雪に花散る奥州路 笹沢左保 [#改ページ] 目  次  雪に花散る奥州路  狂女が唄う信州路  木っ端が燃えた上州路  峠に哭いた甲州路 [#改ページ] 雪に花散る奥州路 1  信玄公の隠し湯として知られた山梨県の下部《しもべ》温泉は、江戸末期のその当時すでに多くの湯治客によって利用されていた。現代と違ってその頃の温泉場は、観光や歓楽のための施設という要素が薄かった。もっと実用的なもので、治療や保養を目的に長逗留《とうりゆう》する場所であった。  特に、下部温泉の湯は、外傷に特効がある。いわば、天然病院であった。湯治客の殆《ほとん》どが、怪我人だった。だから、そこには華やかな雰囲気など、まったくなかった。もちろん、外傷に害のある酒を飲む者もいない。湯治客は全快を待って、真剣に湯につかったり、室内で身体を横たえたりしている。  甲州下部奥の湯の湯治場は、それ全体が常に静まり返っていた。周囲は、山ばかりである。東には富士の外輪山、北に雨ヶ岳、南に三石山、西には身延の山越しに七面山が見えている。湯治場は富士川へ流れる渓流沿いにあって、霧立つ朝や山鳩の声を聞く夕暮れが多かった。人里離れた湯治場の感があり、そこには黙々と治療を続ける怪我人たちの鄙《ひな》びた生活があった。  それだけに、旅籠《はたご》屋《や》といった行き届いた設備がなかった。幾つかの湯は屋根を柱で支えて、簡単な囲いがしてあるだけだった。大きい湯だと、屋根しかなかった。完全な野天風呂もあり、岩の庇《ひさし》を屋根代わりにしている湯もあった。それらを取り巻くようにして、幾棟かの建物が並んでいる。普通の民家と変わりなく、長屋のような建物だった。  そこに湯治客や、怪我人の付き添いたちが雑居している。もちろん相宿で、個室などはなかった。管理人がいて入湯料や滞在費を徴収するし、湯治客の生国《しようこく》、在所、名前などを泊り帳付けする。しかし、女中などはいない。走り使いを頼む小女、湯番をする老人がいるだけだった。鍋や米を持ち込んでの自炊であることは、言うまでもない。  そうしたところへ、健康な人間が物見遊山に来るはずはなかった。新たに湯治に来た怪我人のほかに、精々《せいぜい》身内の者が見舞いに訪れるくらいであった。下部の湯は、湯治に専念する人間だけの別天地だった。客を迎える必要もなかった。だが、例外はあった。ひとりだけ、何度か客の訪問を受けている男がいたのである。  その男は下部の湯に逗留を始めて、一カ月ほどになる。泊り帳によると上野《こうずけ》国伊勢崎在、武吉ということになっている。三十前後で、背の高い男だった。眉毛が濃くて、目鼻立ちのはっきりしたなかなかの男前である。しかし、その色の浅黒い顔には、人を嫌うような暗い翳《かげ》りがあった。いつも無表情で、見るからに陰気である。  この武吉という男は、相宿の湯治客たちから変わり者としての扱いを受けていた。一カ月も同じ屋根の下で寝起きしているのに、武吉という男は誰とも交わろうとしないからだった。いつも、ひとりだけ離れて行動していた。誰もまだ、この武吉という男の笑った顔を見たことがなかった。武吉のほうから話しかけて来ることは、絶対にない。  質問しても、短く一言だけ答えた。ひとりで湯につかり、ひとりで散歩して、夜は端の蒲団《ふとん》に横になり壁のほうを向いて寝てしまう。武吉は、右手が不自由であった。左手だけで、土鍋を火にかけ粥《かゆ》を作っている。ある怪我人の付き添いの女房が、見かねて手を貸そうとした。しかし、武吉はそれさえも、拒んだのであった。  武吉に馴染む者はいなくなった。どうも、気味が悪い。笑ったことのないその陰鬱な顔を見ても、何か事情がありそうだった。言葉遣いや態度は、慇懃《いんぎん》すぎるくらいである。だがそれは明らかに、玄人《くろうと》そのものの渡世人特有の言動だった。長脇差を持っているし、のびた月代《さかやき》も渡世人の髷《まげ》であった。  武吉は、長脇差を手放したことがない。寝ている間もかかえこんでいるし、湯につかりに行くときも持っている。傷は、右肩にあった。腕のつけ根から、腋《わき》の下へ突き抜けている傷だった。もちろん、刀で突き刺した傷である。医師の手当てが終ってから、ここへ湯治に来たもので、すでに肉も盛り上がっている。  武吉は湯につかるとき、左腕に手拭《てぬぐい》を巻きつけるようにしていた。しかし、湯治場は共同ではいる総湯、または入りこみ湯であったから、その手拭で隠している左腕に何があるか誰かの目に触れてしまう。そこには二本の入墨があると、いつの間にか湯治客たちに知れ渡っていた。  いわゆる入墨者である。前科のしるしであった。入墨者の渡世人で、右肩に刀傷を負っている。当然、無宿人だった。そうなると、堅気の人々には恐ろしい相手であった。善良な湯治客たちは逆に、武吉を敬遠するようになった。だが、敬遠されることに馴れているらしく、武吉はそれまでと変わりなかった。その武吉のところへ一カ月間に、三人も訪問客があったのだ。  三人いずれも、渡世人ふうの男たちであった。しかし、武吉は三度とも、客に会おうとはしなかった。客が来たと知ると、武吉は湯治場から姿を消してしまうのである。近くの山へでも行っているのだろうが、夜になるまで戻って来なかった。その度に、訪れて来た渡世人たちは、すごすごと引き揚げて行くのだった。  やがて、そうした渡世人たちが何を目的に来るのか、湯治客たちにもわかったのであった。渡世人たちはいずれも、甲州や信州の貸元の身内であって、下部で湯治する費用を払わせてくれと武吉に頼みに来るのである。それは身体が恢復《かいふく》したら腕を貸して欲しいと、武吉に依頼することを意味していた。武吉は使いの者に会わないことによって、その依頼を拒絶したのであった。  湯治客は、驚いたり畏怖《いふ》したりであった。武吉がそれほど名の売れている渡世人とは、思っていなかったからである。それにしても、武吉の用心深さは異常なくらいだった。長脇差を手放さないだけではなく、常に敵を意識している目つきであった。それでいて、さりげなく装っている。湯治客の好奇の目を知ってか知らずか、ただ黙々と傷の治療に専念しているようだった。  四人目の客が下部の湯治場を訪れたのは、嘉永三年三月初旬の朝であった。そのとき、武吉は朝の湯につかっていた。一日の大半を湯の中で過すのだが、朝も明け六ツからすでにつかっていたのである。下部の湯は、体温以下であった。季節もまだ三月の初旬で早朝となると、震えがとまらないくらい寒いし冷たかった。  しかし、しばらくすると身体の芯《しん》から、火照《ほて》るように温まってくる。だから、長湯をしなければならない。長時間湯に傷をつけているのが、特効の因《もと》でもあった。湯につかっているのは、武吉だけだった。近づいて来る足音を耳にしたとたん、武吉は岩の上の長脇差へ左手をのばした。 「武吉さん、おいでですかね」  湯番の老人の顔が、囲いの上から覗《のぞ》き込んだ。 「へい……」  武吉は、左手を湯の中へ引っ込めた。 「また、お客人がお見えなんですがね」  老人も困ったというように、顔をしかめて見せた。入浴中の来客となると、いつものように裏山へ逃げるというわけにもいかなかった。 「お手数ですが、いまはいねえと断わっちまっておくんなさい」  武吉は、老人に会釈を送った。 「けんど、今日のお客人は、ずいぶんと遠方から来られたんだそうですよ」  老人は気の毒そうに、後ろを振り返った。 「どんなに遠くから来ようと、あっしの知ったことじゃねえんで……」  武吉は、軽く目を閉じた。 「何でも、野州《やしゆう》の越堀《こえぼり》宿からとか言ってなすった」  老人は、音を立てて溜め息をついた。同時に、武吉の表情のない顔に微妙な反応が見られた。目は閉じたままだが、唇の端がチラッと動いたのである。 「野州越堀の貸元からの、使いの者なんでござんすかい」  武吉の低い声が、深い天井に響いた。 「越堀の仁五郎親分からの差金《さしがね》で来た、とかいう話で……」 「だったら、ここへ来るように言ってやっておくんなさい」  武吉は、目を開いた。老人がほっとしたように笑って、小走りに去っていった。武吉が初めて、客に会うことを承知した。それが老人には、何となく嬉しかったのだろう。  武吉は急いで湯から上がると、衣服を身につけた。左手に長脇差を提げて、囲いの外へ出る。朝霧が流れていた。その霧の中を四、五人の影が近づいて来た。四人までは湯につかりに来た湯治客だと、その声や姿形でわかった。ひとり離れて歩いて来る渡世人は、初対面の男だった。  その渡世人は武吉に気づくと、弾《はじ》かれるように駆け寄って来た。渡世人は武吉の前に片膝を突いて、深く頭を下げた。それを見た四人の湯治客が、その場に足をとめた。何事が起るのかといった目つきで、武吉と渡世人のほうを見守っている。武吉も用心深く、若い渡世人に目を注いだ。  若いと言っても、二十七、八である。大柄で、精悍《せいかん》そうな顔つきをした好男子であった。引き回しの道中合羽《がつぱ》と、百年も前の三度飛脚が用いた大型の菅笠を脇にかかえていた。いかにも遠方から来たという道中支度で、手甲脚絆《てつこうきやはん》も薄汚れている。野州越堀は、現在の栃木県黒磯町の東六キロのところに位置する奥州街道の宿場町で、福島県との県境まで二十キロほどしかなかった。そこから山梨県の下部まで、当時としてはかなりの距離であった。 「お初に、お目にかかりやす」  若い渡世人は、武吉を振り仰いだ。 「あっしは野州越堀の仁五郎の身内で、橋場の勘助という三下にござんす。親分仁五郎の口上を預かって参りやした」  橋場の勘助と名乗った渡世人は、霧を払いのけるようにして道中合羽と三度笠を地面に置いた。武吉は、黙って突っ立っていた。 「念のために、お尋ね申します。あなたさんは、二本桐の武吉さんにござんすね」  橋場の勘助が声高にそういうと、この様子を見守っていた四人の湯治客たちが急に緊張した面持ちになって顔を見合わせた。二本桐の武吉──それは、堅気の衆の間でも噂になったことのある名前だったからである。 2  武吉は勘助を連れて、河原へおりて行った。霧が薄れて、清流が冷たそうに岩を噛《か》んでいた。あと一カ月もすると、岩燕《いわつばめ》が飛び交う川面であった。勘助は、河原に転がっている岩の陰にしゃがみ込んだ。武吉は、その左側に立った。右側に立てば、いきなり斬りつけられる恐れがある。それに対する用心であり、武吉にとっては習慣的なことだった。 「仁五郎親分は、お達者でござんしょうね」  武吉は、感情のこもらない目で川の流れを見やった。 「それが半年めえから、すっかり弱気になっちめえまして。このところは、寝たり起きたりの毎日でござんす。持病の喘息《ぜんそく》が、日に日にひどくなりやして……」  勘助が、暗い表情になった。 「一家も、落ち目というわけですかい」 「へい。身内も、二十人ほどに減っちめえました。だからこそ、あっしみてえな腰抜けでも、結構頼りにされているんでござんしょうねえ」 「おめえさんは、いつから越堀のお貸元のところの身内に、なりなすったんですかい」 「二年めえの春に草鞋《わらじ》を脱いで、そのままお世話になっておりやす」 「道理で、おめえさんとは初めてのはずだ。あっしがこのめえ越堀に寄ったのは、もう四年もめえのことでござんすからね」 「武吉さんの話は、親分やお嬢さんからよく聞かされました。そのお嬢さんも、いまでは心細さにすっかり窶《やつ》れてしまわれて……」 「お絹さんも、二十四か五になりなすったんじゃねえんですか。それでまだ、嫁入りもしてねえんじゃあ……」 「それどころじゃござんせんよ」  勘助が、武吉を見上げた。責めているような目をしている。勘助もその辺の経緯《いきさつ》を、誰からともなく聞かされて知っているらしい。しかし、そのことで武吉が非難される道理はない。この十年間、一つところに落着いたことのない流れ者であり、野良犬のような生き方が身にしみついている武吉だった。  その武吉が野州越堀の仁五郎宅に限って、ちょいちょい草鞋を脱いだのも、特別な理由があってのことではなかった。ただ何となく仁五郎と、ウマが合ったというだけのことにすぎない。親子ほどの年の差はあったが、武吉は裏表のない仁五郎の性格に好感を持ったのだ。仁五郎が娘の婿にと考えようと、当のお絹が思いを寄せようと、武吉には関係のないことだった。  むしろ、そうとわかったからこの四年間、野州越堀へは足を向けようとしなかったのである。武吉にしてみれば、世帯を持つことなど考えも及ばなかった。相手が堅気の女だろうと貸元の娘だろうと、同じことであった。嫁をもらって、子どもができる。そうなれば、生きることへの執着や未練が生ずる。  渡世人にとって、それは許されないことだった。そんなことは、最初からわかりきっている。特に武吉のような男は、自分の寿命を自分で判断することはできなかった。いつ死ぬか、わからない。いや、必ず殺される。女房や子どもがいるのに、片時も長脇差を手放さずに警戒している。そうしたことに、武吉は大きな矛盾を感ずるのだった。渡世人に世帯を持つという現実はあり得ないと、武吉は十年以上も前から割り切っていたのだ。 「親分の口上なんて堅苦しいことはよしにして、あっしにどんな用がおありなのか話しておくんなさい」  武吉は、抑揚のない声で言った。 「へい。お察しのこととは思いますが、親分が煩って身内も減ったと見たとたん、待っていたとばかり佐久山の竹蔵一家が動き始めたんでござんす。竹蔵は仁五郎以下をみな殺しにして、越堀の縄張りを根こそぎもらい受けるとか言い触らしているそうですが、知っての通り佐久山の竹蔵には大前田英五郎の息がかかっておりやす。落ち目になった越堀一家では、もう手も足も出ねえというわけでござんして……」  沈痛な面持ちでそう言って、橋場の勘助は深く項垂《うなだ》れた。 「佐久山の竹蔵が、そうも大した勢いになったんでござんすかねえ」  武吉は、興味ないというように小さく呟いた。 「大変な軍師が、ついちまったんでござんすよ。何年かめえに竹蔵のところに居付いた時次郎という妙に変わった野郎なんですが、こいつが頭は切れるし腕は立つ。この時次郎の働きで、竹蔵は縄張りを広げた上に急に勢いづきやがったんで……」  勘助は口惜しそうに、小石を川面に投げつけた。 「それでも一気に越堀を押し潰そうとしねえのは、どういうわけなんですかい」 「そいつは、武吉さんを恐れているからなんで。うちの親分と武吉さんの仲は、誰もが知っておりやす。下手に越堀を潰しにかかって、武吉さんに不意を衝かれてはと、いまのところは真綿で首を締めるような出方をしているんでござんしょう。そこで是非とも武吉さんの力をお借りしてえというのが、親分とお嬢さんからの口上なんでござんす」 「折角なんだが、勘助さん。ちょっとばかり難しいことに、なりそうですぜ」 「お引き受け頂けねえんで……!」 「ここがまだ、自由にはならねえんですよ」  武吉は、右腕を動かして見せた。肘《ひじ》は曲がる。だが、右肩を思い切って使うことができなかった。 「長脇差を振り回すことは、無理なんでござんすね」  勘助は、失望したように両肩を落した。 「毎日少しずつ動かしてはいるんですが、あと十日もしねえと自由には使えねえでしょうね。あっしにとって、野州一円は鬼門の場所だ。右腕が使えねえと知ったら、あっしを斬りたがっている連中が群がり寄って来て、越堀に行きつくまでとても命は保てねえでござんしょう」  武吉は、自嘲的に苦笑した。野州一円が鬼門の場所というのは、事実であった。当時の野州一円の貸元たち、南からまず小山の喜左衛門、栃木の半兵衛、石橋の徳太郎、宇都宮の定七郎、阿久津の藤八、それに佐久山の竹蔵とそれぞれが兄弟分という形で同盟を結んでいた。そのうちの佐久山の竹蔵が、縄張りを北に接する越堀の仁五郎と犬猿の仲だったのである。  根っからの流れ者である武吉にしてみれば、どの貸元に味方するというわけではなかった。しかし、武吉は人間的に信頼できる越堀の仁五郎と、特別に親しい間柄となった。勢い、佐久山の竹蔵の意に反することになる。同時に竹蔵と兄弟分の関係にある野州一円の五人の貸元全部を、敵に回す結果になった。そうしたことから同盟した六人の貸元の身内衆との間で、いざこざが幾度もあった。  振りかかる火の粉は、払わなければならない。武吉も、仕方なく相手を斬る。四年前までに小山でひとり、石橋でひとり、阿久津で二人、佐久山で二人とそれぞれの身内を殺傷していた。野州における渡世人の世界では、武吉に対する敵意と憎悪が強まる一方であった。しかし、それと並行して二本桐の武吉という名の聞えた渡世人への恐怖感も、深く根を張ったのであった。  だから武吉が五体健全であれば、先方から手出しをするということはまず考えられない。武吉ひとりを相手に、多人数で襲いかかったとあっては、その世界に恥を吹聴するようなものだった。従って、小人数で武吉と対峙《たいじ》しなければならない。だが、いまのところ小人数で武吉と決着をつけようとするほどの愚か者はいないし、その心配もなかった。  と言って、諦めているわけではない。折があれば武吉を斃《たお》そうと、狙っていることは確かである。そこへもし、いまの武吉は右腕が使えないという知らせがあったら、どうなるだろうか。機会を待っていた連中が、傷ついた猟師に襲いかかる獣のように殺到して来ることはわかりきっている。武吉のほうも、それを防ぐことはできないのだ。  越堀へ行くには、どうしても奥州街道を北上しなければならない。栃木の半兵衛を除いてはいずれも小山、石橋、宇都宮、阿久津、佐久山と奥州街道筋の親分衆を敵に回しているのだった。いま武吉が野州の越堀まで行くことは、無防備のまま七十キロ以上の敵中突破を試みるのと変わりなかった。それは越堀まで行きつく前の、死を意味していた。  右腕が完全に使えるようになるまでは、最低あと十日はかかる。しかし、それまで待っていられないことは、武吉にもわかっていた。勘助はここまで来るのに、夜旅をしたこともあったという。当時の夜旅は、余程目と足が馴れている者でなければ到底不可能なことであった。勘助がその夜旅さえして急ぎに急いで来たことが、越堀の情勢のいかに緊迫しているかを物語っている。  何とかしなければならないと、武吉も思った。仁五郎への義理立てとか、お絹に対する情とかいうものは、まるで感じていない。だが、傷がよくなったそのあと、どこへ行くというアテもない。頼まれたら、引き受ける。それが流れ者の生き方だった。力を貸すべきときだと武吉は自分で判断していた。だが、殺されるとわかっていて、その通りにはなりたくない。命が惜しいとは、特に思わなかった。ただそれなりの目的や根拠がある上で、死を覚悟したいのである。 「武吉さんとあっしが、入れ替ったらどんなもんでござんしょう」  突然、勘助がニヤリと笑った。勘助は、目を輝かしていた。余程、自分の思いつきが気に入ったらしい。 「あっしが二本桐の武吉、武吉さんが橋場の勘助ということにして越堀まで道中するというわけで……。途中、武吉さんの顔をよく知っているというやつは、何人もいねえはずですぜ。あっしと来たら、まったく顔を知られてねえしね」  勘助は、熱っぽい口調になった。ようやく見出した一縷《いちる》の望みを金輪際《こんりんざい》捨てるわけにはいかない、という意気込みが感じられた。なるほどと、武吉も思った。知れ渡っているのは二本桐の武吉という名前と、そうであることの二つの証拠だけだった。誰もが、武吉の顔を知っているというわけではない。中でも野州の奥州街道では、摩擦が多いだけに逆に知った顔は少ないのである。  越堀へ行けば別だが、それまでの敵対している貸元たちとはまだ一度も面識がなかった。その身内衆にしても、面と向かって武吉と相対したという者は殆どなかった。武吉が滅多に、三度笠をはずさないということもある。長脇差を抜き合って武吉の顔を見たその相手たちは、死ぬか一生歩けないくらいの不具者になるかしている。とすれば武吉が越堀へ向かったという情報を掴《つか》んだ者の目にも、本人は触れずにすむかもしれない。  そのような連中の目に映ずる武吉は、実は勘助なのである。武吉になりすました勘助は右腕も自由に使えるし、もの怖《お》じせずに貫禄を示していればそれでいい。本物の武吉だと思えば、誰も手出しはしないはずだった。一方の武吉は、勘助という男になりきって、あとをついて歩いている。その三下が実は武吉と、気づく者もいないだろう。  武吉は、勘助を改めて眺めた。月代も同じようにのびている。背の高さや柄も、大して変わらない。あとは、武吉であることを強く印象づける二つの証拠だけであった。その一つは、武吉の所持品として知られている銅百文の天保通宝であった。天保通宝は小判型をした大銭で、真中に四角い穴があいている。この天保通宝六十五枚で、金一両となるのである。  武吉が持っている天保通宝には、深い刀傷が残っている。五年ほど前、斬り合った相手の長脇差が武吉の腹に突き刺さった。だが、武吉には怪我もなく、相手の長脇差が折れてしまった。懐中にあった大財布の中の一枚の天保通宝が、その長脇差の切先を遮ったのである。以来、武吉はその刀傷の残った天保通宝の穴にヒモを通して、首に下げていた。それがいつの間にか、二本桐の武吉が持つ守り銭として知られるようになったのだ。  その守り銭は、いまでも首に下げている。それはそのまま、勘助に渡せばいい。だが、問題なのはもう一つのほうの証拠だった。それは、例の左腕の入墨であった。入墨は武吉の左の二の腕の最も太くなっている部分にあって、一センチ幅の線が二本、二センチの間隔を置いてぐるりと描かれている。それだけのものなら、別に珍しくなかった。  入墨は、鼻や耳を削《そ》ぎ落すのに代わって、新たに定められた刑罰である。主として盗みの罪に対する罰で、男女の別なく入墨の仕置きをされた。ただ土地によって、入墨の形が違うだけだった。武吉は十二年前に、やりもしない盗みの罪で捕えられ、江戸でこの入墨をされたのであった。ところが、同じ五年前の斬り合いの際に、その左の二の腕に手傷を負ったのだ。  その古い傷跡は、いまでもはっきり残っている。肘のすぐ手前から十六、七センチの長さで二本の入墨を断ち切り、腕の側面を手首まで走っていた。二本桐という俗称は、武吉の生まれた土地の名だが、それを二本の入墨を切った傷跡の由来からだと解釈している者もいるくらいに有名な目じるしになっていた。 「これを、どうしなさるおつもりですかい」  武吉は、左の袖をまくった。二本の入墨を引きちぎったように、両端の引き攣《つ》れた傷跡が鈍く光っていた。 「入墨は、墨でそれらしく描けばよござんしょうね」  勘助も左手の手甲をはずすと、同じように二の腕を折り曲げた。 「しかし、傷跡は作れねえ」  武吉は、ゆっくりと首を左右に振った。勘助は自分と武吉の左腕を比較するように、しばらく交互に眺めやっていた。やがて、勘助は長脇差に手をかけた。抜き放った白刃を、みずからの左腕に突きつけた。武吉は、黙っている。暗い眼差しで、勘助の次の動作を見守っていた。勘助が息を詰めた。同時に、長脇差の切先を、肘のすぐ手前に突き立てた。一気に腕の側面を、手首のあたりまで切り裂いた。鮮血が長脇差の通過を追うようにして溢れ出た。 「こうやりゃあ、どんなもんで……」  苦悶《くもん》の表情で、勘助が唸《うな》るような声を出した。その左腕に、武吉が生乾きの手拭を投げかけた。勘助は痛みを堪《こら》えながら、笑って見せた。 3  二本桐の武吉と橋場の勘助が、湯治場を引き払って下部を旅立ったのは三日後のことであった。  三日も遅れたのは、勘助の左腕の傷口がふさがるのを持たなければならなかったからである。下部の町から奥の湯の湯治場へ呼んだ医師が、雑ではあったが一応傷口を縫合《ほうごう》した。あとは、目の前にある外傷によく効く下部の湯に、つかるだけだった。その結果化膿せずにすんだので、三日後にはもう旅立つことになった。だが勘助の左腕はまだ、晒《さらし》によって固く包まれていた。  下部を午前四時、七ツの早立ちをした二人は、甲府と東海道の岩淵を結ぶ身延山道へ出た。八日市、切石とすぎ、三里で鰍沢《かじかざわ》であった。男に関しては改めなしの鰍沢の関所を通り抜けて、五里歩くと甲府である。当時の渡世人の足は、一時間に六キロの速さで一日に七十キロを歩くことも珍しくはなかった。しかし、二人とも無傷な身体ではない。ということで、無理はしないつもりだった。  この日は十四里ほど行って、笹子峠の手前の宿場駒飼で泊る予定であった。明日は、少し足をのばして武州の八王子泊りになるはずである。二人とも手甲脚絆に道中合羽を引き回し、三度笠を目深にかぶった旅姿はまったく同じであった。だが、勘助が身につけている薄墨色の地に黒の棒縞《ぼうじま》という道中合羽は、武吉のものだった。武吉は代わりに、勘助の茶色の濃淡でできた縞の合羽をまとっていた。  それに勘助は、武吉の守り銭と言われている天保通宝を首に下げているはずである。ただ、長脇差だけは取り替えてなかった。武吉としても、それだけは手放したくなかったのだ。その鞘《さや》を鉄鐺《こじり》と胴金で締めてある長脇差は肉が厚く、野暮ったいほど頑丈にできている特別拵《こしら》えだった。それも三年越しに、寝起きをともにして来た武吉の分身であった。  勘助は、ひどく機嫌がよかった。もちろん、無事に目的を果すことができそうだという喜びもあるのだろう。しかし、それだけではなかった。二本桐の武吉になれたということが、嬉しくて仕方がないのである。ひとりでそれらしいポーズをとったり、妙に深刻な表情を作ったりして楽しんでいる。勘助には、そうした幼児性があるのかもしれない。武吉は意外に思った。初対面のときは根性のある男だと感じたが、いまその勘助の正体を見せつけられたようだった。やはり三下は、三下であった。  だが、武吉は勘助のその幼児性が気になった。悪い予感がするのである。何もなければ、ただ苦笑しているだけですむ。しかし、勘助が図に乗ってその必要もないのに、二本桐の武吉であることを誇示するかもしれない可能性に危険を感ずるのだった。何も敵は、野州一円の貸元とその身内衆とは限らない。憎しみも恨みもないのに、二本桐の武吉だというだけで殺そうとする人間がいるのである。  現に、武吉が、そういう目に遭っているのだった。そのとき受けた傷のために、一カ月以上も下部の湯治場で治療を続けなければならなかったのであった。襲われた場所は信州諏訪郡の茅野《ちの》と片倉の間にある神宮寺峠で、相手はまだ二十前の若い渡世人だった。その渡世人とは、前夜茅野の貸元のところに一緒に草鞋を脱いだ間柄であった。  行く先も同じだというので、その朝も一緒に旅立った。それだけに、用心深い武吉にも油断があったのである。神宮寺峠の下り道で、二、三歩遅れたと思った瞬間にその若い渡世人が背後から長脇差で突いて来たのだった。武吉は反射的に横へ逃げたが間に合わず、右肩から腋の下へ突き刺されていた。それでも武吉は振り向きざまに左手で長脇差を奪い取り、その若い渡世人を斬り殺したのであった。その後、片倉宿で医師の手当てを受け、半月ほど治療を続けてから下部の湯治場へ移ったのである。  その若者がなぜ武吉を殺そうとしたのか、明確な理由は未だにわかっていない。初めて会った相手だし、誰かに頼まれて武吉の命を狙ったにしては腕が悪すぎた。考えられるのは、二本桐の武吉を殺したという事実を看板に、自分の貫禄を宣伝することであった。二本桐の武吉の名前は、凄腕《すごうで》の流れ者ということで知れ渡っている。特に一昨年と昨年の二つの事件以来、一部の堅気の世間でも評判になったくらいである。  一昨年の事件というのは、無法者で知られていた一家十七人を相手に、下総《しもうさ》の神崎で修羅場を演じたことだった。一対十七で斬り合って、しかも相手に地面に手を突いて詫びを入れさせたのだから、評判になるのも当然であった。昨年の事件というのは、それに輪をかけて派手なものだった。東海道金谷宿の西にある金谷坂をそれたところで、清水次郎長と名のあるその身内衆三人と斬り合って、たったひとりの武吉は一歩も引けをとらなかったのである。  結果は双方傷つくこともなく、争いの原因も些細《ささい》なことだったので、次郎長の提案ですべてを水に流したと言われている。このときの清水次郎長は二十九歳、武吉より一つ若く、売り出し中の血気盛んな頃だったのである。しかし、このことがあってから一層、腕と度胸と貫禄の三拍子揃った恐ろしい流れ者として武吉の印象は強まったのであった。  そうした二本桐の武吉を殺したとあれば、大変な看板になることは確かである。三下の渡世人であろうと、一躍その名を知られることになる。それだけの腕と度胸を見込まれて、あちこちの貸元から誘いの声がかかる。少なくともこの世界では、貫禄のある兄貴分としての扱いを受ける。そのような効果を狙って、若い渡世人は武吉を殺そうとしたのに違いなかった。  近頃の若い者は、何をするかわからない。目的のためには手段を選ばないし、苦労をしないで名を挙げようとする。武吉は接近してくる若者に対して、特に警戒している、といったことが、勘助に理解できるかどうかが心配なのである。これから六日間の道中に、武吉になりきった勘助の身には、何が起るか予測できないのであった。 「おめえさん、腕には自信がありなさるのかい」  武吉は、念のためにそう訊いてみた。 「それが、からっきし駄目なんで。でも、ボロを出すようなことは、ありやせんぜ。二本桐の武吉だと口で言えば、もう長脇差を抜くこともねえんですからね」  勘助は、得意そうに白い歯を覗《のぞ》かせた。まるで、楽観している。二本桐の武吉という名前に、頼りきっているのだ。いい気なものである。憎めない男だが頼りにはならないと、武吉は緊張せずにいられなかった。  笛吹川を渡った。夏は船渡しだが、十一月から四月までは橋を渡れた。鶴瀬の関所を通り、その夜は駒飼宿に泊った。翌朝も七ツ立ちして笹子峠を越え、日野、中初狩、大月、猿橋、鶴川、吉野、与瀬とすぎた。そこで再び峠越えをする。暮れ六ツまでの通行時間にギリギリで駒木野の関所を抜けると、一里二十七丁で八王子だった。  八王子は宿場町としては横山と言われていて、甲州街道では最も数の多い三十四軒の旅籠屋があった。この横山宿に一泊して、翌日もまた七ツの早立ちである。このまま甲州街道を東へ向かえば、日野、府中、下高井戸、内藤新宿を経て江戸にはいる。しかし、武吉は四谷の大木戸をくぐりたくなかった。江戸というところが、嫌いなのである。  まだ十代の頃に無実の罪に問われて、入墨の仕置きを受けたことが、江戸に対する印象を悪くしているのだった。今更そんな過去のことに、腹を立てていられるほど清潔な心の持ち主ではない。だが、十二年前の屈辱の記憶は、まだ武吉の脳裡に鮮明に残っている。牢内の仕置場に据えられて、四人がかりで押えつけられる。十本の針を束ねたもので、容赦なく皮膚を剌す。その跡へ、墨をしみ込ませる。腫れが引くまでは、牢内に留め置かれる。三日たって腫れが引くと、そのまま追放されるのであった。  それからの十二年間、武吉は一度も江戸の地を踏んでいなかった。今度も、またそうであった。武吉は上高井戸から青梅街道にそれて、中野、下沼袋を通り川越道へ出た。川越道を突っ切って、間道伝いに北へ向かうと戸田の渡し場のほんの少し西に抜ける。戸田の渡しは、川の水が増すとすぐ不通になる。そのために土手の上の道が、迂回路として用意されていた。土手の道を江戸側は岩淵まで、その反対側は川口まで歩くのである。  二人は土手の道を岩淵まで行き、その日最後の船で川口へ渡った。川口宿は旅籠屋が少なくて、鮨詰めの相宿で一夜を過した。翌日も更に、七ツ立ちを続けた。川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻までは日光御成道と公称されている。将軍家が日光へ参詣するとき、ここを通るからであった。だが、一般には岩槻道と呼ばれていた。  川口から五里と少しで岩槻につく。岩槻からは四里八丁を行って、幸手《さつて》の宿場で日光街道と合流する。幸手宿で昼飯をすませて、栗橋の関所を通り川を渡って中田、古河《こが》をすぎての野木泊りであった。古河をすぎてから長い松並木があり、野木宿のすぐ手前でいよいよ野州都賀《つが》郡であった。  ここまでは、何事も起らなかった。それが当然でもあった。しかし、この野木宿についたときから、そうはいかなくなるのである。これから先、越堀に行きつくまでは、敵地も同じであった。この野木宿も、小山の喜左衛門の勢力範囲にあるのだ。勘助が先を行き、武吉はいかにも三下らしく一歩遅れてあとを追った。勘助は肩を怒らせて、気持よさそうに歩いている。だが、古河をすぎた頃から、武吉は勘助が話しかけても答えようとしなくなっていた。 4  たとえ勘助がなりすましているにしろ、二本桐の武吉という名前はできるだけ隠さなければならない。もちろん、旅籠での泊り帳付けにも、適当な名前を言っておくつもりだった。しかし、武吉のそうした思慮は、勘助に通じなかったのである。そのために、野州に足を踏み入れてすぐ、二本桐の武吉という名前が表面化してしまったのである。  野木の宿はずれで、ちょっとした騒ぎがあった。四、五人の男が寄ってたかって、四十前後の旅人を痛めつけていたのである。男たちはひとりを除いて、長脇差こそ所持していなかったが、一目でそれとわかるこの土地の渡世人だった。旅人は、気の弱そうな町人ふうの男であった。殴られ蹴られしながら、旅人は地面に額をこすりつけて助けを求めている。  そばで道中姿の六つぐらいの女の子が、声を上げて泣いていた。旅人の娘なのに違いない。宿場は夕暮れを迎えて、冷たい北風の中にあった。野木は小さな旅籠屋が並んでいるだけで、宿場としては鄙《ひな》びたところだった。旅人の足も跡絶えて、土地の人間はこの騒ぎに気づかないふりをして通りすぎる。何か理由があるにしても、哀れな父娘の姿だった。  だが、武吉はあえて、その騒ぎを無視した。長い間旅をしていると、余計なことに関わり合いを持たないほうが利口だと、つくづく思い知らされる。特に、渡世人の場合はそうであった。そのような教訓が、武吉の身にしみついている。武吉は冷やかに、騒ぎを一瞥《いちべつ》しただけだった。その顔には、人助けなどはするものでないと書いてあった。  しかし、勘助のほうが、そうはいかなかった。勘助は、足をとめた。追いついた武吉が、勘助の脇腹をつっ突いた。 「知らん顔をするんだ。先を急がなくちゃならねえ」  押し殺した声でそう囁《ささや》いて、武吉はさっさと歩き出した。五、六歩行って振り返ると、勘助が騒ぎのほうへ近づいていくところだった。武吉は、小さく舌打ちをした。しかし、もう間に合わなかった。勘助はすでに、渡世人の中へ割ってはいっていた。あるいは、二本桐の武吉という名前の効果を、試そうとしているのかもしれない。武吉が危惧した勘助の幼児性が、そこでも発揮されているのだった。 「なんで、なんで!」 「この野郎、どこのどいつだい!」  土地の遊び人たちが、口々に脅しの言葉を吐いた。勘助は三度笠をかぶったまま、のっそりと立っている。芝居っ気十分である。ひとりだけ長脇差を腰に落している男が、勘助と向かい合いになった。男は、長脇差の柄に手をかけていた。あとの連中も、一斉に腕まくりをした。 「いいから、手を引きな」  勘助が、凄味をきかせた声で言った。 「何だと!」  兄貴分らしい男が、長脇差を引き抜いた。ほかの四人も、勘助に詰め寄った。勘助は三度笠を前に傾けて、おもむろに道中合羽の前を開いた。右手を衿《えり》の間から覗かせている。その掌の上で、例の刀傷が残った天保通宝を弄《もてあそ》んでいた。これ見よがしに、天保通宝をふらつかせているのである。当然それに、男たちの視線が集まった。 「それが、何だというんだよ」 「この野郎、銭をぶら下げたりしやがって……!」  まだ若い渡世人が二人、そう罵声《ばせい》を張り上げながら勘助の肩のあたりを押しこくった。それらを、長脇差を抜いた男が制した。 「二本桐の武吉……!」  その男が顔を強《こわ》ばらせて、小さく叫んだ。とたんに、勘助を取り巻いていた人垣が崩れた。遊び人たちは、慌てて跳びのいた。どの顔にも恐怖の色があり、すでに逃げ腰だった。次の瞬間、連中は誰からともなく走り出していた。その後ろ姿は間もなく、野木宿の明かりの中に溶けて消えていた。  娘を抱きかかえた町人ふうの旅人が、勘助に向かって幾度も頭を下げている。勘助は無言で、鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いていた。やがて、旅の父娘も野木宿の中心街のほうへ去って行った。それを見送ってから、勘助はゆっくりと歩いて来た。クククククッと、笑い声が聞えた。勘助が三度笠の奥で、笑っているのである。 「凄えや、兄貴。二本桐の武吉っていう名めえには、大したご利益《りやく》がござんすね」  笑いが止まらず、勘助は身を揉《も》むようにしていた。まったく、無邪気に喜んでいる。武吉も、怒るに怒れなかった。 「おめえさん、あれで人助けをしたつもりなのかい」  武吉は、固い口調で言った。 「だって兄貴、あれを見捨てておけますかね」  勘助が不満そうに、笑いを含んでない声になった。 「人助けをしたために、自分が損をする。それほど、愚かなことはほかにねえ」 「あっしが、どんな損をしたって言いなさるんですかい」 「いまの連中の口から、二本桐の武吉が野州へ来たって小山の喜左衛門の耳へへえるだろう。明日中にもそのことは、野州一円の貸元衆に伝わるに違いねえ」 「大丈夫だ、兄貴。心配ねえって。いまの連中の慌て方を見たって、わかるじゃござんせんか」 「もし、武吉だと承知した上で、おめえさんに斬りかかって来たらどうする」 「そんなことは、金輪際ありはしませんよ。二本桐の武吉と思ったら、手を出さねえって決まったようなもんだ。それに兄貴、あっしは堅気の衆に手出しをする渡世人を許しておけねえ性分なんでござんすよ」 「結構な性分には、違いねえ。だがな勘助さん、そんな性分だったら二本桐の武吉はもうとっくに死んでるぜ」  武吉は、歩き出した。言っても、仕方がなかった。勘助には、頭でしか理解できないのだ。同じ渡世人でも、勘助と武吉は根本的に違う。十年以上も流れ歩いて、生か死かない野良犬の生活を続けて来なければ、頼れるのは自分だけということを肌で感ずるようにはなれないのである。  武吉と勘助は、『大和屋』という旅籠にはいった。客は、少ないようであった。野木の前後に古河、間々田、小山といった賑やかな宿場がある。旅人たちは、そうした宿場のほうを好む。野木宿が寂しくて、旅籠もすいているというのはそのためであった。小さな旅籠屋ばかりだし、一夜妻を勤めるような女もいないらしい。  その時代の旅籠屋に年季奉公している女には、三種類あった。勝手仕事をする水仕女《みずしおんな》、座敷へ膳部などを運ぶ女中で出居女《でいおんな》、それ以上に客と深く接する食売女《しよくばいおんな》である。この食売女が俗に飯盛《めしもり》女と呼ばれて、泊り客に肉体を売るのだった。宿場女郎など専門的な売春婦と違って、旅籠屋にいて酒の相手から身の回りの世話までする一夜妻だから情緒もあり、飯盛女は客の間で引っ張り凧であった。  野木宿には、そうした飯盛女もいなかった。しかし、公認の飯盛女がいないだけであって、その辺はどうにでもなる。武吉と勘助の部屋を受け持った出居女が、ポチャポチャとした小粋な女だった。愛嬌《あいきよう》もあって、さりげなく媚態《びたい》を示す。その気があるというやつで、口説けば応じそうであった。女は、勘助の膝に触れたりしていた。 「兄貴、女はどうですかい」  その出居女が夜具をのべて去ったあと、勘助がニヤニヤしながら言った。武吉は、長脇差をかかえたまま黙っていた。 「いまの女と、話がまとまったんですがね。お連れさんがお望みなら、もうひとり何とかするというんですよ」  勘助は、上《うわ》ずった声になっていた。出居女から親分さんなどと言われて、気をよくしているのだった。二本桐の武吉になったことが、あれほど越堀のことを心配していた勘助を変えてしまったようだった。 「女を抱いたら、これを抱くことができねえ」  武吉は、腕の中の長脇差に目を落した。無表情であった。 「へ、用心深えねえ」  勘助は、首をすくめた。 「それに、女は信用できねえ」  武吉は、立ち上がった。客が少ないから、隣室もあいている。武吉は境の襖《ふすま》をあけると、隣の部屋へ夜具を一組だけ引っ張って行った。行燈《あんどん》が一つしかない。真暗になってしまうので、武吉は襖を一枚だけあけておいた。五ツ半、九時をすぎた頃、化粧を濃くして長襦絆《じゆばん》の上に羽織を引っ掛けただけの出居女が、寒そうに肩をつぼめてはいってきた。 「こいつは、上玉に化けたもんだ。まるで、見違えるようだぜ」  勘助が、歓声を上げた。女は隣室の武吉のほうをチラッと見やりながら、行燈に近づいた。肩から滑らせた紫色の羽織を広げると、行燈を囲むようにして掛ける。部屋の半分が、紫色に染まった。赤い長襦袢一枚だけになった女は、勘助が蒲団を持ち上げて待っているその空間へ身体を横たえた。武吉は、あいていた襖をしめた。 「親分さん、二本桐の武吉さんっていうんでしょ」 「どうして、そんなことを知っている」 「宿場では、もっぱらの噂だもの。わたしも、二本桐の武吉という名前だけは知っていたしね」 「おめえが何で、渡世人の名めえなんかを知っているんでえ」 「二本桐の武吉だけは別なんですよ。いつもひとりで、大勢を相手にするんでしょ。下総では、十七人も相手に斬り合いをやったんですってね」 「もっと、艶っぽい話をしようじゃねえか」 「一度でいいから、会ってみたいなって思っていたんですよ。それがこうして会えた上に、一晩可愛がってもらえるんですもの」 「おい、そいつを引っ張っちゃいけねえ。首が締まるじゃねえか」 「これなんですね、みんなが話していた守り銭っていうのは……」 「そうだよ」 「あのお連れさんは、誰なんです」 「勘助っていう知り合いなんだ」 「この左腕に晒《さらし》を巻きつけているのは、何かを隠すためなんでしょ。入墨とか、古い傷とか……」 「痛え!」 「痛いって、古い傷がですか」 「古い傷だっておめえ、寒いときは痛みもするさ」  勘助は、しどろもどろになっている。 「寒いと言えば、今朝から急に冷え込みが厳しくなって、この陽気だと雪になるかもしれませんね」  女がふと、しんみりした口調になった、隣室のそうしたやりとりを耳にしながら、武吉は女の目的についてある察しをつけていた。女は調子のいいことを言っているが、もちろんそれは本心ではない。かと言って、単なる商売だけでもなかった。女は、間違いなく二本桐の武吉かどうかを確かめようとしているのである。  女の一存で、やっていることではない。女の背後には、さっきの遊び人たちがいる。あの中のひとりと、女は深い仲にあるのかもしれない。いずれにせよ、敵との接触がすでに始まっているのだ。いまはただ勘助がボロを出さないことを、念ずるほかはなかった。同時に、女が二本桐の武吉に違いないと判断した場合の明日以降が、気がかりであった。 「親分さんだったら……」  不意に、女の鼻にかかった声が聞えた。 「女を泣かせる腕のほうも大したものなの……。そんな、駄目、親分さん」  押し殺した声なので、一層甘えているように聞えた。しかし、言葉はそれだけで終わった。女の喘《あえ》ぎが急に荒々しくなり、テンポを早めてすすり泣くような声に変わった。勘助はいったいどんなつもりでいるのかと、武吉は苦笑しながら隣の部屋に背を向けた。女が囁くように、何やらわけのわからないことを口走っている。その合間に、堪えきれずに洩らした小さな悲鳴がはいった。  勘助は殺されるかもしれない。武吉はふとそう思い、左手に長脇差を握ったまま目を閉じた。 5  翌朝、野木宿を明け六ツに立った。これまでより、二時間ほど遅い出発である。もうそれほど、急ぐ必要はなかったのだ。予定としては今夜が宇都宮の先の白沢泊りで、明日の夕方には越堀につく。いずれも十二、三里の道程で、楽にこなせる距離だった。朝からどんよりした曇り空で、今日も風が肌を刺すように冷たかった。 「昨夜の首尾は、どうだったい」  歩きながら、武吉が笑いのない顔で言った。 「それが、兄貴。滅多にぶつからねえ上玉でしてね、いい身体をしてやがるんで」  真顔で答えてから、勘助は照れ臭そうに笑った。武吉は夜中にもう一度、女のすすり泣くような声を聞いていた。 「それで、せがまれて女に左腕の傷跡を見せたんじゃねえのかい」 「兄貴はどうして、それをご存知で……」 「まだ新しい傷だと、女は気がついたんじゃねえのかな」 「それを用心して、あっしも全部は見せなかったんですよ。墨で作った二本の入墨を、傷跡が貫いているところだけ、チラッと見せましてね」 「女は本物だって、信じたわけかい」 「へい」 「間もなく、その効き目が表われるぜ」 「効き目って……」 「ほら、見てみねえ」  武吉は、三度笠の中で顎をしゃくった。十メートルほど前を、三人の渡世人が歩いている。着流しだが、長脇差を腰にしている。その三人が代わる代わる、後方を振り向くのであった。明らかに、武吉たちを監視しているのである。 「見張りでござんすね」  勘助が、緊張した声で言った。 「後ろからも、二人ばかり同じようなのがついて来る」  武吉は、合羽の中で腕を組んだ。腕を組むだけでも、右肩に痛みを覚えた。今朝、夜具の上にすわったままで、右手で長脇差を抜いてみた。痛みは我慢すれば、それですむ。しかし、まだ自信がない。長脇差が重く感じられ、素早く振り回すことができなかった。 「野郎たちは、どこまで見張りを続けるつもりなんでござんしょうね」 「恐らく、小山までだろう。それから先は小山の喜左衛門の身内が、引き継ぐことになっているのに違えねえ」 「これから先は、ずっと……」 「だろうよ。二本桐の武吉が来たとわかったからには、黙って知らん顔をしているはずがねえ」 「でも、手出しはしねえでしょう」 「わからねえ。四年めえとは、事情も変わっているだろう。大分、雲行きが怪しくなって来たようだしな」 「兄貴、嚇《おどか》しっこなしにしておくんなさいよ」 「何か仕掛けて来るとすりゃあ、小山の先の新田あたりだろう」  言葉だけではなく、武吉はそのように覚悟を決めていた。これまでの経験から推して、そう思われるのである。土着の渡世人は、人目の多い場所では事を構えようとしない。堅気衆の評判やお上の目を、気にするからであった。この先、小山、小金井、石橋、雀の宮といずれも賑やかな宿場町が続く。ただ一つだけ小山と小金井の間にある新田宿の周辺が、鄙びた土地柄なのであった。  野木から一里二十七丁で間々田、間々田から一里二十五丁で小山であった。果して小山で、前後にいた男たちが消えた。代わりに、道中支度をした渡世人たちが姿を現わした。いよいよ、本格的な監視体制であった。道中支度をしているのは、このまま越堀までも行くというわけなのだろう。渡世人たちは、二人ずつ組んでいた。しかも、前後だけではなかった。  二人ずつの渡世人が、前だけでも三組いた。後ろには、二組だった。もう二組が、武吉と勘助のあとになったり先になったりしている。声をかけて来たりはしないが、連中の視線が絶えず武吉たちを窺《うかが》っていた。いい気持はしないやり方だった。確かに、雲行きが怪しくなって来ていた。小山宿を抜けると、一里十一丁で新田であった。  梅の花が、咲いている。寒風の中で、その色が可憐であった。人家が疎《まば》らになり、気のせいか旅人の数も減ったようである。空の雲行きも怪しく、雪でも舞って来そうだった。勘助の足どりが、早くなっていた。自然に身体が、武吉のほうへ寄って来る。さすがに、不安になって来たのだろう。 「落着け。おめえさんは、二本桐の武吉なんだぜ」  武吉が、触れ合う勘助の三度笠の奥へ小声で言った。 「だけんど、兄貴。相手がだんだん、多くなるようですぜ」  勘助は、息を弾ませていた。その通り、二人一組の渡世人が更に四組ほど多くなっていた。小山の喜左衛門の身内に、石橋の徳太郎の身内も加わったのに違いない。無気味な雰囲気になっていた。この場で斬り合うようなことになったら、たちまち二本桐の武吉の正体が発覚してしまう。  二人が、別行動をとるほかはなかった。と言うより、勘助を逃がすのだ。二本桐の武吉としての勘助が逃げてしまえば、少なくとも正体がバレるということはない。ひとり残った武吉も、勘助で押し通すことができる。 「急ぐんだ。先頭の野郎たちを追い抜いたら、おめえさんだけ先に行く。落ち合う場所は、宇都宮の池上町にある『金もち屋』という茶屋にするぜ」  武吉はそう言って、足の運びを早めた。 「宇都宮の定七郎の鼻先へ顔を出して、大丈夫なんですかい」  勘助も、武吉と肩を並べて歩いた。 「宇都宮は、七万八千石のご城下だ。まず心配はねえ」  城下町であれば、取締まりが厳しくて滅多なことはできない。その点で、宇都宮は最も安全なところであった。やや小走りに近い速度で、二人は歩き続けた。旅人や馬ともどもに、二人一組の渡世人を次々と追い越した。やがて先頭の一組を追い抜いて、しばらく行ったところで武吉が速度を落した。勘助だけが、みるみるうちに遠ざかった。四、五組の渡世人が武吉にはかまわず、勘助のあとを追って行った。  もう、新田宿であった。武吉は宿はずれの、掛け茶屋にはいった。武吉は掛け茶屋の老婆に、甘酒を注文した。三度笠もはずした。あとから来る渡世人たちが、ここに寄ることを予測していたのである。あるいは、乱暴されるかもしれない。しかし、ここで少しでも手間をとらせて、勘助を無事に逃すためには仕方のないことだった。  予期していた通り、道中支度の渡世人たちが続々と掛け茶屋の中へはいって来た。十四人はいると、武吉は目で読んだ。連中は、武吉を取り巻くようにした。武吉は、目を伏せた。 「おめえは、二本桐の武吉の連れだったな」  目の前の大男が、武吉の顎に手をかけた。 「へい」  武吉は、顎に手をかけられたまま頷いた。 「名めえは?」 「勘助でござんす」 「武吉とは、どういう間柄だ」 「幸手宿で相宿になり、それからずっと一緒に道中させてもらっただけなんで……」 「嘘じゃねえだろうな」 「へい」 「おめえの面《つら》を見ると、ただの三下奴には思えねえぜ」 「とんでもねえ。小博奕《こばくち》しか打てねえ三下でござんす」 「野郎!」  大男がいきなり片手で支えた武吉の顔を、もう一方の手で左右から殴りつけた。武吉の顔が首振り人形のように動き、板を叩くような音がいつまでも続いた。武吉は両頬への衝撃を十八回まで数えていたが、馬鹿らしくなってやめた。鼻血と口の中から噴き出した血で、武吉の顔は真赤に染まった。  大男は殴りつけるのをやめると、武吉の襟首を掴んで投げ飛ばした。武吉は掛け茶屋の中から飛び出して、前の路上に転がった。渡世人たちもすぐあとを追って来て、武吉を取り囲んだ。武吉は右肩を庇《かば》うようにして、地上に蹲《うずくま》った。たちまち八方から、渡世人たちの足が飛んで来た。右肩を庇っているので、背中と腹、腰と左脇腹を容赦なく蹴りつけられた。武吉は昨日野木宿で痛めつけられていた娘連れの旅人の哀れな姿を、思い描いていた。 「勘弁なすっておくんなさい」  武吉は転がったまま、男たちに繰り返し声をかけた。 「何を企んでいるのか、言ったらどうでえ!」 「武吉と一緒に急に足を速めたのは、なぜなんだ!」 「どうして、おめえだけがここに残った!」 「武吉は、どこへ行きやがったんだよ!」  男たちが口々に、怒声を発した。 「企みも何も、ありはしねえんです。あっしはただ武吉さんに足の速さを較べてみようと言われて、そうしてみたけどとても続かねえからやめただけなんですよ。へい、だから勘弁しておくんなさい。この通りでござんす」  武吉はすわり直すと、地面に額をすりつけた。あたりが、静かになった。遠巻きに人垣を築いている野次馬連中も、息を殺して成り行きを見守っていた。武吉のところへ、掛け茶屋から出て来た渡世人のひとりが近づいた。その男は、湯気の立つ大きな湯呑を手にしていた。湯呑の中身は、熱くした甘酒なのである。 「本当のことは、身体に訊《き》いてみようじゃねえか」  その男は、武吉の左手首を踏みつけた。男はその真上で、湯呑を傾けた。見物人の中で、何人かの女が顔をそむけた。湯呑から武吉の左手の甲へ白い直線を描いて、熱湯に等しい甘酒が流れ落ちた。 「あっしは、何も知らねえんで! 知らねえことは、言いようがござんせん!」  苦痛に顔をゆがめて、武吉は叫んだ。手の甲に炭火を山積みにされたような、熱さとも痛みともつかない感覚であった。武吉は、歯を食いしばった。甘酒を残らず流したあと、渡世人のひとりは武吉の手首の上から足を引いた。 「やっぱり、ただの道連れらしいな」  その渡世人が、もう一度武吉を蹴倒しておいてから言った。 「昨夜野木宿で女を抱いたのは武吉だけで、こいつは涎《よだれ》を流しながらお預けを食ったというから、三下には違いねえな」  そんな言葉が聞えて、渡世人たちはどっと笑った。 「だったら、先を急ごうぜ」  武吉を殴りつけた大男が、振り返ってそう言った。渡世人たちが、一斉に歩き出した。武吉は、ようやく起き上がった。顔は血まみれだし、左手の甲が赤く腫れている。下総では、十七人を相手にした。肩が多少は不自由であっても、十四人を相手にやれないことはない。全身の痛みが、そんな考えを起させる。だが、あえて武吉は目を閉じた。  野次馬の人垣が崩れかけていた。同情するような眼差しで、あるいは嘲笑の顔で、また薄気味悪そうに武吉を見やりながら、人々は散って行った。 6  勘助は約束通り、宇都宮の池上町にある茶屋『金もち屋』で待っていた。何事もなかったらしく、勘助は無事な姿を見せた。連中にも、追いつかれなかったという。当然、宇都宮のどこかにいるとは知らず、二本桐の武吉を追っているつもりで先へ進んでいるのだろう。一応、連中をやり過した、という形になったわけである。 『金もち屋』は、建物も立派でかなり大きな茶屋であった。給仕女を使っていて、金もちと称する餅が名物だった。この地の名産品とされている紙タバコ入れ、金扇、かんぴょう、晒木綿などを売っていた。武吉は一服しただけで、勘助を伴い『金もち屋』を出た。宇都宮で道は、日光街道と奥州街道に分かれる。  二人は、奥州街道へはいった。薄暗くなった空から、白いものがパラつき始めた。宇都宮から二里と二十五丁で、白沢宿であった。ここにも大した旅籠屋はないが、中でもいちばん目立たない旅籠を選んでそこに泊ることにした。いよいよ甲州下部からの長旅も、今夜が最後の晩になる。明日が勝負だった。それだけに、厳重な警戒が必要であった。  佐久山の竹蔵と兄弟分の関係にある貸元衆は、どうやら十数人ずつの子分たちを提供する考えらしい。親分自身は、直接関与を避けている。道中支度で二人を追い越して行った連中は、小山の喜左衛門と石橋の徳太郎の身内たちなのだ。宇都宮の定七郎の子分も、恐らく佐久山の竹蔵を助けるために先へ行っているのに違いない。  あと残るのは、阿久津の藤八の身内衆だけであった。そしてこの白沢は、阿久津の藤八の縄張り内にある。この先の阿久津《あくつ》、氏家《うじいえ》、喜連川《きつれがわ》をすぎると、そこからは佐久山の竹蔵の支配下にあるいわば敵の本陣だった。恐らく佐久山と越堀の間に、竹蔵一家とそれを助勢する各貸元の身内たちが集結することになっているのだろう。  だからと言って、誰もが先へ行って待っているというわけではない。武吉の退路を塞《ふさ》ぐ者が、いるのに違いなかった。それがどうも、この一帯を縄張りとしている阿久津の藤八の子分たちの役目であるような気がする。武吉は、そう見当をつけた。その見当は、的をはずれていなかった。翌朝、旅籠を出ようとして草鞋をはき終わった武吉と勘助の眼前に、十人ばかりの渡世人が姿を現わしたのであった。  着流しでこの土地のやくざであることは、一目で知れた。もちろん、阿久津の藤八の身内である。男は手に手に長脇差を持って、旅籠屋の土間に立ちはだかった。女たちが悲鳴を上げて奥へ逃げ込み、出立間際の旅人が慌てて外へ逃げ出した。勘助が蒼白な顔で、男たちを睨みつけた。 「何か用かい」  勘助が男たちの目の前で、左腕に巻いてある晒をほどき始めた。勘助は今朝、左腕の新しい傷に細工をしていた。傷跡に火鉢の灰をまぶしては、それを摺《す》り込んだのである。そうすると傷跡が黒くなり、光沢を帯びるようになる。一見、古い傷のようになるのであった。勘助はそれを、男たちに披露するつもりらしい。  なるほど、うまくできてきた。墨で描いただけの二本の入墨を断ち切っている傷跡は、どう見ても古いものであった。目を近づけなければ、新しい傷とはわからない。片肌脱いだ勘助のその左腕を見ると、男たちは緊張しきった顔になった。勘助は改めて手甲をつけ、おもむろに着物を元通りにした。 「何か用かって、訊いているんだ!」  突然、大声を張り上げて、勘助が長脇差を杖のように突き立てた。タイミングのいい威嚇《いかく》であった。男たちは、はっとなって半歩身を引いた。勘助は居並ぶ藤八一家の身内を、睥睨《へいげい》している。本人は真剣なのだろうが、何となくハッタリを楽しんでいるような感じがした。 「おい、武吉……」  真中にいた一同の指揮を任されているらしい男が、気をとりなおしたように口を開いた。顔には無理に作った笑いを、浮かべている。 「おめえさんが右の肩に傷を受けて、甲州下部の奥の湯の湯治場にいたという話を耳にしたぜ」 「その通りさ。それが、どうしたというんでい!」  勘助は一瞬、相手の視線を避けるように目を伏せた。 「噂によると、おめえの肩の傷はすっかり直ったわけじゃあねえそうだ。どうでえ、二本桐の武吉の右腕らしくは使えねえんじゃねえのかい」  男は探るように、勘助の右腕に視線を這わせた。 「生憎だな。ほれ、この通りだ」  勘助は、右腕をぐるぐる振り回して見せた。 「どんなもんかねえ。ただ動かすのと長脇差を持ったのとでは、えれえ違いがあるんじゃねえのかい」  男もまた、強いて笑って見せた。武吉は、まずいことになったと思った。武吉の右肩の傷が完全に恢復してはいないと、そんな噂が耳にはいったらしい。ここで、その真偽を確かめようとしているのだ。武吉になりすました勘助に、まず長脇差を抜かせてみせて右腕が十分に使えないとわかったら、一斉に斬りかかる。もし右肩の傷が完全に治癒していると見れば、恥も外聞もなく逃げてしまう。そういう魂胆なのである。  勘助が、長脇差を抜く。そうなったら、もうハッタリは通用しない。一度でも斬り合いを経験している人間ならば、長脇差を抜いたときの感じでどのくらい腕が立ち、度胸があり、喧嘩剣法に馴れているか一目でわかるものだった。勘助が長脇差を抜いたら、渡世人たちはこれなら大したことはないと直感するはずである。同時に二本桐の武吉ではないと、ピンと来るに違いない。いずれにせよ、勘助に長脇差を抜かせてはならなかった。 「兄貴、どうか長脇差を抜かねえでおくんなさい。あっしは兄貴が長脇差を抜く度に、寿命が縮んじまうんでね」  武吉は間髪を入れずに、勘助の前に回って腰をこごめた。武吉の真意が通じたらしく、勘助は目で頷いた。 「引っ込んでろ、この三下奴め!」  統率者である中央の男が、武吉の肩に手をかけて激しく引き倒した。武吉は仰向けに、土間へ転倒した。勘助がハッとなって、長脇差へ手をやった。武吉は、何もするなと勘助に目顔で知らせた。 「おい、三下。こうされても、腹は立つめえだろうな」  男が、ペッと唾を吐きかけた。量感のある唾が、武吉の額から目尻、そして頬にかけてべっとりと流れた。 「どうだい、口惜しいかい」  男が、その武吉の顔を唾の上から、草履で踏みつけた。勘助が再び、前へ出そうな気配を見せた。 「いえ、口惜しくはござんせん。あっしは何よりも、命のやりとりといった騒ぎが嫌いなんで……」  武吉は起き上がって、土間にすわり込んだまま頭を下げた。 「変わった渡世人も、いるもんだなあ」  男は、仲間を振り返って言った。連中が、ゲラゲラ笑い出した。武吉の顔を指さして、吹き出した者もいた。唾の上から泥足で踏まれたので、武吉の顔半分が.真黒になっていたのである。武吉はさすがに、強ばった表情になり目を伏せた。勘助も白くなるほど、唇をかみしめていた。 「どうでえ、おれたちの股をくぐってみねえかい」  男がそう言って両膝を広げ、着物の据をくるりと端折《はしよ》った。ほかの連中も、列を作ってそれに倣《なら》った。十人の男の股ぐらで、トンネルができたわけである。 「いいかげんにしねえか! おめえたち、この武吉を本気で怒らせるつもりか!」  堪えきれなくなった勘助が、そう怒声を発した。長脇差を持った左腕が、小刻みに震えている。しかし、阿久津の藤八の身内たちは、それを完全に無視した。勘助を怒らせるのが目的なのである。そのために、武吉を嬲《なぶ》り物にしているのであった。武吉だとばかり思い込んでいる勘助に、長脇差を抜かせたいのだ。勘助は、その手に乗ってしまいそうだった。  この際は、仕方がなかった。勘助がムキになるのを、何とか防がなければならない。武吉は四つん這いになって、最初の男の股をくぐった。相手を堅気だと思えばいい。武吉はそう、自分に言い聞かせた。堅気の人々の股をくぐったならば、渡世人としてそれは恥辱でも何でもない。むしろ、腹を立てるほうが、思い上がった渡世人ということになる。  六人目の男の股をくぐったとき、武吉は勘助の身に危険が迫っていることに気づいた。最初に股をくぐった男が、勘助の背後に回り込んでいたのである。すでに、長脇差を抜いていた。武吉が侮辱を受けている光景を見ていられないのか、勘助は固く目を閉じている。それもあって勘助は、背後に迫っている危険にまったく気がついていない。  武吉はすぐそばの、水桶に目をやった。旅籠屋の小女が、雑巾《ぞうきん》がけをしていた途中だったのである。水桶をそのままにして、少女は奥へ逃げ込んでしまったのだった。武吉が、不意に立ち上がった。股をすくわれた恰好になって、男が二人ばかり尻餅を突いた。同時に武吉は水桶をかかえると、勘助の背後にいる男へ投げつけた。桶はその腰にぶつかり、こぼれた水の中へ男は倒れ込んだ。 「逃げるんだ!」  武吉は、勘助に声をかけた。勘助のほうが先に、旅籠屋の外へ飛び出した。視界は、白一色であった。雪はまだ、降り続けていた。しかし、舞い落ちて来る程度で、空の雲にも切れ目が見えていた。二人は、雪を蹴って走った。春の淡雪は固く積らず、滑る心配はなかった。 「すまねえ。辛い思いをさせた上に、命まで救ってもらって……」  白い息を吐きながら、勘助が言った。武吉は、黙って走り続けた。いまのところ、誰かが追って来るという心配はなかった。一里半ほど走り続けて、氏家をすぎたあたりから二人は普通の歩調に戻った。この辺から、上り下りの坂道が多くなる。喜連川の宿場を抜けて、つるが坂を下るともう佐久山の竹蔵の縄張り内であった。越堀を侵略しようとしている張本人のお膝下で、いわば敵の本拠へはいったのである。  何かが、起るはずだった。 7  若林という村落にさしかかったとき、果して喧嘩支度の渡世人が五人ほど道端に屯《たむろ》していた。佐久山まで、あと一里たらずの地点であった。あたりに、人影はなかった。喧嘩支度の渡世人が出張って来たりすれば、村人たちが家の中に引きこもってしまうのは当然のことだった。雪の中にひっそりと、人家が点在しているだけであった。  雪の白さが目立つのは、田畑が多いせいである。遠く日光や那須の連山が、まだ冬化粧をしたままで見えている。雪の上を雀が無心に歩き回り、梅の花がそっと覗いているのが早春らしい風情であった。風に吹かれて木の梢から舞い落ちるところが、いかにも春の淡雪らしい。行手を遮《さえぎ》った渡世人たちの髷や肩にも、頼りなさそうな淡雪がかかっていた。 「おめえ、二本桐の武吉だな」  渡世人のひとりが、武吉を庇うようにして立った勘助に言った。あとの男たちは、一斉に竹槍をかまえた。 「佐久山の竹蔵の身内かい」  勘助が、道中合羽の前を勢いよく左右に開いた。 「ところで、武吉。おめえは越堀の仁五郎のところへ、行くつもりなんだろうな」  渡世人のひとりが、侮辱するような笑いを口許に漂《ただよ》わせた。 「わかりきっていることを、訊くんじゃねえ」  勘助が言った。 「仁五郎のところへ、いってえ何しに行くんだ」 「何だと……」 「仁五郎はもう、越堀にはいねえぜ。越堀はそっくり、竹蔵親分の縄張り内にへえったのさ」 「仁五郎親分は、どうしなすったんだ」 「昨日、身寄りを頼って岩代の国は福島へと、落ちて行きやがった」 「どういうわけで、そんなことになったんだい!」 「三日めえに、娘のお絹が首をくくって死んだからよ」 「お嬢さんが、首をくくった!」 「うちには時次郎さんという大した軍師が、親分の片腕としてついているんだ。その時次郎さんが、仁五郎の縄張りを血を見ねえで頂こうという考えから、娘のお絹に言い寄ったのさ。お絹はそんなこととは露知らず、時次郎さんに夢中になっちまった。ところが、そのことが仁五郎の耳にへえったから大変だ。怒り狂った仁五郎は、お絹を家の外へは出られねえようにしたっていうわけさ。お絹は三日めえ、男恋しさに到頭自分の部屋で首をくくってあの世行きだ。それで仁五郎は何もかもいやになり、縄張りも捨てて福島へ立ち退いたという哀れな話でね」 「そんなこととは、ちっともしらなかった……」  と、勘助は絶句した。その背後で、武吉はまったく無表情だった。竹蔵の子分の話が、嘘だとは思っていなかった。この場合、そんな作り話は意味がないのである。それに岩代の国福島に遠縁の者がいるから、隠居したらそこへ行ってのんびりしたいといった話を、仁五郎に聞かされたことがあった。その通り一切を捨てて、仁五郎は福島へと立ち退いたのであった。それが、昨日のことだという。そんな心境にさせられたのは、お絹の自殺が原因だったらしい。  お絹は事もあろうに、宿敵佐久山の竹蔵の片腕とされている時次郎という渡世人と恋仲になった。時次郎は一つの策としてお絹を口説いたのだそうだが、女は夫婦になりたいとまで一途に燃え上がってしまったのだ。もちろん、仁五郎がそれを許すはずはない。娘を時次郎の嫁にやることは縄張りを相続させる結果にもなるし、仁五郎の頭の中にはお絹の相手は武吉という考えもあったのだ。  しかし、お絹はもう、娘盛りをすぎていた。焦りもあっただろうし、女としての生理が男を求めていたのに違いない。肉体関係にある時次郎を、恋しがるなというほうが無理だった。仁五郎によって家の中に監禁されたお絹は、三日前に自分の部屋で首を吊ったという。だが、武吉はそれを別に、悲劇とは感じなかった。お絹を哀れだと思う。ただ、それだけのことだった。  また、無駄足をしたという挫折感も、武吉にはなかった。これといって目的のない流れ者の渡世人に、徒労とか無駄骨とかは付きものであった。すべてが無意味で、その徒労そのものかもしれなかった。ただ、武吉の中で何かが爆発した。竹蔵とその片腕時次郎はもちろんのこと、この二日間に接した渡世人残らずを許せない。堪えていたもの、鬱積していたものが一度に溶岩のようになって噴き出したのである。 「畜生!」  突然、勘助が大声で叫びながら、長脇差を抜いた。そのまま勘助は野獣のように吼《ほ》えて、竹蔵の子分たちの中へ斬り込んで行った。武吉が待てと声をかけたとき、勘助は竹槍を持った四人を相手に雪を蹴立てて畑の中を走り回っていた。だが、間もなく転倒した勘助の姿が、雪に沈んだ。そこへ四人の渡世人が繰り返し、竹槍を突き立てた。勘助の絶叫が聞えて、それもすぐ静かになった。  勘助が死んだ。あの勘助が殺された。武吉の胸をふと、冷たいものが吹き抜けた。爆発が、更に重なった。もう我慢できないと、武吉は口の中で呟いた。武吉は左手で、右の肩を掴んだ。痛みはあった。しかし、それを痛みと感じなかった。右の肩が、大丈夫と答えたその声が痛みなのだ、と武吉は思った。 「野郎!」  一喝したとたん、武吉の右手には長脇差があって、雪の上に真赤な血が散っていた。そのあと、ひとりだけ残っていた竹蔵の子分が、崩れるように地上へ倒れた。血が水のように流れて、そこは赤い雪となった。そのとき三度笠と道中合羽に身を固めた武吉の姿は、すでに二十メートルほど先を雪を蹴散らしながら佐久山の方向へ急いでいた。  佐久山宿を通りすぎたのが四ツ半、午前十一時であった。渡世人の姿は、特に見当らなかった。太田原飛騨守一万千四百石の城下町太田原をすぎたときが、正午である。ここにはもちろん、喧嘩支度の渡世人が徘徊《はいかい》しているようなことはなかった。太田原から越堀の手前の鍋掛宿までが三里三丁、この間には小さな村落が散在するだけで渡世人が事を構えたりするには絶好の場所であった。  平野部から山岳地帯へ続く高原で、上り下りの激しい道にカーブも多かった。街道に沿って山の斜面や竹藪、針葉樹林があって、旅人の往来が絶えると山道を行く感があった。その旅人の姿が、いまは殆ど見られなかった。雪が降ったので、道中を見合わせた人が多いのである。しかし、それだけではない。恐らくこの先に、物騒な渡世人が集結しているのに違いない。そんな状態を見れば、旅人は当然道中を遅らせるはずだった。  太田原をすぎて二里ほど行ったとき、武吉は渡世人の一団に追いついた。その道中合羽に見憶えがあった。二人一組になって、武吉と勘助の前後を固めながら宇都宮へ向かった小山の喜左衛門、石橋の徳太郎の身内たちである。人数は、三十人ほどいた。頭数が殖えているのは、宇都宮の定七郎の子分も加わっているからに違いない。  武吉は、歩きながら三度笠のヒモを解いた。雪はもうやんでいる。一部には、青空も覗いていた。武吉は、はずした三度笠を投げ捨てた。足を早めて、渡世人の一団の最後尾に近づいた。二、三人の渡世人が、振り返った。武吉は、長脇差を引き抜いた。肉の厚い長脇差だから、振り回すと重い唸《うな》りを発した。三人の渡世人が、叫び声を上げた。ひとりは顔を割られ、もうひとりは胸を突き剌され、あとのひとりは右腕をもぎ取られていた。その右腕が、赤い霧を噴きながら雪の上を転がった。  渡世人たちが、一斉に左右に分かれた。それぞれが長脇差を抜き、その度に閃光が走った。武吉は、あけられた道を歩いた。手出しをしようとする渡世人だけに、武吉の長脇差が唸りを生じて飛んだ。右側に対しては振りおろし、左側に対しては突き刺すのである。無造作に動いているようだが、武吉の長脇差が走る速さは目にとまらないくらいであった。苦悶の絶叫が静寂を裂き、雪に沈んだ渡世人の数が七つになった。 「勘助とかいう三下じゃねえか。味な真似をしやがって!」  前のほうから走って来た大男が、凄まじい形相《ぎようそう》で吼えた。新田の掛け茶屋で、武吉をさんざん殴りつけ投げ飛ばした大男である。その背後に、武吉の左手の甲に熱い甘酒を浴びせた男もいる。  武吉を蹴飛ばした連中も、顔を揃えていた。 「勘助じゃねえ。二本桐の武吉だ」  武吉は、表情のない顔で言った。 「何だと!」  大男は、慌てて跳びのいた。驚愕と動揺のざわめきが、渡世人の間に広がった。武吉の長脇差が、大男の面上に走った。大男の顔が血で染まり、石榴《ざくろ》の実のように裂けた。続いて脇腹を深々と刺されて、大男は横転した。武吉はその背後にいた男の左腕を肩から斬り落し、更に右腕の手首を切断した。甘酒を浴びせた男は、狂ったように喚きながら雪の上を転げ回った。  渡世人たちは、太田原の方向へ一目散に逃げ出した。逃げ遅れた二人が、武吉に背中を突き剌されて大きくのけぞった。風が吹いて、杉の林でバサバサと雪の落ちる音がした。遠くを、渡世人たちがクモの子を散らすように逃げて行く。路上に十二人の人影が、黒々と横たわっていた。それらを冷やかな目で見やってから、武吉は何事もなかったような顔で歩き出した。  渡世人同士の喧嘩剣法というものは、場数を踏んだために身についた一種のカンと要領、それに度胸によって八分通り決まる。まず、逃げ腰になったほうが負けであった。そのために受け身になり、結果的には負傷する。この場合、即死というのが意外に少ない。そこが、武士の剣と違うところであった。長脇差などもすぐ折れてしまう恐れがある。従って、突き刺すことが喧嘩剣法でもあった。  武吉は数の上では、三十人の渡世人と対決した。しかし、下総で十七人を相手に斬り合ったときと、本質的には変わりなかった。相手は武吉と知ったとたんに、その殆どが戦意を失っていた。更に血を見て、逃げ腰になった。結局、三十人のうち十二人までが武吉の手にかかり、あとの十八人は逃走してしまった。路上に転がった十二人も、完全に絶命したのは四人だけであった。  一対三十で武吉が息を荒くするのが精々だったのも、実質的には気力で勝ったからである。  練貫《ねりぬき》というところまで来た。川が流れている。那珂川の支流であった。何軒かの人家を背景に、三十人近い男たちが川べりに並んでいた。焚火が二メートルも炎を上げ、その周囲に竹槍を持った連中がいる。喧嘩支度には違いないが羽織を着た男が、その連中に護衛されているのだった。羽織を着た三十七、八の男が、佐久山の竹蔵に違いなかった。  渡世人たちは竹蔵の身内と、阿久津の藤八から派遣された助っ人である。この三十人が、竹蔵に残された最後の手勢であった。武吉は道中合羽をそっくり背中に回して、一直線にその一団との距離を縮めて行った。  最終的な対決のときが、来たようだった。 8  武吉は、無言であった。武吉を竹槍で包囲した渡世人たちも、容易には突っかけて来なかった。ここにいる連中はすでに、二本桐の武吉であることを知っているらしい。明らかに、武吉を恐れている。武吉は、もう斬るということをしなかった。長脇差が折れることを警戒していたのである。突き刺して、相手を斃《たお》す。あとは竹槍を弾き返すのが、精々であった。  武吉は、一方へ走った。手近な男の腹を突き剌す。それだけで、包囲の輪は崩れた。武吉も包囲する側のひとりとなったような形で、逃げる渡世人を順繰りに背後から突き刺した。七、八人が戦意を喪失して、みずから水の冷たい川の中へ落ち込んだ。その七、八人は、阿久津の藤八の子分たちに違いなかった。武吉は右に左に走り、竹槍を弾き飛ばしては突き刺した。  そんなとき、太田原の方向からひとりの渡世人が疾走して来た。武吉の口許に、チラッと微笑が浮かんだ。その渡世人は、紛れもなく橋場の勘助だったのである。勘助は、何とか無事だったらしい。そう思った武吉の口許から、笑いは消えていた。勘助は五体満足で、血を流してもいなかった。しかも、その表情がこれまでの勘助とは、まったく違っていたのだった。 「勘助さん……」  武吉は、突き差した長脇差を引き抜きながら、そう声をかけた。しかし、勘助は振り向きもしなかった。そのまま武吉の脇を通り抜けて、焚火を囲んでいる五、六人の中にはいり込んだ。それだけではなかった。勘助は佐久山の竹蔵に、何やら話しかけたのであった。勘助に耳を貸していた佐久山の竹蔵の顔から血の気が引いて、その表情が強ばった。 「勘助!」  武吉は、焚火に向かって突進した。子分たちが竹槍を揃えたが、竹蔵はすでに逃げ腰であった。 「おいらは、勘助じゃねえんだ!」  勘助ではないという勘助が、鋭く言い返した。その三枚目的な要素も幼児性も、いまはまるで感じられなかった。貫禄や凄味さえあった。 「すると、おめえは……」  一瞬、武吉の目に自嘲的な笑いが走った。 「そうよ。佐久山の貸元の右腕と言われている橋場の時次郎だ」 「おめえが、軍師の時次郎か」 「越堀の縄張りを頂きたくても、二本桐の武吉が恐ろしくてできねえという話だ。そこでおいらは、仁五郎の娘を誑《たら》し込むことにした。それはうまくいったが、仁五郎がそれを知ってお絹を家の中へ閉じ込めたことから、何もかも駄目になりやがった。こうなったら、血を見るより仕方ねえ。それには、二本桐の武吉が目の上のコブ……」 「それで、おれをここまで誘《おび》き寄せて一緒に片付けよう、という寸法だったわけか」 「そのためにあちこちの貸元衆から、助っ人を出してもらうことに手筈も整っていたし、現に六十人ほど集まって来ていた。ところがそのうちの三十人が、ここに着くめえにおめえに斬られたり追い払われたりで散っちまいやがった」 「軍師の手落ちだぜ」 「だからいま、そのことを親分にお知らせ申し上げたのさ。助っ人はもう来ねえ、どうぞ覚悟しておくんなさいってね」 「越堀のお貸元は福島へ引っ込んで、その縄張りもそっくり手に入れたっていうのに、おれを誘き寄せたってことが逆目に出たわけじゃねえか」 「三日めえにお絹が首をくくり、そのために仁五郎があっさり越堀から立ち退いた。そいつは、おいらも知らなかったことだ。この折に二本桐の武吉を叩っ斬れと、貸元衆は初めからの策をそのままに、おめえを待ち受けていたという話だぜ」 「それにしても、おれひとりを殺すのに六十人も集めるとは、よっぽど気の小せえ親分ばかりだと見えるな」  武吉は後ろから突っかけて来た男の竹槍をかかえ込んで、逆手に持ち変えた長脇差で背後を刺し通した。悲鳴を上げた男が前のめりになって、焚火の中へ倒れ込んだ。炎が揺れて、無数の火の粉が舞い上がった。振り返ると、十人ばかりの渡世人が闇雲に逃げて行くところだった。助っ人はもう来ないという時次郎の話を聞いて、急に命が惜しくなったのに違いない。  残っているのは佐久山の竹蔵と橋場の時次郎のほかに、四人の子分だけであった。武吉は連続して子分二人の胸を突き刺し、逃げ出した二人に追い縋《すが》って肩から背中へ斬り下げた。焚火の炎が、小さくなっていた。そのすぐ脇に、佐久山の竹蔵がすわり込んでいた。全身で、震えている。青い唇が目立つだけで、顔色は白い紙のようであった。少し離れた梅の古木に、時次郎が凭《もた》れかかっていた。時次郎はまだ、長脇差も抜かずにいた。 「佐久山の貸元、二本桐の武吉が確かに命をもらい受けました」  武吉はゆっくり近づいて行って、感情のない顔で竹蔵を見おろした。竹蔵は何か言いかけたが、声にはならなかった。目にあるのは、恐怖の色だけであった。その恐怖のために、口もきけないのだった。 「ごめんなすって……」  武吉は、竹蔵の首筋に長脇差を食い込ませた。噴き出した血が、焚火に降りかかった。武吉はすぐ止《とど》めとして、竹蔵の心臓のあたりを突き刺した。竹蔵は謝罪するような姿で、上体を雪の上に倒した。武吉は、梅の木のほうへ視線を転じた。腕を組んだまま、時次郎はニヤリと笑った。 「時次郎、この始末はどう付けるつもりだ」  武吉は長脇差を右手に提げたまま、梅の木のほうへ重そうに足を引きずって行った。 「おいらも橋場の時次郎、二本桐の武吉を斬ったとしても不思議じゃねえだろう」  時次郎は腕組みを解くと、素早く長脇差を抜いた。 「おめえは確か、腕のほうはからっきし駄目だったんじゃなかったのかい」 「それは、勘助だろう。時次郎となると、そうはいかねえ」 「器用な野郎だ。ここへ来るまで、何もおめえを庇ってやることはなかったんだな。連中はおめえの正体を承知していたんだし、腕にもそんなに自信があったんだ」 「早合点は、やめてくれ。おいらが時次郎だと知っているのは、竹蔵親分の身内衆だけだった。ここにいた連中と、若林でおいらを殺したように見せかけた野郎たちに限って、時次郎だって承知していたわけさ。小山の喜左衛門、石橋の徳太郎、宇都宮の定七郎の身内衆、それに白沢の旅籠へ乗り込んで来た阿久津の藤八の身内は深い事情を知らされていねえし、おいらを二本桐の武吉と思い込んでいたんだ」 「白沢の旅籠屋で藤八の身内のひとりが、おめえを後ろから刺そうとした。あれも、芝居ではなかったというわけか」 「先方は、本気さ。おめえが水桶を投げてくれなかったら、おいらはあそこで殺されていただろう」 「もう、いい。おれは、喋ることが苦手なんだ」  武吉は、腰を落した。右手を横にのばして、長脇差を直角に前へ突き出した。時次郎も、姿勢を低くした。武吉が右へ回ると、時次郎もそれに倣《なら》って円を描いた。風が悲鳴を上げて、白い雪原を吹き抜けて行った。広大な空間に動く人影は、たった二つだけであった。日が射し始めて、あたりを眩《まぶ》しいほど明るくしていた。 「ここまで来るうちに、おめえさんを殺そうと思ったこともある」  時次郎が、右手の長脇差を振りかぶった。口先だけではなかった。時次郎の腕には、かなりの年季がはいっている。一目で、そうとわかった。武吉を殺そうと考えたとしても、おかしくはないほどの腕だった。 「ところが、さすがは二本桐の武吉だ。おめえさんには、油断というものがねえ。それにおいらを庇ってくれるおめえさんに、手を出す気にはなれなかったよ」  時次郎は依然として、長脇差を振りかざしていた。 「つまらねえ大芝居を、打ちやがって……」  武吉は三歩、踏み込んだ。時次郎の胴を払い、逃げるように右へ跳びながら長脇差を思いきり突き出した。それを、時次郎の長脇差が撥《は》ね上げた。火打石を叩くような音がして、武吉の腕が痺《しび》れた。右肩の傷が疼《うず》いた。 「おいらは、そういうことが好きなんだ。そうでもしなけりゃあ、この世の中が退屈でおいらは死にそうになるのさ」 「気楽な道中をしていやがったが、それも三下らしく見せるためだったんだな」 「お蔭で、ずいぶんと楽しませてもらったぜ」  時次郎の長脇差が、武吉の頭をかすめた。武吉は、尻餅をついた。時次郎が、長脇差を振りかざした。その一歩前へ出る一瞬を捉えて、武吉は長脇差を突き出した。それは時次郎の腹に埋没し、背中へ突き抜けていた。時次郎の表情が強ばり、そのまま前のめりに倒れた。武吉は長脇差を引き抜きながら横へ逃げて、溜め息を洩らすとともに顔の汗を拭った。 「これで借りは返したぜ」  雪に横顔を伏せて、時次郎がニヤリと笑った。 「お絹の墓は、越堀の童竜寺にあるそうだ。頼む、おいらの代わりに、参ってやってくれ……」  それだけ言うと、時次郎は左手を差しのべるようにした。武吉が、その左手を取った。時次郎は目を閉じた。四肢が弛緩《しかん》した。武吉は、時次郎の鼻に手を当てた。完全に、絶息していた。その時次郎の左手が、何かを握っていた。武吉は、左手の掌を開かせた。そこには武吉から借りた守り銭、天保通宝があった。  武吉は天保通宝を手にすると、時次郎に向かって短く合掌した。立ち上がったとき、武吉の顔には安堵の色も感慨らしきものもすでになかった。武吉は、街道へ戻った。早くも水っぽくなり始めた淡雪を踏んで、武吉は北へ足を向けた。その後ろ姿は、一度も振り返らなかった。武吉にとっては、一つのことの終わりでもなく、新たな出発でもなかった。右肩に傷を負う前の武吉に、戻っただけのことなのである。  しかし、その右肩の傷が急に火照るように痛み出した。無理がすぎたのである。気の緩みとともに、右肩がひどく重くなり始めた。  時次郎に頼まれた通り、越堀の童竜寺にあるお絹の墓参りをする。そのあと、仁五郎に会いに福島まで行ってみてもいいと、武吉は思った。鍋掛から越堀までは殆ど宿続きで、童竜寺はその北のはずれにあった。人の出入りがない墓地はまだ雪がそっくり残っていて、そこにお絹の真新しい木の墓標がひっそりと立っていた。西日が長い影を作っている。  すぐ近くの墓の前で、男がひとり礼拝する姿勢をとっていた。四十五、六の渡世人だったが、長旅に疲れ果てたという感じで髪の毛も顔の髭も着ているものもまるで乞食であった。零落しきって故郷に帰り、すでに死んでいた肉親の墓参りをするという渡世人の成れの果てを思わせた。  武吉も、お絹の墓の前で瞑目した。胸の中が空しいだけで、念ずることもなかった。武吉は、立ち上がろうとして腰を浮かせた。  そのとき、武吉は背後に迫る敵を感じていた。本能的に半身になって、武吉は長脇差に手をかけようとした。だが、右手が動かなかった。肩に鈍痛があるだけで、右腕にまるで感覚がなかった。武吉は、殺到して来る乞食同然の男を見た。狂った野獣のような形相をして、赤錆《さ》びた長脇差を両手で握り締めていた。武吉は、左手で長脇差を抜いた。うまく抜けずに、逆手に持った長脇差の切先を前に向けるのがやっとだった。  それが乞食同然の男の胸を突き刺すのと同時に、武吉は左脇腹に激痛を覚えた。男の錆びた長脇差が、武吉の左脇腹から右脇腹へと貫通していた。男が、唸った。刺し違えた武吉と男は、重なり合って倒れた。 「やった、二本桐の武吉をやった、これで少しは、芽も出る……だろう……」  苦悶しながら、男が小さく叫び、それはすぐ呟《つぶや》きになって消えた。目を開いたまま死んだ男の顔が、武吉の眼前にあった。二本桐の武吉を殺して名を挙げようとする渡世人は、何も若者だけとは限らなかった。この四十五、六の醜怪なまでに落ちぶれ果てた男さえ、また武吉の命を狙っていたのである。乞食みたいな男と刺し違えて死ぬ。そうした自分の最期が何となく滑稽で、武吉は薄れかける意識の中でふと苦笑していた。  鮮血が点々と雪の上に散り、それが真紅の花弁のように見えた。いま、二本桐の武吉は、無に帰するときのほっとした安心感を味わっていた。春の淡雪は、間もなく解ける。それと一緒に、鮮血も消える。二本桐の武吉の名も、すぐ忘れられるのであった。 狂女が唄う信州路 1  川越道を下板橋まで来て、そこからすぐ中山道《なかせんどう》へはいるつもりだった。つまり、江戸市中へは、足を踏み入れないのである。江戸は窮屈なところだし、流れ者の渡世人にとっては向かない土地柄だった。何よりもまず道中合羽に三度笠、長脇差を腰に落してという恰好で江戸市中を歩くことは許されていないのだ。  川越道の下練馬をすぎた頃に、日はとっぷりと暮れていた。早春の夜は早い。六ツ半、七時だというのに、もう視界は厚い闇に閉ざされていた。日本橋から板橋宿まで二里八丁、更に板橋から二里で下練馬であった。現在のように東京の郊外どころか、当時の練馬は江戸から遠い在の農村地帯だったのである。武州豊島郡の下練馬であった。  板橋宿についても旅籠屋に泊れるかどうかと、丈八はふと迷った。板橋宿は五十四軒と旅籠屋の数も多いが、そこに一泊する旅人の数のほうがその十倍を上回っている。中山道の最初の宿場だし、宿場女郎でも知られているところだった。下練馬宿に泊ったほうが無難かもしれないと、丈八は思わず足をとめていた。その一瞬に、声をかけられたのであった。 「もし、旅のお方……」  低い男の声であった。丈八は三度笠の奥から、その男を見据えた。男は愛想笑いを浮かべながら、しきりと揉み手をしていた。悪いことに誘おうとしていると、一目でわかった。 「玄人衆ばかりで、ちょいと手慰みが始まっておりやすんですがね。実は張り方が少なくて、熱くなれねえんでござんすよ。一つお付き合いを、願えませんか」  若い男は、杉木立のほうを指さした。寺らしい屋根が一部、夜空にシルエットを描いていた。あまり人目につかない寺の本堂でも借りて、賭場が開かれているのに違いない。丈八は、寄ってみる気になった。欲があったわけではない。どこに泊ろうかという迷いが、ふとそんな気紛《きまぐ》れを起させたのであった。丈八は、若い男のあとに従って街道をそれた。短い石段をのぼる途中で、二人の男に追いついた。  ひとりは若い男で、もうひとりはやはり道中姿の渡世人であった。丈八と同じように、呼び込みの若い衆に誘われて、その気になった渡世人なのだろう。門のところに数人の見張りがいて、その連中に丈八たちを引き継ぐと、呼び込みの若い衆は再び街道のほうへ駆け戻って行った。  常念寺というかなり老朽した寺で、周囲を杉の古木で遮られていた。石畳の上を歩きながら、丈八ともうひとりの渡世人は、三度笠をはずした。丈八は、隣の男へ目をやった。髪の毛が八分通り白かった。六十すぎの渡世人である。ある土地に定着している貸元衆なら、六十すぎの渡世人も決して珍しくはない。しかし、流れ歩いている旅鴉《たびがらす》で、六十すぎの老やくざというのはあまり見かけないものだった。 「鉄砲の吉兵衛という年寄りだ。まあ何分、よろしく頼むぜ」  年老いた渡世人は、歩きながらそう挨拶した。ドスの利いた声だし、面構えにもさすがに年季のはいった凄味が感じられた。 「へい。恐れ入りやす、あっしは信州無宿の丈八という駆け出し者にござんす。今後とも、お見知りおきを……」  丈八は、吉兵衛という老渡世人に会釈を送った。のびた月代《さかやき》が、夜風に震えた。 「信州無宿の丈八さん……」  吉兵衛は改めて、丈八の顔を目を向けた。丈八は今年で三十一歳になるが、二つ三つは老けて見えた。顔そのものは彫りが深いし整っていて、むしろ若く見られるはずであった。だが、その何とも陰鬱で虚無的に暗い表情が、若さを感じさせないのである。およそ熱っぽさのない冷やかな目つきも、丈八を世捨人のように分別臭くさせていた。 「すると、おめえさんは抜かずの丈八さんじゃあねえのかい」  吉兵衛が、皺だらけの顔に緊張の色を浮かべた。 「へい。そう呼ばれているようで……」  丈八は、表情を動かさずに目で頷いた。丈八の生国《しようこく》は、信州佐久郡前沢である。かつてはこの世界で、前沢の丈八と呼ばれていた。それが六年前から、抜かずの丈八、と呼び名が変わったのであった。丈八がそう呼ばれたがったわけではなく、それなりの事情がほかにあったのだ。 「抜かずの丈八さんか。おめえさんの名めえは、おれも道中先で何度か耳にしているぜ。さすがに、大した貫禄だと、こうして会ってみて初めてわかったがね」  老人らしく、吉兵衛はしきりと感心していた。  若い衆たちに案内されて、本堂の裏手へ回った。丈八は一瞬、多人数が身をひそめているような気配を感じ取った。いやな予感がした。本堂の裏手に、元は納屋《なや》だったらしい廃屋があった。そこから、明かりが洩れている。その向こうは、墓地であった。丈八たちが廃屋の前に立ったとき、予感は的中した。異変が起ったのである。 「神妙にせよ、火盗《かとう》改めだ!」  そう声がして、七、八人の武士が墓地の中から飛び出して来た。事実、武士たちは火盗改めの提燈を手にして、すでに抜刀していた。別の一団が本堂の表のほうから来て、廃屋の中へ雪崩《なだれ》込んで行った。大名屋敷の中間《ちゆうげん》部屋や寺院の中で開かれる賭場へは、町奉行では直接踏み込むことができない。そこで大名や寺社奉行に交渉せずに行動できる火盗改めに、そうした博奕《ばくち》の取締りが任されていたのである。  賭場の貸元は、遠島という定めだったから、どうしても抵抗する。その抵抗した三人が斬り殺されて、あとの十数人は残らず火盗改めに捕えられた。その中に、丈八も吉兵衛もいた。二人はまだ、何もしていなかった。しかし、誘いに応じたというだけで、同類と見做《みな》されたのであった。  奉行所で、二人に対する判決が下された。未遂ということで、比較的軽い罪であった。丈八の場合は、百二十日入牢の上、中追放ということだった。中追放は、武蔵、山城、大和、和泉、摂津、肥前、甲斐、駿河、東海道、木曾路、下野、日光道中に足を踏み入れることを禁じられるのである。  吉兵衛も百二十日入牢は同じであったが、それに加えて重追放だった。重追放は中追放で禁じられた場所が更に、関東地方全部もと拡大されるのである。この二人の差は、入墨つまり前科の有無で生じたものだった。丈八には入墨がなく、吉兵衛にはそれがあったのだ。百二十日たって追放される前に、付加刑として入墨をされる。丈八は左腕の肘の下に二本の入墨を受け、すでにそれがある吉兵衛はもう一本、増《まし》入墨をされるわけであった。  天保十年三月二十日、丈八と吉兵衛はほかの罪人たちとともに小伝馬町の牢屋敷へ送られた。広さ三千坪以上、周囲を高い塀と堀で囲み、表と裏に地獄門と呼ばれる門があるだけのこの牢屋敷は、世間とまったく隔絶された恐怖の世界であった。牢には、町人牢、百姓牢、女牢、揚り屋、揚り座敷と五つの種類がある。  町人牢がいちばん大きく、町人が収容されていた。東の大牢、西の大牢は有宿人が入れられ、無宿人といった凶暴な連中は二間牢と呼ばれる町人牢へ投げ込まれた。百姓牢は、農民一揆《いつき》の関係者などが入れられていた。揚り屋は、武士や僧侶のための牢で、その一部が女牢に使われていた。揚り座敷は、五百石以下の旗本が収容される牢である。五百石以上の身分になると牢屋敷には縁がなく、他家にお預けの身ということになるわけなのだった。  丈八と吉兵衛は、ほかの四人と一緒に厳重な身体検査のあと、二間牢に入れられることになった。その四人も同じ常念寺の賭場で捕えられた無宿人たちであった。二間牢には、九十人ほどの囚人が収容されていた。いずれも無宿人で、このうちから何人が死罪、遠島になるかわからなかった。殆どが未決囚であり、罪状の定まった者は極く一部の連中であった。  二間牢は東と西側が板壁になっていて、南北が格子であった。その周りは二重に格子で囲んであり、中間が通路になっている。そこを外鞘《そとざや》と言って、見回り役が歩くところだった。格子の低いところに、留口という囚人の出入り口が一つだけあった。薄暗い牢内は見るからに不潔そうで、大小便や垢、汗の異臭が充満していた。  湿った牢内に九十人からの男たちが蠢《うごめ》く光景は、ぞっとするように陰気で凄惨な感じだった。六人は外鞘で縄を解かれ、留口の前に並ばされた。下帯、帯、草履などをくるんだ着物をかかえ、丸裸のままだった。新入りがあるとわかって、囚人たちは留口のほうへゾロゾロと寄って来た。囚人たちは、退屈しきっているのである。とにかく『軍鶏《しやも》入り』と俗称されている奉行所の仮牢とは、比較にならない荒っぽい扱い方だった。 「牢入りがある。六人一件ものにて、うち入墨二人!」  と、声高に牢屋同心が、伝えた。留口の内側の左右に控えて、牢名主と二番役がすでに待ち受けていた。 「おありがとうございます」  牢名主が、牢屋同心に礼を述べた。牢屋同心は鍵をはずし、留口を開いた。 「入墨、さあ来い。まけてやるぞ」  牢名主が、そう声をかけた。吉兵衛ともうひとりの男が先に、留口から牢内へはいった。入墨つまり前科者は優遇されるわけである。まけてやるというのは、暴行を加えないことを意味していた。 「さあ、来い!」  あとに残った四人の初牢の者に、牢名主が大声で怒鳴った。四人は牢内にはいろうとして留口で背を丸めたところを張り番に突き飛ばされて、次々に転がり込んだ。牢内の実権は、十二、三人の連中によって握られていた。囚人たちの階級も上座、中座、下座、小座の四段階に厳しく分けられている。牢名主は官選で、年齢、貫禄、経験などを考慮して牢屋敷側で決めた。あとの牢役たちは、牢名主が指名するのであった。  牢名主と、食事一切を受け持つことから穴の隠居という別名のある一番役、それに外部の交渉の責任者である二番役が上座についていた。この三人に絶対的な権力があり、牢内を意のままに支配しているのだった。囚人の着物など物品の監視者である三番役、新入りの囚人を監督する四番役、朝夕の寝起きの責任を任されている五番役が中座であった。上座や中座の指示で動く小役が、下座ということになる。あとの大部分の平囚人が、小座であった。  その階級の差は、畳の使い方によって明確にされていた。上座はひとりで畳一枚を使った。それも見張り畳と称して牢名主は十二枚以上、一番役や二番役は五、六枚の畳を積み重ねて使っていた。中座は二人で一枚、下座は三、四人で一枚の畳を使っていた。小座となると、悲惨なものだった。小座にも三通りあって、金毘羅《こんぴら》下が四、五人で一枚、中通りは五、六人で一枚、向こう通りは一枚の畳を七、八人から十二人で使うこともあったのである。  しかし、それは金の力で、改善されることだった。牢見舞という差入れがあったとき、それを支配者に提供したり、密かに持ち込んだ金を差し出せば、向こう通りから金毘羅下へと昇格を許された。そうした金を、『つる金』と呼んで一番役が管理し、吊してあるザルの中へ入れておく。これが相当の額にまとまると、牢名主から五番役までの間で分配されるのだった。  牢中へ転がり込んだ四人を掴まえて、下座の連中が頭から浅葱《あさぎ》色の獄衣をかぶせた。四番役がキメ板という分厚い板で、四人の尻を心ゆくまで殴りつけた。丈八を除いた三人は悲鳴を上げ、そのうちのひとりは大声で泣き出した。このときも『つる金』を出せば、キメ板に手心が加えられるのだった。普通『つる金』は、男は肛門に女は局部に押し入れて持ち込むのであった。しかし、この四人には、そうした用意がなかったのである。  入墨のある吉兵衛たちは、このキメ板の洗礼を受けなかった。尻を殴られながら、丈八は吉兵衛の姿を獄衣の下から探し求めた。吉兵衛は、牢名主と何か話をしていた。もちろん、顔馴染みなのである。ただの知り合いだからと言って、牢名主に気安く声をかけたりしたら大変であった。その場で半殺しの目に遭わされるか、翌日には死体になっているかだった。牢名主が見張り畳の上で、懐かしそうに笑っている。吉兵衛とは余程、親しい仲なのに違いない。  牢名主と親しい仲だということは、まさに地獄で仏だった。特別待遇はないまでも、虐殺されたりする心配はまったくない。上座の連中も一目おくし、手荒いことは控えるはずだった。その逆に、裟婆《しやば》で仲が悪かった相手が囚人の古参の中にいて、それが上座の牢役であったりしたら百年目である。虐待に次ぐ虐待で、果ては惨殺されると相場が決まっていた。  次の瞬間、丈八は自分がそうした立場に置かれていることに気がついた。牢名主の横にいる一番役と、目が合ったのである。その大男は紛れもなく、三津田の仙太郎であった。三津田の仙太郎は渡世人でありながら、盗みもすれば女も襲うという無法者であった。一度、上州の倉賀野宿で丈八は、三津田の仙太郎をこっぴどい目に遭わせたことがあった。酔って煮売屋で暴れている仙太郎を引きずり出して、小川の中へ投げ込んだのである。  四年も前のことだが、仙太郎が忘れているはずはなかった。仙太郎のことだから、一番役の座について勝手気ままに振舞っているのに違いなかった。牢内での絶対的な権力を利用して、仙太郎はあらゆる手段で丈八に報復するだろう。退屈しのぎに、それ以上楽しいことはないのだ。  キメ板での殴打がすんで、丈八たちは獄衣を身につけるよう四番役から言われた。獄衣を着れば、もう顔を隠すものがなかった。一番役が驚いた顔になり、すぐニヤリと嫌味な笑いを浮かべた。 「抜かずの丈八、いいところでめぐり合ったなあ」  三津田の仙太郎は、積んだ畳の上でゆっくりと立ち上がった。 2  牢内には落間《おちま》という一段低い土間がある。この落間に二つの穴があり、タテ八寸、横四寸の周囲を板のキン隠し、抹香ぶちで囲んであった。大便所と小便所で、それを大詰め小詰めと呼んでいた。ほかに落間には、四斗樽が五つほど置いてあった。そこには常に水が張ってあって、一部の樽には糠漬《ぬかづ》けの大根が漬けてあるのだった。丈八たち新入りは第一夜を、この落間で過さなければならなかった。大小便の匂いと、絶え間なく用足しに来る気配でとても眠れるものではない。  トロトロとしたところで、すぐ叩き起された。牢内を掃除して、朝飯を待つのであった。朝飯が五ツ、午前八時、夕食が七ツ、午後四時の一日二食である。大牢や二間牢の場合は、ひとり一日白米四合五勺と決まっている。だが、張り番の下男《しもおとこ》が、そのうちの三割を自分のものにしてしまうのであった。牢内には病人がいて、食事は不要だと勝手に理由づけるのだ。確かに牢内には病人が多いが、決して食欲がないわけではないのであった。  飯と味噌汁と白湯《さゆ》が配られる。ほかに牢内で漬けている大根がある。九十人分来るはずの飯と味噌汁が、最初から六十数人分しかなかった。役付き囚人はちゃんとひとり分を食べるから、四十人分の食事を七十人の平囚人で食べることになる。病人とか体力のない者それに新入りたちは白湯だけしか得られなかった。  丈八も、絶食だった。それは昨夜から、覚悟していたことであった。たとえ余分があったとしても、一番役の三津田の仙太郎が食べさせはしないだろう。果して、その通りだった。夕食のとき、丈八はひとり分の飯を確保できたのであった。しかし、そこへ仙太郎がやって来て、二、三人の平囚人を蹴倒しておいてから、無言で丈八の前に手を差し出したのである。  丈八は無表情で、飯と味噌汁を仙太郎のほうへ押しやった。仙太郎は嘲笑するように鼻を鳴らして、いきなり丈八の顎を蹴り上げた。丈八はのけぞって、後ろへ転がった。抵抗は許されない。仙太郎が命令を下せば、十数人が襲いかかり、丈八はたちまち虐殺されてしまうのだった。仙太郎は飯と味噌汁を手にして、大声で笑いながら一番役の席のほうへ戻って行った。  丈八は、板壁に凭《もた》れかかった。できるだけ、体力を消耗しないようにしなければならなかった。仙太郎に蹴倒された平囚人たちが、青い顔で丈八のほうを窺っていた。裟婆で大した男だと、抜かずの丈八の噂を耳にしたことがあるのかもしれない。その丈八が一番役の虐待に対してどう出るか、そんな興味と期待を持っているのに違いなかった。  同時に、平囚人たちが一番役の仙太郎をいかに恐れているかを、その顔色が物語っていた。一筋縄ではいかない無宿人たちを、そこまで畏怖させるとしたら、余程の悪逆非道な行為を重ねなければならないはずだった。その夜、早くも丈八は仙太郎の手の内を見せつけられたのであった。  夜、牢内にはまったく明かりを置かない。日暮れとともに、牢内は真暗になる。その闇の中で、突然騒ぎが起ったのである。人の声は、一切聞えない。大勢の人間が暴れていると、気配でわかるのだった。取っ組み合い、投げ飛ばし、床を踏む音がしばらく続いた。呻き声が二、三回聞えただけで、やがて静かになった。  その間、外鞘を張り番が何回か通っている。明らかに、騒ぎに気づいているはずだった。だが、張り番は知らん顔でいて、口出しは全然しなかった。 「おい、丈八はいるか」  闇の中で、仙太郎の声がした。仙太郎は、丈八のすぐ前に立っているようだった。丈八は黙っていた。 「いま、二人の男があの世へ送られたぜ。ひとりは三日めえ、おれに呼ばれて返事をしなかった野郎だ。もうひとりは、おれの足に唾を飛ばしやがった。気に入らねえから、始末させたよ。おめえも精々、気をつけることだな」  仙太郎の低い笑い声が、遠ざかって行った。誰もが、沈黙を守っていた。まだ、眠っている者はいないのである。それだけに、静寂の闇が無気味であった。どうやら仙太郎は、丈八に見せつけたくて二人の平囚人を殺したらしい。一度に報復せずに、恐怖感を植えつけたりして蛇の生殺しを楽しむようなやり方であった。そのために、関係のない二人の男を犠牲にした。なるほど、仙太郎を囚人たちが恐れるのは、当然のことだった。  翌朝、二人の男が逆立ちしている姿を、丈八は見た。二人とも手足を縛られた上から蒲団に巻かれて、頭を下に壁に立てかけられていた。口には、下帯が突っ込んであった。そのまま一晩放置されると、朝までには間違いなく死ぬのである。その二人の男もすでに絶息して、紫色にふくれ上がった死に顔を見せていた。  平囚人たちが蒲団の中から死体を出して、手足の縄を解いた。二つの死体は、留口の前に並べられた。二番役が張り番を通じて、病人が二人急死したと牢屋同心に届け出た。牢屋同心が、牢医を連れてやって来た。 「五日ほど前からお薬を頂いておりましたが、薬効なく明け方になって両名とも急死致しました」  二番役が、もっともらしい顔で牢屋同心にそう報告した。牢屋同心は、死体を見ようともしなかった。何もかも、承知の上なのである。 「いかにも、急死じゃな」  牢医も死体を覗いただけで、病死であることを認めた。 「先生にお手洗いを差し上げます」  二番役が素早く、紙にひねった二分金を牢医に手渡した。牢医はそれを受け取ると、牢屋同心とともにさっさと引き揚げて行った。二つの死体は、下男《しもおとこ》たちが運び去った。これで、すべては終わったわけである。仙太郎が冷笑を浮かべながら、壁に寄りかかっている丈八を眺めやっていた。  この朝も、丈八は白湯だけで過した。吉兵衛が食事を半分だけ残して、丈八のすぐ隣へ寄って来た。 「これを、食いねえ」  吉兵衛は、残った飯と味噌汁をすすめた。 「こうしたお心尽くしは、どうかご無用になすっておくんなさい」  丈八は表情のない顔を、ゆっくりと左右に動かした。 「若い者が、遠慮しちゃあいけねえや。あの一番役は、おめえさんを飢えさせるつもりなんだ」 「だからこそ、こんなところを見られたら、とっつぁんまで睨まれちまいますぜ」 「おれのことだったら、心配はいらねえ。あの牢名主には昔の話だが、ずいぶんと貸しがあるんだ。だから身体が参らねえうちに、これだけでも食っておきなよ」 「じゃあ、今回に限り遠慮なく頂きます。ありがとうござんす」  丈八は飯に味噌汁をかけて、サラサラと流し込んだ。四、五回もすすると、もう飯も味噌汁もなかった。 「あの一番役から、大分恨みを買っているようじゃねえか」  吉兵衛が、声をひそめた。悪口を言っていたと、一番役に密告される恐れがあるからだった。 「へい。これも古い話でござんすが、一度あの三津田の仙太郎を痛い目に遭わせたことがありやして……」  丈八は、冷やかな目を床に落した。 「そいつは、まずいな。あの牢名主は浅川の富蔵という悪党なんだが、妙に人がよくてどうも頼りにならねえ。おれと同様に、年もとっている。まあ牢名主とは名ばかりで、一番役のほうに本当の勢力があるようだ」 「心配しねえでおくんなさい。裟婆にしても畳の上では死ねねえ身体だし、骨を拾ってくれる者もおりやせん。どこを死に場所にしようと、あっしは苦にならねえんで……」  丈八はチラッと、短い苦笑を浮かべた。吉兵衛は何か変わったものでも見るような目を丈八の横顔に向けた。 「抜かずの丈八と呼び名が変わったのは、どういう経緯《いきさつ》があってのことなんでえ」  吉兵衛は気を変えたように、そんな話題を持ち出して来た。 「その通りの、意味なんでござんすよ」  丈八は頭を板壁に押しつけて、軽く目を閉じた。 「するってえと、おめえさんが金輪際《こんりんざい》、長脇差を抜かねえっていう噂は本当なのかい」 「六年めえから、一度も抜いちゃあおりやせん」 「どうして、そんな気持になったんだね」 「長脇差は、人を斬れる。そうしたことから、長脇差に頼ろうとする自分が、いやになったんでござんすよ」 「どうもよく、意味がわからねえ」 「一旦斬ったとなると、あとはどうにもなりやせん。斬ってはならなかったと幾ら悔いても、取り返しがつくことじゃあござんせん。それで、長脇差を持たねえことにしておりやすんで……」 「しかし、おめえさん確か常念寺で見たとき、長脇差を腰にしていたようだったぜ」 「あれは抜くこともできねえし、見てくれだけの特別拵《こしら》えなんでござんすよ」 「木刀かい」 「へい。そうなんで……」 「六年めえからおめえさんはその木刀で、何回もの修羅場を切り抜けて来なすったのかい」 「へい」 「大した腕と度胸がありなさるから、それで今日まで無事だったんだろうなあ」 「とんでもござんせん」  渡世人の持つ長脇差は、半太刀拵えのような作りであった。特別、頑丈にできているのである。鞘の先は鉄鐺《こじり》、中間は鉄環で固めてあった。丈八が持っていた長脇差も、外見はその通りであった。だが刀身がなく、抜けない長脇差だった。樫の木で、できていた。柄も鍔《つば》も、本物と寸分違わなかった。黒漆を塗って鞘と見せかけた部分に、鉄鐺と特に鉄環が四個もはめてあった。  樫の木とその付属である鉄鐺や鉄環は、安物の長脇差よりもはるかに効果的な武器となった。長脇差のように簡単には折れないし、その一撃は相手を気絶させるのに十分な威力があった。ただ、致命傷を与えることは、殆どなかった。しかし、渡世人同士の修羅場は、それでよかった。誰もが長脇差を抜かずに鞘ごと使っていると思い込んで、抜かずの丈八と呼ぶようになったのである。  その理由は、六年前の過失にあった。信州松本道の刈谷原の賭場で、丈八は二十両という大金を得た。刈谷原の貸元がその二十両を奪い返そうと、十人ほどの追手を出した。十人は仇坂峠を越えて岡田宿へと下りかけたところで、丈八に追いついた。丈八は五、六人に手傷を負わせて、それを追い払った。再び歩き出そうとした丈八の背後へ、竹藪の中から人が飛び出して来た。  丈八は反射的に、長脇差を背後へ走らせた。追手のひとりかと思ったのだが、そうではなかったのである。甲《かん》高い悲鳴が聞えて、丈八の足許に転がったのは肩に近い部分から斬り落された女の右腕であった。丈八は、愕然《がくぜん》となって振り向いた。そこには、二十三、四の女が倒れていた。女は喧嘩が始まったのを恐れて竹藪の中に隠れたのだが、それが終った直後に慌てて飛び出して来たのだった。  女はお島と言い、岡田の農家へ嫁入りしたばかりだった。二カ月前にお産をして、乳飲み子をかかえていた。お島は一命はとりとめたが、ショックから乳が出なくなった。そればかりか、お島という若妻は一生、片腕だけで過さなければならないのである。過失だということは明白だし岡田宿の貸元の口ききもあって、二十両の見舞金で話はついた。しかし、丈八の悔いる気持は、消えなかった。以来、丈八は斬れる長脇差を、持たないことにしたのであった。  そうした経緯を、まだ誰にも話したことがなかった。吉兵衛も結局、詳しいことはわからずじまいであった。丈八にとっては、それでよかったのである。お島のことを、思い出したくなかったのだ。お島は右腕のないことを意識する度に、丈八を憎んでいるのに違いない。  そのせいか幾らそう努めても、丈八はお島の笑顔を頭に描くことができなかった。脳裡に浮かぶのは、必ず恨みの目に涙を溜めているお島の顔であった。女のことなど思い出しもしない丈八には、まったく皮肉な現象だった。丈八には、知り合いというものがいない。今日知り合っても、明日別れればもう無縁の他人であった。それが流れ者の宿命であり、あとになって思い出す相手もいない。  ところが、お島だけは別であった。お島のことは、丈八の記憶の壁にこびりついていた。いい意味で、忘れられないのではない。その逆なのだ。鄙《ひな》びた土地の名もない百姓の女房の憎悪が、どこを流れていても丈八の唯一の道連れであった。 「おい、新入り!」  頭上で男の声が、そう怒鳴った。丈八は、うっすらと開いた目で男を見上げた。忠次という四番役で、仙太郎と同じ四十に近い男だった。そのくせ、仙太郎に最も忠実に仕えているのであった。 「退屈で居睡りをしているようだから目が覚めるようにしてやれ、という一番役さまのありがたいお申し付けだ。さあ、立ちやがれっていうんだ」  四番役の忠次が、丈八の膝を蹴りつけた。丈八は立ち上がりながら、一番役の見張り畳へ目を転じた。遠く一番役の席で、仙太郎が薄ら笑いを浮かべていた。 3  二十人ほどの平囚人が、輪を作って立ち並んでいる。遮蔽物《しやへいぶつ》の代わりだった。その輪の中へ、丈八は引きずり込まれた。四人がかりで丈八を俯伏《うつぶ》せに押えつけると、尻のやや下の太腿《ふともも》に濡れ雑巾を置いた。その雑巾の上から四番役の忠次が、キメ板の横の部分で殴りつけるのであった。濡れ雑巾があるので音はしないし、皮膚にも傷はつかない。  その代わり、骨に響くような激痛が散った。丈八は、呻き声を堪えた。痛みから逃がれようとして腰を浮かすと、陰嚢を蹴られるのであった。丈八にも、そのくらいの察しはついた。それで、絶対に膝を立てようとはしなかった。外鞘を張り番が歩いているが、例によって見て見ぬふりをしていた。 「目を覚ましたか」  仙太郎が、遠くから声をかけた。 「それが、まだぐっすりと寝込んでいるようなんで……」  忠次が、そう答えた。 「早く、目を覚ましてやれ」  仙太郎は、肩を揺すって笑った。仙太郎も忠次も、丈八に音を上げさせたいのだ。音を上げれば目を覚ましたことになり、堪えているうちは眠っていると表現しているのであった。しかし、丈八はついに声を洩らさなかった。殴られているほうの足は完全に麻痺して、濡れ雑巾の下だけに骨の砕けるような痛みがあった。丈八は冷汗に濡れ、忠次は激しい労働のための汗を流していた。 「百まで叩きましたが、どうしても目を覚ましません」  顔の汗を拭いながら、忠次が仙太郎にそう報告した。 「だったら明日にでも、改めて叩き起してやれ」  仙太郎は、満足そうに頷いた。人垣が散り、忠次だけが残った。丈八は、歩けなかった。忠次が足で転がしながら、丈八を壁際へ運んだ。丈八の太腿は、紫色に腫れ上がっていた。冷やしたりして、手当てすることは許されない。丈八は、灼けるような痛みに、堪えているほかはなかった。  翌日、丈八の太腿には、真黒な痣《あざ》ができた。その日も、目を覚ますためという私刑が、丈八に対して行なわれた。それは十日間も続いて、丈八の片足が自由に動かなくなったところで中止された。その間、仙太郎は相変わらず、丈八に朝食を食べさせようとしなかった。何かと妨害するし、ひとり分を確保したときは公然と取り上げるのであった。夕飯に限り、丈八が食べることを仙太郎は黙認した。  しかし、丈八の身体は目に見えて衰弱し、病人のような顔色になった。入牢して、半月がすぎた。その日、三人の新入りがあった。その中に、佐助という信州無宿がいた。仙太郎は、その佐助に目をつけた。理由は、丈八と同じ信州無宿だからということだった。つまり、それはまた丈八への、いやがらせだったのである。 「丈八、来い!」  と、仙太郎が見張り畳の上で怒鳴った。丈八は動かない片足を引きずるようにして、一番役の見張り畳の下まで行った。 「あの佐助という三下は、おめえと同じ信州無宿だそうだ。おれは信州無宿と聞いただけで、我慢ならねえのさ。これから、おめえの代わりにあの佐助を、可愛がってやる。おい丈八、おありがとうございますとそこにすわって、お礼を申し上げろ!」  仙太郎は大男だけに、顔も丸くて大きい。濃い髭の中に真赤な唇があり、ギョロリとした目に凄味があった。悪事を重ねてやがて四十になろうとしている男の、生来の獰猛《どうもう》さがそのまま仙太郎の人相になっていた。いまは仙太郎の双眸《そうぼう》が、真赤になっている。興奮すると、目が充血するらしい。 「そこへ、すわるんだ!」  仙太郎が足をのばして、丈八の肩を踏みつけた。片足で立っているのも同然な丈八は、その場に尻餅を突いた。丈八はすわりなおすと、見張り畳に向かって頭を下げた。 「おありがとうございます」  丈八は言った。まったく表情を、変えなかった。感情というものがないような、冷たい眼差しをした。 「よし、おめえに礼を言われたからには、あの三下をたっぷりと可愛がってやらなきゃなんねえぜ」  満足そうに頷くと、仙太郎は待機していた四番役に合図を送った。下座の連中が四、五人で、佐助という新入りを落間へ引きずりおろした。佐助はまだ獄衣もつけずに、裸のままであった。四番役の忠次が、四斗樽の重石と蓋を取り除いた。糖漬けの大根が、詰まっている樽だった。  黄色く濁った上水が、たっぷりと溜まっている。忠次は柄杓《ひしやく》でその上水をすくい取ると、佐助の肩に浴びせかけた。一杯だけではなく、上水をすくっては丹念に佐助の全身に振りかけた。下座の連中がそれを塗り込むように、両手で佐助の身体をこすった。佐助はただ蒼白な顔で、震えているだけだった。  一晩、佐助は裸のままで落間に置かれた。寒中なら凍死してしまったかもしれなかった。しかし、四月にはいっていたし、佐助は全身を震わせながら朝を迎えた。忠次が、獄衣をつけることを認めた。ところが、それですんだわけではなかったのである。苦痛は、そのあとにあったのだ。ただの水を、塗りたくったのではない。塩と糠とで濁っている水なのであった。  獄衣を着て肌が温まると、身体中に発疹ができた。あちこちが腫れるとともに、吹き出ものが化膿した。痒《かゆ》みと痛みで、じっとしてはいられなかった。佐助は三日間、七転八倒の苦しみを続けた。夜中も壁に背中をこすりつけたり、気が狂いそうな不快感に呻き声を洩らしたりした。張り番が、それに気がついた。 「静かにしろ!」  夜中の音や声は禁じられているから、張り番はそう叱りつけた。張り番に注意されて、そのままにしておくことはできない。牢名主がすぐ、一番役の仙太郎に指示を与えた。仙太郎は見張り畳をおりると、四番役の忠次を連れて佐助のところへ行った。佐助は、壁際で苦悶していた。  忠次が佐助を仰向けに引き倒すと、その顔に濡れ雑巾を押しつけた。同時に仙太郎が片足を高く上げて、佐助の鳩尾《みぞおち》を強く踏んだ。大男の体重が、その足にかかっていた。濡れ雑巾を押しつけられているので、声も出ないし息もできない。仙太郎の片足の一撃で、佐助は絶命した。  翌朝いつものように急死したと届け出て、形式的な検死ですませた牢医に二分金を渡し、佐助の死体は牢内から運び去られた。佐助は入牢して、四日間しか生きていられなかったのだった。そうした牢内での死者は、牢死番所に置き縁者を呼んで裏門から引き渡すのであった。  その朝、もう一つの出来事があった。朝飯前に平当番が来て、何かをキメ板に書きつけて牢名主に手渡した。それを見た古参の囚人たちは、急に鳴りをひそめた。何となく、暗く沈んだ雰囲気になった。下座にいる弥吉という二十代の囚人が、顔色を変えた。 「お仕置者がある。武州無宿、弥吉。年二十六歳、二月十二日入牢」  牢屋同心が外鞘に立って、大声でそう言った。 「おりました。武州無宿、弥吉。年二十六歳、二月十二日入牢。ほかに同所同名はございません」  牢名主がそう読み下して、キメ板を床に叩きつけた。キメ板には、お仕置者の名前などが書きつけてあったのだ。弥吉という男は、用意してあった白布の脚絆を取り出した。そんなものを作って待っていたくらいだから、当然いつ頃に呼び出しが来るか予期していたはずである。  しかし、いよいよそのときが来れば、蒼白な顔になるのも無理はない。これから牢屋敷を引き出されて裸馬に乗り、市中を引き回しの上死罪ということになるのである。平然としていられるはずがなかった。牢名主が紙で作った数珠《じゆず》を渡し、弥吉の口の中へ包み金を投げ込んだ。その金は、引き回しに大きな役割を果たす非人たちの頭にやるのであった。せめて裟婆でもゆっくり眺めたいと、そのための鼻薬なのだ。 「行って来い」  牢名主が、弥吉に言った。下座の者が、弥吉を留口から送り出した。張り番が、死罪になる者専用の縄を、弥吉にかけた。弥吉は、重い足どりで去って行った。この日、夕食後から暗くなるまで、二間牢の囚人九十数人はお題目を唱え続けた。弥吉の成仏《じようぶつ》を念ずるためだった。宗旨は一致していないから、それぞれ勝手なお題目であった。それだけに、その唱和は凄まじい感じだった。  どんな悪党でも、このときばかりは殊勝な顔つきでいた。弥吉は何をして死罪になったのかと、丈八は瞑目しながら思った。弥吉については、何も知らなかった。なぜ無宿人になったのか、どんな過去を持っているのか、見当もつかない。しかし、自分と大して変わらないだろうということは、丈八にも言えた。無宿人になる者は、そういう星の下に生まれついているのである。  自分だけの力ではどうすることもできない何かがあって、気がついてみたら無宿人になっていたというのが殆どなのだ。それに渡世人の過去といったものは、みな五十歩百歩で大した変わりはなかった。はっきり言えるのは、弥吉なる無宿人が死罪になったということだけである。惨殺された佐助も死罪になった弥吉も、死んだという点では同じことだった。  やがて、自分も仙太郎に虐殺されるだろうと、丈八は思った。それにしても、佐助や弥吉にもうひとり加わったというだけにすぎない。世間の知らないところで、一つの命が消えた。裟婆にいて病気で死んでも、やはりそうではないか。裟婆に戻っても、生きる目的のある身体ではなかった。仙太郎と刺し違えて死んでもいいと、丈八はふとそんな気になった。 4  五月にはいった。その半ばすぎから、吉兵衛が病気になった。と言っても、持病の喘息の発作がひどくなったというだけのことであった。普通なら、寝込むような病気ではなかった。しかし、牢内だとそうはいかない。湿っているくせに埃っぽいし、風通しが悪いから空気が濁っている。手足をのばして眠れないので、疲労が蓄積してしまっている。食物の質量ともに最低で、身体も弱っているのであった。  そのために牢死病という熱病も、あるくらいだった。そんな環境で、喘息が悪くなるのは当然であった。吉兵衛は終日、少しの空間を見つけてそこに横になっていた。誰もが知らん顔をしている。丈八のほかに、看病する者はいなかった。看病するといっても飯を確保することと、薬部屋掛りに薬を頼むことのほかには何もなかった。 「すまねえ」  年老いた渡世人は、しきりと恐縮していた。弱々しい笑顔を見せる。ここへ来て、急に弱気になったという感じだった。 「気にしねえでおくんなさい」  丈八は、相変わらず表情のない顔をしていた。 「どうやらおれも、二度と再び裟婆は見られねえらしい」  吉兵衛の頬のあたりが、涙を堪《こら》えるように引き攣《つ》った。 「とっつぁんらしくもねえ」  丈八は、首を振って見せた。 「人間、年をとるっていうこと自体、落ち目なんだなあ。つくづく、そう思うぜ。鉄砲みてえに威勢がいいんで、鉄砲の吉兵衛と呼ばれたんだが、そんな若い頃がまるで嘘のようだ」 「とっつぁんには、お身内はいねえんでござんすかい」 「娘が、ひとりいるんだ。四十をすぎてから茶屋の女に生ませた子どもだが、三つのときに見捨てて以来、まだ一度も会っちゃあいねえんだよ」 「いまでも、お達者でいなさるんですね」 「去年の暮れ、風の便りに信州洗馬《せば》宿の砥石《といし》問屋へ嫁入りしたとか聞いたが、もう孫のひとりぐれえできただろう。こうなってみると、娘と孫の顔を見られねえのが未練で仕方ねえよ」 「会えねえものと、決まったわけじゃねえでしょう」 「万が一、無事に裟婆へ出られたら、おれは信州洗馬宿へ行ってみるつもりだ」 「しかし、とっつぁん。洗馬宿は中山道筋に、あるんでござんすよ。中でも木曾路は、追放お仕置の身で、立ち寄ることはできねえでしょう」 「娘と孫の顔さえ見たら、あと立ち帰り者として縄を受け死罪になろうと構わねえよ。命を賭けても、一度ぐれえ人間らしいことをしてみてえんだ」 「とっつぁんの生涯にも、いろんなことがあったんでござんしょうね」 「笑ってくんな。このいい年になるまで、一つところに根を張れずに、流れ歩いている渡世人とはね。果てはご牢内で、痩せ衰えてくたばるのさ。昔を振り返っても、思い出すことは何もねえ」  自嘲するように笑いながら、吉兵衛は遠くを見る目をキラリとさせた。この老渡世人は、郷愁に駆られているようだった。だが、幾ら望郷の念に捉われても、渡世人に郷里はないのである。吉兵衛もそんなことから、涙を堪えきれなくなったのに違いない。年をとってから、自分はたったひとりだと気づく。それが、渡世人にはつきものの悲哀だった。 「丈八さん。おめえさんも追放お仕置を受けた身だから、行ってくれとは頼まねえ」  吉兵衛は、首にかけてあった糸をはずした。その糸の先には、渋茶色の守り袋がついていた。かなり古いものらしく、守り袋は薄汚れていて汗や脂で黒光りしていた。 「何か伝手《つて》があったらでいいんだが、おれが死んだらこれを洗馬宿の娘のところへ届けさせちゃあくれめえか」 「しかし、とっつぁんは、まだ死んじゃあいねえ」  丈八は守り袋を押し戻した。 「念のために、渡しておくんだ。年寄りを、安心させてくれ。それで娘に、こう伝えてもらいてえんだ。この守り袋に線香の一本もあげてくれ、そうすりゃあおれも成仏できるだろうからって……」  丈八に守り袋を握らせると、吉兵衛は呼吸が楽になったというように深々と吐息した。吉兵衛より先に自分があの世へ送られるだろうにと、丈八は胸のうちで苦笑した。事実その可能性が、三日後になって俄《にわ》かに強まったのである。牢名主のところへ呼ばれた吉兵衛が、血相を変えて丈八のところへ戻って来た。吉兵衛にしては珍しく、慌てていた。 「牢名主がおれだけに教えてくれたんだが、どうやら作造りが始まるらしいぜ」  吉兵衛が、緊張した面持ちで言った。 「作造りとは、何のことなんで……」  入牢の経験が初めての丈八には、その意味がよくわからなかった。 「人減らしのことさ」  吉兵衛は、眉をひそめた。このところ新入りが多くて、二間牢に収容されている囚人は百人以上になっていた。それでなくても、畳一枚を七、八人で使っているのである。窮屈さは、その限界に来ていた。役付き囚人には影響のないことだが、平囚人の間で騒ぎが起る前に自分たちの手で人減らしをしようと、牢名主と一番役や二番役の間で相談がまとまったのだった。  それが作を造るということで、作造りと呼ばれていた。つまり何人かの囚人を、殺してしまうのである。その誰を殺すかの、人選が問題だった。一番役、二番役が中座の者の意見を聞いて、一方的に決めるのであった。もちろん犠牲者は、小座の平囚人の中から出るのだ。選ばれる理由も、些細のことからであった。  牢死病にかかっているらしい、大きな鼾《いびき》をかく、見るからに気分が悪くなるような顔、よく喋る、牢見舞が一度もない、とそんなことが人選の規準になる。しかし、やはり最も狙われやすいのは、役付き囚人や古参から憎まれている者であった。 「一番役が当然、おめえさんを選ぶはずだ。それも、すぐにはやらねえ。さんざん恐ろしい思いをさせてから、最後におめえさんを狙うつもりなのに違いねえ」  吉兵衛が、断定するように言った。 「何人ぐれえ、殺すつもりなんでござんしょうね」  丈八は、もの憂い目で天井を見やった。 「恐らく、十二、三人だろう。一晩に三人ずつ殺して、十日ぐれえ間を置く。それが、作造りのやり方だ」 「すると……」  最後とはいつになるのか数えようとして、丈八は思い留まった。そんなことを知っても意味はない。どうでもいいことだった。そのときが来たら、仙太郎を道連れにしてやるだけのことであった。  その夜、闇の中で三人の平囚人が虐殺された。いずれも数人がかりで手足を押えつけて、顔に濡れ雑巾をかぶせ、体重のある男が幾度も胸の上に尻餅を突くという方法で殺されたのである。翌朝、三つの死体は急死ということで届けられ、牢医の見もしない検死を受けた。例によって牢医に二分金を掴ませ、それですべてが片付いた。  しかし、平囚人は何となく、割り切れない顔つきでいた。昨夜はみずから作造りに協力したが、次のとき自分のところへ殺される番が回って来るかもしれないことに気がついたからだった。八日ほどたつと、平囚人の多くは落着きを失った。珍しく、飯が残った。食欲どころではなかったのである。夜、熟睡できるという平囚人は、まずいなかった。  六月にはいってすぐ、二度目の作造りが行なわれた。このときは、四人の平囚人が殺された。それから五日後、抜き打ち的に三人があの世へ送られた。これで、十人が消されたわけである。吉兵衛の判断が正しければ、この次で最後ということになる。五日後か十日後に作造りがあり、殺される何人かのうちに必ず丈八が含まれているのだ。 「明日の晩、最後の作造りをやるらしいぜ。牢名主の口ぶりでは、間違いねえ」  六月の十六日の夕方、牢名主と雑談して帰って来た吉兵衛がそう告げた。吉兵衛は丈八の身を案じて、牢名主からそんなことを探り出して来たらしい。 「そうですかい」  丈八は、冷やかに笑った。覚悟はすでにできている。不自由だった片足も、いまでは動くようになった。ただ問題は、どうやって仙太郎を道連れにするかであった。暗くなってすぐ、こっちから仙太郎に襲いかかってもよかった。一瞬にして仙太郎を締め殺せば、何とか間に合うに違いない。そのあとは、黙って殺されてやろう。丈八は、そう心に決めていた。 「おい、丈八。あの世から迎えが来ているような、面をしているじゃねえか」  前を通りかかった仙太郎が、憎々しげにそう言った。明日の夜、丈八を殺すことを匂わせているような、仙太郎の態度だった。丈八は黙っていた。しかし、丈八はニヤッと笑った。仙太郎に対して初めて見せた、丈八の冷笑であった。 5  それは決して、突発的な出来事ではなかった。むしろ、当然なことだった。ただその時期が偶然とは言え、劇的な結果を招いたのであった。その朝、まだ食事が出される前に、平当番、牢屋同心、張り番たちが外鞘へはいって来た。平当番が牢名主を呼んで、キメ板を渡した。それだけでお仕置者が出ると、囚人たちにはわかった。 「お仕置者がある。甲州無宿、富蔵。年五十四歳。正月十日に入牢」  牢屋同心が、いつもの口調で宣告した。 「おりました。甲州無宿、富蔵。年五十四歳。正月十日に入牢。ほかに同所同名はござりません。わたくしでござります」  牢名主はキメ板を床に叩きつけてから、神妙に頭を下げた。そこで丈八は初めて、牢名主の名前が浅川の富蔵だったことを思い出した。牢名主のところへ、死罪というお仕置の番が回って来たのである。牢名主は自分を呼び出す、という皮肉なことになったのだ。牢名主は白い脚絆と紙の数珠を持ち、みずからの口へ包み金を投げ込んだ。 「先に行って、待っているぜ」  一番役をはじめ役付き囚人、平囚人全員に見送られて、牢名主は留口から出て行った。その日のうちに、次の牢名主が決まった。一番役の仙太郎が、昇格するわけではなかった。牢屋敷側から、改めて指定して来るのだった。新しい牢名主には、年輩者で温厚な三番役がなった。牢名主は新たに役付き囚人を指名するわけだが、それらはこれまでと殆ど変わらなかった。  その夜の作造りは、もちろん中止された。前の牢名主が、死罪になったのである。お題目を唱えるくらいだから、人殺しは当然禁じられたのであった。その後も、作造りをやる気配は感じられなかった。温厚な新しい牢名主の方針に違いなかった。  六月二十日に平囚人監督の四番役として恐れられていた忠次が、三百日の入牢を果して出獄して行った。忠次は、大した罪を犯していなかったのだ。三百日の入牢だけで、天下晴れての身になれたのであった。異変は、その五日後に起った。夜遅くなって、闇の中が騒がしくなった。また誰かが暗殺されるのだろうと、丈八はそれ以上のことを気にしないでいた。  ところが翌朝、留口の内側に転がっている死体に目をやって、丈八は思わず唇を噛みしめていた。獄衣をつけたままの死体で、二番役がかぶせてある雑巾を持ち上げて顔を覗き込んでいるところだった。その死体が、一番役の仙太郎のものだったのである。丈八は、一番役の席へ目をやった。その見張り畳の上に、仙太郎の姿はなかった。 「一番役さまは、急病で亡くなられたというわけかね」  二番役が、中座の連中に声をかけた。 「へい。一番役さまは夜中に大変なお苦しみようで、手当てをして差し上げたんですがその甲斐もなく、今朝方お亡くなりになりました」  中座の新しい四番役が、そう答えた。同調するように、その近くで幾つかの顔が頷いた。仙太郎を虐殺したのは、中座の三番役、四番役、五番役といったところらしい。 「一番役さまが、こんな哀れなお姿になるとはねえ」  二番役は、仙太郎の顔の上に雑巾を戻した。牢名主が変わり、四番役だった忠次が出牢したことから、反一番役の勢力が強まったのかもしれない。そこで中堅どころが結束して、仙太郎暗殺の行動に出たのに違いなかった。自分の手で殺すはずの仙太郎だったのにと、丈八は拍子抜けのした気持になった。だが、死んだ者に、怒りも憎しみもなかった。仙太郎もまた佐助、弥吉、富蔵、それにこの牢内で殺された十数人のあとを、追ったのにすぎないのである。  これも皮肉な話だが、二日ほどして牢名主へ牢見舞が送られて来た。赤飯と菜飯が一桶ずつ、干魚三百枚、手拭十筋、その他半紙や髪油など、かなり豪勢な牢見舞であった。贈り主は、出牢した忠次だった。もちろん、牢名主だけに贈ったものではない。入牢中は世話になったという意味で、上座と中座の役付き囚人に贈ったつもりなのだろう。  忠次は、仙太郎が殺されたことを知らない。牢見舞の一部が仙太郎の手に渡ったものと、忠次は信じているのに違いない。仙太郎に最も忠実な、忠次だったのである。しかし、それより二日前に仙太郎は殺されて、急死ということで片付けられたのであった。しかも、その仙太郎を殺した中座の連中が、麗々しくも忠次からの牢見舞の分配を受けているのだった。 「因果応報だな」  吉兵衛は、仙太郎の死についてそう言っただけだった。仙太郎の死後、丈八は身の危険を感ずるようなことがなくなった。あとは、出牢する日を待つだけでよかった。だが、吉兵衛の喘息はひどくなる一方で、身体がすっかり衰弱してしまった。  いつの間にか、本格的な夏になっていた。七月二十日、丈八と吉兵衛は出牢を許された。二人は牢屋敷から奉行所へ移された。奉行所で二人はそれぞれ入墨、増入墨をされて、三日後に奉行所の門の外へ連れ出された。二人は地面にすわって、同心の追放宣言を改めて聞かされた。同心が丈八の長脇差だけを、返してくれた。木刀だと、わかったからに違いない。  二人は百二十日ぶりに、青い空をつくづくと振り仰いだ。空というものがこれほど広いとは、いままで思ってもみなかった。視界は、底抜けに明るかった。夏の日射しが地上に濃い影を作り、空には眩しい銀色の雲が浮かんでいた。牢屋敷の陰湿な暗さが、まるで嘘のようであった。いまもまだ入牢中の囚人たちの顔を、丈八はふと思い描いた。丈八は、二間牢の囚人しか知らなかった。だが丁度このとき、牢屋敷の揚り屋に渡辺崋山が入牢中だったのである。 「とっつぁん、やっぱり木曾路へ足をのばすおつもりですかい」  内藤新宿の方向へ歩きながら、丈八が言った。道中合羽も股引きも、いらない季節だった。二人は手甲脚絆だけをつけて、日除けに三度笠をかぶっていた。降るように蝉の声が聞えて、二人の顔や首筋を汗が流れた。 「追放お仕置で、北陸へ行く。その途中で、洗馬宿に寄るだけの話さ」  吉兵衛は、苦しそうに喘いでいた。まるで人が違ったように痩せてしまい、一回り小さくなった吉兵衛だった。 「しかし、その身体じゃあ、無理だと思いますがね。どこかでゆっくり静養してから、改めて旅立ったほうがいいんじゃねえんですかい」 「年をとると、気が短くなるんだ」  吉兵衛はあくまで、このまま木曾へ向かう気でいるのだ。死期が近づいていることを、自覚しているせいかもしれなかった。牢内での入浴は、二十日に一度であった。それも、行水みたいなものである。髪結や月代《さかやき》を剃るのは平囚人に限って一年に一度、七月に行なわれる。しかし、丈八と吉兵衛は、その前に出牢したのだった。  従って月代や髪はのび放題だし、身体には垢が積っている。だが吉兵衛は、そんなことは眼中にないのである。ただ娘と孫の顔を見たい一心なのだ。死を予知している老渡世人にとって、それが唯一の生き甲斐なのだろう。丈八には引きとめることができなかったし、かと言って吉兵衛をひとりで行かせる気にもなれなかった。  二人は内藤新宿へ出ると、甲州街道を西へ向かった。その日は激しい夕立があって、八王子宿に一泊した。吉兵衛は八王子宿で、長脇差を買い求めた。そんなことにも、老渡世人の執念といったものが感じられた。長年持ち歩いて来た長脇差がないと、何となく落着けないのに違いなかった。  翌朝七ツの早立ちをして、明け六ツと同時に開門する駒木野の関所を抜け、小仏峠で日の出を見た。男は手形を必要としない堺川の関所を通り、野田尻、猿橋をすぎて二日目は駒木野から約十里の大月泊りであった。丈八ひとりならもう五里ほど行けたが、吉兵衛の疲労が目に見えてひどかったので無理は避けたのである。  三日目は雨だった。二人は三度笠を目深《まぶか》にかぶり、茣蓙《ござ》を合羽代わりにして大月宿の旅籠屋を出た。初狩、阿弥陀街道をすぎ、笹子峠の甘酒茶屋で一休みした。雨は小降りになり、午前中だというのに雷鳴が轟《とどろ》いた。雷に追われるように、駒飼、勝沼、石和《いさわ》を経て甲府の旅籠屋へ逃げ込んだ。甲府は、宿場町ではない。家数や人口は多いが、旅人に対する設備は甚だお粗末であった。  旅籠屋は甲府柳町だけに限られていて、その数も十一軒しかなかった。それが原因なのか泊り客のほうが多くて、一部屋に雑魚寝《ざこね》の相宿だった。その晩、丈八は牢内の畳一枚に七、八人で寝ている夢を見た。  甲府の先は韮崎《にらさき》、台ヶ原とすぎて甲州巨摩《こま》郡から信州諏訪郡へ、蔦木宿のすぐ手前ではいる。蔦木宿で一泊、五日目は六里半歩いて上の諏訪であった。上の諏訪は、甲州街道の終点である。しかし、湖の北岸に中山道の宿場町、下の諏訪があるのだった。下の諏訪まで、三里であった。  城下町でもある上の諏訪と違って、中山道の宿場町下の諏訪は大変に賑わっていた。商人が多いし、温泉があるから旅人は必ず下の諏訪で泊る。湯治場ではないが、一晩ゆっくりと湯につかるのが、旅人には何よりの魅力だったのだ。夏は涼しいし、最も悩まされる蚊が殆どいない。旅籠屋には、情の濃い飯盛女が揃えてあると評判であった。  丈八と吉兵衛も下の諏訪の旅籠に泊って、心ゆくまで垢を落した。翌朝、中山道を西へ向かい、塩尻峠を越えた。追放お仕置を忠実に守るならば、塩尻から北へ足をのばさなければならなかった。松本、刈谷原、麻績《おみ》を行くと、川中島で北国街道にぶつかるのである。北国街道を北上すれば追放の枠外である北陸地方、東北地方へも自由に行けるわけであった。  しかし、吉兵衛は当然というように、木曾路へ足を踏み入れた。丈八も何となく、それに続いた。先を歩いていた吉兵衛が、急にのめって路上に這った。病身に疲労が重なり、気力だけで道中を続けて来た吉兵衛だが、いまはもうそれも限界だったのである。 「洗馬宿まで、あと一里と三十丁……」  荒い息を吐きながら、吉兵衛がそう呟いた。 6  洗馬宿は、木曾川の東にあった。木曾路の山深さは、洗馬をすぎると間もなく見られるようになる。木曾義仲がこの近くの清水で馬を洗ったことから、洗馬と地名が定まったという。当時の洗馬宿の人口は六百六十一人、家数は百六十六軒であった。旅籠屋が二十九軒だが、木曾路には一流どころは少ない。兼業の旅籠が多かった。  洗馬は、砥石《といし》の産地である。吉兵衛の娘お京が嫁入りしたのも、砥石問屋であった。しかし、何という屋号の砥石問屋に嫁入りしたのかは、吉兵衛にもわからなかった。丈八は吉兵衛を背負って、洗馬宿へはいった。背中で吉兵衛が語るには、娘のお京は小諸の太物《たんもの》問屋の養女となり、そこから洗馬の砥石問屋へ嫁入りしたのだという。  洗馬宿のはずれにある掛け茶屋に寄って、お京という娘を迎えた砥石問屋を知らないだろうかと訊いてみた。好奇心の強そうな掛け茶屋の四十女は、それは扇屋という砥石問屋でお京の夫は清吉だとその名前まで教えた。清吉は二十八になるおとなしい男で、父親の茂左衛門が中気で寝込んでからは商売にもひどく熱心だという。去年の十月には、お京が男の子を生んだとのことだった。 「やっぱり、思った通りだ。おれには孫がいたんだぜ」  吉兵衛は嬉しそうに、丈八の耳許で囁いた。 「でも、親分さんがた、お京さんに会いに来なすったんでしたら、恐らく無駄足だったということになりますよ」  掛け茶屋の女が、気になるようなことを口にした。 「それは、どういう意味なんだい」  丈八の背中で、吉兵衛が身体を固くした。 「まあ、扇屋さんへ行ってごらんなさいましな。そうすれば、すぐわかりますよ」  掛け茶屋の女は、ニヤリとした。気を持たせるのが好きなのか、そうでなければ意地の悪い女だった。丈八は歩き出した。頭上は紺碧《こんぺき》の空であり、木曾の山々の緑が濃かった。いかにも夏らしい視界だが、汗まみれになるほど暑くはなかった。午前中なのに、遠くで蜩《ひぐらし》が鳴いたりした。  扇屋という砥石問屋は、宿場の中央にある四つ辻を右に折れて少し行ったところの左側にあった。扇屋の屋号を染め抜いた日除けの幕が、明るい日射しを浴びていた。店先には各種砥石の見本が並べてあり、脇の奥に見える作業所で職人らしい男たちの姿がチラチラしていた。 「お頼み申します」  丈八の背中からおりた吉兵衛が、店の奥へそう声をかけた。暗い店の奥で人影が動き、三十前の男が店先の敷台まで出て来た。色白の美男子で、見るからに若い商人という感じだった。清吉に違いなかった。清吉は、不安そうな顔つきであった。見たこともない渡世人の訪問を受けたのだから、堅気の商人としては警戒するのが当然だった。 「ご当家のお内儀お京さんに縁のある者で、吉兵衛と申しやす。旅の途中通りすがりに、一目お京さんにお会いして参りてえと軒先をお借りしたんで、他意はござんせん」  吉兵衛が、真剣な表情でそう頼み込んだ。 「さようでございますか。わたくしがお京を嫁に迎えました清吉でございます」  清吉はほっとしたように、愁眉《しゆうび》を開いた。お京はもちろん、実父が吉兵衛という渡世人だなどとは、清吉に打ち明けてないはずである。それで清吉も、ただ単にお京に縁がある者という吉兵衛の言葉を、信じたわけであった。 「で、お京さんは……」  すぐお京を呼ぼうとしない清吉を促《うなが》すように吉兵衛は言った。 「はい。お京は、おります。おりますけれど、それが……」  清吉は暗い眼差しになって、恥じ入るように顔を伏せた。 「お京が、いやお京さんが、どうかなすったんですかい」  吉兵衛は、いささか狼狽気味であった。掛け茶屋の女の言葉が、ひどく暗示的だったことを思い出したのである。 「どうぞ、ご一緒にいらして下さいまし」  気をとり直したように顔を上げると、清吉は草履を突っかけて店の外へ出た。吉兵衛と丈八は、そのあとを追った。店の脇から奥へはいり、作業所の横を通り抜けると広い裏庭へ出た。楓《かえで》の木が何本も枝を広げていて、裏庭は鮮やかな緑に染まっていた。夾竹桃《きようちくとう》の花も咲いている。その裏庭の向こうは雑草の茂みが、木曾川の岸辺まで続いているようだった。  雑草の茂みは、夏の直射日光を浴びてむんむんするような草いきれを発散させていた。その中の小道を行くと、あちこちに咲いている山百合の花が目についた。正面に見える山の背後に、雲の峰がそびえ立っていた。ふと風に乗って、歌声が聞えて来た。女の声である。 ねんねころろん ねんねころん 坊のもりとうどこにいる 坊のもりかあどこにいる  そんな単調な子守唄を、繰り返して唄っていた。声の主が、草の中の道をこっちへ向かって歩いて来た。二十二、三の女だった。髪形も夏物の衣服も、一応はキチンとしている。しかし、その目つきが、尋常ではなかった。どこを見ているのか、わからない。焦点が定まっていないのである。両手が、遊んでいた。ただブラブラさせているだけで、両手には何の意志も伝わっていなかった。  お京は近くまで来ると、子守唄をやめた。恐怖の表情になって三人の前を素早く走り抜けると、キャッキャッと笑ってからお京は再び子守唄を唄い始めた。裏庭に赤ン坊を抱いた女中が立っていたが、お京はそっちを見ようともしなかった。お京には夫の清吉やわが子さえも、判別できないのである。 「いつから、あんなふうに……」  茫然とお京を見送りながら、吉兵衛が訊いた。 「つい十日ほど前からでございます」  清吉は、お京の後ろ姿を睨みつけた。 「何か、あったんでござんすね」  清吉の顔色を見て、吉兵衛が言った。 「は、はい。わたくしも昨日あたりから、やっとのことで気持が落着いたのでございます。それまでは口惜しいやら恥ずかしいやらで、わたくしまでがお京同様に狂ってしまいそうでした」 「すると……」 「はい。お京は、手籠《てご》めにされたのでございます」 「扇屋の若主人の女房と、承知の上でしたことなんですかい」 「はい」 「そんな出鱈目をやりやがったのは、いってえどこのどいつなんです!」  吉兵衛は、顔色を変えていた。 「この宿場には、牧野の伊兵衛という親分さんが一家を構えておりますが、穏やかなお人で害になるようなことは一切なさいません。ところが半月ほど前、弟分だとかいうならず者が二、三人の手下を連れて伊兵衛親分のところへ草鞋《わらじ》を脱いだのでございます。伊兵衛親分はお伊勢参りでお留守、それをいいことにならず者たちはここに腰を落着けて、わがもの顔に宿場を歩き回っては好き勝手な乱暴を働いているのでございます」  清吉は、声を震わせた。 「その野郎の名めえは?」 「友蔵とかいうのだそうで……」  友蔵というならず者が、お京に目をつけたのは十日前のことだった。店の前で赤ン坊をあやしていたお京を、通りかかった友蔵がたまたま見かけたのである。お京はこのあたりには珍しい粋な感じのする美人だし、女房になって三年、子どもをひとり生んで丁度よく熟《う》れた艶っぽさが滲み出ていた。  その日の夕方、お京の姿が消えた。夜になって、お京が裏口からはいって来た。髪はくずれ、着物の前が乱れている上にハダシであった。清吉は放心状態のお京からようやく、友蔵とその手下二人に河原で乱暴されたということを訊き出した。お京はその晩、一睡もしなかった。翌日の朝を迎えたとき、お京はすでに狂っていた。 「噂がすぐ宿場中に広まって、四、五日は店をあけることもできませんでした。中気で臥《ふせ》っている父の茂左衛門と狂ってしまったお京だけが、楽な気持でいるとしか申せないような次第でございます」  清吉は両手に掴んだ雑草を引きちぎった。 「何てことを、しやがるんだ!」  吉兵衛が、地面を激しく蹴りつけた。丈八には、吉兵衛の気持が痛いほどよくわかった。娘のお京と孫の顔を一目見ることが、吉兵衛にとって最後の生き甲斐だったのだ。それをすませたら、追放お仕置を受けた身として東北か北陸の地で死を待つつもりでいたのである。それ以前に、娘と孫の顔を見ることに命を賭けていたと言ってもよかった。  病身を気力に任せて一日も休まずに、洗馬宿へと急いで来たのがその証拠だった。吉兵衛の身体は現に、丈八の背中を借りなければここまで来られなかったほど衰弱している。それでも吉兵衛には、娘と孫の顔を見るまではという執念があったのだ。ところが、この吉兵衛を待っていたのは、あまりにも残酷すぎる結果であった。十日前に三人のならず者に乱暴されて、お京は狂ってしまっていたのである。  何ていうことをしやがると、吉兵衛が口惜しがるのも無理はなかった。裏庭へ戻ると、お京が縁台にすわって西瓜を齧《かじ》っていた。すぐ近くに立っている女中の腕の中で、赤ン坊が無心に笑っていた。一見平和そのもののような光景だったが、事情を知る者の目にはこの上もない悲劇として映ずるのであった。 「畜生め!」  店の前の通りへ出て丈八と二人だけになったとたん、吉兵衛は激しく唾を地面に吐きつけた。 「年をとっても、おれはまだ渡世人だ。そんな無茶な野郎どもを、黙って見過すわけにはいかねえ!」  と、威勢のいい言葉とは裏腹に、吉兵衛の息遣いはいかにも苦しそうであった。 「とっつぁん、その身体だ。荒っぽい真似は、とても無理でござんすよ」  丈八が、三度笠の奥から言った。 「余計な口出しは無用だぜ。おめえさんに、助っ人を頼んでいるわけじゃねえんだ」 「助っ人を頼まれねえからって、知らん顔をしているわけにはいきやせんよ」 「いや、いいんだよ。万が一、抜かずの丈八に長脇差を抜かせるようなことになったら、申し訳ねえからな」 「そんな心配はいりやせん。どんなことがあろうと、あっしは抜き身の長脇差を手には致しやせんよ。万が一そうしたら右腕一本斬り落されても不服はねえと、誓紙を入れてあるんでござんすからね」  丈八は暗い眼差しで、銀色に輝く雲の峰を見やった。またお島の憎悪の顔が、丈八の脳裡に浮かび上がったのである。万が一、抜き身の長脇差を手にするようなことがあったら、右腕をお島と同じように斬り落されても文句はない。そういった誓紙を、預けてあるということは事実だった。お島の夫、親兄弟、それに親戚一同の前で誓紙に血判を押し、取りなしにはいった岡田の貸元に預けたのである。 「とにかく、その友蔵という野郎の挨拶を受けてみてえ」  吉兵衛は、喘ぎながら歩き出した。肩だけは怒らせているが、足の運びがまったく不安定だった。埃っぽく白い道に、二人の黒い影が落ちた。思い出したように、つくつく法師が忙しく鳴き始めた。 7  洗馬宿を西にはずれたところが、牧野という地名になっている。牧野の伊兵衛は、そこの出身なのに違いない。住まいも、洗馬宿のいちばん西寄り、牧野に近いところにあった。伊兵衛は女房と若い者を二人連れてお伊勢参りにでかけ、来月にならないと帰らないらしい。残っているのは、卯之助という代貸以下十人ほどの身内だという。  洗馬宿の西のはずれに、綺麗な小川が流れている。その小川の岸辺に太い杉の木があって、大きな日陰を作っていた。丈八は吉兵衛をその日陰に休ませておいて、牧野の伊兵衛の留守宅を訪れた。夏の午後の眠くなるような静寂の中の、戸をあけたままの人気のない土間で赤犬がぼんやり外を眺めていた。丈八が土間へはいると、赤犬は起き上がって裏口から外へ出て行った。 「旅の者ですが、お頼み申します」  丈八は、はずした三度笠と長脇差に見せかけた木刀を土間に置いた。奥から、二十五、六の男が出て来た。丈八は三歩半進んでから半歩退いて、敷台の上に左手、右手という順序で突いた。それからお控えなさいの仁義にはいり、丈八のほうからまず形通りの口上を述べた。 「ぶざまを引き付けまして、失礼さんにござんす。陰ながら親分衆にて、ご免をこうむります」  と、親分が留守だと承知していることを披露して、丈八という名を告げた。この挨拶によって、相手の貫禄がわかるのである。若い者は、丈八の貫禄にやや圧倒され気味であった。同じ信州の出身だし、前沢の丈八と名乗ったのだから、若い者にももちろん抜かずの丈八だとわかったのに違いない。若い者は挨拶を返してから、代貸の卯之助に会いたいという丈八の用件を聞くと慌てて奥へ駆け込んで行った。  間もなく、代貸の卯之助が出て来た。卯之助は四十すぎの、話のわかりそうな男だった。固い挨拶は抜きにして、丈八はすぐ用件にはいった。用件とはいうまでもなく、友蔵という男が犯した罪の解決方法であった。 「その噂は、あっしたちも聞いておりやす。相手は堅気、それも扇屋さんのおかみさんでしょう。困ったことをしてくれたって、実はあっしたちも苦りきっているんですがね。何せ親分の留守中のことだし、あの客人は親分と対等の兄弟分なんで、あっしたちが文句をつけるわけにも参りやせん」  卯之助はしきりと、自分の膝を叩きながら言った。 「その友蔵というのは、いまご当家にいるんですかい」  丈八は冷やかな目を、静まり返っている家の奥へ向けた。 「いいえ。お連れの二人の子分衆と一緒に、本山宿へ出かけておりやす。明るいうちに、戻って来るでしょうが……」  卯之助は警戒するように、丈八の顔色を窺った。 「では三人が帰り次第、あっしどもに片を付けさせてもらいやす。できましたら、ご当家のお身内衆との揉め事には致したくねえと思いやすが、その点いかがなものでござんしょう」 「折角ですが、そいつは渡世の義理が許しやせん。友蔵さんは親分と兄弟分。しかも当家の客人でござんす。理由はどうあろうと、それを見殺しにしたとあっては、親分の留守を預かる卯之助の落度になりやす」  卯之助は、表情を強ばらせていた。お堅いことだと、丈八は思った。同じ渡世人でも、旅から旅を重ねる流れ者と一定の地に土着している者とでは、根本的に違っている。流れ者にとっては毎日が勝負であり、危険がつきものである。だから、できるだけ無駄な争いを、避けようとする。だが、平和で安全な日々にむしろ退屈を感じているような人間になると、逆にひどく好戦的なのだ。  それを渡世の義理などと称しているが、結局は本当の命のやりとりの恐ろしさを知らないのである。丈八や吉兵衛にしてみれば、片付けるのはお京を犯した三人だけで十分なのだ。無駄な殺生はしたくない。できれば、第三者である伊兵衛の身内を相手にしたくなかった。丈八はそのことを交渉に来たのだが、妙に律義な代貸の卯之助に拒まれたのであった。 「やむを得ねえでしょう。これで、ご免をこうむりやす」  表情のない顔でそう言うと、丈八は三度笠と木刀を拾って外へ出た。杉の木の根元で、吉兵衛がぐったりと四肢を弛緩させていた。チラチラと日射しが落ちる吉兵衛の顔が、一層青白く見えた。 「どうだった」  吉兵衛は、苦しそうに胸を波打たせた。 「三人揃って本山宿へ出かけて、明るいうちには帰って来るということでござんすがね」  丈八も日陰にすわると、小川の水をすくって顔に散らした。 「だったら、ここで待ち受けていたらいいだろう」  吉兵衛は顔の汗を拭おうともせずに、目を閉じた。目の前にある街道は一本道、本山宿は西へ三十丁行ったところにあった。帰って来るには、どうしても目の前を通り抜けなければならない。三人連れのならず者と、見ればすぐわかるはずだった。 「伊兵衛の身内衆は、三人に手を貸すそうですぜ」  丈八は、仰向けに寝転んだ。盛り上がった根と根の間の湿った黒土が、背中に冷たくて心地よかった。青い空が高く、広かった。かなり上のほうで、トンボが流れるように飛んでいる。いつの間にか、雲の峰が遠くへ移動していた。信州の秋は早い。来月になると、もう虫が鳴き始める。明日はどこへ、と丈八は思った。 「気の早い連中だ。もう、ウロチョロ始めてやがる」  力のない声で、吉兵衛が言った。街道の反対側にある水車小屋の陰から、男が二人ばかり顔を覗かせていた。喧嘩支度はしていないが、長脇差を腰に落している。代貸の卯之助の指示で、見張りを勤めているのだろう。丈八は、顔をのけぞらせた。雑草に被われた斜面の上のほうに、人の気配を感じたからだった。三、四人の男たちが慌てて草の中に伏せるのを、丈八は見た。  しかし、友蔵たちが帰ってくる前に、伊兵衛の身内が襲いかかるということはあり得なかった。彼らは、監視しているのにすぎない。友蔵たちの姿を見てそれに合流し、行動を起すつもりなのだ。丈八は、再び空を見上げた。街道を旅人たちが、通りすぎて行く。杉の木の根元に寝転んでいる丈八や吉兵衛を、気にする者さえいなかった。  軽尻《からじり》を引きながら、馬子が客と大きな声で喋っている。軽尻は人を乗せる馬だが、荷物も五貫目まで背負わされる。午後になると馬も疲れて来るのか、ひどく前こごみになって歩いていた。急ぎ足の旅人が、馬をさっさと追い抜いて行った。 「おい!」 「行け!」  慌《あわただ》しく言葉が交わされて、伊兵衛の身内が二人、街道を西へ向かって走り出した。どうやら、帰って来た友蔵たちの姿を、認めたらしい。それで事前に、丈八や吉兵衛が待ち受けていることを、知らせに走ったのだろう。そろそろ始まるなと、丈八は思った。丈八は起き上がると三度笠をかぶった。その顎ヒモを固く結んで、草鞋を新しいのにはきかえた。 「来やがったな」  吉兵衛が、杉の木に縋《すが》りながら立ち上がった。街道を旅人たちが、一斉に走り出した。騒ぎが起ることを、察したのであった。一旦は逃げるが少し離れたところで立ち止まり、旅人たちはそのまま見物人になった。  丈八は長脇差にしか見えない木刀を右手に持って、背後の斜面を振り返った。伊兵衛の身内が六人ほど、草の中を徐々に下って来る。すでに、長脇差を抜き放っていた。街道の向こう側の水車小屋の前には、四人の男が顔を揃えている。その中に、代貸の卯之助の顔もあった。  あと二人が、友蔵のところへ走っている。友蔵とその子分が二人、伊兵衛の身内が十二人、全部で相手は十五人と丈八は計算をすませていた。街道がカーブしているし、杉の木の太い幹が視野の一部を遮っている。そのために、友蔵たちがどのあたりまで来ているのか確かめられなかった。  しかし、かなり近くまで、来ているようだった。その証拠に、背後の草の中にいたひとりが、長脇差を振りかざして駆けおりて来た。それと同時に、水車小屋の前にいた四人が、街道を横切って杉の木の下へ殺到した。丈八は一歩退いて、背後から来た男の右腕を思いきり叩いた。鉄鐺《こじり》の一撃だった。男の右手から長脇差が飛んで、小川の中に突き立った。男は右腕をかかえ込んで、その場にうずくまった。  吉兵衛は杉の木の根元で、四人の男たちに包囲されていた。吉兵衛は杉の木に凭《もた》れかかって、肩で息をしている。長脇差を前に差し出しているが、そのまま動きがとれないのだ。足場も悪いし、重病人も同然な吉兵衛の身体だった。  丈八は、吉兵衛の正面にいる男の胴を、後ろから強引に払った。丈八の木刀は半円を描き、空気を裂く音を発した。それを胴に喰らった男は異様な叫び声を上げながら、水へ飛び込むような体勢で街道へ転がり落ちた。残る三人が、一斉に身体の向きを変えた。とたんに、卯之助の右側にいた男の頭へ、丈八の木刀が凄まじい勢いで振りおろされた。木刀の鉄環が、額を割った。男は目を剥《む》いたまま膝から崩れ落ちた。  卯之助ともうひとりの男が、街道へ逃げた。草の中の五人は用心深く、斜面を少しずつ下って来る。丈八は吉兵衛を促して、小川を跳び越えると街道の中央へ出た。草の斜面にいた五人が、それを追って駆けおりて来た。丈八はその先頭の男の顔を、横薙《よこな》ぎにした。鼻が押し潰れて、顔の真中にパッと真赤な花が咲いた。男は小川の中へのめり込んで、苦悶した。 「よう、抜かずの丈八、鉄砲の吉兵衛、久しぶりだな」  そう、声がかかった。丈八と吉兵衛は、声の主のほうへ目を転じた。そこには、意外な人間の顔があった。小伝馬町牢屋敷の二間牢で、四番役として平囚人から恐れられていた忠次であった。忠次は一カ月半前に、三百日の入牢を果して自由の身になった。だから、忠次が裟婆にいたとしても、別に不思議ではない。しかし、なぜ忠次がこんなところに、不意に出現したのだろうか。 「友蔵っていうのは、おめえのことかい」  丈八は、表情の動かない顔で言った。 「とんでもねえ。おれはお仕置をすませたんだし、忠次という名めえを隠すことはねえのさ」  酒がはいっているらしく、忠次はやたらと歯を覗かせた。 「友蔵と名乗っているのは、こちらの親分さんなんだよ」  忠次が指さすほうを見て、吉兵衛があっと叫んだ。丈八の表情にも、初めて変化が生じた。意外な人物というより、その存在がとても信じられなかった。そこにいる大男は、二間牢で中座の連中に襲われ虐殺されたはずの一番役、三津田の仙太郎だったのである。 8  三津田の仙太郎は、間違いなく殺された。その死に顔を二番役が確かめたし、中座の連中も仙太郎を殺したと認めたのだ。現に、仙太郎の死体が牢内から運び出されて行くのを、丈八も吉兵衛も見たのである。だが、その当人がいま生きて、目の前にいるのだった。仙太郎に、よく似ている男ではない。紛れもなく、当人なのであった。 「あの企みはもうずいぶんめえから、練ってあったことなのさ。まあ、いま種を明かしてやるぜ」  仙太郎も酔っているのか、ひどく鷹揚だった。あるいは数を頼んで、丈八たちには負けないという自信があるのかもしれない。 「おれのお仕置は、島送りとわかっていた。どっこい、島送りなんて真っ平ご免だ。おれは何とか、逃げ出すつもりでいた。ところが小伝馬町の牢屋敷の牢破りだけは、誰にもできねえことさ。だがな、そのうちに、あそこみてえに袖の下や鼻薬が覿面《てきめん》に利くところはねえってことに気がついた。殺されたとわかっていて、病死にしてくれる。だったら、生きていても、死んだことにしてくれるんじゃあねえかってな」 「二つの点で、牢屋同心と牢医と何人かの下男《しもおとこ》を納得させりゃあ、できねえことじゃねえと、おれは思ったね」  忠次が、そう口をはさんだ。 「一つは、やつらが満足するだけの袖の下。もう一つは、あとあとまでバレねえっていうことさ。やつらが、いちばん恐れるのはそのことだからな。殺されたのを病死にできるのも、死人に口なしでバレる心配がねえからさ。そこで、おれは自由な身になるとすぐ、打ち合わせてあった通りに、牢屋同心と牢医に話を持ちかけた」  牢屋同心も牢医も、顔色を変えて一応は拒絶した。そうなれば、脅迫するという方法がある。  これまでの入牢生活で経験したこと、どれだけ袖の下を渡したかを残らず徒《かち》目付に訴えてやると脅すのだった。それで牢屋同心も牢医も、すっかり恐れ入ってしまった。忠次はまず仙太郎には身寄りがないこと、二度と再び関八州には舞い戻らないこと、友蔵という変名で通すことを説明して、発覚する恐れはないと納得させた。  それから袖の下の額高の交渉にはいり、牢屋同心と牢医に各三十両ずつ、牢死番所を含めて下男に十両ずつということで話を決めた。一方、牢内の仙太郎は上座と中座の連中に、豪華な牢見舞を差入れることを条件に協力を求めた。忠次からの連絡があり次第、中座の連中が仙太郎を襲って虐殺したように見せかけるというわけだった。 「連中は手馴れているから、うめえもんだ。夜中に襲ったと見せかけて、実は明け方におれを気絶させたのさ」  仙太郎は、得意げに笑った。 「牢内から牢死番所へ運ばれて、仙太郎いや友蔵親分は息を吹き返した。しかし、そのまま死体らしく装って、やがて裏門から外へ。そこには死体の引取り人として、この忠次が待っているという寸法さ」  忠次も嬉しくて仕方がないというように、気どってみたり手振り身振りに忙しかった。頭脳的な計画に成功して、その結果を説明する悪党というのは、そんな単純な連中なのかもしれなかった。 「しかし、おめえたちとは、不思議に縁があるじゃねえか。聞いたところによると、扇屋の新造ととっつぁんが知り合いなんだそうだな」  仙太郎が楊枝《ようじ》を噛みながら、ニヤニヤして見せた。 「お京は、おれの娘だ」  吉兵衛が、仙太郎と向かい合いになった。 「とっつぁん。よしねえ、そんな悪い冗談は……」  仙太郎が楊枝を飛ばして、プッと吹き出した。 「冗談を言っている場合じゃねえ」  吉兵衛が、長脇差を構え直した。急に、あたりが静かになった。仙太郎の顔から、笑いが徐々に消えて行った。横にいた伊兵衛の身内が、長脇差を仙太郎の手に押しつけた。仙太郎は、長脇差を受け取った。それを見た忠次も、伊兵衛の身内に長脇差をよこせと催促した。 「とっつぁん、おれを斬ろうっていうのか」  仙太郎は長脇差を抜くと、不意に凶暴な顔つきになった。 「堅気の女房に、何てことをしやがったんだ!」  吉兵衛が、大声で怒鳴った。 「何を! この老耄《おいぼれ》が……」 「おめえよりは、確かに年寄りだ。その代わり、場数は多く踏んでるぜ」  吉兵衛が、一歩踏み込んだ。しかし、丈八にはそれを見物している余裕がなかった。伊兵衛の身内たちが、絶え間なく斬り込んで来るのだった。ひとりの肩の骨を砕き、もうひとりの喉を突き上げて気絶させたとき、丈八は背中で吉兵衛の絶叫を聞いた。丈八は、振り返った。吉兵衛が路上に、大の字になって倒れていた。その左の肩口から胸にかけて、鮮血の一線が走っている。  丈八は、ゆっくりと吉兵衛のところへ近づいた。吉兵衛の顔に落ちた丈八の視線は、地面を這ってそこにある男の足の爪先で止まった。それから、その足を膝へ、腰から胸へ、そして仙太郎の顔に丈八の視点は定められた。仙太郎が一瞬、たじろいだ。丈八の鮮烈な眼光に、威圧されたのだった。  丈八の目は、青白く光っていた。完全に凍っていた何かが、激しい音をたてて割れていくような気分であった。丈八は、吉兵衛の右手を掴んだ。 「いけねえ……」  吉兵衛が、息と大して変わらない声で言った。 「いいんだ、とっつぁん。貸しておくんなさい」  丈八は、長脇差を掴んでいる吉兵衛の指をはずしにかかった。 「どんなことがあろうと、抜き身は持たねえはずだろう」 「あっしの血が熱くなったのは、これが最初で最後なんでござんすよ」 「誓紙はどうするんだ」 「あっしが右腕一本斬り落せば、それですむことなんです」 「馬鹿を言え」 「ごめんなすって」  丈八は、吉兵衛の右手首を足で踏みつけた。長脇差が、吉兵衛の手から離れた。丈八は、それを拾い上げた。 「仙太郎、どうやら島送りになったほうが、長生きができたようだぜ」  丈八は、左手に持っていた木刀を地面に叩きつけた。 「抜かずの丈八が、抜きやがったな」  仙太郎が低く構えて、前歯をそっくり剥き出しにした。 「牧野のお身内に申し上げやす。この揉め事に限り、抜かずの丈八という呼び名を返上致しやして、ご覧の通り抜いた長脇差でお相手します。お命を粗末になさらねえよう何とぞ無用な助っ人は、手控えておくんなさいまし……」  丈八はそう言いながら、身体を一回転させた。伊兵衛の身内たちは、やや後退した。やはり抜かずの丈八ということで、幾らか恐怖感が薄らいでいたのだろう。それで、思い切って斬りかかることもできたのだ。しかし、丈八が長脇差を抜いたとなると、抜かずの丈八だっただけに底知れぬ恐ろしさを感じさせるのであった。逃げだすわけにはいかないにしろ、形勢を見ようという気持になるのである。 「野郎!」  忠次が、怒鳴った。怒鳴るだけで、前には出て来なかった。 「おめえには、ずいぶんと痛い目に遭わされたっけな」  丈八の脳裡に、あの腿の骨が砕けるような激痛の記憶が甦《よみがえ》った。まだ二十をすぎたばかりと思われる若い男が、いきなり横合いから突っ込んで来た。丈八は、それをやり過した。伊兵衛の身内ではない。仙太郎のもうひとりの連れなのだ。知らない顔だが、お京を凌辱《りようじよく》したひとりには違いない。吉兵衛の長脇差を持っている限り、斬らなければならない男だった。 「忠次、行くぜ」  丈八は、跳躍した。忠次は逃げ腰になり、身体をやや斜めにした。その右の首筋へ、上から丈八の長脇差が突き刺さった。そのまま、丈八は地上に降り立った。忠次の右の首筋が大きく抉《えぐ》られた。忠次は二度三度と回転してから、土煙を上げて地面に倒れた。若い男が、背後から突っかけて来た。振り向きざまに、丈八の長脇差が水平に走った。  胴を深々と割られた若い男は、勢い余って小川を突っ切り杉の木の根元に頭から突っ込んだ。それっきり、男は動こうとしなかった。丈八は、仙太郎のほうへ横に歩いた。三度笠の奥から、紙のように白くなった仙太郎の顔が見えた。 「一番役……」  丈八は、低くそう呟いた。 「やっぱり、おめえを二間牢内で殺しておきゃあよかった」  仙太郎が、震える声で言った。 「佐助という男を、忘れちゃあいねえだろうな。一番役……」 「もう何もかも忘れちまったよ」 「思い出させてやろか、一番役」 「その一番役は、やめてくれ」 「この丈八と同じ信州の無宿だというだけで、佐助を狂い死にさせたな」 「思い出したよ」 「よし。これが、佐助の分だ!」  丈八の長脇差が、仙太郎の左の耳を削ぎ落した。 「これが、とっつぁんの分だ!」  丈八は、仙太郎の左手を手首から斬り落した。仙太郎が悲鳴を上げながら、尻餅を突いた。その胸板を丈八の長脇差が、深々と貫いた。丈八は、それを抜き取ろうとしなかった。絶息した仙太郎を眺めやっている丈八の顔から、激しいものが次第に消えて、いつもの無表情さに戻った。丈八は、吉兵衛が死んでいることを確かめてから、長脇差に見せかけている木刀を拾い上げた。  遠くで、見物人が散り始めた。伊兵衛の身内たちが、凝然《ぎようぜん》と突っ立っているだけだった。丈八は、その誰へも目を向けずに、足早に歩き出した。宿場を東へ抜けたところで、清吉に出会った。 「大変な騒ぎだったそうでございますね」  清吉は、他人《ひと》事のように言った。もちろん清吉に頼まれてやったことではないから、礼など言って欲しくはなかった。しかし、この男は冷たいと、丈八は思った。お京は間もなく、離縁されるに違いない。 「お京さんは、どちらで……」  丈八は訊いた。 「あそこに、おります」  清吉が、河原のほうを指さした。遠く河原に、お京の後ろ姿があった。踊っているような恰好だった。ここまでは聞えて来ないが、また子守唄を唄っているのに違いなかった。丈八は、河原への草原を走り出した。近づくにつれて、やはり子守唄が聞えて来た。丈八は首にかけていた守り袋をはずした。吉兵衛の守り袋だった。子守唄を唄いながら、お京が振り向いた。丈八はその手に、守り袋を握らせた。お京が、ニッコリと笑った。丈八はまたすぐ、街道のほうへ戻り始めた。   ねんねころろん   ねんねころん   坊のもりとうどこにいる   坊のもりかあどこにいる  お京の子守唄が、あとを追って来た。丈八は、お島を思い出さずにはいられなかった。お京は清吉の女房になり、子どもまで生んだ。だが、仙太郎たちがそのお京の一生を、取り返しのつかないものにした。丈八は、仙太郎たちを許せなかった。しかし、それでいて自分を許していることが、丈八にはどうにも息苦しかった。  お島も、大して変わらない。まだ、新妻だった。子どもを、生んだばかりであった。そのお島の右腕を、過失とはいえ斬り落してしまったのだ。丈八が、お島の一生を取り返しのつかないものにしたのである。やはり自分も仙太郎たちのように、小伝馬町の牢屋敷の二間牢で蠢《うごめ》いているのに相応《ふさわ》しい無宿人なのではないだろうか。そうでなければ誓紙にあるように、右腕を斬り落してもらうべきであった。 「これから、どちらへ?」  街道へ戻ると、寄って来た清吉が言った。 「塩尻から松本道を、岡田宿まで参りやす。この右腕を斬り落さなけりゃあならねえんで……」  清吉の驚いた顔を無視して、丈八は街道を東へ急いだ。右腕を斬り落したら、本当の抜かずの丈八になる。しかし、そうなったらその先にあるのは野垂死《のたれじに》だと、丈八は苦笑した。それもまたよかろうと、背に日を受けて街道へ長くのびた自分の影に丈八は呟きかけた。 木っ端が燃えた上州路 1  まるで、乞食のようであった。月代《さかやき》はのび放題だし、顔は無精髭で斑《まだら》になっていた。頬はげっそりと削げ落ちて、乾いた唇はひび割れている。目ばかりが、ギラギラと光っていた。薄汚れた着物はボロボロだし、手甲脚絆《てつこうきやはん》も古雑巾のようにヨレヨレであった。  鞘の色が剥げた長脇差を腰にして、風呂敷包みを胴に巻きつけている。木の枝を杖代わりにして、足を引きずるようにしながら歩いた。腰が定まらないので、右へ左へとよろける。病人か老人みたいで、とても二十五歳の若者の歩く姿とは思えなかった。  月代はのびているし長脇差を所持しているから、渡世人には違いない。しかし、およそ頼りない恰好である。三度笠でもかぶっていれば、せめて気息奄々《きそくえんえん》とした顔ぐらいは隠せるのだが、それもなかった。  勢五郎は、もう四日も食物を口にしていなかった。無一文だった。夜になってから、畑の作物を盗んで食べることは可能だった。だが、勢五郎の性分として、それができなかった。それにもし見つかっても、逃げるだけの体力がないのである。  小川の水を飲むことが、精々であった。この四日間、水だけで過して来た。その上、炎天下であった。歩いているだけで、絶え間なく汗が噴き出して来る。それだけでも、大変な消耗だった。嘉永四年、国定忠治が死罪になったその翌年の七月初旬のことである。  勢五郎は、信州の川中島から来た。川中島は、善光寺の一里南にある。一日目はまだ元気があって、善光寺みちを矢代、下戸倉、上田、海野、小諸と十五里ほど歩いて馬瀬口というところで野宿をした。しかし、二日目はぐんと脚力が落ちた。  追分で中山道へ出ると、沓掛《くつかけ》、軽井沢を経て上州にはいり碓氷《うすい》峠を下り、松井田の手前の御料という村の小橋の下で泥のように眠った。八里ほど歩いただけだった。三日目になると、もう足に力がはいらなかった。疲れがひどく、眩暈《めまい》がした。  勢五郎は拾った木の枝を杖代わりにして、それに縋《すが》って歩いた。そんな勢五郎を見て、すれ違う旅人が笑った。だが、勢五郎は気にしなかった。というより、そうしたことが目にはいらなかったのである。下を向き、自分の影を見ながら歩いた。  眩《まぶ》しいほど明るい空やギラギラするような太陽を見ると、気が遠くなりそうだったからである。松井田の先から中山道を南にそれて、妙義山の東の麓を回り下仁田街道の中小坂へ出た。勢五郎は汗を拭きながら、下仁田街道を東へ向かった。  脇街道だから、旅人の姿は少なかった。街道に沿って鏑《かぶら》川が流れ、四方には目にしみるような緑が溢れている。蝉の声が、降るように聞えていた。しかし、それらは勢五郎の目にも耳にも触れなかった。引きずる足で黄粉《きなこ》のような土埃を上げながら、勢五郎はただ歩き続けた。  下仁田をすぎ、一ノ宮まで来たとき、この日も暮れた。やはり、八里を歩いただけだった。勢五郎は、神社の本殿の床下へもぐり込んで一夜を過した。目を覚ましたのは明け六ツ、午前六時であった。勢五郎は床下から這い出ると、そのまま歩き出した。  四日目である。富岡をすぎた。間もなく、鏑川の渡しであった。しかし、渡し舟に乗ることはできなかった。舟渡し十二文であった。その十二文がないのだ。勢五郎は浅そうな場所を選んで、川の中へはいって行った。着物を脱ぐわけでもなく、そのままの姿で勢五郎は水につかった。  いちばん深いところで、胸のあたりまであった。流されそうになる身体を杖で支えて、どうにか向こう岸にたどりついた。ズブ濡れのままで、勢五郎は再び歩き出した。照りつける日射しが、すぐ着ているものを乾かした。福島をすぎた。女連れの旅人までが、勢五郎を追い抜いて行った。  一ノ宮から三里で、吉井であった。吉井をすぎた頃には、もう午後の日射しになっていた。少し歩いては、道端にすわって休む。その繰り返しだったからである。歩き出すと、目が霞むのであった。『藤岡まで二里半』という道標を見た。  何とか明るいうちに、藤岡につきたいと思った。だが、気が焦るだけで、足はまったく言うことを聞かなかった。ついに、日が西に傾き始めた。藤岡の手前の白石まで来たとき、勢五郎は今日のうちにこの旅を終えるということを断念した。  藤岡は、目の前にある。鮎川橋を渡り大畑村を通りすぎれば、もう藤岡であった。しかし藤岡につく頃には、町に明かりがはいっているはずだった。当時の礼儀としては、夜になってから他人の家を訪れないことが常識であった。  渡世人の世界でも、それが厳しい作法とされていた。例えば旅人が貸元の住まいを訪れて一宿一飯の取持ちを頼む場合、時間としては午後三時すぎのまだ明るいうちである。日が暮れて明かりがつくと、貸元のほうも旅人の仁義を一切受けなかった。  だから、旅人も遠慮して野宿するか、旅籠屋に泊るかする。夜になってからでも、仁義を受けるという例外はある。凶状旅、つまり役人に追われている旅人などは夜になってからでも、不本意ながらと一宿一飯の取持ちを頼むのであった。  勢五郎は、どこかの貸元の添え状を持っているわけでもない。どこの馬の骨かもわからないのである。そんな勢五郎が暗くなってから、藤岡の勘蔵親分のところへ押しかけたりしたら、身内衆に袋叩きにされた上ほうり出されるのが関の山だった。  勢五郎は湧き清水をたっぷり飲んでから、野宿する場所を捜した。街道から少しはずれたところに、水車小屋があった。ずいぶん前から使われていないらしく、水車に湿り気もなかった。川も流れていない。恐らく川の流れを変えたために、使われなくなった水車小屋なのだろう。  勢五郎は、小屋の中へはいってみた。水車の回転によって動く杵《きね》、それに臼も取りはずされていた。隅に藁《わら》が積み上げてあり、反対側の板の間に荒縄が散らばっていた。土間と板敷きの部分の境に、タガがはずれた水桶が四つ五つ並べてあった。そのほかには、何もなかった。  藁の上に寝るのは暑苦しい感じだった。勢五郎は、板の間に横になった。荒縄を集めて、枕の代わりにした。長脇差をかかえて、すぐ横の無双窓をあけた。月の光が射し込んで来た。満月には間のある月が、昇ったようである。田圃の上を渡って来る夜風が、勢五郎の顔を心地よく撫でた。風が強いせいか、蚊もいなかった。  蛙の声が、呼吸するように聞えて来る。勢五郎は、目を閉じた。何もかも、夢の中の出来事のように思えて来る。それが空しくもあり、救いでもあった。昼間の苦しい道中も空腹も、すべて夢の中の出来事だと思えばいいのである。  勢五郎はふと、人の声を耳にした。足音がヒタヒタと聞えて来る。目的地へ向かって来る足音だった。少しも迷っていない。夜になってから、人家もないこの方角へ人が来る。その目的地は、ここではないか。勢五郎は、目を開いた。果して水車小屋の板戸が、ガラリとあいた。  シルエットで、男と女であることがわかった。二人とも、水車小屋の中をよく知っているらしい。うろうろすることもなかった。今夜が初めてではないのだ。ここをいつも密会の場所として、利用しているのに違いない。男が板戸をしめた。小屋の中は、再び薄暗くなった。  とんだところで野宿をしたものだと、勢五郎は思った。しかし、いまになって、逃げ出すわけにはいかなかった。身動き一つ、できない。勢五郎は無意識のうちに、息を殺していた。カサカサと音がした。積まれた藁の上に、男と女がすわったのである。 「ゆっくりしちゃあ、いられねえ」  男の声が言った。言葉遣いから察して、堅気の男ではないらしい。 「いつも、そうなんだから……」  女が甘える声とともに、せつないといった感じで溜め息を洩らした。 「仕方ねえ。人に知られちゃならねえ仲なんだから……」 「いつまで、そうなんだい」 「おめえには、親分がついている。親分はおめえを手放さねえ。まあ、親分が生きている限りは、どうすることもできねえだろう」 「じゃあ、親分が死にさえすれば、お前さんはわたしをおかみさんにしてくれるんだね」 「当りめえだ」 「嬉しいよ、お前さん」 「さあ、こっちへ来ねえ」  藁が音を立てて、男が女を抱き寄せる気配がした。男女は沈黙した。雫《しずく》が石の上に落ちるような、水っぽい音が聞えた。男と女が、互いに口を吸い合っているのだ。勢五郎の目に、男女の輪郭が見えて来た。男がのしかかるようにして、女を藁の上に沈めた。  闇の一部が、白くなった。男が女の着物の裾を、大きくはねのけたのである。白いのは女の露《あら》わになった太腿から、足にかけてであった。唇を離したらしく、乱れた息遣いが忙しく聞えた。 「待ち遠しかった。待ち遠しくて、気が狂いそうだったんだよ」  女が喘きながら言った。白く浮かび上がっている女の下肢を押し開いて、男の黒い影が割り込んだ。 「待って……。その前に、ここを吸っておくれな」  女が、慌てたように口走った。勢五郎はそっと、無双窓のほうへ身体の向きを変えた。二十五歳の男にとって、刺激が強すぎたからではない。空腹な勢五郎の目には、男女の睦み合いがひどく馬鹿らしいことのように映じたのである。  男の荒い呼吸が、一定のリズムに乗って繰り返されている。女が懸命に声を出すまいとしているのが、小刻みに洩れる呻きによってわかった。しかし、それも長くは続かなかった。断続的に、女の短い悲鳴と甘い泣き声が聞えて来た。  それは次第に間隔を縮めて、もう絶えることのないすすり泣きとなった。それが高まって行き、やがて紙風船でも叩き割ったような悲鳴となってやんだ。あとは、苦しそうに吐き出す息の乱れようだけだった。また藁が、カサコソと鳴った。 「さっぱりしたかい」  乾いた男の声が、そう言った。 「また、わたしを狂わせて……。わたしをこんなにさせるのは、お前さんだけなんだよ。憎らしい」  女の声は、まだ陶然としていた。 「さあ、先に行きねえ」 「今度は、いつ……?」 「いまのところは、わからねえ」 「あんまり、待たしちゃいやだよ。それから、浮気しないでね」 「そんな心配は、いらねえよ」 「でも、お前さんは、いい男だからねえ。気になって、仕方がないのさ」 「さあ、急がねえと……」 「わかってるよ」  間もなく板戸があいて、女のほうだけが小屋から出て行った。男は着物の裾を払ったりして、時間を稼いでいた。勢五郎がいることには、まったく気づかないようだった。誰もいないものと、決め込んでいるのだ。それに土間と板張りになっている部分との境に、水桶が並べてある。  勢五郎のほうからは、水桶と水桶の間を通して土間の隅を見ることができる。しかし、男のほうからだと並んでいる水桶が遮蔽物となって、勢五郎の姿をはっきり確認できないのであった。  やがて、男も水車小屋を出て行った。これで眠れると、勢五郎は改めて目を閉じた。不意に、小屋の外で人の声がした。ここを出て行った男を、誰かが待っていたようである。それも、男だった。頬かぶりか何かで顔を隠しているらしく、陰にこもって低い含み声であった。 「たっぷり、可愛がってやったかい」  待っていた男の、含み声がそう言った。 「へい。親分が死んだら、女房にしてやると約束しやしたよ」  ここを出て行った男が、笑いながら答えた。 「その気に、なりそうか」 「間違いありやせん。もう一押しすれば、親分に一服盛る気にもなりやしょう」 「あんまり早く、その気になってもらっても困る。あと六十日は、待たなきゃならねえ。すべてを水に流してから、一服盛らせるんだ。その点、おめえにうまく操ってもらいてえんだよ」 「へい。どうか、あっしに任せておいておくんなさい」 「じゃあ、行こうか」  二人の男は、ゆっくりと立ち去って行った。勢五郎には、何が何だかよくわからなかった。親分の女を、誑《たら》し込む。夢中になった女は、男と夫婦になりたいばっかりに親分に一服盛る。そうさせるのが狙いらしい。しかし、親分とは誰なのか、いまの二人はどこの何者なのか、見当もつかないのである。  それに六十日は待たなければならない、すべてを水に流してから、というのは何を意味しているのか。はっきりしているのは、悪事を企んでいるということだけであった。いまはどうでもいいことだ、と勢五郎は思った。ただ緊張しただけに、喉が渇いた。水を飲むために、勢五郎は外へ出て行った。  視界は、銀色の闇であった。田畑が、月光を浴びて広がっている。勢五郎が小屋の外に立つと、近くで聞えていた蛙の声がやんだ。いまの二人の男はこの辺に立っていたと、勢五郎は地上に目をやった。とたんに、そんなところにあるはずがない品物を、勢五郎は見た。  小さいが、高価な品物である。それだけに、すぐ気がついたのかもしれない。勢五郎は、それを拾い上げた。根付であった。根付は提げ煙草入れ、燧袋《ひうちぶくろ》、印籠などいわゆる提げ物を腰に吊る場合、ヒモの端につける飾りであった。  この根付は文化文政の時代を最盛期に、庶民の間で大流行を見た。金唐革など贅《ぜい》を尽した煙草入れに、変わった意匠の根付をつけることが粋人の見本みたいに言われたのだった。材料は象牙、木材、水牛の角、鼈甲《べつこう》、陶磁器、蒔絵《まきえ》が殆どであった。  意匠も神仙、人物、動植物、風景、紋尽しと工夫を凝らし、専門の根付師がいたくらいである。勢五郎が拾ったのは鼈甲で作られたもので、達磨《だるま》であった。目玉が動くようになっている。大変な細工で、誰でも持てるという安物ではない。  多分、提げ物のヒモが切れて、根付だけが落ちたのだろう。根付がなくなっても、提げ物がすぐ落ちるとは限らない。根付がないことに気づくのは、帯を解くときになってからだろう。目玉の動く達磨の根付には、土埃も付着していなかった。  以前から、ここに落ちていたものではない。あの悪企みをしていた二人の男のどちらかが、落して行ったのに違いなかった。勢五郎は空っぽの小財布を取り出すと、表情のない顔でその中へ達磨の根付を入れた。それから飲める水を捜しに、勢五郎はふらふらと歩いて行った。 2  翌朝、勢五郎は改めて藤岡へ向かった。一歩一歩がズンと腹に響き、身体が地面に吸い込まれそうになる。意識が薄れて、歩きながら眠ってしまいそうな感じだった。あまり朝早く行ってもと遠慮したが、そんな必要もなかった。早く歩きたくても、それができないのであった。  藤岡の北東一里たらずのところに、中山道の宿場町新町がある。だが、その一里たらずの道はいわゆる間道であって、正規の街道ではなかった。下仁田街道は藤岡の先を真直ぐ東へ進み、神流《かんな》川を渡って中山道の本庄に出るのであった。  藤岡は下仁田街道の宿場町だが、市場町としても栄えているところだった。周囲には、桑園が多い。繭、生糸、太物《たんもの》などの市が開かれて、その種の問屋が何軒もあった。景気は悪くないし、大勢の人々が離合集散する。その上、現金が動く。つまり、賭場の開かれる条件が揃っているのだ。  そうした藤岡を中心に、本庄の西から富岡のあたりまで下仁田街道に沿った一帯を縄張りにしているのが、藤岡の勘蔵であった。身内衆は三下まで含めば約五十人で、かなりの勢力を持っていた。勘蔵は今年四十八歳、陰では『鬼勘』と呼ばれ、堅気の衆から恐れられていた。  となると勘蔵は、堅気の衆の間で評判が悪いという証拠であった。事実、勘蔵は短気であり、残忍性を持っていた。怒ると、逆上する性質である。逆上すると、何をするかわからない。勘蔵の金一朱銀を一粒盗んだだけの子分を、両腕を切り落して追放したという話は有名であった。  顔役であることを自負して、堅気に対する態度も傲慢であった。勘蔵の姿を見かけると、堅気の衆は道の端へ寄り、女は家の中へ逃げ込んだ。身内衆が勘蔵を見捨てないのは、その執念深さ、冷酷さ、腕力の強さを恐れているからだった。  そうした噂は、勢五郎も聞いて知っていた。それを承知の上で、勢五郎は鬼勘から盃をもらうつもりなのである。理由は特にない。ただ一家をかまえている貸元で勢五郎が顔を知っているのは、藤岡の勘蔵しかいないからなのであった。  勢五郎が勘蔵を見たのは、二年ほど前のことであった。その頃、勢五郎は父親の文吉と二人で、信州の川中島に住んでいた。文吉はもともと、渡世人であった。八年前、文吉は野州石橋で、三人の人間を斬った。そのために、追われる身になった。  凶状持ちである。文吉は女房のおしのと勢五郎を連れて、武州、上州を逃げ回り、ようやく信州の川中島に落着いた。ちょっとした縁故のある地主を、頼って行ったのだった。その地主からネコの額ほどの畑を借りて、文吉は百姓になりすました。  文吉とおしのは、畑を耕した。勢五郎は、まだ少年だったが人足仕事をやった。勢五郎が手伝うほど、畑が広くなかったのである。五年後に、おしのが病死した。とたんに文吉はめっきり老け込み、身体に熱を持つようになった。  二年前のある日、夕方になっても文吉は住まいの掘立小屋へ帰って来なかった。勢五郎は善光寺みちの近くまで、様子を見に行った。文吉は、街道脇に倒れていた。高熱を発している。工合が悪いのに一日中、炎天下で野良仕事をしていて体力の限界を越えたのであった。  勢五郎は、文吉を起しにかかった。文吉は、苦しそうに唸っていた。そこを通りかかったのが、五人連れの渡世人であった。いずれも道中支度で、善光寺へ向かって歩いて来たのだった。先頭に立っていた渡世人が、文吉を見て足をとめた。  その渡世人は薬袋を取り出すと、中身の黒い丸薬を掌の上に十粒ほど流して、勢五郎の目の前に差し出した。勢五郎は丸薬を自分の掌の上に受けながら、渡世人の三度笠の中の顔を覗き込むようにした。温厚そうな顔が、勢五郎を見おろして笑っていた。 「どうも、ありがとうごぜえます。失礼でごぜえますが、あなたさまのお名めえをお聞かせ下せえ」  勢五郎は、頭を下げながら言った。 「名乗るほどの者じゃあ、ござんせんよ。まあ、上州は藤岡の勘蔵、人呼んで鬼勘とでも申しておきやしょうか」  渡世人は、そう答えてから大声で笑った。その子分と思われる四人の渡世人たちも、ゲラゲラと笑い出した。そのまま五人の渡世人は立ち去って行ったが、笑い声はなかなかやまなかった。  何がおかしいのかはわからなかったが、そのとき勢五郎の記憶に藤岡の勘蔵という名前と顔が刻み込まれたのである。  藤岡の勘蔵からもらった丸薬で、文吉の熱は一時的に下がった。しかし、それっきり文吉は、起きて働くことができなくなった。再び熱がひどくなったのは、三カ月ほどして朝晩に冷え込みを感ずるようになった頃であった。  文吉はしきりと、藤岡の勘蔵のことを気にしていた。渡世人上がりだから、そうした貸し借りを重く見るのであった。翌年、春を待たずに文吉は死んだ。文吉はまだ四十六歳であった。掘立小屋のボロの中で惨めな死に方をしたのは、いかにも不遇の渡世人の末路という感じだった。  文吉が死ぬと、勢五郎は地主から追い立てを食った。勢五郎は犀《さい》川の護岸工事の人足となり、人足小屋に住みついた。その工事が終わると流れ人足となって、勢五郎は信州のあちこちを転々とした。そのうちに人足仲間の博奕《ばくち》に手を出すようになった。  本格的な渡世人とは言えないが、その下地だけは完全にできていたのである。この夏、川中島にある文吉の墓に参ったとき、勢五郎は意を決した。自分には何もない。人並の明日もなければ、生き甲斐もないのだ。そうした人間には、渡世人としての生き方しかない。  五日ほどして、勢五郎は川中島を旅立った。行く先は、上州の藤岡であった。藤岡の勘蔵から盃をもらって、一人前の渡世人になるつもりだった。文吉もしきりと、勘蔵のことを気にしていた。勘蔵の身内になるというなら、死んだ文吉も反対はしないだろう。  勢五郎は四日間何も食べずに、五日目の辰の刻、午前八時に藤岡の宿場うちに足を踏み入れたのであった。勘蔵の住まいは、藤岡宿を東へはずれかけたところにあった。間口が広く、四角に勘の字を書いた油障子が四枚並んでいた。  それでも中二枚を開放してあるのだった。土間が見えていた。その土間から、数人の男たちが出て来た。長脇差を腰にした五十前の男とそれに付き添った若い者ひとりを、四、五人の連中が送り出すところだった。その貫禄から推して、五十前の男は親分に違いなかった。  しかし、勢五郎の記憶にある勘蔵とは、かなり違っているような気がした。二年前に見た勘蔵は、もっと温厚な顔をしていた。品もあった。ところが、いま目の前にいる勘蔵は鬼勘という呼び名に相応《ふさわ》しく、鬼みたいに険のある悪相の持ち主だった。  力士のような大男で色が赤黒く、その角張った顔はまさに鬼瓦であった。目と鼻が大きく、唇が厚かった。その凶悪な人相が、残忍で冷酷で傲慢で、堅気の衆から嫌われ恐れられているという勘蔵の評判を裏付けているようだった。  だが勢五郎が知っている勘蔵ではないと、言い切れるほどの確信もなかった。何しろ、二年前のことである。しかも夕闇の中で、三度笠に隠されている顔を垣間見ただけなのだ。背恰好は似ているし、あるいは二年前に見た勘蔵に間違いないのかもしれない。 「親分さん。藤岡の勘蔵親分では、ござんせんか」  勢五郎はよろけるように、その男に近づいて行った。同時に、見送りに出ていた四、五人の身内衆が、慌てて飛び出して来た。そのうちのひとりが、勢五郎の胸を押した。踏ん張る力もない勢五郎は、その場に尻餅を突いた。カリッという音がした。勢五郎の長脇差の鉄鐺《こじり》が、地面の小石を砕いたのだ。 「野郎! 気安く親分のそばに、寄るんじゃねえ!」  勢五郎を押し倒した男が、そう怒鳴りつけた。三十すぎの、役者にしたいような美男子であった。 「やっぱり、藤岡の勘蔵親分で……」  勢五郎は、地面に正座した。 「だったら、どうだというんでえ!」  その美男子が、声を張り上げた。 「お願いが、ごぜえやす」  勢五郎は、勘蔵に向かって両手を突いた。 「用があるなら、早いところ言いな」  不機嫌そうな顔で、勘蔵は横を向いた。 「あっしは、信州川中島から参りやした。二年めえ、おやじが道端で熱を出して苦しんでいるとき、通りかかった親分さんから薬を恵んで頂きやした」 「そんなことが、あったっけな」 「へい。おやじは息を引き取るまで、親分さんのお恵みを忘れずにおりやした。あっしも同様にござんす。どうかこのあっしを、お身内衆のひとりに加えてやっておくんなさい。お願えでございやす」 「この藤岡の勘蔵に、命を預けてえというのかい」 「へい」 「見たところ、おめえは根っからの渡世人じゃねえな」 「へい。これから修業を積ませて頂くつもりでおりやす」 「おめえは、いわば素人だ。素人のおめえを身内に加えるほど、藤岡の勘蔵は落ちぶれていねえよ」 「親分……」 「ま、当分の間は、おめえの根性を見るとしよう。盃をやるやらねえは、そのあとのことだ。それでよかったら、おれのところの敷居を跨《また》ぐんだな」 「へい。どうも、ありがとうござんす」  勢五郎にも、勘蔵の言葉の意味はよくわかった。渡世人の世界には、厳しい身分の違いがある。それらは、人物、度胸、腕などによって決まる。あくまで、実力次第であった。跡目相続も、世襲制といったことは絶対になかった。  親分の息子が跡目を継いだという例は、まったくなかったと言っていい。当時の渡世人が、息子が一人前になるまでとても無事には過せなかった、ということもある。いずれにせよ、親分の跡目は身内の中の最適と思われる人物が、相続したのであった。  同じ身内でも、いろいろと種類がある。まず、その親分だけに盃をもらった子分であった。あとにも先にも、ほかの親分からは盃をもらったことがないという子分なのだ。これを手作りと言い、跡目相続の資格を十分に持っている。  次は先代の親分の子分でもあり、新しい親分の代になってから改めて盃をもらい直すというのである。つまり先代と新しい親分と、二度盃をもらった子分なのだ。それは譲りと呼ばれて、あるいは跡目相続の対象に選ばれるかもしれないという可能性を持っているのであった。  三番目は、ほかの一家から何かの事情で出て来て、何度目かの親分と盃を交わしたという子分である。これは世話内と言って、跡目相続の資格をまったく持っていない子分であった。このほかに親分の家に住みついて、雑用とか使い走りとかに忙しく働いている若い者がいる。  これが、いわゆる三下である。まだ、親分から固めの盃も、もらっていない。正規の子分ではないし、身内の人間として認められてもいない。それでいて、扱《こ》き使われる。外で何々一家の者だと、言ったりすることも許されなかった。  長脇差を持ち歩くことも、禁じられていた。朝はいちばん早く起きて、夜は最後に床へはいる。どんなことに対しても、不平不満は洩らさない。食べさせてもらっているのだから、その分は働かなければならなかった。三下として、半年や一年は辛抱することが必要だった。  それを親分や身内衆が見ていて、渡世人ということで通用するかどうかを判断する。親分が可と見たら、初めて盃を与えることになる。それによって正式に身内のひとりに加えられて、三下という身分から解放されるのであった。  勘蔵はその三下でいいなら置いてやろうと、勢五郎に言ったのである。勢五郎に、不服はなかった。とにかく目的は達したと思った瞬間、勢五郎の意識は薄れた。急に疲労と空腹に耐えきれなくなったのだ。勢五郎は、地上に転がった。 「野郎、何日も食ってねえようですぜ」 「奥へ運んで、何か食わせてやれ」 「へい。みんな、手を貸せ」  そんな声を耳にしながら、勢五郎は何とかして目を開こうと努めた。身体が宙に浮いた。勘蔵の腰のあたりが、目の前に迫って来た。霞んでいる視界に、何かが浮かび上がった。勘蔵の提げ煙草入れであった。紅革の煙草入れに、根付がついている。  鼈甲でできている達磨の根付であった。その達磨の目玉が、ギョロリと動いた。 3  三下は、勢五郎だけではなかった。もうひとり、弥助という三下がいた。弥助はもう、間もなく、四十になるという年であった。何よりも、博奕が好きだという男だった。そのために女房にも見捨てられて、住む家もなかった。  それでもまだ、博奕の味を忘れることができないという。勘蔵のところで三下をしているのは、一つには行き場所がないこともあったが、やはり少しでも博奕の雰囲気に接していたいからであった。もちろん正規の子分になれるような男ではないし、当人もそれを希望していない。  死ぬまで、三下でいいのであった。生来が楽天家なのか、弥助には暗さがなかった。四十近くになって水仕女《みずしおんな》と一緒に下働きをやっていても、悲惨な感じがしないのである。三下のほうが気楽でいいと、いつも陽気に振舞っていた。  勢五郎はしばらくは夢中で過して、この弥助ともあまり口をきかなかった。勢五郎が弥助からいろいろと話を聞くようになったのは、藤岡へ来て十日ほどたった頃であった。弥助は情報通で口が軽いから、話を聞いているだけでも面白かった。  勘蔵が重だった身内を連れて、伊香保の湯治場へ出かけた留守に、勢五郎は初めて藤岡の『初音』という居酒屋へ案内された。弥助に無理に引っ張って行かれた、と言ったほうがいいかもしれない。『初音』は小さな居酒屋で、お鶴という酌女がひとりいるだけであった。  弥助の馴染みの居酒屋らしく、お鶴とも親しく口をきく間柄だった。もっともお鶴は無口な女で、何を言われても寂しそうな笑顔を見せるだけである。二十三、四だろうが、陰気なくらい暗い感じのする女であった。そのために、器量は悪くないが老けて見えた。 「勢五郎さんよ、おめえも口数が少ねえな。おめえさんとお鶴ちゃんが二人だけでいたら、壁や天井が話を始めるぜ」  まだ酔いが回らないうちから、弥助はそんな冗談を口にした。弥助は先輩ぶらずに、勢五郎さんと呼んだ。自分はいつまでたっても三下だし、勢五郎はやがて身内衆のひとりになるということを、意識しているのかもしれなかった。 「だがな、勢五郎さん。おめえさんのその無口が、案外災難除けになっているのかもしれねえぜ」  弥助は、茄子の塩漬けを齧《かじ》りながら、真顔で言った。 「そうですかい」  勢五郎は、気のない返事をした。月代《さかやき》は、のびたままだった。本来なら、きちんとした髷《まげ》に結い直さなければならないところなのだが、髪結床へ行くだけの金がなかった。三下は無給だし、新参者に小遣いをくれる人間もいなかった。今夜の『初音』の払いも、弥助が持つことになっている。  髭だけは、自分で剃り落した。さっぱりした顔になっても、勢五郎は若返らなかった。お鶴と同じである。その暗い翳《かげ》りと感情を表に出さないことで、勢五郎は老けて見えるのだった。 「うちの親分の耳にはいるところで、飯倉の武兵衛という名を口にしてみな。半殺しにされるか、舌を抜かれるかするぜ」  弥吉は、恐ろしそうに首を縮めて見せた。 「飯倉の武兵衛……!」  勢五郎も、その名は聞いていた。嘉永年間の上州の貸元としては、勘蔵とともに十指のうちに数えられる親分である。飯倉の武兵衛は、この藤岡から一里と離れていない中山道の新町を本拠に、その周辺を縄張りとしていた。勘蔵と武兵衛の縄張りは、その境を接している。 「うちの親分と飯倉の武兵衛とがどんなに仲が悪いか、勢五郎さんは知っていなさらねえのかい」 「へえ。詳しいことは、聞いておりやせん」 「そいつはまあ、普通では考えられねえくれえだ。犬と猿なんてもんじゃねえ」 「そうですかい」 「この六年間に、縄張りを争って血を見たことが大小で百回ぐれえは、あるんじゃねえのかな」 「そんなに……」 「親分同士が張り合って、理由もねえのに喧嘩をおっ始めるんだからどうしようもねえ」 「どっちがいいも悪いも、ねえんでござんすね」 「ところが、うちの親分のほうが悪いという評判でね」 「そいつは、どういうわけで……?」 「うちの親分は、ああいう気質だ。何かというと喧嘩状を突きつけて、長脇差を引っこ抜く。力で押し通そうとするし、そのやり方も渡世人らしくなく卑怯なんだ」 「世間の評判は、どうなっているんでござんすか」 「心のうちでは、うちの親分のほうが悪いと思っているんだろうよ。何しろうちの親分は鬼勘などと陰口を叩かれているし、向こうは逆に仏の武兵衛と言われているほど堅気の衆の間で評判がいいんだからねえ」 「その親分同士の争いに、決着はつきそうもねえんですかい」 「いや、形だけだが、決着がつきそうなんだ。この五月に親分同士が我慢できなくなって、雌雄を決しようと双方とも人手を集めて神流川の河原で大きな出入りが行なわれることになった。ところが土壇場になり、大前田英五郎親分の口ききで武州桶川の松太郎親分が仲裁役を買って出た。大前田の親分の口ききでは、どうしようもねえ。うちの親分も飯倉の武兵衛も、一切をお任せ致しますと手を引いたわけさ」 「すると間もなく、喧嘩仲直りの席が設けられるんでござんすね」 「九月の五日だ。場所は、本庄宿の料亭『くま源』と決まっている。仲裁人は桶川の松太郎親分、補佐役に野州富田の十助、武州浦和の久右衛門の両親分。立会人は大前田英五郎親分を筆頭に、野州鹿沼の勝次郎親分、三州藤川の吉三郎親分、上州松井田の伊兵衛親分、甲州台ヶ原の惣右衛門親分と大した顔触れだぜ」 「弥助さんはいま、形だけの決着だと言いなすった。それはいってえ、どういうことなんですかい」 「うちの親分と飯倉の武兵衛が、心から仲直りするわけがねえもの。大前田の親分の口ききだから、渋々手を引いただけで、一切をお任せするというのは本心じゃねえ」 「すると形だけ決着をつけておいて、そのあと何かを企むというんですかね」 「おれは、そう見ているんだ」  案外、弥助の予想は、当るかもしれない。勢五郎は、そう思った。弥助のような立場にいると、情勢を楽な気持で客観視できる。その結果、正しい判断が可能になるのだった。それに弥助の話によると、藤岡の勘蔵と飯倉の武兵衛の犬猿の間柄ぶりは確かに異常であった。  勘蔵は、赤犬に武兵衛と名づけておいて、それを惨殺したことがあった。武兵衛のことを口にしたというだけで、その子分を勘蔵は藤岡から追い出した。武兵衛は、鬼勘を侮蔑する戯《ざ》れ唄を作って流行《はや》らせた。勘蔵が桜祭と称して近在の芸妓を集めると、武兵衛は紅葉祭というのをやり堅気の衆も加えて大盤振舞いをした。武兵衛が先代の法要に江戸から虎屋の職人を呼び寄せて饅頭を作らせると、勘蔵も負けじと江戸名物の浅草餅を取り寄せて藤岡中に配らせた。といったエピソードは、無限にあるらしい。まるで子どもみたいに意地を張り合い、睨み合って来たのだ。それも、六年間にわたって続けられて来たのである。  その対立感情や憎悪が、一日だけの形式的な仲裁の席によって氷解するとは、確かに考えられないことだった。しかし、一旦和解したら、二度と事は起せない。大前田英五郎をはじめ、錚々《そうそう》たる親分衆が立会人と仲裁人を勤めるのであった。そうした親分衆の顔をつぶすようなことをすれば、勘蔵も武兵衛もただではすまなくなる。  だから表面上は、和解したと見せかけることになるのだろう。そのあと何かをやるはずだと、弥助は見ているのであった。公然と、斬り合うわけにはいかない。変死を装う手段で、相手を殺すのが最適である。長脇差を使わずに殺せば、立会人や仲裁人を勤めた親分衆も文句のつけようがない。  勢五郎は藤岡につく前夜、水車小屋の内外で見聞きしたことを思い出した。いまになって、見聞きしたことの意味が読めたのであった。間違いなく、仲裁の儀式が終わってから相手を殺すという陰謀である。あのとき男のひとりが、六十日は待たねばならないと言っていた。  あの日から六十日を数えると、九月の十日になる。一方、仲裁のための手打ち式は、九月五日に本庄の料亭『くま源』で行われるという。つまり手打ち式がすんで四、五日してから、女に一服盛らせてどちらかの親分を殺すという計画であった。  ただ勘蔵が武兵衛を殺そうとしているのか、それとも逆に武兵衛が勘蔵の命を狙っているのかは、勢五郎には判断がつかなかった。顔は確かめてないし、声だけでは誰であったかはっきりしない。しかし、勢五郎の頭から離れないのは、鼈甲作りの目玉が動く達磨の根付と、女が口にしたお前はいい男だからという言葉だった。  勢五郎が拾った達磨の根付と、そっくり同じものを勘蔵は提げ煙草入れにつけていた。それに代貸の卯之吉は、役者にしたいような美男子である。勢五郎が勘蔵に近づこうとしたとき、それを押し倒したいい男が卯之吉であった。卯之吉は、藤岡の勘蔵一家の代貸だったのだ。  水車小屋で女を抱いたのは、卯之吉ではないだろうか。とすれば、浮気をしないで、お前さんはいい男だから気になって仕方がないと、女が心配するのは当然であった。勘蔵には、お筆という妾がいる。お筆は藤岡で、小料理屋をやっていた。飯倉の武兵衛にも、そうした類の女がいるのに違いない。 「弥助さん、飯倉の武兵衛には、女がいるんでしょうね」  勢五郎は、盃の中の冷たくなった酒に、目を落した。 「いるともさ」  弥助は嬉しそうに、赤くなった顔を綻《ほころ》ばせた。 「お光という脂ののりきったいい女で、それに色目を使われるとどんな堅物でもゾクッと来るそうだ」 「というと、浮気な女なんですね」 「気が多いんじゃなくて、情が濃いっていうんだろうな」 「何か妙な噂でも、あるんですかい」 「武兵衛も五十をすぎて、女のところへご無沙汰続き。そのくせ武兵衛はお光にぞっこん惚れ込んでいるから、嫉妬の目を光らせる。それでお光も、やりきれねえ気持でいるんじゃねえかと、世間のスズメが騒いでいたこともあったな」 「弥助さんは、武兵衛の身内衆の顔を、知っておりやすかい」 「古くからいる顔なら、大概は知っているつもりだ」 「武兵衛の身内衆の中に、うちの卯之吉の兄貴ぐれえの色男はおりやすかね」 「とんでもねえこった。武兵衛のところには、勢五郎さんほどのいい男もいねえよ。卯之吉の兄貴ぐれえの色男なんて、見つけようとするほうが無理な話さ」 「卯之吉兄貴は、女に手が早いんでしょうね」 「そりゃあ、女のほうから寄って来るんで、仕方ねえことだ。堅気の娘っこでも、兄貴に見られてポーッと頬を染めるくれえなんだからなあ」 「すると、兄貴に口説かれたら、情の濃い女なんて、一溜《ひとた》まりもねえでしょうね」 「そうだろうよ。床上手だというし、なあお鶴ちゃん」  弥助は盃を、お鶴の前に突き出した。お鶴は酌をしながら、ふっと苦笑を浮かべた。 「その代わり、卯之吉兄貴は女に薄情だそうだ。最初はよくても、女はあとになって泣かされる。お鶴ちゃんも、そのひとりさ」  弥助は、盃を手にしたままそう言った。お鶴が、顔をそむけた。  勢五郎は、軽く目を閉じた。気が重かった。武兵衛の身内に、卯之吉ほどの美男子はいないという。水車小屋で女がいい男だとしみじみ言ったくらいだから、男は余程の美男子でなければならない。とすると、水車小屋の中で女を抱いた男は、卯之吉としか考えられないのである。  卯之吉に抱かれたのは、お光という武兵衛の妾なのだ。お光は卯之吉に夢中で、夫婦になるためなら武兵衛に一服盛る気にもなるだろう。卯之吉も、そうなるように仕向けているのである。もちろんその背後にいるのは、勘蔵であった。  水車小屋の外で、卯之吉と話し合っていたのは勘蔵だったのだ。その際に、勘蔵の提げ物から、目玉の動く達磨の根付が落ちたのであった。提げ物は、対《つい》になっている場合が多い。勘蔵も同じ紅革、同じ根付のついた煙草入れと、燧袋を持っていたのに違いない。煙草入れにはちゃんと達磨の根付がついていたので、勢五郎が拾った根付は恐らく燧袋から落ちたものなのだろう。  勘蔵のやり方は渡世人らしくなく卑怯だ、と弥助までが言っていた。なるほど、卑怯である。仲裁の儀式が終わって何日かたってから、武兵衛を殺す。それも卯之吉が色仕掛けで唆《そそのか》し、妾のお光に毒を盛らせるのであった。武兵衛は、毒死する。勘蔵たちには、まったく傷がつかないわけだった。  勘蔵と卯之吉だけが知っている陰謀に違いない。卯之吉は勘蔵の手作りの子分であり、いまは代貸を勤めている。勘蔵の跡目は当然、卯之吉が継ぐはずであった。二人は利害の点で一致するし、最も親密でなければならない仲なのである。  どうすべきかと、勢五郎は思った。自分の親分が、悪事を企んでいる。そうとわかっていて、知らん顔をしていていいものなのだろうか。勢五郎が何を言おうと、勘蔵は相手にしないに違いない。三下は引っ込んでいろと、一蹴されるに決まっている。  それに、勘蔵はまだ何もやっていない。沈黙を守るほかはなかった。渡世人というのは、親分のやることに口出しするものではない。勢五郎も勘蔵に、命を預けたのだ。藤岡の勘蔵は、勢五郎自身が選んだ親分なのである。たとえ勘蔵がどんな悪人であろうと、選んだほうが間違っていたのだし、文句は言えないはずだった。  どうせまともな生き方はできないのさ、と勢五郎は胸のうちで自嘲的に笑った。 4  八月にはいって間もなく、勢五郎は本庄まで行くことになった。勘蔵の妾お筆の、付き添いであった。お筆は本庄の小間物屋へ行くのだという。小間物屋なら、藤岡にもある。しかし、高価でも凝った品物が欲しいという女たちは、藤岡から二里半の本庄までわざわざ出かけて行くのだった。  本庄は家数千二百戸以上、人口四千五百五十余人、旅籠数七十軒と当時の中山道で最大の宿場町であった。江戸から直送される品物も豊富だし、大きな商店も多かったのである。朝のうちに、勢五郎は本庄宿へ向かった。お筆は、駕籠《かご》であった。勢五郎は、駕籠の脇を走った。  お筆は、二十四歳だった。親なし子で、水仕女として勘蔵のところで働いていた。十九のときに、勘蔵が手をつけた。無理やりに女にされたのだが、お筆も最後まで逆らうつもりはなかった。相手は鬼勘だし、逆らって追い出されでもしようものなら、行くところがなかったのである。  お筆の女っぽさと器量よしに、勘蔵は飽きが来なかったらしい。もともと正妻をもらわずに、妾とか情婦とかいう女が二、三いたのだった。だが勘蔵はそうした女たちと縁を切り、お筆だけに絞って小料理屋をやらせるようになった。  と言っても、小料理屋を実質的に切り回しているのは、勘蔵の息がかかっている板前であった。お筆は、商売ができるような女ではないのである。無口だし、愛想もない。読み書き算盤《そろばん》もできなかった。男に抱かれるために生まれて来たみたいな、人形も同じ女だったのだ。  そのお筆は、本庄宿の『赤松屋』という小間物屋で買い物をすませた。いまから帰れば午《うま》の刻、正午には藤岡につくかもしれなかった。お筆は買い込んだ珊瑚珠のついた銀の簪《かんざし》が余程気に入ったらしく、しきりと帰りを急いでいた。  お筆は『赤松屋』を出て、待たせておいた駕籠に乗り込んだ。とたんに、お筆はひどく慌てた。何かに、怯《おび》えた顔をしていた。勢五郎は、お筆の視線を追った。通りをこっちへ向かって来る男たちの一団があった。いずれも渡世人で、着流しではあったが長脇差を腰に落していた。 「勢五郎さん」  お筆が、振り向いた。 「へい」  勢五郎は、駕籠に近づいた。 「どうしよう」  お筆は、顔をしかめた。 「何がです」  勢五郎は、表情を動かさなかった。 「飯倉の武兵衛たちだよ」 「あの連中がですかい」 「そうなの」 「知らん顔をしていれば、気づかずに通りすぎますよ」 「そうだといいんだけど……」 「もう喧嘩仲直りの日取りまで決まっているんだし、今更あっしのような三下を相手にしても仕方ありやせんからね」 「でも、いつ気が変わるか、知れない連中だものね」 「あの中に、武兵衛がいるんですかい」 「いちばん大きな男が、そうなんだよ」 「なるほど……。女を連れておりやすがね」 「わたしも実は、その女が苦手なんだけど……」 「あれが、お光ですかい」 「そうさ。年もわたしより二つ上だし、新町の芸者上がりでとても気が強いんだもの」 「垂れを、おろしますか」 「そうしておくれ」 「へい」  勢五郎はさりげなく、駕籠の垂れをおろそうとした。しかし、それがかえって、不自然だったのである。空は晴れ上がっているし、真夏の猛烈な暑さだった。誰もが、風を欲しがっていた。そんなとき、駕籠の垂れをおろす馬鹿はいないのである。  駕籠の中で、蒸されてしまう。人が見れば、何をしているのかと怪訝《けげん》に思うことだったのだ。勢五郎は、女の短い叫び声を背中で聞いたとき、しまったと感じた。お光が駕籠の中に誰がいるか、目敏《めざと》く見つけたのであった。勢五郎は、背後を振り返った。  勘蔵と同じような大男がいて、その脇になるほど脂ののりきった肉感的な女が寄り添っていた。それを取り巻くようにして、身内衆が五人ほど立っていた。勢五郎はひとりだし長脇差も持っていない。荒っぽいことになったら、勝ち目はなかった。 「駕籠の中にいるのは、藤岡のお筆だよ」  お光がそう喚《わめ》きながら、駕籠を指さした。男好きのする妖艶な感じの女だった。それがまた、お光という女の淫蕩さを物語っているような気がした。 「え……!」 「藤岡のタヌキ野郎の女だって!」 「駕籠から、引きずり出しやしょう」 「そうだ」  武兵衛の子分たちが、口々にそう言いながら前へ乗り出して来た。 「まあ、待ちな」  武兵衛が、子分たちを制した。 「しかし、親分……」 「このまま、見逃してやるんですかい」  二、三の子分が、不服そうな顔をした。 「大前田の貸元の口ききがあって、おれたちは一切をお任せしたんだ。手出しは、ならねえ」  武兵衛は、軽く首を振った。 「とは言うものの、親分。藤岡のやつらに目の前をチョロチョロされたんじゃあ、腹も立ちますぜ」  子分のひとりが言った。 「それになあ、女や三下に手を出したとあっちゃあ、笑いものにされるのはこの武兵衛だってことだぜ」  武兵衛は、苦笑した。五十をすぎたというが、武兵衛の頭には白いものが大分目立っていた。仏の武兵衛と言われるだけあって、確かに柔和な感じがする。勢五郎はその温厚な顔を、どこかで見たような気がした。二年前に藤岡の勘蔵と名乗って丸薬をくれたのは、この武兵衛だったのではないだろうか。 「そこの三下……」  と、武兵衛が声をかけて来た。 「へい」  勢五郎は片膝を地面に突き、武兵衛に向かって頭を下げた。 「おまえとは一度、どこかで会っているんじゃねえのかい」  武兵衛は、真剣な面持ちであった。 「へい。あっしも、そう思っていたところでござんす」  勢五郎は、顔を上げた。 「おめえに何か、心当りでもあるかい」 「へい」 「言ってみねえ」 「二年前、ところは信州川中島に近い善光寺みちにござんす」 「違えねえ。二年前におれは、善光寺さまへお参りに行ったからな」 「親分さんは確か、四人のお身内衆を連れておいででした」 「そうだ。あのときは、四人連れての道中だったよ」 「親分さんは、熱で苦しんでいたあっしのおやじに、薬を恵んで下さったお方では……」 「ああ、思い出したぜ。そうかい、おめえはあのときおやじさんを起しにかかっていた若い衆だったのかい」 「やっぱり、あのときのお方は親分さんだったんで……」 「そのおめえが、いまは藤岡一家の三下かい。すると、おやじさんはもう生きてはいなさらねえんだな」 「へい」 「そいつは、気の毒なことをしたな。それにしても、おめえが勘蔵のところへ転がり込むとは、妙な因縁話じゃねえか」 「へい」 「それなりの事情があるのかい」 「どうか、笑わねえでおくんなさい。親分さんの冗談を真に受けたばっかりに、こうなってしまったんでござんす」 「おれの冗談とは?」 「二年前のあのとき、あっしはお名めえをお聞かせ下さいとお頼みしたんでござんす。すると親分さんは、名乗るほどのことはねえ、上州は藤岡の勘蔵、人呼んで鬼勘とでも言っておこうと……」 「なるほど。おめえは、それを本気にしたというわけかい」 「へい」 「あのときはなあ、薬をやったぐれえで恩着せがましく名めえを教えるのが、照れ臭かったんだ。それでいつも頭から離れねえ勘蔵の名めえを、口にしちまった。タマにはいいこともしたらどうだという勘蔵への皮肉もあったし、人呼んで鬼勘だと言ってもみたかったんだろうな。しかし、こうなってみると、確かに悪い冗談だった。まあ、勘弁してくんな」 「とんでもござんせん」  いまになってみれば、それが冗談だったということはよくわかる。藤岡の勘蔵、人呼んで鬼勘だと言いながら、あのときの渡世人は笑っていた。名乗った当人だけではなく、連れの四人もどっと笑った。その笑い声は、かなり遠くまで行っても聞えていた。  つまり、みんなで大笑いしたことから、冗談だと察しをつけるべきだったのだ。武兵衛が犬猿の仲の勘蔵を皮肉って、そう名乗ったりすれば子分たちも大いに笑うわけである。しかし、その冗談が勢五郎にとっても、皮肉な結果を招いたのであった。  本来ならば、勢五郎は武兵衛を訪れて、身内に加えてくれと頼み込むところだった。だが勢五郎は、憎悪し合っている武兵衛の敵、勘蔵の子分になるためにそこの三下になってしまったのである。その上、勢五郎は勘蔵の陰謀を知っているのであった。 「こうなったからには、仕方がねえ。勘蔵のところで、精々修業に励むんだな」  武兵衛は頷《うなず》いて見せた。 「へい」  そうするよりほかはないと、勢五郎も思った。 「間もなく、おれも勘蔵も穏やかな仲になるはずだ。そうなったら、またおめえの顔を見ることもあるに違えねえ」 「へい」 「ま、達者で暮らしな」 「ありがとうござんす」 「さあ、行くぜ」  武兵衛は、子分たちを促して歩き出した。 「待っておくれな、親分」  お光が、武兵衛に追い縋《すが》った。武兵衛は足をとめた。 「何だい、親分ったら……。藤岡のお筆を見逃してやった上に、三下に甘い言葉をかけてやったりしてさ」  お光は侮蔑するように、鼻を鳴らした。 「女が口出しすることじゃねえ」  武兵衛は穏やかに言って、お光に背を向けた。 「仏の武兵衛なんて言われるのが、嬉しいのかもしれないけどさ。まったく歯痒《はがゆ》くて、愛想が尽きるよ」  お光は反抗的な態度を、露骨に示した。 「いいから、早く来なよ」  歩きながら、武兵衛は手招きした。お光には、まったく甘い武兵衛であった。お光は渋々、そのあとを追った。愛想が尽きるというのは、恐らくお光の本音に違いない。悪い女だ、と勢五郎は思った。  卯之吉に抱かれてあられもない声を洩らしていたことを、勢五郎に知られている。お光はそんなこととは、夢にも考えていないだろう。お光は敵ともいうべき勘蔵のところの、代貸の卯之吉と通じているのだった。そのことだけでも、許されないのである。  ところがお光は卯之吉に操られて、やがては武兵衛を殺すことになる。武兵衛は、何も知らないのだ。勢五郎は武兵衛を追って行き、勘蔵と卯之吉の陰謀と、卯之吉とお光の関係を打ち明けようかとも思った。しかし、それは勘蔵に対する裏切りであった。  武兵衛には一度、薬を恵んでもらっただけである。恩と考えるには、あまりにも些細《ささい》なことであった。ほかに、武兵衛には何の義理もない。そんな武兵衛のために、勘蔵を裏切ることはできなかった。渡世人の道とは、そんなに甘いものではない。 「さあ、参りやしょうか」  駕籠の垂れをはね上げると、勢五郎は表情のない顔でお筆に言った。 5  三日後の朝、勢五郎は勘蔵に呼ばれた。子分のひとりが、裏庭へ回れと伝えに来たのだった。勘蔵から声がかかったのは、ここへ来て以来初めてのことである。まさか盃をくれるわけではないだろうと、むしろ悪い予感に捉われながら勢五郎は裏庭へ回った。  裏庭の土蔵の前に、卯之吉と、仙造という若い者が立っていた。勘蔵は、小座敷の濡れ縁に腰を据えている。予感通り、勘蔵は激怒した顔でいた。カッとなると顔が一層赤くなって、額に血管が浮き出るのだった。悪酔いしたように、目がすわる。いまの勘蔵が、そうであった。 「そこへ、すわれ」  勘蔵が怒鳴った。 「へい」  指をさされたあたりの地面に、勢五郎は膝を折ってすわった。 「これから、仕置きをしてやる。どうして仕置きをされるか、心当りがあるだろうな。どうだい、三下!」 「いいえ、何もございませんが……」 「何だと、この野郎!」  勘蔵は立ち上がると、口惜しそうに地面を踏みつけた。口から、泡を噴いている。激昂すると、そうなるのだった。 「この三下奴《やつこ》め!」  頭上でそう怒号が聞えて、同時に勢五郎は脇腹を蹴りつけられた。続いて背中を蹴られて、勢五郎は転倒した。すぐそばに立っている卯之吉の顔が見えた。色が白く、目鼻立ちがはっきりしている。これほど美しい男の顔は、滅多にあるものではなかった。  しかし、いかにも冷たそうであった。凄味が感じられた。いまは親分のあとを受けて、勢五郎を痛めつけている。それだけに、凄味のある美貌になっているのかもしれない。いずれにしても、卯之吉は勘蔵以上に、冷酷な男という気がした。 「お筆から、何もかも聞いたぞ!」  勘蔵が、吼《ほ》えるように叫んだ。あのことなのだと、勢五郎はようやく気がついた。 「おめえ、武兵衛とは知り合いだそうじゃねえか」  卯之吉が言った。 「へい」  勢五郎は起き上がって、同じ場所にすわり直した。 「武兵衛がからかって、親分の名を騙《かた》ったのを、おめえは本気にしてここへ転がり込んで来たんだそうだな」 「へい」 「それで、おめえは本庄の『赤松屋』の前で、武兵衛とベタベタ話し込んだというじゃあねえか」 「へい」 「武兵衛の身内がおめえの前で、うちの親分のことを藤岡のタヌキ野郎とか言ったそうだな」 「へい」 「それをまた、おめえは平気なツラで聞いていたそうじゃねえか」 「申し訳ござんせん」 「どうして、武兵衛を殺さなかった。長脇差がねえというのなら、なぜ、喉首に喰らいついてやらなかったんだよ」 「へい」 「おめえは武兵衛を、敵と見ていねえんじゃねえのか」 「そんなことは……」 「武兵衛の身内になりてえんなら、いまからでも遅くはねえんだぜ」 「そんなつもりは、毛頭ござんせん」 「もっともそのときは、おめえの首を武兵衛のところへ送り込んでやるんだがな」 「どうかこのまま、親分のところに置いてやっておくんなさい」  勢五郎は、地面に両手を突いた。恐らく勘蔵は寝物語に、本庄での出来事を残らずお筆から聞かされたのだろう。それらの話はすべて、勘蔵を激怒させるようなことばかりだったのだ。 「ゆ、許せねえ! ここに置いてやるなら、性根を叩き直してやってからだ!」  勘蔵が、全身を震わせながら言った。 「仙造、やれ!」  卯之吉が、仙造という若い者に命じた。 「へい」  仙造は、勢五郎の背後に近づいた。その右手には、まだ割ってもない太めの薪《まき》が握られていた。ナラの木であった。仙造は、勢五郎の背中に薪を振りおろした。濡れた地面を、叩くような音がした。勢五郎は、歯を食いしばった。  骨が砕けるような激痛が、全身に広がった。二度目の衝撃が、肩に響いた。次が腰であった。とても耐えられる痛みではなかった。勢五郎は、頭をかかえて地上に転がった。仙造は容赦なく、薪を振るった。急に、蝉の声がやんだ。  着物は破れ、皮膚が真赤に腫れた。やがて、あちこちで肉が裂けて、血が網の目のように流れた。骨がバラバラになっていく、と勢五郎は思った。勢五郎は、絶えず地上を転がった。一定の部分だけ撲られることを防ぐためであった。  三十六回まで数えたが、そのあと勢五郎は気を失った。しかし、それは短い間だった。勢五郎は、仙造の声で意識を取り戻した。目を開くと、水を浴びたように汗をかいた仙造の姿があった。 「野郎、くたばっちまいますぜ」  仙造が、汗を拭いながら言った。 「そんな三下、死のうと生きようと、知ったこっちゃねえ」  勘蔵が、言葉を吐き出すように答えた。 「じゃあ、もっと続けやしょうか」 「気絶しているのか」 「へい」 「だったら、それでやめておけ」 「へい」  仙造は勢五郎の身体の上に、薪を投げ捨てた。薪は勢五郎の顔の前へ転がって来た。血で赤黒く染まっている薪だった。勢五郎はそれをしみじみと眺めやってから、眩《まぶ》しいほど青い空へ視線を転じた。空を美しいと思ったのは、このときが初めてだった。  勘蔵と卯之吉、それに仙造はもう裏庭にいなかった。勢五郎は、地上に転がったままでいた。動けないのである。全身の感覚が麻痺《まひ》してしまったみたいに、自分の身体という気がしなかった。勘蔵の手前があるので、裏庭へは誰も出て来ない。集まって来るのは、血の匂いを嗅ぎつけたハエだけだった。  勘蔵は勢五郎など、生きようと死のうと知ったことではないと言っていた。そんな扱いを受けながら、なぜここを去ろうとはしないのか。勢五郎は空しくはあったが、別に矛盾は感じなかった。たとえ一方的であっても、親分に尽すことは心の拠り所になるのであった。  勢五郎には、何もない。死ぬにも、その理由さえないのである。生きているなら、それなりの張り合いが欲しかった。命を預けるというのは、死ぬ理由を作ることであった。死ぬ理由があるから、生きる張り合いを感ずることもできるのだ。勢五郎は勘蔵に、命を預けたのであった。  午後になってようやく、弥助が裏庭へやって来た。弥助と二人の水仕女とで、勢五郎を家の中へ運び込んだ。医者を呼べるような身分ではない。弥助が薬を取り替えて、水仕女が粥《かゆ》を食べさせてくれた。そうした看病も、勘蔵や卯之吉の目を避けてやらなければならなかった。  骨は折れてなかったが、あちこちにヒビがはいったようだった。勢五郎は二十日以上、寝たっきりでいた。動けるようになったあとは、傷口が塞がるのを待つだけであった。その頃から勢五郎は、再び三下として働き始めた。やがて、九月にはいった。  九月三日になった。喧嘩仲直りのための手打ちの儀式は、いよいよ明後日と迫っていた。立会人、仲裁人となる各地の親分衆が続々と武州本庄宿へ向けて旅立ったという知らせが、勘蔵のところに届いた。勢五郎は、例のことが気になり始めた。  三日の夜、六ツ半をすぎてから卯之吉が何気なく出かけて行くのに、勢五郎は気がついた。卯之吉は下仁田街道を、西へ向かって姿を消した。夜の七時すぎで、あたりは暗くなり始めていた。あの水車小屋へ行くのではないかと、勢五郎は直感した。  卯之吉のあとを追ってみたかった。しかし勢五郎には、風呂を沸かす仕事が残っていた。勢五郎は仕方なく、弥助を呼んだ。弥助は風呂の水を運んでいた。 「弥助さん、頼みてえことがあるんですがね」  勢五郎は、火吹竹を手にして立ち上がった。 「何事だね」  弥助は勢五郎のこわばった顔を見て、声をひそめた。 「たったいま、卯之吉の兄貴が出かけやしたね」 「ああ、西のほうへ行ったようだな」 「卯之吉兄貴がどこへ行くのか、見定めてもらいてえんで……」 「おれがかね」 「へえ。水汲みは、あっしが引き受けやす」 「しかし勢五郎さん、何のためにそんなことをするんだい」 「弥助さん、お願いだ。いまのところは、何も訊かねえでおくんなさい」 「わかった。勢五郎さんのことだ、間違ったことはやらねえだろう」 「すんません」 「卯之吉兄貴の行った先を、見定めるだけでいいんだな」 「へえ」 「合点だ。任しておいてくんねえ」  弥助は水桶を置くと、タスキをはずしながら駆け出した。それを見送ってから、勢五郎は水汲みを始めた。もう火も燃えている。水を汲んでは薪を投げ込み、火吹竹を使っては湯かげんを見た。勘蔵が湯につかったところで、風呂番の仕事は終わるのだった。  勢五郎は、弥助の帰りを待った。だが五ツ半、九時になっても弥助は帰って来なかった。五ツ半をすぎて間もなく、卯之吉が戻って来た。そんなはずはなかった。あるいは、と勢五郎は思った。勢五郎は誰にも気づかれないように、勝手口からそっと抜け出した。  藤岡の町は、すでに眠りの中にあった。常夜燈を除いては、明かりらしいものもなかった。闇を裂いて、勢五郎は西の方向へ走った。鮎川橋を渡ると、水車小屋まで大した距離はなかった。見渡す限り、黒い空間であった。人の気配は、まったくない。  廃屋となった水車小屋は、闇の中でひっそりと沈黙を守っていた。水車小屋の前まで来て、勢五郎は足をとめた。細い三日月が、空にあった。上弦の月である。勢五郎は、そろそろと水車小屋の脇に回った。勢五郎は、草の中に盛り上がった人影を認めた。  勢五郎は、それに駆け寄った。やはり、弥助であった。背中を斜めに血の線が走り、更に左の脇腹を深々と刺されている。弥助はここまで卯之吉を追って、水車小屋の中のやりとりを聞き取ろうとしたのに違いない。そこを飛び出して来た卯之吉に、斬られたのである。 「弥助さん」  勢五郎は、弥助の上体を強く揺すった。弥助は、目をあけなかった。しかし、勢五郎の声は聞えたらしい。弥助の口許に、微かな笑いが漂った。 「一服……盛るそうだ……」  息と変わらないような声で、弥助は言った。同時に、弥助の口許から笑いが消えた。勢五郎は、弥助の身体から手を引いた。一服盛るそうだという弥助の最後の言葉は、卯之吉がお光から武兵衛を毒殺する約束を取り付けたことを意味していた。  弥助は、卯之吉とお光のそうした密談を、はっきり聞いたのである。そのために、弥助は卯之吉に殺された。勢五郎は卯之吉に対して、初めて憎しみと怒りを感じた。弥助は三下かもしれないが、卯之吉の日常にもずいぶんと役に立ったはずだった。その弥助を卯之吉は、いとも簡単に殺したのだ。  考えてみれば、弥助も哀れな男であった。周囲の者に見捨てられて、四十になるというのに三下奴としての生き方に甘んじていた。それでいて誰のことも恨まず、ただ気のいい男でいたのだった。その挙句に、勢五郎の頼みを引き受けて殺された。  蛙が無心に、鳴いている。勢五郎は、三日月を振り仰いだ。卯之吉に、一矢を報いてやりたかった。だが、そうすれば勘蔵に、刃向かうことになる。それは、できないことだった。とすれば卯之吉のやったことに対しても、目をつぶるほかはなかった。  勢五郎は、水車小屋の中を覗いてみた。もちろん、そこに人は、いなかった。隅に藁が積んであり、タガのはずれた水桶や荒縄が散らばっている。二カ月前ここで野宿をしたときと、少しも変わっていなかった。無双窓も、あけたままになっていた。  ふと、勢五郎の目が光った。藁の上に、何かが落ちている。弥助を殺したことで、密会していた男女は慌ててここを逃げ出したのだ。そのために、とんだ忘れ物をして行ったのである。勢五郎は、それを拾い上げた。  勢五郎の表情が、固くなった。 6  翌日、宿役人が立ち会って、代官所の手代が弥助の検死をすませた。形式的な検死で、喧嘩口論の末に殺されたのではないかという判断が下された。弥助の死体は、藤岡の南の寺にある無縁墓地に埋葬された。まるで行き倒れの旅人と、同じ扱いだった。  それは勘蔵が、弥助はただの三下であり、一家には何の関わり合いもない人間だと、死体の引き取りを拒んだためである。勘蔵は、埋葬その他の費用も、一切出さなかった。勘蔵以下ひとりとして、弥助の霊前に線香を上げる者さえいないくらいである。  一本の柱になった弥助の前で合掌したのは、勢五郎と居酒屋の酌女お鶴だけであった。夕焼けで西の空が赤く染まり、弥助の墓標が長い影を作っていた。お鶴は、虚脱したような顔であった。 「勢五郎さんも、やがてはこうなっちまうんだねえ」  お鶴が溜め息をつきながら、自堕落に肩を揺すった。勢五郎は、黙っていた。蜩《ひぐらし》の声が聞えた。 「早いところ、足を洗ったほうがいいよ。三下なんて、人として扱ってもらえないんだからね」  お鶴は、墓標の前にしゃがみ込んだ。 「おめえさんの国は、どこだい」  勢五郎は、ケヤキの木の幹に凭《もた》れかかった。 「忘れちまったね。そんなこと……」  お鶴は、生えている雑草をむしり取った。 「これからも、ずっと藤岡にいるつもりなのかい」 「先のことなんて、わかるもんか」 「そうだろう。誰だって同じさ。すぎたことは忘れちまうし、先のことはわからねえ」 「だからって、勢五郎さんはいまのままでいるっていうのかい」 「どこへ行こうと何をしようと、大して変わりはしねえんだ」 「そんなことはないよ。ねえ、勢五郎さん」  お鶴はむしった雑草を遠くへ投げて、勢五郎を振り返った。 「もしお前さんにその気があるなら、わたしも一緒に行くよ。二人でほかの生き方を、考えてみようじゃないか」 「折角だが、お鶴さん。ほかへ行く気は、さらさらねえんだよ」  勢五郎は、森の彼方の落日へ目をやった。 「だって勢五郎さん、親分にひどい目に遭わされたんだろう。弥助さんから、聞いたよ。それでもまだ、あんな親分のために死にたいのかねえ」 「おれたちは死ぬときを待って、生きているようなもんじゃねえか」 「まるで死ぬときが決まっているような、ものの言い方をするじゃないか」 「いま、お鶴さんも言っただろう。おれもやがては、こうなるんだって……」  勢五郎は、弥助の墓標を指さした。お鶴の言葉は正しいと、勢五郎は思っていた。自分の命は今日限りだと、勢五郎は覚悟していたのである。今朝、勢五郎は話したいことがあると、勘蔵に申し出た。しかし、三下の話を聞く耳は持たないと、勘蔵に一喝されただけに終わった。  そのとき、明日は死ななければならないと、勢五郎は意を決したのであった。一流とされている親分衆の前で、三下がものを言う場合は命を捨てる覚悟が必要なのである。勢五郎は、そのつもりだった。明日は死ぬ。ただそのことを、お鶴にはっきりと言わなかっただけだった。  その九月五日が来た。喧嘩仲直りの儀式は本庄宿の料亭『くま源』で、午の刻から始められることになっていた。勘蔵は卯之吉をはじめ六人の重だった身内を従えて、五ツ半、午前九時に藤岡を出発した。七人は駕籠に乗り、そのあとに十人の子分たちが徒歩で続いた。  藤岡の勘蔵、飯倉の武兵衛ともに列席者は七人まで、ほかに十人までの同行者を認めると決められていたのだった。それを決めたのも、大前田英五郎であった。大前田英五郎は人生の後半を、殆ど渡世人仲間の喧嘩仲裁役として過したことで知られていた。  このときの大前田英五郎は五十八歳、関東一円のほかに伊豆、東海道筋、甲州、遠く濃尾地方にまで縄張りを持つ大親分であった。英五郎は渡世人の共存共栄を主張し、縄張り争いの無意味さを説く男だった。どこかに渡世人同士の争いがあると、英五郎は必ずその仲裁に乗り出した。  そんなことから各地に、英五郎の息のかかった親分衆が続々と誕生した。その結果、英五郎の勢力はますます増大したのである。揉《も》め事を起した親分たちも、英五郎が乗り出して来ると聞くと、すぐ和解の態勢を整えた。大前田英五郎のお声がかりでは、それに逆らうわけにもいかないからである。  もっとも対立しながら、誰かが仲裁にはいってくれないかと心待ちにしている親分衆も、決して少なくはなかったのだ。それは、金の問題が絡《から》んでのことである。喧嘩仲裁の儀式にしても、かなりの費用を要した。その費用は仲裁人が一時立て替えて、儀式が無事に終ったあと当事者である二人の親分が支払うのであった。  しかし、喧嘩となると、それ以上の出費であった。まず応援のための、人集めをする。一宿一飯の客人のほかに、できるだけ多くの助っ人を雇うのである。その費用が当時の相場で、ひとり十両平均だった。もし客人と助っ人で五十人を集められたとしたら、日当だけで五百両もかかるわけであった。  そのほかに、喧嘩の跡始末がある。死んだ者への香典、負傷者への治療費と見舞金がまた大した額になった。それも喧嘩に勝った場合に許されることで、負けたら死ぬか乞食同然の姿で落ちのびるかであった。それで表面上は意地を張り合いながら、内心では仲裁を待ち望んでいる親分もいるわけだった。  この日、中山道筋では最も大きいとされている料亭、本庄宿の『くま源』は貸切りであった。各部屋の入口に、『大前田英五郎お身内衆控えの間』、『鹿沼勝次郎お身内衆控えの間』というように貼り紙がしてあった。立会人、仲裁人になる各親分衆も 十人ずつの子分たちを連れて来ていた。  立会人と仲裁人の身内衆が、それぞれ八つの控えの間に落着いた。その八つの部屋を中にはさんで、藤岡の勘蔵と飯倉の武兵衛の子分たちの控えの間があった。その間に距離を保ってあるのは、勘蔵と武兵衛の子分同士が顔を合わすことのないようにするためだった。顔を合わせると、どんなことで喧嘩を始めるかわからないからである。  喧嘩仲直りの席は、広い庭園に面した奥座敷だった。二十畳の広間である。この広間には、『四方同席』と貼り紙がしてあった。ここには下座も上座もなく、居並ぶ者はすべて同格であるという意味だった。『四方同席』という貼り紙で、まず席の決め方から起りやすい揉め事を防ぐわけであった。喧嘩仲直りの仲裁人は、そうした細かい点まで気を配らなければならなかった。  床の間を背にして、五人の立会人が席についた。大前田英五郎を真中にして、右に三州藤川の吉三郎、上州松井田の伊兵衛、左に野州鹿沼の勝次郎、甲州台ヶ原の惣右衛門がすわった。いずれも絽《ろ》の紋付き羽織に、仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》という身装《みな》りである。  さすがに貫禄十分の親分衆だけあって、五人が居並ぶとこの場の空気が引き締まった。五人の立会人を正面にして、その右側に飯倉の武兵衛をはさんで六人の主な身内衆がすわった。左側には藤岡の勘蔵が、同じく六人の身内を従えて席についた。  その下座、つまり立会人の反対側に、仲裁人が並んでいた。庭園を背後に仲裁人の武州桶川の松太郎がすわり、その左右に補佐役の野州富田の十助、武州浦和の久右衛門がいた。この三人は立会人より若いが、現在売り出し中ということで名の知れている親分衆であった。  武兵衛の一行、勘蔵の一行、それに仲裁人たちも、もちろん紋付き羽織に仙台平の袴をつけていた。長脇差は誰であろうと、この部屋へ持ち込むことを禁じられている。一同はそれぞれ、扇子を手にしていた。このほかに仲裁の身内が、十人ほどいた。  その十人は、普段のままの身なりだった。十人は各親分衆の後ろから団扇《うちわ》で風を送ったり、盃を運んだりするのであった。部屋の中央部に、盛り物と大きな三方が置いてある。三方の上に三角に折った奉書紙を敷き、そこに一対の徳利が並べられている。  一対の徳利の前に、二カ所の盛り塩がしてあった。二カ所の塩が盛ってあるその前に、盃が二つ置いてある。その手前に、二匹の魚があった。腹も裂いてない生の鯉《こい》だった。二匹の鯉は頭と尾を逆にしてあり、しかも背中合わせになっていた。更にその前に、箸袋《はしぶくろ》に差し入れた箸が置いてあった。  緊迫した空気になった。あたりは、静まり返っている。思い出したように蝉が鳴き始めたり、庭の池で魚がはねる音がしたりするだけだった。蝉の声も、何となく弱々しい。強い日射しに庭は明るいが、秋の気配がする。風が死んでいた。  五人の立会人は、黙然として動かなかった。勘蔵と武兵衛、それぞれ六人ずつの身内衆も、目を伏せている。どの顔にも、じっとりと汗が浮いていた。 「その貫禄のあるなしも問わずに、この松太郎に盃を取れとのお言葉に従い、盃を取らせて頂きます。盃の順序に間違いがございましたら、ご免を蒙《こうむ》ります」  仲裁人の、桶川の松太郎が言った。低くかすれていて、凄味のある声であった。勘蔵と武兵衛が頭を下げて、挨拶を返した。桶川の松太郎ひとりが、三方の前まで膝を進めた。 「魚を直させて頂きます」  松太郎が、三方の上の鯉に箸をのばした。頭と尾を逆にして背中合わせになっている二匹の鯉を、箸で頭と尾を揃えて腹を向き合わせに並べかえるのであった。そのあと松太郎は右側の徳利の酒を左側の盃へ、左側の徳利の酒を右側の盃へそれぞれ三度ずつ注いだ。次に二カ所に分けてあった盛り塩を、一つにまとめた。  松太郎は箸でその塩を摘《つま》み、二つの盃に三度ずつ入れた。続いて鯉の頭を形だけだが、同じように二つの盃に三度ずつ浸した。それが終わったとき、左右から勘蔵と武兵衛が進み出た。  松太郎は右手に左側の盃、左手に右側の盃を持って、そのまま勘蔵と武兵衛の前に差し出した。勘蔵と武兵衛は盃を受け取り、同時に飲み乾した。二人は盃を、松太郎に返した。松太郎はいまと同じ要領で、二つの盃に半分ずつ酒を注ぎ、それを一つの盃にまとめた。 「預からせて頂きます」  松太郎は勘蔵と武兵衛の顔に目をやってから、その盃の酒を飲んだ。二人の喧嘩を、松太郎が預かったという意味である。そういうことで形の上では、いま使った盃も松太郎が預かって持ち帰るのであった。  松太郎は更に箸を二つに折って三方の上に置き、徳利に残っている酒をその箸や鯉に振りかけた。そのあと松太郎が喧嘩仲直りの書面を読む。それが終わると、松太郎、勘蔵、武兵衛の三人が揃って頭を下げて、すわったまま後退して自分たちの席へ戻った。  それを待って松太郎の子分が二人がかりで三方を持ち、列席者一同の前を回って歩く。松太郎から始めて、列席者全員が三方の上に溜まっている酒に両手をつけるのである。全員の両手が酒で濡れた。いよいよ、手打ちの儀式であった。  縄張り争いの場合の喧嘩仲直りでは、両手打ちであって普通に両手を合わせればよかった。大前田英五郎の掛け声で、一同が三度手を叩いた。 「おめでとうござんす」  全員が口々にそう言って、一斉に頭を下げた。これで喧嘩仲直りの儀式は、無事にすんだわけだった。このあと松太郎が、折った箸と鯉を奉書紙に包んで、川に流すだけであった。いうまでもなく川に流すのは、意趣遺恨などを一切水に流すといった意味でやることである。  ようやく、和やかな空気になった。緊張感から解放されて、あちこちに微笑する顔があった。溜め息が聞えて、何人かが思い出したように汗を拭いたり、扇子を使い始めたりした。これから別室へ移って、豪勢な宴会が始まるのだった。  立会人と仲裁人の労をねぎらうための宴会であり、勘蔵と武兵衛は酒を飲まずに芸者たちと一緒に接待役を勤めることになっている。酒を飲まないもう一つの理由として、酔った勢いでつまらないことから再び険悪な仲になるのを防ぐという点も含まれていた。  不意に、庭先へ人影が現われた。庭がよく見える位置にいた五人の立会人が、怪訝《けげん》そうな顔をした。それに気づいた三人の仲裁人が、背後を振り返った。勘蔵や武兵衛たちも視線を庭へ向けた。とたんに勘蔵は愕然《がくぜん》として、顔色を変えていた。  庭に立っているのは、勢五郎であった。しかも左手に、長脇差を持っていた。 7  桶川の松太郎が立ち上がって、廊下へ出て行った。このとき松太郎は四十三歳、その貫禄、風格ともに申し分のない貸元であった。そんな松太郎から見れば、チンピラにも等しい勢五郎であった。だが、無視するわけにはいかなかった。  奇妙な侵入者に対処するのも、仲裁人の役目であった。それに、その男の様子が、尋常なものではなかった。顔は一見冷静で、無表情であった。しかし、目が燃えている。怒りに燃えているのではない。死に挑んでいる目であった。この男死ぬつもりでいる、と松太郎は思った。 「おめえさん、どなただね」  松太郎は、穏やかに言った。 「へい。名乗るほどの者ではござんせん」  勢五郎は地面に片膝を突き、八手《やつで》の木の葉の横に長脇差を置いた。 「そうかい、だったら訊かねえでおこう。しかし、おめえさんがここを喧嘩仲直りの席と承知の上で来たのかどうかは、はっきり答えてもらうぜ」 「承知の上で、参りやした」 「だったら、おかしな話じゃねえか。おめえさんも渡世人の端くれなら、こういう場所へ長脇差を持ち込んだらどうなるか知っているはずだ」 「へい。存じておりやす」 「すると何かい、おめえさんはこの喧嘩仲直りを、ぶち壊すつもりで来たのかい」 「不本意ながら、そういうことになろうかと存じやす」 「ほう……」  松太郎は、言葉に詰まった。死ぬ覚悟でいるにしろ、その度胸のよさに、松太郎もいささか圧倒されたのである。そこへ、勘蔵が飛び出して来た。卯之吉をはじめ六人が、それを追って廊下に顔を並べた。 「この野郎、何を血迷いやがったんだ!」  勘蔵が、血相を変えて叫んだ。 「藤岡の、この若いのはおめえさんの身内だったのかい」  松太郎が、意外そうな顔をした。 「い、いや、まだ盃もくれてやってねえ三下なんだ。すまねえ桶川の、おめえさんにとんだ恥をかかしちまって。この場で野郎を叩っ斬るから、勘弁してもれえてえ。おい、この気違いをナマス切りにしてやれ!」  松太郎に対してすっかり恐縮してから、勘蔵は卯之吉たちにそう命じた。卯之吉たちは、一斉に庭へ飛び降りた。 「まあ、待ちねえ」  松太郎が、勘蔵を制した。卯之吉たちは、勢五郎を引っ立てようとしていた。 「小僧ども! 仲裁人を差し置いて、勝手な真似をするんじゃねえ!」  松太郎が、大声を張り上げた。卯之吉たちはハッとなって、慌てて勢五郎から離れた。六人は白足袋を脱ぐと、勘蔵とともに座敷へ戻って行った。 「さてと、おめえさんは藤岡一家の三下だそうじゃねえか」  松太郎は、勢五郎を見据えた。 「へい」  勢五郎も、松太郎を見返した。 「どうも、わからねえ。三下がどうして、親分の喧嘩仲直りをぶち壊したがるんだ」 「お言葉ではござんすが、形だけの喧嘩仲直りでは、やらねえのと変わらねえと思いやしたんで……」 「形だけの仲直り……?」 「へい」 「そいつは、どういう意味だ」 「仲直りをしたと思わせておいて、何日かしたら毒を盛って相手を殺すという魂胆なんでござんす。毒殺なら立会人、仲裁人の親分衆も文句をつけねえだろうと読んでいるのに違いありやせん」 「穏やかじゃねえ話だ。おめえ一旦口にしたことは、二度と引っ込まねえってことを知っているな。万が一、おめえの考えすぎだったとしたら、タダじゃすまねえぜ」 「覚悟しておりやす」 「証拠は、あるんだろうな」 「へい。その証拠を親分さんがたの目の前で披露して、是非とも決着をつけて頂きたく身のほども弁《わきま》えずに、こうして参りやしたんでござんす」  勢五郎は、深く頭を垂れた。 「おい、松太郎」  と、座敷の中から声が飛んで来た。大前田英五郎の声であった。 「へえ」  松太郎は、振り向いた。 「その若いのは、命を捨てる覚悟だ。こっちへ入れてやれ」  英五郎は言った。 「承知致しやした」  松太郎は、思わずニヤリとした。さすがは大親分、大前田英五郎である。勢五郎の顔は見えないのに、松太郎と同じように死ぬ覚悟でいると察したのであった。松太郎にすすめられて、勢五郎は廊下に上がった。長脇差は、八手の木の横に置いて来た。  勢五郎は廊下に近い部屋の隅、仲裁人補佐の野州富田の十助の斜め後ろにすわった。勢五郎は、畳に額が触れるほど頭を低くした。自然とそうなるのであった。正面に並んだ五人の親分衆の視線を感じただけで、全身が硬直し、顔を上げていられなかった。いわゆる、貫禄負けであった。 「詳しく話してみねえ」  松太郎が、そう促した。 「へい」  勢五郎はまず水車小屋で野宿したとき、そこで見聞きしたことから説明した。親分というのは勘蔵か武兵衛かであり、毒を盛る女はお筆かお光かであることも勢五郎は付け加えた。勢五郎の話が終わるまで、口をはさむ者はいなかった。 「なるほど、おめえは確かに生き証人だ。それで、その正体が誰か、見当がついたというわけだな」  松太郎が、頷きながら言った。 「へい」  勢五郎は、畳に目を落した。座敷にざわめきが広がり、すぐ静かになった。 「その色男っていうのは、誰なんだい」 「あそこに、おりやす」  勢五郎は、卯之吉を指さした。 「いいかげんなことを、ぬかすんじゃねえ。この三下野郎が……」  卯之吉が腰を浮かしながら、凄まじい形相になった。勘蔵も狼狽して、卯之吉を見やった。 「一昨日の夜、卯之吉が出かけたので、あっしと同じ三下の弥助にあとを追わせやした。その弥助は、水車小屋の前で殺されやしたんで……。それにここへ参りやす前に、女に会って相手が卯之吉であることを訊き出してありやす」 「動かせねえ証拠が、二つもあるわけかい。しかし、その卯之吉とやらが女を操るんだとしたら、卯之吉を動かしていたのは勘蔵だと決まったようなものじゃねえか」  松太郎が、皮肉っぽく笑った。 「へい。あっしも、そう思いました。ところが一昨日の夜、水車小屋の中でこれを見つけたんでござんす」  勢五郎は懐中から取り出した簪《かんざし》を、畳の上に置いた。珊瑚珠のついた銀の簪であった。それを見た勘蔵が、あっと叫んだ。 「これは……?」 「お筆のもので……」 「じゃあ、勘蔵の……」 「へい。卯之吉とできていたのはお筆のほうでござんした。お筆が一服盛るとすれば、その相手はうちの親分に決まっておりやす」 「すると、卯之吉と組んでいたのは武兵衛か」 「まさかうちの代貸が、いがみ合っている武兵衛と手を握っているとは、誰も思いやせんからね。見ればわかることでござんすが、うちの親分はああして対になっている紅革の煙草入れと燧《ひうち》袋に、鼈甲《べつこう》作りの達磨の根付をつけておりやす。ところが武兵衛のほうは同じ対の金唐革の煙草入れと燧袋を持っていながら、達磨の根付がついているのは燧袋だけでござんしょう。煙草入れの根付は、水牛の角で作った馬でござんす。これは初めて水車小屋に泊った晩、男二人の話を聞いたあと拾ったものでして……」  勢五郎は、目玉の動く達磨の根付を、畳の上に転がした。武兵衛は、凝然と動かなかった。卯之吉のほうは壁土色の顔で、音を立てんばかりに震えていた。 「武兵衛、それから卯之吉とか言ったな。観念しろよ」  扇子をパチパチと鳴らしながら、大前田英五郎が初めて口を開いた。 「卯之吉、おめえは武兵衛に勘蔵が死んだあと縄張りの一部をくれてやるとか言われて、その気になったんだろう」  英五郎は、笑った顔で言った。 「へい」  卯之吉が、力なく肩を落した。 「代貸が三下を、見倣《みなら》わなくちゃならねえ。仏が鬼の命を狙う。まるで世の中、逆さまじゃねえか」  英五郎は笑った。ほかの四人の親分衆も、苦笑を浮かべていた。 「大前田のお貸元、お願えがございやす」  勢五郎が、畳に両手を突いた。 「言ってみな」  英五郎は頷いた。 「三下の弥助を、成仏させてやりてえんでござんす」 「よかろう。気のすむようにしねえ」 「ありがとうござんす」  勢五郎は立ち上がると、庭へ駆け降りた。  勢五郎は、置いてあった長脇差を手にした。そのとき、庭の植え込みの陰から、五人ほどの男が飛び出して来た。武兵衛の子分たちであった。ひとりが座敷の様子を見に来て、とんだ事態になっていることを知らせたのに違いない。  二人がかりでかかえて来た数十本の長脇差を、地面へガラガラと投げ出した。それを見ると武兵衛以下七人と、卯之吉が一斉に立ち上がった。 「親分、控えの間の連中の長脇差をこうして残らず取り上げて、あとの五人が見張っておりやす」  庭から子分のひとりが、武兵衛にそう声をかけた。座敷にいる者も、長脇差を持っていない。斬り合えるのは、勢五郎だけだった。 「野郎!」  勢五郎は、正面の男の前で跳躍した。長脇差を振りおろしながら、地上に降り立った。耳を削がれ肩を割られた男が、絶叫しながら転がった。それには目もくれず、勢五郎はいきなり向き直って大きく長脇差を振り回した。顔を裂かれ、脇腹を抉《えぐ》られた男二人が、右と左に転倒した。そのとき武兵衛や卯之吉たちが長脇差を拾い上げるのを、勢五郎は目の隅で捉えた。そのうちの三人が、座敷を見張るために引き返した。  勢五郎を包囲したのは、七人の男たちだった。勢五郎は斬り込んで来た男と行き違って、卯之吉へ向けて突き進んだ。行き違った男の右腕が宙を飛んだ。猛烈な勢いで突き出された勢五郎の長脇差を、卯之吉は払いきれなかった。勢五郎の長脇差は卯之吉の胸を突き刺して、背中に抜けた。勢五郎は卯之吉を突き飛ばすようにして、長脇差を引き抜いた。卯之吉は池の中へ落ち込み、水面が真赤に染まった。  勢五郎は右へ走り、半回転して追って来た男の下腹を突き刺した。振り返ると、逃げ腰になった武兵衛が尻餅を突いた。勢五郎の脳裡に、二年前に見た薬をくれる渡世人の姿が浮かんだ。勢五郎が長脇差を振りおろすのと、武兵衛が下から突き上げたのが同時であった。勢五郎は脇腹に激痛を覚えながら、柿をつぶしたような顔で武兵衛が倒れるのを見た。武兵衛が動かなくなると、残っていた三人と座敷を見張っていた三人が、一目散に逃げ出した。  勢五郎は返り血を浴び、右の脇腹から噴き出す血もあって凄惨な姿になっていた。座敷にいた者が、次々に廊下へ出て来た。勢五郎も、廊下のほうへ歩きかけた。しかし、もう意識が薄れかけていた。二、三歩行って、勢五郎はガックリと両膝を突いた。勘蔵が駆け寄って来て、勢五郎を抱きかかえた。 「大した三下じゃねえか。腕と度胸と人物と、三拍子揃っているぜ。勘蔵、どうして一人前の子分にしてやらなかったんだ。おめえには、人を見る目がねえ」  大前田英五郎が、そう言った。 「すまねえ、勢五郎。これからだって、遅くはねえ。いますぐここで親分子分の盃事《さかずきごと》を、やろうじゃねえか」  勘蔵はクシャクシャな顔で、大粒の涙をこぼしていた。 「いまの大前田のお貸元のお言葉だけで、十分でござんすよ。三下だろうが何だろうが、あっしはこうして死ぬ日のために、これまで生きて来たんですからねえ」  もう何も見えないのに違いない勢五郎の目に、秋近い真青な空が鮮やかに映っていた。 峠に哭《な》いた甲州路 1  旅人たちが、慌《あわ》てて道の両端へ逃げた。女子どもは、街道脇の斜面の下まで逃げた。馬子が血相を変えて、馬を一里塚の陰へ引っ張り込んだ。人や馬が、街道の両側に並ぶという恰好になった。その道の真中を、浪人者が歩いて来た。  浪人者は抜刀して、それを無造作に右手で握っていた。左手には、大きな瓢《ふくべ》を持っている。瓢の中身は、酒であった。浪人者は歩きながら、瓢に口をつけてゴクゴクと喉を鳴らした。真黒な無精髭《ぶしようひげ》が酒に濡れて、キラキラ光っていた。  乞食のような頭をして、着物も袴《はかま》も色褪《あ》せたヨレヨレのものを身につけていた。落ちぶれ果てて、地方を流れ歩いている食い詰め浪人である。それが何かあって、久しぶりに酒にありつけたのだ。空腹なところへ、ガツガツと飲んだのに違いない。  たちまち、泥酔したのだろう。浪人者の顔色は、真青であった。目がすわっていた。足許が定まらず、歩きながら右へ左へ大きくよろけた。それでいて、思い出したようにニヤリと笑うのであった。浪人者は、旅人たちが恐れて道の脇へ避けることを、楽しんでいるようだった。  道の端へ避けきれずにいる者を見ると、浪人者は怒号を発しながら白刃を振り回した。その度に、女子どもの悲鳴が聞えた。甲府から三里と二十一丁、韮崎《にらさき》のすぐ東であった。浪人者は甲州街道を、西へ向かっていた。まだ五ツ半、午前九時だった。  浪人者が通りすぎても、旅人たちはすぐに歩き出そうとはしなかった。わが身に迫る危険は、一応去った。しかし、今度はあとから来る者に、危難が及ぶかもしれないのだ。そうなると、浪人者をやり過した連中は野次馬に早変わりして、事の成り行きを見守るのであった。  道の両端に避難している旅人たちが、あっというように目を見はった。韮崎の方向から歩いて来るひとりの男に気づいて、誰もがその身を案じたのである。その男は、かなり速い足の運びで歩いて来る。しかも直線的に、道の真中を進んで来るのだった。  百年も前の三度飛脚が用いた大型の浅い菅笠を目深《まぶか》にかぶり、黒の濃淡の縞模様の道中合羽を引き回している。やや俯向《うつむ》きかげんになって、路上にしか目を向けていないという感じだった。長い間、旅を重ねている渡世人特有の、歩き方であった。  三度笠を目深にかぶり、顔を伏せるようにしている。それで前方に、凶暴な浪人者がいることにも気づかないのではないか。その場に居合わせた人々は、そう判断していた。だが渡世人に危険を知らせようと、声をかけるほど勇気のある者はひとりもいなかった。  渡世人と浪人者との距離は、みるみるうちに縮まった。人々は、息をのんだ。中には、目をつぶる者もいた。浪人者が、吼《ほ》えるような声を発した。その一瞬に、渡世人は足をとめた。しかし渡世人は、道の端へ逃げようとはしなかった。  一歩ほど、横へ避けただけだった。そのまま再び、渡世人は歩き出した。当然、浪人者とすれ違えるはずであった。だが浪人者は、それを許さなかった。よろけるようにして、浪人者は渡世人の前に立ち塞がった。渡世人は、顔を上げようともしなかった。 「死にたいのか!」  浪人者が、大刀を振り上げた。三十五、六と思われる乞食浪人の血走った目が、異様な輝きを見せた。本気で、斬るつもりなのだ。 「ご冗談を……」  渡世人が低い声で、三度笠の奥からそう言った。 「武士に向かって、逆らう気か」 「ここは、天下の往来にござんす」 「ほざくな!」  浪人者の右手の白刃が、澄み切った秋の日射しの中で一閃した。同時に渡世人の道中合羽の前が、左右に開かれていた。水平に走った刀が、金属音を発して切先から四分の一のところで折れた。渡世人は鞘《さや》ごと長脇差を抜き取って、それで相手の白刃を受け止めたのであった。  渡世人の長脇差の鞘は、鉄鐺《てつこじり》と鉄環で固めた頑丈な拵《こしら》えである。その鉄環の一つで受け止められて、浪人者の刀は折れたのだった。次の瞬間、渡世人は浪人者の頭上へ、長脇差を振りおろしていた。長脇差を抜かずに、鞘の鉄鐺で一撃を加えたのであった。  浪人者は、女のような悲鳴を上げて倒れた。両手で頭をかかえて、地上を転げ回っている。瓢から流れ出た酒が、乾いた地面に黒いシミを広げていた。どよめきが起った。見物人たちが、安堵と驚きの溜め息をついたのであった。  そのときすでに、渡世人の姿は七、八メートル先にあった。ついに最後まで、顔を見せなかった。振り向こうともしない。渡世人は何事もなかったような足どりで、甲府へ向かって歩いていた。地上の影だけが、それを正確に追っていた。  広大な空だった。雲一つなく、吸い込まれそうに青かった。遠くの連山は紺色のシルエットを描き出し、近くの丘陵地帯は華麗な紅葉を見せ始めていた。天保十二年の晩秋、騒動が多かった天領甲斐の国も表面的には一応の落着きを取り戻した時期だった。  その渡世人は四ツ半、午前十一時に甲府の手前まで来た。甲州街道筋にある甲府は、甲府柳町というところである。この柳町だけに、十一軒ほどの旅籠《はたご》屋《や》があった。十三年後の安政元年三月、甲府の中心部を全焼する大火があったが、そのときの火元は柳町の富士井屋富太郎宅で『富士富火事』と称されて知られている。  甲府の極く一部に限られている宿場町としての柳町は、そのくらい賑《にぎ》わってもいたし活気に溢れていたのだった。渡世人は、柳町にある煮売屋へはいった。煮売屋というのは当時の宿場には、何軒か必ずあった一膳飯屋であった。  渡世人は、三度笠だけをはずした。三十前に見えた。日焼けがそのまま地肌になったような浅黒い顔で、目つきが鋭かった。だが挑戦的に熱っぽい目ではなくて、むしろ眼差しが暗く沈んでいた。月代《さかやき》がのび放題で、額の上まで垂れている。  彫りの深い顔立ちだが、表情がまったく動かないせいか、ひどく陰鬱そうに見えた。それが癖なのか、宙の一点をじっと凝視している。あまりあちこちへ、顔や視線を向けなかった。小女に注文を伝えただけで、むっつりと黙り込んでいた。  間もなく煮売屋の店内へ、七、八人の男がぞろぞろとはいり込んで来た。いずれも道中支度で、遊び人ふうの男たちであった。どの顔も、凶状持ちのような悪人相である。正統派の渡世人ではなく、長脇差を持ち歩いて金になることなら何でもやるという連中に違いなかった。  食い詰め者と呼ばれている無頼の徒であった。道中合羽を引き回している男は、八人のうちひとりしかいなかった。あとはみな雑巾《ぞうきん》のような着物に、手甲脚絆《てつこうきやはん》をつけているだけだった。それぞれの腰の長脇差が、分不相応に見えて目立った。  顔は揃って無精髭に被われ、目ばかりをギラギラさせていた。そんな男たちが、黙ってはいって来ただけでも無気味な感じだった。煮売屋の亭主は媚《こ》びるように愛想を振り撒《ま》き、小女も努めて笑顔を作った。男たちは、そんな亭主や小女を無視した。  正午前でもあり、渡世人のほかに客はいなかった。それでも八人の男たちがはいって来ると、せまい煮売屋の店の中はもういっぱいであった。男たちは、思い思いの向きに、勝手な姿態ですわり込んだ。しかし、連中がそれぞれ、渡世人を意識していることは明らかだった。  渡世人は、知らん顔でいた。その前に、道中合羽をつけた男がすわった。その男が、先頭に立って煮売屋へはいって来たのである。二十五、六の若い男だった。どうやら目の前の若い男が、ほかの七人を引き連れているらしい。 「おれは、源太っていうんだ」  若い男は渡世人を見据えながら、ニヤリとした。若いくせに、笑うと凄惨な顔になった。荒《すさ》んだ日々を送っていると、すぐにわかった。顔色が悪いし、卑しい目つきをしている。乱れた髪を、藁《わら》で束ねていた。 「大した腕じゃねえか。酔った乞食浪人を軽くあしらうところを、見せてもらったぜ」  源太と名乗った若い男は、また凄味のある笑顔になった。渡世人は、黙っていた。まるで何も聞いていないみたいに、表情の動かない顔である。 「おれは、おめえさんの腕と度胸が気に入った。おめえさんのその腕と度胸を買いてえんだが、一つ相談に乗っちゃあくれめえか。どうだね」  源太という男は、道中合羽の前を開いた。渡世人の目が、その奥へチラッと走った。源太という男の右肩に、大きな結び目があったからだった。源太の右腕は、付け根からそっくりないのである。空っぽの袖がひらひらするのがうるさいので、ちぎった残りを右肩のところで結んであるのだ。  源太という男は、財布を取り出した。それを、揺すって見せた。底のほうが重そうに脹《ふく》らんでいるし、小判が触れ合う音がした。源太という男は、得意げな顔で財布を懐中へ押し込んだ。 「小判の出所を、心配することはねえ。五日めえに信州下の諏訪の賭場で、芽が出すぎて掻き集めた二十と三両だぜ。ほかの連中には二両ずつという約束だが、おめえさんにはこれだけ出そう」  源太は、左手を渡世人の前に突き出した。指を四本立てていた。もちろん、四両という意味である。渡世人は、何の反応も示さなかった。小女が、丼《どんぶり》を運んで来た。味噌雑炊《みそぞうすい》であった。それに小丼と、小皿がついていた。小丼の中身は山芋のすりおろしであり、小皿には干し魚の焼いたのとタクアンが二切れ並んでいた。  渡世人はまず、すった山芋を喉へ流し込んだ。それから干し魚とタクアンを、味噌雑炊の中へ入れた。渡世人は、味噌雑炊をすすった。丼の縁に口を押しつけて、箸をまったく休ませなかった。混雑する煮売屋で、さっさと食べ終える。長い間旅を続けていると、そうした習慣が身についてしまうのだ。 「大したことを、やるわけじゃねえ。棒杭みてえな連中を、薙《な》ぎ倒してくれりゃあそれでいいんだ。おれにとっちゃあ、六年めえの意趣返しさ。大金を手に入れてこれで人手を集められると、ふと思いついたことなんだがね。現にこうして七人ばかり雇ったが、それにおめえさんを加えれば鬼に金棒っていうわけで、こうして頼んでいるんだ」  源太という若い男は、丼の陰になっている渡世人の顔を覗き込むようにして話を続けた。渡世人は空になった丼を置くと、湯呑の番茶を呷《あお》った。 「これで、どうだい」  源太は、左手の五本の指を残らず立てた。渡世人はそれを無視して、冷やかな目を源太の顔に向けた。そうしながら、取り出した手拭《てぬぐい》で口許をこすった。薄汚れた手拭だった。もっとも、薄汚れているのは手拭ばかりではなかった。  渡世人の道中合羽も手甲脚絆も、かなり痛んでいるという感じだった。一カ所に落着くことはなく、長い道中を続けていることがそれでわかった。当然、無宿者であった。人別帳から除かれて、故郷も家族もない流れ者なのである。 「何とか、言ってくれねえかい」  源太という男は、さすがに渋い顔になった。だが渡世人は、相変わらず無言であった。 「こうやって頭を下げて、頼んでいるんじゃねえか」  源太は改めて、頭を垂れた。とたんに、渡世人は立ち上がった。三度笠と振分け荷物を手にすると、渡世人は源太に背を向けた。小女が待っていたように、渡世人に近づいた。渡世人は小女の掌の上に銭を置くと、煮売屋の入口へ向かった。 「待ってくんねえ!」  源太が、慌てて声をかけた。しかし、渡世人は振り返ることもなく、煮売屋の店内から出て行った。七人の男たちが、一斉に腰を浮かせた。渡世人を追うという体勢であった。 「変わった野郎だぜ」  源太が苦笑しながら、左手で男たちを制止した。男たちは腰掛け代わりの酒樽にすわり直したが、ひとりだけ源太のほうに近づいて来た。 「顔を見てどこかで会ったことがあるような気がしたが、やっと思い出したぜ」  その四十に近い男が、源太の肩を軽く叩いて言った。 「いまの野郎かい」  源太は、男を見上げた。 「野州石橋の賭場で、見かけたことがあるんだ。確か上州無宿で、天神の新十郎とかいう野郎だぜ。間違いねえ」  男は、顎《あご》を撫《な》で回した。 「まあ、いいじゃねえか、野郎がいなけりゃあ、何もできねえっていうわけじゃねえ。二日三日どこかでのんびりして、それからお目当ての場所へ繰り込むってことにしようぜ」  源太が、男たちを見回した。幾つかの顔が、もの欲しげに頷《うなず》いた。 2  当時の甲州は、山梨郡《ごおり》、巨摩《こま》郡、八代《やつしろ》郡、都留《つる》郡の四郡に分かれていた。甲府がその中心であり、甲州の街道は殆どそこを起点としたり通過したりしていた。甲府から東へのびているのが、江戸へ通ずる甲州街道である。南へ下っているのは、鰍沢《かじかざわ》を経て東海道の岩淵へ出る身延山みちであった。  東南へ走っているのは沼津へ抜ける、かつての鎌倉往還だった。天神の新十郎は、そのいずれの道へも足を踏み入れなかった。どこへと一瞬迷ったようだが、結局新十郎が選んだのは甲府から真南へ下っている道だった。身延山みちや市川大門へ通ずる街道は、やや西寄りに走っているのである。  天神の新十郎が選んだ道は、街道とは言えなかった。脇街道ほどの規模でもない。人馬が通れる道、にすぎなかった。この道は甲府から右左口《うばぐち》村を抜けて精進湖《しようじこ》、本栖湖《もとすこ》の近くを通り富士山の山麓を経て東海道の吉原へ達していた。  かつての鎌倉往還のほかに、甲斐から駿河へ出る道は三本あった。古くは河内路と呼ばれていた身延山みち、甲府から八代を経て西湖と河口湖の間を抜け富士山麓を迂回している若彦路、そしてその二本の真中を吉原へ通じている中道であった。  天神の新十郎は、この中道を南へ下ったのである。山越え峠越えの多い険阻な道なので、急ぎの旅人以外はあまり利用しなかった。むしろ、旅人よりも馬の往来のほうが激しかった。中道から甲州街道へと、稼ぎ馬が進出して駄賃を得ていたからである。  甲府から四里ほどで右左口村を抜けると、約一里の峠越えであった。右左口峠である。峠路は九十九《つづら》折《おり》に上り続けた。木の低い枝が、新十郎の三度笠の上をこすったりした。振分け荷物の片方が、道中合羽の下で同じリズムで背中を叩いた。さすがに、新十郎も息を弾ませていた。  やがて、右左口峠の頂上に出た。頂上には、アカマツの巨木が一本枝を広げていた。その横に、崩れた古い石垣があった。三百年ほど前の、狼煙《のろし》台の跡だった。甲府から東海道へ南下する道はいずれも、かつての武田氏が駿河に備えた要地だったのである。  それで、街道沿いの山や峠の頂上に、何カ所も狼煙台を設けていたのだった。右左口峠の頂上にも、古い狼煙台がその名残りを留めていたのであった。新十郎はアカマツの枝の下に佇《たたず》んで、北の方向を眺めやった。視界が開けていた。  空は無限に広く、日もまだ高かった。遠い景色も、鮮明に目に映じた。甲府盆地を、一望にできた。田畑がはるか彼方まで続き、人家が密集している町や村落が点在していた。その中を釜無川と笛吹川が、銀色の巨大な蛇のように蛇行していた。  北の果てに、信州の八ヶ岳がくっきりと鋸《のこぎり》のような八つの峰を見せている。八ヶ岳に雲がかかると強い風が吹き、よく見える日は無風だと土地の人々は予測するのだった。新十郎は長い間、視線を投げていた。表情は暗く、少しも変化しなかった。  二つの世界を隔てる壁でありながら、その一点を越えることを許している峠の頂上からの独特な眺めであった。頂上にいれば、視界は広い。しかし、峠を下り始めれば、いま目の前にある景色がまったく見えなくなるのだった。  そんなことから、少しでも長く眺めていたいという気持になる。名残りを惜しむ、その景色に、郷愁さえ覚えるのであった。峠は常に、何かと別れるところなのである。新十郎の目にも、そうしたことを考えているような暗さがあった。  新十郎は気をとり直したように、足許の小石を拾い上げると身体の向きを変えた。南には、富士山しかなかった。すでに雪をかぶった富士山が、のしかかるように眼前に迫って来ていた。新十郎は、峠を下り始めた。上りよりも、急な道だった。  もう甲府盆地は、別の世界であった。ふと人の声さえ聞けなくなったと錯覚しそうになる。道は深い谷間に、下っていた。反対側は富士山とその外輪の、王岳、烏帽子山、三方分山などであった。峠を下り切ると、道は渓谷に沿って東へのびていた。  渓谷は、深かった。断崖絶壁で巨岩や奇岩が突き出し、その底を川が流れていた。芦川である。浸けた手が痺《しび》れそうに冷たく、澄み切った川の水だった。芦川は西へ流れて、市川大門の近くで笛吹川に合流する。市川大門の紙漉《かみすき》業者は、この芦川の澄んだ水で紙を漉《す》いているのだった。  半里ほど行くと、吊り橋に出た。丸太を組み、アケビの蔓《つる》で結んだ橋だった。両側の柵も、アケビの蔓である。芦川の急流を見おろしながら、新十郎は吊り橋を渡った。あちこちに、畑があった。田圃は、もちろんなかった。  米は一粒も、とれない地方だった。作物は豆、大麦、モロコシが少々であった。あとは製紙原料の楮《こうぞ》、三椏《みつまた》で、それらが住民の生活を支える重要な産物になっていた。畑への斜面が、墓地になっていた。墓石や木の柱のほかに、小さな地蔵が一面に並んでいた。間引き地蔵であった。  生活が貧しく、人口を増すことは許されない。そこで、何人目かの子が生まれるとすぐ親の手で殺してしまった。それが、半ば公然と行われていた間引きだった。間引いた子どもを、墓地に埋める。そのあとに置かれた小さな地蔵が、間引き地蔵なのである。  畑があり、墓地がある。とすれば、近くに人家があるはずだった。このあたりは、大関というところであった。谷間の小さな村落だった。五、六軒ずつ固まって、全部で二十戸ほどの人家があった。住民の数は、八十人前後だった。  新十郎は、ふと顔を上げた。人の気配を感じたからだった。道の左側に、柿の木があった。梢に残っている熟しきって黒ずんだ柿の実が、何か寒々とした感じだった。その柿の木の下に、ひとりの女が立っていた。十八、九の娘であった。  着ているものは粗末だが、色白の娘の印象はいかにも清潔そうである。とりわけ美人ではないが、繊細な顔立ちが楚々《そそ》たる感じであった。汚れた世間には接触したことがない、という山間《やまあい》の乙女だった。しかし、娘は一本足で立っていた。  太めの木の枝の頭に、T字型に横木を打ちつけた杖で左の腋の下を支えていた。風が吹くと、着物の裾の左側の部分が頼りなく揺れた。左脚の膝から下が、ないようであった。娘は右手に菊の花を持ち、新十郎の顔を眩《まぶ》しそうに見やりながら微笑した。  新十郎は、無表情だった。目を伏せると、娘の前を通り抜けた。コツ、コツと音が聞えた。杖で地面を突く音だった。娘があとを追って来る、と新十郎は背中で察した。四、五軒の人家の前を通った。どの家も粗壁が剥《む》き出しになっていて、板葺《いたぶ》きの屋根の上に重石を置いていた。  人影はなかった。誰もが、野良仕事に出ているのに違いない。片足がなくて働くことのできない娘ひとりが、村で留守番をしているという感じだった。少し行くと、また四、五軒の人家があった。道の脇に、和紙の原料となる楮《こうぞ》の樹皮が積んであった。 「もし……」  遠慮がちに、声がかかった。新十郎は足をとめて、ゆっくりと振り返った。娘が恥じらうように、目をしばたたかせながら笑いを浮かべた。 「ここに、お泊りじゃないんですか」  娘が、思い切ったように言った。その目が、左へ動いた。新十郎も、その視線を追った。娘が目を走らせたのは、左側にある人家であった。この村落では、最も広いと思われる家だった。正面の油障子に、『御宿承《うけたまわ》ります』と書いてある。  ここは、宿場ではない。それほど旅人の往来はないし、街道と言える道ではないからである。しかし、旅人がまったくいないわけではなかった。時間によっては、宿をとらなければならない旅人もいる。山越えの多い道となると、夜旅はできないのだ。  そうした旅人のための、臨時宿であった。恐らく三日にひとりの客があれば、いいほうだろう。だから、専業の旅籠屋ではない。家人たちは、野良仕事に精を出している。客があったら泊めてやろうと、内職以下の副業なのである。 「さあね」  新十郎は、娘の顔を見据えた。これから先しばらくは、人里離れた道だった。このあたりは一名、九一色《くいしき》郷と呼ばれている。大関をすぎると道は再び上りとなり、女坂を登って山越えをしなければならなかった。本栖あたりまで行かないと、人家にはお目にかかれないかもしれない。時刻は間もなく七ツ、午後四時であった。 「山の日暮れは、早いですよ」  娘が言った。確かだった。富士山の西側が赤く染まっていたし、外輪の山々のあたりは薄暗く煙っている。 「それにしても、この家にはどなたもいなさらねえようですよ」  新十郎は、左側の家の暗い土間へ目を転じた。  娘はまた、恥じ入るように笑った。 「娘さんは、この家のお人で……?」  新十郎は、胸のうちで苦笑した。何のことはない、娘は旅籠屋の留女《とめおんな》同様、自分の家のために客引きをしたのである。 「次郎衛門の娘で、お妙と申します」  娘は悪いことでもしたように、深く顔を伏せた。 「次郎衛門さんですかい」 「はい。九一色郷の名主さまをはじめ村役さまは、ずっと西の古関というところにおられます。それでこの大関の長《おさ》は代々、うちのご先祖が勤めて来ました」 「すると、いまでも……」 「はい。大関の長は、おとっつぁんということになっています」  お妙という娘は、このときだけ厳しい顔つきになった。この村落の支配者の娘であることを、意識したのに違いない。九一色郷の名主、組頭、百姓代たち村役人は、遠くの古関というところにいる。というよりも、この大関だけが遠く離れて孤立しているのである。そうなると、村役人が直接統率を図ることは難しかった。  特に孤立している村落は、かつて主従関係にあったりして結束が堅い。自治を望む。そんなことから、その村落の代表者に村役人は一切を委ねているのだった。従って公的な代表者ではなく、村人たちが自発的に選んだ村長《むらおさ》なのである。  代々そうだったが、現在もお妙の父親次郎衛門が村長《むらおさ》だという。それでこの家が最も大きく、内職に旅籠屋もやれるというわけであった。しかし、その長《おさ》であろうと、野良へ出て働かなければならないという環境なのである。 「でも、一夜のお宿をすすめることだけのために、旅のお人を引き留めるのではないのです。旅のお人から、峠の向こうに何があるのか話してもらうことが、わたしにはこの上もない楽しみなんですよ」  お妙は、何かを期待する子どものように、無邪気に目を輝かせた。 「そうですかい」  新十郎は、気のない返事をした。 「旅人《たびにん》さんも、右左口《うばぐち》峠を越えて来られたんでしょ」 「へえ……」 「わたしは生まれてからまだ一度も、右左口峠の向こうを見たことがないんです。女坂を登ったこともありません。だから、わたしはこの土地しか知らないんですよ」 「どこもみな、同じようなものでござんしてね」 「そうでしょうか。でも旅のお人の話を聞くと、右左口峠の向こうにはまったく別の世界があるみたいですよ」 「そいつは旅の連中が、いいかげんな法螺《ほら》を吹いて行くんでしょう」 「一度でいいから、峠の向こうを見てみたい。それが、わたしの夢なんです。だけど、一向に叶《かな》えられませんでした。こんな足だから自分ひとりでは行けないし、おぶって連れてってくれと頼んでも忙しいからと誰ひとり相手になってくれません。四年ほど前、馬の背にかじりついて右左口峠を登ろうとしたんだけど、途中で落馬して怪我をしました。それ以来峠に登ることは諦めて、旅のお人からいろいろと話を聞かせてもらうことにしているんです」 「娘さんにこんなことを訊いちゃあならねえのかもしれやせんが、その足はいってえどうなすったんで……」 「六つのときに大きな手負いの猪に突っかけられて、膝から下を引きちぎられてしまったんです」  お妙は、屈託なく笑った。もう古い話だと、言いたそうな顔つきだった。しかし、そのためにお妙はこのせまい土地しか知らないし、未だに嫁入りもしていないのであった。 「すみませんけど旅人《たびにん》さん、合羽の前を開いてみて下さいな」  お妙が言った。新十郎はその通り、両手で道中合羽の前を左右に開いた。 「右腕のない人だったりしたら、大変なことになるもんで……」  お妙は、照れ臭そうに笑った。 「どういうわけで、右腕がないと大変なことになるんですかい」  新十郎はふと、源太という右腕のない男のことを思い出していた。 「この大関の人たちは残らず、右腕のない旅人《たびにん》さんを恐れているんですよ」  お妙は杖を巧みに操って、左側の家の土間の中へはいって行った。六年前の意趣返し、棒杭のような連中を薙ぎ倒す、といった源太の言葉が新十郎の耳の奥に甦《よみがえ》った。 3  土間が広く、住まいにも床らしい床はなかった。部屋は一応、障子で仕切ってある。縁の下はなく、床板の上に藁を敷き詰めそれに重ねて莚《むしろ》が置いてあった。寒気が厳しいと、床下のある生活では耐え切れないのだ。土間の奥が、広い部屋になっていた。そこだけに、囲炉裏が切ってあった。  天井も壁も、油煙で真黒になっていた。燈油を使わず、松の根を刻んで燃やすのを明かりにしているからである。囲炉裏のある部屋が、家族の生活の場であった。ほかには暖をとる囲炉裏がないし、明かりも置いてないためだった。  ほかに、二部屋あった。そのうちの一部屋を、旅人が泊ったときに宛てがうのだった。しかし、そこでは眠るだけである。食事は家族と一緒に囲炉裏端ですませるのだし、宛てがわれた部屋へ引き揚げても暗闇ではどうすることもできなかった。  次郎衛門は、大男だった。新十郎と変わらないほど、背が高かった。むっつりと不機嫌そうで、常に怒っているような顔をしていた。すでに、五十に近かった。子どもは娘のお妙だけで、その上婿とりが難しい不自由な身体だった。  そんなことが頭から離れずに、次郎衛門はついつい深刻な面持ちになってしまうのかもしれなかった。母親のお徳は、それ以上に無口だった。コマネズミのように、動き回っていた。四十前後だろうが、見たところは老婆のようであった。  風呂へは、新十郎が最初にはいった。家族たちが、それに続いた。それから、近くの村人たちが次々ともらい風呂に来た。風呂のある家は三軒だけで、村人たちは三つのグループに分かれ、それぞれ風呂をもらいに行くということだった。  晩飯は、うどんであった。大きな土鍋で、猪や山鳥などの肉、キノコ、アケビの実などを味噌で煮て、そこへ手打ちのうどんを入れたものだった。それを、ほおとう《ヽヽヽヽ》と呼んでいた。新十郎とお妙、それにお徳の三人は囲炉裏端で、椀に盛ったほおとう《ヽヽヽヽ》を食べた。  次郎衛門は、自家製のドブロクを飲んだ。新十郎もすすめられたが、青臭くてとても飲める代物《しろもの》ではなかった。次郎衛門は酔いが回ると、ようやく機嫌がよくなり口数も多くなった。だが新十郎を歓迎していない様子は、一向に変わらなかった。 「おらは、やくざな野郎が嫌えでな」  次郎衛門は、大声で言った。お徳が、慌てて俯向いた。お妙はまた始まったというように、次郎衛門へ冷やかな目を向けた。 「おらのおやじさまが、村の衆だろうがやくざな野郎には容赦しないと、口癖のように言っておった。そのせいか、おらもそういう男を見ると、胸がムカムカして来るでな」  次郎衛門は、新十郎のほうを見ていなかった。しかし、次郎衛門は囲炉裏をはさんで、新十郎の真向かいにいる。そうなってはやはり、次郎衛門に説教されているのと変わりなかった。少なくとも次郎衛門は、新十郎に当て付けてものを言っているのだ。  だが当の新十郎は、まったくの無表情であった。黙々と、椀の中のものを口へ運んでいた。新十郎にしてみれば、そんなことには馴れきっているのだった。どこへ行っても、聞えよがしにそういうことを言いたがる人間がいるのである。 「この大関には、博奕《ばくち》を打つな、みんなのものを盗むな、やくざは村に置くなという村掟《おきて》があってな。これに背《そむ》いた者は、たとえ村長《むらおさ》の身内の者でも罰を受けなければならねえだよ」  次郎衛門はついに、新十郎へ視線を向けた。新十郎は相変わらず、知らん顔でいた。 「もう二十五、六年も前のことだが、藤兵衛という男がおってな。この藤兵衛は、おらと従兄弟同士だった,ところがこの藤兵衛が博奕好きで、ちょいちょい古関まで出かけて行っては馬追い連中の小博奕に付き合っておっただよ。そのうちに金に困った藤兵衛は、えれえことをやりやがった」 「市川大門へ行って、勝手に村中の楮《こうぞ》を売るという話を決めて来たというんでしょ」  お妙がわかりきっているというように、口をはさんだ。 「そうなんだ」  次郎衛門はお妙が話に乗って来たと思ったらしく、満足げに深く頷いた。 「そればかりか、藤兵衛は前金として二両ばかり受け取った」 「二両と二分だっただよ」 「でも、そんな騙《かた》りが通用するはずはない。その話はすぐ村中に知れ渡って、大騒ぎになった」 「当たり前だ。村長《むらおさ》はおらのおやじさまで、藤兵衛は村長の甥《おい》っ子というわけだもんな。藤兵衛をどうするかと、村中の人たちが目を光らせていただよ」 「ところが、おとっつぁんのおやじさまは少しも慌てず、博奕を打った上に村人たちのものを勝手に売り払おうとしたのは大罪だからと、藤兵衛一家を八分にするって決めた」 「そこが、おらのおやじさまの偉いところだ。自分の甥だからって、少しも手心を加えなかったんだからな」 「村八分にされた藤兵衛一家は、いたたまれなくなってこの土地から出て行った」 「そうさ。ここを逐《お》われたのも、同じようなものだった」 「藤兵衛は病み上がりの女房と五つになる子どもを連れて、泣き泣きここを旅立って行ったけど、おとっつぁんのおやじさまは涙一つ見せずに見送っていた」 「お妙、おめえはまるで見ていたみてえに、詳しいでねえか」 「おとっつぁんから、耳にタコができるほど何十遍となく聞かされている話だもの。馬だって、憶えちまうよ」 「そうかい。とにかく、おらのおやじさまは物事のけじめというものを、きちんとつけなさった。おやじさまは偉かったと、おらはいまでも思っているだよ」 「おとっつぁんは、それを自慢したくって、その話を持ち出して来るんだものね」 「いや、そうじゃあねえ。やくざな男になっちゃあなんねえって、おらは戒めているつもりだ」 「自分をかい」 「馬鹿を言うでねえ」 「だったら、どこのどなたを戒めているんだろう」 「そんなこと、決まっているだろうが」 「いいかげんにしなよ、おとっつぁん。お客さんに向かって、失礼じゃないか」 「客であろうとなかろうと、渡世人は渡世人だ」 「おとっつぁんがそういうことを言いたがるのは、源太が渡世人になったという噂を耳にしたからなんだよ。おとっつぁんは、渡世人になった源太が恐ろしいんだ。だから、やれ渡世人だの、やくざな男だのって悪く言いたがるんだろう」 「何を言うだ!」 「そうでないとしたら、おとっつぁんは六年前のことで気が咎《とが》めているんだよ。あのとき源太を引きずり出して痛めつけろって、村の衆に言いつけたのはおとっつぁんだったんだからね」 「おらは、間違ったことは金輪際《こんりんざい》してねえつもりだ」 「違う。やっぱり気が咎《とが》めているんだよ。だから、源太は悪い男だった。仕方なかったことだって自分を誤魔化しているんだ。それで一層、やくざだ渡世人だって悪く言いたがるんだろう」 「お妙、旅のお人の前だ。そんな話を、するもんじゃねえだ」  次郎衛門が、弱々しく首を振った。感情的になった娘が持ち出した話に、次郎衛門はほとほと閉口させられたようだった。次郎衛門は黙々と、椀に注いだドブロクを呷《あお》った。お妙はまだ憤慨しているらしく、色の白い顔が青味がかっていた。 「ご馳走さんになりやした」  椀の上に箸を揃えて、新十郎は一礼した。そのまま、新十郎は囲炉裏のそばを離れた。逃げるつもりではなかった。父親と娘の言い争いをそっくり聞いてしまったあと、その場には居辛かったのである。雰囲気も、何となく気まずい感じだった。  新十郎は、土間の草履《ぞうり》を突っ掛けた。明かりのない部屋にいても仕方がない。外へでも、出てみるほかはなかった。外へ出ると、夜気が冬と変わらない冷たさだった。吐く息が、白くなった。空には刃物のような三日月があった。  もらい風呂に来た最後の村人が帰って、まだそれほど時間はたっていなかった。それなのに、あたりは厚い闇に閉ざされていた。明かりらしいものは、見当たらなかった。起きていてもやることはないし、燈火を節約して早く寝てしまうのに違いない。  新十郎は腕組みをして、道へ出て行った。馬糞の匂いがした。馬だけは、よく通る道なのである。徳川家康が甲斐に侵入する際に、九一色郷や右左口村の人々に『諸商売の儀、相違なく免許せしむるものなり』という朱印状を与えたという。  耕地に乏しい九一色郷ではこの朱印状を活用して、馬による陸上輸送の駄賃稼ぎに精出していたのだった。新十郎はふと、馬糞の匂いに懐かしさを覚えた。故郷というものを持たない流れ者であるだけに、そんな妙な匂いに郷愁を感じたりするのかもしれなかった。コツ、コツという音が近づいて来て、お妙が新十郎の横に立った。 「気を悪くしないで下さいな」  哀願するような目で、お妙は新十郎を見上げた。 「別に……」  新十郎は、三日月を振り仰いだ。 「口先だけのことなんですけど、あれがおとっつぁんの悪い癖でしてねえ」  お妙は、長い溜め息をついた。 「それとは別に、ちょいと気になることがあるんですがね」  新十郎は、三日月を仰いだまま言った。 「どんなことでしょうか」  お妙が、新十郎の前へ回って来た。 「六年前に源太がどうのこうのって、そいつはどういうことなんですかい」 「ああ、その話……」 「言いたくねえということでしたら、それでも構わねえんですがね」  新十郎は、ゆっくりと歩き出した。 「話したって、差し支えはないことですけど……」  と、お妙があとを追って来た。 「源太というのは、元はこの大関に住んでいたんでござんすね」 「ええ。でも他所《よそ》者と、変わりないんです。上野原の嫁ぎ先で連れ合いに死なれたお国さんという人が、まだ子どもだった源太と一緒にこの大関へ帰って来ましてね」 「六年めえの源太は、もう幾つになっていたんで……?」 「十九でした。一人前の男になったのに、野良へ出るのも炭を焼くのもいやがって、お絹ちゃんというその頃十六になったばかりの娘の尻ばかり追っていたんです。ロクデナシという評判でした」  そのお絹という娘の家は、この恵まれない土地にあって更に貧しかった。その上、父親が病気をして、市川大門の知り合いに借金ができた。仕方なく、お絹が身売りをすることになった。身売り先は江戸の遊女屋ということで、話をまとめた女衒《ぜげん》さえも詳しくは知らないようであった。  しかし、明日は女衒が迎えに来て江戸へ向かうというその前夜、お絹は芦川の岩の上に落ちて死んだのである。身売りを苦にして、自殺したわけではなかった。お絹はむしろ、江戸で華やかな暮らしができると、身売りすることを喜んでいたくらいなのだ。  よく調べてみると、お絹の身体に異常が認められた。生娘であったことと、それが損われたことを証明する跡が残っていたのである。お絹は無理に、女にさせられたのであった。そのうちに芦川に近い草むらの中へ、源太とお絹がはいって行くのを見たという証人が現われた。  源太なら、やりかねないことだった。ご執心だったお絹が、明日には江戸へ立ってしまう。それに江戸へ行けば、どうせ男たちにオモチャにされる身体ではないか。それならその前に、肌で名残りを惜しんでおこうと源太はお絹を口説いたのに違いない。  だが、お絹のほうにはその気がなかった。またお絹は、生娘だというので身売りの値段が高くついたことを知っていた。その二つの理由から、お絹は源太を拒んだ。しかし、好きな女を目の前にして、十九歳の若者がそれで諦めるはずはなかった。  源太はお絹に挑みかかり、その場で目的を果した。ところがそのあとで、怒ったお絹が家の者に手籠めにされたことを打ち明けると言い出した。そんなことをされてはと、源太は慌てた。わが身の安全を図るには、お絹の口を封ずるほかはない。  単純にそう判断した源太はお絹を芦川の岸辺へ連れて行き、断崖絶壁の上から突き落したのに違いない。そのような結論が出た。夜明けを待って源太を引きずり出せと、次郎衛門が村人たちに命令した。普段から評判が悪く、他所者も同然のくせにと憎まれていた源太だった。  村人たちは妙に興奮して、鋤《すき》、鍬《くわ》、鎌などを持ち出して来た。夜明けとともに、村人たちは源太を呼び出した。源太は事情も聞かないうちに、寝巻のまま血相を変えて逃げ出した。それだけでも、源太がやったということは明らかだった。  源太は、右左口峠へ逃げた。そのあとを、十数人の村人たちが追った。右左口峠の頂上をすぎて下りの道にさしかかったところで、源太は村人たちに追いつかれた。狂ったように抵抗する源太に、村人たちは殴る蹴るの暴行を加えた。  鋤や鍬を、振りおろす者もいた。それで源太は右肩を砕かれた。そのうちに誰かが振り回した鎌が、源太の右腕の付け根をざっくりと割った。右腕がちぎれそうになり、源太は動かなくなった。村人たちは源太をそのままにして、大関へ引き揚げて来た。 「それっきり、源太は二度と戻って来ませんでした。お国さんはそれから間もなく、首をくくって死にました」  お妙が、力なく言った。強く降る雨のような音が聞えて来た。目の前に、芦川に架かっている吊り橋があった。新十郎は、吊り橋の上に立った。下を見ると夜目にも白く、芦川の清流が岩を噛んでいた。 「その後、源太が長脇差を持ち歩く渡世人になったと、噂が聞えて来たというわけですかい」  新十郎はぼんやりと、芦川の流れに目を落していた。 「この夏になって、そんな話を耳にしました。源太も無宿者になったんだから、それが当たり前かもしれないなんて、おとっつぁんが言ってましたけど……」  お妙はよろけて、新十郎の腕に縋《すが》った。丸太を組んだ吊り橋で、突いた杖の先が滑ったのである。 「それで源太が仕返しに来るんじゃねえかと、右腕のない男を恐れているんでござんすね」 「まさかとは思うんですけど……」 「ここの人たちは、薄情すぎるんじゃねえんですかい」  新十郎は、微かに鼻を鳴らした。結束が堅すぎると当然、排他的になる。他所者に対しては、極端に冷たい。村人たちの利益を守るためには、掟の違反者に徹底して残酷である。藤兵衛とその妻子、それに源太の場合がそうであった。もっとも、そうしたことのすべての原因は、この土地の貧しさにあるのかもしれなかった。  それはともかく、村人たちに危機が迫っていることは事実だった。村人たちは、何も知らずにいる。お妙も、まさかと思っているという。しかし、源太は間もなく、この土地に乗り込んで来るはずだった。甲府で新十郎に話を持ちかけて来た男は、六年前にここを逐われた源太に間違いなかった。  右腕を失っていた。六年前の意趣返しをすると言っていた。そのために、何人もの無法者を雇ったのである。この土地へ乗り込んで来て、村人たちを棒杭のように薙《な》ぎ倒すつもりなのだ。そのことをお妙に、話してやるべきかもしれなかった。  だが新十郎は、あえて沈黙を守った。余計なことだと思った。源太が何をしようと村人たちがどうなろうと、新十郎の知ったことではないのだ。この大関も流浪の旅の途中、通りかかっただけの土地にすぎないのである。 「この川では、イワナやヤマベがとれるんじゃあねえんですかい」  表情のない顔で、新十郎は言った。 「ええ、とれますよ」  お妙は笑った。その歯が白かった。 4  翌朝、新十郎が目を覚ましたとき、夜はすでに明けていた。まだ暗いうちの七ツ、午前四時には目が覚めるという習慣も、ここでは通用しなかった。静かすぎるのである。普通の宿場町だと、夜明け前から何となく騒がしくなる。  旅籠屋の中も、活気づく。しかし、ここにはそうした雑音も、動きもなかった。いつの間にか、夜が明けていたという惑じだった。新十郎は着換えをすますと、煎餅蒲団を部屋の隅に重ねて置いた。障子をあけると、囲炉裏の前にすわっているお妙の後ろ姿があった。 「おはよう……」  お妙が、振り返って笑った。新十郎は会釈を返しながら、囲炉裏の脇を通り抜けた。土間へおりて、裏口から外へ出た。小川が流れていて、それに板が渡してあった。板の上に、塩が盛ってある。新十郎は、その場にしゃがみ込んだ。  塩を口の中へ入れると、指で歯を磨いた。そのあと小川の水で、口をゆすぎ顔を洗った。新十郎は手拭を使いながら、空を見上げた。今日も、よく晴れている。絵に描いたように鮮やかな富士の山が、すぐ目の前に長い稜線を引いていた。  新十郎は、囲炉裏端へ戻った。次郎衛門やお徳の姿は、見当たらなかった。とっくに野良へ、出かけたのに違いない。薄明るくなると同時に、村人たちは野良へ出たり、炭焼きのための伐採に山へ散ったりするのである。 「はい、どうぞ」  お妙が新十郎の前に、味噌を盛りつけた木皿を置いた。円く押しつぶした餅を二つずつ串に剌して、囲炉裏の灰の中に何本も立ててあった。これを焼き餅と称しているが、材料はモロコシだった。  モロコシを臼《うす》でひいて、その粉を湯で練ったものである。それを串刺しにして囲炉裏の火で焼き、味噌をつけて食べるのであった。この土地では、モロコシの焼き餅を主食にしていた。今朝も、それが新十郎の朝飯というわけだった。 「そんなに急いで、立つこともないんでしょう」  自分も焼き餅を齧《かじ》りながら、お妙がそう言った。 「へえ」  新十郎は、曖昧《あいまい》な頷き方をした。 「右左口峠の向こうにどんな世間があるのか、旅人《たびにん》さんからはまだ何も聞かせてもらっていませんからね」 「とは言っても、あまりゆっくりしていたんじゃあ、今夜の泊りに差し支えやす」 「だったら女坂の手前まで、わたしも一緒に参ります」 「大丈夫なんですかい」 「その代わり、ゆっくり歩いて下さいね。歩きながら、お話を聞きます」 「大した話は、ござんせんよ」 「右左口峠の向こうにはこんなことがあるっていうなら、もうどんな話でも構いません。何でも、聞きたいんです」  憑《つ》かれたような目で、お妙は言った。新十郎は部屋へ引き揚げると、支度にとりかかった。手甲脚絆をつけた。着物の裾をからげると背後で帯を通し、それを引き絞った。振分け荷物を右の肩に掛けて、その上から道中合羽を引き回した。三度笠はかぶらずに、手に持った。  新十郎は、お妙に旅籠代を払った。ついでに、新しい草鞋《わらじ》を買った。草鞋をはくと、新十郎は先に外へ出た。すぐお妙が、追って来た。お妙は同じような杖を、左右の腋の下にはさんでいた。遠くまで行くときは、二本の杖を使わないと疲れるのだろう。  お妙は戸締まりもせずに、歩き出した。それに合わせて、新十郎はゆっくりと歩を運んだ。何軒かの家の前を通りすぎたが、人の気配はまるでなかった。乳飲み子も、母親が野良へ連れて行くのだった。主のいない家の前に、寒菊の花が咲いていた。 「右左口峠を越えた向こうには、ずいぶんと賑やかな宿場が幾つもあるそうですね」  お妙が、真剣な面持ちで言った。 「さあね。おめえさんが思っているほど、賑やかとは言えねえでしょう」  新十郎は、軽く首を振った。 「そうですか。うちに泊った二人連れの男衆が、そう言ってましたよ。絵草紙屋、貸本屋、鰻《うなぎ》屋、蕎麦《そば》屋、天麩羅《てんぷら》屋、餅屋なんかがずらりと軒を並べているとか……」 「とんでもねえ。それじゃあまるで、江戸でござんすよ」 「だったら、どんな店屋があるんでしょう」 「宿場にあるのは、旅籠屋に茶屋、煮売屋に荒物屋、あとは居酒屋と相場が決まっておりやしてね」 「娘さんは、とても美しく着飾っているんですってね」 「そいつは、人によりけりでしょう」 「誰でも、金の櫛《くし》や珊瑚珠のついた簪《かんざし》ぐらいは持っているとかで……」 「それも、嘘っぱちでござんすよ。精々、水牛の櫛に、銀流しの簪というところでしょう。江戸の新吉原の遊女でも、髪飾りは櫛一枚、笄《こうがい》一本、簪四本、耳掻《みみか》き二本と定められているご時勢ですからねえ」 「じゃあ、着物は……?」 「木綿に決まってるじゃねえですかい」 「絹の蒲団に、蒔絵《まきえ》の高枕というのも嘘なんですか」 「お姫さまの話だというのなら、また別でござんすがね」  お妙が目を輝かせて聞くので、面白がった旅人があり得ない嘘を並べ立てたのに違いない。お妙は今日まで、そうした話を本気にしていたらしい。峠の向こうの別世界への憧憬が、強すぎることもあった。  女坂にさしかかるまであと半里ほどあったが、道はすでに上りになっていた。お妙も苦しそうに、息を乱していた。新十郎は道端の斜面を被っている枯草の上に、黙って腰をおろした。お妙が嬉しそうにニッコリ笑って、新十郎から少し離れたところにすわり込んだ。疎《まば》らに点在する人家が見え、その向こうに右左口峠があった。  よく晴れているので、右左口峠の頂上まで眺められた。頂上のやや右のほうに、淡い雲が浮いていた。峠は麓のほうが緑色で、頂上に近づくにつれて茶褐色に変わっていた。その左右に山々の稜線がのびて、空を区切っている。 「あの峠の向こう側へ行けたら、寿命が二十年縮んでも悔むことはないんだけど……」  右左口峠を凝視しながら、お妙が言葉をこぼした。 「峠の向こうにも、ここの続きがあるだけでござんすよ。楽しいことも珍しいものも、ありはしねえです」  新十郎は、長脇差の下げ緒を結び直した。 「でも、行ってみたいんです。いいえ、見るだけでもいいんです」 「行かれねえから、行きてえ。見られねえから、見てみてえ。ただそれだけのことじゃあねえですかい」 「せめて、そのくらいの願いは、叶えられてもいいはずです。どうせ嫁にもらい手もなく、婿の来てもないんです。子どもも生めずに、一生このせまい土地で飼い殺しにされるんだから……」  お妙は杖の先で、地面を手荒くこすった。 「そのうちに、願いが叶えられることもありやすよ」  新十郎の目に、お妙の右脚の白いふくらはぎや膝の裏側が触れた。その部分の白さや、ふくよかさには成熟した女が感じられた。それだけに、哀れでもあった。 「駄目です。おとっつぁんが峠の向こうへは行かせないと、はっきり言い切ったんですから……」 「そいつは、親心というもんですぜ。峠の向こうで知らねえ連中からジロジロ見られて、足の不自由なおめえさんの心に傷がつくんじゃねえかと、次郎衛門さんは案じていなさるのに違いありやせんよ」 「そんな親心なんて、いりません。旅人《たびにん》さんはあちこちと道中を重ねて、面白い目にも遭っているんでしょ。だから、わたしの胸のうちなんて、わかってもらえないんです」 「面白い目に遭っているとはねえ」  新十郎は、自嘲的に苦笑した。渡世人というのがどんなものか、お妙には見当もつかないのだろう。峠の向こうの世界では、誰もが金の櫛に珊瑚珠のついた簪を用い、絹の蒲団に蒔絵の高枕で寝ているものと信じていたお妙である。無理もなかった。 「おめえさんには、見てえもの、行きてえところがありなさる。それだけでも、しあわせなんでござんすよ。あっしらには、見てえものも行きてえところもねえんです」  新十郎は、そう言った。それ以上、説明するつもりはなかった。お妙は、黙っていた。多分、新十郎が言ったことの意味は、お妙に通じなかったのに違いない。いつかは、野垂れ死ぬか殺されるかだった。その日が来るのを待って、生きているようなものであった。  そんなことを言って聞かせても、お妙にわかるはずはなかった。また他人には説明や弁解をしないで、黙って自分なりの生き方をしているのが渡世人というものだった。やくざな男がどうのと次郎衛門も言っていたが、好んで無宿者や渡世人になったわけではなかった。  そうなるように、運命づけられていたのである。生まれたときから、運が悪かったのだ。新十郎は、そう思っていた。物心ついてから、新十郎は楽しくて笑ったことなど一度もなかった。誰に対しても、心は閉ざしたままであった。  ずいぶん長い間を流れ歩いているが、新十郎は道連れというものを作ったことがない。自分以外の人間を、信ずることができないからである。所詮生きるのは、自分ひとりのことであった。この世に道連れなど、必要ないものだった。  日が射していれば、みずからの影がある。それで、十分であった。新十郎は、自分の影をよく知っていた。太陽の位置、下り上りの坂道の角度などで微妙に変化する影まで、観察が行き届いているのだった。それほど長期間、自分の影だけを見ながら旅を続けて来たのであった。  お妙のように峠を越えてみたいと思うだけでも、生きる張り合いがあるというものだった。新十郎には、何かしたいということがなかった。明日に、期待も目的もないのである。何のために生きているのかも、わからない。だからこそ、こんなところへ来る気にもなったのだ。 「参《めえ》りやすぜ」  新十郎は、腰を浮かせた。お妙も、気をとりなおしたように立ち上がった。再び、二人は歩き出した。馬追いが、脚の太い駄馬を引いて道を下って来た。すれ違いながら二人のほうを見て、馬追いが黄色い歯を剥《む》き出してニヤリとした。 「江戸へも行かれたことがあるんでしょうね」  お妙が、潤《うる》んだような目を向けて来た。 「二度ばかりですがね」  新十郎は三度笠をかぶり、顎ヒモを二重にかけて結んだ。 「賑やかなんだそうですね」 「矢鱈《やたら》と、人が多いだけでござんすよ」 「六月十五日の山王祭の日は、江戸中が人で埋まるとか、旅のお人が話してくれましたけど……」 「迷い子と怪我人が出るだけの、馬鹿っ騒ぎでしょうよ」 「夢にでもいいから、一度そんなお祭を見てみたい」  うっとりとした目で、お妙が空の彼方を見やった。太陽が、頭上にあった。間もなく四ツ、午前十時になる頃だった。道が、急な上りになった。女坂の登り口である。これから先は、お妙にとって無理な道であった。新十郎は立ちどまって、お妙を振り返った。 「じゃあ、ここで……」  新十郎は、三度笠の縁を指で摘《つま》んだ。 「どうもいろいろと、ありがとうございました」  羞恥の風情を示しながら、お妙が右手を差し出した。その指の間に、白菊の花が一輪はさんであった。 「もう二度とお目にかかることはねえでしょうが、ずいぶんと達者にお暮らしなせえ」  新十郎は、白菊の花を受け取った。 「道中、お気をつけて……」  お妙が、無理に笑顔を作った。 「次郎衛門さんやおっかさんに、よろしく伝えておくんなさい。ごめんなすって……」  道中合羽の裾を翻《ひるがえ》して、新十郎は歩き出した。一度も、振り向かなかった。達者で暮らせとは空々しい言葉だったと、歩きながら新十郎は思った。明日にでも大関の人々は、源太とその一行に襲われるかもしれないのだ。源太は誰よりも、次郎衛門を憎んでいるはずである。  とすれば、お妙の身も危険なわけだった。そうと承知していながら、源太が近くまで来ていることを教えもしなかった。そればかりか、達者で暮らせなどと心にもないことを口にしたのである。なぜだろうか。あるいは源太という男に、同情しているのかもしれない。  とにかく、これでいいのだと思った。たとえお妙が殺されようと、新十郎には関わり合いのないことだった。天神の新十郎は、無表情のまま歩き続けた。 5  女坂を登りきっても、まだ当分は九一色郷であった。この九一色郷は、天明の飢饉と密接な関係を持っていた。四年間にわたる天明の飢饉が始まると、当時の甲斐代官中井清太夫は急遽《きゆうきよ》この九一色郷で馬鈴薯《ばれいしよ》の栽培をやらせたのであった。  その馬鈴薯のお蔭で、多くの人々が飢餓から救われた。それで甲州の一部では、代官の名前をとって馬鈴薯のことを清太夫芋と呼ぶようになったという。いずれにせよ、九一色郷と称されているところは広かった。約一里の女坂を登りつめると精進湖があり、富士山の頂上は南東に見えていた。  そこで新十郎は、馬の蹄《ひずめ》の音を聞いた。馬はかなりの勢いで、女坂を上がって来た。裸馬だった。と見えたのは、跨《またが》っている者が馬の背に伏せていたからである。新十郎は、道の端に寄った。だが馬は速力を落して、新十郎の前で歩みをとめた。  馬は新十郎のほうへ、鼻を近づけて来た。ただ単に、人懐《ひとなつ》こい馬というのではない。どうしていいのか、わからないのである。乗っている人間が馬に、何の指示も与えていない証拠であった。その馬の背から、若い男が地上へ転げ落ちた。  百姓ふうの男であった。野良着姿で、男の背中には長脇差が突き刺さっていた。長脇差の柄が揺れているところを見ると、それほど切先は深く埋まっていない。新十郎は柄を握ると、長脇差を引き抜いた。男は呻《うめ》き声を洩らして、仰向けに転がった。 「おめえさまは……」  男がうっすらと目を開いて、新十郎を見上げた。顔を、脂汗が流れていた。 「おめえさまは、お妙さんと一緒だったお人じゃねえですか」  男は、色のない唇を動かした。新十郎は、無言で頷いた。 「おらは、お妙さんに言われて、飛んで来ましただ。えれえことになったので是非、加勢してくれるようお願いして来いって……」 「源太が、乗り込んで来たんですね」  予想以上に早かったと、新十郎は思った。 「へえ、そうなんで……。それも七、八人という人数でごぜえますだ」 「そうですかい」 「お願えです。どうか、手を貸してやって下せえまし」 「折角でござんすが、お断わり申しやす」  新十郎は、冷たい口調で言った。 「え……!」  男の顔が、泣き出しそうにゆがんだ。 「先を、急いでおりやすんで……。途中、人家がありやしたら、そのことを知らせておきやしょう」  新十郎は、男の背中から引き抜いた長脇差を、その場に投げ捨てた。 「待って下せえ!」  男が両手で、新十郎の道中合羽の裾を掴《つか》んだ。 「手を放しておくんなさい」  新十郎は表情のない顔で、男を見おろした。 「お願え致しますだ。急がねえと、大関の者はみな殺しにされちまうんで……」 「大関のみなの衆には、何の義理もござんせんよ」 「野良仕事をしているところへ、いきなり踏み込んで来て、おらの目の前だけでも二、三人が斬られましただ。赤ン坊に乳を含ませていた母親まで、殺されちまって……」 「行かせてもらいやす」  新十郎は、道中合羽の裾を掴んでいる男の手を振り払った。 「後生ですから、お願えしますだ」  男が、両手を合わせた。その顔色は、紙のように白かった。新十郎は、それを無視して歩き出した。新十郎はふと、左手に持っていた白菊の花へ目をやった。南から、風が吹いて来た。白菊が頼りなく揺れて、花弁が散り落ちた。  新十郎は、白菊の花を見守った。その暗い目が、鋭く光った。しかし、思いなおして新十郎は、一層足を速めた。少し行って、新十郎は足をとめた。新十郎は荒々しく白菊の花を地面に叩きつけると、草鞋の先でそれを踏みにじった。  新十郎は、小走りに引き返した。男は、目を閉じていた。動かなくなった主人の胸に、馬が鼻の先をこすりつけていた。新十郎は馬の手綱をとると、飛びつくようにしてその背に跨《またが》った。馬首を女坂のほうへ向けて、新十郎はその腹を蹴《け》った。  馬は、狂ったように走り出した。女坂を、一気に駆け下った。道中合羽が舞い上がり、後ろへと靡《なび》いた。新十郎は手綱を握った上で、更に馬の首にかじりつくようにした。それでも風に煽《あお》られて、三度笠を吹き飛ばされた。新十郎は残った顎ヒモを解き、地面に投げ捨てた。  やがて、お妙と右左口峠を眺めたところを通りすぎた。バラバラと、道を横切る男女の姿があった。外から逃げ帰って来て、家の中へ飛び込む人々だった。遠くで罵声《ばせい》と、悲鳴が聞えた。お妙の家の前をすぎた。そこで新十郎は、手綱を引き絞った。  馬は前脚を上げて、宙を蹴った。新十郎は、馬の背から落ちた。地上を転がり、その勢いで立ち上がりながら、新十郎は道中合羽を脱ぎ捨てた。振分け荷物も一緒だった。新十郎は、お妙の家の側面へ回った。馬で通りすぎた一瞬に、何かが新十郎の目に触れたのであった。  今朝、顔を洗った小川がある。その向こうだった。新十郎は、小川の岸辺に立った。果してそこに、人影があった。新十郎は、眉をひそめた。目の前に見出した光景が、あまりにも残酷であり凄惨なものだったからである。それを無心に照らしている秋の日射しが、嘘のように感じられた。  乞食みたいな風態をした男が、のっそりと起き上がったところだった。その下に、女の寝姿があった。男は緩慢な動きで、長脇差を拾い上げた。同時に、新十郎は小川を跳び越えた。男が驚いて、逃げ腰になった。だが新十郎の顔を見ると、男は表情を弛緩《しかん》させた。 「何でえ、おめえさんもここへ来ていたのかい。確か上州無宿の、天神の新十郎さんだったなあ」  男は、髭の中で笑った。新十郎は、女へ目をやった。お妙だった。不自由な脚のほうは隠されている。しかし、開いた右脚は、腿の付け根まで剥き出しになっていた。胸も大きく、押し開かれていた。陶器のように白い二つの隆起が、そっくり露《あらわ》になっていた。 「どうでえ、新十郎さん。おめえさんも、たっぷりと楽しみねえな。おれが三人目だが、まだ初物と変わりやしねえ」  男が長脇差の鐺《こじり》で、お妙の太腿の内側を撫で回した。次の瞬間、男の淫猥な笑顔が硬直した。笑いが消えて、男は信じられないという目になった。鞘走った新十郎の長脇差が、男の胃袋のあたりを突き刺したのである。長脇差の切先が十センチほど、男の背中へ抜けていた。  新十郎は男の腹に片足を当てて、蹴倒すようにして長脇差を抜き取った。男は、仰向けに倒れた。首から上と両手が、小川の水の中に落ち込んだ。新十郎は、お妙に近づいた。お妙はまったく、反応を示さなかった。死んではいない。胸が波打っていた。  お妙の着物は、雑巾のようになっていた。両袖とも、引きちぎられている。肩や頬が、泥で汚れていた。腿の内側に、血が薄く糸を引いている。目はあいているのだが、焦点が定まっていなかった。新十郎がいることにも、気づいていないようだった。  新十郎は、お妙のそばを離れた。道へ出て左右に目を配った。左手のほうで、女の悲鳴が聞えた。道がカーブしているので、何も見えなかった。新十郎は道を、左の方向へ歩き出した。鞘へ戻さずに、抜いた長脇差を右手に持ったままだった。  悲鳴が、近づいた。悲鳴は、助けを求める言葉に変わった。カーブしている道から、女の姿が飛び出して来た。三十前後の女で、泣き叫ぶ幼児を抱きかかえていた。そのあとを、侵人者のひとりが追って来た。同じように抜き身を右手に提げ、男は余裕を見せてニヤニヤしていた。  新十郎は、走り出した。女とすれ違った。男の顔が、俄《にわ》かに緊張した。しかし、そのときはもう新十郎との間に、大した距離はなかった。男は、脇へ身を引いた。新十郎は男の前へ跳躍してから、その横を駆け抜けた。男が、ぎゃっと叫んだ。  顔の真中を額から顎にかけて割られた男は、目も鼻も唇も赤く染めてゆっくりと地上に両膝を突いた。新十郎は、段々畑への小道を駆けのぼった。そっちのほうから風が、男の高笑いを運んで来たのだった。小道をのぼりきると、地上で揉《も》み合っている男女の姿が見えた。  男が女を、押さえつけようとしていた。女はまだ十四、五歳の小娘であった。娘は無言で、必死の抵抗を試みていた。両手で男の顔を掻《か》きむしり、足では土埃を舞い上げていた。男は半裸になった娘を抱きすくめようとして、躍起になっているのだった。  それをもうひとりの男が見物しながら、しきりと笑いを繰り返していた。その男のほうが、早く新十郎に気がついた。男は、ようやく娘を押さえ込んだ仲間に、声を上げた。娘に跨っていた男が、慌てて顔を上げた。 「天神の新十郎とかいう野郎じゃねえか」 「腕はあのとき、見た通りだぜ。気をつけろい!」  そんなやりとりが、新十郎にも聞えた。二人の男は、同時に長脇差を抜いた。自由になったはずの娘が逃げようともせずに、近くにぼんやりとすわり込んでいた。新十郎は二人の男の間に、割ってはいった。長脇差を向けられた男のほうが、反射的に二、三歩後ろへ逃げた。  そこで、新十郎は身体を反回転させた。そっちの男は、突っ込んで来るところだった。不意に新十郎が向きなおったので、男は慌てた。しかし、もう踏み留まるわけにはいかず男は中途半端に斬り込んで来た。 「野郎!」  と、声だけは大きかった。新十郎は身を沈めて、長脇差を水平に走らせた。脇腹を深々と抉《えぐ》られた男はのめって、すわっていた娘の上に倒れ込んだ。娘が恐怖の声で、絶叫した。新十郎は、逃げ出したもうひとりの男に、追い縋《すが》った。  追いついた新十郎は、男に足払いをかけた。男は水にでも飛び込むような姿勢で、俯伏《うつぶ》せに身体を投げ出した。新十郎は、男を跨いだ。男は腹這いになったまま、動きがとれなかった。 「見逃がしてくれ」  男が恐る恐る、顔をねじ向けた。 「源太は、どこにいる」  新十郎は、長脇差を逆手に持ちかえた。 「言えば、見逃がしてくれるかい」 「いいだろう」 「吊り橋の向こうの、道祖神の前にいるはずだ」 「そこで、何をしている」 「次郎衛門とかいうおやじを、痛めつけているんだ」 「おめえの知る限りでいい。ここへ来てから何人殺した?」 「そいつは……」 「言うんだよ」 「七、八人に、違いねえ」 「手籠めにした女は、何人だ」 「三人ぐれえじゃねえのか」 「そうかい」 「何かまだ、ほかに訊きてえことがあるのかね」 「いや、もうねえようだ」 「だったら、これで見逃がしてくれ」  男は新十郎の股の下から、抜け出そうとした。その一瞬に新十郎は、逆手に持った長脇差を男の背中に突き立てた。男はのけぞって、泣くような声を出した。脚をばたつかせ、両手で地面を掻きむしったが、すぐ動かなくなった。  新十郎は、もう一方の男の死体に近づいた。その死体を足の先で、引っくり返した。娘が震えながら、起き上がった。このとき、二人の男が下の道を歩いているのに、新十郎は気がついた。新十郎は段々畑を、一段ずつ飛び降りた。  最後の一段で、道であった。新十郎は、二人の背後へ飛んだ。新十郎はまだ足が地上に達しないうちに、長脇差を振りおろしていた。右側の男の右腕が付け根から切断されて、宙を飛び路上に転がった。その右手はモロコシの焼き餅の、串を握ったままだった。  新十郎は、左側の男に長脇差を叩きつけるようにした。男の腹が裂けて、鮮血が散った。その男は道の脇の斜面に、顔を押しつけるようにして動かなくなった。右腕を斬り落された男は、大声で泣き叫びながら道の真中を這いずっていた。  あと残っているのは源太を含めて二人だけと、新十郎は吊り橋のほうへ向かいながら計算していた。新十郎の動きを覗き見していた土地の人々も、やはり同じ計算をしていたようだった。家々の戸が待っていたように開いて、老若男女がぞろぞろと外へ出て来た。 6  吊り橋を右左口峠のほうへ渡りきったところに、道祖神の祠《ほこら》があった。悪魔や悪霊が吊り橋を渡って村へはいって来ないようにと、そこに道祖神が祀《まつ》ってあるのだった。その道祖神の前に、源太が立っていた。源太の横にいるのは、ただひとり生き残ったその協力者であった。  二人の前に、四人の村人がうずくまっていた。その中に、次郎衛門もいる。ほかの三人も、源太に暴行を加え放逐したときの首謀者に違いない。四人ともすでに、かなり痛めつけられたようである。髪の毛が乱れ、着物の裂け目から血が流れていた。  源太は長脇差を地面に突き刺し、左手に鞘を持っていた。その鞘で、四人を撲りつけたらしい。鉄環や鉄鐺がついている鞘で撲られるのだから、骨まで響く激痛に耐えなければならない。四人とも深く項垂《うなだ》れて、肩で喘《あえ》いでいた。  新十郎は、吊り橋を渡った。新十郎を見て、源太はニヤッと笑った。まだ、何も気づいていないのだ。むしろ、隣の男のほうが警戒する顔になっていた。新十郎は表情を変えずに、吊り橋を渡りきった。 「おめえさん、ここへ来ていたのかい」  源太がそう、声をかけて来た。 「これが六年めえの、意趣返しっていうわけだな」  新十郎は、脇を向いて唾《つば》を吐いた。 「そうよ。これで、ちっとは胸のうちが晴れたぜ」  源太は笑いながらいきなり、次郎衛門の肩を長脇差の鞘で打ち据えた。次郎衛門は低く唸って、がっくりと上体を前に倒した。 「そいつは、よかった」  新十郎は冷やかな目の隅で、次郎衛門を捉えた。 「ところでおめえさん、何だってそんな物騒なものを持ち歩いているんだ」  源太が、新十郎の右手の長脇差を指さした。 「これかい」  新十郎は長脇差を、鞘に納めた。 「おれのために、おめえさんも暴れ回ってくれたのかと思ったぜ」  源太は次郎衛門の膝の上に、長脇差の鞘を突き立てた。それに全身の重味をかけながら、鉄鐺を左右に回転させた。次郎衛門が咆哮《ほうこう》するように、断末魔の叫び声を上げた。 「生憎だったな。その逆で……」  新十郎は暗い目で、源太を見据えた。 「逆だと……?」  源太は、怪訝《けげん》そうな顔になった。 「もうおめえさんたちは、二人だけしかいねえんだよ」 「そいつは、どういうこった」 「あとの六人は、このおれが片付けちまったのさ」 「おい、大概にしてくれ。悪い冗談だぜ。まったく……」 「おれは、冗談が嫌いでな」 「まさか……。おれに恨みも何もねえおめえさんが、そんなことをするわけがねえ」 「おれだって、やりたくはなかったさ。だがな、行きがかり上やむを得なかったんだ」 「おめえ、本気で言っているのか」 「当たりめえだ」 「何だって、そんなことをしやがったんだ」 「特に理由はねえ。強いて言えば、頼まれたからさ」 「いや、やっぱり冗談だ。幾らおめえが大した腕でも、六人を片付けるなんてできることじゃあねえ」 「そうかい。じゃあ、あれを見ねえな。何よりの証拠だろうよ」  新十郎は、振り返った。源太と男が、乗り出すようにした。吊り橋へ向かって、村人たちが続々と詰めかけて来た。もう心配はないと、判断したのである。とたんに人々は、怒りの心に一変したらしい。男たちは、鋤や鎌を手にしていた。  さすがに、吊り橋を渡って来ようとはしなかった。村人たちは向こう岸に並んで、こっちを強《こわ》ばった顔で見守っていた。源太は、凝然と突っ立っていた。その隣で髭面の男が、音を立てんばかりに両膝を震わせている。対岸の人数は、増す一方であった。 「畜生……!」  源太が、歯を噛み鳴らした。その顔から、血の気が引いた。次郎衛門をはじめ四人の男が、やっとのことで立ち上がった。あるいはビッコを引き、あるいは腰を曲げ、男たちは吊り橋のほうへ向かった。 「逃がさねえぞ!」  源太が鞘を捨て、左手で地面に突き刺してあった長脇差を抜き取った。 「待ちねえ」  新十郎が、源太の前に立ち塞がった。四人の男たちは、這いずるようにして吊り橋を渡って行った。 「やい、何だって邪魔立てしやがるんだ。おめえには、関わりねえことじゃねえか!」  源太が、そう怒鳴った。 「その通り、おれには関わりねえことさ」  新十郎のほうは、水のように静かで冷やかだった。源太とは、対照的であった。 「六年前、おれがあの連中にどんな目に遭わされたかも、知らねえくせしやがって!」  源太は、道中合羽の右半分を肩へはね上げた。 「寄ってたかってこのおれを痛めつけ、挙句《あげく》の果てに鎌でこんな無様な右腕にしやがったんだ!」  蒼白な顔で源太は、右腕の付け根のところで結んである袖を振って見せた。 「話は、聞いたぜ」  新十郎は、目を伏せた。 「おめえの聞いた話なんて、どうせいいかげんな作り話さ」 「そうでもねえらしい。その話を聞いて、おめえに同情したくれえだからな」 「そうさ。ここの連中は、鬼みてえなやつらばかりだ。だから、残らず叩き斬ってやろうと思った。おれはここへ、鬼退治に来たんだぜ」 「そいつが、頂けねえのさ。確かに、大関の衆は薄情だ。だがな、だからと言ってみな殺しにしたり、女を手籠めにしたりしていいということにはならねえぜ」 「おめえには、おれの口惜しさがわからねえんだ。他所者と大して変わらねえっていうんで、こんな身体にした上におれを峠の向こうへ追っ払いやがった」 「おめえのほうにも、それなりの罪科《つみとが》があったんだろう」 「おれはただ、惚れた娘を抱いただけなんだぜ」 「お絹さんか」 「そうよ」 「お絹さんが明日は江戸へ立つ、というその前の日のことだったんだそうだな」 「どうせ女郎に売られる身体なんだからって、おれはお絹を口説いた。するとお絹は、生娘ということで身売りに高い値がついたんだからと言い張って、どうしても承知しねえ。そこでおれは、力ずくでお絹を女にした。お絹も諦めて、途中からはその気になった。ただ、それだけのことだぜ」 「そのあと、どうした」 「人目についたらまずいと、急に気になり始めて家へ飛んで帰ったんだ」 「お絹さんを、殺しはしなかったというのかい」 「そいつはあそこにいる連中が、勝手に決めやがったことだ。おれがお絹を、殺すわけがねえじゃねえか」 「お絹さんに事の次第を喋られるのが、恐ろしかったんじゃねえのかい」 「冗談じゃねえ。そんなふうには、思ってもみなかったぜ。お絹だって途中からは、その気になっていたんだ。そんなお絹が手めえのほうから、喋るはずはねえだろう」 「だったら、みなの衆がおめえを引っ張り出しに行ったとき、どうして何も言わずに逃げ出したりしたんだ」 「てっきり誰かが、おれがお絹を抱いているところを盗み見していて、そいつが言い触らしたのに違いねえと思ったんだ。それに連中が血相を変えているのを見て恐ろしくなり、おれは夢中で逃げ出したのさ。無理もねえ話じゃねえか」 「そのときおめえはまだ、お絹さんが死んだことを知っていなかったのかい」 「そうなんだ。飛んで帰ってから、おれは家の外へ出なかったからな」 「そうだったのかい」  新十郎は、背後の反応を窺《うかが》った。芦川の川幅は、せまかった。それに水ははるか下を流れているので、その瀬音も大して邪魔にはならなかった。新十郎の声は、低いがよく通る。源太は興奮して、声を張り上げている。新十郎と源太のやりとりは、対岸にいる人々の耳にも届いているはずだった。  源太は、お絹を殺していないと言い出した。それが事実だとしたら、六年前の村人たちのほうが罪が重かった。やりすぎだった。だから当然、源太の主張に対して村人たちが、何らかの反応を示すはずであった。新十郎は、それを待っていた。 「そんなはずはねえだ!」  吊り橋の向こうで、次郎衛門の声がそう叫んだ。 「そうだそうだ!」 「源太の言うことなど、まともに聞けねえだ!」 「昔から、嘘つきだったもんな」 「お絹を殺したのは、源太だ!」 「間違いねえだ」  一斉に、村人たちの声が飛んで来た。対岸の人数は、五十人ほどになっていた。 「この鬼どもが! まだそんなことを、吐《ぬか》しやがるのか!」  源太が凄まじい形相で、そう怒鳴り返した。新十郎は、源太が嘘をついているとは思っていなかった。六年たったいまになって、お絹を殺さなかったと言い張ったところで意味はないのである。それよりも六年後に復讐にとりかかった源太の執念と怒りが、むしろ無実の罪であったことを裏付けているような気がするのだった。  源太という男は、単純である。だからこそこうして、真正面から村人たちに挑んだのだった。恐らく、重手配の凶状持ちとなる今後のことなど、考えてもいないのだろう。そうした源太が今更、お絹を殺してはいないと嘘をつくはずがなかった。 「改めて、源太を殺しちまえ!」 「八つ裂きにしてやるだ」 「そこで、お絹を殺したと、はっきり言ったらどうだ」 「おめえのために、首をくくったおふくろが哀れとは思わねえのかね」  向こう岸からの罵倒は、まだ続けられていた。それはやがて、潮が引くように遠のいて静かになった。新十郎は、吊り橋のほうを見た。ひとりの女が、吊り橋を渡って来るところだった。お妙であった。二本の杖を使っていた。髪の毛の乱れや顔の汚れはそのままだったが、着物の裾と衿元はきちんと整えてあった。 「源太さんは、嘘をついてません。本当のことを、言っているんです。お絹さんを殺したのは、このわたしなんですから……」  吊り橋を渡りながら、お妙は甲《かん》高い声で叫ぶように言った。対岸の群集の間に、どよめきが広がった。 7  吊り橋を渡り終えたところで、お妙は立ちどまった。その顔は病人のように、窶《やつ》れている感じだった。潤んだ目が、キラキラと光っていた。子どもが重大な発見を、親に訴えるときのような表情だった。顔色は青白く、唇がカサカサに乾いている。 「わたしのために、何人もが殺されました。もう隠しているわけには、いきません」  お妙は、痙攣《けいれん》するように唇を震わせた。 「お妙……!」  吊り橋の向こうで、次郎衛門が大声を張り上げた。 「何ということを言い出すだ、お妙!」  次郎衛門は、吊り橋の上に二、三歩出て来た。しかし、それ以上は、渡って来ようとしなかった。 「だって、おとっつぁん。お絹さんを川へ突き落したのは、本当にこのわたしなんだもん!」  振り向いて、お妙が叫んだ。 「やめてくれ、お妙! 滅多なことを、口にするもんでねえ」  吊り橋のアケビの蔓《つる》を掴んで、次郎衛門は哀願する顔で言った。 「いやだ! わたしは、本当のことを打ち明ける。そうしなけりゃあ、意趣返しに殺された村の衆が浮かばれないよ」  お妙は、激しく頭を振った。 「おめえとお絹は三つ違いだが、あんなに仲がよかったでねえか」  次郎衛門が戻って来いというように、お妙に向かってしきりと手招きをしていた。 「仲がよかったから、殺したんだよ」  お妙は源太、新十郎と目を転じてから、対岸に並んでいる多くの顔を見渡した。 「そんな馬鹿なことってあるか」  次郎衛門が言った。 「源太さんの話は、みんな本当なんだよ。わたしはあのとき、何もかも見てしまった。わたしはまだ、お絹さんが身売りするんだとは知らなかった。おとっつぁんからも、お絹さんは用があって江戸へ行くんだと聞かされていたものね」 「当たり前だ。まだ十三だったおめえに、お絹は身売りすると話せるはずがねえだ」 「わたしはお絹さんにも訊いてみたよ。するとお絹さんは得意そうな顔で江戸にいる人のところへお嫁入りするんだと答えたんだ。わたしは、その話を信じちまったんだよ。とたんに、わたしはお絹さんが憎らしくなったんだ。仲のよかったお絹さんだから、余計に憎らしくなったんだよ」 「もう、いい! お妙、もう何も言うでねえ!」 「あのときも、そうだった。わたしが近づいたとき、源太さんとお絹さんはもう重なっていた。それを見て、わたしは頭の中が燃えるように熱くなった。何が何だか、よくわからなかった。でも、お絹さんが源太さんに可愛がられているということは、何となくわかったよ。お絹さんが楽しいことをしていると、わたしは思ったんだ」  お妙は、源太と新十郎を交互に見やった。次郎衛門は、もう何も言わなかった。次郎衛門は、吊り橋の上にすわり込んでいた。両手を突いて、その間に深く頭を垂れていた。 「間もなくお絹さんから離れた源太さんが、ひどく慌てたように走って行ったんです。そのあとお絹さんはしばらく、ぽーっとしたように空を見上げていました。それがまたわたしの目には、しあわせそうなお絹さんに見えたのです」  新十郎を相手にしているせいか、お妙は丁寧な言葉遣いに改めた。 「わたしは我慢できないほど、お絹さんが憎らしくなりました。お絹さんは江戸にいる人や、源太さんに可愛がられて、しあわせそうな顔でいる。お絹さんは明日になれば、峠を越えて江戸の人のところへお嫁入りする。それなのに、わたしは一生嫁入りも婿とりもできないんだし、死ぬまで峠の向こうに何があるのか知らずに過すんだ。十三の小娘の頭で、わたしはそう考えたんです。わたしはどうしても、お絹さんを江戸へ行かせたくないと思いました」  お妙の目から、涙が溢れた。その涙はまるで湧き水のように、止めどなく頬を流れ落ちた。 「それで……?」  新十郎が表情のない顔で、先を促した。 「立ち上がったお絹さんは、藁草履を両手に持って川のほうへ歩いて行きました。わたしはすぐ、そのあとを追ったんです」  お妙は、洟《はな》をすすった。 「お絹さんは自分から、崖っぷちに立ったんですかい」  新十郎は、お妙の右足首へ目をやった。ふくらはぎから足首にかけて、血が糸を引いていた。それが、痛々しかった。 「そうなんです。わたしは岩に掴まると、そのお絹さんの背中を杖の先で強く押しました。不意のことだったので、お絹さんは声も立てずに芦川へ……」  お妙は絶句して、目を固く閉じた。恐らくそのときの情景が、鮮明に目に浮かんだのに違いない。これで次郎衛門と口論したときのお妙の態度が、新十郎にも頷けたのであった。話が源太のことになったとたん、お妙はひどく興奮して父親を激しく攻撃した。  お妙は、次郎衛門が源太のことで気が咎《とが》めていると、言っていた。次郎衛門は源太を無理に悪者にしようとしていると、非難もしていた。しかし、それはお妙自身の、気持の裏返しだったのである。気が咎めていたのはお妙のほうであり、お絹を殺していない源太を悪者にしたくなかったのだ。 「この性悪めが! 何が、村長《むらおさ》の娘だい。おめえのお陰で、取り返しのつかねえことになっちまったんじゃねえか!」  源太が唾を飛ばしながら、お妙のところへ駆け寄った。向こう岸で、女たちが悲鳴を上げた。源太が左手の長脇差で、お妙に斬りつけたのである。お妙は、尻餅を突いた。右の肩先から胸にかけて、血が直線を描いていた。新十郎が源太を、突き飛ばした。 「源太、おめえは六年前に誰も殺しはしなかった。だがな、いまは何人となく殺しているんだぜ」  新十郎は、長脇差を抜いた。 「野郎、おれをやる気か!」  源太は起き上がると、左手の長脇差を前へ突き出した。それを上から叩いて、新十郎は横へ跳んだ。地面に落ちた長脇差に、源太は手をのばした。そこへ横から、新十郎が一歩踏み込んだ。新十郎の長脇差が、源太の脇腹に埋まった。  源太は絶叫しながら、吊り橋のほうへのめって行った。長脇差を抜き取ったのと同時に、最後のひとりが新十郎の背後から斬り込んで来た。新十郎はそれを避けながら、男の背中に斬りつけた。男は大きくのけぞったが、それでもまだ勢いがついていた。  吊り橋のアケビの蔓で身体を支えていた源太に、男が激しくぶつかった。吊り橋が、揺れ動いた。その一瞬に吊り橋の上から、源太と男の姿は消えていた。二通りの叫び声が、短く尾を引いた。川に落ち込む音も、岩に叩きつけられた音も、この断崖絶壁の上までは聞えて来なかった。  新十郎は、お妙の脇にしゃがみ込んだ。お妙は、動く力も失っていた。出血が、ひどかった。一方の乳房を、抉られている。助かる見込みは、なかった。こうなったからには、お妙も助かりたいとは思っていないのに違いない。 「お妙さん」  新十郎は、お妙の腰を揺すった。お妙が、目を開いた。 「さあ、急がなくちゃあなりませんぜ」  新十郎は、お妙に背を向けた。 「何を、急ぐんですか」  お妙が、弱々しい声で言った。 「右左口峠の向こうを、眺めるんでござんすよ」 「え……」 「この機会を逸しちゃあ、生涯峠の向こうを見ることはできねえかもしれやせん」 「すみません」  お妙は嬉しそうに笑って、上体を起しにかかった。その両手をとって、新十郎は自分の肩に掛けた。お妙は、新十郎の背中に凭《もた》れかかった。新十郎はお妙を背負うと、何回か揺すり上げた。対岸の人々には目もくれず、新十郎は吊り橋と反対の方向へ歩き出した。  間もなく、右左口峠の登り口であった。新十郎は、足早に歩き続けた。急がなければならなかった。頂上に行きつくまで、お妙の息が続くかどうかわからない。それにもう八ツ半、午後三時である。日が暮れてしまったら、何もならなくなるのだった。 「旅人《たびにん》さんは、中道を南へ下るのではなかったんですか」  背中で、お妙が囁《ささや》くように言った。 「まあ、そのつもりではおりやしたがね」  新十郎の呼吸が、やや荒くなっていた。 「それなのに、逆のほうへ引っ返してしまって、いいんでしょうか」 「もともと、アテのねえ流れ旅でござんすからね。どこへ行こうと、かまわねえんですよ」 「でも、何か心づもりはあおりだったんじゃないんですか」 「何もねえんでござんすよ」 「だったらどうして、中道などへそれて来られたんです?」 「ほんの、気紛《きまぐ》れでね」  道中合羽をつけていないのに、少しも山の冷気を感じなかった。むしろ、汗ばんでいた。大人ひとり背負って右左口峠を登るのは、大変な重労働だったのである。新十郎の背中が、じっとりと濡れて来た。汗ではない。お妙の傷口から流れ出る血が、新十郎の背中を濡らしているのだった。  お妙が、沈黙した。眠いのである。だが眠ってしまえば、二度と意識を取り戻さないかもしれない。新十郎は声をかけたり揺すったりして、お妙の眠りを妨害しなければならなかった。一時間ほどかかって、ようやく頂上についた。  新十郎は一本松の根元に、お妙をそっとおろした。新十郎は、真夏のように汗をかいていた。お妙は、地上に浮き上がっている松の太い根に、ぐったりと寄りかかった。だが、その目には輝きがあった。感嘆の声でも洩らしたいのか、口を半開きにしていた。 「これが、峠の向こうでござんすよ」  新十郎も、一本松の下に立った。今日も、甲府盆地を一望にできた。広大な眺めであった。釜無川と笛吹川が、相変わらず銀色に光っている。遠く八ヶ岳に、今日また雲はかかっていなかった。日が西に、傾いていた。峠からの眺めは、すでに夕景であった。 「あっしはこの右左口峠からの眺めを、生涯忘れることはねえんですよ」  新十郎が、呟くように言った。 「以前に、この峠を越えたことがあるんですか」  お妙は腰を滑らせると、松の根を枕にして身体を横たえた。もう上体を起しては、いられないのであった。 「ずいぶん、古い話でござんすよ。あっしはまだ、五つだったんですからね。おやじとおふくろが、一緒におりやした。おやじとおふくろは、ここで長い間泣いておりやしたよ。どういう事情かわからねえのに、あっしも悲しくなって泣きながらこの景色を眺めていたのを、いまでも憶えておりやす」 「旅人《たびにん》さんの名を、教えて下さい」 「新十郎と申しやす。お妙さんも聞いたことが、おありなんじゃあねえですかい」 「聞いておりました。じゃあ、やっぱり……」 「へい。次郎衛門さんのおやじさまに、大関を逐われた藤兵衛の伜《せがれ》、新十郎でござんすよ。病み上がりだったおふくろは大関を逐われて間もなく死に、おやじも上州は桐生の在天神村の知り合いのところに落着いてすぐあとを追いやした。いまのあっしは、上州無宿天神の新十郎でござんす」 「新十郎さんは、大関の衆を恨み、憎んでいたでしょうに……」  お妙の声は、吐く息に近かった。もう、目を閉じたままだった。 「だから、あっしは手を貸したくはなかったんでござんすよ」  新十郎は、赤く染まった西の空へ視線を投げた。 「大関に寄ってみようなんて、気紛れを起さなければよかったんです」 「それが不思議なもんで、憎い連中がどうしているか、ちょいと気になりやしてね」 「そのために、憎い連中の命を助ける破目になって……」 「世の中は、皮肉にできているんでござんしょう」 「わたしも、この眺めを生涯忘れることはできません」  お妙がそう言ったあと、息遣いが荒々しくなってすぐ静かになった。新十郎は、お妙の顔に目を落した。生きている人間の、顔色ではなかった。しかし、お妙の口許には、笑いが漂っていた。お妙をそのままにして、新十郎は一本松の下を離れた。  新十郎はもう一度、甲府盆地の夕景に見入った。それから右左口峠の道を、甲府の方向へ下り始めた。何事もなかったように、表情のない顔であった。天神の新十郎の後ろ姿は、夕日を浴びてすぐ小さなシルエットになった。 [#地付き]〈了〉 [#改ページ] 雪に花散る奥州路   オール讀物/昭和四十六年一月号 狂女が唄う信州路   オール讀物/昭和四十六年四月号 木っ端が燃えた上州路 オール讀物/昭和四十六年七月号 峠に哭いた甲州路   オール讀物/昭和四十六年九月号 単行本 昭和四十六年八月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 雪に花散る奥州路 二〇〇〇年七月二十日 第一版 二〇〇一年七月二十日 第三版