタバタ喜劇もやるけれど、杉狂児の映画は、シチュエーション喜劇で、状況や筋の運びで微苦笑させる。私は父親のいう「苦労した人」の印象が強くて、若々しさは感じなかったが、世間のあつかいも、けっして若者のアイドルではなかった。まァ所帯持ちの観《み》る映画だった。  愚劇、愚歌と識者にののしられながら彼の人気は順調で「ジャズ忠臣蔵」「まごころ万才」「地上天国」「街の合唱隊」「暢気《のんき》眼鏡」。この「暢気眼鏡」は貧乏文士とその明るい細君が芥川《あくたがわ》賞をとるまでの微苦笑劇で、当時の郊外東中野あたりの庶民生活が丁寧に描かれ、今日再見したいものの一つだが、杉狂児もこれで俳優として世間からちゃんと認められたようだ。  しかし、もともといろいろな芝居をかいくぐってきた達者な人で、その達者さがきわどいところで一つ抑制されているようなところが、新しさになっていたのだろうと思う。もうひとつ、いつも眼鏡をかけていた役者は、当時はまだすくなかった。眼鏡と、年輪のような皺《しわ》が特徴で、それが楽天的にふるまうのが、サラリーマンたちにとって奇妙なリアリティだったのだろうと思う。  以後は日活のドル箱で、正月とかお盆に封切られることが多かった。「山高帽子」「世紀は笑う」「微笑の国」「電撃二重奏」。一方では「次郎物語」に親子で出たり、「青空交響楽」で主題歌がヒットしたのに、当局のヤリ玉にあがって発禁処分を受けたり。  そんなこんなで出場の機会が減って、戦争末期には浅草で杉狂児一座を旗揚げしたりした。知名度のせいで客は入っていたようだが、これは明らかに失敗で、舞台出のわりに映画的演技になじみすぎて、浅草流のドギツイ笑いを売らなかったから、そうなると苦労人的個性が逆に地味になってしまう。  彼の一座の「出世|太閤記《たいこうき》」という出し物を見た人が、 「なにしろ、ギャグといえば、ツカツカツカ、と声に出して歩いていく、それ一つだったんだからね、客席も沸かないし退屈だった——」  といっていた。  そのせいか、まもなく解散。  戦後は、とぼけた家老とか、中|老《ふ》けの脇役《わきやく》で、たくさん出ているがお茶をにごす程度。以前の杉狂児を知る者には、覇気《はき》を失ったように見えたが、年齢《とし》も年齢だったのだろう。下積みの長かった人だから、今調べてみると、「のぞかれた花嫁」のあたりで三十歳くらい、全盛のころすでに四十近かったはずだ。  昭和三十年代だったと思うが、夜十時すぎのテレビで、なつメロ的番組があり、めったにテレビには姿を見せなかった杉狂児が、珍しく「うちの女房にゃ髭がある」を歌った。  これは実に結構で、昔の若気が昇華され、老練なヴォードビリアンの名人芸を眺めている感じだった。かつては特に唄のうまい人と思わなかったが、これに限っては独特の洗練と味があった。  エノケンや二村定一にもいえるけれども、この時代の舞台芸人は、オペレッタ(今日でいうミュージカルか)志向のようなものがあって、情緒|纏綿《てんめん》とした流行歌手の唄い方とはまたひとつちがう。もっと硬質で、クールで、乱暴に歌い捨てているようにみえて、動きやリズムのセンスでおぎなったり、個性を調味料にしたり、はずれそうではずれないスリルがある。  今日のロック歌手に、そうした技巧はもっと高度な形で継承されているようだけれど、それはそれとして古風な名人芸も貴重なものに思える。  その夜のテレビの杉狂児を、私は家で黙って見ていたが、内心では、�浅草から出て洗練の域にまで達した芸人がここにも一人居たぞ�と思っていた。杉狂児健在なれ、と思ったものだ。  ところがその番組も誰の口の端《は》にも上らず、杉狂児はそのまま蝋燭《ろうそく》の火が消えるように、ある年|亡《な》くなってしまった。  そうして今日、もはや忘れられた名前になっているようで、レコードも復刻されないし、彼の全盛のころの映画も、フィルムは二、三あるのだが、ヴィデオで売り出される気配もない。忘れてどうというほど大事なことでもないが、私としてはやはり淋《さび》しいのである。 [#改ページ]   敗戦直後のニューフェイス  たまには女優さんをとりあげてみたいと思ったが、どうもこれといった存在が思いつかない。たぶん、私が一番映画を見ていた子供時代に、女優中心のメロドラマにあまり心を動かされなかったからであろう。  で、一策を案じて、廃墟《はいきよ》だった敗戦のころに、どんな女優が育ったか、古いキネマ旬報をひっくりかえして眺《なが》めてみた。今もなお美しさが心に残るような女優はきわめてすくない。当たり前のことかもしれないが、当時は女優志願どころの騒ぎではなかったのだろう。  だいたい、既成の女優さんが、戦争末期には疎開《そかい》その他で手近なところに居なかった。そのことは戦争末期から製作開始して、敗戦直後に封切した、いわゆる敗戦またぎの映画に、女優らしい女優が出ていないことを見てもわかる。  東宝の「東京五人男」はエンタツ、アチャコ、ロッパなど男優はにぎやかだが、女優は軽い役で飯田ふさ江が出ているのみ。この人は東宝系の舞台に出ていた人で唄《うた》も歌い、楚々《そそ》たる美人だったが。  松竹の「そよかぜ」は二人の新人女優を起用している。といっても二人とも松竹歌劇団出身の先輩と後輩、一人は主題歌「リンゴの唄」がヒットしたため売り出して今日まだ健在の並木路子《なみきみちこ》だ。歌劇団に居たころは瞳《ひとみ》のきれいな少女っぽい子で、私も遠くから憧《あこが》れたものだ。  もう一人の先輩のほうは波多美喜子といって、ヤンチャガールズで売ったり、笑の王国など浅草ではおなじみの人だったが、年齢的にトウがたっていたこともあって、並木路子の陰にかすんでしまう。軽演劇の衰退もあって、歌謡スター並木路子との差は開くばかりだった。私はずっと彼女のその後に感情移入していたが先年|淋《さび》しく亡《な》くなったと聞く。  松竹は歌劇団という畑があるので、女優の卵には困らない。もう二人、幾野道子、空あけみ、現役の踊り子を引抜いて軽喜劇ふうの短篇映画に試験的に使いはじめた。二人とも特に個性の強いほうではなく、便利に使われて甲乙つけがたかったが、その翌年、幾野道子のほうは「はたちの青春」で(たしか)大坂志郎とキスシーンを演じ、これが最初の接吻《せつぷん》映画だと騒がれた。ゴシップ記事で読んだ知識では、二人とも口にガーゼを含んで撮った由《よし》。今日の若い人たちはこんなこと嘘《うそ》だと思うだろう。  私の中学の級友に空あけみと従弟《いとこ》というのが居て、 「今度、従姉《いとこ》が映画に出るんだぞ」  と威張られた記憶がある。接吻女優の肩書のせいか、幾野道子のほうがいくらか息が長かったか。  もう一人、この時期に「女生徒と教師」という映画に山中一子という新人が、増田順二と共演しているが、映画を見てないし、この一本で消えたようで、まったく印象がない。  大映では阪東妻三郎が自由主義の政治家に扮《ふん》した「犯罪者は誰か」で、鈴木美智子を出している。そのあとが「彼と彼女は行く」の折原啓子《おりはらけいこ》だ。  鈴木美智子は、たしか築地《つきじ》の待合の娘で、明るくフラッパーなところがあり敗戦後の大映映画ではなかなか健闘していたのだが、なんといっても折原啓子の正統派美人のデビューが強烈すぎた。  当時、彼女の顔写真だけのポスターが街のいたるところに張ってあったのを記憶している。そうして私なども、ひさしぶりに映画スターらしい人が現れたなと思って眺めていた。  折原啓子の一年くらい後に三条美紀《さんじようみき》が出てきたと思う。これも素材としてなかなか大物の新人だった。そうしてチョイ先輩の鈴木美智子が、二人に押されてちょっとかすんでしまった。この名前は本名かもしれないが、どうも映画スターとしてはかすみそうな感じがした。鈴木美智子は大映から松竹に移り、ここでも芽が出ないと見るや、なにか啖呵《たんか》をきって映画を見限り、実家に帰って芸者になってしまったと思う。新橋あたりの芸者なら、そのほうが彼女のお好みの生き方だったかもしれない。  三条美紀は紀比呂子《きのひろこ》のお母さんといったほうがわかりがよいか。デビュー当時は三益愛子《みますあいこ》と親娘《おやこ》になって、母物映画が多かったように思う。美貌《びぼう》でもあったけれど、あまり役者っぽくなく、むしろ普通のお嬢さんという感じを残しており、それがヤミ市時代には、別世界のような魅力になっていたと思う。  折原啓子は三条と対照的に、いかにもメロドラマの主役らしく、薄倖《はつこう》の庶民の娘が多かった。昭和二十年代はずっとスターだったが、結核だったらしく、中年以後、私もマージャンなどやったが、気の毒なほど痩《や》せて、いかにも病人といった感じだった。  同じ大映でも時代劇のほうは、特殊な環境、特殊な演技が要求されるのか、あまり新人が出ない。戦時中に江原良子を育てたのみ。戦後は喜多川千鶴《きたがわちづる》まで新人皆無。彼女とて、日高梅子という名で新興映画の子役だったのだから、まったくの新人ではない。新興のころは、姉二人と一緒に日高三姉妹といわれておなじみの子役だった。成人して喜多川千鶴として出てきたら、顔が右太衛門《うたえもん》と同じくらい大きく、どっしりとして姐御《あねご》的色気があった。時代劇専門の女優として貴重だったが、今は引退しているという。  東宝では、まず浜田百合子《はまだゆりこ》であろう。当時、日本人の小柄《こがら》な体格が、なんとなく劣等感を呼んでいたころで、それかあらぬか、女性も外国人並みの大柄な子を好む風潮があった。浜田百合子はその点をすべて満たしていて、アメリカ女のようにグラマーで、ハキハキしていた。 「民衆の敵」という今井正監督の映画がデビュー作で、花柳小菊《はなやぎこぎく》と一緒にナイトクラブで働く女性を演じていたが、二人とも大きかった。  その直後に有名な東宝争議があり、東宝のスターたちは新東宝に移ったため、東宝としてはニューフェイスに頼らねばならなくなる。  そのときに「明日を創《つく》る人々」という不思議な(?)映画があって、立花満江という新人が出ていたが、ごらんになった方があるだろうか。  監督が山本|嘉次郎《かじろう》、黒沢明、関川秀雄の三人共同で、まだ文学座時代の森雅之《もりまさゆき》、浜田百合子あたりが出ている。争議のために東宝撮影所が従業員組合の管理になっていたときに作られた映画で、労働組合を組織せよ、というテーマだった。  どういう事情でそうなったか、今もって自分でもよくわからないのだが、私もあの東宝争議のときに、あの中に居て、撮影所に泊りこんだりしていたのだ。そのころ、私はどこにも勤めておらず、麻雀《マージヤン》を打ったりしていたころで、ひょっとしたら、撮影所の人と麻雀でも打っているうちにまぎれこんだのかもしれない。どうも赤面する思い出だが、進駐軍の戦車が来てバリケードをこわすなどという噂《うわさ》もあり、けっこう昂奮《こうふん》して組合の人と持ち場を守っていた。ニューフェイスの人たちがときどき炊出《たきだ》しの握り飯を配ったりしてくる。思えばあの中に若山セツ子や久我美子《くがよしこ》も交じっていたのかもしれない。  そういうわけで、この映画、どこかでやらないかな、と思っているのだが、さっぱりその名をきかない。立花満江という新人も、その後あまり見かけないままに、印象もおぼろになってしまった。  争議が終わると、メロドラマばかり作っている新東宝にくらべて、本家の東宝のほうは「わが青春に悔なし」とか「今ひとたびの」とか、なかなかの作品を続けて作った。 「四つの恋の物語」というオムニバス映画で、若山セツ子や久我美子がニューフェイスとして出てきたのもそのころだ。久我美子は華族の娘ということで話題になったが、実に初々《ういうい》しい感じの娘さんだった。その初々しさは、四十年たった今でも残っているから不思議な人だ。  若山セツ子も可愛《かわい》らしかった。「四つの恋の物語」では、久我美子が池部良《いけべりよう》と初恋をささやくカップルになり、若山セツ子はエノケンにほれられる踊り子になっていた。そうして浜田百合子は空中サーカスの芸人。  そうしてこのあとの「銀嶺《ぎんれい》の果て」で若山セツ子は三船敏郎の相手役をやり、「青い山脈」で人気を高める。まったくあのころの若山セツ子は、いかにも庶民的な、そこいらにいくらでも居そうで居ない、かわいい小娘だった。後年の哀《かな》しい最期《さいご》など、まるで想像できない。ここまで記した中にも故人になった人も居るけれど、女優さんは特に売り出し当時のピカピカが眼《め》に残っているだけに、その変わりようの烈《はげ》しさにびっくりする。現今のタレント諸嬢が四十年後に、どんな姿で居るだろうか。  松竹の逸材木下恵介監督の「わが恋せし乙女」でデビューした井川邦子《いがわくにこ》は、実をいうと戦時中から出ていた河野敏子が改名して出直したもので、こういうケースは各社にある。しかし井川邦子はみずみずしく、優しい肌《はだ》ざわりで、新人として及第点をとった。  そのせいか、その後も木下恵介作品によく出ている。「結婚」「肖像」「カルメン故郷に帰る」「二十四の瞳」など。目下、鎌倉で喫茶店をやっている由《よし》。  奈良光枝《ならみつえ》はレコード歌手だが、「或る夜の接吻」で主演し、これも接吻女優と呼ばれた。たしか、傘《かさ》をさして歩いていくアベックの意味ありげなポスターがあったと思う。なかなかの正統派美人で、東北なまりはあったが、このころはよく映画に出ていた。  同じく大映の「パレットナイフの殺人」でデビューした小牧由紀子、西条秀子のうち、西条は水原久美子と名を変えて東宝から再出発しているが、やはり長くは続かなかった。同じころの大映ニューフェイス及川千代も、宣伝をしたわりには伸びなかったようだ。  以上がだいたい、敗戦後一、二年のところでデビューした人たちだが、今ふりかえってみるとやはり感慨ひとしおである。 [#改ページ]   浅草有望派始末記  寅《とら》さん映画の脇《わき》人物の中で、傑作だと思うのは、太宰久雄扮《だざいひさおふん》する裏の印刷屋のタコ社長である。馬力があって気がよくて、石ころのように頭が固くて、生存競争のあわいの中を息せき切って走っている。戯画化もされているが、こういう人物はあちこちにそっくりな人が居るもので、まことにおかしい。  太宰久雄という人は、ラジオの時代から「向う三軒両隣り」などの庶民ドラマに出ているが、なんだかあまり演技力を感じない人で、俳優の落第生のように私には見えた。こういう人でも役者を一生やっていけるのだろうか、とよけいな心配をさせて、それでなんとなく関心があった。しかしタコ社長は、どの程度に演じわけているのか知らないが、類型ではなくて典型を描出している。立派なものである。太宰久雄がこんなに精彩を発揮する役に当たろうとは思わなかった。今では彼は、私のノートの好ましき俳優の部に記載されている。  だから、役者はどこで花を開くかわからない。また、巧拙ということも簡単には定められない。  寅さん映画でいえば、オイちゃん役の森川信《もりかわしん》が死んで、何割か魅力がへった。あとをひきついだ俳優さんにわるいが、新劇の人ではこの役は、とおりいっぺんにしかできない。  甥《おい》の寅さんを案じながら、顔を見るとバカだねえあいつは、ばかりいっているような叔父さん役というのは、軽演劇ではパターン化しているような役だが、かといって年季というばかりではない。あの味というものは、演技の鍛練ばかりでは出てこないものだ。  舞台演技は約束事がたくさんあって、年季で積み重ねていくところが多いのだろうが、映画は個性の勝負になるようで存外に軽演劇出身の人が、シリアスな役でもいい味を出す。藤原釜足《ふじわらかまたり》や中村是好、左卜全、当今でいうと財津一郎《ざいついちろう》、芦屋雁之助《あしやがんのすけ》、こういった人たちは新劇からは出てこない。  私が軽演劇を見はじめたころ、すなわち昭和十四、五年ごろ、先輩の話では天才的な若い役者が三人居るということだった。曰《いわ》く、森川信、岸田一夫、有島一郎。  ところがこの当時、森川と岸田は大阪の黒川志津也という人がはじめた弥生《やよい》座のピエルボーイズという劇団に居《お》り、むろん東京では見られなかった。有島一郎もこの時期は、ムーランルージュから新興演芸に引き抜かれて関西に行っていたはずだ。  ピエルボーイズの黒川という人はどんな人か知らないが、森川、岸田に、清水金一、田中実(田崎潤)と浅草の若手有望どころをごっそり連れていった眼力はすごい。おそらく文芸部長|淀橋《よどばし》太郎の眼力だろうが。  清水金一や田中実はまもなく浅草に帰ってきて、笑の王国、オペラ館、東宝映画、新生喜劇座と進んで行く。それで大阪のピエルボーイズは、森川と岸田が二人座長で数年やっていた。このレビュー団は脇に弓矢|八幡《はちまん》やサトーイチローなんかも居て、今日でも見たかった劇団の一つなのだが、森川も岸田も、踊れてスマートでアチャラカもできて、いい競争相手だった。  当時のレビュー俳優は、歌と踊りと芝居、この三つはぜひともマスターしろ、といわれたころだ。だから森川信(巧《うま》くはないが)も歌う。 「踊りをやっとくとね、舞台姿が綺麗《きれい》になるんだよ。動きもよくなるしね。人に見て貰《もら》う商売はね、基本は踊りだよ」  と浅草時代にいっていたのを思い出す。  弥生座がニュース映画館に転向してピエルボーイズは解散。それから名古屋の名劇、博多《はかた》の川丈座、北支の慰問団と流れ歩いて、新興演芸部で小一座を作り、それが松竹に買われて国際劇場のアトラクションに上京。浅草に定着する。  私は国際劇場ではじめて森川信を見たが、噂《うわさ》にたがわずうまい役者だった。軽演劇には珍しくアクが強くない。引く芝居を心得ている。当時の浅草のNo.1は清水金一で、これは典型的なアチャラカ役者。それに対して森川信はシリアスな芝居もできる。 「高千穂の子供たち」という情報局推薦の国策芝居を、同じ月に、前進座と競って演《や》った。長十郎や翫《がん》右衛門《えもん》が盛りだったころの前進座である。ところが浅草の森川信のほうがどの新聞の劇評でも評判がよかった。  浅草出の役者というものは、どこか、世間からはずれた趣を持っていて、そこが個性になったりするのだが、森川信は、すくなくとも舞台の森川信は、見事なほど柔軟で、インサイドな役者だった。だから国策芝居を演っても客の胸を打つことができるし、戦後、「蟹工船《かにこうせん》」のような映画に出ても鋭い芝居をする。役者にならなくたって、どの世界でもある程度の成功をおさめたのではないか。それが、とりもなおさず役者というものなのかなア、と私は思ったものだ。  しかし、そういう利口そうなところが陰な感じにもなって、明るさでは清水金一に及ばなかった。  もっとも、全役者の中でも、森川信くらい女にモテた人は居ないという。  博多の川丈座に居たころ、玉屋というデパートの女店員を、片っ端から抱いた。夜毎《よごと》夜毎、三人ぐらいは抱いていた。 「役者が女をつまむのは当たり前だ。遊廓《ゆうかく》なんぞへ行くのはモテない役者さ。俺《おれ》は女を買いになんか行かない。女に買わせるんだ」  そう豪語していた。もっとも、博多ではやりすぎて、娘が五人くらい同時に懐妊してしまい、あわてて逃げた。森川が北支慰問団に加わったのはそのためだという説がある。  しかし、彼が女にモテるというのは、実によくわかる。なにしろどんなときでもインサイドになってしまう男だから、誰にでも、その場は、心をこめてつくしただろう。あの森川信が心をこめたらどんな女でもまいるのではないか。  当時の松竹スターの水戸光子が、浅草で、森川信一座に特別出演した一カ月のうちに、ぞっこんまいってしまって、結婚ということになった。  水戸光子は当時「暖流」などで人気上昇中で、松竹の箱入娘的スターだった。  あの水戸光子が、なぜ、浅草の喜劇役者なんかに——、と世間はいった。まるで人さらいにさらわれたようないわれ方をした。  その結婚生活が、半年ほどしか続かなかった。森川信は、魅力充分だったが、暮す男ではなかったのだろう。インサイドといっても、このへんが浅草の人である。  森川信の好ライバルだった岸田一夫は新興演芸のころに袂《たもと》をわかち、岸田の出征もあって、後年はすっかり差ができてしまった。岸田も二枚目で芝居も巧く、アチャラカもできたし、なかなかモダンだったのだが、戦後は関西のほうで脇役に終始した。幕内の人にきくと、女癖がわるかった、という。森川信には女のほうから寄ってくるのに、岸田一夫は自分のほうから女に手を出した。その差なのか。 「岸田は自分の座長芝居ができない。誰かが居てその相手役だと実にいいんだがね。自分がシンになると、なんだか頼りなくて、陰なんだ」  淀橋太郎さんはそういっている。コメディアンというものも大成するにはむずかしい条件があるようだ。  有島一郎は、やっぱり巧かったけれども、森川信のように自在型ではなくて、鋭かった。特に若いころの有島一郎は、ツボにはまると前衛的な冴《さ》えが出てしまうほどだった。彼のスラップスティックは天下一品で、戦後の八波《はつぱ》むと志《し》や三木のり平も、有島一郎が居なければ洗練されなかったろう。  ところが老《ふ》けもできるし、立役もできる。脇でアンサンブルを整えることもちゃんとやる。唄《うた》も(感心しないが)歌える。いろんなことが器用にやれるので、かえって印象が散漫になる。森繁久弥《もりしげひさや》が成功したので、一家をなしてからの有島一郎は家庭向き健全路線を狙《ねら》った。もう一つは、小心な中老年の小市民的な戯画化。それでスターとしての位置を保っているからいいようなものの、私としては若いころの一瞬の狂ったような精気に深入りしてほしかった。そうするとポピュラーでなくなるおそれもあり、ご当人も望むまいが、永田キングを上廻《うわまわ》って、バスター・キートンに迫る存在になっていたかもしれない。  こうして長いこと眺《なが》めていると、タレントの興亡もなかなかドラマティックである。一番華やかで、明るかった清水金一が、若さを失うとともに、早く失墜した。岸田一夫はヒネリ球を投げすぎて、肩をこわした投手のごとくなった。  持ち味が小さくていかず、大きすぎても持続がむずかしい。  有島一郎は前の二人よりはるかに思索的で、自分のいろいろな才能をたしかめながら、一歩一歩、地位をふみかためて上昇してきた。酷ないいかたをすれば、役者としての花は後半うすれてきて、惰性のようになったが、軽演劇出身の人の中では数少ない成功者だろう。  私は有島一郎という役者が好きだった。軽演劇がストリップに喰《く》われて潰滅《かいめつ》状態になったときをはさんで、ほぼ五十年、彼の牛歩のような上昇を、他人事《ひとごと》でなく眺めてきた。低迷時代、国際劇場のショーの司会をやったり、池袋文化の三木トリローのショーに参加したり、その一つ一つを熱いまなざしで見ていた少年が居たことをご当人はご存じないだろう。あのころは新聞広告に、有馬一郎とまちがって書かれることが再々で、私も口惜《くや》しい思いをしたものだ。  一番中庸を行った森川信が脱落しなかったのは当然だが、それ以上に晩年は球が伸びていたかもしれない。彼が死んだのは昭和四十七年で、もうひと昔前になるが、印象がまだ古びない。肝硬変による動脈破裂。遊び人によくある死病だった。 [#改ページ]   いい顔、佐分利信《さぶりしん》  映画の中の佐分利信を眺《なが》めていると、あの風貌《ふうぼう》が、どこで、どうやって、作られてきたのだろう、といつも思う。私にはそれがとても興味がある。  佐分利信の父は明治中ごろに北陸から移住、北海道夕張炭田の歌志内《うたしない》鉱山で働く炭坑夫だった。それで九人兄弟という大家族。炭坑夫だからどうというわけではけっしてないが、まァ楽な暮しではなかったろう。彼自身も中学教師を夢みて上京し、苦学生として水道工事や道路工事の人夫になった。  学校を続けられなくて帰郷、また出奔をくりかえし、なかば捨鉢《すてばち》に活動屋にでもなろうと、日本映画俳優学校に入り、一年半で卒業して、この学校の先輩小杉勇を頼り日活に入る。最初の芸名は島津元。  ただ喰《く》うためで、まったく情熱的でないスタートだった、というが、ボソッとカメラの前に立つだけで、演技もなにもない存在だったらしい。しかしその芝居臭くない動きが、かえって映画のリアリズムに合った。だからそのころからガツガツしていなかったらしい。  どうも私などは、焼跡餓鬼道世代で、今もって喰い物にガツガツしているし、汚れた顔をしていても平気なところがある。人間の顔というものは、その人の半生の内面外面が積み重なって作られてくるように思うのだが、佐分利信の経歴の外面からは、おっとりと知的なものが育つようには思えない。 「どうしてああいう顔ができたんだろうねえ」  という話をしていたら、小沢昭一がこういったことがある。 「佐分利さんが破顔一笑するとね、おかしいんですよ。歯ぐきが大きく見えちゃって、佐分利でも信でもない、その辺の横丁にいくらでもあるただの笑顔になっちゃう」  そういえば、フフン、と笑うくらいで若いころから破顔一笑しないスターでもあった。  人気が出はじめたのは日活から松竹に移って以後で、当時の松竹の大監督島津保次郎に、 「俺《おれ》とおんなじ苗字《みようじ》じゃまずい。名前を変えろよ」  といわれて島津元から佐分利信に。本名は石崎由雄だけれど、彼の考えた芸名のほうがイメージに合っている。つまり、自分がそうなろうと思った顔に、じわじわとなっていったわけで、内面や見えないところでの努力もあったのだろう。もっとも、《人間は結局、自分がもっともなりたいと思ったものになっていくのである》、といった西欧の識者も居る。  昭和十年代の松竹大船はスター女優の宝庫といわれたが、男優陣も、上原謙、佐野周二、佐分利信と揃《そろ》っていて、この三人は松竹三羽|烏《がらす》といわれた。  美男スターの上原謙、庶民的で明るい佐野周二、男っぽくて重厚な佐分利信という持駒《もちごま》なら、どんなメロドラマだって作れる。「婚約三羽烏」という映画では、上原が山手《やまのて》出身、佐野が下町出身、佐分利が地方出身の青年になって、うまく描きわけられていた。  当時の島津保次郎という監督のセンスはなかなか洗練されていて、たとえば、「隣りの八重ちゃん」などという作品を今|観《み》ても、さほど古びていない。元来、松竹現代劇はハリウッド製映画を範としていて、島津ばかりでなく、五所平之助《ごしよへいのすけ》も小津安二郎《おづやすじろう》も、さかんにその手法をとりいれていた。それもこの三人が拮抗《きつこう》して存在していたればこそ、だったろう。つまり、ロバート・テーラーとケーリー・グラントとゲイリー・クーパーが揃っていたのだ。  しかし、今、「暖流」とか「愛染《あいぜん》かつら」とか、「家族会議」など観てみると、役者臭くない新鮮さと同時に、それがまだ一つの型になっていない破調も感じられる。やはりこの人は、自分の思う方角をじわじわとゆるやかに歩いて完成に近づいていった人らしく、後年になればなるほど充実してくる。役者というものは職業上、試行錯誤があったり拙《まず》い使われ方をしたりで、たいがいはうわついた足跡があるものだが、この人は、歩みはのろいが一筋道だった。  まァそれは役者として器用でなかったことも幸いしているだろう。  戦争中に、輸入フィルムが杜絶《とぜつ》して、製作本数が減り、手の空いた俳優たちが映画館のアトラクションだとか実演に駆りだされたことがある。  佐分利信も、浅草|常盤座《ときわざ》に出演した。たぶん、舞台はこれがはじめてだったのではなかろうか。マイクに助けられている映画で慣れているから、そのうえ呟《つぶや》くような演技なので、声が小さくてとても客席に通らない。  当時、臨官席というものがあって、一番うしろに、官憲の人が居《お》り、台本どおりセリフをしゃべっているかどうか調べに来ている。  ところが佐分利信の声が小さいから、何をしゃべっているのか臨官席にもひとつもきこえない。 「これじゃァ駄目《だめ》だ。もっと大声でしゃべらせろ」  演出家が叱《しか》られる。 「もう少し大きな声でお願いします」  といって、佐分利もそのつもりで声を張るのだが、まだ臨官席に届かない。  演出家は弱っちゃって、一計を案じ、舞台装置の囲炉裏の中に、こっそりマイクを隠した。佐分利がその囲炉裏にあたりながらセリフをしゃべる。  今度は場内くまなく声が通った。  ところが二、三日すると、佐分利がそのマイクをみつけて、 「あ、マイクがあるんですか。じゃ、普通の声で大丈夫だ」  それでまた全然セリフがきこえなくなっちゃった。  戦争中の諸事体制的な中で、マイペースの佐分利のような役者は存立がなかなかむずかしかっただろう。実際、この時期に統合やなにかで半分以上の映画俳優が職場を離れているのである。  この間、小津安二郎の「戸田家の兄妹《きようだい》」だとか獅子文六《ししぶんろく》原作の「南の風」、島津保次郎の「日常の闘い」、「間諜|未《いま》だ死せず」「愛機南へ飛ぶ」など、けっこう出演作が多い。それに国民服や軍服というものがわりによく似合う。もともとニヤけていないから、戦時カラーの中でも大学教授とか高級将校になってうまく映えた。  たった一本、「天狗《てんぐ》倒し」という時代劇で鞍馬《くらま》天狗に扮《ふん》している。これは私は観ていないが、知人の話によるとまさに珍品で、あんなに鈍重でセリフのききとりにくい鞍馬天狗はなかったそうだ。  もっとも本家の|嵐寛寿郎が《あらしかんじゆうろう》演じても、セリフのツブはたっていない。  近ごろ、話に出て大笑いしたのだが、だいたい、鞍馬天狗という映画、どれもこれもおもしろくもなんともない話で、なぜあんなに受けたのだろうか。続篇を作る関係上|巨魁《きよかい》同士はなかなかぶつからず、駈《か》けつけると敵は去ったあと、色気があるわけじゃなし、正義のヒーローには珍しく飛道具の拳銃《けんじゆう》を使ったりする。わずかに角兵衛獅子《かくべえじし》兄弟との情愛が味つけという程度。しかし観客はあらかじめ宗教的エクスタシーのようなものにおちいっていて、天狗が馬で駈けつけていくのをただもうわくわくと拍手していた。ほかならぬ私自身も大拍手をしていたわけで、思い出すと苦笑がこみあげてくる。  まァ今となると、佐分利信の鞍馬天狗は、ちょっと観てみたいような気がする。  戦後の彼は、松竹を離れると同時に、監督兼業を宣言した。もともと監督志望だったらしい。  役者から監督になるケースは成功例がすくないが、「女性対男性」「執行|猶予《ゆうよ》」「あゝ青春」「風雪二十年」「慟哭《どうこく》」「人生劇場第一部」「広場の孤独」「叛乱《はんらん》」「心に花の咲く日まで」「愛情の決算」「悪徳」それに途中|挫折《ざせつ》した「オレンジ運河」という作歴を並べてみると、題名を眺めただけで、かなりの水準が保たれているのがわかる。  この時期、私は映画館を遠ざかっていたので、そのほとんどを観ていないのだけれども、監督と並行して役者業もこの時期から一段と光彩が加わり、大監督の作品にひっぱりだこになっている。  小津安二郎は「戸田家の兄妹」以来ごひいきで「お茶漬《ちやづけ》の味」「秋|日和《びより》」「彼岸花」、五所平之助の「わが愛」「白い牙《きば》」、渋谷|実《みのる》の「自由学校」、熊井啓《くまいけい》の「朝やけの詩《うた》」、山本|薩夫《さつお》の「華麗なる一族」、小林|正樹《まさき》の「化石」など。  映画から遠ざかっていても、新聞広告やポスターのキャスト順位などで、ますます貴重な存在になっている感じはわかる。  不思議なもので、美男だった上原謙や佐野周二、あるいは池部良などが、中年以後、それぞれに苦闘気味なのに対し、佐分利信はずっと地顔で晩年まで楽々と来たように思える。  それで年齢を加えるにつれて、顔ができてきた。あの顔なら、画面に出ているだけで恰好《かつこう》になる、という顔だ。  ときどき、映画界にはそういう顔つきがまぎれこんでくる。  たとえば三国連太郎《みくにれんたろう》なんてのもそうだ。ごく若い一時期をのぞいて特別苦労したわけでもなさそうだし、一途《いちず》に何かに深入りしたというわけでもなさそうだのに。  実際、顔というものは不思議なものでどうやって深みが作られていくのだろうか。  外国映画を観ていても、実業界の長老とか、なんとか将軍とか、本当にどうしてあれだけの顔、あれだけの風格をもっていて、本物じゃないんだろう、と思わせるような仕出しが居る。それで案外、実生活では怠け者の呑《の》んだくれだったりするのかもしれない。  佐分利信のあの顔がどうしてできあがったか不思議だが、やっぱり日々の内心のありよう、というほかはないのかもしれない。 [#改ページ]   怒り金時の名寄岩《なよろいわ》  こんな噂《うわさ》をきいた。  力士からプロレス転向組で、ひところかなりの人気があった怪力豊登。しばらく名前をきかないと思ったら、さるやくざの親分のところで、ていのいい用心棒を務めていた由《よし》。  ところが年齢に加うるに糖尿病で痩《や》せ細り、かつての面影《おもかげ》がない。親分が連れて歩いてもあまり信用されない。 「こら、豊登、本物の証拠に、あれをやってみろ」  全盛のころ、リングの上で力こぶの盛りあがった両腕をしごくと、ばしッ、ばしッ、と痛烈な音がした。豊登、心得て立ちあがり、その形をしてみせたが、痩せ細っているから音なんか出ない。  誰も本物と思わないようでは連れ歩いても恰好《かつこう》がつかない。親分、とうとう彼をクビにしてしまったとか。  その社会の人にきいた話だが、悲しい話だ。こういう噂は大仰に面白く脚色されて拡《ひろ》がるから、デマだと思いたい。もっともバクチ大好き人間で身持ちがよくなかったから、ありうる話なのだが。  お相撲さんに限らず、運動選手のプロは若いうちが花で、普通人が年齢を加えるごとに安定していくのにくらべて、その逆になることが多い。一度、膨張した生活を収入に合わせて縮めていくのは辛《つら》かろう。ときどき、元運動選手の暗い話が新聞にのる。それが、なんとも痛々しい。  高校生にあんな大金を払うことはないとか、契約金の過熱を食いとめろ、とかいう大人の常識がまかり出てきて、それがドラフト制を生んだりする。冗談いっちゃいけない。昔の子役のシャーリー・テムプルは、ハリウッドでも最高ランクに近いギャラをとってたぜ。  選手は自営業だから、高校生も老人もクソもない。商品価値で定める値段に天井なんか要るものか。事務系大人の常識なんか筋がちがう。それより球団の代表だとかフロントだとか、自分たちがその高校生を商品にして食っているくせに、さも選手を食わしているようなことをいう。  戦争中は靖国《やすくに》神社の祭礼のときに、奉納の花相撲がある。新入幕かそのあとくらいの若い名寄岩が、花道から控えに入ろうと歩きだしたときに、子供が彼のお尻《しり》のあたりをピシャッと叩《たた》いた。すると名寄岩が二、三歩|後退《あとずさ》って、その子の頭を平手でポカッと殴ったのである。  まだ�怒り金時�という仇名《あだな》がつく前だったが、何をかくそう、その子供が私だった。もちろん手加減はしている。痛いというほどではなかったが、私も驚いた。子供心に、お相撲さんの背中を叩くのは激励のコールだと思ってやったところが、わざわざ戻ってきて殴り返してくるとは思わなかった。  しかしすぐにおかしくなってクスクス笑った。そうして名寄岩という人が身近になった。  双葉山が絶好調のころで、その弟弟子《おとうとでし》の名寄岩もトントンと関脇《せきわけ》になり、次の大関といわれた。そのころには、待ったをされると怒る、組手がわるいと怒る、名寄岩を負かすには、じらして怒らせればよいといわれた。そういうふうにアナウンサーはいうが、本当かね、と思う。いくらなんだって、しょっちゅう仕切直しをしているのに、待ったをされたくらいでカッときちゃうんだろうか。  花道で殴られた経験がなかったら、信じなかったろう。私はだいたいマスコミの作る話をなかなか信じない。まア、でも名寄岩はこの限りにあらずと思っていた。  ずっと後年の話だが、テレビ時代の初期にモロ差し名人の信夫山《しのぶやま》という人がいて、横綱を負かしたかして、支度部屋のインタビューがブラウン管に映った。  アナウンサーが何を訊《き》いても答えられない。ワハハハ、ワハハハ、と笑っていて、あとからあとから笑いがこみあげてくるらしい。とうとう終わりまで笑いっぱなしで、一言も言葉にならなかった。  嬉《うれ》しいことはよくわかるけれども、あんなに端的に喜んだ姿というものは、ほかに見たことがない。お相撲さんの喜怒哀楽は豪快で、だから名寄岩も、端的に怒ったのだろう。(余計なことだが、信夫山、モロ差しで腰を使った影響か、引退後、腰から発して全身神経痛となり、気の毒な亡《な》くなり方をしたという)  兄弟子が双葉山、弟弟子が羽黒山、この二人と一緒に立浪《たつなみ》三羽|烏《がらす》といわれたけれど、二人があまりに光りすぎて、名寄岩は盛りの時分から脇役だった。  が、強かったと思う。成績以上に強かった。というのはその人柄《ひとがら》と同じで、一本調子。誰とやっても同じで、相撲ぶりを相手が皆|呑《の》みこんでいる。  左|一概《いちがい》。左が入らなければ相撲にならないから、立合いに左手を脇にぴたっとつけて、肩口で当たっていく。左四つになればそのまま寄り進む。相手の当たりが強くて押されると、すぐに反り身になる。  不思議にこの反り身になってからが強い。このタイプは後年の大関|豊山、《ゆたかやま》それに陸奥嵐《むつあらし》くらいのものだろう。反り身になって、左をこじいれると掬《すく》い投、差せなければ右腕で相手の差し手を抱えて、巻くようにして体勢を入れかえる。機を見て吊《つ》りで反撃する。  顔面朱色。差し手を返すとか、おっつけるとか、そんなことはしない。ただ豪力、というか、気力、というか、うゥんとふんばる相撲だった。一度、上手がとれずに相手の肉をつかむようにして吊っていったのを見たことがある。  吊りといい、下手からの技といい、上位には分のわるい取り口のはずだが、それがそうでもなかった。  気の毒だったのは敗戦前後のころ、お相撲さんは皆痩せていたが、名寄岩は極端で、アンコ型だったのが腹がなくなり、皺《しわ》でたるんでいた。反り身になるまでは例の形だが、それでずるずると寄り切られてばかりいた。  大関を落ちてからの名寄岩は、後年、「涙の敢斗賞」という映画が作られたように、悲運の関取、という印象が強くなり、以前の荒法師ぶりが失《う》せた。  大向うに受けた涙の敢斗賞というのは幕尻に落ちて、今度負け越せば十両というときに、奮起して大勝(十一勝四敗だったか)したことをいう。  糖尿病をはじめ十何種類の病気持ちだったそうだが、肌《はだ》の色艶《いろつや》もわるく、痩せた元大関が、気力だけでねばっているという感じだった。  彼は大関を二度すべり、幕尻近くからまた盛り返して関脇まで行っているのである。引退したときはもうぼろぼろで、力が一滴も残っていないという感じだった。正直いって、痛々しくて見ていられなかった。  しかし、どうも不思議でならない。  四十歳くらいまで現役でとらなければならなかった理由は、まず第一に、引退後の生活が保証されていなかったからであろう。彼は、最後の最後まで、年寄株を持っていなかった。  どうしてそうだったのか。所属する立浪部屋は、双葉山、羽黒山、名寄岩を産んで大いに興隆し、それまでの小部屋が一躍|出羽海《でわのうみ》系に対抗する主流になった。  三人とも人気力士で、タニマチも多かったはずである。彼の性格から推して、蓄財は苦手としても、浪費型とは考えられない。  そういえば大横綱双葉山も、年寄株を手にするのがおそかった。彼は引退のとき一代年寄を認められて、現役名のまま双葉山道場と称していた。時津風を襲名したのは引退後二、三年してからだったと記憶する。  羽黒山は師匠の娘と一緒になって、立浪を継いだから問題はないが、小部屋の力関係で株が手に入りにくい事情でもあったのだろうか。  しかし、戦争末期から戦後にかけて、この世界を見限って廃《や》めていく力士や年寄が多く、すくなくとも敗戦前後は、空株がたくさんあったのである。  そうして戦後は双葉山が理事長になり羽黒山も理事で、協会内にも勢力が大きくなっていた。この二人の兄貴分が、配慮すれば、株はなんとかなったろうと思えるが、そのへんはどうだったのだろうか。  他人様《ひとさま》の私事をのぞこうというわけではけっしてないが、双葉山が立浪から独立して自分の部屋を持とうとしたとき、スムーズに行かなかった。深い内容はよく知らないが、師匠の立浪と双葉山は喧嘩《けんか》別れをしている。  その両者の間にはさまって進退きわまったのが、部屋の古参|旭川|《あさひかわ》(年寄玉垣)で、彼はこのとき割腹自殺をはかったくらいだから、相当なごたごただったのだろう。未遂に終わったが割腹という、いかにもお相撲さんらしい大時代なやり方だったので、よく覚えている。  そのときに、羽黒山も名寄岩も、名前が出てこなかった。二人はただ傍観していたのか。羽黒山は師匠の|娘婿で《むすめむこ》あるうえに、双葉山が出て行ったほうが都合がよいわけだから、あらかたは察しられる。  怒り金時の名寄岩が、カッとするなりとめだてに入るなり、端的な行為に出ていないようなのが奇妙だ。  双葉山の引退後、名寄岩は弟分の羽黒山の太刀持ちを務めていた。彼も大関なのだけれども、三羽烏のいちばん弱いほう、という眼《め》でしか見られない。私が名寄岩なら、屈折する。羽黒山が娘婿になった以上、双葉山も名寄岩も、外に出て独立するよりほかに手がない。  想像だけれども、名寄岩は、年寄株を手にして、部屋つきの年寄になり、羽黒山を親方として立てるような生き方を嫌《きら》ったのではあるまいか。年寄株と一緒に独立して自分の部屋を持ちたい。  それには稽古場《けいこば》、弟子集め、いろいろと金がかかる。それが達せられなければ相撲界など捨てたほうがいい。  喜怒哀楽の端的な相撲社会も、そうばかりはいかないようで、だからまた傍観者には面白い。 [#改ページ]   ロッパ・森繁・タモリ  先夜、浅草軽演劇の古老たちと新年の酒の席をともにした折、例のジプシー・ローズを育成した正邦乙彦さんが、彼はこうした集まりがあると、苦心して受けそうなギャグを考えてくるらしいが、 「昔、まだ新劇が食えなかったころにさ」 「うん——」 「浪曲はえらい景気だったんだ。二葉百合子《ふたばゆりこ》って女流が関西に居るけどね」 「ああ、居る」 「千田是也《せんだこれや》がアルバイトでエノケンたちと一緒に芝居したことがあったろう。それをきいて二葉百合子が、新劇の人はお気の毒だ、てえんで金を贈ったんだってさ」 「なんだい——」 「千田は二葉よりカンパし」  栴檀《せんだん》は双葉より芳《かんば》し、だけれども、私はすぐにロッパを思い出した。  そういう駄《だ》ジャレはロッパが好きで、菊池寛のクチキカンも最初はロッパが口にしたのだと思う。映画題名もじりという遊びがあって、これの名手だったという。  乞食《こじき》がいきなり十円札を貰《もら》ってビックリ、——垢《あか》つきの手へ札。暁の偵察《ていさつ》。  身もと不詳の女の死体が流れついて、刑事が呟《つぶや》く、——フーン、娼妓《しようぎ》だニイ。風雲将棋谷。  駄ジャレというものは、殿さま的気分の人が好むらしい。近年では紀伊國屋《きのくにや》社長の田辺茂一《たなべもいち》さんがそうで、駄ジャレをいいに酒場に来ているような感じだった。儀礼上笑わなければならない。中には顔がこわばるようなものもあって、かなり辛《つら》い。エレベーターに乗合わせたりすると、みっちりやられて、こちらは逃げ出すことができない。  古川ロッパは、エノケンと並び称された喜劇の御大《おんたい》だが、器用なんで、駄ジャレのほかに、声帯模写、歌、芝居、漫談、それにレビュー脚本、劇評、ユーモア小説まで書く。タレントのときはロッパ、原稿を書くときは緑波と使いわけていたようだが、戦争中はカタカナ名前禁止で緑波に統一していた。 「ロッパという名でよかったよ。リョクハじゃ誰もおぼえてくれない」  しかし、ロッパの全盛期は戦争中の古川緑波時代で、菊田一夫と組んで新派をすこしモダンにしたような創作劇で気を吐いたときであろう。「交換船」「花咲く港」「ロッパと兵隊」「道修町《どしようまち》」など今でも憶《おぼ》えている人が多かろう。  その以前はレビュー調だった。肥満体とロイド眼鏡をトレードマークにして、軽薄に浮かれていた。私はこのほうのロッパを愛するのだけれど、「歌えば天国」「歌の都へ行く」「大久保|彦左衛門《ひこざえもん》」「ロッパの子守|唄《うた》」などこの時期の映画がヴィデオで発売されておらず、したがってエノケン・ロッパと並び称されたわりには、今日、忘れられている。  そもそも男爵《だんしやく》の息子だから、家柄《いえがら》は良い。文藝《ぶんげい》春秋で映画雑誌を編集しているうちに素人《しろうと》芸で売り出した。そういうところは今日のタモリに似ている。  浅草でエノケンが売り出し、人気にまかせてわがままをいうので、松竹が牽制《けんせい》策として、ロッパを中心にナンセンス劇団�笑の王国�を作った。エノケンをもう一つモダンにしたような持ち味で、うわッと人気が出る。  エノケンもロッパも当初はエディ・キャンターの芸風(ジーグフェルドフォーリーズのスターで、小男だがたくさんの美女にいつもとりかこまれていた)を目標にしていたようだ。  ロッパはそれから徐々にロイド喜劇を目指し、後年は井上正夫的|老《ふ》け役を得意とするようになる。  初期は徳山|※[#「王+連」、unicode7489]《たまき》、藤山一郎、岸井明、三益愛子《みますあいこ》など歌える人をうまく使い、中期は渡辺|篤《あつし》、轟夕起子、高杉妙子《たかすぎたえこ》などで脇《わき》の芝居をがっちり固めていた。また若手陣も充実していた。星十郎、須賀不二男《すがふじお》、山茶花究《さざんかきゆう》、須田村桃太郎、森繁久弥という人材の巣だった。  もっともロッパは下積みの苦労をしていないせいか、妙に威張り散らすので、せっかくの人材も、いずれも座長を慕っていない。 「男爵家ってえますがね、貧乏貴族で、そのせいかケチでしたね。座長部屋で誰も見てないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです。現金をいつも持って歩いてるんで、それでかえってだましとられたりするんですが——」  初期に座員だった鈴木桂介がいっている。  不良少年だったわりに、暴力が苦手で浅草時代、喧嘩《けんか》好きの林葉三なんかとは絶対に一緒に稽古《けいこ》しようとしなかった。ロッパ一座になってからも、ときどき座員たちがスクラムを組んで、 「座長を殴っちゃえ——」  なんて不穏な空気になると、気配をかぎつけて楽屋入りしてこない。開幕寸前にどこかで化粧して、楽屋口からまっすぐ舞台に飛び出していく。横暴なわりに、そういう臆病《おくびよう》なところがあったらしい。  しかしプロデューサー的才腕を持っていて、特徴のあるタレントをたくさん集めて、いつもにぎやかな座組みを作っていた。  森繁久弥が、ロッパの人心|攪乱《かくらん》術としのぎをそっくり真似《まね》しているという。  今また、タモリがそういう森繁久弥の生き方を注目しているらしい。 「森繁さんはすごいですよ。あの人はほかの役者とちがう。実にしのぎがうまいです」  いつだったか、夜を徹してそういうことを語り合ったことがある。  若いタレントに、稽古のときなど、森繁がひょいと近づいて、 「やるねえー! 君」  一言、こういうそうである。  それでもうそのタレントは、トロトロの森繁一家になってしまう。 「森繁さんのすごいところはね、自分にとっていちばん危険な奴《やつ》を手なずけてしまうことですよ。役者ってたいがい、自分の座を揺るがすようなライバルが出てくると、遠ざけるか蹴落《けお》とそうとするでしょう。座長芝居ってそれでつまらなくなるんだ」 「それはそうだね。藤山寛美がそうだ。自分の手足を切ってワンマンショーをやってるものね。人材が脇にそろっていた昔の新喜劇のほうが、寛美も映えていたのに」  エノケンがそうだった。古い仲間を大事にするが、結局はお山の大将で、広い外界と入り交じろうとしない。  ビートたけしも、才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる。  萩本欽一《はぎもときんいち》は頭のいい男だと思う。彼は自分の極《き》め技を出しつくして飽きられるのを恐れて、自分は捕手となり、相手に極め球を投げさせる。投手は次々に交代するが、自分は相変わらず捕手の座を守り得ている。  けれども欽ちゃんも、結局は、自分の手足を切っていくほうである。その手が見えすくと、それもマンネリズムになる。 「森繁さんはその上を行きますね。山茶花究と三木のり平、自分のまわりでもっとも怖い才能の持主を、逆に引き寄せちゃう。山茶花究なんて、手なずけたら最高の役者ですよ。三木のり平に対してはロッパさんの渡辺篤を利用したやり方を見習ってますね」  手なずけるといっても、単純に頭をなでるだけでは駄目だろう。一緒に芝居に出て、絶えず山茶花やのり平の演じ所を作ってやる。つまり手柄を立てさせるのだ。そうして、森繁自身が彼等の手柄を利用して、さりげなく自分の受け場にする。最終的には森繁がいちばん映えるようになっているのである。  エノケンほど動けないロッパは、渡辺篤以下、自分が起用したタレントたちに笑いをとらせ、自分は彼等の扇のかなめのような位置に居た。しかし、楽屋裏で人望がなかったので、タレントたちがロッパを中心に人脈をつくらなかった。  戦時中にあれほど精彩があったロッパが、なんでも好きなことができるようになった戦後に、あんなに駄目な役者になってしまったのか、不思議でならない。  飽食がたたって糖尿病になり、体調のわるさをこらえて出演していたというけれど、あんなにつまらなくなってしまうものか。  戦後のロッパしか知らない人は、かつての喜劇王なんて信じないだろう。  ロッパのもう一面の業績に、数多い著作がある。�劇書ノート�など演劇関係の本もおもしろいが、戦時中の毎日に食べたものを克明に記録に残している。  それが実に豪華な食べ物で、水っぽい雑炊や代用食で飢えをしのいでいた私どもとちがって、至るところでご馳走《ちそう》になっている。  なんと役者はトクな商売だろう、と文句をいいたくなるくらいだ。戦争中にあれだけ食った罰で、糖尿病に苦しんだのではあるまいか。  横須賀での映画ロケのとき、横浜の中華料理屋がこっそり作ってくれた中華弁当を持ってきて、徳川夢声などにもわけてくれたらしいが、夢声はひとくち食って、腐敗していると気がつき、箸《はし》を出すのをやめてしまう。  あの食いしんぼうで食通のロッパが、腐りかけている弁当をムシャムシャたいらげて、なんでもないというのがおかしい。  彼は一九六一年の正月、わりにあっけなく亡《な》くなったが、厖大《ぼうだい》な日記が残されているそうで、どこかで出版のメドでもつけばいいと思う。(編集部注・古川ロッパ氏の日記は『古川ロッパ昭和日記』として晶文社から刊行された)。 [#改ページ]   青バット 赤バット  古い話だけれど、敗戦の年(昭和二十年)の晩秋、プロ野球復活第一戦と銘打った東西対抗戦を観《み》に行ったことがある。  場所は神宮球場。プロ野球は戦争末期の昭和十九年に中絶していて、たしかに復活第一戦だったけれど、リーグ戦をはじめるには年末すぎるし、とりあえずピックアップチームで客を呼ぼうとしたのだろう。  スターの大半はまだ戦地から帰っていない。東軍のクリーンナップは三番が猛牛の千葉、四番が中大出の加藤正二、五番が大下|弘《ひろし》。  この大下というのが明大からきた新人で、まるで無名の選手だった。それがどうしてピックアップチームの五番に起用されたかというと、敗戦後いち早く明大OBの横沢三郎(後に審判になった)がセネタースというクラブチームをはじめて、練習試合などやっていたらしい。そこでの実績があったのだろう。東軍の監督がその横沢。  ほかのチームはまだいずれも準備不足で試合は乱打戦になり(西軍で出た新鋭投手別所などもポカスカ打たれていた)、ラグビーのスコアのようになったが、中で印象的だったのが大下のバッティングだった。  左打者でバットを投手から隠すように低くかまえ、右前足を蹴《け》り上げるようにうしろに引いて打つ。だからやっぱり一本足打法で、一閃《いつせん》するとライナーで内外野を抜いてしまう。それが、苦もなく打っちゃう、という感じだった。  私の見た試合が大三塁打を含む三安打で、関西でやった第二戦が、ホームランと三塁打を含む三安打、たしかこの試合の打点を一人で叩《たた》き出したと思う。  翌年のリーグ戦では、ホームラン王になって、エースの白木義一郎とともにセネタースの牽引車《けんいんしや》になる。  スマートな色男で、持ち味が明るくて、スターの条件は充分以上に揃《そろ》っている。  それまでのプロ野球は、中等野球の延長のようなところがあって、汗と力、ガニ股《また》、歯を喰《く》いしばる、といったような趣があった。  大下弘はそれとまったく対照的で、都会派の代表だった。明るくて、なんだか軽々としているのが一種の洗練につながる。  弾丸ライナーの川上、七色の魔球若林、名人|苅田《かりた》などという呼称に対して、天才大下とよばれた。  戦前派の代表的左打者川上が真っ赤に塗ったバットを使っていた。  赤バットの川上に対して、大下は青バット。 「※[#歌記号、unicode303d]赤いリンゴに唇《くちびる》よせて、だろ。※[#歌記号、unicode303d]だまって見ている青い空、だろ。あっちが赤いリンゴなら、こっちは青い空でいってやる」  それが青バットになったのだそうだ。これは少年ファンたちに受けた。当時、プロ野球の人気は、後年のプロレスの人気のありかたに似て、もっと強烈だった。だってほかに明るい話題なんてなかったころだ。  青バットは翌年も火を噴き続け、連続ホームラン王、しかも首位打者。  たしかこのころではなかったろうか。一試合七打席七連続安打。  しかもこのときは、前夜が烈《はげ》しい雨で明日のゲームは中止だと思い、夜明けまで痛飲して、二日酔いのまっ最中。球場に来て水をかぶって出たのだという。  なにしろ、酒豪。  それに加えて、色豪。  セネタースが東急フライヤーズと改名したころの監督だった井野川利春が私の生家の近所に居て、顔なじみだった。ここには大下や塚本|博睦《ひろよし》などがマージャンに来るらしい。 「一度、大下とマージャン打たしてくださいよ」 「ああ、今度な、メンバーがたりないときに呼ぶよ」  しかし一度もお呼びがかからない。もっとも当時の私は悪評判が濃すぎた。 「あいつが二日酔いなんて、普通だよ」  と井野川もいう。 「酒の臭《にお》いぷんぷんさせて試合に出たこともあったよ。練習なんか、まるで出てきやしないしな。それでも打つんだから文句がいえないんだ」  ただひとつ、ばくちは駄目《だめ》で、常に負け組だったらしい。それはそのはずで、若くして大金が入ってくるのだから、賭《か》け方が甘くなって当然だ。  井野川邸でスッカラカンになって、車をカタにおき、大下がしょぼしょぼと都電に乗って帰ったという話をきいた。  大下というのはそういうところがなんとなくほほえましい。川上や千葉や白石も天才かもしれないが、泥々《どろどろ》になって練習した末の名手という感じがして、あまりうらやましくない。  努力するのなら花が開いて当然、努力しないで花を咲かそうというのが私どもの夢で、大下はそういう凡人の夢を満たしてくれた。  もっとも大下だってスーパーマンではない。プロ入り三年目のシーズンオフに親会社の東映で、主演映画をとった。そのため調整がおくれ、シーズン前半不調だった。そういえばこの年だけでなく、シーズン前半は例年よくない。そのかわり後半に打ちまくって、いつのまにか打率もホームランも上位に達している。  現場に居たわけじゃないからわからないが、映画をとろうととるまいと、スプリングキャンプなど、ろくすっぽ練習もしないであいかわらず酒色にふけり、ばくちで負けていたのではないかと思う。そうして実戦で徐々に調整していって、後半で追いあげる。  それだけのわがままが許されていたと思う。なにしろチームはよくいえばスマート、わるくいえば線が細くて、打撃は大下ひとりが看板だった。だからペナントレースでは毎年中位以下。大下もそのへん割り切っていて、チームよりも個人成績にこだわってプレイしていたように見えた。  二十五年の二リーグ分裂騒ぎのとき、多くの選手が札束に泳がされてチームを替わったが、大下は動いて居ない。大下ばかりでなく、各チームの主砲は総じて動かなかった。たぶん、球団から充分な手当がいっていたのだろう。  それにしても、あのころの自分がなつかしくもあり哀《かな》しくもある。後楽園球場の近くの小出版社に勤めていて、社の帰りに外野席にもぐりこんで、薄暮試合だのナイターだのを、コーラを呑《の》みながら黙々と観戦していた。たいして楽しくもなかったけれど、安心してくつろげる場所でもあった。  ついでに記すと、二十四年にオドール監督のサンフランシスコ・シールズが来て、各地で日本チームとゲームし、これが超満員だった。このときはじめて、進駐軍の許可を得て、�アメリカ人が野球を楽しむように�コーラやホットドッグを場内で売った。コーラを日本人が呑みだしたのはこのときからだ、と教えてくれた人が居る。私どもはあまり意識しなかったが、やっぱり占領下だったのだなと思う。  そのころはラビットボールという、よく飛ぶボールを使用していて、これがホームランブームを呼んだ。阪神の藤村富美男がホームラン用の物干竿《ものほしざお》のようなバットを振り廻《まわ》していたころだ。  誰も彼もがホームランを狙《ねら》ったが、コンスタントなのは、やっぱり大下だった。あとは川上、青田、別当、藤村兄、小鶴《こづる》、西沢など。  ダイナマイト打線と呼ばれて、集中打がお家芸だったタイガースも、二リーグ分裂のときに主力をオリオンズに引き抜かれてスケールが小さくなる。しかしタイガースの当時の黒いユニホームは魅力だった。地味だけども軽快で接戦に強かった南海、投手力の阪急、私はなぜか関西のチームのほうが好きだった。東のチームは巨人をのぞくとどうも大味で、もうひとつきびしいところがない。  そのカラーの代表がやっぱり大下だったのだが、二十七年には彼も九州のチーム西鉄に去っていった。そのころには下腹もだいぶ出ていて、天才というより打撃の名職人という感じだった。  特に西鉄に移ってからは、若い豊田や中西を、確実に塁上から返す五番打者として重厚な存在だった。  二十九年に最高殊勲選手。三原監督と若いスター連の間をつなぐ主将的存在だったが、むしろそれよりも若手に刺激されて自分が張り切っていたのだろう。当時の西鉄の若手は、大下から豪放な遊びのほうを教わったらしい。  最高に大下らしいと思ったのは、選手を引退してから、四十三年に古巣の東映の監督になったときだ。  まず第一に、ノーサイン。ごちゃごちゃ小面倒なサインなんかやらない、といって選手各自の判断にまかせた。  それから、ノー罰金、ノー門限。  要するに大放任主義だ。いろいろ定《き》めたって大下自身が守れなかっただろうけれど、このとき、ああ、大下は本当の天才だったんだなア、と思った。  大下は天才だったから、それでやれてきた。が、天才でない選手たちはどうなるか。そういうことをまるで考えずに、皆自分と同じだと思っている。そこが大下らしい。  結果は悪いほうに出て、失笑を買ったが私はもう少しそれで通してほしかった。たとえ成績はビリでも、なんの努力もしない天分だけのチームという存在があるだけで、嬉《うれ》しくなるファンも居るのだ。  今、改めて大下の略歴を眺《なが》めて、オヤと眼をひかれたのは、台湾高雄商から明大に行き、学徒動員で特攻隊に入っていることだ。そうして戦後、明大に復学している。  私たちの眼前に彗星《すいせい》のように現れたような印象もその曲折のためであろう。それにしても、あの楽天的な天才が、特攻隊の生き残りだったとは。 [#改ページ]   超一流にはなれないが     —原《はら》 健策《けんさく》のこと—  当今の映画演劇界にあまり精通していないので(たまにテレビをのぞいても、ほとんどのタレントが、私には名前がわからない)、その消息をつまびらかにしないのだが、原健策(昔は原健作だった)という人物は、まだ健在だろうか。もう七十はとうに越していると思うが、亡《な》くなったという確かな記憶がない。  私の子供のころは、映画といえばまずチャンバラ、それから喜劇で、現代物はどうも苦手だった。特に新派悲劇のようなものがいけない。二、三本立の安い映画館でいつも観《み》ていたから、そういう映画も我慢してたくさん観ているけれど、学校に行くよりはいいと思って我慢してつきあっていた。  時代劇でもチャンバラのないやつがある。芸道物とか、御殿物とか。これがまた子供には退屈。だいたい、白塗りの役者なんてものは、ことごとく虫が好かない。そういう役者は松竹の時代劇に多かった。林長二郎(長谷川一夫)をはじめ、坂東好太郎とか高田浩吉《たかだこうきち》とか。  松竹はだいたい女性向きの現代メロドラマを売り物にしていたから、併映する時代劇も、女性客を対象にしている。だから男の子にはつまらない。林長二郎が東宝に走って以後、松竹時代劇がどうも振るわなかったのは、このへんの中途|半端《はんぱ》さがあったからだろう。  そこへいくと日活をはじめ、他社の時代劇は男っぽい。女が惚《ほ》れてはくるけれど、主人公はけっして女のためになんぞ生きていない。こういうチャンバラを見て育ったので、私は今でもイロっぽくないらしい。  捕手《とりて》を二、三十人も叩《たた》き斬《き》って、たった一人、女を救って、いかにも自分は救世主、という顔をしているのが、実に変だけれども、そういうものだと子供のころは思っていた。だから今でも、女にベとベとするだけでもいやだが、救世主にもなりたくない。  西部劇だってそうだが、チャンバラ映画も、主人公以外に、ひと癖もふた癖もある強そうな存在がたくさん居たほうがおもしろいものになる。  大河内、阪妻、千恵蔵、嵐寛、これらは主人公《ヒーロー》である。これ以外に主人公の親友や、悪人や、正体不明の怪人物などが出てくる。昭和十年代の日活は、こういう脇《わき》人物をこなす役者が豊富だった。  月形龍之介《つきがたりゆうのすけ》、沢村国太郎、尾上《おのえ》菊太郎(これは白塗りだったが)、沢田清、河部《かわべ》五郎、志村喬、香川良介、小川隆、団徳麿、仁礼《にれ》功太郎etc。しかしその中で、子供たちにいちばん人気のあったのは原健作ではなかったろうか。  彼はときおり主演もし、「まぼろし城」や「天兵童子《てんぺいどうじ》」など、子供社会におけるヒット作もあったからだけれど、前記のヒーローたちの映画に脇で出ても、いつもひと癖ある役をやっていた。  大河内伝次郎とともに第二新国劇の看板役者で、映画に誘われた最初が伊丹万作《いたみまんさく》監督の「忠次売出す」、それから衣笠貞之助《きぬがさていのすけ》監督の「雪之丞変化《ゆきのじようへんげ》」、伊丹万作の第二作「赤西蠣太《あかにしかきた》」、溝口健二《みぞぐちけんじ》監督に呼ばれて「浪華《なにわ》悲歌《えれじい》」「祇園《ぎおん》の姉妹」と大監督の名画ばかりに出ている。こういうことは日本の映画界では珍しい例なのではあるまいか。  そのころの所属は千恵プロだけれども、前記の映画は全部に他社の作品で、マゲ物だけでなく現代物もある。千恵プロでも�難役の健さん�といわれていたという。  しかし私は、いくらか早熟なジャリファンだったから、演技力なんてものを基準に見ていない。「赤西蠣太」を子供のころに見たが、私にはたいそう退屈な作品だった。近年、ヴィデオで再見してみたが、今は今で現在の基準で見るから、やっぱりつまらなかった。当時、文芸映画といわれていたが、その文芸的なところがつまらない。  ただし、香住《かすみ》佐代子の情婦の部屋で、原健作が上山草人扮《かみやまそうじんふん》する金貸しを呼んで歓待し、酔って帰る金貸しを襲うくだりはテンポも速く、蘇生《そせい》する思いだった。 「雪之丞変化」も溝口健二の二作も見ているが、子供の私が原健作に執着しはじめたのは、嵐寛寿郎《あらしかんじゆうろう》主演の「髑髏銭《どくろせん》」(昔の映画はなんとむずかしい漢字ばかり使ったことか。小学校しか出ていない知人で、映画の題名でむずかしい字をおぼえました、という人が居た)あたりからではなかろうか。 「髑髏銭」は角田喜久雄《つのだきくお》の娯楽小説の映画化で、派手な着物を着たアラカンの浪人がいかにも女にモテそうに出てくるがこれに対立して銭鬼灯《ぜにほおずき》という通り名の殺人鬼が登場する。これが原健作で、白覆面、白装束。どう考えても、奇怪さといい、殺しの手口といいこの人物のほうが強そうで、颯爽《さつそう》として見える。私ばかりでなく、当時の子供たちが、銭鬼灯が画面に登場すると拍手をした。今でも同年配で、髑髏銭、というとなつかしそうに眼《め》を輝かして、うん、銭鬼灯、という人が居る。  そのときに思ったのか、もう少し後年の中学生になってから思ったのか忘れたが、とにかく私は、アラカンより颯爽としていて強そうな原健作が、アラカンをしのぐ一般的人気を得られないのは、いろっぽくないせいだ、と思った。つまり華《はな》に乏しい役者ということだろうか。  ところが、そこがいい。銭鬼灯は陰気で、酷薄で、甘いところがない。こういう役は大スターはやらないだろう。けれども大スターより生き生きとして見える。 �難役の健さん�はその仇名《あだな》を誇りにも思い、良くも思ったのではなかろうか。「まぼろし城」や「天兵童子」は子供向けの映画で、お色気は乏しくていい。原健作の主演映画はそう多くないが、「忠僕直助」とか「赤垣源蔵《あかがきげんぞう》」とか、いずれもどこか生真面目《きまじめ》で、添え物にしかならない。  千恵蔵の「宮本武蔵」では本位田又八《ほんいでんまたはち》が持役だった。又八というのは武蔵の幼友達で、許婚者《いいなずけ》のお通は武蔵を慕っている。武蔵をお通が追い、そのお通を又八が追うという恰好《かつこう》で、やっぱり辛抱役だった。 「原健作って名前がわるいよ。スターの名前じゃない」  昔、友人がそういったことがある。 「月形龍之介なんて、月形半平太と机龍之助を合わせたんだろう。名前のスケールがちがう」  たしかにそうかもしれない。バンツマ、アラカン、チエゾウ、ウタエモン、子供たちはそう呼んだ。ハラケンというふうにはいわない。  しかし大スターではなかったけれど、原健作は時代劇の映画俳優として、終始着実に一定の位置を確保していた。戦時中に統合で、日活、新興、大都の三社が合併し、時代劇の役者が一社に集まってふくれあがったときがある。製作本数が減って、三社分の役者が居るのだからダブつくわけだ。前記の四大スターに、月形龍之介、羅門光三郎《らもんみつさぶろう》、原健作、女優で市川春代、高山広子、相馬千恵子あたりが今までの位置を確保したぐらいで、あとは脇役として小さい名前になるか、小一座を組んで実演に走るかだった。  豪放で明るい沢村国太郎、白塗りの尾上菊太郎、沢田清、河部五郎、市川|男女之助《おめのすけ》、大谷日出夫、浅香新八郎、杉山|昌三九《しようさく》、近衛十四郎《このえじゆうしろう》、大乗寺《だいじようじ》八郎、鈴木澄子、大倉千代子、深水藤子《ふかみずふじこ》、宮城千賀子《みやぎちかこ》、などが実演組。  大友柳太朗《おおともりゆうたろう》、南条新太郎、滝口新太郎などが応召。  大都ではトップスターだった阿部|九州男《くすお》は悪家老のような役に廻《まわ》り、新興では主演級だった小柴幹治なども色仇《いろがたき》ふうの脇役になった。新興や大都の人たちは会社がマイナーだったせいもあって、ほとんど淘汰《とうた》されたようだ。この時期私は学業などそっちのけで、スクリーンから姿を消していった人たちが、実演のほうでどんなふうにしのいでいるか、苦労して情報を集めた覚えがある。ずいぶんお節介だったわけだ。  原健作は準主演格を維持し、戦後、東映に移ってからも、ずっとヴェテランとして重宝がられた。省三の次男でプロデューサーだったマキノ満男の『時代映画の三十年』を読むと、戦後の新スターに時代劇のセオリーをコーチする必要があると、まっ先に原健作が指名されたらしい。なるほど、この人なら適役だと私も思う。  しかし、今になってみると、戦時中の統合の時期、原健作が実演に走らなかったのはどうしてなのか、ご本人にきいてみたい気がする。彼は新国劇の出身で、舞台でも成功していた時期があるし、戦時中は好条件の誘いがたくさんあったはずだ。なにしろ舞台経験のない映画俳優まで実演に走っていたのだから。それほどに新会社大映が、彼を重視していたのだろうか。それとも彼自身が映画一筋という意気に燃えていたのだろうか。  まだまだ、時代劇映画のことで彼には質問し、勉強したいことがたくさんあるのだが、ずっとその折がない。  先日、旅先の四国高松で、無声映画のころからの映画狂だという古老にお目にかかった。いろいろおもしろい話をきいたが、その終わりごろに、原健作の話も出てきた。「原健作、あの人は歌舞伎《かぶき》の出身じゃないからね。剣劇の人だろう」 「第二新国劇の出身ですよ」 「うん。白粉《おしろい》ののりのわるい役者だったなァ。精悍《せいかん》な、いい顔してるがね。白粉がひったたないんだ。それでセリフもね、スターのセリフじゃない。節《ふし》がついてないんだ。スターならもっと泥臭《どろくさ》く抑揚をつけて、眼ン玉ひんむいて見得を切らなくちゃね、誰も憶《おぼ》えない。活弁だって、原健作は説明しにくかったと思うなァ」  原健作はトーキー以後の人である。むしろトーキーになって、セリフのツブがたつところから迎えられた人だ。この時期、声柄《こえがら》のわるい、セリフのまずいスターは脱落した。  けれどもチャンバラ劇は、現代ふうのリアルな演技になったわけではない。スターはたいがい独特のエロキューションだった。いい例が大河内伝次郎だ。バンツマのあの大仰なセリフは、旧劇ではなくて、活弁の抑揚をとりいれたものだそうだ。バンツマは歌舞伎出身といってもほんの小者で、中央の舞台など踏んだこともなく、従って劣等感になやみながら、活弁ふうセリフを工夫したという。  原健作は、器用でありすぎて、泥臭くなかったところが、超一流になれない理由だったのか。どうも世の中というものは、諸事むずかしいものだと思う。 [#改ページ]   ヒゲの伊之助《いのすけ》  あれは、誰と誰の取組だったろう、とこの前から思い出そうとして、なかなか手がかりがない。  思い出さなくたって生活に困るというわけではないし、もっと大事なことがたくさんあるようにも思うが、しかしなんだか気になる。  相撲は子供のときから見ているし、特にテレビができてからは、一番残らずとまではいかないが、まァだいたい見ている。特に昭和三十年代は、のんきに遊んでいたから、しょっちゅうソバ屋で観戦していたものだ。  と思って、三十年代といえば、栃若、栃錦《とちにしき》、若乃花《わかのはな》の絶頂期、そうして相撲協会が年寄や行司の定年制を敷いたころだから、三十四、五年ごろのことだな、といとぐちが見えてきた。  手元に資料があれば簡単だけれど、相撲の資料まで揃《そろ》っていない。専門誌に問い合わせるといっても、さしあたって知人が居ない。まァそれよりも、一人で気にかけていて、なにかのはずみに思い出すというほうが楽しい。  そうやって私がこだわっているのは、お相撲さんではなくて、行司の式守伊之助のことなのである。何代になるのか知らないが、ヒゲの伊之助といわれて当時なかなか人気があった。  伊之助は木村|庄之助《しようのすけ》と並んで立行司《たてぎようじ》だから、結び前の一番。あの取組は横綱がからんでいよう。その場所ももう大詰めに近づいていたような気がするから、横綱同士か大関あたりとの取組ではなかろうか。  そう思って当時の横綱や大関の顔を思い出してみるが、これ、と思う取組が出てこない。  なにしろ、速い相撲で動きがもつれたこともあって、物言いがつき、検査役五人が土俵場に上がった。そうして伊之助を入れて六人で評議している。  かなり長い物言いだった。伊之助が自分から勝負のきまった俵のあたりに行って自説を主張している姿が目立った。  あ、突然思いだしたが、栃錦と北《きた》の洋《なだ》の対戦だった。北の洋は前頭《まえがしら》上位と三役を往復する中堅力士だったが、白い稲妻といわれてスピード相撲だった。今の佐田の海をもうひとまわり大型にしたようなものか。左差し右おっつけで寄り進み、残されると下手からの技がある。  栃錦も動きが速い。けれどもこの相手には、北の洋が再三金星をあげていた。この一番も、北の洋が立ち勝って寄り進み、栃錦が土俵ぎわで、わずかに身体《からだ》を開いて突き落しを見せ、両者土俵下に転落した——というような相撲だったと思う。  伊之助の軍配は栃錦だった。  しかし検査役の評決は、行司差しちがえで、北の洋。  このとき伊之助は、勝負がきまったあたりの土俵ぎわのところにまだ居たが、検査長から差しちがえを知らされて、 「——おら、いやだい!」  といった。伊之助の声は甲高くてよく通る。私の子供のころはたしか庄三郎といって、髯《ひげ》は立てていなかったが、いちばん元気のいい行司さんだった。 「いやだい、いやだい——!」  身をもむようにそういって、土俵を掌《てのひら》でばんばん叩《たた》いたりした。荘厳《そうごん》な衣裳《いしよう》と白い立派な髯に、どう考えてもちぐはぐな絶叫が、理非はともかく、痛烈で、もの哀《がな》しい。  検査役はびっくりもし、ひっこみがつかなくもあったのだろう。懸命にせきたてるが、伊之助は土俵下にうずくまってしまう。こうなったら意地でも勝名乗りはあげない。という構えだ。  スポーツは、ときおりこういうハプニングがあって、本勝負よりこのほうがよっぽど見物《みもの》のときがある。  結局、だいぶ時間がたってから、伊之助が涙ながらに北の洋に勝名乗りをあげたのだろうと思うが、結末はよくおぼえていない。  伊之助はそれで、謹慎十日間だったかの罰を受けた。  だんだん思い出してきたが、検査役五人のうち、栃錦が所属する春日野《かすがの》系の岩友検査役一人が、評決に棄権、あとの四人が北の洋の勝ちとしていたようだから公平に見て、はっきり栃錦の勝相撲というわけではなかったのだろう。  けれども、行司は、物言いの評議に加わることはできるが、評決の一票を投ずる資格はないのだという。  行司というものは、たぶん、もともとはもう少し権威のある役割だったのだろうが、なにしろ相撲を取る側とは関係ない。相撲協会は力士出身の者が運営をしていて、それに所属しているのだから、自然にないがしろにされてしまう。協会は、行司や呼出しは人間と思っちゃいない、という不満は昔からあって、突然定年制を呑《の》まされた伊之助が、ここをよきチャンスとばかり、行司の権威の失墜を訴えてみせたのだという説もあった。  そのすこし後に、浅草本願寺境内の花相撲で、知人と一緒に、伊之助老とほんの少し言葉を交わしたことがある。 「——あたしはね、北の洋は勝負には勝っていても、身体の落ち方が早いし、死体《しにたい》だと見た。検査役だって、がんばったのは二人で、もう二人はぐにゃぐにゃだったよ。岩友さんは部屋の関係で栃錦、あたしに決定権の一票があれば、どうなったかわかりゃしない——」  そういっていた。  まァそれはともかく、私にとっていちばん印象的だったのは、 「おら、いやだい——!」  という素朴《そぼく》で至純な叫びで、公衆の面前で、あんないいかたが出てくるのが相撲界のよさ、おもしろさなのだろう。  当今は皆それなりにペラペラになっているが、相撲解説の初期には、けっこうふだんの言葉が出てきておもしろかった。レギュラーのように出ていた元高登の大山親方ですら、高砂《たかさご》系の力士が負けたとき、 「こん畜生——!」  と叫んだことがあるし、大豪羽黒山(初代)なども、  ——ああ、そうスね、  ——ええ、そうス、  アナウンサーが何をいっても、ただ返事しかしないところが、いかにも強かった横綱の面影《おもかげ》を残していた。しかし協会の理事として、いったい何をしていたんだろう。  私の子供のころは、仕切直しも長かったが、物言いがつくと、評議がまた長かった。三十分くらいもめるのは珍しくない。羽織|袴《はかま》の巨人たちが、なにかしかつめらしく話し合っている。  戦後になって、これでは観客が退屈するから、というので土俵の天井のところにマイクを吊るして、評議の模様を観客にきかせようとしたことがある。  マイクをとおしてきこえてきたのは、 「——どうだい、もう一丁か」 「——いや、俺《おれ》は、東だ」 「——そっちは?」 「——うん、まァ、もう一丁だな」 「——東だよ、東」 「——うんにゃ、もう一丁。俺ン所じゃよく見えなかったし」  威儀を正した姿形からすると、案外の日常語で、これが実におかしい。顔だけ見ていると、滔々《とうとう》と理屈をこねているように見える。  あんまりばかばかしいという意見もあって、マイクはすぐにはずされてしまった。  しかし、客としては評議の内容を知りたい。そこで現今のように、検査長が代表して、マイク片手に説明するという形になった。 「ただ今の勝負判定の結果を、ご説明いたします」  というところまではいい。実に立派な口上で、いいのだけれど、 「行司軍配は、西方力士にあがりましたが、評議の結果、同体と見て、取直しと決定いたしました」  なァんだ、という空気が客席に流れるのがわかる。検査長の口上はすべて眼《め》に見えてわかっていることばかりで、評議の内容が知りたいのだけれど、そこは飛ばしてしまう。  べつに隠しているわけじゃなくて、説明しづらいか、面倒くさいかなのであろう。  あの検査長の口上も何度か形式が変わっている。たぶん、質問者はどうにかしてもっと具体的にさせたいのだろうが、そのへんは無雑作に黙殺されてしまう。  これがやっぱりお相撲さんらしくていい。なまじアナウンサーのように、ぺらぺらと長口上になったら、かえって興ざめであろう。  東が勝ったんだから、東の勝ちだ。それだけさ。  こういう無雑作さは、男のやりくちであって、諸事女っぽくなっているご時世に、相撲の人気が続いている原因の一つだと思う。  そういえば、今の鏡山《かがみやま》親方、元横綱の柏戸《かしわど》さんと麻雀《マージャン》を打っているとおもしろい。彼は絶対にオリないのである。テンパイすれば、なんでも振ってリーチだ。  こちらが中[#紅中]と□[#白板]をポンしていても発[#緑発]を打ってリーチとくる。 「当たりですよ」 「ああ、そうかァ——」  である。はじめのころ、私たちは陰で、 「やっぱり相撲ぶりと同じだなァ、突進しか知らない。それで打棄《うつちや》られて負けるんだ」  などといっていたのである。  ところがある日、話をきいてみると、まだ幕下のころ、部屋で麻雀をおぼえだしたころから、師匠の先代柏戸さんに、 「お前はオリるな」  とさんざん言われたのだそうだ。 「相撲とりがオリるような麻雀打つならやめろ。一にも二にも押していけ」  それでもやっぱりオリたりすると、背後から鉄拳《てつけん》が飛んだという。  なるほどなァ、やっぱりお相撲さんの世界はちがうなァ、と感心したものだ。  私も大群衆の前で、おら、いやだい、と身をねじってみたいが、なかなかやれないだろうなァ。 [#改ページ]   パンのおとうさん  日本のショー芸人にはいいスタッフをかかえる余裕がなかったので、いいネタがなかなかできない。この点が泣きどころだった。ショー芸人のみならず、喜劇の世界でも曾我廼家《そがのや》喜劇に代表されるように自作自演の人が多い。逆にいうと自分でネタを作れる人が座長になっていくという感じがあった。  ショー芸人のほうで、ネタ作りの才能があって、楽屋内ではたくさんの芸人から敬愛されていた人が二人居た。片や泉和助《いずみわすけ》、片やパン猪狩《いかり》、どちらも私の好きな人物だったが、今は幽明境《ゆうめいさかい》を異《こと》にしている。  泉和助は私が子供のころ私淑していた二村定一のお弟子さんだから昭和十年代から知ってる。当時彼は本名の和田助紀でエノケン一座や吉本ショーなどに出ていた。本名を縮めてワスケちゃんといっていたが、いつのまにか芸名になった。 「女のアソコがあるだろ、泉さ、わ、すげえ! 泉和助だよ」  なんて本人が説明してくれた。彼は芸名をしょっちゅう変える癖があって、タニイケイ、新谷登《しんやのぼる》、これは彼流にいえば深夜に女体に登るというわけだろう。  中年になって日劇のバーレスクに定着したが、若かりし浅草時代のほうがキビキビしていておもしろかった。後年はショーの世界の水に染まりすぎて、芸人としては陰湿な感じだった。そうして半端《はんぱ》に醒《さ》めているのでギャグの部分でも大向こうにもう一つ受けない。ナンセンスに対する感性になかなか秀逸なものがあったのだが、本人が自分の芸に乗っていないことがありありわかる。長いことショーの世界に居て、感性が発達した分、大向こうの好みと離れてしまって、そこが屈託や自虐《じぎやく》を産む。その感じがよくわかって私はひそかに肩入れしていた。  この時分の後輩の内藤|陳《ちん》は今でも和ッちゃん先生と呼ぶし、幕内では敬愛されてもいたが、本人は次第に自閉気味になり、亡《な》くなったときはアパートの一人暮しで何日も発見されなかった。数日前に後輩の芸人が持参した酒瓶《さかびん》が一本、転がっていたという。  彼が死んだとき、若い芸人たちは競ってアパートに集まり、和助がいつもなにやらアイデアを書きこんでいたネタ帳の争奪戦が演じられたという。ところがそのネタ帳は、本人でなければわからない記号で埋まっていて、結局なにも役に立たなかった由《よし》。  もう一人のパン猪狩は、早野凡平《はやのぼんぺい》の帽子のネタや、東京コミックショー(弟のショパン猪狩がリーダーだ)のレッドスネーク、カモンのネタの作者といえばおわかりだろう。帽子のネタはその晩の酒代欲しさに早野凡平に五百円で売ったということになっているが、滝大作さんの聞書《ききがき》(『パン猪狩の裏街道中|膝栗毛《ひざくりげ》』白水社刊)によると、 「——アイツ(凡平のこと)無表情なの、役者じゃないから。だから帽子の変化がはっきりするわけ。俺《おれ》が演《や》ったらおもしろくない。人物に顔のほうがなっちゃうんだもの。帽子の変化が目立たない。あの帽子は顔と合わないからおもしろいんでね、だから凡平ちゃんに渡したわけ——」  といってる。パンさんは照れ性だから酒代欲しさに売ったというのは、自分でわざとそういっていたのだろう。もっとも早野凡平にしろショパン猪狩にしろ、ネタを苦心して時間をかけ、自分のものにしている。  昭和二十年代、パンさんが日劇に出ていたころ、弟のショパンは八百屋だった。いい条件で台湾の興行の話がきて、しかし芸人の頭数がそろわないので、パンさんが弟に「お前も芸人になれ、おもしろいぞ」てなことをいって巻きこんだ。すすめておいて、ちょうどまた当時売り出しのトニー谷なんかとの公演の話が来て、パンさんはツィーとそっちに行っちゃった。  舞台に出たこともない、東も西もわからないショパンさんは、いきなり一人芸をやらされた。今でも彼はそのときのことで兄貴を怒っている。いかにも芸人さんらしい話だが、そこから一丁前に這《は》い上がってきた弟もすごい。  何年か前に国立小劇場で芸術祭参加と銘打って色物だけの番組が組まれた。国立小劇場、それに芸術祭ときて、多くの芸人がふだんより行儀のいい芸になっていた。その中でショパン猪狩はすごかった。おなじみのターバンに腰巻き姿で登場するや、平素と同じくニヤッとしながらくねりと腰を動かしてまず臍《へそ》を見せたのだ。あのアナーキーなふてぶてしさ、これぞマイナーの芸人魂ともいえる舞台だった。  パンさんの舞台も昭和十年代のガマグチショー時分から見ているが、秀逸なのは戦後の女レスリングだった。パンさんがレフェリーで実妹の猪狩定子(これも怪女だ)などがドタンバタンやる。日劇ではパンスポーツショーというタイトルだったが、浅草では小屋がけでやった。ナンセンスなアイデアといかがわしさに満ちたおもしろい見世物だったが、さっそくに手入れ。官憲はエロだという。「実の妹と取ッ組んで、どうしてエロなのか」とパンさんが反撃したそうだ。  パンさんにはまだいろいろと傑作なネタがあるが、本人がやるとどうも難解になる傾向があって、泉和助と同じく大向こうにもう一つ受けない。�切腹�というパントマイムは、事情あって切腹した人物が、その最中に、事情も苦痛もいつのまにか乗りこえてしまって、自分の臓腑《ぞうふ》を焼鳥にして食っちまう。結局のところすべて食欲に帰してしまうそのヴァイタリティ。しかし七転八倒している最中にどうしてか酒に手が出てしまうあたりの飛躍が、大向こうをして笑うよりびっくりさせてしまうきらいがある。  パンさん独特のフラ(おかしみ)は、舞台で間断なく呟《つぶや》いている独り言だ。外国のタレントだと、ジャック・ベニイの捨てゼリフのおかしさだ。パンさんのはもっと庶民の内心のようなものがこめられている。外側を芸にするのはわかりやすいが、内心という個人的な、千差万別なものは、ドッと大向こうには受けない。 「わからなくていいの。ときどき、ひょいと感じて、共感してくれればいい」  と彼はいうが、ストリップの合間のコントだったりするから、客がそのつもりで観《み》ていないことが多い。パンさんがいちばん好きだったのは、大道で芸をしたり、お祭りの屋台に出たりすること。特にお祭りは好きだ。赤飯の折詰めが出るからだそうで、屋台ときくとギャラも定《き》めずにすぐに行っちゃう。  ギャラといえば、一昨年、浅草から熱海に引っ込んだときに、 「変なときに仕事がくるんだよ。俺、熱海だからっていうと、新幹線の切符をくれるの。だからしようがないよ。バカだねえ。浅草に居るときにくれば切符代なんかいらなかったのに」  パンさんの熱海の家は、建坪が一坪もない。崖《がけ》の上にそっくり突き出しているからだ。見晴らしは絶景だが、窓から下を見ると眼を廻《まわ》す。  何がきっかけだったか忘れたが、パンさんの晩年、急に死ぬほど親しくなって、ここ数年は親子のように行き来していた。  パンさんは来ると蝋《ろう》治療というのをやってくれる。蝋を溶かして身体に塗る。温シップと同じようなもので、疲れがとれる。が、それよりも私は、パンさんと一緒に居る一刻《ひととき》が楽しい。パンさんとしゃべっていると、私の身体からどんどん力が抜けていって、自然体というか、風にさまよってふらふらしているような軽い気分になってしまうのだ。  けれども軽いといってもけっして軽薄なものじゃない。パンさんは人生の責任を回避するようなギャグはいわない。意外に思う人もあるかもしれないが、根が本当に真摯《しんし》な人で、七十になっても平気な顔で、なやみ苦しみを打ち明けてくる。  そもそもパンさんの舞台でのおかしみも、なやみや淋《さび》しさに発したおかしさなのだ。値打ちもない自分という前提のもとに出てくる哀《かな》しみだ。  パンさんの聞書が出たので、出版記念会をやろうということになり、知友が新宿のキャバレーのようなところに集まった。晴れがましいことの嫌《きら》いなパンさんはあまり乗り気でなかったようだが、それでも嬉《うれ》しそうにスピーチをはじめたが、例のフラが混じりだしてとめどがなくなっちゃった。滝大作さんが、 「珍しくマジなことも言ってるよ。誰かテープにとってるかなァ」  といってるうちに、パンさんの声がとぎれたと思ったら、手真似《てまね》で夫人に、代わってスピーチを続けろ、という仕草をしている。キャバレーのライトが熱くて気分がわるくなったのだろう、と思ったが、とうとう救急車を呼ぶ羽目になった。大動脈が皮一枚でつながっていたのだそうで、ドラマチックだが知友一同の見送る中で死出の旅についたのだった。  数日後、病院に見舞いにいくと、何本かの管が刺さったパンさんが、利尿剤の注射を打ってもらうたびに、それこそ少量の小便を、ピュッと噴水のように出して見せて看護婦を爆笑させたという話を未亡人からきいた。  国立劇場で臍《へそ》を出す弟もすごいが、瀕死《ひんし》の床で、まだそうやってギャグをやる兄貴もすごい。パン猪狩は私にとって永久に忘れられぬ芸人である。 [#改ページ]   話術の神さま     —徳川夢声《とくがわむせい》のこと—  徳川夢声という名前は、赤坂の葵館《あおいかん》の主任弁士になったときにできたのだという。葵は徳川家の家紋だから、というわけだろう。もちろん、小屋のほうでつけたのだ。  夢声、というのと、毒掃丸《どくそうがん》、というのと、二つ候補があがっていた。徳川毒掃丸に定《き》められなくてよかった、と後年に夢声がいったという。  名前なんてものはいいかげんにつけるに限る。考えだすと、あれもこれも気にいらなくなってつけようがない。私もマージャン小説を書くときの芸名を定めるときに、口から出まかせに、あさだよあけだ、といったが、語呂《ごろ》がわるいというので、あさだてつや、になった。まア、阿佐田夜明太、じゃなくてよかった。  夢声、それまでの芸名は、福原|霊川《れいせん》、福原は本姓だ。活弁の師匠の清水霊山から霊の字をもらった。第二福宝館から秋田の凱旋座《がいせんざ》に引き抜かれたとき、ドロンをしていて、そのため東京に復帰する際に改名の必要があったという。  しかし、徳川夢声という芸名は、他人がつけてくれたにしてはなかなかのもので、大きくていい。徳川という名字に夢声という名が負けない。  二代目|猫八《ねこはち》の木下華声《きのしたかせい》は、あきらかにこの先輩の名前を意識している。徳川に対して、豊臣とつけたかったが、やっぱり遠慮して木下藤吉郎の木下になったのだそうで、もっとも豊臣華声じゃあまり愛嬌《あいきよう》がない。  その華声さんは、話術の神さまと称された夢声の朗読の間《ま》を、ノートに書き写していて、私もそれを筆記させてもらったことがある。  島にはひよどりが高く鳴いていた松が見える地味の痩《や》せをそのままの形にしているひょろ長い松だその木陰にチラと猩々緋《しようじようひ》の袖無《そでなし》羽織のすそがひらめいていた武蔵は  という具合に、普通の句読点《くとうてん》とちがう。  帯にはさんできた渋染の手拭《てぬぐい》を抜いて四つに折り汐風《しおかぜ》にほつれる髪をなであげて鉢巻《はちまき》とした右手には櫂《かい》を削って木剣とした手造りのそれを握った舟は急激にググッと進んで——。  華声さんによると、あの間はやはり映画説明者の経験の中で、自然に意識されたものであろうという。夢声の説明は、美辞麗句で押しつけがましく謳《うた》うようなスタイルではなくて、比較的リアルな言葉遣いであったらしい。そうして黙っている時間が長い。五分も六分も黙っているときがある。決闘だとか恋のクライマックスだとか、普通の弁士がやっきになってしゃべりまくる場面では、むしろ黙っている。  私は無声映画にはおくれてしまった年代だが、古老に訊《き》くとだいたいの印象は一致していて、ぽつり、としゃべっては沈黙し、観客に想像させ考えさせるタイムを意図的に作っていたらしい。映画は画面が具象的で動いているから、沈黙していたって客は苦にならない。なるほど山手《やまのて》の客に受けただろうと思う。  その間が、声だけのラジオでまた生かされたというのがおもしろい。けっして立て板に水のようにはしゃべらない。ラジオの聴取者もまた、その間の空間で、武蔵や小次郎の風貌《ふうぼう》を想像し、巌流島《がんりゆうじま》の風景を心で作っていった。  私の子供のころは、弁士はもう失業していて、浅草の�笑の王国�に加入したり、かと思うと文学座に参加して新劇役者になったり、ユーモア小説を書いたり、幅広い活動をしていた。けれども世間の印象は、活弁から転向した喜劇人という感じだった。それは東宝喜劇映画につきあって、脇《わき》で出ていたりしていたからであろう。  その一方で、「談譚《だんたん》集団」という漫談グループを主宰していた。夢声のほかに、松井|翠声《すいせい》、大辻司郎《おおつじしろう》、山野一郎、生駒雷遊《いこまらいゆう》、泉天嶺、井口静波《いぐちせいは》など、ほとんど活弁転向組で、私のような子供でも知っている名前が多かったのに、あまり興行価値がなかったようで、場末の端席《はせき》などを廻《まわ》っていた。  なにしろ皆年寄りで、漫談といっても、活弁時代の思い出など語る人ばかり多く古くさかったのであろう。  中学に入ったばかりのころ、巣鴨《すがも》の近くの端席に聴きに行ったことがある。  なるほど総じておもしろくなかったが、夢声だけは別だった。夢声はその夜、落語の�そば清�を餅《もち》でやる�蛇含草《じやがんそう》�を漫談調で立高座でやった。大食自慢の男が大家《おおや》のところで餅を五十個食う。熱い焼きたての糸を引くような餅をふうふういいながら食べはじめ、次第に無理食いになっていく、なかなかのパントマイムで、そばよりも餅のほうがドサッと腹に重たくたまるだけ迫力がある。  終わって電車道を歩いていると、レインコートに三ちゃん帽という目立たない恰好《かつこう》の夢声が、背を丸めて身軽く私を追い越していった。たしか運動|靴《ぐつ》をはいていたと思う。話術の神さまという格調はなくて、新聞販売店の親父《おやじ》が拡張に行くような感じだった。そうして、あれだけの餅を、たとえ話芸とはいえ迫力たっぷりに食ってみせたとは思えない素軽さだった。  そういえば、浅草の松竹演芸場にピンで出ていたときも、晴天だったのにレインコートで楽屋入りしていたと思う。まるで目立たなくて通行人も気がつかないくらい地味だった。  戦中戦後の夢声日記というのは実に細かく当時の日常が書きこんであっておもしろいけれど、映画のロケで、古川ロッパが中華料理屋で作らせた弁当を、わけて貰《もら》って食べるところがある。もう食糧が乏しくなっていたころで、ロッパは顔をきかせてぜいたくな折詰を作らせてきていたが、この弁当がござって[#「ござって」に傍点]いた。つまり腐っていた。  夢声はひとくちで、食べるのを中止したが、ロッパは平気でムシャムシャやってしまう。夢声はロッパの食中毒を心配している。ところが同じ日のロッパの日記を読むと、まるで平気で、その夜は風呂《ふろ》につかって、ああいい心持ち、などとご機嫌《きげん》なのがおもしろい。  夢声はなんだか老《ふ》け顔で、夢声老などといわれたのは四十前後かららしい。五十歳になると、夢声|翁《おう》などと書きたてられた。本人も、まんざらそれが悪い気持ではなかったと見えて、ふだんも老けを作っているようなところがあった。 「エノケンの水滸伝《すいこでん》」という映画で仙人《せんにん》になって、中村メイコの子役がらみで出てくるが、それが実にさまになる。仙人なんていう役がぴったりくるのは、夢声と左卜全くらいなものではないか。  ところが計算してみると、そのころ、四十代なのである。「綴方《つづりかた》教室」の職人の父親、「彦六《ひころく》大いに笑う」の彦六、みんな老け役で、だから私は徳川夢声の若い顔というのは、写真でも見たことがないと思う。  誰かにきいたら、 「若いころはね、トーマス・エジソンに似てたよ」  といわれたが、エジソンの若い写真というのも見たことがない。  五十をすぎたころ、癌《がん》と中風、この二つにはなりたくない、といって、含宙軒と号していた。酒呑《さけの》みだから心配だったのだろうが、亡《な》くなったのは、たしか脳軟化症と新聞に記してあったと思う。葬式は無宗教で、華声さんの話では、白木の柩《ひつぎ》が一つ(当たり前だ)、香鉢《こうはつ》一個、線香箱一つ、燈明《とうみよう》一本、それだけだったという。花輪もなにもなかった。  夢声はケチだ、という説がずいぶんあって、いや、あれは合理の精神で立派だとかいう説もあったが、全体に明治人らしい質実の人だったのだろうと思う。酒だけが唯一《ゆいいつ》の無駄遣《むだづか》いだったらしい。 「文化人なんといわれてるが、実は文化|乞食《こじき》でね、四方からのもらい物で生きてるようなものさ。なにも売ってやしねえ。大風が吹きゃ吹っ飛んじまうような種族だよ」  などといっていた由《よし》。  テレビの初期に、金語楼《きんごろう》の八つぁん、夢声の隠居、という形のトーク番組があった。二人ともその役になって、アドリブで世相を語る。  二人のキャラクターもあって、鋭い切れ味はなかったが、けっこう茶呑み話の気楽なムードは出ていた。�こんにゃく問答�というタイトルをそのままに、談志の発案で、彼が八五郎、私が隠居という設定でやらないか、といってきた。諸事にわたって人前に出るのが大嫌《だいきら》いなので、両手を振っておことわりしているけれど、そのときにふと思った。もし私が出好きで、やりたがったとしても、隠居のパートは困難であろう。  第一に、あの気むずかしい顔が定着しない。私もわがままだけれども、当世風に愛嬌《あいきよう》を浮かべる弊があって、明治人のあの不機嫌そうな顔というものは、もう今の世の中では見られなくなった。  苦虫をかみつぶしたような顔、これがもう我人《われひと》ともにできない。そんな顔をふだんしていたひには、飯の食いあげになるおそれがある。考えてみるとあれは存外に大事な表情であって、昔は諸事の基本の顔でもあった。  銭湯に行ったって、一人二人はそういうおじさんが絶対に居る。水を出すと、ぬるい、と怒りそうだし、騒げばたしなめられる。電車の乗り降りから、食事の作法まで、いつもお行儀をいわれそうでまたそういうおじさんの叱言《こごと》を土台にしてはねっ返りが育ったりする。  内田百《うちだひやつけん》なんという人はそのキャラクターを活字に定着させた人で、苦虫をかみつぶしたような顔で、実はおっちょこちょいだったりするからおもしろい。夢声もそういうタレントで、苦虫の裏側の軽みがよく生きていた。 [#改ページ]   明日《あした》天気になァれ     —春風亭柳朝《しゆんぷうていりゆうちよう》のこと—  はじめ、がんばれ柳朝、というタイトルにしようかと思って、やめた。がんばれベアーズじゃないけれど、がんばれ、とつければいいってもんじゃない。  かりに私が病臥《びようが》しているとして、ただがんばれといわれたっていやだ。私は、がんばってまで生きたくない。ごく自然にすっと生きて、すっと死にたい。  けれども、それを承知でやっぱり、がんばってくれ、といいたくなる。  春風亭柳朝、江戸前の、小ざっぱりした落語家だった。だったといっちゃいけないが、彼は数年前に倒れて、寝たきりである。私と同年だからまだ五十代という若さで。  妙ないいかただけれども、その当時、まるで倒れるのを前提として呑《の》んでるようなところがあった。糖尿で痩《や》せこけていて、一見して養生しなければいけない体調に見えたから、まわりはもちろん自重をすすめるけれど、きかない。なにしろ意地っぱりで、人が白といえば、どうしても黒に固執する男だから、素直にきくわけがない。彼の場合はそのうえ、自重をすすめられるたびに、逆の方向に突っ走ってしまうようなところがある。 「俺《おれ》ねえ、銀座で救急車を呼んだ回数の記録保持者だろうねえ。こないだも倒れてやったらピーポー来てね。乗務員が顔見知りでやがんの。三回。三回だよ。これを五回にしたいね。そうすりゃちょっと記録が破られないだろう」  江戸ッ子の突っ張り。私なんかにもその気分はよくわかる。自分でいうほど無茶呑みしているわけではなかったのだろうが、救急車の回数は事実だった。病院で長期入院を宣告されたそうだが、すぐ飛び出しちゃってまた呑んでいたらしい。  なぜ、そんなに破滅的に遊ばなければならなかったのか。よくわからない。これは想像で、まちがってるかもしれないが、糖尿がすすみ、皆から案じられるようになって、なんだかそれが恰好《かつこう》よくて彼自身その境遇に酔っちゃったんじゃなかろうか。同じ年齢で同じ江戸ッ子の私にもそういうおっちょこちょいのところがあるのだ。  ちっとも死に急ぎをすることないのに、もう長《なげ》ェことねえんだ、俺《おら》ァ駄目《だめ》だ、などという顔つきで、それがまたいい気分で——。  倒れるひと月ほど前、銀座の�きらら�という酒場(彼は不思議にけっして高くない、しかし格調のある店に居た)でばったり会った。私は伴《つ》れとカウンターの隅《すみ》に座ったが、反対側の隅で一人で呑んでいた彼が、なんだか人恋しそうで、席があくのを待っていたように、わざわざ私の隣に来て呑み出した。そのとき編集者と一緒でなければ、ひと晩じっくり二人で呑むところだったのに、今から思えば残念だ。  彼は珍しく落語の話など持ちかけてきたが(ふだんは職業に関係のないバカ話ばかりしていた)、伴れの手前、通りいっぺんの話になり、やがて彼も別の店に行くといって立ち去った。  私は柳朝が大好きだった。落語家というより個人的に親しみを感じていた。彼のふだんのキャラクターは、頭の切れる与太郎だった。こういうと、利口がわざと与太郎ぶっているようにとられるかもしれないが、そうじゃないので、頭が切れて、諸事器用で、人並み以上の能力を持っているにもかかわらず、与太郎なのである。そこがたまらなくおかしい。  林家照蔵といったころから(二十数年前だ)新宿の風紋とか四谷の賓客《まろうど》とかいうバーに来ていて、眼玉《めだま》をギョロつかせて毒舌をはいていた。私ははじめ鈴々舎馬風《れいれいしやばふう》(先代)ばりの異端派なのかと思ったが、そうではなくて当時から正統落語の有望若手だということだった。  とにかく雑学にくわしく、どんな話でも口を出して能書《のうがき》をいう。アメリカ映画に役者で出て数カ月、ロケで海外に行っていたことがあって、 「シナトラに、コイコイやオイチョカブを教えてやった」  といってたが、そのころ、矢野誠一と二人で映画館に入った。ジャン・ギャバンがギャングの親分で、パンにフォアグラを塗って食べる場面があった。  すると隣の柳朝が耳のそばに口を持ってきて、 「矢野やん、あれ、普通のペーストじゃないよ」  小声だが、十分に付近の客をも意識した声で、 「あれ、フォアグラ、鵞鳥《がちよう》のね——」  矢野誠一は今でも笑って話すが、知ってるよ、うるさいンだよ、ってことを吹きこむのが好きで、この点では�寝床�の旦那《だんな》に近い、義《ぎ》太夫《だゆう》じゃなくて、雑学をいやがる店子《たなこ》に吹きこむのである。  夢楽、円楽、それに柳朝あたりとはマージャンをやる機会が多かったころがあって、そんなときでも、一投一打能書が多い。麻雀|牌《パイ》の故事来歴を一人でしゃべりすぎて少牌《しようはい》してしまったことがある。 「戦後のドサクサのころに、ばくち打ちンところへ居候《ごんぱち》していたことがあってね」  などといっていたが、能書をいうわりに、あまり強くなかった。  そこがとてもいい。ダニー・ケイの「虹《にじ》を掴《つか》む男」という映画は、凡々たる市民がヒーローになる夢ばかり見ているという設定だったが、おそらく柳朝も、ばくちのヒーローや、遊びのヒーローを夢見ていたのではなかったか。  落語家になる前の敗戦後ドサクサ時代に三十近くの職業変転をしてるのだそうで、もっとも私なども当時は商売往来にないことをたくさんやっている。ただの腰かけとか、一日二日しかいないということでもあったのだろう。そのわりに林家正蔵《はやしやしようぞう》に入門してからが長く持った。正蔵は再々破門にしかけたが、当人がねばったらしい。 「気が短っかいからなにをやってもすぐあきちゃう。少し手に入ってくると、やめたくなってね。落語だってそうだよ。一生懸命になんかやってやしない。どうしようかなァって思ってるんだけど、もうやめてどうなる年齢《とし》でもないしね」  とマージャンをやりながらいっていたことがある。メンバーに同業が居ないときだ。  志ん朝と二人でやった「二朝会」のときも、 「皆、志ん朝をききにくるんだろうから俺は邪魔にならないようにやるよ」  といっていたそうだ。  自分が主役でないと思ったら、一気に隅のほうにひっこんで、悪あがきを見せない。石にかじりついてもここで逆転してやろうなどという根性がない。淡泊、見栄坊《みえぼう》、恥かしがり屋。  あるんだなァ、私にも。  柳朝を眺《なが》めているとつくづく自分との共通点を感じる。よくもわるくも都会ッ子。意地っぱりだし、ファイトもあるのだが、それを絶対に表面に見せようとしない。  それで好んで悪ぶった。服装なんかでも、変なアロハシャツを着たり、ギャングまがいのスーツを着たり、児戯に類するおシャレをする。それほど好きでもなさそうな酒にむりに溺《おぼ》れてみせる。  前に救急車で持っていかれたときは、点滴をひきぬいて、また呑みに行っちゃったという。  弟子の春風亭|小朝《こあさ》が、ゴボー抜きに先輩を抜いて真打になって、師匠のツキを残らずさらいでもするように人気者になったころ、何度目かの救急車で運ばれて、今度は動けなかった。  柳朝と親しかった矢野誠一が、ときどき、彼の様子を面白哀《おもしろかな》しく話してくれる。 「どうもね、再起はむりらしいな」 「あ、そう、絶望的なの——?」 「いえ、生命《いのち》はとりとめるようだけど、半身不随でね。第一、口が——」 「しゃべれないのか、それは困ったねえ——」  以前に、画家の友人がまだ三十代で若年性高血圧という奴《やつ》で倒れてしまったことがある。その前夜、街でばったり会って、ちょうど私が新人賞などもらったころで一緒に呑んだ。あのとき呑まなかったらと思って、長いこと気がとがめていたものだ。その友人は夫人に逃げられ、半身不随の身で、妹さんがつきそっていた。  妹さんは劇団に属しているので、地方興行のときは居なくなる。ある日、またしばらく来られない旨《むね》を告げると、正常な右半身のほうの眼は冷静なのだが、不随の左半身のほうの眼から、ポロポロ涙をこぼしたという。  落語家が、口が不自由になったら、河童《かつぱ》の皿に水がなくなったも同然で、内心の苦しみはどんなだろう。  若い弟子たちが見舞いに行くと、威勢のいいカミさんが、病人を指さして、 「ホラ、あんたたち、江戸ッ子だなんて意気がってると、こんなふうになっちゃうんだからね。いいお手本におしよ」  むろん、当人は、あわわ、と怒る。  このカミさんは以前水商売の出身で、どうも柳朝は、落語家ってものは水商売の女と一緒になるのが形ってものだ、と思っていたふしがあり、それで一緒になったようなところがあるようなのだが、なかなか賢妻というべきか。 「あの人、怒らせておいたほうがいいんです。そうでないと落ちこんじゃってて、怒れば生きるエネルギーにもなるし、なにくそって気がおきないとねえ」  三笑亭夢楽が見舞いに行ったときは、いくらか動くほうの手を少しあげて、なにか目顔でいいかけている。  その対象物は時計で、寄席《よせ》の出番の時間だろうから、もう行ってくれ、といっているらしい。  お節介の柳朝で、人に注意したりすることが好きだったが、こんな身体になってもこっちのことを案じてるのかと思って、 「いいんだよ、気にするな、寄席なんか抜いたっていいんだ。それより、なかなか来られないから、今夜はゆっくりしていくよ」  ホロリとなって昔話をはじめた。  そうしたらカミさんが、手拭《てぬぐい》を病人の顔に蓋《ふた》するようにハラリとかけて、 「はい、もうここまで」  といったという。柳朝の泣き顔を見せまいと思ったのか、これ以上落ちこんだらいけないと思ったのか。  いっとき、一生懸命リハビリをして、なんとか口跡を戻そうと本人も大努力をしたようだが、今はあきらめの時期に入って静かにしているらしい。  矢野誠一の話によると、そのかわり、もともと頭はよいほうだったが、ますます冴《さ》えてきて、病気前よりよくなったという。  落語はもうむりとしても、とにかく少しでも身体の不自由がとれて、おだやかな後生《ごしよう》がおくれるといい。今、この一文を記して、好きな人だったなァ、と改めて思う。 [#改ページ]   歌笑ノート △——本名、高水治男。生年月日、大正五年九月二十二日生れ。辰年《たつどし》。 △——十一人兄弟の次男として東京都下西多摩郡五日市の製糸工場に誕生。幼時、眼《め》を患《わずら》って右眼はくも[#「くも」に傍点]がかかりまったく見えず、左眼には星があって、天気予報みたいだね、といわれた。 △——昭和十二年九月、近隣で馬鹿《ばか》にされ続けで口惜《くや》しくてたまらず、家出して、都内まで歩きづめで、はじめ柳家金語楼宅に行き弟子入りを望んだが、「お前みたいな化け物は駄目《だめ》」といわれた。あとは金馬《きんば》しか落語家の名を知らなかった。その日は上野の山で野宿。先代|三遊亭《さんゆうてい》金馬宅で「何かできるか」といわれて、村岡花子(ラジオ子供番組のニュースキャスター)と山羊《やぎ》の鳴き声をやった。とにかく居てみろ、といわれた。 △——前座名、金平。仇名《あだな》が�あんま�。金馬の息子の小学校に弁当を届ける。子供たちが「オーイ、加藤ンとこの化け物がきたぜ」。 △——金馬宅の寿限無《じゆげむ》という犬を散歩させていると「どっちがブルドッグだ」といわれる。身体《からだ》をはすっかいにして歩きながらブツブツと落語の稽古《けいこ》をしていたので、「気狂《きちが》いがなにかブツブツいいながら通るわよ」といわれた。 △——眼がわるいせいで、本をなめるように、匂《にお》いをかぐように読む。見えない眼のほうの側ですれちがうと、おかみさんでもわからなかった。 △——犬の散歩の途中で、近くの新宿の女郎屋に行ってチョイのま[#「チョイのま」に傍点]で遊ぶ。後日金馬が犬を散歩させていると、いつも菓子など貰《もら》う女郎屋に犬がぐいぐい入っていって、すべてバレた。 △——風呂場《ふろば》の隣りの三畳に寝起きして薪割《まきわ》りなどよく働いた。道に馬糞《ばふん》が落ちていると、「治男、おいしそうな馬の糞がある。朝顔の肥料にひろってこい」といわれて、寄席《よせ》へ行くときの紋付姿でも、平気でバケツをさげて拾いに行く。 △——大看板の桂文治《かつらぶんじ》について満州に慰問に行き、バイドクになって帰る。おかみさん立合いで手術。入院中、好物のキントンを持っていくと足音でわかるらしくニコニコしながら待っていた。退院後はじめてお風呂に行って、帰ってから、「ウレしいな、ウレしいな——」と裸で踊っていて、今度は肺炎になりまた入院。 △——おかみさんがパーマをかけたら、「おかみさん、どうしてそんな箒《ほうき》みたいな頭にするんです。丸がめ[#「がめ」に傍点](丸髷《まるまげ》といえない)にしてください」。 △——内藤町の交番の前に家出娘がいた。「どこも行くところがないなら、師匠の所の女中に世話するよ」と金馬宅に連れて行こうとして、婦女|誘拐《ゆうかい》未遂で捕まり、金馬宅に問い合せの電話が入った。  戦時中、中学生のころ、神楽坂《かぐらざか》の寄席ではじめて彼を見た。歌笑というめくり[#「めくり」に傍点]があったから、もう二つ目だったか。十人くらいの客の前で「高砂屋《たかさごや》」をやったが笑い声ひとつたたない。なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪《きつかい》なご面相だ。醜男《ぶおとこ》は愛嬌《あいきよう》になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当のご本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好《かつこう》でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩《や》せていた。  それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどよめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。 △——入門七年で二つ目。金馬の前名歌笑を貰《もら》う。二つ目になっても、曲芸の春本助次郎など、高座で「今、アンマを呼びますから、オイ、アンマ、笛を取っておくれ」とからかわれていた。漫才に転向しようかと思って師匠に相談すると「その顔じゃ誰ともコンビになれないよ」。 △——台所で煮物をしていると「おかみさん、何煮てンの。僕、ちょうだい」とまつわりついて離れない。仕方なくやると「ああ、おいしいな、よかったな」マーケットの買物にもついてきて、大きな声で「おかみさん、なんか買ってよ」アメ玉を一つ買ってやると喜んで帰る。幼時|辛《つら》い思いをしたせいか、このころになって好んで幼児性を発揮した。 △——落語家技芸証明書——昭和十九年六月二十日付。 △——婚姻届、同年九月二十九日。  高水|二三子《ふじこ》、半年|姉《あね》さん女房。 △——見合いだが、写真でなく、高座を見てくれ、といった。彼女は少女歌劇ファンだったが、父親のほうが高座を気にいって乗り気になった。結納《ゆいのう》しようというときに赤紙(召集)が来て、話がこわれかけたが、その父親が、帰還するまで待つといった。金馬宅の隣りの旅館で初夜をすごし、翌日送別会、入隊したけれど丁種のせいか一カ月で見放されて帰ってきた。 △——そうして終戦。本人もびっくりするくらいのスピードで、超売れっ子になる。  何もプラス材料のない中で、声だけは甘く、明るくて武器になった。歌笑純情詩集にしろ綴方《つづりかた》教室にしろ、あの朗々とした声が効果になっている。彼はまた膝《ひざ》でリズムをとりながら、楽器の擬音など交えながら、ジャズと称する唄《うた》を歌ったが、これも甘哀《あまがな》しい声が役立って、奇妙な芸になっていた。  彼の唯一《ゆいいつ》の趣味は読書で、乱読だったらしい。終戦後いち早く舶来コント集という小冊子が七、八冊シリーズで出ていて歌笑のコントのネタはこれだった。有名な豚の夫婦がキャベツ畑で昼寝して、トンカツになった夢を見るというのもそうで、私も同時期に愛読したからよく知っている。けれども歌笑にモダンなセンスがあったことも事実で、舶来コントをうまく自分の物に消化していた。  歌笑は師匠の金馬以外の当時の寄席関係者から、ゲテ物、異端、というあつかいしか受けていないけれど、まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった。 △——金子進(現ビクター芸能)というマネジャーがついた。色物芸人でマネジャーがついたのは三亀松《みきまつ》が初。歌笑が二番目。金子は三亀松のマネジャーから歌笑に移った。その近代味にひかれたという。 △——ギャラ一高座二千円(当時最高)一カ月に四十日分くらいの仕事をし、三カ月先まで日程が埋まっていた。日劇や国際劇場に落語家がスターで出たのも初。 △——しかし旦那《だんな》としては頼りなく、仕事がキャンセルになると、きょうは稼《かせ》ぎがないから、といって茶碗《ちやわん》と箸《はし》を持ち、押入れに入って小さくなっている。夜遊びして帰宅して「ただいま」返事がないと下駄《げた》のまま「ただいま、ただいま」と叫びながら座敷まで上がってきてしまう。 △——昭和二十二年九月、小三治が五代目小さんを継いだすぐ後に、真打|披露《ひろう》。小さんとは対照的に、一つの花輪もなく祝儀《しゆうぎ》をくれる客もなかった。 △——依然として仲間内の冷視。しかし彼のひがみも加わっていたかも。ほかの劇場の楽屋とちがって、寄席の楽屋ではおとなしかった。まだ修業中の身だからといって弟子もとらない。洋服のまま高座に出たといって非難された。 △——柳家三亀松と同じ看板を出して一緒の舞台をやりたい、というのが夢だった。池袋山手劇場で二人を組ませたときマネジャーはすごく感謝された。 △——家、買ってもいいかしら、というので、どうぞ、貴方《あなた》が稼いだお金ですから、というと嬉《うれ》しそうに、もう大塚に手ごろなのをみつけてあるんだ、といった。現金で買ったあとで、建増しをした。それが完成しないうちに死亡する。  ずっと以前、歌笑のことを小説にしようと思って、ずっと取材を重ねていたことがある。歌笑が端的にかわいそうで、小説に造る気にならず、材料は山ほどあったが放棄した。その折りの切抜きの一つに、斎藤信也氏の『人物天気図』という著作の中の歌笑の項がある。なかなかリアルな像なので、その一節をご紹介しよう。  ——あんたの純情詩集の作者は誰、ときいたら、俄然《がぜん》八方|睨《にら》みの眼をむいて、 「テツ夜で物を書いてみろてんだ。創作の苦しみがわかるかってんだ」ときた。  じゃァずいぶん本も読んだでしょう。 「芥川、巌谷小波《いわやさざなみ》、広津柳浪《ひろつりゆうろう》、吉川センセ、西条センセ、谷譲次、今度、歌笑推理文学集を演《や》りますぞ」  あんたゲテといわれてますな。 「アタシ能力がないんだもの」と一応すねてみせたが「いわれても驚かねぇ。ゲテ結構。かむほど味があるなんてアタシァするめみてえな考えはねえや」  小唄やドドイツやらずに、ジャズだね。 「三味線に乗らねえもの」  お座敷は嫌《きら》いだって、 「芸者なんか嫌い。エラそうにしてて」  終《しま》いに曰《いわ》く、 「歌笑の没落はいつなりや、なんていうの、サミしいですねえ。何をいってやがる、お客さん笑いこけさせて、続きゃいいんだろうって、思ってるんですよ」  醜男という一事に生涯《しようがい》もがき苦しんだ歌笑の妄念《もうねん》のようなものが、暗く噴き出している会話である。 △——昭和二十五年五月三十日、夫婦生活誌の大宅壮一《おおやそういち》氏との対談をすませて、急ぎ足で昭和通りを渡ろうとして、進駐軍のジープにはねられた。内臓破裂で、即死だった。マネジャーは出演予定の映画の打合せで居《お》らず、ジープは逃げ去ったまま。目撃者はたくさん居たが、うやむやのままだ。新居完成祝いが一転して葬式になってしまった。享年《きようねん》三十三。 [#改ページ]   日曜娯楽バーン     —三木鶏郎《みきとりろう》のこと—  ※[#歌記号、unicode303d]モゥシモシ アノネ   アノネ アノネ   こゥれからはァじまる   冗談 音楽  の、三木鶏郎の名前を、そういえば久しくきかないなァ、と思っておられる方が多いだろう。ひところ、糖尿病患者の会など作って、糖尿病のPR(?)をされているような趣があったから、私もうっかり、病床にでもついておられるのかと思っていた。三木さんは、ちゃんと健在で、なぜか日本を離れて、サイパン島で隠遁《いんとん》というか、悠々《ゆうゆう》自適というか、そういう暮しをされているらしい。  サイパンはいいところである。国連が管理していて、外国人に土地を売らないので、お隣りのグアムのように極彩色《ごくさいしき》の観光地にならず、今日珍しく静かな安息の気をただよわせている島だ。私もいつかは、あそこで寝椅子《ねいす》にでも転がって終日うつらうつらと居眠りをして暮したい。  それはそうだけれど、同時に、あの多才な人が、なんでまたサイパンに、とも思う。よほどの決意がないと、仕事のほうが追っかけてきて、なかなか隠居できないだろう。  なんだか、人嫌《ひとぎら》い、世間嫌いになっちまった、という説がある。実際、かりに訪ねていったとしても、なかなか会おうとしないらしい。 「——あの人はね、親しくなった人から順に嫌いになっていっちゃうんだね。そういう癖があるから、結果として皆嫌いになっちゃう」  という人もある。  誰に訊《き》いても、サイパンに居る、とまでは判《わか》っているが、それ以上は、 「さァねえ——」  である。  私は面識はないのだけれど、�日曜娯楽バーン�の前の�歌う新聞�のころから耳に眼《め》に馴染《なじ》んでいて、そのイメージからいうと、そんなに暗い人だったかなァ、と思う。  まァすべて憶測であって、ご当人は別に暗い顔つきをしているのではないのだろうが。  歌う新聞のころだったと思うが、田村町時代のNHKの前の飛行館劇場のアトラクションに常打ちで出ていたことがあった。それからこのころ、日劇のアトラクションに進出したこともある。  いずれも三木鶏郎がピアノでペースを作り、三木のり平、河井坊茶《かわいぼつちや》、小野田勇、千葉信男の四人でコントをやる。スピーディでモダンだったが、どこか素人《しろうと》っぽいところがあって、余分なアクがなく、なかなかよかった。  開幕、三人が、モシモシ、アノネ、と歌っているところへ、号外の鈴をつけたのり平が下手《しもて》から走り出て来、ヘトヘトになるまで走っている恰好《かつこう》で、プロローグがはじまる。  あののり平の姿がいまだに眼に浮かぶのである。私は広い日劇の舞台だと思っているが、のり平は、 「いや、それは飛行館だ——」  と主張してゆずらない。いずれにしても四十年ほど前の話だ。ついでに記すとのり平さんと昔の浅草の話をすると、ついお互いに熱して深更までになる。子供の私が浅草を徘徊《はいかい》していたころ、いくらか年長だがやはり子供に毛の生えたのり平さんも徘徊していた。笑の王国や吉本ショーやオペラ館、三木のり平のアチャラカの教養は子供の時分からの貯金がたっぷりあるのだ。  そういえば渥美清《あつみきよし》も、中学生時分から浅草喜劇をたっぷり見てまわっている。  裸の額縁ショーだけで有名になってしまった帝都座ショーに、不遇時代の森繁や、のり平、小野田、千葉が出ていたころがあり、勧進帳のパロディをヤミ屋でやったりしていておもしろかった。  古い話ばかりするようだけれども、この後、池袋文化という小屋でトリローグループが常打ちしたことがある。ちょうどストリップに押されている時期で、長くは続かなかったけれど、私は替り目ごとに行った。  河井坊茶が舞台では、ラジオほど精彩がなかったけれど、のり平が依然おかしく、千葉信男がのんびりした気分を漂わせていた。夭折《ようせつ》してしまったが、ミュージカルタレント(あまり歌おうとしなかったが彼の唄《うた》もひと味ある)の線などで伸びたかもしれない。  この時分には丹下キヨ子、旭輝子《あさひてるこ》、有島一郎あたりが加入し、林家三平《はやしやさんぺい》もここが初舞台だったと思う。彼はグリグリの坊主頭《ぼうずあたま》だったが、すでにしてアンサンブルをかき乱す怪演をしていた。  考えてみるとトリローグループを、ステージでばかり見ていて、ラジオ・テレビのほうでは私は馴染みがうすい。というのはこのころ、ばくち三昧《ざんまい》で、生涯《しようがい》ばくち打ちで暮そうと思い定めていたころだった。  私は他の職業というものを何も考えなかったが、それでもそのころ、なんとなく気がかりな人物といえば、三木鶏郎だった。  トリロー文芸部というのがあって、私は実際のメンバーが誰だか知らなかったが、なんだかガヤガヤとして楽しそうな仕事だな、とうらやましかったし、どういう伝手《つて》があって集まったのだろう、と思っていた。  彼等の仕事がうらやましかった理由は、  ㈰伝統的なラジオ演芸でなくて、新しいものを作るのに臆《おく》していない。  ㈪ハンパな文芸趣味に毒されてない。  ㈫音楽のセンスがよい。  この三つだったろうと思う。  ——オ父サンハ闇屋《やみや》デス、オ母チャンハ闇ノ女デス、ボクハ闇ノ子デス、我ハ闇ノ子シラミノ子、サワグ上野ノ地下道ニ、煙タナビクガード下、我ガナツカシノ棲家《すみか》ナレ。  という河井坊茶の野放図な声を思い出す。配給だよりの時間で、麹町《こうじまち》の1班から9班までスケソーダラ——、という有名なのもあった。  しかしそれ以上に音楽的センスは当時の日本のリズム感覚の水準を抜いていた。服部良一《はつとりりよういち》がこの方面の鼻祖のようにいわれているが、それも否定はしないが、影響の大という点で、戦後の三木鶏郎がもっと評価されてしかるべきと思う。  三木鶏郎の音楽なかりせば、日本のラジオ・テレビに代表される軽文化は、現状にくらべて数段おくれていたのではなかろうか。  トリロー作の歌曲、これは主としてラジオ・テレビで歌われていて、流行歌のようにレコードで発売することがすくないせいか、その時期だけで忘れられたりするが、けっこういい曲が多い。  ぼくは特急の機関士で、とか、南の風が消えちゃった、とか、フラフラ節、とか、乱暴にいうと書生節をモダンにしたような一連のもの。  涙は何の色でしょか、とか、夏が来たら、とか、秋はセンチメンタル、とか、抒情《じよじよう》的な一連のもの。  大別すると二つのラインがあるようだが、書生節的な曲のほうも、  ※[#歌記号、unicode303d]南の風が消えちゃった   北風吹いてる焼跡に   建てた我が家はトタン張り  という主調が別の詞でくり返されたあと、  ※[#歌記号、unicode303d]うわー 寒いよ   この冬   焚《た》くものが無い ハクショイ  ブリッジ風に挿入《そうにゆう》される部分の曲調がそれまでの日本の庶民歌にはなかったもので、和菓子の中にケーキが出てきたような趣があった。  そうしてそのあとのおびただしいCMソング。  ※[#歌記号、unicode303d]ワ ワ ワ 輪が三つ  とか、  ※[#歌記号、unicode303d]明かるい ナショナル  とか、  ※[#歌記号、unicode303d]ポポン ポポン   ポポン ポポン  とか、  ※[#歌記号、unicode303d]——家じゅ皆で キリン キリン  とか、  ※[#歌記号、unicode303d]ジンジン仁丹   ジンタカタッタター  とか、あげればきりがない。民放初期はトリローメロディの洪水《こうずい》だった。そうして今日のCMソングが、これらにくらべてどれほどすぐれているかというと、ほとんど新展開がないように見える。  そういえば楠《くすのき》トシエという歌手は、まだお元気か。あれは存外に貴重な歌手だったと思う。CMソングで活躍した人は多いが、庶民性、健康性、真摯《しんし》な感じ、彼女に勝る人はなく、CMソングにいかにもぴったりだった。今レコードをきき直してみると、歌唱力もある。  丹下キヨ子もなつかしい。あの手の歌手は戦前から何人か居たが、個性で異彩を放っている。NDTから戦後東京レビューに居たころは、生かされなくてかわいそうだったが。  ただし、三木鶏郎の唄はいけない。くぐもり声で、きいていてひとつも心が弾まない。  トリロー文芸部からは、いろいろな人材が噴出した。  永六輔《えいろくすけ》、野坂昭如《のさかあきゆき》、神吉拓郎《かんきたくろう》、五木寛之《いつきひろゆき》、いずみたく、桜井順、神津善行《こうづよしゆき》、宇野誠一郎、越部信義、吉岡治etc。  トルコ小説の木谷恭介や芸能レポーターの風間知彦も居たそうである。  並べてみると、こりゃ何だ、という感じである。いずれも戦前の日本にはきわめてすくなかったタイプの才能人だ。  この広い世間で、天才が偶然一カ所に寄り集まることは考えられないから、これはやはり三木鶏郎の影響が多かれ少なかれあるのだろう。  昭和二十年代、バスのくせに屋根にポールをつけ、電線に沿って走るトロリーバスというものがあったが、皆まちがえて、トリローバスといったものだ。 [#改ページ]   ブーちゃんマイウェイ     —市村俊幸《いちむらとしゆき》のこと—  愛称ブーちゃんの市村俊幸をしっかり記憶しているお方は、もう中年ということになるだろうか。亡《な》くなったのはつい四、五年前だけれど、スクリーンやブラウン管から姿を消してずいぶん久しい。それが突然のような印象があるので、その時点で亡くなったと思っておられる方も居ると思う。  念のために記しておくが、黒沢明監督の「生きる」という映画の中で、ブギを弾き歌うキャバレのピアニスト、あれが市村俊幸である。それから川島雄三監督の「幕末太陽伝」での田舎大尽の杢兵衛《もくべえ》さん。この日活時代はフランキー堺とコンビを組んだ笑劇「ああ軍艦旗」というシリーズもあった。  キネマ旬報の俳優名鑑を見ると、一九二〇年東京市|駒込《こまごめ》区の生れ。府立第五中学卒業後、日本医師会に勤めるも、生来の芸能好きから日劇ダンシングチームに応募して合格、とある。  なにしろ小学校の一年生でもう浅草を闊歩《かつぽ》していたと自分でいっていた。当時の浅草は毒花のような盛り場である半面芸能のメッカでもあって、私なども十歳前後から洗礼を受けているが、小学校の一年というのは早い。ませた子供がわざわざ浅草に出かけていくのは、他場所でも観《み》れる映画ではなく、レビューや実演のムードに浸るためである。  後年、話をきいてみると三木のり平がやっぱり幼にして浅草病にとりつかれていたらしい。渥美清もやっぱりそうでそれが嵩《こう》じて彼はストリップ劇場のコント役者になってしまう。三木のり平、渥美清は、日本を代表する秀抜なコメディアンだが、いずれも浅草の客席で、ギャグの教養を幼いうちに吸収しているのである。  太鼓腹の肥大漢でブーちゃんと呼ばれた市村俊幸が、なぜダンサーを志望したのかわからないが、おそらく彼としては観念的にはなんでもござれの感じだったのであろう。昭和十五、六年ごろは、浅草にくらがえして笑の王国や吉本ショーで、ショーバンドのピアノを弾いている。そういえばたしかに彼が居たなァ、という印象を私も持っている。私がはっきり市村俊幸を知ったのは敗戦から二、三年したころで、そのとき彼は、第二次編成くらいの南里文雄《なんりふみお》とホットペッパーズのピアニストだった。  私がばくちに明け暮れていたころで、エスカイアなどという高級クラブに、自慢にもならぬが出入りしていたが、そこの専属だった。南里のトランペット、小坂務のギター、市村のピアノ、狩野猛のベース、ハナ肇《はじめ》のドラムス、もう一人、名前を思いだせないがクラリネットが居て後年のようにデキシー一辺倒でなく、バップなんかもやっていた。ピアノは幼児からの独学だというが、実にノリのいいピアノだった。これは「生きる」をご覧になると片鱗《へんりん》がわかる。  なにしろバンドの世界は離合集散が烈《はげ》しく、しばらくしてホットペッパーズから消えたが、当時新宿で何度も潰《つぶ》れながら辛《かろ》うじて続いていたムーランルージュに行くと、座付バンドで一人目立つ存在がブーちゃんだった。隅《すみ》のボックスでソロでブギを弾く彼にスポットが当たったり、舞台にも出てきてコントなどやっていたと思う。日劇ミュージックホールでも、彼を見た覚えがある。このころはピアニスト兼ヴォードビリアンという感じであった。  ダンサーからピアニスト、弾き語りで唄《うた》も歌い、コントもやれる。テレビの時代を先取りしたような重宝なタレントで実際テレビ時代とともに花が咲くが、生涯《しようがい》を通じて、本質的にはミュージシャンであり、よくもわるくも音楽家|気質《かたぎ》の人だった。ツボにはまるとノルが、なかなか気むずかしい。  コメディアンとしても、役者としてもどこか素人《しろうと》。しかしそのどこか素人のところが、純粋の玄人《くろうと》よりも新鮮で、特にテレビのようなメディアには向く。  あれはブーちゃん自身がそう望んだのか、それとも器用なので周囲の誘導がそうだったのか。体型が肥《ふと》っていて愛嬌《あいきよう》があるから、コメディアン向きに見える。それで稼《かせ》げるから自然と間口が広くなったのだろう。  いずれにしても、ブーちゃんの内心とはちがう方向にどんどん発展した、とブーちゃんは後年いう。 「あたしも若いころは、天狗《てんぐ》で生意気だったもんだから、なァになんとかやれるさってんで、なんでも受けちゃうってやつでさね」  日劇の同期生に矢田茂《やだしげる》というダンサーが居た。才能のある踊り手で、同時に怪人物。戦争中レビューが行き詰まると、さっさと上海《シヤンハイ》に行って外人租界でアナーキーなショータレントになっている。  もう一人、同時期の日劇に大道具係としてパン猪狩なるこれも怪人物が居た。この二人と市村俊幸を合わせて三人義兄弟。  パン猪狩は戦後のムーランのスカウト係みたいなことをしていた時期があって上海から引揚げてきた矢田茂が、ムーランのショーの中核になる。ブーちゃんがホットペッパーズから消えてムーランに行ったのもこの縁である。  矢田茂とはこのあともずっとからみがあって、ブーちゃんを語るうえにこの人ははずせない。  まもなくテレビ時代の幕あけ、彼はNHKテレビの専属第一号タレントだ。初期のテレビは技術未完成で、アドリブのきく才人でないと勤まらない。彼はうってつけで、ラジオ、テレビ、映画、舞台と多忙タレントの生活がはじまる。正直いって私は、この時期のブーちゃんよりもその前のジャズピアニストのころの彼のほうが印象に残っているのであるが。  特にブーちゃんに対してということでなく、愛嬌のいいお茶の間タレントのタイプを私はあんまり好まないのである。それで特に彼を注目していたわけではないのだが、思いおこすと、時々、「二十日鼠《はつかねずみ》と人間」とか「欲望という名の電車」とかシリアスな舞台に混ざりこんでいたりした。�海賊の会�というのはブーちゃんが中心で、主として脚本家や裏方を集め、芝居作りの意欲を満たそうとしたらしい。そのために私費で、青山にスタジオを建てる。それが騙《だま》されたかして建物も私財も失ってしまう。  ほぼ同時期に糖尿病。  そこからぷっつり、約十年、ブーちゃんは芸能界の表面に出てこない。  映画やテレビでも人気が落ち目で、それに以上のことが重なったというのが一般的な見方である。ブーちゃん自身がタレント生活の空虚さに見切りをつけたという説もある。しかし私にはどうも頷《うなず》けない。まだまだネームヴァリューはあったし、話を持ちかけるスタッフも居たはずなのに。  今度、未亡人はじめ関係者に会って話をきいてみると、前記の諸条件に加えて矢田茂の存在が大きかったらしい。  矢田はダン・ヤダ・ダンサーズというショーチームを作って主にナイトクラブで活躍していた。業界では知られたチームだった。しかし日本ではこういうショービジネスが未発達だし、仕事場もすくない。結局、尻《しり》すぼみになって、新宿に�ギターラ�というフラメンコの店を出す。ブーちゃんは表面から姿を消して、終始、矢田茂の所のピアニスト兼アレンジャーになっているのである。ダンスのチームだから矢田茂としてはぜひ必要な人物であろうが、ブーちゃんとしてはどういうつもりか。矢田との友誼《ゆうぎ》か。もっと深い事情があるのか。結局、ギターラも借金の山を抱えて潰れ、矢田茂は車椅子《くるまいす》に身を寄せながら、債権者から身を隠すようにして亡くなる。  矢田茂に徹底的に利用されたのだという説もあるが、はたしてどうか。その悲運の時期に、ブーちゃんは二|廻《まわ》りも年下の女性と三度目の結婚をする。 「結婚は三度目で、二廻りも年上、糖尿病だし、銭もない。——結婚してくれないか」  といわれたそうで、相手は初婚のお嬢さん。このくらい無茶なセリフだと、逆にことわれなくなるらしい。ブーちゃんにいわせると、初対面のとき、娘さんのお辞儀が最敬礼だったので、こんな人は珍しいと思って、翌日求婚した由《よし》。  ところがこの夫婦、実質的に幸せだったようで、ぼくは人とこんなに毎日、本音でしゃべり合えたのははじめてだ、とブーちゃんはいったそうだ。  新宿で�|BOO《ブーズ》'S�というピアノバーをやり、ブーちゃんはそこで気ままにピアノを弾く。糖尿病で頬《ほお》がこけたので、顎鬚《あごひげ》を生やした。  その店のママ役、家庭の主婦役、看護婦役、三役を果たしたうえに、やっぱり内心はスポットライトを浴びたいのを知って、彼女自身がプロデューサーを買って出、ブーちゃんのリサイタルをやった。  そのリサイタルを観た松竹の演劇プロデューサーの寺川知男さんが、大竹しのぶのミュージカル�にんじん�にブーちゃんを起用した。  その舞台が好評で、続いて寺川製作の�古いアルバート街�という芝居に尾上松緑《おのえしようろく》と共演して、これも好評、ブーちゃんの晩年に文字どおり花が咲いた。 「尾上松緑——? あの人が俺《おれ》みたいな者と共演してくれるって?」  といって涙を流したという。彼は本業のピアノも含めて、自分は素人芸だ、と卑下しており、大名題が、素人役者の自分と一緒の舞台にたつことを拒否しなかった、そういう意味の感激らしい。表面は明るく見えたが、内実は神経質で屈託屋さんだったようだ。年齢とともに自分は贋物《にせもの》という思いが深くなり、本物へのこだわりが増した。勝子未亡人の話だと、友人もすくなかったらしく、その口から出る名前はほんの限られた人たちだ。  再びどっと仕事が来るようになったが、身体《からだ》のこともあり、途中で倒れたらいかんといって、依然BOO'Sでピアノを弾いていることが多かった。そうしているうちに脳出血、糖尿病との合併症で五十八年に永眠。まだ六十歳を少し出たくらいで(大正十年生れ)元気だったら、特にミュージカル畑で貴重な人材だったのに。�マイライフ、マイピアノ�というLP二枚組で、晩年のピアノをきいたが、本物か贋かはともかく、年輪が造った本物の優しさが満ちているレコードだった。 [#改ページ]   渥美清《あつみきよし》への熱き想《おも》い  どうも私は、フーテンの寅《とら》さんに弱いのである。※[#歌記号、unicode303d]えらい兄貴になりたくてエ、という渥美清の唄声《うたごえ》のあたりでもう涙っぽくなっており、劇がはじまると、もう涙、涙、滂沱《ぼうだ》と流れる涙の奥からスクリーンを眺《なが》めている恰好《かつこう》になる。若干、口惜《くや》しい気もするし、自身のセンチメンタルな体質が恨めしいのでもあるが。  森川信が出ていたころは一本残らず観《み》ていた。サングラスをかけたり、いちばん後方の席で観て終わると急いで飛びだしたりしたが、どうもみっともなくて映画館に行かれない。それで途中から敬遠していたが、近年ヴィデオで再見して、夜半に一人で観ると、やっぱり同じように涙がわんわん出てくる。  私も寅さんに劣らず幼いころから駄目《だめ》人間で、いくらか特徴はちがうが周辺から呆《あき》れられ、愛想をつかされ、ずっとはずれ者で、けれども肉親が健在だった分が救いになって、なんとか生存を許されているような身としては、まず、感情移入をしてしまう。いや、寅さんとちがって私などはずっと手前勝手でガリガリ亡者《もうじや》で、じめじめ暗い。  その私からみると、寅さんというのは本当におおらかで、明るくて、手傷などすぐに癒《いや》す野性の強さがあって、見上げるような人物である。本質的には私と同類なのだが、どうしてこう秀《すぐ》れた人間なのだろうか、と思って、それから、寅さんの秀れた部分を維持して生きていくことのむずかしさに思い至ると、涙が出てくる。  それからまた、そんなに秀れた部分を持っていても、世間の中では劣等者であり、本人もそう思っている。寅さんの持つ節度とは、自身の生身の欲求を劣等意識で押し殺すという形になる。そこが哀《かな》しい。私もその同類だが、度合の相違はあっても庶民の節度とはこういう形のものでありがちだ。えらい兄貴になりたくて、の�えらい�というやつは、この劣等意識をなんとか薄めたいという気持の発露であろう。  けれども、寅さんの劣等感は、そもそもなにが原因で宿ったのだろうか。いかにも腕白そうな少年時分の写真が出てくる一齣《ひとこま》があったな。親父《おやじ》が酔っぱらって作ったとかいうセリフもあった。勉強ができなくて、顔が四角く鰓《えら》が張っていて、というようなことも理由の一つといえなくもない、がはたしてそれだけであろうか。  あるとき私はふっと妙なことに気持がひっかかった。車寅次郎という名前。江戸時代に車弾左衛門《くるまだんざえもん》といったかな、非人|頭《がしら》が居て、車という姓がそれを連想させたのだ。もとよりその種の差別が何の謂《い》われもない、撲滅《ぼくめつ》すべきものであることを承知しているが、山田洋次さんは意図的にこの名をつけたのかどうか。  考えすぎだろうか。寅さんに託して、これぞ正統庶民という主張がこめられているようにも思えるし、素知らぬ顔で、庶民の間の難問を呈出しているようにも思える。  寅さんの周辺の人物が、始末がわるいと思いながら愛情をそそぐ場面を眺めていて、いつも疑念が湧《わ》くのだが、寅さんの女関係について、そのパターンの反復を恐れるばかりで、ついぞ一度も、もうずいぶんいい年齢《とし》になっているはずの男に女房を世話しようという気配が見えない。その点に関しては何故《なぜ》かずいぶん冷たいなァ、と思う。  渥美さんのことを記そうとして、寅さんで思わぬスペースを喰《く》ってしまった。けれども渥美清というと、どうしても寅さんのイメージとダブってしまう。  素顔の渥美さんは、私が知る限り、寅さんとはかなりちがう。寅さんほどストレートに楽天的でないかわり、温和で、ひっこみ思案で、言葉の本来の意味でインテリであり、一度座談が火を吐くと絶品のおもしろさだそうだが、どこやら隠者のような趣さえある。  にもかかわらずフーテンの寅は、渥美清以外に考えられない。この国の表現の世界では、誰も彼も(役者に限らず)世に出たとたんに、庶民の顔を捨て去って教養人|乃至《ないし》自由人の顔つきになる。そのために、教養社会の外に居る大勢の人たちが、自分たちの姿を作物の中に見出《みいだ》せない。渥美清はわずかな例外の一人で、スターになっても、独特の教養を積んでも、変わらず庶民の風貌《ふうぼう》を失わないせいか。  彼は心を許す限られた友人としか交際しないらしいが、映画、広い範囲の演劇や演芸を見て歩くことに熱心で、私も何度か劇場の廊下などでぶつかって挨拶《あいさつ》したことがある。いつも三ちゃん帽にレインコートくらいの目立たぬ恰好で、だからほとんどの人が彼と気づかない。  この渥美清に、昭和三十年代、私は熱い想いを寄せていた。戦時中に自分の家の庭のようにしていた浅草六区に、敗戦後はそれほど頻繁《ひんぱん》には通っておらず、行くとすれば、その目的の一つは、まだスリムだったころの渥美清を観るためだった。  私が子供のころから観ていた軽演劇やヴォードビルのジャンルで、三人のアイドルが居た。戦時中の有島一郎、戦後の三木のり平、渥美清、この三人である。  浅草時代の渥美さんは、今日の寅さんのゆったりした七五調の口跡とは別人のようで、スピードと毒があった。私の印象ではあまりドタバタせずに、口で速射砲のようにギャグを連発する。相手と取り交すセリフのほかに、捨てゼリフ、独語がたくさん混ざってくる。客が対応しきれないほど回転が速くて鋭い。ギャグで、出演者を切りつけ、客を切りつけてくる。不充足から発するらしき毒気があって、コメディアンというよりアドリブの独語芸人の感じだった。  その時分、同業コメディアンの中でも評判だったというから、客席にも注目する人がたくさん居ただろう。山田洋次さんがどこかで、寅さんは渥美清のアドリブで成立している部分が多い、と語っているが、その感じがわかる。  その少しあとで、日劇のアトラクションで、上昇中の若手コメディアンを関東四人、関西四人、計八人を選抜して競演させたことがあって、私は渥美清を応援する気持で観に出かけたことを覚えている。彼は独特のペースで怪演していて、すくなくとも私は充分に満足できた。  それからNHKのヴァラエティ番組�夢であいましょう�のレギュラー。このころに彼のおかしみも大きなふくらみを持ったようだ。今でも忘れられない傑作、電話を何度かけてもその家のおしゃまな子供が出てきてとりついでくれず、子供を懐柔しようとして四苦八苦する一人コント。あの多才な黒柳徹子《くろやなぎてつこ》が後年再演したが、彼女をもってしてもはるかにおよばない出来だった。もっともコントは男が演ずるものだが。  しかし、私も、彼が今日のような大きな存在になるとは少しも思わなかった。むしろマイナー中の光った存在になってくれ、と願っていたのだった。  以上、今日まで三十年余、他人でないような想いを持ち続けてきたが、それは私の一方的な心情で、彼と話らしい話を交したのは、どう考えても、二度しかない。  一度目は寅さんシリーズの七、八作目ぐらいのころ、藤原審爾《ふじわらしんじ》氏のお宅で。当時、藤原さんのお宅には有能な映画人が寄り集まっていた。一夜、十人ばかりのサロンで、私の斜め向かいに渥美さんが居《お》り方々で談論風発していたが、なんのきっかけだったか、私が、自分が幼いころから見る悪夢やお化けのことをしゃべりだした。ほとんどは、やくたいもないナンセンスで、私自身の内部でしか意味を持たないようなことだったが、渥美さんがじっと私の顔を見据《みす》えながら最後まで聴いてくれた。短く切りあげるつもりだったのに、彼の表情にひかされてかなり長いことその話題を続けた。  単純に、へんな人だなァ、という色があり、それから、どんなことでもチラと関心が湧いたら深くきいておこう、という色があり、自分も似たような経験をしゃべりたいなァ、という色もあり、それらにも増して印象的だったのは、私をみつめている眼色《めいろ》の優しさだった。  もう一度は昨年だったか、パルコ劇場の客席で出会い、そのときの芝居の演出をしていた福田陽一郎さんが彼の親友の一人で、三人でお茶を呑《の》んでしゃべり、その勢いで四谷の私の仕事場まで来てくれて座談の続きをした。彼は酒も煙草《たばこ》もやめているので、コーヒーだけだったが福田さんが居たせいもあって、めったに会わない間柄《あいだがら》としてはうちとけてくれたようだった。  ちょうど、寅さんが旅先で、旅廻《たびまわ》りの老役者や漁港の孤独な老人たちの中に混ざっているときに見せる、微笑を含んだ優しい眼に、やっぱりなっていた。 「戦争中の勤労動員先の工場でね、ほかの中学の子なんだけど下級生が、ぼくの班に入ってきましてね、これが役者の子なんだって。俺《おれ》も小さいころから浅草にしょっちゅう遊びにいってて、役者なんかに関心があるから、どこの役者だよ、映画かァ、なんて訊《き》いても、教えてくれないンですよ」  彼がしゃべりだして、私たちは黙って聴き手になっていた。 「映画じゃない、歌舞伎《かぶき》でも新派でもない、剣劇でもない、ドサ廻りでもない。じゃなんだよ、っていうと、浅草だって。じゃ俺知ってるな、何座だい——。シミ金の所だって。ところがある日、しょぼくれてやってきて、親父が死んじゃったってね。ホラ、三月十日の下町空襲」 「——ああ、中井弘」 「そう、中井弘」と彼もいった。「あの人、気が小さくてね。警防団の服着て消火にあたってるうちに、動転しちゃって、逃げなきゃいけないッていわれたとたんに、逆に火の中のほうに、何か叫びながら飛びこんでいっちゃったんだって」 「舞台じゃ小心に見えなかったけどな」  彼は戦争のころの記憶もたしかで、その夜、古い話をずいぶんした。私たちは丸一年ちがいだが、中学も動員先の工場も同地区で、中学生のころからどこかですれちがっていたらしい。 [#改ページ]   とんぼがんばれ     —逗子《ずし》とんぼのこと—  テレビのはじまりのころは、プロレスと相撲と野球、スポーツ中継につきるが、私もソバ屋などに長居して、あきずに眺《なが》めていた一人だ。  けれども夜中をのぞいて、オールタイムなにかを放映しているのだから、諸事不慣れなスタッフが大変な苦労だったろうと思う。絵が映るだけでありがたかった時期がたちまちすぎて、私どもはすぐにテレビの不手際《ふてぎわ》をみつけては笑い合ったりするようになった。  現今のようにヴィデオテープがないから、番組は生撮りで、エラーをするともろにバレてしまう。  今でも記憶しているのは、時代物のドラマで、登場人物が立って二階の部屋の丸窓にはまっている障子をあけたら、大道具の人が腕を組んでぼんやり立っていた。仕組まないことというものは、なんとなくおかしい。  初期のころ、映画の人たちはまだテレビを馬鹿《ばか》にして出なかった。ギャラも安かったのだろうし、商売|敵《がたき》に対する映画会社の拘束もあったろう。  だから役者は舞台の人が主だった。それも大物は出ない。生撮りだから場面が変わるたびにスタジオの中を役者たちが走り廻《まわ》る。エラーがあったときなどアドリブがきかないとまずいので、軽演劇出身のコメディアンが歓迎された。この国では喜劇俳優というとギャラが安いそうでその点でも重宝だ。  私はあんまり熱心な視聴者ではなかったが、民放テレビがまだスタートせず、NHKだけがやっていたころがあって、この時期、浅草でストリップに追われたアチャラカ喜劇がテレビのほうで復活して、柳家金語楼だとか有島一郎、森川信、それに市村俊幸、ラジオでスターになったトリローグループなどが、持ち前の軽さで活躍していた。このほか、軽演劇のヴェテランたちもたくさん登用されたが、やはりお茶の間に向く人と向かない人があったようだ。  民放テレビが発足して、�日真名《ひまな》氏飛び出す�(久松保夫 臭い芝居だった)とか�ダイヤル一一〇番�とか�事件記者�(坪内美子《つぼうちよしこ》、容色おとろえず)�バス通り裏��おトラさん�とかのテレビドラマ。�私の秘密��なんでもやりましょう��ジェスチャー�などのテレビショー。 �ジェスチャー�では金語楼と水《みず》の江瀧子《えたきこ》が、 「おにィさま——」 「おねえさま——」  と呼び合ってジャンケンなどしていた姿が今も眼《め》に浮かぶ。  トリローグループの三木のり平、河井坊茶、千葉信男なども新型のコメディアンだったが、ここの後輩の中からいかにもお茶の間向きの軽タレント二人にスポットが当たってきた。  藤村有弘《ふじむらありひろ》と逗子とんぼである。藤村は千葉信男のつけ人だったというし、逗子はトリロー文芸部に籍をおいていたらしい。金語楼プロダクションの若手、平凡太郎や谷村昌彦(森川信の弟子だった)は軽演劇の伝統の色が濃いが、藤村や逗子はその臭みがうすい。三木鶏郎という人は芸名をつけるのがうまい。自身の名前も、最初三木トリオ(ミッキイマウスの三木だ)だったというが、トリローというほうがユニークだ。  河井坊茶も逗子とんぼも、鶏郎が名付親。皆で海水浴に行ったとき、逗子とんぼという名前が誕生したという。これもうまい。いかにも軽くて、さわやかで、本人にぴったりだ。  但《ただ》し、万年坊やのような本人の感じとあいまって、軽すぎる印象で半面損をしたかもしれない。当今のお方は、へええと思うかもしれないが、藤村と逗子、この時期、テレビ局がまだ整備されず、ずっしりと重量感のある番組が制作できなかったころは、うってつけのタレントだった。  二人ともすぐに神風タレントになる。NHKの夜十時台、当時としてはおそい時間に(創生期の終わりごろだ)�若い季節�というミュージカルコメディみたいな番組が続いており、売出しの若手タレントが大勢出ていて、その中心がこの二人だった。  愛称�バンサ�の藤村有弘は先代タモリ(というより当時としてはダニー・ケイの線を狙《ねら》ったか)の達者さと、ふわッとした色気があり、水商売の女性に圧倒的にもてた。そのせいか糖尿で早世したが、上昇時は楽しいタレントだった。  逗子とんぼのほうは万年青年の風貌《ふうぼう》で、青春コメディにはうってつけのタイプだったが、そのわりに色気に乏しい。またそこがどの番組に出ても邪魔にならない利点もあり、このころとにかくベタに出ていた。  彼は私の小学校の一級下で、高橋|昌也《まさや》と同級だ。戦後、この小学校を卒業した有名人にいち早くなった。もっとも彼にいわせると神風タレントのわりに稼《かせ》ぎはすくなかった由《よし》。  トリローグループで、あの野坂昭如がとんぼのマネジャーだったことがあるらしい。  今でもはっきりおぼえているが、昭和三十年代に、スピードクイズという番組があり、出題が出ると同時に、解答者(一般の人たち)がボタンを押す。すると卓上のランプが点灯し、いちばん早かった人が解答する権利を得る。ボタンを押すスピードを競うわけで、だからスピードクイズ。  今なら機械でちゃんと計るのだろうが当時だから司会者が肉眼で、どの卓の点灯がいちばん早いかを見るのである。  それほどむずかしい問題ではないし、皆競争のつもりでいっせいにボタンが押される。  その司会者が逗子とんぼだった。 「いいですか、出題がすんだら、すぐにボタンを押してください。答がわかった人だけですよ」  しかし、ドドッとどの卓も点灯されて、「あ、あ——、ええと、どっちが早かったかな——」  とんぼがあわてるのである。 「今のは、ええと、A卓のほうにしましょうか。え? Bのほうが早い?」  やっとまとめて、 「次の出題、ちゃんと押してくださいよ。今度はよく見てるから、いいですか」  出題がすむと、 「あ、あ——、だからさ、いやンなっちゃうな。どっちだろう。ねえ、どっちが早かった?」  解答者に訊《き》いたりしている。何回やってもこれで、とんぼのあわてぶりが、仕組まれてないだけに実におかしい。あわてふためいているだけで三十分終わって、次の週、期待してまた観《み》ていると、先週のまんま、やっぱりあわてている。いや、とんぼは気の毒なほど懸命にやっているのだが、なにか硬いところがあって、どうしてもスピードについていけない。  毎週、腹を抱えて三十分、笑い転げた。何回やっても少しも改良されないし、慣れもしないというところがいい。  それで三週か四週やって、司会者をおろされた。この話をして、あれ、実におもしろかった、というととんぼは嫌《いや》な顔をする。野坂氏の話では、交代した司会者がなんとライバルの藤村有弘。とんぼはあの番組をおろされたあたりから、仕事が減りだしたらしい。これでは嫌な顔をするはずで、悪いことをいったと思う。  しかし私の観た番組の中で、これはベスト3に入るおもしろさだった。そうして藤村有弘が司会したら器用にまとまってしまって、少しもおもしろくなかった。当時、なぜとんぼをおろしたのか、身びいきでなく私は憤慨したものだ。  スムーズにまとめようとするなら、番組の作り方もわるい。スピードを生かすなら、問題をむずかしくして、皆が一度に点灯させないような工夫があってしかるべきだ。またとんぼも、開き直って、あわてふためき恰好にならず、を逆に売っていくような豪胆さがあってもいい。  私はそのことをとんぼにいいたくて、例をあげたのだ。地のおかしさだから、芸じゃないから嫌だ、というのはテレビの場合、あまり通じない。かえって作為されないおかしさのほうに乗っていくべきだと思う。  強烈な個性で売るタイプでないから、あわてふためきが単なる地でしかない。自分の路線は別だと彼は思っていたかもしれない。とんぼはもともと清水金一の弟子で、今でもシミキンに私淑しているようだ。しかしまた、シミキンがその個性ゆえに周囲とアンサンブルがとれず、凋落《ちようらく》していったところを眺めている。  一言でいえば、シミキンをまァるくしたようなのがとんぼなのだ。まァるいのはいいが、シミキンが持っていた八方破れの迫力やスケールが、とんぼに乏しい。  私は細かい経緯は知らないが、とんぼも、意外なほどテレビの表面から消え去った。楽天的な男だけれど、辛《つら》かったにちがいない。  けれども、これまた意外に、ねばりっこくもあって、売れなくなっても、この道一本である。ひところ、お祭りの屋台の演芸で見たという人があり、無声映画鑑賞会に行ったら弁士まがいで現われたことがある。  母一人子一人、無類の明るさで、会うと古い映画の話ばかりしている。そうして年一回の目標で、そのたびにスタッフキャストを集めて劇団活動をしている。興行師は酷薄だから、今ごろ、軽演劇の小一座にいい条件で小屋は貸さない。彼は一年間、金を貯《た》めては劇団活動でその金を四散させるのである。嬉《うれ》しいことに小学校同級生の高橋昌也が、毎公演、応援に観に来るそうだ。  もうこのまま結婚などしないのかと思っていたが、やっぱり、かなり長くなじんでいた女性が居た。彼女はビルの持ち主だ。 「そうか、パトロンが居たのか」 「パトロンなんかじゃないよ。俺《おれ》、たかってない。彼女のビルの一階にギョーザ屋があってね。仕事のないときはそこで皿運びをしている。時間給でね。その金を全部貯めておいて、芝居をやるんだ」  昨年は浅草公会堂でやった。もう十回以上やっているだろう。古い軽演劇の役者が脇《わき》を固め、それなりに応援する客も集まる。  先日、野坂氏と呑《の》んだ折に、 「とんぼは一年間アルバイトした金を貯めて、年一回、まだ劇団をやってるよ。軽演劇も、同人誌みたいに身銭を切ってでなければ、できなくなったようだね」 「すごいなァ。あいつ、えらいところあるなァ」  野坂氏は昔を思いおこす顔つきになった。  先日、その女性を私のところに伴ってきたから、いずれ正式に女房にするのだろう。特に大向こうを唸《うな》らせるようなことをするわけじゃないが、彼は彼の思う道を一生懸命に歩いている。そういうところが非常にいい。まだ五十代だ。巻き返しだって利《き》く。とんぼがんばれ。 [#改ページ]   エンタツ・アチャコ  エンタツ・アチャコの漫才というけれど、私は彼等の漫才をナマできいたことはない。私の子供のころは(昭和十年代)、二人はもうコンビを解消していて、べつべつに喜劇の小一座を組んでいた。漫才をやる場合は、エンタツ・エノスケ、アチャコ・今男だった。人気のある二人を一緒に出すより、ばらばらで二組にしたほうが二倍|儲《もう》かるという吉本興業側の考えだったのだろう。  彼等が本当にコンビで舞台に立っていたのは、昭和初年の何年間かにすぎないらしい。今日、LPの何枚組かにいれられて残っているエンタツ・アチャコのレコードは、この時分の彼等の芸にはちがいないが、あれは片面三分前後のSPレコードにいれたものを収録したもので、彼等の芸の骨子を缶詰《かんづめ》にしたものと思えばよろしい。 「エンタツ・アチャコ、レコードできいたけど、つまりませんな」  という声をよくきく。漫才の高座は短くて十分くらい、真打クラスだと十五分から二十分くらいが普通だから、片面三分、裏表でも六分余のレコードに一つのネタをいれるのは、本当のダイジェスト版で、花も実もないのである。SPレコードの落語をきいた方は、その味気のなさがおわかりであろう。  エンタツ・アチャコの漫才は、あんな干からびたものではなくって、もっとおもしろかった。おかしさが躍動していた。しかし、テープやヴィデオのない時代で、その芸が今はほとんど残っていない。  ナマで見ておらず、レコードできけず、すると私はどこできいていたのか。  その一はラジオである。当時はNHKだけで、ほんのときたまだったが、戦地に送る夕《ゆう》べとか、なにかの記念日とか、特殊な催しに二人の漫才がプログラムされることがある。  その二は映画だ。東宝と吉本が連携していて、一時、盆と正月くらいに二人が主演する映画が作られていた。映画の場合はコンビを復活させる。今、題名を記憶しているだけでも、�あきれた連中��僕は誰だ��忍術道中記��新婚お化け屋敷��人生は六十一から��明朗五人男��東京五人男�など、映画のストーリィはそれぞれ別箇にあるけれど、画面の中でなにかというと二人が出会う。たとえば廊下なり、街角なりがあって、そこで二人が出会い、やァ、おゥ、というわけで漫才めいたやりとりをする。そういう場面がやたらにあって、いっそこれならストーリィなんかなくしちゃって、漫才だけ映してくれればいいのに、と思うくらいだった。二人の漫才が耳についているのは映画のせいであろう。  当時、エノケンはガラで喜劇にしていたが裏返しの英雄劇であり、ロッパもレビュー風なのはいいが笑えない。金語楼は何本かの傑作をのぞいて子供の眼《め》にも拙速すぎたし、杉狂児は喜劇というより青春劇。結局、いちばん笑えたのはエンタツ・アチャコの漫才シーンだった。まァそれもひいき[#「ひいき」に傍点]眼といえばそれまでだが。  大雨で雨宿りした長屋の軒先で、顔見合わせた行きずりの二人が仰天する。幼馴染《おさななじ》みが偶然ぶつかったのだ。 エ「久しぶりやなァ」 ア「ほんまやなァ、ずいぶん長いこと会わなんだが、何年ぶりかなァ」 エ「六百年ぶりくらいか」 ア「なに——?」 エ「六百年——」 ア「六百年ちゅうことがあるか」 エ「ちっとも変わっておらんなァ。この、(眼と鼻のあたりをさして)ここらあたり、小さいころのまんまや」 ア「ハハハ、そうかなァ」 エ「眼ェが左右にあって、鼻が下のほうを向いていて」 ア「ボクは昔から眼ェが左右には、こらッ、当たり前やがな」  昭和十四年製作の�新婚お化け屋敷�のプロローグだが、二人の映画はこういう漫才風な二人のやりとりで筋が運んでいくので、その間カメラは据《す》えっぱなしで動かない。批評家には監督が無能で映画的でないと罵《ののし》られるが、私のような彼等の実演をなかなか観《み》られない東京者にはそこがありがたい。 「昨日、尾張町《おわりちよう》で、馬が犬の仔《こ》ォを産んでね」 「馬が、犬の仔ォを、産んだ?」 「はァ」 「尾張町いうたら、銀座の四丁目や」 「四丁目です。あの十字路のね——」 「そゥら、珍しいなァ」 「はァ、ボクもはじめて見ました。もういっぱい弥次馬《やじうま》が集まってね」 「そらそうやろう」 「電車は停《と》まる、ね」 「ふんふん」 「バスは停まる。自転車は停まる。荷車は停まる。人は重なる」 「大勢集まったやろゥ」 「飛行機——は、これはね」 「飛行機がどうしたんや」 「飛行機は、これは上を飛んでいきましたがね」 「当たり前や、停まったら落ちるがな」 「えらい騒ぎやった」 「それで、どうしたン」 「なにが——?」 「いやね、馬が犬の仔を産んだんやろ」 「——どこで?」 「どこでって、今いうたやないか」 「——誰が?」 「誰がて、しっかりせい。銀座の尾張町で」 「はァん——?」 「はァん、て、馬が、犬の仔ォ産んだ」 「ちがうがな、馬が犬の仔ォを踏んだンや」 「あ、犬の仔ォを、踏んだンか」  そこで二人は呵々大笑《かかたいしよう》するのである。くだらんといえばくだらないが、映画の中での二人の状況は失業者で、アチャコは嫁さんの居候《いそうろう》亭主であり、エンタツはそのまた居候、明日の生活をどうしようかという身分なのだ。その中でこのカラカラの無責任さがいい。これほど屈託なしで居たいものだけれども、現実にはそうはいかない。そこを見事に(特にエンタツが)軽々と具現してくれる。映画とはかくも軽くあるべしという境地が、二人の初期の映画にはあったのである。  金語楼の顔をクシャクシャにするギャグと、エンタツの尻振《しりふ》り芸は、当時の喜劇の低級さの代表のように、識者にはいわれた。しかし私は、エンタツの超無責任な軽さがなつかしい。アチャコはあくまで、軽さに対する世間の代表という存在だった。  だから戦後、二人の人気が逆転して、アチャコの演ずる新派風人情喜劇のほうをご覧になっているお方は、エンタツのシュアーなおかしさがおわかりになりにくいかと思う。  今、二人のナマの漫才の貴重なテープ(二十分ほどのもの)が手許《てもと》にある。立川談志に貰《もら》ったもので昭和二十四年にNHKにいれたものだ。戦前に比して戦後は人気を反映してアチャコの見せ場がやや増えているが、それでも今なお古びていない。  当時のプロ野球の話が出てきて、エンタツが別所投手を従弟《いとこ》だといいはっている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ア「——それじゃ川上はどうや」 エ「川上、哲治《てつはる》ね。あれ、父親《てておや》の子ォです」 ア「ええ?」 エ「父親の子ォです」 ア「それやったら、君と兄弟やな」 エ「——いや、そう深い関係はありませんがね」 ア「いや、君、はっきりせんといかん」 エ「はァ」 ア「あのね」 エ「どうぞどうぞ」 ア「どうぞて君ね」 エ「ま、お坐《すわ》りなさい」 ア「お坐りなさいやあらへん。父親の子ォというたらね」 エ「ハイハイハイ」 ア「ハイハイてね、君と兄弟やないか」 エ「それがね、非常にいりくんだ家庭でしてね」 ア「ふうん、どう——」 エ「まァね、どういえばいいか」 ア「なに?」 エ「これがね、おかしいンですがね」 ア「どないおかしいンや」 エ「てっとり早く申しますと、父親の子ォといってもね」 ア「うん——」 エ「川上君の、父親の子ォなんで」 ア「あッたりまえやないか。もったいつけて。ほんなら君と赤の他人やないか」 エ「——あ、ひらたくいえば」 ア「ひらたくいわいでも、どういうたかて赤の他人やないか」 エ「ま、そういう関係やったン」 ア「どういう関係もあらへんわ、それやったら君」 [#ここで字下げ終わり]  筒井康隆《つついやすたか》氏の記述によると、台本(構成演出)はほとんどエンタツだという。  私も子供のころは、下士官のようにエンタツを叱《しか》りつけるアチャコが、思わずエンタツのペースに巻きこまれる落差のおかしみを買っていたが、時がたつにつれてエンタツの才気を上に見るようになった。  あの動き、あの飛躍ぶり、ときとしてシュールにすらなるナンセンスぶり。エンタツはチャップリンを意識していたようだが、あれは一種のハーポ・マルクスではあるまいか。改めて日本のコメディアンを見渡して、これくらい峻烈《しゆんれつ》なナンセンスに徹した人はほかに居ない。  コンビの全盛期はエンタツの三十代後半の五、六年間で、戦争の激化による空白期もあり、四十代後半からもう衰えはじめる。ツッコミのアチャコは長持ちするけれど、エンタツは短期間にギャグを燃焼しつくしたような恰好《かつこう》で、戦後、衰亡した。今にして思うと、この人のギャグはなんだか純度があり、天才的で、一気に奥へ到達してしまうようなところがあった。  エンタツのギャグは、湿っていない。その点では戦後の横山ノックに通じるものがあるかもしれない。乾いたギャグは漫画チックであり、即お子様向きということになる。けれども、ではほかの誰が、無責任というものをあれほど形象化できたか。戦後の植木等《うえきひとし》がジーン・ケリーだとすると、戦前のエンタツはフレッド・アステアにたとえるのは大仰すぎるか。  戦後のエンタツは形骸化《けいがいか》していた。ひとつには東宝=吉本が安手な(というのは陳腐なという意味だが)人情喜劇ばかり作り、エンタツの乾性を生かす企画がなかったせいかもしれない。コンビの処女作�あきれた連中�は、公園のベンチに並んで腰かけた保険外交員の二人が、言葉を交すうちに無二の親友のように思いこんでしまう。それからつるんで事件に巻きこまれたりした果てに、本当は見ず知らずの間柄《あいだがら》だったことを思いだして別れていく、こういう乾いたナンセンスを作る人が居なくなっていた。  年齢《とし》で動きが鈍ったこともあったろうが、晩年を通じて失意の人で、特に病床についてからは、昔の話をして涙するばかりだったという。絵画や文学とちがって、死後再評価されることのないジャンルだが、エンタツを再評価しようにも、彼の盛りのころのヴィデオが、市場にほとんど出ていないのである。 [#改ページ]   忍従のヒロイン     —川崎弘子《かわさきひろこ》のこと—  ——川崎弘子の映画《ヴイデオ》、お手持ちなら拝借ねがえまいか。  と、さるお方から声がかかった。  ——実は小学生時分から好きで、しかも彼女の映画をまだ一度も観《み》たことがないのでね。  そのお方のご意見では、往年の映画の代表的な立派な顔は阪東妻三郎《バンツマ》だとおっしゃる。  そういわれてみると、バンツマと川崎弘子、この二人の名前をあげただけで、トーキー初期の日本映画というものをいいつくしているようなところがある。  若きバンツマはまだ剣豪ではなくて、単騎で世間に歯向かって斬《き》り殺される悲愴美《ひそうび》のイメージが強かったし、川崎弘子は典型的な薄幸の女だった。両人ともに活動写真のうさん臭さ(この場合いい意味のだ)を備えていてよろしい。  田中絹代でなく、川崎弘子というところが、ひとつ捻《ひね》った趣がある。  松竹女性映画の基本パターンは、菊池寛の大衆小説を踏襲して、ブルジョアの娘と庶民の娘が一人の男を取り合うという図式。結局、男は庶民の娘を選ぶ。それまでは世間やライバルから与えられる受難を耐えていかねばならない。  だから哀愁型美人がいい。地味作りで和服だ。束髪というのがこれらのヒロインに似合った。  栗島《くりしま》すみ子は貫禄《かんろく》型でこの路線からはずれるが、田中絹代→川崎弘子はがっちりとこのラインを固めた。戦争が烈《はげ》しくならなかったら、水戸光子がこの後を継いだかもしれない。一方、ブルジョア型は、逢初夢子《あいぞめゆめこ》、水久保澄子の初期はちょっと弱く、中期に高杉早苗《たかすぎさなえ》が現われて威力が強まり、木暮実千代《こぐれみちよ》が続いた。  男性社会で、女性受難のメロドラマはそれなりのリアリティがあった。観客は、自分たちの代表である庶民の娘に肩入れしながら、一方、ブルジョア娘のモダンな立居振舞に羨望《せんぼう》の眼《め》を向ける。  田中絹代は十代の愛くるしい時分から出ているせいか、忍従のヒロイン以外にも、�花嫁の寝言�とか�絹代の初恋�とか軽喜劇の色にも映った時期があった。川崎弘子のほうは、私のイメージでは、終始一貫、薄幸の女の役どころだった。たしかに美人だが、ひとつ強い表情があって、ということは表情に変化が乏しくて、今でも私の頭に浮かぶ彼女の顔に曖昧《あいまい》なところがない。セリフも、明瞭《めいりよう》ではあるが一本調子で、ポロリ、ポロリ、と硬くきこえる。田中絹代も、これは下関|訛《なま》りだそうだが、ポロリ、ポロリ、という感じのセリフだった。  絹代は長い時間をかけて、忍従の形を昇華させていったようで、特に晩年には極北に迫るような絶品を残したが、川崎弘子はそこまで役者に執着しなかった。絹代がエースだとすると、川崎弘子はリリーフ投手か。但《ただ》し、そのかわり、忍従と裏腹の恨みがましさや、屈折した怒りの表情が、絹代よりもずっと強い。  なんの映画だったか、川崎弘子が親代りの長女で、水商売で働いて妹たちの学資を出す。その果てに殺人を犯し、女検事になった妹の初法廷で裁きを受けるという、滝の白糸をもじったような筋のがあったが、無言で被告席に居る彼女の表情がよくて、そこだけ印象に強く残っている。(�新女性問答�だったか?)  忍従といっても、弱々しく泣きむせんでいる彼女は平凡で、無言できっとしているときがよろしい。たくさん見ているわけではないが、女性受難ドラマの集大成のごとき�人妻椿《ひとづまつばき》�はもちろん、�新道��すみだ川�、それに戦後の�大阪の宿�でもそうだ。子供のための前借を拒否されて、一瞬ちらっと見せる憎しみ(恨み)の表情が、ふだんおとなしいだけに印象に刺さる。強いひとつの表情というのはそれである。  女優王国といわれて百花|繚乱《りようらん》だったのは昭和十年代で、その前、無声からトーキー初期の松竹は、栗島すみ子がトウがたち、田中絹代が孤軍奮闘という時期があった。いいタイミングで川崎市のガラス工場からスカウトされる。芸名は簡単で、川崎大師のそばに住んでいたから、弘法大師の弘で、川崎弘子。  武骨な私の父が、女工さんからスターに、という彼女の経緯を知っていたから相当有名なエピソードだったのだろう。当時も世間は物見高く、桑野通子《くわのみちこ》の前身が森永スィートガール、水戸光子が万平ホテルのウェイトレス、三浦光子が日劇ダンシングチーム、高峰三枝子《たかみねみえこ》が筑前琵琶《ちくぜんびわ》の娘で、高杉早苗が新橋ダンスホールのダンサー、というくらいは子供の私でも知っていた。もともと映画の世界の魅力はシンデレラ物語にあるのだから、前身が窮乏しているほど魅力が生ずる。だから、親と早く死別したとか、家業が倒産したとかいう話が女優さんにつきもので、絹代も弘子も、倒産と父死亡が重なっている。絹代は小学校も出ていないし、弘子も十五歳で働きに出ている。  他人眼《ひとめ》には幸運で有頂天になってもよさそうに思えるが、弘子は案外に、女優|稼業《かぎよう》に執着を見せなかったらしい。口癖のように「平凡な一生を送りたい」といっていたという。  同時期に二枚目スターだった結城《ゆうき》一郎が書いた�実録|蒲田《かまた》行進曲�という本の中に彼女のエピソードが記されている。  それは�人生の風車�という映画の一場面で、彼女に暴力をふるうところがあり、監督の命令で迫力を出すために、本当に殴ったり蹴《け》ったりした。彼女は歯をくいしばって音をあげなかった。ちょっとした彼女のミスでその長いカットが撮り直しになり、夏の暑い最中、再度暴力シーンを撮った。ふと気がつくと着ているはずの上衣《うわぎ》を、うっかり脱いだまま撮ってしまった。これでは前のカットと続かない。私は平謝りに謝り、三度目の暴力シーン。気の毒な川崎くんは、苦笑しただけで、三度目の踏んだり蹴ったりを我慢しとおしてくれた。  その夜、お詫《わ》びに料亭で食事をしているうちに、高揚し、キスしていいかい、というと、私の顔をまじまじと見ているきりで、はっきりした反応がない。軽く抱いて接吻《せつぷん》したが、身動きもせず、人形のように私の接吻に答えている。——  結城氏は、いかに従順でも彼女のようでは嬉《うれ》しくない、精神的不感症なのかもしれない、と記している。  ところが人気絶頂の最中に、画家|青木繁《あおきしげる》の息子で当時プレイボーイの名が高かった福田蘭童《ふくだらんどう》さんとアツアツになり結婚してしまう。いろんな女と結婚の約束を反故《ほご》にして話題をまいた蘭童さんだから、二カ月|保《も》つまいといわれたのが終生の縁になったのだから、結城氏とのときは、無言でじっときつい表情をしていたのだろう。結婚で人気が落ちても意に介さなかったという。  スターになっても驕《おご》らない女優さんは居るだろうけれど、川崎弘子のように終始引っこみ思案だった例は珍しいのではなかろうか。共通項の多い田中絹代のほうは、実生活では意外にフラッパーだったというが。  ご亭主の福田蘭童さんとも、ご子息の石橋エータローさんとも、マージャンのほうの縁があってたびたびお目にかかっている。お宅に伺ったことはないが、渋谷に�三漁洞《さんぎよどう》�というエータローさんのお店があって、ときおり顔を出したりしていた。魚料理の店だがファミリームードがあって、エータロー夫妻と一緒に川崎弘子さんも甲斐甲斐《かいがい》しく立ち働いていた。たまに蘭童さんが隅《すみ》で呑《の》んでいたり。  年輪は増しても美しさは衰えておらず当たり前だが、映画の中とまったく同じ顔をしていた。といって澄ましているわけでもないし偉ぶったりもしない。一生平凡に暮したい、という彼女の言葉どおり、元スターの気配もない。どこにでも居そうな、ゆかしい人柄《ひとがら》のママという感じだった。  一度、開店の少し前の早いときに立ち寄ってしまって、戸を開けてくれた川崎さんに、いつもの古風で丁寧な挨拶《あいさつ》をされ、セリフのようにはっきりと、折角でございますが——、といわれて、あわててお辞儀をして退いたことがある。  そこを押し返して、では中で待たせてください、といっていえない時間でもなかったが、やっぱり川崎弘子という貫禄のようなものがあって、ただのママとはちがうのだった。  そのとき店の中に居坐《いすわ》って、茶でも呑みながら話を交したとすると、女優時代に関するどのみち失礼な質問になるはずだったと思う。平凡な主婦で安定した彼女の中に、映画の中でときおり見せる怒りや憎しみのきつい表情がどんなふうに存在しているのか、そうストレートには訊《き》けないが、なんとか探ってみたかった。  と、ここまで記して、昔のへんな記憶が蘇《よみがえ》った。戦時中の中学時代、突然職員室に呼びつけられて、補導担当の教頭と担任教師から烈《はげ》しく叱責《しつせき》された。別の学校の補導員が、学校に近い巣鴨《すがも》の映画館で、夜、映画を観ていた私を補導した、という連絡が入っているという。  私は学校を代表する言行のわるい生徒で、そうしたことがあってもなんの不思議もない。生徒の誰かが補導されて私の名前を名乗ったかもしれない。調べて貰《もら》えばアリバイなどいくらもあったが、頭ごなしにきめつけられて殴る蹴るされ、二日間の謹慎を喰《くら》った。もっとも私は小学生時代から日常茶飯にこの禁を犯しており、この罪科は仕方がないとも思った。しかし、そのとき私は彼女流の憎しみの眼つきで、教師を含む世間を見ていたはずだ。その週に巣鴨の映画館で上映していたのは川崎弘子と上原謙の�すみだ川�で、復讐《ふくしゆう》のために謹慎中に観に行った。  今考えれば、そうした表情を彼女の幼少期の環境とか劣等感などに結びつけるのは失礼の上に不正確なことで、誰でも持っている一つの表情が、たまたま生かされたのであろう。私だって、昔の記憶はうすれているが、そのときの表情はいまだにいつも隠し持っている。 [#改ページ]   リズムの天才     —笠置《かさぎ》シヅ子のこと—  関西という土地|柄《がら》は、天才|肌《はだ》の女芸人を産み出す地盤があるらしい、玉松ワカナ、ミヤコ蝶々《ちようちよう》、今日喜多代、正司敏江《しようじとしえ》、今くるよ、という妙な系列ができるが、この中に笠置シヅ子や森光子を加えてもよろしいか。  この人たちに共通しているのは溢《あふ》れるようなサービス精神と庶民的なヴァイタリティだが、これはショービジネスの本筋であろう。なにかで読んで記憶に残っているが、笠置シヅ子は、袖《そで》のずっと奥から舞台めがけて全力で走っていって、センターマイクのところで急ブレーキでとまるのだそうだ。 「——見えんからいうて、のろのろ出て行ってたらあかん」  そういう談話がいかにも彼女らしい。  畏友《いゆう》和田|誠《まこと》が�麻雀《マージヤン》放浪記�を映画化してくれたときに、戦後の象徴的メロディとして、当時の曲を三本使用した。レス・ブラウン楽団の�センチメンタルジャアニイ�、岡晴夫の�東京の花売り娘�そして笠置シヅ子の�アイレ可愛《かわい》や�である。  アイレという南の島の娘のちょっぴり哀調をおびたかわいさと、大竹しのぶ演ずるまゆみ[#「まゆみ」に傍点]という娘の感じにダブらせてこの選曲になったのだろう。もっともこの曲はレコード発売は戦後だけれど、実は昭和十五、六年ごろの作で、笠置が戦時中ずっとアトラクションなどで持ち唄《うた》にしていたものだ。  敗戦後の象徴というと�東京ブギウギ�ということになるだろう。これは文字どおり全国津々浦々に大ヒットして、これで彼女はメジャー的存在になった。  が、私にとって笠置シヅ子は、その前に長いこと、特別に想《おも》いを焦《こ》がした時期がある。 �東京ブギウギ�が風靡《ふうび》したので、笠置シヅ子は敗戦後の進駐軍文化とともに誕生したと思っている人が多いようだが、たとえば�ラッパと娘�も�ホットチャイナ�も�センチメンタルダイナ�も、昭和十年代前半の松竹楽劇団の舞台で彼女が歌っていた曲だ。  デビューは昭和三年だそうで、松竹少女歌劇は当時東京と大阪と二派に分かれていたが、ターキーだのオリエ津坂《つさか》だので人気のあった東京勢より、実力では大阪勢といわれたほうのスタアの一人だったのだから、古いのである。  はじめの名前が三笠静子。昭和十年に大正天皇の四番目の皇子が三笠宮の称号を受けたので、畏《おそ》れ多いというので改名して笠置シヅ子。これは他動的のものではなくて自分から変えたのだそうだ。  敗戦のときに私は十六歳だから、戦前の笠置シヅ子は知らないだろうというのは素人《しろうと》考えで、小学校の下級生のころからその名は知っていた。情報網のうすいその当時、東京牛込の子供が、遠い盛り場のレビューガールをなぜ知っていたか。  F・アステアとG・ロジャースのダンス映画やレビュー映画を観《み》ていて、私はいっぱしのレビュー少年だったし、同級生の中にすくなくとも三人、今赤羽の辺で健在らしいが稲沢のキンちゃん、東大医学部を出たはずの田辺忠郎、週刊明星の集英社で部長だかになっている日置智久、この三人は有楽町や浅草のレビュー劇場にしたたかな眼《め》を配っていた。一級下には当時から清水金一に心酔していた逗子とんぼが居たのだから怖い。  私はこの三人の中の誰かから昭和十二年結成のアキレタボーイズや、十三年結成の松竹楽劇団のことをきいて、胸をときめかしていた。  松竹楽劇団というのは、戦時体制になったため短命だったが、戦後の帝都座ショーとともに、今、活字の上でほとんど無視されているので、少し記す。少女歌劇(の古手を活用して)を脱皮した男女混成のレビュー劇団で、戦争がなければ東宝系の日劇NDTと並んで、二大勢力になるはずのものだった。私が知るかぎり瀬川昌久氏の�ジャズで踊って�という本でくわしく記されているのが、唯一《ゆいいつ》の文献だと思う。  本拠が帝劇なので、小学生の身では高価だし場ちがいの感じで、一人では行けない。連れて行ってくれる人も居ない。怖い盛り場の浅草のほうにはまもなく一人で行きだすが、上等な盛り場の有楽町のほうにはなかなか行けなかった。  メンバーは、かなり出入りがあったが春野八重子、笠置シヅ子、この二人が唄のほうの芯《しん》で、長門美千代、石上都、天草美登利という少女歌劇でも大人のムードを持った人たちが踊り手の上置き。男性の踊り手がタップの中川三郎、稲葉実、バレエからルンバまで踊る荒木陽(ああ、三人とも貴重なレビュータレントだった)。二世歌手の宮川はるみ、少女タップのミミー宮島、ターキーの踊りのほうの相手役小倉みね子、荒川おとめをリーダーにするヤンチャガールズ(雲井みね子、志摩佐代子、波多美喜子)。菊池武、青木祥男、紫水清という男性歌手陣、若き飛鳥亮や佐伯譲、あの木戸新太郎もダンサーとして居た(瀬川氏の著書があるので忘れていた人の名も書けるのだが)。音楽が初期の紙恭輔《かみきようすけ》から服部良一、作者が益田|次郎冠者《じろうかじや》(太郎冠者の息子)、大町竜夫。製作が大谷家の息・大谷博。  私がやっと観にいけたのは、縮小されて映画館のアトラクションなどやりだしたころで、すでに前記のスタア連はかなり脱《ぬ》けていたが、それでも充分満足した。春野八重子、笠置シヅ子、この二人は健在で、名物になっていた二人がブルースとスイングで掛け合いをするナンバーも観ている。私は古本屋でダンス雑誌をあさっては、観にいかれなかったころの松竹楽劇団の記事をくりかえし読んでいた。  春野八重子が映画�舞踏会の手帖《てちよう》�のマリー・ベルの衣裳《いしよう》で、七人の男性歌手と次々に歌い踊るナンバーなど、観ていないのに観たようなつもりになっている。  しかしなんといっても抜群だったのは笠置シヅ子で、服部良一という名伯楽が居て(彼の昭和十年代の仕事は、淡谷《あわや》のり子とのブルース調のものをのぞいて、ほとんどこの劇団でやったのだ)そのスイング感、明るさ、哀調、子供の私が眼を見張ったものだ。大人たちは、日本ではじめての、本物のスイング歌手が出たといったが、貧しいレビュー風土から突然どうしてこんな天才が出てきたのだろうと思った。私にとって、想いをこがしたといっても、天才に対する空恐ろしいような畏敬の念に近かった。  実際、昭和十五年吹き込みの�ラッパと娘�を今きいても、(斎藤広義のトランペットだ)空恐ろしい感じが蘇《よみがえ》ってくる。曲もいいが、名唱だ。  日米戦争の開幕直前に楽劇団は解散、ダンスホール休止もあって、ジャズミュージシャンもレビュータレントも、生きにくい時代を迎える。  しかし歌手の中で、ベティ稲田などの二世歌手たちをのぞくと、いちばん被害を受けたのは笠置シヅ子であろう。淡谷のり子はまだレコードのヒット曲を持っていて、全国的にネームバリューがあった。笠置はステージ歌手で、都会の一部にしか知名度がない。しかも唯一《ゆいいつ》といっていいくらいのホットジャズのフィーリングを身につけた歌手で、戦時体制と合うわけがない。  テイチクで編曲をしていたジャズトロンボーンの中沢寿士と組んで、笠置シヅ子とその楽団でアトラクションを廻《まわ》ったが、南方民謡でごまかすくらいしか手がない。アメリカの唄は全面禁止、日本人の作曲でもジャズ的なものは駄目《だめ》。  民謡やセミクラシックを歌っても、ジャズっぽいというので叩《たた》かれる。たしか都心部では出演禁止になっていた時期があるはずだ。しかし、地方では受けない。  私は中学生で工場動員されていたが、この時期、滝野川万才館や八王子松竹座などまで追っかけて、林長次郎一座(長二郎の長谷川一夫ではむろんない)などというドサ廻りの小一座と一緒に出ている笠置シヅ子とその楽団を、万感の想いで観ていた。  それで、�東京ブギウギ�である。  敗戦の年の十一月、日劇が復活して、ハイライトショー�ファインロマンス�で蓋《ふた》をあけた。これに轟夕起子、高峰秀子、灰田勝彦、岸井明たちと笠置シヅ子が大きな名前で出ていて、ほう、と思った。観に行ったが、記憶がいりまじっていて、トランペットの後藤博(これも破滅型天才だった)がからんだ�ラッパと娘�がこのときだったか。  しかし、私の笠置シヅ子への思いいれは、セントルイスブルースやラ・ボンバ、ラッパと娘、ホットチャイナ、センチメンタルダイナ、アイレ可愛や、戦後のコテカチータ、セコハン娘、東京ブギウギ、——ここまでである。  これ以降は、メジャーになったためのやむをえぬ条件だったろうけれど、和製ブギで売った彼女の一面の個性だけが固定されて売られ、人気と反比例して急速に苦しげなものになっていった。だから笠置シヅ子というと、東京ブギ以降の大スター時代を記すべきであろうけれど、私はそうしたくない。妙なことに、珍重すべき歌手だったころは特定の場所に行かなければ聴けず、いささか閉口となったら、至るところで彼女の唄声が耳に飛びこんできた。  まだまだ底も広がりもあった歌手なのに、たとえば�アイレ可愛や�の健康で素朴《そぼく》な情感や、中米物、リズムエンドブルース、さまざまな方向に深く広がる可能性のあった大歌手だと思う。  彼女が歌わなくなったのは、はっきりした資料が手元にないが、昭和三十年代前半だったか。歌わなくなったら、ただの大阪ふう喜劇おばさんになって、いっさい唄と関係を切った。なつメロ番組にも出てこない。レコードも(リバイバルすらも)出さない。これをもってしても彼女自身、盛りのころの自分を、世間の評価と関係なく、どんなに大切に思っていたかがわかる。 [#改ページ]   金さまの思い出     —柳家金語楼《やなぎやきんごろう》のこと—  柳家金語楼は昭和天皇と同じ年で、関東大震災のときには仙台に居た。仙台の医者のところで禿頭《とくとう》治療を受けていたのだと小島貞二さんがなにかに記している。すると、あの頭はいつから禿《は》げていたのかしら。  初年兵のときに熱病にかかったのが原因だともいう。大正から昭和にかけてフィーバーした兵隊落語は、初年兵のときの経験とおぼしいが、たしかにあの頭も効果になっていたはずだ。なにしろ私の物心ついたころに、中曽根さんの夜店のステッキをもう一段とスガレさせたような頭で、後年までずっと同じ顔をしていたから、私にとってどうも金語楼の年齢というのは印象としてははっきりしない。  以前、神楽坂《かぐらざか》の古い芸妓《げいぎ》が実感をこめていったが、金さまは若いころ美男でモテまくったそうだ。金さまの座敷ときくと売れッ妓《こ》たちが皆小走りに行った由《よし》。  なるほど、頭に髪のある写真を見ると丸顔ではあるが、艶《つや》があって精力的で、いかにも遊蕩児《ゆうとうじ》らしい色気がある。  それは十代のころの写真で、彼は芝の葉茶屋の伜《せがれ》。六歳のとき母親と寄席《よせ》に行って飛入りで高座にあがり、小噺《こばなし》とかっぽれを踊って大受けだったというから早熟児だ。で、天才少年落語家として二代目三遊亭金馬に入門(後柳家三語楼門に移る)。そのとき父親も一緒に入門して三遊亭金勝になった。変な親だなァ。  兵隊落語については私も子供のときラジオで何度かきいた。謹直な元軍人の父親が破顔一笑したのを覚えている。  初年兵が上官の靴《くつ》みがきや洗濯《せんたく》に苦労したあげく、名乗りがうまくいかず、 「リク、陸軍、歩兵、二等卒、山下ケツタロー(本名山下敬太郎)であります」  それがうまくいかなくて何度も、もといッ、になる。 「もといッ、カイグーン」 「バカッ、海軍じゃない、陸軍だ」  要するに新兵の不慣れの失敗談で、当時の男にとって大問題だった軍隊生活についての不安が共感になってフィーバーしたのであろう。私の場合は、元軍人の父親の、兵隊を見下げたような笑いが間にはさまるものだから、私は絶対に笑うまいとした覚えがある。  しかしギャグそのものも与太郎の変型でむしろ古臭かった。今考えるとラジオなので顔が見えなかったせいもあるかもしれない。金語楼はもうそのころ、寄席には出ていなくて、映画か、吉本系の実演でしか見れなかった。特に映画は精力的で、小ぶりの人情喜劇だったが本数も多かった。主家一筋のがんこ親爺《おやじ》という役どころで、�金語楼の大番頭�などは小ぶりな傑作だったと思う。  私の生家のある牛込矢来町では、金語楼は特別な意味あいで有名人だった。というのは彼の本宅が町内にあったから。刑務所のように背の高い黒板塀《くろいたべい》で囲まれた大邸宅で、私どもは学校の行き帰りに山下敬太郎という表札をみてはクスクス笑い合ったものだ。たしか息子さんが一級上ぐらいに居たと思う。  そうして、彼の妾宅《しようたく》が、附近に点在しているのを町の人々は皆知っていた。そのころの噂《うわさ》によると、金語楼は妾宅では、明治の元勲のようにいかめしい顔つきで口もきかずに酒を呑《の》んでいたという。  しかし私はあることから金語楼の天才性をいっぺんに信用し、尊敬の念すら深めるに至った。それはもう戦争末期の空襲時代で、そのころは金語楼劇団も解散し映画も火の消えたようで、彼としても無聊《ぶりよう》の日をもてあましていたころだったと思われる。  生家のあたりも一面に焼け、彼のところもバラックか、いずれにしても仮住いだったろう。私の生家は焼どまりで、したがって町内の顔見知りが多いときには一室に一世帯ぐらい仮寓《かぐう》していたことがある。その中にYさんという町内の有力者の二代目が居て、Yさんの部屋には酒も食物もわりに揃《そろ》っていた。  金語楼が、Yさんとは旧交があったらしく、その酒を呑みにちょいちょい現れる、つまり私の生家に突然現れるようになった。来ると、Yさんが儀礼上、私たちの部屋に連れてきて父に紹介する。�王子の幇間《たいこ》�の一八のように「オヤ、猫《ねこ》さん、お元気で——」式の愛想をひとわたりいって、Yさんの部屋に移って以後は、なにを話しているのか、ひっくりかえるような笑声が絶えず、そのうち二、三時間したころ、すうっとお開きになる。  数日するとまたやってきて、わあッと笑って、すうっと帰る。 「いやァ、あいつが来ると肩のこりがほぐれますよ」とYさん。「こんな時代だもの、笑わなくちゃね。いえ、べつに私が呼ぶわけじゃないんだけど、さすが芸人ですね。鼻がいいや。ちょいと酒が手に入ったと思うと、必ず現れるんですよ。だからあいつが来た夜に酒がないってことがまだ一度もないんです」  私は、明治の元勲のような顔をして妾宅に居る金語楼と、間もおかずにひっくり返るような笑いをふりまく金語楼と、二つの顔を想像してみた。それは芸人だから珍しいことではない。プロの力であろう。  私が感心したのは、酒が手に入った夜に必ず現れる、ということだ。  Yさんの所ばかりではなく、町内の誰彼のところにも現れるらしい。当時、酒は貴重品で、やたらに誰のところでもあるわけでなかった。あっても他人に呑ませるものではない。そこを、どういう鼻を利《き》かせるのか、すうっと現れて呑んでいくという。金語楼は同じ町内ということで、皆、親しみを持ってはいたが、すべてと個人的交際があったわけではあるまい。金語楼なら突然入ってきても歓待するということだったのだろう。  同級生からもこういう話をきいた。 「不思議なんだよ。今夜、二合あるとするだろ。誰も二合なんてしゃべらないのに、金語楼さんが来て、わァッと家じゅうをわかしてさ、二合が出たなッと思うと、すうっと元の顔に戻って、帰っていくんだ」 「呼んだわけでもないのに来るのかい」 「そうだよ。夕方、町をぶらついて気配を見てるんじゃないかい」  実にどうも、偉い。空襲でどこもかしこも焼けて、むろん自分の家も焼けて、日本が負けるかどうかというときにお酒一筋に気を凝らして、狙《ねら》い定めてすうッと入っていく。  偉いともなんともいいようがない。兵隊落語や映画で感じていた俗な顔つきはあれは営業用のもので、本人は俗どころか、超俗的なものを持っている。  戦争末期のあの金語楼を眺《なが》めていてよかったと思う。私は金語楼の笑顔を二度と軽く眺めなかった。というより、芸人を含めた庶民の一人一人の恐ろしさを、立証する材料を一つ掴《つか》んだような気がしていた。私の父親は金語楼が好き、つまり部下を愛するように愛していて、晩年の�ジェスチャー�などテレビで欠かさず観《み》ていたが、例の話をしたらどう思ったろうか。将校というものは、兵隊を、結局どう思っているのか。  それはともかく、金語楼は戦後も精力的に働いていた。多分、ギャラも手軽だったのだろう。たいがいは製作費の安い感じの映画だ。しかし、ひいき目でなく、どの映画でも彼だけはあまり手抜きをしていない。たとえば岡晴夫の�啼《な》くな小鳩《こばと》よ�というB級歌謡映画でも、金語楼だけでまァ観ていられる。ギャグのひきだしがせまいから、マンネリだ低俗だといわれたが、それなりに安定があった。エノケンもロッパも老いたらば時世とずれて、劇中の邪魔物でしかなかったのに。  戦後の日劇のショーで、ジャズの連中と一緒に出て、ディキシーの演奏で奇妙なソロを踊ったことがある。  改めて眺めると、そこには働き者の必死の表情があった。もしも、トレードマークの金語楼以外の金語楼を活用する演出家が居たら、インテリたちが軽視できずに恐ろしがるような庶民像がうまれたかもしれない。  その点、伴淳三郎《ばんじゆんざぶろう》と一脈通じるところがある。伴は、初期には白ぬりの二枚目しか主役をとれない時代だったから、また中期には軽喜劇の舞台を職場にしていたから、三枚目であっただけで、現在のように主役のガラの広まった時代なら、むしろシリアスな方向で伸びたと思うし、気質的にも実際家だったようだ。  金語楼は役柄《やくがら》が古風なだけで、けっこう新しがり屋だった。金語楼ジャズバンドを結成したのは昭和三年だというし晩年の�ジェスチャー�で水の江瀧子と、おにィさま、おねェさま、と呼び合っていた呼吸にも、充分にリズミックなセンスを感じる。そういえば、私は知らないが、若いころの高座で、金語楼純情詩集という唄《うた》い口調のネタがあって、それが戦後の三遊亭歌笑にゆずられ、柳亭痴楽《りゆうていちらく》につながる系図があるのだそうだ。  新作落語(は古風な新作だったが)のネタが千篇余、それに発明マニアというのも新しもの好きにつながるか。坂道昇降用|下駄《げた》というのは、前歯の高さがちがっていて、携帯してはきかえるというものだった。いかにも大正の平和な時代が息づいている。  いずれにしても、禿げ頭とくしゃくしゃになる表情と、頑固者《がんこもの》のおかしさと、それだけのことで永いこと命脈を保っていたのは、新しもの好きと健康だったからだろう。根底には戦争末期に見せたような、恐ろしいばかりの強さがあったからだろうが。  晩年まで元気一杯で、トーク番組で、 「先日ドックに入りましたら、お医者さんに、君の身体《からだ》は三十代の若さだねえ、珍しいよ、とほめられました」  上機嫌《じようきげん》で入院したが、半月もたたぬうちに病院で亡《な》くなった。腰痛で検査のために入院していたのだというが、病名は胃ガンになっていた。  爾来《じらい》、私は人間ドックを信用しない。 [#改ページ]   アナーキーな芸人     —トニー谷《たに》のこと—  ——レディス エンド ジェントルメン エンド オ父ッツァン オッ母サン オコンバンハ——。  というようなトニイングリッシュで、昭和二十年代後半に日本中をフィーバーさせたトニー谷という芸人の魅力を、近ごろの若い人に説明しようとすると、実にむずかしい。  それは当たり前で、大戦争のあと、進駐軍だのヤミ市だのがあった奇妙な乱世の中におかないと、せっかくのセリフも浮きあがるばかりで少しもおもしろくない。  それにもうひとつ、トニー谷のギャグや毒気は、その後の芸人の中に意外に滲透《しんとう》していて、現在ではあの程度のハミだし方は誰もびっくりしない。  但《ただ》し、あんなに評判のわるかった(楽屋内でもそうだが、むしろ世間一般の人々に)芸人も珍しく、そのアクの強さはひと通りでなかったが、それが原因でスタアになるというところが説明しにくい。が、それ以外に説明すべき芸というものが見当たらない。  もっともスタア芸人というのはいつもそうで、芸でフィーバーさせる例はきわめてすくない。大体は、稲妻《いなずま》のように、世間の空気と微妙に衝突して光を放つ。  昭和二十三年ごろだったか、浅草六区でも隅《すみ》のほうの大都劇場に、劇団|美貌《びぼう》という混成一座が旗揚げした。中村是好、森八郎、高屋朗、高杉由美、江出勘太などという寄せ集めで、しかもアンサンブルのとれないメンバーで、そこに興味を感じて入ってみた。その旗揚げ公演のヴァラエティの司会に、トニー谷が出ていた。私はそれが彼を見た最初の経験だ。後年きいたところでは、兄弟分のパン猪狩が紹介して、はじめて浅草に、というより日本人相手の劇場の初舞台だったという。  だから名前も小さかったし、レディスでもジェントルマンでもなかったが、描《か》き髭《ひげ》に素通しの眼鏡、タキシードというスタイルはそのときから同じで、やはり人を喰《く》った司会ぶりだった。この手の芸人に非常にくわしいつもりだった私が初会で、ほう、こんな芸人が今までどこに居たんだろう、と思ったし、トニー谷といういいかげんな名前なので、誰か古手が戦後風に名を変えて出てきたのかと思った。まさか初舞台とは思わない。  ヴァラエティの終景で、出演者一同とともにエプロンへくりだしたときも、一人前に頭部を小きざみに揺する芸人歩きをしていた。  古いが、素行が悪いかしてシャットアウトされていたのが、敗戦のドサクサでカムバックしてきたのかな——。当時三十代のはずだが、髪の毛はうすかったし、ヴェテランに見えたものだ。  気をつけていると、ロイ・ジェームスや志摩夕起夫などに混じって、ジャズコンサートの司会にその名を見かけるようになる。  ケニー・ダンカンの事件(?)は朝鮮戦争のころだから、昭和二十五年か六年だろうか。ハリウッドスタアで射撃の名人が来日と報道され、オープンカーで街頭をパレードし、国際劇場に出るという騒ぎになった。結局射撃の腕はゼロでインチキだとされたが、ケニー・ダンカンはスタアではないが、二流西部劇によく出ていた仇役《かたきやく》で、私は子供のころからよく映画で観《み》ている。言葉の不通で記者が勘ちがいし、事が大きくなってしまったのだろう。オープンカーのケニーの隣に、メキシカンハットをかぶったトニー谷が群衆をあおっている写真を新聞で見て、私は一人で笑った記憶がある。うさん臭いパレードに、ケニーもトニーもいかにもはまり役だった。  トニーの経歴は謎《なぞ》だといわれる。東京の銀座生まれで日本橋育ちだそうだ。それで長じて中国大陸、南京《ナンキン》や上海《シヤンハイ》に居たそうだが、なにをしていたか不明。戦時中だったが兵隊で行っていたわけではない。  もっとも学校など普通のコースを行かない場合、千変万化で当人にもわからなくなってしまうことがある。私などもそうで、二十年代前半は、いつどこでなにをしていたか、自分でも整然とできない。  しかしとにかく、初舞台をヴェテランと思わせるような度胸と人の喰い方が身につくくらいの泥《どろ》にまみれた生き方だったのだろう。大概の日本人は若いころに入った道を一生歩き続けるが、中年で変わり身を成功させたトニーの如《ごと》きは珍しいし、その意味での才覚もあったと思う。  敗戦でひきあげてきて、米軍専用のアーニーパイル劇場(現東宝劇場)で大道具をしていた。しかしパン猪狩と出会ったときは、基地の中でボーイをしていたという。パン猪狩も日劇の大道具の出身で、そんなところで気が合ったのか、パンちゃんは米軍のパンや缶詰《かんづめ》などをトニーから貰《もら》い(彼は基地を廻《まわ》ってパン・ショーというのを当時やっていた)かわりに日本の芸能界への橋渡しをする。  トニーはアメリカの慰問ショーなどをよく観ていた。外地が長く、もともとアナーキーであり、敗戦のショックから立ち直りつつあった日本人を客観的に捕まえることができた。日本全体がうさん臭くなっていたときであり、こういう様相はトニーにとってお手のもので、放《ほ》っといても先達的存在になってしまう。  乱世の案内人《ガイド》として突然人気者になり、ヤケッぱちな世相を無思想無責任に(無責任が躍動していた感じは後年の植木等とちがって地の迫力があった)あおりたてるばかりか、牢名主《ろうなぬし》のようにサディスティックに小突き廻すというのだから、これは新しい芸境で、目立つのも当然だ。ほかにもアナーキーだったり、戯画化の才分を持っている芸人は居たはずだが、トニーのようにしつこく熱心でなかった。まったくあのためらいのない晴れ晴れとした毒舌はどこで培養したものだろう。ひきあげ前のトニーの暮しにそれがひそんでいるはずだ。  好きなタイプの芸人ではないが、逆にまたこういう嫌《いや》みなもの、通常の世間に乏しいものを観るのが芸人に接する楽しみでもある。私は、世間に対して悪意、というほどでなくとも、積極的な善意を抱いてない芸人が居てもいいと思う。  トニー谷の造った流行語。�バッカじゃなかろか��家庭の事情��さいざんす��きいてちょうだいはべれけれ��ネチョリンコン�  戦争末期の空襲時代のことを、 「——東京中がメイド・イン・アメリカのお方のお落としになりました飛行機のフンで、方々が全部サヨナラでございました」  というようないいかたをする。 「——おさしさわりがあったらごめんなさい。意識して申し上げてますから」  そうして客席から半畳が飛ぶと、 「シャラップ、阿呆《あほう》!」  などと怒鳴る。  ソロバンを打ち振り、合の手に歌ったが、しゃべると歯切れのいいよく響く声なのに、歌うと声量が乏しい。  が、芸の抽斗《ひきだし》はそれだけ。それだけでも充分といえなくもないが、たまさかのイベントのときならともかく、常打ちで定着しようとすると、まとまった芸がない。トニー造語の数が多いのは、造語を量産していかないと芸がもたないからでもある。そうしてヤケッぱちの突進のように、その道を突き進んだ。  愛児の誘拐《ゆうかい》事件(幸い無事で戻った)のころからおとなしくなった、といわれるが、それよりも乱世が過ぎ、トニーも年齢《とし》を重ねて、生活者であることを隠せなくなったからだ。誘拐事件は、彼もまた普通の父親だということを現してしまった。  邪道で出た者は(私はむしろ数すくない本流芸人の一人と思っているが)邪道を保持しなければ芸人生命を絶たれる。そのために林家三平《はやしやさんぺい》はじめ幾多の芸人がなんと苦しげだったことか。  彼は人気が落ちると、東京に住宅やマンションを持っていたのに、ハワイに移り住んだ。この点、象徴的だと思う。彼もまた生活者にちがいないのに、東京に定着できず、浮草のようなハワイの生活に走る。トニーが芸人として完《まつと》うするためには、妻子も持たず、おのれの生活を造らず、あくまでも無感情のピエロとして生き続け、その上で悪罵《あくば》の対象を次々とみつける。そうでなければ悪罵にリアリティがつかないのである。  数年前、浅草の楽屋で偶会した。女とみれば手をつけ、人を喰いまくった往年の面影《おもかげ》がなくて、彼は私の手をとり、直接には一面識もないのに、おなつかしいといい、鼻をすすって泣く風情《ふぜい》を見せたりした。もっともそれがトニー式の人の喰い方だったかもしれない。  永六輔が渋谷駅の階段の中途で休んでいる老人から声をかけられて、しばらくわからなかった。トニーの長年つけていた鬘《かつら》がなかったからだ。(彼は鬘を脱いだところを細君にも見せなかった由《よし》)  その出会いがきっかけで、永さんはトニーの復活に手をかして、ジャンジャンその他でのワンマンショーになったが、それも中途で終わる。トニーが亡《な》くなったからだ。  肝臓らしい、というだけで病名はいまだにわからない。通夜《つや》に行った芸人たちも、誰ひとり死顔を見ていないという。 「——今になってみると、哀れな人だったよ」  と芸人たちはいうが、それは世間友人を信用せず、孤独に死んだことをさすのか。一時代を築いたわりに、芸界からはじかれていたからか。  私は、それもこれもトニー谷という芸人の宿命で、むしろ、誰にも愛されずに生きた芸人、という独特の一生を貫いた人物として、拍手を送りたいと思う。 [#改ページ]   本物の奇人     —左卜全《ひだりぼくぜん》のこと—  昭和初期の新宿という盛り場の中心部は、今の三越にコンパスの基点をおき、新宿駅までを半径にして、ぐるっと円を描いた部分だ。靖国《やすくに》通りも歌舞伎町《かぶきちよう》も当時はまだなかった。  シュウマイの早川亭の角を曲がって武蔵野館の前をとおり甲州街道の下をくぐる通りを、馬糞《ばふん》横丁といって、馬方《うまかた》食堂なんて店もあり、私の子供時分には貨物駅に行く荷馬車をよく見かけた。ムーランルージュは今のコメディシアターのあたりだったと思う。パリに同名の劇場がある由《よし》で、それを模して屋根に大きな赤い風車があった。その名は知られていたけれど、実にどうも、ぼろっちい小さい小屋で、ウインドウの中の絵看板もくすんでおり、浅草あたりのとくらべて無愛想で華やぎがすこしもない。  私はマイナー好きだから、こんな貧相な小屋で、不幸な役者がどんな寒々しいことを演《や》っているのかと思って、入ると案外|混《こ》んでいる。もっとも私のような子供は一人も居なくて、学生や若い勤め人ばかりだった。そうしてときおり静かな笑声をたてる。  浅草とちがって、ギャグはおとなしく芝居も地味で子供にはどうも退屈だが、小ぢんまりとしているところがなんだか親類意識を駆りたてて、もう一度行って退屈してみようかという気にさせる。その時分、私はムーランの生活スケッチのような芝居が、学生層にあんなに人気があるとは知らなかった。  私が行きだしたのは戦前ムーランの後期で、藤尾|純《じゆん》、森野|鍛冶哉《かじや》、沢村い紀雄、大友|壮之介《そうのすけ》、水町庸子、姫宮接子、望月美恵子(優子)などはすでに卒業し、有馬|是馬《これま》、佐藤久雄、山口正太郎、外崎恵美子、池上喜代子、明日待子《あしたまつこ》、小柳ナナ子などで、太平洋戦争が始まりカタカナ名詞がいかんというので、ムーラン改め作文館と改称したころは、さらに顔ぶれが減っていた。  浅草で有名無名の珍優をたくさん観《み》ていた私が、やっぱり眼《め》をみはったのが左卜全。当時ムーランは芝居三本、ヴァラエティ一本の四本立てだったが、この四本のどこにも卜全の役がないらしく、通行人みたいな役で出てきたり、ヴァラエティの中のムー哲(ムーラン哲学)という一景にしか出ていなかったりする。かと思えば主演したり。  私は観ていないが、先輩の話だと小崎政房作�吸殻《すいがら》往生�という登場人物二人で対話するだけの、どこか�ゴドーを待ちながら�にも似た劇で、浮浪者の左卜全が秀抜で、以来、小崎政房にうまく使われて根強い卜全ファンというのが居るようだった。  ツボにはまったら秀抜だろうという感じはわかる。が、名優とか名演技とかいうのともちがう。後年有名になってからと同じだが、もっとブロークンで、セリフは忘れる、きっかけははずす、それでいてほかの役者のセリフ中に、突然眼を剥《む》いて、ゲゲゲ、と笑ったりする。ではドタバタかというとそうではなくて、本人の気のままに、自然体で劇中に居《お》り、それがなんだか奇妙だという感じ。  平凡に使えば老《ふ》け役なのだろうけど、けっしてそういうアンサンブルはとれないので、脇《わき》ではおさまりがわるい。使えば主役ということになる。  当時の座付作者の横倉辰次さんの文章では「端役《はやく》だと手抜きしてセリフもろくに覚えない。そのくせこれは受ける役だと思うと急に熱心になる。文句をいうとトボけて、私は頭が悪くてねえ、下手な役者ですね——でケロリとしている。変人だというが、いけ太い人間だ」ということになる。  卜全の奇行ぶりは楽屋だけでなく客席のほうでも有名で、箇条書きにすると、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰薬草をつんできて楽屋で干す。 ㈪服装は着たきり雀《すずめ》で乞食《こじき》に近い。 ㈫いつも松葉杖《まつばづえ》をついているが、バスに乗りおくれそうになって、杖をかついで駈《か》けだした。 ㈬楽屋で定時になると体操をはじめ、奇声をあげてお祈りをとなえる。 ㈭女性の生神《いきがみ》さまを信奉していて収入は全部|捧《ささ》げてしまう。不便に耐えかねて彼女と結婚し、生神さまから毎日五十銭渡されて劇場に来る。 [#ここで字下げ終わり]  楽屋での奇行はともかく、女性の生神さまは実は男で、皇道なんとか教の教祖だったと未亡人の著書�奇人でけっこう�に記してある。著書を読んでももうひとつわかりにくいが、給料をすべて納めていたのは事実で、だから卜全は十年間も無収入同然だったという。結婚すると死ぬ、といわれて五十二歳まで独身。その老師が亡《な》くなってはじめて現未亡人と世帯を持つ。それまでは老師の許《もと》に小僧のように仮寓《かぐう》していた。  未亡人が老師の悪口をいったとき、 「教えと人格は別だ。わきまえろッ」  といった。こういう所は左卜全の面目が溢《あふ》れている。  松葉杖は突発性|脱疽《だつそ》のためで、舞台でも片脚を曳《ひ》きずるような歩き方をしていた。一説によると、片脚切断を拒否して医者に行かず、老師のお祈りで小康を得てからの関係だというが、老師なるもの実に見事な搾取《さくしゆ》ぶりで、卜全の弟が見かねて下着をくれたとき、 「品位のない真似《まね》をするな、返して来い」  と叱《しか》られたという。老師も卜全も似たような奇人でウマが合ったのかもしれない。  未亡人の記述によると、彼は若いころ、脳を病んだことがあるそうで(重症のノイローゼというところか)そのせいかどうか、なにか非常に高邁《こうまい》な精神生活に浸りこむ面と、意志薄弱でだらしがない部分とが同居していたらしい。埼玉県の神官の家系の出で、父親は教育者だから異端児は理解されない。作男たちまで彼を狂人視していたらしいが、私も似たようなものでこういう話はすこしも驚かない。古い家系の衰えた血のせいで、非生産的なタイプがよく生まれてくる。  もっともケロッとしてチョロイ面もあって、ムーラン時代は比較的仲のよかった山口正太郎が細工して、昇給分を別封筒にして貰《もら》って、卜全の小遣用に渡していたらしいし、松竹に引き抜かれたときは、横尾泥海男《よこおでかお》が、老師用に二百円、別に百円と二つの給料袋をこしらえて、二人で玉の井などに遊びに行ったらしい。  松竹|傘下《さんか》の�笑の王国��青春座�と戦争中をすごす。卜全と浅草は水と油かと思ったが、そうでもなくて、宮本武蔵で沢庵和尚《たくあんおしよう》をやり、姿三四郎では志村喬の演った村井半助という落魄《らくはく》の柔道家をやる。神官、易者、学校の用務員、八十歳くらいの曾祖父《そうそふ》なんていうのがお似合いで、マイペースだった。禿鬘《はげづら》などかぶると後年と同じ顔で、だから未亡人の著作で十代の彼の写真など見ると、どうしても噴きだしてしまう。  空襲期に入るすこし前から私は中学を無期停学になり、建前は家で謹慎だが、天下晴れたような恰好《かつこう》で浅草に入り浸っていた。当時、山茶花究が牛込柳町に、左卜全が牛込北町に、私の生家と眼と鼻の所に仮寓しており、都電を乗りついでよく一緒に帰ってきた。山茶花究はあの苛烈《かれつ》な時期にパピナール中毒で注射器を手離さないという偉い男で、誰かついてないと電車の中で眠ってしまう。卜全は松葉杖。坊や、一緒に帰ってやんな、と劇場の誰かにいわれて一緒に帰るが、両人ともに中学生などに関心はない。無言でただ一緒に帰るだけだ。卜全の如《ごと》きは私など視野に入ってなかったろう。私はそういうことはたいして気にならない。  噂《うわさ》を信じて女教祖が居ると思っていたから、仮寓先には寄りつかなかったが、後年きくとそこは私の小学校の同級生の家で、卜全は離家で自炊していたという。  浅草が焼けて、松竹の移動演劇隊に参加したときいたが、同じころ、有楽町の邦楽座に端役でひょっこり出ていた。明治物の芝居で、卜全の刑事が犯人と格闘するところがあって、足がわるいのに気の毒だなァと思って観ていた。  なんといっても忘れられないのは、敗戦から一カ月目くらいのころ、進駐軍の放出物資の配給が近くの小学校であり、昼さがり、リュックを持って受け取りに行くと、背中のほうで朗々たる唄声《うたごえ》がきこえる。卜全だな、とすぐにわかったが、話すこともないから、そのままゆっくり歩いた。卜全は足がわるいから歩行がおそい(松葉杖はこのときついてなかった)。都電も復活してないし人通りもない。切れた電線を避けながら、彼は声量のある声で(帝劇ローシーオペラ出身だ)ベアトリ姐《ねえ》ちゃんをくりかえし歌う。そのうち歌詞が同じなのにあきたらしく、アドリブで思いつきの歌詞になる。それが目茶苦茶で、おかしい。  小学校の校庭で缶詰《かんづめ》類を受けとり、帰りもやっぱり私が十メートルほど先で、卜全の唄はブン大将になったり、快賊ディアボロになったりする。世相とは無関係の屈託のない声で、病苦、無一文、天涯《てんがい》孤独と三つ重なった卜全が陶然となっていた場面が忘れられない。  細君を得てから舞台の合間に、脱疽の治療にかかり、十年かけて断食と食餌《しよくじ》療法でなおした。  ——足はやっと治った。これからは脳の病いを治すのだ。  とそのときの日記に記してある由。  電車の中で新聞や週刊誌をひろってきて、自分の関心のある部分だけ切り取って貯《た》めておく。しかし、読まない。そうして、ああ、僕はものが読めない、といってなやむ。そういうなやみ方をする人で、だから何気ない人の一言に傷ついてそれを生涯恨む。多感多恨病というか、そこに意志薄弱が同居していて統率がとれないが、わかりにくいようでわかる気もする。  私は左卜全の、演技でなく自然体にも見える輻輳《ふくそう》した持味が、終始好きだった。黒沢明の�生きる�における通夜《つや》の場面の、珍しくアンサンブルのいい演技が世評で高かったけれど、私の個人的な好みでいうと、役者っぽい卜全は、卜全の贋者《にせもの》のように思えてしまう。卜全はムーラン時代のブロークンな味がいちばんよかったのかもしれない。映画でも一場面《ワンシーン》だけの端役というようなものにかえって存在感を感じる。 [#改ページ]   あこがれのターキー     —水《みず》の江瀧子《えたきこ》のこと—  昭和初年は映画の黄金時代であるとともに、レビューの黄金時代でもあった。特に日本独特なのは少女歌劇。多分、はじめは温泉場の余興の域を出なかったのだろうが、なんだか不思議に発展して、ひところは葦原《あしはら》・小夜《さよ》VSターキー・オリエで天下を二分する人気となった。  因《ちなみ》に少女歌劇というのは戦前の名称で、現今は宝塚、松竹ともにこの名称を使っていない。戦後、児童福祉法というのができて、これはこれで益する部分もあったが、芸の世界に関しては致命傷ともいえるものになった。昔は本当の少女の時分に入団し(ターキーは十三歳で入団したという)たのだが、福祉法によって年齢制限が生じる。宝塚など、高校を出て歌劇団の学校に入り、卒業して雪組だの花組だのに編入され、だんだん役がつき、人気も出はじめ、スターになるころには二十代後半、オールドミスの年齢となってしまう。昔、映画女優の苗床といわれたのが、今はもう見返られない。代表的スターは三十歳前後ということになってオバさんレビューになってしまう。  したがって、松竹の場合、はじめは松竹楽劇部、途中から松竹少女歌劇のSSK、戦後は松竹歌劇団でSKDということになる。  囲碁や将棋なんて小学生のころからやっているのに、芸人は駄目《だめ》。  もうひとつ、世界的にスペクタクルレビューが不振なのは、人件費があがって人間を洪水《こうずい》のように使えなくなったことだ。逆にいえば、踊り子が極安のギャラで犠牲になることの上に成立していたジャンルだともいえよう。例を出すと、昭和八年ごろ、同じ浅草で働いていたエノケンの月給が千円(これはかなりの家が一軒買える)、ターキーの月給が百円。普通の踊り子たちの月給が十円から三十円くらい。  さて、そのターキー水の江瀧子であるが、入団したとき貰《もら》った芸名が東路《あずまじ》道代で、当時百人一首から名をとった宝塚に対抗して、万葉集から宣伝部がつけたという。ところが水の江たき子という名を貰った子が、いやだといって、名前をとりかえてくれという。 「アラ、いいわよ」  ととりかえっこした。さっぱりした気性のターキーらしいが、運というものはわからない。東路道代では、はたして大物になっていたかどうか。  ところで、私はごく幼いころから、実物を知らず、広告でその顔と肢体《したい》を見覚えていたころから(明治チョコレートの士官姿の広告などは、現今の同社の広告の感じとほとんど変わっていない)なんとなくファンだった。  美人じゃないし、色っぽくもない。ただ、実にどうも、好感度が満点で、世の中にこれほど嫌《いや》みのない顔というものがほかにあろうか。私が幼稚園に通っていたころの記憶としてたしかに残っている。  ターキーの住居が、生家にわりと近い牛込弁天町と誰かに教わって、弁天公園に毎日遊びに行き、ターキーが通りかからないかと思ったりしたのもこのころだ。もっとも後年知ったが、この時分テキは四谷左門町に住んでいたらしい。  ターキーの最盛期がこのころで、私は完全におくれてきた男だ。小学校の五、六年生から中学にかけて、一人で浅草をうろつくことを覚えて、東洋一というバカ大きい国際劇場の三階の大衆席で、豆粒のようなターキーを何度か観《み》た。  彼女は肩幅が狭くてスマートだった。遠目にそれだけしかわからなかったはずだが、そのえくぼまで手にとるように観たつもりになっていた。ちょっと肩を揺するように早足で登場し、笑顔、澄まし顔、舌の廻《まわ》りのわるいセリフ、一つ一つの所作にドッと沸き、サバサバした明るさが場内に満ちる。なにしろ彼女は、実質は女性だが女っぽいアクがほとんどなかった。そうして男役だが男っぽいアクという奴《やつ》もない。玩具《おもちや》の兵隊のようで、娘さんたちにとって実に理想的な中性的偶像だったろう。男装の麗人といわれるスターは皆その条件を備えているようで案外そうでない。女か、男か、どちらかの要素が勝っていて、肉体がともなってしまう。 �ターキー�というファン雑誌が山積みされた古本屋をみつけ、日参して立読みしたのもそのころだ。水の江会というファン組織は二万人余といわれ、当初はパンフレット風だったが、週刊誌判の立派な雑誌になって七、八年は続いたのではなかろうか。ファン誌として下品でなく、唯珊太郎という人が編集長で、学生か学生OBと覚《おぼ》しき数人の男性編集子が居《お》り、この連中のモダン幇間《ほうかん》ぶりがスマートな効果をあげていて、ターキーの日常なども嫌みなくスケッチされていた。この雑誌を読みふけって、「アチシ(私)——」というターキーのイントネーションも覚えたし、うどん好きのことも知った。晦日初枝というママ代りの姉さんや早稲田の学生だった明《あきら》兄さんのスマートボーイぶりなど、すべて知ったような気分になって、それでターキーに対する親愛感が倍加したのかもしれない。明さんに召集が来た夜の様子など、記事で読んだだけなのに、ときどき眼《め》にしたような錯覚におちいる。  今、資料を見ると私が三階席から豆粒のようなターキーを見たのは昭和十五年の�東京踊り�らしい。以後、川路竜子《かわじりゆうこ》、南里枝に代表される時期から熱心に見はじめるが、戦時色が濃くなってレビューも先細りになる。  ターキーが私にとって間近になったのは、劇団たんぽぽを結成して丸の内邦楽座に出たころからだ。SSKを退団したのは、直接には男装禁止のお触れが出たためだと思う。以後、水谷八重子の芸術座に客演したりするが、入場料の高い東劇だったため私は未見。ターキー自身の記憶によると「魅力はあるが、おそろしく拙《まず》い女優」と劇評で叩《たた》かれたという。  ターキーはもともと、容姿一〇〇、踊り七〇、唄《うた》ゼロといわれ、セリフも舌足らずだった。本人も唄はいつも半分照れていたようだったが、私はあの音痴風の歌唱が好きだ。あばたもえくぼではなくて、唄に限らず不完全なところがいい。不完全さが魅力になるかどうか、それがスターかそうでないかの境目だ。  劇団たんぽぽは、当初はSSKのOBがほとんどで、藤田繁以下の男性舞踊手や歌手が数人参加した程度の変形少女歌劇で、男役が欠如しているのだからパッとしなかったが、たしか四回目公演の、�おしゃべり村�(穂積純太郎作)がヒットして劇団の方向も定《き》まったようだ。  これは狼《おおかみ》少年を娘にしてゴーゴリの検察官を加えたようなミュージカルだったが、娘役ではあるものの〈明るくて孤独〉というツボにはまっており、ターキーも楽しそうに演《や》っていた。  以後、�ユウラシアン�とか南方を舞台にしたものでターキーの持っているエキゾチシズムを活《い》かしたり、むずかしいタレントをうまく使っているなと思っていたら、劇団代表の兼松廉吉氏が懐刀《ふところがたな》 兼愛人だった由《よし》で、企画だけでなく役者集めにも熱が入っており、戦時下|唯一《ゆいいつ》の安定した劇団になった。  その戦争末期の二、三年が、私にとっては非常に長い。この間、劇団たんぽぽの公演を欠かさずのぞき、ターキーの雰囲気《ふんいき》に一人で浸りこんだような気分になるのが楽しみだった。八王子松竹のせまい楽屋に腹這《はらば》いになってリンゴをかじっていたターキーが、今でも夢に出てきたりする。私には年増《としま》のおばさんに見えたが彼女は一九一五年生まれだから、このころ三十歳ぐらいか。  戦後はインフレで劇団活動も苦しくなり、安手のレビュー映画に出たり、世間的には精彩がなかったが、それでも時おり国際劇場のレビューで男役などやると大受けしたりした。たしか、引退公演を二度やったと思う。引退と銘打った公演が大入りで、やめられず、何年か後にまた引退した。  それから映画のプロデューサーをやるかたわら�ジェスチャー�などのTVタレントで、年輪を加えながら長持ちしたのはご存じの通り。  戦後、私は芝居の客席から遠ざかってしまったが、水の江瀧子については、老《ふ》けようが落ち目になろうが、不思議な親密感を勝手に抱き続けて遠くから眺《なが》めていた。子供のころに身体《からだ》の中にひそんでしまったものはなかなか消えない。  私は、ずっと、水の江瀧子のように恵まれた一生を送る人はめったに居ないだろうと思ってきた。男運には恵まれていないが、あれだけの拍手に埋まり、後にも先にも彼女を超えるレビュースターはなく、七十代まで現役であのサバサバした明るさを保持しているのが凄《すご》い。凄いというよりラッキーだ。  そう思っていたら、降って湧《わ》いたように三浦和義《みうらかずよし》の事件で、白黒はともかく、この事件が彼女に与えた苦しみは計り知れないだろう。これだから人生は困るので、全勝も居ない、全敗も居ない、どこかで幸不幸のバランスがとれてしまうようなところがある。  せめて誰か一人くらい、いいことずくめで幸せに死んでいってほしいもので、私はターキーこそ、その人だと思っていたのだ。それでこそ私のアイドールだったのだが。  召集で中国に行ったというモダンボーイの明さんの、老いて苦渋に満ちた顔を新聞で見たとき、私は書架をひっかきまわして、昔の�ターキー�誌を探した。永遠に傷つかない表情の若いターキーの顔を見ようとしたが、どこに行ったか、雑誌が消え失《う》せている。 [#改ページ]   エッチン タッチン  前章で松竹系の少女歌劇に触れたので宝塚をやらないと片手落ちになるか。少女歌劇としてはこちらがご本家筋だ。第一回公演が大正三年だそうだから、むろん私など全部のスターを観《み》ているわけじゃない。まだたくさん居《お》られるはずの古老ファンにはおはずかしいが、戦前戦後、私が観ることができた範囲に記述をしぼっていく。  といっても子供の時分は大劇場の料金が高価で手が出ない。辛《かろ》うじて従姉《いとこ》たちのお供で折々に眺《なが》めた程度。それが葦原邦子《あしはらくにこ》と小夜福子《さよふくこ》の全盛期だった。だからこそ夢のように甘美に見えた。今、演目記録を見ると、�忘れな草�に感動したと長いこと思いこんでいたが、それは松竹のほうの演目で、宝塚のは�忘れじの歌�だったという始末だ。  しかし葦原、小夜、この二人によって少女歌劇の男役というものが本格的に形象化されたのではなかろうか。それまではどちらかというと美女の女役がスターの軸になっていて、観客も男の学生が多かったという。  お茶目な二枚目半の葦原、憂愁貴公子型の小夜、もっと端的にいうなら、ポッチャリ型とスリム型、非常に対照的でしかも人気は互角。戦前黄金時代の両輪だった。もし宝塚オールタイムのベストテンを作るとしたら、どちらを落としても片手落ちになるだろう。  それから戦前プリマドンナの草笛美子《くさぶえよしこ》が落とせない。実に堂々とした容姿と声量で、こういうプリマドンナらしいプリマドンナは、宝塚以外を見渡してもどこにも居ない。昭和十年代前半の�ブーケ・ダムール��パリ・ニューヨーク��花詩集�のころが絶頂期で、本当にこのころは宝塚は夢の絵葉書のような舞台だった。  これは私が幼かったせいばかりでなく、葦原、小夜、草笛、この三本柱のせいで、三人とも(退団後も活躍はしていたが)その真価は宝塚の舞台で発揮しつくしたといっていいだろう。当時は彼女たちを生かすようなほかの舞台がなかった。草笛美子など映画は戦時中に客演の形で二、三本(�エノケンの水滸伝《すいこでん》��唄《うた》う狸《たぬき》御殿�など)戦時下でもありまもなく引退してしまう。従って松竹勢の草笛光子のほうが有名で、まことに惜しい。  戦後はまず越路《こしじ》吹雪《ふぶき》だ。個性が強くてちょっとむずかしいタレントだったが、時代にも恵まれ、むしろ退団後大きく育った。あの唄い方は臭みとすれすれで、嫌《きら》う人は嫌う。私もどちらかといえば嫌いなほうだが、しかしあれがレビューの唄い方だ。現実と断絶させて、彼女の虚構の世界を作ってしまう。まず客を酔わせて、巻きこんで、彼女の癖の強い世界におびき寄せてしまう。もし醒《さ》めている客がいて、キザ! と一言吐き捨てたら、もろくもこわれてしまうような世界。そこを魔術のように酔わせて歌いとおしてしまう力は大きい。案外短命だったせいか、今でも彼女のレコードが流れると、嫌いだったはずの私もなつかしい。  同時期だが�百万|弗《ドル》の笑くぼ�といわれた乙羽信子《おとわのぶこ》、淡島千景《あわしまちかげ》、久慈《くじ》あさみ、この辺が戦後黄金期。そのあとが越路の小型版みたいな明石照子、淀《よど》かおる、寿美花代《すみはなよ》。戦前の葦原邦子を近代的にしたような那智《なち》わたる、大型の鳳蘭《おおとりらん》。  オールタイムというとまだ多士|済々《せいせい》で、華麗な戦前の娘役たち、品格があった桜緋紗子《さくらひさこ》、二条宮子、可憐《かれん》な久美京子、難波章子、コミックな大空ひろみ、唄のコンビの三浦時子、橘薫《たちばなかおる》。戦時下の名花糸井しだれ、桜町公子、楠《くすのき》かほる、活躍期間の長かった春日野八千代《かすがのやちよ》、神代錦《かみよにしき》、日舞の大看板|天津乙女《あまつおとめ》、戦後の娘役|八千草薫《やちぐさかおる》、新珠三千代《あらたまみちよ》ときりがない。  非常に荒っぽいが、葦原、小夜、草笛、越路、久慈、乙羽、那智、それにエッチン(三浦)タッチン(橘)のコンビ、もう一人は空爆死した慰霊も兼ねて糸井しだれ、これが私のベストテンになる。  ある方からお借りした�宝塚大全集�という十五枚組のレコードをひとわたり聴いてみた。レコードだからむろん唄が主で、踊りのほうはのぞけない。  その結果、改めて感じた二つのことがある。  その一は、レビュー作者の白井鉄造氏が、思っていたよりずっと大きな存在だったことだ。昭和初年にパリから帰った彼が作演出に手を染めると、それまでの揺籠《ゆりかご》レビューが急に精彩を発揮する。単にパリのレビューのセンスを移行させただけでなくて、非現実の世界をそこに創《つく》ってしまうのだ。それはレコードを聴いただけでわかる。  当時のモボ、モガ的風俗、あるいはパリへのあこがれ、これらは映画の影響が主だと思っていたが、実は宝塚が仕掛人だったのかもしれない、とまで思わせる。もちろんまったくの非現実だが、そこに精気を吹きこんだからこそ、歯の浮くようなセリフに魅力を感じたのだし、その基調は六十年後の宝塚にも一貫して守られている。葦原、小夜、草笛に代表される宝塚レビューを創作したのは白井鉄造だといってもいいのだろう。たとえ女子供の見世物でも、これだけの大きい空間を創りあげる才分は並々のものでない。  もうひとつ、今日、レコードで聴いても古さを感じないのが、エッチンタッチンの歌唱力だ。昭和三年上演の�パリゼット�の中で歌われた二人のかけ合いソング�ディガ・ディガ・ドゥ�を聴くと、そのジャジィな唄いぶりに一驚する。昭和三年というと、二村定一の�私の青空�などが出る前で、日本はまだジャズ歌手など居なかったころだ。  宝塚には連綿としてオペレッタ風の発声法が伝承されており、越路吹雪とて例外ではないが、あれはひょっとすると、素人《しろうと》をとりあえず歌手にしたてるには、あの発声と唄い廻《まわ》しがいちばん短期間に恰好《かつこう》になるのでもあろうか。昔も今もおおむね高調子で声を震わせる。  ところがエッチンとタッチンはまるでその伝統と無縁で、少女の域を越えている。白井鉄造の誘導だろうか。 �ディガ・ディガ・ドゥ�で二人は一躍売り出して、以後どのレビューでも二人のかけ合い風な唄が見せ場のひとつになった。エッチンの三浦時子がややシャウトして歌うタイプ、タッチンの橘薫のほうが小味《こあじ》に歌うタイプだが、二人とも(おそらく)ジャズソングをはじめて歌った日本人としてはリズムセンスが実によい。  ちょっとこの宝塚大全集という組レコをお聴きになってみてください。  ところで私は、エッチンの三浦時子は宝塚でチラリチラリとしか聴いていないのだが、タッチンの橘薫のほうは宝塚退団後も東宝系のステージで活躍していたからよく聴いている。  退団はタッチンのほうが早かったと思う。エッチンは太平洋戦争の始まるころまで宝塚に在籍していたが、引退して家庭にでも入ったのか、その後の消息を私は知らない。  それでエッチンタッチンのころを、中学生のころの私はそれほど知っていたわけではないが、独立してソロ歌手になった橘薫の唄が私は好きだった。  東宝系のアトラクションでは、田中福夫楽団が伴奏バンド。しかし日劇あたりのステージショーにも出るし、東宝映画にもオバさん役でときに出たりする。  そのころは敵性音楽のジャズは駄目《だめ》で、もっぱらシャンソン。それが洗練度が濃くてとてもいい。いったいに私は攻めこむ一方の芸を好まなくて、引いて技をみせる小味な芸が好きだ。黒いドレスに花を一輪飾って静かに歌うのだけれど、アップテンポの曲になったときの身のこなしが実にいい。  レビュー通の瀬川昌久氏も書いておられるが、昭和十五、十六年という大戦争直前の軽音楽界は、スイングジャズの影響や、シュヴァリエ、ダミア、ミスタンゲットなどフランスレビューの影響を受けて、かなり程度が高かった。  その中で宝塚出身の橘薫、松竹出身の笠置シヅ子、この二人が静と動と対照的ではあるが二名花だった。淡谷のり子も居たけれど、私は橘薫のほうが数倍好きだった。  敗戦後復活した日劇のショーで、第一回の�ファインロマンス�に、灰田勝彦、高峰秀子、岸井明に混じって橘薫も出ている。たしかこの直後だったか、笠置の後輩の京マチ子がOSK(大阪松竹歌劇団)から上京して、ターキーブギなど踊り、肉感的で評判になり、まもなく大映に引き抜かれたのだと思う。  それにくらべると橘薫は地味な存在だったが、日劇の大きなショーにはいつも出ていて、大人向きの歌手という定評を裏切らなかった。  ところが敗戦後数年して、もっと大きな活躍を期待していたのに、病気で亡《な》くなってしまう。癌《がん》だったのだそうで、たしか日劇の宣伝マンにあのころきいたのだと思うが、げっそり痩《や》せて痛苦にもだえる彼女を見るに耐えかねたという。  そういえば彼女はコミックな唄を歌うわりに、もともとあまり明るくなかった。橘薫という名の字面《じづら》もなにか地味で、またそれが好ましくもあったのだが。  しかし、とにかくレコードが残っているから歌手は幸せだ。何十年たっても現役の声を聴くことができる。 [#改ページ]   有島一郎への思い入れ  石原裕次郎《いしはらゆうじろう》が亡《な》くなった日、もう一人有島一郎も亡くなった。ある新聞では三段抜きで一面に出たりしていて、けっして小さい扱いではなかったが、裕次郎の死の大きさに圧倒されて、訃報《ふほう》でもやっぱり脇役《わきやく》という感じだった。  けれども私としては、裕次郎は私の映画年齢以後の出現で、子供のときから舞台で親しんでいた有島一郎の死のほうが思い入れが大きい。それどころか悼《いた》みてもあまりある。  有島一郎はすごく早熟で、二十歳そこそこで新宿ムーランルージュの舞台で、小崎政房作�級長�に主演して、まわりのヴェテランたちを顔色なからしめた。私はこの舞台を観《み》ていないけれど、私より年上のムーランファンは、あの役者は天才だ、といっていた。昭和十五年(彼が二十四歳のときだ)新興演芸に引き抜かれて関西で自分の一座を持つが、その前に危うく間に合って(私は小学校五年生くらいだったが)ムーランの有島をしっかり観ている。この時分の印象では、若い役だと朗々とした声で怒鳴るようにセリフをいい、老《ふ》け役になると別人のようにかすれた老人の声を出す不思議な役者で、そうしておおむね老け役がよかった。 「アリちゃんは変な薬を持っててね、老けのときは化粧前で小瓶《こびん》からチョチョッと呑《の》むのよ。そうすッとあの声になっちゃうの」  知ったかぶりのファンがそういっていたことがある。  当時、軽演劇のことなど新聞記事にはならなかったが、新興演芸の引抜き旋風はたびたび記事になったくらい、てんやわんやの騒ぎだった。 �松竹五十年史�に当時の新興演芸の各劇場の十日替り番組がくわしく記録してあるが、小劇団のアチャラカ劇、ボーイズ、漫才、剣戟《けんげき》、歌謡曲に浪曲に魔術と実に安手で雑然とした座組で、眺《なが》めているだけで当時の雰囲気《ふんいき》が蘇《よみがえ》る。現今の吉本式ごった煮番組で、ムーラン風の小市民劇などやれるわけはない。一説によると有島一郎は、同じ傘下《さんか》の森川信に対抗してこの時期アチャラカに徹したという。当時のコメディアンたちは、チャップリンやキートンの影響で、体技ともいうべき身体の動きのギャグを持っていた。森川信やその相棒の岸田一夫は、早くからそれをもうひとつ流線型にして、ディズニーの漫画的動きをこなしていたから、多分、有島も彼流の体技を身につけたのであろう。  太平洋戦争の翌年、有島は久しぶりに東京に戻ってきて私の視野の中に現れた。東劇、銀座全線座、とゲスト出演があって、水の江瀧子の劇団たんぽぽにゲストで出る(劇団のマネジャー兼松廉吉の厚遇に応《こた》えて終戦後まで腰をおちつける)。私も中学生になって、日曜日、親の許しをえて丸の内邦楽座に観に出かけた。しかし当時、それほど馴染《なじ》んでいたわけでもない有島一郎を、何故《なぜ》そんなに意識していたのだろうか。  今思うに、劣等感と下降意識をきっかけにして、年少のうちから軽演劇に馴染んでいた私だが、やっぱりこのジャンルから独特の成功者が出て貰《もら》いたかった。当時では有島一郎と、浅草の堺駿二《さかいしゆんじ》が若手秀才で、この二人の成長出世に感情移入していたのだと思う。  そうして二人が、銀座全線座に続いて劇団たんぽぽでも一緒だった。彼等を起用した兼松マネジャーの眼力もなかなかだったと思う(田崎潤、山本礼三郎、菅富士男、左卜全、沢村い紀雄等、彼の男優集めは独特だった)。堺駿二もアクを抑えてこの劇団のアンサンブルにとけこんでいたが、有島も、枯淡の老け役を演じ三十歳前とはとても思えない。それでレビュー風の出し物になると、痩身《そうしん》を利した奇妙な体技を発揮してほどのよいナンセンスな舞台を造る。これがいいので、私としては、成長出世といっても、建前じみた大劇場の名優になどなってほしくない。あくまでもナンセンスを基調にしたこのジャンル内で出世してほしい。  堺駿二は横須賀海兵団にとられてしまったが、戦時中の浅草には、清水金一《シミキン》、森川信《モツチヤン》、有島一郎《アリチヤン》という三様の秀逸なタレントが居《お》り、皆若くて充実していた。明るいパーソナリティの清水、才人という感じの森川に比して、人気はいちばん地味だったが、有島がもっともモダンでシュアーだったと思う。特に乗ったときに凄《すご》く、あの戦時中に前衛的ですらあった。敗戦前の新宿第一劇場で演《や》った�朝やけ部落�(松竹五十年史のおかげで演題がわかる)のクズ屋のナンセンスな動きなどは、ディズニー漫画の�シリーシンフォニー�を想起させたほどだ。  有島はルックスもインテリ二枚目タイプで、女性ファンも多かった。ところが楽屋では皆、彼を遠巻きにしていて近寄らない。気むずかしいのだという。後年も含めていえば、気むずかしいというより、孤立癖があったのだろうと思う。  中学を出たくらいでこの世界に飛びこみ、出世が早かった分、妬《ねた》みや苛《いじ》めにあったろうし、百鬼夜行の芸人世界を切り抜けているうちに、誰にも心を開かなくなるのは当然かもしれない。顔つきだけでなく、どこで身につけたか、資質というよりほかないが彼の芸には耳学問でないインテリジェンスがあった(つまり彼の演じるナンセンスが冷たく鋭角的だったということだ)。私は、もし接近した年齢だったら彼の内懐《うちぶところ》に飛びこんで、私が空想していたモダンなコメディアンの方向に誘導してみたい気がしたし、その自信も当時からあったが、もちろん相手にされまいし、それが彼の望みの方向だったかどうかも疑わしい。なにしろなにともつかぬ不機嫌《ふきげん》な気配が楽屋での彼にあって私はとうとう後年に至るまで一言も言葉を交したことがない。  が、たしかに浅草での彼は、もうひとつ客席と一体化できず、なにかの拍子に気が乗ると凄いが、多くはアンサンブル芸で、必要以上に自分を沈めていた。悩むというほどでないが、どこか不充足が内向していた。演出家のいい分をきかず役者との衝突など日常茶飯、それも大仰に発散せず、無口で頑固《がんこ》になるくらいで周囲が理解しえない。彼自身もその不充足を具体的に説明できなかったのかもしれないが、後年に至っても、友人がすくなかったのではないか。  その反対に、ムーランの踊り子だった堺真澄夫人とは円満夫婦で、軽演劇役者にはまことに珍しく末を完《まつと》うした。けれどもそれは閉じこもりがちで、四方に伸び拡《ひろ》がらない性分の証拠ともいえる。  戦争末期、東京が焼野原になったころ、もう芝居見物どころでなく、なにをやろうが来る者は来るし、来ない者は来ないという具合で、軽演劇も同じ演目で焼け残りの周辺都市を廻《まわ》っていた。  今でも忘れないが�もんぺお嬢さん�というファルスを、有島がもう名利を捨てた遊び心で、アドリブとアクションギャグで、同じ台本なのに毎日ちがう芝居にしてしまうそのおかしさに、ゲートル姿で周辺都市まで日参したことがある。あのギャグのスピードと凄みに比肩できるのは、後年の三木のり平と渥美清くらいしか思い浮かばない。  当時いろいろな事情で逼塞《ひつそく》中学生だった私としては、大仰でなく、有島一郎の存在が生きる希望の一つになっていた。  戦後、二十年代から三十年代にかけて、軽演劇がストリップに追われて潰滅《かいめつ》したころ私は別方向の遊びに淫《いん》していて、劇場街に足を向けなかったが、有島一郎の動向は関心を持って見守っていた。彼の名前はさすがに消えることはなかったが、提唱者のくせに脱退も早かった空気座の時分、国際劇場の歌謡ショー司会者のころ、トリローグループのころ、彼の苦闘の時代だ、広告の名前が、なぜかしばしば、有馬[#「馬」に傍点]一郎となっているのを私も口惜《くや》しく眺めていたが、あれは誤植か、それとも変名にしようという彼の発意か。  その間、森繁久弥の急上昇がある。森繁は戦後の役者の如《ごと》くだがスタートは有島とほぼ同じころだ。才気の横溢《おういつ》した役者だったが、メジャーになるにつれ、建前の顔が濃くなって、ナンセンスの領域からはずれていった。  そのころ、池袋の横道で淋《さび》しい顔をした有島を見かけたことがある。くたびれた皮ジャン姿で、それは一種のダンディズムにも見えるのだが、表情がうつろだった。軽演劇役者の多くがそうだったように、彼もまたヒロポンを打っているのかな、と思ったほどだ。  有島一郎の出世は、その初期と大ちがいに牛歩のごとくおそかった。映画で、舞台で、じりじりと追上げ、やがて誤植などあるはずもない存在になったが、中年|乃至《ないし》初老の気弱な男の哀歓を滲《にじ》ませるのが持役で、要するに彼が二十代から手の内にいれてきたような役ばかりだった。ただ調和がうまいから、どんな映画でも平均点以上のものは叩《たた》き出す。もちろんそれでメジャーの一角を占めたのだから少しもわるいことはないのだが、肝心の(と私が考える)ナンセンス芸のほうは、�雲の上団五郎一座�などときたまの舞台で片鱗《へんりん》を見せるにとどまった。本当に、のり平や八波むと志と競ったパロディコントも、彼の潜在的力量からすると片鱗でしかなかった。  そのうえ、森繁を追って建前的良識タレントを志向した気配があり、私を失望させた。どう見ても森繁の持つインチキ政治力や包容力で劣る。有島一郎は結局最後まで、完成した演技力を示しながら、一方で未完成の芸人でもあったようだ。 [#改ページ]   唄《うた》のエノケン  ※[#歌記号、unicode303d]空を飛び 地にもぐり   水をくぐれるのォは   自慢じゃ ないけれど   この俺《おれ》だけだァ   どんな敵でも 俺等《おいら》三人   力合わせりゃ なんでもない   俺たちゃ 世界中で   一番強いんだぞゥ  というのは昭和十五年製作の�エノケンの孫悟空《そんごくう》�の主題歌で、今でも歌詞まで空《そら》でいえる。ツマらんことを五十年も憶《おぼ》えていて、大事なことは忘れているようだが、五十年もたつとツマらんことも大事なことも差がつきがたくなっている。  ※[#歌記号、unicode303d]俺こそ 色男だ   リリオムさまだ   女の お相手なら 一番得意   どんなすねた方でも   おいらが行くなら ほがらかになる   俺こそ 色男だ   リリオムさまだァ  これもエノケンの唄で、舞台のほうの�エノケンのリリオム�の主題歌。なにしろエノケンの唄は、当時の七五調歌謡曲とちがって、ちょっとバタ臭くて、しかも憶えやすい。こういう唄は、当時、漫唱といわれて、専門家からは邪道のようにあつかわれていた。けれども唄に関する限り、エノケンは進んでいたし、うまかった。昭和のはじめにジャズのフィーリングを自分のものにしたのはこの人だけだった。 �孫悟空�がおもしろかったので、その後の�水滸伝《すいこでん》�を期待した。これも賑《にぎ》やかな顔ぶれで、李香蘭《りこうらん》(山口|淑子《よしこ》)や高峰秀子、草笛光子なども出ていた。あんなに封切が待ち遠しかったことはない。それで木曜日(当時の封切日)の早朝に、学校をサボって観《み》に行った。早朝割引でないと都合がわるかったから。  観たら、おそろしくつまらなかった。�孫悟空�はレビュー映画だったが�水滸伝�は下手糞《へたくそ》な喜劇だった。まアそれにしても、映画も芝居も、いつだって期待が充分に満たされることはない。それで去りぎわというか、別れぎわに、これでおしまいと思うと、なんだか味わい深くなる。  近ごろの若い人がエノケン映画を観て、そのギャグの古さに呆《あき》れかえったりするが、コメディアンとしてはメジャーになったこの時点で、すでにギャグが枯渇《こかつ》していた。だからエノケンは私にとってレビューの人だった。本人も、エディ・キャンターを目指していた時期がある。エディ・キャンターはジーグフェルドフォーリーズで育ったレビュースターで、ギョロ眼《め》で精力的な小男、彼の映画はいつも美女に囲まれ、唄や踊りで装われていた。結局これは、コンビだった二村定一の離反、オペレッタ作者菊谷栄の戦死、戦時体制、この三つの理由で挫折《ざせつ》する。  もっともメジャーになる条件として、ロイド喜劇ふうの弱者英雄|譚《たん》に徹していくわけだが。  エノケンたちの喜劇が新鮮だったのは多分、昭和初年のカジノフォーリー時代だったろう。 「どこへ行くの?」 「うん、ちょっとそこまでね」  というやりとりがよく例にされるが、セリフだけでなく、諸事、簡略化してスピーディな運びにし、それまでの思い入れたっぷり、建前の多いスローモーな旧劇を駆逐した。そこまでで、それ以上のギャグが作れずに年齢《とし》を喰《く》って動きがわるくなる。 �法界坊�や�どんぐり頓兵衛《とんべえ》�のような歌舞伎《かぶき》ダネは例外で、普通はそこまでエノケンを非情に使えない。  映画第一回作品の�青春|酔虎伝《すいこでん》�が、それまでのエノケン一座ふうオペレッタの感じを伝えている。結局、映画では山本|嘉次郎《かじろう》だけで、あとの監督は音楽を使いこなせなかった。  それにしても、昭和十年前後のエノケンの月給が千円。千円というと郊外なら家が一軒買えたという。今でいうと億近い。それだけの金をどこに使っちゃったのか、ほとんど溜《た》まってない。といって贅沢三昧《ぜいたくざんまい》というほどでもない。  せいぜい運転手つきの外国車くらい。当時の座員にきいても、酒は強かったそうだが、まずビアホールに行き、生ビールで下地を作って(安サラリーマンのように)カフェーあたりを一軒、それに寿司《すし》屋あたり。座員を何人連れてったとして大盤振舞いをしたってたかが知れてる。映画スターとちがって待合に居続けしたりするわけでもないらしい。もっぱら内弁慶で、酔うと眼がすわってからむ。  神戸のピス健というやくざから貰《もら》ったというピストルを大事に持っていて、いまにも打ちそうにしたり。自分の家に座員を連れていって、 「さア、斬《き》る——!」  日本刀を抜いて暴れたり。 「よウし、斬ってくれ——!」  といって中村是好は居直ったら、本当に横になぎはらって、それが柱に当たって難をまぬかれたという。  当時、やはり浅草の笑の王国で、八百円くらいとっていた古川ロッパは、小心なあまり銀行を信用できず、いつも現金で持ち歩き、楽屋に誰も居なくなると、札を数えてばかりいたという。だから座員の|前借り《バンス》がなにより嫌《きら》い。そういうところはエノケンは、わりに気前がよかったらしい。だから古い座員が離れない。それがまたマンネリズムにも影響してくるのだが。  昭和十一年ごろ、一流のジャズメンを集めて作ったエノケンジャズバンドは、水準の高い音を出していたが、すべて、エノケンの手銭で抱えていた。全員の給料となると、これは大きい。今でも古いジャズメンで、エノケンのことを、おやじ、といっている人が居る。  あるとき、舞台でセリフをいいながら一発、屁《へ》をこいた役者が居た。早速、楽屋に貼紙《はりがみ》を出して、「仕事中の放屁《ほうひ》、一発につき十円罰金」。  すると屁をしたからといって前借りに来る者が続出。おまけに罰金箱からその金がいつのまにかなくなってしまう。あまつさえ、エノケンが罰金を出す破目になって、貼紙に書き足した。 「俺《おれ》の罰金を呑《の》んだ奴《やつ》は、クビ」  大森に大きな家を、威勢よく買ったがその当座、現金がなくて豆腐のおからばかり喰《く》ってたという説がある。  売れてくると役者はまず溜めるが、エノケンはそうでなかったらしい。戦後、シミキンが落ち目になったとき、 「あいつは駄目《だめ》だ。若いモンをかわいがらなかったから」  といったそうだが、シミキンだってけっこう座員を引き具して呑みに連れてってた。ただ、彼のやり方は少しちがう。座員の呑む酒より、自分は一級上の酒でないとおさまらない。  おでん屋に行っても、 「さア、遠慮なくやってくれ。お前、なにがいい? 大根と半ペンか、よウし、注文しな」  それからシミキンが、 「俺もな、同じ奴を頼むよ。大根と半ペンだ。それから卵」  座員が、 「座長、あたしも卵、いいですか」 「よし——」  といってから、シミキンがしばらく考えて、 「じゃ、俺のに里芋を足してくれ」  どうしても座員より自分の皿が一つ多くないと気がすまない。自分が座長だから、というのだが、これでは奢《おご》りが実にならない。  もっとも、ケチケチして溜めても、結果的には同じで、敗戦のインフレで貨幣価値の変動があったから、貯金などなんにもならなかった。なまじっか、一時高給をとっていただけに、銭がないといっても同情されない。  しかし、エノケンもロッパもシミキンも、全盛時に、高給なんて問題じゃないほど興行者の懐《ふところ》をうるおしているのだ。  エノケン一座などは、松竹専属というより、松竹の大谷《おおたに》社長直属の劇団だった。儲《もう》かるにきまっている劇団は、大谷社長個人の帳簿になっていて、赤字になれば(なるはずがない)、社長個人が埋める代わりに、黒字はそっくり大谷家に直通してしまう。エノケンの給料が千円、一座に対する座払いが総額で約千円、それで、利潤が一日当たり万を超えたという。  ※[#歌記号、unicode303d]つれなき恋 月の熱海に影二つ   ネエお宮さん お前は金に目が眩《くら》み   待って頂戴《ちようだい》 これにはいろいろ訳がある   訳は聞かぬ よくも僕をば裏切ったな   貴方《あなた》そりゃ あんまりなお言葉よ   来年の今夜のこの月を   僕の涙でく、く、くもらせる   金色夜叉《こんじきやしや》のはかなきラブシーン  これは�ラブ双紙�でエノケンと二村定一が、半身男、半身女の衣裳《いしよう》で掛合いで歌う。いかにも昭和の初期らしい曲だが、私はまだ赤ン坊で、その舞台を見ているわけでもない。  どこでどうして憶えたのか、今でも鼻唄で歌っていることがある。軽薄|懦弱《だじやく》の極みだが、完全にフィクショナルなピエロの世界で、ハンパな建前の唄よりずっとよろしい。  これらの唄の中で私のエノケンはいつまでも生き続けている。