縄田 一男 捕物帳の系譜   まえがき  折からの歴史・時代小説ブームということもあって、平成二年三月、新潮社から刊行を開始した『時代小説の楽しみ』を皮切りに、私は時代小説のジャンル別アンソロジーの編纂に忙殺される状態となった。  剣豪小説、忍者小説、股旅もの、捕物帳、市井《しせい》ものと、様々なジャンルの作家と作品を、それぞれの歴史的展開を踏まえつつ、編集しているうちに、その中で、二つのジャンルの作品が、その構成においてとりわけ鮮やかなコントラストを示しながら、ほぼ同時期に大衆の寵児となっていったという奇妙な偶然が気になりはじめたのだ。  コントラストの方から記せば、捕物帳が、江戸という都会を舞台に、岡っ引や同心という固定型の主人公が(作品が探偵小説の体裁をとっているため)論理的・合法的に事件を解決していくのに対し、股旅ものは、地方を舞台に、渡世人という流動的な主人公が義理人情という極めて心情的なモラルで事件の渦中に飛び込んでいく作品ということになる。  そして、捕物帳が大正六年、岡本|綺堂《きどう》の『半七捕物帳』によってはじまり、昭和三年の佐々木|味津三《みつぞう》の『右門捕物帖』を経て、昭和六年に登場した野村|胡堂《こどう》の『銭形平次捕物控』のヒットにより一つのジャンルにまで成長していくのに対し、股旅ものは、長谷川伸が大正十二年に発表した『ばくち馬鹿』ではじめて渡世人を主人公とし、昭和四年の戯曲『股旅|草鞋《わらじ》』で�股旅�ということばを使い、以後、渡世人を主人公とした小説・戯曲を股旅ものと呼ぶことが定着。『沓掛時次郎』(昭3)『瞼の母』(昭5)『一本刀土俵入』(昭6)といった名舞台が生まれ、これに子母沢寛の『紋三郎の秀』『弥太郎笠』(昭6)等が加わり、満天下の喝采を博していく。  それにしてもこの対照と類似——私は先程、�奇妙な偶然�と記したが、ここまで来るとむしろ、何らかの必然と考えた方が納得がいき、面白い事実が浮かび上ってくるのではないのか。そう考えたのが、今こうして筆を走らせている動機なのである。  そしてもともと私は、修士論文のテーマが本書と同じ「捕物帳の系譜」であり、この捕物帳という時代小説とミステリーの狭間で生まれた愛すべき読物の歴史をまとめてみたいというのは、その頃からの野心でもあった。  今回、幸いにも機会を得て、まずは『時代小説の楽しみ』を刊行したのと同じ新潮社から、半七→右門→平次と続く三大捕物帳の系譜をさぐる一書をものすることが出来た。当初の計画は、まだほんの一合目に辿りついたにすぎない。従って本書は、私がこれからジャンル別に歴史・時代小説を論じていこうという試みの第一弾ということになる。  たぶん私は、論理の辻褄《つじつま》合せをはかるため、ひと理屈もふた理屈も捏《こ》ねて、呻吟に呻吟を重ねることになるだろうが、読者諸兄は、そんなことはお構いなしに、三河町の半七やら、むっつり右門、銭形平次と、懐しいあの顔この顔に思いを馳せてページを繰っていただきたい。そして、その懐しい顔が、果たして新しい顔として屹立《きつりつ》して来たならば、いっそう彼らと、より親密なおつきあいを願いたい。  それでは、何はともあれ、御一読願うと致しましょうか。 [#改ページ] 目 次    まえがき   一、捕物帳はなぜ書かれたのか   二、捕物帳ということば   三、「時計のない国」への招待   四、ミステリーとしての『半七捕物帳』   五、半七老人から三浦老人へ   六、『半七捕物帳』の終焉   七、大衆作家以前   八、右門は何故むっつりなのか   九、『右門捕物帖』の世界   十、味津三、黙して逝く  十一、胡堂富士を見る  十二、平次誕生  十三、法の無可有郷  十四、幻想の江戸を支えるもの    あとがき [#改ページ]   一、捕物帳はなぜ書かれたのか  捕物帳に関して稿を起こすとなれば、まず誰もが第一に触れねばならないのが、岡本綺堂の『半七捕物帳』だろう。大正六年一月の「文藝倶楽部」に発表された第一話「お文の魂」から、昭和十二年二月の「講談倶楽部」掲載の最終作「二人女房」まで計六十八話。文字通り、捕物帳の嚆矢《こうし》であり、江戸時代のシャーロック・ホームズ、半七老人を世に送った記念碑的作品でもある。  従って、私も無論、この作品から取り上げていかなければならないことは重々承知の上なのだが、その前にいささか寄り道をしてみたい気もなくはない。なに、お手間は取らせぬ——その寄り道とは一本の映画、すなわち、長谷川一夫主演の「銭形平次捕物控・死美人風呂」のことなのである。  映画の「銭形平次捕物控」は、戦前は「鞍馬天狗」や「右門捕物帖」ほどではないにしろ、アラカンこと嵐寛寿郎のシリーズとして数本を製作しているが、戦後は長谷川一夫の当たり役であり、この「死美人風呂」は回を重ねてシリーズ九作目。昭和三十一年度の大映作品、監督は加戸敏、脚本は小国英雄。内容は伊達藩のお家騒動に巻き込まれた軽業《かるわざ》小屋の娘、美空ひばりを助けて平次が大活躍するというもので、これに片手斬りを得意とする忠臣、大河内伝次郎が絡んで物語が進められていく。  そして、私が問題にしたいのは、映画がはじまって間もなく、美空ひばりが刺客の一団に追われるシーンである。小娘とはいえ、仮にも軽業小屋の太夫である。ひばりは白刃の下を幾度も掻いくぐり、容易に捕まらない。いや、それどころか屋根の上へと逃れていってしまうのだ。ここで業を煮やした刺客の一人が、懐から一丁の短筒《たんづつ》を取り出してひばりに狙いを定める。ひばり危うし! すると、どこからともなく飛んでくる四文銭が刺客の手もとを狂わせた。御存じ、銭形平次の登場である。そして、口から泡を飛ばしつつ「おのれ、武家のやることに手出しをするな」と怒鳴る刺客の罵声に対する平次の台詞《せりふ》が決まっている。  へえ、確かにお武家さんが何をなさろうとあっしの知ったことじゃあございません。ですが、|あの屋根の上にいる娘は《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あっしの守ってやる筋合いの者でございます《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点筆者)  さすがに才人小国英雄のシナリオだけに、野村胡堂が原作で意図した作品の精神をきちんと守っているな、と思わず膝を打ちたくなる絶妙の台詞まわしである。  胡堂が『銭形平次捕物控』で貫こうとしたもの、それはそのまま、彼がこの連作を書くに当たって留意したという四つの事柄に集約することが出来る。  それは、  一、容易に罪人をつくらないこと。  二、町人と土民に愛着を持つこと。  三、サムライや遊人を徹底的にやっつけること。  四、全体として明るく健康的な読みものにすること。  の四点である。特に二と三は、『銭形平次捕物控』の作品内部においては、徳川封建期における支配−被支配の関係、すなわち武家−町人といった上下の身分秩序が、作者の思惑一つで易々と乗り越えられることを意味している。先ほど記した映画「死美人風呂」の中での平次の台詞は、その最も端的な例として了解されよう。さらにこうした発想は、作者をして、「捕物小説の楽しさは、この近代法の精神を飛躍した、一種のヒューマニズムにあるのかも知れず、奔放な空想のうちに、自分勝手な法治国を建設する面白さにあるのかもしれない」とも「|夢の国《ユートピア》を建設して、丁髷《ちよんまげ》を持つた法官刑吏達に、精神的な意味を持つ『信賞必罰』の実を挙げさせて居るのである」(「捕物帖談義」)ともいわしめ、この連作において、時代考証の論議がほとんど意味を成さないことを示している。  それらのことを踏まえて、例えば、ここに岡本綺堂が昭和四年一月、春陽堂から刊行した二巻本の『半七捕物帳』のはしがきに記している有名な一節、  若しこれらの物語に何等かの特色があるとすれば、それは普通の探偵的興味以外に、これらの物語の背景をなしてゐる江戸のおもかげの幾分をうかゞひ得られるといふ点にあらねばならない。したがつて、わたしは半七老人の物語を紹介するに就て、江戸時代でなければ殆ど見出されまいかと思はれるやうな特殊の事件のみを輯録《しゆうろく》することにした。  に見られるリアリズム主義に、野村胡堂が昭和二十九年九月、同光社から刊行した『幽霊大名——銭形平次捕物全集31』の著者のことばの中の、  江戸はよき時代であつたと言ふのは、江戸の制度やその習俗のことでは無い。我等は江戸の風物|詩《し》の中に、江戸のよさ、江戸の楽しさ、江戸のなつかしさを夢みるのである。嵐があるからといふ理由で海を嫌ふ者や、蛇が棲むといふだけで山を厭ふ者は気の毒である。再び還ることの無い江戸といふ舞台に、人と事件とを踊らせ、思ひの儘《まゝ》の展開を楽しむのは、我々の自由であり、我々に許された世界の芸術である。  という逆説的ユートピア主義を対置させてみるとどうなるであろうか。二つの文章が書かれた間には二十五年という時間のひらきがある。そして、それが、捕物帳というものの本来的な意味をかくも変えてしまったのだともいえよう。二十五年の間——いや正確にいえばそうではなく、『半七捕物帳』がはじめて世に現われ、『銭形平次捕物控』が作者の思想の器としての完成を見るまでの間だが——何がどう捕物帳の中で変わっていったのか、そしてまた、何がそれを可能ならしめていったのか。私は、それを見ていきたいと思うのである。つまり、もっとくだけていえば、この論考は、半七にはじまった捕物帳の世界の中で、銭形平次という一介の岡っ引が、サムライ相手に、なぜあれほど偉そうな口を利《き》けるようになったのか、そうなるまでの道筋を明らかにするための試みである、といえるかもしれない。  そのために私は、三人の作家が書いた三つの捕物帳、すなわち、岡本綺堂の『半七捕物帳』、佐々木味津三の『右門捕物帖』、野村胡堂の『銭形平次捕物控』と、江戸と東京という二つの都市、さらには、これらの作品を愛し続けた多くの読者を俎上《そじよう》にのぼすことになるだろう。そして、その中から、様々な作中人物を通して、江戸という過去と東京という現在の間を越境し続けた作者と読者の思いも明らかになってくるに違いない。  その作者と読者の共通の思いを、捕物帳の始祖である岡本綺堂の『半七捕物帳』の中に求めてみた場合、一つの指針として挙げられるのが、大正十二年九月一日、相模湾を震源として関東・東海を襲い、死者行方不明者十四万、全壊焼失家屋五十七万戸に及ぶ大惨事となった関東大震災の存在である。 『半七捕物帳』との絡みで、岡本綺堂がこの震災について記しているものの中で、第一に触れなければならないものは、翌大正十三年五月、新作社から刊行された『半七捕物帳 第四輯』のはしがきであろう。  その中で、綺堂は、  半七捕物帳も巻をかさねて、第四輯を出すことになつた。  第三輯は去年の八月、原稿をとりまとめて印刷所へまはすと、間もなく彼の震災に遭遇したのであるが、幸に印刷所が無難であつた為に、原稿も消滅の禍をまぬかれて、二月の後に市場へあらはれることになつたのは、まつたく意外の仕合せであつた。   と、記している。  文中にある印刷所とは、当時、牛込区早稲田鶴巻町にあった溝口印刷所であり、山の手にあったため、この震災を免れたのだと思われる。 『半七捕物帳』の単行本は、大正六年に平和出版社から刊行された初刊本をはじめとして、大正十年、隆文館刊の『半七聞書帳』(半七が活躍せず、彼自身の聞き書きという形式をとった六篇を収録、後にそのほとんどが従来の『半七捕物帳』に書き改められた)、戦後、早川書房から刊行された五巻本の定本、そして現在流布している光文社文庫版と、そのテクストも軽く十種を超えているが、この連作がはじめて大衆に圧倒的な人気を得たのは、大正十二年四月から同十四年四月にかけて刊行された新作社の五巻本であるといわれている。 『岡本綺堂日記』(岡本経一編、昭62、青蛙房《せいあぼう》刊)の大正十二年の記述を見ても、八月十三日の項に「半七捕物帳第三輯を作るとて、旧稿を整理して訂正」とあるのをはじめとして、同月二十七日、「新作社の佐藤君より捕物帳第一輯増版の印税を郵送し来る」等と、綺堂自身もこの新作社版のために旧稿の改訂、校正とかなりの時間を割き、また、既刊分も好評に版を重ねている様子がうかがえる。そして、さらに、この日記から前に引用した「二月の後に市場へあらはれることになつた——」という箇所に相当する記述をさがせば、十月十九日の「新作社の佐藤君が来て、半七捕物帳第二輯印税の残りをくれ、この際思ひ切つて第参輯を出版してみると云つて、兎もかくも千部だけの奥付の捺印を求め、あはせて第一輯第二輯各参百部の捺印を求めゆく」というところになろうか。かくして、『半七捕物帳 第三輯』は、大正十二年十一月一日の奥附で出版の運びとなるのである。  この間、綺堂自身も、麹町区元園町の家を焼け出され、紀尾井町の小林蹴月宅、市外高田町大原の額田六福宅といった具合に親戚、門人宅を転々とし、麻布区宮村町十番地の貸家にようやく腰を落ち着けるという忙しさだが、それにしても、この東京に住む人々の住居を焼き払ってしまったばかりでなく、それまで残っていた江戸の面影をことごとく葬り去ってしまった震災に対して、彼の心中、いかばかりであったろうか。  なぜなら、『半七捕物帳』は、作者綺堂の失われゆく江戸に対する思いに端を発した創作であるからだ。もとより自作について多くを語ることをしなかった綺堂である。この連作について直接、書かれたものは、「文藝倶楽部」の昭和二年八月号に掲載されたエッセイ「半七捕物帳の思ひ出」くらいのものであろう。  だが、このエッセイよりも何よりも、木村錦花や岸井良衞といった門人らの伝える『半七捕物帳』誕生にまつわるエピソードが、実作者の内面に宿った心情的部分を最もよく伝えているといえるかもしれない。そのエピソードとは、綺堂が病を得て寝ていた時、枕元の小説本が活字が小さくて読みにくい。仕方なしに床の間にあった『江戸名所図会』を取り出してみると、こちらは活字も大きく、夢中で読み耽《ふけ》った。もともと、『江戸名所図会』等というものは、どこの家にもあり、親しまれ、役立っていたはずのものだが、ここに描かれている江戸の姿を何とか面白く、現代に伝える方法はないかと思案し、その解答が後の『半七捕物帳』となって世に出たというものである。  既にこの時点で、『半七捕物帳』が何故、写実的な手法によって江戸を再現しなければならなかったかが了解されよう。  岡本綺堂は、明治五年(一八七二)、旧幕臣の子として東京は芝|高輪《たかなわ》に生まれた。綺堂の養嗣子であり、後の青蛙房主人岡本経一編著の『綺堂年代記』(昭26、同光社刊)によると、父は通称敬之助、維新後は純《きよし》といい、奥州二本松の藩士武田芳忠の三男で、いかなる縁故か、百二十石取りの御家人である岡本家の養子となった人物。岡本家へ養子に行ったものの、二本松の江戸藩邸へ出入りをしているうちに、そこへ奉公していた町家の娘幾野と結ばれたと記されている。  この敬之助、佐幕の志厚い奥州の出だけに、官軍に恭順の意を示すのを潔しとせず、江戸を脱走。野州宇都宮や奥州白河を転戦、傷を負って江戸に舞い戻るも身の置きどころなく、以前、神奈川奉行の配下であった頃、好誼《よしみ》を結んでいた横浜居留地の英国商人ブラウンの許に潜伏することになった。佐幕派として活躍しながらも、一方で柔軟な精神を持ち、英語を解する——このあたり、最後まで江戸=旧東京の住人であることに自らのアイデンティティを見出しながら、海外の小説作品を次々と原書で読み飛ばし、自己の作品内部で血肉化していった綺堂の父ならでは、という気がするのは、私だけではないだろう。ともあれ、この語学の素養を買われてパークスの赴任している英国公使館に勤めることになるのだが、公使館のあるのが芝高輪であり、一家も高輪泉岳寺の傍の借家に移り住み、そして、先程記した明治五年、十月十五日に、長男の敬二(二つ違いの姉がいるが、長男であるにもかかわらず二の字を用いたのは、君父の二者を敬すという古語に拠ったものであるという)、すなわち綺堂誕生となるわけである。これは余談だが、後に『銭形平次捕物控』の作者となる野村胡堂が、明治十五年(一八八二)の、やはり、十月十五日の生まれであることは、何かの因縁であるとしか思えない。  それはともかく、結果からいえば、幕末維新期を見事なまでに泳ぎ切った敬之助だが、やはり去りゆく時代と、ことにその時代とともに押し流されてゆく人々に対する哀惜の情にひとかたならぬものがあったのは、想像に難くない。  岡本綺堂は「江戸の残党」というエッセイの中で、子供の頃、一緒に夕涼みに出た父が、没落士族が路上に莚《むしろ》を敷き、半紙を置いて、それに字を書いて金を恵んでもらっているのを見ると、にわかに沈痛な表情になり、一間ばかり過ぎてから二十銭紙幣を綺堂に託し、「これをあの人にやってこい」と命じたと綴っている。  そして、明治八年(一八七五)、英国公使館が麹町区五番町に移転したため、岡本一家も同元園町へ移転。かつては徳川幕府の調練所があり、維新後、桑茶栽付所として拓《ひら》けていったというこの町は、幕府の薬園があったところから元園町と名付けられたという。ここで彼の遊び場所であったのは、そのころ、化物屋敷となり果てた旧旗本屋敷であったりした。当時はこのような荒屋敷があちらこちらに残っており、これなど、『半七捕物帳』の第一話「お文の魂」で、やがて、この連作の語り手をつとめることになる新聞記者の�わたし�が、Kのおじさんの家へ行く途中、 ——その頃には江戸時代の形見といふ武家屋敷の古い建物がまだ取払はれずに残つてゐて、晴れた日にも何だか陰つたやうな薄暗い町の影を作つてゐた。  と、その道中を説明する箇所と呼応する。また、綺堂の言によると、彼の生家は「江戸時代の与力にして読本作者たりし高井蘭山翁の旧宅」(『現代大衆文学全集第十一巻 岡本綺堂集』巻末自筆小伝、昭4・7、平凡社刊)であったそうで、つまりは、幼少の頃から江戸の残り香をふんだんに吸収して育ったわけである。  綺堂の生まれ育った時代は、一方で文明開化の洗礼を受けつつも、また一方で、そのまま江戸の延長であったといえるだろう。そんな中で、あたりに荒涼たる草叢の景色を展開しつつも、料理屋もあれば待合《まちあい》や貸席もある、そして、長唄や常磐津《ときわず》の師匠も住んでいるという山の手と下町の風情が混在した元園町という町は、綺堂の描く江戸の原風景として、少年期の彼の脳裏に鮮明な像を結ぶことになるのである。  しかし、明治も二十年代に入ると、次第に地方からの寄留人口が増加する一方、「国民之友」には森鴎外の「市区改正論略」が掲載されたり、最初の都市計画立法である東京市区改正条令が公布(明治二十一年)されたりして、江戸の面影を残す旧東京もその変質を余儀なくされていってしまう。  そして、この変質は、大正時代に入ってからますます拍車がかかってくるわけだが、その間の事情は、永井荷風が『日和下駄』(大4)に記した「今日《こんにち》東京市中の散歩は私《わたし》の身に取つては生れてから今日《こんにち》に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。之に加ふるに日々《にちにち》昔ながらの名所古蹟を破却《はきやく》して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現《あらは》れた荒廃の詩情を味《あぢは》はうとしたら埃及《エヂプト》伊太利《イタリー》に赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷《いた》ましい思《おもひ》をさせる処はあるまい」というくだりを読めば、おおよその察しはつく。そして荷風はこの後、「今日看《けふみ》て過ぎた寺の門、昨日《きのふ》休んだ路傍《ろばう》の大樹も此次再び来る時には必《かならず》貸家か製造場《せいざうば》になつて居るに違ひない」と続けているのである。  こうした中、岡本綺堂の江戸に対する郷愁の念は、以前にも増して高まっていったに違いない。この失われゆく江戸の面影を何とかして書きとめておきたい——その思いと綺堂の探偵小説趣味が結びついて生まれたのが、『半七捕物帳』なのである。  九歳の頃より、英国公使館の留学生から英語を学んでいた綺堂は、明治二十一年(一八八八)、十七歳の折、本名の岡本敬二の名で英国公使館書記官アストンの序を附した『和英対訳 記事論説文例』なる一巻を井ノ口松之助書店から刊行するほど卓抜した語学力を身につけており、これは、実用会話、実用文章の和英対訳による初歩英語読本ともいうべきもの。綺堂の死後、その存在が確認されたため、岡本経一は、どこまで綺堂自身の筆によるものか確認出来ないとしつつも、「幼年から英国人に直接(英語を)指導されたのであるから」「綺堂が初歩の英会話の本を著したからと云つて不思議はない」(『綺堂年代記』)と記している。  ともあれ、大正五年(一九一六)、巷《ちまた》では、天弦堂書房から刊行された加藤朝鳥訳の三巻本の『シヤロック・ホルムス』が、�嘖々《さくさく》たる高評! 飛ぶが如き売行、見よ見よ発行後数日にして重版の盛況�と華々しい広告とともに版を重ねており、欧米の探偵小説を丸善から原書で取り寄せ、ことごとく読破していたという綺堂も、前述の「半七捕物帳の思ひ出」の中で、  そのころ私はコナン・ドイルのシヤアロツク・ホームスを飛び/\には読んでゐたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行つた序《つい》でに、シヤアロツク・ホームスのアドヴヱンチユアとメモヤーとレターンの三種を買つて来て、一気に引きつゞいて三冊を読み終ると、探偵物語に対する興味が油然《ゆぜん》と湧き起つて、自分もなにか探偵物語を書いてみようといふ気になつたのです。勿論その前にもヒユームなどの作も読んでゐましたが、わたしを刺戟したのは矢はりドイルの作です。  と、コナン・ドイルの�シャーロック・ホームズ譚�に魅せられていたことを告白している。  綺堂がシリーズ第一話「お文の魂」の中で半七のことを「彼は江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであつた」と記していることや、初出誌の「彼の冒険仕事《アドヴヱンチユアー》はまだ/\他《ほか》に沢山あつた」というルビの使い方が、The Adventures of 〜と銘打たれたホームズ物の第一短篇集を連想させる点など、『半七捕物帳』が�ホームズ譚�の影響下にあることは否めない。しかしながら、そこには、「大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから」という理由でこれを斥《しりぞ》け、「現代の探偵物語をかくと、どうしても西洋の摸倣に陥り易い」ため「いつそ純江戸式に書いたらば一種の変つた味のものが出来るかも知れない」(「半七捕物帳の思ひ出」)という綺堂のことばに示されるように、純粋に日本的な意味での探偵小説を創造したいという意欲が盛り込まれていたのである。  そして、さらにいえば、綺堂が�ホームズ譚�を読んで最も注目したのは、コナン・ドイルの手になるこの連作が、十九世紀末ロンドンの世態・風俗・人情等をかくも見事に活写していたという点であったのではないだろうか。霧けぶるロンドンの街を疾走する二輪馬車、ガス燈に浮かび上るホームズの横顔、そこには探偵小説の形を通して、当時を生きた人々の姿や風俗が、色あせることなく生き生きと刻みつけられていたのである。  このことは、ホームズの物語に登場する人名、地名、歴史的事実等、あらゆる事柄を網羅した"The Encyclopedia Sherlockiana" by Jack W.Tracy, 1977(邦題『シャーロック・ホームズ事典』各務三郎監訳、大村美根子・風見潤・日暮雅通訳、昭53、パシフィカ刊)が、十九世紀末ヴィクトリア朝の生活様式に関する貴重な記録となっている点からも了解されよう。そして、これは、岡本綺堂に関しても当てはまり、後に岸井良衞が『半七捕物帳』をはじめとする綺堂の作品から、江戸の風物制度等に関する考証面のみを取り出し、『岡本綺堂江戸に就ての話』(昭30、光の友社刊。昭和三十一年以降、版元を青蛙房に変え、以後増補改訂を繰り返し現在も刊行中)なる一巻を編纂するのと同じである。  つまり、綺堂は、江戸に対する追懐の情を客観化するため、ミステリーという知の策略をもって不朽の名作『半七捕物帳』をものしたのだといえよう。  そして綺堂自らがいうところの�油然と湧き起つ�た�探偵物語に対する興味�は、文字通り、油然と、とどめることが出来なくなっていったらしい。綺堂の自筆年譜の大正五年の項には、「六月、『半七捕物帳』を起稿し、翌年一月号より文藝倶楽部に連載。三月までに前編七回成る」と記されており、「お文の魂」から「奥女中」に至るはじめの七話は、博文館から刊行されていた「文藝倶楽部」の大正六年一月号から七月号までの連載である。しかしながら、その執筆時期を考えると、綺堂の自由な意志により、しかも、長期の連作を考慮に入れて書きはじめられたものらしいことが分かる。  このはじめの七話が掲載された時点で、捕物帳は、まだまだ一般の読者には耳馴れぬ名称であったはずであり、ことに第一話「お文の魂」が載った一月号では、「半七捕物帳 巻の一」という連作名を本文ページに刷り込むばかりでなく、目次には�江戸探偵名話�という角書《つのが》きを用意し、その内容を明確にしなければならなかった。ましてや、今日のように、捕物帳を探偵小説と時代小説の双方に跨《また》がるジャンルとして捉える認識などあろうわけもなく、この時、捕物帳とは、作者綺堂の創作における内的必然性を託した一作品の題名でしかなかったのである。  このような動機から捕物帳の執筆に着手した岡本綺堂であったからこそ、関東大震災による衝撃は大きかったであろうし、事実、エッセイの中でも、「(江戸と東京を結ぶ)架け橋は三十年ほど前から殆ど断えたと云つてもいゝ位に、朽ちながら残つてゐた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離をつげて、かけ橋はまつたく断えてしまつたらしい」とまで断じている。この一節は主として少年時代に観た歌舞伎の思い出を軸として震災後の感慨をまとめた『島原の夢』からの引用だが、「一切の過去は消滅した」といいつつも、「しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽み、ひとり悲んでゐる。かれはおそらく其一生を終るまで、その夢から醒める時は無いのであらう」と結んでいるのが、あまりにもストレートな綺堂の心情と一つの決意を吐露しているかに見え、痛ましくも悲しいのだ。  その決意が何であるかは、おいおい述べてゆくことになるだろうが、この震災のため、綺堂は、前にも記したように、書斎の戸棚の片隅に押し込んであった雑誌や新聞の切り抜きを、手当り次第にぶち込んだバスケットを持ったきりで、家財・原稿・蔵書のすべてを失い、元園町の家を追われてゆく。しかしながら、彼の失われゆく江戸の面影を何とかして今日に残しておきたいという、『半七捕物帳』に託した思いは、この時を境にして、ますますその有効性を発揮していくことになるのである。  それではなぜ、綺堂の『半七捕物帳』に託した思いは、関東大震災を境に、ますますその有効性を発揮していくのか?  例えば、『半七捕物帳』の第一話「お文の魂」を思い起こしていただきたい。  物語は、後にこの連作で、半七から事件の聞き役になる新聞記者の�わたし�が、十二歳の時、父の知りあいのKのおじさんから、元治元年三月、小石川西江戸川端の旗本屋敷で起こった幽霊事件の顛末《てんまつ》と、その解決にひと役買った半七という岡っ引の話を聞き、興味を持ったという、全篇のプロローグとでもいった性格のものだ。  Kのおじさんは、�わたし�にその幽霊事件の話をしてやろうと、「わたしは留守番だから、あしたの晩は遊びにおいでよ」と誘うのだが、その箇所で、  Kのをばさんは近所の人に誘はれて、けふは午前《ひるまへ》から新富座見物に出かけた筈である。  と記してあるのに御注目願おうか。  新富座は、守田勘弥を座主とし、もともとは守田座と称して浅草猿若町にあったものだが、明治五年八月、新富町に移転し、後に新富座と改名。翌年、類焼のために焼失し、十一年六月、本邦ではじめてガス燈を用いた劇場として落成したことで知られている。  岡本綺堂の自伝的要素の強い随筆集『明治劇談ランプの下にて』(昭10、岡倉書房刊)によれば、その落成式に、在京外人が招かれ、彼らを代表して、綺堂の父敬之助が勤めていた英国公使館のイギリス人が贈り物をしようということになった。かねて団十郎と知り合いの仲だった敬之助が勘弥と交渉し、結局、「紫の絹地のまん中に松竹梅の円を繍《ぬ》つて、そのなかに新富座の定紋の|かたばみ《ヽヽヽヽ》を色糸で繍《ぬ》ひ出した」引幕を贈ったのだが、勘弥から感謝された敬之助は、明治十二年三月、家族や近所の人たち総勢十数人で、新富座へ芝居見物に出かけることになる。綺堂、この時、八歳。はじめて芝居というものに接したという。  もっとも綺堂が、はじめて劇場の空気の中に押し込まれたのは、明治八年二月の、やはり新富座の大岡政談なのだが、このことは「全然記憶してゐないのであるから、わたしとしては実にこれ(同十二年三月の芝居見物)が初めと言つてよい」と自ら断っている。  ともあれ、この時の印象を、後の岡本綺堂は「これまで見馴れてゐた踊りのお浚《さら》ひなどとは大いに勝手が違」い、狂言の筋立も複雑で、自分の持ち合わせている「幼稚な予備知識では、とても会得《えとく》することの出来ないもの」だったとしつつも、  わたしの眼に映つたものは、ただ何がなしに綺麗な道具と綺麗な人物と、それが幾度もぐるぐると廻つたり、ばさばさと立ち騒いでゐるだけのことであつたが、なにしろ今までわたしをよろこばせた、かの定さんの茶番や、大奴さんのお浚ひとは、全然比較にならないほど壮大華麗な舞台面が、わたしの眼の前にそれからそれへと限りもなく拡げられるのであるから、わたしは夢中になつて見つめてゐた。  と、子供ごころに覚えた陶酔感を記している。  また、この時、綺堂が最も気に入ったのは、「赤松満祐梅白旗《あかまつまんゆううめのしらはた》」の中で、鎧武者渥美五郎を演じた初代左団次であり、岡本経一は『綺堂年代記』の中で、後に二代目左団次と組んで数々の名舞台を世に送った綺堂の作劇の根底には「(初代)左団次といふ俳優が少年の心に深く印象づけられてゐることが知られる」と述べている。  つまりは、岡本綺堂にとっては、切っても切れぬ思い出深い劇場であり、実際、何篇かの芝居をこの劇場で初演してもいる。従って、既に指摘したように、�わたし�がKのおじさんの家へ行く途中の描写が綺堂の少年時の遊び場に通じるように、「——けふは午前から新富座見物に出かけた筈である」と筆を走らせた時、彼の脳裏をその懐しい思い出が横切ったことは誰しも否定出来ないだろう。  ところが、「お文の魂」が発表されてから六年後、関東大震災を経た後の綺堂の新富座に対する思いは、  劇場は日本一の新富座、グラント将軍が見物したといふ新富座、はじめて瓦斯《ガス》燈を用ゐたといふ新富座、はじめて夜芝居を興行したといふ新富座、桟敷《さじき》五人詰一間の値四円五十銭で世間をおどろかした新富座——  という、熱に浮かされたような呼びかけではじまり、父とともに「妹背山《いもせやま》婦女《おんな》庭訓《ていきん》」(久我之助=市川左団次、雛鳥=中村福助、大判事=中村|芝翫《しかん》、定高=市川団十郎)を観た思い出を綴り、最後に、  その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまつた。周囲の世界もまつたく変化した。妹背山の舞台に立つた四人の歌舞伎俳優のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わづかに生き残るものは福助の歌右衛門だけである。新富座も今度の震災で灰となつてしまつた。一切の過去は消滅した。  と、深い哀しみと絶望の心情を露わにすることになるのである。  さらにこの後に、「しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して——」と続くとなれば、もうお分かりだろうが、この二度にわたる引用は、先に紹介した綺堂の随筆『島原の夢』によるものだ。島原とは、無論、新富町のこと。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史があるので、東京の人は、新富町を島原、新富座を島原の芝居と呼ぶ、という説明が文中にある。  その思い出の場所が灰燼《かいじん》に帰したのである。  岡本綺堂にとって島原の崩壊は、江戸歌舞伎に象徴される旧東京=江戸の面影の終焉《しゆうえん》を意味している。自らを「旧東京の前期の人」、すなわち、文明開化の風に吹かれつつも、所詮は「江戸時代からはみ出して来た人たち」であるとする綺堂にとって、この哀しみの深さはいわずもがなのことであろう。  そして、この時、『半七捕物帳』の執筆開始に当たり、かつて甘美な思い出とともに綴った一節「——けふは午前《ひるまへ》から新富座見物に出かけた筈である」は、震災後、こうした哀しみのフィールドを通して、再び綺堂の前に浮かび上って来たのではあるまいか。  このようなことは、『半七捕物帳』を読んだ当時の人たちの中にも、当然の如く、起こったと考えられる。例えば第五話「お化師匠」の中で、半七が殺された踊りの師匠・歌女寿《かめじゆ》の寺を尋ねると、 「広徳寺《ヽヽヽ》前の妙信寺です。——」  という答えが返って来る。  これはすでに、田村隆一が『半七捕物帳を歩く ぼくの東京遊覧』(昭55、双葉社刊)で考証ずみなのだが、浜田義一郎監修の『江戸文学地名辞典』(昭48、東京堂出版刊)によれば、この広徳寺は、「大正十二年の関東大震災のため、一切が焼失して、末寺、墓地は練馬区に移った」とある。  広徳寺といえば、加賀百万石が檀家であり、『江戸名所図会』に「当寺の総門は、名匠の差図にして、これまで風火の難度々におよぶといへども恙《つつが》なし」(東遊記)と記された、欄干の麒麟《きりん》が左甚五郎作といわれるその�寸足らずの門�(甚五郎が病のため、代りの者が柱を切ったら一尺ほど切りすぎたのでこの異称がある)で有名だったが、この名刹《めいさつ》が、大震災で焼失してしまったのである。綺堂ほどではないにしろ、『半七捕物帳』のページを繰って、綺堂と同様の感慨に捉われた読者は少なくないだろう。  実際、既に引用した「半七捕物帳も巻をかさねて、第四輯を出すことになつた——」という書き出しで、関東大震災に関する言及がある新作社版『半七捕物帳 第四輯』は、私の確認した限りでは、昭和二年四月にはやくも十二版を数えており、震災前に刊行された巻よりも、短期間で最も部数を伸ばしていることが分かる(この時、大正十二年四月刊の第壱輯は八版、七月刊の第弍輯は七版)。これなど、当時の読者が、『半七捕物帳』の中に描かれている江戸の風物詩の意義を濃密に嗅《か》ぎとり、作中に描かれたかつての江戸を切実に求めたことの良き証左に他なるまい。  確かに、岡本綺堂が『島原の夢』で嘆いたように、朽《く》ちかけながら残っていた江戸と東京を結ぶ架け橋は、震災を機にまったく途絶えてしまったかもしれない。だが、この時、綺堂の内部で、そして、当時を生きた人々の内部で、『半七捕物帳』こそが、江戸と東京を結ぶ新たな架け橋としての意味を持ちはじめたのである。 [#改ページ]   二、捕物帳ということば  その『半七捕物帳』の、内容の検討に入っていきたいのだが、それに先立って、ぜひともやっておきたいことがある。題名にもなっている、�捕物帳�ということばに関する調査である。  今でこそ�捕物帳�といえば、江戸時代を舞台にした探偵物語という一般の認識があるが、『半七捕物帳』の発表当時はまだ聞き慣れぬことばで、わざわざ�江戸探偵名話�と角書《つのが》きを附して、その内容を明らかにしなければならなかったことは既に述べた。そして綺堂自身も、捕物帳ということばを使うべきかどうか、連載の直前まで、かなり迷っていたらしい節があるのである。  それというのも、『半七捕物帳』の連載が開始される前月の「文藝倶楽部」大正五年十二月号を見ると、次号予告の欄に、田山|花袋《かたい》『山の悲劇』や近松秋江『曾根崎夜話』等と一緒に、綺堂の『半七捕物帳』の予告も出ている。しかしながら、巻末の囲み記事の中には「岡本綺堂氏は秘蔵の好材を展いて江戸時代の『探偵名話緋房の十手』を誌面に活躍させ——」という、もう一つの題名を記した予告が掲げられているのである。  もし、岡本綺堂が『緋房の十手』の題名を用いていたならば、わが国の小説史上、はじめて�捕物帳�の三文字を用いた記念すべき作品は、『半七捕物帳』より一カ月遅れて「探偵雑誌」に連載を開始した泉|斜汀《しやてい》の『弥太吉老人捕物帳』ということになっていたかもしれない。ちなみに従来の資料で、綺堂が「お文の魂」を発表した時は、まだ捕物帳を名乗っていなかったと記されているのは、初出誌の目次を見て、本文を見なかったことから生じた誤りである。  ところで、この捕物帳ということばの意味なのだが、『半七捕物帳』の第一話「お文の魂」を読んだ限りでは、必ずしもそれが明確にされていない。「お文の魂」に描かれているのは、�わたし�がKのおじさんから半七の話を聞き、その十年後の日露戦争が終わった頃、期せずして、今では老人となった半七の知遇を得、老いてますます元気な彼のもとへ足繁く通うようになるまでの段取りである。  そして、話の終わりに、この「江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズ」の解決した事件は、まだまだたくさんあり、自分はこれから「時代の前後を問はず」「最も興味を感じたものをだん/\に拾ひ出して行かう」と�わたし�の独白が重ねられ、その際、�わたし�の用意した「一冊の手帳は殆ど彼の探偵物語で填《うづ》められてしまつた」と記されている。捕物帳の�帳�を辞書の類にある如く、書き込み用の帳面と解釈するならば、この�わたし�の持つ半七の功名譚を書きとめた手帳こそが、捕物帳と受けとめられぬこともない、といった感じなのだ。  岡本綺堂が、作中、具体的に捕物帳の定義を行うのは、天保十二年十二月のはじめ、半七、十九歳の折の初手柄を描く第二話「石燈籠」でのこと。�わたし�の問いかけに答えて、  捕物帳といふのは与力や同心が岡つ引等の報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のやうなものがあつて、書役《かきやく》が取りあへずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳と云つてゐました。  と半七は答えている。つまりは、犯罪捜査や報告書の作成のために必要な覚え書であるということだろう。  だが、この定義に異を唱えた者がいる。江戸学の権威、三田村|鳶魚《えんぎよ》である。  鳶魚の捕物に関する考証は、『捕物の話』(昭9、早稲田大学出版部刊)にはじまり、昭和三十二年、青蛙房《せいあぼう》から刊行された『捕物の世界——三田村鳶魚江戸ばなし8』に集大成されるが、その中で、捕|物《ヽ》帳は正しくは捕|者《ヽ》帳というと記し、丸橋忠弥召捕の記録を引いた後、  ついでだからこゝで云つて置きますが、この捕者帳といふのは、奉行所から捕者のために出動した記録であります。近頃は何の某捕物帳といふわけで、同心や目明しどもまで何か記録してゐたことがあつたやうに思はれてゐるらしい。まあ今日の巡査が持つてゐる手帳のやうな工合に、考へてゐる人もあるやうですが、そんなものがあつたわけではない。昔の捕者帳といふのは、さういふものではないのであります。  と主張している。  もっとも、『半七捕物帳』に関する綿密な論考をまとめた今井金吾『半七は実在した「半七捕物帳」江戸めぐり』(平1、河出書房新社刊)の考証によると、綺堂はここに挙げた「石燈籠」の中での説明を除いて、作中では捕物帳ということばを用いてはいない。  今井金吾によれば、大森で起こった狐絡みの殺人を扱った第五十二話「妖狐伝」の中で、過去に同地で起こった類似事件を調べる半七が「自分の控へ帳を繰つてみた」という記述があり、さらに半七が活躍せず、彼の聞き書きでまとめた『半七聞書帳』中の「三河万歳」は、初出時に、半七の養父吉五郎の解決した事件となっており、「吉五郎は横綴《よことぢ》の帳面をこしらへて置いて(珍しい捕物の話などを)、一々丹念に個条書にしてありました」と記され、半七の控え帳は、この養父の習慣に倣《なら》ったものであるとのこと。  これらの事柄を総合して考えると、どうも綺堂は、鳶魚が批判している捕物帳(巡査の持つ手帳のような記録)を控え帳といって、「石燈籠」の中で説明していた捕物帳と区別していたことが分かる、という結論になっている。つまり、何を捕物帳と特定するかによって議論は異っており、八丁堀同心の生き残りである原胤昭などは、同心の家には綺堂のいう控え帳に類するものがあったといっているらしいから、話はさらにややこしくなる。  ともかく、三田村鳶魚の『捕物の話』が刊行された昭和九年の時点では、いま論じている『半七捕物帳』ばかりでなく、佐々木味津三の『右門捕物帖』(昭3)や、野村胡堂の『銭形平次捕物控』(昭6)等、考証に束縛されない様々な連作が登場、鳶魚の批判の主たるものは、むしろそちらや、あるいは映画等に向けられていたというべきかもしれない。  綺堂が言っている�控へ帳�を論議の対象外とすれば、捕物(者)帳が奉行所に置かれた記録であるという点では双方とも同じであり、両者の考証が概《おおむ》ね一致し、かつ信頼に足るものであることは、『捕物の世界(一)——目で見る日本風俗誌㈫』(今戸榮一編、岸井良衞監修、昭58、日本放送出版協会刊)の�岡っ引き�の項に、 『三田村鳶魚・江戸ばなし』を読むと、手先、手下は、同心の手札をもらって働いているから、その同心だけの手先と思われがちだが、別に誰の手ということが決まっているわけではない、と書いてある。  つまり主従の関係ではないから、気に入ったところに出入りする。  とも、 『岡本綺堂・江戸に就ての話』には、岡っ引きの暮らしぶりが書いてある。 「それには上役の与力や同心からの貰いと内々でいろいろの事件の埒《らち》をあけたり、引合いを抜くことなど、町家からの袖の下もあって、実際には仲々小ざっぱりとした暮らしをしている——」  ともあり、それぞれの著作が仲良く引き合いに出され、岡っ引の生活がまとめられていることからも了解されよう。  ともかく、岡本綺堂も三田村鳶魚同様の江戸通として知られており、この件は、綺堂が「歴史の中の『捕者帳』と、虚構としての『捕物帳』を、者《ヽ》と物《ヽ》の二字で書き分けることで区別した」(「戦後批判としての捕物帖」)とする尾崎|秀樹《ほつき》の説が最も穿《うが》った見方といえるのではないだろうか。  また、大衆文学研究の大先達《だいせんだつ》、木村|毅《き》にも面白い意見がある。  本邦初の大衆文学論ともいうべき『大衆文学十六講』(昭8、橘書店刊)で、欧米文学に関する豊富な知識を駆使し、今日でいう比較文学論的視野を取り入れていた木村毅だけに、やはり、眼をつけたのは、『半七捕物帳』がコナン・ドイルの�シャーロック・ホームズ譚�に触発されて書かれた連作であるという事実であった。  木村毅は、講談社版『大衆文学大系』に連載した「大衆文学夜話」(第六回)の中で、大槻《おおつき》文彦の『言海』(明22〜24)には、  とりもの(名)捕物 召捕ルベキ罪人。  という説明しかなく、金沢庄三郎の『辞林』(明40)にも、やはり、  とりもの(捕者)(名)(一)めし捕るべき罪人、(二)罪人をめし捕ること。「——の名人」  とあるだけだが、新村出《しんむらいずる》編の『辞苑』(昭10)を繙《ひもと》けば、  とりもの 捕者(名)(一)めしとるべき犯罪人、(二)罪人を召捕ること。——ちょう(捕物帳)(一)昔、目明かしなどが、捕物に際して書き記した覚え書き。(二)【文】捕物に取材した大衆読物の一種。  とあることを指摘、明治期には定着していなかった�捕物帳�ということばが、岡本綺堂の『半七捕物帳』によって、確固たる市民権を得たことを明らかにしている。  特に『辞苑』の�捕物帳�の(一)の説明など、三田村鳶魚の批判を知った後では思わずニヤリとしてしまうが、木村毅はこの後、ホームズものの五冊の短篇集を、自分流にそれぞれ、  The Adventures of 〜 = 冒険  The Memoirs of 〜 = 備忘録  The Return of 〜 = 帰還  His Last Bow = 彼の最後のあいさつ  The Case-book of 〜 = 事件帳  と訳し、はじめは、この中のCase-bookというのが捕物帳にいちばん当てはまるので、綺堂はここから思いついたと考えていたら、ケース・ブックにある「シャスカムの旧場所」は一九二七年(昭2)の作であり、『半七捕物帳』の第一作「お文の魂」は、その十年前の一九一七年(大6)に発表されている、それではと他の題名を見渡してみた結果、第二作の『シャーロック・ホームズ備忘録』(通常の翻訳では『—の回想』もしくは『—の思い出』)が、日本紙の表紙をつけられて、『半七捕物帳』に転生したのではないか、と考察している。  ちなみに、「シャスカムの旧場所」はホームズ最終短篇であり、『事件帳』(同『事件簿』)が刊行されたのも、この短篇が発表されたのと同じ一九二七年。同書収録の短篇でいちばん古いものは、一九二一年(大10)発表の「マザリンの宝石」である。  今まで見て来たように、史実絡みの考証面ではなかなか結論づけることがむずかしい捕物帳ということばは、むしろ、こういう文学的空想をたくましくした推理の方が、よりいっそう、私たちの読みを楽しくさせてくれるといえるかもしれない。  いずれにせよ、ここでは、岡本綺堂が生み出した捕物帳という三文字が、木村毅のいうように、作者の思惑《おもわく》を超えて、以後、連綿として連なり、多くの後継者たちによって書き継がれた大衆文学の中でも、大きな位置を占めることになる�捕物帳�というジャンルの名へすり替っていったということ、これを今一度確認して前へ進んでいきたいと思う。 [#改ページ]   三、「時計のない国」への招待  さて、これからいよいよ、『半七捕物帳』の内部へ分け入って、作者岡本綺堂の目指したものをつぶさに見てゆこうというわけだが、この連作を読んでまず第一に気がつくのは、探偵物語の舞台を過去に設定し、そこに作者自らの江戸に対する郷愁を盛り込んだ慧眼《けいがん》と、作中を貫く聞き書きという形式である。 『半七捕物帳』は、その大半が、若い新聞記者の�わたし�が岡っ引あがりの半七老人を訪ねて、彼の昔日《せきじつ》の功名譚を聞くという形式をとっており、この聞き書きという形式が、半七老人の人となりを知る上でも、また読者をかつての江戸へタイム・トラベルさせる意味でも、抜群の効果を発揮していることはいうまでもない。  しかし、この構成が取られるのは、第二話の「石燈籠」以降のことである。律義《りちぎ》な作者が、第一話「お文の魂」を、新聞記者の�わたし�が半七老人と親しくなるに至った経緯をまとめた、全篇のプロローグとしていることはすでに述べた。  そして、この聞き書きという形式の中で注意しなければならないことが二つある。一つは、半七老人の聞き役である�わたし�のモデルが、他ならぬ岡本綺堂自身であるらしいということだ。  岡本経一は『綺堂年代記』の中でこう書いている。  周知の通り(『半七捕物帳』は)、若い新聞記者、即ち作者が半七老人に昔話を聞く形式になつてゐる。主人公の探偵の他に聞き手の脇役をおくことは探偵小説の常道ではあるが、綺堂自身が若い頃に方々の古老をたづねて昔話を聞いたことも事実である。人から話を聞くと云ふ説話体の小説は、この捕物帳に限らず、「三浦老人昔話」以下、綺堂読物集に好んで用ひた形式で、座談に巧みな作者の面影がよく現はれてゐる。全く彼の座談は現はれてゐる彼の文章そのまゝであつた。綺堂が老人に好意を持たれたのは、古いことに興味を持つて聞き上手であつた事と、「今どきの若いもん」に似ず、礼儀正しく、生真面目《きまじめ》であつた為らしい。  特にこの、綺堂が古老たちに対して礼儀正しかったというくだりは、作中の�わたし�の、半七老人に対する態度にそのまま通じているといえるだろう。  また木村毅は、前述の「大衆文学夜話」の中で、『半七捕物帳』第三話「勘平の死」の冒頭部分である、  歴史小説の老大家T先生を赤坂のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話を色々伺つたので、わたしは又かの半七老人にも逢ひたくなつた。  という箇所に注目し、「このT先生とは塚原|渋柿園《じゆうしえん》のことで、その家が麹町紀尾井町九番地にあったから、赤坂とかいたのであろう」と述べ、「岡本綺堂は東京日日新聞に入社(明23)し、塚原渋柿園の下について、彼が後に、作家として大成する準備として必要なあらゆるものを授けられた」ので、この�わたし�のモデルは岡本綺堂ではないのか、と考察している。  塚原渋柿園といえば、今日ではすっかり忘れ去られてしまったが、横浜毎日新聞編集長を経て、福地|桜痴《おうち》の招きで東京日日新聞社へ入社、新聞人として活躍する傍ら、明治二十年代から、『敵討浄瑠璃坂』『由比正雪』『大石良雄』『天草一揆』『葵と桐』等、史実に関する綿密な考証と、男性的な武士的モラルを強く打ち出した一連の歴史小説で、人気を博した大衆文学前史を彩る巨匠の一人である。  岡本綺堂は、明治二十二年、父敬之助が保証人となった友人の事業が失敗し、岡本家が破産の危機に瀕《ひん》したので進学を断念、自活を決意し、翌二十三年、父の友人である東京日日新聞社社長、関直彦のつてで同社に入社。見習記者として編集・校正を手伝いながら、劇評の筆をとりはじめる。弱冠《じやつかん》十九歳の若き劇評家、狂綺堂(狂言綺語に因《ちな》む筆名)、後の綺堂の誕生である。  岡本家を襲った災難が、はからずも、綺堂と芝居との縁を深めたことになるわけだが、『明治劇談ランプの下にて』には、綺堂がはじめて劇評の筆をとるに当り、塚原渋柿園が書いた新富座の「仙石騒動」の劇評を手本にしようとしたものの、それが叶わなかったことが記してあり、また、自筆年譜の同二十三年の項には、「社中の先輩たる塚原渋柿園、西田菫坡の諸氏に教へを受くること多し」と明記されている。したがって、木村毅のように、T先生を渋柿園に、�わたし�を綺堂に当てはめて考える説も考えられぬことではない。  さらに木村毅は、綺堂が渋柿園から得た最たるものは、江戸の故実や知識であろうと続けている。綺堂は御家人の家の生まれであるし、江戸への郷愁を持っているのは当然だが、明治五年の生まれだから、物心つき出してからの見聞に関しては、文明開化時代以後のこと。そこへゆくと渋柿園は、幕臣として仕えた生きた知識と経験を持っており、特に幕府瓦解前後のことをパノラマ風に展開した長篇回顧談『三十年昔』は、強い影響を与えている、というのである。両者の縁の深さを知るべきであろう。  そして話を元に戻せば、さらにもう一つ、今までも何度か指摘してきたが、「お文の魂」の中で、�わたし�がKのおじさんの家へ行く途中の道筋の描写が、綺堂の少年時代の遊び場所へ通じている点も見落とすわけにはいかない。  文中に「わたしが半七によく逢ふやうになつたのは、それから十年の後で、恰も日清戦争が終りを告げた頃であつた」とあるから、�わたし�がはじめてKのおじさんから半七の話を聞いたのは、逆算すれば、明治十八年のことであり、この時の�わたし�の年齢は十二歳。数え歳であろうから、明治五年生まれの作者、綺堂の年齢とほぼぴったりと重なり合うことになる。  そして、これから述べることは、私が先に記した、注意しなければならないことのもう一つの事柄とも関わってくるのだが、つまり綺堂は、『半七捕物帳』の聞き役である、自分と同世代の�わたし�の体験や日常を作中にはさむことによって、半七の生きた江戸ばかりでなく、やがてこれも失われゆくであろう明治という時代の風俗をも活写しているのである。  このように、『半七捕物帳』の内部には、半七の生きた江戸という大過去と、聞き役の�わたし�=綺堂自身が体験した明治という小過去——この二重の過去が存在し、後者が前者に巧みにスライドしていくかたちで、物語がはじめられていく仕組みとなっている。  それは、例えば第五話、「お化師匠」の冒頭で、�わたし�が半七のところへ「五月の末に無沙汰の詫びながら手紙を出すと、すぐにその返事が来て、来月は氷川様のお祭で強飯《こはめし》でも炊くから遊びに来て呉れとのことであつた」という記述からはじまり、約束通りやって来た�わたし�に半七が、「たうとう本降りになつて来た」といい、安政元年の梅雨どきに起こった奇怪な事件を語るという趣向として現われているのである。  岡本経一は「主人公の探偵の他に聞き手の脇役をおくことは探偵小説の常道ではあるが——」と記しているが、ホームズとワトソンの場合は、双方の年齢が五歳ほど離れているにすぎないが、これを、老人と若者に置き換え、過去を浮かび上がらせる枠組として用いたのは、秀逸な小説作法であったといえるだろう。  そして、第一話「お文の魂」を全篇のプロローグとし、第二話「石燈籠」で捕物帳の定義を語った『半七捕物帳』は、第三話「勘平の死」の次なる一節——、  私はいつもの六畳に通された。それから又いつもの通りに佳いお茶が出る。旨い菓子が出る。忙がしい師走の社会と遠く懸け放れてゐる老人と若い者とは、|時計のない国《ヽヽヽヽヽヽ》に住んでゐるやうに、日の暮れる頃まで|のんびり《ヽヽヽヽ》した心持で語りつゞけた。(傍点筆者)  で、いよいよ、その本質を明らかにしていくのである。  先に指摘した『半七捕物帳』の中で、聞き役の�わたし�=綺堂自身が体験した明治という小過去が、半七の生きた江戸という大過去へスライドしてゆく箇所をさらにいくつか挙げておこう。  例えば、第一話「お文の魂」で、十二歳の�わたし�が、江戸時代の形見の旗本屋敷が残っている番町の一角にあるKのおじさんの住居(作中、そこは家老や用人といった身分の人が住んでいたであろう大名屋敷の門内と説明される)で、元治元年、小石川西江戸川端の旗本屋敷で起こった怪事件の話を聞かされるというのは、その物語の枠組自体が、そうした設定を極めてストレートに現わしたものであるといえるだろう。  また、初期の作品に限ってみても、第四話「湯屋の二階」では、正月にやって来た�わたし�の「いつものお話で何か春らしい種はありませんか」という問いかけに応じて、半七が、文久三年正月の自分の失敗談を語るというだけだったのが、第五話「お化師匠」を経て、第六話「半鐘の怪」では、内容こそ詳《つまび》らかではないにしろ、その冒頭で�わたし�と半七の間に「酉《とり》の市《まち》の今昔談」があったことが明らかにされている。  さらに第七話「奥女中」では、半七の口を借り、「暦が違ひますから八月でもこの通り暑うござんすよ。これが旧暦だと朝晩はぐつと冷えて来るんですがね」と暦の違いから事件の話に入り、第八話「帯取の池」で、半七は万延元年版の江戸絵図をひろげて、今ではもうすっかり埋められてしまったという帯取りの池を、�わたし�に指し示して見せるのである。  つまり、「時計のない国」の住人となることは、『半七捕物帳』の作者と読者が、そのまま、彼らが生きている現在から、明治という小過去、そして江戸という名の大過去という、三つの時代を自由に往還するパスポートを手に入れることに他ならない。そして、そのことが端的に示された構成を持った作品が、第十話「広重と河獺《かわうそ》」なのである。  この作品は、題名に「広重と河獺」とあるように、浅草の仲見世でばったり出会った半七と�わたし�が、向島の花見と洒落《しやれ》こむうちに、このあたりで起こった広重の絵や河獺にちなむ二つの事件を語るというものだが、その書きっぷりがふるっている。冒頭、  むかしの正本《しやうほん》風に書くと、本舞台一面の平ぶたい、正面に朱塗りの仁王門、門のなかに観音境内の遠見《とほみ》、よきところに銀杏の立木、すべて浅草公園仲見世の体《てい》よろしく、六区の観世物《みせもの》の鳴物にて幕あく。——と、上手《かみて》より一人の老人、惣菜の岡田からでも出て来たらしい様子、下手《しもて》よりも一人の青年出で来り、門のまへにて双方行き逢ひ、たがひに挨拶すること宜しくある。  と、芝居の台本風に二人の出会いを記し、続けて、  狡《ずる》さうな青年は、あゝ手帳を持つて来ればよかつたといふ思ひ入れ、すぐに老人のあとに附いてゆく。同じ鳴物にて道具まはる。——と、向島土手の場。正面は隅田川を隔てて向う河岸をみたる遠見、岸には葉桜の立木。かすめて浪の音、はやり唄にて道具止る。——と、下手より以前の老人と青年出で来り、いつの間にか花が散つてしまつたのに少しく驚くことよろしく、その代りに混雑しないで好いなどの台詞《せりふ》あり、二人はぶら/\と上手へゆきかゝる——。  といった具合にその道行きがはじめられる。芝居仕立てではじまったからか、広重の事件では、新吉原の土手下にあることから、場所柄、文芸や演劇に取り入れられることの多い袖摺《そですり》稲荷《いなり》の近くで事件が起こり、きちんと題名にちなんで、広重が、「名所江戸百景」に描いた「深川|洲崎《すざき》十万坪」の荒涼たる景色が挿入されるという、まさに絶妙の構成、そして、  なにを問ひかけても、老人は快く相手になつてくれる。一体が話好きであるのと、もう一つには、若いものを可愛がるといふ柔かい心もまじつてゐるらしい。彼がしば/\自分の過去を語るのは、敢て手柄自慢をするといふわけではない。聴く人が喜べば、自分も共によろこんで、いつまでも倦《う》まずに語るのである。  という半七の人となりを語り、次いで、本所中の郷近辺での河獺の怪が語られる。  読者はいつものように、いや、いつも以上に凝《こ》った構成の中で、花見どきの向島|界隈《かいわい》に思いを馳せ、さらには往時の江戸へとタイム・スリップするわけである。が、結末に至って、 「さあ、まゐりませう。向島もまつたく変りましたね。」  老人はあたりを眺めながら起ち上るを木の頭《かしら》、|どこかの工場の汽笛の音にチョン/\《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、幕《ヽ》。むかしの芝居にこんな鳴物はない筈である。なるほど向島も変つたに相違ないと思つた。(傍点筆者)  と、今まで作中に書かれなかった部分、すなわち、あらゆる江戸情緒を覆いつくしてしまった〈現在〉を登場させ、ありし日の江戸の夢を追っていた読者の頭を、一気に醒《さ》めさせているのが印象的だ。 『大東京綜覧』(中村舜二、大14、同刊行会刊)に記された「(工場の)分布状態から云へば、隅田川流域を中心とした本所深川の両区、及び亀戸|吾嬬《あづま》方面より、南千住日暮里に至る東北郊と、品川大崎方面の西南部とがその密集地帯で、市内では本所深川、郡部では亀戸南千住日暮里辺りが濃度の密なる場所である」という状態は、『半七捕物帳』執筆時から、そのかたちをほぼ、整えていたのである。この連作の中で、半七や江戸の人々が聴く街々の音に較べて、今、私たちが聴かねばならないものは……。「どこかの工場の汽笛の音に」というくだりに、綺堂の嘆息の声を聞くのは、私だけではないだろう。  さて、『半七捕物帳』は、このように、時には楽しく、また時には哀しげに様々な時の流れを内包しつつ回を重ねてゆくのだが、この作品が好評だったことは、第六話「半鐘の怪」の掲載された「文藝倶楽部」大正六年六月号に、『半七捕物帳』を模した探偵譚『昔の黒焦《くろこげ》事件』(川田杵男・作)が載っていることや、また、『半七捕物帳』の後を受けて同誌に連載を開始したのが、松居松葉の明治捕物帳『悪人手形帳』であったことからも、容易に想像がつく。後者の題名となっている�手形帳�とは、主人公の�鬼探�こと警視庁の水沢警部が、捕えた悪人の手形をとって帳面に示すところに由来したもので、一応のオリジナリティを持った作品として、それなりに楽しめる。が、前者に至っては、「文藝倶楽部」の狂歌欄の投稿者、一河翁なる人物が、実は名探偵であったとする探偵実話風読物。篇中、真偽のほどは分からぬが、半七をまねて「一河翁は実に(三|浦《ヽ》)半島の探偵界に於けるシヤアロツク、ホルムスとも称す可《べ》き人物」とする箇所があるのには笑わされる。  まァ、余談はさておき、「時計のない国」の物語=『半七捕物帳』の内実を検討していく上で、誰もが、まず、第一に驚かされるのは、その考証の確かさである。『半七捕物帳』をはじめとする綺堂の著作を中心に、『岡本綺堂江戸に就ての話』(岸井良衞編)が編まれていることは、既に述べたが、鈴木|氏亨《しこう》が、「舞台」昭和十五年三月号に記した、真山青果宅を訪ねた折のエピソードによれば、  私は岡本先生の半七捕物帳の江戸の地理の話をした。あれは正確だと、(真山青果は)言下に云はれた。自分はどうして岡本さんが、こんなに正確に調べて居られるかと思つて、松竹の木村錦花君を通じて聞いて見た。と真山さんは云ふのである。—中略—捕物帳といふ形を借りて江戸を語つたのだ。といふ岡本さんはこの(『江戸名所図会』)外に紫の一本《ひともと》、遊歴雑記、切絵図などを入念に見てゐる。捕物帳の中には一年や二年の思念になつたものが少くない。岡本さんは、あの中の一篇で一ケ月季節を変へることは、少くとも一二ケ月の準備期間を要したと云つてゐるといふのであつた。  というのである。まさに岡本綺堂の面目|躍如《やくじよ》たるものがあるが、『半七捕物帳』の中に存在する実在感《リアリテイー》は、そうした地誌的な正確さのみには止まらない。  これらの他にも、『半七捕物帳』を読み進んでいくと、第一話「お文の魂」では、旗本・御家人の暮らし向きが、第二話「石燈籠」では、「お文の魂」の中で、「こんな稼業のものにはめづらしい正直な淡泊《さつぱり》した江戸児風の男で、御用をかさに着て弱い者を窘《いぢ》めるなどといふ悪い噂は、曾て聞えたことがなかつた」と語られる半七の職業である岡っ引が世間から蝮《まむし》扱いされる理由を、彼らやその手先に与えられる手当ての少なさから説明、「しかし大抵の岡つ引は何か別に商売をやつてゐました。女房の名前で湯屋をやつたり小料理をやつたりしてゐましたよ」と述べるなど、様々なかたちで作品を成立させている江戸社会や風俗の事情が読者に呑み込めるような配慮がなされている。  さらにこの「石燈籠」での言葉を裏書きするかのように、第四話「湯屋の二階」では、半七の手先の熊蔵が、愛宕《あたご》下で湯屋を開いていることが、第五話「お化師匠」では、同じく下っ引の源次が桶職人であることが説明され、当の半七については、後に岡本綺堂が作品外のところで建具屋であったことを明らかにしている。また、第六話「半鐘の怪」では、自身番や番太郎について詳しい説明が下されている。  だが、こうした考証面より何よりも、まず読者を捉えて離さなかったのは、岡本綺堂が練達の筆致に乗せて送る、四季折々の江戸の街の写実的な描写であったのではないのか。  こうした例は、「お文の魂」の中で、半七とKのおじさんが、本郷から下谷《したや》へ向うべく安藤坂を登っていく途中の情景を記した、 ——けふは朝からちつとも風のない日で、暮春の空は碧い玉を磨いたやうに晴れかゞやいてゐた。  火の見櫓の上には鳶が眠つたやうに止つてゐた。少し汗ばんでゐる馬を急がせてゆく、遠乗りらしい若侍の陣笠の庇《ひさし》にも、もう夏らしい光がきら/\と光つてゐた。  という描写にはじまり、更に「石燈籠」の中に記されている、  もうかれこれ午頃で、広小路の芝居や寄席も、向う両国の見せ物小屋も、これからそろ/\囃《はや》し立てようとする時刻であつた。筵を垂れた小屋のまへには、弱々しい冬の日が塵埃《ほこり》にまみれた絵看板を白つぽく照らして、色の褪めた幟が寒い川風に顫へてゐた。列《なら》び茶屋の門《かど》の柳が骨ばかりに痩せてゐるのも、今年の冬が日ごとに暮れてゆく暗い霜枯れの心持を見せてゐた。それでも場所柄だけに、どこからか寄せて来る人の波は次第に大きくなつて来るらしい。  という、両国の広小路のくだりや、「お化師匠」の、  源次に別れて、半七は御成道《おなりみち》の大通りへ一旦出て行つたが、また何か思ひついて、急に引つ返して広徳寺前へ足をむけた。土用が明けてまだ間もない秋の朝日はきら/\と大溝の水に映つて、大きい麦藁とんぼが半七の鼻のさきを掠《かす》めて低い練塀のなかへ流れるやうについと飛び込んだ。その練塀の寺が妙信寺であつた。  という描写へと確実に受け継がれてゆく。  岡本経一は、綺堂が明治三十年頃からずっと俳文を書いていて、『半七捕物帳』の描写が写実的であり、かつ簡潔で枯淡であるのは「季題趣味の横溢《わういつ》と共に、この俳文修練の力が与つてゐるかも知れない」(『綺堂年代記』)と言っている。この季題趣味云々のくだりは、後に白石潔が評論集『探偵小説の郷愁について』(昭24、不二書房刊)の中で、捕物帳には必ず、犯人追及のミステリーとしての側面と、江戸の四季折々の風物詩の側面とがあるので、これを�季の文学�であると定義したが、なるほどぴたり呼応している。  このように、江戸の町々についての考証面、すなわち〈知〉の部分と、同じく町々の描写、すなわち〈情〉の部分を車の両輪のように従えて、『半七捕物帳』は進められてゆくわけだが、この連作の中で、他のあらゆるものよりも実在感をもって迫ってくるのは、「時計のない国」を統率する主人公、半七自身なのである。  第一話「お文の魂」の時代設定は元治元年、第二話「石燈籠」は天保二年、第三話「勘平の死」は安政五年と、半七の扱った事件は、それこそ、作中の�わたし�の記したように「時代の前後を問はずに」書かれていったはずだが、各篇とも事件の起こった年月、場所、当時の風俗等が明記されている。従って、これを半七の最初の事件から最後の事件までという具合に並べ変えることも可能であり、またそうした場合も、作品は概《おおむ》ね、理路整然と収まり、前後の脈絡も取れている。  ただし、自作の明治伝奇小説『警視庁草紙』の中に、半七老人を登場させた山田風太郎の考証によれば、文久二年九月に起こった第十二話「猫騒動」の中で、半七が手先の熊蔵に向って、「だが、手前のあげて来るのに碌なことはねえ。この正月にも手前の家の二階へ来る客の一件で飛んでもねえ汗をかゝせられたからな」と、翌文久三年正月に起こるはずの第四話「湯屋の二階」について言及するなど、細かい点で若干の時間的|齟齬《そご》はあるとのこと(「半七捕物帳を捕る」)。  とはいうものの、二十年もの間、順番もばらばらに書かれた作品が、作者の頭の中で、ほぼ正確な年代記として整理されていたという几帳面《きちようめん》さには、やはり、舌を巻かざるを得ないだろう。  今までに半七が扱った事件を時代順に追った年表としては、岸井良衞が、早川書房版『定本半七捕物帳』(昭30)の第三巻及び四巻の巻末解説として作成したものや、現在、流布している光文社文庫版『半七捕物帳(六)』で、やはり岡本経一が巻末解説の一環として作成したもの、あるいは今井金吾によるものがあるが、ここでは、先に引用した「半七捕物帳を捕る」の中で、山田風太郎が作成した最も簡略なものを挙げておく。 十九歳——「大阪屋花鳥」「石燈籠」 二十三歳——「熊の死骸」 二十四歳——「冬の金魚」 二十五歳——「津の国屋」「広重と河獺」のうち「河獺」の事件 二十七歳——「二人女房」「狐と僧」 二十八歳——「半七先生」 二十九歳——「大森の鷄」「唐人飴」「青山の仇討」 三十歳——「一つ目小僧」 三十一歳——「十五夜御用心」 三十二歳——「弁天娘」「正雪の絵馬」「廻り燈籠」「吉良の脇指」「お化師匠」「幽霊の観世物」 三十三歳——「海坊主」「金の蝋燭」「川越次郎兵衛」 三十四歳——「朝顔屋敷」 三十五歳——「あま酒売」「ズウフラ怪談」 三十六歳——「広重と河獺」のうち「広重」の事件、「かむろ蛇」「勘平の死」 三十七歳——「帯取の池」「妖狐伝」「地蔵は踊る」「鷹のゆくへ」「人形使ひ」 三十八歳——「蝶合戦」 三十九歳——「新カチカチ山」「異人の首」「鬼娘」「女行者」「菊人形の昔」「化銀杏」 四十歳——「雪達磨」「河豚太鼓」「張子の虎」「山祝の夜」「蟹のお角」「奥女中」「猫騒動」 四十一歳——「湯屋の二階」「むらさき鯉」「雷獣と蛇」のうち「蛇」の事件、「松茸」「薄雲の 碁盤」 四十二歳——「お文の魂」「三つの声」「少年少女の死」のうち「少女の死」の事件、「仮面」「三河万歳」 四十三歳——「春の雪解」「歩兵の髪切り」「お照の父」「雷獣と蛇」のうち「雷獣」の事件、「柳原堤の女」 四十四歳——「向島の寮」 四十五歳——「少年少女の死」のうち「少年の死」の事件、「筆屋の娘」  そして、この作品年表や、作中で述懐される半七の回顧談をもとに、彼の生涯をたどってみるとおおよそ次のようになる。  半七は、文政六年、日本橋木綿店の通い番頭半兵衛の倅《せがれ》として生まれた。母はお民といい、他に八つ違いのお粂という妹がおり、後に文字房という常磐津《ときわず》の師匠となった。十三の時、父と死別した半七は、堅気を嫌って家を飛び出し、やがて、神田の岡っ引、吉五郎の子分となり、天保十二年の暮、十九歳の折に初手柄「石燈籠」事件を解決。これがきっかけで吉五郎に気に入られ、彼の遺言で娘のお仙と所帯を持ち、神田三河町に居を構えた。このため、�三河町の半七�と呼ばれ、以後、二十六年間にわたってお上《かみ》から十手を預った。そして、慶応四年、四十六歳の時、養子に唐物屋の店を開かせ、自らは岡っ引稼業を返上、隠居したことになっている。  その半七が住んでいる赤坂の隠居所に訪ねてくるのが、若い新聞記者の�わたし�であるというわけだ。隠居所には老婢と三毛猫が一匹おり、半七は毎月一回、死別した女房の墓参りに橋場の墓へ行くのを欠かさず、�わたし�と昔話に花を咲かせるのを何よりの楽しみにしている。  こうして書いていくと、とかく経歴の分からない大衆小説の主人公たちの中にあって、半七の存在は異色とすらいえる。むっつり右門は、いつ生まれていつ死んだのか、はっきりしないし、銭形平次に至っては、いつまでたっても三十一歳で齢《とし》を取らない。その点、半七は、実在の人物のように履歴《りれき》がはっきりしている。  事実、岡本綺堂は、『半七捕物帳』連載の当初から、半七を実在めかして紹介している節がある。最初の七篇は、初出時にはそれぞれ、本文の前に簡単な内容紹介が添えられており、綺堂が実際書いたものかどうかは分からないが、その中で、  幕末の岡つ引で腕利《うできき》と呼ばれた神田の半七の捕物帳から面白さうな探偵物語を抜萃《ばつすい》して——(第三話「勘平の死」)  とか、あるいは、  神田の半七は幕末で腕利の岡つ引でした。その半七老人の昔話を紹介して既に——(第六話「半鐘の怪」)  というように、しきりに種本があるかのように、また、半七が実在の人物であるかのようにほのめかされているのだ。  そして、これが岡本綺堂自身の意図によるものだとすれば、彼のこうした姿勢は、後に春陽堂から刊行された二巻本の『半七捕物帳』(昭4・1)のはしがきで、ますます明確に打ち出されてくる。  綺堂は書いている。  主人公の半七老人は実在の人物であるか何うかといふ質問にたび/\出逢ふが、わたしはそれに対して明瞭に答へたことがない。なかには半七といふ人物を知つてゐて、彼は江戸時代の副業に湯屋を開いてゐたといふ人もある。彼は高野長英の隠れ家に向つた捕方の一人であると説く人もある。—中略—それらの諸説に対しても、私はやはり明瞭に答へることを敢てしない。実在の人物か、架空の人物か、それは読者の想像にまかせて置いた方が寧ろ興味が多からうかと思ふからである。  そしてさらに、昭和十一年秋季特別号の「サンデー毎日」に掲載された「半七紹介状」の中で岡本綺堂は、半七のモデルとは、明治二十四年の四月の第二日曜日、若い新聞記者(綺堂自身であると明記)が浅草公園弁天山の惣菜「岡田」へ午飯を喰いに這入った時、偶然知り合った老人で、痩せぎすの中背で小粋な風采といい、流暢《りゆうちよう》な江戸弁といい、紛れもない下町の人種であったということを記している。  この浅草の惣菜「岡田」でばったりなどというくだりは、先に触れた「広重と河獺」の冒頭場面の焼き直しなので、いささか眉唾《まゆつば》という気がしないでもないが、このあたりの虚実を踏まえた考証は『半七は実在した「半七捕物帳」江戸めぐり』(今井金吾、平1、河出書房新社刊)に詳しいので、そちらに譲るとして、とにかく、この一文の中で、くだんの老人は、文政六年|未年《ひつじどし》の生まれであるから六十九歳のはずだが、見るからに元気が良く、どう転んでも六十前後にしか見えない。足は至って丈夫で、昔は神田で建具屋をやっていたが、女房が死んで後、新宿といっても淀橋に近い隠居所で老婢と二人暮らし。横浜で売込商をやっている息子の仕送りで気楽に余生を送っているとのこと。  老人の友達の一人が町奉行所の捕方、すなわち、岡っ引の一人であったので、いろいろと捕物の話を聞かされることが多く、老人は「これは受売ですよ」と断って、『半七捕物帳』の材料を幾つも語ってくれたのだという。続いて、岡本綺堂の筆を追えば、  老人の話は果して受売か、あるひは他人に托して自己を語つてゐるのか、恐らく後者であるらしく想像されたが、彼は飽までも受売を主張してゐた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去つた。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征してゐたので、帰京の後にその訃《ふ》を知つたのは残念であつた。  と、その没年までが記され、自分が今まで半七老人が実在の人物であるか否か、明確な回答を避けていたのは、受売云々の真偽のほどがはっきりしなかったからだし、  いづれにしても、私は彼《か》の老人をモデルにして半七をかいてゐる。住所その他は私の都合で勝手に変更した。  と、とうとう、半七を、ほぼ、実在の人物であるとしてしまっている。  しかし、岡本綺堂は、こうした、いわば跡付けの証言ではなく、『半七捕物帳』の作中において、半七を、幕末に、実際、起こった市井《しせい》の出来事の中に位置付け、虚実の皮膜《ひまく》を紙一重のものとする試み、換言すれば、半七を、あたかも実在の人物であるかのごとく、物語の中に組み込もうとする試みを行なっているのである。  たとえば、今、手もとにある『増訂武江年表2』(斎藤月岑著、金子光晴校訂、平凡社東洋文庫118)の、弘化二年一月二十四日のくだりを繰ってみようか——。 正月二十四日、北大風砂石を飛ばす。昼八時過ぎ、青山権太原続三軒屋町武家地より出火して、一時に焼けひろがり或ひは飛火して、麻布三軒家、一本松、鳥居坂辺、六本木、龍土、市兵衛町、桜田町、永坂辺、広尾、白金|魚籃《ぎよらん》観音大信寺の辺、二本榎、伊皿子、猿町、高輪并びに田町等焼亡して海手に至る。夜に入り狸穴《まみあな》三田の新網町の辺焼亡、戌《いぬ》下刻鎮まる。武家寺社数を知らず、町数百二十六箇町、焼死怪我人或ひは海辺の者前後の火に包まれ、海中に入り溺れ、死するものを合はせて幾百人といふ事を知らず。赤羽橋の側に御救の小屋を建て、類焼の貧民を育せらる(此の夜何れの家よりのがれ出けん、荒熊|一疋《いつぴき》人込の中を狂ひ走りて、某侯の藩内へ迯入《にげいり》しを、家臣何某父子二人にて仕留《しとめ》たり。又此の火事の時白金台町一丁目禅宗西照寺の表門に掲げたる明《みん》の心越師の筆普明山と隸字《れいじ》にて書きたる扁額《へんがく》火中にして残る。明和九年行人坂の火事に危く残りたりしが、今年は門焼け落ちて額のみ残れり。諸人奇とす。瑞聖寺、善福寺、麻布氷川社、高輪太子堂、庚申《こうしん》堂、稲荷社、泉岳寺、如来寺等は残れり)。  百二十六カ町を焼き、何百人もの死者を出した凄まじい火事であったことが分かるが、半七は、いたのである。この猛火に包まれて右往左往する人々の中に、炎の中から飛び出してくる荒熊を眼前にして——。  第二十九話「熊の死骸」の中で、半七はこう語っている。 「——けふは亀戸の鷽替《うそか》へだといふので、午少し前から神田三河町の家を出て、亀戸の天神様へおまゐりに出かけました。さうすると、昼の八つ時(午後二時)過ぎに、青山の権太原……今はいつの間にか権田原といふ字に変つてゐるやうです。……の武家屋敷から火事が始まつたんです。この日は朝から強い北風で、江戸中の砂や小砂利を一度に吹き飛ばすといふやうな物騒な日に、生憎とまた紅い風が吹き出したのだから堪りません。忽ちにそれからそれへと燃えひろがる始末。しかし初めのうちは亀戸の方でもよくは判らず、どこか山の手の方角に火事があるさうだくらゐの噂だつたのですが、兎も角もこの大風に燃え出した火はなかなか容易に鎮まる気遣ひはないと思つたので、亀戸からすぐに引返して来たのは夕七つ半(午後五時)を過ぎた頃でしたが、もうその頃には青山から麻布の空が一面に真紅《まつか》になつてゐました。——」  はじめに『武江年表』の客観的な記述を読んでおくと、岡本綺堂が半七の口を借りて言わせているこの火事の描写が、いかに小説の語り口としてこなれているかが分かるだろう。  半七は三田の魚籃の近所に知り合いがあるので、ちょうど、そこに来合わせた子分の松吉を連れ、「かうした怖ろしい阿鼻叫喚のまん中」を、芝の方面へと急行。「うつかりしてゐれば自分等の眉へも火が付きさうなので、ふたりは火の粉の雨をくゞりながら、互ひの名を呼」び合って進み、その中で、「おそらくこの火に追はれて、人間と一緒に逃げ場をさがしてゐるのであらう」、「火の粉を浴びた荒熊の哮《たけ》り狂つてゐる姿」に出会ったというのである。この熊は、麻布の古川の近所に住んでいる熊の膏薬屋が店の看板代りに飼っておいたのが、折からの火事で逃げ出したものと分かるが、『武江年表』の記述と同じく二人の武士(作中では、西国のある藩中の父子連れと説明される)によって斬り殺される。  ただし、『半七捕物帳』では、熊が殺される直前に、近所の生薬屋の娘を救うべく熊の胴に組みつき、傷を負った若い男のエピソードを挿入、これを後の物語の伏線としているのがミソである。この後は、この熊の死骸から取れる高価な熊の胆《い》と生皮をめぐって、色と欲から殺人が起こり、いよいよ半七の探偵譚がはじまることになる。  こうした構成から見ても、「熊の死骸」一篇が、いかに現実の市井の出来事と密接な関わりを持って成立しているかが了解されよう。そして、この限りにおいて、半七は、火事場を逃げまどう実在の江戸の人々と等身大の存在なのである。 「熊の死骸」は、このことを最も端的に示した例だが、『半七捕物帳』と『武江年表』との関わりを見ていくと、例えば第五十六話「河豚太鼓」は、文久二年一月の事件となっているが、半七はこの表題となっている子供の玩具を、十年ほど前から流行り出した「素焼の茶碗のやうな泥鉢の一方に河豚の皮を張つたもので、竹を割つた細い撥《ばち》で叩くと、カンカラといふやうな音がするので、俗にカンカラ太鼓とも云つた」ものだと説明している。  本篇ではこの河豚太鼓を、拐《かどわか》しの犯人が子供を誘い出す餌に使うのだが、そこで、これが流行り出したという文久二年より十年前、すなわち、嘉永五年のところを『武江年表』で当たってみると、そこにはやはり、 ——幼児の手遊びに、河豚の皮を茶碗の類へ張り、竹にて打ちて音を出す事はやり、街に售《あきな》ふ。  という一節が見出せるのである。  このあたり、岡本綺堂が『半七捕物帳』の細部を、いかに江戸の市井の諸事情と詳細に照らし合わせようとしたか、その配慮のほどがうかがえる。今、ここに挙げたのは、ほんの一例にすぎず、こうした例は、つぶさに見ていけば、『半七捕物帳』の至るところに散見できるに違いない。  そして、これらのこと、つまり、〈知〉と〈情〉の両面からかつての失われてしまった江戸を再現し、その世界を統率する半七という名の主人公に、実在の人物としてのリアリティーを付与していくこと、を総合的に眺めていくと、岡本綺堂が、この連作において意図した、ある企てが見えては来ないだろうか。  その企てとは、『半七捕物帳』のミステリーとしての性格を側面から支え、さらに、その本質と抜きさしならぬ関わりを持っているものなのである。 [#改ページ]   四、ミステリーとしての『半七捕物帳』 『半七捕物帳』のミステリーとしての性格を考える上で格好の手がかりとなる論考があるので、まず、それを引用しておこう。その論考とは、都筑道夫のミステリー論集『死体を無事に消すまで』(昭48、晶文社刊)に収められた「久生十蘭3『顎十郎捕物帳』」である。  この一文は、無論、題名にあるように、久生十蘭の捕物帳について書かれたものだが、その中で都筑は、岡本綺堂が『半七捕物帳』の中で目指した日本的な短篇推理小説執筆の「日本的というのは、衣裳のことであって、骨格ではない。きわめて自然に、歌舞伎の舞台へのせられる近代劇を書いた綺堂だから、ここでも、理想的なデテクティヴ・ストーリイの骨格を、世話読物の皮膚の下にしのびこませている」と指摘、その一例として、アト・ランダムに第四十八話「ズウフラ怪談」を挙げている。  題名の�ズウフラ�については、作品の冒頭で「江戸時代に遠方の人を呼ぶ機械があつて、俗にズウフラといふ。——中略——言海の『る』の部に、かう書いてある。——ルウフル(蘭語Rofleの訛)遠き人を呼ぶに、声を通はする器、蘭人の製と伝ふ、銅製、形ラッパの如く、長さ三尺余、口に当てて呼ぶ。訛して、ズウフル。呼筒。——」と説明がある。私も本物は見たことがないが、東映が昭和三十五年に封切った「半七捕物帳・三つの謎」(監督・佐々木康、主演・片岡千恵蔵)が、原作の「津の国屋」「ズウフラ怪談」「異人の首」からなるオムニバス映画で、鶴田浩二が長いラッパのようなそれを振りまわしていた。  物語は、都筑の説明を借りると「闇夜にそこらを通行すると、『おうい、おうい』と呼ぶ声がぶきみに聞える」という、つまりはズウフラを使った悪戯ではじまり、まず、「デテクティヴ・ストーリイに不可欠な発端のふしぎ」が提示され、怪異を調べに行った道場主が、弟子たちがひるんでいるうちに姿が見えなくなり、さらに、 ——のちに死体となって発見されるのだから、読者は信じるにおよばない奇怪事と、ほんとうの謎の中心となる殺人とが、あいついで提示されるわけで、もっと近代のパズラー、すなわち謎とき推理小説の定石にもかなっている。  ついで半七とその子分が登場して、捜査の部分になるが、この幕末のマスターマインドは、|日ごろおこたらぬ見聞から《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|声の正体はズウフラをつかったいたずら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|と見こみをもうつけている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。したがって、関係者の身上調査にしぼられるが、ここでしめされるデータは、すべて事件解決に必要なものばかりで、むだがない。(傍点筆者)  構成となっている。  都筑はこの後、「ズウフラ怪談」が、G・K・チェスタトンのいう短篇ミステリの展開部の理想的な体裁を備えていること、事件解決のための情報が半七の耳に入ってくる段取りに無理がないこと、結末で起こるハプニングが、読者の予想する因果関係を超えて、当時としては新しすぎるほど新しいミステリーであること等について言及し、この論旨を『半七捕物帳』全体に敷衍《ふえん》化することを試みている。  こうした様々な指摘の中で、私が特に注目したいのは、傍点を施した半七が「|日ごろおこたらぬ見聞から《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|声の正体はズウフラをつかったいたずら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|と《ヽ》——」というくだりである。この箇所を作中における半七と子分のやりとりから拾ってみると、 「神田から駒込まで昇つて来るあひだに、まだ考へ附かねえのか。」と、半七は笑つた。「おれにやあちやんと判つてゐる。それはズウフラだ。」 「ズウフラ……。あゝ、判つた、判つた。」と、亀吉(=半七の子分)も笑ひ出した。「和蘭渡りで遠くの人を呼ぶ道具……。吹矢《ふきや》の筒の様なもの……。成程それに違《ちげ》えねえ。わつしも一度見たことがある……。」 「おれも或る屋敷でたつた一度見せて貰つただけだが、今度の一件を聞いてすぐにそれだらうと鑑定した。——後略——」  ということになる。  この場合、半七が怪異の正体を見破るのは、まさしく、都筑道夫の指摘の如く、日頃の見聞を怠らなかったためだが、『半七捕物帳』においては、事件解決の糸口が、半七の見聞の広さや世故にたけた活躍ぶりに依っている場合が実に多く見受けられるのである。  幾つか例を挙げるならば、第一話「お文の魂」からして、旗本屋敷で起こった幽霊事件の背後に、半七が破戒僧の邪心を読み取ったのは、彼自身、「唯、念のために申して置きますが、あの坊主は悪い奴で……延命院の二の舞で、これまでにも悪い噂が度々あったんですよ」というように、市井の事情に通じていたが故の気転であったことを語っているし、第二話「石燈籠」で、石燈籠の苔に残っていた足跡から小間物屋の女主人殺害の下手人を女軽業師と判断した理由もやはり、「女の軽業師は江戸にも沢山ありません。そのなかでも両国の小屋に出てゐる春風小柳と云ふ奴は不断から評判のよくない女で、自分よりも年の若い男に入れ揚げてゐるといふことを聞いてゐましたから、多分こいつだらうと——」という具合に、広く見聞を怠らなかったことに依っている。  さらに第五話「お化師匠」でも半七が事件の背後に御符売りが絡んでいると悟るのは、毎年、夏になると江戸には蛇除けの御符売りが来るが、中には、頸にかけた箱から蛇が頭を出すと、針のついた御符でこれをつつき、しまいには蛇が紙で撫でられるだけで首を引っ込めるように仕込む贋《まが》いものがあることを知っており、「わたくしがお化師匠の頸に巻きついてゐる蛇を見たときに、なんだか甚《ひど》く弱つてゐる様子がどうも普通の蛇らしくないので、ふつとその蛇除けの贋ひものを思ひ出して試しに懐紙でちよいと押へると、蛇はすぐに首を縮めてしまひましたから、さては愈々御符売りの持つてゐる蛇に相違ないと見きはめを付けて——」と説明されている。  このように半七の市井の動向についての知識や情報収集力がものをいうケースは、『半七捕物帳』の中では、枚挙に暇のないくらいだといってもいいだろう。  こうした事件解決に至るきっかけ、あるいは伏線と言い換えても良いが、は、例えば、「ズウフラ怪談」では、冒頭にズウフラの説明があるようにそれがあらかじめ読者の前に提示されているが、ほとんどの場合、物語の最後で半七の説明があるまで明らかにされてはいない。「お化師匠」等では、その説明の前に、わざわざ半七が「なるほど、今どきの人にやあ判らないかも知れませんね」と断わりを入れているくらいである。  杓子定規《しやくしじようぎ》にミステリーを定義する読者ならば、この連作の、実は半七は、そうした特殊な事情を知っていたというような説明のみに眼をつけて、『半七捕物帳』が、謎とき小説としてフェアかアンフェアかという、読みの袋小路へと入っていってしまうかもしれない。が、ミステリーとしての『半七捕物帳』を一つの思想の器として見た場合、こうした論議は、ほとんど意味をなさないのではないのか。  何故か?  それを検討する前に、『半七捕物帳』全体を読み返してみると、半七の扱った事件には、結構、外聞を憚《はばか》るもの、すなわち、武家や寺社方の秘事《ひめごと》にまつわるものが数多く含まれていることに気づかざるを得ない。再三引き合いに出した「お文の魂」はいうまでもなく、第七話「奥女中」は、或る大名の乱心した奥方にまつわる事件であるし、第十話「広重と河獺」の�広重�の事件は、少女の怪死事件をめぐってのさる旗本屋敷からの、第十五話「鷹のゆくへ」は、鷹匠の逃がしてしまった鷹をさがしてくれという、町方を通じての秘密の探索の依頼であった。また第二十七話「化銀杏」にも、探幽の贋作をめぐる旗本屋敷の内情が語られ、第四十七話「金の蝋燭」は、江戸城の御金蔵破りを追っての隠密行である。  このような種々の秘密を要する事件や、この他にも第三話「勘平の死」のように、町方を通さない被害者の母というような、民間からの依頼等も多く、岡本綺堂がこうした設定を数多く取った理由は、『半七捕物帳』が範とした�シャーロック・ホームズ譚�がそうであったように、江戸の社会の中で、公に出来ない重大事件や、もしくは、庶民の間で起こった不可思議な事件を解決する私立探偵が登場する必然性を見据えていたからではあるまいか。  そして同時に、その私立探偵役をつとめるのは、それまで芝居や講談等の髷《まげ》ものの世界でスターだった、剣豪でも、忍者でも、侠客でもない「親分と奉られながら、陰では忌な奴の印象をぬぐい切れない。それなればこそ、従来、小説でも芝居でも、岡っ引は立役《たちやく》になれないで、端敵《はがたき》の位置に甘んぜざるを得なかった」(岡本経一、旺文社文庫版『半七捕物帳(二)』解説「捕物の世界」)類の人物であり、ここに描かれているのは、いわば、岡っ引を通してのヒーローとしての庶民の発見に他ならない。  そして、このことは、既に記した『半七捕物帳』がミステリーとしてフェアかアンフェアかという論議を超えた作品が内包する思想性の問題、すなわち、作者である岡本綺堂が目指した作品の創作意図とも分かち難く結びついて来るのである。  その意図は、半七が武家の事件を扱った時、つまりは、連作のそもそもの発端である第一話「お文の魂」において既に明らかになっていたといえるのだが、結論からいってしまえば、岡本綺堂が行おうとしていたのは、江戸期の社会を創り上げた武家の尺度に、まったく違った価値観=庶民の知恵を対峙させ、両者の振幅の間から解決が導き出されていくミステリーを描くことではなかったのか。更にいえば、半七の扱った事件そのものが、天保十二年から慶応三年という武家社会の崩壊期である、という歴史的背景とも、これは合致しているのだ、といえるだろう。  そして、当然、その狭間には、江戸の地誌・世態・風俗や、江戸に暮らす人々のものの考え方等がクローズ・アップされていくことになる。 「お文の魂」において、旗本屋敷に出没する幽霊の謎をさぐって用人たちが行ったのは、幽霊が濡れているからといって、屋敷内の池を浚《さら》うことであり、隠密に探索を頼まれたKのおじさんが行ったのは、屋敷への女の奉公人の出入り帳を調べることでしかなかった。つまり、平たくいえば、武家の考えの及ぶ範囲はここまでで、これから先は、探索者がいかに市井の隅々にまでアンテナを張っているかにかかってくる。  Kのおじさんから相談を受けた半七は、お文という名の幽霊が、番町皿屋敷のお菊を濡れねずみにしたような風貌であることを確認し、さらに、問題の旗本屋敷に草双紙を携えた貸本屋が出入りしていることと、屋敷の寺が下谷の浄円寺であるということの二点を確認、たちどころに事件の真相を見抜いてしまう。すなわち、お文の幽霊というのは、薄墨草紙という草双紙からヒントを得た旗本の内儀の創作であり、そして、その背後にこの内儀を毒牙にかけようとする破戒僧の邪心が働いている、という事実を、である。  半七も、「どうだらう。巧くその幽霊の正体を突き止める工夫はあるまいか。幽霊の身許が判つて、その法事供養でもしてやれば、それでよからうと思ふんだが……」というKのおじさんの呼びかけに「ねえ、旦那。幽霊はほんたうに出るんでせうか」と半信半疑、幽霊の存在を全面否定する近代的合理精神の持ち主ではなく、日頃の見聞を怠らず、世故にたけているという、まったく別の側面からこの怪異の存在を否定してしまうのである。つまり、岡本綺堂は、江戸期の人々の迷信深い心理を無理なく描きつつ、同時に体裁としては『半七捕物帳』を都筑道夫のいう、新しいデテクティヴ・ストーリイにするというはなれわざをやってのけているのであり、そこに現われるのは、幕末から明治を生きた半七という一市井人のものの考え方、少し大げさにいえば、精神の風景とでもいったものであろう。  そして、このようにミステリーのかたちを通して庶民の価値観を屹立《きつりつ》させていくことは、そのまま探偵役である半七自身を屹立させることにつながっていく。既に記したように、半七の生涯の記録が架空の人物とは思えないほどはっきりとし、あたかもその行動が実在の人物であるかのように、『武江年表』の記述の中に組み込まれていること等、〈知〉と〈情〉の両面から、かつての江戸を再現し、その世界を統率する主人公にかくの如きリアリティーを付与していく行為は、今、記したようなミステリーとしての趣向を支える、いわば、背骨の部分ということになる。 『半七捕物帳』は、その一篇一篇が、興趣に富んだミステリーであるが、総体としては、江戸の風物詩であると同時に、幕末から明治を生きた一人の市井人の記録に他ならない。『半七捕物帳』を読むということは、名実ともに生きた江戸を読むことであり、主人公・半七はヒーローとはいうものの、その中にいる市井の人々の代表として読者の前に登場して来たのである。彼は、神の如き知性をひけらかす名探偵でもなければ、誇張された善と悪との戦いに参加する英雄でもない。まず、何よりも、江戸の人々とともにあろうとする。  私は、半七のそうした姿勢を、彼が諸々の事件を捜査していく過程で見せる、いくつかの〈配慮〉の中に見出すのである。  例えば、第六話「半鐘の怪」では、それはどのように現われるのだろうか。この話は、未読の方には申し訳ないが、ネタを割ってしまえば、安政末年、十一月の時雨《しぐれ》の降る頃、下谷御成道近くの自身番で、半鐘がひとりでに鳴り、次々と怪事件が起こるが、犯人を捕えてみれば、両国の芝居小屋を逃げ出した迷い猿のしわざであったというもの。  後に第十九話「お照の父」で、「しかし猿が刃物を持つて人を殺しに来るとは、作り話なら知らぬこと、実際には滅多にありさうにもないやうに思はれた」と記している作者の、明らかにE・A・ポオの『モルグ街の殺人事件』を意識した作であり、最後には猿の遠島というオマケまでついて、事件は目出度く解決する。がその一方で、町内でも札つきの悪戯小僧である権太郎が、日頃の行状からあらぬ疑いをかけられて自身番で折檻《せつかん》を受けたりしている。岡本綺堂は、半鐘を鳴らしたり、様々な怪異を演じる黒い影に出会った人々に、ある時は、それは確かに人間であったとも、ある時は獣であったともいわせているが、前者は、権太郎に対する仕打ちを憎んだ彼の兄のしわざ、後者は迷い猿のしわざであったとして、ストーリーを錯綜したものにして、読者を煙に巻いている。  その中で半七は、「兄貴が悪いんぢやねえ。兄貴はおいらの加勢をしてくれたんだ。兄貴を縛るならおいらを縛つてくんねえ。兄貴は今までおいらを可愛がつてくれたんだから、おいらが兄貴の代りに縛られても構はねえ。よう、をぢさん。兄貴を堪忍してやつて、おいらを縛つてくんねえよ」と泣いてすがる権太郎の姿にほろりとし、この「いたづら小僧も、その小さい心の底にはかうした美しいいぢらしい人情が潜んでゐる」ことを発見、「今の話はおれ一人が聴いただけにして置いて、だれにも云はねえ。その代りに俺の云ふことを何でも肯くか」と、権太郎を迷い猿捕縛に一役買わせ、彼が一度は自分を見放そうとした「町内完結社会」で身の立つように、気を配っているのである。  事実、権太郎は、半七の〈配慮〉によって、この後、町内の人達に可愛がられ、一人前の職人になったと記されている。ここで示されているのは、今も記した地縁・血縁を基盤とした「町内完結社会」における関係性の確認に他ならない。  小木新造の『東亰《とうけい》時代 江戸と東京の間で』(昭55、日本放送出版協会刊)によれば、この「町内完結社会」は、封建諸都市の協同体的因子をはらむもので、 ——ここでは世間様が自己を律する最高の規範となる。町内の仲間からつまはじきされるような振舞いや意識はタブーであった。このことは、創造的活力にとぼしい非民主的な傾向があったことは否定できない。しかしそこには、逆に現代が喪失してしまった血の通いあった地縁的人間関係が息づいていたことも見逃してはなるまい。湯屋で顔を合わせるのも、寄席で笑いをともにするのも、同じ町内の人間である。互いにその職業を異にしても同じ町内に住む人間同士、しかもその親の代も、その祖父の代も、同じように暮らしてきた人たちである。それは東京(=江戸)という土地柄をこよなく愛し、このなかに他人も自己も隔てなく、何のわだかまりもなく溶けこませ、喜怒哀楽を分ちあうことで深く結びあった人びとが、きびすを接して生活する同質的な地域社会であった。  と、いうことになる。  しかし、明治も二十年を過ぎると、地方から東京へ本籍を移す者が増加、彼らの精神的拠り所は、当然のごとく、故郷にあり、東京は「それぞれ異なった故郷をもち、自ら住む東京には郷土愛のかけらほども感じない人びとの集合の場として」変化を遂げ、「明治二十二年の『江戸会』成立以後しきりに江戸ッ子精神が鼓吹されたのは、東京の景観の変貌ばかりでなく、その住民意識の変質の危機に直面してのこと」であり、「町内完結社会」そのものの崩壊がはじまっていくのである。  こうした変化は『半七捕物帳』の連載が開始された大正六年の時点ではもっと進んでいるはずであり、これらのことを踏まえれば、「半鐘の怪」で半七が権太郎に行った〈配慮〉は、捕物帳を通してのこうした現状に対するアンチ・テーゼになっているともいえるだろう。  ちなみに、『半七捕物帳』の中で、江戸へ流れ込んだ地方出身者が犯罪を犯したり、何らかのかたちで、これに関係しているものは、江戸という都会が持つ〈魔〉によって猟師が無差別殺人を繰り返す、第十八話「槍突き」をはじめとして、続く第十九話「お照の父」、第二十八話「雪達磨」等、少なくないのである。  このように、ミステリーとしての体裁の中に、様々な意図が盛り込まれているのが『半七捕物帳』の特色でもあるのだが、その上にさらに新たな作者の思い入れが重ねられるようになってくるのが、昭和九年八月から十二年二月にかけて「講談倶楽部」に連載された「十五夜御用心」にはじまり、最終話となった「二人女房」に至る、シリーズ最後の二十三作なのである。  岡本綺堂は、しばらく『半七捕物帳』執筆の筆を休めていたが、社長命令によって足繁く綺堂の家に日参して来た「講談倶楽部」の編集者鈴木慎三に口説き落とされ、遂にこれを再開、ところが、作者自身、捕物帳の筆をとるのに躊躇《ちゆうちよ》があったと見え、後に「前期(第一話「お文の魂」から第四十五話「三つの声」に至る主に大正時代に書かれた諸作)に比べると割合に長編で、筋も複雑になつてゐるが、その筋を追はうとしないで、大抵のところで種を割つてしまひ、老人と記者との対話で片をつけてゐる」(岡本経一『綺堂年代記』)と評されることになる。  だが、果たして、それだけなのだろうか。  ここで、いよいよ、この後期『半七捕物帳』の内部へと分け入っていくわけだが、その前に、半七と並んで気になるもう一人の老人に読者を引き合わせておこうと思うのだ。  その人の名は三浦老人——半七の古い友人の一人である。 [#改ページ]   五、半七老人から三浦老人へ  俗に、〈綺堂読物集〉の中でも巷談篇といわれる『三浦老人昔話』は、大正十三年一月から十月まで「苦楽」に連載されたもので、全十二話。このうち、第九話「刺青の話」は掲載誌不詳、第十一話「下屋敷」は、「講談倶楽部」大正七年十月号に掲載された「下屋敷の秘密」を改作したもので、三浦老人は、これら、すべての物語の語り手をつとめている。  この連作は、内容としては、『半七捕物帳』から探偵小説的興味を除いて、江戸の風俗・人情を記録する姿勢をより強く打ち出したものと考えれば、間違いはない。形式は『半七捕物帳』と同様に、江戸の残党である三浦老人の昔を、若い新聞記者の�わたし�が聞き書きのかたちでまとめたものとなっており、老人の語りの部分が、すべて�ですます調�の説話体となっているのが印象的だ。  第一話「桐畑の太夫」の冒頭で明らかにされるのだが、或る正月、半七老人を訪ねた�わたし�が、これもたまたま、そこを訪れていた三浦老人を紹介されるという設定で物語がはじめられる。  半七は「こちらは、大久保にお住居の三浦さんと仰しやるので……」と語り、さらに続けて、 「三浦さんも江戸時代には下谷《したや》に住まつてゐて、わたしとは古いお馴染ですよ。いえ、同商売ぢやありませんが、まんざら縁のない方でもないので……。番所の腰掛けでは一緒になつたこともあるんですよ。はゝはゝはゝ。」  と紹介する。  三浦老人は下谷の町内の家主《いえぬし》であった、家主とはその時代でいう大家のことであり、当時は何かの裁判沙汰があれば、かならずその町内の家主が関係することになっていたので、そこから、二人は知り合いになったらしい、と作中では説明されている。  家主といえば、前章で触れた「半鐘の怪」で、半七に事件の捜査を依頼するのが、やはり下谷近くに住む家主で、ひょっとしたら、この三浦老人か、などと夢想するのも、また一興だ。  まァ、それはともかく、さらに半七は、�わたし�に「あなたは年寄りのむかし話を聴くのがお好きだが、おひまがあつたら今度この三浦さんをたづねて御覧なさい。この人はなかなか面白い話を知つてゐます」と誘いをかけ、「わたくしのお話はいつでも十手《じつて》や捕縄《とりなわ》の世界にきまつてゐますけれども、こちらの方は領分がひろいから、いろいろの変つた世界のお話を聴かせてくれますよ」と三浦老人を訪ねることをすすめている。 『近代文学研究叢書 第四十四巻』(昭52、昭和女子大学近代文学研究所刊)に収められている岡本綺堂の著作年表(調査 赤松昭)によれば、綺堂は『三浦老人昔話』と並行して、「冬の金魚」や「一つ目小僧」といった『半七捕物帳』を執筆しているが、「桐畑の太夫」における半七の口調は、三浦老人の紹介であると同時に、当初は、むしろ『半七捕物帳』の休筆宣言を兼ねていたのではあるまいか。  関東大震災の直後に筆をとりはじめた小説だけに、綺堂の中にミステリーの形式にとらわれず、よりストレートに江戸の面影を現代に伝えたいという気持ちが高まって来たのだと思われる。  このことは、作中で�わたし�が、 ——わたしは半七老人から江戸時代の探偵ものがたりを聴き出すのと同じやうな興味をもつて、この三浦老人からも何かのおもしろい昔話を聴きたいと思つた。新しい話を聴かせてくれる人はたくさんある。むしろ、だんだんに殖えてゆくくらゐであるが、古い話を聴かせてくれる人は、暁け方の星のやうにだんだんに消えてゆく。今のうちに少しでも余計に聴いて置かなければならないといふ一種の欲も手伝つて、わたしはあらためて、三浦老人訪問の約束をすると、老人はこころよく承知して、どうで隠居の身の上ですからいつでも遊びにいらつしやいと言つてくれた。  と、語っている箇所からも汲み取れる。  そして、この第一話「桐畑の太夫」で、半七が�わたし�を三浦老人に紹介したのは、�わたし�がこの連作を執筆している現在時よりも、「二十年あまりも昔」であると記されており、さらに、第六話「権十郎の芝居」の中で三浦老人は「すでにこの世にゐない人」であることが明らかにされるのだ。  つまり、全体としては回顧談であり、ここにも、三浦老人の語る江戸という大過去と、その老人と�わたし�が出会っている二十年あまり前という、二重の過去が想定されている。  そして、こうした回顧談の持つ効果は、先に引き合いに出した第六話の冒頭にも、  これも何かの因縁かも知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃がれ、麻布に移つて、更にこの三月から大久保百人町に住むことになつた。大久保は三浦老人が久しく住んでゐたところで、わたしがしばしばここに老人の家をたづねたことは、読者もよく知つてゐる筈である。——中略——わたしが今住んでゐる横町に一軒の大きい植木屋が残つてゐるが、それはむかしの躑躅園の一つであるといふことを土地の人から聞かされた。してみると、三浦老人の旧宅もここから余り遠いところではなかつた筈であるが、今日《こんにち》ではまるで見当が付かなくなつた。老人の没後、わたしはめつたにこの辺へ足を向けたことがないのでここらの土地がいつの間にどう変わつたのかちつともわからない。  と、心憎いまでの効果を上げている。  しかし、私たちはここで綺堂の巧みな語り口にばかり酔ってはいられない。この文章から読み取れるもう一つの事実、それは、ここでも『半七捕物帳』の時と同様、�わたし�が岡本綺堂の分身の役割を担わされているらしい、ということである。  震災で家を焼かれて目白→麻布→大久保百人町へと住居を転々とする——これは、そのまま岡本綺堂の震災後の移転のコースに当てはまり、『三浦老人昔話』執筆時の住居は、当時の市外、大久保百人町三百一番地、綺堂にとっては生まれてはじめての郊外生活である。これは、文中の�わたし�の述懐に合致する。してみると、ここでも、�わたし�=綺堂という、前期『半七捕物帳』と共通の図式が成立するのだろうか。  しかし、ここにもう一人、無視出来ない存在がある。他ならぬ三浦老人もまた、第一話から明らかにされるように大久保百人町の住人であり、『郊外生活の一年』という随筆の、 ——五月になると、大久保名物の躑躅の色がこゝら一円を俄に明るくした。躑躅園は一軒も残つてゐないが、今もその名所のなごりを留めて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適してゐるのであらうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を着けてゐた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたやうな心持になつて、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さへあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあひだを覗きあるいた。  という一節などを読むと、確かに�わたし�の年齢の方が、岡本綺堂の実年齢と同じであるにもかかわらず、かえって、杉の生垣のある家に起居し、躑躅を愛でたであろう、三浦老人の面影こそを作者に重ね合わせたくなってくるのだ。  また、この連作は、説話体という|なま《ヽヽ》の語り口を活かしているためか、『半七捕物帳』にも増して枯淡の味わいをみせており、そこにおのずと作者自身の人間洞察の眼が露わに顔をのぞかせる趣向となっている。つまり、綺堂の意志が�わたし�を通さず、一足飛びに三浦老人の中へ投影されるともとれるわけで、これなども、三浦老人と作者を重ね合わせたくなる理由の一つである。  そして何よりも、その説話体という直接的な語りかけが、綺堂の作中への積極的な介入を如実に物語ってはいないだろうか。  私は、『三浦老人昔話』執筆時の岡本綺堂の内部に、自己を物語の筆録者である�わたし�ひとりには託し切れないなにかが生じたのではないか、と考えている。そのなにかの引金となったのは、無論、あの関東大震災である。  この災害が、東京に残っていた江戸の残り香をことごとく葬ってしまったことは、幾度も書いた。そして綺堂はそのために、一時は「なんだか頭がまだほんたうに落ちつかないので、まとまつたことは書けさうもない」(「震災の記」)というほどの衝撃を受けてしまうのである。  しかし、問題はその後だ。  激しいショックから醒めて、今まで残存していた江戸の面影が残らず瓦礫《がれき》と化したと悟った時、果たして岡本綺堂は何を思い、何を考えたのであろうか。  新たなテーマは、そこからはじまるのである。  岡本綺堂が関東大震災を機に、自己をどう規定していったのか。  この甚だ興味深い問題の解答ともいうべきものが、先に引用した『三浦老人昔話』の第六話「権十郎の芝居」の中の「(三浦)|老人の没後《ヽヽヽヽヽ》、わたしはめつたにこの辺(大久保百人町)へ足を向けたことがないので——」(傍点筆者)という、三浦老人を故人であるとするくだりである。  ここから、綺堂自身の面影を�わたし�ばかりでなく、三浦老人にも見出《みいだ》そうとする発想も生まれてくる。  つまり、岡本綺堂を捉えたのは、震災を境にして、自分を明らかにかつての江戸=旧東京と同様、葬られる側の立場に立った人間として意識するという寂寞たる思いではなかったのだろうか。それは、これも、先に引用した第一話「桐畑の太夫」の冒頭で、�わたし�を通して語られる「古い話を聴かせてくれる人は、暁け方の星のやうにだんだんに消えてゆく」ということばに端的に示されている通りである。  捕物帳を通して、生きた江戸を語り続けて来た綺堂の努力も、自然の猛威の前には、あえなく潰《つい》えてしまった。もはや、東京と江戸を結ぶ架け橋もない。その中で、あくまでも書き続けねばならないとするならば、そこから必要になってくるのは、むしろ、自分が〈葬られる側〉の人間であるという冷静な認識なのではあるまいか。  それ故に三浦老人は、作中、「すでにこの世にゐない人」でなければならない。綺堂はここに至り、震災後の自分の位置を明確に把握するために自分自身を三浦老人に託し、かつまた、作者としての自己を保つために、もう一人の自分を、作品の筆録者である�わたし�に託したのである。  事実、『三浦老人昔話』は、�わたし�と三浦老人とのやりとりで物語の端緒が切られるものの、いってみれば、それはこのふたりに託された綺堂の自問自答といった感が強い。  そのことは、「権十郎の芝居」の冒頭に続く次の文章を見ても了解されよう。  昔話——それを語つた人も、その人の家も、みな此の世から消え失せてしまつて、それを聴いてゐた其の当時の青年が今やここに移り住むことになつたのである。俯仰今昔の感に堪えないとはまつたく此の事で、この物語の原稿をかきながらも、わたしは時々にペンを休めていろいろの追憶に耽ることがある。むかしの名残りで、今でもここらには躑躅が多い。わたしの庭にもたくさんに咲いてゐる。その紅い花が雨にぬれてゐるのを眺めながら、けふもその続稿をかきはじめると、むかしの大久保がありありと眼のまへに浮かんでくる。  いつもの八畳の座敷で、老人と青年とが向かひ合つてゐる。老人は「権十郎の芝居」といふ昔話をしてゐるのであつた。  この部分は�わたし�の回想としてくくられているにもかかわらず、「それを聴いてゐた其の当時の青年が今やここに移り住む——」とか、あるいは「いつもの八畳の座敷で、老人と青年とが——」というくだりで二人は混在化し、小説としての骨組みを越えて、あらゆるものが創作主体である岡本綺堂自身に搦めとられていってしまうのである。  そして、これらの事柄を念頭に入れると、後期『半七捕物帳』は、どのような色彩を帯びて来るのだろうか。 [#改ページ]   六、『半七捕物帳』の終焉《しゆうえん》  震災以後の自身の感情を三浦老人に託し、これを客観化するために�わたし�という語り手を必要とする——このことは、自らを「旧東京の前期の人」とも、「江戸時代からはみ出して来た人たち」の一人であるとも定義した綺堂の考えを、作品執筆に沿って敷衍化《ふえんか》したものだということが出来る。  その中で、執筆を進めていく綺堂の筆致にも、前期『半七捕物帳』とは違う微妙な差異が生じはじめて来る。それを回を追うごとに見ていくとどうなるか。  まず、後期『半七捕物帳』の第一作である第四十六話「十五夜御用心」からはじめると、この物語は、本所の荒れ寺に巣くう怪しの虚無僧にまつわる捕物なのだが、その冒頭は、  私は曾て「虚無僧」といふ二幕の戯曲をかいて、歌舞伎座で上演されたことがある。  と、いきなり、綺堂の打ち明け話で幕が開き、その後に「この虚無僧の宗規や生活については、私自身も多少は調べたが、大体はそのむかし半七老人から話して聞かされたことが土台になつてゐるのであつた」と続けられ、そして、さらに、この話は半七から虚無僧について様々に教えてもらった時の、いわば、副産物として披露してもらった話であることが明らかにされていく。  ちなみに、語り手のいう「虚無僧」とは、大正十四年八月、「新小説」に発表され、同年九月、歌舞伎座において、左団次主演で上演されたものであると、「綺堂戯曲年表」にはある。  ここに興味深いことが二つある。  一つは、今まで、様々な臆測から綺堂がモデルらしいと判断していた新聞記者の�わたし�を、作者自身が、ストレートに自分である、と断じていることである。以前には、自己の分身である�わたし�を創造し、ワン・クッション置いて半七と向き合っていた綺堂が、より、直截に登場して来たわけであろう。そして、このような作中における作者の顕在化は、『三浦老人昔話』の時のように、岡本綺堂自身と主人公である半七との積極的な接近を促しはじめるかのように見受けられる。  その具体例は、おいおい述べるとして、もう一つの興味深いこととは、�わたし�が、半七から虚無僧の話を聞かされた時のことを、「|そのむかし《ヽヽヽヽヽ》」(傍点筆者)と記していることである。  この連作は、第一話「お文の魂」に立ち戻るまでもなく、日清戦争が終わりを告げる頃(作品によってはそれ以前の場合もある)、半七老人と懇意になった�わたし�が、彼の昔日の功名譚を聞き書きする、という体裁をとっている。  確かに『半七捕物帳』の執筆再開までには、かなりの時間的隔たりがあるが、その�わたし�と半七との出会い全体を「そのむかし」とか、あるいは「これも明治三十年の秋と|記憶してゐる《ヽヽヽヽヽヽ》」(第五十話「正雪の絵馬」、傍点筆者)等という云い廻しを用いて、三浦老人のそれと同じく、過去の時間の中へ押し戻すことは、いきおい、この連作にこれまでとは別種の感傷を添えることになるのではあるまいか。そうした傾向をつぶさに見ていくと、第五十二話「妖狐伝」の結末の「思へばそれも三十余年の昔である」という、半ば嘆息めいた一節や、第五十八話「菊人形の昔」の�わたし�が半七とともに往時を思いやる「私もさびしい心持で、この筆記の筆をおいた」という、これも結末の一節に如実に現われ、�わたし�と半七との心情的な一体化が明らかになってくる。  もともと、この�わたし�は単に、半七の功名譚の筆録者というだけではなく、岡本綺堂と同世代の存在で、その体験や日常を作中にはさむことによって、半七の生きた江戸ばかりでなく、さらには、これから失われゆくであろう、明治という時代の風俗をも映し出す役割を担っていたはずなのである。  ところが、後期『半七捕物帳』において、私が語る明治の時代と風俗は、しばしば、|失われてしまったもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、として登場する。それは、例えば、第五十四話「唐人飴」の冒頭の、  今日でも全く跡を絶つたといふのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少くなつた。明治時代までは鉦をたゝいて売りに来る飴売りが頗る多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子供を相手に色々の飴細工を売る。この飴細工と|※[#「米+參」]粉《しんこ》細工とが江戸時代の形見と云つたやうな大道商人であつたが、キャラメルやドロップをしやぶる現代の子ども達からだん/\に見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折々に見かける飴売りにも若い人は殆ど無い。大かたは水洟を啜つてゐるやうな老人であるのも、そこに移り行く世のすがたが思はれて、一種の哀愁を誘ひ出さぬでもない。  という箇所に如実に現われ、さらにこうした書きっぷりは、「今と違つて、明治時代の富岡門前町の往来はあまり広くない」という一節が挿入される第六十二話「歩兵の髪切り」冒頭の深川八幡の歳の市の描写へと受け継がれていく。前者では、�わたし�が、飴売りが繁昌している明治時代のある三月の末、飴屋と立ち話をしている朝湯帰りの半七と、後者では、路ばたの理髪店から出て来た半七と、それぞれ、偶然、出くわすというように、どちらも、まず、失われてしまった明治の風景の中に半七を置いてみることで物語の筆を起こしている点が注目されよう。  この他にも、第六十四話「廻り燈籠」における「正月はじめの寒い宵で、表には寒まゐりの鈴の音がきこえた。|この頃は殆ど絶えたやうであるが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|明治時代には《ヽヽヽヽヽヽ》寒詣りがまだ盛に行はれて——」(傍点筆者)という描写等が挙げられ、�わたし�がほとんど次代の半七の役を担わされていることが分かる。 『半七捕物帳』の執筆が開始された時�わたし�の描く明治は、まさに彼が生きている現在として登場しており、このように決して過去のものではなかったことを思い起こしていただきたい。第六十六話「地蔵は踊る」で、作者は、  何事かを思ひ泛べるやうに、半七老人は薄く眼を瞑ぢた。それが老人の癖であると共に、なにかの追憶でもあることを私はよく知つてゐた。  と記しているが、ここまでくればこうした表情は、おそらく�わたし�と半七、そして作者である岡本綺堂の三人に共通のものとなっているに違いないのだ。  この後期『半七捕物帳』に新たに生まれた、これまでとは別種の感傷——それを岡本経一は、綺堂の「青春回顧の想い」(旺文社文庫版『半七捕物帳(五)』解説「半七老人・綺堂老人」)であるとした。岡本経一はいう。  半七老人に若い新聞記者がよく会った時点を日清戦争後に設定したのは、町の暮らしも風物も江戸離れして、新東京に転移した時期だったからである。半七捕物帳が生まれた大正六年は、それから又二十数年経って、欧州大戦によって社会が大きく変動する頃であった。曾ての二十四五歳の青年記者は、四十五六歳の初老期の作家になっている。こういう形式の作品は、青春回顧の想いもあったであろう。  そして、後期『半七捕物帳』の執筆が開始された昭和九年ともなれば、さらに多くの歳月が流れ、綺堂は六十二歳、ワシントン軍縮条約破棄が通告された年であり、時代は、また、大きく変わりはじめていた。作品全体が、当初、考えられていた様々な知的策略の中から、諸々の感慨を紡ぎ出すのも、至極、当然といえるだろう。  また、さらに、先に記した、綺堂の半七への積極的な接近という点から論を進めれば、作中における芝居に対する言及を挙げねばなるまい。  前期『半七捕物帳』でも、第三話「勘平の死」が、忠臣蔵の素人芝居の最中に起こった殺人を扱っていたり、第九話「春の雪解」の冒頭で「あなたはお芝居が好きだから、河内山の狂言を御存知でせう」と半七が話しはじめるように、事件の筋や登場人物を芝居に見立てて説明する箇所が随分あった。後の作者の言を借りれば、これすべて「読者もすでに御承知の通り、半七老人の話はとかくに芝居がかりである」(第六十話「青山の仇討」)という言葉に収斂《しゆうれん》されるのであろう。  ところが、このような趣向や見立て以外のところで芝居に関する言及のあるのが、第二十六話「女行者」である。この作品の冒頭において、�わたし�は芝居見物にやって来た半七とばったり出くわすのだが、時は明治三十二年秋、所は明治座、出しものは「天一坊」、初代左団次の大岡越前守、権十郎の山内伊賀之助、小団次の天一坊という配役であったと記されている。そして、二、三日後、赤坂の隠居所へ半七を訪ねていった�わたし�が聞かされた劇評は、  わたしの予想通り、老人はなか/\の見巧者であつた。かれはこの狂言の書きおろしを知つてゐた。それは明治八年の春、はじめて守田座で上演されたもので、彦三郎の越前守、左団次の伊賀之助、菊五郎の天一坊、いづれも役者ぞろひの大出来であつたなどと話した。  というもので、さらに半七の、 「——今日までたび/\舞台に乗つてゐるわけですが、やつぱり書きおろしが一番よかつたやうですな。いや、こんなことを云ふから年寄りはいつまでも憎まれる。はゝゝゝゝゝ。」  という言葉でしめくくられている。  そして、ここで注目していただきたいのは、半七が見たという、明治八年、守田座(新富座)の「天一坊」(大岡政談)のことである。すでに本書の第一章でも触れたように、この守田座の「天一坊」は、綺堂は「何の記憶も残つてゐない」というものの、母に連れられて、「兎もかくも私がこの世に生まれ出でてから劇場内の空気を呼吸した始め」(『歌舞伎往来』)の三歳の折に見たはずの芝居で、後に「因縁がある」とも「なんとなく懐しい」とも述懐しているところの狂言なのだ。そして、綺堂自身の「この狂言だけに就て云へば、黙阿弥の作中でも屈指の佳作であるやうに思はれる」という評価が、前述の「やつぱり書きおろしが——」という半七の台詞につながるわけで、ここで綺堂は、半七という、自分より一世代前の人物の〈記憶〉をつくり上げることによって、まったく憶えていない芝居の素晴らしさを夢想している。換言すれば、半七は綺堂が持っていない〈記憶〉を、しっかり脳裏に刻み込んでいる古老として描かれているわけである。  ところが、後期『半七捕物帳』になると、無論、こうした傾向はあるものの、半七の劇評は、綺堂さながらに明治の演劇の同時代評の様相を呈してくる。  それが良く分かるのが、第五十三話「新カチカチ山」と、第六十話「青山の仇討」の冒頭部分である。どちらも、芝居見物をして来た半七と�わたし�が、歌舞伎談義をするところから物語がはじまるのだが、老人の劇評は「新カチカチ山」では、 「木挽町はなか/\景気が好うござんしたよ。御承知でせうが、中幕は光秀の馬盥から愛宕までで、団十郎の光秀はいつもの渋いところを抜きにして大芝居でした。愛宕の幕切れに三宝を踏み砕いて、網襦袢の肌脱ぎになつて、刀をかついで大見得を切つた時には、小屋一ぱいの見物が|わつ《ヽヽ》と唸りました。取分けてわたくしなぞは昔者ですから、あゝ云ふ芝居を見せられると、総身がぞく/\して来て、思はず成田屋アと呶鳴りましたよ。あはゝゝゝ。」  と記され、また、「青山の仇討」では、�わたし�の「新富は佐倉宗吾でしたね」という言葉を受け、 「さうです。さうです。九蔵の宗吾が評判がいゝので見に行きましたよ。九蔵の宗吾と光善、訥子の甚兵衛と幻《まぼろし》長吉、みんな好うござんしたよ。芝鶴が加役《かやく》で宗吾の女房を勤めてゐましたが、これも案外の出来で、なるほど達者な役者だと思ひました。中幕に嵯峨や御室の浄瑠璃がありましたが、九蔵の光圀はほんのお附合ひといふ料簡で出てゐる。多賀之丞の滝夜叉は不出来、これは散々でしたよ。なにしろ光圀が肝腎の物語をしないで、喜猿の鷲沼太郎とかいふのが名代《みやうだい》を勤めるといふ始末ですから、真面目に見てはゐられません。」  というもので、こちらは温和な中にもきびしさのこもったものとなっている。  前者は、明治二十六年の十一月中旬、後者は、明治二十七年五月の二十日過ぎのことであると作中に記されているが、実際、当時の歌舞伎座、新富座の出しものが、それぞれ「愛宕連歌誉文台」と「佐倉義民伝」で、団十郎と九蔵が座長をつとめている。つまりは、実際の番附と呼応しており、これらの芝居を見た半七の喜怒哀楽は、そのまま綺堂のそれにつながるとみていいだろう。 「——思はず成田屋アと呶鳴りましたよ」という半七の台詞は、そのまま「私の生涯のうちで幸福の一つは、団十郎、菊五郎、左団次等の芝居を幼少から二十年以上も見つづけて来たといふにある」(「団十郎を語る」)といって憚《はばか》らない綺堂の心情を代弁したものであろうし、「——まじめに見てはゐられません」という辛辣《しんらつ》さは、往年の劇評家綺堂の冷徹な批評眼を物語るものといっていいのではあるまいか。  これらのことなどは、岡本綺堂が、�わたし�ばかりでなく、半七とも次第に等質の存在になりつつあることの格好の証左といえるだろう。  そして、この他に、後期『半七捕物帳』で顕著になったことを挙げるならば、それは幕末の時代相がより濃厚に全篇を彩りはじめたことではないのか。  確かに、前期の作品にも、第四十話「異人の首」のように、半七が攘夷《じようい》の名の下、異人の首を掲げた押し借り強盗を追って横浜に赴くといった、幕末でなければ考えられないような作品もある。しかしながら、半七の扱う事件は、そうした時代状況を借景として、市井の人々の生活の襞《ひだ》から生まれ、またそこへ回帰していく類のものが多いのである。ところがそうとばかりもいっていられなくなってくるのである。ともかく、この幕末の様相を生々しく感じること、後期作品に如《し》くはなし——「十五夜御用心」から「二人女房」に至る二十三話のうち、約半数の十二篇ほどが、幕末に実際に起こった事件、もしくは、当時の状況を踏まえたストーリーの展開を示しているのだ。  これを作品順に列挙してみると、 「ズウフラ怪談」——黒船来たるの騒ぎに呼応しての町道場の隆盛。 「正雪の絵馬」——海防のための淀橋火薬庫暴発事故。 「妖狐伝」——品川沖に停泊している外国船乗組員が絡む贋金使い。 「唐人飴」——高野長英の捕縛。 「かむろ蛇」——安政のコロリ(コレラ)の大流行。 「河豚《ふぐ》太鼓」——植疱瘡(種痘)が庶民の間で行われはじめる。 「菊人形の昔」——横浜居留地に住む英国商人の団子坂の菊人形見物と、幕府別手組の護衛。 「蟹のお角」——文久の麻疹《はしか》大流行。横浜異人館を舞台にしての愛憎劇。 「吉良の脇指」——犯人が品川お台場工事の人足として潜伏。 「歩兵の髪切り」——横暴な幕府歩兵隊ばかりを狙う通り魔の横行。長州屋敷取り壊し。 「川越次郎兵衛」——江戸城本丸の表玄関に�天下を引き渡せ�と呶鳴る男の出現、安政の大地震。 「地蔵は踊る」——安政の大地震、コロリ(コレラ)の大流行。  ということになる。  私は、既に、『半七捕物帳』を読むことは、総体として幕末から明治期を生きた一人の市井人の記録を読むことに他ならない旨を記したが、特に、今、列挙した諸作を読むと、幕末の諸事件との絡みで明らかにされる庶民のものの考え方や市井の動向が、確かな臨場感とともに手にとるように伝わってくるのである。前期『半七捕物帳』でも、第二十九話「熊の死骸」のように、『武江年表』の記述との対応という点から、その実在感《リアリテイー》を確認出来るものがあった。しかし、主人公半七を歴史の中に位置づけることの多さにおいて、後期の作品は前期とは比べようのないほどの比重となっている。  そして、こうした幕末から維新期にかけての物語は、ある時は、新旧二つの時代の谷間に埋もれていった人々に対する追憶や鎮魂の趣きすらも備えている。  それが、各篇の最後で半七が話をしめくくる時にいう、 「——お福は根岸へ帰つてから何処へも再縁せずに、家の手伝ひなぞをしてゐましたが、上野の彰義隊の戦争のときに、流れ弾《だま》にあたつて死んださうで、どこまでも運の悪い女でした。」(「河豚太鼓」)  とか、 「——それから七八年の後に、両国辺の人たちが大山参りに出かけると、その途中の達磨茶屋のやうな店で、お米によく似た女を見かけたと云ふのですが、江戸末期のごた/\の際ですから、そんなところまでは詮議の手がとゞかず、たうとう其儘になつてしまひました。」(「幽霊の観世物」)  等という語りの中に示され、さらに、 「——いや、怪我人といへば彼の次郎兵衛、姉から知らせてやつたのでせう、この一件が無事に済んだ事を知つて、怱々に江戸へ戻つて来ましたが、江戸はおそろしい所だと云つてすぐに故郷へ帰らうとするのを、姉夫婦にひき留められて、例の蝋燭問屋の万屋へ奉公することになりました。さうすると、その年の十二月二日は安政の大地震、店の土蔵が崩れたので、その下敷になつて死んで仕舞ひました。どうしてもこの男には江戸が祟《たた》つてゐたと見えます。——」(「川越次郎兵衛」)  あるいは、 「——銀之助は、その歳の暮に本家へ帰りました。さうしてぶら/\してゐるうちに、慶応四年の上野戦争、下谷の辺で死にました。と云つても、彰義隊に加はつたわけぢやあない。町人の風をして、手拭をかぶつて、戦争見物に出かけると、流れ玉にあたつて路傍《みちばた》で往生、いかにもこの男らしい最期でした。」(「薄雲の碁盤」)  という具合に、事件が終わった後での時の流れと、人々の運命の転変の不思議さが語られ、何ともいえない無常感と陰翳《いんえい》を作中に落としている、といわざるを得ないのである。  こうした諸要素を踏まえた上で、さらに後期『半七捕物帳』の留意すべき点をアト・ランダムに挙げていくと、「金の蝋燭」において、 ——明治三十年前後の此の時代に、普通の住宅で電燈を使用してゐるのはむしろ新しい方であつた。現にわたしの家などでは、その頃もまだランプをとぼしてゐたのである。新しい電燈を用ひて、旧い蝋燭を捨てず、そこに半七老人の性格があらはれてゐるやうに思はれた。  と記された半七の暮らしぶりは、心情的には、江戸の残党の側に身を寄せながら、常にモダンで合理的な一面を持ち合わせていた岡本綺堂のそれを反映させたものだろうか。  また、「正雪の絵馬」において、半七に、明治三十年、「東京日日新聞」に連載中の塚原|渋柿園《じゆうしえん》作『由井正雪』を読ませ、 「——明治の此頃流行の恋愛小説なんて云ふものは、何分わたくし共のお歯に合はないので、なるべく歴史小説をさがして読むことにしてゐます。渋柿園先生の書き方はなか/\むづかしいんですが、読みつゞけてゐるとどうにか判ります。殊に今度の小説は『由井正雪』で、わたくし共にもお馴染の深いものですから、毎朝の楽しみにして読んでゐます。」  といわせているのは、綺堂の東京日日新聞社時代の恩人塚原渋柿園への敬意を表したものか。ちなみに、第三話「勘平の死」において塚原渋柿園に対する師弟にも似た関係は第三章で記したように「歴史小説の老大家T先生(渋柿園)を赤坂のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話を色々伺つたので、わたしは又かの半七老人にも逢ひたくなつた」というように、�わたし�との間に結ばれている。  そしてさらに、「廻り燈籠」は、弱腰の岡っ引が、かつて自分が捕縛した犯人の破牢に脅える話だが、半七が最後にいう、 「——そこで、このお話ですが……。岡っ引が逃げて、泥坊が追つかける。まことにをかしいやうですが、あの廻り燈籠を御覧なさい。色々の人間の影がぐる/\廻つてゐる。あとの人間が前の人間を追つかけてゐるやうに見えますが、それが絶えず廻つてゐると、見やうによつては前の人間があとの人間を追つてゐるやうにも思はれます。人間万事廻り燈籠といふのは、こんな理窟かも知れませんね。」  という言葉は、ストーリーの説明をしているようでいて、実は百八十度、価値観が変わってしまったかに見える維新後の世相に一矢報いたものとは受けとれまいか。  と、まァ様々な事柄が挙がってくる、ということになる。  そして、では、今、記して来たことから後期『半七捕物帳』についてどんな結論が出るのか、と問われれば、私の方からは逆に今まで述べて来たこと全部が結論だ、と答えざるを得ない。 〈知〉の策略のほころびをついて思わず現われる〈情〉のきらめき——それは、トーストに紅茶という朝食をとり、インクは必ず丸善のブルー・ブラック、ライスカレーが好物で、震災後は洋装の人が多いからと、応接間を洋間にしてしまった綺堂の表情が、作中、半七が、昔語りの折りに洩らす嘆息の表情に重なり合う一瞬のそれに他ならない。そしてその時、『半七捕物帳』のページを繰る者は、現在から過去へ、そして「時計のない国」へと、時を自在に往還するのである。  正岡|容《いるる》は〈岡本綺堂追悼号〉となった「舞台」(昭和十四年五月号)に寄せた「半七老人」の中で、「山王祭りの晩や四万六千日の雨の日や稗蒔《ひえまき》売のやつて来る昼下りに、好んで半七老人は江戸の昔を語るが、その話好きの老人の上に岡本先生御自身のお姿がいつも見えてならぬのは私一人だらうか」と記している。  確かに、半七老人を作者である綺堂自身に当てはめる意見はよく聞かれるし、私自身もそう思わざるを得ないことが多々あるのは今まで見て来た通りだ。それでは、綺堂は半七なのか。しかし、私はそのことの当否よりも、岡本経一が『綺堂年代記』の中で紹介している、綺堂の中学生時代のエピソードが思い起こされてならないのである。  そのエピソードとは、父の勤めている英国公使館の書記官アストンが、綺堂に告げた、今日から思えば、一つの啓示ともいうべきものである。  二人で神保町を歩いていた時のこと、そのあたりは路幅が狭く家並も悪い、おまけに各商店の前には雑然と色々な物が積んであり、体裁が悪い——それを恥じた綺堂は、「ロンドンやパリの町にこんな穢《きたな》いところはありますまいね」と話しかける。すると、アストンもそれを肯定するが、意外なことに、日本の町では、倫敦《ロンドン》や巴里《パリ》、新嘉坡《シンガポール》や香港にも見出すことの出来ぬ大きな愉快、すなわち道を行く老若男女の楽しげな顔を見出す愉快を感じるといい、さらに次のように続けるのである。 「東京の町はいつまでも此儘ではありません。町は必ず綺麗になります、路も必ず広くなります。東京は近き将来に於て、必ず立派な大都市になり得ることを、私は信じて疑ひません。併しその時になつても、東京の町を歩いてゐる人の顔が今日のやうであるか何うか、それは私にも判りません。」  本来、一つの表情であるべきはずの歴史の女神クリオの貌は、これを見る者の意識によって様々に変化するという。岡本綺堂が生み出した半七こそは、このアストンの言葉が示すように、幕末から明治、そして近代へと、歴史の転変を潜り抜けねばならなかった人々が獲得した等身大のクリオの横顔だったのである。 [#改ページ]   七、大衆作家以前  さて、本書も、岡本綺堂の『半七捕物帳』に関する項を終え、いよいよ佐々木|味津三《みつぞう》の『右門捕物帖』について論を進めていくことになる。  この捕物帳の歴史に新たな一ページを書き加えた連作は、第一番手柄「南蛮幽霊」が、「富士」の昭和三年三月号に登場して以来、途中で掲載誌が「朝日」に変わったものの、昭和七年六月に発表された最終作「山雀《やまがら》美人影絵」まで、計三十八話が書き継がれたヒット作である。当時、捕物帳といえば、即、『半七捕物帳』を指し、この「天衣無縫の枯淡老熟の極に達した名作があるのに、その後を追うなどとは無謀も甚しい」(木村|毅《き》「大衆文学夜話」における当時の回想)とする向きもあったようだ。しかし、佐々木味津三は見事にその二番槍としての役目を果たしたのである。  この『右門捕物帖』は、文学史的脈絡の中で捉えるならば、前述の『半七捕物帳』と野村|胡堂《こどう》の『銭形平次捕物控』(昭6)との中間に位置し、『半七捕物帳』が江戸情緒横溢する世界を扱ったのに対し、こちらは読者サービスに徹した娯楽小説で、「多彩の美と、ギョッとさせる怪奇と、その間を縫って、苦味走った好男子むっつり右門が、颯爽と縦横に歩き廻っている」(「錦絵�右門捕物帖�」)という江戸川乱歩の言の如く、主人公右門の魅力に主眼を置いたヒーロー小説として読むことが出来る。  実際、第一番手柄「南蛮幽霊」から、お忍びの探索行へ向う右門の姿を抜き出すと、 ——刻限は丁度晩景の六つ下り刻で、ぬんめりと軟かく小鬢《こびん》をかすめる春の風は、まことに人の心をとろかすやうな肌ざはりです。その浮れ立つ巷の街を右門は黒羽二重の素袷に、蝋色鞘《ろふいろざや》の細いやつを長めに腰へ落して、ひと苦労してみたくなるやうな江戸前の男振《をとこぶり》はすつぽり頭巾に包み乍《なが》ら、素足に粋な雪駄《せつた》を鳴らして紛ふかたなく道を柳原の方角へとつたので、——  というように綴られており、この上さらに剣は錣正《しころ》流居合斬り、柔《やわら》は草香流の達人という頼もしげな美丈夫ぶり、独身で二十六歳の親代々の八丁堀同心である。このあたり、あくまでも一市井人として描かれていた半七とは格段の相違というべきだろう。  主人公がこの通りだから扱う事件も派手なものが多く、今、引用した「南蛮幽霊」は、寛永十五年三月十日、八丁堀の同心組屋敷での奇怪な殺人事件に端を発し、三百両盗難事件、謎の催眠術師、怪しい玉乗太夫と、右門が事件の糸をたぐっていくと、島原の乱の残党による幕府転覆の陰謀が浮かび上ってくるという趣向である。また、第三番手柄「血染の手形」では、この「南蛮幽霊」事件以来、信任|篤《あつ》い老中松平伊豆守の命を受け、伊豆守の邑封《ゆうほう》・忍《おし》の城下で起こる奇怪な辻斬りを追い、遂には、将軍家と老中をいちどに葬ろうとする暗殺団と対決。さらに第五番手柄「笛の秘密」では、山王権現の祭礼で、その将軍家を前にして行われた毒殺事件の謎を解くことになるのである。  こうした活躍ぶりを見れば、作者である佐々木味津三ならずとも、思わず、「ああ、何といふ素晴らしい右門の慧眼でありませう」と合いの手を入れたくなるのも無理はない。しかし、『右門捕物帖』は、こうした外見上の華やかさとは裏腹に、作者自身の複雑な内面のドラマを内包しており、それは、前章まで本書で俎上《そじよう》にのぼせていた『半七捕物帳』に関する論考の副題を�捕物帳の創始�とつけるならば、こちらは�苦悶する捕物帳�とでもつけねばならぬほどのドラマなのである。  そして、そのドラマの中味を検討していくことは、同時にまた、佐々木克子未亡人が尾崎|秀樹《ほつき》との対談「明日の大衆文学の枕木」(昭45、番町書房刊『カラー版・日本伝奇名作全集6』所収)で亡き夫・味津三を回想して、 ——本人はやっぱり、おれが死ぬと、佐々木味津三の代表作は「右門捕物帖」といわれるんだろうが、いやだなあ、ということは言っていましたね。  とも、  あの伝六(右門の子分)ってのが出てきますでしょう。あの人物がとっても好きで、自分がつくっておきながら「伝六っていいやつだなあ、全く可愛いい奴だなあ」なんて、ときどき書きながらそう言って、涙こぼしたりしていましたね。おかしいくらい……(笑)。  ともいっている言葉の意味を明らかにしていくことにもつながるのである。  それでは、佐々木味津三は、何を思い、そして何に悩み、この�むっつり右門�こと近藤右門という不滅のヒーローを生み出したのか。その謎を解くために、私たちは時計の針を、この連作が初登場した昭和三年より以前の、大正十二年、味津三、二十七歳の夏にまで戻さねばならないのである。  さて、『落葉集—佐々木味津三遺文集』(同刊行委員会編、昭44)巻末の「年譜」でその大正十二年の項を引いてみると、  六月六日、「呪はしき生存出版記念の会」が田端の自笑軒で開かれ、徳田秋声、近松秋江、菊池寛、宇野浩二、久米正雄、芥川龍之介、佐佐木茂索、横光利一、川端康成、直木三十五等二十数名の他、五来素川も来会、それぞれから激励の言葉を受けた。  という記述がある。  そして、直木三十五の名前はあるにしろ、この会に出席した顔ぶれを見ても、佐々木味津三が、作家生活の当初においては純文学の書き手としてスタートを切っていたことは容易に察しがつこう。『呪はしき生存』は、同年四月、金星堂より刊行された味津三の最初の単行本で、彼が家庭の事情でより多くの稿料が得られる大衆作家へと転身するのは後のはなし。この会に参加している友人たちの誰一人として、いや、当の本人すら思いもよらぬことだったのである。  これは、拙編のアンソロジー『時代小説・十二人のヒーロー 時代小説の楽しみ別巻』(平2、新潮社刊)の解説でも述べたことだが、明治二十九年、愛知県の奥三河、津具《つぐ》盆地の酒屋の三男に生まれた味津三(本名=光三)は、大正四年上京して、明治大学の政経科に入学(当初は文科に籍を置く予定だったが、夏目漱石や上田敏らの講師就任が流れたので政経科に籍を置いた)、生来、病弱だった体に鞭打ち、在学中に「駿台文学」の創刊に参加。茅原華山の思想雑誌「第三帝国」に文芸評論や創作を発表するようになり、年譜の大正六年の項に「雑誌部主催の文芸講演会へ講師に大杉栄を加えたことが大問題となり、以後|暫《しばら》く尾行をつけられていた」とあるように、この間、大杉や堺利彦らと交渉を持ち、無政府主義者的な風貌を身につけたこともある、といわれている。このあたり、後に十返肇が、『右門捕物帖』の底になんとなく虚無的な傾向がひそんでいるのは、作者のこうした経験によるものではないか、という指摘の根拠ともなっている。時代思潮としてはアルツィバーシェフの影響を受けたといわれており、明治大学卒業後は、編集者、雑誌記者等を経て、大正八年八月、「大観」に発表した実質的処女作『馬を殴り殺した少年』がはじめて文壇に批評の対象として取り上げられ、作家生活のスタートを切ることになるのである。  この作品に注目した菊池寛は、味津三を「報知新聞」の学芸部に推薦、同紙に連載されたのが前述の『呪はしき生存』なのだが、この大正七年、妻克子と結婚した味津三の東京での窮乏生活を描いた中篇は、菊池寛が「新潮」大正十年四月号で、 ——現実のなま/\しい題材を、反抗的なひねくれたやうな調子で、力強く描き出して居る。可なりな力作である。職業的作家の作品とは違つた新鮮な力と熱とが、溢れて居るのを感じた。(「読んだもの」)  と評したこともあって、出世作となり、この出版記念会を催すことになったのである。ここに出席した当時の文壇を代表する豪華な顔ぶれをながめただけでも、味津三の野心に満ちた得意満面な顔が浮かんでくるではないか。  しかし、今日、彼の純文学作家時代の功績を振り返る者は誰もいない。佐々木味津三といえば、むしろ、この後、彼が生活のために書いた『右門捕物帖』や『旗本退屈男』の作者としてのみ伝えられている。作品の名声は必ずしも作家の幸福とは一致しない——まさに味津三は、そうした作家の典型的な例であったのである。  私は、はじめに、『右門捕物帖』は、文学史的には『半七捕物帳』と『銭形平次捕物控』を結ぶ重要な位置を占めており、江戸に対する作者自らの郷愁から世に出た『半七捕物帳』とは違い、こちらは、主人公である八丁堀同心近藤右門の颯爽とした活躍を描く純然たる娯楽小説である旨を記した。このように佐々木味津三が、作品の魅力をいきおい自身の創造したヒーローの活躍に頼らねばならなかったのは、『右門捕物帖』以前にも幾篇かの歴史小説をものしているとはいえ、もともとは時代小説を志していなかったため、岡本綺堂のように綿密な江戸に対する知識を持っていなかったのが、その一因ではないかと考えられる。  大衆文学の隆盛を機に『半七捕物帳』の中の物語的な面白さは、娯楽時代小説や伝奇ものの中へ、そして時代考証的な側面は、こうした小説的な要素を含まない、例えば矢田挿雲《やだそううん》の『江戸から東京へ』(大9〜15)や白石実三の『武蔵野から大東京へ』(昭7〜8)等に代表される歴史読物へと分離していってしまう、という図式は成立しないだろうか。そして、捕物帳においては『右門捕物帖』がその境に立つ作品といえるのである。  しかし、その反面、『右門捕物帖』は、美男で強くて正義派でという、大衆娯楽小説の主人公の持つすべての条件を満たしたヒーローの活躍により、多くの読者を獲得し、一世を風靡することになる。また、むっつり右門とおしゃべり伝六という絶妙なコントラストを示す名コンビが、後の銭形平次とガラッ八の八五郎へ、敵役の同心�あばたの敬四郎�こと村上敬四郎が三輪の万七へと受け継がれていくのは周知の事実である。『右門捕物帖』が作者の意図如何に拘らず、重要な位置を占める作品であることは否定出来ない。  そして、もし、『半七捕物帳』と味津三作品との関連を述べるならば、それはむしろ、この出世作『呪はしき生存』の中にこそ見出されるのである。 『半七捕物帳』を論じた際に、その内容には詳しく触れなかったが、第十八話に「槍突き」という一篇がある。物語は文化三年、正月からはじまった�槍突き�事件の説明からはじまる。半七の口を借りれば、「江戸では槍突きといふ悪いことが流行りました。くらやみから槍を持つた奴が不意に飛び出して来て、往来の人間をむやみに突くんです。突かれたものこそ実に災難で、即死するものも随分ありました」というわけである。  そして、この下手人はとうとう分からずじまいで、事件は収まったかに見えたのだが、文政八年の夏になると、またぞろ、この怖ろしい通り魔の横行がはじまり、下手人を捕えてみれば、これが甲州在の猟師であった、というのだ。捕えた役人も最初は、こいつ狂人かと思っていると、受け答えも実にはっきりしており、何故、こんなことをしたのだと問えば、はじめの文化三年の槍突きは、この猟師作兵衛の兄・作右衛門の仕業で、兄は、 ——生れてから初めて江戸といふ繁華な広い土地を見て、どの人もみんな綺麗に着飾つてゐるのを見て、初めは唯びつくりしてぼんやりしてゐたんですが、そのうちにだん/\妬ましくなつて来て……。羨しいだけならば可いんですが、それがいよ/\嵩《かう》じて来て、なんだか無闇に妬ましいやうな、腹が立つやうな苛々《いらいら》した心持になつて来て、唯なんとなしに江戸の人間が憎らしくなつて、誰でもかまはないから殺してやりたいやうな気になつた——  とその動機を弟に語ったという。後に兄は事故で死亡し、替わりに弟が商売で江戸へやって来ると、はじめは兄の轍《てつ》を踏むまいとしていたものの、「土地が賑かなのと、眼に見るものがみんな綺麗なのとで、なんだか酔つたやうな心持になつて、これもむら/\と気が変になつて、たうとう兄貴の二代目に」なり、一度は山に帰ったものの、「山へ這入つて猪や猿を突くたびに、なんだか江戸のことが思ひ出されて、たうとう堪へ切れなくなつて其年の九月に又ぶらりと出て来」て、再び兇行に及んだのだという。  これは、下手人の持つ動機の目新しさにおいて『半七捕物帳』の中でも異色の一篇であるといえるだろう。篇中、他の諸作同様、江戸の町の写実的な描写や、折々の風物も盛り込まれており、そこには綺堂の面目が躍如している。しかし、この一篇が持つ意味は、それだけではない。  岡本綺堂が『半七捕物帳』の筆をとる以前より、かつての江戸の面影を残す旧東京が様々な理由からその変質を余儀なくされて来たことは、再三、述べた。実際、明治以後の東京は、地方からの居留人口も増え、「今に豪くならなければならないといふ希望に充たされた生活、さういふ気分が至るところで渦を巻いてゐる」(田山花袋『東京の三十年』)一方、また、そうした希望から取り残された地方出身者も数多く雑居している、いわば坩堝《るつぼ》めいた場所と化していたのである。  そして、在来の江戸っ子である旧東京人と、新たな東京の住人である地方出身者との間に、生活様式や微妙な意識のくい違いによる様々な齟齬《そご》が生じてくるのは至極、当然のことといえよう。そうした中で、「槍突き」の下手人が語る「初めは唯びつくりしてぼんやりしてゐたんですが、そのうちにだん/\妬ましくなつて」という犯行の動機は、明治以降、東京へやって来てここで生活する地方出身者の〈精神的危うさ〉とでもいったものを、巧みにデフォルメしたものといえはしないだろうか。また、明治も二十年を過ぎれば、江戸っ子の中でも今日ほどではないにしろ、次第に隣人愛も薄れ、共同体の内外にも様々な問題が生じはじめている。読者諸兄は、私が第四章で小木新造の『東亰《とうけい》時代 江戸と東京の間で』(昭55、日本放送出版協会刊)から引用した次なる事柄、すなわち、東京がそれぞれ異った故郷を持ち、自ら住むこの土地には郷土愛すら感じぬ人々の集合の場となり、また一方で、わざわざ「江戸会」を結成し、江戸っ子精神を鼓舞しなければならぬほど住民意識が変質してしまったこと等を思い起こしていただきたい。  そんな中で、ついふらふらと江戸に舞い戻って来て、再び犯行を重ねてしまう下手人の告白は、雑多な人間の坩堝と化し、種々の問題をはらみつつも、いいようのない誘惑の手を差しのべている東京という都市の持つ魔的な存在を、時間を溯《さかのぼ》って逆照射したものと捉えることが出来るのである。そしてこれは同時に、自分の手の届かないところに行ってしまった江戸=旧東京に対する、綺堂の現状を見据えた上での鎮魂ともなっている。  では、佐々木味津三の場合はどうか。このあたりで話を『呪はしき生存』の方へ移そう。すでに記したように、この作品は、作者夫婦の東京での窮乏生活をモデルとして描いたもので、彼独特の反骨的ニヒリズムや苦いユーモアが作中に漂う作品である。  その中で、失職した夫に代わって妻が働きに出ようとするが、なかなか職が見つからない。そうしているうちに、妻が近所の「鳥屋の卵をあと金で預かつて売る」ことになる。その働き口を決めるきっかけとなったのが、 ——ひよつくり肉を買ひに行くと、その鳥屋の亭主の言葉に、ちよいちよい自分達と同じ|くに《ヽヽ》なまりが出るので、どこですかと言つてきいたら、三河ですと言つたと言ふのであつた。まア、さうですか、そんなら私達も三河です。と言ふことから話がはずんで、すぐと打ちとけました、と言ふことであつた。そして三河の方なら肉をまけてあげます。と言つて、鳥屋はサヽ肉を二十匁程余分につけ加へたと言ふのであつた。そして又おいで|ましやう《ヽヽヽヽ》と、つひ|くに《ヽヽ》なまりの|ましやう《ヽヽヽヽ》言葉が出たので、みんなで笑ひました。と言ふのであつた。  ということだ、と説明されている。  つまり、誰一人頼るものとてない東京で、二人の生活を支える、そのための回路の役割を果たしたのが、国の手形といわれた�なまり�なのである。ここにも、地方と東京というモチーフは端的に生かされており、いわば旧東京の人である岡本綺堂が「槍突き」で展開したテーマを、佐々木味津三が、地方出身者というまったく正反対の立場から展開したもの、として捉えることが出来るのではあるまいか。  しかし、味津三は、この時、自分の作品に現われたテーマやモチーフが、綺堂の書いた捕物帳とこのような脈絡を持っていたことなど、夢想だにしていない。いや、一生、気づかなかったかもしれない。それほど、後の『右門捕物帖』は、『半七捕物帳』とはかけ離れた存在だったのである。また、当時は捕物帳とこうした純文学作品との脈絡を考える者などいるはずもなく、味津三自身、『呪はしき生存』の文学史的意義を問われたならば、おそらくこれを、他の私小説的作品との関連において答えていたに違いないのである。  それでは、『呪はしき生存』に見られるような作者自身が持つ〈地方性〉というファクターは、本当に捕物帳の世界に参入することはなかったのだろうか。否、断じて否である。  岡本綺堂の嘆きとは異り、関東大震災後の帝都の見聞記「新東京繁昌記」(「改造」大12・11)を「焼け野の東京いまだに物騒と言ふ坊間の風説もつぱらであるから、わらぢ脚絆にぎりめしに、檳榔樹のステツキ手帳鉛筆、七ツ道具の一切を揃へて、水盃にも及ばうかと考へてゐたが、またひるがへつておもんみるに、この弥次郎兵衛自慢にもならない程の無精もの——」という枕ではじめ、その道中も、新宿駅の「青梅口で電車を棄てゝ、駅前なる煙草屋でバツト五箱、キヤラメル一箇、サンデイ毎日秋季特別号一冊を購つたなぞは、この弥次郎兵衛どこまでも怪しからぬ了見である」という味津三は、街頭にズラリと並んだ震災絵葉書屋を「いつぱし罹災民らしい仔細顔を並べてはゐるが、あはよくば一日二合の配給米でもごまかしさうな不了見者」として、まずは横眼でジロリ。さらには、丸ビル前で、大杉栄を�誅戮《ちゆうりく》あそばした�甘粕大尉助命歎願運動を行っている国士連に皮肉を浴びせ、上野公園で、新東京徹底地図なるものを売る自称新帰朝者の「それまで浅草公園で法律の書籍を売つてゐたが、焼けて了へば欧米迄いつて研究して来た法律の書籍も売ることが出来んから、今地図屋になつてゐるが、すぐる大正十三年からはまた浅草で法律書籍を売る考へであるが、僕の性分としてどうしてもこの法律の書籍とか地図とか徹底的なものでなければ売ることが出来ぬ」という口上に、愉快千万、東京が焼けたから古い地図が不徹底というのは、愉快、愉快と快哉を叫び、遂には、このルポルタージュを「下手くそな長道中記この上だら/\とお目にかけて、諸子の御叱責に遭ふのも業腹だから、不取敢一端擱筆、続新東京繁昌記をわれら再び筆を執るとすれば、この次六十八年目大地震以後のことである」という一文で締めくくってしまうのである。  この終始、皮肉で冷徹なまでの傍観者的態度の維持が、味津三が地方出身者であることに拠っているのは疑う余地がない。そして、『右門捕物帖』こそ、ある意味でこのような作者の持つ〈地方性〉抜きには語ることの出来ぬ作品なのだ。が、それを論じるには、もう少し、段取りが必要だ。  そこで話を今一度、元に戻せば、佐々木味津三は、大正十二年、前述の出版記念会の他にも菊池寛の誘いで一月から創刊された「文藝春秋」の同人となり、いよいよ新進作家としての地歩は確かなものとなっていく。さらに関東大震災を間にはさんで、創作集『兄馬鹿』(大13・5、春陽堂刊)、書き下し長篇『二人の異端者』(大13・9、聚英閣刊)の二冊の単行本を刊行する傍《かたわら》、歴史小説や戯曲の執筆にも手を染めていくことになる。しかし、以前から肺を病み、大正八年には折からのスペイン風邪に罹《かか》り、生死の境をさ迷う程の大喀血をするなど、とかく病気とは縁があり、これから先は常に病魔と戦いながらの執筆が味津三を待ちうけることになるのである。  そして、味津三がこうして中央の文壇に躍り出ていく時期は、ちょうど、大衆文学の隆盛期と重ね合わせることが出来る。というのは、わが国の大衆文学なるものが、しばしば定義されるように、関東大震災以後のマス・メディアの成熟とともに成立したからである。  具体的な事実を述べれば、春陽堂の「読物文芸叢書」(大13)の刊行、講談社の雑誌「キング」の創刊、二十一日会の結成(以上、大14)が挙げられ、『剣難女難』(吉川英治、大14)、『悲願千人斬』(下村悦夫、同)、『修羅八荒』(行友李風、同)、『照る日くもる日』(大佛次郎、大15)等、大衆文学史の揺籃《ようらん》期を飾る名作が陸続と登場することになる。このうち、「読物文芸叢書」は、白井喬二や長谷川伸の作品を中心に刊行された全十三冊からなる大衆文学叢書で、一説によると両者の起用には芥川龍之介や菊池寛の推輓があったといわれている。また、二十一日会は、大正十四年秋、白井喬二の提唱で誕生した大衆作家の親睦団体で、発足当時の顔ぶれは、他に矢田挿雲、本山|荻舟《てきしゆう》、長谷川伸、平山|廬江《ろこう》、直木三十五、正木|不如丘《ふじよきゆう》といった面々。後に土師《はじ》清二、江戸川乱歩、小酒井不木、国枝史郎らを加えて、翌年、機関誌「大衆文芸」発刊にまで至る。  菊池寛は「量における文芸の時代は去った」といったが、マスコミは彼の予言に反して、震災の痛手からまたたく間に復興、以前にも増して空前の出版ブームをつくることになる。そしてその担い手となったのが、新興文学として、にわかにクローズ・アップされて来た大衆文学なのである。このことは、大正十五年、「キング」の発行部数が百万部を突破し、昭和二年五月、大衆文学という名称が一般化するきっかけとなった『現代大衆文学全集』全六十巻(平凡社)の刊行がスタートしたことからも容易に了解されよう。  とはいえ、はじめは、こうした大衆文学の動向も佐々木味津三にとっては無縁のことであった。  榊山《さかきやま》潤は「佐々木味津三と大衆文学」の中でこう書いている。 「文芸春秋」が出来て一年たつた大正十三年、大阪に「苦楽」が生れた時、その編輯に参画してゐた直木三十五が、「文芸春秋」一派で大衆ものゝかけさうなのは、佐々木味津三と今東光だと白羽の矢をたて、直木にすゝめられて、彼は「苦楽」の創刊号に初めて、「女讐夜話」といふ時代ものをかいて以来「苦楽」が廃刊になるまで、ずつとかきつゞけてゐた。しかし、この時代は、傍ら——といふよりむしろ芸術小説の方を本筋に書いてゐた。さうして、「苦楽」にかくものは、大衆小説ではなく、歴史小説のつもりでかいてゐたのだ。——中略——彼が、「苦楽」にかいた「女讐夜話」は、帝キネで映画化されたほど、好評だつた。これをみて、当時「婦人倶楽部」の編輯にゐた福山秀賢が、『「婦人倶楽部」に「女讐夜話」のやうなものをかいて頂きたい』と、手紙でたのんで来た。しかし、その頃は、芸術派作家が、殆ど娯楽雑誌に筆をとらなかつた時代。彼は、いやしくも芸術作家が、大衆文学をかくのは恥辱だ——自分が、歴史小説をかくのは、「苦楽」だからこそである。かういふ気概から、彼は「痩せても枯れても、大衆文学はかゝぬ」と、意気昂然たる返事を福山あてに出したのだ。  が、これはあくまでも第三者から見た佐々木味津三のイメージでしかなかった。味津三は、大正十二年から十五年にかけて「文藝春秋」に連載した『文芸猥談』の中で、かつて新宿の武蔵野館でひいきにしていた弁士の大蔵|貢《みつぎ》(後の新東宝社長)が、すっかり浅草の水に染まった品のない説明をしているのを聴いたとして、次のように記しているのである。  然しこれは一概に非難の出来ない問題であらう。なぜならば彼は浅草に入つて浅草に迎合したことは、郷に入つて郷に従つたことは、彼にとつて当然すぎる程当然な行き方だからである。それにこの問題はよく反省すると、私自身にも直接あてはまる問題なので一面非難し乍ら一面またしみじみと同情したことであつたが、私なぞも「苦楽」ものをかく時、つねにさういふ煩悶におち入りがちである。自分ではもとより筆をおとし、調子をさげようといふ意識をもつたことはない。ことはないがしかしそれと同時に大向が顧慮されることも事実である。そこに単なる身すぎ世すぎ口すぎからの煩悶がある。即ち自ら迎合しようといふ意識なくして自然に迎合性の出て来るゆゑんであるが、久しぶりの大蔵に接し乍ら考へるともなくそんなことを考へてゐたら、ふと私は大蔵が痛ましかつた。  親愛なる大蔵貢よ。早く武蔵野館へかへり給へ。君は泥土に委かすべくあまりにも私に好きな説明者である。  この一文で、味津三が大蔵貢の姿に何を託しているかは、すでにいわずもがな、のことであろう。とすると、榊山潤の「痩せても枯れても——云々」という勇ましい有様よりは、こちらの煩悶に満ちた姿の方が、どうやらその心情を正直に吐露したものであるようだ。佐々木味津三の作家生活における理想と現実の齟齬は、この時、すでにはじまっていたのである。  そして、大正十五年四月二十五日、味津三にとって青天の霹靂《へきれき》ともいえる事件が起こった。腎臓結核の疑いがあり、この年の二月、慶応病院に入院、腎臓摘出手術を受けるも手遅れで、絶望と見られていた長兄の死である。味津三は、この間、約五十日、病院に詰め切って看護の傍ら執筆を続けたが、年譜には、  四月二十五日、遂に兄永眠。三十六歳。臨終に際し弟妹三人と、遺児(五人)の教育他後事を託される。兄は好人物で味津三の窮迫時代には快よく援助を与え、また村のために私財を以って診療所を設けたりしたが、診療所は失敗、その他の事業にも失敗し多くの負債を残した。味津三は約一ケ月郷里に滞在し善後策を講じたが、全財産を投げうっても負債が果せぬと知り、自らの力でせめて弟妹遺児の養教育を果そうと決意、収入の少ない純文学を諦らめ、大衆小説に転向の覚悟を決める。  と、ある。  一部の作家は彼の転向を非難嘲笑し、味津三は思い惑ってか、夜半に病院の長い廊下を行きつ戻りつすることも、しばしばであったという。そして、意を固めた彼は、同年七月、「講談倶楽部」に発表した『直参八人組』を皮切りに、今度は彼自ら大向に対して「自然に迎合性の出てくる」であろう大衆文学を意識的に発表していくことになるのである。  この時、味津三、三十歳。  不滅のヒーロー、近藤右門が世に出るまであと二年。  そして、昭和九年二月六日、味津三が力尽きて、急性肺炎で世を去るまでわずかに八年。  この年は、ちょうど岡本綺堂が「講談倶楽部」に「十五夜御用心」を第一弾とする後期『半七捕物帳』の連載を開始した年に当たっている。  だが、この短い間に、味津三は大衆文学史上、決して消えることのない足跡を残すことになるのである。  大衆文学は、多くの逸材を求めていた。そしてそれが、時代の要求でもあったのだ。かつての江戸=旧東京の崩壊によって岡本綺堂を嘆かせた関東大震災は、佐々木味津三の場合、その後のマス・メディアの発達とも相まって、作品の上にではなく、何よりも彼の人生そのものに大きな影響を与えたといえるだろう。  そして、ヒーローとしてのむっつり右門の誕生は、その内面に隠された作者の修羅をよそに、岡本綺堂の個人的な思い入れを離れたジャンルとしての捕物帳の発生をも、促していくことになるのである。 [#改ページ]   八、右門は何故むっつりなのか  さて、ここでちょっと寄り道をすると、本書を「小説新潮」に連載している時、題字とカットを書いてもらった西のぼるさんの『流離の海—私本平家物語』(澤田ふじ子作、中日新聞他連載)挿絵原画展が名古屋の丸善栄店で開かれた。私はそのパンフレットに文章を書いている関係で、家内ともども会場を訪れ、西さん、澤田さん御一家、新潮社のM氏と夏の一夕ひとしきり談笑し、その後、澤田さん御一家はお帰りになったので、いよいよ残った面々で夜の巷へくり出そうということになったのだが、名古屋のこととてまったく勝手が分からない。結局、同地在住の宮城谷昌光さんを呼び出したばかりでなく、あまつさえ、氏のお宅に押しかけるなど、さんざっぱら御迷惑をおかけした挙句、この論考に誠に有益な示唆をいただくというお土産までもらって帰路につくこととなった。  その有益な示唆とは、川端康成が当時の文芸時評で佐々木味津三の『呪はしき生存』を扱っているというものである。蒲郡《がまごおり》出身の宮城谷さんは、同地で暮らしたことのある佐々木味津三(年譜の大正三年の項に「七月、遂に強度の神経衰弱となり、また肋膜炎を病み、長兄の計らいで蒲郡海岸で小さな別荘を借り、療養生活に入る」とある)に関心があり、かねて愛読の川端康成の時評を御存じだったというわけだ。  しかも、川端の批評は、味津三作品に描かれている�誇張された�生活臭に及んだものであるという。そこで、帰って来て、さっそく『川端康成全集』を繙《ひもと》いてみれば、第三十巻(昭57・6、新潮社刊)に収められた時評「文藝春秋の作家」(大12・7)に以下の記述が見られる。  佐々木味津三氏の「口笛」と「流産」は二作とも失敗である。作者の悪傾向だけを見せつけたやうなものだ。失敗の原因は種々ある。がその第一は、佐々木氏が短篇作家でないと云ふことである。——中略——それから私は、佐々木氏の物の見方に必ずつきまとふ臭味を余り好まない者の一人だ。佐々木氏の本当の長所と美点とは外にあると思ふ。「世を拗《す》ね、旋毛《つむじ》を曲げて白眼文壇を睥睨《へいげい》し」と云つた風の言葉に現されてゐる氏の特色は、氏の傑作「呪はしき生存」なんかに於ても、材料を殺しこそすれ、よりよく生かしてはゐない。そしてまたさうした氏の心持は、随筆なぞにこそ現はれては面白いが、創作の基調となり得る程のものではないと思ふ。鋭さと深さが足りない。徹底してゐない。それから感じられるものは、さうした風を装つてゐる底の善良さ美しさではないか。佐々木氏は氏の物の見方から一度解脱してみる必要はないか。氏の特色とする物の見方は、省察と批判からの安易な逃場に外ならないやうに見える。この注文に従ふと、味津三たる所以がなくなるではないかと、人は云ふかもしれない。しかし、私はさう思はない。何故なら、他の点で佐々木氏を信頼してゐるから。  この一文で取り上げられている『口笛』『流産』の二作、そして、味津三が短篇作家であるか否かの吟味は、とりあえず置くとして、『呪はしき生存』を中心とした川端の批判点をまとめれば、味津三の世間を白眼視する拗ね者のポーズから生み出された作品の悪傾向=臭味の否定ということになろう。  そして、これが、換言すれば、前述の�誇張された表現�となるのである。  味津三の出世作『呪はしき生存』は、既に記したように、作者夫婦の東京での窮乏生活を描いたもので、そこに描かれているものは、第三者的な眼から見れば、正しく|ありきたりの《ヽヽヽヽヽヽ》窮乏生活でしかあり得ない。それを、あたかも特異なものであるかのように見せているのが、川端が「鋭さと深さが足りない。徹底してゐない」といったところの、作者一流の反骨的ニヒリズムや苦いユーモアなのである。そして、確かにここに描かれているそうしたことどもは皮相的といえばいえるかもしれない。  例えば、窮乏生活の中で夫に「ばか、当然もらへる月給を、いただいたなんて言ふな、そのいただいたが気に喰わん!」と一喝されて以来、「雪がふつてるやうだねえ!」といわれても、「無論、お金は残つてないだらうね!」といわれても、ひたすら「はい!」を連発し、「よし! お前の意地が気に入つた。その調子で、やれ! 売れ!」という夫に遂に「さうですか。ゆるして下さいますか! よろしうございますか!」と、あたかも戦場に赴くが如き態で卵売りのアルバイトを決意する妻の、——いや、この夫婦二人のやりとりの珍妙さは、悲惨を通り越して実に滑稽、一歩間違えれば(多分にそうなっている節もあるのだが)噴飯ものになりかねない。また、女房が女房なら、喀血し、「今殺すなら、序でのことだ、世間がよつてたかつて殺してみろ」と世を呪いつつ、雨に濡れて迷い込んで来た野良犬に向って「『やい、きさまは、犬だな!』思はず私は唸つた。そして、もろ手を挙げて、やにはに子犬の四足を引つゝかむと、けだもの! と矢声をあげて、表をめがけて投げ飛ばしたのであつた。とたんにいきなり床の上に起きあがつて、さアこい! と身構へし乍ら、ねめつけ」るという亭主も亭主である。  そして、憚《はばか》り乍ら亭主なら犬位飼ってみせるぞと飼いはじめたこの犬の生理や妊娠に女房のそれをダブらせるなどして、極めて即物的に、人間の生存そのものを呪う悪趣味ともいえる趣向等々。これが川端のいう、耐えかねる臭みであろう。  だが、ニヒリズムとユーモアの中から産み落とされた独特のポーズ、すなわち�誇張された表現�、一言でいってしまえばデフォルメこそが佐々木味津三作品の特色だとするならば、彼は逆に、これを一つの武器として大衆作家としての成功を、つまりは自分にとってのヒーロー像を創造していったのではあるまいか。  それが『右門捕物帖』における主人公・近藤右門の�むっつり�なのである。純文学作品の場合は、確かに川端康成のいうように一つのポーズや�誇張された表現�は、作品の皮相化や、現実的な「省察と批判からの安易な逃場」を招きかねない。だが、これが大衆小説ともなれば話は違う。主人公のデフォルメされた個性や特徴は、一読、忘れ難い印象を読者の間に結び、不滅のヒーローを産むのである。つまり、佐々木味津三は、川端のいう「創作の基調となり得る程のものではない」ところのものと「さうした風を装つてゐる」ものを、極端なまでに押し進めることによって、純文学作家から大衆作家への転身の可能性を拓いたのだといえる。  従って、一見、作者とは無縁に見える快男児、むっつり右門は、その内奥において佐々木味津三と密接に結びついているのである。  では、その主人公像の検討に入るとしよう。  捕物帳の世界の住人で誰がいちばん変わり者かと問われれば、大方の人は、南町奉行所同心・近藤右門と答えるだろう。何しろ第一番手柄「南蛮幽霊」の中で作者である佐々木味津三自らが、 ——だのになぜ彼が近藤右門と言ふ立派な姓名があり乍ら、あまり人聞きのよろしくないむつつり右門なぞと言ふそんな渾名をつけられたかと言ふに、実は彼が世にも稀《めづ》らしい黙り屋であつたからでした。全く珍らしい程の黙り屋で、去年の八月に同心となつてこの方いまだに只の一口も口を利かないと言ふのですから、寧ろ唖の右門とでも言つた方が至当な位でした。  と折紙をつけているのだから、これは致し方のないことといわねばなるまい。この「南蛮幽霊」事件が起こったのが寛永十五年の三月十日、八丁堀の同心組屋敷での花見の宴の最中だから、この右門、去年の八月からといえば、およそ半年以上もの間、口を開かなかったことになる。従ってこの後、殺しの現場となった花見の席に駆け込み訴えをしに来た町人に向い、「目色を替へて何事ぢや」と第一声を発すれば、彼とは対照的なおしゃべり伝六が「おや旦那物が言へますね」と切り返すのも無理はない。  これまでの考察で明らかなように『旗本退屈男』における退屈と同様、人間の極く日常的な癖、あるいは感性や動作を極端にデフォルメしたかたちで主人公のトレード・マークとするのは、この作者の最も得意とするところであったが、常識的に考えて、半年以上も黙り続ける人間があろうはずはない。  先に引用した尾崎秀樹との対談中の佐々木味津三の未亡人・佐々木克子の言によると、この右門の性格は、 ——自分がむっつりだったんですよ。気に入らない人だったら、一時間でも二時間でも、そこにいたって、しゃべらないんですからね、ほんとうに。私は気をもんで、ハラハラして、いくらこっちが話かけても、腕を組んで、たばこを吸って、口きかないんですね。ふだんでもだいたいうちでは無口でした。あんまり黙ってるから、私がなんか話かけると、黙っててくれっていうんですよ。いまは考えごとしているんだから、なにも話かけないでくれっていう。  とも、 ——あごをなぜるというのは、何か考えるときに、よくやっていましたから……。  ともいわれる、作者自身の性格によるものであるとされている。まア、それ自体、特異な癖というほどのこともないのだろうが、これを逆に�癖�として意識することによって、前述のトレード・マークが生まれることになるのであろう。  佐々木味津三自身、「我が癖の記」というエッセイの中で、癇癖、潔癖、鼻を押える癖、深夜奇声を発する癖等を挙げているが、最後の癖など「眠れないとき、あれこれと過去を反省」し、「自嘲反省のあまりたまらなくなツて、ついわれ知らず奇声を発する」と説明しており、むしろ、作者が奇人変人ぶりを自身のポーズとしている節がなきにしもあらず、といえるのである。  さて、そこで話を右門に戻すと、彼はこの奇癖のために、生まれついての愚鈍と誤解され、甚だ居心地の悪い立場にいるのである。それが、八丁堀組屋敷での岡っ引殺害に端を発し、果ては島原の乱の残党による幕府転覆の陰謀につながるという大事件を解決してみれば、奇人変人、たちどころに沈思黙考型の捕物名人に変じるという按配である。  作者は『右門捕物帖』の中で、度々、この名人の捜査方針を、常識捜査に捉われない奇想百出の「搦手《からめて》詮議」であるとし、これを称して右門流であるといっているが、奉行所の持て余し者から江戸一番の捕物名人へ——右門自身、正しく搦め手から檜舞台に躍り出た主人公といえるだろう。  そしておそらく、この搦め手からという形容は、ある種の哀しい響きをもって作者自身である佐々木味津三にも当てはまる言葉だったのではないのか。ここで思い起こしていただきたいのは、右門が半年以上もの間、口をきかなかった、いや、作者の手によって言葉をしゃべることを封じられていた、という設定である。右門の場合、言葉を封じられることは、そのまま周囲の誤解を呼び、捕物の才を封じられたことをも意味している。  佐々木味津三作品においては、この右門と同様、己れの持てる才能を封じられた人物というのが一つのテーマとなっているような気がしてならない。味津三が産み出した今一人のヒーロー、『旗本退屈男』こと早乙女《さおとめ》主水《もんど》之介《のすけ》にしても、天下泰平の世に生まれたばかりに己れの武芸を生かすことが出来ず退屈を持て余す人物であるし、こうした設定は遺作となった『山県有朋の靴』にまで一貫している。この作品の主人公平七は、維新後、敗残の身をさらし、山県有朋の下僕となった人物で、ある事件をきっかけとし、有朋の靴を掴んだまま入水自殺をするのだが、それを見届けた鳶は「お見事だなあ。—中略—金城寺の旦那さま(平七)なら、水練に達者の筈だが、泳ぎの出来るものが溺れ死ぬのは、腹を切るより我慢のいるもんだといふ話だが」という。ここでは持てる能力を封じられた、いや、自ら封じた人物が別のかたちで設定されている、といっていいだろう。  では、佐々木味津三のこうした人物へのこだわりは、一体、何を意味するのか。このような作中人物の姿には、当然、純文学の新たな書き手としてスタートしながら、家庭の事情によって、自らの志を封じ、大衆作家へと転じなければならなかった、すなわち、搦め手からしか自身の文学の可能性を追求出来なかった味津三の心情が反映されていると見ることが可能なのではないのか。  と、すれば、右門のむっつりには、作者の内面に秘められた�黙して語らずの修羅�が仮託されている、と見るべきだろう。当時は大衆文学蔑視の傾向が強く、先に記したように味津三の転身には非難が集中したという。おそらく、味津三の側にも、�身を落とす�とでもいった意識があったのではないか、と思われる。が、その中から彼は新たな模索をはじめようとしていたのだ。  当時の心境を彼のエッセイ「大衆文学は無軌道の花電車」(昭7、「新潮」)から拾ってみるとどうなるか——。  芥川氏があの大事を決行された前年の秋、僕は、一夕、支那めしを御馳走になつて、いろいろ談じたことがある。  ふたりきりだつたといふ気やすさからか、氏も僕も、おどろくべき饒舌をふるつて、あれこれと話してゐるうちに、談、たまたま探偵小説に及んだ。  まだ探偵小説が漸く芽生えたばかりのころだつたが、僕は、多少の作品を読んでゐたので、あれこれと僕の感心した短篇なぞを話したところ、氏はおどろくべきことを僕に教へた。  題は忘れたが、ストリンドベリイに、全く探偵小説と言つていい戯曲があると言つて、あらましの筋を話してくれたのである。  なにしろまだ純文学栄華の頃であるし、僕も雑魚のトト交りでその純文学に浮身をやつしてゐた時分であるから、ストリンドベリイと探偵小説といふ組合せは、ガンと一発、したたかに僕の胸をどやしつけた。  そのあとで、氏は僕を鞭撻するやうに戒めた。 「君たち新進作家が、なぜその方面に鍬を入れないか、僕は不思議に思ふ位だよ。興味中心の文学を堂々と樹立したら、大事業ぢやないか。ちつとも恥づべきことはないぢやないか。今後百年ののちをみたまへ。もし文芸大辞典を造るものがあつたら現在活躍中の文芸作家は、一二行位しか書かれないかも知れないが、中里介山は二三頁費して書き立てるよ。どうだい。君。どんな気持ちだい」  と言つて、氏は、あの聡明な目で、前途少々憂鬱になりかけてゐた僕を面白さうに見乍ら笑つた。  こいつは、完全に僕をノツクアウトしたヒツトだつた。爾来芥川氏の戒めと暗示は、僕の胸中にくらひついて離れなかつた。  佐々木味津三に大衆文学の可能性を示唆したのが芥川龍之介であったというのも面白いが、大事(自殺)決行の前年というから大正十五年、味津三にとっては、兄の死により、大衆作家に転身し、「講談倶楽部」に『直参八人組』等を発表、一部の作家から非難嘲笑を浴びた運命の年である。文中の「純文学に浮身をやつし」とか「前途少々憂鬱になりかけて」とかいった記述は、当時の偽らざる心境を物語るものといえよう。  また探偵小説に関していえば、味津三は「探偵小説雑考」(大13)において「『琥珀のパイプ』(甲賀三郎)が持つてゐる興味と、『二廃人』(江戸川乱歩)が持つてゐる芸術的気品との中間を取つた創作物ならば、可なりな程度にわれ/\を感心させる作品が出来るだらう」といい、さらに「写実主義と探偵文芸」(大14)では「アンチ探偵文学の諸公たちは、芸術の名においてそれの上昇不可能を説いてゐるが、尠くも小説が今のごとく退屈であり、今のごとく怪奇に不足してゐる限りにおいては、それから探偵文学それ自らが今のごとき殺人型と、今のごとき宝石型とを未練なく卒業出来る限りに於ては、探偵文学は映画芸術と共に遠からず文筆の士たちに廃藩置県のらうばいを感ぜしめるに充分であらう」とまでの関心を示しているし、芥川に『藪の中』や『明治の殺人』等、ミステリーと接点を持った創作があるのは周知の通りである。大衆作家に転身した後、味津三が、創作の主力を江戸を舞台にした探偵小説である捕物帳に置いたのは故なしとはいえないのである。  芥川龍之介の言が味津三の創作にどのような影響を与えたのか、具体的には分からない、が、それにしても、やむなき仕儀とはいいながら、わらをも掴む気持ちで大衆文学に筆を染めた味津三にとって、この励ましは、百万の味方を得たような気持ちであったことは想像に難くない。  ここで再び話をもとに戻すと、先刻から繰り返し問題にしている右門のむっつりというトレード・マーク、これは、作者の内面の修羅が託されているという以上に、作品の構成上からいっても、かなり、したたかな計算に依っているといわねばなるまい。  確かに第一番手柄「南蛮幽霊」で、このむっつりは、愚鈍の象徴かと思われていた。しかし、一度、事件の解決を見るや、これは既に述べたように沈思黙考型の名探偵のトレード・マークに、そして何よりも主人公・右門の不敵な面構えの象徴となるのではあるまいか。  不言実行という言葉が示すように、昔から日本人は、べらべらしゃべって言ったことの半分しかやらないより、言わず語らずことを成し遂げるをもって美徳とする傾向がある。右門などはまさにその最たるもの。  だからこそ、  しかし出仕は致しましても根が右門の事ですから少々容子が変つてゐますが、先づ朝は五ツに出勤致しますと——五ツと言へば只今の丁度八時です。その五ツかツきりに御番所へ参りますると、早速訴状箱を引つ掻き廻してひと渡りその日の訴状を調べます。これは自分の買つて出るやうな事件《あな》があるかないかを当つて見るので、ないとなるとフンと言つたやうな顔つきで同心控へ室の片隅に陣取りもう右門党のみなさま方には、お馴染なあの髭《ひげ》をぬく癖をあかずにくりかへしくりかへし、半日でも一日でも金看板のむつつり屋をきめ込むのがその習はしでした。(第四番手柄「青眉の女」)  という人を食った勤務ぶりも、その逆ともいうべき、 「この江戸にや、おれがゐるんだぜ」「下《した》ツ端《ぱ》のへうろく玉達が豆鉄砲みたいな啖呵を切るなよ。観音様がお笑ひ遊ばさあ」(第二十一番手柄「妻恋坂の怪」)  という胸のすくような決めの啖呵も、一際、活きてこようというものだ。  だが、私たちは、右門のこうした不敵な快男児ぶりばかりでなく、例えば、第七番手柄「村正騒動」に見られる、同心たちの親睦会に出席した彼を描く、次なる描写にも目をとめねばならないだろう。  で、右門も宴にのぞんだ以上は勢ひいづれかの仲間と同席しなければならない筈でしたが、しかしかう言ふ時いつも彼は金看板通りのむつつり右門で、|別に誰と言つて憎い者がないと同時に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|また誰と言つて特別に親しい者もなかつたものでしたから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|一番はづれの人々からは全然独立した席へついてちよこなんと席を占めると《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、一向面白くもをかしくもないと言つたやうなごく無愛想な顔をし乍ら、黙々として料理の品に箸をつけ出しました。(傍点筆者)  およそ、捕物帳のヒーローたちの中にあって笹沢左保の『地獄の辰・無残捕物控』(昭46、光文社刊)のように、主人公が何らかのかたちのアウトローに設定されている以外で、このような孤独の像が作中に刻まれているのは『右門捕物帖』だけである。そしてさらに作者は、右門の名声は「南蛮幽霊」事件以来、旭日昇天の勢いで高められたと主役を持ち上げながら、周囲の嫉妬を買い、「同僚の同心達は勿論のこと上席の与力達も、下席の目明し岡つ引の輩に至る者達迄も、いつのまにか二人を敬遠するともなく敬遠して了つて、自然に右門と伝六は一座の者から、仲間はづれの形となつて了ひました」と続けているのである。  さて、こうした右門の待遇が何を意味するかは、もういうまでもないだろうが、こうなってくると、右門を慰め奮い立たせてくれる第三者が必要なのではあるまいか。  そこで登場するのが、むっつり右門とは正反対の口から先に生まれたような剽軽者《ひようきんもの》・おしゃべり伝六である。岡本綺堂の『半七捕物帳』では、�ひょろ松�こと松吉をはじめとして庄太、熊蔵ら、十一人の子分が登場するが『右門捕物帖』では、伝六が一貫してワトソン役として、いや、それ以上に、文字通り掃除洗濯から飯炊きまで、右門の全生活に関わるパートナーとして大活躍することになるのである。  今、引用した「村正騒動」でも「ね旦那、今日は地獄のお閻魔様でさへもが釘抜に錠をおろしておくんですぜ。ですものいくらむつつり屋の旦那だつて今日ぐれえはもつと面白さうな顔したらよささうなもんぢや厶《ござ》んせんか」としゃべりはじめ、同僚たちが先刻、訴えがあった小石川・仁光寺の墓あばきの件を語り、右門が「駕籠だよ」というや否や、 「畜生ツざまあみろい。この席にいくたり八丁堀の木偶坊《でくのぼう》がゐるか知らねえが、おらの旦那の耳や節穴ぢあねえんだぞ。くそ面白くもない俺様たちよ仲間はづれにしやがつて、今にみろい吼面《ほえづら》かくな!」「よくよくまたうツそりもあつた者ぢや厶んせんか。おらが旦那のゐる事を知らねえで、あんないい事件《あな》をのめのめと話しやがるんだからね。どうです旦那、腹の底がすつとしましたね」  とまくしたてる、といった按配である。無論、右門は例のだんまりなのでその心境は一言も綴られてはいない。だが、例えば、先に引用した佐々木克子未亡人の談、「あの伝六ってのが出てきますでしょう。あの人物がとっても好きで、自分がつくっておきながら『伝六っていいやつだなあ、全く可愛いい奴だなあ』なんて、ときどき書きながらそう言って、涙こぼしたりしていましたね。おかしいくらい……」を当てはめてみるとどうだろうか。  そこには、片や不敵なる快男児むっつり右門に己れを託し、睥睨に睥睨を重ねて『右門捕物帖』を執筆していく味津三と、善意のかたまりのような伝六に内面に秘めた修羅の苦悩を叱咤激励させていく味津三と、この両者が二つながらに浮かび上ってくる、といえはしまいか。  そして、右門と伝六がこのように作者の内面を役割分担させたものならば、右門の子分が半七の場合とは異なり、伝六一人にしぼられるのは道理である。もっとも、『右門捕物帖』には、第十四番手柄「曲芸三人娘」から松平伊豆守の推薦で、猫のように夜眼が利く投げ縄の名人・善光寺辰が登場するが、評判にならなかったためか、はやくも第二十番手柄「千柿の鍔」で殉職している。だが、伝六の前にこうした二番手の子分が不要なことは作者たる佐々木味津三本人が、いちばん良く知っていたことではないのか。  ともあれ、大江戸きっての美丈夫・むっつり右門とおしゃべり伝六という絶妙のコンビは、単に作中におけるホームズとワトソンであるばかりでなく、佐々木味津三が、搦め手から自己の文学の可能性を追求するための先鋒として、縦横無尽の活躍をはじめることになるのである。 [#改ページ]   九、『右門捕物帖』の世界  美男で強くて正義派でという右門の颯爽たるヒーローぶり、そして、おしゃべり伝六との息の合った掛け合い漫才風の面白さを満載した『右門捕物帖』は、作者の苦心の甲斐あって満天下の喝采を博していくことになる。  そこで佐々木味津三が右門を完全無欠のヒーローに仕立てるために次々に打った手を、回を追って確認していくと、第一番手柄「南蛮幽霊」事件を解決したおかげで、右門の捕物の手腕は江戸中に知れるところとなり、第二番手柄「生首の進物」では、冒頭に「この年の暮にはその似顔絵が羽子板になつて売られようと言ふ程な評判」であると記され、この回からは右門の評判を妬む上席同心あばたの敬四郎が登場、その憎らしげな容貌と間の抜けた捜査方法によって、ひたすら右門の引き立て役となっていく。また、怪談仕立ての復讐譚であるこの第二話では、情状酌量となった犯人の姉妹に向って、右門が「ふたり共尼寺へでもいきなよ——」と厳しいが情けある言葉をかけるというようにフェミニストぶりを発揮。  さらに第三番手柄「血染の手形」は「南蛮幽霊」事件以来、老中松平伊豆守の信任あつい右門が、その伊豆守の密命を受け、彼の邑封・武州忍藩に起こった奇怪な辻斬り事件から将軍暗殺の大陰謀をつきとめるという具合に話は増々大きくなっていく。またこのように幕府|顛覆《てんぷく》の陰謀に代表される、本来、一同心の手に余る政治的事件を多く右門に解決させているのもこの連作の特色の一つであり、陰謀に加担しつつも、右門を愛したお弓に「なうお弓どの、よく御納得なさるがよろしう厶《ござ》りますぞ。そなたがわたくしへの美しいお心根は右門一生の思ひ出として嬉しく頂戴致しまするが、不幸なことにそなたは豊臣恩顧のお血筋、わたくしは徳川の禄を喰む武士で厶る。武道の掟としてそなたのお心根を受納することはなりかねまする」といい放ち、涙で頬を濡らしながら城下を立ち去るという、悲恋物語の彩りさえも添えてゆく。  この間の事情は、第四番手柄「青眉の女」の中で「あれほどの美丈夫であり乍ら、女の事になるとむしろ憎い程にも情が強くて—中略—右門を向ふへ廻して濡れ場や色事を知らうとするなら、小野小町か巴御前でも再来しない限り、到底困難のやう」と説明されるが、これなどは、右門を一人の女に独占させないため、つまりは読者共有のヒーローとしておくための方便であろう。  そして次なる第五番手柄「笛の秘密」で、右門は「血染の手形」事件で命を救《たす》けた将軍家を前に、山王祭の最中に起こった毒殺事件の謎を追い、第六番手柄「謎の八卦見」では「ね、お糸坊。お前こなひだつからをぢさんがすきだと言つたな」「ぢやけふ一日をぢさんの子供にならんかい」と、失踪した父親の行方を捜す武家の小娘を助け、子供にやさしいヒーローとしての面も強調されていくのである。  もちろん、右門にこうした様々な特長を付与していく中、作者は「ああ、何といふ素晴らしい右門の慧眼でありませう」とか、「美丈夫なること右門の如く、道心堅固なること右門の如き、男でさへも惚れ惚れする様なその人柄——」と盛んに合の手を入れて売り出しにかかることを怠っていない。  右門の扱う事件は、作者自ら「捕物怪異談」と断っているように、今日的な眼で見れば、読者受けを狙うあまり、発端の怪奇性ばかりを重視して、結末の謎ときに破綻をきたしているものが多く、ミステリーとしては必ずしも一級品とはいえない。だが、右門の水もしたたるヒーローぶりは一貫して健在である。  そして、『右門捕物帖』のヒットを考える上で、欠かすことの出来ないのが映画化作品の成功である。味津三は前章で引用した「写実主義と探偵文芸」の中で、探偵小説と映画芸術の台頭について言及しているが、映画界で最初の捕物映画が作られたのは、大正十三年、寿々喜多呂九平のオリジナル脚本による「佐平次捕物帖・紫頭巾浮世絵師」(監督 牧野省三・金森万象、主演 市川幡谷)をもって嚆矢《こうし》とするという。これが、それまで�旧劇�と称されていた幕末維新ものにない魅力によって新たな観客数を動員、以後、シリーズ化され、「怪物」「鮮血の手型」と続くのである。 『右門捕物帖』も原作の第一作が発表された翌昭和四年十一月には、嵐寛寿郎主演の「右門一番手柄・南蛮幽霊」(監督 橋本松男・東亜キネマ)が登場する。これは山中貞雄の名シナリオにより今日でも評価が高い。続く映画化作品では第二作にあたる「右門捕物帖・血染の手形」(監督 辻吉朗、昭5・千恵蔵プロ)は、珍らしや片岡千恵蔵の主演だが、右門のイメージは、寛寿郎のそれで定着。ちなみに原作では�あば敬�としか記されていない敵役の同心が、映画では村上敬四郎となっているのは、この役を演じた尾上紋弥の本名が村上だからとのこと。またその子分、ちょんぎれの松は、映画の尺数が長いと会社から怒られるからフィルムをちょんぎれ、というのを揶揄したものだという。  アラカンは、戦前・戦後を通じて三十五本の右門映画に主演し、昭和七年にはコロムビアレコードから、畑喜代司作詞、麦島紀麿作曲による「右門捕物帖の唄」が発売されるまでになるのである。『落葉集 佐々木味津三遺文集』(同遺作管理委員会編、昭44刊)の説明によると、「昭和七年、右太(衛門)プロ映画『武藤半平太』の主題歌として『武藤半平太の唄』(畑喜代司作詞/原野篤二作曲)が作られた。その他、右門・旗本退屈男映画の主題歌もいろいろ作られて、それぞれレコード化された」とあり、これは、その一例であるとのこと。この歌詞が非常に面白いので、敢えてここに掲げれば、   粋《すい》も辛いも噛み分けながら   なぜに情《つれ》ないその素振《そぶ》り   江戸の女子《おなご》が身を焦《や》きつくす   同心、右門は伊達《だて》男      腕と技《わざ》なら火華も散らそ   絡む意気地《いきぢ》の巻羽織   にらむ図星《づぼし》に心が燃えて   飛ばす早駕籠、午《うま》の刻《こく》      胸に焔の啖呵《たんか》を切って   抜くや錣正流《しころ》の居合斬《いあいぎり》   築《きず》く屍《かばね》に月かげ淡く   咽《むせ》ぶ涙のちぎれ雲      十手取る身に情けの裁き   諭《さと》す理詰めの搦手《からめて》に   心しみじみその罪|吐《は》かす   むっつり右門は切れ男  ということになる。  最近のTV時代劇の主題歌などは、およそ愛だの恋だのまくし立てて作品の内容とほど遠いものがあるが、当時のそれは、原作のポイントを良く押さえ、まさに歌う作家論・作品論の趣きがある点は見逃せない。右門の美男ぶりを称揚する一番の歌詞はまだしも、二番の「飛ばす早駕籠——」、三番の「築く屍に——」、四番の「諭す理詰めの搦手に——」等というくだりは実に心憎い。  右門のいわゆる搦め手詮議が、佐々木味津三の作家的内面の苦悩の具現化であったことは既に述べた。そこでさらに「築く屍に——」という箇所を吟味してみれば、原作では右門が刀を抜くのは、第十番手柄「耳のない浪人」だけで、作者自身も「右門十番手柄はかくしてこの捕物秘帖に、最初の血で描かれた美花をさらに一つ添へて——」と記しているものの、後は人をあやめることはない。それが、「築く屍に——」とあるのは、おそらくアラカンこと嵐寛寿郎の大チャンバラを売りものにした映画化作品との折り合いをつけるための詞だろうが、文字通り、右門がつくったであろう累々たる死体の山が月明りに照らされているところを想像すると、偶然とはいえ、一種、凄絶の気に打たれて、そのヒーローぶりよりも、右門という主人公の背後に隠されたニヒリズムが思いやられてならないのである。  そして「飛ばす早駕籠——」のくだりだが、およそ、数ある捕物帳の中で、『右門捕物帖』のように駕籠を駆って江戸市中を疾走する作品は珍しいといわねばなるまい。  この主題歌が発売された昭和七年といえば、今日ではフィルムが残されていないので見る術がないのだが、二月と九月にシリーズ中、屈指の名作といわれる「右門廿五番手柄・七七なぞの橙」(監督 仁科熊彦・寛寿郎プロ)と「右門捕物帖三十番手柄・帯解仏法」(監督 山中貞雄・寛寿郎プロ)の二本が立て続けに公開されており、一つのピークでもあったのだろう。岡本綺堂の『半七捕物帳』と違って、特殊な癖のあるヒーローを主役に据え、彼とは正反対の愛すべきワトソン役や、憎々しげな敵役を登場させ、パターン化の可能な人物・事件のバリエーションの積み重ねによって作品をころがしていく。こうした小説作法はまさに新しい時代の娯楽、映画によってシリーズ化されるにふさわしい連作であったといえるのである。  そして、これら映画化作品の成否のカギを握るのがシナリオだが、何故こんな話をするのかというと、既に述べたように『右門捕物帖』の場合、発端の怪奇性ばかりを重視して、結末の謎ときに破綻《はたん》をきたしているものが少なくない。が、映画化作品の場合、これが比較的万人に納得がいくように改変されている場合が多いのである。  昭和五年五月に封切られた「右門捕物帖・六番手柄」(監督 仁科熊彦・東亜キネマ)を例に挙げて、原作と映画化作品を比較してみよう。 〈仁念寺奇談〉の別名もあるこの作品は、アポロンからビデオ発売もされていて、今日、最も簡単に見ることが出来る戦前の右門映画の一つなのだが、題名に偽りありで、実は第三番手柄「血染の手形」を原作としている。誰しも考えることは同じで、豊臣方の残党による将軍家並びに老中暗殺を扱ったこの第三番手柄は、話のスケールも大きく、最も映画化に向いた作品といえる。ところが、嵐寛寿郎は昭和四年に「右門一番手柄・南蛮幽霊」で右門役者の第一号としてデビューしつつも、この第三番手柄は翌五年の一月、片岡千恵蔵が自身のプロダクションで映画化しており、アラカンは自分の主演作の第二弾に�第三番手柄・血染の手形�の題名を謳えなかったのではあるまいか。そこでやむなく�六番手柄�と銘打ち、原作の「第六番手柄」から女|掏摸《すり》の櫛巻お由をひっぱって来て、これを原駒子に演じさせ、頭山桂之介の伝六、尾上紋弥のあば敬につぐレギュラーとし、後は、�血染の手形�のストーリーが進行していくという話にしたらしい。その意味で山中貞雄のシナリオは、まことに人を喰っているといわざるを得ない。  そして、ここで原作と映画化作品を比べてみると、原作の方は、日頃から右門に目をかけている松平伊豆守の邑封・武州忍藩で、家中の腕利きの侍ばかりが、次々と襲われ、一様に右腕を斬り落とされるという奇怪な辻斬りが横行していた、というのが発端。さっそく伊豆守の命を受け、忍に飛んだ右門が、辻斬りの現場へ駆けつけるや、武家屋敷の壁には、さながらやつでの葉の如く、今、斬り落としたばかりの手首を使って血染の手形が押してあり、「——あと少くも十本はこの様に手首頂戴致すべく候」の血文字が記されている。  誠に作者のいう〈捕物怪異談〉にふさわしい怪奇な幕あけというべきだろう。しかしながら、この辻斬り事件の真相は、幕府転覆を企む豊臣方の残党が、将軍家の日光御社参の道中を忍で襲撃する計画があり、その計画の妨げとなるような家中の腕利きたちを、あらかじめ血祭りに上げていたという他愛のないもの。つまり、この第三番手柄は、忍へ至る道中ものの面白さ、闇に出没する辻斬りの恐怖、仁念寺に集う謎の一団、豊臣方の女間者お弓の右門への恋慕といった場面の面白さのみに頼っており、肝心の血染の手形のくだりは、かなりの破綻をきたしている。腕利きの侍を血祭りに上げるなら、文字通り、辻斬りの犠牲者として殺していけば良い訳で、わざわざ手首を斬り取ってペタペタ、スタンプを押し、あまつさえ、血文字の予告状を残していく必然性はないわけである。明らかにその場面のみの面白さを狙った、趣向倒れというしかない。  ここで映画化作品に眼を移せば、山中貞雄のシナリオは、この血染の手形のエピソードをバッサリとカット、辻斬りがあるにはあるが、忍の城下でこのような不穏な事件が続いていれば、将軍家の道中は当然、別のルートをとるはずであり、豊臣の残党はそこを狙う手筈になっていたという、甚だ合理的な説明がなされている。またお弓の右門への恋慕も櫛巻お由のそれへと変更されている。こうした経緯を見ても『右門捕物帖』の映画化作品の占める位置は大きいといわざるを得ない。  では『右門捕物帖』は、こうした映画化作品によってのみ、私たちの記憶に残っているのだろうか。いやいや、そうではない。確かにストーリーの首尾一貫性は映画に譲るとしても、この作品の真価は、やはり、『半七捕物帳』とは違った意味での、作中に描かれた江戸のあり方に求められなくてはならない。 『右門捕物帖』が、様々な工夫を凝らして回を重ねるごとにこのニュー・ヒーロー売り出しに腐心していった連作であることは前に述べたが、その右門にとって江戸とは何であったのか。このことが明らかにされるのが、第五番手柄「笛の秘密」である。この件に関しては、これも拙編の『時代小説・十二人のヒーロー 時代小説の楽しみ別巻』で述べたが、敢えて重複を承知で記せば、以下の如くになる。  この第五番手柄は、江戸三大祭りの一つ、山王権現の祭礼の真っ只中で幕をひらく。時代考証をものともしないこの作家には珍らしく、この祭りが江戸っ子たちの産土神《うぶすながみ》を祠《まつ》ったものであり、そのため江戸っ子が最も力瘤《ちからこぶ》を入れた催しであったことや、さらには山王権現の来歴、そしてこの祭りに限り、将軍家が上覧になることなどが、面白おかしく説明される。そして祭りの当日、山車《だし》曳物の上で、上様の上覧に供する牛若丸の扮装をした笛の名手が、取り出した笛に一口しめりを与えた途端に毒死。境内は騒然とした雰囲気に包まれる。ここで将軍家の傍に控えていた松平伊豆守が「町方席に右門が参り合はせてゐる筈ぢや。火急に呼んで参れ!」と声をかけるや否や、すかさず作者が入れる、  人物ならば掃くほどもその辺《あたり》にころがつてゐるのに、事件|勃発《ぼつぱつ》と知つてすぐに右門を呼び招かうとしたあたりなぞは、どう見てもうれしい話ですが、より以上にもつとうれしかつた事は命をうけて茶坊主が立たうとしたその前に、ちやんともう当の本人であるむつつり右門がそこにさし控へてゐたことでありました。まことに知慧伊豆とむつつり右門の肚芸《はらげい》は、いつの場合でもこの通り、胸のすくほどぴつたりと呼吸《いき》が合つてをります——  という合いの手によって、「ここに愈々《いよいよ》われらがむつつり右門」の登場となるのである。  ここに至って私たちは、この連作における江戸が主人公右門をひき立たせるための、大がかりな舞台セットであることを痛感させられるのである。知恵伊豆の呼び声によって進み出る右門は、正しく「待ってました!」のかけ声とともに花道に現われた千両役者——山王権現に関する考証も、祭りのなりゆきの説明も、将軍や松平伊豆守の存在も、すべて右門を千両役者としてこの花道に登場させることのためにのみ必要な装置なのだ。そしてもう一つ、自ら生み出したヒーローを涙ぐましい努力によって売り出しにかかっている佐々木味津三にとって、江戸は、純文学作家であったかつての自分を殺し、己れを大衆作家として再生させるためにどうしても必要な別世界だったのである。  このように、新たな捕物帳のヒーロー右門にとっても、その作者の佐々木味津三にとっても、作中の江戸は重要な意味を持っていたと思われるが、この連作における江戸は正しく舞台セットとして、作中にしばしばあらわれる。  味津三の描く江戸は、岡本綺堂が『半七捕物帳』の中で描く江戸のように写実性を持っておらず、  折からお十三夜の豆名月は、秋空|碧々《へきへき》として澄み渡つた中天に冴えまさり、宵風そよぐ汀《なぎさ》のあたり月光しぶく弁天の森、池面《いけも》に銀波金波きらめき散つて、座頭の妻の泣く名月の夜は、今が丁度人の出盛りでした。(第十八番手柄「明月一夜騒動」)  と、これはもう、芝居の書き割り以外の何物でもなく、この第十八番手柄の結末の、 ——しかし世は様々です。月に流れて心の底にまでも沁み渡るやうな呼び声がきこえました。 「淡路ィ島、通ふ千鳥の恋の辻占ァ——」  という箇所等は、正しく名舞台が、今、幕となった、そんな趣きすら感じさせてくれる。  舞台セットに書き割り。つまりは、ここに描かれた江戸は、捕物帳という、一つのジャンルにまで成長しはじめたエンターテインメントを完成させるための大きな入れ物といえるかもしれない。かつては、岡本綺堂という一人の作家の失われゆく江戸の名残りを紙幅にとどめる——そんな書き手の内面的必然性をあらわした一作品であった捕物帳は、『右門捕物帖』が書き継がれている昭和六年に、斯界《しかい》のビッグネームの第三弾、野村胡堂の『銭形平次捕物控』の登場を見、この間、何作もの群小捕物帳ともいうべき諸作が発表されているのである。もはや、捕物帳は、創始者綺堂の手を離れて別種の作品として一人歩きをはじめたのだといえよう。  そうした中で、佐々木味津三は、完全無欠のヒーローや、怪奇に満ちた事件が展開する作中の江戸に何を見たのだろうか。おそらくそれは、かつてあったはずの郷愁あふれる江戸ではなく、彼が実際に呼吸し、己れが感得していた昭和初年代の東京の姿だったのではないのか。  エロ・グロ・スリルという、一言でいえば猟奇性が『右門捕物帖』を支える重要な要素である点が、このことの良き証左であるといえるだろう。例えば、第十四番手柄「曲芸三人娘」等、幾篇か浅草奥山の見世物小屋の登場するものがあるが、ここに、今、手もとにあるグラフィックで秀逸な東京案内『東京空間1868-1930モダン東京』(小木新造・芳賀徹・前田愛編、昭61、筑摩書房刊)を繙《ひもと》くと、清水軽自郎や八木原捷一、あるいは志村和夫といった画家たちの絵、もしくは、松竹歌劇団や河合ダンス・バレー団のエロティシズムを混じえた写真を掲げて、昭和初年代の浅草を解説した「浅草紅団」の項には、  浅草は銀座と対照の極にある繁華街で、大衆の血のぬくもりを感ずる巷である。浅草では通人は流行《はや》らない。現実生活の論理や情感に充たされた人間が、その現実のままの心をいだいて、そして感激したり共鳴したり憤慨したりしている街である。  という説明が見受けられる。  この一文は、さらに当時、絶大な人気を誇ったエノケンこと榎本健一の笑いが「一瞬現実を忘れて笑いまくることに自己を沈潜してみない限り、社会不安のただ中にあって、どうにもいたたまれない庶民のやるせない気持」、すなわち、「庶民の哀感の裏返しのバカ笑いである」と分析、この一大歓楽街を、  レビューの全盛、カフェーの繁栄の裏側で、一方では、スキャンダルは日常茶飯事、心中事件や猟奇事件や投身自殺が相次ぐ昭和前期のエロ・グロ・ナンセンスの世相を包み隠さずどの街よりも赤裸々に表現した街浅草。その浅草における全盛娯楽の変化は、世相の縮図以外のなにものでもなかった。  と結論づけているのだ。  そして『右門捕物帖』の世界は、この刹那《せつな》的・享楽的な世相の縮図を怪奇なストーリーに乗せて、江戸の町へと敷衍《ふえん》化していったものに他ならない。ここでいう昭和前期の世相を彩った猟奇事件とは、おそらく昭和五年に起こった〈岩の坂もらい子殺し事件〉や、昭和七年の〈増淵倉吉首なし事件〉、或いは〈玉の井バラバラ事件〉等を指しているのだろうが、『右門捕物帖』に扱われる事件は、こうした一年間に三十人のもらい子が殺されていたとか、女性の乳房と陰部を冷蔵庫に入れていたとか、死体を八つ切りにしたとかいう現実のそれには及ばないにしても、かなりの猟奇性を帯びている。  例えば、第十一番手柄「身代り花嫁」は、商家の遺産相続をめぐる陰謀から、一組の新婚夫婦の男女が入れ替わって育てられていたという話で、右門がこの性の秘密を暴くため大刀をぬくと、思わず裾前を散らした若夫婦の新郎の方からは、「その途端! まことそれは伝六ならずとも見てならぬ目の毒でしたが、ちらりと裾前下からさしのぞかれたものは、表こそ男の服装《なり》をよそふと雖《いへど》も、やはり大和《やまと》ながらの女性《によしやう》は女性の嗜《たしな》みを忘れかねるとみえて、見るも悩ましく、知るも目に鮮やかな紅《くれなゐ》の布《きれ》でありました。同時にその赤色にまつはりからんで、雪なす羽二重肌のむつちりとしたふくら脛《はぎ》が、神秘の殿堂はそこにあると言はぬばかりにちらりとさしのぞいたのです」となり、花嫁の方は「一瞬、裾前下から同じやうにさしのぞかれたその足の、むくつけき毛もぢやらさ加減と言ふものは」となる、というように性倒錯のエロティシズムが強調されるといった按配である。  また、さらに、第十三番手柄「足のある幽霊」における、  だが、右門は至つて悠揚としたものでした。にやにやと打笑み乍《なが》ら、片手を懐中《ふところ》にしてのつそりとあとから這入《はい》つていつたやうでしたが、しかし一歩それなる土蔵へ這入ると同時に、ややぎよつとなりました。もう燃え垂れかかつたらふそくの鬼気あたりに迫るやうな不気味にも薄暗い燈りの下に、右手のない一箇の死体が身体中を高手小手にいましめられ乍ら、痩せ細つた芋虫のやうになつて、ころがされてあつたからです。  という無残な死体発見の場や、第十五番手柄「京人形大尽」の吉原の一室における、  第一に目を射たものは、そこの銀燭《ぎんしよく》きらめく大広間の左右に、ずらりと居並んでゐる、無慮五十人程にも及ぶ花魁群《おいらんぐん》の一隊でした。それすらもが凡そ不審な光景と思はれるのに、より一層いぶかしく思はれたのは、それなる花魁群に囲まれ乍ら、狂気してゐるのかと見ればそのやうにも見え、正気かと思へばそのやうにも思へるひとりの六十余りなる老人が、髪の毛をそつくりむしりとられた京人形をひしと抱き占めて、なにか分らぬ囈言《うわごと》を呟き乍ら、しきりにそれなる人形をあやなしてゐるのでした。しかもその前にざくざくと積まれた千両近い黄金の山!  と記される構図の奇怪さはどうだろうか。  前者は、人間の手の指を二本ずつ斬り取る賊が、そして後者は、子犬ほどもあろうかと思われる黒猫が人形の首をくわえながら出没する、というのが発端である。また、前述の第十四番手柄「曲芸三人娘」で強調されるのも、「美しい肉身」を「わなわなと慄は」す、奥山の女芸人であったりするのである。  今、掲げた第十一番手柄から第十六番手柄に至る事件は、雑誌「富士」の昭和四年の二月から六月にかけて発表されたもので、先に記した実際の猟奇事件よりはやい執筆ではあるが、例えば〈岩の坂もらい子殺し事件〉の発覚した昭和五年四月の同誌に発表された第二十一番手柄「妻恋坂の怪」が、三人の子供の惨死体の発見ではじまるという、気味のわるい符合を見せているなど、この連作が虚構と現実の枠組を越えて、一種同時代的な雰囲気をまるごと伝えていると見ることも可能だろう。この〈岩の坂もらい子殺し事件〉というのは、加太こうじ『昭和事件史』(一声社)によると、昭和五年四月十三日、東京市外板橋の岩の坂で、同地に住む人夫の内縁の妻・小川きくが、もらい子の菊次郎を乳房で誤って圧死させてしまったため、死亡診断書を書いてくれと近所の永井医院へ死体を運んで来たことから発覚。警察では「養育費をうけとって、(不義等の)子供をもらって、子どもは殺して養育費を着服していたのだろう」と判断、殺された子供の数は発覚時で四十一人とされている。  それらの現実の犯罪に興味を持った方は、ぜひとも『読本・犯罪の昭和史1 戦前・昭和1年—昭和20年』(昭59、作品社刊)を参照していただきたいのだが、この本の巻頭に据えられた討論「暗い時代に輝く生の刻印」(佐木隆三×松本健一)の中で、松本が〈岩の坂もらい子殺し事件〉及び〈玉の井バラバラ事件〉に触れ、「当時の横溝正史とか江戸川乱歩の小説というのも、みんなこの時代の猟奇事件が背景にあるんですね。たとえば、江戸川乱歩は『芋虫』という作品を書いていますけど(中略)昭和3年に山東出兵があって、向うで爆弾に当たって手足がなくなって、頭と胴体しかない兵士が帰ってくる。その男は食欲と性欲だけはあって、一種の肉ゴマのようになって生き続けるという奇妙奇天烈な小説なんです。これなんか、一方で、これら一連の猟奇事件と似ているし、他方では、山東出兵とかそういう戦争を背景にしている」と発言しているのが眼につく。  実際、一種の反戦小説であるとされる『芋虫』(昭4)を一読したことのある者ならば、作品の持つグロテスクな味わいは到底忘れ得ようはずもなく、先に引用した第十三番手柄「足のある幽霊」の「一箇の死体が身体中を高手小手にいましめられ乍ら、痩せ細つた|芋虫のやうになつて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》——」(傍点筆者)のくだりを読めば、何が想起されるかは、言うまでもないことである。そして、江戸川乱歩こそは、〈玉の井バラバラ事件〉の際、自身の作品の持つ猟奇性から「読売新聞」に�バラバラ事件の犯人は、江戸川乱歩デアル�との投書が来た作家でもあった。確かに乱歩の場合、作品に現実との接点が多いために目立ちやすいわけだが、時代小説という隠れ蓑《みの》をまとった『右門捕物帖』の中にあっても、身体各位の切断や男女の入れ替えによる性倒錯は、作品のあちこちに散見するモチーフなのである。  そしてその乱歩が『右門捕物帖』に対して、「多彩の美と、ギョッとさせる怪奇と、その間を縫って、苦味走った好男子むっつり右門が、颯爽《さつそう》と縦横に歩き廻っている」(「錦絵�右門捕物帖�」)という、讃辞を送っていることは既に述べた。だが、第三番手柄「血染の手形」の例を挙げるまでもなく、ミステリーとしては欠点の多いこの連作に、何故、探偵文壇の大御所はエールを送るのか。  私たちは、その理由に行き当たる前に、はやくも、「身代り花嫁」における性倒錯、「足のある幽霊」の芋虫のような死体、「曲芸三人娘」の肉襦袢《にくじゆばん》の女芸人とこれに絡む百面相役者、そして「京人形大尽」における人形趣味といった、乱歩作品と共通のモチーフを、幾つも、この捕物帖の中に見出すことが出来るのである。  松山巖が『乱歩と東京—1920都市の貌』(昭59、PARCO出版刊)で指摘したように、『闇に蠢《うごめ》く』(大15)において、  それらの人たち(見世物や大道芸人)は、彼の知っている一つの社会、例えば山の手に住んでいる或る富裕な友人の家庭だとか、当時できたばかりの帝国劇場だとか、三越百貨店だとか、そんなものとはまるで違った国に住んでいた。露店の洋食屋、競り売りのシャツ屋、アラスカ金の指環、電気ブラン、木戸十銭の浪花節《なにわぶし》、そういう世界が、彼らにはふさわしいものであった。(中略)それは例えば、たま乗り娘の、垢じんだ肉襦袢の魅力であった。豪奢《ごうしや》とか絢爛《けんらん》とかいうものとはまるで違った、別世界の美であった。のみならず、そこには、都会の中央から、下町の花柳界からでさえも影を消した、江戸の匂いが濃厚にただよっていた。居合抜き、ガマの膏売《あぶらう》り、弘法大師の石芋、倶利伽羅紋々《くりからもんもん》のお爺さん、鳩に豆を売るお婆さん、皺《しわ》くちゃの梅坊主、そういう江戸がただよっていた。  と、震災前の浅草の風景を綴った乱歩は、はからずも、別の回路を通してそうした己れが夢想する濃密な江戸の匂いを、極彩色に展開してくれる要素を『右門捕物帖』の中に見出すことが出来たのではないか。そして、それ故の、ある意味での共犯者意識に根ざす讃辞が、前述の「多彩の美と、ギョッとさせる怪奇と——」という一文になったのではあるまいか。  愛知県出身の佐々木味津三と三重県出身の江戸川乱歩という、岡本綺堂のように江戸の原風景を知らない二人の作家による、犯罪というフィルターを通しての、一つの江戸・東京理解がここにある、というべきか。  この他、『右門捕物帖』について特筆すべき点をアト・ランダムに挙げていけば、この連作に描かれている江戸は、一つ一つ、縦に区切られた空間の集合体であり、横に脈絡の取れる世界としては捉えられていないのではないのか。むっつり右門が参入する犯罪の現場は、江戸という大都市の中で何の前触れもなく奇怪極まる異空間として、突如として屹立《きつりつ》する。そこは、一見、何の変哲もない武家屋敷や遊里の一室であるのだが、余人は知らず、右門が一歩足を踏み入れるや、妖《あや》かしの世界へと変ずるのだ。それは都会の一隅に瞬時にして作り出された�八幡の不知藪《やぶしらず》�であり、そこには正しく、  壁ひとつ隔てた隣に誰が住み、何が行われているのかわからない状況。鍵を鎖すことで密室化する空間の不気味さ。ここにはまだ新しい都市型のコミュニティなどは誕生していない。地縁・血縁共同体から切断され、「大都会の底」に蠢く不安な個の感覚、神経の痙攣《けいれん》しか見い出せない。(田口律男「反転する都市」)  という大正中期からはじまった住居構造の変化に伴う都市空間の変貌とそこに住む人々との間に展開する緊張関係とでもいったものが託されているといえるだろう。吉原に現出する京人形大尽の大広間、土蔵に秘められた惨死体、商家に展開する性倒錯の初夜、それらは縦割りにされた都市空間のそれぞれの断面図であり、これらを暴く右門は、日常生活の中の異空間を疾走する都市の闖入者《ちんにゆうしや》に他ならない。  そして、この疾走、もしくは疾走感は、『右門捕物帖』を貫く、今一つの主要なモチーフでもある。前に述べたように、数ある捕物帳の中で、主人公が駕籠を駆って江戸市中を疾走するのは、極めて少ない。第一番手柄「南蛮幽霊」ではやくも、右門・伝六の主従は、 「馬鹿! 今日から三日以内に挙げちまへ!」 「だつて江戸を廻るだけでも三里四方はありますぜ」 「うるせえ奴だな。廻り切れねえと思つたら駕籠で飛ばしやいいんぢやねえか」 「ちえつ有難え! おい駕籠屋!」  というやりとりが交され、この後、「官費と聞いて喜び乍ら丁度そこへ来合はした辻駕籠を呼びとめてひらり伝六が飛び乗つたので——」という箇所があるものの、あながち、役人への皮肉のためにこうした設定が取られているとは思えない。この第一番手柄だけでも、次は右門が浅草の見世物小屋や柳原の土手へと駕籠を飛ばし、第二番手柄「生首の進物」においても、 「大急ぎで駕籠屋を二挺引張つて来い!」 「え? また駕籠ですか。南蛮幽霊のときもさうでござんしたが、あいつと同じ轍《てつ》でまた江戸中を駈け廻るんでげすかい?」 「嫌か」  といったような按配である。  この後も、『右門捕物帖』では駕籠に乗って江戸中を疾走する話が続出、全体の半数以上に、このような場面が見られるのではないのか。  昭和四年に中央公論社から刊行された今和次郎を代表|編纂者《へんさんしや》とする『新版東京案内』には、  さて、街上を走る交通機関が新東京の街上にどんな有様を呈してゐるか。いな/\それは街上のみではない地下にも空中にも新東京の交通機関が開かれてゐる時世とはなつたのだから。  膨大化した新東京、そして複雑な要素を持つてゐるところの新東京は、日毎に進歩した愉快であり敏速である交通機関を要求してやまぬ。だからそれらの尖端にあるもの、末尾にあるもの、それらの間の競争、乗客争奪戦が新東京を舞台として行はれてゐる状況の展開が見られる。  人力車と円タクの取組では人力車の負け、省線と市電の取組では如何、円太郎と青バスでは? 等々まるでスポーツ的な興味を東京の住民にそゝつてゐる。更に地下鉄あり私鉄ありである。  と記されている。  このような、いかに目的地にはやく着くかを眼目とした都市を縦横無尽に疾走する交通機関の成熟を考えると、昭和三年に連載を開始した『右門捕物帖』のみが、何故、数ある捕物帳の中で、江戸時代の円タクともいうべき駕籠を駆って江戸市中を疾走するのか、それは自ずと明らかになってくるように思われる。  そして、このいかにはやく目的地に着くかというテーマは、右門とあばたの敬四郎のライバル関係において、どちらがいかにはやく事件を解決するのか、という、もう一つの手に汗握る(結果ははじめから判ってはいるのだが)趣向としても活きてくるのである。 [#改ページ]   十、味津三、黙して逝く  作者自身の黙して語らずの修羅を託したヒーロー、むっつり右門、その右門のためのステージとしての江戸、おしゃべり伝六の持つ意味、映像との関係、都市小説としての『右門捕物帖』等々、私がこの連作についていいたいことは、ほぼ全部いい尽くしたといっていい。後は、己れの創造したヒーローと同じく大衆文学史の中を疾走していった佐々木味津三の生涯をどう閉じるかである。  味津三が『右門捕物帖』の筆をとったのは昭和三年から七年までの四年間で、大正十五年からはじまって昭和九年、彼の死によって終わる大衆作家生活の約半分の歳月、苦労を共にしたヒーローということが出来る。その『右門捕物帖』の掲載誌が講談社の「富士」から博文館の「朝日」へと代わったのが、昭和六年の一月からである。年譜によるとその前年、昭和五年の項に、「十一月、『富士』編輯長と原稿締切の問題その他で衝突、ついに講談社との絶縁を決意した」とあり、後に克子未亡人は「けっきょくは、あれは原稿料の問題からもつれたんですね。いつまでたっても最初から同じ原稿料しかくれないんですね」(尾崎秀樹との対談「明日の大衆文学の枕木」)と語っている。  その掲載誌が代わっての新生右門の第一弾が第二十六番手柄「七七の橙」である。気分を新たにしての執筆のためか、この正月早々、七梃の主のない駕籠が江戸城をぐるりと取り囲む七つの場所に乗り捨てられており、中にそれぞれ七つの橙が置いてあるという奇怪な事件の謎を追う話は、滅法威勢が良くて、シリーズ中、一、二を争うスピード感に満ちている。物語全体は、ほとんど会話で進行し、どちらかといえば作者の合いの手も抑えられているという感じが強い。おしゃべり伝六がその真骨頂を発揮して、単行本一ページにわたる長丁場を披露するかと思えば、右門もむっつりどころか実によくしゃべる。初期の作品では右門と伝六のしゃべる割合が、ほぼ一対二ぐらいであったのに対し、この作品では、右門の方がやや伝六を上廻っている。  事件を追って町に乗り出してからも、 「うるせえな。搦手《からめて》詮議は右門流十八番の自慢の手なんだ」  といい放つのを皮切りに、怪しい駕籠屋を捕まえて、 「控へろツ。やつた当人であり乍《なが》ら何のためか知らぬと言ふ法があるものかツ、大手責めも十八番、搦手責めも十八番、知らぬ存ぜぬと白を切るなら責め手も合はせて三十六番、泥を吐かせる手品はいくつもあるぞツ」  と、威勢のいい啖呵《たんか》の嵐が次から次へと吹きまくっている。謎の解決の方は例によって奇をてらいすぎ、物足りないが、それを補って余りある右門の活躍はまさしく痛快極まりないといえるだろう。 「『右門捕物帖』では事件の発端とあらたなる発展、そしてその解決が主要な部分をなしていたが、『旗本退屈男』では文章の味で読ませるといったたのしみを、みずから味わうといったおもむきがつよくなっている」といったのは尾崎秀樹だが、「七七の橙」ではむしろ、後者の感があり、特に右門が犯人を追って敵地に乗り込む時の台詞、 「許せよ。八丁堀同心近藤右門ちと詮議の筋があるゆゑ、寺社奉行様の御許しうけて罷り越した。遠慮なう通つて参るぞ」  等は、「チユウチユウ鼠鳴きして飛んで参るぞ」と、八百八町をいずこなりとも罷り通る早乙女主水之介の台詞そのままといった感が強い。既に述べたように、思えば、その�旗本退屈男�こと早乙女主水之介も、武芸百般に通じていながら元禄という泰平の世に生まれたのが身の不運。トレード・マークである〈退屈〉は右門の〈むっつり〉同様、封じられた才能の裏返しとしてあらわれたものだった。そしてさらにいえば、『旗本退屈男』の執筆が開始された昭和四年は、後に中谷博が時代閉塞的な状況下におけるインテリ層の苦悩を代言したと定義するところの一連のニヒリスト・ヒーロー、すなわち、『赤穂浪士』(大佛次郎)の堀田隼人、『新版大岡政談』(林不忘)の丹下左膳、『砂絵|呪縛《しばり》』(土師清二)の森尾重四郎らが登場してからまだ二年目。その余燼《よじん》がくすぶっていた時期であり、もともと日本近代のインテリは、いわば〈退屈〉を知っていることを一つの条件としていたのではないか。そうした彼らが時代の状況の中で、手もなく己れの脆弱性《ぜいじやくせい》をさらけ出す時、このおよそ退屈とは無縁であった人気作家は、早乙女主水之介というヒーローを通して何を思ったのであろうか。その胸中が察せられる。  そして話をもとの『右門捕物帖』に戻せば一種の職人|綺譚《きたん》ともいうべき第二十七番手柄「献上博多人形」や、最終話となった第三十八番手柄「山雀《やまがら》美人影絵」等、まとまりの取れた作品が増え、中には第三十四番手柄「首つり五人男」等、後に都筑道夫によりミステリーとして批判の対象とされるものがあっても、全体としてあと味の良い、さわやかなものが多くなっている。特に最終話などは、穿《うが》った見方をすれば、かつてこの連作に見られた誇張されたヒーローぶりや、善と悪との対決等もなく、開巻、右門の下手人への心理分析にはじまり、犯行露見に至る小道具としての山雀の扱いにも長じ、ミステリーとして小味の利いたものとなっている。  そこには、一つの余裕すら感じられるのだ。やむなく書きはじめねばならなかったこの連作の筆をようやく置くことが出来る——そこから来る余裕だろうか。いや、私には違うように思われる。はじめは『右門捕物帖』の筆をとりながら、自分の心情を役割分担させた右門を伝六がひきたてている箇所を書く時に、「伝六っていいやつだなあ、全く可愛いい奴だなあ」といい、涙をこぼしていた味津三である。そのように付き合っていた作中人物に情が移らぬはずはない。してみると、あの余裕はどこから来るのか——。  ここで、今一度、吟味してみたいのが、本書ですでに触れた佐々木味津三がこの連作について述べた、 「おれが死ぬと、佐々木味津三の代表作は『右門捕物帖』といわれるんだろうが、いやだなあ」  ということばの意味である。このことばは一見、味津三の苦悩を端的に示したもののように見え、事実、私もそう記して来た。だが、彼が作家的地歩を着々と固めていく過程において、彼は文字通り搦手から自己の文学の可能性を実現する方向へと向いはじめるのだ。その証拠に、年譜によれば、『右門捕物帖』の打ち切りは「仕事の転換を考え三十八話で一応中止の形とし」とある。  こうした事情を考えると、先のことばは、苦悩の表明のように見えて、実は裏を返せば、『右門捕物帖』は娯楽小説の代表作としてあるが、もっと別の代表作が自分にはあるのだ、という味津三の強烈な自己主張だったのではあるまいか。  そして、この今一つの代表作が、おそらくは、昭和四年から「キング」に連載が開始された『風雲天満双紙』であり、同六年から「オール讀物」に連載をはじめた『小笠原壱岐守』であったのだろう。両作とも、作者いうところの�快心作�であり、前者は大坂天満の与力大塩平八郎が社会的正義感から一揆にはしるまでを伝奇的手法の内に描きつつも、作品は、後に帝政末期のロシアの社会絵図を思わせるドラマチックな歴史図であるとも、大衆小説にありがちなハッピー・エンドを回避した点に問題意識が見られるとも評価されるもので、読者からの反響も多く、味津三は、連載終了後、講談社から記念の置き時計を贈られている。また後者は、幕末の動乱下を生きた最後の老中の姿を活写すべく、小笠原子爵家を訪ねて助言を得たり、幕末もののパイオニア子母沢寛の手をわずらわすなど、ありとあらゆる資料を漁って執筆された渾身の歴史大作であった。特に子母沢寛は、味津三を娯楽小説一辺倒の作家と思っていたらしく、「壱岐守についての質問が実に微に入り細に亘りその態度が余り真面目なので作品とは違つた氏の本当の姿を見せられ、非常に感じ」入ったといい、また「あの態度だと佐々木氏は思ひも寄らぬ位いろいろな事を知つてゐられたと思ひますが氏の作品に対する馬鹿の一つ覚え的な批評などは定めて片腹痛く思はれてゐた事と思ひます」(「佐々木さんの面影」)とまで記している。  そして佐々木味津三は、これらの作品の成功を通して、自らの可能性が大衆文学においても充分、発揮出来ることを悟ったに違いない。そこで、これらのことを念頭に置いてまずは次なる文章を読んでいただきたいのだ。 ——最近愈々自説と自論の正しきを深めたものは歴史小説である。余は最初からいはゆる大衆小説について、偉大なる不平と不満があつた。多くのいはゆる髷物に釈師の講釈とあまり多くの差を見いだしえなかつたからである。ある物は張扇の代りの単なる文字の羅列だつた。あるものはまた何等のわれわれ日進月歩の読者に対して呼びかける新解釈を持つてゐなかつた。而して、——。それが作者独自の人生観なき点に於ては、みな同一である。芸術的、文学的の香気なきことは勿論のこと余の絶えざる不満だつた。啻《たゝ》に不満だつたばかりではない。尠くも余一人は終始その不満をつき破つて、余独自の人生観とより多分の芸術的香気を盛つたいはゆる大衆物を書いたつもりである。さう言へばきつと人は言ふだらう、——大衆ではないそれなら小衆だと。  けれども余は余の観る大衆について、つねにその位の高きをとつたことを、自ら満足を以つて誇りうることは甚だ光栄だからである。  だから余はつねに豪語を忘れなかつた。歴史小説ならいくらでも書くが、新講談なら真平《まつぴら》だと——つねにさう言ふ豪語を忘れなかつた。 ——尤もさう言つてあまりよく売れないことへの讐も半分は討つてゐたが、しかし、円スケ本流行と共に余の目標としてゐる新歴史小説の一世を風靡(ちと大きいが)する時もさう遠くはないだらう。  尠くも余はそれを夢に描いて、今後も堂々と余の大衆歴史小説を月に三つ位づゝはかいて行く考へである。(「歴史小説の事」)  このあたかも、『風雲天満双紙』や『小笠原壱岐守』の成功を経て書かれたかに見える文章は、実は、「騒人」の昭和二年五月号に発表されたもので、当然のことながら『右門捕物帖』の連載はスタートしておらず、ここで作者がいっている�大衆歴史小説�とは、前年からこの年にかけて書かれた『直参八人組』や『三河武人物語』『家康秘録』等、もしくはさらにさかのぼって、最初期に書かれた『女讐夜話』や『佐久間象山の最期』といった歴史短篇群を指しているのだと思われる。だが、それが『風雲天満双紙』や『小笠原壱岐守』を指す述懐として何の矛盾もなく受けとめられるということは、佐々木味津三が長い長い廻り道をして、ようやくその原点に戻って来た、つまりは、己れの文学の可能性を搦め手から実現させる方法を手中に収めたことの良き証左といえるのではないのだろうか。  そして再び味津三がこのような自信を取り戻した時、大衆作家となって以来、労苦を共にして来た主人公の活躍する『右門捕物帖』は、初めて安心して筆を遊ばせることの出来るホームグラウンドたり得たのであり、度々、引用している克子未亡人の証言には「『右門』は愉しみ乍ら書いていた」という発言も見られるのである。これが『右門捕物帖』の中に次第にあらわれて来た余裕の意味であろうし、こうして見ていくと、この連作が執筆されていく過程は、そのまま、味津三が作家としての誇りを取り戻していく過程として位置づけることも出来るだろう。  そして、先の随筆に述べられていたような作中人物の人生凝視の視点は、本書ですでに触れたことのある「講談倶楽部」の昭和八年十二月号に掲載された『山県有朋の靴』に見事に結実する。この原稿をはじめて読んだ時の感動を、同誌の編集に携っていた萱原宏一は次のように記している。  退屈男や右門は、大衆の喝采を浴びたが、私は佐々木味津三の本領は、これだけではないと思っていた。もっと大きな賞讃が、もうすぐそこで待っていると思っていた。 「山県有朋の靴」の最後の部分が、係によってもたらされ、私はむさぼるように、それを読んだ。読んでゆくうちに、身内に戦慄が走った。大衆文芸もついにここまで来たか、その感激で涙がこぼれそうになった。感動による昂奮が、しばらく続いた。佐々木さんの新境地は美事に 拓けていたのであった。(『私の大衆文壇史』昭47、青蛙房刊)  敢えて重複を承知で記せば、この中篇は、今は山県有朋の下僕となっている元旗本の平七が、ある事件をきっかけに、過ぎ去った時代に殉ずるかのように、有朋の靴をひっつかんだまま入水自殺をするまでの経緯を淡々とした筆致で綴ったものである。そこには右門や退屈男を描くような誇張された筆致は微塵もなく、移りゆく時代の流れと、その流れに飲み込まれていった主人公を見据える作者の冷静な視線があるばかりだ。  そして味津三は、作風の違いこそあれ、むっつり右門、早乙女主水之介に続いて、自分自身の新たなスタートを約束するであろう作品を書くに当たり、ここでも己れの持てる能力を封じられた、いや、自ら封じた人物を主人公に選んだのだ。平七の入水自殺を見届けた年老いた鳶のいう、 「あツ。ありや、ありやたしかに金城寺の旦那さま(平七)の筈だが、——お見事だなあ。」 ——中略—— 「金城寺の旦那さまなら、|水練に達者の筈だが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|泳ぎの出来るものが溺れ死ぬのは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|腹を切るより我慢のいるもんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》といふ話だが、——さすがだなあ……。」(傍点筆者)  という台詞は、作者が通って来た道のりの長さと重ね合わせられ、読む者の胸を打つ。純文学の旗手としてスタートしながら、家庭の事情で大衆作家へと転じなければならなかった味津三が、これからは書きたいものを書くと宣言した時に、平七のような人物を描いたことにはそれなりの意味があろう。  しかし、遅すぎた。人気作家としての頂点を極めた昭和五年から、この『山県有朋の靴』が発表された同八年までの年譜には、  執筆ますます多忙となり、連日徹夜、睡眠は僅か二三時間という日も多く次第に健康を害した。胃下垂胃酸過多が嵩じたのに加え、この頃から喘息に悩み薬を乱用するようになった。  とか、 ——彼の作家生活の中で最も多量の仕事をしている。挿画画家を自宅に迎え原稿の遅れを補って貰ったりしたのもこの頃で、肉体の酷使は言語に絶するものであった。  とか、あるいは、 ——日夜を分たぬ執筆を続けるうち、一夜、突然多量の血を吐いた。医師は、喀血ではなく咽喉部の出血と診断したが、静養中続いて全身蕁麻疹、神経痛を起し、喘息と共に絶え間ない病苦に悩んだ。  などといった記述があちこちに見られ、その健康状態は、ますます凄惨の度を深めてゆく。そして、昭和九年二月六日、十指に近い病苦に加え、急性肺炎を起こし、味津三は遂に帰らぬ人となるのである。満三十七歳と十カ月の人生であった。『山県有朋の靴』はその遺作である。無論、「一応《ヽヽ》中止の形」とされていた『右門捕物帖』の筆が再びとられることはなかった。  佐々木味津三はこんな言葉を残している。  ここにおいてか、やはり明日の大衆文学は、只、五里霧中、軌道なき花電車といふのほかはない。大衆文学が百世永遠まで大衆と共にある限り、明日の大衆層からなにが飛び出すか、どんな叫びがあがるか、その求むるところ、動く方向も分らないからである。(「大衆文学は無軌道の花電車」)  と。  この文章は、一見、華やかに見えつつも、いつ何どき、マスコミや大衆自身によって、その足元をすくわれかねない大衆文学の不確かさを述べたものだが、これは彼が生きていた時代ばかりでなく、現在でも充分、有効性を持つ問題提起であり、味津三自身、ある意味で純文学サイドからやって来た斯界《しかい》への侵犯者であったからいい得たことかもしれない。  しかし、捕物帳に関していえば、彼が自ら枕木となって敷いたレールの上に、野村胡堂の『銭形平次捕物控』という大きな花電車が動きはじめており、作中の江戸は再び新たな意味を担って屹立《きつりつ》しはじめていたのである。  さて、そろそろ、この不世出の作家の生涯を閉じるときが来たようだ。その手向けのことばは、捕物帳の先達、岡本綺堂の愛惜に満ちたそれが最もふさわしいだろう。綺堂は、味津三の死後、平凡社から刊行された全集の内容見本に「捕物帖の作家として」という一文を寄せ、次のように記している。  大衆文芸の作家も多い中で、佐々木君の如きは確かに一種の異彩を放つた作家であつた。純文芸の方面から転じた人だけに、おのづから俗気が乏しく、気品の高いところに其価値が見出される。私は自分が「半七捕物帳」を書いた関係から、同君の『右門捕物帖』を最も注意して読んだが、どの話も実に面白い。変幻怪奇を極めてゐながら、而もその径路の井然とし一糸乱れざる点は、方《まさ》に探偵物語の典型とも見るべきであらう。佐々木君は他にも多量の大衆小説を製作してゐるが、この「右門捕物帖」の一作だけでも、優に大衆作家の首班たるべき資格があると思ふ。これは我田引水的の偏見でない。  佐々木味津三よ、もって瞑すべし。  次はいよいよ、神田明神下の平次親分の登場である。 [#改ページ]   十一、胡堂富士を見る  岡本綺堂が、関東大震災後の東京を見て、『半七捕物帳』が江戸と東京をつなぐ架け橋たらんと念じたように、そして、関東大震災後のマス・メディアの発達が、佐々木味津三の純文学作家から大衆作家への転身を可能とし、結果的には『右門捕物帖』の執筆を促したように、野村胡堂の『銭形平次捕物控』の場合も、やはり、関東大震災からはじめなくてはならない。  ここに一つの川柳がある。   駿河町広重の見た富士が見え  これは、関東大震災の直後に「報知新聞」の川柳欄で天位を得た作品である。選者は他ならぬ野村胡堂。瓦礫《がれき》の山と化した東京から遥か彼方に富士を見た人は多いだろう。しかし、その姿を�|広重の見た《ヽヽヽヽヽ》富士�と捉え得た人は少なかったはずであり、そこにまたこの作者の並々ならぬ才気が感じられる。胡堂が後に不朽の名作と断じる所以《ゆえん》である。  この年、大正十二年、胡堂は報知新聞社に入社して十一年を数えている。政治部外交記者から社会部長へと昇進する傍ら、すでに同新聞紙上に異色の人物評伝『人類館』(大3)や最初の小説となった中篇SF『科学小説二万年前』(大11)を掲載している。初の時代もの『美男狩』が同紙に登場するのが六年後の昭和三年、そして『銭形平次捕物控』の第一話「金色の処女《おとめ》」が�文藝春秋臨時増刊�としてスタートした「オール讀物」の月刊化に際し、初登場するのが、さらに三年後の昭和六年のことである。  冒頭に紹介した川柳欄は、大正六年、新聞社の販売競争に勝ち抜くための新企画を請われて、胡堂が考案、自ら選者を買って出たものだ。川柳など古くさくはないだろうか——会社の幹部にそう懸念されつつも、「川柳は決して古くない。新しい人が新しいセンスで作りはじめたら、これは大きな流行になる」と現代に生きる庶民芸術を信じた胡堂の見識は見事に功を奏し、この欄は同紙の名物として以後二十七年間続けられることになる。  そしてその中で「駿河町——」のような貴重な庶民記録が生まれるわけだが、この川柳を読むたびに私は、出来すぎだな、と思わざるを得ないのだ。無論、私たちは、この後、捕物作家として『銭形平次捕物控』を書くことになる野村胡堂を知っている。それ故、今日的な視点に立ち眼の前に並べられた偶然性の強い個々の事実から、極めて都合のいい解釈をからめ取り、一つの因縁噺をつくり上げることが出来る。だが、それが出来るということは、反面、そうした伝説の生まれる下地がすでにこの時点で期せずして用意されていたことの証しに他なるまい。  くどくどと話をするのはよそう。  結論からいってしまえば、野村胡堂が、この川柳を選び取ったという行為の中に、後の『銭形平次捕物控』を支える要素が、すべて出揃っているのである。  その要素とは、三題噺ではないが三つある。  それは、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰実作者としての野村胡堂 ㈪江戸期を代表する庶民芸術としての川柳 ㈫現実のレベルとして灰になった古い東京と、空想のレベルとしてそこから眺められる�広重の見た富士�を通じて逆照射されてくる幻想の江戸 [#ここで字下げ終わり]  の、三つである。  ㈰は、もちろん、後の『銭形平次捕物控』の創作主体としての胡堂であり、㈪は、その作品に溢れる庶民性を、㈫に示されている旧東京の崩壊は、この街に残された江戸の面影に対する追懐の情より発した『半七捕物帳』からの解放を、そして、幻想の江戸は、『銭形平次捕物控』の中に一貫して流れている〈法の無可有郷《ユートピア》〉という基本テーマを、いとも端的に示しているような気がしてならないのである。  当然のごとく、胡堂は、この後、自分が三百篇を超す捕物帳の作者になるとは思っていない。にもかかわらず、それを支える諸要素は、この時点で奇《く》しくも出揃っていた。だからこそ私は伝説と書いたのである。  だが、本当にただの伝説なのだろうか。  野村胡堂は、この報知新聞の川柳欄の選者をつとめるに至った経緯を記した「時事川柳」という随筆の中で「駿河町——」の句に触れ、「不朽の名作」と述べた後で、「それから二十幾年たって、再び焼け野が原になろうとは」思わなかったと、敗戦直後のことを書いている。  つまり、空襲で焼け野原となった東京の地から胡堂は再び�広重の見た富士�を見たわけである。  そして、戦後、多くの時代小説が禁圧された中、捕物帳だけは発表を許され、焼け跡から不死鳥のように復活、爆発的なブームを巻き起こすことになる。この間の事情についていささか筆を費すならば、戦後、GHQは、各新聞社あてに十カ条のプレス・コードを指令、次いで、各映画会社、劇場等に向けて、全十三カ条から成る注意書きを発し、文化面において封建的な主従関係や義理人情を礼賛する作品の一切を禁止した。ところが、これを知らなかった探偵小説専門誌「宝石」は、「捕物帖が含有する古き郷愁が、精神の潤いを失っていた人々の渇きを癒」(城昌幸「�宝石�発刊の頃」)すだろうと、第三号において、捕物帳の特集を企画、大反響を呼んだ。そうした中、発表誌の持つ性格故にミステリーの一種と見なされたのか、捕物帳の掲載はGHQからも特にお咎《とが》めなし。加えて映画界においても、同心や岡っ引の持つ十手が警官の持つ警棒と解釈され、十手による殺陣《たて》が可能となったため捕物映画が盛んに作られ、ブームに拍車をかけた。それは、真鍋元之のことばを借りるなら、捕物帳が「時代小説の特異なジャンルでなく、その全体の代表かのように」(『大衆文学事典 小史・その五』)見られた時期でもあったという。  そのブームの中心的存在となるのが、昭和二十四年に結成される「捕物作家クラブ」の会長野村胡堂であり、作品の目玉は、何といっても、半七、右門と並ぶ三大捕物帳の一つであり、戦後まで書き継がれていた『銭形平次捕物控』であった。  そして、GHQによる戦後日本の民主化政策は、〈法の無可有郷《ユートピア》〉としての捕物帳を書き進めて来た胡堂にどう映ったであろうか。捕物帳の二つの転機に常に瓦礫の中から顔を出す�広重の見た富士�——一つの川柳のもたらす偶然の符合の不思議を思わずにはいられない。  敗戦後の東京と震災後の東京を二重写しにすること。その背後に、あの川柳を通して見た幻想の富士が、今にして思えば知らず知らずのうちに捕物帳執筆の際の天啓になっていたのではあるまいか、と、そう過去に思いをめぐらす胡堂の姿を想像してみるのも、また楽しい空想といえるだろう。  もとより川柳の大好きな胡堂である。帝大在学中は、講義の間でもフランス語の法律書の下に『柳樽』(『柳多留』)を隠して読んでいたという。その胡堂は自らこのことを「今日の私の米櫃《こめびつ》を賄つて居るのは、何んと学生時代フランス語の法律書の下に忍ばせて読んだ『柳樽』(『柳多留』)のお陰であつたのである」と記しており、自分と川柳との因縁の深さを物語っている。  実際、岡本綺堂のように実体験としての江戸=旧東京を知らぬ胡堂にとって、川柳は、写実性よりも、精神のあり方を通して江戸を掴んでいく上でこの上もない手がかりとなっている。主人公平次と子分であるガラッ八の八五郎のやり取りの基調となるものは、江戸の庶民の底抜けに明るいユーモア精神に他ならない。胡堂は、常々、捕物帳を書く若手作家に「川柳を読め」といっていたそうだが、平次とガラッ八の会話や、貧しさの中にも明るさを絶やさない日常生活の描写には、苦しさや辛さを、洒脱なユーモアでつつんでしまう川柳の笑いがこめられているといえるだろう。  加えて、胡堂は浮世絵、特に広重《ヽヽ》の風景画の蒐集で知られ、随筆「広重の良さ」の中で、 ——江戸の風物を描いて宏大な風景詩を遺した広重の偉大さは、世界にも類の無いものと言えるだろう。  とまで断じているのだ。  そしてこれらのことを総合して考えるならば、私の書いた伝説は、むしろ、作者の側から跡づけられていったという節もなきにしもあらず、というべきではないのか。そしてもし、事実この通りならば、次のことがいえるのではあるまいか。  すなわち、無名の庶民が投稿した川柳が、『銭形平次捕物控』というあくまでも庶民の立場を貫き通した連作として大衆に還元されたというのは、むしろ当然の帰結ではあるまいか、と。  二度の焼け野原が生み出した�広重の見た富士�。そしてそこから生み出された幻想の江戸。胡堂は、そこに自分が紙の上でなすべきなにものかを見出したに違いない。それは同時に、『半七捕物帳』や『右門捕物帖』とも異った捕物帳の第三の道の発見でもあったはずなのだ。  これから論じていく『銭形平次捕物控』——それは、まぼろしの江戸に夢を託した一人の男の物語なのである。 [#改ページ]   十二、平次誕生  この章から、『銭形平次捕物控』という作品が、どのような経緯を経て完成されていったのか、換言すれば、野村胡堂は、どのようにして己れの江戸=東京という都市文化に対する夢を作中に盛り込んでいったのか、その内実の検討に移っていきたいと思う。  野村胡堂は、『銭形平次捕物控』を書くに当たり留意した点として次の四つを挙げている。  一、容易に罪人をつくらないこと。  二、町人と土民に愛着を持つこと。  三、サムライや遊人を徹底的にやっつけること。  四、全体として明るく健康的な読みものにすること。  これは、ほとんどこのシリーズの特色をいい尽くしたことばであるといっていい。  しかし、これらの特色は『銭形平次捕物控』執筆の当初から固まっていたものではない。胡堂自身、回を重ねるに連れて徐々にそうした考えを持つに至ったと見るべきだ。初期作品には、明らかに、この連作がシリーズとしての体裁を整えていく上での試行錯誤が見られ、戦後、角川、新潮の各文庫からそれぞれ『銭形平次捕物控』全十巻(昭32〜33)、『珠玉百選銭形平次捕物控』全十巻(昭34)といった傑作集が刊行された際にも、後者は第七話の「お珊《さん》文身《ほりもの》調べ」から、前者は第十七話の「赤い紐」から収録を開始している。こうした編成には、全体のイメージとは異った最初期の作品を排除しようという意図が働いてはいまいか。  加えて、胡堂が「私は銭形の平次に投銭を飛ばさして、『法の無可有郷《ユートピア》』を作つて居るのである」(「平次身の上話」)とまで断じるのは主に戦後のことである。従って冒頭に挙げた四つの評価はあくまで総体としてのそれなのである。  では、『銭形平次捕物控』は、いつ頃から現在流布されているようなイメージを持つに至ったのか。ここではそれを記す前に、まず胡堂が、この連作を書くに至ったいきさつを述べることからはじめてみたい。  前章で記したように、第一話「金色の処女《おとめ》」が「オール讀物」に掲載されたのは、昭和六年の四月である。それまでに野村胡堂は『美男狩』(昭3)や『身代り紋三』(昭5)といった二大伝奇長篇を中心に、怪異譚集『奇談クラブ』(昭2)や少年もの『岩窟の大殿堂』(昭5)を発表、すでに大衆文壇の気鋭として確固たる地位を築いていた。  その活躍ぶりは、後の『銭形平次捕物控』の評価を抜きにしても、岡本綺堂や佐々木味津三ら、先輩作家に伍して、当時、平凡社から刊行されていた『現代大衆文学全集』続第十五巻(昭6・10)がまるまる一冊�野村胡堂集�に当てられていたことからも容易に察しがつこう。  その『現代大衆文学全集』の「自画像」と題する自己紹介欄に、胡堂は「私は(報知新聞社の)編輯局相談役といふ隠居役に納まつてしまつたせゐ」で、「外(紙)へも機会ある毎に書」ける立場となり、「『奇談クラブ』は幸ひに受け、その次に書いた長編『美男狩』は更に受け」、四十過ぎから「到頭本職の小説家になつてしまつた」と、その間の事情を明らかにしている。  さらに注目すべきは、「遅くスタートを切っただけに、材料だけは沢山用意してある積りだ、本当のものは、これから書けるだらうと思ふ」と意気盛んなところを見せている点で、この時期、胡堂は天性のストーリー・テラーとしての才能を次々と発揮、どんなものでもこなしていく自信があったのだろう。彼に捕物帳執筆の依頼があったのは、まさしくそんな時期だったのである。  昭和六年のことである(『銭形平次捕物控』の執筆依頼の時期に関しては、締切までに一週間しかなかったという説と昭和六年の正月あけという説と、ふた通りある。本稿では、晩年、眼が不自由になった胡堂から聞き書きを行い、最も親密な関係にあった作家田井真孫の証言による前者を、仮にとっておく)。その依頼の主は、春に文藝春秋から刊行される新雑誌「文藝春秋・オール讀物号」の編集長菅忠雄。その創刊号から岡本綺堂の『半七捕物帳』のようなものを書いてもらえまいか、というのが依頼の内容だった。  この時期、岡本綺堂はいったん『半七捕物帳』の筆を擱いているものの、新作社の五巻本は依然として版を重ね、さらに二年前、春陽堂から刊行された大部の二巻本も好評を得ていた。また、捕物帳の今一つの雄、佐々木味津三の『右門捕物帖』も、掲載誌を「富士」から「朝日」へと変えて書き継がれていた。特に�むっつり右門�が嵐寛寿郎の映画によって人気を博していたことは、既に述べた通り。昭和六年には「十六番手柄」「十八番手柄」「二十番手柄」と、三本立て続けに封切られることになる。捕物帳は明らかに大衆小説界のドル箱的存在であり、菅の依頼はこうした状況をその背景としていたのである。  なるべく罪人を作らず、殺伐としていない明るい雰囲気を持ったものを——そうした方針はすぐ決まったものの、肝心の主人公像がなかなか決まらない。前述の田井真孫は、なかば伝説と化した胡堂が銭形平次のキャラクターを考え出すに至ったいきさつを次のように記している。 ——若くて、美男で、女の子にさわがれて……というところまでは誰だって考えるが、ただそれだけでは個性がない。何か特別のウルトラCがなければだめだ。  中国の伝奇小説に水滸伝というのがある。没羽箭張清《ぼつうせんちようせい》という石投げの名人がいて、いつも小石を袋に入れて持っている。敵が攻めてくるとぶーんと投げるのが百発百中である。よし! これだと構想がきまった。しかし、考えてみると小石の袋では色気がない。—中略—  なにかうまい手はないものかと幾晩も眠らないで考え続けた。あんまり考えて頭がふらふらになった。ぼーっとなった頭を冷やそうと丸の内から銀座方面へ散歩に出た。ビル街の向うに夕暮れの空がかすんでいた。 「あっ」と胡堂親分は思わずさけんだ。残照の空に大きな文字が浮かんだのである。しかもくっきりと「銭」という文字である。 「そうだ、銭だッ、銭を投げさせればいいんだ」  胡堂親分は躍り上がった。豁然として思案がひらけ銭形平次の構想がいっぺんに固まった。(「コスモスの日」)  後に判明したところによると、胡堂の視野の向こうにあったのは、ビル建築のために組まれた鉄骨で、そこには大きく建設会社の名が「施工、銭高組」と記してあったという。胡堂の見たのはこの看板の文字だったのである。そしてこのあと、銭高から銭形へとたどりつくまでに、大した時間はかからなかったという。  これは、平次誕生に関してまず第一に語らねばならないエピソードであるが、この中に出て来る『水滸伝』の没羽箭張清にヒントを得た作中人物を、実は胡堂はすでに一度、実作に登場させている。  第一長篇『美男狩』で重要な脇役をつとめる娘軽業師小玉太夫がそれである。ツブテを投げれば百発百中、悪人どもをきりきり舞いさせるこの美少女は、まさしく平次の原型といえるだろう。従って先に引用したエピソードの前半部分は、胡堂の内部でかなり長い間、あたためられていたものと考えられる。が、短期間でそこから不朽の主人公銭形平次を生み出した手並は、やはり凡手のなし得るところではあるまい。  こうして第一話「金色の処女」が世に出ることになった。しかし、この作品は、後の『銭形平次捕物控』に較べると、かなりの違和感があり、ストーリーも、『右門捕物帖』の影響のためか、随分と派手なつくりになっている。  物語は南町奉行所の筆頭与力笹野新三郎が「寛永から正保年間にかけて、江戸は申すに及ばず関八州に響いた捕物名人」銭形平次に三代将軍家光襲撃事件の探索を命じるところからはじまる。家光は、雑司《ぞうし》ヶ谷《や》で鷹狩りをしていた最中、毒矢に狙われた。しかし、何故か鷹狩りをやめようとしない。将軍の目当ては、鷹狩りの帰りに立ち寄る大塚御薬園の主人峠宗寿軒の娘小夜なのだ。  一方、時を同じくして、江戸市中では、若くて美しい娘が次々と拐《かどわ》かされ、二、三日後には見るも無残な姿で発見されるという事件が続出していた。この二つの事件に何らかの脈絡ありと睨んだ平次は、両国の水茶屋で働いている恋人お静を囮《おとり》に事件の真相をさぐりはじめる。しかし、不覚にもお静は敵の手に。  そしてお静を救うべく、御薬園に忍び込んだ平次が見たものは——広間にまつられた魔像、立ち並ぶロウソク、蜥蜴《とかげ》や蛇の死骸、そして中央の祭壇に横たえられているのは、全身に金箔を塗りこめられた全裸のお静ではないか。やがてはじめられる黒装束の男たちの奇怪な乱舞。そして伏魔殿であることも知らずに招じ入れられた家光に差し出される毒湯。とっさに平次は懐から探索用にと渡されていた小判を投げつけ、その窮地を救うのだった。  宗寿軒の一味は、実は非業な死を遂げた駿河大納言忠長卿の遺臣で、家光暗殺をくわだてる一方、その調伏をはかり、美しい娘を次々とさらって来ては黒ミサの犠牲にしていたのである。こと露見に至って宗寿軒らは自ら地雷火に火をつけ、業火の中に果てた。平次は間一髪のところでお静を救い出し、この一件で家光にまで名前を憶えられるほどの捕物名人となるのである。  以上が「金色の処女」の大まかな概略だが、これを見ても、第一作が後の『銭形平次捕物控』、すなわち、平次のつつましやかな日常や、八五郎とのやりとり、さらには江戸市井の庶民の日々の暮らしといったディテールの積み重ねによって物語を構成していく小説作法とはまったく性格を異にしていることが了解されよう。  物語は将軍暗殺計画から、連続美女誘拐殺人、平次の隠密行、黒ミサの儀式、果てはクライマックスの大爆発まで、息もつかせぬ連続活劇風に展開する。そして全篇に横溢するのは、江戸を舞台としながら、海外探偵小説の翻案臭をとどめた非常にバタ臭い雰囲気である。  当時、鎌倉に住んでいた胡堂は、報知新聞社に通う道すがら、着物の左右の袂《たもと》に一冊ずつ、懐に一冊、計三冊、欧米の探偵小説の原書を入れ、これを片はしから読破していたという。これらの作品の中から自分の捕物帳に使えそうな箇所をどんどん取り入れ、あるいは改作していったのかもしれない。  また、岡本綺堂の『半七捕物帳』のようなものを、という依頼ではあったが、新しいヒーローを売り出すためとはいえ、この派手なストーリー展開は、どう見ても、『右門捕物帖』に対抗するためとしか思えない。 『右門捕物帖』の第一話「南蛮幽霊」が、島原の乱の残党による幕府転覆の陰謀であったのに対し、「金色の処女」が駿河大納言の遺臣による将軍暗殺計画であることなど、話の筋も極めて類似性が高い。また「金色の処女」の最後で、平次がこの事件を解決した手柄によって「家光の胸に銭形平次の名が印象深く記憶された」とあるのは、右門が「南蛮幽霊」事件の後、老中松平伊豆守に目をかけられるようになるのと似ている。  また、家光が毒湯を飲みそうになる場面の、 「あツ、毒湯だツ」  |捕物の名人《ヽヽヽヽヽ》、|銭形平次には《ヽヽヽヽヽヽ》、|外の人にない第六感が働きます《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。前後の事情から考へ合せて見ると、家光の手に持つて居る茶碗の中に、正面《まとも》な薬湯が入つて居るわけはありません。(傍点筆者)  という記述の仕方は、明らかに佐々木味津三流の主人公をひき立てるための合いの手の入れ方を踏襲しているといえるだろう。加えて、実際に江戸に南北の町奉行所が設置されるのは後年のことであるのに、事件の設定が寛永四年となっているなど、時代考証の荒っぽいところも『右門捕物帖』ゆずりだ。  実際、この時代の設定に関しては、胡堂も相当、頭を痛めたらしく、第七話「お珊文身調べ」では、冒頭で文身競べの会を催しておきながら、「これが盛んになつたのは、元禄以後、特に宝暦、明和、寛政と加速度で発達したもので、平次が活躍して来た、寛永から明暦の頃は、まだ大したことはありません」とシチュエーションの苦しさを弁解しており、この後は、大体、文化・文政の風俗で落ちついている。  また、三たび、田井真孫に登場を願えば、彼は「捕物帳の系譜」の中で、胡堂が『銭形平次捕物控』の時代設定を慶安から承応に置いたのは、作者のキリシタン癖にあるのではないかとし、胡堂が隠れキリシタンに関する文献を数多く収集していたことから、はじめは、島原の乱の残党や南蛮船との密貿易などが登場するエキゾチックな線を狙ったのではないのか、と考察している。そういわれれば、「金色の処女」の黒ミサの祭壇の描写などは、北原白秋や木下杢太郎の南蛮趣味、切支丹趣味の通俗版といえなくもない。  いずれにせよ、野村胡堂が、当初、銭形平次を右門の対抗馬として売り出そうとしていたことは確かなようだ。そうした後の作品との差異が、今日、私たちがこの第一作を読む時に生じる違和感の一因でもあるのだが、平次がお静と所帯を持っていない点、子分の八五郎や敵役である三輪《みのわ》の万七が登場しない点などに加え、最もそれを甚だしく感じるのは、平次が四文銭の替わりに小判を投げることであろう。  この第一話では、まず、  舌打を一つ、(平次が)袂《たもと》から取出したのは、その頃通用した永楽銭が一枚です。手の平へ載せて中指の爪と親指の腹で弾《はじ》くと、チン——と鳴つて、二三尺空中に飛上がります。落ちて来るところを掌《たなごころ》で受けると、これが其儘|銭占《ぜにうらなひ》。 「帰れつて言ふのか、よし」  銭を袂に落すと、其儘塀を離れて、音羽の通りへ真つ直ぐに踏出しました。これが銭形平次といふ綽名の出たわけの一つ。  と、平次の銭占いを紹介し、これに続いて、 ——もう一つ、平次には不思議な手練があつて、むづかしい捕物に出会《でつくは》すと、二三間飛退つて、腹巻から鍋銭《なべせん》を取出し、それを曲者の面体目がけてパツと抛り付けます。薄くて、小さくて、しかも一寸重い鍋銭ですから、不用意に投げられると、泥棒や乱暴者などは、キツト面体をやられます、|ひるむ《ヽヽヽ》ところを付け入つて捕《と》る、このこつはまことに手に入つたもので、銭形の平次といふと、年は若いが悪党仲間から鬼神の如く恐れられたものです。  と、その妙技に筆を費やしている。今日、私たちが思いも寄らぬ銭占いの趣向が描かれているのも意外だが、次に平次が読者の前ではじめて披露する投げ銭の技を作中から拾うと、  ハツと気が付いて腹巻を探ると、折悪しく鍋銭はありませんが、小粒が二つ三つと、それに柄にもなく小判が一枚あります。其頃の小判は大変な値打で、岡つ引などに取つては一と身代ですが、一昨日《をととひ》笹野新三郎から用意のために手渡された金、将軍様の命に関らうと言ふ場合ですから、物惜《ものをし》みなどをして居る時ではありません。  いきなり小判を右手の拇指《おやゆび》と食指《ひとさしゆび》との間に立てて、小口を唾で濡らすと、銭形の平次得意の投げ銭、山吹色の小判は風をきつて、五、六間先の家光の手にある茶碗の糸底に発矢《はつし》と当ります。  ということになる。  しかし、この第一作における投げ銭の妙技は、すでに述べた胡堂自らが「私は銭形の平次に投銭を飛ばさして、『法の無可有郷《ユートピア》』を作つて居るのである」といった、この連作の底を流れる思想の部分とは、かなりのひらきがあるといわざるを得ない。  小判を投げる趣向も、胡堂がせいぜい平次を売り出すために派手派手しくやっていることなのだろうが、平次の投げる銭は四文銭であるからこそいい。  封建時代の支配者層であるサムライの持つ刀や、市井の人々の暮しを脅かす魔手を平次の鍋銭が打ち破る——それでこそ庶民の意地であり、気概ではないのか。  小判ではそれが生きてこない。これは作者が平次に、右門以上の活躍の場を与えんがためにしたこととしか思えない。この小判の件ひとつをとっても、銭形平次の物語を支えるテーマが一朝一夕には出来上らなかったということが分かるというものだ。  しかし、この後、第二話「振袖源太」でははやくも、罪を憎んで人を憎まず、といったこの連作の基本的なモチーフが顔を覗かせはじめ、平次は復讐のため商家の子供を次々と拐した源太に向って「敵は討ち過ぎるものぢやない。サア、お前の女房の命と五人の命と釣換へだ。此縄を解いてやるから、お前も降りて来い」といって、いったんは捕縛するものの、源太を女房ともども逃してしまう。  そして、こうした構成は、第三話「大盗懺悔」でも同様で、平次は、怪盗風太郎の犯行が自分を無礼討ちにしようとしたサムライへの反骨精神から端を発したものと知るや、ここでも、「本当なら縄を打つて引立てる所だが、平次の眼の届かねえところへ行くなら許してやる。解つたか珊五郎(風太郎)」と、これまた逃がしてやり、笹野新三郎は、「平次、又盗賊を逃したさうだな、お前の道楽にも困つたものだ」といい、「手柄をしない平次」の名が一際高くなっていくという趣向である。また、ガラッ八の八五郎が登場するのもこの第三話からである。  このような一種の復讐による犯行というストーリー展開は『銭形平次捕物控』には、繰り返し見られるもので、風太郎のそれが武士階級の横暴に一矢報いるものであり、源太の場合は、分家の本家横領のからくりによって、天草の旗差物を引き受けた(本篇の時代設定に関する田井真孫の考察を参照していただきたい)とか、身分不相応の奢侈《しやし》に耽ったとか根も葉もないことを訴えられ、父は遠島、母は病死、家は没収となったためであると作中で語られるなど、いずれも加害者が、実は法が正義を行い得なかったために犠牲となった被害者であるという点は注目に値する。  そこには、罪を犯した者よりも、彼らをそこに追い込んだ社会の偽善や権力を憎む姿勢が打ち出されており、初期作品には違和感多しといえども、野村胡堂は、はやくも、この連作の核となるべきテーマを手さぐりで模索しはじめていたのだといえよう。  そして、第十話「七人の花嫁」で平次とお静は所帯を持ち、間もなく平次が三十一歳、八五郎が三十で、お静が二十三、という最後まで変わらない設定が完成され、敵役も石原の利助から三輪の万七へとバトンタッチされ、風俗も前述のように文化・文政のそれで落ちついて来る。  このあたりまで来ると、このシリーズはほとんど現在流布されているイメージと過不足なく重なり合うようになってくる。  野村胡堂の内部で形成されて来る夢、すなわち、幻想の江戸は、次第に明確なかたちを取りはじめ、先に挙げた四つの特色は、〈法の無可有郷《ユートピア》〉という本シリーズを貫く基本理念にことごとく搦《から》め取られてゆくことになるのである。 [#改ページ]   十三、法の無可有郷《ユートピア》  野村胡堂が『銭形平次捕物控』に独自のカラーを打ち出して行く過程で、物語には次第に奥行が生まれて来た。例えば、平次の住居の設定は、胡堂の筆を借りると次のようになる。  銭形平次の住居は——  神田明神下のケチな長屋、町名をはつきり申上げると、神田お台所町、もう少し詳しく言へば鰻の神田川の近所、後ろに共同井戸があつて、ドブ板は少し腐つて、路地には白犬が寝そべつてゐる。  恋女房のお静は、両国の水茶屋の茶汲女をしたこともあるが、二十三になつても、娘気の失せない内気な羞《はに》|かみや《ヽヽヽ》で、たつた六畳二た間に入口が二畳、それにお勝手といふ狭い家だが、ピカピカに磨かれて、土竈《へつゝい》から陽炎《かげろふ》が立ちさう。  そのくせ、年がら年中、ピイピイの暮し向き、店賃《たなちん》が三つ溜つて居るが、大家は人が良いから、あまり文句を言はない。酒量は大したことも無いが、煙草は尻から煙の出るほどたしなむ。 お宗旨は親代々の門徒、年は何時まで経つても三十一、これが銭形平次の戸籍調べである。(「平次身の上話」)  この平次の住居は、実は、胡堂の報知新聞社の同僚であった本山|荻舟《てきしゆう》のそれをモデルにしたものであるという。  胡堂の回想によれば、『名人畸人』(大6)や『近世数奇伝』(大8)等の歴史もので知られ、第一次「大衆文芸」の同人として大衆文学の創成期からその一翼を担っていた荻舟の住居は上野の池之端。  そこへ遊びにやって来た胡堂が「六畳二間で日あたりがよく、万年青《おもと》の鉢が赤い実をつけ、長火鉢には銅壺がピカピカに磨かれている」のを見て、これだと膝をたたいたという。ちなみにこの時、荻舟は新婚早々で、当時を思い出し、この住居を神田に移したのが平次の家であったというわけだ。  また、荻舟は「生れは、岡山の片田舎のくせに、江戸っ子を絵に描いたような」人物で、岩手の寒村に生まれ、都市文化の粋としての江戸に憧がれ続けていた胡堂にとっては、まさに理想的な人物であったといえるだろう。後に胡堂は「岩手に生れ、東京では山の手ばかりに暮した私が、江戸を書くようになったのは、川柳と、寄席と、浮世絵と、いろいろの影響があるけれど本山荻舟住居の段も、なにがしかのイメージになったかもしれない」とまで述べている。  一方、大正のはじめに知り合い、亡くなるまで交渉が続いたという、これも歴史もので知られる江見水蔭《えみすいいん》も、胡堂にいわせれば「土佐の生まれであるが、江戸ッ子以上の江戸ッ子」であった。特にその相撲好きは有名で、「平凡社の大衆文学全集で、四千何百円かの印税がはいると、町の若い衆に、揃いのユカタを作り、土俵を新しく築き直して、盛大な素人角力大会を催し、一生一度の大収入を煙の如く費い果たしてしまった」という。宵越しの銭を持たぬどころの話ではあるまい。  つまり、野村胡堂は、岡本綺堂が幕臣であった父に育てられていく過程で、己れの実体験として、江戸の残り香を獲得してゆき、これを『半七捕物帳』の世界に写実的に展開していったのに対し、本山荻舟や江見水蔭の姿を通して彼らの中に江戸っ子の心意気を見たのである。  それは精神としての江戸というべきか。  従って、『銭形平次捕物控』には、『半七捕物帳』に見られるような写実的な江戸の描写はなく、立て板に水を流すような�ですます調�のなめらかな語り口があるばかりだ。むしろ江戸市中に関する描写は、さながら、当時の読者のための�江戸名所図会�というかたちをなし、湯島聖堂のあたりを例にとると、  仕方がないから駕籠を帰して、勇吉を先に立てた(笹野)新三郎。聖堂の前をダラダラ登つて、お茶の水の方へ、その頃は橋はありませんが、眺めの良いところで、数丈の断崖の上へお茶屋が二三軒建ち並んで居ります。余談に亘《わた》りますが、その後江戸名所図会を描いた長谷川|雪旦《せつたん》が、此処のお茶屋で風景を写生して、謀叛人と間違へられた——などといふ話の伝はつて居るところです。  お茶屋といつたところで、道端に建つた粗末な板屋根で、お茶の水の絶壁数丈の下から、足場を組み上げて張り出した、葭簀張《よしずば》りの涼しい別室が名物。昼はいくらか客もありますが、日が暮れるとサツと店をしまつて、婆さんと娘が、菓子箱と緋毛氈《ひまうせん》を背負ひ、大薬罐《おほやくわん》をブラ下げて自分の家へ帰つてしまひます。  尤も、この辺一帯、聖堂の前から元町へかけては、恐ろしく淋しいところ。明治になつてからでさへ、松平某の皮剥《かははぎ》事件があつたくらゐですから、旧幕時代は追剥と辻斬りの本場といつてもいゝところだつたのです。(「復讐鬼の姿」)  という具合に書き進められている。  現代との対応を見せる実に巧みな書きっぷりではないか。  胡堂が、広重の浮世絵、特に風景画のコレクターとして知られ、それを江戸を描いた宏大な風景詩として絶讃していたことはすでに記したが、今、引用した箇所でいかにも書き割り的に綴られている、自分の家へ帰っていく老婆と娘の姿は、広重ならずともそうした夕景を描いた絵のひとコマからとられたのではあるまいか、という気がしてならない。  そして話を元に戻せば、胡堂は写実性よりも江戸っ子の心意気を重視することによって『銭形平次捕物控』へ庶民性を導入していき、このことは、胡堂の川柳趣味とも密接に関わってくるのである。 『銭形平次捕物控』といえば、誰もが思い起こすのが、「親分、大変だ」と、ガラッ八の八五郎が平次の家へ駆け込んで来る冒頭のシーンだ。  この八五郎という好人物を創造したことは、単に、むっつり右門とおしゃべり伝六という、ホームズとワトソンのコンビを踏襲したというばかりでなく、いま一人の江戸っ子の典型を登場させたという点で、この連作が成功した要因のひとつといえるだろう。  ある時は、 「親分ツ」  飛込んで来たのは、ガラッ八の八五郎でした。 「何といふあわてやうだ。犬を蹴飛して、ドブ板を跳ね返して、格子を外して、——相変らず大変が跛足馬に乗つて、関所破りでもしたといふのかい」  平次は朝の陽ざしを避《よ》けて、冷たい板敷をなつかしむやうに、縁側に腹ん這ひになつたまゝ、丹精甲斐のありさうもない植木棚を眺めて、煙草の煙を輪に吹いて居りました。 「落着いちやいけねえ、いつもの大変とは大変が違ふんだ、ね、親分、聞いておくんなさい」(「捕物仁義」)  という調子ではじまり、またある時は、 「親分」 「何だ八、また大変の売物でもあるのかい、鼻の孔が膨らんでゐるやうだが」  銭形の平次は何時でもこんな調子でした。寝そべつたまゝ煙草盆を引寄せて、こればかりは分不相応に贅沢な水府煙草を一服、紫の煙がゆら/\と這つて行く縁側のあたりに、八五郎の大きな鼻が膨らんでゐると言つた、天下泰平な夏の日の昼下りです。 「大変が種切なんで、近頃は朝湯に昼湯に留湯だ。一日に三度づゝ入ると、少しフヤけるやうな心持だね、親分」 「呆れた野郎だ。十手なんか内懐に突つ張らかして、僅かばかりの湯銭を誤魔化しやしめえな」 「飛んでもねえ、そんな不景気な事をするものですか、——不景気と言や、親分、近頃銭形の親分が銭を投げねえといふ評判だが、親分の懐具合もそんなに不景気なんですかい」(「結納の行方」)  というようにはじまる、平次と八五郎の掛け合いの基調となるものは、江戸の庶民の底抜けに明るいユーモア精神に他ならない。  既に記したように胡堂は常々、捕物帳を書く若手作家に「川柳を読め」といっていたそうだが、平次とガラッ八の会話や、貧しさの中にも明るさを絶やさない日常生活の描写は、苦しさや辛さを洒脱なユーモア感覚でくるんでしまう、川柳の持つ明るさと一脈通じるところがあるように思われる。  そして、こうしたユーモアが、時として反骨精神へと結びついていくところに、この連作の魅力があるのだ、ともいえるのである。  すなわち、川柳に代表される〈庶民の立場〉は『銭形平次捕物控』に一貫して流れている主張であり、これは、武士階級に生きた同心を主人公にした『右門捕物帖』には見られないものだが、こうした主張が平次の投げ銭を通して、権力への反骨精神へと転じることも、既に述べた通り。  それでは、平次のサムライへの反骨精神が作中に目立つようになるのはいつ頃からであろうか。  もともとこの連作には町家の事件が多いのだが、平次が武家の大事に本格的に首をつっ込むのは、第二十二話「名馬罪あり」あたりからだ。そして、この作品は、今、述べた川柳と反骨という『銭形平次捕物控』の二つのモチーフを実によくあらわしているのである。  物語は、平次と八五郎が、秋の陽差しの淡い縁側で縁台碁を打っているところからスタート。平次が八五郎に、この一番に負けたら、今日一日、お前が親分で俺が子分だといった傍から負けてしまい、出るのは「勝手にしろ、——褌《ふんどし》を嫌ひな男碁は強し——てな、川柳点にある通り、碁の強いのは半間な野郎に限つたものさ」という負け惜しみばかり。  と、そこへやって来たのが、八千石の旗本大場|石見《いわみ》の用人相沢半之丞の娘秀。大場家は房州の所領に苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》の訴えがあったため、若年寄から東照神君拝領のお墨附を召し上げられていたが、領内の騒ぎが収まったので、再びこれを下げ渡すことになった。そこで、用人の半之丞が石見の名馬「東雲《しののめ》」に乗ってお墨附を受けとった帰り、何者かが仕組んだ落馬にあい、そのどさくさにお墨附が奪われてしまう。このままお墨附が見つからなければ、半之丞の切腹はもとより、大場家取り潰しは必定、秀の依頼は平次にその行方をさぐってもらいたいというものだった。  事件そのものは、平次が「——ところでお嬢様、今日一日この八五郎が親分で、|あつし《ヽヽヽ》が子分になるといふ賭をいたしました。私の代りに、この男を差上げますから、私だと思つて、いろ/\御相談なすつて下さいまし、——」と、八五郎を屋敷に送り込んで、すぐ犯行は、半之丞の愛妾《あいしよう》お組の仕業と知れるほど単純なもの。だが、この作品の眼目は別のところにあるといえる。  主人公の岡っ引が武家の秘事に関わる事件の探索を依頼される、すなわち、一種の私立探偵として作中に機能するという設定は、『半七捕物帳』にもしばしば見られる構図であろう。ただ、半七が事件の解決を通して、武家社会と町人社会をパラレルに映し出す鏡であるのに対して、平次が常に、町人社会から武家社会へ越境して鋭い批判の眼を向ける存在である点を忘れてはならないのである。  平次は、  縁側に立つたのは、大場石見、八千石の当主でせう。五十を少し越した筋張つた神経質な武家、一刀を提げて、松が枝のお組と、縁先の平次を等分に見比べた姿は、苛斂誅求で、長い間房州の知行所の百姓を泣かせた疳癖は充分に窺はれます。  と描写される大場石見が、お墨附のありかを白状しないお組を無残に打擲《ちようちやく》、自分に向って、お組の口を割らせることが出来たら「——礼は存分に取らせる」というやいなや、 「拷問や牢問ひは、牢番与力配下の不浄役人の仕事で、手前共手先御用聞の役目では御座いません、恐れ乍らその儀は御容赦を願ひます」  平次は屹《きつ》と言ひ切りました。沓脱《くつぬぎ》の上にこそ膝を突きましたが、挙げた面魂は、寸毫も引きさうになかつたのです。  と、一歩も譲らぬ気構えを見せ、お組が、自分は石見にいじめ抜かれた百姓の娘であるといい、「多勢の百姓の怨を思ひ知るがいゝ、——」と、犯行の動機を明らかにしつつ舌を噛み切ると、その無念を汲み取って、 「長い間の無法な御政治で、御領地の百姓が命を捨てゝお怨みしようと思つて居ります。このままにして置いては、百人千人のお組が出て来ることは、解り切つたことで御座いませう。——中略——殿様——石見様は一日も早く御隠居遊ばして、本当の御跡取、采女《うねめ》様を家督に直すやう、呉々も御すゝめ申上げます。それさへ運べば、憚《はゞか》り乍ら、御墨附は其日のうちに私が捜して参ります」  という交換条件を用人相沢半之丞に持ち出すのである。  物語の前半にユーモアを、そして後半に反骨精神を振り分けるバランスの良さ、そして、冒頭の平次と八五郎の間に交わされる、碁石を生かすの殺すのといった会話が、そのまま領主と農民の、すなわち政治の問題にスライドし、その中から平次の面魂がせり上ってくる構成の妙味といい、この一篇は初期『銭形平次捕物控』を代表する力作といえるだろう。  そして、こうした平次の反骨ぶりは、第三十五話「傀儡《くぐつ》名臣」において、自宅に届けられた探索依頼を見ていう、 「お茶屋から岡っ引を呼び付けるやうな奴のところへは行きたくねえ、第一この左様然らばの文句が気に入らねえよ」  という台詞《せりふ》に受け継がれ、第五十一話「迷子札」で単身、悪旗本の屋敷に乗り込み、お家騒動の犠牲となって父親を殺された娘の代わりに、 「さア、何《ど》うしてくれるんだ。このお北には親の敵《かたき》、名乗つて尋常に勝負と言ひたいところだが、せめて詫言の一つも言ふ気になつたらどんなものだ」  と啖呵《たんか》を切る場面で決定的になっていく。 「名馬罪あり」や「迷子札」で平次が行っているのは、武家社会への〈庶民の立場〉からの内政干渉であり、確かに史実に照らし合わせて見るならば、一介の町人である平次が旗本屋敷に乗り込んでいけるわけはない。そして実際に、「迷子札」を書いた時は、そんな馬鹿な、と、読者からお叱りを受けたという。  しかし、『銭形平次捕物控』は、あくまでも一篇の小説であって、考証読物ではない。作品がどれだけ史実に正確であるかということよりも、作者が考証の垣根を超えて何を書きたかったのか——優先されるべきは、まずその一事の解明ではないのか。  胡堂はいっている。 ——大きな旗本屋敷に乗込んで岡つ引の平次が啖呵をきる。そんな馬鹿なことはないですが、あれは妹背山の芝居で漁師の鱶七《ふかしち》が入鹿《いるか》大臣のところに乗込んで啖呵を切るやうなもので、江戸の町人はあの芝居を見てやんやと言つた、あれが町人階級の夢だつたんですね。(座談会「捕物帖の世界」)  と。  胡堂が捕物帳の中で描きたかったのは、まさにそうした夢の叶えられる別世界としての江戸だったのである。  また、胡堂のサムライへの反骨精神(前述の座談会では「さむらひをからかふ癖がある」といっている)を、その生い立ちに照らして考えるならば、明治十五年十月十五日、岩手県紫波郡彦部村の村長の家に生まれた胡堂は、自分は南部藩の百姓の子孫で、「三代前の祖先は、百姓一揆に加わって」おり、「道で、二本差した人間に逢うと、たとえ土砂降りの中でも、大地に手をついて……というところまでは」いかないにしても、自分が生まれた明治の世でも「被りものをとって、目礼くらいは、捧げる習慣が残っていた」と記し、さらには「先祖が人を殺した手柄で、三百年の後までも無駄飯をくっている階級が、どうも、私は好きになれないのだ」(「『銭形平次』誕生」)と痛烈な批判を下している。  特に、「名馬罪あり」の暴君と領民の関係を平次が訴える箇所は、この「百姓一揆」云々のエピソードと重ね合わせることが出来、その反骨の根深さを読み取ることが可能だろう。  とはいうものの、野村胡堂が、史実を超えてどこまでも庶民の夢を叶えることが出来たのは、やはり、岡本綺堂のように、現実の江戸に拘泥する必要のない、自由な地方出身者という立場にいたためではないのか。  たとえば、胡堂は、作中でサムライと同様、〈遊人〉を徹底的にやっつけるが、では〈通人〉に対してはどのような認識を持っていただろうか。もともと〈通人〉とは、人情の機微に通じ野暮でない人という意味があり、主にいろごとの方面に明るく、�いき��いなせ�を美学に持った人のこと、すなわち、江戸っ子は本来、肯定すべき性質のものであろう。ところが『銭形平次捕物控』の場合、理想的な〈通人〉は愛すべき趣味人といったニュアンスが強く、下半身の事にはほとんど興味を示さない。もし興味を示し、モラルを逸脱すれば、それはほとんど〈遊人〉と同義語なのである。  このことも、本シリーズの江戸が、現実の江戸とは異っていることの一つの証左となろう。  そして、この胡堂いうところの〈遊人〉を徹底的にやっつけること——換言すれば、今、記した、日々、額に汗して働いている人たちを陽の当たる場所に引き出すことは、この連作のモットーでもある�容易に罪人をつくらない�という作者の姿勢と密接に結びついているのである。  第二話「振袖源太」でも第三話「大盗懺悔」でも、平次は最後に犯人を見逃している。そこには常に罪を犯したものよりも、彼らをそこに追い込んだ社会の偽善や権力を憎む姿勢が、そして、真の社会を維持するものが冷たい法律の条文ではなく、大衆の心に脈打つヒューマニズムの精神であるべきだという、胡堂の固い信念がはっきりと刻印されている。  確かにリアリストは笑うだろう。それは理想だと。  だがそんなことを胡堂は意に介さないに違いない。彼は、むしろ、こともなげにこう答えるのではないのか。  ——当たり前じゃないか、無論それは理想だ。だが、こうした世の中の歪みは現実のレベルでは見過ごされてしまうからこそ、せめて小説の中では正されなければならないのだよ、と。  それでこその〈法の無可有郷《ユートピア》〉ではないのか。 『銭形平次捕物控』の諸作に見られる、被害者こそが加害者であり、表面上の加害者が法が行い得なかった正義の代行者であったという逆転劇は、そうした社会の矛盾を明らかにする最も効果的な図式化だったのである。そして、これらの設定は平次が下手人を捕まえる話でも、変わることはない。  たとえば、第十七話「赤い紐」のラスト、ここに私は胡堂流ヒューマニズムの端的な発露を見る。  貧しい荒物屋の市五郎は、涙ながらに何故、自分が小町娘のお春を手に掛け、その罪を友人お勢に着せたかを平次に告白する。  もともと、お春は市五郎の一人娘お雪のお針友達——それがお雪の許婚《いいなずけ》である酒屋の倅《せがれ》長吉に横恋慕したのが間違いのはじまりだった。去年の神田祭に、お春がいい出して、縮緬《ちりめん》の揃いを拵《こしら》えることを約束したが、何不自由ない油問屋の一人娘お春に較べて、貧乏なお雪が「父親の苦労を見兼ねて、明らさまに|ねだり《ヽヽヽ》兼ね」、木綿の似寄りの柄を着て祭りへ行くと、そこで待っていたのは、ハタで聞いていても胸が悪くなるような、お春とお勢の侮辱の嵐。とうとうお雪は、「自分の小遣を貯めてやうやく買つた、たつた一本の緋縮緬の扱帯《しごき》を梁にかけて」首を吊ってしまったのである。そして、今、お春は長吉と祝言を上げるという。 「親分、これが怨まずにゐられるでせうか——」そう語る市五郎と平次の姿を胡堂は次のように記している。 「…………」  平次は黙つて|うなづき《ヽヽヽヽ》ました。潜々たる老の涙は、夜の大地に落ちて、祭の遠音も身内をかきむしるやうに響きます。  とも、  大地に身を擲《なげう》つた市五郎は、身も浮くばかりに泣いて泣いて泣き入ります。  とも。  そして、「市五郎、お前の心持はよくわかる。さぞ口惜しかつたらうが、お上の法は曲げられない。それに、お勢までも罪に落さうとした細工が悪かつた——中略——俺からもお慈悲を願つてやる——」といって平次が市五郎を抱き起こす結びの一節、  肩を叩いて市五郎を起すと、膝の土まで払つてやつた平次は縄もかけずにそのまま引立てました。水のやうな月の光の中を——。  が、一幅の絵でなくて何であろう。  そして、いわずもがなのことながら、ここに描かれているのは、一組の捕り手と下手人の姿ではあり得ない。犯罪というフィルターを通して浮かび上ってくる一人の老人の哀しみであり、彼に裁きを受けさせることによって、社会の矛盾を正そうとする〈法の無可有郷《ユートピア》〉の番人の姿である。  ここに至って、私たちは捕物帳における江戸が、過去に対する郷愁の場や、現実の東京をあぶり出す合わせ鏡としての存在から、新たな大衆の夢を盛り込む場所へと確実に変化していったことを知るべきである。 〈法の無可有郷《ユートピア》〉——それは、胡堂が現実の江戸の、そして東京の、ほんのすぐ傍に打ち建てた理想の国であり、その現実の社会に似た、しかし少しだけ違う世界では、大衆のヒューマニズムが常に貫徹されなければならない。これは、生涯、一小市民であり、徹底したモラリストであることを希求した胡堂の理想でもあったのである。  それでは、野村胡堂にこのような�罪を憎んで人を憎まず�といった考えが芽生えたのは、一体、いつのことなのだろうか。  ここに格好の手がかりがある。「平次と火事」と題する随筆がそれだ。  その中で胡堂は、『銭形平次捕物控』の中には火事が多いですね、と読者が便りを寄こして来たと筆を起こし、実は、自分が九歳の時、自宅が火事で丸焼けになったことがあると語りはじめる。火元は裏の物置だったが、出火の原因がよく分からず、もとよりそこに火の気のあろうはずはない。ともかく雨露をしのぐため、バラックを建てることになり、当時、野村家に住み込んでいた作男が死にもの狂いで働き続け、建築落成の日に、ふいに姿を消してしまったという。  ここで胡堂は子供心に、ははーんと気がついた。この作男が、ちょっと一休みをしに物置に入り、一服しているうちに寝込んで火事になってしまったのではないのか、と。  子供の胡堂でさえ気がついたことである。大人が誰も気づかないわけがない。だが、誰一人としてこの男の行方を追うものはいなかった。このことから、胡堂は、作男が充分、罪の償いを果たしたこと、そして皆が彼を許したことを悟ったに違いない。  罪を憎んで人を憎まず——このモットーの根本となったものが、こうしたエピソードによるものだとすれば、作中で容易に罪人をつくらないという姿勢や、武士階級に対する反骨という『銭形平次捕物控』を支える基本理念のルーツが、胡堂の生まれ故郷である岩手にあることが了解されよう。ここに至り、胡堂の描く江戸は、|広重の富士《ヽヽヽヽヽ》と東京の間ばかりでなく、遠く岩手の地にまでその空間を広げたことになるのである。  次に論じなければならないのは、『銭形平次捕物控』とその作者胡堂における、地方と東京の問題であろう。 [#改ページ]   十四、幻想の江戸を支えるもの  野村胡堂が、故郷岩手について語る時、彼はいつも、懐しさと、そして、ある種の嫌悪ともいうべき二律背反の中に身を委ねているといえるのではないのか。  それが胡堂をして、「なつかしい盛岡!」と叫ばせつつ、「こんな若々しい感激の言葉が、私の口から何のこだはりもなく、すら/\と出るやうになりました」と語らせる一方、「因習の町、盛岡」(「盛岡の思ひ出」)と断じさせることにもなっているのだが、胡堂の故郷への反撥がこの地に残存している封建性への強い抵抗に基づいているのは、すでに述べた通りである。  八木昇編の「野村胡堂年譜」(昭47、講談社刊『大衆文学大系19』所収)を繙《ひもと》くと、明治二十四年(一八九一)、九歳の項に、  四月、物置小屋からの不審火で自宅が全焼。強烈な印象となって残る。  とあり、明治三十年(一八九七)、十五歳の項に、  県立盛岡中学校に進学。岩手の名物盛岡市の猪川塾に下宿した。一級上に金田一京助、一級下に石川啄木がおり、のちに親しい交際が始った。  と記され、さらに、明治三十四年(一九〇一)、十九歳の項に、  前年暮れより本年初頭にかけ教師排斥運動起り、中心人物の一人となり活躍。四月、教師二十人程退職・転任、生徒側に犠牲者はなく、無事解決した。  とある。  野村胡堂も、御多分に洩れず、啄木に借金を踏み倒されたクチで、米内《よない》光政、郷古潔《ごうこきよし》、金田一京助らが続々登場する交遊録はそれはそれで楽しいものがあるが、彼らを巻き込んで、そしてさらに盛岡時代の胡堂を考える上で最も重要なのが、今、ここに記した明治三十四年の盛岡中学の教師排斥運動、すなわち中学生の大ストライキである。  胡堂は、多くの石川啄木伝が彼をストライキの号令者であったと記しているが、主力となった四年生が三年生の啄木に引きずられることはなかったとその誤りを正しつつ、しかし、彼は三年生の委員として最も良く働いたと述べ、「東京を去ること百三十里。因習の町の盛岡に、中学生の大ストライキという大変なことが、勃発《ぼつぱつ》したのは、これから(明治三十三年中秋)四か月の後である。平家打倒の鹿《しし》ヶ谷《だに》の密議を真似て、学校当局糾弾の第一声を、月下の船中にあげたのだ……」(「ストライキ」)と、茶目っ気たっぷりに当時を回想している。  そして、注目すべきは、このストライキが、胡堂たちが「古くからいる先生たちが、保身のために手を結んで、若くて優秀な先生が、東京あたりから新任してくると、奥女中式のやり方で、いびり出してしまう」ことに抗議して決起したと記している点である。  そこで、胡堂の下宿に集まった決起の生徒二十余名は、ストライキ決行の三カ条を、 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一、小姑先生二十人ほどは全部引退してもらう。 二、県当局、父兄、新聞社など、強力に陳情し、説得するが、決して暴力には訴えない。 三、試験は絶対に受ける。試験をごまかすためと思われては恥である。 [#ここで字下げ終わり]  と、定め、実行に移した。  そして結果は生徒側の大勝利に終わり、つるし上げも暴力事件もなく、全員が無傷で進級し、先生側はほとんど全部が退職か転任となり、「あとには若い近代的なのが、主に東京から補充された」という。  と、ここまでうまく行けば、野村胡堂の東京への憧憬と、故郷に巣喰う封建制からの解放という、彼の生涯の二つのモチーフは、この時期、完成されたといっていいようにも見える。実際、胡堂の様々なエッセイ等に当たっても、この頃、ちょうど盛岡中学には、後に当時の友人が集まると必ず話題となる「東京の悪徳を、東北の小都市へ配達するために来たような」恐ろしく才気走った学友山田敬一なる人物がおり、このあたりから、胡堂の東京への憧れが強くなっていったらしいと察しはつく。  この山田敬一、父親がボンベイ領事をしており、東京生れの東京育ちで、何故か盛岡師範の教員をしていた叔父のもとに預けられ、盛岡中学の胡堂のクラスへやってくると、演説会、回覧雑誌の製作、芝居等をやりはじめる等、様々に問題を起こし、停学処分となった。そのためにノイローゼにでもなったのか、道を歩く時、鳥居や石碑を拝み、それがやがて電信柱や橋の欄干に、そしてしまいには自分の寝床や枕になったという、半ば伝説的な人物であったという。  後に胡堂は、一高に入学してから、活動写真の弁士となった敬一と再会を果たすことになるのだが、それはともかく、前述のストライキが、胡堂の都市文化への憧れをストレートに育てなかったことの証しとして彼は次のように述べているのだ。  私が生涯にやったことで、盛岡中学のストライキだけは、唯一つの失敗だったのではないかと思っている。  何故か。  後から思えば、若い野心的な教師が、盛岡に骨を埋めるはずもなく、中央へ出たがるのは当然で、彼らがこの地を去ったのは、必ずしも古くからいる先生たちの意地悪だけではないだろう。そしてさらに、このストライキを機にそれまで、郷古、金田一、及川古志郎ら、盛岡中学の最も豊作といわれた人材の輩出がピタリと停まってしまったのである。  胡堂は、仕方なく「古い先生たちは気骨があった。新しく来た人たちは、教育技術だけあって、何か一本、背骨が足りなかった、と批評する人もある」と書いている。  ここで浮かび上って来た東京と地方の問題、そして、その両者の間にわだかまる矛盾を解決する術は、無論、当時、中学生であった胡堂にあろうはずはない。  ただ彼は、中学卒業後、上京し、本郷に下宿しつつも、父親と進学の意見が合わず、二年ほど浪人生活をしていた頃のことをこう書いている。  そのころの私は、|江戸の匂いを嗅ぎ回ることに忙しかつた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。下町にはまだ丁髷《ちよんまげ》を結つた人があり、酉の市に覗いた吉原には、昔のままの張見世が存在して居り、町々には、江戸時代からの錆のついた、古風な家居が並んでいたのである。  乏しいガマ口を絞るように、週に一、二度は寄席へも行き、月に一度は大入場から、芝居も覗いた。(「半世紀前の世の中」、傍点筆者)  と。  そこで再びこう問わねばなるまい。胡堂が「江戸の匂いを嗅ぎ回ることに忙しかつた」とは、何故か。  おそらく、そこには、自分が憧れていたものの正体を見極めようとせずにはいられない、何かがあったに違いない。  そして、ここでいう浪人生活とは、画家になる夢を抱いていたのだが、父が医者になることを望み、意見が真っ向から対立。そのために送らざるを得なかったもので、かなり荒んだものであったらしい。その中で、胡堂は、本郷弥生町の田中館愛橘《たなかだてあいきつ》博士の家、芝公園の中にあった原敬の私邸、そして、小石川小川町の久世山下の石川啄木の最初の下宿へと通い続ける。愛橘博士の養子で後の東北大学教授の田中館|秀三《ひでぞう》は、胡堂が盛岡中学を卒業した時のクラスの首席であり、原敬の甥原達こと正岡子規の愛弟子抱琴も、中学時代から、俺、貴様と、呼び合う仲であった。ストライキの同志啄木に関しては、今さら贅言《ぜいげん》を要しないだろう。  胡堂は、 ——そこの南向の六畳で、啄木はヴアグナーやメレジコフスキーの英訳本を読んで居たはずである。西窓の下の洋書を置いた小さい机や、談論風発の啄木の姿、その逞ましい向学心の鋒鋩《ほうぼう》と共に、素人下宿の玄関で逢つた、長身の美丈夫與謝野鉄幹のことを思い出す。(同)  と、書いている。  そして、このように、胡堂が東京にあって故郷との距離を巧みにはかりつつ沈潜せずにはいられなかったのが、先に記した江戸の残り香なのである。  やがて胡堂は、法律を学ぶことで父と妥協、一高、帝大へと進むが、在学中は法律書の下に『柳多留』を隠して幻想の江戸へと遊び、明治四十三年、父が死んでからは法律に興味を失い、大学を中退。同郷の橋本はなとの結婚を経て、同四十五年、報知新聞へ入社の運びとなる。  後に〈法の無可有郷《ユートピア》〉の夢を作中に紡《つむ》ぎ出す胡堂は、実際の法律の勉強に何を見出していたのであろうか。  が、とにかく、無事、職を得た胡堂を報知新聞社で待っていたのは、既に記した、本物の江戸っ子より江戸っ子らしい岡山生まれの本山|荻舟《てきしゆう》をはじめとして、釣と雑文で名をはせた佐藤垢石、編集部へ暴れこんだやくざの匕首《あいくち》を見事にたたき落とした佐藤|紅緑《こうろく》、記者立入厳禁の中、夜を徹して空の列車の便所にもぐりこんで新橋駅へ来る外国からの国賓を取材した安村省二、覆面強盗のちょっとした仕草から、それが女だと見破った谷好夫と、交遊録の十や二十はたちまち出来上りそうな、錚々《そうそう》たる面々であったという。  そして、後に胡堂自身が言っているように、「子供の頃から読み溜めた何万冊かの乱読」が自己の作家的資質のタテ糸なら、「三十年間の新聞生活」はそのヨコ糸であり、友人たちの言によれば『銭形平次捕物控』の平次と八五郎は、「あれは、親分と子分じゃないな。むろん師匠と弟子でもなく、殿様と家来でもない。どこから見ても、社会部長と部員との関係」であるとのこと。  さらに前述の猛者たちのエピソードも、『銭形平次捕物控』の随所にかたちをかえて取り入れられていることだろう。  そして、政治部の外交記者を振り出しに、昭和十七年に新聞統合により、報知新聞社が読売報知となるまで、社会部長、学芸部長、編輯局相談役等のポストを歴任し、さらには作家的成功の中で書きはじめられたライフワーク『銭形平次捕物控』——この連作を書く胡堂には、岡本綺堂の失われゆく江戸に対する深い哀惜の情や、己れ自身の文学的志を曲げることによって深い挫折を味わった佐々木味津三の屈折感もなく、  ところが、わが銭形平次は十中七、八までは罪人を許し、あべこべに偽善者を罰したりする。近代法の精神は「行為を罰して動機を罰しない」が、銭形平次はその動機にまで立ち入つて、偽善と不義を罰する、こんな勝手な勧善懲悪は無い筈である。ヴィクトル・ユーゴーは、レ・ミゼラブルを書いて、法の不備とその酷薄さを非難し、古今の名作を生んだ。私は銭形の平次に投銭を飛ばさして、「法の無可有郷《ユートピア》」を作つて居るのである。其処では善意の罪人は許される。|こんな形式の法治国は《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|髷物の世界に打ち建てるより外には無い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(「平次身の上話」、傍点筆者)  という言葉に代表される、自己の作中に描かれた幻想の江戸の中へ、己れの夢を盛り込んで行く自由人の姿ばかりが見えてくる。 〈法の無可有郷《ユートピア》〉としての江戸——それは胡堂自身が肌で感じた東京と地方の問題、そしてその両者間にわだかまる矛盾、さらには中途で放棄した現実の法律との対峙《たいじ》といった様々な事柄から理想のみを取り出し、それらの事どものあいだにある齟齬《そご》を瞬時にして消し去ってしまう、魔法の装置だったのではないだろうか。  岡本綺堂の『半七捕物帳』が、喪《うしな》われゆく江戸の面影を紙幅にとどめた、過去と現在をつなぐ夢の架け橋であったとするならば、野村胡堂の場合は、さらにそこに、「法の無可有郷《ユートピア》」としての江戸を介しての、故郷岩手と東京=江戸という、中央と地方という問題が絡んで来る。  そして、その時間と空間を超えた幻想の江戸の中で縦横無尽に活躍するのが、一市井人でありながら、庶民の守り神の役目を担わされた平次なのである。  大衆は常に自分たちの理想の代行者を望むものである。歴史の中で虚構化されて来た名判官、大岡越前や遠山金四郎、あるいは水戸黄門は、その代表格だろうが、平次は違う。  彼は今、挙げた三人と違って純粋な作中人物であり、岡っ引でありながら権力の走狗となることを断固、拒否し、かつ、ヒーローである前に一人の庶民であり続けた。  この間の事情を佐藤忠男の「野村胡堂論」(昭53、千曲秀版社刊『苦労人の文学』所収)からさぐれば、平次の一市井人としての立場は、彼の〈個人の責任〉によって明確に示されているという思想的跡づけが浮かび上ってくる。  佐藤忠男によれば、捕物帳等でよく使われる台詞《せりふ》の一つ、「お上にもお慈悲がある」は、「奉行所の情深さを示す」ようでいて、実は、「奉行所の権威の絶大さに対する自信」もしくは「�お上�の権威が絶対の封建社会」の堅固さを示すことば以外の何ものでもない。ところが平次は「お上の慈悲をあてにするわけではなくて、自分でさっさとお慈悲をたれてしまう。そこがまことに気前がいい」のである。前章で引用した市五郎に対する平次の台詞は「俺からも|お慈悲を願ってやる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点筆者)という彼の決意を示すもので「お慈悲がある」ではない。  私が平次は権力の走狗となるのを拒み続けていると書いたのも、まさにこの一点にかかっており、佐藤の論を続けて引用すれば、捕吏は本来、犯人を捕えることを目的とし、「人を罰するということの是否」は問わない。しかし、「銭形平次は、|ある犯人を罰すべきかどうかということを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|個人として《ヽヽヽヽヽ》、|思いわずらうのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|そして《ヽヽヽ》、|個人の責任において《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|罰しないことをきめるのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点筆者)。そして多くの犯人を見逃して来た。  現実の法の規定に照らして見れば、平次の行う行為は、明らかに越権行為であるという他はない。だがそれが堂々と罷り通るというのが「法の無可有郷《ユートピア》」のユートピアたる所以であろう。そして、佐藤は、平次が罪人を見逃すという行為の内実を、次のように結論づけている。 ——人を罰するということの意味を深く考えると、簡単には人を罰することはできない。そこで出てくるのが、責任を自覚する機会を提供する、ということである。  と。  そして、平次がそれを行い得る背景として、胡堂が描くところの江戸が「良き人間の共通の�たしなみ�」によって支えられている町であるという前提が必要だというのである。  私はここに至って、喪われゆく江戸に対する追憶の情によってはじまった捕物帳が、大衆の心=一つの誇り高き理想を持つに至ったことを確信する。川柳に見られる庶民の意地や心意気が、野村胡堂によって、思想へと転じたのだ。  そして、理想のユートピアの住人である平次たちは、永遠に齢を取ることはないのだ。これには、以前、述べたように、はじめ作品の設定を寛永から正保年間と定めておきながら、後に文化・文政の風俗に落ちつかせたという柔軟な小説作法が幸いしたといえるだろう。  しかし、「法の無可有郷《ユートピア》」という、まさしくこの作品における思想の核が徐々に固まって来るのと呼応して、こうした考証面からの解放も巻を追って成立して来たのである。換言すれば、これは、『銭形平次捕物控』の内部において幻想の江戸が成立するのと時を同じくして、物語に明確な時代設定が不要になって来たことを意味している。事実、文化・文政の風俗に落ちついてからは、作中にほとんど、年代に関する言及は見られない。  だが、こうした経緯とは別に、野村胡堂が、時代考証的な制約を度外視して、精神としての江戸を重視、比較的自由に筆を遊ばせるべく決意した理由は他にもあったように思われるのだ。  その理由として挙げられるのが、矢田挿雲《やだそううん》の存在である。  挿雲は、明治十五年、金沢市生れ。早稲田大学在学中に正岡子規の門下となり、九州日報の記者となって東京を離れるも、芸備日日新聞社勤務を経て、大正四年、帰京、報知新聞社社会部に入る。その当時の社会部長が野村胡堂であった。  矢田挿雲は、大正九年六月から「報知新聞」紙上に歴史考証読物『江戸から東京へ』の連載を開始する。この作品は、旧市街に残る古蹟や町並に沿って筆を起こし、江戸城築城を振り出しに、東京に残る江戸の面影を、過去と現在をつなぐ地誌・風俗・伝説等の中に浮かび上がらせたもので、出色の歴史考証読物に仕上っていたのは、本書で述べた通り。  そこで、これは以前にも触れていることだが、このあたりから、捕物帳、ひいては大衆文学の歴史に照らして見れば、『半七捕物帳』以後、この作品の持つ二つの興味のうち、小説的な面白さは考証を主眼としない純粋創作の世界へ、そして、江戸の風物詩としての側面は、小説的要素を含まない考証読物の世界へと分離していってしまうのである。ここで、誤解のないように断わっておくが、『半七捕物帳』以外の捕物帳や時代ものに考証がないといっているわけではない。ただ、半七を読む時のようにそれらから時代考証を学ぼうとすると、多分に齟齬《そご》が生じるというだけの話で、捕物帳の中でも、後に書かれる都筑道夫の『なめくじ長屋捕物さわぎ』や笹沢左保の諸作は、そうした分離の解消を試み、成功している。  が、それはともかく、話をもとに戻せば、その『半七捕物帳』の持つ小説的面白さの後継者を、昭和三年に執筆が開始される佐々木味津三の『右門捕物帖』であるとするならば、今一方の考証読物としての面白さは、はやくも『江戸から東京へ』の中へと受け継がれているのである。  だが、ここで問題となるのが、野村胡堂と矢田挿雲との関係である。  従来、この二人は、古くからの俳句仲間で、挿雲が『江戸から東京へ』を書きはじめるときこの題名をつけたのが胡堂であったことから、極めて親しい間柄であったと信じられていた。  一例を挙げれば、「国文学・解釈と鑑賞」昭和五十九年二月号掲載の『矢田挿雲』(浅野晃)も、右の例を引き、二人は「年も同じで、かねてからの俳句仲間でもあったから、意気相投じていた仲であった」と記されている。  しかしながら、胡堂と最も親密な関係にあった、十二章で登場してもらった田井真孫の未亡人友季子氏の証言によれば、表面上はともかく、狭い新聞社の中に天下の才人が二人いれば、互いに我を張って一歩も譲らずといった眼に見えぬ葛藤が繰り広げられたこともしばしばで、胡堂は後によく、挿雲との不仲を語っていたという。  あるいは、挿雲が妻子ある身でありながら愛人を囲っていたというのも、潔癖症の胡堂を苛立たせる原因の一つであったのかもしれない。  胡堂は、自らも記しているように、生涯、徹底したモラリストであることを希求し続けたのだが、時としてこれが嵩《こう》じると周囲にも自己に対するのと同じ厳しさを要求し、しばしば己れを孤高の淵に追いやることもあったという。こうしたエピソードは、後に『銭形平次捕物控』に描かれる理想を支える胡堂の強い自我として記憶しておかねばならないものだろう。挿雲との仲も、胡堂のこうした潔癖症がマイナスの方向に作用してしまった例として考えられるのだ。  そして、野村胡堂が『銭形平次捕物控』の執筆に着手する昭和六年、『江戸から東京へ』は、吉野作造が「中央公論」の大正十二年十二月号で述べた、  今度の災厄で東京の大半が灰燼に帰して見ると、前号の本誌にも一長編を寄せた矢田挿雲君の『江戸から東京へ』が一段の懐しみを我々に覚へしめる。——中略——いつか一度紹介の労を取りたいと考へて居つたが、東京の大半が焼野原となつて見ると、昔を偲ぶよすがとして矢田君のこの書の如きは一躍して最も有力なる文献の一となる訳だから、特に此際を機として同好の読者に告ぐる次第である。(「小題小言」)  という言葉に示されるように、関東大震災を境にして、まさしく、岡本綺堂の『半七捕物帳』と同様の、江戸に対する郷愁の念を動機に版を重ねていたのである。  加えて、昭和二年から刊行がはじまった平凡社版『現代大衆文学全集』では、第十巻と第三十六巻が矢田挿雲集に当てられ、それぞれ、長篇『沢村田之助』と『江戸から東京へ』の麹町区から下谷区までの章が、そして同じく浅草区から向島区までの章が収められたのである。これに較べて野村胡堂の方は、当初の予定になかった「反響が大きいので第二次第三次と募集を繰り返し、そのつど追加増巻し」(下中弥三郎)た続十五巻目に野村胡堂集として『身代り紋三』が収録されるのみにとどまっていた。  この時点で作家としては、矢田挿雲に一歩も二歩も水をあけられていたということが出来る。  その胡堂に捕物帳執筆の依頼が来たのである。しかも、『半七捕物帳』のようなものをというのが条件だ。もとより綺堂の作には絶讃を惜しまなかった胡堂である。  岡本綺堂作品の中の江戸の風物詩としての側面を『銭形平次捕物控』の中に取り入れることもやぶさかではなかったはずである。或いは、ここでも挿雲が、震災後に刊行した『地から出る月』(大13・7、東光閣書店刊)に「今の探偵と昔の捕り物」なる項目があり、『半七捕物帳』について触れていることが、胡堂の頭を横切ったかもしれない。しかし、今、それを行えば、『半七捕物帳』の中のそうした側面を純粋な歴史読物として発展継承させた『江戸から東京へ』の後塵を拝するおそれがあるのではないのか。胡堂がそう思ったとしても何の不思議はない。  そして、『半七捕物帳』を唯一無二のものとするならば、天性のストーリー・テラーを自任する自分が挑戦すべきは、佐々木味津三の『右門捕物帖』以外にはない。何よりも、すでに指摘した右門の第一番手柄「南蛮幽霊」と、平次の活躍を描いた第一話「金色の処女」におけるストーリーの類似性が、端的にそれを物語っていよう。  こうして『銭形平次捕物控』にはストーリー上の無類の奔放さが生まれ、やがてそれが結果として、考証の垣根を超えた「法の無可有郷《ユートピア》」を作中にかたちづくっていくことになるのである。そして、何度も記しているように、『銭形平次捕物控』の中の江戸は、実際のそれとは、いささか貌を異にした幻想の江戸である。  つまり、そこに描かれているのは『半七捕物帳』に見られる現実の江戸に対する郷愁ではなく、本来、あるはずのない理想の江戸に対する擬似郷愁とでもいうべきものなのである。  これらを背景として、野村胡堂の巧みなストーリー・テリングの妙、そして、作者自ら語るところの、「学者大人らも頭を一つ捻らるる謎を用意した」探偵小説的興味や、さらには、「平次の明朗さ」、「八五郎の忠実さ」等が相まって、総計三百を越すという作品が生まれていった。このことからも分かるように、本作で大衆の嗜好に最も見合ったかたちの一大捕物帳が完成されていくのである。  岡本綺堂が『半七捕物帳』の中で提出した「時計のない国」は、ここで新たな結実を見せるに至ったというわけだ。  しかし、それだけが、『銭形平次捕物控』が後々、あれほどまでに人気を得るに至った理由だろうか。いや、そうではあるまい。野村胡堂に三百篇を越す作品を書かせた最大の理由は、むしろ、それを欲した大衆、すなわち、読者の側にあったのではないのか。  そして、私がここでいう読者とは、関東大震災以後の東京の住人のことを指している。  例えば、ここに、先に挙げた『江戸から東京へ』の作者矢田挿雲が、自作を振りかえって述べた次なる言葉がある。  大正十二年九月一日の関東大震災を中に挿んで、この本(『江戸から東京へ』)の読後感を著者に伝えてくれた人は必ずしも少なくなかった。  なるほど、このくだりだけを読むと、先に引用した吉野作造の評言と軌を一にする、多くの読者の喪われた江戸に対する切実なる希求のあらわれと見えるかもしれない。  ところが、これに続く一節というのが、意外や、  その感想の大部分は、江戸関係の歴史や伝説の面白さにたんのうしたという範囲を出でなかった。  という文章なのであり、挿雲は、そうした読者の姿勢を「享楽本位の読書」であるとしているのだ。  今、引用した文章は、現在、中公文庫から刊行されている九巻本の『江戸から東京へ』の巻頭に収められているもので、本来は、昭和三十三年、冬樹社版に附された「自序」であり、そこには東京が二度目の灰燼=東京大空襲に帰するという時間の経緯や、「毎日外交勤務をしてまわる東京をヨリ深く理解して、じぶんの生活を豊かにしたいというがごとき、徹底した態度」=「実利精神」をもってこの作品を読もうとする青年が登場したりして、なかなかに面白い。  が、とりあえず、ここでは、『半七捕物帳』や『江戸から東京へ』を読むに際して、明らかにふた通りの読者がいたことのみを、まずは確認しておきたいのである。  ふた通りの読者——それはいうまでもなく、作中の江戸に郷愁を求める読者と、面白さを眼目とした興味を求める読者に他ならない。  それでは、何故、このような異った読者の姿勢が生まれたのか。  ここで思い起こしていただきたいのが、こうした事情の背後に横たわる関東大震災という歴史的事件の持つ性格である。  まず、第一に挙げられるのが、江戸の面影を残した旧東京の崩壊であろう。これは、文学史的脈絡からいえば、再三、述べて来たように結果としてストーリー重視の『銭形平次捕物控』の、現実の江戸をリアルに再現した『半七捕物帳』からの解放を意味している。  そして、第二として挙げられるのがマス・メディア、商業ジャーナリズムの急速な発達である。これは、捕物帳を含む大衆文学の隆盛と密接な関わりを持ち、佐々木味津三の運命を大きく変え、彼を大衆作家たらしめ、遂には『右門捕物帖』の執筆をも促すことになった。  そして、第三に挙げられるのが、東京の住人たちの間に起った質・量、双方に関わる変化である。  本書では、小木新造の『東亰《とうけい》時代 江戸と東京の間で』(昭55、日本放送出版協会刊)を、しばしば、引き合いに出し、明治以後の東京の住人の変化について触れて来た。  重複を承知で敢えて記せば、小木の指摘によると、幕末以来、武家人口の大量流出によって住民が激減した東京は、明治十四年頃から、地方からの寄留人口によって、再び人口集中がはじまる。そうした新たな東京の住人は東京で生活をしていながらも、その精神の拠り所は常に故郷に回帰しており、そうした様々に故郷を持ち、自ら住む東京には郷土愛を持たぬ人々の流入によって、旧東京人らの形成した下町を中心とした「町内完結社会」は崩壊してゆくのである。  こうした二つの方向に引き裂かれた東京人たちの持つ意識を、田中義郎はその著書『東京人 その生活と風土と知恵』(昭41、早川書房刊)の中で、〈東京人意識〉と〈原郷土意識〉とに大別しており、明治以後の東京とは、概ね、そのような二つの意識の矛盾、対立、共存の中でふくれ上って来た町と見るべきだろう。  そして、こうした傾向により一層の拍車をかけたのが関東大震災であり、これ以後、東京は以前にも増して、地方出身者の町として急速に人口を増やし続けるのである。  これは、一体、何を意味するのか。 〈原郷土意識〉に根ざす、彼ら新しき東京の住人は、野村胡堂と同じように地方からやって来ており、岡本綺堂のように実体験としての江戸を持っていない人たちである。  つまり、彼らが肌で感じ取ることの出来たのは、震災以後の東京に残っていた江戸の残り香であり、岡本綺堂が「何かの架け橋がなければ渡つてゆかれないやうな気がする」(『島原の夢』)とまで嘆いた、かつて江戸にあったもの、もしくは江戸らしきものへの郷愁でしかなかった。  これは、野村胡堂が『銭形平次捕物控』の中で描いた幻想の江戸が紡ぎ出す擬似郷愁と相通じるものであろう。  つまり、書き手の側にも、読み手の側にも、実際の江戸に対して心中立てを行う必然性がない、換言すれば、野村胡堂の作り出した「法の無可有郷《ユートピア》」=幻想の江戸を受け入れるために必要な共同幻想は、読者の側にも出来上っていたというわけである。  いうまでもなく、彼らこそは、胡堂が選んだあの�駿河町 広重の見た 富士が見え�の一句から、この稀代の捕物作家とともに、瓦礫の山の中から眺められた広重の富士を通して逆照射される幻想の江戸を共有出来る、新たな東京人だったのである。  幻想の江戸は、何よりも、読者によって支えられていたのだ。  そして無論、こうした読者が、『江戸から東京へ』を、郷愁よりも面白さを眼目とした興味を求めて読んだ人々であることは言を俟たない。  前述の『東京人 その生活と風土と知恵』によれば、「東京は戦前すでに地方出身者が東京っ子を数のうえではしのぎ」、「昭和十年の東京の総人口五百八十四万人のうち、地方出身者は五二%、三百三万人」であったという。その三百三万人の新東京人が様々に自分の故郷に向けての〈原郷土意識〉を抱いていたというわけである。  だが、〈原郷土意識〉と一口にいっても、その内実が一様でなかったことはいうまでもない。  いくつか、例を挙げよう。  東京に出て成功した者、没落した者、あるいはその如何にかかわらず、故郷喪失者となった者等、様々であろうが、彼らが共通して一時期、抱いたであろうある種の哀歓を、私は野村胡堂の盛岡中学時代の後輩石川啄木の歌に見る。今、『一握の砂』を繙《ひもと》いて、東京での生活を歌ったものを挙げてみると、   浅草の夜のにぎはひに   まぎれ入り   まぎれ出で来しさびしき心  であるとか、あるいは、   浅草の凌雲閣のいただきに   腕組みし日の   長き日記《にき》かな  といった具合に、哀調著しく、特にこうした歌に、野村胡堂と共通の思い出を有している、   ストライキ思ひ出でても   今は早や我が血躍らず   ひそかに淋し  や、   盛岡の中学校の   露台《バルコン》の   欄干《てすり》に最一度我を倚《よ》らしめ  という歌等を読むと、故郷と東京との振幅の中に身を置き、志を得ぬままに、生活との闘争に明けくれる啄木の、後に東京人として見事に再生した野村胡堂とは、まったく対蹠的《たいしよてき》な生き方の中から洩れてくる、真実の吐息の如きものを感じないわけにはいかないのである。  そしてこれらの歌は、胡堂自らの啄木に対する、  啄木は斯う言つた人間であつた。歌にも小説にも、争ひと戦ひの気持が充ち満ちて、勝つか、負けるかが、啄木の一生を支配した思想であり、啄木の大きな欠点でもあつたのである。私は曾てそんな事を意識した覚えも無いが、啄木は最初から最後まで三番勝負に勝ち続けてゐるにも拘らず、私に対して激しい闘争心を燃やして居たことであらう。  可哀想な啄木、私は四十年前の啄木に対して、愚かな兄のやうな心持でさう思つて居る。可哀想な啄木、——だが、今にして思へば、君は一番幸せであつたかも知れない。我等の仲間で、君ほど偉大になつた者はなく、君ほど大衆に愛されてゐる者は無い、百迄生きてゐたところで、私達は、君の靴の紐を解くにも足りないのだ。(『石川啄木』)  という真率な呼びかけとの間で私たちの胸を激しく打つほどの共鳴を繰り返すのである。  胡堂とて、啄木と同じような苦悩がなかったわけではないだろう。おそらく、先に記した、中学卒業後、上京し、本郷に下宿しつつも、父親と進学の意見が合わず、二年ほど浪人していた頃、胡堂自らいう「江戸の匂いを嗅ぎ回ることに忙しかつた」時期あたりが、それに当たるのではないのか。  そして、一方に、こうした〈原郷土意識〉をめぐる葛藤《かつとう》があるとするならば、また一方には、〈東京人意識〉、すなわち、旧東京=江戸に思いをはせる感慨もある。  例えば永井荷風は、随筆「鐘の声」の中でこういっている。  わたくしは今の家にはもう二十年近く住んでゐる。始めて引越して来たころには、近処の崖下には、茅葺《かやぶき》屋根の家が残つてゐて、昼中も鷄《にはとり》が鳴いてゐた程であつたから、鐘の音《ね》も今日《こんにち》よりは、もつと度々聞えてゐた筈である。然しいくら思返して見ても、その時分鐘の音《ね》に耳をすませて、物思ひに耽《ふけ》つたやうな記憶がない。十年前には鐘の音に耳を澄ますほど、老込んでしまはなかつた故でもあらう。  |然るに震災の後《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|いつからともなく鐘の音は《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|むかし覚えたことのない響を伝へて来るやうになつた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。——(傍点筆者)  と。  荷風がこのエッセイの中で聴いているのは、「響のわたつて来る方向から推測して芝山内の鐘」。この一文はその鐘の音がむかしと違うというのにこと寄せて、震災後の東京に対する違和感を語り、往時の旧東京=江戸をしのんだものだが、後半、「昭和七年の夏よりこの方、世のありさまの変るにつれて」という、明らかに、五・一五事件に言及したと思われる箇所もあり、単純に過去を懐しむエッセイと割り切ることは出来ない。  だが、今ここに引用した前半部分、特に傍点を施した「然るに震災の後、いつからともなく鐘の音は、むかし覚えたことのない響を——」というくだりは、大方の旧東京人たちの率直な感想であるのではないのか。  新旧の東京、そして東京人をめぐる様々な感慨や葛藤——それら諸々のことを、日々の生活の場へと還元した時、彼らよりもっと後の代の江戸っ子はどう語っているか。彰義隊の残党の曾孫で浅草生まれの『黄金バット』の作者・加太こうじは、それこそ江戸っ子らしいサッパリした語り口で、そうした〈東京人意識〉と〈原郷土意識〉との間にわだかまる迷妄を、ものの見事に一刀両断にしてしまっている。  下町の人情? ありゃ、ウソだ。講談のつくり話ですよ。貧しい人が集まりゃ、どこでも人情、厚いや。京都でも、大阪でも、人情あついよ。東京の下町だけのようにいうのは、ありゃ、東京人の一人よがりさ。(『東京人考』朝日新聞東京本社社会部、昭56、朝日新聞社刊)  確かにそうだろう。  新しい地縁・血縁によって新たな生活の営みがはじまれば、当然、そこに住む人たちの心情と一体化した新しいモラルや理想が必要となってくる。  そして、大衆文学というものは、ここでいわれるそうした大衆の生活の中から、生み出されその変化とともに新たな貌を持って屹立してくるべきものなのだ。捕物帳も、また然り。  もしかしたら、『銭形平次捕物控』とは、「法の無可有郷《ユートピア》」という幻想の江戸を打ち建てることによって〈東京人意識〉と〈原郷土意識〉の間に横たわる差異を解消する役割を持った大きな楔《くさび》=新たな東京の住人の精神の在り方を示すものだったのではないだろうか。  そして、おそらくはこれが、『銭形平次捕物控』が、関東大震災の後、捕物帳の最も典型的なスタイルとして、最長最大、今日まで声望を得るに至った最大の理由ではないかと思われるのである。 [#改ページ]   あとがき  本書では、いわゆる三大捕物帳——半七、右門、平次の流れを見て行くことによって捕物帳の歴史的変遷を辿ってみた。が、厳密にいえば、半七と右門の間に林不忘の『釘抜藤吉捕物覚書』(大14)があり、前述の三大捕物帳の後にも、神戸出身の横溝正史により江戸情緒の中に上方の味を持ち込んだ『人形佐七捕物帳』(昭13)や、岡っ引や同心といった職業探偵ではなく、徳川一門の縁につながるという以外は正体不明の素人探偵を活躍させた城昌幸の『若さま侍捕物手帖』(昭14)がある。この城昌幸の登場によって、久々に捕物帳の書き手は地方出身者から江戸っ子の側へと取り戻されることになる。そして更に戦前の異色作としては、久生十蘭の『顎十郎捕物帳』(昭14)を落とすことは出来ないだろう。  加えて戦後。敗戦後の価値観の変化や有為転変の様を維新後の東京に重ね合わせた二作——村上元三の『捕物そば屋』(昭20)や坂口安吾の『明治開化安吾捕物帖』(昭25)といった特例はあるものの、半七→右門→平次という脈絡の上で築かれて来た捕物帳の性格や意味づけに基本的な変化はない。  斯界に質的な変化があらわれるのは、松本清張が自身の社会派推理の手法を応用した『彩色江戸切絵図』(昭39)を問い、フランスのギャング映画の感覚で、江戸の町に暗黒街を想定、火付盗賊改方と盗人たちの人間関係をリアルに描いた池波正太郎の『鬼平犯科帳』(昭43)が登場するあたりまで待たねばならない。  が、それは後の課題。何故ならば今、記した半七→右門→平次と続いたラインを検証することによって、捕物帳が思想的に成熟していく過程をたどるという当初の約束は、一応、果たせたであろうし、何よりも、昭和初年代の時点で、大衆文学の世界に、これら捕物帳と拮抗する勢力と表裏をなす緊張関係を持ったもう一方の雄、股旅ものが台頭して来ており、こちらに眼を向ける必要があるからだ。  まえがきに記したように捕物帳の主人公が江戸という中央を舞台にして固定的、探偵小説的側面を備えているために最後には合法的・論理的に事件を解決していくのに対し、股旅ものの主人公は、地方を舞台にして流動的、義理人情という極めて心情的なモラルによって物事を処理していく。  この極めて対照的なジャンルの中で、〈東京人意識〉と〈原郷土意識〉という二つの相対する心情はどのように処理されているのか。捕物帳と股旅ものとは、いかなる脈絡が内部で取られているのか——まず、それを先に論じることが私の次の課題となるだろう。  なお、本書で論じた三作、半七、右門、平次については、基本的には、早川書房版『定本半七捕物帳』、平凡社版『佐々木味津三全集』、同光社版『銭形平次捕物全集』をそれぞれテキストとし、適宜、他の版元から刊行されたものを参照したことをお断りしておく。  最後に本書を上梓するに当たっては、実に多くの方々のお世話になったが、特に執筆の段階では田井友季子、宮城谷昌光の両氏から貴重な助言をいただき、また連載・刊行に当たっては「小説新潮」の池田雅延(現・広告部)、杉原信行、出版部の宮辺尚の各氏に多大な御迷惑をおかけした。更に資料検索に当たっては私の若い友人、木村行伸、中山啓両君の手を煩わせた。本書にいささかなりとも読者の方々に益するところがあれば、それは今、名前を記させていただいた方々のおかげであるし、反対に不備な点があれば私の責任であることを明記して結びとしたい。      平成七年 弥生 この作品は平成七年四月新潮社より刊行された。